Was kann ich für Sie (加賀崎 美咲)
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幼年期編
Guten Tag meine Fräulein


久しぶりに小説が書けたのでリハビリがてらに短編です。


 自分を構成する最小単位、自分の始まり、ルーツとも言えるそれがなんだと問われたのならば、俺はそれを淀みなく答えることが出来る。

 

 目を閉じれば今のことのように思い出せる牧歌的な風景。俺と彼女が出会ったカルフの街はカールスラントの南にある静かな街だ。ナルゴト川に沿って建てられた街は穏やかな風景が残り、少し郊外に行けば牧草地が広がっていた。

 

 そこに何度もピクニックに出掛けたことを覚えている。サングラスがなければ、少しでも日差しのある場所にはいられないくせに、彼女は妙に俺と一緒に何処かへ出かけることをせがんだ。

 

 この町には俺たちと同年代の子供は一人もおらず、父の仕事で偶然にも近所に住むようになった俺が彼女の遊び相手になったのはとても自然なことだった。初めて挨拶に行った時には父の背に隠れて窺うように警戒していた彼女は、数日して慣れてしまうとまるで親を見つけたアヒルのように何処へでも俺についてきた。鬱陶しいと思う反面、兄弟がいなかった俺には妹ができたみたいで楽しいと思うこともあった。

 

 だから幼少期という時間において、俺にとっての全てには彼女が存在していた。

 

 穏やかな日差しの下、彼女の母が作ってくれたサンドイッチとソーセージの串を甘酸っぱいレモネードで流し込みながら、俺と彼女は木陰からのんびりと草を食む牛たちを眺めていた。これの何が面白いのかと聞かれると非常に困るのだが、とにかく俺はこの時間が好きだった。ゆっくりと過ぎていく時間、代わり映えしない日々。そんなとるに足らないものが俺という人間を作り出したルーツなのだろう。失ってしまった今だからこそ、そう強く思える。

 

 眼下に広がる赤。彼女の酒蔵で見たワインよりも赤く、彼女と眺めた夕日よりも赤い、炎と血が彩る赤色が空と大地を塗りつぶしていた。純一色のその光景に一つだけ異物があった。

 

 黒。黒曜石のように黒いそれは見下すように空を飛行していた。ネウロイ。永きに渡り人類の敵であり、天敵とされてきた怪異。それが俺たちの街を、国を壊した。帰る家も、故郷もなく、やりきれない無力感の中で彼女を、ハイデマリーを抱きかかえたまま俺は空へと向かって吠えた。

 

 

 

  ●

 

 

 

 ひどく憂鬱な気分だ。父が運転する車の中で行儀悪く寝転がりながら読みかけていた哲学書を足元へ放り投げた。ミラー越しから見ていた父が咎めるようにして口を開いた。

 

「フリッツ、ダメじゃないか。本は大事に扱わないと。……やっぱり友達を別れるのは嫌だったか?」

 

 少し申し訳なさそうに声色を弱らせた父。それも仕方のないことだった。母が病で亡くなり、傷心した父は元いた街へと戻ろうとしていた。当然父についていくしか選択肢のない俺は父とともに初めていく父の故郷へと住まいを移すこととなった。

 

 当然、不満はある。仲の良かった友人たちを疎遠となり、見たこともない街へと引っ越すのだ。不満など出て当然だ。しかしそれ以上に母を失い途方にくれる父を見ていられなかった。子供心に今の父にはゆっくりを心の傷を癒す時間が必要なのだと、どこかで納得していた。それでも父の傷心に自分ができることがないこと、自分のことばかりで母を失った俺に何もしてはくれない父に対する苛立ち、そんな感情が複雑に混ざり合い虚ろな遣る瀬無さばかりが胸に残った。

 

 やり場のない感情はエミールの背表紙とともに乱暴に投げられた。

 

 父に返す言葉も、そんな気力も湧いては来ず、父から顔を背けるようにして俺は座席に顔を押し当てて押し黙った。

 

「……あぁ」

 

 弱ったように情けなくうめく父の声を無視して寝たふりをする。車の振動だけは誰にも構わず自己を主張していた。

 

 

 

  ●

 

 

 

 互いに無言のまま車を走らせること数刻。すっかりあたりも夕方という時刻に車輪が回転を止める。

 

 古い一軒家だった。庭は大雑把に手入れをした様子はあるが割と伸び放題、父に言われるがまま荷物を持って家に入ると埃臭さが鼻を通り、思わずくしゃみが出る。それだけのことだったが、そんなまったく掃除されていない家の様子が亡くなった母の存在を連想させ、初めてやってきた家だったがすでに嫌いになりそうだった。

 

 無言で二階に上がり簡単にベッドメイキングされたシーツの上に乱暴に身を投げた。バネが軋む音がしてすぐに静かになる。すぐに階段を登ってきた父が扉の前でノックをして夕食だと言ったが返事もする気にもなれず、ポケットにねじ込んで表紙に折れ目がついた文庫本を取り出して適当な場所から読みはじめた。

 

 ここに書かれてる高尚な哲学などちっとも理解できなかったが、ただ外界との交流を断つのにこの本は十分過ぎるほどその役割を果たしてくれた。

 

 物音一つしない静かな家の中、時々紙をめくる音がかすかに聞こえるだけだった。書かれている内容など頭には何も入らず、気がつけば意識は闇の彼方へと沈んでいた。

 

 顔に当たる朝日の熱で目が覚めた。寝ぼけ眼をこすりながら上半身を起こすと見慣れない周囲の光景、見慣れた自分の部屋ではなく初めて見る質素な一室に思わず身を固くする。一瞬、自分が誘拐でもされたのだろうかと突飛な発想が頭をよぎったが、冷静になってここが新しい我が家の自分の部屋だと気がつくのにそう長い時間は必要ではなかった。

 

 重い足取りが薄く積もった埃を蹴り上げながら階段を下っていき、リビングに入るとちょうど父が料理をしている最中だった。こちらに気がついた父は振り返ると無理したようなか笑顔を作った。

 

「あぁ……、フリッツ起きたんだね。もうすぐ朝食ができるから座って待ってなさい」

 

 その言葉に答えることなく俺は乱暴にソファーに座る。まだ荷ほどきの終わっていない荷物を眺めていると肉の焼けた匂いがする。食卓に座り形の悪いオムレットと若干焼き過ぎのソーセージ、塩っ辛い匂いのするスープが卓に並べられていく。

 

「ごめんなぁ、父さん料理なんて若い頃にちょっとしたっきりで、母さんがいつも作ってくれててたから……」

 

 そこまで言って父は顔に影を落とし黙ってしまった。おおかた母が亡くなった時のことでも思い出したのだろう。

 

「……いただきます」

 

 そんな沈黙に耐えられずなんとか声を絞り出す。俺の声を聞いて目の前に息子がいることを思い出したのだろう、父は顔を上げると急に明るい表情に努めた。

 

「あぁ……、あぁ! たくさんあるからな、しっかり食べてくれ。……そうだ。今日は昼にシュナウファーさんの所に挨拶に行くぞ。引っ越しの時に色々とお世話になったからな」

 

「……そう」

 

 短く返事をして食事を再開する。母の料理を思い出して比べてみると、いややっぱりそんなことをするまでもなく不味かった。

 

 

 

  ●

 

 

 

 食事を終えて昼下がり、石畳のカルフの街を歩く。斜め前には父が歩きそれを追って歩いているとすぐに目的の家に到着する。ワイナリーをしてるらしいシュナウファーさんの家はその経営が順調らしく、立派な門構えをしていた。チャイムを鳴らすとすぐにシュナウファーさんはやってきて、よく来たと朗らかに笑いながら家に招き入れてくれた。

 

「やぁ、ハインリヒよく来てくれた。この町で時計技師が必要だったんだ。……君の奥さんのことは残念だったよ」

 

「あぁ、こちらこそ何から何まで世話になってしまった申し訳ない。アルフレート、君には世話になりっぱなしだね」

 

「何を言う。同郷のよしみじゃないか。君もそうだが息子のフリッツくんだってゆっくりとする時間が必要なはずさ。まずは一息をついて、そこから新しい生活を始めればいいさ」

 

「本当に、何から何まですまない」

 

 父はそう言って涙ぐみはじめた。微笑んだアルフレートさんは優しく父の背を叩いていた。そんな光景を眺めていると後ろから肩を叩かれた。振り返ると知らない女性が立っていた。年はおおよそアルフレートさんと同じくらい、きっと彼の奥さんなのだろう。

 

 彼女は優しく微笑んで俺を見て言った。

 

「向こうでおばさんといましょうか」

 

 暗に男泣きしている父を見てやるなと言うことなのだろう。俺が素直にうなづくと彼女は俺を隣の部屋に連れて行った。

 

 隣の部屋にやってくるとそこは談義室のような部屋だった。壁には本棚があり、きっちりを几帳面に本が並べられ、座り心地の良さそうなソファーがいくつか並んでいた。

 

 促されるがままに座り小さな丸机に上にティーセットが並べられる。紅茶のいい匂いがしてきて自然と心が落ち着いていくのを感じる。

 

 ふと違和感を覚える。よく見てみると並べれられたティーセットのうち、カップが二人分ではなく三人分並べられていた。俺とおばさんの分と考えると一つ多く、父たちのことを考えると一つ少ない。不思議に思い首を傾げていると、おばさんがゆっくりとした足取り、いや、よく見れば後ろから引かれるようにして歩き、見ると彼女の後ろから綺麗な銀色の髪が揺れている。

 

 俺の前でおばさんが立ち止まると彼女は背後に隠れた子に大丈夫だと声をかけるが、隠れたままの彼女は首を激しく横に振っているのか絹のような銀がはらはらと舞う。

 

 そのようなやり取りをしばらくしているとついに決心がついたのか、おずおずとガーベラのような紅色の瞳がエプロンの端からこちらを見つめていた。

 

 彼女は何を言うでもなくジッとこちらを見ている。おばさんがいる手前、見つめられて無視をするわけにもいかず、俺は彼女の発言を待つことを強いられていた。

 

 だらだらと緊迫した時間が過ぎていき、紅茶の湯気が死んだ頃、やっと彼女は口を開いた。

 

 力一杯に手を握ったのだろう、掴んだおばさんのエプロンは大きくシワを作っている。

 

「は、ハイデマリー・シュナウファー……、です」

 

 どうやら精一杯の彼女なりの挨拶だったらしい。いまにも泣きそうなくらいに瞳を潤ませ、唇を噛んでいた。

 

「フリッツ・ルンペンハルト」

 

 対して俺は非常に素っ気なく彼女に名前を告げた。しかし何故か彼女はそれでパァッと表情を明るくした。しかしハッと体を一度震わせるとまたおばさんの後ろへと隠れてしまう。

 

 どうしたものかとおばさんを見ると微笑ましいものを見るように俺とハイデマリーと名乗った少女を交互に見ていた。そして冷めた紅茶を見るとわざとらしい声を上げた。

 

「あらあら、紅茶が覚めてしまったわね、煎れ直してくるからちょっと待っていてね」

 

「あっ! お母さん……」

 

 母親についていこうとしたハイデマリーを抱えたおばさんは彼女をソファーの上に座らせると早足で紅茶のポッドを持って出て行った。扉を閉める直前におばさんと目が合い、ウインクが飛んできてそのまま扉は閉まってしまった。

 

 後に残された俺たちはどちらも話ことなく、無言が空間を支配していた。ハイデマリーは落ち着かないのかスカートの端をその小さな手で握りしめ、そわそわとあっちやこっちを見て落ち着かない様子だった。

 

 時々目が合うとすぐに彼女は顔を赤くして逸らしてしまうため、まともに会話が始まるはずもなかった。流石に帰りたいと思い始めた頃、入口の方へと視線を投げた時、壁に掛けてある写真が目に映った。何やらワインの品評会らしい会場で症状をもらっているアルフレートさんが映っている。

 

「お父さん、ワインを作っているんだ」

 

 何気なくポツリと呟いた俺の言葉に彼女は目ざとく反応していた。

 

「うん! とっても美味しいって評判なのよ。ワインだけじゃないの、スパークリングやウイスキー、リキュールだって作っているの。わたしはまだ子供だから飲ませてもらってことはないけど、とってもいい匂いがするの!」

 

 それまでの静寂と打って変わり彼女は饒舌に語り出した。彼女の家族への愛情がありありと垣間見えるが、それ以上に俺は突然語り出した彼女に面食らっていた。鳩が豆鉄砲でも食らったような間抜けな顔をしていたのだろう。自分は饒舌に話していたことに気がついた彼女は顔をリンゴのように赤くするとそのまま小さく丸くなって顔を隠す。

 

 短いやり取りしかしていないが、段々と彼女の人と成りがわかってきた。要は人見知りなのだろう、それも相当重度の。

 

 恥ずかしさに身悶えしている彼女の前に立ち、何だか肩の力が抜けていく気がする。

 

「……話したいなら好きなだけ話せばいいよ。別にそんなに恥ずかしがることもないだろ」

 

 おずおずと顔をこちらに向けた彼女は恐る恐ると言う様子だ。

 

「いいの?」

 

「別にいいんじゃない?」

 

 ぶっきらぼうにそう答えると彼女は嬉しそうに顔を明るくした。そこから始まる怒号のマシンガントーク。

 

 やれ、ナイトウイッチとして有望視されいただの、魔法力の暴発で視力が悪化して明るい場所にいられないだの、周囲に同年代の子供がおらず俺に会えて嬉しいだの、長々と彼女の半生がこと細やかに言葉となってこちらに飛ばされてくる。

 

 こんな短い間に彼女については知らないことはもうないんじゃないかとさえ錯覚する。特に他にすることもないので仕方なく彼女の話すことに耳を傾けていると彼女は急に声を萎ませていく。

 

 見ると申し訳なさそうにこちらを見ている。

 

「ごめんなさい、私ばかりが話しちゃって……。せっかくこんなにお話ができる人が来て舞い上がっちゃってた」

 

「おしゃべりしたり謝ったり忙しいやつだな。別にいいよ気にしなくて。どうせ父さんが落ち着くまで家に帰れないんだ。おしゃべりでも何でも付き合うよ」

 

 父や家族のことを思い出し少し鬱屈とした気持ちになる。思わずため息を吐いてしまうとハイデマリーはこちらを心配そうに覗き込むようにして顔を近ずけてきた。

 

「家族と仲が悪いの?」

 

「別に悪くないさ。ただ母さんが死んじゃって父さんが情緒不安定なんだ。だから前の職場を辞めてこの街に戻ってきたんだ」

 

「あ、あの、その。……ごめんなさい」

 

「……何度も言ってるけど謝るようなことじゃないよ。誰だっていつかは死んじゃうんだ。うちの母さんはそれがたまたま早かったってだけ。冥福を祈って、それでおしまいだ」

 

「何だかとても冷たい言い方。私だったら家族が死んじゃったら、きっと悲しすぎて死んじゃうわ」

 

「君はそう思うならその考え方を大事にすればいい。俺はもう悲しむことに疲れた、それだけだよ。それよりも今生きている父さんに早く立ち直ってほしい」

 

 誰にも言わなかった本心を、どうしてか過去の初対面の少女に教えてしまっている自分の少なからず驚いてしまう。どうやらおしゃべりは感染るらしい。

 

 そんな自分の軽率さに辟易していると閉じられていた扉が開かれやってきた父さんと目があった。申し訳なさと気恥ずかしさが混じった顔で父がはにかむ。

 

「フリッツ、待たせてしまったね。今日はもう遅いから帰ろう」

 

 その言葉で時間が随分と立っていたことに気づかされる。というのも、この部屋には窓がなく妙に薄暗い。そういえば目の前のハイデマリーは魔法力の暴発で明るい場所がダメらしい。どうやらここは外に出られない彼女のための遊び場なのだろう。

 

 一人勝手に納得しながら帰る体制に入る。といっても身一つできたため、迎えに来た父についていくだけのことだが。

 

 父とアルフレートさんの後を歩き玄関から外に出る。外は暗くなりはじめ、もう夕食の時間だと言っている。シュナウファー一家に会釈を済ませ帰路につく。気恥ずかしいのかハイデマリーの姿は見えない。まあいいかと思い帰ろうとした時に背後から呼び止める声がした。

 

「フリッツ!」

 

 ハイデマリーだった。急いで降りて来たのか、少し息を荒だてながら彼女はまっすぐに俺を見ている。

 

 不安そうな表情で俺を見て彼女は恐る恐るという様子で口を開いた。

 

「また……、遊びに来てくれる?」

 

 隣に立つアルフレートさんがとても驚いているのが印象的だった。普段は引っ込み思案な性格の娘がした自発的な行動に少し面食らっているようだ。

 

 そんな誘いをもらうとは露にも思っていなかった俺は返答に困ってしまう。そして同時に普段満足に外出できない彼女の心情を思うと素直に首を縦に振りたいとも想思い、しかし今日初めて会った人たちに自分から会いにいくことに気恥ずかしさがあった。

 

 どうしたものかと父の方を見ると父は朗らかにうなづいて見せ、シュナウファー夫妻の方を見ると微笑ましいものを見るように娘を見ていた。

 

 どうやらそういうことらしい。俺は彼女の前に、息を吸って自分を落ち着かせた。

 

「まぁ……、その、迷惑じゃなかったらまた遊びに来る。ハイデマrっ——。……ハイディ」

 

 最後の最後で台詞を噛んでしまった。それもよりによって名前を言えないだなんて。苦し紛れに彼女の個人的に言いづらい名前に代わるあだ名を捻り出す。苦し紛れの行為だったがどうやら不快ではなかったらしく、少し驚いた様子を見せ、そして彼女は花を咲かせるように笑っていた。

 

 

 

  ●

 

 

 

 彼と彼のお父さんが帰り、私はお父様とお母様の言いつけを守ってお風呂に入り、熱も冷めぬうちにベッドにはしたなく飛び込んだ。落ち着かない興奮が足をバタバタと動かす動力源に変わってクッションを叩く。お風呂の暖かさとは違う熱が顔を熱くさせ、口角が上がって仕方がなくそれを隠そうと枕に顔を埋める。

 

 いつか暗い夜空の星に願った。この目のせいで外に出られない私に、会いに来てくれる誰かが現れないかと、お友達が欲しいと。

 

 そしてそれが今日叶ったのだ。また来て欲しいとお願いしたら、また遊びに来てくれると約束してくれたのだ。それに終わらずあだ名までもらってしまった。

 

 今日はなんて良い日なのだろう。一生分の幸福が一度にやって来たようにさえ思えてしまう。だからこのまま眠ってしまうと全てがただの夢になってしまうんじゃないかと悪い想像が頭をよぎる。でもそれくらいと同じくらい彼が遊びにやってくる次の日が楽しみで仕方がない。

 

 あぁ——、早く明日にならないかな! 

 

 

 

 



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Wandern unter dem Sonnenlicht

続く短編。全10話予定。お気に入り、評価を下さった皆さんありがとうございます


 早朝の家の中、フリッツの父、アルフレートは強い眠気に耐えながら起床した。以前は妻が彼を毎朝のように起こしていたが、その人はもういなくなってしまった。

 

 一人で寝て起きる事で彼女の逝去を意識せざるを得なくなり、アルフレートは胃の奥が重く沈む感覚を覚えた。慌ててサイドテーブルの上に置いた胃薬を掴み、乱暴に三錠ほど口の中に放り込み噛み砕いで溜飲する。

 

 まだ慣れない薬特有の苦味を口の中に残し、胃が軽くなるのを感じながらアルフレートは朝食の準備をしようと階段を下っていく。妻に先立たれた彼には、少なくとも息子を食べさせていくことは自身に課せられた義務だと感じていたし、しなければならないことがあれば、今にも崩れそうな足元がなんとか崩れてしまう寸前で耐えられることができた。

 

 今日の朝食を拙いながら用意しようと一階に降りた時、ふと香ばしい匂いがしていた。

 

 もしやと思いキッチンを覗き込むとそこには台に乗って台所に立ち、料理をするフリッツがいた。部屋に漂っている匂いも自分が作った昨日の料理モドキとは違い、ちゃんとした料理のいい香りだった。まるで妻が帰ってきたかのような気分さえする。

 

 きっと今まで見て来た母親の料理のマネなのだろう。しかし形は違えど息子の中に妻の痕跡が残っていることに目頭が熱くなってしまう。そんな自分を見られまいと声をかけられず、しばらく様子を見ているとこちらに気づいたフリッツが振り向いて目が合った。

 

 目が合い、息子は少し照れ臭そうにはにかんで見せた。

 

「あぁ、父さんか。もうすぐ出来上がるから座って待っていてよ。少なくとも父さんのよりマシなはずだから」

 

「——っ! ……そうするとしよう」

 

 震えてしまいそうな声を息子に気取られまいと精一杯腹に力を入れて返事をしたため、言葉は短かった。

 

 座って待っているとすぐに料理が運ばれて来た。昨日自分が作ったものを思い出し比べてみるが雲泥の差としか言いようがない。一口食べ驚く。いつもの妻の味、もう食べられないと思っていた味がそこにあった。一口一口を惜しむように咀嚼していく。確かに彼女の味だった。

 

 食べることに夢中になっていたことで、こちらを窺うように見ているフリッツを目が合う。目が合うと息子は苦笑して、それから手元のスープに視線を落とす。

 

「見よう見まね、というか記憶を頼りに作ったんだ。母さんの味ってこんなだったかな? まあ、でもよくわかんないや。……父さんも仕事が忙しくなるだろうし、朝飯くらいは俺がどうにかするよ」

 

 矢継ぎ早にそれだけ言うと、フリッツは黙って食事をかきこむと空いた皿をかたずけていく。

 

 私が食べ終わると同じように空いた皿を取り上げていき、まとめて洗いはじめた。いつの間にか手のかからなくなってしまった息子に誇らしさと、まだ子供だろうにこんなことまでさせてしまった歯がゆさが胸に残り、私はただ皿を丁寧に、それこそ妻がしていたように洗う息子の後ろ姿を見つめていた。

 

 

 

  ●

 

 

 

 食事が終わった父さんの皿を流し台に持っていき、水道を開けて水洗いを始めた。手を動かしながら過去の記憶、あの時母さんがどうやっていたかを思い出してその通りに手を動かしていく。不思議とぼんやりしていた記憶がはっきりとしたものに変わっていき、片付けに困ることはなかった。

 

 先ほど朝食を作っていた時もやり方なんかも思い出しながら終わらせることができた。自分がこんなに物覚えがよかったかと一瞬首を傾げたが、そんなことよりも早く終わらそうと手を動かす。

 

 出来上がった料理は申し分なく、多分母さんの味はこんなのだったと納得がいくものだった。片付けも終わり、街の方へ働きに出る父さんの声に生返事を返し、洗った皿を乾いた布で拭きながらこれからどうしたものかを考える。

 

 そしてまだ荷ほどきが終わっていないことに気がつき、部屋の隅に積まれた木箱を開けて、適当な場所にものを置いて並べていく。父子二人分の荷物などたかが知れており、昼になる頃には荷ほどきは終わっていた。

 

 自分の部屋用の木箱を二階にまで運び、本やら文房具やら、木箱から出てくるものを当面の生活をする上で困らない程度の配置に並べていく。荷物の詰まっていた木箱の底が見えるまでに片付けが済むと、底の方に記憶にないスチール缶が入っていることに気がつき、とりあえず中身を見ようと開けて思わず息を飲んでしまった。

 

「シチリア島の時の……。こんなところにあったんだ……」

 

 入っていたのは砂とサングラス、そして写真だった。家族三人でシチリア島に行った時、記念にと砂浜の砂を缶の中に入れ、現地のカメラマンにとってもらった写真も一緒に入れていた。家族三人で並んだ写真。もう撮ることが叶わないそれを急いで空いている写真立てに入れて机の上に飾る。

 

 そういえばと一緒に入っていたサングラスを取り出して広げる。女性用。シチリアの土産屋で買って、母さんが使っていたものだ。

 

 こんなものが今更出てくるとは思わなかった。母の遺品は全て父が処分してしまった。そうでもしないと、あの思い出の詰まった三人の家から離れられないと、父自身が理解していたから。だから何もかもを処分してしまった。

 

 だからこんな形で母の形見が出て来てしまって、俺は反応に困ってしまった。

 

 家に置いていくわけにもいかない。もしも父が見つけてしまったら、もとの不安定な父に戻ってしまうかも知れない。本当に良くなったのだ、あれでも。直後は本当にひどかった。学校から帰って来て父が生きていることに安堵した日など数えきれない。

 

 だからこれはこの家には置けない。でも捨てられるかと聞かれるとないも言えない。唯一手元にある母の存在を示すものなのだ。捨てることが憚れる。置いておくこともできず、捨てることもできず、だから仕方なくシャツの襟もとに引っ掛けて持ち歩くことにした。

 

 虹彩の色が濃い俺にサングラスは不要だが、持っていると不思議と母と一緒にいられるような気がした。

 

 

 

  ●

 

 

 

 荷ほどきが全て終わり、一息つくためにソファーに体重を預ける。特段やることなどなく、ふと昨日の、ハイデマリーとの約束を思い出す。

 

 ——また……、遊びに来てくれる? 

 

 そんな約束に自分はまた来ると言ってしまった。なら、まぁ、行ってもいいのではないだろうか。誰へでもなく言い訳をして家を出た。

 

 それほど我が家からシュナウファー家は離れていないから、テクテクと歩いていればすぐに着いた。しかしたどり着いてドアを鳴らそうとして、今になって急に不安が募る。昨日の今日で初めて会って、突然訪問してもよかったのだろうか。

 

 流石に品がないかと悩み硬直していると後ろから声をかけられた。

 

「あら、もしかしてフリッツくん?」

 

 振り返るとそこにいたのはハイデマリーのお母さんだった。買い物帰りらしく、左手で持ったバッグから食品が顔をのぞかせている。

 

 心の準備もできていないのに遭遇してしまったことにたじろいでしまう。

 

「あ、あの、その、……ん」

 

 目線を合わせようとかがんだ彼女から思わず視線を逸らして、逃げるようにうつむいてしまう。そんな俺の様子を見て彼女はあらあら、と朗らかに笑っていた。

 

「ハイデマリーに会いに聞きてくれたのでしょ? 遠慮しなくて大丈夫、入っていらっしゃい」

 

「え、あの、その」

 

 どうも彼女を前にすると不思議なことに態度がしどろもどろになってしまう。促されるまま家に入ると彼女はハイデマリーを玄関から呼んだ。

 

 一度ドンっと大きな物音がして、静かになったと思えば廊下を走り、階段を降りる音が大きくなる。階段は扉の先にあるらしく、その向こうで足音が止んだ。そして慎重に様子を伺うようにドアノブが回り始め、さも幽霊が来たかのように木の軋む音をさせながらそっと扉が開いていく。

 

 そしてその隙間からこちらを覗き込む赤い瞳とボタンの瞳。テディベアを抱えたハイデマリーがこちらを見て互いに目線がぶつかる。そしてやって来たのが本当に俺だと分かると彼女は昨日と同じように、花が咲くような笑みを浮かべていた。

 

「ね⁉︎ だから言ったでしょ。今日はお友達が遊びにくるって。嘘じゃなかったわ!」

 

 嬉しそうな彼女はその喜びを表現するように小さく飛び跳ね、鼻息を荒くして抱えたテディベアに話しかけていた。

 

 親しげにテディベアと話す彼女を眺めながら、彼女の境遇を思い出していた。目のせいで日中の日差しの下に出られない彼女にとって、あのテディベアはきっと家族以外の話せる人、お友達に相当するのだろう。

 

 そんなことを考えているとテディベアとのおしゃべりに夢中になっていたハイデマリーに彼女の母が咳払いをして見つめていた。彼女は娘に苦笑いするような視線を送り、俺の方を叩いていた。

 

「ハイデマリー、せっかく今日遊びに来たお友達はいいのかしら? フリッツくんだって、せっかく遊びに来たのにその相手が別のお友達に夢中だったら帰ってしまうんじゃないかしら」

 

「まぁ、いけない。ごめんなさいフリッツ。でもこの子、アルブレヒトがいけないのよ? だって彼ったら、昨日のことは全部、私の夢だったって言うのよ?」

 

「うん、まあ。喜んでもらえたならよかった」

 

 手に持ったテディベアの名前はアルブレヒトというらしい。ぬいぐるみと同列に扱われたことに乾いた笑いを覚えるが、あの物言わないぬいぐるみが彼女の数少ない友人なのだと思うと彼女を責める気にはなれなかった。

 

 こうした状況で俺がするべきことは実に単純だった。友達に向ける笑みを浮かべ、手を差し出す。

 

「それじゃあ、何かして遊ぼう?」

 

「ええ! そうしましょう。こっちよフリッツ」

 

 興奮冷めやまない彼女はテディベアを持つのとは逆の手で僕の手を取ると、そのまま家の中の部屋に連れて行く。家の中だというのに全力で走り出す彼女。バランスを崩さないように気をつけながら引っ張られながら後ろを振り向くとおばさんは口元を手で隠しながら笑って手を振っていた。

 

 

 

  ●

 

 

 

 家の中を走り回って一通りの部屋に通された後、俺たちは昨日の部屋、あの書斎のような部屋に来た。部屋に入るとこちらに振り返ったハイデマリーが嬉しそうにソファーからクッションを三つ運んできて、促されるままその一つに座る。ハイデマリーとアルブレヒトに向かい合う形で座り、ハイデマリーは目を輝かせて言う。

 

「それじゃあ何をして遊びましょうか。何をしていいかわからなくて困ってしまうわ」

 

「ハイデマリーは、いつもは何をして遊んでいるの?」

 

 質問してみたところ、彼女は急につまらなさそうに唇を尖らせ、非難するような視線がこちらへ向けられている。いきなりのことで、何故そんな目で見られなけれなならないのか、訳がわからず、まごついていると彼女は恥ずかしそうに肩を小さくして、消え入りそうな声で呟いた。

 

「な、名前。せっかくのあだ名なのに、呼んでもらえないのは嫌……」

 

「……それじゃあ、改めて。ハイディ、君は普段どうしているの?」

 

「——うん! それじゃあこれにしましょう」

 

 そう言って彼女は本棚から背表紙が厚い本を一冊取り出し、広げてみせた。間に置かれたそれを覗き込んでみると、それはいくつもの写真がスクラップされたアルバムのようなものだった。アルバムと違うのは写っている景色に統一性がなく、被写体もいないことだった。

 

 ハイデマリーは大事なものに触れるように貼られた写真に指を沿わせ、語り始めた。

 

「この写真はオラーシャのペテルブルク、こっちはガリアのモン・サン・ミシェル。……これは確か、そうロマーニャのヴェネツィア。どれも綺麗な場所だわ」

 

 一つ一つの写真を指し示し、俺に紹介をしてくれるハイデマリー。そんな中、次に彼女が指さそうとしていた写真の風景には覚えがあった。

 

「それはギリシアのシチリア島だね」

 

「行ったことがあるの⁉︎」

 

 過去に行ったことが伝えると、彼女は目を輝かせ声を弾ませてシチリア島の写真を指差した。そう、あれはまだ母さんが元気だった頃の話だ。

 

「うん。昔、家族で避暑に行ったんだ」

 

「いいないいな。きっと砂浜が綺麗で太陽が照りつけて眩しかったのでしょ?」

 

「……うーん、そうでもなかったかな。砂浜は綺麗だったけど、他に来ている人も大勢いたから海はそんなに楽しめなかったかな。あっ、でも砂浜から近いレストランのスパゲッティは美味しかったよ。貝とかイカとかが入っていて、お酢のしょっぱい味だった」

 

 体験談を語っているとハイデマリーは寝転がるようにして顔をアルバムに寄せた。そして少し寂しげに声色をひそめた。

 

「やっぱり想像ばかりしても、本当に行ってみないと分からないことばかりのなのね」

 

 そう言って彼女は物寂しい様子で写真を眺めていた。そんな態度を目の前で取られたら気になってしまうことは、きっと仕方がないことだろう。心の中で言い訳をして、良くないと思いながらも聞かずにはいられなかった。

 

「ハイディは何時もこうして遊んでいるの?」

 

「——うん。写真は素敵だわ。だってこの部屋から、いつでも好きな時に好きな場所がみられるんですもの。だからこうして写真を眺めて、そこがどんな場所なのかを想像して遊ぶの」

 

 顔を上げたハイデマリーと視線がぶつかる。ガーベラのように赤い瞳が俺を見ている。でもその目は光を見られない。

 

「私の目、こんなでしょ? お外に出られないから、だからこうして遊んでいるの。……私の一番のお気に入りの写真はこれ」

 

 彼女が指差したのはそれまでの観光地や有名な土地の写真とは打って変わり、特段珍しさもない写真だった。よく覗き込んでいると見覚えがあり、それがどこなのかに気づく。写っている川はナルゴト川だ。なんてことはない、ここから歩いて十分とかからない川辺の昼下がりの風景だった。

 

 なんてことはない風景。しかし外に出られないハイデマリーにとってどんな外国と同じように遠い場所。

 

 彼女の言葉に胸の奥に重い重石が載せられていくような苦しさがあった。

 

 きっとそれが顔に出ていたのだろう。ハイデマリーは笑って見せて、でも大丈夫だ、と続けた。

 

「私ね、将来はウィッチになりたいの。いつか立派なウィッチになれば、この目のうまく使えるようになって、お外にも出られるようになるわ。そうしたらホウキに乗っていろんな場所に行くのよ。だから平気、あとちょっとの我慢なんだから」

 

 彼女は嬉しそうにいつかやってくる将来のことを語った。そうなったらいいなと思った。しかし同時に気づいてしまう。彼女は今10歳。戦時中でもない限りウィッチになるための航空士官学校の入学は15歳から。少なくとも彼女はあと5年、この家の中に居続けなければならない。

 

 あと5年。この薄暗い部屋の中で彼女は飛び立つ為に耐えなければならない。とても悲しいことだと思った。俺がこれから学校に通い、当たり前に日常を享受する一方で彼女はずっとここに変わらずいなければならない。

 

 放っては置けない。俺はただの無力な12歳の子供だ。でも何も出来ないからってただ見過ごすだけでいいのだろうか。自分らしくもない正義感のようなものに燃えていた。いや違うのだろう。そういうのではなくて、単純に俺は彼女の助けになりたいと幾ばくながら考えているのだ。

 

 しかしそう思っても俺に出来ることなど簡単に思いつかない。医者でもない俺に彼女の目は治せない。ウィッチでもない俺は彼女に魔法力の使い方を教えることは出来ない。

 

 何も出来ない自分に歯がゆさを覚え、思わず俯いて、首にかけてあるそれの存在を思い出した。

 

 首にかけたままのサングラスがそこにあった。

 

 何となくかけてみた。予想通り視界は一気に暗くなった。もともと薄暗い部屋でサングラスをかければ視界がほとんど見えなくなるのは当然だった。

 

「あら、フリッツ。それは眼鏡? でもガラスのところが真っ黒だわ。誰かにイタズラされたの?」

 

 サングラスをかけた俺にハイデマリーは不思議そうにこちらを見ていた。土産物屋の主人が言っていたことを思い出した。なんでもパイロットが使うヘルメットの遮光を眼鏡にしたものがこのサングラスらしい。まだ珍しいものらしく、一部の飛行場がある場所くらいでしか売っていないとも。

 

 つまりハイデマリーがこれを見るのが初めてなのは自然なことで、もしかしたらと思った。

 

 サングラスを外し、そのままハイデマリーに差し出した。

 

「やだわフリッツ。そんな真っ黒なガラスの眼鏡を貰っても、きっと何も見えないわ」

 

 初めて見るサングラスに彼女は困惑したようにこちらを見ている。

 

「いいからかけてみてよ」

 

「もう、イタズラしたらいやよ……。まあいいわ、かけるくらいしてあげる」

 

 差し出されたサングラスをかけたハイデマリーは、やっぱりと言いたそうに唇を尖らせていた。

 

「真っ暗で何も見えないわ。目を開けても閉じても真っ暗だなんて、なんだか怖い」

 

 予想通り彼女はサングラスをかけるとこの薄暗い部屋の中では全く見えないと言う。ならばも、しかしたら外に出ても薄暗い程度に感じつのかもしれない。

 

「ねぇハイディ。このまま外に出てみよう?」

 

「どうして? 私はお外に出てはいけないのよ?」

 

「もしかしたら出られるかもしれないよ?」

 

 だが彼女は外に出ようとはしない。彼女にとって真昼の世界は言ってはいけない場所だともう思い込んでいる。

 

 もしかしたらたとえサングラスがあっても彼女は外に出られないのかもしれない。しかし試すことをしなければ、その可能性だって可能性のまま終わってしまうんだ。

 

 それを見逃すことは悪いことだと思った。俺が彼女に出来ることがあるのにそれをしないのは嫌だった。

 

「目を閉じて見て?」

 

「こう?」

 

 お願いした通りにしてくれた彼女の手を持つ。冷たくて小さな彼女の手を引き、部屋を出て廊下を進み、そして玄関にたどり着く。

 

 そして玄関に来たことを察したハイデマリーは嫌そうに首を振った。

 

「何度も言ってたわフリッツ。私はお外に出てはいけないの。太陽があんなに眩しいから、私の目が焼けてしまうの」

 

「でも外に出て見たくないの?」

 

「それは……」

 

 困ったようにハイデマリーは言葉に詰まって何も言わなくなる。彼女にとって陽の光は避けねばならなくて、それと同じように足を踏み入れたい場所だと思っている。そうでなければあんな風に写真を見て外に世界に憧れてたりなんてしない。

 

 俺がすべきことはたった一つ。彼女が外へ踏み出すきっかけになること。それ一つだ。

 

 彼女が少しでもそれを望んでくれるなら、力になってあげることがきっと正しいことなんだと思う。

 

「ハイディ、信じて一緒に来て欲しいんだ」

 

「でも外に出たら……」

 

「なら目は閉じたままでいいよ。君に一緒に来て欲しいんだ、……ダメかな?」

 

「……目は絶対開けないからね?」

 

 外に出たがらない彼女に頼み込み、どうにか出ることまで漕ぎ着けた。

 

 サングラスをかけたまま、ぎゅっと目をつむった彼女の手を引き、外へと歩みを進めた。

 

 

 

  ●

 

 

 

 ハイデマリーの手を引き、道を歩いていく。なんてことはないただの道。だが今はとてつもなく困難な道だった。誰かの手を引いて歩くことがこんなにも恐ろしいことだとは思わなかった。目を閉じた彼女は俺の手を頼りに歩いている。一つ間違えれば彼女に怪我をさせてしまう緊張感が短い道を長く感じさせる。

 

 長い時間を歩いた気がした。そしてやっと目的の場所にたどり着く。

 

 日は高く、滲んだ汗が額を湿らせていく。せめて直射日光は避けようと手近な木陰に座る。

 

「ここは川の近く? 草の匂いや木の揺れる音がしてる」

 

「そうだよ、君が見せてくれた写真の場所、……だと思う」

 

「……そうなの」

 

 ハイデマリーはそう言うと手を伸ばし、足元の草木、木の幹と触れていく。

 

 目を開かないで手で、耳で、鼻で、あらゆる方法で彼女は周囲を感じ取ろうとしていた。

 

「目は、開けられない?」

 

「やっぱり怖い。だって今までずっと暗い場所にいたのよ?」

 

 上手くいかないものだ。どうしたものかと思い、話題を変えることにした。

 

「そのサングラスのかけ心地はどう? 母さんのサイズだったから少し大きいと思ったけど」

 

「ええ、少し大きけど、そんな気にするほどじゃないわ。……これお母さんのものなの?」

 

 そう聞かれ、母さんのことを思い出す。

 

「うん、昔家族でシチリア島に行った時に父さんが母さんに買ったんだ。結局旅行から帰ってきたら使わなくてしまったままだったけど」

 

「——! そんな大事なものをもらって良かったの?」

 

「別にいいさ。家にあったって父さんがおかしくなる原因だ。だったら君に使ってもらった方がずっといい」

 

 母さんが死んですぐの父さんの様子を思い出す。あの時は本当に酷かった。酒浸りになり、帰ってくる度に生傷を増やす父さんは見てられなかった。

 

「その、お母様のことは……」

 

「前にも行ったけど、母さんのことはもう終わったことだよ。俺も父さんもこれからの事、母さんのいない明日を生きていかなくちゃいけない」

 

「フリッツは強いね。私はきっとそんな風に勇気を持てない」

 

「勇気なんて立派なものはないよ。前を見てないと転んで二度と立ち上がれなさそうなだけ」

 

「それでもすごい。それに比べて私は……」

 

 ハイデマリーは悔しそうに俯いてスカートの端を掴んでいた。

 

「ごめん、ハイディ」

 

 俺が謝ると彼女は不思議そうに言葉の理由を訪ねた。

 

「君が外に出るきっかけになりたいと思ったけど。君にとって外の陽が、僕にとっての母さんがいなくなった日常と同じくらい怖いものなんだね。それなのに無理やり連れ出すようなことをして、思いやりが足りてなかった。ごめん」

 

 二人して言葉を紡げず、涼やかな風が通り抜けた。

 

 ハイデマリーが息を飲む音が聞こえた。

 

「フリッツ、私、目を開ける」

 

 彼女を見ると、彼女は決心したように拳を握っていた。

 

「どうして? 嫌ならすることないよ。俺に気を使ってって言うならそんなの気にしないで」

 

「違うの。きっと私には勇気が足りていないの。今ここで勇気を持てなかったら、きっと私はいつまでも勇気を持てない人になってしまう。それはきっと悪いことだと思う」

 

 強がっているのは簡単に分かった。握った手が小さく震えてシワを大きくしている。無理に勇気を振り絞ろうとする彼女にかけるべき言葉を見つけられない。

 

「それは……」

 

「でもまだ怖いのは本当だから。だから目を開けられるまで手を握っていてくれる?」

 

「そんなことでいいなら、喜んで」

 

 手を取って、そっと包む。白く冷たい手に触れて、そのあまりの小ささに驚く。こんな小さな手の人が勇気を出そうとしている。きっと本当は俺が守らなきゃいけないのに、なのに彼女にしてあげられることは何もなく、ただ彼女を見守ることしか出来ない。

 

 固唾を飲んで彼女の勇気を待っていた。

 

 ほんの小さく、本当に小さく、罪の満ち欠けが早く感じるの速度で彼女は目を開いていく。

 

 そして大きく目を見開いた。

 

 彼女は声も出さず、動きを見せず、ただ静かに涙を流していた。透き通った涙が彼女の白い肌を伝って土を湿らせていく。

 

「見えるわフリッツ。こんなに、こんなにも明るいのに、私、私が見ているわ!」

 

 サングラス越しに彼女は当たり前の風景を見ていた。当たり前のそれを取り戻した彼女は静かに握った手に熱を込めて握り返していた。

 

「ここはこんなにも綺麗だったのね」

 

「うん」

 

「天気がとても良いわ」

 

「うん」

 

 彼女の言葉にうなづいて答える。彼女の声は上擦り、悲しさとは程遠い理由で震えていた。

 

「ここに連れて来てくれてありがとう、フリッツ」

 

「どういたしまして。おめでとうハイディ」

 

「ええ!」

 

 涙と喜びでくしゃくしゃとなった笑みは、記憶にあるどんな人のどんな顔よりも綺麗だった。それが見れたなら全てが報われた気がする。

 

 この笑顔が見られるなら、俺はなんだってやれってあげられると思った。

 

 

 

  ●

 

 

 

 この日は私にとって特別な日だ。私のための暗い家から飛び出して、広くて眩しい世界をこの目で見た。

 

 この目で見た景色は平凡なものだったけれど、写真で見たどんな場所よりも美しく、確かに私の記憶に焼き付いている。ここに連れて来てくれたフリッツにはどれだけ感謝の言葉を積み重ねても足りないくらい。

 

 フリッツ。私の初めてのお友達。そして私に陽の下の世界を見せてくれた人。私によくしてくれる人。なのに私はあなたに何もまだしてあげれられていない。

 

 燃え盛る故郷の最期で、泣いて崩れるあなたに何もしてあげられなかったこと以上の後悔を私は知らない。愛おしい日々をどこかに置き忘れ、壊れてしまったあなたは今どこにいるの? 

 

 



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Das Ende der Kindheit, der Beginn des Verfalls

短編なので話はスイスイと進んでいきます。残り7話ほどお付き合いのほどよろしくお願いします。


 オーブンから熱線が焼ける音と共に小麦が焼ける良い匂いがする。遮光の入ったのぞき窓に顔を近づけ、中で焼いているものがきつね色に変わっていることを確認する。

 

「うん、これくらいかな。……おっ、いい感じいい感じ」

 

 オーブンから取り出すと作っていたもの、カールスラントでは一般的なお菓子であるプレッツェルはいい塩梅に焼き目が入っていた。

 

「おー、なんかいい匂いがしたと思ったらお菓子か。フリッツは今日もハイデマリーちゃんとデートか?」

 

 匂いを嗅ぎつけてやってきた父さんがからかうように笑っていた。起きてきたばかりらしく、髪の端々が巻いて寝癖を作っている。

 

 からかわれたことで顔が赤くなったことを自覚しつつ、思わず父さんを睨みつけながら先に作った朝食を、テーブルの上に乱暴に置いた。

 

 それを気にした様子も見せず、出されたサンドイッチを食べながら、父さんは俺の様子を見て苦笑を止めない。

 

「ははは、怒ることないだろ。でも良かった、こっちでもフリッツに友達ができて」

 

「なんだよ、別に俺が誰といたっていいじゃないか」

 

「それにしても次はプレッツェルか。どんどん母さんみたいに料理が上手くなっていくな」

 

 二人で朝食を食べていると肩越しに湯気を立てているプレッツェルを見て父さんが言う。その視線はそのままスライドしていき、壁にかけられたカレンダーを見た。

 

 そして日付を見て父さんは感慨深そうに大きく息を吸った。

 

「もう母さんが死んでから一年も経ったんだな」

 

「っ! ……そうだね」

 

 父さんの方から母さんの話題に触れたことに少し驚いてしまった。母さんが死んですぐの父さんは酷かった。それこそそのまま後追いをするんじゃないかってくらいに顔から表情がなくなっていた。だからその頃は学校が終わるとすぐに家に帰って父さんが生きていることを確認する毎日だった。

 

 こちらへ移ってからの父さんは仕事に打ち込むことで明るさこと取り戻したものの、やはり母さんのことには触れようとしていなかった。だからこうして父さんの方から母さんについて何か言うことに驚きだった。

 

 俺が変な顔をしていたのだろう、苦笑した父さんが続ける。

 

「父さんが母さんのことに触れたのがそんなに意外か?」

 

「まぁ……。父さん、ずっと母さんのこと何も言わなかったし、もう父さんからは何も言わないのかな、とは思ってた」

 

「まぁ、あんなの見せたらそう思われるよな」

 

 面目ないと父さんは恥ずかしそうに頭をかいている。そしてもう一度カレンダーの方を見ていた。懐かしむように柔らかい表情だった。

 

「父さん、母さんが死んでどうしていいか分からなくなったんだ。お前が生まれて仕事も軌道に乗り出して、その矢先に母さんが死んで、思い描いていた未来が根底から崩れて、もうどうしたらいいか分からなかったんだ」

 

「知ってるよ、父さんの一番に近くにいたのが誰だと思ってるんだよ。それで何? もう母さんのことは平気って言いたいの?」

 

 不安定だった頃の父さんを知っているからこそ、本当に大丈夫なのかと心配に思い、ついつい口調が硬くなる。

 

 諮問するような俺の口調に父さんは苦笑いをして、しかし朗らかな表情をした。

 

「毎日寝る前に母さんのことを思い出すよ。でも、いつまでも母さんのことを引きずって、お前のことを疎かにしていたら、天国の母さんに怒られそうだからな。少なくともお前が独り立ちするまでは父さん、頑張るよ」

 

「まったく、もう。そんなこと、もっと早く気づいてくれよ」

 

 厳しい言い方をしてしまうが、どうしても口元が緩んでいることに気づいてしまう。

 

 それを見られて、父さんも口元を柔らかくして、

 

「だから、明日は母さんの墓参りに行こう。そうしたら明日からは母さんが死んだ後だ」

 

「そっか、母さん死んじゃったんだね」

 

 当たり前のことを確かめるように俺は呟いた。

 

 

 

  ●

 

 

 

 昼下がりの川辺は暖かかった。日差しが少し強いから俺たちは木陰に座っていた。持ち寄ったラントバスケットを開け、持ってきた皿に並べていく。

 

 今日はサンドイッチとプレッツェルだ。

 

「まぁ、プレッツェル! フリッツの作るお菓子はいつも美味しそうだわ」

 

「ハイディはサンドイッチだね。お母さん、迷惑じゃなかった?」

 

「そんなこと。今朝だって、ピクニックだって言ったらお母さん、張り切って早起きして作ってたもの。きっと迷惑だなんて思ってないわ」

 

 そう言って彼女はサンドイッチの一つを差し出した。受け取り、かじりつく。

 

 炒めたベーコンとレタスが小気味よい音を立て、塗ってあったらしいマスタードが少し辛い。俺が作る、母さんが作ってくれていたサンドイッチとは違う味。きっとこれがハイデマリーにとっての母の味なんだろう。

 

 誰かに作ってもらう料理。そう思うとありふれたこのサンドイッチが特別なものに思える。事実俺はもう母さんに料理を作ってもらうことはできない。

 

「フリッツの作ったプレッツェル、とっても美味しいわ」

 

 いつの間にかサンドイッチを完食していたハイデマリーが並べられていたプレッツェルに手を出していた。食みながら彼女は美味しいと何度も言ってくれる。

 

 そして半分ほど食べると口元から離し、じっと見ていた。

 

「……私もお料理、できた方が良いのかしら」

 

「どうしたの急に?」

 

 聞いてみるとハイデマリーは手元にある食べかけのプレッツェルと俺が食べているサンドイッチを指差した。

 

「フリッツは自分でこんなに美味しいお菓子を作ってくれるのに、私はお母さんに頼んで作ってもらってばっかり。なんだかこれはダメな気がする」

 

「せっかく作ってもられるなら、それに越したことはないんじゃない?」

 

「そうかなぁ……」

 

 なんだか歯切れの悪い様子でハイデマリーが呟く。

 

 本人は作ってもらうばかりの状況がお気に召さないらしい。俺からしたら作ってもらえるのならそれ以上は言うことはない。少なくとも作ってもらえる選択肢があること、それ自体がどうしようもなく幸福だと言うのに。

 

 そんな思いが顔に出てしまっていたらしい。手元のサンドイッチと俺を交互に見て、ハイデマリーは申し訳なさそうに眉尻を下げた。

 

「ごめんなさい、無神経だった。フリッツにはもう……」

 

「あー……、気にしないで。そんなつもりで言った訳じゃないから」

 

「でも……」

 

「うちはもう、母さんがいない。それでやって行こうって決めたんだ。だからもう母さんがいなくてもいい、そう父さんと決めたんだ。だからこの話はおしまい」

 

「フリッツがそう言うなら……。フリッツは強いね」

 

「生きていくのに必死なだけだよ。それに俺には父さんがいる、二人ならなんとかなるって信じてるから」

 

 言っていて恥ずかしくなって会話を切り上げ、上を見た。広がった広葉樹の隙間から小さく陽の光が溢れて、光の筋を頭上に残していた。

 

「太陽がとても綺麗。前まではこんなの絶対に見られなかったのが嘘見たい」

 

 嘆息をして感慨深そうにハイデマリーが言う。言いながら贈ったサングラスの端に手を触れる。

 

「わたしっていつももらってばかり。今日だってお母さんにサンドイッチを作ってもらって、フリッツにもらったこのサングラスでお外に出られる。わたしは何もしてない」

 

「そんな大したことはしていないよ。ハイディにだって出来ることばかりだよ」

 

「ならわたし、お料理がしてみたい!」

 

 ハイデマリーは立ち上がり、両手を広げてみせた。見よう見真似らしい、母親がそうしているのだろう料理の真似事をしてみせて言う。

 

「サンドイッチを作って、シチューを作って、クッキーも、それを全部ランチバスケットに仕舞って、わたしとフリッツでピクニックにいくのよ。わたしが作ったものを食べて、ゆっくりとお日様を眺めて」

 

「それは……、うん。とても素敵だ」

 

「でしょう? だから今日帰ったらお母様に頼んで料理を教えてもらう。そして練習したら一緒にピクニックに行きましょうフリッツ」

 

 楽しそうに未来を描くハイデマリー。その楽しそうな様子にこちらまで顔を綻ばせてしまう。素敵な未来予想図だ。今を必死に行きている俺には眩しくて仕方がない。でもそんな楽しいことが待っているのなら、きっと悲しかった昨日もそんなに悪いものじゃないのかもしれない。

 

 ——そうだね。いつか君が作った料理を持ってピクニックに行こう

 

 そう言葉にしようとして、言葉は突然の轟音と破壊にかき消されてしまった。

 

「アレは何? 太陽が隠れていく……」

 

 地響きとともに、空を覆うように黒いカーテンが太陽を隠していく。

 

 緩やかな時間が終わろうとしていた。

 

 

 

  ●

 

 

 

「どうしましょうフリッツ。どうしたら良いの」

 

「いいからとにかく大人のいる方へ行こう!」

 

 ハイデマリーの手を引きながら、俺たちは道を走っていた。昼間だというのに外は不自然に暗かった。突如現れた黒い塊が空に浮かび、それが太陽を隠してしまっていた。遠くからは花火のような重たい音が地を伝い、何度もこちらへ響いていた。

 

 そしてカルフの街へ走れば走るほどその音の感覚は短くなっていった。揺れる足元が不安をどんどん重くしていく。震えてしまい歩けなくなってしまいそうな足を、手を繋ぐハイデマリーを放っておくことはできないと自分を奮い立たせて道を急ぐ。

 

 十分も走ればカルフの街が見えてくる。やっと見えた。そう安堵しようとして、吐き出そうとした息は出て行くことが出来ず、代わりに衝撃に息を飲んでしまった。

 

「そんな……街が燃えてる」

 

 言葉を失った俺の代わりにハイデマリーは状況を代弁してくれる。のどかなカルフの街が炎に包まれていた。遠くからでも見える協会の尖った屋根が火柱になり、まるで街そのものが大きな焚き火のようだった。

 

「どうしようフリッツ、街が燃えてる。わたし達の街が燃えてなくなっちゃう」

 

 泣きそうな声でハイデマリーが言う。でも俺にはもう彼女の言うことに反応していられるほど余裕がなかった。俺たちだけではどうしようもない。しかし大人を探すには今も燃えている街に入らなければならない。

 

 遠くからは爆発するような音と人の悲鳴のようなものが聞こえた気がする。どうすればいい。どうしたら間違えない。

 

 それでもとにかく大人に、頼っていい大人を探そう。

 

「危ないかもしれないけど、とにかく大人を見つけないと」

 

 そう決心してハイデマリーの手を引き街を走る。

 

 幸い俺たちがやってきた街の東側はまだ被害が少ないらしく、逃げ惑う人々とすれ違いながら俺たちの家を目指す。俺はきっと無意識に父さんを探していた。

 

 家にたどり着く頃には周りの家のいくつかは燃え始めていた。

 

 家にたどり着き、慌てて鍵を開けて家の中を見た。目につくところを探してみたがどうやら父さんは帰っていないようだった。

 

 ゆっくりしている訳にはいかない。次はどうしようかと考えていると不安そうにハイデマリーに袖を引かれた。

 

「ねぇ、フリッツ。お家が、お父様とお母様が心配だわ」

 

 街の様子を見てハイデマリーは両親の安否が気になってしまったのだろう。それにこの家に父さんはいない。次の目的地を思いつけなかった俺に、次の目的地を決めるのにその言葉は十分だった。

 

「そうだね、おじさんとおばさんを探しに行こう」

 

「二人とも無事よね……、きっと」

 

 俺たちは街を走る。歩き慣れた街中だと言うのに煙や炎に邪魔されて思うように通りを歩けない。回り道や道を引き返しながらなんとか彼女の家にたどり着く。

 

 そして俺は言葉を失った。

 

「嫌……、お家が……」

 

 たどり着いた時、彼女の家は勢いよく燃えていた。立派な庭も建物も一様に赤色に染まり、綺麗だった面影はどこにもなかった。

 

 慌てて中に入ろうとするハイデマリーをなんとか引き止める。

 

「止めないでフリッツ! いやよこんなの!」

 

「だからってあんなに燃えてる家の中に入ったら君まで死んでしまう!」

 

「でも! ……でもぉ」

 

 泣きそうになって、それを我慢してその場に彼女は座り込んでしまう。燃え続ける屋敷を眺めながら、成り行きをただ見ていることしか出来ない。どこへ行けというのか、俺にはもう分からなかった。

 

「フリッツ! ハイデマリーちゃん! ここにいたのか!」

 

 呆然としていると俺たちを呼ぶ声がした。振り返るとそこにいたのは父さんだった。

 

「よかった、ようやく見つけた。みんな北の防空壕に逃げたんだ。二人も早く行こう」

 

 やっと頼れる大人がいた。父さんの手を掴み、座り込んだハイデマリーの手を引いて立ち上がり、進もうと俺たちは歩き出して、

 

 ——視界の全てが赤く染まった。

 

 

 

  ●

 

 

 

 何が起きたか分からなかった。耳鳴りがひどい。耳元で叫ばれたみたいに、金属音がずっと響いている。視界も歪んでしまって、物が良く見えない。

 

 赤く染まった視界。それが流れ出た血が視界を染めていることに気づくのにそう時間はかからなかった。

 

 しかし体はどこもかしこもぶつけた感覚はあるが、血が流れ出る時の温かいものが抜けていく感覚はなかった。

 

 ではこの血はどこから? その疑問の答えはすぐに見つかった。斜めの視界、隣にはハイデマリーがいた。頭を打ったらしく額から少し血が滲んで気を失っていた。どうやら無事らしいことに安堵する。

 

 しかし、ふと思った。父さんは? 先ほどまで一緒にいたはずの父さんが見当たらない。視界も暗い。日を遮るそれがなんだろうと思い、上を見上げた。父さんだった。

 

 ボタボタとワインの瓶を割ったように粘りのある赤い血が顔に垂れてきた。

 

「父さん! なんで……、どうしてこんな」

 

 俺とハイデマリーに覆いかぶさるようにしていた父さんに叫べど答えは返ってこなかった。怪我をしていない俺たちの状況を見てすぐに分かった。父さんが俺たちをかばってくれたのだ。それに動揺して父さんを揺らしてみるけれど、大人の体とは思えないほど簡単に父さんをどけられてしまった。

 

 それもそうだろう。父さんだと思っていた物体は、両足と背中の肉のほとんどがなくなっていた。なくなった肉の分だけ父さんは軽くなってしまった。

 

 べしゃり、と水の詰まった袋が地面に落ちる音がする。

 

「……だ、大丈夫かフリッツ? 痛いところ、ないか?」

 

 時々、呼吸をかすれさせながら父さんは笑って聞いてきた。ボロボロになって、全身を血に濡らして、どう見ても手の施しようがない重症で、それでなお父さんは俺の心配をしていた。

 

「ハイデマリーちゃんも無事か? 父さんさっきから左側がよく見えなくてな、そっちの様子が見えないんだ」

 

「は、ハイディなら大丈夫だよ、父さん。気絶してるけど顔色はいいから。そんなことより早く誰か呼んでこよう」

 

 息も絶え絶えで無事ではない父さんをどうにか助けようと、誰かを呼びに行こうとして、俺の腕を父さんが掴んでどこへも行かせないようにした。

 

「と、父さん? 早く誰か呼ばないと」

 

「いいかい? フリッツ」

 

 父さんはまっすぐに俺を見た。助けを呼びに行きたいのに、父さんは嗜めるように語りかける。

 

「いいかい、フリッツ。君は男の子だ。女の子を守らなくちゃいけない。父さんのことよりもハイデマリーちゃんを守るんだ」

 

「でもこのままじゃあ、父さんが死んじゃう……」

 

 流れ出ていく血は先ほどから止まらない、分かっていた。本当は父さんが助からないことくらい、子供の俺にでも分かった。それくらいに父さんは血を流しすぎていた。

 

 これだけ血を流して、きっと文字通り死ぬほど痛いだろうに、この時になって初めて父さんは泣きそうな顔になった。

 

「ごめんなぁ、本当は父さんが二人を守らなきゃいけないのに。なのに父さん、二人をもう守れなくてごめんな」

 

「そんなこと言ってる場合⁉︎ そんなこと言う前に早くみんなで避難しないと」

 

 俺がいくらそう叫んでも父さんはうわ言のように言葉を止めない。

 

「本当、父さんダメだよな。母さんが死んだ時も、本当は父さんはお前を守らなきゃいけなかったのに、父さんは自分のことが精一杯でお前のことを放っておいて」

 

「いいから黙って! ……お願いだからぁ」

 

 泣きそうになって声が上擦る。しかし父さんは笑って指の欠けた手で頭を撫でられる。

 

「これからまたちゃんと家族に、母さんのことを乗り越えて上手く出来ると思ったんだけどなぁ……」

 

「諦めたみたいなこと言わないでよ! 俺にはまだ父さんは必要なんだ!」

 

「ははっは……、フリッツはまだまだ子供なんだなぁ……。最近は手がかからなくなっちゃったから忘れてたよ……。そうだな、ちゃんとこれから父さんが守ってやるからな」

 

 少しずつ頭に乗った手が軽くなっていく。もう流れ出る血もないのか父さんの顔は少しずつ白くなっていき、命の色が抜けた、母さんと同じ色に変わっていく。

 

 また失ってしまう。母さんに続いて、父さんまでも。また家族を失ってしまう。それは嫌だ。一人にして欲しくない。父さんを行かせないように、留めようと力の限り叫んだ。

 

「父さん!」

 

「泣くなよフリッツ。男の子だろ? でもそうだなぁ、父さんがちゃんと父さんを出来たなら、またその時は家族に戻ってもいいのかな?」

 

「そんなことしなくたって俺の家族は父さんだけだよ。他の誰でもない。父さんだけなんだよ、他の誰にも代わりなんてできるもんか……」

 

「そっか……、なら、良かっ……」

 

 言葉は最後まで続くことはなかった。熱の抜けた腕が重力に従って地に落ち、溜まった血を叩いて血飛沫が舞う。

 

 そして静かに、痛みなんて感じていないかのように父さんは息を引き取った。

 

 

 

  ●

 

 

 

 父さんが静かになった。何も聞こえない。命の暖かさも心臓の鼓動も、何もかも音を失った。聞こえているのは街を燃やす炎の音だけ。

 

 俺の最後の家族が今、死んだ。

 

 静寂があった。

 

 ハッと我に帰り、隣でハイデマリーの呼吸する音でなんとか自分のいる状況を思い出した。

 

 父さんはもう動かない。なんとかハイデマリーとこの街を脱出しなければならない。

 

 幸い、彼女の体重は軽い。俺が彼女を背負えばなんとか逃げることが出来る。

 

 動かなければ、いきて逃げないと父さんの死を無駄にしてしまう。それは一番してはいけないことだ。

 

 立ち上がって動こうとして静かだった街に音が増えた。

 

 重い鉄が打ち合うような規則的な音。それが大きくなり、その音の正体はすぐに分かった。

 

 道路の角からやってきたそれと目が合う。正確に言えば目などない。全身が黒いハニカム構造に覆われ、一部赤くなった部位がまるで目のようで、目が合ったような錯覚があった。

 

 いや、気のせいではない。それは確かに俺を見て、そして動いた。顔のすぐそばを熱が走った。

 

 直後に背後で爆発音がした。振り返り、見てみると小さな爆発と炎。放たれたのはビーム、熱光線だ。これが出来る存在を俺は知っている。

 

 ネウロイ。古くは怪異と呼ばれ、人類と敵対してきた天敵。どうして街が焼けているのか、誰が父さんを殺したのかすぐに分かった。

 

「おまえかー!」

 

 気がつけば叫んでいた。武器も何もないのに走り出し、目の前にいるネウロイに向かっていた。ビームを出してすぐは打てないらしい。ネウロイは驚いたように動きを止めていた。走りながら転がったレンガの破片を掴み、ただ乱暴に叩きつける。

 

 しかし割れたのは俺の手だった。当たり前だ。ネウロイは世界中の軍隊、ウィッチが戦ってやっと勝負になるんだ。ただの子供が暴れてどうにか出来る相手ではない。蜘蛛のような足を生やしたネウロイはその一足を振り上げると払うような動作で動かし、俺はボールのように叩かれた。

 

 視界が何度も回転し、近くの壁にぶつかって止まる。

 

「殺す、殺す、殺すぅ!」

 

 冷静さなど何もない。ただ同じことを何度呟き、手近にあるレンガや石を投げる。しかし何をしても軽い音がしてネウロイの装甲には傷一つつかない。

 

 もう一度レンガを投げようとして、腕に熱が走った。痛みとともにそちらを見てみると、右腕、肘から先がなくなっていた。振りかぶろうとしていて、肘から先がなくてバランスを崩す。

 

 バランスを崩し転倒して、無防備にネウロイの前の転がり出る。無防備になった俺をネウロイは焼き殺そうとビームの充填を始める。赤く光った装甲、すぐにも父さんを殺したのと同じ熱が俺に襲いかかろうとしていた。

 

 もう終わりらしい。どう頑張って、ここから勝てる要素はない。このまま俺は殺されて、次はきっと気絶したままのハイデマリーだろう。俺が死んだ後で彼女も殺される。

 

 それはダメだ。父さんと約束、最後の言葉を無為にしてしまう。

 

「殺してやる。父さんを、この街をめちゃくちゃにしたお前らを絶対に、殺してやるー!」

 

 叫びながら迫っていたビームの光が最大になった。

 

 視界が光でいっぱいになった。

 

 放たれた光線、しかしどういうわけか俺は生きていた。

 

 光線の手前、何かがそれをそれを遮っていた。薄い膜のようなものが間に割って入り、俺を守っていた。

 

 これがそういうもので、どうしてあるのか、何一つ分からなかった。しかしこれでどうにかすればあれが殺せる。その確信だけで十分だった。

 

 肘から先がなくなった腕をかばいながら立ち上がる。手近な大きさのレンガ片を掴んでネウロイに近づいていく。ネウロイは俺を殺そうと何度もビームを放つが、勝手に出現するシールドがそれを防ぎ、一歩、また一歩と近づいていく。十歩も歩いていると手が届く距離に入る。

 

 腕を振り上げレンガを叩きつけた。レンガが割れた。食い込んだ指が切れてしまった。

 

 どうでもいい。子供の力だけではネウロイは倒せないらしい。

 

 なら、殺せるようになればいい。

 

 不思議と思考はそう結論づけた。頭に異物感があった。異物感は頭の奥からひたいに抜けるようにしていき、一つの形を成した。山羊の角。後から聞いた話だが、ウィッチは魔法を使うとき契約した動物の部位が体から生えてくるらしい。そしてそれは、俺の場合は山羊ということらしい。

 

 そしてシールドが発生するように魔法力が全身を包んだ。怪我をした箇所が癒えていく。

 

 いや、違う。これは癒えているのではない、治癒魔法はあるべき形に戻す力。そしてこれはそうあってほしいという形に無理やり体を整形し直す力。自己改造の魔法だった。

 

 ——腕が欠けてしまったのなら生やせばいい。

 

 欠けてしまった腕がまるで最初からあったように生えた。

 

 ——腕力が足りないなら足せばいい。

 

 筋繊維が人のそれから別物に変わっていく。

 

 ——ネウロイを殺すのに人の力だけでは足りない。

 

 なら人の形をしている必要はない。

 

 腕が足りないから増やした。体が小さいから大きくした。皮膚が弱いから硬くした。血が流れると死んでしまうから、血が流れても問題ないように内臓を作り変えた。

 

 見上げるように大きかったネウロイもいつのまにか見下げるほどに小さくなった。いや、俺が大きくなった。

 

 足を上げ、そして地べたの虫でも潰すような気軽さで、俺はネウロイを踏み潰した。グシャリと鉄を乱暴に圧縮したような音と悲鳴のような音を上げてネウロイは消滅した。

 

 見下ろして父さんの血が作った水溜りがあった。そこに写っていたのはただの化け物だった。人の面影を残して、まるで物語で見た竜のような歪な生き物だった。憎悪だけで形作られた不自然な生き物。それが今の俺だった。

 

 別にどうでもいい。形は重要じゃない。大事なのは今の俺ならネウロイを殺せるということ。

 

 気絶したままのハイデマリーをそっとすくい上げ、火の手から守るように両手で包む。

 

 先ほどの戦いで寄ってきたらしいネウロイが何匹もこっちへとやって来た。奴らは俺を見つけるとビームを放つ。そのどれもがシールドに阻まれて届くことはない。しかしこちらから攻撃することもできない。

 

 なら攻撃する器官を作ればいい。ちょうどいい見本が目の前にいくつもいるじゃないか。

 

 体を作り変え、ネウロイのそれと同じ赤い器官をいくつも作り、奴らがやったのと同じように、奴らの攻撃方法でネウロイを殺していく。

 

 シールドを張れないネウロイはそれだけで容易く死んでいく。

 

 気分が良い。このまま目につくネウロイを全て殺してから避難するとしよう。

 

『死ね、死ね、死ね』

 

 声帯がなくなったから代わりの器官を生み出し、呪うように呟いていく。

 

 ネウロイの数が多い方、街の西側に出るとライン川の向こう側、ガリアの方向からまだまだいくつものネウロイがやってくるのが見えた。

 

 気が済むまで殺そう。そうしたらきっと死んだ父さんも喜んでくれるに違いない。

 

 そう思いながら俺は光線を放った。

 

 

 

  ●

 

 

 

 わたしが目を覚ました時、そこは病院のベットだった。眼が覚めると心配そうに目を泣き腫らしたお父様とお母様に抱きしめられた。

 

 話を聞くとそこはカルフから東に大きく行ったシュトゥットガルトの街の病院だった。カルフの街は住める状況ではなくなって、みんなこちらに避難したらしい。

 

 そして思い出す。フリッツはどこ⁉︎ そう両親に尋ねると二人とも悲しそうな顔をした。フリッツのお父さんが遺体で見つかったと伝えられた。とても悲しかった。でもそれ以上に一緒にいたはずのフリッツがどうなってしまったのかが気になった。一緒にいたはずなのだから同じ病院にいると思ったがフリッツの姿はどこにもなかった。

 

 両親に聞いてみても二人とも何も言わず、わたし達家族は南リベリオン大陸のノイエ・カールスラントに疎開することが決まった。わたしたちの故郷が、祖国がネウロイとの戦争の戦場になってしまった。住めなくなったから、わたしたちは逃げるのだと悔しそうにお父様は言っていた。

 

 疎開の日、遠い南リベリオン大陸へ行くための船が出るネーデルラントの港にわたし達はいた。船に並ぶ人たちはみんな暗い顔をしていた。当たり前だ。故郷を焼かれ、追い出されて私たちは遠い国へ逃げようとしている。希望の逃避行、エクソダスではなく追放なのだ。

 

 最後のお見送りのため、わたし達、移民の列を軍人さんたちが並んで敬礼をしていた。慣れ親しんだ故郷を離れるのだと悲しく思って泣きそうなのを我慢しながら歩いていると、軍人さんの中、ウィッチの人たちの列の中に見知った人がいることに気がついた。

 

「フリッツ!」

 

 わたしは思わず叫んでいた。静止する両親を振り切り、いくつも並んだ列を飛び越えてわたしは彼の前に立った。

 

 一週間ぶりだというに彼はまるで別人のような顔をしていた。傷つき、怪我だらけの顔。それなのに目だけは鋭く暗い感情を瞳に灯らせていた。

 

「フリッツ! どうしてここにいるの⁉︎ 一緒に行きましょう!」

 

 彼は何も言わない。どうして彼がウィッチと一緒にいるのかわからなかった。でも、それでもフリッツの手を取り一緒に行こうとして、しかし伸ばした手を拒絶された。

 

「フリッツ……? どうしたの? 一緒に行きましょう?」

 

「……行かない」

 

 フリッツと目が合った。しかしそこにわたしは映ってはいなかった。表情は抜け落ち、暗い瞳はここにいない敵を睨みつけていた。

 

「ぼくはこれから敵を殺しに行く。父さんの街の仇を取る。敵を殺して、殺して、殺し尽くしてやるんだ」

 

 わたしにではない誰かに言うように何度も愉快そうにフリッツは言った。

 

 フリッツが怖い。まるで敵を殺すこと以外の感情や考え方がすっぽり抜けてしまったように、壊れたレコードのように同じことを何度も呟いていた。まるで自分に言い聞かせるようだった。

 

 そしてウィッチ達に集合がかかるとフリッツも一緒にその方へ歩き去ってしまう。一人残されたわたしは歩き去る彼の背中を見ているしかできなかった。

 

 ネウロイとの戦争という大きな嵐がわたし達の故郷を、家族を、そしてフリッツの心を壊し、私たちは離れ離れになってしまった。

 

 ノイエ・カールスラントへ向かう船から戦場となった故郷へと飛び去っていくウィッチ達の姿だけが見えた。

 

 

 

 幼少期編・完

 

 



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訓練学校編
Auf das Schlachtfeld


今更だけれど作者はストパン一期の脛の傷を隠しきれないカールスラント組の雰囲気が好きです。


 むせかえるような煙を放つ炎の中、俺はいる。理屈なぞすっ飛ばして、単純にネウロイを殺せるまでに自分自身を強化してガリアから川を越えてくるネウロイを目についたやつから滅していく。

 

 あれほど容易に父さんを殺したやつらが紙切れのように散っていく様は痛快だった。倒しても倒してもネウロイの数が減ったようには見えなかったが叩き続けてストレスを発散できることがずっと俺には重要だった。

 

 仇を、恨みを、この怒りを少しでも晴らせられるのならいつまでも続けたい。そんなふうに思いながら、しかし戦いを一旦止めるタイミングを図っていた。というのも腕の中、正確には増設した腕のうち、もともとあった腕の中で気絶したままのハイデマリーを持て余していた。

 

 正直に言えば今すぐにでも彼女をその辺に放り出して川の向こうへ飛び込み暴れたい。しかし父さんとの最後の約束、彼女を守るという約束がその選択を留めていた。腕の中の彼女が死んでしまわない程度にしか暴れられないから、少しづつ被弾もしてくる。

 

 ネウロイを真似たビーム発射器官もネウロイの数にはあまり有効打でもなかった。そんな状況が続いて被弾することにやきもきしていると、俺とネウロイだけの戦場に新たな音が混ざった。後方、首都の方から何かがやってきた。頭の後ろに目玉を生やして確認するとそこに見えたのは小さな人影だった。

 

 あれが何か知っている。ウィッチだ。魔法力を持っていて、足につけたユニットで飛ぶ空の歩兵。顔が見えるほどに近づくとその人は非常に困惑していた。

 

 それもそうだろう。5メートルの生ものっぽい異形の怪物が人類の宿敵であるネウロイと戦っていて、どういう状況なのかすぐに判断しろと言っても無駄だ。案の定ウィッチは空中で停まって様子を見ていた。

 

 どっちでもいい。邪魔さえしなければ、いてもいなくても構わない。

 

 やってきたウィッチを意に介さずネウロイへの攻撃を続けいていると、ウィッチ達の援護射撃が入り、撃ち漏らしたネウロイを沈めていく。どうやら少なくとも俺を敵ではないと判断したようで、すぐそばを恐る恐るという表情で飛び去っていく。

 

 俺が攻撃しないと分かると彼女らはネウロイへの攻撃を始めていき、しばらくすると後方から戦車やら兵隊やらが殺到して戦場が生まれた。

 

 

 

  ●

 

 

 

 後方から飛んでくる戦車や高射砲の弾を避けつつ、ネウロイに攻撃をぶち込んでいく。再生能力があるネウロイに一撃必殺の決定打がないウィッチや後続の戦車の攻撃を補うようにビームや打撃を加えていく。

 

 しばらくしているとようやく味方と認識されたらしく、時々ウィッチや戦車からの援護が入り、戦いやすくなった。戦場も賑やかになり、前線と言えるものが生まれていた。

 

 これならしばらくは大丈夫だろう。

 

 目の前のネウロイを叩き落として殺し、踵を返して跳躍する。前線を敷く戦車や兵士たちの頭上を飛び越え、着地してもう一度飛ぶ。四回も飛ぶと街から避難した人たちのいる避難所までたどり着いた。避難所は屋根がなくなっていて、突如現れた俺を見て悲鳴や怒号が聞こえた。自分の姿が変わっていたことを思い出し、自身に加えた改造を解く。加えた改造は簡単に解除できるらしく、逆再生するように体が元に戻り、ハイデマリーを抱えていると違和感に気がつく。

 

 色がない。気を失ったままのハイデマリーを見て、彼女の綺麗な銀髪が白く見える。白い肌はそのままで、しかし色の違いではなく濃淡でしか色が見分けられない。

 

 色の違いがない視界に動揺していると声をかけられた。

 

「フリッツ君なのかい? それにハイデマリーも……」

 

 顔を上げるとそこにいたのはハイデマリーのお父さん、おじさんだった。先ほど変化した俺を見て距離を置く人々の群れをかぎ分けてやってきたおじさんは顔を引きつらせてこっちへ来た。

 

 ハイデマリーをおじさんに預け、彼女を受け取ったおじさんは心配そうに俺を見た。

 

「ハインリヒ……、君のお父さんはどうしたんだ。君とハイデマリーを探しに行ってそれっきりなんだが会っていないかい?」

 

「……父さんなら死んだよ。俺をハイディをかばってネウロイに殺された」

 

「——っ! なんて事だ……」

 

 父の最後を思い出し、気がつけば唇を噛んでいた。腹の奥底に重たいものが積もっていくようなイラつきが収まらない。おじさんは申し訳なさそうに顔を伏せた。

 

「すまないフリッツくん。私があの時ハインリヒを止めていたらこんなことには……」

 

「おじさんが気にする事ないよ。悪いのは全部ネウロイだ。父さんを殺したネウロイが全部悪い」

 

 だからネウロイを殺さなければならない。戦場に戻ってネウロイを殺すために踵を返して戻ろうとして肩を掴まれた。振り返ると肩を掴んでいかせまいとしていたのはハイデマリーのお母さん、おばさんだった。彼女は怒ったような、心配したような顔をしていた。

 

「なにをしているのフリッツくん。あっちはさっきから銃声がして危ないわ。一緒に避難しましょ?」

 

「そうだ、フリッツくん。ここにいなさい」

 

 片手でハイデマリーを支えて開いた手でおじさんに手を引かれる。

 

 止めてくれる二人の手を振りほどき、前に出る。魔法力を体全体に流し、活性化させていく。額から山羊の角が生え、人からそうではないナニカに体を変えていく。先ほどの竜のように姿を変えた改造の影響らしく、背中にはコウモリの様な羽、尾骶骨のあたりから細長いトカゲのような尾が残っていた。

 

「あ、悪魔……」

 

 おじさんがポツリと俺の姿を見て呟いた。その直後、自身の発言を失言だと思ったしいおじさんは慌てて自分の口を覆ったがもう意味はなかった。おじさんのつぶやきに対して、自嘲するように笑いが漏れてしまう。

 

「悪魔ね……、あながち間違いじゃないかも」

 

 あれだけ街をめちゃくちゃにしたネウロイを一方的に殺せてしまうんだ。もう自分が普通の人でなくなり始めていることを自覚させられる。でもそれでよかった。

 

「父さんの仇を取れるなら悪魔でもなんでもいい。ネウロイは殺す。殺して殺して、あいつらが消えて無くなるまで殺し尽くすんだ」

 

「いけない、フリッツくん。そんな感情でいたら、心が壊れて本当に人でなくなってしまう。今ならまだ間に合う、一緒に避難しよう。私たちと来るんだ」

 

「うるさい!」

 

 気がつけば怒鳴ってしまっていた。そんなつもりはなかった。ただこの暗い感情をどこへ向ければいいのか分からない。父さんを殺され、荒れ狂う心のうちに安らかな凪が欲しい。

 

 そのために殺すのだ。

 

 走り出す。走り、少しずつ体を変化させる。より強靭に、より戦いに向いたものに。

 

 元の竜へと姿を変え、僕は戦場へ飛び去った。過去の全てをそこに置き去りにして。

 

 

 

  ●

 

 

 

 戦場へ戻ってからはあっという間だった。僕が抜けた間に少し前線を押されていたらしい。破壊された戦車や死んだ兵士たちを飛び越え戦いに参加する。近くにいたネウロイを握りつぶし、踏み砕き、届かなければビームで焼き払う。

 

 僕一人がいるだけで戦いは圧倒的に人類側の優勢だった。それでもこちらの被害は少なくなかった。気を抜けばネウロイどもは攻撃の手を激しくしてその度に近くを飛んでいたウィッチが撃墜され、命が散っていった。

 

 正直邪魔だ。いない方が無造作にビームを撃てるから、むしろ味方が攻撃を阻害させる。

 

 味方側の数は半分を切り、高かった太陽が夕焼けとなって沈みそうになった頃、ようやく戦場に静寂が訪れた。無尽蔵と思われていたネウロイも遂に弾切れらしく、もうネウロイは川の向こうから来ることはなかった。しかし未だ川の向こうに巣と思われる雲の塊のような物体は空に浮かんでいて、その周りにはネウロイが飛んでいた。

 

 叩き壊そうと川の向こう側へ行こうとして、味方だったウィッチ達に囲まれていた。拡声器越しに意思疎通を図ってきたリーダーらしきウィッチに投降するように言われた。

 

 別に無視してもよかったけど、それで攻撃されても敵わない。僕はネウロイを殺したいのであって、人間を殺したいわけじゃない。

 

 頭の冷静な部分が今はおとなしくしていた方がいいと告げる。おとなしく指示に従い、人の大きさに戻ると彼女たちは驚いたような顔をしていたが、落ち着くとごめんねと一言断って手錠をされ、僕を本部らしい建物に連れてかれた。

 

 取調室らしき部屋に通され、しばらくおとなしくしていると随分と重武装をした兵士を引き連れたおじさんが部屋へ入ってきた。知らない人だったけれど、軍服という身なりと胸に掲げられたいくつもの勲章からそれなりに高い地位にいることだけはわかった。

 

 おじさんは部屋に入って座っているのが子供だと分かると少し驚いたような顔をしていたがすぐに表情を正して僕の正面に座った。

 

「私の名前はエルヴィン・ロンメル。帝政カールスラントにて大将を拝命していただいている者だ」

 

「……フリッツ・ルンペンハルト、……です」

 

 内心警戒していたのが見え透いていたらしい。ロンメルと名乗ったおじさんは表情を崩してそう緊張するなと言う。僕の手錠を外しすまなかったねと一言断ってから。

 

「単刀直入に言おうフリッツくん。カールスラントは君を戦力として迎え入れたいと言っている」

 

「……戦力ですか」

 

「そうだ。この5時間での君の活躍を部下から報告を受けてね。単独によるナルゴト川一帯に広がっていたネウロイの師団を食い止め、あまつさえ防御線構築まで戦闘を続けた……、撃墜数は分かっているだけでも400機。我々が到着するまでの3時間も考慮すれば実数はその倍以上」

 

 改めて数字にされる自分がやったこと。ネウロイを潰すことで頭がいっぱいだったためよく分かっていなかったが、どうやらすごい数字らしい。ロンメルは続ける。

 

「これはカールスラントのエースを一個中隊揃ええたとしても敵わない驚異的な数字だ。それで……だ。カールスラントが君を引き止めるためにいくら払えば良いかね?」

 

「お金?」

 

「まぁ、分かっているとも。君くらいの子にお金を示しても興味を持たないだろうね。ただ上層部はかなりなりふり構わない様子で、君を何としてでも迎え入れたいと言っている」

 

「興味ありません。ネウロイを殺せるならどこでも一緒なので」

 

 ロンメルと目が合う。彼は少し悲しそうに眉をひそめていた。よく知らない人だが彼の人の良さは伝わってくる。

 

「参考にまで聞きたいのだが、ご両親はどちらに?」

 

「母さんは一年前に病気で、父さんはさっきネウロイに殺された」

 

「……すまない。我々がしっかりしていればもしかしたら父君は……、いや過ぎたこと今更言ったところでダメか。フリッツくん、君が我々とともにネウロイと戦ってくれるなら、我々は君の要望を可能な限り叶えよう。何か欲しいものはあるかな」

 

「何も……。何もありません。ネウロイと戦えるならそれでいいです」

 

 カールスラントに僕を引き止めたいロンメルともうカールスラントに留まる理由のない僕の間に沈黙が続く。カールスラントとしては明らかに突出した戦力の僕を他国に盗られるような状況は避けたいのだろう。そしてこのロンメルはそうなるように動けと命令された、状況はそんな感じなんだろう。

 

 ふーむ、と困った様子をみせるロンメル。

 

「フリッツくん、これからの予定を聞いても?」

 

「予定……? ……あっ」

 

 これからのことを聞かれ、一つ気がかりなことがあった。

 

「ロンメル……さん」

 

「何かな?」

 

「カルフの人たちはこれからどうなりますか?」

 

 カルフの街は焼け落ちてしまった。少なくともまともに住める様子には見えなかった。ならば今避難をしている街の住人のみんなはどうなってしまうのだろうか。

 

「ふむ……。そうだね、彼らは被災難民となってしまった。しばらくはあの避難所で生活をして、その後はカールスラント各地に移住という形になるだろうね」

 

「正直に言って」

 

「彼らはカールスラント中をたらい回しにされて、長い間定住が難しかもしれない。財産も失っただろうから生活も安定しないだろう」

 

「でもロンメルさんならどうにかできる?」

 

 討論が温まってきたとロンメルは口角を上げた。

 

「私が、というわけではないがカールスラントから優先的に援助を与えることは出来る。今世界で最も安全な南リベリオン大陸にある我々の植民地、ノイエ・カールスラント。そこで新たにカールスラント街を作ろうと思っていてね。希望者のみにはなるが優先的に移住権を渡すことは出来る」

 

「ノイエは安全ですか?」

 

「少なくとも戦場となっているこの欧州より安全だとも」

 

 ならきっとあの子もそこに行くべきだ。僕が彼女にできることはきっとこれなんだろう。

 

「……お願いします」

 

「了解した。カルフの住民のノイエ・カールスラントへの移住の優先、手配しよう。安心したまえ。君の戦力的価値に比べれば些細な案件だ」

 

 そして僕とロンメルさんとの契約が決まった。

 

 例えどれほど憎悪に心を焼いたとしても君だけは守ろう。13枚の契約書に署名をしながら、僕は一人そう決心した。

 

 

 

  ●

 

 

 

 夜、もう寝静まった時間帯。僕はシュトゥットガルトの街にいた。気絶して怪我もしていたハイデマリー がここの病院に搬送されたと聞いたから、そしてアルフレートおじさんに会いにここに来た。

 

 面会時間はとっくに過ぎていたがカールスラント軍の身分証明書を見せたらあっさりと病室の場所を教えてもらえた。あまり縁はなかったがカールスラントでは軍人さんや技術者は特別待遇という話を思い出した。

 

 教えられた病室の前に行き、扉をノックした。返事があって中に入るとおじさんがいた。並べれたベッドの上で安らかな寝息をハイデマリーはたてていた。それを見て少し安心した。

 

「フリッツ君……、その格好は?」

 

「おじさん。僕、軍隊に入ったんだ」

 

「……そうか」

 

 そう伝えるとおじさんは悲しそうに僕の胸に掲げられた空軍の所属を意味する勲章を見ていた。

 

 これから伝えることを考えて、僕は覚悟を決めた。さよならをいうための言葉。

 

「おじさん、今日はお別れを言いに来たんだ」

 

 ポケットにロンメルさんから預かったチケットを三人分、おじさんに差し出した。受け取ったおじさんはそのチケットに書かれた目的地を見て目を見開いた。

 

「ノイエ・カールスラントへのチケット?」

 

「それからこれも」

 

 一緒に持ってきたバインダーにまとめた書類も渡す。これで真意が伝わるだろう。

 

「戸籍……? 住所ノイエ・カールスラント……、まさか!」

 

「うん、おじさんたちのノイエ・カールスラントでの戸籍と住所。まずはおじさんたちの番から、順番にカルフの街のみんながノイエに行けるように手配してるから。そのチケットで鉄道に乗ってネーデルラントまで行って、そこの港から出てる船でノイエまで行けるから」

 

「まさか私たちのために君は軍隊に……」

 

「違うよおじさん。あくまでおまけみたいなものだよ。ロンメルのおじさんがなんでも叶えてくれるっていうから、みんなのことを言ってみただけだよ」

 

「しかし……」

 

「いいんだ。僕は父さんの仇を、ネウロイを殺したい。そのついでにみんなが安全になるならそれでいい」

 

 そう言うとおじさんはもう何も言えないと黙ってしまった。おばさんとハイデマリーは並べられたベッドで寝ていた。何かを言えるおじさんに決めてもらわなければいけない。それもできれば早く。ハイデマリー もおばさんもすっかり寝入っている。当たり前だ。今日だけで街が燃えてここまで避難して、きっと大変だったに違いない。

 

「ハイディは大丈夫そう?」

 

「あぁ……、幸い大きな怪我はなかったからすぐにでも意識を取り戻すとお医者様は言っていたよ。ただいつまでもこの病院にいるわけにもいかない。入院費を支払うにも、財産は全て燃えてしまった。正直に言おう、ハインツくん。君の申し出はとても助かる」

 

「なら——」

 

 すぐに移住をして安全なノイエに行って欲しい。そう伝えようとして。だが、とおじさんは言葉を切った。

 

「だが君をカールスラントに置いていっていいのかと、ハインリヒに申し訳が立たない。本当なら私は君を守らねばならない立場だというのに……」

 

「父さんはハイディを守れって言ったんだ。最後くらい、父さんの言ったことを守るよ。ハイディを守って、ネウロイを殺すんだ」

 

 僕の言葉を聞いて、長く、長く考え込んで、そしてようやくおじさんは決意を固めたようだった。

 

「……分かった。君がそうしたいなら、君の意思を尊重する。ただ覚えていて欲しい。君にも帰る場所はあるんだ。寂しくなったらいつでもきて欲しい、それくらいの場所は必ず私が確保する」

 

「ありがとうおじさん」

 

「これを持って行きなさい」

 

 そう言っておじさんは一つの懐中時計をこちらに差し出した。高価そうな年代物の銀の懐中時計だった。

 

「これは直前にハインリヒに修理を頼んでおいたものなんだ。君に持っていて欲しい」

 

「……父さんの最後の仕事」

 

「私から君に出来ることはこれくらいだ。きっとハインリヒが君を守ってくれる」

 

 

 

 時計を受け取る。コチコチと小さく歯車が鳴る音がして、それはまるで死んでしまった父さんの脈動のような気がした。これで心置きなく戦えると改めて気持ちを固める。もう言うことはないから、気持ちが変わってしまわないように、基地に戻ろうと部屋を出ようとして、そこでおじさんに呼び止められた。

 

「ハインツくん、ハイデマリーに別れを言わないの? 言わなかったらきっとこの子は悲しむぞ」

 

「会って話したら、きっと気持ちが揺らいじゃうから、……だめ」

 

 嘘偽りない気持ちだった。もしハイデマリーに会ってしまったらきっと俺は僕を維持できなくなる。そんな予感があった。

 

 穏やかに寝ているハイデマリーの横に立ち、そっと彼女の頰に触れる。暖かくなかった。違う、温度を感じる機能が壊れてしまったんだ。少しずつ体に異常が出てきている。せめて戦えるうちに出来る限りネウロイを殺して、みんなを守ろう。

 

「ハイディ、お別れだ。俺はもう君と一緒にいられない。だからどうかノイエでも元気でいて欲しい」

 

 ——大好きだよ。

 

 言いかけた言葉を飲み込む。それ以上言ってしまうと、きっと自分が維持できなくなるから、これが俺に出来る精一杯の一方的なお別れの言葉だった。

 

 

 

  ●

 

 

 

 次の朝。僕は戦場にいた。平原には数えるのがバカらしくなるほどネウロイがうじゃうじゃいて、あちらこちらでビームと砲弾が飛び交い、安全な場所なんてどこにもなかった。時間が経てば経つほどネウロイが死んで、ウィッチが死んで、兵隊さんが死んで、僕だけが生き残る。

 

 ガリア国境沿いにできてしまった巣に対する絶対防衛戦の構築まで僕はこの地獄の戦線を維持しなければならなかった。

 

 辛くはない少なくとも一週間、一週間戦えば防衛戦を構築してひと段落出来る。そうすればハイデマリーは無事にノイエへ旅立てる。生きるためのエクソダスへ、新天地へ到着出来るんだ。そう思えば勇気が湧いてきた。

 

 負ける気はしなかった。

 

 

 

  ●

 

 

 

 間に合った。ロンメルさんから飛行ユニットを借りて、なんとかノイエ行きの船の出航時間に間に合った。

 

 見送りの軍人さんの中に割り込ませてもらい、ノイエへと避難する人々を見送っていた。あの地獄の戦いを耐え切った結果がこれなら、きっと頑張った甲斐があったのだろう。良かったと思っていると見知った顔があった。

 

 彼女は僕を見つけると並んだ人たちをかぎ分けてこちらへ来た。

 

 正念場だ。ここで僕は彼女を拒絶しなければならない。彼女がもうここへ帰ってこないように。彼女を突き放さなければならない。

 

「フリッツ……? どうしたの? 一緒に行きましょう?」

 

「……行かない」

 君が平和でいられるように僕は戦わなければいけない。

 

「ぼくはこれから敵を殺しに行く。父さんの街の仇を取る。敵を殺して、殺して、殺し尽くしてやるんだ」

 そして君が傷つかないように、父さんとの最後の約束を守るんだ。絶対に守るんだ。

 

 自分に言い聞かせるように、その思いを確認するために誓いを小さな声で何度も反芻する。

 

 拒絶され狼狽するハイデマリーをここにおいていく。きっと彼女はノイエで安全に、平和な中できっと幸せになってくれる。俺と父さんができなかった家族の幸せを感じながらきっと彼女は幸せになってくれる。そうじゃないと困る。

 

 同情するようにこちらを見るウィッチたちに大丈夫だと伝え、僕は戦場へと戻っていく。

 

 顔に風を感じる中、伝っていく涙は風の感触に消されてしまった。

 

 

 

  ●

 

 

 

 そしてカールスラント防衛戦が完成した半年後、僕は空軍訓練学校に入学した。

 

 



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Mein Grund

 炎の中で何もかもが燃えている。

 

 見知った家々、道、そして人も。分別も区別もなく炎は平等に全てを燃やしている。

 

 そしてその中に父さんがいた。

 

「父さんっ!」

 

 叫び、駆け寄る。父さんはすでに事切れていて、開いた眼に光は無かった。

 

 轟音とともに目の前の建物が崩れた。瓦礫の奥からネウロイがやってきた。その不気味な赤い視覚器官がこちらを捉え、目が合う。

 

 父さんだったものをそっと地面におろし、こちらへ向かってくるネウロイを迎え撃とうと立ち上がり進んでいると後ろから声がした。

 

 そんなはずないのに、さっき確かに死んでいたはずなのに。それなのに聞き知った声が背後からした。

 

「いいかいフリッツ? ……。君が守りたいものを守るんだ」

 

 死体の口だけが動き、言葉を紡ぐ。振り返ってもう一度

 

 触れようとして、しかし父だったものは後ろにいたネウロイに踏み砕かれて肉片へと変わり、父だったという面影はなくなっていた。

 

 目の前でまた父さんが殺された。殺す。

 

 駆け出し、体を作り変え、人が敵わないネウロイを一方的に殺せるまで自分を強くする。

 

 見下ろすまで小さくなったネウロイを踏み潰し、焼き払い、殺す。

 

 しかし失われたものは何もかも戻るはずもなく、死体の上に死体を積み重ねていく。どれだけ力があろうとそれは変わらない。

 

 何と無力なのだろう。どれ程強く、ネウロイを一方的に殺すことができても、結局は無意味だ。死んでいく者、壊れていくものは変わらない。

 

 自分の無力感に苛立ちが募っていき、逃げ場を求めるように咆哮を上げ、叫んだ。

 

 そんな自分を俺はその足元から見上げていた。

 

 何と愚かしいことを自分はしているのだろう。バカじゃないだろうか。そんな戦って何になる、守るものなんてないだろうに。

 

「フリッツ、フリッツ。そんなのいけない、ダメなの。どうして一緒に来てくれなかったの」

 

 足元に転がった首、それを見つけて心臓の鼓動が凍りついた。

 

 こちらを悲しそうに見上げるハイデマリーが涙を流している。

 

 そんな、だって彼女はノイエ・カールスラントへ移っていったはずなのに。

 

「ダメなの。だってあなたが安らかじゃないのに、私だけが安全な場所にいても、そんなの意味がないよ。それとも私はあなたにとって邪魔でしかないの?」

 

「ち、違うよ、ハイディ。僕はそんなつもりで言ったんだじゃない……」

 

 彼女に手を伸ばそうとして、しかし伸ばした手は何かをつかむことはなく、虚空をきった。

 

 

 

  ●

 

 

 

 伸ばした手は何かをつかむ訳でもなく、ただ何もない虚空へと伸ばされていた。その先には天井、カールスラント航空歩兵育成学校の一室、僕の部屋の天井だった。

 

 どうやら先ほどまでの映像はは夢だったらしい。ひどい夢だ。ハイデマリーはもうカールスラントにいないことくらい、分かっているのだから夢だと気がつけばいいものを、どうしてか僕はそれを現実と区別できなかったらしい。

 

 それほどまでに余裕がないのか。それとも気が抜けていたのか。どうしてそんな夢を見るのか。そんな単純なことを考える余裕もなかった。

 

「……シャワー浴びよ」

 

 士官学校の一種であるこの学校で生徒の待遇は良い。少なくとも個室にはシャワーがある。服を脱ぎ、シャワー浴びようとして部屋に入って、姿見に自分が写った。

 

 白い肌に深々と残った傷と火傷の跡が刺青のように残っていた。

 

「こんなのハイディには見せたくないな」

 

 小さく自嘲の吐息が漏れる。変わってしまった。以前の僕とは決定的に、今の僕は別モノだった。体に刻まれた傷跡が囚人を整理する番号のようで体に重くのしかかるような気がした。

 

 シャワー浴び終えると、ちょうど起床時間を知らせるラッパの音が聞こえる。軍服に袖を通し、食堂へ向かう。

 

 先ほどの起床のラッパで起こされたらしい奴らの部屋からバタバタと慌ただしい音を聞きながら食堂につき、用意された食事を一人分取っていくつかある席の中から隅の方、出来るだけ誰とも顔を合わせず、席が一緒にならない席を選んで座る。

 

 食事を進めていると着替え終わり、食事をとりに来た同期が何人もやってき、て各々席に着いていく。

 

 自然と僕を囲うように、僕の周りだけは人が綺麗に空くようにみんな席に座っていく。有り体に言えば避けられている。そんな事、気にせず食事を摂っていると目の前の席に盆が置かれた。

 

 顔は食事に向けたまま視線だけそちらを見ると、この訓練校で唯一と言って良い顔見知りがいた。

 

「やぁ、子犬くん。今日もいい感じにぼっちだね。お姉さんがきてテンション上がらない?」

 

「あんまり適当な事言ってると、訓練中に後ろから事故装って撃ちますよクルピンスキー……、先輩」

 

 最後の方は声が小さかった。

 

「ハッハー、そんなこと言っちゃって。相変わらず可愛げがない後輩だこと」

 

 しかし僕の物言いを気にしないのか、相変わらず大人というか、軽薄なというべき空気を纏って彼女、ヴァルトルート・クルピンスキーはいた。一つ年上の彼女はどういうわけか僕によく絡んできた。

 

「しっかし、また聞いたよ? またコンビを解散させられたんだって? これで十人目?」

 

「十二人目です。僕に追いてこられない奴が僚機になっても迷惑なだけです。最初から一人の方がやり易いので」

 

「まぁ、撃墜数四桁の最高戦力に、訓練生ウィッチが相棒は務まらないか……?」

 

「というより周りをうろちょろされると間違えて撃ち落としそうになるのでいない方が良いというだけです」

 

「まぁ君の戦い方はどうしたって周りに被害を出しちゃうからね。……でも良いのかい? 周りからなんて言われているか知らない君でもないんだろ?」

 

 少し心配そうにこちらを見るクルピンスキーにどうでもいいと言って、短く息を漏らす。

 

「カルフの悪魔でしたっけ? まったくもってくだらない事をする。魔女も悪魔も一般人からしたら同じでしょうに」

 

 一年前、あのカルフでの戦いで多くのウィッチ、兵士が死んだ。その中で悠然とネウロイを殺し続けていた僕にそんな大層なあだ名がついた。

 

「ネウロイみたいなビームを味方すれすれに乱射しながら敵と戦って、その上悪魔みたいに角やら尻尾やらが生えていたらそんなあだ名がつくのも仕方がないんじゃないかな。契約している使い魔が複数なんだっけ?」

 

「今は三体、固有魔法を増やす度に使い魔がいるみたいです。……しかし今日は何用です? 外出許可証は融通出来ませんよ。今月分は先輩に全部渡してますので」

 

「いやー、ホントそれに関してはいつもありがとう。やっぱりブドウジュースを飲もうと思ったら外に出ないと。頼まれていたやつはちゃんとノイエに送っといたから安心してね。……って、今日はそのことじゃなくてね。新人がくるって話は聞いたかい?」

 

「例の採用基準緩和の件ですか? そんな規定基準にも満たない奴が戦力になるんでしょうか?」

 

 先月のことだ。カールスラント西部戦線の影響で航空歩兵要員が足りなくなり、空軍は苦肉の策で身体基準の大幅な緩和を行った。その影響で兵士としてやっていけるのか分からないような奴まで兵士になれるようになっていた。既に兵士の訓練を受けているこちらからすればいい迷惑だ。

 

「そうそう、それそれ。その件でうちに配属になったのは一人らしいんだけど、その子がいい感じのカワイ子ちゃんみたいで、多分僚機が余ってる君のタッグになるんじゃないかなって」

 

 可愛い子に目がない、中年オヤジのような性癖の先輩に若干辟易としつつ、その話の要点を問う。

 

「つまり何です? 可愛い子だったら優しくしておけと?」

 

「まぁ、そうじゃなくても優しくはするべきだと僕は思うけど、話としてはその通りだよ」

 

 苦笑いをしながら牛乳を飲み干すクルピンスキー。

 

「そんなことしなくてもそんな奴、勝手に辞めていきますよ」

 

 僕はもう食事を終えていた。これ以上話に付き合う必要もないのでお盆を持ち上げ席を後にする。

 

 食器を片付けに向かうフリッツの背をクルピンスキーは眺めていた。

 

「もう、そうやって壁を作ったっていいことないだろうに。一人で戦うつもりなのかいフリッツ? やってくるカワイ子ちゃんが潰れなきゃいいけど……」

 

 残ったザワークラウトにフォークを伸ばしてクルピンスキーは食事を進めた。

 

 

 

  ●

 

 

 

 正午の訓練の時間。僕は教官に呼ばれ応接室に来ていた。部屋に入ると教官の横に見知らぬ子がいた。背は150センチほど。小さいというのが第一印象だった。

 

 僕を見るとその子は立ち上がり、慣れない下手くそな敬礼をしてみせた。

 

「ほ、本日よりこちらに赴任しました。エディータ・ロスマンです」

 

 緊張しているのか声が少し震えていて、軍人の卵というより初めて学芸会に出る子供と言われた方がしっくりくる。緊張した面持ちでこちらを見るロスマンとやらを一瞥し言葉に応える事なく教官を睨みつける。

 

「教官、これは?」

 

「君の新しい僚機となるロスマン訓練生だ。僚機として上手くやりたまえ」

 

「他の訓練生と組ませばしいいでしょう。正直僚機なんて、邪魔なのですが」

 

「現在この訓練学校で僚機がいないのは君だけだ。不服かね?」

 

 問題があるのかと毅然とこちらに問いかける教官。不服? あるに決まっているだろ。

 

「以前から何度も言っていますが、僕の固有魔法は周りに被害が必ず出ます。ウィッチの相方などいない方が戦い易いと」

 

「その上でウィッチ達とうまく戦うすべを模索せよと言っているが?」

 

「ウィッチごときが何の役に立つって言うんです」

 

 何度目になるか分からない口論を教官と繰り返す。堂々巡りの口論はお互いに納得を得られるわけでもなく、結局は訓練校の規則通りに組みを作り、ついてこられなくなった相方が別の誰かと組み直すというもの。

 

 今回も同じだとどこかで思っていた。

 

 しかし今回はその時間の無駄に割り込むものがあった。

 

「あのっ!」

 

 その声に僕らは揃って振り返った。ムッと表情を険しくした彼女が僕たちを見上げていた。まさか会話に割り込まれると思っていなかったが為に黙っていると、不快そうな感情を隠さず、ロスマンが僕を睨みつけて言う。

 

「先程から聞いていれば役に立たないだ、邪魔だと、何様だというの」

 

 僕の物言いに苛立ったらしい彼女はさらに続ける。

 

「だいたいウィッチがいたからこそ、今日までカールスラントは何とか戦線を維持できていたのよ。それをそんな風に言うなんて信じられない」

 

 彼女なりにウィッチに対して思うところがあるのだろう。しかしその言い分はかつて、ウィッチになって世界中を飛んでみたいと言った彼女を思い出させて、不思議と苛立ちが募る。

 

「ウィッチがそんなに上等な物か? あいつらが何をしてくれた? お前に何をしてやってくれた?」

 

「ウィッチたちは私たちを守って……」

 

「僕の父さんはネウロイに殺された」

 

 僕の言葉を聞いて、驚いて顔を上げたロスマンは言葉を続けられなくなった。

 

「僕のいた街はネウロイに焼かれてなくなった。もっと早くウィッチや軍隊が来ていれば、もしかしたら父さんは無事だったかもしれない」

 

「それは……」

 

 思い出すのはあの日、全てが燃えてしまった日。もっと早く助けが来ていれば、もしかしたら父さんは生きていたかもしれない。そんな想像が何の意味もないことは重々承知だけれど、その一縷の可能性を呪わずにいられようか。

 

「そして僕がネウロイと戦っていた時、ウィッチが何も出来やしなかった。僕がネウロイを殺している間に大勢のウィッチが死んだ。敵を殺して、殺されて。僕よりも弱いやつらとどうして僕が一緒に戦う必要がある」

 

 あのカルフでの戦いにおいて死者は523人。そのうち23人が戦場に到着し、ネウロイと戦い、そして戦死したウィッチだった。

 

 彼女たちは必死に戦い、その結果死んでしまった。そのこと自体を責める気はない。尊い行為だと思えるし、立派なことだ。だけど結局は死んだのだ。子供が悪ふざけで蟻を踏み潰して遊ぶように、オガクズのように、無価値にその命を散らしていった。

 

 あの戦場において一番強かったのは僕で、最初から最後まで無事だったのも僕一人だった。撃ち漏らすことこそあったものの、概ね全てのネウロイは僕に殺された。つまるところ、ウィッチも、兵士たちも、いてもいなくてもあの戦場において結果は何一つ変わらなかったと、結果論として言えてしまう。

 

 それはつまり、嫌な言い方をすれば、あの場にいた全ての兵士たちは死ぬためだけにノコノコやって来たということ。

 

 そんな彼女ら、彼らをどうして対等に見られるというのか。初めから来なければ、死ぬこともなかったのに。それなのに彼女はやって来て、そして勝手に死んでいった。

 

「僕はお前らウィッチが嫌いだ。兵士が嫌いだ。弱いくせに戦場にしゃしゃり出てバタバタ死んでいく弱いお前らが嫌いだ」

 

 吐き捨てるように言って、彼女は怒りを露わにした。

 

「……訂正しなさい」

 

 端整な顔に深くシワが刻まれていく。しかし僕は彼女はこんな顔をして怒るのかと呑気に見ていた。

 

「今日まで一体何人のウィッチ、兵士がこの国を守るために戦ったと思っているの。その作ってもらった平和を足蹴にして、一体何様なの?」

 

「知ったことかよ、死んだ人間のことなんて。死んだらそこで人は終わりだ。何も残らず、意味もなく、生きている人間は残されていくんだ」

 

 死んだ人間はそれこそゴミになる。それが世界の全てだ。なのに弱い人は、そんな無意味に意味をつけ、記号付けして、その終わりに意味を与えようとする。

 

「君がウィッチをどう思っているかなんて、君の自由だ。だけれど僕に僚機も仲間もいらない。対等な力のない仲間なんて不要だ」

 

「私あなたのこと大して知りもしないけれど一つだけはっきりと言えるわ。貴方みたいな人大っ嫌い」

 

「そうかよ。もうすぐ消えるやつの台詞なんて覚えておく必要もないね」

 

 これが威勢の良い新人にして、犬猿の同輩であるロスマンとの初遭遇だった。どうせ長く保たないんだ。ならさっさといなくなってしまえ。

 

 

 

  ●

 

 

 

「おら、どうした! 威勢の良いこと言った割に行動がなってないぞ!」

 

「——クッ!」

 

 空を飛びながらロスマンはしぶとく僕について来ていた。

 

 この航空歩兵の訓練では訓練生は二人一組の僚機を組み、訓練にあたる。こと専門的な技術を学ぶにあたり、いかにほかのウィッチと協力をするかが重要となるウィッチにはこうした訓練が重要だった。

 

 しかし問題が一つ。ロスマンはこの訓練に上手くついてこれていなかった。やる気がないというわけではなく、もっと単純な問題、体力が絶望的にあるべき基準を満たしていなかった。

 

 こと格闘戦が中心となるウィッチの戦いにおいて体力がないことは致命的だった。急なネウロイの攻撃に対応できない、仲間の編隊についてこれない、現行の戦い方に彼女は対応できていない。

 

 飛行訓練を終えて飛行場へ戻り、ガレージにユニットを戻して息も絶え絶えな様子のロスマンに歩み寄ってタオルを被せる。彼女はもう立ち上がる体力も残っていないのかぐったりと木箱に寄りかかっていた。

 

「これで分かっただろう。君にウィッチは無理だ。怪我をしないうちに故郷に帰りなよ」

 

「はぁ、はぁ、まだまだ」

 

「そんな肩で息をして。ネウロイに息を整えるから待ってくれ、なんていうつもり?」

 

 被せられたタオルを払いのけ、気持ちだけは折れていないらしい、意思のこもった視線で睨みつけられる。

 

「そうならないように訓練をしているの。黙っていて」

 

「僕らの役割は訓練をすることじゃない。ネウロイを殺すことだ。それが覚束ないならウィッチになんてなるもんじゃない」

 

 彼女は立ち上がれないのか、嫌々という様子で僕との会話を続けるようだった。

 

「……貴方はいつもネウロイを、その倒すとばかり言っているの?」

 

「そうだけど。僕がここにいるのはネウロイを殺すためだ、その為だけに僕は生きている」

 

「ねぇ、聞いて良いかしら」

 

「なにを?」

 

 少し躊躇いがあって、そして間をおいて、真っ直ぐに彼女の栗色の瞳が僕を見ていた。

 

「貴方のことが知りたい」

 

「嫌いなのに?」

 

「えぇ、今も貴方のことは嫌いよ。でもどうしたら貴方みたいな性格がねじ切れた人が生まれてくるのか、ちょっと気になったの」

 

 酷い言われようだ。別に好かれようとも思っていなかったし、むしろ嫌われるような接し方をしていたが、こうも実直に言われてしまうとかえって笑ってしまう。

 

 突然笑い出した僕をロスマンが怪訝そうに見ていたが、まぁまぁと言ってなだめ、実に面白くもない僕の反省を語ることにした。

 

 

 

  ●

 

 

 

 語り終えた。僕の半生を、いかにしてネウロイへ殺意を持つようになったのか、その顛末を彼女に語り終わった。

 

 僕の話を聞いて、彼女は思っていたよりも悲しい表情を見せた。

 

「……そうだったの」

 

 そう呟いてロスマンは少し考え込んで黙ってしまった。

 

 そしてしばらく沈黙があって、そして考え終えたのか彼女は顔を上げてこちらを見た。そこにあった表情は今までの憎々しげなそれに、少し悲哀の色が混ざっていた。

 

「私には分からないわ」

 

「そうだろうね」

 

「そうじゃない。家族が殺される気持ちを私は知らない。それなのに貴方がどう感じているかだなんて、想像するしかできない。そしてそれはきっと貴方の持つ本物とは比べるべくもない」

 

 そんなことか。下手な同情なんていらない。これで少しでも彼女が貴方の気持ちが分かるなどと嘯いたら、カッとなって彼女を殴り殺していたかもしれない。人が人の気持ちを理解できるなどという思い違いは傲慢でしかない。人はどうしたって人の気持ちを真に理解することは永遠にありえない。

 

「一つだけ聞いて良いかしら」

 

「どうぞご自由に。答えるのも僕の自由だけれど」

 

「ネウロイを殺して、そのあとはどうするの? 今はそれでいいのかもしれない。でもいつか、ネウロイを全部倒して、その後は?」

 

「その後?」

 

 思っても見なかった質問に情けなく声が裏返る。

 

「そうよ、その後。わたし達ウィッチが戦えるのは長くてあと6年。人生は長い。それこそ戦っている時間よりも、そのあとが圧倒的に長い。その時貴方はなにをするの?」

 

 この言葉に考えて、しかしやはり僕はこの言葉以外の選択肢を持っていなかった。

 

「ネウロイを殺す。それ以外にはなにもない。戦って、殺して、滅して永遠にそれを続ける。それしか無いんだよ」

 

 力なくそう言葉を漏らす。比喩でもなんでもなく、本当に僕にはそれ以外の原動力が何もなかった。そういう自分に思うところがないでもなかったが、それが良くないことも分かっていた。

 

「なんだか物寂しいものね。戦うこと以外に生きる理由がないというのも。戦って、殺して、相手を滅ぼして、それで終わりだなんて。それじゃまるでネウロイと変わらないわ」

 

 彼女の言葉は不思議と胸にしみていった。ネウロイと同じなどと言われたら、自分は怒ると思っていたが不思議とそうはならなかった。

 

 なんとなくその場に座り込んで、彼女を見る。妙に軽い心持ちの中、ふと僕は彼女、ロスマンについて何も知らないことに気がついた。

 

「なぁ、ロスマン。僕ばかりが答えているんだ。こちらから質問、いいか?」

 

「ええどうぞ」

 

「どうして君はウィッチになった? お世辞にも君にウィッチの才能はないと思う」

 

 その言葉にロスマンは小さく微笑んだ。

 

「本当に貴方って最低ね。まぁいいわ、気遣って言葉を選ぶ貴方もなんだか違和感あるし。それでわたしがウィッチになりたいと思った理由ね。単純よ、わたしはウィッチになりたかったの」

 

 ウィッチになること、それ自体が目的だと彼女は言った。懐かしむように自分の小さな手を見て、彼女は続けた。

 

「6歳の時だったわ。酷い熱病を患って、それが原因なのかは、はっきりとは言えないけれど、結果としてわたしの背はその時から伸びるのをやめてしまった。ほんの小さな頃からウィッチになれる資質があると言われて、きっと将来はウィッチになると思っていたから、わたしの背では軍の採用基準を満せないと知った時には本当にショックだった」

 

 もう変わることのない過去をロスマンは話す。その言葉には強い思いが、彼女がそう感じたという強い思いが篭っていた。

 

「ウィッチになって空を飛んで、もしかしたら行ったこともない遠い場所に行けると思っていた。あの空を飛び、国を守るウィッチになりたいと思っていた。そのチャンスすら与えられなくて、将来をどうしようと思っていた矢先にあの規制緩和のニュースを聞いた」

 

「運命だとさえ感じたわ。あの空を飛ぶことができる。そう思って志願して、こうして候補生になることが出来た。……でも、そう上手くはいかないものね。せっかく候補生に離れても、結局は体力が無いせいでみんなについていけないのだもの。このままいけば落第かしら」

 

 彼女の反省、上手くいかなかったという苦い記憶、そして偶然訪れた幸運、そして挫折。特別なものなど何一つなくとも、ありふれた物語だ。

 

 だがどうして、僕はその話を聞いていて彼女を思い出させる。偶然によって生まれてしまった挫折。それがどうしようもなく彼女を連想させた。

 

 だからだろうか、僕は気がつけば立ち上がって彼女を見ていた。

 

 ほとほと、僕は単純な奴らしい。

 

「それが君の理由?」

 

「えぇ、そうよ。わたしはウィッチになりたくて、ウィッチになった。理由そのものが目的で、それ以上の理由を持っていないけれど、でもそれは確かにわたしの理由だわ」

 

「例えウィッチに成れなかったとしても?」

 

「もちろん落第する気はないけれど、でもきっと、もしダメだったとしても、わたしはずっとウィッチを目指すでしょうね」

 

 そう言うロスマンの表情は見たこともないくらいに朗らかなものだった。綺麗な笑顔だ、だけど僕はそんなもので絆されない。あり方は変わらず、だから僕の方向性で彼女に向き合おうと思う。

 

「君がウィッチを目指そうと、目指さまいと構わない。それは直接僕には関係のないことだ」

 

「そうでしょうね」

 

「僕が欲しいのは背中を預けられる強いウィッチだ。弱い奴はいらない。死ぬ分だけ、むしろ来なければいいとさえ思ってる」

 

「貴方ってそういう人だものね。わたしの話を聞いてもブレないところは好きよ」

 

 僕は僕の生き方を、あり方を変えることなんて今更できない。だから僕はこういうやり方でしか彼女と接することが出来ない。

 

「——だから、もし君が僕と対等に戦うことの出来るウィッチになれると言うなら、僕はより多くのネウロイを殺すために君をウィッチにするための手伝いをしなければならない」

 

 我ながらなんと不器用なことだろう。一言、君を手伝いたいと言えばいいものを、こんな言い訳じみたことをつらつらと言って。無駄な労力と言わざるを得ない。

 

 それが伝わったのか、ロスマンは小さく吹き出して、笑うのを我慢して、こちらを見て、

 

「そうね、もしわたしがそうだと言ったら、貴方はどうする?」

 

「是非もない。ネウロイを殺すために共に戦う仲間を見繕う。ネウロイと戦って滅ぼすという僕の理由のために」

 

「いいわ、お互いに利用しあいましょう? わたしはわたしのために、貴方は貴方のために」

 

 



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Der Grund warum ich brauche

 欧州の空、ネウロイに占領された西カールスラントの境界沿いを二つの影が飛んでいた。二人のウィッチ、フリッツとロスマンだ。

 

 付かず離れずの距離を保ち、二機はエンジンを吹かして澄みきった空を渡っている。

 

 しかしそこにあったのは優雅なひと時ではなく、罵声と怒号の二つだった。

 

「オラァ! 動きが遅いぞ。撃ち落とされたいのか!」

 

「少しはこちらに合わせなさい、この下手くそぉ!」

 

 互いに罵り合いながら僕らは、縦横無尽に空を駆け抜けてドッグファイトを繰り出していた。対ネウロイ戦においてどうしても火力の面で負ける僕ら人類が奴らと戦うには、いかに相手の攻撃をかわしコアと呼ばれる核を砕くかが重要だった。

 

 そしてこの戦い方を習得することが一人前のウィッチへの第一歩で。しかしどうして、この戦い方はロスマンには向いていなかった。ドッグファイトは機関銃や短射程のミサイルを相手に捉えながら戦うやり方で、そのためにはどうしても激しい空中機動を長時間続ける必要がある。そしてこれがロスマンには致命的だった

 

 幼少期の病のせいなのか、それとも単なる体質なのか、彼女にこれをこなす魔法力や体力が欠損していた。

 

「次、捻ってから後ろを突っつけ!」

 

「——くっ!」

 

 苦しそうな呻きが返事として返ってくる。小さく輪を描くように立体的な飛行機雲を残して、視界が一周する。急な動きを終えて確認のため後ろを見る。これは空中機動の訓練、僚機であるロスマンは僕の後ろへいなければならない。しかし後ろを見たときに彼女はそこにいなかった。音のする方へと視線をやると上の方、予定の軌道よりも大きな弧を描き、なんとかこちらへ追いつこうとしている彼女がいた。

 

 ペイント弾を装填した機銃を構え引き金を引く。設計の通りに弾が発射され、ロスマンのストライカーユニットを桃色に染めた。桃色に染まったストライカーユニットを見て小さく嘆息する。

 

「そんな体たらくだと、命がいくつあっても足りないぞ。それともネウロイに待ってください、だなんて言うつもりか」

 

「いいから続けなさい! 男がゴチャゴチャ言ってないで」

 

「お前、教わってる側だよなぁ⁉︎」

 

 バカなやりとりを交えながら二人で次の軌道に入る。これでいいと心の中で呟く。僕らに仲良しこよしな教導なんて糞食らえだ。互いに罵り合いながら空を飛ぶ。真面目にやったとしても彼女、ロスマンはついていけていないのだ。だったら多少無茶な訓練でも、どんな方法を用いてでも、彼女のウィッチになりたいという思いに応える。

 

 同情や思いやりでそうするのではない。僕にとって生きる理由はネウロイを殺すこと、父さんの仇を取ること。それ以外には何もなく、だからそれを達成するためならばどんな労力も厭うことはない。

 

 自分のため、生きる目的のためという自分本位な理由で僕は彼女に協力していた。その結果、彼女が死のうが生き残ろうがそれは些末なことだ。一人でも戦力がいる、言ってしまえばそれだけのことだ。

 

 夢を叶えるためなら形振り構わないのか、ロスマンはそんな僕のあり方を受け入れていた。あくまでウィッチになるため、気の合わない、気に食わないだろう僕に彼女は従っていた。故に僕らは罵り合う、互いの目的のために、互いを利用する。そこに隣人へ向ける気遣いはなく、そんな余裕もなく、ただ目的のために僕らは無理矢理な二人三脚をしていた。

 

 そんな訓練が5時間ほど続いた。まだ低かった太陽も見てみると、すでに南中を超えて下ろうと始めている。

 

 流石に魔法力も体力も尽きかけているため帰投した。

 

 

 

  ●

 

 

 

 帰投するとクルピンスキーがどういうわけか待ち構えていて、あれよあれよと何故か彼女主催のお茶会が始まり、それに参加していた。主催者のクルピンスキーは実に楽しそうに僕を見て言う。

 

「いやー、後輩くんが新人と上手くやれていて、僕嬉しいよ」

 

「開口一番にそんなことですか」

 

 出された紅茶に軽く唇を当てつつ、僕はカップの中で揺れる紅茶を見た。

 

 甘くて果物の香りが強い。最近首都の方で流行しているフルーツティーというやつらしい。女の子との話題作りの為、彼女はこういうものに妙に詳しい。だから僕は彼女にある頼みごとをしているわけだが。

 

 僕はボーッと紅茶を見ることに夢中になっていると横に座ったロスマンがとてもいい笑顔を作った。

 

「えぇ、ルンペンハルト少尉にはとてもよくしてもらって、今日なんか後ろから何度も乱暴に突かれたわ」

 

「……誤解を生みそうな言い回しはやめてほしい」

 

 確かに今日の訓練では何度も彼女を後ろからペイント弾で撃ったが、そんな風に言われると非常に心外だ。クルピンスキーもロスマンの言い回しは理解しているらしく、わざとらしい笑みを浮かべ、からかうようなものに空気が変わる。

 

「ほぅほぅ、とするとなんだ。もしかして浮気ってやつかな、ルンペンハルト少尉どの? 君もどうしてなかなか隅に置けないね」

 

「いや、そういうことじゃな……、分かってやっているでしょ」

 

「はははっ。まあ、ねー」

 

 相変わらず軽薄のような、空気の機微に聡いというか、とにかく自分には到底真似できそうにない彼女の応変の巧さに言葉を失っていると、ロスマンがクルピンスキーの言葉に引っかかりを見せた。

 

「ルンペンハルト少尉は意中の相手がいるのかしら?」

 

 その言葉の意味を理解して顔が熱くなる。クルピンスキーのせいで妙な勘違いが生まれようとしていた。すぐさま否定せねば、クルピンスキーのいいようにされるのが目に見えている。

 

「いや、そういうわけじゃ……」

 

「へー、そうじゃないのに彼女への贈り物は欠かさないわけだ。女の子への贈り物が分からないから、ぼくに一任しているのに、何にもないってことはないよね」

 

 ワザとらしい声を出してクルピンスキーがからかうように笑う。そうなのだ。クルピンスキーには外出許可を譲る代わり、彼女に色々と買い物、贈り物を頼んでいた。送り先は言わずもがな、しかし何を選べば良いか分からない僕に、彼女の存在は渡りに船だった。

 

 故に彼女は僕の事情の大概を知っていて、偶にこうしてからかわれる時に僕は強く言い返せないでいた。言い返せないものだからせめてもの抵抗として、抗議の視線を送る。

 

「……、……、…………」

 

「あはは、そんなに睨むなよ。良いじゃないか女の子に贈り物、まめなのは良いことさ」

 

「——っ、もうこの話はいいです。はいっ、おしまい。……それよりもロスマン同輩のこと話しましょう? そうしましょう⁉︎ ほらっ、時間もあまりないですよ」

 

「あっ、誤魔化した」

 

 動揺して声が裏返りそうになるのを必死に抑え、懐に入れていた懐中時計の時刻を見せる。針はすでに夕食ごろを示しており、夕食までに一旦終えたいと考えるとあまり時間がなかった。

 

 そんなことを考えているとクルピンスキーが少し感心したような声を上げた。

 

「おっ? 随分と良い時計だ。何かと物を大事にしない気質だと思っていたけど。なるほど……、こういう趣味があったんだね」

 

 するりと手の中の時計を拾うようにとったクルピンスキーが興味深そうに懐中時計の機構を覗き込んでいた。時々、ほほぉと小さく声を漏らしては中を覗き込んでいた。子供っぽい彼女の様子に毒気を抜かれ、文句を言うのもバカらしくなっていると、横からロスマンが興味を隠しきれないような様子を見せた。

 

「あら、本当に良い時計。性格がガサツな割にこんな繊細な物を持ち歩くなんて、貴方って本当によく分からない人ね」

 

 とても失礼なことを言われているが、事実周囲からどう見られているかを承知している分、特段否定する気にもなれなかった。自業自得と言えばそれまでだが、思うところがないわけでもない複雑な人の心理だ。

 

 コメントに困り、時計を取り返す。鎖を甘く指に絡ませ、振り子のように宙ぶらりんと揺らせる。

 

「別に僕の趣味ってわけじゃない。残った父さんの遺品がこれだけなんだ」

 

 そう言うとクルピンスキーはひょうきんな表情を崩し、直ぐさま申し訳なさそうにした。こういう切り替えの早さだけは本当に見習いたい。

 

「あぁ……、そういう……。ごめんね、フリッツ。そうとは知らず」

 

 申し訳なさそうにうなだれるクルピンスキーに手を振って見せて大丈夫だと伝える。いまさら過去のことで落ち込むほど繊細な人間のつもりはない。

 

「気にしなくていいです。別に壊れたわけでもない。手元に残ってさえいれば、壊れていたって、それは父さんとの思い出には違いない」

 

 手の中で正確に時を刻む時計を眺めているとロスマンは微笑ましいものを見るように表情を柔らかく変えた。そんな生暖かい視線を送られ、背中にむず痒さが残る。

 

「あなたにとって、それはとても大切なものなのね」

 

 今まで聞いた中で一番柔らかい口調でロスマンは言った。可愛らしいものを見るようなその視線に顔が火照っていくことを感じて、思わず顔を背ける。

 

 顔は見えないがロスマンの隣に座るクルピンスキーも同様の雰囲気を醸し出していて、その空気に耐えきれず、わざと気持ちの好かない口調で言う。

 

「それで、先に結論から言うけどロスマン、君にドッグファイトは無理だ。出来ないことはするものじゃない」

 

「まぁ、そうよね。分かってる。あれだけやれば嫌でも分かるわ」

 

 僕の断言にロスマンはすんなりと同意を示していた。口調も柔らかく、どこか恥ずかしがっている自身を見抜かれているようで引っかかる。まだ分からないと言い淀むと思っていたから、抵抗なく彼女が認めたことに妙な拍子抜けを覚えると、彼女は考え込むような仕草を作った。

 

「となるとやっぱり、私が目指すべきは一撃離脱戦法になってくるのかしら」

 

「一撃離脱?」

 

 オウム返しで彼女が告げた聞き慣れない言葉を言うと、そうだと彼女は肯定した。

 

「そう、一撃離脱。主流の格闘戦から戦い方を改めるの。どうしたって格闘戦はウィッチ本人の技量や体力に左右されてしまう。今までの訓練を終えて分かったわ。初めから技量や体力を考慮しなくていい、瞬間的な決着を狙うやり方の方が私には合っている。ちょうど騎馬でやる戦い方のウィッチ版というわけね」

 

 ロスマンの言う新しい戦い方を僕とクルピンスキーは黙って聞いていた。もっと言えば彼女の言っていることが分からなかった。騎馬での戦い方と言われても見たこともなければ、聞いたこともないのに想像のしようもない。僕と一緒に間抜けな表情を作っているクルピンスキーが呟いた。

 

「いやー、ロスマンちゃんは博識だねー。まるで先生みたいだ」

 

「なるほど、つまり、さっぱり分からない」

 

 僕らの適当な発言にロスマンは頭を痛そうにしていた。しかしそんな顔をしないでほしい。僕らは単純に聞き馴染みがないことを説明されて、それが耳から入って反対側から出て行ってしまうだけなんだ。だからそのバカ二人を見る顔をやめろと言っているんだ。

 

「……口頭での説明よりも、二人には実地で説明した方が良さそうね」

 

「おっ、そっちの方が僕にもフリッツにも分かりやすそうだ」

 

「釈然としないのは僕が気にし過ぎだからなのか?」

 

 クルピンスキーのように後腐れなく切り替えられないことが歯がゆい。

 

 

 

  ●

 

 

 

 ストライカーユニットを身にまとい、僕らはまた空にいた。前と違ったのは今回は僕ら二人に加え、暇そうにしていたクルピンスキーも捕まえて、連れてきたこと。女の子をナンパする暇があるのなら手伝えというと彼女は快く引き受けてくれた。

 

 やっていることはかなり単純で、僕がネウロイ役ロスマンとクルピンスキーの二人がウィッチ役ということで、ロスマンの言う一撃離脱戦法の有用性を試していた。

 

 結論から言えば、この一撃離脱戦法は実に的を得た戦い方だった。囮役のクルピンスキーに意識を割いていると、意表をつくタイミングで急降下してきたロスマンがすれ違いざまに軽く斉射をしては距離をとって逃げていく。追いかけようにもクルピンスキーがそこに割って入る。

 

 クルピンスキーの高い技量に支えられている箇所もあるが、とにかくこのループから抜け出させてくれない。即興のコンビながら、よく出来た戦いぶりだと言わざるを得ない。

 

 そんな場面を繰り返し、そして持ってきた模擬戦用のペイント弾が底をついた。模擬戦も一旦の終わりを見せ、僕らは一回集合した。

 

 集まり、距離も近いたことで互いの様子がよく分かる。ストライカーユニットや軍服の端々にペイント弾が当たった跡がありありと染みている。一番やられているのは僕だった。敵役ということもあるが、度重なる襲撃に疲れも溜まっていったことでだんだんと対応が間に合わなくなっていたのが見た目によく出ていた。

 

 次に被弾していたのはクルピンスキーで、彼女はストライカーにポツポツと僕の抵抗の痕跡が残っていた。しかし最も見るべきはロスマンだった。

 

 慣れないことをしたせいで軽く肩で息をしているが、彼女のストライカーユニット、軍服にも汚れ一つなかった。疲れてはいるものの、これに慣れたなら疲れも今よりもずっと良くなるはずだ。予想以上の成果が見えてきて僅かな興奮が心を浮足立たせる。

 

「それにしても少し疲れた」

 

「あら、私はもう少しやってもいいわよ?」

 

「勘弁してくれ、もう帰りの分くらいしか燃料が残ってない。それとも何か、足元のネウロイの瘴気の中に仲良く飛び込むか?」

 

 あごで足元の黒ずんだ大地を示す。ライン川よりも向こう、緑豊かであったはずの西側の土地は枯れて時々黒い靄のような霧が地表をなぞっている。ネウロイに占領された土地は殆どがあの様になってしまうらしい。聞いた話によれば魔法力のないものならば短い時間で意識の混濁や嘔吐、ウィッチであろうとも数時間も経たずに体調を崩してしまうらしい。

 

 しかしそんな実害以上に、住んでいた土地が奪われたことが視覚的に理解できてしまうことが何よりも苦しいものだった。黒く染まった大地に向かい、取り戻すと誓うウィッチや兵士は少なくない。

 

 ストライカーの燃料が尽きれば落ちてしまうため、その前に戻らなければならない。きびすを返して来た道を引き返していく。

 

「しっかし、あんなに土地がめちゃくちゃにされている割に、ネウロイの斥候とかはいないんだね」

 

 戻り道の中、暇を持て余したクルピンスキーが思いついたことを呟いて、思うところがあるらしいロスマンが引き継いだ。

 

「そうね、こっちにくるネウロイはいつも侵攻を狙った個体ばかりで偵察なんてほとんど見たことがないわ。あれだけ瘴気を広げていれば私たちは来ないって踏んでいるのかしら」

 

 紫の大地をロスマンは腹立たし気に睨んでいる。何もしなくとも、もうあの大地は自分たちのものだと言外に、ネウロイに言われているようだった。

 

「ほらほら、そんな怖い顔しないで。後輩くん、過ごし顔しているよ」

 

 言われて思わず自分の顔に触れる。知らず知らずの内に表情筋が強張っていたようだった。両手で顔を包み、硬くなった表情を無理に変えようとして、勤めて笑顔を作る。覗き込んでいた二人がこちらの顔を見て、顔を背けて笑いをこらえたような様子を見せて自分の失敗を悟り、顔が熱くなった。

 

「ほら、僕のことよりも目の前。雲だよ、雲。上に避けないと」

 

「そんなに恥ずかしがらなくたって、フリッツはもう少し肩の力を抜きなよ〜」

 

 からかうように笑うクルピンスキーを無視して高度を上げ、目の前の雲を超えるように飛ぶ。高度を上げて足元の全てが雲の純白、一色に染まる。大地から見上げるのではなく、すぐそばで見る雲に柔らかさはなく、どこまでも深い、底の見えなさばかりが気になるほどに白かった。

 

 暗い白さに夢中になって眺めていると、ふと違和感を覚える。目に写っているのは白ばかりだ。そして先が見えず、奥の方は暗く見えていた。それがどういうわけか黒みを増している。

 

 そしてその黒は、影に変わり、浮上した。

 

 

 

  ●

 

 

 

「——! 散開!」

 

 悲鳴にも似た叫び、それを聞き届けた二人は訳も聞かず、しかし訓練通りに距離を作り、単純な陣形を作り出す。穏やかに漂っていた雲が裂かれ、その奥から雲をかき分けて黒い巨体が姿を現した。

 

 ネウロイだ。雲の奥に潜んでいたのはネウロイだった。油断していた自分に心の中で叱咤のために罵る。確かに今日の予報でもネウロイが来るという予測はなかった。しかしどうして必ずいないと言い切れる。

 

 しかしそんなことを言っていても仕方がない。すぐに思考を敵を倒すことに切り替えて、手に持った小銃を力強く握りしめる。これに込められているのは訓練用のペイント弾であり、殺傷力は小石を投げるのにも劣る。

 

「ネウロイ⁉︎」

 

「フリッツどうする⁉︎」

 

 驚きに声をあげるロスマン、こちらを見るクルピンスキー。正直いきなり現れたネウロイに動揺する自分の心をなんとか冷静にしようとしていても、それにネウロイが構うはずもない。次の行動に入る前に、赤い閃光が僕らを分断した。光の向こう側、ロスマンの声が聞こえる。

 

「フリッツ!」

 

「分かってる!」

 

 一つの声で意思を疎通する。僕らが見た方向はただ一つ。ネウロイの向かっている方向。あの雲の向こうにはいくつもの町、そしてそのさらに向こうにはベルリンがあった。

 

 ネウロイの出現予測を外した観測部の防衛体制を信頼できるほど、悠長に僕はなれなかった。

 

 すぐにこの黒い害虫を地に落とさなければならない。覚悟を決めてゆうに鯨ほどの大きさもあるネウロイに立ち向かう。

 

 僕らは誰も重火器を持っていない。なら必然的に固有魔法でネウロイを倒せる僕が矢面に立って戦う必要がある。

 

「クルピンスキー、ロスマン。僕が行く! 囮は頼んだ! 」

 

「任せておいて!」

 

 言うと同時に二人は上へと飛び上がった。動くものに気が逸れたらしい、ネウロイは移動する二人に当たるようにビームをなぎ払うように放った。迫り来るビームを障壁で防ぎつつ二人はネウロイの気を引くためにその周囲を飛び回る。

 

 ネウロイは僕の存在を忘れたらしく、二人を落とすことに夢中になって、おそらくビームの発射器官の全てを二人に向けていた。

 

 破裂する音が聞こえた。ペイント弾が放たれた音で、クルピンスキーが鳴らしたものだ。その意味は単純、スタートラインに立った人間に走り出せ、今がその時だと知らせる合図。返事をする前に僕は飛び出した。

 

 空気を切り、高度を落としていく。クルピンスキーとロスマンに夢中のネウロイは上から降りてくる僕に気づいていない。100、50、と距離を詰めていく。目と鼻の先にネウロイがいる距離まで来た時、ネウロイの動きが変わった。ユニットの駆動音を聞きつけたのか確証はないが、それまで向いていた方向からこちらへ振り向いて、叩きつけるようなビームの奔流がこちらへと向けられた。

 

「しゃらくさい、一点突破あるのみ!」

 

 魔力を使ってシールドを張り、こちらを焼こうとするビームを押しのけるようにして前へ進んでいく。ビームと拮抗して赤くなり、熱を纏っていくシールドがネウロイにたどり着く前に破れてしまわないよう心では祈りながら体は叫ぶ。

 

 あと少しというところ。手を伸ばせばネウロイに届くというところで、ついにシールドに限界がきた。丸く張られたシールドの端、足下の一角が維持できなくなり壁のなくなったそのすきまをネウロイの閃光が通り過ぎていった。シールドが破れたことに驚く猶予もなく、思考は間髪挟まずに起きた爆発音に遮られた。

 

 シールドを貫いたビームがそのまま右足のユニットに当たり、焼かれたユニットが破損して断面から煙を吐き出している。ユニットが半壊したことで足を異空間に収納する魔法が解除され、先ほどまでは無かった膝から先が元に戻り、ユニットが足から外れていく。

 

 それにともなって体を支える推進力が左足だけとなり、体が大きく揺れる。

 

 しかしそんな不安定な姿勢にかまうことなく突貫を続ける。わずかだった距離をユニットが残る足を振り回してその反動で縮め、そのままかかと落としの要領でユニットを鈍器として振るい、ネウロイに叩きつける。

 

 金属の破砕音と共にユニットが木っ端微塵に爆発するが、肝心のネウロイに損傷はあまり見られない。魔法力のこもった攻撃ではないのだ。元からこれで倒せるとは期待していない。だから決めるのは次の攻撃、本命だ。

 

「どぉうりゃあ!」

 

 かけ声一つと共に足を振り、振り子のように足を使ってネウロイにしがみつく。足の指先を変質させ、鋭く尖った爪を釘打ち機のような機構で打ち付け、体をネウロイから離れないように固定する。同じように両腕もネウロイに対抗できるだけに筋力を強化し、形を変形させ、振り下ろすと手首までがネウロイの装甲を貫通した。それを確認して両腕に力を込めて力一杯に横に開く。

 

 アルミ缶を裂くようにネウロイの装甲がめくり上がるがその下にあるのは装甲と同じハニカム構造の組織だけで、肝心のコアが見当たらなかった。

 

「フリッツ早く離れろ!」

 

 遠くから様子が見えているらしいクルピンスキーが慌てたように叫んだ。コアが見つけられていない以上、ユニットが両方とも壊れた僕はかっこうの的だ。それ故に彼女はそちらに跳べと言いたいらしかった。頭の冷静な部分はそう判断していたが、固有魔法による肉体の変質の副作用、脳への異常刺激が暴力的な手段を取らせたがる。崖から飛び降りるような開放感と共に右腕を振り下ろし、装甲を破って肘くらいまでが埋まって抜けなくなる。

 

 それを見ていた二人が何か叫んでいるが無視して、腕に集中する。腕の構成そのものを一から作り直す。なにしろ見本は目の前にある。そっくりそのまま同じように作り直すだけだから簡単なくらいだった。

 

 作り直しや腕は人としての原型はなく、おおよそ目の前のネウロイと同じだった。奴らのビーム機構を模倣して作り出した魔法力射出機構。ネウロイがするのと同じようにビームを打ち出す為の腕。それがネウロイの体内で放たれたならどうなるかなど火を見るよりも明らかだ。

 

「地に落ちろよ、害虫野郎」

 

 荒々しくなる口調で目の前の敵をなじり、込められる限りの魔法力を打ち込んで放った。固い装甲の下で熱戦がネウロイの組織を焼いて溶かしていく。ちょうど鉄の容器の内側に溶かした鉄を流し込むように中が熱に満たされていき、どこかにあったのであろうネウロイのコアも内側にあった組織と一緒に融解して壊れた。

 

 それが限界だった。コアが壊されたことでネウロイが破砕した。そして内側で籠もっていた熱量も逃げ場を手に入れたことで爆発した。飛び散るネウロイの破片、ビームの残滓である熱量が飛び散る。熱を感じて反射的に残った左腕で顔を隠すがそれがそれほど意味の無いことだというのはどこかで理解していた。

 

 瞬きのように光が咲いて、次の瞬間には爆風と爆発音が体の正面から抜けていった。過剰な外部の刺激に視界と聴覚がめちゃくちゃにされ、自分が今どうなっているのかさえよく分からない。

 

 浮遊感を覚え、このまま落下するのだろうと予測していると。その前に脇の下に腕を回され、持ち上げられる感覚があった。

 

 段々と白く染まった視界と頭を揺らす耳鳴りが収まってきて、なんとか自分を持ち上げる人物を見上げると、あきれた顔をしたクルピンスキーがこちらを見ていた。

 

「大丈夫かいフリッツ。またずいぶんとボロボロだけど」

 

「うぇ……、そんなに酷い?」

 

「顔を庇った左腕と制服はボロボロだし、右腕と両足なんて皮一枚でやっと繋がってる」

 

「それはひどい。基地に着くまでに治るといいけど」

 

「それで治るんだからすごいよ。羨ましいとはかけらも思わないけど」

 

 目がよく見えず、痛覚がないため自分の状態がよく分からなかったが、それほどまでにひどい状態らしい。

 

 ユニットが全損し、飛ぶこともできない僕はおとなしく猫のように持ち上げられていると、そばに飛んできたらしいロスマンが呆れたようにため息をつく。目は見えないがまじまじと見られている感じがする。

 

「まったく、ひどい怪我ね。少なくとも制服は破棄するしかない。どうやったらそこまでひどいことになるのか逆に教えてほしいものだわ」

 

「僕、一応敵を倒した功労者だと思うんだけど……」

 

「そう言うなら、もう少し身の安全を考えなさい。見てる側からしたら心臓が鳴りっぱなしで生きた心地がしなかったわ」

 

「……面目無い」

 

 そう言われてしまうと強く反論できない。確かにお世辞にも僕のやり方は見本になるようなものじゃなかっただろう。むしろネウロイの自壊と一緒にやられていた可能性すらあった。

 

 少し反省していると、不意に何かに気がついたようにロスマンが小さく声をあげた。そのまま彼女は僕の胸元を弄り、何かを見つけるとそれを引っ張った。それに連動して何かが首を撫でていく感覚が短くあり、そして短く力が抜けるようにしてなくなった。

 

 少し焦ったようなロスマンがした。

 

「あら、フリッツ。あなた時計はどうしたの。もしかして制服の下にしまっていた?」

 

「うん? 父さんの時計だったら、胸元に。——! まさか……」

 

「えぇ、鎖が溶けて千切れているわ。ネウロイの破片と一緒に落ちていったのかしら」

 

「——っ! だったらすぐに探さないと」

 

「慌てないでちょうだい。今探してるわ。あなたボロボロなのだから大人しくしていなさい」

 

 ぴしゃりと言い放たれて言い訳も許されず、大人しくしているとロスマンが地表へと高度を降ろしていく。彼女が降り立った場所はネウロイの破片が辺りに散らばっているようだった。しばらく待っていると再び飛び上がったロスマンがこちらに合流しようと戻ってきた。

 

「おっ、エディータちゃんが戻ってきた。……見つけたみたいだよ。よかったねフリッツ?」

 

 戻ってくるロスマンを見ながら飛行角度をそちらへ寄せていくクルピンスキーがホッとしたように言う。

 

 それと同時だった。

 

 ネウロイを倒したから、僕らは油断していた。ぼんやりとした視界の中でこちらへ向かっていたロスマンが赤い閃光にさえぎられて姿が見えなくなった。

 

「ロスマンっ!」

 

 思わず動揺して彼女の名を叫んだ。だけど望んでいた返事は帰ってこない。彼女の無事を確認する前にクルピンスキーが大きく動いたことでそれもかなわない。

 

「まってくれクルピンスキー! ロスマンがまだ——」

 

「分かっている! ——だけどキミを抱えながらあれと戦えっていうのかい?」

 

 両手がふさがっているため、あごで彼女は一方向を示した。その方へ視線のほうへと顔を向け、息をのむ。白かった雲が晴れ、その先にあるはずの青い空はなく、黒い斑点が幾つもあった。小さな赤い光が幾つも瞬いて、それを同じように見たクルピンスキーが慌てて軌道を激しいものに変えた。

 

 それまでいた位置に人の命を容易く奪い去る赤い閃光は何本も通り過ぎていく。まだ薄く残る赤の痕跡が、今見えている黒い斑点のすべてがネウロイなのだと教えられる。

 

 悔しいがあの大群の前に、四肢の回復が間に合っていない僕を持ち上げたままのクルピンスキーが取れる行動は撤退という名の逃走だけだった。

 

「ロスマン! 無事なら返事をして。この数は無理だ。基地に戻ってみんなに知らせる」

 

 彼女のいた方向へ、彼女に声が届くことを祈りながら叫ぶ。しかし返事はなかった。ダメだったのだろうか。いくつもの戦場で見た、空を飛ぶウィッチがネウロイに撃墜される光景を思い出す。命を奪い合う以上、仕方のないことだと割り切ることができず、知り合いがいなくなってしまったことに体の力が抜けるような感覚がした。

 

 彼女をあきらめ、逃走のためにクルピンスキーが加速の固有魔法を使おうとしていた時だった。雲の向こう。白いその向こうで光が咲いた。その信号には見覚えがあった。緊急時のために形態が義務になっている信号弾の固有の瞬きだ。心がざわめくのを感じ、クルピンスキーに確かめた

 

「見えた? 九時の方向。雲の向こう」

 

「ああ、ばっちり。よかった、少なくとも彼女も生きているみたいだ」

 

「だけどわざわざ信号弾を使ったってことは、ユニットが破損した?」

 

「ともかくボクはひとまず戻るしかない。いくよフリッツ、しっかりつかまっているんだ。彼女が逃げられるだけの時間を可能な限り稼ごう!」

 

 

 

  ●

 

 

 

 クルピンスキーの加速魔法で追ってくるネウロイをかく乱したり、置き去りにしてやっとの思いで基地にたどり着いた。飛行場に到着するとそこはもうすでにあわただしい空気に包まれ、遠くからは一種配備態勢、つまりは基地が臨戦態勢に移行したことを伝えるサイレンが鳴り響いていた。

 

 クルピンスキーに降ろしてもらい、手足の動きを確かめる。まだぎこちなくはあるが、動く分には支障がない程度だった。整備班に予備のユニットの用意を申し出、到着を待っている間、慌ただしく出撃や動き回り準備をしているウィッチたちを眺める。しかしいくら見回しても彼女、ロスマンの姿はどこにもなかった。

 

 僕らはクルピンスキーの頑張りもあってそれなりの時間、ネウロイを引っ掻き回していた。だからてっきり彼女が戻っていると思っていたが、どうも姿が見当たらない。

 

 気になって管制室に問い合わせるとまだ帰還を確認していないと返事があった。それを聞いて背筋に寒気が走る。ということは何だ。彼女はまだあのネウロイがひしめくあの場に取り残されてしまったということだろうか。

 

「ならすぐに救助に行ないと——」

 

「どこへ行こうというのかね。フリッツ君」

 

 その優しい口調は同時に、有無を言わせない重圧を覗かせていた。聞き間違うはずもない。最後に会ったのはあの日、故郷が燃えて無くなったあの日以来のことだった。条件と引き換えに僕をカールスラント軍に引き入れたロンメルさんだった。屈強な軍人を引き連れた彼はその手に一枚の書類を握っていた。

 

 丁寧に折られたそれを広げ、書かれた物を僕に見せる。これまで何度か渡された僕への辞令書だった。

 

「一時間前、ガリアの巣が活性化しそこから数百の軍勢がカールスラントを東に向かっていると観測班から通達があった。あれらは侵攻を再開したらしい」

 

「じゃあ、僕らが遭遇したのは……」

 

「彼らの先遣隊、もしくは偵察といったところだろう。ともあれ、フリッツ君。君に出撃の命令が下った。一時間後、地上部隊による掃射が行われた後に君を投入する」

 

 これまで何度かあった出撃命令。しかし今回に限ってはすぐには受け入れられなかった。「待ってください、掃射って……」

 

「無論砲撃による敵第一陣の掃討、および補給線の構築だとも。何かおかしかったかね?」

 

「まだあそこには取り残されたウィッチがいるかもしれないんです。砲撃を待ってください」

 

「たった一人のウィッチのため、『かもしれない』を理由に軍全体を危機に陥れろと君は言うのかね?」

 

「信号弾は見えたんです。ユニットが破損して地上に落下した可能性だって」

 

「同じだろう。我々にウィッチ一人の捜索に割ける人員の余裕はない。それは君が一番よく分かっているはずだろう?」

 

「それは……」

 

 ロンメルさんの言うことは正しかった。現在カールスラント本国は国民のノイエ・カールスラントへの集団移住を開始していて、軍備や人員をそちらへ多くを回している。防衛戦が今日まで維持できているのは、ひとえにこのロンメルさんの手腕があってのものだった。それを一人のために手段を変える理由などあるはずもない。

 

 何よりも僕は彼に多大な恩義がある。だからこそ彼には個人的にも、集団の一員としても強く反論できなかった。どうにもならない状況に唇をかむことくらいしかできない。

 

 そんな僕の様子を見てロンメルさんは不思議そうな顔をした。

 

「フリッツ君、君らしくもない。どうしてそれほどそのウィッチにこだわるのかね? これまで君は他のウィッチを酷く嫌悪して遠ざけていたと聞いていたが、何がそれほど君を心変わりさせたのかな? それともそのウィッチを救出する合理的な理由があるのかな?」

 

 生徒を問いただす教師のような口調でロンメルさんは僕を見てそう言った。確かにそうだ。全体の危機を招いてまで、彼女一人を助ける理由が僕にあるのだろうか。

 

「彼女はウィッチを生き残らせる戦い方を考案しようとしています。彼女が生きていることでいずれ多くの人名を救うことだって……」

 

「だがそれはいずれの、可能性の話でしかなかろう? 我々が対面しているのは今ある危機だ。それは危機を受け入れる理由にはならない」

 

 必死に考えついた理論的ないい訳も一蹴されてしまう。例えどれほどの言い分を取り繕うとも、たった一人のウィッチの救出と防衛戦線の構築が釣り合うなどあるはずもない。合理的に考えれば、それが正しいことなど分かっている。だけどどうしてもそれを受け入れられなかった。

 

「お願いです。どうか僕に彼女を救出する猶予をください」

 

「君の気持ちは理解できる。しかし私は指揮官として、全体が納得出来る論理と根拠を持って作戦を立案しなければならない。君にみなを納得させられる理屈があるのかね? 我々には誰もが納得する合理が必要なのだよフリッツ君」

 

 それはどこまでも正しいことだった。ロンメルさんの言っていることは正しく、間違ったことを言っているのは僕の方だと言うことは自分なのだと客観的には見えていた。間違っているからロンメルさんはロスマンを救出する猶予を作れない。彼女一人のために防御線の構築を遅らせる訳にはいかない。

 

 だからもし彼女を助けに行くことが間違っているというなら、僕は間違えたままでいい。

 

 きびすを返して歩き始める。背後からロンメルさんが呼び止めた。

 

「どこへ行くつもりかなフリッツ君。君の出撃は掃射が終わった後の第一陣だ。それまでは待機を——」

 

「もし、このまま……」

 

 僕が口を開き、ロンメルさんは言葉を留めて続きを待ってくれた。背中に突き刺さる彼の視線が次の言葉を促す。

 

「このまま彼女を諦めることが正しいなら、合理や正しさが人の取るべき行動なら、僕は間違っていてもかまいません。正しくなければ生きていけないのなら僕は今日死んでもいい」

 

「フリッツ君何を——」

 

「掃射に先行して僕が単独で突入してロスマンを回収、そのまま彼女を後方に送り届けてから前線に参加します。もし銃殺刑になるならそれも受け入れます」

 

 戦場における上官命令への不服従に対する最上の刑罰は銃殺刑で、この場合どれほどの刑罰が適応されるかなんて知らないけれど、もうそんなことはどうでも良かった。

 

「だがフリッツ君。君との契約はどうするのかね」

 

「仕事はこなします。それは約束ですから。だけどそれまでは好きにさせてもらいます」

 

「そうか。ではせいぜい流れ弾に当たらないことだ。君を拘束する術をわたしたちは持っていないからな、せいぜい好きにするといい。ただ最後に一つ聞いてもいいかな?」

 

「何でしょうか」

 

「私の命令に背いてでも、そうしようと思った根拠は何だろうか?」

 

 背中越しに沈黙が回答を待っている。きっと僕の持つ答えは正しさを正義とするこの人にはきっと受け入れられない。それでも。それでも僕は正しくあるくらいなら間違えたままでいたい。

 

「きっとロンメルさんの言う通りにすることが正しくて合理的なんです。でも人は正しさばかりでは生きていけない。間違っていると感じる心を捨ててしまって、合理性ばかりで生きていくなら、きっとそれはネウロイを変わらない」

 

 いつかロスマンに言われたことを思い出す。人間らしいだとかそんな話。合理的に戦うことだけに明け暮れ、それが何にも繋がっていかないで終わってしまうのなら、きっと意味なんてないのだろう。戦うからこそ得られる何かがあって、初めて戦うことに意味が生まれる。それなら今は仲間のために戦いたい。他に何もないのだから、せめて今あるものだけはそのまま存在して欲しい。

 

「僕には何も残っていません。家族も、故郷も、何もかもをネウロイに奪われました。だからせめて今あるものだけは守ります。それがこんなしょうもない力を得た理由になるなら、僕はそのためにここにいます」

 

 言いたいことを言い切って、僕は後悔を抱かずに走り始めた。もう後ろから呼び止める声はなかった。

 

 

 

  ●

 

 

 

 走り去っていく少年の背を見つめ続ける。年老いた自分からは失われて久しい青々しい若さ。愚かだと思う一方で、後先を考えず進める勇気にはどこか惹かれてしまうのは男の本能か。

 

 大きく変わったとまず感じた。焼けただれた戦場で巡り会った憎悪に突き動かされる少年に違いはなかったが、今はその痛々しい赤に人の血の赤が交わったように思える。若さとは理不尽だと不思議に思う。一年ぶりに直接顔を合わせただけでその変化、成長をまじまじと見せつけられる。

 

「将軍、ルンペンハルト少尉をあのままにしてよろしかったのですか。すぐにでも引き戻すことだって……」

 

 私が感嘆にふけていると隣に立っていた私の随行が問うてきた。

 

「まぁ、なんだ、君。私の時計を見たまえ、ほら、十分ほどズレているだろう?」

 

「いや、今将軍自分で……」

 

 随行は困惑した顔で私を見るがそんな顔で見られる心当たりはないので無視する。

 

「何を言うかな、まだまだもうろくした覚えはないとも。——というわけだ。ルンペンハルト少尉には十分の猶予があるわけだが、開始が遅れる分の補填をしなければならないわけだ。君、ノイエで開発が始まったロケットとかいう兵器の試作品があっただろう」

 

「えぇっと……、そうですね確か輸送機に積んだものが到着したばかりかと」

 

「ならそれを十分で打てるようにして、さっそく使いたまえ。たしかノイエの方から実戦データが欲しいと要望が来ていただろう? ほらダッシュ!」

 

「はっ、はい!」

 

 私が急かすと真面目な彼は整備課の方へ走っていき姿が見えなくなる。これで本部の方からあれこれと文句を言われることもないだろう。

 

 まあフリッツ君あとは上手くやりたまえ。子供のわがままを聞いてやれないほど器量が狭いとは我ながら思ってはいないし、若者のバカほど見ていて面白いものもない。

 

 あの憎悪一辺倒の少年が何か他に大切に出来るもを持てるなら、これくらいのことはしてやろう。そしてそれを一等席でながめる役得くらいは許されるだろう。

 

 

 

  ●

 

 

 

 真っ白な空間から意識が浮上し、ロスマンが目を開くと薬の匂いが鼻腔をいっぱいにした。ぼんやりとする頭を持ち上げるとまず目に入ったのは真っ白なシーツと、それからはみ出して紐でつり上げられた蓑虫のように包帯で巻かれた自身の右足だった。

 

「おっ、起きた」

 

 隣から脳天気な声がして振り向くと、ボロボロになって所々に包帯を巻いたクルピンスキーがいた。

 

「あら、ええっと……、いつぶりかしら?」

 

 今がいつなのか分からずそんな質問の仕方になってしまう。私の質問に彼女は指を三つ伸ばして見せて。

 

「三日ぶりだね。フリッツが病院にボロボロで骨折もしてた君を抱え込んでもう実に三日さ」

 

「そう、そんなことがあったの。それでフリッツはどうしたのかしら?」

 

「フリッツなら懲罰房に叩き込まれて謹慎中さ。もうじき解放されるんじゃないかな?」

 

「懲罰?」

 

 それほど聞き慣れない単語に首をかしげているとクルピンスキーは肩を小さくして笑った。

 

「そう懲罰。上官不服従とかいろいろ重なって……ね」

 

「その割には軽いわね」

 

「当の将軍閣下本人から情緒酌量の打診があってね。それで形式的に懲罰だけは受けたって感じだねあれは」

 

 クルピンスキーはその時のことを思い出しているのかニンマリという笑顔を崩さない。

 

「それで上官不服従なんてフリッツったら何をしたのかしら?」

 

 その質問にクルピンスキーは過去最高の笑みを作った。そして伸ばしていた指を一本に変えて私を指さした。私とはどういうことだろうか。……もしかして。

 

「わたしの救助で? 彼が?」

 

 思っても見なかったことがすぐには飲み込めず、困惑しているとついに耐えきれなくなったのか、クルピンスキーは膝を叩いた。

 

「そうなんだよ。フリッツのやつ。君に時計を取らせたことに責任を感じたのか、命令違反して前線に飛び込んで、何か新しい兵器が飛び交う戦場をネウロイを倒しながら飛び回って君を拾いに行ったんだよ」

 

 それだけ言い切るとクルピンスキーわたしに構わず笑い続けた。そのうち笑い声を聞きつけた看護婦に叱られるまでそれが続いた。看護婦に怒られ、別室に連行されるバカを見送っていると入れ違いにフリッツの顔が見えた。

 

 看護婦に連れて行かれるクルピンスキーに困惑して見つめながら入ってくる彼に適当に座れと言う。

 

 ベッド脇に置かれた椅子に腰を下ろしたフリッツは手に持っていたバスケットをこちらに寄越した。中に入っていたのは色とりどりのフルーツだった。要はお見舞いの品らしい。

 

 彼はベッドの上で存在感を放つ私の折れた足を見て少し気まずそうにしてこちらを見た。

 

「その……、調子はどうだ?」

 

「ええ、おかげさまですこぶる調子が悪いわ」

 

 しおらしい彼の様子が珍しくて、ついわざとらしく痛がってみせる。すると彼があんまりにも慌てるものだから、冗談だといさめる。からかわれた彼は不機嫌そうに顔を私から背け、バスケットに入ったリンゴを一つ取り出すと果物包丁で皮むきを始めた。見ていると手際がとてもいい。私が感嘆の声を出すと彼は首を振った。

 

「これくらい練習すれば誰にでも出来るよ。……それよりも、その、悪かったよ。僕のせいで君を危険な目に遭わせた」

 

「別に危険なのは職業柄当然じゃない。それよりもネウロイがいないって高をくくっていた私にも責任はあるわ。そうだ、これ先に返しておくわね」

 

 ベッドに備え付けられている家具から預かっていた時計を渡す。果物の皮むきを中断して受け取ると、フリッツは大事そうにそれを両手で抱えて動かなくなった。

 

 そして改めて私を見た。

 

「ありがとうロスマン。この恩は一生忘れない。もし僕に出来ることがあれば何でも言って欲しい」

 

 不覚にも今度は私が動けなくなってしまう番だった。というのも人間は初めて見るものには注意深くなってしまうらしい。フリッツが笑った顔なんて出会ってから今日まで見たことがなかった。いつも無表情か、仏頂面、それかイラついた攻撃的な顔くらいしか見たことがなかったから、私にはそれがとても新鮮だった。

 

「あなたって笑えたのね」

 

 我ながらとても間抜けな指摘だった。そりゃあ人間なのだから笑うくらいするだろう。しかし言われて初めて気がついたのか不思議そうにしたフリッツは顔に手を当てて自身の表情を確かめていた。

 

 そんな様子がおかしくてつい私まで笑ってしまう。そんなことに今さら気づかないなんてなんて間が抜けているのだろう。笑われていると認識すると困ったように顔をしかめて、いつものフリッツが戻ってくる。

 

「なんだよ、そんなにおかしい?」

 

「ええ、とっても。あなたって本当に不器用なのね。もっと笑っていた方が素敵よ?」

 

 少しだけこの不器用な少年のことが分かってきたような気がする。この人は複雑なように見せかけてその実、ただ直情で物事を一つの問題としてしか扱えない、本当に不器用な人なのかもしれない。

 

「ねぇ、フリッツ」

 

「なんだよ」

 

「わたしたち友達にならない? 今ならあなたのこと好きになれそうだわ」

 

「何で急に……」

 

 私の申し出に彼はまた困ったような顔を見せる。今まで気に入らなかったその顔も今はどこか幼げで可愛らしさすらある。

 

「ならさっきの何でも言って欲しいってやつ、今使うわ」

 

「そういうのはズルいよ」

 

「友達に遠慮なんておかしいもの、当然でしょう?」

 

 

 

  ●

 

 

 

 こうしてわたしと彼は友達となった。

 

 そしてその二年後、私たちは同じ飛行大隊に所属して、そしてフリッツにとっては大転機となるあの子がやって来ることになるのを浮かれている今日の私はまだ知らない。

 

 



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再会編
Auf der Suche nach der verlorenen Zeit


 ネウロイのカールスラント再侵攻が始まって三年の月日が流れた。軍学校での訓練課程は大幅に短縮されて、再侵攻のすぐあとに僕ら三人は本国防御戦線の中心となっている第52戦闘航空団に配属となった。

 

 最前線の言葉に偽りはなく、物を食べている時間よりも銃を握っている時間が長い生活が続いていた。訓練学校時代に生まれた縁は途切れず、所属する小隊は違えど、僕らは度々基地の中で顔を合わせては近況を話し合っていた。

 

 何だかんだそつなくこなすクルピンスキーは実戦の中で頭角を現して中堅のエースとして有名になり伯爵なんてあだ名され、ロスマンはヒスパニア戦役での一撃離脱戦法が上の目に留まり、今は新人の教育を任される教育曹長として若いウィッチたちをみて先生と呼ばれていた。そして残る僕だけれど。

 

「あーあー……、もうダメだ。今ネウロイに来られたら絶対負ける」

 

「カールスラントきっての切り札が何言ってるの、もう。シャキッとしなさい、シャキッと」

 

 あきれたと言わんばかりの声が頭上から聞こえる。天上の照明から顔を逸らして談話室のソファーに沈んだ体をなんとか持ち上げ、顔を向けるとロスマンがこちらを見下ろしていた。隣のソファーで開けたばかりのブランデーを楽しんでいたクルピンスキーが怒るロスマンをいさめる。

 

「まあまあ、先生。フリッツはさっきまで前線にいて、さっき帰って来たばかりなんだ。ちょっとくらい大目に見てあげようよ」

 

「だったらせめてその食事を片しなさい。クラムチャウダーが冷えて固まりかけているわ」

 

 ロスマンが指さす先にはトレーに載せられた食事が置いてあった。クルピンスキーが気を利かせて持って来てくれたが、体が動かせずそのまま放置を食らっていた。食べないなら片づけておけというロスマンは実に正しいが僕としても背に帰られない事情があった。

 

「飯は勘弁してくれ……。もう三日くらいまともに何も食べないで働かせられてたんだ」

 

「三日……? 三日前って言ったらガリア国境にあなたが向かった時ね。あれから基地に帰っていなかったの?」

 

 ちょっと驚いた顔を見せるロスマンにうなづいて答える。

 

「ほら、アフリカで出たって言う大型の陸戦ネウロイがいただろ? あれがダース単位で出てきたんだ。航空ウィッチの火力じゃあ、まともに装甲を破れないから、東部戦線から陸戦ウィッチが到着するまで僕が相手させられて、おかけで出ずっぱりになってた」

 

「まぁ、その辺は適材適所だよね。がんばったフリッツにはクルピンスキーお姉さんが食べさせてあげよう。ほら、恥ずかしがらずに」

 

「おいっ、ばか、やめろ。ひっくり返っているのに口に汁物なんて入れたら、モガっ!」

 

「もう伯爵!」

 

 鼻の奥にぬるいクラムチャウダーが流れ込み、鼻の奥がしみる。痛覚がなくとも生理反応はなくなっていないため、むせているとそれを見てクルピンスキーが楽しそうに笑っている。

 

「はははっ、まったく顔が暗いよフリッツ。そんなんじゃ来週から来るカワイコちゃんに嫌われちゃうよ?」

 

 ロスマンから水をもらって鼻の奥を流しながら、クルピンスキーのセリフに引っかかりを覚えた。

 

「来週から着任? 防衛戦が忙しくて他の基地から回せる人員なんてないと思ってたけど?」

 

「それがね、ノイエの方から訓練課程を終えた新人ウィッチちゃんたちがこっちに派遣されてるんだって。それでうちにはナイトウイッチの子が来るらしいよ?」

 

「ナイトウイッチ? そんな貴重な人材をよく上層部が派遣を許したね。ブリタニアあたりの落ち着いた戦場で経験を積ませてからみんな来ると思ってたけど」

 

「ねー。本当ならアフリカと違ってこっちには君がいるから後回しだっただったらしいけど、何でも本人が強く希望してこっちに配属が決まったって」

 

「こんな最前線にわざわざ? 大丈夫かそいつ」

 

 明日にはさっきまで話していた同僚が死んでいるのが日常となっているこの最前線に、自ら立候補する人間が想像できず顔をしかめてしまう。ロスマンに軽く体を支えてもらって上体を起こしてトレーに載せられた昼食を戴いていく。いつかの自己改造で味覚が衰えてしまい、味がほとんど分からなかったが、口の渇くレーションよりはずっとおいしく感じられた。

 

「しかしよく上層部はナイトウイッチの所属なんて許したね。大体一つの基地に一人がセオリーだろ? 僕がいるんだからそれこそ他に回されそうだけど」

 

「それはあなたがちゃんと夜に出撃できれば、でしょう?」

 

 隣に座っていたロスマンが手に持っていたグラスを置いて呟いた。彼女は現在再生中の僕の右腕と両足を指し示した。

 

「あなたが夜間偵察の任務に専念してくれるなら他の子もいらないでしょうけど、あいにくあなたほとんど出ずっぱりで帰って来ても大体どこか負傷して帰って来るじゃない? それはもちろん助かっているけど、毎晩のことを考えればやっぱり夜間専門のウィッチは欲しいわ」

 

「それで都合良く希望してくるやつがいるなんてねぇ……?」

 

「まぁ、こんな世の中だからでしょうね。国のためだ、なんて言って望んで最前線に行きたがる人なんて何人も見てきたわ。それこそこんな戦争がなかったら、そんな人たちはどうしていたのか考えてしまうわ」

 

 そう言ってロスマンは深く息を知ってソファーに体を預けた。戦争がなかったら。今日死んでいった顔見知りを思い出して、同じように深く息を吸って吐く。

 

 そんなことを考えて重苦しくなった空気を、朗らかなクルピンスキーの声がかき消した。

 

「おっ、戦争がなかったらの話? 僕だったらやっぱり——」

 

「若い子にちょっかいかけて牢屋の中でしょうね」

 

「ええ!? ヒドいな先生。僕が何をしたって言うんだい」

 

「あなた私の教え子たちを口説いて回ってるでしょう? ちょっと節操ないんじゃない?」

 

 そういえば基地にいると新人に声をかけているクルピンスキーに遭遇するがそんな頻度でやっていたのか。

 

「やだなぁ先生。ちゃんと可愛い子に絞って声をかけてるよ」

 

「それでマジなお叱りの忠告が私の方に来ているんだけど? いい加減にしておかないとあとが怖いわよ」

 

 わざわざ本人でなく僕やロスマンの方に苦情がやって来る時点で、本人には相当な回数の苦情やらが来ているだろうに、本人はこの通りやめる気配すらない。その上クルピンスキーのことをよく知らない新人の何人かは彼女に目を輝かせているんだから困ったものだ。

 

「僕のことはさておき、先生はどうなんだい? やっぱり学校の先生とか?」

 

「どうなのかしら。人に何かを教えるなんて軍に入ってから初めて経験しただから、学校教育はさっぱり。戦争が終わってもこのまま後進のウィッチたちの教育に関わってそうだわ」

 

「それに先生の場合、生徒に混ざったら誰が先生か分からなくなりそうだね。あっははは……」

 

「フンっ!」

 

「あ、痛っ!」

 

「……やめておけば良いのに」

 

 ロスマンをからかった代償につま先を踏まれて悶絶しているクルピンスキー。思っても言わなきゃいいだろうに、ロスマンの恐ろしい形相ににらまれてほうほうの体になったクルピンスキーがその場逃れにこっちに話題を飛ばしてきた。

 

「そ、そういうフリッツはどうなんだい? 戦争が終わったらフリッツはどうする?」

 

「多分ウィッチをやめて退役してるんじゃないかな?」

 

 軍を退役するという言葉は自然ともれた言葉だった。クルピンスキーは意外そうな顔をした。彼女の足を踏みつけていたロスマンもそれを中断してこちらを見た。

 

「へぇー、軍をやめるんだ。それで、そのあとはどうするんだい?」

 

「それは……」

 

 続きを聞かれて、言葉が何も出てこず詰まってしまう。戦いが終わったら。平和になったのならどうしたいと聞かれ、しかし何も思いつかなかった。戦っていない自分が、今の自分とは違う自分がどこにもいない。

 

 今と違うと言えるのはあの頃、まだカルフの街が燃えてしまう前にあの子と一緒にいた頃だ。母さんがまだ生きていた頃は、もう終わってしまった時間だ。もう一区切り着いてしまった過去。だから僕にとって、今に続いている時間はあの街に移り住んでからはじまった。

 

 でもこれから先の、未来の自分を何も想像出来なかった。戦いが終わって、その時に自分がしたいことなんて何も思いつかない。自分はどうしたいのだろう? 

 

 戦いが終わって。それで、どうしたらいいんだろうか。

 

 そんなこと今まで考えたことがなかった。

 

 平和になったその先。僕はどうしているんだろうか。何処にいて、何をしているのだろうか。想像の世界ですら、僕は何処にもいない。

 

「……、多分故郷に戻ると思うよ」

 

 苦し紛れにそんなことをうそぶいた。何も思いつかなったけど何も言えないのはどこかバツが悪かったからとぼけるくらいしか出来ない。

 

「フリッツの故郷ってどこだっけ。そういえば聞いたことなかったね」

 

「ガリアとの国境沿いにあるカルフって小さな街だよ」

 

 ガリアとの国境という一言でそこが今どうなってしまったかを二人が察してくれる。そしてクルピンスキーが優しく微笑んで言う。

 

「ガリアとの国境……。そうだね。なら、ちゃんと戦争を生き抜いて、生きて帰らないとね」

 

「いつか遊びに行くわ。その時は何か美味しいものがあったら食べてみたいわね」

 

「何もない小さな街だけど、来てくれたら歓迎するよ」

 

 精一杯の笑みを浮かべて二人に答える。そうだ、あそこにはもう何もない。あの何もない静かな街が元に戻るまでどれ程かかるのだろうか。想像もつかないほど途方もない時間がかかってしまうのかもしれない。

 

「あぁ……、そうか。その前に父さんの葬式か」

 

 食べ終えた食事を片付けながら、ふと手が止まった。思い出して思わず呟いてしまっていた。幸い二人は他愛のないことを話すのに夢中で僕の独り言は聞いていない様子だった。

 

 そそくさと談話室を抜け出して、食堂に食べ終えた食器を戻し終える。しばらくは出撃もないだろうと、手持ち無沙汰になり気を紛らわそうと歩き出した。硬いコンクリートの基地を出て、基地の横の森の中を歩く。時々遠くから鳥の鳴き声やむしのさざめきが聞こえていたけれど、それほど頭には入っていなかった。

 

 頭の中は先ほどのクルピンスキーに問われた、戦争が終わったらということでいっぱいになっていた。ネウロイを殺すことばかりでそれ以外のことなんてちっとも考えていなかった。表面上は違うことでも、その根幹はいつだってネウロイを倒すためという裏付けでしか行動が出来なかった。

 

 それなのに今更それ以外のことを求められても困ってしまう。考えながら昔はよく読んでいた哲学のことを思い出した。父さんが生きていた頃はよくそう言う本を読んでいた。母さんの本棚にはそんな本が多くて、読み始めた頃はほとんど意味が分からなかったことは記憶に残っていた。

 

 父さんが母さんがいなくなったことで壊れてしまったように、今思えば僕も母さんの面影を求めて母さんの真似事をしていた。料理や家事だってそうだ。母さんがいつもしていてくれていたことだ。その一つが読書だ。

 

 難しい内容の哲学だけれども、今でも読んだことは、その中でソクラテスの言った善く生きることはよく覚えている。この世で最も価値のある行いは金を稼ぐことでも、健康や容姿に優れることでもなく、ただ魂が善いものであろうとすることだと、子供ながらどこか感銘のようなものを感じた。

 

 だけど今の僕は果たして、善く生きているのだろうか。人を傷つけるネウロイと戦うことは一般的に正しいことだと思う。それで救われる命があって、誰かに感謝されればそうして良かったと何度も思った。

 

 でも僕の底にあるのは感謝されることへの喜びなどではなく、父さんを殺したネウロイへの怒りだ。ネウロイを一体殺すたびに、天への貢物を捧げるような暗い喜びがあった。隠していても、戦いが終わって落ち着くたびに自分がネウロイを壊すたびに笑みを浮かべていることに気づいたのはいつからだっただろうか。

 

 こんなに気持ちのいいこと、壊すことへの快楽を忘れて僕は平和の中にいられるだろうか。そんな僕は果たして魂を正しく善く在れているのだろうか。そう思うことはあっても状況は選択する余地を与えてはくれない。考える時間はネウロイがやってくることで遮られ、破壊と快感にまた飲み込まれていく。

 

 それなのにこれが、戦争が終わったら、この連鎖が途絶えたら、その時僕はどうしたらいいのだろうか。

 

 どれ程の時間をかけて考えても、そんな疑問に答えてくれる書物もなく、明快な答えを閃く発想もなく、立っていることが億劫になって木の幹に座り込んで、伸びた木の枝に遮られた空を見上げる。月も星も雲によって遮られて暗い闇ばかりが頭上を覆っていた。救いの光も、天主の御手もなく、行き先を失ってしまった子供が一人いるだけだった。

 

 

 

 

 

  ●

 

 

 

 珍しい招集にクルピンスキーは欠伸を噛み殺していた。一昨日、昨日とネウロイの襲撃や侵攻がなく、とても久しい穏やかな時間が基地に流れていた。こういう時間は必要だと感じていたし、事実いつもは眉間にしわを作り険しい顔を作る戦友たちの顔も今日は穏やかだ。年頃の少女としてはやはりそういう部分に敏感になってしまうし、何よりとなりに座るフリッツも今日はまともだった。

 

 ここのところ、どこか心ここにあらずという様子で心配していた。声をかけても大丈夫だと言うけれど、そんなすんなり了承できるほど大丈夫そうな顔をしていなかった。教え子の子達もたまにどこかへふらふらした足取りで消える彼を見たと報告してくれていた。

 

 心当たりはある。多分先週のことだ。戦争が終わったらどうするか。戦時中ならありふれた話題だけれど、私たち三人の中では初めて取り上げた話題だった。ふざけたことを言う伯爵のせいでうやむやになったけれど、どこかフリッツは直接的な物言いを避けているようだった。

 

 その頃からどこかフリッツは不安定だった。ぼーっとしていたり、本を読んでいるときに声をかけても返事がなかったり、話しかけても聞こえていないことが何度かあった。伯爵は本人がそんな様子なら、今はそっとしておいた方が本人のためだと言っていたけれど、あんな風になったフリッツは初めてでどうしていいのか分からないのが正直なところだった。

 

 いつもしかめっ面のくせに気遣いや場の空気を乱さないことだけは気をつけている彼が、そんな様子を見せるのはどこか見ているこちらが不安になる。そんな空気の中、新人さんを迎え入れるのか少し申し訳ない。前線だから空気が重いのは仕方のないことだが、こういう空気の重さは好ましいものではない。

 

 そんなことを考えていると基地司令に入ってくるように言われ、今日から配属となった子が部屋に入室した。皆に注目されながら、入ってきた子は恥ずかしさからか、豊かな銀髪が広がるのとは対照的に身を守るようにを縮こませている。それでも決心がついたのか赤い瞳を大きく開き、口を開いて胸元にかけたサングラスが揺れた。

 

「ほ、本日より皆さんと一緒に戦わせていただく。ハイデマリー・シュナウファー少尉です。皆さんの一助になれるよう精一杯努めさせていただきます」

 

 少し小さな声だったが皆が黙って聞いていたため問題はなかった。問題がなかったからこそ、隣から聞こえる鉛筆が折れる音が部屋によく響いた。

 

 音に驚いて隣を、フリッツを見て息を飲んでしまう。今まで見たことがないくらいに険しい顔をして、目を見開いて瞬き一つしないでシュナウファーさんを見ているフリッツがいた。人差し指一つに折られてしまった鉛筆の片割れがその場で飛び上がり、もう片方が前に飛んでいきシュナウファーさんの足元へ転がっていく。

 

 突然の音に驚き、足元へ転がってきた鉛筆の片割れを見つけたシュナウファーさんは、それはやってきた方へ視線を持ち上げ、そして不安そうな表情をどこかへやって可愛らしい笑顔を、まるで分かたれてしまった半身を見つけたような安心した笑みを浮かべていた。

 

 両手を胸の前で組み、前へ一歩、また一歩と歩みを進め、彼女はフリッツの目の前に立った。どこか幼い子供のままの笑顔を連想させる彼女は言葉に詰まりながら、それでも気持ちを伝えようとしていた。

 

「ふ、フリッツ、そ、その、久しぶり。ずっと会いたかったのよ。手紙だって返してくれないのだもの。でもようやく会えた——」

 

 詳しい事情は分からないけれど、どうやら感動の再会という雰囲気だった。少なくとも嬉しそうに言葉をつむいでいくシュナウファーさんは同性すら見惚れてしまうくらいの笑顔を見せていた。なのに、

 

「——なんで君がここにいる」

 

 驚くほどフリッツの声は冷たく、そして暗かった。始めそれがフリッツの声だとは分からなかった。それほどまでに、聞いているこちらがギョッとしてしまうくらいに感情が感じ取れない低い声だった。

 

「——え? え、えぇ、そうよねフリッツは驚いているのよね? わたし頑張ったんだよ。フリッツに追いつこうとウィッチの訓練をして、やっとこの目も自分の物にして。本国に配属が決まって、それでわたしから希望してここに、フリッツがいるここに配属してもらって——」

 

「そういう事を聞いているんじゃないっ!」

 

 突然声を荒げたフリッツの怒鳴り声が部屋に響く。声を向けられたシュナウファーさんも、その場にいた誰もが背筋を震わせた。机を叩き、立ち上がったフリッツがシュナウファーさんの襟を掴んで引き寄せた。

 

 蜜月のような甘さなど欠片もなく、尋問するように睨みつけるフリッツに空気が張り詰めていくのを感じる。捕まれて驚いたシュナウファーさんが苦しそうにもがく。

 

「い、痛いわフリッツ。どうしたの、どうして怒るの。何を怒っているの」

 

「どうして……、どうしてここに君がいる。どうしてノイエにいない。なんでここに来た」

 

 と言い詰める声に感情の色は見えず、ただ淡々と確認をするようだった。怒りを見せるフリッツに困惑したシュナウファーさんは目端に涙を溜め始め、怖いものを我慢するように強く目をつむった。

 

「だ、だから、フリッツにもう一度会いたくて——」

 

「ふざけるなっ!」

 

 次の瞬間、それまで底が見えないほど静かな語り口だったフリッツが烈火のごとく叫んだ。掴んでいた襟を突き放し、押されたシュナウファーさんが尻もちをつく。何が起きたかまだ飲み込めていないようで呆けたままの表情でフリッツを見上げている。

 

 突き飛ばした当の本人はうつむき、その表情を見せずにいた。

 

「どうして、どうして、どうしてこんな。でも、だって、……クソっ!」

 

 小さくフリッツが拳を震わせながら、誰に聞かせるわけでもなく小さく呟く。そしてそれが終わると顔を上げ、自身を見上げてるシュナウファーさんをにらみつけた。

 

「ノイエにさっさと帰れ。ここにお前はいらない。顔も見たくない」

 

「——っ! そんな、待ってフリッツ。わたしは……」

 

 そう吐き捨ててフリッツは部屋から去っていく。後に残されたのは初めて感情らしいものを爆発させたフリッツに困惑する私たちと、取られることのない手を彼へ伸ばして固まったままのシュナウファーさんだった。

 

 



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Die Zeit vergeht immer noch

 暗い自室。灯りは無く、ベッドの上で僕は膝を抱えていた。胸を痛めつけるのは自己嫌悪と言語化できない苛立ちだった。

 

 四年という時間を経て再会した彼女を見て最初に思ったのは、どうしてという疑問だった。安全なノイエにいるはずの彼女がここ、カールスラントという命の価値が弾丸の一発よりも軽い最前線にいることがどうしても受け入れられない。

 

 どうしてそう感じるか自分でも上手く言語化できない。しかしある種の苛立ちが確かに胸の中でくすぶっていた。そして理由も分からない感情に飲み込まれて、気がつくと怒鳴って彼女に帰れと叫んでしまった。

 

 どうすればよかったのだろう。どう感情に折り合いをつければよかったのだろう。

 

 暗い部屋の中、行く先の見えない心持ちの中、胸ポケットにしまった父さんの時計は規則正しく時間を刻んでいた。

 

 朝日が昇り、暗かった部屋に明るく変わる。でも太陽は雲の向こうで姿は見えなかった。

 

 

 

  ●

 

 

 

 都合の悪いことに、この日の訓練はハイデマリーとの共同の訓練だった。彼女が夜間哨戒のナイトウィッチとしてと登用されたから、慣れるまでは臨時のナイトウィッチとして夜間哨戒を任されている僕と組むのはそれほど不自然なことでもない。

 

 防衛線を死守することが重視されてる中、配属されたばかりの新人を使い物にするために先達が付くことは当然だった。戦いに勝つことが重要なように、また先達は後輩たちが生き残れるように教育をすることは当然のこと。これまで何度もやってきたことだけれど、今はいつものようには出来ていなかった。

 

 早朝の訓練を終え、彼女を見つけて声をかける。意識せずとも声は固く強張っていく。

 

「……シュナウファー少尉。昼間哨戒の訓練を午後から行います。それまでに地図を覚えておくように」

 

「あ、あの……、フリッツ。話が——」

 

「よろしいですね。伝えましたから。それでは」

 

 何かを言おうとした彼女の言葉を遮って、足早にその場を後にする。出来るだけ彼女と言葉を交わしたくない。そんなことを思いながら廊下を歩いていると壁に寄りかかり立って、待ち構えるようにクルピンスキーがいた。

 

 誰かを待っているのか、彼女は顔を伏せて動く様子がない。珍しく寡聞な彼女を怪訝に思いつつ前を通り過ぎようとした時、僕だけに聞こえるような声で囁いた。その声色は酷く責めるようだった。

 

「いつまでそんな態度を彼女に続けるつもりだい?」

 

「何が言いたいの。基地の中では仲良くしていろとでも?」

 

「君たちの個人的な問題にあれこれ言うつもりはないさ。ただ、いつもは無愛想な君がそんなにも表情豊かだからね。無理してないか心配してるだけさ」

 

「気にしなくていい。そういう心配は女の子に向けていればいい。君が心配するようなことじゃない」

 

「友人の心配をすることがそんなに変かな?」

 

「君には関係ないよ。……関係ないんだ」

 

 それだけ言って歩く足を早めてその場から立ち去る。それ以上クルピンスキーは何も言わない。ただ黙して、本当にそれでいいのかと彼女は問うだけだった。

 

 

 

  ●

 

 

 

 午後の飛行訓練を終えて僕とハイデマリーは基地へと帰投した。ストライカーユニットを整備班に預け、立ち去ろうとしたところで背後から声をかけられた。

 

「あ、あのね、フリッツ」

 

 思わず足を止めてしまい、そのことに内心で舌打ちする。耳を傾けずに立ち去っておけばよかった。振り返らず、背中越しに続きを待つ。立ち止まったことで聞かれていると思ったらしいハイデマリーがおずおずと言葉を続ける。

 

「ねぇ、フリッツ。もしかしてわたし何かいけないことをした? もしそれでフリッツに嫌な思いをさせちゃったなら謝るから。だから——」

 

「——違う」

 

「え……?」

 

 振り返って彼女を見る。言葉が足りずハイデマリーは困惑した顔を見せている。

 

 そうじゃないんだよハイディ。君が何かしたわけじゃないんだ。何も悪いことをしていない君を責められるはずもないのに、苛立ちが抑えることができない。

 

「君は何も悪くない。むしろ謝るのは僕の方だ。怒鳴ったりしてごめん」

 

「っ! なら——」

 

「それでも、僕の意見は変わらない。シュナウファー少尉。君はここにいるべきじゃない。ケガをする前にノイエに帰って」

 

 乱れる感情を見せてしまわないよう、声を荒立てないように努めて彼女を見る。これだけ言っているのに、彼女は受け入れてはくれない。

 

「でも、フリッツ。わたし頑張ったんだよ。フリッツに会いたいと思って、ノイエに移り住んでからずっとウィッチになろうって、頑張ったんだよ? やっとここまできて、それなのに……」

 

「誰もそんなこと頼んじゃいない。お願いだから僕を君がここにいる理由にしないでくれ。……君がここにいると父さんとの約束が守れなくなる」

 

「お父さんとの約束……?」

 

 抑えていた語気が感情の高ぶりと共に荒れていく中、ハイデマリーの指摘で余計なことまで話してしまった。やってしまったと自分のうかつさに毒づき、すぐさま顔を彼女から背ける。

 

「フリッツ、それって——」

 

「君には関係ない。もういいだろ。君はノイエで平和に暮らしていていればいいんだ。もうこれ以上困らせないで」

 

 荒れてしまいそうな声を抑えて、そんな勝手なことを吐き捨てて、彼女の顔を見ることもなく歩き出す。目的地はない。どこでもいい。彼女がいない場所だったらどこでも良かった。

 

 かつては分かつことなどあり得ない半身のようにすら彼女を想っていた。だけど今の彼女は僕にとって余計な重みになっていた。

 

 ハイデマリーを守るという父さんとの約束はいつしか呪いのように僕の全てをがんじがらめにして、自由を一つずつ取り上げていく。

 

 彼女を守らなければ父さんとの約束が破れてしまう。父さんの死を無意味なものに変えてしまう。死してなおも父さんの尊厳を奴らに踏みにじられていしまう。そんなのはダメだ。許してはおけない。だから僕は他の何もかもを捨ててでもネウロイを殺し続けて、父さんとの約束を守り続けなければいけない。そのために人生の全てを捧げなければいけない。

 

 それなのにハイデマリーが戻ってきてしまった。彼女が側にいると前の僕に戻ってしまうかもしれない。余計なものを取り戻し、純粋さを失い、どこかで父さんの仇討ちを妥協してしまうかもしれない。それが恐ろしい。

 

 誓ったはずの気持ちをほぐされてしまう。お願いだからネウロイを殺すだけの僕でいさせてほしい。どうか君は海の向こうで、何も知らずに幸いの中にいておくれ。

 

 こうすることが、どれほど彼女の気持ちを踏みにじる行為だとしても、間違っていると分かっていても、それでも息絶えてしまった父さんとの最後のつながりを失いたくない。それ以上の生きる理由が僕にはもうないから。その最後の寄る辺だけは、何よりもかけがえがない、僕が僕でいられるただ一つの理由だった。

 

 

 

  ●

 

 

 

 フリッツが歩き去ったあと、一人残されたわたしはただ呆然としていた。優しいはずのフリッツがあんなことを言うはずがないと、その現実を前にしながら受け入れられないでいた。

 

 五年前、伸ばした手はフリッツに払われた。そしてわたし達は離ればなれになった。あの暗い部屋から太陽の下へ連れ出してくれたわたしの半身。分かれたからこそ、今度こそは彼を離してしまわないように追いかけて、ここにたどり着いた。

 

 だけど再会した彼は酷く変わってしまっていた。優しい面持ちは影を潜め、どこかほの暗い怒りをにじませた仏頂面ばかりを見せている。わたしの知っているフリッツとはとても違う、拒絶されたことも相まって別人ではないかとさえ思えてしまう。

 

 やっと会えたのに。でも、わたしが会いたいと願い、ずっと想い続けていたフリッツはどこにもいなかった。

 

 顔を合わせても私がここにいることを受け入れず離れていこうとする彼を前にして、わたしはどうするべきなのだろう。ずっと会いたいと想っていた。だからまた会うことが出来れば全て上手くいくとどこか楽観的に考えていた。

 

 あの別れの日、どうしてフリッツがこの危険な最前線に残ったのか、考えないようにしていた。また顔を見れば解決すると無邪気に信じていた。きっとお互いに、会いたいと想っていると夢見ていた。そして現実は夢を灰のように、焼き尽くして形を崩した。

 

 そんなわたしの心を映すようなおぼつかない足取りはわたしを食堂へと運んでいく。ナイトウィッチの業務や訓練は通常の日程とは異なり、この時間帯の食堂はがらんどうとした静けさに包まれていた。遅い昼食を受け取り、誰もいない長机に腰を下ろして用意された食事を機械的に口に運んでいく。考え事ばかりしてしまうから口に入った物の味もよく分からない。

 

 どうしてフリッツはあんなに怒っていたのだろう。どうしてフリッツはわたしにノイエ・カールスラントに帰れというのだろう。どうしてフリッツは再会を果たしたのに喜んでくれなかったのだろう。わたしだけ勝手に浮かれていたのだろうか。

 

 どれほど考えても求める答えは見せず、食事を終えても立ち上がる気力も湧いてこないわたしは顔を伏せて底の見えたスープ皿を見つめていた。残されたグリーンピースが一つだけぽつんと中央に。仲間に取り残された一粒。行き場所なんてどこにもない。後は捨てられるだけの迷子。こんな風になるのだったら、始めから畑からでなければ良かっただろうに。ここに来ること自体、間違いだったのだろうか。

 

「あら、そんな場所に座ってどうしたのかしら。グリーンピースは苦手だったかしら?」

 

 声をかけられて初めて彼女が隣に立っていたこと気づく。そこでやっと頬を伝う温かなものに気づき、乱暴に拭って気弱なところを見せまいと振り向いた。

 

 そこにいたのは、自己紹介の時に、フリッツの隣に座っていた女性だった。茶色のフライトジャケットを着て両手にプレートを持ったところを見ると、彼女も訓練を終えたばかりのようだ。

 

 隣いいかしらと聞かれ、断る理由もなく黙っているとそれを肯定と受け取ったのか、ちょこんと座ると彼女は食事を始めた。

 

 彼女は何かを言うわけでもなく黙々と食事を続け、わたしが眺めていると、あっという間に食事を終えた。見た目に似合わず健啖家のようで、少し驚いてしまう。

 

「……ごちそうさまでした。さて、待たせてしまったわね。気持ちは落ち着いたかしら?」

 

「——え? ……あ」

 

 唐突な彼女に驚いて行動が止まり、無理矢理な小休止を挟まれたことで、堂々巡りだった思考が落ち着いていた。少し呆けていると目の前に座った彼女は微笑ましそうにこちらを見ていて、視線が重なり合った。

 

「そうよね。あまり思い詰めていると、考えているようでその実、何も考えていなかったりするわよね。そうそう、これが初めましてね。私はエディータ・ロスマン。曹長よ。これからよろしくお願いね?」

 

「——あっ! こちらこそよろしくお願いします。ハイデマリー・シュナウファー。浅学の身ではありますが少尉を拝命させていただいています」

 

「あら、あなたの方が階級が上なのね。ならそうらしくした方がいいかしら?」

 

「いっ、いえ! わたしが一番の若輩者ですから、かしこまらないでください」

 

 思わず席から立って熱弁してしまっていた。そんなわたしの様子にロスマンさんは少し目を丸くしてから、すぐに笑みを浮かべた。

 

「そう。あなたがいいなら、こういうプライベートな時はそうさせてもらうわ。それで、すこし話題が変わるのだけれど——」

 

 そこまで言うと、彼女は軽く座り直して体を私に向け、改めて互いの顔を見合わせた。表情も観察する者へと変わり、わたしはロスマンさんが場をほぐすための会話から、本題へ話題を変えたことを理解する。

 

 そしてゆっくりと彼女は口を開いた。爆弾でも扱うような慎重さで、

 

「それで……、うちのフリッツが過去最高に表情豊かなのはあなたがいるから。そう思っていいのかしら?」

 

「表情が豊か? フリッツが……、そうでしょうか? むしろ、私が知っている彼より起伏が無くて、ずっと怒ったような顔でしたよ?」

 

 ロスマンさんの言い回しに引っかかりを覚えた。彼女はあのフリッツを表情豊かだと言ったけれど、わたしの知っているフリッツはもっと色々な表情をわたしに見せてくれていた。あの時、彼はむしろ怒った顔しか見せてはくれなかった。決して社交的ではなかったけれど、それでも表情は多彩だった。

 

 わたしが引っ込み思案だったから、フリッツは天秤の釣り合いを取るように、どこか明るく努めようとしていた。それくらい優しい人なのに、それがああして憤りばかりを見せるようになってしまった。

 

 だからこそだろう。私はむしろ、フリッツが表情の多彩さを失って、その表情が単色の色しか映さなくなったように感じた。

 

 わたしがそのように困惑しているとロスマンさんも同じように困ったような、よく分からないと言いたげな顔をした。

 

「シュナウファーさん? もしかしてだけど、あなたの知るフリッツは、私たちの知っているフリッツ・ルンペンハルトとは別人なのかしら。話を聞いているとまるで違う人のように思えるわ」

 

「……少なくともわたしの知っているフリッツは仏頂面でも、無表情でもなかった。普通の男の子で、とても優しい男の子です。私が側にいるとフリッツは私が困ってないか、いつも気をかけてくれるんですよ?」

 

 ロスマンさんは困ったように閉口する。そして少し考えるそぶりを見せ、そして思い当たることを思い出したのか目を大きく開いて、わたしをまじまじと見つめて、途端に柔い笑みを浮かべた。

 

 そうなのかと彼女は、

 

「……そう。あなたがフリッツのお姫様だったのね」

 

 ロスマンさんが言ったことを、始めは理解できなかった。だがゆっくりとその言葉を飲み込み、意味を読み取ってわたしの頬は火が灯ったように熱くなった。そんな私の反応を見てロスマンさんは可笑しそうに顔をほころばせる。

 

「そ、そんな。お姫様だなんて……」

 

「そういう話題が前にあったのよ」

 

 でも、と言ってロスマンさんから柔らかい表情が消える。代わりに彼女は

 

「だからこそ、フリッツはあなたを対等に見ないのでしょうね。きっと彼の中では、あなたは幼い貴方のまま。今ここにいる兵士としてのあなたを彼は認めたくないのでしょうね」

 

 熱くなっていた顔が途端に冷めていく。ロスマンさんの哀れみを多分に含んだ視線が、お姫様の意味するところが、決して良いものではないことを示す。お姫様に例えられ、少しでも浮かれていたわたしを、ロスマンさんは表情を厳しくしてたしなめる。

 

 ロスマンさんの表情に悪意はなく、善意でその事実をわたしに伝えようとしていることだけが分かる。

 

「ねえ、シュナウファーさん。もし彼を想うのなら、あなたは身を引いてノイエに帰るべきだわ。あんなに不安定な彼を、わたしはこれまで一度だって見たことがないの。仲間が大勢亡くなった時よりも酷い。そう言えばわかるかしら?」

 

 わたしがいることでフリッツが不安定になっている。責めるようなロスマンさんの言葉が鋭い爪に姿を変えて胸の内に突き刺さる。痛みが重い不安となって、わたしはただロスマンさんの言葉を聞くことしか出来ないでいる。

 

「シュナウファーさん、あなたが嫌いだから言う訳じゃないの。むしろその逆。あなたも、そしてフリッツが心配だから、らしくもない余計なお節介をしてる」

 

「わたしはフリッツの側にいない方が良いのでしょうか?」

 

「……戦力としてのあなたは間違いなく必要だわ。本当はフリッツが大人になって折り合いをつけてくれたらそれ終わる話しなのだけど、あの様子じゃ、そうもいかないのでしょうね」

 

「わたし、フリッツに嫌われるようなことをしてしまったのでしょうか」

 

「それはないと思うわ。だって嫌っている人の話をするのに、あんなに優しい表情が出来るはずもないもの」

 

 そう言うロスマンさんの表情は、そんなフリッツの様子を思い出したのか柔らかいものだった。私の知らない彼をロスマンさんだけが知っている状況に、五年と言う時間が持つ隔絶を思い知らされ、ちくりと小さく痛む。

 

 私はただ昔と同じよう、変わって欲しくないだけだった。でも五年という時間は何もかもを変えた。カルフの街はネウロイの支配下に置かれた廃墟となり、私の家族は新大陸のノイエへ移り住み、わたしだけが戦場となったカールスラントへと帰還した。それは全て置き去りにしてしまったフリッツにもう一度会うための行動だ。

 

 でも再開した幼なじみは変わっていた。知ったはずの彼はもう無く、わたしを冷たく突き放す。わたしはどうするべきなのだろう。どうすれば昔のように彼は笑ってくれるのだろう。

 

「……なら、わたしはどうするべきなのでしょうか? 分からないんです。わたしは何をすれば、フリッツに側にいてもいいか」

 

 唇を固く結び言葉に詰まるわたしに、ロスマンさんはそっとわたしの手を取ると、

 

「側にいていいかだなんて、弱気になってはダメよ。貴方がそうしたいと思うなら、やれるだけのことをやってみなさい。だって貴方はフリッツが思うような、守られているだけの女の子じゃないのでしょう?」

 

「それは……」

 

「なら貴方の気持ちを示しなさい。それでダメなら引っ叩いて、嫌でも話を聞かせればいいのよ」

 

 そう言ってロスマンさんは破顔してクスクスと小さく笑う。予想以上に直接的な方法にわたしは顔を強張らせるけれど、わたしよりもフリッツとの付き合いの長くなってしまったロスマンさんがそういうのなら、そういう手段もありなのかもしれない。

 

 ロスマンさんは意思決定をわたしに委ねる、それ以上は何も言わなくなる。わたしは彼女に見守られながら、答えを出そうと頭を悩ます。

 

 いくら考えても、すぐに結論は見出せそうにない。

 

 

 

 ●

 

 

 

 わたしがいくら思い悩もうと世界には関係なく、時間は速度を変えず進んでいく。

 

 明くる日も、その次の日も、わたしとフリッツは訓練を重ねていく。しかしそこに事務的なもの以上の会話はなく、側にいるはずなのにわたしと彼の間には透明な壁があるようだった。

 

「あの……フリッツ」

 

「シュナウファー少尉。午後からは夜間警戒飛行があります。それまで仮眠を取るように。……それでは」

 

 話しかけようとして、にべもなく避けられた。こんな会話の繰り返しばかりだ。

 

 訓練が終わった途端にフリッツはわたしから距離を置こうとして、すぐどこかへ去ってしまう。

 

 そんなやりとりを何度も繰り返した。けれど、そんな繰り返しができるのも今日が最後だった。

 

 歩き去るフリッツが足を止めた。彼だけじゃない。基地内にいる誰もかもが足を止めた。それは基地全体にかかる放送だった。各所に設置されたスピーカーが通電し、小さなホワイトノイズが流れた。

 

 また何かの告知だろうかと誰もが耳を大なり小なり傾けて、次の瞬間にはけたたましいサイレンが基地内に鳴り響いた。

 

 放送担当の兵士の焦った声が聞こえる。

 

「緊急! 緊急! カルフの巣に動きアリ! 総員、第一種戦闘配置。待機要員はすみやかに迎撃準備に入ってください!」

 

 放送を聞くや否、誰もが自分のなすべきことを成すために動き出す。その中でわたしだけは動けず、その場に釘付けにされていた。

 

 放送から聞き馴染みのある地名が耳に入り、それが心を酷く動揺させてしまう。

 

 カルフ。かつてわたしたちが住んでいた街。でも今、その土地は敵の占領下にある。

 

 取り戻すためにわたしは一度は離れた、祖国に戻って来た。しかし、いざ訓練でない

 

 本当の戦いを前にしてわたしの足は震えて竦んでた。

 

「ルンペンハルト機、出ます!」

 

 立ち止まってしまうわたしの横をすり抜け、降りたばかりのストライカーユニットに足を通していたのはフリッツだった。飛び立とうとしていた彼に置いて行かれないように、慌ててついていく。

 

「シュ、シュナウファー機も出撃します!」

 

 発着装置に足をかけ、ユニットの発動機を起こす。特有のエンジン音を鳴り響かせながら、訓練用の模擬弾銃でなく、実弾の装填された銃をつかみ上げて飛び立つために発進する。

 

 整備士の方達は慌てつつも、飛び立つための道を開けて、彼らが下す合図とともにわたしは空へ飛び出した。

 

 空へ飛び出すと、後から追いかけて来たわたしを見つけて顔を歪ませたフリッツと目があう。彼は何か言いたげだったけれど、遠くからネウロイが空気を切り裂く飛行音を捉えると、すぐさまそちらに振り向いて戦闘態勢に移った。

 

 かつてわたしとフリッツはネウロイに引き裂かれ離れ離れになった。そして今度は、わたしたちはともに空を飛び、敵に立ち向かっている。

 

 違うのはわたし達は共に銃を構えて同じ敵へ向かっていること。でもそこにあるはずの心は、少しばかりもお互いに向いてなどいない。

 

 どうにもならないわたし達の問題は解決の糸目を見出せられることもなく、ただ世界の荒波に呑まれ、わたしにあの故郷を焼かれた日を思わせた。

 

 




前回の更新から時間がえらくかかってしまいました。これから予定が空き次第さっさと書き上げてしまいたい。


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Und das Ende beginnt

お久しぶりです。前回の投稿からずいぶんと間が空いてしまい申し訳ない気持ちでいっぱいです。
これも全部お仕事とか転勤とか出張がですね?
まぁ個人的なことはさておき本当に久しぶりに執筆が出来て嬉しい反面、書き方が覚束なく、今回は短めになります。
完結まではしっかりと書きますのでよろしければお付き合いのほど、よろしくお願いします。


 カルフの空を僕は飛んでいる。ストライカーユニットの生み出す浮力は羽を持たないヒトに飛ぶ力を与えて、その力が自分が5年前の無力な子どもとは違うのだと自覚させた。5年という時間を経て帰ってきた故郷の空は、僕の記憶にある暖かい陽だまりの見る影も残されていない。

 思い出の中にある曇り一つない澄んだ空は、どこにもなく。見える限りにあるのは厚く暗い曇天と、穢すように点在する赤黒い模様を光らせる敵がいた。

 

 

 優しい思い出の詰まった故郷はただ敵に蹂躙され、僕らはただそれを奪い返すため、暴力で敵から奪うしかない。

 

 

 ただ一つ不本意なのは敵から奪う力の一つが守りたいと思っていた女の子だった。安全なはずの遠い異国へ行ったはずの彼女は、あろうことか戻ってきてしまった。戦う力を携えて。

 

 

 

 

 

 ●

 

 

 

 

 

 カルフの巣に動きがあったという緊急入電から半刻が過ぎるか否かの頃、カルフの巣にほど近いナルゴト川の上流に僕らは到着していた。ベルリン方面からこちらへたどり着くまでに数機のネウロイと遭遇して、その全てを撃墜した。

 

 

 僚機として斜め後ろを飛ぶハイデマリーは若干の動揺こそあるものの、遅れるような様子もなく、初めての実戦で既に2機撃墜していた。正直に言えば兵士としては優秀、それもエースと呼ばれる類いのそれだ。

 

 

 守りたいと思っていた相手が自分よりもよっぽど強かったのだと、後ろを追いかけてくる彼女を振り返りながら思い知らされる。そんな僕の内心など知る由もない彼女は目が合うと、戦いで気が昂っているのか笑みを深くした。

 

 

 噛み合わないなと内心で舌打ちして前へ向き直る。まだいるはずの敵を探すため、高度を下ろし雲を突き抜けていく。いた。まだこちらに気がついていないネウロイが三体。編隊を構成してベルリン方面へ向かっていた。

 

 

 距離は六百、手持の機関銃では当てる事は出来ても、有効打にはならない距離がある。だけどそれは一般的なウィッチだから成り立つ問題だった。少なくとも僕にはどうにかする手段がある。スリングを掴んで機銃を背中に回し、フリーになった右腕に意識を集中させて固有魔法を励起する。

 

 

 皮膚が粘り気のある熱したゴムのように溶けて形が崩れる感覚と共に、右腕が無機質な戦車砲のそれを模した形と機能を変えていく。僕の固有魔法『自己改造』は右腕を巨大な火砲へと変えた。鉄の弾丸に代わって装填されるのは魔法力の弾丸であり、轟音を伴って一直線にネウロイへ向かっていく。

 

 

 空気を震わせながら迫る弾丸に気づいたネウロイは回避行動を取ろうと散開し始めた。そんな光景を眺めながら小さく呟く。

 

 

「無駄だよ、君たちに抵抗なんて許さない」

 

 

 憎しみのこもった声に反応するよう、魔力による砲弾は変化を見せる。それは突如停止すると大きく震え、まるで樹木が乱雑に成長するように鋭い棘のような枝葉を伸ばし広がろうとしていたネウロイの全てを刺し貫いた。

 

 

「す、すごい。一撃で三体も……」

 

 

 未知の現象にハイディは感嘆の声を漏らす。だが破壊はそれだけで終わらない。だってこれは敵を殺すための力なのだから。

 

 

 刺し貫いた魔力のトゲが色を反転させていく。担い手の 暗い感情を反映したようなその色は殺意の表れで、触れているネウロイにその光彩を移していく様は毒のよう。

 

 

 変化はすぐに現れた。ネウロイが悲鳴のような声を上げ、そして古い木材が腐敗するようにその体をボロボロにして崩壊させていく。力の名前は毒。僕の血は金属のような外殻を持つネウロイだけを害する毒となって、その硬い殻を錆のように崩壊させる。

 

 

 残ったのは灰のように細かくなって風に散っていくネウロイの残骸と無傷の僕らだけだった。

 

 

 何度目なのか、数える事も億劫になるほど戦った。でもそのおかげで僕という暴力装置はこれ以上ないほど効率的に完成していた。

 

 

 ふと隣にいるハイディの方へ振り向くと彼女は何か言いたげにして、だけど止めてしまう。

 

 

 ──どうしてそんな顔をするの? 君を守るために僕はここまできたのに、どうしてそんな悲しそうなの? 

 

 

 そう口に出そうとして、だけど思ったことは言葉に出来なかった。

 

 

「──っ! 敵!」

 

 

 ハイディの様子に気をとられていたから増援にやって来た新たなネウロイへの反応が遅れてしまった。赤い閃光が光り、次の瞬間には光の束が殺到していた。

 

 

「させない!」

 

 

 行動をしようとする前にハイディが間に割って入った。僕が作れるものよりも大きなシールドを張ってネウロイの光線を防御すると、ハイディは距離を詰めていった。

 

 

 ストライカーユニットを巧みに操作して数発弾丸を当てるとすれ違う。ハイディを追いかけようと無理に旋回を行おうとしたネウロイは、無理な急転換に遠心力に引きずられ体制を大きく崩した。

 

 

 その隙を見逃すことなく、ハイディは機関銃を構え、がら空きとなった底部に弾丸をたたき込んだ。底部は構造上、装甲が薄いのかあっさりと外殻を削り取って姿を現したコアも諸共に破壊した。

 

 

 僕はその様子を呆然と見ていた。呆ける僕を余所にハイディはやって来たネウロイを一体、また一体と撃墜していく。その動きは華麗で、航空兵学校を卒業したてとは思えないほどで。

 

 

「フリッツ! わたしやったよ! 敵を倒したよ」

 

 

 彼女は嬉しそうに戦果をあげたことを喜んでいた。固有魔法も使わず、その技量のみであっさりと敵を殲滅していく様に戦う才能の差を見せつけられているようだった。

 

 

 その時僕の中にあったのは敵を共に倒す喜びではなく、望まない現実の到来に対する絶望だった。

 

 

 彼女はこんな血なまぐさい戦場にいて良いはずがない。戦地から遠く離れた穏やかな場所で幸せでいなければいけないのに。それなのに彼女はここに来てしまった。

 

 

 自ら離れていった僕を追いかけて彼女はここにやって来たと言った。その機会も、才能もあって、彼女はここにいる。

 

 

 なんと云うことだ。彼女を危険な場所から離そうとした僕の行動自体が彼女を呼び寄せるきっかけとなってしまった。

 

 

 僕はただ彼女に、彼女の両親と慎ましやかでも幸いに満ちた人生を送って欲しかっただけなのに。そのささやかな未来を僕が知らないうちに壊してしまった。

 

 

 ──頭がどうにかなりそうだった。

 

 

 上手くいない現実に対する無力感。彼女の普通の人生を壊してしまった罪悪感。そして何よりもそんな現実をもたらしたネウロイという敵への怒り。

 

 

「お前たちのせいだ。何もかもッ!」

 

 

 半ば八つ当たりのように変形させた腕からネウロイが放つのと同質の光線を放ち。接近していた数機のネウロイを撃墜していく。

 

 

 オーバーロードも顧みず、ありったけの魔法力をストライカーユニットに流し込み、無理矢理加速すると遠目に見えていたカルフの巣に突撃する。要するに頭に血が上って冷静さを失っていた。

 

 

 暴力を振るう以外に何も考えられない。後ろでハイディが何か叫んでいるけれど、それさえも意識の外へ投げ捨てて、持てる全てを使って敵を壊す。

 

 

 駄々っ子のような八つ当たりに似たそれは、都市を簡単に焼き払う規模であったが、肝心のネウロイの巣にはそれほど効果があるように見えなかった。

 

 

 理由は主に二つで、単純にネウロイの巣の規模が大きすぎること、そして破壊した箇所が水面を叩いたようにすぐに修復されてしまうからだ。巣は攻撃されたことを認識し、蜂の巣を突いたように無数のネウロイを出撃させていたが、出撃した途端に打ち落とされていった。

 

 

 通常の航空戦力ネウロイでは意味がないと判断したのか、ネウロイの攻勢が変わった。それまで飛び出していた戦闘機型ネウロイに混ざって、人の頭ほどの大きさの小さなネウロイが無数に出現した。

 

 

 そいつらは他のネウロイのように光線を打つことはなかった。その代わりに針状の器官を見せると、こちらに突き刺そうと加速した。いつか見たネウロイの資源回収個体に似たそれらは、決して対応できない速度で飛んではいないけれど、同時に飛来する無数のネウロイへの対応に追われるせいで数体の接近を許し、変質した部分に食らいついた。

 

 

 突き刺さったネウロイはネウロイの巣が周囲の環境を汚染するように、接触した部位をネウロイの素材に変えていく。生物にそれを行ったという話は聞いたことがないが、自己改造をした部位は無機質に近い。それ故に可能なのだろうか。ネウロイに変質した部分は動かせなくなり、制御を奪われていた。けれど。

 

 

「……それだけ? それだけなの? そんなもので僕を倒せるだなんて思ったの?」

 

 

 火力での攻撃では敵の再生速度と規模を攻略できない。時間をかければ浸食が進んでいく。ならば攻撃手段を変えればいい。体に刺さったこいつらは良いヒントだった。外から壊せないのならば、内側から壊してしまえば良い。

 

 

 手近な突き刺さったネウロイを一体つかみ取り、装甲を掴んで引き裂いた。紙のように裂けた装甲の奥にはこぶし大のコアがやはりあった。

 

 

 コアを掴み、手に触れたそれの情報から、彼らの浸食の行程を理解して、自分にどのような改造を施すべきなのかを考える。

 

 

「同化能力が自分たちだけのものだといつから決まった?」

 

 

 瞬間、変化があった。少しずつネウロイ化していた装甲、その変化が止まった。そして浸食が逆再生するように直っていくと、今度は逆にネウロイの装甲が僕の装甲と同質の物質に変化していく。

 

 

 体に刺さっていたネウロイの制御を奪い、コアのエネルギーをわざと過剰に働かせ、自爆に追い込む。いわばハッキングと言うべきこの反撃、まだ終わらない。ネウロイ同士は独自のネットワークのようなものを持っている。

 

 

 まだ制御を奪ったネウロイは残っていて、それらを足がかりに、巣そのものに自壊をさせようと、ネットワーク越しに浸食を試みた。

 

 

 思えばこれはあまりにも稚拙な判断だった。冷静だったら援軍と合流するなり、様子を見ながら戦略を立てるべきだった。けれど頭に血が上り、冷静さの欠片もない思考は短絡的に敵を滅ぼすことしか考えていなかった。

 

 

 そして僕はネウロイと云う存在に触れてしまった。

 知覚できたのは乱雑な情報、これはネウロイの言語なのだろうか、理解できない意味の連続が流れては消えていく。でもそんなものに用はない。用があるのは巣の中心。そこに自ら壊れるように伝達を叩きつける。それは自壊を意味する情報でなければない。イメージと言ってもいい。

 

 

 だから僕が自分に感じている、消えてなくなりたい願望。どうにもならなかった過去の記憶を核に、ネウロイに対する攻勢プログラムを生み出し、それを記憶と共にネウロイに叩きつける。どれほど効果があるか分からないけれど、少なくとも巣の一部は先ほど壊したネウロイのように、破壊できるはずだ。はずだった。

 

 

 ──コレガアナタ? 

 

 

「は?」

 

 

 ネウロイが自爆する破壊の音が聞こえるはずだった。

 

 

 しかし耳にしたのは、人の声を真似た音と形容する他ない音の羅列だった。

 

 

 心臓が凍りついたように大きく動きを止めたのが分かった。

 

 

 ネウロイが人の言葉を話した? そもそもこいつらにそんな言葉を話すなんて概念があるのか。あまつさえこちらに問いかけたのか。

 

 

 何が起きたのかまったく理解が追いついてなかった。

 

 

 動揺する僕をよそにネウロイの巣が大きく胎動する。僕がしたようなハッキングを仕返され、体が動かすことが出来ない。分厚く黒い雲のような巣の構成体を腕のように伸ばすとその中に僕は取り込まれた。

 

 

「フリッツ! うそ、ヤダっ!」

 

 

 離れた後方でハイディが何とかしようと行動するが、飛来する無数のネウロイに阻まれて僕が取り込まれる間、何も出来ずただ叫ぶしかなかった。

 

 

 自意識だけははっきりとした状態で、僕はゆっくりとネウロイの巣に飲み込まれた。

 

 

 あるのは暗闇。自分の体の五感すらないそれは、意味の一切存在しない『無』そのものだ。

 

 

 ──コレガ

 

 

 またあの言葉未満の音の羅列が響き、そして光があった。

 

 

「やあ、フリッツ。元気にしていたかい?」

 

 

 声がした。今度は音の羅列じゃない。確かに意味のある言葉。それはもう失われたはずなのに、確かに今存在していた。

 

 

 おかしいと分かっている。何か正しくない。頭では理解していても、感情は違和感を認めようとしなかった。

 

 

 失われたはずの時、失われたはずの場所、失われたはずの暖かさ。その全てがここにあった。

 

 

 僕は懐かしい家の中で父さんと向かい合ってテーブルに座っていた。

 

 

 父さんは僕の記憶と同じように、朗らかに笑っていた。

 

 

 



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Endzeit

 優しい匂いがする。そっと閉じていた目を開き、自分がうたた寝をしていたことに気がつく。ボンヤリとする頭を働かせ周囲を見回すと、自分がリビングルームの食卓に座していた。

 

 どうやら朝食を待っている合間に眠ってしまっていたらしい。先ほどからする甘い匂いの正体は、今まさに完成しようとしている朝食の匂いだった。

 

 そうだ。我が家のオムレットは砂糖をふんだんに使った、とても甘いものだ。父さんはそれがとても好きで、僕はもう少し甘さが控えめなほうが好みだけれど、母さんはこれが我が家の味だと言って変えることはしなかった。

 

「あら、起きたのねフリッツ。手が空いているのなら、お皿を並べるのを手伝ってちょうだい?」

 

「え? あ、あぁ、うん。いいよ」

 

 朝食を作っていた母が振り返る。癖のないストレートヘアーが体の動きに合わせて揺れる。促されるまま母の手伝い、もう出来ていたサンドイッチやサラダ、ソーセージにコーヒーと、色とりどりの朝食が広くはない食卓を埋めていく。

 

 そんなこんなで準備をしていると、階段の方からのんびりとした足音が近づいて来た。やっと起きてきた父さんが眼をこすりながら二階から降りてきたらしい。フラフラとした足取りで椅子に着地すると、置いてあるコーヒーを一つ取ってチビチビと飲み始めた。

 

 僕の分のミルク入りのマグカップを持ってきて母さんも着席して、それが朝食を食べ始める合図だ。火の通ったソーセージが口の中で小気味よい音をたて、それをミルクで流し込む。

 

 次にサンドイッチに手をつける。肉厚なそれにかじりつくと挟んであったトマトが口の中でその果汁を溢れさせて、口端を小さく赤く濡らした。それを見つけて、母さんは僕を笑った。

 

「もう、フリッツ。そんなに慌てて食べることないじゃない。ほら、拭いてあげるから、口をこっちに向けなさい?」

 

「大丈夫だよ。子どもじゃないんだから、自分で拭けるよ」

 

「あら、今日のフリッツは大人なのね。でもあなたはお母さんの子どもなのだから、甘えて頂戴な」

 

 母さんはそう言いながら細い指で僕の顔を向かせると紙ナプキンで口についたトマトの汁を拭い取った。そんなことをされてしまうと自分が酷く子どもっぽいような気がして、ちっぽけなプライドが削り取られた気がした。

 

 顔を熱くさせながら母さんをにらんでいると、何かを思い出したのか、父さんが間抜けな声をあげた。

 

「そうだ、フリッツ。せっかくの日曜日なのだから、父さんがどこかに連れてってやろう。どこが良い?」

 

「え? どこでも良いけど……」

 

 唐突な父さんの提案に面食らって、しばらく呆然としていた。普段、時計職人の仕事が忙しい父さんからそんな提案があるとは露にも思っていなかったから何も思いつかなかった。

 

 僕が何も言わないから、父さんはどうしたものかと困った顔を作ってしまった。お互いに気まずくしていると、母さんが良いことを思いついたと手を叩いた。

 

「そうだ! ならピクニックに行きましょう? フリッツ、ピクニックに行きたいって言っていたでしょう?」

 

「……そうだっけ?」

 

 心当たりはなかった。はて、そんな話をしただろうか。思い当たる節はないけれど、別に良いか。母さんがそう言うならそれでいいや。母さんはニコニコと笑っている。

 

「なら決まりね。あなたも、準備してちょうだい。今日はきっと天気が良いわ」

 

 それからあっという間にピクニックの準備が済まされていく。気がつけば僕も父も荷物も、車に詰めこまれて運ばれていた。押し込まれて狭かった車内から出るとそこはカルフから程近い川辺だった。

 

「ほら、やっぱり良い天気だったわ。ほら、いらっしゃいフリッツ。川の水が冷たいわよ」

 

 ヒールを脱ぎ、素足を川の水にさらして遊んでいた。父さんと一緒に虫を捕まえて遊んでいた僕は、それを中断して母さんの隣に座り込んだ。同じように靴を脱ぎ捨てて足を川に浸してみると、驚くほどに冷たかった。

 

 そんな僕の反応に母さんと父さんが一緒に声をあげて笑う。馬鹿にされたみたいで、ムッとふくれた僕がそっぽを向くと首筋に冷たいものが触れた。小さく悲鳴のような声が出てしまう。

 

 振り向くとそこには瓶に詰めたレモネードを持った父さんがいた。瓶には結露した水滴が滴り、冷たくておいしそうだった。父さんにもからかわれ。気恥ずかしくなった僕は、奪い取るようにレモネードを父さんから受け取って口をつけた。

 

 甘酸っぱいレモネードが喉を通っていく。冷たくて、甘くて、ほんのりと酸っぱかった。

 

 遠くから小鳥のさえずる鳴き声が川のせせらぎの合間から聞こえる。真夏の太陽の陽光が草木を照らして、じんわりと汗が額を流れていく。暑さと涼しさが、夏の陽炎のように消えてしまいそうな空気を作り出していた。

 

 帰り道は爛々と夕陽が照らす中を歩いた。父さんと母さんに手を繋がれて。

 

 静かな一日だった。僕と父さんと母さんが一緒に少し遠くにピクニックに行った。なんてこともない一日だ。

 

 明日はまた学校に行って、友達と遊んで、そうしたらまた週末には家族でどこかへ出かけよう。たまに彼女とどこかに行くのも良いかもしれない。それはきっと楽しいに違いない。そうしたかった。

 

 だから僕は父さんと母さんにどこかへ連れて行って欲しい、そうお願いしようと手をつないだままの二人を見た。

 

「ねえ、父さん、母さん。今度は海に行きたい。またあのシチリア島の砂浜で遊びたいよ」

 

「シチリア島? フリッツはシチリア島に行きたいのかい?」

 

 父さんは不思議そうにて僕に聞き返した。

 

「フリッツは他に行きたい場所があるんじゃないかしら。フリッツが本当に行きたい場所はどこ?」

 

 母さんは僕の目をのぞき込んだ。

 

 二人とも、どうしてそんな酷いことを言うのだろう。僕はどこへだって行きたくないのに。

 

「僕は父さんと母さんと一緒ならどこへでも——」

 

 いきたいよ。

 

 そう言いかけて、けれど言葉が続くことはなかった。

 

 爆発音。そして空が、赤い夕焼けの空が割れた。卵の殻が内側に崩れるように空が落ちてくる。いくつもの穴が出来て、空の割れた向こうは真っ暗だった。見えない向こうから轟音がいくつも迫る。

 

 最初にやって来たのは火を噴きながら飛ぶ筒だった。カールスラントで開発されたばかりの最新兵器だ。いくつも飛んできたそれは、着弾点を細かい黒の破片にして粉砕していった。

 

 草原が、川辺が、木々が、街道が、僕の世界が暴力に壊されていく。父さんと母さんは僕をかばうようにしている。そんな二人の向こうで、一際大きな穴から人影が飛び出した。

 

 艶やかな長い銀髪。両足にはストライカーユニット。眼鏡越しの赤い瞳は何かを探して揺れている。

 

「フリッツ! どこなの? 返事をして!」

 

 何故か彼女は僕の名前を呼んでいる。見知らぬはずの彼女は手に機関銃を携え、僕の世界を壊しに来た。そして彼女は僕ら家族に気がつく。ゆっくりと彼女は困惑した表情を作りながら僕の前へと降りてくる。

 

「フリッツ、……なんだよね? 助けにに来たよ。帰ろう?」

 

「……お前なんか知らない。出て行ってよ」

 

 見知らぬ彼女がどうしてか恐ろしい。恐ろしいはずの彼女は、手を伸ばそうとしては戻し、泣きそう顔をしていた。

 

 どうしてそんな顔をするの? 僕には彼女が分からない。どうしてここに来たのか。

 

 互いにどうして良いか分からない。そんな短い静寂は轟音に飲まれた。穴から飛んできたミサイルがめちゃくちゃに何もかもを壊していた。その中に僕らも巻き込まれた。

 

「フリッツ、危ないっ!」

 

 ぼんやりと迫るミサイル。その光景を眺めていた僕を彼女は抱き寄せると大きく飛んだ。景色が後ろへ流れていく。目に入るのは炎に焼かれ、黒い破片になって砕ける父さんと母さんだった。二人とも僕を見て微笑んでいる。安心したと。そう言いたそうに。

 

「……良かった。ケガはない、フリッツ? さあ、帰りましょう?」

 

 僕を抱き留める彼女が何か言っている。でも僕の頭の中は目の前の光景でいっぱいだった。

 

 僕は見ている。父さんだったものが転がっている。

 

 僕は見ている。母さんだったものは、粉砕されて何も残っていない。

 

 誰がこれをやった? 

 

 ──分からない

 

 誰を恨めば良い? 

 

 ──分からない

 

「フリッツ? もう大丈夫だよ? 帰ろう?」

 

 僕を抱える女はひどく優しい声で僕に語りかける。帰る? どこに帰るというんだ。僕がいるべき場所は、父さんと母さんがいるこの場所なのに。

 

「僕を連れて行くためにこれをやったの?」

 

「……? ロスマンさんも、クルピンスキーさんも、みんなフリッツを助けるためにここまで来たんだよ?」

 

 僕を助けるために? これをやった? 何もかもをめちゃくちゃにした? 

 

「おまえが、おまえたちがこれをやったのか」

 

「フリッツ? どうしたの?」

 

「おまえたちかっ! おまえが父さんと母さんをっ!」

 

 人差し指を拳銃に変形させて、僕を抱きとめているヤツの顔に向ける。反射的にヤツは頭を逸らして、魔力弾を避けられたことに気がつき蹴りを入れて離れる。ヤツは父さんとと母さんを殺したくせに、僕に攻撃されてひどく動揺していた。

 

「死ねっ! 死ねっ! 死ねっ!」

 

「フリッツ!? 何をっ!」

 

 一発、二発、三発と弾を放つ。ヤツはそれを驚きながらも、難なく避けていく。悔しいけどヤツは僕よりも戦うのが上手い。空を自由に飛べるヤツに僕は圧倒的に不利だ。

 

 だから、戦えるように自分自身を作り替える。

 

 両足をヤツが足に装着したストライカーユニットと同質の機構に変形させ、ヤツを追う。両腕を機関銃に変え、弾をばらまく。ヤツは弾幕の隙間を縫うように避けていく。どれだけ狙っても容易くあしらわれて、それなのにヤツは反撃をしようとしない。加速して、ヤツの機関銃に取りつく。

 

 目と鼻の先にヤツがいる。

 

「ばかにして、何がしたいんだ、お前っ!」

 

「話を聞いてフリッツ。あなたはここにいるべきじゃないよ。帰ろうよ」

 

「父さんと母さんを殺したお前がいうのかっ!」

 

「フリッツのお父さんとお母さんを私が? どうしたって言うの。分からないの?」

 

 僕の目の前で父さんと母さんを壊して、何が分からないというんだ。分からない、腹立たしい。ヤツを見ていると理由の分からない怒りが胸をいっぱいにする。ヤツが戦っている姿を見るだけで底のない怒りがあふれていく。

 

「何だって言うんだ。お前なんか知らないのに、何だっていうんだ!」

 

「……分からないなら、話が出来るようにとっちめる!」

 

 互いの感情が衝突する。ヤツもその気になったようで、動きが変わる。かすりかけていた弾丸は容易く避けられていく。

 

 だけどそんなことは関係ない。僕の居場所はここだけだ。

 

 守るんだ。

 

 今度こそ。

 

 大切なモノを失いたくないから。

 

 僕は彼女へ銃を向けた。




前後編となります


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Ende

 偽りのカルフの空で、白と黒が激突する。

 

 白。ハイデマリー・V・シュナウファーは混乱しながら、けれど冷静に『敵』と戦っていた。

 

 彼女は救出作戦の主力として単独、敵の本体に突入しているはずだった。二日前にフリッツ・ルンペンハルトを同化・吸収したカルフのネウロイの巣はその後動きを止め、膨張を続けた。

 

 これを反撃の好機と捉えたカールスラント軍上層部はフリッツ救出とカルフの巣攻略を決心、無数のV2ロケットによる火力支援に乗じたフリッツ・ルンペンハルト救出・反攻作戦が開始された。

 

 新兵器による攻撃、少数のウィッチによる突入。それまでは作戦通りに進行していた。あとは巣の中で囚われているフリッツを解放し、巣の内部で暴れてもらえば巣を攻略する手はずだった。大雑把なようにも見える作戦だが、それだけ上層部のフリッツへの戦力評価が高かった。

 

 けれど突入してハイデマリーが見たモノは無機質なネウロイの巣の内部では無く、失われたはずのカルフの街の光景だった。そして混乱するハイデマリーが見つけられたのは、ネウロイを材質にしたであろう人間らしきナニカと、それを自身の両親と認識している五歳相当の姿をしたフリッツだった。

 

 敵に洗脳されたのだろか? 

 

 様々な考えがハイデマリーの脳裏を過っていくが、検討の余裕はなかった。

 

 他でもない。黒が、フリッツ・ルンペンハルトがハイデマリーを攻撃し、あまつさえその命を奪おうと戦いを挑んでいた。

 

 両足をハイデマリーを模したであろうストライカー・ユニットらしきモノに変質させたフリッツは空を飛び、また体の一部を分離させ、遠隔端末として波状攻撃を仕掛ける。

 

「落ちろ! 父さんと母さんの仇っ!」

 

「──クっ!?」

 

 実に十二方向からの同時攻撃。並のウィッチであれば次の瞬間には撃墜されてしまう攻撃の連続を、ハイデマリーは持ち前の航空技術と勘、間に合わないときはシールドを張って処理していく。

 

 戦闘技術という点では、明らかにハイデマリーが優れていた。すでに戦い始めてから半刻が過ぎていたが、その間に数回はハイデマリーは敵を撃ち落とすタイミングがあった。

 

 けれど、そうしなかったのはやはり、敵がフリッツだったから。ハイデマリーは幾度となく叫んだ。

 

「お願いフリッツ話を聞いて」

 

「敵の話なんて聞くものかよ」

 

「私だよ!? ハイデマリー。分からないの?」

 

「お前なんて知らない! 勝手にここにやってきて、何もかも滅茶苦茶にして……、お前も同じ目に遭わせてやる!」

 

 ハイデマリーが何度声をかけても、フリッツは応えず、憎悪をぶちまける。ハイデマリーはどうしたら良いのか分からなかった。

 

 ずっとそうだ。ハイデマリーはあの頃に戻りたかった。ただ同じ時間を過ごした、無邪気な子供の頃、カルフの街が平和だった、あの時に。

 

 あの日にすべてが崩れてしまった。フリッツは両親を亡くし、感情を隠したまま、ハイデマリーと分かたれてしまった。

 

 そんな別れ方、受け入れられなかった。それで終わりにしたくなかった。だから、もう一度フリッツに会う、それだけのためにハイデマリーは空で戦う道を選んだ。

 

 けれど再開したフリッツは彼女を目を合わせず。ただ返れと、カールスラントから遠く離れた新大陸ノイエ・カールスラントに戻ってしまえと、ハイデマリーを拒絶した。

 

 分からなかった。どうして再会を喜んでもらえなかったのか。

 

 ──私のことが嫌いになったの? 

 

 そう言えたなら、どれほど楽になれただろうか。けれどハイデマリーがそれを口にすることは無かった。もし肯定されてしまえば、足下から世界が崩れてしもう様な気がして、恐ろしくて言えなかった。

 

 ──そう、あなたがフリッツの特別なのね。

 

 いつかロスマンと言葉を交わした時、自分のことを彼女はそう評した。ただ嬉しかった。またフリッツと仲直りが出来る。昔のように戻れる。その希望は失われていないのだと思った。

 

 ──だからこそ、あなたは彼と離れた方が良いのかもね

 

 だけどロスマンはこうも言っていた。ハイデマリーは混乱した。特別なのに、離れた方が良いなんて、そんなことがあるのだろうか。

 

 ちっとも分からなかった。そんなはずない。私はフリッツが好きで。フリッツも私が好きなはずだ。それなのに、どうして一緒にいないことの方が幸せなどといえるのか。

 

 きっと、時間が解決してくれる。そうハイデマリーは考えた。だから一生懸命、ウィッチとしての責務を頑張った。良い成績、戦闘能力を発揮した。けれどその度に、フリッツの表情が陰っていく。

 

 その表情の意味を、ロスマンの言葉の意味を、ずっと分からないままハイデマリーは、いつか物事が上手く好転すると信じていた。

 

 けれど現実はどこまでも、ハイデマリーの理想とはかけ離れて行く。

 

 あれほど求めた彼は、彼女を忘れ、ただ敵として、憎しみの言葉を彼女に投げかけていた。

 

 ずっと、会いたいと思っていたのは自分だけだったのか。ただの独りよがりの思いだったのか。

 

 そう思った時。訓練でどれ程辛くとも傷つかなかった心が、痛みに絶叫して苦しんでいた。

 

 戦いながら、怪我とは違う痛みに、ハイデマリーは涙を流す。

 

「酷いよフリッツ……」

 

「酷いのはお前だ! 父さんと母さんを殺して……」

 

「フリッツのバカっ! あんなのがあなたの両親のはず、ないじゃない!」

 

「なぁっ!?」

 

 戦いが変わった。感情任せに戦うフリッツとそれに対応するハイデマリーが、むき出しの感情のままぶつかり合う二人に。そうなったのならば、技量で劣るフリッツが劣勢になるのは当然だった。飛び交う遠隔端末をかい潜り、手に持っていた機関銃すら投げ捨て、ハイデマリーがフリッツに肉薄して、そのまま掴みかかって二人は墜落した。

 

 空を飛ぶウィッチなどどこにもおらず、泥だらけになってただの子供のように二人は取っ組み合いになる。

 

「フリッツ、あなたおかしいよ。だってあなたのお父さんもお母さんも死んじゃったんだよ」

 

「父さんと母さんが死んだりするもんかっ! だってあの二人は現にそこに……」

 

「こんなネウロイもどきが、そんなはずないじゃない!」

 

 フリッツが両親と呼んだそれの破片を掴み、ハイデマリーはフリッツの顔面に叩きつけた。

 

 酷く痛む。まるで硬い鉄か何かで殴られたような痛みだった。

 

「父さんと母さんじゃない……?」

 

 フリッツはは酷く混乱していた。両親だと思っていたものが、明らに別の物質で、それを両親だと思い込まされていた。そんなはずないと自分に言い聞かせて。視線が胡乱げにあちらこちらを彷徨っては定まらず。

 

「そんなはずないよ。だって、ここはカルフで……、父さんと母さんがいるはずなんだ……」

 

「それはおかしいよ。……だってカルフの街は、私たちの街は五年前、ネウロイに焼かれて……。この光景はどこにも残ってないんだよ……」

 

「嘘をつくな……。カルフはこうして無事じゃないか。平和で……、何も無かったんだ。父さんが仕事をして、母さんがぼくらの帰りを待っている。そんな日々がここには……」

 

「無いよ。無かったんだよ。フリッツ……」

 

「なんでそんなことを言うんだ……」

 

「だってフリッツのお母さんが死んでしまったから、あなたはこの街に来たのでしょう?」

 

「…………え? いや、だって、そんなはず。……あれ?」

 

 それはフリッツが思い描いた優しい夢の歪み。母が亡くなっていなければ、彼はこの街に来ることは無かった。母とカルフは両立するはずが無い。残酷な矛盾を突きつけられたフリッツの表情が凍った。

 

「僕はこの町で生まれて、父さんと母さんと幸せに暮らして…………」

 

「あなたはフリッツ・ルンペンハルト。お母さんが亡くなったことがきっかけで、私とこの街で育った」

 

「僕に友達なんていなくて…………」

 

「あなたはずっと一緒にいてくれた。暗い地下から私を連れ出してくれた大切な友達。私の大好きな人。私の名前はハイデマリー・ヴァルプルガ・シュナウファー。思い出してフリッツ。あなたに忘れられたなら、私は身を裂かれるよりもずっと苦しいの」

 

 押し倒され、仰向けとなったフリッツの顔に冷たいものが落ちた。それは涙だ。はらはらとハイデマリーの頬を伝った悲しみが、フリッツへと滴ってゆく。

 

 敵の涙になんて何も感じないはずなのに。それだというのに、胸の中で爪を立てる何かがあった。

 

 理由なんて何も思い当たること無いのに。それだというのに、フリッツはそれまでの怒りや憎しみが、雪のように溶けてほだされいくのが分かってしまう。

 

 心の中で父と母が座っていた場所に、この女がまるでそこにいることが当然だと言わんばかりに、そっと座して微笑みかけた。

 

「止めてよっ! 僕から父さんと母さんを盗らないで! お前なんて、お前なんて……」

 

 望んでいた世界がただの幻だと突きつけるハイデマリーは、フリッツにとって何よりも恐ろしい、取り除きたい存在へと変わった。

 

 彼女を蹴飛ばし、上下が逆転する。馬乗りになって動きを封じた。

 

 変質。ただ鋭く、人を痛めつけるのに最適化された腕の形質。これで殴れば、ハイデマリーは死ぬ。後は振り下ろすだけ。それで決着。

 

 それなのに振り上げた拳は、ハイデマリーへと振り下ろされることはなかった。

 

「お前なんて知らない。知らないのに…………。なのにどうして僕はお前を殴れないんだ」

 

 胸を締め付ける苦しさの意味が分からず、フリッツは絶叫する。苦しいのに、目の前の女が自分を苦しめるのに、だと言うのに自分はその女を傷つけようと出来ない。

 

「それはやっぱり、僕がフリッツ・ルンペンハルトで、彼女がハイデマリー・ヴァルプルガ・シュナウファーだって、心のどこかで分かっているからさ」

 

 だから素直な心は意固地な自分を諭す。振り上げたままのとがった拳を優しく両手で包む。

 

 フリッツも、ハイデマリーも驚き、振り返った。

 

 そこに立っていたのはフリッツ・ルンペンハルト。今を生きる。15歳の少年だった。

 

 

 

 ●

 

 

 

「フリッツ! でも、それなら、こっちのフリッツは……?」

 

 小さなフリッツを制止する大きなフリッツ。状況が飲み込めず、混乱するハイデマリーに大きいフリッツは柔らかな笑みを浮かべる。

 

「どっちも僕さ。そう、どっちも僕なんだ」

 

「今更何しに出てきた! この世界に僕はいらなかったんだろ!?」

 

 小さなフリッツが不快そうに成長した自分をにらみつける。

 

「僕もそう思っていた。けど、思っていたよりもここは居心地が良くないみたいでさ。目が覚めたよ」

 

「それはこいつがやって来たからだ。僕だけの世界だったら、ずっと安らかなままだったのに」

 

「本当にそうかい?」

 

「…………何が言いたい?」

 

 小さなフリッツが顔をしかめる。フリッツはゆっくりと造られた偽りのカルフの街の光景を見回した。夕暮れから時間が止まり、街は静けさに満ちていた。遠くには再構築されたのか、フリッツの両親が彼を呼んでいる。

 

 もう会えなかったはずの両親を見てフリッツは目を細めた。その表情は複雑で。悲しんでいるようにも、呆れているようでもあった。

 

「父さんと母さんが生きている世界……。これが僕の望んでいた世界なのかな」

 

「当たり前だ! それ以外に僕の幸せがどこにある。これ以外にあるもんか」

 

「どうしてハイデマリーが登場しないの?」

 

「こんなヤツいらない。父さんと母さんがいれば、それで良いじゃないか」

 

 フリッツはハイデマリーを必要ないという自分を見た。そしてハイデマリーを見て、また自分を見て、両親を見て、カルフの街を見た。

 

 そしてフリッツは小さく笑う。おかしくてたまらないような、こらえる笑いだった。

 

 そんな成長した自分の反応が理解できず、小さなフリッツが苛立つ。

 

「何がそんなにおかしい」

 

「いや、だって。自分がこんなにも、こじらせた愚か者だと分かりやすく突きつけられたら、それは笑うよ。こんなにも単純な奴なんだね、僕って」

 

「愚かだって……? どこがっ!」

 

「この舞台設定がまさにそうだ。なあ、僕? どうしてカルフの街なんだ?」

 

「それは……、僕にとって両親といる場所はここだから……」

 

「ならそれは、シチリア島だ」

 

「──っ!」

 

 小さなフリッツが顔を強ばらせた。

 

 フリッツが幼少期を両親と過ごした場所はカルフではない。それは違う場所。家族三人で過ごした思い出の場所。それはきっとあの眩しいシチリア島だとフリッツは思う。

 

 けれどこの幼いフリッツはあえて記憶と矛盾するカルフを記憶の再現の舞台に選んだ。

 

 それが意味することは、殊の外単純で。

 

「僕にとって幸福が存在する場所は、元々住んでいた場所でなく、家族で行ったシチリア島でもなく、このカルフの街だった。

 

 ──違う。この場所じゃなきゃいけない。そうなんだろう?」

 

「何が言いたい! まどろっこしいんだよお前!」

 

「カルフにいた頃。僕はそれ程までは幸福じゃなかったはずだ。母さんが死んで、父さんは不安定で。でも、それでも僕は自分の人生の中で、この場所にいられた時間が一番の幸福だと思っていた」

 

「そんなはずない。母さんが死んでしまったのに、僕が幸福なはずがない……」

 

「過去の思い出になくて、でもこのカルフの街にはあるもの。そのただ一つが僕を幸福にいさせてくれた」

 

 幼い自分を見ていたフリッツは顔を上げ、そして、ハイデマリーを瞳に映した。優しく微笑む。あの頃の表情で。

 

「ハイデマリーが……、ハイディがいたから、僕はこの街を望んだんだろう?」

 

「フリッツ…………」

 

「そんなはずがないっ!」

 

 嬉しさで顔を紅く染めるハイデマリーと、怒りで顔を赤くする幼いフリッツ。

 

 幼いフリッツは違うのだと成長した自分を否定した。

 

「僕がハイデマリーが好きなはずないだろう! だって、僕はずっと彼女に会いたくなかった!」

 

「誤魔化してもダメだ。会いたくなかったというのは僕の本心じゃない。会いたい思う気持ちはいつもあった。でも僕には父さんとの約束があった」

 

「──ハイデマリーを守りなさい」

 

「だから安全なノイエ・カールスラントに彼女を彼女の両親と一緒に送った。カルフの街の人たちもだ」

 

「でも、そんなに大切なら何故こいつはこの優しい夢に現れない。存在を根本から消した?」

 

 これが自分のダメなところ。こじらせた子供臭さの現れ。

 

「……僕はハイディが羨ましかった」

 

「──は?」

 

「フリッツ?」

 

 フリッツの告白に二人は目を丸くする。羨ましいの指す意味が分からず二人はフリッツの言葉を待つ。

 

「家族三人が無事で、いくらでも家族をまたやり直せるハイディがずっと羨ましかった。出来るならその場所に僕が居たかった。僕だって家族三人で幸せな家族を取り戻したい。この世界は僕のその願望が土台に作られているんだ」

 

「フリッツ…………」

 

 父さんがいて。母さんがいる。そして何の意味のない、でもささやかな幸福がそこにある日々が。何よりも、フリッツ・ルンペンハルトが望んだものだった。

 

 だから愚かしい。

 

 そんな愚かしさには、いい加減突きつけなければならない。

 

「ハイディと立場を入れ替える。本当に僕はそれで幸福なのかい? ……いや、違うさ」

 

「やめろ……」

 

「わざわざ父さんと母さんをカルフの街で生活をして、そこで更にハイディの存在を消して何の意味がある?」

 

「やめてくれ……」

 

「重要だったのはカルフの街を望みながら、ハイディをいなかったことにしたこと」

 

「やめろって言ってるだろ」

 

「彼女がいてしまったら、あんなまやかしの日々に大した価値がない。それよりもっと大事なものが──」

 

「やめろーっ!」

 

 幼いフリッツが絶叫する。幼い自分の根幹。幸福の大前提。それをフリッツは違うのだと異議申し立てる。

 

 たった一つの単純な事実。

 

 分かっていたのに、ずっと認められなかったそれを、フリッツはやっと認められた。

 

「フリッツ・ルンペンハルトはただハイデマリー・ヴァルプルガ・シュナウファーがいてくれるだけで幸福だ。ハイディがいてくれるだけで、僕は両親の死を、悲しい過去を、何もかもを乗り越えられてしまう」

 

 15歳のこじらせた少年の嘘偽りない、正直な気持ちだった。

 

 幼いフリッツは言葉を失う。否定できなかった。否定しなければ、自分の根幹が崩壊するというのに、それなのに何も言えなかった。

 

 事実なのだから何も言えるはずがない。なんて愚かしいのだろう。

 

 思春期の気恥ずかしさが、たったそれだけのことを認められず、幼い自分で自分を覆い隠して、こんな場所に引きこもった。

 

 それこそがこの偽りのカルフの街の真実。

 

 幼いフリッツは崩れ、その場を動かない。

 

 手を取りハイデマリーを立ち上がらせ、フリッツは気恥ずかしそうに頬を掻く。

 

「じゃあ、帰ろっか?」

 

 一世一代の大告白のせいで、まともにハイデマリーの顔を見れないままフリッツは提案する。うなずき、二人は偽りのカルフの街、ネウロイの巣から出るために動き出そうとした。

 

 二人は動かない幼いフリッツを見た。不機嫌そうな、羞恥に染まった顔で彼は二人をにらみつける。

 

「……何だよ。もう勝手にしろよ。早くここから出て行けばいいだろ。お前に僕はいらないんだ。そいつと一緒なら幸せなんだろ? だったら二人で勝手に幸せになってろよ」

 

「僕の幸福には君も必要だ」

 

「何を言っている。さっきお前はハイデマリーがいれば、それで父さんと母さんの死を乗り越えられるって……」

 

「ああ。そう言った。ハイディがいてくれれば、僕は前に向かって生きていける」

 

 隣にいるハイディを見て微笑む。その手を持ってフリッツは立っている。たとえどれ程の苦難が立ちはだかろうと、このつないだ手があれば、それだけで僕の世界が幸福から転落することはきっとない。

 

 だけど、だからと言って過去がなくなる訳ではない。

 

「僕にとって父さんを失ったことも、母さんを失ったことも、故郷をネウロイに滅ぼされたことも、みんな悲しい過去だ」

 

「だったら僕はもういらないだろ?」

 

「けど、それでも僕の過去だ。嬉しいことも、悲しいことも、どっちも僕を形作る大事な経験だよ。だから僕も一緒に来てくれないか?」

 

「……あっそ」

 

 過去の僕の手を取る。僕の過去と、今と、ハイディとが繋がって、一つになった。

 

 幼いフリッツが形を崩し、構成していたものが僕に戻っていく。

 

 フリッツという情報の基盤を失ったことでネウロイが形作っていた偽りのカルフの街が崩壊していく。

 

 形を崩していく風景の中で、その中心が姿を現す。

 

「カルフの巣のコア……」

 

 ハイデマリーが呟く。

 

 ネウロイのコアだ。血のように赤い正十二面体がまっさらとなった空間で佇む。

 

 時々、表面が蠢いては人型の様なものを吐き出しては飲み込んでいく。それはまるで仲間を作るようで個から群へと変わることを拒否するように、フリッツには見えた。

 

「人間みたいになろうとしてたんだな……」

 

 フリッツは直感的に理解していた。それがどういう意図で行われているものなのか、ネウロイの考えなどフリッツには理解しようがないけれど。

 

 ネウロイの巣がフリッツを取り込んだことと無関係ではないのだろう。けれど今となっては分からずじまいで。きっとこれから知る機会もないのだ。

 

「ごめんな。君たちも何かを変わろうとしていたかもしれないのに」

 

 魔法力を指先の一点に集中して、細い光線を生み出す。それはあっさりと、何の抵抗もなくコアを貫き、二つに両断した。

 

 ネウロイのコアは幼少期のフリッツを人間のモデルと選んだ。それは幼いフリッツの中にあった、自分を変えてしまう外部への反発に引き寄せられたからなのかもしれない。

 

 けれどそれはネウロイを、個であることを認識させる、根底から自己の存在を改めさせることだった。

 

 自分が変わることをネウロイは受け入れられなかった。人に例えるなら、恐かった。

 

 だからネウロイにとって都合の良い最適な形を、自分が変わる必要のない方法を、フリッツの中から見つけ出そうとして、失敗した。

 

 これがことの顛末。

 

 崩れゆくネウロイの巣。

 

 壊れかけたストライカーユニットが停止しないことを祈りながら、フリッツを抱えてハイデマリーは開けた大穴に飛び込む。腕の中でお互いの体温を確かめ、二人は飛び立っていく。

 

 暗いネウロイの巣を飛び出せば。外は快晴だった。ネウロイの巣が陥落し、取り戻した空。カルフの街を二人は見下ろす。

 

 ボロボロではあるけれど、確かにそこにある。

 

 奪われていた街を取り戻したのだ。

 

「終わったんだね……。カルフの街が開放された……」

 

「でも終わりじゃない。ネウロイに奪われた土地はここ以外にもたくさんある。全部取り戻せるまで、僕らの戦いは終わらない」

 

 自分にとって大きく区切りだというのに、こんなことしか話せない自分に、フリッツは苦笑する。もっと話すべきことはたくさんあるのに、もっと言いたいことが。

 

「ねえ、フリッツ?」

 

 相手を強く抱き寄せて、顔が見えてしまわないように身を寄せたハイデマリーはそっと囁く。他の誰にも聞かせたくないというように、そんな声で。

 

「好きよ」

 

 もう離れたくない。私の魂はあなたのものだから。また一緒になれた。この繋がりが永遠であって欲しい。胸の中にあるたくさんの言葉を上手く表現できなくて。そんな短い言葉に思いのすべてを託す。

 

 繋がった心はそんなハイデマリーの思いを教えてくれる。だって同じなのだから。でもどうしたらそれを、思いを相手に伝えられよう。

 

「Was kan Ich für Sie?」

 

 ──僕は君に何が出来る? 

 

 何でも言って欲しい。君の望みを。だってそれはきっと、僕の望みでもあるから。

 

「もう私を離さないで」

 

「もう君を離さないから」

 

 誓いの言葉をここに。君と僕に誓おう。永遠を。

 

 帰ろう。みんながいるあの場所へ。




これにて完結です

お付き合いありがとうございました


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