小日向家は土曜日も自由 (藻介)
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第一週 キスして
346プロダクション。女子寮。
全国から多くのアイドルたちが身を寄せるその場所で、ある者は仕事へ、ある者は一人の時間を過ごし、またある者は仲の良い者同士で集まる。
これは、その集まりのうちの一つ。
奇妙な縁で結ばれ、騒がしくもにぎやかな時間を積み重ねていく、とある四人の日常。
そう、例えば。
「「ごふぁっ」」
「吐血始まり!?」
たまさかオフの日が重なり、集まることになった土曜日。
うち一人の部屋のドアを開けた輿水幸子が、一番初めに見たのは、口から血を噴き出し倒れる二人の少女の姿だった。
血文字で「さち」と書きかけ、それから「ち」の二画目を左から始めることで、「さえ」なのか「さち」なのか、無駄にミステリを作り上げようとする。口に加えられた一房の髪の毛が嫌に似合ってしまう少女、佐久間まゆ。
その横、こちらは矢印で直接横に倒れているまゆを指し示し、身もふたもないがダイイングメッセージの理屈としては王道を行く。けれど錦の着物はけっして血で汚さない、されど自室のカーペットは赤く染めてしまったこの部屋の借主、小早川紗枝。
一目みた限りでは、互いに争い合ったようにも見える。けれど二人の服は乱れておらず、カーペットで血を擦った様子もない。
つまるところ、二人は同時に吐血して、そのまま倒れて、互いを架空の犯人に仕立て上げるようなダイイングメッセージを残した。
その、あまりにもあんまりな結論に、第一発見者たる幸子は一言。
「な、なんて醜い」
「「はうっ…………」」
反応があった。死人に口なしではなかったのか。
一言もしゃべらないどころか、細々と「ありがとう、ごさいますぅ……」だとか「えらい…………おおきに」だとか、妙に色っぽい声がする遺体だった。
その上ぴくぴくと震えている。試しにつついてみる幸子。
跳ねた。下の部屋に響かないか心配になるほど勢いよく。
さらに三つの検証を試した末、幸子は一つの結論に至った。
————これは、遺体、ではない。
「ムッフフー。さすがボク」
「そない大したことやあらへんでも自分を褒めることを忘れないうちの幸子はんが今日も世界一カワイイ」
「はい。胸を張ったことでこうして下からちらちら見える
「…………あの。お二人が変態なのは今に始まったことではないので今更引いたりとかしないですけど、そろそろどいてくれませんか。邪魔なので」
再度アレな顔をして感謝を叫ぶ紗枝とまゆ。
立ち上がり、血痕を片付ける二人の横を通り過ぎながら「とてもファンの人たちには見せられない顔ですね、相変わらず」と、口に出さずとも思う幸子は「失礼します」と一応の礼を言って、用意されていた四人分の座布団に腰かける。
丸いちゃぶ台を囲む麦藁で編まれた座布団。梅雨を間近に控えた五月の下旬、湿気の増えてくるこの季節にと紗枝が出したそれ。玄関側に幸子、その右にまゆで左に紗枝、そして向かいに美穂と座るのが、四人のいつもの定位置。
「美穂さんはまだ、ですか」
向かいの座布団には誰も座っていない。トイレやシャワーに立っている可能性もあるものの、幸子はそれを即座に否定した。
———美穂がいるのなら、あの二人があんなことをするわけがない。
それこそ借りてきた猫のように、ぎこちなさは感じさせず、その上で常軌を逸した行動だけは全くこれっぽちもしなくなる。
知り合ってまだ日の浅いうち、なぜか今と変わらず幸子を追い回していた昔の二人でさえ、美穂の前ではおとなしかった。
その理由を幸子は聞いてみたことがある。が、どちらに聞いても青い顔をするだけで結局最後まで答えてくれず、いまだ幸子には分からないままだ。
「遅くなりました。はい幸子はん、麦茶どす」
「あ、ありがとうございます。いただきます」
氷の二つ入ったコップになみなみと注がれた麦茶を一口。実家通いで季節外れの猛暑の下を歩いてきた幸子の喉を、琥珀色に日差しを反射する冷たさが通り抜けた。
「まゆはんも、どうぞ。お好きに注いでください」
「はい。いただきますね、紗枝ちゃん」
いや注いであげないんですか。とは幸子は言えなかった。
手元の麦茶以上に二人の間の空気が冷えていたからだ。もう冷房とか要らないくらいに、それどころか暖房をつけたいくらいに。
一応、弁解しておくのなら、普段の二人は公私ともにここまで仲が悪いわけではない。幸子が関わっている時だけ、譲れないもののために女は時として鬼にも、そして変態にもなるのである。
かといって、この空気のまま放っておくのも居心地が悪い。(自称)大天使幸子は麦茶のピッチャー———投手ではない(ユッキ対策)———を取って、
「まゆさん、カワイイボクが注いであげますよ」
「え……」
「……な」
基本的に遠慮から入るまゆが二の句を告げぬうちに、まゆのコップに麦茶を注いだ。
「はい。どうぞ。もう注いじゃいましたから、何も考えずに飲んじゃってください。実家通いで暑い中を歩いてきたのは、まゆさんも同じでしょう?」
「…………幸子ちゃん!」
「な、ちょ」
感極まって抱き着くまゆ。
「ちょっとまゆさん!? お茶飲むんじゃないんですか?」
「ああ、ほんにずるいわぁ。幸子はん、とうぜん、うちにも幸子はんが注いだ麦茶(意味深)を飲ませてもらえるんやろねぇ?」
「ボクの注いだ麦茶に変なプレミアつけるの止めてくれませんか!?」
「幸子ちゃん。幸子ちゃんのお茶。幸子ちゃんのがまゆの中に。ふふ、ふふふふふ」
もうなんか、なんていうか、これ以上どうしようもないので、閑話休題。
「それで、どうして血を吹いて倒れていたりなんかしていたんです?」
三人で幸子が注いだ麦茶を一口。一息ついたところで幸子が聞いたそのことに、二人は、
「「幸子ちゃん(はん)が可愛すぎて…………」」
と頬を上気させ同時に答えた。
「ボクがカワイイのは当たり前です。ですけど、それはいつものことじゃないですか」
「ふふ、そやねぇ。けど、今日は特別、かいらしくみえたんどす」
「そうですねぇ。ああ、えっと、それで、倒れた理由についてですけどぉ。まゆはすこし早く着いてしまったので、紗枝ちゃんのお部屋のお掃除を手伝っていたんです」
「はぁ」
この二人は本当は仲がいいのか悪いのか、幸子には時々分からなくなる。
そう幸子が思っていたのもつかの間、座布団から腰を上げてベランダに近寄るまゆ。アルミサッシの前、外との境で一段高くなっている所を指でなぞり。
「ほこり、こんなに積もってるんですねぇ。っていうの、一度やってみたくて」
「指ピカピカじゃないですか。ほこりなんてまったくついてませんよ」
前言撤回。やっぱり仲は悪いようだ。
「あたりまえさんどす。お部屋の掃除は普段からしておくもの。今日は、臨時で物入りがありましたさかいに、ほかすものがたまたま多くなってしもうただけ。それを一緒に片付けてもろうてました」
「それで、こんなものが出てきましてぇ」
ベランダから戻る途中にCDラックから取り出した一枚を、まゆはちゃぶ台の上に置いた。
「へえ。懐かしいですね」
それはずいぶん前に幸子たちが歌ったカバーソングを収録したもの。安部菜々さんじゅうななさいが「これ、懐かしいですね」とつい先ほどの幸子と同様につぶやいたような曲から、当時の流行曲に誰もがよく知る童謡まで、本当に幅広くカバーされていた。
「せやろ? そんで片付けも終わって、せっかくやさかいにって、一曲聞いてみたんどす」
「幸子ちゃんの歌ってた曲ですよぉ。それが本当にかわいくて」
間奏中に連呼される思い人の「ちゅ」。二人の頭には血が上り次第に息も荒くなる。
————そこに、じつに面白いタイミングで、モノホン幸子が入ってきた。
「「ぐはぁです(どす)ぅ」」
「ええ……」
自分が歌った曲がかわいいと褒められた。幸子にとってこれほどうれしいことはない。ない、が。
「さすがに着眼点が気持ち悪すぎませんか?」
「「うふふ。ありがとうございまぁす(おおきに)」」
「ダメだこの変態たち、強すぎる」
「すでにI〇unesでダウンロード済みどすえ」
「あ、お買い上げありがとうございます」
「SNSのトークルームBGMにも設定してますからぁ。これからは毎日聞けますねぇ」
とっさに自分のスマホを開く幸子。聞き覚えのあるメロディが流れる。
「本当だ。……おや」
そこに交じって跳ねる軽快な通知音が一つ。
「美穂ちゃんからですかぁ?」
「はい。お菓子を買ってきてくれたみたいで、たった今、寮に戻ったらしいですね」
「あら、そないなことせんでも、うちで氷菓子用意してはりましたのに」
「暑かったでしょうから、今の美穂さんにはそっちの方が———」
「幸子ちゃーーーーーーん!!!」
そっちの方が、いいでしょうね。との幸子の声は勢いよく開けられたドアの音でかき消された。反応する三人、けれど、そこには誰の姿もなく困惑する紗枝とまゆ。なんだったのだろうと幸子に向き直って、二人は大きく口を開けた。
「ねえ…………、いいでしょ? 幸子ちゃん」
「な、ななな何がですか!?」
座布団の上、幸子にしな垂れかかる美穂。
「ほら、コレ」
そう言って、脇に放りだされた鞄から、器用にも片手でそう時間をかけずに自分のスマホを美穂は取り出す。その上、画面を見ずに操作。映し出されたSNSのトーク画面を幸子に見せる。
そこには、つい先ほどまゆによって変更されたBGMの曲名が表示されていた。
————『KISSして』と。
「わざわざ変えたりなんかして、……幸子ちゃんって、意外と欲しがりさんだったんだね」
「いや、それ変えたのボクじゃないですし……。っていうか美穂さん、大丈夫ですか? ずいぶん汗びっしょりですけど」
幸子違う、今心配するのそこやない。傍から見ていた二人は、内心でそう冷静なツッコミをする。混乱していたから、状況について行けていないから、一つの心の防衛システム。それでも視界から入ってくる尊みの暴力は、ここまで順当に補充されていたSTP(幸子・尊い・ポイントの略)並びにMTP(美穂以下略)貯蔵タンクの許容量を大幅にオーバー。
そして、二人は果てた。
一方さちみほは疑似的な二人きり状態になったことにより一気に加速する。
「大丈夫だよ。これからもっと、汗かいちゃうから。だから、ね」
「ね。じゃないです! 一体カワイイボクに何しようっていうんですか美穂さん!?」
「そんなに怖がらないで。ホントに大丈夫、だって練習、練習するだけだもん」
「そのセリフは微妙に配役間違えてる気がするんですけど!!」
幸子の声は美穂に全く届いていない。これもまた本人の名誉のために言っておくと、普段の美穂は性欲の塊だとか、劣情だとか、殺生院だとか、そういった単語からはほど遠いところにいる女の子である。
その彼女がここまで興奮している所には、きっといくつかの要因がある(と天の声は信じたい)。一つは、地元熊本を上回るコンクリートジャングル東京の暑さに美穂がまいっていたこと。二つ、幸子の蠱惑的な歌声を聞いてしまったこと。三つ、その蠱惑的な歌声で歌われた同じく蠱惑的なカバーソングを聞いてしまったこと。
三つのうち二つが幸子に起因する。つまり————
————おおよその原因は幸子がカワイイから。
(一部にとっての)全世界共通認識によるところなので、もうこの先何が起きたとしても、是非もなしと諦めることしか幸子にできることは残されていない。
「ああそうだ! どうせならキス以外の練習もしちゃおう!」
「熱意の方向性!!」
「もう、暴れないで幸子ちゃん! パンツ脱がせにくいでしょ!」
「言っちゃった! ここの作者安易な下ネタ苦手なのに使っちゃってるじゃないですか!!」
パロ台詞なので、元作品大好きだから個人的に問題はない(by天の声)。
「メタいこと言わない。いいからもっと触らせて! もっと揉ませて! もっと愛させて!!!」
「いぃやああああああああ!!!!」
これは、日々繰り返される女子寮の日常、その記録。
語ることもなく、ただ過ぎて行く昼下がりの風景を、時折こうして気まぐれに切り取っていくだけ。
それでも、言えることがあるとすれば、それはたった一つ。
——————強く生きろ、幸子。
「いやここの人たちここまでキャラ崩壊させたのあなたでしょ!!」
・紗枝
・小日向家のはんなり担当。作者の無力により京都弁の精度が落ちている。
・幸子スキー。まゆとは幸子を取り合う仲。美穂には嫌われたくない。
・まゆ
・小日向家の溺愛担当。マユなるもの、ではない。純度100%のままゆ。
・幸子スキー。紗枝とは幸子を取り合う仲。美穂には嫌われたくない。
・幸子
・小日向家の総受け担当。強く生きろ。
・世界一カワイイ(自称&小日向家の人々談)。
・美穂
・小日向家の調停役担当。小日向家の頂点に君臨する権力を持つ。
・小日向家の人々みんなスキー。暴走すると一番怖い。
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第二週 幸子はカワイイからねしょうがないね
次週ですが、リアルやらインドやらで忙しくなりそうなのでお休みします。また再来週にお会いしましょう。
ある土曜日の昼下がり、カワイイ幸子は見知らぬ部屋に監禁されていた。
「……………………はい?」
ある土曜の昼下がり、世界一カワイイ(自称)幸子は見たこともない部屋に監禁されていた。
「いや聞き直したわけじゃないんですけど! あとその括弧の位置だと名前の方が間違いみたいじゃないですか!? いえまあ、両方とも紛れもなく真実ですけどね!」
パイプ椅子に座らされ、後ろに回された腕を縄で縛られている。アイドルとしては幸運なことに、顔にガムテープが貼られていたり猿ぐつわを掛けられたりしているわけでもない。だが腰と背もたれを巻き込んで巻かれている、腕の物とはまた別のもう一本の縄のせいで、身動きは全く取れない。
そんな状況にあっても、我らが(自称)大天使幸子にこれと言って取り乱した様子はなかった。
……というか身も蓋もない話ではあるけれど、ドッキリの可能性もあるのに、こんなリアクションで本当にいいのだろうか。
「ああ、それはないです。縄の巻き方が結構がっちりしてますし。バラエティならもしもに備えてもう少し緩いはずです。それどころか、この部屋何にもなさ過ぎてカメラを隠す場所もなさそうですから」
幸子のバラエティアイドルとしての実力は我々の想像を越えていた。
「その某ファッションリーダー声優みたいな呼び方はいろいろ危なくないですか?」
本当にもうしわけない。そしてそろそろ輿水さんには天の声との会話を止めてほしいです。
「先にきっかけを作ったのはそっちだったような……」
——————もうすぐ。彼女が、来てしまうので。
「え? 彼女ってまさか」
はい、そのまさか。
さてここからは完全に地の分に徹しさせていただきます。
部屋の前方。幸子の座らされている位置から見て右手四、五メートルほど先。薄暗い闇の中で金属製のドアが重く電球の明かりを弾いていた。その反射先が、左から徐々に幸子側へと寄っていって、ついに幸子へ射すその寸前にまた元の位置まで戻っていった。
そして同時に、床を叩く堅い靴音が一つ。
「まゆですよぉ」
「ですよねー」
幸子が、モノホン誘拐犯の次に可能性が高いと考えていた少女、佐久間まゆの姿がそこにはあった。
「ところで幸子ちゃん。さっきまでどなたとお話されていたんですかぁ?」
しょっぱなから(天の声の)命の危機。
というかですね佐久間さん、そういうメタいのはさっきで打ち止めということで、話がついていたんですけど……。
「まゆは幸子ちゃんに聞いているんですぅ。どなたかは存じませんが、すこし黙っていてくれませんかぁ」
あ、はい。
「ちょっと!? 折れるの早くないですか?」
や、だって。私も命は惜しいから。
「それにしたってもうちょっと何かないんですか!? これじゃあ今度は矛先がこっちに」
「ふふふ。さ、ち、こ、ちゃん」
「ほらあ!」
………………。
幸子にもたれ垂れかかるまゆ。その瞳には幸子をパイプ椅子に括りつけている縄などまるで見えていない。とでも言うように、幸子の体温を思う存分堪能していた。
「あいつ、逃げやがった。———っひゃ。………………あ、あの、どさくさ紛れに、どこ、触ってるんですか? まゆさん」
「あ、ごめんなさい。幸子ちゃん」
幸子の言葉にしゅんとするまゆ。そう強く言ったつもりもない幸子は「あ、いえ。べつに怒ったわけじゃなくて」とはっきりしない口調でまゆをなだめる。
まゆとて、本気で幸子に嫌われることは避けたい。そうなったら、まゆは自分が本当にダメになってしまうと分かっている。それを幸子も知っていた。知っているから、他に比べれば少し、いやかなり過剰な愛情表現もさして気にしないことにしていた。
「あの、幸子ちゃん」
「……なんですか。まゆさん」
「嫌、でしたか? 私に、こんなことされるの」
それは、監禁したことを言っているのか。それとも、体に触ってきたことを言っているのか。
「その質問は、ちょっとずるいんじゃないですか?」
幸子がまゆの愛情表現を厭うことはない。けれど、受け入れるかどうかはまた別だった。
まだ、幸子には誰かを好きになるという気持ちが、よくわかっていなかった。それは当然美穂にも、紗枝にも、そして目の前のまゆにも。幸子はまだ、友情以上の感情を三人に感じたことはない。
だからまだ、幸子にはまゆの愛情表現を受けれることができない。
別の誰かを好きになるかもしれない。あるいは誰も好きにならないかもしれない。けれどまゆに関してだけは、そう易々と話を進めるわけにはいかない。
なぜなら彼女はいつだって、自分の何倍も————
だからこそ、その思いを受け入れるなら、こちらも同じくらいに本気の覚悟を待たなくてはいけない。
「まあ、でも」
監禁されるのは、いつかされるだろうと想定していたから、この際見すごすことにして。
「そんなにイヤでもなかったですよ。触ってくるの」
「…………! 幸子ちゃん!」
「あ、でも! イヤじゃなかっただけですから! 頻繁に触るのは、なしで、お願いします。……まあ、今は、誰もいないみたいですし……、変なとこじゃなければ、いいですよ」
「はぁい。わかりましたぁ、幸子ちゃん」
ご満悦の顔で幸子の足に頬ずりするまゆ。縛られた少女の足に頬ずりする少女、百合的見地を離れて見ればかなり危ない絵面だが、少なくとも幸子に嫌がっている様子はない。
すこしでも理性の枷が外れれば、舌を出して舐めだしそうに、まゆの頬は上気して赤くなっている。
そんなそぶりを見せたらすぐにストップをかけよう。幸子はそんなことを考えていた。けれど、必死に自分を求めるまゆが、なんだか妙に愛おしく思えてきた。
「(これは、いわゆる、ストックホルム症候群っていうのなんでしょうかね)」
ドキドキはしている。けれど、それは今の状況の非日常さに頭が追い付いていないだけ。
もしも、そこにいるのがまゆでなく、美穂や紗枝だったら。その時にもドキドキしないと言い切れるのか。
————分からない。
美穂には先日、練習と称して押し倒された。そして一分で正気に戻った。未遂で終わり、あまりの展開の速さに肝心のことは全く覚えていない。そして紗枝とは、今のところそういったことは一度もなかった。
基本的にあの三人は幸子のことをとても大事に思っていてくれている。それだけで十分だとは思う。けれどこれでは、それ以上が分からない。
(自称)世界一カワイイ幸子にとって、自分の次にカワイイと思える人は、果たして誰だろう。
胸にぎゅっと押し付けられている、まゆの登頂部を眺める。
「(ここまでされても分からないだなんて、まるで、世界一最低な間男にでもなった気分です)」
なんて、報われない。こんなにも、彼女は真剣に自分を好いていてくれるのに、それが自分には全く届かない。
せめてその頭を、撫でてあげたいと思った。けれどその腕も今は縛られている。
「まゆさん。そろそろこの縄、ほどいてもらってもいいですか?」
「…………」
「まゆさん?」
まゆの動きが止まった。そう思ったとたんに、まゆの腕が背中に回され、より固く抱き留められてしまった。
「幸子ちゃん。幸子ちゃんは……、もしもこの縄をほどいたら。その時には、ここから出ていってしまいますか?」
「え? まあ、はい。結果的には、そうなるかと」
縄をほどいてほしいと言ったのはまゆの頭を撫でるのに邪魔だったからだ。けれど、ここから出る、その言葉を言われて今更ながら思い出した。自分はまゆに拉致監禁されていたと。
「それにこれも今思い出したんですけど、たしか今日はKBYDでお仕事だったような。いえ、気づいたらここにいたので、あれから日が変わってる可能性もありますけど」
「半日です。幸子ちゃんが眠っていたのは、それだけです。なのでまだ今日ですね」
幸子が思い出せる一番最近の記憶は昨夜の十時半、自宅のベットで目を閉じたところまで。
「てことはまだ昼前……、よかった。遅刻とかはなさそうです」
「それは無理です。幸子ちゃんには、どこにも行かせませんからぁ」
まゆの腕の力は弱まらない。縄をほどく以前の問題だった。
「まゆさん、いつまでも遊んではいられないんです。遅刻をしてしまえば、現場のスタッフさんたち、それに事務所のみんなにだって迷惑がかかる。そんなこと、まゆさんだって分かっているでしょう?」
「はい。それでもです。幸子ちゃんには、絶対に、ここにいてもらいます」
いつになく力のこもったまゆの声。
「……まゆさん。いったい、どうして」
まゆの右腕が幸子を解放した。かといって左腕はそのまま、そもそも縛られている縄もそのままなので、脱出など論外。幸子には何もできなかった。その間にまゆはポケットから自分のスマホを取り出して操作、その画面を幸子に見せた。
『バイオテロか。渋谷区を中心に搬入者多数』
一つのネット記事だった。
「渋谷区って、事務所が」
「これが発表されたのは昨夜の十二時前です。その後も見る間に広まっていって、まゆには、幸子ちゃんをここに連れてくるだけで精いっぱいでした」
「……ここは、どこなんですか…………?」
「晶葉ちゃんが用意していた地下シェルターの一室です。万が一に備えてまゆ専用の部屋をもらっておいて正解でした。急に使うことになったので、すこし散らかっていますけど、そこは見逃してください。とにかくここにいれば、ひとまず幸子ちゃんとまゆは安全ですよぉ」
「他の、人たちは?」
「…………」
「まゆさん————!」
「……精いっぱいだった。そう言ったはずです。まゆには、他の人たちがどうなったのか……分かりません。プロデューサーさん、美穂ちゃん、輝子ちゃんに乃々ちゃんに晶葉ちゃん、それから、紗枝ちゃん。みんなの無事を祈って、それでも幸子ちゃんの無事だけは、祈ってなんていられませんでした」
「だから……、ボクだけを助けたっていうんですか?」
「はい。まゆにとって、幸子ちゃん以上に大切なものなんてありませんからぁ」
それさえあればいい。それ以外には何も要らない。その顔を幸子はよく知っている。
初めて彼女に会った日から、ずっと自分だけに向けられてきた表情。自分がどうしても答えられないその感情。
幸子にはどうしたって、まゆを責められない。
しかもそれが自分を守るためだなんて。他大勢を天秤にかけて、それでも自分を選んだなんて。幸子には、その思いに対抗できるまゆへの思いが無かった。
「いつまで、このままなんですか?」
さっきから質問ばかりだと幸子は自嘲した。あまりにも自分はこの状況について何も知らなさすぎる。あまりにも無力にすぎる。
「……わかりません」
そんな自分にもまゆは何も言わず答えた。きっとこれからも、まゆは自分を許し続けてくれるのかもしれない。そう考えると、怖いくらいに気が楽になる。
「でも、大丈夫です。幸子ちゃんはなにも心配する必要なんて、ないんです。こうなった責任は幸子ちゃんにはありません。幸子ちゃんを選んだのは、まゆです。だから、幸子ちゃんは、なにも気に病んだりしないで。どうか、いつまでも、まゆとここにいてくれるなら。それで———」
そうできたら、どんなにいいだろうと思う。
このまま目を閉じて、食事に睡眠、すべてを彼女に任せて、ただ彼女とともに死ぬまで生きていけるなら、それで——————
————いーま、こん、ちき、ちん。
「え?」
眠りかけていた思考を揺り起こすように、軽快なリズムが一つ。
「これは……、メールの着信音…………! それも紗枝さんからの!!」
「ダメです。まゆが出ます。幸子ちゃんはここにいてくれればいいんです」
「いえ、そんなわけにはいきません」
連絡があった。それはつまり、紗枝がまだ生きているかもしれないということ。
「もしかしたら、紗枝ちゃんのスマホを拾った誰かが勝手に使っているだけ、かもしれませんよぉ」
「それでも———構わない!」
床を強く蹴りつけた。自分と一緒に括りつけていたイスごと後方へと跳んだ。強引ではあるが、一時的にまゆから離れる。
その間に、袖内に常備していたサバイバルナイフを手に握る。腕は縛られていて動かない、けれど、手首はまだ自由に回る。感覚で切れやすそうな箇所に刃を当てて腕全体に力を入れた。引っ張られた縄はナイフに押し当てられ、数える間もなくしゅるりとほどけた。
腕が自由になったのなら、それ以外は易々と切れる。パイプ椅子に腰を縛り付けていたもう一本は、腕の縄以上に簡単に外せた。
体の自由になんの感慨も覚えず、すぐにポケットのスマホを取り出す。ロック画面に表示されたショートメールの通知をフリックして、ロック解除とともにメッセージを確認。
『たすけて』
立ち上がり、何も言わずにまゆが入ってきたドアへと歩いていく幸子。当然まゆはその前に立ち、腕を広げて進路を遮る。
その脇からすり抜けることはできる。まゆよりも幸子の方が、力やその場の判断能力は高い。強引に押し通ることは可能だった。けれど、幸子はそうせずに、
「どいてください」
まゆにそう言った。
「どきません」
けれど、まゆはそのまま動かない。
「外は地獄です。幸子ちゃんなんて十分も立っていられない」
「ならまゆさんはここまでどうやって来られたんですか?」
「ガスマスクです。酸素もフィルターも幸子ちゃんを運び入れ終えた時点で使い切っています。もう安全に外で動く手段なんてありません。そんな場所にむざむざ幸子ちゃんを送り出すなんて。幸子ちゃんにはまゆを、そんな娘だとは思ってほしくないですねぇ」
「大丈夫です。そんなふうに思ったことは一度もないですから」
「ありがとうございます。嬉しいです。ですが言っておきますけど、そんな言葉で説得できるほど、物分かりのいい女でもないんですよ。まゆは」
「知ってます」
だから。
「だから好きなんです。あくまで、友達として、ですけど」
「まゆはその何倍も幸子ちゃんが好きです。だからこれ以上、幸子ちゃんが傷つくのは見ていられない。まゆが幸子ちゃんを閉じ込めるのは、幸子ちゃんのためじゃありません。自分のためです。まゆは絶対にここをどきません。通りたいなら、まゆを倒すしかありませんよぉ」
「通りますよ。そのセリフはブリッチしながら言わないと効果がありません」
「そのセリフ元ネタがなんだか分かっていってますかぁ?」
「さあ」
たとえまゆがブリッチしていようと意味深に首を傾けていようと、幸子は強引にまゆを押しのけたりはしなかった。かといってここで足止めされるつもりもない。
「聞いてもらってばかりで、迷惑をかけました」
「おかまいなく。いくらでも付き合いますから」
「そうですか。でも、今日はこれで最後です。まゆさん、まゆさんは、ここで行かないボクを好きだと言えますか?」
「言えますよぉ。まゆは幸子ちゃんがどんなにダメになっても、構いません」
「そうでしょうね。少し前までは、ボクもそう思っていました。けど、それじゃあダメなんです。ボクはそんなボク自身を、絶対に好きにはなれない。————世界一カワイイだなんて、誇れない」
もしもそんな状態でまゆを好きになれたって、胸を張って告白することは幸子にはできない。だから行くのだと。その時に死んでいようが生きていようが構わない。誰かの告白に真正面から胸を張って報いることができないのなら、そんな輿水幸子は死んでいるのと何も変わらない。
「それでも、まゆは——————」
その先をまゆは言いきらなかった。
「……? まゆさん?」
まゆは答えない。答えないまま、胸ポケットに入れていたスマホを取り出し——そして、目を見開いた。それからまた元あった場所に戻して、
「…………すみません。幸子ちゃん。行ってもいいですよ」
と、これまでの自分の主張をすべて覆すようなことを口にした。
「本当に、いいんですか?」
「はい」
やけにあっさりしすぎている。罠か何かを疑うが、今はそれに構っていられる状況ではない。まゆの横を通り抜けて、ドアノブに手をかけた。まゆの邪魔はもう入らなかった。
「もう一つだけ、聞いてもいいですか」
「どうぞぉ。ですけど手短に」
「言われなくてもそのつもりです。さっきの、メールだと思ったんですけど……誰からだったんですか」
「…………」
まゆは少しためらって、それでもいつまでも幸子を留めておくことを申し訳なく感じたのか、一息で意を決して口を開いた。
「———美穂ちゃん、です」
「ああ、なるほど」
美穂がまだ生きていることよりも先に、幸子は自然とそう頷いていた。まゆと紗枝の二人は彼女にどうしてか逆らえない。けれど、けっして苦手なわけではなくて。おそらくはまゆにとって幸子とはまた違った意味で同じくらいに、美穂のことは特別なのだろう。
「(すこし、妬けますね)」
誰かにとっての特別。その言葉の意味に興味はある。けれどそれよりも今は、たまの休日に四人で集まって、たわいのない話をする土曜の昼下がり。そこにあった変わらなさの方が恋しい。
「ついでに助けてきます。必ず、また会いましょう」
「まゆは、約束なんてしませんよぉ。破られた時に、悲しくなるだけですから」
「大丈夫です。なぜなら————ボクは世界一カワイイので」
ドアノブを捻る。その背中が完全に見えなくなってしまう前に、まゆは幸子へ向けて言った。
「——————————————————ドッキリ、大成功」
「はい……!?」
その後、ドアの向こうで待っていた五分の四LIPPS&晶葉、そして仕掛け人の美穂と友紀、室内から出てきたまゆに、ついでに現場監督として見張っていたPの総勢九人から『サチコチャンカッコイイヤッター!』と言われまくるのだが。それはまた、別のお話。
「はあ、はあ…………。ちょっと、なんでうちだけ呼ばれてへんの? そのくせスマホだけはちゃっかり持てかれて。周子はん、プロデューサーはん。ちゃあんと、説明してくれはるんよねぇ?」
「や、それ持ち出したの友紀ちゃ、…………あ、はい。すみませんでしたーーー!」
駆け付けた紗枝はんにしばかれた周子とPの明日もまた、別の機会に。
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