運命なき浮世に候へば、日ノ本一の兵に (後藤陸将)
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大坂の陣編
第1話 人は稀にFateを持って生まれてくる


フォント機能をどう使えばいいかわからず、かといっていきなり既存の作品に使うのが怖いので実験がてら書いてみました。


慶長二〇年(一六一五年) 五月七日(旧暦) 摂津の国 茶臼山

 

 

 茶臼山。山といっても、標高は二六mほどであり、元々この地は自然に存在する丘陵ではなく、墳丘長二〇〇mほどの規模の前方後円墳であった。前方後円墳の頂にはある程度の規模の軍勢が展開できるほどの開けた空間が存在する。

 緩やかに北から南に下ってはいるものの、全景を見る限りはほぼ平野と言っても過言ではないこの上町台地においては、標高がさほど高くはない茶臼山も眺望がきく高所だった。そして、上町台地を一望できるこの場所は、言い換えれば上町台地の大部分から眺めることのできる位置にある。

 この日、上町台地にはおよそ二〇万に及ぶ兵たちが展開していた。彼らの大部分が茶臼山を染めあげる『赤』をその視界に収めることができたのも当然のことだった。

 この地に布陣する軍勢の中で、まるで茶臼山が噴火したかのように沸き立つその『赤』の正体を知らぬものはいない。

 それは、茶臼山に張られた紅蓮の炎の如き赤い陣幕と、同じ赤に染められてたなびく幟旗。その陣中には、我が身を燃やし尽くす覚悟を表現するがごとき赤一色の具足を纏った精強な武士たち。そして、精兵たちの中にあってなお全く薄れない覇気と存在感を有する男。

 その男は、頭には雄々しい鹿の角を一対備え付け、六文銭の飾りを前方にあしらった兜を被り、胴には赤一色に染められた具足を纏っている。

 既に齢五〇近いというのに、その男は三〇代後半にしか見えぬほど若々しく、精悍な顔つき。

 この男こそ、一五年前には父親と共に一〇倍の敵軍の侵攻を阻み、さらにはこの前年の戦では砦一つをもって侵攻する敵軍に一万人以上の死傷者を与えて撃退し、天下にその武名を轟かせた戦国の世の最後の英傑、真田左衛門佐幸村に他ならなかった。

 後世、人々は彼のことをこう呼び、称えた。

日ノ本一の兵と――

 

 

 

 茶臼山の頂に設けられた本陣の中で床几に腰かけていた幸村は、眼下に展開する大軍勢をじっと見つめていた。

 早朝に開いた軍議が終わってから既に数時間が経つが、幸村は眼下の台地から視線を外していない。いつ何が起きても見逃さずにすぐに行動に移らんとする強い意思がその姿からは見てとれた。

 朝方の涼しさは既に過ぎ去り、代わりに次第に日差しにが強くなる。日差しを受けた具足は熱を持ち、汗で蒸れる。それでも、幸村は床几から動こうとはしなかった。

「焦らされますな」

「それが戦というものだ。内記は私よりも数多くの戦に出ているだろう?このようなことも一度や二度ではあるまいて」

「しかし、某にとっても一五年ぶりの戦。加えて、このような万を超える軍勢がぶつかり合う戦も初めてでございます。血が滾るのも無理からぬことだと思ってくだされ」

「私とて、それは同じなのだがな……しかし、内記のように心躍らせて落ち着かないといったほどではない。何故だろうな、不思議なほど心の中に波は立っておらぬ」

 傍らに立つ高梨内記が額に浮かぶ汗を拭いながら笑みを浮かべた。

「殿は徳川の大軍勢を二度も退け、天下にその智謀を称えられた御父上の息子でござる。加えて、昨年の真田丸での見事な采配。某のような槍働きしかできなかった男とは器が違うのでしょう。いやはや、此度も殿の采配が楽しみでござるなぁ」

 高梨内記は幸村の傅役だ。おそらく、幸村の人生の中で最も長く付き添っていた人物だ。内記には、自身が幸村の成長の一助を担ったという自負もある。まるで好物の菓子を前にした子供のように心躍らせているのも、彼の幸村に対する期待の裏返しでもあり、自身が傅役として支えてきた幼子がついには天下の名将となり、さらにその采配の下で戦えるという喜びがあってのことだろう。

 兜で隠されているために見えないが、既に高梨内記の頭には黒い髪は残っていない。顔にも、自身が幼かったころの記憶にはなかった皺が深く刻まれている。第一次上田合戦ではその槍働きで大きな手柄を立てた内記であったが、既に彼も眼下の敵軍の総大将ほどではなくとも老齢である。

 本当に、長い付き合いになったと幸村は思った。

「内記。水はこまめに飲むのだ。定期的に、のどが渇く前に飲むぐらいでよい。塩もその時になめておけ」

「殿が兵に対して水と塩を定期的に取れと口酸っぱく申しておりましたから、某とて欠かしてはおりませんぞ。老体だからといって気を遣う必要はありませぬ」

 内記は笑いながら腰に下げていた瓢箪を軽く手で叩いた。

 幸村は心を弾ませて、戦いの狼煙のあがる時を今か今かと待ち望む内記の隣で、僅かに破顔した。しかし、その内心は全く穏やかではなかった。

 

 ――内記。許せとは言わない。

 

 幸村は知っていた。既に豊臣の滅亡は避けられないことを。

 その結末を知っていてなお、この戦いに勝利することは不可能だと知っていながらも、幸村は周囲の人間を焚きつけ、さも勝利の可能性が残されているかのごとく振る舞い、扇動してきたのである。

 ただ、幸村自身の目的を果たすためだけに、幸村は彼らを死地へと送り込んだ。

 

 ――高梨内記も、青柳清庵も、三井豊前も、真田大介も、前右府様も皆死ぬのだ。否、殺されるも同然だ。この俺の策が殺すのだ。

 

 

 

 この期に及んで余力を残す意義はないため、豊臣の兵力を大坂城に迫る徳川勢の前面に展開させる。そして別動隊に徳川勢の後方を突かせ、徳川家康と徳川秀忠を討ち取る。これが幸村の立案した作戦の概要である。

 明石全登率いるキリシタン部隊で構成された別動隊が徳川勢の背後を突き、囮となり敵の目を引き付ける役目は茶臼山に陣を張った真田幸村の部隊が引き受ける。他の部隊は先鋒に毛利勝永、その他の遊軍の指揮を後藤基次、長曾我部盛親、木村重成がそれぞれ行うこととなっていた。

 これらの指揮官は皆、先年の冬の戦いで豊臣方で武名を馳せた将であり、まさに豊臣最後の総力戦と言うべき布陣であった。

 この最後の戦いまで豊臣方の兵力を温存するために、幸村は冬の陣の戦端が開かれた時から準備を進めてきた。

 史実大坂夏の陣では善戦するも敗北を喫した河内、紀州方面の戦いでの損害を軽微なものとし、万全とはいえないものの、優秀な指揮官とそれに従う精兵をこの天王寺の戦いまで温存することができた。

 しかし、幸村は知っている。豊臣が滅び、徳川がこの日本に二〇〇年の太平の世を築くという未来は既に定まっており、人理に干渉でもしない限りは決して揺るぎないということを。

 それは逆説的に、幸村の立案した作戦が決して成功することがないことを証明していた。

 確かに、江戸幕府を開いた徳川家康と、その後を継いで征夷大将軍となった二代将軍徳川秀忠。この二人を討ち取ることができれば、徳川の世は揺らぐだろう。いまだに豊臣恩顧の大名とて少なくなく、さらに豊臣家は朝廷との繋がりも深く大きな権威を持つ。徳川家の屋台骨となる二人をたて続けに失えば、豊臣の復権の可能性もないわけではない。

 勿論、これは徳川家康と徳川秀忠を討ち取ることが前提だ。しかし、この二人を討ち取ることは不可能。

 幸村は分かっている。幸村の戦いは、豊臣の滅亡と共に徳川の太平の世をもたらし、さらにその太平の世が終わったその後の未来を揺るぎないものとするための総仕上げであることを。

 ここで死ぬすべての人間の命が、徳川のつくる太平の世の礎になるのだ。

 そのために、幸村は口では景気よく豊臣の勝利や兵たちの栄達を謳いながら、己を含めた周囲の数多くの人間を死へと誘う。

 人生を支えてくれた傅役も、命をかけて忠義を尽くす忠臣も、己を天下の名将であり誇り高き父であると信じている息子も、牢人となっていた己を引き上げてくれた大恩ある主君も、武勇に秀でた信頼できる同僚も皆巻き込んで。

 

 

 

 ――このド畜生めが。

 

 真田左衛門佐()()――否、その男の身体を乗っ取った男、真田左衛門佐()()は、この世のものとは思えない外道へと成り下がった己を内心で罵倒した。

 

 

 

 

 

 

 

 永禄一〇年(一五六七年)、表裏比興の者と呼ばれた信州上田城主、真田安房守昌幸の二男として一人の男が生を受けた。幼名を、真田源次郎。そして、彼には生まれながらにして前世の記憶があった。

 それも、この時代から四〇〇年後の未来で生きた記憶があるのだ。

 とはいえ、前世の名前や家族のこともほとんど思い出せない。自分がどのように生き、どのように死んだのかすらわからない。

 何となく、大学を出て、就職して、内部事務をいろいろとやってきたことは分かるが、そこで誰とどんな関係にあったのかも思い出せない。

 明確に思い出せるのは自身の培ってきた知識と経験ぐらいだった。

 ただ、何故か自分がどうして転生したのかはわかる。

 誰かをかばってトラックに轢かれたり、通り魔に殺されたりした後で、夢か何かで神様やら閻魔さまやらが、うっかり死なせてしまったからお詫びにチートをあげますとか言ってわざわざ転生させてくれたわけではない。それだったらどれだけ気楽に第二の人生を謳歌できたことか。

 誰かに教えられたのか、そもそも自身を転生させた存在が名乗っていたのかどうかすら分からないが、母の胎内から生まれたその時から、彼は知っていた。

 自分を転生させたものが『抑止力』と呼ばれる力だということを。

 

『抑止力』

 

 一般的には、「核抑止力」に代表されるように、何かを思いとどまらせる力という意味の言葉であるが、この場合は意味が異なる。

 抑止力とは、集合無意識によって作られた、世界の安全装置のことを指す。

 この抑止力には厳密にいえば二種類が存在する。共に世界を存続させ続けることを目的としているものの、優先目的が異なる。

 幸村を転生させたものは、人類の集合無意識による破滅回避の祈りである、俗に言うところの「アラヤ」の抑止力、霊長の抑止力である。

 抑止力という存在については、彼の知識の中にあった。しかし、彼にとって抑止力というものは彼の生きる世界にあるものではなく、創作の中の存在でしかなかった。

 

 『月姫』、『Fate』、『空の境界』

 

 いずれも彼が前世で読んでいた小説やゲームである。

 抑止力はこれらの作品に共通する世界観の中で登場するものであり、各作品の登場人物等とも大きな関わりを持つものであった。

 ただ、彼は知っている。抑止力というものはまさにシステムそのものであり、それに巻き込まれる人間にとってはろくでもないものであると。

 抑止力に酷使された挙句に摩耗していった正義の味方になりたがっていた青年がいい例である。抑止力の発動に巻き込まれて町一つが灰燼に帰した例も少なくない。

 そして、彼もまた抑止力から■■■■■を大坂夏の陣にて討つという使命を与えられて転生させられた。

 抑止力によって与えられた使命を果たすことが彼の生まれついてから終生変わらない最優先目標であるが、これは彼が抑止力の考え方に同意しているからでも、抑止力の使命を果たすことによる意義を理解しているからでもない。

 端的に言えば、彼は魂に抑止力に与えられた使命を果たすように刷り込まれていた。彼自身、どうして自分が使命を果たそうとしているのかはわからないが、どうしても使命を最優先にしてしまうという己がいることを自覚していた。洗脳に近いやり方で己の価値観を捻じ曲げられたことに彼は激しい憤りを覚えずにはいられなかった。

 また、普段であれば直接的にサーヴァントを差し向けて人類の存続を脅かす元凶を直接排除するのが抑止力の定番のやり口であるが、今回は何故か彼をわざわざ転生させて、使命をその魂に刻み付けるという非常に遠回りな方法を取っている。脅威に対処できる人材が近くにいる場合は、当人にも気づかれない形で抑止力が脅威の排斥のために後押しする例もあるが、今回は直接的というにも、誰からも気づかれない形で間接的というにも、中途半端な介入であった。

 これにも彼は疑問を抱いたのだが、結局は彼とて抑止力に遣わされた存在でしかなく、抑止力に対してお伺いを立てるようなことができるはずもない。何故使命を果たすように己に洗脳じみた真似をして真田家の二男として送り出したのかも、直接サーヴァントを派遣しなかったのかも、彼には何もわからなかった。

 結局、彼にはただ真田源次郎として、抑止力のためにその人生を費やす以外の道は残されていなかったのである。

 しかし、何も悪いことばかりではない。歴史の教科書に登場する偉人と直接対面でき、現代では残っていない城を見ることや、大河ドラマの名場面に立ち会うこともできるのだ。そして、真田信繁の一世一代の名場面、大阪の陣に主役として登壇することができる。彼も戦国武将に憧れる部分があり、彼らと同じように生きてみたいと思ったことがないわけではない。

 せっかく安土桃山時代に生まれてきたのだから、歴史学者でも味わえない本場の戦国を堪能しようと彼は前向きに考え直すこととした。

 安土桃山時代の歴史については生前興味があったのか、歴史学者ほどでなくとも趣味人程度には知っている。そのため、うまく立ち回れるだろうと半ば期待しつつ彼は第二の人生のスタートを切った。

 

 ところが、良い誤算と悪い誤算が彼の当初思い描いていた人生設計を大きく狂わせることとなる。

 まず良い誤算は、彼の身体能力が明らかに異常だったことである。

 どうやら、この真田源次郎の身体にはタイプムーンの世界に登場する遠野秋葉や巴御前のように鬼種の血が入っているらしく、身体能力は明らかに一般的な人間のそれを凌駕していた。どこかの無双ゲームかBASARAの英傑並の身体能力と言ってもいいかもしれない。

 幼少期から、彼の身体は常人なら骨が砕けるほどの打撃でも痣一つですむ程度の頑強さと、牛を抱え上げることができるほどの怪力、平地であれば馬に匹敵する足の速さを有していた。

 父、真田安房守昌幸も、母の山手殿も共に鬼種の血が入っているような能力も容貌も持ち合わせていないので、これは隔世遺伝というやつなのだろうと彼は結論づけている。

 この頑丈な身体の恩恵を受け、彼は幼少期から身体を鍛えぬいた。時には城を抜け出して山に入って猪や熊を仕留め、タンパク質も積極的に摂取するように心がけた結果、背丈は史実の真田信繁の一五七cmを大きく超え、元服時には一八〇cmに達した。

 恵まれた体格と鬼種の血の恩恵を受け、槍働きを期待される若武者へと成長した彼であったが、彼の前半生でその恵まれた体躯と鬼種の血が活かされる槍働きが求められる機会はほとんどなかった。

 

 悪い誤算は、彼の期待していた第二の人生を大きく狂わせることとなった。

 史実における真田信繁の前半生と同様、彼も滝川一益への人質から、上杉家への人質を経て、豊臣秀吉の近習として仕えることとなるのが大まかな流れである。当然、その間に参戦した歴史に名を残すような戦いといえば第一次上田合戦くらいであり、それ以外の実戦経験と言えば、精々が野盗との戦闘ぐらいだった。

 その中で、彼が歴史を変えるために全く何も動いていなかったというわけではない。本能寺の変を防げないか、知識チートができないか等々いろいろと彼も試みてはいたのだ。しかし、彼が思い描いていたように都合よくいくことはまずなかった。

 そもそも、彼を転生させた背景にあるのは、抑止力だ。これは世界の存続を望むものであり、抑止力が守ろうとする世界を揺らがし、世界を剪定事象へ変えてしまったり人理定礎を乱す可能性のある規模の歴史改変は抑止力の望むところではなかった。

 勝手に信濃を飛び出して京まで行って本能寺で窮地に陥った信長を救い、そのまま士官できないか。関ケ原の戦いで父共々東軍に参加できないか等という戦国のIFを考えたことは何度もある。しかし、そのような歴史改変の具体的な実行計画を考えるたびに、彼の中の何かが警鐘を鳴らすのだ。

 理由もないのに何故か怖く感じる感覚。彼が感じたそれを例えるのであれば、一時期インターネット上で流行った蓮の種が詰まっている穴の画像を人間の皮膚に合成させた画像を見せられた時の生理的な忌避感に近い。

 しかも、その感覚は計画を具体的に考えれば考えるほどに、さらには実行しようと考えるほどに酷くなっていく。無理に大規模な歴史改変を実行しようとすれば眠ることすらできなくなるほどの強い恐怖に襲われるとなると、流石に鬼種の血を引く彼であっても耐えられず、計画を破棄せざるを得なかった。

 おそらく、人理を守るために派遣したものが逆に人理を歪めないようにする安全装置として組み込まれた枷であると彼は理解した。

 使命を果たすように刷り込み、さらに暴走を防ぐために縛る。人の価値観を歪め、尊厳を踏みにじる行為も、人類の破滅を回避するためならば抑止力にとっては何の問題にもならなかった。

 しかし、世界はそれこそ僅かな差異によって無数の枝葉のように分かれるものである。多少の差異はあっても未来が同じ方向に向かっている限り、より多くの分岐を作りえる可能性に満ちた未来を是とするこの宇宙は枝分かれした世界をも許容する。逆に言えば、未来の道筋を歪めない程度の差異であれば、抑止力の枷に囚われることがないということである。

 皮肉なことに、歴史に大きく干渉する行動かそうでない行動かは、歴史の改変に警鐘を鳴らす抑止力の安全装置によって察知できた。そのため、彼は抑止力に埋め込まれた安全装置が動かないギリギリの範囲で小さな歴史の改変を進めていった。抑止力の予定調和のためだけに第二の人生を費やすことには我慢ならず、せめて少しでも抑止力の意図しない歴史改変を成しえて一矢報いてやろうという彼の意地でもあった。

 

 結果、彼は大河ドラマでは「ちょっと主人公を盛り立てすぎじゃないか」と非難がくるだろう創作エピソードのようないくつかの歴史改変を成しえた。

 とはいえ、彼にできたことはそれだけでしかなく、彼の習った教科書に載っている歴史からは全く乖離することがないまま時が過ぎ、関ケ原の戦いを迎える。

 史実と同様に父と共に西軍についた彼は、第二次上田合戦に参戦して史実よりも大きな被害を中仙道を進まんとする徳川秀忠率いる軍勢に与えるも、それで関ケ原の戦いの結末が変わるわけがない。関ケ原の戦いに勝利した徳川家康によって、西軍に属して徳川秀忠の軍勢に無視できない損害を与えた真田親子は紀州高野山麓九度山村に配流された。

 九度山村に配流されて一一年後に父真田昌幸はこの世を去る。これを機に彼はそれまで名乗ってきた真田信繁から、真田幸村へと改名する。

 彼は本来、元服した時から史実の信繁とは別人であることから真田幸村を名乗りたかったのだが、父が与えた信繁という名は第四次川中島の合戦で壮絶な死を遂げた信玄の弟である武田信繁に肖ってつけられた名前であった。彼は父が二男に信繁の名をつけたいと態々武田家に許可まで取っていたことや、彼が死の直前まで武田家のことを想い続けていたことを知っていた。父の想いを汲んで、彼は父が死んだ後に改名したのである。

 

 彼の知る真田信繁という存在からの別離、そして史実の真田信繁とは違う結末で自身の第二の人生を終えるという覚悟、真田信繁の本来の人生を意図したものではないとはいえ奪ってしまったことに対する懺悔を込め、彼は幸村を名乗った。

 後世まで講談で語られ続けられる真田幸村(架空の英雄)になるために。




大坂の陣の結末まで書いてみて分かりました。
フォント機能は自分の筆力じゃ使いこなせません。
使いこなしてらっしゃる方々は本当にすごいですね。
とりあえず、新機能の使いかたが下手で恥ずかしいという理由から限定公開していた(仮)の時に使ってた見苦しいフォントを外してストック分をちょくちょく放出していきたいと思います。


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第2話 豊臣に策がございます

 天王寺の南側に布陣していた毛利勝永率いる軍勢は、前方に現れた徳川方の先鋒である本多忠朝の軍勢と壮絶な銃撃戦を展開していた。

 当初は一〇〇mほど離れた位置でにらみ合っていた両者であったが、毛利軍の兵が緊張か功名心からか先走って本多隊に銃撃を加え、これに本多隊が反撃したことが全面衝突の狼煙となった。

 先手をうたれたためか動揺していた本多隊は、毛利隊の激しい銃撃によって銃兵部隊を瞬く間に殲滅されてしまった。さらに、銃兵を失った本多隊は直接毛利隊の猛烈な火箭に晒されることとなり、指揮官である本多忠朝も毛利隊に配属された狙撃手に胸部を撃ち抜かれて即死していた。指揮官を失った本多隊は混乱状態から持ち直すことができず、生き残った兵たちは我が身可愛さから逃亡するか、訳も分からず右往左往している内に弾丸でその身体を貫かれるしかなかった。

 戦端が開かれてから一時間も経っていないだろう。しかし、既に本多隊は壊滅に近い損害を受けていたのである。

 部隊としての体をなさなくなった本多隊の醜態を見た指揮官の毛利勝永は、次の目標を定める。勝永が次の目標に見定めたのは、戦端を開いた本多隊に続いて前進した小笠原秀政の部隊であった。毛利隊によって圧倒された本多隊を支援するべき前進した小笠原隊であったが、救援にかけつけるまでの間に組織としての体をなさなくなった本多隊の生き残りの壊走に巻き込まれた挙句、毛利隊の側面に布陣していた後藤基次率いる軍勢の強襲を受け、防戦一方となっていた。

 

 ――結局、左衛門佐(幸村)の予定通りの展開か。

 

 勝永はこの日の早朝、茶臼山で開かれた軍議での真田幸村の言葉を思い出していた。

 

 

 

 茶臼山の頂に設けられた幸村の陣。まだ陽が昇りきっておらず、薄暗い陣幕の中で、五人の男が松明の明かりに照らされた二畳はあろう大阪城周辺の詳細な地図を囲んでいた。

 真田左衛門佐幸村、毛利豊前守勝永、後藤又兵衛基次、長曾我部宮内少輔盛親、大野修理大夫治長。

 豊臣家の有する兵力を預かっていた実質的な指揮官たちがそこに集合していた。

 地図には多数の駒が置かれており、その駒の上にはどの部隊の所属かわかるように小さな旗指物が刺さっていた。

「こちらの物見と行商人に紛れ込ませた間諜の報告によれば、岡山口の先鋒は前田を筆頭に片桐ら二万。その後ろに井伊、藤堂の一万、さらにその奥に秀忠の本陣二万五千。一方、天王寺口の先鋒は本多、浅野ら五千、その後ろに榊原、小笠原ら六千、さらにその奥に酒井、仙谷ら六千、最後に家康の本陣一万六千となっておるようです」

「家康は二万の軍勢のその奥ですか……」

 治長が唸った。

 豊臣方の戦力は、後詰を含めておよそ六万。しかも、岡山口からの攻撃を警戒するならば全兵力を天王寺口に集中させるということもできない。想定していたこととはいえ、徳川方の兵力はこちらを遥かに上回っている。家康も当初の予測通りに軍勢の最奥に陣を構えていた。

 家康の首を獲ることが不可能に近いことは一目瞭然だった。

 しかし、この場にいる誰もが諦めてはいなかった。彼らの眼には勝利の女神の後ろ髪をつかむだけではなく、そのまま押し倒さんとするほどの熱意が宿っている。

「初めから大御所がノコノコと首を儂らの前に差し出してくるような阿呆でないことは分かっていたことではないか、修理殿」

 この場で最も多くの戦場を潜ってきた経験を持つ知勇兼備の猛将である基次は、その人生で最も分の悪い戦を前に、不敵な笑みを浮かべた。

「今になって分かったことは、儂らに蹴散らされる哀れな輩の名よ」

 基次の大胆不敵な発言に続いて、勝永も口を開く。

「お言葉は尤もだと思います。家康めの首を獲ることがいかに困難かははじめから分かっていたことですからな。ただ……伊達の動きが気になりませんか?」

 そう言うと、勝永は笹の紋を描いた旗が刺さる駒を指さした。

「住吉街道を伊達が北上しているとなると、掃部(明石全登)殿の別動隊の進路を塞ぐ可能性があります」

「戦を知らぬ若造どもが相手であれば、掃部(明石全登)も役割を果たせよう。しかし、戦国の世の生き残りたる陸奥守(伊達政宗)が相手となると流石に分が悪いか」

 勝永の懸念に対し、基次も理解を示す。

「伊達の配置からして、別動隊との衝突の可能性は十分ありえるだろう。そのあたりはどう考えておるのだ、左衛門佐(幸村)

「狙いは家康の首ただ一つ。事前の取り決め通り、我らは徳川の軍勢を誘引し、その隙に背後に回った掃部殿が家康の首を獲る。あるいは、掃部殿に背後を突かれて混乱した徳川方に対してこちらも攻撃に転じ、挟撃によって家康を討ち取る。この方針に変わりはありませぬ」

「しかし、豊前守(毛利勝永)殿がさきほど申し上げたとおり、別動隊が伊達と会敵することも十分に考えられましょう。その時はどうするのですか?」

 治長の質問に対し、幸村は不遜な笑みを浮かべながら答える。

「別動隊がその存在を徳川方に察知されるか、偶発的に伊達や他の徳川方の軍勢と接触し、交戦するということは十分にありえましょう。ただ、一方で我ら本隊も、別動隊突入の隙をつくる前に偶発的に敵軍と衝突する可能性があります。そうなれば、徳川の戦力をこちらに誘引して別動隊突入の隙をつくるという任務を果たせませんから、どのみち別動隊により家康本陣強襲は不可能になることは確実です」

 治長は作戦の前提が崩れるような幸村の発言に対してつい声が出そうになったが、自軍の現状を思い出して閉口した。

 豊臣方の軍勢は、数はそれなりにいるが、軍としての力は御粗末という他ないからだ。

 豊臣方の主力は牢人であり、彼ら牢人の大多数は豊臣家への忠義とは別の理由から豊臣方に与している。徳川に恨みを持つものや、戦国の世の中で死に損ないただ死に場所を探すもの以外の志望動機は、大きく二つに分けられる。

 一つは、己の武功をあげるためだ。そしてその武功をもって仕官するなり家を立てるなりし、よりよい暮らしをする。関ケ原の戦い等で主家を失い、職も失った牢人にとって、戦争の場というのは自分の実力を知らしめる大きなアピールの場でもある。うまくいけば豊臣家に正式に召し抱えられたり、場合によっては徳川方に好待遇でスカウトされることもあると彼らは考えていた。

 そして、もう一方は日銭を稼ぐためである。関ケ原の合戦の後、主家が滅んだり、領地を失ったことで生活に困窮する牢人も少なからず発生した。彼らは、とにかく一時の金欲しさに豊臣の兵の募集に応じた。彼らにとって豊臣は日銭を支給している限りは主家であるが、言い換えればただの雇い主にすぎなかった。

 自分の武威を示すことか、金を稼ぐことしか頭にない雑兵が豊臣方の戦力の大半であったと言っても過言ではないだろう。

 当然、そのような兵で構成された軍勢に問題がないわけがない。

 移動すれば行軍も乱れ到着は遅れ、攻めれば指揮官の命令を待たずに抜け駆けするか、撤退の命令もきかずに遮二無二突撃し、さらには守るに辛抱弱く、すぐに持ち場を離れるか勝手に出撃しようとする。

 ここまで少なからず兵たちの勝手な行動で豊臣方は悩まされてきた。ここまでそれが致命的な問題にならなかったのは、偏に経験豊富で武勲もある幸村ら大坂五人衆の手腕の賜物であった。

「敵の注意を引き付けて別動隊の準備が整う前に、敵軍の挑発にのった先鋒が勝手に銃撃戦を開始し、そのままなし崩し的に全軍の衝突につながるというのが一番ありえそうですかな。まぁ、色々な懸念がありますが、結局のところ別動隊による家康強襲が難しくなった時点でやるべきことは一つです。そこで迷うことは何一つありません」

 茶臼山の頂にそろった豊臣方の将たちを前にして幸村は堂々と言い放った。

「我が軍も中々情けない有様ですが、冬の戦いを鑑みるに、徳川の陣もまた戦を知らぬ兵に、戦のやり方を知らぬ若武者が大半。流石に我らの兵も、帰るべき城が堀もない裸城となれば背水の陣でこの戦いに臨むでしょう。背水の陣となり、意気軒昂の軍勢を我らが指揮するなら、戦った時に混乱し崩壊するのは当然徳川方」

「そうですな、かつて伏見城で最後まで粘り強く戦ったあの恐るべき三河武士はもはやこの世にはおらぬらしいですぞ、又兵衛殿」

「冬に戦った家康の孫も、本多平八の倅も、あの三河武士とは思えぬ醜態であったからな」

 勝永の発言と又兵衛の返しに、くつくつと諸将の中に笑いが漏れる。

「なるほどな、左衛門佐(幸村)。お主は儂らに徳川の先鋒の弱兵どもを蹴散らし、さらにそのまま中央突破して敵軍全体をかき乱せと言いたいわけか。壊走する先鋒と、猛進する敵に巻き込まれれば後詰もまた混乱し、軍としての体をなさなくなる。さすれば、その影響は家康の本陣を守る旗本にまで波及する」

「ええ。又兵衛殿の言われたとおり、皆さまには敵軍をかき乱し、私が家康本陣に至るまでの道を切り拓いていただく。そこまでの道さえ切り拓いていただけたならば、家康の首は某が必ず討ち取ってごらんにいれましょう」

 家康の首を己が獲るという大胆不敵な幸村の発言。しかし、勝永は最初に首肯した。

「承知」

 これが幸村以外の人間の発案だったとすれば、それが例え彼が仕える主君の発案であっても勝永は難色を示したことだろう。幸村の発言を要約すれば、『自分が大金星を獲りに行くから君たちには露払いを任せたい』というものである。

 勝永とて一廉の武将だ。おいしいところを譲ってお膳立てに徹しよと言われれば、本来なら誇りが傷つかないはずがなかった。

 しかし、勝永は先年の戦いにおいて真田幸村が成した大功をその目で見ている。

 大坂城の南方に短期間で作り上げた砦をもってして徳川の大軍勢を迎え撃ち、徳川勢を全く砦に近づかせることなく大損害を与えた隙の無い指揮。

 真田丸を攻めあぐねて撤退する部隊を追撃した際の絶妙な引き際。

 迫りくる敵部隊を文字通り吹き飛ばした恐るべき槍使い。

 先日の河内、紀州方面の戦いにおいて徳川方の作戦を完全に先読みし、その裏をかいて自軍の損害を最小限に留めつつも徳川方に無視できない損害を与えた智謀。

 幸村がこれまでの戦いで積み上げた武功は、数々の武功を重ねてきた勝永をして、真田幸村という人間がこの日本最強の将であり、かつての九朗判官義経や楠公のように歴史に名を刻む英雄であると確信させたのであった。

 だからこそ、その幸村が自分たちを見込んで露払いを任せるというのであれば、勝永はそれに異議を唱えることはない。

 幸村ならば、自身が露払いを務めて徳川の軍勢を打ち砕き、家康の首へとつながる突破口を穿つこともできるだろう。しかし、突破口ができたとて、そこから家康の首を狙うことは容易なことではない。敵は弱兵に戦に不慣れな指揮官が大半とはいえ、こちらの倍近い大軍を擁しており、仮に突破口が拓かれたとしても時間が経てば数の暴力に圧倒されるのは自明の理である。

 さらに、采配を取るのは並の将ではなく、三方ヶ原の戦い以降は無敗を誇り、海道一の弓取と謳われた徳川家康だ。突破口ができたとして、援軍が到着してその穴を埋めるまでに卓越した指揮によって乗り切る可能性だって十分にあり得る。

 自分ならば、仮に幸村らが突破口をつくったとして、そこから僅かな時間で敵陣を突破し、家康の首にたどり着けるか。勝永は自問し、不可能だと即答した。

 この戦国の世で同じようなことを成した先人なぞ、かの総見院様(信長公)ぐらいしか勝永には思い浮かばない。勝永自身、武勇には自信があるが、それでもかの御方が桶狭間の合戦で成し遂げたようなことができると思えるほど自惚れてはいなかった。

 しかし、幸村ならば自分たちにはできないことをやってのけると勝永は確信していた。幸村がそう言うのであれば、露払いもやぶさかではなかった。

 勝永は、軍議に出席していた他の将たちに視線を向ける。

 後藤基次は沈黙をもって、大野治長は首肯をもって賛意を示した。

 長曽我部盛親も口角を吊り上げながら「承知」と口にした。

 

 

 

――左衛門佐(幸村)の言っていたとおりの事態になったが、反省も後悔もない。こうなった以上、儂らはあの男の勝利に盛大に華を添えてやろうではないか。

 

 勝永は、戦意に満ちた鋭い目つきに、さらに不敵な笑みを浮かべた。

 

――あの世で貴様に聞かせてもらうぞ。九朗判官を、楠公を、そして総見院様(信長公)をも超える日ノ本一の兵の武勇伝を。

 

 

 

「小笠原の側面を突く!!蹴散らせぇ!!」

 

 勝永の咆哮にも似た号令を受け、配下の兵たちも天を揺るがす鬨の声をあげる。

 彼の軍勢は一本の矢の如く猛然と小笠原隊の側面に突貫した。




上手くフォントを使えないので、結局ほとんど使ってない……


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第3話 初陣で戦の怖さを思い知らされた者は生涯戦下手で終わる

 松平忠直にとって、この戦いは死戦と決まっていた。

 鉄砲の轟音と、男たちの雄たけびと、血と何かが焦げたような臭いが支配する戦場にあって、忠直は仁王の如き形相を戦場に向けている。まるで、この目に映るすべてに安らぎはなく、叩き潰すべき仇敵だと言わんばかりの怒りがそこにはあふれていた。

 今にも刀をもって戦場に駆け出さずにはいられないのだろう。忠直の脚は何度も馬の腹をけり上げようと構えては、静かに下ろすを繰り返していた。

 元々、忠直は感情のコントロールが不得手である。家臣たちもその激昂しやすい性格を知っているため、普段から感情が爆発する前に忠直を宥めることが多かった。

 しかし、今は誰も忠直の怒りを鎮めようとはしていない。それどころか、本来であれば忠直を宥めるべき周囲のものたちも、鬼気迫る表情を浮かべていた。

 

 

 

――徳川に何度も煮え湯を飲ませた真田を討つのは俺だ。人を見る目のない大御所様に対する意趣返しに真田の首以上のものはない。

 

 

 

 そもそも、本来であれば松平忠直率いる越前勢の任されていた場所はもっと後方のはずであった。家康は天王寺口の先鋒は本多忠朝と決めていたため、茶臼山の正面、敵軍への一番槍を狙える位置に布陣しているはずがないのだ。

 実は、徳川方の天王寺口の先鋒は当初藤堂高虎の予定であった。しかし、大坂城に至る道中でも豊臣方と交戦し少なくない死傷者を出した高虎は、自軍の現状を鑑みて先鋒を辞退する旨を家康に伝えていた。家康も事情を理解して高虎の辞退を受け入れる。

 最終的には天王寺口の先鋒大将にかつての徳川四天王の一人、本多忠勝の二男本多忠朝を、岡山口の先鋒大将に秀忠の娘婿でもある前田利常を充てるという決定を下した。

 家格の釣り合いだけで言うのであれば、岡山口の先鋒に加賀一〇〇万石の大大名にして将軍の娘婿である前田勢がつくのなら、天王寺口の先鋒にふさわしいのは越前六七万石の大名にして同じく将軍の娘婿であり、家康の実の孫でもある松平忠直勢である。

 家康の決定を不服とした忠直は、すぐさま家臣の本多富正・本多成重の二名を家康の下に遣わし、先鋒を務めたいと願い出たが、それに対する家康の返答は冷ややかなものであった。

あやつは前年の合戦で真田丸に攻め入り無様に敗退していたなぁ

 本多富正の話では、家康は油虫でも見るかのような視線で二人を見下していたという。

お主らは和泉守(藤堂高虎)掃部助(井伊直孝)が戦っている時にも呑気に昼寝でもしていたと聞く。乳臭い大将に、腰抜けの家臣ばかりでは落とせる城も落とせぬ。そのようなやつらに先陣を任せるほどに耄碌したつもりはない。貴様らは後ろに引っ込んで後学のために前田勢が手柄をあげる様子を見ておけばよい。まぁ……正直に言えば後に活かせるかは期待しておらぬがな

 叱責や詰るというよりもただの侮蔑としか言いようのない返答であったが、本多らは何も言い返すことができず、ただそれを忠直に復命することしかできなかった。

 家康の返答を聞いた忠直は怒り狂った。元々、家康が父である結城秀康を嫌っており、その息子である自身を嫌っていることは知っている。だが、父の武功に対しては嫌っていながらも評価はしていたにもかかわらず、己に対してはその能力まで偏見をもって不当に低くみられることは耐えられなかった。

 しかし、怒り狂ったのは彼だけではない。腰抜け呼ばわりされた家臣たちも怒り心頭に発していたのである。

 家臣たちは口々に訴えた。

 

「もはや、我らを腰抜け等と侮蔑するものたちを黙らせるほどの武功をあげるほかありませぬ。これほどの恥辱を受け、どうして黙っていられましょう」

「このまま臆病者、腰抜けと蔑まれ続けるぐらいであれば、腹を掻っ捌いた方がマシです。どうせ死ぬ覚悟であるのならば、明日の戦で躯を晒し、それをもって越前兵は死をも恐れぬ精強な兵ぞろいであると天下に知らしめてやりましょうぞ」

「事此処に至っては、抜け駆けもやむを得ないことかと」

 

忠直は家臣たちの進言を受け入れ、抜け駆けを命じた。

「いよいよですな」

 重臣、吉田修理好寛の言葉に忠直は頷いた。

「もはや惜しむ命もない。真田めの首までたどり着くだけよ」

 越前松平勢は、茶臼山を下った真田隊と交戦していた。

 前線では互いに鉄砲隊を配置していたため、発砲によって生じた大量の黒煙が視界を遮っている。ここまで視界が悪ければ、流石に鉄砲による効果は望めない。

 鉄砲隊による射撃戦の次は、双方の槍隊の突撃。それが戦の典型的な流れである。

 忠直自身も立ったまま湯づけをかっこみ、大将である自らが前線に立つ覚悟を決めていた。

 忠直の面前には、穂先を正面に向けて整然と並ぶ槍隊。

「我らの道は二つのみ!!臆病者の誹りを生涯浴び続けながら後退するか、武功を手土産に閻魔の庁へ向かうか!!」

 忠直は声を張り上げた。

「閻魔庁への旅路、ついてきたいものだけがついてこい!!突撃じゃあ!!」

 戦意に満ちた槍隊は、その腹の底から吐き出した雄たけびをもって忠直の意思に応えた。

 穂先をそろえながら駆け出した軍勢に、恐れはない。未だに戦場に漂い続ける焦げた臭いのする黒い煙を抜けた穂先が陽に反射して、その戦意を映すかのごとく鋭く煌めいた。

 大地をどよもす突進の最中、槍を構えた勇者たちはその目につつじの園と見間違うほどの赤に身を染めた軍勢だけを映していた。

「ゆけぇ!!突けぇ!!」

 忠直の号令を受けた槍隊は、こちらと同様に前進してくる赤備えの槍隊めがけてさらに加速する。

 敵をその槍で突き殺すか、あるいは槍を上方から振り下ろして兜ごと頭蓋骨を叩き割る。それだけを見据えて男たちは駆けていた。

 

 

 

――見るがいい、大御所様。これこそが我が手勢、その武勇は天下に名を示した真田にも負けはせぬ立派な益荒男どもよ。

 

 

 

 忠直は、恐れることなく敵勢に突っ込んでいく手勢の勇猛さに震えた。

 これこそが我が軍勢、死をも恐れぬ精強な兵たち。

 自分たちは今、その目的も進むべき道もすべてが一致していると忠直は理解した。まさに、この軍勢こそが己を映しているのだと。

 先ほどちらりと見た本多勢と小笠原勢の姿を思い出して比較した忠直は蔑むような笑みを浮かべた。

 毛利勢に蹴散らされ、短時間で壊走した本多隊と、それを救援しようとしたものの呆気なく倒されて結果的に徳川方の混乱を一層助長させた小笠原勢の情けない姿。自分たちから名誉ある先鋒を奪っておきながらあの醜態。

 忠直は家康が自分の代わりにおいた先鋒が短時間で総崩れとなる様を見て溜飲を下げた。そして、彼らの無様な敗走を見ていたからこそ、自分たちの軍勢に対してより一層の自信を抱いた。あの連中に比べて、我が軍勢がいかに戦意に満ち、統制がとれていることかと。

 鬨を放ちながら突貫する己の軍勢を見た忠直は、勇猛果敢な軍勢に突っ込まれて動揺し、挙句の果てに赤備えの具足を泥と血で汚しながら壊走して大坂城へと逃げ帰る真田勢を幻視する。

 この軍勢であれば負けはしない。この華々しい勝利をもって大御所は私の武勇と己の色眼鏡の存在を認めることだろうと確信した。

 しかし、その陶酔に近い自信と己の生命を二の次にするほどの手柄への執着は一瞬で忠直の脳裏から吹き飛ばされることとなる。

 前方には自軍の突撃を邪魔する鉄砲隊も、進路を遮る堀も塀もなく、自軍の側面を突くことができる敵もいない。どこからも攻撃を受けるはずがないという確信。それは忠直だけではなく、その配下の兵たちにもあった。

 それを油断と言うのはいささか厳しすぎた。その意識の隙をつく攻撃があることを予測できなかったことは無理もない。まさか、敵と槍を突き合わせる前に攻撃を受けることなど彼らは露程も考えなかっただろう。

 突如、突撃を敢行した槍隊の最前列で閃光が奔る。さらに続いて、衝撃波と爆発音が松平勢を揺さぶった。続いて視界には大量の黒煙が立ち込めた。閃光は一度ならず、連続してほぼ同時に複数箇所で発生する。そしてその都度、大地は震え、兵たちは耳朶には強烈な音が叩きつけられた。

 忠直には自軍に何が起こったのか理解できなかった。彼に理解できたのは、閃光と爆発、衝撃と黒煙。前方で火薬が爆発したという事実だけであった。

 次いで、忠直は自軍の先鋒の悲鳴と狂騒した兵たちの叫びを耳にする。しかし、それでもまだ忠直は何が起こったのか把握できなかった。

 

 

 

「ばかな」

 訳が分からずにポツリとそう零し、ただ突っ立っていることしか忠直にはできなかった。

 自軍の状況を最も広い視野から確認できる大将ですら何が起こっているのか把握できないのだから、兵たちもまた何が起こっているのか把握できるはずがない。

 辛うじて最前線で槍を構えていた兵たちは、自分たちの身がどうなったのかを把握することができた。

 ある兵は爆発の衝撃で足を失い、ある兵は飛んできた金属片に身体を引き裂かれて大量の血を流した。またある兵は飛んできた小さな何かに目を穿たれ、ある兵はすさまじい爆音によって鼓膜が破れていた。

 聴覚や視覚を失った兵が戦場において平静を保っていられるだろうか。ましてや、原因不明の攻撃によって死傷者も多数出ている状態では、五体満足な兵でも未知の攻撃への恐怖からパニックになっても不思議ではない。

「何が起こったというのだ!?」

「まさか……いや、しかし、そんなはずがない。だが、それ以外には……」

 何かを察したのか、突然ブツブツと呟きだした吉田好寛に、忠直は縋るように尋ねた。

「修理!!教えてくれ、何が起こったのだ、あの爆発はなんだ!?大筒か!?」

「いえ、大筒ではあのような爆発は起こりませぬ。大筒はあくまで鉄砲と基本は同じですから、鉛玉しかとばせませぬ」

「では、あれは何なのだ」

 吉田はわずかに言い淀み、絞り出すような声で忠直に答えた。

「恐らく、あれは埋火ではないかと……。木でできた容器に火薬と鉄の欠片を入れ、その上竹筒と火のついた線香や火縄をおいて地面に埋めるのです。地面に埋まった埋火を兵が踏み抜いた瞬間、火は火薬に引火し、爆発します。某も直接見たことはございませぬが、かつて太閤殿下の紀州討伐の際に雑賀や根来の連中が使ったと聞いております」

 埋火とは、端的に言えば戦国時代の地雷である。信管がないため線香や火縄で代用しているが、それらの火種はあまり長くは持続しない。

「そのようなものが戦に使われた話を聞いたことがないぞ!!」

「無理もありませぬ。そもそも、戦の前に戦場にしかけなければ意味のない罠の類にございまするゆえ。それに加えて、火縄や線香は何日も持つわけではありませぬ。いつどこで合戦の火蓋が切られるのか正確に理解した上でその前日の夜に仕掛けることが埋火を使う前提になりましょう」

「まさか、真田はこの場所で、今儂が突撃を行うことを読んでいたというのか!?そんなこと、あり得るはずがなかろう!!」

 忠直は信じられない事態に直面し、譫言のように「ありえん」と言い続けた。吉田が言った通り、この惨状が埋火によって引き起こされたものだとしたら、敵は火縄の持続時間まで考慮した上で埋火を事前に設置したこととなる。

 この爆発が一つや二つであれば、当てずっぽうに時間差で埋めていたなどの可能性が考えられるだろう。しかし、実際には多数の埋火がほぼ同時に爆発していた。

 このことが示すのは、今、この場所で自分たちが突撃することまですべて予測されていたという事実だ。自分たちがずっと真田の手のひらの内で踊らされていたなどとは到底忠直には信じられないことであった。

 忠直が現実逃避をしている一方で、予期せぬ攻撃によって越前松平勢の兵たちは恐慌状態に陥っていた。さらに、本来であればその恐慌状態を抑える立場にある指揮官たちも自分たちの身に何が起こったのかわからず、その驚愕から抜け出すことができずに反応が出遅れた。

 兵のパニックと指揮官の反応の遅れ、加えて忠直の茫然自失。それがもたらしたのは全軍の恐慌状態だった。

 もはや、越前松平勢は先ほどまでの勇猛果敢な将が率いる一五〇〇〇の精強な兵を擁した精鋭部隊ではなかった。

 そこにいたのは、判断力を失ったただの一五〇〇〇の人の集まりだった。

 そして、その隙を彼らの目の前にいる真田勢が見逃すはずがない。

 

敵勢は崩れた!!かかれぇ!!

 赤一色に染まった真田勢が突撃を敢行する。

 まるで、それは鉄砲水のようだった。赤の流れが勢いよく松平勢にぶつかるも、松平勢はそれに耐えられなかった。

 先陣は勢いよく雪崩れ込む敵勢を阻む堤防の役割を果たせず、ほとんど耐えることなく決壊した。先陣に立っていた兵士たちは槍や刀を捨て、我先にと真田勢に背を向けて逃げ出した。

 結果、逃げ出した先陣と真田勢が入り乱れて後方へと乱入し、後方にいた兵士たちは大混乱に陥った。

 前方から敵といっしょに味方が突っ込んでくるのだ。後方の兵士も敵に対抗するために武器を構えたが、死に物狂いで突入してきた先陣の兵士たちに巻き込まれて彼らも満足に槍を振るえず、真田勢の勢いに呑まれたのである。

 最前線が決壊した後は、まるでドミノ倒しのように連鎖して混乱が松平軍全体に広がっていく。その混乱は、忠直がいる本陣にもすぐに波及した。

 

「殿!!お味方総崩れです!!すぐそばまで真田勢が迫っておりまする」

「ふざけるな!!認めぬ……儂は認めぬぞ!!」

 前線の状況を伝えにきた伝令に対して忠直は声を荒げた。

 自分が武功を立て、大御所に認めさせる絶好の機会でありながら配下の軍勢のこの体たらく。これでは武功など望むべくもない。

 さらに、抜け駆けを企てていながら全軍総崩れとなれば、これは大失態である。戦下手、無能の烙印を押されることも免れないだろう。

「ここは危のうござる、今すぐに下がりましょう」

「そんなことができるか、この腑抜けどもがぁ!!儂が出る!!馬を用意せい!!」

 老臣の進言を一顧だにせず、忠直は槍をもって立ち上がった。しかし、前に出ようとする忠直を老臣たちは必死に諫める。

「お待ちくだされ。すぐそばまで真田の軍勢が迫っているのです。御身にもしものことがあれば」

「貴様こそ目の前が見えておらぬのか!!すぐそこに敵がおるのだ!!これを討たずして何が武士か、何が親藩越前松平か!!」

「者ども、殿を止めい!!」

 もはや言葉では止められないと悟った吉田修理の命令で周囲のものが忠直を取り押さえる。

「修理、貴様!!」

「我らは殿の家臣でもありますが、越前松平の家臣なのです!!越前松平のため、殿には生きてこの雪辱を晴らす機会をこの修理が必ず用意します!!ですから今は何卒」

「雪辱を晴らす機会だと!?今目の前にそれがあるではないか!!」

 兵たちに半ば引き摺られるような形で後退する忠直。そして、本陣から後退する最中に彼は見た。

 まるで地獄の炎を思わせる赤に染まった津波が忠直の本陣があった場所を蹂躙する。その赤備えの軍団の中でひときわ目立つ兜を被る男が、馬を走らせながら忠直に視線を向けていたのだ。

 鹿の角を左右にあしらい、その間には陽の光を浴びて煌めく六文銭。この男こそ眼前の軍団を率いる総大将にして徳川方の怨敵、真田左衛門佐幸村である。

 幸村に視線を向けられたことに気づいた忠直は、大将首である己を狙っているのかと身構える。

 しかし、幸村はすぐに視線を忠直からそらし、まるで何事もなかったかのように忠直の眼前を素通りしていった。

 

真田ァァ!!儂の首など取るに足らぬと申すかぁ!!

 忠直は激怒した。

 幸村は確かに自分の姿を確認した。自分が誰であるか知っていながらも首を獲ろうともせず、ただ松平勢を突破することを優先したのだ。 

 散々に己の軍勢を打ち砕いた男が、己に何の価値も認めていない。それは家康から認めてもらえないことにコンプレックスを抱いていた忠直の逆鱗に触れるものだった。

儂と戦え!!儂の首を獲ってみよ!!我こそは越前松平の大将ぞ!!

 喉が裂けるほどに声を張り上げる忠直だったが、幸村もその配下の軍勢も彼の叫びにまったく耳を貸すことをしない。

 幸村どころか、その配下の雑兵すら己の首を手柄だと思っていないことを理解した忠直は、怒り心頭に発した。

「離せ!!このような屈辱を受けたまま生きていられるか!!」

 鬼のような形相で吠える忠直。しかし、周囲のものたちに四肢を押さえられた忠直には吠えることしかできなかった。

こちらを見よ、真田左衛門佐ェ!!

 

 恐慌状態となった松平勢は、加えて毛利勢によって壊走した敗残兵の逃亡にも巻き込まれた挙句、側面から毛利・後藤隊の襲撃を受けたことで完全に軍としての体裁を失っていた。

 周囲で何が起きているのかも理解できず右往左往するか、本多や小笠原の敗残兵に流されて逃亡するしかない一五〇〇〇の人の集まりなど、もはや真田勢の脅威ではない。

 真田勢は一五〇〇〇の軍勢の中央を突撃し、僅かな軍勢でこれを突破した。

 後世の資料によれば、真田勢の損害は僅か一〇〇名程度だったという。

 また、松平忠直には幸村が手柄に値せず捨て置いたという風聞が流れた。

 この逸話にちなみ、誰が言ったか『越前の捨て首』。

 大坂の陣の後の忠直には乱行が目立ったこともあり、明治時代以降には徳川と戦った幸村がヒーローとして持ち上げられる一方で忠直はヒーローに惨めに敗北する愚将というイメージが定着することになる。



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第4話 えらいことになった

三河守(松平忠直)め!!抜け駆けを企ててこの様は何だ!!」

 家康の本陣にて、家康は怒りを露にしていた。

 伝令が告げたのは越前松平の総崩れと、その後備が次々と崩れていく自軍の無様な姿だった。

 それだけでも家康にとっては不愉快極まりないことであるが、自軍を総崩れにさせた男と、最初にその餌食になった男がさらに彼の怒りを煽っていた。

「真田は父も子も、厄介でございますなぁ」

 地団太を踏む家康を袈裟に身を包んだ坊主が諫めた。

「天海よ、厄介ですむ話ではないぞ。上田に大坂、何度も何度も忌々しい奴らよ」

「しかし、三河守様も逸りすぎましたな」

「あやつには最初から期待してはおらんわ!!」

 家康は不愉快さを隠すつもりもないらしく、しかめっ面で爪を噛み始めた。

 天海はまた主君のいつもの癖が始まったと心の中で嘆息する。

 しかし、天海にも家康の不快さは理解できた。

 今眼前の戦場で大暴れしている真田幸村は、前年の戦でも強固な出城を大坂城の南方に築いて徳川方の猛攻を何度も跳ね返し、大きな被害を受けた怨敵である。また、その父親もかつて上田城における二度の合戦で数で圧倒的に勝る徳川の軍勢を僅かな犠牲で退けたという過去がある。

 これらの実績から真田こそ徳川の天敵であるという風評が世に蔓延る始末である。当然、天下を取った家康からすれば面白い話ではない。彼の戦略はこれまでに何度も真田によって狂わされてきたのだから。

 ただ、自分には全く従わないとはいえ、真田親子の力量については認めていたのだろう。家康にとって真田親子よりも癪に障るのは自軍の醜態だった。

 徳川の天下取りを支えた武勇に秀でた将はこのころにはほとんど残っていなかった。家康自身、現状で戦場で頼れる将を挙げろと問われて配下の者の名を挙げることはできないだろうと自覚している。

 生き残っている古参なぞ、水野勝成や大久保忠教など家康も正直なところ持て余している三河武士の負の面が強く残るようなものばかりである。

 将も世代交代で弱体化しているが、兵たちも弱体化している。生まれたころから徳川という大大名の兵という立場に置かれ、その立場に浮かれた初陣の若年兵が今の徳川の軍勢には少なくないのだ。

「負けるかもしれなんだ関ケ原の方がまだ安心できたわ。勝って当然の戦で、何故こうも兵も将も不安になるやつしかおらんのか。将として信用できるものなど、和泉守(藤堂高虎)陸奥守(伊達政宗)くらいのものよ。親藩も譜代もよいやつがおらぬ」

「世代も変わりました。大御所様に天下を取らせて、彼らの仕事は終わったのですよ」

万千代(井伊直政)平八郎(本多忠勝)……懐かしいの。あやつらがおれば、もう一度関ケ原をやってもよいわ」

 家康は目を細め、在りし日の徳川軍を支えた将たちを思い出す。まだ自分が天下人などとは程遠い、ただの大名だったころから支えてくれた忠臣や、戦に外交に類まれなる才能を発揮した名将たち。

 だが、今の家康の前に彼らの姿はない。彼らの跡目を継いだものたちが豊臣との戦に出ているのだが、先代には遠く及ばぬその力量に、家康は怒りでも悲しみでもなく、寂しさを覚えていた。

「長生きしたからこそ掴めた天下であるとわかっておる。だが、儂に最後まで付き合ってくれるものがおらぬと思うと、虚しい」

「某では不満と?」

「お主は万千代や平八郎とは違うわ。其方が儂の下へ来たのは、あの猿の作る日ノ本を否定せんがため。儂への忠義が全く無かったとは思ってはおらぬが、お主と儂は互いに利害が一致していたのが大きいのもまた事実ではないか」

「手厳しいですな。ですが、死ぬことを惜しまれぬ者ほど世に長く留まるものですぞ」

「天海、お主はそうは言っても長生きにもほどがあるぞ。美濃の斎藤の興亡を知りながら生き延びているものなど、この世にいかほどいようか。まぁ、儂もその死ぬことを惜しまれぬ者であろうから、人のことは言えぬのかもしれぬが」

「外様の大名や豊臣恩顧の将たちにしてみれば、大御所様には早く逝ってほしいでしょうな」

「秀忠もそう思っておるのやもしれぬな。儂が後見しているような現状をよくは思っておらぬと聞く」

 家康と天海は軽口を叩きあい笑いあう。

「しかし、戦下手なところがあるが、跡目を秀忠に決めてよかったと思っておる。……秀康に跡目を継がせるべきだったか悩むこともあったが、今ならば秀康にせんでよかったと断言できるぞ。秀康に跡目を継がせていたならばあの阿呆が三代将軍になったかと思うと、背筋が凍るわい」

 家康は不甲斐ない自軍の中でも、己の孫を酷評する。

「冬の戦で散々に真田にやられている様を見てどうして先陣など任せられるか」

「ですが大御所様。あそこまで言わなくてもよかったのでは?あれほど貶されれば、意固地になるのも無理からぬことでしょう」

「それで抜け駆けを企んであの様というのを見ると、余計なことをしたとは思わんでもない。ただ、冬の戦で真田に散々にやられておきながら汚名を挽回してどうする。汚名は返上するものよ」

 

 戦場でのことで謗られた武士が名誉を回復するためには、戦場で武功をあげる以外の方法はない。具体的には、最初に敵陣に突っ込みその勇猛果敢さを示すことのできる一番槍か、名のある将の首をあげることである。家康に貶された忠直は、どこにいるかわからないしそもそも獲れる可能性も高くはない兜首よりも、確実に武功となる一番槍を狙った。

 しかし、一番槍を狙い個々が勝手に戦端を開けば軍は統制を欠くことになり、それは時として敗北にもつながりかねない。だからこそ、家康は最初から先鋒を担当する武将を割り当て、抜け駆けをして一番槍を狙うものが出ないように取り計らっていた。

 戦場において一番槍を横取りすることとなる抜け駆けは、軍律で厳しく罰することになると家康も口すっぱく諸将に言い聞かせている。それにも関わらず、忠直の軍律違反に対する認識は甘いものであった。

 それは、かつて同じように抜け駆けをしていながらも罰せられることのなかった前例があったからである。

 かつて、関ケ原の戦いにおいて先代の井伊家当主であり徳川四天王の一人であった井伊直政は、娘婿であった家康の四男と共に東軍の先鋒を任じられていた福島正則を差し置いて西軍に一番槍をしかけた。初陣の娘婿のために偵察をしていたところ、その最中偶然に敵と交戦したという体であったが、抜け駆けであったことは疑う余地がなかった。

 そして、戦後の論功行賞で家康はこの抜け駆けに関して直政を咎めることはせず、その武勇を称えたという。

 この前例に則るのであれば、この戦いで抜け駆けをしたとしても、戦功さえあげれば罰よりも賞の方が上回るため問題ないという打算が忠直やその家臣団にはあったのだ。

 しかし、戦功をあげることしか頭にない家臣たちと、家康を見返すこと以外最初から眼中にない忠直には気づくことができなかった。

 直政の抜け駆けは、これから忠直がしようとしている己の武功だけのための抜け駆けとは、まったく異なる理由から行われていたからこそ家康が咎めなかったということを。

 

 関ケ原の合戦はまさに天下分け目の合戦であった。ただ、この戦いは石田三成率いる西軍を打倒するための戦いではあるが、徳川にとってはそれ以上に徳川の天下を作り出すための合戦であった。

 この戦いによって家康が最も果たしたかった目標は徳川の天下を築くことである。石田三成らを討って豊臣の力を徳川に比べて相対的に弱体化させることも目標ではあったが、それは徳川の天下が築かれてこそ意味のあるものだった。

 そして、徳川の天下を築くためには、西軍との闘いにおいて徳川の武を示す必要があった。徳川の武を示して西軍を打倒し、それで初めて徳川は天下への足掛かりをつかむことができるのである。

 ところが、関ケ原の戦いの前哨戦ともいえる西軍の岐阜城攻めでは、福島正則ら豊臣恩顧の大名が手柄をあげていた。そして、関ケ原の合戦の先鋒もまた、福島正則が指名されていた。

 徳川軍は、主力である家康本隊は関東方面から転進するのに時間がかかっており、秀忠率いる別動隊の行軍も予定から遅れていたためこれまでに戦功をあげることができていなかった。結果、徳川の主力が到着するまでの間豊臣恩顧の諸将が西軍との最前線を支えるかたちとなっていた。関ケ原の合戦における布陣も、先鋒や次鋒の大半は豊臣恩顧の諸将で、徳川の軍勢は井伊直政らの少数の例外を除き、多くが後方に陣を敷いていた。

 もしもこのまま福島正則が一番槍の戦功を手に入れることとなれば、関ケ原の合戦の勝利の立役者は豊臣恩顧の武将ということとなり、戦後も徳川は彼らに配慮することを強いられる。そうなれば、徳川への忠誠心よりも秀頼に対する忠誠心が勝るであろう豊臣恩顧の武将たちは、徳川の天下にとって非常に目障りなものとなることは確実だった。

 だからこそ、徳川にとっては一番槍という武功が必要だった。関ケ原の合戦は徳川の武功によるものであると世に知らしめなければならなかったからである。

 戦後処理やその後の徳川の政権運営まで見据え、徳川の武功の必要性を理解していた井伊直政にとっては、徳川が武を示して勝てればそれでよかった。仮に直政が軍律に背いたことで罰せられようとも、抜け駆けによって徳川が関ケ原の合戦の火ぶたを切ったことを世に知らしめることができれば、徳川にとってはそれが最良の結果となることを彼は理解していた。

 直政は己の武功をあげるためではなく、徳川の天下のために抜け駆けを敢行したのである。

 家康は直政がどうして抜け駆けをしなければならなかったかを理解していた。そして、直政が家康と同じ視点をもって関ケ原の合戦に臨んでいたことを理解していたからこそ、家康もこれを罰することはなかった。戦後の論功行賞では、大胆にも敵中を中央突破した島津勢に立ち塞がった結果大けがを負った直政に対し、家康は抜け駆けのことを罰するどころか自身で調合した薬を与えて労ったという。

 家康がかつて武田勝頼率いる軍勢と遠江で戦った際、家康の家臣の大須賀弥吉という男の抜け駆けに激怒し、重臣らのとりなしも一顧だにせず弥吉に切腹を申しつけたことを忠直は知らない。

 そして、徳川家のためではなく、ただ自分勝手さから武功を欲した愚か者の抜け駆けを罰しないほど家康が身内に甘い男ではないということも知らないのだろう。

 一番槍欲しさに前田利常軍に対して自分たちは家康から天王寺表の先陣を拝命したと虚偽の伝令を出したうえで前田軍の軍列を強引に断ち切る形で前進し、天王寺口に布陣したことは既に家康の耳にも入っていた。

 しかし、家康はいつ戦闘が始まってもおかしくない状況で忠直ら越前松平勢を動かせば全軍に混乱を招きかねないという理由から、ひとまず忠直らの独断専行を放置せざるをえなかったのである。

 

「儂も甘かったのかもしれぬ。ヤツも、適当な理由をつけてそのうち取り潰すか」

「……この戦が、日ノ本最後の戦となりましょう。戦下手でも政が無難であれば問題がないのでは?先ほどの三河守殿の使いへの言伝もそうですが、また反発を招きかねませぬぞ」

 天海の言葉に家康は渋い顔をした。些か私情が出すぎていたことを家康自身も理解していたため、天海に積極的に反論できなかったためである。

 しかし、戦場に似合わない緊張感のない軽口の叩きあいはそう長くは続かなかった。

 そして、それは家康の目の前で起こる。

 酒井家次ら小大名が集まる五三〇〇余りの隊を蹴散らした毛利勝永隊と後藤基次隊が家康本陣と衝突する。

 総崩れとなった先鋒の敗走兵が雪崩れ込むという混乱に巻き込まれつつも辛うじて最初の攻勢を持ちこたえたあたり、流石に家康の本陣であった。

 しかし、鬼気迫る毛利・後藤隊の猛攻に押されて総崩れにならないように持ちこたえることが精いっぱいだった家康の本陣に対し、さらに越前勢の中央から飛び出した赤備えの軍勢が襲撃をかけた。二方面からの猛攻によって瞬く間に先鋒は蹴散らされ、家康本陣はまるで鉾で突かれた砂山のように崩れ去っていく。

 そして、息を切らせながら家康の本陣に転がり込んできた伝令が火急の事態が起こっていることを家康に告げた。

「本多出雲守(忠朝)様、小笠原兵部大輔(秀政)様、小笠原信濃守(忠脩)様お討ち死に!!」

「お味方総崩れ。六文銭の旗を掲げた軍勢が目前まで迫っております」

「大御所様、ここは危のうございます!!すぐにここから離れましょう!!」

 

 家康は想定だにしていなかった事態を目の前にし、唖然とした。




このころに生き残ってる譜代って三河武士の負の面をこじらせたヤツがほとんどなんですよね……
端的に言ってしまえば、声がでかい老害がたくさん。


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第5話 死に様は生き方を反映する

第四次聖杯戦争までもうちっと続くんじゃ


 幸村が十文字槍を振るう。

 馬上から振るわれた槍は眼前の兵の額を正確に貫き、その生命活動を停止させた。

 一突で確実に敵の抵抗力を奪うことができるため、戦闘において幸村は好んで頭部――脳を狙う。

 人体の急所は数あれど、損傷すれば最も短時間で生命を維持できなくなる器官は脳である。的が小さく、丸みを帯びた頭蓋骨によって守られているために脳に生命の危機に及ぶ損傷を与えることが難しい。それ故に実戦において積極的に敵の頭部を狙う兵士はそう多くはない。死に至るまで時間を要するとはいえ、それでも人体には多くの急所があり、それは的が大きく狙いやすい胴体にもあるのだから。M16で狙撃もやってのける某東洋系スナイパーのような化け物じみた技量がなければヘッドショットを連発することなど不可能なのだ。

 しかし、技量と肉体性能に秀でた幸村もまた、某13のような人外例外に属していた。

 最低限の動きで最も効率的に人の命を奪う。数多の武人が憧れた武術の極みの一つがそこにはあった。

 幸村の天性の膂力をもって放たれる突きの威力はどこぞのるろうにな新撰組の三番組組長の突きにも匹敵するだろう。

 さらに、その突きがすさまじい速度かつ精度で連続して繰り出されるのだ。かのTSUBAMEを斬らんと生涯を捧げたNOUMINやビームのでない病弱セイバーの多重次元屈折現象(魔剣)とまではいかないが、それでも一突きの威力と連射性能を総合的に勘案すればその能力は射程こそ限られるものの現代における小口径の速射砲と遜色ないものだった。

 いくら徳川方の兵が数をそろえて幸村の眼前に立ち塞がろうと、一突で即死は免れない連続突きによって一掃されるのだから時間稼ぎにしかならなかった。

 元々鬼種の先祖返りなのだから人間かどうかは議論の余地はあるかもしれないがそんな人間をやめている男が赤備えの軍勢を率い、立ち塞がる兵は眼前に幸村が現れると同時に額を貫かれて糸が切れた操り人形のように次々と崩れ落ちる。

 

 

 

道を開けるか死ぬか!!好きな方を選べ、小僧ども!!

 

 幸村の姿を正面から見た兵は、そこに鬼を見た。

 目があった瞬間に自身が狩人に生殺与奪を握られた獲物にすぎないことを否応なしに理解させられる鋭い眼光。血に塗れた全身から立ち昇る覇気。淡々と処刑を執行するかのように目の前の兵の命を絶つ死神のごとき槍技。

 彼らはその男が同じ人間ではなく、御伽噺や神話に出てくる怪物としか思えなかった。

 あれこそは玉藻前か、酒呑童子か、大嶽丸か。

 怪物を目の前にした彼らは怯え、竦み、そして狂ったアラームのようにけたたましく警鐘を鳴らし続ける本能に従い、怪物から背を向けて逃亡する道を選んだ。

「ば、化け物じゃあ!!」

「豊臣は鬼を従えておるのか!?話が違うではないか!!」

「ふざけるな!!儂はまだ死にとうない!!」

 想像をはるかに超える怪物を相手にしてなお戦意を保ち続けられる戦意の高い兵は今の徳川軍にはほとんどいなかった。

 かつて三方ヶ原で惨敗を喫した三河兵であれば、かの武田信玄率いる戦国屈指の兵ぞろいの軍勢が相手でもここまで無様に崩れることはなかっただろう。しかし、三方ヶ原の敗戦から四〇年の月日が流れ、関ケ原の戦い以後も一〇年ほど戦の機会がなかったため、この戦いが初陣という兵が少なくなかった。

 戦国の気風がまだ残る時代とはいえ、太平へと天秤が傾きつつある時代だ。戦場の恐ろしさも殺し合いの凄惨さも知らぬ兵に怪物退治に挑む勇者の如き気概があるはずもない。

 戦闘処女の軍団は統率もなく逃げ惑う獲物の群れに成り下がり、まるで大魚に追いかけられる小魚のように逃散した。

 

 

 

「首は捨て置け!!止まるな!!進め、殺せ、続けぇ!!」

 

 自ら陣頭に立ち、進路を塞ぐ敵を百発百中の突きをもって敵陣を食い破る幸村の背を見た兵たちは、そこに英雄を見た。

 それはまさに万夫不当、天下無双の英雄。平家を討ち滅ぼした九朗判官義経かあるいは三国志において最強を謳われる呂布か。書物の中の存在でしかなかったものを生で見た彼らは、興奮を抑えきれなかった。

 あれこそが英雄。あれこそが真の武士。

 戦国の世に生まれた男児であれば誰もが一度は憧れ、目指そうとした理想の武将の姿がそこにある。目の前で今、確かにここで新たな英雄譚が拓かれているのだ。

 男たちにはその背中が輝いて見えていた。そして、彼らは英雄の通った跡に残る数多の首に目もくれず、ただその眩しい背中を追いかける。

 英雄譚の続きを特等席で眺められる特権と、その英雄譚に自らが出演するという名誉に酔った彼らは、取り残されることを恐れるかのように一心不乱に幸村の背を追いかけ続けた。

 

「フハハ……ハハハハハ!!」

 

 赤備えの軍勢の最前列。幸村の姿を最も近くで見ていたこの男も目の前の光景に興奮を抑えられずにいた。

 男の名は大谷吉治。

 関ケ原の戦いで活躍した大谷吉継の息子であり、同腹の姉が嫁いだ幸村は彼にとっては義理の兄にあたる。

 とはいえ、彼自身と幸村の付き合いは時々父を交えて酒を飲むくらいであったし、太閤秀吉が存命のころも職務上の接点はなかった。幸村の人柄については知る機会は親族付き合いの中でそれなりにあったものの、武将としての幸村を知る機会はほとんどなかったと言ってもいい。

 だからこそ、幸村が大坂城に入城してきた際もそれほど期待してはいなかった。

 幸村の父、真田昌幸はその智謀を太閤秀吉にも高く評価されていたし、何よりもあの徳川家康の軍勢を僅かな手勢をもって二度も退けたという武名があった。もしも、昌幸が大坂城に入城したならば、おそらく采配を預けられていただろう。

 しかし、既に昌幸はこの世にはいない。その息子といっても、実績において父昌幸に遠く及ばず武名においても後藤又兵衛や長曽我部盛親ほど轟いてはいなかった。関ケ原の戦いの直前におこった第二次上田合戦では大手柄をあげたという話を聞いていたが、それもあの昌幸の策があればこそのものだというのが吉治やその他の牢人の多くの考えだった。

 幸村に力を貸してほしいという姉からの手紙があったからこそその配下にはついたものの、正直なところ幸村の指揮の下で関ケ原で無念の死を遂げた父の仇を討つなどということができるとは吉治は考えてもいなかった。

 しかし、彼の予想はいい意味で裏切られる。

 前年の真田丸を巡る戦いでも義兄の戦いを最も近くで見続けてきた吉治は、おそらく最初にその戦いぶりに魅せられた一人だっただろう。

 守りにおいては自軍の数倍の軍勢を出丸一つで翻弄するだけではなく、時には逆撃をも加えて敵軍に大損害を強いた真田昌幸を思わせる名采配。

 攻めにおいては自ら陣頭に立ち、一介の武者としても並ぶことのなき武勇と、兵たちの心を惹きつけるその雄姿。

 まさに戦国の世における英傑。

 方向性は違うが、太閤秀吉の下で戦い続けた父も同じように主君の姿に憧れ、その背をおいかけてきたのだろうと吉治は思った。

 戦国の世を変える英雄に付き従い、日ノ本の歴史を動かす大戦を駆ける。まさに、男冥利に尽きるというもの。

「すばらしいぞ、義兄上!!まさに真田の軍略、武勇!!応仁の乱より一五〇年続いたこの戦国の世において、義兄上の軍略と武勇に並ぶ将は他におりますまい!!」

 吉治は興奮に身を任せ、敵を突き崩しながらも吠え続けた。

「者ども、続けぇ!!この六文銭にただ続くのじゃあ!!儂らの骨の捨て場所は、今、この時ぞ!!」

 吉治の熱意は、幸村の背に続く男たちの総意でもあった。男たちは雄たけびをもって吉治に応える。

 男たちは狂気と間違えるほどの興奮に身を浸し、戦場を駆け抜けた。

 

 

 

 幸村が率いる赤備えの軍勢は越前松平の軍勢をまさしく鎧袖一触で蹴散らしていた。

 両軍の衝突直前に炸裂した埋火で混乱した松平勢は統制を欠いており、残された兵たちも逃げ場を求めて後方へと雪崩れ込んだためにその混乱はドミノ倒しのように徳川方の全軍に波及していた。

 幸村はちらりと後方へと目をやる。

 背後には幸村に付き従う未だに意気軒昂な軍勢。まだまだ余力を残しているように幸村の目には見えた。

 敵勢の中央を強行突破するのだから、かの関ケ原の合戦における島津の退き口のように自軍にある程度の犠牲を出すことは避けられないと幸村は考えていたが、毛利隊の活躍により松平勢どころか徳川方のほぼ全軍がこちらの想像以上に早く総崩れとなり軍としての体をなさなくなっていた。一方で、自軍の損害は現時点で一割にも満たないだろう。

 徳川勢の想定外のもろさの背景には初戦の埋火や人外の力を持つ幸村の奮戦による越前勢の大混乱もあったが、それよりも幸村の側面に布陣した毛利隊の奮戦も大きく影響していた。

 天王寺口の戦いの火蓋を切った毛利隊は、自陣の正面に展開していた本多忠朝隊と交戦。先年の冬の戦いでの汚名返上に燃える忠朝を見事な指揮で翻弄し、これを討ち取ることに成功。さらには隊の一部を本多隊の救援に動こうとしていた真田信吉隊に当て、これも一蹴。信吉は幸村の兄信之の子であったが、この戦いが初陣の若武者だった。経験、大将の武勇、麾下の兵の質のすべてにおいて信吉隊が毛利隊に敵うはずがなく、規律だった撤退することもできずに壊走した。

 ほとんど持ちこたえることができずに壊走したことにより、大将である信吉もどうにか逃げ通せたことが不幸中の幸いと言えよう。士気が壊滅して逃げ出す味方を鼓舞するために信吉が最前線にとどまっていたならば、間違いなくその首は胴体から離れていたに違いなかった。例え幸村の親族であろうとも、それを理由に勝永が目の前の敵をみすみす見逃すはずがない。

 さらに、勝ちの勢いにのった毛利隊は本多隊と真田隊の兵が雪崩れ込んで混乱した小笠原秀政の部隊に対して突撃を敢行。小笠原隊は混乱を治めて反撃せんと試みたものの自軍の混乱は既に手の付けようのない有様であった上に、側面から百戦錬磨の後藤基次率いる軍勢の襲撃を受けて混乱に拍車がかかった。正面から激突した毛利隊の勢いも凄まじく大将である小笠原秀政及びその子忠脩が相次いで討ち取られてしまう。

 真田隊の大将である真田信吉こそ逃したものの、勝永はこの戦いにおいて三つの部隊を相次いで撃破し、その内二つの隊は大将を討ち取るという大金星をあげている。

 毛利隊と後藤隊はその後榊原康勝・仙石忠政・諏訪忠恒に攻撃をしかけてこれらの諸隊も突破。さらにその後ろに控えていた酒井家次・相馬利胤・松平忠良ら五三〇〇余りの隊に攻撃を開始した。

 戦の経験も浅く、武名もない小大名の集まり程度で後藤隊と毛利隊を止められるはずがない。

 毛利・後藤隊に撃破された諸隊の兵士は逃げ場を求めて戦場をかき乱した。

 そして、その混乱は天王寺口全域にとどまらず、岡山口にまで拡大しつつある。

 既に壊走した諸隊を振り切った毛利・後藤隊は徳川家康本陣と激突している。

 これは幸村にとってうれしい誤算だった。

 史実において、勝永の獅子奮迅の活躍があってこそ真田信繁は徳川家康本陣への突撃を敢行できた。天王寺口の戦いの戦功だけで比べるのであれば、信繁よりも勝永の方が上だったと考えることもできるだろう。

「惜しいかな後世、真田を云いて、毛利を云わず……なるほど、そのとおりだ」

 史実であれば道明寺の合戦で散っていたはずの基次が加わったことで、毛利隊は史実以上に多くの大将首をあげており、徳川軍の被害や混乱もまた史実以上のものとなっていた。

 

――眩しいな。だが、だからこそだ。これで大将首を獲れば確実に私は信繁を超えられる。幸村として恥じぬ男になれるというもの。

 

 幸村は笑みを浮かべ、視線を遠くにやる。何か理由があったわけではない。強いて言うならば、光に誘われる蛾の走光性のような本能だろう。

 そして、松平隊という名の人の集まりの後ろに幸村はついに見つけた。

 陽光を反射し煌めく金扇の馬印。三方ヶ原の戦いのたった一度を除き、幾度となく倒れることなく立ち続けていた徳川家康の象徴を。

 あの馬印の下にいる。

 己の人生の終着点にして、忌々しい抑止力にこの身が縛られることとなった理由が。

 あそこにいけば確実に己の命は尽きるだろうことを幸村は理解していた。真田幸村が天王寺口の戦いで戦死するという事実が人類史に刻まれている以上、それは不可避なのだろう。

 しかし、抑止力に縛られ続けた己が唯一歴史を変えられる場所もそこにしかないのだ。例え人類史の流れを変えることができなくとも、信繁を超え、新たな歴史に幸村の名を刻み付ける機会は唯一、己の死も確定するこの時のみ。

 幸村は迷わなかった。

 馬の腹を蹴りつけ、馬を全力で駆けさせる。背後の軍勢も迷うことなく幸村の後に続く。

 眼前には逃げ場を求めて右往左往する僅かな敗走兵のみ。

 敗走兵たちは幸村の姿を目にすると助けを求めて家康の本陣へと全速力で逃げ出した。真田勢に立ち向かおうとしたものは片手で数えられるほどしかいない。そして、勇敢にも槍を構えて真田勢に突撃した僅かな兵士たちは先頭を突き進む幸村の一突きであっけなく戦死する。

 幸村は最後に残った健気な少年兵を額への一突きで兜ごと吹き飛ばすと、穂先についた血を払うように大きく槍を振る。

 血を吹き飛ばして輝きを取り戻した槍の穂先をその金扇に向け、幸村は吠えた。

 

目指すは家康の首!!ただひとつ!!



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第6話 起こるはずのないことが起きてしまうのが戦国の世でございます

五話を投稿した時点で日刊一位……ちょっと信じられませんでした。
多分、ゴルゴ以来の一位ですね。
皆さま、ありがとうございました。これからもしばらくFate臭/Zeroのただの戦国憑依転生物架空戦記が続くかもしれませんが、第四次聖杯戦争が始まるまで今しばらくお待ちください。
それまでの話も楽しんで読んでいただければ幸いです。


 大坂の大地を赤備えの武者達が疾走する。

 この日ノ本を制し、天下人となった男の首を追う真田幸村。そして、彼に置いて行かれてなるものかと全力で追走する男たち。

 しかし、この見通しのよい平野において敵の接近に直前まで気づかないということは決してありえない。赤備えの接近を察知した徳川家康の本陣は、それを迎撃せんと試みた。

 幸村たちの行く手を遮るように現れたのは、鉄砲を担いだ足軽たちだった。

 火縄に火をつけ、足軽たちは銃口を正面に向ける。足軽たちが数十丁の銃の切っ先を己に向けている光景を見た幸村は、躊躇うことなく馬の腹(アクセル)脹脛で締め上げた(踏み込んだ)

 主の意を汲んだ馬はさらに加速する。その直後鉄砲足軽たちは一斉に発砲し、幸村の眼前で無数の光が瞬いた。雷の如き轟音が響きわたり、それと同等の速度で鉛玉が風を裂きながら飛翔する。意思のない鉛玉は、何の感傷も打算もなくただ物理法則に従って目の前のものに襲い掛かった。

 己の背後から聞こえる苦悶の声や悲鳴。跨る愛馬も弾に貫かれたのか、悲痛な嘶きをあげる。しかし、幸村は振り返ることなく燃焼した黒色火薬が生み出した雷雲の如き黒煙を薙ぎ払い、その後ろにいた鉄砲足軽たちに槍を向ける。鉄砲足軽たちも第二射の準備にかかっていたが、それはあまりにも遅すぎた。

 風を切るような軽く鋭い音がする。幸村の連続突きにより、一瞬で五人の男が意識を永遠に手放した。

 幸村が討ったのは数十人いる鉄砲足軽の中の五人でしかない。しかし、それだけで十分だった。

 至近距離に化け物のような強い敵がいて、前方からは敵軍が迫っているのだ。幸村に銃口を向けたところで次弾を装填している間に殺される距離であり、さらに周囲には味方がいるため、命中率の低い火縄銃で闇雲に発砲しては同士討ちの可能性も高い。かといって前方の敵軍に銃口を向け続ければ発砲するまでに槍で頭を一突きだ。

 瞬殺された五人の惨状を見た鉄砲足軽たちは理解した。

 目の前の男に立ち向かえば死ぬ。

 敵軍に銃口を向けていても死ぬ。

 では、死なないためにはどうすればいいか。足軽たちは本能で解答を理解する。

 そして、足軽たちは十キロ近い重さのある火縄銃を幸村に向けて投げ捨てて一目散に後方の味方の下へと逃げ出した。

 確かにそれは、彼らが生き残るための最適解であった。しかし、敵前逃亡は最も生き残る確率が高い選択肢でしかない。彼らが逃げ込んだ先、徳川家康の本陣は彼らの背後から迫る幸村とその配下の軍勢の目的地なのだから。

 火縄銃を捨てた鉄砲足軽たちは味方をかき分けながらとにかく幸村から距離をとろうとするが、それは幸村たちに立ち向かおうとする味方の足並みを崩す行為に他ならなかった。

 徳川家康の本陣は既に毛利・後藤隊と交戦中である。正面の戦線は持ちこたえることがやっとの状況で、さらに側面から真田隊の襲撃。

 真田隊と最初に交戦した鉄砲足軽隊は武器を捨て、本陣の奥へと逃げ込もうとして側面の戦列を大きく乱す。

 その結果、徳川家康の本陣はどうなるか。答えは簡単である。先に隊としての体をなさなくなった諸隊と同じ醜態を晒したのだ。

 

「徳川の弱兵どもが!!無駄死にしたくなくば、道を開けろ!!時間の無駄だ!!」

 

 幸村の咆哮に怯え、逃げられるものはまだいい。震え、竦み、腰を抜かして立てなくなっている足軽はただ邪魔だというだけで槍で吹き飛ばされるか踏みつぶされるか蹴り飛ばされる。血飛沫が舞い、脳漿が地面に零れ落ちていく。

 真田隊はまさに疾風怒濤のごとき激しい攻撃を家康本陣に加えていた。

 家康本陣は二方向からの攻撃に対応できず、混乱から組織だった抵抗ができなくなっていた烏合の衆。彼らは進撃を阻もうとする敵対者ではなく、ただの障害物でしかなかった。

 これならば家康の眼前までたどり着ける。その場にいた真田隊のほとんどがここにきて勝利の確信を得ていただろう。

 しかし、幸村は妙な胸騒ぎを覚えていた。

 抑止力が彼に施した枷による恐怖とも、作戦の成否にかかる不安とも違う。どこからか狙われているような気配。何か、危険が迫っている!

 根拠があるわけではない。しかし、何故か蒸した鎧の下にある皮膚に鳥肌が現れ、額からは暑さ以外の何かによって冷や汗が噴き出ている。

 

 ――これはヤバい!!

 

 幸村は目の前の足軽の額にめり込んだ穂先を引き抜くと同時に手綱を引き、馬を制止する。

 茶臼山を駆け下り、越前松平勢へ突貫してから常に前進を止めなかった幸村の脚がここで初めて止まったのである。

 突如手綱を退いて馬を停止させた幸村に対して傍に仕えていた吉治が訝しむ。

 すると、幸村は突如鐙から脚を離して鞍から飛び降りた。

「義兄上!?」

大学助(吉治)、手綱を任せる!!」

 馬の手綱を吉治に任せて槍を両手に構えなおし、腰を僅かに沈めて警戒態勢を取った直後――幸村はその視界の隅に陽光を浴びて煌めく白刃の姿を見た。

 前方の空間を薙ぐように幸村は槍を振るう。白刃と穂先が激突し、火花が散った。

 そして、幸村は己に向けて振るわれた刃の正体を知る。

「まさか、このような場所で相対することとなろうとは……」

 幸村はその男を知っている。

 この第二の生においては縁がなかったのか直接会う機会はなかったが、その男の名は武芸を修めるものであれば大抵知っている程度には広まっていた。

 しかし、幸村は直接会ったことはなくとも、その男の風貌をかつての第一の生のころより知っている。

 何故なら、その男はスマートフォン向けRPG『Fate/Grand Order』で実装された数少ない戦国時代の日本人の一人だったからである。

「剣術無双……柳生但馬守」

 名を呼ばれた男――柳生但馬守宗矩は刀を構えなおし、幸村と相対した。

「最近、その剣術無双という名をよく聞く。巷では某のことはそのように称されているそうだな」

 幸村はうっかり忘れていたのだが、柳生但馬守宗矩の剣術無双という異名は彼の死後、江戸幕府三代将軍徳川家光による追悼の際に広まった異名である。そのため、この時代はまだ彼は本来剣術無双と呼ばれてはいなかった。

 しかし、幸村が先年の戦いの後に宗矩のことを直接会ったこともないくせして剣術無双と称えたことから、大坂を中心にこの異名が全国に拡散していた。このころには江戸でも宗矩の異名として剣術無双が広がっていたほどである。

「あれがかの剣術無双……しかし、義兄上は歩みを止めてはなりませぬ。ここは某が!!」

 吉治は手綱を持たない右手に槍を構え、宗矩に穂先を向ける。しかし幸村は吉治を制止した。

「止めよ」

「しかし!!」

 反発する吉治。しかし、幸村は譲らなかった。

「剣術無双の異名は飾りではない。敢えて言おう。其方では三合と持たぬ」

 幸村に心酔している吉治は幸村が測った彼我の力量差を否定することができず、義兄の道を阻む敵を排除できないことを恥じながらも穂先を下ろした。

「そこを退いていただこうか。こちらも急いでいるのでな、其方を相手にしている余裕などない」

「某にも貴様を通せない理由がある」

 幸村は僅かに眉間に皺を寄せ、険しい表情を浮かべていた。

 宗矩がこの場所にいることは、彼にとっては想定外のことだ。

 幸村は、己の武勇がこの時代では最強クラスであることを理解していたし、己を一対一の戦闘で止められるような猛者は徳川方には宗矩ぐらいしかいないと確信している。もしも、宗矩が自分の抑えとして当てられれば真田隊はそこで阻まれてしまい、彼の作戦がそこで頓挫する危険性も理解していた。

 ただ、幸村は宗矩が家康の本陣の守りに入ることはないだろうと考えていた。

 宗矩が天王寺の戦いに参戦していたことは史実である。宗矩は、そこで迫る豊臣方の兵を圧倒的な力量差を持って切り捨てたと伝わっている。しかし、史実において宗矩は二代将軍秀忠の護衛であり、家康の本陣には存在していない。

 秀忠の陣には大野治房らが攻め込む手はずになっており、彼の指揮下の軍勢も史実における紀州方面での消耗がなかったため史実以上の戦力を有している。史実でも秀忠の陣は大野治房隊に攻め込まれて秀忠の眼前で混戦が起こるほどの大混乱に陥っていることもあり、秀忠の陣から家康の本陣に宗矩が増援として派遣される可能性はまずないと幸村は判断していたのだ。

 また、この戦いは三日で終わると豪語する家康が自身の護衛を増やすために秀忠の護衛から宗矩を引っこ抜くとは幸村も考えていなかった。

「邪魔だと言っているのだ。退け!」

「ここで貴様を通してよい理由が某にはない。それに、今更問答など不要、無駄であろう。それがわからぬ貴様ではあるまい」

 宗矩の姿がブレる。

 幸村は咄嗟に槍を突き出した。穂先に火花が奔ると同時に宗矩の脚が僅かに浮き、そのまま後方に押し出される力に従って大きく後退する。

 鬼種の血を引き、動体視力は常人のそれを遥かに上回る幸村の眼をして完全には捉えきれなかった神速の抜刀術。一切の無駄を削ぎ落した斬撃は、認識すると同時に眼前に迫っていた。幸村は反射的に槍を全力で突き出し、膂力の差にものをいわせて宗矩を突き飛ばした。

 槍と刀。間合いでは当然のことながら槍に軍配が上がる。では、両者が激突した時に有利なのは槍か、と問われればその答えは必ずしも是とはならない。

 槍の間合いで戦い続けられれば、剣先が届かない剣の不利である。しかし、剣がさらに距離を詰め、その間合いに相手を入れたのであれば話は別である。剣の間合いで戦う時、槍の穂先は剣に届かない。槍は柄を持って刃と戦わなければならないのだ。

 両者の距離が詰まっている時、槍の動きは必要最小限度の動きをしたとしてもどうしても剣の動きよりもロスが大きい。故に、槍を持って剣士と戦う時に最も重要なことは、如何に敵を近づかせないかということに尽きる。

 幸村も、当然のことながらこのことを理解していた。幼いころから体格に恵まれていたこともあり、幸村は父の方針で剣術や槍術を幼少期から厳しく叩きこまれた。常人以上の体力と集中力をもって長時間の鍛錬を続けていた幸村の技量は、齢五〇にして豊臣方に属するものの中でも五本の指に入るものにまで向上していた。

 しかし、宗矩の技量はその幸村の上をゆく。宗矩の技は合理の極み。全ての技が最短の時間、最小の動きで繰り出される。同じ技を繰り出したとしても幸村と宗矩の間では差が明確につくだろう。

 技量で上をいく剣士に、刀の間合いに入られては敗北は必至。それを理解していた幸村は、宗矩を遥かに上回る膂力をもって技量の差に対抗する。

 幸村は穂先と刃がぶつかるたびに、強引に押し出すことで間合いを保つ。

 それでも、幸村の心には焦りが積もる。

 まだ六、七合ほど合わせただけであるが、幸村は確信していた。宗矩を討ち取るには、全身全霊で臨む他ない。それでも勝てるかどうかは五分五分であり、勝てたとしても家康の本陣まで吶喊するだけの体力や時間が残っているとは思えない。

 しかし、真田隊には幸村以外に宗矩を止められる戦力はいない。仮に時間稼ぎができたとしても、幸村以外が全滅しては意味がない。

 一方で、宗矩もまたこの手合わせで一つの確信を得ていた。

 

 ――上様に無理を言って大御所様を助太刀するために参じたが、某の判断は間違いではなかった。この男の刃は、大御所様に届きうる。

 

 宗矩は、先年の真田丸での戦いをその目で見ていた。そこで真田左衛門佐幸村という男を見た宗矩は、最大級の警戒を抱いた。豊臣の中で最も危険なのは武名が轟く槍の又兵衛でも、太閤殿下の血を引く前右府(秀頼)様でも、その懐刀として活躍する大野修理大夫(治長)でもなく、この男であると。

 その男が陣を敷く茶臼山に対する形で今朝着陣したのは、越前松平勢。先年の戦いでの越前松平勢の醜態も見ていた宗矩は、真田隊が越前松平勢を突破する景色を幻視した。そして、越前松平勢が突破された時に戦線が崩壊し、家康本陣まで攻め込まれるという考えに至った。

 当初はその考えを秀忠に聞かせるも、これだけの数の差があって負けることなどありえないと一笑に付されてしまう。しかし、毛利隊と本多隊による衝突の後に宗矩が幻視していた光景は現実のものとなる。

 崩壊する越前松平隊を見た宗矩は再度秀忠に家康本陣へ助太刀に行く旨を申し出る。流石に一笑に付したはずの可能性が現実のものとなってなお己の過ちを認めないほどに秀忠は狭量ではない。己の誤りを認めた上で、宗矩に家康本陣への助太刀を命じた。宗矩は秀忠が軍師として招き入れていた立花宗茂に後を託し、家康本陣の救援に向かったのである。

 現状では、幸村と宗矩の技量差は体力差で埋められているため、彼我の力量に大きな差はない。しかし、それでもなお現状は時間を気にする必要のない宗矩が優位。

 幸村の心がイチかバチかの短期決戦に傾いていたその時だった。

 

 

 

 宗矩は視界の隅に映った斬撃に反応し、半歩退いた。さらに、背後から感じる殺気に応じて振り向きざまに刀を振るう。

 二つの刃が交錯し、互いに弾かれるように離れる。

 そして、宗矩を挟みこむ形で二人の武者が刀を構えた。

「左衛門佐ェ、何を道草を食っている。お前、暇なのか?」

「家康の首に加えて、剣術無双の首も持っていくなどいささか欲張りすぎです、真田左衛門佐殿」

 不敵に笑う二人の武者。宗矩の正面には幸村と並び豊臣五人衆に数えられ、先年の活躍から天下に知勇兼備の武将としてその名が轟く毛利豊前守勝永。その反対側には、秀頼の側近であり先年の戦いで初陣ながらに見事な戦果を挙げた若武者、木村長門守重成。

 助太刀に現れた二人の笑みにつられ、険しさが浮かんでいた幸村の顔にも笑みが戻る。

豊前守(毛利勝永)殿……それに長門守(木村重成)殿。忝い」

「隊の指揮は後藤殿に任せてあるから問題ない。お前は家康の首だけを目指せ。代わりにこいつの首はもらってくぞ」

「名高き剣術無双の首。前右府(秀頼)様もさぞお喜びになるでしょう。ここは拙者と豊前守(毛利勝永)様で引き受けます」

 頼む、と一言残して幸村は宗矩に背を向けた。吉治に預けていた手綱を返され再度愛馬に跨った幸村は、勝永と重成の戦いを妨げるものを排除するために一〇〇人ほど兵を割くと、残りの兵を率いて再度家康の首めがけて吶喊した。

 それを見届け、勝永は口角を僅かに釣り上げながら口を開く。

「悪いな、剣術無双。俺たちが貴様の相手だ」

「その意気や良し。二人がかりならば、その刃もこの身に届くやもしれん」

 宗矩の眼には、一騎討ちを邪魔された恨みも二人がかりで挑んでくる相手への怒りもない。

 眼前の敵を斬るという意思と、敵を斬るまでの計算だけがそこにあった。

 勝永と重成にも、二人がかりで挑むことへの後ろめたさはない。

 敵は剣術無双。二人がかりとて勝てるかどうか。ただ、この男を幸村のもとへ向かわせてはいけないという確信と決意を胸に二人は構えた。

 合図も目配せもない。

 勝永と重成は同時に地を蹴り、宗矩に対して前後から斬りかかった。




昨日、ゴジラ見てきましたがとてもよかったですね。人間ドラマ以外は。


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第7話 死力を尽くして押し通りまする

やっぱり魔術のまの字も出てこない小説ですが、とりあえずこれ、原作Fateのつもりです。
第四次聖杯戦争までもうちっと待ってください。


 先ほどまで隣で槍を振るっていた若武者が喉に矢を受け、倒れていく。

 馬上から声を気炎を吐いていた老兵が胴に鋭い槍の穂先を叩きこまれ、呻き声をあげて蹲る。

 敵兵を刀で薙ぎ払いながら道を切り拓いていた荒武者が槍衾の中で凄惨な死を遂げる。

 

 その光景を視界の端でとらえながらも幸村は一切馬の腹を締め付ける脚の力を緩めなかった。

うおぉぁぁぁ!!

 幸村は喉が破れんばかりの絶叫で戦場を震わせながら、ただひたすらに敵を薙ぎ払い疾走する。

 その絶叫は一体何のためのものだったか。

 立ち塞がる敵を掃討せんという心意気か、運命(さだ)められた死地へと向かう恐怖を払わんとする気勢か、はたまた己のために命を投げ出していく麾下の兵への慚愧の念の発露か。

 大坂夏の陣――戦国の世の幕引きとなる大舞台に挑むことに対し、高揚する自身がいる。

 人理によって定められた死に場所に向かう恐怖もある。

 共に真田丸で戦いぬいた同志が、信州から連れ従えた部下が次々と命を落としていくことに対する悲しみがある。

 しかし、この時幸村の胸中を支配していた最も大きな感情は怒りに他ならなかった。

 

 この天王寺口の戦いの末路を誰よりも幸村は理解していた。

 幸村は力尽き、大坂城は落城し、豊臣が滅んで徳川の太平の世が始まる。これは既に覆しようのない事実であり、幸村もこれを覆すつもりはない。

 豊臣が勝ったところで戦乱の世が再度繰り返されるだけのこと。多くの日本の民が戦いに巻き込まれ、死んでいくのだ。しかし、徳川が勝てば徳川の天下の下で少なくとも二〇〇年の太平の世が約束される。彼が知る正しい歴史の流れをたどれば、まず剪定事象となることなく存続することだろう。

 幸村がやろうとしていることは、抑止力によって与えられた使命を果たすことと、あわよくばこの戦いの結末に一石を投じて少しだけ歴史を変えておこうという程度のもの。

 すべては世界のためであり、また幸村自身の僅かな自己顕示欲のためである。

 豊臣の世を守るつもりはなく、秀頼を生き延びさせるつもりもない。徳川を滅ぼさんとするつもりもなければ、この戦いで勝利するつもりもない。あくまで、幸村の目標は抑止力が定めた標的を討ち、幸村の知る歴史の流れに沿う結末を迎えることであった。

 幸村はその生涯を通じて、この状況を作り出すことに腐心してきた。これは豊臣の最後の抵抗にほかならず、もはやここからの巻き返しはありえないことを幸村は確信している。

 しかし、幸村に従う兵たちは誰も幸村の本心を知らない。

 彼らは皆、幸村が家康の首を刎ねて豊臣に勝利をもたらすために戦っている知勇兼備の猛将だと信じている。幸村の息子である大介も、幼いころから付き従う内記も、義理の弟である吉治も幸村の本当の目的を知らない。

 幸村は怒り心頭に発していた。怒りの対象は、真田幸村を名乗る畜生(自分自身)

 幸村ならば必ずや家康の首を討ち、勝利を導くと豊臣方の誰もが信じているだろう。

 彼を信じ、豊臣の勝利のために命を散らす将兵がいる。

 家康を討てば勝てると信じ、幸村がそこにたどりつくために死地へと飛び込む将兵がいる。

 木村重成と毛利勝永は彼が家康の首を獲ることを信じて、柳生但馬守宗矩との戦いに挑んでいる。

 そして、幸村は彼らの屍を踏み台にして、己の目標へと手を伸ばさんとしている。

 幸村は己に付き従う兵が、自身の背中に夢を見ていることを知っていた。不可能を可能とする英雄の背中に憧れ、その夢を共に果たさんと彼らは追いかけてくるのだ。

 そんな彼らの思いを理解していながら、彼らの思いを裏切る結末があると知っていながらも偽りの誇りと理念を抱かせて死地に送り込む。これを外道と言わずしてなんというか。

 そのくせして、幸村に成り代わったこの男は豊臣の勝利を全く信じておらず、彼らの挺身が無駄になることを理解していながらも申し訳なさを感じているのだ。

 犠牲となった彼らを己の野望を果たすための駒だと割り切り、その犠牲に心を痛めることもなく覇道を突き進む超越者にもなりきれない。

 信頼を寄せられていることを理解していながらも、失望され裏切られることが怖くて、己の本心を打ち明けてそのために死んでくれと命令することもできない。

 彼の知る真田信繁という男の偉業を汚さぬため。二度目の人生を縛り続けた抑止力へのささやかな抵抗のため。たったそれだけの理由で何万もの兵を騙して偽りの満足感を抱かせた上で死なせていく。

 中途半端に罪悪感だけ感じながらも純粋に己を信じる友を、部下を、仲間を死地へと送り込む己自身を心の底から幸村は軽蔑する。

 

 幸村は情けない己に対する行き場のない怒りの矛先を目の前の兵へと向け、穂先をその額に叩きこんだ。

 邪魔ものを排除する意図が半分、後の半分は八つ当たりだ。

 幸村はやり場のない怒りを振りまきながら家康の本陣を蹂躙する。

 気が付けば、幸村の眼前には金扇の大馬印。三方ヶ原の戦いの後、四〇年の間決して崩れなかった徳川家康の不敗の象徴がそこにあった。

 健気にも、家康の馬印を守らんと幸村の前に立ち塞がる若武者。これが初陣なのだろう、その手に握る刀の切っ先は震え、顔は恐怖に強張っている。

 己を鼓舞するがごとく叫びながら刀を振りかぶり突撃する若武者。しかし、その動きは幸村からしてみればあまりにも遅すぎた。

 その刀が振り下ろされる前に突き出された槍は若武者の兜を貫き、その頭蓋を破砕した。意識を失ったままその神速の突きに吹き飛ばされた若武者の身体は家康の馬印に激突し、重なるように倒れた。

 しかし、そこに探していた人物の姿はない。既に彼の標的は危険を察知し本陣から離脱していたのだろう。

 血の池に沈む若武者だったものと家康の馬印を一瞥した幸村は周囲を見渡す。

 気づけば、周囲にいる配下の兵は数十人ほどとなっていた。

 数万の兵が入り乱れて戦う大混戦の中ではぐれたものもいるだろうが、この徳川家康の本陣で果てたものも少なくないだろう。いくら損害軽微で家康の本陣に突入していたとはいえ、茶臼山からここまでの道のりを休むことなく駆け抜けたのだ。強行軍で疲弊し、ここでどれだけの兵が力尽きたのか。

 幸村の跨る愛馬もまた、ふらついたかと思うと静かに膝を折った。鐙を外して下馬した幸村は、胸懸から滴る血を見て愛馬の限界を悟る。

 しかし、幸村の目指すものはまだこの先にある。幸村はついに倒れこんだ愛馬を一瞥すると、槍を抱えたまま自らの脚で駆けだした。

 愛馬の献身に対する労いも、ここまでに散っていった輩への弔いも不要。彼らに恨まれ、罵倒されて当然であり、弔いや労いなどと厚顔無恥にもほどがある。

 それに、幸村の眼には既に己の生涯の頂が見えていた。己の生涯の終着点にして、真田幸村を英雄たらしめるもの。

 旗本に守られながら後方へと退いていく僧衣を着た老人と袴姿の老人がそこにいた。

 踏み出される一歩は次第に強くなり、その都度加速する。

 ここまでたどり着かせるために散っていった者たちへの弔いだとか、宿敵を前にした憎しみだとか、そのような感情は一切ない。

 ただ、生まれながらに背負った宿命と、真田幸村としての宿願がその脚を、身体を突き動かす。

 ヒュン、ヒュンと風を裂く鋭い音と共に飛翔する矢の雨。雷の如き轟音と共に迫りくる鉛玉。

 衝撃が身体を幾度も貫くが、アドレナリンが過剰に分泌されているのか痛みや苦しみは感じない。

 気づけば、幸村の後ろには誰もいなくなっていた。幼いころから常に共にあった内記(傅役)も、冬の戦いから支え続けてくれた吉治(義弟)も、その最後を戦場で飾らせるべく同行させた大介(息子)もいない。

 茶臼山に陣取った赤備えの軍勢の雄姿はそこにはもはや存在しなかった。赤備えの中でここに至ったのは、返り血か己の血かもわからない血に塗れ、くすんだ赤に身を染めたたった一人の兵。

 その歩みの先には隙間なく槍を構えた槍隊が待ち構えていたが、幸村は一人、怯むことなくそれに立ち向かった。

 正面から膂力に任せて力任せに槍を振るい、槍衾を崩して進む。己の身体を滴る液体も、左肩に何かが食い込んだような違和感も今の幸村にとっては些事であった。

 剣林弾雨の中をただ槍を振るいながら幸村は駆け抜けた。

 その手に持つ槍を左肩を貫く衝撃と共に手放すと、腰の刀を抜いて戦い続けた。

 肺が空気を吸い込む度に焼けるような熱を持ち、アドレナリンによって鈍麻されたはずの全身の感覚器もまた激しく痛みを訴える。

 左肩はついに感覚を失い、出血から視界も僅かに霞み始めるも、それでも幸村は止まらない。

 そして、槍隊を突破した幸村はついにたどり着く。

 およそ七〇メートル先、その眼に映る標的はありえない光景を前に驚愕の表情を顔に貼り付けていた。

 旗本たちが幸村を止めんと駆け出すが、もう遅かった。

 刀を地面に突き刺した幸村は、即座にその腰に下げていたもう一つの切り札を手に取って両腕で構えた。

 馬上宿許筒――幸村がこの時のために堺の鉄砲鍛冶に依頼して作成させたオーダーメイドのホイールロック式の短銃である。さらに、銃身にはライフリングが刻まれ、椎の実状のミニエー弾を採用している。幸村が知る限りで当代最高の職人が二年かけて手がけた、生産効率度外視とはいえ当時としては最高の命中精度を誇る短銃であった。

 その銃口を標的に向け、幸村は勝ち鬨をあげながら、引き金を引いた。

 

 

 

 

 

 一人の男が膝をついた。

 黒漆を塗られたはずの鎧は赤黒い液体に染まり、その胸部から脇腹にかけて切れ目がついている。

 鎧を染めた液体はその草摺から滴り、地面で跳ねる。

 その後ろには、刀を握りしめたまま血の池に沈みこと切れた若武者の姿。

 男――毛利豊前守勝永は崩れ落ちそうな身体を支えるためにその手に握る刀を地面に突き刺し支えとした。

 血を流しすぎたのだろう。勝永には自分たちに深手を与えた男の姿が霞んで見える。

 

 ――届かなかったか。

 

 元々勝ち目が薄いことは勝永も理解していた。彼の知る限り豊臣に味方する将兵の中で最も個人の武勇に秀でているのが幸村であり、その常人離れした膂力の生み出す突きは必殺の威力と精度を誇っていた。

 勝永も、一対一で戦ったとしても勝機がないと確信していた。幸村以外の大坂五人衆全員で戦って初めて勝ちの目が僅かにあるといったところだろう。

 その幸村が一対一で互角か、やや不利となる相手。戦えばよくて相打ち、九割方敗北することは分かっていた。

 きっと、先に血の池に沈みこと切れた重成もそのことは理解していただろう。彼は己の身をもって宗矩の刃を留め、その隙に宗矩の脚を斬りつけた。

 脚を傷つけられたことで足さばきが乱れた宗矩だったが、それでもなお勝永との間には覆しがたいほどの技量の差があった。

 しかし、重成が己の命と引き換えに宗矩に残した傷を無駄にはできない。死力を尽くした戦いの末、幾度か宗矩に直接斬りつけることに成功した勝永であったが、そのほとんどは籠手や胴丸によって防がれており、大きな傷を与えることはできなかった。

 宗矩に与えた傷の代償として、勝永の身体には深い傷が刻まれていた。即死に至る斬撃は辛うじて回避していたとはいえ、複数の傷からの出血は深刻であった。もはや勝永の死は時間の問題となっていたのである。

 だが、それでもなお勝永は諦められなかった。

 ここで己が死ぬのはいい。だが、宗矩に幸村を追わせてはいけない。勝永は幸村に賭けていた。

 あの男なら必ず、家康のもとへとたどり着くと。

 自分を含め、あの大坂城にいるものたちは皆、徳川のつくる世には不要な存在。古き時代の廃棄物だ。

 金、忠義、徳川への反目など、武器を取る理由は各々違うかもしれないが、新しい時代に歴史が進み始めた中で取り残された存在であるということは彼らに共通していた。

 しかし、自分たちが新たなる世にとって不要な存在だからといってはいそうですかと受け入れられるものではない。自分たちを無価値だと、消し去らねばならないと決め付けた徳川という権力に目にものをみせてやりたい。

 それは、あるいはただの夢かもしれない。いくら太閤殿下が残された莫大な金銀と難攻不落の名城大坂城があるとはいえ、徳川とその配下の軍勢は豊臣方とは比べ物にならないほどに強大である。

 勝永自身、豊臣方に味方した理由として豊臣家の忠義というものが大きいが、戦場で死にたいという理由がなかったわけではない。

 関ケ原の戦いの後の日々は勝永にとっては惨めなものに他ならなかった。そんな日々の中で死に絶えるか、如何なる形であれ戦場で散り、毛利勝永ここにありと死をもってその名を天下に知らしめるか。勝永にとって、この戦いは後者の希望を叶える最初で最後のチャンスだった。

 だが、大坂に入城した後の彼は違う。

 絶望的な戦力差の中で奮戦し、華々しく散るという結末しか考えられなかった勝永に対し、真田左衛門佐幸村という男はこれまで考えもしなかった結末を夢見させてくれた。

 かの桶狭間の戦いよりも絶望的な戦場に身を投じ、野戦にて最強と謳われる徳川家康の首を獲る。

 如何に負けるかしか考えていなかった勝永は、死中に活を求め、その道筋までも導き出す幸村の姿に理想の英傑の姿を見た。

 この男なら、家康の首を獲ることができる。その偉業を見届けたい、成功の一助になりたい。徳川の世を前に、勝利を諦めていた己の心に再度情熱の炎を灯してくれた男に報いたい。

「剣術無双、貴様は……俺、が、俺たち、が……」

 手に握る刀の感触ももはや感じ取ることができない。悲鳴や怒号、雄叫びが響き渡る戦場にいて、その声すら今の彼の耳には届かない。

 それでも勝永は刀を支えに立ちあがる。

 もはや目も見えていないであろうが、宗矩がいるであろう方向に迷わずまっすぐ切っ先を向ける。

 痛みすらボンヤリと自覚があるかどうか。意識も朦朧とする中でも、勝永は宗矩に対する意識だけは失わなかった。

「家康は、左衛門佐が……だ、から貴様、は……」

 勝永は血の滴る腕で、刀を振りかぶる。しかし、宗矩は動かない。もはや、勝永が剣を振るうことはないと確信していたからであった。

 その時、家康の馬印の掲げられている方角から一発の銃声が鳴り響いた。

 銃声がどこから聞こえていたのか、そもそも銃声を聞き取れているかも定かではない。しかし、確かに宗矩は見た。勝永がその銃声の直後、安心したかのように微笑む様子を。

 直後、全身の力が抜け落ちたかのように勝永は前のめりになり崩れた。自らが流した血溜りに沈んだ勝永は、二度と動くことはなかった。

 

 

 

 宗矩は血が滲み赤く染みのできた籠手を脱ぎ棄てる。その左手の小指には生々しい一筋の傷跡が刻まれていた。

 左手を軽く握り、開くを繰り返したが、宗矩の左手の小指の関節が動かない。

 宗矩の左手の小指は腱が切られて動かなくなっていたのである。

 

「我が剣が奪われたか」

 

 剣を握る際、小指の握りは必要不可欠である。斬撃の際に小指を締めることで、その冴えは大きく変化するからだ。

 そして、宗矩はその小指の握りを失った。

 剣を握るだけならばこれまで通りできるだろう。しかし、小指の握りを失った今、これまでと同等の冴えの斬撃をくりだすことはできないと宗矩は理解していた。

 もはや、己の剣はこれまでと同じ冴えを取り戻すことはない。

 勝永と重成は、その命と引き換えに宗矩の剣を奪ったのだ。

 今の己の剣で剣術無双を名乗るなど、烏滸がましいにもほどがあると考えていた宗矩は、この戦いが終わった暁には剣術無双の異名を返上すると心に決めた。

 柳生但馬守宗矩は生き残ったが、剣術無双はこの時死んだのだ。

 

「見事也、毛利豊前守勝永。そして、木村長門守重成。其方らは確かに剣術無双を討ち取った」

 

 宗矩は、血の池に沈む若武者と智勇の将に静かに敬意を表した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

運命なき浮世に候へば、日ノ本一の兵に

 

 

大阪府大阪市。

南東部に位置する東住吉区は、大坂の陣における最大の激戦地となりました。

豊臣方の毛利勝永と木村重成は現在の桑津中学校(※)のあたりで剣術無双と謳われる剣豪、柳生宗矩と戦います。

しかし、奮闘もむなしく毛利勝永と木村重成は柳生宗矩に討ち取られ、壮絶な最期を遂げます。

 

大坂の陣から五年後の元和六年。

勝永と重成の奮戦を惜しんだ宗矩は、二人を弔うため大阪市に紅炎寺(※)を建立しました。

大坂の陣の記憶がまだ世に残る中、豊臣方の諸将を祀ることは憚られる風潮にありましたが、宗矩は二代将軍秀忠に二人を弔う許しを得るために尽力したと伝わっています。

幸村の血路を切り拓くべく最強の剣豪に立ち向かった勝永と重成。

二人の雄姿は今も、この地の人々の間で語り継がれているのです。

 

 

 

語り 得河碇智アナウンサー

 

 

「紅炎寺」

大坂鉄道城南線「桑津」(※)からバス「桑津中学校」(※)下車 徒歩9分

 

「毛利勝永・木村重成顕彰碑」

大坂鉄道城南線「東住吉」(※)下車 徒歩20分

 

 

 

 

(※)架空の地名です。




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第8話 俺には分かる。弟は死ぬ気だ。

 目の前の景色がゆっくりと変わる中で、幾多の戦場を潜り抜けてきた老人は経験則から理解した。目の前に立つ鬼と見間違うかのごとき覇気を発する満身創痍の赤備えの武者。その男の持つ短銃によって自分が撃たれたのだと。

 老人はその男の名を知っている。

 かつて徳川の大軍勢を二度にわたって退けるも、幕府から危険視されて紀州九度山へ配流され、そこで無念の死を遂げた名将真田安房守昌幸の二男にして先年の合戦では大坂城の南側に砦を築城して攻め入った幕府諸藩の軍勢に大打撃を与えて撃退した戦巧者。名を、真田左衛門佐信繁。

 が、老人は真田左衛門佐の素性と実績を鑑みてなお、脅威にあらずと考えていた。

 なるほど、名将として世に名高い父の薫陶を受け、それを活かせるだけの才があることは確かだろう。大坂城の弱所を補う砦を任されていることからも分かるように、豊臣家ではそれなりの信頼を得ている。間者の報告によると、指揮する軍勢も忠勇溢れる精強な軍勢とのこと。

 もしもこの男が一五年前――天下分け目の関ケ原よりも前に頭角を現していたのならば、あるいは同等の才覚が豊臣家の後継者にあったのならば危険視するに足りえただろうが、こと現状に至ってはこの男の才覚で大局は変わらない。

 関ケ原の合戦以降実質的な天下を得た徳川家は、豊臣家以外の大名についてはほぼ統制することに成功していた。徳川の版図の拡大に大きく貢献した功臣の多くが鬼籍に入り全体的な人材の質は全盛期ほどではないというものの、天下を差配するだけに十分な文官、武官がそろっている。

 この日ノ本で唯一徳川家の天下を認めていない豊臣家は、その一方で弱体化が甚だしかった。元々、豊臣家は太閤秀吉という一代の英傑ありきの組織だ。一門衆や譜代の家臣は乏しく、関ケ原の戦い以後はその数少ない譜代の家臣すら豊臣家の下から離れていった。

 豊臣家にあるものといえば、太閤秀吉が残した莫大な金銀と天下の名城大坂城くらいなものであった。しかし、その莫大な金銀と大坂城の守りも先年の戦いの末に失われている。

 両者の差はもはや埋めようのないほどに拡大しており、故に徳川の勝利は揺るぎないと老人はこれまで信じてきた。越前勢が総崩れになったと報告を受けた時も、裏崩れが起きる様子を見ていてもなお、多少被害が大きくなることは予想するも勝利は揺るぎないと信じていた。

 ああ、これが日ノ本で最後の大戦。忌々しい豊臣の滅びを見届けられる喜びと、戦国の世に幕を下ろす役割を担うのが己が全てを捧げたあのお方でないという哀しさ。

 その相反する感情に乱されていた最中に、衝撃が老人の背を大地に叩きつけたのだ。

 まだ、死ぬわけにはいかない。あのお方の復活を見届けるまでは――

 老人は何が起こったのか理解すると同時に、見えない拳によって殴られたような衝撃を受けた胸に手をやる。

 撃たれたのなら、すぐに治療を施さねばならない。何処に命中したのか、傷の深さは、弾は貫通したのか。撃たれた箇所に手を当てたのは、次に自分が何をすべきか理解するための無意識の行動だった。

 手は湿り気を感じないし、服も赤に染まっていない。血の代わりに、老人の手に触れたものは、肉のものではない感触だった。

 常に胸元に入れて携帯していた()()の存在を思い出した老人は、自分の目で確認するべく手に触れたそれを取り出した。何故、血の感触がしないのか。火縄銃に撃たれたにも関わらず、焼けるような鋭い痛みがなく、殴られたかのような鈍い衝撃だけがあるのは何故か。この時点で老人はその答えを半ば理解していた。それでも、確認せずにはいられない。

 地面に仰向けに転がる老人の手中には黄金の杯。その縁には、小さな亀裂が生じていた。

 黄金の杯に走る糸くずのような小さな皹、しかしそれは老人の心にも亀裂を生じさせた。

 

「――あ」

 

 あのお方を、何も欠けることも変わることのないかつてのあのお方。

 

「――――あああ」

 

 唯一自分だけがその在り方とお考えを汲み取ることができた理想の主。

 あの忌々しい猿によって歪められていく、変わっていくあのお方に耐えられなかった。かつてのあのお方がいなくなったことが許せなかった。だから、あの日反旗を翻してあの方を殺した。

 

「あああァァアアアああ――!!」

 

 あのお方を殺しても、かつてのあのお方は帰ってこない。

 如何にあのお方がいない世をつくるかなぞ、元々考えたことがない。

 老人の願いは一つ。

 理想として崇拝していたかつての主君が統べる世で己だけが傍にあること。

 しかし、あのお方を討ったとて、己が望むあのお方が取り戻せるわけではなかった。ただ、老人の心には喪失感だけが残った。

 そんな時に南蛮から来た胡散臭い男から手に入れたこの願望器。老人はこれで己の理想が叶うと歓喜した。しかし、それもあのお方の影法師を召喚することしかできない欠陥品でしかなかった。己が望む真実はそこにはない。

 遠い。

 願望器に縋っても己が殺したころの主君の影法師を召喚することしか能わず。もしも己の人生を最初からやり直すことができたとしても、きっとあのお方を己が望む理想の姿に留めておくことができない。あのお方を理想の姿へと導くなど烏滸がましい。

 あのお方は、最初から最後まで我が理想のままであるべきであり、不変かつ永遠でなければならない。それが真実でなければならない。

 しかし、願望器は英霊が祀り上げられる英霊の座にも、平行世界にも真実の主君を見つけ出すことができなかった。

 ならば、己の手で作るほかない。

 我が理想を束ね、真実に至り、永遠をその手で作り出そう。

 徳川の首府を神降ろしの宮とし、そこに願望器を用いて召喚した有象無象の影法師を幾千幾万と空の器に注ぎ込んで我が理想を成す。

 そこに、真実を――永遠にして欠けることのなく不変の織田上総介信長公を作り上げる。そして、今度は最後まで唯一の理解者として己が侍り続けるのだ。

 そのために大御所に取り入ったというのに――

 

「我が夢が、理想が……」

 

 願望器には亀裂が入っただけ。

 しかし、元々老人はその願望器の製作者でもなければ専門家でもない。果たして、願望器は正常に作動するのか、亀裂による影響はないのか。それを正しく判断できない老人にとっては、願望器が壊れたと――理想が果たせなくなったという可能性が生じたことだけでも耐えがたいものであった。

 

「上様……上、様…………上ェ様ああぁああアアぁぁぁ!!」

 

 既に、その視界には真田も徳川も豊臣も何も映っていなかった。その瞳に映るのは、皹が入った願望器という残酷な現実だけ。

 老人の名を南光坊天海。

 かつては明智光秀と名乗り、主君織田信長を討った男の絶望の叫びが大坂の大地に響き渡った。

 

 

 

 

 

 幸村は銃弾が天海の胸へ吸い込まれるのを見届け、馬上宿許筒を投げ捨てた。

 

 ――これで私を縛るものは何もない。後は、家康の首を獲るだけ。

 

 幸村を縛り付けていた抑止力からの使命は南光坊天海を討てというもの。かつてはFate/Grand Orderのプレイヤーでもあり、平成三一年までの記憶を持つ幸村は、抑止力が何を意図してそのような使命を幸村に与えたのかも理解していた。

 平成三〇年六月に実装された期間限定イベント『ぐだぐだ帝都聖杯奇譚』。

 そのイベントのボスとして登場するのが、劇中では奄美少将を名乗っていた明智光秀である。

 光秀は東京を聖杯戦争の舞台とし、長い年月をかけて集めた数知れないサーヴァントの魂を用いて自分の理想とする織田信長を創造するために主人公らと敵対するのだが、最終的にはその目的を看過できなかった抑止力によって遣わされた沖田総司オルタ(魔神セイバー)の手によって討たれる。

 幸村が生まれ育ったかつての世界でも学説の一つとして取り上げられていた明智光秀=南光坊天海説がこの世界ではどうやら史実となっているらしく、天海として徳川に取り入った光秀が江戸の町を聖杯戦争を開催することを目的に魔術的見地に基づいて設計し、幾度もサーヴァントを召喚してはその魂を蓄積。

 サーヴァントの魂は魔力の塊でもある。江戸開府から昭和二〇年までの三〇〇年余りの間に幾度も繰り返しサーヴァントを召喚して集めに集めた膨大なサーヴァントの魂を用いて神霊にも匹敵する強大な織田信長を創造するという行為は抑止力が発動するに値する脅威だった。

 その光秀を討つことこそ、この世界に生を受けた時から幸村の魂に刻まれた責務だったのだ。

 原作では沖田総司オルタ(魔神セイバー)を派遣して直接光秀を討った抑止力が、遥か未来に光秀が危険な神霊を生み出すからという理由があったとはいえこのような回りくどい排除方法を取ったことに疑問はある。

 しかし、それよりも幸村が気になったのは彼が知る最後の新規イベント『徳川廻天迷宮 大奥』との兼ね合いである。このイベントにて、南光坊天海は直接は登場しないものの影で()()()を倒すためにお膳立てを整えていた。

 この世界が型月時空であることは生まれながらに理解していたし、豊臣方に属しているのだから当然のことであるが茶々とも面識がある。尤も、生前の幸村の知る茶々(ロリオカン)ではなく淀殿(バインバインのボインボイン)であったが。

 ただ、型月世界と一口に言ってもいくつもの可能性がある。未来の続く先は信念を貫く物語(Fate/stay night)自分自身を探す物語(Fate/EXTRA)か、はたまた救済への祈りの物語(Fate/Apocrypha)か。しかし、もしもこの世界が未来を取り戻す物語(Fate/Grand Order)へとつながるのであれば南光坊天海をここで殺してしまった場合()()()にカルデアが敗北する可能性が高い。

 抑止力の使命と、彼の知る未来との兼ね合いで幸村は悩んだ。

 しかし、抑止力による思考の枷からは逃れられないことを察していた彼は最終的に諦めるという結論に至った。身体的にもギリギリまで色々と思考実験を繰り返して抑止力による思考の枷を探った結果、南光坊天海の息の根を確実に止めることまでが求められているのではなく、命に係わる重傷を与えられるような一撃をお見舞いするか彼の手から聖杯を奪えばどうやらそれ以上は求められないらしいということをつかんだためである。

 彼の本音を言えば、「ぐだぐだ帝都聖杯奇譚はともかく、徳川廻天迷宮 大奥まで俺一人で面倒見きれるか。人類悪はグランド鯖にでもどうにかさせとけ」ということであるのだが。

 そして、幸村は自身の狙い通り天海に発砲した時点で『天海を討て』という思考の枷が消えたことを察すると、発砲前に地面に突き刺していた刀を引き抜いた。馬上宿許筒は一発ごとに銃口から次弾を装填せねばならず、周囲を敵に囲まれたこの状況で次弾装填をするだけの余裕はないと判断したのである。

 そして、幸村は引き抜いた刀を振りかぶりながら駆け出した。

 抑止力による枷がなくなった今、初めて幸村は家康を殺すための行動を取ることができる。

 思考が抑止力のしかけた枷による恐怖に襲われないことは既に検証済みだ。この戦いで自分が家康を討ち取れなかったにせよ、家康の寿命は翌年で尽きる。ここで家康が死んだとしても大きな影響は出ないのだろう。

 幸村は朦朧とする意識の中で、家康の姿を見た。

 本陣を捨ててここまで走り続けてきた疲労に、目の前で隣にいた天海が撃ち抜かれた恐怖は、七〇を超える老体にはかなり堪えたのだろう。家康は息を荒げ、尻をつきながらも必死に後ずさろうとする。

 幸村は出血から霞む視界の彼方に家康のその姿をしっかりと捉えていた。

 脚の腱は一歩ごとに軋み、身体に埋まった鏃や鉛玉は傷口を広げ続ける。

 出血多量に筋を断つ無数の傷は、人外の性能を持つ幸村の身体をしても耐えられるものではなかった。自分が後どれだけ生きていられるか、どれだけ動けるかを幸村は的確に理解していた。

 残る障害は七〇メートルという距離と、家康と己の間に立ち塞がる家康の旗本たち。

 まだ若い彼らは、主君を守るために震えながらも我が身を盾となした。

 しかし、七〇メートルを突っ切った時点で一太刀浴びせるだけの力が残っていれば十分だと割り切っていた幸村は全力で疾走し、旗本たちに肉薄した。旗本たちも槍や刀を突きだして幸村の接近を阻もうとするが、幸村はそれを致命傷となるもの以外はすべて避けることなく、とにかくスピードを緩めないことを優先して突破した。

 脇腹、額、左肩を穂先が抉り、兜の鹿角を斬り飛ばされるも幸村は止まらない。

 刀を振るうことすら間に合わない超近距離まで家康の旗本部隊に接近した幸村は、その人の域を超えた脚力が生み出したスピードと中世の日本においては巨体とも言うべき体躯に備わった重量を持って旗本に体当たりを食らわせた。

 体格差を考えれば、まるでプロのアメリカンフットボールの選手が繰り出すタックルを中学生が受け止めるようなものである。予想だにしないスピードで突っ込んでくる重機関車の如き突進に対して反応が遅れた旗本たちは文字通り吹っ飛ばされ、幸村はその勢いを保ったまま旗本らの真っ只中へ突入。

 ともかく最短距離を最小の時間で突っ切ることだけを優先した幸村は、速度と重量にものを言わせて前方に立ち塞がる相手をただひたすらに跳ね除けながら突き進んだ。

 そして、ついに幸村は旗本たちの防御を突破。

 体勢を立て直し背後から槍を突きたてんとする旗本たちを気にも留めず、幸村は最後の力を振り絞りただ前へと走る。

 いくつも穴が開いた肺はもはや呼吸を満足に行うことができず、酸素を取り込もうと呼吸する度にヒューヒューという虚しい音と体内から傷口を抉るかの如き激痛を幸村に与える。

 旗本たちを強引に突破した時点で出血や肺の損傷から酸素も十分に取り込めなくなった幸村の身体は、大地を蹴り再度家康のもとにむけて加速するだけの余力はない。

 幸村は自身に残された前へと進もうとする運動エネルギーに歩みを合わせることで、どうにか前へと進み続けていた。

 もはや、幾何の猶予もない。しかし、その一メートル先に家康がいた。

 幸村は最後の力を振り絞り、右手に持つ刀を振り上げた。

 その刀の銘は、村正。後に徳川を祟る妖刀伝説として語り継がれることとなる刀工流派村正一派の始祖の千子村正の作である。

 幸村が太閤秀吉の馬廻をしていたころに職権を濫用してまで買い求めた逸品だ。いずれ村正が徳川を祟る妖刀として恐れられる刀となることを知っていた幸村は、村正の持つ徳川に類するものに害なすという逸話の力を利用しようと考えていた。

 勿論、妖刀伝説には後世の誤解や捏造が入っていることは幸村も理解していたが、屍山血河舞台下総国を生前にクリアしていた彼は徳川に害するという因果は確実にこの世界に存在すると確信していた。

 また、千子村正が生涯求め続けた刀は、宿業を絶つ刀。抑止力によって縛られた我が身の宿命をも断ち切る力があるのではないかという期待もあった。

 

 ――もはや、これまで。真田幸村の宿願も、宿命もここで終わる。終わらせる。

 

 何故、手が動くのが不思議なくらいだった。脚は慣性にそって動かすことがやっとの状態で、斬りつけるための踏み込みすらできない。

 もう幸村には“次”はない。この一撃が最後の一撃であり、やり直しもきかない。それを分かっているからこそ、幸村はとにかく右腕の筋肉の力だけで刀を振るう。

 右手の腕力と刀の重量にものを言わせた素人剣法としか言いようのない斬撃。

 その刀の切っ先が家康の肉を裂いたことを感じながら、幸村の意識は途絶えた。



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第9話 たとえ死ぬ所が違っても心はひとつ

お気に入り五〇〇〇突破。
……自分で言うのもなんですが、まだプロローグなんですよね、これ。
第四次が本編のはずなんです。

まぁ、それはともかく皆さまありがとうございました。
今後も拙作をよろしくおねがいします。

また、活動報告に本作品に関する報告がありますのでよろしくお願いします。


 宗矩がそこに駆けつけた時、既に全てが終わっていた。

「た、但馬守様!!」

 倒れ伏した家康のもとに集い右往左往する旗本たちが、宗矩を見て安心したかのような笑みを浮かべる。

「邪魔である」

 初めての戦場で、負けるはずがないと驕るだけの愚かな処女兵が大将が斬られた時に冷静な判断を下せるはずがなかった。彼らはどうすればいいのかもわからず、ただ家康のもとで顔を見合わせているだけ。合理主義者の宗矩をして心底苛立たせる無能。

 宗矩はその苛立ちを隠しながらも、治療をするわけでもなく混乱してただ家康の周りにいるだけの木偶の坊たちをかき分けて家康の下に駆け寄った。

 

 ――出血は酷くない。これならば、あるいは。

 

 御免、と宗矩は一声かけると意識のない家康の着物を脱がせた。

 袴の下からは汚物の臭いもするが、宗矩は全く躊躇しない。

 顕わになったのは、左肩から右わき腹にかけて走る一筋の赤。

 致命傷ではない、と宗矩は安堵する。傷は浅く、止血さえしておけばとりあえず命に別状はないだろう。

 宗矩は剣に生きるもの。当然のことながら刀傷など見慣れており、その処置も手慣れたものである。

「た……但馬守、か?」

 苦痛に顔を顰めながら家康が瞼を開いた。

「お目覚めになられましたか。しかし、まだ起きてはなりませぬ」

「儂は……」

「刀で左肩から脇腹にかけて斬られておりまする。死に至るほどの傷ではありませぬし、既に処置はいたしました故、ご安心を」

 ご安心を、と宗矩は言ったが、少なくとも家康に刻まれた傷は軽い傷でもない。傷口には激痛が走っていることだろう。宗矩は家康に安静にするように伝えると、近くにいた旗本たちに後を託した。

 ここまで敵軍が攻め込んできた以上、二度目がないと考えるほどに宗矩は楽観主義者ではない。次の襲撃に備えて宗矩は周囲を警戒する。

 そんな中でふと、すぐ近くで旗本たちが集まりざわついているのが目に入った。気になった宗矩は、足軽たちの輪の中に入る。

 騒めきの理由はすぐに分かった。足軽の輪の中心でこと切れている一人の男。

 宗矩はその男を知っている。

 その戦鬼を思わせる覇気と、戦人を酔わせる雄姿を見た。軍を蹴散らす圧倒的な力を、人々を従える英雄の背中を見た。

 見間違えるはずがない。

 その男こそ、真田左衛門佐幸村。

 宗矩が豊臣方の諸将の中で最も危険視していた男の躯がそこにあった。

「た、但馬守様!!」

 宗矩の存在に気づいた足軽たちが道を開ける。その道を悠々と進んだ宗矩は、幸村の遺体の前で膝をついた。

 大方、幸村を囲うだけだった足軽たちは誰が首を獲るかで揉めていたのだろう。このような勇士の亡骸を前にしての浅ましい行いに、宗矩は憤りを感じていた。

「大御所様に斬りつけたのは、この男か」

 宗矩の問いかけに、足軽の一人が答えた。

「はい。この化け物は、圧倒的な力でお味方を蹴散らし、天海殿を短銃で狙い撃ちました。さらにその後は刀を手に大御所様に斬りかかったのでございます。我らも大御所様をお守りするべくこの身を盾として立ち塞がり、幾度も槍を突き立て、刀で斬りつけたのですが、この化け物はそれでも止まらなかったのでございます」

 宗矩は黙って幸村の顔を見つめている。

「我らはそれでも諦めずに何度も槍を突き立て、最後には某の一突きで息の根を止めたのでございます」

「待て!!貴様嘘をつくな!!」

「儂が殺したのだ、儂の手柄じゃ!!」

 目の前で始まった手柄を求める言い争い。

 それに我慢ならなくなった宗矩は、険しい表情を浮かべながら一喝した。

「喧しい」

 宗矩の一喝で足軽たちは口を噤んだ。

「貴様らは大御所様を守れなんだ時点で手柄も何もない。これほどの忠勇の士の前でそのような卑しい振舞をすることは許さぬ」

 宗矩の静な怒りを感じた足軽たちはたじろいだ。そして、一人、また一人と宗矩を恐れるかのように距離を取る。

「よくぞ、この身体で……」

 幸村の身体にはいくつもの銃創や刀傷が刻まれている。致命傷になってもおかしくない傷も少なくない。しかし、それでも動き続けたこの男の執念。死の間際まで家康を狙うことを諦めなかったその闘志は宗矩をして眩しく映った。

 あと一歩、幸村が踏み出してその刀を振るっていたならば家康も助からなかっただろう。あるいは、一歩、まるで()()()()()()()かのように家康が上手く退いたのかもしれないが。

 宗矩が討った木村重成も、毛利勝永も勇者と呼ばれるに相応しい男だった。そして、幸村もまたその勇者たちが命をかけるに値する偉業を成し遂げた英傑であった。

 一体、何がここまでにこの男を動かしたのだろうか。豊臣家への忠義か、はたまた流罪となり故郷を離れて無念の死を遂げた父親の敵討ちか。

 幸村がその最期に抱いた志も、この男を動かし続けた想いも宗矩にはわからない。ただ、一つだけわかることは幸村が抱いていたその想いは、一人の男をして英雄たらしむだけの執念を伴っていたということだけだ。

 もしも、会う機会があったならば一度は問いかけてみたいものだと宗矩は思う。無論、死者と話をする機会など己が生きている内には決して訪れないと理解はしていたが。

「これほどの見事な戦い、散り様は書物の中にもそうはあるまい。あるいは、九朗判官義経や楠公にも勝るやもしれぬ。其方はまさに、日ノ本一の兵よ」

 宗矩は、幸村の遺骸を辱めることなきように伝え、混乱した戦局を立て直すべく戦場へと戻っていった。

 

 

 

 

 

 ――幸村が戦死した後のことを語ろう。

 

 

 

 

 

 幸村の戦死の知らせが大坂城にいた秀頼のもとへ飛び込んできたのは、幸村の死から一刻(二時間)後のことであった。

 城内は、幸村が家康と刺し違えたという知らせに沸いた。これまで牢人であった幸村の活躍を快く思っていなかった秀頼譜代の将たちも、幸村の最期に大いに感服した。

 この知らせに勇気づけられた秀頼は、暗殺や大坂城への放火を恐れて出馬を思いとどまるように進言する臣下を振り切ってついに桜門から出撃することを決意する。

 一方の徳川方であるが、天王寺口では家康が討ち取られたという情報が流れたことで混乱が加速し、もはや軍として動いている隊はなかった。岡山口でも、二代将軍秀忠の本陣に対して大野治房隊が三度突撃を敢行。一時は秀忠自身も豊臣方の兵に対して槍をもって立ち向かわねばならないほどに状況は逼迫していた。

 かつて、織田信長の死によって瓦解した滝川一益の軍勢のように、徳川勢もまた士気の崩壊という事態に追い込まれていたのである。

 ところが、戦局は次第に豊臣方の不利へと傾いていく。

 きっかけは、大坂城の出火であった。

 下手人は不明であるが、突如大坂城の天守に火の手があがり、瞬く間に炎上した。

 幸村は城内の裏切り者によって自らの計画が狂うことがないように手をうってはいた。大坂冬の陣では城内に暗殺者を放ち伊東長実を事故に見せかけて殺害し、独自に保有する間者を駆使して歴史には残らなかった内通者をも内密に始末していた。

 しかし、内通者はそれこそ城内に無数にいた。織田有楽斎など始末すれば味方への影響も大きい人物もいたこともあり、全ての内通者を始末できたわけではなかった。史実よりは情報の漏洩は少ないといった程度だろう。

 さらに、悪いことは重なった。大坂城から煙が上がったのは、秀頼が桜門から出馬した直後のことだ。前線にいた兵たちは、秀頼が掲げた太閤秀吉の馬印、千成瓢箪の向こうに炎上する大坂城を見たのである。

 陽光に煌めく黄金の千成瓢箪は、敵味方問わず太閤秀吉の存在を見せつけてきた象徴である。戦場において、おそらく最も目立つ馬印であっただろう。しかし、太閤秀吉のもう一つの象徴とも言える大坂城の炎上する姿は、千成瓢箪以上の衝撃を諸将に与えた。

 勇ましく出撃したはずの秀頼は、落城した城から脱出したものだと誤解されたのである。本来、士気を高めるはずの総大将秀頼の出馬は、彼らの期待したとおりの戦果を挙げることはできなかった。それどころか豊臣方は秀頼の出撃か脱出かわからない行動に狼狽し、徳川方は炎上する大坂城を見て士気を高める始末。

 さらに、徳川勢は裏崩れに巻き込まれなかった部隊の掩護や、家康は無事という情報が伝わったことにより混乱から立ち直りつつあった。

 天王寺口では後詰の徳川義直、徳川頼宣が率いる無傷の軍勢が参戦。毛利隊と真田隊の残党を吸収し、家康本陣と乱戦を繰り広げていた後藤隊を側面から攻撃した。又兵衛も奮戦するが、激戦で後藤隊は疲弊しきっており、また倍以上の数の差は如何ともしがたかった。

 後藤隊は大阪城の炎上を機に次第に戦線を維持できなくなっていく。緒戦で大混乱をきたした部隊が立て直しに成功し、後藤隊に三方からの集中攻撃を加えたことが最後の一押しとなった。

 又兵衛は戦線の維持は不可能と判断し、遊軍として動いていた長曽我部隊の援護を受けながら未だ火の手の及んでいなかった城内の山里丸へと退却した。

 明石全登率いる挟撃部隊も、移動中に水野勝成隊と交戦。戦局は明石隊の優位に傾いていたものの、戦闘を察知して駆けつけた伊達政宗隊に水野勝成隊諸共に激しい銃撃を浴びせられ、大損害を被った。明石隊は壊滅し、明石全登の行方も知れない。

 岡山口でも、豊臣方は劣勢を強いられた。一時は大野治房は秀忠本陣にまで迫っていたが、細川、井伊、藤堂勢の加勢もあって秀忠本陣はギリギリのところで踏みとどまることに成功。その後、徳川勢は大野治房隊の三倍以上の兵数を持って反撃に転じる。

 出馬した秀頼率いる後詰が大野治房隊に加勢したことで岡山口ではどうにか五分の戦況で持ちこたえていたものの、その後天王寺口の明石隊の壊滅と後藤隊、長曽我部隊の撤退の報を受けたことでこれ以上の攻勢を断念。大野治房を殿に、秀頼は城内へと撤退する。

 裸城となった大坂城に撤退したところで、もはや豊臣家に逆転の目は残されてはいない。

 秀頼やその生母淀殿、大野治長らは城内で焼け残った籾蔵に立て籠もり最後の時を迎えた。

 しかし、真田隊に味わわされた屈辱を晴らすために秀頼の首を執拗に狙う越前松平勢が秀頼が自害する前に首を刎ねるために秀頼の立て籠もる蔵へと押し掛ける。

 後藤又兵衛は主君が自害する時を稼ぐため、残された一〇〇の手勢をもってこれを迎え撃つ。一〇〇〇を超える松平勢の猛攻を又兵衛は一刻に亘って跳ね返し続け、最期は秀頼が自害し、炎に包まれた蔵の前で全身を無数の銃弾で貫かれて死亡。又兵衛の死にざまは古の忠臣、武蔵坊弁慶の立往生にも例えられる見事なものだったという。

 秀頼と淀殿は、大野治長に介錯され自害。大野治長や大蔵卿局らおよそ四〇名がその死に殉じ、ここに豊臣家は滅亡した。

 戦後の論功行賞では、家康本陣が晒した醜態もあったため部隊の裏崩れに対する処罰は一切なかった。ただ、豊臣家を滅ぼして得られたものも少なかったため、褒美をもらった大名は僅かであり、最大の褒美でも伊達政宗の子に与えられた一〇万石の領地である。

 しかし、この戦いに参加した大名の中で唯一忠直だけは減封処分が下されている。抜け駆けとその後の醜態、秀頼の自刃を望む秀忠の意に背き、秀頼を討ち取ることを強行したことがその理由とされているが、実際には忠直の醜態によって命の危機に瀕した家康の怒りが向けられたための処置だった。

 

 

 

 

 

 幸村に斬りつけられた徳川家康は、宗矩の適切な処置のおかげもあってか一命をとりとめた。

 豊臣家の滅亡を見届けた家康は豊臣家の残党狩りを配下の将たちに命じると京の二条城へと引き上げて傷の療養に努めた。しかし、大坂城の落城から一月あまり経過し、幸村から受けた傷が治り始めていたころから、家康は首筋の張りや開口障害に悩まされるようになる。

 さらに、家康は体のしびれや痛みを訴えるようになる。しびれや痛みはやがて全身に及び、痙攣により身体の筋肉が硬直して弓なりになるなど、病状は悪化の一途を辿った。

 病状は深刻にも関わらず、意識だけはしっかりしていたこともあり、家康はこのころ見舞いに訪れた秀忠に対して後の禁中並公家諸法度、武家諸法度、一国一城令等の政策を実施するように助言している。

 痙攣と痛みに苦しむ日々を送る家康は、この症状を幸村の呪いかと恐れた。周囲の人々も家康を襲ったこの恐ろしい病を幸村の呪いであると信じ、秀忠は全国の寺社に対して家康を蝕む幸村の呪いを解くように祈祷を命ずるほどであった。

 しかし、祈祷の効果もなく家康の病状は悪化するばかり。ついに家康は呼吸困難に陥り、あまりの苦痛からもう腹を切って死にたいと訴えるほどであったという。

 家康危篤の報を受けて駆け付けた秀忠に対し、家康は遺命として次のことを命じたと伝わっている。

 一つは、真田によって苦渋を味わったことは事実であるが、その恨みを幸村の兄信之に向けてはならないということ。ただし、特別扱いをするということではなく、他の大名と同等に扱うようにすること。真田を追い詰めることは危険であると家康は訴えたのである。

 そして、もう一つは豊臣家の残党狩りについてである。牢人の増加は治安の悪化を招くため、早急に取り除くこと。また、秀頼の遺児国松や、その最期が知れない大野治房、長曽我部盛親、明石全登は必ず始末することで豊臣の全てを消し去るように命じた。

 最期に、今後何かあれば伊達政宗と藤堂高虎、真田信之を頼みにすることを伝えた。親藩でも譜代でもない、外様大名を頼みにせよという家康の言葉に秀忠は内心驚いたが、それを受け入れた。

 家康は、その後病床に伊達政宗、藤堂高虎、細川忠興、黒田長政を招き、秀忠のことをくれぐれもよろしく頼むように伝えたという。

 また、祐筆に命じ、真田信之に対しても書状を送っている。その書状には、家康は信之の忠義を全く疑っていないこと、秀忠にもいざという時には信之を頼りとし、決して幸村や昌幸の遺恨を引きずることのないように言い聞かせたと記されている。

 大坂城の落城から二月あまり経ったころ、家康は病床から起き上がることのないまま二条城で永遠の眠りについた。最期まで痙攣と激痛に苦しめられ呻き続けるというあまりに恐ろしい死にざまについては日本中に知れ渡り、豊臣のたたり、幸村のたたりと人々の間で実しやかに噂されることとなる。

 因みに、家康の奥医師が残した記録等から現在では家康の死因は破傷風によるものであり、幸村の呪いではないことが証明されている。

 秀忠は家康の葬儀を盛大に執り行い、遺言に従って東照宮に葬った。

 秀忠も、家康の死にざまや世間に流布する祟りの噂を受けて幸村を恐れたのだろうか。大坂の陣の犠牲者を追悼するという名目で幸村が最期を迎えた地に好白寺を建立し犠牲者を弔うように命じたと伝わっている。

 

 

 

 

 

 家康の死後、家康の遺命を忠実に守り大名の統制と治安の安定に努めた二代将軍秀忠により、戦国の気風は静かに、萎えていったかに見えた。

 豊臣家の残党狩りはその後十年以上も続き、累計で数千の首が京に晒されたとも伝わる。しかし、その首の中には幕府が最も警戒する秀頼の遺児国松や、大野治房、長曽我部盛親、明石全登のものはなかった。

 そして、彼らの首が見つかることもなく二〇年余りの歳月が過ぎた。このころには大坂城落城直後の虐殺と見間違うかの如き大坂での苛烈な残党狩りもあって、幕府も世間も国松らは大坂の陣の際に死んだかその後にどこかで野垂れ死にしているものだと思うようになっていた。

 しかし、そんな中で幕府を揺さぶる急報が九州より発せられた。

 それは、島原藩及び唐津藩の領民が苛烈な年貢の取り立てとキリスト教の弾圧に対して一揆を起こし、島原半島を制圧したとの知らせだった。しかも、その一揆勢の副将として、大坂の陣の後に行方が知れずにいた明石全登の名が挙げられていた。

 事態を重く見た幕府は即座に討伐軍を派遣するが、戦国の世を生き残った明石全登の智謀と一揆勢の首魁である天草四郎の存在によって高められた士気に苦戦。討伐軍の大将である板倉重昌が討ち取られるという失態を晒すこととなる。

 大坂の陣のころから、将兵の戦闘経験の少なさによる軍の弱体化は問題視されていたが、このころにはその問題がさらに顕在化していた。明石全登ら大坂五人衆の存在を殊更に危険視していた幕府は、今度こそ確実に明石全登を討ち取るために総勢一五万の軍勢を動員。

 かつて西国無双として名を馳せた立花宗茂を特例として総大将に任じ、一揆勢の根絶と明石全登及び天草四郎の首を獲ることを厳命した。

 その後、原城に立て籠もった一揆勢は三か月に及ぶ籠城戦の末に幕府軍に八〇〇〇の死傷者を出す被害を与えるも壊滅。城に立て籠もっていた一揆勢約四〇〇〇〇は一人の例外もなく殺害され、天草四郎と明石全登も城から脱出しようとしたところを捕えられた後に京都三条河原まで護送された上で斬首となった。

 これを機に再度豊臣家の残党狩りが厳しくなるが、それでも長曽我部盛親ら残りの主要な残党は発見できなかった。

 長曽我部盛親の名が歴史の表舞台へと再び登場するのは、島原の乱と名付けられた一揆が鎮圧されてから一三年ほど後のことである。

 江戸幕府三代将軍徳川家光が亡くなり、その後を御年一一歳の四代将軍家綱が継いだ直後。江戸にその名を知られた軍学者、由井正雪らが幕府に不満を持つ牢人たちを束ね、江戸城を襲撃するという前代未聞の事件が起きた。

 由井正雪――そのかつての名を国松。秀頼の遺児にして、豊臣家の血統を継ぐ最後の男である。大坂城落城の際、国松は長曽我部盛親に連れられて江戸へと脱出していた。幕府もまさかそのお膝元である江戸に国松と盛親が潜伏し、堂々と軍学を教えていたとは夢にも思っていなかったことだろう。尤も、島原の乱の翌年には長曽我部盛親は病で息を引き取っていたのであるが。

 由井正雪を首魁とする牢人衆らは、幕府の体制を盤石なものとするために事あるごとに大名を改易、減封することで統制を図る徳川家への不満を募らせていた。大名家のお取り潰しや縮小によって職を失ったものや、関ケ原や大坂の陣以後牢人となったものも未だ少なくなかったこの時代。

 幕府への不満を持ち、武力によってこれを解消しようと考えるものもまた、事欠かなかったのである。

 由井正雪の号令のもと、京都と江戸で同日に牢人衆は決起。江戸に残った長曽我部盛親の子盛恒と孫の盛胤は正雪の門弟や職を失った武士四〇〇〇を束ねて江戸城を襲撃。煙硝蔵を爆破することに成功する。

 正雪自身も大坂に赴き、自らの血筋を明かし徳川に対する決起を呼び掛けた。それに応えておよそ三〇〇〇の牢人が彼の下にはせ参じた。

 しかし、計画が上手くいったのはここまでだった。江戸城を襲撃した盛恒らは内通者の手で煙硝蔵を爆破させ、その隙に城内へと突入しようと試みた。しかし、江戸城は築城の名手と呼ばれた藤堂高虎が縄張を手掛け、全国の大名の手で築城された日本最大の巨城である。さらに、家康の死後二代将軍秀忠と三代将軍家光の手により改修が施され、当初の予定を超える規模にまで拡大している。その防御力は、かつて二〇万の軍勢を跳ね除けた豊臣家の大坂城をも凌駕する日本史上最強の城である。

 その城に大手門から攻めかかった牢人衆は僅か四〇〇〇。幕府方も混乱から死傷者を多数出し、その中には時の老中阿部重次も含まれていた。それでも牢人衆は江戸城の本丸に突入することは愚か、大手三の門を突破することすらできずに壊滅する。

 この江戸城襲撃の日には偶然幸村の兄信之が江戸城に登城する予定となっており、信之自身も僅かな配下の軍勢と共に牢人衆と戦っていたと江戸幕府の公式歴史書に残っている。

 なお、盛胤は大手門を攻撃する際、銃弾に心臓を貫かれ即死。盛恒はどうにか撤退することに成功するも、その後幕府の手の者に発見され市中引き回しの後に斬首刑に処される。この時の盛恒からの取り調べによると、大野治房は大坂の陣の一〇年後に病没しており、その子孫は身分を隠して下総の国の百姓をしていると供述している。

 後日、この供述に基づいて治房の遺児の捜索が行われ、治房の子孫が見つかる。男児は処刑されたものの、女児については付近の尼寺に入ることで処刑を免れたそうだ。

 一方、大坂で蜂起した正雪は軍勢を引き連れて京へと向かう。途中軍勢は合流する牢人によって膨れ上がり、一時は五〇〇〇にまで至った。しかし、時の大坂城代内藤信照の軍勢による襲撃を受け、烏合の衆であった牢人衆は壊滅。正雪は京都まで逃亡し再起を図るが、幕府の執拗な追撃を受けた末に豊國社にて自刃。

 ここに由井正雪の野望は潰え、豊臣家の残党は壊滅した。

 大坂城の落城からおよそ四〇年。ここについに大坂の陣の全てが終わったのであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

運命なき浮世に候へば、日ノ本一の兵に

 

 

 

慶長二〇年五月七日

徳川の大軍勢を多くの犠牲を払って突破した幸村は、満身創痍となりながらも家康に一太刀浴びせ、力尽きました。

幸村が最期を迎えたと伝わっている地には、大坂の陣で犠牲となった将兵たちを祀る好白寺(※)があります。

しかし、幸村を顕彰する思想は幕府に危険視されていたために、人々は幸村を表立って慰霊することはできませんでした。

この地に幸村の慰霊碑が地元の人々の寄付によって建立されたのは、徳川幕府が滅び、明治時代になってからのことでした。

 

幸村の故郷、長野県上田市。

幸村の兄信之とその子孫は、幸村の死後から徳川幕府崩壊までのおよそ二五〇年間の間代々この地の領主を勤めました。

圧倒的劣勢を覆し徳川に一矢報いた幸村は明治時代に入り、軍神としてこの地に建立された奉国神社(※)に祀られます。

奉国神社(※)には、今日も幸村を偲び多くの人が参拝に訪れています。

 

その命が尽きる最期の瞬間まで己の信念を貫き、不可能と思われた大軍勢の突破を成し遂げた真田幸村の生き方は、私たち日本人の心を惹きつけてやみません。

 

 

 

語り 得河碇智アナウンサー

 

 

 

「好白寺」

大坂鉄道城南線「西矢田」(※)下車 徒歩12分

 

「奉国神社」

信濃鉄道「上田」(※)からバス「奉国神社」(※)下車 徒歩5分

 

 

 

 

※架空の地名、機関名です。




長かった……とりあえずこれでプロローグは終わりです。
ちなみに豊臣残党の史実以上の大暴れのモデルはジオン残党でした。本当はもっと大暴れさせたかったんですが、流石に人理案件になるので自重。
次回から第四次聖杯戦争まで時間が飛ぶ予定です。

なお、投稿を初めてから今日までは毎日一話一九〇一に投稿を続けてきましたが、本日の序章最終話の投稿をもってストックが尽きましたので、しばらくは更新はありません。

またある程度書き溜めたら放出していく予定なので、第四次聖杯戦争編までお待ちください。


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閑話 家康の首を目前に、真田幸昌が死んだ

気づけばお気に入り七〇〇〇突破……皆さま、ありがとうございます。

本編のストックは現在一話だけなので、もう少し溜まってから投稿しようと思ってます。
具体的には、七月末ぐらいを予定しておりますが、FGOのイベントスケジュール次第では一月ほどずれ込むかもしれません。


慶長二〇年(一六一五年) 五月七日(旧暦)未明 摂津の国 茶臼山

 

 

 

 真田幸昌は陣の中に設けられた寝床から上半身を起こし、空を眺めていた。星空はいつもと同じように瞬いており、僅かに棚引く雲が時折星を遮るだけだ。

 夜襲を警戒して最低限の歩哨が出歩いているが、陣の中は静かなものである。父曰く、朝日が昇れば戦国の世の行く末を決める大戦が待っているというのに、それを感じさせないほどに夜空は平穏な空気を醸し出しているように思えた。

 

 

 

 真田幸昌には、父の心が分からない。

 

 

 

 真田幸昌は真田左衛門佐幸村の嫡男である。生まれは紀伊国高野山麓の麓、紀ノ川にほど近い小さな村、九度山だ。

 高野山の表玄関にほど近いということもあり、時折高野山で修業をする僧やその関係者が立ち寄ることもあったが、基本的には九度山と外部との交流はほとんどない。大坂や京の都とは然程遠いわけではないのだが、それでもそれらの噂も九度山ではほとんど聞かない。

 それもそのはず。高野山とは日ノ本でも有数の霊場であり、言い換えれば限りなく浄土に近い場所である。出家して俗世とのかかわりを断ったものたちが修行に励む場所に、今更俗世から頻りに交流があるはずもない。

 時には伯父から父に向けた使いが訪れたり、この地域の領主からの使いがくることがあるが、その程度である。祖父が存命であったころには祖父の知人などがそれなりの頻度で訪ね、父や祖父に俗世の情報について色々と伝えていたようだが、まだ幼かった当時の幸昌は政治・社会情勢の話にあまり興味をもたなかった。

 四方を山に囲まれたこの小さな村は、まさに外界から閉ざされた陸の孤島。

 大坂に父親と入城するまではその陸の孤島での暮らしが幸昌少年の全てであった。

 その九度山での日々の暮らしも単調なものだった。

 東の空が白んで来ると父と共に田畑へ向かい汗を流す。時には父と山に入り、罠を張り鹿や猪等の獣を狩ったりその道中で山菜を採集することもあった。昼過ぎあたりからは父を相手に武芸の技を磨く。雨が降り外へ出られない日には父や傅役から学問を学んだ。

 当時の幸昌にしてみれば、今更このようなことを学んでなんの意味があるのか理解できなかった。この九度山の暮らしでは武芸の技など大した利用価値がなく、精々が狩猟の道具でしかない。学問もそうだ。祖父と親交のあった領主の好意で自分たちは年貢が免除されているし、少ないながらもその領主から援助すら受けているのだから年貢の計算すら行う必要がない。

 九度山の外の世界を知らず、父が一から築き上げた家や畑をいずれは嫡男として引き継ぐのだろうというぼんやりとした将来像しか描けなかった当時の幸昌からすれば無理からぬことだったのだろう。

 九度山を出て、大坂に来た今ならわかる。単調で変化のない、刺激もなくただ生きるための糧を得るだけの暮らしのなんと惨めなことか。武将として生きることの喜びを知った今の自分なら、もう二度と九度山の暮らしに耐えられないだろう。

 しかし、九度山の外を知ると同時に幸昌は父親のことが分からなくなった。

 父親もかつてはかの太閤殿下の馬廻としてこの大坂で働いていたと聞く。太閤殿下の死後、徳川に手痛い打撃を与えた結果として徳川家康の不興を買い、祖父は父諸共に九度山に配流された、これが幸昌の生まれる前の出来事である。その後、祖父は亡くなるまでの一〇年余りを、そして父は大坂に向かうまでの一五年余りを九度山で過ごした。

 祖父はこの地を脱出するために様々な策を練っていた。それに対して父がこの地を出るために前々から着々と準備をしていたような様子は見たことがない。

 父は、大坂や真田の郷での暮らしに未練はなかったのであろうか。

 祖父は、間違いなく九度山に配流される前の暮らしに未練があっただろう。しかし、同時に自身を九度山に配流した徳川家康に対する復讐心をも持ち合わせていた。

 幸昌の記憶の中にある祖父は、一族の故郷である信濃国にある真田の郷や、滅亡して久しい戦国の雄、武田家のことをよく話す老人であった。かの信玄公や沼田、上田の城のことを話す時の祖父の顔はとても生き生きとしており、川中島の合戦や上田城の合戦、三方ヶ原の合戦を語る時なぞ、孫をして恐れを抱かずにはいられない戦国武将の顔がそこにあった。

 祖父曰く、己を高野山に配流した家康の思惑としては祖父を高野山に入れて名実共に出家させたかったのだという。出家し、戦で死んだ多くの将兵の菩提を弔う道を――つまりは、戦の世から完全に離れる道を昌幸が選ぶことを、暗に示したということらしい。

 ところが、昌幸は結局死ぬまで出家することはなかった。今思うに、祖父は最期まで九度山での隠遁に慣れることができなかったのだろう。出家して高野山を臨終の地として過ごすことに納得できず、表裏比興の者と天下に謳われるほどの知略と武勇をもって守り切った真田の郷から追われることに耐えられなかった。

 祖父は最期まで望みを捨てていなかった。伯父を通じて幕府に対して帰郷を許すように働きかけると同時に、豊臣と徳川の大戦に備えて戦略を練る日々。復権を狙う祖父の瞳には常に気迫がみなぎっていた。初陣どころか、幼子だった自分に対しても常々徳川との戦をどうすすめるだの、どこに砦を築くだの、この囮に食いついたところを挟撃するだのという話をしていたほどだ。

 当時は何を言っているのかよく分からないことばかりであったが、実際に徳川との戦に臨んだ今ならばわかる。あれは武経七書に加えるに値する兵法の教えだった。惜しむらくは、幼く戦というものを知らなかったかつての己はその話の半分も理解していなかったことか。

 死の直前、床から起き上がれなくなっても祖父は諦めなかった。老いと病に蝕まれ寝たきりの身体になり、己の手で無念を晴らすことができなくなったと理解してもなお、その執念は薄れることはなかった。

 孫の幸昌が見るに、真田昌幸という人間は結局のところ最期まで故郷を守るために侵略者と戦い抜いた戦国大名だったのだろう。死の直前になり気力が衰えることがあっても、徳川に一矢報いたい、真田の郷に帰りたいという思いだけは衰えなかったことからもそのことがわかる。

 徳川への復讐と郷愁の念のどちらの方が大きかったのかは分からないが、どちらも祖父が祖父であるが故に捨てられなかった思いなのは違いないだろう。

 では、父は祖父に比べてどうだったか。

 郷愁の念や徳川への復讐を口にする祖父に対して、いつか豊臣と徳川の戦いが引き起こされる時までの辛抱であると父は返していた。これから何年待てば好機が来る、きっと豊臣と徳川にこれだけの戦力差がある、戦況はこのようなものになると具体的な想定をもとに、その時に備えるべしと父は祖父を励ます。

 実際に大坂に来た今だからこそ分かる。父がかつて祖父に対して語っていた想定と、目の前の現実がほぼ一致している。つまり、父はあの陸の孤島にあってなお正確にこれから起こる戦いのことを予測していたのだと。

 しかし、祖父の前以外で父が徳川への敵意や豊臣家への忠義、真田の郷への郷愁を口にするところを幸昌は見たことがなかった。祖父が亡くなった後は、まったく見たことがない。

 祖父の死後の父と言えば、竹を地中に埋めることで効率的な自然薯の栽培を始めたり、田のため池を拡張したり、湧き水を自宅前まで引っ張る上水道を整備したりと幸昌の想像する武士の暮らしとはかけ離れた方向へと精力的に動くばかりであった。時には周囲の寺院と交渉して自然薯と交換で様々な作物を手に入れるようになったこともあり、暮らしはよくなっていった実感はあったのだが。

 武士らしいことと言えば、武具の手入れと日々の稽古、読書ぐらいであっただろう。

 父に対して、問いかけたことがある。

「豊臣と徳川の大戦に向けて、準備をしなくてよろしいのですか」

 豊臣家からの使者が来る二年ほど前のことだっただろう。その時、父は幸昌に対してこう答えた。

「いつかは時が来る。それまでは待つのみよ」

 徳川に対して屈辱を晴らす機会があることを期待しているのでもなく、豊臣家への忠義に燃えるのでもない。それは、まるで農作物の収穫の時がいつになるのかを答えるかのように自然で熱のない言葉だった。

 父は、大坂や真田の郷を知りながらも、九度山の陸の孤島の暮らしに満足していたのだろうか。はたまた、一五年もの時の流れにより豊臣家への忠義も薄れ、徳川への執念も萎えてしまったのか。

 このころの父のことを説明するのであれば、惰性で武士としての鍛錬をしているだけの百姓というところか。

 そんな父が一変したのは、豊臣家から徳川への戦に加勢してほしいという使者が来てからだった。

 使者が要件を切り出す前に豊臣家に加勢することを宣言した父は領主の手配した見張りのものを速やかに排除し、いつのまにか旅支度を整えていた。母や自分に対してこれから大坂に入る理由を簡潔に説明した後に、闇夜に乗じて九度山を後にした。

 大坂についてからの父は、まさしく百戦錬磨の智勇兼備の将であった。

 血気に逸る牢人たちを時にその腕や威で黙らせて従え、気づけば心酔させていた。生まれも育ちもバラバラ、その志も一致しない配下の牢人たちは、やがては勇猛果敢な精鋭部隊へと昇華していた。

 守れば万の軍勢を砦一つで抑え込み、機と見ると砦を飛び出し攻勢を加える。徳川方の戦略を看破し、他の将たちに敵の戦略をそれとなく漏らすことで手柄を立てさせる等、周囲への配慮も怠らない。

 前右府(秀頼)様に対する忠義も厚く、徳川から来た使者は要件を聞くことなく捕縛し、城へと差し出した。

 大坂城に入城してからの父は、まさしく、天下の名将と言っても過言ではなかった。

 だからこそ、分からないのだ。

 そんな父が、何故一五年もあの九度山で籠り続けたのか。何故、九度山を出ることを考える素振りすら見せずに日々の暮らしの向上に努め続けたのか。その心に、何を抱いていたのか。

 

 

 

「眠れませんか、若」

「内記か」

 身体を起していることに気が付いたのだろう。内記が周囲のものを起こさない程度の小さな声で問いかけてきた。

 幸昌は内記を見る。そして、思った。

 内記は、父の傅役だ。自分よりもはるかに父のことを理解しているであろう。

「内記、聞きたいことがある」

「何なりと、聞いてくだされ」

 幸昌は問うた。

「父は、何を考えているだろうか」

「お父上の智謀は、お爺様ゆずりのものにございます。その才を継いでおられるであろう若に分からぬのであれば、槍働きしか取り柄のない某に分かるはずがありませぬよ」

 小さく首を横に振る幸昌。

「父上がどのようにしてこのような策を立てたのかではない。まぁ、それも分からぬことであるが。聞きたいのは、父上の心が奈辺にあるのか分からぬということだ」

「…………」

「儂は、九度山での父と、大坂城に入城してからの父しか知らぬ。だから、分からぬ。父上はあの九度山での暮らしに何を思っていたのか。そして、今何を考えておられるのか」

「九度山でのお父上と今のお父上が、まるで別人のように思えるということでしょうか?」

 幸昌は小さく頷いた。

「内記は父上の傅役であろう。幼いころより父上を見てきたお主であれば、その心中が分かるであろう」

「なるほど。若の疑問も尤もなことでしょう。……しかし、期待に応えられなくて申し訳ありませぬ」

 周囲が暗いためにはっきりとは見えないが、内記が困ったような笑みを浮かべていることは何となくわかった。

「正直なところ、某にもまるであのお方のことは分からないのです。あのお方は昔から何を考えておられるのかまるで分かりませぬ。真田の郷にいたころも、職人のところに通い詰めたと思ったら養蜂を始めておりましたし、ふらっと散歩に出かけたかと思えば身の丈を超える猪を担いで帰ってこられる」

「冬の寒い日に『海に行く』と書置きを残されたと思えば、雪の降る中を新鮮な魚を担いで帰ってこられることがありました」

「上田城で徳川の軍勢を蹴散らしたあの勇ましい姿。九度山に移られてからはそれを忘れてしまったかのようなご様子でしたが。某も、殿が燃え尽きてしまったのではないかと思いました。徳川に歯向かうことをあきらめたのではないかと。しかし、それはきっと違うのです」

 内記は夜空を見上げた。

「恥ずかしながら、某にもやはり殿の心が奈辺にあるのかは分かりませぬ。例えるのであれば、この星空の如きものでしょうか。星の瞬きや動き、月の満ち欠けは某にも見ることができますが、ただそれだけであり、何も分かりませぬ。雄大で、果てしない空や星々のことを誰が見通すことができましょうや」

「父上は空であり、星であり、月か」

 仰ぎ見る夜空は、あの九度山で見ていた空よりも何故か広く見えた。

「大きいな……父上は」

「若、いつかはたどり着かねばならない背中にございますぞ」

 燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんや。

 今の己にはたどり着けない境地に父はいるのだろう。ひょっとすると、父は祖父をも超えていたのか。

 幸昌は己の心が少しだけ晴れたかのように感じた。

 未熟な己では父の心が分からない。しかし、研鑽を積めばいつの日か、父の心が分かる日が来るかもしれない。

 今は、それでいいと思った。

 父を知り、何れはその真意を知る。そのために明日も勝ち、その上で生き残る。

 幸昌にとって、死ねない理由が一つ増えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 真田幸昌は、天王寺の戦いにおいて父親に続き獅子奮迅の働きをする。

 しかし、幸昌は徳川家康の本陣を突破することは叶わず、乱戦の末に討ち取られた。

 記録によると、ほとんどの兵が徳川の本陣の厚さに阻まれ落伍し、幸村に最後まで付き従ったものは五名だけだったという。

 その五人の武者の一人が、この幸昌であった。




幸昌君はナレ死。
サブタイトルの元ネタはナレ死第一号です。
拙作では史実よりも華々しい死にざまを用意された人が多いですが、かといって誰もが勝永や重成のようなドラマティックな死にざまを晒せるわけではないのです。
みんながみんなそんな死に方してると流石に……ねぇ。
差別化した方が際立つというのもあるのですが。

また、この話は幸昌君の話というよりは九度山での幸村の話がメインなので。
拙作の幸村はYARIOの三瓶さんポジ狙い



なお、ストックも書いていますが大坂の陣の話ももう少し書きたいなぁというところが正直あります。
なので、本編を書きつつちょくちょくと閑話という形で本編ではさらりと死にざまを流した方々のエピソードを執筆する予定です。
どれから書いていくかはアンケートで決めていこうと思います。
アンケートで選ばれた人に関してはナレ死は炸裂しない予定。


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閑話 乱世にしか生きられぬ男もいるのだ

アンケートで一位だった
「又兵衛の立往生」
を書こうとしたところ「さらば右大臣秀頼」の要素も入ってきちゃったんで、このアンケート結果上位二位分の閑話を書き上げてみました。




慶長二〇年(一六一五年) 五月七日(旧暦) 摂津の国 大坂城

 

「申し上げます!!明石隊、水野勢との交戦中に伊達勢の攻撃を受けて壊滅いたしました!!」

 

「大野主馬様の軍勢、総崩れ!!主馬様の行方も知れませぬ!!」

 

「城内に軍勢が押し寄せております!!先陣は、自地に矢の根――越前松平でございます!!」

 

 

 

 大坂城は、そして豊臣は最後の時を迎えようとしている。

 攻め寄せる幕府の軍勢は総勢約一五万。迎え撃つ豊臣の軍勢は総勢約五万。

 昼ごろに戦端が開かれてからおよそ三刻(六時間)あまりが経ち、既に形勢は決まっていた。

 当初は背水の陣を敷いた豊臣方の士気と、徳川方の兵の油断に助けられ、豊臣方が戦況を有利に進めていたのだ。

 天王寺口に布陣した毛利勝永と後藤又兵衛は、先陣に立っていた中小の大名の連合部隊を見事に翻弄し、自軍の前に立ち塞がる諸隊を鎧袖一触で蹴散らした。壊滅した諸隊からの逃亡や敗走により、混乱は幕府軍全体へと波及した。この戦いで勝永は一〇を超える部隊を壊走させ、又兵衛もまた多くの首級を挙げた。

 特に、昨年の冬の戦いでもその武名を日ノ本中に轟かせた真田幸村は、越前松平の軍勢を中央突破するだけに留まらず、大軍勢のその最奥にあった徳川方の本陣を突破。自軍の壊滅と引き換えとはいえ、実質的な総大将たる徳川家康に一太刀浴びせるというかの桶狭間の戦いをも上回る大戦果を挙げた。

 一方、もう一つの戦線である岡山口では、大野治房と大野治長の兄弟が率いる部隊が名目上の総大将たる征夷大将軍徳川秀忠の率いる部隊と交戦していた。

 秀忠の陣には家康も自軍において数少ない精鋭部隊と評価していた井伊勢と藤堂勢がいたのだが、天王寺方面の幕府軍が毛利、後藤、真田の軍勢によって総崩れになっていることを知らされた秀忠が慌てて両軍に天王寺口の支援に向かわせたことで、秀忠本陣は手薄な状況になっていたのである。

 本陣から警戒していた井伊や藤堂の軍勢が離脱していく様子を見た大野治房は、秀忠の金扇の大馬標を目掛けて一丸となって突撃した。後のことを一切省みない猪突猛進とも言うべき猛攻により、治房は一時、徳川秀忠の本陣にも斬りこむことに成功した。

 先手の前田勢が天王寺口の越前松平勢と同様に蹴散らされ、秀忠旗本も崩れた。命の危機に晒された秀忠は、自らも槍を持って応戦せねばならないほどに追い詰められた。

 しかし、豊臣方の奮闘もここまでだった。

 元々、戦力差は三倍。如何に士気を挙げようと、練度が高かろうと、兵は疲労からは逃れられない。後先考えない乾坤一擲の大攻勢であったが、敵を討ち果たす前に息切れしてしまえば、もはや勝ち目は無かった。

 天王寺口では、総崩れに巻き込まれなかった後詰の徳川義直、徳川頼宣が率いる無傷の軍勢が味方の窮地を救うべく参戦した。

 真田隊は幸村のための血路を拓いて文字通り全滅しており、勝永もまた、柳生宗矩を足止めした末に討死していた。又兵衛は毛利隊の残党と合流して必死に応戦したが、態勢を立て直した越前松平隊に挟撃された末に戦線の維持は不可能だと判断。遊軍として動いていた長宗我部隊の援護を受けながら退却した。

 岡山口でも、豊臣方は息切れしていた。秀忠の本陣が窮地に陥っていることを把握した井伊勢、藤堂勢は秀忠の命令に違反することを承知の上で、独断で秀忠本陣に加勢したためであった。

 大野隊はついに秀忠を討ち取ることができず、井伊勢、藤堂勢による側面からの攻撃により崩れ始めた。豊臣方の総大将、豊臣秀頼の出陣により一時士気は盛り返したものの、もはや戦局をひっくり返すほどの効果は望めなかった。

 ついに秀頼は継戦を断念し、大坂城内への撤退を決断した。

 しかし、裸城となった大坂城ではもはや篭城も不可能だった。さらに、城内では徳川方の手の者による放火が行われており、天守も御殿も炎上している。

 秀頼やその生母淀殿、大野治長らは城内で唯一火の手の及んでいなかった山里丸に退避していた。

 

 

 

 山里丸の中にある籾倉。既に兵糧を全て吐き出し空となった倉の中に、豊臣秀頼はいた。

「もはや、これまでか」

 秀頼が漏らした言葉の意味を理解できない者は、この倉に残った者の中にはいなかった。

「諦めるのはまだ早ようございます。千姫様が、大御所様の下に向かわれたとのこと。前右府様のお命だけは、見逃していただけるやもしれませぬ」

 大蔵卿局が諦観の表情を浮かべる秀頼を勇気付けようとする。まだ、彼らには希望があった。それが、秀頼の正室にして、徳川秀忠とその正室お江与の方の長女、千姫である。つい先ほどまで城内の留め置かれていた千姫だが、もはや豊臣の敗北が避けられなくなったこともあり、秀頼の命によって徳川方に戻されていた。

 秀忠にとっては愛娘であり、家康にとっても可愛い孫だ。きっと、彼女から助命嘆願がなされれば無碍にはしないだろうという期待がこの倉に残った人々の中にはあった。

「母の申すとおりでございます。毛利、上杉とて、関が原の後は領地を大幅に削られましたが、残りました。真田左衛門佐も、その父真田安房守も、高野山に流されこそすれど、命までは取られませんでした。千姫様の嘆願があれば、大御所様ならきっと……」

「もう、よいのだ。修理」

 大野治長の言葉を、秀頼は遮った。

「千には、予の助命は不要と伝えてある」

 治長は耳を疑った。倉に残った秀頼の生母淀殿も、治長の母大蔵卿局も、秀頼の最期に付き従おうとした者たちは皆、驚きの表情を浮かべている。

「予の命と引き換えに、此度の戦に参加した者たちを赦免して欲しいと大御所に伝えるように千に言ってあるのだ」

「しかし、それでは……前右府様は!!」

石田治部少輔(石田三成)も関が原の後には生きることを許されなんだ。如何に千の婿であるとはいえ、どのみち予も大御所からは許されまい……大御所はかつて、自らの跡継ぎに腹を切らせた男よ。それほど甘くはあるまい。ならば、こちらから予の命を差し出した方が、交渉の余地が残るであろう」

 治長は涙を堪えることができなかった。

 主君は――豊臣家は敗北したのだ。しかし、主君の器量は秀忠なんぞとは比べ物にならない。若さ故に経験不足が否めなかったが、後一〇年……いや、五年あればきっと天下人として相応しい人間として大成していただろう。

 五年後に老齢の家康が生き残っている可能性は限りなく低い。そうなれば、秀忠なんぞに負けはしなかっただろう。治長は悔しさから、血が滲むほどに拳を強く握り締めていた。自分がもっと上手くこの方を補佐できていたら、片桐且元ともっと上手くやっていたならば、城内の意見をもっとまとめられていたならば――治長は己の無力さが悔しかった。

 その時、籾倉の中で声をあげたものがいた。

「前右府様、某の助命は無用にござる」

 声の主は、後藤又兵衛。この戦いにおいて主要な働きを果たし、多くの功績を挙げて大坂五人衆とまで謳われるようになった名将である。

「又兵衛、お主はようやってくれた。お主や左衛門佐(真田幸村)豊前守(毛利勝永)はこれ以上ないほどに戦ってくれた。此度の戦いの武名があれば黒田の家に戻ることもできるであろうし、そうでなくとも黒田と断絶してでもお主を召抱えようとする家は少なくないであろう。予に殉じる必要はない」

「某、武士の心を知らぬ黒田の家に戻るつもりは毛頭ございませぬし、他家に士官しようとも考えておりませぬ」

「しかし、又兵衛。お主の働きに報いる術は、もはや予にはない。あれほどの活躍をしていながらも何も報いることができずに予に殉じさせるなど、申し訳ないのだ」

 又兵衛は首を振った。

「某は元々、死に場所を探しに来たのです。この戦いに勝利した暁には、徳川と戦おうとする者などなくなりましょう。徳川はこの日ノ本から戦をなくすのです。しかし、戦国の世に生まれ、戦しか知らぬ男が、徳川のつくる太平の世にいてどうなりますか。乱世にしか生きられぬ不器用な男なのです、某は」

「太平の世か……予には終ぞ、つくれなかったものであるな」

「もし、前右府様が太平の世を築かれたとしても、どのみち某は隠居していたでしょうな。この戦いで負けた時も、大御所の本陣に突撃して華々しく死のうと考えておりましたが。そのような終わりも悪くないと思っていたのですよ、つい先ほどまでは」

 秀頼は又兵衛の言いたいことを察したのか、僅かに笑みを浮かべた。

「ふむ、そなた左衛門佐(真田幸村)にあてられたな?」

 又兵衛は恥ずかしそうに頬をかいた。

「申し訳ございませぬ。己の数倍の大軍勢の中央に吶喊し、それを突破。そして総大将へ斬りかかるなどという前代未聞の大功をこの目で見たのです。あのような死に憧れずにはおれませぬ」

「唐土にも日ノ本にも、あれほどの武士は古今類を見ぬ。万夫不当、天下無双とはあのような武士のことを言うのであろうな」

「某とて、槍の又兵衛としてその名を轟かせました。そして、大坂城でも左衛門佐(真田幸村)豊前守(毛利勝永)と共に五人衆として称えられた身。無策に敵陣に吶喊して最期を迎えては先に逝った彼らに面目が立ちませぬし、某にも五人衆として並び賞された矜持がありまする。それに相応しい最期を遂げさせてくだされ」

「よい……又兵衛、そなたの好きなようにせよ」

 秀頼は腰を上げ、籾倉の中で最期の時を迎えることを覚悟し、沈痛な表情を浮かべている者たちに向き直った。

「又兵衛だけではない。そなたらも好きにせよ。もはや、予に義理立てする必要もない」

 治長は顔をあげた。主君がこれだけの覚悟を示しているのだ。後悔してばかりではいられない。

「前右府様、某は――」

 自分はお供すると治長が告げようとしたその時だった。籾倉の戸が開かれて外から一人の武士が駆け込んできた。

「申し上げます!!」

 鎧に身を包んだ武者は息を荒げながらも己の職務を全うすべく、声を挙げる。

「越前松平勢二〇〇〇が、山里丸へと迫っております!!前右府様を探しているものと思われます!!」

 籾倉の中に緊張が走った。

「大御所は予と交渉はせぬということか、それとも千が間に合わなんだか……」

 秀頼は天を仰いだ。己の最期の願いすら、聞き届けられることはない。それを理解し、無力さに打ちひしがれた。絶望に包まれる空気。そんな時、又兵衛が声をあげた。

「某の死に場所が決まりましたな」

 彼らしくない、どこか飄々とした軽い口調。顔には穏やかな笑みが浮かんでいる。

「前右府様、この倉はこの又兵衛が死守いたしましょう」

 又兵衛は立ち上がると、秀頼の前に進み、膝を突いた。

「某の手勢、およそ一〇〇。敵勢はこちらの二〇倍ですが、何、天王寺で見た越前松平は左衛門佐(真田幸村)豊前守(毛利勝永)に鎧袖一触で蹴散らされた有象無象。流石に打ち破ることはできませぬが、食い止めるだけならば一刻は耐えてみせましょう」

「又兵衛、お主……」

「前右府様、某のような乱世にしか生きられぬ男にはそれ相応の、大将にもまたそれに相応しい最期があります。某が時を稼ぎますゆえに、心残りなく相応しい最期を遂げられませ。決して、前右府様の首は彼奴らに渡しはしませぬ」

 又兵衛はそれだけ言い残すと、僅かな手勢と共に倉を後にした。

「すまぬな、又兵衛……」

 又兵衛が外に出ると同時に閉じられた倉の戸に、秀頼は頭を下げた。

 

 

 

「何をしておるかぁ!!相手は一〇〇にも満たぬ雑兵ではないか!!いつまで時間をかけておるのだ!!」

 

 松平忠直は、自軍の醜態に怒りを顕にしていた。

 先の戦いで真田隊に捨て置かれるという恥辱を味わった忠直は復讐に燃えていた。しかし、復讐の対象であった赤備えの軍勢は文字通り全滅しており、幸村も家康本陣にて討ち取られている。

 そこで忠直は内心で煮えたぎる怒りと復讐心の対象を、幸村の主家である豊臣家に向けた。先の戦いでの汚名を返上する必要があったこともあり、忠直は秀頼の首を求めたのである。

 天王寺口の豊臣軍が後詰の参戦によって撤退に移っていたこともあり、忠直ら越前松平勢は大坂城への一番乗りに成功した。そして、いたるところが炎上している城内を駆け巡り、ついに秀頼とその生母淀殿、大野治長らが立て篭もる倉を発見したのである。

 忠直は即座にその倉に攻めかかるように号令を発した。

 もはや大坂城には徳川軍とまともに戦える戦力が残っていないと高を括った越前松平勢は、まるで死体に群がる烏の如く秀頼の首を求めて倉に攻めかかった。

 しかし、そこに立ち塞がる者がいた。かつては槍の又兵衛として称えられ、この戦いでも大坂五人衆としてその武名を天下に轟かせた武将、後藤又兵衛率いる一〇〇の軍勢である。

 たかが一〇〇の軍勢で何ができるかと意気揚々と攻めかかった越前松平勢であったが、予想以上に激しい抵抗に晒され倉の前で足止めをされていた。

 

「修理!!どうなっておるのだ!!」

 怒鳴り散らす主君を、吉田修理好寛は必死に諫める。

「今しばらくお待ちくだされ!!敵は勇猛なれど寡勢。必死に戦っておりますが、援軍もない状態では長く戦えますまい。ここは敵勢に休みを与えず消耗を与え続けることが肝要です。さすれば、消耗した敵勢を打ち破ることは造作もないことです」

「時間をかけるわけにはいかぬのだ!!馬鹿者!!」

 忠直は焦っていた。

 実は、千姫による秀頼の助命嘆願を受けた秀忠は、秀頼やその親類、譜代家臣の助命こそ認めなかったものの、彼らの城内での切腹を認めていた。諸隊に対しても、豊臣秀頼の最期を邪魔することはないように触れを出していた。

 この触れは忠直の下にも届いていたが、触れが届いたころには既に忠直は秀頼の立て篭もる倉へ攻めかかっていた。秀頼の首という手柄をもって第二次上田合戦に続いて今回の戦いでもいいところの全くなかった秀忠への当て付けにしようと考えていた忠直は、その命令に素直に従うつもりはなかった。

 忠直は、秀忠からの触れを前線に伝えることに手間取り、その間に既に秀頼を討ち取ってしまっていたという体で秀頼の首をとってしまおうと考えたのである。ところが、忠直はさほど時間もかけずに突破できると考えていた一〇〇の守勢の抵抗に、予想外に手間取っていた。

 そしてその時、越前松平勢の先鋒を見事な槍捌きで蹴散らしていた一際目立つ武将が忠直の姿を見つけ、大声をあげた。

 

「越前松平の弱兵どもが!!左衛門佐に捨て置かれた雑魚の分際で秀頼公の首級を狙うとは、分不相応にもほどがあるぞ!!出直してこい!!」

 

 忠直は一瞬で怒り心頭に発した。

「あの男を討ち取れ!!これ以上あの不愉快な口を囀らせるな!!ヤツの首に黄金三枚じゃ!!」

 褒美に吊られ、多くの兵が武将の下に殺到するが、突かれ、斬られ、抉られ、返り討ちになるものが続出するだけであった。自軍の醜態に忌々しげに地面を蹴りつける忠直だったが、さらに狙われた武将が忠直を挑発する。

 

「このワシの首が黄金三枚!?随分とケチな殿様じゃあ!!貴様等はたかが黄金三枚と引き換えに死んでゆけ!!」

 

「おのれ、言わせておけば……」

 前線へと駆け出そうとする忠直を、修理ら臣下たちが必死になって取り押さえる。

「お待ちくだされ!!あの男は大坂五人衆の一人、槍の又兵衛でございます!!殿とて真正面から戦うのは危険にございます!!」

「このまま戦い続ければ、如何に槍の又兵衛とて疲れから動きが鈍くなりましょう!!そこを狙うのです!!」

 時間を稼げば勝てると主張する臣下たちに、忠直は吼えた。

「これ以上時間をかけてはおれぬのだ!!あのような男一人に!!」

 秀忠からの触れが来てからまだそう時間は経っていない。しかし、これ以上時間を置けば、いずれ触れのことを知ったほかの部隊がここに駆けつけてくるだろう。そうなったら、もはや抜け駆けして秀頼の首を狙うことは望めない。

 忠直は如何なる犠牲を払ってでも、短時間で又兵衛を討って倉に突入し、秀頼の首級を挙げなければならなかったのである。

「こうなったらいたし方あるまい」

 忠直は息を荒げながら命じた。

「鉄砲を持ってくるのだ。倉に多少流れ弾が行こうとも構わん。又兵衛を撃ち殺して倉へ突入せよ!!」

 

 

 

 又兵衛の突き出した槍の穂先が、また一人の若武者の首に埋まった。

 穂先が首から抜けると同時に、若武者は首から血を噴出して倒れる。しかし、又兵衛はそれを見届けることなく再度槍を振るう。今度は、隣にいた中年兵の脇、鎧の隙間に穂先が埋まる。又兵衛は穂先をその兵の脇に埋めたまま槍を振るい二人の兵を吹き飛ばした。

「一刻は持ちこたえると啖呵を切った以上、やり遂げなければ、格好がつかんわ!!」

 又兵衛も最期の戦いで一体どれだけの兵を殺せるか数えてみようかなどと最初は考えていたが、二〇を超えたころからは突き殺した兵の数も覚えるどころか数えてもいなかった。

 秀頼に別れを告げてから、どれだけ経ったか。おそらくは半刻は越えているだろう。

 半刻の間戦い続け、身体はまるで鎧を二重に着込んだかのように重く感じる。息はあがり、突きの冴えも当初とは比べ物にならないほどに低下していることを又兵衛は自覚していた。

 まさに疲労困憊、身体は限界に近づきつつあった。

 だからこそ、それを油断というのは少しばかり厳しかっただろう。越前松平勢の本陣から銅鑼が鳴り響いた瞬間に又兵衛の正面から兵が消え、又兵衛の前方に障害物のない空間が拓けた。そして、又兵衛の前方、およそ四〇間(七〇m)近くに火縄銃を抱えた鉄砲足軽が四人いた。又兵衛は己の失策に気づいたがもう遅い。

「放て!!」

 号令と同時に轟音が鳴り響いた。そして、四発の鉛玉の内、三発が又兵衛の胴を貫く。

 焼かれた釘を体内に打ち込まれたかの如き激痛と、胴体に正面から拳を入れられたかのごとき衝撃に耐えかね、又兵衛は仰向けになって倒れた。

「槍の又兵衛の首じゃあ!!」

「黄金三枚はワシがいただく!!」

「邪魔をするな!!アレはワシの獲物じゃ!!」

 鉄砲を投げ捨てた越前松平の鉄砲足軽たちは我先にと倒れた又兵衛の首級目掛けて群がる。だが、その行動は余りにも軽率だった。首を刎ねようと刀を手に身なりのいい若武者が膝をついた瞬間、カっと目を見開いた又兵衛は、その足軽に蹴りを叩き込み、後ろにいた足軽もろとも蹴り飛ばした。

 又兵衛は、激痛と疲労で言うことを聞かない身体に活を入れ、強引に身体を起して立ち上がった。

「馬鹿な!?撃たれてあれだけ血を流しているのに!?」

「どうして立てるんじゃ!?」

 まさか再び立ち上がるとは思ってもいなかった越前松平勢は動揺を隠せない。

 しかし、又兵衛も満身創痍だ。

「……左衛門佐(真田幸村)は」

 死んだと思っていた敵が目の前で蘇るという事実を受け入れられないのか、又兵衛に足蹴にされた足軽は、蹴りの衝撃で刀も手放して丸腰だった。丸腰で、ただ震えながら腰を抜かしている足軽の前で、又兵衛は息も絶え絶えになりながらも言葉を口にする。

左衛門佐(真田幸村)は大御所に一太刀入れ、豊前守(毛利勝永)長門守(木村重成)左衛門佐(真田幸村)の首を狙う剣術無双を足止めした!!ワシとて、二〇倍の軍勢を止めることぐらいやってのけなければ、恥ずかしくてやつらと冥土で美味い酒を飲むこともできんわぁ!!」

 その時、又兵衛の耳に、何かが焼けるようなパチパチという音が響き、鼻腔を焦げ臭い臭いが擽った。臭いと音は、自分が守ってきた背後の倉から発せられたものだ。

「前右府様ものんびり屋ではないか……少し、待ちくたびれてしまったわい」

 気づけば、自分以外に立っている手勢は片手で数えるほどしかいない。

 そして、又兵衛は自分の正面で腰を抜かし、小便を漏らしている丸腰の足軽に向き直ると、笑みを浮かべた。

「おう、小僧。お主に名誉を授けてやろう」

「め、名誉……?」

 又兵衛が何を言っているのか、その足軽には分からなかった。だから、その足軽は又兵衛の言葉をオウム返しで返すほかなかった。

「うむ、お主には、この槍の又兵衛が生涯最後に挙げた首級という名誉をくれてやろうではないか」

 その言葉の意味をその足軽が理解し、その顔に絶望の表情を浮かべた直後だった。又兵衛は腰から抜いた刀を大きく振りかぶり、後ずさりしようとする足軽の首を一太刀で断ち切った。

 さらに、頭を失って首から鮮血を吹き上げる胴体を横目に又兵衛は越前松平勢に向き直り、刀を中段に構えた。

 次は自分たちかと身構える足軽たち。しかし、又兵衛はそのまま動かなかった。こちらの様子を伺っているのか、全く微動だにしない。様子を確認することを恐れた越前松平勢は再度又兵衛に鉄砲の銃口を向けるが、やはり又兵衛は動かなかった。

 そして、銃口が火を吹く。今度も、又兵衛に銃弾が次々と命中し、又兵衛は倒れた。しかし、まるで仏像か何かが倒れるかのように、又兵衛は刀を構えた体勢で固まったまま倒れた。違和感をもった越前松平兵は倒れた又兵衛のもとに駆け寄り、驚いた。

「まさか……既に死んでおったとは」

 又兵衛は既に死んでいた。又兵衛は息絶えてもなお、刀を構え続け、主を守り続けようとしたのである。

 その背後には、既に火の手が回り突入することも躊躇うほどに激しい炎に包まれた倉の姿があった。

 

 槍の又兵衛、その死に様は、武蔵坊弁慶の最期に準えて、又兵衛の立往生として語り継がれることとなる。




秀忠を大野兄がdisってますが、あの人も為政者としては大分できた人なんですよね。
武功と家族からの人望がないって点を除けば、名君だと思いますよ。
又兵衛さんの最期は某薔薇の騎士連隊長のリスペクト入ってます。



お盆以降、職場の都合で長期出向していて色々と忙しく、中々執筆の時間が取れない状況です。
現在のところ、実は本編が一話分しかストックできていないという状態。桜が咲くころまでは出向先から戻れないので、このままのペースだと次の5話連続更新は春ぐらいになりそうです。そこで、とりあえず出向から帰るまでの間の今後の掲載方法についてアンケートをとりたいと思います。
①今までどおり、5話ストックを書き上げてから月~金まで一九時〇一分に連続投稿
②1話ずつ、書き上げた都度一九時〇一分に投稿
③おまかせ
これから一つ選んでください。


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閑話 もう少し、暴れてみたかったが

お久ぶりです。
お待たせして申し訳ありませんでした。
今回は閑話ですが、明日、5月19日一九〇一に本編の最新話を投稿する予定ですので、お楽しみに。



 長宗我部盛親は、戦場の中にいた。

 

「宮内少輔、我らはこの城と共に滅びるであろう」

 

 目の前には、今は亡き前右府様の姿がある。

 前右府様の後ろには夕陽を思わせる紅い光と、ぼんやりとこちらを焦がす熱。太閤豊臣秀吉が築いた、豊臣の天下の象徴である黒き天守閣――大坂城の天守閣が、滅びをもたらす劫火に包まれていた。

 

「お主が長宗我部の家を再興するために予に尽くしてくれたことはよく知っている。しかし、予はお主の献身に応えることができなかった。すまないな」

 

 懐かしい顔だ。あの日からどれだけの月日が流れただろう。もはや、思い出すこともできなくなっていた顔が今の盛親にはくっきりと分かる。

 これは、夢だ。

 大坂城が炎に包まれた日。豊臣家が徳川に滅ぼされた日。

 決して忘れることのできない、あの日の夢だ。

「前右府様。最期までお付き合いできない身勝手をお許しくだされ」

「なに、予に殉じる必要はない。お主は十分すぎるほどに予のために尽くしてくれた。それに、国松のことも引き受けると言ってくれた」

 前右府様は、隣の侍女が抱きかかえていた幼子の頭に手を置いた。

「千が大御所に予の助命嘆願をしているが、大御所には通じまい」

「…………」

 言葉が出ない。あの日、あの時と同じやり取りが自分の目の前で繰り返されている。

「予は、この城と共に滅ぶ。亡き父にどのような顔をして詫びればいいのか分からぬがな」

「前右府様……」

「だが、予が滅ぼうとも、豊臣の血を滅ぼしてはならぬ。国松が生き残ることができれば、豊臣の血は未来へ受け継がれる」

 夢とはいえ、何もあの日の全てをそのまま再現することはない。

 言わねばならない。あの後、自分たちにどのような試練が待っていたのか。そして、国松様がどんな若者へと成長したのか。

 しかし、口を開いても、そこから零れる言葉はあの日と同じ言葉だけ。何を伝えなければならないのか理解していても、口は自らの意思を離れて言葉を紡ぐ。

「国松様の身は、この宮内少輔が我が身に代えましてもお守りいたします。いつの日か必ず、国松様は天下人として立たれましょう」

「徳川の世を滅ぼし、豊臣の天下を創成する。この場で散る予に代わり、重いものを背負わせてしまったな」

「前右府様の御子にして、太閤殿下のご嫡孫であらせられる国松様の、責務にございます」

「そうよな、予の子である限り、これは避けては通れぬものよ」

 前右府様に促された侍女は、国松様を抱きかかえるのを止めて、地面に下ろす。

 そして、前右府様は我が子に目線を合わせるように跪き、その両肩をがっしりと掴んだ。

「国松よ、よく聞くのだ」

 つい先ほどまで、周囲の大人の物々しい雰囲気にあてられて号泣していた国松様がようやく泣き止んだ。

 子供ながらに、この瞬間が特別な時間であることを察していたのかもしれない。今にも泣きだしそうな様子ではあるが、それでも国松は自身を見つめる父親の瞳からは目を逸らさなかった。

「これが、今生の別れとなるやもしれぬ。今後は、そこの長宗我部宮内少輔盛親を其方の傅役とする。戦を知り尽くした将であり、よく国を治める国主でもある。其方が必要とする力は、全てこの者が授けてくれよう。頼りにするのだ」

 自分を買いかぶってもらっては困る。自分は結局、前右府様の期待には応えられなかったのだから――

 しかし、口はやはり動かない。あの時と同じように、前右府様に頼りにされたという感動と、国松様を逃すという大義を掲げて一人この戦場から逃げることへの悔恨が混じった感情が胸を締め付ける。

「まずは、生き延びよ。何を成すにせよ、まずは生き延びなければならぬ」

 八歳の幼子が、父親の言葉をどこまで理解していただろう。しかし、前右府様には懇切丁寧に全てを教える時間などはなかった。

「豊臣の天下を取り戻す戦いが、いつか必ず起きるであろう。その時にはお主がその先頭に立たねばならぬ。しかし、逸ってはならぬ。時期を待つのだ。鎌倉の北条も、京の足利も、永遠ではなかった。いつか、必ず綻ぶ時がくる」

 この時の自分は、この言葉を前右府様自身の悔恨の言葉だとばかり考えていた。

 後三年豊臣の決起が遅ければ、ひょっとすると家康は死んでいたかもしれない。家康亡き後であれば、福島も、黒田も豊臣についた可能性があった。幸村に蹴散らされた弱卒の譜代、親藩を戦下手な秀忠が指揮したところで脅威ではない。

 あるいは、決起が後三年早ければ、加藤清正や浅野幸長がいた。例え家康が相手といえども、豊臣恩顧の大名である加藤、福島、浅野、黒田がこぞって豊臣についたならば勝算は十分にあった。

 きっと、前右府様は時勢を読み間違い勝機を逸したことを悔やんでいるのだろう。だから、我が子には同じ失敗をさせたくないのだとこの時の自分は信じていた。

「よいな、豊臣の世を取り戻すことができるのは、お主しかおらぬのだ。誰も代わってやることはできぬ。くれぐれも、逸るでないぞ!!軽々しく死を選ぶことは、お主には許されない!!」

 思うに、当時の自分はまだ、長宗我部が滅ぶことを受け入れられなかったのだろう。なまじ、一度希望の目を見てしまったからこそ、またやれると思っていた。だから、滅ぶことを半ば受け入れ、諦めていた前右府様の覚悟も、思いも分からなかった。

 豊臣家の主として、徳川に屈せよとは口が裂けても言えない。しかし、徳川打倒のために立てば、命を失う公算が大きい。我が子にはただ生きていてほしいと願った親は、時期を待つという理由で戦いを避けてもよいのだと、自身の生死を賭けなくてもいいのだと教えたかった。

 それが、前右府様の本意だったのかもしれない。

 自身が老い、死へと近づいたことでようやく、あの時の前右府様の真意が分かった。自分の至らなさを情けなく思わずにはいられない。

 

 ――問わねばならない。

 

 徳川の世は、大名への厳しい弾圧の甲斐あって盤石になりつつあると言ってもいい。

 先年、掃部(明石全登)殿が扇動して九州は島原で起こした一揆も、徳川の幕府は少なくない犠牲と引き換えとはいえど見事に制圧した。四〇〇〇〇の兵が決起するという大坂の陣以後最大規模の争乱が見事に鎮圧されたのだ。

 掃部(明石全登)殿の能力はよく知っている。あれだけの能力のある人物が副将として指揮していた軍勢が壊滅したのだ。生半可な戦力では、幕府に対抗することなど夢の又夢。徳川の打倒を目指すのであれば、島原の軍勢の倍でも足りない。

 さらに、内乱の芽がまだ日ノ本の中で燻っていることを知った幕府は、監視の目をさらに強めることは想像に難くない。その監視の目を掻い潜り、兵を集め、兵糧弾薬を都合することは至難の業である。

 決起の成功の可能性は、ない。

 今思えば、島原の乱が最期の機会だったのかもしれない。江戸で大火を起こし、大坂で決起していれば幕府を揺るがすことも不可能ではなかった。幕府に不満を持つ朝廷を抱き込んで上手く動けば、乱世へと逆戻りさせることもできた可能性がある。

 しかし、大坂の陣の後、潜伏することを優先していたとはいえ、戦力の編成にほとんど手を付けられていなかった。島原の乱の直後、自分達が動かすことができた戦力は精々が一〇〇。幕府に不満を持つ牢人を抱き込んだところで一〇〇〇人ほど扇動するのが関の山だっただろう。

 そして、時間が経てば経つほどに豊臣の威光はこの世から薄れていく。豊臣の威光が薄れるにつれ、さらに決起への賛同者は減っていく。もはや、自分には豊臣の再興の可能性を見つけることができない。

 自分の不甲斐なさ、先見性のなさを責められても仕方がない。

 無論、豊臣の決起がならぬのであれば、長宗我部の再興もまた、あり得ない。大坂の戦いであれほど徳川に打撃を与えたのだ。今更臣下として下ることがまず許されるはずがないし、万が一許されたとしても、牢人よりは多少マシといった待遇が与えられるかどうか。もとより、徳川には遺恨しかない身である。徳川に下るという選択肢などありえない話だ。

 しかし、自分は、長宗我部家の滅びを半ば受け入れることができた。長宗我部の滅びは、自分で決められるからだ。長宗我部は盛親という無能な当主が滅ぼしたとして歴史書に書かれる覚悟もできている。

 全ての責を自分が引き受けて、滅ぶ。潔い終わり方だろう。幕府に出頭し、市中引き回しの上で首を刎ねられることも受け入れられる。長宗我部の滅亡をここに決定づけることに抵抗はない。

 そのため、国松様には自分たちに遠慮する必要はない。もしも、前右府様の本意が豊臣の復権よりも国松様の生存にあるのであれば、国松様のお命のために別の生き方を探してもらうよう説得することもできる。

 夢とはいえ、もう一度前右府様に会う機会を得ることができたのだ。ならば、何としてもその本意を問いたださなければ。ただ、書物を音読するかのように、過去の言葉を繰り返す我が口が忌々しい。夢くらい、融通が利いた世界であってくれてもいいではないか。

 

「前右府様――」

 

 

 

 

 

 

 

寛永一五年(一六三八年) 五月七日(旧暦) 江戸

 

「父上!!」

「御爺様!?」

「盛親……」

 身体が動かない。節々が痛み、呼吸をするだけで生気が吐き出されるような感覚。

 夢の中では、あれほどまでに軽く、自由に動いた身体が嘘のように重くなっているように盛親は感じていた。まるで、鉛の鎧を身に着けているかのようだった。

 目に映る景色は、つい昨日の夜にも見た寝所の景色。枕の横には、盛親の子盛恒と孫の盛胤。そして、成長した国松――江戸では、由井正雪という偽名を名乗る青年の姿があった。

「ひどく魘されておりましたが、一体、どうされたのですか?」

「儂は、魘されていたか」

「ええ。前右府様、前右府様と」

 盛胤は心配そうに盛親を見やった。

「夢を、見ていた……」

 茫然と盛親はつぶやいた。

「夢、でございますか?」

「大坂にいた頃の夢だ。大坂城で、前右府様とお会いした」

 ここは、神田連雀町、隣の部屋の物音さえ聞こえるほどに壁の薄い粗末な長屋の一角。大坂を脱出して以降、この長屋が盛親の住まいだ。

 江戸に隠れ住んで二〇年以上が経つ。近所の子供に学問を教えることで生計を立てているが、今のところ幕府に目をつけられたことはない。幕府に不平不満を持つ牢人達とも交流があるが、あくまで彼らにはかつて諸国の戦場を巡ったことのある牢人という肩書で接している。

「父は、盛親になんと言っておった」

 自身の父が夢に出てきたと聞いて、興味をひかれたのだろう。正雪は真剣な表情を浮かべている。

 盛親は、首だけを動かして視線を正雪へと向けた。

「大坂城が焼かれた、あの日の夢です。拙者も、前右府様もあの日、国松様をお預かりした時と同じやりとりをしました」

「私に対しては、何か言っていたか?」

 盛親は一瞬躊躇した。正直に伝えるのであれば、あれは文字通りあの日のやり取りを書物のように正確になぞっただけのこと。正雪もかつて一度聞いている言葉でしかない。

 しかし、膈の病を患っており、既に床から起き上がることもできなくなったこの身が、あの夢を見たのには何か意味があるのかもしれないとも思った。

「盛親?」

 口ごもる盛親の様子を見た正雪が訝しげな表情を浮かべている。盛親はとりあえず、間をもたせようと大袈裟に咳きこんでみることとした。

「父上、大丈夫ですか!?あまり無理をなさらず、息を整えてください」

 盛親は息を荒げ、話すことも楽ではないように振舞った。そして、その間に考えを脳内でまとめようとする。

 夢で感じた、豊臣秀頼の言動の裏に隠された真意。しかし、あくまでそれは盛親がそう感じただけのこと。それを正直に伝えていいものか。

 正雪は、思慮深く落ち着きのある武者へと成長している。傅役として成長を見守ってきた盛親の最期の言葉であれば、決して無碍にはしないだろう。ひょっとすると、豊臣家の再興に命をかける必要はないと伝えれば、それを受け入れてくれるかもしれない。

 そして、正雪に対して、豊臣家の再興という理念よりも自身の命を大切にせよと面と向かって言うことができる人物は、傅役である盛親を置いて他にない。

 盛親自身、豊臣家の再興が正雪の生きている間に成し遂げられるとは到底思えなかった。鎌倉の北条家や足利の幕府が滅びるまで一〇〇年以上かかったことからすれば、徳川の世もそれと同じくらいは続くだろうと見越していた。

 時期を見極めるとはいえ、豊臣の威光は時を経れば衰えるばかり。徳川の力が弱まったとて、豊臣の威光はそれ以上に弱っている可能性が高い。時期を見極めよなどと、希望があるような言いぶりをすることは、徒に決起を煽り、正雪に非業の死を与えることに繋がりかねないとも考えられる。

 しかし、もしも盛親が考える秀頼の真意が単なる思い込みにすぎなかったとしたら、それは正雪という大器を無為に埋もれさせてしまうことに他ならない。また、正雪に対して豊臣家の再興の責務を教え込んできたのは、他ならぬ盛親自身である。

 自分のような凡才にはできなくとも、正雪ならば太閤殿下のように不可能を可能にするかもしれないという期待もあった。

 盛親は悩んだ。

「前右府様は、最後にこうおっしゃりました」

 そして――ありのまま、秀頼の言葉を伝えることを選んだ。

「まず、生き延びよ。そして、時勢を見極めよ、軽挙妄動は慎むようにと」

「ふむ、してその後は?」

「前右府様が仰ったのは、それだけにございます」

「父の言葉は、本当にそれだけか?」

 正雪の真剣な眼差しが、盛親に向けられる。

 鋭利なナイフを思わせるその視線は、盛親が何か隠していると確信していることを盛親に感じさせていた。

「……某には、前右府様の御心が奈辺にあるのか、確信が持てませぬ。ですが、仰せになられたことは、それだけでございます」

 それでも、盛親は自身の憶測を話すことはしなかった。秀頼の本意については、正雪の考えに委ねることとした。正雪も頭脳明晰で臣下の心をよく知る男だ。正雪なら、いつか必ず秀頼の最期の言葉の本意を理解できるだろうと盛親は考えた。

「時期を、待つのです。きっと、時期が……」

 盛親自身、気づいていない。『時期を待つ』という言葉を発する時、いつか必ずその日が来るという期待を声音に写している自分に。秀頼の真意を薄ら確信していながらも、あくまで自分の心象だと否定したがっている自分がいることに。

 無意識に、正雪に押し付けた期待。その願いは何れ、呪いとなり由井正雪を縛り付けるものとなる。

 由井正雪の未来を決定づけたのは、彼自身が持って生まれた才能でも、豊臣秀頼の子という出自でも、徳川の世に対する世論の不満でもない。

 最期に彼を突き動かしたのは、長宗我部盛親が彼に向けていた想いだった。

 

 

 

 この夢を見た数日後、盛親の容態は急変する。そして、容態が急変したその日の夜に盛親は静かに息を引き取った。享年六三。

 そして、盛親の死から一三年後に正雪は大坂と江戸で同時に武力蜂起を起こすものの、両都市ともに瞬く間に幕府軍によって鎮圧されてしまう。

 最後には、正雪は豊國社にて自ら命を絶つ。

 殉じる者が誰もいない孤独の自刃は、徳川に不満を持つものこそ世にあれど、豊臣に忠を尽くす者が既に絶えていることを示していた。




長宗我部盛親の末期は、だいたいジンバ・ラルのイメージですかね。
キャスバルが国松で、盛恒がランバ・ラルのポジションになる感じです。


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閑話 全部こんな感じか

お久しぶりです。
腕の怪我も治ったので、ボチボチ書き始めるか……と思ってたら、いつの間にか2020年が終わりそうだったので、急いで一話書き上げました。
本編じゃなくてごめんなさい。


 遠坂家の書斎で、幸村は顔を引き攣らせていた。

 幸村は後世での自分の評価や、教科書には載っていない細かな歴史の変化が気になり、璃正の手を借りて戦国関連の書籍を宅配便で遠坂邸に届けさせていた。勿論、代金は時臣持ちである。

 タイガードラマの空前絶後の大ヒットもあってか近年では大坂の陣の研究もかなり進んでいるらしく、様々な研究者が大坂城や真田一族関連の本を出していた。中には自身の持論ありきで一次資料を参考としない歴史書擬きや妄想本も少なからずあったが、まぁいつの時代も内容の真贋はともかく、大衆受けする考え方や書き方が反映された面白い本が売れるのであろう。

 幸村も、別にどこぞのとんでも本や、歴史小説、タイガードラマでの真田幸村という人物の扱いについてそこまで気に留めていない。歴史上の人物の扱いというものなぞ、そのようなものだとある意味で達観して苦笑する程度だった。型月での偉人たちの扱いに比べればなんということもない。

 しかし、一冊の本を捲り始めた時、初めてその苦笑いが凍った。

 手元には、『現代語訳:戦国軍記』と題された一冊の本が広げられていた。

 

 

 

 

 

慶長二〇年(一六一五年) 一〇月一一日(旧暦)未明 摂津の国 茨木城

 

「な、何故!?何故この儂がこのような目に!?」

 茨木城の本丸の一角で、一人の男が坊主頭の大男に組み伏せられていた。

 周囲には斬り殺された無数の兵の亡骸が転がっており、地面も壁も血に染まっている。まさに、死屍累々というべき状況の中、鎧すら着込んでいないその男は、恐怖で顔を震わせ、冷や汗で着物を湿らせていた。

 男の名は、片桐且元。この茨木城の城主である。そして、かつて太閤秀吉にその手腕を買われて取り立てられ、さらにはその嫡子秀頼の傅役に抜擢され、太閤秀吉亡き後は豊臣家の家老まで任せられていた男である。

 しかし、且元は家老という地位にありながらも徳川家と通じており、豊臣家が徳川家に屈するように手を回していた。そしていざ徳川と豊臣の決戦が秒読みと見るや、身勝手にも豊臣家を見放して大坂城から逃げ出した。さらには、豊臣家に裏切りが露見したことで命を狙われていると主張し、誼を通じていた徳川家康に救援を乞うという恥知らずな行いをしている。

 大坂城から逃げ出した且元はその後茨機会城に立て籠もり、徳川家の軍勢が駆けつけることを信じて城内で震える日々を送っていた。しかし、草木も眠る丑三つ時、寝所で横になっていた且元は、突如敵襲の知らせを受けたかと思えば、鎧を身に着ける暇もなく本丸に侵入していた敵兵にその身を拘束され、今に至る。

 且元の前に、赤備えの甲冑に身を包んだ男が歩み寄る。且元を押さえつける男が、近づいてきた男に対して腰を曲げて頭を下げたため、図らずも且元はさらに強く大地に押さえつけられる。

 思わず退こうとするものの、且元は自身の身体を大地に縫い付ける剛力の前に、羽根をもがれた蝶のように惨めに身をよじることしかできない。

東市正(片桐且元)殿、抵抗は考えないでいただきたい」

 自身にかけられたその声に聞き覚えがあった。かつての主君、太閤秀吉がまだ存命だったころに、大坂城で何度も聞いた声だ。

 首だけをどうにか動かして、その声の主を且元は仰ぎ見た。

「ま、まさか左衛門佐か!?」

「今は、真田左衛門佐幸村と名を変えております。お久しぶりですな、このような形で会うとは思ってはおりませんでしたが」

 真田左衛門佐が数日前に大坂城に入城したことは、且元の耳にも入っていた。

 且元が幸村と大坂で頻繁に顔を合わせていたのは、もう二〇年は前の話。関ケ原の合戦以後の幸村は父親と共に九度山に押し込められていたこともあり、一度も顔を合わせていない。しかし、久しぶりにみる幸村の顔は、既に齢五〇近いはずであるのに、大坂城に詰めていたころと何ら変わっていない。

 九度山で生まれた幸村の子だと言われた方がまだ納得できたかもしれないほどに、幸村の顔は老いを感じさせなかった。

 さらに、且元の上に新しい影がさす。

「左衛門佐、初戦に勝利できたのはいいが、流石に手ごたえがなさすぎるぞ」

「又兵衛殿、戦は最初に勝つことこそが肝要。最初から勝てるか分からぬ博打を打つわけにもいきますまい。まずは確実に勝てる戦を選ばねば」

「しかし、一〇〇の手勢で城を落とすから、ついてきてくれないかと言われたのだぞ、我らは。激しい戦いになると考えるのが当たり前であろうが」

 且元は聞こえてきた会話に驚きの声をあげた。

「又兵衛?……筑前守(黒田長政)に仕えていた、槍の又兵衛か!?いや、それよりもこの茨木城を一〇〇の手勢で落としただと!?」

「儂と、左衛門佐、そして掃部(明石全登)豊前守(毛利勝永)宮内少輔(長宗我部盛親)。それぞれ二〇の手勢を引き連れておったから、正確には一〇五人か」

 鎧を返り血で染めた豪傑、後藤又兵衛がつまらなそうに吐き捨てる。

 その様子を見た且元は信じられないとばかりに頭を振った。

「ばかな、この茨木城は二重の堀に囲まれておるのだぞ。二〇〇〇の兵が守りを固めたこの城をどうやって……」

「真田の忍が堀を泳いで先行し、見張りを皆殺しにした。そして、門を内側から開けて我らを迎え入れたのだ。後は簡単だったぞ。まともな抵抗はほとんどなかった」

「大坂城の軍勢がここを攻めるはずがないと高を括っていましたな、東市正(片桐且元)殿。加えてこの城の兵は戦の経験もなく、しかも警戒心が薄く、夜襲が露呈した後の対応もお粗末なことこの上ない。たとえ兵の数が多く、城に籠って居ようとも、これでは勝てるはずがありませぬよ」

 自身の城と配下の兵が全く張り合いのない相手だったと淡々と語る幸村の姿を見た且元の口元が恐怖で引き攣る。

 且元とて、豊臣家がこの城に対して討伐の軍を送ってくる可能性を考えていなかったわけではない。大坂城を抜け出した時点で、裏切り者の首を獲るというお題目を掲げて血の気の多い秀頼の側近たちが動くことも予想していた。

 しかし、この城を攻めるのであれば最低でもこちらの軍勢の二倍の四〇〇〇は集めてくるだろうという先入観が且元にはあった。その規模の軍勢が動けば且元は確実にそれを察知して事前に城内に厳戒態勢を取らせていただろう。

 僅か一〇〇の軍勢が、二〇〇〇の兵が籠る城を夜襲で落とそうとするなどというのは、想定外であった。

 そして、恐怖に慄く且元の前で幸村が腰を落とした。

東市正(片桐且元)殿には、かつてお世話になりました。しかし、右大臣秀頼公に対する叛逆は看過できませぬ。それ故、攻め寄せてまいった次第です」

「わ、儂は豊臣家のためを思えばこそ、大御所(徳川家康)様にとりなしていただけだ!!決して、秀頼公に叛いては」

「ご自身が言い出された三か条を棚に上げてよくもそのようなことが言えますな!!」

 幸村の剣幕に、且元は息を呑む。

「『右大臣秀頼公の江戸への参勤』、『御母堂の淀の方の江戸詰め(人質)』、『右大臣秀頼公の転封』……いずれも、豊臣家が徳川を主と仰ぐものに相違ないではないか!!天下の豊臣家を戦わずして家康に売り渡すこの三か条を、裏切りと言わずしてなんとする!!」

「しかし、と、豊臣家にはもはや徳川家と干戈を交えるほどの力はない!!私はただ、秀頼公の御身を案じて、お命だけはお守りしなければならないと思っただけなのだ」

「命を守るだけか」

 幸村の眼差しが一層鋭利なものへと変わる。

「太閤殿下が東市正(片桐且元)殿を秀頼公の傅役に命じたのは、秀頼公が成人なされるまで豊臣の天下を支えることを期待してのことであることは言うまでもない。それを、貴殿は……」

「左衛門佐、お主にもわかるであろう。仕方ないのだ。太閤殿下亡き後の豊臣家では徳川家の力がなければ天下の政を執ることはできぬ」

「豊臣から力が失われたのは、家老であった東市正(片桐且元)殿にも責があるのではありませぬか?それを、全ては仕方なかったと仰る。そして、主君も、太閤殿下の遺命も投げ出して家康に下るとは如何なる料簡か。豊臣家への忠義はどこへ行ったのですか」

 この時、且元の喉元まで、幸村を罵倒する声がこみあげていた。

 幸村の父親真田安房守昌幸は、生前に太閤秀吉が表裏比興の者とまで評したほどの謀将だ。上杉、北条、徳川という三つの大名家を裏切った前科のある父親を持つ幸村に、今更忠義などというものを語られることが、腹立たしかった。自分の父親の所業を顧みろと言い返してやりたかった。

 しかし、且元はその言葉を飲み込んだ。今の自分は生殺与奪の権利を握られている状態だ。

 豊臣家の滅亡に巻き込まれて片桐の家を潰すわけにはいかないと考えて戦が始まる前に逃げ出したというのに、この場で死ぬわけにはいかない。左衛門佐はかつての同僚であり、親交も少なからずあった。

 上手く言い逃れをすれば命だけは助かるかもしれないという打算が且元にはある。

「左衛門佐、悪いのは大野修理(治長)なのだ。やつが秀頼公を焚きつけるから豊臣と徳川の関係が悪化したのだ。儂はそれに巻き込まれて命を狙われるようになっただけで、決して自分から豊臣家を裏切ろうなどと考えてはおらぬ」

 且元は額を地面に着け、幸村に懇願する。

「大御所様に下り、秀頼公の助命をお願いすること。それこそが秀頼公のお命をお守りする唯一の方法。大御所に領地をもらっている市松(福島正則)なぞは不興を買うことを恐れて大御所様に意見することなどなかろう。助命を嘆願することができるのは、儂しかおらぬのだ……頼む、儂のためではない。秀頼公のために、どうか、殺さないでくれ……」

 その様子を見た幸村は深く息を吐いた。そして、しばしの沈黙の後に口を開いた。

「この城と城内の物資を全て明け渡すのであれば、命までは取りませぬ」

「よいのか、左衛門佐。東市正(片桐且元)は大恩ある豊臣家を裏切ったのだぞ。それを逃すなど、示しがつかぬ」

「かつては賤ケ岳の七本槍と称えられたほどの将が、このような無様な負け戦の果てに命乞いをして討ち取られる。それは憐れよ」

「むしろ、本人が望まずとも見苦しいさまを晒さぬように介錯してやるのが武士の情けというものではないかと思うがな……」

 それ以上続けることなく又兵衛は口を噤んだ。

 そして、翌日の朝には着の身着のままで片桐且元は解放される。

 

 この五人の将と一〇〇の手勢で城一つを鮮やかに陥落させた偉業は、「五人衆の城落とし」と謳われ大坂の街の語り草となった。大坂城の中で牢人たちの力を疎んじていた譜代の家臣たちも、この大戦果を軽んじることはできず、大坂城内でこの五人の発言力は大きく高まったという。

 一方、全てを失った且元は、這う這うの体で徳川家の直轄の高槻城へと逃げ込み、保護を求めた。その後且元は徳川家に正式に仕えることとなり、大坂城を巡る戦いでは大坂城内部の情報を惜しみなく提供し、幕府軍の砲撃部隊に大いに貢献したという。

 

 

 

 

 

 

 

 幸村は、そっと『現代語訳:戦国軍記』の表紙を閉じた。

 そして、目を瞑り天井を仰いだ。

 確かに、大坂の冬の陣で、大坂城に入城したばかりの幸村が俗に大坂五人衆と謳われた同僚たちと共に、片桐且元の居城である茨木城を襲撃し、武器弾薬を接収したのは事実である。

 夜襲だったということも事実だし、片桐且元を捕縛した後に解放したということも事実である。城に籠る軍勢よりも少数の兵を率いてこれを成功させたことも、間違いではない。

 この事実だけを整理すれば、確かにこの戦国軍記とやらにあるような描写にたどり着くのも、まぁ分からないことではない。とんでも妄想垂れ流しの陰謀論者が作家気取りで書いた作品のような酷いものと違い、一応はそれなりの情報を下地に執筆されたものなのだろう。

 片桐且元を醜い裏切り者として描いている点は、まぁ上記の事実を鑑みれば多少筆者のバイアスがかかったとしても仕方のないところである。

 実際のところ、片桐且元という男はこの本で描かれているような恥ずべき裏切り者という人物ではない。温和で大人しい中間管理職のような下からは慕われるようなおじさんというのが幸村の片桐且元に対する印象だ。反面、上司や取引先には強く出られずに苦労を抱え込むようなところもあったが。

 この茨木城襲撃についても、この本で描かれているような鮮やかな夜襲ではなくただの八百長だ。

 対徳川強硬派に命を狙われて大坂城を脱出した且元は、もはや豊臣家に対して大っぴらに協力はできないとはいえ、豊臣家に対する忠義は全く揺らいではいなかった。むしろ、大坂城を脱出した後に負い目を感じ、何とか徳川に目を付けられることなく豊臣家に対して奉公できないかと考えていた。

 幸村は関ケ原の戦いの後にも大坂に潜伏させ続けていた子飼いの忍びを通じて大坂城を脱出した直後の且元と接触し、且元を説得した。且元が戦支度と称して集めた軍需物資を、そっくりそのまま豊臣家に流すことが、今且元にできると豊臣家に対する最大の援助であると。

 そして、現在の大坂城内で大きな顔をしている譜代の戦知らずどもが戦の主導権を握れば、最悪大坂城すら落城しかねない。それを防ぐには、大坂城に集まった牢人が発言力を強める必要があった。

 牢人集が僅かな手勢をもって城一つ落としたとなれば、その発言力は決して軽視されることはない。牢人衆を最大限生かし、徳川に対する勝機をつかむには、且元との八百長が最善の策であると幸村は論じたのである。

 且元が自身の無力さに打ちひしがれていたことを知っていた幸村は、その心の隙を巧みについたのだ。

 その結果として、且元が稀代の裏切り者となった。八百長について後悔こそしていないが、豊臣家の行く末を案じ続けていた老人に対して悪いことをしてしまったとは思っている。

 しかし、且元への申し訳なさだけなら、幸村の顔も引き攣ることはなかった。幸村の顔が引き攣った原因は、この本の著者にあった。

 

 

 ――甫庵先生。あんた一体どうしたんですか。

 

 

 




一応これ、前後編予定です。
後編は来年早々にでもできたらなぁって思っています。


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第四次聖杯戦争編
第1話 割と好きな顔


お待たせいたしました。これより本編に入ります。
当初は7月中に投稿する予定だったのですけどね。
遅れて申し訳ありませんでした。
察しがついているとは思いますが、遅れた理由はまぁ、ぐだぐだイベと復刻水着です。
Fate(成分)/Zeroだったのは過去の話、これからがっつり第四次聖杯戦争がはじまります。


慶安四年(一六五一年) 五月一〇日(旧暦) 武蔵国 江戸城

 

 

 

 後に、慶安の変と名付けられることとなる江戸での牢人の武装蜂起と江戸城への襲撃事件。それから二日が経ったこの日、時の老中首座松平伊豆守信綱は江戸城に一人の老人を呼び二人きりで面会していた。

「お見事でございました。真田の軍略、しかとこの目で見届けさせていただきました」

 信綱は、目の前の老人に対してまず賛辞を述べた。

「某は偶然居合わせただけにございます。此度、叛徒共を跳ね返すことができたのは偏に神君家康公が心血を注ぎこんだこの難攻不落の江戸の城あってのこと。死してなお大功を成すとは、やはりかの御方は某のような田舎大名とは別格でござる」

 謙遜する老人。

 しかし、信綱は知っている。この男こそ齢二〇に満たぬ若武者のころから上杉、北条、徳川の軍勢を相手に戦いを重ね、神君家康公にもその武勇と忠勇を認められていた古強者。そして、徳川の大軍勢を相手に僅かな手勢をもって二度も大勝利を成した智謀の将、真田安房守昌幸の長男。

 老人の名は、真田伊豆守信之。信濃上田藩九万五〇〇〇石の大名であり、この時齢八六。戦国の世の最後の生き残りでもあるこの老人は、米寿を間近に控えているとは思えないほどに矍鑠としていた。

 信之は先の事件の功は江戸城を築城した家康にこそあり、自分は大したことはしていないと言うが、先の江戸城襲撃事件における信之の活躍ぶりはまさに真田の軍略を見せつける見事なものであったと信綱は聞いている。

 信綱の聞くところによると、まさか天下の江戸城が襲撃されるということを夢にも思っていなかった番所の者たちは突然の襲撃に右往左往し、大手門を牢人に突破されるという失態を犯してしまった。

 しかし、ちょうど隠居を願い出るために登城していた信之は、江戸城の中の門を潜るところで襲撃に気づくと供の僅かな手勢を引き連れて大手三の門へと引き返した。そこで突然の襲撃に狼狽える江戸城の番兵たちを一喝すると、すぐに番兵たちを統括して援軍が駆けつけるまでの間防衛戦を指揮し始めた。

 信之自身が口にしていたとおり、江戸城は家康が心血を注いだ名城である。防衛拠点に兵を貼り付け、適切な指揮をすれば大概の攻勢は跳ね除けることができる。この時も四〇〇〇の牢人を一人たりとも大手三の門の中に入れることなく撃退した。

「やはり、まだ引退は早いのではござるまいか」

「いやいや……某ももう八六です。神君家康公ですら七三で身罷られたのですから、もうそろそろ身を引かせてくだされ」

「申し訳ないが、今身を引くことは幕府として容認できませぬ。まだ、これから混乱が続く可能性がありますゆえ」

 信綱の言葉は世辞ではない。彼は本気で信之が引退するには早いと思っていた。

 この時点ではまだ信綱の耳にも大坂で牢人が蜂起したという報告は入ってきていない。しかし、信綱の明晰な頭脳はこの事件がまだ終わっていないと確信していた。対処を誤ればかつての島原の乱を超える大乱が起こりうるかもしれないし、最悪の場合は応仁の乱の再来もありうると信綱は想定している。

 だからこそ、戦国の世を渡りきったその智謀と勇猛さが未だ衰えぬ信之の存在は幕府にとって非常に頼もしく、重要な存在であった。

 豊臣家の滅亡から三五年。戦国の世にその名を馳せた武将たちは悉く鬼籍に入っていた。

和泉守(藤堂高虎)様、中納言(伊達政宗)様、飛騨守(立花宗茂)様……皆、既にこの世にはおりませぬ。但馬守(柳生宗矩)様すら、五年前に亡くなられておるのです。敢えて言いましょう。某は伊豆守(真田信之)様より戦を知るものは、今のこの日ノ本に一人もおらぬと確信しております。それゆえ」

 信綱は頭を畳につけた。老中首座が、一介の大名に対して土下座することなどありえない。もしもこの事実が広まれば信綱が失脚するだけに留まらず、信之にもあらぬ疑いがかけられて大きな騒動となることだろう。

 しかし、この場には信綱と信之しかいない。加えて、信綱は信之が賢明な男であると知っている。だからこそ信綱は躊躇しなかった。

「公儀のために隠居を取り下げてくださらぬか。何卒よろしくお願いいたす」

 信之は困惑の表情を浮かべた。

「いや……しかし…………」

「何卒、何卒」

「そろそろ倅に家督を譲れと家中でもせっつかれておるのですが」

竹千代様(四代将軍家綱)もまだ御年一一。公儀のため、今しばらく留まってくださらぬか」

 真田信之という男に対する江戸の民の信頼は篤い。彼以外の戦国の世を知る大名が悉く鬼籍に入ったということもあるが、この日ノ本で最も戦争の経験が豊富と言っても過言ではない。信之の領地の上田では関ケ原の合戦以降に起ち上げた産業振興政策が成功し、椎茸や梅の栽培、養蜂で大いに栄えている。信之は戦争だけでなく内政にも明るい名君として評判であった。

 また、江戸では幸村が家康を呪い殺したと信じられていることもあり、幸村の呪いが徳川の系譜を祟るのではないかという噂も飛び交っていた。実際に幸村の没後五〇年余りが経つも、特に祟りと結びつくような恐ろしい死を迎えた徳川の縁者は松平忠直ぐらいであったが。ただ、信之が度々時の将軍の求めに応じて登城していたことも広く知られていたこともあり、市中では信之が幸村の怒りを鎮め、祟りを防いでいると半ば信じられていた。

 そんな信之が引退するとなると、牢人による蜂起により社会不安が広がりつつある現状では大打撃となりかねない。故に、信綱は何としても信之の引退を阻止したかった。

 信之も自分が江戸の民からも名君として幕政への貢献を期待されていることに対し、その期待を裏切ることには多少の申し訳なさを感じないわけでもない。ただ、弟が将門公や管公の如き悪霊扱いされ、己がまるで弟を鎮める天満宮やら明神のような扱いを受けていることに対しては不快感を感じていた。

 誰が言ったか、『真田は天下の護符』。祟りを鎮める護符扱いされて生涯現役にされ、きっと死んだら本当に明神や天満宮に祀られて死後もあるかも分からない祟りから江戸の町を守り続けなければならない未来が待っている。

 ならばせめて残りの人生だけでものどかに政治から手を引いて過ごしたい――老い先短い老人の細やかな願いであるが、天下にとってその願いは重すぎた。

 渋る信之に対し、その後半刻(一時間)に亘り信綱は説得を続けた。知恵伊豆と称されるだけのことはあり、信綱も弁論には長けている。結局、信綱を相手に口で勝つことを諦めた信之は、この事件の混乱が落ち着くまでという期限付でひとまず引退を取り下げた。

 

 

 

 信綱との面談の帰り道、江戸城の大手門を潜る駕籠の中で信之は深くため息をついた。

 あの犬伏の別れからもう五〇年以上が経過している。気づけば、己の人生は苦労に次ぐ苦労。誰かの助けをしてきても、誰かに助けられた記憶はほとんどない。むしろ、父や弟、今は亡き長男、いつも誰かを支えてきた記憶ばかりだ。

「これも、運命か」

 信之は駕籠の中で独りごちる。

 父昌幸は、武田が滅びてから真田という小大名の生き残りをかけその智謀の限りを尽くして戦った。一度として敗北することなく上田を守り切った父は、勝利したが故に徳川家康に睨まれて高野山へ流罪となった。そして、一度も上田に帰ることなく、一〇年という時の流れにより憔悴した末に世を去った。

 弟、源二郎は父と共に上田城に籠り、共に高野山へと流罪となった。しかし、一五年の閉塞に耐えた弟は、徳川と豊臣の決戦に際し大坂城へと入城。守りに入れば万の軍勢の攻勢を見事に跳ね除け、攻めに入れば三倍以上の敵の軍勢を正面突破し徳川家康へ一太刀浴びせる大戦果。最後は家康に一太刀浴びせたところで息絶えたとはいえ、その武功は日ノ本に鳴り響いている。

 巷では弟のことは戦国の世に綺羅星のように輝いていた数多の武将を差し置いて日ノ本一の兵と称されている。徳川の世でもこれほどに鳴り響く武名だ。きっと弟の名は古の英雄九朗判官義経のようにこれから数百年先の未来でも輝いていることだろうと信之は確信していた。

 それに対し、己はどうであろうかと思う。

 武田、織田、北条、豊臣。多くの大名が一度の舵取りを誤っただけで滅んでいった中で、真田の家を守りきり次代へと繋いだこと。それが己の人生であった。

 戦場に立ったこともあったがそれらはすべて若いころの話。二度目の上田合戦では弟との八百長以外の戦闘もなかった。最後に戦場に身を投じたのはいつのことであったかすぐには思い出せない。

 内政では父昌幸が領主だったころを上回る豊かさを実現させた。ただ、これもあの犬伏の別れの後に弟から送られてきた産業振興案をそのまま実行しただけだ。自分は、その成果をかすめ取っただけである。己の仕事は幕府に対し真田の忠義を示し、幕政を支えること。そして天下に真田が必要であると知らしめることであった。

 最終的に戦場での勝利と引き換えに滅びの道を歩んだ父と弟。真田の家と共に生き残り上田の領地を守り育てることこそが全てであり、そのために費やした日々が戦いであった己の人生。その在り方は対照的だと言ってもいい。

 父や弟のような、まるで桜の花のように華々しく咲いて惜しまれながら散る人生が眩しかった。

 もしも、あの時父子で徳川と豊臣に別れなければ、あるいは弟が徳川方について己が豊臣方についていたならば自分にもあのような刹那の輝きを歴史に刻みこむ道を歩むことができたかと考えたこともあった。父と弟の講談にも勝るとも劣らぬ見事な活躍と死にざまに憧れなかった、嫉妬しなかったと言えば嘘になる。

 しかし、今になって信之は思うのだ。

 自分の在り方を、誰かに決めてもらってきた人生ではない。これまで苦労もしたし、苦労をかけられたし、たまに苦労もかけた。だがそれは、全て己の選んだ道にあった。いつも、もしもあの時と考えるのは、自分の決断の時であり誰かに何かを決められた時ではない。

 父や弟のように語り継がれる存在には自分はなれないだろう。だが、自分で選んだ道を自分自身の力で踏破した結末が今ここにある。

「運命なき浮世故に、己の道を切り拓くが人生。三途の川の渡し賃も渋り続けてこの年まで生き延びた」

 まだ、自分の人生は終わっていない。花火の如く散った弟の生。華のように咲き、萎れて枯れていった父の生。己の人生を例えるのであれば、華やかな花弁をもたずともどっしりと構え続ける松だろうか。

 誰かの人生を羨むのも、己の人生を評価するのもあの世でじっくりとやればいい。どのみち、羨もうが蔑もうが自己満足でしかない。未だ終わらぬ人生を既に終わった人生と比較して甲乙つける必要もないのだから。

「其方らの後始末の愚痴を言える日も、まだまだ遠いですぞ父上、源二郎」

 

 

 

 真田伊豆守信之は、長命した。

 信之はこの八年後に世を去る。享年九四。結局死の二ヶ月前まで彼の隠居は認められることはなく、孫を出家させて御家騒動を収束させたところでようやくお役御免となった。半世紀以上真田家当主の座にあり続けなければならなかった信之は、寝たきりになってようやく隠居が認められたのであった。

 戦国の世の花盛りからその終焉まで見届けた真田三代。

 ここに、その歴史が終わった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 作      後藤陸将    

 

 考証     洞が峠何某

 

 資料提供   真田氏歴史民俗資料館

        沼田城址歴史博物館

        

        尾張徳川博物館

 

 撮影協力   長野県〇〇市

        長野県××市

        山梨県□□市

        群馬県△△市

        千葉県●●市

        北海道◇◇町

 

 出演     真田幸村  

 

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 制作統括   後藤陸将

 

 

 終

 

 制作・著作 日本国営放送機構

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 一人の少女がまるで噛り付くかのようにテレビの画面に魅入っていた。

「…………」

 日曜の夜九時前。七歳の少女は、普段であれば睡魔に襲われてそろそろうつらうつらとしているころだろう。

 しかし、毎週日曜日だけは違った。国営放送制作の日本史上の英雄を主人公とする連続ドラマ、通称タイガードラマが日曜日の夜八時から放送されるからである。七歳の少女がタイガードラマに嵌るというのは中々珍しいことかもしれない。

 おそらく、その一因は少女の母にあったのだろう。少女の母は、一般的な家庭の母親像からそれほど離れた性格をしているわけではない。ドラマや映画も人並みに見るし、雑誌も読む。そんな少女の母がタイガードラマを視聴していたことは特におかしなことではなかった。そして、一家にテレビが一台しかない以上は娘が母の見ている番組をいっしょに見ることになるのは当然の成り行きであった。

 母は特に歴史が好きというわけではない。むしろ、同局が朝の時間帯にやっている連続ドラマの方が好みである。ただ、このころ放送していたタイガードラマは放送前から注目度が高かった。

 同じ時間帯に前々年放送されていた作品が一話目から酷評され、視聴率も一〇回を放映した時点でタイガードラマ史上最低をブッチギリで更新していたことから放送局も流石に焦ったのだろう。そのさらに前年に放送されていた作品も評価が今一つだったこともあり、放送局は内々で進められていた計画を早期の内に白紙撤回。放送局の総力を挙げて視聴率復活のために奮起した。

 結果、脚本家、出演者、時代考証、監督とタイガードラマ史上最高と呼ばれる布陣を敷くことに成功。他局関係者をして今年のタイガードラマは()()が違うと言わしめた。

 そして、同局の気合の入れようを象徴するのがタイガードラマで初めて主人公として起用された戦国時代の末期を象徴する英雄、真田幸村である。さらに、原作はとある歴史小説の大家が真田幸村の生涯を描き大ヒットした作品であり、演者はその演技力と精悍な顔立ちから奥様方から絶大な支持を得る超人気俳優。

 日本の特撮技術の粋を集めた精巧で巨大なセットの数々に、監督の切り出す心震えるカットもあってドラマは一話目から高視聴率をキープし続けた。

 少女の母も、事前の期待値の高さからこのドラマを視聴することにした人の一人である。少女の母は多くの日本人と同様にそのドラマに嵌った。しかし、母親以上にそのドラマに嵌ったのが少女だった。

 一〇年も生きていない少年少女にとって、時に出会いは人生を左右する大きな針路となりうる。ある少年は高熱に魘され朦朧とする意識の中で、己を助けてくれたリーゼントの少年に憧れ、同じ髪型を貫いた。またある少年は己を逆境から救ってくれたアウトローの姿に魅せられギャングスターになるという夢を持った。

 それと同じように、少女は真田幸村という存在に魅せられた。そのドラマにおいて幸村は戦場に出れば常勝無敗、戦場を離れれば温厚で爽やかな透明感のある好青年。そしてその生き方はまさに高潔で一片の曇りもない。

 どこの「ぼくのかんがえたさいきょうの主人公」だと誰もが思うかもしれない。しかし、戦国時代の資料に残された幸村は実際のところ概ね(幸村被害者の会の面々の罵倒を除けば)こんな感じなのだ。このドラマにおいて幸村の人間性については一応史実に忠実であると言えよう。

 当然のことながらこの作品における幸村は現代人からは冷酷だったり野蛮だと思われるような当時の一般的な価値観も有しているが、それもまた幸村の魅力的な一面として描かれるあたり原作者と監督の力量は同時代の他の文豪や監督とは一線を画していたと言えるだろう。

 製作費が例年の一・五倍近くかかったことは問題視されたが、タイガードラマ史上どころか、日本テレビ史上に残る傑作となったことや、後のアジアを中心とした海外での爆発的大ヒットもあって最終的にこの問題は有耶無耶になっていった。

 演じる超人気イケメン俳優や当代一流の演出者たちの力もあってか、幸村という英雄はそのドラマにおいてこれ以上ないほどに輝いていた。

 初めて尊敬の念を抱いた父以外の男性、それが少女にとっての幸村だったのである。

 

「凛、もうテレビは終わりの時間よ。もう寝なさい」

 

 ドラマが終わり、テレビの画面がニュース番組へと切り替わる。先ほどまで画面の中で輝いていた美男子の代わりに映ったのは淡々と原稿を読むだけの冴えない中年男性。少女――遠坂凛はテレビの画面に対する興味を完全に無くしていた。

 凛は子供は寝る時間であると言う母の言葉に従い、テレビのあるリビングを後にする。歯を磨き、翌日学校へ登校する準備を整えてベッドの中に入ったのは午後九時過ぎであった。

 しかし、ドラマのクライマックスで昂った感情はベッドに入ってもなお醒めることがなかった。結局、凛が眠りに落ちたのはベッドの中に入ってから二時間後のことであった。




拙作において真田家は上田からの移封はありません。
真田がかつてかの地を守るためにどれだけ苦心していたかを知っている幕府としては、加増とはいえそれを手放すこととなった場合、不満を持たれる可能性があると考えていたからです。
結果、真田家は上田領を保持したまま明治維新を迎えます。



アンケートは投票終了しました。
結果は以下の通りです。
各エピソードの執筆優先順位はアンケートに従うつもりではありますが、それぞれ投稿がいつになるのかはとりあえず未定となっております。


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第2話 私はどこに向かっているのでしょう

今回は龍ちゃん視点です。


「あ、姉ちゃん久しぶり。見ない内に大分痩せたねぇ」

 

 雨生龍之介は、五年ぶりに実家に帰省していた。

 とはいえ、両親がいる母屋に顔を出すことなく真夜中に人の手が入らなくなって久しいボロボロの蔵に足を踏み入れただけのことであるが。

 五年前に姉を殺害し、隠したこの蔵。姉は既に木乃伊と化し、生前の容貌は僅かに面影が残るだけであった。顔を合わせてはいないが、両親も白髪が増え、その顔に刻まれた皺も増えているのだろう。

 姉の失踪当時から両親は何となく、龍之介が事件に関与していることを理解していたのかもしれない。そのころからどこか両親からの視線の色が変わったことを察した龍之介は、書置き一つ残すことなく実家を後にした。

 龍之介が姉を殺害し、死体を隠匿したというのが失踪事件の真実である。両親が何を根拠に自分を疑ったのかは分からないが、どことなく気になったという理由で龍之介は出奔したのであった。

 抑えきれなくなった「死」に対する好奇心が原因だった。死を知り、それによって生を知りたい。抑えきれなくなった願望の発露が、姉の死であった。

 最初に姉を選んだ理由は、衝動が抑えきれなくなった時に一番近くにいたからでしかなかった。別に、姉に対して怨恨の類は一切ない。自身に疑いの目を向ける両親を殺すことなく出奔した理由も、情が湧いて殺せなかったとかというわけでもない。ただ、何となく殺さなかっただけのことであった。

 

 龍之介自身は深く意識したことはなかったが、彼は知らず知らずの内に逮捕されないための最適解を選んで生きている。

 もしも、彼が両親を殺していたならば、死体が発見されようがされまいが必ず龍之介に対して疑いの目が向く。姉が行方不明となった後に両親が行方不明あるいは死亡となれば、警察は確実に動いただろう。

 一度警察の疑いの目が向き、本腰を入れられて自宅を捜索されればたやすく血痕等の遺留物が見つかり、龍之介は御用となったに違いない。初めての殺人を犯した直後の彼は、まだまだ警察を誤魔化すには未熟だった。

 以来、彼は全国を渡り歩いて三〇件ほどの殺人を重ねてきた。本人は意識してきたわけではないが、実は一度として同じ都道府県で殺人を起こしたことはない。加えて、死に至る過程を観察するために被害者ごとに多種多様な殺害方法を試してきた。死を観察することが目的であるため、同一犯による連続殺人を示唆するようなシンボルを現場に残したことは一度たりともないし、死体から何かを奪いトロフィー(記念品)としたこともない。死体についても大半はそもそも殺人事件として処理されることがないように隠匿し、事件の発覚を防いでいる。

 死体が発見されなければ、行方不明者が発生してもただの失踪として警察は処理する。どこぞのM県S市のベッドタウンのように全国的平均の五倍以上の行方不明者が報告されていない限り、一人や二人行方不明者が増えたくらいでは警察が本格的な調査を行うことはない。役所は事件を選ぶのだ。小さな事件の一つ一つに人員と時間を割いてまで処理するわけではない。

 また、彼の被害者の大半は殺人事件であることが発覚していないとはいえ、偶然や龍之介の失策から死体が発見されてしまったケースも存在するのも事実である。しかし、それらの事件の捜査線上に龍之介の名前が挙がったことは一度としてなかった。

 龍之介が本人に繋がる証拠を死体に残していなかった――つまりは、証拠の隠匿に慣れていったことも警察の捜査の手から逃れることができた理由の一つだろう。しかし、三〇人以上の人間を殺しておいて連続殺人事件として露呈しなかった理由としては、この国の警察組織にも一因があった。

 縦割行政の意識が強いために各県警の情報が共有されず、かつアメリカのFBIのような全国の犯罪情報を集約する機関のない日本においては、県を跨いだ犯罪は把握されにくい。同じ県で何度も似たような犯罪が起きていない限りは隣県に情報提供することもないだろう。

 また、龍之介の犯した殺人は多種多様な殺害方法を取っており、かつ同県で同一犯によるものと思われる手口の殺人事件が起きていなかったことも、同一犯が全国を回って別々の殺害方法で殺人を繰り返しているという発想が捜査側から出てこなかった要因である。

 同じ県で犯罪を繰り返すことがなく、かつ同じ殺害方法を使ってこなかった龍之介は、知らず知らずのうちに警察の捜査の盲点をついていたのである。

 もしも、彼が犯した犯罪の内一件でも龍之介が逮捕されていれば、残りの全件も明るみになったかもしれない。しかし、殺人が発覚した事件も証拠不十分で迷宮入りへ一直線であったし、この時点で日本全国を渡り歩く連続殺人犯の存在を感知することのできる刑事ドラマのような有能な警察官は残念なことに日本には一人もいなかった。

 

 そんな事件発覚に繋がるような悪手を知らず知らずの内に避け続けてきた龍之介が、事件発覚の可能性のある最初の殺人現場への回帰を行ったのには、それほど深い理由はなかった。

 死を堪能するために様々な殺害方法を試してきた龍之介であったが、思いつく限りの殺害方法を試し、どこか飽きを感じていたのである。もっと「死」を、「生」を知りたい。そのためのよいアプローチはないものか。

 とりあえずは原点回帰ということで、初めて己が殺した相手である姉に会いに来たわけであるが、既に彼女の「死」と「生」を十分に堪能していた龍之介にとって新たな発見は何もなかった。木乃伊と化した姉は物言わぬただの躯でしかなく、幼少期に遊んだ玩具を見て懐かしむくらいの感傷しか龍之介には与えてくれなかった。

 もっと別の方向から「生」と「死」を見つめる方法を探しに、とりあえずまた誰か殺してみようか。そんな風に考えてから姉を再度隠して蔵を立ち去ろうとする龍之介。しかし、ふと壁が崩れていた蔵の一角に目線が惹きつけられた。

 そこは、龍之介の記憶では以前は崩れていなかったはず。この五年の月日で崩壊が進んだのだろう。ただ、問題は蔵の崩壊が進んだことではなくて、崩れた壁の中から現れた木箱の存在だった。

 まるで隠すかのように壁に埋もれていた木箱に興味を抱いた龍之介は木箱を崩れた壁の中から取り出した。しかし、木箱を開けようとするも木箱の蓋はビクともしない。手元には道具も特にないこともあり、とりあえず龍之介はその場で木箱を開けることは断念し、その日の宿に箱を持ち帰って調べることとした。

 宿に帰ってから木箱をよく観察すると、寄木細工できっちりと箱本体と蓋が接合しており、湿気を含んだ木が膨張することで密閉されているようだった。近くのホームセンターで簡単な工具を購入した龍之介は、それらを用いて箱の解体を試みた。

 マトリョーシカのような多層構造となっていた箱との四時間ほどの悪戦苦闘の末、どうにか龍之介は箱の解体に成功。中から一冊の本を取り出すことに成功した。

 袋綴装の古書、それも古い字体の癖の強い筆文字で書かれたそれは、常人であれば解読に難儀するところであろうが、幸運にも龍之介には高校時代に古書と触れる経験があり、その本の内容も多少苦戦しながらもどうにか読み解くことができた。

 その本はどうやら慶応二年、西暦一八六六年に書かれたものらしく怪しげな魔術の儀式について解説していた。

 筆者はかつての隠れキリシタンのようだ。本の中には島原や天草での争乱による数多の犠牲やその後の幕府によるキリシタンへの厳しい弾圧について事細かく記載されている。

 また、筆者の家族が隠れキリシタンだと発覚して厳しい拷問の末に処刑され、筆者自身も拷問を受けて一度は教えを捨てさせられたということもあって、筆者は幕府に強い恨みを抱いていたらしい。

 この魔界の神を呼び寄せる儀式をもって他の六の神を討ち取ることができれば、家族のみならず処刑された数万のキリシタンの恨みと憎しみの炎がかつての島原の地獄の如き惨状を日本全土に再現し、その浄化された地に真の神の国を作ることができるとの記述がある。

 

 かの島原の如き惨状――その記述を見た龍之介は以前にアルバイトで参加した原城の発掘調査のことを思い出す。

 フリーターの龍之介は決まった収入源は持たない。殺した相手から財布の金を抜き取ることもあるが、金目当てで標的を選んでいるわけでもないため、全国を流離う身を養うほどの収穫は得られないのである。

 そのため、彼は定期的にアルバイトをして生活費を稼いでいる。全国を流離う連続殺人犯は警察からは逃れられても労働からは逃げられなかったのである。

 原城の発掘調査のアルバイトも、たまたま彼の地を趣味で訪れていた際に参加したものだ。中々条件の合うバイトがなかったことや、稀に島原の乱の犠牲者の霊が出没するとも噂される心霊スポットを見てみるのも一興だと思ったことが参加した理由である。

 原城の発掘調査は、結果的には彼にとって中々に満足なものであった。人骨でも出てきそうだし、趣味と実益に合っているかもしれないといった多少の期待を胸に発掘に携わった龍之介にとって、思った以上の収穫がそこにあった。

 発掘現場のいたるところで人骨が出るわ出るわ。老若男女問わず大量の人骨が出土したのである。

 龍之介も漢書を齧る程度には歴史に興味を持っていた時期もある。だから、かつてこの地で何が起きていたのかを高校の歴史の資料集程度の内容であれば知っている。

 かつてこの地で領主の圧政とキリスト教への弾圧から一揆を起こした農民らは、天草四郎時貞というカリスマ的指導者の下で団結して幕府に対して戦いを挑んだ。この一揆には牢人となった元武士も多数参加しており、一度は討伐に派遣された幕府軍を打ち破るほどの勝利を収めている。

 最終的には本腰を入れて一五万もの大軍勢を送り込んできた幕府軍に抗うことができず、原城に籠城した四万もの農民、キリシタン、牢人らは皆殺しにされるという結末を辿ったが、その余りの抵抗の激しさから幕府をして大規模な内乱をも危惧させたとも伝わっている。

 この時の幕府の抱いた恐怖は、その後のキリシタンに対する激しい弾圧からも見て取れる。九州の一部地域では、魔女狩りにも例えられるほどの惨状が生まれたこともあるそうだ。

 少し地面を掘ると、龍之介もかつてこの地で起きた惨状の名残を見つけることができた。

 ある人骨は人為的に頭部が切断された後が残っており、またある人骨は槍か何かで突かれたのか肋骨の何か所かに傷が刻まれていた。まるでごみ箱にでも捨てられたかのように穴の中に死体が折り重なって発見されたこともあれば、髑髏がまとまって一〇〇近く発見されたこともあった。

 「生」から「死」に至る過程に心惹かれた龍之介にとって、「死」という結果単品はさほど重要ではない。白骨化された死体だけを見たところで、「生」をあまり感じることができず、あまり面白そうには見えない。

 しかし、これほど多くの「死」が一度に見れる光景となると話は別だ。新鮮な腸や肝の色や触感、衰えゆく筋肉の躍動まで観察できないことが非常に残念な点ではあったが、これほど多くの「死」がそろっているここはまるで「死」に溢れた魅力的なテーマパークのように龍之介には思えた。

 彼らがどのように抗い、如何なる絶望を抱き、どのような苦痛に苛まれながら死んでいったのか。このおびただしい数の白骨の上で想像を巡らす――そんな考古学もCOOLだ。

 温故知新という言葉もある。この「死」の考古学もまた、自分の求めるものへのアプローチの一つであると龍之介はこの時学んだ。

 

 もしも、あの原城のような景色が再現できるというのであれば、是非とも見てみたいものだと龍之介は思う。白骨しか残っていない惨状の残滓ですら、実に興味深い観察対象だった。それが、生で見れるとなればどれほど面白い景色なのだろうか。

 俄然やる気の出てきた龍之介は、その本を必死で読み進めた。幸いなことに、虫食いや変色等で中身が読めなくなったところもなく、龍之介はその本の全ての内容をとりあえず読み解くことができた。

 魔界の神とやらを呼び出す儀式の方法についても場所や時間、必要なものや術式、呪文など詳細に記載されており、本の内容が正しいのであれば龍之介が実行することもそう難しいことではなさそうだった。

 また、この本には筆者の実体験に基づく江戸時代の拷問についても詳細に解説されており、その生々しいほどの苦痛の描写は是非実際にこの目で見てみたいと思うものであった。

 儀式が成功した場合、魔界の神とやらならば神にしかできないような殺し方を見せてくれるだろう。こちらと上手くコミュニケーションが取れるという確信はないが、もしもこの神とやらがこの書物のとおりにこの世を恨みと憎しみの炎で焼き尽くすというのならばそれで十分だ。

 多数の人々が惨たらしい死を迎える現場をリアルタイムで見届けるもよし、現場が見れずとも、新鮮な死体が溢れる死のショーウィンドウと化した街を巡るのも中々に面白そうだ。

 仮に魔界の神を呼び出す儀式とやらに失敗したとしても、この拷問で死んでいく過程を見るのも一興。とにかく、龍之介はあの蔵に戻ってきた時とは打って変わりやる気に満ちていた。

 

「え~っと……儀式ができるって書いてある場所で、ここから近いのは…………」

 

 気づけば、蔵から発見された古書を読み解いている内にまた日が落ちている。朝から半日近く古書の解読に費やしていた。

 龍之介は旅の供であるリュックサックから地図帳を取り出した。

 かれこれ五年ほどお世話になっているそれを捲り、龍之介は一つの地名を見つけた。

「一番近いのはこの冬木って街か……ここなら鉄道で行けそうだし、あんまし旅費もかからなそうじゃん」

 早速取り出したるはこれも全国殺人流浪旅のお供、時刻表。龍之介は先日書店で購入した時刻表から、冬木への旅程を瞬時に頭に描いた。

 善は急げって言うし、明日にでも冬木に向かおう――龍之介はそう考えながら荷物をまとめてベッドに潜り込む。

 魔界の神とはどんな姿をしているんだろうか。どのように人を殺すのだろうか、その時、人はどんな表情を浮かべるのであろうか――

 ベッドに入っても、想像するだけでワクワクが止まらない。

 龍之介はまるで修学旅行の前日の夜の学生のように期待に心躍らせていた。

 

 翌日、冬木の地に最悪の連続殺人犯が降り立った。

 そして、最初の標的としてある家族を彼は選んだ。

 単身赴任中で父親が不在で、小学生の少女と中学生になったばかりの兄、専業主婦の母親しか家にはいない。

 女子供しかいない家ならば、失敗することはまずないだろうと彼は確信していた。

 彼の計算外はたった一つ。その日、彼が侵入した家を、少女の友人が訪ねたということだけである。




拙作における龍之介の犯罪体系のモデル
「Vim Patior, Vim Patior……」


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第3話 立場が人を育てる

 遠坂邸の主人、時臣の部屋に遠慮がちな小さなノックの音が響いた。

 時臣は税理士から送られてきた不動産所得の青色決算報告書から目を離し、扉への視線を向けた。

 同盟者であり弟子でもある言峰綺礼からの進言もあり、普段出仕している使用人たちにも暇を出している。もう少ししたら弟子の綺礼が訪ねてくる予定であるが、今現在屋敷の中にいる人間は彼の妻子のみである。

 その妻子も今日中にはこの屋敷を離れ、妻の実家に避難することになっているのであるが。

「入りなさい」

 扉を開けたのは時臣の娘、凛だった。

 凛は時臣に促されて夕陽に照らされたソファへと腰かけた。そして、時臣がその対面に座る。

「どうしたんだい、凛。何か、この間のことで聞きたいことでもあるのかな?」

 時臣の問いかけに対し、凛は身体をビクっと震わせた。

 数日前、聖杯戦争の開戦に備え、凛と葵には葵の実家に避難することが伝えられた。

 葵は自分が屋敷に残っても時臣の助けになることはできないと分かっていたため、時臣からの提案を抵抗なく受け入れた。ところが、凛はその提案を素直に受け入れることができなかった。魔術師として育てられていた自分ならば、母と違って時臣の助けになることができるのではないかと考えたからだ。

 幼いながら、凛は自分が遠坂の魔術師であるという誇りを自覚していた。また、尊敬する父の一助になりたいという思いもあった。

 その場はあまり父親に無理を言うものではないと諫めた母親の言葉もあり不承不承でありながらも父の提案を受け入れた。しかし、本心から納得できたわけでもなく、その日の深夜にこっそりと父親の工房に忍び込み、聖杯戦争までに父親に認められるほどの魔術師になるために自習をしようと試みた。

 当然のことながら魔術師が己が娘とはいえ、工房への侵入者を見過ごすはずがない。凛は高度な魔術のかかった魔術書に襲われかかったところを侵入者の存在を察知して駆けつけた父親に救われ、己の浅慮を思い知ったのであった。

「いえ……その、実は、聖杯戦争のことでお父様に聞きたいことがあるんです」

「聖杯戦争について?何が聞きたいのかな」

 聖杯戦争について時臣から聞き出し、何か自分でできることを探そうとしている。時臣は凛の魂胆をそう予想した。しかし、時臣の予想は外れていた。

「お父様が呼び出される英霊……サーヴァントについてです」

 凛とて、先日の事件で己の力量は理解した。

 そして、父親がとても優れた魔術師であり、尊敬する存在であることを再確認した。ただ、それでも凛には不満があった。

 それは、自分と母親が去った後も時臣を支えるために言峰綺礼という男が冬木市に残るということである。

 凛は綺礼という男を初対面から嫌っていた。魂の底から相容れないような感覚が初対面の時からあったというのが理由の一つでもあるのだが、何よりも遠坂家の次期当主たる己よりも父親が綺礼の鍛錬を優先しているように見えたことが大きい。

 だから、凛には自分が冬木市に残って父親を支えることはできないことには納得できても、ほんの三年前に弟子になった綺礼が冬木市に残るということには納得できなかった。

 とはいえ、納得できなくとも凛には父親の決定をどうすることもできないし、かといって綺礼が父親を勝利に導いてくれるとも信じられない。このまま冬木市を離れることは不安でしかなかった。何より、綺礼が時臣の勝利の立役者となることが凛にとっては不愉快極まりない。

 そんな時、凛はふと思いついたのだ。もしも父親がすごいサーヴァントを召喚することができたならば、綺礼なんかの助けを借りることなく聖杯戦争を勝ち抜けるのではないかと。

「お父様はどんな英霊を呼び出されるのですか?」

「……すまないな、凛。私がどの英霊を呼び出すのかは、君には言えない」

「どうしてですか!?」

 凛はむくれながら時臣に問いかけた。以前にも見た、いかにも納得できませんという顔である。

「サーヴァントとして呼び出した英霊の名前が分かってしまうと、対策を取られてしまうからだよ。例えばアキレウスなら、おそらく他のマスターが呼び出したサーヴァントよりも確実に強いだろう。しかし、真名が分かってしまったならば、対策を取られてしまう」

「アキレウスって確か……踵を射られて死んだ」

「そう。アキレウスはイーリオスの王子パリスに踵を射られたことで弱体化したことが原因となって死んだ。つまり、格下の英霊であっても踵を狙えばアキレウスを相手にしても勝機があるということだ。聖杯戦争ではどこから情報が洩れるか分からない。サーヴァントについての情報は、特に秘匿しなければならないんだ」

 実際には、時臣が召喚しようとしているサーヴァントにはかのジークフリートやアキレウスのような聖杯戦争において致命的な弱点にあたるような逸話はない。しかし、敵に真名を看破されないというのもまた戦いにおいて有利となる。聖杯戦争について深入りさせるにはまだ凛は幼すぎると考えていた時臣は、真名が露呈する弱点を説明することで、とりあえずは凛を言いくるめようとしていたのである。

「私はお父様のサーヴァントのことを告げ口したりしません!!綺礼にだって言いません!!」

 自分が誰かに父親の秘密を漏らすのではないかと疑われている。父親から自分が信じられていないと思い込んだ凛は思わず大声をあげた。

 しかし、ソファから立ち上がって大声をあげることが品のない行為であることは凛も即座に気づいた。醜態を自覚して耳と頬を真っ赤に染め、その瞳に涙を浮かべながら凛はソファに再度腰かけた。そして、叱られることを恐れるかのように恐る恐る父親の顔を見上げた。

「言葉が足りなかったな……凛、安心しなさい。私は凛が秘密をもらすような子ではないと信じている」

 穏やかな表情を崩さない時臣。それを見た凛は安堵の表情を浮かべる。

「他のマスターに囚われても、凛は口を割らないかもしれない。しかし、魔術師というものはね、口を閉ざす人間から情報を抜き出す方法をいくらでも持っているものなんだ。記憶そのものを覗いたり、認識をずらされて誘導したりされれば一流の魔術師であっても抗えないこともある。情報を持つというだけで、敵から狙われる可能性が高まるということだ。分かってくれるね、凛」

 先日の醜態のこともあり、自分が他のマスターに捕まらないと豪語できるほどに凛は自惚れてはいなかった。父の危惧は正当なものであり、自分の主張は我儘であるとも少しは理解している。

「私は、お父様はすごい魔術師だって知ってます」

 ただ、どうしても綺礼に時臣の身を託すことが不安だった。だからこそ、凛は時臣に問いかけずにはいられなかった。

「お父様は魔術だったら絶対負けません。でももしも他のマスターがすごいサーヴァントを召喚していたらって思うと……」

 凛の澄んだ瞳が時臣を見据える。

 その瞳に映る自分が時臣には何故か揺らいでいるように見えた。

「問題ないさ、凛」

 しかし、時臣の自信には一切の揺らぎはなかった。

 監督役と結託し、表向きは決裂したはずの弟子と裏で手を組み、弟子の召喚した間諜に特化した英霊で情報戦を制している。後は、かの最強の英雄を己がサーヴァントとして召喚すれば勝利の方程式は完成する。時臣は、開戦を待たずして己の勝利を確信しているのである。

「他の六騎のサーヴァントを必ず駆逐できる最強のサーヴァントを召喚する手はずは整っている。どんな英雄を呼ぶかは先ほど伝えた理由で教えられないが、私はあの英雄こそが、最強に相応しいと信じている」

「最強のサーヴァント……」

 尊敬する父をもって、最強だと断言するほどの英霊。その真名にはとても興味があったが、それを聞くことは許されないことは凛も先の説明で理解していた。そして、あの父が最強の英雄というのであれば、きっとその英雄は間違いなく最強なのだろうと信じることができた。

 そして、最強のサーヴァントをそろえた父にとって、自分程度の助力は不要であるということも凛は察していた。

「わかりました、お父様。私は、お父様を信じます」

「ありがとう、凛。遠坂の悲願のため、私は必ず勝とう」

 時臣は腰をあげて凛のそばに歩み寄ると静かに頭を撫でた。

 これが永遠の別れになるわけでもない。ただ一時の別居に過ぎず、期限付きの単身赴任のようなものである。

 部屋から娘を送り出す父親の瞳には、寂しさや不安などといったものは微塵も浮かんでいなかった。

 余裕をもって優雅たる、娘から尊敬されるに相応しい堂々たる父であり魔術師がそこにいた。

 

 

 

 

 

 

 

 凛が時臣の部屋を退出してから一〇分ほど経ったころ、本日二度目となるノックが部屋に響いた。

 今度は先ほどの遠慮がちなノックと違い、どこか力強さを感じる鈍い音だ。来訪の知らせを予め受けていた時臣はその音の主を部屋の中に招き入れた。

「失礼します」

「ああ、綺礼。手配していた聖遺物がつい先日届いたところだ」

 時臣は綺礼をソファにかけさせると、楢でできた重厚感のあるデスクの引き出しから小包を取り出して綺礼の前に置いた。

「これが、手配されていたという聖遺物ですか」

 時臣は頷くと、包装を外し、中に入っていた木箱の蓋を開けた。

 箱の中のものは、一見すると縄か太い蔦かを思わせる紋様が刻まれた石か何かにしか見えない。しかし、時臣と綺礼はその石の真の価値を知っている。

「それが、遥かな昔、この世で初めて脱皮した蛇の抜け殻の化石……ですか」

「そう。かの神話に登場する蛇の抜け殻だ。手配を依頼してからもう五年になるか、どうにか間に合った」

 イラクから届いたばかりのそれは、考古学や神話にはさしたる興味を持たない綺礼をして、感嘆させたのだろう。普段から表情を滅多に崩すことのない綺礼の眼に僅かながらに常とは異なる感情が浮かんでいることに、時臣は気づいた。

「この化石を触媒として、かの大英雄を召喚することに成功したならば、それは聖杯戦争に勝利したと同義だ。我々の勝利は、召喚した時点で確定する。ことサーヴァントの戦いにおいて、かの英雄に対して個で対抗できるものはいまい」

「……父によれば、今朝の時点で召喚されたサーヴァントは私のアサシンのみとのこと。かの大英雄を三騎士のクラスで呼ぶことも、不可能ではないかと」

 時臣は綺礼の報告に頬を緩めると、触媒の化石を手に取り綺礼に対して召喚の準備のために工房へと移動すると告げた。

「そうか、それは朗報だ。他のクラスが埋まる前に、今夜にもサーヴァントを召喚するべきか。これから、私は工房で召喚の準備に入ろう」

 遠坂時臣は常日頃から自信に満ち、堂々とした態度を崩さない人物であった。三年前、令呪が現れたことをきっかけに父が引き合わせた時からそうだったが、この日の時臣はこれまでに見たことがないほどに自信に満ち溢れていると綺礼は感じていた。

 時臣の立てた必勝の方程式に必要な要素は、ほぼ全て揃っている。これまで万事想定どおりに進んでいることもあり、時臣が楽観主義へと偏りつつあるのも無理はないだろう。そこに一抹の不安を感じていたが、時臣とて綺礼からの進言を楽観的な予測を理由に却下するということはない。綺礼は、実戦経験が豊富な自分と老獪さと慎重さを兼ね備えた父親が上手くバランスを取れば彼の楽天主義も大きな問題にはならないだろうと考えていた。

 ふと、綺礼の視線が先ほど時臣が聖遺物を取り出したデスクの上へと向いた。

「あれは、予備の聖遺物でしょうか?」

「ん?ああ、あれか。そうか、忘れていたな」

 綺礼の視線の先、机の上には蛇の抜け殻の化石が入っていた小包と同じ包装に包まれた包みがあった。大きさは、先ほどのものと比べると少し小さいぐらいだろうか。綺礼はそれを、目当ての聖遺物が手に入らなかった時に備えての予備の聖遺物ではないかと予想したが、時臣は否定した。

「これは聖杯戦争とは別件で手配していたものだ。まぁ、これも英霊と所縁のあるもの……サーヴァントの召喚の際に触媒たりうるものではあるが、第四次聖杯戦争においては役に立たない」

「触媒たりうる英霊所縁の品でありながら、聖杯戦争に使えないとは、どういうことでしょうか」

「冬木の聖杯が君たち教会が定義する聖杯とは別物であるという説明は、以前しているね」

 時臣はデスクに置かれたその小包を手に取ると、包装を剥がし始めた。

「アインツベルンが作成した術式を基盤とする冬木の聖杯戦争というシステムは、東洋の英霊を呼ぶことに適していない。正確に言えば、西洋圏に知名度のない英霊を呼べないということだ。まぁ、例外もあるが」

 時臣の簡潔でありながら要点を抑えた説明を受け、綺礼は即座に自身の問いに対する解答を得た。

「なるほど、その触媒は東洋の英霊所縁の品ということですか」

 我が意を得たりとばかりに時臣はほくそ笑んだ。

「そのとおり。元々は凛への誕生日の祝いとして用意していたものだ。少し前に別のものをプレゼントとして渡していたが、今年ぐらいは二つプレゼントを渡してもいいと考えていた」

「娘の誕生日に英霊所縁の品ですか」

「ここ一年ほどは聖杯戦争の準備もあって凛にも色々と不自由をさせた。父親としても、師としても少々至らざるところがあったという自覚はある。それの償いといったところだよ」

 確かに、ここ一年時臣はほとんど聖杯戦争の準備や綺礼の手ほどきで忙しかった。世間一般的な家庭のような家族サービスは皆無といってよかっただろう。また、魔術師としても時臣は聖杯戦争において協力者となる綺礼への教授を優先し、凛への指導は後に回されていた。

 家庭よりも魔術師としての己を優先する時臣を理解している葵はまだいい。彼女は夫をよく理解して全てを覚悟し、受け入れている。

 しかし、年の割には聡明といっても未だ幼い凛にとっては中々寂しい一年であっただろう。妹を失った直後にも関わらず、その傷を癒す家族の温かさも欠けた環境。気丈にふるまってはいたが、やはり色々辛い思いをさせたかもしれないという反省が時臣にはあった。時臣自身はこの一年の選択に後悔こそしていないが。

「これは、ある戦国武将所縁の品だ」

 時臣は包みの中から出てきた木箱の蓋を取った。その中に入っていた白い布の包みを開くと色あせた赤い縄の切れ端のようなものが現れた。

「戦国時代には兜の緒を締めた際に緒の余った部分を切り落とすことで、この兜を生きて脱ぐことはないと覚悟を決めたという。これも、切り落とされた兜の緒の余りだそうだ」

「中々貴重な品ですね。しかし……ご息女はこのようなものを集める趣味でも?」

 いくらなんでも戦国武将所縁の品をそろえることは小学生の趣味としては異色である。魔術師の卵に贈るにしても、聖杯戦争で使えない触媒に何の意味があろうか。綺礼は時臣が何故娘の誕生日プレゼントにこのようなものを選んだのか理解できなかった。

「凛がこのようなものをもらって喜ぶのかと考えているんだろう?」

「率直に申し上げれば、小学生への贈り物にはふさわしくないかと」

 時臣は苦笑した。

「まぁ、君の考えていることは分かる。普通の少女ならば戦国武将所縁の品を誕生日プレゼントでもらったところで喜びはしない。だが、あの武将所縁の品だけはおそらく例外だ」

「あの武将?」

「君も、去年巷で話題になったあのドラマを知っているだろう。凛もあのドラマに随分と熱中していた。大坂城に行きたい、上田城に行きたいと夏休みと冬休みにはよく言っていたものだ」

 綺礼とて世俗のことに全くの無関心というわけではない。一般教養として新聞くらいは読むため、時臣の言うドラマのタイトルにも、そしてその主人公にもすぐに思い至った。

「そういえば、ご息女はかのドラマの放送時間にはいつもテレビの前にいらっしゃいましたな。なるほど、かの武将所縁の品であれば、喜ばれるでしょう」

「私もそう思うよ……ああ、そうだ。私はこれを凛に渡してくるとしよう。しばらくは直接会うこともできないからね。綺礼、君はすまないがまた今晩父君と一緒に来てくれないか。我が遠坂の悲願が成就するその記念すべき第一歩を見守ってもらいたい。首尾よくかの英雄を呼び出せたならば、我が遠坂の勝利はその時点で確定するのだから」




召喚まではもう少しお待ちください。
次々話でそこまでいく予定となっておりますので。


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第4話 この生き地獄をたっぷりと味わうがよい

龍ちゃん書くの本当に難しいです。


閉じよ(みったせ~)閉じよ(みったせ~)閉じよ(みったして)閉じよ(みったせ~)繰り返すつどに――――ん~と五度。ただ満たされる(トキ)を破却する……っであってるよな、うん」

 龍之介は左手に持つ古文書をのぞき込み、首を傾げた。漢書を読み解くことが辛うじてできる程度の知識がある龍之介も、読み上げることには些か苦戦しているようだ。

「あれ?今四度だったっけ?え~っと、閉じよ(みったせ~)閉じよ(みったせ~)閉じよ(みったして)閉じよ(みったして)閉じよ(みったっせ~)っと。よし、これで今度こそ五度ね」

 龍之介の足元には、どこか暖かさを感じる明るい木のフローリングとその上に描かれた奇怪な魔法陣。木のキャンパスを彩るのは、鮮やかな赤。

 ブラウン管から放たれる無機質で朧気な光に照らされた室内には鉄の臭いが充満していた。

「うん、中々COOLじゃん」

 龍之介はご満悦な表情を浮かべている。

 実家の土倉で拾った古文書に従い、霊脈の地とされる冬木に到着して二日。

 龍之介は昨日も繁華街でひっかけたOLを解体予定の廃ビルの中で殺害し、その血を使って魔法陣を描こうと試みたが、上手く血を抜き出すことができなかったことや複雑な魔法陣を描くことに時間を費やしすぎてしまったために血が乾いてしまった。

 血で描かれた魔法陣に新鮮な死体をお供えして呪文を唱えるという行為は非日常的で、スピリチュアルなものに対する信仰を特には抱いていない龍之介にも刺激とスリルを与えてくれた。しかし、魔法陣の形は本に書かれていたものに比べて歪で、血も乾ききって深みのない色へと変色している。お供え物の死体も血の抜き方が上手くなかったのか、生命の残滓を感じられないどこか味気のなさがあった。

 これでは不完全燃焼だ。なまじこの呪術的な殺人に面白味を感じていたが故に龍之介は落胆した。これは、思い描いていたものとは程遠い。

 龍之介は、どちらかといえばその場の直感や思い付きから行動を始めるタイプである。しかし、同時に凝り性なところもある。犯行を終えて、どこか満足感の中にしこりが残ったと思った時にはどうして自身がそんなことを思ってしまうのか、解明せずにはいられない。自身にまつわる大概のことは些事としか考えていないが、満足や快楽を得るためには龍之介は妥協しない。

 当然、昨日の犯行の後も自分がどうして不満を抱いているのかじっくり考えた。そして、至った結論は単純明快、準備不足というものだった。

 古書を片手に魔法陣の形をそっくりそのまま写すには、下絵を書くか魔法陣をしっかりと観察して書く練習をすることが必要だった。態々儀式風に殺人を犯しているのに、魔法陣が汚かったり歪だったりしては、どこか興ざめだと龍之介は感じていた。

 生贄の血は、女性一人のものでは足りなかった。魔法陣を描くための血を供給する人間と、生贄になる人間の二人がいた方が、何か呼べそうな雰囲気が強まる気がする。生贄は幼い少年少女――それも、純粋無垢なものの方が、召喚に適しているような感じがする。

 反省点、改善点をメモし、次は同じ失敗をしまいと心に誓う。

 そして、龍之介は反省を胸に翌日には再挑戦を試みていた。好奇心に駆られる龍之介は落ち込むこともなく、より理想的な犯行を成し遂げるために動いた。

 龍之介が次の標的として選んだのは、冬木市の中でも郊外に近いところにある一軒家に住む家族だ。両親と、小学生の娘一人の家庭。大人しそうな風貌の少女が、両親の血で刻まれた魔法陣の前でどんな表情を浮かべるのか。是非、それを見てみたいと思った龍之介は、躊躇せず犯行に及んだ。

 未明、家族がまだ寝静まっているころに家屋に浸入し、家族全員を縛り上げて身動きが取れないようにする。幸いにもこの日は日曜日。家族の身に何かが起きて職場や学校に来ていなくとも不審がられることはない。

 身動きが取れなくなった家族をリビングに転がした龍之介は、フローリング敷の床の上に魔法陣の下絵を描き始めた。殺してから血を抜き取って魔法陣を描くと血が乾くスピードに間に合わないことを学習した龍之介は、事前にチョークで線を引いておくことにした。

 魔法陣を描くのはこれで二度目であるが、馴染みのない模様、文字が描かれた魔法陣の下絵を描くのは一筋縄ではいかない。雰囲気を整えることを重視する龍之介は、魔法陣をできるだけスピリチュアルな形に整えたかった。自分のセンスで一部の模様を古文書に描かれていたそれから改変したりしていると、下絵を描くだけで想定の二倍近い時間を費やしてしまった。

 気が付けば、昼も過ぎていた。龍之介は思いつきに任せたアレンジのために時間をかけすぎたことを反省する。

「ちょ~っと、はしゃぎすぎちゃったかもなぁ」

 その時、リビングに来客を知らせるチャイムの軽い電子音が響いた。

 つい先ほどまで絶望に震え、猿轡越しに呻き声をあげていた幼い少女は来客に希望を見出したのか、必死に叫ぼうとする。

 生贄の恐怖に慄く様を観察したかった龍之介にとって、少女の顔に浮かぶ希望は邪魔なものでしかない。もう少し泣き叫んで、ただ命乞いをするだけしかできない状態で殺したいものだ。最後までだれかが助けに来てくれると信じながら死んでいく様子を見ることも一興ではあるが、この儀式殺人とは趣旨が合わない。

 とりあえず龍之介は玄関へと足を向けた。来客が誰なのかを確認することが必要だと考えたからだ。もしも、宅配便や新聞の集金等の一度の居留守でどうとでもなる来客ならば問題はないのだが、近所の住人や予め約束していた来客となると、居留守をすることで不審がられることもある。来客が誰かによっては対処の仕方も変えなければならないだろう。

 手には使い慣れたスタンガン。邪魔者を瞬時に無力化するには、これが一番適していることを龍之介はこれまでの経験から学んでいた。流石に彼の使うスタンガンは瞬時に相手を気絶させるまでには至らないが、身体を硬直させるには十分な性能がある。動きが数秒止まれば龍之介愛用の手錠を手足にかけることは容易だ。

 身体の自由が戻った都度、適度に硬直させることを繰り返せば、叫び声をあげさせることなく相手を拘束できる。そのタイミングを見極めるだけの経験を龍之介は十分なほどに積んでいる。電撃を浴びた人間の身体がどのような反応を示すのか、どの程度の電流が流れれば人間の身体にどのような障害が残るのか、その人体実験を通して。

 玄関の覗き穴ごしに扉の向こうにいる来客者の姿を観察する。そして、龍之介は魚眼レンズに映るやや歪んだその像を見た。

 それは、彼の予想に反して幼い少女だった。二房のツインテールと黒の二―ソックスがよく似合う、可憐な少女。年齢は今リビングで届かぬ叫びをあげている少女と同じくらいだろうか。しかし、それと比べてこの少女はどうだろう。幼さの中に、凛とした淑女の風格の萌芽が見える。その年齢に似つかわしくない立ち振る舞いは、両親に厳しく躾けられたのか、生来の気質なのかは分からないが。

 今はまだ淑女として開花しきってはいない蕾のような少女の内臓は、やはり他の少女と違うのだろうか。

 

 ――欲しい。

 

 龍之介は脳裏に過った閃きを捨て去ることはできなかった。この少女も生贄の列に加えてみたい。この家の少女と内臓がどのように違うのか、じっくり観察してみたい。もしも悪魔とやらが呼べるのであれば、どんな少女が好みなのか目の前で見比べながら是非話してみたい。

 ドアを開けるのとほぼ同時に龍之介は少女の細腕をつかみ、強引に家の中に引き寄せる。

 さらに、組み伏せた少女の身体を床に押し付け、無防備な背にスタンガンを押し付けた。

 薄暗い玄関に白い閃光が奔った。

 

 

 

 

 

 気が付くと、遠坂凛はフローリング敷きの床の上で、地に落ちた蓑虫のように身動きすることができない状態にあった。

 声が出せないように口には猿轡がされており、手足は手錠のようなもので拘束されている。

 薄暗い室内、目の前には壁しか見えないが、後ろからはすすり泣くようなくぐもった音が漏れている。

 そのくぐもった声にならない音に、凛は心当たりがあった。この家に住む少女――彼女の同級生のコトネの声だ。その声を聴いた凛は、自分が彼女から借りていた漫画を返すために母の実家からコトネの家に来たことを思い出した。

 気を失う直前に見たのは、見たこともない若い茶髪の男。そして、コトネのくぐもった声に、襲われた自分。凛は、何か異常なことが起きていて、同時にコトネの身に危険が迫っていると理解した。

 とにかく、コトネの無事を確認したい。凛は自由のきかない身体を必死によじり、どうにか身体をコトネの声がする方へと向けた。

 

「――――!?」

 

 目の前には、涙で瞳を潤ませるコトネの姿。

 自分と同じように手足を拘束され、猿轡を噛まされているものの、特に怪我をしているようには見受けられない。こちらに気が付いたのか、コトネは安堵と恐怖が入り混じった、縋るような眼を向けていた。

 コトネが無事であることを理解した凛も、その顔に喜色を浮かべた。しかし、その表情は一瞬で恐怖の色へと塗り替えられる。

 凛は見た。コトネの後ろ、ブラウン管から溢れる朧気な光に照らされた空間と、その中央に血で描かれた魔法陣。器用にも足の指を使って魔法陣を描く若い男。そして、その魔法陣とコトネの間に転がる男女の首。

 そして、その内の女性の顔には見覚えがあった。ドラマでも見たことないほどに恐怖で引き攣った恐ろしい表情を浮かべているが、授業参観で以前に見たことがあるから間違いない、あれは、コトネの母親のものである。

 

「――――!?――――――ッ!!」

 

 如何に魔術師の卵とはいえ、凛は見知った人の首が目の前に転がっているという現実を冷静に受け入れられるほどには魔術師として成熟していなかった。だからこそ、目の前の光景の恐ろしさに耐えきれずに悲鳴をあげてしまったのだろう。

 一〇年に満たない彼女の人生の中で、これほどに大きな悲鳴をあげたことは一度としてなかっただろう。喉が裂けたかと錯覚するような悲鳴であったが、猿轡によって阻まれたその悲鳴は、精々がこのリビングの空間の中でしか聞き取れないほどにか細いものにしかならなかった。

 目の前の恐ろしい惨劇から目をそらそうと、凛は反射的に何か水が滴る音がする方向へと視線を向けた。ぴちゃんぴちゃんと水が滴るような音の発信源にあったのは、大き目のブルーのバケツだった。そこに上から何かが一滴ずつ滴り、音を奏でている。

 滴る液体につられるように視線を上に向けた凛は、愕然とした。

 視線を向けた先、テーブルの上には転がる二人の()()()()()()の姿。そして、頭を失った首の断面から溢れた血液が直下に置かれたバケツへと滴り、ぴちゃんぴちゃんと軽い音を奏でている。、

 僅かな間に連続して押し寄せた恐怖の大津波が凛の心中を蹂躙する。

 股を濡らす何かに気が付くこともなく、凛はただ恐怖に震え、指一本動かす力さえ失っていた。もしもこの身体を縛るものがなかったとしても、きっと凛は立っていることができずに崩れ落ちていたであろう。

 魔術師が、世俗一般に比して「死」と近しいものであると、凛も父親から教授されている。だからこそ、例え親しい人が死んだとしても悲しみから泣き叫んだりふさぎ込むような無様を晒すことなく、例え辛くとも人前では絶対に堪えてみせようと凛は思っていた。自分なら、それができると信じていた。

 しかし、現実は人生経験の少ない彼女の想像の遥か上をいく。

 彼女が初めて対面した他者の――人間の死は、病死でも事故死でもない「殺人」という明確な殺意の結晶であり、その死体はただ「死」を映すものではなく、目の前にいる若い男の持つおぞましくかつ無邪気な悪意の発露であった。

 生理的な嫌悪でも、生命を脅かされることに対する原始的恐怖でもない。人間というものの恐ろしさを知った凛は、ただ震えることしかできなかった。

 

 

 




すまない……
連続投稿は明日で最後で本当にすまない……

しかも、加えたいシーンを入れたりしていたら幸村召喚が先延ばしになってしまうという始末。
幸村の召喚は次の連続投稿となるので……いつになるのでしょうか。
お盆の休みに全力を尽くしますが、果たしてどうなるのやら。


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第5話 同類は目を見れば分かる

――この惑星の住人は、注意が行き届かずにミスをしてしまった時に「うっかり」という表現を用いる。
一説には、その語源は心が浮いているようにぼんやりしているところからきているらしい。
しっかりと確認していれば未然に気づけたはずの失敗を、彼らは「うっかり」やってしまう。
常に注意を怠らないこと。それは私の故郷では当たり前のことだ。しかし、彼らはそんな当たり前のこともできないでいる。
この惑星の住人は愚かとしか言いようがない。



「お、気が付いた?」

 猿轡越しの悲鳴で凛の覚醒に気が付いた龍之介は、目の前の惨劇を引き起こした犯人と同一人物とは思えないほどに人懐っこい笑みを浮かべながら凛に話しかけた。

 しかし、恐怖に震える凛には龍之介の笑みも悪魔の形相に他ならない。涙で潤んだ目を龍之介に向けること以外に彼女にできることはなかった。当然、返答などできるはずもなく、荒い息遣いだけが返ってきた。

 龍之介は腰を屈め、じっくり観察するかのように凛の全身に視線を巡らせる。

「う~ん、やっぱり君、普通のおうちの子とは違うねぇ」

 一瞬、凛は自分が魔術師であることが目の前の男に見破られてしまったのかと顔面が蒼白になる。

 神秘の隠匿。それは魔術師であればだれもが持ち合わせている心構えであり、三流であろうが一流であろうが等しく遵守すべき魔術師の絶対的なルールである。何故自分が魔術師であることが分かったのかという驚愕と、神秘の隠匿という絶対的な法を遠坂の次期当主たるべき己が破ってしまったことへの悲嘆。

 先ほどまでの恐怖とはまた違う恐ろしさが、凛の心身を蝕む。顔からは血の気が引き、真冬にも関わらず汗がサウナの中にいるかのように勢いよく噴き出す。

「育ちがいいのかな?それとも、生まれながらの資質ってやつ?まぁ、どっちにしても、そこの一般人のお嬢ちゃんとは住んでる世界が違うよね。やっぱり、ご令嬢と一般人だと中身も違ってくるのかなぁ」

 掻っ捌いてじっくり見比べるのは初めてだと宣う龍之介の発言も、混乱する凛の耳には届かない。目の前の少女たちの反応がどことなく鈍いことを察した龍之介は、一つ手を打つことにした。年端もいかない少年少女たちの感情はひたすらに純粋で、愛らしい。

 恐怖だろうと、絶望だろうと、悲痛な叫びだろうと、彼女、彼らのそれには大人と違って見苦しさがない。だから、龍之介はリアクションがないことを嫌う。苦痛を我慢する顔ならばいいが、心が壊れてまともな反応を返さなくなった玩具は、興味が失せてしまう。

「よ~し、注も~く!!」

 少女たちの目の前で手のひらを勢いよく掌を合わせて叩く。龍之介の手からパンと渇いた音が響き、茫然とした状態から自我を取り戻した少女たちの視線が龍之介に向かった。

「ねぇ、お嬢ちゃんたちは、悪魔っていると思うかい?」

 凛とコトネは、未だに恐怖に震えながらも龍之介の言葉をしっかりと認識している。そのことに気をよくした龍之介は、普段フリーターとして日雇いの現場で働いている時とはうってかわって饒舌になった。

 元々、寡黙というわけでもなく、かといっておしゃべりなわけではない。しかし、龍之介も労働の現場では普段よりは真面目な態度を見せる。コミュニケーションを最低限取らないと仕事に支障をきたすことを理解している龍之介は、現場では気さくな好青年を装っていた。

 全く趣味ではないむさ苦しい中年相手に演技することは苦でもあったが、給金のためならば仕方がない。連続殺人犯も、最低限働けねば生きていけないのだ。世知辛い世の中である。

「やっぱ、人を殺すと隠すのが難しくってさ。だから俺の事件も何度かマスコミに取り上げられたりはしたんだけど、週刊誌とかだと結構な頻度で『悪魔の所業』とか、『この世のものとは思えない残虐な犯行』とかって言葉を使うんだよね。記者のくせしてボキャブラリーが貧弱だと思わない?」

 龍之介は別に自己顕示欲があるわけではない。自己顕示欲が強かったらそもそもこれだけの犯行を繰り返している時点で確実に足がついていたであろう。連続殺人犯の犯罪を天下に轟かせるということは、それなりのメッセージ性のある殺し方をして戦利品(トロフィー)を持ち去るなり、象徴(シンボル)を残すなりをしているということだ。

 そのようなことを繰り返していれば、当然証拠や個人を特定しうる手掛かりも現場に必ず残る。犯人が特定され、全国にその名と顔が知れ渡ることとなるであろう。そうなれば、仮に捕まらずとも次の犯行は困難極まりないものとなる。

 龍之介が凝っていることがあるとすれば、それは殺すことと、被害者が死に至るまでの過程だ。だからこそ、単一の殺害方法を取らないし、被害者だって多種多様。

 とはいえ、凝り性な彼の趣味の結果として残るものは大抵が凄惨としか言いようのない死体と殺害現場だ。殺人事件として判明した暁にはマスコミが半狂乱になって四六時中かすりもしない犯人像について無責任な報道をするくらいに世間は彼の犯罪に注目する。

「まぁ、俺の犯罪について『人間のクズ』とか『吐き気を催す邪悪』だとか散々にこき下ろされようが、『世紀の天才』なんて絶賛されようがそれは別にどうでもいいんだよね。別にモリアーティ教授(犯罪界のナポレオン)とか、ジャック・ザ・リッパー(切り裂きジャック)みたいな伝説を目指しているわけじゃないし。殺したことすらバレないなら、それに越したことはないんだから。でもさぁ、一つだけ納得できないことがあるんだよね。嬢ちゃんたち、分かる?」

 龍之介は言葉を発することのできない少女たちに返答を期待しているわけではない。この独白は口に出さずにはいられない高揚の発露が半分であり、残りの半分は彼らに分かりやすく怯えてもらうための段取りである。

「分かんないみたいだから、正解を発表するね。正解は、『俺って本当に悪魔呼ばわりされるべき人間なのか』でした~。でも、もしも本当に悪魔がいるとしたら、俺程度の人間が悪魔なんて大層な異名をつけられるのも恐れ多いというか……なんか、分不相応な感じがしない?そこんとこ、どーもしっくりこないし、モヤモヤしていたんだけどね。『雨生龍之介は悪魔であります!!』なんて口上、俺にはなんか合わないって思っちゃうし。そしたらこないだ五年ぶりぐらいに帰った実家の蔵でこんなものを見つけちゃってさ」

 コミカルに敬礼した龍之介は、テーブルの上に置かれていた古書を少女たちの前に広げた。その古書に描かれた術式に見覚えがあった凛は目を見開く。

「ど~も、うちのご先祖様は悪魔を呼び出す研究をしていたようなんだよね。天草島原の乱って知ってるかい?五万人の農家さんがお侍さんに惨殺されたって事件なんだけど、キリスト様を信じてたうちのご先祖様はその時の惨劇をこの儀式で繰り返すって息巻いてたみたい。この本、儀式の時期や場所、呪文や魔法陣についてもメチャクチャ細かく書いてあってさ、なんか、信憑性がありそうじゃん?だったらもう、これは実際に悪魔さんを召喚できるか確かめるしかないじゃない。本当に悪魔がいるのか確かめることができるんだから」

 凛は確信していた。間違いない、この男はこれから英霊を召喚しようとしている。床に描かれている術式は父から教わったサーヴァントを召喚するためのものによく似ているし、わざわざこの時期、この冬木で儀式を行うとなれば聖杯戦争のことを指しているしか考えられない。

 凛がそんな考えを巡らせているとは知る由もない龍之介は、上機嫌に独白を続ける。

「でもさ、もし本当に悪魔がいるとして、万が一にもこの魔術書どおりに召喚が成功しちゃったらさ、最後はやっぱ五万人大虐殺なんだろうけども、それまでにちょっと話してみたいんだよね。せっかくの機会なんだし。ただ、態々ご足労いただいてるのに、茶飲み話っても失礼な話じゃん?だからさ、お嬢ちゃんたち……もしも悪魔さんが出てきたら、一つ食べられるか殺されてみてくれない?」

 自分が殺される、悪魔に食べられる――そのことを理解したコトネは、顔をクシャクシャに歪めて恐怖に震える。呼吸は荒く、痙攣のような震えが止まらない。凛も、ただ恐れおののくことしかできなかった。死への恐怖、サーヴァントへの恐怖、目の前の男への恐怖――その全てが凛の心を縛り付ける。

「悪魔さんってどうやって殺すのかな?いや……ひょっとすると、食べるのかも。丸呑みかな!?じっくり噛んで味わうのかな!?食べ比べとかするのかな!?なんにせよ、貴重な体験だ――痛ッ!?」

 恐怖に震える少女たちの姿を眺め、悦に浸り笑っていた龍之介であったが、その右手の甲に突如激痛が奔った。

 何が起きたのかも分からず、訝しげに手の甲を見ると、そこには先ほどまでなかった入れ墨のようなものが浮かんでいた。

 さらに、手の甲に気を取られていた龍之介の背後から冷たい風が噴出する。血液で描かれた陣に光が灯り、大気が震え、紫電が閃く。

 ホラー映画もスプラッタ映画も結局は作り物であり、特殊撮影技術と画面の切り取り方による誤魔化しでしかないと断ずる龍之介だからわかる。これは、つくりものではない。今、目の前には本物の超常のものがある。

 龍之介は人生で初めてお目にかかる超常現象を前に、ただ立ち竦んでいた。未知への恐怖でも、奇跡への感動でもない。この時の龍之介の胸中を表現するのであれば、無というのが正確なところだろう。

 龍之介をこの時動かしていたのは、感情ではなく反射的な反応であった。心のどこかで期待していた光景――自分が生涯探し求めていたものを見つけてくれるかもしれない未知の現象。いざそれを目の前にした時、身体は熱意に動かされるまでもなく勝手に観察へと龍之介を駆り立てていたのだ。

 そして、龍之介はその男と出会った。否、聖杯の奇跡は龍之介をその男と巡り合わせたのだ。

 

 かつて英国の奴隷廃止論者ベイルビー・ポーテューズ牧師は言った。

「一人の殺害は犯罪者を生み、一〇〇万の殺害は英雄を生む。数が殺人を神聖化する」

 牧師の言葉に則ると、龍之介の眼前に現れた男も、多くの人間を殺してきた経験の持ち主であるが故に英雄として呼ばれるべき男なのかもしれない。

 しかし、歴史は彼を英雄とは見做さない。この男は稀代の凶悪殺人犯、猟奇的殺人鬼として歴史に刻まれている。

 結局のところ、英雄と殺人鬼を別つものは大衆の認識に他ならない。その時代の価値観や、思想という流行で英雄は簡単に大罪人へと堕ちる。

 この男も、生前の絶頂期には数々の武功を挙げ、英雄として祖国で賞賛された優秀な軍人であった。しかし、晩年には神の裁き、神の不存在の証明のため、生命の真の美しさを死を通じて鑑賞するため、悪を成すために命を消費し続けてきたために、人々は彼を恐ろしい怪物として語り継いだ。

 

 此度の聖杯戦争において魔術師(キャスター)のサーヴァントとしてこの男を招き寄せた縁は、召喚者である龍之介と似通った殺人に対する美学。

 であれば、この男もまた英雄ではなく殺人鬼――それも、数々の猟奇的な犯罪で世界に名を刻んだ大罪の体現者としての側面が強くでてくることもまた必然。

 その怪物の名は、ジル・ド・レェ。

 フランス史上最悪の凶悪殺人犯である。

 

 

 

 

 

 目の前で、化け物が談笑している。

 化け物の容姿は、一見するとただの人間とさほど変わらない。しかし、遠坂凛は知っている。それはただ、人の姿に似ているだけであると。

 一人目の化け物は、生物学的な分類でいえば人間で間違いない。しかし、精神が人間からは大きくかけ離れた怪物であった。

 その化け物は、少しの好奇心で人を殺せる。まるで子供がちょっとした好奇心から昆虫の足をちぎったり潰したりできるように、平然と人間を壊すことができる。少女には理解できない恐ろしさを備えている。

 二人目の化け物も、特徴的で不気味な形相をしているものの、個性の範囲内ではある。しかし、こちらはまさしく怪物であった。

 魔術師の卵である遠坂凛だからわかる。この男は、この世のものではない。およそ魔術師が用いることができる使い魔の中では最高峰の兵士――サーヴァント。聖杯戦争を作り出した御三家に生まれた少女は、未だに半人前以下でありながらもサーヴァントの脅威を正しく認識していた。

 

――敵うはずがない。

 

 凛は絶望した。

 こちらは身体の自由が利かない上に、相手は体力では敵わない成人男性と、魔術師が使役する戦力の最高峰。純然たる戦力差がある敵と、その敵に命を狙われているという疑いようのない事実。

 自分はただ死を待つことしかできない。いつ、どうやって殺されるのかは、目の前の化け物たちの匙加減一つ。

 生まれて初めて味わった真の絶望が、幼い凛の心を軋ませる。

 

――――誰か、助けて。

 

 余裕を持って優雅たれ。常に家訓の通りにあろうとした少女は、生まれて初めてそう願った。

 誰かが助けにくるなんて、まずありえないことは分かっていた。

 仮に助けが来たとして、サーヴァントに太刀打ちできるはずがないことは理解していた。

 自分がもう、死ぬしかないと心のどこかで確信していた。けれどもそれを認めたくなかった。

 化け物たちの眼がこちらに向く。

 コトネと自分、どちらから殺そうかと相談していたサーヴァントがコトネの方へと歩き出した。

 止めなければ、自分がコトネを守らなければ。そう思った。思っているのに、身体は動かない。コトネはきっと、助けてと叫んでいるのだろう。

 自分の無力さが、遠坂の娘でありながら何もできない自分が醜く、憎いと思った。

 そして、サーヴァントの手が、必死に身体をよじらせて逃げようとするコトネへと差し伸べられたその時だった。

 リビングの窓ガラスがはじけ、そこから蛇のごとく撓る炎がサーヴァントめがけて飛びかかった。サーヴァントは、ローブを掲げてそれを防ぎ、後退する。

 

「そこまでだ」

 

 その声を忘れるはずがない。

 遠坂凛にとってその声の持ち主は、魔術師としての憧れであり、娘としての誇りである。

 その身を包む英国随一のテーラーのオーダースーツには皺ひとつなく、ワックスで整えられた頭髪に一切の乱れなし。その歩調は、自然体でありながらもテンポよく澄んだ靴音が響き、気品を漂わせる。

 窓から差し込む光に照らされたその男は、まさに家訓を体現する完璧な魔術師であった。

 

「この地の管理者(セカンドオーナー)として、私が誅を下す。私は君たちを、断じて許さない」

 

 遠坂時臣は、自らの領地を荒らさんとする害虫に対し、処刑を宣告した。




ただ――
時に彼らの「うっかり」は、誰かの命を救うこともある。








本日の投稿をもって連続投稿は終了です。
またストックができたら連続投稿を再開する予定ですが、いつごろになるか……
できれば、秋の間には一度投稿しておきたいですね。


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第6話 御当主様は本気になられた

拙作の投稿についてですが、とりあえず出向終わるまではできた都度投稿することにしました。
出向のハードスケジュール考えると2月までに2話分書き溜めるのすら無理っぽいですし、一括投稿だと年内に一度も更新しないで、下手すると来年春まで更新しない可能性大です。
アンケートではおまかせという意見が多かったみたいですが、流石に投稿初めてから主人公鯖召還まで一年かかるのはまずかろうと考えまして、ここから5話は書き上げた都度投稿していきたいと思います。


後、拙作を執筆し始めたことをきっかけに10月に名胡桃城、沼田城、岩櫃城を巡って来ましたが、やはり真田の城は観光への力の入れ具合がすごいですね。
公共交通機関の貧弱さがとても残念ですが。
岩櫃城は要害の中の城ですから、道中しんどいのも当たり前のことだと思いますが、名胡桃城なんて駅からどんだけ歩くんだよ……



 先ほど時臣は弟子であり同盟者でもある綺礼に一声かけて鉄壁の魔術要塞である遠坂邸を飛び出したところだった。

 時臣は今夜、第四次聖杯戦争に参戦するために自身のサーヴァントを召喚する予定であったが、英雄を召喚するための触媒を工房に運び、包装紙を解いた際に、己の過ちに気づいたのである。

 今朝そこにあったはずの触媒が、そこになかった。包装紙に包まれていたのは、蛇の抜け殻の化石ではなく兜の緒の切れ端。時臣は娘への誕生日プレゼントと聖遺物を取り間違えていたことに気が付いて顔を青ざめさせた。

 頭痛を抑えるように頭に手を当て、深刻そうな表情を浮かべながら眉間に皺を寄せる時臣。見苦しい態度を取ることもなく、優雅な態度を崩さずに自身の失態を多いに反省する時臣。しかし、いかに優雅に取り繕ったとしても、これは大失態に変わりない。外見だけ余裕をたもっていたところでどうにもならないことは他でもない時臣が最も理解していた。

 兜の緒も蛇の抜け殻も同じ業者に手配を委託し、ほぼ同じタイミングで同じ包装紙、木箱に入れられて届いた。それがこの取違いの原因の一端ではあったが、当然のことながら最大の原因は時臣自身にあった。

 そう、これこそが時臣自身も知らず知らずの内に父親から受け継いでいた遠坂家の呪い、『遠坂うっかりエフェクト(約束された致命的な失念)』。

 その伝承者は肝心な時に普段ならどうということもないような不注意によって致命的な失敗を招いてしまうというお約束。以来、この呪いの伝承者のほとんどがバッドエンドを迎えてしまう悲劇的伝説があるのだという。統計はとっていないが、多分そうなのだろう。

 時臣はすぐに凛から触媒を回収しようと決意した。

 今の時期に屋敷から出ることの危険性は百も承知。触媒の回収など綺礼に頼み、無数に分裂する宝具を持ったアサシンの一体を凛のもとに向かわせるなり、妻にこれから電話して事情を説明し、触媒を持ってきてもらうのが最善であることは明らかだった。

 ただ、時臣にはそれができなかった。

 妻に聖杯戦争に使う触媒と娘の誕生日プレゼントを間違えたなどという恥を告白することはどうしても彼のプライドが許さない。

 弟子であり同盟者であり、尊敬する父の旧友の息子。そんな相手に自分の失態を口にできるわけがなく、ましてやその失態に対処するために力を貸してくれなどと言えるはずがない。

 誰かに頼るということは、自分の恥を吐露することと同義。だからこそ、時臣は先祖代々磨き上げてきた宝石魔術を用い、娘の居場所を探した。触媒を持つ凛に密かに接触し、触媒を凛に気づかれないうちにすりかえる。探知も、すりかえも一流の魔術師である時臣には造作もないことであった。

 彼にとっては幸運なことに、その凛の反応は妻の実家のある冬木の隣街ではなく、冬木市の中にあった。綺礼には凛に渡しそびれたものがあると誤魔化して屋敷を後にした時臣は、タクシーを手配して反応のあった深山地区の住宅街を目指した。

 凛の反応のあった住宅のすぐ近くに停めたタクシーから降りた直後だった。

 時臣はすぐ近くに現れた強大な魔力を察知して目を見開く。現代の魔術師でこの域に達する圧を放つものなど、時臣の知る中にはいない。その魔力の気配は聖杯戦争に召喚されたサーヴァントの発するものだと、理屈ではなく本能で理解した。

 行動には迷いはなかった。探知した凛の居場所とサーヴァントの召喚された位置は極めて近い。そこから導き出される可能性は二つ。一つは、外来の魔術師がサーヴァントを召喚し、魂喰いをするために凛を狙っているという可能性。もう一つは、何らかの偶然で凛がサーヴァントを召喚したという可能性。

 時臣は、まず間違いなく前者であると考えている。御三家から選ばれるマスターは毎回一人だけであるし、まだ幼いとはいえ凛は昼の住宅街でサーヴァントを召喚するという意味を理解していないほどに浅慮ではないからだ。

 しかし、凛の身に危険が迫っていると考えた時臣は迷わなかった。

 凛とサーヴァントの気配のする一軒家に認識阻害の結界をかける。そして、身体強化の魔術を自身に付与すると同時に駆け出した。さらに右手に持つステッキから炎が迸る。サーヴァントほどの魔力を有する存在であれば、直接その姿を目にせずとも位置を把握するのは容易い。

 ステッキの先につけられた巨大なルビーから溢れた炎は、時臣に先行して庭に面するリビングの窓ガラスを突き破りサーヴァントへ直撃する。炎で砕かれた窓ガラスの破片が散乱する中、時臣も屋内に突入する。

 そして、時臣は見つけた。手足を縛られ、口に猿轡を噛まされて横たわる二人の少女の姿を。その内の片方の姿を、時臣が見間違うはずがない。その少女の片割れこそ、時臣の娘である凛なのだから。

 声にならない叫びをあげながら涙を流す二人の少女と、首を失った遺体。ローブを纏った恐ろしい顔のサーヴァントと、その後ろにはマスターと思しき若い男。

 部屋の内部を一瞥した時臣は自分の予想が的中していたことを知る。

 遠坂時臣は激怒した。

 必ず、かの放辟邪侈の犯罪者を誅伐せねばならないと決意した。

 遠坂時臣は魔術師である。世の理からは遠く、魔術師としての倫理と思考に従順な男である。世俗の法に従うのではなく、己自身に法を課すが故に、世間一般で美徳とされるような正義感を是とすることはない。しかし、この時遠坂時臣は確かに世俗の正義感に限りなく近いものに駆り立てられ、『邪悪』に対する怒りをおぼえていた。

 娘を危険に晒された父親としての怒り、自らに課した法に従う魔術師としての義憤、一人の人間としての悪に対する反発。

 遠坂時臣の心は、その普段と変わらぬ余裕と気品に満ちた佇まいと裏腹に煮えくり返っていた。

 もはや、彼らには慈悲も温情も不要。

 彼らは、管理者(セカンドオーナー)たる遠坂の膝元でその後継者を亡き者にしようとし、さらには浅ましき願いを叶えるべく聖杯戦争に参加して遠坂の悲願を阻もうとしているのだから。

「この地の管理者(セカンドオーナー)として、私が誅を下す。私は君たちを、断じて許さない」

 敵がサーヴァントであることは百も承知である。魔術師がサーヴァントを退けることなど常識で考えればまず不可能であり、サーヴァントにはサーヴァントを当てることが聖杯戦争の鉄則だ。

 まさか失態を誤魔化すために凛に会いに行ったところで偶々サーヴァントの召喚場面に出くわして綺礼や璃正に連絡する間もなく強行突入してサーヴァントと対峙するなどということは全く想定していなかったから、時臣はサーヴァントも連れるどころか未だに召喚すらしていないし、綺礼からアサシンを借り受けてもいない。

 助けが来る見込みもなく、こちらには要救助者の子供が二人。常識的に考えればここは逃げの一手であるが、時臣は即座に凛を救出して逃げるという手を打たなかった。時臣が怒りから冷静な判断ができなかったというわけではない。多少無理をしてでもサーヴァントかあるいはマスターに一撃を加えなければ凛を連れながらサーヴァントの追撃を逃れて脱出することもできないと冷静に判断した結果である。

 全身を覆う禍々しいローブと、その手に持つ禍々しい魔力を発する本から、敵サーヴァントのクラスは三騎士かバーサーカーである可能性は低く、本命はキャスターであると時臣はあたりをつけている。

 もしも敵が三騎士であれば、対魔力のスキルによって時臣の魔術のほとんどが無効化されてしまうだろう。敏捷もそれなりに備えている可能性が高い。そうなると、時臣では刺し違える覚悟を持っていたとしても歯が立たなかっただろう。

 敵がキャスターであるならば三騎士に比べれば脅威度は低い。他のクラスと比較しても、工房に篭らない限りは脅威度は最低と言ってもいいだろう。

 とはいえ、通常キャスターのクラスのサーヴァントに選ばれるほどの魔術師が行使する魔術は現代の魔術師が扱うそれとは文字通り桁が違う。魔術戦など、成り立つはずがない。

 常識的に考えれば、勝機はない。

「フフフ……我が宿願を阻むためにあの忌々しい神が邪魔者を放ってきたかと思えば、この時代の凡庸な魔術師ですか」

()()()()()のサーヴァントよ、聞こえなかったか?君達に誅を下すと私は言ったのだ」

「この身がキャスターのクラスをもって現界したサーヴァントであることを知りながら挑んでくるとは、ああ、なんと救いのない愚かさでしょうか……」

 自身のクラスを言い当てられたことにも、キャスターは一切動じない。それどころか、実力差は目に見えており、相手に非ずという態度を崩さない。

「私は別に、貴方のような人間は趣味ではないのですがね。ああ、しかし、目の前で希望を打ち砕かれた健気な少女の姿というのも捨てがたい。ここは一つ、貴方にはあの子たちの絶望の糧となってもらうとしましょう」

 キャスターの腕の中の魔本が僅かに光を漏らす。宝具か、それともキャスター自身の魔術かは時臣にも判断がつかなかった。それと同時に、キャスターの足元から蛸の足を思わせる触手が生えてきた。

 やがてそれは姿を現した。

 毒々しい色と咀嚼器官を思わせる突起を纏った蛸のような姿、シルエットは蛸ともヒトデとも取れるような軟体生物のようだ。

 異形の正体がキャスターの魔術あるいは宝具の行使かは不明であるが、それは時臣の命を狙うものであり、それから逃れることはできない。絶対の死が迫っていることを時臣は理解する。

 そして、断末魔の一瞬。

 

Elf(十一番)Stark(十番)――――Groβ Zehn(強化)

 

 時臣の手の中でトパーズが砕けた。同時に、キャスターを守るように立ち塞がった異形の生物が砕け散るが、キャスターには傷一つついていない。

 しかし、時臣が放った魔術はキャスターの召喚した異形を砕いた際に、強い光を放った。キャスターはその光に目が眩み、時臣の姿を見失う。

 そしてこの時、遠坂時臣が常日頃から優雅に非ずと押さえ込んできた衝動的な思考が、彼の常識、認識の柵から解き放たれた。

 普通の魔術師は追い詰められ、戦況が悪ければ、如何に自身の魔術を以って状況を打開するかばかり考えるだろう。

 だが、時臣は違った。

 

 逆に!!

 

 なんと!!

 

 魔術で戦うことを棄てた!!

 

 時臣はステッキを上段に振りかぶり、魔術で強化された右腕に渾身の力を籠めてキャスターの頭部へと叩きつけたのだ!!

 頭部に叩きつけられたステッキに籠められた運動エネルギーは、キャスターの脳を揺さぶると共に、頭部を支える首の筋肉が持ちこたえられないほどの力を加えた。身体をくの字に折り曲げ、キャスターの頭は重力に引きつけられたかのように地面へと墜ちていく。

 さらに、時臣は追撃する。地面へと接近するくキャスターの顔面に下から追撃の蹴撃を加えるだけにとどまらず、間合いをつめてそのローブの襟を掴むと同時に左足をキャスターの右脚の後ろに回し、瞬時に脚を払った。

 時臣はかつて時計搭に留学していた際、友人から護身術としてバーティツを学んでいた。バーティツとは、一説にはかのシャーロック・ホームズがライヘンバッハの滝での闘いで宿敵モリアーティ教授を破るために用いた格闘術「バリツ」と同じものとも言われている。

 時計搭どころか、世界でも有数の知名度を誇るも、実際にそれを修めている者は超少数派(マイノリティー)な格闘術だ。表向きには、二〇世紀初頭に僅か数年だけ世に出た後に衰退し、伝承者がいなくなったとされている。

 しかし、時臣の友人の一族は代こそ三代と新興であったが、バーティツを一族で細々とおよそ七〇年以上の間受け継いできた稀有な一族であった。魔術師であり紳士であることを是とするその友人と時臣は意気投合し、真の英国紳士の格闘術としてバーティツの教えを時臣に授けたのだ。

 他方、キャスターとて、かつては戦争で功績を挙げた軍人だ。剣や槍の使い方ならばよく知っているし、それを扱えるだけの体力、筋力は有している。体術についても戦場での乱戦に備えて鍛錬をしていた。

 しかし、己の肉体だけを武器にする近接格闘術については門外漢だった。彼の修めていた武術はあくまで自身が鎧を着込んでいるという前提で、頑丈な鎧に身を包んでいる敵を相手にするための格闘術でしかなかった。キャスターの無手格闘術についての経験はとても浅い。

 そもそも、キャスターのクラスで現界したとはいえ、彼は本質的には魔術師ではなく軍の指揮官であり、そして指揮官の武器は卓越した個人の武勇ではなく、指揮能力だ。

 槍や剣が廃れ、火器が大きく発展する前夜とも言える時代の将軍であるキャスターには、このような武器をもたずしての近接戦闘は生前もほとんど想定したことがなかった。

 息つく間もない連続攻撃に加え、重心を巧みにずらす柔術の要素を取り込んだ技に、たまらずキャスターは転倒し、背中から地面に叩きつけられた。

「オノレェ!!この匹夫がグフオァ!?」

 立ち上がろうとしたキャスターの喉に、ステッキの石突が突き出される。突きによって喉を潰されたキャスターは苦悶の表情を浮かべ再度地に身体を沈めた。

「魔術師として、この地の管理者(セカンドオーナー)として、そして、父として。私は君を断じて見過ごせない。温情など、かけることは無いと知りたまえ」

そして、時臣は眼前の醜悪なサーヴァントを葬るべく、ステッキの先端をマスターであろう隣の龍之介に向けた。

 

Intensive(我が敵の火葬は) Einascherung(苛烈なるべし)――」

 

 ステッキの先端に煌くルビーから、一条の炎が放たれた。




 なに時臣。キャスター相手に自分では勝てない?
 時臣、それは魔術戦をしようとするからだよ
 逆に考えるんだ「魔術で戦わなくてもいいさ」と考えるんだ

 凛が神代の大魔女相手にできたことなんだから、トッキーでもイケルイケル。


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第7話 望みを捨てぬ者だけに……

「あいや~!!遠坂家のお約束をやってしまた!!
遠坂家の開祖、遠坂永人は二百年前、ふらりと立ち寄った爺さんに弟子にされるも、全く目がないと断定されたという悲劇的伝説があるのだよ。
以来その血を継ぐもの皆、いざという時に限て痛恨のうっかりをしてしまう呪い的血筋!!」


 時臣のステッキから放たれた炎は、まるで獲物を締め付ける蛇のように龍之介に纏わりついた。

 床や天井を焦がすことなく正確にその炎は龍之介だけを狙っていた。

 龍之介を焼いている炎はありふれた術式であり、遠坂家秘伝の術でも、習得に長い年月を要するような高度な術でもない。しかし、その術の精確性、効率性は、まともな魔術の薫陶を受けた者であれば感嘆の念を抱かずにはいられないほどに洗練されていた。

 そもそも、遠坂時臣は、彼の娘のような稀有な才能に恵まれた魔術師ではない。

 二〇世紀の初頭になって現れた新世代(遡ってもたかだか一世紀程度)の魔術師とは格が違うとはいえど、遠坂の家が、時計塔を支配する貴族(ロード)のような気の遠くなるほど長い年月の研鑽の成果に匹敵するような成果を持つわけでもない。

 しかし、遠坂時臣は一廉の魔術師となった。

 一族が積み重ねた歴史が浅いのであれば、学びを怠らずに成果を積み重ねればいい。

 魔術師としての素質に乏しいのであれば、才能溢れる他者に努力で負けることは許されない。

 自らが秀でた者ではないことを知るが故に、時臣は己の研鑽には決して妥協することはなかった。

 『常に余裕を持って優雅たれ』

 ただ、愚直なまでに家訓を体現することと、魔道の道を歩き続けることだけを己に課した男。それが、遠坂時臣という男だ。

 そのような男の魔術を評する時、『模範的』という評価以外はありえないだろう。

 術式に独自性など欠片もなく、その出力とて人間兵器と称される傑物たちのそれに遠く及ばない。特筆して評価すべき創意工夫などないのだから。

 しかし、それは一〇〇点満点のテストで減点するところのない一〇〇点の解答であった。

 これこそ、遠坂家五代目継承者たる遠坂時臣という魔術師の真骨頂。

 弛まぬ研鑽と繰り返した鍛錬をもって到達した、遠坂時臣の魔術なのだ。

 炎に包まれた龍之介は、気管どころか肺まで焼かれ、呼吸すらおぼつかない。両の脚で立ってはいるものの、火を消さんと身体中を掻きむしるその姿は、地獄の業火に焼かれて苦しむ罪人のそれであった。

 

「終わりだ」

 

 声にならない掠れた悲鳴をあげ、苦しみ悶える龍之介を、時臣は感情を映さぬ翡翠の如き澄んだ瞳で見つめている。当然ながら、そこに憐憫など欠片もない。すぐ隣で伏したままのキャスターに注意を払いつつも、時臣はゴミを屑籠に捨てるような自然な態度で龍之介の命を絶とうとしていた。

 サーヴァントを制しつつ、マスターを優先して確実に始末する。

 自身がまだサーヴァントを召喚していないという現状を鑑みるに、時臣は最良の判断をしていると言えるだろう。

 しかし、時臣はあまりにも基本に忠実すぎた。自身の価値観に重きを置きすぎたとも言える。

 それを油断というのは語弊があるかもしれない。時臣は少なくとも、自身の考えうる限りで最良の行動を取った。その行動の結末を知らなければ、何度同じ状況を繰り返しても、同じ行動を取っただろう。

 結果として、時臣は彼の意識の埒外からの攻撃を防ぐことができなかった。

 鮮血が舞う。

 皮膚が貫かれ、血管が破れたことで血液が噴き出したのだ。傷口からあふれた血液は飛沫となって飛び散った。

 己の腹に突如奔った激痛の意味も、空間に舞う血飛沫の理由も、時臣は瞬時に理解できた。

 時臣の腹部は、目の前で炎に捲かれ断末魔の悲鳴をあげていた青年の腹から勢いよく飛び出した毒々しい色をした蛸のような触手によって貫かれたのである。さらに、その触手には蛸の足に並ぶ吸盤のように、無数の牙が生えそろっていた。女性の腕ほどの太さの触手が時臣の腹部を貫通し、さらに触手に生えた牙は腸を貫通して内部から抉る。

 突如激痛に襲われた時臣は、声こそあげなかったが常日頃顔に張り付けている余裕のある表情を保つことはできず、顔を顰めた。

 時臣は、自身の失策を理解していた。

 元々、時臣には生命を賭した実戦の経験は乏しい。

 時計塔では魔術の研鑽の一環として、魔術師同士の決闘を推奨してはいるものの、他者に自身の魔術を晒すリスクのある決闘を軽率に行う魔術師など多くなかった。貴重な触媒や資料の奪い合いとなれば話は別であるが、そのような機会は魔術師であってもそうそう何度もあるものではない。

 また、時臣が想定していた自身が戦うであろう相手は、同じ魔術師、あるいはその使い魔であった。使い魔の一種といえど、格が違うサーヴァントを相手にすることはほとんど想定してはいなかった。

 敵の行動を自身の常識に当てはめて予想することしかできなかったことが、時臣の失敗であった。

 ついさきほども、自身の一撃によって昏倒したサーヴァントへの警戒を解いてはいなかった。しかし、魔術師でもない、魔術回路をたまたま持っていただけの一般人に対して時臣はサーヴァントや正規のマスターに向けるだけの警戒をしていたかと問われれば、否である。魔術回路を持つだけの人間が脅威になることなど、ありえないと高を括っていた。

 また、理性の期待できないバーサーカーのサーヴァントは別として、狂化スキルを持たないクラスのサーヴァントがこの状況で自身のマスター諸共に敵を攻撃するという発想が時臣にはなかった。

 サーヴァントがマスターを裏切ることは過去の聖杯戦争でも前例がなかったわけではない。サーヴァントの裏切りを防止するという側面が令呪にもあるのだから。しかし、裏切りはある程度状況が整った状態で、裏切る相手との交渉の余地がある状況下で行われるものだ。

 召喚された直後に、サーヴァントが自身を現世に留める楔であり魔力供給源たるマスターを殺害すれば、サーヴァントはそう時間をおかずに現界し続けるだけの魔力を失い、脱落することとなる。聖杯を求めて召喚に応じたサーヴァントがそのような自殺行為をするはずがないという先入観が時臣にはあった。

 しかし、ここにはあの魔術回路を持っているだけの一般人とは比べ物にならないほどにマスターとしての素養を持った少女――凛がいた。

 キャスターからしてみれば、自身のマスターを始末した後に凛を洗脳して傀儡とし、マスターに仕立て上げるのは造作もないことだろう。

 召喚したばかりでろくにコミュニケーションもとっていないマスターを切り捨てることなど、正当な英雄を除けば特に躊躇するものではない。一般人をマスターとし続けるよりも、魔力供給に優れて操りやすい幼子に鞍替えした方が遥かに利がある。その可能性を、時臣は完全に失念していた。

 だからこそ、この状況でキャスターがマスター諸共に時臣の命を狙ってくるという行動に対処しきれなかった。キャスターは、自身のマスターの血肉を媒介として、あの怪物を召喚したのだ。当然、炎に包まれながら体内を食い破られたキャスターのマスターは絶命している。

 しかし、その体内を食い破って現れた異形の触手は時臣の腹部を貫通。腹腔内からの大量出血を引き起こした。腸が体内から飛び出していないのが、不幸中の幸いといったところだろう。

 さらに、心臓を狙った二本目の触手が迫るが、時臣は自身の腹を貫いた触手もろともに焼き払って対処する。腹部に風穴を開けられているにも関わらず、その技巧にはいささかの曇りはない。時臣の炎は触手と傷口のみを焼くことでダメージを最小にとどめていた。

 魔術師は魔術刻印によって生かされるため、腹部に風穴があいたところで常人のようにすぐさま病院に搬送しなければ生命にかかわるということはない。

 とはいえ、時臣にも痛覚は存在するし、戦闘中に己の感覚を麻痺させるような迂闊な真似はしない。常人よりは死ににくいというだけで味わう苦痛は常人と大差がないのだ。激痛に襲われながらも普段と全く変わらない精度で魔術を行使する時臣の精神力はとても強靭であったと言えるだろう。

 

「思いあがりも甚だしい……」

 

 よろよろと立ち上がったキャスター。その顔に浮かぶ怒りは、現代の魔術師に意表を突かれたことへの屈辱によるものか、はたまた味あわされた苦痛への反発か。

「愚かにも我が崇高なる願いを妨げ、聖杯を狙うことだけでも許しがたい」

 キャスターの握る魔術書に灯る光が強さを増していく。

「誅を下す?悪徳の権化たるヒトが、傲慢にも正義の裁きを騙ると!!」

 キャスターの周囲から次々と異形の怪物が姿を現す。さきほど時臣が砕いたはずの異形の残骸からも、無数の怪物が再生した。

「烏滸がましい……その思い上がりの対価を、苦痛と嘆きをもって支払いなさい!!」

 四方八方から殺到する怪物の触手。その威力は先ほど時臣が身をもって味わったばかりだ。時臣は防御陣を展開し、自身を刺し貫かんとする触手の群れを迎え撃つ。

「遠坂の魔術師を侮るな!!」

 触手の狙いは、自身だけではないことなど時臣も察していた。凛とその友人を狙わんとする触手にも対応し、同時に無数の防御陣を一瞬の内に連続して展開する。

 防御陣に触れた触手は瞬く間に燃え上がり、焼けた筋肉の収縮によって茹蛸のように足を丸めて崩れ落ちていく。時臣の展開した防御陣は触手の侵入を一切許さなかった。

 しかし、時臣の表情は険しいままだ。その顔には脂汗が滲み、苦痛に耐えるかのように眉間に皺が寄っている。

「ほらほら、雛鳥たちから目を離してはいけませんよ」

 さらに、触手の密度が高くなる。もはや、触手の槍衾が四方八方から迫ってきている状況だ。攻撃してきた相手にカウンターを浴びせて焼き尽くす攻性防御の性質を有する防御陣は、休まる暇もなく防御陣に触れた触手を焼き続けている。

 触手一本の力は大したことはなくとも、こうも無数の触手が途切れることなく全面から攻め寄せてくれば、それに対処する時臣も相応の魔力の消耗を余儀なくされる。

 見誤っていた。

 時臣は自身の過ちを認めざるを得なかった。

 マスターを失ったサーヴァントはそう長く現界し続けることはできない。宝具を使って魔力を消耗すれば、さらに消滅までの時間は短くなるはずだった。時臣には、この怪物の攻勢を耐えきることができれば先に魔力を使い果たして消滅するのはキャスターであると予想していた。それが、時臣の勝算であった。

 しかし、キャスターのサーヴァントには全く消滅する気配がない。あれだけの数の使い魔を召喚し、使役していてなおキャスターの魔力には余裕がある。

 時臣にもこの召喚術の絡繰は予想がついていた。

 代行者や封印指定執行者に程遠い時臣の体術でも対抗できる程度の戦闘技術しかキャスターは有していない。また、攻撃は召喚した怪物による襲撃の一辺倒。未だマスターではない時臣はキャスターのステータスを読み取ることはできないが、十中八九、戦闘は宝具に依存するタイプのサーヴァントだと判断していた。

 先ほどから禍々しい光を発し続けているキャスターの持つ本。それが、あのキャスターの宝具なのだ。おそらくは、あの本自体があの異形の怪物を異界より召喚しており、召喚に際して必要となる魔力もあの本が都合している。キャスターはただ、スイッチのオン/オフと標的の設定をしているに過ぎない。

 現界を続ける魔力消費以外には特に消耗のないキャスターと、重傷を負いながらも攻性防御を全面に展開し続けている時臣。先に力尽きる可能性が高いのは、現状では時臣だった。

 召喚された直後でマスターからの魔力供給に不安があるキャスター相手であれば、勝算はあると判断したのは早計だったと言わざるを得ない。昏倒させた際に、すぐにこの家を脱出して綺礼の援軍を乞うべきだった。

 現状、時臣はこの防御陣を展開するだけで手一杯だ。サーヴァントを葬るだけの火力を、この防御陣を展開したまま相手に察知される前に発動するだけの余力は残っていなかった。

 時臣に現状を打破する一手がない以上、外からの援軍に期待するほかない。キャスターの召喚自体は教会にいる監督役の璃正神父も把握しているはず。キャスターの召喚を璃正から知らされた綺礼がアサシンを差し向けて、異変を察知する可能性はある。

 いつ来るかも分からない援軍を待ち続ける。

 それまでは、一歩も下がらずに娘たちを守り抜いてみせよう。

 そう、時臣が覚悟した時だった。

 

――素に銀と鉄。礎に石と契約の大公。祖には我が大師シュバインオーグ

 

 彼の背後から、たどたどしくも、揺るぎない決意を感じさせる声がしたのは。




次話で、幸村召喚まで書きます。
お待たせして申し訳ありませんでした。
次話の投稿は、明日同時刻を予定しております。


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第8話 道は開けるのです

ようやく、幸村召喚。どうにか投稿開始から一年以内に主人公の召喚に成功しました。
うん、我ながら時間かかりすぎですね。


 少女、遠坂凛にとって、父親は憧れだった。

 理想の父親だった。

 目指すべき指標だった。

 そして、誰よりも遠坂の魔術師だった。

 『常に余裕をもって優雅たれ』

 その言動も態度も遠坂家の家訓そのものを体現し、全く欠けたところのない完璧な人物。

 それが、遠坂凛という少女にとっての遠坂時臣だった。

 父が、サーヴァントという人智の及ばぬ怪物に襲われて絶体絶命の窮地に立たされた凛を助けるべく颯爽と助けに現れた時は、涙がこらえきれなくなるほどにうれしくて、誇らしくて、かっこよかった。

 しかし、今凛の目の前にいる父は、これまでの彼女が知る父の姿ではなかった。

 普段から皺ひとつないオーダーメイドのスーツは赤黒く染まり、スラリとした脚のラインを覆うズボンからは真っ赤な血が滴っている。

 毎日朝食前には必ず整え終わっている髪も滲む汗と激しい動きで乱れ、全力疾走した後のように呼吸も荒い。

 眉間に険しい皺を寄せ、痛みに耐えるかのように歯を食いしばって苦悶の表情を浮かべる父の顔は、これまで見たことがなかった。

 如何なる試練が立ち塞がろうと、強大な敵と相対しようとも、きっと父はいつもの佇まいを崩すことなくこれを破り、悠々と凱旋するものだと信じていた。聖杯戦争に参加することを知った時も、きっと父ならば苦戦することもなく聖杯を手に入れるだろうと、微塵も疑わなかった。

 それは、何も知らない子供が抱いていた幻想にすぎないことを、凛は知った。

 完璧な存在だと思っていた父が、防戦一方の状況に追い込まれている。傷一つなく勝利するものと信じていた父が、重傷を負っている。

 では、その砕けた幻想は、何を凛にもたらしたのか。

 憧憬は幻滅へと変わったのか、はたまた信頼は失われたのか。

 答えは否。

 その姿に余裕などはない。優雅という言葉が瑕疵一つない雅やかな立ち振る舞いのことを指すのであれば、優雅とは程遠いが、異形の怪物の群れから自分と友人を守るために負傷を怪我をおして戦い続けるその背中は頼もしく、一歩も引いてはならぬという気迫を感じずにはいられない。

 家訓の示す遠坂の魔術師の姿ではなくとも、いま、自分たちを守って戦う遠坂時臣という魔術師の堂々たる姿に心が震える。

 

 ――対して、遠坂凛はどうか。

 

 自分たちを守るために我が身を盾とする父の背中に隠れ続けていればいいのか。

 初めて知ったサーヴァントという規格外の怪物を前に、ただしり込みしているだけでいいのか。

 目の前で両親を惨殺され、関わるべきでなかった闇の世界に寄る辺もなく突如放り込まれて恐怖に震える友人を前に、同じように震えていればいいのか。

 父が駆けつける直前まで絶望に呑まれ、震え、竦み、ただ怯えることしかできなかった遠坂凛(魔術師の弟子)

 助けを求めるコトネの視線にも応えようともせず、無責任にも他の何かに助けを求めようとしていた遠坂凛(遠坂家の後継者)

 何もできない自分自身が嫌になる感情を、凛は初めて覚えた。遠坂の娘でありながら、魔術の道を歩むと決めた身でありながら何もできない遠坂凛が醜く、憎いとさえ思った。

 そして今、自分では助けられなかったコトネを、父が助けようとしている。大けがを負いながらも、自分たちを助けようと怪物と戦い続けている。

 それに対して、遠坂凛は父の背中に隠れているだけでいいのか。遠坂時臣という立派な魔術師の薫陶を受けた身でありながら、魔術の世界を知らないコトネと同じようにただ震えているだけでいいのか。

 きっと、父は凛を咎めないだろう。父ほどの魔術師ですら苦戦は免れないサーヴァントという規格外の存在に対して、凛が太刀打ちできないのは至極当然のことだ。凛にはまだ早いと、仕方がないことだと考えるはずだ。

 今の自分ではどうすることもできない相手だ。何もできずに震えていても、仕方がないことだ。

 ここで恐怖に負けて、何もせずにいてはいけない。上手く言葉にできないが、ここで退けば何か大切なものを失うという確信が凛にはあった。

 遠坂凛は覚悟を決めた。

 助けを乞う友達を前に何もできないさっきまでの自分のままではいられない。遠坂の家を継ぐものとして、そして、何よりも両親の前で胸を張れる自分であるために。

 

 この時の凛の行動は、理性的とは到底言い難いものであった。

 魔術師がサーヴァントに太刀打ちできないのが常識で、ましてや魔術の修行を始めて僅か数年の、見習い魔術師以下の少女に何ができようか。

 時臣とて、将来はともかく現在の凛に魔術師としての期待はしていない。魔術師として助けを求めるのであれば、弟子であり父の盟友の息子である綺礼に求めるだろう。凛に何かを求めるという選択肢は、重傷を負っている時臣の脳裏にも全くなかった。

 早い話が、時臣は窮地に陥ってもなお、凛に打開の術を見出してはいなかった。

 

 幼い少女が全身を縛り付ける恐怖に抗い、生まれたての小鹿のような震える脚で立ち上がる。父に向けられたものでしかない殺意の残滓に反応し、全身の毛が逆立つ。濃厚な死の臭いが圧力と化して心を押しつぶし、脳を締め付ける。

 震えは止まらない。心に叩きつけられた寒さによって全身から熱が奪われているように感じながらも、凛は戦うことを選んだ。ただ庇護をうけるだけの非力な少女ではなく、遠坂の魔術師であることを選んだのだ。

 無論、ただ策もなく我武者羅に敵に挑もうとしたわけではない。サーヴァントが自身の拙い魔術で対抗できる相手ではないことを凛は身をもって体感している。それならば、サーヴァントに対抗できる存在――サーヴァントをこちらも召喚すればいい。

 そして、凛にはサーヴァントを召喚する術があった。

 凛は遠坂家の魔術師だ。未だ未熟者ではあるが、魔術回路は質、量ともに次期遠坂家の当主として相応しいだけのものを備えている。魔力供給に窮するようなことはまずなく、マスターとしての素質は十分にあると言えた。

 サーヴァントを召喚する際に必要となる詠唱は、父から与えられた魔導書に記されていたし、つい先ほど目の前で聞いたばかりだから知っている。

 足元には、先ほど自身が召喚したサーヴァントに殺された殺人鬼が残したコトネの両親の血で描かれた召喚陣。既に実戦証明済み(コンバットプルーブン)の召喚陣だ。

 問題は、凛にはマスターの証たる令呪がないという一点だけ。

 令呪は、聖杯がマスターとして選別した魔術師に令呪を与え、サーヴァントを召喚して聖杯戦争に参加する権利を与える。現在、凛の手にはその令呪はないということは、彼女は聖杯からマスターとして選ばれていないということに他ならない。

 サーヴァントは、最高峰の使い魔であり、およそ人間の用いる兵器としては最強のものである。しかし、英霊をサーヴァントとして召喚することは大魔術の域に匹敵する難行だ。一人の魔術師が好き勝手にできるものではない。

 冬木の聖杯戦争においては、サーヴァントの召喚自体は大聖杯が行う。聖杯に選ばれたマスターは、召喚されたサーヴァントを現世に繋ぎとめる。サーヴァントは本来、この世には存在しないはずの不確かな存在であるため、マスターの役割は、サーヴァントの世界に対する座標を固定し、現界を維持するだけの魔力を供給し続けることにすぎない。

 つまりは、聖杯のバックアップのあるマスター以外の魔術師が、サーヴァントを召喚することなど不可能に等しいということだ。

 凛も、当然そのことは理解している。それでも、凛は一縷の可能性に賭けた。

 凛の知る限りで、マスターは父と、その弟子の綺礼。そして、先ほど自身が召喚したサーヴァントに殺された殺人鬼の三人。最大で残り四人、マスターの枠が余っていることになる。まだ一人でもマスターの枠が残っていれば、凛が新たにマスターとして選ばれる可能性はまだあった。

 

「あんなやつにもできたんだ……」

 

 そして、何よりもあのような魔術師の風上にもおけない殺人鬼だってマスターに選ばれたのだ。ならば凛がマスターとして不足であるはずがない。遠坂凛は、あの遠坂時臣の娘なのだから。

 

「私だって!!」

 

 負傷の身を押して戦い続ける父の背中と、父を惨殺せんと迫る狂気の牙をまっすぐに見据えながら、遠坂凛は戦いへと身を投じる。

 

 

 

「――素に銀と鉄。礎に石と契約の大公。祖には我が大師シュバインオーグ」

 

 

 

 凛が始めた詠唱。それはキャスターの攻勢に耐え忍ぶ時臣の耳にも届いていた。聖杯戦争の参加者たる時臣が、その詠唱の意味するところを知らないはずがない。

 しかし、マスターではない凛がサーヴァントを召喚することは不可能。そんなことよりも、目先のキャスターに集中しなければ――そう考えたところで、時臣は気が付いた。

 今朝の時点において、璃正神父や魔術協会に潜り込ませていた協力者の報告では既にマスターの枠は自分も含めて六人の枠が埋まっているとのことだった。まだ召喚された英霊は、弟子であり協力者である綺礼が召喚したアサシンのみである。

 そして、つい先ほど聖杯は七人目のマスターとして魔術回路を持ち合わせただけの一般人を選んだ。

 その最後のマスターは、偶然にもサーヴァントの召喚に成功したものの、召喚されたサーヴァントによって殺害された。聖杯は、脱落したマスターから残った令呪を回収する。そして、マスターを失ったはぐれサーヴァントが出た場合には、回収した令呪を配布することでまた新たなマスターを仕立てることがある。

 また、最後のマスターとして一般人を選んだことからも、聖杯はこの期に及んで多少強引ながらも七人目のマスターを選抜し、聖杯戦争の開戦を望んでいることが伺える。目の前のキャスターはマスターを失ったはぐれサーヴァントだ。新たな人物に回収した令呪を与え、新たなマスターに仕立てることは十分に考えられた。

 そこに、凛だ。

 魔術師としてはまだまだ未熟であるが、魔術回路のみを考慮してもマスターとしての素質は先の一般人のそれとは比べ物にならない。

 聖杯はより真摯に聖杯をそれを必要とするものに対して優先して令呪を配布する。そのため、聖杯獲得を一族の悲願とする遠坂、間桐、アインツベルンは優先して令呪を得ることができる。 凛は遠坂家の娘だ。幼くとも、聖杯戦争の意義は理解しているものだと時臣は考えている。

 そう――――聖杯が凛を新たなマスターとして選抜する下地は、十分に整っていた。

 聖杯戦争の歴史の中でも御三家のうちの一つの家から二人のマスターを輩出することなど、前代未聞。前回の第三次聖杯戦争においては、エーデルフェルトの双子が共にマスターとして参戦したが、あくまで二人で一組のマスターとして彼女たちは選ばれただけであり、聖杯は彼女たちに三角の令呪しか与えなかった。

 まさか、遠坂家から、二人目のマスターが出るということがあり得るのだろうか?しかし、御三家にマスターの枠が一つずつしか割り当てられないというルールも聖杯戦争には存在しない。

 凛は、今まさにサーヴァントの召喚に挑んでいる。時臣の知る限りの情報に照らし合わせるに、聖杯は凛を選ぶ可能性は非常に高い。遠坂家は三体目のサーヴァントを得ることができるだろう。それは、勝利の天秤を遠坂家へと大きく偏らせるかもしれない。

 ところが、凛は触媒を用意していない。召喚に成功したとしても、喚び寄せることができるサーヴァントは凛の本質に近いサーヴァントとなる。時臣の召喚する予定のサーヴァントとの相性や、召喚されたクラスが埋まることも踏まえると、戦力が単純に増えると喜ぶことはできない。

 召喚をこのまま続けさせるか、否か。

 時臣は、正面を向いたまま僅かに首を傾けて、その視野の端に凛の姿を収めた。

 凛は、友人を庇うように立ち、前を――キャスターとその尖兵たる怪物たちを向いていた。その澄んだ瞳に映るものは、怯懦でも不安でもなく、戦うべき相手の姿のみ。

 ――ああ、そうか。

 サーヴァントの召喚こそがこの状況を打開する最善策か、サーヴァントを召喚した後の戦略はどうするか。そんなことは凛を止める理由にはならない。

 時臣はこの時、確信を得た。

 我が娘は、必ずや最優のサーヴァントを召喚する。

 何も、声をかける必要はない。彼女には、ただ誇るべき父の姿を――、遠坂家の魔術師のあるべき姿を示し、その成長の時を信じるだけで十分だ。

 もう、時臣には迷いはない。凛が何をしようとしているか察して、一層攻勢を強めたキャスターの怪物たちを後少しの間だけ押しとどめる。

 ただ、それだけでいい。

 

 

 

「降り立つ風には壁を。 四方の門は閉じ、王冠より出で、王国に至る三叉路は循環せよ」

 

 

 

 凛がサーヴァントの召喚を試みていることは、キャスターもすぐに理解した。

 精神汚染を有していてもなお健在であったキャスターが百年戦争の中で培った戦術眼、それが年端もいかない少女を危険視している。

 あの少女がもしもサーヴァント――それも、対城宝具や対軍宝具を持つサーヴァントの召喚に成功した場合、マスターのいない今の自分の力では、まともに対抗できる保証がない。召喚直後にマスターを失った今の自分は、魔力供給にも事欠く。早急に新たなマスターを見繕わなければ、消滅してしまう。

 無論、これはあの少女がサーヴァントを首尾よく召喚できたらの話だ。所詮は子供。魔術師としての素養はあるようだが、それだけ。常識的に考えるなら、令呪ももっていない小娘が事前の準備もなしでサーヴァントの召喚に挑み、成功するわけがない。

 しかし、キャスターは少女の瞳に己が正しいと思ったことをやり通す意思の火を見た。その堂々たる立ち姿に、どのような困難が立ち塞がろうと、決して折れない鋼の決意を見た。

 同じものを、キャスターはかつて見たことがある。それは、例え悪徳を重ね、その身を堕落させてもなお忘れることのなかった記憶。

 自分の選択が、正しい道を拓くと信じて戦い続けた女性がいた。

 神の啓示に従った末に、凄惨な結末しかないことを知っていてもなお、迷わずに進み続けた女性がいた。

 そして、あの女性と――キャスターが復活を求めんとする聖処女と同じものを持っている少女。あの少女なら、必ずやサーヴァントの召喚を成すという確信がキャスターにはあった。

 生前もそうだった。可能、不可能という理屈ではない。ただ、成すべきと思ったことを彼女は成すのだ。

 だが、あの少女はキャスターが求める聖処女ではない。その内に、近しいものを持っているというだけの別人だ。サーヴァントの召喚を試みるのであれば、それはキャスターの願いを阻もうとする敵に他ならない。

 となれば、容赦は不要。キャスターが抱く大望のためには、生かしてはおけない。

 なんとしても、サーヴァントを召喚する前に、あの少女を始末する。

 キャスターはさらに配下の海魔を召喚するペースをあげ、物理的に圧殺するほどの量を以って時臣の防御を貫かんと試みた。

 

 

 

閉じよ(みたせ)閉じよ(みたせ)閉じよ(みたせ)閉じよ(みたせ)閉じよ(みたせ)。繰り返すつどに五度。ただ満たされる刻を破却する」

 

 

 

 いまだ、血液の酸化により黒ずんだ召喚陣に召喚の兆しとなる光が灯ることはない。凛の手の白磁のような美しい肌には令呪どころか傷ひとつ存在しない。それでも、凛は詠唱を止めない。

 

 

 

「――――Anfang(セット)

 

 

 

 凛はスイッチを入れる。遠坂凛という少女が、生きながらにして大源(マナ)を魔力に変換する装置へと切り替わるためのスイッチだ。

 取り込まれた外界の生命力は、魔術回路を介して魔力へと変換されていく。駆動した魔術回路は、まるで身体の中でやすりの身体を持った蛇がのたうち回っているような激しい痛みを少女の肉体に刻み込む。

 この痛みは、魔術師であるならば生涯付き合っていかなければいけないものだと凛は知っている。それでも、その痛みは少女が外面を取り繕うことができる限度を超えていた。

 気を抜けばのたうち回りながら悲鳴をあげてしまいそうな激痛。涙目になり、歯を食いしばり、顔を歪ませながらも凛は詠唱を続けた。

 

 

 

「――告げる。汝の身は我が下に、我が命運は汝の剣に。聖杯の寄るべに従い、この意、この理に従うならば応えよ――」

 

 

 

 その澄んだ声音で紡がれる詠唱には、願いが込められている。後ろで震える友人を守り、優雅に戦う父の助けとなり、邪悪を打ち砕かんとする願いだ。

 それは決して祈りではない。

 その願いは、誰かに叶えてもらおうとするものではなく、凛が自身の力で叶えんと欲するもの。

 今、まさに凛は願いを叶えるために戦っていた。

 相手がいる話ではない。何と戦っているのかと問われても、凛自身にもよくわかっていないだろう。

 しかし、一つだけはっきりしていることがあった。

 これが戦いである以上、凛には負けるという考えはない。ただ、全力で勝ちにいき、やるからには徹底的に勝つだけだ。

 

 

 

「――誓いを此処に。我は常世総ての善と成る者、我は常世総ての悪を敷く者」

 

 

 

 そして、ついに聖杯は戦いを選んだ凛をマスターとして認めた。

 凛の右手の甲に、熱せられた鉄を押し付けられたかのような激痛が奔り、そこに円形の紋様が浮かび上がる。

 しかし、凛は己の手に現れたマスターの証どころか、その予兆たる痛みにも気づいていない。

 生まれて初めての魔術回路の全力駆動。身も心も、己の全てを魔力の精製のために捧げ、ありったけの魔力を召喚陣へと注ぎ込む作業は、幼い少女にとっては身の丈に合わない行為だった。

 瞼は閉じていないが、もはや凛の頭は視界の中のものをまともに認識してはいない。全身が痛覚だけを感じる器官となったかと錯覚するほどに、凛の脳は痛覚に押し潰されていた。

 それでも、凛は詠唱を止めることはなかった。

 召喚陣もさきほどの輝きを取り戻す。煌々と輝く召喚陣からは幼き少女の身体を揺さぶるほどの風が吹き荒れ、小さな稲光が断続的に閃いた。

 

 

 

「――汝三大の言霊を纏う七天、抑止の輪より来たれ、天秤の守り手よ!!」

 

 

 

 ついに、少女の戦いが決着する。

 眩い光と嵐を貫き、それは現れた。

 光の幕を突き破ってきた赤い、人型のシルエット。

 消耗と眩い光の残像によってまともに視覚が機能していない凛には、ただその赤い何かが召喚陣から飛び出してきたことしか認識できなかった。

「赤い……彗星?」

 僅かな軌跡を残して過ぎ去ったその影を見て、咄嗟に凛が連想したのは彗星だった。

 召喚陣から飛び出した赤い影は、正面を覆っていた怪物の群れへと突撃する。同時に、痛みを失った肌に灼熱の太陽を思わせる熱波が浴びせられる。

 そして、乾いた銃声が一発。立て続けに、痛みすら感じるほどの熱風が二度。それを最後に、全ての音が消えた。

 やがて瞳孔が縮み視界が徐々に色彩と明暗を取り戻す。

 そこに、もうあの敵サーヴァントの姿も、蛸とヒトデが混じったような禍々しい怪異の姿もなかった。

 サウナの中のような熱を残す室内には、先ほどまで存在していなかった一人の男がいた。

 男は凛に歩み寄ると、その視線の高さに合わせるかのように片膝をつき、口を開いた。

 

「……危急の事態とはいえ、勝手に動いたことをまず、詫びよう」

 

 今回の召喚は、イレギュラーがいくつも重なっていた。

 マスターを失ったはぐれサーヴァントのために、拙速を尊び新たなマスターを用立てた聖杯。さらに、そのマスターは御三家から重ねて輩出されるという前代未聞の珍事。

 また、龍之介がキャスターの召喚に使った召喚陣だが、魔術の基礎知識もない一般人が見様見真似で書いたものということもあり、小さなミスが散見された。召喚そのものが失敗するような大きなミスではないが、それでもその召喚陣は正常とは言い難いものであった。

 加えて、聖杯そのものの変質。聖杯戦争の関係者の中では間桐の老翁しか把握していないことではあるが、前回の第三次聖杯戦争でアインツベルンが試みた裏技は聖杯戦争のシステムそのものに変調をきたしていた。英霊とは程遠い悪霊と言ってもいいキャスターを召喚したことがその証左である。

 そして決め手となったのが、遠坂うっかりエフェクト(約束された致命的な失念)

 英雄王を召喚しうる触媒は時臣の手違いによって凛に誕生日プレゼントとして渡されてしまい、父を尊敬する凛はそのプレゼントを大切に禅譲の屋敷に保管していた。そして、こっそりプレゼントをすり替えて失態をなかったことにしようと企んでいた時臣は、この戦場に本来の凛への誕生日プレゼント――とある戦国武将の兜の緒の切れ端を持ち込んでいたのである。

 イレギュラーとバグとうっかりが重なった結果として、その時不思議な事が起こった。

 本来ならば、西洋の英霊しか召喚できないはずの聖杯が、この日ノ本縁の英霊を喚び寄せたのだ。

 

「その上で、問おう――」

 

 赤備えの甲冑に身を包んだ、三十代前半くらいの武士。そして、その兜には金色に輝く六文銭と、武勇の象徴たる雄々しい大鹿の角。

 凛は息を呑んだ。

 この装束に、荒々しいまでの覇気。敵サーヴァントの異形の軍勢を一瞬で殲滅した武威。これを、見間違うはずがない。

 かの人こそ、真田左衛門佐幸村。『日ノ本一の兵』と謳われた、戦国時代最強の大英雄。

 

「其方が、私のマスターか」

 

 その日、幼い少女は運命に出会う――



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第9話 聖杯戦争にだって定石はある。まず決して無理をせぬこと。

本当なら、次話まで連続投稿の予定だったのですが、今後の展開との矛盾が出てきてしまったので、全面改稿中です。
こちらについては、完成しだい1901に投稿予定となっております。
つきましては、連続投稿はこの話をもって一度区切りとなります。


 聖杯戦争に喚ばれている。

 天海――光秀を大坂の陣で狙撃することだけが抑止力の狙いではなく、死後も守護者としてこき使うところまで含めて抑止力の思惑だったのではないかとも座に祀り上げられた時には勘ぐっていたが、結局守護者となることなく、幸村は座に登録された英霊の一人となった。

 幸村は迷うことなく召喚に応じる。

 英霊の座には時間軸というものがないため、それはずっと待ち望んでいたものがきたというわけでも、早速お呼びがかかったというわけでもない。なんとも表現し難い感覚だ。

 聖杯戦争におけるサーヴァント召喚では、喚ばれた側の英霊も召喚を拒否することができる。聖杯を求める理由がなかったり、あるいは召喚の縁となった聖遺物が気に入らなかったりと、英霊によって召喚に応じる条件が色々とあるのだが、幸村には特に召喚に対する条件はない。

 聖杯を以って叶えたい願いも特にない。くそったれ抑止力には一泡ふかせてやりたいが、それはそれで自身が刻んできた歴史が特異点や異聞帯となるリスクがあるため、聖杯を使ってまで叶えたいとまでは思わない。

 抑止力に縛られた生涯に悔いがないわけではない。しかし、アルトリア・ペンドラゴンの物語を、衛宮士郎の物語を知るが故に、やり直すことを良しとは考えることができなかった。

 幸村が聖杯戦争に参加する動機は単純明快。彼の知る型月キャラに会ってみたいという原作ファンなら一度は抱く私欲だ。

 むしろ、彼の知るZeroかStay night(冬木の聖杯戦争)Apocrypha(聖杯大戦)strange Fake(偽りの聖杯戦争)EXTRA(月の聖杯戦争)か、あるいはGrand Order(聖杯探索)に呼び出されるならば一人の型月ファンとして馳せ参じないわけにはいかないと思っている。

 外典(アポクリファ)の世界線において世界中で行われている無数の亜種聖杯戦争は彼の知るキャラが出てくるかも期待薄であるし、また儀式そのものが不完全なまま終わることを知っていたため、あまり気乗りしないところではあるが。

 そして、幸村は二〇世紀末の冬木の地へと降り立つ。

 

 

 

 

 

「其方が、私のマスターか」

 

 

 

 目の前の光景が、凛には信じられなかった。

 テレビドラマによる再演とはいえ、その鮮烈な生き方を知っている。戦国最強と謳われる武勇を知っている。

 憧れた伝説の勇者が、そこにいる。

「わ……わた、私が。あの、その、えっと……」

 ――私が、あなたのマスターです。

 ――なんで、あなたが来てくれたんですか!?

 ――お会いできて、光栄です。

 ――サインください!!

 話さなければいけないことが凛の中に次から次へと浮かぶ。幼い頭脳は歓喜の感情とそれに匹敵する困惑を処理することができず、何を言えばいいのかも整理できないでいた。

 加えて、憧れの存在を前に口ごもってしまったことに対する羞恥心が、凛の混乱をさらにエスカレートさせていく。

 目の前で顔を真っ赤にしながらどうすればいいかわからず狼狽える凛の姿に、幸村もどうしたものかと困惑した表情を浮かべるしかない。

「うむ。一度落ち着きなさい。息を大きく吸うのだ。こう、腹を膨らませるくらいに大きくな」

 幸村に促され、凛は戸惑いながらも大きく息を吸った。

「そして、吐く」

 肺にため込んだ空気を一気に吐き出す。それはまるで、整理できないでいた混沌とした感情をも吐き出されていくように凛は感じていた。

「よしよし。さて、其方が私のマスターでよいのだな?」

 凛が、落ち着いたことを見計らっての二度目の問い。今度は、凛もしっかりと答えることができた。

「は、はい!!わ、私は遠坂時臣の娘、遠坂凛と申します!!私が、あ、貴方の、マスターです!!」

 元気のいい答えに、幸村は僅かに笑みを浮かべた。

「うむ、元気のあるよい声だ。我が主よ」

 幸村は膝を折り、凛の前に頭を下げる。

「――サーヴァント・アーチャー。真田左衛門佐幸村、召喚に従い参上仕りました」

 空気が重くなったように凛は感じた。

「これより我が身は貴方と共にあり、貴方の運命は私と共にある」

 あの戦国武将が目の前にいて、自分に忠義を誓っている。

「――ここに、契約は完了した」

 凛は、自身の手の甲を見やる。そこには、父の右手の甲に刻まれたそれとよく似た、円をモチーフとした紋様が浮かんでいた。

 令呪、マスターの証がそこにある。

 夢じゃない。目の前の光景が現実だ。改めて、自分がとんでもないことをしたのだと実感する。

 これが、聖杯戦争なのだ。

「……して、そこの魔術師はマスターの父親か?」

 凛は、幸村の視線に釣られて父の方を向いた。

 幸村に視線を向けられたことに気が付いた時臣は、地面に膝をついて頭を下げた。

「武勇の誉れ高い真田左衛門佐様にお目にかかれて光栄です。私は、この地を治める遠坂家の当主、遠坂時臣と申します。凛は、我が娘でございます」

「時臣殿、頭を上げられよ」

 幸村は苦笑しながら時臣に歩み寄った。

「この身は王でも大名でもない、部隊の指揮官に過ぎぬ。マスターとサーヴァントの主従関係に異存はござらん。そして、時臣殿は我が主のお父君。主筋に当たるお方に頭を下げられて、そのような態度を取られても困ってしまう」

「は……」

「遜る必要はありませぬ。堂々と接してくだされ」

「それでは、お言葉に甘えさせていただこう。アーチャー殿、まだまだ至らない点もある娘ですが、凛を頼みます」

「しかと、承りました」

 幸村と時臣は和やかに話し合う。

 幸村のタイガードラマに出てきたとおりの物腰の柔らかさに、凛の胸のトキメキが加速する。

 目の前に強くてかっこよくて紳士的な理想の男性――それも、戦国時代最強と謳われる伝説の英雄が現れて、自身を窮地から救ってくれたのだ。物語のお姫様にでもなったような高揚感と幸福感は凛の思考すら鈍らせていた。

 そして、自分の立ち位置に酔っていた凛の態度は初対面のはずの幸村でも察することができるくらいに分かりやすかった。幼さ故か、まだまだ凛は外面を取り繕うことが苦手であった。

 そんな今の彼女にこの場の判断を委ねるのは難しいと判断したのだろう。幸村は正座した時臣の前に座り込み、声をかけた。

「……まず、確認したいことがあるのだが、よろしいか?」

 先ほどまでの柔らかい物腰から一転し、引き締まった空気を纏った幸村に対して、時臣も思わず身構える。

「お主の身体は、大丈夫か?魔術か何かは知らないが、既に血は止まっているように見えるが、決して軽い傷でもなかろうに」

「…………」

 時臣の顔には、脂汗が滲んでいる。キャスターの召喚した海魔の触手に貫通された腹部に出血こそ見られないものの、それはあくまで出血を止めただけのこと。さらに、まともな処置をすることよりも凛たちを守ることを優先し、つい先ほどまで全力で魔術を行使していたのだ。

 魔術刻印が時臣を生かそうと機能していたが、時臣の傷は深く、魔術刻印の自動機能でどうにかなるような傷ではなかった。時臣は心身共に擦り減っており、既に限界に近かった。

 それでも、自身の身体の状態を気取らせないようにふるまっていたのは、偏に凛のためだ。

 サーヴァントとして召喚された英霊があの真田幸村とはいえ、伝承通りの人物であるという保証はない。最低限、すぐに自害を命ずべき相手かどうか見極めるまでは、弱みを見せられないと時臣は考えていたのである。

「色々と話したいこと、話さねばならぬこともあるが、まずはお主の処置が優先だな。意識を保っているのも厳しかろう。無理をするでない」

「……申し訳ありません」

 自身を気遣う態度を取る幸村に対して、時臣はそれでも意識だけは手放すことはできないと気を張っている。

「医者を呼ぶのは不都合だな。時臣殿、お主の同盟者あるいは協力者は冬木にいるか?」

「亡き父の友人とその息子が私の協力者です」

「そやつらは、今どこにいる?」

「おそらく、この時間でしたら教会にいると思いますが……」

 召喚されたばかりで周囲の地理も把握できていない幸村を教会に派遣して助けを求めることは難しい。それに、召喚されたばかりのサーヴァントを自身の目の届かないところにおくことは避けたいと時臣は考えていた。

 ならば、ここは使い魔を飛ばして助けを求める他ない。時臣がそう考えた時だった。周囲を見渡していた幸村が、床に転がっている何かを見つけ、それを拾い上げて時臣に差し出したのは。

「時臣殿、これで教会と連絡を取れるか?」

「……は?」

 幸村が時臣に差し出したのは、コードレス電話の受話器だった。

 幸村の意図は時臣にも理解できる。電話番号さえわかれば、すぐさまこの場から音声のやり取りができるのだから、それに越したことはないと考えているのだろう。幸村の生きた時代にはないものであるが、聖杯から与えられる現代の知識の中に、電話についての知識があったとしても不思議ではない。

 正直なところ、時臣は既に立ち上がることさえ辛いほどに消耗していた。座りながら、魔術も使うことなく連絡の取れる電話は、この場における最適解だろうことは間違いない。

 しかし、時臣はその受話器を手に取ることを躊躇する。

 ――そう。時臣はコードレス電話機を使ったことがなかった。

 遠坂邸の電話は未だにプッシュホンで、留守番電話機能すらついていない。コードレス子機に触れたこともない時臣は、内心の動揺を隠しながら幸村から子機を受け取り、冬木教会の電話番号を押した。

 電話番号を押すだけで、電話は繋がる。電話番号は、教会とのやりとりで何度か電話をかけたことがあるから覚えている。なにも恐れることはないと自らに言い聞かせる。

 そして、時臣は子機を耳にあてるものの、スピーカーからは一向にコール音がならない。もう一度、電話番号をプッシュするが、まったく反応がない。

 壊れているのではないかと訝しげな表情を浮かべて受話器を眺める時臣。

 それを見ていた幸村がボソリと呟いた。

「……その、受話器の形をした印を押さなければ電話はかからないのではないのかね?」

 血の気の引いて真っ青になっていた時臣の顔が、羞恥で微かに赤く染まった。

 

 時臣は、通話ボタンの存在を知らなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

《サーヴァントのステータスが更新されました》

 

 

 

 

 

クラス:アーチャー

 

マスター:遠坂凛

 

真名:真田幸村

 

性別:男性

 

身長:185cm/体重:80kg

 

 

属性:秩序・善  

 

出典  史実

 

地域  日本

 

属性  秩序・善

 

隠し属性 人

 

 

パラメーター

 

筋力:B+

耐久:A

敏捷:B

魔力:A

幸運:B

宝具:EX

 

 

クラス別能力

 

対魔力:C

 

魔術詠唱が二節以下のものを無効化する

大魔術・儀礼呪法など、大掛かりな魔術は防げない

 

 

単独行動:A+

 

マスター不在でも行動できる

 

 

 

保有スキル

 

軍略:A

 

多人数を動員した戦場における戦術的直感力

自らの対軍宝具行使時、相手の対軍宝具および対城宝具の対処時に有利な補正がかかる

徳川及びその係累に属する相手に対してはさらに効果が上昇し、ランクEX相当の効果を発揮する

 

 

鬼種の魔:B

 

魔性を現すスキル

天性の魔、怪力、カリスマ、魔力放出等との混合スキル

真性の鬼である証左。魔力放出の形は「熱」

ランクBの彼は純血の鬼ではなく、鬼と交わった先祖返りである

 

 

日ノ本一の兵:EX

 

固有スキル。日ノ本一の兵として称された逸話から

スキルの発動中はセイバー、アーチャー、ランサーのクラスのうち、自身の選択したクラスに自身のクラスを変更できる

ただし、セイバーからランサーに直接変更することはできず、セイバー→アーチャー→ランサーという順番でクラスを変更しなければならない。逆もまた然り

真田丸の内部にいる時には、発動しない

 

 

不惜身命の六文銭:C

 

三途の川の渡し銭はいつでもその手にあるという、いつでも死を迎える覚悟

肉体を大きく損傷することで発動し、発動中は肉体の損傷による身体能力の劣化を一時的に無効化し、瀕死の傷を負っていても相手を屠るまであらゆる手段を使い戦闘を継続することが可能

しかし効果時間終了時に溜め込んだダメージが一気に噴き出す諸刃の剣

 

 

 

 

宝具

 

 

真田丸

 

ランク:EX

種別:城塞/対軍宝具

レンジ:10~100

最大捕捉:1000人

 

大坂冬の陣で幕府軍に大損害を与えた砦、真田丸を顕現させる

真田丸内部に拵えられた八門の大筒はBランク宝具に相当する威力があり、一〇〇〇丁の火縄銃の一斉射撃はCランク宝具相当

この大筒や火縄銃のみを射手と共に限定して召喚することも可能

同時に、真田丸の内部には真田丸で共に戦った兵たちも軍勢として召喚され、短時間であれば城外への出撃もできる

召喚された兵たちは全員が独立したサーヴァントでもあり、宝具は持たないが全員がE-相当の「単独行動」スキルを有しており、短時間であればマスター不在でも活動が可能

 

 

 

 

馬上宿許筒

 

ランク:C

種別:対人宝具

レンジ:2~100

最大捕捉:1人

 

大坂夏の陣で真田幸村が徳川家康を馬上から狙撃するために用意した火縄銃

徳川及びその係累に属する相手に対して与えるダメージが増大する

スキル日ノ本一の兵によりセイバー又はランサーのクラスになった時には使えない

 

 

 

 

大千鳥十文字槍

 

ランク:

種別:対人宝具

レンジ:2~4

最大捕捉:1人

 

大坂夏の陣で真田幸村が越前勢一〇〇〇を突き殺したという逸話の残る槍

スキル日ノ本一の兵によりランサーのクラスになった時しか使えない

徳川及びその係累に属する相手に対して与えるダメージが増大する

正当なランサークラスで召喚された場合には、騎乗特攻と軍勢特攻能力が備わるが、アーチャークラスで召喚された場合には、スキル日ノ本一の兵の発動時でもこの能力は備わらない

 

 

 

六文銭村正

 

ランク:

種別:対人宝具

レンジ:

最大捕捉:1人

 

 

大坂夏の陣で徳川家康に傷をつけた刀

銘は刻まれていない

千子村正晩年の作品の一つであり、宿業を断つ能力も多少であるが備わっている

スキル日ノ本一の兵によりセイバーのクラスになった時しか使えない

徳川及びその係累に属する相手に対して与えるダメージが大きく増大する

正当なセイバークラスで召喚された場合には、神性を有する相手に対して与えるダメージが増大する能力と、斬りつけた相手を一定の確率で毒状態となる能力が備わるが、アーチャークラスで召喚された場合には、スキル日ノ本一の兵の発動時でもこの能力は備わらない




ぼかしたところはシステム上皆さまもある方法で読めますが、ネタバレが嫌な方は試さないことをおすすめします。
試された方も、感想欄で言及することはお控えください。


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第10話 お父様の本心をお聞かせください

遅れて申し訳ありません。

実は、前回の投稿後に転勤しまして、コロナ禍の中で通常業務や引継ぎや転居作業やらでてんやわんやしてて、中々執筆が進みませんでした。
とりあえず、書き上げられた1話をあげます。



 聖杯から与えられた知識により、召喚直後にこれは冬木の第四次聖杯戦争――つまりは、Fate/Zeroの世界であることを幸村は瞬時に理解した。

 東洋の英霊は召喚できないはずの冬木の聖杯で生粋の純国産英雄である幸村を召喚するということは、間違いなく正当なやり方ではない。

 外典の第三次聖杯戦争でルーラーとして天草四郎時貞という聖人擬きを召喚した前科のあるアインツベルンや、山門を依り代に佐々木小次郎の役どころを与えられた純国産NOUMINを召喚した魔女メディアがいい例だ。

 自分のマスターが裏技探しに精を出すアインツベルンとか、裏技本を読んだ前世知識を持つご同輩だったら嫌だなぁなんて思いながら、第四次聖杯戦争に喚ばれて飛び出てジル=ド=レェ。

 召喚されてみたら四方が海魔に取り囲まれていて、その奥にいきり立つジル=ド=レェを見たら、殺すしかない。誰だってそうするだろう。少なくとも幸村はこれは殺すしかないと即決した。

 マスターの顔を確認するよりも先に目の前に立ち塞がる海魔の壁は魔力放出によって熱で焼き尽くし、一瞬だけ射線を確保。そして、宝具の馬上宿許筒をクイックドロー。ヘッドショットでジル=ド=レェを始末する。ジル=ド=レェさえ始末してしまえば、海魔もこれ以上増えることはない。魔力放出で焼き尽くすことは簡単だ。

 召喚された直後のサーヴァントによる一切の躊躇のない奇襲。これを想像して備えろという方が無理がある。結果として、全く想定外の速攻はもともと個人の武勇に秀でた武人でもないジル=ド=レェに対処する暇を与えなかった。

 幸村が知るZeroにおけるアインツベルンの森での戦闘でセイバーが苦戦したのは、対軍宝具が使えない状況下で多数の軍勢に囲まれてキャスターをその聖剣の間合いに捉えることができなかったことが大きな要因として挙げられる。

 室内という展開できる軍勢の数が限られた空間であれば、ジル=ド=レェの戦闘力は屋外のそれと比べて格段に落ちるのだ。

 対して、この幸村は、元は型月ファンの一般人とはいえど、鬼種の力を持って生まれ、文字通り乱世であった戦国時代を生き抜き、戦国最後の大戦で死線を掻い潜った経験を持つ戦士だ。加えて、日本という最高の知名度補正を受けられる環境であれば、サーヴァントとしては破格の戦闘能力を有した状態で召喚される。

 マスターの有無、ステータスの差、戦闘スタイルの相性、地の利、キャスターの油断。これらの要素が上手く嵌ったからこそ、幸村はキャスターを瞬殺することができたのである。

 そして、キャスターを始末した幸村は、自身のマスターが遠坂凛であることを知った。外面はどうにか取り繕っていたが、内心はもう大興奮だった。

 なんせ、凛はあのStay nightのヒロインだ。もっとも、彼女がヒロインとして舞台に上がる一〇年前ということもあり、今の彼女は「あかいあくま」へと成長する前のいじっぱりツインテール黒髪ロリ。

 一〇年後でもちょっとストライクゾーンには入らないだろうなぁとも思いながらも、ちゃっかり幸村はあの運命の夜の伝説の名シーン『問おう――あなたが私のマスターか』をノリノリで肖った。もしも、いつか聖杯戦争に召喚されたら絶対にやろうと決めていただけあってこの時の幸村の感慨も一入だ。

 その後、感動を胸に秘めながらも、ついでにその場で簡単な自己紹介と現状の把握に幸村は努めた。

 因みに、彼はツインテールまな板至上主義者(セカン党)の気はなく、強いて言うなら黒髪巨乳ポニテ美少女派(ファース党)であるため、凛を相手に光源氏計画みたいなことは全く考えていない。

 しかし、何故か召喚に居合わせていた時臣が重傷を負っていたということもあり、細かいことはとりあえず棚上げとしてさりげなく協力者の存在を時臣に自分から説明させ、言峰神父に連絡を試みた。時臣がコードレスの電話機すら上手く使えないという誤算があったが、どうにか教会と連絡を取ることに成功。

 連絡を受けて駆け付けた聖堂教会のスタッフの助けを受けながら、時臣は秘密裏に教会の保有する拠点の一つに搬送されて綺礼の手で処置を受けた。傷そのものはどうにか塞ぐことに成功したものの、消耗が激しかったこともあり、時臣はそのまま意識を失って寝込んでしまった。

 時臣が処置を受けている間、幸村は重体の父の姿に狼狽える凛を落ち着かせることも兼ねて、凛を伴わせたまま璃正神父と会談の場を設け、時折凛にも簡単な問いかけを交えながら召喚に至るまでの経緯を確認することとした。

 凛の話を端的にまとめると、友人宅に遊びに行ったら殺人鬼に捕まって、その殺人鬼がサーヴァントを召喚して凛たちを生贄にしようとしていたところに、時臣が乱入。しかし、龍之介の命を顧みないキャスターの奇策によって時臣が窮地に陥ってしまい、一発逆転を狙ってサーヴァントの召喚を試みたら成功してしまったということらしい。

 そんな窮地でサーヴァントの召喚を成功させるなんて、ヒロイン系ラスボスや同金型量産系ニートヒロインとはヒロイン力の格が違うなぁなどと幸村は半ば感心するほかなかった。

 同席した璃正神父は凛の行動力に呆れるやら驚くやら、何とも複雑な表情をしていた。

 因みに、凛の友人であり、召喚のあった家の子であるコトネについては教会の方で保護し、記憶については現場の隠蔽工作と合わせる形で操作していくとのことだった。コトネの両親は龍之介に目の前で殺害され、その両親の血でサーヴァントを召喚するための召喚陣が描かれた。

 凛が幸村を召喚する姿も、その後幸村が海魔を撃破した光景もしっかりと見てしまっている。聖堂教会が後始末を担当する以上、最善の処置を施すだろう。両親の死についても別の原因に置き換えてしまうだろうが、今夜彼女を襲った悲劇は彼女の心に深い爪痕を残すだろう。

 今後は、遠縁の親戚に引き取られて冬木から離れて暮らすだろうとのことだが、冬木を離れたとてふとしたきっかけで封印された記憶が目覚める可能性はゼロではない。幸村は彼女が今日のことを思い出す日がこないことを願うばかりであった。

 時臣が目覚めることなく時は過ぎ、夜も遅くなったため、その日凛は教会内に設けられた仮眠室のベッドを借りて就寝。英雄王の代わりに自分が召喚され、しかも凛がマスターとなったということで今後、原作からどのように乖離していくのかを考えながら、幸村もその傍で霊体化して待機することとした。

 そして、日付が変わり、翌日の朝。時臣が目を覚ましたとの報告を綺礼から受け、凛と幸村は朝食も済ませぬまま時臣の下へと向かった。しかし、そこで幸村たちを待っていたのは、ベッドに腰掛けたまま眉間にしわを寄せて項垂れている時臣とその傍で険しい表情を浮かべている言峰親子の姿だった。

 

 

 

 

 

 

「あの……お父様?」

 

 時臣は焦燥にかられていた。その傍らに立つ璃正神父の低い唸り声もまた、事態の深刻さを物語っていた。

「璃正殿、これはいかなることであろうか」

 実体化した幸村からの問いかけを受け、璃正が重い口を開いた。

「昨晩のことだ。霊器盤が四体のサーヴァントの現界を確認した。先に脱落したキャスターと、アーチャー殿、それに綺礼のアサシンを含めて、これで聖杯戦争に参加するサーヴァントが出そろったこととなる」

 幸村は目を見開いた。

 原作では最後に召喚されたはずのキャスターがアサシンに次いで召喚されたり、英雄王が召喚されるべきアーチャーのクラスに幸村が収まるというイレギュラー。原作では、バーサーカー、ライダー、アーチャー、セイバーが同時期に召喚されたような描写があったが、まさかケイネスも時を同じくして召喚していようとは幸村は予想していなかった。

「本来であれば今日の未明に時臣君も召喚の儀式を行う手はずであったが、時臣君はその時意識不明の重体であったため、召喚を見送った。それが凶と出た形になる」

 重傷を負い、サーヴァントの召喚のタイミングを逃した結果、他のマスターに全てのクラスを取られるという醜態に時臣は頭を抱えていた。マスターとしての権利はあるが、サーヴァントが召喚できないのだ。まさか御三家の当主が、開戦前に敗北するなど前代未聞の珍事である。

 一応、凛がサーヴァントを召喚することに成功しているため、遠坂家としてはまだ敗北したわけではないが、時臣の矜持は実のところズタボロだった。過去の存在である英霊にすら推測できた現代機器の使い方が分からなかった時の赤っ恥など、今の時臣の胸中に比べればなんということはない。

 そして、ここで初めて時臣が口を開く。

「今回の第四次聖杯戦争において私が召喚する枠は……もう、ないということだ。遠坂家の当主たる私が、まさか、不戦敗とは……」

 時臣は腹部の傷とは別の理由で血反吐を吐きそうな顔をしていた。

「令呪が残っているのがせめてもの救いだな。しかし、サーヴァントを持たないマスターの令呪は、そのまま残るものなのか?」

 幸村の問いに、璃正が答えた。

「サーヴァントを失ったマスターの未使用の令呪は聖杯が回収することになっているが、御三家――アインツベルン、遠坂、間桐のマスターは例外だ。彼らは、サーヴァントを失ったとしても令呪を回収されない」

「そのため、マスターがいないサーヴァントがいれば、御三家のマスターであれば優先的に再契約をすることができるということだ。聖杯戦争でマスターを標的にする理由の一つは、サーヴァントと再契約をして聖杯戦争に復帰することを防ぐという側面もある」

 璃正の説明を時臣が引き継いだ。そして、時臣は次いで凛へと視線を向けた。その視線の意味するところを察した幸村は、時臣がさらに言葉を重ねる前に先手をとった。

「凛――」

「先に言っておくが、私にも二君に仕えぬという信念がある。我がマスターに戦う意思がある限り、主替えには同意せんぞ」

 自身の思惑を看破された時臣が、驚きの表情を浮かべる。

「私は御息女に忠誠を誓ったのだ。マスターの父親であれば主筋ゆえに尊重はする。しかし、あくまで主は御息女、凛殿である。軽々しくマスターとして扱うことはできぬ」

 時臣が、先にサーヴァントの召喚に成功した凛からサーヴァントを譲り受けようとすることは幸村も想定済みであった。彼の知るFate/Grand Orderのイベントの一つ、Fate/Accel Zero Orderにて、ギルガメッシュ(アーチャー)を失った時臣が綺礼からアサシン(百貌のハサン)を譲り受けた前科があるのだから。

 しかし、幸村は断固として時臣に仕えることを拒否するつもりであった。

「ですが、凛はまだ八歳です。魔術師としての修練もまだまだ浅く、これから始まる魔術師間の抗争についていけるとは思えません。アーチャー、貴方も聖杯にかける願いがあるのなら、より勝算のある策を取るべきではないのですか?」

 幸村は首を横に振った。

「そもそも、私は勝てるマスターに仕えるのではない。私が勝てる可能性のみで考えるような男でれば、堀が埋められた時点で裸城となった大坂城から退去して大御所に下っておっただろうに。どう考えても、あの時点で豊臣家の命運は尽きていたからな」

「では、何故豊臣家に最後まで尽くされたのですか?」

「私が前右府様に最後までお仕えしたのは、かの御方に勝利を捧げたかったからという我儘よ。聖杯の力があれば、それもできるかも知れないが、そのようなことに聖杯を使うつもりもない。私自身、あの戦には全力で臨み、全てを出し尽くした。あの戦をやり直そうと思ったことなど一度もない。私が召喚に応じたのは聖杯が欲しかったからではなく、聖杯戦争という古今の英雄がひしめく戦場に興味を惹かれたからに過ぎぬ。まぁ、戦いである以上、負けてやるつもりもないが」

 時臣は息を呑んだ。聖杯を欲するが故に召喚に応じた相手であれば、マスターを交代することで勝率が上がることを交渉の手札とできた。しかし、幸村の聖杯戦争に参加する動機は、言うならば個人的な趣味だ。やりたいようにやれれば、それでいいのだろう。

 このような個人の流儀に重きを持つ人間は、単純なメリット、デメリットではまず靡かないことを時臣は知っている。そのため、時臣は議論の切り口を変えることを選んだ。

「過去、三度の聖杯戦争がこの地で行われてきました。しかし、生きて終戦を迎えることのできる参加者は多くありません。当時の遠坂の当主が戦死した事例もあります。この子は何れ私をも超える魔術師として成長するはずです。その可能性をここで摘み取ってしまうことは、大きな損失だとは考えられないでしょうか」

「確かに、マスターはまだ幼い。戦死の可能性を考慮すれば、戦闘に連れていけぬという時臣殿の考えも理解できる。私も生前は子を持つ親であったからな。その子が計り知れない未来の可能性を有しているとなれば猶更だ」

「では――」

「だが、それでも私は凛こそがマスターに相応しいと確信している」

 断言する幸村。その溢れるばかりの自信に、時臣は気圧されてしまう。

「目の前で父が敵の手で倒れ、敵に囲まれた状況下において、諦めることなく、最後まで戦う意思を捨てなかった。齢一〇に満たぬ幼子が、絶望的な状況においても足掻き続けて勝利という奇跡を己が手につかみ取ったのだ」

 幸村の視線が凛に向かう。それにつられて、璃正と時臣の視線も凛に向いた。

「あれは、幼さ故の蛮勇でも、無茶でもない。あの時、ご息女は確かにキャスターの脅威を正しく認識し、生命の危機にあることを理解していた。その上で唯一の光明であるサーヴァントの召喚という手段を選んだのだ。恐怖を超え、一筋の希望を見出し、迷いなく一歩を踏み出すことのできる者を、私はマスターとして望んでいる。凛は、未だ幼いながらも、私のマスターとして申し分ない素質を有している」

 憧れの英雄である幸村に手放しで褒められた凛は、恥ずかしさで顔を真っ赤にしていながらも誇らしさからか口元が緩んでいた。

「それに、そもそも時臣殿。今の体調でどれほど戦えるのだ?」

「…………」

 正直に言ってしまえば、時臣の身体は戦争に参加することが憚られる状態だった。しかし、それを口にしてしまえば、時臣へのマスター変更を幸村が認める可能性はさらに下がるし、凛も病床の父を戦場に送ることを渋るだろうことは想像に難くなかった。

 幸村の虚言は許さないと言わんばかりの鋭い眼光の前に、時臣は返答に窮した。

 その様子を見て、璃正が諭すような口調で時臣に語りかけた。

「時臣君、君の無念は察するに余りある。しかし、やはり今の君の身体で聖杯戦争を戦い抜くことは厳しいのではないかね?」

「璃正神父!?」

 時臣は突然の協力者の翻意に驚愕した。

「綺礼、時臣君の身体の状態を説明してくれ」

 これまで一言も発することなく無表情を貫いていた綺礼は、突然の問いかけにも一切表情を変えなかった。綺礼は、淡々と時臣の体調について説明する。

「腹部を貫通していた傷は塞ぎました、しかし、あくまで出血を抑えて酷い損傷を受けた臓器を治療したにすぎません。消化系にも損傷がある以上、日々の食事にも制限をかけることになるでしょうし、しばらくは体力にも不安が残ります。私なら、任務がない限りは回復に専念するでしょう」

「綺礼の見立て通りの状態では、この場を取り繕ったとしても、そう長くは誤魔化せない。それに、敵のマスターと戦闘になった場合にも大いに不安が残る。私は、友人の息子をむざむざと死なせることはしたくない。ここは、ご息女をマスターに立てることを前提にして、策を練り直すべきだろう。それこそが、我が友――そして、君の父の悲願の達成に最も近い道筋ではないかね?」

 璃正に返す言葉を探そうと、時臣は未だ血が足らずに重く感じる頭脳をフル回転させるが、中々見つからない。

 理屈では既に時臣の中で結論は出ているのだ。しかし、親としての責務が、遠坂家当主たる誇りが、そして一人の魔術師としての矜持がそれを良しとしない。

「――お父様」

 決断を下せずにいる時臣の前に、凛が歩み出た。緊張でその手は震え、身体はまるで骨の代わりに鉄柱でも埋め込まれたかのようにぎこちなく固まっている。しかし、その瞳には決意の色がにじみ出ていた。

「お父様の代わりに、私が戦います」

 意気込みだとか、宣誓だとかは一切ない、シンプルな宣言。

 凛が、聖杯戦争の危険性、重要性を理解していないとは時臣も思っていない。現に、凛の宝石の如き澄んだ瞳には、己の成すべきことを正しく理解し、その道のりに至る苦難を覚悟した者にのみ宿る光が見えた。

 自分がそうであったように、いつか研鑽を重ねて成長した凜が、当主となる時に宿すものだと思っていた。

 しかし、自分が当主になった時に自覚し、己に課したものを既に凛は正しく己のものとしている。

 昨日の戦いの光景が脳裏によみがえる。才能は自分とは比べ物にならないほどに恵まれているといえど、まだまだ未熟な未来の傑物。そう思っていた子供が、一日にして遠坂の魔術師として相応しい後継者へと成長を遂げた。

 今の凛と同じ年ごろの時臣にはなかったものを、既に凛は持っている。その事実に寂しさと羨望、――そして僅かばかりの嫉妬心を時臣は抱いた。

 

「――凛」

 

 声をかけられ、反射的に身体を震わせた凛に対し、時臣はやさしく微笑んでその頭を撫でた。

 

「任せる。遠坂家の魔術師として、恥じない戦いをしなさい」




本当は今日友人とHF見に行く予定だったのですが、諸事情で延期に。

というわけで感想欄でHFの話題はやめてくださいね。ネタバレ嫌いなんで。

この後の話は現時点で2話分ストックはありますが、放出まではしばらくお待ちください。


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第11話 戦はな、凛、始める前が肝よ

先日、ついにヘヴンズフィールを見てまいりました。
ライダーさんの戦闘シーンがすごかったですね。あれほどスピード感のある戦いを槍ニキにやらせてほしかった……。一章の全力疾走だけじゃかわいそうですよ。
しかし、Zero、UBW、HFと冬木を舞台にした作品を10年ほど見てきましたが、これでもう冬木を舞台としたFateのアニメが見れないと思うと、切なさを感じましたね。


 冬木教会には、地下室が存在する。

 璃正の先代の神父曰く、かつてこの地を所有していた間桐から土地を譲り受けた際に地下設備が残っていたため、教会を建てる際に地下も手を加えたとのことだ。教会も聖杯戦争に備えて、地下設備を活用しようと考えていたのだろうか。

 第三次聖杯戦争の直前には既に冬木教会は今日の姿となっていたため、聖杯戦争を機にこの地に赴任した璃正には分からないことではあるが。

 そして、その地下室で今、軍議が開かれていた。

 

 

 

「――魔術属性は『風』と『水』の二重属性。降霊術、召喚術、錬金術に通じており、手を出している分野については全て一定以上の成果を残しています。過去の決闘を含め、実戦におけるデータについては今のところ不明です。ですが、時計塔内部では今回の参戦については武勲をあげることで今後のエルメロイ派の躍進に弾みをつけることを目的にしていると分析されています」

 未だ学校でも習っていない漢字が躍る報告書を前に、凛の頭脳はショート寸前であった。写真どころか、図も絵もない。ただ大量の文字に埋め尽くされたレポートは、小学生の理解を超えていたのである。

 なお、凛は知らないことではあるが、この報告書は聖堂教会のスタッフが突如決まったこの軍議のために三時間という突貫作業で製作したものである。報告書は資料の原文は日本語ですらないため、日本語に翻訳した上で要約されていた。

 聖杯から言語に関する知識が与えられるため、本来はサーヴァントには翻訳は不要なのだが、マスターである凛も参加するため、このような配慮がされていたのである。しかし、慌てていたためか、スタッフたちは魔術師の娘でありマスターでもある凛が漢字を読むのに四苦八苦するなどと考える余裕はなかったらしい。

 報告書が読めない以上、報告を読み上げながら補足を加える綺礼の声に耳を傾けるしかないのだが、その説明もまた小学生には難解であり、凛は傍目から見てもいっぱいいっぱいであった。幸村も凛がいっぱいいっぱいであることは何となく察していたが、軍議が終わった後でフォローすればいいと割り切っており、この場で彼女を支えるつもりはなかった。おそらく、時臣も同様の考えからこの場では助けをするつもりはないのだろう。璃正も時臣が後でフォローすればいいと考えているものと思われる。

 ただ……綺礼については、幸村はなんとなくであるが、敢えて難解な語り口を選んでいるような感触があった。意識してやっているわけではないような気もしていたが、仮に無意識に凛を苦しめようとしているのであれば、よもや英雄王抜きで愉悦に目覚めてしまうのかとも危惧してしまう。

「ロード・エルメロイについては、マケドニアから征服王イスカンダルの聖遺物を手配させているとの情報が入っています。時計塔内に、聖遺物を届けさせた記録が残っていることを聖堂教会も確認しているため、これは間違いないかと。しかし、先日アイルランドでも聖遺物を手配する動きがあったとの情報も入っております」

「ケイネスとやらがイスカンダルの聖遺物を囮にして、別の英霊を本命として手配させている可能性を危惧しておられるのか?」

 幸村の問いかけに時臣が答えた。

「ロード・エルメロイがアイルランド方面に手を出したのはここ一ヶ月ほど。彼がマスターになった時期から考えると、聖遺物の手配が随分と遅い。時計塔内部の協力者によれば彼の婚約者の実家である降霊科(ユリフィス)のロードが動いていると聞いているが……」

「あくまで本命はイスカンダルだったが、イスカンダルの聖遺物の手配に失敗したか、あるいはその降霊科(ユリフィス)とやらの縁により強力な英霊を召喚するあてができたかということはございませぬか」

「イスカンダルを諦めてでも召喚したいアイルランド方面の英雄となると、限られてくる。それこそ、クー・フーリンぐらいなものだろう。しかし、私はロード・エルメロイの本命はイスカンダルだと睨んでいる」

 時臣は続けた。

「アイルランド方面の英雄の日本での知名度は非常に低い。それこそ、ケルト神話筆頭格の大英雄であるクー・フーリンですら、一般人の知名度は無きに等しいだろう。アーチャー、この国でも屈指の知名度を誇る君が大きなステータス補正を受けているように、戦地での知名度はサーヴァントの戦闘力に大きく影響する。無論、各神話の筆頭格の大英雄――先ほど例に挙げたクー・フーリンともなれば元々の地力が凡百の英霊とは別格であるから、弱体化して宝具が減ったとしても十分に脅威となるのだが」

「なるほど、知名度による補正を考えれば、アイルランドの英雄は日本での知名度がゼロに等しいために大きくその力を削がれる。しかし、イスカンダルであればその心配はないと」

「征服王イスカンダル――アレキサンダー大王、アレキサンドロス大王など、呼び名は多数あるが、世界史の教科書にも載っている大英雄ともなれば、日本での知名度も十分。地力も非常に高い大英雄が高い知名度補正を受けられるとなれば、その力は生前からそれほど大きく劣ることはないだろう。マスターがかの神童と謳われたロード・エルメロイとなればなおさらだ。イスカンダルの触媒を手に入れた後で慌ただしく動き出したのは、イスカンダルの触媒の手配に何か手違いがあった可能性が高い。急遽、代理の聖遺物を探していると私は見ている」

 史実を知っている幸村は、この場でこれ以上ケイネスについて追及することは避けた。

 第五次聖杯戦争におけるクー・フーリンを知る幸村は、あれほどの大英雄ともなれば弱体化してもなお十分な脅威であることを知っていた。実戦経験のない時臣はそのあたりスペックや宝具といった表面的な情報に些か比重が偏っていることように幸村は感じていた。

 やはり、この男をマスターにしなくてよかったと幸村は思う。

 聖杯戦争を勝ち抜くには、まず人間関係が重要だ。サーヴァントと一定の価値観を共有し、主従として信用できる関係を構築できるか否か。原作でもギルガメッシュとの関係は時臣の末期から分かるように、お粗末なものであった。案外、ただ仕えられる主が欲しいだけのディルムッドとは相性がいいのかもしれないが。

 仕事の付き合いなのだから、上っ面の関係と割り切ることも世間では往々にしてあるだろう。しかし、最初からサーヴァントを聖杯に捧げる供物としか考えていないにも関わらず、表面上信頼関係のある主従を取り繕おうとする相手に、好意など抱けるはずがない。

 また、幸村の見る限り、時臣という男は用意周到を是とするタイプの人間だ。まぁ、本人が万全と思っている策にも少なくない穴があったりするのだが、そのあたりはその血脈に刻まれた遠坂うっかりエフェクト(約束された致命的な失念)がある限りは仕方ないものなのかもしれない。

 戦う前に勝利を確定する状況を作ろうとする姿勢は大いに評価するところであるが、反面時臣は想定外の事態に対する対処が杜撰であるとも原作を知る幸村は感じていた。幸村も実際に身を投じて理解したのだが、戦争というものは、情報の錯綜、判断ミス、神々の気まぐれとも思える奇異な偶然というものが常に付きまとう。事前の計画どおりに一から百までことが運ぶと考える方がどうかしているのだ。

 時には計画を臨機応変に変更していく柔軟性も、将たるものには必要だと幸村は考えている。

 そして、何よりもこの優雅野郎には運がない。型月のほとんどの世界線でウェイバーがロードになるために死亡が確定しているケイネスほどではないが、ともかくこのラスボスメーカーはついてないのだ。まぁ、そもそも第四次聖杯戦争の参加者で幸運値が高そうなのはぶっちぎりでウェイバーで、後は大概不幸なやつらしかいないのだが。

 幸運値が低いから、予想外の不幸に高確率で見舞われる。そのくせして、状況の変化や想定外の事態に対応して臨機応変に対処するのに向いてない。むしろ、この舞台装置野郎が何かすると、よかれと思ったことが大概裏目に出て想定外の事態を引き起こすのだ。本人の用意周到な性格と、そのキャラクターに運命づけられた宿命が致命的なミスマッチ。

 これで仕えがいのある魅力があれば支えてあげようとも思うのだが、あいにくこの顎鬚優雅うっかりさんに人間的な魅力を幸村は全く感じていなかった。真面目すぎて面白味がないのだ。優秀かつ天才肌であるのに、朝が弱かったりうっかりだったりと欠点も併せ持ち、冷徹な魔術師であろうとしても心のぜい肉が捨てきれず結果的にツンデレな側面も併せ持ってしまった凛とは大違いである。

 因みに、時臣から主替えを求められて拒絶した幸村の本音は、優雅たれよりもあかいあくまの方がろくな死に方せずにすみそうというというものであった。

 

 

 

「――これまで説明した四人に凛を加えたこの五人が、現在判明しているマスターです。質問がなければ、以上でこちらからの補足を終わります」

 綺礼が資料の説明を終え、さらなる質問がないことを確認し一礼して席についた。

 既に、キャスターは幸村が仕留め、そのマスターもキャスターの手で葬られている。現時点で判明していないマスターは実質一人だけだ。

 しかし、Fate/Zero(第四次聖杯戦争)を知る幸村は、最後のマスター――ライダーのマスターであるウェイバー・ベルベットのことも知っている。無論、ウェイバーのことを自分が知っていることを漏らせばいらぬ疑いをかけられることを理解していた幸村は絶対にそのことを口にしないが。

「未だ、マスターのうち一人の身元は不明であるが、既に七騎のサーヴァントは出揃い、聖杯戦争は始まっている。我々は戦争の序盤においては積極的に動くことはせずにアサシンによる諜報活動に徹し、全てのサーヴァントの情報が出揃ったところで一気に動き出す予定であったが、状況は当初の想定を大きく外れている。我々の計画は大幅に見直す必要があるだろう」

 当初、時臣らが立てていた計画については、既に璃正の口から説明を受けていた。

 その計画では、時臣は英雄王ギルガメッシュを召喚する予定であった。そして、アサシンには脱落したかのように偽装した上で各陣営の偵察を行わせ、各陣営の情報が出揃ったところでギルガメッシュが強襲する手はずになっていた。敵サーヴァントの真名さえわかれば、この世の全ての財を有するギルガメッシュならば相手に合わせた最適の戦い方を選ぶことができる。この星の英雄である以上、ギルガメッシュはその全てに対抗する手札を持っているため、常に優位に立つことができるという算段だ。

「今後の方針についてですが……時臣君はどのようにお考えですかな?」

 璃正はまず、時臣に話を振った。

 アーチャーが主と仰ぐのは凛であるが、彼女はまだ幼い。実質的な戦略を立てる役割はまだ当主たる時臣にあると璃正は考えていた。

「戦略を立てるにあたり、まずは、こちらの戦力を把握しておくべきでしょう」

 時臣は、アーチャーに遠慮がちに視線を向けた。その視線の言わんとするところは幸村にもすぐに理解できた。

「私の宝具を知りたいということか。まぁ、当然であろうな」

 幸村は席を立つと、その手に一丁の火縄銃を出現させた。

「馬上宿許筒。日ノ本一の鉄砲鍛冶に打たせた一品でな、私がアーチャーのクラスに選ばれた理由は、これを持っていたことにあるだろうな。後、私はスキルの効果で槍と刀を持つこともできる。一対一であれば、遠距離から近距離まで遅れをとるつもりはござらんよ」

 幸村は馬上宿許筒を消すと、含みを持たせた笑みを浮かべる。

「そして、私の切り札……まぁ、言わずともしれておりますがな。私の伝説そのものでござる」

 これまで会議の流れにまったくついていけていなかった凛が目を輝かせて立ち上がった。

「もしかして!!」

 興奮を隠し切れない凛とは対照的に厳かな表情を浮かべる時臣たち。

「城塞宝具という種別になる。そう、私の城――真田丸よ」

 幸村は不敵な笑みを浮かべる。

「その真価は、真田丸を以って迎え撃つに相応しい英傑が現れたなら、存分にお見せしよう。そのような敵が現れるかどうかは分かりませぬが」




ヘヴンズフィール見て、熱が冷めないうちに執筆してたら、どうにか4話分ストックができましたので、連続投稿していきたいと思います。
5話目は間に合えば載せるつもりです。


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第12話 もっと物事の裏を読め

友人と、
「昔はvestigeとかZipsが好みだったのに、tearsとかfind the wayが心に沁みるようになった」
って話をしてて、歳をとったなぁって感じるようになりました。



 真田丸。

 それは、真田左衛門佐幸村の伝説を象徴する城塞である。アーチャーで召喚された幸村は、この城塞を宝具として有している。

「私の切り札と言ってもいいかもしれぬ。しかし、魔力の消費もそれ相応のものとなる故、使用できる機会は非常に限られるであろうな。出し惜しむつもりはないが、そう簡単に使えるものではないと考えてもらいたい」

 幸村の説明に、時臣は神妙な表情を浮かべた。

「……そうなると、やはり序盤は静観すべきか。当初の予定では、アサシンは全てのマスター、サーヴァントの情報が集まるまでは、あくまで情報収集に徹する。その後、集めた情報に基づいて一騎ずつアーチャーが打倒していく。基本方針としてはこのような形で進めるつもりだったが」

「ギルガメッシュを召喚できた場合には、ギルガメッシュの手によって初戦でアサシンが脱落したかのように偽装する手はずになっていましたが、それはどうするのですか?」

 綺礼からの問いかけに、時臣は肩をすくめながら答えた。

「アーチャーの手でアサシンの脱落を演出することはよろしくない。かの英雄王のように全ての宝具を持っているならば、仮に宝具を晒したとて、真名を隠匿することもできる。しかし、アーチャーは生前に着用していた鎧と兜がそのまま現代にまで残っている。姿を見られれば、真名を特定されてしまう可能性が高い。アサシンの分身の一体を屠ることでアサシンの脱落を偽装できれば諜報活動の助けになるが、アーチャーの真名を特定される危険性を鑑みると、リスクとリターンが釣り合わない」

 幸村が大坂の陣で着用していた鎧は当初、戦利品として家康に献上されていたのだが、家康が破傷風で死去し、それが幸村の呪いと噂されるようになったことを機に幸村の祟りを鎮めるために好白寺に寄進され丁重に扱われるようになった。現在、幸村の鎧は一般公開こそされていないが、先年のタイガードラマでもこの現物の鎧をもとに幸村役の鎧が作成されていることもあり、その姿は広く一般に知られていたのである。

 日本のドラマなぞ見たこともない海外からの参加者でも、幸村の鎧を見ればそれがこの国の戦国時代に使われていたものであることはすぐに看破するだろう。そうなれば、図書館にでも詰めれば容易に鎧の持ち主の正体に突き当たる。

 知名度補正が高いという反面で、幸村は真名が看破されやすいという欠点があった。

「知名度補正。アーチャーのそれは最高クラスですが、真名が割れやすいという欠点と表裏一体というわけですか」

「アーチャーの場合、かのアキレウスやジークフリートのように真名が割れたことが致命的な弱点に繋がるということはないが、それでもこちらの手の内を隠して戦えるのであれば、それに越したことはない。真名が分からない敵と、真名が割れた敵であれば優先して攻め込むべきは後者に決まっている」

 時臣の分析に璃正も同意する。

「うむ。こちらには諜報において望みうる限り最高の人材がいるのだ。このアドバンテージを活かさない手はあるまい。まずは情報戦で有利に立つべきだ」

 時臣たちの間では、序盤はひたすら姿を隠し、アサシンによる諜報に徹するという静観論でまとまりつつあった。しかし、ここで幸村が口を挿んだ。

「マスター。よろしいか」

「え!?あの、えっと……」

 時臣たちの発言を理解することでいっぱいいっぱいだった凛は突然幸村に声をかけられたことで戸惑った。それを見かねた時臣が、凛をフォローする。

「凛。アーチャーのマスターは君だ。臣下が発言の許可を求めているのだよ」

 慌てる姿を見られたことに凛は頬をリンゴのように赤らめる。

「い、いいわ。アーチャー」

 幼い少女が一生懸命主として努めようとしている姿に、幸村は僅かに頬を緩めながら口を開いた。

「忝い」

 幸村が優れた戦術眼を有する武将であることは、この場にいる誰もが疑っていない。それ故、彼の発言には注目が集まる。

「敵の出方を見極めつつ、こちらの戦力の露呈は最小限に動くという時臣殿の方針にも理がある。だが、時をかけることは戦の支度を整える時間を与えることとも同義。多少こちらの準備が不足していても、敵を倒せる時に倒すということも必要ではないかと考えるのだが」

 幸村の言葉に、時臣は首を傾げる。

「こちらから、積極的に打って出ると?」

「諜報に専念して、ただ亀のように籠り続けることもないということよ。こちらが動かなければ戦の主導権は相手に奪われ、我らは不利な立場に追いやられる可能性がある」

 ただ受け身に回るだけでは、不利な状況に立たされかねない。動かないという一手が戦局を左右することもあるだろうが、少なくとも初手から静観を決め込むことはないと幸村は考えていた。

「過去の聖杯戦争のセオリーに則るなら、序盤は静観に徹するべきだろう。序盤から動けばこちらの戦力を敵に把握されるだけでなく、勝利して消耗したところを襲撃され、漁夫の利を狙われることもある」

「定石は当然、相手も承知しているもの。アサシンとの協力関係が見抜かれるかは別として、こちらが高みの見物を決めこんでいることは相手にもすぐに看破されよう。こちらが動かないと判断されれば、相手はそれなりの手を打ってくることは想像に難くない。ただ動かずに待っていても、状況が好転するとは限らぬ」

 綺礼は、内心では幸村の言にも一理あると考えていた。しかし、璃正と時臣は当初の方針を変更することに抵抗があるらしく、口を開くことなく考えを巡らせ続けているようだ。

 璃正と時臣が納得しきれていないことを察していた幸村は、さらに畳みかけることにした。

「『敵に企てさせてはならぬ。我が策を立て、自ら動き、敵に我が企てる状況を強いることで戦場を支配する』最初の上田城の合戦で父上は私にこう仰った」

 璃正は唸る。その軍略・謀略の才能を太閤秀吉が表裏比興と評した名将であり、天下を取った徳川家に二度も勝利した実績を有する真田安房守昌幸の言となると、その言葉はとても重い。彼の戦争哲学とも言うべき考えを、諜報における有利という一点をもって否定することはいかがなものかと考える。

 時臣も、その言葉の前に考えが揺らいでいるのか、顎髭に手をあて、しばし目を瞑っていた。

 

 ――流石、父上のネームバリュー。長野のえれぇ父ちゃんが言ったというだけでこれほど説得力があるとは。

 

 幸村の父、真田安房守昌幸がこの場にいれば、

「儂はお前にそのようなことを言った覚えはないぞ

 と言って驚いただろう。

 それもそのはず。この言葉は幸村がこの場ででっち上げたものである。時臣を説得するために名前を持ってきたのだ。

 出典が明らかではない言行録だってどこぞの芸人の祖母が言ったということになっていれば、何かすごい深いことが書かれてるように思われてなんやかんやでベストセラーになる。

 その場のでっち上げでも、すごい人物が言ったということにしておけば、すごい説得力が生まれるのだ。

 しかも、この言葉を口にしたことになっているのはただの父ちゃんではなく、かの真田安房守昌幸である。これほどの人物の言葉を否定するには、それなりの理屈と巧みな話術が必要になるだろう。たとえ昌幸がそのようなことを言った記録が残っていなくとも、息子が証言しているのだから、本当にそのようなことを言ったのかなど普通は疑わない。

 因みに、史実で第一次上田合戦に幸村が参戦していたかは諸説あるが、この世界においては幸村は第一次上田合戦に参加している。

 幸村は第一次上田合戦の勃発直前、上杉氏の人質となるはずであったが、徳川との戦を覚悟した昌幸は超人的な膂力を有する幸村を必要としていた。そこで昌幸は自身が帰属する上杉と交渉し、上杉に対する人質には幸村ではなく昌幸の妻にして幸村の生母である山之手殿を送ることで合意を得ていたのだ。

 第一次上田合戦に参加した幸村は獅子奮迅の活躍を見せ、徳川視点(大久保忠教の偏見混じり)の三河物語でもあまりの大損害を記すことを憚られたのか、具体的な戦死者の数を書かないほどであった。これも中立の視点ではないが、信幸の書状によれば徳川方の死傷者は史実では一三〇〇となっているところ、この世界では二〇〇〇となっている。

「特に、この男に企みをさせては危険よ」

 幸村は、時臣らの考えの揺らぎに乗じてさらに意見を加える。

「衛宮……切嗣」

 綺礼の眼が僅かに細くなる。

「綺礼殿、其方もこの男については並々ならぬ警戒をしているのだろう?他のマスターの説明に比べ、この男について説明するときだけは違和感があったからな。個人的に思うところがあるのであれば、其方の見解についても聞かせてくれぬだろうか」

「…………この場で説明するような、確定的な情報ではありません。あくまで、個人的な感想にすぎないと考えています」

「現代の戦場で多くの経験を積んできた戦士が抱いた意見だ。それが個人的な感想であっても、そう的を外したものではなかろう。其方は己の経験をもとに我々には見えぬものをこの男に見たはず。それを、聞きたいのだ」

 個人的な感想であり、軍議の場に持ち出すような話題ではないという綺礼の主張を幸村はまったく顧みなかった。

 Fate/Zeroを読んでいる幸村は、このころの綺礼が衛宮切嗣に対して個人的な執着を抱いていることを当然知っている。その個人的な執着がいずれ綺礼を独断行動に走らせることも知っている。

 だからこそ幸村はここで綺礼が衛宮切嗣という男に対して抱いた感想を明らかにしておきたいと考えていた。

 ギルガメッシュがいない以上、綺礼が自身の本性を理解し、愉悦部員に目覚めるかどうかは不確かだ。Fate/Apocryphaの世界線では愉悦部に目覚めないらしいから、必ずしも綺礼がいずれ覚醒するというわけではないが、衛宮切嗣との接触を通じて自力で自身の本性にたどり着く可能性もまたゼロではない。

 だからこそ、ここで幸村は綺礼の行動に釘を刺しておくべきだと考えていた。

 綺礼が衛宮切嗣に対して関心があることをこの場で知らしめることができれば、今後綺礼が衛宮切嗣がらみで独断行動をした時に、衛宮切嗣に対する個人的な執着があることが明らかになるだろう。自身の内心を打ち明けることに抵抗を感じている今の綺礼なら、そのような結果に繋がる独断行動には慎重にならざるを得ない。

 当然、この場での発言が今後の自身の行動を制約することに繋がりかねないことを察した綺礼は簡単には口を割ろうとはしない。

「……綺礼、遠慮はいらない。言ってみなさい」

 このままでは話がすすまないことを察したのか、璃正も綺礼に意見を出すように勧めた。

 流石に父親にまで促されては、綺礼もこのまま黙り続けることができなかったらしく、観念したかのように口を開いた。

「時臣師から伺った『魔術師殺しの衛宮』の人物像に、違和感を感じました」

「違和感?」

 時臣が訝しむ。

「この男は、『魔術師殺し』としての活動以外にも、各地の紛争地域を渡り歩いて戦闘に介入している実績があります。この男の活動遍歴を見る限り、何か特定の主義、政治的な思惑に基づいて己が与する勢力を決めている様子はありません。しかし、かといってこの男が金銭目当てのフリーランスの傭兵だとも考えにくいのです。得られた成果と、投じた労力、生命の危機に対する危険性が、到底釣り合っていない」

「行動の基準が、通常の価値観で考えれば破綻しているということか」

「衛宮切嗣は、目標を確実に殺害するためにはどのような方法も辞さないことが過去の事例からも分かります。しかし、紛争地域での経歴を見る限り、それは確実性を重視する男がとる行動ではないのです」

 幸村は綺礼の意見に頷いた。

「なるほど、某もこの男の価値観が異端であるという考えに同意する。感謝する、綺礼殿。実に有益な情報であった」

 綺礼が述べたことは、彼が衛宮切嗣という男に抱いた考えの一端でしかない。

 破綻した人間が、アインツベルンの城に赴いたことを最後に活動を停止した。そこに、破綻した人間を変える何かがあったのだと綺礼が考え、その何かを求めていることは幸村も分かっている。しかし、これ以上綺礼の個人的な執着を掘り下げれば軍議の流れもいらぬ方向に変わる可能性があり、また綺礼にいらぬ警戒を抱かせかねない。

 幸村は綺礼への追及はこの程度でいいと判断した。綺礼が、歴戦の戦士として衛宮切嗣という男の行動原理を警戒しているということをこの場の人間に共有させられただけでも、綺礼の独断行動を制止する材料としては十分だった。

「某も、この男の考え方を警戒している。この男を相手に守勢に回ることは危険だ」

「確かに、これまでの経歴を見る限りは手段を選ばない非道な男には違いない。しかし、アサシンによる諜報で動きを把握しておけば十分に対処できる相手では?」

「時臣殿、それでは間違いなく負けるぞ」

 幸村は時臣の楽観論を強く否定した。

「この男はまさしく、手段を選ばないのだ。某も、この時代については聖杯によって一般的な知識しか与えられておらぬが、それでもいくつかこの男がやりそうなことが思いつく。例えばだ、召喚したサーヴァントの対城宝具を使ってこの屋敷を一掃するとか、あるいはじゃんぼじぇっととやらをハイジャックし、この邸宅につっこませる、もしくはたんくろーりーとかいうものをこの邸宅につっこませ、中に積んだ油に引火させるなんてこともできるだろう」

 時臣は、幸村の口から放たれた悪逆非道なテロリストの手口に唖然とする。

「アーチャー殿、聖杯戦争は表の社会に悟られぬように行われるもの。そのようなことは考えにくいのでは?」

 璃正もまた、時臣と同様に幸村の懸念には賛同しかねていた。

「前回の聖杯戦争では帝国陸軍の一派も介入したが、彼らでも爆撃等は行わずに一部の特殊部隊を投入した程度。流石に、大規模な破壊活動まではしなかった」

「璃正殿、ご子息の考察によれば、相手はそのような一般的な価値観を有しているとは期待できないのではないか?標的が乗っていたというだけで飛行機とやらを無関係な乗客を含めて殺せるような男だぞ。最悪、この男は化学兵器とやらをこの街の中で使い、マスターを一掃することだって考えられる」

 聖杯から現世の一般的な知識を与えられていることは知っていたが、サーヴァントの口から化学兵器を用いた大量殺戮などという推察が飛び出したことに時臣たちは驚きを隠せない。

「この男には良識は期待できぬ。そして、経歴が正しければこの男は時臣殿のような魔術師を数えきれないほど殺してきた男よ。間違いなく魔術師の思考回路を熟知しておる。まっとうな魔術師の思考回路で戦いに挑めば、この男はその思考を全て読み取ってくるに違いない。もしも我々が静観の構えでいるとこの男に看破されれば、確実に仕掛けられるぞ。回避できない状況で、周囲への被害も厭わぬ襲撃となれば、某も確実にマスターを守り切れるとは言い切れぬ」

 魔術師たちは、歴戦の武将が語る極悪非道のやり口に戦慄し、冷や汗を流していた。




既にキャスターは脱落してるわ、トッキー重傷だわで原作から剥離していますが、これからもっと加速していく予定です。


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第13話 素直なだけでは生きてはいけぬ

 幸村が語る最悪の想定に時臣の心は揺らいでいた。

 時臣は科学の力は下賤なものだと断じる典型的な魔術師だ。しかし、だからといって全ての近代兵器は魔術の前には無力化されると考えるほどに盲目ではない。

 空爆や砲撃に長時間耐えることはできないし、化学兵器を使われれば即死はしないまでも瀕死になる。もしも核兵器を使われれば一瞬で蒸発してしまうだろう。

 これまで近代兵器と戦うということをまともに考えてこなかった時臣は、幸村の想定をもとにここで初めて冷静に考察する。

 そして、理解した。

 忸怩たるものがあるが、彼の持つ全ての魔導の力を結集しても、近代兵器による襲撃に耐えられない可能性があることを時臣は認めざるを得なかった。

「アーチャー。貴方の危惧については、確かに理解できる。しかし、そこまでのことをすれば、監督役も黙ってはいまい」

「監督役が罰則や新たな規則で縛ろうとするのであれば、先んじて監督役を始末するという方法があるぞ。現場に犯人を示す証拠さえ残さなければ、表立って罰則が与えられることもなかろう。新たな監督役を立てるまでの間、教会とやらも混乱するであろうから、その混乱に乗ずれば上手く状況を動かせるだろう」

「そんな、まさか、聖杯戦争の監督役を一時の戦局のためだけに殺害するなどということが――」

 幸村は時臣の戸惑いをばっさりと切り捨てる。

「それよ。そのありえないという考え方が、思考を縛り、選択を誤らせる。衛宮切嗣だけではない。他のマスターの召喚するサーヴァントとて、どのような思想を抱えているか分からぬ。古今東西あらゆる時代、地域に名を遺した英雄というのはな、常識では計り知れないことを成し遂げたから英雄になっておるのだ」

 時臣は何も言い返せない。そう、常識を覆し、不可能を可能にしてきたからこその英雄だ。彼らを魔術師の常識で量ることがそもそも、誤っていたのだ。

 衛宮切嗣という男が手段を選ばない浅ましい賞金稼ぎだとしか思っていなかった。

 勝利のためには監督役すらこの手にかけるなどという発想がまず彼の頭の片隅にもなかったし、勝利の妨げになるのなら聖杯戦争のルールすら歯牙にもかけないマスターがいるなどという考えが到底納得できない。

 しかし、固定観念に縛られた時臣でも一つだけ確信していることがあった。

 衛宮切嗣という男が幸村が例に挙げた外道な手段を取らないという根拠が、かの男にも最低限の良識があるだろうという希望的な観測しかないのだ。そして、時臣は衛宮切嗣という男の経歴と悪評からは、到底良識などというものを期待できなかった。

「時臣殿、これを魔術師同士の殺し合いだとは思わぬ方がよい。科学の力を使う敵もいれば、魔術師の道理など意に介さぬサーヴァントもおるであろう。全ての陣営のマスターが典型的な魔術師で、サーヴァントを完全に律した上で正々堂々と戦いに臨むなどという幻想は捨てることだ。策を練る時、楽観論と精神論は捨てよ。確定した事実、情報に基づいて行動することができずして勝利することなどできるはずがない」

 幸村は、衛宮切嗣という男のことを知識として知っている。だからこそ、勝利のためであれば如何なる手段をも選ばない男だと理解している。自身の参戦とジル・ド・レェの脱落で既に原作から大きく外れてしまっている以上、衛宮切嗣が原作通りに動いてくれるとは限らない。

 第五次聖杯戦争時の遠坂凛というキャラクターにそれなりの好意と敬意を抱いている幸村は、ここで危機意識を共有し、この男の動向に最大限の注意を向けられるようにして凛の生存確率を上げられるようにしておきたかった。

 幸いにも、衛宮切嗣の手口については資料にまとめられていたため、その資料をもとに多少誇張して語ったところでさほど怪しまれることはなかった。幸村の魂胆は悟られることなく、あくまで酸いも甘いも体験しつくした戦国武将の歴戦の経験からくる警戒心に衛宮切嗣という存在が引っかかっただけだと思われていたのである。

「……そもそも、キャスターとの戦闘を顧みるがいい。あのような外道が、まともな聖杯戦争をやるように見えたか?」

 時臣は言い返すことができなかった。

 これまでの時臣は、魔導の道を歩むと決めてから重ねてきた鍛錬と、諜報面では最良の能力を有するアサシンというアドバンテージ、そして最強のサーヴァントがあれば、勝利は確定したようなものだと考えていた。最強のサーヴァントの召喚という目論見こそ外れたものの、この第四次聖杯戦争に向けて万全の準備をしてきた己が負けるはずがないと信じて疑わなかった。

 しかし、それはあくまで自身の価値観に基づく観測――ある種の楽観論に過ぎなかったことをここで時臣は自覚した。確かに、時臣は自身の研鑽と成果には絶対の自信を持っているが、相手が時臣の有利な土俵以外で戦いを挑んでくれば苦戦は免れない。そうならないためのアサシンによる諜報なのだが、それでも、万が一ということは考える必要があるのだと時臣は幸村に教えられた。

 まともな魔術師がまともな英霊の手綱を握り、聖杯戦争のセオリーに従って戦うという図式こそが――時臣が大前提としていた事実がそもそも不確定だということを、時臣はここで初めて受け入れたのである。

 そして、同時に今まで以上に衛宮切嗣という男に憤りを感じていた。魔術を扱うものには、それ相応の品格が求められるというのが時臣の持論だからだ。

「もしも、某の危惧を検討した上でマスターが聖杯戦争の序盤は静観に徹し、情報が集まるまではこの屋敷に籠城するというのなら某は止めぬ。しかし、その時は例え何が起こっても情報が集まるまで決して動かないという決意が必要になると知るべきよ。そう、例えば衛宮切嗣がマスターの御母堂を人質に取ったとしても、あるいは他のマスターが神秘の隠匿を無視して白昼堂々とこの冬木の地で暴れまわったとしても決して動かぬ。城に籠ると決めたならば、勝機が見えた時以外には如何なる誘いがあろうとも絶対に外に出ないという覚悟が必要と心得ねば」

不動如山(動かざること山の如し)ということか」

「いかにも。孫子が言うように、動かぬと決めるのであれば、敵から如何なる揺さぶりがあろうとも決して動いてはならぬ。信玄公の戦の哲学の一つと父上も言っておった」

 静観を選択するのであれば、軽々しく引き摺りだされてはならないのだと言いたいのだろう。幸村の主張に理があることを、時臣は認めていた。

「……衛宮切嗣については、こちらから積極的に仕掛けなければならない、か。最優先で討つべきはこの男だな」

「いいのかね、時臣君。事前の基本方針から大きく外れることになるかもしれないが」

「やむをえません、言峰さん。この男を野放しにしておけば、我々に……いや、この冬木の地にどのような災厄がもたらされるか分かったものではありません。この地のセカンドオーナーとしても、静観することはできないのです」

 時臣は基本方針の一部を変更する必要があると判断した。

 衛宮切嗣は、魔術の極みの一つと言える聖杯戦争を汚す戦いをするだろう。聖杯戦争を侮辱するこの男には、それ相応の罰を与えなければならない。そして、魔術師の面汚しを排除したところで正しく聖杯戦争を行うことが最良であると考えた。何より、あの男が聖杯戦争を汚す様を傍観していることは、遠坂家の矜持が許さない。

「しかし、我らは諜報面では圧倒的有利な立場に立っている。衛宮切嗣という男のやり口については別として、他のマスターに関しては無理に攻めかかる必要はないのでは?」

 なおも、定石を捨てることに抵抗を捨てきれない璃正の言葉に自身の意図が正しく伝わっていなかったことを察した幸村は苦笑する。

 大坂冬の陣でも籠城は最後の手段として積極的に出撃する方針を取っていたり、時には真田丸から夜襲に打って出ることで徳川方に大損害を与えた逸話が後世に伝わっていたためか、幸村という武将は防御よりも攻勢の姿勢を取る猛将に思われがちなところがあった。

「璃正殿、誤解しないでいただきたいのだが、私は何も敵の首級を求めて序盤から積極的に攻めよと言ってはおらぬよ。いくら衛宮切嗣を早急に排除すべきだからといって、何の準備もなく正面から攻めて倒せる相手ではないだろう」 

「……と、言いますと?」

「今回は他の五騎全てが敵。相手に情報を吹き込むなり、一時的な協定を結ぶなり、実際に戦わずして戦況を動かす方法はいくらでもある。誰もが本格的に動いておらず、様子見に徹している今だからこそ、我らの動向は大いに彼奴等を揺さぶることができよう」

 時臣は納得した表情を見せた。なるほど、バトルロイヤルといえど、時臣が綺礼と組んでいるように必ずしも全てのサーヴァントを敵とする必要はない。相手に同盟を組ませない、あるいは不戦協定を結ぶということは戦況を大きく動かす要因となる。

「何も、実際に協定を結ぶことに成功しなくともよい。敵と接触したという事実だけでも十分な効果がある」

 幸村の言葉に、凛が首を傾げた。

「どうして?話し合いが上手くいかなかったら失敗じゃないのですか?」

「日中、堂々と会いに行く様子を見せることに意味があるのです」

 そう言うと、幸村は綺礼に視線を移した。

「綺礼殿、お主の配下の暗殺者に伺いたいことがあるのだが、よろしいか」

 綺礼が誰もいないはずの地下室の一角に視線を向けて小さく頷いた。

 すると、そこに髑髏を模した仮面をつけた痩身の女性が姿を現した。教会で防諜を担っているアサシンの内の一体が霊体化を解いて実体化したのである。突如姿を現した異形に凛は驚き、傍らにいた幸村の影に身を隠しながらおそるおそる顔を向けた。

「……アサシン殿、と呼べばよろしいかな?」

「好きに呼んでいただければ結構。今の我らは個にして群。固有名詞は持たない」

「分かった。それでは本題であるが、現在遠坂の屋敷は監視の目がつけられておるな」

「はい」

 我が家が監視されていることを知った凛は驚きの表情を浮かべるが、幸村はそれに構うことなく質問を続けた。

「監視の目は、昼夜構わず常に張り付いている」

「はい」

「監視している勢力はいくつある?」

「四つの異なる使い魔の気配を確認しております」

「そうか、ありがとう」

 幸村はアサシンに感謝の言葉をかけ、凛に視線を戻した。

「遠坂の屋敷は常に見張られている。つまり、戦闘が禁じられている日中でも、当主がどこかへ出かければ当然監視している敵方にも筒抜けとなるわけです。聖杯戦争中に当主が本拠地を離れるとなれば、敵はその動向を注視せざるをえない。今のように、どのマスターも動きを見せていないとなれば、なおさら最初に誰が動くのかということに敏感になるでしょう。さて、マスター。そんな時に敵のマスターが別の敵の本拠地に白昼堂々足を運んだ。そして、無傷でその本拠地を後にした。それを知った時、貴方はどのように考えますかな?」

 凛はしばし腕を組んでいたが、突如閃いたかのように大きな声を出した。

「……!!そっか、話の内容は分からないけど、戦ってないってことは同盟を組んだかもしれないって考えるんだ!!」

「正解です。会談したという事実だけでも、同盟を組んだと錯覚させることで敵に圧力を加えることができます。実際に同盟を結んでもよし。同盟を結べなくとも、こちらが同盟を組んだと錯覚した敵が他の陣営と自発的に同盟を組むということもあるでしょう。そうすれば、会談の相手も敵の同盟に対抗するため改めてこちらと同盟を組むことを考えるかもしれません。あるいは、会談した相手に偽りの情報を吹き込むことで、行動を操ったりすることも考えられるでしょう。いずれにせよ、戦いというのは実際に干戈を交えるだけではありません。戦場の外でのやりとりも含めて、戦なのでござる」

 弱肉強食の戦国時代を強かに生き抜いた真田の軍略。その一端を見た璃正は唸った。

 大坂の陣での八面六臂の大活躍から戦場で本領を発揮する猛将としての印象を持っていたが、幸村は謀略、調略の名手たる真田昌幸の子だ。祖父幸隆から代々受け継がれてきたその知略もまた、天下一品のものだと実感していた。

「情報が集まるまで座して待つのではなく、こちらからも戦いによらずして揺さぶりをかけていく……間諜の英霊たるアサシンがそれを補佐するのなら、その効果はさらに大きく期待できるか」

「試してみる価値はあるとは思えませぬか?」

 時臣は顎に手をあて、しばし考える。

「戦わずとも、話をするだけで情報を得られる可能性もあるか。場合によっては同盟を結び、衛宮切嗣に対抗するという方法もある。しかし、どの勢力と接触するのかね?御三家たるアインツベルンと間桐の拠点は言わずもがな、ロード・エルメロイもホテルに滞在していることが分かっている。全く情報のない外来のマスターとあの衛宮切嗣を擁するアインツベルンを除けば、実質的な交渉相手は間桐とロード・エルメロイの二択となるが」

 昼間とはいえ、衛宮切嗣を擁するアインツベルンと接触することは避けたい。あの男ならば白昼堂々爆発物を投げ込んできたりしてきてもおかしくないと時臣は考えていた。

 しかし、それ以外の勢力となると、未だ正体が分からない外来のマスターの一人を除けば、実質こちらから接触ができる相手は冬木ハイアットホテルに陣取ったケイネス・エルメロイ・アーチボルトと、同じ御三家の一角である間桐の二択となる。

「先ほど綺礼殿から伺った情報を鑑みるに、誘いをかけるべき相手がどちらかははっきりしておる。まずはそやつから声をかけてみるのはどうかな?」

 

 企みを口にする幸村の眼は、地下室のランプの温かな明かりに照らされ、妖しい光を灯していた。



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第14話 ロード・エルメロイ。好きなんだよなぁ、響きが

「御客人にはケイネス・エルメロイの殺虫工房をとっくり堪能してもらおうではないか。フロアひとつ借り切っての完璧な工房だ。結界(虫よけバリアスプレー)二十四箇所、ホウ酸ダンゴ十箇所、猟犬がわりのワーキングキャット三匹、無数のトラップ(ゴキブリ捕獲機)に、廊下の一部は予防スプレーが噴霧させている空間もある。
 ふはははは、お互い存分に生存を巡る競い合いができようというものだ。
 私が情けないという指摘、すぐにでも撤回してもらうよ」





……ゴキブリが出て、対策してたらこんな工房がほしくなりました。
やはり、1階は湿気多くて虫が入りやすいですね。


 冬木ハイアットホテルは、数年後に完成する新都センタービルにこそ及ばないものの、現時点では冬木市で最も高い建造物である。

 そのホテルの目玉の一つが、地上およそ一五〇メートルの高さから冬木市を一望できる展望レストランだ。冬木市近郊で取れた食材をふんだんに取り入れたフレンチの数々を、シェフの技光るライブキッチンで楽しめるということでも話題となっている。

 しかし、その展望レストランで最も眺めがいいテーブルに座るケイネス・エルメロイ・アーチボルトにとっては眼下の景色も運ばれてくる料理も大した価値のあるものではなかった。

 展望レストランから見れる景色ぐらいは自身が借り切ったスイートルームからでも見ることができるし、無機質なビルが雑多に並ぶだけの新都の街並みは彼の美意識に反する無価値な景色でしかない。

 シェフの技とやらも、大衆受けする見世物(ショー)ぐらいの価値しかなく、味についても彼が倫敦の屋敷で雇っているフランス人シェフのそれと比べて格段に落ちる。普段は自身のスイートルームにこのレストランの食事を届けさせているのだが、彼はこれを戦場食だと思って我慢していた。

 食事にも眺望にも価値を見出していないケイネスが、この日の昼食に限り何故この展望レストランを訪れたのか。それは、彼の正面に座る一人の魔術師――遠坂時臣から会談の申し出があったからだ。

「会談に応じていただき、感謝する。ロード・エルメロイ」

 既に、このテーブルにはケイネスの手によって結界が施されていた。これにより、周囲の人間はケイネスたちの行動や言動を当たり障りのないものとしか認識できないようになっている。

「……この場所を指名したのは、私への配慮だと理解している。しかし、もしも()に会食の機会があるのであれば、この街を管理する貴方が知りうる限りで最高の飲食店を案内していただきたいものだ」

 言外に、こんな不味い飯で会食するのは一度で十分だと含ませるケイネス。その意味を正しく理解した時臣は苦笑した。

「では、()があれば和食の名店を案内しよう。この町の海の幸を扱っていて、私も家族とよく食事にいくいい店だ」

 時臣とて、美食、美術の何たるかを理解している文化人でもある。この展望レストランの食事が文化人からしてみれば児戯に等しいことは理解していたが、この街の管理者である時臣が指定した店で会談を行うとなると、そこに罠があると警戒される可能性が高かった。

 そのため、会談を申し込むにあたり不用意な警戒心を抱かせないために敢えてケイネスの本拠地に最も近いこの場所を指定したのである。

「それで、態々昼間にサーヴァントを引き連れて遠坂家の当主が一体どのような話を持ってきたのだね」

 ケイネスは、時臣の隣の席に座る幸村に視線を向けた。紺のスーツを身にまとったその姿は、纏っている凛とした覇気や端正な顔立ちとも相まって幸村という男の持つ男としての魅力をさらに引き出している。

 因みに、スーツ姿の幸村を見て思わず言葉を失った凛の姿を見た時臣が、聖杯戦争の後もこの英霊を現界させ続けてはならないと決意を固めたことを幸村は知らない。

「まさか、宝石や美術品をひけらかす成金のように、サーヴァントを自慢に訪れたわけではあるまい?」

 幸村はケイネスの視線を意に介すことなく、能面のような表情を貫いている。そして、幸村の視線はこの席にかけた時から常に彼の目の前にいる端正な顔立ちをした男――ケイネスの召喚したサーヴァント、ランサーに向けられていた。

 時計塔における触媒の手配ルートはほぼ時臣が手を入れているため、ランサーの真名がディルムッド・オディナであることは既に時臣も知っていた。勿論、時臣はそのようなことを口に出す男ではないし、表情にも一切出していない。

 敵サーヴァントの真名を知るが故に心中にも余裕のある時臣に対し、ケイネスの胸中は揺れていた。

 ディルムッド・オディナの召喚には成功したものの、当初召喚予定だったイスカンダルと比べればやはりステータスでは及ばない。また、クラス補正の得られるセイバーでの召喚を狙っていたところが、ランサークラスでの召喚。

 加えて、聖杯に願うものはないなどと宣うとなれば、英霊ともあろうものがなんの対価もなく魔術師に使役されることを受け入れるはずがないと判断する一般的な魔術師の感性を持つケイネスがランサーに信をおけるはずがない。

 加えて、遠坂のサーヴァントは一見したところ、黒髪黒目の二十代後半ほどのモンゴロイド系のように見える。ヨーロッパで生まれ育ったケイネスにはその顔が中国系か日本系かも分からないが、とりあえず東洋所縁の英霊だろうと判断した。

 しかし、本来冬木の聖杯戦争では東洋の英霊は召喚できないはずだ。ケイネス自身、召喚システムを予め詳しく調べ、その上で変則的なマスターとしての契約を結べるほどに聖杯戦争の仕組みを解体したという自負がある。

 そのケイネスでも一体どのような手を使って東洋の英霊を召喚したのか見当がつかなかった。その危惧が、時臣のサーヴァントに対して恐れを抱かせる。

 ケイネスは自身の魔術師としての能力や才能が時臣の上にあることを露ほども疑っていない。魔術師としての決闘であれば、十分に勝てる相手だと認識していた。

 しかし、ことサーヴァントの戦いとなると、ケイネスには自信がなかった。想定よりも低いステータスで召喚されたディルムッドという信のおけない英雄が、果たしていかほどの戦力となるのか、正直なところあまりあてにしていなかった。

 ランサーは遠坂のサーヴァントに勝てるのか。ケイネスは勝てると断言できる自信がなかったのである。

 そのようなケイネスの内心も、時臣は大体察していた。その上で、時臣は普段のような余裕のある笑みを浮かべている。

 サーヴァントを伴い、令呪を有する魔術師が敵対するマスターの下を訪れた。この事実だけで時臣がマスターであると敵陣営に誤認させることができるのだ。この事実はおそらく他の陣営の使い魔にも見られているだろう。

 本来はマスターではない時臣をマスターだと誤認させることができれば、それは凛の安全にもつながり、またマスター同士の戦いにおいても魔力供給の負担のない時臣が有利にことを運ぶことができるという目論見もある。

 ――そもそも、御三家の一角たる遠坂家の当主がサーヴァントの枠を取られて不戦敗になり、代わりにまだ小学生の少女がマスターをやっているなどということは、普通の魔術師であれば考えられないだろうから、こんな偽装を知らしめること自体の効果は薄いのだが。

「何、彼は万が一のための警護をしているだけだ。昼の間は戦いを控えるのがこの聖杯戦争における不文律だが、前回の聖杯戦争ではそれを破った不届きものがいたと聞く。そのため、いざという時にすぐ反応できるよう、実体化して仕えさせている」

 ケイネスの下に時臣から会食の申し出があったのは、今朝のことだ。翡翠でできた鳥が携えていた手紙には、日時と場所の指定、そして会談の場には一人付き添いを連れてくるということが記されていた。ケイネスもこれが罠である可能性は低いと判断し、ひとまずは会食の申し出を受け入れた。

 しかし、ケイネスもつい先ほどまではサーヴァントを霊体化させて付き従えて来るものだと考えていたため、現世の服を用意させてまで実体化させて付き添わせるということは予想外だった。

 時臣の人となりや、時計塔における業績について予め調べていたケイネスは、時臣がこの場で恥知らずにもサーヴァントを暴れさせるような短慮な男ではないことは知っていた。しかし、会談の相手がサーヴァントの姿を堂々と晒して会談に現れるとなれば、ケイネスも対抗してサーヴァントを傍に侍らせる必要がある。

 幸いにもケイネスとランサーの身長は数センチしか変わらないため、ケイネスが持参していた予備の服を使うことができた。

 因みに、今日のランサーのコーディネートは、ケイネスの婚約者であるソラウの手によるものである。婚約者たるケイネスですらソラウに一度もコーディネートされたことがないのにも関わらず、熱心にランサーのコーディネートを考えるソラウの姿はケイネスにとっては非常に不愉快なものであった。

 さらに、ソラウの手により新宿歌舞伎町でも天下を取れるほどのイケメンホストと化したランサーがあまりに周囲から注目を浴びるため、ランサー自身にも認識阻害の魔術をかける手間をかけさせられたケイネスの胸中は察するに余りある。

 無論、そのような個人的な怒りをこのような会談の場で表に出すほどケイネスは狭量ではないのだが、つい先ほどまでのケイネスの態度とその胸中を察しているランサーは時臣との会談が始まるまでの間非常に居心地が悪かった。

 会談が始まり、幸村に対してまっすぐに警戒心を向けられるようになったことで若干気が楽になったぐらいだ。ただ、幸村もランサーから向けられる警戒の眼差しに反応して圧力をかけていたため、一流の武人同士の立ち合いに伴う緊張感がこのテーブル一帯を包み込むこととなった。

「今回の聖杯戦争にもそのような慮外者が紛れ込んでいると?」

 この会談が、刃を交えない戦いの一つであることを魑魅魍魎が闊歩する倫敦の時計塔で活躍してきたケイネスが察していないはずがない。既に、先ほどまでのランサーやソラウに向けていた感情は拭い去られ、今はただこの会談にのみ集中できていた。

 二人の英雄が発するプレッシャーは、現代の魔術師である二人にもかつてない緊張感をもたらしていた。その緊張感もまた、ケイネスの意識を切り替えさせるのに一役買ったのだろうか。

「逆に、今回の聖杯戦争においては、秘術を尽くして堂々と戦うに相応しい相手がどれだけいるかということだ」

 時臣の言わんとするところはケイネスも理解していた。事前の調査においてケイネスが警戒心を抱いた魔術師は、時臣と間桐臓硯だけであった。御三家の一角たるアインツベルンも確かに北の名門ではあるが、滅多に外界と接触しない一族でもあるため、ケイネスも彼らの実力を把握できていなかった。

「こちらはキャスターを討ち、そのマスターも私の手で討ち取った」

 時臣の台詞に、ケイネスは僅かに眉を吊り上げた。

「ほう……既に一つ勝利を得ていたとは。流石、聖杯戦争を作り上げた御三家の一角の当主ということはある」

「なに、他愛のない相手だった。勝つべくして勝っただけのこと」

 ただ、他のサーヴァントの情報を流しただけではないことをケイネスは即座に看破した。そして、これが時臣からの挑発だと理解した。既に、遠坂陣営はマスター同士の戦いで首級を挙げていることを告げ、己の武勲を誇っているのだ。

「それで、次はこの私だというのか」

 宣戦布告ということならば、堂々と受けてたつ。ケイネスは不遜とも思える尊大な態度で時臣と相対する。

「軽々と挙げられる首級だと思われているのであれば、このアーチボルト家九代目頭首、ケイネス・エルメロイも舐められたものだ」

「私とて、神童と謳われたロード・エルメロイの名を軽んずるつもりはない。逆に、貴方との闘いでは我が一族と私自身が積み重ねてきた研鑽の全てをぶつける必要があると考えている。だからこそ、今私は貴方との会談に臨んでいる」

「ふん……」

 遠坂には即座に宣戦を布告するつもりはない。ケイネスはそれを理解すると同時に、時臣の狙いの一つを看破した。

 

 ――なるほど、同盟を組もうというわけか。

 

 遠坂はこの地の管理者だ。この地に入った魔術師の動向について監視するだけの態勢を整えていることは想像に難くない。聖杯戦争の参加者についても外来のマスターであるケイネスよりも多くの情報を有しているはずだ。

 おそらくは、単独では対処しづらい相手がいることをつかみ、その対処にケイネスを巻き込もうとしているのだとケイネスは推察した。その理由が時臣のサーヴァントでは相性が悪い相手か、あるいは政治的な事情で戦闘を回避したいのかは分からないが。

 ここまで遠坂の事情を察したケイネスだが、そのことを口に出すことはない。ロードである自分から同盟の話を切り出すことは彼の矜持に反するからだ。戦果をまだあげていないケイネスが、既に戦果という実績を作った時臣に対して同盟を申し出るということは、その実績と能力を頼りにし、下手に出ることを意味する。

 ただ、ケイネスは同盟なぞなくとも自身の勝利は揺るがないと考えてはいるものの、時臣のような魔術師として一定の敬意を抱ける相手からの申し出であれば、受け入れることも吝かではない。戦局のはっきりしない緒戦において、有力な相手の一人である遠坂の動向について警戒をしなくてすむという点も、この地での情報収集能力に劣るケイネスにとっては悪い話ではない。

 それに、この地の管理者である遠坂との闘いとなれば、それなりに準備もしておきたいものだとケイネスは考えている。遠坂の秘術を解析し、その全てを圧倒的な才能と技量をもって組み伏せる戦いをしてみたいと心躍る自分がいることにケイネスは気づいていた。

「貴殿のことは、時計塔でも中々の評判だ。互いに万全の状態で秘術を尽くして戦う機会があるならば、是非お手合わせ願いたいと思っている」

「私も同感だ、ロード・エルメロイ。そして、我々の戦いは無粋な客人の立ち入る隙のない環境、後顧の憂いなく戦える舞台でなければならない」

 相変わらず、二人は目の前の食事には一切手をつけていない。時折、ガラスのコップに注がれた冷たい水を口に含ませるぐらいだ。目の前の料理から熱が奪われ、香ばしさが失われていくのとは反対に、彼らの会談はここからが食べごろとなる。

「我々が干戈を交える舞台は、聖杯戦争の勝者を決する最終決戦であるべきだ。他の参加者を駆逐し、横やりの入る余地がなく、ただ互いに相手との闘いにのみ全てを投じられる舞台こそが相応しい」

 そして、時臣が切りだした。

「サーヴァントが残り二騎になるまでの不可侵。それで如何か」

「ふむ」

 ケイネスの眉が僅かに動いた。

 歴史を紐解いていけばわかるように、同盟といってもその形は一つではない。兵力を直接融通する同盟もあれば、外交面での圧力を主目的とした半ばハッタリのような同盟だってある。

 ケイネスも時臣からあまりに関係性を深めるような同盟関係を提案してくるとは思っていなかったから、不可侵、不干渉ということは妥当な線であると考えていた。

「悪くない話だ。我々が組めば敵はいないだろうが、有象無象を間引くことなど私には造作もない。助け合いなどというお題目を掲げた戯れ合いとて私には不要だ」

「あくまで、サーヴァントの数が減るまで互いを相手としない。ただそれだけでいいと私は考えている」

「よろしい。それならば私にとっても異存はない」

 ケイネスは僅かに目尻を下げ、隣に控えるランサーに視線をやった。

 その視線の意味するところを察したランサーは、ここで初めて僅かに力を抜いた。

 それに伴い、幸村も肩の力を抜く。といっても。ランサーも幸村も露骨に警戒することを止めただけであり、周囲への警戒は全く緩めていないのであるが。

自己強制証明(セルフギアス・スクロール)などという野暮なものは必要ないだろう。ただ、我が名にかけて最後の二騎となるまでの不可侵協定を遵守することを誓おう」

 時臣の宣言に、ケイネスもまた薄く笑う。

「貴殿の宣誓に私も倣おう。アーチボルト家の当主として、そしてロード・エルメロイの名において遠坂時臣との不可侵協定を誓う」

 書面もない、署名捺印もない、口約束のようなものだ。

 しかし、ケイネスも、そして時臣も、互いに相手が宣誓をした以上はこの不可侵協定を破るはずがないと理解していた。

 これが時計塔内部の抗争ならば、ケイネスもこれほどすんなりと時臣からの申し出を受けなかっただろう。敵対する相手からの申し出など、まずはのらりくらりと受け流して相手からより多くの見返りを得られる算段をつけていたはずだ。

 しかし、よくも悪くもケイネスはこの戦いを時計塔の外の戦いだと割り切っていた。純粋に魔術の腕と磨き上げた神秘の技を競い合う殺し合いであり、権威と陰謀、権力を駆使して戦う舞台ではない。武勲を求める戦いと、時計塔の抗争とは別種のものであると考えていたのだ。

 敵の政治的な背景、思惑などといったものを一切考えず、ただサーヴァントの戦力とマスターの魔術師としての力量が勝敗を分けるという思考は確かに間違ってはいない。しかし、戦争が外交の一部であるように、そもそも戦闘というものが戦争における一つの手段であることをケイネスは深く意識していなかった。

 もしも、聖杯戦争が時計塔で行われていれば、あるいは遠坂が時計塔の三大派閥のいずれかと深い関わりのある一族であればケイネスも時計塔での抗争時と同様の意識を持ち、もっと深く時臣の申し出について考えていたのかもしれない。

 しかし、現実はそうではない。あっけないほどにケイネスは時臣からの提案を受け入れ、ここに時臣とケイネスの不可侵協定が結ばれた。

 このことがケイネスにとって吉と出るのか、凶と出るのか。それはまだ誰も分からない。




なんか今週の投稿は誤字脱字多すぎてすまない。

いつも直してくださるみなさま、ありがとうございます。


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第15話 お前は策とは何かをまだ知らんようじゃ

ひとまずこれで連続投稿は終わります。
お盆から書き溜めたストックを全て吐き出したので、今後の投稿予定は未定となります。


 ケイネスとの会談を終え、時臣は幸村と共に屋敷へと戻った。

 時臣はすぐに地下の工房に移ると、魔術によって会談の記憶を凛に共有させた上で、教会にいる言峰親子にも魔導通信機越しに会談の内容を報告した。

『アサシンからの報告では、冬木ハイアットホテルの周囲には、3つの気配の異なる種類の使い魔がいたとのことです。時臣師の思惑どおり、他の陣営もロード・エルメロイと遠坂の接触を把握したものと思われます』

「その後、ロード・エルメロイに動きは?」

『冬木ハイアットホテルには常時アサシンを二人張り付けておりますが、どこかの使い魔がロード・エルメロイと接触しようとする気配はないとのことです。ロード・エルメロイがどこかの陣営に対して新たな使い魔を放ったという報告もありません』

「ふむ、ひとまずはどの陣営もこちらの思惑の範疇ということか」

 綺礼の報告を聞いた時臣は僅かに口角を吊り上げた。

「アーチャー。やはりロード・エルメロイを交渉相手に選んで正解だったかな?」

「時臣殿、選択の結果を検討できるのは、戦が終わった後であろう。今はまだ評価をすべき時ではない」

 幸村が実体化する。その顔には作戦が上首尾に進んでいることへの高揚感などは一切浮かんでいない。

 実体化を維持する程度の魔力ならば今の凛でも余裕をもって供給することができるだろうが、未だ幼い凛の魔力供給量では宝具を使用した際の負担は非常に大きなものとなる。その負担を少しでも軽減するという名目で、普段幸村は霊体化して凛の魔力の消耗を抑えているのだ。

 凛に戦国時代の話を聞かせてほしいとせがまれたりしても、霊体化したまま応じている。実体化するのは、時臣との打ち合わせの時か、あるいは書斎にある世界各国の英雄の伝記を読む時ぐらいだろう。せっかく出会えた英雄が、中々自分の前で姿を現すことができないということが幼い凛には不満なようだが。

「今言えることは、『他の陣営にロード・エルメロイと遠坂が接触したことを把握させる』ことに成功し、『遠坂が籠城戦の構えではなく、他陣営とも協力して打って出る用意がある』ことを示したということのみ。この事実を把握した各陣営がこれからどう動くかを見極めることこそが肝心であろう」

 幸村が事前に時臣と凛にプレゼンした通り、他陣営との接触を図る目的の一つ目は、遠坂が籠ってばかりではなく、時には打って出る可能性があることを各陣営に意識させることだ。遠坂陣営が攻め込んでくる可能性があると意識するだけで、他の陣営は遠坂時臣の動きを無視できなくなる。

 遠坂を意識すればするほど、その一挙一動に影響されてしまうことは避けられない。上手く情報を操作すれば、他の陣営をこちらの思惑どおりに操ることもできるかもしれない。まぁ、相手があることだからそこまで上手くいくとも幸村は考えていないのだが。

「ねぇ、アーチャー。結局そのエルメロイって人とお父様は同盟を結べたんでしょう?それなら私たちが有利になるんじゃないの?」

「同盟を結べたというのは、確かに有利な事実でしょう。しかし、まぁこれについては元々上手くいかなくても損はほとんどありませぬし、上手くいったらまぁそれもよしといった程度にしか考えておりませんでした」

「どういうこと?」

 幸村は壁から背を離すと、ゆったりとした口調で続けた。

「この会談の目的は二つ。一つは、他の陣営にロード・エルメロイと遠坂が接触したことを把握させること。そして、二つ目は他の陣営に対し、会談という事実をもって動きを誘うこと」

 凛は頷いた。先ほどの幸村が言っていたことだ。

「そして、ロード・エルメロイに会えただけで我々は目的を達成しています。極端な話をすれば、会談が喧嘩別れに終わろうが、蜜月関係を築こうが、ただ会談さえできるならばどちらでもよかったのです。我々が動いていることを知らしめることができれば、他のマスターも呼応して何らかの動きをとる可能性が高い。そして、それはアサシン殿の諜報網を通じてこちらが全て把握できます。あの会談は、いわば池に投げ込んだ石にすぎませぬ。波紋がどう広がるか、あるいは投げ込まれた石に反応して跳ねる魚がいるか確かめるという意味合いが大きいのです。今の世の言葉で言い換えるなら、威力偵察というものに近いでしょう」

「じゃあ、同盟はおまけってこと?だったら、雁夜おじさんに会いに行ってもよかったんじゃ……」

「マスター。先の軍議では詳しく説明しませんでしたが、そもそも間桐という陣営も脅威度で言えばロード・エルメロイよりも上です。情報をもう少し集めてからでなければ、接触するのは危険かと」

 先の軍議において、会談の申し込み先が間桐かロード・エルメロイかの二択に絞られた時、迷わず幸村はロード・エルメロイを選んだ。

 その時は、ロード・エルメロイを間桐雁夜よりも脅威と見ていた璃正や時臣が真っ先に同意したこともあって深い理由については触れられなかったが、交渉の結果がどうでもよかったのであれば何故間桐を選ばなかったのか凛は気になっていた。

「どうして?雁夜おじさんだっていつもお土産くれるやさしい人だし、今は桜だって間桐の子なんだよ?」

 凛の発言に時臣は僅かに眉を顰めた。

 桜は確かに時臣の子であり、そして盟友であった間桐の後継者である。間桐は遠坂にとって最も縁の深い魔術の家と言ってもいいだろう。しかし、時臣は我が子を送り出した家であろうと聖杯戦争において手心を加えるつもりは一切なかった。

 また、時臣にとって、間桐雁夜という男は魔導の恥に他ならない。一度は魔導の道を歩む機会を与えられながらそれを価値のないがらくた同然に放り投げた挙句に、聖杯に釣られて捨てたはずの魔導の力をノコノコと拾いに来た醜悪な俗物というのが、時臣の雁夜に対する評価だった。

 間桐との会談に時臣が消極的だった理由の一つが、例え口約束と言えどもあのような魔導の恥と対等な同盟を結ぶことに抵抗があったためである。璃正や綺礼がロード・エルメロイを推す時臣の意見に口を挿まなかったのも、この時臣の内心を慮ってのことであった。

「マスターにとって、間桐のマスターである雁夜という男が信用に値するとしても、それでも間桐は危険だと某は確信しておりまする」

 幸村の目は、衛宮切嗣の戦略を語った時と同じ、戦場を俯瞰する冷徹な目をしていた。

「そもそも、聖杯戦争の直前になって、魔導の道を捨て出奔していた二男を呼び戻してマスターとして登録したことが怪しすぎます。此度の聖杯戦争に間桐が参加する枠があることなど、六〇年前から間桐の頭首たる間桐臓硯は知っていたはず。五〇〇年を生きる魔術師であれば、何十年という時間をかけて此度の聖杯戦争に備えることは然程難しいことではないでしょう。本来なら、じっくりと準備を整え、万全のマスター候補を育てていて然るべきでしょう。それなのに、用意したマスターは如何にも即興でマスターになった男としか思えない経歴。何か裏があるはずです」

「裏?」

「そうですな、簡単な想定であれば実は間桐雁夜が出奔していたのはただの偽装であり、即興のマスターという経歴は全て嘘。経歴を偽装してまで育て上げた間桐の秘密兵器などということが考えられましょう。あるいは、間桐雁夜が即興のマスターという経歴が本当だとすれば、間桐臓硯は元々此度の聖杯戦争に参戦するつもりはなかったけれども、何かの事情で急遽参戦することとなり、間桐雁夜程度のマスターしかそろえられなかったという可能性もあるやもしれませぬ」

 幸村の推測には釈然としていないのか、時臣も首を傾げる。

「間桐家が聖杯戦争を見送るということが、ありえるのだろうか?」

「さてな。次回の聖杯戦争に確実に勝つための策があって、そこに全力を投入しているのか、はたまた何か事前に準備していた策が失敗したか、あるいは、聖杯戦争そのものに何かの危うさを感じているか……」

「聖杯戦争に、危うさですか?」

 聖杯を真摯に求める時臣としては、推測であったとしても聞き捨てならない言葉だ。何故そう考えたのか、詳しい説明を求める視線を向けられ、幸村は淡々と続けた。

「あくまで、推測でしかない。聖杯の獲得を悲願とする御三家の一角が、聖杯を得られる機会を捨てるのだから、それなりの理由がなければおかしいというだけで、確たる根拠がある話ではない。最も深刻な想定が、聖杯そのものが万能の願望器でないというだけのこと。そもそも、某は戦は専門であるが、魔術については門外漢よ。聖杯戦争の仕組みや聖杯そのものに対する知識や考察はお主ら御三家に遠く及ばぬから、某の懸念の正否の検証はお主らがやるしかない」

 本当は、幸村は間桐を全く脅威に思っていない。

 ケイネスを会談の相手に選んだのは、雁夜と時臣が話し合おうとしてもその場で戦闘が始まることが目に見えていたからだ。もちろん、時臣が負けるはずがないが、ランスロットの技量と無毀なる湖光(アロンダイト)は厄介であり、こちらも正面から戦うとなると全力で挑まなければならない。

 相手に会談を見せつける手はずを整えた状態で戦闘となれば、戦闘の様子も筒抜けとなる危険性がある。鎧兜を展開すれば、幸村の真名は確実に看破されるだろう。序盤で真名を晒すことのデメリットと、ここで間桐を退場させるメリットを比べれば、前者の方が遥かに重い。

 また、間桐の頭首である間桐臓硯は、前回の聖杯戦争でアインツベルンが召喚したアンリマユが聖杯戦争のシステムを狂わせていると判断している。だからこそ、その影響がどの程度のものか見極めることが先決だと考え、静観に徹する構えを取っているのだと幸村は知っていた。

 だから、聖杯がどの陣営の手に渡るにせよ聖杯戦争の不具合の正体を確かめるまでは決して臓硯は動かないと幸村は確信していた。第五次聖杯戦争でも、臓硯が動いたのはマキリの杯が完成したHFルートだけということから分かるように、臓硯は非常に腰が重い。負けるはずのない状況が整うまでは、臓硯は動かない。

 しかし、第四次聖杯戦争において、間桐にいかほどの勝利の可能性があろうか。雁夜の魔術師としての素養は龍之介以上ウェイバー以下であり、しかもサーヴァントは燃費最悪のバーサーカー。一度戦闘をさせれば小一時間は消耗でまともに動けない体たらく。

 雁夜自身の妙な強運は評価するが、それだけだ。勝ち筋が全く見えない。

 そして、臓硯が動かない以上、間桐雁夜は脅威たりえない。時臣への恨みを募らせた雁夜ならば時臣が挑発すれば九分九厘乗ってくるだろうし、時臣が慢心を一切捨てれば雁夜なぞ瞬殺できる。

 上手くいけば、雁夜を瞬殺して、時臣がバーサーカーのマスターに成り代わることだってできるかもしれない。正直なところ、現時点で幸村にとって最も脅威でない陣営が、間桐だと言ってもいいかもしれない。

 にもかかわらず、敢えて間桐の脅威を煽ったのは、臓硯の静観を出汁にして時臣に聖杯戦争そのものへの違和感を抱かせるためである。もしも、この世界の聖杯がアンリマユに汚染されているとすれば、その果てに待っている結末は衛宮士郎という守護者を生み出した地獄の襲来だ。

 世界がエミヤシロウという守護者の誕生を望むのなら、聖杯戦争を原因とするあの大災害は避けられない運命なのかもしれない。ただ、それでも原作に介入する機会を与えられておきながらあの結末をただなぞるだけということも芸がない。

 幸村は特にバッドエンドが好みというわけではないし、せっかく原作に介入できるのなら、原作の登場人物が迎えるIF(もしも)のハッピーエンドを見てみたいという人並みの希望があった。だから、そのためにやれることがあるならば幸村は躊躇しない。

「それと、マスター。ロード・エルメロイとの約束なぞあてにしてはなりませぬぞ。あそこでロード・エルメロイと結んだのは、最後の二騎になるまでの不戦協定。しかもただの口約束です。そんな口頭禅(リップサービス)なぞ、まったくあてにしておりませぬ。喧嘩別れに終わった方がむしろ敵か味方かがはっきりするくらいでしょうな。そもそも、起請文を交わしてもなお、裏切り、寝返り、同盟破りなどということは起こりうるのです。本気で約束を守らせたいなら、約束を守ることによる利益を与える必要があります」

「でも、約束を破るのは……」

「利益のない約束なぞ、都合一つで破られるものです。約束は破る、あるいは破られることも視野に入れておかねば、勝利を掴むことはできませぬ」

 時臣も幸村の言葉に戦国武将としての価値観を垣間見た。

 幸村の生きた時代には、同盟破り、協定破り、裏切りなど珍しい話ではなかった。他者との約束を守ることが自分の利益にならないのであればあっさりと反故にする。信頼を担保するはずの人質や婚姻関係すら無視されるのだ。

 ひょっとすると幸村も、マスターとサーヴァントの契約関係を同じような感覚で考えていないかと時臣は不安に駆られる。また、凛が幸村に憧れていることは明らかだ。幸村の影響を受けた凛が、自分の利益のために信義をないがしろにすることをよしとしてしまっては、問題がある。騙し、騙し合いは魔術師の常ではあるが、少なくとも信義を軽く見すぎることは品格を疑われる要因にもなる。

 そんな時臣の内心を見透かしたわけではないが、幸村も苦笑しながら先ほどの自身の発言に補足をいれる。

「マスター、一応言っておきますが、某とて信義や契約を軽んじてはおりませぬ。武田家滅亡後短期間に五度も主君を変えている我が父のことを言われると痛いところもありますが、少なくとも某と兄上は信義と忠義に尽くすことをよしとして生きてきたと思っております。ただ、いざとなればそのようなものを自身の利益のために何食わぬ顔で投げ捨てる人間も世の中にはいるということを理解してくだされ」

 幸村の発言に、凛は胸をなでおろす。やはり、幸村は忠義心溢れる英雄なのだと安心する。

「まぁ、ロード・エルメロイとの約束なぞ、マスターが気にする理由がないのですがな。なにせ、あれは時臣殿とロード・エルメロイの間の協定。そもそも、マスターが結んだ協定ではありませぬし、マスターが時臣殿に全権を委任した事実もない。某も、一度も時臣殿がマスターだとは言っておりませぬし、時臣殿もまた某が自身のサーヴァントであるとは一言も言っておりませぬ。ロード・エルメロイが勝手に某と時臣殿を結び付けただけのこと。時臣殿は残りのサーヴァントが二騎になるまでロード・エルメロイと戦うことはできませぬが、某とマスターはそのような約束をしていないのですから、あの間抜けな男に奇襲をしてやることもできますぞ」

「え……もしかして、最初から約束守るつもりなかったの!?」

「守るもなにも、時臣殿が個人的にロード・エルメロイと決闘する約束を取り付けただけではないですか。約束を守るべきなのは時臣殿で、そもそも我々には全く関係のない話です」

 時臣が頷く。彼も高貴なるものは信義を軽んじてはならないと信じているが、話術に乗せられた間抜けを庇う義理も人情も持ち合わせていない。むしろ、ハイアットホテルに向かう途中で時臣をマスターと誤認させた上で時臣とケイネスの間で不可侵協定を結ぶという策を幸村から聞かされた時臣は、迷うことなく賛同したくらいだ。

「戦というのは、虚と実が入り混じるもの。それを見極める洞察力と、虚と実を使い分ける判断力を身につけねば、戦には勝てませぬぞ」

 諭すような口調で語る幸村を見た凛は、改めて自分が戦争をしているのだと実感した。




多分、次回は各陣営の動きからになるので戦闘シーンまではもうしばらくかかると思います。
昔から会議とか説明シーンが好きで、中々話がすすまないのが私の悪い癖です。


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第16話 上手く操ったな

お久しぶりです。
流石に本編を1年放置はまずかろうとストックを放出してみました。


『時臣君、では次はどう動くつもりかね?』

 通信機ごしに、璃正が時臣に問いかけた。

 幾度かの軍議を通じ、璃正は幸村の戦国を生き抜いた真田一族の名に恥じぬ強かさと智謀に何度も唸らされた。当初はサーヴァントに聖杯戦争の方針を左右されることに抵抗があった璃正も、幸村の意見に信を置きはじめていた。しかし、璃正は陣営としてのトップはあくまで時臣であり、戦略の決定は時臣が下すべきだと考えていた。

 時臣が璃正の友人の息子ということもあるが、聖杯戦争の真実――サーヴァントは聖杯を起動させるための贄にすぎないということを知る璃正にとってサーヴァントに陣営の主導権を任せることに未だ抵抗があるのだろう。

「まず、現状の確認をしましょう。綺礼。ロード・エルメロイ以外の陣営の動きは?」

『現在、聖杯戦争の参加者として把握しているのは、我々以外にはロード・エルメロイ、間桐、アインツベルン、そして先日アーチャーが討ち果たしたキャスターのマスター。以上の四名です。残る最後のマスターについては、既に召喚を行ったことは把握しておりますが、素性も、本拠地も把握できておりません』

「最後のマスター、まだ分からないんだ……」

 凛のつぶやきを拾った幸村が、通信機に届かない小声でそれに答えた。

「何、動きがあればアサシン殿の網に必ずや引っかかりましょう」

「でも、もしもすごいサーヴァントを召喚していたらって思うと心配になるじゃない。他の参加者は全部分かってるのに、一人だけまだ見つかってないんだし、最後まで隠れて出てこない卑怯者だったら嫌だし」

「なに、最後のマスターもロード・エルメロイの工房に使い魔を放っておりますし、そのうち必ず、姿を現します。今はまだそれほど警戒する必要はありますまい。必要以上に警戒すれば、こちらが動けなくなってしまいますぞ」

 凛と幸村が小声でやり取りをしている間に、綺礼の報告は間桐に関するものまで進んでいた。

『間桐邸には動きは見られないようです。雇っている世話係にも暇が出されているらしく、長男の鶴野以外の人の出入りは確認できておりません。』

 綺礼は、さらに続けた。

『次に、アインツベルンですが、先日城から退去したホムンクルスの一団以外の人の出入りは確認できておりません。とはいえ、あの森は広大な上に幾重の結界で覆われています。アサシンの気配遮断スキルをもってしても城の近くまで忍び込むことは難しく、森の外縁部にしか見張りをおけておりませんし、あの広大な森の外縁を全て見張れるだけの人員は割けておりませんので、アインツベルンのマスターがアサシンの監視の隙を窺って既に城に入っている可能性も否定できません』

「綺礼殿、一つよろしいか」

 幸村がここで口を開いた。

『何でしょうか』

「アインツベルンの森には何名のアサシン殿を配置しておられるのか」

『現在、五人を割いています』

 アサシンを何処に何人配置しているかは常に把握しているらしく、綺礼は幸村の問いに即答した。

「位置は?」

『城を取り囲むように円状に、等間隔で配置しております』

「結界や罠の配置に偏りはありませぬか」

『探知の結界については、四方に万遍なく敷かれているようです』

 幸村は、工房の片隅に置かれていた冬木市の住宅地図を通信機の前に広げた。

「アーチャー、何か気になるの?」

 凛が訝し気な表情を浮かべながら問いかけるも、幸村は地図を前に指を左右に動かしながら考え込むだけであった。時間にして二〇秒ほどであろうか、幸村はそこでようやく口を開いた。

「……時臣殿。アインツベルンの城に通じる道、舗装され、車の走行に支障のない道で、この地図に記載されていないものはありませぬか」

 時臣は突然の問いかけの意図が分からず、目を瞬かせた。

「いや、私の知る限りではアインツベルンの城へ至る道はその地図にもある国道以外にはない。とはいえ、国道で行けるのは森の入り口までで、そこから先は車が通れるような道の整備はされていないため徒歩で向かう必要があるはずだ」

「では、冬木市とは反対側、隣県側からアインツベルンの森に至る道もないということでよろしいか?」

「その通りだ。アインツベルンの森へ向かう道で、途中までとはいえ整備されているのは冬木市から西に続くこの国道だけだ。隣県側からは、山道も整備されていないため、山を越えて道なき道を進むしかない」

「なるほど、よく分かりました。その上で一つ、申し上げたき儀がございます。よろしいでしょうか、マスター」

「いいわよ、アーチャー」

 凛の了解を得て、幸村は続けた。

「綺礼殿。アインツベルンへの見張りは全て、森から引かせてはいかがか」

『森を見張るのではなく、森に通じる道を見張るべきであると?』

 ここまでの時臣と幸村のやり取りも通信機を通じて綺礼は把握していた。そのため、幸村の考えを察することは難しいことではなかった。

「うむ。森中を監視することは非効率的。いざ、アインツベルンに動きがあった時には増援を森の中に送ればよかろう」

『国道を見張るだけであれば、現在アインツベルンの森を監視している五人を割けばアインツベルンに動きがあった時にも十分に対応できるでしょう』

 綺礼と幸村の間ではとんとん拍子に話が進んでいく。しかし、璃正や時臣はともかく、未だ幼い凛には話がよく理解できなかった。

 しかし、そのことを綺礼には知られたくない。そこで凛は傍らに立つ幸村に向け、通信機に届かないくらいの小さな声で問いかけた。

「アーチャー、どうして直接森に入って監視しないの?」

 凛が何故小声で問いかけているのか、幸村もその理由を察し、屈んで凛の耳に顔を寄せた。

「アインツベルンの城の周囲に張り巡らされた結界を潜り抜けることはアサシン殿にとっても容易ではありませぬ。となれば、結界に捉えられぬ外縁部から城を見張るほかないわけですが、この森は広大で、隙間なく結界の外縁を見張るには多くの人員を割く必要がありましょう。現在、他の陣営の偵察も含め、アサシン殿には他にも任務が無数にあるとなれば、このようなところに人員を多くは割けませぬ」

 凛も、幸村の主張を理解し、小さく頷いた。

「でも、どうして道路だけ見張るのよ。道路を使わなくたって、歩いて進めるんじゃないの?」

「新都からアインツベルンの城までは直線距離にして三〇kmはあります。ライダーや飛行する乗り物を有するサーヴァントは例外ではありますが、サーヴァントがマスターを背負って移動するような距離ではありませぬ。できないわけではありませぬが、サーヴァントがマスターを背負って深夜の市街地を爆走することの利などまずありますまい。となれば、森の入り口までは自動車で乗り付け、そこからサーヴァントを伴って攻め入る。それが最も効率的なやり方かと」

「じゃあ、道路の反対側からお城に向かうってことはないの?」

「その可能性がないというわけではありませぬ。城の東側の国道側はいわば追手で、西側の山間部は搦手といえましょう。ですが、結界や罠の配置によほど偏りがないのであれば、態々移動に不便な搦手から攻める利がないのです。もし、搦手からの攻め手があるとすれば、追手に同時に陽動を仕掛けるくらいしょう」

 幸村の説明で、凛も理解したのか小さく頷いた。それを横目に、時臣が綺礼に命じる。

「よし、綺礼。アインツベルンを偵察するアサシンの配置は国道を中心としたものに変更してくれ、各陣営に新しい動きがあるまでは、しばらくそのままでいい」

『かしこまりました、師よ』

「よし、ではこれで現状の確認は終わりだ。ここからは、我々の今後の方針を決めなければならない」

 時臣は机に置かれた紅茶の注がれたティーカップを手に取り、一口呷ってから言葉をつづけた。

「まず、あの会談の結果、ロード・エルメロイが確実に動くだろう。態々私が既に武功をあげていることを伝えたのだ。ロード・エルメロイが武功をあげるために聖杯戦争に参戦したのなら、御自慢の工房に籠って敵を待つのではなく、打って出なければならない」

 幸村も時臣の意見に同意する。

「某もそう思う。武功を求めて参戦した以上、既に時臣殿が自らの手で他のマスターの首級をあげていることを知れば、自分もそれに負けていられないと考えるはずだ」

「これで、ロード・エルメロイがあのホテルの中に作り上げた鉄壁の要塞に引き籠ることはまずなくなったと見ていい。そして、ロード・エルメロイが協定を正しく履行するつもりなら、狙う相手は間桐か、アインツベルンか、綺礼かまだ見ぬ外来のマスターということになるだろう」

 ケイネスが約束を破る可能性は限りなく低いと時臣は踏んでいる。己の名にかけて誓った約束を舌の根の乾かぬうちに翻す卑劣な男ではないとみていたからだ。しかし、流石にケイネスがその約束を踏まえた上でどの陣営を標的とするかを断言できるほどの自信がなく、時臣は顎に手をあてて唸る。

「しかし、ロード・エルメロイには地の利はない。日本国内にこれといった協力者の伝手もない以上は素性の分からない外来のマスターを探し出す手段はないと言っていいだろう。その上で敵を求めるというのであれば、どう動くか」

『拠点の判明している、アインツベルンか間桐の屋敷に攻め込むということは考えられないでしょうか?』

 綺礼が口を開いた。

『ロード・エルメロイから戦いを求める以上は、標的の居場所が分からなければ始まりません。そして、時臣師を除けばロード・エルメロイが居場所を把握している拠点は間桐とアインツベルンのみでしょう』

「綺礼。君の意見も分かるが、魔術師の工房に攻め入るということの不利は魔術師であればだれであっても意識せずにはいられないものだ。いくらサーヴァントがいるとはいえ、歴史を重ねた魔導の大家の工房に攻め入るのであれば返り討ちにあってもおかしくない」

 時臣からしてみれば、敵対する魔術師の本拠地に攻め入ることは可能であれば避けたい選択肢であった。

 魔術師の領域というものは、侵入者を生かして帰さないための処刑場だ。幾層もの結界、数多のトラップ、知恵の限りを絞った仕掛けを突破することは簡単なことではない。また、工房のバックアップを受けた魔術師と戦うとなると、不利に立たされることは間違いない。

 当然、自身と同じように魔導の道を究めようとする魔術の徒であるケイネスも同じ結論に至るはずだという確信が時臣にはあった。

『他のマスターの首級を求めて攻勢に出なければならないが、かといって他の魔術師の工房に攻め入ることは避けたいというジレンマというわけか』

「ええ。その通りです璃正さん。そのジレンマの中で、ロード・エルメロイが如何なる選択をするのか。それが聖杯戦争の緒戦に大きな影響を及ぼすことでしょう。ですが、これ以上は不確定要素が多すぎるので予測することは難しい。彼が動いた時に即座に把握し、対応できる体制をつくることが肝要かと」

 悩み、思考を重ねる時臣と璃正。通信機の間に生まれたしばしの沈黙を打ち破ったのは、幸村があっけらかんとした口調で言い放った一言だった。

「時臣殿、現時点でロード・エルメロイの取れる選択肢など、考えるまでもあるまいて」

『どういう意味だね?アーチャー』

 通信機越しに璃正から問いかけられた幸村は淡々と自身の考えを説明する。

「時臣殿がロード・エルメロイの胸中の葛藤を予測しているということは、おそらくロード・エルメロイも同じように考えていると見ていいであろうな。魔術師の価値観とやらは某にも分からないが、敵の城を攻めることの危険性は、時臣殿と同格の魔術師であるロード・エルメロイも同様の理解をしておろう。しかし、あの男にとって最も手に入れたいものは武功なのだ。あのホテルに亀のように閉じこもって、敵が攻め寄せることを待つなどという消極的な姿勢を取ることができない以上、戦を仕掛けるしかない。例えどのような葛藤があろうとも、最後はそこに終着するのだ」

 幸村の指摘は時臣にも頷けるものだった。

 時計塔に潜り込ませていた協力者による調査報告によれば、ロード・エルメロイが聖杯戦争に参戦した理由は時臣のような根源への到達というものではなく、あくまで武功を挙げることだという。

 最終的に生き残り、根源へ到達することを目指す時臣とは、そもそも勝利条件が違うのである。

「敵マスターと尋常に果し合いを行い、その首級を持ち帰ることがあの男にとっての最優先目標よ。戦を仕掛けるのであれば、単純に選択肢は攻め入るか、釣り出すかの二択に絞られよう。如何にして攻め入るか、はたまた如何にして釣りだすか。方法はいくらでも考えられるがな。そして、最も確実に敵マスターと果たし合う手段は敵の城を攻めること。サーヴァントがいくら手柄をあげても、あの男自身が手柄をあげねば意味がないのだ。たとえどれだけの危険を孕んでいるのか理解していたとしても、戦う理由がそこにある以上は避けられぬ」

「だからこそ、場合によっては本拠地の分かっているアインツベルンか間桐を攻めることも厭わないということか」

「否、アインツベルンではない。間桐だ」

 幸村は断言した。

「綺礼殿の情報によれば、アインツベルンの森には、未だマスターは着陣しておらぬという。主のおらぬ城を落としたとしても、それは武功にはならぬ。ただの空き巣の所業よ。時臣殿に焚きつけられたロード・エルメロイがそのような下衆な真似はできぬであろう。であれば、狙うは時臣殿以外で唯一根城が分かっている間桐しかあるまい」

「でも、それならアインツベルンが城に入るまで待てばいいんじゃないの?」

 凛の問いに、幸村は首を横に振った。

「アインツベルンと間桐。共に同じ聖杯戦争をつくりあげた御三家であり、歴史の古い一族。武功を挙げることを狙うロード・エルメロイにとっても勲功として十分な相手と言えましょう。ですが、それは勲功としての価値に大きな差はないとも言い換えられます。どの陣営がどのクラスの、いかなる英雄を召喚しているのかも分かっていない現状においては、戦略的にもどちらを先に相手にしても大差はありませぬ。つまり、敢えてアインツベルンのマスターの入城を待ってまで、アインツベルンのマスターの首級を優先すべき理由はないのです」

「じゃあ、雁夜おじさんが戦うんだ……」

「よい機会です。間桐がこの聖杯戦争にどれだけ本気であるか確かめることができましょう。間桐雁夜が間桐の切札か、あるいは、間に合わせの張りぼてか。それが分かれば、今後の方針も立てやすくなるというもの。ロード・エルメロイの、そして間桐雁夜のお手並み拝見と行きましょう」

 時臣は、幸村の戦略眼に何度目か分からない感嘆の念を抱いていた。

 おそらくは、ロード・エルメロイを挑発すると提案していた時から、こうなることを予測していたのであろうという確信が時臣にはあった。

 そして、それを今まで口にしなかった理由に警戒する。日本史においても類まれなる忠義者として名を馳せた幸村であるが、同時に彼は表裏比興の者と謳われた真田昌幸の子でもある。凛をマスターとして仕えてはいるものの、果たして彼の忠義は本当に凛にあるのであろうか。

 本当に凛に忠義を尽くしてくれるというのであれば、とても頼もしい存在であることは間違いない。

 しかし、もしも彼の態度に裏があるのなら。凛に忠義を誓う演技をして、その裏に何か企みがあるのなら。

 このサーヴァントの助言を素直に受け入れることにも危険があるのかもしれない。

 時臣は幸村の評価を上方修正すると共に、決して警戒心を捨ててはならないと自身に戒めた。




 投稿が遅れて申し訳ありません。
 昨年に転勤して引っ越ししてからというものの、夕方以降に熱を出して朝には平熱に戻るという体調不良が多くなりまして、中々執筆する気力がなかったもので……。
 まぁ、熱も微熱レベルですし、少し気怠いくらかな?と感じるくらいだったので、特に病院に行ったりはしていないのですが。
それでもなんとか、3月末には3話分完成していたのですが、「原作と同じ流れでいいのか、お前」と悪魔が耳元でささやきまして、プロットをひっくり返してしまいました。
憐れ、3話分はプロットから外れてお蔵入り。結果、全て書き直しと相成りました。

なお、次話の予定としては、
第17話「ライダー陣営視点」(完成済。来週月曜日投稿予定)
第18話「セイバー陣営視点」(進捗60%、完成次第投稿予定。来週中に書き上げられたらいいな)
第19話「ランサー陣営視点」(進捗10%、完成次第投稿予定。今秋には書き上げたい)
第20話「バーサーカー陣営視点」(未定。年内には書き上げたい)
となっております。
最近は熱を出す頻度も減ってきたので、どうにか投稿ペースを上げたいと思っています。


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第17話 全く面白くない

 今回はライダー陣営の視点です。


 ウェイバー・ベルベットは遠坂、間桐、アインツベルンの御三家の拠点には使い魔のクマネズミを差し向け、その動向を監視していた。

 聖杯戦争に参加することが確実な家であり、かつ、拠点が確定している陣営なのだ。ここに監視の目を入れない理由がない。ただ、現時点ではアインツベルンの城にはマスターが入っている様子がないため、専ら監視は間桐と遠坂の邸宅が中心となっている。

 そもそも、アインツベルンの森は広大であり、それを網羅できるほどの使い魔の監視網を敷くことはウェイバーのような代も浅く天賦の才も持たない魔術師には不可能な芸当だった。なお、ウェイバー本人は、物量を頼みにするような非効率的な魔術なぞ愚の骨頂であり、自身は効率的な、新時代のやり方をしているだけだと自分に言い聞かせてはいるが。

 そして、遠坂時臣がサーヴァントを引き連れて外出する姿をネズミの眼はしっかりと捉えていた。

 使い魔の視界を通じて時臣のサーヴァントのステータスを読み取ったウェイバーは驚愕した。自身のサーヴァント、ライダーのステータスを幸運値以外で全て上回り、さらにはC以下の能力がないのだ。

 サーヴァントの外見からは真名やクラスを読み取れるような特徴は見受けられない。黒髪黒目のモンゴロイド系の20代半ばほどの男性という情報だけではその正体にたどり着くことは不可能に近い。宝具やスキルこそ現時点では不明であるが、軒並み高い能力をそろえた遠坂のサーヴァントは、ウェイバーでも一目見ただけで理解できるほどの強敵であった。

 流石、聖杯戦争の主催者たる御三家の召喚したサーヴァントというだけのことはあるとウェイバーは時臣とそのサーヴァントへの警戒心を強めた。

 そして、時臣のサーヴァントは時臣と共に邸宅の前に止まったタクシーに乗車し、そのまま新都方面へと走り出した。

 しかし、タクシーに乗った時臣を追いかけられるほどの走力は、ウェイバーが視界を借りている鼠にはない。ウェイバーは急遽、家主夫婦に暗示をかけて間借りしているマッケンジー邸から新たなカラスの使い魔を放ち、時臣の行方を追った。

 これまで大きな動きがなかった戦況がついに動いたと息巻くウェイバーであったが、それに対して彼の召喚したサーヴァント、ライダーは呑気なものであった。昼間から煎餅を齧り、レンタルビデオ屋で借りてきたビデオを見るか、ウェイバーに買わせた軍事情報雑誌を読み漁るか。

 そもそも、サーヴァントは実体化しているだけでも魔力を消費する。無駄な魔力の消耗を抑えるために霊体化していろとウェイバーは何度も言い聞かせているのだが、ウェイバーが何を言ったところでライダーは柳に風と受け流すだけだ。

 休日をダラダラとすごす世のお父さんか、あるいはたまの休日を満喫するミリオタの独身貴族と見間違うような怠けっぷりであるが、このサーヴァント、齷齪働く世の企業戦士とは全く違う。未だ挙げた戦果はゼロ、それどころか、ウェイバーの財布と胃壁へダメージを与える以外のことは何もしていない。

 これで、世界史に名を刻む稀代の大英雄、征服王イスカンダルだというのだから、ウェイバーは実物を知らぬくせに適当な人物像を記録に残した歴史家どもに対して文句どころか拳骨をくれてやりたいと思わずにはいられなかった。

 この二〇〇〇年歴史家とやらは一体何をしてきたのだろうか。自分の妄想歴史観を垂れ流してきただけだというなら、許しがたい怠慢である。二次資料だとか、後世に編纂された物語をもとに自分に都合よく歴史を解釈するのなら、それはただの作家である。

 歴史家共にこの征服王イスカンダル(自称)の姿を見せてやりたいとウェイバーは思った。この姿のどこに英雄としての片鱗を感じられるというのだろうか。今が戦時中だという緊張感は欠片も感じない怠けように、ウェイバーはフラストレーションを溜めていた。

 しかし、この役立たずの筋肉達磨に怒鳴っている余裕もウェイバーにはない。時臣を見失ってはならぬと必死に上空から捜索を続けた結果、どうにかウェイバーは冬木ハイアットホテルの前に停車したタクシーを見つけることができた。

 時臣とそのサーヴァントがタクシーから降りて建物の中に入ったことを確認したウェイバーは、その後も隣接する建設途中のビルの足場に潜ませたカラスの視界を借りて、動きがないか観察を続けた。

 できればこのホテルの中にも使い魔を放ち、時臣の動向をつぶさに観察したいところであったが、建物の中にネズミやら猫やらの動物を放っても自由に行動することは難しい。

 使い魔が客やスタッフに見つかれば即座に駆除されてしまうだろうし、仮に駆除を免れたとしても広い建物の中を人の目を盗んで移動するとすれば大きな制約を受ける。

 使い魔そのものに認識を阻害する魔術をかけるなり、ホテルのスタッフに暗示をかけて使い魔を補助させるなり、魔術の使い方次第ではホテルの内部の様子を伺う方法はそれなりにあるのだが、やはりウェイバーの技術ではそのようなことはできないため、結局はホテルの外に使い魔を待機させ、外から様子を探ることしかできなかった。

 サーヴァントまで引き連れて、時臣がホテルの中で何をしているのか。内部の様子が分からないことに焦れていたウェイバーであったが、偶然にも使い魔のカラスが頭を上げたタイミングで視界の中に時臣の姿を捉えた。

 ホテルの高層階、ガラス張りのレストランの窓際の一席に遠坂時臣がいた。時臣とそのサーヴァントとテーブルを挟んだ向かい側は、二人の男の姿。時臣と向かい合う男の内、一人はウェイバーも見知った顔だった。

 その男の名は、ケイネス・エルメロイ・アーチボルト。

 時計塔で教鞭をとっていた講師の一人であり、ウェイバーもその教え子の一人である。

 一瞬、ウェイバーはケイネスの登場に思わず息を呑んだ。

 しかし、考えてみれば、この結果は当然のことであった。

 あの傲慢で鼻持ちならない権威主義の権化とも言うべきケイネスが、聖杯戦争に参加を表明しながら途中で降りるなどということはありえないことなのだから。それも、触媒が奪われたなどという理由で。

 ウェイバーがサーヴァントの召喚に使った触媒--征服王イスカンダルのマントの切れ端は、元々ケイネスが用意していたものだ。偶々、管財課の手違いによってケイネス宛の荷物の引き渡しをウェイバーが任されたために窃盗の憂き目にあったのであるが。

 おそらく、ケイネスは自分の家の権力や婚約者の実家である学部長のコネにものを言わせてどうにか別の触媒を用意し、聖杯戦争に間に合わせたのだろう。

 そして、ウェイバーの視界には、ケイネスとその隣に侍るサーヴァントの姿が捉えられている。

 幸運にもウェイバーはケイネスのサーヴァントのステータスを読み取ることに成功した。

「ハハ……ふ、アハハハハ!!」

令呪が手に浮かんだ瞬間に匹敵するほどの歓喜。ウェイバーの顔は悦に歪み、口からはとめどなく笑い声がこみあげる。

 月刊○を読み耽っていたライダーも突然のウェイバーの豹変に、訝しげな表情を浮かべながら振り向いた。

「なんだ、あのあれだけ偉そうなこと言っといてこの程度のサーヴァントしか召喚できなかったのか!!ざまぁみろ!!」

 思わず、歓喜の叫びがあふれ出る。最高にスカッとした気分をウェイバーは味わっていた。

 ウェイバーが読み取ったケイネスのサーヴァントのステータスは、敏捷値を除けば全てライダーに及ばない。

 あの鼻持ちならない貴族きどりのエリートが召喚したサーヴァントの力を、自身のサーヴァントが上回ったことを知ったウェイバーは、痛快でたまらなかった。

 これは、己の悲願の証明。その第一歩である。

 代を重ねて増やしてきた魔術回路の量でも、魔術刻印の密度でもない。優秀な魔術師とは、少年漫画の主人公のように優秀な血統や生まれ持った特殊体質で決まるものではなく、より真摯に魔術と向き合い、魔術に対する深い理解と、最小の労力で最大の効果を得る効率を突き詰めることによって至るものなのだ。

 あの高慢なケイネスが召喚したサーヴァントのステータスを自身が召喚したサーヴァントが上回った。それは、決して自身がケイネスに劣る存在ではないことを示している。時計塔では、血統だの一族の歴史だのが幅を利かせていたが、こと戦闘ということになればそのようなものは全く役に立たないことを証明している。

 ケイネスに、勝てる。今まで具体的なイメージが全くなかった勝利のビジョンが、ウェイバーの脳裏に浮かぶ。ライダーの戦車が、ケイネスの貧弱なサーヴァントを撥ね飛ばす姿を幻視したウェイバーの興奮はさらに高まった。

 なお、ウェイバーはケイネスの用意した触媒があってこそライダーを召喚できたのだが、そのようなことはケイネスに対する優越感に浸るウェイバーの脳裏からはすっぽりと抜け落ちている。

 この日本には、人の褌で相撲を取るという諺があるのだが、生粋のイギリス人であるウェイバーには通じないだろう。

「おい、坊主。何を高笑いしておるか。何かを勘違いした間抜けのような笑いなぞ、気色悪いぞ」

 突然のハイテンション、さらに意味不明な高笑い。気持ち悪いものを見るかのような視線をライダーはウェイバーに向けていた。

 しかし、ライダーが何を言おうと、有頂天となったウェイバーの耳にはその言葉は届かない。

「何が名門だ!何がエリートだ!何が歴史を重ねた一族だ!あの程度のサーヴァントしか召喚できないで、よくもあそこまで偉ぶれるもんだ!ざまぁみ」

「いい加減、鬱陶しいわ!!」

 ライダーのデコピンがウェイバーの額に炸裂する。

 デコピンとは思えぬ鈍い音とともに、ウェイバーの頭が半円の軌道を描いてベッドへとたたきつけられた。

「坊主、何を見たのか知らんが、なんだあの浮かれようは。聖杯戦争に勝利したわけでもあるまいに、浮かれるのは早すぎるだろうが」

 声にできない痛みに悶えるウェイバーにライダーは呆れたような視線を向ける。

 額を襲った激痛と、脳を揺らす衝撃の余韻。加えて、これでもわからないなら、もう一発食らわせるぞという無言の圧力を秘めながら第二射の用意をするライダーの人差し指を向けられたウェイバーの頭の中からは、先ほどまでの身を浸すほどの激しい高揚感は吹きとんでいた。

「それで、何を見たのだ」

 ようやく正気に戻ったかと言いたげな溜息をつきながら、ライダーはウェイバーに問いかけた。

「ああ、遠坂のマスターとサーヴァントが動いた」

 ウェイバーは再び意識をホテルを見張るカラスの使い魔に集中させる。しかし、既に先ほどまでケイネスらが座っていた席には人影がない。どうやら、ケイネスたちは会談を終え、席を立った後のようだった。

カラスをホテルの入り口近くに立つ街路樹の枝に移動させ、ホテルから出てくる時臣らを待ちながら、ウェイバーはライダーに向けてこれまでの経緯を説明する。

「遠坂の屋敷を使い魔で見張っていたら、遠坂のマスターがサーヴァントと一緒に出掛けて、ホテルでケイネス先生--僕を教えていた時計塔の講師と会っている現場を目撃した」

 ライダーは無言で続きを促す。ウェイバーは、使い魔の視界ごしにホテルをタクシーに乗って後にする時臣を見送りながら続けた。

「遠坂のサーヴァントは軒並みステータスが高かった。多分、狂化のスキルがあるようには見えなかったし、三騎士クラスのどれかだと思う。東洋の英雄だと思うけど、スーツに着替えてたし、アクセサリーの類もつけてなかったからどこの英雄かは全く分からない。ケイネスのサーヴァントも、ステータスは読み取れたけど、敏捷を除けばライダー以下で大した敵じゃない。あの陰険講師の化けの皮がはがれたってことだ。あのエリート気取りのデコ」

「またあの気持ち悪い笑いを余に見せるつもりか?」

 ウェイバーが再び悦に浸りそうな空気を感じたライダーが牽制するかのように人差し指と親指で輪を作った。

 ライダーの指から放たれる圧を察し、悦に浸りかけていたウェイバーも、正気を取り戻す。

「……い、今遠坂がホテルからタクシーに乗った。多分、進行方向からすると屋敷に帰るんだと思う。ケイネスは出てきてないから、まだホテルにいると思う」

「そうか。坊主、ホテルからそのケイネスとやらが出てきたらすぐに知らせよ」

 それだけ言い残すと、ライダーは部屋の隅に積まれたミリタリー雑誌を手を取り、再び読書を始めた。

 ライダーのデコピンへの恐怖がなくなったウェイバーはホッと息をつき、再び使い魔の視界に意識を向けた。どうやら、時臣らは寄り道もせずにまっすぐ屋敷へ向かっているようだった。

 それからしばらく時臣の乗るタクシーをウェイバーの操るカラスが尾行していたが、結局はどこにも寄り道することなく時臣らは屋敷に帰宅した。念のためホテルに向かわせたもう一匹のカラスは、いまだホテルから出てくるケイネスの姿を捉えてはいない。

 定点カメラと化した使い魔の制御にはそれほどの労力を必要としないため、ここでウェイバーは思索をする余裕を取り戻すことができた。

 それと同時に、疑問を抱く。何故、遠坂時臣はケイネスと会談をしたのか。それも、態々自分のサーヴァントを白昼堂々連れまわしてまで。

 ケイネスはいまだにホテルから出てくる気配はないが、まさかあのホテルの中で既に戦いが行われ、ウェイバーの視界から消えた僅かな時間でケイネスが敗退しているなどということは考え難い。

 ケイネスがホテル内にある店で呑気にショッピングを楽しむ性格ではないことを、ウェイバーは知っている。であれば、ケイネスがホテルからいまだに出てこないのは、ホテルにケイネスが宿泊しているからだと考える方が自然である。

「ケイネスが泊まってるホテルに、遠坂のマスターが、サーヴァントを連れてやってきた……?」

 ウェイバーの脳裏に、ある可能性がよぎった。

「まずい、ライダー!!遠坂がケイネス先生と組んだぞ!!」

 ウェイバーの脳裏に浮かんだ可能性。それは、ケイネスと遠坂の同盟だった。態々直接対面し、サーヴァントを引き合わせる意味なぞ、ウェイバーにはそれしか考えられなかった。

 そして、もしもウェイバーが予想した遠坂とケイネスの同盟が事実だとした場合、無視できない状況である。

 単純に、サーヴァントが二体いるというだけで、数的に不利となるし、場合によってはマスターが直接敵サーヴァントの脅威にさらされる可能性もあるのだ。

 これが、代行者や執行者といった戦闘のプロであれば話は別であるが、ウェイバーの戦闘力は一般人とほとんど変わらない。大概のサーヴァントはウェイバーが抗える相手ではないのだ。つまり、敵サーヴァントに直接マスターを狙われた場合、ウェイバーは確実に死ぬことになる。

 ウェイバーが焦るのも無理からぬことだった。しかし、それに対し彼のサーヴァントであるライダーの態度はあっけらかんとしたものであった。

「ふむ、それで」

 煎餅をかじりながら、ミリタリー雑誌を読み続けるライダーの姿に、ウェイバーは眉を顰めた。

「それでってお前……」

 何故連戦連勝の征服王が、この危機的状況を理解できていないのかウェイバーには理解できなかった。仕方なく、自分が分析した現在の状況を懇切丁寧にこの怠け者に説明してやろうとしたその時、ライダーの空気が変わった。

「この程度の揺さぶりを一々大げさに受け取ることもあるまいて」

「……揺さぶり?」

 ライダーの言葉の意味を、ウェイバーは理解できないでいた。それを察したのか、ライダーは大きなため息をついた。

「いいか坊主。遠坂とケイネスとやらが組んでいる。まぁそれは間違いないだろう。だがな、重要なことはそれではない。問題は、何故やつらが白昼堂々と仲良くしているところを見せつけたかということだ」

「見せつけた?……いや、そうか。確かに、組んでいるとしても、別に態々サーヴァント同伴で会いに行かなくてもいい。それこそ、白昼堂々と会わずとも、内密に会う方法だっていくらでもあるはずだ」

 ウェイバーも、コンプレックスである魔術の才が絡まなければ柔軟な思考の持ち主である。僅かな考察で、ライダーが言わんとするところを察した。

「左様。こやつらは、組んでいることを我々に見せつけたかったのだ。己のサーヴァントの姿を晒せば、監視の目が確実に食いつくことを見込んでな」

「でも……どうして、そんなことを。組んでることがバレたら対抗されるだけだろう?」

 ウェイバーには、組んでることを見せつけるメリットが分からなかった。敵が手を組んでることが分かれば、こちらもそれに対抗して味方を集い、対抗する。それが常道だ。組んでいることが分からなければ、挟撃される危険もあるが、分かっていれば警戒だってできる。裏で手を組むならともかく、正面から手を組んでいることを見せつけることの意味が理解できなかった。

「だから、言ったであろうが。見せつけるためだと」

 ライダーは続けた。

「確かに、監視させることそのもののメリットはない。自分の手の内を晒しただけであるからな。おそらく、自分の手の内を晒して、敵の動きを誘っておるのだ。その遠坂のマスターとやらはな。そのくせ、実際に晒したのはサーヴァントの容姿のみ。生前の顔見知りが聖杯戦争に参加しているか、写真でも残っていない限りその程度の情報に何の意味もない。つまりは、デメリットもないに等しい。」

「メリットもないし、デメリットもない……」

「だから、揺さぶりなのだ。この会合を見ていた奴らは坊主、貴様だけではあるまいて。そやつらは今、動くか動かないかの選択を突き付けられた」

 ウェイバーにも、理解できた。

 今まではアサシンによるマスターの暗殺を警戒したり、序盤から積極的に戦いを仕掛けて自分の手札を晒すことを躊躇していたマスターも、同盟が明るみに出た以上は静観してばかりではいられまい。

 自分たちも対抗して同盟を組むか、あるいは挟撃により潰される前に各個撃破するか。どちらにせよ、動かなければ状況は不利になるだけだ。

「同盟を組むなら、アインツベルンか、マキリか。どっちも拠点はわかってるけど、抱えてるサーヴァントも分からないし、いや、でも…………」

 いきなり同盟を組むといっても、ウェイバーにはケイネスと遠坂以外の陣営のマスターの情報や、サーヴァントの情報など皆無に等しい。

 しかし、だからと言って孤立無援のまま戦うことも避けたい。ウェイバーは頭を抱えるが、それに対してライダーは何も気にするような様子を見せていなかった。

「おい、坊主。頭を抱えている暇があるならまず出陣の支度をせんか。日が沈んだら出るぞ」

 ウェイバーはいきなり出撃を主張するライダーに訝しげな視線を向ける。

「どうするんだよ。どこと同盟を組むのか、もう決めたのか?それとも、ケイネス先生か遠坂を連携される前に叩くのか?」

「いや、どこか適当にその辺にいる奴を狩っていく」

「ふざけるなよ!!」

 遠坂がこちらに揺さぶりをかけているという推理から、いきあたりばったりの戦いを挑むという結論を導き出した方程式が理解できないウェイバーは、その苛立ちをぶつけるかのように腰かけていたベッドに拳を叩きつけた。

「遠坂が揺さぶりをかけてる中なんでそんな無策に動くんだよ!?こっちも対抗する手段を考えないと」

「揺さぶりを受けたのは余のみということはあるまいて。他にも、揺さぶりに耐えかねて動く奴は必ず出てくる。そやつらを、見つけた端から狩っていく!どのような敵と相まみえるかも分からぬが、そのような戦こそ心躍るではないか!」

 敵の策を見破っておきながら出たとこ勝負を挑むライダーの精神がウェイバーには理解できない。

 どこに心が躍る要素があるのか全く理解できないまま、その夜ウェイバーは強引にライダーの戦車(チャリオット)に積み込まれ、悲鳴と共に夜空に連れ出された。




 どうにか、次話も書き上げられたので、来週もこの時間に投稿する予定です。

 やはり、前回のあとがきで書いた不調をほっとおくのはまずいので、一度病院行くべきなんですかね。
 しかし、どこの科にかかるべきか……


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第18話 戦は勝たなければ意味がない

セイバー陣営の視点です。


 冬木市内、新都方面の一角にそのホテルはあった。

 同じホテルとはいえど、その設備は中心部に聳え立つ冬木ハイアットホテルと比べるのも烏滸がましい安宿である。リーズナブルで、大通りにも面していないこのホテルは、世間に憚られる愛の巣、あるいは、懐に余裕のない地方出張者にはおあつらえ向きであった。

 現に、親子ほどに歳の離れた男女と同時にくたびれた黒いコートを着込んだ男がフロントを通り過ぎても、注意をするものは皆無であった。

 コートを着た男の名は、衛宮切嗣。この冬木の地で行われる第四次聖杯戦争の参加者にして、魔術師殺しの異名をとるフリーランスの暗殺者である。

 切嗣はその後、態々階段を昇って目的のフロアにたどり着くと、周囲に人の気配がないことを確認してノックした。

 ノックの符丁を確認し、先にチェックインしていた女性が鍵を開ける。久宇舞弥、彼女は衛宮切嗣という男の補佐役であり、同時に彼を魔術師殺しとして機能させる外付けの部品のような役割を担っている。

 当然、彼女は切嗣よりも前に現地入りし、情報収集に勤しんでいた。

「昨日、遠坂時臣がサーヴァントを連れて冬木ハイアットホテルに入りました」

 舞弥は部屋に備え付けられたテレビデオに、VHSを挿入する。スーツに身を包んだ二人の男性がタクシーから降車し、ホテルのロビーに向かって歩く様子が画面に映し出された。

 解像度が低いが、二人の男性のうち一人は辛うじて遠坂時臣であると判別することが可能だった。

「ホテル内部の映像は?」

 このホテルに聖杯戦争に参加するマスターの一人であるケイネス・エルメロイ・アーチボルトが宿泊していることは既に子飼いの情報屋を通じて把握している。

 となれば、冬木に本拠地を構える時臣が態々このホテルを来訪した理由など、ケイネスと接触する以外には考えられない。

 時臣とケイネスがこのホテルで何を話したのか。それを推察する材料が一つでも切嗣は欲しかった。

「ホテルのエントランス、エレベーターには監視カメラが設置されていましたが、録画されてはいませんでした。カメラを抱えた使い魔では、ホテル内部の潜入もできません。次の映像は、この一時間後、ホテルから遠坂時臣が出てくるときのものです。ですが、ホテルに入った時の様子と比較しても変化はありませんでした」

 舞弥が使役する蝙蝠の使い魔も、いくら小型軽量とはいえCCDカメラを抱えたままの活動には大きな制約を受ける。蝙蝠の体力が持たないことから高層のフロアの様子を外から撮影することもできなかったため、舞弥が拾えた映像は、ホテルの入り口のものだけであった。

「……ケイネスと遠坂の間に、何らかの繋がりがある。それ以上のことはこの映像からは読み取れないな」

 遠坂時臣がサーヴァントを連れて訪問したホテルに、ケイネスが宿泊している。となれば、現場を直接抑えたわけではないが、この二人が接触したということは間違いないと切嗣は見ていた。

 遠坂時臣がアポイントなしでケイネスの滞在するホテルに突撃したという可能性もあるが、その場合でもサーヴァントを実体化させて付き添わせている以上、ケイネスのサーヴァントが時臣の来訪に気づかないはずがない。

「どう思う?」

「ケイネスと遠坂が同盟を組んでいると考えるのが自然かと」

「一番考えられる可能性は、それだろうな。聖杯戦争の始まる前から連絡を取り合っていて、ここで顔合わせとお互いの戦力を確かめたのか、あるいはこのホテルでの会談で同盟にこぎつけたのかは判断がつかないが」

 切嗣は煙草を口に加えながらコートのポケットに手を入れ、ライターを探す。

「だが、同盟を組んでいるとすれば、何故それを態々見せつけるような真似をした?」

 遠坂時臣が、自身のサーヴァントの姿を晒したことが、まず切嗣には解せなかった。

「同盟相手とはいえ、潜在的な敵陣営の本拠地に乗り込む以上、護衛として連れて行ったということは理解できなくはない。しかし、それにしても霊体化させて連れていくなり、姿を隠す方法はいくらでもあるはずだ。ケイネス相手にサーヴァントの姿を晒すことは仕方がないとしても、他のマスターの目に晒すことは避けられた」

 サーヴァントは過去の英霊だ。その正体が知れれば、宝具、スキルはおおよそ見当がつくし、死因が弱点に直結する場合だって十分に考えられる。

 容貌や口調も、その正体を探る手段としては有効だ。

「サーヴァントの容貌だけでは、正体に決してたどり着けないという確信があったということでしょうか」

「それもあるだろう。映像からわかるのは、黒髪黒目の黄色人種で二〇代の長身の男性ということだから、そこから真名を特定することは不可能に近い。態々現代の衣装に着替えさせている以上、服装から文化圏を絞ることもできない。ただ、アハト翁によれば冬木の聖杯は東洋の英雄は呼べないというから、おそらくは中近東あるいはヨーロッパにまで覇を唱えたモンゴル系かだろうな。後は、動きの所作からはバーサーカーだとは考えにくい。わかることはそれぐらいか」

「流石にそれだけの情報では候補を絞りきれませんね」

「手札を晒しているように見えて、実のところはほとんど範囲が絞れていない。遠坂には全く痛手になってはいないわけだが、だからといってメリットのない行為をやる必要もない」

 五年の禁煙生活のせいか、いまだにライターの定位置が定まっていない切嗣は、コートのあちこちのポケットを弄りようやくライターを見つけ出し、咥えた煙草に火を灯す。

「……CCDカメラの映像越しでなければあのサーヴァントのステータスも看破できただろうが、ステータスを看破されるリスクを含めても、デメリットは小さい。そう考えてサーヴァントの姿を晒しているんだろうな。となれば、晒す必要があった、言い換えれば、他のマスターの目に留まる必要があったということも可能性として考えられる」

 舞弥も切嗣が言わんとするところを察した。

「我々と同じことを考えているということでしょうか」

 切嗣は無言をもって肯定した。

 アイリスフィールをマスターと誤認させ、セイバーと共に戦わせる。そして、敵のサーヴァントがマスターを警護する余裕を失うほどにセイバーとの闘いに集中せざるを得なくなったタイミングで、切嗣が敵マスターを襲撃して仕留める。

 それがこの聖杯戦争における切嗣の基本戦略だ。そのために、アイリスフィールとセイバーというこの国では浮いた存在である二人を組ませて堂々と街を闊歩させている。

 遠坂時臣も、同じように己とそのサーヴァントを囮に敵サーヴァントを釣り、その裏で敵マスターを直接叩こうとしているのではないか。そう切嗣が考えたのも当然のことだった。

「ですが、遠坂時臣は典型的な魔術師です。我々のように、サーヴァント戦の裏で油断した敵マスターを暗殺するという戦略をとるでしょうか?」

「ああ、舞弥の言うとおり、遠坂時臣がそんなことを企んでいるとは考えにくい。魔術師であることに誇りを感じ、常に魔導の大家としての振る舞いを忘れない男だからね。だが、遠坂時臣が考えずとも、あの男――言峰綺礼ならば話は別だ」

「言峰……綺礼」

 舞弥の表情が僅かに険しくなる。とはいっても、常日頃から自分の感情を表に出さない舞弥の表情の僅かな変化に気づけるのは長らく一緒にいた切嗣ぐらいのものだろうが。

「教会から出向し、遠坂時臣に師事するも、令呪が現れたことを契機に敵対関係に入ったという経緯にまず違和感があった。言峰綺礼の父は前回の第三次聖杯戦争に引き続き監督役を務める言峰璃正、加えて言峰綺礼自身、遠坂時臣に師事するまでは協会のために働いてきた経歴の持ち主だ。そんな男が敵対していた組織の軍門に下り、聖杯戦争に参加することが確定している御三家の当主に師事し、父が監督役を務める聖杯戦争に参戦した……出来すぎてると思わないか?」

「聖杯戦争に参加するために遠坂時臣に師事していたと?」

「ああ。僕はその可能性が高いと思っている」

 切嗣は備え付けられた灰皿の上に煙草の灰を落とし、燻る煙草を見下ろしながら続けた。

「遠坂時臣を補佐し、聖杯を獲得させるためという推理も成り立つ。そもそも、聖堂協会の元代行者を弟子にする理由が遠坂時臣にはないし、言峰綺礼がマスターになることを知っていたなら、いずれ敵対者となる弟子を育てるメリットが遠坂時臣にはない。だとすれば、己の協力者を育てるために弟子を取ったと考えるべきだ。サーヴァントが二騎いるというだけで、戦力的には大きなアドバンテージとなる。あの男は、頭でっかちで固定観念に縛られた魔術師共とは違う。数年とはいえ、かつては代行者として異端討伐の最前線で戦っていた対魔術師戦闘の専門家(プロフェッショナル)。味方にすることができれば大きなメリットがある」

 しかし、己の推理を語る切嗣自身は、この推理に大きな疑問を感じていた。

 遠坂時臣に協力者を求めるという目論見があったとしても、令呪が言峰綺礼に現れたということは、綺礼自身が聖杯を欲する理由を持っていることに他ならない。しかし、あの男の経歴を見る限り、あの男に聖杯をもってかなえたい願望が――いや、そもそも何かを求める願望があるとは切嗣には思えなかった。

 綺礼自身の願望もなく、ましてや遠坂時臣への義理立てを理由に聖杯を求めるなどとは考えられない。そんな男が聖杯戦争に参加して、時臣の配下として素直に振る舞っていることに切嗣は違和感を感じている。

 とはいえ、あくまでこれは切嗣が言峰綺礼の経歴から拾った情報に基づいた人物評である。的外れではないと切嗣自身は思っているものの、言峰綺礼という男の警戒を上げるには十分ではあるが、敵勢力の目論見を推察する上で無条件に材料とすることには抵抗があった。

「言峰綺礼が我々と同じような作戦方針を立てたとして、遠坂時臣がそれを採用するでしょうか?少なくとも遠坂時臣は典型的な魔術師であったはずです」

「遠坂時臣の最終的な目標は聖杯を得ることで間違いない。けれども、最終的な目標達成ができるなら、正々堂々すべてのサーヴァントを降す勝ち方に固執する必要はない。流石に僕たちのような銃火器に頼るやり方はしないだろうけれども、自分のサーヴァントが敵のサーヴァントと交戦している間に、綺礼とそのサーヴァントが敵マスターを襲撃するくらいなら許容するだろう。そもそも、アサシンというクラスは敵サーヴァントの警戒が緩んだ隙にマスターを暗殺することが基本戦略だ。御三家の当主たるものが各クラスのサーヴァントの基本戦略を卑怯だの、外道だのと否定することはまずない」

 衛宮切嗣にとって、遠坂時臣はさほど脅威ではない。時臣の思考が一般的な魔術師の思考の域を出ない以上、仕留める方法はいくらでもあるからだ。ただ、そこに言峰綺礼という男が加わるとなると話は別だ。

 言峰綺礼はある種の狂人であると切嗣は確信している。魔術師の思考を読み、その隙をついて仕留める切嗣にとって、思考を理解できない狂人は相性が悪い。その上、言峰綺礼は純粋な戦闘能力においてサーヴァントには届かないとはいえ切嗣のはるか上をいく。

 仮にセイバーが時臣のサーヴァントと交戦したとして、言峰綺礼とそのサーヴァントがアイリスフィールの命を狙ったとするならば、切嗣には防ぎきるだけの手立てはないだろう。仮に、言峰綺礼のサーヴァントがアサシンだったとすれば、その脅威度は跳ね上がる。最悪切嗣だけは逃げおおせたとしても、アイリスフィールが討たれ聖杯の器が砕かれれば意味がない。

「あくまで、これは想定の一つに過ぎない。けれども、楽観的に構えるには危険すぎる想定だ」

 推論に推論を重ねた上での仮定。しかし、もしもその想定が現実のものとなれば、当初の策では対応しきれない可能性が高いこともまた事実。

 切嗣は最悪に備えるべきであると判断した。

「舞弥、予定は変更だ。空港でアイリスフィールと合流して、拠点Cへ向かってくれ。以後は、別命あるまで待機。アイリスフィールとセイバーを外には出すな」

 拠点C。それは、冬木市内に確保したマンションの一室だ。新都の再開発に合わせて建設されたもので、最近入居が始まったばかりだ。ここなら、外国人が突如入居したとしても、すぐに目立つようなことはないだろう。

「様子を見ると?」

「遠坂の動きが不気味だ。それに、遠坂と接触したケイネスの動きも気になる。無理に動くよりは、まず静観して情報把握に努めるほうがいい」

 今はまだ動くべきではない。それが切嗣の結論だった。




次回、ランサー陣営の予定ですが、現時点で進捗20%。
投稿日は現在のところ未定です。多分、週一更新はこれで最後になります。
とりあえず、執筆の前に体調不良の原因探しに病院にも行っておくことにします。
実はまだワクチンも一回も打ってませんし、そっちもどうにかしなければ。


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