如何せん原作を見たのが数年前なので原作と設定が違うところがあっても気にしないでね☆
いつから道を踏み外してしまったのだろうか。最近はずっとこんなことばかりを考えてしまう。こんな時、決まって思い出すのは大学二年生のあの日、あの時のこと。でもそれはもう今となってはどうしようもない過去の話だった。
考えるだけ無駄なことなのに、あれやこれやとありもしないイフの話ばかりを考えてしまう。酩酊の心地の良い微睡みのなかで取り留めもないことが浮かんではまたすぐどこかへと消えていった。だいぶ酔いが回ってきたせいなのか、心なしか思考が上手くまとまらなかった。
じめじめとした安アパートの一室にまたプシュッという缶ビールを開ける軽快な音が響く。今日一日で既にこの音を三回も聞いていた。
こんなはずではなかった。
こんな情けない姿は本当の私ではない。
こんな言い訳をしたくなる気持ちを静かに押さえつける。これは紛れもない現実で、今この部屋にいるのは落ちぶれた二十四歳の女が独りだけ。なによりも遠慮がちに見た姿見に映る影がそのことを雄弁に語っていた。そんな厳しい現実から目を背けたくて、私は四杯目となるコンビニで買った安酒をそっと口元に近づけると、強引にそれを流し込んだ。
「はぁ…。何のために生きているのでしょうか。いっそのこと…」
死んでしまえたら、と言いかけて喉まででかかったその言葉を慌てて引っ込めた。代わりに私は胡座かきながら安っぽいアンティークなちゃぶ台の上に上半身をぐったりともたれ掛けて深いため息を吐いた。
それは以前の私なら考えられない程にはしたない姿勢。でも、それを叱る母は今ここにはいないし、私自身ももうそれほど気にならなくなってしまっている。
だらりと脱力した姿勢でふと考えた。
きっと高校時代の私ならこんな弱音を吐かなかっただろうにと。あるいは、死にたいなんて考えも付かなかったかもしれない。あの頃は馬鹿みたいに純粋で生真面目で、融通の利かない娘だった。青臭かったと言ってもいいかもしない。その頃の癖でいまだに独り言ですら丁寧語がなかなか抜けない自分にちょとした懐かしさと、おかしさがこみ上げてきて笑った。もっとも、それは笑いというより嘲笑の類に近かったかもしれないが。
しばらく、とはいっても実際には十五分程しか経っていなかったが、缶ビールを飲み干してしまった私は持て余した時間を潰そうと机の端に置いた携帯へと手を伸ばしてメールの受信ボックスを開けた。
一番新しいものはネット通販からだった。そしてその次もそれ。またその次も。企業やメルマガといった事務的で無機質なメールばかりがそこにはずらりと並んでいた。
半ば惰性でスクロールをして履歴を遡っていくと、だいぶ下に来たところで異質なメールに突き当たった。差出人を見てみればそれはとても見慣れているけれど、最近はご無沙汰な彼女の名前。私の一番大切な友人だった人の名前。
「穂乃果…」
そのメールはもう一年も前に送られてきたものなのだけれど、いまだに私は返信をしていない。そっと内からわき出す罪悪感を押さえつけて、震える指でメッセージをあけてみた。もう何回同じ事をしたか分からないが、少なくとも十回を越えてから数えるのをやめたことは覚えている。
『海未ちゃん元気にしてる~?今度久ぶりにμ’sの皆で集まろうってことりちゃんと話してるんだけど海未ちゃんも来れるかな?もし来れるなら返信して下さい。そしたら日付は今度決まってから伝えるね。
追伸:あの時のことは気にしてないから。変な罪悪感をもたないで。』
結局、穂乃果から日付は送られてこなかった。当たり前だ。返信していないのだから。
最初このメールが送られてきた時は皆に会いたくて、すぐに『行けます』と返事をしたかったけど、結局そんな事を書く勇気もなくて悶々としている内に返信する気も無くしてしまった。何より何気なく付け足された追伸の内容が私を締め付けた。きっと穂乃果なりに気をつかった結果であろうそれは、無自覚に私を苦しめる。余計なことをと、そんなことを言う資格は私にはないのに心の中でそっと悪態をついた。
冷静になって考えてみれば、あれは避けられない事だったのだと思う。そう理性では理解している。穂乃果もことりもだからこそ私を責めなかった。それはある種の避けがたい天災のようなもので、誰の責任でもない。でも、誰からも責められなかったからこそ、私の中の罪悪感は消え去ることなく、ずっと心の内でくすぶり続けていた。
きっとあの日から、私の中の何かが変わってしまった気がする。そして私たち三人の関係も。人間というのは堕ちる時はあっと言う間なのだと、そんな月並みな台詞をあの時から今日に至るまでずっと身に染みて実感していた。
◇
忘れもしない。あれは大学二年生の八月の上旬、ちょうど盆休みの一週間ほど前のことだった。
当時、私は東京のそれなりに名の知れた私立大学の法学部に進学しており、穂乃果は短大、ことりは服飾関係の専門学校にそれぞれ通っていた。ことりは本来、彼女の母の伝手を使ってアメリカ留学をする事になっていたのだが、どうも相手側(おそらくアメリカにいることりの母の友人とやらだろう)の都合でご破算になってしまったと聞く。詳しいことをことりは話さなかったし、私も無理に聞くつもりはなかったから詳細は知らない。あまり人の進路を詮索することも気が引けた。
そういうわけで、もともと生活圏が近かった私たち三人は音ノ木坂を卒業してからも一緒に行動することが多かった。それぞれが別の場所で新たな人間関係を構築していたことを考えると、異常な頻度だったのだと思う。でもそれは今だからこそ分かることで、当時の私はそれをさも当たり前のごとく感じていて、それがいかに貴重で大切なのものなのかを本当の意味で理解してはいなかった。
ある時は三人で遊園地に行った。また、ある時は三人でキャンプをしに行ったりもした。高校のときと比べて遥かに広がった大人としての自由と権利を思うがままに行使する。大学生活はラブライブという目標に邁進していた高校時代とはまた違った充実感で満ちていて、とにかく三人で過ごす時間は何よりも色鮮やかで楽しくてたまらなかった。これが青春なのかな、なんて思ったりもしてまた性懲りもなけポエムじみた日記をつけてしまったりもした。
こんな日々がずっと続けばいい。勉学と遊びの両立はとかく大変な事だったけれど、何にも代え難い日常がそこにはあって、私はその日常を心ゆくまで満喫していたのだ。
余りにも充実した毎日。だからこそ、気がつかなかった。これをきっと平和ボケというのだろう。テレビや新聞、ネットで流れているニュースを見れば誰だって気がつくことに私は無自覚だった。いや、きっと気がついてはいたのだがそれを実感をもった事として理解していなかったのだ。日常は不意に、そしていとも簡単に失われるのだと。
交通事故や殺人事件。はたまた詐欺事件。大なり小なり何かしらの不幸がこの世には毎日のように起きていて、そしてそれが自分の身に降りかかってこない保証などどこにもない。もしかしたら、今日か明日にでもそういった不幸が降りかかってくるかもしれない。
にもかかわらず、それを意識している人の数はとても少なくて、誰しもが今ここにある日常がずっと続く事を信じて疑わないのだ。そして、この時の私もその一人だった。
リアルがもの凄く忙しいので不定期更新になります。なるべく早く続きを書く努力はしますが…。
目次 感想へのリンク しおりを挟む
しおりを挟む
二 転機
事の発端は、私が幸か不幸か偶然にも当ててしまった商店街の福引きの一等であるペアの温泉旅行優待券だった。ペアといっても当時の私は二人きりで旅行をするような仲の人は異性はもちろん同性でもいなかったから、ここは親孝行ついでに両親にでもあげようかと考えていた。
しかし、家に帰って両親にその旨を話すと私の両親は「それは海未が自分で当てたものなのだから、自分のために使いなさい」と言ってそれを受け取ろうとはしなかった。私はこの両親の発言に面をくらったが、それでも頑固な私は両親に旅券を押しつけようと変に意固地になってしまい、しばらくの間父と母と私の三人ですったもんだすることになった。両親の内とりわけ母は私以上に頑固なひとだったから、結局最後は根負けした私が折れることでこの滑稽な議論は落ち着いた。
それからしばらく経って、私はずっとこの景品をどうしようかと考えたがなかなかいい答えは思い浮かばない。これだけ高価な景品をもらって処理に困るというのも変な話だったが、事実私はこの実用性がありそうで無い景品をどうしたものかと考えあぐねていたのだ。最悪の場合一人旅行に行けばいいのだが、なんだかそれも味気なく思えて気乗りしなかった。
そんな折、穂乃果から『夏休みだしどこか行かない?』とういう具体性に欠けた提案があったのは、渡りに船だったと言えたのかもしれない。もっとも、それは当時の私にとってだが。
「ここに温泉旅行のチケットがあります」
七月の下旬、穂乃果の部屋に集まったことりと穂乃果の二人を前にそう切りだした。
「どうしたの、それ」
穂乃果が驚いたとばかりに手を口元に当て、私の手元にある優待券をまじまじと眺めていた。
「あっ、それ私知ってるよ。海未ちゃんの家の近くの商店街でやってた福引きの景品じゃないかな。この前近所の人から一等がでたって聞いたけど、それが海未ちゃんってこと?」
ことりの反応も上々で、いつもの柔らかい声にどこが期待が入り交じったような声音に聞こえた。
「えぇ、そうですよ。ことり。まさか一等が当たるなんて夢にも思いませんでしたが。そこでです、お二人に提案があります。この温泉旅行、三人で行きませんか」
「本当!行きたい!行きたいよ。温泉にレッツゴー!」
真っ先に反応を示したのはやはり穂乃果だった。どこかに行きたいといっていた張本人であったから、当たり前といえばその通りなのだが。それにしても子供のように無邪気なはしゃぎようだった。
「あはは。すごい食いつきがいいね、穂乃果ちゃん。でもさ…これってペアチケットだよ」
「そうですね。だからこのままでは一人お留守番することになってしまいます」
「えぇ!そんなのないよぉ。まさかわたしがお留守番なんてことはないよね。ぬか喜びさせないでよ海未ちゃん」
さっきのはしゃぎようから一転して、絶望に染まった表情でがっくりと肩を落とす穂乃果の姿はちょとオーバーなリアクションで面白かった。まるで犬みたいだ。きっと穂乃果に尻尾があったら、さっきまでぶんぶんと左右に振っていたのに、急に萎れてしまったように見えたに違いない。
無論、私は最初からこの三人の中の誰かを一人だけおいていくつもりなかったのだが、穂乃果が予想以上に食いついてきたので、少しいじわるを言ってみたくなったのだ。
「まぁ、話は最後まで聞いてください。確かにこれはペアチケットですが、あとの一人については三人で旅費を割り勘をすればいいじゃありませんか。そうすれば普通に行くより一人頭の旅費ははるかに安くすみますし」
「なるほど…、さすが海未ちゃん!私は信じていたよ。海未ちゃんなら絶対なんとかしてくれるって」
穂乃果が復活して満面の笑みを浮かべた。調子がいい親友ですね、と思う。とはいえ、それが穂乃果らしくもあり彼女の好ましい点でもあったのだが。
「一応、この優待は二人部屋のみに使えるものですが、旅館側に電話したところ追加料金を払えば三人でも泊まれなくはないそうです。その、…かなり手狭にはなってしまいますが」
「別にいいんじゃないかな。去年三人でキャンプに行ったときほどじゃないでしょ」
ことりは去年の夏にしたキャンプを思い出したのか軽く笑った。確かにあれほど三人で密着して寝たのは、今までに何回もお泊まりをした仲とは言えそうそうなかったかもしれない。
「言われてみればそれもそうですね。ええと…、では穂乃果もことりも旅行にいくということでいいんですか」
「うん」
「もっちろん!」
「では、詳しい旅費や日程については後日また詰め合わせることにしましょう」
何とかお一人様での旅行は回避されたようで、安堵のため息を吐く。それではこの話題はここまでと軽く咳払いをした時に、ハッとなにか重大なことに気が付いた様子の穂乃果が私に質問してきた。
「あっ、ちょっと待って。えーと、肝心な行き先はどこだっけ。温泉というと熱海?それとも草津?」
一瞬何を尋ねられたのか理解できなかったが、すぐに行き先という一番重要な情報を伝え忘れていたことに気がついた。私は、らしくないミスをしてしまったなと思って苦笑いを浮かべた。それにしても、行き先も知らずに穂乃果もことりも旅行に行くことに決めてしまったのだろうか。
「あぁ、確かに一番重要なことを言い忘れてましたね。秩父です」
京都とか函館とかに比べればもの凄く有名というわけではないけど、それなりに名の知れた観光地だと思う。少なくとも関東圏の人は皆知っているだろう。
「なるほど、秩父か…。えっと…、ちちぶ…。それってどこだっけ。群馬県?」
いや、埼玉県ですよ!
そう大声で突っ込みたくなったが、私が突っ込む前にことりが穂乃果のフォローに入った。
「埼玉県だよ、穂乃果ちゃん」
「タハハ、そうだっけ。確かに、言われてみればそんな気がする」
「はぁ。相変わらずですね、穂乃果は」
温泉旅行云々よりもまず、穂乃果に地理を教えなければいけないのかしらと、このときの私は強く思った。
目次 感想へのリンク しおりを挟む
しおりを挟む
三 転機
穂乃果とことりとの旅行が決まってから数日後、私たちは旅費や日程、そして交通手段などについて話し合った。そのうち交通手段については車を使うことになった。
秩父に行くには確か山手線で池袋にまででて、西武鉄道に乗ればよかったはずだが、電車よりも車で行ったほうが安くつくような気がして、結局私たちは車を使って行くことにしたのである。
運転は私がすることになった。免許証は大学入学と同時にとって、それからそれなりの頻度で運転をしていたから腕には自信があった。あと、もともと運動神経がよかったことも運転技術の向上を後押ししていたのかもしれない。車はいつも通り私の父のものを貸してもらうことにした。父はペーパードライバーだったから車が数日なくても困らないと言って、私の申し出を快諾した。
「いやー、海未ちゃんがドライバーか」
それからまた数日たった八月。旅行の初日の朝早に私の家に集合した穂乃果がどこか感慨深げにそう言った。
「わたし車の運転苦手なんだよねぇ。ほら、そそっかしいから事故起こしそうでさ。というか、もう起こしちゃったし」
そういえば、穂乃果も高校を卒業してすぐ自動車免許をとって、しばらくの間は運転をしていたらしい。しかし一度駐車の際に事故を起こしてから運転をしなくなってしまい、今では立派なペーパードライバーに成り下がっていた。
「ことりちゃんは免許をもってないんだっけ。というわけで、この中でまともに車を運転できるのは海未ちゃんしかいません!運転よろしくお願いします」
「言われなくても分かってますよ。それにしても私しか運転できないのは少し不安ですね」
もし私が何らかの理由で運転でになくなってしまったらどうすればいいのだろうかという懸念が一瞬頭に過ぎった。ただ、そんなことはあまり起こりそうもなかったので、私はその懸念をあまり深く考えずに軽く流すことにした。
「穂乃果、ことり。準備は大丈夫ですか。そろそろ行きますよ」
車のキーを鞄から取り出し、ドアのロックを解除した。車に乗り込む前に一応、私も準備ができているかを確認しておく。
「たぶん大丈夫。必要なものは昨日しっかり確認したし」
「私も大丈夫だよ」
「それでは行きましょうか。シートベルトはしっかり締めてくださいよ」
後部座席に座った穂乃果たちが、そんなこと言われなくても分かってるとばかりに苦笑をしたのをバックミラーで確認すると、私はエンジンをかけて車を出した。天気は晴れていて視界も良いが、それでいて日差しが強すぎる訳でもない。運転しやすい日だなと思いながら、気分が良くなった私はアクセルを踏みながら軽く鼻歌を歌っていた。
◇
「海未ちゃーん。まだ着かないのー」
「あの、まだ埼玉にも入ってませんよ…」
出発してからしばらくして穂乃果が気怠げにそう尋ねてきた。早々に渋滞に捕まってしまった私たちは思うように進めずにいたのだ。
「それにしても夏休みを舐めていましたね。平日とはいえここまで交通量が多いとは思いませんでした」
「まあ、お盆休みも近いからね。多少は帰省の人たちも混じっているかも」
若干辟易した様子のことりがそう言うと、彼女は欠伸をして目を軽くこすった。いかにも眠たそうな顔をしていたので、ついどうしたのか訊いてしまう。もしかして、集合時間が早すぎたのだろうか。
「ことり、寝不足ですか」
「うーん?まあそんなところかな。最近ワンピースを作ってるんだけど作業に集中しすぎちゃうことがあってさ。それでついつい深夜までやっちゃうんだよね」
「ああ…、ことりは服が好きですからね。でも余り無理しないほうがいいですよ」
「ありがとう。でも好きでやってることだから」
へへ、とことりがはにかみながらそう言ったのを私はバックミラー越しに確認すると、つられて私もつい笑ってしまった。
ことりは「でも、少し眠いからしばらく寝ていいかな」と言うと、どこから取り出したのかアイマスクを手に取って付けようとした。その様子を見ていた私は構いませんよと言うと「ありがとう。おやすみ」とことりは小さく呟いて、それから直ぐに静かに吐息をたてながら寝てしまった。
「暇だったら穂乃果も寝ていて構いませんよ」
ことりが寝てしまった後、所在なく景色を見ていた穂乃果が舟を漕いでいるのが見えた。
「へぇ?いや、別にいいよ」
穂乃果は頬を軽くパチンと自分で叩くと、何でもないとばかりにはにかんでそう言った。
「そうですか、まあそれならいいんですが」
「ねぇ、それよりお話ししない?ことりちゃん寝ちゃったから暇なんだけど」
「運転に差し障りのない範囲なら構いません」
「うーん、それってどれくらいなんだろう」と穂乃果が首を傾げたので、普通に話してくれれば大丈夫ですと付け足しておいた。まさか生真面目に言葉通りの意味に受け止められるとは思っていなかったので、私はつい笑ってしまった。
「私さ、音ノ木坂を卒業してからギター始めたんだよね」
知ってた?と穂乃果は私がそのことを知らないことを知っていて、あえてそう質問してきたようであった。
「本当ですか。でも穂乃果の部屋にギターなんてありましたっけ」
「普段は物置に置いてるからね。海未ちゃんたちは見たことないと思う」
-私、歌手になりたいんだ。それも楽器が弾ける歌手-
穂乃果はやけに真剣な表情で私をまっすぐ見てそう言ってきた。穂乃果の瞳には揺るがしがたい強い決意の色があったように見える。時々穂乃果がするこの真剣で無垢な瞳。これを最後にみたのはラブライブの時だったか。私は彼女のこの瞳が好きだった。
「なぜ、それを今?」
「今度さ、自分の曲をネットに流そうかなって思ってるんだ。自分で歌詞を考えて作曲をしたやつ。でもなかなか踏ん切りが付かなくてちょっと相談したくなっちゃった」
「作曲もしてるんですか!いつのまに勉強してたんですね」
「初めて真姫ちゃんから音源貰ったときから少しずつね。わたしもあんな曲作りたいなって思ったらいてもたってもいられなくて…」
まだ簡単な曲しか作れないけど、と言って穂乃果は苦笑いをしたが十分に凄いことだと思った。
私はμ’sとしてのスクールアイドル活動をやめてから今に至るまで、音楽に携わったことはほとんどない。そもそも私はアイドルという柄でもなかったし、なにより今でもμ’sが根強い人気があるせいか偶にファンからサインを求められることに辟易していた。だから、しばらくは音楽と距離を取りたいと思っていたのだ。
でも、穂乃果は違ったようだ。彼女は今、本気で音楽に向き合っている。それは恐らくμ'sのメンバーの中でも一二を争うほど真剣に。実際にその姿を見たわけではないけれど、作曲をしギターを奏でながら歌を歌う穂乃果の姿がありありと想像できてしまった。
穂乃果なら。あるいは本当に歌手として成功してしまうのではないだろうか。余りにもプロの歌手として活動する穂乃果の姿が容易に思い浮かべられ、これはさすがに贔屓目に見過ぎかなと思って私は軽く笑った。
「あー、やっぱり笑った。そりゃまだぜんぜん大した曲作れてないけどさぁ」
「いえ、別に歌手になりたいという事を笑ったわけではありません。その、なんか歌手として活動している穂乃果の姿が簡単に思い浮かべられて面白かったんですよ。でも…、歌手で成功する人なんてほんの一握りだけですよ」
「まぁ、わかってるよ、それくらい…。でもラブライブのあの時の、歌で人と人とをつないで心を動かしたあの感動が忘れられない。あの時は九人の力だったけど、今度はわたし一人の力でそれが出来るのか試してみたいの。だから私は歌手になりたい。…いや、違う。なるんだ!」
そう宣言した穂乃果はどこかすっきりとした顔を浮かべていた。
「…そのために、試金石としてネットでの評価を見てみたいたんだけど、酷評されそで怖いなぁー、て。本当にネット民って容赦なさすぎじゃない?」
「啖呵を切った割には後半が尻すぼみになりましたね。まぁ…、たしかにネットは辛辣なコメントも多いですが、だからこそそこで評価されればそれなりの才能をもっていると思っていいのかもしれませんよ」
「応援してますよ、穂乃果」さすがにそれを言うのは野暮かなと思ったけれど、他にいい言葉が思い浮かばなくて結局そう口にした。素朴な表現過ぎた気がするが、それは紛れもなく私の本心だった。
「ありがとう。なんかすっきりしたよ。やっぱりネットにあげてみることにする」
「ネットにあげる前に私が見てあげましょうか」
事前に見てもらったほうが問題点も分かるし、良いものが創れるのではと思って、私は単なる善意からそう穂乃果に申し出た。
「いいや、いいよ。どんな評価が来てもしっかり受け止めるから。私の感性だけで創ったものの評価を見てみたいの」
信号が赤に変わり車を止めると、私は驚きの余り後ろにいる穂乃果のことをまじまじと見た。自分の感性の可能性を知りたい。そう言ってはにかんだ穂乃果は心なしかいつも感じているあの子供らしさはなく大人の、いや、もはや一人のアーティストのように眩しく私の目に映った気がした。
いつの間にか、穂乃果は私よりも遙か遠くに行こうとしている。誰よりも力強くまっすぐなその足をつかって、太陽のように遙か遠くへと行くのだろうか。この時の私には、どことなくそんな予感がしていた。
…でも、それは単なる予感で。予感というのは所詮現実に起こるかどうか分からない唯の主観的な判断にすぎない。
そう、このとき穂乃果には確かに楽器を奏でながら歌う未来があったかもしれない。
そう、このとき穂乃果はもしかしたらスターになるかもしれないポテンシャルをもっていたかもしれない。
でも、それは無限にある可能性のうちの一つで、可能性とはあくまで起こりそうなことであって必ずではない。
どんなに将来の成功を約束をされたスポーツ選手や芸能人でも、つまらないことのせいで失敗して転落していってしまうことなどいくらでもある。ましてや今はまだ凡人でしかない穂乃果には数え切れないほど、彼女を失敗へと向かわせる変数がこの世界には散らばっていた。
だから、これは単に運が悪かったのだ。たまたま、そしてある意味奇跡的な確率で、影響の大きな変数に私と穂乃果とことりが当たってしまっただけ。
いったい誰が予想できただろうか。
穂乃果が歌手になると車内で宣言した数分後、運転手が心臓発作を起こして制御不能になった観光バスが私たちの車に突っ込んでくるだなんて。
本当に誰が予測できただろか…。
目次 感想へのリンク しおりを挟む
しおりを挟む
四 鈍痛
ゆっくりと、深い沼から這い上がるように私の意識が覚醒へと向かって行く。次第に鋭利になる五感が真っ先に感じたのは天井から吹き付ける冷房の肌寒さだった。私がその不快感から唸るように目を覚ますと、真っ先に目に飛び込んできたのは今までに見たこともないほど病的に真っ白な見慣れない天井だった。
―ここはいったい何処なのでしょうか―
まず私を襲ってきたのはただひたすらの困惑だった。ありとあらゆる疑問が脳内で渦巻き私を混沌の中に追いやる。
―私は車を運転していたのではないのか?-
―ここは秩父ではないのか?-
―なぜ私は見知らぬ場所で寝ているのか?-
記憶にあるさっきまでの私の姿と今の姿との間の共通点が余りにもなくて、まったく現実味が湧かない。まるで今の自分か記憶の中いる自分のどちらか一方は、全て夢だったのではないかという錯覚に見舞われた。このままでは埒が明かないと思い、とにかく何でもいいから情報が欲しくてベッドから起き上がろうとすると、不意に全身に経験したこともないような鈍痛が走った。
「ッ、痛った…」
何が起きたのかわからなくて一瞬頭が真っ白になるが、すぐに私の右腕に点滴らしきものが刺さり、胸元には心電図検査検査用と思われる電極が張られていることに気が付いた。足元を見るとそこにはまるでバームクーヘンのように包帯でぐるぐる巻きになった足が見える。それはまるで骨折した時の処置そのもので、私も過去に一度だけ骨を折った際にこのようにギプスを巻いたことがある。ということは、…ここは病院で、私は骨折をしている?
いや、もしかしたら骨折以上のことなのかもしれない。少なくとも足の骨折だけで点滴や心電図がつけられるはずがないことは常識的に考えてわかることだった。
次第に痛みが落ち着くと、私は冷静になりつつある頭で記憶を手繰り寄せて何が起きたのかを振り返ろうとした。確か、私は穂乃果とことりと一緒に旅行に行っていて私は車を運転していたはず。それで、ことりは途中で寝てしまい、穂乃果は私との会話に興じていた…。それで赤信号で止まったところで穂乃果が歌手になると宣言して、そしたらその後、後ろから観光バスが来ているのが見えて…。見えて?
そうだ、それでなかなか速度を落とさないバスを私が不審に思って…。
「ああああああああ!そうです。それで…。それでそのバスが私たちの車に衝突して…」
その後のことが全く記憶にない。最後に覚えているのは、後ろからくるバスに気が付き驚愕と絶望の表情を浮かべた穂乃果の顔と、何も知らずに健やかに眠ることりの寝顔だった。
「そうだ、穂乃果は!ことりは!」
無事なのだろうか。そう言おうとしてすぐ口を紡いだ。前に座っていた私ですら病院送りになっているのだ。まして後部座席に座っていた穂乃果とことりが無傷なはずがないことは容易に想像できることだった。
「死んでなんか……、いませんよね」
震える声で私は呟く。それは本当に私の口から出たのかと信じられないほどに弱々しい声だった。
あのときバスはそこまで速くはなかった。運動エネルギーは速度の二乗に比例するからきっと大丈夫。そんな自分でもよく分からない言い訳じみた事ばかりを考えて不安になる自分を納得させようとする。
きっと死にやしないさ。だって穂乃果は歌手になるんだから。ことりは将来アパレル系に就職するんでしょ?だから二人とも死ねないもんね。
「はは…、そんな訳、ないじゃないですか…」
自分でいろいろな言い訳を言って、自分でそれらを否定した。正直な話、あの事故で二人が生きていればそれだけでも十分奇跡だといえる。バスの質量と乗用車の質量の比、そして止まっている物体との非弾性衝突。それくらい高校時代に物理を少しかじったから、文系の私でも理解できる。そして、だからこそ絶望せざるを得ない。むしろ、私が生き残っただけでも儲けもんと思わなければいけないのだ。
「あぁ!園田さん。目が覚められましたか。いま、先生を呼んできますので少々お待ちください」
「え、あぁ。はい…」
考え事に気を取られて私は看護士が巡回して来たことに気がつかなかった。不意をつかれた私はまともな返事ができず、ただ怒涛と押し寄せる現実について行くことがやっとだった。
しばらくして、五十代前後の女医が私の所にやってきて私の体を検査した。彼女が言うには私は足を複雑骨折していて、肋骨も何本か折れていたらしい。全身を強く打ったせいか体中に内出血が見られるけれど、幸いにも後遺症がのこるような怪我はないとのことだった。
「あの、…穂乃果とことりは」
「穂乃果とことり?あぁ、貴女と一緒に急患で運ばれてきた女の子たちのことね」
「はい。恐らくそうです。その、彼女たちは私の親友で…、それで」
容態はどうですか。そう訊こうと思って、でもその答えを聞くのが怖くて私は言葉を詰まらせた。もし亡くなったなどと言われたら平静を保てる自身がなかったのだ。でも、やはり無事かどうかは知りたい。そんなアンビバレンスな考えに揺り動かされる私の心中を察したのか、その宮藤と名乗った女医は私を落ち着かせるようなゆっくりとした声で穂乃果とことりの容態を伝えてきた。
「まず、安心して。とりあえず彼女たちは生きているわ」
「ほ、本当ですか!」
「ええ。ただ、その…。茶髪の子は意識が回復しているのだけれど、もう一人の子は昏睡状態でまだ予断を許さない状態ね」
「ことり…」
やはり、現実はそう上手くいかない。でも、穂乃果だけでも意識が回復していると聞いて、幾分か肩の荷が下りたような気がした。ことりは寝ていたからきっととっさに受け身が取れなかったのだろう。もしかしたらそのまま全身が鞭打ち状態になっていたのかもしれない。私は血だらけになったことりの姿を想像すると、得体の知れない罪悪感から気分が悪くなって吐きそうになった。
「その、…穂乃果に会うことはできますか」
「貴女が動けるようになったらね。…でも穂乃果さん。いえ、高坂さんは事故の後遺症で右目を失明して左目も大幅に視力が低下してしまったから、今貴方に会っても何も見えない。そのことだけは覚えておいて」
「えっ、嘘ですよね。穂乃果が失明だなんて」
「嘘を言ってどうするのよ」
宮藤女医は極めて冷静に抑揚のない声でそう答えた。きっと彼女にとっては穂乃果もことりも何百何千と見てきた患者のただ一人にすぎなくて、そのことを分かっているのに彼女の言い方が妙に癪に障った。
「私の親友なのにそんな興味のないような声で話さないでください」と言い返したい気持ちに駆られたが、それは明らかに理不尽な怒りで、それを表に出すのは余りにみっともないから私は努めて平静を装った。その後もいくつかの質問と事務的な話をすると宮藤先生は病室を後にして次の患者の元へとすぐに行ってしまった。
「穂乃果…、ことり…」
病室に取り残された私は、零れ落ちる涙を服の袖口で押さえつけながら二人の名前をただひたすら呟く。
私が旅行に誘わなければ、私が別のルートを選んで運転していれば、こんな事にはならなかったのではないだろか。そんな後ろ向きで益体もない考えばかりが私の脳裏を支配する。。
もちろん分かっているのだ。それが無意味な仮定だと言うこを。分かっているのだ。私が今から何かしたところで無意味だということも。誰だって事故が起きると知っていて、わざわざ車を運転することはしない。いつ起きるか分からないからそれは事故なのであって、これは単に私たちの運が悪かっただけのこと。さらに、今回の事故はほぼ十ゼロで相手側の過失であることは明らかだった。しかし、そう理性では理解していても感情が追いつくかどうかは別問題なのだ。
「ごめんなさい。穂乃果。ごめんなさい、ことり…」
貴方たちの夢を潰してしまった私を許してください。どうか、貴方の身体の自由を奪ってしまった私を許してください。
押さえつけても溢れ出る涙が止まりそうにない。私は涙が枯れてしまうまで、ただひたすらあてもなく誰かに向かって謝り続ける。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」
その誰にも届かない謝罪はきっとただの自己満足なのだけれど、しないよりはマシだと言い聞かせて私は自分を無理やり納得させた。そうしてつけた欺瞞の仮面は、確かに私の中の何かを変質させた気がする。自明だと思っていた日常が音を立てて崩れていく様を、私はただ泣きじゃくりながら見ていることしかできなかった。
斯くして、私の人生の転落がここからが始まった。
目次 感想へのリンク しおりを挟む
しおりを挟む
五 鈍痛
入院をしてから二ヶ月ほど経つと足はだいぶ回復して、今では松葉杖をつきながらではあるが自力で歩けるまでになっていた。私は今日こそは穂乃果とことりの見舞いにいこうと気持ちを固めると、ベッドから起き上がり母に頼んで持ってきてもらった見舞いの品を腕にぶら下げて、まず穂乃果の入院する病室へと向かった。
不安とかすかな期待がない交ぜになった複雑な感情を胸に秘めながら私はエレベーターに乗り、穂乃果のいる五階のボタンを押す。エレベーターはかなり年季の入った古い型で、モーターが駆動する音がやけに煩く響いた気がした。チン、という電子音がすると五階の標識が点滅する。私はエレベータを降りると、突き当りにある穂乃果の病室へと入った。穂乃果は入り口のすぐ近くの病床に寝ていて、私は病室に入るとすぐに彼女の姿を見つけることができた。
「穂乃果…。起きてますか」
「うぅん…?あれ、…海未ちゃん?」
まどろみの中にいた穂乃果は私の来訪に気がつくと目を擦りながら私のほうに顔を向けた。でも、こちらに向けたその瞳にはもう二度と私の顔は鮮明に映らないのだと思うと、やるせない気持ちで一杯になる。私は罪悪感に苛まれる心を押さえつけて、平静を装いながら穂乃果に向き合った。ここ数ヶ月で自分の気持ちを表に出さず誤魔化すことにだいぶ慣れてしまった気がする。
「穂乃果。…ごめんなさい」
「…はは、何で海未ちゃんが謝るの?」
そう言った穂乃果はいつもと変わらぬ明るい調子で、一見すると事故前と変わらないように見えてしまうが、彼女の目の焦点は私に合っていなかった。それは些細な変化なのだけれど、事故が彼女に与えた影響を如実に表していて、その痛々しさから私は目を背けたくなる。
「いや、しかし…、私が旅行に誘ったばっかりにこんな事になってしまって。それに運転をしていたのは私ですから」
「旅行に行くと決めたのはわたしだし、そもそもこれはもらい事故でしょ?…海未ちゃんが罪悪感を感じる必要なんてどこにもないんだよ」
「それは…、そうなのですが」
きっと穂乃果だって私に何か思うところが無い訳ではないだろう。誰だって理不尽であったとしても、自分に降りかかってきた不幸の責任を誰かに押しつけたくなるものだ。だから、私は多少の恨み言や罵声は甘んじて受け入れるだけの心の準備をしていたのだが、穂乃果は決してそんなことを口にしなかった。やはりこういうところが、穂乃果の人としての強さなのだと思う。しばらくの間、私が穂乃果に感心をして惚けていると、彼女は何を思ったのか手を私の顔に当てて撫で回すようにしながらしみじみとこう呟いた。
「それにしても、本当に右目は何も見えないなぁ…。ここに海未ちゃんの顔があるんだよね」
「ええ、今触ってるのは私の頬です。…その、失礼ですが穂乃果は今どれくらい見えてるのですか?」
「ええと、右目は本当に何もみえない。左目は恐らく矯正器具をつけたら多少は見えるだろうけど、裸眼だと何となく形が見えるだけってところかな」
あっけらかんと告げられたその事実を前にして言葉に詰まる私をよそに、穂乃果は「これじゃあギターは弾けないなぁ」と呟いた。それは穂乃果には似つかない物憂げな声音で、だからこそきっとこれが穂乃果の本音なのだと痛感した。
「盲目でも、きっと練習すればギターは弾けますよ」
穂乃果を慰めるつもりでそう口にしたが、これは無責任な言葉だったとすぐに後悔する。私よりもずっとギターを練習してきた穂乃果ができないと言っているのに、ギターに触れたこともない私にそんなことを言われてもただ癪に障るだけだろう。そう思い至り、私は穂乃果の機嫌を損ねてしまうのではないかヒヤヒヤしていたのだが、穂乃果は予想に反して「はは、そうだね…。本当にその通りだよ、海未ちゃん」といって軽く笑った。
「目が見えないくらい、何だって言うんだろう。むしろ『盲目のシンガーソングライター』なんていう話題性があって逆に人気がでるかもね」
「ほんと…穂乃果らしいですね」
この前向きさは私も真似したいのだけれど、きっとこれは穂乃果だからできる芸当なのだと直感的に理解する。穂乃果のポジティブさと天性の人誑しぶりは私には到底真似できることではなさそうだった。私が穂乃果を眩しいものを見るかのように目を細めると、そんな私の表情の変化に気づいたのか、穂乃果は微笑みながら私の頬をつねってきた。
「ねぇ、海未ちゃん。確かになんで私がこんな目に遭うのかなと思ったし、今でも思ってる。でも起きちゃったことは仕方ないんだよ。だから、その現実を受け止めてまた前を向くんだ。ラブライブの時だってそうだったでしょ。でも、私たち…私はその困難を乗り越えてみせた。だから今回だって乗り越えられるから、海未ちゃんは何も気にせずにただ私のことを見て応援してくれればいいの」
「簡単な事でしょ?」そう穂乃果は笑うと「ファン一号は海未ちゃんに決定!」と冗談めかして言った。それは直接的ではなかったにせよ穂乃果なりに私を慰めようとしていたのだと察して、本来は私が穂乃果を慰めるべきなのに、いつの間にか立場が逆転して私が慰められていたことに情けなさを感じた。けれど、それと同時に慰められてうれしく思ってしまう私がいるのもまた事実だった。
「本当に穂乃果には敵いませんね」
「はは、伊達にμ’sのリーダーをしていたわけじゃないでしょ?」
したり顔の穂乃果を見て、私はついクスリと笑ってしまう。そういえば、こうも堂々と笑ったのは久しぶりだった。その後もしばくの間穂乃果と談笑していたが、話が一区切りついたところでことりの病室に向かうことに決めた。ことりは何とか一命をとりとめ、一週間ほど前に目が覚めたばかりだった。
「ありがとうございます、穂乃果。なんだか少し気が晴れました」
「お互い様だよ。私も久しぶりに誰かと話して少し気が楽になったから…」
「これから、ことりのところに向かおうと思います。穂乃果から何か伝えておきたいことはありますか?」
穂乃果はまだ私と違って一人で出歩くことが許されていなかったから、しばらくの間ことりのところにはいけそうになかった。
「じゃあ、お大事にって言っておいて」
「えぇ、任されました」
「それでは、穂乃果もお大事に」と言って私は穂乃果に手を振ると病室を後にする。松生杖をつきながら次に向かうのはことりの病室。穂乃果は私を赦してくれたけれど、ことりは果たして私を赦してくれるだろうか。そんな一抹の不安を抱えながら、私は廊下の窓から見える曇天の空を見上げて、信じてもいない神に祈った。
―どうか、ことりが私を赦してくれますように―
そっと組んだ手を解いて私が窓の外から再び前へ視線を戻そうとしたちょうどその時、朝のニュースで天気予報が言っていた通り雨がポツポツと降り始め窓を濡すのが見えた。そういえば、もう夏は終わって秋雨の季節か…。
大学のみんなはどうしているのだろうか。大学側に話は通しているからそう簡単に単位を落とすことはないと信じたいけれど、やはり不安と焦燥は隠せない。早くまたあの頃のような日常を取り戻したい。穂乃果に赦されて浮かれていた私は、少なくともこんな些細なことに思いを馳せられるほどには余裕が出ていた。でも、その余裕はそう長くは続かない。
気が付くと私はことりの病室の前にいた。
目次 感想へのリンク しおりを挟む