はるのん√はまちがいだらけである。 (あおだるま)
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その1

 いい加減、ラノベを読むのも飽きてきた。

 

 窓の外で散る桜を眺め、俺はセンチメンタルな気持ちに浸る。あの桜の最後の一片が散るとき、私の命も散るの。16年、楽しい人生だった。お父様お母様、先立つ親不孝をお許しください。……ニートよりまし?うるせえ殺すぞクソ親父。

 

 脳内で親父をタコ殴りにし、脚と手のギプスを眺めて俺はため息を吐く。このナリだとそんなこともできるわけがないが。

 

 高校入学初日の朝。俺こと比企谷八幡は、テンションが上がり過ぎて予定よりはるかに早く登校し、黒塗りの高級車に轢かれてしまう。犬をかばい全ての責任を負った俺に対し、車の主、暴力団が提示した条件は――などということは無く。

 散歩中に飼い主の手を離れた犬をかばい、普通に黒塗りの高級車に轢かれ、絶賛入院中だ。右手首捻挫、左足骨折で全治約一カ月。俺の灰色の高校生活が確定した瞬間である。……あ、三年間フルで登校した中学校でも友達いなかったね!六年間あったはずの小学校時代のことはもはや覚えてすらいない。マジで六年も何してたんだろうな。比企谷菌は小学生の秘技「バリアー」も貫通するという記憶(トラウマ)だけは覚えている。比企谷菌強すぎワロタ。

 

 と、こんなくだらないことを考えて一週間経った。存外、何もしない日々と言うのは辛い。家でニートごっこをするのは好きだが、それは自由があるからだ。ここでは食事も就寝時間も病院にコントロールされている。おかげですこぶる健康的にはなってはいるが、精神衛生上はもちろん良くない。深夜アニメも見れないし、ゲームのイベント時間には起きていないこともあるし、年頃の男の子として、色々発散することもできない。気が触れそうである。

 

 もちろん妹や親も来るには来るが、時は新年度が始まったばかりだ。そうそう来れるはずもない。妹、小町が届けてくれた見舞いの花も早くも萎びかけている。やべ、水やらないと小町に怒られる。怪我人が見舞い品の面倒をびくびくしながら見なきゃいけないの、おかしくない?

 

 事故になった車の運転手、その関係者もどうやら来ていたらしい。運転手はこちらが逆に申し訳なくなるほど、こんなクソガキにひたすら頭を下げた。雇い主の意向だろうが、本当に働くというのは大変である。

 その運転手の雇い主の女性は、直接俺の親の元に来て、半ば強引に過剰な見舞金を押し付けていったらしい。俺のところには来ていない。その姿に母親と小町は少なからず憤慨していた。しかし、父親がその見舞金から入院費を差っ引いたものを俺に無言で寄越したことで、俺個人としては思う所はない。

 

 そもそも犬が飛び出したことはあの状況では、百パーセント犬の占有者の女性の過失だ。運転手に非などありはしない。それを助けようと飛び出した俺のケガとて、本来運転手の責任の問われるところではないのだ。青信号の車の前に飛び出したのは俺だ。むしろ、高級車の修理費を求められるのではないかとビクビクしていたほどだ。

 

 俺は入学の時期が一カ月延び、その対価として金とニートタイムを得る。問題はそうして終わった。

 

 しかし先に言ったように、流石に俺以外誰もいない病室は退屈する。事故を起こした車の持ち主の意向で、俺は個室を用意されている。一カ月の個室の料金など俺には想像もできないが、安くはあるまい。それすら含めて俺の手元には高校生には似つかわしくない大金が残っているのだから、大したものである。人は人の上に人を作ったのではない。人の上に金を作ったのだ。諭吉さま万歳。

 

 人の世の世知辛さにため息を吐き、何度読んだかわからないラノベを開く。よくある学園ハーレムものだ。こんな学校生活どこにもないし、どこまでも偽物だ。俺は知っている。

しかし、つい手が伸びてしまうのはなぜだろう。俺の中にもいまだそんな空想への憧れがあるのだろうか。

 多分違う。よくあるからこそ、どこにでもあるお約束だからこそ、俺はそれを求めている。一カ月遅れで登校する俺に待つのは、いつもと同じぼっち生活だろう。それから逃げ、充実した高校生活を夢想することで、現実から逃避しているだけだ。

 だからラノベは大概が学園を舞台にしたものばかりなのだろう、と俺は愚考する。皆既に失ったそれに、もしくは今の自分の学園生活とは程遠いそれに逃避し、夢想しているだけなのだ。主人公に自分を置換し、悦に入っている。そう考えると一見煌びやかに見える学園ラブコメが、なんとも皮肉を帯びたものに見えてくる。

 

 思考を止め、俺は本を閉じる。駄目だ。狭い病室に気持ちの行き場も失い、煮詰まっている。こんな気持ちで読書をしても良いことなど一つもない。

 

 そしてふと、本から視線を上げた。夕焼けに満たされた病室。そこには。

 

 頬杖をついた黒髪の女性が座っていた。

 

 肩まで伸びた髪は陽の光を反射し、艶やかに輝く。白のロングスカートから覗く脚はしなやかで細い。白いシャツに黒いカーディガンを羽織っているが、その豊満な双丘はその上からでも十分に感じることができ、思わず目を逸らす。

 全体として大人しく、楚々とした印象を感じる服装。しかし、その深く暗い瞳と、柔らかく形を歪める唇だけがひどく蠱惑的で、アンバランスだった。率直に言ってしまえば、俺は見とれていたのだ。そう。

 

 気味が悪いほど、その人は美しかった。

 

「や。こんにちは。ケガの方はどう?全治一か月って聞いたけど。新年度で入学したばかりなのに大変だよね。お姉さんで良ければ相談に乗るから、何でも言ってね?」

 

 しかしその人から出てきた言葉は薄く、軽かった。機関銃のようにまくし立て、その豊かな胸を強調するように俺に前かがみになる。俺は彼女から目を逸らす。

 

 可愛くて、綺麗で、明るい。おまけに胸もでかい。男の理想のような女性だ。

 

 でも、目が笑っていない。本心が全く見えない。わからない。見とれてはいたが、本能が訴える。

 

 俺はこの人が、怖い。

 

「いえ、結構です。お気持ちありがとうございます。でも全部間に合ってるんで。お引き取りください」

「……え?」

 

 とっさに俺はそう口走る。短く拒絶されたその女性は呆けたように一言発し、押し黙る。しまった、露骨過ぎた。

 

 でも、俺のぼっちセンサーと親父に鍛えられた美人局センサーがビンビンに反応している。

 この人には、関わってはいけない。

 

「あのー、お姉さんそこまであからさまに拒絶されたことないんだけどな。傷ついちゃうよ?普通こんなかわいくて明るいお姉さんをそんな無碍にするかな……」

「口の端で笑ってるの隠しきれてないですけど」

 

 俺が指摘すると、彼女はばっと口を押さえてまじまじと俺を見る。

 

「ふーん。わかるんだ、君」

「多分、誰でもわかると思います」

 

 その顔を見て、わざとらしく見開かれる目を見て、やはり俺は思った。この人は、気持ち悪い。

 今のは驚くフリ、素を見破られたと焦るフリ、だろうか。多分、演じることが日常になっているのだ。それくらい彼女のすべては自然で、不自然だった。

 

「じゃ、もう一つ。私が誰かわかる?」

「ここに入ってこれたってことは、事故を起こした車側の人でしょう。でももうその問題は解決しているので、あなたがここにいる必要はないですよ。重ねて、お引き取りを」

「あはは。まあそう邪険にしないでよ。でも、そうとは限らないんじゃない?君を見舞いに来た友達の付き添い、とかだってあるでしょう?」

「ありえませんね」

「なぜ?」

 

 答えは簡単だ。見た目は子供、頭脳は大人の少年に頼る必要すらない。

 

「俺には、一人も友達がいませんから」

「なるほど、論理的だ」

 

 彼女は俺の言葉に感心したように頷く。その笑みは先ほどよりも幾分柔らかく感じる。ぼっちがそんなに珍しいか?まあ見るからにリア充だし、そんなものなのかもしれない。ぼっち自虐もすかされては俺になすすべはない。畜生。彼女は質問を重ねる。

 

「して、君は何をもって友人を定義するのかな?」

「こいつになら騙されてもいいと思った奴、ですかね」

 

 また彼女は呆ける。しまった、ぼっち論議に火がついてしまった。ぼっちは友人の定義にはうるさい。なぜならば、友達がいないことを定義のせいにできるから。

 彼女は俺の返答にカラカラと笑う。

 

「なるほど、それじゃ友達なんかできっこないや」

「ほっといてください」

 

 何が面白いのか彼女はひとしきり笑うと、俺の方に向き直り、気安く笑う。

 

「で、どう?私は君のお眼鏡にかなわないかな?」

「……なんの?」

「わかってるでしょう。友達の、だよ」

 

 彼女の暗く深い瞳を極力見ないようにし、俺は横を向く。

 

「騙されたことすら気づかなさそうなんで、無理です。僭越ながらお断りします。知らぬ間にあなたの保証人にはなりたくない」

「あちゃー、フラれちゃったか。でも君も大概歪んでるね、うん」

 

 彼女は俺の言葉に傷ついた様子もなく、言ってのける。

 

「その臆病でなにも寄せ付けない感じ。猫みたいで可愛いね」

 

 その笑みを見て、また背筋が寒くなる。

 

 俺の勘はやはり当たるのだ。主に悪い方面においてのみ。

 

「ま、そう怯えないで。お姉さんの暇つぶしに付き合ってよ。どうせ君も暇なんでしょう?」

「読まなきゃいけないラノベがあります」

「さっき一ページ開いただけで閉じたじゃん」

 

 そこまで見ていたのか。俺が苦々し気な表情を作ると、彼女はひらひらと手を振る。

 

「別にいいでしょ、お話くらいさ。私、華の大学一年生だから。とにかく暇なの」

「大学生とは、社会の癌である」

「誰の言葉?」

「駅前の酔っ払い大学生を見たときの俺の感想です」

「あはは。あながち、ってか全く間違ってないね、それ。うん。素直な子は好きだよ」

 

 よいしょ。彼女は掛け声を一つ、椅子に深く座りなおす。しまった。今のでここにいることを容認してしまったような空気を作られた。どれもこれも大学生が悪い。

 

 夕焼けの病室に、スリリングな会話劇が始まった。

 

「君、この春から総武なんでしょう?」

「ええ、そうです。今はこのざまですが」

「あはは、災難な高校生活のスタートだね」

「別に。どうせ十全なスタートなんて俺に切れるはずがないことは、分かってます」

「だから運転手も同乗者も犬の飼い主も、恨まない?」

「金は十分貰ってるし、自由な時間も貰ってる。そもそも運転手の過失ですらない。これ以上求めるものなんてないですよ」

「ふーん、そっか。じゃあ」

 

 彼女は窓の外でうるさく鳴くカラスを疎むように見て、言う。

 

「その車に乗ってた子が、今、君の通う学校で楽しく学校生活を営んでたとして。君の所に見舞いにすら来なくても、なんとも思わない?君は、それでもそう思える?」

「……少しくどいですよ。さっき言ったように問題は終わってるし、来られても話すことがない。それに」

 

 いい加減、俺は腹が立っていた。いや。腹が立ったふりをしてまで、早くこの人から、この得体の知れない『生き物』から遠ざかりたかったのかもしれない。

 

「ケガしてる身です。疲れてるし、しんどい。いまさら関係者に見舞いに来られる方が、百倍迷惑です」

 

 だからつい、言ってしまった。自分で言っておいて、俺は彼女を見ることができない。

 

 こんな時に女がとる行動は二つ。愛想笑いで誤魔化して退出してから友達に愚痴るか、直接俺にキレて部屋から出ていくか。さて、彼女はどっちだろう。恐らく前者ではあるだろうが。

 

 だが、俺はまだこの人を甘く見ていたのだ。

 

 彼女はまたその大きな瞳をこぼれんばかりに見開き。

 

 そして。

 

「ぷ」

 

 ぷ?

 

「く、くくっ……あーはっはっは!」

 

 大口をあけ、ただ笑った。

 

 その笑みは、さっきまでの蠱惑的で、綺麗で完璧なそれとは程遠い。

 

「君、ほんとバカだね!最初からそうだけど、こんなかわいいお姉さんが来てくれてるってのにそんなこと言うかな、普通」

 

 あっはっは。いっひっひ。下品に笑い机をバンバンと叩きながら、彼女は目じりに涙すら浮かばせる。その姿に、思わず肩の力が抜けた。

 

「あいにく普通じゃないんですよ。あなたと同じで」

「言うね。……そっだね。普通なんてつまらないもの」

 

 彼女はまだ笑いながら、問う。

 

「君、名前は?」

「表の札見ませんでした?比企谷ですよ」

「違う違う、それは知ってるよ。下の名前だよ、下の」

 

 一瞬逡巡し、観念する。彼女が当事者の関係者なら、どうせそんなものすぐにわかる。

 

「比企谷、八幡」

「八幡?変わった名前だね。由来は?」

「……8月8日生まれだから」 

「ぷ……き、君らしいね」

「ほっといてください」

 

 肩をプルプルと震わせる彼女からプイと顔を逸らし、口をとがらせる。大体、名前なんてそんなもんでいいのだ。三月に生まれたからやよい。五月に生まれたからさつき。八月に生まれたからはづき。

 

「名前に大層な意味を持たされても、子供にとっては重荷にしかならないでしょう。記号でいいんですよ、そんなもん。しがらみの多い世の中、そんなものに縛られてる暇なんてない」

「へぇ。やっぱり面白いね、君」

 

 彼女はその黒髪をかき上げる。それもまた演技臭く、どこまでも俺を掌で転がしていると思っているのだろう、この人は。そう思うとまた腹が立った。

 

 意趣返しではないが、俺は問い返す。

 

「そう言うあなたは?」

「私?ハルノ。雪ノ下ハルノ」

「春に生まれたから、春乃ですか?」

「違う違う、お日様の方だよ。私7月7日生まれなの。太陽の陽で、陽乃」

「あんたも大概そのままじゃねえか」

「あはは、そうだね。でも」

 

 雪ノ下陽乃は俺の目をまっすぐにのぞき込む。

 

 その瞳は深く、暗く、どこまでも見通されているような、観察されているような。俺は底まで人の目を深く見る人間に、会ったことがなかった。

 

 やはり、この人は怖い。俺は直感的にそう思った。

 

 彼女はそんな俺を一瞥しクスリと笑い、くしゃくしゃと頭を撫でる。

 

「とびっきり明るいお姉さんに、ピッタリの名前でしょう!」

 

 ぶるり。もはや桜も散るほど暖かいのに、思わず身震いする。

 

「あはははは。そーですね」

 

 俺の空笑いと共に、桜が一片散る。

 

 それが何よりも気味の悪い雪ノ下陽乃と、俺の出会いだった。

 



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その2

 

「時に、比企谷君」

「今の時間は17時45分を回ったところです。そろそろお引き取りを」

「時間は聞いてないよ。導入とか話題転換『時に』ね。わかってるくせにぃ」

 

 ベッド脇の椅子に腰掛ける雪ノ下さんは、俺の額を人差し指で軽く押す。

 

 そして続く言葉に、のっけから頭が痛くなる。

 

「私に彼氏いないって、そんなに変かな?」

「はい?」

 

 またわけのわからなことを言いだした。俺は読みかけのラノベとやりかけのスマホゲーに目を落としながら、戯言を聞き流す。

 

「いや私大学生で、成人前のピチピチの女子でしょう?当然私には比企谷君とは違って、男女の友達がたくさんいるんだけどさ」

「ええ、ええ、ぼっちで悪うござんした。そんな相談されても役に立たないと思うんで、さっさと出てってくれませんかね」

「もう、ほんと可愛くないんだから。まあそんな君だから聞くんだけどさ、そんなにおかしいかな。私に彼氏がいないって」

 

 雪ノ下陽乃は、さも不思議そうに首をひねる。

 

「大学入ったばっかで、皆そのことばっか聞くからさ。いい加減鬱陶しくて」

 

 その無邪気な笑みに。無邪気を装ったわざとらしい笑いに、俺は苦笑いで返すことしかできない。そうお前に質問する人間の気持ちなんざわかってるくせに。この女、まあいけしゃあしゃあと。その挑発的な笑みに、思わず振り上げかける拳を抑え、鬱憤をため息とともに吐き出す。

 

 雪ノ下陽乃が俺の病室に顔を出し、一週間が経った。

 

 この一週間、どうやら彼女は俺を玩具とすることを決めたらしい。毎日のようにここに現れ、今のようにくだらない話をして俺の反応を見ていた。まったく、何が楽しいのか。上流階級の遊びは俺には理解できない。何が彼女の琴線に触れたかはわからないが、初対面で交わしたあの会話のどこかで、彼女の興を買ってしまったのだろう。

 

 しかし俺とて、意思がないわけではない。こう見えても立派に人権を持つ一人の人間である。

 

 よって最初の二、三日はその傍若無人ぶりに文句を言い、彼女が病室から退出するように冷たい言葉を選び接したつもりだった。しかし彼女はそれにこたえるどころか、全てをその女神のような微笑みで受け流すのみだ。

 

 はぁ。ため息の一つや二つや三つは出て然るべきだろう。

 

「あ~、ほんと失礼だね、君。こんなに綺麗なお姉さんが話しかけてあげてるっていうのに、そういう反応するんだ」

「一度も俺から頼んだ覚えはありませんけどね。……つーか、大学生ってやっぱ暇なんですね」

「なんでそう思うの?」

「毎日毎日、こんな所でくだらないことで管巻いてるのは、暇としか言いようがないでしょうが」

「その言い分はさすがに酷いよ?比企谷君」

 

 ぶー。彼女はリスのように頬を膨らませ、顔を逸らす。その視線は力無く俺の手元に落ちる。

 

「私だって毎日ここ来るために、結構無理してるんだけどな……」

 

 不覚にもキュンとしてしまった自分を、三秒で殴り飛ばす。

 

 騙されるな巻き込まれるな懐柔されるな。この女は得体が知れない。初対面の俺の勘は、恐らく間違っていない。時々『アメ』を混ぜて俺を骨抜きにしようとしているだけだ。もう骨折してるけど。

 

「別に彼氏でも何でも好きに作ればいいでしょう。あんたならよりどりみどりじゃないですか」

「えー、そんなことないよー。ていうか、比企谷君はなんでそう思うの?私がすぐ彼氏できるって」

「なんでって、そりゃ……」

「うん?」

 

 彼女は小首をコテンと傾げ、不思議そうに俺を見る。

 

 ぐ。

 

 騙されるなと自らを戒めたばかりだというのに、その深い瞳に、あどけない仕草に、つい揺らぎそうになる。

 

 だがやはり。俺は安心する。

 

 彼女は口元の笑みを、またもや隠しきれていない。

 

「ぼっち力53万の俺を手玉に取ってるんです。その辺の男を手玉に取ることなんざ、お茶の子さいさいでしょう」

「ぷ、くく……お、お茶の子さいさいって、それ流石に死語じゃない?君の同級生には伝わらないんじゃないかな、それ」

「同級生にも下級生にも友人はいないんで、やっぱり問題ないですね」

「なるほど、道理だ」

 

 彼女はいつかのように満足げにうなずき、ニヤニヤと俺を見る。

 

「やっぱり君、面白いよ。で、どう?私が彼氏の有無を尋ねられることについての感想は?」

「別に。リア充として生きるなら、そのくらいリスクの一つとして入れとくべきでしょう」

「……君、前から思ってたけど、『リア充』なる人種に親でも殺されたの?」

「まさか。そもそも俺の両親が『リア充』じゃなきゃ、俺はここにはいませんし」

「ぷ……そういうこと言ってるわけじゃないんだけど」

 

 くすくす。彼女は口元で笑いをかみ殺し、俺を見据える。

 

「つまり、君は言いたいわけだ。私の生き方をするなら、そういう面倒事もリスクの一つだ、と」

「まあ、概ねそうですね」

「それは具体的に、どんなところが?なんで私はそんな質問をされるのかな?」

 

 今度こそ彼女は俺の言うことの意味がよくわからなかったのか、首をひねるのみだ。俺はため息とともに机の前の鏡を顎で示し、彼女はそちらを見る。

 

「鏡見ればわかるでしょう、そのくらい」

「?どゆこと?」

 

 しかし、彼女はまだわざとらしく、あどけなく、俺に問う。は、よく言う、とうにわかっているくせに。

 俺は内心で毒づきながら、いよいよ腹が立ってきた。いつもと同じだ。彼女のただの遊びなのは分かっている。俺の反応をからかって、楽しんでいるだけだ。

 しかし俺にとっては、ラノベを読む時間が奪われ、ゲームをする時間が奪われる。それも不当に。なぜ俺がこんな理不尽な目に遭わなければならないのだ。

 

 だから、つい口に出してしまう。

 

「あんたほど可愛い人、そんなにいないでしょ。男だったら誰だって見とれるんじゃないですか」

「……へ?」

 

 あ。

 

 言ってから思う。しまった、と。

 

 二人きりの病室に、気まずい沈黙が流れる。

 

 俺と彼女の間にはこの一週間で、ある種の信頼関係が生まれていた、ように俺は思う。

彼女は俺で暇をつぶし、俺は彼女で暇をつぶす。俺にとっての彼女は、彼女にとっての俺は、暇をつぶし、言葉遊びに興じ、上辺だけの駆け引きを楽しむのに『丁度良い』相手だったのだ。互恵関係、と言っては大げさだろうか。

 

 また、あることを俺は知っている。たった一週間で、知った気になっている。その上辺に纏ったリア充の皮は、彼女の本質ではない。そしてその下にあるように見える『本性のようなもの』ですら、恐らく彼女が作り上げた上辺の一つだろう。

 

 だから、俺は想像していなかったのだ。

 

「ちょ、き、君、何言ってくれてんの。玩具のくせに、生意気なっ――」

 

 微かに、ほんの微かに、その頬に朱色が差した。

 

 違う。間違っている。

 

「私、君の前で『綺麗』でも、『可愛い』とこ見せた覚えないんだけど……」

 

 雪ノ下陽乃が可愛く見えるのは、どう考えてもまちがっている。

 



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その3

「あー、暇」

「……」

 

 どこかでチャイムが鳴った。雪ノ下さんは頬杖をつき、窓の外を眺める。俺もちらりとそちらを見ると、中学生がわらわらと下校している。

 

「暇ー。暇暇、あー、ひまだなー」

「……」

 

 彼女は窓の外に向けた視線をこちらに向け、まだわざとらしく呟く。うざい仕草にため息が出かけるが、本を顔の位置まで上げて視線をガードする。

 

 病室に沈黙が降りることしばし。すると、

 

 にゅ。

 

 雪ノ下さんの顔が、俺と本の間にあった。出かけた悲鳴を必死に抑える。長いまつげ、整った眉、驚くほどキメの細かい肌、艶やかな唇。

 

「暇暇暇暇暇暇暇暇暇暇暇暇暇暇……」

 

 しかしそんな完璧な造形も、無表情で念仏のようにそんなことを唱えられれば、恐怖しか感じない。仕方なく読みさしの本から顔を上げる。

 

「……はぁ。なんですか」

「お、やっとこっち向いたね、比企谷君。なんだかんだ言って最後は相手してくれるの優しいねぇ。お姉さん嬉しい」

 

 にこぱーっと、雪ノ下さんはわざとらしく花のような笑顔を咲かせ、ウリウリと俺の頬を人差し指でつっつく。うぜえ。しかも嘘くせえ。顔を振ってその指を振り払う。

 

「暇なら大学にでも行ったらどうです。こんなとこにいるよりましでしょう」

「むー、つれないこと言うなぁ。だから、こうやって大学の帰りに寄ってるじゃない」

「講義が終わった後も、付き合いとかあるんじゃないですか?知らんけど」

「そんなの毎日毎日やってたら、ここにいるより100倍退屈で死ぬ。お姉さん、退屈だと死んじゃう生き物なの」

「あんた毎日のように来てるでしょうが……」

 

 あほなことをのたまう彼女に、また深いため息を吐く。

 

 

 

 雪ノ下さんの初めての来訪から、二週間。

 彼女は決まって夕方から面会時間ギリギリに来る。よって学校にも行っているのだろうし付き合いもあるのだろうが、まだ彼女の行動は不可解だ。なにが彼女の興味を引いたのか、やはりよくわからない。

 

 しかし、三つほどわかったこともある。

 

「ほらほらぁ、そんな嫌っそうな顔していいのかな?こーんな綺麗なお姉さんが見舞いに来てくれることなんてないんだぞー?」

 

 1.うざい。俺の髪をくしゃくしゃと撫でまわす彼女を無視し、本に視線を落とす。

 

「ぶー、無視してれば飽きるとでも思ってる?ところがお姉さん、反応ないと余計弄りたくなっちゃうんだよね」

 

 2.とてもうざい。今度はアホ毛をみょんみょんと引っ張り出した。痛い。痛いから。

 

「む、これでも反応なしか。もーかくなるうえは……えいっ!」

 

 意図して反応しないようにしていると、突然捻挫していない左腕に柔らかい感触を感じる。

 横目で見ると、彼女は薄ら笑いを浮かべ、俺の腕に腕を絡めていた。

 

「あは、ようやくこっち向いた。どう?ぼっちの比企谷君にはちょっと刺激が強かったかな?ドキッとした?ね?ね?ね?」

「3.ただひたすら、うざい」

「おーい?思ってること声に出てるぞー?」

 

 気づけば心の声は音になっていたらしい。ニッコリと笑う雪ノ下さんは、絡めた腕をそのままギリギリと捻り上げる。ちょ、ギブギブギブ!まじでやばいから!え、何この人、こんなきれいな顔してゴリラの子供かなにかなの?めっちゃ痛いんですけど。

 

 声を出せないほどに悶絶する俺。笑顔で腕を捻りあげる美女。地獄の空間である。

 

 しかし救世主は現れた。

 

「おっにいちゃーーーーん!小町が久しぶりに見舞いに来てやったぞー!頼まれてた本とか、も……」

 

 その瞬間、病室の時間が止まった。

 

 来訪者は我が愛しの妹、小町だった。彼女は瞠目し、俺と雪ノ下さんを凝視したままだ。完全にフリーズしている。雪ノ下さんは何が面白いのかニヤニヤと俺と小町を見比べる。

 

「ねえねえ、あの子ひょっとして比企谷君の妹ちゃん?」

「ひょっとしても何も、妹じゃない女の子に『おにいちゃん』と呼ばせるような趣味、俺にあるように見えますか?」

 

 雪ノ下さんは俺をまじまじと見つめた後、断言する。

 

「うん、めっちゃ見える」

「表に出ろ」

 

 俺の視線をひらひらと手を振って受け流し、彼女は椅子から腰を浮かす。向かう先は先ほどからフリーズしたままの小町のもとだ。目の前まで歩き、小町の前で手を振り、軽くおーいと呼びかけるが、まだ小町は覚醒しない。

 

「あはは、比企谷君、この子面白いよ。本当に魂どっかに飛んでっちゃった」

「飛んでっちゃった、じゃないですよ。なにしてくれてるんですか俺の可愛い可愛い妹に。何かあったら許さない。許さないからな。絶対に」

「え、もしかして比企谷君、シスコン?」

「それが何か?」

「ちょっとは隠そうとしようよ……」

 

 即座に返す俺に雪ノ下さんは珍しく苦笑いを浮かべる。何か、初めて彼女をやり込めた気がした。重度のシスコンという事実にただ引いているだけとも言える。ほっとけ。

 

「ま、このままじゃ私も困るしね。比企谷君の妹とお話してみたいし――」

 

 彼女は小町の前で両手を合わせる。

 

 パチン

 

 猫だましの高く乾いた音が病室に響き、小町の目に焦点が戻る。目の前の雪ノ下さんからオロオロと視線を外し、縋るように俺を見る。

 

「あ、あれ?お、おお、お兄ちゃん?確か、弱ったお兄ちゃんがすっごい綺麗な人に絵とか壺とか買わされそうになってて、小町はそれを助けようと――」

「いや、記憶歪めるにも程があるだろ。ただの知り合い、つーか、『車側』の関係者だとよ」

「へ、へー。そういえば、お金置いてったあの凄い綺麗な女の人に、ちょっと似てるかも」

「あー、それ多分私の母だねー」

 

 チラリ。上目遣いで雪ノ下さんを見る小町の目を、雪ノ下さんは屈んでのぞき込む。

 ひっ。一瞬の悲鳴と共に小町は後ずさるが、咳払いとともに頭を下げる。

 

「こんにちは!小町はお兄ちゃんの妹の、比企谷小町って言います。わざわざこの愚兄のためにご足労頂き、ありがとーございます!」

 

 ぺこぺことさながら営業サラリーマンのように頭を下げる小町に、雪ノ下さんは目を瞬かせる。

 

「ひ、比企谷君。この子、急に元気になったけど」

「多分、さっきは本当に状況が飲みこめなかったんでしょう。女性と俺が一緒に居るところが信じられなかったのかもしれません。本来はこういう、しっかりした自慢の妹です」

「比企谷君、どんだけぼっちなのよ。やっぱりシスコンだし」

 

 雪ノ下さんは呆れたようにため息を吐く。しかし困惑を見せたのも束の間、相変わらず飛び切りの笑顔を浮かべる。

 

「こちらこそこんにちは、小町ちゃん。ご丁寧にありがとね。お姉さんは、雪ノ下陽乃っていいます。挨拶遅れちゃってごめんね。大体毎日ここには来てるんだけど、タイミング悪かったかな。はじめまして」

「あー、小町も新年度で忙しくて、あんまり来れてなくってですね――って、毎日!?ま、ま、ま、毎日って、毎日ってことですか!?」

「うん、どう考えてもそうだよね」

 

 小町は雪ノ下さんの肩から顔を覗かせ、あわあわと俺に言う。

 

「や、やばいよお兄ちゃん!こんなきれいなお姉さんがお義姉ちゃんになるとか、小町的にポイント激高だよ!熱々だよ!……はっ!?ちょっとお兄ちゃん、陽乃さんにお茶も出してないの!?」

「いやお茶って言われても、俺怪我人ですし……」

「もう!ごみいちゃんがこんな綺麗な人に見初められるなんて、奇跡でしかないんだよ!?ちゃんとわかってる?怪我なんてしてる場合じゃないよ!」

「わかんない。お兄ちゃん、小町が何言っているかわかんない」

 

 見初められるて。小町、そんな古風な表現もできたのね。心中で妹の成長を喜び、謎のテンションの高さを煙たがっていると、横から忍び笑いが聞こえる。

 

「く、くくっ……お、お兄ちゃん。妹ちゃんと仲いいんだね」

「あんたのお兄ちゃんになった覚えはない」

「そうですよ!陽乃さんは小町の未来のお義姉ちゃんなんですから!」

「……あのな、小町。流石に失礼だぞ。初対面の人に――」

 

 暴走を続ける小町にいい加減小言を挟もうとすると、雪ノ下さんがニヤニヤと遮る。

 

「失礼、ねぇ。そういえば初対面の私に、開口一番『お引き取りを』って連呼した人もいたよねー、比企谷君」

「なっ、お兄ちゃん!陽乃さんにそんなこと言ったの?」

「小町。お前は初対面の胡散臭い女と14年連れ添った兄の言うこと、どちらを信用するんだ?」

「陽乃さん」

「小町なんて嫌いだ」

 

 グスグス。わざとらしく泣きまねをし、俺は布団にくるまる。が、その外からは雪ノ下さんと小町の非常に楽しそうな声しか聞こえてこず、俺を気にする様子はまったく、これっぽっちも、ミジンコほどもない。大事なことだから三回強調してみました。あ、やばい。ほんとに泣きそう。

 

「へぇー、陽乃さんって大学生なんですねー。それにしては大人っぽい……って、あっ!そういえば!」

 

 俺抜きで非常に楽しそうに盛り上がる小町は、何かに気づいたのか突然声をあげる。

 

「結局お茶もお出しせず、立ち話でごめんなさい!ただいまお持ちしますので!」

「いいよ小町ちゃん。きょうだい水入らずになるところを、お邪魔しちゃってるのは私の方だし。そろそろお暇させてもらうよ」

 

 離席しようと扉に向かおうとする雪ノ下さんを、小町が椅子に押し込む。

 

「いえいえいえいえいえ、大丈夫ですから!もうちょっとゆっくり大学のこととかお兄ちゃんとのこと、聞かせてください!……では、小町お茶買ってきまーーす!」

 

 ぴゅー。なぜか小町は慌てふためき、恐らく自販機へ去っていった。残される俺たち二人。

 

「ぷ……くくっ……とっても可愛い妹さんじゃない。比企谷君がシスコンになるのもわかるわ」

「でしょう?」

「うん。比企谷君に全然似ずに、素直でかわいい」

「でしょう?本当に俺に似なくてよかった」

「それ、君が言っちゃうのはどうなの」

 

 クスクスクス。彼女は愉快そうに笑う。だって、本当だもの。小町が俺に似ず、はつらつ超絶美少女に育ってくれてよかった。もし小町がお嫁にいこうもんなら相手を殺す自信がある。娘はやらん!と言う父はいても、妹はやらん!って言う兄、ドラマでもあんま見たことねえな。

 

「でも」

 

 くだらないことを考えていると、陽乃さんは小町の去った扉を見て、つぶやく。

 

「仲が良さそうで羨ましいよ……本当に」

 

 一瞬映る横顔。伏せられた目は、今までに見たことがないほど儚く、頼りない。

 

 本当は、気づいていた。彼女は俺が小町と話しているときも、こんな顔をしていた。俺はらしくないそれを見てはいけない気がして、見ない振りをした。

 

「あんな可愛い妹なら、誰だって自慢しちゃうよね!」

 

 病室に寒々しく明るい声が弾ける。

 

 彼女とバカな会話をして、暇を持て余して、二週間。俺は思い直す。やはり俺はまだ、雪ノ下陽乃のことなど何も知らないのだ。

 

 その似合わない空笑いを見て、ケガをしてもいないどこかが痛んだ。

 



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その4

 

「ほい、雪ノ下さん」

「お、ありがと。パシリご苦労さま……って、比企谷君」

 

 俺が右手で投げ渡した缶を彼女は両手で受け取り、眉根を寄せる。

 

「これ、くっそ甘いコーヒーじゃない」

「違います。くっそ甘い練乳飲料です」

「より酷くなってるんだけど」

 

 雪ノ下さんは俺をジト目で見て、いかにも憤慨する。

 

「じゃんけんで負けたのは比企谷君だよー。はいやり直し。他の無糖コーヒー買ってきて」

「怪我人をそんなに働かせるな」

「もう治ってるくせに……」

 

 俺は雪ノ下さんの文句を無視し、ベッドに腰掛ける。雪ノ下さんはため息を吐き、決心をしたように手にもったマックスコーヒーをグイと飲む。その表情は俺のように恍惚なもの――でなく、なぜか苦汁に歪むものに変わる。甘いのに。

 

 けっ、これだから格好つけたがりの大学生は。ブラックコーヒーより甘々のコーヒー牛乳の方がうまいに決まっとろーが。先人も言っている。人間の体は、甘いものをうまく感じるようにできている、と。至言である。苦味とか辛みを好む輩は、全く動物として正しくない。

 

 そんなことを彼女に話すと、雪ノ下さんはまた苦い顔をする。

 

「君の弁は否定しない。辛さってつまり痛みだし、苦味は毒として認識してるからね、動物は。赤ちゃんとか子供の味覚は、動物として正しいんでしょう」

 

 ズイ。彼女は人一人分俺に顔を近づけ、珍しく真面目な顔をし、人差し指を立てる。

 

「でも、私は人間なの。人間として、こんな動物的な甘みは許すわけにはいかないの。コーヒーは渋くあるべきなの。甘いものはチョコとか砂糖菓子とか、他で取ればいいでしょう」

「じゃあコーヒーも甘かったら最強じゃないですか」

「君、マックスコーヒー絡んでから偏差値20くらい落ちたけど、大丈夫?」

 

 呆れかえる雪ノ下さんをよそに、俺は一人静かに彼女の言葉選びに感動する。

 

 動物的な甘み。今日の名言リストに入れておこう。マッ缶にふさわしい形容だ。

 

 

 

 雪ノ下陽乃がここに来て、三週間が経った。

 

 この一週間も、彼女は飽きもせず俺の病室に来て、くだらない話をした。そんな彼女との会話の多くは面白く、刺激的だった。……どうやらコーヒーの趣味では相いれないらしいが。

 

 病室はいつもより少し暗い。時刻を見ると、午後七時。窓の外を眺めると、仕事帰りの車が行き来し、ライトが道路を明るく照らしている。あの中に俺の親の姿もあるのだろうか。いや、無い。彼らが帰宅するのは恐らくあと5時間以上後だろう。ああ、お疲れさま。マジで働きたくねえ。俺が専業主夫を志望するのは、8割社畜の両親の影響でもある。働けば働くほど息子が働きたくなくなるとは、これいかに。

 

「で、比企谷君」

 

 コトリ。彼女はマックスコーヒーを机に置き、俺に微笑む。それ、お残しは許しまへんで。

 

「おめでとう。とうとう明日退院だね」

「ええ、おかげさまで」

 

 そう。一カ月で完治の予定の俺の右手左脚の捻挫と骨折は、医者の見立て通り見事完治し、明日退院する。

 

 つまり今日でこの時間も終わる。

 

 雪ノ下さんは手をぶんぶんと振る。

 

「そんな。私は何もしてないよ」

「ええ、本当に。俺の睡眠の邪魔はしてましたけど」

 

 肯定を重ねる俺を、今度は彼女は目を細くして睨む。

 

「ねえ。もしかして喧嘩売ってる?君の快復を労う綺麗なお姉さんに」

「まさか。冗談ですよ、ありがとうございます」

 

 ペコリ。俺は素直に彼女に頭を下げる。断じてその冷たい視線が怖かったからとか、そう言うわけではない。決して。絶対に。

 

「ま、いいや。でも比企谷君。一か月分の勉強とかは大丈夫なの?」

「まあ、一応。学校の範囲分は独学で進めてますし、元々俺は理系捨ててますから。労力は半分です」

 

 雪ノ下さんは俺の言葉に瞠目する。

 

「へー。総武って一年の時はほとんど国公立志望だったと思うけど、比企谷君はもう進路決めてるんだ」

「まあ。そんな大層なもんじゃないですけど。数学が壊滅的で、たまたま社会系ができるってだけですよ」

「?君国語も得意そうだけど」

「まあ、得意には得意ですし、社会よりいい点とることの方が多いんですが……」

 

 雪ノ下さんの返答に、今度は俺が詰まる。弱点をさらすようで、心もとない。

 

「あー、わかった。現代文、それも小説でたまーに壊滅する、ってとこかな?」

「……ええ、まあ」

 

 だから嫌だったのだ。ニヤニヤと俺を見る彼女とは対照的に、俺は渋面を作る。俺の国語の成績は学年トップだ。古文も漢文も得意だし、論説や随筆を読んで問題を解くことも得意だ。点数も安定している。

 その中で、小説だけがそうもいかない。前者以上に満点を取ることの方が多いが、ごくたまに信じられないポカをする。

 例えば「傍線部の主人公の心情は以下四つのどれか」という問題があるとする。これが「主人公の親友が、好きな人にフラれて悲しむ」ような場面なら、やるせないとか気の毒だ、みたいな答えを選べばいい。

 だが、俺は思ってしまう。主人公はそれ以上に『喜んでいる』のではないか、と。今がチャンスだ。邪魔者は消えた。友情なんざ知るか。友達なら他に作ればいい。今なら彼女の心に付け込み、自分のものにできる――。

 ところが往々にして、そのような選択肢は問題文にない。結果散々迷い、別のよくわからない選択肢に逃げてしまう。

 

「君、悪意に敏感過ぎるんだよね」

 

 彼女は軽く、口を開く。その言葉は、真実だったような気がした。俺はため息を吐き額に手を当て、それを誤魔化す。

 

「大げさですよ。単純にぼっちだから、細かい人間関係とか問題にされるとわからんだけです」

「ま、そういうことにしとこっか」

 

 ふー。彼女は窓の外を見てマッ缶を飲み、息を吐く。

 

「君のそういう賢い所、嫌いじゃないよ。比企谷君」

「そりゃどーも」

 

 その笑顔は、窓の外に映る夕闇より暗く、月光より柔らかい。

 

 三週間。彼女と過ごした時間だ。長いとは言えないが、短いとも言えない。何せ彼女は、毎日ここに来たのだ。その一瞬一瞬が、今でも鮮明に思い出せる。そのくらい彼女との日々は刺激的で、明るく、愉快だった。

 

 だから目を伏せ、微笑む彼女を見て、俺は思う。

 

 彼女もそう思っているのだろうか。

 

「うん。比企谷君と一緒に居た三週間ちょっと、ほんと楽しかった。暇つぶし、どころじゃないよ。妹ちゃんも可愛いし、君も想像以上に面白い人間だった。こんなに人に興味持ったこと、正直無かった。

だから、伝えたいなって思った」

 

 伏せた視線を上げ、彼女は俺を見る。俺だけを見る。そのまっすぐな視線を、正面から受け止める。

 

 多分、それは今日なのだ。俺にとっても、彼女にとっても。

 

 彼女は飛び切りの笑顔を浮かべ、手をパンと叩く。

 

「さて、比企谷君。退院前の最後の夜に話があるんだけど、いいかな?」

「奇遇ですね。俺もあります。あなたに話すことが……いえ、話したいことがあります」

 

 彼女の白磁のような頬にうっすら朱色が差し、俺も頬が熱くなるのを感じる。

 

 らしくなく、高揚しているのだろうか。

 

「比企谷くん――」「雪ノ下さん」

 

 多分、初めてだろう。俺は彼女の声を遮る。その瞬間は、いくらヘタレの俺でも女性に任せるわけにはいかない。

 

 嘘のように明るく柔らかい月光を背景に、家路へと向かうライトがピカピカと光る。夕闇のコントラストでそれは一層映える。

 

 しかしそれも全て、美しい、女神のような彼女の笑顔に呑まれる。

 

 夢かと思った。

 

「雪ノ下さん」

 

 もう一度、彼女の名を呼ぶ。その綺麗すぎる笑顔に、決心が揺らぎそうになる。

 

「なあに?」

 

 わかっているくせに。可愛らしい笑みを前に、俺はそう思った。

 

 その深い瞳を見た瞬間、いつものこの空間が戻った気がした。

 

 だから、俺は言うことができた。

 

「3週間かけた芝居、ご苦労様です」

 

 ピシリ。病室の時計が止まり、彼女から表情が消える。

 

 ああ、やはり。俺は確信する。俺が知っていると思った、理解していると思いこんだ彼女の『本性のようなもの』は、まだ上辺だったのだ。

 

「高1のガキ相手にここまで労力かけた理由、聞かせてもらえますか」

 

 ニィ。俺の言葉を聞いた瞬間、彼女の口が三日月に歪む。

 

 次の言葉に、俺は心底安心する。

 

 やはり、俺の最初の勘は間違っていなかったのだ。

 

 この人は気味が悪い。

 

「合格よ、比企谷君」

 

 そしてその笑みは。

 

 騙されてもいいと思う程度に、美しかった。

 



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その5

 パチパチパチパチ。

 

 俺と雪ノ下陽乃だけの病室に、乾いた拍手が響く。

 

「お見事ね。その様子だと適当に誤魔化すのは無理かな、もう」

「お褒めにあずかり光栄です。まあ、そうですね」

 

 彼女に悪びれる様子は全くない。貼り付けたような笑みのまま口を開く。

 

「面白い。君は本当に面白いよ、比企谷君。あ、こういう時は儀礼的に、お決まりの台詞から入ったほうがいいかな?」

 

 コホン。彼女はわざとらしく咳ばらいを一つ。

 

「いつから気づいてた?」

「最初からだよ、ワトソン君」

「えっ、ウソやろ!?せやかて工藤!」

 

 彼女は椅子に乱雑に腰掛け、長い足を投げ出す。俺が想定していたのはホームズではあるが、『平成の』ホームズじゃないんだよなぁ……。

 

 理由は複合的なものだ。到底、一言では言えない。似非関西弁を無視し、俺は口の端だけ持ち上げて誤魔化す。

 

「こんなぼっちの所に綺麗な女性が来て毎日居つくわけがない――と、言いたいところですが」

「違うの?」

「ええ、まあ」

 

 違う。俺は始まりから思い出す。それも要素の一つではあるが、本質とは程遠い。スタート地点は、そう。

 一目見たときの、あの気味の悪い完璧さだった。

 

「こう見えて、俺はあなたを信用してるんですよ」

「はい?」

 

 呆ける彼女に、俺は続ける。小さな疑問の種は、その完璧さへの信頼だった。

 

「だってどう考えてもおかしいでしょう。あなたは……いえ」

 

 その呼び方は、もう相応しくないか。咳払いとともに訂正する。

 

「あんたは」

 

 雪ノ下陽乃という人間は。

 

「あんたは、全ての物事に理由をつける。『確からしい』理由をつける。そうじゃなければ人が動かないことを、あんたは知っているから」

 

 人が動くことには必ず理由があり、人を動かすことに慣れた彼女は、他者への動機づけを怠らない。

 

「でも結局、あんたは俺にここに来る理由を説明しなかった。どう考えても不自然なのに、ただ煙に巻いた。それはなぜか」

 

 完璧な彼女が動機づけをしなかった。答えは簡単だ。

 

「恋には理由がない方が美しいし、運命的だから」

 

 女性が理由もなく自分に関わろうとすれば、男は勝手に勘違いする。彼女は俺のそれを操ろうとした。

 

「雪ノ下陽乃が三週間をかけて為そうとしたのは、俺を惚れさせること。しかしそれは手段ではあって、目的ではない。目的はその先にある」

 

 問題はここからだ。彼女は俺の話に、うんうんと首を振る。その余裕の笑みは、崩れない。

 

「その根拠は?」

「あんたは嘘を極力吐かないようにしている。嘘はいつかバレると、嘘を吐く労力とリターンが見合ってないと知っているから。俺を真実のみで騙そうとした。

あんたは事故の関係者だということも、金を持ってきたのは自分の母親だということも偽らなかった。

そしてあんたはいつか言った。『付き合いなんて毎日してたら、退屈過ぎて死ぬ』と」

「そんなこと言ったっけ、私」

「はい」

 

 あー、やだやだ、と彼女は首を振る。

 

「細かい男は嫌われるよ」

「小町以外なら全人類に嫌われてもいい所存です」

「その気持ち悪いシスコンっぷりは、正直引くけどね」

 

 彼女は椅子を引き、あからさまに俺と距離を取る。ちょっとは嘘を吐いてほしい

 

「雪ノ下陽乃は退屈を疎んでも、それを放棄する人間じゃない。人脈作りを放棄してまで、色恋に時間を費やす人間じゃない。

あんたは毎日暇つぶしと言っていろんな話をした。その中には、大学の友人との話も多かった。付き合いを疎かにしてはいない証左でしょう」

 

 彼女はまあね、と軽く口の端を歪める。

 

「もっと言えば、雪ノ下陽乃はその見た目ほど奔放でもなければ、怖いもの知らずでもない。人脈作りを多少犠牲にしてまで、俺のところに来るだけの理由があって然るべきだ」

「そしてそれは恋愛感情によるものではない、か」

 

 なぜ?彼女は目で問いかける。その余裕の笑みに、俺も口の端を持ち上げる。

 

「親御さん、県議会議員で建設会社の社長さんなんですってね」

 

 ピクリ。初めて彼女の笑みが凍る。

 

「いい時代になりました。今やスマホでちょいちょい、ってなもんです。ま、最初はうちの親父に聞いて、ネットで軽く調べた程度ですけど。

親に聞きましたよ。あのお金置いていった綺麗な人は、その議員の奥方らしいですね。そして、その人はあんたの母親だ。

あんたには実家と言う枷がある。奔放にも無責任にもなれない枷が。地元での人脈作りも、将来のために必要不可欠なものでしょう。こんな所で油を売ってる暇はない」

「なるほどね。でも少し弱いかな。だからこそ私が何も考えてない、ちゃらんぽらんの放蕩娘だとは思わない?金持ちの親に反抗して、こんなとこで高校生に熱を上げた馬鹿な女だって」

「思いません」

「どうして?」

 

 その理由はもう言った。

 

「だから最初に言ったんです。俺はあんたを信用してる。

それを判断するために三週間、あんたを見た。あんたは頭もいいし、容姿もいい。俺みたいなクソガキと話していても、上から目線の嫌味を一切感じさせない器量もある。不用意な嘘が愚かであると知っている。嘘を吐かず人を騙す度量がある。とてもじゃないが、馬鹿には見えない。それに――」

「それに?」

 

 いや。俺は言いかけ、口をつぐむ。

 

 それを言うには、少し早い。わざとらしく彼女に一礼する。

 

「で、どうですか。一連の俺の推理は、ワトソン君」

「いや工藤。やっぱり今のは推理やのうて妄想やろ!証拠も何もあらへんやんけ」

「妄想であることは否定しませんが、似非関西弁は関西圏の読者がウザがるのでやめてください」

「うん、私も言ってて自分でうざかったから、やめるね」

 

 ふぅ。彼女はマッ缶に口をつけ、ゆっくりと息を吐く。

 

「そうだね、そもそも証拠なんて必要ないか。そこまで言うってことは、ここで証拠がないって私が開き直っても、君は納得しないでしょ」

「しませんね」

「うーん、困ったなぁ」

 

 彼女は何らかの理由から、俺を懐柔しようとした。本来俺に不信感を持たれた時点で、半分敗北しているようなものだ。

 

「とりあえず要件を言ってくださいよ。三週間も時間を取る必要があった、その要件を。懐柔して、俺にやらせたいことがあるんじゃないですか」

「えへへー、気になるぅ?」

「そうやっていちいち『上』を取ろうとしないでください。別に俺は聞かずに面会拒絶したっていいんです」

「ぶー。可愛くないなぁ、ほんと」

 

 彼女はわざとらしく口を膨らませ、大きく息を吐く。

 

「ふー、そうだね。負けたのは私だし、こっちから頼むか。ほんとは君に『頼ませる』予定だったんだけど」

「なんです」

 

 雪ノ下陽乃は椅子から立ち上がり、後ろ手に手を組む。そして、いつものように飛び切りの笑顔で言う。

 

「君、私の彼氏になる気はない?」

 

 頬がひきつるのを感じた。

 

 やはり、雪ノ下陽乃はよくわからない。この人が俺に惚れているということは絶対にない。それを今証明したはずだ。

 ならば、なぜ。

 

「えーっと、この期に及んでまだ俺を篭絡できる気ですか?」

「篭絡?違うよ、言ったでしょ。これはもうお願いで、交渉だよ」

 

 彼女はクルリと、空中で指揮棒を振るように、人差し指を躍らせる。

 

「私が『もういい』と言うまで、私の恋人になってほしいの。期限は短くても一年。長ければ四年。報酬は私との時間。未経験者歓迎。みんな仲良くアットホームな職場です、ってね」

 

 そのふてぶてしい言動は、とても人にモノを頼む態度ではない。彼女は人の上に立つことに根っから慣れてる。だが不思議と腹は立たない。

 

 答えは決まっていたから。

 

「わかりました」

「はい?」

 

 彼女の軽い言葉を吐く口が止まる。

 

「だから、わかったと言ったんです。その依頼、受けます」

「え、ええ!?理由とか訊かないわけ!?」

 

 彼女はあたふたと距離を縮め、俺に問い詰める。

 

「訊きません。あんたは真実を言わないことはあるが、嘘を吐かない。この期に及んでそれだけが虚言なんてことはないでしょう」

「いや、こんなくだらない嘘吐く意味ないし、そんな趣味もないけど――でも、なんで?」

 

 今度は俺が返答に詰まる。それを言葉にすることは、非常に難しい。

 

 黙り込む俺に、雪ノ下陽乃も何も言わない。俺を手玉に取る彼女も、俺の気持ちは理解できていないのだろう。彼女はただ俺の言葉を待った。

 静寂が包む病室に、時計の音だけが無機質に響く。もう時間も遅い。外からは一切の物音も聞こえない。

 秒針がちょうど一周したところで、言葉は見つかった。

 

「この三週間。毎日あんたと色んなことを話しました。くだらないことからどうでもいいことまで」

「それじゃ全部どうでもいいことでしょ……」

 

 実際どうでもいいことしか話していない。退屈ではなかったが。

 

「あんたと話して、あんたを観察した。どう見ても胡散臭かったし、何を考えてるか全くわからなかった。見た目通りの完璧な女性なんかじゃないことは知ってたけど」

「一言二言多い。女の子には優しくしなさい」

 

 ポカリ。頭に軽くゲンコツを落とされる。女の子ってガラじゃねえだろ。そう言ったら今度こそ本気のゲンコツが飛んできそうなので、もちろん心の声に止める。

 

「年上ぶっててうざいし、所作の一つ一つが嘘くさいし、そのすべてが許され――そして、それらを自覚している。底が見えない。覗こうとしてもわからない」

「覗くって。比企谷君のえっち」

 

 んもう。彼女は両腕で自らの体を抱き、頬を染める。ほら、そういうとこだ、そういう。

 

 でも。

 

「そういうあんたの隣にいるのは、楽だったんです。理由を挙げるなら、そんなとこです」

 

 彼女からの返答はない。俺はその顔を見ず、問いを問いで返す。

 

「ところで気になりませんか、雪ノ下さん。俺は最初からあんたを怪しんでいた。最初の二、三日は様子見でしたが、それ以降はあんたと会わない方法なんていくらでもあった。でも、俺はそれをしなかった」

「うん。だからこそ私は、今日いけると思ったんだけどね。少なくとも君が私に好意を感じていることは間違いないって思ってた。……あーあ、私の目もとんだ節穴だね」

「そうでもないんですよ」

 

 その勘は、決して間違っちゃいない。方向が違うだけで。きょとんと目を丸くする彼女に、続ける。

 

「初めて俺と話したこと、覚えてますか?『友人の定義』ってやつです」

「うん、覚えてるよ」

「まあ要するに」

 

 本当は初めてその笑みを、佇まいを、昏い瞳を見たときから、薄々気づいていた。嘘を吐かず、適当なおためごかしもせず、正面から俺を手玉に取る。騙されていると彼女の口から聞いた時ですら、思ってしまった。

 

 俺はこんなにバカだっただろうか。

 

「あんたにだったら、騙されてもいい。三週間でそう思ってしまった俺の負けです」

 

 人生で初めてのその感情は、理屈ではなかった。彼女は瞠目し、俺の目を見る。

 

「でも、やられっぱなしってのも癪でしょう?せめてそのムカつく鼻を明かしてから『騙されてやろう』と思いました」

 

 この人とは対等でありたいと思った。多分、恋愛でも友情でもない。

 

 ただこの人の隣なら、嘘を吐かなくていい。

 

「彼氏、でしたっけ?俺につとまるとは到底思えませんが、あんたがそう頼みたいなら引き受けましょう」

「バカねぇ。比企谷君」

 

 黙って俺の話を聞いていた彼女は、ため息を吐き、額を押さえる。

 

「あのね、君、自分から進んで騙されるの?」

「そうです」

「理由も訊かずに?」

「訊く必要性を感じてないですから。俺の動機にあんたは関係ありません」

「でも、短い間じゃないよ。君は女の子と向こう4年間付き合えないかもしれない」

「いりません。友人より先に彼女作っちゃったら、その後の人生生きにくいでしょ」

「……わかってるようだけど、私に君への恋愛感情は無いよ?一ミリも」

「恋愛なんていう相手に依存する、あやふやな関係はこっちから願い下げです」

 

 彼女は問い、俺は答える。雪ノ下陽乃は俺の答えに瞠目し、困ったように頬をかき、また深く、深くため息を吐く。

 

 しかし結局前を向き、腰に手を当て、その豊満な胸を張る。

 

 その姿は、俺よりはるかに大きく映った。 

 

「合格――ううん、期待以上だよ、比企谷君。君を私の彼氏にして『あげる』」

「違います。騙されて『あげる』んですよ、俺が」

 

 この人相手に引けば、一瞬で飲み込まれるだろう。彼女にとってその返答は及第点だったらしい。満足げにうなずき、親指を立てる。

 

「おーけー。これからよろしくね、ダーリン」

「乗った。よろしくお願いします、ハニー」

 

 パチン。肩まで上げられた彼女の手を、軽く叩く。それで契約は完了した気がした。彼女は、笑っていた。多分俺も笑っていたのだと思う。

 

 腹を探り合った3週間に、偽物の恋愛関係。とても綺麗とは言い難い。しかし、なぜだろうか。

 

 偽物だらけのそれを、何よりもほんとうだと感じていた。

 



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その6

 空がいやに高い朝だった。

 

 日差しを柔らかく反射する道路に、桜が一片散る。チュンチュンと、どこからか鳥の鳴き声が聞こえた。

 

 そういえば。ふと俺は思い出す。確か、あの日もこんな風に桜が散っていた気がする。

 

 あの日、美しく、可憐で、沼のように昏い瞳を覗いた日。彼女と対面した瞬間、その姿に魅せられ、圧倒された。嘘を吐かずこちらを試すような笑みに、憧れたのかもしれない。

 

 でも、一年前のあの時とは違う。

 

「桜、綺麗ね。比企谷君」

 

 あの日対面した彼女は今、俺の隣にいる。

 

 彼女の呟きに俺は小さくうなずく。契約を交わしたあの日から、立ち位置は変われど、俺たちの関係は変わらない。

 

 雪ノ下陽乃は散る桜に手を伸ばす。彼女自身もあの時と同じように――いや。俺は思い直す。今は舞う桜によって、より人々を惹きつける。散る桜の中の微笑みは、絵画にだって負けてはいない。

 

 俺も、正直見とれた。

 

 ただし。

 

 ここが総武高生の行き交う校門前でさえなかったら。

 

 笑みを浮かべる彼女に、俺もまた笑おうと努力する。上手く笑顔を作れているだろうか。ひきつる頬を気取られぬよう口を開く。

 

「同伴出勤はオプションにねえんですけど。おふざけになられるのもいい加減にしてもらっていいですか、陽乃さん」

 

 彼女に耳打ちする。桜に包まれているせいか軽くピンクに染まる彼女の頬が、ピクリと動いた気がする。

 

「比企谷君。背筋と口調、ついでに目付き。みっともないからきちんとしなさい」

「性根が曲がり切ってる人間に言われる筋合いないんですけど……」

「何か言ったかなー?比企谷君?」

「何も言ってないでしゅ」

 

 です。鋭い視線を向ける彼女に、俺は秒で頭を下げる。ここは人が多すぎる。取り繕う必要はあるだろう。べ、別にその笑ってない目が怖かったわけじゃないんだからねっ!噛んだけど。

 咳ばらいをいくつか、言い方を変える。

 

「二年生の新学期。朝から俺を呼び出してまで、なんで一緒に学校に来る必要があったんでしょうか」

 

 道行く総武高生は、例外なく俺と陽乃さんを訝し気に見る。彼女はその視線をなんとも思っていないようだが、俺は違う。こちとら真性のぼっちなのである。ふええ……八幡みんなの視線が怖いよぅ……なんて余裕もなく、若干焦っている。大いにテンパっている。彼女の隣にいるだけで心臓がドキドキしてきた。やだ、もしかしてこれって、恋?絶対違うわ。ただの緊張だわこれ。ほら、脇の下に冷や汗とか出てきたし。目立つことには全く慣れていない。

 

「んもう、比企谷君のいけず!朝だって夜だって、比企谷君に会いたいからに決まってるでしょう。女の子に言わせないでよっ」

「笑えない冗談は置いといて、さっさと要件言ってくださいよ。大学生と違って暇じゃないんですよ」

「だ、か、ら。比企谷君?いつからそんな嘗めた口きけるようになったのかな?一年も経つとやっぱりだれるもんだね。また『躾』が必要かな?」

「虐めとか拷問を躾と呼ぶのは初めて知りました。教育委員会も真っ青ですね」

「まずはその減らず口から矯正しようね~」

 

 彼女は撫でるように俺の頬に手を添える――ように周りには見えているのだろう。道行く女子から黄色い声が上がり、男子から殺気を感じた。

 が、実際はそれほど心温まるものではない。親指だけで思い切り頬をつねられているだけだ。い、痛い痛い痛い!ちぎれるちぎれるちぎれる!その細っこい体のどこにそんな力があるのか、甚だ疑問である。

 陽乃さんは隠そうともせずに痛がる俺をよそに、また散る桜を眺め、ため息を吐く。

 

「まったく、比企谷君は一年経っても全然成長しないねぇ」

「あんたもな」

 

 今度は足を踏まれた。飛び上がるほど痛かった。

 俺も彼女の足めがけて踏み出すが、あっさりとかわされ、桜の木に顔からつんのめる。彼女はカラカラと笑い、指差す。もうやだこの人。

 

「ほら、成長してない」

「……ほっといてください」

 

 今度は俺が深くため息を吐く。彼女の掌で転がされるのも、いい加減慣れた。

 

「では今日も元気よく行こう!君がいるなら、退屈はしないだろうしね」

 

 俺で遊ぶのに満足したのか、彼女は一人片手を上げて校舎へ向かう。もはや振り返ることは無い。彼女が歩くと自然と生徒がよけ、道が開いた。モーセかよこいつ。

 結局ここに来た理由を説明されていないが、そんなのはいつものことである。俺の意思決定や時間は、俺のものではない。この一年でよくわかった。朝っぱらから呼び出され、さらし者となり、飽きたらポイ。あれ、なんか八幡涙が出てきちゃった。男の子なのに。

 

 と、そんなことよりも。俺は周囲を見て歩を速める。とりあえずは男子ども――主に三年生と思われる――からの射殺すような視線をどう躱すか、それが問題である。

 

 はぁ。何度目かわからないため息とともに、今日も退屈とは程遠い一日が始まる。

 

 

 

 

 

 雪ノ下陽乃の依頼を受けて、一年。さっきも言ったが、俺のこの一年は悲しきかな、一つの単語で表すことができる。

 

 下僕。

 

 彼女に呼び出されれば放課後休日問わず、どこへでも引っ張りまわされた。と言っても、場所は主に千葉駅周辺か彼女の大学内だ。俺という『彼氏』の存在を周囲にアピールするためであろう。俺から『交際』の動機を訊くことはなかったし、彼女も言おうとはしなかったが、今は大方の理由は察している。

 

 恐らく、俺の知り合いには『交際』のことは気づかれていないと思われる。彼女に呼び出されるときには日ごとに所定の服装に身を包み、髪型も所定のものに変え、眼鏡をかけるように指示されているからだ。半ば仕事着であり、ほとんど変装である。そもそもお前知り合い居ないだろ、とかは誰も幸せにならないから言ってはいけない。ほんとやめて。その技は俺に効く。

 

 そう。彼女に、雪ノ下陽乃に付き合うことは、思ったよりも並大抵のことではなかった。ルールも多いし、制約もある。『陽乃さん』という呼び方もそうだ。俺のことは苗字で呼ぶくせに、自分のことは名前で呼ばせる。俺の方から彼女に惚れている、というポーズだろう。全く、すこぶる性根が歪んでいる。

 

 だが俺は結局、彼女から離れることは無かった。

 

 彼女は決して俺に踏み込み過ぎることは無く、己に踏み込ませることもなかった。初めて会った時と何も変わらない。俺は契約の理由すら聞かず、彼女もそれを語らない。互いに自らの事情に踏み込むことは無い。しかし会う時は言葉遊びに興じ、互いを尊重する。

 そんな歪な関係が一年も続いたのは、やはり楽だったからだろう。そう。彼女の隣にいるのは楽だった。 嘘だらけの関係の中、決して互いに嘘を吐かない。その関係は思ったよりも心地よかった。多分、彼女もそう思っていたと思う。俺は不遜にも小さな確信を得ていた。

 

 その気味の悪い笑みを見ることができるのは、隣にいる俺だけだとすら、思ってしまっていた。

 

 

 

 

 

 

「で、比企谷」

 

 場所は生徒指導室。担任の平塚静は、机の上の作文をトントンと人差し指でたたき、ため息とともに煙を吐く。

 

 朝から魔王の相手をし、日中は同級生の鬱陶しい視線を何とか無視し、ようやく放課後が来た。同級生の中には朝の一幕を見ていた者もいたのだろう。遠巻きに噂をするように指差されるのを感じたが、誰も直接は何も言ってこなかった。当然である。まず、誰も俺の名前知らないだろうからね!

 と思ったら、額に青筋を浮かべた独身教師に呼び出されるとは、これはいよいよ厄日と言って差し支えないだろう。

 

「呼び出された理由は分かるか?」

「生憎ですけど、心当たりがあり過ぎてわかりません」

「君、ちょっとは悪びれたまえ……」

 

 彼女は灰皿に煙草を押し付け、ジト目でこちらを見る。学校で煙草を吸う教師も同じくらい良くないと、八幡思います。

 

「『高校生活を振り返って』のこの作文。誰が大学生がリアクションペーパーにでも書きそうな、捻くれた自分語りをしろと言った?」

「高校生は自分語りも許されないんですか?横暴じゃないですか」

「高校生は青少年だ。『それなり』の言動を大人は求めるものだよ。国語教諭としてならともかく、教育者としてこんな文章に判を押せるか、馬鹿者」

 

 彼女の言いたいことは分かる。『青少年』という言葉の持つ強制力はかなりのものだ。だが待て、俺にだって言い分はある。

 

「でも俺、振り返っても自分しか語ることないんですけど」

「……君、友人はいないのか?」

「まずは貴女の友人の定義から教えてください。話はそれからだ」

 

 声は上ずっていなかっただろうか。平塚先生は今度こそはっきりとため息を吐き、煙草の火を消す。

 

「はぁ。もういい。要するにいないんだな。わかり切ったことを聞いてすまない」

 

 彼女は何かに思い当たったのかチラチラと俺を見て、いかにも恐る恐る続ける。

 

「……彼女とかは、いるのか?」

「……答えたくないです」

「そうか……」

 

 愚問だったな……今度こそ彼女のその目には憐憫がはっきりと浮かぶ。別にいいし。友達も彼女も、作らないんじゃない。作れないだけだ。あれ、それじゃダメじゃね?逆じゃね?

 

 だが。俺は自分自身を少し不思議に思う。どちらの質問にもかつてのように「いない」と断言できないのは、果たしてどういうことなのだろう。

 

「よし、レポートは再提出。それと同時に、友人も彼女もいない憐れな君に、レポートの罰ついでに奉仕活動を命じる」

「奉仕活動?ゴミ拾いとかボランティアとかですか?」

「うーむ、まあ少し内容は違うが、大枠で言えば似たようなものだ」

「……ちなみに拒否権は?」

「ついてきたまえ」

 

 彼女はソファから腰を浮かし、ドアの前に立つ。早くしろ、と言わんばかりに顎を廊下に向ける。

 

 おい、国語教諭。会話が成立してねえぞ。

 

 

 

 

 

 

 連れていかれた先は、特別棟の一角だった。平塚先生はある教室の前で立ち止まる。その教室にはプレートにも何も書かれてはおらず、使われているかどうかも一見定かではない。

 

「入るぞ」

 

 彼女はノックもなくドアに手をかける。まだ心の決まらない俺が止める間もなく、その扉は開かれる。俺は彼女の背中越しに、仲の様子を覗き見る。

 

 扉を開けたそこには、少女がいた。

 

 斜めに差し込む陽だまりの中、彼女は本を読んでいた。柳のように流れる黒髪。意思の強さを感じさせる大きく、鋭い目。背筋に一本芯が通っているような、凛としたその姿。

 

 絵画になってもおかしくないほど、彼女は美しかった。

 

 ただし。

 

「ねぇ、雪乃ちゃーん!無視しないでよーほら、せっかく愛しのお姉さんが来たっていうのにぃ」

「近い……暑苦しいからあまり引っ付かないで、姉さん」

 

 朝見たばかりの魔王がいなければ、だが。

 

「……陽乃。君はこんなところで何をしている」

「あ、静ちゃんだ。何って、雪乃ちゃんの場所教えてくれたの静ちゃんでしょ?」

「静ちゃんはやめろ、ここは学校だ。……そういうことではなく、だな」

 

 平塚先生はチラリと雪ノ下雪乃を見る。彼女らは目を合わせ、同時にため息を吐く。その気持ちは痛いほどわかる。

 

 俺はこの少女を知っている。というより、この少女を知らぬ人間はこの学校内に存在しないだろう。眉目秀麗、成績優秀、運動神経抜群。おおよそこの世の賞賛の言葉は、彼女のためにあると言って差し支えない。完璧な少女。

 

 そして当然に、知っていた。この二人が姉妹であることも。

 

 雪ノ下陽乃はため息を吐く二人を見て頬をかき、珍しく苦笑いを浮かべる。

 

「やだな、静ちゃんも雪乃ちゃんも。可愛い妹に会いたいと思うのが、そんなに不思議なこと?」

「そういうことではなくてだな……」

「そうよ、姉さん。来るなら来るで前もって連絡の一つくらいは……」

 

 ソロリ。文句を言う二人を前に、俺は静かに後ずさる。平塚先生の後ろにいる俺に、彼女たちは気づいた様子はない。雪ノ下陽乃一人でも手に余り過ぎるのに、姉妹でなど冗談ではない。

 

 一人、彼女を除けば。

 

「あれー、比企谷君じゃん」

 

 ギクリ。余りに白々しい声に呼び止められ、肩が震える。恐る恐るその声の主を見れば、見慣れたにやけ面が飛び込んでくる。俺の動揺するさまを見て楽しんでいたのだろう。本当に、ほんっとーに性格が悪いですこの人。

 

「うれし-!わざわざ会いに来てくれたの?」

 

 彼女はツカツカと俺に歩み寄り、殊更その距離を縮める。ちょ、近い近い近い近い。色々当たってるから、色々。ほら、貴女の妹も先生も怪訝そうに見てるから。

 

 雪ノ下雪乃と平塚先生は目を丸くし、問う。

 

「姉さん、そこのぬぼーっとした男と知り合いなの?」

「うむ。まさか君と比企谷が知り合いだとは全く予想外だったが――」

「あ、そっか。言ってなかったっけ」

 

 コホン。咳払いとともに陽乃さんは俺の肩を抱き、花の咲くような笑顔を浮かべる。

 

「こちら、比企谷八幡君」

 

 ちろりと、その真っ赤な舌が唇を舐めた気がした。まずい。

 

 止める暇は、無かった。

 

「私の彼氏だよ」

 

「……は?」

 

 彼女らの疑問符が重なり、教室に静寂が落ちる。俺も内心頭を抱える。この人は、本当に。陽乃さんは悪戯が成功した子供のようにクツクツとのどを鳴らし、呆ける彼女らに止めを刺す。

 

「とびっきり可愛いお姉さんにぴったりの、可愛い子でしょう!」

 

「お、おお。そうだな……君はどこか変わってるし……」

「ええ、そうね。趣味は人それぞれ……」

 

 その台詞には、どこか既視感を感じた。二人は唐突な言葉に頭が働かないのか、陽乃さんの笑顔に気圧されるようにただ頷く。あの、なんか微妙になぜか俺がディスられてるのは気のせいですかね。そうですかね。

 チラリと横の彼女に非難の視線を向けると、能天気にピースサインで応えられる。このアマ。殴りたくなる衝動を、嘆息とともに吐き出す。煙かアルコールか、成人していればのんでいるところだろう。

 

 しかし。俺は目の前の彼女らを見る。学年一の才女に、底の知れない国語教諭。彼女たちがこんな風に呆けるさまを、誰が想像し得るだろうか。少なくとも普通に生活していればそんなことはあるまい。こういうことがあるから、俺は一年も彼女に付き合ってきたのかもしれない。

 

 やはり彼女の隣は、退屈しない。

 



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その7(誕生日番外編)

陽乃さんお誕生日おめでとうございます。


 照りつける陽が水面を反射する。俺はその光を疎む振りをして、何よりも目の前の『ソレ』から目を逸らす。

 

「おーい、比企谷くーん」

 

 横から間の抜けた声が俺を呼び、柔らかい感触が俺の腕を襲う。見なくてもわかる、彼女に腕をとられたのだろう。

 だめだ。俺はやはり横を見ることができない。これは罠だ。巧妙に仕組まれた罠だ。絶対にそちらを向いてはいけない。向いたが最後、俺のようなボッチ力53万のモンスターDTがどんな情けないツラを晒してしまうか、想像するまでもない。誰がモンスターDTだ。

 

 しかし、魔王にはそんなことは関係ない。

 

「ちょっと、せっかくこの日のために新調してきたんだから、感想くらい言ってよ」

 

 ねぇねぇねぇねぇ。今度は腕全体に柔らかい何かが覆いかぶさる。ムニュ。そんな感触が腕を妖しく撫でた瞬間、思わずその場から飛びのく。その勢いで思わず目はそちらに行ってしまう。

 

 そこにあるのは、いつもの腹の立つにやけ面だった。

 

「で、どう?比企谷くん。この水着は、君のお眼鏡にかなうかな?」

 

 雪ノ下陽乃はヒラヒラと舞うパレオのすそを指でつまみ、プールサイドでくるりと一回転する。その瞬間パレオがはだけ、その中身が一瞬あらわになる。周りの男共の視線が一気に集まった気がした。

 

 落ち着け落ち着け落ち着け。中に履いているのはただの水着だし、まして相手はあの魔王、雪ノ下陽乃だ。その外見にだまされるな。やましいことなど何もない。

 花弁をあしらった水色のパレオも、フリルのついた白いセパレートの水着も、派手好きな彼女にしては随分とおとなしいものだ。パレオのせいでその完璧なラインの肢体が隠れちょっと残念――などとは、毛ほども思ってはいない。本当である。神に誓って、戸塚の水着姿に誓って、俺は冷静だ。戸塚の水着もセパレートかなぁ・・・・・・・

 

「ひ、比企谷君。さすがにそこまで遠慮なく見られると、お姉さん恥ずかしいんだけどな・・・・・・」

 

 バッ。音が出るほど激しく首をひねり、それから目を逸らす。い、今のは無意識に目が行ってしまってですね、これは言うなれば男として当然の反応であり、本能であり、煩悩であります。ゆえに俺は、僕は、わたくしは、何もやましいことは考えていないのであります。あれ、本格的に頭の中ぐちゃぐちゃになってきてませんか?

 

「――だ、か、ら。比企谷君。感想は?」

 

 こつこつとパラソルの柄で地面を叩き、彼女は声を低くする。危ない、どうやら俺の思考はまたしてもあさっての方向に飛んでいっていたらしい。

 その声と笑っていない目から察するに、さすがにそろそろグレーゾーンだろう。彼女は『彼氏』の俺に対して、何らかの返答を求めている。仕方ない。俺はつい吐きそうになるため息を何とかかみ殺す。

 

「あーっと――似合っていないといえば嘘になりますね、ええ。白の水着も花柄のパレオも、なんかそこはかとなく清純っぽくて、見事に腹黒さが隠せてるんじゃないでしょうか、はい。しゃべりさえしなければ深窓の令嬢にも見えると思いますよ、多分」

「比企谷君?喧嘩売ってるなら今すぐにでも買うよ?まずはどの骨からいこっか?大丈夫、人間の骨がいっぱいあるのは、何本か折れても大丈夫なためなんだから――」「とてもよくお似合いだと思います。今日あなたが一番輝いていますよ。よっ、千葉一の美少女!」

「・・・・・・なんか全然嬉しくないんだけど、ま、いっか。合格ってことにしといてあげる。折角の特別な日だしね」

 

 彼女は俺から目を外し、雲ひとつない青空に宣言する。

 

「今日は嫌になるまで遊びましょう!比企谷君、覚悟はいい?」

「覚悟決まってないので俺はこの辺でお暇したいと――」

 

 ポカン。うぎゃ。誰もが楽しむプールに、物騒な音が響き渡った。

 

 

 

 

 

 七月最初の日曜日。俺は例によって、かの暴虐悪辣冷血の魔王、雪ノ下陽乃に連れ出されていた。梅雨も明け、ムシムシした湿気とともに襲い来る夏の日差し。活動的かつ享楽的、本能に忠実な彼女がプールに行きたがるのは、なるほど至極自然なことだ。

 

 問題は、場所だった。俺のプール経験といえば、学校のプールか市営のコミュニティーセンターのプール、せいぜいが小学生のころに親に連れられていった、家族向けの流れるプール程度のものだった。

 

 まちがっても、入場料だけで諭吉さんが飛んでいくような、ホテル内のプールではない。

 

 思えば千葉ではなく、わざわざ舞浜駅まで来た時に気づくべきだったのだ。周りを見渡しても大抵が「ウェーイwww」「それあるーwww」「マジ卍でマジマジマジwww」みたいな言語で会話を成り立たせている輩だらけだ。最後のは違うな。

 

 陽乃さんの思惑は知らない。単純に来たかっただけかもしれない。しかし、ため息のひとつ程度は許されないものだろうか。

 

「・・・・・・・さすがに場違いですね、俺」

「うん、そうだね」

 

 秒速の肯定に、思わず心が折れかける。べ、別にいいもん。わかってはいたもん。自己否定の末に「そんなことないよー」とか言ってほしかったわけじゃないもん。つーかこの人絶対そんなこと言わねえな、馬鹿か俺は。

 

 気づかぬ内に百面相でもしていたのだろうか。陽乃さんは俺の顔を指差して笑う。

 

 だがその目に、俺は背筋が寒くなる。一年も付き合っていれば流石にわかる。

 

 今俺は、彼女の機嫌を損ねた。顔は笑っている。声も楽しそうだ。しかし。

 

 その目が、笑っていないのだ。

 

「――比企谷君」

「はい」

 

 笑みはそのまま、彼女は俺に一歩近づく。本当は、今すぐ目を逸らすべきなのだと思う。彼女から逃げるために、彼女の主張をすかすために。

 

 だが、俺の体は逃げてはくれない。それは、この一年で彼女に躾られた結果だろうか。俺にはわからない。

 

 彼女はいつでも、俺の目を見て言うのだ。

 

「場違いだと思うなら、情けないと思うなら。まずは在り方を変えなさい。背筋をのばしなさい。目線は一定に、常に隣にいる私を意識しなさい。手足の先まで神経を届かせなさい」

 

 ああ、もう、ゴミついてる。彼女は爪先立ちになり、俺の髪をいじる。当然彼女の胸元の白が俺の眼に飛び込んでくることとなり、思わず目を逸らす。彼女はそんな俺を今度こそおかしそうに笑い、ポンポンと頭を叩く。

 

「場に合わせろなんて器用なこと、君には求めてないわ。それは私がやる。ただ、比企谷君。君はいつでも、どこでも。私の隣に居て、恥ずかしくない君でいなさい」

 

 平然と、彼女は言う。彼女が求めることはいつでもひとつだった。それは何よりもわかりやすく、嘘がなく、だからこそ慣れないことでも何でもやって、この一年、彼女の隣に居たのだ。

 

 でも、やはり。改めて思う。

 

「・・・・・・ハードルたけえんですよ、それ」

「あはは、そうかもね、私、いい女だから」

「普通自分で言うかよ・・・・・・」

「しょうがないでしょ。隣に居るなっさけないへたれでダメダメな男の子が、言ってくれないんだから」

 

 あー、やだやだ。彼女は俺を見て虫を疎むように手を払い、ジト目で見る。何なんだ、その態度は。こっちはあんたの『ごっこ』に休日返上で付き合ってるというのに、流石にここまで言われる理由はないのではないか。そもそも――

 

 思うと同時に、口は開いていた。

 

「ここにいる程度の女性なんて比べるべくもなく、言うまでもなく――そう、最初から俺が言うまでもない。あんたはかわいいですよ。とびきり」

 

 外面だけはね。小さく、付け加えておく。雪ノ下陽乃は予想だにしていなかったのか、俺が真っ直ぐに放った言葉に、瞳を瞬かせる。たまにはこの女も、赤面すればいい。身悶えればいい。

 

 しかし、臆面もなく彼女は言ってのける。

 

「言われなくても知ってるよ、そんなこと」

 

 そのキン肉マンより厚い仮面をはがせる時は、果たしてくるのだろうか。

 

 

 

 

 陽乃さんによれば、どうやらここはガーデンプールという代物らしい。高くそびえるホテルと抜けるような青空を背景に、ただっ広いプールが広がる。所々にオブジェクトの岩が配置され、風に揺られる木々は見た目にも涼しげだ。プールサイドには所狭しとパラソルとデッキチェアが並び、イメージとしてはハワイのリゾート地、と言ったところだろうか。

 

 そんなどう見てもリゾートチックな場所で、俺たちはと言えば。

 

「比企谷くん、いっくよー!」

「あ、はい」

「はいパーーーース!」

「とーす」

「アターーーーーーーック!!!」

「ぐへっ!?」

 

 ビーチバレーに興じていた。

 

 ただし。

 

「さ、比企谷くん、ボール貸して」

「・・・・・・はい」

「いっくよー!」

「・・・・・・おー」

「返事がちいさーーーーーーーい!」

「おーーーー!」

「よし。いくよ、比企谷君。パース!」

「トース」

「アタァァァァァァァァァァック!!!!」

「ぶべしっ!?」

 

 ひたすら俺がトスを上げ、彼女にアタックされるビーチバレーである。は?自分で言ってて理不尽さに怒りが湧いてくる。なんだこれは。なんなのだこれは。

 

 しかし彼女はそんな俺の怒りも知らず、さも楽しそうにのどを鳴らす。

 

「あはは!比企谷君かえるがつぶれたみたいな声!おもしろーい!じゃ、もう一回ボール貸して」

「・・・・・・」

 

 ポイ。俺は無言でボールを彼女に返す。ここで逆らっても無駄だ。やるなら、もう少し後。

 

「じゃ、いっくよー!」

「はい、どうぞ!」

「わぁお、いい返事。やる気出てきたね、比企谷君!」

 

 ええ、出てきましたとも、殺る気が。

 

「はいパース!」

「ト――アタァァァァァァァァァァァァック!」

 いつからバレーボールはトスを上げなければいけないと錯覚していた?

 

 が、

 

「フン」

「あだぁ!?」

 

 グーパンでアタックに直接カウンターを食らった。この人の化け物じみた運動神経を計算に入れるのを忘れていた。控えめに言ってこの女、人間じゃない。

 

「ふっふっふ。比企谷君、考えがあっさいよ、相変わらず。そんなんだから成長がないって言うんだって。――ほら、これに懲りたら、も一回ちゃんとビーチバレーしよ?」

「延々と俺の顔面にアタックをぶち込む茶番をビーチバレーというのかあんたは、おい」

「それなら君もアタックするか、私のアタックにカウンターかぶせればいいじゃん。できれば、だけど」

 

 ニヤニヤニヤ。そんな擬音が聞こえてくるような、その腹の立つ笑み。このアマ、人を馬鹿にするのもたいがいにしとけよ。

 

「いいでしょう。今日こそその精神的厚化粧に、ヒビを入れて差し上げましょう」

「精神的厚化粧って・・・・・・君、いつも私のことそんな風に思ってたの?」

 

 視線が交錯する。しかし、退くわけにはいかない。これはプライドの問題なのだ。ここまでコケにされまくって、いい加減それを許容できるほど、俺は人間ができていない。

 

「いきますよ、陽乃さん」

「いいよ。おいで、比企谷君」

 

 どこかで派手に水しぶきがあがった。

 

 今ここに、ビーチバレーを介したプライドのぶつかりあいが始まる。

 

 

 

 

 

「――っと、もうこんな時間か。そろそろ一休みしよっか、比企谷君」「・・・・・・はい」

 

 その後、俺たちの勝負は水中息止め、鬼ごっこ、かくれんぼ、50m自由形、初心に帰ってバレーなどで行われた。

 

 そして俺は、そのことごとくで完膚なきまでにぼこぼこにされた。

 

「ま、しょうがないよ、比企谷君。基本性能が違うんだから」

 

 彼女はカラカラと笑い、俺の肩を叩く。くそが、俺とてスペックは悪くないほうなのだ。スポーツはそこそこにはできるし、平均よりは上だろう。その自己評価は体力測定、体育などの数字で証明できる。

 

 俺の誤算はただひとつ。やはり、雪ノ下陽乃は化け物であるということに対する認識不足だろう。

 

「14時だし、お昼ご飯にしようと思うけど――軽くにしときなさい。後でお楽しみもあるから」

 

 彼女に連れられた先は、プールサイドで料理を提供する場だった。ハンバーガー風ポテト添え、ハワイアンピッツァ、ハワイアンパストラミサンド、ホットドッグパイナップルレリッシュ・・・・・・なんのこっちゃ。

 

「これとかいいんじゃない?シンプルに冷やしヌードル」

「ああ、それでいいです」

 

 もう、なんでも。そう続かないよう少し苦労した。値段を見れば、これまたちょっと手が止まるくらいの値段だった。

 

「あ、流石にここは私が出すから。付き合ってくれてるお礼ってことで」

「嫌です」

 

 俺ははっきりと、彼女を否定する。呆れ、諦め、疑問。この問題に当たる度に、彼女からこんな視線を投げられる。珍しい、とても珍しいことだ。彼女と俺はこの瞬間、何よりも相容れられない。分かり合えない。お互いがお互いを否定し合い、平行線の上に彼女が折れる。何度も、何度でもそんなことを繰り返してきた。

 

 変装代、デート代、その他もろもろの諸費用。それが発生するたびに、彼女は言う。自分を利用すればいい、受け入れればいい。雪ノ下陽乃によれば、俺はその程度の功績を、価値を、彼女に残しているらしい。結果には対価が発生しなければならない。だから胸を張ってその対価を受け取るべきだ。彼女はそう俺に繰り返す。

 

 しかし、そんなことは知ったことではない。俺が彼女の横にいるのは、そんな確からしい理由の上ではない。確からしい契約の上ではない。

言葉にできる気はしない。しかしそれを何らかの形――金銭でも、肉体関係でも、彼女の時間、地位や名誉でも。何かでその対価を求めた瞬間、受け取った瞬間。俺は雪ノ下陽乃とは対等ではなくなる。隣にいられなくなる。この歪な関係は、音を立てて崩れ落ち、俺はくず折れる。そんな気がする。

 

 だから、俺は何度でも否定する。彼女を拒絶する。

 

 俺と彼女は別々に会計を済ませ、パラソルの下冷やしヌードルとアサイーボウルを食す。OLかよ。

 

「・・・・・・ほーんと、この件に関しては折れないよね、君」

「理由のない施しは受けるなって親父に教わってるんで」

「理由、あるんだけどなぁ・・・・・・」

「少なくとも俺にはないんですよ」

 

 まったく、どうしようもなく頑固なんだから。彼女は大きく、深くため息を吐き、やはり俺に諦めの、呆れの、理解不能という視線を送る。

 屈折しているかもしれないが、俺はこの瞬間が嫌いじゃない。彼女をやり込めた気になれる、唯一の瞬間だ。もしかしたら俺は彼女のこの顔を見たいがために、彼女の言う『対価』を拒絶し続けているのかもしれない。

 

「君、いくつかバイトもしてるんでしょ?全く、そんなことさせないために私が出すっていってんのに・・・・・・まあ、気が変わったらいつでも言ってね。これまでの君が私のためにかけた諸費用と、それとは別の報酬は口座にプールしてあるから」

 

 彼女はさらりと新事実を言ってのける。

 

「あの、初めて聞いたんですけど、なんですかそれ」

「だから、文字通り。もう一年以上でしょ。最初から君は私から何も受け取らなかったから、最初から貯めてあるの。もうかなりの数字になってるよ。君でも流石に面食らうんじゃないかな」

 

 ごくり。思わず生唾を飲み込む。

 

「ち、ちなみに、その金額っていくらくらいに――」

「比企谷君」

 

 彼女は俺の目を覗き込み、にっこりと笑顔を浮かべる。

 

「私がそんな、安い女に見える?」

 

 彼女は安くはない。そんなことは俺が一番知っている。

 

 デート代だけで、雪ノ下家から受け取った見舞金など、2ヶ月で消し飛んだのだ。

 

 

 

 

「いやー、遊んだねー」

「・・・・・・疲れた」

 

 返事も碌に、できなかった。

 

 あの後、約三時間。俺たちはプール、ジャグジー、スライダー、ホテル内のプレールームなどで、とにかく遊び呆けた。折角リゾート風の施設なのだから、プールサイドでゆったりとすればいいと思い、彼女に進言したのだが――

 

「そんなの、本当のリゾート地でやればいいじゃない。ここは偽物で、模倣よ。でもそれが悪いってわけじゃない。相応の、俗な楽しみ方がある。例えば伊豆の海水浴場で、でかいパラソルを差して、サンオイルを塗りたくって、メラニンがどーたら言ってる人種、どう考えても無粋でしょう?『そういうの』がしたいなら、サイパンでもバリでもハワイでも、今度いきましょう。比企谷君、場所にはそれぞれの楽しみ方があるのよ。銭湯にフェラーリで乗りかけるような恥知らずな人間と私を、一緒にして欲しくないの」

 

 呆れ返るようにため息をつくこのお嬢様を殴りたいと思ったのは、俺だけではないはずだ。こちとらパスポートすらもってねえっつーの。

 

「ところで比企谷君」

「なんですか」

 

 彼女は自らの腹部を指す。

 

「お腹の具合はどうかな?」

「どうかといわれれば、まあ空いてますね」

 

 昼はかなり軽かったし、あれだけ遊んだ後だ。実を言えばいつ腹が音を立てるかと気が気ではない。

 

「よし、じゃあ、BBQとしゃれ込もうか!」

「はい?」

 

 当然、俺の頭は疑問符で埋め尽くされた。

 

 

 

 

「あははー、プールサイドでBBQとは、これはまた格別だねぇ。花火のひとつでも上がってくれれば言うことはないんだけど」

「ホテルのプールの一角でBBQ・・・・・・そこはかとなく分不相応だ・・・・・・」

 

 日が斜めになってきた、17時半。まだ俺たちは、プールサイドにいる。見れば、ちらほらとカップルやリア充グループが俺たちと同じようにBBQに興じている。

 このプールでは、どうやら夜間の間BBQを申し込み制で請け負っているらしい。材料機材を貸し出し、好きに焼いてくれ、というシステムだ。

 

「そろそろ焼けてきたかな?」

 

 陽乃さんがトング片手に、金網の上のビーフラウンドなんちゃら、ポークバックリブなんちゃら、チキンレッグなんちゃら、エビやパイナップルやナス、夏野菜のなんちゃらをひっくり返していく。こんなに食えんのかよそもそも・・・・・・

 

「じゃ、比企谷君。コップを掲げて。乾杯といこうか」

「はい」

 

 彼女はハイグラスに注がれたブラッディメアリーを掲げ、俺はジンジャーエールを掲げる。

 

「さて、何に乾杯しようか」

 

 彼女はこの期に及んで、試すように俺の目を覗き込む。確実に言えることは、俺が気づいているということに、彼女も気づいている。

 

 というか、去年は気づかずにひどい目にあったのだ。忘れるわけがない。

 

「貴女の二十歳の誕生日に」

「よくできました。私の、『記念すべき』二十歳の誕生日に」

 

 一言多い。彼女は臆面もなくいい、チン、とグラスが高い音を立てる。

 

「「乾杯」」

 

 声が重なり、グラスの中身がみるみる減る。まてまてまて、飲み慣れない新成人の介抱をする気はないぞ、俺には。

 彼女は俺の視線に気づいたのか、ああ、と手をひらひらと振る。

 

「ん、大丈夫だよ。飲むの初めてってわけじゃないし、多分そんなに弱くはないから。成人するまでは付き合いでしか飲んでないし、自主的に飲むのは初めてだけどね」

「自称弱くないが一番危ないって親父に聞きましたけど」

「あー、それはあるかもねー。いくら飲んでも酔えないから、結局付き合いの場でも私が最後まで残るの。それでもいくら飲んでも酔えなくて、私を俯瞰する私が天井より上のほうにいて。吐くまで一人で飲んで知らないうちに寝て、頭ガンガンのまま目が覚めるの」

「最悪の酔い方じゃねえかおい」

「あはは、私もそう思うよ。でも」

 

 その瞬間、ひやりとした感触が頬を撫でる。彼女のグラスの水滴が、俺の頬を伝って顎を濡らす。

 

「比企谷君。君となら、お姉さんおいしいお酒が飲めそうな気がする」

「三年後、まだ関係が継続してたら、お願いします」

「相変わらず見た目によらずお堅いんだから、君は」

 

 薄暗く、ホテルの光が妖しくプールを照らす。肉の焼ける音がする。氷がグラスを叩く音がする。彼女の笑う声がする。

 

 これは現実、なのだろうか。

 

「比企谷君」

 

 その声は、いつもと何も変わらない。彼女に幾度も幾度も幾度も、飽きるほど、そう呼ばれた。だから、わかる。その声にアルコールの影響はない。

 

 彼女はなんでもないように、問う。

 

「今日、何でここに来たか、わかる?」

 

 不意の問いに、息が詰まった。

 

 おかしいとは思っていた。彼女は今年度に入ってから、何かおかしい。昨年度の彼女は、常に俺との付き合い方の姿勢が一貫していた。

 

『彼女の大学、ないしは千葉駅周辺でしか会わない』

 

 それは言うまでもなく、彼女の知人に俺という『彼氏』の存在を周知するためだろう。だが今年度に入り、彼女は少しおかしい。

 

 俺の高校の中で必要以上に俺に近づいてみたり、妹に近づいてみたり。ちょくちょくと奉仕部にも顔を出し、今日はこんな知り合いが誰もいないだろう場所にまで俺を連れ出した。

 

 彼女は、面倒ごとが嫌いだ。だからこそ、俺と付き合った一年間、徹底していたのだ。俺に変装をさせ、高校には顔を出さない。彼女は俺との『交際』を周囲にアピールする必要があったのだろうが、俺には全くない。むしろ彼女との『交際』の発覚は、俺にとっては面倒ごとにしかならない。だから、それを今まで自然に秘匿した。

 

 ならば、なぜ。なぜ一年たった今になって、隠すのを止めた。避けるのを止めた。

 

 なぜ、今日。ここに来た。

 

「簡単なことなんだよ、比企谷君。小学生にだって――ううん、幼稚園児にだってわかる、簡単な理屈」

 

 俺にはわからない。何もわからない。彼女はそれを簡単だという。それに答えを与えるという。

 

 そう。彼女は簡単に言ってのけるのだ。

 

「親に、妹に、友達に。私の『それ』を勝手に祝われるなんて、気持ち悪いじゃない」

 

 それは、その笑顔は。とても理解できるものではない。社会的にも、道徳的にも。理解してはいけないものとすら思う。

 

 でも、俺はそれに惹かれるのを止められない。

 

「私を生んだのは親。私の後に生まれたのは妹。私の周りに居たのは友達。でもね、比企谷君」

 

 彼女はうつろな瞳のまま、どこまでも俺に問うのだ。

 

「それのどこに、私があるのかな?」

 

 問いに対する答えを、当然に俺は持たない。選びうる選択肢は、沈黙しかない。

 

「親は、いい人。私をここまで育ててくれて、養ってくれて、愛を与えてくれた。感謝しても仕切れないし、返しきれる恩じゃない。

妹のことが、私は大好き。不器用で、弱くて、いつでも私の背中を追っかけてくれる。そんな妹を私は愛したい。愛すべきよ。

友達は、かけがえのない財産。友人はいつだって私を助けてくれるし、私は彼らを助けるでしょう。だから私は、私を好きになってくれる人は、手の届く限り愛することに決めているわ」

 

 暗がりの目じりが、一瞬きらりと光った気がした。

 

「全部、選ばされたものなんだ、それって。親の求める学校。妹の求める完璧な姉。友達の求める明るい私」

 

 きっと。俺は愚考する。彼女はいつでもそれを求めていて、でも求めるからこそそれは当然に手が届かなくなって。だから、俺はそれを諦めた。

 でも、彼女は違う。完璧な彼女は、完璧であろうとする雪ノ下陽乃は。それを諦めることは許されない。諦める己を赦さない。

 

 不幸なことだと思う。彼女は頭が良すぎて、俺は小賢しすぎるから。皆が当たり前に受け入れるそれを、当然に享受できない。

 

「でもね」

 

 でも。

 

「君は、比企谷八幡君。君だけは、私が選んだ。私が、私の意志で隣に立つことを選んだ。――嘘をつかなくていい君の隣は、楽だった」

 

 俺は、この人の、雪ノ下陽乃の隣に立ちたいと思った。対等でありたいと思った。

 

「だから区切りのこの日に、君を選んだの。『選ばされる子ども』から、『人に成る』この日に、君を選んだ。私は、雪ノ下陽乃は。これまでの19年間、いつだって選ばされてきたから」

 

 わかるかな?彼女はわかって欲しいとは思っていないのだろう。事実、俺に彼女のすべてをわかっているなど、到底思わない。それは傲慢というものだ。強欲というものだ。

 

 でも、今。俺は確かに感じている。

 

 俺は、彼女を分かりたい。分かり合いたい。

 

「私はね、比企谷君」

 

 柔らかいその手が、俺の髪を撫でた。

 

「私が選んだ君に、君だけに。隣に立ってて欲しいみたい。飽きるまで、永遠に」

 

 ああ、堕ちる。

 

 俺は、そう確信していた。だから俺はこの一年、その眼を見ないようにしてきたのだ。見てしまえば、分かりたいと思ってしまえば、どこまでも引きずりこまれると直感していたから。

 

 彼女は俺を自らの空白にあてがい、俺は彼女を空白にあてがう。それはとても汚いもので、本物とは程遠いだろう。向き合うことを恐れた人間同士の、ただの欺瞞だ。

 

 でも。

 

 気づけば俺は、それを彼女の首にかけていた。

 

「比企谷君、これ・・・・・・」

 

 それは、ゴールドカラーのひまわりのペンダント。

 

 鈍く光るゴールドのチェーン。同じくゴールドのひまわりの花弁の中心で、鮮やかに緑黄色のカラーストーンのペリドットが揺れる。

 

 それは、渡そうか迷ったもの。プールに上がってから、常にポケットに潜ませていたもの。なぜ俺はそれを今日、この日に選んでしまったのだろう。どう考えても分からない。

 

 でも、これだけは確信していた。

 

「あんたはひまわりなんて柄じゃないと思うでしょう」

「そうだよ、私はそんなに真っ直ぐに生きてきてない。誰に恥じず、太陽だけを見て生きることなんて、私にはできない」

 

 ああ、だから。だからこそ。いつになく、いつもよりも弱い彼女を見て、俺は思う。

 

「だから貴女は、ひまわりなんです」

 

 そう。だから彼女は、いつだって陽に憧れて、陽を見て苦しむ。己の昏さと比較して、それでもそれを見ることを止められない。

 

 いつだって陽を見て、真っ直ぐに伸びようともがいている。丁度、その花のように。

 

「あんたはいつだって、どこだって。陽だけを見てればいい。自分には届かないもんを追い求めて、どこまでも苦しめばいい。でも、保証しましょう。あんたは例えそれが手に入ったって、絶対に満足なんてしない。――それで満足するなら、あんたは今、ここまで苦しんでない」

 

 彼女はうつむいたまま、俺の方を見ることはない。流石に羞恥が邪魔をしようとする。

 

 だが。俺は思う。中学の恋は最低の形で終わり、高校ではそれを諦めた。俺にはいまさら、恥じうるものなど何もない。

 

 この一年。のどに小骨のようにつっかえていた言葉は、自然と口をついて出た。

 

「それでいい。あんたはどこか遠くを見て、呆けていればいい。俺はあんたが陽を見上げてる時。いつでも隣で、足元を見てます。俺には多分、そのほうが性に合ってる」

 

 だから――続く言葉は、音にはならなかった。目の前の彼女に頭をはたかれ、俺は悶絶する。このアマ、俺がちょっといいこといってるってのに。

 

「うるさいよ、比企谷君・・・・・・何も知らないくせに」

 

 彼女は首にさげたペンダントを外す。ダラリと力なく、その腕は落ちる。

 

 ああ、それならそれでいい。俺は本気で、そう思った。俺にも彼女にも、互いは鎖のようなものだ。ちょうどそのペンダントのように。もしや、互いに居ないほうがいいのかもしれない。そのほうが、普通に幸せになれるのかもしれない。

 

 だが。

 

「ふざけないでよ、比企谷君」

 

 彼女はそのペンダントを、俺と彼女の手首に柔らかく巻く。彼女の手と俺のそれが、絡み合う。

 

「君、勝手に格好良くなりすぎでしょ。・・・・・・一ヵ月後の、君の誕生日。見てなよ」

 

 目に物見せてやるから。彼女はそう笑い、多分、同時に泣いていた。

 

 それならそれでもいい。俺は矛盾しつつ、そうも思った。

 

 正しくないし、嘘だらけの関係。でも、俺も彼女も確信する。

 

 多分、まだ子供の俺たちには、この関係が必要なのだ。

 




ひまわりの花言葉の一つに「いつもあなたを見ています」というものがあるそうです。これを書いて1年近く経って初めて知りました。なんかちょっと怖いです。


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その8

後書きに蛇足有り


 

「進路相談会、ですか」

 

 放課後の教室。『奉仕部』とやらの意義を聞き、部長の雪ノ下雪乃との意思疎通を済ませ、勝手に入部が決まった。平塚先生によれば、異論反論抗議質問口答えは一切受け付けないとのこと。横暴である。職権濫用である。

 

 と言っても俺は、そんな彼女に文句を言う気にはなれなかった。元教え子と現教え子に彼氏、彼女がいるという事実で、彼女は本気で泣きそうになっていたのだ。なんと不憫な。……まあ陽乃さんが無駄に煽り、平塚先生の傷口を広げていたことも原因だろうが。マジで鬼。マジで悪魔。俺たちにできないことを平然とやってのける。その姿はしびれても憧れてもいけない、人生の反面教師そのもの。そんな彼女を一年も見て、俺も人間的に大分成長したのではないか。そう、丁度憐れな独身教師に同情できる心のゆとりを持つ程度には。

 

 陽乃さんは苦々しく口を開く俺を楽し気に眺め、人差し指を立てる。

 

「そ。三年生対象のね。それで私が卒業生の一人としてお呼ばれしたわけ。暇だしついでに雪乃ちゃんの顔でも見てこうと思ったんだけど――あ、このパン貰っていい?後輩とか先生のとこ回ってたら、お昼食べそびれちゃって」

「130円」

「……お姉さん、お腹空いたかなー、なんて」

「130円」

 

 譲らぬ俺に彼女の笑顔が凍り、放課後の奉仕部室に剣呑な空気が流れる。

 

「ねえ、ケチな男は嫌われるって、お姉さん教育しなかったかなぁ?」

「だから消費税まけてるじゃないですか。ああ、なんて器がでかいんだ、俺」

「うん、相変わらずお猪口くらいの器で、お姉さん安心」

 

 ふぅ。彼女は嘆息とともに自前のブラックコーヒーをあおり、俺の焼きそばパンを頬張る。硬貨が何枚か飛んできて、ジャラジャラと音を立てて落ちる。必死に落ちた百円玉を拾っていると、なぜだが無性に負けた気がするのは気のせいだろうか。いつもの彼女のニヤケ面のせいだろうか。あ、ちょうど今バカにしくさった目で笑われた。その笑顔、殴りたい。

 

「……その様子だと姉さんと親しいという話は、あながち嘘ではなさそうだけれど」

 

 雪ノ下は俺たちの会話を聞きこめかみを押さえ、紅茶で唇を濡らす。

 

「それでも冷静になって考えれば、付き合っているというのは、にわかには信じられないわね」

「そ、そうだな。……まさか比企谷に彼女が……嘘だ……こいつは絶対同類だと思ってたのに……しかも陽乃って……何かの冗談だ……最悪の組み合わせだ……災厄の組み合わせだ」

 

 どうやらまだ約一名立ち直れていない独身教師がいるらしい。彼女が独神となる日も近い。大丈夫、そうなったら八幡が貰ってあげるから。なんならお婿さんにいってあげるから。

 

「うーん。そうはいっても、もう一年付き合ってるしねぇ」

「一年……!?」

 

 目を瞬かせる雪ノ下雪乃に、陽乃さんは頭をかく。

 

「あはは。言ってなかったっけね、そういえば。でも静ちゃんは聞いてるんじゃない?私の同級生とかから」

「……あー、いや、そうか。確か陽乃に男ができたようなことは聞いた覚えがあったが、まさか……」

 

 平塚先生は顎に手を当て、思案する。まあ、そうだろうなと俺は思う。俺と陽乃さんは些か目立つ程度に千葉周辺をうろついていたし、彼女の大学でも一緒に居た。一年も経てばその噂は教師の平塚先生の耳に入っていてもおかしくはないだろう。

 

「だが、聞いていた男とはずいぶん違うような気がするのだが」

「ほら、比企谷君私とデートの時は気合入れてるから~」

 

 会うたびに俺に変装させてるのは、どこの誰なんですかね……

 

「まあいい。雪ノ下――だと、あれか。陽乃と被るな。――雪乃。ここにいる比企谷は見た目通り色んな意味で問題を抱えていてな。この部で更生させてやってくれ」

「あの、今更ですけど俺に拒否権は?」

「おっと、そろそろ時間だ。この後職員会議が入ってるものでな。私はこれで」

「っておい、あんた無責任にもほどが――」

 

 バタン。平塚先生は逃げるように扉を閉めた。どうやら独神のライフはもうゼロだったらしい。出ていく瞬間、目尻に雫が溜まっていた。あぁ……今度からはもう少し優しくしよう。

 

「あはは、行っちゃったね、静ちゃん。もうちょっと静ちゃんで遊びたかったんだけどなー」

「鬼かあんたは」

 

 優しくしようと思った俺とは逆の感想を抱く陽乃さんに、背筋が寒くなる。鬼も悪魔も生ぬるい。やっぱり魔王だ、この人。

 

「で、君。どうするの?ほんとにここ、入るの?」

「なんか俺、あの先生に頭上がんないんですよね……」

「ま、私としては別に放課後呼び出した時に来てくれればいいけど――」

「どうでもいいわ」

 

 うーん、と顎に手を当てる陽乃さんに、冷たく声がかかる。

 

「この部活に入るのも姉さんの『お遊び』に付き合うのも、結局はあなたの勝手よ。でも」

 

 雪ノ下はため息とともに読んでいた本を置き、おもむろに右手を差し出す。

 

「私の読書の邪魔はしないで頂戴。それさえ守ってくれるなら、あなたをこの部に歓迎しましょう。比企谷君」

 

 飾りのないその言葉に、俺は何も返すことができない。

 

 俺が黙ってしまった理由は、恐らくその瞳にあった。陽乃さんと限りなく近いが、どこまでも遠い。その瞳は彼女と同じように深く、思わず魅入られる。だが、違う。雪ノ下陽乃のそれがどこまでも人を引きずり込む沼のようなものだとすれば、雪ノ下雪乃のそれは、どこまでも他者を寄せ付けない。それは真冬の抜ける晴天のように。限りなく澄み切っていて、僅かな濁りをも許さない。

 

 ああ、そういうことか。俺は直感する。流石に姉妹と言ったところだ。彼女もまた、雪ノ下陽乃と同じく、嘘を許さないのだろう。その瞳は欺瞞を見透かし、試すように俺に向けられる。真逆に見える彼女たちは、俺には合わせ鏡のように映った。

 

 ならばもしかしたら俺は、彼女とでも。思考の果て。無意識に右手が、雪ノ下雪乃の握手に応じようとした。

 

 しかし。

 

「ちょっと待ってね」

 

 気づけば左手に、温かい感触があった。

 

 どうやらその手は雪ノ下陽乃に掴まれたらしい。そういえば。俺はふと思う。普段彼女の対人距離は極めて近いが、このように手を取ったことは、一年間無かったかもしれない。思ったより体温が高いなと、俺は見当違いのことに気づく。イレギュラーに、俺はうまく反応できなかったのだ。思考が明後日の方向に飛びかける。

 

 その時、手に痛みを感じた。それにより徐々に思考が覚醒する。横を見れば彼女は見たことのない満面の笑みを浮かべ、右手を見れば彼女の爪がギリギリと逆立っていた。い、痛い痛い痛い!冗談抜きで刺さってる、刺さってるから、爪。あれ、爪って刺さるものだったっけ?

 

 彼女は悶絶する俺から手を離すと、うっすら俺の血が滲んだ自らの指を、ちろりと舐める。その天使のような笑顔を、そのまま雪ノ下に向ける。

 

 その柔らかい笑みを見て、なぜか悪寒が走る。

 

 それは雪ノ下も同じだったのだろうか。彼女の肩が小さく震える。そんな彼女を見て、陽乃さんの口元がクスリと綻ぶ。

 

「まだ『お遊び』に見える?雪乃ちゃん」

「……別に、どうでもいいわ。どうせ私には関係のないことよ」

 

 笑顔のまま見つめる陽乃さんを前に、雪ノ下は何とか声を紡ぐ。表情は変わらずとも、その声は震え、瞳は揺れていた。

 

「そっか。まだ私と話してくれないんだ、雪乃ちゃんは」

 

 その雪ノ下陽乃の声はどこまでも諦観を帯びていて、わざとらしいほどに失望の念を滲ませて、雪ノ下の瞳を覗く。

 

「部活に入るって聞いたから来てみたけど、やっぱり雪乃ちゃんは雪乃ちゃんだね」

 

 その瞬間、雪ノ下の表情が凍る。恐らく。俺はその顔を見て直感する。雪ノ下陽乃のその言葉は、彼女にとって急所だったのだろう。放課後の教室に静寂が降りる。

 

 時計の秒針の刻む音が耳につく。陽乃さんは今度こそ何を言うわけでもなく雪ノ下を見つめ、彼女の視線はその瞳から逃げるように泳ぐ。泳いだ視線はついに俺に当たり、なぜか彼女は非難するように俺を見る。世間一般でいう所のそのジト目は、「お前のせいだ」という彼女の文句が透けて見える。え、なんで俺こんな目で見られてんの?

 

 交錯する視線になぜか俺も混ぜられ、教室の空気はますます淀んできた、その時。コンコンというノックの音とともに、間の抜けた声が響いた。

 

「し、失礼しまーす……え?」

 

 入ってきたのは、女生徒だった。ピンクがかった茶髪が目を引く、まさに今時の女子高生、という感じだ。短めのスカートに、胸元のネックレス、ハートのチャーム。見た目で人を決めつけたくはないが、この手の女子と関わると面倒事にしかならないと経験則で知っている。例えば俺が距離の近さに勘違いして告って翌朝クラス中にその話が広まってるとか。う、頭が……頭が痛い……

 

 だが、彼女の持ち寄る面倒事はそんなものではなかった。

 

「あれ、な、なんでヒッキーがここにいんの!?」

 

 そう彼女が叫ぶと同時に、一瞬弛緩した教室になぜか緊張が走る。

 

「へぇ、ヒッキー、ねぇ」

 

 後ろから肩に手をかけられる。

 

「比企谷君もあだ名で呼んでくれるような間柄の女の子がいたなんて、お姉さん安心だよ。ねぇ、ヒッキー君?」

 

 ねぇねぇねぇ。彼女からは笑い声さえ聞こえ、振り向けばさぞや慈愛に満ちた顔をしているのだろう。

 

 しかし俺はどうしても、その魔王の顔を見ることができなかった。

 




 
「タピる」という単語をご存じでしょうか。教え子によると、jkやらjdやらdkやらの間で流行っているらしい、タピオカドリンクを飲むことに当たるそうです。
「いやそもそもdkって何だよドンキーコングがタピオカ飲むのかよ」という私の当然の疑問には、「男子高校生の略だよ」と当然のように返されました。私、ついていけません。タピる暇があったら「ストロングる」方が楽しいし、いいもん。そんな言葉はない。

というわけでストロングりながらなんとなしに書いた駄文です。本編とは一切の関係がありません。おまけです。よろしければ。台本形式って初めて書いたけどめっちゃむずいわ。


雪「タピオカチャレンジ?」
陽「うん、今snsとかではやってるんだよ。雪乃ちゃん、知らない?」
雪「……どうでもいいわ。どうせ碌なものではないでしょうし」
結「えー、あたしも知らないなー。なんなんですか、それ」
陽「あー、ガハマちゃんはあんまりtwitterとかやってなさそうだしね」
八「いかにもライン民って感じだしな」
陽「静ちゃんは知ってる?タピオカチャレンジ」
静「まあ、見たことくらいはあるが。そもそもタピオカドリンクというものがあまり好きじゃないな。わたがしを食ってる時の虚無感に近いものがある」
八「まあタピオカ自体に味ないですしね」
陽「もうっ、面白くないなぁ、二人とも。そんなんだとあっという間につまんないおばさんおじさんになるよ?」
静「おばっ――」
八「いいですね。むしろさっさとおじいさんまでワープして年金隠居生活を楽しみたい」
陽「私たち年金貰えるか微妙だけどね」
八「ジジイとか一生なりたくねえ」
陽「というわけで、ここにタピオカジュースがあります」
八「何がというわけで、なんですか。つーか俺には聞かねえのかよ、タピオカチャレンジ知ってるかどうか」
陽「君、どうせ知ってるし」
八「まあ知ってますけど」
陽「って言っても、君が知ってるのは二次元の女の子がチャレンジしてる奴でしょう?」
八「いいがかりだ。偏見だ」
陽「で、知らないガハマちゃんと雪乃ちゃんのために、ついでに三次元のを見たことない比企谷君のために実演してみようと思うんだけど……残念ながら、私一人じゃ足りないんだよね、色々」
八「まあそうかもしれませんね。サイズとか足りてませんね」
陽「比企谷君?それセクハラだからね?」
八「自分で足りないって言ったのに……」
陽「で、静ちゃん。ちょっと私の前立ってくれる?」
静「なんだ……というか近いぞ陽乃……」
陽「なーに顔赤らめてんの。そんな歳でもないでしょ。そのまま、そのままだよ……こうやって二人で挟んで……えいっ」
陽「おっ、立った立った、本当に立ったよ、比企谷君!私と静ちゃんの間でジュースが立った!ほら、写真写真!写真撮って!」
八「八幡のストローもタピオカチャレンジ大成功しちゃってるので、ちょっと無理です」
陽「もしもし、警察さんですかぁ?」
八「ごめんなさい許してください通報しないで」
雪乃「なにかと思えば、くだらない……」
陽「あっ、ごめーん。雪乃ちゃんにこれやれっていうのは、確かにあまりに酷だよね~。ガハマちゃんならともかく」
雪「……私がその程度の安い挑発に乗るとでも?」
陽「ううん。いいよいいよ。人には向き不向きがあるし、生まれ持った資質があるよ。ねえ、比企谷君?」
八「まあ、そうですね。それも個性でしょうし。気に病むことは無い」
雪「……貸しなさい」
陽「え?」
雪「そのジュースを貸しなさいと言っているの!」
陽「どうぞどうぞー」
八「思いっきり安い挑発に乗ってるじゃねえか」
雪「由比ヶ浜さん。悪いのだけれど、私の前に立ってもらえるかしら」
結「う、うん。いいけど……」
雪「もっと近く!」
結衣「は、はひぃ!」
雪「ほ、ほら見なさい!立ったわよ!」
一同「……」
雪「姉さん、負けを認めるなら、先ほどまでの無礼な発言を赦してあげてもいいわ。比企谷君もさっきの言葉、撤回しなさい」
一同「……」
雪「……二人とも、何か言いなさい」
一同「……」
雪「もう、なんなのよ……」
結「ゆ、ゆきのん?『あたし一人』でバランスとるの難しいから、そろそろいいかな?零しちゃったら大変だし」
雪「由比ヶ浜さん、絶交よ。二度と私に話しかけないで」
結「なんか酷いこと言われてる!?手伝ったのに!?」
一同(でかい)

 Fin.


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その9

「あ、あれ?ヒッキー!?なんでこんなとこにいるの!?」

 

 なに、誰こいつ。

 

 突然の闖入者に、俺は言葉を失う。こんな今時のjk(笑)感丸出しの女と俺に、交流などあるはずもない。いえまあ、なんなら女子全般と関わりがないんですけどね、ええ。ちなみに魔王は女子に入らない。そんな可愛いものであるはずがない。

 

 しかし雪ノ下はそうではなかったのか、目を細めて彼女に呼びかける。

 

「由比ヶ浜結衣さん、ね」

「あたしのこと知ってるんだ!」

「え、ええ。名前くらいは、だけど」

 

 ズイ、と顔を寄せる由比ヶ浜に、雪ノ下は椅子を引く。リア充は基本的に距離が近い。なんなんだろうな、あいつらのパーソナルスペースの狭さは。それに比べて俺などは、パーソナルスペースの確保に余念がない。東京ドーム換算できるくらいには広い。はぁ。

 

「あたしもあなたのこと知ってるよ。国際教養科の、雪ノ下さん」

「まあ、そうでしょうね。私は有名だから」

「いや自分で言うのかよ」

 

 あまりに不遜な言葉につい口を挟むと、雪ノ下は口の端を持ち上げる。

 

「あら、ただの事実よ。それとも『あなたと違って』と付けた方が良かったかしら、吐き谷君?」

「枕詞がいらな過ぎる上に、人の名前にどんだけ不名誉な字当ててくれてんだよ……」

「失礼。『淀んだ下卑た目で女子の胸元を視姦するあなたと違って』、私有名だから。引く谷君」

「被害妄想膨らませて勝手に引くな、おい。人聞きが悪いにもほどがある」

 

 お前の慎まし過ぎる胸元など誰も見ていないし、由比ヶ浜のものも見ていない。ちなみに結構でかい。いや、だから見てはいないけどね?

 

 俺と雪ノ下のやり取りに、由比ヶ浜は目を丸くする。いや、俺もびっくりだよ。なんで初対面の人間にここまで言われてんだよ、俺は。まあどう見ても陽乃さんと仲が良いとは見えなかったから、『彼氏』である俺への嫌がらせだろうが。性格わるっ。

 

「そ、それで雪ノ下さん、この綺麗な人は……」

 

 由比ヶ浜は楽し気に一連のやりとりを眺めていた陽乃さんに視線を移し、雪ノ下にこっそりと問う。まあなんか怖いからね、この人。

 

「ああ、これは――」

「由比ヶ浜結衣ちゃん、ね」

 

 雪ノ下の紹介を、陽乃さんが遮る。その目は余すことなく由比ヶ浜を捉え、値踏みするように無遠慮に彼女に向けられる。

 その視線は、会った時の雪ノ下陽乃のそれだった。あの病室で、どこまでも俺を見透かすような瞳。彼女は、由比ヶ浜結衣の何かを推し量ろうとしている。

 

 何かまでは、俺にはわからない。

 

 陽乃さんの視線に、由比ヶ浜は居心地が悪そうに髪を弄る。あ、あの……という短い抗議はすぐに陽乃さんの深い瞳に飲み込まれる。

 何秒ほどそのままでいたのだろう。俺も空気に耐えがたくなってきた時、底抜けに明るい声が響く。

 

「どーもどーも!雪乃ちゃんのお姉さんやらせてもらってます、雪ノ下陽乃でーす。気軽に下の名前で陽乃って呼んでね、ガハマちゃん!」

「ガ、ガハマ?……そっかー、雪ノ下さんのお姉さんだったんだ。うん、そう言われてみれば似てますね」

 突然の豹変に面食らう由比ヶ浜は、それでも何とか言葉を紡ぐ。さすがリア充、コミュ力が高い。陽乃さんは雪ノ下に身を寄せ、由比ヶ浜に向けて親指を立てる。

 

「そりゃあもう、仲良し美人姉妹だからね、いえーい」

「だからあんたも自分で言うのかよ……」

 

 やはり姉妹だった。自信過剰の似たもの同士だった。最悪の姉妹だった。

 

「そ、それで、ヒッキーは……」

 

 だからヒッキーって何だよ。由比ヶ浜は何かを確認するように、怖がるように。恐る恐る俺に視線を向ける。いや、別に取って食ったりしないから。正しい意味でもヒッキーだから。精神的に引きこもり君だから。誰が引きこもり谷君だ。

 

「いや、俺はここの部員ってことらしいから」

「そ、そうなんだ」

 

 へ、へ~。由比ヶ浜は大仰に相槌を打ち、何度か頷く。その様子を見て、陽乃さんが問う。

 

「ガハマちゃんは比企谷君のこと知ってるらしいけど、クラスメイトとか?」

「あ、はいっ、そうです」

 

 え。

 

「え、そうなの?」

 

 疑問を思わず口に出していた。誰こいつとか思っちゃったよ俺、てへ。

 

「は、はぁ!?ヒッキークラスメイトの顔も覚えてないわけ?」

「だから誰だよヒッキーって……。お前もクラスメイトの名前も覚えてねえだろ」

「そ、そんなの知ってるし!フツー覚えてるでしょ、フツー!あれでしょ、……比企谷、は……はちっ……はちま……」

 

 なぜか由比ヶ浜は頬を朱に染め、もじもじと指を弄り、下を向く。蚊の鳴くような呟きが漏れる。

 

「……ハッチ―でしょ」

 

 いやもっと誰だよそれ。

 

 文句も出ない俺、バンバンと机を叩いて爆笑する陽乃さん、そんな俺たちを見てため息を吐く雪ノ下。教室に混沌が満ちてきた。俺のsan値も爆上がり中で、大分ピンチだ。

 

「由比ヶ浜さん、それのことはいいから、要件を言ってもらえるかしら。何か用があって来たのではないの?」

「あっ、うん。そうなんだけど――」

 

 チラリ。由比ヶ浜は俺に目を向け、すぐに逸らす。ああ、そういうことか。

 

「比企谷君」

 

 気づけば陽乃さんの顔が目の前にあった。

 

「お姉さん喉乾いちゃった。このお金で飲物でも買ってきて」

「ナチュラルに人をぱしらせるんじゃねえよ……。いつものでいいですか」 

「うん、いつもの無糖ね。……わかってるような口してマッ缶買ってきたら、控えめにぶっ殺すからね☆」

 

 目が、マジだった。いつも良かれと思って買ってきてあげてるのに……

 

「というか、姉さん。あなたもここの部員ではないのだけれど。部外者は出て行ってもらえるかしら」

「えー、雪乃ちゃんつめたーい。いいじゃんいいじゃん、女の子同士固い事言わずにさぁ、年上のお姉さんにも相談してみなって。ねぇ、ガハマちゃん?」

「え?あっ、は、はい!そうですね、出来れば陽乃さんもいてくれると嬉しいかなー、なんて……な、なんか仲いい感じだし……」

 

 由比ヶ浜はまた俺を横目に、何かもにょもにょと呟く。なんのこっちゃ。

 

 彼女の同意に雪ノ下は額を押さえ、しっしっと手だけで俺に外に出ることを促す。虫か俺は。むしがやくんか。あ、自分で言っちゃった。どちらかと言えば無視されるのは俺の方だしね、無視されがやくんだったね!

 

 まあ、男がいては話しにくいこともあろう。俺はため息とともに席を立つ。

 

「はぁ、じゃあまあ、いってきます」

「比企谷君、私は紅茶でよろしく」

「ヒ、ヒッキー!あたしはオレンジジュースでいいから!」

 

 あれれ、自分陽乃さんの分しかお金もらってないんですけど?あれ?

 

 

 

 

 

「クッキー作り、ねぇ」

 

 場所は変わり、調理室。俺が必要以上にゆっくりと自販機に行っている間に話はまとまったらしい。三秒とじっとしていられない陽乃さんが、さっさと調理室の使用許可を取っていた。俺は部室に戻る直前、彼女にスマホで呼び出され、現在に至る。

 

 陽乃さんは安っぽい丸椅子に腰かけ、缶コーヒーをあおる。

 

「そ。どうやらガハマちゃんがど―しても、手作りのクッキーを渡したい人がいるらしくてねぇ。でも料理もお菓子作りも苦手らしくて」

「そんなもん友人に頼ればいいのに。あのナリならいくらでもいるでしょう」

「うん、私と雪乃ちゃんも同じこと言ったんだけどね、どうやらそのお友達連中には知られたくないんだってさ。なんかノリが重いとか、マジっぽい話はやだーとか」

「へぇ。そりゃまた難儀な」

「ねー」

 

 陽乃さんは缶コーヒーを手の中で弄び、何でもないように相槌を打つ。

 

「で、俺は何すればいいんで?」

「あれの試食役らしいよ」

 

 クイ。彼女は顎だけで由比ヶ浜と雪ノ下の方を差す。

 

 彼女らは件のクッキー作りにご執心である。が、問題は匂いだ。どうにも焦げ臭い匂いが辺りに充満し、今しがたオーブンから出てきたクッキーであろう物体は、その色は、どこかサンマのはらわたを連想させる。

 雪ノ下はどこまでも青い顔をして額を押さえ、由比ヶ浜はきょとんとした面で出来上がったクッキー?を眺めている。

 

 いや、マジでクッキー?って感じだ。少なくとも俺はあれがクッキーだとは認めたくない。あれはクッキーではなく、ヒッキーでもなく、木炭である。多分ジョイフル本田で一箱499円くらいで売ってる。月末セールで399円。木炭は食すものではない。

 

「……毒見の間違いだろおい」

「遺書は残しておいたほうがいいかもね」

 

 ズッコケそうになる返答に、調理中の由比ヶ浜達の声が続く。

 

「なんでうまくいかないんだろう……ねぇ、雪ノ下さん」

「私が聞きたいくらいだわ。なんでせめて言った通りにできないのかしら……そのくらい小学生の調理実習でもできるわよ。ねえ、由比ヶ浜さん」

「なんか酷いこと言われてる!?ていうかあたしに聞かれてもわかんないよ……」

 

 由比ヶ浜は表情を曇らせ、俯く。

 

「雪ノ下さんの作ったクッキーめっちゃおいしいし、これあげることにしちゃダメかなぁ、なんて」

「由比ヶ浜さん」

 

 調理室に冷たい声が響く。

 

「言ったはずよ。この部は貴女のお願いを叶えてあげる場所じゃない。貴女の自立、成長の一助となる、ただそれだけの場所。手も伸ばさずに大口あけてエサを待つだけの雛鳥に、得るものなど何もないわ。無駄口を叩く暇があるなら、どうすればより良くなるかを考えなさい」

 

 シン。そんな音が聞こえた気がした。少なくとも、俺ならあんなことを言われて何か言葉を返す自信はない。多分泣きながら出ていくことだろう。泣いちゃうのかよ、スネ夫かよ。いや、ヒキオだよ。

 

 しかし、当の由比ヶ浜は。

 

「うん、わかった。もう一回やってみる。正しいやり方教えて、雪ノ下さん」

「……そう。ではもう一度」

 

 どうやら俺ほどのヘタレではないらしい。制服の袖をまくり、今一度食材に向かい合った。いや、貴女が食材に向かわないことが世の平和のためなんですけど……

 

 

 

 

 

「相変わらず志は立派だねぇ、雪乃ちゃん」

「含みのある言い方ですね」

「そんなことないよー。妹の凛々しい姿を見て感動してるだけじゃんか。それに――」

 

 陽乃さんは調理場でバタバタと動く彼女らを見て、嗤う。

 

「真逆に見えて結構いいコンビだよね、あの二人」

「どうですかね」

 

 さあ、どうだろねー。本心はどこなのか、彼女は次の瞬間にはどうでもいいように窓の外を眺め、一息つく。

 

「で、あの二人それぞれのことだけど」

 

 コン。缶コーヒーを机に叩きつける硬質な音が響く。なぜか、嫌な予感がした。

 

「君から見て、雪乃ちゃんはどう?どんな女の子に見える?」

 

 ほら、碌なことではない。俺は彼女を見ず、適当に言葉を濁す。

 

「なんですか、藪から棒に。んなこと急に言われても――」

「時間の無駄だから、同じ質問を二度させないでもらっていい?」

 

 笑顔の端の額の青筋を隠しきれていない。奉仕部室に来た時から、彼女は何かに苛ついている。それはわかる。だが、その理由は俺の知るところではない。答えないと後が怖そうだから、とりあえず答えはするが。

 

「……まあ、大した人間なんじゃないですか。運動も勉強もできる、顔もいいし、悪い噂も特に聞かない。見る所料理もうまいようだ。多少口と性格が悪いとこくらいは、大概の男が見逃すでしょ。俺はごめんだが」

「あはは。雪乃ちゃんも君にだけは言われたくないだろうね。雪乃ちゃんこそごめんだろうね」

「ほっとけ」

 

 口を尖らせる俺を、陽乃さんはカラカラと笑う。

 

「じゃ、ガハマちゃんは?」

「……世界一暇な大学生という人種に、時間の無駄とか言われたくないんですが。だから答えてほしいんですが、さっきから、一体何が聞きたいんです」

「べっつにー。君から見てああいう子はどう映るのかなって。ただの興味だよ。答えなくたっていい」

 

 その目が、答えなきゃ殺すと言っている。殺されたくないから、やっぱり答えるしかない。

 

「見た目こそ派手な今時の女子高生って感じで、俺とは相容れないですね」

「まあ比企谷君みたいな拗らせぼっちとは対極の人間だよね」

「一言多いんですよ貴女は」

 

 由比ヶ浜結衣。俺から見た彼女の感想は、一言で要約できる。

 

「でも、普通にいいやつ、ですね。

俺みたいなのにも同じ目線で話すし、嫌味な所がない。多少周囲を気にしすぎるきらいがあるが、それもリア充連中の中で生きるには必要なスキルなんでしょう……勿論俺目線の話であって、絶対的な評価なわけがありませんが」

 

 ふむふむふむ。彼女は満足するように何度か頷き、キュルルと両手で空の缶をコマのように回す。

 

「じゃ、最後にもひとつ質問。雪乃ちゃんはあーやってガハマちゃんにクッキーの作り方教えてるけどさ」

 

 缶コーヒーは次第に回転を弱め、コトリと机に横たわる。少しだけのこった中身が机を汚す。

 

 それを拭うこともなく、彼女は俺を見る。

 

「ガハマちゃんがクッキーを作れるようになることが、ほんとに今回の依頼内容なのかなぁ?」

 

 まあ、違うでしょうね。

 

 出かけた言葉を自然と飲み込む。呼吸のように、俺は目を背ける。

 

「……さあ、どうですかね」

「ふふ。やっぱりそういう答えになるんだ。雪乃ちゃんは知ってる振りが得意だけどさ」

 

 目を背けた先にも、彼女の瞳があった。それを見てはいけない。彼女のペースに、巻き込まれてはいけない。だが、どうしてもそちらに目が行く。深夜に見るホラー映画のように。見てはいけないとわかっていても、それで見ないでいられるほど人間は強くない。

 

「君は相変わらず、知らない振りが得意だねぇ。会った時から変わらないよ、なーんにも」

「……それこそ、あんたの知ったか振りで、知ったつもりなんじゃないですか」

「お、少しは言うようになったね、君も。雪乃ちゃんは大した奴で、ガハマちゃんはいいやつ、か」

 

 でもね、比企谷君。彼女はその口を三日月に変える。

 

「私はあの子のこと、嫌いだよ」

 

 笑う彼女に返す言葉は、当然ない。それは、何を指しての言葉だったのだろうか。誰を指しての言葉だったのだろうか。

 

 俺の目の前に座っていた彼女は、その脚をツカツカと雪ノ下と由比ヶ浜へと向ける。「ちょっとごめんねー」と一言断りを入れ、由比ヶ浜作のクッキーを口にする。

 突然のことに雪ノ下は文句を言いかけるが、真顔でそれを食す陽乃さんに結局彼女は何も言うことは無い。由比ヶ浜も、固唾をのんでその様子を見守る。

 

 モグモグモグ。陽乃さんは目を瞑ってそれを食し、幾度となく咀嚼し、そして、結論を出した。

 

「まっず、なにこれ」

 

 調理室は、当然静寂に包まれた。

 




一万字超えちゃったので切ります。続きは明日で。


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その10

「まっず、なにこれ」

 

 遠慮なく感想を漏らした陽乃さんは、悪びれることなく続ける。

 

「あ、聞こえちゃった?」

「あ……え、えっと……あ、あはは……そんなにダメでしたかね……」

 

 あまりのことに、由比ヶ浜は口をまごまごとするだけだ。わかっている。由比ヶ浜結衣は、こう言われてしまえば。明確に悪意を向けられれば、それを笑顔で誤魔化すしかない。彼女も俺も、そんなことは分かっていたはずだ。

 それを分かっていて尚、雪ノ下陽乃は言ったのだ。

 

「いやー、ごめんごめん。私ここまでまずいクッキー食べたことなくてさ、ついね。なにこれ、なんかしょっぱいんだけど?もしかして砂糖と間違えて塩入れちゃいましたー、とか、漫画によくあるそういうオチじゃないよね?」

「え、えっと、そんなことは――」

 

 机の上に置かれた調味料を確認する彼女の顔が、耳まで朱色に染まる。陽乃さんはあざ笑うように続ける。

 

「それってさー、ガハマちゃん。料理とかそれ以前の問題じゃないのかなぁ。だってそうでしょう?大切に思ってる人に手作りのクッキー贈ろうとする人間が、本当にそんなミスするのかな」

 

 伝わる結果ってね、大事だよ。ガハマちゃん。過程なんかより、よっぽど。雪ノ下陽乃はそう続け、また、由比ヶ浜結衣の瞳を覗きこむ。

 

「本当にその人は、君にとって大切なのかなぁ?」

 

 やり過ぎだ。反射的に腰を浮かしかけた俺を、鋭い声音が止める。

 

「姉さん、貴女にはそんなことは関係ないでしょう。貴女に、そんなことを言う資格はないでしょう」

 

 雪ノ下雪乃は次のクッキー作りの準備を進めながら、陽乃さんを見ずに言う。

 

「ええ、そう。貴女は私の姉ではあるけど、部員ではない。そこの男も同じよ。部長は私で、依頼人は彼女、由比ヶ浜さんだけ」

 

 雪ノ下は汚れた調理場を布巾で拭い、今度は怜悧なその瞳を姉に向ける。

 

「あまり余計なことを言わないでもらえるかしら」

 

 来なさい、由比ヶ浜さん。続きをやりましょう。そう続ける雪ノ下に、戸惑いながらも由比ヶ浜は続く。雪ノ下は何もなかったかのように調理指導をはじめ、由比ヶ浜は先ほどのことを気にする余裕もなくそれに没頭する。

 

 俺はちびりとマッ缶で唇を濡らし、彼女たちをぼーっと見る。気づけば、雪ノ下陽乃は俺の横でつまらなそうに座っていた。その目はチラリと俺に向けられる。それは、俺に何かしろという合図に他ならない。

 はぁ。出かけるため息を押し殺し、俺は口を開く。

 

「俺にどうしろと」

 

 して、彼女の。雪ノ下陽乃の今回の望みは、企みはどこにあるのだろう。

 

「笑って」

「は?」

 

 間髪入れず返ってくる答えに、返す言葉はない。彼女はクスリと口元だけを綻ばせる。

 

「命令よ。他ならぬ君が、ガハマちゃんに向かって笑うの。そして美味しいと言う。それでこの依頼は解決で、由比ヶ浜ちゃんの『お願い』は叶う」

 

 文字通り、根本からね。彼女のその目に偽りはない。彼女は何時でも、何処でも。嘘だけはつかない。それは俺自身がよく知っている。

 だが、納得できない。

 

「それはどういうままごとですか。これまで散々付き合ってきて今更だが……あんたの『遊び』は、たまに趣味が悪すぎる」

 

 そう。それは所詮ままごとだ。作った彼女たち自身が失敗というなら、雪ノ下陽乃がまずいと言うなら、それは確かにまずいのだろう。それをうまいということに何の意味があるのだろう。

 

 俺の問いに、珍しく雪ノ下陽乃は答える。

 

「男の子にはわからないよ。土遊びとか鬼ごっことか、そんな事に命を賭していた高尚な人間には、多分どれだけ説明してもわからない」

 

 由比ヶ浜を拒絶し、嘲笑った雪ノ下陽乃は、誰よりも慈しむように彼女を見る。

 

「ままごとに人生を賭けられる、女の子の気持ちなんて。多分君には一生」

 

 ああ、わからない。反射的にそんな言葉を返しそうになる。そんな目を俺は知らない。そんな風に故意に、わざとらしく。他人を傷つけようとする彼女を、俺は知らない。同情する彼女を、俺は知らない。

 

 雪ノ下陽乃は今度はその同情の視線を俺に向ける。

 

「雪乃ちゃんに見惚れて、その手を取ってもいい。ガハマちゃんの普通さに付き合って、君自身が素晴らしき普通になってもいいでしょう。どっちも、私といるよりは幸せだよ、きっと」

 

 でもね。隣にいた彼女は、いつの間にか対面に座っていた。雪ノ下陽乃は机越しに鼻が触れ合うほどに俺の目をのぞき込む。

 

「ままごと抜きは、私だけにしときなさい」

 

 初めて重ねられた仮面の下を、覗き見た気がした。

 

 その諦めたような笑み、伏せられる視線、軽く吐かれたため息は、俺の知る彼女のものではない。なぜだろう。俺は直感する。ままごとこそ彼女とは、雪ノ下陽乃とは最も遠いものに思える。彼女はそんな欺瞞を許さない。許すわけがない。

 

 ならばなぜ、そんな悟り、諦めきったような顔をするのだろう。ままごとを蔑む彼女は、それにだれよりも憧れている。そう俺は思うのだ。矛盾する想いの中で、悟った面をしてやがる、この魔王は。

 でも、なぜ。俺にはわからない。ああ、全くわからない。思えば俺はこの人のことなど、何も知らない。一年一緒に居たが、それだけだ。わからない振りを頑なに続けてきたのだ、知ることなど何一つなくて当然だ。

 

 それでも俺はやはり、これしかできない。これしか知らない。だから。悟ったような雪ノ下陽乃の面を眺め、思う。

 

 この女の命令も言葉も考えも、今の俺には知ったことではない。

 

 知らない振りしか、俺にできることは無い。

 

「このクッキーは、駄作だ」

 

 気づけば口は勝手に開いていた。手は動き、その黒い、出来損ないのクッキーを口にしていた。今更雪ノ下陽乃の顔も、由比ヶ浜の顔もみることができない。

 

「口当たりは悪いし、焼き過ぎだ。どう考えても苦すぎる。ガンで死んだらお前を恨むとしよう。砂糖と塩をまちがったのは本当だな、塩味が絶妙に気持ち悪い。形は歪んだ台形で、色はサンマのはらわた。視覚からも食欲を削いでくる。クッキーってのはバターの匂いだけで十分いい香りだと思うんだが、微妙に鼻につく匂いがするのはなぜだ?余計なもん入れてるな、これは」

「あ、あはは、そうだよね。……今更あたしなんかに、上手くいくわけなんてなかったんだ、お菓子作りなんて――捨てるから、これ」

 

 ガタン。何かが落ちる音がした。見れば雪ノ下よりも、由比ヶ浜よりも、あの雪ノ下陽乃が。さっきこのクッキーをボロクソに言った人間が、射殺さんばかりにこちらを見ている。拳は固く握られ、それは今すぐにでも俺に向けられても不思議ではない。

 

 でも、俺はそれを見て思う。ざまあみろ。知ったこっちゃあねえんだよ、そんなのは。

 

 由比ヶ浜は顔を伏せ、早足に裏の調理準備室へと歩を進める。呆けていた雪ノ下はようやく現実に帰ってきたのか、何よりも冷たい目で俺を見る。

 

 そうだ、これが正しい。俺はその二つの視線を前に、実感する。これこそが俺の正しい立ち位置で、嫌われ者にふさわしい末路だ。

 

 俺はこのクッキーを不味いと思った。想いを伝えたいなら、その伝え方も重要だと思った。雪ノ下陽乃の言う通り、結果は大事だ。多くの人間は、目に見える結果で物事を判断する。まずいクッキーよりうまいクッキーの方が、嬉しかろう。単純にして明快な真実だ。

 

「だが、失敗作じゃない」

 

 続いた言葉も、確かに俺の本心だった。

 

「……え?」

 

 ピタリと由比ヶ浜の脚が止まる。俺は嘘は言っていない。彼女の隣に、雪ノ下陽乃の隣にいるのは、嘘を吐かなくていいから。それを曲げるくらいなら、逸脱するくらいなら。俺はここにいる意味はない。

 

 だからあれもこれも、嘘であろうはずがない。俺は由比ヶ浜に言葉を、本心をぶつける。

 

「拙さから心は伝わった。苦手なもんを懸命に作ってまで、想いを伝えたい相手がいる。苦手な分野で勝負してまで、得たい心がある。伝えたい何かがある。普通、そこまで自分をさらけ出せるもんじゃない。――正直に言えば」

 

 嘘ではないが、少し迷う。彼女のクッキーのまずさは折り紙付きだ。漫画的でなく、リアルな不味さ。それを味わって俺は嫌悪感だけではなく、確かに心地よさを感じた。

 それは彼女の整った顔に起因するものかもしれない。男好きする体に勝手に誘惑されただけかもしれない。少し足らないだろう頭の回転を見下して、悦に入っているだけかもしれない。

 それでも、そのような不純な過程をたどってでも。確かに俺が感じたことで、たどり着いた答えだ。

 

「このクッキーを貰う人間が、これを作ったお前が、羨ましいまである。だからこれは、駄作だが失敗作じゃない」

 

 だからこの言葉に、嘘はない。

 

「そのまんま渡せばいい。それで拒否されるようなら、引かれるようなら、捨てられるようなら。それまでの相手だったって話だろ。そん時は笑って見捨てちまえばいい」

 

 誰かの代わりなんて、いくらでもいる。

 

 流石にここまでひたむきに努力する彼女に、そうは続けられなかった。由比ヶ浜は俺を見ず、背を向けたまま、震える声で問う。

 

「ヒ、ヒッキーでもそう思うの?……これを捨てずに食べて、受け止めてくれるの?」

 

彼女の問いに、笑顔で応える。最初から答えは決まっていた。

 

「俺なら二秒でダストシュートだ。単純にクソまずい」

 

 今度こそ調理部室に白けた空気が流れ、大気が震える。

 

 そしてそれは、爆発した。

 

「サイッテーー!!!!ヒッキーマジキモイ!!!死ね!!女の敵!」

 

 まあこれは、全面的に俺が悪い。

 

 

 

 

 

 

「私は笑えって言ったはずだったんだけどねぇ」

 

 由比ヶ浜の依頼が終わり、帰り道。呑気に桜に手をかざしながら歩く陽乃さんの横で、自転車を押す。あの後は結局なんだかんだで由比ヶ浜から出来損ないのクッキーを残飯処理として押し付けられ、俺の鞄の中にはいくつかの劇物が入ったままとなっている。今ならば職質で危険物所持云々みたいな理由で捕まっても文句は言えまい。言えないのかよ。これ、ただのクッキーだよ。

 

 ため息交じりに陽乃さんの声に、俺はそっぽを向く。

 

「ぼっちなんで愛想笑いとか苦手なんですよ。ひきつってもいいならやりましたが」

「ああ、比企谷君のよく見る気持ち悪いあれ?私には絶対やらないでね。鳥肌立ちそうになるから」

「ひどい」

 

 まじで傷ついた、本気で傷ついた。だから愛想笑いは嫌いなのだ。鏡で見ても、本気で気持ち悪いから。鏡の前で愛想笑いの練習してること自体キモいですか、そうですか。

 

 口を尖らせる彼女に、俺も文句がある。俺は目障りな小石を蹴飛ばす。

 

「大体、役が逆じゃないですか。『悪い警官』の役は、本来俺がやるもんでしょう。わざと嫌われようなんざ、あんたの手段じゃない」

「あ、やっぱり気づいてたんじゃない、君も」

 

『良い警官と悪い警官』ヤクザから警察まで、随分と使い古された手だ。一方が悪役を担い、片方の見せかけの善を殊更大きく見せる。大きく見せた善は対象を油断させ、目的遂行を容易にする。

 

「ま、普通ならそうかもね。でもこの場合は、彼女の場合は。他ならない君しか『良い警官』にはなれないの。わかる?」

「全然」

 

 まったく、わからない。理解に苦しむ。嫌われ者は俺の役だろう。それこそ小学校から高校に至るまで、比企谷菌の名は伊達ではない。涙は花粉のせい、悲しくなんてない。

 

「はぁ、まーたそうやってわからない振りをする。挙句の果てにどっちも『悪い警官』になってどうするのさ、全く」

「不味いものを美味いと言えるような人間なら、今頃山ほど友達出来てますよ」

「口だけは減らないんだから、本当に」

 

 彼女は軽く俺の額にデコピンをかまし、少し前を歩く。彼女の顔は、散る桜に囲まれるその顔は、一体どのような表情を形作っているのだろう。

 

 それもまた、俺にはわからないことだ。

 

「一つ、聞いていいですか?」

「ん?なに?」

 

 先を行く陽乃さんはくるりと俺の方へと振り返る。その顔に浮かぶは、いつもの余裕の笑み。しかし今日は余裕のない彼女を、随分と見た気がする。

 

「なんであんなことしたんですか?」

 

 それを知りたいと、なぜか思った。一年一緒に居て、なぜか初めて、そう思った。

 

「聞いたらいつでも答えが返ってくると思ってるのは、甘ったれというものだよ。学生気分というものだよ。比企谷君」

「あんたも俺も学生なんだよなぁ……」

 

 いつものように、俺からの質問ははぐらかされる。その何よりも、誰よりも美しい笑みに躱される。

 

「そういえば、君が私の命令に正面から背いたこと、初めてだったね」

「あー、そうでしたっけ」

 

 彼女は質問への回答を忘れたように言い、俺もまたそれに応える。こうなったらいくら聞いてもどうせ答えは返ってこない。ため息を吐く俺を彼女は笑い、妖しく俺の耳元でささやく。

 

「罰として、今週末デートだから」

 

 一日中、ね。

 

 その危うさに、妖しさに、艶やかさに。思わず肩が震える。しかし、彼女との付き合いも一年だ。俺はそれを気取られぬよう、何とか言葉を紡いだ。

 

「光栄です、魔王様」

 

 頭を殴られる音とともに、どこかで間抜けなカラスが鳴いた。

 



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その11

 陽が傾きかけた放課後の教室。奉仕部室の前には見慣れた茶髪と黒髪の女子二人が肩を寄せ、教室の中を覗いていた。耳を澄ますと教室からは二つの甲高い声が聞こえてくる。どうやら男女が一人ずつ奉仕部室にいるらしい。

 

 教室内の謎の二名の声を聞いた瞬間、背筋を嫌な予感が伝った。

 

「ぬわーーーーーーっはっはっ!我こそが八幡の前世からの因縁の宿敵、強敵と書いて友と読む。知る人ぞ知る天下の剣豪将軍、材木座義輝なりぃぃぃぃぃぃぃぃぃ!」

「わー!将軍君面白-い!コートかっこいー!」

「そうであろうそうであろう。八幡の悪口トークでも盛り上がれるとは、陽乃殿も中々わかっているではないか!」

 

 中二マックスの材木座義輝とノリノリの雪ノ下陽乃。いつもの奉仕部はこの上ないカオス空間と化していた。

 材木座の切る口火に、雪ノ下陽乃は乗っかる。

 

「そうそうそう!比企谷君ひっどいもんね!まじで人格的にも、道徳的にも。性根のひねくれ方が毛根に出てるんだよ!」

「その通り、その通りだ陽乃氏!聞いてくれ、この間も体育の時間に八幡ときたら――」

 

 そこから材木座の俺(体育の「好きなやつとペアになれ」という地獄の号令)に対する愚痴が始まり、陽乃さんはやはりニコニコとそれを全肯定している。

 察するに、何らかの用事で奉仕部に来た材木座と年中暇な陽乃さんが鉢合わせた、と言ったところか。察したくなかった。断じて察したくなかった、こんなsan値爆上がりの突っ込み不在の世界。

 隣の雪ノ下と由比ヶ浜も、部室内の光景に口を開けないようだ。雪ノ下に至っては関わりたくないオーラをガンガンに出しているが、部長としての役目との板挟みになっているようだ。流石は責任感と自尊心の塊。乙!

 

「将軍君仲いいんだねぇ、比企谷君と――で、将軍君は何でここに来たの?」

「ふ。よくぞ聞いてくれた、陽乃氏。我が今日ここに馳せ参じたのもこれが理由よ!これを読んで正直な感想が聞きたくてな!」

 

 バッ。春にも関わらずロングコートを翻す巨漢、材木座義輝は、机の上に分厚い原稿用紙の束を叩き付け、なぜか胸を張る。

 

「あっ、すごいすごい!将軍君一人でこんなに文章書けるんだ!?小説家さん志望かな?……ねね、これ読んでみてもいい?」

「ぬ?構わん構わん!八幡では我の高尚な作品は理解できないようなのでな!是非第三者の貴殿にも、忌憚のない意見をよろしく頼もう」

「やったー!お姉さん楽しみだなー」

 

 先ほどまでの明るい雰囲気とは一転、陽乃さんはパラパラと無言でそれに目を通す。

 

 当の材木座はと言えば、先ほどでは流れとキャラ的に大きなことを言っていたが、所詮あれらの言動は設定だ。持ち前の速読術で分厚い原稿用紙を流すように読み進めていく陽乃さんを前に、彼の額には脂汗が浮かんできた。その巨体をもぞもぞと動かし、時とともに段々と縮こまっているようにすら感じる……つーかこの人読むのまじ早い。もうジャンプの編集並み。美少女高校生二人組が漫画家を目指す小説でも書けば、案外ウケるんじゃないだろうか。ばくまん!

 

「おい、どういう状況だこれは」

 

 あまりの空気にいたたまれなくなり由比ヶ浜に問うと、彼女もこちらに振り向き目を泳がせ、雪ノ下が相槌を打つ。

 

「し、知らないよ!あたしとゆきのんが来た時にはもうこの状態になってたし、なんか陽乃さんノリノリだし……」

「ええ、私たちが来たのも比企谷君と大して変わらないわ。姉さん、あんな得体の知れない男となぜ……比企谷君、あの男は誰?」

「知らん」

 

 雪ノ下の質問に顔を背けつつ答えると、二人から怪訝な視線を送られる。

 

「え、でもヒッキーの知り合いなんでしょう?さっき『八幡と宿敵のなんたら~』とか言ってたし」

「知らない」

「……私も彼の口からあなたの名前を聞いたけれど」

「知らないったら知らない」

 

 駄々をこねるように繰り返す俺に、二人から冷たい視線を感じる。しかしそれすら俺は無視する。知らない。知らない知らない知らない。知りたくないし関わりたくない。

 

「材木座君」

「ひゃ、ひゃい!」

 

 部室内では突然陽乃さんの問いかけに、材木座は瞬時に背筋を伸ばす。そうしたくなる気持ちはわからんでもないが……剣豪将軍設定はどこいった、おい。

 

「えーっと……異能の力に目覚めた主人公が、かわいい女の子たちを無自覚に誑し込みながら俺TUEEEEする、でいいのかな?」

「は、はい……」

 

 彼女は彼の小説を読む上で、この上なく正確なまとめをする。材木座の書くラノベは細かな設定の違いはあれど、いつも大筋はそんなもんだ。

 先ほど材木座は俺の彼のラノベへの感想に文句を言っていたが、それも仕方ない。いつも同じなのだ、あいつの小説は。同じようなストーリーで同じようなキャラで、同じようなつまらなさ。もう金太郎飴かってくらい同じ。一個の壊れた引き出しでいつまで戦うんだ剣豪将軍よ。そろそろ新しい技を覚えろ剣豪将軍よ。そのくらいしか言うことがない。

 

 さて、彼女の感想はどんなものだろうか。それは俺も些か気になった。陽乃さんはふんふんと幾度か頷く。材木座は死刑宣告前の囚人の如く血走った眼を見開き、その時を待つ。

 

 ごくり。材木座のそんな音が聞こえた瞬間、陽乃さんは立ち上がった。

 

「面白いよ将軍君!」

「……へ?」

 

 突然の彼女の勢いに押されるように、材木座は体ごと椅子を引く。

 

「主人公がどんどん強くなるところとか爽快だし、少年漫画の主人公が全能になるとこだけ切り取ってるみたいで気持ちいい!人気出るよ、これ!」

「そ、そうだろうか?」

 

 目の前の絶賛を信じられないのか、材木座は聞き返す。陽乃さんは人差し指をピンと立て、ズイと材木座に近寄る。

 

「うん、そうだよ!人間的に破綻してるこんなガキになんで女の子が好意を見せるかわかんないけど、そこも世のモテない青少年たちの需要に応えてるよ!実体験があるとやっぱりリアリティが違うね!さすがぁ!」

「い、いやぁ、それほどでも……」

 

 待て材木座、だいぶディスられてるぞ。俺もお前も、世の青少年たちも。

 

 照れる材木座は、しかしすぐに現実に戻り、肩を落とす。

 

「で、でもネットの連中にはご都合すぎワロタwって……」

「これをボロクソに言うなんて、ネットで文句だけ言ってストレス発散する人間じゃない?材木座君の小説は悪くない。おもしろい!自信もって!」

「……本当だろうか?」

「ほんとに!だいじょぶだいじょぶ、君の小説は最高だ!サイトに載せれば一瞬で高評価だらけ、書籍化作家待ったなし!」

「――じゃあ可愛い声優さんとも結婚できますか?」

 

 これまで滑らかに動いていた陽乃さんの口が初めて止まり、座ったまま上目遣いを送る材木座を見据える。よく見れば彼女は後ろ手で思いっきり自分の腕をつねっていた。

 彼女の強化外骨格を最初に壊すのは、材木座かもしれない。なんか嫌すぎる。

 

「ぷ、く、ふ……で、できるよできる!顔と体と心が無理でも、金と名声さえあれば女なんてちょろいもんよ!特に声優とかやって自己顕示欲と承認欲求がカンストしてるような連中なら、なおさら楽勝だよ!」

「ほ、ほんとに?」

「ほんとにほんとに!」

 

 沈黙が奉仕部室を包む。チクチクと部室内の時計の秒針だけが音を刻む。材木座はわなわなと体を震わせ、握りこぶしを作り、そして。

 

 爆発した。

 

「うおーーーーーーーーーー!我は書籍化作家にだってなれるぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅ」

「おーーーーー!」

「ネットの奴らに見る目がないんじゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」

「そうだそうだーーーーー!ニートどもがーーーーーー!」

「すぐにでも声優さんと結婚できるぅぅぅぅぅぅぅぅぅ」

「できるよ!将軍君ならできる!世界に力を見せつけてやろーよ!」

「「おーーーーーーー!」」

 

 10分で教室に新興宗教が生まれていた件について。

 

 洒落にならない。

 

「健全な学び舎の一角で、洗脳作業に精を出すのはやめてもらっていいですかね」

 

 流石にこれ以上は見ていられない。俺はドアを開け、ドン引きした様子の雪ノ下と由比ヶ浜も続く。

 陽乃さんは俺たちの存在に気付いていたのか、大して驚いた様子もなくあざとく頬を膨らます。

 

「む、失敬な。洗脳は暴力的手段を用いて心を支配する方法論だよ。私がやったのはマインドコントロール。そんな野蛮な代物と一緒にしないでもらいたいね」

「……じゃあマインドコントロールって何ですか」

「話術で心を支配すること」

「ほぼ同じじゃねえかおい」

「だって将軍君おもしろいんだもーん」

「理由になってないんだよなぁ……」

 

 俺の突っ込みも空しく宙に浮き、彼女はあっけらかんと笑う。この女、碌な死に方しねえぞマジで。

 

 部長としての意義を思い出したのか、今度は雪ノ下が陽乃さんに尋ねた。

 

「ね、姉さん。そちらは?」

「ああ、彼はね――」

 

 陽乃さんが材木座のほうに振り替えると、

 

「書籍化印税がっぽがぽ……アニメ化知名度うなぎ上り……声優さんと結婚……あんなことやこんなこと……デュフフ……」

「だ、だいじょぶかなこれ……なんか目いっちゃってるけど……」

「大丈夫だ。確かに洗脳じゃない。ただの煩悩だった」

「だからマインドコントロールだってば」

 

 材木座の様子を見て二、三歩後ずさる由比ヶ浜に相槌を打つ。当然最後の訂正は無視。

 材木座は今、慣れない美女からの全肯定でトリップしているだけだろう。なら、現実に戻してやればいい。俺は材木座に耳打ちする。

 

「初めてきた感想が信じられないほど正論の上、文章やストーリーともにボロクソに書かれ、一話で感想受付を停止したペンネーム『黄泉への階段』君。起きろ」

「ぐ、ぐは!?正論は、正論で我をぶつのはやめてええええええ――」

 

 がばっ。材木座の目の焦点が合い、目の前の俺を見てふひっと鼻で笑う。いちいち動作がうざいなこいつ。

 

「って八幡ではないか……ふふ、悪いが我は貴様のような陰キャ童貞にかまっている暇はないのだ……・綺麗なお姉さんにひたすら肯定してもらう至福の夢の続きが、我を待っているのだ……のだ……これでいいのだ……」

「夢と言えば夢だな。現実はただの暇で性悪なだけのドs大学生――いってぇ!?」

「はい比企谷君お口チャック」

 

 陽乃さんが笑顔で俺を殴り、場の収拾がついた。今グーだったのは気のせいでしょうかそうでしょうか。

 

「はぁ……で、材木座君?だったかしら」

「う、うむ」

 

 場の空気が整ったところで奉仕部の面々がいつもの席に座り、陽乃さんは壁にもたれかかる。

 

「奉仕部への依頼なら、ご用件をどうぞ」

 

 

『自分の書いた小説への正直な意見を貰いたい』

 

 

 キャラに合わず、材木座は簡潔に奉仕部への依頼を述べた――というか、雪ノ下が無理矢理簡潔にした。彼女は材木座の話が横道に逸れる度に短く言葉を発し、その怜悧な視線を容赦なく向けた。

 彼女曰く、

『その話し方不快だからやめて』

『話をするときは相手の目を見なさい』

『人にモノを頼むときは、簡潔に結論から述べなさい』

 

 材木座を全肯定する姉と、全否定する妹。姉妹でここまで正反対の選択を取るものかと、俺は感心を通して呆れかえったものだ。雪ノ下の罵倒のたびに巨漢を震わせて俺に抱き着いてくる材木座は別として。重い重い重い。二つの意味で。

 

 

 

 




材木座編後三話毎日投稿


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その12

「はー。君にも友達とかいたんだねぇ」

 

 材木座の依頼の帰り。結局彼の依頼は奉仕部で正式に受理され、一週間後に彼の小説への感想を持ち寄ることになった。陽乃さんは材木座の小説のコピーを片手に、感心したように頷く。

 

「俺には友人という概念が存在しないような言い方やめてもらっていいですか……ついでに材木座は友人でもない」

「そう?でも彼は君を頼って奉仕部に来たように見えたけど」

「体育の時に余りもん同士組まされた程度の縁ですよ――あんたのような人間にはわからないでしょうが、ぼっちってのは他のぼっちを見つけると、途端に安心するもんです」

「……ぼっちってめんどくさいね」

「ほっとけ」

 

 勘違いする人間がたまにいるが、ぼっちが怖いのは一人でいることではない。真に恐れるのは集団の中で、自分だけが独りでいることだ。だから『自分と同じで集団の中で独りの人間』を見つけると安心する。それだけの話だ。

 スマホも音楽プレイヤーもある現代、一人でも時間はいくらでも埋まる。だが、他者の視線や自意識だけはどうにもならない。現に飲食店や大学の食堂のいくつかでは、一人用の仕切り席を設けている所もざらにある。

 絶対的な一人は問題にはならないが、集団との相対的な独りは問題になる。それがぼっちだ。かく言う俺もまだ他者の目が気になり、昼食時にはベストプレイスに逃げている。真に孤独を愛するぼっちへの道は、まだまだ遠いのである……一生遠いままでいいな、その道。

 

 と、そんな我々の心境を、この人に理解して欲しいとは思わない。陰キャが陽キャに求めることはただ一つ、不干渉だ。やっているゲームとか聴いている音楽を陽キャに弄られるのはきつい。いや、本当にきつい。

 

 そんな俺の心境を知ってか知らずか、彼女はそうそう、とあからさまに話を変える。

 

「で、結局君たちは材木座君の依頼を受けるんだね」

「まあ部長が決めたことですし。特に断る理由もなかったからじゃないですか」

「断る理由がない、か」

 

 彼女の言葉が少し詰まり、眉が下がる。

 

「少なくとも私は雪乃ちゃんがこの依頼を受ける意味がないと思うけどね。ガハマちゃんとか君だけのほうがまだ適性がある」

 

 その言葉を、思惑を。俺はなんとなく予感していた。

 

「……理由はあるんでしょうね。あんたのことですし」

「まあね。例えばほら――こないだテニス部のなんとかって子からの依頼、あったって言ってたでしょう?」

「ああ、戸塚ですね。はい」

 

 先日の戸塚のテニスの技量向上の依頼を思い出す。陽乃さんは珍しくいなかったが、あれもなかなかハードな案件だった。彼女は事の顛末を聞き、自分がいなかったことに随分悔しがっていたものだ……断じてそんなに面白いものではなかったが。

 勿論俺がラブコメよろしく女子二人の更衣室に闖入したことは、死ぬ気で秘匿している。由比ヶ浜と雪ノ下に土下座までして口止めしてある。ばれたら死ぬ。その確信が俺の軽い頭を必死に下げさせたのである……いやマジで。

 

「そうそう。戸塚君だ、戸塚君。女の子並みにかわいい男の子、だったっけ?私もみたかっ――」「――女子より可愛いです」

「……へ?」

 

 陽乃さんはポカンと口を開け、珍しく間抜け顔をさらす。

 

「え?お、男の子なんだよね?」

「違います」

「……え、えっと、やっぱり本当は女の子?なのかな?」

「戸塚は戸塚です。女子より、何より可愛い存在です。あんたも会ってみればその曲がった性根が浄化されると思いますよ。こないだなんか俺が一人で飯食ってたら、後ろから冷たいジュースの缶首に当ててきて、『えへへ。ひっかかった』って笑うんですよ。その時の笑顔と来たら、他に例えるものがないような――」

「――ごめん、私が悪かった。戸塚君がいかに可愛いかは分かったから。だからその気色悪いにやけ面やめてもらっていいかな。じりじり近寄ってくるのやめてもらえるかな。ほんと、わかったから」

 

 ここにきて陽乃さんと俺の距離が過去一番に広がった。物理的にも、精神的にも。やったぜ、今度からこの人がうざくなったらこの手でいこう。

 道路の端に寄った彼女は咳ばらいをいくつか、パンと手を叩く。

 

「え、えーっと……そう!比企谷くんがクラスのリア充二人相手にテニスで立ち向かい、雪乃ちゃんの足を引っ張りまくったあれね。お姉さんもその無様な姿見たかったなぁ」

「ひでえ言われようだなおい――まあ実際は、足を引っ張ることすらできなかったんですけどね。俺が例えかかしでも、あいつ一人で勝ってましたよ……体力さえあれば」

「あはは、違いない!あの子の弱点はなんといっても体力の無さだからね。もうお姉さんも心配になっちゃうくらい」

 

 それでも。彼女はどこか遠くを見て続ける。

 

「それでもサッカー部のエースと元テニス部を、ほぼ未経験者の雪乃ちゃんが圧倒する。できちゃうの、あの子にはそういうことが」

 

 陽乃さんはタタタと俺の前に小走りで駆け寄り、そのロングスカートをくるりと翻す。

 

「何でもできる雪乃ちゃんは出来ない人間の気持ちも葛藤も、わかりようがない。だからこういう依頼を受ける意味がない。わかるかな?」

 

 彼女の言いたいことは、頭では理解できる気がした。雪ノ下雪乃は普通ではない。尋常ではない。雪ノ下との付き合いが短い俺でも、それを肌で感じていた。

 

 しかし、それをあんたが言うか。

 

「……そんなのあんたも大して変わらないんじゃないですか?」

「ん?どゆこと?」

「できない人間の気持ちなんてわからないでしょう。あんたも」

 

 そう。彼女こそ、その気持ちはわかるはずがない。俺はそれを確信していた――いや、確信してきた、この一年で。

 雪ノ下陽乃に付き合って一年。雪ノ下陽乃には凡そできないことは無い。俺は知っている。勉学でもスポーツでも人間関係でも、彼女は最高のレベルでこなす。

 

「私は誰よりもわかるよ、できない側の気持ち」

 

 しかし彼女の口から出てきたのは短い否定だった。彼女は形だけの笑みを浮かべ、言ってのけた。

 

「だって雪ノ下陽乃は、つまらないほど凡人だもの」

 

 俺は今、自分がどんな顔をしているかわからなかった。彼女は何をして凡人を定義するのか。誰を凡人と称すのか。

 

 だから俺はいつものように、動揺を誤魔化すように。口の端を持ち上げるしかなかった。

 

「――スポーツ万能容姿端麗コミュ力お化けのクソリア充が何言ってんですか。あんたそろそろ刺されますよ、全国のボッチから。主に俺を筆頭とした」

「だからリア充に親でも殺されたの?君は」

 

 彼女は呆れたように嘆息を吐き、肩までの黒髪をかき上げる。チリリン、と後ろから自転車のベルが鳴り、自然と彼女は俺に体を寄せる。

 

「……君との付き合いも一年か。君の私への決定的な誤解はそこにあると、お姉さんは思うな」

「誤解、ですか」

「うん」

 

 そもそも俺も彼女も、互いのことは大して知らないとは思う。一年付き合ってはきたが、会う場所は決まっていた。互いの家にも行ったことが無い。家族にもほとんど会ったことは無い。

 何より、互いに踏み込むことは無かった。物理的にだけではなく、心理的に。だから一年間続いた。多分彼女もそんなことは承知だろう。俺も承知の上だ。

 

 だが。俺は首を振る。彼女のその自己評価は、流石に認めかねる――凡人。彼女はそんなものとは全然、遥かに、最も遠い。

 

 しかし彼女は、そんな俺の内心をあくまで否定するように、自己を評価する。

 

「正しい労力、濃密な時間、莫大なお金。私の『天才性』には純然とした理由があって、再現性がある。だから私は天才には程遠い。どこまでだって凡人なの」

 

 わかる?すぐ横の彼女は俺の顔をのぞき込み、諭すように言い聞かせる。

 

「これは傲慢と取られて一向にかまわないけどね、比企谷君。世間一般の言う努力なんて、私に言わせれば的外れの徒労でしかない。凡庸なはずの雪ノ下陽乃に具わる『天才性』が、その傍証になるでしょう?――性質は違えど、誰だって私程度にはなれる、本当は」

「……あんたは俺から見れば、十分恵まれている」

 

 思わず漏れ出る抵抗に、彼女うんー?と間延びした声で答える。

 

「それは例えば、どんな面の話かなぁ?」

「……まあ、運動神経、記憶力、容姿とかのあらゆるパラメーターで、ですかね。性格以外の」

「比企谷君、ぶっ飛ばされたいならそう言いなさい?」

「ごめんなさい」

 

 茶化すしかない俺に、彼女は大きく嘆息した。

 

「私が思うに、君は天才と才能程度のものをごっちゃにしてるんだ、多分」

 

 天才と才能。口の中で言葉の響きを転がしてみるが、やはり少し納得いかない。陽乃さんは今度は俺ではなく、前を見て呟くように続ける。

 

「背の高さ、手足の長さ、動体視力、瞬発力、脳の処理能力、記憶力、音感、親の経済力や家柄――ある程度先天的に人に付随するアドバンテージは、全部才能だよ。そういう観点から見れば、なるほど私には才能がある」

 

 そう、彼女には紛れもなく才能がある。そんな無数のアドバンテージが要素となって彼女を天才足らしめている。俺はそう思ってきた。

 

「でも天才にはそんな些末な要素は必要ない」

 

 能力にはその人望、能力、容姿に見合った才能が存在する。雪ノ下陽乃はそれを否定しない。

 しかし彼女は言う。天才は――いや、違う。俺はそれは確信できた。彼女が見ているのは、引き合いに出しているのは、妹だけだ。雪ノ下雪乃の天才性は、雪ノ下陽乃の持つあらゆる才能すら歯牙にかけない。

 

 その諦観を帯びた瞳に、ため息に、俺は軽い返事を返すことができない。

 

 なぜなら俺はそんな風に諦めた雪ノ下陽乃に、憤りを感じていたから。

 

 雪ノ下陽乃以上の何かなど、やはり俺が納得できない。認められない。

 

「――やっぱり誤解してるよ、君は」

 

 陽乃さんは駄々をこねる子供をあやすように柔らかく、慈しむように微笑んだ。

 

「納得できないなら、少し具体的な話をしようか。例えば――雪乃ちゃんが長続きしたスポーツ、武道、芸術は一つもない。なんでかわかる?」

 

 その理由は、戸塚のテニス部の依頼で雪ノ下自身から聞いたところだった。俺が彼女の近くにいて予感したことだった。

 だが、答えたくない。やはり諦めたように笑う彼女に、俺は瞬間的にそう思った。

 

 幸いなことに、陽乃さんは俺の返答すら気にせずに続けた。

 

「半年とかからずにコーチを超えちゃうから。あの子に教え、あの出鱈目さにあてられた何人かは、その道から足を洗いもした。

これはね、比企谷君。こんなことは才能程度のものがいくらあっても、ありえないんだよ。だって――ある分野で秀でた才能が他の分野では足を引っ張ることなんて、普通にあるから」

 

 分野によっては、高身長が前提になることがある。身長が低くなくてはならないことがある。癖のある自我が武器になることがあれば、強すぎる協調性が弱点になることもある。

 しかし何に対しても最高のパフォーマンスを発揮できる人間には、そのようなあらゆる前提が通用しない。彼女はそう言いたいのだろう。理解はできる、理屈としては。

 

 だが。

 

「だけど」

 

 皮肉にも、俺と彼女の否定が重なった。

 

「だけどね、雪乃ちゃんは違う。極端に体躯に恵まれているわけでも、強靭な精神を持っているわけでもない。端的に言ってしまえば――あの子にはあまねく分野において、秀でた才能なんて無い。

でも文字通り、雪乃ちゃんは『何でもできる』 才能なんて要素は、一個の天才の前では些末な事柄に過ぎない。自分の能力を証明するための言い訳に過ぎない――全く、馬鹿げてるよ。嘘みたいな理不尽が、理由のない天才が、この世には確かに存在する」

 

 私はそれを知っている。そう続ける彼女の横顔は、わざとらしいほどに穏やかだった。既に幾度も諦めたように、敵意も戦意も嫉妬も読み取れない。

 

「その反面、器はぐらぐらで脆い。挫折をしたことがないから、精神が育たない。精神が育たないから、その天才性を正しく使えない。他者の痛みも弱さも挫折も、今一つあの子には実感が湧かない。寄り添えないし、味方を作れない。そもそもあの子にはそんなもの必要ない――天才過ぎることが雪乃ちゃんにとっての一番の不幸だと、私は思うな」

 

 もともと俺に理解を求めていないのか、彼女は暮れかける空だけを見上げて零した。俺は俺で、彼女のその言葉に妙に納得し、心の内で反芻する。

 

 妹を前にした雪ノ下陽乃は、奉仕部室での彼女は。どう考えてもおかしかった。いつでも厚い仮面を被り周囲を手玉に取る雪ノ下陽乃の、不自然な妹への執着、確執、愛情。俺といた一年では決して見せることのなかった、なんといえばいいのだろうか。そう――雪ノ下陽乃の、らしからぬ人間臭さ。

 

 つかえていた違和感が、すとんと胸に落ちた気がした。

 




都合上、材木座と戸塚のお話が時系列的に前後し、テニス部案件は回想です。戸塚推しの皆ごめんね。こんな長くなるなら戸塚の方で書けばよかった......

あと2話


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その13

 

「っと、脱線が過ぎたね。だから雪乃ちゃんは、将軍君の依頼に合わない」

「できないではなく合わない、ですか」

「うん。これは善悪じゃなくて、相性の問題だよ。将軍君の需要と雪乃ちゃんの供給が合ってないんだ」 

 

 だってさー。パラパラと材木座の原稿をめくり、雪ノ下陽乃は平坦につぶやく。

 

「将軍君、別にこれに本気なわけじゃないでしょう?」

 

 その言葉は、怜悧でもなければ辛辣でもなかった。ただの事実を彼女は淡々と口にする。

 

「私はラノベなんて読んだことないけど、これはとても人に伝えるための文章じゃない。あまりにも稚拙すぎる文章に、矛盾だらけで共感なんて全くできない登場人物の心情。唐突すぎる展開。面白いとか面白くない以前に、彼以外にはこれを理解できない。

……ああ、勘違いして欲しくないんだけどね。別に私はそれが悪いって言ってるわけじゃないんだよ。努力の動機づけなんて個人の自由だし、全ての夢に本気で努力する必要なんてない。夢を息抜きにするのも、承認欲求を満たす材料にするのも、等しく正しい」

 

 コン。彼女はなにとはなしに道端の石を蹴り、下水に落ちる。一連の路傍の石の一生を冷たい目で見届ける。

 

「でも、雪乃ちゃんは違う。あの子は誰よりも律儀で天才で、それ故に努力の分だけ――ううん、努力以上の成果が必ず出る。

だから雪乃ちゃんはこの文章も本気で添削する。辛辣すぎる指摘をする。あの子はそれが本気で将軍君のためだと思っている。その考え方はとても正しい。

でも、それになんの意味があるのかな。本気じゃない将軍君に雪乃ちゃんが本気で応えて、彼は折れるかもしれない。もう文章を書かなくなるかもしれない。ズレた需要と供給の果てに、そんなものをわざわざ雪乃ちゃんが背負う必要はない」

「でもそんなのは、あんたが決めることじゃない……ちょっと過保護じゃないですかね」

 

 つい口が出た。彼女は極力他者の人生に干渉しようとしない。相談には乗るし力も貸す。だが他者の人生の方向性を決めてしまうことも、決めつけてしまうことも無い。

 

 陽乃さんは僅かに息を漏らし、俯いて立ち止まる。

 

「かもね。でも現に雪乃ちゃんはそうやって敵だけを作って、一人で生きてきたんだ。今までの16年間ずっと。正しいだけなんだよ、あの子は――だから姉として、ちょっとは口も出したくなってもいいんじゃない?」

「……じゃあ、材木座は何を求めて奉仕部に来たと思いますか?」

 

 彼女は材木座は本気ではないと言う。故に雪ノ下と噛み合わない。ではなぜ彼は今日、奉仕部に来たのか。

 

「ん?そりゃあ『今日の私』でしょう」

 

 問いに対する答えは明快で、今度こそ彼女らしく合理的だった。

 

「自己顕示欲と承認欲求を満たすため。本気じゃない彼に私が見出せる理由はそれくらいかな。わざわざ奉仕部に来たのも『面と向かっては酷評しづらいだろう』なんて、彼は考えてるのかもね――比企谷君」

 

 頬に冷たい感触が触れた。横を見れば陽乃さんはしたり顔で人差し指を立て、ニシシと笑っている。

 

「私はね、無駄なことはしないんだよ」

 

 You understand?

 

 その問いに、適当な応えを返せない。

 

 彼女は言った。自分は天才たり得ない。凡人たる自らと天才の差を説いた。

 彼女は言った。天才は天才故に不幸になる。天才たる妹の行く末を憂いている。

 彼女は言った。彼は夢に対して本気ではない。凡人の気持ちを理解している。

 

 雪ノ下陽乃の言葉を反芻し、それら全てに俺が思うことは一つだった。

 

「陽乃さん、あんたは」

 

 止まる彼女の脚に合わせたわけではない。自然と俺の脚も止まり、自転車のハンドルを強く、強く握る。

 

「あんたは自作コスプレをして、鏡の中の自分に酔ったことがありますか?」

 

 当然、沈黙が降りた。

 

 横を見ると陽乃さんはこれ以上ないほどに目を瞠り、右脚を斜め後ろに引いていた。

 

「……いや、ないけど。いきなり何?」

「世界のために政府報告書を綴ったことはありますか?」

「は?なにそれ」

 

 間髪入れずに問いを続けると、今度は彼女の左脚が斜め後ろに下がる。おい、引くな。これからだろうが。

 

「自分は神から祝福を受けていると思ったことはありますか?」

「ちょ、ひ、比企谷君?」

 

 震える彼女の声にかまわず、俺は続ける。

 

「気になる子の下駄箱にポエムを書いて入れたことは?」

「気になる子にポエムなんて書いたらフツーに嫌われるでしょ……」

 

 くそ、もっともすぎる。ありえない程の正論に崩れ落ちかけながらも、最後の問いを振り絞る。

 

「あんたは、自分は特別な人間だと信じたことがありますか?」

 

 俺の問いに、初めて雪ノ下陽乃は止まった。

 

 一瞬の間。くつくつと喉で笑う音が聞こえる。思わず横を見ると、今度は思ったより近くに彼女の顔があった。その距離のまま彼女は俺の目を見て言う。

 

「それならさっき言ったでしょう」

 

 その口は、いつかの病室のように三日月に歪む。

 

「そんな無駄なことをする時間は無かったよ」

 

 二十年間ずっと。

 

 彼女の長い二本の指が、俺の頬を妖しく撫でた。

 

 雪ノ下陽乃は――凡人を自称する彼女は。二十年もの間勝ち続け、ひたすら積み上げることを自らに課している。寄り道も回り道も彼女はしてこなかった――いや、できなかった。俺はその薄気味悪い存在に、心底安堵する。

 

「そうですか、安心しました」

「何が?」

 

 俺の心からの言葉に、表情に。彼女は怪訝な視線を返す。そう、何でも分かった気になってもらっては困る。

 

「自称凡人程度のあんたじゃ、中二病患者の言動も思考も、理解するには遠過ぎると言っているんです」

 

 彼女は化物で、俺たちとは違いすぎる。凡人を自称する彼女は、どうもそれを理解していない。

 陽乃さんは目を細め、感心したように幾度か頷く。

 

「……へぇ。言うじゃない。比企谷君にとって材木座君って、そんな大事なお友達だったんだ」

「違います。最初に言ったでしょう。アレは関係ない。というか関わりたくない。体育のたびに捨てられた子犬みたいに見てくるな気色悪い」

「外道じゃん……」

 

 あんたに言われたくねえよ。軽口を飲み込み、続ける。

 

「あいつのことはどうでもいいです。でも」

 

 そう。これはいつも通り、俺だけの問題だ。材木座義輝も雪ノ下雪乃も関係ない。ぼっちたる俺の目に映る問題は、いつだって俺のものでしかない。他でもない俺が、分かった気になっている雪ノ下陽乃に突っかかりたくなった。それだけだ。

 

「何も知らない人間に、過去の自分を知ったように語られる謂れはない」

「絡むね、やけに」

「先に絡んでくるのはあんたでしょう、いつも」

 

 んー。彼女は少しの間唸り、思案する。

 

「君はつまり――彼は自己顕示欲も承認欲求も満たしたいわけではなく、本気で作家を目指している、と言いたいのかな?」

「そんなわけないでしょう。あれで作家になれるなら今すぐ俺でも売れっ子作家ですし――いえ、そうですね。あんたの言葉を借りるなら、あんたの最大の誤解はそこにある」

 

 そう。俺が彼女を誤解するように、彼女も誤解している。曲解している。正解を出したつもりになっている。

 

「1か0の考え方は人心掌握の面では効率的でしょうが、いつでも有用なわけじゃない。過程と結果が、いつでも物事の最重要事項ってわけじゃない――中二病にそんな高度なこと、考えられないんですよ」

「……へぇ。ちょっとは面白そう。続けて」

「別に面白い話でもないですけどね」

 

 まさか続きを促されるとは思っていなかった。俺は流れのみに身を任せて言葉を紡ぐ。

 

「譲れないもんは誰にだってあって、それは往々にして周囲には理解されない――というかこれはまあ、あんたが自らを『凡人』と称すこと、俺がそれを理解できないのと多分同じで。『中二病』も『天才』も、皆あんたのように葛藤する一人の人間で、各々心中にこれだけはって線引きがある。そして――」「――それをわかった気になられると腹が立つ、か」

 

 理解が早くて助かる。大人しく俺の話を聞き続けた彼女は体をほぐすように伸びをし、バシンと俺の背中を叩く。

 

「じゃあ一週間後。将軍君が来る時、勝負しよっか。比企谷君」

「何をです」

 

 退く気は最初からなかった。それなら最初から、今まで通り。ここまで彼女に噛みついていない。陽乃さんは自らと俺を交互に指差す。

 

「わかった気になってるのは君か私か、それとも両方か」

「いいですよ、やりましょう」

 

 俺の即答に彼女は僅かに目を瞠り、しかしすぐに笑みを取り戻す。

 

「そうこなくっちゃ」

 

 振り返ることなく先を行く彼女を立ち止まって見送る。柄にもなく奮起しているのだろうか、どこぞの剣豪将軍のように鼻息が漏れた。負けるわけにはいかない――いや、負けるわけがない。俺は小さくなる彼女の背中に、心中で投げかけた。

 

 この戦いは、元中二病患者の矜持を賭けたものである。

 

 




少な目なんで連続投稿


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その14

「やあやあ将軍君、よく来たね。お姉さんは歓迎するよ」

 

 材木座の依頼から一週間。彼のラノベへの感想会当日、雪ノ下陽乃は当然のように奉仕部に居た。雪ノ下は額を押さえ、由比ヶ浜は苦笑を漏らしている。

 

「なんでまた姉さんがいるのか、もう一々聞く気もないけれど――材木座君。あなたは部外者がいても構わないかしら」

「うむ、我は気にしない。それに陽乃氏ならまた褒めてくれるし……ふひっ」

 

 材木座は気持ちの悪い笑いを漏らす。うむ、今日もこいつは平常運転だな。いつも通りの気持ち悪さだ。

 

「では。早速本題に入りましょうか」

 

 雪ノ下は鞄から夥しい量の付箋の付いた原稿用紙の束を取り出し、机に置く。原稿用紙は1ページ目から赤ペンで真っ赤になっている。

 それを見た瞬間、材木座の顔色が青くなったような気がした。ドスン、という原稿用紙が置かれる音とともに奉仕部室を静寂が満たす。

 

 そして、雪乃下雪乃の第一声は。

 

「つまらなかった。読むのが苦痛ですらあったわ。想像を絶するつまらなさ。そもそも未完成の原稿を他人に読ませるなんて常識が無いの?せめて完成させてから他人に意見を求めなさい」

「ぐふっ」

 

 1コンボ2コンボ3コンボ。雪ノ下の批評は的確に材木座のウィークポイントにクリティカルヒットし、由比ヶ浜が止めるまで続いた。それでも雪ノ下曰く、10分の1も批評は終わっていないらしい。流石に引く。俺でも引く。

 

 次は、由比ヶ浜。彼女も頑張ってこの1週間読んだ跡は、原稿用紙の書き込みから窺える。それでも栞は3分の1程度の場所までで止まっていたが。睡眠欲に忠実なガハマさんである。

 

「難しい漢字たくさん知ってるね!」

「ぐはっ」

「えぐいなお前……」

 

 容赦ねぇ……ガハマさん容赦ねぇ……純粋さと言うのはかくも人を傷つけるものである。

 

「は、八幡んんんん。お前なら理解できるよなぁ?我の描いた世界の変遷を、前世からの付き合いのお前ならばわかるよな?な?」

 

 期待の目が材木座から向けられる。ああ、当然だとも。俺は彼に対して力強く頷く。そのために雪ノ下陽乃に歯向かいすらしたのだ。安心しろ、材木座。

 俺は材木座の肩を掴み、彼の目をまっすぐに見た。

 

「で、あれなんのパクリ?」

「ひでぶっ!」

 

 彼の巨体ははじけ飛び、仰向けになる。ピク、ピクと時折痙攣したように動く体を雪ノ下と由比ヶ浜が及び腰で見下ろす。

 

「し、死んでる……」

 

 いや、由比ヶ浜。それはここで言うセリフじゃないから。間違ってはないが。

 

 

 

「完成させて来い、といったな」

「ええ、最低限ね」

 

 結局材木座は部活終了ギリギリまで立ち直ることは無かった。雪ノ下と由比ヶ浜がいつものように部室の鍵を返しに行こうとする直前、彼はおもむろに立ち上がり、雪ノ下に言い放った。

 

「我の新作が完成した暁には、また読んで感想を貰ってもいいだろうか」

 

 シン。奉仕部室に静寂が満ちる。またもや雪ノ下と由比ヶ浜は材木座に対して体を引く。

 

「あなた、被虐嗜好でもあるのかしら」

「ドМ……」

「パクリはやめとけよ。重要なのはイラストだからな」

「ぐ、ぐすん……」

 

 ドン引きの女子二人の言葉に、材木座は本気で涙を流す。やめろ、だから捨てられた犬みたいにこっちを見るな。大丈夫、マジで一番大切なのはイラストだから!

 

 雪ノ下は終始情けない材木座に、呆れたようにため息を吐く。

 

「まあ、最低限完成したらいつでも来ればいいわ――完成前の駄文は、そこの男にでも読ませておきなさい」

「う、うむ!八幡、よろしくな!」

 

 俺はよろしく了承した覚えはねえぞおい。

 しかしまあ。縋るように俺を見る材木座を仕方なく受け入れる。俯いたままの雪ノ下陽乃を見て、思う。

 

 雪ノ下陽乃に勝った対価としては、安すぎるくらいだろう。

 

 

 

「ねね、材木座君。君はまだ彼らに、君の小説を読んで貰いたいの?」

 

 部活の時間が終わり、校門から少し離れた場所。部室の鍵を返しに行く雪ノ下と由比ヶ浜より一足先に材木座、俺、陽乃さんの3人は帰路についた。

 

 材木座と別れる直前。陽乃さんの質問に、彼は鷹揚に頷く。

 

「うむ。世の中には彼奴らのように酷評だけする人間もいるだろう。そのような意見を知ってこそ我は更なる高みへと――」「おかしくない、それ?」

 

 その問いに、あくまで設定通りのキャラだった材木座はピタリとその動きを止め、陽乃さんは髪をかき上げる。

 

「あー、めんどくさい。比企谷くんの友達ならいいよね、別に」

 

 俺は彼女を止める気はなかった。ここからは答え合わせの時間だ。彼女の好きにすればいい。

 何も言わない俺、戸惑う材木座をよそに、雪ノ下陽乃は仮面を1枚剥ぐ。

 

「君の文章は、つまらなかった」

「……へ?」

 

 皮肉にも陽乃さんの第一声の感想は、雪ノ下と同じだった。材木座の間抜けな疑問符を無視し、彼女は淡々と続ける。

 

「細かい所がどうとかいう問題じゃない。君の目標が『本を出すこと』か『アニメ化すること』か知らないけど、もしそうなら努力も想像力も見通しも全てが甘い。大勢に伝え、共感させる文章じゃない。この文章は君にしか理解できない」

「は、陽乃氏?どうしたのだ?」

 

 ハ○太郎のような声を出す材木座をまた無視し、雪ノ下陽乃の言葉は止まらない

 

「でも君はこれを他人に読ませようとするし、労力も覚悟も足りないのに酷評を求める。お姉さんにはそれはひどく矛盾した行動だと思うんだけどさ」

 

 材木座に合っていなかった陽乃さんの焦点が、初めて彼に向けられる。

 

「承認欲求の充足。目的への努力。ただの自己満足。君は何を求めてあの部活に来たんだろう。よかったら教えてくれないかな」

 

 1週間前とは豹変した彼女に、材木座は戸惑いの声しか洩らせない。

 

「な、なんかおかしいぞ?先週まではもっと――」

「材木座君。私、物わかりの悪い子は嫌いだよ?」

「ひっ、ひぃ!?だ、だからだな、えっと……」

 

 材木座は本気で助けを求めるように、涙目で俺を見るが、それには首を振ることしかできない。

 

「大人しく答えたほうが身のためだ。この人はその辺のヤンキーの100倍質が悪い」

 

 茶化すような俺の言葉に、陽乃さんからの茶々は入らない。彼女は今、材木座だけを見ている。自分の理解の外にいる生き物を解ろうとしている。

 その彼女の視線に息をのみ、材木座は震える声で何とか切り出す。

 

「は、陽乃氏。貴殿が何を我から聞きたいか、その真意ははっきりとは分からぬ。分らぬが――意見を貰いたい理由、か」

 

 材木座は腕組みし、しばしの間思案する。陽乃さんは珍しいことに何も言葉を発さず、静かにそれを待つ。

 

 チラホラ運動部も部活を終え始めた頃、材木座は重々しく口を開いた。

 

「例えば我は今まで書いた小説で、肯定的な感想をもらったことがない。先日八幡が言ったように、それを気にしないわけでもない。どうせ書くなら褒められたいのは人情であろう?」

 

 それは陽乃さんの理解の範疇だ。自己顕示欲と、承認欲求の充足。彼女はコクリと頷き、材木座は少し安堵の吐息を漏らす。

 

「だが我は結局文章を書くことをやめられなかった。褒められたいし、人気になりたいし、声優さんとも結婚したい。……そういう面では、貴殿の言うことはすべて合っている」

 

 材木座の視線が地面に落ちる。彼は自分の生み出すものが他者に受け入れられないのを知っている。的外れであることを知っている。

 

「だが」

 

 それでも、止められない。俺と彼の否定が重なる。

 

 中二病とは、何かを創ることとは。無駄と矛盾の塊なのだ。

 

「だがそれ以上に、好きで書いた文章に反応があること自体、我にとって愉快だった。だからどれだけ酷評されようと、聞きたくもない正論を並べ立てられようと――また彼らに読んでもらいたい。面と向かって生の人間に感想を貰えるのは、とても嬉しかったから……のだと、思います……はい……はっきり答えられなくてすみません……」

 

 途中まで格好がついていた彼の言葉は、最後には陽乃さんの射抜くような視線を意識したのか、途端に失速する。その情けない姿に、思わずずっこける。中二病なら最後まで格好くらいつけなさい。

 黙って材木座の話を聞いていた陽乃さんは、彼の目を見たまま問い直す。

 

「……じゃあ他人の感想じゃなく、君にとって。君にとってはその自分の小説、どれくらい面白い?」

「う、うーむ……?」

 

 唐突な問いに、材木座は首をひねる。パラパラと自分の原稿を見直し、唸り、なぜかスマホをいじりだし、ようやく陽乃さんに向き直る。

 

「少なくともこれ以上に面白いラノベを、我は読んだことはないな」

「そっか」

 

 どこまで矛盾してるの、君。

 

 どれだけ酷評されようと自らの作品こそ最も面白いと言い切り、それでも他者に感想を求める。理解できない不合理を前に、雪ノ下陽乃は力なく微笑んだ。

 

「そう思えるのは羨ましいよ、本当に」

 

 これからも頑張りなさい。彼女はそう言い残し、ポケットから取り出したusbを材木座に押し付けた。

 

 

 

 中二病は、主観の究極だ。

 

 自分の視点でのみ世界は構成されており、そこに他者の思惑や常識は介在しない。自らの設定で自らの世界に身を置き、満足する。

 だがそれはイコール、他者からの評価を気にしないわけではない。最初から矛盾しているのだ。材木座は独りよがりの文章を書き、それでも作家になりたくて、酷評でも他者の感想が欲しい。本気でそう思っている。そこに合理性は存在しない。

 

 片や雪ノ下陽乃。彼女は、客観の究極だ。

 

 いつでも周りを、己を俯瞰的に眺めることが染みついている。客観的であろうと常に自らに言い聞かせている。

 だから自らを凡人と称し、才能を具体的に列挙し、できることとできないことを理解する。それは他者に対しても同じだ。彼女は過大評価も過小評価もしない。目標を設定したらそこに至るまでの最適な道筋を選び、達成する。そこに主観の入る余地はない。

 彼女はそうやってこれまで生きてきた。いや――生きるしかなかった。俺はそれを知ってる。

 

 先日の俺の問いに、彼女は短く答えた。

 

『自らを特別だと信じたことはあるか』

『そんな無駄なことをする時間は、20年なかった』

 

 ああ、そうか。それを聞いた時、俺は初めてこの人に心底同情し、憐れみ――彼女の境遇に、なぜか筋違いの怒りを覚えずにはいられなかった。

 

 それこそ凡人たる雪ノ下陽乃の、最大の不幸ではないか。

 

 

 

「そういえば」

 

 無言で前を歩く陽乃さんの背中に問いかける。

 

「結局何だったんですか、材木座に渡したあのusbは」

「ああ、アレ」

 

 彼女はつまらなそうに爪をいじり、その磨き具合を確認する。

 

「ここ1年でネット小説で書籍化した作品の文字数、読者層、更新頻度、文章の傾向と、具体的にどんな作品が売れるかの素案」

 

 ……それはそれは。どうやらまだ俺は彼女の化け物ぶりを過小評価していたらしい。

 

「あの、材木座が来てからまだ一週間しか経ってませんけど」

「比企谷君。人間、24時間程度あれば大抵のことはできるもんだよ。やろうと思わなきゃ例え一週間だって、一時間の価値すらない」

 

 このように努力を努力と思わない。それが彼女の化物たる所以なのだが。微妙に話がかみ合っていないことを感じつつ、俺はガシガシと頭をかく。

 

「なぜそんなもんを、あいつに」

「私の定義で将軍君を決めつけたからね。あれは一応用意してた、将軍君と君へのお詫びの気持ちだよ」

「俺への、ですか」

「うん。普段自分のために拘らない君が、珍しく拘ってきたんだもの。そのくらいわかるよ」

 

 つまらなそうに爪を見つめていた彼女は、一転俺の目をのぞき込む。

 

「君だって、将軍君を応援してるんでしょう?」

 

 飲み込まれるような昏い瞳から目を逸らし、俺は吐き捨てる。

 

「……どう考えても文章書くのは向いてないと思いますけどね。声優と結婚したいなら、それこそ声優でも目指したほうがまだ目がある」

「アハハ、そりゃ違いない!将軍君ならそっちのが才能あるし、声優さんとも結婚しやすいだろうしね」

 

 ま、とにかく。ひとしきり笑った彼女は、両腕を大きく広げる。

 

「この世には、私の理解の及ばない変人もいるってわけだ!君や将軍君のように」

「現中二病患者と元を一緒にしないでもらえますかね」

 

 俺の返答に彼女は肩をすくめ、僅かに視線を落とす。

 

 なら、雪乃ちゃんも。

 

 そんなつぶやきが聞こえた気がした。

 

 それを聞こえないふりをして、俺はおどける。

 

「ま、そうですね。あんたにもわからんことがあるとわかって、本当に良かったです」

「あ、ひどーい。そりゃお姉さんだって何でも知ってるわけじゃないよ」

「そうですね。何でもではなく、知ってることだけでしたね」

「……?まあそうだけど……」

 

 この手のネタが彼女に通じないのは当然として。俺の戯言に疑問符を浮かべる彼女に問う。

 

「ついでにもう一ついいですか、陽乃さん」

「ん?いいよ。答えるかはわかんないけど」

 

 別に答えてもらわなくてもいい。材木座は雪ノ下陽乃の理解とは外れていて、彼女はそれを読み違え、俺が勝った。結果は既に出ている。答え合わせも済んだ。

 だが、何かがおかしい。喉の奥に残った僅かな小骨のような違和感がある。雪ノ下陽乃の思惑も材木座の思考も、凡そ俺の理解からは外れていなかった。だが一つ、決定的におかしいことがある。

 

 違和感に気づいてしまったからには、聞かずにはいられなかった。

 

「材木座にあのusb渡した()()()()()、なんですか」

 

 間が空いたのは一瞬だった。

 

 彼女はパチパチと瞬きをし、可愛らしく首を傾げる。

 

「なんでそう思うのかな?」

 

 一瞬答えに詰まる。これは彼女の一週間の時間も労力も否定する言葉だ。本当にあのusbが詫びの気持ちなら、俺は随分と無礼なことを言おうとしている。

 しかし、これは勝負だ。俺は1週間前の会話を思い出す。彼女を少しだけ知った今なら、これくらいは許されないだろうか。

 

 結局俺は、次の言葉を止めることができない。

 

「――あのusbは、無駄でしょう」

 

 どうやらそれだけで伝わったらしい。幸か不幸か彼女は気を悪くする訳でもなく、うんうんと幾度か頷く。

 

「うん、そっだね。将軍君は目的のために手段を講じてるわけじゃない。手段そのものが目的になっている。彼は何より、自己満足のために創作をする。それならあんなものいくらあってもただのゴミだ。何より――」

「――何よりあんたは、無駄なことはしない」

 

 先日の言葉を反芻する。陽乃さんは出来の良い生徒を前にするように、満足げに頷く。

 

 仮に彼女にとってあのusbが詫びの気持ちでも、材木座にとってはただのusbならば、そこには自己満足以上の意味はない。

 そして俺の知る限り、雪ノ下陽乃は自己満足とは最も遠い位置にいる――そうだ。俺は一貫して雪ノ下陽乃という人間を信用している。だからあのusbだけがおかしいのだ。

 

 雪ノ下陽乃のあらゆる言動には、意味が無くてはならない。

 

「ていうかさ」

 

 彼女は半笑いで、俯く俺の目を覗く。

 

「得意のわかんないフリ、もうやめたの?」

「……」

 

 何も答えられなかった。踏み込まず、首を突っ込まず、理解しない。そんなことを彼女と1年も続けてきたのは俺の方だ。

 何より俺自身、なぜ自分がそんなことをするのかわからない。だから彼女に返す言葉はない。

 

「ま、いいや」

 

 黙る俺に彼女は小さくため息を吐き、大仰に声を上げる。

 

「ああ!そこまで分かるならもう少し想像してみて、比企谷君。君は私に言ったよね。将軍君は自己顕示欲を満たしたいだけでも、作家を目指すだけでもないと」

「……まあそうなりますかね」

 

 先日の俺の言葉を抽出するなら、確かにそうなる。彼女は俺の肯定を受け、悪戯っぽく笑う。

 

「そんな彼が万が一私の素案の通りに小説を書いて、作家になっちゃったらどうなるか」

 

 しばし、その未来を想像してしまった。結果。

 

「君にとって、それ以上の皮肉はないでしょう?」

 

 ――最悪だった。

 

 のぞき込む瞳から自然と目を外す。だが、それは。それでは俺と彼女の『勝負』は、それこそ材木座が作家になるまでつかない。それまで答え合わせができない。自然と抗議の言葉が口をついて出る。

 

「なんかずるくないですかね、それ」

「女の子はずるいものだよ、比企谷君」

 

 彼女は指揮者よろしくくるくると指を振り、俺を背にして言う。

 

「私は、負けのある勝負はしない。そのための下準備を努力と言うの――そもそも雪乃ちゃんも君も、真面目過ぎるんだよ。勝敗なんて究極的には二分の一でしかない。どんな天才だって神様だって、二分の一でしか勝てないのは当たり前じゃない?」

 

 You understand?

 

 先日と同じ英文が繰り返される。俺は半ば照れ隠しに、そっぽを向いて吐き出すしかない。

 

「――戦いは始まる前に終わっている」

 

 つまり俺は、勝ってなどいなかったのだ。最初から最後まで。

 

「That’s right!よくできました。天は二物どころか三でも四でも一人に与える。だから天才は確かに存在する――でも、勝敗に関してはいつだってどこまでも、凡人も天才も関係ない。自らの運命は、自らで切り開くものなのであーる!」

「うわうぜえ」

 

 ここぞとばかりに回る口に、俺は思わず眉をしかめる。そんな俺を面白そうに彼女は眺め、思い出したように呟く。

 

「万が一将軍君が私の素案で小説家になったら、印税貰えるかな?ほら、ゴーストライターとかで脅迫して」

「悪魔じゃねえか」

 

 なお悪魔のごとき思考を展開する彼女に、俺はホールドアップする。

 

 雪ノ下陽乃は、自らを凡人と称す。更に病的なまでに天才を崇める。俺はそれに憤りを覚えた。認めたくなかった。

 なぜなら俺にとって雪ノ下陽乃という存在は、何にも劣ることのない化物だったから。それは初めて会った病室から変わることは無い。

 だから妹を天才と讃える彼女を許容できなかった。今回こんなことをしたのも、それが一番の要因だった気がする。

 

 しかし。俺は今一度彼女の言葉を一つ一つ思い出し、拾い直す。

 

 彼女はただの一言も、凡人は天才に勝てないとは言わなかった。自らが妹に劣るとは言わなかった。いつでも積み重ね続ける雪ノ下陽乃の労力は、時間は、準備は。天才も、神様ですら歯牙にもかけない。

 

 俺も分かった気になっていたのだろうか。

 

 ふと思い、呟く。

 

「あんたが印税を貰うなら、俺はあんたから材木座の紹介料貰えますかね」

「君も大概じゃない」

 

 今度こそ呆れたように額を押さえる彼女を前に、俺は再認識し、胸を撫で下ろしていた。

 

 やはり雪ノ下陽乃は、化物である。

 



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その15

「わんわん!ガウガウ!バウバウ!ほらほら比企谷君、こっちこっち!」

「いや、俺こっちの鳥コーナー見てたいんですけど」

 

 尻尾をブンブンと、そりゃあちぎれんばかりに振る巨大な犬の前で、陽乃さんは目を輝かせる。

 

 しかし生憎、俺は別に犬は好きでもないのだ。それよりも先ほどから俺の目を釘付けて止まないものがある。あ、今も翼バサバサってやった。くそかっけえ、なんだあれ。

 

 俺の視線の先を見て、陽乃さんは目を細める。

 

「もう、鳥なんて外でもいくらでも見れるでしょ。それに触れもしないし。何が楽しいのかな?」

「犬の方が遥かにいくらでも見れるんだよなぁ」

「プードルとかチワワは見られても、グレートピレニーズを見る機会はそうそうないでしょう」

「雀とか鳩は見られても、シロフクロウを見る機会もそうそうないんじゃないですかね」

 

 バチバチバチ。一歩も譲らない互いの視線が交錯することしばし。陽乃さんは肩をすくめ、お姉さんから受け取ったピレニーズのリードを俺に渡す。

 

「減らず口はこの子に触ってからにしなさい――おりゃ!」

「どわ!? ちょ、まって……」

「わんわんわんわん!」

 

 ピレニーズはありえんほどの巨体で俺にのしかかり、ブンブンと尻尾を振る。ベロベロと俺の顔を舐め回す。

 

「あはは、比企谷君好かれてるね~」

「……地獄だ」

 

 なお俺にのしかかるピレニーズの体をモフモフと遊びながら、雪ノ下陽乃はケラケラと笑った。

 

 

 

 

「お願いがあります、陽乃さん」

 

 とある土曜の午前9時。今日も今日とて陽乃さんに呼び出された俺は、のっけから彼女に頭を下げる。

 

「お、君からお願いとは珍しいねぇ。もしかしてお姉さんと一年一緒にいて、溜まりに溜まった欲求不満を解消して欲しいなんて……」

「帰っていいですか?」

 

 本気で踵を返す俺に彼女は足をかける。俺は見事にこける。……まじで帰ってやろうかこのアマ。

 

「ジョーダンだって、ジョーダン! もう、洒落が通じないなぁ比企谷君は」

「洒落になってねえんですよ言い方も行動も全て……」

 

 こけたことによってついた土埃を払い、俺は小さく文句をこぼす。彼女と一年いたことにより唯一身についたことと言えば、それは忍耐である、と自信を持って言える。唐突に土曜の午前九時に呼び出されることも、その上転ばされて土だらけになることも今の俺には大した問題ではないのである。……あれ、人としてだめじゃない?尊厳的にダメじゃない?

 

 一旦浮かびかけた問題を棚に上げ、俺は「お願い」を切り出す。

 

「結論から言います。今日は東京わんにゃんショーに行きましょう」

「へぇ。それは私の今日のデートプラン『地獄! 永遠のウィンドーショッピングとスパルタのスポッチャ』に勝るものなの?」

「まず今日のプランを初めて聞いたわけですが、初手の「地獄」と「デート」を外してください」

「なんで?」

「地獄と付くプランを嬉々として行う神経を理解したくないのと、俺は貴方とデートをしてるわけじゃない。契約です」

「むー、本当につれないなぁ、比企谷君は」

 

 陽乃さんはつまらなそうにセットした俺の髪を弄る。うぜえ。俺が彼女の手をはねのけると、なぜか嬉しそうに笑って続ける。

 

「ま、所詮暇つぶしだよ。別にどこ行こうが本当はどうでもいいんだけど。それより重要なのはなんで、ってところだよ」

 

 彼女の大きな瞳が細くなる。

 

「なんで君は今日そこに行きたいの?」

 

 その問いに対する答えは、当然用意していた。陽乃さんの瞳から目を離さず、早口で言う。

 

「毎年小町と行ってるんですよ。でもあいつ受験生でしょう。塾の講習外せないらしいんで一人で行こうと思ったんですけど、今朝あんたに呼び出されてガックリ、というわけです」

「なんでも正直に言えば良いってもんじゃないんだよ、比企谷君? ……ま、いいや。君から言い出すことなんて珍しいしね。れっつらごー」

 

 

 

 

 というわけで、何とか東京わんにゃんショーの切符を勝ち得たわけだが。

 

「埋まってる!比企谷君が埋まってる!」

 

 ピレニーズの次はバーニーズマウンテンドッグに潰されていた。俺が。陽乃さんの顔は見えないが、音でわかる。バンバンと手を叩き、目尻には涙すら浮かべて爆笑しているに違いない。殴りたい、その笑顔。

 

「……重い息苦しい犬くさい」

「君、飼い主の目の前でそれって」

 

 ピレニーズとバーニーズの飼い主の男性は苦笑しつつ首を振る。

 

「いえいえ、大丈夫ですよ。50キロ近くあるんで間違いなく重いですし。でも遊び相手にはちゃんと加減しますから」

「比企谷君、犬に同レベルだと思われてるんじゃないの」

「……牧羊犬二匹に同レベルだと思われるなら光栄ですよ」

 

 ぺろぺろと顔面を舐められたままの俺の言葉に、陽乃さんは感心したように頷く。

 

「へぇ、この子たち牧羊犬なんだ。比企谷君結構動物詳しいよね。こういうイベントよく来てるから?」

「いえ、唯一の友達が図鑑だったので」

「誉め言葉にはすかさず重いエピソード挟むよね、君」

 

 微妙に噛み合わない会話に、飼い主の男性が空笑いを浮かべる。

 

「はは……でも実際、初対面でここまで懐かれるのも珍しいですよ」

「そうなんですねー。比企谷君、猫からは好かれてるようには見えなかったけど」

 

 当然それは我が家の愛猫、カマクラのことだろう。

 

「あいつにはそろそろ誰が餌をやってるのか、わからせようと思います」

「ヒエラルキー最下位脱出、頑張れ(笑)」

「猫より下の事実に笑えねえ……」

 

 やはり飼い主の男性には、最後まで苦笑以外の表情はなかった。

 

 

 

「あー、楽しい!」

 

 陽乃さんはベンチで大きく伸びをし、周囲の男性客の視線を集める。どこに視線が集まるかは言うまでもないだろう。妹との格差を思うたびに、俺は世の理不尽を感じずにはいられない。(見たらなんとなく負けだと思っているので、俺は断じて見てはいない。見ていないったら見ていない)

 

 とは言ってもなんとなく決まりが悪い。俺はつい誤魔化すように口を開く。

 

「あんた、犬好きだったんですね。いつもの三割増しでテンションが高いですよ」

「え、『大好き』? 比企谷君が、私を? そんなこと言われなくても知ってるよ、もうっ」

「文字でしか伝わらないボケをするんじゃねえよ。しかも薄ら寒い」

 

 この上なくうざいことを言い出す彼女に顔も苦くなる。マッ缶で一息。この甘さ、信頼できる。

 俺の苦み走った顔を見て満足したようにニヤニヤし、彼女はんー、と顎に指をあてる。

 

「まあ犬なんて大体の人が好きじゃない?」

「そうですかね。犬派か猫派かなんて、定番の話題じゃないすか」

「でも猫が好き=犬が嫌い、というわけではないでしょう?」

「まあ、そうですけど」

 

 そう言われてしまえばそうなのだが。何となく腑に落ちないのが顔に出ていたのだろうか。陽乃さんは少し神妙に頷く。

 

「君の言いたいことは分かるよ。猫は賢しいけどお利口ではない。犬はお利口だけど賢しくはない。性質としては結構逆だ。二元論的な考え方になるのは分かる。でもさ」

 

 会場中の犬にも猫にも、彼女は飛び切りの笑顔を向ける。

 

「どっちだって等しく馬鹿なところが、可愛いじゃない」

 

 喉の奥に残るマックスコーヒーの苦い甘さが、嫌に不快だった。ちびりと再度マッ缶で唇を濡らす。

 

「……嘘を吐かない分、どっちも人間よりは上等だと思いますけどね」

「あはは、確かに。人間の方がよっぽど馬鹿だ。比企谷君の方がよっぽど馬鹿だ」

「おい、自然と俺のディスに持っていくな」

 

 俺は少し息を吐き、首を振る。

 

「ワンワンワン!」

 

 一瞬気を抜いたその時、茶色い塊が突進してきた。跳ねた瞬間にそれを空中で受け止める。柔らかい毛が俺の手を包んだ。

 

「なんだこいつ」

「ダックスフンド、だねぇ。リードしてるから飼い主いるんだろうけど……」

 

 持ち上げるとダックスはブンブンと尻尾を振り、何かを期待する目で俺を見る。いや、そんな目で見られても、もう犬は八幡お腹いっぱいです。

 なお俺に近づこうとするダックスを、陽乃さんは興味深げに見る。

 

「それにしても随分と懐いてるじゃない、比企谷君に」

「ここまで懐かれる謂れはないんですけど、ね」

 

 いや、本当にここまで好かれる謂れはない。これが異性だったら即美人局と断定するほどだ。ちなみに美人局に仕掛けられたことは無い。あるのは気になる女子に呼び出されて5時間待った挙句「ごっめーん、寝てた☆」で済まされた青い記憶だけだ。青いというより、苦い。死にたい。

 

 思い出したくもない記憶が勝手にフラッシュバックしている間に、間延びした声がこちらに近づいてくる。

 

「す、すいませーん! うちのサブレがご迷惑を――って、ひ、ヒッキー!と陽乃さん!? な、なんでこんなとこに!?」

 

 なんと声の主は由比ヶ浜だった。この犬の主でもあるか。俺は興奮する犬をあやしながら答える。

 

「なんでって言われても毎年来てるからな、これ」

「へ、へー! そうなんだ、奇遇だね。あたしもサブレが喜ぶから毎年来てるんだ」

 

 あはは……。由比ヶ浜は俺たち二人を見比べなぜか俯き、黙ってしまう。常に鬱陶しいほどうるさい陽乃さんも、今は特に話したいことは無いらしい。由比ヶ浜ではなく俺の腕の中にいるサブレと戯れている。

 

 不毛な沈黙が重くなってきたころ、また一つ見知った声が聞こえてくる。

 

「はぁ、はぁ……由比ヶ浜さん、貴方きちんとリードは握っておきなさいとあれほど」

 

 もう一人は雪ノ下だった。陽乃さんはその声を聴いた瞬間パッと顔を上げる。

 

「はろはろー。雪乃ちゃんも来てたんだねぇ。奇遇奇遇!」

「……姉さん、それにヒキニートくんまで」

「出会って二秒で罵倒するのを止めろ。露骨に嫌そうな顔をするな」

「失礼、ヒキガミ君」

「おい、なんかどこぞの土地神みたいになってるから」

 

 ヒキガヤハチマンと申します、どうぞよろしく。

 

 一連のやり取りを終える。人に名前を覚えられないのは俺の特技でもあるが(決して得意にはしていない)、バリエーションに富んだ間違い方を望んでいるわけではない。それも故意的な。……故意だよね?本当に覚えてないとかじゃないよね?

 

 陽乃さんは俺たちのやり取りを笑いながら眺め、雪ノ下との距離を詰める。

 

「休みの日までガハマちゃんとデートなんて、雪乃ちゃんも隅に置けないなぁ、もう」

「近い……はぁ。偶然ここで会っただけよ。大体それを言うならあなたたちこそ――」

 

 続く言葉は、分かる気がした。雪ノ下はそこでピタリと口をつぐむ。陽乃さんも何も言うことは無い。

 

 この場にはいくつか、認識の齟齬と誤解がある。それが状況を面倒にしている。

 

 由比ヶ浜はいかにも恐る恐る、と言った感じで手を上げ、口を開く。

 

「ヒ、ヒッキーと陽乃さんは、もしかして今日は一緒に……」

 

 由比ヶ浜は何か言いかけ、しかし俺の頭からつま先まで見て、口をつぐむ。ああ、そうか。俺はすぐに思い当たる。今の俺は陽乃さんにプロデュースされた髪型、服装そのままだ。学校での『比企谷八幡』を知っていれば、違和感があるのは当然だろう。

 

 それでも、それも含めて。俺から言うべきことは何もなかった。

 

 そもそも俺と陽乃さんの関係は、俺主導のものではない。陽乃さんが俺たちの関係をどう見せるか、その選択権は俺にないし、そんな面倒なことをする気もない。殊更総武高で彼女が俺たちの関係を宣伝していないのは、単純にその必要性が無いからだろう。雪ノ下陽乃はいつだって無駄なことはしない。

 

 陽乃さんは今日初めて、由比ヶ浜を正面から見る。由比ヶ浜が気まずそうに目を逸らしたところで、陽乃さんは悪戯っぽく笑う。

 

「逆にガハマちゃんは、私たちはどういう関係に見える?」

「それ、は……」

 

 由比ヶ浜は、問いに対する答えを返せない。いじいじと手を弄っていたかと思えば、バッと陽乃さんの方を向く。そんなことを数度繰り返した後、陽乃さんは常の軽い笑みを浮かべる。

 

「あはは、ジョーダン、ジョーダン!真に受けないでよ。私もガハマちゃんと雪乃ちゃんと同じで偶々だよ、偶々。比企谷君毎年ここ来てるみたいなんだけど、今年は妹ちゃんが受験らしくてさ。なら独り身同士一緒に回ろってね。どんなに愛想悪くても、いるだけで話相手にはなるからさ」

「愛想が悪くて悪かったですね」

 

 俺が苦み走った顔で口を挟むと、由比ヶ浜は安心したように息を吐く。

 

「あ、そ、そうなんですか! あたしも毎年サブレと来てるんですけど、今回はゆきのんが居てくれてよかったです。2人で周れるの楽しいですし」

「そう? 雪乃ちゃん犬怖がっちゃうかわいいとこあるから、犬好きなら大変じゃない?」

「姉さん、勝手なことを言わないでくれるかしら。別に怖いわけではないわ。嫌いなだけよ」

 

 犬嫌いという時、その大半は犬が怖いからだろう。鋭い牙が、中途半端な頭の良さが、何をするかわからない獣の部分が怖い。疑問をそのまま問いかける。

 

「怖いと嫌いになんか違いあんのか」

「地震と比企谷君くらい違うわね。前者は怖いけど、後者は視界にも入れたくない。もっとわかりやすく言えば火事とゴキブリくらいの違いね。ちなみにゴキブリと比企谷君に違いはないわ」

「わかった、充分わかったから。もうやめてください」

 

 おれも迂闊な質問をしたことは認めるが、まさかゴキブリと同列に扱われるとは思っていなかった。

 

 なお薄ら笑いを浮かべながら俺たちの会話を眺めていた陽乃さんは、パンと手を打つ。

 

「あ、どーせならわんにゃんショー皆一緒に周ろっか! そっちの方が楽しいし」

「なにを勝手なことを……」

「めんどくせえ……」

「賛成! 皆で周りましょう、皆で! そっちの方が絶対楽しいよ。ゆきのんも、ね!」

 

 真っ先に渋ったのは、当然俺と雪ノ下だった。団体行動は一対一より無理。ぼっちの基本である。

 しかし、そんなぼっち同盟の雪ノ下はと言えば。

 

「……まあ、そこまで言うなら」

 

 あれ、ゆきのん? 貴女なんかガハマさんに甘くない? あっれれー?ぼっち同盟解散か?

 

「あはは、じゃあ満場一致ってことで。ではではれっつらごー! ……あ、それとガハマちゃん」

「は、はい!」

 

 陽乃さんは今日初めて由比ヶ浜に向き合う。

 

「犬のリードはちゃんと握っとこうね。ケガしてからじゃ、遅いから」

 

 ね、由比ヶ浜ちゃん。

 

 初めて由比ヶ浜に向けた彼女の笑顔は、今日一番綺麗だった。

 




半年くらいあいてるように見えるハーメルン特有のバグ。


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その16

「時に比企谷君や、甘いものは好きかね?」

「愚問って言葉を辞書で引いてもらってもいいですか?」

 

 とある休日の朝。俺と陽乃さんは、南船橋の東京ベイまで足を延ばしていた。南船橋で東京ベイってなんなんだよ。某夢の国かよ。反千葉のら〇ぽーとは今すぐ「千葉ベイ」に改名しろ!

 

 そんな俺の千葉愛もどこ吹く風。陽乃さんはG〇DIVAの看板の前でやれやれ、と肩をすくめる。

 

「わかってないねぇ、君。酒飲みの中には無類の甘党だっていっぱいいるし、トマトは嫌いでもケチャップは好きと言う人間も多い。人の嗜好っていうのは時に矛盾するものだし、白と黒の2つで分けられるようなものじゃない。むしろそれが普通なのだよ」

「だからあんたの横でマックスコーヒーを飲む俺に、甘いものが好きかどうか尋ねたと」

「That’s right!」

 

 抜群の発音で俺の頬にサムズアップを押し付ける鬱陶しい指を払う。やはりこの人はどこかズレている。問題は甘いか辛いか、好むか好まざるかではない。単純に俺の経済的問題だ。

 軒先のメニューを見て――主にそこに書かれた値段を見て――俺は何とか反論する。

 

「陽乃さん、俺はあんたといるとよく思うんですよ。例えばこのチョコ屋のソフトクリームは最低500円、高くて800円近くします。が、その辺のコンビニでも最高級のソフトクリームはいいとこ300円です。安ければ60円で買えます。この店の500円はコンビニの60円の10倍近い美味さがあるんですかね」

「それこそ愚問と断ずるしかないね、比企谷君」

 

 チッチッチッ。彼女は長い人差し指を振る。

 

「ここで食べることに意味があるんだよ。君と私がなんとも奇跡的に予定を調整し、今日一緒に東京ベイまで来た。そこで少しは特別なものを食べて、思い出を作りたい。それはコンビニでもconvenienceに買えないものの一つだ」

「いつも朝っぱらから一方的に呼び出してるくせに……」

「何か言ったかな?」

「いえ、何も」

 

 未だに渋る俺に、陽乃さんはため息を吐く。

 

「大体それなら奢るって言ってるじゃん、いつも。私がしたくてしてることなんだから」

「養われる気はありますが、施しを受ける気はありません」

「頑固だねぇ……」

 

 そう。彼女に施しを受ける気など、全くしなかった。どんな小さなものでも雪ノ下陽乃に奢られるわけにはいかない。ただの意地なのかもしれない。悪魔のような女に借りを作りたくないだけなのかもしれない。理由ははっきりとしていない。

 

 彼女は呆れたように、ため息を深くする。仕方ない。俺もうまく説明できないのだから。

 

 しかし次の瞬間、その目が獲物を狙う猫のように細くなる。彼我の距離が縮まった。

 

 あっという間もなく、陽乃さんは俺の懐に潜り、囁く。

 

「じゃあ、一生養ってあげようか? 別に君は何もしなくていい。私に食べさせてもらって、私に生かされて、私のために呼吸をするの」

 

 素敵だと思わない?

 

 甘い誘い、なのだろう。人によっては。しかし俺の顔は苦み走るばかりだ。

 

「遠慮しておきます。ヒモにも相手を選ぶ権利はあるので」

「つれないねぇ、本当に」

 

 ピン、と俺の前髪を弾き、彼女は店の方を向く。

 

「で、ここのソフトクリーム、食べるの?食べないの?」

「……喜んで食べさせていただきます。自腹で」

「よろしい」

 

 満足そうに頷く彼女を前に、俺は未練がましく財布の中身を覗く。

 

 この調子で買い食いして、プレゼント分の金、残るか?

 

 

 

 

 

「ガハマちゃん、来ないねぇ」

 

 放課後の奉仕部室。雪ノ下陽乃は白々しく言ってのけた。雪ノ下雪乃の表情が歪む。

 

「……誰のせいなのかしらね」

「さあ、誰のせいなんだろうね」

 

 陽乃さんはチラリと由比ヶ浜の椅子に目をやる。あの東京わんにゃんしょーの後から、由比ヶ浜はパタリとこの部室に姿を見せなくなった。きっかけが陽乃さんであることに間違いはないが、根本的な原因は彼女ではない。

 

 雪ノ下もそれが分かっているのだろうか。陽乃さんの軽口にも今度は反応せず、切り出す。

 

「由比ヶ浜さんが奉仕部に来なくなって、2週間が経ったわ。私は少なくともケジメはつけるべきだと思っている。比企谷君、あなたはどう?」

「え、お姉さんはぁ――」「黙って」

 

 きっぱりと雪ノ下は陽乃さんを撥ね付けた。

 

「あなたが由比ヶ浜さんをどう思おうが、この男と付き合おうが。私には関係ないし興味もない。でも――あなたはここの部員じゃない」

 

 真っ直ぐに、雪ノ下は陽乃さんを見た。陽乃さんも今度は茶化すこと無く、正面からその視線に応じる。

 

 コクリと小さく、陽乃さんは頷いた。

 

「うん、その通りだ。邪魔してごめんね」

 

 続けて。陽乃さんは嫌に素直に雪ノ下の言葉に応じ、俺に続きを促す。素直過ぎて気味が悪い。重い口を何とか開く。

 

「基本的にあれだ、部活動なんてのは個人の自由だ。やりたきゃやればいいし、嫌になったら辞めればいい」

「ええ、そうね」

「でもあいつは、別にここを辞めたいようには見えなかった。ここが嫌いなようにも見えなかった。言えるのはそんくらいだな」

 

 俺の言葉に、雪ノ下は神妙に頷く。どこか嬉しそうなのは気のせいだろうか。彼女は携帯電話を開く。

 

「時に比企谷君。あなた、由比ヶ浜さんのメールアドレスを知っているかしら?」

「なんだ、唐突に」

「いいから」

「いや、知らんけど」

「えー、私は知ってるよー」

 

 え、マジ?

 

 つい漏れかける声を押しとどめる。ふ、ふーん。別にいいし。部活仲間のメアドは知らないのに、わけわからん部外者の女は知ってるとか。べべべ、別に気にしてないし。

 

 雪ノ下は目を瞑り、こめかみをおさえる。

 

「……まあいいわ。彼女のメールアドレスには「618」という数字が入っていた。恐らく6月18日が彼女の誕生日だと思う」

「え、私直接聞いたけど、6月18日がガハマちゃんの誕生日だよ?」

 

 今度こそ部室に重い沈黙が降りる。コミュ力の差と言うのは、何とも残酷である。

 

 しばし呆然としていた雪ノ下だったが、ぱん、と手を打って震える声を押さえつける。

 

「と、ということでまあ、彼女の誕生日を祝うことで一つのけじめにしたいと思っているのだけど、どうかしら」

「まあ、いいんじゃねえの」

「ついては彼女に送る誕生日プレゼントについて――」「いいね!一緒に買いに行こう!」

 

 おー!と陽乃さんは手をあげるが由比ヶ浜がいない今、それに付き合う人間はいない。雪ノ下は死んだ目で事務的に口を開く。

 

「……どうぞご自由に。私は私で行くから、あなたたちは勝手にして」

「なんで、一緒に行こうよ。雪乃ちゃんじゃ女子高生へのプレゼントは分からないでしょう?」

 

 あまりにもストレートな指摘に現役女子高生・雪ノ下雪乃は苦虫を100匹くらい噛み潰したような顔になる。彼女は何とか声を絞り出した。

 

「……ええ。でもご心配なく。既に小町さんにアポを取っているわ。二人で行く約束をしているから、絶対についてこないで」

「な、なに!?まて、なら俺もそっちに――」「比企谷君?」

 

 首根っこを掴まれる。そこにあるのは陽乃さんの輝くような笑顔。

 前を見れば雪ノ下の死んだ目。その目は俺に「その女はお前に任せた」と言外に訴えかけてくる。「お前に押し付けた」だったかもしれない。

 

「ショッピング楽しみですねー、陽乃さん。雪ノ下、小町のこと頼んだぞー」

 

 棒読みながら、俺はそう呟くしかなかった。

 

 

 

 

 

 時は戻り、東京ベイ。緑の白地の雑貨屋に入った。陽乃さんは目を瞑りソフトクリームの余韻に浸っていた。

 

「おいしかったね!ソフトクリーム」

「ええ、ガリガリ君の2倍くらいは」

「全く何処までも無粋だよ、君」

 

 彼女は目を細める。自腹で500円も払ったのだ、感想くらい自由に言わせて欲しい。

 

 陽乃さんは店の中をきょろきょろと見まわす。

 

「さて、ガハマちゃんへのプレゼントか」

「当てはあるんですか?」

「ま、いくつかはね。問題は私じゃなくて君でしょ」

「……まあ、返す言葉はないですね」

「参考までに、今まで女の子にプレゼントあげたこととかあるの?」

「一回だけ」

 

 俺が人差し指を立てると、陽乃さんの声が跳ねる。

 

「へぇ!どんなの?」

「中1の時に気になってた女子に、おすすめのアニソンメドレー100選をCDに焼いて持っていきました」

 

 人で溢れる雑貨屋の一角の空気が、凍り付いた。

 

「まじで?」

「まじで」

「……」

「……」

 

 降りる沈黙が重い。

 

「……うん、個性的だね」

 

 陽乃さんは何とか一言呟いた。うん、言わなきゃよかった。俺は小さくため息を吐く。

 

「ってわけで俺はノープランです。なんならあんたに選んでもらった方が――」「それはダメだよ」

 

 思ったよりきっぱりと、淡い要求は断られる。あのねぇ、と陽乃さんは小さい子に諭すように口を開く。

 

「プレゼントっていうのは、モノを渡すことが一番の目的じゃないの。渡す相手のことを考えて考えて考えて、何を渡したら相手は喜ぶか。自分は何をその人に使って欲しいかを決断することが本質にある」

「プレゼント選び一つに大袈裟なことで」

「君だって大概大袈裟じゃない。アニソン100選メドレーCD(爆)」

「(爆)ったのは事実でした」

 

 俺の小さな反論も黒歴史を突き付けられると機能しない。また彼女は諭すように続ける。

 

「比企谷君のアニソン100選メドレーCD(苦笑)だって、別にモノが悪いわけじゃないの。ただ相手のことを全く考えてない、自分の都合だけを押し付けていること自体が本質からズレてるってだけ」

「ド正論で中二病の黒歴史をぶん殴るの、楽しいですか?」

「かなり?」

 

 本当に楽しんでやがる、こいつ。腹の立つ笑みにそう確信するが、俺にプレゼントを選ぶ技術がないのは事実。辛抱強く彼女の言葉に耳を傾ける。

 

「というわけで。君のガハマちゃんに対する印象とかイメージから、彼女が使いそうで邪魔にならず、貰って重くない、捨てる時にも罪悪感がないものを考えてみようか」

 

 陽乃さんの提案に、首を傾げる。

 

「ハードルが低いか高いかよくわかりませんね」

「お姉さんがいくらでも付き合ってあげるから、安心しなさい!」

 

 無責任な笑い声が、今回ばかりは頼もしかった。

 




ホントはプレゼント回は一話でまとまる予定だったんです。でも1万字超えちゃったんで二話に分けました。悪しからず。後相変わらず時系列ぐちゃぐちゃでわかりにくくてごめんね。














ていうか次の話結構へびーなので皆さんご覚悟を。ああああああ上げるのこわい。


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その17

ごめんなさい、ガハマさん誕生日の話は3本立てになります。18まで続きます。


「おはよう、比企谷君」

 

 放課後の部室前、あくび交じりの挨拶をする陽乃さんとかち合う。俺は赤く染まりかけた窓を見て、会釈で挨拶を返す。

 

「おはようって言っても、もう日は暮れてますが」

「今日オフだったからねぇ。昨日帰ってから銭形平次一気見してたら、昼前になってたよ。やっぱり北大路欣也は最高だね!」

「仮にも華の女子大生が時代劇で徹夜するなよ……」

「女児向けアニメで金曜に徹夜して、日曜に早起きする人間には言われる筋合いなくない?」

 

 やべ、反論できねえ。俺はあからさまに話を逸らす。

 

「徹夜で寝ぼけてプレゼント忘れた、とかないですよね」

「この通りばっちぐーだよ。君こそ大丈夫?」

「この通り」

「よろしい。じゃ、行こうか」

 

 片手にもった包みを見せ合って、彼女は奉仕部の扉を開く。そこに座るのはいつも通り本を読む、雪ノ下雪乃。

 

「こんにちは」

「はろはろー、雪乃ちゃん」

「うす」

 

 各々に挨拶を済ませ、席に着く。やはり由比ヶ浜の席は今日も空いている。

 陽乃さんは肩にかけていたショルダーバッグと手にもった包みを机に置く。

 

「雪乃ちゃんはプレゼント何にしたの?」

「……どうせすぐにわかるわ」

「ま、それもそっか」

 

 随分と淡白な会話だった。いつもであればもう少し陽乃さんがしつこくし、雪ノ下が嫌な顔をするのだが。雪ノ下の声は固く、陽乃さんは机に肘をついて窓の外を眺める。俺もいつも通り単行本に目を落とす。

 

 コンコンコン。

 

 俺たちが来て1時間ほど経った時、来訪者は現れる。静かだった奉仕部室に一瞬の緊張が走った。

 

「……どうぞ」

 

 雪ノ下が重々しくノックの音に応じる。しかし来訪者は中々その扉を開けようとしない。

 彼女は恐る恐る、という表現が似合う動作でドアを開き、声を震わせる。

 

「こ、こんにちは……」

 

 来訪者は由比ヶ浜結衣だった。彼女には3日前から雪ノ下がアポを取っていた。

 

 どことなく居場所がなさそうに、由比ヶ浜の視線が右往左往する。泳ぐ視線は俺と陽乃さんの間に止まり、地に落ちた。

 

「やあやあようこそガハマちゃん。お姉さんは歓迎するよ」

 

 殊更明るい声が部室に響く。しかしその文句はいつかどこかで聞いた気がした。材木座を迎えた時にも彼女はこんなことを言っていた気がする。

 しかしその言葉の裏の棘は隠しきれるものではない。むしろ隠す気がないのだろうか。由比ヶ浜の頭は更に地面に垂れ、視線は落ちる。雪ノ下が苦い顔で口を挟んだ。

 

「姉さんはここの部員じゃないでしょう。部員は、彼女よ」

「まだ部員、ね」

「――っ!姉さん、あなたは」

 

 今度は由比ヶ浜を見るでもなく、陽乃さんはいってのける。歯がみすらしそうな勢いで雪ノ下は噛みつく。

 

 しかしその反論は宙を彷徨い、消え入る。そう。今日はそんなことを雪ノ下陽乃と話すために、由比ヶ浜をここに呼んだわけではない。

 

「由比ヶ浜さん、その……」

 

 陽乃さんから由比ヶ浜に向き合った瞬間、先ほどまでの雪ノ下の勢いは消える。入ってきたときの由比ヶ浜と同じだ。視線は部室の中を泳ぎまわり、声が震える。

 

「お、お誕生日おめでとう」

「……へ?」

 

 部活に来ないことを話されると思っていたのだろう。当然の祝いの言葉に、由比ヶ浜は目を丸くする。

 

「由比ヶ浜さん、6月18日が誕生日でしょう。今日は貴方の誕生日を祝いたくて呼んだのよ」

「そ、そんなわざわざよかったのに!」

「由比ヶ浜さん最近部活に来てなかったし、慰労も兼ねて」

「……うん。そのことなんだけどね、ゆきのん」

 

 由比ヶ浜は深く息を吸い、俺たちを見まわす。

 

「辞めようかと思って、奉仕部」

「……理由を、聞いてもいいかしら」

「それは……ちょっと説明が難しいね」

 

 雪ノ下は、縋るような目で由比ヶ浜に問いかける。由比ヶ浜はその視線から目を逸らし、また俯いてしまう。

 

 俺から見ても彼女たちの関係は、控えめに言って良好だった。周囲に壁ばかり築いていた雪ノ下の懐に由比ヶ浜は自然に潜り込んだし、また由比ヶ浜は強く、美しい雪ノ下を尊敬していた。ように俺には見えた。

 だから俺も些か驚いていたのだ。まさか由比ヶ浜結衣から今日そんな言葉を聞くとは、思ってもいなかった。

 

 俺も何も言うことができない。由比ヶ浜は沈黙が降りた奉仕部の空気に困ったように笑い、頬をかく。地面に向けていた視線を雪ノ下に戻し、部室を見渡す。最後に俺と陽乃さんを見る。

 

「あたしにはどうしようもないっていうか、かなわないことだから」

 

 由比ヶ浜結衣は何かを諦めるように、空虚に笑った。

 

「違うでしょ、由比ヶ浜ちゃん」

 

 口を挟んだのは誰だったか。俺の横から声は聞こえた気がする。その声にいつもの軽薄さは欠片もない。

 それは時々俺に。俺だけに向けられる声だった。

 

 陽乃さんは立ち上がって由比ヶ浜を見据える。

 

「君がここから逃げるのは別にいい。嫌なことから逃げるのなんて、生物として正常だ。何の恥でもない。でも嘘はやめようよ」

「……嘘なんて、ついてないです」

「嘘だらけだよ、君は最初から」

 

 か細い声で由比ヶ浜は反論する。しかし陽乃さんにそれは届かない。冷える声に今度は笑みだけを貼り付ける。

 

「君が逃げるのを私と比企谷君のせいにするのは、やめてね。私、君の学校生活に責任なんて持ちたくないから」

「そんなこと――」「あるね」

 

 わかるよ、由比ヶ浜ちゃん。

 

 そう。彼女はいつでも一番見たくないものを突き付ける。

 

「罪悪感を見ないふりするのも、いい加減限界だ」

「……陽乃さんは、あたしの何を知ってるんですか」

「お姉さんは何でも知ってるよ。君の可愛い犬のことも、毎日使ってるリードのことも、黒い車のことも」

 

 歪む唇を見て、空気が薄くなった気がした。

 

「手足を折ったバカな男の子のことも」

 

 由比ヶ浜の質問は続かない。陽乃さんは今度こそいつもの笑みを取り戻し、由比ヶ浜の肩を軽く叩く。ビクリと由比ヶ浜の体が震えた。

 

「ちょっとだけガハマちゃんよりお姉さんの私から、アドバイス。立つ鳥跡を濁さずっていうけれどね。いなくなるにしても、心残りは無くしておいたほうがいいよ。嘘は君の心を守ってくれるかもしれないけど、いつだって負い目を生む」

 

 だから陽乃さんは嘘を吐かないのだろうか。俺は呑気にそんな事を考えていた。

 

「比企谷君の顔を見る度に負い目を感じる高校生活なんて、嫌でしょう?」

「……ヒッキーも、もしかして知ってるの?」

 

 由比ヶ浜は陽乃さんの問いには答えず、俺に問いかける。はぁ。ため息の一つも吐きたくなる。俺はここで、雪ノ下陽乃の前で嘘は吐かないと決めている。

 

「……まあ、な。でも初めて知ったのはついこの間――川崎弟の依頼があった時だ。小町から聞いた」

「そっか」

 

 少し前に川崎沙希という女生徒に関する依頼を受けた。依頼主は小町の級友であり、奉仕部の二人は小町と顔を合わせている。

 由比ヶ浜が犬の飼い主として見舞いの品を持ってきたことも、当然に知っている。

 

 でも、その話は。

 

「あ、あたしがサブレのリードを離したせいで、ヒッキーは――」「その話は、もう終わったことだ」

 

 由比ヶ浜に声を被せる。

 

「すべて終わったことで、済んだことだ。お前は菓子折り持ってうちまで来たと、小町に聞いた。まあ俺には想像しかできんが、かなりの勇気と踏ん切りがいることだっただろう。俺にとってもお前にとっても、それで十分だ」

「でも、それでも……」

「そもそも俺が勝手に道路に飛び出して、勝手に轢かれただけなんだよ。謝られる筋合いはねえし、俺もそれを必要としてない」

 

 はい、終了。

 

 少しおどけて言ってみるが、効果はなかったようだ。由比ヶ浜の表情に変化はない。まいったな、本当に謝られる謂れはないんだが。

 

 そもそもの要因である女に視線を寄越すと、彼女は肩をすくめる。

 

「甘やかしちゃ意味ないんだって。的外れ。まったくもって的外れだよ、比企谷君。君が必要としていなくても、ガハマちゃんは謝罪を必要としているの――いや、違うか?」

 

 彼我の距離が縮まる。陽乃さんは試すような上目遣いで、俺の目を覗きこむ。

 

「もしかして君、謝られたくないの? 一年経って、今更謝られても納得できない? 謝って楽になることなんて、許したくない?」

 

 随分狭量だねぇ。

 

 乾いた笑いが教室に響く。俺もそれに合わせて精々、不敵に笑う。

 

「かも、しれませんねぇ」

 

 言葉とは裏腹に、一瞬で耳が熱くなるのを感じた。

 

 そんな意地が、黒い気持ちが本当になかったか。いや、あっただろう。あるに違いない。むしろあって当然なのだ。俺は品行方正でも、聖人君子でもない。むしろ自堕落で、傲慢で、愚かで、どうしようもない人間だ。

 そんな汚い全てを隠して、さも懐が深いかのように振る舞い、あまつさえ謝罪すら許さない。

 

 ああ、これを狭量と言わずしてなんというのだろう。

 

「ごめ、ん、なさい」

 

 しかし、それでも。由比ヶ浜結衣は頭を下げた。未だに笑うことしかできない俺に、彼女は頭を下げた。

 

「ヒッキー、ごめんなさい」

「……なにをだ」

 

 俺の声に、由比ヶ浜の体が震える。些か冷たく、固い声だったかもしれない。自分でも驚いた。

 由比ヶ浜は震えながらも頭を上げる。その瞳一杯の雫は夕陽を反射し、しかし零れることは無い。真っ白の歯が唇を覆い、口の端から血が滲んでいた。

 

 綺麗だと思った。

 

「あたしの不注意で、ヒッキーに怪我させちゃったこと。それに今まで怖くて謝れなかったこと。ほんとうに、ごめんなさい」

「怖かったってのは、何が」

「……ヒッキーに軽蔑されるのが怖かった。今まで、1年以上謝れなかった、あたしの弱いところを知られるのが怖かった。言わなきゃ言わなきゃって思ってたけど――事故と、ヒッキーと、弱い自分と向き合うのが、怖かったの」

 

 もう一度深々と、由比ヶ浜結衣は頭を下げる。

 

「だから、本当に、ごめんなさい」

 

 教室の床に、黒い染みが一つ落ちた。

 

 由比ヶ浜は頭を上げなかった。いつまでも、いつまでも。恐らく俺がいいと言うまでは。

 

 そんな彼女に、ずるい、と思う気持ちはある。許されるまで謝る。なんとも卑怯で狡猾な手だ。

 

 でも彼女はそれを含めて、俺に頭を下げた。許したくないと言った俺に、それでも頭を下げた。涙を必死で食い止めた。

 

 多分そこには、考えて考えきれない、気持ちがある。

 

 自然とため息が出る。何度か頭を掻き、またため息。

 

「……はぁ、いいよ。許した。だから顔上げろ。そりゃ病院生活は退屈だったし、1年生の初めは周りからおいてかれた気分で若干きつかった。でもな」

「うん」

「車道に飛び出したのも俺の勝手だし、運転手にも避けようがなかった――リードをちゃんと握っとかなかったお前の過失は、確かにある。でも慰謝料も病院費もお前の謝罪も、貰うもんはきっちり貰った。貰いすぎな程な」

「う……うん」

 

 過失、と言うところで由比ヶ浜の表情が曇る。そりゃ、事実は事実だ。

 

「だからお前の気がすんだなら、謝罪はもういい。……ただ、まあ。勝手に俺が飛び出して偶々お前の犬が助かっただけなら、礼の一つくらいは貰ってもいいとは思うが」

 

 今度こそ、上手く笑えただろうか。いや、恐らく思いっきり引き攣っていたに違いない。由比ヶ浜の引いたような苦笑いを見る限り。

 ――ちくしょう。格好くらいつけさせろ。

 

「……そだね。サブレのこと助けてくれて、ありがとう。ヒッキー」

「どういたしまして」

 

 今度はその頭は下がらない。由比ヶ浜結衣は俺の目を見て、綺麗にほほ笑んだ。

 

 




次のその18は、プレゼント回最終回。且つ書くのが一番楽しかった回です。正直書いてる時のことあんまり覚えてないんですけど。どうしよう、やっぱりさっさと上げようかな。

一万字くらい一気に読ませろや☆って感じだったら、今日中に上げるかもです。


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その18

楽しんでいただければと思います。


 喧嘩の後の仲直りのような、面映ゆい空気が部室に流れる。

 別に喧嘩をしていたわけでも仲直りをしたわけでもないんだが、感じてしまうのだから仕方がない。

 

 ちなみに俺は喧嘩も仲直りもしたことが無い。理由は言うまでもない。吾輩はぼっちである。友達はまだない。

 

「で、雪乃ちゃんは何か言っておくことある?」

 

 そんな空気など素知らぬ顔で、陽乃さんは口を開く。

 

「……姉さんは、余計なことを言う気はある?」

「すっごいある」

 

 はぁ。雪ノ下のため息が部室を満たす。まあ、確かに殴りたくなる笑顔だったな、今の。

 

 雪ノ下はこめかみに指を当てながら、目を伏せて切り出す。

 

「比企谷君は知っていると思うけれど――去年あなたを轢いた車に乗っていたのは、私よ」

「「え、えー!?」」

 

 由比ヶ浜の驚きと俺の驚きが重なった。棒読みにはなっていなかっただろうか。雪ノ下の視線が冷たい。

 

 当然知っていた。雪ノ下陽乃は初めて会った病室で、俺に言った。

 

『その車に乗ってた子が、君の通う学校で楽しく学校生活を営んでたとして。君の所に見舞いにすら来なくても、なんとも思わない?』

 

 よく覚えている。その試すような物言いに、去年の俺は随分と腹を立てていたから。

 

 その条件に当てはまる雪ノ下姓の人間は、雪ノ下雪乃しか存在しない。

 

「別に私は乗り合わせていただけだし、特に思うところはないけれど――」「雪乃ちゃん気にするタイプだもんね、そういうの」

 

 雪ノ下が陽乃さんをジトリとした目で睨む。しかし陽乃さんの言葉に、まあそうだろうなと俺は思った。

 

 雪ノ下はあの事故に関して、加害者でも被害者でもない。ただ居合わせただけの、言うなれば傍観者。

 

 俺だったら寝て起きたらそんなことは他人事になっているだろうが、彼女は違うのだろう。嘘を吐かず、目を逸らすことを許さない彼女にとっては。

 

 恐らく俺にそれを黙っていること自体、ストレスだったのだ。そう考えると、むしろ悪いことをしてしまった気分になる。

 

 雪ノ下はかぶりを振って続ける。

 

「……まあ、突然飛び出してきた人と犬には随分と肝を冷やしたけれど」

「「ごめんなさい」」

 

 今度こそ、2つの謝罪が重なった。

 

「まあ、大事がなくてよかったとは思う。それに――」

 

 雪ノ下はしょんぼりと垂れる由比ヶ浜の頭を、ポンポンと撫でる。

 

「それで由比ヶ浜さんと出会えたのは、良かったと思うわ」

「ゆ、ゆきのん!あたしもだよ!」

 

 がっしり。由比ヶ浜は雪ノ下に思いきりハグをし、雪ノ下は困ったようにオロオロとしている。陽乃さんは面白いものを見るようにニヤニヤしている。急にゆるゆりの世界が展開される。ここで俺が間に挟まったら恐らく、過激派から殺されかねないバッシングを受けることだろう。百合に割り込んじゃうおじさんだよぉ。

 

「さてさてご感動の所悪いけど、そう時間もないからプレゼントのお披露目して、ケーキ食べてお開きにしようか」

「ケ、ケーキまであるの!?」

「姉さんに教えた覚えはないけど……」

「チョコケーキが焼けたいい匂いが、部室の外までしてたじゃない」

「……」

 

 犬?顔を見合わせた俺らは、恐らく皆そう思った。

 

「まあいいわ。由比ヶ浜さん。私から」

「開けてもいい!?」

「ええ、どうぞ」

 

 わぁ、と由比ヶ浜はプレゼントをのぞき込む。そこにあるのはフリルが付いたピンクのエプロン。

 

「エプロンだ! かわいい!」

「あの料理を見て由比ヶ浜にエプロンを与えるのか、お前は……」

「む、あたしだってあれから料理練習してるんだから!」

 

 由比ヶ浜は軽くエプロンを当てる。

 

 まあ、似合ってないことはなかった。

 

「おめでとさん」

 

 流れで俺もプレゼントを渡す。中々どうして、経験がないだけに恥ずかしい。

 

「あ、ありがと……あっ、これってもしかして」

 

 由比ヶ浜は包みを開き、目を輝かせる。いそいそと何かを準備し、スカートを翻してこちらを向く。

 

「に、似合う、かな?」

 

 そこにいたのはそれはそれは立派な、犬ガハマさんだった。

 

「いやそれ犬の首輪だから……」

「は、はぁ!? ふざけんなし! それならそうと最初にいってよね! ヒッキーのバカ! アホ! ぼっち!」

「ぼっちは関係ねえだろ……」

 

 もーまったく。由比ヶ浜はぶちぶちと文句を言いながら、犬の首輪を包みに戻す。いや、俺悪くないよね、これ。

 

「ああ、私の番か。――はい、ガハマちゃん」

「陽乃さんも!? あ、ありがとうございます……」

 

 由比ヶ浜は少し戸惑った様子でプレゼントを受け取る。

 

「……ハーネスと、リード」

 

 それはまた由比ヶ浜が好みそうな、ピンクのハーネスに同色のリードだった。俺と同じ、彼女の飼い犬へのプレゼント。頭の悪そうな装飾も彼女好みだろう。

 

 しかし由比ヶ浜の顔は曇る。彼女も俺も雪ノ下も、そのプレゼントの裏に何かを感じてしまう。

 

「ガハマちゃん。私は迂遠な物の言い方は嫌いだから、はっきり言うね」

「は、はい!」

 

 多分雪ノ下陽乃の目が、笑っていないからだ。 

 

「きみ、バカ?」

 

 低い、今日もっとも低く暗い声が部室に落ちた。

 

「君の不注意で人身事故が起きてる。犬の責任は飼い主の責任だ。でも君に責任なんて取りようがないから、うちと君の親と運転手が責任を取っている。ここまでは君の足りない頭でも理解できる?」

「ひゃ、ひゃい……」

 

 淡々と、笑顔で、しかし何よりも低く。彼女の言葉は続く。雪ノ下すら口を挟めない。由比ヶ浜は上ずった声でコクコクと頷く。

 

「ならせめて君にできることは、二度と犬に不始末がないように注意を配ることじゃないのかな? にもかかわらず君、この間の幕張でも犬のリードを手から離してたよね。あの時と去年の事故の時だけ偶々そんなことが起きてるとは、到底思えないんだ、お姉さんには。他の所でも色々やらかしてるんじゃないの?」

「ひ、ひぃ……ごめんなさ――」

「別に私は謝ってもらいたいわけじゃない。ただ2度と君の不注意で私のおもちゃ――もとい誰かが傷ついてほしくないわけ。君が失敗から学べないなら、もう誰かが教えてあげるしかない。ねぇ、分かる?」

 

 コクコクコク。由比ヶ浜は無言で、激しく頷く。その目にははっきりと涙が浮かび、ボロボロと彼女の制服を濡らしていた。いやまあ、誰でも泣くわ。俺でも泣く。さらっと玩具呼ばわりされたことも泣けてくる。

 

 頷く彼女に陽乃さんは満足げに笑う。ハーネスとリードを頭の上に掲げる。

 

 次の瞬間、ショーは始まった。

 

「じゃじゃーん! そこで私が今日ガハマちゃんにご紹介したいのが、このダブルリード!」

「だ、だぶる、りーど……?」

 

 突然の陽乃さんのテンションの振れ幅に由比ヶ浜はついていけない。いや、誰もついていけない。さながら某テレフォンショッピングのようなハイテンションで、陽乃さんのプレゼンは続く。

 

「そう、ダブルリード! 読んで字のごとく、2つのリードを犬に付けてお散歩をすることです」

「2つつけて、お散歩……?」

 

 あほの子になっちゃった。元々だけど、本格的にあほの子になっちゃった、うちのガハマちゃんが。由比ヶ浜はただ陽乃さんの言葉を反復する。

 

「ガハマちゃんは飼い犬に首輪しかつけてないみたいだけど、これからはこのハーネスもつけて散歩をしてもらいます」

「はい」

 

 由比ヶ浜は素直に頷く。つけるの決定事項かよ、というツッコミは誰も入れられない。

 

「このリードは普通のものより少し長くできています。これをベルトのようにガハマちゃんの腰に固定して、ハーネスにつなげます。このリードは散歩における『命綱』の役割を果たします。わかる?」

「はい」

 

 もはや由比ヶ浜は、虚ろな目で頷く機械となっている。

 

「首輪のリードは今まで通り手に持ってもらいます。でもガハマちゃんの腰とサブレのハーネスにもリードは繋がっているから、ガハマちゃんがお間抜けにリードを離しても、サブレ君は逃げられません! 事故も起こりません!」

「おー!」

 

 反応の良くなった由比ヶ浜に気を良くしたのか、陽乃さんのプレゼンはヒートアップする。

 

「通常価格は3000円ですが、今回は他ならぬガハマちゃんのプレゼントだから大サービス! なんと1500円でのご提供です! 数量に限りがありますので、お早めにご連絡ください!」

「か、買います!」

 

 ダン!と由比ヶ浜が机に千円札を2枚叩きつけたところで、ようやく世界にツッコミが戻った。

 

「誕生日プレゼントで金をとるのはやめなさいよ、姉さん……」

 

 

 

「由比ヶ浜にとっては、とんでもない誕生日になりましたね」

 

 陽乃さんのテレフォンショッピングが終わった、帰り道。陽乃さんはつまらなそうに爪を眺める。

 

「ま、自業自得じゃない? 嫌なことを先伸ばすと、もっと碌でもないことになる。良い見本でしょう」

「碌でもないことにしたのはどこの誰なんでしょうね」

「そりゃあ誰でもない、ガハマちゃんだよね~」

「白々しい……」

 

 陽乃さんは気楽に口笛を吹く。全く、白々しい。あそこまで追い詰める必要は無かったろうに。俺は少し由比ヶ浜に同情する。

 

 ――そうだ。俺は確かに気づいていた。その白々しさに、不自然な敵意に、排斥に、そして違和感に。

 

 ただ、見ない振りをしていただけだ。

 

「由比ヶ浜には、「いい顔」しないんですよね、あんた」

 

 いつも何か一つ、この人には隠している裏がある。

 

 後ろからかなりのスピードで車が迫ってくる。俺は自転車を端に寄せ、陽乃さんも俺の前に立ち一列になる。

 

 小さな舌打ちが聞こえた気がした。

 

「最近はよく私に物申すねぇ、君」

「いえ、そんな大袈裟なことじゃなくてですね。ちょっと引っかかっただけで」

 

 前を歩く彼女の黒髪に、努めて平坦な声を投げる。

 

「言うまでもなく、あんたは俺なんかよりよほど対人経験が豊富です。人によってごく自然に態度を演じ分けられるし、それを周りに悟らせるほど馬鹿じゃない。その点に関して俺はあんたを信用している」

「比企谷君と対人経験比べられても説得力に欠ける気がする……」

 

 いきなり話の腰を折るような正論はやめて欲しいものだ。無視して続ける。

 

「でも由比ヶ浜に対しては、最初からおかしかった。彼女の作るクッキーを必要以上に酷評し、普段の部活動やこの前のわんにゃんショーでも、あからさまに無視すらしていた。そして今日です」

 

 彼女は諦めようとする人間に手を差し伸べるほど優しくない。逃げる人間を引き留めるほど人が良いわけでもない。

 

 今日の、いや、今までの彼女は些かおかしい。

 

「あんたは嫌いな相手にこそ優しく、どうでもいい相手にこそ「いい顔」をする。そう思っていたんですが」

「1つ、君は誤解してる」

 

 くるり。陽乃さんは俺に振り返り、後ろ向きで歩く。

 

「別に私はガハマちゃんのことが嫌いなわけじゃない。むしろ好きだし、尊敬すらしているよ。雪乃ちゃんの友達って言うことを抜きにしてね」

「……へぇ」

 

 では、なぜ。そんな問いを挟む間もなく、彼女は続ける。

 

「素直だよ、あの子。私のことなんて嫌いだろうに、私の言葉を無視するでも反発するでもなく、ちゃんと受け止めた。私も雪乃ちゃんもいるのに、君に頭を下げて弱さを認めた。誰にでもできることじゃない」

「あんたは嫌われる自覚があって、ああいう振る舞いをしてきた。今日も」

 

 陽乃さんは俺の確認に、満足気な表情で頷いた。出来の良い生徒を前にした時のように。

 

「じゃああれですか。『好きな相手にそっけない態度とっちゃう小3男子』みたいなことですか」

「君がそれで納得するなら、それでいいけど」

 

 いいわけがない。ゆっくりとかぶりを振る。陽乃さんは小さくため息を吐き、俺の横に並ぶ。

 

「由比ヶ浜ちゃんは優しくて素直ないい子だ。少なくとも、他人に対しては」

「……含みのある言い方ですね」

「含みを持たせてるからね」

「結論から話すのはプレゼンの基本ですよ」

「謎解きの基本はそうじゃないでしょう? ドラマの結論は22時50分まで、崖際まで取っておくものよ」

「2時間ドラマにはあまりなじみがないもので」

 

 軽く笑って見せる。陽乃さんも付き合い程度に微笑む。

 

「自分に甘いんだよ、あの子。自分に対して不誠実と言ってもいい。だから危機感も薄いし、学習能力も低い。楽することと、保身に余念がない君と真逆だね」

「ほっとけ」

 

 軽口をたたきながら、背中に冷たい汗が伝うのを感じる。雪ノ下陽乃の人物評はなぜか当たるのだ、いつも。

 

「私が「いい顔」で優しく、由比ヶ浜ちゃんにハーネスとリードをプレゼントしたとしよう。最初の内は彼女はそれこそしつこいほど確認して、犬に付ける。私への義理でね。

でもね、本当に人のために動ける人なんていないの。賭けてもいいよ。半年、もしかしたら3カ月も経てば面倒になる。ハーネスも2本目のリードも付けなくなる。そしてまた彼女は言うだろうね」

 

 形のいい唇が、妖しく歪む。

 

『すいませーん、うちのサブレがご迷惑をー』

 

 甲高い、恐らく由比ヶ浜を真似しただろう声は、嫌に皮肉めいて聞こえた。不快だ。なぜか俺は、ひたすらそう感じていた。不快さの正体がわからないのも、不快だ。俺はそれを振り払うように口を開く。

 

「……あんたは由比ヶ浜と初めて会った時から、ただこの日のために」

「さすが、理解が早い」

 

 また満足そうに頷き、彼女は俺の頭を撫でまわす。鬱陶しい。それを無意識に、乱雑に払う。しかし彼女は嫌な顔一つしない。そんな涼しい顔も、不快だ。

 

「躾けっていうのはね、怖いものを教える所から、始めるんだよ」

 

 幼子に教えるようにゆっくりと、かみ砕くように。彼女は言った。

 

 つまり彼女は最初から、『気持ち』なんてものを勘定に入れていなかった。

 

 雪ノ下陽乃は目的を定め、そのために種を蒔き、待った。辛抱強く、根深く。これまでの奉仕部での由比ヶ浜への言葉も行動も、全てただこの時のために。

 

『由比ヶ浜結衣を躾ける』

 

 そのための道具として、彼女の雪ノ下陽乃への恐怖心を利用した。そこには感情も同情も存在しない。ただ目的と手段がある。

 

 そして。ああ、そうだ。俺が今日感じた『気持ち』のようなものは、全て雪ノ下陽乃の掌の上にあった。そういうことなのだろう。

 

 不快だ。気持ち悪い。でもやはり、不快感の正体はわからなかった。

 

 

 

 

 そこから先は何を話したか、よく覚えていない。でもまあ、普通の会話はできていたのだろう。特に問題は発生しなかった。

 

 そして交差点が見えた。ここで彼女とは別れる。信号が青になり、それぞれの道に歩を進める。

 

 しかし、まだ謎解きは終わらない。

 

「比企谷君!」

 

 呼び止められ、振り返る。陽乃さんはまだ横断歩道を渡っていなかった。信号が点滅している。

 

「ごめん、1つじゃなかった! もう1つ、君と私は誤解していた。君と話して、理由を考えて。ようやくわかったよ!」

「……なんでしょう」

 

 これ以上は、勘弁してほしかった。聞きたくはなかった。何か掴みかけたものが、いよいよ遠くに行ってしまう。またそれが何かわからなくなってしまう。そんな気がした。

 

 あのねあのね。しかし彼女は、雪ノ下陽乃は。ただただ嬉しそうに、楽しそうに笑う。

 

「君が傷つけられてムカついてたんだ、私!」

 

 返事は、できなかった。早く赤信号になって欲しい。そればかり思っていた。

 

「ガハマちゃんに心底ムカついて、腹が立った。それだけのことで表情も態度も感情も、コントロールできなくなっちゃった! ただの女の子みたいに」

 

 これは驚くべき発見だよ、比企谷君!

 

 初めて、そんなかおを見た気がした。さっきまでの昏い笑みを浮かべる女性は、どこかに行ってしまった。道路を隔てて大声を出す彼女に、下手な演劇を見ている気分になる。

 

「ムカついたから、私はガハマちゃんを躾けようとしたんだ。気持ちを理屈で後付けしただけだ、私も君も!」

 

 今俺の目の前には、新しい玩具を前にした少女のように無邪気な。しかし確かな女性が、アンバランスに立っている。

 

「案外私って単純なのかもしれない。私が思う以上に!」

「――そう、ですか」

 

 信号は赤になり、俺たちの前を車が行き交う。

 

 横に立ってるだけじゃ足りないのかもしれない。

 

 少女の危うい笑顔を前に、俺は初めてそう思った。

 



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