【ネタ・習作】夢の欠片 (へきれきか)
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序章 始まり 第01話 日常としての非日常

 前方を駆ける隊が左右に分かれた向こう。薄い朝靄に揺れる曹孟徳の牙門旗を認め、田伯鉄(でん はくてつ)は心の中で嗤う。それは強敵を目の前にした英傑のそれではなく、あくまでも自分の変わり様に対する自嘲だった。

 

“できないことをやろうとすべきではない”

 

 今、まさに実行しようとしていることに対してかつての矜持がちらつくが、それは最早意味を成さない。

 

(やるしかない。もう、覚悟は決まってる)

 

 一陣の風が吹き抜け、「曹」の一字が翻る。

 その傍らに並ぶようにして立つのは、「丸に十字」の旗印。それはまるで“彼”の有り様を示しているかのようであった。

 

(出来れば直接戦いたくないなぁ)

 

 自分よりはるかにイケメンの――それでいて嫌味を感じさせない青年に、束の間思いを馳せる。

 男が彼と直接に対面したのは一度のみ。お互いの立場上、少ししか話したことはなかったが、気は合いそうであった。

(まぁ、それも当たり前の話か。自分と同じなんだから。……出来ることならもっと別の出会い方をしたかった。こんな血なまぐさい世界での敵味方なんかじゃなく、例えば大学の新歓コンパとか――)

「田将軍! この期に及んで余計なこと考えてるんじゃないでしょうね!」

 左後方からの怒鳴り声に今度は顔に出して苦笑。

「まさかっ! そんな余裕があるわけ無いだろ!」

 顔の向きはそのままに同じく怒鳴り声で返す。といっても、馬蹄と甲冑の音、兵たちの雄叫びでようやく普通に聞こえる有様ではあるが。

「ならいいんですがね」

 すぐ横を並走する形をとった副将は胡散臭そうに目を細めた。

「貴方は絶望的に戦に向いてないので」

「なぁに『雄々しく、勇ましく、華麗に』だろ? “しんぷる”だよとても。やってやるさ」

 手にした槍を握り直し、接近する戦列を兜の奥から見据える。

 

(……やっぱり前者二つは難しいな。せめて華麗さだけは……っと、そろそろか)

 

「田将軍! 威力射程、入ります! どうせ目測できてないでしょ!?」

「今言おうと思ってたんだよ……よしっ!」

 似合っているとは言い難い金ピカの鎧を輝かせた男は、裏返り気味の大声で号令。時間差で銅鑼が鳴り響いた。

“同郷”の青年への思いやその他諸々の感傷を置き、男はさらに速力を上げる。その後方には風を受けてはためく田の旗印。

 

(いずれにしろここで終わりだ)

 

 夜明けとともに「丸に十字」と「四角に十字」は相対す。

 官渡の一大決戦は終幕を迎えようとしていた。

 

 

 

 

―・―・―・―・―

「だぁあ、完全に遅刻だっ」

 男は鞄を小脇に抱え、駅に向かう道を小走りに急ぐ。

 

(やっぱ夜勤の代役なんて引き受けなきゃよかった。今夜の飲みは勘弁……してくれないよなぁ)

 

 遅刻の罰に奢らされる自分が容易に想像できてげんなりする。

 初夏の太陽の日差しはやたらに強く、寝不足でただでさえ少ない体力を容赦無く削っていく。上を向く気力もないが、色はきっと黄色に違いない。

 走り過ぎざま、花火大会のチラシが電柱に張ってあるのが目に入る。

 地元で行われるその花火大会は結構有名なもので、上京したての頃は「いつか彼女と一緒に……」などと考えたこともあった。大学生活二年目になってもその連れていく彼女がいないのは、本人にとって誠に遺憾なことである。

 

(まぁ、そこらに鳴いてる蝉みたいに差し迫ったタイムリミットがあるわけじゃない。気長にいけばいいさ)

 

 それに日程を見るかぎり、彼女がいたとしても観に行けそうにない。

 今度は町内会の掲示板に貼ってあるそれを横目に見て、思う。

 鞄に入ってる企画通りにことが進むなら、その日は中国は無錫にある三国志テーマパークにいるはずだからである。

 まさか今年も行くことになるとは。

 計画を聞かされた彼が第一に抱いた感想はそれだった。

 肩がけのベルトの金具部分ににぶら下がってる関羽のキーホルダーは、去年そこでお土産に買ったものだったりする。

 諸葛亮の八陣迷路や連弩の射的、赤壁の戦いのミニチュアジオラマetc……楽しくなかったと言えば、それは嘘になる。たしかに楽しかったのだが、正直去年の一回でお腹いっぱいと言わざるをえない。三国志フリークというべき彼の先輩達もさすがに同じ場所は嫌だったようで、いくつか案を提案していたのだが……。

 

(あの人、全然人の言うこと聞かないからな)

 

『私、あの場所気に入りましたの。ですから今年もとうっぜんっ行きますわよ! 夏合宿は毎年あそこでいいんではなくって?』

 会長の一言にひきつった笑みを浮かべる先輩達。

(あの人も重度の三国志ヲタさえなければモテるだろうに)

 まぁ、他にも問題は多々あるが、それを言ってはオシマイだろう。

 あの美貌の――しかし色々と残念な先輩を思い浮かべると、自然と笑みがこぼれてくるのを感じた。

 

 男――河北大和(かわきた やまと)は大学の三国志愛好会という小さなサークルに所属している。

 長かったようで短かった前期試験も、昨日をもって無事に終了。今日はテスト明け一回目の集まりの日。長期休暇中の合宿の最終打ち合わせを兼ねて、部長の母校『聖フランチェスカ学園』の一般開放日を利用しての見学会――という名の缶詰めが予定されているのであった。

「まずいな……」

 時計を見て呟く。

 合宿の企画は彼なので、居なければ話が進まない。しかし、どう急いでも、約束の時間を30分ほどオーバーしてしまう。電話は出てもらえなかったので、とりあえず遅れる旨の謝罪メールを送ったが、今のところ返信は無し。

 とにかく急ぐべきだろう。

 疲れた身体に鞭をいれようとして、前の信号が赤に変わるのが見える。

(ああ、ついてないなぁ)

 昼間でも鮮やかに光る赤いLEDに嘆息する。

 ここの信号はなかなか変わらないことで有名だ。早く渡りたいのなら右手に見える歩道橋を使わなければならない。

「はぁぁ」

 そのバリアフリーの欠片もない急角度に、思わずもう一度のため息。今の身体にこの階段の登り下りは、正直きつい。

 変わるのを待つか待たざるか、迷うこと数瞬。

(いや、土曜の昼だ。次の電車を逃すわけにはいかないだろう。あのお姫様を待たせすぎるのはよろしくない)

 一歩を踏み出そうとしたとき、着信を知らせる振動が大腿に伝わる。

 

『先に行っておりますので、到着次第連絡するように!』

 

 携帯を閉じて首を回すと、油の切れた機械のように関節がきしむ。

 視界の端に入った太陽はやはり黄色をしていた。

 

―・―・―・―・―

 

「ここがフランチェスカ学園ね」

 首から下げた入校証を手で弄りながら、『校庭』というより『庭園』と呼んで差し支えない校内を行く。

 部長の普段の立ち居振る舞いから、お嬢様学校だろうということは予想していたが、ここの様相はそれを遥かに上回っていた。先の入念な手荷物チェックに、入ればレンガ造りの歴史を感じさせる校舎。そして東京ドーム20個分の広大な敷地。

 注意深く見れば、建物の様式は区画ごとに分けられているようだった。もっとも、バロックだのルネサンス期だのの違いを見分けるだけの学がない大和には「なんか統一感がある」くらいの認識に落ち着くのだが。

「えっと、自学自習室つったっけ……」

 到着時に送られてきたメールを再度チェックする。

 自学自習室とは図書室とは別棟として今冬完成予定の歴史資料館――そこの仮の資料置き場を兼ねた建物で、そこの一室を借りているとのことだった。「貴重な展示物はもちろん、図書館と繋がっております電子書籍も含めれば、国会図書館並みの蔵書が期待できますわ」とは部長の弁だが果たして、ここを実際に見るとそれもあながち誇張とは思えなくなる。

 行先の方向を探るべく案内板を探してみるが、そんな無粋なものは置いていないらしい。

 

(ああ、ここ共学になったばっかりなんだっけ)

 仕方なく人に聞こうとするが、周りにいるのはお嬢様然とした女生徒ばかり。気後れした大和が守衛にもう一度聞きに戻ろうとしたところ、

「あれ? 大和先輩ちゃいます?」

「え?」

「ああ! やっぱりそうや!」

 懐かしい響きに振り返ると、眼鏡をかけた短髪長身の青年が人懐っこい笑みを浮かべて立っていた。

「及川? お前なんでここに……」

「久しぶりやのにひどいわ~。なんでってここ俺の通ってる学校やしぃ」

 両手を合わせ腰をくねらせるふざけた姿に大和は見覚えがあった。スポーツ万能、成績優秀、眉目秀麗と三拍子揃いながらも、似非関西弁とホモ疑惑で女を寄り付かせない男。それが目の前の男、高校時代の(正確には同時期に通ったことはないが)後輩・及川佑である。

「あぁ、久々のその蔑みの視線、ゾクゾクするわ~」

 エスカレートする悪ノリ――初見では真贋を測りかねるその態度に、周りの空気が変わるのを感じる。汚らわしいものを見るような視線と、ごく一部興奮している獣のような視線が痛い。

「ちょっとこっち来い」

「きゃー、助けて―」

「そういうのはいいから!」

 

 

「そんで、先輩も知ってる通り鷹宮学園廃校になってもーたから」

「女の子が多いし最高! ってな具合に転入したわけか。相変わらずだな」

「褒めてもなんもでーへんで~♪ ま、ワイの他にも鷹宮組おるし、男子少ない中仲ようやってますわ」

「仲良く……ね。よく話に出てた早坂。あいつもここに通ってんの?」

「そりゃあもう! せやけど、あきちゃんは親友でもあり、裏切りもんでもあるんや。入学して早々に自分だけ可愛い彼女作りおって……。今の俺の気持ちを理解してくれるんは、同じ境遇のかずピーだけや」

「なんというか、お前の親友とやらに同情するよ」

 自習室への道案内を買って出た及川と共に、大和は校舎の北東、街路樹の植えられた石畳の道を行く。聞けば自習室のある建物は歴史資料館の予定地とほど近く、男子寮ほどとはいかないまでも他とは離れた場所にあるという。

 そういえば、と及川は今更思い出したかのように切り出した。

「先輩はまだ野球やってますん?」

「……いや、高校できっぱりやめたよ」

「え~、なんでーな? これぞエース! って感じで凄かったのにもったいない」

 二人の交友は学校見学会における部活動見学が始まりである。抜群の身体能力を見せつけた及川を粘り強く勧誘したが、結局断られたのを大和は思い出した。

「なーにがもったいないだよ。それはお前の方だろ? あれだけ運動神経いいのに結局『帰宅部にしますわ』とか」

「にゃはは~、どこも練習時間長すぎるんねんもん。あんなん修行やわ。耐えられへん」

「ここでも帰宅部なのか?」

「モチのロン!」

「古過ぎだろさすがに……」

(こいつも黙ってたらもっとモテるだろうにな)

 及川の顔は、男の大和から見ても所謂イケメンのカテゴリに分類されるくらいレベルが高い。写真を撮って回してもらえばいくらでも食いつく女の子はいそうである。

(……出会って数分で除外される可能性も高いけど)

 

「ところで、さっきから気になってたんだけど、ここって休みの間も制服なのか?」

 ここに来るまでの生徒も皆一様に制服姿であったことに加えて、隣を歩く及川の服装が気になって仕方ない。

 やけに滑らかな光沢を放つそれは、歌劇の衣装をシンプルにしてそのまま夏服に変えたような代物である。及川は袖をつまみながら、

「そーやで。まー部外者かどうか一目で分かるし……つーか先輩が私服で堂々と歩き回れるんがおかしいねんて」

「そうなのか?」

 入校証を改めて見ると、自分の名前の上に先輩の名前がしっかりと記入されている。

(この学校に多額の出資しててその特権とか? ……否定できないのが怖いな)

「聞き忘れてたけど、先輩は自習室に何の用事があるん?」

「大学のサークルの調べもんだよ。ここのOGの先輩が借りてくれてる」

「へー」

 気のない返事に大和が顔を向けると、悪鬼の形相をした及川の顔があった。

「一体なんだってんだ」

「ここのOGって! どうせ不動先輩とか楠原先輩みたいな美人さんやろ? やっぱりみんなワイを置いていくねん! ワイかてモテモテのネチョネチョになりたいわー!」

「あの人はそんなんじゃないから。あと、欲望が駄々漏れすぎ」

「この学び舎におれんのは一年半なんやで? 一に友情! 二に恋あり! 三四と五にはセックスありや!」

「業が深いな」

「若人であれば当然かつ自然。性欲をスポーツに昇華してた人間には分からんのですわ」

 したり顔で語る及川に大和は失笑する。予期していなかった再会は、道中を楽しくするには充分だった。もちろん、道行く女生徒たちの視線を抜きにした話ではあるが。

「あー、見えてきたわ。あれやで先輩」

 及川の指す先には道中にあったような歴史を感じさせるものとは違う、コンクリート造りの武骨な建物があった。

「仮の資料館にもなってるから、後は受付のおねーさんに聞いたら分かると思うわ」

「ありがとう、及川。助かったよ」

「どいたましてー♪ 今度、東京行くとき案内してーな」

「どうせ女の子ウォッチングとかだろ」

「せやでー♪ 大学も東京考えてんねん。上京したてで困ってるワイ。助けてくれる美人のお隣さんに管理人さん。そして始まる性交渉!」

「恋にしとけよそこは……。まぁ、来るとき連絡くれよ。アドレス変えてないから」

 何度も念を押す及川と別れて建物へと向かう。

 その後は先輩に怒られて平謝り。合宿の打ち合わせといつもの考察やら雑談。

 

 しかし、河北大和が予想していた「いつも通り」は来ることはなかった。

 ガラスケースの中、展示された青銅鏡は館内の照明を鈍く映しながら、来訪者を待っていたのである。

 

 

 

―・―・―・―・―

 

「暑い。暑すぎる……」

 大和は読んでいた竹簡を脇に巻き上げ、左手を庇いながら机の上に突っ伏した。

“この世界”で暮らし始めて20日程が経過。一段とボリュームを増したセミの声は、本格的な夏の始まりを告げている。背中をジリジリ焼くのは窓からの強烈な日差しだ。彼としては可能なら厚手のカーテンでもつけて遮断したいところだが、電気照明がない以上、それは無理な話だろう。クーラー生活に慣れた身体にとって、ここの夏は地獄と言っても過言ではない。

 突っ伏した状態から顔を上げ、利き手に巻いた時計を見る。

(もうそろそろ昼飯の時間か……にしても暑すぎるだろ。こんな日差しで喜ぶのはこのソーラー充電の時計くらいなもんだ)

「伯鉄様、そろそろお昼ごはんの時間です。元皓様もお待ちですよ」

 馬鹿なことを考えていると、部屋の外から聞き慣れた声がかかる。

「ありがとう、片付けたらすぐに行くって伝えて」

「かしこまりました」

 その声を戸越に聞いて、身を起こしながらため息。

「伯鉄様……か」

 

 

 姓は田、名を鋼。

 字は伯鉄。

 

 

 彼の名であるが、しかし本当の名ではない。

 本名は河北大和。つまり「田鋼」というのは明らかな偽名である。

 偽名と聞いて全体的に良い印象をもつ人はおそらく少い。そこには「他人の目を欺くための嘘」というマイナスイメージが少なからずつきまとうからだ。もちろん彼は詐欺師でなければお尋ね者でもない。がしかし、もし公に素性を知られれば監禁、投獄、最悪の場合は殺されてしまうかもしれない。そういう危険な立場に河北大和はあった。

(えーと、これはここか)

「っと」

 汗が本に落ち落ちそうになり、慌てて拭う。顔を戻せば目の前には巨大な本棚。古典的な綴じ方の本に円筒状に巻き上げられた竹簡で埋め尽くされている。博物館のような蔵書を持つそれに、机の上の書物を仕舞っていった。その途中、

「しかし、洛陽の夏がこんなに暑いとはね」

 またしてもボヤきが入る。

 今日一日で「暑い」という単語を何度口にしただろうか。言ったところでどうなるものではないが、そうでもしないとやっていられない。それくらいの暑さなのである。

 が、問題はそこではない。

 彼は確かに「洛陽」と言った。

 しかし、窓の外から聞こえてくる物売りの声は明らかに日本語である。世界で日本語を公用語にしているのは日本だけで、そして日本に「こんな場所」はない。洛陽に日本人町は無いし、例え存在したとしても、日本語しか聞こえてこないというのは変だろう。

 

 舞台は後漢の都・洛陽。

 結論から言うと、この世界にとって河北大和は異分子に他ならなかった。

 それが彼が偽名を名乗ることになった一つの理由である。

 もう一つは――。

(妹か……まだ現実感がないよな。やっぱり)

 残りを取りに机に戻りつつ、思い出すのはあの日のこと。

 

 

 いよいよ夏が始まろうかというあの日、河北大和は確かに、所属するサークル・三国志愛好会の会合に向かおうとしていたはずだった。記憶はそこで途切れ、目が覚めたのは長安の宿屋の一室。看病していてくれたらしい女の子からの第一声は、

 

『あ、危ないところを助けていただき、あの……その、ありがとうございましたっ』

 

 であった。

 

『ちょ、ちょっと待って。意味が分からない』

 

 彼が混乱したのも無理はないだろう。事情を聞こうと身体を起こそうとすると左腕に鈍痛が脈打つ。女の子をかばって事故に遭い、折っていたのだ。もっともこれも当人にとっては“折ったらしい”である。そんなことは全く記憶に無いのだから。

 

『ここは……?』

 

 状況を把握しようとその女の子と会話を続けていく内に、とんでもないことに大和は気づかされる。自分がいるのは日本ではなく、かといって単に外国というわけでもない。迷い込んでしまったのは後漢の時代の――しかも、彼がサークルで話題にしているそれとはかなり違った――パラレルワールドというべき場所である、と。

 だからといって何かが解決するわけではなく、知れば知るほど自分の置かれた絶望的な状況を思い知るだけ。異世界に一人、お金も身分も何も持っていないのだ。元の世界へ帰る方法を探すどころか、そこら辺で野垂れ死ぬ可能性すらある。

 

『実は――』

 

 途方に暮れた大和は、自分が異世界の人間であることを正直に伝えることにした。

 これは非常に危険な賭けでもあった。女の子は見た目こそ幼く可愛らしいが、侍御史(じぎょし)という官職につく支配者側の人間である。

「異世界からきた」

 こんな突拍子もない話を信じてもらうことすら難しいのに、信じてもらえたらもらえたで、別の問題が浮上してくるのだから。

 女の子は少し――大和にはとても長い時間考え込んだ後、

「カワキタヤマト様! ご提案がありますっ!」

 弾かれたように顔を上げる。

 一転して明るくなった表情。その様子は年相応の女の子のものに見えた。

「暫くの間、洛陽にある私の屋敷で暮らしませんか? 助けられたご恩もお返したいんです」

 保護してくれる。

 その申し出はとんでもなくありがたいことである。

「……いいの?」

「どうですか? ってこちらが聞いてるんですから、いいに決まってますよ」

 にっこりと笑うその顔は最早救いの女神のようで……。

 だから、彼女が続けた言葉に、

 

「それで、わたしの屋敷で生活していただくためには条件が一つあるんです。男の人と一緒に住むとなると……その……字を名乗ってる以上、色々と誤解されちゃうと思うし……」

「? いや、お世話になるのはこっちだから何でも――」

 

 彼が深く考えずに返してしまったのも仕方のなかったことなのかもしれない。

 

 

 

「兄さん、まだなんですか?」

 

「ああ、待たせてごめん。本の片付けに手間取っててね」

 言いつつゆっくりと振り返るが、誰も居ない。いや、下にいた。

「読んだらすぐに片付けないで次々出しちゃうからですよ」

 大和を見上げながらお小言を言う女の子。どこか現代風にアレンジされた古代中国の官服は、彼女が立派に官吏であることを示している。

 黄色をメインとしたそれは大きさが合っていないようで、肩口は微妙にズレ、袖も余ってしまっている。装飾らしい装飾といえば、蝶の形をした髪留めと、緑と紫の帯から懐に伸びている黒い紐くらいであるが、簡素にまとめられた装いはその主の魅力を損なうどころかより強調する役目を果たしていた。

 

 姓は田、名を豊。

 字は元皓。

 

 彼女こそ偽名を名乗ることになったもう一つの理由。

 彼にとって命の恩人ともいえる女の子。

 今は昔に生き別れた兄と妹という関係を演じているお相手だ。

 

「ごめんごめん。ちょっと熱中しすぎて。で、どうした?」

「で、どうした? じゃないですっ。ご飯できたっていうのに全然来ないじゃないですか」

 両手を腰に当てて少しご立腹の様子である。

「完全に忘れてたよ。さあ行こう! すぐ行こう!」

 そんな妹をあえてスルーするように――良い匂いにつられるようにして、田伯鉄は食卓へと向かう。空腹でのお小言は勘弁願いたいのだ。

「……もぅ、調子いいんですから」

 

 

 

―・―・―・―・―

 

 二人で小さい食卓を挟んで座る。

 部屋へ呼びに来た老使用人は、先に食事を済ませていたらしい。買い物があるとかで、すでに外へ出てしまっていた。

 しかし、空腹は最高のスパイスとはよく言ったもの。

 自分の分を軽く平らげて「ごちそうさま」を言った後、お茶をすすりながら食べ終わるのを待つ。

「兄さん。もっとよく噛んで食べた方がいいですよ」

「あ、あぁ、ごめん。気をつけるよ」

(洛陽に来て数日しか経ってないのに何回怒られただろう。あのおどおどしていて可愛かった田豊ちゃんはどこへ行ってしまったのか……。まぁ、あの時は状況が特殊だったというのもあるし、この快活さと生真面目さこそが彼女の本質なんだろうけど……)

 もはや妹というより小さい母親と暮らしている心地さえする大和であった。

「ときに兄さん、お勉強の調子はどうですか?」

 箸を休めて聞いてくる。

 これを母親と呼ばずして何と呼べというのか。

「ああ、大分わかってきたよ。読みに関してはかなり上達してきたと思う。分からない漢字がまだ結構あるけどね。書く方は――」

 

 長安を発った日、馬車で田豊が広げていた報告書を見て、大和は顔を顰めた。この世界の言語は話し言葉が日本語で、書き言葉は中国語となっているのである。

 もっとも、それ自体には大した驚きはなかった。出発前日に見て回った長安の街。そこに溢れかえるオーパーツ(場違いな工芸品)の数々。もはや言語が少し違う位でいちいち反応するのも馬鹿らしい。

 ただ、言語というのはこれからの生活の中で無視できない存在であることは確かだった。

 読み書きが出来なければ日々の生活が不便というのはもちろん、それが出来なければ元の世界への帰還方法を探すのも困難になる。

 妹が自分を手伝うつもりでいることは大和も気づいていたが、彼女は如何せん宮仕えの身。非番の日でもなければそれは無理だろうし、世話になっている以上、休日まで自分の都合に巻き込みたくはない。基本的には一人で調査するつもりである。それなのに書いてあることが分からないというのではお話にならない。

 故に、洛陽に来てからの田伯鉄は、与えられた部屋に篭っての勉強三昧の日々を過ごしているというわけであった。

 

 元からある程度中国語を勉強していたのには、かなり助けられている。このあたりは『ビバ! 三国志愛好会!』といったところだろう。サークルのお嬢様気質の会長の命令で一年の後期から自由科目で中国語をとっていたこと、夏、冬の長期休暇に中国を旅行したことが、かなり生きていた。

 

 もちろん、まさかこんな形で生きてくるとは思ってもいなかったが。

 

 簡体字が無いことなどの違いこそあれ、ここの書き言葉の骨子は現代中国語と変わらない。覚え直すこともあって面倒だが、あの難しい発音とオサラバできるのであれば安いものだろう。

『基礎はできてるし、案外早く修得できるかもしれない』

 多少楽観的にすぎるが、その見立ては間違いというわけでもない。

 

「でも、すごく上達が早いですよね。似たような文字があちらにもあったんですか?」

「まぁ、そんなとこかな。それよりも昨日くれた本、あれすごく分かりやすいよ。本当にありがとう」

「わたしのお古なので少し読みにくいかもしれないですけど……喜んでくれてよかったです」

 そう言ってにっこり笑い、再び箸を取る。

(……この子には本当に頭が上がらないな)

 後はどうやって調査資金を稼ぐかであるが、それは左腕を治してからになるだろう。かなり回復が早い気がするが、まだ完治には遠い。

(そのけっして安くない治療費を支払ってくれているのは……)

「ふぇ? なんですか?」

「……いや、なんでも……あ、ごはんつぶ付いてるぞ」

「~~~~っ!?」

 あわててほっぺたをこするその姿に微笑みを誘われながら、

「そういえば今日は、あ、もうちょっと右。仕事じゃなかったっけ? ん、とれたよ」

「ほ、報告書の提出だけでしたから。お昼からは時間がありますよ。兄さんは?」

「調子が出てきたからね。もうひと頑張りしようと思ってる」

 少なくとも前者はウソだ。今日は暑さでへばって思うように進んでいない。

「じゃあ、わたしが見てあげます。と、言いたいとこですが……昼から一緒に外に出ませんか?」

 

(外だと? この猛暑にか? 自殺行為だろう)

 

「そ、そんなに嫌そうな顔しなくても……だ、だって兄さん洛陽に来てからほとんど部屋に篭りっきりじゃないですか。たまには外に出て――」

「あ~分かった。行くよ」

「うーん。言い方が少し引っかかります……けど……まぁ、いいです」

 コロコロと変わる表情が面白い。

「ふふっ。出かける準備ができたらお部屋で待っててくださいね」

「わかったよ。けど出かけるってどこに?」

「近くの市です。お買い物が目的なんですけど、ちょっと気になる噂もあったので……」

「……噂って、もしかして俺達のこと……?」

(近所の人にニートと認識されてるのは薄々気づいていたけど……まさか、そんな危険な男に見えるのだろうか……)

「ちち違いますよっ!! だいたい『そんな噂』が流れちゃってるんだったら、一緒に出かけようなんて言いませんっ!!」

 見事に顔を真っ赤にする。

“そんな”の具体的な内容についてはよく知らないが、とても恥ずかしいことだというくらいの認識は田豊にもあった。

 それをわざとらしい咳で誤魔化して、

「どうやら、旅の占い師が妙な予言を流して民を煽動しているみたいなんです」

 少し真剣な顔をして言う。

「占い師の予言ね……内容に問題があるとか?」

「はい、なんでも『世が乱れたときに天から御遣いが降り立ち、天下を安寧へと導く』というような内容でして……」

「ふむ」

(確かに皇帝陛下のお膝元で喧伝すべきもんじゃない。そもそも都での流言飛語なんて大問題だ)

「でも、それだけ噂になってるなら、捕まるのも時間の問題じゃない?」

「それが誰も捕まえられないんです。目撃者はたくさんいるんですけど、どれもあやふやで役に立たないらしくて……。はっきりしているのは、その占い師の名前と予言だけで、性別や背格好については何も分からないみたいです」

「それじゃ警邏の人も捕まえようがないなぁ。それで、その占い師の名前ってのは?」

「はい。管輅というそうです」

 

(……三国志の登場人物。また女の子だったりしないだろうな……)

 

 

 

―・―・―・―・―

 

 夕日に赤く染まった道を並んで歩く。

 女の子の買い物が長いというのはどの世界でも変わらない真実である。荷物持ちの男が片腕ということもあり、買い物の量はそれほど多くはない。それでも帰る頃には夕方になってしまっているのだから流石だ。

「今日は楽しかったです」

「ああ、そうだな。いい気分転換になったよ」

 洛陽に来て、本格的に出歩いたのは今回が初であった。疲れはしたが、部屋で竹簡相手にうんうん唸っているより遙かに健康的と言える。ストレスも発散でき、妹も上機嫌。大和としては言うことなしといえよう。

「それに、噂の占い師さんも見つけられた」

 予想に反して煽動容疑者の管輅はすぐに見つかった。

 警邏が必死に探しているというのがウソに思えるほどあっさりと。

「管輅さん、噂にあるような危険な煽動者には見えませんでしたね」

「占いもいたって普通な姓名判断だったしね。もう洛陽で商売はしないと言ってたし、これで預言者問題も無事解決! とはいかないまでも、徐々に沈静化するんじゃないかな? なんか拍子抜けではあるけど」

 

 違和感が残る。

 結局何が目的だったんだろうか。彼女が洛陽で行ったのは、天の御遣いの噂を広めることである。これは間違いない。けれど「それは何のために?」と聞かれると、全くわからないのだ。

「……ん」

(噂を広めてそれを利用するのであれば、もっと具体的なもの方が有効だし使いやすい。天の御遣いなんて抽象的なものでは、)

「兄さん!」

 右下からの声に思考を中断する。

「ん、えーと……ごめん。なに?」

「なに? じゃないです。すぐボーッとするんですから……」

「ごめん。それで何のはな――」

「もう、いいですっ」

 妹はプイッと顔を背け、

「いつも人の話を……」などとブツブツと文句を言っている。

 

 やれやれ。さっきまで機嫌がよかったのに。と、

“こちらに向けられた”頭を見ると、夕日を弾く銀髪には一緒に選んで買った髪留めが。

 

(……そういうことか)

 

「その髪留め、似合ってるよ」

 ぶっきらぼうに言うと、無理につくっていたむくれ面を崩し、嬉しそうに髪留めをいじりながら、

「わたしもそう思います」

 ない胸を張り、得意げに言う。

 そのわざとらしい様子につられて笑いながら顔を上げると、

 

「……すごいな」

 

 夕陽に燃えた空はどこまでも綺麗で。

 

 

「んー、明日も晴れるといいな」

 荷物を持った片手で伸びをする。

「兄さん暑いのは大嫌いじゃないですか」

 すかさず入るツッコミ。

「違いない」

 

 今度は二人して笑った。



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-幕間- Unknown

 田兄妹と洛陽で会った“その日の晩”、占い師は南皮郊外の小川の畔に佇んでいた。明日は近辺の邑に対して噂を浸透させなければならない。つまり「力」の行使だ。本来であれば休息をとるべきだろう。

 

 それはわかっている。

 しかし、どうもその気にはなれないのだ。

 

 

「天の御遣いの噂を広める」

 

 

 それは管輅という存在にとってのルーティン・ワーク。

 数回行った時点で大体の手順は決まっていた。

 

 第一段階として『対象』が外史に降り立つ■■■前から、大陸の主要都市に散発的に噂をばら撒く。

 そして第二段階――仕上げとして「対象」が現れる少し前、いよいよ世が乱れ始めるとき、今度は「対象」が降り立つ地を中心に噂を広める。

 

 繰り返し行われるこの作業は、すでに体に染み付いているといっていい。

 その開始地点は洛陽。

 何回目からそう決めたのか定かではない。二百回は超えていた、と思う。単に後漢の都だからという理由だったか、諸々を考慮して噂の拡大に効率がいいと判断したからだったか。

 本人ですら憶えていないのだから、大した理由ではなかったのだろう。

 それ以来、惰性でそうしてきている。

 

 彼女が洛陽を開始地点にした後、そこで役目を果たしていると、きまって声をかけてくる少女がいた。

 話を聞くに官職を務めているらしく、妙な噂を流さない方がいいと警告してくる。名前を聞いて照会すると、近いうちに死ぬ人間だと分かった。

 

 だからどうというわけではない。

 自分は自分の役割を果たすだけ。

 

 二回目、三回目、四回目……それからはほぼ繰り返す度にその少女と出会った。

「対象」がココに降り立つ時期がほとんど同じだったからというのが、大きな理由だ。

 出会う度にほぼ同じ言葉を交わし、そして毎回同じように彼女は死んだ。

 

 

『死相が出ている。西に災い有り』

 

 

 数百回を繰り返した頃、少女に警告を試みた。

 

 意味のない行為。

 それは分かりきったこと。

 

 管輅の占いはインチキだ。

 起こることを知っているから百発百中なのであって、その未来を変えることは出来ない。決められた未来を変えるには外的要因――「天の御遣い」が必要になる。彼が登場して初めて、管理者の直接干渉も一部有効となるのだ。

 

 はたして少女はいつも通りに死んだ。

 

 以降、管輅は洛陽を訪れる時期を、彼女の死後にずらすことにした。

 

 なぜ警告したのか。

 なぜ「もう、会いたくない」と思ったのか。

 

 自分にそんな感情が未だに残っていることには驚いたが、それを知ったところでどうなるというのか。

 

『私はすでに……当事者ではない』

 

 川面に映る冷たい顔はそれを端的に表している。何年経とうが何度死のうが変わらないのだ。

 

「…………」

 

 あれから幾度物語が過ぎていったのだろう。

 今回も同じように役割をこなし、同じように傍観する……はずだった。

 

「生きていた……」

 

 そう、生きていた。

 本来であればすでに死んでいるはずの少女が。

 

 要因となったのは恐らく隣にいたあの青年。

 占いにかこつけて聞き出した名は田伯鉄。

 少女の兄だと名乗ったが、そんな人間は存在しない。

 

 なら一体何者なのか。

 

「天の御遣い」ではないことは確かだ。アレの出現時期を自分が見誤るはずがない。しかし、彼の発する雰囲気は天の御遣いの……。

 

(報告するか……?)

 

 あの“少しばかり美意識が合わない同僚二人”を思い浮かべる。

 

(……いや、やめておこう。侵入を把握できなかったということは、外史が青年を異物と認めていないということだろう。

 ならココが崩壊してしまうとか、そういう危機的なことにはまずならないはずだ)

 それに「対象」とは違って、今彼女が広めている噂のようなお膳立てもない。

 放っておいても死ぬ可能性は、大いにある。

 

「…………」

 

(気づかれたら気づかれたときだ。知らぬ顔で役割を果たし、後は傍観者らしく、いつも通り見物を決め込もう)

 

 

 それはいつもと変わらない。

 そう、いつも通りの退屈なルーティン。

 

 

 だが月明かりに浮かぶその口元は、確かに笑みの形を作っていた。



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第02話 仮初めの兄妹

「何も聞かないんですか?」

 田豊は椅子から立ち、部屋を出て行こうとする男に声をかける。

「さて、何のことでしょうか?」

「からかわないでください。その……兄さんのことです」

 予想通りの話題に、老使用人は僅かに――深い付き合いのある人間にしか分からないくらいの小ささで、微笑んだ。

「伯鉄様が何か?」

「また……」

 いつもと同じはぐらかし方に非難めいた眼差しを向けるが、それは余計に喜ばせるだけ。予想通り低く喉を鳴らしている。

 田豊は、この歳の割に茶目っ気のある老使用人が結構好きで、そしてこういうところがほんのちょっぴり不満であった。

「元皓様は正しいことしかなさいませんから。あなたが良いと思ったのなら、それでいいのでしょう。しかし――」

 老人は居佇まいを直し、

「あなた様は本当に“正しいこと”しかなさいません。私はそれが心配でならないのです」

 真剣な顔で幼い主を見つめる。

 その瞳には若干の非難が混じっていた。それは兄の件についてではない。

(やっぱり長安のことはだめだったかな……)

 田豊の行動はだめというレベルで済まされるものではなかった。実際、河北大和がいなければ死んでいただろう。

「お爺さん……ごめんなさい」

 お爺さんと呼ばれた男は、使用人の身に頭を下げる主に苦笑してしまう。

「私は使用人です。ただ今の件で謝る必要はございません。ただ、あなた様がいなくなると……そうですね」

 表情を和らげ、

「いい歳をして路頭に迷う老いぼれがいることを、覚えておいていただけるとありがたいです」

 そう、締めくくった。

 あれだけ真剣な顔をしておいて、結局真面目に終わらせないのである。

「ふふっ。はい、わかりました」

「それと伯鉄様は悪人ではありませんよ。私は侍御史ではありませんが、見た目よりも長く生きております。人を見る目には自信があるのですよ」

 はぐらかしておきながら、意識していないときにサラリと言う。これが彼のやり方であった。

 それを聞いた主の、困ったような笑っているような顔を満足気に見た彼は、一礼して部屋を辞そうとする。その途中、思い出したかのように振り返り、

「そうでした。あと一つだけ。よろしいでしょうか?」

「なんでしょう?」

 

「元皓様のお仕事に区切りがつきましたら、伯鉄様の歓迎の宴でも開きましょう」

 

「……! はい、そうしましょう!」

 

 やはり田豊は、この老使用人が結構好きなのである。

 

 

 

―・―・―・―・―

 

 備えあれば憂いなし。

 そう、準備をしっかりしていれば、突然何かがあっても心配することはない。当然大和もそういう目的で購入していたのだが、

「まさか本当に活用する時がくるとは……」

 棚から引っぱり出した竹簡を机の上に広げつつ、窓際で日向ぼっこしている小型ソーラーパネルに目を向ける。

 小型といっても広げた携帯電話を横に二つ並べた位の大きさがあるそれは、TVでしきりに災害対策グッズの特集をやっていた頃、秋葉原で購入していたものだった。少し値は張ったが、保護ケース付きを選択しておいたのは正解だったといえる。裸で鞄に入れていたなら事故の衝撃でイカれていたに違いない。

 携帯電話用ソーラー充電器。

(男ってのはどうもこの手の「使いどころが限定される――特に電気系の便利グッズ」とかに弱かったりするらしいけど、自分なんかはその最たる例だろうな)

 実際、彼の家には弁当やら缶コーヒーをUSB電源で保温するやつであるとか、いつ使うのか分からない、正直無くても困らないものが大量に眠っている。改めて考え直すに、そういうものの収集が趣味だったのかもしれない。

 

『無駄遣いはするなとあれほどいっただろ!』

 

 久しく聞いていない父親の怒鳴り声が脳内再生され、大和は思わず苦笑した。

 持ち主が行方不明扱いとなっているであろう今、それらがどうなっているのかは分からないが、親にバレれば確実にお小言はくらうだろう。

 

(まぁ、それもあちらに帰れたらの話か)

 

 パネルに繋がれている携帯の充電ランプが消えているのに気づき、椅子から立ち上がる。

 コードから外して二つ折りになっているそれを開くと、時刻表示と共に友人たちの笑顔が出迎えた。待受は中国は無錫にある三国志テーマパークで去年撮った集合写真。レプリカの銅雀台で思い思いのポーズを決めていた。電波強度を示すアイコンには×印。有りもしない電波を探す行為は電池の消耗を早めるだけなので、オフラインにしてある。

 メニューを開いて画像フォルダを選択。数ある画像データの中から一つを選ぶと、

「…………」

 そこには着慣れないスーツを着た、というよりスーツに着られた男と、その両脇に立つ中年の男女。

 日付は今年の初め。帰郷したとき二十の祝いに撮った写真だった。

 

(親父は写真撮られるの苦手だったなぁ)

 

 ぎこちない笑みを浮かべる父と、柔らかく微笑んでいる母。

 

『これでお前も大人の仲間入りか……』

 

 母の酌を受けながら感慨深げにつぶやいていたのを思い出す。

(二人には何の恩も返せていない。それなのに……)

 二十年間育てた一人息子がいきなり消えて、二人はどう思っただろうか。ひょっとすると、もう二度と二人にも、友人たちにも会えないのではだろうか?

 そう思うと自分がやけに孤独に思われて、どうしようもない思いが笑いという形でこみ上げてくる。笑ってみると今度は泣きたくなった。本当にどうしようもない。

 弱気が大きくなってくるのを抑え、大和は感傷とともに携帯を閉じる。

 たしかに今の彼の状況はキツイものがあった。

 未だ語学能力は難解な書を読むのに十分な水準を満たしておらず、帰還方法についての手がかりも何もつかめていない。

 しかし、そこで弱気になってどうするというのだろう。

(どうも俺はしてもしょうがない心配というか、そういう無駄なことをする傾向があるらしい)

 携帯とソーラー充電器を箪笥にしまい、腕時計を見る。

(まだ、昼まで時間があるな)

 窓からは連日の強烈な日差し。

 どこの誰かが「晴れたらいいな」と言ったせいかは分からないが、あの日から最高の真夏日が続いている。

 

「やれることをコツコツと、か」

 

 汗を拭い、再び机に向かう。

 

 

 

―・―・―・―・―

 

「入りますよ」

「ん、どうぞ」

 大和は聞こえてきた声に作業を中断し、戸の方へ顔を向ける。

「おかえり。もう、帰ってたのか」

(ってあれ? 今何時だ?)

 時計を見るまでもなかった。

 陽はすでに傾きかけていて、外から聞こえてくる喧騒も大分小さくなっている。

(おいおい、もう夕方かよ。どうりでさっきから字が見にくいわけだ)

「んしょ……まさか、朝からずっとそうしてたんですか?」

 田豊は抱えていた書物の束を机の上に置きつつ、呆れ気味に聞いた。

「昨日十分息抜きしたからね。まぁ、他にやることもないし……それは?」

「これですか? 怪談とか不思議な出来事などを集めた書物ですよ」

「ああ……ありがとう」

 恐らく帰還方法を探すための資料なのだろう。非常にありがたい。非常にありがたいことなのだが、

(明らかに紙のやつが混ざってるよな? このぶっ飛んだ世界でも、紙の本は竹のに比べたらなかなか高価だったはずだが……)

 口元がヒクヒクと動いているのが自分でも感じられる。

「わたしはこういう非現実的な話は信じてないんですけど……でも、そんなことを言ったら兄さんの存在の方が非現実的ですし……。なにか手掛かりとかもあるんじゃないかと思って……」

 存在が非現実的とは何気にヒドい物言いだが、問題はそこではない。

 値段である。

「でも、お高いんでしょう?」

 テレビショッピングのアシスタントよろしく大和は聞いてみる。

 元ネタが分からない妹様は、それには大きな反応を示さず、

「だいじょうぶです。心配いらないですよ。他に何かに使うわけでもないですし」

 朗らかにおっしゃった。

「…………」

(ぜ、全然フォローになってないです……。「交渉が上手くいってものすごく安く買えました」とか「実はオカルト好きな友人から借りてきたんですよ」とかが聞きたかった……。オカルトって言葉は無いんだろうけど)

 そもそもが衣食住を提供してくれているだけで十分ありがたいのだ。

 そう、目の前のこの子は自分とは違って正義感と善意の塊。世話になっていればこうなるだろうことは分かってはいた。

(分かってはいたが……)

 このままでは帰還方法が分かったとしても、「受けた恩が大きすぎて帰れないっす」などという事態になりかねない。

(いや、今の段階ですでに危険水準に達している気も……)

 とにかく早々に職を見つけなければならないだろう。一回り年下の妹のスネをかじっているという不名誉極まりない状況から早く脱却しなくては。

 

「……兄さん?」

 いつの間にか、怪訝な顔をして大和を窺ってきている。

「あ、いや、なんでもない。ありがとう。いやー助かるなー」

「また話を聞いてませんでしたね」

 ジト目だ。

(まずったか?)

「そんなことはないと思うぞ?」

「なんで疑問形……いいですか兄さん。とにかく、わたしたちは兄妹なんですから遠慮なんてしないで下さいっ」

“兄妹”の部分に力を入れて力説する。

 

(そうは言ってもな。実の兄妹というわけでもないし……いや、実の兄妹でもここまで頼りっぱなしなのはどうかと思う)

 

「大体いつも兄さんは――」

 ヒートアップしたお説教は、すでに大和の私生活にその矛先を変えていた。

 それを右から左へ受け流しつつ、懲りずにまた別のことを考える。

 お昼に呼んでくれなかったということは、使用人の人たちは自分のことをよく思っていないのかもしれない。愚兄賢弟ならぬ愚兄賢妹。普通に見たら、出世した妹にたかりにきた出来の悪い兄でしかないのだから。

 

(……考えたら色々と悲しくなってくるな)

 

「って、聞いてますか!?」

 

 

 

―・―・―・―・―

 

 どうしてそんな展開になったのかよくわからないまま、日頃の生活態度やら何やらこってり絞られたあと、夕餉の時間がやってきた。

 ちなみに大和の目の前に配膳されたご飯は大盛りになっている。昼飯の件は使用人が彼を疎ましく思っているとかではなく、何度呼びかけても上の空で「後で食べるよ」を連発されたのが原因であった。

(……よく言えばそれだけ集中してたってことなんだろうけど)

 軽い自己嫌悪に陥りながらふと前を見ると、美味しそうにご飯を頬張る妹の姿。

 上京して以来、呑みでもなければいつもわびしい一人メシだったが、やっぱり誰かと一緒に食べるというのはいいものである。大和も自然と頬が緩むのを感じた。

 同居当初は「食事中にしゃべるのは行儀がよくない」と言っていた妹だが、今では談笑しながらの食事が田家の日常風景になっている。

 彼女が非番の日でもない限り日中顔を合わすことがない以上、この時間は大事なコミニュケーションの場なのだ。

「兄さん、明日はどうするつもりですか?」

 碗を置いて大和に話しかける。

 翌日の予定の確認も夕食時のお約束の一つである。

「明日は一日お勉強かな。せっかく本も買ってきてくれたし、どんどん読んでみるよ」

「明日はって、毎日じゃないですか……」

「まぁ、確かにそうだけど。別にそこまで呆れなくてもいいだろ? きく……元皓は?」

「…………」

 明らかに不機嫌である。顔に書いてあるのだ。「真名で呼べ」と。

(そうは言ってもなぁ)

「……私はお昼まで御史府で仕事です。でも、その後人と会う予定があるので帰りは遅くなるかも知れないです」

「人と会う?」

 大和がお茶を取ろうとした手を止めて聞くと、むくれ面を消して、

「はい。わたしが長安で官吏の調査をしてたのを覚えていますか?」

「ああ、覚えてるよ」

 

 長安の汚職官吏。

 調査に来た侍御史・田豊を金で黙らせようとするも失敗。不正が暴かれると知ると、あろうことかその暗殺を謀った女。言うなれば大和が骨折する原因を作った人物である。調査で黒と判明して、今は獄中にいるらしい。

 

「取り調べで分かったことなんですが、彼女は五胡の……匈奴と通じていたらしくて」

「それはまたトンデモな話だな」

 物資の輸送ルートやら警備の情報やらを流していたという。反逆罪とかで極刑は免れないだろう。

(しかし、売国行為をする人間まで出てくるとは……自分の知っている後漢とは大分違うけど、やっぱり終わりが近いのかもしれない)

「それで聞き出した情報を元に関係していた匈奴の討伐令が出されまして。その責任者の一人の方が是非お礼を言いたいと」

「お礼を?」

「西平の太守兼都尉の方なんですが、そこでも結構な被害が出ていたみたいで……」

「うん……」

 だとしてもだ。

 悪徳官吏の摘発は侍御史の仕事なのだから、それでわざわざお礼というのはなんだか違和感を感じる。

「あの……兄さん、じ、実はですね……」

 怪訝な顔をしていたのに気づいたのか、田豊は言いにくそうに語り始めた。

 漢王朝における監察・弾劾の官である侍御史。その基本業務は公卿の上奏を受領して、その内容を調べて違反があれば弾劾すること。つまり上奏があって初めて動くのが慣習であり、暗黙のルールなのである。しかし、今回はそれをあえて破り、証拠をつかもうと独自に動いていた。そう、上奏を金で握りつぶしていた官吏を捕らえる為に。

「…………」

 大和はかける声も思いつけず、もじもじと上目を使う少女を呆然と見ていた。

 暗殺されかかるのも当然といえば当然である。「悪いことは悪い」とはっきり言えるのは目の前の少女の美徳だが、綺麗事で世の中が回っているわけではない。稼ぎがない居候の男が言っても説得力はないかもしれないが、それでも……。

 真っ直ぐな妹の将来が心配になる。

(一度話し合った方がいいのかもしれない)

 

「それでその太守様ってのは?」

「は、はい。董仲頴様です。お会いしたことはないんですが……」

 

(董仲頴だって!?)

 

 大和は続けざまに驚かされた。

 

 董仲頴――董卓。

 洛陽で専横を極め、悪逆非道なエピソードに事欠かない稀代の悪漢である。

 大和がサークルの会長や他の先輩から聞かされた話では、「儒教的なタブーを犯した為に後世の歴史家から悪役にされてしまった人」らしいが、にわかの彼にはやはり極悪人のイメージが強い。

「……うーん」

「どうかしましたか……?」

「その、董西平太守様は女性の方なのかい?」

「いえ、それが分からないんです。都にお来しになるのも今回が初めてのようですし」

 一人で会わせてしまって大丈夫だろうか。

(……やはり心配だ。ここは)

「俺も太守様にお会い出来ないかな?」

「え? 兄さんがですか? ……う~ん、少し難しいです。いくら侍御史の兄とはいっても、兄さんは無位無官ですから……」

(まぁ、普通に考えてそうだよな)

「じゃあ、直接会えなくてもいいからお供としてついていくってのはどうかな? 会談中は外でおとなしくしてるから」

「それなら……でもやけに必死ですね。いつもは全然外に出たがらないのに」

 向けてくるのは疑いの眼差し。

 

(信用ないなぁ)

 

「いや、妹を心配するのは兄の務めじゃないか」

 はははと乾いた笑いで誤魔化しながら、この頼りっきりになっている妹に今こそ恩を返そうと思うのだった。

 

 

 

―・―・―・―・―

 

(最近のわたしは浮かれてます)

 蒸し暑い中、田豊は寝返りをうちながら思う。

 使用人の人たちを入れても一人で使うには広すぎたこの屋敷。以前は寝る場所くらいにしか考えていなかったのに、今では帰るのが楽しみになっている。

 原因は分かっていた。

 ひと月ほど前に出来た兄、河北大和。

 彼女を命の危機から救い、成り行きで兄妹になることになった異世界からの来訪者。

 新しく出来た家族は田豊の生活に色を与えた。

 だらしがなく、抜けていて色々と世話を焼かせ……それでいて時々ハッとするような鋭さ、頭の回転の速さを見せてくれる。

(……考え事で人の話を聞かなくなるのは直してほしいですけど)

 無意識ににやけ笑いが出たのがなんだか恥ずかしくて、枕をギュッと抱く。

 義理堅い人だとも思う。口調こそぞんざいだけれど、それも自分がそうしてくれと頼んだから。普段から気を使っているのはわかっている。それに、

 

(わたしを真名で呼ばないのも、そういうことなんでしょう)

 

『兄妹になるから預けたとはいっても、それは仕方がなかったのでそうしたこと。自分がその名を使うべきではない』

 

(きっと兄さんのことです。そんな風に考えているに違いありません)

 

「預けられた真名を呼ばないのは最大の侮辱にあたります」

 

 そう言ったらどんな顔をするかと想像すると、楽しくてしょうがない。

 ママゴトのような、それでも幼くして家族を失った彼女にとっては、とても楽しい同居生活。

 でも、いつかは帰ってしまうのだろう。それを引き止める気はない。方法を探す手伝いだってするつもりでいる。

「……本当は帰ってほしくないけど」

 顔をうずめた布団から漏れ出た不明瞭な響きは、当人には絶対に言えない本音であった。息苦しさと恥ずかしさで枕を抱いたまま少女は転がる。

(でも、兄さんはいきなり飛ばされてココに来たって言ってた。なら、帰ってしまうのもいきなりってことは……?)

 考えるとなんだか怖くなってくる。部屋の蒸し暑さは相変わらずであるが、先程までの熱はどこかへと消えてしまっていた。

 

 明日の朝起きたらもう、いなくなっているかもしれない。

 明日じゃなくてもいつか、仕事から帰ってきたらすでに戻ってしまった後かもしれない。

 

 じっとしていられなかった。

 寝具から起き上がり、灯りに火を燈して部屋を出る。廊下を抜けて庭に出ると、外は月明かりで灯りなど要らないほどの明るさだった。

 庭の石に誰かが腰掛けている。あれは……。

「兄さん」

 返事がない。

 また考え事でもしているのだろうか。

「兄さんっ」

 近づいてもう一度呼ぶ。

 声が大きくなった本当の原因には、目をつぶることにした。

「ん? ああ、ごめん考え事を……って、まだ寝てなかったのか?」

「ちょっと寝付けなくて」

「ははーん。さてはお化けが怖くて寝れないとかか?」

 何かを誤解したのか、ニタリと笑う。

「怖がってなんてないですっ。それにお化けなんていませんっ」

『怖かったのは本当ですけど、お化けのことじゃないです……』

 それは口に出来なかった。終わりのことを話すと、それが本当になってしまうかもしれない。

「わからないぞ? 俺みたいな非現実的な奴がいるんだ。お化けだっているかもしれん」

 尚も笑いながら意地悪を言う。

「もう、すぐそうやって……」

 なにもわかってない様子にちょっとムッとしてしまう。

 隣に腰を下ろすと、冷たい石の感触が心地いい。

 

 兄がそうするのと同じように顔を上げると、

 

 月はまんまるの満月だった。

 

 

 

―・―・―・―・―

 

「…………」

「…………」

 兄妹は、ただただ無言で月を眺める。

(まいったな)

 悪戯が見つかったような、バツの悪さを感じていた。

 今日初めて知られてしまったわけであるが、庭でこうして夜空を眺めるのは彼の習慣だったりする。なんといっても月や星の明るさが元の世界と違って綺麗であるし、夜中まで起きる生活をしていた大和には、日の入りとともに就寝へ向かう生活は健康的すぎた。

「……何を考え事してたんですか?」

 何か話そうと考えていると、先を越されてしまう。

「家族のことかな……」

 大和は一瞬迷った後、正直に答えた。ウソをついてもしょうがない。夜空に浮かんでくるのは、幼い頃の思い出。昼間のアレのせいか、ちょっとばかしホームシックになっていたのだ。

 隣を見ると夜空を見上げたままの妹。肩口で切りそろえられた銀髪は、柔らかい光を受けて輝き、どこか幻想的な雰囲気を醸し出している。それは碧い瞳と相まって、おとぎ話のお姫様を連想させた。

「兄さんのお家はどんなだったんですか?」

 顔をこちらに向けて、興味津々という感じで聞いてくる。そこにいたのはお姫様ではなく、世話を焼いてくれるいつもの妹だった。

 大和は見とれていたのが恥ずかしくなって、顔を空へと戻す。

「そうだな。月も星も綺麗だし、ちょうどいい機会だ」

 満天の星々に目を細める。東京ではお目にかかれない光景は、故郷の空を思い出させた。

 

「俺は一人息子で、家族といっても両親しかいないんだけど……二人とも、まぁ、そのなんだ。普通の人だったよ。母は特別美人でもなければ父親も色男って感じじゃあなかったな。……俺の顔を見ればそれは分かるだろ?」

 隣からくすくすと笑い声がする。それにつられながら大和は続けた。

「実家は曾祖父さんの代から爺さんの代の途中まで鉄鋼……鉄を作ったり加工したりして売る仕事をやっててね。会社は河北鉄鋼って名前で、俺の名と字はここからとってる。あっ、会社っていうのは……そうだな、商家と同じに考えてくれていいよ。そんで河北鉄鋼ってのが社練と同じで屋号」

「兄さんは商家の生まれだったんですね」

「そういうことになるかな」

 実家の鉄と油の匂い。

 作業機械のリズムに合わせて形を変えていく材料。

 飛び散る火花。

 みんなの働く姿が蘇ってくる。

(あの兄ちゃんは、よくキャッチボールに付き合ってくれたっけ)

「それで……爺さんの代に大きな戦争があって、戦後に機械部品製造に鞍替えしたんだ。そのとき屋号も河北機械部品って名前に変わって。

 今では主に高速新幹線のブレーキやらパワーショベルとかの油圧機器部品とかをメインに……って意味わからんよな。何て言えばいいのか……簡単に言えば鉄で出来たでっかい絡繰に使う部品を作るってとこかな」

 こんな大雑把な説明で分かってもらえたのかは微妙だが、楽しそうに聞いてくれているのだから問題無いだろう。

「それで、家から少しのとこに鷹宮学園ってのがあって。そこは俺が――」

 

 それから大和は色々なことを話した。

 家族のこと、学校のこと、野球のこと。

 

「――っと。ちょっと話しすぎたな」

 見れば最初に比べ、月がだいぶ動いている。

「もうそろそろ寝ようか」

「はい。わたしもちょっと……眠いです」

 月明かりに照らされた顔は、ちょっとどころか今にも寝てしまいそうなのをどうにか我慢しているように見えた。

 ぐしぐしと目を擦るのが微笑ましい。

 

 田元皓

 

 ここひと月ほど一緒に暮らした相手。

 成り行きで兄妹となり、色々と世話を焼いてくれる妹。

 大和が「異世界に一人放り込まれる」という異常な状況に耐えられたのも、この少女のおかげである。ここでの生活にもだいぶ慣れたし、ひょっとするとこの先も上手く生きていけるかもしれない。

 ただ、そこまでの覚悟があるのかと聞かれればそんなことはなく、帰りたいという想いも未だに強いのも確かである。

 

(でも……なんだか何とかなりそうな気もするな)

 

『それは楽観的にすぎる』と理性は警告を発するが、不思議とそんな気持ちになる。案外肝が座っていたのだろうか? いや、やはりこの子のおかげだろう。

 なら――。

 

「おやすみなさい、兄さん」

「ああ、おやすみ菊音(きくね)

「ふぇ?」

 

 予想通りの反応を示すのは先ほどまで寝ぼけ眼だった妹。

 恥ずかしがっているのが面白いのか、何度も「もう一回」とせがんでくるのに半ばヤケになりつつ応じる。

 他愛ないじゃれ合いに、大和は不安が溶けていくのを感じた。

 

「もう一回お願いします。そうしたら寝ちゃいますから」

「それ何度目だよ……」

 

 洛陽の夜はゆっくりと更けていく。

 

 このときの二人には、先のことなど知る由もなかった。



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第03話 華の都洛陽

(必要な物も手に入れたし、帰って早昼でも食べますか)

 

 連日と比べれば幾分柔らかくなった日差しのもと、荷物を片手に家路を行く。

 昨日の夕飯時に太守様との会談への同行を許された大和ではあったが、すぐに一つの問題が浮上した。ずばり服装である。やはり太守様とお会いする以上は、普段から着ている平服などは避けるべきだろう。兄としてではなくお供としての同行だが、お供に対する評価はソレを連れている妹・田元皓の評価にも関わる。

 しかし、勢いでついて行くといったものの、無位無官の上に居候の身である田伯鉄には正装も、それを買う金の持ち合わせもない。

 

『じゃあ、わたしが買ってあげますよ』

 

(……ホントにね。あの子といると自分はどんどんダメな男になってしまう気がする。いや、もとから大した男というわけでもないけど……さすがに自分の我儘でついて行くと言った上に官服まで買ってもらうってのはどうなのか)

 

『もし自分で用意出来なければ同行は諦めるよ』

 

 もちろんその場合は隠れて付いて行くつもりであったが、それをわざわざ言う必要もない。大和は申し出を丁重にお断りした。それでも半ば強引に渡された、決して少なくはないお金。

(あの子は尽くしすぎて男をダメにしてしまうタイプなのかもしれない……)

 兄としての心配事が、また一つ増える。

 とにかくそのお金を使うつもりは彼にはなかった。つまらない意地だと本人も思っているが、いつまでもおんぶにだっこの状態ではいけない。官服の購入費用は鞄に入れていたノートやら何やらを売ってなんとか捻出。購入できた官服は装飾性のない質素なものだが、お供なら十分だろう。

 後漢のこの時代に貨幣経済が完成していることには改めてツッコミを入れたくなるが、街並みを見ているとそんな気も失せてくる。道の両側に並ぶ古代の建物には見えない造りの商店と、そこに並ぶ時代錯誤も甚だしい物品の数々。

 大和は文化史には詳しくないが、例えばそこの店で売っている眼鏡が後漢の時代には無かったことくらいは知っている。因みに官服を買った服屋の女物コーナーには、製法不明なフリルやレースを用いた商品が並び、木製のマネキンがポーズをキメて立っていた。

 

(まったくもって、色々とぶっ飛んでる世界だ)

 

 マニアな仲間たちがこの三国志もどきの世界を見たら、怒り狂うこと必至。

(会長は、どうだろうな。あの人妙に器がでかいとこあったし、案外「これもまた良し、ですわ!」などと受け入れるかもしれない)

「にしても」

 今一度辺りを見回す。

 

(文明の水準が古代のものでないことは確かだけど、単に文明が進んでいるというのとも違う気が……なんだろう、妙な引っかかりが……。

 なんというか、コレは時代とともに発展してきたというよりは、すでに完成されたモノや技術をポンと上から置いたような……)

 

「物盗りだー!!」

 街の喧騒を切り裂く叫び声と悲鳴に、大和は思考を中断した。

 声のした方を振り返ると、さっきの服屋のあたりで人がざわついているのが見える。

 野次馬根性で背伸びしていると、

「どけぇ!」

 前方の人垣を割って、血走った目をした男が飛び出してくる。

「え?」

「どけっつってんだろ!」

 男は盗品だろう包みを抱えた左肩を前に出して、タックルの姿勢をとった。

「うわっ!」

 咄嗟に左腕をかばい、蹲る。

 それに右足を引っかける形となった男は、何とかバランスを取り戻そうとするも、数歩ともたずに派手に転倒した。

「いつつ……くそっ」

 すりむいた箇所をさすりながら立ち上がる男と目が合う。

「……てめぇ」

 

(まずい……。とんでもなくまずい。あの腰にある剣は本物だ)

 

 手のひらの汗は夏の暑さのせいではない。

 二度目の死の恐怖を味わおうかというその時、遠巻きに二人を囲む群衆の一角でざわつきが増す。

 

「そこまでだな」

 

 囲いを割って登場したのは、紫を基調としたRPGの女戦士のような服装をした妙齢の美女であった。惜しみなく露出している肌は日差しを弾くほどに白く、スタイルもいい。しかし、両手に引きずっているデブとチビがそれを台無しにしている。

 

 恐らく物盗りの共犯なのだろう。可哀想なくらいにボコボコにされている。例え罪人だとしても哀れみを感じずにはいられない。

(って……この人がやったのか?)

 冷や汗が頬を伝った。

 一部の女性が優れた能力を持つ特殊な女尊男卑社会だと話には聞いていたが……純粋な力勝負においても男を超えるとでもいうのだろうか。

 

(まさか菊音も? ……そんなバカな)

 

「大丈夫か?」

「え、ええ」

 女性はその返答に少し笑った後、今度は猛禽のような眼差しで盗っ人を見やり、

「おい。おとなしく縛につくなら、この二人のようにはならんぞ」

 無造作に二人を脇へ放った。

「う、うるせえ! よくもやりやがったな!」

 ドスの利いた声にもめげず、男は腰の剣を抜き放つ。

 ギラつく剣に、女性の目が少し細められるのを大和は見た。

 

(やる気なのか? この人は)

 

「危ないですよ! 相手は剣持ってます!」

 思わず声をかける。

 何故なら彼女は丸腰で、正直目のやり場に困るくらいの軽装なのだから。しかし予想とは裏腹に、大和に向けられたのは目を丸くした女性の表情。

「……私を心配してるのか? いらん世話だ青年。これでも――」

「危な――」

 

 気が逸れたと見た男が一気に間合いを詰め、剣を力任せに振り下ろす。

 

 それはまるで映画を観ているようであった。

 完全に目線を外していたはずの女性は、流れるような動きで左に半回転。剣を避け、その勢いのまま手刀を頸部に叩きこむ。

 たったそれだけで全てが終わった。

「おっと」

 女性が崩れ落ちる男の腕を掴むと、こぼれ落ちた剣が派手な金属音を立てる。

 

「な? いらん世話だっただろう?」

 

「ははは……」

 少年のように笑うのを、乾いた笑いで見るしかなかった。

 女性は周りの歓声に少し恥ずかしげに手を挙げて応えた後、もう一度大和へ顔を向ける。

「なんだ? その顔は。まぁ、とにかく礼をいうぞ。逃げ足だけは早くてな。時間をかせいでくれて助かった」

「いえ、大したことは……」

(実際、ビビってしゃがみこんだだけだし)

 愛想笑いを浮かべていると、

「おいおい、警邏の野郎今頃来やがった」

「ほんとにね。いつも全部終わった後に来るんだから」

 街の人々の言うのが耳に入る。

「警邏だって!?」

 心臓が跳ねる。

 

(居候の身が面倒事に巻き込まれるのは非常にマズイ! ここは……退散だ!)

 

「おい、まだ話は……って、あっ! おい! ちょっと待て!」

 

 

 

―・―・―・―・―

 

「はぁ……はぁ……ふぅ」

 前に髪留めを買った店が見えたところで、一息をつく。

(これで事件現場からは大分離れられたはずだ)

「ここまで来れば……」

「おい、一体何がどうしたというんだ?」

「……うそだろ?」

「ん?」

 目の前には先程の女性。

 そのけろりとした様子は信じられないものだった。

(小・中・高と運動部の自分でも多少息切れしているのに、全く息が乱れてないなんて……って、その手に持っているのは)

「そうだ、お前。これを置いていったろう」

 思い出したかのように持っていた包みを差し出す。

「すみません……ありがとうございます」

 

(苦労して買った官服を忘れちまうなんて間抜けすぎるだろ……)

 

「礼には及ばん。なんだかよくわからんが言い難い事情でもあるのか?」

「いや、その何と言えばいいか……」

 単に面倒事になるのが嫌だというのでは、まるでお尋ね者である。

「ふむ……こちらも先の礼をしたいし、天下の往来で立ち話するのもあれだ」

 その様子に何か思うことがあったのか、顎に手を当て思案する様子を見せた後、

 

「そこにでも入ろう」

 

 有無を言わさず横の屋台へと引っ張っていく。

 

 

 

―・―・―・―・―

 

「……ということは何だ? スネをかじっている妹の為に、面倒事になるのを避けたかったということか」

 箸でもう麺がないか確認しながら聞いてくるのは、先ほど会ったばかりの名も知らぬ女性。入った屋台は小洒落た茶館でも飯店でもなく、高架下に店を構えているようなラーメン屋であった。

「事実ですけど、改めて他の人の口からハッキリ言われるとなんか傷つきますね……」

 妙齢の美女は、もう麺が無いと見るや、一気にスープを飲み干し、少々乱暴にラーメン鉢を置く。華奢な体に似合わず、実に豪快だ。普段妹から注意を受けている大和よりも遙かに食べるのが早い。

「親父、もう一杯頼む。大盛りでな。……だが、私がいたのだからそんな心配は無用だったぞ」

「というと、お姉さんは警邏の人で?」

「お、おねっ! ……いや、なんでもない……。け、警邏というか軍人だ。これでも一軍を預かっている」

(へぇ……この女の人が)

 先程武力の一片を垣間見たこともあるし、決して疑うわけではない。しかし、どうも女将軍などというのはゲームやら物語やらでしか見たことがないので、現実感が湧いてこないのだった。

「その顔……疑っているのか? 官軍の華雄といえばそれなりに有名だと自分では思ってたんだが……」

「っ、ぶっ!」

「おい、汚いぞ」

 布巾を手渡してくる女性を、大和はまじまじと見る。

 

(この人が華雄だって? まさかこんな屋台で英傑と並んでラーメン食うことになるとは……)

 

「ごほっごほっ……ん……いえ、すみません。御尊名はかねがね伺っていたのですが、お会いするのは今回が――」

「そんなあからさまに畏まらなくてもいいぞ。それに将軍といったってそんなに位が高いわけでもない」

 事も無げに言う。

「それでも無位無官の男とでは比べ物にならないですよ」

「私がいいと言っているのだから構わんさ。それに屋台で並んで飯を食ってるのに官位序列もないだろう?」

 バシッと背中を叩き、カラカラと笑う華将軍。

(い、痛い……)

「しかし、伯鉄と言ったか。田姓で文官というと、もしかしてお前の妹というのは田元皓だったりするのか?」

 意外な名前が出てきたことに、大和は目を丸くした。

「妹をご存知なんですか?」

 背をさすりながらの返しに得心したようにうなずき、その問いに答える。

「ああ、やはりそうか。田元皓のことは知っているとも。彼女が長安の官吏を検挙したのは聞いているだろう? あれに関連した討伐軍の編成に私も入っていてな」

 華雄は薄く笑い、酒を口に運ぶ。大和は「お前も呑むか?」との誘いに乗ろうとは思えなかった。

(将軍というのは胃袋も特別製なんだろうか。……しかし、匈奴の討伐軍か)

 彼女がそれ参加する将軍だというなら、董卓の人となりを知っている可能性はある。

「討伐軍には確か西平の太守様も参加されると耳にしたのですが」

「ん、董仲穎様だろう? 会ったことはないんだが、どういうわけかちょうど洛陽にいるらしくてな。明日、他の将と共に顔合わせをする予定だ」

「そうですか……」

「西平の太守様がどうかしたのか?」

 気軽に聞いてくる将軍を見て、「話しやすい人だな」と大和は感じた。

「いや、今日妹がお会いするらしくて。それでどういう人なのかと」

「なるほど妹の心配か。まぁ、それも結構だが……職を見つける方が妹の為になるんじゃないか?」

「確かに……」

 図星だけに反論できない。

 実は数日前から就職活動もしていたりする。が、

(怪我してるってだけで採用してくれないんだよな……。洛陽は人が多くて代わりがいくらでもいるからなんだろうけど)

 仕方ないとは思いつつも、こうも連敗が続くとくるものがある。本来であれば二年後に味わうことになるだろう苦痛を異世界で経験しているのは、笑える冗談だった。

「……すまん」

「え?」

「今のは……少々言いすぎだった。酒が入るとどうもな……」

 頭をかきながら女性は言う。唐突な謝罪に大和は困惑した。

「あ、いや、本当のことですし気にしてないですよ」

 どちらかというと、官軍の将軍が無官の男に対して簡単に謝罪することの方が気になる。それと目のやり場に困る服装も。他の客もチラチラと見ているが、気にならないのだろうか?

 そんな大和の思いをよそに「そう言ってもらえると助かる」と、はにかみながら言った華雄は、

「ふむ……そうだな。さっきの件の礼もあるし」

 空になった酒杯を置いて、少し真剣な表情を見せた。

「いえ、お礼はラーメン奢るのでチャラだって――」

「細かいことを気にするな。そうだな。もし左腕が完治した後でも職が無かったときは、私を頼ってこい。紹介状を書いてやろう」

「紹介状をですか?」

「ああ。今回の征伐が終わってからになるが、その頃には治っているだろう? ただ、私が紹介する以上は軍関係の仕事になるが……」

 ジロジロと大和を見る。やはり美人だ。と大和は思った。軍人とは思えないほど白くきめの細かい肌をしている。

(て、顔近いって。まぁ、ラーメンと酒の臭いで色気もくそもないけど)

「なんだったら私の軍にでも入るか? 見たところ身体も鍛えていたようだし、鍛錬し直せばそこそこモノになると思うぞ」

「軍隊ですか……」

 気が向く話ではない。平和ボケした国出身の人間には荷が重すぎるだろう。しかし、大和にとって彼女の善意自体はありがたかった。冗談ではなく本気で言っているのが分かる。

「ありがとうございます。何はともあれまずは腕の完治ですかね」

「ああ。矛盾するようだが、ゆっくり養生して早く治すことだな」

 ニカッと笑い、酒瓶を直接持って残りを一気に空ける。と、

「将軍! こちらにいらっしゃったんですか! 探しましたよ……」

 軽装の兵士が駆け込んできた。

「んん? どうした?」

「どうしたもこうしたも……昼から遠征へ向けての合同調練じゃないですか! 張将軍もお怒りです!」

 呼吸を整えた兵士が語気を荒げると、途端に「しまった!」という表情に変わる。

「なんだと! どうしてもっと早く言わない!」

 

(……いや、将軍様。それは違うと思います)

 

「くそっ! 早く戻らなければ張遼の奴が何て言うか……親父! 連れの分も合わせてここに置いておくぞ!」

「やっぱり私の分は――」

「気にするな田伯鉄。私はスネかじりに払わせるほど鬼じゃないぞ」

 ニヤリと笑ったのも一瞬。

 踵を返し、慌ただしく去っていく。

 

(ちょっと待ってくれ! まだ聞きたいことがある!!)

 

「しょーぐーん! おかわりのラーメンはどうすればー!?」

 屋台から出てその背に叫べば、

「お前にやる! 遠慮無く食え!」

 振り向いて返す美人将軍様。

 その姿はみるみる小さくなっていった。

 

「嵐のような人だったな……」

 席に戻ると、

「へい、お待ち」

 差し出されたのは背脂チャッチャ系の濃厚スープのラーメン大盛り。

 つまり二杯目のラーメンだった。

 さらに一杯目も勝手に大盛りにされていたことを付け加えておく。

 そしてそれもまだ完食できていない。

 

「あの……これ残しても……」

「…………」

「ははは……」

 ヤクザの親分のような人相の親父さんに見守られながら、田伯鉄は二杯のラーメンと格闘するのであった。

 

 

 

―・―・―・―・―

 

「う……うぷっ……」

 

 洛陽の街を二人で歩く。

 兄妹で出歩くのは管輅さんに会った日以来のことであった。

 大和は昨夜のことを思い出すと少し恥ずかしさを感じたが、それで二人の関係が変わるという訳でもない。変化といえば、今後は真名で呼ぶようにと強い要請があったことだろう。もっとも、華将軍との話で「経済的な関係は早く変えたい」という思いは一層強くなっているが。

「に、兄さん、だいじょうぶですか?」

「微妙だがおそらくは……う……」

「これから太守様にお会いしに行くのに……どうしてそんなことになっちゃったんですか……」

 全然大丈夫でない様子に呆れ顔の妹。

 これからまさに董卓に会いに行くというのに、田伯鉄のコンディションは最悪だった。

 その原因は明らかだ。

 

「いや、この官服を買いに街へ出たらな。なんか美人のお姉さんのお手伝いをすることになって……それでお礼にお昼に誘われたらこうなった」

 あのラーメン大盛り二杯がかなりキている。久々の脂っこい食事だったというのもあるかもしれない。

 一度家に帰ったときに薬を飲んだが、残念ながらまだ効いてくれる気配はなかった。

「ぜんぜん意味がわからないです……で、誰なんですか? 美人のお姉さんて」

「そんな浮気を追求する嫁さんみたいな顔するなよ……」

「そそんな顔してないですっ」

 相変わらず狙った通りの反応をしてくれるのが面白い。

「官軍の華将軍だよ。ちょっとしたことで知り合ってね。例の匈奴の討伐軍にも参加するらしいから太守様についても聞いてみたんだけど、まだ会ったことがないってさ……どうした? 変な顔して」

「官軍の将軍さまって……ときどき兄さんがすごい人なのかそうじゃないのか分からなくなります……」

「どう見ても凡人の類だろ。自分が一番よく分かってって……あそこか」

「はい、あのお店のようですね」

 前方に見えてきた一際大きな飯店。

 今は食べ物を見たい気分ではないが、あそこが董卓と妹との会談の会場なのだから仕方がない。

 

(董仲穎……か。菊音や華将軍がそうだったことを考えると、やはり女性だろうか? しかし、大将軍の何進は男だということを考慮すると……)

 

「果たしてどういう人物なのかね」

 

 腹をさすりながら、想像を巡らせるのだった。



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第04話 ホントに兄妹なんですか?

(兄さん、ごめんなさい)

 

 食後の甘味を美味しそうに口に運ぶ西平の太守を見ながら、菊音は頭の中でつぶやいた。

 そこは洛陽でも有数の大きさを持つ飯店の一室。貴人や豪商が好んで使うというその個室は、天井から床に至るまで様々な意匠が施されている。後になって三人ともあまり好みでなかったと知ったときは思わず笑ってしまった。

 しかし、そんな和やかさはもうそこにない。いや、その表現は語弊がある。今も西平の太守は優しげな微笑みをたたえて話しかけてくださっているのだから。

 つまり問題となっているのは……。

 

 兄・伯鉄は何か心配していたようであったが、会談自体は終始和やかな雰囲気で進んできていた。西平の太守・董仲穎の人柄は仁君と呼ぶに相応しく、その臣である賈文和も見識高くとても聡明な人物である。

 会談はお呼び出しの理由である官吏摘発のお礼に始まり、長安の件、それに関連した討伐軍の話と続く。その後は、侍御史の職務について、西平の様子、洛陽の政治情勢など色々なことが話題に挙がった。

 長安での行動は非常に危険な行為だったと責められてしまったけれど、最初に年齢を聞いて驚かれていたことを考えると、心配してくれたのだろうことは容易に想像できた。

 二人とも優しい人なのである。

 それがこの場合は運悪く、非常によくない状況を生み出してしまったというだけのこと。

 

(だいじょうぶかな……)

 

 菊音はとにかく、気が気でないといった感じであった。せっかく用意してもらった料理の味も、太守様の話もあまり頭に入ってこない。

 

 公式の話が一通り終わった頃、

『お仕事のお話はここまでにしましょう』

 西平の太守・董仲穎がそう言って場を締めた後は、お茶を頂きながらの歓談に入った。内容は先のものとは違い、洛陽の美味しいお店、流行りの服、涼州のお料理についてなど。それらの他愛ない――しかしとても楽しい話題に打ち解けてきたとき、彼女の一言からそれは始まったのである。

 

 

―・―・―・―・―

 

「あの……お部屋の前にいた人が、あなたのお兄さんの伯鉄さんですか?」

「あ、はい、そうです。って、ええ!? どうして……」

 菊音は思わずお茶をこぼしそうになる。

「長安でちょっとした噂になってたのよ。侍御史田元皓が生き別れの兄と感動的な再会を果たしたってね」

 驚きを隠せない様子の侍御史に、賈文和が主の代わりに答えた。

「そのときに左腕を怪我されたって聞いてたので……そうなのかなって」

 

(どうしよう。兄さんは兄妹だってことは黙っていてくれって言われてたけど。もうばらしちゃった……)

 

「でもよくわかったわよね。見た感じ、年だって結構離れてるんでしょ? 生き別れた時の記憶なんてほとんどなかったんじゃない?」

 先に長安の一件を話したときは、二人とも田鋼については聞かなかった。仕事の話の途中であったからそれは当然といえば当然なのだが、予想していなかった兄の話題に、優秀であるはずの侍御史の頭脳は混乱する。

“とっさの判断に弱い”

 これは本人も自覚しているところではあるが――。

 

「は、はい、その……ほとんど憶えてなかったんですけど、やっぱり兄妹だと何となくわかるものなんだなぁって……」

「…………え?」

 まるで時間が止まってしまったかのように固まる二人。

 外からのセミの声が、止まっているのは二人だけだと教えてくれる。

 

(あ、あれ? 今のってもしかして変だったかな?)

 

「……あの……どうしてお兄さんだと思ったんですか?」

 硬直を解いた西平太守は恐る恐るといった風に質問をぶつけた。

「で、田家に伝わる短剣を持っていたのと、あと……顔の感じが何となく……」

「他には何かありましたか? 例えば……共通の知人がいらっしゃったとか……」

 口調は柔らかく、しかし追求は止まらない。

「ぃぇ……特には……あっ、昔から家に仕えてくれているお爺さんは、兄さんのことを知っていました」

 

「………………」

「………………」

 気まずい沈黙に視線が泳ぎ、両手は服の裾をギュッと掴む。

 侍御史田元皓は汚職官吏の嘘を見抜くのは得意でも、自身が嘘をつくのは下手くそなのだ。

 その様子を心配そうに見て、

「……詠ちゃん」

 西平太守は隣へ顔を向ける。

「月……もしかして……」

 返されるのは多少の呆れと諦めの入った親友の表情。

 それを見て、悪戯が見つかった子どものような顔ではにかみ、

「元皓さんは西平の人たちの恩人でもあるの。……お願いできないかな……?」

 賈文和にとって予想通りの“おせっかい”を頼んだ。

「やっぱりぃ……はぁ~……わかったわよ」

「ありがとう、詠ちゃん」

 ふふっと笑う太守さまを見て、菊音は嫌な予感にとらわれる。

なんだか自分だけが置いてきぼりで、どんどん話が進んでいっている。そんな感じがするのだ。

 ……そして残念なことにその予感は見事に的中していた。

「ねぇ、元皓さん。話した通りボクたち洛陽に来たのは初めてでね。よかったらこれからあなたのお兄さんに案内してもらおうと思うんだけど」

「あ、案内なら後で私が――」

「いいわ。今から出るのはボクだけだから。この後昼食も用意してるから、月と二人で楽しんでて」

“よかったら”とは言うものの、代案はしっかりと遮り、それが当然であるかのように支度を始める。

「え? あの、えと……」

 何とか場をつなごうとするも、賈文和はそんな時間を与えない。

「もちろん本人の許可はとってからにするから安心して。じゃあ月、いってくるね」

「うん。いってらっしゃい。詠ちゃん」

「あ……」

 止める間もなく部屋を出ていってしまう。

 それを見送った後、

「元皓さん、私たちはご飯にしましょう」

「はい……」

 西平太守が微笑んで言うのに、菊音はそう返すより他はなかった。

 

 

―・―・―・―・―

 

「へぇ、優しいお兄さんなんですね」

「は、はい。すぐに人の話を聞かなくなるのは直してほしいですけど……」

(さっきから兄さんの話しかしていない気がします。ま、間違いないです。完全に誤解されてしまってます)

 菊音の疑惑はすでに確信に変わりつつある。

 二人は「田伯鉄は兄を詐称し、田家に転がり込んだ不届き者かもしれない」と考えているのだろう。

 

 河北大和を屋敷に保護するにあたり、赤の他人ではなく兄として迎え入れる。

 

 この奇策は彼女に対して敵意を持った――醜聞を捏造するような人間には相応の効果を発するが、その反面善意に――心配や思いやりといったものにとことん弱いのだ。

 二人の完全な善意からの行為である以上、『被害者』である彼女がいくら言っても「この子は上手く騙されているのかも……」と思われてしまっておしまいである。

 

(どうしよう。太守さまになら真実を話して……でも、あまり人に話してしまうのも……。それにいくらなんでもあんな話をいきなりするのはどうかと思うし……。

 兄さん……上手く切り抜けてくれるかな?)

 

 そんな事は知らんとばかりにセミの声が増す。

 幼き侍御史は少しだけ心が折れそうになるのを感じた。

 

 

 

―・―・―・―・―

 

 少女は運ばれてきた料理の美味しそうな香りに一瞬顔をほころばせるも、すぐにそれを消し、

「あんたは食べないの?」

 目の前の男に向かって言う。

(……やりにくいな)

 大和は感じた。

 しかし、それを顔に出すほど子どもでもない。

「すでに済ませてきましたので」

「そう。なんか悪いわね」

「いえ、どうぞお気になさらず……」

 促されて食事を始める少女を見て、心の中で大きなため息をつく。

 

(どうしてこんなことに……)

 

 会談会場から少し離れた場所にある飯店に二人はいた。

 洛陽の正面玄関である南の平城門。そこから王城へと伸びるメインストリートから適度に距離をとったこの辺りは、様々な商店が集まる商業区域としての機能を有している(田家の屋敷も程近い)。その一角にあるこの店は、先ほどのような貴人御用達といった感じのものではなく、都ではごくごく一般的な大きさのものだ。

 卓を挟んで座る男女を、周りの客は遠目にチラチラと伺う。それもそのはず。男は中の下、よく言っても中の中であるのに、連れているのが都でもなかなかお目にかかれない程の美少女なのだから。

 デートであれば大歓迎だが、残念ながらそんな雰囲気ではない。

 

(疲れた……)

 

 今の彼の率直な感想である。

 

 大和が飯店の廊下で会談の終わりを待っていると、一人の女の子が部屋から出てきた。

 深緑という世にも稀な髪色を両三つ編みに垂らし、眼鏡の似合ういかにも頭のよさそうな美少女。

 名を賈文和というらしい。

 本日二度目の英雄様のご登場である。

 ということはこの子と一緒にいたもう一人の娘が董卓なのだろう。あの部屋に入った人間は三人。消去法でいくとそうなる。

 

(イメージにあったヒゲでデブのおっさんとは似ても似つかないな)

 

 問題の董卓はおっさんどころか「儚げな」という表現が相応しい女の子であった。想像の斜め上どころか遙か上空をいったその姿には面食らったが、心配していたような事態にならずにすんでよかったといえる。彼女が董卓であれば、妹がどうこうされるということはないだろう。

 

『ちょっと頼みたいことがあるんだけど』

 

 部屋から出てきた眼鏡っ娘の頼みごとというのは「近くの散策のお供」つまり「洛陽を案内してほしい」ということであった。

 お供であれば彼女達が連れてきた人達がいるし、彼自身都で暮らし始めて間もないので案内出来るほど詳しくない。そういうわけで断ろうとしたが、それでも構わないと言う。

 薬が効いてくれたのか胃腸の調子も回復してきていたし、貴人の頼みを無下に断るわけにもいかない。そういうわけで承諾したのだが……。

 

 彼女は明らかに大和のことを疑っていた。

 

 初めて来た洛陽の案内。

 これは単なる口実だったのだろう。

 お供としてついてきたはずが、なぜか正体がバレており、ここへ来る途中の会話の大半は田伯鉄の身の上話であった。両親のこと。これまでどこで何をしていたのか。どうやって妹を探し当てたのか等々。長安で耳にした噂の兄妹が気になったからだと言っていたが、普通は興味本位でここまで聞いてこない。

 矢継ぎ早に繰り出された質問。洛陽で生活を始める際に菊音と口裏を合わせていたので、何とか全部答えられた(……と思う)。

 

(しかし、田家に伝わる短剣の話なんかはかなり危なかった)

 冷や汗をかいたことを思い出す。

 しつこく出自を問い質してくる官吏もいなかったので、そんな設定はすっかり記憶の彼方。なんとか引っ張り出せたときは本当に心の底から安堵した。

 

 彼女が質問の答えに納得したのかは分からない。というより田伯鉄の話が真実か否か、彼女には判断のしようがないだろう。

(なら、なぜそんな無駄なことを?)

 食事をする少女を視線だけを動かし見やるが、その真意は読み取れない。

 ともかくその質問攻めもようやく一段落がついた。聞いてみると昼食がまだだというので近場の飯店へご案内。そして今に至るというわけであった。

「そういえばボクばっかり話しちゃってたけど、伯鉄は聞きたいこととかはないの?」

 賈文和は食事を中断して、初めて会話の主導権を渡した。

「そうですね……」

 大和は突然の展開に何かあったかと考え、一つ思いつく。

「どうして洛陽にいらっしゃるんですか?」

 これは聞いてみたかった。

「どういうこと?」

「すみません。聞き方が悪かったです。長安の一件に関連して討伐軍が組織されることが決まったのは昨日のことだと聞いています。それなのにもう洛陽に到着しているのはどうしてかなと」

「ああ、そういうこと。大将軍に呼び出されたと言えば分かる?」

「……十常侍……ですか」

「へぇ……」

 一瞬輝いたように見えたのは眼鏡か、その奥の琥珀色か。

「いや、ここに暮らしていればそれくらいのことは……」

 

 後漢の都洛陽。

 その権勢の集中する場所では、熾烈な権力争いが展開されている。

肉屋から皇后の兄として大将軍にまで昇りつめた何進と、帝のお気に入りの宦官の集団である十常侍。この両者の確執は日増しに強くなってきている。

 成り上がりで股肱の臣のない何進としては、手元に自分の手駒が欲しいのだろう。その為に辺境の太守を呼び寄せるというのはあり得る話ではある。

 演義や正史では、彼が大将軍になるのも董卓を呼び寄せるのも、もう少し先のことだ。

 

(大将軍就任に関しては分からないけど、董卓招聘の時間的なズレの背景にはこの世界特有の事情が絡んでいるのかもしれない)

 

 それは地方官を除いた官職――中央官職の一部形骸化である。

 例えば袁紹が任じられている司隷校尉(これも演義等とは就任するタイミングが違う)は、洛陽と長安を取り巻く七郡を統括するのであるが、彼(彼女?)は冀州の南皮にいて、司隷にはいないらしい。

 つまり中央の官職の一部はあくまでも名誉的なものであり、実際にその官の実務を行うわけではないのだ。実を伴わない名という点では、日本の大名たちが朝廷からもらっていた官位と同じと言えるだろう。

 

 よって、ここ洛陽には袁紹も曹操もいない。

 中央の官職に就いて洛陽にいるはずの英雄達は、官職こそ元の世界と同じものに就いていたりするものの、ほとんどが地方官として各地に散っている。

 もちろん、それらの官職が実務を必要としない名だけのものになっているとしても、実務自体が無くなったわけではない。中央で独自に登用された官吏や将軍が違った役職名でそれらの実務を執り行っているのだが、その多くは十常侍たち宦官の息がかかっている。

 

(となると何進が味方を増やすために採るべき方法は自ずと限られてくるよな。都で無名の董卓を使おうとするのも、おそらく宦官達の影響を受けていな――)

 視線に気づく。

「あ……すみません」

「……べつにいいけどね」

(「西施の顰み」とは言うけど、美少女ってのはどんな顔しても魅力が損なわれないんだな……って、そうじゃないだろ)

「はぁ。何か気が抜けちゃったわ。大将軍にお呼ばれして洛陽に来たってとこまでよ。……でもまぁ、結局大将軍のご期待には添えなかったわけだけどね」

「ということは太守様の討伐軍参加は十常侍の意向ですか」

 大和の言葉に少しだけ目を大きくし、

「……頭がいいのか悪いのか……まぁ、いいわ。その通りよ。おかげで西平にとんぼ返り。嫌になっちゃう」

 溜息とともに不満を吐き出す。

「お気持ちお察しします」

(西平ってそんなに都に近いわけでもないしな)

 大和は他人事に考えた。

 ヒモ状態で職無しの彼としては、卒業した先輩の職場の愚痴を聞いている気分なのである。

 賈文和はよほど不満が溜まっていたのか(それでも声の大きさを落とす辺りは流石というべきか)、さらに続ける。

「でも、悪いことばかりでもないのよね。何の実績も無いまま洛陽にいれば、大将軍にいいように使われるだけだっただろうし。それに討伐軍の件がなかったとしても、結局何か理由を作られて帰されてたと思うわ」

「なるほど、確かに」

 十常侍は良くも悪くも政治を知り尽くしている。大将軍になって日が浅い何進よりも、役者は数段上だろう。

(しかし、戦争か)

 お気に入りのとうもろこしのひげ茶を口に運ぶ。

 

 董仲穎も賈文和も、大和よりも恐らく年下の女の子である。

 その二人が兵を率いて戦うのだ。当然ながら、命を懸けて。

 

(やるせないな……)

 

 異世界に来てしまったという事実を再認識させられた。

 そんな思いだった。

 

「……どうかした?」

「いえ、なんでも……。では、西平に帰られたらすぐに出陣ですか」

「そうなるわね。ま、とにかくボクは月のために頑張るだけよ」

 そう言って年頃の娘のように笑う。

 

(なんだ。やっぱり笑った方が可愛いじゃないか)

 

 さっきまでの重い感じは何処へやら。

 不覚にもそう思う。

 

「ゆえ」というのはおそらく董卓の真名なのだろう。

 賈文和が初めて見せた笑顔には、彼女に対する深い親愛の情が溢れていた。

 

 

 

―・―・―・―・―

 

「詠ちゃん。伯鉄さんはどうだった?」

「本当の兄かどうかはなんとも言えないわ。ただ、そうね……悪いやつじゃないと思う」

 田伯鉄とのやりとりを思い返す。

 そう、悪い男には見えなかった。

 少なくとも親友が心配しているようなことをする人間ではない。

「よかったぁ」

 相好を崩すのに、詠は呆れたように、けれどどこか嬉しそうに苦笑する。

「頭はなかなか切れるみたいだったけどね。でもいきなりぼーっとして話を聞かなくなったり……とにかく変なやつだったわ」

 飯店の一件を思い出していると、

「ふふふっ」

 可笑しそうに笑っている。

「どうしたの? 月」

「ううん、元皓さんの言ってた通りの人なんだなって」

「……妹にもあの調子で迷惑かけてるのね、あいつ。あれじゃ苦労しそうだわ」

「もしかして……伯鉄さんのこと気に入ったの?」

 親友の訳がわからない言葉に、何も無いところで躓きそうになる。

「まさか! どうしてそうなるのよ」

(いきなり何を言い出すかと思えば……)

「だって、楽しそうな顔してたから」

「無位無官の相手だから気を使わなくていいってだけよ。顔も好みと違うし」

「ふふっ。わかったよ、詠ちゃん」

 微笑む親友を見て、

(……あやしい)

 長年の付き合いからそう考える。

 

「でも……余計な心配だったかもしれないね」

 親友が振り向くのに合わせてそうすると、そこには並んで帰っていく田兄妹。

 帰り際に西平太守に対して「想像してたよりも全然かわいい」などと言ったことを怒られているのだろうか。それともまた別のことか。二人はじゃれ合いながら歩いている。その姿は確かに……。

「だってどう見ても本当の兄妹だもん」

「……そうね」

 

「また、会えるかな」

「会えるわよ、きっと」

 

 

 

「明日も……人と会うんだっけ」

「そ。官軍の将軍たちとね。作戦会議が終わり次第、西平に帰還になると思う」

 

「……戦争……しなくちゃいけないんだよね……」

 

「最低でも一回はね。……大丈夫よ。月にはこの賈文和がついてるんだからっ」

 

 絶対に傷つけさせたりしない。

 

 そう、例え相手が誰であっても。




 この小説のスタンスというか、そういうところをまず書くべきだったのに書いていませんでした。今回の後書きを借りて書かせていただこうと思います。

【本作について】
 恋姫†無双は元がご都合主義の18禁ゲームの為、突っ込みどころが非常に多いです。なので揚げ足取りというか、設定を使ったアンチは非常に簡単といえます。少し史実要素、現実要素を加えてやればあら不思議。愛すべきキャラが非常識な人間になったり、とんでもない悪党になったりしちゃいます。
 本作ではそれはやりません。
 基本的に独自解釈・設定は恋姫設定の肯定と補足のために使います。

「こうで、こうだからこういうふう(恋姫設定)になってます」
 もしくは、
「こう(恋姫設定)だから、多分こんなふうになってるんです」
 みたいな感じです。

 洛陽を最初の舞台に選んだのもその為です。
 今回少し出した官職の名誉職化とかの支配体制部分を語りやすいってのもあるんですが……例えば女性が活躍する世界だからということで二次創作中にたまに出てくる「女尊男卑」の問題。
 これを取り上げる場合、陳留とかでやっちゃうと「曹操って差別主義者なのかよ」ってなっちゃいますが、洛陽だと「地方と違い、古い因習を捨て切れない旧体制」という具合に、原作キャラにほぼダメージを与えることなく説明できたりします。というか、むしろそういう汚れ役にこそオリキャラを使うべきでしょうね。

【オリキャラについて】
 オリキャラについては暴走を防ぐためにルールを決めています。

・登場させるのであれば、基本的に『原作内で存在を示唆されていた人』もしくは『原作開始時に死んでしまっている人』にし、原作にまったく描写がない人物の登場は可能な限り避ける。

 というものです。
 例えば、水鏡先生に元直ちゃん、管輅、劉璋、張譲などの原作で名前が登場している人物、また、存在について言及されている帝や十常侍など、そして皇位継承者などの当然いるだろう人物が登場したとしても、郭図や審配、沮授なんかは基本的には出てきません。
 田豊はこの基本ルールに反する例外なので、作中で管輅に語らせた通り「主人公が来なきゃ死んでた女の子」つまり「存在はしたけど物語には関われなかった人物」という設定にして原作との辻褄をあわせています。
追記:英雄譚で田豊がキャラとして出たので、英雄譚とは辻褄あってないです……。

「オリ主が来なければ原作通り」が基本姿勢です。
 もちろん、作品内で名前を出さないだけなので、いるかいないかは皆さんの想像にお任せします。

【主人公について】
 一時期一刀で本編再構成を考えていたのですが、人物像を掴みきれなかったのと、ハーレムが書けそうになかったので断念したという経緯があります。
「皮を被るくらいなら……」ということで、いわゆるオリ主になりました。設定解釈ものの場合、モテすぎるイケメンでは話が構成しにくいというのも理由の一つです。そんなことより朱里に五回連続! とかいう話になってしまうので……。
 あと、現代知識を持っている人間が一人だと、結局ワンサイドゲームになってしまいそうだからというのもあります。もう一つ理由があるのですが、それはネタバレになってしまうので。

 名前の元ネタは中華人民共和国河北省に本拠を置く実在の企業です。なので名前は当初「公司」だったんですが、それじゃあんまりだってことで「大和」になりました。主人公なのに不遇な奴です。
 因みに彼の言う「元の世界」というのは、こっち(現実)ではなく、一刀が学校生活を送っていた世界になります。


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第05話 ヒモの汚名を雪げ

「えーと次は……三角関数か。……紙も消耗品ってわけじゃないのにどうやってここまでたどり着いたんだ……? 考えた人天才だろこれ」

 部屋の中でひとり机に向かいブツブツと何やらつぶやいている大和。端から見れば、完全に不審者である。

 どうしてこんな状況になったのか。

 それは一月半ほど前、彼の妹と西平太守の会談があった、あの日まで遡らなければならない。

 

 

 

―・―・―・―・―

 

「そうか。太守様、ホントに良い人だったんだな」

「はい。とてもお優しくて素晴らしい方でしたよ」

「けど何で正体がバレてたんだろう……」

「そ、そんなことはどうでもいいじゃないですかっ」

 董西平太守との会談を終えて屋敷へと帰ってきたものの、田元皓は半ドンで午後の予定はなく、無職の大和もさして重要な用事は無い。本人にとっては本当に悲しことだが。ともかく、久々に二人でゆっくりできるということで先の会談の様子など、お茶を飲みながら歓談している。

 それはいつもと何ら変わらないおなじみの風景。

 しかし、大和としてはこのままお話とお茶を楽しんで終わり……などということにする気は毛頭無かった。

 田伯鉄は、一つの重大な決心をしてここにいる。

 

 働きたいのだ。

 どうしようもなく。

 

 もう、色々と限界だった。

 読み書きの能力も高くなってきたので、何日か前から就職活動をしているのだが、まったく上手くいっていない。それはもう見事なまでに。

 そんな焦りが出てくる中、偶然出会った将軍様には「ちゃんと職探せば?」などと言われてしまう。

 挙句の果てに眼鏡っ娘賈文和様である。

 

『伯鉄。はいこれ』

 差し出されたのは小さめの袋。

 可愛らしい花柄のそれからは金属同士が触れ合う音がする。

『……これは?』

『案内してくれたからね。そのお礼よ』

『案内といっても正直何もしてないですよ?』

『いいのよ。わりと楽しかったし。いいからとっときなさい』

『いや、でも……』

『あぁもう! 面倒くさいわね! 仕事もないんでしょ? 素直に受け取りなさいよ』

 

 …………

 

(……働きたくなくてこうなったわけじゃないさ……)

 大和は最初、国に仕官しようと思っていた。

 高3まで野球にかまけてたとはいえ、勉強もそれなりにはできるし、持っている未来の知識があれば何かと役に立つはずと考えたからだ。しかし、それはそんなに簡単なことではないとすぐに断念させられる。後漢に似たこの世界では、「実務が出来るかもしれない」などという理由で採用はされないのである。

 官吏になるためにはまずその採用試験に受からなければならないが、ハッキリ言って彼がそれに合格するのは不可能に近い。官吏を目指す人間は幼いころから『孝経』『論語』を学び、『詩』『書』『春秋』『易』『礼』などを修めていくのだが、田伯鉄にはこれらの知識教養が足らなすぎた。まともに目指していたらよくて数年、下手をすれば一生かかっても無理かもしれない。

 郷挙里選という、いわゆる推薦制度のようなもので地方から採用される方法もある。が、どちらにしろ先に挙げた教養等が足りないし、なによりこれまでの経歴がでっち上げの男が推薦されるはずもない。出生もデタラメな上、名声も地盤も全くないのだ。

 では民間に就職は?

 それも上手くいきそうにない。腕を怪我しているのがネックになっているのか、どこも感触は悪かった。

 こうなってくると残された道は、左腕の回復を待つか縁故採用に頼るかとかになってくるのであるが……。

 完治にはあと一ヶ月ほどかかるらしく、すぐにこの状況を変えることはできない。縁故採用の方はというと――異世界人の大和にとって、頼れる人は限られてくる。

 すぐに思い浮かぶのは華将軍と妹の菊音。

(華将軍の仕官話はありがたいけど、すぐに進む話じゃないので却下。菊音は……)

 危険を冒してまで長安に捜査に出向いてしまう。そんな正義感の塊のような彼女が、裏口入学的なことを許すとも思えない。

 まさに八方塞がり。

 知恵をいくら絞っても打開策は生まれてこない。

 できれば一人でどうにかしたかったが、それももう限界。

 とにかく一度相談することにしたのだった。

「なぁ、菊音」

 湯のみを置き、姿勢を正して相対する。

「なんですか?兄さん。そんな改まって」

 小首を傾げる妹を見て、

(よしっ! 一歩を踏み出そうじゃないか! ヒモ生活からの脱却のために!)

 膝の上で握りこぶしを作る。

 全然かっこ良くない決意をする自分に泣きたくなるが、そんなことも言っていられない。

「実はその……大事な相談事があるんだ」

「……何でしょうか?」

 長安以来見たことのない、兄のこの上なく真剣な表情に気づいたのか、声のトーンを落として聞き返す。

 それを見た大和は一つ大きく深呼吸をして、

 

「働きたいんだ、俺」

 

 静かに切り出した。

 

「え?」

 

「どうしようもなく働きたいんだ……」

 

 声を絞り出して言うと、

「兄さん、お仕事を探してるんですか?」

 などとお聞きになってくる。

(頼む……頼むからやめてくれ。「働かなくてもわたしが稼ぐのに……」みたいな目で俺を見るのは)

 自分を形作っている何かが音を立てて崩れていくのを感じる。

「でも、べつに困ってないですよ?」

(それはそうだろう)

 大和は思った。

 というのも、妹・田豊はなかなかの高給取りであるにも関わらず、郎党のようなものをもっていないし、ちょっとしたオシャレをしたり本を買ったりする以外には特にお金を使おうとしないからである。貯蓄もかなりあるらしい。彼女にとって、男一人養うことは大した負担ではない。

 大きな負担がかかっているのは彼女の財布ではなく、河北大和の小さくもちゃんとそこにある自尊心であるとか、その辺りである。

 つまり、

「俺が困ってるんだ」

「おこづかいが欲しいなら言ってくれれば……」

「…………」

(惜し……くないっ! 全然違う! そうじゃないんだ……そうじゃなくて……)

 

 軽くめまいを覚えるが、ここで諦めるわけにはいかない。

 大和は妹に一生懸命に、まるで厳しい親に初めてのバイトを認めてもらおうとする高校生のように、「働きたい」ということを訴えた。こんなに熱心に人を説得したのは、東京の大学に行くことを親に認めさせたとき以来かもしれない。

 熱意が伝わったのかなんとか理解してもらうことができ、無事本題に入れたが、その頃にはかなりの気力を消耗してしまっていた。

 

 何はともあれ、二十からのハローワーク開始。

 

……

………

 

「――というわけで、官吏になるのは教養的な問題で無理だと思ったんだ。それで民間を受けてたんだけど……怪我のせいかこれも思うようにいかなくて……」

 二十の男が、椅子に座ると足も届かないような子どもに就職の相談をしている。

 ものすごい絵面である。

 だが当人は必死も必死。「田鋼のすねかじり」はご近所でも周知の事実なのだから。

「民間っていうのは、商家とかのことですか?」

「うん。読み書き計算が出来るからいけるかなって思ったんだけどね」

「……無理ですよ。兄さん」

 妹は顔を曇らせる。

「どうして?」

「それは、その……」

 うつむいた後、

「わたしが侍御史だからです……」

 申し訳なさそうに上目遣いで言った。

「えーと、それは」

 

(どういうことだ?)

 

「恥ずかしい話ですけど、洛陽では賄賂が横行していて……大きいお店の多くは公卿や宦官に多額の心づけを渡してます。昨日お話しした通り、侍御史は監察と弾劾の官ですから……」

「そんな職に就いている人間の兄を雇うわけにはいかない、か」

「……はい。あとはやはり官人の兄というのは色々と使いづらいというのもあると思います。小さいお店にとっては、こっちの理由の方が大きいです……」

 怪我が要因だと思っていたけど、それは建前。

(少し考えれば分かりそうなのに……まぁ、それだけ焦ってたってことなんだろうけど)

「あの……ごめんなさい、兄さん」

「いやいやっ! 謝らないでくれよ! 菊音には感謝することはあっても――というか、感謝しかないから!」

 望んでもいない謝罪に慌てる。

 これは本音だった。世話になりっぱなしなこの子には、きちんと恩を返したい。そういう思いもあって、職を探している。

(しかし、困ったな)

 怪我の有無に関わらず民間への就職が無理ということになると、あとは華将軍の紹介による軍への就職くらいしか残された道はない。

 

(……軍隊か)

 

 思い起こされるのは厳しい訓練風景ではなく、美貌の色白将軍とあの濃厚なラーメンの匂い。

 

(うっ……ちょっとぶり返してきた)

 

 急いでラーメン臭を将軍様とともに頭から追い出す。

『おいこらっ! 伯鉄!』などと騒いでいるが、大和は無視することにした。

 

 腹をさすりながら前を見ると、

「う~ん」

 両腕を組んでうんうん唸っている。

 もちろん真剣なのだろうが、どうにも可愛らしさが勝ってしまって威厳がない。

 本人も気にしてるようなので言わないが。

 と、その菊音がパッと顔を上げて、

「兄さんは『学校』というところで勉強してたんですよね?」

 いいこと思いつきました! という感じで大和に聞く。

「あ、ああ、昨日の夜に話した通りだよ。野球ばっかやってたけど、勉強もそれなりにはしてた。というか、やらされてたと言った方がいいけど……」

「その『学校』では、算数も教えてもらってたんですよね?」

「うん。数学とかって名前でね」

 そう。

 だから書き言葉をそれなりに覚えた今、田伯鉄は一応一通りの読み書き計算ができる。

 それを職探しに活かそうと考えていたのだが……。

「ちょっと待っててください」

 何か考えがあるのか、椅子からちょこんと降りて、傍らに置いていた鞄から何かを取り出そうとしている。

(ってあれ? それは……)

「鞄、使ってくれてるのか」

 その見覚えのある肩がけ鞄は、かつて大和が通学に使っていたお気に入り。洛陽で暮らし始めるときに、他にお礼になるものが無かったので(もちろん教科書等の中身を抜いて)彼女にプレゼントしたものだった。

「はい。これ、すごく使いやすいです。とくに『ちゃっく』っていうのがお気に入りで。……ほんのちょこっとだけわたしには大きいですけど」

(いや、普通に結構大きいと思います。それデスクノートも入るやつだし)

 

「たしかここに……あっ! あった」

 戻ってきた彼女が手にしているのは一冊の本。

 題名は『九章算術』とある。

「それは?」

「この国の最高峰の、様々な算数が集められた問題集です。太守様に会う前にお友達から借りてきたんです」

 九章算術を卓上に置いて続ける。

「昨日の夜、元いた世界について詳しく話してくれたじゃないですか?……わたし、前から兄さんがいた世界のこと聞きたかったんですけど……なかなか話してくれなかったし。だから昨日はとてもうれしかったです。……ま、真名で呼んでくれたのはもっとうれしかったですけど……」

「ん……うん」

 あらためて言われると言いようのないむず痒さを感じる。

「そ、それで、お話の中の『学校』っていうのがすごく気になったから」

「どれくらいのものか知りたくなったと」

「はいっ。だって国の人みんなが勉強できるんですよね? それってすごいです!」

 興奮した様子で身を乗り出す。

 現代日本に暮らしていると、受ける側の人間にとって義務教育なんかは名前通りの『義務』でしかなかったけれど、やはり教育を受けられるというのは幸福なことだったのだろう。もっとまじめに勉強していてもバチは当たらなかったかもしれない。大和はほんの少しだけ後悔した。

「それで、その九章算術って本を使って一体何を? 俺の算術の力をはかるとか?」

「はい。その通りです。兄さんの力次第では働きたいという願いも実現できます」

 自信ありという感じの菊音。

 しかし、

「でも、仮に算術の能力が高かったとしても、それを発揮する場がだな……」

「なければ作っちゃえばいいんですよ」

 言い切らぬうちに言葉をつなぐ。

 

(作る?)

 

「つまり……?」

「私塾を作っちゃうんです」

「しじゅく?」

 予想外の言葉に一瞬呆気にとられる。

(しじゅく……私塾。私塾ってあれだよな。吉田松陰とかがつくってたやつ)

「いくらなんでもそれは難しくないか?」

「どうしてですか?」

「どうしてって、誰も生徒は来ないと思うけど……」

 いくらなんでも、こんな無名の男の塾に来てくれる物好きはいないだろう。

「だいじょうぶです。なんとかなりますよっ」

 

 

 

―・―・―・―・―

 

「いつでもどうぞ」

 場所は変わって屋敷の書庫兼書斎。いよいよ算術テストの開始である。

 大和は正直なところ不安はあまり感じていなかった。古代中国の数学がいくら世界的にかなり進んでいたとしても、1800年近くも前の時代なのである。

 

 そんなに難しくはないだろう。

 

 と、高をくくっていた。

 しかし、それは極めて甘い判断だと言わざるを得ない。

 二十年かけて作り上げてきた常識という名の物差しは、あくまでもあちらの世界を基準にしている。後漢の服屋にブラジャーが売られている時点で、そんなものは捨ててしまうべきだったのだ。

「では、まずはこの辺りで」

 小さい手で答えを隠した状態にして差し出されるのは、先ほどの九章算術。

 

(……おいおい、なんだこれは)

 

 信じられない物を見た。

 大和の表情を一番よく表現する言葉はそれであった。

 無理もない。そこにあったのは数Ⅱの中でもかなり高度な問題なのである。紙も書物に使うのが主で、消耗品として浪費するには高価に過ぎる。そんな中で、どうやって図などを使う高等数学が成立するというのか。

 ここに至って、大和は自分の常識などこの世界では全く意味を成さないのだと思い知らされた。

「兄さん?」

「……ああ、何でもない。始めるよ」

 

 二次関数、数列、統計、微分、積分、etc……。大学受験時に詰め込んだ知識――入学とともに薄れていくそれをフル動員して、大和は問題に挑む。

 テストは現代の時間に換算して約三時間、みっちりと行われた。

 果たしてその結果は……。

 

「合格ですよっ。兄さん」

「本当に?」

 採点を終えた妹の第一声に、喜びの前に「本当なのか?」という疑念が持ち上がる。例えるなら、

『面接が上手くいかなかったと感じていた会社から採用の知らせを受けた』

 そんな感じである。

「結構間違えたと思うんだけど……」

「全然問題ありませんよ。これなら私塾も開けちゃいます」

 大和とは対照的に嬉しそうに言う。

 それでも納得のいっていない様子の兄に、田豊は、

「算術っていうのは学問の中でもかなり特殊なんですよ」

 喜びの感情は消さず、弟子に諭すかのように語り始めた。

「ある程度まで到達すると、研究とか証明でどうしても紙が必要になってきちゃいます。紙は使い捨てちゃうには高価すぎるし……それに使う人自体が少いので、高度な算術書というのもほとんどありません。基本的にお金持ちの人とか、代々天文に携わってる人とかでなければ、算術を極めることはできないんです」

「……なるほど、俺の算術の力でも教えることはできるってことか」

「例えば兄さんが最後に解いてた問題なんて、天文のお仕事とかをしたりしない限り、必要ないですよ」

 

(ん?)

 

「それじゃあ、やっぱり生徒なんて来ないんじゃないか? 必要水準の算術を教えるところなら、他にも沢山あるだろうし。それならあっちの世界の知識で使えそうなのを見つけて――」

「あっ」

 途端に妹の顔が曇るのに、

「やっぱりそう簡単にはいかないかなぁ」

 肩を自分で揉みつつ言う。

「…………」

「菊音?」

 いつものボールが跳ね返ってくるかのような反応がない。

「あっ、いえ……私塾は開けると思います。高等算術まで人に教えてくれるところは荊州の水鏡さんのところくらいですし……それに……」

「それに?」

「ち、ちょっとお仕事が残ってるの思い出しちゃいました。部屋へ戻って仕上げちゃいますね」

「お、おう。わかった」

 慌てた様子で――彼女お得意の明らかな嘘をついて、部屋を出ていこうとする。

「……私塾は兄さんの思うようにして下さい。わたしは協力します」

 戸の前で振り返ってそう言った妹。

 表情が冴えないのが気がかりだった。

 

 

 

―・―・―・―・―

 

「あーくそ。ここで間違ったか」

 答えを見て、頭をかく。

 大和はあれから毎日、この国特有の算術用語と数学の確認作業――簡単に言うところの"お勉強"に追われていた。

 

(しかしまぁ、自分から勉強するとか信じられないな……)

 

 そんなことを考えるとなんだか情けなくなってもくるが、それもあともう少しの辛抱かもしれない。

 田伯鉄は近いうちに算術専門の私塾を始めることになっている。場所はここ、田家のお屋敷。離れを少々いじっただけの簡易的なものではあるが、教室も完成済である。

「ここで……こうだ。……うん、こっちはあってるな」

 自分の導き出した数と答えが一致するのを見て、ひと安心する。

 その右手に握りしめられているのは算盤だ。

 

『算術ができたとしても、やっぱり算盤を使えないと……』

 

 そう菊音に指摘されてからは、毎日が数学の勉強及び算盤練習の繰り返しであった。

 確かにその通り。いくら計算が合っていようが、出来るだけ紙の消費を抑えられなければ、とてもではないが算術家とはいえない。この世界の計算機である算盤を使いこなすことは、基本中の基本なのだ。

 故に教本を読み込んで算盤の基本を覚えた大和は、それを使ってひたすらに問題を解き続けるという苦行を己に課していた。

「ふぅ~」

 区切りのいいところまできたので、算盤を置き、手の平を組んで上に大きく伸びをする。かつて煩わしさしか感じなかった勉強が、心地良い疲労感と達成感に変わっているのが不思議だった。

 首を回せば、小気味いい音を立てる関節。そのなんともいえない感触に目を閉じていると、

「伯鉄様、お茶をお持ちいたしました」

 後ろから聞き覚えのある声がかかる。

 振り返ると思った通りの顔がそこにあった。

「ああ、爺さん。ありがとう」

 目下の者にすぐに礼を言う。

 似たもの同士な兄妹に老使用人は苦笑して、

「進み具合はいかがですかな?」

 お茶を置きながら問いかけた。

「いや、それがなかなか。算盤なんて使ったことがないしね」

「算盤も無しに算術を勉強されたのですか?」

「あ、いや……地面に書いて勉強してたんだよ。お金もなかったから」

(あ……あぶない……)

 

 家に妹がいないとき、話し相手になってくれるのは主にこの老使用人である。主の兄にも気楽に話しかけてくれる彼を、大和は妹同様に気に入っていた。

「でも、入塾希望者は相変わらず集まらなくてね。宣伝の仕方が悪いのかな」

「入塾希望者……ですか」

 長いあごひげを撫でながら、老使用人はつぶやく。

 そう。いくら勉強しようが、教える相手がいなければ「お金を稼ぐ」という目的は達成されない。それではどうしようもないのだ。

 

(どうしたもんかな。街にポスター貼るわけにもいかないし……)

 

「一つ」

 

 考えていると、声が響く。

「え?」

「一つ、有効な方法がございます」

 老人はひげを撫でる手を止め、真剣な面持ちで主の兄を見つめる。その瞳の奥に燃えるものを感じ、大和は続きを促した。

「この方法は使用人としての立場からはとてもおすすめ出来ません。ただ、"そういうもの"を抜きでと仰るのであれば、是非ともあなた様に成し遂げていただきたいと思うのです」

「なんというか……とりあえず、聞いてみなくちゃ答えようがないよ」

 いつもと違う雰囲気にぎこちない笑みで返すと、

「それは……ははっ。仰る通りでございますね」

 自分の様子が可笑しかったのか、表情を和らげた老使用人。

 彼は窓から雲が流れていくのを眺めながら――しかし、もっと遠くのものを懐かしむように目を細める。

 

 

「かつて洛陽(ここ)で官吏として働いていた私にとって、それは悲願でございました。

 伯鉄様が気にかけられている元皓様の様子の変化の答えも、おそらくそこにあります」

 

 

 あれほどうるさかったセミの声は、もう聞こえない。

 

 算術を主軸とする何でも屋「田算塾」が開かれたのは、それから十日後のことだった。

 

 

 

―・―・―・―・―

 

「――じゃあ、解いてみて。あ、計算が終わった人は手を挙げてね」

 大和の声に、生徒達は一斉に算盤を弾き始める。

「ふぅ……」

 

(大分慣れてきたかな)

 

 机に肘をつきつつ思いながら、教室を見渡す。

 妹より少し上くらいの子もいれば、中年、壮年の男もいる。儒学中心の通常教育課程からは外れた――算術に特化した私塾なので年齢層はバラバラだ。

 目線を下ろすとお気に入りの腕時計。女性がそうするように内向きに巻いているのは、本を構えたまま時間を確認出来るようにするためである。デジタル表示された数字の羅列は、授業終了の時間が近いことを示していた。巻かれているのは左手首。長安の事故での骨折はすでに完治し、不自由なく使えている。

 パチパチと珠を弾く気持ちいい音の後、ほどなくしてほぼ全員の手が挙がった。

「大体みんな解けたみたいだね。ああ、解けなかった人は気にしないでいいよ。まだ教えてないところだから」

 その言葉に何人かがホっとした顔をするのを見て、

(まだ生徒同士で学力差があるか。まぁ、これだけ年とか違えば当たり前だけど……補講とかもした方がいいかな。入れるとしたらあの時間帯は――)

 などと教師らしく考える。

 算塾を開いてすでに二ヶ月くらいが経過。新暦であれば年越しも近い。

「にしても早くなったなぁ」

「先生の教え方が上手いからね」

 お調子者の少年が言う。

 駆け出しの先生である大和にとって、生徒からのこの言葉はとても嬉しい。

 が、しかし。

「おだててもダメだ。お前はちゃっかり隣の答え覗いてただろ。ちゃんと見てたぞ? 罰として宿題出しとくからな」

「うぇ~やぶへびだぁ」

 オーバーに嘆く少年の様子に、どっと上がる笑い声。それに合わせて大和も笑う。同じ志を持つ者が多いからか、年齢が離れていても生徒同士仲良くやってくれている。これは非常に喜ばしいことであった。

「あー、静かに静かに。……じゃあ、どういう答えになったかな?」

 場を締め、一番後ろに座った青年に問いかける。

「私ですか?」

「うん」

「はい、大きい方が一本あたり八銭で三十本。小さい方が七銭で四十八本です」

「すばらしい、正解だ」

(彼らの期待を裏切らないためにも、これからも勉強し続けないと)

 自分を教師として見てくる生徒達の視線に、思う。

 元の世界のときと同じ、義務感からの勉強。それなのに、沸き起こってくるやる気が全然違うのは一体どういうことだろう。受験のため、お金のためときて、今では生徒のためというところが大きい。

 

(ホント、以前の自分に今の生活をみせてやりたいな)

 

 元の世界にいたときの勉強嫌いだった自分と、毎日必死に勉強しているここでの自分。そのギャップに思わず笑いそうになる。

 信頼を失う恐れからか、算術家としての名誉を求めてか、はたまた彼らを一流にしたいという教師としての想いからか。

 どれもが正解のように思えるが、どれとも違うようにも思う。

 

(……理由はまぁ、大した問題じゃない。とにかくやれることをコツコツと、だ)

 

 凡庸な己を天才と信じてくれている彼ら。

 大切な生徒達を前に、新米教師は決意を新たにする。

 

 

 

―・―・―・―・―

 

「にしても……どうにかならんかなぁ、これ」

 庭石に座り込んで九章算術を広げながら、大和は独りごちた。

 午前中の授業を終えて、質問や補講の対応をした後は少し遅めの昼食をとり、午後の授業までの待ち時間は、ここで授業内容の確認をする。その一連の流れはいつの間にやら習慣となっていた。

 今日はあと一コマ授業があるが、開始まではまだ大分時間がある。

 手にしたそれは、算術家・田伯鉄にとっての相棒。蛍光色の付箋が大量に飛び出していて、どのページにも綺麗とはいえない字で所狭しと書き込みがしてある。

 妹が友人から買い取ったという算術書――値段も茶を噴き出すほどに高いそれを汚してしまうのはどうかとも思ったが、当の菊音に、

『兄さんにあげたんですから気にしないでください。……役立ててくれるならそれでうれしいです』

などと言われたこともあり、ありがたく使わせてもらっていた。

 この大量の付箋と書き込みの理由は実に簡単である。

 

(人にものを教えるってのがこんなに難しかったとは……)

 

 田算塾頭は天を仰いだ。

 私塾を開くことが現実味を帯びてきた頃から今日まで、それを毎日思い知らされている。現代数学の知識があればなんとかなるなどという考えは幻想だった。なんの苦労もなく、要所だけをかいつまんで素晴らしいものを作るなどということは不可能。妹に勉強を教えるのと、複数の人の前で授業をするのとでは難易度が全然違うのである。それほどまでに、「授業をする」というのは難しい。

 

「こんなことなら教職課程とっておけばよかったな……」

 

 教科書やカリキュラムがあればそれも多少は楽になるのだろうが、この時代にそんなものはない。ないものは自分で考えるしかないのだが、これがかなりの重労働なのである。

 それをさらに難しくする要因が一つ。それは九章算術や既存の算術書どころか、全ての書物に当てはまるものだ。

 

 すべて中国語、つまり漢字で書かれている。

 

 これはアラビア数字に慣れ親しんだ大和をかなり苦しめていた。

 一度組み上げてきたものを更地にするのは非常に難しい。「漢字で計算するんですね。はい、わかりました」とはいかないのだから。

 私塾の開校は見切り発車なところが多分に存在したので、未だに空いた時間のほとんどはお勉強に費やされている。それも苦労して計算した途中式、結果を漢字に変換しながら行わなければならない。

 その上で今後の流れを考慮に入れつつ、日々の授業内容を考えるのだ。

 極めてデリケートかつ面倒な作業だが、人にものを教える以上は当然求められてくるものなのだから、仕方がない。

「……ふぅ」

 ぼんやりと空を眺めていると、並んで飛ぶ鳥が視界を横切る。

 この世界の空は広い。高層ビルなどの無粋な遮蔽物はなく、青く清く澄み渡っている。

 

(とにかく時間が足りないんだよなぁ)

 

 仲良く飛んでいくのを目で追いつつ思う。

 時間は有限であるというのに、「やりたいこと」、「やらなければならないこと」は山のようにある。

 勉強はこの先もずっと続けていかなくてはいけない。これは確実だ。

 今はこの世界の算術を教えるので手一杯であるが、生徒達の仕官や仕事を助けるために、新しい帳簿の書き方であるとか、元の世界の知識を使った実用的なことも教えていきたい。

 妹が勧める高等数学の教科書の出版だって面白そうである。それを授業で使う教科書にして――。

 

(……あれ? やっぱりちょっとおかしくないか?)

 

 もともと私塾開校の目的はお金と……。その稼いだお金にしろ、恩返しの他は帰還方法の調査に使うはずだったのである。これでは手段が目的に変わってしまっている。

「ふ……ふふっ。あははははははっ……ったく、人間変わろうとすれば変わるもんなんだな」

 

「まったくね。前会ったときはすねかじりだったのに、もう算術の先生やってるんだから」

 

「へ?」

 

(この声は……いや、まさか)

 

 振り返るとそこにいたのは、

 

「けど、人の話を聞かないところをまず変えるべきじゃないの?」

 

「文和様!? それに――」

 

「お久しぶりです……伯鉄さん」

 

「太守様まで! 一体どうしてこちらに……」

 本を閉じ、慌てて立ち上がって畏まる。

「どうしてって、普通に案内してもらってここまで来たわよ。声かけようと思ったんだけど、あんた普通に声かけても無視しそうだし」

「はは……」

 相変わらずのキツさには半笑いを浮かべる他ない。

(いや、聞きたいのはそういうことじゃなくてですね)

 思っていると、

「討伐の恩賞として位を頂いたので、そのご挨拶で洛陽まで来たんですよ」

補足してくれるのは西平太守。

「なるほど、そういうことでしたか。妹から聞いています。たしか中郎将に昇進されたとか。おめでとうございます」

「ありがとうございます」

 

(太守様なのに腰が低いなぁ)

 

 ペコリと頭を下げる董西平を見た大和の感想はそれだった。

 

(涼州でもなかなかの軍閥を組織しているらしいが、とてもそんな風には……。ひょっとすると可憐で儚げなこの娘を守ってやろうと猛者が集まって構成されているのかもしれない)

 

「それで、せっかく都に来たのだから、お二人に会おうということになって」

「ご訪問歓迎いたします。しかし、あいにくと妹は本日公務でして……。帰って来るのは夕方になるかと思います。それにおもてなしの用意もなく……」

「いいえ。突然押し掛けたのは私たちの方ですから」

 慣れていない敬語に気づいたのか、西平太守は子どもっぽい笑みとともにそれを遮り、

「本当は元皓さんに連絡をとってからにしようと思ってたんですけど……詠ちゃんが伯鉄さんが算術の私塾を始めたって聞いて、すごく会いたがってたから……」

 隣へ顔を向けて言う。

「ちょっ、ちょっと月!? ち違うわよ、伯鉄! 変な誤解なんてしないでよねっ!」

「誤解って……。とにかく太守様にこんなとこで立ち話をさせるのもアレですし、中へご案内します」

「ありがとうございます。伯鉄さん」

「さっきまで太守様の横で大笑いしてたくせに」

「いや、それを言われるとその……面目ないです」

「ふふふっ」

 こらえきれなくなったように笑う。

「どうかされましたか?」

「いえ……伯鉄さん、やっぱりお話の通りの人なんだなぁって思って」

「…………」

(一体どんなこと言われてるんだろう)

 

 

 

―・―・―・―・―

 

「では、毎日がお勉強なんですね」

「ええ。なかなかにキツイです。でも、以前にお会いしたときのその……スネかじりの生活に比べれば、遥かに充実した日々を過ごせています」

 田家の居間で、いつもの食卓を挟んで座る。

 賈文和はともかく、西平の太守様とじっくり話すのは初めてだったのでどうなることかと思っていたが、それは杞憂であった。董仲穎という人物は妹の話通りの仁君。大和のイメージにある暴君董卓とは似ても似つかない優しい女の子である。

 会談……というような堅苦しいものではなく、お茶を飲みながらの雑談。女の子を楽しませるようなウィットに富んだ話は出来ないので、大和としては「当たり障りのない話に終始するだろうな」と思っていたのだが、予想に反して場はかなり盛り上がっている。

 匈奴討伐の顛末、ここまでの旅路、洛陽の近況等を話した後は田伯鉄の私塾が話題を独占した。

 普段触れることのない高等算術の話は二人の興味を引くのに十分だったようで、算盤を片手に簡易教室を開くことになってしまったほどである。その際に二人が見せた“乾いたスポンジが水を吸うかのような理解力”に大和が唖然としたのは言うまでもない。

 その後は主に賈文和による質問攻めである。

 以前会った時も質問攻めにあったが、あのときのような警戒心のようなものはない。純粋に知識を求められているのだから、それに答えるのが学者というものだろう。

 もちろん全てを教える時間はないので、数ある計算方法の中でも大和が面白いと思ったものを、いくつか選んで教授することで我慢してもらうことになった。

 理解はしてもらったが、それでも満足はしてもらえなかったようで、洛陽滞在中に算術を教えることを約束させられてしまったのには、頭を抱えざるを得ない。

 

(ただでさえ時間がないのに、また面倒な仕事が……)

 

 けれど、彼は三国志愛好会に所属していたほどである。その英雄(女の子だけど……いや、女の子だからか)に頼られていい気がしないわけがない。さすがに太守様に先生と呼ばれてしまったのには困惑したが、算術家を名乗っている以上は全力で臨むつもりでいる。

「そういえば、この後は何か予定はあるの?」

 眼鏡のズレを直しながら、思い出したかのように少女は聞いた。

「授業がもう一回あります。商人のクラスなんですが」

「くらす?」

 怪訝な顔に大和は慌てる。

 前回散々疑われたこともあり、彼女のこうした顔は少しトラウマになっているのである。

「あ、えーと、つまり商人専門に算術を教えるってことです」

「そんなこともされてるんですか?」

(商人に算術を教えるってのは珍しいんだろうか)

 驚いた様子の西平太守に大和は、

「ええ、いくら妹が長安の件で名を上げても、私自身がまだまだ無名なので正式な門弟はそんなに多くないんです。

 その点、商人は役立つ、利になるとなれば動きは素早いですから。……まぁ、当然授業内容は普通と違って、商取引に使う計算とか相談とかが主なんですけど」

 

 どこから噂を聞いてきたのか、洛陽の商人たちの行動は素早かった。

 授業を受けに来た中には大和の就職を断った店まであったのだから、その強かさは推して知るべし。もっとも、それくらいの逞しさがなければ、この汚職が蔓延る都でやっていくことはできないのだが。

 

「それに何といっても彼らはお金を持ってますからね。いいお客さまですよ」

「現金ね……でも、学者としての自負とか、そういうのはないの? それじゃ知識を切り売りしてるみたいじゃない」

「はははっ、仰るとおりで。でも、いいんですよそれで。私の頭に腐らせておくより遙かにマシですし。役立ててくれるのであれば、それで構わないです」

「あんたがそういうのなら別にいいけど……」

 理解はするが納得はいかない。そんな顔をする。

 

(何か気に障ったかな? って、もうこんな時間じゃないか!)

 

 時計をチラと確認すると、話題に出た商人クラスの授業時間が近い。

「お二人はこの後の予定は?」

「王城へ上がるのは明後日なので……今日は何も予定はないです」

「なるほど」

(それは丁度いい。この二人に観てもらえたら、授業もしま……らないかもしれないな。二人とも可愛いし)

 けれど、教師として授業の客観的な評価が欲しいのは事実。

「よければですけど、授業を見学されますか? 終わる頃には妹も帰って来るでしょうし」

「いいの?」

 好感触に、大和は歯を見せて笑う。

「お誘いしたのはこちらですから、いいも悪いもないですよ」

 言った後で、その言葉がかつて妹にかけられたものにそっくりなことに気づいた。

「それにギャラリーがいてくれた方が燃えるってもんです」

「ぎゃらりー? 前もそうだったけど時々変な言葉使うわね」

「き、気にしないでいただけると助かります」

 

(結構やっちゃうんだよなコレ。無意識なんだろうけど、気をつけないと……)

 

「それで、どうでしょうか?」

 

 顔を見合わせた後、

「よろしくお願いします。伯鉄先生」

 やはり行儀よくお辞儀をする西平の太守様。

「先生は勘弁して下さい。くすぐったすぎます。では、教室へご案内しましょう」

 

 

 

 

「時間があれば洛陽とか案内するんですけどね」

「じょーだん! 月、やめといた方がいいわ。この前なんか大将軍の実家の肉屋跡とか案内されたんだから」

 経験者は声を大にして断言する。

「ぐっ……それは言わない約束でしょう、文和様。そもそも案内できるほど詳しくないって言ったのに、無理やり案内させるのがですね……。

 それにあれから都のことも勉強しました。前よりまともな案内はしてみせますよ」

「ふーん、そう」

 

(信じてないなこれは……)

 

「ふふふっ。仲がいいんですね」

 

「だから違うんだって!」

 

 

(人に授業を見せるのは初めてだけど……はたして上手くいくかな。まぁ、変に気張らずにいつも通り頑張りますか)

 

 スイッチを切り替えつつ仕事場へ――田伯鉄の戦場へと向かう。




 今回の「就職出来ない」という話は一刀との対比で考えました。
 原作のどの√でも、彼は特別な存在として集団のトップに拾われてます。なので字が読めない、恋姫世界についての知識がないなどのマイナス要因があっても、とりあえずスタートラインには立てました。

 ところがこの主人公は田鋼というこの世界の普通の人として認識されちゃってるので、仕官する際に求められるものもこの世界の常識が基本になってしまい、ハードルはかなり高いです。
 作中で彼が言う「一生かかっても無理かも……」は、当たらずも遠からずです。その上拾ってくれた田豊が下手に位の高い宮仕えの人物だったので、動きが制限されてしまうという。

 そんな主人公を助けるのは、やはり原作の一刀同様、未来の知識でした。しかし、こいつ何ができるのかなって考えてみると、結構選択肢がないんです。
 専門の知識がないですから、農業や医者とかは無理(作者にもそんな知識ないので書けません)です。商家などは田豊の関係で就職不可能。となると、学校で普通に習うことを活かすしかないんじゃ……。
 ってことでの数学です。

【算術の扱い】
 恋姫世界なので実際の三国志の時代よりもかなり数学が進んでたりしますが、深く悩まずに「凡人主人公が名声を得るために数学使います」程度に考えて下さると幸いです。
 作中で儒教をあえて『教養』と表現したのと同じで、深く掘り下げまくるということはありません。
 改稿前は「恋姫のFF」がやりたいのか「三国志時代で算術SUGEEE!」がやりたいのか訳がわからないことになってました。書きたいのは「恋姫のFF」なので、物語における算術の比重を落とした感じです。


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第06話 洛陽案内再び

「伯鉄さん…大丈夫ですか?」

「ええ、太守様。もちろんです」

 西平太守が心配そうに覗きこんでくるのに、大和は努めて笑顔で返した。

 しかし、その顔は五秒と保たずに苦痛に歪む。

「って……いてててっ! 菊音、もうちょっと優しくお願い……」

「そんな大げさな……普通にお薬塗ってるだけですよ。兄さんが痛がりすぎなんですっ」

 軟膏を塗り終わったのか、今度は腕に湿布をパンッと貼ってくれる。

「っつぅぅ……」

 幸いなことに妹・田豊は華将軍のように女性離れした力の持ち主ではない。よって、その小さい手で叩かれても全然大したことはないのだが、筋肉痛で苦しんでいる今の身体にはそれで十分。

「もう、だらしないわね。『上手くなってきたから大丈夫です!』なんて言ったのはそっちでしょ?」

 若干の呆れをため息に混ぜつつそう言うのは、西平太守第一の臣、賈文和。

 彼女の言は事実だけに言ってくところがない。

「そのとおりで……」

 大和は軽はずみな言動をした昨日の自分を恨みつつ、身体をさすった。

 四人がいるのは田家の居間。

 珍しく全員の予定が合ったため、今日はみんなで洛陽を観光しようということになっているのだが、田伯鉄のコンディションはすこぶる悪い。具体的にいうのであれば、身体のいたる所が筋肉痛になっている。

(……前に会談についてったときも体調悪かった気がする。というか、よくよく考えると結構いつもそうじゃないか? センター試験のときも腹の調子がよくなかったし、一年のときの合宿の初日も……まぁ、あれはあのふざけた先輩のせいだが。とにかくどうもイベントとなると身体のどこかが――っ)

「いつつっ」

「ったく、あんなちょっと走ったくらいで。こんな兄上さまじゃ元皓さんもいつも大変そうだわ」

「ふふっ。あっ、兄さん。まだ全部終わってないですから動かないでください」

(笑うんじゃなくてそこは否定してくれよ。……本当のことだからしかたがないか)

 西平の太守様はくすくすと笑っている。

 

 董仲頴と賈文和。

 この涼州からのお客様二人は算術においては田伯鉄の生徒であるが、別の分野ではその関係は逆転。彼の絶不調な身体の原因もそこにある。

 

 それは馬術。

 

 馬に乗る。

 元の世界では普通に暮らしている限り、そんな機会は滅多にない。大和もその例に漏れず、せいぜいが小学校の遠足で牧場にいったときに一回乗ったくらいだった。しかも、乗ったのは馬ではなくポニー。はっきり言って乗馬の経験など無きに等しい。

 けれどこれまで、そして“ここ”に来てからも馬に乗れないからといって何に困るということもなかった。

 住居兼仕事場である田家のお屋敷。その近くには商業地区があり、そこへ行けば大抵のものは揃えることが出来る。教師として生計をたてている田伯鉄は、洛陽どころかこの地区から出ることさえほとんどないのだ。

 それに、そんなことまで気が回らなかったというのもある。私塾を開いてから軌道に乗るまで、いや、乗ってからも毎日が多忙であるし、住まいを借りている身でのんびりお馬の稽古をするほど図太くはない。

 確かにこの世界において馬は重要な交通手段ではあるが、いざとなれば長安から洛陽に来たときのように馬車を使えばいい。

 生活する上で特に不便も感じなかったのでそのままにしていたのだ。

 ところが、ふとした会話の中で馬に乗れないことをバラしてしまい、『そういうことなら』ということで二人から馬術の教授を提案されてしまったのである。

 ありがたい申し出ではあるが、すでに結構な額を“授業料”という形で出資する約束をしてもらっている。大和はその提案を丁重にお断りしようとしたが、

 

『伯鉄さん、遠慮はしないで下さい。これは前の非礼のお詫びでもあるんです』

『前にも言ったと思うけど、人の厚意は素直に受け取るべきよ』

 

 などと言われてしまっては、無下にできない。彼女達はこの私塾・田算塾のパトロンなのだから。以来、算術の授業をするかたわら、馬術のプロである西涼の人達に乗り方を教えてもらっている。

 やはり餅は餅屋ということか、畏れ多くも太守様直々に教えてもらったりしたこともあり、大和の腕前は最初に比べたらかなり上達してきている。しかし、それで調子に乗って「結構上手くなりましたよ」などと言ってしまったのが運の尽き。

 

『じゃあ、ボクが腕前を見てあげる。明日は休みなんでしょ?』

 

 そしてこのザマである。

(文和様……やっぱりいきなり郊外への遠乗りはきついって……)

 

「はい、これで終わりですよ。兄さん」

 道具をしまいながら言う。

「ありがとう。菊音」

「どういたしましてっ。あの……文和さん。兄さんの腕前はどうですか?」

「確かに上手くはなってたわよ。とりあえず落馬の心配もなかったしね」

「へぇ、すごいですね兄さん」

 本当に感心した様子の妹を見て苦笑し、

「落馬してまた骨折しましたというんじゃ笑えないからな」

 わざと得意げに言う。

 実際のところ、その年で侍御史をやっていたり、馬にもしっかり乗れている妹の方が何倍もすごいと思うのだ。

「左腕、馬車にはねられたときに折ったんだっけ? 普通に乗れてるし、別に全部の馬に嫌われてるんじゃないって分かってよかったじゃない」

 

 相変わらず挑発的な顔が嫌に似合うなぁ。

 

 などと言えるはずもない。

「その点は私も安心しましたよ。あの件のせいでちょっと馬不信というか……馬恐怖症になりかけてましたので」

 大和は軽口をたたいて笑いかえした。

 その何度も繰り返された冗談交じりのやり取りに、つかの間筋肉痛特有の焼け付いたような感覚を忘れる。

 涼州から来たお客様二人は先の女将軍同様、身分というものを鼻にかけることがなかった。董仲穎はとにかく優しく、賈文和は若干キツめではあるものの、気軽に大和に話しかけてくれる。洛陽にも多くの知り合いが出来てきたが、友人という意味でならこの二人が初めてかもしれない。

「伯鉄さんは筋がいいですから、すぐに自在に乗りこなせるようになりますよ」

 湯のみを卓に置きつつ優しげに微笑む。

「そう言ってもらえると、やる気が湧いてきますね」

(馬術の稽古のときもそうだったけど、この娘はとにかくよく人を褒める。こんな風に褒められて悪い気がする人間はいないだろうし、自分も算術を教えるときに意識してやってみようかな)

 そんな事を考えていると、横から聞き捨てならない言葉が放たれる。

「可愛い娘に褒められてやる気も出てきたみたいだし。今度はもっとキツめでいってもいいわね」

 

「詠ちゃん、可愛いってそんな……」

「勘弁して下さいよ……」

 

 紅くなる親友と、肩を落としてうなだれる田伯鉄。両者の反応を満足気に笑いながら見て、

「資質はともかく、早く乗りこなせるようになるっていうのは月の言う通りね。なんたって涼州の人間が教えてるんだから。ボクたちの誇りにかけても一流になってもらうわよ」

 さらに続けた。

「責任重大ですね、兄さん」

 意地の悪い笑みを浮かべてプレッシャーをかけてくる眼鏡の女の子と、その様子を可笑しそうに笑っている妹。二人を見ていると、筋肉疲労とはまた違った疲れが出てくるのを大和は感じた。また、その疲労が不快なものでないのだから、困る。

 どうやら大分この世界にも慣れてきたらしい。

「お手柔らかに頼みますよ……? それと菊音。お前はどっちの味方なんだ」

「わたしはいつだって兄さんの味方ですよ」

 えっへんという感じで胸を張る。

「その通りね。無一文で職なしの人間の世話をここまでしてくれる娘はいないわよ。兄とはいえ一緒に育ったわけでもないのに」

 少しふざけた様子で妹が言えば、すかさず援護射撃。

(……この人には一生ニート時代をネタにされそうだ)

 女の子は口元に手を当てて笑っている。優しい太守様もどうやら今回は助け船を出してくれないらしい。

(女三人寄ればなんとやら……違うか。まぁ、こんな賑やかさは嫌いじゃない)

 三者三様の様子に目をやりつつ思う。

 

 筋肉痛ごときで今日の予定をキャンセルするのは馬鹿のすることだろう。

 彼女たちを楽しませてあげようじゃないか。

 

 洛陽の案内ルートを頭に描いていく。

 そしてそれに没入しすぎてまたツッコミを入れられたのであった。

 

 

 

―・―・―・―・―

 

 今回は身体を除いて万全の準備で臨むことができた。

 そのおかげか二人だけではなく、ここに住んでいる菊音にも楽しんでもらえている。二度目の洛陽案内は大成功しているといっていいだろう。

(そもそも前回は準備もそうだけど、情報が少なすぎたんだ)

 洛陽へは愛好会の冬合宿で来たことがあるので多少の名所は知っていたが、この時代にないものはどうやっても案内できない。この世界の洛陽には博物館類はもちろん、龍門石窟も白居易公園も関林堂も存在しない。中国最古の仏教寺院である白馬寺は存在するが、洛陽の城外、少し離れたところにある(昨日の遠乗りの目的地の一つだった)ので案内は不可能であった。

 苦し紛れに肉屋跡を紹介して引かれたのを思い出すと恥ずかしくなってくるが、今回は違う。政治的な情報ではもちろん勝てないが、洛陽についての総合情報ではすでに菊音にも負けない自信が大和にはあった。

 ここで暮らし始めて二、三カ月になるが、活動範囲の狭い彼だけではそこまでの情報通にはなれない。私塾の生徒達、特に商人クラスの皆が主な情報入手先である。

 彼らも伊達にこの街で商売をしているわけではない。名所はもちろん、注目すべきお店から最近の流行、ゴシップネタまで様々なことを知っている。大店になると仕入れの関係などから、洛陽どころか周辺地域、大陸の情勢まで詳しいのだから侮れない。おかげで各所を回る際の話題にも困らなかった。

 素晴らしい名所に美味しい食事。

 弾む会話。

 そう。洛陽観光は成功している。

 であるのに……。

 隣へと視線を移すと、そこにはぶつぶつと何やらつぶやき、少し不機嫌な様子の賈文和の姿があった。

「月、絶対に誤解してるわ。たぶんさっきのであんたの妹さんも……」

「ははは。まぁ、すぐに解けますって」

 予想通りの原因に、大和は思わず笑う。

 

 二人は並んで商店街を歩いていた。

 名所旧跡を回った後は、紅葉を眺めながらの昼食。その後は馬車観光をしながら屋敷の方へと戻ってきたが、まだ結構な時間もある。「それなら」ということで田兄妹馴染みの商業地区も見て回ることになったのだが、そのときの太守様の一言が、今の状況を作り出していた。

 

『せっかくですから二手に分かれて観光しませんか?』

 

 何がどう“せっかく”なのかは分からないが、案内するという名目上、田兄妹が組むわけにはいかない。となると……。

 

『私は元皓さんとまわるから……詠ちゃんは伯鉄さんと――』

『ちょっ! 月!?』

 

 彼女は露骨に田伯鉄と己の親友を二人にしようとしていた。算術を教授しているときの彼女たちのやりとりからも、薄々そうではないかと大和も思っていたが……。

 不思議そうにしている妹にそっと何やら耳打ちする西平太守。途端に挙動不審になった妹を見て、それは確信に変わった。

 

 太守様は文和様が俺に気があるのだと誤解してしまっている。

 

(……さすがにそれはないだろう)

 隣を歩く少女は確かに熱心な生徒ではあるが、おそらく興味があるのは田伯鉄ではなく、その算術。大体、第一印象が最悪だった。

 いい年して妹のスネをかじっている、そもそも本当の兄かどうかも疑わしいヒモ男。顔も並か並以下。

(……うん、自分で言うのもなんだけど、好きになる要素はないな)

 今は私塾も始めているし、己の算術も高く評価してくれている。嫌われてはいないと思うが、好意というのは行き過ぎという他ない。年も菊音ほどではないが離れていることもある。

(それに自分の好みは華将軍や管輅さんのような、こう大人の――)

「失礼なこと考えてるんじゃないでしょうね」

「いえ、とんでもない。こちらとしては光栄のかぎりというやつです」

「……何? その余裕。誤解と分かっているとはいえ、ちょっと腹立つわね。……言っとくけどあんたも当事者みたいなもんなのよ?」

「理解してます。妹には私から言って聞かせておきますから」

 向けられるジト目に、努めて真面目な顔で返す。

「分かってればいいのよ……でも、問題はどちらかというと月の方なのよね……」

「たしかに」

 額に手を当て大袈裟にため息をつく。大和は思わず作った顔を崩してしまった。

 

 短い付き合いの大和でもわかるくらい、董仲穎は心優しい女の子であり、そして初対面の妹のために自分のことを調べさせるくらいのお節介焼きでもある。

 今回のことも親友の恋路を応援しようとか、そんなとこなんだろうというのが大和の予想であった。

「けどまぁ、頑張って説得するしかないですよ実際」

 通り過ぎる顔見知りに会釈しながら自分なりの結論を述べる。

「やっぱりそうなるか……」

「そうなりますね」

「結局他人ごとじゃない。……まぁいいわ。よく考えてみたらちょうどいいし」

 

(ちょうどいい?)

 

「と、言いますと?」

「あんたと二人で話したいことがあったのよ」

 足を止め、真剣な顔をして大和を見上げる。

(これはまさか……いや、それはないだろ)

 頭を一瞬よぎった笑える冗談を隅へと追いやり、

「大事な話ですか?」

「そうよ」

「……」

 

(……いつもの仕返しにちょっとからかってみるか)

 

「文和様……ここは男の私から言わせて下さい」

「え?」

「実は私も前からあなたに伝えようと思っていたんですが……あなたのこ――」

「はいはい。冗談はそのくらいにしときなさいよ」

 

(あれ?)

 

「大方いつもの仕返しでもしてやろうとか考えてたんだろうけど、全然面白くないから」

 呆れをにじませた顔で鼻を鳴らす。

 そして、何か思いついたかのようにニヤリと笑い、

「あんたがもっとかっこ良かったら上手くいったかもね。『己を知る』っていうのは兵法の基本中の基本よ?」

「……キツいって言われたことありませんか?」

「どうかしら。で、伯鉄。ボク、そこの甘味食べたいんだけど」

 後ろを振り向くと、そこにあったのは見覚えのある飯店。

 顔を戻すと何やら笑顔の賈文和様。

「……えーと、どういうことでしょう?」

「あんたは口説こうとする相手にお茶の一杯も奢らないわけ?」

「さっき自分で冗談って言ったじゃないですか……」

「へー。ってことは何? 田算塾の先生は冗談で女の子口説いたりしちゃうわけね」

「ぐっ」

 

 ふふっと意地悪く笑う女の子を見て、

 

(この娘にもかなわんな)

 

 財布を取り出しつつ苦笑するのだった。

 

 

 

―・―・―・―・―

 

「なかなか美味しかったわ。ありがと」

「……お口に合ったようでよかったです」

 満面の笑みを見てため息をつく。

 

(自由にできる少ないお金が……。まぁ、自業自得なのでしょうがない、か)

 

 商業地区のとある飯店。

 商人クラスの生徒の一人が経営するこの店には、田伯鉄監修の甘味がいくつか置かれている。評判もなかなかのようで、協力した身としては嬉しいかぎりであった。

 目線を前に戻すと、少女は口元を拭い、服の乱れを整えている。

 

「ここで話してもいいかしら?」

「店主には言っておきましたから大丈夫ですよ」

 一目を避けるように衝立を立て、隣接する席には客を座らせないように頼んである。準備は万端だろう。

「前とえらく待遇が違うのね」

「この辺りは割りと顔が利くんですよ。生徒が多いですから」

「ふーん。……それで、話なんだけど、二つあってね。まずは一つ目」

 

(改まって一体なんだろう)

 

「月をしばらくの間、田家の屋敷で預かってもらえないかしら」

 

「……へ? 太守様を?」

 予想外の言葉に間抜けな声が出てしまう。

(田家の屋敷に? なんだってそんな……)

 

「慌てないで。順番に話すから。ボクたちが昇進のご挨拶と討伐行の報告で洛陽に来たのは知ってるでしょ?」

「ええ、覚えてます」

(……あれ? 両方とももう終わってるはずだ。よく考えてみればなんで二人はまだ都にいるんだ?)

 表情から疑問に至ったと気づいた詠は、

「用事はすでに終わったし、大将軍に使われたくなければそろそろ帰らなきゃいけないわけだけど……また用事が出来たというか作ったというか……」

 話し始めるも珍しく歯切れの悪さを見せる。

「その用事というのは?」

「北門の修理よ」

「北門……ですか」

 

 洛陽の北側は彼の言葉で表現するなら、かなり“ヤバイ”地区である。街並みは荒れ放題で廃屋も多く、治安も悪い。洛陽への入り口である門も壊れたまま。王城の裏側は正にスラム街の様相を呈している。とてもメインストリートのある南側と同じ街とは思えない。

 当然、今日の観光ルートからも除外されていた。

 

(けど北門の修理はたしか曹操が……いや、北門といっても彼が修理したのは北宮の門だったような気がする。曹操が都にいないことといい何進の台頭の時期といい、やはり知っている歴史とはズレがあるみたいだ)

「しかし、なんたってまたそんな面倒な仕事を? 前と同じで大将軍様ですか?」

「その逆。十常侍よ」

 うんざりした様子で答える。

 

(大将軍ではなく十常侍ということは……)

 

「傾きすぎた天秤を元に戻す、ということですか」

「……相変わらず本当に妙なところで回転早いわね……正解。先の呼び出しの件で完全に大将軍の一派と認識されちゃったから。ま、いろいろと大変なのよ」

「用事については理解しました。ですが、それがどうして太守様の話に?」

「月が洛陽にいる状況はよくないの。大将軍が呼び寄せた地方太守。追い払う口実で参加させた匈奴討伐を迅速に終わらせて、大将軍の口添えで中郎将に昇進してる。つまり……どういう意味か分かる?」

 一旦言葉を切った後、試すような目とともに質問が向けられる。

「……太守様が洛陽にいるだけで十常侍を刺激することになる」

「その通り。わかってるじゃない」

 答えに満足したのか、ふふっと笑い、

「月を洛陽にはいさせられない。でも、十常侍との関係は修復したい。そこでボクの出番ってわけ。匈奴の警戒の為に董仲穎は一度西平へ帰るのよ。大将軍には悪いけどね」

 悪戯っぽい表情でそう括った後、卓のお茶に手を伸ばした。

(なるほど。大将軍の期待を裏切って西平に一旦帰還することで十常侍の警戒心を解き、その間に接近するというわけか。だが……)

「しかし、それなら余計に太守様があえて洛陽に、ウチに留まる理由がわかりませんが……」

「それは月が……。ボクだけ残して帰ることは出来ないって言うから……」

「ああ」

(……あの人なら言いかねないな)

 大和は得心して頷いた。

 妹から話を聞くかぎりでは、宮廷は魑魅魍魎が跋扈する魔窟のような場所である。そこへ親友を一人放り込む。

 そんな案に素直に首を縦に振るとは思えない。

 

「もちろんそれだけじゃないわ。急な案件が出てきてもすぐに相談できるし。それにボクはこれからどんどん忙しくなる。そうなると伯鉄の授業は受けられなくなっちゃうでしょ? 西平に持って帰るためにも、月にはボクの分も授業を受けて修得してもらわないと。……もう一つ理由もあるんだけどね」

 大和は不覚にも嬉しいと思ってしまった。

 田伯鉄の算術にはそれだけの価値があると言ってくれてるも同然である。ひょっとすると一番評価してくれているのは、目の前の少女かもしれない。

「で、どう?」

「どう? と言われましても……大体あの屋敷は妹のもので……」

(……普通こういうことは家主である菊音にまず聞かないか?)

 

「…………」

 

(おいおい、ちょっと待て。

 彼女は用事が"出来た"、"作った"と言っていた。

 ひょっとして、もう確定してるんじゃないのか……?)

 

 恐る恐る顔を上げると、

「あれ? もう、バレちゃった?」

可笑しくてたまらないといった様子の賈文和様。

「ちょっと……まさか」

「明後日から月がお世話になるわ。先生」

 眼鏡の美少女は今日一番の笑顔でとんでもないことをおっしゃる。

「……勘弁して下さいよ。絶対三人で示し合わせて内緒にしてたでしょう。

 それに菊音に話を通してるんだったら、いちいちもったいつけて話すことなんかなかったじゃないですか……」

 大和はどっと疲れが押し寄せてくるのを感じた。

「さっきの冗談のお返しよ」

「いろいろ奢ったので帳消しになったはずじゃ……。それに前から内緒にしてた理由にはならないですよ」

「それはそれ。これはこれ。つまらないことにこだわってたらモテないわよ、伯鉄」

 ふふんと鼻で笑う。

 

(こ、この人は……)

 

「分かった?」

「……色々納得はいきませんが、理解は出来ました。でも、さっきの話ですけど西平は大丈夫なんですか? 太守様不在というのはまずいのでは……?」

「月のご両親、前太守様もご健在だし問題ないわ。あんたに心配されなくても、その辺はなんとかするわよ」

 

(討伐の間、領内の政治を見ていたのもそのご両親だったというわけか。まだいろいろと言いたいこともあるが、それは菊音の話を聞いてからにしよう。内緒にしてくれやがった件についても問い詰めなければならない)

 

「さっきのが一つ目の話。次が二つ目……こっちが本題なんだけど――」

 

「……何でしょう」

(もうどんな話でも驚かないぞ)

 

「そんな顔しないでよ。たぶん悪い話にはならないと思うから。お互いにね」

 詠は田伯鉄の顔を見て苦笑し、そして明日の天気でも聞くかのように切り出す。

 

 

「伯鉄。あんた何企んでるの?」



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第07話 力と志、その乖離

「――というように、これら直線表や折線を用いれば、分かりにくい漢数字の羅列を視覚的に認識することができ、その増減の理解、比較などを楽にするというわけだ。前の授業に出てきた表の発展型みたいなもんだと思ってくれていい」

 教師らしい振る舞いもなかなか堂に入ったもの。最初のときのような照れは今はもうなく、今日もいつものように教鞭を執る。といっても、場所は普段授業が行われている教室ではなく田家の屋敷の庭。天高い秋空の下での青空教室だ。この日は零細の商家や一般家庭の子息の授業が行われている。

 彼が座る庭石の向こう側には、劇場のように弧月形で椅子が並ぶ。いつも考え事する特等席から木の枝で指したそれらは、地面に書かれた様々なグラフである。

(眼鏡があるのに望遠鏡はなく、高次元の算術が存在するのにグラフが一般化してないってのは……やっぱり文明の発展のしかたが歪んでるよなぁ。

 まぁ、紙が普及してるとはいえ使い捨てるには高価だし、一般庶民には流行らなかっただけかもしれないけど)

 その予想は当たららずも遠からずであった。プレゼンにしろ何にしろ、上下関係が重要なこの世界では受け取る側が寛容でなければ新しい方法は使用されないのである。実際、直線表や折線の使用は、都でも一部の官職に採用されるにとどまっている。もちろん、陳留の曹操などの革新派はこの限りではないが。

「例では人口の推移についてやってみたけど、他のものでも使える。そうだな……月毎の犯罪の件数であるとか、毎年の収穫量を表すとか。折線はこの例のように横軸に時間を取って、時間の経過にしたがって変化する数値の様子を表すのに用いることが多いかな」

「あの……」

 話しのキリがいいとみた生徒が手を挙げる。

「なんだい?」

「はい。あの……確かに先生の仰るとおり、これらの方法は画期的で、使えば分かりやすくなるとは思います。しかし、無いと分からないというわけではないですし、実際に作るとなると紙や竹簡の消費や作成の苦労も――」

 田算塾頭は生徒の言わんとする事を理解し、やんわりとそれを制止。用意していた説明に入っていった。

「その意見はもっともだけど……違うんだ。こいつらは人に見せるためのものなんだよ」

「人に見せる、ですか?」

「うん。例えば」

 庭石から降りて、木の枝で地面に書きこんでいく。それを椅子から立ち上がって覗きこむのは生徒達。青空教室ならではの光景である。

「うーん。相変わらず字書くの上手くないね、先生」

「ほっとけ。筆で書いてない分いつもよりはマシだろ?」

(全くもって余計なお世話であるが……)

 見てみると、確かに贔屓目で見ても綺麗な字とは言えない。算術についてはともかく、字の美しさで勝負するなら田伯鉄はこの子どもにも負けるに違いない。

 

『兄さん……いつから字を習い始めたんですか?』

 

 ここの言葉を勉強し始めたとき、妹に練習で書いた文章を見られて笑われたのが思い出される。

(習字をしてたわけでもないし、筆なんか滅多に持たないんだからしょうがないだろう。馬術だけじゃなくてお習字も見てもらうべきかね)

「おい失礼だぞ。確かに先生のお書きになる字は個性的ではあるが……」

 可憐な同居人を思い浮かべていると、別の生徒がフォローを入れる。丁寧な言い方をしているが、その顔はにやけていた。

「……上手く言い繕ってくれてるつもりかもしれないけど、全然出来てないからな?」

 不満気な顔で一瞥するが、その表情が作りものだと分かっている彼らは茶化すのをやめない。

「まぁまぁ、先生には他に素晴らしい才能がお有りなんですから」

「そうですよ、素晴らしい算術が……って、ああ、そうか! 先生、算術の方に才能全部持ってかれちゃったんじゃないですか?」

「はははっ、違いない」

「……お前ら師匠に対して言いたい放題だな」

 いつもの様に、辺りを笑い声が包む。

 そういう大和自身、生徒達との掛け合いを楽しんでいるんだから言ってくところもない。

 賈文和には「とても師弟関係とは思えない」と呆れられてしまったが、彼としては下手に尊敬されすぎて距離を置かれるよりはこの方がやりやすいのである。それは単に精神衛生上の問題が理由というわけではない。

 そも、田伯鉄の算術は完成途上――もとい勉強途中。畏まって言うことを聞いてくれるより、遠慮無く疑問を投げかけてくれたり、間違っている点を指摘してくれる気やすい関係の方がありがたいのだ(だからといって差し入れにエロ本を持って来たりされるのは困るが)。

 大体「田伯鉄の算術」といっても、独自性はほとんどない。基本はこの世界の算術である。元の世界の要素をプラスしたところも少しはあるので、多少のオリジナリティーは出ているのかもしれないが、それにしたって大和一人の力で作ってきたわけではない。すべては妹・田豊やここにいる生徒達の協力があってこそ。

 特に数学を用いた様々な手法をこの世界の実情にすり合わせる作業は、彼らなしには仕上がらなかっただろう。

 

 元の世界の数学と、この世界の算術の違い。

 彼もその点には十分注意しつつ元の世界の要素を足したつもりだったが、所詮は机上の空論。どんなに仮定を重ねても、この世界で生まれ育ち、働いたりしている人々の実体験に基づく判断には敵わない。

 いざ教えてみたら「画期的だけど実用的でない」「理論的には正しいが運用となると別」などというものがほとんどであった。

 最近の中で認められたのは"アラビア数字置換え"と"ひっ算"のみ。

 それですら「新しく覚えるのは面倒だし、公文書に使えない」「紙がもったいないので概念のみ修得して暗算に使用。しかし、算盤を習熟すれば頭のなかで珠が動くようになるので最終的には不要」というダメ出しの上で、という有様だ。実のところ算術よりも他の知識の方でありがたがられることが多い。

 おかげで生徒達からは、専門家にありがちな『才能はあるが、どこか現実と乖離した考えをもつ変人。算盤も遅いし』という有難くない人物評を頂いている。彼らは自分達の教師が「実は別の世界から来た人間」であるなどという事情を知るはずもないのだからこれは仕方ない面もあるが。

 

「よし、これで終わりっと。みんな見えるかな?」

「はい」

「問題ありません」

 書き上げた文字列に目を落とすと、そこには見慣れた自分の文字。

(しかし、そんなに下手かな? ……やはり一度相談してみよう)

「いいかい? これらはある都市における一年間の月毎の犯罪及び事故の件数、その種類の内訳についての情報だとする。こんなふうに数字だけだと、理解できるといっても傾向を読み取るのも面倒だろう?」

「……うーむ、たしかに」

「ええ。実際はこうやって数字を出すだけでも一苦労です。いちいち資料から引っ張ってこないといけませんから」

 役人を親に持つ生徒が答える。

「そこでさっきのやつの登場だ。まず、月毎の犯罪及び事故件数を直線表にしてみよう」

 木の枝で直線表――棒グラフを書いていき、

「ん……件数の方はコレでいいかな。続いて内訳。こっちは折線で別に作ってみる」

 直線表の横に、今度は折れ線グラフを作っていく。

「っと、こんなもんかな。……さて、この都市の施政者は夏場に犯罪抑制のために法令を整えるなど、治安向上のための努力を行なっていたとする。実際は法令を整えたり、取締を強化したせいで検挙数が増えて見た目の犯罪件数は倍増……なんてこともあり得るけど……。

 まぁ、今回は仮定の話だから難しく考えなくていいよ。実務経験がないから実情と違う点があっても目をつぶってくれるとありがたい。それらを踏まえた上で、この街の現状からの更なる治安向上、発展の為に進言するといえばそれは何だと思う?」

 一斉に挙手する生徒達。

 大和はその中の一人をあてて、答えさせた。

「直線表からも読み取れるように夏以降は犯罪は概ね減少傾向にありますから、法令等の対策は効果があったと見ていいでしょう。しかし、馬車の事故に関しては減っていません。数も多いように感じます。規制か道の整備か、何かしら対策を講じるべきです」

「馬車……なるほど、たしかにアレは危ないからな」

「先生は身をもって経験されてますもんね」

 再び笑い声が秋空に響く。

「笑い事じゃなくて本当に痛いからな。ウソだと思ったら轢かれてみるといい」

 思い出すだけで左腕に痛みが走る、気がする。記憶がないので本人には今ひとつ現実味がないのだが。

「さて、他にあるかい?」

「はい。私が注目したのは冬場です。やはり他の月よりも火事やぼや騒ぎが多いです。これにも対策が必要だと思います。

 それと減少傾向にあった犯罪が、前月比で若干ですが増えているのも気になる点です。特に物盗りの増加が目につきます。この街がどこにあるのかはわからないので断言できませんが、生活に困った人間が冬の寒さにたまりかねて犯罪を犯しているのではないでしょうか? 一時的な雇用を作るのが難しいのであれば、警邏の強化、住民への注意喚起等、出来る範囲で対応するのがよいかと」

「うん。二人ともありがとう。仮定の街の話とはいえ、どちらも理にかなった進言だと思う。書面で進言するときもこの直線表と折線に、さっきの言葉を付け足せばそれで十分だろう。

 では二人の進言を聞いた上で、なぜ俺が“人に見せるためのもの”と言ったのか、直線表と折線の利点は何なのか、考えてみてくれないか?」

「あ、そうかっ」

 大和が声のした方を見ると、生徒の一人が慌てた様子で口を押さえるのが見えた。

 どうやら先生に花を持たせてくれるらしい。

(ったく、字が下手くそだとかは容赦なく言ってくるくせに)

 その気遣いに心の中で苦笑して、

「答えを言うぞ? まず一つ目。直線表と折線を作成する過程で情報に対する自分の理解が深まる点だ。これは最初の方で説明したし、練習で作ったときにも感じただろう?」

 生徒達が首肯するのを見て、

「続いて二つ目。数字の羅列よりも遙かにわかりやすい点」

 直線表と折線を木の枝で指しながら続ける。

「なにしろ各数値、その増減、傾向……全てが直感的に、見てわかるように表されているからね。意味さえ分かっていれば初見の資料であってもすぐにそれらを理解出来る。

 ここ、洛陽では大司農のお役人さまとかが好んで使ってる手法だ。つまり――」

 

 ふと、生徒達の様子の変化に気づく。

 先ほどのふざけた態度は何処へやら。

 輝く瞳からは貪欲に知識を吸収しようという熱意が伝わってくる。

(どうやら今回のは久々の『当たり』っぽいな)

 大和は自然と頬が緩むのを感じた。

 やはり苦労して教えたことが認められるというのは気持ちがいい。

 

『あんたにとっても、ボクらにとっても利がある。悪い話じゃないでしょ?』

 

『私には変えることが出来ませんでした』

 

『先生の算術と新技術を使って天下を変えてみせますよ』

 

「…………」

「先生?」

「あ、あぁ、すまない。ぼーっとしてた。続けよう」

(考え事は後だ。今はこっちに集中しなくちゃ)

 賈文和の話。老使用人、そして目の前の生徒達の夢。そして一向に進まない帰還方法の調査。

 頭の中でグルグルと渦を巻くそれらを無理やり燃やすかのように、授業はその熱を増していく。

 

 

 

―・―・―・―・―

 

 田伯鉄が庭で授業をしているそのとき、客人・董仲穎は屋敷の一室で執筆活動に勤しんでいた。

「……ふぅ。これでここまでは終わったかな……」

 筆を置き、自分の書いたものと元になった本を見比べる。

「うん、間違いは……ない、よね」

(次でこの章は終わり。できたら伯鉄さんに見せに行かないと)

 大袈裟に喜ぶ男。

 容易に想像できるその様子に月は笑ってしまう。

 もともと世話になる以上、何かしらの手伝いをするつもりでいたのだ。太守を“働かせる”ことには、当の田兄妹の二人だけでなく、一緒に厄介になっている護衛の人間も反対したのだが、彼女は頑として引かなかった。

 無理を頼んでしまっている以上、そこは譲れない。

 西平太守という身分を隠すのだから、何かしらここの仕事をしていた方が怪しまれないという一見正論じみた理由で押し通してしまった(もっとも、働きたいというのも無理を頼んでしまってる気がしなくもないけれど……)。

 

『では……そうですね。実は九章算術を元に、授業で使う教科書を出版しようと思ってるんです。今、手元にあるのは専門向けで難しすぎるので……。

 ところが執筆にかける時間がなかなか作れなくて進んでないんです。その作成に力をお貸しいただけますか?』

 

 それでも仕事をさせるのを渋る田伯鉄に何度も頼み込んだところ、ようやく与えてもらえたのがこの教科書執筆の助手。ものを書いたりするのは普段の生活でも多くこなしているので快く引き受けた。

 本を作るという作業は今まで経験したことが無かったが、その本を沢山の人が読むのだと考えると自然と気合が入ってくるというもの。それに教えてもらった算術の復習にもなる。

「うん、もう少しがんばろう」

 再び机に目を落とし、本の余白や挟まれた紙に無造作に書き込まれている注釈を読み取っていく。これを順序立てて、仮原稿として分かりやすい表現に直していくのだ。が、しかし、順調に進んできた作業は最後のところで止まってしまった。

 

(これは何て読むんだろう)

 

『恥ずかしいんですが字が下手くそでして……ちょっと見にくいかもしれませんが……』

『いえ、大丈夫ですよ。任せて下さい』

 その道の専門家と呼ばれる人は他のことがおろそかになることが多いと聞いたことがある。

(ひょっとすると伯鉄さんもそういう人なのかも)

 確かに書いてある字はかなり個性的なもので、文法的な間違いも何箇所か存在した。けれど、それでも彼が書いたもので“読めない”というものは無い。

「でも、これは……」

 目を落とす先は田伯鉄から借りた九章算術。

 漢字とよくわからない文字らしきものでできた謎の文章と、記号の羅列がそこにあった。

 

(どういう意味なんだろう……暗号? でも知識を独り占めする人じゃ……ちょっと聞いてみないと分からないかな)

 

 九章算術を手に椅子から立ち上がり窓の外を見やると、そこから見えるのは算術の教室。昼前の授業が終わるまでは、まだ少し時間がある。

 何気なしに手にしたそれをパラパラとめくると、毎日の使用でかなり傷んでいるその本には書き込みがないところはほとんどなく、適切ではないとして訂正の紙が挟まれている箇所も多い。

 すごく熱心な人というのが月の田伯鉄に対する評価であった。

 一緒に住むようになってからは毎日のように田伯鉄の様子を見ているが、授業以外はいつも庭石か自分の部屋で算術書を広げている。

『授業では偉そうに教えてますけど、結構ダメ出しされることも多いんですよ』

 恥ずかしげに笑いながら算術教師は言う。

 間違いなくこの国でかなり高い算術の実力を持っているのに、欠片も誇りに思っていないようで、その成果も喜んで人に教授している。親友のこともあるのでどんな人なのか気になってよく見るようにはしているが、かなり変わった人間なのではないだろうか。

 

 田伯鉄

 

 侍御史田元皓の兄にして、『百式先生』とも呼ばれる算術家。

 そして月にとっては『親友が気にしている男の人』でもある。

 出会いは偶然であった。

 最初は侍御史田元皓のもとに兄と偽って転がり込んだのかもしれない不審者として。

 今思い返すとそれはとんだ見当違いだったと月は思う。

 どこか抜けている兄としっかりものの妹。田家の屋敷でお世話になってあらためて知ることになったが、二人はどう見ても本当の兄妹である。過日の別れ際に感じたものは間違いではなかった。

(伯鉄さんはもちろん、元皓さんにも失礼なことしちゃったな……)

 その件については二度目に会ったあの日に謝罪したのだが、ともに笑って済まされてしまっている。

(一方的に疑っちゃったのに……優しいというかお人好しというか)

 

『月は人のこと言えないわよ……』

 

(そ、そんなことない……と思うけど……)

 ともかく、彼女が田家に世話になってから今日で五日目になるが、屋敷の主・田元皓と少し変わった兄・田伯鉄もとい河北大和の気配りのおかげもあり、屋敷での生活はかなり快適なものとなっていた。

 西平に帰還していることになっているため、さすがに屋敷の外へ出て行くことはできない。けれど、『太白』の偽名と『以前、放浪中にお世話になった家の娘』という嘘を用意したおかげもあり、敷地内は自由に歩き回れるようになったのだ。

 部屋に軟禁状態だった最初の頃に比べると、出来ることも格段に多い。仕事を手伝いたいと申し出るのも、彼女の真面目な性格からすれば仕方のないことであった。

 西平の宮城と比べれば色々と不便はあるが、ずっと太守の娘、そして太守として過ごしてきた月にとって、身分を隠しての生活は毎日が新鮮な驚きに満ちていて楽しい。田家での生活は太守としてのそれとは違った意味で充実している。

 けれど。

 窓の向こう。少し上へと目線を移せば、親友が奮闘しているであろう洛陽の宮城。

 月は彼女の事を思うと罪悪感や後ろめたさが湧いてくるのを感じた。「自分のために必死に頑張ってくれているのに……」というのが半分。もう半分は――、

(一緒にいれるんだもん。本当は替わってあげたい)

 詠はそのふざけた誤解について「興味があるのは算術とその発想力」と否定している。しかし、肝心な部分(利用価値)を語らずにいたことから、より一層誤解が進むという悪循環に陥っていた。心配、反対されないようにという思いが、効果は同じでも全く別の方向で働いている。彼女にとっては頭が痛くなる事態であった。

(照れなくてもいいのに。でも……)

 確かに親友の言うように、田伯鉄の発想には惹かれるものがある。月もそこは認めていた。

 変人『百式先生』の考え方及び行動は、二人にとって異質なものだった。商人への算術教授はその代表例である。

「支配される側の人間である民衆に知恵をつけさせるのは下策」

 これは賈文和の持論というより、施政者にとって当たり前とされてきた常識であった。統治がしにくくなるし、教育に使った資金が回収される保障もない。

 しかし、田伯鉄はその常識に穴を開けた。

 彼は商人たちに授業を行い、授業料をとっている。つまり知識で商売をしているのだ。もちろん日頃から算術に親しんでいる彼らを生徒にするなど、他と一線を画した知識を持つ人間だからこそ可能な荒業ではあるが。

 そして何より注目すべきはその効果(望んでそうしたのかは一考の余地があると賈文和は考えている)であった。それは洛陽案内において既に十二分に見せつけられている。

 二人は田兄妹に連れられて都の各所をまわったが、一番人と活気に満ちていたのは結局のところ田家の屋敷からほど近い商業区域。即ち、私塾の生徒達の縄張りであった。店の看板、商品、接客、お客の情報の管理。教えているのが実は算術だけではないことも、授業を見学して知っている。

 制度や枠組みを整えるのではなく、市井そのものに直接働きかけ、活性化する。

 その手法は新しい可能性が感じられた。

 

『伯鉄の知識とやり方を応用すれば、西平もきっと豊かになるわ』

 

 月はその考えには同意しながらも、しかし、親友が彼にこだわる理由はどうもそれだけではなさそうだというところまで察していた。それはある意味では正しいのだが、しかし、決定的に間違ってもいた。

(あんなふうに冗談を言い合ったり、素のままで話せてる男の人は今までいなかったし……。そうだ。今度、伯鉄さんに詠ちゃんの魅力を教えてあげよう。

 趣味とか……女の人の好みを聞くのもいいかも……)

 本人が聞いていたら頭を抱えそうな内容である。

 と、窓から聞こえてくる笑い声に、月は考え事を中断させられた。

(授業……終わったのかな?)

 

……

………

 

 教室となっている離れは与えられた部屋からも近く、迷うことはない。本邸と渡り廊下で繋がった小さめの建物。ここで高度な算術が教えられているなど誰が考えるだろう。

 しかし、そこには予想に反して彼の姿はなく、使用人の人たちが掃除をしているところであった。

「外で……ですか」

 算術の授業を? と、不思議に思うも一瞬。すぐにその理由に思い当たる。

(あっ、もしかして九章算術を私が借りちゃってるから)

「はい。今日は思索石の方で授業されてるはずですよ」

「しさくいし?」

「あっ、申し訳ございません。庭石のことでございます。門人の方々がそう呼ぶものでつい……」

「いいえ、気にしないでください。こちらこそお仕事を止めてしまって……。では、お庭へ伺いますね」

 一礼し立ち去ろうとする彼女に、後ろからかけられるのは別の声。

「お待ち下さい太白様。授業はもうすぐ終わりますが、質問などでまだまだ時間がかかるかと思います。書斎へご案内いたしますのでそちらでお待ち下さい。主には伝えておきますので」

 

 

 

―・―・―・―・―

 

「お爺さんは元皓さんたちに仕えるようになって長いんですか?」

 月は横を歩く老人に問いかける。

 屋敷で最年長だろう彼は使用人のまとめ役であり、田兄妹からの信も厚い。

『ここで何かお困りのことがありましたら彼にお言いつけください』とのこと。

初日に紹介されたから顔は知っているものの、こうして言葉を交わすのは初めてだった。

「いえ。元皓様が洛陽においでになってからですので、最古参ではありますがそれほど長くはございません。ただ、若い頃に田家の当主様とは懇意にさせていただいておりました。そのことがご縁でお仕えしております」

 老使用人はかつてを思い出したかのように微笑みながら答える。

「では、伯鉄さんとも……」

「はい。私がお世話になったのは随分と昔のことですから……伯鉄様とお会いしたのも元皓様と共に長安からお戻りになったときが初めてでございます。

 ただ、御父君より才学非凡のご子息のお話はかねがね耳にしておりました。……こちらでございます」

 目の前には華美な装飾もない、特徴といえばただ大きいだけの扉。

 裏庭の近くという場所を考えても、書斎というより倉庫のそれを思わせる。

「では、どうぞ中へ」

 そう言って老人は戸に手をかけた。使用人にしてはいささか品のある所作。果たして開かれた扉の先には、

「……わぁ」

 想像以上の光景が広がっていた。

 まず、右側に列を作って並んでいる本棚が、その存在を主張する。宮城の書庫や、洛陽案内で回った本屋には及ばないが、個人所蔵と考えると十分すぎる量がある。

(読書が好きって言ってたから元皓さんが集めたのかな)

 会食での会話を思い出しつつ視線を巡らせると、反対側には陽の光を浴びる机が一つ。それ自体は簡素なものなのだが、上には竹簡や本が山積みに、その周りには木で出来た妙な細工や傘らしきもの等、何に使うかよく分からないものが無造作に転がっているのが目を引く。窓際には棚があり、こちらの上にも何やら置いてあるのが見えた。

「椅子は机の横にもう一脚ございます。蔵書は主に元皓様のものですが、許可はいただいておりますのでどうぞご自由にお読みになって下さい」

「あ、はいっ。ありがとうございます」

「では、私はこれで……。何かありましたら、いつでもお言いつけ下さい」

 恭しく礼をすると、部屋を辞してしまう。

(どうしよう……)

 書斎に案内されたはいいものの、一人残された月は妙に落ち着かない気持ちになっていた。主不在の他人の部屋に入るという経験など滅多にないし、しかもその主――この部屋を普段使っているのが異性というのだからなおさらである。

(ほ、本でも読もう)

 “彼”の領域とは反対にある本棚へと足を運ぶのは自然の流れであった。

 天井まで届こうかという本棚。

 そこへ収められた夥しい数の竹簡や書籍は、清廉の士田元皓の人柄を表しているかのようであった。詩経・礼記・楽経・春秋・論語など、とにかく教養書が多い。他には戦国策や六韜、孫子などの所謂兵法書の写本もあるが、部分的にしか無いところを見るとあまり興味はないか、ひょっとすると彼の持ち物なのかもしれない。

 それらはきちんと分類されており、本棚の端には目録代わりの木札がかけてある。ごっそり抜けている部分には裏庭で虫干しされていたものが入るのだろう。きちんと手入れされているので、どれも保存状態がいい。

 けれど……よく言えば趣味が合うということだけれど、残念なことにそれらはどれも一度読んだことがあるものばかりだった。

 チラと反対側にある例の机の方を見る。あそこにも、本はある。

(あるんだけど……)

 手当たり次第に物色するつもりはもちろんないが、なんだか悪いことをするようで気が引けてしまうのだ。しかし、田伯鉄がどんなものを読んでいるのかには興味があるのも事実。少しの逡巡の後、西平太守は意を決した。

(……本を見るだけだから大丈夫だよね)

 心の中でそう誰かに言い訳をして、机へと近づいていく。

 それは持ち主の背丈に合わせてあるらしく、自分が西平で使っているものよりも大きめだった。椅子の目の前に置かれた平べったい箱には砂が入れられ、九章算術にも書き込みのあった謎の記号や図形が描かれている。やはり算術の研究に使うもので間違いないらしい。

 側には高く積み上げられた書物に、広げたままにされている竹簡。とても整頓されているとはいえないその様子は、普段の兄妹のやりとりを想像させる。

(きっと、いつもの調子で怒られてるんだろうな)

 持ってきたものは椅子の上に置き、何度か見かけたことがあるその光景を浮かべつつ竹簡に目を落とす。

「えっ?」

 少し読んですぐに意表を突かれた。

 

“夫に裏切られた妻が、夫を祟り殺す”

 

 予想していた算術書でなければ、教養書でも兵法書でもない。そのおどろおどろしい内容は怪談と呼ばれるものであった。

(もしかしてこれ全部が……?)

 山積みになった書物を一つ一つ見ていくが、同じように怪談であったり、世の中の変わった出来事のまとめであったり、どれもこれもそういう類のものばかり。論理を重視する算術の世界とは正反対の分野である。意外な趣味に月は驚きを感じた。

(……こういうお話が好きなのかな? でも……うーん)

 趣味が分かったのはいいが、問題はその趣味が親友と合わなそうだということ。

 彼女はこの手の話を信じない。

「せっかく伯鉄さんの趣味が分かったのに……」

 しかし、そこは大切な親友のため。簡単にあきらめないのが董仲穎という人物であった。

 山を構成していた書物を流し読みしながら、照れ屋な親友との仲を取り持とうと尚も色々考える。

(……詠ちゃんの“あの日”のことならどうだろう……。こういう不思議な話が好きなら………あれ?)

 手にしたそれが書物の山の最後の一冊だと気づく。

(算術書はないのかな?)

 本棚の目録にはなかったので、こちらに置いてあるものとばかり思っていたのだけれど、今のところ一冊も見ていない。これだけの本があるにも関わらずだ。

(算術の先生なのに? 九章算術を主に使ってるって聞いてるけど、さすがに一冊じゃ……。けど、伯鉄さんが他の算術書を読んでるところは見たことがないし……)

 机の上をもう一度見渡す。

 すると、最初に広げられていた竹簡の下に一冊の本があるのが見えた。

「こんなとこに……」

 裏返しになったその本を開く。

 それは今まで見たことのない内容だった。

「……これって」

 

『男は下卑た笑みを浮かべ、そのたわわに実った二つの――』

 

「……っ!!」

 すぐにそれを閉じ、両手で机へ押し付けるようにして隠す。

 月は身体中の血が顔に上がってくるのを感じた。心臓の音がやけにうるさい。まるで外へ聞こえてしまっているかのような錯覚に陥る。

 

(お、落ち着こう)

 

「すぅ~……ふぅ……」

 そのままの姿勢で一度大きく深呼吸。

「…………」

 部屋に自分しかいないことを確認して、指の間から恐る恐る題名を見る。

 

 歓乳好奮編~おっぱい好きたちの歓びの歌~

 

「へ、へぅ……」

 男女が絡みあうというあまりにも刺激的な内容に、読むのも恥ずかしい表題。これが春本というものなのだろうか?

(は、伯鉄さんはこの本を読んで……?)

 考えると頭がくらくらしてくる。

(お、男の人だから……こういう本を持っててもしょうがないよね……うん、しょうがないよ。だだって、ぜんぜん普通のことだもん……!)

 実際のところ、それが普通かどうなのかは全く分からない。けれどこれ以上深く考えてしまったら、今後彼の顔をまともに見れそうにないのである。とにかく無理矢理に自分を納得させ、そっと元あった場所へ本を戻す。

(……見なかったことにしちゃおう)

 お互いのためにもその方がいい。

 西平太守はその聡明さをもって強引に結論づけた。

(そ、そうだ。注釈書の序文をどうするのかも聞かなきゃ。やっぱりそこは伯鉄さん自身に書いてもらって……)

「…………」

 けれども、やはり気になるものは気になる。

 

(伯鉄さんは……その……む、胸の大きな女の人が好きなのかな……? 詠ちゃんは……。でも……)

 

 秋も深まる昼下がり。西平太守の思考は迷走していく。

 

 

 

―・―・―・―・―

 

「ん。やっぱりここが落ち着くな」

 庭石に座り夜空を見上げると、そこには満天の星々。中秋の名月は曇りで見ることは出来なかったが、地上が明るすぎる世界から来た大和からすれば、この世界は毎日が天体ショーである。就寝前にここで星を眺めるのは最早欠かすことの出来ない日課だ。

(星座を知っていればもっと面白いんだろうけど……)

 輝きの並びを見るに、星の配置は確かに夏とは違うような気がする。が、役に立たないと決めつけて覚えなかったのは自分自身なのだからしょうがない。

「…………」

(どうにも気分が上がらないな)

 大和は深くため息をついた。

 授業などでは気を張っているため意識することはないが、こうして一人になると……。どうやら相当参っているらしい。

 

『多分あんたも国に仕官することになるわよ?』

 

「仕官……か」

 無人の庭で一人つぶやく。

 一度は国に仕官しようとした身である。かつての彼なら、もっと前向きに検討しただろう。けれど今そうしたいのかと聞かれれば……。原因はなんとなくではあるが、分かっている。

 この世界は確かにおかしい。

 三国志の登場人物が女の子でその髪の色が緑だったり、オーバーテクノロジーが散乱していたりする。言ってしまえば、まるで作り物のようである。

(けど、その中で足が地についていないのは俺だけだ)

 妹は正義とより善い国のために、賈文和は親友のために、生徒達はその野望のために。商魂たくましい洛陽の商人達もそうだろう。

 

 誰も彼もが燃えている。

 

 それに対して河北大和には、何もない。

 算術家・百式、伯鉄先生などと呼ばれてはいるが、実際はなけなしの知識を加工し、切り売りしているにすぎない。以前、賈文和が彼に言ったことは当たっていた。

 今なら、嫌いだったはずの勉強に熱心に打ち込んでいる理由も理解できる気がした。

 何もないからなのだ、本当に。

 自分が何者でどういう人間なのか。

 約二十年生きてきた中でそんなことはほとんど意識もしていなかった。だが、いざ河北大和というラベルを取られてみると、それが不安で仕方がない。だからこそ、人に認められようと――田伯鉄としての“自分”を確立しようと足掻いて――。

(おいおい)

 もし、そうだとすれば最初から勝負になっていない。それ以前の問題である。

 ため息混じりの乾いた笑いが力なく洩れた。

(現実感がない、物語の人物なのは自分の方じゃないか)

 目線を落としつつ、自嘲気味に口を歪める。

 帰る方法が全く分からない以上は、ここで生きていかなければならない。それは大和も理解している。元の世界に未練はあるが、“そういう覚悟”も少しずつしてきたつもりであった。

 けれど、もやが晴れない。

 田伯鉄には立派な思想も目的も存在しないからだろうか?

 もちろん、「自分の教えた算術や知識が世の中を良くしてくれれば……」という思いはあるが、彼女らのそれとは根本的に違う気がする。

「……もう、ぐちゃぐちゃだ」

 思考がまとまらない感覚が、ただただ不快だった。

 そんな中でも言えることが一つ。それは「どう転ぶにしろ、この先こんな中途半端な気持ちでいるのは不味い」ということである。

 異物である彼が行動を起こすことは、この世界に対する介入に他ならない。

 すでに引き返せないところまで来てしまっている。

 

『男性文官に対する偏見を無くすこと。伯鉄様の算術があれば、それが可能なのですよ』

 

 あのとき聞いた老使用人の声を、大和は思い出した。

 

 一部の女性が優れた能力・資質を持つ特殊な女尊男卑社会。

 妹や生徒達から詳しく話を聞くまで、彼はこれがどういうことなのかを本当の意味で理解できていなかった。

 それは田伯鉄が市井に暮らしていたから。

 街では女尊男卑など影も形も見当たらない。

「なあ、かあちゃん」

「なんだい? とうちゃん」

 これが通用する普通の関係がまかり通っている。

 しかし、学を必要とする世界においてはそうはいかない。“一部の”という点が、様々な歪みをもたらしてしまっている。

 

 優れた能力・資質を付与されるのは、歴史的に見て活躍した人物の名を持つ女性である。

 

 これは大和が実際に出会った人々や、聞いた話を総合して導き出した一つの答えであった。田元皓、賈文和、董仲穎。いずれもずば抜けた知力やカリスマを誇っている。武の方面なら、先の討伐軍で活躍した華将軍や、張将軍、呂将軍だろう。西平太守・董仲穎から聞かされた話によると、三人とも凄まじい武勇の持ち主らしい。

 後の時代(正確にはこことは繋がってないが)から来た大和からすれば、彼女たちの活躍はある意味当然ともいえる。全員三国志の英雄の名を持つ女の子だからである。

 けれど、この世界を現在進行形で生きている人達には、それは分からない。

 なら「自分の娘も……」と期待してしまうのは仕方がないことだろう。純粋な力である「武」と違って、文官としての才能はその有無が分かりにくいこともある。女子と男子。どちらの教育に力を入れるかは明白であった。

 

 もちろんそれだけではない。

 文官における差別偏見には、男が武官で活躍することに対する反動という面もある。

 優れた能力を持つのは一部のみであるから、腕力、体力の関係上、軍を構成するのは男が主体になるのは致し方ない。が、『天賦の才が発現するのが女性のみである以上、女性は男性よりも優れている』とする――保守派と呼ばれる人々にとって、それは受け入れがたい現実であった。

 トップに座るのが華将軍のように女性であることが多いことも相まって、『男は知で女に劣り、武官としても女に使われる存在』というような差別意識が一部で醸成されているらしい。

 

 偏見は時とともに徐々に強まっていく。

 教育の段階で差別されているので、優秀な人材はなかなか出てこない。優秀な人材がいないということは、やはり男は……。まさに負のスパイラル。

 一番の問題は、この状況に何の疑問も抱いていない、問題意識があっても動かない人間が大半だということである。長い時間をかけて出来てきたものだけに、根が深い。

 大和が興味深いと思ったのは、地方においてはこれらの考え方が廃れつつあるという点であった。それもそのはず。この世界の漢王朝の支配力は極めて弱い。馬術訓練時に賈文和が彼に語った通り、王朝の実質支配地域は司隷のみ。帝国とは名ばかりの連合国家状態なのだ。乱世に片足を突っ込んだこの国で重要になってくるのは生産力と軍事力。女尊男卑社会など現実的でないのは明らかだろう。

 しかし、事実が常に真実となるとは限らない。この場合もそうであった。地方と違って差別意識が根強い都においては、男はどんなに頑張っても中下級の役人止まり。最初から高い地位に就いた家に生まれ、かつ姉妹がいないという幸運でもない限り、上へはいけない。

 それでも上を目指すのであれば、例外である皇族に生まれるか大将軍のように外戚としてのし上がるか、もしくは……。

 

 宦官になって出世していくしかない。

 

 男が実力で出世するためには、まず、男であることを捨てなければならない。なんという悲劇だろうか。

 田算塾の生徒達は、秘匿状態にある高度な算術を男が修得することで、この状況を変えると息を巻いている。優れた算術の技能を世に見せつけ、男が生まれながらにして劣っているのではなく、教育状況に問題があると証明するのだと。

 

『ボク達はついた側との関係強化ができる。まぁ、他の効果も期待してるけど……。もちろん、あんたも私塾も絶対に悪いようにはしないわ』

 

 そこで協力しようというのが、賈文和の提案であった。彼女達は大将軍と十常侍の板挟み。非常に不安定な立場にいる。どちらにつくか決めた後での手土産が「男の算術家」というわけである。

(幸運にもこの都の二大勢力の長はどちらも「男」。彼女の言うように勝算は十分にある……のかな)

 行動することを選びながらもぐだぐだと思い悩む自分に、大和は苛立ちに似たものを感じる。あれ以来――特に算術や私塾の話になると、どことなくぎくしゃくしてしまっている妹との関係にも関わっているのだから、これは当然であった。

 あのときの妹の様子の変化。

 女尊男卑という都の現状、男の算術家、高等算術という特殊技能。

(もしかしてあの子はこうなることを――)

 背後で音がする。

 噂をすれば妹だろうか?

「あ……やっぱりこちらだったんですね」

「太白さん?」

 意外な声に振り向くと、月明かりに佇んでいたのは客人にして馬術の師、董仲穎であった。

 官服ではなく質素な平服(都で買ったものだろう)を着ているが、やはり可愛い娘は何を着ても似合うということだろう。

「こんばんは、伯鉄さん。……少しご一緒してもいいですか?」

 少し首を傾けて聞いてくる。

「ええ、もちろん」

 魔法でも使ってるんじゃないか? などと馬鹿げたことを考える。実際、彼女の頼みごとを「ダメです」と突っぱねられる人間に、彼は今のところ心当たりがない。

「ちょっと待って下さい。石は……冷えるのでダメですね」

「上も羽織ってますから大丈夫です。西平はもっと冷えるんですよ」

 どうしようかと迷っていると、そう言って大和に微笑む。そこに昼間のぎこちなさは感じられない。

(結局あれは何だったんだろうか)

 そんな大和の思いを知ってか知らずか、西平太守は隣に腰掛けながら、

「いつもここに座って星を見てるんですか?」

「ええ。日課みたいなものです」

「伯鉄さんは星が好き……と」

「はい?」

「いえっ、なんでも。あっ、それで私の名前も太白なんですね」

「え、ええ、そうです」

 さすがに「西平太守の“太”と、貴女の孫娘の董白の“白”から作りました」と言うほど馬鹿ではない。

(流れからいくと、太白ってのは星の名前かなんかだろうか? そうだ。星座を覚えてなくても、この世界で星について学ぶって方法があったじゃないか。今度、菊音に聞いてみよう。話のキッカケにもなるし)

 空に目を戻しながらそんな事を考えていると、横からクスリと笑い声。

「あの、私何かやらかしましたか?」

「いえ、ちょっと思い出しちゃって……思索石って、よばれてるんですよね」

「その呼び方……誰かから聞きましたか……」

 石をさすりながら少女が言うのに、わざと大袈裟に肩を落とすと、

「はい。“二つの意味”もお爺さんから聞かせてもらいました」

 向けられるのは悪戯っぽい表情。

(まいったなぁ。どうにもこういう顔が苦手だ)

 大和は思った。

 敬意をはらおうと思っているのに、見かけ相応の女の子にしか見えなくなるのだ。

「“考えてる”と“ぼーっとしてる”ですよね。門弟が言い出したんですけど、なかなか皮肉がきいてますよ。妹にそのことでしょっちゅう怒られてる以上、反論できないですけど……。ったく、あいつら師匠を何だと思っているのか」

「でも、皆さん心の中では尊敬してると思いますよ」

「それを内に隠さず、普段から表現してもらいたいものですね」

 心にもないことを言っておどける。実際にそんなことになったなら、暮らしづらくて仕方がないに違いない。

 

 ひとしきり笑った後、訪れた沈黙。虫の音もどこか寂しい。

 それに耐えかねたように、大和は口を開いた。

「太白さんには、その……なんというか」

「ふふっ。はい、何ですか?」

「やりたいことというか……夢がありますか?」

 その質問に明確な意図は無かった。

 なんとなく、そう聞いてみたくなったのだ。

「夢、ですか」

 

(何を聞いてるんだか……)

 

 不思議そうな顔をするのに、心のなかでため息が漏れる。結局のところ自分の問題であるというのに、人に聞いたところでどうなるというのだろう。

「はい。……なんというか、いきなりすみません」

「あ……いえ、構いませんよ」

 笑みとともに返すは可憐な西平太守。

 彼女は少し考えた後、石から立ち上がり、

 

「西平の人達……ううん。この国の人達みんなが幸せに暮らせるようにしたいです」

 

 星々を背に微笑みながら、はっきりとそう宣言した。

 

「――っ」

 大和は思わず息を呑んだ。

 優しい彼女のことである。「ひょっとするとそういう“夢”を掲げているのかもしれない」とは思っていた。しかしそれは、全くの思い違い。

 後ろ手に組み、はにかみながら見つめてくる少女。

 柔らかな表情はいつもと変わらない。しかし、その菫色の瞳には強い意志の光が、在る。

 

(この娘も本気なんだ……)

 

 大和はその瞳に吸い込まれるような錯覚に陥った。

 彼女の夢は、おそらく1800年経った後も実現されることはないだろう。そのことを彼は知っている。

 

『みんなが幸せに』

 

 馬鹿げているとすら思える。

 誰もがそんなことは出来ないと言うであろう、それは途方もない夢。

 それでも彼女は躊躇いなく、どこまでも本気で口にする。

 その姿は夜空の輝きよりも眩しくて、

 

「……太白さんの夢……叶うといいですね」

 

 そう返すのが精一杯だった。

 

 彼女は夢を語ったのが照れくさかったのか、

「伯鉄さんはあるんですか?」

「え?」

「夢ですよ」

 それを誤魔化すかのように聞いてくる。

「……夢」

 

(そんなもの、自分にあっただろうか?)

 

 

 

『大和。大きくなったら何になりたい?』

『うん、あのね。ぼくは――』

 

 

 

(……我ながら未練がましい。それはもう、終わったことだろ? それに太守様のと比べたら……個人的に過ぎる)

 

「伯鉄さん?」

「夢、ですか」

 

 立ち上がって大きく伸びをするも、恥ずかしさは消えてくれそうになかった。

 なんとなく大学に進学し、なんとなく誘われたサークルに入り……。

 はたして元の世界でもこの問いに答えることが出来ただろうか。

 

 やり場のない思いを誤魔化すように空を見上げると、そこにはやわらかく光る月が。

 その姿は元の世界のものと何ら変わらず、それが無性に恨めしい。

 

 

 ついに少女の問いに答えることは出来なかった。



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第08話 第三の男「百式」

「……ふぅ」

 洛陽の大通りをゆっくりと進む馬車。

 車輪が何かを踏んだのか強い揺れに眠りから醒まされた賈文和は、深いため息をついた。窓から外を窺うが目的地にはまだ着いていない。どうやら出発してすぐに寝てしまったらしい。

 

(うたた寝しちゃうなんて……)

 

 眼鏡を取って目頭を指で強めにつまむが、眠気は覚めてくれそうにない。

 単なる門修繕で終わるとは思っていなかったが、やはりその予想通り。連日多忙を極めている。それもこれも十常侍の計らいによって“有難く賜った”肩書きのせいだ。

 

『北門を修理するのなら、洛北における何かしらの権限を持っていた方が都合がいいでしょう』

 

 それはその通りかもしれないが、権限を持つということは職務も増えるということでもある。

 与えられた官職は洛陽北部尉。おかげで北の二つの門の修理の他に、荒れた洛北の治安回復という余計な仕事まで回されてしまった。

 もちろん治安回復の方まで完璧にこなせとは、あちらも言ってきてはいない。今回の任官は北門修繕期間に限定された臨時的なもので、ことが終われば解官されるからだ。

 けれど、だからといって門の修繕のみに力を入れるというわけにはいかないだろう。実行者が自分でも、城門修復は事実上董仲穎の名で請け負っているようなものだ。仮にも洛陽北部尉を名乗っておきながら何の成果も上げないのでは、宮廷に名前が売れ出している親友の風評に関わる。かといって本腰を入れて取り組めば、いつ西平へ帰れるかどうかも分からなくなってくるのだから……。

 こちらにその裁量を任せてきている辺りが小賢しい。

 

(「ゆっくり考えてもいいから、答えを出せ」ってところか……。多少粉はかけられるかなとは思っていたけど……まさかここまでとはね)

 彼らが本気で董仲穎を派閥に組み入れようとしていることは、火を見るよりも明らかである。

(……考えてた中で最悪の事態だわ。都のゴタゴタなんかに月を巻き込みたくなかったのに……。それもこれも、そもそもあのアホ大将軍が呼び出しなんかしてくるからよ)

 背もたれに全体重を預けつつ、心の中で悪態をつく。

 

 双方と適当な距離を保ちつつ西平へ帰還。あの男も西平で当分の間、独占する。望み薄だとは思っていたが、賈文和の求めた最良の展開はそれだった。

 高等算術を修得した数少ない“男”で、奇跡的にどの勢力にも属していない。その点だけ見ても田伯鉄には利用価値がある。例の商業地区の活性化などの付加価値を足せば……。

 けれど、その展開は望めそうになかった。田伯鉄には都で達成すべき目的があり、そして彼女達の状況も非常によろしくない。黙って西平へ帰してくれる気がない以上、いつまでもどっち付かずというわけにはいかないだろう。

 

 どちらにつくのか選ばなければいけない。

 

 董仲穎の洛陽再訪問をどういう経緯のものにするのか。具体的に言うのであれば、どちらの呼び出しに応じるか。

 それが彼女たちの意思表示になる。

 しかし情報が少ない今、すぐにそれは決められないし、決める必要もない。洛陽北部尉の職務である、洛北の治安回復という“明確な終わりのない仕事”――彼らから与えられた猶予期間を十分に活用するつもりである。

 

(大将軍と両天秤にかけてることなんて、百も承知ってわけか)

 

 自嘲気味に嗤う。

窓からのぞくぼやけた空は、心とは裏腹に雲ひとつ無い。

 洛陽を二分する大将軍と十常侍の二大勢力。

彼女たちはその中間の、非常に不安定な立ち位置にいる。舵取りを誤ることは出来ない。いくらとっておきの“手土産”を持っていようが、渡す相手を間違えたのではどうしようもないのだ。

 

「…………」

(……本当にそうなの?)

 

 顎に手を添え、思案する。

 

『算術を使って男子復権を目指しています』

 

 あの話が本当なら、この都の基本思想は女尊男卑。涼州で軍閥を構成している彼女からすれば、本当に馬鹿馬鹿しい話である。いくら都が旧態依然としているといっても、まさか本気でそんな事を信じている人間がいるとは思えない。

 洛陽の女達が声高に男子の無能を叫ぶ理由はただ一つ。

 既得権益の確保だろう。

 

 だとしたら、疑問が生まれてくる。

 洛陽で対立している二大勢力という――前提条件に関わってくる重大な疑問が。

 

 

 そこまでして男の台頭を阻もうとするにも関わらず、十常侍や大将軍のような存在を放置するなどということがあるだろうか?

 

 

 宦官と外戚の争い。

 都の権力闘争の構図は単純で、実に分かりやすい。

 けれど、もしそれが茶番だとしたら?

 

「…………」

 

(いずれにしろ情報が足りない……か)

 

「はぁ……」

 眼鏡をかけ直し、再びため息。

 情報を集めるにしろ働きかけるにしろ、洛陽に“つて”が少ないことが何よりも痛い。太守職が実質世襲制になって久しい上に、もとより涼州は連合による半独立状態。涼州連合の盟主である馬家ならともかく、太守とはいえ一豪族である月に、都との強いつながりなどあるはずがないのだ。

(やっぱりあのアホ大将軍のせいよ)

 涼州でも比較的都に近く、連合の中でも馬家の影響力が少ないこちらを指名してくるあたり、実は有能なのかもしれないが、詠や月としてはいい迷惑である。

 人脈が、特に十常侍派のそれが足りない。

 先の討伐軍で知り合った面々は信用は置けそうではあるが、いずれも政局に明るいとはいえないし、軍人の彼女達は全員大将軍よりである。

(あの子は……ないか)

 今向かっている屋敷の持ち主も頼れそうにない。

 侍御史を務めていて、曲がったことが大嫌いな彼女は汚職官吏の敵。とてもその権化のような十常侍の方面につながりがあるとは思えない。

(都の政治情勢には詳しそうだけど……)

 最大の問題は、実は主である董仲穎なのかもしれない。

 宦官の専横は遠く涼州まで聞こえていることもある。正義感の強い彼女は、どちらかと言えば大将軍側につきたがっているのではないだろうか。けれど集めた少ない情報やこれまでの駆け引きを考えても、政治巧者なのは……。

 

 ままならない。

 この一言に尽きる。

 

 やはり大将軍について、十常侍とやりあうしかないのだろうか。

 考えるだけで気が滅入ってくる。

 詠は三度目のため息をつこうとして、やめた。

 いつだったか、

『ため息をつくと幸せが逃げるよ』

 そう言われたのを思い出したのだ。

『そんなことあるわけない』

 と返した自分に、なおも食い下がる親友。

 幼い頃の他愛ないやりとりを思い出して、彼女は久方ぶりに笑みをこぼす。

 その親友に会うのは十日ぶり。こんなに離れたのはいつ以来だろうか。

「……ん」

 頬を両手で軽く叩く。

 

(たしかに今の状況は良くないけど、見方を変えれば中央に食い込む好機。ここは腕の見せ所ってもんでしょ。

 それなのにその軍師が困った顔してたら、月を心配させちゃうじゃない)

 

 決意に答えるかのように馬が低く嘶く。

 賈文和は車中で目を瞑り、微笑んだ。

 

 

 

―・―・―・―・―

 

「これはこれは洛陽北部尉様。ようこそお越しくださいました」

「その呼び方やめてよ。賈文和でいいわ」

 見知った顔にバツの悪い顔で返す。

 党錮の禁などの政争が起こる度に、中央の官職は再編を繰り返してきた。その中で生まれたのが名職――実務を伴わない名だけの官職であり、各官職に相当する位階として諸侯にばら撒かれている。

 再編の中で名職とならずに消えていった官職もあり、洛陽北部尉はその内の一つ。本来の職務は北宮の門周辺の警備だったが、それは新たに作られた官職に取って代わられていて、その就任者は十常侍の親派で固められている。つまり軍を持たない彼らの私兵というわけだ。

 今回の仕事は洛陽城北の門周辺の治安回復。

 これは洛陽北部尉本来の職務ではない。それが使い走りに過ぎない今の状況を示しているようで、詠はどうにも好きになれなかった。

「かしこまりました、賈文和様。お越しになられたらお通しするように言付かっております。どうぞこちらへ」

 案内されるままに屋敷へ入ろうとして、門に掲げられた看板が目に入る。

 以前は汚い字(おそらくあいつの字だろう)で「田算塾」と書かれていたそれは、見覚えのある字で書かれた真新しいものに替えられていた。

 

「百式学院……ねぇ」

 

 田伯鉄が「百式」の号で呼ばれていることは知ってはいたが、詠にはどうもピンと来ない。確かに優れた算術を使うし、発想も面白いのだが、学者とはどこか違う気がする。その違和感が何なのかと聞かれれば明確に答えることはできないけれど、とにかくあの男に百式などという仰々しい名前は似合わないのだ。

(そういえば、いつもなら出迎えに出てくるのに、今日はどうしたんだろう)

「伯鉄は?」

「それが、伯鉄様はちょうど出かけておられまして。お昼までには帰ってくると仰っていたのですが……申し訳ございません」

「そう……ってちょっと待って。てことは今、屋敷には誰も居ないんじゃないの?」

「いえ、太白様がいらっしゃいますから」

「……それは家の人じゃないでしょ」

 月はそんなことは絶対にしないが、それにしたってあまりにも無用心ではないだろうか。

 呆れた様子の詠に、声を落として老使用人は返す。

「『身分秘匿のためにも客人ではなく、家族同然に』というのが伯鉄様の方針でございますので。それに賈文和様については心配無用とのお言葉を承っております」

「相変わらずお人好しというかなんというか……。でもまぁ、そこまで信頼されると悪い気もしないわね」

 すると、老人は少女を見て意味有りげに微笑み、

「では、太白様のお部屋へご案内しましょう」

 そう言って、再び先を行く。

「……お願いするわ」

 

 少し声が大きくなったのが、なんだか恥ずかしかった。

 

 

 

―・―・―・―・―

 

 案内された一室。

 開いた扉の先には、西平にいる時と同じように、真剣な面持ちで筆を走らせている親友・董仲穎の姿があった。その眼差しは机の上に広げられた本と紙とを行ったり来たりしている。よほど集中しているのか、部屋に入っているのに気づいていないらしい。

「月」

「あっ、詠ちゃん」

 呼びかけると読んでいた本を閉じて、小走りに駆け寄る。

「元気にしてた?」

 両手をとって微笑みかけた。

 もう、半年以上も会っていなかったかのような自分たちの行動に、詠は心の内で苦笑する。けれど嬉しいものはしょうがない。

「うん。元皓さん達も屋敷の人達も良くしてくれるから……。詠ちゃん、洛陽北部尉になったって言ってたけど……」

「書簡にも書いたけど色々あってね。余計な仕事ばっか持ってくるのよ、あいつら。まぁ時間もあるし、難しい話は後にしましょ」

 少し不安げな様子で聞いてくるので、努めて明るく返す。

 心配させるわけにはいかない。

(それでも心配しちゃうのが月のいいところなんだけど)

 

「ところで、何やってたの?」

「えっとね。授業で使う教科書を作るお手伝いをしてて……」

「あの馬鹿……。西平太守を下働きさせるとはいい度胸じゃない」

「あっ、違うよ詠ちゃん。私からお手伝いさせて下さいって頼んだの」

 慌てた様子で訂正してくるのに、苦笑を誘われる。

 

 (……やっぱりじっとしててっていうのは無理だったか)

 

「そう。だったら何も言わないけど……。で、どうなの? その進み具合は」

「あともう少しっていうところかな。伯鉄さんはまだ納得できてないところもあるみたいだけど……」

 机の上に置かれた九章算術を見やる。まさに使い込んだといった感じのそれは、あの男にとって半身ともいうべき存在。

「あいつ、算術だけはとことんやるのよね。人に教える資格がーとか言って」

「ふふっ」

 親友の微笑みに、なんだか面白く無い方向に話がいきそうだと直感して、

「そういえば、ここに置いてあるこれは何なの?」

 洛陽北部尉は話題を変えた。

「お店で売る商品の試作品なんだけど。でも上手くいかなくて壊れちゃって……」

「商品?」

 足元に置いてある壊れた傘らしきものを拾い上げる。

「傘……よね?」

「うん。それは飛び出し傘って名前で……本当はこの、取っ手の近くにある出っ張りを押すと、片手でも簡単に開けられるんだけど……」

「……開かないわね」

 押してみるが、骨組みが歪んでしまっているのかピクリともしない。

「最初は動いてたんだよ? それで今度は材料とかを変えてみようって」

 それで授業もないのに屋敷にいないらしい。

「ふーん。頑張ってるのね」

 

(完成したら一本買ってあげようかしら。……って、え?)

 

「ちょ、ちょっと待って。あいつって算術の先生なのよね? なんでそんな技術屋みたいなことしてるのよ」

「えっと……商人くらすの人達の相談を受けてるうちに、引き受けるようになったって。商業地区の新商品のほとんどは伯鉄さんの案が元だって、生徒の子が言ってたよ?」

「…………」

 

 それはもう、色々とおかしい。

 

 今まで溜まっていた違和感が、一気に噴出する。

 

 引き受けてポンポンと商品案が出てくるのなら、そいつの頭は宝の山だ。天才といって差し支えないだろう。

 そう、田伯鉄が天才ならば、どんなにすごい算術を編み出そうが発明しまくろうが、それらは大した問題ではないのだ。現に親友は、なんの疑問も抱いていない。

 

(でも、ボクには……)

 

 詠には田伯鉄が天才だとは思えなかった。

 勧誘したくらいだ。もちろん能力は認めている。算術も高度なものだし、考え方も柔軟。しかし天才かと聞かれれば疑問が残る。

 あの男のそれは、直感やひらめきの類なんかではなく――。

 違和感の正体にたどり着いた気がした。

 

“知っている”

 

 この表現が一番しっくりくる。

 

 思いつくのではなく思い出す。

“知っている”のだ。

 それも誰も思いつかないようなことまで。

 

(これじゃまるで……)

 

「…………」

 頭をよぎった馬鹿馬鹿しい考えを打ち捨てる。そんなわけがない。いくらなんでも妄想が過ぎるというものだ。

 

(……どうかしてる。よっぽど疲れてるんだわ)

 

 あの間の抜けた男を天才とは認めたくなかった。つまりはそういうことだろう。なんと器の小さいことだろうか。

 疲労とともに、情けなさが湧いてくるのを詠は感じた。

 不思議そうにこちらを伺う親友を安心させ、彼女の成果を見に机へと向かう。

 

 途中にある窓。

 横目に見えるは荘厳で、それでいて強欲が蠢く王城。

 

(伯鉄に協力してもらうのは、もう少し先になりそうね)

 

 声には出さず、呟いた。

 

 

 

―・―・―・―・―

 

「お邪魔するよ~」

 

(……またあいつか)

 

 扉の向こうから力の抜ける声がかけられるのに、男は眉を顰めた。

「邪魔するなら帰ってくれ」

「はははっ。意地悪言わないでよ」

 笑いながら入ってくる小太りの男。

 無駄だと知りつつ冷ややかな視線を浴びせるが、やはり効果はない。

 

「君は天子に仕える身でありながら、礼儀がなってないな孫中常侍」

 

「君は天子をお慰めする身でありながら、堅すぎるんだよ宋中常侍」

 

 可笑しさに耐え切れなくなったのか吹き出した男を見て、げんなりする。

 孫中常侍、宋中常侍と互いに呼ばれたこの男達こそ、悪名高き十二人の中常侍――世にいうところの十常侍の二人。

 孫璋と宋典、その人であった。

「……それでどうした? 何かあったのか?」

「別に~。ちょっと世間話をしようと思ってさ……んしょ」

 言いながら許可も無しに勝手に椅子に座る。

 孫璋のこうした振る舞いは日常茶飯事なので、最早その更生は諦めていた。

「世間話?」

 聞き返しながら真向かいの席へ座り直す。

「うん。洛陽北部尉と会ってきたんでしょ?」

「ああ」

(賈文和か)

 宋典は自分と同じく眼鏡をかけたキツめの少女を思い出した。

「補佐役というか取次役に選ばれたからだよ。私は鉤盾令として宮殿の修繕を請け負ったこともあるからな。何か困ったことがあれば声をかけてくれと……それだけだ」

「残念ながら彼女にとっては、今の状況自体が困ったことだけどね」

「それについてはどうしようもないさ」

(可哀想ではあるが……)

 王朝の威光(すでに司隷以外が支配地域でないと言っているようなものだが)を示す意味でも、匈奴討伐は洛陽の官軍のみで行うべきだったと宋典は考えていた。

 実力はともかく、所詮は涼州の田舎太守にすぎない彼女らが何進に味方したとして、一体どれほどの脅威になっただろう。気になるなら、何か適当な理由を作って都から追い出せば良かったのだ。

 実際会ってみて感じたことだが、彼女らに都でのし上がろうという野心があったとは思えない。しかし、戦で功を立て、中郎将にまで進んだ董仲穎は、最早無視できない存在となってしまっている。

 孫璋に合わせて笑いながらも、宋典は賈文和には内心同情していた。

 だからといって何かしてやるつもりはなかったが。

「で、賈文和ちゃんはどうだった?」

「先の匈奴討伐の報告や、今回会った印象からの推測だが……恐らく“才持ち”だなあれは。大将軍様も面倒な人間を連れてきてくれたも――」

「そうじゃなくて顔だよ顔!」

「は?」

 話を遮って放たれた言葉の意味するところに、宋典は唖然とする。

 

(こいつはなにをいっているんだ?)

 

「賈文和の顔だよ。どうだった?」

「…………」

「そんな汚いものを見るような目をしなくてもいいじゃないか。男なら誰だって可愛い娘は嫌いじゃないだろう?」

 目の前の男が本当に“切り落として”いるのかどうか、蹴りを入れて確かめたい衝動に駆られる。ここが宮城の一室でなければ躊躇いなくそうしただろう。

 それを何とか我慢して、

「……たしかに魅力的ではあったよ」

 出来るだけ無愛想に返す。

 答えなければしつこく聞いてくることは、過去の経験から知っている。

「いいな~。僕もお近づきになりたいな~。ねぇ、宋中常侍。取次役代わってよ」

「私に言ったってどうにもならん。我らが盟主に掛け合えばいいだろう。多分、却下されるがな」

「どうしてさ」

「まさかとは思うが、本気で聞いてるのか? 君の様に胡散臭い奴が取次役になってみろ。董仲穎がこちらにつく可能性など消し飛んでしまうからに決っている」

「はははっ、ひどいなぁ」

 ヘラヘラと笑うのを見ていると、一つの不安が頭をもたげてくる。

 

(まさか本当に馬鹿話をしに来ただけじゃないだろうな……?)

 

 孫璋とは宦官になる前からの付き合いだが、昔からどうも掴みどころがない。しかし、いくらなんでもそんなことは……十分考えられるのだから困る。

 

「心配しなくてもちゃんと面白い話も持ってきたから」

 心を見透かしたかのように笑いかけてくるのを見て、

(こういうところが苦手だ)

 宋典は思いつつも、それを悟らせまいと強気に言う。

「……世間話と言っておいてこれだからな。面白い話というのも期待しないぞ」

「それで構わないよ。でも、きっと気に入るはずだよ」

 苦笑しながらも断言。

 いつもふざけ気味のこの男にしては珍しい。

「と、その前に……お茶か何かくれるかい? 喉乾いちゃってさ」

 

(……やはり苦手だ)

 

 宋中常侍は厚かましい同僚の要望に答えるべく、席を立つ。

 

 

 

―・―・―・―・―

 

「最近、大司農の方で面白い動きがあるのは知っているかい?」

 孫璋が“面白い話”を話し始めたのは、献上品の高級茶を三杯も飲んだ後であった。

「大司農で?」

 大司農は王朝の財政を主管する役職である。

属官には太倉、均輸、平準、都内、籍田の五令が設置され、穀物の管理、供給、物資価格の調節等の財政業務を執り行っている。

 そこで面白い話というと、

「また、誰かの不正が発覚したのか?」

 宋典がその答えに至るのは当然といえば当然であった。それほどまでに洛陽の政治は腐敗している。しかし、孫璋は口の端に笑みを浮かべ、

「それじゃあ、よくある話だよ。面白い話にはならない。……不正がよくある話ってのもどうかとは思うけどね」

 大袈裟に肩をすくめてみせた後、

「……男たち、中下級の官吏達が、偏見と差別の撤廃を求めて水面下で動きはじめてる」

 そう続けた。

 何事かと期待していた宋典は肩透かしを喰らった気分である。何故ならそんなことは……。

「それこそこの都では昔からよくある話だろう。これまで多くが求め、そして誰もそれを成し得なかった。だからこそ私も君も“今の立場”を目指してきた。違うか?」

「ま~、それについては否定しないけどねぇ」

 困った風に笑う。

「じゃあ、宋中常侍は今回の動きも潰されると思うの?」

「ああ。あの蔡倫でも成し得なかったことだ。有象無象に出来るわけがないさ」

 

 蔡倫

 

 男性文官の地位向上のために奔走した彼は、都の男達にとっての偉人であった。

 富と権力を得るために宦官となり、手に入れたその力を利用して紙を発明・改良。一連の技術革新をもって男が無能でないことを証明しようとした革命家だ。

 彼は世界に挑み、そして敗れた。

 

「蔡倫はたしかに天才だったと思うけどね。彼の敗因は研究が専門的すぎたからだよ」

「…………」

 尊敬する先達を否定されたようでむかついたが、それを押し止め、無言で続きを促す。

「新技術の開発なんてのは誰にでも出来るものじゃないでしょ? 蔡倫の場合、天才過ぎて研究内容もぶっ飛んでたし。だから結局『あの男だけは特別だった』ということにされちゃった」

 言い終わり、お茶に手を伸ばす孫璋。

 四杯目だ。

「……では、今回のは違うとでもいうのかい?」

「……んくっ……あ~、美味しいねこのお茶。えと、なんだって? そうそう。覚えさえすれば誰でも運用できるものだよ」

 からかうような目で宋典を見る。

 

(「考えてみろ」ということか)

 

 大司農――財政を司る役職。

 中下級の官吏――実務者達だ。

 覚えれば誰でも使えるという。

 それはつまり……。

 

「…………算術か……」

「せーかい」

 碗を置き、手を叩く。

「学問で攻めるというのはね。効果的だよ、とても。人間は基本的に学んでないことはできないからね。その中でも、算術は儒学なんかと違って運用その他で能力の差がはっきりと出る」

「その能力の差が教育の差であることを証明するのに、算術は最適だということか」

 男女の差が教育の差であると証明するために、学問を使う。それは、

「まさに正攻法だよね~。例えば女よりも計算処理が格段に早い男がいたとするよ? 保守派の女たちは女が男に劣るとは認めないからね。じゃあ、なんで負けるんだってことになる。

 当然言うはずさ。『自分たちだってそれを学びさえすればできるんだ』ってね。でもそれは……」

 一旦言葉を切って茶を飲み干した後、

「今の男達が主張していることそのものになってしまう」

 菓子に手を伸ばしながら言う。

「……『同じ事を覚えたらこちらの方が早い』と言うと思うよ。奴らなら」

「大した問題にはならないよ」

 菓子をかじりながら「何を言っているのか」といった感じで笑っている。いつもなら腹を立てるところだが、内容が内容だ。ポロポロと食べかすを落としていることも、気にならない。

 

 ……いや、少しは気になる。

 

「『人の能力は後天的なもの――つまり教育次第で大きく変わる』この手のことを言わせるだけで十分なんだよ。君の言う“才持ち”はともかく、大部分は女というだけで教育の優遇を受けていただけなんだから。

 同じ事を学んだとしても、女が絶対的に優位というのはまずないと思う。一つでもそういう分野を作れるというのは大きな一歩だよ。それでも女の方が優れていたら……ま~その時は大人しく尻に敷かれようよ」

 先ほどまでの真剣さは何処へやら。

 楽しそうに笑いながら、再び菓子に手を伸ばした。

 

(いつも真面目でいてくれれば心強い相棒なんだが)

 

「けれど、孫中常侍。算術が女よりも得意な男なんてのは前からいただろう? どうして今回に限って大事になる?」

「それは……直接見たほうが早いかもね」

 言いながら汚れた手を濃い緑色の官服で拭い、懐から一枚の紙を取り出す。

「大司農には知り合いが結構いてね。あ、何の為とかは聞かないでよ」

「聞かないさ。お互い叩けば埃の出る身だ」

「ははっ。ま~それもそうだよね。……これはその筋から手に入れた噂の算術の一部。女には見せないって約束でもらったんだ。君は僕と同じで“ついてない”けど、女じゃないから見て大丈夫だと思う」

「…………」

「そんな怖い顔するなよ~。冗談が通じないなぁ」

 

 机の上に広げられた紙。それは先達・蔡倫の努力の結晶。

 果たしてそこに書かれた内容は――。

 

「僕は算術は門外漢だけど、君は結構出来たよね。どう?」

「……明らかに大司農の業務で使用する範囲を超えている。正直なところ、最後の方のやつは私には解けない。……高等算術……か。太史令かその辺りの奴が裏で手を引いてるのか?」

 太史令とは吉兆や災異を記録し、主に時節、天文、星暦を司る役職である。

「いいや違う。自分の立場が危うくなるかもしれないのに、そんなことするわけがないよ。それに、太史令には女の子しかいないじゃない」

「なるほど。それは至極もっともだ」

 流すように宋典は返した。もとよりただの確認である。

 高等算術は彼女らの地位を担保する切り札。秘匿しているそれをみすみす他人にばら撒くとは思えないし、それにこの都で男子復権を目指すことの困難さは誰もが知るところである。成功の確率はあまりに低く、失敗したときに失うものは計り知れない。

(それに女である彼女らがそんな事をする旨みもない。あったとしても危険性の方が断然大きい)

 

 なら一体誰が?

 

 孫璋はすっきりしない様子の同僚を満足気に見て、ようやく話の核心に入る。

「ここからが“面白い話”なんだ。さっきまでのは男にとって希望が湧いてくる話。ま~僕からすれば? ちょん切っちゃったの早まったかなーとか、後悔が湧いてくる話なんだけどさ」

 ヘラヘラ笑いながら続けるのを、宋典は黙って聞いた。

 

「それを彼らに教えている人間は『百式』というらしい」

 

「ひゃくしき?」

「号だよ。無数の算術式、解法を自在に使いこなすっていうのが由来みたい」

 

(なるほど、それで百式か……。確かに算術家には相応しい号なのかもしれない)

 

「で、だ」

 おもむろに立ち上がると、机に両手をついて身を乗り出してくる。途端に妙に脂っぽい匂いが鼻をついた。

 しかし、当の孫璋は顔を顰める宋典を全く気にする様子もなく、

「その百式の正体というのが面白い。僕達の可愛らしい敵・田豊ちゃんの噂の兄君というじゃないか」

「田豊? あの侍御史の?」

 

 侍御史田元皓の兄。

 宋典もその存在については風の噂で知っていた。

 向こう見ずな彼女が長安で殺されそうになったとき、それを助けたという生き別れの兄。明らかに嘘だと思ったが、そうする意味が分からないし、十常侍内では議題にすら上がらなかったので静観していたのだった。

(たしか名前は……)

「思い出した……。田鋼だ。字は伯鉄」

「ふぇーふぁい」

「…………」

 一発殴ってやろうという思いを、雑役時代に培った鉄の自制心で何とか押しとどめる。

「口にものを入れたまましゃべるな、行儀が悪い。それに一体なんだ? その脂っぽい匂いは」

「……んくんっ……ああ、これ? お昼に市中で噂の拉麺を食べに行ったんだけどさ~。美味しかったんだけど汁が濃いのなんのって。あれ、大盛りで頼む人とか信じられないね」

 あっけらかんとした様子だ。

 

(……宮廷を抜けだして食べに行ったということだろうか)

 

 同期の信じられない行為に目眩がしてくる。

 さすがに文句を言おうとして、

「それでね。その拉麺屋がある商業地区って、田家の屋敷に結構近くてさ」

 それを飲み込む。

「…………」 

「やたらに活気づいてるんだけど。それは百式が私塾を始めて少し経った頃からみたいでね」

「……百式の影響だと言いたいのか?」

「断言はできないけど、十中八九は。あと、もう一つ。賈文和とも接触してるらしいよ。まだその女の子が彼女本人かどうかは分かってないんだけど…………可愛いんでしょ?」

「……ふむ」

 宋典が顎に手を当てて考えるのを見て、

「どう? 宋中常侍。洛陽に突如現れた算術家『百式』……よりにもよって“この都”で、しかも“男”を対象に高等算術を格安の授業料でバラ撒くいかれた男。

 算術が急激に発達したのは蔡倫が紙を発明してからだから、その後継者としても資格十分。面白い話じゃない?」

『どうだった? やっぱり面白い話だったでしょ?』といった顔で話を締めた。

「…………」

 この男の言を認めるのは何というか、とても癪に障る。癪に障るのだが、

「……ああ。ありがとう、孫中常侍」

 口角が釣り上がるのを止められない。

「賈文和の話の時点で追い出さなくて良かったよ。いつもこれくらい実のある話をしに来てもらいたいね」

「ひどいなぁ。……で、どうする? 当然動くよね?」

 皮肉をこめた物言いにも全然堪えた様子はなく、部屋を物色し始める。

 これももう、いつものことなので注意はしない。

「もちろん。十常侍といっても、私と君の席次は十一と十二。十常侍の十にも入っていないというのは哀しすぎる話だ。それに……君もそのつもりで私に話したんだろう?」

「まーね。正直手詰まりだったし。そこへなにやら引っかき回してくれそうな百式様のご登場だよ。これを活かさない手はない」

 宋典は舌なめずりをしながら器に酒を注ぐ同期を見つつ、これからのことに思いを巡らせる。

 

 大将軍と十常侍の二大勢力の対立。

 そこに予想外の第三勢力を登場させることができたなら……。それも普通の政治勢力ではなく、思想集団という形で。

 

(上手くいけば奴らを一掃できるかもしれない)

 

 

「……ところで、その酒。どこから出してきた?」

「ま~ま~細かいことを気にするなよ」

「君ってやつは……」

 

 

 

「漢室のためにっ」

「……漢室のために」

 

(これは所謂景気づけだ。昼間から呑んだって、バレなければ構わないだろう)

 

 

 悪友と酌み交わす酒は、いずれ手に入れるであろう勝利の味がした。



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第09話 胎動

「ああ、もう最悪だ」

 

 書斎の椅子に崩れ落ちるようにして腰掛けるのは、賈文和の政治的切り札にして協力者・百式。まだ昼前だというのに、尋常ではない疲れっぷりである。

「あんな夢を見るなんてどうかしてる……」

 ここのところ悩まされている夢が大きな原因であった。夢といっても先日、西平太守と話したものとは違う。睡眠時に見る幻覚の方である。

 

(見知った娘にメイド服着させてイチャコラする夢ってのは――)

 

 実にくだらないが、頭を悩ませるには十分だった。

 学院の支援者であり、馬術の師でもある同居人は確かに可憐な少女ではある。それに異論を挟むつもりは彼にもない。身分を隠すことによって、董仲穎の魅力はより強調されていると言ってよかった。現に、控えめで献身的に田伯鉄の助手を務めている「太白というらしい美少女」は、すでに学院のアイドル的地位を確立しつつある。

 しかし、大和にとって彼女は三国志の英雄であり、身分も(聞いたことはないので詳しくは知らないがおそらく)年齢も違う。妹や彼女の親友同様に「そういう対象」として見たことはないはずだった。それがあの夜以降、親友を伴って頻繁に夢に登場してくる――しかも、それが人に話せるような内容ではないのだからたまらない。

 

 夢の中の彼女らは何故か二人ともメイド服を着ていて、甲斐甲斐しく、また一方は悪態をつきながらも世話を焼いてくれる。しかもあろうことか真名まで許してくれているようで。

 

「…………」

(欲望全開すぎってもんだろう……)

 算術教師は自分に呆れたとばかりに頭を抱えた。

 

 作ってくれたお菓子をみんなで食べる。他愛ない話をして、いちゃつく。

 

 大和にとっては不快な夢でけっしてないが、やはり色々と世話にもなっている二人に申し訳ないという罪悪感の方が大きい。一人とは毎日顔を合わせてもいるのだ。故に自己嫌悪に陥るのである。

 それが昨夜はとうとう――。

「ああ、くそっ」

 脳裏に浮かんでくるやけに生々しいイメージを追い払うように、頭を掻き毟る。

 

(いくら女っ気のない生活してたとはいえ、見境なさすぎるだろ……。もっと真剣な悩みがあったはずじゃないのかお前は)

 

 年下すぎる女の子にメイド服。

“そういったご趣味”は自分にはなかったと認識していたが、異世界に来た影響で新たな世界に目覚めたとでもいうのだろうか。

「……顔でも洗ってこよ」

 このままでは仕事になるものもならない。と、ピンク色の靄をかき消し立ち上がる。それに答えるように年季の入った椅子がきしっと音を立てた。寒空に冷えた井戸の水でも浴びれば、惚けた頭も少しは働きを取り戻してくれるかもしれない。

 庭に出ようと部屋の戸を開けると、

 

「きゃっ」

 

 声に視線を下せば、突然戸が開かれたのに驚いた様子の女の子。運の悪いことに彼としては今最も会いたくなかった相手だった。

「あ……すみません。驚かせて」

「いいえ。あ、伯鉄さんに――」

 

 

『あの……ご主人様』

 

 

「うっ」

 紅潮した頬に潤んだ瞳。

 差し込むような頭痛とともに夢のワンシーンがフラッシュバックし、大和は思わず額を押さえた。

「……伯鉄さん? 頭が痛むんですか?」

「いや、なんでもありません」

 まるっきりの嘘というわけでもない。痛みは一瞬。

「でも……」

 

(こんないい娘に醜い欲望をぶつけて……お前って奴は……)

 

 心配そうに見上げてくるのに強烈な居たたまれなさを感じる。

 同時に込み上げてくる自己への失望感は隠し、

「ちょっと寝不足だったみたいです。それで御用はなんでしょうか?」

 手早く用件を聞いて追及を避けた。理由が理由であるし、心配させるのもよろしくない。長い付き合いというわけではないが、それくらいのことは大和にも分かる。

 しかし、その対応は適切でなかったらしい。目の前の少女はまだ何か言いたげなのだから。

『すみません。今後は気をつけます』

 苦笑に意味を込めると、ようやく顔をほころばせる。

『わかってくれればいいんです』

 少し満足げな顔はそう言っているような気がした。

 

「伯鉄さん。算術書の原稿と、これを」

「ありがとうございます。こっちはえっと、書簡……妹ではなく私宛ですか」

(わざわざ手紙寄こすなんて誰だろ?)

 生徒達であれば直接話をしに来るはずである。差出人を見ようとそれを裏返すと、そこには男らしい達筆で二文字。

 

 華雄

 

 数ヶ月前屋台でラーメンをともに食べ、一昨日、雍州から帰還した将軍の名があった。

 

 

 

―・―・―・―・―

 

 同刻、洛北にて。

 

「では、賈洛陽北部尉様、行ってまいります」

「ええ。頼んだわ」

 命令を受けた部下が部屋を出ていくのを見届けて、少女は椅子に腰かけ直す。

『洛陽北部尉』

 臨時に置かれたその官職の職務は「洛陽の北側、東にある穀門と西にある夏門の二つの門の修繕と周辺の治安回復」。もっとも、門が壊れているといっても、さすがに入り口そのものが破壊されているわけではない。修繕が必要なのは門の上部に建てられた小さめの櫓やら詰所などの周辺施設である。

 洛陽北部尉こと賈文和は、特に損傷が激しい夏門の近くに仮の官舎を設け――といっても元からある廃屋を利用しただけだが――そこで指揮を執っていた。

「賈洛陽北部尉様ね」

 不満げに鼻を鳴らす。

 やはりこの呼ばれ方は好きになれそうになかった。が、それもこの仕事が終わるまでの辛抱。それに、今はそんなつまらないことより遥かに重要な案件がある。

(さてと……どうするべきかしら)

 詠は修繕の進捗を伝える竹簡を軽く見直ししつつ、先の宮城での会話を思い返した。

 相手の名は宋典。

 悪名高き十二人の中常侍の一人であり、自分と他の面々との取次役を負っている男。すでに何度も会話したことがあるが、内容は基本的に仕事のことが中心の当り障りのないものであった。

今朝もそれは変わらず。

 ……ただ一点を除いては。

 

『洛陽北部尉殿は百式という男をご存知でしょうか?』

 

 この言葉を聞いたとき、顔こそ平静を保てたものの、詠の内心は驚きで溢れていた。

 すぐに仕官も可能である程の算術の実力を持つにも関わらず、田伯鉄は私塾の宣伝活動を全く行っていない。それは彼らの目的を考えれば理解できた。都の価値観をひっくり返すというのだから、周到に準備をし、機を待つのは当たり前。学院の存在価値は、むしろ隠されていると言っていい。

 例え話題に上がることがあったとしても「学のない人間たちが有り難がっているだけ」と、一刀両断されておしまい。「ごく一部に秘匿されているはずの高等算術を修めた“男”が市井で燻っている」などということはあり得ないのだから。

 それがどうしてよりにもよって宦官――皇帝の側近くに仕える十常侍――から百式の名が出てくるというのか。

 

『軍が主体の涼州では……というよりほとんどの地方ではあり得ないことかもしれませんが、都においては未だに男の文官に対する偏見があります。彼の存在は都に一石を投じるものですよ。

 百式殿はまさに男性文官の希望の星。出世のために男を捨てた身としては、やはり彼を応援したいですね』

 

 髪を下ろせば女と見間違えるような、どこか古狐を思わせる顔をした中年の男――宋中常侍は、嘘か本当か判断しかねる微笑を浮かべ、そう言った。

その後は賈文和が百式について幾つか質問をして、話題はそれで終わり。

 仕事の報告の合間の世間話。それだけだったのだ。

 

 

 そこが引っかかる。

 

 

「…………」

(あの男の存在価値を認めているなら、動こうとしないなんてあり得ない)

 報告書に不備がないことを確認すると、脇に巻き上げ左腕で頬杖。董仲穎の親友兼参謀は思考の回転速度を上げていく。

 

 算術家・百式。

 それは使い方によっては都の常識をひっくり返すことも可能なまさに切り札。使う人間が十常侍や何進のような権力者であれば、尚の事である。

 事実、賈文和は今後の董仲穎の洛陽での処世にあの男のことを利用するつもりであったし、すでに「互いの目的を達成するための協力」という形で本人の了解もとってある。今、本格的に動けていないのも、利用するにしてもどちらにつくのかを先に決めなければならないというだけのこと。

(あれを知ったら動くのよ、普通は)

 例えば宋典が宦官ではなく、噂に聞く男嫌いの女性保守派であったとしても、動かないという選択はあり得ない。

 外戚や宦官のような例外ならともかく、普通の男である百式が活躍すれば、男という勢力それ自体が力を増すことになる。そういう人間にとっては絶対に阻止したいことだろう。妨害や暗殺等々、何らかの動きは起こすはずである。田家に逗留している涼州兵は、なにも彼女の親友のためだけではないのだ。

「……ふん」

(本人がちゃんと理解してるかどうかは、ちょっと怪しいけど)

 ともかく、だからこそ動きが感じられないというのは不可解だった。

(ボクが伯鉄と知り合いだと知って、それで牽制を? ……ううん、違う。そんなことを気にするのなら、こちらに構わず推挙すればいい。なら――)

 思考に合わせて指がゆっくりと、規則正しく机を打ち始める。外から聞こえてくる補修作業の音に掛け声。それら一切が消えていくのを感じ、賈文和は瞼を閉じた。

 内容だけを見て考えれば、あの世間話の目的はとても単純である。

 

 算術家「百式」の存在と、それを自分達が把握しているということを知らせる。

 

(……やっぱりそう考えるのが一番よね)

 問題はその意味。

「百式の推挙を手土産にこちらへつけ」というのとは、違うだろう。

 彼らには董仲穎に対してそこまでする義理はないし、そんなことをするくらいなら推挙は自分達で行い、今ある権勢をさらに強めて大将軍に対抗する方が現実的である。彼らの席次を考えても、その方が筋が通るというものだろう。それに、百式を大将軍側に紹介されてしまうかもしれないと考えないはずがない。

 つまり、十常侍の行動としてあの世間話は、あり得ない。

(ということは、あの話をさせたのは十常侍の意志ではなく、宋典個人の――)

「…………」

 机を叩く音が止まる。

 

 だとしたら何かがあるのだ。

 十常侍として動かないのは何故なのか。

 話を持ってきた理由は何なのか。

 

 静かに開かれた両の瞳は爛々としていた。

 つまりこれは、

(……面白いじゃない)

 試されているのだ。涼州では策謀において敵なしと自負する賈文和が。

 媚びへつらうのが仕事の宦官などに己を試されるという屈辱。同時に湧いてくる、能力を評価されていることに対する満足感。それらをないまぜにして、洛陽北部尉は不敵に笑う。

「そうとなれば……話は早いわ」

 瞳に浮かぶ剣呑な光は消さず、早急に会談の場を設けるべく書簡に筆を走らせる。

 この乱暴な、賭けに近い手段を考えるに、彼にはどうやら焦りがあると見ていい。それにわざわざ話を振ってきているのだ。どんな悪巧みをしているのかは知らないが、董仲穎が必要であることは確実だろう。

(試されたことには腹が立ったけど、ここはご期待通りの有能さをもって“話を聞いてあげよう”じゃない)

 買い叩かれるつもりなど毛頭なかった。

 

「ボクたちはそんなに安い女じゃないのよ。宋中常侍」

 

 その狐顔の次に浮かんでくるのは渦中にある算術家の姿。

 動きがあれば伝えると言ってあるが、最早完全な事後報告になりそうである。

 

(どんな顔するかしら)

 

 今度は本当に可笑しくなって、笑う。

 親友に見られたなら、また茶化されてしまいそうなそれを浮かべて。

 

 

 

―・―・―・―・―

 

「彼女達は我々の味方だよ。ともに甘い汁を吸う、いわば運命を共にする者たちだ。これまでも……そしてこれからもそうだ。宮廷の外に協力者がいることは何よりも心強い。君は私のやり方に不満でもあるのかね?」

 宦官特有の、年の割にやけに高い声が不快な振動となって部屋へ響く。

(やはり無駄だったか……)

 この反応は分かりきっていたことではあった。帝の寵愛を受け、財を、権力を手に入れ、十常侍などと呼ばれている。目の前の男は“そんなこと”で勝った気になっているのだ。実際は奴らの思うように動かされているだけだというのに。

 かといって、(非常に残念ではあるが)湧き上がってくる衝動にまかせてこの男を殴り飛ばすことは出来ない。

 宋中常侍は心の内で舌打ちをして、しかし、

「いえ、けしてそのような。ただ、あなた様を思ってのことでございます」

 思ってもいないことを口にする。

 宦官である以上、こういった類いのおべっかには慣れているはずだが、それでも腹が立つものは腹が立つ。

 

『君って本当に宦官に向いてないよね~』

 

(余計なお世話だ)

 しかし、それは正鵠を得ていると言っていい。かつては清廉で知られた官吏であった。それが今では国で最も腐敗した存在というのだから。

(我ながら大した変わり様……とも言えるか)

 ほとんど見えないくらいの小ささで、唇を歪める。

「よろしい。では、君の仕事に取り掛かりたまえ。董仲穎の件は期待しているよ。宋中常侍」

「……かしこまりました」

 口にした言葉は、それでも苦い後味を舌に残した。

 

 宋典

 

 親譲りの潔白さで知られた官吏であった。

 彼の母はそれほど地位の高くない文官であったが、汚職蔓延る都にあって清廉で知られ――だからこそ出世は望めなかったのだが――尊敬するに相応しい官吏であった。彼女の身体的な理由でその"一人息子"となった宋典は、幼い頃から儒学やその他諸々の学問を叩きこまれる。

 余人から見れば厳しすぎる教育も、当人は全く苦だとは思わなかった。「立派な人間に育ってもらいたい」という母の思いは、十分すぎるほど彼に伝わっていたからである。

 それが幸だったのか不幸だったのかは、分からない。

 ただ一つ言えることは、彼の才が母を遥かに凌ぐものであったということだった。

 聡明で故実に詳しく実務も優秀だった彼は、国に仕官した後、驚くべき早さで高官にまで昇りつめる。これは「男の」しかも「叩き上げ」としてはまことに異例なことであり、当時は「男性文官の希望の星」などと持ち上げられることも多かった。

 そう、まさに順風満帆といえる人生だった。普通なら何の不満も抱かないだろう。

 しかし、彼は王朝の現状――金や媚で最も高く競り落とした人間の手に国の手綱が渡るという現実から、どうしても目を背けることが出来なかった。

 

「では、これにて……」

 

 故に嫌悪していた人種の仲間入りを望んだのだ。

 

『宦官になる』

 

 その選択を聞いた彼の母は、どうにかして息子を止めようとした。親として当然である。どうしてわが子にそんな道を歩ませられようか。

 しかし、彼女は息子の目を見て、全てが無駄だと悟る。

 彼はまさに彼女が望んだ通りの“立派な青年”に成長していたのだから。

 

 

 つまるところ、宋典という男は清廉潔白にすぎたのだ。

 

 

 部屋を辞し、長い廊下を歩いていると、宮女の他に何人かの宦官とすれ違う。雑役に追われていても権力者に媚を売るのだけは忘れないのか、欲望にまみれた笑顔を向けられるのには参る。

 まるで崩れかけた飴細工の櫓、それに群がる蟻のようで、

(たまらなく不快だ)

 宋典は顔を顰めた。

 今会いに行っている男もその点ではいい勝負であるが、彼にとっては不快の種類が違う。庭に面した廊下であるのに空気まで澱んでいる気がして、少し足を早める。

 孫璋の部屋は十常侍の面々の中でも一番小さい。引越しが面倒だからだと本人は言うが、どこまで本気なのかは分からない。そういう男だと認識することで、宋典は彼についての詮索を放棄していた。大量の無意味な行為の中に真意を隠すのは孫璋の手管である。まともに取り合うのも馬鹿らしいというものだ。

 その部屋の戸を躊躇なく開ける。

 実に彼らしからぬ行為だが、それは相手の普段の態度を考えれば無理もないことなのかもしれない。

 

「おっ。これはこれは宋中常侍様……で、どうだった? 我らが盟主様は」

「私達の予想通りだ。ダメだったよ。膠で貼りつけたようにベッタリだ。あれを引き剥がすのは無理だな」

 戸を閉めながら答えて、相変わらずの狭さに眉根を寄せる。

 調度品こそ高そうであるが、圧迫感のある部屋が辛い雑役時代を思い出させるのがいただけない。実にいただけない。

「やっぱりかぁ。残念だね~」

「まったく残念そうには見えないがね」

 そんな事は気にもしていないのか、呑気にそう言う相棒に皮肉を交えて返す。

 宋典自身は否定するかもしれないが、いつものあいさつのようなものだった。

「はははっ。ま~座りなよ。お湯はちょっと切らしちゃっててね。どうする? お酒でいいなら蔵から借りてきた美味しいのがあるけど」

「借りてきたって……いや、遠慮しておこう。遊びに来たわけではないし」

 進められるままに椅子に座り、わずかに茶色がかった瞳を見据えた。

「……いきなり疲れる話かぁ」

 真面目な話はとことん嫌いらしい。

「それ以外に何が……参考までに聞こう。どんな話ならよかったんだ?」

「それはほら。あれだよ。後宮に新しく入った女の子ですごく可愛いのがいるとかさ」

「……孫中常侍。悪いが私達は――」

「分ぁかってるって。百式の話でしょ? 僕だってこの数日間遊んでたわけじゃない」

 遊んでたと言われても、何の疑問も湧かない態度なのだから困る。

「疑ってはいないさ。こんなことを言うのは不本意だが……やるときはやる男だからな、君は」

「よしてよ~。そんなに褒められたらほっぺたが赤くなる」

「…………」

 いつもと同じ様子でヘラヘラ笑っているが、抜け目がないのも昔から変わらない。

"ここ"へ昇ってくるためにめぐらせた奸計の数々。協力して難局を乗り切ったことは両の指では足りないだろう。人格はともかく、有能なのは間違いないのだ。

「賈文和に話してきた」

「ほうほう」

 何を? 何で? などとは聞いてこない。

(やはり得難い相棒……ということか)

「賛同してくれるかどうかは分からない。が、とりあえず話は聞いてくれそうだ」

 不本意な結論については顔に出さないように努めた。調子に乗らせるべきではない。

「へ~もう返事来たの」

 手渡された書簡を広げた孫璋は片眉を上げて、他人事に言いながら返す。

 それを懐にしまいつつ、

「提案したのは君だろう。賈文和は能力的には間違いない。第一関門は突破だ。あとは引き込めるかどうか、だな」

『十常侍ではなくてこちらに』という当たり前の部分は、言う必要はない。

「その点はどうしても賭けの要素が入るね。けど、もちろん負けるつもりはないよ。ま~多分上手くいくんじゃない?」

「…………」

(お気楽な奴だ)

 

「ははっ。なんだかいつになく弱気だね」

 小馬鹿にした物言いにも、いつものような苛立ちが出てこない。

「……出来るかどうかじゃないというのは分かっているんだがね。さすがに今回のは事が大きすぎる。失敗すれば……文字通り首が飛ぶ」

「宋中常侍。僕と君で上手くいかなかったことなんてあるかい?」

 そんな様子の相棒に、苦笑しながら孫璋は言う。

「上手くいかなかったらここにいないでしょ」

「そうだな」

 言葉を切って数拍。宋典は珍しく意地の悪い微笑みを浮かべた。

「しかし、前例もある。例えば中常侍昇進の話が初めて上がったとき――」

「あ~れは君のせいでしょ。情報が正確じゃなかったんだよ。どうしようもない」

 心外だといった顔で返す。

(なるほどこれは)

 いつも軽口を叩く孫璋の気持ちがほんの少しだけ分かった気がした。だからといって許す気にはなれそうにないが。

「まぁ、そういうことにしておこうか。今回は言い訳させないようにするよ。お互いに――」

 戸の方へ目だけを向ける。

 そして部屋の外を人の気配が通り過ぎ去った後、

「必死でやろう」

 声を落として言う。

「無論、そのつもりさ」

 悪友はいつもとは違い、言葉と一致した顔でそう返すも一瞬。すぐにそれを崩し、大袈裟な動きで背もたれに寄りかかった。

「となると、あとは百式本人か~」

「そうだな」

 彼らの一連の策の要は百式であった。

(あの算術家を味方に引き入れなければどうしようもない。……それも出来るだけ迅速に。彼の門弟達がことを起こしてからでは遅い)

 しかし、百式こと田鋼は王宮の外、市井の人間である。話の内容を考えても直接会うのが好ましいが、十常侍がお供も付けず、誰にも気取られぬようにとなるとなかなかに難しい。

 

(だからこそ董仲穎たちを使って…………王宮の外?)

 

『お昼に市中で噂の拉麺を食べに行ったんだけどさ~』

 

 見ると「今、殴り飛ばしたい顔」第二位が、宋典へと向けられている。

 一位はもちろん彼らの盟主様である。

「百式の担当は僕がやるよ。本音を言えば可愛い女の子とお話しする方を希望したいんだけど」

「……前、聞きそびれたんだが、どうやって外に出ているんだ?」

 孫璋にしては珍しく、少し迷ったような素振りを見せた後、

 

「ここは宮中。皇帝陛下のお家みたいなもんだよ? 脱出のための抜け穴くらいあるに決まってるじゃない」

 

「なっ」

 

(皇帝陛下のための抜け穴を使っただと!? バレれば一発で腰斬刑だ。下手をすれば十常侍の面々も縁座するかもしれない。それを目の前の男は……)

 

 結論から言えば、それらの不満が孫璋にぶつけられることはなかった。

「前に使ったのが初めてだよ。結構調べててね。実はもう百式の顔も分かってる」

 長い付き合いの中で、一度も感じたことのない雰囲気がそれをさせなかったのだ。

「僕はそれくらい本気なんだよ」

 

 泰然自若。いつも飄々としている相棒が、焦っている。

 

 それは宋典を黙らせるのに十分すぎる理由だった。

「はっきり言って、僕達に時間はない。このままいけば奴らを排除するどころか、宮中を掌握する前に時間切れだ。……ぐずぐずしてる時間はない。最初でつまずくわけにはいかないんだ」

 そこまで言い切ったところでフッと顔を和らげ、

「ま~久々に拉麺食べたかったのも事実なんだけどさ」

 いつも余裕にあふれた相棒を、憎らしいと思っていた。けれどそれは宋典が勝手に抱いていた幻想。

 

 また、部屋の前を人が通り過ぎる。

 その気配を背中越しに追った後、

「宋中常侍」

「……なんだ?」

「初めて会ったときのことは覚えているかい?」

 向けられるは素晴らしく真面目な顔。

 

(……まずい。こいつはとんでもなく恥ずかしいことを言おうとしている)

 

 ここぞというときにクサい台詞を吐いてくる。

 本人はモテる為に修得したとか宣っていたが、寒すぎるそれは彼が苦手とする孫璋の悪癖の一つだった。

「思い出話は老化の証拠だ」

 冷たく言って突き放そうとするが、それはもちろん効果がない。

「僕は覚えてる」

 ニヤリと笑う。宋典は舌打ちしたい思いだった。

「くそ真面目で面白みの欠片もない奴だと思ったよ。……まぁ、今もそれは変わらないけど」

「……それを言うなら私だって同じようなものさ」

 背中が痒い。切り返しにもいつものキレが出てこない。

 その様子に、孫璋の口はその滑らかさを増す。長い付き合いである。どうやら分かっていてやっているらしい。

「まさか次に会うときにお互い宦官になってるとは思わなかった。それで――」

「孫中常侍」

「ははっ、いいから聞いてよ」

 己がどんな顔をしているか。孫璋の楽しそうな顔を見ていれば嫌でも分かる。

 

(この流れは駄目だ。よろしくない)

 

 そんな思いをよそに、彼の悪友はさらに続ける。自己に酔ったように話す様は、もはや独擅場であった。

「あれから何年も経った。その間色々なことがあったけど……まぁ、どれも大した障害じゃあなかった」

「……私の記憶が正しければ、失脚しかけたのは一度や二度じゃなかったと思うがね」

「終わってみれば、という話さ。今回も同じだよ。『最後にはすべてが上手くいく。きっとそうなる。なんたって――』」

 聞き覚えのあるそれらはこの男の決まり文句。

 宋典はもはや諦めたように、言葉を繋いだ。

「『僕達がやるんだからね』…………まぁ正直な話、君と組んで失敗する自分は思い浮かばないよ」

 

 宋典は嫌そうに――それでいて態度と一致しない顔をして立ち上がる。

 先ほどまで感じていた空気の淀みは、いつの間にか消え去っていた。

 

「……やってやるさ」

 

 悪友はその様子に再び笑った。

 

 

 

―・―・―・―・―

 

 陽も傾きはじめた頃、最後の授業の片付けを終えた田伯鉄は、身支度を手早く済ませて市街へと出た。私用では久々の外出である。少し乾いた空気の中歩いていると、時折ひんやりとした風が肌を撫でていく。大和は寒さに襟を寄せつつ待ち合わせの相手――色白の将軍様を思い出す。

 今夜は討伐行から凱旋した彼女が一杯ご馳走してくれるという。数日前に受けた誘いの手紙によると自身の勝ち戦と算術家の就職祝いを兼ねるらしい。なかなか粋な計らいである。断る理由などないので二つ返事で了承したのだった。

 待ち合わせ場所は金市にある飯店。金市とは洛陽の西部に位置する商業地区で、主に奢侈品を売る店が多い。そんな高級店が並ぶ中、安価かつ美味い店を知っているあたりはさすが都暮らしが長いといったところだろう。

「えーと、たしかこの――」

 きょろきょろと辺りを見回すと、

「伯鉄。こっちだ」

 声のする方を見れば、片手を上げて微笑む華将軍。さすがにへそは出していないが、両肩と胸元を大胆に露出させているのは変わらず。見ている方が寒くなってくる服装である。彼女の出陣の際に見た、サラシに同じくへそ出しといった他の女将軍達の服装。彼女らにも冬服という概念があるか疑わしく思えるのも仕方がない。

「すみません。お待たせしましたか?」

「いや、気にするな。仕事があったのだろう? 構わんさ」

 以前と同じように気持ちよく笑うのに、思わず笑顔を誘われた。

(相変わらずだな。あれ? なんか雰囲気違うと思ったら……)

 よく見れば唇には薄く引いた紅が。その主張しすぎない淡い色は、白い肌にとてもよく合っている。

「ん? ああ、これか? 張遼の奴がつけていけとうるさくてな。性に合わないんだが……変じゃないか?」

 両手で顔をぺたぺたと触りながら言う。

「ははっ。いいえ、よくお似合いですよ将軍」

「むぅ……本当か? まぁ、また立ち話をしているのもあれだ。あとは……食いながらにしよう」

 前回と似た仕草で背後の店を指し、再び笑う。

 大人の顔で子どものような屈託のないその笑みが、やけに印象的であった。

 

 

「そこで私はだな、振り切ったその勢いを……おい、聞いているのか?」

「ええ、聞いてますよ。勢いを殺さずに斧を回転させて敵を真っ二つ! 大将を失った敵軍は総崩れ。ですよね?」

「? なんで先を知ってる」

「なんでって……」

(そりゃあ、もう何回も聞かされてるし)

 いつもより少しばかり豪勢な料理と、ここ二ヶ月ほどお目にかかれなかった酒の類が、カウンター型の卓の上にずらりと並んでいる。が、どれもあまり手をつけられてはいない。話が弾んだからだと言えば聞こえはいいが、

(こんなに酒癖悪かったのか……)

 官軍の将軍様は酒に弱いわけではなかったが、入ると話が止まらないという悪癖の持ち主であった。よほど上機嫌なのかすでに討伐軍大勝利の講談は五度目の公演を迎えている。

「しかし、お早いご帰還でしたね」

 機を見計らって話題を変えようと試みる。いい加減千秋楽というものだろう。

「雍州も見て回るとのことだったので、もっとかかるものとばかり思ってましたよ」

「まぁ、実際大きな戦は初戦のみだったからな。お前、前に会ったときに太守様を疑ってかかっていただろう? 何のことはない、素晴らしい御人だったぞ。戦が早く済んだのもあの方のおかげだ」

 言って酒を注ぎ足していく。どんどん増えていく酒量にちょっとした危機感を覚えつつ、

「董仲穎様ですか」

 大和は呟くように返した。

 

『争うのではなく、理解し合おう』

 

 羌との小競り合いを繰り返す北方の馬家とはまさに対極的なそれは、彼女の両親が打ち出した対匈奴の基本方針である。

 言葉にすればなんとも陳腐であるが、驚くべきことに西平太守とその臣はそれを粘り強く実行し、一定の効果を得ることができた。娘である月もこの考えを継承し、積極的に融和政策を進めてきている(地方太守が国防の重大事項を決定できるあたり、この国の支配力の弱さを物語ってもいるが)。

 であるから、そもそも今回も匈奴全体としては彼女と戦う意思を持っていなかった。

 今回の不正官吏との内通も、彼女の融和政策の割を食った、又は不満を持った一部部族による独断専行。初戦で彼らが完膚なきまでに叩き潰された理由の一つに、期待していたほどの援軍が得られなかったという点は外せない。

 勝利後は部族間の調整に任せ、口出しは最低限に抑える。洛陽の官軍が雍州を回って帰還した目的は、戦ではなく――それが諸侯にどの程度の効果があるかはともかく――“来るべき長征への訓練”という軍事パフォーマンス。

 討伐行が短期間で終了したのはひとえに董仲穎の匈奴内での高い人望、即ち仁徳の賜物であった。

 

(あの娘は「自分のせいで戦が起こった」とか思ってるかもしれないけど)

 杯に口をつけ、一気にあおる。

 

『この国の人達みんなが幸せに暮らせるようにしたいです』

 

 月明かりの下、少女が語った夢。

 それは口先だけのものではない。董仲穎は実際に行動し、夢の実現へと懸命に努力しているのだ。匈奴討伐の顛末はそれを十二分に物語っていた。

「どうした? せっかくの就職祝いだというのに元気がないじゃないか。っと、それもらうぞ」

 漬物に箸を伸ばしつつ、興味があるのかないのかわからない調子で聞く。

「いや、働いてるといろいろありましてね」

「それは当然だろう。なんなら私が相談に乗ってやってもいいぞ。今日は気分もいいしな」

「え、華将軍が……ですか?」

「他に誰がいる。……おい、私では力不足と言いたいのか?」 

 否定しようと横へ顔を向けると、箸を置き、不満を隠そうともせずに見てくる銀髪美女。切れ長の瞳にはいささか険があるが、それも魅力の内に入るだろう。スラリとした肢体は全体のバランスが良く、締まるところは締り、かつ女性らしさも消えていない。少なくとも前の世界ではお近づきになれなかったであろうレベルの高さだ。酒で紅潮した顔や胸元の色っぽさに、大和は数瞬余計な思考を巡らした。

「これでも相談事では評判がいいんだぞ私は。皆『お前を見ていると悩んでいたのが馬鹿らしくなってくる』と言ってくれるし」

 自分の容姿など欠片ほどしか意識しない将軍は、さもありなんといった様子で口の端を上げる。

(それは褒められているのだろうか。けど……)

「ん?」

(この人に話を聞いてもらうのはいいのかもしれない)

 

 空になった杯に酒を注ぎつつ、田伯鉄は悩みを語りはじめる。

 

 

 

―・―・―・―・―

 

「北門の修繕の手腕、話を聞くに実に見事なものだとか」

「ボク達は都にしがらみが無いから、それで上手くいくのだと思います」

「短期的に見れば、そのやり方で正しいのでしょう」

「ええ。都に長居するつもりもありませんし」

 

 上っ面をなぞるようなやり取りに、宋典はいい加減疲れを感じてきていた。彼が客人・賈文和を屋敷に上げたのは半刻ほど前であったが、するべき話については全く進展を見せてはいない。

 互いに必要な存在であることはすでに分かっている。後はどう切り出すか。問題があるとすればそれだった。どちらかが頼み、もう一方が答える。実際には相互依存の協力関係になることが予想されるが、今後を考えるのなら出だしというものはあらゆる意味で重要である。

(都の女も大概だが、涼州もそうなのかね)

 一切手をつけられていない美酒佳肴を見て口をへの字にする。

 主導権をめぐる牽制にも見えるふざけたやり取りは、宋典にとって茶番もいいところであった。そもそも彼にとっての最良を目指す選択肢は董仲穎との協力(これ)しかない。少なくとも宋典はそう確信している。

 それなのに面倒なやり取りを挟むのは「信頼の置けない人間が大幅な譲歩を見せても警戒されるだけだろう」という賈文和への配慮からだった。

「どうしました? 宋中常侍」

「心遣いなど要らなかったなと。いえ、こちらの話です」

 酒に唇を湿らせて杯越しに見る。ニヤリという表現がぴったりな意地の悪い顔が、卓を挟んだ向こうにあった。

(……この女なら都でも生きていけるだろう)

 心の内に吐き捨てる。

 実際、彼女は優秀だった。

 洛陽で建設事業をやる際に問題となるのは何よりも金。そして金だ。かつて宮殿の修繕に関わった宋典はそれをよく知っている。"都の伝統ある手順"で修繕を依頼すると、彼らは仕事を丸投げして委託料のキックバックを受け取り、丸投げされた下請けも工賃以上の請求をして孫請けに投げる。トドメは現場の丼勘定だ。河北大和が「そういうもの」として受け入れた違和感のある文明発達は、元来の汚職と相まって都の産業を複雑化させていた。

 ところが洛陽の北の二門の一つ、穀門の修繕は、低予算かつ素晴らしい速さで進んでいる。これは都ではまずあり得ないことだった。宋典が受けた報告によると「賈文和は規定の手順は用いず、現場で働く人足を直接雇用して幾つかの組に分け、浮いた金の一部を賞金にしてお互いに競わせている」とのことで、これには彼も「実に上手いやり方だ」と素直に感心させられた。

 もちろん「そこが自分のシマでなければ……」という思いとは全くの別ものとしてである。

 

 官僚が担当役職に関わる団体とズブズブの関係になるのは、宦官の台頭以前からの都の古き良き伝統であり、彼もご多分に漏れずその伝統を受け継いでいる。仕事の斡旋の見返りに金を得るのは官僚の特権、ひいては重要な収入源である。言うなら、宋典は建設の畑の人間だった。

 今でこそ中常侍として業界から離れてはいるものの――いや、中央で出世したからこそ、旧縁を頼って彼の屋敷の門を叩く者は多い。宋典が賈文和の北門修理の補佐役を仰せつかったのも、そもそも彼が宦官として劇的な出世を遂げたのも、建設業界との人脈と彼らの金の影響抜きには語れない。そんな彼らが今回のような大口の仕事を見逃してくれるはずはないのだ。

 賈文和の英断のおかげでかなりの迷惑を被っていると言っていい。修繕の計画修正の時機を考えるとそれすら真意をはかる為のものだったのかもしれない。

「しかし滞在を楽しんでいただけているようで何よりです。もう名所旧跡も回られましたか?」

「はい、洛陽には"古い"友人もいるので」

「それは……何よりです。都には食べ物に服飾、書籍など目を引くものが沢山ありますからね。けれど、他にも見どころはあります」

「と言うと?」

 

「政治です、賈文和殿」

 

 洛陽北部尉の問いかけに宋典は口火を切る。

 もう後戻りは出来ない。

「興味はお有りで?」

「ええ、とても」

「あぁそれは良かった。私もそんな気がしていたんです」

 年頃の娘のような(実際にその通りなのだが)笑顔に宋典は苦笑した。

『柄でもない』

 それは誰に対してのものだったか。

「では、基本的なことから話しましょう。洛陽の政治勢力は大きく分けて二つあります。張譲を筆頭とする十常侍と外戚の何進達です」

「他人事みたいに言うんですね」

「そうであったら、と思わないこともないです。極稀に」

 宋典は肩をすくめてみせた。

「とにかく、この二つの対立が都の政治の基本構造になっています。けれども実際はもっと複雑です。なぜなら――」

「政治派閥とは別に、思想勢力がいる」

「まさに」

 

 都特有の女尊男卑思想

 洛陽の政治を複雑にしている最たる要因はそれだった。

 外戚と宦官、それぞれの派閥に属している女性文官達。その中でも特に選民意識の高い保守派――俗にいう『行き遅れ』の人々。男である両派閥の長に対しどれほどの忠誠心があるのかなど、聞くだけ無駄だろう。

「彼女達は協力し、或いは裏切り、利を貪りつつ決着がつかないよう巧みに政局を動かしています」

「党錮のときのように弾圧することは?」

「あれは彼女らの内輪揉めを利用したからこそ上手くいったのです。良くも悪くも女性文官の象徴的存在ですから下手は打てません。それにあれもやるべきではありませんでした。党錮の禁以来、こちら側についた者との癒着も激しく、盲目になっている者がほとんどです。これでは現状の打開など望むべくもない」

「打開……」

 少女の目が細められる。

「つまり洛陽を変えたいと?」

 言われて席を立つと背中が汗ばんでいることに気づく。危険な橋は何度も渡ってきたが、それらのときとは質の違うものが己を満たしている。そう宋典は感じた。

(ともあれここが正念場だ)

 失敗すれば全てが水泡に帰してしまうだろう。

 纏わりつく不安を感じながら、大きく息を吸う。

「信用出来ないというお気持ちはお察しします。経歴や評判を鑑みてもそれは当然でしょう。栄えある十常侍の一人にして誇るべき母の酷い失望。それが私です」

 内に渦巻くものに比して、自身でも驚くほど穏やかな声が出ていた。

「しかし、仮に私が利を貪る悪だとしても、この現状を変えたくない理由があるでしょうか? 蚊ですら死にかけの牛より健康な牛から血を吸うことを選ぶでしょう。況や人間をや」

 そして正面に賈文和を見据え、

「改革こそが私の望みなのです」

 静かに結んだ。

 自然と口をついて出た言葉は、理詰めを良しとする彼には考えられないものだった。特に最後の一節など説得と言うよりも最早懇願に近いだろう。激情に支配されたそれは宋典にとって大きな失敗。

 しかし、だからこそ人を動かすということも、ままある。

 僅かな、宋典にとっては気の遠くなるような時間の後、

 

「ここからは……私が伺います。宋中常侍様」

 

 小鳥のさえずりのように声が響く。

 正面の少女からではなくその隣、傍らに微動だにしなかった彼女の護衛からだった。

「ゆえっ!?」

 賈文和が驚いた様子で声の主を見る。

 ゆえと呼ばれた護衛は、呼応するように目深に被った兜を脱ぎ……その重さでよろけながらも立ち直り、とにかく申し訳なさそうに言った。

「ごめんね詠ちゃん……でも、やっぱり私がお話しないといけないと思うから……」

「ゆえ~~~」

 情けない声を出しながら、糸の切れた人形のように崩れ落ちる洛陽北部尉。

 ガラリと雰囲気が変わったが、宋典は気づかない。彼は信じられないといった面持ちで鎧姿の少女を見ていた。

「まさか、貴女が……」

「はい……匈奴中郎将の董仲穎です」

 少女は童女が鞠を抱えるように兜を抱きながら、おずおずと衝撃的な名乗りを上げる。

 

 

 

―・―・―・―・―

 

「ふぅ」

 杯を空けて深く深呼吸。卓に両肘をついて目を閉じれば、久方ぶりのアルコールが心地よい浮遊感を与えてくれる。外はもう大分暗くなっていた。秋冬の夜は入りが早く、そして長い。

 

 

『いいか伯鉄。私の軍には騎士が多くいる』

 

 大和の話を一通り聞いた後、華雄から発っせられたのは唐突な一言であった。

『あの、騎士というのは?』

『徴兵とは違って、戦うことを生業とする者たちだ。そんなことも知らんのか?』

『すみません……』

『まぁいい。彼らは何のために騎士をやってると思う?』

『ええと……国を守るため、とか』

『大義はな。……んくっ、ん、ぷはぁ……。けれど二六時中そんなことを考えてるわけでもない』

 杯から離れた唇は、どこか皮肉を湛えていた。

『大志を抱き、それだけを己の力に変える。お前が目安にしているのは大人物だよ。私だってそんなことはない』

『……華将軍はご立派ですよ』

『はははっ。お前はどうも私を英雄か何かだと勘違いしてないか?』

『そうですかね?』

『そうだとも。大志は行動するもとになる力だが、その……あれだ。全部ではない。国を守るために軍人となったなら、力をつけるのも国のため。それが望ましいのだろう? ところがだ』

 一度ずらした目線を戻して、

『私が今、力を求めているのは、かつて敗れた女を見返したいが為だったりする』

 そう言って苦笑し、酒瓶の残りを杯に空けた。

『それにだ。お前は腹が決まりきらないといっているが、それも恐らく間違いだ』

『間違いですか……』

『詳しくは知らないが、為すか為さないかで迷っているのだろう? なら私が決めてやる。止めておけばいい』

『え?』

『止めておけと言ったんだ。これで解決だろう』

『いや、でも』

『なんだ、やりたいのか? なら、やればいい』

 顔こそ酒に赤らんではいるが、表情は真剣そのもの。意図せずとも滲み出る武人の気迫に、大和は黙りこむ他なかった。

『お前は迷ってなんかいないさ。不安で、それで他人の後押しが聞きたいだけだ』

『……なるほど』

 頭を殴られた思いだった。

 やりたきゃやれ。嫌ならやめろ。責任転嫁はするな。

 乱暴だが実に核心を突いている。

『その……なんだ』

『え?』

『またキツイ言い方だった。……すまん。見てくれだけ女っぽくしてもこれではいかんな』

 ばつの悪い顔で杯を置き、はははと大きく笑う。そこに先の険しさはない。

『いえ、魅力的だと思いますよ』

『なっ……な、何を言ってるんだ馬鹿者!』

 他意はなく自然と出た言葉であったが、しかしそれに対する返礼は、背中への強烈な平手打ち。

『いっつぅ……』

『自業自得だ』

 言いながら目の前の皿に箸を伸ばす。「照れ隠しもも可愛いですよ」と軽口を叩く余裕はなかった。冗談抜きで、痛いのだ。

『でも、将軍。ありがとうございます』

『ん?』

『なんだか少しスッキリした気がします』

『……叩かれてか?』

 華雄は言いながら、店主がにやけ顔で差し出す酒瓶を乱暴に奪う。

『ははっ。違いますよ。とにかく、ありがとうございます』

 いつかの日のように背中をさすりながら、大和は礼を言った。

 

 悩みに対する華雄の答えは「色々と考えすぎだ。しっかりしろ」という酷くシンプルなもの。他の人間に同様のことを言われたなら「もっと真剣に考えてくれ」などと不満も出てきそうなものだが、華雄という人物の人となりを少しでも理解していればそれはなかった。回りくどいことが大嫌いな彼女は、常に単純明快な答えを好むのである。

(なるほど、相談事が得意というのもあながち嘘じゃないのかもしれない)

 その将軍様はというと、隣の席ですやすやと寝息を立てている。あの後、お礼を兼ねて大和が酒代を出すこととなり、流れで呑み比べとなった結果であった。先に聞いた武勇伝と繋がらない寝顔に、田伯鉄は微妙な面持ちとなる。

 彼女には今回も助けられた。そう思っていいだろう。

「しかし、ダメダメだな俺は」

 手酌した酒に映る己の顔を見て、息を吐く。酒臭い風にぐにゃりと波打ったそれは、実に情けない顔であった。(これ)をいくら飲めたところで、大人である保証にはならないのだ。

 

 何のために生きるのか。

 何がしたいのか。

 

 日々を精一杯に生きている人々を目の当たりにしていると、大和はそんな根本的なところを問われている――あるいは突きつけられている気がしてならない。

 なんとなく行かなければならない気がして大学に進学。勉強にバイトの日々。誘われるままに特に興味もなかったサークルに入った。

 

(あのまま何事もなくあちらにいたとして、一体自分はどうしたんだろう)

 

『まだ先のことだ。卒業まではかなり時間がある』と自分を誤魔化してきてはいたが、大学という四年の猶予期間(モラトリアム)の間に"何か"を見つけられたとは思えない。

「はぁ……」

 光が強ければ強いほど、影の暗さは際立つ。大和にとっては董仲穎も、賈文和も、田元皓も、みんな眩しすぎた。これまでの自分が卑小な存在に思えてくるのだ。そしてそれは事実だとも思う。

 本当に、笑える。

 見つめ直すほどに中途半端で不出来な自分。元の世界ではそのことについて何の感情も抱くことはなかった。少なくとも、そう思いこむことはできた。

 路地を吹き抜ける風に、戸が音をたてる。いつしか店内は静寂に包まれていた。

 

(どうしてこうなったんだろう)

 

 前触れ無く異世界に飛ばされて、何やら大事に巻き込まれる。

 そのことではない。最早そんなことは大した問題ではないように思えた。先ほどまで心地よかった酒の余韻は、もうそこに無く、ただ情けなさと悔しさが渦巻いている。

 かつては燃えていた時期があったはずなのだ。それこそここの人々にも負けないくらいに。

 夢を掲げ、それを直向きに追い求めた。

 日々努力し、自分に足りないものが何なのか探し、鍛え上げ――これまでの人生の半分以上を夢を求めることに費やしてきた。

 そんな自分が自身に期待しなくなったのは二年前の夏。

 行き着いた先は「結局のところ足りなかったものは才能であった」というありふれた結論。

 

 河北大和は燃え尽きた花火だった。

 失敗を恐れるつまらない自尊心と、徒労を言い訳にした怠惰。

 蓋を開けてみれば何の事はない。それがここ2年間の自分の全てだったのだ。

 

『いいか、大和。技術は日々進歩するんだ。例えば今、ウリにしてるこの商品だって数年後は分からない。現状維持なんてのは停滞以外の何物でもないんだ』

 今思えばあれは普段無口な父なりの叱咤だったのではないだろうか。

(わかってるよ親父。わかってる)

 自嘲に郷愁、様々なものが溢れでてくる。どうも感情のブレーキが弱まっているらしい。きっとこれのせいだ。と、陶製の杯を捧げるようにして乾杯の形をとる。

 両親や友人たち。

 彼らと再び酒を酌み交わせる日は来るのだろうか?

 不安がなくなったわけではないが、それでも――。

「前に進むしかない、か」

 能動的な決意とは違う、多分に諦観が入った想い。それでも一歩は一歩である。

 

「ん、んうぅ……」

 目線だけ動かせば、美白を紅潮させた女将軍が悩ましげな声を上げていた。

(……これは目に毒すぎるな)

 しかし、どうしたものだろうか。大和としてはそろそろ帰らなくてはいけないが、軽く肩を叩いても彼女は起きそうになく、送ろうにも屋敷の場所が分からない。常連であるらしいし、店の主人に任せてしまうという手もある。

「さて、どうしようかね」

 

「そこは男ならさ。お持ち帰りしちゃうべきでしょ」

 

 不意にかけられたのは、からかうような声。

 

「やっぱり? こんだけ無防備だとね……ってそんあわけあるかっ! 大斧で割り殺される」

 見れば将軍と反対側にある店の入り口には、男が一人。

「あはは。ノリがいいね。あ、おじさん、僕もお酒一つね。あと適当におつまみ」

 小太りの男は席に座ると、年齢が判断しづらい顔を人懐っこい笑みにかえて、

 

「隣いいかい? ひとり酒じゃ面白くない質だからさ」

 

 箸をかちかちと鳴らしながら、そう言った。

 

 田伯鉄は西平太守の陪臣、洛陽北部尉の直臣として表舞台に姿を現す。

 彼の名が正式な文献に載るのはここから。

 

 新たな歯車が噛み合うことで、繰り返された歴史は本来の流れから大きく外れていく。

 変革の時は近い。



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二章 洛陽 第01話 小さな一歩と大きな一歩

 後漢王朝の都洛陽。

 北に黄河を、南に洛河をひかえた交通要衝の地で、前漢の都長安と並んで都城が古くからひらかれた場所である。

 光武帝が“力強い女性達”に支えられて新を滅ぼした後、西周時代の成周城、東周王城、前漢時代の洛陽城のあったこの地に新都を建設して百五十年以上が、諸侯会議が招集されなくなり、中央が孤立し始めてからすでに五十年が経過しようとしていた。

 度重なる局地的な天災に、頻発する地方の自分勝手な勢力争い。まさに終末の退廃的な匂いが漂う中、王朝はぎりぎりの所で権威を保っている。とは言え、もちろんそれも利用されるための道具でしかなく、それさえ長くは続かないだろう。それが大方の見方だった。

 王朝の権威――大義名分が必要とされているのは、未だ国に匹敵する勢力が存在しないからであって、決してその求心力からではない。打倒漢朝を掲げて周辺勢力に袋叩きにされるよりも、敵の粗を探して国に賄賂を渡し、あるいは近隣の勢力と謀って「漢朝のために!」と叫んだほうが賢明であるというだけのことである。

 そうやって地方勢力の統合が進めば何が待っているかといえば、独立離反に内乱。少なくとも王朝側(現体制)にとっては明るい未来が待っているとは言い難い。

 すでにその萌芽も見え始めていた。例えば名職とは別に実職として渤海太守兼都尉に就いている袁紹は、周辺に影響力を強めて実質的に冀州を取りまとめつつあるし、その妹である袁術も本来の領地に加え、孫家を保護、支援するという名目で江東を手に入れている。その孫家の没落の要因となった劉表と彼女らの戦も、互いに大義を掲げての私戦という有様であった。そうした動きの中で最たるものが、陽城侯劉焉である。

 彼が国に認めさせた州牧の制度は、簡単に言うなら州を統括する長官を置くというものだった。これは結果的に勢力の統合、大規模化を進めるものであり、現に彼自身、益州牧となって一帯を支配。独立のために力を蓄えている。

 地方勢力がじわじわとその版図を拡大させていく様は、野に放たれた炎の如く。風でも吹こうものなら、一息に中原を飲み込んでしまうに違いない。

 およそ歴史には転換点というべきものが無数に存在し、後漢においては今がまさにそうした一つ。それも最後の一つであった。ゆっくりと、しかし確実に腐り落ちてきている大木。口さがない人々がそう評した政治の膠着状態は、冬の底冷えの中、来るべき春を待ち望んでいるかのように見える。

 大きな変化を起こすのに、なにも大人物である必要はない。例えるなら、弩に張られた矢が指先の動き一つで放たれるのと同じで、時と人、それに天運が加われば、たとえ凡人であろうとその役目は十分に果たせるのだといえる。彗星の如く登場した一人の男の存在は、たしかに洛陽を混乱させていた。

 この混乱がもたらすものが善いものとなるのか。それとも死に体の王朝にトドメを刺すものとなるのか。

 こればかりは蓋を開けてみないことにはわからない。ただ、何もしなければ“弩”が自壊してしまうだろうことは明らかだった。既に弦は限界まで引き絞られている。

「そうだ。変化は必要なのだ」

 誰に言い聞かせるでもなく男は言う。

 街のどこか慌ただしい雰囲気は、単に春節の準備をしているからというわけではないだろう。車窓からそうした都の町並みを眺めながら、混乱の中心にいる一人、中常侍・宋典は朝食代わりの餅を喰らっていた。

 百式はまさに彼の期待通りの働きをしている。男子復権を掲げ、自分達十常侍はもちろん董仲穎を介して大将軍の側にも通じる男。波風が立たないはずがない。

(後はこちらがそれを活かさなければ)

 恨めしげな視線を向ける孤児に通り過ぎざま、食いかけのそれを放おる。

 混乱は一時的なものだろう。孫璋、董卓達ともそういう見解で一致していた。池に投げ込まれた石は波紋を呼ぶが、それがいつまでも続くわけではない。僅かな間に都の勢力図を一新する必要があるのだ。孫璋ほどとはいかないまでも、慎重かつ大胆な行動が求められている。

 そういう意味では先の会談の成功は大きい。何しろ十常侍の一人、郭勝を味方に引き込むことに成功したのだ。皇后、大将軍と同郷の男というのは今後色々と役に立つ。

(とりあえずは、といったところか)

 餡のついた親指を舐ると、寝不足の頭に糖が染み渡る感覚を得た。

 彼は郭勝の寝返りを当然だとすら思っている。十常侍と一纏めに括られてはいるが、その力は決して横並びではない。筆頭格の張讓、趙忠の二人が生きている限り、都で喧伝されているように「何でも自由になる」わけではないし、加えて郭勝は何皇后を皇帝に薦める――つまり外戚勢力誕生の原因を作り出すという失態を演じている。冷や飯を喜んで食う人間が十常侍にいるはずがないのだ。

(夏惲が死んだのは予想外だったが……まぁ、悪いことではない)

 流れる景色から目的地が近いと判断し、宋典は思考を中断した。

 車から降りると、乾いた風が木の葉を転がして音を立てる。身体をなでつける木枯らしに思わず肩を竦めた。

「旦那様。お客様のようですよ」

 御者に言われるまでもなく、屋敷の門前に数人の男たちが白い息を吐いているのが目に入る。官服の男が一人。残りの四人は武装していた。抜膊(ばつひ)腿尾(たいび)を除いた胴だけの鎧ではあるが、各々短めの槍を携えている。

(……何かあったのか?)

 正規兵のものとは明らかに違う彼らの装備に宋典が身構えたのも無理はない。蹴落としてきた政敵に、数えきれないほどの不正の数々。そして今まさに進めている策謀。心当たりが多すぎる宋典は、足を早めて門へ向かい――来客の正体を知って少し安堵した。

「宋中常侍様」

 黄土色の官服を着た男は、洛陽北部尉の臣、田伯鉄であった。新進気鋭の算術家は白い息を吐きながら礼をして、手紙を恭しく差し出す。実に下手くそな礼と愛想笑い。どこにも仕官していなかったというのは本当なのだろう。宋典は思った。

「主、賈文和からです。穀門の周辺施設の修繕も概ね終了したので、本格的に治安回復に乗り出したいと……」

 かじかむ手で書簡を取った宋典は、

「外はお互い寒いだろう。どうぞ中へ」

 自ら門に手をかけ提案した。田伯鉄と話すのは初めてではないが、いつも賈文和を交えての会話である。一度二人で話してみたい。前からそう思っていたのだ。

「ええ、しかしあの……」

 

『百式は面白いやつだったよ』

 

 少しばかり強張った表情に見えるのは、困惑と恐れ。

 悪友が言っていたことが思い出された。自分相手にこのザマなのである。これではあの男にいいようにからかわれてしまっているに違いない。長年その被害を受けてきた彼は、田伯鉄に同情の念を禁じ得なかった。もちろん、かつての賈文和のときと同じで「助けてやろう」などとは思わないのだが。

 返事を待たぬまま入ると、仕方なくついてきた様子の大和に椅子を勧め、

「賈文和殿はお元気か?」

 自身も椅子を引きながら聞く。

 質問にさしたる意味はない。洛陽北部尉とは毎日のように顔を合わせているのだ。風邪などひいているはずがないし、涼州の女がそんなひ弱とも思えない。

「はい。北門の修繕も滞りなく。ただ……」

「ただ?」

「春節を洛陽で過ごすことにはご不満の様子です」

 彼女らしい。宋典が僅かに微笑むと、つられて笑う田伯鉄。外で見た愛想笑いとは違う、自然な表情のように思えた。

(なるほど。賈文和の話も全てが嘘というわけではない……のかもしれないな)

 彼女と彼の関係がどれほどのものか。

 孫璋が表向きに話してくるような下世話な興味からではもちろんないが、今後のことを考えるなら確かに気になるところではあった。ただの駒なのか、それとも……。それに百式の素性について、彼も思うところがないわけではない。

 田伯鉄は妹である田元皓と同じく冀州は鉅鹿(キョロク)郡の生まれというが、国の統制力の衰えもあって朝廷では司隷外の戸籍は把握しきれておらず、これは確かめようがなかった。

 学閥から交友関係を洗おうにも、どの学派にも属しておらず、師匠も兄弟弟子もいないときている。半年を遡る痕跡すら一切見つからないのだ。まさしく正体不明。本当に存在しなかったのだからこれは当たり前の話だが、当人と妹以外、そんなことは知る由もない。

 賈文和が宋典にした説明によると「田家の庶子として生まれた田伯鉄は、母親に連れられて大陸各地を流浪。その母の喪に服した後、涼州で董家に食客として数年間滞在しており、その縁で自分達とも親交があるのだ」と、いうことになっている。

 そんな「さっき思いつきました」的な内容を信じろと言うのは無理な話というものだが、

(嘘も主張し続ければ真実になり得る、か。結構なことだ)

と宋典は茶をすすった。少なくとも百式の身元その他で手を煩わせられることはないだろう。

 気になる存在は田伯鉄のすぐ側にもいる。沈黙を守っている彼の妹・田元皓だ。そもそも百式を見出したのは彼女だったはずである。二人が兄妹だとは彼は信じていない。

(まぁ、彼女が私達のような“悪巧み”をするとも思えないが……百式に一番近い人間でありながら積極的に動いていないというのもおかしな話か)

 茶を注ぐ家人に礼を言う男を、宋典はじっと見やる。

 異母兄妹だからと言われればそれまでだが、やはり似ていない。公称している年齢もおかしい。来年で三十というが、少し若すぎる気もする。

(氣の使い手であるなら話は別だが……)

 いずれにせよ、田伯鉄の身元を保証する人物は全員が全員、彼がここ数カ月の間に"都合よく再会した"人間ということになるわけで、

『賭けに勝ったと思ったらまた綱渡りだよ~』

 という孫璋の嘆き節も楽しそうな顔を除けば理解できることだった。

「……頭が痛くなるな」

「え?」

 慌てた様子で振り返る。

「いや、こっちの話だ。それより――」

 百式が見ていた先を探ると、そこにあったのは書斎であった。美麗な調度品の中、一際目を引く汚らしい本棚は彼の感傷。多くが母親から受け継いだか、宦官になる前に手に入れたものなので、つまり、今読み直すとさらに頭が痛くなる内容ばかりが入っている。

 宋典は静かに立ち上がると、自ら部屋の戸を閉めた。

「すまない。開いていると冷えるだろう。あの部屋が何か?」

「え、ええ、私も妹も本好きなので、ちょっと気になって。すごい量ですね」

「残念ながら算術のは一冊もないがね。君が出版したら買ってあそこに入れるよ」

「ありがとうございます」

(……ふむ)

 孫璋の言う「面白い」と同じものを指しているのかどうか宋典には分からないが、彼にとってもやはり百式は奇妙な人物であった。謎の半生ももちろんだが、田伯鉄という人物それ自体にも腑に落ちない点が多い。

 人の顔色をやたらと気にし、自身の能力にも懐疑的。正直なところ宋典の個人的な印象としては凡人のそれに近い。実際、最初に顔を合わせた時に「本物が別にいるのではないか?」と、替え玉を疑ったほどである。

 しかし、賈文和の評価や期待が、他でもない“彼”に向けられていることに気が付かないほど馬鹿でもない。そしてそれが疑問を大きくする。

 悪友の孫璋には底が見えない一種の不気味さがあるが、理解できないという点では百式も彼にとって同じであった。人格と能力がちぐはぐで違和感が凄まじい。

 話し込んだが、とうとう何も掴めずに終わる。

 

 

「そうだ、折角だから何か本を貸そうか? 腐っても十常侍だ。なんだったらここにない本でもいい」

「えーと。あ、では水鏡先生の本で儒学の基礎ってありますか?」

「それなら、何冊かあるな。子供に儒学でも教えるのかね」

「いえ、からっきしなんで勉強しようと思いまして……」

「……そんな君がじきに尚方令に就けるとはね。まったく都は改革のしがいがあるようだ」

「ははは……」

 

 

 

―・―・―・―・―

 

「ってことは、え? 宋典に論語も暗唱できてないってバレちゃったわけ?」

「そこまで笑わんでも……」

「ああ、その場にいたかったわ。あのキツネ、どんな顔してたのかしら」

 くくくっと声を殺して笑うは、都で名が売れつつある洛陽北部尉、賈文和。つい二週間前にその臣となった大和は、その隣を行く。

「……やっぱりまずかったですかね」

「そんなことないわ。協力者に嘘はつくべきじゃないもの」

 よく言うよ。とは口に出して言ったつもりはないが、それでも「何?」と振り返るあたりはさすがに鋭い。

 二人が大通りを横切ったのは昼過ぎ頃であった。

 平城門から南宮へと伸びる大通り。これを挟んで東側は太尉府、司空府などが並ぶ官庁街であり、その北には貴族の邸宅が集中する永和里や歩広里がある(宋典の屋敷もここにある)。彼らが向かっているのはその反対の西側で、こちらには居住区や商業地区が広がっている。行き先はその中にある田家の屋敷近くの商店街であった。

「そういえば、あの傘ってどうなったの?」

「かさ?」

「うん。もうすぐ出来るって言ってから大分経つじゃない」

「ああ、ジャンプ傘ですか。可動部の耐久性の問題がどうしても解決できなくて――」

 身振りを交えつつ、百式は若きパトロンに説明をする。

 ジャンプ傘の構想は私塾を開いてから少し、かなり早い段階で上がっていたのだが、未だに実現できずにいるものの一つだった。竹の傘にバネの仕掛けを組み込むだけ。仕組みとしては単純なのだが、バネの強さ、親骨と受骨の接続部の強度など、難しい点は意外と多い。特にバネは「ダメだったからもう少し弱めのお願い」と言ったところで、すぐに次が来るはずもない。現代人にありがちな“使いこなせるが仕組みをあまり知らない”という欠点も足を引っ張った。

「――で、埒が明かないってことで、外部から絡繰技師を呼ぶことに決めたんです」

「専門家に頼むってわけね」

「はい。豫州を中心に活躍した技師です。腕は確かみたいですよ」

「活躍“した”?」

「え? ああ、その……なんでも実在人物の、しかも高位の人の絡繰人形を勝手に作って売ったりしたとかで、今は干されてるらしいです」

「……大丈夫なの?」

「恐らくは」

 まだ手紙でしかやり取りはしていないが、噂にあるような問題人物とは思えない。しかし、上手く言いくるめられて契約前に設計図を送ってしまったことは黙っているべきだろう。大和は未だ眠気のとれない頭でそう判断した。

 こっぴどく説教されるのは目に見えているし、そのおかげで相手の信用を得ることが出来たのだから結果オーライ。春先には試作品を持って都へ来ることになっている。

(本当に騙されてたら……まぁ、その時にまた考えればいいさ)

 金稼ぎは二の次。今直面している課題の方が優先順位は上である。

 そうこうしている内に、目的地へと到着した。

 通い慣れたそこは最早学院のシマとも言うべき場所で、二人は行く先々で声をかけられる。賈文和はすっかり馴染みとなった店の人々に笑顔で挨拶を返していた。どうやら相当機嫌がいいらしい。

 思い当たるふしはいくつかあるが、一番の理由はやはり董中郎将の洛陽入城の日取りが決まったことだろう。と、大和は目星をつけていた。

 年明けの話ではあるが、とうとう彼女も太白から董卓へと戻る時がきたというわけである。彼としては少し寂しい気もするが、今までの状態が異常だったのだ。本来あるべき姿に戻すべきだろう。「優秀な助手だからもう少し貸して」などと目の前の眼鏡っ娘に言えるわけもない。それに賈文和の臣である田伯鉄にとっては、董仲穎もまた主なのだ。

「で、ご機嫌の理由の仲穎様の話ですが……その、軍を引き連れて来るってのは本当ですか?」

「うん、三千程ね。城の北に陣を張ることになるわ」

 鮮やかな幟の立つ店先に立ち止まり、目に止まったのであろう飾り物をいじりながら言う。寒さで赤みがかった頬が少女らしさを際立たせた。

(やっぱりご機嫌の理由は否定しないのか)

 予想通りの答えに大和は苦笑するも、すぐにそれは消える。気まずい夢のせいで董卓に会いたくない、というわけではない。第一、それが理由なら目の前の上司もそれに該当するだろう。

 

 大将軍と宦官

 董卓と洛陽

 

 予備知識と状況の部分的な一致がそうさせるのだ。

 大和は彼女の軍の洛陽入り(城の北なので正確には入城しないが)に対して漠然とした不安を抱いていた。演義にかぶれた彼が二つのキーワードで否応なく連想させられるのは、専横からの反董卓連合、長安遷都と洛陽焼失、そして董卓殺害の流れである。

 董卓はもちろん、酒の席で華雄に聞かされた呂布の人柄からも「そんな非道いことを彼女らがするはずはない」とは彼も思っている。

 けれど、「この先似たような酷い状況になるんじゃないか?」とも思うのだ。

 夏、殷、周、春秋戦国、秦、前漢、新、そして後漢。この世界の歴史は、文化史を除くと国の成立や大まかな流れなど、ほぼ大和が知るものと同じであった。大きな事件も意味内容が変わりこそすれ、同じように起こっている。例えば党錮の禁の発生理由が「清流派の追い出し」ではなく「自らの正流を疑わない女性保守派内の対立」であったように。

 単なるタイムスリップとは違うと確信しつつも、董卓が討伐対象とされる未来を彼が想像しないわけがなかった。親しく付き合ってもいるのだから当然である。

 あるいは完全なる“部外者”が関わることで、定められた流れは変わるのかもしれない。彼が知るその手の小説や漫画でも、そうなる場合が多い。が、自己が介入することで良い方向へ持っていけると確信出来るほど自惚れてもいない。

(こんなんじゃまた怒られるだろうな)

 銀髪の将軍を思い起こす。彼女なら「心配に思うのなら、そうならないように全力を尽くせばいい」などと身も蓋もない持論を述べるだろう。

 そしてそれは言い訳できないくらいに正しい。

 つまり、そう。

 結局のところ河北大和が抱いているのは心配などではなく、信念と実際対応能力に欠ける小物故の恐れなのだ。

 その事実が歯痒い。

「伯鉄」

 呼びかけに自分が顰め面をしていたと気づき、慌てて直す。

「何でしょう」

「大丈夫よ。上手くやるわ」

 先の質問の意図に気づいていたのか、少女は白い息を踊らせながら言った。

「もしかして不安なの? 先生」

 続く声、挑戦的な目つきにはあからさまなからかいが見て取れる。

(ああ、これは)

 彼女流の激励なのだと大和は理解した。

 だからこそ、いつもの様に冗談で返す。

「ええ、不安ですね。頼り甲斐のある女性にときめいちゃう程度には」

「じゃあ――」

「まぁ! 言っても贈り物を買っちゃう程じゃないかもしれません」

「さすがに同じ手じゃだめね」

 わざとらしく舌打ちをして後ろ手に持った飾りを店頭の箱へと戻すと、先ほどと同様にまた先を行く。

 その様を見て、彼女らに関してとんだ思い違いをしていたものだ、と大和は思う。董卓と賈駆。初めて出会ったときには対照的な印象を受けたが、何のことはない。どちらも優しいお節介やき。似た者同士だったといえる。

 置いてけぼりを食らうまいと足を速め、

「……俺も頑張ろう」

 彼女らの為はもちろん、何より自分の為にも。他にも理由はいくらでもある。動かなければならないし、動きたいとも思うのだ。

 ちらと振り返った顔は、笑っているように見えた。

 

 

 その日の夕刻。金市の料理屋『雒陽厨房』の一席に、田伯鉄はいた。

「ああ、遅れてごめんよ。猥談で忙しくてさ」

 そう言いながら入ってきたのは十常侍の一人、孫璋である。

 雪国の女のように色白の男だが、既に酒が入っているのか外の寒さからか、頬を火照らせている。以前この場所で会った時と同じように、大店の店主のような格好をしていた。

「……えーと、まぁどうぞ」

 迎えるように杯を手渡すと酒の匂いをまき散らせつつ、大和の左に座る。

「おいおい、本当の話なんだよ? 誰々が誰々に作らせた張形は材質がどうでとか……くだらない話のお相手するのも仕事だからさ」

 にたつきながら嘘か本当か分からない話をして、その中身を干す。そうして熱い風呂に浸かったときのような声を出すのに対し、大和は冷静に、

「で、一体何の用で呼び出しを?」

 貸切状態の店からも、重要な話なのは明白だった。

「冷たいな~。楽しく酒を飲んだ仲じゃないか」

「けど、十常侍の一人だとは知らなかった」

 非難めいた物言いにも、孫璋は腹をゆすって笑い声をひびかせるだけであった。

「ちゃんと別れ際に言ったじゃない。あの後どうだった?」

「何もないよ。家まで連れて帰って、それだけ」

「本当に? 聞いた噂と内容が違うなぁ」

「……勘弁してくれ」

 相手のペースに呑まれるまいと決意してきたものの、それもここまで。

 孫璋の言う都で囁かれている噂。気にならないはずがなかった。ここのところ外を歩いていると、ヒソヒソと陰口を叩かれる場面が多いのである。とくに若い娘が多いのだが、注目すべきはその内容だった。

『え? あんな男なの?』

『趣味悪いわね』

『どこがいいと思ったのかしら、将軍様は』

 心当たりは一つしかない。あの晩――彼が孫璋と出会った夜のことである。結局へべれけに酔った華雄に肩を貸したりおぶったりして田家の屋敷まで連れ帰ったのだが、どうもその事実が脚色されて広まっているらしい。大和としては、出来ることなら「何もなかった!」と声を大にして主張したかった。

 幼い妹と清純の化身とも呼べる少女がいる家に、酔わせた女――それも人間を唐竹割りにするような女将軍を連れ込み、いたずらする。

 それは狂気の沙汰というものだろう。

(多分、原因は文和様あたりだろうな)

 その予想は大方当たっていた。

 華雄を泊めた次の日の朝、「董卓と顔見知りである彼女が太白と鉢合わせする」という最悪の事態こそ避けられたものの、こそこそと裏口から帰したりしたのが別の意味でいけなかった。彼女は親友に“気を利かせて”報告し、それをその親友――賈文和は「売名行為に使える!」とばかりに利用したというわけである。

 噂好きの宦官は箸で魚を割りながら、なおもニヤついている。

「本当に何もなかったの?」

「しつこいな。妹の家に女を連れ込んでお楽しみ。なんてするわけないだろ」

「おっ、じゃあ自分の家ならするんだ」

 正体が割れても相変わらずの男の様子に、大和はうんざりしたようにため息をついた。宋典の苦労もわかるというものだ。

「揚げ足取りはやめてくれ」

「はははっ、でもそういう世界なんだよ。君が足突っ込もうとしてるとこはさ」

 これには大和も返す言葉がない。

 孫璋は切り身を口へ放り込むと、行儀悪く咀嚼音をさせながら、

「気をつけたほうがいいぜ」

「……分かったよ。覚えておく」

「違う違う。こっちだよ」

 と、酒を注ぐ大和の袖を、箸の持ち手側でつまみあげる。

「汁がつきそうだったからさ」

 大和は人を食ったようなこの男と、今朝会ってきた男が同じ十常侍だとはにわかに信じられなかった。

『君が会ったそいつは仲間の一人だよ。信じられないことにな』

 宋典のため息混じりの肯定がなければ、きっと今も疑っていたに違いない。

「用事っていうかさ、話をしておこうと思ってね」

 その男が正面を向いたまま、襟元を正しながら言った。

「話?」

「そう、話。これからのことだよ」

「どうして文和様を通さずに直接こちらに?」

「君が仲穎ちゃんの家臣だってことは知ってる。で、学院を中心とした派閥の長だってこともね」

『もちろん、君が決定権のないただの人形ならその必要も無いんだろうけど』

 口にこそ出さないが、そう続いているかのように大和は感じた。自己嫌悪からの被害妄想なのかもしれないが。

「概要は聞いてるんでしょ?」

「それはもちろん」

 都を一つにまとめて軍備を整え、周辺の争いに介入して影響力を取り戻していく。

“言うは易く行うは難し”の典型のような難題である。難しい顔をしていると、それを何かと勘違いしたのか、

「今まで何も手を打ってこなかったわけじゃないんだよ?」

 まぁ、言い訳になるけどね。孫璋は自嘲を酒とともに飲み込んだ。すでに二杯目である。

「洛陽の政治がいくらどうしようもない状態だとしても、誰も危機感を抱かなかったはずがないんだ。軍事改革の話は以前から出ててね」

「ああ、たしか騎士制の導入もその一環だと」

 大和は噂のお相手との会話を思い返した。今なら彼女が「そんなことも知らんのか?」と呆れていたのも理解できる。地方に先立って試験導入された常備軍の構想は、改革の肝の一つだったのだから。

「そう。で、問題はお金だった。八軍を組織するとなるとさすがにね。都は金があるように見えて、実はそうでもない。利権団体と賄賂。恩恵に与っておいて言うのもあれだけどさ」

 何をするにも全てに関わってくる経費の問題。それは意外な人物の出した信じられない案で解決した。

 即ち皇帝自ら考案した売官制である。

 皇帝――劉宏の商売好きは大和も噂に聞いたことがあった。お店屋さんごっこをやるのが趣味というのだが、皇帝ともなるとスケールが違う。後宮に京都の映画村よろしく市場のセットを組み立てて商品を並べ、宦官や宮女相手に遊んでいるらしい。

「評判は悪いけど信じられないほど金が入ったんだあれは。君なら分かるだろう?」

「最低価格だけ設定して、あとは競売だったんだ。男と女の取り合いとかで価格は釣り上がるし、正当性が欲しい地方勢力からも集金できる」

『いろいろな部分に目をつぶれば』という条件付きではあったが、たしかにそれは都と国の実情から考えても一番効率のいい金の集め方だったと思える。

「ホントあの商才とやる気をもっと――おっと、これ以上はまずいね」

 聞く人が聞けば首と胴がお別れしそうな話題を笑い飛ばした。その孫璋が手を叩くと、奥に引っ込んでいた店主が追加の料理を慣れた様子で運んでくる。常連なのは間違いなさそうだった。麻婆豆腐や回鍋肉といったこの時代に存在していたか疑わしい料理に舌鼓を打っていると、

「ここの料理美味いでしょ」

「たしかに」

「味以外も信頼できるからオススメだよここは。で、さっきの続きだけど――」

 孫璋の話は宋典から聞いたものとほぼ同じであった。

 いよいよ軍制の改革が本格的に始まろうかというとき、十常侍の一人郭勝が発言力の拡大を狙って后を皇帝に紹介し、后の進言で何進が王城に上がる。外戚と宦官。最初のうちは上手くいっていた両者の関係は日増しに悪化していき、何進が軍のトップに就任したとき、対立は決定的なものとなってしまった。

「話を進めれば軍の発言力は大きくなるからね。改革後の軍は基本的に後宮外の案件――肉屋のおっちゃんの領分さ。それが嫌なんだよお偉いさん達は」

 わざとらしく肩をすくめてみせる。

「けどそれって結局自分の首を締めることになるんじゃ……」

「案外都には未練がないのかもしれないよ。地方からすれば中央が混乱していたほうが都合がいいし」

「内通者がいると?」

 大和は箸を止めて男を見た。

「そんなにジッと見ないでよ。ついてないからってそっちの気はないから。あ~、でも紹介くらいなら……いや、分かったよ」

 孫璋は大和の無言の抗議に失笑し、傍らの空いた杯に酒を注ぎつつ、

「おかしな話でもないでしょ? 沈みかけた船をどうにかするよりも、さっさと他を探したほうがいい。そう考える人もいるのさ」

 はい。と、差し出された酒を大和は一息に飲み干した。

(わざわざ対立を煽った人間がいるだって?)

 そんな馬鹿な話があるだろうか。真摯に問題と向き合っている董卓のことを思うと、酒とともに熱の感覚が身体を駆け巡る。それは久方ぶりの怒りだった。孫璋はそこにはあえて触れず、

「そこで僕らの出番というわけさ」

 にこやかに揉み手しながら言った。

 外戚と宦官による協力体制の構築。

 その先触れの役目こそ田伯鉄に与えられた使命である。

「どうするつもりかもう一度聞いてもいいかい? できれば君の口から聞きたいんだ」

 口調は変わらないが、言外に強制力を感じ取られた。しかし、すでに宋典とは何度か会合を開いており、その内容は彼にも伝わっているはずである。今になって何を聞こうというのか。表情からは何も読みとれない。

「どうするって……」

 結果、口をついて出た言葉は想像以上に情けない響きとなって孫璋の苦笑を誘う。その様子に再び少しムッとして、

「聞いてるとおり男子復権のために動くだけだよ。それを中郎将様や――」

「別に今更変えなくたっていいでしょ」

「あんた達が利用する。そういう話だったはず」

「その通り」

 孫璋は指を鳴らした。

「核心はその男子復権ってのをどうやって実現するのか。そこさ」

 

『いい? 伯鉄。まずは男対女の構図で脅しをかける。次に、実は改革派対旧体制こそが狙いだということを示して逃げ道を作るの』

『怖がらせたあとに安心させるってやつですか』

『まぁ似たようなもんね。手綱はしっかりと握っておきなさいよ』

 

 軽い目眩とともに記憶が明滅する。普段のそれと違う点は、それが彼の知る記憶であるという点であった。

「……正面から対立するのは避けるべきだと思う。目的は男子の復権であって、女子の排斥じゃないんだ。もしかすると想像以上に味方を引き込めるかもしれない」

「味方ねぇ」

「女性保守派の中でも強硬な――俗に言う“行き遅れ”の人達は、呼び名の通り結婚もしないくらい男を嫌ってる。重要なのは彼女らが高位についてるってことなんだ」

 洛陽において二千石以上の官位はほぼ女性に独占されている。男にとっては被差別の象徴とも言える状態だが、そこにこそ突破口はあった。

「子どもがいない以上は誰か他に後を継がせるしかないし、それだけじゃない。そういう人間が上役になったとき、求められる立ち居振る舞いってのも自ずと決まってくる」

「つまり、栄達や保身のために男嫌いを騙ってる女も相当数いると。ま~あり得ない話じゃないね。地方から上がってくるのもいるし、全員が全員未婚ってわけでもない。……なにより男を捨てる男がいるんだから、女にそういうのがいても不思議はないかぁ」

 己の股間に目を落とし、皮肉たっぷりに嗤う。

「彼女らにとって大切なのは信条じゃなくて保身。それと立身出世。なら今回みたいな政界再編は、危機であり、そして好機でもある」

 ひょっとすると向こうから接近してきてくれるかもしれない。そういう期待が大和にはあった。自分達も強硬になってしまえば、そんな可能性も潰れてしまう。それはもったいなく思えたし、何より争いを激化させても得るものはない。上司の計画の方針にも反する。

「いい線いってると思うけど、それだけじゃ弱い。女の子が味方についてもいいかな~と思わせる何かがなきゃ」

「それは……そのとおりだと思う」

 それも考えないわけがなかった。男子復権を掲げている以上、どうしても女性からの風当たりは強く、そんな場所に彼女らが気軽に来れるわけもない。誰だって裏切り者呼ばわりされたくはないだろう。

「水鏡女学院に手紙と論文を出したから、その返事次第では改善されるかもしれない。少なくとも排他的というわけじゃないと世に訴えることはできる」

「荊州の才媛か。いいんじゃないかな。彼女は分別のある人間だと聞いているし」

 美人だとも聞いてる。そんな言葉が続きそうな顔を浮かべて、

「その問題に関しては僕も協力できるかもしれない」

 孫璋は懐から書簡を出しながら言った。待ってましたとばかりの態度に大和は、

「もしかしてその話のためだけにこんな長々と?」

「年寄りが若輩者によく使う手だよ。一緒になって考えていくフリをして、最終的に自分の求める答えに導く。現に、ま~、この豚の話を聞いてやってもいいかな、という気にはなってるでしょ?」

 それをわざわざ話すのもやり方なのだろう。大和は呆れと警戒の混じった目で男を見た。豚と形容するほど太ってはいないようにも思うが、まじめに指摘する気にはならなかった。

 その男が差し出した書簡を開くと目に入ってくるのは“太史令”の文字。それが官職の一つであり、算術にも深く関わるところだというくらいの認識は彼にもあった。

「君への恋文だよ」

 文面には論文さえ提出してくれれば算術家、天文家として認めること。希望があれば計算等の技能大会を開けるように協力することなど、願ってもない提案が並んでいた。しかし、すぐにおかしな点に気づく。それらには「代わりにこうして欲しい」といった条件が何一つ書かれていないのだ。

「ただってことはないと思うんだけど……」

「彼女らだって無いところから取ろうとは思わないって」

 つまり対価は彼らが支払うということなのだろう。

「内容を聞いても?」

「大したことじゃあないよ。この国は儒学ばかり贔屓されてるでしょ? こっちもお願いしますと、そういうこと」

「じゃあ、それで出来た研究機関とかに俺も入るのかな」

 国に仕える学者になれば書庫も閲覧できるかもしれない。帰還の方法を探すのも幾分楽になるだろう。しかし、そうなると学院はどうなるだろうか。大和がそんなことを考えていると、孫璋は何かを堪えたように身体を小刻みに揺らし、そしてとうとう吹き出した。

「何言ってんだい百式さん。協力と改革の象徴なんだからもっと上に行ってもらわなきゃ困る」

 その様子に大和は面食らう。「何言ってるんだっ」とは彼の台詞だった。もっと上どころか、じきに拝命することになっている尚方令ですら不安なのである。

 田伯鉄の役割がイコンだということは彼も理解している。尚方令に就かされるのもその道の先達・蔡倫を倣ってのことだと聞かされた。しかし、目の前のそれで手一杯で、さらに上など考えたこともない。そんなことになれば、

(きっとボロが出るに決まってる)

「いいかい先生。官吏の逮捕・弾劾ってのは、その身分が二千石を超える場合、皇帝陛下の許可が必要になってくる。ってことはだ」

 意地の悪い笑みを浮かべて、指を鳴らす。

「外戚と宦官で天子様の周りを固める以上、君がその身分になれば無敵ってことになる」

「だから――」

「人の話は最後まで聞くもんだよ」

 両手を使って大袈裟に遮る。

「ところが君は実務の経験に乏しく、人脈も多くない。であれば、だ。上官も属官も持たなくて、なおかつ身内の中で完結する仕事が望ましい」

 経験に乏しくとはずいぶん控えめな言い方だと大和は思った。実際は皆無に近い。だからこそ無理なのだ。

「ことが全て終わった後、疎まれて暗殺なんてのも嫌でしょう? うん、なら任期もなるだけ短く出来るのがいいね」

 最早、大和には目の前の男が何を言っているのか理解できなかった。

 二千石以上の身分です! 経験不問! 上司も部下もいない気楽なお仕事です! 短期OK!

 そんな官職があるわけがない。実家近くのコンビニで時給千円超えを探すくらい無意味に思えた。

 しかし、続いた言葉に彼は凍りつく。

「肉屋のおっちゃんが姪っ子の先生はどうだと言ってくれててね。あれなら全部の条件を達成できる」

「おい、それって……」

「太子太傅。皇太子の教導役だよ。やったね! 僕より高給取りじゃあないか!」

 肩を叩いてくるのを無視して盃を干し、改めて聞き返すが、孫璋は笑顔で見返すのみ。

「……勘弁してくれ」

 急激に酔いが覚めた頭を抱えながら、百式は呟いた。



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第02話 胡蝶の夢

――――

 

 どこか懐かしい声がする。

 

――と?

 

 再びの少女の声。

 凛としたそれが自身の名を呼ぶものだということ。そして、その主がいつの間にか傍らにいたことに気づく。

 同時に自分が置かれた状況にも。

 

「ごめん。少し目眩がしてたんだ」

 思わずお茶を濁した。

 実際やましい事を考えていたわけではないのだが、結局のところ「主が呼びかけるまで気づかなかった」という不甲斐ない事実は変わらない。

 

(さっき怒られたばっかりだってのに)

 

 恥じ入る気持ちから視線を少女から逸らすと、先には無数の家屋に、道を行き交う人々。彼女の治める街が広がっていた。

 門や楼閣などのランドマークから、付近の様子やそこで出会った人々が思い起こされる。それは自身がここに世話になってから、それなりの日数が経過していることを意味していた。

 

 ここから何が見える?

 

 思わず声の方を見やる。

 壁上の風に髪を流しながら、主君たる少女は同じように街を眺めていた。

 質問の意図が分からない。

 その視線を追いかけ、

「街が見える」

 とりあえず見たままを答えたが、当然ながらそれが合格点を満たすことはない。

 

 ここから突き落とされたいの?

 

 意図に気付けず、促されるまま、目に映るままを答えていく。

 家があって、店があって、人がいて、働いて、ご飯を食べていて――そう、そこには見慣れた日常があった。何でもないただの日常。しかし――、

 

(ああ、これなんだ)

 

 ようやく少女の言わんとすることを理解した。

 

「人がいる。人が、生活してる」

 

 人々の営み。その幸せこそ彼女が守ろうとするものなのだと。

 自身の答えに、見間違いでなければ一瞬、彼女は微笑んだように見えた。

 そして視線を己が街へ戻すと、自らの想いを語り始める。答えが分かっても口を挟まないのは、それが彼女の決意だと知ったからだ。

 

 思い返せば、この出来事が契機なのかもしれない。

 傍らに立ってはいるが、支えにはなれていない。

 ある意味当然だとすら思っていたその事実に、悔しさを感じるようになったのは。

 

 

 

 

 規則的な電子音に、河北大和もとい田伯鉄の意識はまどろみから脱する。音の正体は目覚まし代わりの携帯のアラームだ。

 中国時代劇のセットのような部屋の中、その登場人物のような格好をした男の顔が、液晶の明かりに照らされる。スヌーズを消して閉じると、鏡面仕上げのバックパネルに映る己の姿。自身を客観視した大和は、シュールな光景に低く喉を鳴らす。

 

 顔に重なって映るデジタル数字は、午前4時30分であることを示していた。もっとも、「ここ」の時刻と合っているかは、当人にも分からない。例え合っていたとしても、不定時法が採用されているこの世界では、ストップウォッチ的な使い方が現実的なのだが。

 元いた世界では肌身離さず持っていた相棒だったというのに、今では日々の睡眠時間の管理とたまのカメラ、思い出のアルバムの役割くらいしか果たさないというのは悲しい話ではあった。

 電池の残量は80%。一日中出掛けることを考えても、充電には早い。体をしぼるように一つ大きく伸びをして、出仕の支度を始めるべく立ち上がる。

 

 寝台横の卓上に置かれた携帯電話。待受に映る元の世界は以前より遠くに感じられて、それが少し寂しかった。

 

「あっ、お早うございます」

 手早く着替えと朝餉を済ませ、出仕へ向かうために書簡を脇に靴を履いていると、もはや聞き慣れた妹の声がかかる。

「おはよう。もう起きてたのか」

「いえ、ちょっとお手洗いに……」

 言いかけて突然顔を伏せる。何事かと小さな肩を震わせるのに、

「どうした?」

 屈んで顔を覗きこむ。大和は分かってやっていた。

「ごめんなさい。だってその、ふふっ、まだ慣れなくて」

「これなぁ。ったく我ながらもうちょっと格好良くならんのかね」

 口ひげを撫でながらぼやく。

 

 国に仕官するにあたって、賈文和から「嘗められらないように」とのアドバイスがあって髭を伸ばすことにしたのだが、口ひげの伸びが中央と両端で全然違うために、なんとも間の抜けた顔になってしまっているのである。

 ちなみに仕官の諸々の手続き等の後、再会した彼女の反応は「……まぁ、油断させるっていうも一つの手だしね」という無情なもので、隣にいた彼女の親友にいたっては、ちょうど先の妹と同じ様子であり、ツボに入ったのか最後に仕官祝いの官服を渡してくれるまで、ことあるごとに笑いを堪えていた。

 

「兄さんはかっこいいですよ」

「下手な慰めはよしてくれ。これに関しては同僚からも散々なんだから」

 女だらけの新入官吏歓迎会での悲しい出来事が脳裏をよぎる。

「よし。じゃあ、行ってくるよ」

「はい。あの……」

「ん、何だい」

「その、今日も早いんですね」

「当分の間は軍に合わせなきゃだからね、うん。まぁ、帰りはいつもと一緒だよ。菊音は?」

「わたしはいつも通りです」

「じゃあ晩飯は一緒に食べれるな。ああ、そうだ」

 大袈裟な声と一緒に手を打つ。

「爺さんにあっさりしたの頼んどいてよ。軍といえばあの人だろ?……昼はまたドロドロのラーメン食べる気がするんだよ」

 

 笑う顔にもどこか元気がない。

(うん、やっぱりな……)

 大和は特段女性の機微に敏いわけではないが、それでも疑うべきものがある。

 即ち、『菊音は自分に対して何かしら負い目を抱いているのではないか』ということ。これは大和の中で確信に限りなく近づいていた。

 彼女の様子がおかしくなったのは私塾を開く開かないの時期である。

 今となっては信じがたいことだが、就活当時の彼の心境としては「とにかく食い扶持と帰還方法の調査費用を稼げればいい」くらいの認識であった。

 そんな大和に算術を薦めたのが彼女である。結果、大金を稼ぐにまで至ったが、同時に大事に巻き込まれてしまっている。

 

 実際、彼女が何の予想も対策もしなかったかといえば、そんなことはない。

 大和が知らないところではあるが、彼女は彼女なりに出来ることの全てを行っていた。私塾で名を上げた暁には、自分の信条を曲げてでも、中央政界から遠い太史令に口添えするつもりであったし、もしも政争に巻き込まれたなら全力で守る気でいた。

 

 彼女にとっての最大のイレギュラーは、董仲穎と賈文和、そして側用人の老人であった。

 年末から田伯鉄を取り巻く状況は一変。宦官、外戚を巻き込む大きなうねりとなっており、もはや一侍御史の手には負えないところにまできてしまっている。

 董仲穎や賈文和が自己の権勢のみを追求する悪人であれば或いは、老人が妄執に囚われた復讐者であれば或いは、兄たる大和を引き離すことが出来たかもしれない。しかしながら、三人ともそのような人物ではなく、むしろ彼女にとっては嫌いになれない人物であり、何より大和が彼女らに協力することを良しとした。

 

「早いうちにどうにかしたいんだけどなぁ」

 妹と別れ、出仕の馬車に揺られながらひとりごちる。

 今のこの状況こそが、妹の異変の原因であることは間違いないだろう。彼女が自分のせいで大事に巻き込まれたと思っているのであれば、それを否定するのが一番である。

 つまり、自分の意志でこう在るのだと示すわけで、

(……結局やることは同じってか)

 最早、何度目になるだろうか。大和は無力さに天井を仰いだ。口でいくら言ったところで、気を使われていると思われるだろう。今の状況では半分くらい強がりが入るのは自身でも予想がつくし、それに田豊が勘付かないわけがない。

 

(であれば、だ)

 やはり状況の側を変えるしかないのだ。

 宦官と外戚、男と女の狭間で求められた役割を演じきり、都に新しい秩序を誕生させなければならない。

 

『そんなこと出来るわけがないだろう』

 

 かつての己が囁くところを力づくで黙らせる。

 実際何のことはないはずだ。大和は呪文のように自身に言い聞かせていた。件の女将軍が仕官祝いに長剣と一緒にくれた言葉を借りるなら、『やれることを懸命にやるということ』それだけである。彼女の在り方は彼にとって指針の一つとなりつつあった。

「千里の旅も一歩からか」

 苦々しい思いで、繰り返し読んだ孔子の一節を唱える。

 決意してすぐに変われるのであれば、それは相当な意志の持ち主である。実際にそう上手くいくことは少ない。直面している問題が手に余るのならなおのこと。

 しかし、時は人を待ってはくれない。

 それを端的に指し示すかのように、気付けば王城はすぐそこまで迫っていた。

 

 

 手前で馬車を降りて大通りを経由、門をくぐり庁舎へと向かう。

 まだ早朝のためか城内は人はまばらであるが、それでも周囲からの視線が刺さるのはいつもの通りであった。囁くような声の中に自身の名前を見つけた大和は、何気なしにそちらを向く。話をしていた女性官吏達は一斉に目線を逸らしたり、わざとらしく咳払いする。これもまたいつも通りの光景である。

 

(……まぁ、最初の頃に比べれば幾分かましか)

 

 大和は愛想よく一礼して、先へと向かう。

 彼女たちの立場になれば、あの反応も仕方のないものである。大和は諦観めいた考えで、傷つこうとする己が心を慰めた。

 それもそのはず。王城は年明けに激震が走り、その余波が未だ周囲を騒がしている状況である。一連の動きは、匈奴中郎将即ち董仲穎の少府就任に端を発していた。

 少府とは皇帝の下、三公に次ぐ実務機関――概数で呼ぶところの九卿の一つ。宮中の御物、衣服、宝物、御膳などを含めた財政管理を司る官職である。

 故にいくら対匈奴の遠征軍において功績があるとはいえ、地方太守にすぎない彼女がこれに就くなどとは、当然ながら誰も予想してはいなかった。

 それどころか、「彼女は大将軍か十常侍の――敵対した側によって罰せられることはあっても、これ以上の昇進は望めない哀れな駒である」というのが宮中における大方の評価であった。

 もちろん根拠とするものもあった。先の戦争の事後処理の中で浮かび上がってきた、彼女とその親が進めていた南匈奴に対する融和政策である。

 

『対異民族政策は国防・外交の重要案件であり、たとえ実際に影響を被る太守であったとしても、これを皇帝の許可なく決定し、遂行したのは許しがたい』

 

 上手く言いくるめてこの一言でも「頂戴」できればそれで終わりである。それが分かっているからこそ、董仲穎は保身を図り、大将軍・十常侍のどちらにも媚びを売っているのだ。

 多くがそう思い、哀れみ、あるいは嗤う中、年賀の謁見にて彼女が「頂戴」したものは、それらすべてを裏切るものであった。

 

『五胡の中、南匈奴は烏桓とともに光武帝以来の体制内異民族であり、寛容を旨とする政策は王朝伝統のものと一致する。董卓らは一度途絶えたそれを復活させ、律儀に守り抜いた忠臣である』

 

 事情を知らぬ近従者達が凍り付き、眼球が零れ落ちんばかりに驚いたのもつかの間、領内での善政やこれまでに至る欠損のない納税などを称えられ、その日のうちに少府に就くことが発表されたのだ。

 この電撃人事について、大将軍と宋典、孫璋ら一部宦官らの関与が明るみになるに至り(孫璋などは任官発表の現場で大いにこれに賛同していた)、洛陽の人々はようやく理解した。

 

 いよいよ二極政治が動く時が来たのだと。

 

 そこから、人々の目が百式こと田伯鉄へと向けられるまでは、大した時間を要しなかった。

 男と女という、外戚対宦官とは別軸で行われている都のもう一つの闘い。そこで密かに噂されている人物が、特例でもって尚方令に迎え入れられるというのだから。

 噂の出所がどうやら十常侍であること。尚方令の官・尚方丞が、かつて男子復権を掲げて敗れた蔡倫の官歴の一つであることからも、この任官が今後の政局に関係するだろうことは火を見るよりも明らかであった。

 止めとしてつけ加えるならば、尚方令は他ならぬ『少府』の属官であり、田伯鉄の任官は董仲穎の推挙によるという。

 

 こうした事情から、宮中内は誰が敵で味方なのか、それ以前に誰につけば生き残れるのかの探り合いが未だに続いている。大和の生活にも好意と敵意、信頼と猜疑心、羨望に畏怖といったものが、スパイスと表現するには過度に振りかけられている有様であった。

 

「はぁ」

 等間隔に灯りを揺らす廊下の先、扉の前で一つ深呼吸し、

「田尚方丞、罷り越しました」

「どうぞ」

 やわらかい声に緊張が解れるのを感じつつ、衛兵が戸を開けるのを待つ。洛陽らしい華美な装飾の中、物々しい政務机に不釣りあいな部屋の主が、笑顔で大和を迎えた。

(ああ、ここはオアシスじゃないか!)

 王城の陰湿な空気にやられているからか、一週ぶりに会う直属の上司にして盟友・董仲穎の姿に妙な多幸感が頭を満たす。

 それを十分かみしめた後、

「お早くないですかね?」

 押印が必要な書簡を渡し、対面の椅子に座る。

「それなら。伯鉄さんもですよ」

「私はたったの七日間ですよ。でも少府様は年明けからずっと」

 芝居がかった表情と仕草に口元を抑えて笑うが、やはり、少し無理をしているように見える。

 彼女は慣れない環境の中、完璧な仕事を求められている。その上で都の因習と戦わなければならないのだ。伝え聞く働きぶりが真実なら、むしろ疲れていない方がおかしい。

「少しは休まれたらどうです」

 大和の口調は軽く、しかし思いは切実なものだった。

 けれども、

「やらなければ、いけないことですから」

 表情は柔らかく、しかしきっぱりと盟友は言う。

 言わんとすることは分かる。おそらくそれが正しいことも。

 望んでやっている以上、「可哀想だ」などと思うのは甚だ見当違いなことであり、失礼である。それも分かっている。

(それでもだ。たくさん世話になったし……手伝いたいと思うくらいはいいだろう?)

 自分に言い訳を済ませると、書簡に目を走らせる月に対し、大和は提案する。

「何か手伝えることはありませんか?」

 顔を上げると、困った風に笑う。

「あの、その、ホントに何でもいいんで」

「……伯鉄さん」

「なんだったら、そう! 重いもの運ぶとかでも。こう見えて力は結構あるんですよ」

(ああっ、何言ってんだ俺は! 断られそうだったからっつってももうちょっとマシな提案を)

 饒舌に語るや否や脳内で盛大なツッコミを入れる。雑用など、それこそ隅の机で笑いを堪えているそこの属官が行う仕事であって、田伯鉄が行うべき仕事ではない。

 『百式』の役割を果たすことこそが、彼女にとっての最大の助力となるのだ。仮に手伝ったとして、大した実務経験のない人間が何の役に立つというのか。

 感情に任せた馬鹿げた提案に大和が頭を痛めていると、とうとう月も堪えられなくなった様子で笑い出した。

「少府様?」

「ふふふっ、その……ごめんなさい。去年のことを、思い出しちゃって」

「去年のこと、ですか?」

「はい。私もさっきの伯鉄さんみたいに、ふふっ、お仕事もらおうとしてたなって」

「あ~、そういえば」

「あの時は、私も無茶を言っちゃって」

 懐かしい太白時代の思い出話に大和の顔もほころぶ。少し前のことであるのに、ずいぶん昔のことのように思えた。

「あれから大分経ちますね」

 在りし日を懐かしく思ったのだろうか。少女は目を細める。

「ええ、まったく。宮仕えより自営業のほうが気ままで楽だったと実感してます」

「伯鉄さんは、その、最近はどうですか?」

 はにかむ奥に揺れる心配と謝意に気付き、

「確かに初めてのことだらけで緊張しましたけど、近頃はコツをつかめた気がしますよ。特に……嫌味を言ってくる女性のあしらい方とか」

「……よかったです」

 上司は失笑して、確認し印をしたものを手渡してくる。どうやらこちらの心の内も筒抜けらしい。かつて田家の屋敷でそうしたように、二人は顔を見合わせて笑った。他愛ないやり取り。しかし、それは進行形の権力闘争を、つかの間忘れさせてくれるのには充分だった。

 

「それで、あの、お手伝いの話なんですけど……」

「ああ、さすがに無いですよね。すみません、無茶を言ってしまって」

「いえ……お願いしたいことがあります」

「本当ですか?」

「はい、でも……伯鉄さんも、忙しいですよね?」

「いえいえ、軍関係のも今日で終わりなんで。楽勝です」

 全部が嘘ではない。少なくとも軍の仕事は今日で終わる。

「じゃあ、お願いしても、いいですか?」

「バッチ来いってやつですな」

「ふふ、それも久しぶりに聞きました。ありがとうございます」

 では、お願いしますね。の声で部下が目の前の机に書簡を運んでくる。一つ、二つ、三つ、四つ、五つ……。

(……よ、予想外に多いな)

「あのっ、私からのは最初のもので、残りはその……」

 引き攣る大和の顔に気付いて弁明するが、歯切れが悪い。

「あー、分かってます。というか、今分かりました」

 何気なしに手に取った書簡の末尾に答えがあったのだ。そこには見慣れた字で、

 

 喼急如律令

 意訳:さっさと終わらせなさいよ。

 

「私のは後回しでいいので……」

「かしこまりました。他はまぁ、後ほど陣で顔を合わせるでしょうし、詳細についてご本人から伺います」

 書簡を組紐で手早く纏める。黒と茶を基調にしたそれは、門人の一人に貰ったものだ。

「これで良しと」

「今から行かれるんですか?」

「ええ。出来るだけ早く来いとのことだったんで」

 身支度を済ませると恭しく礼をする。

「それでは、失礼いたしました」

「はい。詠ちゃんにも、よろしくお願いしますね」

 

 

 

―・―・―・―・―

 

 洛陽の北北東にある夏門。高さ二十丈にも及ぶその壁上には、風がうなり声を上げながら吹きつけている。田伯鉄はくるまった外套に顎を埋め、遠くに繰り広げられている光景を見つめていた。

 彼の瞳に映っているのは、魚の大群のように動く二色。時折、かつて球場で聞いた歓声にも似た声が、風とともに鼓膜を震わす。

 蠢くそれは〝北面の騎士”と呼ばれる者たち。

 官軍と西平の軍、それに匈奴を加えた――いわゆる洛陽の北に陣幕を張っている軍の俗称であり、渦巻く疑念の論拠となっている存在だ。

『北の状況を見るに、天子様は本気で改革を進めるおつもりなのかもしれない』

 かつて皇帝の命にこうべを垂れながらも、「売官で得た資金で直属の軍を組織する」などということは机上の空論である。誰もがそう考えていた。売官の収入が莫大であるとはいえ、それは一時的なものにすぎない。

 常備軍を、それも八軍を組織し維持し続けるのは無理があるというものだ。事実、最終的に組織されたのは、呂布、張遼、華雄の三軍に過ぎず、一軍当たりの規模も構想時のものから大分縮小されていた。

 それはともかく、とりあえずの体裁を整えて一段落――となるはずであった。

 ところが、である。大将軍・何進と宦官の対立が激化する中で動きを鈍化させていたはずの軍は、討伐行を挟んでの董仲穎少府就任を機に一転。冬眠から覚めた獣のように活動している。このままどこかに攻め入ろうかというほどだ。

 

 二色が一気に近づいていく。あの全てが軍装に身を包んだ人間なのだ。

(さらしを軍装と呼ぶかは大いに疑問だが……)

 二重にも三重にも現実離れした光景に、ふと、誰かから聞いた話が頭に浮かぶ。

『胡蝶の夢』

 あれはいつだっただろうか。

 その正確な書名も、文句も覚えてはいない。が、たしか、今の自分自身にも当てはまるような内容だったはずである。かすみ目に強めのまばたきをくれてやりつつ、記憶を辿る。

「――ぅ」

 しかし得られたものは、たった数日前のような、それでいて数年前のことであるような吐き気を催す感覚のみ。

 眼前で模擬戦を行っている二将――張遼、華雄としこたま呑んだことを思い返した。きっとそのせいだろう。あの二人と夕食を摂ると、大体飲み比べの流れになるのは感心できない。

 見ればその張遼の軍が猛攻を加えんとする華雄のそれに横槍を入れようと、左翼後方を大きく転回させる。一個の生き物の如く動く様からは、高い練度と用兵が窺えた。

「やっぱりすごいな」

 それは傍目に見ても、いや傍目に見ているからこそ分かる最適の一手。

 大和も大学で愛好会に入ってからは、その手のシュミレーションゲームをプレイしていたし、何度か周回する頃には『百戦危うからず』という状態であった。無論敗北もあるにはあったが、戦術レベルでは覆せない実力差があるときだけ。通算戦績は名将の名に相応しいものである。

 では、もし本当に指揮を執ったなら彼女達のようにいくだろうか?

 改めて振り返れば『敵を知り己を知れば』という条件が粗方満たされていたのだと気付く。彼我の兵力、行軍速度、将の力量差、数値化された士気など、全てを知った上で神の視点とでもいうべきクォータービューでの実時間の状況把握。そして瞬時に、的確に伝達される命令。局地戦に限ってもこれだけのアドバンテージがあるのに、それで勝てない方がどうかしている。

「鍛錬と慣れやな」とは張遼の弁だが、俄かには信じがたい。手足の如く軍を操る将軍たちが超人的なものに映るのも、無理のないことであった。

 

(しかし、一体どこを攻めるつもりなんだろう)

 

 矛先を都に向けることはないと、賈文和は言っていた。

 その言を疑う余地はない。軍事的な所謂クーデターが都に齎すだろう混乱は、十中八九破滅的なものになる。これは政治に疎い大和にも理解できた。

 なにしろ排斥すべき勢力の形がないのだ。敵は大将軍派でも十常侍派でもなく、女性保守派でも男子復権派でもない、都の争いを持続させて利を貪る者たち。

 現状で見かけ上の政敵、十常侍の張讓、趙忠らを力づくで排したとして、それは根本的な解決にはならない。残るものはお気に入りを殺された皇帝の不信感と、人々の恐怖だけ。それこそ虎牢関の戦いが起きそうなものだ。

 ならどうするのか。

 

 真っ当な理由でもって、真っ当に改革を進めるのみ。

 

 らしいといえばらしい。これが董卓らの出した答えだ。

 多くの高級官僚が数々の不正を行い私腹を肥やしているなか、董卓は洛陽に蔓延るあらゆる汚職・腐敗から一線を画しているクリーンな存在で、異民族から漢を助けた英傑でもある。

 民衆の人気も高く、担ぐのにこれほど適した人材はない。賈文和の『説得』に大将軍と宦官らは渋々ながらもこれに同意した。

『やってく中で敵が静まればそれで良いし、動くなら炙り出せるわ』

 かつての上司の不敵な笑みを思い出す。

 主君を高く売り込めて満足げであったが、どうもそれだけではなさそうだった。

 賈文和には何か考えがあるのだろう。そう、彼女は何時だって最適解を考えている。自分の何手も先が見えているに違いない。大体の場合、大筋が決まるまで蚊帳の外で待たされることが多いのだが。

 

「…………」

 そのことに全く不満がない。それはさすがに嘘になるが、隠し事ならお互いさまだ。

 メイド服や夜伽など、欲望のままに貪る夢を見ていることはもちろん、なにより『この世界の住人ではないということ』。

 

(話すべきだろうか)

 

 荒唐無稽な話だ。信じてもらえるわけがない。信じてもらえたとしてどうする? 何が変わる?

 自分に今できる精一杯はここであるというのに。

 

(……いや、違うな)

 

 一瞬頭をもたげた言い訳にかぶりを振る。

 百式という光り輝く鎧。正体を話すことは、その秘密を明かすことと同義である。

 大和は気づきたくなかった事実を眼前に突きつけられたような気がした。

 自分は彼女たちに『それ』がハリボテのメッキだと知られるのを恐れているのだ。

 河北大和(・・・・)では、きっと失望させてしまうだろうから。

 

(今のままじゃいけない)

 

 ならどうする?

 まさに堂々巡りだ。結論は分かりきっている。

 頭に華雄の声が響く。それはぐうの音も出ない正論だ。

 焦燥に苛立ち。どちらも夢を諦めてからは久しく感じることのなかった感覚だが、それは道理だ。漫然と生きる上では己の無力など気になるはずもない。

 

(焦っても仕方ないのは分かってる。でも――)

 求められる役割と止まることのない時間が、決意を、努力を置いて先へ先へと行ってしまう。

 ままならないとは正にこのことだった。

 

 

 

「伯鉄様」

 不意に背後から声を掛けられる。

 振り返ると軍装の男が立っていた。都の正規兵のものとは違う、機動力を重視したそれは西平式のものに違いない。

「あれ? まだ出番じゃないと思うけど」

 額の汗を拭い、親指で門外を指す。模擬戦の終了後に会う約束をしているが、それにはまだ時間がかかるはずであった。

「いえ、下で洛陽北部尉様がお待ちです。今から北の陣へ向かわれるようですよ」

「ありがとう。すぐ行くと伝えて」

 兵士が一礼して去ると、鋸壁の隙間から門の内側――日常風景が顔を覗かせる。

 そこには――

 

 

 何が見える?

 

 

 どくり。と、心臓が跳ねる。

 風の音が聞こえない。

 見慣れたはずの街並みが、しかしいつになく心をざわつかせる。

 

 

 ここから何が見える?

 

 

 音なき声が頭を支配する。

 強烈な吐き気と眩暈、続いて目の奥が爆ぜたような感覚が襲う。

 (日常)(非日常)、その境に大和は立たされていた。

 覚束ない足取りで門の内側、日常であるはずのそれに答えを求める。

「……違う」

 眼下に広がっているのは、やはり住み慣れた街だった。北のスラムが改善されたことを除けば、ほとんどが変わらない。どこに何があるのかも、一通りは把握している。

 

 故に間違えようがない。

 

 多くの時間をここで過ごしてきた。大和にとって洛陽は、この世界の全てに限りなく近い。

 

 故にここしか知るはずがない。

 

 なら――

 

 呟く声は壁上の風に巻かれて消えた。

 

 

 

―・―・―・―・―

 

「体調悪そうだけど、問題ないの?」

「ええ、一度吐いたら大分楽になりました」

 洛陽の北、門から繋がる街道を二騎が悠然と行く。

 田伯鉄は左手に広がる平原と、その向こうの丘で行軍する兵士達に目をやった。模擬戦を終えた張遼、華雄の軍だ。

「ああいうのを見てると、何だか自分たちは取り返しのつかないことをしてるんじゃないかって気になります」

「あながち間違いじゃないって言ったら?」

「まさか、冗談でしょう」

「初めから全部上手くいくって知っていたら苦労しないわよ」

 前を行く賈文和は、来るべき戦に備えて日増しに練度を上げていく軍勢、その先頭を行く二将を横目に見やる。

「ううん。結局最後まで分からないことだってある。つまり何が言いたいかっていうと、最後に勝つとしてもその過程は保障できないってこと」

 沈黙で返す大和。

 速度を落としてその横につき、

「さっきから変よ。何か気になることでもあるの?」

「いや、大したことじゃ」

「構わないわ」

 琥珀色が射抜いてくる。これは逃げようがない。言外の要求に屈服した大和は、肩を落とすことで了承の意を示した。

「……文和様は、見たことないはずのものや人に見覚えがあったり、そういうことがあったりしますか?」

「そんなこと? 本当に大したことじゃないのね」

 肩透かしを食ったような顔に、今度は大和は面食らう。

「そうでしょうか」

「大なり小なりあるものじゃないの? そういうのは」

 賈文和の言には一理ある。

 ここへ来る前から、頻度こそ違えど既視感を覚えることはあったのも事実だ。

 しかしあれは――決定的に何かが違う。

 

(せめてあの女の子を覚えてたら)

 

 手がかりの顔どころか、髪の色すら曖昧だ。

 夢を覚えているといっても、その内容は断片的なものである。目覚めたときには大半が失われてしまうのだ。

 もちろん、例のピンク色の夢の様に何度も繰り返し見れば、これは嫌でも覚えてしまうが。

「なによ」

「いえ、別に。今日もお綺麗だなぁと」

 胡散くさそうな視線を受け流す。

 真実を話そうものなら市中引き回しの上、腰斬刑は免れないだろう。

「戦とか好きそうじゃないから、てっきりあっちが気になるんだと思ったわ」

 顎でしゃくった先には北面の騎士。

「いや、それはまぁ……そっちも気にならないといえば嘘ですけど」

 賈文和の言うとおり、確かに自分から話を振った覚えはない。

 戦が好きか嫌いかでいえば、おそらく嫌いだろう。嫌いといっても争いを憎むとか、そんな高尚なものではない。単純に人が死んでしまうという事実が怖いのだ。

「怖い?」

 その心を見透かしたかのように聞いてくる。

 いつもは何も感じないはずのそれに、砂利を口に含んだかのような不快感を覚えた。

 

(こんなことで? どうかしてる)

 

「いえ」

「本当に?」

「……多少は」

 ケラケラと笑う姿は年相応のそれだ。笑顔がチクリと胸を刺す。

 

『河北、まだやってんのか?』

 

 かつてのやり取りがフラッシュバックする。

 自己に向けられていたはずの苛立ちが矛先を変えるのを感じて、しかし止めることが出来ない。

「わかってるわよ。あんたが月やボクを心配してるってことは。軍を洛陽に来させる時も最後までごちゃごちゃ言ってたし。けど大丈夫」

 田伯鉄はともかく、河北大和の心の内など知らない賈文和は、ふふんと笑うと、

「最近までヒモ同然だった男に心配されるほど、落ちぶれちゃいないわ」

 

 彼女とのこの手の言い合いは挨拶のようなものだ。

 悪意がないことも分かっている。いつも通りなら、冗談やセクハラ交じりの軽口を叩いていたに違いない。

 だが、大和は溜息をついただけだった。

「実際……そうだと思います」

「えっ?」

「心配だといっても何が出来るわけでもないし、戦では役立たず。尚方丞の仕事で手一杯です。皆、自分のことを蔡倫の再来なんて呼んでいますが……」

 その先は尻すぼみに消える。

 一体何を言おうとしたのだろうか。それさえ思い出せない。思い出せるのはいつか見た、酒に映る己の顔だけだった。

 八つ当たりもいいところだ。体中の血が燃えているような感覚が大和を襲う。

 誤魔化すように額を叩くと、

「すみません。今のは忘れてください」

 自嘲気味に笑ったが、いつも女性官吏にするように、上手く演技できた気がしない。

「…………」

 賈文和は何か言いたげに口を開き、しかし続く言葉が出てこない様子だった。

 

(……何やってんだ俺は)

 大和は自分で自分を殴りたい気分だった。さっきのは、恐らくきっと嫉妬に満ちた感じの――とにかく情けない顔だったろう。

 普段気を張りすぎているせいだ。タイミングが悪く、少し弱気が出てしまったのだ。焦って苛立ってるからだ。

 それらは大いに考えられる可能性だったが、何よりもまず、この気まずい空気をどうにかしなければならない。

 何か言おうとして、しかし沈黙を破ったのは賈文和だった。

 

「もしもよ」

「え?」

「だからもしもの話。前にあんたが言ってたみたいに洛陽が危ないことになって、それで月とあんたのどちらかを選ばなきゃならなくなったら――」

 前を見据えたまま数秒ためて、

「ボクはためらいなく月を選ぶわ」

「それは……仕方のないことだと思います」

 同じ立場でもそうするだろう。

 彼女にとって董卓は親友だ。それだけの価値がある。

「でも」

 強い口調に、下がりつつあった視線を戻される。珍しく(これを言えば怒鳴られるが)険のとれた少女の顔がそこにあった。

「少しでも余裕があるなら必ず助けるわ。なんでかって、あんたもそうすると思うから」

「文和様……」

「月もあんたのこと、友達だと思ってるし」

 ばつが悪そうに頬をかくと、

「つまりなんというか……ああ、もうっ。信頼はしてるし、頑張ってるのも分かってるってことよ」

 言うや否や、大和の馬に鞭を一振り。

 突然速力を上げる馬の動きに慣性をもろにくらい、大和はバランスを崩しそうになる。

「わっ! っと、な、何を――」

「久しぶりに競争するわよっ」

 追い抜きざまに叫ぶと、その姿は見る見るうちに小さくなっていく。

「くっ」

 体勢を立て直し、急いで追いかける。幸い借りた黒馬は以前の馬術訓練時に世話になっていたのと同じだった。

 大和の手綱と姿勢から意図を察し、前方を行く栗毛を追う。

 しばらく行くと、前方を駆る賈文和が側道へと入った。陣へ行くにはこのまま街道沿いを進むだけで充分である。なら可能性として考えられるのは、

(三戦目ってことか)

 白馬寺への遠乗りを思い出す。行きも帰りも負けて、結局夕食を奢らされたのはいい思い出であった。

 賈文和を追って自身も側道へ入る。

 林を進む形となる細いそれは、お世辞にも馬に向いているとはいえない。そんな中、風を切り、木々を避け、小川を飛び越える。

 大和は体勢をしきりに変えて、反動を消すことに躍起になった。人馬一体には遠いが、少しでも近づけるように、背に邪魔なものが載っていると感じさせないように。他でもない彼女達の教えだ。

 奥に光が見える。林の終わりは近い。とうに賈文和の背中は見えなくなってしまっていた。

 今回も負けということになるが、不思議とそれを悔しいとは思わなかった。先ほどの苛立ちが嘘のように霧散している。

 

 信頼もしてるし、頑張ってるのは分かってるってことよ

 

 大和は自分の単純さに苦笑した。

 彼女はこちらの事情など知らない。故にあれは田伯鉄へ贈られた賛辞であり、厳密には河北大和に対するものではない。それなのに素直に喜んでしまっているのである。

 先のからかいにしたって同じだろう。虚の存在であるはずの田鋼に振り回される自分が、たまらなく可笑しかった。

 

 景色が流れる中、血管を流れる不快な成分が汗として流れ、薄まっていくのを感じる。

 尚方丞の仕事、旗印としての重圧、それらからくる不安・焦燥、そしてかつての挫折がもたらした痛みさえも。将来も利益も関係なく、一心になにかに取り組む感覚を、ただ懐かしく思う。

 久方ぶりに、身体に力が充溢するのを感じた。公称の齢三十でなく、まるで実年齢に――もしくはその数年前にかえったような。

 

 陣に着くと、賈文和は鐙を支点に体を回し、馬から降りようとするところであった。

「桃酥(タォースゥ)二十個で手を打ちませんか?」

 馬を停め、報酬について提案する。

 桃酥は大和が元の世界の中国から逆輸入した焼き菓子である。女性官吏の関心を買うために、地元の商店と共同開発したいわくつきの品。賈文和が試作から立ち合っていて、気に入っていたのを思い出したのだ。

「確かお好きだったでしょう?」

「ん、ありがと」

 賈文和は大和の顔を見ると安堵したように、満足げに笑った。

 

 

 

―・―・―・―・―

 

 荊州の人里離れた地にありながら、都までその名が届く名門・水鏡女学院。

 学院の主、司馬水鏡といえば言わずと知れた才媛であり、その知を頼って多くの人間がその門戸を叩く。

 その水鏡先生の様子が最近おかしい。生徒たちの間には、彼女の部屋から時たま奇声が聞こえるという証言が相次いでいるのだった。

 

「あわわ! 朱里ちゃん、押さないで」

「しー。雛里ちゃん、気付かれちゃいます」

 真相を確かめるべく部屋を覗き見るのは、学院トップを争う二人――諸葛亮と鳳統である。

「準備はいいですか?」

「……ねえ朱里ちゃん、やっぱりやめよう?」

「ダメです。やっぱりきちんと真相を調べないと」

 その真相にすでに心当たりがあることも手伝って、親友に押し切られた雛里は覚悟を決めた。二人はゆっくりと部屋の戸に手をかける。

(……うわぁ)

 それはどちらの心の声であったか。

 戸の隙間を通して瞳に映る師の様子は、それはそれは酷いものであった。

 朝方渡した手紙を両手で天にかざしたかと思えば、皺ができようというほど胸に抱きしめ回る。その頬は朱く染まって緩みっぱなしだ。

「あれは、洛陽からのお手紙……でしょうか」

「うん。蝋で封がしてあったし……」

 丸めた紙を紐で止め、その上から蝋封する。その一風変わった様式を使う人間を、朱里は件の洛陽の学者以外に知らない。

 今度は寝台に突っ伏したかと思えば、ゴロゴロと転がり、足をバタつかせている。

 師の様子は想い人からの手紙に喜んでいるような、まさに恋に恋する年頃の乙女のようであった。二人もそう思ったに違いない。手紙の内容さえ知らなければ、という条件付きでだが。

「雛里ちゃん、私……なんで先生がご結婚されないのかわかった気がします」

「朱里ちゃん……」

 突拍子もない仮説とその実証、結果、考察、次工程……。勉強の合間に二人が読む恋愛本の世界とは、かすりもしないものだ。長々と書き綴られたそれが微塵の色気もない代物であることを、二人は知っている。

 

「ふっふふーん」

(まさか、ですね。もう返事が来るなんて!)

 そんな生徒の引き気味の視線には気付かず、上機嫌の司馬水鏡は書簡を手に改めて机へ向かう。

 恋愛とはベクトルこそ異なるが、彼女が都の学者に興味をもっていることは紛れもない事実であった。

 そもそも人がある仮説を立てる場合、多くは先行する研究などの何かしらのとっかかりを必要とするものである。例え常識に変革をもたらすような型破りな人物であっても、常識という「すでに在るもの」を礎石として、それに疑問を抱き、否定するところから始まる。

 

 しかしながら、百式の研究仮説の半数以上は、『誰も触れていない分野において突拍子もない仮説を確信をもって打ち出し、それを証明するための最短距離を突っ走る』というべきもので、これは朱里達生徒はもちろん、すでに一通りを修め、人に教える身となっている彼女の知的好奇心をくすぐるのにも充分であった。

 

 また、それら出鱈目な仮説と同等に目を引いたのが基礎研究の多さである。すでに他の人間に証明されてしまっているものも相当数あることからも、百式が自身の知るどの学閥にも属していないだろうことは明らかだった。

 

(この国の学術の水準を知らないということは、やはり異国の出なのかもしれないわね)

 

 異人であるなら、手紙を交わすたびに上手くなる書字にも説明がつく。宛名を見ながら思う。子どもならともかく、齢三十でここまでの変化は考えづらい。

 ともかく、その答えが目の前にある。

 先の返信のなかで率直に疑問をぶつけてしまい、「もう手紙は来ないかも……」と半ば諦めていただけにその喜びはひとしお。生徒二人の覗き見に気付かず、司馬水鏡は嬉々として手紙を広げる。

 

 

 そこには尚方令の印とともに、自分の知識は大宛への旅の中で得たということ、都の現状と己の立場、そして司馬水鏡の助力を求める旨が記してある。

 

 助力とは他でもない、水鏡女学院の生徒を都へ寄越してもらいたいというものであった。



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