黄昏と黎明 (Kaxat)
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黄昏と黎明

 地平に沈む夕陽が草原を真紅に染め上げ、世界が炎に包まれていた。

 その光景を認めた瞬間。胸の奥がずきずきと痛むような、胃の底がちりちりと焦げるような。焦燥にも似た不快感が私を苛んだ。

 思考にノイズが走り、視界が狭まる。数秒ほどの自失だっただろうか。

 ──私は、夕暮れが嫌いだ。

 本来、私たちワルキューレに好悪は設定されていないのだから「嫌い」などというのは有り得ない話ではあるけれども、それ以外にこのパラメータを表す言葉を私は知らない。

 不快なものは見たくない。それは当然の反応であり、私は沈み行く夕陽を視界から外す。

 そこで私は、同じように夕陽を見つめるマスターの姿に気付いた。

 癖のある黒髪が生暖かい風に揺れる。汗の浮かぶ額と整った鼻梁。未だ幼さが残るが、旅人の逞しさを感じさせる精悍な顔立ち。引き結ばれた唇は長旅によって渇き、端が切れていた。頬の傷はまだ新しく、ガーゼには微かに血が滲んでいる。

 それらの要素は確かに勇士らしく、好ましいが、私の視線は彼の瞳に吸い込まれていた。

 それは遠い過去を見つめる深い青。様々な感情の揺らめきが見て取れる。私と同じ、不快の要素も確認できた。

 しかし、彼は燃える世界から目を逸らさず、立ち向かうように正面から睨みつけている。

 しばらくその横顔を見つめていると、やがて憂いの色は搔き消え、朗らかな普段の表情へと戻た。そして彼は「スルーズ、どうかした?」と、首を傾げて笑ってみせる。

 私はその笑顔がひどく悲しく、苦しく、今までに感じたことのないような腹立たしさを覚えた。

 そしてそれは、黄昏に燃える世界と同じ程に耐え難い、痛みの記憶となった。

 

 ▽

 

 黄昏の炎も消え失せ、天蓋に星が架かる頃。藤丸たちは野営地にて休息をとっていた。草原の真ん中にテントを張り、焚火を起こすだけの簡単なキャンプだったが長旅の疲れは十分に癒せそうだった。

 そんな夜更けに、誰もが寝静まったテントの中でのそりと起き上がる影があった。カルデアのマスターたる藤丸その人である。

 寝惚けた目をこすりながら、少年は今の時刻を確認する。端末の時計は午前4時半を示している。夜明けと共にキャンプを畳み、ミーティングの後に発つ予定なのでまだしばらくは時間があった。

 藤丸は寝袋から這い出ると、夜風に当たりに行くため礼装を羽織る。

 夜の空気はよく冷えていた。「たぶん誰かいるだろう」という藤丸の予想通り、焚火の側には白と金の戦乙女、スルーズがいた。ただひとり火の番をしていたのだろう。彼女の他に人影は見当たらなかった。

 見ればスルーズは沸かした湯をマグカップに注いでいる。

「おはようございます、マスター」

 少年の目の前に白いマグカップが差し出された。

「えっ、何? ありがと……」

 唐突に手渡されたマグカップを受け取り、解せないといった表情で首を傾げる藤丸。マグカップの中には甘い香りを放つ液体が揺れている。その暗い湖面は寝起きの頭にひどく魅力的に映った。

 ずず、とココアを啜る音が小さく響く。「あちち」と小さく声を漏らすマスターに、スルーズは小さく微笑んだ。

「なんで起きてくるってわかったの」

 疑問を口にする藤丸に、スルーズはこともなげに返す。

「ルーンです」

「ルーン」

「はい。大神より賜りし原初のルーン……それにかかればこの程度の未来予測は容易です」

「へぇ……」

「…………今夜は冷えますね」

 話題を逸らすような少女の振る舞いにやや違和感を覚えながら、藤丸はマグカップとともに受け取ったブランケットを羽織る。

「うん、やっぱり夜は寒いや」

「礼装でどうにかなる範囲とはいえ、体調にはお気をつけください。貴方は人間なのですから」

「わかってるわかってる」

 ほう、と息を吐く藤丸。その口許は優しく緩んでいた。

 作戦で張り詰めていた精神に余裕ができたのもあるが、何よりもスルーズの優しさが温かく、胸の奥が痺れるような思いがしたのだ。

 ぱちぱちと焚火の爆ぜる音が響く、夜明けの手前。ふたりは何も言わず、静かに炎を見つめていた。

 無言の時間が続く。生木は木炭へと変貌し、灰を被ってひび割れた肌から吐息をさかんに噴き始めた。

「スルーズ、何か悩んでる?」

 先に切り出したのは藤丸だった。少女の身体が一瞬こわばる。

「今日はちょっと元気なかったし、今もなんか暗いからさ」

 幾ばくかの逡巡の後、スルーズが決心したように言葉を吐いた。

「──私は、夕暮れが嫌いです。いえ、正確には『炎に包まれる世界』が嫌いなのでしょう」

「……うん」

 藤丸の脳裏に浮かんだのは北欧異聞帯での戦い。神話の終末たる炎の巨人の威容を思い出す。汎人類史においても北欧の神性にとっては霊基に組み込まれているレベルのトラウマだろう。

「昨日見た夕陽に、焼け落ちる世界を見出してしまったのです」

 スルーズの人形のような顔が翳る。虚ろな紅い瞳は焚火を見つめていた。

「この焚火だって同じです。私は時に、炎というものがひどく恐ろしくなる」

 黄金の滝のような金髪が炎の輝きを受け、光っていた。物憂げな少女が視線を動かし、藤丸をじっと見据える。

「立香、貴方はどうなのです。沈む夕陽を見つめる貴方も酷く悲しそうに見えましたよ」

 少女の問いが少年へ突きつけられる。内心を暴かれたことに対するささやかな反撃、というのもあるだろうが、スルーズの本題はむしろこの問いにあった。

 スルーズの真剣な表情に対し、藤丸は息を吸い、吐き、ゆっくりと吐露する。

「ああ、俺も同じだよ。俺も夕暮れで真っ赤な世界は嫌い……というか苦手だ」

 藤丸の記憶は過去へと遡る。辿り着いたのはグランドオーダーの起点。

 破壊された管制室、燃え上がる瓦礫の山、今にも消えそうな少女の命、呪いの炎に包まれた市街地。

 ──そして、最初に取り零した命。

 藤丸にとって燃える世界は、旅の始まりの光景だった。

「最初に助けられなかった人を思い出すんだ」

「そう、ですか…………貴方は強い人です。私は見たくないものとして処理してしまったのに」

 再び少女が目を伏せた。藤丸は笑って否定する。

「そんなに偉い話じゃない。俺はただ、忘れたくないだけだよ」

 そう言葉を絞り出す藤丸の顔には寂しさが滲んでいた。

「悲しかったことに対して忘れたり見なかったフリをするのはもっと悲しいし、寂しい。それに俺だけは、目を逸らしちゃダメだと思うんだ」

「立香……貴方は……」

 スルーズは返すべき言葉が見当たらず、途方に暮れる。

 炎に始まった少年と炎に終わった少女、ふたりの在る時間は隔絶している。互いの痛みを背負うことなどできる筈もない。もしかすると、同じ時間を生きる者同士でも難しいかもしれない。それを少女は思い当たったのだった。

 冷えた風が草原の空気を運んでくる。土と草木と朝露の匂いが思考を冴え渡らせた。天地の境界が白み始め、夜明けの片影が忍び寄る。

『夜が明けたなら私たちは離ればなれになってしまう』スルーズはそんな錯覚を覚えた。そして、焦る心が優しさでも労わりでもない、ただの苦悩を吐き出す。

「私には……スルーズという戦乙女には、貴方の痛みを本当の意味で理解できる日など来ないのでしょう。私はそれが悲しい。貴方の痛みを背負えない、この無力さを呪います」

「それでいいさ」

 スルーズが顔を上げ、きょとんとした表情で藤丸を見つめる。

「俺の痛みは俺のものだし、スルーズの痛みはスルーズのものだ。俺にだってスルーズの悲しさを完璧に理解することはできないよ」

「そんな……! それではあまりにも……」

『互いを自らの一部に感じられる程に理解する、それこそが友のあるべき姿ではないのか』そう言おうとして、少女は踏み留まった。彼女のマスターがどのように絆を結び、戦って、生きてきたかを思い出したからだ。

 飲み込んだ言葉の代わりに、少女は続ける。

「では、どうすればいいのでしょうか。私の、この、どうしようもないもどかしさは」

 スルーズの唇からは尚も苦鳴が溢れた。

「こうして話しただけでも俺は楽になれた。スルーズはどう? 話してみてちょっとはすっきりしたんじゃないかな」

 藤丸はマグカップにココアを注ぎながら静かに返す。その横顔は穏やかだった。既に痛みを抑え込んでいる素振りはない。

 そこで少女は、自分の抱いていた不快感が拭えていたことに気付いた。少なくとも黄昏に覚えた感情は和らいでいる。あるのは相手の直截的な助けになれないむず痒さだけだ。

「ええ、それはそうですが……」

「だったらこれでいいんだよ」

「む……」

 少女は未だ納得の行かない様子で、少しだけ頬を膨らませた。

「俺たちは相手に代わってあげることはできないけど、気遣うことはできるでしょ? スルーズがこうしてくれたみたいにさ」

 眉間に皺を寄せた少女に、白いマグカップが差し出された。揺れる湖面からは先程と同じく甘い匂いが漂っており、懊悩する心を緩ませる。

「はい、どーぞ」

 そのいたずらっぽい微笑みに、少女の心臓が跳ねた。

「ルーンで俺に気付いたって嘘でしょ? 夕暮れからずっと俺を気にかけてくれてたんだね」

「…………野暮ですよ」

「ごめんごめん」

 無邪気に笑う藤丸に、スルーズは呆れたような溜息を吐く。

「ありがとう、ございます」

 やっとの思いで返した言葉の尾は微かに震えていた。

 そして少女はゆっくりとマグカップを傾ける。優しい味がした。

「とても美味しいです」

「それは良かった」

 焚火は既に消し炭となっていた。手のひらの中の熱が、少女に幸福を感じさせる。徐々に熱を失い、人肌になって行くそれがたまらなく愛おしい。

 再び静寂が訪れた。が、それは先程とは違い、気まずさも懊悩もなく、満たされた時間だった。

 既に薪の爆ぜる音は聞こえない。聞こえるのは草原を駆ける風の足音と、時折静かにマグカップを傾けるふたりの呼吸だけだった。

 この穏やかな時間が永遠に続けばいい、少女がそう思った瞬間。光が東の空を切り裂いた。

「夜明けだ」

 地平線が赤く燃えている。夜が明け、曙光が雲を焼き払う。

 スルーズは愛しい時間が過ぎ去ったことを少しだけ残念に思いながら、朝焼けに見惚れていた。

 スルーズの表情が明るくなったのに気付き、藤丸はほっとして息を吐く。

 異なる時代を生きる異なるふたりは同じ方向、同じ空を見つめていた。今の彼らの表情には一片の曇りもない。

「貴方が生きる世界(いま)へ繋がったのなら。私の、私たちの痛みにも、確かに意味があったのでしょう」

 スルーズは穏やかに微笑むと、勇士の手を優しく握りしめる。

 藤丸は突然の触れ合いに少しだけ震えるも、何も言わず同じくらいの強さで優しく握り返した。

 ぎこちない藤丸にスルーズはくすりと笑うと、慈しみに満ちた表情で祈りを捧げる。

「願わくば、貴方と私の旅路が良きものでありますよう」

 指先を絡めた手を少女は引き寄せ、優しく口付けを落とした。

 

 ▽

 

 ──私は夕暮れが嫌いだ。

 けれども、あの黎明の空へ繋がるのなら、黄昏に焼け落ちる世界も悪くないように思えた。



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