三体系のエントロピー (朝雲)
しおりを挟む

Hypothesis
1 伯父


作者は似非理系でありますので、物理的内容についてのツッコミはなしの方向で。


 かなり前の話になる。今からおよそ六年前の八月、僕が十一歳だった時の話だ。そのとき、僕はちょうど宮城にある父の実家に帰省をしていて、仙台のはずれにあるボロ臭い家に五日間ほど滞在することになっていた。

 

 僕の生まれは仙台ではなく横浜だ。もちろん仙台市内、たとえば青葉区などはかなり発展していることを今までの経験から僕は知っていたのだが、生粋のシティーボーイである僕には東北の片田舎で過ごす時間は苦痛で、いつも早く横浜に帰りたいと思わずにはいられなかった。

 

 でも、この時は少しだけ事情が違っていた。ちょうど実家には父の兄、つまり僕にとって伯父にあたる人が来ていたからだ。伯父の名前は礼治といった。銀縁の眼鏡を掛けた痩せ形の人で、背はかなり高い。優に一八〇センチは越えていただろう。余り覇気のない人で、賑やかな人というよりは寡黙な人だった。

 

 伯父は某旧帝國大學の物理学の准教授であったと聞いている。ただ、僕が十一歳のときは准教授がどの様な地位の人間で、また物理学がいかなる学問なのかなど、よく知らなかったから、僕の伯父に対する認識は眼鏡を掛けた物知りな伯父さんという素朴なものでしかなかった。

 

 確かに、今思えば伯父は天体や物体の運動を語るときはもの凄く饒舌になるきらいがあった。伯父の専門は後になって知ったのだが、物理学の中でも物性をメインにしていて、たしか極低温量子物理という分野を研究していた気がするが、あいにく理系を挫折した僕には余りにも難しくてよく分からなかった。

 

 伯父は簡単に話をするのが下手くそだった。たとえばこんな話がある。

 

 小学校二年生の時、僕はレンズについて伯父に説明してもらったのだが、彼は小学校低学年を相手にフェルマーの原理から説明をしようとしてきたのだ。後になって知ったのだが、これは高校の範囲の事柄だったらしい。そのことを伯父に抗議すると、彼は「本当に頭のいい人は難しい話を小学生にでもわかるくらい簡単に話せる人だ」と言って、そのあとすぐに「私は馬鹿だからね」と口にしながら自虐的な笑いを浮かべていたことをよく覚えている。実際、伯父は研究者としてはあまり優秀な部類ではなかったらしい。

 

 ただ、そんな伯父のちんぷんかんぷんな話の中でもこの話だけは今でもよく覚えている。何が琴線に触れたのかはわからないが、とても印象的な話だった。

 

 それは、僕が仙台の家から伯父につれられて近くのコンビニにアイスを買いに行こうとしていた道中のことだ。僕は側溝の脇に一匹の風化しつつある蛾の死骸を見つけた。余り関東では見たことのない種だったので、つい物珍しさから僕は道端に立ち止まると、その場でしゃがみ込んでそれを観察した。

 

「どうした、慎也」

 

 伯父は急に立ち止まった僕を怪訝な瞳で見てきた。慎也とは僕の名前である。

 

「めずらしい蛾の死がいがあったから」

「そうか、割とよく見かけるやつだと思うが関東では余りいないのかな」

 

 伯父は東方に住んでいたから、この蛾を見慣れていたようで、つまらないものを見たかのように一瞥すると、「日が暮れるから早く行かないか」と気怠げに僕に言ってきた。

 

「おじさん。何で蛾の死がいはボロボロになるんだろうね」

 

 単純な好奇心から僕はそう質問していた。別に誰かに踏まれたわけでも、虫に食われたわけでもなく自然と死体は風化し壊れていってしまう。そのことが何とも不思議だった。

 

「それは、…」

 

 この時、伯父は珍しくなるべく難しい言葉を使わないように僕に説明しようとしているようだった。恐らく、前日に僕の父に兄貴の説明は分かりづらいと名指しで非難されたことを気にしていたのだと思う。

 

「まあ、簡単に行ってしまえばその個体と外の世界とのやりとり。たとえば虫だとしたら、それはほかの虫を食べたり植物を食べたりしてある種エネルギーの遣り取りをするわけだが、死ぬとそれができなくなってしまう」

 

 そこまでは分かるなと伯父は念を押してきた。僕は首肯して話しの続きを促した。

 

「そのような系。まぁ、系とはつまり観測対象とするものを含む空間みたいなもののことだが、これを孤立系と我々は呼んでいる。一般に孤立系についてはエントロピーと呼ばれる物理量、平たく言えば虫を構成する原子配列の乱雑さが不可逆的に増加していくから蛾の死骸は崩壊していく」

 

「つまり、孤立系の中では形あるものは必ず壊れてくってこと?」

 

「まぁ、素人理解としてはそれでいい。詳しく知りたければ勉強して熱力や統計力学をやるんだな」

 

 結局分かったような分からないような、そんな話だった。でも、形あるものは必ず崩壊していくという伯父が語ったそれが、ある種の物理的宿命としてこの世を支配していることはどこか神秘的で美しく感じた。やがてこの宇宙という一つの系も熱力的な死を迎えるのだろうか。なんだか、壮大すぎて実感がわかない。

 

「人間関係も一緒さ」

 

 伯父は僕に聞こえるぎりぎりの大きさの声でぼそっと付け足すように呟いた。それは伯父なりのジョークだったのか、いまだに判然としない。

 

 伯父が亡くなったという報せが僕の耳に入ったのはこれから半年後のことである。死因は自殺だった。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

2 弥生と由紀

「三体問題は特殊な条件下でしか解析的な解が出せないんだって」

 

  幼馴染の弥生は集中力が切れたのか、そう僕に話しかけてきた。ちょうど伯父の墓参りに行こうとしていた三日前のことだった。

 

 今年は伯父が死んでから六年目になる。伯父の死因は自殺。オーソドックスな首吊りだったらしい。ただ、なぜ伯父が自殺をしたのかという動機はいまだに不明なままだった。伯父には消費者金融からの借金もなければ、鬱病であったわけでもない。人間関係もそれなりに円滑にいっていたはずだと、少なくとも伯父の葬儀に参加した同僚や数少ない旧来の友人は言っていた。

 

  幸か不幸か伯父は独身で子供もいなければ、薄給であり目立った財産もなかったので、相続といった諸々の死後の手続きは淡々としていた。葬儀もこじんまりとしていて、余りにあっさりとしたものだったから、変な話なのだが僕は六年たった今ですら、伯父の死というものが実感できていなかったりする。

 

「三体問題て何?」

 

 僕は弥生が突然語ったことの中に知らない単語が存在するのに気が付き、手元にある漢文の問題集から弥生の方へと視線を移した。

 

「三物体が相互作用する三体系に関する物理問題のこと。たとえば地球と人工衛星の場合は二物体が相互作用するから二体問題という」

 

 シャーペンをすらすらと動かして物理の参考書を読み解きながら、弥生は淡々と答えた。その尊大ともとれる態度には、言外にそんなことも分からないのか、という本音が隠れている気がした。弥生は比較的物静かなタイプであったから、何を考えてるか分かりづらいところがある。基本的に彼女の声音は抑揚に富まず、むしろ外の蝉の鳴き声の方が変化に富んでいるくらいであった。

 

 季節は夏になり高校生の僕たちはちょうど夏休みのただ中にいる。そんな折、弥生と僕は同じく幼馴染であった由紀の部屋で夏の課題を処理していた。

 

「また、難しそうな話をしているの?」

 

 五分前に部屋を出た由紀が三人分の麦茶を一階の台所にある冷蔵庫からもってきて、苦笑しながら扉の前に立って僕たち二人を交互に見た。

 

「いや、別に大したことじゃないよ。ただ、弥生がまた物理のことについて話してきたから質問しただけ」

「へぇ、慎也は文系なのによく弥生と理系の話しばかりしているわね」

「そうかな」

 

 「そうよ」と由紀は力強く肯定してきた。由紀は僕と同じ文系だった。

 

 僕の通っている高校は高校二年生から文系と理系に分かれることになっている。僕と由紀は文系クラスを、弥生は理系クラスを選択していた。弥生は高校に入る前から数理系がめっぽう強かったから、理系に進むだろうということは容易に想像できることだった。

 

 由紀はその反対で、国語や歴史といった文科系のことが他とは抜きん出ていたから、これもまた文系に進むであろうことは容易に想像できることであった。

 

 この二人と比べるぱっとしないのが僕だ。僕は理系も文系もそつなくこなすタイプだったから、最後までどちらに進むか悩んでいた。弥生はひたすら僕に物理の良さを説いて理系に進ませようとしたけれど、結局数学の確率と整数論が全く理解できなかった僕は、これでは理系は無理かなと思って文系に進むことにした。確率と整数論は大学入試の頻出分野であったから。

 また、文系のほうが大学生活が楽にみえたからというのも理由の一つであったりする。進路選択の際に文系に進むと言った時の、あの弥生のがっかりとした表情は今でも忘れられない。逆に由紀はどこか嬉しそうであった。

 

「やっぱり、慎也は理系のほうが合ってる」

「今更だね」

 

 弥生はよく僕が理系に転向すること薦めてくるけど、もう物理や化学は先に進みすぎていて、今から追いつける筈がなかった。

 

「でも、慎也は関数とか解析系の数学は得意だった。ぶっちゃけ、理系大学の入試なら微積分が得意ならどうにかなるよ」

 

 それでも弥生は僕が大して文系科目に魅力を感じていないことを知っていて、理系に来るように執拗に誘ってくる。そういえば、弥生は僕が文理選択をする際に、やりたくない事をするべきでないと言っていた。

 

「でも、理科が間に合いそうにないからさ」

「私が教えてあげようか。私、物理と化学は全国で四位。県内では一位の実力があるから安心していい」

 

 この弥生という僕の幼馴染は理系科目、とりわけ物理に関しては驚くほど天才的によくできる女の子だった。今読んでいる本も大学生向けの『バークレー物理学コース』という本だ。一度見せてもらったことがあるのだけれど、その内容は難し過ぎて僕には意味不明でしかなかった。弥生にもこの本は少し手に余るようだったけれど、彼女はそれでもなお余りある物理に対する情熱と興味からこの本の解読にひたすら勤しんでいる。

 

「さすがに浪人のリスクは犯せないなぁ」

「まあまあ、弥生もあまり慎也をしつこく誘わないの。慎也が迷惑がってるわよ」

 

 ぱんぱん、と手を叩く音が聞こえたかと思うと、いつのまにか僕のそばに来ていた由紀が無駄話はここで終わりといった具合に会話に入り込んで弥生のことを軽くあしらった。これは最近よく見る構図だ。弥生が僕を誘い由紀がそれを阻止する。僕はこのやり取りを夏休みに入るまでもう四、五回は見ている気がした。

 

「そういえば、三日後だっけ。慎也が仙台に行くの」

 

 由紀は誰から見ても明らかなほど強引に話題を変えた。そういえば、由紀は弥生とは違って僕の伯父と面識があったから、僕が墓参りに行くことを知ってどこか懐かしがっていようでもあった。

 

「慎也、お土産は笹かまぼこでいい。牛タンも可」

「おい、僕はまだ一言もお土産を買ってくるなんて言ってないぞ」

「慎也が私にお土産を買ってくることは容易に想像できること。むしろ私に訊く手間が省けたことに感謝するといい」

「はぁ、弥生は相変わらずだな」

 

 冗談で言っていることは分かっているが、如何せん表情の変化が乏しいから、真面目に言っているのかと誤解してしまいそうだ。

 

「弥生は誤解されやすいんだから、言葉には気を付けろよ。僕以外が聞いたら割と失礼だからな、ソレ」

「別に、慎也が分かってくれていれば他の有象無象がどう思っても気にならない」

「有象無象って…、将来苦労しそうだな」

 

 弥生は黙っていれば見た目はいい。それそこ色白で整った顔立ちをしているから、どこかの深窓令嬢に見えなくもない。実際、理系クラスでは彼女のファンが多いと聞くし、誰かが抜け駆けしないように男子の間で紳士協定が結ばれているという眉唾物の噂がでるくらいだ。

 

 ただ、実際に長い年月を一緒に過ごして分かったことは、弥生はかなりコミュニケーションが下手くそで、真正の物理バカということ。頭の中はきっと物理のことしかないに違いない。彼女が物理以外の何か。例えばスポーツや音楽といった趣味に興じている姿は想像し難いものだった。

 

「はは、でも昔よりコミュニケーション能力はましになったよね。弥生」

「まあ、由紀の言うことも一理ある」

「中学の時なんて凄かったもんね。つき合ってくださいって言ってきた男子に『何処にですか』なんてネタじゃなくて本気で答える人本当にいたんだって思った。文脈読めなさすぎでしょ」

「由紀も慎也も余りそのことを弄らないでほしい」

 

 弥生がむすっとした顔をして、由紀と僕に抗議した。

 

「ごめん、ごめん。まぁ、でも少しずつ人間らしさ?みたいなのは出てきてるんじゃない。昔は計算機なんてあだ名で呼ばれてたくらいだし」

 

 弥生の小学生の時のあだ名は計算機。その名の通り計算が速くて正確だから付いた名前。確かに的を射ていたようだけど、それは暗に人間らしくないという意味が込められていたのかもしれない。

 

「まあ、とりあえずお土産は買ってきますよ。弥生は笹かまぼこ。由紀は…」

「じゃあ、萩の月」

「了解」

 

 やや脱線してしまった話を元に戻す。由紀はいかにもいまどきの女子高生っぽい見た目の割にはなかなか渋いチョイスをした気がした。とはいえ、萩の月はお土産としては定番中の定番で、オーソドックスといえばその通りなのだが。

 

「何だかんだ、慎也は優しいね」

「ほっとけ」

 

 したり顔の弥生を横目に、僕は弥生と由紀に頼まれたお土産を忘れないよう携帯を取り出すとメモを書き込んだ。一通り書き終えると携帯をポケットにしまって勉強を再開しようとしたが、結局このあともおしゃべりが好きな由紀と課題をすべて終わらせて暇になっていた弥生が色々と話してしまい、仙台に行く前に全て片づけるはずだった宿題は思ったより進まなかった。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

3 帰路

 弥生と由紀との勉強会は午後五時過ぎにお開きになった。もともと四時にはやめるつもりだったのだが、無駄話が過ぎてしまったようで予定よりも一時間ほど伸びてしまったのは誤算だった。僕と弥生は持ってきた参考書や問題集といった荷物を鞄に詰め込むと、二階にある由紀の部屋から一階に降りて玄関へと向かった。

 

「弥生も慎也も昔はよく家に泊まっていってたんだけどね」

 

 帰り際、玄関先まで僕たちを見送りに来た由紀がどこか名残惜しそうにそう呟く。確かに由紀の家は三人の中で一番大きかったから、僕と弥生はよく由紀の家でお泊りをしていたのだが、それはもう随分と前の話であった。

 

「いったい何年前の話だよ」

「さあ。確か小学校五年生までは泊っていってたと思うのだけど…。あぁ、そうだ」

 

―ねえ、慎也。久しぶりに泊っていく?-

 

 由紀はクスッと笑いながら、そう茶化すように僕に向かって言ってきた。それはいかにも艶めかしい口調で、弥生とは違ってどこか大人の女性らしさがあったせいか、僕は一瞬気後れしてしまう。

 

 由紀は弥生ほど美人ではないけれど、人並みかそれ以上には可愛らしい。また物理にリソースを割き切っている弥生とは違って女性らしさというものを感じる女の子であった。これは完全に想像なのだが、もしかしたら由紀は顔では弥生とは張り合えないから、敢えて女性らしさというものを演じて弥生に勝とうとしているのかもしれない。昔から、由紀は少しプライドが高い女の子だった。もっとも、それがただ単に由紀の性分だという可能性も否定はできないし、僕もそういうふうに納得している。少なくとも僕が今、何かしら断言できることは、由紀はその性格のおかげで弥生より遥かに男子受けが良いということだけだった。

 

「まったく、揶揄うなよ。僕と弥生はもう気軽に三人で家に泊まれるよう年じゃないんだからさ」

「はは、そんな本気にならないでよ。…というか、私は慎也にだけ泊って、て言ったんだけどね」

「えっ?…」

「あれ、なに?期待しちゃった?」

 

 この妙に距離感が近い幼馴染はニヤニヤとしながら僕を見てくる。そんな訳ない、と言い切れればいいのだが、そう言えないのが年頃の男子の(さが)だった。実際、由紀に泊まっていかないかと誘われた時、何かいかがわしいことをまったく期待しなかったといったら嘘になってしまう。とはいえ、いくら由紀が魅力的な女の子であったとしても、僕にとって彼女は付き合いが長すぎて、一人の女性というよりも少しお姉さんぶりたい年の近い従姉を見ているような感覚が真っ先にきてしまうのであった。

 

「今日ね、お父さんもお母さんも仕事で遅くまで帰ってこないの」

 

 上目づかいで由紀が僕を見てきながらそうたたみかけるように言った。由紀の両親は共働きであまり家に帰ってはこない。それは小学生の時から今までずっと変わらない事実で、僕たちがよく由紀の家に三人で泊まったのも由紀に寂しい思いをさせないためだったりする。由紀は一人で過ごしたくないときに、大抵この台詞を言って迂遠ながら僕たちに泊っていって欲しいと伝えてきたのだった。でも、それは小学生の時だから許された芸当で、さすがに今の文脈でその台詞は他意があるように聞こえてならない。

 

「あのな、由紀」

「…慎也。話が長い」

「っ、あぁ。ごめん弥生」

 

 僕をからかってくる由紀を軽く窘めようとしたとき、ずっとほったらかしにされてた弥生が面白くないと言いたげな表情をして僕の袖を強くを引っ張った。一緒に腕の肉もつままれていて少し痛い。弥生の表情の変化はわずかだったけれど、彼女は不機嫌な時と機嫌がいい時はどちらかといえば顔に出やすいので、僕は機嫌が悪くなっていることをすぐに察した。少し眉が上へ吊り上がっているときは大抵機嫌が悪いのだ。

 

「ごめん、由紀。そろそろ僕たちはいくよ」

「そう…。もう少し話したかったけど仕方ないわね…。じゃあね、慎也。それと…弥生」

「うん、また今度」

「それと仙台のお土産、忘れないでよ」

 

 由紀はそう言うと僕に手を振って玄関の戸を閉めた。バタン、という音を立てる扉のしめ方は由紀にしてはやや乱雑な気がして、僕はしばらくそのことに呆気に取られていたが、ふと弥生がいまだに自分の袖を握っていることに気が付いて慌てて意識を現実に戻した。この体勢、傍から見ると弥生が腕を絡ませてきているようにも見えなくないだろうか。僕は誰も僕たちのことを見ていないのだけれど、何となく気恥しくてそっと袖口をつかんでいた弥生の手を払った。

 

「ええと、それじゃあそろそろ行こうか」

「…由紀、機嫌悪い?」

 

 弥生は僕に手を払われた時また少し眉を上げてきたが、それよりも乱暴に戸を閉めた由紀に何かを感じているようだった。

 

「さぁね。僕に女心なんて全く分からないから。でも別に機嫌を悪くするようなことなんて何もなかったと思うんだけど」

「確かに、何もなかったと思う…。でも慎也は色々と鈍感だから心配。何かやらかした」

「いや、とくに何も。というか弥生だって鈍感だろう。さすがに弥生にそれを言われるのは納得できないな」 

 

 弥生は興味のない事にはとことんドライな性格をしていたから、他人の気持ちになんて全く配慮しない。幸いにも僕たちのことはそれなりに気にかけてくれているようだったので普段はあまりそのことを意識していないけれど、基本的に弥生はそういう奴なのだ。

 

「そう?私は意外と他人のことを見てるよ。観測はすべての基本」

「観測って…。やっぱ弥生は物理バカだな」

「人も所詮は多粒子系だからね。…まぁ冗談だけど。でもそれなりに見ている自信はあるよ」

「うーん、そうかなぁ」

 

 そう言われてもいまいち実感が湧かなかった。こればっかりは偏見といわれても仕方がないけれど、あまり表情の変化がない弥生は、大概冷たい印象を受ける。かなり長く幼馴染として付き合ってきた自負はあるけれど、彼女の考えは読み取り辛く、いまだに僕は弥生という人間を完全には測れていなかった。

 

 

 由紀の家を出てからしばらくの間、僕と弥生はただ無言で歩き続けた。弥生はもちろん、僕もどちらかといえば口数が多いタイプではなかったので、あまり沈黙を苦だとは思わなかった。この辺は伯父と似ているのかもしれない。

 

「そういえば、夕焼けが赤く見えるのは何故かって昔、伯父に聞いたな」

「亡くなった伯父さん?理論物理学者だったんだっけ」

「そう。まぁ理論物理か実験物理かは分からないけど物性の専門だったはず」

 

 沈黙と目の前の夕焼けの空が僕に伯父のことを思い出させた。弥生は僕に伯父がいたことを知っていたけれど、由紀と違って面識もなかったのであまり詳しく彼のことを知らない。

 

「物性っていっても幅広いよ…」

「詳しくは僕もよく分からないさ。でも、いっぺん弥生に合わせてみたかったな。弥生と話が合いそうだから」

「さぁ、それは分からない。私が一番興味があるのは熱力学で少し物性とは違うから。…あと、夕日が赤く見えるのは散乱のせいだよ。帰ったらレイリー散乱で調べてみるといい。光は奥が深いから」

「…多分、伯父とは話があっただろうね。今確信したよ。伯父もそういえばレイリー散乱が云々とか言っていた気がするなぁ…。伯父と弥生はよく似ている」

 

 自分から言ったことなのだけれど、弥生と伯父は確かに似ていると妙に納得してしまう。コミュニケーションが下手なところとか、自分の好きなこと以外に興味がないところとか。あと、意外と私生活がだらしないところもそうかもしれない。それとも物理をやる人間は基本こういうものなのだろうか。

 

「それにしても、…なんで死んだんだろうなぁ。伯父さんは」

「動機、まだ分からないんだ」

「あと数年したら、教授になれるかもってところで自殺なんて普通するかな?」

「さぁ、…別に知らないし興味もない。あと、慎也。一つ訂正させて。伯父さんと私はあまり似てないよ。私は自殺なんてしないし、仮に自殺してしまうくらい誰かに追い詰められたなら相手を殺してしまうと思う」

「はは、それは怖いね」

 

 相手を殺す。最初は冗談だろうと思ったが、そう言った弥生は平素と変わらぬ淡々とした様子で、それが逆に弥生は真剣にそう考えているのだということを僕に教えてくれていた。また一つ弥生の人物像が不鮮明になる。その底冷えする漆黒の瞳の奥で彼女は今、何を考えているのだろか。やはりこれだけ長く一緒に過ごしてきていても、僕は未だに弥生という人物を完全にはつかめてはいないのだと悟った瞬間だった。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

4 実家

 弥生と由紀との勉強会から三日後、僕は横浜を出て仙台にいた。父は仕事の都合で一日遅れで仙台に来るらしく、母は海外出張中でそもそも日本にはいなかったので、僕は初めて一人旅をすることになったのである。

 

 一人旅とはいっても、新横浜から東海道新幹線で東京まで出て、後は東北新幹線に乗るだけの簡単な旅であったが、何だかんだで家を出る前の僕はこの旅を楽しみにしていた。しかし、実際には期待していたほど何か面白いことも無かったので、所詮一人旅なんてこんなものなのかなと納得すると、僕は気持ちを切り替えて仙山線に乗り父の実家の最寄りの駅へと向かった。

 

 父の実家を訪れるのは二年ぶりである。昨年の夏は風邪をこじらしてしまい僕だけが家で留守番をしていて、一昨年は高校受験が忙しくてとても帰省できる状況ではなかった。僕の家庭は父も母も多忙だから、帰省する機会は夏の盆休みのあたりと年末しかない。ただ、年末は年によって行ったり行かなかったりすることがあり、去年はたまたま行かない年だった。例外なのは伯父の葬式の時で、その時は二月末の年末も盆休みもとくに関係ない時季だったと記憶している。

 

 電車に二十分ほど揺られて実家の最寄り駅に着く。仙台の中心から外れたそこは記憶の中の姿から少しだけ違っていて、例えば昔はあった自販機が撤去されていたり、高齢のおばあさんがやっていた個人商店が無くなってたりしていた。

 

 僕はそんな記憶との相違を探しながら父の実家のへと歩みを進める。その作業は単純だけれど面白かった。成長とともに価値観が変わることはよくあることだけれど、僕はいつの間にかこの都会とも田舎ともいえぬ土地に愛着がわいていたらしい。東京や横浜とは違って過密でなく静かなこの土地は、都会の喧騒に慣れてしまった僕にはやけ物珍しく新鮮なものに感じられた。

 

 そうして十分ほど歩くと築五十年ほどの年季のある木造の家が見えてきた。平屋建てのそれはところどころは修繕の跡が見え、どこかちぐはぐな印象を受ける。僕の父の実家はやはり二年経っても変わらずにボロ臭いままで、それに妙に安心してしまう自分がいた。

 

 インターホンを押してしばらくすると、中からゆっくりとした足音が聞こえてくる。玄関を開けて僕を出迎えてくれたのは祖父であった。

 

「やぁ、慎也。よく来たね」

「お久しぶりです、お祖父さん。三日間だけですがお世話になります」

「はは、そんなかしこまらなくてもいいんだけどねぇ」

 

 そう言って祖父は柔和な表情を浮かべると、「まぁ、お入り」といって僕を玄関から中に入るように促した。僕は軽く会釈をして中に入ると、靴を脱いで二年ぶりとなる祖父母の家へと足を踏み入れた。

 

 軋んでで音が出る床板や染みのついた壁などの一つ一つが昔の姿のままで、僕は柄にもなく郷愁の念に近い何かに駆られる。その一つ一つをゆっくりと見て回りたい気もしたけれど、前を歩く祖父はそれらを気にも留めずさっさと奥へと向かって行ってしまい、僕は慌てて祖父の後ろに付いていった。

 

「孝一は元気にしているか」

「えぇ。まぁそれなりに。ただ最近は腰や関節にだいぶガタが来ているようですが」

「まぁ、あいつも歳だからな」

 

 孝一とは僕の父のことである。五十歳を超えた父はだいぶ体が衰えてきたようで、最近はもう若い時みたいに無茶はできないなというのが口癖になりつつあった。

 

「礼治も生きていれば五十二歳か…」

 

 しばらく無言で歩いていた祖父が唐突にそう呟いた。突然伯父の名前が出てきて僕は戸惑ったが、ここに来た本来の目的は伯父の墓参りだから、祖父はすでに僕が心の準備ができているものだと思ったのかもしれない。ただそう言われても何と返すべきか。そもそも何かを返すべきことなのか分からなくて、僕はただ無言を貫いた。

 

「いや、すまないね。いきなりこんなことを言っても反応に困るだけか」

 

 祖父は余計なことを口にしてしまったと思ったのか、苦虫を嚙み潰したような、そんな表情を浮かべた。やはり、先ほどの発言はただ思いがけずに出てきてしまっただけの言葉のようで、僕は変に返事をしなくて正解だったと安堵のため息を小さく吐いた。

 

「まぁ、礼治の話はとりあえず置いておこう…。あぁ、そういえば昔、礼治に慎也が高校生になってから渡すように頼まれていたものがあったんだった」

「何です?」

「大したものじゃないさ。何だっけな、たしか『ファインマン物理学』の全巻だったかな」

 

―ファインマン物理学―

 

 そういえば弥生が欲しがっていたなと、僕は弥生と先月した話を思い出した。ファインマン物理学は六十年代にカルテク、つまりカリフォルニア工科大学で物理学者のファインマンが行った講義を編纂した物理学の本であるらしい。講義調の文章や日常生活に根ざした物理現象などを扱っているのが特徴的で、非常に本質的かつ明快な説明を施してある名著だと、弥生は興奮気味に話していた気がする。

 

 弥生はこの本にとても心を惹かれていたようだが、如何せん専門書というのは値が張る。実際、弥生はかつて翻訳版を全巻揃えようと思うと数万円にのぼるだろうと愚痴を漏らしていた。

 

 弥生の家は母子家庭であまり裕福とは言えず、弥生の持っている専門書はほとんどが古本屋でそろえたものだった。弥生は欲しがっていたもう一つの『バークレー物理学コース』は何とか見つけたようだけれど、『ファインマン物理学』には出会えずにいたのだ。

 

「でも慎也は礼治の予想に反して文系に行ったと孝一から聞いたし、全巻になるとかなり重いから持ち帰る気がなかったらこっちで処分しておく。書斎においてあるから適当に持っていってくれ」

「ありがとうございます。物理に詳しい友人が欲しがっていたので持って帰りますよ」

「はは、それはなにより」

 

 そう言うと、祖父は一通り話し切ったのか特に喋ることなく黙々と歩いていった。しばらく歩いていると小さな部屋の前にたどり着いた。そこは確か昔父が自分の部屋だった言っていた場所ではなかろうか。

 

「ここの部屋をとりあえず使ってくれ。孝一が高校生の時に使っていた部屋だ。もっとも中は整理してあるから当時のものはほとんどないがね」

 

 祖父はそう告げると、六時頃に夕飯ができるからそれまでには居間に来るようにと言って去っていた。

 

 腕時計を見るとすでに午後の五時すぎで、夕食まで一時間もない。何をするにも中途半端な時間で、僕は父が使っていた部屋の扉を開けると持ってきた荷物を壁際において畳の上に横になることにした。日焼けした畳は少し黄ばんで藺草(いぐさ)の匂いはすっかり消えていたが、僕は家のフローリングとは異なる柔らかさを背に感じると長旅の疲労から自然と意識を手放した。

 

 六時五分前に目が覚めた僕は慌てて居間へと向かい、夕食を食べた。夕食は特に郷土料理とかそういったものではなかったが、久しぶりに食べた祖母の料理の味は記憶よりも美味しくなっている気がした。

 

 その後、僕は風呂に入ったあと書斎へと向かった。書斎は今使っている部屋のすぐ近くにあったので、案外簡単に見つかった。僕はドアノブをひねり扉を開けると、灯りをつけて書斎の中へと入った。

 

 書斎には様々な本が置いてあった。よく分からないが恐らくドイツ語の本や、シェイクスピアや老子といった西洋と東洋の古典文学など、主に思想や文学のものがメインであるようだ。

 

 しばらく部屋全体を物色をしているとある異質な一角を見つける。そこだけ理学の本ばかりが置いてあった。

 

 ユークリッド原論をはじめとする数学の本や、ポーリングの『一般化学』など様々な分野の専門所が並んでいる。その中でも一際目立つ分厚い白い背表紙の本が『ファインマン物理学』であった。

 

 僕はそれの「力学」書かれた一巻を手に取ると、パラパラとページをめくって中身を確認してみる。相対性理論や調和振動、回転運動方程式…。弥生から聞いたことのある言葉が何個もそこには並んでいたが、その内容については詳しく知らない。弥生は大抵僕にも分かるように触りしか説明していなかった。

 

 しかしざっと見たところ、確かにこれは弥生のお眼鏡にはかないそうな本だなと直感的に理解する。間違いなく弥生には笹かまぼこよりも、こちらのほうがお土産として最適だろうと思い、僕はこの本を貰って喜ぶ弥生を想像して、自然と笑みをこぼした。

 

「全部で五冊か…。重そうだな」

 

 まぁ、大切な幼馴染の為だ。

 そう思い僕は他の「熱と波動」、「量子力学」と書かれた巻を手に取ると、自分の部屋に持ち帰ろうとする。そして熱力学の巻を取ったとき、ページの隙間からはらりと一枚のルーズリーフが落ちてきた。それはだいぶくたびれてしまっていたけれど、少なくともここ数年で書かれたと分かるくらいの新しさはあった。

 

「なんだ、これ」

 

 僕はそのルーズリーフを手に取ると内容を確認する。表面はただの計算式が並んでいた。ここで恐らくこれは伯父のものだろうと察する。書かれている内容はよく分からないが、少なくとも高度な数学が使われていることは理解できた。

 

 続いて僕は裏面をみる。そこには何重にも大きなバツの印がそれなりの長さの文章の上に描かれていた。その異質さが少し気味悪かったが、僕はある種の好奇心からその内容を読み始めることにした。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

5 手記

『このような話をルーズリーフにするのは似つかないが、手元にある紙がこれしかなかったので許して欲しい。さて、これから私は少し昔の話をしようと思う。これはただの自己満足であるのと同時に懺悔であって、言わばただの自慰行為のようなものだが、こうでもしないと私の気が収まらないので書かせてもらう。

 

 私には四歳年下の幼馴染がいた。名前を■■(濃いバツ印の下にあり読めない)といい、彼女はすこし無愛想だけれど可愛らしい女性であった。実に彼女とは十余年の付き合いではあったのだが、私と■■は■■が東京の大学に進学したのを機に疎遠になってしまった。当時私は大学院生で、研究に忙しく連絡をとる余裕もあまりなかったので(当時は今のような携帯などなかった)■■と疎遠になるのにはそう時間がかからなかったと記憶している。それから、ずっと■■の消息は不明なままだった。

 

 それから十年近くが経ち、私が三十過ぎになったある日、私の研究室はとある素材メーカーと協同研究をすることになった。そして、しばらくして相手側と顔合わせをしたとき、私はメーカーから出向してきた社員数名の中に当時としては珍しく女性の技術者がいることに気がついたのだ。しばらく彼女と話をしていると、私はしだいに既視感を感じるようになったのだが、果たせるかな。それが■■だったのである。

 

 もっとも、姓は■■から□□に変わっていたのだけれど、顔立ちや雰囲気、なによりどこか無愛想な表情が昔のままで、私は懐かしさとずっと内に秘めていた愛おしさがこみ上げてくるのを感じていた。■■は私にとって初恋の女性であった。

 

 その後、■■も私の存在に気がついたらしく、驚嘆の表情を浮かべると、すぐに無愛想な彼女らしからぬ柔和な笑みで私を見てきた。そのことに、単純な私は僅かな喜びを感じていた。

 

 あらかた仕事が終わってから、私と■■は二人で飲みに行くことになった。■■は既婚者であったので私は遠慮していたのだが、再会にやや興奮気味であった■■に流される形で私たちは飲みに行ってしまったのである。

 

 私は余り酒に強くないのだが、再会に浮かれた私は自らのキャパシティを越える量の酒を飲んでしまい、重度の酩酊状態に陥っていた。一方■■は私と違って酒にめっぽう強いらしく、ずっと素面のままで酔っ払った私を苦笑しながら介抱してくれた。

 

 会話の中で、■■はこれから離婚するつもりなのだと私に言ってきた。話を聞けば、■■の夫はあまりできた人ではないようで、私も早くそんな男とは別れてしまえと思った。そこに、私の初恋の人である■■を射止めた■■の夫に対する嫉妬と敵愾心がなかったといえば嘘になるが、どちらかといえばただ純粋に■■の為を思って応援していた気持ちのほうが強かったことは、ここで弁明しておく。

 

 きっと、この時はきっと酔いすぎていたのだろう。あるいは再会に浮かれすぎていたのかもしれない。

 

 つい、私は■■に、■■が私の初恋の相手だとうっかり漏らしてしまった。■■はそれを聞くと驚いた表情を浮かべながら『もう十数年早く言って欲しかった』と、どこか切なげに笑いながら言った。

 

 そう、私たちは実は両思い(というより両片思い)であって、勇気のなかったかつての私たちは、ついぞそのことを互いに打ち明けることができなかったのである。

 

 その事実を知った私と■■はもはやいてもたってもいられなかった。たまたま離婚騒動で傷心中であった■■と、初恋の人に会い浮かれていた私は、互いに傷を舐め合うかのようにその夜、雰囲気に流されて体を重ねてしまった。

 

 ■■は離婚するのがほぼ確実だったからこれはぎりぎり不倫ではないという私の身勝手な言い訳が、社会に遍く広がっていた倫理、あるいは道徳に反する行いを犯すハードルを下げてしまったのだろう。■■も、満更ではなかったと思う。というより、肉体関係を迫ったのは■■からだった。

 

 結局、私たちは■■が東北の支社から東京の本社に帰る二週間ほどの間、仕事が終わると何回も情事に耽った。それはずっと学者としてあるまじきと私が押さえつけていた性のリビドーをぶちまけるかのように情熱的なものだったことを記憶している。

 

 それでも、私と■■の関係は傍から見れば所詮はただの不倫関係にすぎない。当時取り組んでいた仕事もたけなわになると、多忙に追われた私と■■はまた少しずつ疎遠になり、気が付いたときにはプツリと連絡が途絶えてしまった。

 

 結局、それから私は■■が夫と離婚をしたのか、それとも関係を修復できたかすら分からずに、ただ悶々と日々を過ごすことしかできなかった。実の所、当時の私は■■が離婚をして私の元に来てくれるのではという、やや偏執的な妄想にとらわれていたのだが、何時なっても連絡はとれず、■■にとって私との関係はただの火遊びでしかなかったのだという事実を痛感し、悲嘆に暮れた。

 

 そろそろ、話も終わりになるからもう少し付き合って欲しい。

 

 さて、それと時をほぼ同じくして私の弟の孝一のところに子供が産まれた。男の子で、名前は慎也と言うらしい。とても、可愛らしい子だったことを覚えている。

 

 初めて抱いた子供の感触は暖かく新鮮なもので、私にも子供がいたらと、この時ばかりは思わずにはいられなかった。色々と過去のことを引きずりやすい性格であった私は■■のことが忘れられず、新しい恋を見つけることができなかったのだ。そのため、いい歳になっても独身のままだった。

 

 結婚を諦めた私は研究に没頭する傍ら、たまに東北に遊びに来る甥の慎也によく構った。私にできることは彼の遊びにつき合うことと、専門である物理の話を伝えることくらいしかない。もっとも私は説明が下手くそで、物理のおもしろさを彼に上手く伝えられた気は全くしないが、それでもできるだけ自然科学に関する彼の質問にはなるべく答えるようにした。

 

 そうしている内に、やがて慎也も小学校高学年になった。

 それはちょうど慎也が東北の実家に帰って来ていた夏のことである。私は孝一が持って来た慎也のアルバムの中に、二人の女の子(彼の幼馴染であるらしい)が映っているのを見かけた。片方は由紀と言う慎也の友人であることは、昔横浜を尋ねた時に偶然彼女が孝一の家に居合わせていたから知っていたのだが、もう一人の女の子は知らない子だった。私は孝一に断りを入れて、その写真を手に取りまじまじと見る。そして、驚愕した。

 

 その時の衝撃は今でも忘れられない。何故ならば、その写真の中に昔の■■とそっくりの娘がいたのだからである。余りに唐突な出来事に私は動揺して、問い詰めるかのように孝一に彼女の名前を訊ねた。

 

-糸川弥生-

 

 そう、孝一は言った。嗚呼、なんたる偶然か。私の幼馴染の姓も糸川だった。糸川■■。これが■■の名前である。

 

 その後も色々と話を聞くと、何から何まで私の知っている彼女の情報と一致した。曰く、彼女は出産とほぼ同時期に離婚をして今はシングルマザーだとか。曰く東北出身であるらしいとか。その他諸々。

 

 なにより、情報を精査すればするほどあの弥生という子は私の子ではないのか?という疑念に駆られるようになった。慎也からそれとなく聞き出した弥生という少女の誕生日から逆算をしてみても、ちょうど私と■■が情事を致した日に限りなく一致したのである。

 

 やがて、疑惑は確信へと変化していった。もちろんDNAなどの確信的証拠があった訳ではないが、あらゆる状況証拠が、それは真実であると物語っていたのである。そして、それに気がついたとき、私は得体の知れぬ罪悪感と重圧に押しつぶされそうになった。

 

 それは■■に独りきりで子供を育てをさせていた後ろめたさと、離婚の間近だったとはいえ、曲がりなりにも人妻を孕ませてしまった事に対する元夫への罪悪感であったのだと思う。

 

 せめて養育費でも払うべきかと思案するが、生憎私は■■の住所を知らない。何故、彼女は私に連絡をよこさないのかと苛立ちを感じたが、そう思ったところでどうしようもない。嫡出推定の規定で、弥生の戸籍が元夫との間の子になる事も妙にもどかしく感じた。

 

 とかく罪悪感が凄まじかった。そして、今まで何も知らずに過ごしてきたことと、今のところ何も■■の為にできることがないというもどかしさが、私にとってたまらなく苦痛なのだ。

 

 一体、私は何時までこの重圧と罪悪感に苦しまなければならないのだろうか。自分で蒔いた種とはいえ、この数奇な運命を呪わずにはいられない。

 

 これは、私の懺悔と回顧の記録。

 今のところこの手記は破棄するつもりだけれど、気が変わったら残しておくかもしれない。その場合は慎也にでも託そうか。将来譲るつもりである何かしらの本。そうだな、ファインマン物理学の間にでも挟んでおこう。

 

 洒落を込めて熱力学第二法則、エントロピーの章にでも挟んでおくことにする。幼馴染という純朴な私と■■の関係は、もはや不可逆的に複雑な因果が絡み合う無秩序な方向へと進んでしまっていた。

 

 もし、慎也がこの手紙を見たなら、アドバイスとして最後にこのことを言っておく。

 

 幼馴染という関係を壊してしまう事を恐れてはならない。時には破壊も厭わずに踏み出すことも大切だ。慎也は(少なくともこの手記を書いた時には)白川由紀という女の子に気があるのだろう?私のように初恋を拗らせて、身を滅ぼしてしまわないことを祈っているよ。』

 

二〇一三年 十月三日 記す



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

6 従兄妹

 どのくらい時間が経っただろうか。一時間以上のようにも感じたし、はたまた僅か数分のことのようにも感じられた。つまるところ、時間の感覚を失ってしまうほどこの手記は衝撃的なものであったのだ。

 

 伯父の話が正しければ僕と弥生は従兄妹ということになってしまう。それはなんとも受け入れがたい事実なのではあったが、同時にどこか腑に落ちてしまう自分もいた。

 

 なるほど、あの弥生の冷めきったような性格も、物理に対する並々ならぬ執着もすべて伯父からの遺伝だとしたら、僕が時折弥生と伯父の姿を重ねてしまったことも納得できよう。

 

 ただ、やはりそうはいってもすぐに受け入れられるようなことではない。いや、むしろ弥生とは付き合いが長いからこそ自分の身内のように見ろというのは土台無理な話であった。畢竟(ひっきょう)、幼馴染とは単なる幼馴染であって、身内というわけではないのだから。いくら互いの家を行き来したり、お互いの距離が近くとも、それは親戚でもなければ家族でもない。それは変えられぬ事実だった。

 

 知らぬが仏とはよく言ったものだと、この時ばかりは感心せざるを得ない。世の中には知らない方がいいこともあって、きっとこれはその類の事柄だったのだろう。まったく伯父は迷惑なことをしてくれる。

 

 僕は悪態をつきながら、手に持ったルーズリーフを四つ折りにしてポケットにしまうと、急に興が冷めたかのように五冊の専門書をもって書斎を後にした。

 

 もう二度とこの書斎には来たくない。そんな八つ当たりじみた感想が出てきたのは、きっと僕の中で伯父の人物像が大きく揺らいでいたからだろう。いつも飄々としていて浮世離れした学者であった伯父の姿は、恋に踊らされ背徳に酔った俗人へと変貌していた。それがまた、思い出を汚されたようでたまらなく不快になる。廊下の窓から見える月はそんな僕の心を知らぬかのように遠くで涼しく照っていて、それすらも今の僕には妙に癪に障った。

 

 

 そこから語るべきことは特にない。伯父の秘密を知った翌日、父が仙台入りをしてそのまま祖父母を連れて墓参りへと向かった。故人を悪くは言いたくないが、それでも文句の一つは言いたくて僕は伯父の墓の前で手を合わせると、心の中で「よくもまぁ面倒な遺産を残してくれましたね」と聞いているかもわからぬ伯父に向かって悪口を浴びせた。

 

 結局、父と祖父には伯父の手記を見せなかった。祖父の心をこれ以上掻き回したくはなかったし、父もただでさえ忙しいのに、そこに新しい頭痛のタネを持ち込むのは気が引けたのだ。事件は認知されなければ存在しないことと同じだと誰かが言っていた。しからば、僕が何も言わなければこの事実はなかったも同然だろう。それは何も根本的な解決にはなっていないけれど、精神衛生上は極めて素晴らしい思考法であった。幾分か平静さを取り戻した僕はその後も父と祖父母とともに他愛のない話をして一日を過ごした。

 

 やがて横浜に帰る日になると、僕は五冊の専門書で重くなった荷物を片手に父と祖父母の家を後にした。来たときは幾分か愛着をもっていたこの家も、今ではくすんで見える。僕は伯父の手記が与えた影響の大きさに辟易するとともに、身勝手な感想を持つ自分に落胆した。

 

 つまるところ、伯父もただの欲望に逆らえない人間であったというだけなのに、そのことをかたくなに認めたくない自分がやけに滑稽に感じられたのだ。僕のなかの伯父は「物理学者」であって、きっと一人の男ではなかったのだろう。十七年目にして気が付いた事実だった。

 

 

「はい、これが萩の月」

 

 横浜に帰って三日も経たぬうちに僕と弥生と由紀はまた前回と同じように由紀の家に集っていた。建前上は僕が終わらせられなかった宿題を片付けるための勉強会だが、実際はただ僕がお土産を配ってだべるだけの会となっていた。

 

「ありがとう、慎也。これいくらしたの?」

「別にお金はいらないよ。というか、お金を貰ったらお土産じゃないだろう」

「はは、それもそうね。そうだ、せっかくだから三人で食べましょうか」

 

 煎茶を淹れてくるわ、そう言うと由紀は上機嫌で部屋を出て一階のキッチンへと向かっていった。由紀が居なくなった部屋は急に静かになった気がした。

 

 部屋に弥生と二人きりで取り残される。弥生はいつも通り物理の参考書を涼しい顔をして読み解いていた。それが、妙に昔見た伯父の姿に重なり複雑な気分になる。

 

 やはり、弥生は伯父の子なのだろうか。いわれてみれば目元や鼻の形が似ている気がするけれど、確証はない。DNA鑑定でもすれば分かるのかもしれないが、生憎僕はそれをどうやってやるのかを知らなかったし、その費用を捻出するのもバカらしく感じた。

 

「どうしたの…。じろじろと見て」

「いや、別に」

 

 弥生の顔を凝視していると視線に気がついた弥生が僕を不審に思ったのかそう訊ねてきた。ここで馬鹿正直に「弥生と僕の伯父は親子らしいから、特徴がないか探してた」などと言わない位には分別をもっている。僕は適当に笑いながらはぐらかすと、弥生も興味を失ったのかそれ以上訊ねてくる事はなかった。

 

「あぁ、そういえば弥生には笹かまぼこ以外にももう一つお土産があるんだ」

「へぇ、何?」

「ちょっとまって」

 

 僕は厚手の紙袋から伯父の生家からもってきたファインマン物理学を出すと弥生の前に並べた。

 

「じゃじゃん!弥生が欲しがってたやつの全巻セット」

「えっ…、こんな高いもの本当に貰っていいの?」

 

 弥生にも遠慮するという事があるらしい。てっきり物理関係のものなら躊躇いなく飛びつくと思っていたのだが、案外可愛らしい一面もあるのだなと微笑ましい気持ちになった。弥生はシャーペンを離すと、まるで新しい玩具を与えられた子供のように目を輝かせて、一冊ずつ手にとってパラパラとページをめくった。

 

「へぇ、これが噂に聞くファインマンの…」

「相変わらず物理のことになると目の色を変えるねぇ」

「へへ、それほどでも」

 

 別に褒めてはいないのだが、弥生はその言葉が嬉しかったのか頬を緩めた。もっとも、単にファインマン物理学に興奮していただけかもしれないが。

 

「それにしても、物理なんてそんなに面白いかね」

 

 弥生の肩がピクッと上下した。それを見て僕はしまったなと後悔する。僕のお土産に対する弥生の反応が少しオーバーに思えて、つい疑問を口にしてしまったが、浅慮であった。こうなった弥生の話は長い。僕は覚悟をしてクッションの位置を直すと、これから来るであろう長期戦に備えた。

 

「面白いよ…。そうだね、少し長話をしようか」

 

 弥生は物理が面白くないと言われると、毎回何らかのトピックを選んでその面白さを布教してこようとする。さて、今回はどんな長話なのだろうか。

 

「物理、というか自然哲学はもともと神の意志を知るために研究されてきた側面があってね。意外と勘違いしている人がいるけれど科学は神を否定するためではなくて、理性的な神の意志を知るために生まれたのものなの」

 

「へぇ。まぁ、ニュートンも敬虔なキリスト教徒だったらしいしね。それで?」

 

「アリストテレスの影響で自然哲学では数学を適用することが邪道だと思われてたんだけど、ニュートンが数学を適用して現代の科学の雛形を作ったんだ。でもさ、ここで凄いと思わない?何で数学という抽象概念が現実の因果を語りうる言語となり得るのか。たしかに運動方程式を時間や変位で積分すると保存量が導ける。でも、それはただの数式的な弄くりでしかないのに、現実でもエネルギーや運動量が保存されて見えるのは不思議じゃない?」

 

 言われてみれば確かに変な話だなとは思う。数学的秩序が自然の秩序に当てはまる必要など全くないのだ。

 

「たとえば量子力学や交流理論では複素数が出て来るけど複素数は私たちの直感に当てはまらない数。つまり純粋な数学概念でしかないのにそれがなければ電子一つの動きですら説明できない…。つまり、なにが言いたいのかというとね、自然が余りにも理性的すぎるんだよ。人間の理性にあう形で自然の因果が成り立っている。それはまさに神がそうあれかしとしたように、…だから私は諸法則が演繹的に導かれる様に感動を禁じ得ない。そして、それが理論物理の醍醐味の一つだと思う」

 

 「もっとも、数学的に正しくても実験結果が違っていたら机上の空論だけど」と言って弥生はクスリと笑った。その様子は本当に伯父に似ている。この長ったらしく話す癖だとか、興奮すると一気に話すところとか。その一つ一つの動作が、僕に伯父の面影を彷彿させた。

 

「そうか…、ただ僕にはやっぱり分からないな」

「まぁ、私はただ物理が好きで頭がいいという訳ではないから、説明が下手なのかも」

「その言い訳、僕の伯父も言ってたよ」

「奇遇だね…」

 

 認めよう。認めざるを得ない。きっと、伯父は真実を書いたのだろう。でなければ、こんなにもデジャヴを感じることがあるだろうか。きっと伯父と弥生は親子で、僕と弥生は従兄妹。そう思うと、目の前の幼馴染が途端に別人のように見えた。

 

 ねえ、弥生。君は僕が従兄だと知ったら、幼馴染のままでいられるかい?…少なくとも僕には難しそうだ。

 

 伯父は一つ大きな勘違いをしている。僕が好きなのは由紀ではない。僕が好きなのは小学生の時からずっと弥生だった。由紀のほうが気軽に遊びに誘えて仲が良さそうに見えたから伯父はそう思ったのかもしれないが、そうではない。

 

 僕はこの無愛想で、物理バカで、時折可愛らしい反応を見せるこの幼馴染が好きなのだ。

 

 でも…、それが身内だとしたら?

 

 従妹とは結婚できるけれど、やはり世間では白い目で見られがちだ。なにより、僕自身、弥生が従妹と分かってしまったら、恋愛対象として見ることに抵抗がある。所詮その程度の愛だったのかと思われるかもしれないが、こればかりは生理的に受け付けないのだ。あるいは、この感情は恋愛ではなくて、家族愛のような親愛の延長線上にあったものなのではないかという錯覚すら覚える。

 

 もう何がなんだか分からない。しかし一つだけはっきりとしていることは、僕は弥生に告白することすらもなく、人知れず失恋したのだということだけだった。

 




導入が長かった…。そろそろドロドロしてくるかな。多分。
(追記)
2020/3/27 
「複素数は現実には存在しない数」を「複素数は私たちの直感に当てはまらない数」に修正。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

7 球面波

 それは僕にとって初めての失恋だった。もっとも、これを失恋と言うのには少し語弊があるのかもしれない。

 何故なら僕は弥生に告白をして返事を貰ったわけではないし、弥生を慕う気持ちが薄れたというわけでもない。ただ、僕が勝手に躊躇(ためら)って勝手に諦めただけのこと。僕は弥生と付き合うという明確なビジョンを見通すことができなかった。

 

 従妹と付き合う?

 

 冗談はよしてくれ。確かに弥生が僕の従妹でない可能性もまだあるが、それは限りなくゼロに近い。常識的に考えて、離婚間近の夫婦がそういうことをするとは考え難い。そして、ちょうどその時に弥生の母とまぐわったのは僕の伯父しかいない。しからば、そこから導き出される論理的な帰結は弥生は間違いなく伯父の子だということだった。

 

 一応、勉強会が終わった後、家に帰ってDNA検査について調べてみたが、従兄妹との血縁を生物学的に断定するのは難しいそうだ。だから、伯父のDNAが分からない限り弥生との血縁はグレーのまま。釈然としなかったが、科学の限界がそこにあるのならば仕方があるまい。でもDNA検査ができなくても、状況証拠から限りなく黒に近いグレーであることは誰の目からしても明らかだった。

 

「はぁ。ホント、伯父はなんて事をしてくれやがる」

 

 何度目か分からぬ悪態をベッドの上で仰向けになりながらついた。

 思わぬ所から僕の恋路が邪魔をされた。僕は弥生と付き合うことができないのに、もめごとの原因をつくった伯父はちゃっかりと初恋の相手と身体だけとはいえ結ばれたことが妬ましかった。不倫をした伯父の血を引いた人、ましてそれが従妹ともなれば、男女の付き合いをしたり、また将来を添い遂げるのも気が引ける。存外僕は人間関係に関しては潔癖症なのだなと初めて自覚して、苦笑した。

 

 時計を見るとちょうど八時五分前だった。そろそろベッドから起きて朝食を食べようかとしたときに、携帯がピロンと鳴ってメッセージが来たことを僕に告げてきた。弥生か、由紀か。僕は交友関係が狭いから、夏休みのこんな時間にメッセージを送ってくる人など、このあたりに限られるだろう。携帯を寝ぼけ眼で探して手に取ると、電源をいれてメッセージアプリを開いた。

 

『ねえ、慎也。これから時間あるかしら?見たい映画があるから一緒に見に行かない?』

 

 案の定、それは由紀からだった。由紀とは夏休みに入ってから余り遊ぶ機会が無かったから、こういう誘いのメッセージはやけに久々に感じる。僕は失恋の気晴らしもかねて、特に深く考えることなく二つ返事でその提案を了承した。

 

『ありがとう。それじゃあ九時頃に私の家の前に待ち合わせね』

『わかった』

 

 手短な文章を入力して由紀に送信する。僕は由紀や弥生と遣り取りをするときにメッセージアプリをよく使うが、僕はメッセージアプリというものがあまり好きではなかった。適切な分量や文体がよく分からないのだ。短い文は味気ないし、長い文は重いと思われてしまう。丁寧語を使うのは堅すぎる気がするが、かといって砕けた口調は相手を不快にされるのではと不安だった。…曖昧さは嫌いだ。

 

 僕はベッドから起き上がると、顔を洗ってリビングへと向かい机の上においてあるパンを無造作に(かじ)った。いつものことながら、共働き家庭の朝ご飯は適当だ。僕はテレビを付けて、政治家の誰々が失言しただのといったくだらないニュースを聞きながら連動データで天気予報を確認する。予報によれば今日はずっと快晴。熱中症に注意とのこと。

 

 自分で淹れたインスタントコーヒーをすすりながら時計を見る。ゆっくりと食べていたパンも最後の一切れとなる頃にはちょうどいい時間になっていた。使い終えた食器を片付けると、僕は自分の部屋に戻り適当に服を選んで出掛けに行く準備をする。一通り準備を終える頃には待ち合わせ時間の十分ほど前になっていて、僕は慌てて家を後にした。外は夏の蒸し暑さと日差しで不快だったが、じめじめとした自分の部屋で失恋を嘆くことよりはずっと気分が良かった。

 

 

 由紀の家に着いてインターホンを鳴らすと、一分もしない内に由紀が出てきた。

 

「ごめん、待った?」

「…いや、別に」

 

 玄関から出てきた由紀は白いワンピースに身を包み、メイクをしていた。メイクとはいっても元の造形が良いから、そこまで派手なものではない。淡紅色の口紅と薄くファンデーションを塗った位だろうか。メイクは詳しくないから分からないが、これがいわゆるナチュラルメイクというものなのだろう。

 

 もともと大人らしい由紀がメイクにより一層大人の女性に見える。別に僕は由紀を恋愛的な意味で好きなわけではないが、男の(さが)として今の彼女を見るとドキドキが止まらなかった。

 

「へへ、どうかしら。初めてしっかりとメイクしてみたんだけど」

「いや、本当に…よく似合ってるよ」

「そう?嬉しいな」

 

 そうやってはにかんだ由紀はやはり魅力的な女の子で、弥生とは正反対なのだなとつくづく思う。例えるなら、由紀は太陽で弥生は月だ。ただ、僕は宵闇に独り涼しく輝く月のほうが好みだった。

 

「映画、十時半からだからそろそろ行こうか。慎也」

「そういえば映画っていっても何を見るんだい。この時期にやってるめぼしい映画なんかあったかな」

「それは着いてからの秘密」

 

 ふふ、と由紀が年相応の笑みを浮かべて僕の腕を引っ張る。それは十余年幼馴染として付き合ってきたことから出た自然な動作なのかもしれないが、色っぽい由紀の手が絡まると僕の心臓はますますと高鳴った。

 

「あの…手つないでいくの」

「ああ、今日一日カップルという設定でいくから、そこのところ宜しくね」

「えっ」

「この映画、カップルだと料金が割引になるらしいから」

 

 まぁ、そういうことなら仕方がないかと納得する。僕だってなるべく金は節約したい。

 とはいえ、映画館に着く前から恋人の振りをするのは意味があるのだろうかとも疑問に思ったが、それについては深く考えないことにした。久しぶりに握った由紀の手は昔とは違う柔らさと暖かさであふれていて、傷心した今の僕にはその感触がやけに心地よかった。

 

 

 

 映画館には市営地下鉄を使って二十分ほどで着いた。考えてみれば最後に映画を見たのは何時だっただろうか。最近はレンタルやダウンロードでしか見ていなかったから、こうやって映画館のスクリーンで見るのは新鮮だ。

 向こうからポップコーンとコーラを持った由紀がやってくる。僕はいらないと言ったのだが、由紀は映画館といったらこれ、と譲らなかった。

 

「そんなに食べれるかな」

「慎也は心配しすぎよ。ポップコーンなんて見た目の割に大して量なんて無いから」

 

 由紀と僕が見ることになったのは、ここ最近ヒットした小説が原作の恋愛モノだった。なるほど、だから恋人割りなんてやっていたのだろうと勝手に納得する。

 

「そういえば、慎也は恋愛モノでよかったの?」

 

 由紀は自分で誘ったとはいえ、男子を恋愛映画に誘ったことに若干不安を感じているようであった。

 

「なんでも大丈夫だよ。基本的に僕は雑食だからね。恋愛モノでもSFでもドキュメンタリーでも楽しめれば何でもいい」

「慎也って変なところでずぼらというか、適当よね」

 

 「でも、そこが一緒にいて気楽で良いわ」と言って由紀は僕を見て微笑んだ。そうして談笑している内にアナウンスが流れ、僕たちはスクリーンへと向かう。スクリーンに向かう途中で、僕はふと最後に見た映画の記憶を思い出した。それは中学一年生の時に弥生とみた極地に住む動物のドキュメンタリー映画。僕がこんな堅苦しい映画を選ぶはずがないから、この時はおそらく弥生の付き添いで行ったのだろう。

 

 本当に弥生と由紀は対照的な女の子だとつくづく思う。席に着いた僕は本編が始まる前の広告が流れている間、暗闇に紛れて由紀の横顔をちらりと見ながら考えた。

 

 弥生は孤高の学者といった堅苦しいイメージで、由紀は少し夢見がちな乙女といったところだろうか。どちらが良いとかはないが、由紀のほうが年相応で好ましく思える気がして僕は心の中で笑った。

 

 本当に、何で僕は弥生を好きになったしまったのだろうか。よく考えれば考えるほど弥生の魅力が何だったのか分からなくなる。きっとそれは説明しろと言われても説明できる類のことではないのだろうと一人納得をして、これ以上考えるのはドツボに嵌まる気がしたから僕は差し当たり目の前の映画に集中することに決めた。

 

 広告もそろそろ終わりに差し掛かったところで、不意に手に温かい感触がしたと思うと、いつの間にか由紀の手が僕の手の上に重ねられていた。まるで本当の恋人みたいだな、と苦笑しながら、まあ減るものでもないしいいか、と僕はその手を振り払わずにそのままにしておいた。結局、映画が終わるまで由紀の手はそこから離れることはなかった。

 

 

 

 映画はそこそこの面白さだった。ストーリーはありきたりといえばありきたりだが、伏線の回収や役者の演技には目を見張るところがあったと思う。由紀は僕よりずっと本を読んだり映画を見たりするから、中盤あたりで既にオチが読めてしまったらしい。それでも楽しめたのだから、この映画は当たりだったのだろう。

 

 僕と由紀は近くのカフェで軽く昼食をとって感想を語り合った後、近くの繁華街で適当にウィンドウショッピングをして回った。一通り店を回ってから由紀が急に山下公園に行きたいといったので、彼女のわがままに連れられて僕たち二人は山下公園へと向かった。

 

 山下公園につく頃には午後の五時過ぎになっていて空はすでに青から黄色く染まっていた。そこから見える夕日と海のコントラストは確かに美しいが、由紀はこれを見るためだけにここに来たのだろか?

 

「よし…」

 

 ベンチに座った由紀がなにやら決心をする。僕が不思議に思い由紀の顔を見ると、不意に合ったその視線は今までに見たこともないほどに純粋で、真っ直ぐなものだった。それはまるで弥生が物理に捧げるような瞳。その瞳を由紀は僕に向けていたのだ。

 

「慎也、腰掛けたら?」

「あぁ、隣失礼するよ」

 

 由紀はベンチの空いている空間を手でたたいて僕に座るように促した。そして、僕が座ったのを確認するとゆっくりと語り出す。

 

「私ね、文理選択が終わるまでずっと考えてたの。小中高と慎也と弥生と一緒に居たけれど、大学までは一緒になれそうもない。そしたら、私たちもきっと今みたいに頻繁に会えなくなるんだろうって」

 

「まあ、そりゃそうだろうね。弥生は国立理系で僕と由紀は私文だから一緒にはなれないさ」

 

「うん…。分かってる。でもさ、私は欲張りだからいつまでもずっと大切な人と一緒にいたいの。だから、慎也。貴方が理系を諦めて文系に来てくれたとき本当に嬉かったのよ。中学までは弥生と一緒に理系にいくものだと思ってたから…。でも、貴方は私と同じ文系に来てくれた。だから、これで慎也と志望校が一緒になれば私はまたずっと貴方と一緒にいられるんだって、そう思ったの」

 

 でも、と由紀は矢継ぎ早にこう続ける。

 

「でも、それと同時に気がついたのよ。私は貴方を誰にも取られたくないんだって。たとえそれが弥生であっても、貴方を私のもとから取り去っていくのなら許さない。貴方が私以外の他の女と知らないところで戯れる姿を想像するだけで身の毛がよだった。…それくらい、貴方が大切な人だと改めて気が付かされたの」

 

 ふぅ、と由紀は深呼吸をして息を整えると、おもむろに立ち上がり僕の顔を真っ直ぐ見てその柔らかな唇でこう紡いだ。

 

「慎也。いえ、新垣慎也さん。私、白川由紀は貴方のことが大好きです。小学生の時からずっと、好きです………だから、どうか私と付き合ってくれませんか」

 

 由紀は頬を紅潮させうっとりと僕を見てきた。

 

 何故このタイミングで由紀がそんなことを言うのか僕には理解できなかったが、たしかに思い返せば由紀はそれとなくその兆候を見せていたことに気が付く。彼女はただ距離感が近いだけの幼馴染ではなかったのだということに、今になって気が付かされた。きっと映画館のそれだって、彼女なりのアピールだったのだろう。

 

 ただそんな由紀の告白よりも僕を驚愕させたのは、彼女の告白により僕と由紀と弥生という幼馴染三人組の関係が、今この瞬間から完全に瓦解し始めたという事実だった。ふと、伯父の書いた手記に書かれた一文を思い出す。

 

『幼馴染という関係を壊すことを恐れてはならない』

 

 その助言は僕に向けられたものだったけれど、僕が壊すまでもなく勝手にそれは壊れていったよと、天国、あるいは地獄にいるであろう伯父に向かって心の中で語りかけた。

 

 今ここで由紀が起こした変化は、まるで静寂な水面に球面波が広がっていくように静かなのだけれど、同時に急激なもの。そして、その水面に石を投げ込んだのは、僕でも弥生でもなくて他ならぬ由紀自身だ。

 

「返事は………どうなんですか」

 

 由紀はただひたすら恍惚とした表情でそう言った。

 静寂のさなか、遠くでウミネコの鳴き声が聞こえた気がした。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

8 最適解

 目の前にいる由紀に何か返事をしなければならない。そんな焦燥感が僕を支配していた。でも、一体何を言うのが正解なのだろうか。

 

 正直な話、僕は由紀を一人の女性として見ることができない。かといって、それを由紀を傷つけることなく伝える都合のいい方法など存在するわけがなく、僕はただ言葉に詰まって虚空を見つめることしかできなかった。

 

「その…由紀の気持ちはとても嬉しいよ」

 

 そう言いながら、これでは全く意味がないな、と嗤笑(ししょう)した。それは明らかに断る際にでてく決まり文句で、そのことを察した由紀の瞳が不安に揺れる。その僅かな表情の変化が、僕にこの先を告げることを躊躇わせた。

 

「やっぱり、いい言葉なんてそう直ぐには浮かばないものだね」

「慎也…」

 

 僕のわずかな逡巡(しゅんじゅん)から、由紀は全てを察したかのように僕の名前を虚しくつぶやいた。十余年もの間、幼馴染をやっていた彼女の、僕に対する洞察力はだてじゃない。良心の呵責に駆られながらも、八方ふさがりになった僕は、由紀に素直な気持ちをぶつけることにした。曖昧にしておくことは、嫌いなのだ。

 

「正直に言うと僕は由紀を一人の女性として見ることができない。由紀は僕にとって大事な友人で、そういった目で見たことがあまりないんだ。それにね…、僕が好きなのは由紀じゃなくて弥生だったんだよ」

「…やっぱり慎也が好きなのはあの女(弥生)だったんだ」

「そうか、気づいていたんだね」

 

 そう嘯きながらも、僕は心の中で由紀の観察眼に敬服していた。それなりにうまく取り繕えていた自信はあったし、由紀も弥生も僕の気持に気が付いているような素振りを今まで全くみせていなかったから、てっきりばれていないものだと思っていた。この、由紀の人の機微に対する敏感さは弥生にも見習ってほしいものだったが、期待するだけ無駄だろう。

 

「でもね、由紀。僕は弥生のこと()()()()()んだ。もう、今となってはその気持ちが本当に恋だったか、本当に今も弥生のことが好きなのか実はよく分からない」

「それは、どういうことなの」

 

 由紀が心底意味が分からないといった具合に眉を顰めた。不安と期待がない交ぜになった瞳で僕を見て、言外に続きを促す。

 

「少し長くなるけどね、それでもいいかい」

「別に構わないわ」

「そうか、じゃあまず結論から先に言わせてもらうよ。僕と弥生はね、どうやら従兄妹らしいんだ」

「え、……どういうことよ、それ」

「まあ、落ち着けって。だから長くなるっていっただろう」

 

 動揺を隠せずに、落ち着きがなくなった由紀をたしなめて、僕は彼女にベンチに座るように促した。先ほどとは正反対の構図になっているのも、何とも皮肉なことだ。由紀は一瞬、躊躇うそぶりを見せたが、すぐに促されるままにベンチへと腰をかけた。そして僕のことを「早く説明してちょうだい」と言って急してきた。

 

「僕の伯父さんのことを知ってるだろ。六年前に亡くなったあの伯父さんだ。この前墓参りに仙台に行ったときにたまたま伯父の手記を見つけてね、そこに僕と弥生が従兄妹だと書いてあったんだよ。どうも、弥生は僕の伯父と弥生の母が不倫してできた子らしい」

「それ、本当なの」

 

 にわかには信じられないと、由紀は怪訝な目を僕に向けた。僕がこんな嘘を言っても、何の得にもならないことは理解しているようであったが、それでも信じられないといった感じであった。

 

 それもそうだろう。僕だって、弥生と由紀が実は従姉妹でしたなんて言われても、すぐに信じられる気がしない。それでも、何とか由紀はその信じがたい話を呑み込んで、自分自身を納得してみせた。

 

「取りあえず、その話を信じてみることにするわ。そうでもしないと話が進まないもの」

「ありがとう。信じがたいことだけどね、やっぱりそれは事実なのだと思う。間接的な証拠がたくさんあったから信じざるを得ない」

「そう…。でも、従妹だったとしても民法上は問題ないんじゃないの」

「そうなんだけど、僕には従妹と付き合うなんて考えられないんだ。理性じゃないんだよ、いわゆる生理的にムリってやつだ。それに、伯父の不倫相手の子なんて、下世話な話だけど抱けない」

 

 付き合うことが、そういうことに直結しないことは充分に理解している。ただ、仮に高校、大学、社会人と付き合いが長くなれば、いずれどこかでそういう時が来る。そのときに、弥生を心の底から違和感なく愛せるだろうか。少なくとも、今の僕には無理そうだった。どこかで、きっと彼女は従妹なのだと冷めた目で見てしまう未来が易々と想像できてしまい、僕は震えた。一度知ってしまったからには、弥生と僕はつき合えない。いや、付き合ってもいずれ破綻する。

 

「意外ね、慎也ってわりと潔癖症なのかしら」

「さあね、自分でも分からないよ。ただ由紀も分かるだろう。君の従兄と付き合ってる姿を想像してごらんよ」

 

 僕がそう言うと、由紀は本当に彼女の従兄と付き合っている自分自身を想像したのか、顔を顰めて「ないわね」としみじみと言った。

 

「だろう。やっぱり身内は所詮身内なのさ。男女の仲にはなれやしない」

「でも、それだけで慎也は弥生を諦められるの」

「分からない。今でも弥生のことは好きなのだとは思うけど、弥生とは付き合いたくない」

 

 アンビバレンスという前に現代文で習った単語をしみじみと実感する時がこようとは。日本語にすれば両面価値。好きなのだけれど付き合いたくないという相反した感情が僕の中に存在していた。そんな僕を見て由紀は僕の耳元で語り掛けてくる。

 

「慎也と弥生にいろいろと複雑な事情があるのは分かったわ。貴方が弥生と当座、付き合うつもりがないことも。でも、一つだけいいかしら」

 

 僕が首肯すると、由紀はこう続けた。

 

「私の告白を断ったのは、本当に私を女して見れないからという理由だけなの」

 

 由紀は納得いかないと言いたげに、苛立ちからかベンチの表面をコツコツと叩いていた。僕は苛立つ由紀に慣れていなくて、引き気味になる。

 

「ええと、確かに由紀はいろいろと女性らしいとは思うよ。でも、いきなり付き合ってと言われても僕のなかで由紀はずっと従姉みたいなものだったから、その…」

「でも、私は弥生とはちがって本当の従姉じゃないでしょ」

 

 由紀は僕の発言を遮って食い気味でそう告げた。そして僕の手を掴んで、それを彼女の胸元に無理矢理押しつけて懇願するかのような上目遣いで見てきた。ワンピース越しに柔らかな感触が伝わって、僕は由紀のことを直視できずに目をそらす。気恥ずかしさで、心臓が破裂しそうなくらい鼓動していた。

 

「ねぇ、慎也。これでも私を女として見れないの」

 

 その声は艶めかしかったが、同時に不安や怒気といった感情が混ざって聞こえた。

 

「私、それだけの理由で断られるなんて納得できないわ。いったい、私の何が不満なの。言ってみてよ。そしたら貴方の好みに合わせて私を変えてみせてあげる。貴方の理想の女になってみせるわ」

 

 困惑する僕のことなんて気にせずに、由紀は何かに取りつかれたかのように喋り続ける。

 

「ほら、ここにいるのは貴方の好きにできる都合のいい女。私は慎也のためならいくらでも尽くすことを厭わないし、醜い欲望だってすべて受けとめてあげる。だって、それくらい貴方のことが好きだから。愛しているから」

 

 「それなのに…。それくらい貴方のことを愛しているというのに、貴方はたったそれだけの理由で私を振ろうとしているの」そう何かに縋るように言うと、由紀は僕の手を離して唐突に涙を流した。彼女の泣き顔を見たのは小学校以来のことだった。僕はどうしたらいいのか分からずに、とりあえず昔やっていたように由紀の背中をさすりながら、持っていた手拭いを由紀に渡そうとした。

 

「なんで、なんで振っておいて…優しくするのよ」

「いや、だって…」

「言い訳なんていらない!」

 

 とっさの勢いに任せて、由紀は背を摩る僕の手を払いのけた。由紀は一瞬そのことを後悔したように見えたが、すぐに僕のことをその湿った瞳でキッと睨んできた。

 

「慎也はいつもそうだった。ことあるごとに弥生、弥生、弥生。いつもあの女の話ばかり。私だって弥生と同じ長さの時間を共にしたはずなのに、慎也がまず口にするのは弥生の話から。だから、ああ、慎也は弥生が好きなんだなってすぐに分かったわ。それなのに、慎也はいつまで経っても弥生とくっつかない」

 

 意識したことがなかったがなかったが、僕は無自覚に由紀を苦しめていたのだとたった今、気が付かされる。由紀はまるで今までためていた不満を吐き出すかのごとく、途切れることなく恨み言を言った。

 

「さっさと付き合ってくれれば諦めがついた。きっと、無理にでも自分を納得させて、慎也と弥生を祝福できたと思う。でも、…何よ。なんで、高校生になっても、ただ私に二人の仲を見せつけてくるばかりで、告白もなにもしないの。この前だって、弥生のお土産に色を付けてたでしょ。私、知ってるんだから。挙げ句の果てに弥生とは従妹だから付き合う気がない?…ふざけないで。人の気も知らないで。いったい何年間私が二人のために気持ちを抑えつけてたと思ってるのよッ」

 

 ゼェゼェと息を乱れさせながら一通り文句を言いきると、由紀はハッと我に返って、自分が何を言ってしまったのかに気が付いたのか顔面を蒼白させた。彼女は僕に暴言を吐いたことを酷く後悔しているようだった。震える手を口元に当てて、戦慄(わなな)きながら僕のほうをちらりと見てくる。それはまるで、親に怒られるのを怖がる幼子のように見えた。

 

「あっ、あの。そんなつもりじゃ…」

 

 ただひたすら由紀は困惑しているように見えた。言葉を失い、嬰児(えいじ)のように「あの」とか、「う」といった呻き声を漏らすだけ。やっとのことで由紀が平静を取り戻したときには、五分以上の時間が過ぎていた。

 

「ごめんなさい、慎也。取り乱して。…そうよね。分かってる。こんな女じゃ弥生に勝てっこないよ。ごめんね慎也。私、もういらない子だよね。こんなに喚きちらして、暴言を吐いて…。うん、消えるから。そのほうが貴方たちにとって都合がいいもんね」

 

 そう言って「ハハ」と力なく嗤うと、由紀は拗ねた子供のように顔を俯かせて自分の指を弄った。僕も由紀もそれ以上なにも言葉を発せなくて、静寂が僕と由紀の間に流れる。それはお互いに気を使っているのに、居心地の悪い奇妙な沈黙だった。

 

 しかし、その静寂はそう長くは続かない。夕日が水平線の向こう側に沈み、辺りが暗くなると「そろそろ帰ろうか」と由紀はやけに清々しい顔をして僕に言ってきた。でも、そう言った由紀の目の焦点は僕ではないどこか虚空を見つめていて、これは危ういと直感的に察する。由紀はベンチから立ち上がる前にもう一度、何か感じるところがあったのか、暗闇に染まる海を見ながらひとり呟いた。

 

「結局、はじめから私に入り込める余地なんて無かったんだね…。勝手に期待して、勝手に自爆しただけ。いやー、慎也が弥生と袂を分かって文系に来てくれたときから、もしかしたらと思ったんだけど、本当に私ってバカだなー」

 

 それは、明らかな空元気で、僕はあまりの痛々しさに由紀のことを見ていられなかった。

 

「由紀。その、話を聞いてくれ」

「うん?何、慎也。まだ私を傷つけたりないの。困った子だねぇ」

 

 由紀はクツクツと嗤う。こんな由紀は今まで見たことがなくて不気味だったが、僕は意を決して彼女の手を強引に引っ張って由紀を抱きしめた。

 

「えっ…」

 

 由紀の困惑した声が聞こえた。何が起きたのかわからない。そんな彼女の気持ちが易々と想像できるような、そんな間の抜けた声だった。

 

「ごめん、由紀。僕がそんなに君を傷つけていたなんて知らなかった。本当にごめんね。たしかに僕はまだ、由紀を恋愛対象として見ることができない」

「だから、何よ」

 

 由紀が僕の腕の中で不満を垂れたが、それを無視して僕は話を続ける。

 

「でもね、僕も分かってるんだ。いい加減、弥生に対する気持ちも整理しなければいけない。はっきり言うよ、僕は弥生とは付き合わない。そして、最低だとは思うけど、…僕と付き合ってくれないか、由紀」

「…どういうこと」

「いきなり言われても困ることは十分承知している。でも、僕は由紀のことが嫌いなわけではないんだ。ただ、そういう風に見たことがなかったから戸惑っただけ。今はまだそういった対象に見られないけど、由紀も僕の大切な人なんだよ。だから、…そんな君が傷つくのを僕は見たくない」

「サイテーね、……」

 

 由紀は「貴方、自分がとんでもなく下種なことを言っていると理解してる?」と言いながら僕の胸に顔をうずめた。しばらくの間、由紀は僕の告白を受け入れることを躊躇っていたが、そっと僕の服を掴むと弱く抱き返してきた。それは控えめな同意だった。

 

 最低な方法だという自覚がある。僕は恋愛的に好きではない由紀に告白をした。でも、そうでもしないと由紀は伯父のように自殺をしてしまうのではないかという危うさがあったのだ。死の臭いとでも言おうか。自殺前の伯父と同じような諦念が由紀の中に見て取れた。

 

 あるいは、単純に長年由紀を苦しめてきたことへの贖罪なのかもしれない。弥生に対する感情のけじめの意味もあった。

 

 また、由紀と疎遠になりたくないという僕のエゴも少なからずそこにはある。幼馴染としての関係が崩壊したのならせめて、恋人という関係になって、彼女を僕と弥生との歪なトライアングルに閉じこめていたかったのだ。

 

 双方ともに利がある落としどころがこれくらいしか見つからない。由紀のことはこれから少しずつ好きになっていけばいい。別に嫌いじゃないのだから、すぐに好きになれる。なに、簡単なことさ。  

 

「これからよろしくね、…サイテ―な慎也さん」

「はは、こちらこそよろしく、由紀」

 

 最適解は、これしかない。そう何度も一人で納得しても、何か間違ってしまった気がして、僕は不安から由紀を一層強く抱きしめた。勘違いしたのか、由紀が「ふふ」と笑って僕を抱きしめ返してきた。

 

 脳裏に昔、弥生が言った言葉が反響する。

 

『三体問題は基本的に解けないんだよ。それは数学的に証明されていることで、どうあがいても解は見つけられない』

 

 そもそも、最適解なんて存在するのだろうか。そんな不安がずっと、頭から離れなかった。

 




○メンヘラの特徴
①寂しがり屋
②優しい人に甘えがち
③前触れなくヒステリーを起こす
④虚言癖がある
⑤嫉妬深い
⑥ネガティブで依存心が強い
⑦異常な愛情表現をもとめる


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

閑話 共役解

 いつからだろうか。気が付いたときは彼の後ろ姿をそれとなく追うようになっていた。彼とはずっと幼馴染のままだと思っていたのに、年を重ねるにつれて彼のことを見ると心臓がバクバクするようになった。

 

 決して何か劇的な変化があったわけではない。ただ普通に日常を過ごしていたはずなのに、時折見せる彼の優しさに、その温かな微笑みに、私はしだいに惹かれていった。

 

 彼の手が触れるだけで全身が熱くなる。私を見て朗らかに笑う姿をみると、温かな気持ちにさせられる。これがきっと恋なのだと自覚するまでには、そう時間はかからなかった。物語みたいにドラマチックな展開は無かったけれど、きっと恋に落ちるときは皆そんな感じなのだと思う。

 

 好きだった。

 でも、一歩を踏み出す勇気がなくて、私はその恋心を心の奥底に閉じこめて寝かし続けた。やがて醸造されていったその気持ちは、純度を増してゆき愛になっていた。私は、彼をどうしようもなく愛していた。

 

 でも、彼の瞳に映っていたのは私ではなくてもう一人の女の子。もちろん彼が私のことも大切な人だと思っていることは理解できたけれど、それは友人としてであって、決して私が望んでいた「特別」ではない。

 

 なんで彼は振り向いてくれないのだろう。私に魅力がないのだろうか。そう思っては、いつも私は不安に襲われて、そんな不安を少しでも解消しようと、それとなく聞き出した彼の好みに合わせて自分を変えてみたりもした。

 

 髪を長くした。昔の私はショートカットで、男の子みたいだったから私は女らしくなろうとした。

 

 言葉遣いを直した。昔の私は少し舌足らずで馬鹿っぽかったから、なるべく賢そうな丁寧な言葉遣いを心がけてみた。

 

 ずっと彼に振り向いてほしくて、彼好みの淑女を演じていた。いままでの幼くて愚かな『しらかわゆき』という童女から、大人の『白川由紀』に成ろうと必死に努力をしたのだ。

 

 それはあの子に負けないための私の切実な努力の証。顔も頭も彼女には到底敵わなかったから、劣等生の私には愚直に努力する以外に残された道はなかった。でも、いくら凡人の私が取り繕ったとしても、本当の天才には敵わないのだということを嫌というほど思い知らさせられる。

 

 彼は親戚に科学者がいたらしく、昔から自然科学系のことに興味を抱いていたようだった。私は彼に話を合わせようといろいろと勉強をしてみるのだけれど、どうやら私の数理的センスは絶望的らしい。読書は好きだったから国語とか社会科は得意だったのだけれど、理科と数学は、私には手にあまる教科だった。

 

 でも、そんな私をよそに、あの子は颯爽と数学や理科の問題を解いてみせる。彼の質問に難なく答えてみせる。そんな彼女を彼はまるで先生のように慕っていて、そこには尊敬と思慕の念が垣間見られた。彼と彼女は特別な絆で繋がっているように見えて、私はそのことがどうしようもなく悔しかった。

 

 少しでもそこに食い込もうと私は苦手な理科や数学を頑張ってみるのだけれど、そう現実は上手く行かない。中学を卒業する頃には、私とあの子の差は、誰が見ても絶望的なまでに広がっていた。

 

 カルノーサイクル?デュロン-プティの法則?零点エネルギー?

 

 あの子が嬉々と語る言葉が全く理解できない。彼もよくは理解できていないようだったけれど、そんな彼を見ると彼女は優しくその概要を教えてあげていて、そしてそんな彼女の話を理解しようと彼は必死に話に聞き入っていた。それはまるで、相手の趣味を理解しようとしているカップルを見ているようで、私はそうなると居場所が無くなってしまった気がして、よく二人のもとから立ち去った。

 

 何で、あの子なの。

 

 脳裡に暗い感情が迸る。何であんな無愛想で、理科にしか興味がない色気も何も無い女を彼は追いかけるのか理解できない。

 

 私はこんなにも努力しているのに、何で彼は私のほうに振り向いてくれないの…。

 

 そう悶々としながら、私はしだいにこの恋を諦めていった。諦めないと、あまりにも私が惨めで滑稽でいたたまれなかった。それはある種の自己防衛のようなもので、私は心の奥底に恋心を無理矢理閉じこめると、彼と彼女がくっつくように尽力した。

 二人が恋人になって、さっさと私にとどめを刺してほしかった。

 

 

 高校二年生になって彼は私と同じ文系にやってきた。彼女を追って理系に行くものだと思っていたから、私は彼が同じクラスにいることに困惑した。

 

 諦めるとしたのに、なんで神様はこんな残酷な仕打ちをするのだろう。

 

 彼は友達が少なかったから、よく私に話しかけていた。

 その度に、性懲りもなくどぎまぎする。心臓が高鳴る。

 

 理系クラスとは棟が違ったから、私はあの子の姿を目に入れることもなく、安心して彼と話すことができた。そして、閉じこめていた恋心がマグマのように内から湧いて出てきた。

 

 もう、いいよね。遠慮なんてしなくていいよね。

 

 告白をしない彼女、あるいは彼が悪い。二人は鈍感だから、幼馴染という言い訳に終始して、互いに惹かれあっていることに無自覚なようだった。

 

 恋は戦争だ。もたついているなら、彼女がその気持ちを自覚する前に私が彼をかっさらう。

 

 正直、分が悪い戦いだったが、勝機がない訳ではなかった。私だって、彼女に劣るとはいえ彼に大事に思われているという自負がある。決戦の日は夏休み。それまで、私はいつも通りに彼と親睦を深めればいい。そう思って、私は独りほくそ笑んだ。

 

 夏休みに入って私は彼を映画に誘った。それはずっと片思いをしていた女の子が意中の男の子と結ばれる様を描いた恋愛映画。まるで私の境遇のようで、私は彼が察してくれるかなと思いながらも、すぐにそれを否定した。そんな気の利いた人ならここまで苦労はしない。

 

 私は買ったばかりの白のワンピースに身を包み、気合いを入れる意味も込めて本格的なメイクをしてみた。彼はけばけばしいメイクを好まないので、抑え気味ではあったが。

 

 やがて、約束した時間になるとインターホンがなった。意を決してドアを開ける。

 

 彼は褒めてくれるかな。私に見とれてくれるかな。

 

 期待と不安を胸に、私は戸を開けた

 結果は上々だった。

 

 

 

 映画はありきたりだったけれど、なかなか面白かった。でも、余りにご都合主義が強すぎて、片思いのプロである私からしたら、鼻で笑ってしまうような展開も多々あった。

 

 

 私と彼はカフェで軽く談笑をすると、ウィンドウショッピングをして時間をつぶした。告白をするなら、夕方が良い。できれば見晴らしのいい場所でしたい。私のお気に入りの小説に掛けて、そう決めていた。その小説はハッピーエンドで終わっていたから、私のこの恋物語もどうかハッピーエンドで終わってほしい。私は意地悪な神に、そう祈った。

 

 

 山下公園につく頃には午後の五時を回っていた。いきなりだだをこねた私に彼は当惑しているようだったけれど、私は強引に彼をつれてここまできた。

 

 ベンチに腰を掛け、息を整える。

 

 一世一代の大勝負。この言葉を言ってしまったらもう後戻りはできない。私と彼と彼女の関係はいずれにしても崩壊してしまう。私と彼が付き合えば彼女は私の敵になるだろう。逆に私が彼に振られたらそのときはさっさと邪魔にならないように消えてしまおう。

 

 そう思考を整理すると私は彼に告白をした。告白の言葉はいろいろ考えていたけれど、すべて吹っ飛んだ。私はただ純朴に好きだと伝えた。

 

 

 私の告白を聞いた彼は、明らかにうろたえているようだった。目が泳ぎ、言葉に詰まる。そこで私は察した。

 

ーああ、ダメかー

 

 そう思って私は絶望した。彼は私を傷つけまいといろいろと言い訳を並べているのだけれど、何一つ私の心には響かない。

 

 覚悟をしていたとはいえ、私はあまりのショックで彼の言葉が頭に入ってこなかった。

 

 消えてしまいたい。手に入れられないのなら、目の前の彼を彼女に取られる前に殺してしまいたい。そんな衝動を押さえつけて彼の話を聞く。でも、彼の話し出したことは私の予想の範疇を越えていて、悲しみと怒り、そして諦念すらも忘れてただ呆気に取られることしかできなかった。

 

 彼と彼女がいとこ…?

 

 彼は彼女と付き合う気はない?

 

 は?

 

 じゃあ、今まで私が自分の気持ちを殺して二人の仲を取り持ってきたのはすべて無駄だったということなのか。私の苦しみはすべて無駄だったのか。

 

 ふつふつと怒りが湧いてきた。それは彼からしたら理不尽なものなのだけれど、長年くすぶり屈折した恋心を源泉とするその感情の奔流は止められそうになかった。

 

 頭が真っ白になって私は彼を罵倒した。彼女を罵倒した。不思議と彼を罵倒したときは心が痛むのに、彼女を罵倒した時は何も感じなかった。

 

 一通り悪態を付き終えると、私は自分のしでかしたことの大きさに気が付き恐怖する。今まで付けてきた淑女の仮面の化けの皮がはがれてしまった。彼に、嫌われた。

 

 彼の反応が怖くて私はただ恐怖に打ち振るえた。そして心の中で言い訳をする。

 

私の気持ちに気がつかない彼が悪い。

 

私に恋を覚えさせた彼が悪い。

 

私を苦しめた彼と彼女が悪い。

 

私の気遣いに気が付かない彼女が憎い。

 

私の想い人の心を奪った彼女が憎い。

 

私の想い人と従兄妹であった彼女が憎い。

 

私の恋敵を産んだ彼の伯父と彼女の母が憎い。

 

私の…、私の思い通りにいかないこの世界が憎い。

 

でも、なによりも…私は私が憎たらしい。

 

 呪詛、怨嗟、責任転嫁。そんな事ばかりを考える私自身に辟易とする。でも、それは仕方がないこと。それは私の性分で、ずっと隠してきたけれど本当の私の姿。

 

ーねぇ、ここで私が弱ってみせたら貴方は私を心配してくれるかなー

 

ーねぇ、ほら。はやく私を引き留めてよ。じゃないと死んじゃうよー

 

 そう考える自分が可笑しくて、クツクツと嗤った。そうして弱った姿を演じていると案の定、優しくて少し気の弱い彼は私の心配をしてくる。長年取り繕ってきた私の演技はやはり一流だ。

 

 後一押し。そうすれば彼は罪悪感から私の事をつかみ止めてくれる。そう確信した。

 

 例えそれで彼をつなぎ止めたとしても、それは愛故では無いのだけれど、ひとまず彼を私の掌中に収められれば後はどうにでもなると思った。

 

 逃れられない快楽の地獄に落としてしまえばこっちのものだ。女の武器は最大限使わせてもらおう。だって、私が彼女より秀でているところはそこしかないのだから。

 

 ごめんね。前言撤回するよ。私、やっぱり彼のことを諦められない。

 そう、聞いてもいない彼女にそっと謝った。

 

 一瞬彼女の綺麗な顔が頭によぎったけれど、もうあんな女がどうなろうと、どうでもいいや。彼が奪われたことをせいぜい恨むがいい。それはずっと私が感じてきた気持ちなのだから。

 

 

 彼が私に告白をしてくる。

 本当に可哀相なほど優しくて、哀れな人だこと。

 そう思いながらも、心は歓喜に震える。

 

 やった、やった。やった…、私は賭に勝ったんだ。あの女に、…勝ったんだ!

 

 ざまあみろ、あの物理女。ざまあみろ!

 

 初めて奴に敗北の味を覚えさせてやれる。そう思って私は「ふふ」と嗤った。そんな姿に勘違いをしたのか、彼が私を強く抱きしめてきた気がした。抱きしめられるのは嬉しいのだけれど、きっと私の顔は酷く歪んでしまっているから彼には見せられない。

 

 私は彼の胸に顔を埋めてもう一度、誰にも聞こえぬ大きさの声で呟いた。

 

「ざまあみろ、弥生」 

 

 

 

 

 

 




共役[きょうやく]:二つのものが対(ペア)となって結びついていること


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

9 Hypothesis

『由紀と付き合うことになった』

 

 直接会うのが気まずくて、僕はメッセージアプリを使って弥生に今日起こった出来事を伝えた。由紀から告白され、そして僕がそれを受け入れたその日の夜のことだった。

 

 由紀と交際することになったことをわざわざ弥生に言う必要も無い気がするが、隠していてもいずれバレる事ではあったし、その時にいろいろと根掘り葉掘り訊かれるのも煩わしい。弥生に対する気持ちへの決別も兼ねて、僕は敢えて弥生にその事実を告げることにしたのだ。

 

 しばらくして、ベッドの上で横になりながらネットニュースを読んでいると、突然携帯が震えてメッセージが届いたことを伝えてくる。差出人を見るとそれは弥生だった。画面の端に表示された時計を見ても、メッセージを送ってからまだ五分も経っていない。酷い時は一日以上メッセージを放置する弥生にしては、信じられないほどに早い返信であった。

 

『本当?』

 

 弥生から送られてきたメッセージは修飾語も顔文字も無い名詞一語だけの簡素なもので、だからこそ彼女の驚きが画面から伝わってくる。

 

『こんな嘘を言うほど落ちぶれちゃいないよ』

 

 僕がそう返信をすると、また直ぐに弥生から反応があった。

 

『おめでとう。いきなりのことで驚いたよ。いろいろ詳細を聞きたいから今度会えるかな』

『ありがとう。じゃあ、明日にでもいつものカフェで待ち合わせようか?』

『分かった。14時に集合で大丈夫かな』

『大丈夫だよ』

『じゃあその時間で。おやすみ、慎也』

 

 まるで会話をしているかのように円滑にメッセージのやり取りをしていた。弥生との伝達がこんなにもスムーズにいくのは珍しくて、僕は画面の向こう側にいるのは別人なのではないかという錯覚に陥った。

 

 弥生はネットやSNSに時間を割かれるのをひどく嫌う人だったので、メッセージをしっかりとした文章で送ってくる事は稀だ。たいてい弥生が送ってくるのは「了解」だとか「無理」といった予測変換で上に来るような味気ない単語ばかりで、何かを伝えようという意志をそこからは感じない。基本的に、弥生はコミュニケーションに関しては受動的なスタイルを貫いている。だからこそ、この遣り取りは僕に奇妙な印象を与えた。はたして画面の向こう側に居る弥生はどんな表情で、今何を考えているのだろうか。

 

 携帯の電源を切ると、僕は目を閉じてメッセージを送っていた時の弥生の表情を想像した。けれど、僕の想像の中の弥生の表情はどれもしっくりこなかった。

 

 驚嘆、憤怒、当惑。それらは弥生から最も離れた言葉のように聞こえる。やはり弥生といったら無愛想なあの顔で、きっと彼女はあまり感情を表に出すことなくこのメッセージを送ってきたのだろうなと勝手に想像して納得した。

 

 これ以上何かを考えても無駄かと思い、僕は部屋の電気を消すと掛け布団をかけてベッドの上に横になる。壁にかかった掛け時計はまだ十時を指していたけれど、いろいろとあり過ぎて疲れたから今日はもう寝てしまいたい。目を閉じると疲労のせいか、十分もしない内に僕は意識を失ってしまった。

 

 

 翌日、弥生は少しだけ約束の時間に遅れてカフェに現れた。ちりん、という引き戸に付けられたレトロな鈴の音が鳴ったのが聞こえ、入り口の方へと視線を向けると、そこには弥生がいた。

 

 弥生は店員と二、三言話して店の中に入ると、店中をキョロキョロと見回して僕を探しているように見えた。そういえば、僕の座っている席は奥の方にあって、入り口からは見つけにくくなっていたのだっけ。

 

 なかなか僕を見つけらずに当惑するその姿が、いつもすましている弥生にしてはやけに子供らしくて、もう少し彼女のそんな姿を見ていたい意地悪な衝動に駆られた。しかし、結局僕は自分の良心には勝てず、弥生に向かって声をかけると手招きをして彼女を呼んだ。

 

 弥生はやっと僕の居場所が分かって安堵としたのか、僕の座っている席につくと開口一番に「普通、人と待ち合わせをしている時に、そんな死角になる席に座るかな」と軽く不満を漏らしてきた。

 

 二人掛けのテーブル席に腰を下ろすと、メニューに軽く目を通した弥生は、まずブラックコーヒーを頼んだ。僕は、いつの間にか弥生がブラックコーヒーを飲めるようになっていた事に驚くとともに、そこに微妙な月日の流れを感じて、弥生のことをまじまじと見つめてしまった。そんな僕の変化に気が付いたのか、弥生は「私だって成長してる」と言って、ほんの少しだけムスッとして僕の方を見返してきた。

 

「弥生、寝不足かい」

 

 弥生の顔をよく見ると、薄く目元に隈が浮かんでいるのが見えた。

 

「…まあ、そんなところかな。興味深い問題があって昨日は寝れなかったから」

「はは、弥生らしい理由で安心したよ」

 

 弥生は集中をすると周りが見えなくなる悪癖があったけれど、それは今でも改善されていないようだ。弥生はあまりそのことに深く突っ込まれたくないのか、軽く咳払いをすると、前触れもなくいきなり本題をついてきた。

 

「それで、昨日慎也が言ってた由紀と付き合うことになったと言う話なのだけれど、あれ、どういうこと。どういう経緯でそうなったの」

 

 弥生は平素と変わらぬ無表情を貫いていたが、普段とは違って声が少し震えていた。

 

「まあ、文字通りの意味だよ。由紀が僕に告白して、僕はそれを受け入れた。ただ、それだけの話さ」

「てことは、慎也は由紀のことが好きだったの」

 

 それを言われると弱る。僕は由紀のことを大事に思ってはいるが、それは恋愛的な意味ではない。でも、それを弥生に告げるのは憚られたし、曲がりなりにも僕は由紀の彼氏なのだから、由紀のことが好きじゃないなどと口に出せるはずもなかった。

 

「小学生の時から、由紀は僕の大切な人だったよ」

 

 嘘は言っていない。ただ、真実でもない。「大切」の意味の取りようによっては、いくらでも解釈できる曖昧な言葉であった。

 

「そう…。『大切』ねえ…。それってどういう意味の『大切』なのかな」

 

 恋愛的?友愛的?それとも他の何か?

 

 そう言って弥生は嗜虐邸な笑みを浮かべた。僕の小手先のレトリックは全て彼女に見破られていた。彼女の漆黒の瞳が僕を捕らえて離さない。僕は何もしていないのに、まるで尋問を受けているかのような錯覚に陥り、気分が落ち着かなかった。

 

「いや、それはあれだよ。もちろん恋愛的な意味に決まっているだろ」

「へぇ、そうなんだ」

「当たり前だろ。でなければ交際を受け入れたりしないさ。それより、本当に大丈夫かい?弥生が目の下に隈を作ったのなんて、余り見たことがない気がするけど」

 

 嘘を言った。それは本来、大したことではないのだけれど、弥生を前にすると自然と罪悪感が湧いてくる。これ以上突っ込まれたらいろいろとボロがでそうで、僕は早くこの話を切り上げようと無理に話を変えた。

 ところが、弥生は僕の質問に答えることなく、ますますその冷たい笑みを深めるばかりで、僕のことをまるで罠に引っかかった哀れな小動物を見るかのような目でひたすら見つめていた。

 

「ねえ、慎也。少し長話をしようか」

 

 それは、弥生の口癖だった。弥生がふふ、と嗤った。

 

「人は嘘をつく時、いくつかの特徴的な動作をすると心理学では言われている。一つ。嘘をつくとき、人は利き腕と反対方向に目を向ける。二つ。手を隠そうとする。三つ。話題を変えようとする。四つ。曖昧な返事をするようになる。五つ。早口になる。六つ。これは嘘をつく時ではないけれど、居心地が悪くなると人は足を自然と入り口側に向ける」

 

 「さて問題です、慎也クンは何個当てはまるでしょうか」そう弥生はクイズ番組の司会者のようにおちゃらけて言ったが、目がまったく笑っていない。そのアンバランスさがとてつもなく気持ち悪かった。

 

「心理学は眉唾物だと思ってたんだけどねぇ。こんなに当てはまってるとつい疑っちゃうよ」

 

 クスリと笑って「それで、本当はどうなの」と僕を問い詰めた。

 

「はは、まいったな。そんなに疑われても事実なんだから、どうしようもないだろ」

「あくまで、しらばっくれるんだね」

「しらばっくれるも何も、もとから僕は事実しか言ってないよ」

 

 認めるわけにはいかなかった。もし認めたら弥生は何故嘘をついたのか全力で問い詰めてくるだろう。そしたら僕が由紀を好きでないことがばれてしまう。それは由紀にとっても不誠実極まりないことに感じたし、何より弥生は僕を好きでもない女と付き合う軽薄な男と軽蔑するだろう。それが、怖くてたまらない。弥生のことは諦めたはずなのに、嫌われたくなかった。

 

「そうだね。これは仮説なんだけど…」

 

 そう言って、弥生はどこか遠い目をしてひとりでに語りだした。彼女の纏う雰囲気が、言外に口を挟むなと僕に言っている気がした。

 

「慎也は由紀のことが好きではないでしょ。おそらく由紀に泣き落としでもされたかな。それとも、色落としかな。あの売女(由紀)は肉付きだけは良いからね。優しい慎也はきっとそれを見て罪悪感を感じて由紀の告白を受け入れざるを得なかった」

 

 違う?

 

 弥生の瞳はどこまでも真っ直ぐで、僕の嘘などとうの昔に喝破してると言いたげだった。

 

「慎也は本当に優しいね。でも、もう少し自分というものを持っても良いと思うよ。私は慎也のそこだけが少し嫌いかな。別に無理に由紀に合わせる必要はどこにもないんだよ。たとえそれで由紀が傷ついても、それは所詮彼女自身の責任で慎也が負い目を感じなくてもいいんだ。でも、そういっても慎也は優しいから由紀を傷つたくないと思っちゃうんだよね。うん、分かるよ。ずっと慎也を見てきたから。小学生の時も中学生の時も慎也の傍にいたのは他の誰よりも私だったから知ってる」

 

「いや、違う…」

 

「はは、否定しなくても分かってるから。優しい慎也はきっとここで嘘をついたと認めたら、由紀に対して不誠実だとでも思ってるんでしょ。笑っちゃうよね。好きでもないのに付き合う方が不誠実なのにさ。でも、そんな不誠実な慎也でも、私は否定しないよ。それは慎也のもつ優しさ故の結果なのだから。私は君の事を肯定するよ。だから、ほら。真実を言ってごらん」

 

 弥生はひとしきり喋り終えると、僕の手を優しく掴んできた。それはまるで、母が子をあやすような手つきのようにも感じたし、また悪い子を窘めているようにも感じられた。

 

「僕は、由紀のことが好きだよ…。それは嘘じゃない」

「…」

 

 強情な僕はそれでも認めない。弥生とは決別したのだ。ここで、弥生の優しさに甘えるわけにないかなかった。これは昨日、自分自身で選んだ道なのだから。

 

「そうか…。可哀相な慎也」

「は?」

 

 唐突に弥生が僕を哀れんできて困惑する。彼女が何を思っているのか分からなかった。

 

「ああ、慎也はあの阿婆擦れ(由紀)に弱みを握られているんだね。だから、こんなに強情になるんだ。嗚呼、何で私はこんな簡単な事に気が付かなかったんだろう。慎也が私に意味もなく嘘なんてつくはずがないもんね。きっと私に察してほしかったんでしょ。慎也なりのSOSだったんだ。分かったよ、慎也。今はそれで納得しといてあげる」

 

「いや、全然ちが…」

 

「分かってるから。みなまで言わなくて分かってる。私はずっと慎也のことを見てきたから…。安心して慎也、今はまだ何もできないけれど、いずれあの女(由紀)から君を解放してあげる」

 

 

 ふふ、と弥生は暗い目をして笑った。何かよからぬ事をたくらんでいるような、そんな顔だった。

 

 目の前の女は誰だ?

 

 こんなの、僕の知ってる弥生ではない。弥生はこんな偏執的な妄想に囚われる女ではない。僕の知ってる弥生は…どこにいった?

 

 僕は得も言われぬ寒気に襲われて、今すぐにでもカフェから逃げ出したい衝動に駆られた。

 

「ごめん、弥生。これから用事があるから先に帰るよ。代金はここに置いておくから」

 

 財布から千円を出して机に叩きつけた。明らかに僕が頼んだアイスティーの金額を越えていたが、今はとにかく逃げ出して、どこか独りで頭を冷やしたい。

 

「慎也…、私を信じてね」

 

 去り際、弥生がそう呟いた気がした。

 

 

 

 

 




hypothesis(名)仮説


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

閑話 i

i:(アイ)虚数単位を表す。


 いきなり多くを喋りすぎてしまったか…。

 

 去って行く慎也の背中を目で追いながら私は先ほどの自らの言動を反省した。

 

 慎也がカフェからいなくなるのとほぼ同時に、店員がブラックコーヒーをもってきて「どうかしましたか」とばかりに私の方をじろじろと見てくる。大方、痴話喧嘩でもしたと思われたのだろう。

 

 私は「お気になさらず」と言って愛想笑いをすると、その店員も客の私情を詮索するのは気が引けたのか、素直にその場から立ち去った。

 

 まったく…。反吐が出る。

 

 愛想笑いなど私の柄じゃない。

 愛想をふりまくとしたらそれは慎也にだけと、昔の自分はそう心に決めていたのだが、文明人としてこの社会で上手く生きて行く為には、その矜持を曲げなければならない事も多くあるとこの十余年で学んでいた。

 

 愚者は経験から学ばないが、生憎私は愚者ではない。愛想笑いなどもう慣れたものだ。もっとも、それが上手くできているかどうかは私には分からないし、たとえできていなくても知ったことではないのだが。

 

 ふぅ、と一息着くと、ブラックコーヒーを軽く喉に流し込んで先ほどの会話について考えを巡らせた。コーヒー特有の苦みと酸味は思考を冴えさせるのにちょうどよい。昔、社会科の授業で聞いた、コーヒーが石油の次に取引が多い財であるという話も、今となっては納得できる事のように感じられた。

 

 

 いきなり真実を暴かれると人は動揺して取り乱してしまうことが多いと聞いたことがある。それはもっともな話に聞こえるが、残念ながらこの話のソースを私は見たことがない。ソースが無い話など本来ならば一考にも値しないが、なるほど。あながち間違いではないように思えた。

 

「もう少し、真綿で絞め殺すように問い詰めたほうがよかったかもね」

 

 なんでもそうだ。物理でも小さい力で運動量を変化させたいのならば、外力を作用させる時間を長くすればよい。つまり、今回は急ぎすぎたのだろう。平均の力が大きくなりすぎてしまった。そうなると、それは自然と撃力になってしまう。

 

「ふふ、面倒な子…。でも、そこもいい」

 

 まるで野生動物の雌みたいだと苦笑する。追い詰めすぎると逃げられるけれど、こちらから向かって行かなければ相手にもされない。受動的な姿勢では何も成果を掴むことはできない。求めよ、さらば与えられん。

 

「それにしても、由紀がねぇ。まさかここで打って出て来るとは」

 

 もう一度、思考を整理するためにコーヒーに口を付けながら、事の発端となった由紀の姿を思い浮かべてみた。

 

 あの女、ずいぶんと舐めたまねをしてくれたものだ。もともと仮面を被っているとは思っていたが、まさかここまで悪辣な内面をもっていたとは。

 今日慎也から話を聞いて、昨日メッセージが届いた時からずっと感じていた違和感が氷解した。その違和感の正体をずっと考えていたせいで、昨日はよく寝付けなかった。

 そのせいで目に隈を作ってしまい、余計な心配を慎也に掛けさせてしまった事が少し心苦しい。

 

「慎也が由紀を好きになるはずがない…」

 

 だから、由紀は慎也の優しさを利用したに違いない。あるいは、慎也が逆らえない何か大きな弱みを握っているのだろうか。

 由紀が慎也に惹かれていることは薄々察していたが、だからと言って私の慎也を奪うとはいい度胸をしている。

 

 喧嘩は逃げるが最上の勝ち?逃げるは恥だが役に立つ?

…そんな訳あるか。

 

 売られた喧嘩は買ってやる。その上で、完膚なきまでに相手を叩きのめす。二度と私に刃向かわないように、由紀を壊してしまうのが一番だろう。

 

 残念だったね由紀。貴女は今私に勝って愉悦に浸っているのかな。

 せいぜい短い春を楽しんでね。それが、貴女の最後の春になるかもしれないから。

 

 ククッ、と忍び笑いが漏れてしまう。

 こんなはしたない姿、慎也の前では見せられない。でも、あの女が何も知らずに浮かれている姿を想像すると面白くてたまらなかった。

 もともと、ああいう女らしい女は嫌いだったから、なおさらそのことが滑稽で堪らない。慎也がいなければあの女とも一生関わらなくて済んだだろうに。

 

-由紀、無駄だよ-

 

 だって、慎也は私と約束したから。

 

 忘れたとは言わせないよ?慎也。

 

 慎也の姿を想像して彼に語りかける。あれは中学二年生の時の話。私と慎也で交わした大事な約束。あの日から、私はずっと君の返事を待っている。

 

「慎也も大変だね…、こんな美人二人から求愛されるなんて」

 

 自分で言っておきながら、可笑しくて噴飯した。きっと由紀の愛だって、私のと同じくらい真剣なものなのだという事は察せられる。

 私は観測が得意なのだ。物理をやる人間は些細な事に気が付かねばならない。

 

 でも…。

 

 私は白磁のソーサーを指で撫で回しながら、頬杖をついて、当てもなく呟いた。

 

「iの二乗は-1なんだよ、由紀」

 

 愛は、二つもいらない。

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Experiments
10 Nature and nature's laws lay hid in Night


 夢を見ていた。

 

 それは中学二年生の時の過ぎし日の記憶。僕がまだ数学に挫折しておらず、理学の道に進むことを夢見ていた時の話だ。

 

 その日、僕と弥生は学校の委員会の仕事が長引いて、家に帰るのが遅くなってしまった。学校の委員会は強制参加だったから、同じクラスだった僕と弥生は示し合わせたかのように一番ラクと言われていた美化委員に所属していた。しかし、この日は学期末が近いということもあり、珍しく終了の時刻が長引いてしまったのである。

 

 学校の外に出るとそこは既に暗闇に包まれていて、十数メートル間隔にぽつぽつと並んでいる街灯と、集合住宅から漏れ出る灯り以外にめぼしい光源はない。

 横浜とはいえ昼夜問わず人で溢れかえっているのは中区といった海側だけで、内陸側はどちらかと言えば閑散としているところがあった。

 

 僕は弥生と二人きりで歩きながら、遊歩道を通って家へと帰る。弥生はあまり多くをしゃべる子ではなかったから、いつも帰り道は静かで、僕はそのことに少し物足りなさを感じていた。とはいえ、それは心地よい沈黙であったから、そのことに大きな不満を抱いていた訳ではなかったのだが。

 

 本人は気が付いていないようだったが、弥生はいつも僕の少し前を歩いて、時折僕がちゃんと後ろから付いて来ているかを確認する癖があった。その姿が、年端のいかない妹が大人ぶって兄の前を歩こうとするのだけど、不安を隠せずにちらちらと後ろを振り向く姿に重なって見えて、僕は心の中で微笑ましいものを見るかのように笑っていた。実際、弥生は早生まれで、僕は遅生まれだったから年齢的には兄妹という比喩も間違ってはいない。ただ、弥生の方が僕よりもずっと賢くて分別があったから、こうやって弥生が僕より幼く見えるような行動をするのは貴重だった。

 

 しばらくして遊歩道を抜けると、またアスファルトの地面が現れる。弥生はしばらくその道を歩くと、水銀灯からダイオードに換装されたばかりの街灯の下で歩みを止めて俯いた。

 

「ねえ、これ。面白いよね」

 

 街灯の下で弥生は立ち止まると、道路にできた自分の影を指で指して僕に微笑みかけてきた。ここで何か気の利いた返事が出来たらよかったのだが、生憎凡人の僕には弥生の突飛な思考回路など分かるはずもなく、彼女が何に面白さを感じているのか理解することはできなかった。

 

「ほら、これだよ。影の縁が少しぼやけている。これは光が回折した影響なんだ」

「回折って何だい」

「ああ、まだ学校でやってない範囲か。回折というのは簡単に言えば光が物陰に回り込む現象だよ。というか、光以外にも音や電波と言った波動一般に言えることだけど。そうだね…、たとえば姿も見えないのに塀の裏から音が聞こえたりするのも回折の現れだね」

 

 弥生は一通り説明しきると、得意げな顔をした。弥生は余りしゃべらないと言ったけれど、時折こうやって物理現象を見つけては僕に解説する事を好んでる節があった気がする。

 

 弥生はしばらくの間、街灯の下で回折現象と戯れると、おもむろに街灯の光を見上げて一つ詩を吟じた。

 

「『自然と自然法則は闇夜の中に眠っていた。神は仰せられた。ニュートンあれかしと。すると全てが光りだして白日の下に現れた』とさ」

「何、それ」

「アレキサンダー・ポープという英国人の詩だよ。十七世紀頃に起きた科学革命を比喩的でありながら適切に詠んだ詩。…旧約聖書の『創世記』にはこうある。神は光あれと言った。すると光ができた、と」

 

 いったん言葉を区切ると、弥生は街灯の下でクルッと回って僕の方を向き「さて、長話をしようか」と言った。それは、いつも弥生が僕に講義を始める合図と化していた。

 

「このどちらの詩と文にも光が出てくる。光は本当に奥が深くて神秘的なんだ。昔から物理学では光が大きなテーマとなっていた。ホイヘンスの『光についての論考』、ニュートンの『光学』、そしてあのアインシュタインもノーベル賞をとったのは特殊相対性理論でなくて光量子仮説だった。昔の人はね、光が波か粒子かで論争を繰り広げていたんだよ。ニュートンは光を粒子だと考えていたんだけど、その後に行われた多くの実験結果が光が波だという事を示していた。決定的だったのがマクスウェル方程式だね」

 

 「名前くらい聞いたことあるだろう」と言って弥生は挑発的に笑う。なるほど、これは復習か。

 知っているとも。だって、それはこの前弥生が話したことだろう。

 

「ああ、知ってるよ。たしかその基礎方程式から電磁波の発生が導けるんだっけ?」

「そう。マクロ世界の電磁気的な現象が僅か四つの方程式から全て導ける。それはとてつもなく美しいことで、だからこそ光は波だということを疑う人はしばらくの間皆無だった」

 

 でも、()()()んだよ。と言って弥生は笑う。それは、ここからが話の(たけなわ)さとでも言いたげな笑みだった。

 

「それは二十世紀に入るか否かの頃。ある奇妙な実験結果が発表された。軽く概要を説明すると金属薄膜に光を当てると電子が飛び出てきたんだ。いわゆる光電効果ってやつだね。新しい事実が分かると物理学者は今まである理論でそれが説明できるかをまず試してみる。でも、結果はどうだったと思う、慎也」

「そりゃ、話の流れから言って。説明できなかったんだろう」

「正解。光を電磁波と仮定するとどうしても結果が説明できない。これは大変だと物理学者達が頭を抱える中、アインシュタインは「光を粒子と思えばいいんじゃない?」と言って見事その実験を説明して見せた。でも、光の粒子は今までの実験で否定されたのではないか?という矛盾が発生する」

 

 

 「さぁ、どうする。どうすればいい…。慎也」妙に演劇じみた声で弥生はそう質問してきた。でも、残念。この話の続きは昔テレビか何かで聞いたことがある。弥生にとってはつまらないことかもしれないけれど、僕は見栄を張りたい気持ちもあって、弥生の質問に真面目に答えた。

 

「光は粒子性と波動性を持っているんだろう」

 

「…正解。なんだ、知ってたか。まぁ、これが前期量子論の誕生さ。これ以降様々な実験が行われて次第に量子力学が完成されてゆく。二十世紀はハイゼンベルク、ボーア、プランク、シュレディンガーなど錚々たる顔ぶれが同じ量子論という目標に向かって研究をしていた現代物理の黄金時代だったんだよ」

 

 

 「光は本当に奥が深い」再びそう弥生はつぶやいた。弥生は改めてダイオードの街灯を見つめると小さな声で次のように言った。光源の周りには、光に吸い寄せられた小さな蛾が三匹舞っていた。

 

「でも、それと同時にどことなく気味が悪くもある。波でありながら粒子であるとは一体どういうことなのだろうか、とね。直感に反する。理性に反しているように見える。あまりにも醜い…。でも、その結果は何よりも理性的で、演繹的な数学により組み立てられ、他でもない実験物理が事実だと証明してみせた」

 

 

「光は、まるで人間だね…。どこまでも不条理に見え、そしてあまりにも理性的だ」

 

 そう言うと、弥生はククッと自嘲するかの如く笑った。

 

 

 

 




(注1)
ポープの詩の原文

Nature and nature's laws lay hid in Night.God said,Let Newton be!and all was light.

(注2)
マクスウェル方程式から導かれる有名な帰結c=1/sqrt(εμ)は「光の速さ」=「電磁波の速さ」を示しているだけであり、可視光が電磁波の一種である可能性を提示しただけです。よって本文中で記述したように「マクスウェル方程式から光が波であることを導いた」というのは些か論理的に飛躍があります。実際、光が波であることを決定付けたのは1850年にレオン・フーコーが行った水中での光速測定でした。誤解を招く表現をして申し訳ございません。しかし物理あるいは科学史的な正確性は本文で追及していませんので、ご容赦ください。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

11 God said,Let Newton be! and all was light.

「さて、与太話はこれくらいにしておこうか」

 

 弥生はひとしきり話すと満足したのか、街灯から視線を外し、自宅へと繋がる道へと目線を移した。弥生は何が可笑しかったのか、まだ忍び笑いをしている。ダイオードの人工的な光に照らされた弥生の黒髪は綺麗な天使の輪を描くが、同時に彼女の病的に白い肌はその白色光のせいか、まるで死人のよう冷たい印象を与えた。

 笑う死体。

 そんな気味悪さが弥生にはあって、僕は彼女を死の世界から引きずり出そうとして声を掛けた。

 

「弥生?何がそんなに面白いの」

「ああ、慎也。これは失敬。ただ自分で言ったことが妙にツボに嵌まってしまっただけだよ。本当…、人は光のように二重性を持っている」

 

 弥生は余人とどこかズレていた。それは彼女が中学生にしては異様に頭が切れるからなのか、或いはただ単にそれが生来の気質だからなのは分からない。少なくとも、弥生はそのズレのせいか、友人が一人も居ないのは事実だった。いや、そうはいっても僕と由紀は友人のはずだ。

 ただ、僕たちを除くと彼女が孤独を極めているのは、ひとえにこの彼女のもつ不気味さともいえる、異様なまでの物理への関心のせいなのだろう。

 

「そんなに面白いかな。人が二重性を持っていることは否定しないけど」

 

 凡夫には分からない。分からないなら訊くしかない。

 

「まぁね。分かりにくい例えなのかもしれない。人間は光のように神秘的存在でもなければ、普遍的でもない。人は一人一人が違う性質を持っているから、一概にはそう言えないのも分かる。ただ、やっぱ私は人は光に似ていると思うな。取り分け、私と由紀はね」

 

「弥生と由紀が?一体どういう事さ」

 

「私と彼女はインコヒーレントな光なんだよ。きっと、彼女とは干渉できない。そして、私も彼女もいたって理性的なのだけれど、余人からみれば不条理な判断しかできていないように見えるんだ」

 

「意味が分からないな、…由紀はともかく弥生が理性的でないなんて、思ったことも無いけどね」

 

 およそ、弥生は理性の極致にいるように思える。

 弥生は僕の方をその漆黒の双眸でじっと見ると「別に分からなくてもいいさ」と言って、今度は間違いなく前を見据えてスタスタと歩き出してしまった。

 

 傍若無人な振る舞い。それでも彼女に惹かれていた僕はそんな彼女の振る舞いですら気にならない。盲目ともいっていい。あるいは彼女の知性に心酔していたのかもしれない。

 彼女は僕の想い人であると同時に、越えられない恩師であった。

 

 それから弥生は自宅に着くまで何も語らなかった。僕も先程の弥生の発言の真意が気にはなっていたが、大したことは言っていないだろうと思い、何も尋ねなかった。

 

 弥生は意味もない言葉遊びや、比喩を使って僕を混乱させて楽しんでいる節があったから、今回もその手の話だろうと納得して僕は弥生の後ろに付いて歩く。

 

 弥生の家に着く頃には夜の七時半過ぎになろうとしていた。

 

「ありがとう、慎也。いつも送ってくれて」

 

 弥生は玄関に手を掛ける前に振り向いて僕に礼を言ってきた。改めて畏まって礼を言われると何だかこそばゆい。

 

「別になんて事ないさ。女の子を夜道に一人にさせておく訳にはいかないからね。それに皐月さんにも頼まれているから、娘をよろしくって」

「あぁ、お母さんが…。それでもお礼は言っておくよ」

「はは、どうしたんだよ。急に改まって。何か僕に要求でもしてくるのか?」

 

 下手に出る弥生が妙に珍しくて、僕は当惑した。僕たちの三人の中では弥生がいろいろな意味で飛び抜けていたから、自然とヒエラルキーは弥生が頂点になる。

 

 彼女は容姿、教養、そして帰宅部としては無駄なことに運動神経までも優れていたから、僕と由紀にとって弥生は雲の上の存在であった。まぁ、スタイルに関しては由紀の勝ちだが。

 そして、その類い希な優秀さが、弥生の孤立を加速せしめていた事実は否めない。

 

「要求か…。そうだね、慎也。だったら一つ、私と約束をしてくれないかな」

「本当に要求してくるのかよ。まあ、できる範囲ならなんなりと」

 

 「そういう素直なところ嫌いじゃないよ」と言って弥生は朗らかに笑う。それは長年一緒にいなければ分からないほど微少な変化なのだけれど、彼女の眉がぴくっと上がり、頬が少し弛むのが見えた。

 顔が火照るのが分かる。彼女の心の底からの笑顔は滅多に見れないからこそ、その破壊力はすさまじい。まして想い人の笑顔だ。なおさら心が騒いだ。

 

「じゃあ慎也。私と約束して」

 

 弥生は小指を出して指切りを迫る。弥生は迷信を鼻で笑いそうなイメージがあるが、意外と信心深いところがあった。

 そういえば、かつて弥生から科学者や宇宙飛行士はその自然の美しさと偶然性に魅せられ、逆に神秘主義的になってしまう者がいると聞いたことがある。真偽はともあれ、弥生もその類の人なのだろうか。

 

「慎也、指」

「ああ、ごめん」 

 

 考え事に気を取られて弥生の指が既に僕の前に出されていたことに気が付かなかった。弥生はムスッとした顔をして、しっかりしろと言いたげである。

 

「指切りなんて、小学生以来だなぁ」

「指切りは一説には昔、遊女が心中立する時に小指を切って渡した事に由来すると言われているんだよ」

「心中立って?」

 

 さあ、知らない。そういって弥生は蠱惑的に笑った。

 

「帰ったら調べてごらん」

「まぁ、時間があったらね」

 

 どうせ、弥生の言葉遊びだろう。そう思って僕は深く考えなかった。

 それじゃあ、と言って弥生は祈るように目を閉じて僕と指を絡める。その姿はどこか神秘的で、まるで教会で祈りを捧げる修道女のように僕の瞳に映った。

 

ー慎也…、ずっと私の傍に居てねー

 

「それだけ?」

「それだけって…。意外とこの約束を守るのは難しいと思うよ」

 

 弥生はそう言うと、ケラケラと笑おうとして、失敗していた。やはり、弥生は笑うのが下手だ。

 

「まあ、善処するよ」

「…約束だよ」

 

 「ずっと」と言っても言葉の綾だ。四六時中弥生と一緒にいられる訳ではないし、そんなナンセンスなことを弥生が言うとも思えない。きっと、弥生はずっと友達として、あるいは幼馴染として僕と一緒にいて欲しいということを言いたかったのだろう。

 弥生はコミュニケーションが下手だから、少し舌足らずなところがあった。だから僕はそうやって脳内で修飾語を付け足して解釈する。

 

 

「月が綺麗だね」

「そうだね」

 

 弥生は晩夏の夜空を見上げそう言った。

 

 その日はちょうど十五夜までまと少しという日だった。旧暦ではもう既に秋である。秋月は夜に映えるなと、柄にもなく風流心に浸りながら弥生が見ているのと同じ月をみて考えた。

 いつか、弥生とつき合えたらこうやって、ゆっくりと月を見るのもいいかもしれない。

 

 でも、それはまだずっと先のこと。まだ、僕は彼女に告白する勇気など持っていない。

 

「慎也、ずっと待ってるから」

 

 弥生が玄関を閉める前にそう呟いた気がした。

 なにを待つのか、と訊く前に扉は閉められる。弥生の姿はもうここにはない。僕は月下に独り取り残されて、宛もない疑問を胸にくすぶらせた。

 

「今日はいろいろと変な日だったな…」

 

 弥生の物理特講と約束。

 まあ、たまにはそんな日もあってよい。そう納得して僕は弥生の家をあとにする。

 

「あっ、この蛾。関東にもいたのか」

 

 帰り道、数年前に東北で伯父と一緒に見たのと同じ種類の蛾が、アスファルトの上に這っていた。でも、その蛾は弱っているようで、羽を弱々しく羽ばたかせるとコロッと仰向けになって死んでしまった。

 

 蛾の死骸はインコヒーレントなダイオードの白色光に照らされ動かない。やがて、この蛾のエントロピーは増加し、その肢体は朽ちて行くのだろうか。

 

 S=KlogW

 

 不意にそんな式が脳裡に浮かんだ。それは伯父が言っていたエントロピーを表す式。エントロピーSは対数関数的にゆっくりと、でも確実に増加して行く。対数関数の極限は発散するのだとこの前、本で読んだ。

 

 夜風が冷たい。僕は蛾の死体を一瞥すると、身を震わせて家路を急いだ。

 ただひたすら、風が冷たかった。

 

 

 

 

 これは過ぎし日の記憶。

 もう戻れない過去の記憶。

 

 誰が気がつけただろうか。この時から既に歯車は狂っていたのだと。エントロピーの増大は誰にも止められない。

 

『神は言った。ニュートンあれかしと。すると全てが輝き出して白日の下へ晒された』

 

 でも、かつて真実を暴いたニュートンは、ここにはいなかった。

  

 

 

 

 




脚注
○インコヒーレント
干渉性が無い位相が乱雑な波のこと。基本的に日常で見る光はこれ。レーザー光など干渉性の高い波は「コヒーレントな波」と言う。
○心中立
男女が愛情を守り通すこと。後に永久の相愛を示す証として相手に髪などを送ることも指すようになった。
○月が綺麗ですね
言わずもがな。夏目漱石がI love youの和訳として採用したとか(俗説で信憑性は低いらしい)
○S=KlogW
ボルツマンの式とも。(当たり前だけど底はe)
Kはボルツマン定数。Wは微視的状態数。
要するに、世の中乱雑な方向に向かうよっ!て式。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

12 潜熱

 夏休みが終わった。

 

 あれから僕は弥生と会っていない。単純に時間がなかったというのもある。僕は来年大学受験を控えており、あまり瞬発力のない僕は二年生の夏から受験勉強を始めなければ、間に合いそうになかった。たまに由紀と出かけたりもしたが、夏休みの後半は基本勉強をして過ごした気がする。

 ただ、そんなことよりも、弥生に会うのが怖かったというのが本音だ。こんな気持ちは初めてだが、今の弥生には会わない方がいいと直感が告げていた。

 

 ワイシャツを着て、歯を磨く。鏡を見ると前髪が少し跳ねていた。僕は洗面所に置いてある櫛を使って髪を整える。

 

 今日は始業の日。

 夏休みの間は避けられたとしても、今日は弥生に会わざるをえない。僕と弥生と由紀はいつも三人で登校していたから、いきなりそれを変えるのも不自然に思われるだろう。

 

「はぁ、…やっぱ、弥生の家に行かないといけないのか」

 

 それはかつてなら、何とも思わない日常的なことだった。むしろ役得とすらいえただろう。

 ただ、いまとなってはそのルーチンが重い。

 

 弥生と由紀が会った時にいったい何が起こるか分からなくて、僕は不安のあまり、また深くため息を付いた。もう、これで本日三回目のため息だった。

 

 念のため胃薬を鞄に詰めて、玄関の扉を開ける。その瞬間、残暑の熱波が僕を襲った。

 

 まばゆい太陽の光に一瞬、目が眩んだが直ぐに慣れ始める。そして、次第に外の景色が明瞭になったとき、僕は信じられないものを目にした。いや、正確にはまず信じられない声を聴いたのだった。

 

「あ、おはよう。慎也」

「弥生…、なんで」

「えへっ、今日から私の方から慎也の家に行こうかなって思って」

 

 あの弥生が笑みを浮かべていた…。それですら、異常な事なのに、さらに弥生の声は彼女らしからぬ猫なで声で気持ち悪い。本人は至って気にしていないようだったが、僕にはまるで弥生が別人になってしまったかのような印象を受けた。

 

 しばらくの間僕が呆然としていると「やっぱこれは私のキャラじゃないか」と弥生はボソッと呟いて反省をする。するとまるでスイッチが切り替わるかのようにスッとまたいつもの無表情に戻った。その変わりようが、あまりにも彼女の異質さを際だたせていた。

 

「弥生、なんで。…何で僕の家にきた」

「え、むしろ何で来たらダメなの?どうせ慎也は私の家に来るのだから私が慎也の家に行っても同じことでしょ」

「それは、そうだけれど」

 

 そうじゃない。問題の本質は何故弥生がわざわざ僕が弥生の家を訪ねるというルーチンを変えてまで、僕のところに来たのかと言う話なのだ。

 

 …分かっている。

 

 きっと僕と由紀が付き合い始めたことが原因だ。彼女はまだ、僕が由紀と無理矢理付き合っていると信じて、僕の様子を見に来たのかもしれない。

 

「弥生、この際はっきりというが僕は…」

「ふふ、まだそんな戯言を言ってる」

「いや、話を聞いて…」

 

 そう言いかけて僕は言葉に詰まった。というより、目の前の事実に放心して、何を言うべきか忘れた。

 

 唇が…、暖かい?

 弥生の顔が何故こんなにも近い?

 

 漆黒の弥生の双眸が僕をとらえた。その暗闇はまるで底なし沼のように真っ暗で、たとえるならブラックホールのように全てを呑み込んでしまいそうだった。

 

 僕の逡巡も、困惑も、躊躇も、そして由紀への気持ちも、何もかも彼女の瞳は呑み込んでしまいそうで、僕は慌てて弥生を突き放そうとする。

 

 事象の地平面を越えてしまっては光すらも抜け出せない。

 

 でも、そんな僕の手を遮るように弥生は僕の頭に手を回してきた。それは洋画で見るような情熱的な接吻。色気も何もないはずなのに、どうしようもなく彼女が淫靡に見える。一瞬何もかもがどうでもよくなって、このまま彼女の舌と僕の舌を絡まらせたい衝動に駆られる。だが、直ぐにそれを押さえつけた。それは僅かばかり残った僕の理性と、由紀への誠実さ。

 

 ダメだ。…これではダメだ。

 

 弥生は従妹なのだ。だから、キスなんてもってのほか。

 改めてその事実を確認すると、少し心が落ち着く。冷静になった僕はいきなりこんな不躾なことをした弥生を叱ろうと彼女の手をほどこうとした。そして僕を押さえつける彼女の手を掴もうとした時、ガチャと玄関が開く音が聞こえて僕は視線をそちらに向けた。

 

「慎也、弁当忘れて…。あら、ごめんなさい。お取り込み中だったのね」

 

 母がそこにはいた。五十にしては若い見た目をしている人だった。

 

 他人に、この痴態を見られただと。

 

 母には恥ずかしくて、由紀と付き合い始めたことは伝えていない。いつか伝えなければならないと思ったが、茶化される未来が容易に見えて、僕はなかなか踏み出せずにいたのだ。

 

 そんな母が今の僕たちを見たらどう思うだろうか。朝から情熱的に互いの唇を愛撫する幼馴染?…そんなわけがない。母は僕たちを男女の仲だと思うはずだ。母じゃなくてもそう思うだろう。

 

「ええと。それじゃあ、弁当はここに置いておくから後はごゆっくり~」

 

 ニヤニヤと笑顔を浮かべながら母は僕を見てくると、親指を立てて「よくやった」とでも言いたげな表情をして去っていった。

 

 そういえば、母は弥生のことを気に入っていたのだっけ。お人形さんみたいで可愛いとよく言っていた。弥生も褒められて満更ではなかったのか、母の前ではやけに愛想が良かった。

 あと、母は僕に浮いた話がないことを気にしていたようでもあった。だから、あんなに嬉しそうな顔をしたのだろう。

 

 終わった…。いろいろな意味で。

 

 焦燥や羞恥。そして恐怖といった感情が渦を巻いて、僕の頭の中は真っ白になった。唯一、最後に残ったのはただの諦念だけ。

 

 呆然とする僕をよそに弥生はひとしきり僕の唇を味わい尽くしたのか、満足げな顔を浮かべながら僕のことを解放した。

 

「さて、由紀の家に行こうか。慎也」

「…」

 

 まるで何もなかったかのように弥生は平素と変わらぬ顔をする。どの口が、由紀の家に行こうなど言えるのか。彼女は僕と由紀が付き合ってるのを知っているのだぞ。

 

 目の前の女は狂ってる。

 

 そう、確信した。

 

「慎也、中学二年生の時にした約束を覚えてる?」

 

 弥生は僕の返事など、はなから期待していないようだった。僕が答える間もなく話を続ける。

 

「ずっと一緒にいるんだよね、慎也と私は」

 

 クス、と嗤った。

 

「嘘付いたら針千本飲ます。…指切った」

 

 弥生は自らの小指をひけらかすと、もう一度僕を見て嗤った。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

13 弾性衝突

「ふ…、ふざけるなよ。弥生」

 

 僕は怒りというよりも、ある種の喪失感を胸に秘めながらそう言った。僕の初めてのキスは予期せぬ形で弥生の手により強引に奪われてしまった。脳裏に由紀の顔が浮かぶ。僕は由紀に謝罪をしながらも、どこかキスの余韻に浸っている自分自身がいることを自覚し、そのことを恥じた。

 

 初めてのキスは情熱的で、舌こそ絡めることはなかったが、それに近しい淫欲の萌芽が感じ取れた。まだ心臓の動悸が収まらない。情けないことに、僕はこのキスが、…恐ろしいほどに心地よかった。

 

 弥生はそんな理性と快楽の揺曳(ようえい)を見透かしたかのように僕の瞳を覗き込むと、意味ありげに笑う。言葉にせずとも、お前が快楽を感じていたことを知っているぞ、と訴えているようだった。

 

「嫌なら、もっと早く拒めばよかったのにね」

 

 「私がキスをしてから、それなりに時間はあったよね」と言って弥生は笑った。言葉に詰まる僕を見て弥生はますます笑みを深める。それは彼女が滅多に見せない表情なのだけれど、時と場合によってここまで印象が変わるのかと僕は驚愕した。少なくとも今は、弥生の笑みが空恐ろしい何かに感じられた。

 

「まだ、由紀ともしたことなかったんだぞ」

「やった。ということは一番乗りだったんだ。てっきりあの売女(由紀)に襲われた後だと思ったんだけど、まだきれいな体のままなんだね」

 

 言い方が妙に癪に障ったが、弥生の言ったことは事実であった。僕と由紀はまだキスすらしていない。互いに初めての恋人だったから、僕たちは距離感が掴めていなかったのたというのもあるが、何よりも僕は由紀を好きになってからそういうことをしたかった。

 

 別に僕はファーストキスにこだわりがあった訳ではない。ただ、弥生が僕に同意を得ることなく強引にキスを迫ったことが、いままで僕が彼女に抱いていた信頼やら何やらを全て壊したような気がして、僕は初めて弥生に嫌悪感というものを覚えた。何より、弥生との美しい思い出が弥生自身の手によって汚される様を僕は見たくなかった。

 

「…今回だけは見逃してやる」

 

 僕は語気を強めてそう言った。弥生は僕を舐めている節がある。勉強も運動神経も確かに弥生のほうが上かもしれないが、僕とて男だ。僕よりも小柄で細身の女の子に舐められるのは少し癪だった。

 

「ふふ、強がっちゃって可愛い。…そうだね。まだ早いか」

「いつまでたっても、僕が弥生になびく事はないぞ」

 

 まるで彼女は僕と由紀が破局することを前提にしているかのように話を進める。たとえ破局に至ったとしても、そもそも弥生は従妹である以上その後釜になることはありえない。

 

 ところで、弥生は、弥生と僕が従兄妹同士だと知っているのだろうか。もし知らずにそう言っているのならば、それは滑稽であると同時に、少し哀れなことに感じられた。

 

「まあ、仕方ないね。今はそれで納得しといてあげる」

 

 しょうがない子だ、とばかりに弥生はわざとらしく肩を竦めると、腕時計に視線を移し「そろそろ行かないと遅れるよ?」と言った。僕は弥生の発言の裏を取るため携帯の電源を付けて時間を確認すると、確かにそろそろ由紀の家に行かないと拙い頃合いであった。

 

「…、行くか」

「由紀に合うのは久しぶりだねぇ」

 

 結局、問題を曖昧にしたまま僕たちは家を出る。弥生は仄暗い笑みを浮かべてそう言ったが、僕はそれを気にする余裕はなかった。

 

 どの面を下げて由紀に会えばいいんだ。

 

 ずっと、そのことで頭が一杯だった。

 

 

 七、八分ほど歩くと由紀の家が見えてきた。相変わらず由紀の家は何度見ても大きいと感じる。由紀の父は大手精密機器メーカーでそこそこの地位にいると聞いたことがある。母は確か県議会議員だったか。白川家はこの辺の中でもかなり裕福な部類の家庭であった。

 

 僕の家庭もそこまで困窮しているわけではないが、由紀と比べるとどうしても見劣りしてしまう。弥生の家庭などは話にもならない。弥生は典型的な苦学生で、大学生になったらバイトをしなければ学費で家計が破綻するとよく僕に不満を垂らしていた。

 

「相変わらず、由紀のところは金持ちだね」

 

 僅かばかりの嫉妬と皮肉を込めて弥生は呟いた。弥生はある意味では能力主義の権化で、自分より能力が下の人間がのうのうと暮らしている様をひどく嫌っているようだった。

 とはいえ、不満や怨嗟を吐き出すのはみっともないことに彼女自身も気が付いたのか、直ぐに「何でもないよ」と誤魔化すように言った。

 

 僕は由紀の家のインターホンを押す。

 

 先ほどの弥生とのキスが脳裏を掠め、僕はそれを振り払おうと小さく首を横に振った。これから由紀に。僕の彼女に会うのに別の女のことを考えるのは不誠実なことに思えたのだ。

 

 インターホンを押すと、直ぐに由紀が出てきた。由紀はところどころ改造された小洒落た夏服の制服に身を包み、その綺麗な黒髪をポニーテールに結っていた。

 ポニーテールは僕が二番目に好きな髪型である。何もせずにストレートに髪を降ろしているのが一番のお気に入りではあったが、由紀のポニーテールはそれに匹敵するほどよく似合っていた。

 

「おはよう。慎也」

「おはよう。由紀。ポニーテール、よく似合ってるよ」

「へへ、ありがとう」

 

 由紀は付き合ってから、会う度に僕に何かしら彼女を褒めるように要求した。正確には、由紀が直接的にそう言ったわけではないのだが、会う度にどこか期待を帯びた目線で僕を見て、そわそわしている姿を見れば、察せられないほど僕自身も愚かではなかった。

 

「由紀、おはよう」

「ああ、弥生。いたんだ」

「最初からいたよ。夏の暑さにやられて目が腐ったのかな。タンパク質は熱で変性しやすいから気を付けてね」

 

 クスッ、と由紀も弥生も目は一切動かすことなく相手を見て、口だけで笑った。ありきたりな表現だが、目に見えずとも、火花が散っているように見えた。

 

 弥生は恐らく僕のことが好きだ。

 でなければいきなりキスなどしてこない。それは昔の自分なら狂喜乱舞する事実であったのだが、弥生が従妹であると知り、さらには由紀と交際している今となっては厄介なことに感じられた。

 

 無論嬉しくはある。

 朝の行為はいただけないが、好きだった人にキスをされ、それとなく好意を示されたことが嬉しくない男などいない。でも、嬉しいのだけれど、虚しい。

 

 一度由紀と付き合うのとを決めた以上それを曲げる訳にはいかなかった。何より、全体を俯瞰して見れば僕が由紀の告白を受け入れた形ではあるのだが、由紀に「付き合ってくれ」と言葉にして言ったのは他ならぬ僕自身である。

 

 二言はない。僕は僕の矜持を貫くと決めていた。

 

 それは浮気をしないという当たり前のことなのだが、世間を見るとどうも難しいことのように思えた。

 

 僕は浮気や不倫という行為が大嫌いであった。肉欲に溺れ信義を忘れる。獣にも劣る行為だとすら思う。人は理性で己を律し、社会規範に従属せねばならない。少なくとも、人が社会的動物である以上そうせねばならないと僕は信じていた。

 だから、誰よりも理性的と思っていた伯父が離婚間際の女だったとはいえ、弥生の母と不倫したことは衝撃的だった。

 好感度や期待値が高いほど、裏切られた時の失望と嫌悪は大きい。いつの間にか、僕の中で伯父の評価は底割れしていた。

 

「あら、酷い」

 

 由紀は弥生の暴言ともとれる発言を聞いてわざとらしくショックを受けている振りをした。そして、軽くカウンターを繰り出す。

 

「弥生こそ、人の彼氏にちょっかい出していないでしょうね。数分とはいえ慎也と二人きりになれたことに感謝しなさい」

「はは、由紀は面白いことを言うね。私が慎也の為にならない事をする訳ないじゃない。それと、いくら二人が付き合ったからといって私を除け者にしようとするのはどうかと思うよ」

 

 人としてね、と弥生はそれらしい一般論で由紀を丸め込もうとしていた。

 由紀は反論できなかったのか、ただ黙って僕の腕を掴むと「学校に行きましょう。遅れるわ」と言って歩き出した。弥生が元々孤立気味であることを知っている身としては、確かに弥生の除け者にしないで、という言葉は重く感じられた。

 

 僕と由紀は隣り合って歩く。弥生がその数歩後を付いてくる音が聞こえた。由紀はピッタリと僕の腕に密着して僕をはなさない。途中由紀は「ふふ」と笑って「私、幸せよ」と僕の耳元でささやいてきた。それは艶美で、脳が溶けそうな声だった。

 

 僕はよからぬ妄想に駆られる前に、別のことを考えて誤魔化そうとする。さし当たり、先ほどの由紀と弥生の会話について考えを巡らせた。

 

 弥生は僕の為にならない事はしないと言った。それは逆に僕の為になる事ならば何でもするとも解釈できる。そして、弥生は僕と由紀が付き合うことを認めておらず、むしろ僕が由紀に脅されて彼女と付き合ってるのではと思っている節すらあった。

 

 なるほど。よくできたレトリックだと感心する。弥生は、彼女自身の発言については全く嘘を言っていない。

 

 つまるところ、弥生が僕を由紀から奪い取ることは、弥生からしてみれば僕の為になる行為であり、故に弥生は由紀に隠れて僕にキスをしても、ここまで堂々としていられる。

 

 弥生は嘘を付いてはいない。

 

 ただ、真実を話さないだけ。

 

 頭が切れる厄介な女が僕を狙っているという事実が重くのしかかり、これから来るであろう日常を想像して僕は遠い目をした。

 

 胃薬を、もう一箱買っておこう。

 

 そう、心に決めた。

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

閑話 Experiment〈上〉

 殺したい相手がいても、殺せない時はどうするのが一番なのか。

 私は布団の上に横になって考えた。

 

「殺すのは下策。犯罪者には成りたくない」

 

 由紀を慎也に隠れて殺して、悲嘆に暮れる慎也を私が慰める。そして私に絆された慎也は私と結ばれる。

 

 そんなくだらない妄想を何度もした。でもそれは所詮妄想でしかなくて、実際にそれをやることはない。まず、バレた時のリスクが高すぎた。私が由紀を殺したと慎也にバレたら、いくら付き合いが長いとはいえ嫌われる確信があったし、そもそも前科が付いてしまっては今後生きていくのが大変だ。

 

「でも、どうする?」

 

 現状は拙い。何とかしてはやく慎也を由紀から解放しなければならない。今こうして私が寝ている瞬間にも、由紀は慎也を襲って嫌がる彼と肌を重ねているのではないかと想像して、吐き気に襲われた。

 

 悔しいが、あの女の肉体は私よりも優れている。バスト、ヒップ、ウエスト。どれをとっても男受けするような体型で、私ほどではないにせよ整った顔立ちをしていた。由紀が慎也に拘っていなかったら、今頃彼氏の一人や二人は簡単に出来たであろう。

 

「あのビッチが…」

 

 そう言って鼻で笑った。むしろ本当に由紀がビッチならばどれほど良かっただろうか。何人もの男と盛るような低俗な人間ならば、優しい慎也といえども明確に拒むに違いない。あれはあれで堅物で潔癖な人間だ。

 

 問題はあの男を惑わす誘蛾灯のような女が、実のところ一途な純情乙女で、初めては一生を添い遂げる人とが良いと言うような処女を拗らせた人間だということだった。それでは困る。もっと由紀には低俗でいてもらわねばならない。

 

 万一にも慎也と寝たならば、由紀はもっと慎也に執着するだろう。もしかしたら、子供という既成事実すら作ってしまうかもしれない。

 

 働き口もない高校生にして子を宿すなど愚劣極まりないが、恐ろしいことに由紀の家は子供の一人や二人を養えるだけの財力があった。然らばすなわち、その愚劣な行為の果てに子を宿そうと何ら心配はない。

 

 最悪、彼らが働き出すまで親に支援をしてもらえばよいのである。表には出さないが娘を溺愛している白川家の両親ならばそれくらいするだろう。まあ、その場合慎也は間違いなく由紀の父親に殴られるが。

 

「くそったれ。やっぱり世の中金か」

 

 生憎私の家は貧乏だ。由紀と比べると社会的に誇れるところは何も無い。唯一誇れるとすれば、それは母譲りの容姿と、この頭だけだった。でも、それは論理的な問題を処理する頭であって、人の機微にはやはり疎い。多少ましになったとはいえ、いわゆるコミュ力とやらは由紀の方が圧倒的に上だ。

 

 だから、由紀のことは嫌いなのだ。

 

 あの女は私にないものを全てもっていた。金、スタイル、女らしさ、コミュニケーションの力、そして純粋さ。

 

 そう、何よりも私を苛立たせるのは彼女の純粋さなのだ。

 

 今でこそ多少その純粋さはくすんだが、彼女の根はまるで澄んだ水のように清らかなもので、そのたびに私はその水面に映った自らの濁った影を見なければならない。そのことが、たまらなく不快だった。

 

「あー、殺したい。殺してしまいたい」

 

 イライラして私は髪をかきむしった。私の世界に由紀のような純粋な人間はいらない。ビニールハウスでぬくぬくと育った生やさしい女は嫌いだ。

 

「でも、…大丈夫。きっと慎也は私を選んでくれる。今は由紀に囚われて身動きがとれないだけ…」

 

 彼は約束した。私とずっと一緒にいてくれると。そう指切りをしたのだ。

 

「待っててね。慎也。今、由紀を社会的に殺してみせるから」

 

 それと同時に、慎也の心もしっかりと捕獲せねばならない。あの男は未だに私を身内か何かと勘違いしてそうだ。しっかりと、私も一人の女なのだという楔を彼に打たねばならない。

 

 あれやこれやと考えを巡らせて一つの計画を思案した。まず、上手く行くかどうかを手始めに実験しなければ。ちょうど明日は始業式だ。慎也は由紀に束縛されているのか、夏休みの間なかなか会えなかったが、明日は嫌でも会わざるを得ない。

 

 そう思うと「くふっ」という気持ち悪い笑い声がでてしまい、私は自分自身を嫌悪した。本当に私は醜い。

 

 でも、仕方がないだろう。彼女と違って家柄も金も何もない私が賭けられるベット(賭け金)は身一つだけ。生きていくためには泥臭くなるしかなかった。洗練された人間を演じて自己満足に浸れるのは金がある者の特権だ。私にはその特権はない。

 

 頭を使え。それが唯一の武器だから。

 泥臭くなれ。それが私の慣れ親しんできた道だから。

 良心を捨てろ。恋は戦争なのだから。

 

 求めよ、さらば与えられん。何も努力をしない者は何も掴むことが出来ない。唯一の希望へと続く道はこれしかない。

 

 さあ、実験を始めようか。

 

 かつてファインマンが「量子力学の精髄」とまで言った二重スリット実験のように美しい実験を始めよう。

 

 光子がどこにあるかは、観測するまで分からない。

 

 決定論の時代はもう終わったのだ。

 

 しからば、私にも勝機はある。

 

 

 




experiment:実験


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

閑話 Experiment〈下〉

 いつもより一時間早く起きて私は準備をする。

 

 普段ならばしない薄紅色の、軽くラメの入った口紅を付けた。簡単だけれど化粧をしてみた。あまり女らしい格好は得意ではないが、何か少しでも自分を可愛く偽ろうとして、努力をしてみた。

 

 化粧やファッションが苦手なのは由紀とキャラが被るというのもあったが、単純に慣れていなかったという面が大きい。

 

 女の化粧やファッションというのは、とかく金がかかる。貧乏な私は数着の安い量産品の服と、学校の制服だけでやりくりするしかなかった。しかし、人というのは不思議と上手く環境に適合するもので、どんな境遇や物であれ次第に慣れて行くものだ。学校指定のジャージや制服は意外と物持ちがよく、それに慣れた私はファッションやおしゃれというものに無頓着となっていた。

 

 それを見かねた母が私に服を買えと言ってお金をくれたことが過去に何度かあったが、すべて物理の専門書に溶かしてしまい、それから母は私におしゃれをさせるのを諦めたのか、それ以上何かを言ってくることはなかった。

 

「あれ、弥生。どうしたの。急に化粧なんてして」

 

 寝室から出てきた寝ぼけ眼の母が、私が姿見の前で髪を弄くっているのに気が付き、珍しい物をみたかのようにそう言った。そして直ぐに何かに思い至ったのか、にやけ顔になる。

 

「あ、もしかして…、恋?あの弥生ちゃんが化粧をするなんてそれくらいしかないもんね。いやぁ~、やっとこの朴念仁な物理バカ娘にも春が来たのかぁ」

「…うるさい」

「照れない、照れない。それで相手は誰なのさ」

 

 母は思い出話をする時、昔の自分は無愛想な娘だったとよく言っていたのだけれど、今の姿を見る限りその話は信じられない事のように感じられた。いい年なのにみっともなく恋バナに興味津々なその姿は、私よりも幾分か幼く感じられた。

 

「慎也。知ってるでしょ。幼馴染の」

「あぁ、………あの子か」

 

 しつこく訊いてくる母が煩わしくては私はぶっきらぼうにそう答えた。その答えを聞いた母は珍しく当惑した顔をした。

 

「どうしたの?お母さん」

「いや、別に弥生が気にする事じゃないよ」

 

 母は煮え切らない返事をして、その動揺を悟られまいと特別上手くもない笑みを浮かべた。そのことが、私に隠し事をしていることを如実に表していて、いったい何を私に隠しているのかと、妙に癪にさわった私は母を問いつめた。

 

「慎也のこと、気に入らないの」

「いや、そう言う訳じゃないんだけどね。ただ…」

「ただ…?」

 

 母は言うべきか否かを逡巡しているようだった。私に似た端正な顔が歪む。まるで罪を犯した咎人が、自らの罪業を告白するのを躊躇っているような顔だった。じっと私は母の瞳を見つめて圧をかける。

 母はそんな私の瞳を見て根負けしたのか、大きくため息を吐くと「これ以上は隠し通せないか。因果なものね」と小さく呟いて、全てを諦めたかのような表情を浮かべてどこか虚空を見つめた。

 

「…、弥生が今日家に帰ったら真実を話すよ」

「真実って何」 

「それはまだ言えない。というか知らない方が良いと思うんだけどね。それでも弥生は知りたいの」

「そんなに焦らされたら逆に気になるよ」

 

 曖昧な返事をする母が珍しくて、私はこれは聞かないほうが良い類の話なのではないかと察したが、好奇心に勝てずにそう言った。母はもう一度私に「いいんだね」と確認すると、それじゃあ今夜話そうと言って、洗面所の方へと去っていった。

 

「変なお母さん」

 

 一瞬、私は何か大きな過ちを犯してしまったのではという不安に駆られたが、そんな不確実なことよりも目の前の事に集中した方が建設的だと思い、私は再び姿見に視線を移して髪を弄った。

 

「ふふ、慎也は褒めてくれるかな」

 

 柄にもなく、変な猫なで声がでた。慎也は私が女の子らしく振る舞ったらどう思うだろうか。可愛いと思ってくれるだろうか。それとも、キャラに合わなくて気持ち悪いと思うだろうか。

 どちらでも良い。取り敢えず何か変化が必要なのだ。凝り固まった私の印象を何であれ変えねばならない。

 

「さあ、実験の始まりだ」

 

 クスッと笑って私は家を出て慎也のところへと向かった。

 

 

 本来ならば私の家に慎也が来るはずなのだが、今日は私の方から慎也の家へと赴く。

 それは、慎也と二人きりの時間をなるべく多く確保したいという欲もあったが、何よりも早く慎也の姿を確認したかったからだ。

 

 由紀に酷いことをされていないか。もし、されていたら私が早く慰めてあげなければならない。慎也は気の弱いところがあったから、心配でしょうがなかった。

 

 慎也の家に付くと、私は玄関の前に立って慎也を待つ。腕時計を見るとちょうど慎也が家を出る時間帯であったから、わざわざインターホンを押して急かす必要もないかと思い、私は彼の家の前で一人所在なく立っていた。

 

 玄関が開く音が聞こえて私はその音が聞こえた方へ視線を向けた。

 

ー慎也!慎也がいるー

 

 それは当たり前のことなのだけれど、彼の姿を久しぶりに見た私は興奮する。やっぱり、生身の彼が一番良い。

 

「弥生…なんで」

 

 彼が驚きのあまり放心していた。そんなに私から出向いて来たことが嬉しかったのかしら。

 

「えへ、今日から私の方から慎也の家に行こうかなって思って」

 

 媚びるような猫なで声がでた。我ながら気持ち悪くて反吐がでそうだ。ここまでじゃないにせよ、男に媚びるような声を出せる由紀は大したものだと思う。それを天然で出しているのだから質が悪い。あの女、前世は娼婦だったに違いない。

 

 慎也の反応を見てみる。どうやらこの私の猫なで声は不評ようだ。それもそうだろう。明らかに私のキャラクターではない。不評ならばわざわざ取り繕って媚びる必要もないのだから、いつも通りにしていればよいか。

 

「弥生、なんで。…何で僕の家に来た」

 

 慎也がおかしなことを言う。むしろ何で来てはダメなのだろうか。私と慎也はずっと一緒にいると約束したろうに。四六時中は無理でも、なるべく早く慎也に会いたいと思うことに、何かおかしなところはない。

 

 それでも慎也は御託をだらだらと並べている。その姿に私は苛立ちを覚え、慎也を黙らせる為に口を塞いだ。

 

 キス。

 

 それは私のファーストキス。ずっと前から慎也に捧げることを決めていたキス。なにより、彼に私を女として意識させる実験。

 

 ずっとタイミングを見計らっていた。何か大きなインパクトを与えなければ、彼は私を女として見てくれないような気がしたから。また、由紀に囚われた彼の心を解放する第一歩でもあった。

 

 慎也は咄嗟のことで困惑して私を突き放そうとする。大方、由紀に悪いとでも反射的に思ったのだろう。そういう誠実さは嫌いじゃない。

 

 でも、だからこそムカつく。

 

 その誠実さを向ける相手が私ではなかったという事実に。そしてその苛立ちをぶつけるかのように私は彼の唇を貪った。

 

ー私色に染まれ。由紀の記憶を私で塗り替えろ。君は私だけを見てればいいー

 

 精一杯の色気を出して、彼を誘惑する。ディープキスをしたいが、彼は乗り気ではなかったから出来なかった。仕方がないから私は一方的に舌で、唇で、唾液で、彼の口唇を蹂躙する。征服欲が満たされる。存外私はサディストだったらしい。

 

 やっと平静を取り戻した慎也が私が絡めた手を振り払おうとしたその時、彼の母が家から出てきた。

 

ーああ、なんて良いタイミングなんだ。やはりツキは私に来ているー

 

 これで、私と慎也がただならぬ関係であることが彼の親に認知された。彼の親は私のことを気に入っているようだったから、実に都合がいい。

 

 将を射んと欲すれば先ず馬を射よ。

 

 由紀は私と違って馬鹿だから慎也の好感度を上げることばかりを考えていて、そこまで頭が回っていなかったようだった。ただ、小中学生にそれを求めるも酷な話だとは思う。これは私だからこそ持てたアドバンテージ。

 

 結婚まで見据えたら、親の好感度は高ければ高いほど良い。私は彼の外堀を埋めるべく恋心を自覚したその日から、ずっと彼の母に媚びを売っていた。

 

 これで、彼の母は私の味方。

 

 

 慎也、確かに今はまだ君を由紀から解放することは難しいかもしれない。敵は金持ちで、社会的地位があり、権力をもっている。それに比して私は何もない。

 

 でも、魔王に立ち向かう勇者は私だけじゃないんだよ。物語の勇者はパーティーを組む。民衆を味方に付ける。勇者一人じゃ立ち向かえない。畢竟、戦は数の暴力だ。

 

 ふふ、慎也。あと少しでずっと一緒にいられるね。

 

 

 

 これは私という楔を慎也の深層心理に打ち込むための実験。

 そしてなにより、由紀への宣戦布告。

 

 気が付いているかい?慎也。

 

 君の唇にまだ薄く私の口紅のラメが残っていることに。そして、それを見た由紀が何を考えるかに。

 

 …本当に気が付いているかい?

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

閑話 蠢動

※若干の性描写あり


 夢を見ているかのような日々だった。慎也と私が付き合うだなんて、昔の私ならば想像もできなかっただろう。毎日慎也とやり取りをしたメッセージを見ては、ふわふわとした気分になる。

 初恋が報われた。そんな幸運に恵まれた人間など、この世にどれほどいるだろうか。私はそんな希有な存在になれたのだ。

 

「あぁ慎也。…大好き」

 

 隠し撮りをした慎也の写真を見て、私は一人妄想に耽る。携帯のギャラリーの中は慎也の隠し撮り写真で一杯だ。小学校から高校までの彼の成長が一つに纏まっている私の特別なアルバム。小さい頃の彼の写真はデジタル化をして取り込んだ。

 

 一番最近の慎也の写真を見ながら、私はそっと下半身へと手を伸ばした。吐息が熱くなるのが分かる。少しくぐもった嬌声が漏れた。私は慎也とそろそろそういった行為をしたかったのだ。

 別にいきなり体を重ねるところまで行かなくてもいいから、せめてキス。それもディープなキスがしたい。

 

 告白した時には、私の身体で慎也を骨抜きにしてしまおうと考えていたが、よくよく考えれば私はそういった経験が皆無だった。いきなり彼に身体を求められても困惑して痴態を晒すだけに思えて、私は慌ててそういった類の勉強をし始めた。

 

 でも、それはある意味では成功したのだけれど、ある意味では失敗だった。

 確かに知識は付けられたと思う。ゴムの使い方だとかピルの用法だとか、あと前戯の仕方などもそうだ。

 でも、そういった知識を付けるたびに欲求不満になる。慎也とそういうことをしたい…。そう思うと全身が熱を帯て火照った。

 

 存外、私は性欲が強い方だったらしく、思春期の肉体を持て余しては自らその欲望を処理をする必要に迫られた。でも、一人きりでの行為はどこか虚しさがつきまとい、私は快楽と空虚感の間で揺れ動いては次第に精神をすり減らせていった。

 

「また、洗い物が増えてしまったわ」

 

 愛液で濡れた下着を隠すようにして私は洗面所へと向かった。深くため息を吐きながら階段を下りる。毎度のことながら、一度始め出すと理性で押さえつけようとしてもなかなか止まらない。やめろ、といっているのに手が勝手に動いてしまうのだ。

 

 一人で致す度に自分で下着を洗わなければならないことが煩わしいのだが、さすがに洗濯機の中にこんな猥褻物を放っておく訳にもいかなかった。万が一にでも、母や父がそれを見つけたらどう思うだろうか。とにかく、親にだけはバレたくなかった。

 

 水道の水を流して、手洗いで下着を洗いながら私は考え事に耽る。

 明日は始業式の日だ。久しぶりに生身の慎也に触れることが出来る。まず、慎也に会ったら何をしようかな。抱きつこうか、それとも手をつなごうか。何でもいい。とにかく彼の素肌に触れてその体温を感じたい。

 

 私は自分に自信がない。それはずっと弥生というチートな存在を間近で見なければならなかったことからくる劣等感。

 色白の肌に漆黒の美しい瞳。均整のとれた顔立ちと、それに恥じない知性。スレンダーな身体は性的な魅力には欠けるが、それ故に抜群の運動神経を持っている。弥生はどこまでも超人的だった。

 

「天は人の上に人を造らずか…、バカみたい」

 

 探せばいくらでも上はいる。上を見れば限りなし。かといって下を見ても限りなし。畢竟、私はただの凡人。弥生は私の上に居座る人間の卑近な例だった。

 

 だから、彼には直接的に私を愛して欲しい。分からないことはとてつもなく怖いから。魅力のない私など捨てて、影で弥生と浮気をしているのではと不安になってしまうから。彼は弥生とは従兄妹だから、そんなことにはならないと言っていたけれど、十年近く燻っていた恋心がそう簡単に消えるとは思えなかった。

 

 彼に逃げられないように。そして弥生に奪われないように。私を全身全霊で愛して傷物にしてしまって、その責任を感じて欲しい。

 

 あわよくば彼との子が欲しかった。それは何よりも強固な絆の証であり、私と慎也をつなぎ止める楔だから。

 高校生にして母になることは愚かな選択だとは思うけれど、リスクが大きい分リターンも大きい。

 

 仮にそうなったら養育費については、みっともないけど親に頼ろう。幸いにも私の両親は一人娘の私にとても甘い。道を踏み外しても、馬鹿娘と言われて罵倒されるだけで、縁を切られることはまずないだろう。お金についてはおそらく事足りる。あまり自覚はないけれど、私の家庭は金持ちの部類らしいから。

 

「でも、慎也は私のことを好きになってくれたのかな…」

 

 夏休みの間、何回かデートに行ったけれど、慎也は私にキスすら求めなかった。最初の何回かは事情が事情だからあまり不満を感じなかったが回数を重ねれば不満も出る。

 

 結局、私も慎也もお互いを利用して付き合い始めたのだから仕方がないといえばそうなのだが、そろそろ何か変化が欲しい。私は慎也そのものが欲くて、慎也は弥生への気持ちと決別するために私の恋心を利用した。それは利己的な二人の利害が一致しただけのこと。

 

 でも、だからと言って今の彼に愛を求めてはいけない理由にはならないし、これから二人で愛を育めない理由にもならない。

 

「よし、決めた」

 

 明日彼に会ったら何かアクションを起こそう。キスをしようか。ボディータッチを増やそうか。何もしなければ変化は起こせない。

 

「慎也、待っててね。… いつか私と」

 

 そこまで言って苦笑した。

 

 

 

 翌日の朝。私は自分の黒髪をポニーテールに結って家を出た。ポニーテールは彼の一番のお気に入りではなかったけれど、髪形を変えて何か変化をつけたかったのだ。

 

 玄関を開けると慎也の顔が目に入った。

 

―相変わらず優しそうなのだけれど、どこか男らしい顔つきをしている―

 

 慎也は知らないだろうけれど、彼は弥生とよく似て整った顔立ちをしている。確かに、言われてみれば従兄妹という話も納得できた。

 慎也はクラスの中では一番とは言わないまでも、十位以内に入るくらいには均整の取れた顔立ちだ。それでいて弥生の影響かどこか大人びた雰囲気を帯びていたから、それなりに女子に人気があった。

 

 でも、私と弥生がずっと慎也にまとわりついているから、彼は告白をされたことが一度もない。だから、彼は自分を平凡な顔立ちをした凡夫と思っていたようだが、その方が都合がいいのでその勘違いを正すことはなかった。変に自分がモテていると勘違いをして女遊びに走られたくはなかったのだ。

 

「ポニーテール、よく似合ってるよ」

 

 慎也に褒められると心が温まる。彼は私の気持ちを慮って、会うたびに私の変化に気づいてはそのことをほめてくれた。そういうマメなところが、女心をどうしようもなくくすぐる。

 

「へへ、ありがとう」

 

 だらしない声が出た。もう、このまま彼の胸に飛び込んでしまいたい。彼に抱擁されてその体温に包まれたい。でも、それを実行へと移す前に、そんな甘美な雰囲気を台無しにする声が私の耳に飛び込んできた。

 

「由紀、おはよう」

「あぁ、弥生。いたんだ」

 

 この女狐が。どこまで私の邪魔をすれば気が済む。お前はその類まれな才能だけでは満足できず、私の想い人すらも奪おうというのか。殺してしまいたい。でも、殺してしまうともう慎也には会えなくなる。それでは本末転倒だ。だから、せめて嫌味ったらしく言葉を返す。

 

 ひたすら弥生と見つめあって、お互いに乾いた笑みを浮かべた。

 不俱戴天の仇。やはり、弥生とは対立せざるを得ない。

 

 

「弥生こそ、人の彼氏にちょっかい出していないでしょうね。数分とはいえ慎也と二人きりになれたことに感謝しなさい」

 

 自分でも驚くほど高圧的な言葉が出てきて、驚いた。余り汚い言葉を慎也の前では使いたくなかったが、弥生を前にすると感情が抑えきれない。すると弥生は急に殊勝な態度をとってこう言った。

 

「はは、由紀は面白いことを言うね。私が慎也の為にならない事をする訳ないじゃない。それと、いくら二人が付き合ったからといって私を除け者にしようとするのはどうかと思うよ」

 

 「私を除け者にしようとするのはどうかと思うよ」それを言われると私も弱る。私は小学生の時の弥生が孤立していた様を知っている。まだその時は弥生にあまり敵愾心を持っていなかったから単純にかわいそうだと思ってよく弥生と一緒に遊んだ。そんな、純粋で美しい過去の思い出が頭によぎった。

 

 分かっている。一瞬の情けが命取りになりかねないと。でも、わずかに残った良心が私にこれ以上何か悪態をつくことを思いとどまらせた。結局、私は甘ちゃんのままだ。

 

 ずるい。

 

 彼女は私、『白川由紀』が完全な悪人にはなれないことを知っていて、そう言ったに違いない。私は不快になって慎也の腕をつかんで、弥生を視界に入れないように彼女の数歩前を歩いて学校へと向かった。

 

 

 慎也の腕は暖かくて落ち着く。ずっとこのまま抱き着いていられる。彼の体温を感じていると、次第に先ほどの不快感が浄化されていく気がした。やはり愛は偉大だ。

 

「ふふ、私幸せよ」

 

 この高ぶる気持ちを伝えたくて私は慎也の顔を見上げて耳元でそう言った。そして彼の頬に弥生に見せつけるようにキスをしようとしたその時。

 

 

 

 

 

 

 

 …………………?

 

 

 

 

 

 

 

 

 なんで、慎也の唇の周りにラメが?

 

 

 それはほんの僅かな閃光で、近づいてみなければ朝の眩い太陽に照らされていても気が付けないほどの、薄い口紅の残滓。

 

 ふと、最悪の想像が頭によぎった。

 

 恐る恐る後ろを振り返って弥生の方を見ると、彼女の口元は朝日に照らされたラメ入りの口紅で装飾をされていた。

 

 そこから導かれる論理的な帰結は馬鹿な私でもすぐに分かる。そして、その解にたどり着いた時、私は一層慎也の腕を強く掴み、唇を血が出る寸前まで強く噛んだ。

 

 

 

 殺す。

 

 それは純粋な殺意。

 

 殺す。

 

 それは感情の激流。

 

 殺す。

 

 それは崩壊の序曲。

 

 

 弥生を、コロス。

 

 

 ただ研ぎ澄まされた殺意だけが私を支配した。まるで私、『白川由紀』の中の何かが壊れ始め、もう一つの私が蠢き出すような。そんな気配がしたのだ。このままでは『私』が喰い尽くされて『ワタシ』になってしまいそうな気がして、慌ててその殺意を閉じこめようとするが、どうも上手く行かない。

 

「ねぇ、慎也。放課後に時間はあるかしら」

 

 内心の動揺を悟られまいと、努めて平静を装いながら私は慎也を見てそう言った。

 

「あぁ、別に何もないよ」

「そう。じゃあ、私の家に来てね」

 

 

 悪い子にはお仕置きをしないとね…。

 

 

 

 




蠢動:①もぞもぞと動くこと②つまらないもの、取るに足らぬものが騒ぎ動くこと

みんなが(作者が)大好きなドロドロの愛憎劇の始まりだ!!
そろそろ完結に向かってどんどん動き出すよ。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

14 f’(x)=0

※性描写あり



 放課後、由紀に家に来るように誘われた僕は、言われるがままに彼女の家へと向かう。由紀とは日本史と世界史で選択科目が異なっており、少し帰る時間帯がずれていたので、僕は由紀と学校では待ち合わせずに、一人で彼女の家を訪れた。

 

 由紀の家のインターホンを鳴らすと、制服から着替えて、やけに猥らなネグリジェに身を包んだ由紀が出てきた。その姿が余りにも色っぽくて、僕は動揺して彼女から目を反らしたが、それと同時にこの色っぽい女の子を衆目には晒せまいと思い、僕は急いで由紀の方へと向かった。それはいつの間にか僕の中に生まれていた由紀への好感と、恋人としての独占欲の発露だった。

 

「慎也、…いらっしゃい」

「ああ、お邪魔するよ」

 

 そう言って僕の直ぐ傍まで来た由紀は、上目遣いでそっとこちらを見上げてきた。それは明らかにそういうことを期待している眼差しで、僕はこれから起こるやもしれぬことを想像して怯んだ。

 

 想像通りのことならば、確かに興奮を禁じ得ない。だが実際それが起こるとなると、僕は何をすべきなのか皆目見当も付かなかった。

 生憎僕はそういう経験がない。おそらく由紀も無いだろうが、どこか大人の色気を醸し出す彼女は経験が豊富であるような錯覚を覚えさせる。どうしようもなく僕はチェリーだった。

 

「あの、由紀。今日はどんな用件で僕を呼んだのかな」

「いいから、黙って付いてきて。それと…お風呂が沸いてるから先に入ってきなさい」

「ああ、…」

 

 もしかしたら僕の早とちりかもしれないと思って、僅かな希望を込めて質問をしたが、その希望は完膚なきまでにへし折られた。

 

 高校生なのにそんなことをして良いのだろうかという逡巡が僕を駆け巡る。少なくとも僕の周りにそういう経験がある人はいない。ネットや雑誌ではよく十代で初体験をする人は一定数いると書いてあるけれども、身近なサンプルが無い僕は今更になって怖じ気づいた。

 

 いつか、こうなることは覚悟していた。むしろ、そうなることをどこか期待していた。

 

 でも、実際にそれを前にすると躊躇いを隠せない。

 

 もし、避妊に失敗したら?

 ヘマをして、由紀の初体験を台無しにしてしまったら?

 

 そう思うとやはり怖かった。

 

「大丈夫だよ、慎也。私も初めてだから。ゆっくりと二人で慣れていこう…ね?」

 

 そんな僕の不安と躊躇いを察したのか、由紀は僕の手を握って優しく微笑んできた。熱くてやわらかい。そんな女の子らしい肉感のある肌に包まれ、僕は平静さを取り戻す。

 

 ああ、そうか。きっと彼女のこういう優しさに僕は次第に絆されていったのだろう。弥生とは全く異なる女の子。優しくて、少しばかり自分に自信がなくて、控えめなのだけれど芯はある。今考えれば由紀も弥生と同じか、それ以上に魅力的な女の子に思えてならなかった。

 

 これが性愛的な肉欲の延長にある感情なのか、あるいはプラトニックな愛なのかは僕には分からない。それを判断するのには、僕たちはまだ幼過ぎた。だけれども、十余年に渡る幼馴染としての記憶と、ここ一か月ほどの恋人としての経験を通して、僕はこれだけは断言できる。

 

「由紀、愛してる」

「やっと、しっかりと言葉にしてくれたね」

 

 性行為を目前にして愛を囁くなど軽薄の極みともいえる行為だが、それでも僕はこのあふれ出す感情の出口を求めてそう吐き出した。

 

 朝の弥生とのキスを思い出す。今思えば、僕はあの時確かに快楽を感じてはいたが、それと同時にどこか恐怖と憤慨も感じていた。きっとその時、僕の中の絡まっていた弥生に対する気持ちの残滓は完全に断ち切れたのだろう。

 

 これから僕は十余年の恋に引導を渡そうと思う。初めてのキスは弥生に奪われてしまったが、こちらの初めては恋人である由紀と迎える事ができそうだ。そして、その行為の果てに有るであろう新たな恋を、僕の内に迎え入れよう。

 

「由紀。愛してるよ。…本当に」

 

 そう言って感極まって由紀にキスをしようとした時、僕の唇は由紀の唇ではなくて、彼女の手の平に口づけをしていた。一瞬、何が何だか分からなくなる。何故由紀は僕のキスを拒むのだろうか?由紀は僕が好きなのではないのか。

 

「慎也。確かにあなたの気持ちは嬉しいわ。やっと、私の方を向いてくれた。でも、…貴方が一つの罪を認めるまでキスはできない」

「一つの罪とは」

「これが見えないの」

 

 すると由紀は僕の唇を押さえつけていた手を離して、それを僕の目の前に見せびらかした。そこには僅かに金属箔のように輝くラメが付着していた。

 

「今日、弥生は珍しくラメ入りの口紅をつけていたわ。まるで何かにマーキングをするためかのように。そして、そのラメがあなたの唇に付着していた」

 

 「ねぇ、弥生とキスしたでしょ」そう言って由紀は嗜虐的に笑った。それは検察がただ冷徹に証拠を積み上げて罪人を断罪するかのように淡々とした物言いだった。

 

「それは…、その。ごめん」

「いいの、別に。あの子が無理やりキスをしたのなんて容易に想像できるから。でもあの子の痕跡が残った状態で私にキスをしないで。…だから、風呂に入って今すぐその穢れを洗い流しなさい」

 

 由紀はある種の諦念を込めてそう言った。それは僕のファーストキスが弥生に奪われてしまったことへの諦めなのかどうかは分からない。ただ、僕は由紀に赦してもらったことに安堵して、謝罪をしてから風呂場へと向かった。

 

「本当にごめんね。由紀」

「何度も謝らないで。虚しくなるだけだから」

 

 なんだか急に興奮が冷めてしまって、僕は罪悪感を胸に秘めながら、由紀の前から一旦立ち去った。

 

◇ 

 

「ねえ、慎也。優しくしてね」

 

 ベッドの上で由紀は僕に押し倒される形でそう切なげに呟いた。熱い吐息が僕の耳を掠める。その吐息がどうしようもなく僕を興奮させて、理性がどこかに吹っ飛んでしまいそうになった。僕はバスローブのように簡単に脱がせられる由紀のネグリジェをゆっくりと剥がすと、彼女の彫刻のように均整のとれた肢体を眺めて愛を囁く。

 

「綺麗だよ、由紀」

「ありがとう…、慎也」

 

 そう言って今度は間違いなく由紀の口唇へ口づけをする。すると由紀は間髪無く僕の口に舌を入れてきた。それは朝の一方的な弥生のキスとは違って、お互いを貪り合うように舌を絡める情熱的なディープキス。ぐちゃぐちゃになった、どちらのものともつかぬ唾液が絡まり細い糸を引く。ただひたすら獣のように互いを求め、よがり合った。

 

「ねぇ、始めましょう」

 

 そう言うと、由紀は僕の下着をゆっくりと降ろした。

 

 そこから先はあまり覚えていない。興奮のあまり理性が飛んで、僕たちはその思春期の肉欲を持て余した体を互いにぶつけ合った。

 

 気が付いたときには日が暮れて、破瓜の血とぐしゃぐしゃになったシーツ。そして満足げな由紀が全裸で僕の腕の中で眠っていた。

 

 

 僕の腕の中で由紀は一人語り出す。由紀は今晩、両親がどちらも家に帰ってこないせいか、夜になってもゆっくりとしていた。

 

「ずっと不安だった。慎也は私と付き合ってる間もどこか弥生と私の間で揺れ動いていたから。ちょっと天秤が傾いただけで、私のもとを離れて弥生のところに行ってしまうのではないかという危うさがあったわ」

 

「それは、ごめん。心配をかけさせたね」

 

「ホントよ、まったく…。だから、私は慎也にこうやって直接愛して欲しかったの。私を傷物にしたら慎也は責任を感じて、私のもとから離れられないと思ったから」

 

 由紀は満足げに自らの下腹部をなで回し、先ほどの行為の余韻に浸っていた。

 

「ねえ、慎也。薄々気づいているとは思うけど、私面倒な女の子なの。表と裏の自分がいて、何より自分に自信がなくて、いつか慎也が浮気をすんじゃないかと不安で仕方がない…。それで…」

 

「浮気なんて。そんなことは絶対にしないよ。僕は弥生の気持ちとは完璧に決別したんだ。由紀と交わった瞬間に僕は弥生とは袂を分かったんだよ」

 

「それは、…分かってる。でも不安なの。だから、少しだけ貴方を束縛してしまうかもしれない。それでも私のことを嫌いにならないでいてくれる?」

 

 その由紀の言った束縛がどの程度の物なのか、僕には分からない。しかし由紀はもう僕の大切な女性なのだ。一度関係を持ってしまったからには、責任を取る為にも最後まで添い遂げたい。そんな大切な相手のお願いならば、可能な限り何でも聞き入れてあげよう。

 

「嫌いなんてならないさ。僕はどんな由紀でも愛してるよ」

「慎也…、大好き」

 

 そう言うと僕たちはまたキスをした。今度は互いに愛を確かめ合うような、控えめな甘いキスだった。

 

 幸せだ。

 

 そうつくづくと思った。昔は弥生とこういう関係になることを夢見ていたけれど、もう由紀で十分だと思った。十分という言い方が失礼ならば、由紀でないといけない。少なくとも僕が愛せるのは由紀か弥生のどちらかで、最後に残ったのが由紀だったというだけの話。

 

「伯父さんは間違ってなかったなぁ」

「何それ」

 

 クスッと由紀が朗らかに笑った。

 伯父は僕が由紀のことを好きだ思って手記にそう記したが、結果的には間違いではなかったようだ。伯父の先見の目には恐れ入る。

 

 これからこの素敵な女性と二人で前を向いて歩いていこう。さしあたり、その障害となりかねない暴走気味の弥生をどうにかしなければ。とはいえ、それはまた後で考えればいい。

 

 初めての行為で慣れていなかったせいもあり、体力を消耗した僕は眠気に襲われてゆっくりと瞳を閉じる。「お休み」そう由紀が母のように僕の髪を撫でながら優しい声音で耳元で囁いたのを聞き遂げると、僕の意識はそこで完全にとぎれた。

 

 幸せだった。

 

 だから、浮かれて気が付かなかった。

 

 幸福の坂道を登り切った先には下り坂しかないのだということに。今がまさに幸福の極大値。関数は極大値を越えると、後は暫くの間単調減少が続く。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

閑話 Errors

error:間違い・ 勘違い・失敗・罪


 慎也に楔を打ち終えた私は満足感に浸りながら学校を後にする。理系クラスは文系より数学のコマ数が多いから授業時間が長く、高校二年生になると帰り道は私一人だけになることが多かった。

 

 夕焼けを見つめながら、由紀と慎也は今何をしているのだろうかと考える。

 

 すでに楔は打った。慎也は今、私と由紀という二人の女の間で揺れ動いているはずだ。そうして不安定になった慎也の心をゆっくりと、私の方へと手繰り寄せて行けばいい。よほどのイレギュラーがない限り、それはつつが無く行くだろう。私がキスをした時、彼は間違いなく快楽を感じていたのだから。

 

 まさか私に楔を打たれたのに、いきなり由紀とキスや性行為に及んでいるとも考えがたい。どうせ適当なところでお茶でもしているのだろうと思って、そんな二人のぎこちない姿が容易に浮かべられて軽く笑った。

 

 彼らは本当にウブだ。由紀もそのカラダを使えば慎也を虜に出来る可能性があるのに、恥ずかしがってやらないのだから。慎也の身体がまだ綺麗であったことが何よりの証拠だろう。

 やはり豊満な肢体をもってしても、根が処女を拗らせた純情乙女な由紀に色仕掛けはきついか。どうせどこかでぼろが出ると思って躊躇っているに違いない。

 

「ふふ、その躊躇いが命取りなんだよ。由紀」

 

 私には躊躇いがない。どんな汚い手を使ってでも慎也を手に入れるという気概がある。いざとなったら寝取りも辞さない。それくらい泥臭くならなくては、この戦いに勝つことはできないのだ。

 

「それにしても、何が慎也を躊躇わせるのだろう」

 

 慎也は私のことが好きなのではないかという確信がつい最近まではあった。ずっと私の我が儘に文句を言わず付き合ってくれていたし、この魅力の少ない肢体に少なからず欲情している節があった。それが、最近はなんだか少し冷たい気がする。

 

 初めは由紀が慎也の心を奪ったせいだと考えた。きっと彼女が彼を脅して無理矢理付き合って、盛って、そして彼に快楽を叩き込んだせいなのではないかと思い由紀を嫌悪した。しかし、慎也はまだ綺麗な身体のままだった。

 

 何かがおかしいと理性的な頭が告げる。慎也がおかしくなったのはいつからだ。…考えろ。私の武器は頭だけだなのだ。

 

 私は一旦歩くのを止めて、道端で脳内の記憶を探ることに集中する。そしてしばらくの間、過去の記憶を遡って細部まで精査してみると、一つの可能性に行き当たった。

 

「もしかして、仙台に帰ったときに何かあったのかな」

 

 そういえば、あの時を境に慎也はよそよそしくなった気がする。何というか、それまでは私を一人の女として見ていたはずなのに、その日を境に急に私に対して身内にするような簡素な対応になった気がしたのだ。

 

 由紀と付き合い始めたのもその辺りだった。

 

 やはり、あの時に何かあったのではないだろうか。それを知ることができれば、現状を打破する大きな布石となるに違いない。しかし、それを訊いて果たして慎也は素直に答えてくれるだろうか。

 

「まあ…今度でいいか」

 

 高校生活はまだ折り返し地点を過ぎたばかり。そう焦る必要もないだろうと思い、私は鼻歌を歌って家路を急いだ。なんたって、今日は慎也に初めてキスをした記念日なのだから。

 

 

 家に着いた私は、まず玄関口の直ぐ近くにあるスイッチを押して部屋の電気を付けた。毎度の事ではあるが、玄関の扉を開けて照明の点いていない暗い部屋を見ると、どこか物悲しい気分にさせられる。その暗さは、私以外誰もこの家に居ないのだという事実を、どうしようもなく突き付けてくる気がした。

 

 母はまだ仕事から帰って来ていないようだった。母は化学系の会社に勤めていて、それなりに忙しい人だったから今日も帰りが遅くなるのだろう。あらかじめそれを見越していた私は、コンビニで買った夕食を電子レンジに詰めて温めた。

 

 私が自然科学に興味を持つようになったのは母の影響が大きい。だから母のことは尊敬しているし、愛してもいる。女手一つで私をここまで育てくれた上に、専門知識をもっているクールビューティーな女性。

 

 それは大変素晴らしいことに聞こえるが、母の仕事の都合で幼い頃から一人きりになることが多かった私はどこか母のぬくもり、というよりも愛に飢えていた。つまるところ、私はカッコイイ母よりも私を愛してくれる優しい母が欲しかったのだ。

 

 でも、その事に文句を言ったところでどうすることもできない。母子家庭の我が家では、母が働かなければ生きてはいけない。変に聡かった昔の自分は、優先順位の問題だと無理に納得をして、直ぐに幼さを捨てて大人になった。

 

 電子レンジで総菜を温めている間、早朝に母と交わした会話を思い出していた。母は何か大事な秘密があると言っていた気がする。たしか「真実」とやらだっけ。それにしても大層な口振りね、と私は苦笑した。

 

「自然と自然法則は闇夜に隠れていた。神は言った、ニュートンあれかしと。すると全てが輝きだして白日の下に現れた」

 

 電子レンジの作動音に紛れて、私は好きな詩を一つ口ずさむ。私はこの詩のニュートンのように全能にならなければならない。私と慎也と由紀。幼馴染三人の複雑な因果関係を解き明かして真実を、すなわち由紀の蛮行を白日の下にさらし慎也を太陽の下へ連れ出すのだ。

 

 私は何よりも真実を希求している。それは理学の道を目指す者の普遍的な心構えであり、私の人生の基本的なスタンスであった。昔から曖昧さは嫌いなのだ。

 

 さて、母はどんな「真実」を私に告げてくれるのだろうか。量子力学のような不可解な真実か、古典力学のような完結な真実か。

 

「まあ、どっちでもいいか」

 

 どちらにせよ、私の計画に狂いはない。慎也と結ばれるのは由紀ではなく私なのだ。

 

 片手間にコンビニで買ったアイスコーヒーの香りを嗜みながら私は思索に耽った。

 

 仮に母の告げる「真実」とやらが、どうしようもなく私と慎也の未来に暗い影を落とすのならば…。

 そんなはずがないと思って、そのバカげた仮定を鼻で笑った。でも仮にそんなことがあるのだとしたら、その時は私にとって都合の悪い世界になど未練はない。もし最後の手段を用いてもダメだった時は、さっさとこの世から退場してしまおう。

 

 コーヒーを啜りながら、そう決意をした。

 

 

 母は八時過ぎに帰ってきた。忙しい母としてはずいぶんと早い帰宅である。母は途中コンビニに寄ったのか、缶ビールとビーフジャーキーなどのつまみを買ってきていた。

 

 正直、この母のチョイスはかなりオッサン臭いが、それが母のストレス解消になっているのならば仕方がない。私は人の趣向に文句を出せるほど大それた人間ではなかった。

 

 「酒でも飲まないとやってられないわよ」と言って母は笑った。そうは言っても酒代も馬鹿にならないのだと小言の一つでも言い返してやりたいが、そうするとグチグチと絡まれて面倒なので、私は母の言葉を軽く流して朝の話の続きを促した。

 

「それで、「真実」ってなによ」

「相変わらず、弥生はド直球に訊いてくるねぇ」

 

 母はそう言いながら洗面所で手を洗い終えると、コンビニの袋から缶ビールを取り出して椅子に座った。立ちっぱなしの私を見て「まあ、座りなよ」と言って腰を下ろすように勧める。これは話が長くなるかもしれないと直感的に理解した。

 

「どこから話そうかなぁ」

 

 母は困った顔をしながら、昔を懐かしむかのような目で天井を見た。

 

「これは、まあ。若かった頃の私の愚行が招いた結果なんだけどね…」

「余りはぐらかさないで喋ってよ」

「はは。まぁそんなカリカリしないでよ。そうだね、じゃあ弥生みたいに直球に話そうか」

 

 母は缶ビールを一口飲んで声の調子を整えると、私の方を真っ直ぐ見て「真実」を告げた。

 

「驚かずに聞いてね。あなたと慎也君は…従兄妹なのよ」

「………は?」

 

 イトコ?糸子?いとこ、…従兄妹。

 

 それは私が知っている意味での「従兄妹」ということでいいのだろうか。

 

「やっぱ驚くよね」

 

 放心する私をよそに母は「無理もないか」と言って肩をすくめた。その他人事じみた振る舞いが妙に癪に障り、私は久しぶりに母に向かって声を荒らげた。

 

「どういうことよ!どうして、私と慎也が従兄妹になるの…。お母さんの前夫は『新垣』て苗字じゃなかったでしょ。慎也と何も関係ないじゃない」

 

「そうだね、普通はそう思うよ。でも弥生は私と前夫の子供じゃなくて、私と礼治さんの子供なんだよ」

 

「礼治さんって、いったい誰なの」

 

 知らない男の名前が出てきて私は恐怖に震えた。私の血の半分は知らない人間のもので出来ている。そのことがどうしようもなく気持ち悪かった。

 

「礼治さんはね、慎也君の伯父さんなんだよ。新垣礼治。物性物理学の元准教授。それが弥生の真のお父さんの名前と肩書きだ」

 

 慎也の伯父。物性物理学。

 

 点でしかなかった情報が線を描き、私の脳内で一つの全体像を作りあげる。それは否定したくても否定できない事実。

 

 昔から謎だった。母の前夫は根っからの文系なのに、どうして私はこんなにも物理が得意で、それに惹かれるのだろうかと。それは私の生来の気質や教育環境と言ってしまえばそれまでなのだけれど、遺伝だとしたら妙に納得できる気がした。

 

 私は生物学に詳しくないから何とも言えないが、もし趣向などが遺伝するのならば、それはきっとその『新垣礼治』とかいう男の情報の残滓なのだろう。

 

「…少し、一人にさせて」

 

 母から与えられた情報量は大したことないのだけれど、その内容のインパクトが強すぎて、私はしばらくの間ひとりで頭を冷やしたかった。

 

「ごめんね、弥生。まさかこんな事になるだなんて…母親失格だよね」

 

 そう悲し気に母が呟いたが、もうどうでもよかった。何も答えない私を見ると母は「私はしばらく寝室にいるから」と言ってリビングを去っていく。

 

 

 慎也はこの事を知っているのだろうか。

 

 一人きりになったリビングで窓の外を見ながら考えた。その窓から星を見ようと思っても、都会の空は明るくて一等星すらもよく見えない。ただ月だけが宙に孤独に浮いている。

 

―そういえば、あの時もそうだった―

 

 慎也と「ずっと一緒にいる」と約束をした中学二年生のあの日。迂遠ながらも私の気持ちを匂わせた日。あの日も月だけが綺麗に見えていたはずだ。

 

 その思い出は単純に美しいと感じた。あの時のように何も「真実」を知らずに、純粋に慎也のことを見ることができたのならば、どれほど良かっただろうか。

 

 慎也はおそらくこの事実を知っている。知っていて隠していた。そのことに気が付いた瞬間、私が帰宅途中に感じていた違和感が一気に氷解して行く気がした。つまるところ、全て偏狭で人の機微に疎い私が招いた勘違いだったのだ。

 

 きっと、何らかの方法で私が従妹だと知った慎也は、私への恋心を断ち切るために由紀と付き合いだしたのだろう。きっとそうだ。そうでなければ、いきなりあんなにもよそよそしくなった理由が説明できない。

 それを踏まえて考えると、慎也が由紀脅された訳ではなく、自発的に彼女と付き合い始めたという話も、妙に合理性をもっている事のように感じられた。

 

 私達はもう昔のようには戻れない。戻るには色々と余計なことを知り過ぎてしまった。そして何より、私は彼らに余計なことをし過ぎてしまった。

 

「それにしても「真実」とは斯くも残酷なものなんだね」

 

 私は常に真実を希求している。それは理学の道を目指す者の普遍的な心構えであり、ずっと変わらぬ私の人生のスタンスであるはずだった。でも世の中には知らない方が幸せな「真実」もあるのだと、今日になって初めて知った。

 

「こんなことになるのなら、ずっと闇夜に隠れていればよかったのに…」

 

 あるはずがないと思っていた余程のイレギュラーが発生してしまった。どうしようもないエラーが私の行く手を阻んできた。

 もはや実験の失敗は目に見えている。そもそも仮説が間違っていては正しい結論が得られるはずがないのに、それにすら気が付けぬほど私は暗愚で幼稚な観測者であったというのか。

 

「斯くなる上は…」

 

 それはかつての私ならば嫌悪するほどに愚かで、考えることすらも馬鹿らしく感じたであろう最終手段。しかし、もうなりふりかまってはいられない。無実の罪で疑われていた由紀には悪いが、やはり私は慎也を奪った彼女を許すことができなかった。

 

「ならば、やるしかない。やらなければ私は負けてしまう」

 

 「求めよ、さらば与えられん」そう自嘲気味に呟いた私の顔が窓に反射して映る。その顔は私のものとは思えない程、どこまでも邪悪に歪んでいた。

 

「待っててね慎也。いますぐ君を由紀のもとから()()()()()()

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Result
15 崩壊の序曲


 初めて由紀と交わったあの日から、僕は何回か彼女と体を重ねた。あまり褒められた関係ではないが、有り余る欲望を持った若い僕たち二人は、お互いの体をその欲求の捌け口とするかのように愛し合った。

 

 もちろん、避妊には細心の注意を払って事に及んでいる。少なくとも僕はまだ父親になる覚悟が出来てはいなかったし、安定した収入がない以上子供を作る訳にもいかなかった。

 

「ねえ、慎也。…別につけなくてもいいんだよ」

 

 ベッドの上で半裸になった由紀がそう僕を誘惑してくる。「何を」とは言わないが、話の流れからして明らかであった。

 

「いや、もし妊娠でもしたらどうするのさ」

「別に大丈夫だよ。私は嫌じゃないし、お金だってきっとどうにかなる」

「でも、それは希望的観測だろう」

 

 由紀の家庭は言うまでもなくお金持ちだ。だから由紀が妊娠した際には、彼女の両親は僕達のことを援助をしてくれるのかもしれない。でも僕はそんな寄生虫のような人間にはなりたくなかったし、大学に行ってもう少し勉強を続けたかった。

 

「ダメなものはダメだ」

「ちぇ、つまんないの」

 

 由紀は不満から唇を尖らせると、タオルケットを頭から被って丸まった。毎回僕がこうやって由紀の誘惑を断ると、彼女は十歳あたりの子供のように拗ねる。時折、彼女はやけに幼い面を表に現した。

 

 その事を由紀に言うと「言ったでしょう、私には裏表があるって。『白川由紀』という淑女と『しらかわゆき』という童女が私の中にいるのよ」とどこか比喩的な表現をして、僕のことを困惑させて笑っていた。

 

「ねぇ、本当にダメなの…」

 

 由紀はタオルケットから頭だけをひょこっと出して僕のことを上目遣いで見てくる。ここ最近、彼女は何かと僕との間に明確な繋がりを求めて必死になっているようだった。そして、その最たる例が僕との子供をせがんでくることだ。

 

「ダメって言ってるだろう。というか、一体由紀は何が不安なんだ。今のままでも僕が君を愛していると伝わらないのか」

「そんなことはないわ。そんなことはないのだけれど不安なの。察してよ…」

 

 何故だか分からないが、始業式の日以来弥生は鳴りを潜めたかのように大人しくなった。まるで何か憑き物が落ちたかのように平静を保っているのだ。僕は弥生の暴発が起きなかったことに安堵していたのだが、由紀はそんな弥生の様子に底知れぬ恐怖を抱いているようだった。

 

「弥生の事を心配してるのなら杞憂だよ。彼女は少しおかしな所があったけれど、今は元通りじゃないか」

「それがおかしいのよ。あの子がそんなに簡単に諦める筈がない…。慎也、私と貴方が肉体関係を持ったことを弥生に伝えた?」

「そんな恥ずかしいこと、いくら弥生とはいえ伝えられる訳がないよ」

 

 実際、僕は由紀と関係を持ったことを弥生を含めた誰にも伝えていない。伝える必要はないと思ったし、もし弥生にそれを伝えて逆上でもされたら堪ったものじゃなかった。

 

 弥生とは決別したのだ。今の彼女は恋愛対象ではなくてあくまで一人の友人か、あるいは従妹でしかない。そのことを何度も由紀に伝えているのだけれど、由紀は納得してくれなかった。

 

「どうしたら、由紀は僕を信じてくれるんだ」

「それは…」

 

 由紀はしゅんと落ち込んで被っていたタオルケットを強く抱きしめた。その姿は、答えが分からない質問を先生にされて困惑する生徒のようだった。

 

「分からないわよ。…不安なものは不安なの」

 

 一番困ったことは、由紀自身が不安を解消する方法を知らないということである。それではいくら僕が彼女の為に何かをしようと思っても、根本的な解決策にはならない。

 

「だって、十年近く片思いをしてきた相手をそう簡単に忘れるだなんて、信じられるかしら」

 

 僕がそうやって質問をすると、由紀はいつもこのように反論をしてきた。それは質問に質問で返す何ら生産性のない会話であり、こう何度も同じやり取りをすると流石の僕でも辟易してしまう。

 

「そうはいっても事実なんだから仕方ないだろ。僕は従妹に劣情を抱くような人間じゃない。それに、…決めたんだ。僕は由紀と添い遂げたいと」

「…、それじゃあ。携帯を貸してくれない?」

 

 由紀は僕の説得に絆されたのか、はたまた自分で何かを思いついたのか。唐突にそんなことを言ってきた。僕は由紀のためになるのならばと深く考えず、彼女に携帯を差し出す。

 

 由紀は「ロックを解除して」と言うと僕に携帯を渡して、ホーム画面を開けさせた。そこまで僕が操作すると、彼女は携帯をひょいと取り上げて何かをいじくりだした。

 

「あまり変な風にいじくるなよ」

 

 別に見られて困る物は何も入っていないが、勝手にプライバシーを侵害されるのも不愉快だった。もっとも、自慢ではないが僕は交友関係が狭いので、由紀に詮索されたところで余り影響はないのだが。

 

「分かってるわよ。ええと、…これでいいのかな」

 

 由紀はしばらくの間僕の携帯を操作すると、ベッド脇に置いていた自分の携帯を取り出して何かを確認した。

 

「これでよし」

「何をしたんだよ、由紀」

 

 僕がそう訪ねると由紀はニヤリと笑って僕を見た。それは何か悪巧みをしているような。あるいは悪戯に成功した童女のような顔だった。

 

「GPSを入れてみた。これで慎也が何処にいるか直ぐに分かるね」

「…」

 

 由紀は確かに、僕と初めて寝たときに自分は束縛が強い女だと言った。僕はどんな由紀であれ愛そうと言ってそれを受け入れたが、まさかここまでだったとは。

 

 彼女は既に一日二回、朝夕の定時報告を僕に課している。過去に一度だけ連絡をし忘れて寝てしまったことがあるのだが、次の日にはメッセージが一夜にして五十件以上も溜まっていて、その時はさすがに由紀に文句を言った。しかし、僕が由紀に文句を言うと彼女は謝りながらも、不安だったからと言って泣いてしまい、挙げ句の果てには「見捨てないで」と喚きながら僕の腕に縋ってきたのだ。

 

 それほどまでに彼女の束縛というか、彼女自身に対する自信のなさは病的だった。あるいは彼女の精神は少し子供じみていたのかもしれない。由紀の言った彼女の中に『しらかわゆき』という童女がいるという比喩もあながち間違いではないように思えた。

 

 僕は「その程度で見捨てるわけない」と何度も言ってるにも関わらず、彼女は聞く耳を持たなくて、泣き止ますのに随分と時間がかかったことを覚えている。

 

 だから、僕は彼女の新たな束縛を受け入れることにした。それは決して断ったら面倒事になるように思えたからという理由ではなくて、由紀を安心させるため。

 

 今はまだ無理でも、少しずつ信頼関係を築いて行けば由紀の束縛も軽いものになるだろうと信じて、僕は現状の過剰な束縛を甘んじて受け止めた。こういう手合いに否定から入るのはダメなのだと、昔弥生から聞いたことがある。

 

「ごめんね、面倒な性格で」

「はは、少しずつ直していけばいいんだよ」

 

 申し訳なさそうな顔をする由紀が可愛くて、僕は彼女の額に接吻をする。すると由紀もそれに応じて、僕の肌を軽く撫でてきた。しばらくの間由紀と見つめ合うと、無言の同意が形成され、やがて火の付いた僕たちはまた淫猥な空間へと身を投じた。

 

 

『慎也、今度会えないかな』

 

 由紀と愛し合った数日後、弥生から簡潔なメッセージが来た。弥生とはここ最近、朝の登校の時以外で顔を合わせたことがなかったので、二人きりで会うのはやけに久しぶりに感じられた。

 

『いいけど、変な気は起こすなよ』

『はは、この前はごめんね。つい気持ちが抑えられなくて。でももう色々と吹っ切れたから』

 

 色々と吹っ切れた。それは僕も同じだった。弥生と会うのに抵抗がないと言ったら嘘になる。僕はもう彼女持ちの身であるから、由紀意外の女子と二人きりで合うのは拙い。しかし、弥生とは色々と確認したい事柄が山ほど合ったから、僕は一度だけその申し出を受け入れることにした。

 

『今回だけだぞ。僕は由紀と付き合ってるから弥生とは頻繁に会えない』

『わかってるよ。ありがとう。それじゃあ明日の17時半頃に私の家に来てくれるかな』

 

 やけに物わかりがよくて困惑したが、むしろここ最近の弥生が異常だったのだという事に気が付いた。弥生は本来聞き分けの良い子である。

 

『了解』

 

 妙に時間が遅い事が引っかかったが、準備に時間がかかるものでも用意するだろうかと思い、僕はその疑問を深く考えずに軽く流した。メッセージを見た限り弥生は平静を保っているように見えたから大丈夫だろうと思って、僕は明日弥生に会うことを心に決める。

 

「由紀には、…送らなくていいか」

 

 説明するのが面倒臭かったし、GPSも付いてるから別に心配ないだろと思って、僕は由紀に弥生に会いに行くとメッセージを送らなかった。

 

 

 

 翌日は曇りだった。季節は既に秋に入り始め、秋雨こそ降ってはいなかったが、今にも崩れてしまいそうな不安定な空模様だった。

 僕は外出用の服に着替えると玄関へ向かう。こんな天気の悪い夕べに外に行こうとする僕を不審に思ったのか、母が何処に行くのかを尋ねてきた。

 

「ちょっと、弥生の家にいくよ」

「ああ、もしかして今日は泊まり?」

 

 母がにやけ顔で僕を見て「お熱いですね」と茶化してきた。そう言えば、母はいまだに僕と弥生が付き合っていると勘違いしているのだった。

 

「別に、そういうのじゃないよ」

「またまた、照れなくてもいいのに」

「だから僕と弥生は付き合ってないって言ってるだろう」

 

 煽ってくる母が煩わしくて、僕は若干突き放すような口調でそう言った。説明不足の僕が悪いのだが、由紀と付き合っているのにも関わらず、僕が弥生と付き合っていると勘違いされることが、まるで二股を掛けているかのようで不快だった。

 

 僕は結局、母の顔を見ることなく玄関の扉を乱雑に閉めると、弥生の家へと向かって歩いた。

 

 

 

 僕は弥生に指定された通り、17時半ぴったりに彼女の家に着く。少し古臭い家屋のインターホンを押すと弥生の声が聞こえた。

 

「慎也、久しぶり」

 

 弥生はそう言って微かに笑みを浮かべた。やはりそれは可愛らしいのだけれど、今は昔ほど響かない。あくまで妹のような可愛さで、由紀のように貪り尽くしたくなるような女としての魅力に欠けて見えた。

 

「久しぶり、弥生。今日はどうして僕を呼びつけたんだい」

「そうだね、それも含めて少し中でお茶でもしながらゆっくり話そうよ」

 

 そう言って、弥生は僕を家の中に入るように促した。さすがに家に入るのは彼女持ちの身として拙いのではと躊躇していると、ちょうど雨がポツポツと降ってきて僕の肩を濡らし始める。

 余り乗り気ではなかったが、こうなってしまっては選択の余地がなく、僕は心の中で弥生と密室で二人きりになってしまう事を由紀に謝罪しながら、室内へと足を踏み入れた。

 

「お邪魔するよ、弥生」

「いらっしゃい慎也…。これを言うのも久しぶりだね」

 

 弥生は仄暗い笑みを浮かべると、ガチャリと玄関の戸を閉めて僕を迎え入れた。

 

 

 弥生の家は閑散としていた。もともと弥生と弥生の母である皐月さんは物欲が少ない方であったから、家の中にはテレビと冷蔵庫、洗濯機といった必要最低限の家電しかなかった。

 

 そんな弥生の家の中で一際存在感を放っているものといえば、やはり物理や化学と言った専門書の類で、弥生はお小遣いやお年玉といったお金の殆どをそれか、貯金に費やしていると聞いたことがある。

 

「適当に腰をかけといて」

 

 弥生は台所でお湯を沸かしながらそう言った。台所にいる弥生というのが僕の中のイメージとかけ離れていて、もし弥生と結婚したならばこんな感じなのだろうかと想像して笑った。

 

 でもそれはいけない妄想。それを想像するならば、由紀との生活でなければいけない。

 

「まだ持ってたんだね、この本」

 

 僕は本棚の中に『ファインマン物理学』が丁寧に保管されているのを見つけてそう呟いた。弥生が物理関係の本を処分するとは考え難かったが、実際に保管されている姿を見ると、それを弥生にあげた僕としては嬉しくなる。

 

「まだ熱力学までしか読み終わってないけどね」

 

 ピューとヤカンの中の水が沸騰する音が聞こえたと思うと、弥生は火を止めてそう呟いた。

 

「読めているだけで凄いと思うよ」

「…、そう。ありがとう」

 

 急須にお湯を注いだ弥生は少し照れたような素振りをみせた。そういえば、弥生は余り褒められ慣れていないのかもしれない。

 

 矛盾していることのように聞こえるが、弥生は優秀であったからこそ褒められることが少なかった。できて当たり前。できない時は何故できないのだと失望される。何よりも不幸だったのは、彼女がその期待に応えられるだけの力量を持っていたことであろう。

 

 「もっと上を目指せるんじゃないか」「君の力はそんなものじゃないだろう」と周りの無責任な大人や教師はそう口にして彼女を奮起させようとするが、そのことが逆に彼女を追い詰めた。そして同級生はその優秀さに嫉妬して彼女を除け者にしていた。しかし、弥生は彼らに言い返せるほどコミュニケーションが上手くはないし、言い返したところで無駄だと悟ってしまうだけの分別があった。

 

 故に弥生は褒められ慣れていない。期待のレベルが高すぎて褒められなかった。

 

 それは僕には一切分からない世界だったが、弥生はそんな世界で一人孤独に戦っていたのだと思うと、その小さい背中に並々ならぬ意志の力と数多の傷跡が感じ取れるような気がして、僕は人知れず彼女に憐憫の情を抱いた。

 

「お茶、入ったよ」

「ああ、ありがとう」

 

 弥生は孤独だ。幼い頃から父はおらず、母は毎日仕事で家を留守にしている。今思えば弥生は大人びた子ではなくて、大人にならざるを得なかった子なのだと思い至り、僕は目の前の椅子に腰を掛けようとしている彼女を、そっと慈愛の混じった瞳で見つめていた。

 

「慎也、…私知っちゃったんだ」

「何を知ったんだ」

 

 椅子に座った弥生は俯きながらカップの水面を見つめて、生気のない声で呆然と呟いた。それは目的語もない弥生らしからぬ曖昧な言葉で、僕はその曖昧さに底知れぬ不安を抱きながらも彼女の次の言葉を待つ。

 

「私達ってさ、従兄妹なんだね…」

 

 弥生は震えた声でそう言うと、初めて僕の前で嗚咽を漏らした。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

16 Collapsar

「弥生、…何故それを」

「やっぱり。慎也は知ってたんだ」

 

 弥生はただひたすら溢れ出る涙を、子供のように手で拭っていた。それは僕が初めて見る彼女の年相応な表情であるように思えた。

 

「ずっと私のことを従妹と分かってて、…私が慎也のためにもがく様を由紀と一緒に嘲笑っていたんだね」

 

「いや、それは違う」

 

「だったら何で!…何で早く言ってくれないの。私が従妹だから恋愛対象として見られなくなったんでしょ。慎也が冷たくなったのは由紀と付き合ったからじゃなくて、ただ私が従妹だったから」

 

 「そんなの、努力だけじゃどうにもできない」そう語気を強めて言うと、弥生は椅子の上に体育座りになって、背中を丸めて子供のようにいじけてみせた。

 

 僕は急に弥生が幼くなったような気がして困惑した。彼女はこんなにも感情が豊かな幼子だったのだろうか。いつもの大人びた弥生のイメージと、いま僕の目の前にいる子供じみた弥生との乖離が激しくて、僕は何も声を掛けられずにただ閉口するしかなかった。

 

 重い沈黙が僕と弥生の間に流れる。僕は緊張のあまり乾いた喉を潤すため弥生が淹れたお茶を一口啜ると、目の前にいる少女について少しばかり考えを巡らせた。

 

 弥生は幼少期にこうやっていじけることが滅多に無かったから、その反動が今になって来ているのかもしれない。幼少期の弥生は恐ろしいほどに聞き分けが良くて、誰もが口をそろえて彼女のことを神童と呼ぶ。そんな利口な子であった。小さい頃から今に至るまで、ずっと彼女は大人だった。しかし、それは弥生が歪な精神の成長過程を辿ってここまで来たという他ならない証拠であるようにも思える。

 

「愛が欲しかった」

 

 弥生はボソッとそう呟いた。

 

「お母さんは私のことを愛してくれてはいたけれど、それじゃあ全然足りなかった。毎日仕事仕事で家にいない。でも、生きていくためには仕方がないと思って私はずっと我慢してた」

 

 弥生は赤く腫れた目を擦りながら「取り乱してごめん」と言うと、体育座りのまま器用にお茶を啜って話を続けた。僕も弥生につられてもう一度お茶を一口飲むと、椅子に深く腰を下ろして話を聞く姿勢に入った。

 

「お母さんは研究者だったから、勉強をすると褒めてくれることが多かった。だから私は褒めてもらおうと思って、勉強して良い成績を取ることばかりに夢中になっていた…。最初の方は良い成績を取ると先生も、クラスの皆も、お母さんも褒めてくれたの。でも、勉強をして上に行けば行くほど皆褒めなくなってくる。糸川は満点を取って当たり前。間違えると、みんな寄ってたかって揚げ足ばかり取ろうとしてきた。お母さんも、私が何回も満点を取っているうちに褒め方が雑になった」

 

 それは弥生が小学生の時の話をしているのだと僕は直ぐに察した。当時の弥生はいつもクラスの隅にいて、一人で勉強をしている。そんな孤立した生徒だったと記憶している。

 

 およそ弥生のいたクラスは、彼女の頭脳と美貌に対する嫉妬が渦巻く魔境と化していた。ただ、弥生はそんなことを気にする素振りすら見せず気丈に振る舞い、そのことがさらに同級生の反感を買っていた。そして僕は、弥生に対する同級生の幼いヘイトが彼女に対するイジメへとつかながる前に、嫉妬の炎の消して回る役目を担っていたことを鮮明に覚えている。

 

「私はただ褒められたかった。褒められて承認欲求を満たしたかったんだと思う…。きっと、それは愛に飢えた私の代償行動だったんだ。でも成長すればするほど皆私のことを褒めなくなった。皆私の敵になった。でもね、慎也だけは違ったんだ。君だけはきっとどこか抜けていて、ある意味その鈍感さが救いだった。私の事をひたすら「凄い」と言って褒めてくれた」

 

「そりゃ、だって凄いじゃないか弥生は」

 

 彼女は勉学に関しては天才的だ。おそらく僕の通っているレベルの高校では手に余るほどの逸材だと確信している。

 

「そういうところなんだよ…。君は素直で、馬鹿みたいなほどに純朴だ。大抵の人間は自分より能力の高い人間を視界に入れたがらない。それは、由紀だってそうさ。あの女は演技が巧くて表には出さないけれど、私の才能に少なからず嫉妬していた。誰だって有能な競争者がいれば、蹴落としたくなる。私だってそうだ。でも、慎也だけはただそれを「凄い」と言って、ありのままに褒めてくれる」

 

 弥生は体育座りを崩すと、手に持っていたカップを机の上に置いた。そしてあの物理を語る時のような饒舌さを次第に取り戻して行く。弥生は恍惚とした表情をすると、その赤く腫れた目であらぬ方向を見ながら、一人語りを続けた。

 

「その時私は思ったんだよ。慎也ならきっと私の事を愛してくれる。私のことを一生褒めてくれる。慎也、君は私の救世主(メシア)だったんだ。君はアガペーのような無償の愛を私に注いでくれる存在(イエス)だと確信したんだ」

 

 弥生は椅子から立ち上がると、まるで自己陶酔するかのように手を大きく振りながら演説を始めた。僕の方ではないどこか遠くを見て、弥生はかつていた独裁者のように演説を続ける。

 

「従兄妹?…確かに忌避感はあるがそれが何だっていうのだろうか。愛に越えられない壁なんてないんだよ。愛はまるでトンネル効果のようにポテンシャルの障壁を超えて見せるんだ」

 

 弥生は狂信的にそう言いのけると、勢いよく体を僕の方へ向け直して、バンッと手の平で机を叩いた。僕はそんな弥生の狂気に気圧されて後へ下がろうとするのだが、これ以上椅子には深く腰を掛けられない。

 

 そんな僕を見て、弥生はまるで獲物を追い詰めた肉食獣のような鋭い眼光を向けると、その端正な顔を吐息がかかる距離まで近づけて僕の瞳を覗き込んだ。そして、その柔らく可憐な手で僕の頬を撫でながらうっとりと呟く。

 

「私には君しかいないんだ。君じゃなきゃダメなんだよ。たとえ従兄だとしても私は君が欲しい」

 

 「私を独りきりにさせないでよ」そう言って、弥生はその涙で赤く腫れた目で僕を真っすぐと見つめてくる。その瞳はまさに漆黒の深淵そのもの。全てを呑み込んでしまうブラックホールのような瞳だった。

 

 ふと脳裏にこんな話が浮かんだ。

 

 ブラックホールは昔、collapsar(コラプサー)と呼ばれていたらしい。『collapsar』それは崩壊した星という意味。

 かつて宇宙で一際明るく輝いていた大質量恒星が、その自らの重さのあまりに重力崩壊をした末路。その星は自らの強力な引力で宇宙に漂う何もかもを飲み込み、この世で一番逃げ足の速い光すらも、一度捕まってしまっては抜け出すことができない。

 

 弥生は壊れた星(コラプサー)だ。そして彼女は今、僕のことを呑み込もうとしている。躊躇いも、後悔も。そして由紀への愛も。何もかもをその漆黒の瞳の内に吸い込もうとしているのだ。

 

 そのことに気が付いた瞬間、首筋に一筋の汗が垂れてきた。それは冷や汗といわれるもの。今すぐこの家から逃げ出さなければ、色々な意味で僕の身が危ないということを察した。

 

 でも、何処から逃げる?

 

 玄関側は弥生が陣取ってしまっている。後ろにある窓の外側は浅い川になっていて、地面とはかなり高低差があり危険だ。それ以外の出入が可能な窓とはそれなりに距離があり、弥生に取り押さえられる可能性が高かった。

 

 八方塞がりここに極まれり。…ならば、力ずくしかあるまい。

 

 その選択は多少僕の良心を痛めつけたが、他に良い方法が見つからない以上選択の余地はなかった。罪悪感を感じつつも、僕が弥生を押し倒して脱出しようと椅子から立ち上がった瞬間、唐突な目眩に襲われて床へと倒れ込んだ。

 

 身体が、動かない?

 身体がしびれる。意識が遠退いて行く。

 

「や、…弥生。僕に、な、何をした…」

 

 僕は床に倒れ込みながら、近づいてくる弥生を見上げた。僕の目に映った彼女は、恐ろしいほどに清々しい笑みを浮かべて此方へと近づいてくる。

 

「よかった。やっと薬が効いてきたみたい」

 

 クスッと嗜虐的な笑いを浮かべると、弥生は僕が動けないのをいいことに、僕の頭を遠慮なく撫で回してきた。

 

 弥生の手を何とかして払いのけようと、彼女の方へ体を向けた時、僕の目に彼女の顔が映った。その顔は弥生のものとは思えないほど歪で、涙の痕はもはやどこにも見受けられない。

 

 そこで僕は先ほど弥生が流した涙が、僕の全身に薬が回るまでの時間を稼ぐ嘘だったのだという事を察して愕然とした。

 

 いや、多少は事実だったのかもしれない。「愛が欲しい」と言った彼女はとても嘘を付いているようには見えなかった。

 そういえば弥生は中学生の時、もっとも説得力のある嘘とは真実と嘘を程良く混ぜ込んだものだと言っていた気がする。

 

「私と君と由紀、まるで三体問題みたいだね」

 

 弥生は僕の耳元でそう囁く。こそばゆい吐息が耳を撫でた。

 

 三体問題は基本的に解くことができない。それは数学的に証明された覆しようのない真実。

 

「でも知ってるかい、慎也。二体問題は簡単に解けるんだよ」

 

一系内の質点を一つ減らしましょう―

 

 弥生は僕という愚かな生徒に簡単な問題を教える先生のように、優しい声音でそう言った。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

17 事象の地平面

 目が覚めると、僕はガムテープで手と足を拘束されていた。服は着ておらず全裸でどこか知らない布団の上に寝かされている。少なくとも僕の家や由紀の家でないことはすぐに理解できた。

 

「あぁ、慎也。起きたんだ」

 

 女の声が聞こえた。その声のする方を向くと色白の美しい女性が一人、妖艶に笑っている。

 

「弥生…」

 

 それは弥生だった。弥生はバスタオルに身を包み、おそらくその下は何も着ていない。そこで僕はこれから彼女が何をしようとしているのかを直ぐに理解した。

 

「やめろ、弥生。それは犯罪だぞ」

 

 強姦。それは国語辞典的にも社会通念的にも、男が女を犯す際に用いるのが常ではあるが、逆がないとは限らない。現に弥生は今まさに僕のことを犯そうとしている。由紀に操を立てた僕を彼女色に染めようとしているのだ。

 

「そうだね、犯罪だ…。でも、いったい誰がそんな話を信じるのかな」

「それは…」

 

 性犯罪の弱いところ。それは圧倒的に男が加害者で、女が被害者であることが多いから、男が被害に遭ったとしても真面目に扱ってはもらえないということ。なまじ信じてもらえても「役得だっただろう」で済まされてしまうことすらある。

 

「警察に駆け込めばどうにかなる」

「警察ねぇ…。それこそ彼らが仕事をするとは思えないけど」

 

 そう言って弥生は頭の悪い生徒を窘めるかのように笑った。僕はそんな余裕を醸し出す弥生を追い詰めようとして、助けを呼ぶために携帯を探してみるが、何処を見渡してもそれは見当たらない。腕が拘束されていても携帯くらいならば動かせると思っていたのだが、そもそも携帯が手元にないのではどうしようもなかった。

 

「携帯を探してるのかい。だったら無駄だよ。それは慎也が眠っている間に、君の家の庭に放り投げてきたからね」

 

「なんて事をしたんだ」

 

「はは、まあ落ち着いてよ。それにしても驚いたよ。まさか慎也の携帯にGPSが入っているだなんて想像もしなかった。どうやらあの女の執着度合いを私は少し舐めていたようだね。今頃由紀は慎也が家に帰ったと思って安心しているんじゃないかな」

 

「…手の込んだことを。それより、ロックはどうやって解除した」

 

「それくらい君の手の動きを毎日見てれば分かるさ。あと助けが来ると思っても無駄だよ。私のお母さんは名古屋に出張中でしばらく帰ってこないし、君のお母さんには『弥生の家に泊まる』と()()()()()()メールをしておいたから。あと()()にもメッセージを送っておいたよ」

 

 弥生は、少なくとも僕が考え付くような危険性は全て排除しているようだった。やはり彼女は変なところで鋭い。観測こと人間観察が得意な弥生だからこそできた芸当だろう。

 何よりも僕を驚かせたのは由紀にしていた定時報告が弥生にバレていた事だった。定時報告が来ないのを心配した由紀が探しに来てくれるという一縷の望みは、もはや潰えてしまった。

 

「なぜバレたって顔をしてるね。君のメッセージアプリの対話記録くらい携帯を奪ったときに確認したさ。そしたら毎日のように由紀に安否確認を送ってるんだから笑っちゃったよ。よくもまぁ、同じような定型文ばかり送れるものだね。だから勝手にこう書き込んでやったさ、「ごめん由紀、体調が優れないから明日の報告は寝過ごしてできないかもしれない」ってね。…そういえば、慎也はメッセージアプリが苦手なんだっけ」

 

 詰んだ。完璧に詰んでしまった。せめて普段から由紀に送るメッセージをもう少しユーモアに富んだものにしておくべきだった。確かに僕が由紀に送るメッセージはいつも簡素なものだったから、きっと弥生がメッセージを偽造したところで由紀は気が付かないだろう。由紀は僕が弥生に監禁されていることに、少なくとも明後日までは気が付かない。

 

「さあ、慎也。私と一緒に理性を忘れて堕落しよう。快楽に溺れてしまおう」

 

 絶望に染まる僕を尻目に、弥生はどこか蠱惑的にそう言うと、自らバスタオル脱いで生まれたままの肢体を晒した。それは由紀よりも肉感に欠けるが、白い大理石のように美しい躰で、僕の体は理性に反して本能的に興奮を告げる。

 

「僕は由紀以外とは絶対にしないぞ」

「あぁ…、そっち初めては由紀に奪われちゃったか…」

 

 僕が由紀と既に性体験があることを匂わせると、一瞬だけ弥生は何か躊躇う素振りを見せたが、直ぐに「まぁ、最終的に私のモノになればいいか」と小さな声で呟いて僕の方へ歩いてきた。

 彼女の瞳は明確に僕を犯すという気概が伝わるほどギラついていて、僕は今の発言が逆に彼女の独占欲に火をつけてしまったのではと後悔する。

 

「でもそんなことを言ってもさ、慎也のカラダは正直みたいだよ。口では由紀以外としないと言ってたのに、君のアソコは私に夢中だ…」

 

 僕の目の前に来た弥生は、僕の体を押さえつけるようにして跨ると、軽く僕のことを抱擁しきた。そして、そんな何処から仕入れて来たかも分からない扇情的な台詞を耳元で囁く。

 

 弥生はそのまま正面を向いて、その控えめな胸を主張するかのごとく僕にもたれ掛かってきた。そして僕の耳たぶを、薄紅色の芳醇な口唇を使って甘噛みしだす。その熱を帯びた艶やかな肌がふれる感触と、細い首筋から垂れる樹液のような汗。そして、くちゃくちゃとした彼女の唾液が絡まる音が僕の獣性をどうしようもなく刺激した。

 

「ねぇ、慎也。私ってそんなに魅力が無いのかな」

 

 弥生は甘噛みを中断すると、透明な唾液の糸を引きずらせながら、その端正な顔を上気させて上目がちに僕を見てきた。

 

「いや、…」

 

 正直、今の彼女はかなり魅力的だ。だがそれを言う訳にはいかない。それを口にしまったら、その時点でもはや強姦ではなくてただの浮気になってしまう。

 

「そうか…。まだ正直になれないんだね。だったら慎也が素直になるまで、私が君のその汚い欲望を絆してあげるよ」

 

 そして弥生は僕にキスをしてきた。それはあの日の再現。ただ一つ違うのは、あの時とは違い弥生は自棄になっていて僕を犯すという明確な意志を持っていること。そしてなによりも、僕は平静ではなくて興奮しているということ。

 

 弥生の舌が僕の口の中を侵略してくる。そのザラザラとした彼女の暖かい舌と唾液が僕の歯茎を、舌を、内頬の肉を舐め回す。水を弾くような、そんな僕と弥生の唾液が絡まる音が寝室に響き、しだいに淫猥な空間を形成していった。

 

 あぁ、もういいかな…、このままでも。

 

 二回目のキスは余りにも甘美だった。そしてその甘露なキスに絆されて、僕は一瞬由紀への信義を、愛を。社会通念すらも忘れてその本能へと耽美する。しかし僅かに残った理性が僕をその快楽へと堕落させることを引き留めた。

 

 弥生を突き放さなければまずい。このままでは僕の中の何かが無理矢理にでも変質させられそうな気がして、僕は恐れ慄いた。その得体の知れぬ恐怖から、僕は彼女を少しでも遠くへ押し退けようと、身体を動かして後ろへと逃れる。

 

「あっ…」

 

 そうして姿勢を動かした瞬間、弥生が今までにない甲高い嬌声を上げた。それは姿勢を動かした際に彼女の性感帯を人知れず刺激してしまった結果。

 ぬるりと、僕の肌に彼女の愛液と思われる粘性を帯びた液体が擦れる暖かい感触がした。

 

「やっと、乗り気になってくれたんだね」

 

 弥生が勘違いをして嗤った。

 

「もう、いいよね」

 

 何かが壊れた。僕の中の何かが。そして弥生の中の何かが。

 

「愛してる、慎也。たとえ君が従兄だとしても」

 

 死ぬほど愛してる。だから、私のことも死ぬほど愛して。

 

 愛に飢えた崩壊星(collapsar)

 

 彼女はその引力で僕の事を惹きつける。事象の地平面とは、光がブラックホールから逃げられなくなる境界のこと。その境界線より先は、外から観測することができない。中の様子を知りたければ、その境界の中に入るしか方法はない。

 

「本当に愛してる」

 

 弥生は僕を見下ろして、まだ口元に残る僕の唾液を淫魔のように艶めかしく舐め回すと、恍惚とした表情をしてそう言った。それを見た瞬間、僕は完全に由紀のことも忘れて目の前の淫乱な従妹から目を離せなくなってしまった。

 

 ただひたすらに美しい、可愛い、いやらしい。たとえ従妹だとしても目の前の雌を犯してしまいたい。

 

 ブラックホールは完全に僕の理性を呑み込んだ。

 

 その日、僕は事象の地平面を越えてしまった。

 

 

 

「やってしまった…」

 

 僕は隣ですやすやと眠る弥生を見て後悔と、ある種の絶望に浸った。弥生を警察に突き出すのも吝かではない。しかし、途中から僕はどこか彼女との行為に乗り気になっていた。完璧に理性が吹っ飛んで、獣性の赴くままに彼女と交わってしまったのだ。それは間違いなく僕の中では浮気に部類される行為で、弥生だけの責任にするのは気が引けた。

 

 まだ僕の拘束は解かれていない。彼女は僕が抵抗することが不可能だと知っていて、僕の身体に身をもたれ掛けながら寝ている。

 

 その様子に僕は呆れと同時に、どこか小動物のような可愛らしさを感じてしまい、一人罪悪感に浸った。今度こそ由紀に合わせる顔がない。何より、僕が犯されたことを知った由紀がどんな凶行に走るかを想像して、僕は恐怖心に身を震わせた。

 

「うっ…、ん、しんやぁ」

 

 弥生が寝言で僕の名前を呟く。本当に憎たらしいほど可愛らしい寝顔だった。保護欲をそそるとでも言おうか。寝ている弥生がこんなにも年相応か、むしろ幼く見えるなど、彼女と寝なかったら僕は決して知ることがなかっただろう。

 

 弥生と話していて気が付いたが、彼女は見た目に反して実はかなり幼い。それはいきなり幼少期をすっ飛ばして大人になってしまったかことからくる歪さ。彼女は甘えることを知らずに育ったから、愛情の表現が下手くそで、こうも極端になってしまうのだろう。

 

 要するに、弥生はお気に入りのゲーム(新垣慎也)を取り上げられて喚く子供の精神構造に近いのだ。いつか弥生が言っていた光の二重性のように、彼女は「大人」と「子供」といった性質を同時に併せ持っているのだろう。

 

「…ひとりに、…しないで」

 

 弥生がまた小さく寝言を呟いて、僕の体にぎゅとしがみついてきた。それは寂しさを紛らわそうと親に甘える子供の姿に重なって見えた。

 

「まいったなぁ」

 

 本当にまいった。弥生がどこまでも利己的で残忍ならば、僕は迷いもなく彼女を切り捨てられただろう。しかし彼女はそうではなかった。愛に飢えた孤独で可哀想な少女。なにより僕の従妹。

 

 そんな女の子を切り捨てられるほど僕も無情にはなれなかった。

 

「はは、本当に僕は優柔不断で軽薄だな」

 

 乾いた笑いがでる。由紀との関係を考えれば、弥生のしたことは到底許される事ではない。僕は由紀と添い遂げると決めていたのだ。しかし、ここに来てその決心が揺らぎ始めているのを感じていた。

 

 それは弥生の女としての味を知ってしまったから。弥生という少女の本質を知ってしまったから。

 

 一線を越えてしまった今となっては、僕の中にあった従兄妹という忌避感や、倫理的な抑圧はもはや意味を成さなくなっていた。その障壁は、僕の気持ちを由紀へつなぎ止める(もや)いであったのに、弥生はそれを無理矢理に断ち切って僕を感情の渦の中に投げ込んだ。

 

 女から従妹に成り下がったはずの弥生は、また女に返り咲いたのだ。それも、かつてよりも遙かに僕の中で重大な位置を占める女になってしまった。捨てたはずの淡い恋心がまた地獄の底から這い上がってくるのを自覚する。どうしようもなく僕はクズだった。

 

「ふぁ。…おはよう。慎也」

「ああ、おはよう。弥生」

 

 考え事に身を投じていると、いつの間にか弥生が目を覚ました。小さく欠伸をしたその姿は、やはり彼女が僕より年下なのだと言うことを如実に物語っていた。

 

「いっぱいシタね」

 

 弥生はそう言って、自らの下半身を優しく撫で回して、したり顔で僕を見上げた。

 

「赤ちゃん出来るかも」

「ああ…」

 

 弥生は避妊をさせてくれなかった。弥生はあくまで僕のその白濁とした欲望の固まりを彼女の内に受け止めることに拘った。それは明らかに愚かな行為。愚かな行為なのだけれど、間違いなく僕に効く鋭利な楔。

 今なら分かる。由紀はずっとこの楔を欲していたのだと。しかし、その楔を最初に僕に打ち付けたのは由紀ではなくて弥生だった。

 

「そしたら…責任とってね。慎也」

 

 それは詐欺的な責任の押しつけ。責任の押し売り。僕は何度もやめるように言ったのに、聞き入れなかったのは弥生の方だ。

 

「クソ、…その時はそれまでだ」

 

 諦めよう。諦めた方が楽だ。

 

 僕は浮気をして、もしかしたら相手を孕ませたかもしれないゴミクズです。

 

 血は争えない。僕は伯父のことを笑えないなと苦笑すると、弥生の方を見て彼女の額にそっとキスをした。

 

 どうにでもなれ。

 

 崩壊はもう始まっている。誰にもその崩壊を止めることができないのなら、せいぜい最後は本能の赴くままに楽しみましょう。

 

「愛してるよ、弥生」

 

 軽薄な、その場限りの愛を彼女に囁いた。それは決して由紀に知られてはいけない最低な言葉。その言葉を言うのは、もっと忌避感があると思っていたのに、意外なほどすんなりと出てきて驚いた。やはり、僕はどこかで弥生への恋心を捨てられずにいたのだろう。どんなに御託を並べたところで本能には勝てない。

 

 僕はブラックホールに呑み込まれた哀れな光だ。

 

 そう言って、屑な自分を正当化した。

 




※犯罪行為を推奨するものではありません。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

閑話 無知で無垢な少女

 勉強にひと段落がついた私は、いつものように携帯の電源を付けて慎也の居場所を確認した。罪悪感を感じながらも携帯のロックを解除する

 

 正直これは慎也のプライバシーを侵害しているし、さすがの彼もこれには辟易しているだろうという確信があった。でも、精神的に幼いワタシは彼の居場所を常に確認していないと不安でたまらなかったのだ。

 

 それは相手の気持ちを顧みない行為で、慎也をモノのように扱っているのではないかと私は抗議するが、精神の均衡を保つためにも差し当たり自分の欲求を優先させてしまった。どうしようもなくワタシは独善的で重い女であった。

 

「ええと。慎也は…」

 

 位置情報を確認した瞬間、私は言葉に詰まって画面を凝視する。

 

「これは…弥生の家かしら」

 

 携帯が示す情報を信じる限り、慎也は今弥生の家にいるようだった。弥生の家…。その言葉は私に最悪の想像をさせる。

 

―浮気—

 

 それに思い至った瞬間、仄暗い感情がワタシの内から湧き出てきたが、すぐに私がそれを否定した。そもそも浮気をするならば携帯は家に置いていくだろう、と。

 

 慎也は携帯にGPSが入っていることを知っているのだから、浮気をするならば私にバレないように携帯を家に置きっぱなしにするはず。浮気をしているのに携帯を持ち歩くなど「どうぞ、浮気現場に突入してください」と言っているのと同じようなものだ。慎也がそこまで馬鹿な人間だとは私には思えなかった。

 

「まぁ、一回くらいは許してあげよっか」

 

 浮気の可能性が限りなく低いことを納得したワタシは、少し精神に余裕が出てそう独り言を呟いた。もっとも、許すのは今回だけ。彼女持ちの身なのに、弥生の家に行くなど言語道断に決まってる。

 とはいえ、あまり束縛しすぎるのも彼に嫌われる可能性が高まるだけで良い手とはいえない。

 

 少し前にメッセージのやり取りで彼と揉めた件を思い出して、私は恐怖に身を震わせた。あの時は本当に慎也に捨てられるのではないかと恐怖した。最終的には上手いこと収まったけれど、もう二度とあんな恐怖を感じるのはごめんだ。そのためにも、たまには寛容な態度を示さなければ。

 

「あっ、慎也が外に出た」

 

 弥生の家から慎也が出てきたのを確認して、ほっと安堵のため息を吐く。慎也の場所を最後に確認したのが一時間ほど前で、その時彼は自宅にいた。往復の時間を含めれば、弥生の家に居たのはせいぜい三十分かそこら。彼との平均的な行為の時間を考えても、そんな短時間で弥生と過ちが起きたとは思えなかった。

 

「それに、…慎也の初めては私がもらったし」

 

 それは私が持つ絶対的な優位性。いまだに慎也の中に眠っているかもしれない弥生への気持ちを掻き消す程に鮮烈な記憶。いまや慎也は私の身体の虜だ。私を傷物にした罪悪感と責任感も相伴って、そう簡単に慎也が弥生に靡くとは思えなかった。

 

 もっとも弥生が強引に関係を迫れば別だが、あれはあれで分別があり、恐ろしいほどに理性的な女だ。よほど追いつめられない限り、愚かな強硬手段に走るとは考え難い。

 

「ワタシだったら監禁しちゃうかも…」

 

 そんな有り得ないイフを想像して笑った。もう慎也は私の彼氏で、将来の夫候補。そんなことをする必要もなくなった。

 

「弥生はなんだかんだで小心者だからね。それが弥生の命取りだよ」

 

 弥生は本当にウブだ。いくら私と比べて貧相な体つきであるとはいえ、人並みに魅力的であることに気が付いていない。弥生は自信がなくて自分の女として魅力を活かせていないのだ。それに、弥生の白くて柔らかい肌は私が嫉妬するほどに美しいが、彼女はそれが大して魅力的ではないと思っている。

 

 机の上に置いてあるスタンドを見て、昔の記憶を思い出す。中学生の時、私は弥生に「私と由紀はインコヒーレント光に似ている」と言われたことがあった。インコヒーレントとは干渉性がないという意味らしい。同じ光なのに、位相や振幅がでたらめで干渉することができない。

 

 なるほど。分かり易く言い直せば、弥生は私とは相容れないとでも言いたかったのだろう。確かに、弥生と私はあの時から慎也を取り合って水面下で勝負を繰り広げていたから、お互いに嫌悪感をもっていた。相容れないというのも間違いではない。

 

「でもまぁ、もう勝負は決まっちゃったけどね」

 

 本当に運命に感謝する。弥生と慎也が従兄妹でなければ、私は確実に負けていただろう。それ程までに天秤は弥生側に傾いていた。いまだに信じられないが、私はそんな不利な状況から、あの超人とも言える女に勝ったのだ。

 後は慎也を奪ってくるであろう弥生を潰しつつ、慎也をもっと私に惚れ込ませればいい。

 

「ふふ。悪い子にはお仕置きしなきゃね。今度やる時は徹底的に搾り取ってあげる」

 

 慎也が知る女の味は私だけでいい。むしろ、他の女とやった後の慎也なんて、汚らわしくて触りたくもない。彼は私の色だけに染まっていればいいのだ。

 

 私が、今度慎也と寝るときは何をしてあげようかと想像していると、突然に携帯が震えた。時計を見ると、そろそろ慎也からメッセージが届く時間だったから、彼からのメッセージだろうと画面を見るまでもなく察する。

 

「体調が悪い…?」

 

 外は雨が降っているから、身体が濡れてしまったのだろうか。慎也からの連絡がこないのは不安だが、文句ばかり言っていては彼に嫌われてしまうので、私はぐっと我が儘な気持ちを抑えつけた。

 

 少しずつだけれど、束縛を軽くして行かなければならない。まだ完璧には無理だけれど、私を優しく愛してくれる慎也の誠意に応えるため、彼を信じることも覚えなければと思った。

 

 それはさておき、慎也のメッセージは相変わらずつまらない文面で、もう少し遊び心があっても良いのにと思ってしまう。彼はメッセージアプリが苦手と言っていたが、そろそろ慣れて欲しかった。

 

『体調に気をつけてね!無理してメッセージを送らなくてもいいよ~』

 

「とは言っても、私も大概ね」

 

 自分で書いたメッセージを見て、現役の女子高生にしてはつまらない文章だと自嘲する。服装やアクセサリーは流行りに合わせられても、文体というものはなかなか変えられないのだと気が付いた。

 

『愛してるよ、慎也』

 

 そう入力したが、思い直してそれを消した。そう何度も送ると「愛してる」という言葉が軽薄な意味になってしまう気がしたのだ。

 

「愛してるよ、慎也」

 

 電波を使って伝えなくても、彼とは心で繋がっているから呟くだけで十分。画面の向こうの彼も、こうして私への愛を呟いてくれているのだろうか。呟いてくれているといいな。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

18 カオス系

六月中に完結させる(よく分からない美意識)


 弥生との姦淫は一晩中にも渡った。僕が弥生に呼び出されたのが金曜日の午後であったから、彼女は次の土曜の午前中までひたすら僕を犯して、自らの独占欲と肉欲をぶつけてきたのである。

 

 明らかに弥生は平静を失っていた。しかし、弥生は同時にどんな時であれ理性的な面を残している女でもあった。二日間にも渡り僕を拘束するのは流石に怪しまれると思ったのか、土曜の午後には僕を解放した。

 

「結局、慎也は私を警察に突き出すのかな」

 

 弥生は別れ際、僕が何と答えるのか知っていて、敢えてそう質問してきた。

 

「…、今回だけは見逃してやるよ」

「慎也はこの前もそう言って私を許してくれたよね」

 

 「一体慎也は()()()()見逃してくれるんだろう」と言って、弥生は僕の本心を見透かしたかのように、漆黒の双眸をこちらに向けた。

 

「調子に乗りやがって、この強姦魔が」

「ふふ、可愛い強姦魔でしょ」

 

 弥生はそう言うと、滅多に着ないフェミニンな白色のスカートの裾を手で持って、淑女的な挨拶をする。妖艶に口角を上げ、舌を小さく出して自らの唇を薄く舐める姿は、さながら淫魔のような錯覚を受けた。僕は再び自分の内からイケナイ欲望が湧いて出てくるのを察知して、その場から急いで立ち去ることにした。

 

「…じゃあな。弥生」

「またね」

 

 その「またね」という言葉にはどこか「お前はまた私の所にくるよ」という他意が含まれている気がして、僕は首を横に振ってそれを否定する。

 

 何があろうとも、弥生と寝るのは今回限り。

 

 それがボロ雑巾のようになった僕の誠実さ。もはや手遅れのようにも思えるが、少なくもまだ傷を浅くすることは出来ると信じていた。

 

「疲れた…」

 

 肉体的にも精神的にも疲れた。僕は帰り道、雨が上がった夕焼けの空を見上げてそう呟いた。かつて弥生とした会話を思い出す。弥生は僕の伯父とは違うと言った。僕の伯父と違って自殺などしないと。それは確かだろう。だって弥生は伯父ではなかったのだから。

 

「伯父は、どちらかというと僕か…」

 

 肉欲に我を忘れて過ちを犯す。そして、そのことをどうしようもなく後悔する。僕と伯父はやはり親族なのだなと、嫌な共通点を見つけて自嘲した。

 

 

 弥生は一線を越えてからもしばらくの間、平然と早朝に僕の家を尋ねてきた。母は僕が弥生に拘束されて帰れなかった日から、明らかに僕と弥生の関係が一歩進んだ事を確信して、まるで弥生のことを将来のお嫁さんであるかのように扱いだした。僕は完璧に、母に由紀との関係を告げるタイミングを失ってしまったのである。

 

 もっとも、母を失望させる覚悟で真実を告げれば済む話なのだが、僕の幼さからくる恐怖心と、浮かれる母を失望させたくないという感情に動かされて、僕はさし当たりこの問題を棚上げしていた。もちろんそれが何の解決策にもならないことは十二分に理解していたが、それ以外の方法を僕の頭では考えだすことができなかったのだ。あくまで平静を取り繕って現状を維持することに僕は腐心していた。

 

 ただ、そんな僕のくだらない努力が功を奏したのか、しばらくの間は僕と由紀と弥生の関係を含めて、今まで通りの日常がつつがなく維持されていた。唯一今までの日常とは大きく変わったこといえば、由紀の僕に対する束縛が軽くなったということだろうか。

 

 そう。弥生と一線を越えた日以来、なぜか由紀の束縛は少しずつ軽くなっていたのだ。

 僕がそのことを不思議に思い理由を尋ねると、由紀は「私も少しは慎也のことを信じないといけないと思ったの」といって微笑む。その何も知らない彼女の無垢な笑顔が、僕の心を容赦なく抉った。由紀は僕のことを信じようと努力をしているのに、僕はそんな彼女の信頼と努力を裏切ってしまったのだと思うと、罪悪感が酷かった。

 

 そういう理由もあり、僕はしばらく由紀と体を重ねる気にはなれなかったのだが、僕の事情など知らない由紀は何度も誘惑をしてきた。その誘いを断ると、由紀はいつも捨てられた子犬のような目をしてきて、優柔不断な僕は流されるがままに彼女とコトを致してしまう。

 

 しかし、由紀と寝る度に弥生の痴態が脳裏に浮かび、僕のことを惑わすのだ。目の前の彼女に集中しなければと思うのだが、そう思えば思うほど弥生の事ばかりを考えてしまった。

 

 凄まじい自己嫌悪に陥りながらも、いつの間にか僕は由紀と致す度に彼女を弥生の姿に見立てて、一人その背徳的な快楽に酔っていた。それは人として最低の行いであると理解はしていても、僕はその現実では消化できない弥生への想いを解消するカタルシスに取り憑かれていたのである。弥生に犯された事実が由紀にバレなかったのをいいことに、僕は彼女に不誠実を貫いていた。

 

 しかし、そんな歪さは長く続かないのだと今日になって気が付かされる。マーフィーの法則よろしく、崩壊する余地のあるものは、いずれ必ず崩壊するのだと。

 

 十一月も終わりに差し掛かったある日、弥生はいつものように僕の家を訪ねてきた。その日はちょうど僕と弥生が一線を越えてから二ヶ月程が経とうとしていた日だった。その日、弥生は妙に神妙な顔つきで僕のことを見てこう言った。

 

「慎也、生理がこない」

「えっ、…」

 

 それは端的な事実で、文字にしてしまえば僅か六文字しかない情報なのだけれど、それの持つ破壊のエネルギーは核分裂以上であるように僕には感じられた。

 

「赤ちゃん、出来ちゃった」

 

 弥生はあくまで冷静に、でもどこか喜色を含んだ声で、まだ現実を理解し切れていない僕にそう告げた。

 

「それは、…本当なのか」

「嘘をついてどうするのさ。その…責任よろしくね」

 

 弥生は僕の手に妊娠検査薬を押しつけると「見てごらん」と言って、色好い返事を期待するかのように僕の顔を覗き込んでくる。弥生が僕に手渡した妊娠検査薬は陽性を示していて、僕はあまりの衝撃にそれを道路に落としてしまった。

 

 たった一夜の過ちでそんなに上手く行くものかと、現実を受け入れらない僕は、道路に落ちた妊娠検査薬を拾い上げてもう一度それを見つめた。しかし、何度見直しても結果が変わるはずもなく、相変わらず検査薬は陽性を示していた。

 

 それは間違いなく破滅への引き金だった。

 

 かつては夢見たこと。でも今は悪夢のようなこと。

 

 弥生と一生を添い遂げねばならない。その事実が僕に重くのしかかる。弥生が無理矢理襲ったとはいえ、自らの下腹部を慈愛の籠もった手つきで撫で回す弥生を見ると「堕ろせ」などとは到底言えるはずがなかった。弥生はすでに母となる決意を固めているように僕の目には映った。一人の男として、初恋の君を孕ませたことに本能的な歓喜を覚える。

 

 だがそれと同時にこれから来るであろう困難と、その真実を知った由紀が何をしでかすか分からなくて、僕は文字通り震えた。恐怖と後悔と愚かな自分に対する怒りで震えたのだ。

 

 最悪、由紀に殺されるのではないかと思い、僕は嫉妬と恨みに駆られて僕達を殺しにくる彼女の姿が易々と思い浮かべられた事実に驚愕した。それほどまでに、由紀もどこか歪な女だった。

 

「大丈夫だよ慎也」

 

 そう言って弥生は震える僕の背をさすりながら、優しくあやしてくる。弥生は母であるのと同時に、妻であるかのようにも振る舞った。

 

「従兄妹は結婚できるんだよ」

 

 そう言って、弥生はまた耳元で囁いた。それは事情を何も知らぬ幼女が、この世の真理を端的に告げるかのような声音。

 

「そろそろ慎也も決めないと、由紀を選ぶのか私を選ぶのか」

 

 「答えは分かり切っているけど」と言って弥生は笑う。その問題は、今では遠い過去に思える夏休みの後半に既に解決していたはずなのに、弥生が強引に再提起したモノ。

 

─いくら三体問題を解こうとしても無駄だよ。系内の質点を一個減らして二体問題にしないと─

 

 弥生は残酷な真実を僕に突き付けた。

 

 

 弥生の妊娠が発覚したその日の午後、僕は由紀を自宅に呼びつけた。少なくとも僕の家ならば、地の利というか、たとえ由紀が激高しても凶器の類を持ち出せないと踏んだからである。念には念を入れないと、僕の身が危ない気がした。

 

「なんで、弥生がいるのよ」

 

 僕の部屋に来た由紀は、弥生の顔を見るや否や不快感に顔をしかめた。それは僕という恋人のパーソナルスペースに、かつての恋敵がいるという事実がたまらなく彼女にとって腹立たしいことに感じられたからであろう。

 

 一方の弥生といえば、僕のベッドの上に我が物顔で腰を掛け、どこか勝利を確信しているような余裕のある笑みを薄く浮かべていた。それはかつて弥生と将棋をした際に、彼女が僕の詰みを確信した時の表情と重なって見えた。

 

「由紀、大事な話がある」

 

 そう言って僕は彼女の瞳をまっすぐ見た。由紀の瞳が好奇心と不安に揺れる。それは一体これから何が始まるというのか、と言いたげな顔だった。

 

「本当にすまないが、僕と…別れてくれないか」

「えっ…」

 

 僕は由紀の目の前で土下座をした。土下座だけで済む話ではないと分かっていても、それ以外の方法を僕は知らなかった。僕の唐突な土下座を見た由紀は困惑し、何を言われたのか分からないとでも言いたげな声を上げた。

 

 ただひたすらの放心。そして僕が顔を上げると、直ぐに僕の目を見て言外に訴えてきた。どういうことだ。私と添い遂げると約束したのは嘘だったのか、と。少なくとも今の由紀の表情は、僕にはそんな風に感じられた。

 

「どういうことなのよ」

 

 由紀は怒りと困惑が混じった震える声でそう言った。そして直ぐにこの部屋に弥生がいるという事実に合点がいったのか、彼女の怒りの矛先は僕ではなく弥生へと向かった。

 

「弥生…、あんた慎也に何をしたァ!」

 

 由紀は弥生の胸倉をつかんで彼女をベッドの上から引きずり下ろした。僕は由紀を制止しようと立ち上がったが、激昂する由紀に気圧されて、弥生が恫喝される様をただ見ていることしかできなかった。

 

「痛いよ。由紀」

 

 弥生はあくまで平静さを保ってそう言う。その言い方がまた由紀の癪に障ったのか、由紀は弥生をそのまま壁に押し付けるとドスの利いた声で問いただした。

 

「いいから、慎也に何をしたのよ。この女狐」

「うーん。まぁ慎也とセックスして妊娠しちゃった」

 

 その瞬間、まるで時が止まったかのような錯覚を僕は受けた。僕も由紀も、弥生のその明け透けで見方によっては挑発的ともとれる言い方に固まったのである。ただ一人、弥生だけは勝ち誇った笑みを浮かべていた。

 

「ふ、ふ、…ふざけるなぁぁ!」

 

 由紀は弥生の頬を勢いよく叩く。パチンッという風船が破裂したかのような甲高い音が部屋に響いた。

 

「に、妊娠した?私が誘った時は断ったのに弥生とするときは…、避妊せずにしたの」

 

 絶叫した由紀はぜぇぜぇと息を切らしながら僕の方を信じられないといった具合に見てきた。

 

「嘘だと言ってよ、ねぇ」

 

 黙り込む僕を見て由紀が縋るようにそう言う。

 

「ねぇ、嘘だと言ってよ。慎也」

 

 どこまでも懇願するような声音だった。

 

「ねぇ、慎也。うそだ…」

「確かに、僕は弥生とやった」

 

 由紀の言葉が聞くに耐えなくて、僕は彼女の発言を遮って、怒鳴るようにそう言った。その怒号は由紀に対してというよりも、僕自身の愚かさに対して発せられたものだった。

 

 決して僕から進んでやったわけではない。あれは不可抗力だったのだと言い訳をしたくなるが、由紀が求めている答えは弥生とやったのか、やっていないのか。中に出したか、出していないのか。つまるところそんな0か1かの二進法的な答えなのだ。つまらない言い訳は余計に事態をややこしくさせる可能性があった。

 

「なっ…。この…、この嘘つきがァ!結局、弥生のことがまだ好きだったのね。あの時、私と添い遂げると誓ったのは嘘だったんだ…。どうせ愛を囁かれると、喜んで股を開くチョロい女だと思ってたんでしょ。慎也の愛は愛じゃなくて性愛だった。それなのに、愛されてると浮かれている私を見て、弥生と一緒に嘲笑ってたんでしょ!」

 

「いや、そんなこと…」

「そうだよ」

 

 その言葉に僕は再び固まった。それは弥生の声だった。

 

「弥生、お前何を言って…」

「いいから慎也は黙ってて」

 

 弥生はそう言うと僕の手をつかんで、由紀に見せつけるようにその体を押し付けた。それはかつての勉強会の帰り際に、弥生が僕の腕をつまんだ時に重なって見えた気がした。

 

「ねぇ、由紀。少し長話をしようか」

 

 弥生は床に呆然と崩れ落ちた由紀を、ただ見下したような目で見てそう言った。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

19 研ぎ澄まされた殺意

「昔から由紀のことは嫌いだった」

 

 弥生は由紀から視線を逸らすことなく、いきなり彼女のことを罵倒した。それは僕が知る限り、初めて弥生が由紀に向ける嫌悪の眼差しだった。

 

「はっ、何よいきなり。私だってアンタのことなんか大嫌いよ」

「そうだね。私たちはお互いにお互いのことを嫌悪している」

 

 僕は弥生と由紀はずっと仲が良いと思っていたから、今の彼女達の発言に少なからず衝撃を受けていた。

 もちろん、弥生が妊娠してしまった以上、僕達と由紀の関係は修復不可能なまでに悪化してしまうのだろうという事は予想していた。だが、元から二人の仲が悪いなど、考えたこともなかったのだ。

 

「昔から金を持っている由紀が嫌いだった。親から十分に愛されているのに、寂しいと不満がる由紀が贅沢で嫌いだった。十分他人よりも優れているのに自信がなくて、あまつさえ密かに私に嫉妬している由紀が大嫌いだった。なにより、私の慎也を奪おうとする由紀のことが大大大嫌いだった」

 

 それは僕が初めて聞く弥生の本音だったのかもしれない。弥生はこの三人の中では一番大人に見られていて、よく僕と由紀の統率役を押しつけられていた。だから、弥生はいつも自身の本音を殺して僕たちの面倒を見ていたのだ。本当は弥生の精神年齢こそ一番幼いのにもかかわらずである。そのことが弥生にとってどれほどのストレスであったのか、僕には想像し難い。

 

「私だって…。私だって弥生のことは大嫌いよ!いつも慎也と一緒に私が分からない物理の話ばかりして、二人だけの世界を私に見せつけてくる。弥生は顔も良いし、頭も良いし、運動神経も良い。それに比べて私は何もない…。何より、慎也の心を独り占めしていた弥生が憎くてたまらなかった。そんなに色々と才能を持っているなら、慎也くらい私にくれたっていいじゃないの」

 

 そう言って由紀は絶叫すると嗚咽をもらした。僕はどの面さげてと思いながらも、由紀を慰めるために彼女のもとへ近寄ろうとするが、それは叶わない。弥生はぎゅっと僕の腕を拘束して離そうとはしなかったのだ。

 

「哀れだね」

 

 弥生は泣いている由紀を見てただひたすら冷酷にそう告げた。

 

「由紀の敗因を一つ教えてあげる。それは由紀がどこまでも正当なやり方に拘っていたところだよ。私より早くの告白、私よりは早くの性行為、そして束縛。どれもありきたりで王道だ」

 

 そこで、弥生は一息ついた。

 

「それは確かに素晴らしいフェア精神だと思うし、ある意味では由紀の「純粋さ」や「幼さ」を表しているようでもある。恋は戦争だよ。戦争はもっと泥臭くて汚い手が横行する。戦時国際法なんてバレないところで皆やぶっているものさ。それでも勝てば問題ない。畢竟、勝てば官軍なんだよ」

 

 「残念だったね、哀れな賊軍さん」そう言って弥生は由紀を煽った。なぜ弥生がここまで由紀に敵愾心を持つのか僕には分からなくて困惑する。普段の弥生は怒ったとしても、こんなにも相手を挑発することなどしない。だからこそ、今の弥生の行動は少しおかしく思えた。

 

「弥生、その辺しておけ」

「分かったよ、慎也。この辺でやめとく」

 

 弥生は由紀の方を見て何かを確認すると、小さく微笑んで僕の諫言に従った。

 

「…、私、もう帰る」

 

 由紀はどこか自暴自棄になった感じで、生気のない声でそう呟いた。自分の荷物を持って僕の部屋から出ようとした時、由紀は虚ろな目をして僕たち二人を見ると小さな声でこう言った。

 

「なんだ…、やっぱ初めから私の居場所なんてなかったんだ」

 

 僕が何か返事をする前に由紀はバタンと乱雑に扉を閉めて去っていた。

 

 

 

 由紀が去ってからしばらくの間、僕は呆然とさっきまで彼女がいた所を見つめていた。それは二度と戻らない、幼馴染であり恋人であった女性への哀愁からきた行動なのかもしれない。

 恐らく、由紀がこの部屋に来ることは二度と無いだろう。それ程のことをしでかしたという自覚はある。

 

 ただ最低なことに、僕の胸の内の大半は、由紀と決別してしまった虚しさや寂寥感よりも、安堵で占められていた。

 意外とあっさり身を引いてくれた。それが僕の正直な感想だった。殴り合いの修羅場を覚悟していた僕としては、この淡々とした展開に少し拍子抜けな印象を受ける。

 

「弥生、なんであんなに由紀を煽った」

 

 先程の弥生の言葉を思い出し、僕は彼女のことを問いただした。抗議の意味を込めて、少し語気を強めてそう言った。

 

「それは簡単だよ。私に由紀のヘイトを集めるためさ。もしかしたら、由紀は激昂して慎也に危害を加えてきたかもしれないから」

「つまり、僕の為ってことか」

「そうだよ。言ったでしょ。私は慎也の為にならないことはしないって。もっとも、由紀も馬鹿じゃないから殺しはしないだろうけど」

 

 それはあの日の朝に、弥生が由紀と交わした言葉だった。なるほど。弥生の話は確かに一理あるかもしれない。由紀は裏切り者である僕を間違いなく恨んでいるだろう。ただ、やはり疑問は尽きない。

 

「でも、そうなると弥生の身が危険じゃないか」

「さあね。もとから私も由紀もお互いの事が嫌いだったからどうでもいいや。今更何か言ったところでそう簡単に相手への好感度は変わらないよ」

 

 それはある種の歪な信頼関係のように僕には聞こえた。きっと彼女達はお互いに相手の好感度が何をしたところで変わらないことを確信しているのだろう。だからこそ弥生はあそこまで挑発的な事を言えたのだ。そもそも、もとから失う好感度などお互いになかったのだから。

 

「終わったな、色んな意味で」

「違うよ、慎也。終わりじゃなくて始まりだよ」

「はは…それもそうか」

 

 これから様々な困難が待っているだろう。不本意とはいえ僕は父親になってしまった。高校は退学処分になるのだろうか。働き口を見つけた方がいいのだろうか。今は分からないことが多すぎる。

 

 僕がこれから来るであろう茨の道を想像して遠い目をしていると、弥生はそっと僕の手に彼女の小さな手を重ねてこう言った。

 

「大丈夫だよ。これから二人で歩いていけばどうにかなる。だって、…私は天才だから」

「それにしては随分と幼稚な天才だな」

 

 僕と弥生はお互いを見ると、おかしな気分になって久しぶりに心から笑った。

 

 僕達は救いようのないクズだ。

 

 それは認めなければならない。僕と弥生は由紀という一人の女の子をどうしようもなく傷つけた罪人だ。でも、いくら過去を悔やんだところで、犯してしまった過ちはもう正せない。であるならば、せめて次に活かすために復習をして、同じミスをしないようにするしかない。

 

「これからよろしく。慎也」

「ああ、こちらこそ。弥生」

 

 初恋は、紆余曲折を経て最悪の形で結ばれた。

 

 

 由紀が僕の家を去ってから、僕と弥生は二人の将来のことについて色々と取り決めをした。

 

 やはり弥生は子供を堕ろすつもりはないらしい。そして、十八歳になったら入籍することを迫ってきた。もちろん、こうなってしまった以上は責任を取るつもりであったから、僕は弥生のプロポーズを快諾した。

 いわゆる逆プロポーズと言われるもので、僕は最後まで男としての格好良さを弥生に見せられなかった自分自身の情けなさに辟易した。

 

「じゃあね、あなた」

 

 弥生は新妻ぶってそう言うと、去り際にキスをしようとしてきた。玄関は一段低くなっているので、弥生との身長差がかなり出来てしまっている。そのため、僕は少し屈んで弥生のキスを頬に受け入れた。

 

「ふふ、これから毎日こんな日々が送れると思うと興奮するね」

「そうだね。…もっとも困難も多いだろうけど」

 

 まず金。なによりも金が問題だ。

 幸いにも僕の家は由紀ほどお金を持ってはいないが、それでも多少の余裕はある。だから、土下座をしてでも両親に援助を頼もう。

 

 おそらく僕の両親は弥生と、これから産まれてくる新しい命を、暖かく迎えてくれるだろう。それは母の弥生に対する気に入り具合からも容易に想像できた。

 

 しかし、僕については殴られて罵声を浴びせられる未来しか想像できなくて苦笑した。昔から、そういう事をするなとは言わないが、避妊は必ずしろと父には口酸っぱく言われていた。しかし、結果的に僕はその忠告に背いてしまった訳だから、父が激昂したとしても仕方がない。これから来るであろう第二の修羅場を想像して、僕は憂鬱な気分になる。

 

 とはいえ、つべこべ言ったところでそれ以外に方法がある訳でもなく、僕は両親に殴られることを甘んじて受け入れることを心に決めた。僕が殴られるだけで弥生との生活に活路が見出せるのならば安いものだろう。そして何より、それは自己満足的な由紀へのケジメと、父親になるための禊ぎなのだと思った。

 

「じゃあ、明後日は休日だから、その時にでも僕の両親を一緒に説得してくれ」

「分かってるよ。…かなり荒れるだろうね」

 

 僕と弥生は改めて事の困難さに顔をしかめた。しかし、一度産むと決めた以上は仕方がない。僕と弥生の未来の為にも、僕は何とかして両親を説得しなければならないのだ。それが僕に可能な、せめてもの男としてのプライドの発露だった。

 

「じゃあ、体に気をつけろよ。…、一応妊婦なんだから」

「はは、改めて言われると何だか変な感じだね。…うん、ありがとう。体を冷やさないようにするね」

 

 少し恥ずかしげに顔を赤らめながらも、弥生は「バイバイ」と言って僕に別れを告げる。そして、弥生が玄関の扉を開けて夕日に染まる黄昏時の世界に消えていこうとしたその時だった。

 

「由紀、どうして…」

 

 玄関を開けると由紀がいた。僕と弥生はただ唖然として彼女を見つめる。

 

 由紀は、雨が降っていないのにもかかわらず、レインコートに身を包んで僕たち二人を虚ろな目で見つめていた。その手には夕日に照らされて鈍色に光る鋭利なナイフが見て取れた。

 その瞬間、僕は何故由紀がレインコートを着ているのか、そしてこれから何をしようとしているのかを察して恐怖した。

 レインコートは返り血を直接浴びないためのもの。彼女は僕か弥生。あるいはその両方をそのナイフをもって刺そうとしているのだ。

 

 三文小説みたいな展開だと、危機感も忘れて苦笑してしまう。それほどまでに現実離れした光景だった。由紀がゆらりと体を揺らして僕達の方へと近付いて来る。

 

 

 逃げなければ。

 

 そう直感的に生存本能が告げる。

 

 逃げなければ。

 

 まだ玄関を閉めれば間に合うかもしれない。

 

 逃げなければ。

 

 でも、足がすくんで…、動けない。

 

 

 それは明確な殺意。研ぎ澄まされた殺意。

 

 由紀から発せられるその威圧に僕と弥生は一切動けなくなってしまった。由紀との距離はあと四メートル。あと、二メートル。あと…。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「捕まえた」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 由紀がそう言った瞬間、鮮血が宙に迸った。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

終話 三体系のエントロピー

 血が舞っていた。

 

 それは僕ではなくて弥生の血。生臭くて、暖かい。そんな血。

 

「ゆ、…由紀。なんで…」

 

 弥生は自分の刺された個所を見ると、小さな声で由紀の名前を呟いた。彼女の刺された箇所。それはちょうど下腹部の子宮があると思われる位置だった。由紀は弥生の命はおろか、新しく生まれてくる命すらも(ほふ)ろうとしていたのだ。

 

「もう、どうでもよくなっちゃった」

 

 由紀は嗤いながら泣いていた。それは自分でもよく分からない感情に突き動かされて取り返しのつかないことをしてしまったことへの後悔と、それと同時に来る達成感の表れ。由紀はもはや壊れていた。

 

 由紀はあえて弥生からナイフを抜かなかった。抜くと血管に空気が入り、すぐに死んでしまうと知っていたからであろう。この期に及んで、由紀はどこか理性的な面を残していた。それが弥生を殺したくないという僅かな逡巡から来るものなのか、あるいはなるべく長く苦しめていたいという残忍さから来るものなのかまでは分からない。

 

 由紀はその滴り落ちる涙を拭おうともせず、ただ何の感慨もないといった無表情で、弥生の下腹部から流れ出る血を見ながら悶絶する彼女の声を聴いていた。

 

「きゅ、救急車を呼ばないと…」

 

 僕はやっとのことで恐怖に打ち勝ち、携帯で救急車を呼ぶ。由紀はこのままでは殺人、ないし殺人未遂で捕まるにもかかわらず、一切その場から逃げようとはせずに、ただ僕と弥生を見つめていた。

 

「ねぇ、ねぇ、慎也。最期にお話をしようよ」

 

 由紀は自身の血に濡れた右手をハンカチで拭いて綺麗にすると、そう言った。

 

「由紀…、お前、なんて馬鹿なことをしたんだ」

「はは、確かにバカだね。できることなら殺したくなかった。私だって犯罪者にはなりたくないわよ。でも、…もうどうでもいいの」

 

 そう言って、由紀は地面に屈み込んでまた子供のようにいじけながら沈みゆく夕日を見た。

 

 この住宅街は人通りが少ないうえ、今日に限って僕の母はPTAの集まりに行っているせいで帰りが遅い。そのためこんな凄惨な事件が起こっても騒ぎだす人はおらず、ただ僕と由紀と血を流す弥生だけが道路の上に佇んでいた。

 三人だけの孤立系。孤立系のエントロピーは不可逆的に増加する。

 

「慎也が弥生のものになるくらいなら、殺してしまいたいと思った。弥生と寝て汚れた慎也の身体なんていらないと思った」

 

 由紀は地面をじっと見つめながらそう言った。由紀の視線の先には一匹の小さな蛾の死骸が転がっていた。それはおそらく街灯の光に惑わされて、その熱で死んだ哀れで愚かな蛾。由紀はその蛾を見ながら話を続けた。

 

「でも、こんな酷いことをされても私はまだ慎也のことを愛していた。私はどうしようもなく愚かな女だった。こんなクズみたいな男が、いまだに好きだった」

 

──だから、慎也にナイフは刺さない──

 

 由紀は僕の方を向くと「私の恩情に感謝しなさい」とどこか可笑し気に笑った。もう全てを諦めて、吹っ切れてしまった後の清々しい笑みだった。

 

 僕は焼け石に水とは思いながらもハンカチで弥生の傷口を止血する。ナイフはなるべく触らないように。だけど血は止めるように細心の注意を払ってハンカチを傷口に当てた。

 

「清潔じゃないなら、ハンカチを当てない方が良いんじゃない」

「うるさい、黙ってろよ」

 

 そもそもお前がナイフで弥生を刺したからこんなことになったんだろ、と心の中で悪態をつく。由紀の指摘が的を射ていたことも妙に癪に障った。

 

「ちぇ、つまんないの」

 

 由紀は弥生の応急処置に集中する僕の方を見て面白くなさそうにそう言う。それはまるで一緒に遊んで欲しいのにも拘わらず、両親に構ってもらえなくて拗ねた子供のような態度だった。

 

「まあ、いいや。かってにしゃべるから」

 

 そう言うと由紀は「よいしょ」と言って立ち上がり、所在なく僕たちの周りを歩き回って、ひとりでに語り始めた。

 

「私は慎也が好きよ。こんな事になった今でもね。でも慎也は弥生を選んでしまった」

 

 そう言って言葉を区切る。

 

「なにがダメだったんだろう。なんで弥生を選んだのだろうとさっきまでずっと考えてた。そして、分かったのよ。弥生が妊娠したからだって。弥生が妊娠しなければ慎也は最終的に私を選んでくれたはず。浮気は良くないことだけれど、一回くらいは許してあげる。でも妊娠はいただけない」

 

「だから、お腹の子諸共に殺してしまおうと思ったわ」と由紀は何が面白かったのか、ふふっと忍び笑いをした。

 

「お腹の中の子に罪はないだろ」

「あるわよ。だって貴方と弥生の愛の結晶なんて見たくもないわ。弥生が貴方の子を宿した時点で、その罪はお腹の中の子のものでもある」

 

 だから私は断罪したのよ。と由紀は言った。

 

「弥生が子を成した時点で私には負けしか残されていなかった。身を引いたら慎也とは結ばれない。かといって恨みに任せて弥生を殺したら警察行き。どちらにせよ詰んでいた、…だから、どうせなら私が気持ちよくなる方を選んでみたの」

 

 由紀は何処までも利己的な理由で罪を犯した。

 

「そのまま身を引いて新しい恋を探した方が建設的だろう」

 

 どの口がそれを言うかと思いながらも、由紀の説明に納得がいかなかった僕はそう反論する。すると由紀は「新しい恋だなんて、酷い人」といって少し寂しそうに笑った。

 

「理屈じゃないのよ、恋は。どこまでも中毒性があってもう抜け出せないところまで私は来てしまった」

 

「だったら!…尚更新しい恋を探して、そこに依存すれば良かったじゃないか。こんなことをしなくても…」

 

 幼馴染が。元恋人が犯罪者になる様を僕は見たくない。

 

 たとえ僕と由紀が結ばれる未来はあり得なくても、誰かこんなクズ僕よりも遙かに良い人と出会って、僕たちが傷つけた分、幸せになって欲しいという細やかな願いは、他ならぬ由紀自身の手によって潰された。

 

 どこまでも、愚かな選択を由紀はした。

 

 気が付くと、僕は嗚咽を漏らしていた。

 

 何でこんなことになってしまったのだろうか。

 

 何で由紀を犯罪者にしてしまうほど僕は彼女を追いつめてしまったのだろうか。

 

 何で弥生はこんなにも虫の息なのだろうか。

 

 何で、何で、何で、…。

 

 何でこんなにも世の中上手くいかないのだろう。

 

 

 僕が涙を流すと、血に濡れた弥生の手がそっと僕の手を掴んだ。そこでふと気が付いた。結局全ては僕自身が招いた結果なのだと。

 

 初めから従妹だからとかいう変な御託を並べずに、弥生に告白していればこんなふうに拗れなかった。あの時しっかりと由紀の告白を断っていれば、こんなことにはならなかった。弥生に襲われた時、彼女を蹴り飛ばしてでも抵抗していればこんな事にはならなかった。でも、その全てのターニングポイントで最悪の選択をしたのが僕だった。

 

 誰も傷つけない最適解など端から存在しなかったのに、僕は愚かにもその解を探し求めて、最悪の解をたたき出してしまったのだ。

 

 もし僕が由紀の告白を断ったのなら、失恋をした由紀は傷つきながらも、新しい恋を見つけて幸せになれたかもしれない。そしたら、僕と弥生の結婚式に呼ばれた由紀は僕たちを祝福してくれたかもしれない。

 

 でもそれはもう有り得ない未来。僕があの日、由紀の告白を受け入れてしまった時点で潰えてしまった未来。

 

 結局、僕が幼馴染という枠組みを壊したくなかったからこうなってしまった。

 結局、僕が由紀を傷つけるだけの勇気と誠実さを持っていなかったからこうなってしまった。

 

 由紀と弥生と僕自身。そして幼馴染という関係を含めた全てを守ろうとして、全てを失ってしまった。二兎追うものは一兎も得ずという言葉の意味を今になって痛感する。

 

 

「しんや、…、どうして、ないてるの」

 

 焦点の合わない目で弥生が小さく呟いた。遠くから救急車が来る音が聞こえた。

 

「何でもないから。もう喋るなよ、弥生」

 

 漫画やドラマでは死に際ほど良く喋る。だから喋るな。僕に最悪の想像をさせるな。弥生は黙って治療をされて、人知れずケロッと復活して僕の前に現れればいい。変なお涙頂戴な台詞や、哀愁は要らない。

 

「しんや、…ずっと、あいしてるから。なかないれよ…」

「分かったから。僕も弥生を愛しているから…、弥生が居てくれればそれだけで十分だから…。だからそんな今生のお別れみたいな事を言うなよ、馬鹿」

 

 弥生の手が心なしか冷たくなって行くのが分かる。それは確実に彼女の血液が体内から抜けていることの証左であった。弥生の呂律が上手く回わらなくなってきている。

 

 気が付いた時には、救急車がもうすぐそこまで来ていた。

 

「もうすぐ、すべてが終わるね…」

 

 僕達のやり取りを傍で見ていた殺人鬼(しらかわゆき)がそう呟いた。その汚い口を閉じろと言いたい。

 

「ねぇ、慎也。ワタシが一番恐れていることは何だと思う。つかまる事じゃないんだよ」

 

 その子供のように無邪気で残酷な小鬼(しらかわゆき)は、ケラケラと嗤って僕を見る。小鬼(しらかわゆき)はすでに『白川由紀』の殆どを喰い尽くしてしまっていた。

 

「それはシンヤがワタシを忘れること。忘れて弥生だけの思い出に塗り替えられること。この世でアナタと添い遂げられないのなら、せめてワタシはアナタの思い出の中で生きていたい」

 

 小鬼(しらかわゆき)はレインコートの内側隠していたもう一つのナイフを持つと、恍惚とした表情をしてそう言った。太陽がまさに沈もうとしていた。辺りが闇夜に包まれ始める。それは逢魔が時と呼ばれる、人ならざる者が闊歩する時間帯。

 

「これからアナタに忘れられない記憶を植え付けてあげる…。決して『白川由紀』を忘れられないように」

 

 そう言うと、小鬼(しらかわゆき)は清々しいほどの笑みを浮かべながら『白川由紀』の首を掻き切った。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Appendix
蛇足 二重性


「恐らくですけど解離性障害みたいなものじゃないですかねぇ。とはいっても、今のところ貴女の症状は比較的軽微なものなので安心して下さい」

 

 目の前の白衣の医者は私の症状を書き連ねたカルテをざっと一通り見ると、その白髪交じりの頭を掻きながらそう私に告げた。

 

「解離性…障害ですか?」

 

「そうです。いわゆる世間で言うところの多重人格ってやつですね。白川さんの場合はかなり軽微なものではありますが、ややその兆候が見受けられます」

 

 医者は「いやーそれにしても珍しいですね。こんな症例」と言って、喜色を浮かべながら私のことを珍獣でも見つけたかのように、まじまじと見てきた。

 

「お話を聞く限り白川さんの場合は、その貴女の理想とする『白川由紀』としての淑女的な人格と『しらかわゆき』というアナタのベースである幼い人格が混じったような感じになっているのではないでしょうか」

 

 おそらく幼い時から『白川由紀』さんを演じすぎて、どちらが本来の人格か分からなくなってしまったのでしょう。どこか『白川由紀』でなければいけないという脅迫観念でもあったんですかね?まだ中学二年生なのに無理しすぎるものじゃありませんよ。

 

 医者はそう言うと微かに笑った。突飛な話ではあったが、なるほど。私がずっと感じていた違和感の正体はそれなのだろうか。

 

「では、元のワタシである『しらかわゆき』さんは今どうしてるのでしょうね」

 

「さぁ、私には分かりません。ただ大きなストレスや不安を感じると人格障害の方は人が変わってしまうと言われています。一説には解離性障害が発生する原因は、自分の居場所がないなどといった過度な不安からくるとも言われていますしね。もっとも、詳しいことはまだ研究途中なうえ、個人差があるようですが」

 

「そうですか。じゃあ、もし失恋とか大きなショックでも受けたら『白川由紀』じゃなくて『しらかわゆき』がひょこっと表の人格として出て来たりして」

 

「はは、失恋ですか。よほど恋に入れ込んでいれば、そんなこともあるかもしれませんね。もしそうなった場合には、一体どうなってしまうのか私には分かりませんが。『しらかわゆき』さんの方の人格は精神年齢が幼いので、もしかしたら激高して相手に危害を加えてしまうかもしれませんよ」

 

 なんたって、十歳児みたいなもんですからね。

 

 そう言うと、医者は持っていたペンをナイフに見立てて、一人で愛憎劇を繰り広げながらおちゃらけてみせた。

 

「おふざけが過ぎましたな。まあ、とりあえず定期的なカウンセリングをしつつ様子を見ましょうか。くれぐれも過度のストレスは避けるように心がけてくださいね」

 

 トントンとカルテを纏めると、もう話はお終いとばかりに医者は私の方から目を反らす。

 

「先生。もし意図しないタイミングで『しらかわゆき』が出てきた時はどうればいいのでしょうか」

 

 最後にこれだけは『白川由紀』として訊いておきたかった。

 

「うーん、その時は諦めて『白川由紀』さんを殺して下さい。だって、我々はアナタの元の人格である『しらかわゆき』さんに、今の貴女の人格を統合するお手伝いをしている訳ですからね」

 

 そう言って、口元にペンを当てながら口の悪い医者は笑った。

 

 

 

 

了 

 

 

 

 

 




【後書き】

まず、この悪文をここまで読んで下さった物好きな読者の皆様に深謝を申し上げます。

オリジナル作品としては本作が私の処女作です。そのため至らぬ点が多かったとは思いますが、そこは生暖かい目で見ていただければと思っています。

なるべく文章の推敲は重ねましたが、残念ながら文才もなければ、浅学な身ゆえ、誤字誤用等があるやもしれません。その際はそっと優しく教えて頂ければ幸です。

さて、この「三体系のエントロピー」という物語のメインテーマは実のところ、『ヤンデレ』でもなければ『物理学』でもありません。(もちろん大きなテーマではありますが)
私は残酷な「幼さ」と歪な「大人らしさ」の二重性をこの話のメインに書いたつもりです

ヤンデレヒロインというものはどこか精神的な「幼さ」を持っていると私は考えています。
相手の気持ちを省みない偏執的な愛。気に入らない恋敵を消したい気持ちを抑えられない自制心のなさ。さらには、自分の思い通りに行かないと暴走してしまう独善性など。
そのヤンデレ特有の精神は、子供の持つ無邪気な残酷さや偏狭さに似た幼稚性を帯びています。

しかし、それと同時に彼女等の言葉遣いや行動力は十分子供の域を脱しており、権謀術数といったような腹の探り合いをできるだけの「大人らしさ」というものを持っている。

その相反する二つの性質が「重ね合わせ状態」になったのがヤンデレであり、彼女らが「大人」か「子供」かは観測する条件(それは彼女らが育った環境や、主人公の選択など)により異なる結果を見せるのです。
いわば、ある時は回折という波動性を示し、ある時は光電効果という粒子性を示す光のような存在がヤンデレの本質ではないでしょうか。

そのため、本作のヒロインである糸川弥生は、数理的な思考ができる「大人」としての知性と、幼少期の家庭環境からくる、無償の愛に飢えた「幼さ」を併せ持つという設定です。

また、白川由紀はコンプレックスからくる屈折した二つの人格。即ち仮面である淑女的な『白川由紀』と横暴で愚鈍な子供である『しらかわゆき』を内に秘めています。(そのため由紀の口調はある時は丁寧語、ある時はタメ口と安定して書かないようにしました)

もっとも、私の文章や物語の構成が余りにも拙いので、全くもってこのテーマを読者の皆様に伝えられた気が致しませんが、少しでもその片鱗を感じていただけたのならば、望外の喜びであります。

とはいえ、作品の解釈は自由であるべきです。自分なりの解釈や印象があるのであれば、筆者の戯れ言を真に受けず、それを大切になさって下さい(そもそも暇つぶしのネット小説なので、筆者も余り深く考えて書いてはいません!ほぼその場のノリと雰囲気で書き上げました)

長々と御託を並べましたが、ヤンデレというジャンルの隆盛を祈念して。ここで筆を擱かせて頂きます。



※なお解離性障害については創作の都合上、実際の症状とは異なる箇所が多々ありますがご了承ください


目次 感想へのリンク しおりを挟む




評価する
※目安 0:10の真逆 5:普通 10:(このサイトで)これ以上素晴らしい作品とは出会えない。
※評価値0,10についてはそれぞれ11個以上は投票できません。
評価する前に
評価する際のガイドライン
に違反していないか確認して下さい。