だから俺は彼女に恋をした (ユーカリの木)
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一章
こう見えて、比企谷八幡は成長している 1


 恋は難しい。

 

 まず、何が正しいか分からない。なにせ人によって恋の価値観が違うから。俺にとっては正しいことでも、彼女にとっては不都合なことなのかもしれない。

 

 恋は予測できない。

 

 言葉や態度は感情と必ずしも一体とは限らない。表層など容易く取り繕えるからだ。だから勘違いして恋慕を募らせ暴走して、取り返しのつかないことになる。

 

 そもそも恋がわからない。

 

 いつだって俺の恋は紛いもので、心の底から本当の恋というものを感じたことがない。言葉や態度の裏を読む癖があるから、生まれる期待は産声を上げる寸前に意識がぎゅっと押し込んで殺すのだ。

 

 恋なんてしたくない。

 

 分からないから。理解できないから。納得できないから。他人を許容することも、自分をさらけ出して寄りかかることも、俺にとってはひどく難しいことで、判然としなくて、とても怖いことだから。

 

 人の心はとても曖昧で繊細で、確固たる形を持たない。未来の自分の心はおろか、いまですら完全な制御ができない。

 

 それでも、理解してくれようとしてくれる人がいる。知りたいと願える人がいる。さまよえる情動の中で、俺は確かに眩い何かに気づいたのだ。

 

 俺は彼女に恋をした。

 

 俺は彼女が好きだ。

 

 社会は憎悪と悪意に満ち、苦痛や孤独の怨嗟の声に溢れていても、きっといまこの瞬間の俺は誰よりも幸せだと。生まれて初めて手にした恋が、かくも人の闇を祓い盲目にするのだと。

 

 恋が、これほどまで心に荒波を立てるものだと知ってしまった。

 

 だから願うのだ。分かってほしい。実ってほしい。欲してほしい。知ってほしい。隣にいたい。一緒に歩きたい。ずっと、繋がっていたい。

 

 なのに、人生というやつはつくづく苦いらしい。

 

 目の前の彼女が、瞳を驚愕と恐れと懊悩に揺らし、俺を見ずに遥か向こうへと視線を泳がして、首を振って唇を震わすその姿は。きっと、拒絶と定義されるべきもので、俺が欲しかった答えなどではなかった。

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 予備校の授業が終わり、ほっと息をついた俺は椅子にもたれ掛かる。

 

 ゴールデンウィークがやってくる。

 

 夢と希望と怠惰な時間がいっぱいに詰まった大型連休が、明日やってくる。今年は休みが飛んでしまって九連休とはならなかったが、それでも五連休だ。

 

 高校三年生を迎え、受験戦争に突入した俺もいまから心がうきうきしてしまう。わあ、明日から何しよう……!

 

 心をぴょんぴょんさせながら教室を出る。

 

 本屋行って~、新刊買って~、あと新しいゲームもやりたいよなあー……うわあ、私すごく充実してる……!

 

 思わず口元がニタリと歪む。すれ違った女子生徒(可愛い)が、ヒッと小さく悲鳴を上げて仰け反った。ごめんね、キモくて……。

 

 心の中で謝罪しながらも歩みは止めない。時は止まらない。常に流れ続ける。振り返ってはならない。顧みてはならない。満願成就の連休はすぐそこだ。

 

 俺……この連休は絶対に守ってみせるんだ……!

 

 鼻歌交じりで、なんなら軽くスキップもしながら廊下を進み、自動販売機でMAXコーヒーを購入して一口煽る。

 

 奉仕部の活動は無く、一色いろはの襲撃も無いいま、俺は自由だ。だが呆けてはならない。時間は有限だ。綿密に計画を建てなければならない。

 

 舌先がぬめる甘いコーヒーをすすっていると、ポニーテールの女子生徒が近づいてきた。自販機で何やら飲み物を買うと、俺の隣に立ってこめかみを揉みながら浅い息を漏らす。

 

 景気悪いなあと思いつつも、一応見知った間柄であるから声を掛ける。

 

「よう、お疲れか?」

 

「……まあね。あんたは、なんか元気そうだね」

 

 流し目を向けた川崎沙希が苦笑した。心なしかいつもよりやつれて見える。やだ、受験戦争はまだ始まったばかりなのにもう疲れちゃったのかしら。

 

「当たり前だ。明日からGWだ。黄金週間だぞ。名前からしてワクワクするじゃねえか」

 

「予備校の講義もあるけどね……。それに、受験生でしょ」

 

「勉強は毎日やってる。それ以外の空き時間を楽しむんだよ」

 

 なんだか普通に会話しちゃっている。なんだかんだで予備校で一緒になるものだから、会えばこうして話す仲になったのだ。

 

 なんかさ、と川崎がだらりと身体を壁に預けて天井を仰ぐ。

 

「疲れちゃった」

 

「受験までまだあるぞ。勉強し過ぎなんじゃねえの?」

 

 ふるふると川崎が首を振る。

 

「最近、ちゃんと勉強できてなくて。なんか、集中できないっていうか……なんだろ」

 

 乾いた笑みを貼り付けた川崎が、泣きそうな目で俺を見る。それは、親に縋る仔リスの目だ。

 

 すぐには声を出せず、頭をガシガシと掻く。

 

 違和感があった。

 

 たぶんあれだ、勉強に意識が向きすぎてまた周りが見えてないだけなのだろう。一言二言アドバイスでもすれば自己完結するに違いない。

 

 いのち短し、悩めよ乙女。悩んだ数だけ強くなるぞ、うん。

 

「なんつーの? 気を張り過ぎなんじゃねえの? 集中できないなら気晴らしでもしたらどうだ?」

 

「そんな暇ない」

 

「……は?」

 

「家事しなきゃいけないし、けーちゃん達の相手しなくちゃいけないし、色々、やらないとだし……」

 

 え、なに、どゆこと?

 

 川崎の様子がどんどんおかしくなっていく。顔を俯かせ、唇を噛みしめ、肩を震わせる様は、いまにも泣き出しそうなくらい小さく見える。

 

 まだ予備校に残っている生徒たちから怪訝な目で見られていた。お、俺が泣かしたわけじゃないよ? というかまだ泣いてないよ! たぶん……。

 

「ちょ、待て、落ち着け。あれだ、サイゼ行くか。な?」

 

 慌てて提案を繰り出す俺に、川崎がこくんと頷く。

 

 なんだか元気のない川崎を連れ立って予備校の建物を出る。外は夜の帳が下りていた。時刻はもう二十一時を過ぎている。

 

 俯いて無言で付いてくる川崎を気にしつつ、マリンピア専門館の向かい、サイゼリヤ稲毛海岸駅前店に入る。店員に案内された四人掛けの席に座ると、ふぅっと重い吐息が漏れた。

 

 対面に座った川崎は俯いて表情を隠したままだ。いかにも落ち込んでますといった様子にこちらは困ってしまう。

 

 ぼっちは感情を隠すことがうまい。そもそも表に出しても誰も気づいてくれないから、成長の過程で心の内に仕舞うことを覚えるのだ。俺もそうだし、きっと、川崎もそうだ。俺たちの感情に気づいてくれるのは近しい家族だけだ。

 

 つまり、いまの川崎は十中八九重症だ。

 

「ま、なにか頼むか。どうする?」

 

 いつもならすぐに店員を呼ぶところだが、川崎を見やりつつ声を投げる。俺もこういう気遣いができるようになったのだ。主に一色の所為で……。

 

 ん、と川崎がメニューの一部分を指差す。ドリンクバーだ。

 

「それだけでいいのか?」

 

「お腹すいてない」

 

 えー、サイゼに来たんだからフォカッチャとかミラノ風ドリアとか頼もうよ。なんて言えるはずもなく店員を呼んで注文する。

 

 ドリンクを取りに行くべく立ち上がるが、川崎は店内に入ったときのまま両膝を眺めたままだ。仕方ない、ついでに川崎の分も適当に持ってきてやるか。

 

 コーヒーとウーロン茶を入れて席に戻るも、川崎の恰好は先ほどから寸分も違わない。

 

 こほんと軽く咳払いをしてみるも川崎は動かない。え、こいつ地蔵か何かなの?

 

 しばらくコーヒーに口をつけてはテーブルに戻すを繰り返す。その間、川崎は口を開かない。沈黙が重い。空気が痛い。

 

 ふえぇぇ、ガハマさん助けてよぉぉぉ……!

 

 奉仕部のコミュニケーションモンスターを呼び出そうか悩んでいると、ようやく川崎が顔を上げた。眉を下げ、目じりに涙を浮かべる川崎がぽつぽつと話し出す。

 

「最近、なんだか疲れちゃって。家のこととか、勉強とか、やんなきゃいけないこと多くて。でも受験生だし、頑張んないとって。みんな同じだって、きっとこういうものなんだって思って……でも、色々手がつかなくなっちゃって。どうしていいか、分かんなくなった……」

 

 言葉を切って川崎が唇を噛む。

 

「両親に迷惑掛けたくないし、大志だって高校に入ったばっかで大変だろうし、あたしのことはあたしで何とかしないといけない。掃除して、洗濯して、ご飯作って、お弁当も作って、勉強して、けーちゃんの送り迎えして、相手して……」

 

 川崎の目じりから涙が零れる。

 

「なんで、いつもちゃんと出来ていたのに……」

 

 両手で顔を覆った川崎が弱々しく嗚咽した。

 

 俺も思うところはあって、息が細るのを感じた。

 

 家族を想うが故に潰れた。そう解釈するのが妥当だろう。両親が好きだから家事をする。弟たちが好きだから世話を焼く。家族が好きだから自分は我慢をする。

 

 これまでは家族と川崎自身を量る天秤が家族側に傾いていた。それが、受験の年になって天秤の重さが狂った。

 

 誰だって自分は大切だ。人生を左右しかねないものがすぐそこまで迫っているとなればなおさらに。

 

 優先度が変われば行動も変わる。だが、川崎の場合は違った。家族愛が優先度を超えた。それでも自身のことも大切だから、思考のどつぼに嵌って身動きが取れなくなった。

 

 たぶん、そう遠くない考えだろう。

 

 そして、もしかしたら小町が通るかもしれない道だ。なんだかんだ完全な兄離れをしていない妹だ。こういう未来もあるだろう。

 

 川崎の問題を身近に据えてしまうと、どうにも他人事のように思えなくなる。小町ならきっと大丈夫。性格からしてこうまで内に溜め込むタイプではない。それでも、あるいは、と考えてしまう。

 

「息抜きしろって言っても無理か?」

 

「……分かんない」

 

 川崎が首を振って答える。単純な回答もいまの川崎の前では無意味だ。息抜きなんぞ出来る器用さがあれば、こんな風になっていない。

 

 例えば息抜きを無理やり行って、この先なにかが変わるか?

 

 答えは否だ。

 

 川崎はきっと同じ袋小路に迷い込むだろう。己よりも家族を大切にする優しい女の子だから。パラダイムシフトを起こさなければ何も変化はない。

 

 川崎の優先度を変え、家族に頼るように促し、家族もまた長女の苦難を理解する。

 

 手はふたつある。

 

 一番簡単かつ当たり前である程度の効果が期待できる方法と、効果は大きいが後始末が面倒になりかねない方法。

 

 スラックスのポケットにあるスマホに指を触れる。

 

「家族と話し合えないのか?」

 

「こんなの言えない。だって、家族が重荷になってるなんて、そんなこと……!」

 

 言って、自分が口にした言葉の意味に気づいた川崎の顔が歪む。

 

 見ていられない。

 

「川崎、家出するか」

 

「……え?」

 

 俺の提案が突拍子もないのか、川崎は目を丸くして首を傾げた。正直下手に冷静になられると拒否される可能性が高まる。ここは言葉で畳みかけるしかない。

 

「もう家事やらなんやら家のことは全部置いてきちまえ。この連休中はとにかく遊びまくれ。提案者だからあと腐れないように問題は俺が対処する。この五日間、川崎が好きなように使え。少しくらいやりたいことあるだろ。いっそそれ全部やっちまえ」

 

「え、でも、そんなの無理に決まって……」

 

 当然の科白に俺は手早く返す。

 

「無理じゃない。無理やりやるんだ。家出って言ったろ。世の中の主婦だって実家に帰らせて頂きますとか置手紙残して家出するだろ。それと同じことだ」

 

「でも、家出って……どこに行けばいいのさ」

 

「候補はある。由比ヶ浜とか雪ノ下とか、まあそんくらいだけどな」

 

 触れていたスマホを握りしめてポケットから出す。

 

 こういうときはあの二人に頼りたい。この方法が正しいなんて思っていない。去年からすれば変わった俺だが、結局のところ意地や性格は悪いままで、やり方だって間違いだらけだ。

 

 いまの俺には、間違いを正してくれる人が必要だ。あの二人ならばそれに足り得る。むしろ駄目出しされまくって説教されて泣くまである。その後、ちゃんと助言をくれるはずだ。

 

「まず二人に話を通すが、構わないか?」

 

 恐る恐る聞くが、川崎は再び俯いてしまう。

 

「できれば……あんまり人に話さないでほしい」

 

 ですよねー。

 

 家族の重い話とかなかなか他人に話せるものじゃない。それに、川崎とあの二人は特別仲が良いという訳ではない。考えたら、サキサキの友達って誰なんですかね……。

 

 一応同じクラスメイトである川崎の学校内での行動を思い出す。

 

 ……うん、いつもひとりだね!

 

 あっれー、さっそく詰んだぞー?

 

 まだだ。まだある。平塚先生がいるじゃないか! どうせまだ独身だし、可愛い生徒のひとりくらい預かってくれるはずだろ。

 

 ……もう転勤しちゃったんだよなあ。学校変わっていま絶対忙しいだろうし、無理だろなあ。

 

 やばい。自信満々に家出しろって言ったのに家出先が無い。

 

 川崎の事情に精通しており、信頼に足る人物であり、GW期間中が暇かつ家に泊めてくれる人物。

 

 ないわー。そもそも俺に人脈がない。

 

 なんて、脳内でふざけないといけないくらいに打つ手がない。

 

 人生相談なんて柄じゃないし、こなせるほど人格者でもない。千葉県のお兄ちゃんでもできないことはあるのだ。

 

 ふいに、スマホがぶるぶると震え出した。川崎に断って画面を操作すると、小町からの着信だった。まったくもう、少しは空気読んでよね。お兄ちゃんいま考え中なんだけど……。

 

「はいもしもしー」

 

 それでも妹の電話には出る。どうも俺です。

 

「あ、お兄ちゃん? 帰りにアイス買ってきてくれない? チョコバー的なやつ。ハーゲンダッツだと小町的にポイント高いかなー」

 

 うわあ、こいつ奢って貰う気満々だよ。八幡的に超ポイント低い……。

 

「小町ちゃん、いま取り込み中だから後にしてくれない?」

 

「え、なに? どったの?」

 

「まあなに、人生相談窓口受付中みたいな?」

 

「お兄ちゃんが? 人の相談を? 嘘だー」

 

 うちの妹がひど過ぎる……。

 

 一応奉仕部だよ? 相談とか超乗ってきたからね?

 

 よしさっさと切ろう。さっきから川崎がぽかーんとした顔で俺を見てくるし。

 

「という訳で切る。アイスは買ってやらん」

 

「待った待った! ちょーっと待った!」

 

 耳からスマホを離そうとした途端、大声で小町に呼び止められる。

 

「なんなの、お兄ちゃんいま忙しいから。ちょっぱやでハコ抑えてケツカッチンだから」

 

「いや、それ全然意味分かんないからね。とりあえず、家に連れてきたら? お兄ちゃんがそんな相談受けたこと無いでしょ。普通なら絶対スルーして家に帰ってくるはずだし」

 

 さすが小町。俺のことをよく分かってらっしゃる。

 

「さすがにもう遅いだろ。夜に女子を連れまわしたら捕まっちゃうだろうが」

 

「んんー? 結衣さん? それとも雪乃さん?」

 

「違う」

 

「んー、いろはさん?」

 

「一色のお願いなんざ夜に受けねえよ。営業時間外だ。川崎だよ。というかもう切るぞ? 真面目な話なんだよ」

 

「待った待った! ホントに待った!」

 

 いっそスマホの電源でも落としてやろうと指を動かすも、またも小町に止められる。さすがにこれ以上兄妹コントを続ける訳にもいかない。

 

 声を低くして小町に告げる。

 

「小町、三度は言わんぞ。真面目な話だ」

 

「分かってるって。だから家に連れてきて」

 

「なんでそうなるんだよ」

 

「お兄ちゃんの手に余るでしょ」

 

 んぐぅ……。

 

「どうせ提案だけして実行不可能とかそんなオチなんじゃない?」

 

 ぐふっ……。

 

「お兄ちゃん、ちゃんと分かってる? お兄ちゃんに頼ってるんだよ? これもう相当だよ? ごみいちゃんの頭だけで解決できるわけないでしょ」

 

 もうやめて! もうお兄ちゃんのライフはゼロよ!

 

「分かってる。理解もしてる。だから今考えてるんだよ」

 

「で、答えは出たの?」

 

「……考え中だ」

 

「いつ出るの?」

 

「……分からん」

 

「急ぎの問題?」

 

「喫緊だな」

 

「いま小町に話せる?」

 

「そもそも話せんな」

 

 はあー、と小町が長い溜息をこぼす。

 

「いまどこにいるの?」

 

「あ? 稲毛海岸駅前のサイゼだけど……っておい。まさか来るつもりじゃないだろうな? 夜間外出なんてお兄ちゃん許しませんよ!」

 

「そう思うなら連れてきて」

 

「いや、だがな……」

 

「いいから。準備しとくから連れてきなさい」

 

 命令口調で言った小町が一方的に電話を切った。

 

 ええー……。あいつ無茶苦茶言ってない?

 

 でも、確かに行き詰ってはいたし、俺にも思考の転換が必要だ。とはいえ、川崎が承諾するかどうか分からない。俺だって納得しちゃいない。だってほら「家寄ってく?」みたいなリア充会話を俺ができるはずがない。

 

 どうすんだよこれ。

 

 思わず頭を抱えると、川崎が息を呑む音が届く。

 

「ごめん……。変な話しちゃって。やっぱさっきの無しで。ごめん、忘れてくれていいから」

 

 立ち上がった川崎が俺を見降ろして言った。その表情はひどく痛々しい笑みだった。

 

 ああまったく、人生相談なんて受けるもんじゃない。こういう顔をされると罪悪感で胸が締め付けられる。

 

 もう駄目で元々だ。無様になってもいいじゃないか。川崎も俺に対して心の内を晒したのだ。俺も覚悟を決めるべきだろう。

 

「川崎」

 

 そのまま帰ろうとしている川崎を呼び止める。振り返った川崎と目を合わせて言う。

 

「家、来るか?」

 

「……え?」

 

「まあ、あれだ。今日だけとりあえずな。小町も連れて来いって言ってるし。どうだ……?」

 

 考えを巡らせているのか、しばらく視線を惑わせた川崎は、一度目を伏せて俺を見る。

 

「……いいの? あんたらしくないんじゃない?」

 

「俺も多少は変わったんだよ。それに、お前の境遇は色々重なるんだよ。ここで何もしないと後悔する気がしてな……」

 

 ああすればよかった。こうすればよかった。そんな後悔はたくさんある。黒歴史鑑賞モードなんてあるくらいだ。後悔については一家言ある。その中でも、今回の件は確実に上位に食い込むだろう。知り合いが潰れていく様を何もせずに見ているだけなんて、後味が悪い。

 

「それに、同じシスコン同士だろ。まあ、助け合うのも悪くないんじゃね?」

 

 俺にできるのはこれくらいだ。あとは川崎が決めるしかない。

 

「ほんとに、いいの?」

 

 再度川崎が問う。今度は幾ばくかの切実さを伴って。

 

「おう。たまには人の好意に甘えてみろ。人生なんて苦いんだから、適度に甘味を摂らんとやってられんぞ」

 

 残っていたコーヒーを飲み下す。

 

 苦い……。砂糖とガムシロ入れ忘れたよ……。というかなんで最初に飲んだときに気が付かなかったんですかねえ……。

 

 想定外の味に顔をしかめていたら、ふふっと、初めて川崎が笑った。

 

「ありがと」

 

 その笑顔は、素直に綺麗だと思えた。

 

 

 

 



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こう見えて、比企谷八幡は成長している 2

 どうしよう。

 

 サイゼを出て比企谷家に着いたのはいいのだが、いざ玄関を前にして俺は立ち止まってしまった。

 

 やだ、同級生を家に招き入れるのなんていつぶりかしら。

 

 由比ヶ浜のわんこ以来だから、半年ぶり以上だ。しかも難攻不落の玄関を超えてリビングに通すなんて初めてだ。オラ、緊張でガクブルしてきたぞ……!

 

 完全に固まった俺の後ろにいる川崎が、そろそろと声を出す。

 

「やっぱ、迷惑だよね……。ごめん、無理言っちゃって……」

 

 またしても即座に帰ろうとする川崎を慌てて呼び止める。んもう、なんですぐ帰ろうとするのこの子。俺もすぐ帰ろうとするんですけどね……。

 

「待て。あれだ、家に帰るときはいつも深呼吸するんだよ。ちょっと緊張しちゃうだろ」

 

「なんで家に入るのに緊張するのさ……」

 

 川崎の呆れ声が胸に刺さる。分かってる、分かってるから!

 

 こほん、と無理やり咳払いする。

 

「ま、死なばもろともだ。行くぞ」

 

「その悲壮な決意はあたしも必要なの……?」

 

 いいから付いてきて! と切実な視線をちらりと向けてから、玄関の扉を開く。

 

「たでーま」

 

「お邪魔します……」

 

 リビングからバタバタとした音が聞こえ、小町が顔を出した。小町ちゃん、いま夜だから静かにしてね。

 

「おかえりー。沙希さんもいらっしゃいです!」

 

 ささ、どうぞどうぞー、と小町が女将さんみたいな動作で川崎をリビングへと促す。いやあ、狭い家ですみませんがくつろいでくださいねー、なんてことまで言う始末だ。ちなみに俺は玄関に置いてきぼりだ。お兄ちゃんも旅館対応してもらいたかったな……。

 

 のっしのっしとリビングに入ると、小町が既に川崎をソファーに座らせているところだった。

 

 なんだろう、すごく違和感がある。この家、他人が入ってくること無いからなあ。

 

 生暖かい目で川崎を見ていると、当の本人は落ち着かないのか周りをキョロキョロと見渡していた。そういえばと俺もさらりと視線を巡らせる。いるはずの一匹が見つからない。

 

「おう小町。カマクラはどした?」

 

「は?」

 

 台所で飲み物の準備をしている小町に訊くと、なに言ってんのとばかりに馬鹿にする声が返ってきた。

 

「さっき友達のとこに預けてきたよ」

 

「なんで?」

 

「沙希さん猫アレルギーでしょ」

 

 ……忘れてた。よく覚えてたね小町ちゃん。

 

「ちゃんと掃除もしといたから大丈夫だよ」

 

 仕事早くない?

 

 高校に上がってから小町のスキルアップが激しすぎる。あまりのハイスペックっぷりに、バリバリに働くキャリアウーマンが未来予想図として浮かぶ。将来専業主夫になれなかったら養ってもらわないと!

 

 下らないことを考えながら、どさっと荷物を降ろして俺もソファーに座る。

 

 テキパキとお茶を三人分テーブルに並べた小町も俺の隣に腰を落とす。

 

「猫飼ってたんだ。ごめん、気を使わせちゃって……」

 

 なんだか借りてきた猫状態の川崎に軽く手を振る。こうも緊張されると、逆に俺の方は落ち着いてくる。

 

「気にすんな。俺が提案したことだし、お前は適当にのんびりしてくれ」

 

「そうですよー。どうぞ兄をとことん使いつぶしてください!」

 

 やだまあ、とばかりに手を振って小町が俺の言葉に乗ってくる。

 

 ちょっと、しれっとお兄ちゃんを道具扱いしないでね。

 

「うん、ありがと」

 

 ようやく一息つけたか、川崎が口元を緩める。

 

 空気が弛緩した頃合いを見つけたか、小町がくるりと俺に向き直る。

 

「さてお兄ちゃん。早速だけど出てって」

 

「は?」

 

 なんで? お兄ちゃんなんかした? まだ何もしてないよ?

 

「や、着替えてきてってこと。あと邪魔だし」

 

「自宅なのになんで邪魔扱いされなきゃいけないんだよ……」

 

「いいから早く! ほらダッシュ!」

 

「ええー……」

 

 小町が厳しいよお。

 

 お茶を飲む暇も与えてくれない小町が、俺の背をバシバシ叩いて追い出しに掛かる。こうなってしまえば、妹に弱いと近所でも評判な俺は素直に出ていくしかない。

 

 のっそのっそとリビングを出て自室へ向かい、今日も疲れたわー労働したわー働きたくないわーなんて呟いて部屋着に着替える。

 

 お兄ちゃん知ってるよ。小町のことだから、俺のいないところで川崎から話を聞きだすつもりなんだよね。でももうちょっと上手くできないかなあ。主に俺の心を労わる方向で。

 

 時間を稼ぐべく本棚から本を抜き取り、ベッドに寝転がりながら読み流す。しばらくして、部屋の扉をノックする音が届いた。

 

「お兄ちゃーん。もういいよー」

 

「はいよ」

 

 くわっと欠伸を漏らしつつ答え、リビングに戻る。さて、相談でも再開しますかね。

 

 ……と、思ったらリビングに川崎の姿がなかった。

 

「川崎いないんだけど……」

 

「沙希さんならお風呂だよ?」

 

 しれっとすごいこと言ったよこいつ。

 

「ええー……ならなんで呼んだの」

 

 ぐでーっとソファーに座る小町をジト目で見てやるも、深い溜息を返してきやがった。

 

「沙希さんから全部訊いた。だからお兄ちゃんの提案も訊いた」

 

「……なんか間違ってたか?」

 

 返事が怖くて視線を外して訊くと、小町はふわっと笑って言った。

 

「ま、お兄ちゃんにしてはいいんじゃない? どんな斜め下方向の提案したのかなーって思ってたけど、割とまともで安心したよ」

 

 その言葉に不安を払拭され、一息ついてそっと小町の隣に座る。

 

「少しは兄を信頼しようね?」

 

「やだよ、無理だよ、ありえないよ。だってお兄ちゃんだよ? どれだけ面倒くさいか知ってるもん」

 

 今日の小町、ひどすぎませんかね? いちいち俺の心を抉っていくスタイルやめてほしいんだけど……。

 

 半眼で見てくる小町が、ついっと目線を虚空に持っていく。

 

「それで? これからどうするの?」

 

 いきなり嫌な問いだ。決まっていない、しかしすぐにでも定めなければならない指針だ。

 

「……分からん」

 

「たぶん、お兄ちゃんにとっては大変だよ? 沙希さん家への連絡とかフォローとか、どうせろくな手考えてないでしょ?」

 

 痛いところばかり突いてくる。

 

「まあな」

 

「でも、助けたいんでしょ?」

 

 それは違う。俺が何かをするのは俺のことだけだ。だから今回のことも、そんな大義名分などない。

 

 ただ嫌なのだ。あるかもしれない小町の可能性。それが悲惨な結末であるなど、堪えられないのだ。そこに川崎を慮る気持ちは、きっと無い。独善的な理由だ。人を助ける理由としては最低の部類だ。

 

「知って放っておくのは、気分悪いだろ」

 

 俺は苦い顔をしていたのだろう。小町が頬をうりうりと突いてくる。

 

「まったくめんどくさいなーこの人。やっぱちっとも成長してないよ」

 

 でも。指を離した小町が呟いて、身体を預けてくる。

 

「そういうとこ、小町は好きだよ」

 

 上げたり下げたり忙しい奴だ。でも、こういう風に慕ってくれる妹がいるのは嬉しく思う。

 

「ありがとよ」

 

 正直な気持ちで礼を言ったのに、小町は不満なのかぱっと身体を離して非難めいた声を上げる。

 

「ぶえー。そこは愛してるよ小町、でしょ?」

 

「愛してるぞ小町」

 

「小町は全然そうでもないけどありがとー」

 

 きゃぴるん☆ みたいに小町はウインクして胸の前でぱちんと両手を合わせる(超可愛い)。

 

 ぐぬぬ……むかつく。そしてあざとい……。

 

 いろはすめ、小町に悪い影響与えてるんじゃないでしょうね……?

 

 近い将来新たな小悪魔が誕生するのではと慄きながらも、ひとつ咳払いをして逸れた話題を修正する。

 

「でだ、明日からどうするか」

 

「もう五日間泊まってもらえば?」

 

 あっけらかんと小町が答えた。

 

「いやほら、川崎の意向とかあるだろ」

 

「そこは小町にお任せあれ」

 

 ささやかな胸を張って小町が続ける。

 

「ついでにお母さんとお父さんにも許可もらってあるし」

 

 やっぱり仕事早くないですかね。

 

 ともあれ、他に選択肢もない。小町の意見を基に足場を固めてしまおう。

 

「ならあとは川崎家だな」

 

 ちらりと時計に目をやると、もう夜十時を過ぎていた。いい加減に連絡を入れないと警察沙汰になりかねない。

 

「そうだねー。沙希さんに任せるの?」

 

 小町の困った疑問に俺は首を振る。

 

「いんや、俺がやる。大志の番号教えてくれ」

 

 ほいほーいと小町がスマホを取り出して画面を見せてくる。その番号に若干憎らしい思いを感じながらもキーを打つ。電話は思ったよりも早く繋がった。

 

「はいっす。お久しぶりですお兄さん」

 

「俺はお前の兄じゃねえよ」

 

 べーっ……思わず突っ込んでしまった。隣の小町がうわぁって顔してるし。

 

 んっんんーと咳払いして慎重に言葉を選ぶ。

 

「で、だ。話があるんだが……」

 

 大志の声音が落ちる。

 

「すみません、いまちょっと取り込んでて……」

 

「姉のことだろ」

 

「え、なんで分かったんすか? エスパーっすか⁉」

 

 大志が尊敬の混じる声で驚いている。ちょっといい気分だ。

 

「それは年の功だ。崇め奉るといい」

 

「さすがお兄さんっす!」

 

 うむ。実にいい気分だ。もっと褒めてくれてもいいんだよ?

 

 と、後輩に尊敬される先輩の立場に酔っていると、脇腹をゲシゲシと叩かれる。小町が顎をくいっとやって「早く先に進めろ」と無言で言っていた。ついでに耳を指差して「小町にも訊かせろ」と仰っている。仕方なく画面を操作してスピーカーモードに切り替える。

 

「んっ、んん。それで、お前の姉なんだが」

 

 話を軌道修正すると、大志の声が再び落ち込む。

 

「はい、実はまだ帰って来なくて……」

 

「お前の姉は預かった。返して欲しくば二度と小町にちかづかぐぇっ!」

 

 いま一瞬呼吸止まったよ⁉ なにが起きたの⁉

 

 激痛に視界を明滅させていると、いつの間にか小町が目の前に移動して俺に拳を突き出していた。

 

「ちょ、小町! そこは水月! 人体の急所だから!」

 

「ごみいちゃんバカなの? アホなの? 死にたいの?」

 

 無表情になった小町がドスドスと拳を繰り出してくる。ふえぇぇ……妹がバイオレンスになっちゃったよぉぉぉ……!

 

 拳の連打を左手で受けて必死に言い訳する。

 

「ジョーク、八幡ジョークだから! だから水月はやめて!」

 

「ねえお兄ちゃん。これ真面目な話だよね? 自分でそう言ったよね? なのになんでふざけてるの? 小町怒るよ?」

 

 拳を引っ込めた小町が冷たい視線を投げつけてくる。怖いよお。痛いよお。

 

「真面目にやって」

 

 は、はいぃ……。

 

 離していたスマホを耳に押し付け、えーあーとか会話の再開どころを探す。

 

「あー……あれだ。お前の姉ちゃんなんだが」

 

「お兄さんの家にいるってことでいいっすか?」

 

 理解が早くて助かります。あと、さっきの流れをつっこんで来ない点も八幡的にポイント高いよ?

 

「まあ、そうなるな」

 

 ほぉーと大志が長い息を吐く。

 

「よかった。事件とか事故に巻き込まれたんじゃないんですね」

 

「なんだ、あれだ。こっちが無理やり誘ってな。連絡する暇がなかったっつーか。そんな感じだ」

 

「そうっすか。姉ちゃんいま傍にいます?」

 

「いや、小町が言うには風呂入ってるらしい。なんか伝えることでもあるのか?」

 

 しばしの無言。大志が言いづらそうにもごもごし始める。ふむ……。

 

「心当たりでもあるのか?」

 

「……最近、姉ちゃん疲れてるみたいで。もしかしたら、その所為かなって……」

 

 どうやら大志はちゃんと気づいていたらしい。なにしろあの姉は前科があるのだ。大志だって気にはしていたのだろう。その心配が姉にちゃんと伝わっていたかは知る由もないが。

 

「俺の口からはなんとも言えん。ただまあ、いい機会だ。この五日間で姉のありがたみを感じろ」

 

「え、姉ちゃん、ゴールデンウィーク中ずっとお兄さんの家に泊まるんっすか⁉」

 

「そうなるな。だから明日、お前ん家に川崎の着替えとか諸々取りに行くからな」

 

「それは良いんですけど……。親になんて説明しよう……」

 

 至極ごもっともな悩みである。ここが一番ネックだ。だがまあ、世間一般の高校生ならば言い訳のひとつやふたつ簡単に作り出せる。

 

「友達ん家に泊まりに行ったとかでいいんじゃねえの?」

 

 ここで、姉ちゃん友達いないっすよ、とか言われたらマジで困るぞ。心中でごくりと息を呑むが、大志は俺の意見を肯定する。

 

「それが無難そうっすね……」

 

「んじゃ、明日行くわ」

 

 声に出さないように安堵する。

 

「了解っす。姉ちゃんを、よろしくお願いします」

 

「あいよ」

 

 電話を切って、知らず前のめりになっていた身体をソファーの背もたれに落とす。ふあーっと情けない声が漏れた。

 

 これが正解だったのだろうか。もっと上手い手があったのではないか。川崎の意思を置き去りにして事を進めてしまったことに罪悪感がある。

 

 自信がない。

 

 いつもそうだ。他人が関わると途端に足元が崩れ去ったような不安が付いて回る。自分ひとりだけなら責任も自分に返ってくるだけだ。どんな結果であっても受け止められる。それがどんな過酷な現実であっても。

 

 だが、他人を巻き込めば責任はひとりのものではなくなる。それが恐ろしい。返ってきた事実を受け入れられるか分からない。

 

 俺の失敗が、川崎家に何を齎すのか。考えれば考えるほどよくない妄想が生まれる。

 

 元々俺は、ひとりでやってきたのだ。自分に手が出せる範囲内で動き、誰かの支えになることなどしてこなかった。なぜなら俺は独りだったから。

 

 そんな狭い世界に、由比ヶ浜が加わった。雪ノ下が加わった。俺の世界が、ほんの少しだけ広がった。

 

 成長したと思った。出来ることが多くなったと思った。思い上がりも甚だしい。現に今回は初手から躓き、二人に助けを求めることすら封殺された。独りに戻り、手が出せる範囲は狭まった。

 

 俺は、取り返しのつかないことをやろうとしているんじゃなかろうか。

 

「お兄ちゃん」

 

 思考の海に沈んだ俺を小町が呼ぶ。

 

 横を見ると、小町が苦笑しながら俺を見ていた。

 

「なーに悩んでるのさ。お兄ちゃんは悩む側じゃないでしょ。そんなんじゃ、沙希さん不安になっちゃうよ?」

 

「……だな」

 

 まったくだ。不甲斐なくて心底嫌になる。

 

「小町たちは切っ掛けを与えるだけだよ。先のことは考えても分からないし、進む道を選ぶのは沙希さん達だよ。だから、小町たちは手助けしてあとは見守ってればいいんだよ」

 

「それ無責任じゃねえか?」

 

「あのねお兄ちゃん。なんでもかんでも自分のことのように問題に対処してたら潰れちゃうよ? できる範囲で手伝う、それだけでいいんだよ。それに、奉仕部の方針だってあるでしょ?」

 

「奉仕部の仕事じゃないんだけどなあ」

 

「お兄ちゃんは不真面目な癖にこういうときは真面目だもんなー」

 

 うっせえ。言って小町の頭をわしゃわしゃと撫でる。ぎゃーっとなんか嫌そうな声を上げられてちょっと傷つく。

 

 そうこうしていると、風呂を出た川崎がリビングに入って来た。

 

 見覚えのあるジャージを着た川崎は、頬を上気させながら近づいてくる。当然ながら髪は下ろした状態だ。その姿が新鮮で見惚れてしまう。

 

 ふと、気づく。小町さん、あれ俺のジャージだよね? いつ持ってきたの? というか俺のジャージを川崎が着てるとか、あとで使うとき気になっちゃうだろ。うえぇ、恥ずかしいよお……。

 

 俺の懊悩など知らない川崎は、ほかほかとした顔でソファーの端にちょこんと座る。

 

「お風呂ありがと」

 

「いえいえー、お気に召してもらえましたかー?」

 

「ん、気持ちよかったよ」

 

「それは良かったですー」

 

 ふたりがやり取りしてるが、俺は会話なんぞできる状態ではない。すぐにでも布団を被って足をバタバタしたい! 嫌だよお、恥ずかしいよお!

 

 ひとり悶々としていると、小町が脇腹を突いてくる。なんだよと睨みつけると、「さっさとさっきの話をしろ」と顎で促された。

 

 分かった! 分かったから脇腹虐めないで! そこ弱いの!

 

「あー、なんだ、川崎。これからのことなんだが……」

 

「……うん」

 

 緩んでいた川崎の顔が真剣なものになる。とはいえ、いつもの剣呑な視線は無い。ぼっちが精神状況を表に出してる時点で、深刻さは推して図るべし。

 

「まず、大志には話を通しておいた。友達の家に泊まってることにしといた。勝手にすまん……」

 

 頭を下げて謝罪する。川崎はゆっくりと首を振った。

 

「いいよ。むしろ連絡してくれてありがと。あたしからだと、なんて言っていいか分からないから……」

 

「そうか……。それでなんだが、連休中、うち泊まるか?」

 

「でも迷惑じゃ……」

 

 いえいえーと小町が割り込んでくる。

 

「うちの両親にはちゃんと許可もらってあるんでお気になさらず! あとー、小町的に短い間でもお姉ちゃんができると嬉しいなーって思うんですよ」

 

 それに、と小町が目を細めて続きを言う。

 

「お兄ちゃんが知り合いを泊めるなんて初めてですから。これを機に仲良くなってもらいたいなって思うんです。それに、たぶんお兄ちゃんが初めて自発的に乗った相談ですから、ちゃんと見守りたいし助けたいんです。全部こっちの都合です。だから気にしないで下さい。むしろ、勝手なことばかり言ってごめんなさい」

 

 ぺこりと小町が頭を下げる。

 

 川崎の目が潤む。わなわなと肩を震わせ口元を抑えた。

 

「あんた達って、なんでそんなお人好しなの……」

 

「そんなんじゃねえよ」

 

 勘違いしないでよね! あんたのためにやるんじゃないんだからね!

 

 脳内ツンデレするくらいに川崎の反応は恥ずかしい。

 

「でもま、どうせ俺も暇だし。高校最後に青春らしいことしてもいいんじゃね?」

 

「うわー、お兄ちゃんらしくないなー。しかも最後って……」

 

「うっせ。そもそも俺が青春できるわけないだろ」

 

 青春とは嘘であり、悪である、とか一年前の作文で提出しちゃったし。

 

 ふふーんと小町が笑う。

 

「沙希さんとすればいいじゃん。青春」

 

 そういうこと本人がいる前で言わないでくれませんかね。川崎のやつ俯いちゃったじゃねえかよ。

 

「さて、じゃあ小町は布団敷いてくるねー。沙希さんの分も小町の部屋に敷いときますので、あとで呼びにきまーす。しばらくお兄ちゃんとご歓談ください!」

 

 言うだけ言って小町はパタパタと行ってしまった。歓談ってなんだよ。お見合いしちゃうのかよ。とりあえず「ご趣味は……?」とか話せばいいの?

 

 気まずい静寂。

 

 短くない沈黙の後、川崎がぽしょりと呟く。

 

「ホント、ありがとね」

 

「お、おう。とりあえずのんびりしろよ。やりたい事あれば言ってくれ。協力するからよ」

 

「あたし、あんたらには頭上がらないね」

 

「いや上げろよ。なんなら見下していいまである」

 

「そんなことしないよ」

 

「ま、ここにいる間くらい適当にしろよ」

 

「ん、がんばる」

 

 頑張るところじゃないんだよなあ。まったく、サキサキったら真面目なんだから。

 

「ああ、そういや明日お前ん家に着替え取りに行くぞ。そのまま連れてきちゃったしな」

 

 川崎の表情にさっと影が走るも、すぐに取り繕って首肯して見せる。

 

「分かった」

 

 あー、これは失敗したくさい。というかなんで考え付かなかったのかねえ。家出するまで追い詰められた人間が、着替えを取りに家に戻るかよ。

 

 またミスった……。どれだけ失敗を積み重ねれば満足なんでしょうね八幡くん……。

 

 理由は分かっている。奉仕部で行ってきたように、依頼として、仕事して動いているわけではないからだ。自分の意思で計画し、立案し、提案して行動している。この点だけ見れば、クリスマス合同イベントの黒歴史の時に似ている。あのときも無様なものだったが、いまは輪をかけて酷い。行動理由がいまいち曖昧だからだろう。確たる信念がないから内容がブレる。だから場当たり的に動いてすぐに躓く。要は、経験のないことだから分からないのだ。

 

 まあいい。

 

 精々振り回されよう。計画通りに事が進むのなら、今ごろ学校中の人気者だし彼女だっているはずだ。そんなことは夢物語でしかない。翻弄されるのが世の常なら、醜くあがいてみるしかない。

 

 パシンと膝を叩いて立ち上がる。

 

「さっきのは無しだ。ちょっと待ってろ」

 

「え、あ、うん」

 

 自室に戻って箪笥から目当てのものを取り出す。封筒だ。中身は当然お金。錬金術で精製した俺のヘソクリだ。こんな歳からヘソクリする俺って専業主夫魂ありすぎるな。意識高すぎて将来の職が専業主夫しか無いまである。専業主夫に俺はなる!

 

 中身を確認すると、なんとまあ七万円もあるじゃありませんか。その中から五人の諭吉様を万感の思いを込めて抜き去る。

 

 ぐぅ、心が痛い!

 

 ゲーム様、小説様、マッカン様、しばしのお別れです。また近い内にお会いしましょう。ぜ、絶対に迎えに行くんだからね!

 

 しばらく貧乏生活を強いられるかと思うと、悲しくて涙がちょちょぎれそうそうだ。でも仕方あるまい。小町がいみじくも言った通り、今回は俺たちの都合だ。問題は対処するって言っちゃったしな。

 

 煩悩の迷いを断ち切るべく箪笥を力いっぱい閉め、振り向きもせずにリビングに戻る。所在無さげにもぞもぞしていた川崎の対面に座り、五人合わせて諭吉レンジャーをテーブルに滑らせる。

 

 川崎の目線が俺と諭吉レンジャーとに交互に動く。

 

「え、なにこれ?」

 

「それで諸々揃えてくれ。足りるよな……?」

 

 少ねえよとか言われたらどうしよう。あの二万円はできればマッカン様のために取っておきたいんだけど……。さっき別れたばかりだけどやっぱり毎日飲みたいんですぅ……。

 

 大丈夫だよね、と上目遣いに見ると、川崎が全身で困惑していた。

 

 あれ、思った額より低いのかな。んもう、サキサキったら我儘なんだから! 仕方ない、あと一万追加してくれよう。ああ、マッカン様、本当にしばしのお別れになりそうです……。

 

 決死の覚悟で立ち上がろうとしたところに、川崎が慌てたように言う。

 

「ちょ、なんでここまでするの? いいって! 着替え取りに帰ればいいだけでしょ」

 

 なるほど。理由が知りたいと。確かにタダより高いものはないって言うしね。さすがサキサキ、経済意識が高い!

 

「いやね、それだとちょっと都合が悪いかなーと」

 

「都合って?」

 

「いやほら、川崎帰るだろ? 準備してるところにばったり両親に会う。問い詰められて思わず口走っちゃって反対される。嫌な未来しか浮かばねえよ」

 

 うっと川崎が言葉に詰まる。やっぱ考えることは同じだよねー。

 

「でも、それはあたしの問題だし、あんたが気にすることじゃないでしょ」

 

「そこはなんだ、客だしな。アフターフォローまでするのが比企谷家の家訓なんだ。お客さんが帰ってのんびりするまでがお客様だよ的な?」

 

「なにその家に帰るまでが遠足理論は……」

 

 川崎が呆れ顔で脱力する。

 

 まあ、比企谷家に家訓なんてないんですけどね。いま作った。まさに気遣いの産物。見てる小町ちゃん? これが本当の気遣いだよ?

 

 ガシガシと頭を掻いてカレンダーに目をやる。

 

 今年の連休は五日だ。五日の間で川崎と川崎家の意識を変え、正常な状態に戻す必要がある。川崎と同じ家で生活することは考えると眠れなくなるからやめよう。

 

「つまりだ、この五日間俺にくれ。だから変に気を使ったり暗い顔しなくていいし、その金も対価だと思ってもらえばいい」

 

 言って寒くなるような科白だ。俺が吐いた言葉とは思えない。というか、最後の部分とかレンタル彼女的な発想じゃねえか。これは黒歴史決定ですね。

 

 嫌だなあ。怖いなあ。

 

 身もだえしながら視線を戻すと、川崎はなぜか突然がばっと両手で顔を覆って俯き出した。微かに肩が震えたかと思うと、嗚咽を部屋に響せる。

 

 あれ? これマジ泣き? もしかしなくてもサキサキ泣かせちゃった?

 

 慌てて立ち上がって謝罪を繰り出す。

 

「いやま、ちょ、すまん。俺なんかしたか? したよね? ホントマジすんません……」

 

 女の子の涙は最強。泣かせた奴は絶対悪。ならば下手に出てとことん謝るしか無い。

 

「すまん。その、嫌がらせとかじゃなくてだな、色々考えて最善手を打とうとしてだな……」

 

 泣き声に変わった。声を上げて幼子のようにわんわん泣く川崎の姿に、罪悪感でくびり殺されそうになる。

 

 失敗した。間違いだった。なにが振り回されようだ。あがくもなにも、相手を傷つけたらどうしようもない。

 

 頭が真っ白になる。がくんと頭が落ちた。

 

「悪かった……。泣くほど嫌とは思わなかった……」

 

 俺が居ては落ち着かないだろう。音を立てずに部屋に行こうとしたところで、リビングの扉が少しだけ開いていることに気づく。小町が廊下からこっそりと覗いていた。どこの家政婦だよ。欺瞞でも暴いちゃうの?

 

 小町は俺と視線が合うと、人差し指を立ててぴっぴっとこちらを指す。なにが言いたいのか分からん。

 

 首を傾げて続きを促す。小町はこれ見よがしにため息のポーズをし、指を上から下へ勢いよく動かし「さっさと座れ」と伝えてくる。

 

 どうやら針のむしろから退散させてはくれないらしい。

 

 もうどうにでもなれという気分で座ると、いまだしゃくりあげている川崎が指の隙間から俺を覗いた。

 

「その、急に泣いちゃってごめん。あんたの所為とかじゃなくて、その……」

 

 言葉を切った川崎が目元を袖でぐしぐし拭う。

 

「こんなに良くしてもらったの、初めてだったから。嬉しくて」

 

 ……え?

 

 言われたことが理解できなくて反射的に扉を見る。小町がなぜか偉そうにへっへーんと鼻を指でこすっていた。なんか態度おかしくないですかね。

 

 とにかくだ。俺なんもしてないってことでいいんだよね。

 

 うわー、さっき謝ってた事実が恥ずかしい。胸を掻きむしって夜の海に向かって叫びたい。黒歴史が量産されてくよお……!

 

 なんだか今日だけで羞恥のフルコースを味わった気分だ。中学生以来だよこんなの。青春ってこんなに恥ずかしい思いばかりするのか。やっぱ青春なんて害悪じゃねえか。

 

 もう二度と青春なんかしないもん!

 

 次の機会なんてないんだよなあ……。

 

 今後のぼっちライフについて考えていると、ぎぃぃとリビングの扉が開く。いま来たよ覗いてませんよとばかりに外向けの顔をした小町が、つたたたと入ってくる。

 

「沙希さーん。布団敷き終わったんで寝ましょうかー。もう遅いですし」

 

 目を赤くしたままの川崎が戸惑いながら笑む。

 

「あ、うん。ありがとね、色々してもらっちゃって」

 

「いえいえー。沙希さんはいま小町のお姉ちゃんですから。世話焼きますよーなんなら兄もあげますよー」

 

 おててを揉みもみしながら小町がニヤついている。どこぞの越後屋みたいである。

 

 川崎は苦笑しつつ立ち上がって俺に顔を向ける。

 

「比企谷、今日はありがとね。それから、五日間よろしく」

 

「おう。おやすみ」

 

「ん、おやすみ」

 

 俺たちのやり取りを見ていた小町は、口元を覆ってうっふっふーといやらしい顔をして諭吉様を懐にしまい、川崎の手を引く。

 

 あれ、そのお金小町ちゃんのじゃないよ?

 

 視線で、めっ、と叱ると小町は意味深に微笑むだけ。

 

 まあ流れ的に受け取らなそうだったから、うまいこと渡してくれるのだろう。妹スキルであるところの「お願い」で川崎を篭絡するに違いない。お姉ちゃん属性のあいつには大層効くことだろう。

 

 ……間違っても自分のお金にしないよね?

 

「ではでは~、小町の部屋に一名様ご案内しまーす。じゃ、お兄ちゃんおやすみー」

 

「はいはい、おやすみおやすみ」

 

 成長の方向性が間違ってきている気がする小町へ適当に返す。

 

 ふたりがいなくなって、数時間ぶりにひとりの時間が訪れる。明日からのことを考えなければいけないが、頭が疲れていてうまく思考ができない。

 

 初めて尽くしで完全にキャパオーバーだ。

 

 明日のことは明日の俺に任せる。明日できることは今日やらない。

 

 さって、俺も風呂入って寝よ。

 

 スマホをほっぽり投げて風呂場へ向かう。



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こう見えて、比企谷八幡は成長している 3

 覚醒は穏やかだった。

 

 もそもそと優しく肩を揺さぶられ、柔らかい声が俺を呼ぶ。

 

 小町だろうか。いや、妹は普段起こしに来ない。ならば相応の理由があるのだろう。例えば、何か買って欲しいとかどこかに連れて行ってくれだとか、家から出てけとか。最後の奴はちょっと本気でありそうで困る。

 

 よし、こういうときは二度寝に限る。それに、スマホの目覚ましも鳴ってないしまだ起きたくない。

 

 お兄ちゃん成長期なんだ……。もうちょっと成長したいから起こすのは後にしてね。

 

「あと五年……」

 

 適当に返事をして枕ちゃんに顔をうずめる。ふわあ、怠惰って素敵!

 

「いつまで寝るつもりなの。高校卒業しちゃうんだけど……」

 

「なら養ってくれ」

 

「あんたまだ専業主夫の夢あきらめてなかったんだ……」

 

 声の主を見ると、ぴょこぴょことポニーテールが動いている姿が視界に映る。意思の強そうな目に泣きぼくろ、整った鼻梁の下に浮かぶ柔らかそうな唇は半弧を描き、見るものにクールビューティーな印象を与える。パーカーにジーンズ姿の彼女は、どうにも妹には見えない。

 

 そこでようやく我が最愛の妹でないことに気づいた。

 

「っわっとぉっ……! びっくりしたあ」

 

 驚きのあまり布団を引っぺがして壁まで後退する。俺を起こしに来た人物、川崎も目を剥いて仰け反った。

 

「き、気づかなかったの?」

 

「寝てる人間にそこまで高性能な認識能力求めんなよ」

 

「あんたって、寝てると意外と無防備だよね。ここまで近づいてるのに起きなかったし」

 

「気配で起きるとかいつの時代の剣客だよ。寝てるときまで警戒してたら休まらねえよ。人生苦いんだから寝てるときくらい休ませてくれよ」

 

「なんで寝起きにまで捻くれてるのさ……」

 

 小町の言った通りだね、と川崎がこめかみを抑えだす。

 

 いつの間に人の妹と呼び捨てする仲になってんの? 昨日の今日でもう篭絡されたの?

 

 さすが、比企谷家の技術の粋を凝らして生み出されたコミュニケーションモンスター。小町の手に掛かれば川崎すらも手籠めにされてしまうのか。まったく恐ろしいものよ。

 

 小町のすごさに改めて戦慄しながらスマホを探すも、いつもの場所にない。うーむ、どこだ?

 

「川崎、いま何時?」

 

「八時だけど」

 

 ということは、両親は既に家を出ていったか。相も変わらず仕事が忙しいようだ。祝日にも関わらず働く社畜達に栄光あれ。

 

 心中で敬礼しつつベッドから降りる。ふあっと欠伸がひとつ漏れた。

 

 川崎が思い出したように口を開く。

 

「そういえば、ご両親に会ったよ」

 

「ん……あ?」

 

 なんですかもしかして口説いてるんですか、先に両親から攻略して外堀を埋めてくのは非常に効果的でちょっと意識しちゃうけど付き合うのはまだ恥ずかしいので友達からにしてくださいごめんなさい。

 

 おっと、一色の振り芸が移ってしまった。もう十回以上振られてるしなあ。告白すらしてないのに。恐るべしあざとい後輩……。

 

 こほんと咳払いをする。

 

「で、なんか言ってたか?」

 

 川崎は人差し指を顎に添えて天井を仰ぐ。

 

「んー、比企谷をよろしくとか、友達になってくれてありがとうとか、お願いだから愛想つかさないでねとか、そんな感じ」

 

「俺の扱い酷くないですかね……」

 

 後半につれて両親の切実な想いが滲んでいて俺の涙も滲みそうだ。朝っぱらから微妙な気分にさせる両親マジ鬼畜。

 

「そう? 愛されてるなって思ったよ」

 

 川崎の愉しそうな微笑を見ているのが恥ずかしくて顔ごと逸らす。

 

「どうだかな。んじゃ、顔洗ってくる」

 

「ん、ちゃんと寝ぐせも直しなよ? あと朝ごはんできてるよ」

 

「お前は俺の母ちゃんかよ……」

 

 くすくすと笑う声を背中に受けながら部屋を出る。洗面所でのろのろと準備を終えてリビングに入ると、ソファーに座る川崎の膝に小町が乗っていた。きゃいきゃいとはしゃぐ妹を川崎が温かい眼差しで眺めている。なんだか絵に描いたような姉妹の姿だ。

 

 ……え、なに? どういう状況?

 

 呆けている俺を見つけた小町がものっそい適当な声を投げる。

 

「あ、お兄ちゃんおはよー」

 

「小町ちゃん? なにしてるの?」

 

「え、お姉ちゃんに甘えてるだけだよ?」

 

「ここにお兄ちゃんがいるんだけど」

 

「うえー、やだよ、無理だよ、絶対あり得ないよ、お兄ちゃんにこんなことするの」

 

「ねえ、なんで俺朝からこんなダメージ受けなきゃいけないの? しまいには泣くよ?」

 

 兄を労わる日とか作ってくれないかなあ……。

 

 目をドロドロとさせていると、川崎が困ったように頬を掻き、膝の上に座らせた小町を指差す。

 

「えっと、あんたも座る?」

 

「なんでそうなるんだよ。というか、一夜で随分仲良くなったな。小町はやらんぞ」

 

 うわーお兄ちゃんキモイ、と小町が虫を見る目つきで呟く。朝からグサグサくるなあ。もう心が穴だらけでスポンジみたいになっちゃうぞ。

 

 でも、変に緊張されるよりはいい。今回の計画、最初こそグダグダだったが、意外と良い案だったのかもしれない。やはり千葉県のお兄ちゃんに不可能はないのか。

 

「あ、お兄ちゃん、スマホ落ちてたよ」

 

 ぽいっと小町がスマホを投げてくる。それを難なく受け取ると、そのまま寝間着のポケットに突っ込んで朝飯に取り掛かる。

 

 朝食を食べ終える頃になると、小町がパタパタと家の中を走り回り始めた。家事の時間だ。俺もえっちらおっちらと食器を洗う。しばらくして、ぶえぇぇと掃除機の音が響き出した。

 

 さって、今日は何をすればいいんだっけっか。食器を乾燥機に放り込んで振り返ると、川崎が掃除機をカーペットの上で走らせていた。

 

「おい、なにやってんのお前?」

 

 きょとんと川崎は首を傾げる(可愛い)。

 

「ん? 見て分かんないの? 掃除」

 

「分かるから。なんでやってんの?」

 

「暇だから?」

 

「なんのために家出したんだよ」

 

 ほら言ってごらん、はちまん怒らないから。

 

 しばしの沈黙。

 

 掃除機のスイッチを切った川崎が、顔を真っ赤にして言い訳する。

 

「く、癖になってんの、掃除するの!」

 

 えぇー……。そんな科白吐く高校生初めて見たよ。どんだけ主婦やってんだよ。

 

 川崎の主婦意識の高さに唖然とせざるを得ない。やばい。川崎といると主夫意識を上げて家事しないと、って気分にさせられる。

 

 でも俺が家事すると小町怒るんだよなあ……。それに川崎も無駄に気を使いそうだし……。

 

 なら家事しなくていいな。

 

 自己完結を終えてソファーにずどんと座る。

 

「家事は小町に任せとけ。俺みたいにだらだらしてりゃいいんだよ」

 

「でも、あたし居候だし……」

 

「そりゃ勘違いだ。客だ客。お客様に家事させる家がどこにあるんだよ」

 

 むぅ、と悩んだ末に川崎は掃除機を片付け始める。というか掃除機の場所よく分かったね。

 

 ガタゴトと掃除機を仕舞い終えた川崎が近づき、俺の隣にすとんと座る。

 

 ち、近い……。

 

「その、今日のことなんだけど」

 

 は、はいぃ……。

 

「なに、しよっか」

 

 お願い! 耳元で囁かないで! 恋人ができたらこんな感じなのかなーとか想像しちゃうから!

 

「あー……」

 

 とりあえず感情を誤魔化すべく声を伸ばしてみる。川崎が期待の籠った視線を注いでくる。

 

 えっとー、なんの話だっけ。今日のこと? あれ、今日って何やるんだっけ? 昨日風呂場で少し考えたような考えてないような……はい、なんも考えてませんね。

 

 いま決めるしかない。がんばって、はちまん!

 

「ゲー……」

 

「げ?」

 

 ゲームするとか無いよね。なに言っちゃってんのって感じだ。落ち着け。クールになれ。俺の思考はいつだって俺を助けてきたじゃないか。

 

「どー……」

 

「ど?」

 

 読書とかマジないわあ。由比ヶ浜あたりに暗いとか言われちゃいそう。よく考えろ。息抜きだぞ。いつも俺は何をやってる……?

 

「アニー……」

 

「あに?」

 

 アニメとかほんともう何考えてるの! 女子高生はアニメ見ないってはちまん知ってるよ!

 

 混乱している俺の隣で、なぜだかふんふんと頷いた川崎が、意を得たとばかりに言ってくる。

 

「ゲド戦記見たいの?」

 

「……なんでそんな結論に達したんだ?」

 

「だってあんた、げーどーあにーとか言ってたし。ゲドのアニメってことでしょ? だからゲド戦記」

 

 どんなもんよと川崎が胸を張る。ただでさえ大きい果実がよりおっきく見えるからそのポーズやめてね。

 

「小五郎のおっちゃんも顔負けの迷推理だな」

 

「違うんだ……」

 

 がくんと沙希が項垂れる。

 

 なんで落ち込むんだよ。

 

 ああ、と思い出す。必要なことがあった。

 

「そういえば、着替えとか無いんだよな。買いに行くか」

 

「ん、そだね。でもあのお金ホントにいいの?」

 

「気にすんな。というかそれは昨日終わった話だろ」

 

「必ずお礼するから」

 

「対価って言ったろ」

 

「そんな高い女じゃないよ。お礼したいの」

 

「ま、それは色々片付いたらな」

 

 うん、と頷いた川崎が微笑んだ。いつもメンチ切ってる癖によく笑う。まともに見ると顔が赤くなるからなるべく見ないようにする。

 

 小町は家の中を走り回っていたが、俺と川崎はテレビを見ながらソファーでぐでーっとする。

 

 スライムばりに溶けていたら、二時間も経っていた。横では川崎がこっくらこっこらと船を漕いでいる。

 

 掃除と洗濯を終えた小町がどでーんと川崎の隣に座った。

 

「今日なにするか決めた?」

 

 小町が寝ている川崎を起こさないように小声で聞いてくる。

 

「まあな。川崎の着替えでも買ってくるわ」

 

「もう出るの?」

 

「こいつ寝てるし、午後でもいいだろ」

 

「うん、そうだね」

 

 それきり小町は黙ってテレビを見ていた。俺ものんびりしていると、玄関のチャイムが鳴った。

 

 新聞屋さんかな? アマゾンは頼んでないし。

 

 小町は動く気配が無いため俺が玄関に向かって扉を開けると、お団子ヘアの女子が立っていた。五月の太陽が少女の輪郭を輝かせている。

 

「おはよーヒッキー」

 

 たはは、なんて笑って、由比ヶ浜がお団子をクシクシする。突然の訪問に理解が及ばない俺も、ふへへっと空笑いを返した。うん、なにしに来たのかなこの子。

 

「いきなりどした?」

 

 当然の疑問を投げると、由比ヶ浜の頬がぷくーっと膨らんだ。

 

「昨日メール送ったじゃん。今日ヒッキーの家行くって」

 

 うーん知らないですねえ。というか見てすらないですねえ。

 

「知らんけど」

 

「やっぱ見てなかったんだ……」

 

 がくっと由比ヶ浜が全身で項垂れる。

 

 まったく、これだから報連相を知らない現代っ子は困る。何事も報告・連絡・相談しないとだめですよ。しかもちゃんと相手に伝わらないと意味がないからね? そんなんじゃ将来社会に出て苦労するよ?

 

 なんて意識高いことを考えながらスマホを見る。確かに由比ヶ浜からメールが届いていた。

 

「いま見たわ」

 

「もう遅いから!」

 

 フグばりに頬を膨らませた由比ヶ浜がツッコむ。

 

「で、なんか用か? 悪いが今日、というかしばらく予定あるんだが」

 

「え、そうなの? ヒッキーが?」

 

 目をまん丸くして由比ヶ浜が驚く。その言外に用事があるなんて珍しいよねって言うのやめてね。まあいつも暇なんだけど。

 

「ま、まあな」

 

「そっかー。ごめんね、いきなり押し掛けちゃって」

 

「いや、こっちも見てなくて悪かった。昨日バタバタしててな」

 

「そうなんだ。なにかあったの?」

 

 由比ヶ浜がきょとんと首を傾げる。くりっとしたその瞳の奥には、少しだが不安染みたものがちらちらと顔を出している。

 

 すっと視線をリビングにやる。いずれ相談するつもりだったし、丁度いいだろう。

 

「送るわ。ちょっと待ってろ」

 

 リビングに戻り小町に声を掛ける。川崎はまだ夢の中のようだ。

 

「小町ー、ちょい出てくるわ。すぐ戻る」

 

 小町の空返事を受けながら由比ヶ浜のもとに戻り、適当な靴をひっかける。

 

「んじゃ行くか。駅まででいいか?」

 

「え、あ、うん。ありがと」

 

 由比ヶ浜が笑いながらお団子をクシクシしていた。

 

 家を出て駅までの道をふたりで歩く。思い返してみると、由比ヶ浜とふたりで明確な用もなく並んで歩く、なんてことは久しぶりだ。殆どにおいて由比ヶ浜と雪ノ下はふたり一緒だ。だから、こんな風にどちらかひとりと時間を共にすることは多くはない。

 

 まあ、だからなんだという話なのだが……。

 

「で、なんか用だったか?」

 

「今日ゆきのんと遊ぶ予定でね、ヒッキーもどうかなって」

 

「いきなり当日に来るとか珍しいな」

 

 あはは、と由比ヶ浜がばつが悪そうに笑う。

 

「ヒッキーなら暇かなーって」

 

「まあ、大体間違いじゃないな。今回は特別だ」

 

 本当に、色々な意味で特別だ。奉仕部の枠外での相談事。他人を家に招き入れる行為。一昔前を考えればあり得なかった、自発的に休日を使ってまで他者を助けるという行動。何からなにまで俺らしくなく、それらが凝縮されたこの連休は、まったくもって奇怪の一言に尽きる。

 

 こんなこと、俺の働かない精神を知っている由比ヶ浜が怪しまないはずがない。

 

 由比ヶ浜は一度俯くと、遠慮がちに俺を見上げてぽしょりと言った。

 

「何があったか、訊いていい?」

 

 ガシガシと頭を掻く。言えない事が多くて言葉を選ばざるを得ない。

 

「あー、なんだ。いま川崎が泊まっててな」

 

「え? 沙希がヒッキーの家に?」

 

 自分でも訳の分からないことをやっている自覚はある。由比ヶ浜が驚くのも当然だ。だが、それを的確に説明する言葉が無い。納得させ得るものがない。

 

 相談内容は言えない。原因も言えない。いま俺に起こっている表面的事実しか言えない。

 

「やんごとなき事情があってな……他に選択肢がなかった」

 

「理由、訊いていい?」

 

「悪いが言えん。川崎に口止めされててな」

 

「そっか……」

 

 殆ど独り言のように小さな声で言って、由比ヶ浜は視線を前へと向けた。

 

 たぶん、由比ヶ浜は俺のことを心配しているのだと思う。なにせ前科がありまくりなのだ。過去を振り返ったら黒歴史でのたうち回るまである。

 

 色々あってようやく、本当にようやく、過去の行動を他人が見たらどう思うかという簡単なことに気づいた。たとえ当人がどう思おうが、どう心の中で折り合いをつけようが、他人が見てそれを痛いと思えば痛い。

 

「これは俺が受けた依頼だ。それに、詳細も話せない。だから、虫の良い話なのは分かってるんだが……」

 

「ヒッキー?」

 

 そんなすれ違いはもう嫌だ。なにも伝えずに分かり合える相互理解の関係は理想だ。でもそれは甘い幻想だ。幻はいつか晴れる。現実に生きている以上、事実を直視しなければならない。

 

 言葉は何のためにある?

 

 きっと、共通認識を持つためだ。なら、言葉を尽くして伝える以外に方法はない。

 

「助けてくれ」

 

 情けない言葉。

 

 つまりは降参宣言。

 

 俺は自分のやり方が好きだ。誇りすら抱いていると言っていい。これはいまでも変わっていない。

 

 でもそこに他人が深く関わるなら、そして俺のやり方を見て悲しいという感情を持ってくれる人がいるのなら、俺は俺のやり方を盲目に信仰するのをやめよう。思考を疑い、信頼できる人に助けを求めよう。

 

 由比ヶ浜が立ち止まる。数歩先で俺も足を止めて振り返る。由比ヶ浜は、俺の言葉をうまく飲み込めないのか、何度か瞬きして瞳を揺らした。

 

 怖くなった。

 

「……駄目か?」

 

「駄目じゃない、駄目じゃないよ!」

 

 俺の恐怖など軽く吹き飛ばすように、由比ヶ浜が胸の前で拳を握って強く言った。

 

「ヒッキーが頼ってくれるなんて珍しいから。あたしにできることならなんでも言ってよ」

 

「助かる」

 

 出した声は、たぶん震えていた。由比ヶ浜は気に留める様子もなくただ言葉を重ねた。

 

「あたしはどうすればいい?」

 

「なんつーか、あれだ……川崎がいい感じの気分になる場所とか、そんなとこあるか?」

 

 言っていて自分でもよく分からなくなる。案の定、由比ヶ浜も「いい感じ?」と繰り返しながら空を仰いで困っている。

 

 うん、だよね。分かんないよね。相談するのに内容が定まってないとか、だらしねえ。

 

 俺もどう伝えればいいのか考えている折、由比ヶ浜がはっとする。

 

「えーっと、テンションがあがるーって感じ?」

 

 なんで分かるのこの子。やっぱりこの子、奉仕部のコミュニケーションモンスターだわ。

 

「そうそれ。そんな感じで頼む」

 

 そっかーと瞳を輝かせた由比ヶ浜が、一転して真剣な表情になる。だが、何か迷ったように目を泳がせて儚く笑った。

 

「……なんだろ、すぐに思いつかないかも。ゆきのんにも相談していい?」

 

「頼む。雪ノ下には話は俺からも通しておく」

 

「うん、分かった」

 

 唇で半弧を描き、由比ヶ浜があーでもないこーでもないと思考を巡らせ始める。その優しさがありがたく感じ、俺はぼそりと礼を告げる。

 

「ありがとな」

 

「ううん、でもひとつ約束して」

 

 首を振った由比ヶ浜が視線を俺へ注ぐ。過去の結果を見てきたその瞳が、真剣さを持って現実の俺を射抜く。

 

「なにかあったら……ううん。なにもなくても。あたしたちに話して、相談して? 絶対、絶対だよ?」

 

「分かった、約束する」

 

「うん、約束だ」

 

 しばらくふたりで頭をこねくり回すもいい案はでず、由比ヶ浜が「ここでいい」といって駅近くのファーストフード店の前で別れた。ひとりになった帰路の中で、道中スマホを操作して雪ノ下の番号を呼び出した。一度目の呼び出しで、もはやなじみ深くなった声が耳朶を打つ。

 

「あら、比企谷君。あなたから掛けてくるなんて珍しいわね。ついに地面から這い出してきたの? 生憎、あなたの全身を巻ける包帯の持ち合わせはないのよ。薬局にでも行きなさい」

 

 ……しれっと人をゾンビ扱いするのやめてね。

 

 声の向こうから街の雑音とスマホと耳が擦れる音が聞こえた。由比ヶ浜との待ち合わせ場所に向かっているのだろう。

 

「開口一番罵倒はやめろ。俺に効く」

 

「あなたに効くからやっているんじゃない」

 

 喉の奥で笑った雪ノ下が声質を落として続ける。

 

「それで、用件の緊急度は? 場合によっては予定をキャンセルするから早く教えて欲しいのだけれど」

 

 俺が電話をしただけで、雪ノ下にとっては超弩級の緊急事態らしい。理不尽である。

 

「待て、緊急だがそこまでヤバい状況じゃない」

 

「そう。ならいいわ。あまり時間はないのだけれど、それでいいかしら?」

 

「ああ。由比ヶ浜と待ち合わせだろ? 本人から聞いてるしこの件も通してある」

 

 雪ノ下が関心の声を漏らす。

 

「用意がいい、というより元々そのつもりだったのかしら? まあいいわ。訊きましょうか」

 

 促す雪ノ下に今回の件を端的に伝える。余計な言葉を挟まず相槌を打っていた彼女は、話が終わってから小さくため息した。

 

「そう、なかなか大変な状況ね。詳細が気にはなるけど、無用な詮索はやめておくわ」

 

「怒らないのか? 女子を家に泊めるなんて」

 

 正直雪ノ下が一番怒りそうだと思っていたのだ。こうも理解あるされる返しをされると反応に困る。

 

「他の男性ならいざしらず、あなただもの。その判断も人間性も信じているわ」

 

 言葉に詰まる。雪ノ下からの強い信頼が、心の敏感な部分を強く打つ。

 

 俺の動揺を察したのか、雪ノ下がふっと優しく笑った。

 

「安心しなさい。間違ったときは必ず正してあげるわ。それは、あなたも同じでしょう?」

 

 想像して思わず笑ってしまう。雪ノ下が道を踏み外したとき、俺は絶対に動くだろう。もちろん、そんなこと恥ずかしくて直接は言えないから、歪曲した言い回しをする。

 

「そうだな。由比ヶ浜あたりが突撃するんじゃないか?」

 

 ふふふ、と雪ノ下の愉し気な声が耳をくすぐる。

 

「裏ではもちろんあなたが策謀を企てて、でしょう?」

 

「人をフィクサーみたいな言い方するな。かっこよくて嬉しくなっちゃうだろうが」

 

「あら、意外と様になっているわね。今度からそう呼ぼうかしら? フィクサ谷」

 

「雪ノ下にしては切れ味の鈍いネーミングだな。嬉々として呼ばすぞ?」

 

「まったく、すぐ調子に乗るのだから……。それより本題に戻りましょう。そうね、気分が高揚する場所というなら、ディスティニーランド、ペットショップの猫巡り、猫カフェとかどうかしら? 個人的にはパンさんと猫が見れて触れられる場所が最高だと思うのだけれど」

 

「……お前、昔は隠してたくせにもう堂々と晒すようになったな」

 

 去年までの雪ノ下なら絶対に口にしない提案だ。ただ……。

 

「それより猫は駄目だ。川崎は猫アレルギーだからな」

 

「そ、そうだったわね」

 

 どうやら忘れていたらしい。記憶力の良い雪ノ下にしては珍しい。大方自分が行きたい場所を羅列したのだろう。

 

 さすがに羞恥心が芽生えたか、咳ばらいをして雪ノ下が続ける。

 

「とにかく、考えておくわ。少し時間を頂戴。由比ヶ浜さんはなんて?」

 

「あいつもすぐには浮かばなかったみたいだ」

 

「あら、彼女ならすぐに出てくるようなものだと思うのだけれど。そうね……とにかく、考えておくわ」

 

「助かる」

 

「いいのよ。たまには頼りなさい」

 

「……助かる」

 

 それじゃあもう切るわと言って、最後に挨拶を加えると雪ノ下が電話を切った。先ほどよりも僅かに熱を持ったスマホをポケットに仕舞い、川崎が眠る自宅へと足を進める。

 

 

 

 



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こう見えて、比企谷八幡は成長している 4

 太陽が南中高度を到達してしばらくした頃合い。少し暑いかなと感じる程度の比較的過ごしやすい陽気だ。

 

 ゴールデンウィークだからなのか、千葉駅前はいつも以上の賑わいを見せていた。仲睦まじげに手をつないでいる年頃のカップル、遅れて登場した少女に何でもないと言ってぎこちなく笑う少年。見ているだけ脳がやられてしまいそうな甘酸っぱい空気があちこちで発生していた。

 

 まーったく、いくら黄金週間だからって浮ついてんじゃねえよ。こちとら受験生なんだよ。勉強しなくちゃならねえんだから空気読めよ。ついでに下げ下げで空気が悪くなって破局すれば大変メシウマまである。

 

 とか心の中で悪態をついてみるも、冷静に考えると俺も似た立ち位置にいることを思い出す。

 

 袖口をめくって時計を確認する。約束の時刻の五分前、一三時五五分だった。なんというか、なんで待ち合わせしてるんですかねえ。川崎の生活用品と服を買いに来るのは分かる。持て成すつもりではあるし、彼女が満足するだけ付き合う気力も持ってきた。だけどわざわざ時間をずらす意味がまったく分からない。

 

 元をただせば小町の発言が原因だ。

 

 曰く、

 

「デートなんだから待ち合わせだよね? え? 一緒に出ればいいって? これだからごみいちゃんはごみいちゃんなんだよ。女の子には準備ってものがあるんだよ? なに? 準備してから一緒に出ればいいって? まったく、女心すら理解できないごみいちゃんに期待した小町が馬鹿だったよ。いいからさっさと行って。服は用意してあるからそれ着てね。それじゃあ、さっさといってらっしゃ~い」

 

 ザ・イミフである。

 

 どうやらよく分からない計算式でもって、同じ家にいるのに時間をずらして待ち合わせをするという不可解な行動をすることになったようだ。本当に分からない。由比ヶ浜辺りに確認したいものだが、彼女たちも遊びに出ているためこれ以上邪魔できない。つまり、自身で考えなければいけないのだが……男の俺には無理ゲーだ。

 

 ふいに、視界に一輪の花が現れた。まず目を引くのは白。そこに青と黄が合わさり淡く儚い雰囲気を漂わせ、気品すら感じさせる存在。花か、それとも妖精か。そんな錯覚を覚えるほどの美女が歩いてくる。

 

 緩くウェーブさせた青みが掛かった黒髪を後ろでロープ編みにし、服装は白い七分袖のサマーニットにイエローフレアスカート。一見すると大人の女性に見えるが、よくよく観察すればその表情には高校生特有の幼さが残っている。

 

 見知った顔であるのに誰であるか分からない。

 

 吸引力の変わらないただひとつの掃除機がごとく周囲の視線を独り占めにしている美女は、俺の姿を見つけると途端に立ち止まり、顔を赤くしながらもはにかんで手を振ってきた。

 

 なにあれ、可愛い……。

 

 いつの間に俺あんな可愛らしくも大人びた美人と知り合いになったの? というか、絶対俺見てるよね。

 

 後ろを振り返るも、あるのは無機質なビルだけだ。もう一度前を見る。美女は明らかに俺に近づいてきながら少し頬を膨らませている。やがて、永遠にも思える時間の後、傍で立ち止まった美女が少し震えた声を掛けてきた。

 

「ごめん、待った?」

 

 ……聞き覚えのある声だ。家を出る前に聞いた声だ。え、まさか小町? 待て、最愛の妹はここまで身長は高くないし髪も長くない。

 

「いや……」

 

 つまりは……。

 

「まさか、川崎か?」

 

「うん……変、かな?」

 

 唖然と吐き出した俺の科白を受け取った川崎が、困ったように身体をひねりながら自分の服装を見直している。その様は花畑で舞う可憐な少女。

 

 口が勝手に動いた。

 

「いや、美人過ぎて驚いただけだ」

 

「え?」

 

「え?」

 

 時が止まる。川崎は驚いた表情のまま固まっている。

 

 あっれー、いま俺なんて言った? とんでもなく恥ずかしくて穴に入りたくなること言った気がするんですけど。よし、ちゃんと思い出そう。

 

 うーん、うーん……。

 

 ……これは恥ずか死ぬレベルですねえ。

 

 穴があったら入りたいどころか今すぐ削岩機で地面掘って埋まりたいまである。なんなら生コンで埋めてくれ。やばい、顔が見れない。

 

 全身がかっと熱くなり、首筋と手のひらに汗が滲んで思わず視線を外す。いつもなら出てくるはずの言い訳がなにひとつ言えない。頭が真っ白になって、ただ綺麗だという言葉だけが脳内を埋め尽くす。

 

「あれだ、服と髪が似合っててな、ほれ、普段と雰囲気が違ってだ、あー、なんだ、綺麗だと思ってな」

 

 なに言ってるの俺⁉

 

 そんな軟派なキャラじゃないのに勝手に口をついて出てくる。普段の化粧気なく飾らない川崎とのギャップに頭が混乱してんのか。リアルにメダパニ食らっている状態だ。FF風に言えばコンフュ受けた感じ。発した科白が全部俺に帰ってきてダメージがデカい。

 

 川崎は俺の言葉を受けて顔を真っ赤にすると、片手で顔を覆って視線をうろうろとさせる。

 

 やばい、なんか分からんけどこの空気はやばい。とにかく話の流れを変えるしかない!

 

 時よ止まれ。君はだれよりも美しいから。って科白はなんだったかなあ。駄目だ、美しいとか綺麗とかいう単語が頭から離れん。

 

 ん、待て。川崎って服持ってなかったよね? その服どうしたの? 小町とは体形違うから借りたわけでもないだろうし。うーん。

 

「そういえばその服、どうしたんだ?」

 

 また思わず口出ちゃったよ。今日はどうしたのお口さん! お願いだから俺の言うこと聞いて!

 

「え、あ、うん。小町が友達のお姉さんから借りてきてくれたみたい」

 

 小町ぇ……。どこまで仕事ができる女になるんだ。お兄ちゃん、もはや驚きや尊敬を通り越して戦慄しちゃうよ。いつかカリスマ女社長とかになっちゃうのかしらん。

 

「こんな服初めてだけど、あんたにそう言ってもらえて良かった」

 

 わずかに手を落として口元を隠した川崎が、目じりを下げて嬉しそうに微笑んだ。

 

 その姿にも見惚れる。ずっと見ていたくなるほどに可愛らしく、美しかった。

 

 雑踏が聴覚から消える寸前、なんとか自制心でもって顔を逸らした。今日の俺はおかしい。いや、元から変である自覚はあるが、輪をかけて変だ。こういうときは素数を数えるといいってハチマン知ってるよ!

 

 一、二、三、五、七、一一、一三……あれ、一って素数じゃないっけ?

 

 一度細く息を吐き出す。

 

 よし、落ち着いた。

 

「んじゃ行くか」

 

 よし、声もいつも通りだ。クールだ八幡。クールになれ。

 

「……うん、行こっか」

 

 小さく、それでいて心くすぐる声で囁く川崎が隣に立つ。心臓が飛び出るかと思った。

 

 なにこれ、存在だけじゃなく声ですら人の心を無理やりひっ捕まえるのか。ダイソン超えてない?

 

 気を取り直して足を踏み出す。なんだか左側が妙に温かい気がするが無視だ。俺はただの歩く葦である。うん、意味が分かんないね。

 

「ね、あんたの行きたいとこってある?」

 

 あれー、こいつから話振ってきたぞ。しかも内容が思い切り趣旨に反してる。

 

「いや、川崎の服買いに来たんだろ……」

 

「うん、そうなんだけど。そうだったね」

 

「とりあえず行きつけの店とかあるならそっち行くか。案内頼めるか?」

 

「いいよ。行こう?」

 

 自然な動作で川崎が手を伸ばした。その出された手のひらを俺はじっと見つめる。少しして何をしているか気づいたであろう川崎が、慌てて手を背中に隠して、唇をへの字にしながらも愉しげに笑う。

 

 一色がやりそうな仕草なのに、川崎がやると微塵もあざとさが感じられない。

 

 なんなのこの可愛すぎる生き物。 

 

 あなた、昨日まで死にそうな顔してましたよね? 俺が知らない間に一体何があったの? まさか小町、仲良くなるだけじゃ飽き足らず、川崎を男にデレるような女に仕立て上げてしまったというのか……!

 

 いまの川崎は問答無用で男を落とし、近づいてきた男を振りまくるフラれ男製造機に違いない。

 

 しっかりして八幡! 負けちゃだめだよ!

 

 川崎が俺に惚れる要素など、欠片はおろか胞子ひとつ分すらありはしないのだから。

 

 頭をガシガシと掻く。

 

「とりあえず、案内よろしく」

 

 うん、と頷いた川崎は、手を後ろに回したまま歩き出す。いつも通り俺は斜め後ろを歩いていく。その様子をちらちらと川崎が目を向ける(可愛い)。

 

「比企谷はなんであたしの後ろを歩いてるの?」

 

 少し考えるふりをしつつ宙を見上げる。いまの川崎は目に毒だ。

 

「……残り物には福があるっていうだろ? なら後から歩いた方が幸福になるってことだ。つまり、人の後ろを歩くことは楽ってことでもある。楽なことは好ましい。怠惰最高。働きたくねえ」

 

「相変わらずだね」

 

 くすくすと川崎が笑った(超可愛い)。

 

「……場所が分からないんだよ。そういう場合は後ろついていくだろ普通」

 

「それもそっか」

 

 首を傾けた川崎が肩を震わせる(語彙喪失)。

 

 誰か! 誰か俺を正気に戻して!

 

 依頼人が可愛すぎて死ねるとかなんだ。しかも相手が川崎とか想像もしてなかった。戸塚ならあり得るし、思わずプロポーズしてフラれるまである。フラれちゃうのかよ……。

 

 どうやら今日の買い物は前途多難になりそうだ。主に俺の精神が……。

 

 

 

 服屋にたどり着くと、川崎の行動は早かった。女性あるあるで、連れ添いの男性にどっちがいい? と訊く話があるが、川崎は既に決まっていたのか特に意見を聞かれることなく服を選び、サイズと値段を見て次々と買い物箱に放り込んでいく。十分もしない内に会計を済ませ、紙袋と一緒に俺の傍に戻ってくる。

 

「ん、お待たせ。時間かかってごめん」

 

「いや、小町に比べれば数段早い。というかいつもそんな感じですぐ決めて買ってるのか?」

 

「雑誌とかウィンドウショッピングとかで流行は押さえてるからね。あとはサイズと値段だけ確認すればこんなものだよ」

 

 世の女性方、是非とも川崎を見習ってください。こんなに短い女性の買い物は八幡初めてだよ。あ、そもそも俺の経験値が少なすぎましたね。

 

 感心と落ち込みを同時にこなしつつ、川崎と共に店を出る。当然ながら時間が掛かっていないことで、日も明るいし夕食まで余裕もある。つまり、やることがない。

 

 由比ヶ浜さん、雪ノ下さん……そろそろ助けてくれませんか……? まだ連絡が来ないんですが……。

 

 このままでは服屋の前で待ちぼうけだ。待っているのが救援の連絡というのが他力本願過ぎてまさに俺らしい。が、今回の俺はホストだ。つまりは川崎を持て成さなければならない。

 

 しかたない、この冴えわたる頭で考えるしかない。がんばって八幡! こんなときは可愛い後輩を思い出すんだ!

 

 去年の冬に一色と取材の旅に出たことを回想する。のっけから駄目出しされ、別々の映画を見ようとして呆れられ、卓球では姑息な手を使われ、嫌そうな顔しながらも黙々とラーメンを食べ、カフェに行ったら副会長(仕事しろ)と書記ちゃんが一緒にいるところを見つけ、そして写真を撮ってアイスが溶けた。最後は点数が一点だった。いいのか悪いのか分からん……。

 

「卓球かボウリング、もしくは映画、カフェ。それかゲーセンとかあるが、どこか行きたいとこあるか?」

 

 んー、と川崎が顎に人差し指を添える。

 

「……ゲーセンがいいかな。行ったことないから。大志もよく行ってるみたいだし」

 

「分かった。ちょうど近くにあるな。行くか」

 

 脳内検索してアドアーズ千葉店を発見。川崎が右手に持っている紙袋を取り上げて歩き出す。

 

「あ……ありがと」

 

「癖だ。妹に仕込まれててな」

 

「さすが小町だね」

 

 マルシェ通りから脇道に外れ、外房線沿いに歩くとオレンジ色の建物が見えてくる。雑多な電子音が混じり発せられるその入口に、川崎を連れて入っていく。途端、ゲーセン特有の小うるさい騒音が耳に叩きつけられた。ゲーセン好きとしては少しワクワクする気分だ。なんか新台出てないかなーと見まわしたくなるが、今回は案内のために我慢する。

 

 横を見ると、川崎が不思議そうに視線をきょろきょろとあちこちに飛ばしていた。嫌そうな表情は見えず、ただただ目の前に広がる遊び場に純粋な興味を示しているようだ。間違いでなかったようで安心する。

 

「なんかやってみるか?」

 

「うん、おすすめある?」

 

 そうだなー、とそろっと店の奥を見てびっくり。おいおい、ダンレボあるじゃねえか。久しぶりに見たぞ。また流行り出したんだろうか。運動神経よさそうなら川崎なら大丈夫かもしれん。

 

「ダンレボでもやってみるか」

 

「だん、れぼ? なにそれ?」

 

「リズムに乗って踊るゲームだな。上下左右の矢印が下から上がってきて、リズムよくタイミングよくそれに対応した足場を踏むってやつだ。ま、行ってみるか」

 

「うん」

 

 先に進む俺に川崎がしっかりと付いてくる。

 

 二台のマシンが鎮座された場所に辿り着く。どうも人気がないようで誰も使っていない。まあ、恥ずかしいもんなああれ。俺もやったことないし。恥ずかしがり屋の可能性が高い川崎には難易度が高かったか……?

 

 恐る恐る隣を見るが、川崎は興味津々に煌々と光るディスプレイを熱く眺めていた。

 

「やるか?」

 

「やる。やろ!」

 

 即答すぎる。んもう、サキサキったらはしゃいじゃって!

 

 いきなり袖口を掴んだ川崎が俺をぐいぐいと引っ張っていくと、マシンの上に立つ。俺が硬貨を投入するとディスプレイの表示が切り替わり、「きゃっ」と川崎が可愛い悲鳴を上げる。

 

「え、なに? もうピコピコ始まったの? え? どうすればいい?」

 

 ピコピコとかお前はオカンか。ニヤニヤしちゃうじゃないか。

 

「落ち着け。曲の選択画面に移っただけだ。最初はローテンポの曲からやって感触を確かめていけばいい」

 

「わ、分かった」

 

 川崎に指示を出して曲を選定。ゲームが始まる。

 

 初心者に優しい遅い曲で、楽譜も少ない親切設計だ。

 

 画面上部から矢印が落ちてくる。

 

「ひ、比企谷! こ、これどうすればいい? 殴るの? 殴ればいいの?」

 

「待て、殴るな。これはそういうゲームじゃねえよ。踏むんだよ」

 

「なに踏むの? あんた?」

 

「お前はドSなのか? ちげえよ。矢印に対応した床を踏むんだよ。足元見てみろ。矢印あるだろ」

 

「あった、あった比企谷! これを殴るの⁉」

 

「なんで殴っちゃうんだよ。踏むんだよ。ステップだステップ」

 

「わ、分かった。ステップだね」

 

 最初の譜面をいくつか飛ばすものの、ぎこちないながら川崎はタイミングを合わせていく。

 

「ね、ねえ。いつ殴ればいいの?」

 

 この子、テンパるとりあえず何か殴りたくなるの? やだ、なにそれ怖い。

 

「その拳は一生封印しとけ」

 

「分かった。ステップだけにしとく」

 

 ようやく集中してきたのか、変な発言はせずに成功ステータスが加算されていく。楽しくなってきたのか、鼻歌を歌いながら上半身を躍らせステップを踏んでいく。

 

「あはっ、楽しっ」

 

 なんだろう。残念な男が高難易度をプレイしている動画とかあるが、いま俺が見ているのは見目麗しい美女が初めてのゲームで楽しそうにステップを刻んでいる姿だ。ときどき失敗して悔しそうにしている横顔も、タイミングばっちしが重なって嬉しそうに弾んだ表情も、いままで見たことのない気分にさせられる。川崎が踊る様を阿呆のように眺め続ける。

 

 やがて、1STステージが終わり、2NDステージに切り替わる。ふんふんとハミングを弾ませながら川崎はもうノリノリだ。

 

「見てて比企谷、次は完璧にするから!」

 

「おう」

 

 曲調が変わる。さっきよりもアップテンポな曲だが、やはり譜面は少なく難易度は低い。川崎も前奏時点で感覚を掴み、最初から違えることなく足を動かしながら腕を広げる。

 

「ね、初めてにしてはすごくない?」

 

 頬に軽く汗を滲ませた川崎が俺を見て言う。

 

「まったくだ。俺を越えたな。弟子に越えられる師匠の気分が分かったわ」

 

「やったっ!」

 

 喜び踊る川崎に、それを眺め褒めたたえる俺。初めての構図だが違和感はない。逆にしっくりくるくらいだ。この状態をなんと言えばいいのか分からない。ただ、胸の奥が熱く、でも妙に安心するような温かさが全身を巡る。

 

 時が止まればいいと思った。ずっとこうしていたいと思えるほどに。そんなこと、いままで一度たりとも感じたことがなかったというのに。

 

 完全クリアで川崎は2NDステージが終わり、Lastステージが始まる。前二曲よりも少し難易度が上がった譜面を、川崎はそれでも軽快にこなしていく。

 

 調子に乗った川崎がくるりと一回転。ふわりと広がるフレアスカート。満面には太陽と見まごう輝く笑顔。

 

 幸せだと思った。なにがどうしてなど、そんな理由を考えるのが無粋だと思えるくらいに。ただこの光景を心のフィルムに焼き付けておきたかった。

 

 気づくとゲームは終わっていた。肩で息をした川崎が、んふふ、と微笑みながら俺を見つめて手を差し出す。

 

「ね、一緒にやろ?」

 

 答える間もなく川崎に引っ張り上げられる。たった一度の俺の動きで理解したのか、硬貨を投入して画面を操作していく。

 

「じゃあ、次は中級っぽそうなのやろっか」

 

「おい、待て。俺はこのゲーム得意じゃないぞ?」

 

「じゃああたしと一緒に踊って。勝ち負けなんてどうでもいいから」

 

 卑怯だ。そんな可愛い顔で言われちゃ断れないだろ。

 

「じゃ、スタート!」

 

 画面が切り替わる。想像以上に譜面が難しく、のっけから大量にミスをする俺。川崎は既にコツをつかんだか悠々とステップを踏み続ける。やべえ、この子、才能あるんじゃないの?

 

「ふふっ、へたっぴー」

 

「うっせ。これは準備運動だ」

 

 あははと川崎が笑い、手を伸ばしてくる。

 

「呼吸合わせて。ね?」

 

 自然とその手を掴んでいた。絶対にあり得ない行動がすんなり出来てしまった。恥ずかしいとも怖いとも、そんな負の感情が欠片も浮かばない。徐々に俺の方もリズムに乗ってくる。

 

「うんうん、その調子。うまいね」

 

「師匠がいいからな」

 

「崇め奉る?」

 

「調子に乗るな。だがまあ、素直にすげえと思うわ」

 

「うん、ありがと」

 

 重ねていた手を川崎が握る。思わず目を見開いて川崎を見るも、彼女は画面をみたままゲームに興じている。

 

「ん、ほら、楽しんで?」

 

「あいよ」

 

 意を決して握り返し、俺も集中する。世界のすべてが消え、ただ俺と川崎だけがいる錯覚。なにもかもがただこの一瞬のためだけに存在したのではないのかと思う、妙な高揚感。

 

 たぶん、これが他人といて楽しいと感じる感覚なのだろう。由比ヶ浜や雪ノ下に感じる安心感とは違う別の感情。これがなんなのかは分からない。怖いのかもしれない。だからすぐに蓋をして、いまを楽しめればいいと強く信じた。

 

 

 

 



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こう見えて、比企谷八幡は成長している 5

 思いのほか熱中してしまい、一時間もダンレボで過ごしてしまった。いつの間にか人だかりが出来ていて超恥ずかしかった。まあ、そのほとんどの視線は川崎に集中していたのだが。

 

 そんなこんなで、その後クレーンゲームやらレースゲーム、コインゲームなどで遊んだ。川崎は大層楽しかったようで、終始ご機嫌状態だった。いまどきゲーセンでここまで喜んでくれる女子高生なんていないよ? 八幡うれしいわあ。

 

 などと心中で感慨深く呟き、時間も頃合いなのでゲーセンを出た。

 

 街は既に黄昏の海に沈み、長く影を伸ばしている。なんだか不思議な半日だ。こんな気分になったのは初めてで、言語化できなくてどこかもどかしい。

 

 隣を歩く川崎は鼻歌を歌ってご機嫌だ。その様を見て微笑ましく思える自分に驚愕する。

 

 なんなのだろうかこれは。隣に女子がいるのに変に緊張せず、落ち着いているのにどこか浮足立って、身体がほかほかと温かい。すぐ傍にある気配があることが嬉しくて堪らない気分にさせられる。

 

 意味が分からない。すべてが初めてで、心の置き場所が分からない。

 

「もう帰る?」

 

 川崎が俺を見上げる。その瞳は潤んでいて、見つめているだけで吸い込まれてしまいそうになる。思わず前かがみになるのをぐっと堪える。

 

 帰りたくない。

 

 なんて、あり得ない科白が浮かんだ。

 

 慣れない事ばかりで頭がトチ狂ったのだろう。

 

 そう、考えることにした。

 

「ま、どっかで飯食ってくか。そういや小町もたまには一人で食べたいとか言ってたしな」

 

 ゲーセンにいる最中、小町から来たメールがこれだ。

 

「今日はひとりで夕飯を食べたい気分なので、夕食は作ってあげません。どこかで食べてくること。愛しの小町より。あ、これ小町的にポイントたっかい~☆」

 

 見たときはイラっとしたが、正直いまはありがたい気分だ。ハーゲンダッツを買ってお供えしたくなっちゃう。

 

「ん、分かった。なに食べたい?」

 

 目じりを下げた川崎が訊いてくる。まったくもう、どうしてこの子はいつも人の意見を優先させようとしちゃうの? ちゃんと今回の趣旨理解してるのかしら。困ったわあ……。

 

「俺に訊くな。川崎は何食べたいんだ? 千葉は俺のテリトリーだから、大抵は網羅してるぞ」

 

 本当はサイゼを推したいところだが、過去の経験がそれは駄目だと訴えかけていた。千葉県一のサイゼリアンを自負する俺としては苦渋の決断だ。

 

 そんな俺の考えを知ってか知らずか、川崎は途端に悩み始める。

 

「なんだろう、いつも弟とか妹に合わせてたから、ぱっと出てこない」

 

「好物のひとつくらいあるだろ。なんでもいいから言ってみな」

 

 じゃあ、と川崎が恐る恐る口にする。

 

「オムライス」

 

「んじゃ、洋食屋だな」

 

 しばらくふたりで街路を歩き、ペリエ千葉に入って目的の洋食屋を目指す。苦痛の欠片も感じられない徒歩の時間を川崎と過ごしているうちに、五階にある洋食屋に辿り着く。古き良きあの味を再現しているらしい店の店員に、二人掛けの席へと案内される。ちょうど俺たちで満席になったようだ。夕食にはほんの少し早い時間だったが、タイミングが良かった。

 

「ここ来たことないな。比企谷は来たことあるの?」

 

「小町とたまにな。懐かしきあの味って奴だな」

 

「そっか、楽しみ」

 

 頬を綻ばせて川崎がメニューを開く。店員が持ってきたグラスを指先で突いて、楽しそうにメニューを眺め始める。

 

 俺も選ぶかとメニューに触れたところで、川崎が困ったように「どうしようかな」と呟く声を耳が拾う。

 

「なに悩んでるんだ?」

 

 顔を上げた川崎は悩んでいても楽しそうだ。

 

「うん、オムライスも色々あってね? このチーズクリームのとビーフシチューの、どっちがいいかな?」

 

「そういや、小町も似たようなことで悩んでたな。結局シェアするってことで落ち着いたが」

 

「そうなんだ。うちもそうかも」

 

 自然と口が開く。

 

「んじゃ、そうするか」

 

 きょとんと首を傾げる川崎。

 

「いいの?」

 

「俺も気になるしな」

 

 浮かんだ焦りを水と一緒に飲み下して店員を呼んで注文する。

 

 なにやってんだ俺は。川崎といるとどうにも調子がおかしくなる。いつもの俺がどこかへ飛び立ってしまったようだ。恥ずかしい科白も、行動も、考えも、簡単にまろび出てきてしまう。

 

 まさか、浮かれてるのか?

 

 俺が?

 

 はっ。

 

 あり得ん。

 

 一体どれだけ苦渋を飲まされてきた。黒歴史を思い出せ。いまの俺は俺じゃない。俺に似た別の何かだ。これは俺じゃない、俺じゃ……。

 

「ありがと」

 

 落ちていた視線が上がる。川崎と視線が交錯する。彼女は俺をしっとりとした目で見つめて、もう一度言った。

 

「ありがと、比企谷」

 

 思考が止まる。

 

「……なにがだ?」

 

「今日のこと。昨日のこと。それと、明日からのこと」

 

 今度は言葉が出ない。喉に何かが詰まってしまったように。身体が意思を喪失したように。ただただ呆然として、川崎へ視線を注ぎ続ける。それ以外のすべてが、どうだっていいとばかりに。

 

「ね、あんたといると、楽しいね」

 

 顔が燃えたかと思った。いきなり首から上が熱くなって、目をしばたたかせる。

 

 泣きそうだった。誰もいなかったら大声で泣いていると思った。心が何かを叫びたがっているのだと感じた。

 

「そうか」

 

 かろうじて声が出せた。震えていたかもしれない。当たり前だ。

 

 嬉しかったのだ。

 

 そんなこと――だれも言ってなどくれなかったから。

 

 互いに言葉が消えた。無言でもいいと思った。ただ傍にいてくれさえすれば、なにもいらないと信じられた。過去の失敗も、濁った感情も、すべてがどうでも良くなった。

 

 現実が戻ってくる切っ掛けは、しばらくしてからだった。店員が注文の品を持ってきたのだ。外食に来ているのだから当然なのに、理不尽にも邪魔をするなという言葉が浮かんだ。

 

 アホか俺は。どこまで脳内お花畑になってんだ。冷静になれ。夜になったら布団被ってジタバタするんだからいまは落ち着こう。ほら、いま体力使うと夜バタバタできないし。やだ、もう黒歴史確定なのこれ……。八幡もうこれ以上黒歴史作りたくない……!

 

 よし、いつもの調子が戻ってきた。

 

 ひとまず軽く深呼吸だ。

 

 ひっひっふー……って、俺は妊婦さんか。うん、自分でノリ突っ込みなんてやっぱりおかしいですねえ。さては、これは病気かな? 明日病院行かないと!

 

 駄目だ。いつもが戻ってこない。おかしいな、変わったとしてもまだ拗らせていたはずなのに、いつもとやらがどんどん分からなくなってくる。果たして、いまの俺はなんなのだろう。

 

 思考の渦に嵌りかけたそのとき、弾んだ声が俺を呼んだ。

 

「ひーっきがや」

 

「ん、あ、どした?」

 

 川崎がおかしそうに微笑む。

 

「なに難しい顔してるの? 食べよ? おいしそうだよ?」

 

 ビーフシチューのオムライスを一口サイズにスプーンで掬った川崎が、ひょいと俺の口に差し出す。

 

「はい、どうぞ」

 

「……っ!」

 

 これにはたまらず口元を抑えて仰け反った。いきなりハードルを二つくらいすっ飛ばしてきやがったぞこいつ。いや、ハードルってなんだよ。

 

 疑問符を浮かべていた川崎だったが、ようやく自分の行為の意味に気づいたか、視線を彷徨わせる。

 

「えっと、その、あの……」

 

 唇を開いては閉じを繰り返し、やがて……。

 

「あ、あたしのご飯が食べられないって言うの?」

 

 顔を真っ赤にして言った。言いやがった。意味が分からない。なに言っちゃってんのこの子?

 

「いや、それ川崎が作ったやつじゃねえだろ」

 

「確かに……でもとりあえず食べて」

 

「納得したのに食べさせるのかよ」

 

「こ、こっちも引き下がれないの! そう、これは勝負。あんたとあたしの勝負」

 

「いや、なんのだよ」

 

「互いのプライド?」

 

「この行為のどこにプライドが関係するのかが分からん」

 

「いいから、ひねくれてないで食べる!」

 

 ぐいぐいと押し付けようとする川崎を避けることができず、仕方なしに口を開く。超恥ずかしい。羞恥心で焼けこげる。周囲の視線が集まってる気がする。

 

 口の中にスプーンが滑り込む。ビーフシチューの香りととろりとした卵の感触、チキンライスの味が舌の上を転がる。なにより、幸せの味が口の中に広がって心が痛いくらいだ。

 

「ん、おいし?」

 

 こくんと頷く。口を開けば変なことを言いそうだった。

 

 俺の反応に満足そうに微笑んだ川崎は、スプーンで掬って口に運ぼうとし、止まる。その視線の先は手元。視線を左右に動かしして一度目を強く瞑ると、いざ勝負とばかりに口に突っ込む。

 

「……んーっ!」

 

 途端、顔を綻ばせ両肩を交互に上下に動かす。

 

「すごい、おいしい!」

 

「そりゃよかった」

 

 息も絶え絶え言う俺に対し、川崎は大層ご満悦だ。まったく、嬉しそうにしちゃって。こっちも喜んじゃうだろうが。

 

 俺はチーズクリームの方へと食指を伸ばす。一口分をスプーンに乗せて口に運ぼうとしたところで、ふと顔を上げた。川崎が俺を凝視していた。いや、正確には俺が持つスプーンの先端だ。

 

「……どした?」

 

「ん、食べる」

 

「そうか、好きに食べてくれ」

 

 左手でチーズクリームのオムライスを川崎へと近づけるも、首を振って視線を俺のスプーンへと注ぐ。

 

「……違う。それ食べる」

 

 川崎が俺の持つスプーンを指差す。

 

「……俺はプライド無いから負けでいいぞ?」

 

 言って、そのまま口に放り込もうとしたところで川崎の手が伸びて、俺の手首を掴んだ。

 

「な、ナンデスカ?」

 

「私の勝ち。だから食べさせて」

 

「その理屈だと勝とうが負けようが結局食べさせなきゃいけないのかよ」

 

「うん、だから……ちょうだい?」

 

 川崎が上目づかいで眉を下げてお願いしてくる。この人はこれを計算でなく天然でやるからたちが悪い。これを断れる男がこの世界に居るのだろうか。いや、居るまい。

 

 震えそうになる手を強固な意識で固め、スプーンを川崎の綺麗な唇へと向ける。彼女は顔を赤くしながらも目をつぶって口を開いてスプーンを受け入れる。

 

 ん、と川崎の甘い吐息。心を直接指で撫でられたような恍惚感。咀嚼を終えた彼女の喉がこくんと鳴る。

 

 しばらく余韻に浸っているのか、川崎は目を閉じた状態でいた。やがて、まぶたを開いてへにゃりと笑った。

 

「おいし」

 

 頬を抑えた川崎がチーズクリームーのオムライスをひと掬い。ようやく普通に食べるのかと思いきや、スプーンの矛先を俺に向けてくる。

 

「はい、どうぞ」

 

「待て、そろそろ普通に食おう。あれだ、時間が掛かる。というか、恥ずかしくて死ぬ」

 

「うん、あたしも恥ずかしい。でも……これで最後だから」

 

 悲し気に言われては断ることなどできない。最後の一口とやらを羞恥に燃やし尽くされながら食べ、ようやく俺は一息つくことができた。

 

 食べるって、疲れるんだね。

 

 なのに悪い気分じゃない。むしろ……。

 

 間欠泉のように湧き出した感情は一体なんなのか。まだ答えは出ない。

 

 

 

 千葉の街に夜の帳が下りる。人工灯火によって明るい道を川崎と共に無言で歩いた。気まずさから来る沈黙ではない。言葉が出なかった。たぶん、川崎もそうなんじゃないかと思う。なにを言えばいいのか、なにか言っていいのか、言葉に発するだけで、いまのこの空間を徹底的に破壊してしまうのではないのかと恐れて。

 

 そんな風に思い悩むほど、ふたりで歩くいまが心地よかった。調子が狂う、普段と違うどころの話じゃない。まったく別人になったような心の情動。なのに、やっぱり気持ちの悪さや居心地の悪さなど微塵も感じられなくて、宝箱に仕舞って一生大事にしてしまいたいと願いたくなる。

 

 もしも、もしもである。

 

 この想いが本物であるならば、俺はこの道を進んで良いのだろうか。

 

 過去の経験は引き返せと叫ぶ。黒歴史は期待するなと冷ややかに指摘する。

 

 ならばいまの俺はどうだ。なにを考えている。なにを思っている。なにを感じ、一体どうしたい?

 

 思考がまとまらない。感情がぐちゃぐちゃだ。客観的に見れば吐き気がするに決まっているはずなのに、どうしても負の感情が出てこない。経験も歴史も過去のなにもかもが役に立たない。

 

 俺は、未知の世界にいるのではないか。

 

「比企谷」

 

 比企谷家まであと百メートルばかり。川崎が突然俺の名を呼んだ。思考に滑り込んできたその声に、俺はぎこちない動作で彼女を見る。

 

 川崎は前方を見つめたまま唇を緩めていた。

 

「ありがとう。楽しかった。すごく、すごく楽しかった」

 

「……ああ」

 

「夢みたいだった」

 

「……そうか」

 

「だから、だから……」

 

 川崎が言葉を止める。

 

 先が気になる。もっと声を聴いていたい。

 

 川崎が首を振る。一度唇を噛みしめると俺を見上げ、言った。

 

「明日も、明後日も、その次も、またその次も……一緒に居て」

 

 瞠目する。冷静な思考はもはや紡げない。ただ、言葉の意味をかみ砕いて、少しつらくなった。

 

「……ああ、分かった」

 

 依頼だ。そう、これは依頼だ。川崎を助けるために俺は動いているのだ。

 

 忘れるな比企谷八幡。

 

 自惚れるな。

 

 川崎沙希は、どうしようもない孤独の深淵で助けを求めていた。その手を掴んだのがたまたま俺だっただけだ。

 

 だから……、だから――。

 

 これは錯覚だ。

 

 たまたま何かが噛み合ってこうなったに過ぎない。一時の感情。気の迷い。助ける人に、助けを求めた人に、好意を感じていると勘違いしているだけだ。

 

 分かっている。

 

 理解している。

 

 人の心など俺は計算できない。

 

 きっとこの答えも間違いなのだろう。

 

 なら、もう少しだけ。神か仏か、それとも悪魔か、なんだっていい。

 

 誰か、この時を止めてくれ……。

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 家に戻ると、小町はいなかった。リビングにあった置手紙には、友達と夕食を食べてくると書いてある。

 

 小町ちゃん? ひとりで食べたかったんじゃなかったの? ボロ出過ぎだよ? お兄ちゃんやっぱり将来が心配だよ……。

 

 風呂場にお湯を張って遠慮する川崎を押し込んで、俺はひとり自室に引っ込んだ。いまひとりになりたいのは俺だ。

 

 心はまだ落ち着かない。心臓は狂ったように早鐘を打ち、身体は火照って仕様がない。

 

 勉強机に投げ出していたスマホが突然震える。小町かと思って画面を見ると、雪ノ下の名前が表示されていた。

 

「ごめんなさい、遅くなったわ」

 

「いや、今日は何とかなった。色々考えてくれたみたいで助かる。訊いていいか?」

 

「あなた……」雪ノ下が言葉を詰まらせる。「いえ、なんでもないわ。本題だけれど、答えは意外と簡単だったわ」

 

「というと?」

 

「川崎さんの行きたいであろう場所に、あなたが決めて連れて行きなさい。誰が考えたわけでなもなく、あなたの意思で」

 

「なんだそりゃ」

 

「いまは分からなくてもいい。そうしなさい。誰かが味方をしてくれる。誰かが自分を見ていてくれる。心配してくれている。それが伝われば、なんだっていいのよ」

 

「俺は別に……」

 

「あなたは、それができる優しい人よ。自分で気づいていないだけ。あなたの不器用な優しさは、きっと川崎さんに伝わっているわ。私が、そうだったから」

 

 別に優しくなどない。自分勝手に捻くれているだけだ。雪ノ下と由比ヶ浜の存在、奉仕部で過ごした一年で少しは成長したように見えるだけ。そう思っているのに、雪ノ下の言葉は神水のようにすんなりと心に染みわたる。

 

「そうか」

 

「ええ、そうよ。今日は楽しかった?」

 

「ああ、そうだと思う」

 

「よかった。あなた、いい声してるわよ」

 

「そうなのか?」

 

「一体どれだけあなたの捻くれた声を訊いてきたと思ってるの。間違いないわ。あなた、今日一日でまた成長したわ。本当に、羨ましくなるくらい」

 

「雪ノ下も成長してると思うぞ」

 

「そんな意味じゃないわ。いえ、気にしないで。それより最後に由比ヶ浜さんから伝言よ。

 

 あたしたちは絶対にヒッキーの味方だから。それだけは絶対に忘れないで。

 

 これは私も同じ気持ちよ。決して忘れないで。あなたはひとりじゃない。私たちがいる。何かあれば、なにもなくても、連絡してきなさい」

 

「……サンキューな」

 

「気にしないで。それじゃあ、そろそろ切るわ。少し早いけれど、おやすみなさい」

 

「ああ、おやすみな」

 

 通話が切れる。俺はなんとも言えない妙な気分になって、そのままベッドに倒れ込んだ。

 

 泣きそうだ。

 

 もう、大声で泣きわめきたい。

 

 目じりが熱くなって、涙が頬を伝った。シーツに染みる冷たさが、自分が泣いている事実を教えてくれた。

 

 嗚咽が漏れた。でも、決して声は漏らさないように両手で口を塞いだ。

 

 川崎が風呂を出るまであと何分か。

 

 それまでにはこの喜びを押し込め、受け入れ、普通の顔で迎えなくてはならない。

 

 今日一日で感じたこの感情の名を、まだ俺は決めたくはなかった。

 

 

 

 

 



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幕間
Interlude


 ひとり夕食後の帰り道は、心の隙間が埋まるような温もりと、少しばかりの寂しさがあった。

 

 置手紙にはあんなこと書いたけど、本当にひとりになりたかった。考えることがたくさんあった。

 

 きっと、この喜びをひとりで感じていたかったのだと思う。

 

 兄は成長した。良い方向に。以前とは信じられないほど、妹の贔屓目抜きでいい男になったと思う。

 

 変えてくれたのは奉仕部の皆さんだ。それだけじゃない。戸塚さんやいろはさん、平塚先生、中二さん、そして沙希さん。みな、いままで誰も見てくれなかった兄を見てくれた。私しかしらない兄の良さを分かってくれた。

 

 そして、それが兄に通じた。

 

 捻くれてて意味不明な理屈をこねて、人を拒絶していた兄が、自分の行動に対する他人の心を慮れるようになって、思い悩めるようになって、どんどんと先へと進んでいく。

 

 寂しかった。

 

 でも同時に、誇らしかった。

 

 私の兄は、こんなにもいい男なんだ。みんな見る目がない。たしかにめんどくさいけれど、あれでも自慢の兄なのだ。

 

 だから見つめられ、評価され、好かれることが嬉しくてしょうがない。

 

 また兄は変わった。

 

 奉仕部なんてものをやっているけど、それでも他人に距離を置いていた兄が、人の相談に乗った。とても真剣に。偽善なんて考えてしまうほど真摯に。

 

 やっぱり兄はすごい。その成長を一番近くで見られることが嬉しくて、なにか少しでも手伝えればと今回は頑張ってしまった。ちょっと色々な方面に貸しを作りまくってしまったけれど、兄のためならば仕方がない。

 

 だって私、お兄ちゃん大好きだもんなー。

 

 うん、今回は私もお兄ちゃんも小町的に超々ポイント高い。

 

 さて、今ごろ兄はどうしているだろうか。私が夕食を作らなかったことは、たぶん最初はムカついてたんじゃないかなあ。あの兄のことだ、沙希さんとふたりきりなんて耐えられそうにない。

 

 でも、大丈夫。沙希さんは兄を信頼しているように見えた。人はどん底に立った時、手を差し伸べてくれた人に信を置く。そしてその人が魅力的であるなら、好きになるのは当然だ。吊り橋効果っていうのかな? よく分からないけれど、きっとそうだ。

 

 最初はまやかしでも、兄は考える。きっかけがきっかけだし、過去のこともあるからすぐには素直になれないだろうけれど、少しづつ自覚していくのだと思う。

 

 だってお兄ちゃんだもん。私は全部知っている。

 

 めんどくさいけど、どこかで自分を見てくれている人を探している。ひとりが心細いと知っている。誰かを助けられる勇気のある人だって、理解している。

 

 だからきっと、楽しくて、恥ずかしくて、でも嬉しくて、そんな雑多な感情に振り回されて訳分からなくなって……。

 

 いまは、幸せを感じてるんじゃないかな。

 

 さあ、家まであともう少し。

 

 気合を入れよう。これは兄が体験する、初めての本当の恋だ。妹が応援せずに誰が応援するというのだ。

 

 あのふたりには少し申し訳ないけれど、兄にとってあの二人は恋愛感情ではなく親愛感情の対象だ。

 

 だから私は、このゴールデンウィークで全力を出す。たとえ誰に嫌われようとも、兄を幸せの道へ誘導してみせる。

 

 それが、ここまで一緒にいてくれた兄に対する妹からのお礼であり、贈り物だ。

 

 

 

 



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二章
瞬く間に、川崎沙希は距離を縮める 1


 朝起きてから、しばらくベッドの上でぼーっとしていた。昨日の残り香が身体のあちこちに沁みついていて、のぼせているような気分だった。

 

 スマホを見ると、時刻はまだ七時半に差し掛かったところだ。本格的に起きるにはまだ早い時間。

 

 ふと、スマホが震えた。由比ヶ浜からのメールだった。中身を見ると、「いま電話していい?」という絵文字もない端的な内容だった。

 

 了解と返信してしばらく待つと、由比ヶ浜から電話の着信が来る。

 

「よう、おはようさん」

 

「おはようヒッキー。まさかヒッキーがこんな朝早くに起きてるなんて思わなかったよ」

 

「早起きは三文の徳というだろ? 働かないで得られるお金っていいよな。早起きは専業主夫の副業になるかもしれん」

 

「ヒッキー、三文っていくらなの?」

 

「百円くらいだな」

 

「……働こうよ」

 

 すごい憐みの籠った声で言われてしまった。

 

 んっんー、と咳払いをして話題を逸らす。

 

「昨日はありがとな。伝言、ちゃんと伝わった」

 

「うん。ゆきのんから訊いたよ。遅くなっちゃってごめんね。そうそう訊いてよヒッキー。昨日あのあとゆきのんと会ったんだけど、全然うわの空でさー。話を振っても、「あらそう、そうなの、ええ分かるわ」しか言ってくれなかったんだよ? 絶対ヒッキーの相談について悩んでたよね!」

 

 昨日の雪ノ下を語る由比ヶ浜は楽しそうだ。時折思い出し笑いをしながら続ける。

 

「あたしもさー、背景とか分かんないから、どんな感じがいいんだろーって考えだしたら、ふたりして無言になっちゃってね。十分くらいそうしてたら、なんだかおかしくなっちゃって。とりあえずヒッキーが悪いってことにして笑っちゃったの!」

 

「おい、待て。とりあえず俺が悪いとかやめろ。とりあえずが付くのはビールだけでいいんだよ」

 

「あはは、ごめんごめん。でもね、そのあとカフェに入ってふたりして案をあげてったんだけど、やっぱりしっくりこなくて。適当な答えだけは絶対に出したくなかったから、いっぱいいっぱい考えて、あんな結論になったんだ」

 

 ちゃんと伝わったかなあ、と由比ヶ浜が細い声を出す。

 

「まあ、ちょっと分からんかったけど、なんとなくはな」

 

「ニュアンスってやつ?」

 

「由比ヶ浜にしては難しい言葉を知ってるな。そう、ニュアンスは伝わったわ」

 

「あたしこれでも受験生だからね⁉ ちゃんと勉強してるよ! ゆきのんスパルタ過ぎて勉強やだよー!」

 

「雪ノ下に教えてもらえれば留年は回避できるだろ。良かったな」

 

「あたしは進学したいよ⁉」

 

「ならがんばれ」

 

「ヒッキーがしんれつ? だー!」

 

「辛辣な。ちょっと留年も不安になってきたわ」

 

「辛辣だー!」

 

 由比ヶ浜が笑う。俺も声には出さずとも表情を緩める。

 

 誰かとこんな風な関係になれるとは、昔は思いもしなかった。由比ヶ浜も、雪ノ下も、俺のために時間をかけ思考を巡らせてくれた。それが、堪らなく嬉しかった。また目の奥が熱くなった。

 

「ヒッキー。昨日、楽しかったんだよね?」

 

「ああ、そうだな」

 

「うん、良かった。なんか色々変なこととか考えちゃったけど、それでも、ヒッキーが楽しいって思えてやっぱり嬉しいや」

 

「サンキューな」

 

「どういたしまして!」

 

 えへへと由比ヶ浜が笑う。まったく、この二人には一生頭が上がりそうにない。

 

「うん、話できてよかった。ヒッキー、沙希のことお願いね」

 

「なんとかする」

 

「うん、頼んだー!」

 

 それじゃあまたね、と由比ヶ浜が電話を切った。しばらくスマホを握りしめてから寝間着のポケットに仕舞い、部屋を出る。階段を下りてリビングに入ると、既に小町と川崎がのんびりと朝のニュース番組を見ているところだった。

 

「あ、お兄ちゃんおはよー」

 

「おはようさん」

 

 のほほんとテレビを見ながら挨拶する小町に愛を込めて返す。当然愛は返って来ない。お兄ちゃん寂しいよ……。

 

 そんな俺の感情を悟ったのか、川崎は首だけ振り返って微笑んで言った。

 

「おはよう、比企谷」

 

「おう、おはよう」

 

 動揺することなく平常心で返す。うん、今日の八幡は通常運転で行けそうだ。

 

 と、思っていた時期がありました。

 

 ぶっこんで来たのは小町だ。

 

「沙希さん、思ったんですけど。ここ、比企谷家なんで全員比企谷ですよ?」

 

「え? あ、確かにそうかも」

 

「ですです! なので、ごみいちゃんのことは名前で呼びましょう!」

 

「へ?」

 

 おい待て。いきなり何を言い出すんだこの妹は。じとーっと睨みつけてやるが、気づいた風でもなく鼻歌でも歌うような気軽さで続けていく。

 

「ほら、そうでもないと今後名前で苦労するじゃないですかー。小町も比企谷ですし、お父さんとお母さんも比企谷です。なので、名前呼びすれば混乱することなく皆ハッピーです。平和な家庭の出来上がりですね! あ、これって小町的にポイントたっかい~☆」

 

 川崎の時が完全に止まる。うーん、いきなりハードル高いですねえ。ぼっちにそんな高難易度を挑ませるとは、さては小町さん、あなたは鬼かな?

 

 しかし、その強烈な牙は俺にも向いていたのだ。

 

「あ、お兄ちゃんもだよ? 相手にだけ名前呼びさせて自分だけいままで通り、なんて男らしくないことしないよねー? お兄ちゃんだもんねー? 小町のわがまま訊いてくれるよねー?」

 

 小町ちゃん、いまのあなたとっても怖いわよ……。

 

 小町が、ぱんぱんと手を叩く。

 

「ほらお兄ちゃん、こっち座って! 沙希さんの隣だよ。ほら早く!」

 

 小町がソファーをひと席分隣にずれて、さっきまで自分のいた場所をぽんぽんする。

 

「小町ちゃん、お兄ちゃん朝ごはん食べたいなー……」

 

「え、わがまま訊いてくれないと作らないよ?」

 

「小町ぇ……」

 

 妹が理不尽過ぎる……。

 

 仕方がない、世間では妹に甘々と評判の俺だ。妹のわがままを聞けないはずがない。

 

 ……今回は難易度高いなあ。

 

 若干どころかかなり緊張しつつ川崎の隣で腰を落とす。ちらりと彼女の顔に目をやると、完全に固まった川崎沙希の姿がそこにあった。すごいな、まばたきひとつしてないぞ。

 

「あらあらー、沙希さん固まってますねー。じゃあお兄ちゃんからどうぞー! さんはい!」

 

「え、は? いま? いまやんの?」

 

「なに言ってんの馬鹿なのアホなのごみいちゃんなの? いつやるの? いまでしょ!」

 

 いつから林先生になっちゃったの小町ちゃん……。いちいちポーズまで真似しなくていいから!

 

 川崎の方をもう一度見る。川崎の姿に変わりはない。いや、少し頬が赤く染まっている気がする。じわっと汗が滲んで首筋を流れていた。あれー、これ拒絶されてるんじゃないの? 大丈夫なの?

 

 不安になって小町を見るが、さっさとやれと顎をくいっとされるだけだ。ふぇぇ……妹がスパルタだよぉ……。

 

 腹をくくるしかないようだ。あれだ、名前を呼ぶだけでいいのだ。その相手が地蔵だと思えば問題ない。現に地蔵タイムのようだし……。

 

「さ、沙希……」

 

「んひゃっ!」

 

 地蔵だった沙希が、可愛らしい悲鳴を上げて肩をひくつかせる。

 

 その様を第三者席で見ていた小町は不満そうな声を出す。

 

「んー、微妙だなあ。もっと自然に呼べないの? ほら、小町を呼ぶ感覚でもう一度いってみよー! さんはい!」

 

 お兄ちゃん頑張ってるから! もうちょっと労わって!

 

 妹へ抗議の視線を向けるも、はよしろと指でくいっとやられるだけだ。

 

「ほらほらさっさとやる! さんはい!」

 

「……沙希」

 

 んっ、と沙希が今度は吐息をこぼす。大きく目を見開いて見返してくる。しばしの間、見つめ合う。視線が絡みついて動かすことができない。

 

 ぽんぽんと小町に肩を叩かれる。視線を川崎から移すとと、小町が満足そうにうんうんと大きく頷いていた。

 

「いいよいいよお兄ちゃん。さすが小町のお兄ちゃんだね! やっぱりやればできるんだよ! ……まあ、普段はやらないんだけど」

 

 一言多いんだよなあ……。

 

 ふっふっふ、と小町が怪しく笑い始める。嫌な予感しかしないなあ。嫌だなあ。

 

「今度は沙希さんの番ですね。さあ、スリー、トゥー、ワン、どうぞー!」

 

 なんで俺のときと掛け声違うの? 沙希の方が掛け声いいよ? お兄ちゃんにもそれやって欲しかったなあ……。

 

 俺を見ていた沙希がぷいっと顔をそむける。そんな嫌なんですか……。俺がんばったんだけど……。

 

 視線を外へ向けたまま、沙希がぽしょりと呟く。

 

「は、はち、まん……」

 

「はいカットー!」

 

 湧き上がる感情を感じる寸前、小町が素早く言葉を滑り込ませてくる。

 

「だめです、まったく全然だめです! 沙希さん、それが本気ですか? 違いますよね? もっとできますよね? もっと熱くなって下さい! さあ張り切っていきましょー! スリー、トゥー、ワン、ゴーー!」

 

 沙希が反論する間も与えず小町が畳みかける。ねえ、名前呼びってそんな某元テニスプレイヤー並みに熱くならないと駄目なの?

 

 兄として小町の頭を心配するも、やはり沙希の反応が気になってしまう。

 

 沙希は目を見開いて俺とテレビ、窓の外やテーブルなど、視線があちこちへ飛んでいる。表情は明らかに見て取れる困惑。口元は閉じたり開いたりともにょもにょしている。

 

 無意味な意味づけ。他者の心を自分勝手な想像による決めつけ。でも、どうしても考えてしまう。思考してしまう。何気ない仕草がどんな感情によって引き起こされたものか、分かりたいと衝動が湧き上がる。

 

 思考を切る。

 

 これ以上は無意味だ。

 

 ただ困っているだけだ。いままでの自分を思い出せ。こんな風に期待することなどなかったはずだ。いま、俺は昔の俺に戻っている。自分勝手に勘違いな想いを一方通行に注ぐ愚者は、もう卒業したはずだ。

 

 一度落ち着くと、さっと血が引いたように背筋が寒くなる。

 

 兄として妹の暴挙をこれ以上許してはいけない。沙希は客であり依頼者だ。その彼女を困らせてはならない。

 

 小町に一言いってやろうと身体を向き直って、

 

「おい小町、いい加減に――」

 

「八幡」

 

 凍った。

 

 聞き違いかと思った。

 

「八幡」

 

 さび付いた機械仕掛けの人形のように、ぎこちなく振り返る。口の中でもう一度俺の名を呼んだ沙希が、頬を染めながら口元を緩めていた。

 

「うん、しっくりきた。八幡」

 

 掠れた息が零れた。

 

 沙希が首を傾ける。

 

「八幡? どうしたの?」

 

 背に温もり。小町が背中に手を当ててくれていた。

 

 奥歯を噛む。この二日でどれだけ泣きそうになってるんだ俺は。

 

 いきなり世界が流転して全部が俺に都合のいい法則で作り直されたようだ。周りがあまりにも温かくて、優しくて、捻くれていることが阿呆みたいじゃないか。

 

 ――お兄ちゃん。

 

 俺にしか届かないほどの声で、小町が言った。

 

 ――素直になっていいんだよ。

 

「……ッ」

 

 声が壊れる。頑なに閉じていた扉にヒビが走る。視界が明滅してなにかが頬を伝った。冷たくも熱のあるそれは顎にしたたり、雨滴となって膝に沁みを作り広がっていく。

 

 沙希が手を伸ばす。指先が俺の頬に触れた。

 

「泣きたい?」

 

 心震わす声で沙希が言った。視界が流れる涙で万華鏡になって、ほとんど彼女の顔は見えない。なのに、俺を心配そうに見つめていることだけは確かなことだと、心の底から理解できた。そんな、こころあるやさしい声だった。

 

「……さあ、どうだろうな」

 

 口端を吊り上げて笑ってみせた。きっと不器用な笑みだ。それを見た沙希が苦笑する。

 

「捻くれ八幡」

 

「んな簡単にこれが治るかよ。根が深いんだよ。ぼっち舐めんな」

 

 ふふ、と頬を緩めた沙希が両腕を広げる。

 

「おいで、八幡」

 

 ……そんな風に言われたら、もう耐えられないだろ。

 

 気づけば沙希に抱きしめられていた。彼女の鼓動すら聞こえるほど密着して、滑らかな髪が鼻先をくすぐる。衝動的に腕を回した。壊れるほど強く、強く、彼女を抱きしめた。

 

「泣いて。泣いて、泣いて、そして……笑おう?」

 

 もはや泣けとばかりに、沙希が言の葉を心の深淵に叩きつけてくる。

 

「一緒にいるって言った。約束したから。もうお互い……」

 

 ――寂しくないね。

 

 心を封じていた扉が壊れた。

 

 あとはもう、すべてをさらけ出すだけだった……。

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 途中まで見届けてから、私は音を立てずにリビングを出た。自室に戻ったとき、兄の嗚咽が届いた。いままで聞いたことのないほどの大きい声。心からの叫び。

 

 知らず、私も泣いていた。

 

 足に力が入らず、ドアに背を預けてずるずると床に膝を落とした。

 

「おにいぢゃん……!」

 

 涙が止まらない。嬉しくて堪らない。

 

 ようやく兄が心を開いた。あの強固な要塞を砕いて裸の心を晒した。ずっとできなかったことが、やっとできた。

 

 やっと、運命の人に出会えた。

 

 ずっと心配だった。裏切られ傷つけられ孤独の崖に身を落としていく兄を助けたかった。でも私には兄を引き上げることができなかった。だから他者を求めた。兄を救える人を探した。期待していた。

 

 そしていま、ようやく念願叶った。

 

 順序もタイミングも何もかもがでたらめだ。もっと段階を踏んで、お互いに歩み寄ってじっくり時間をかけるのが正解だったのかもしれない。こんな一足飛びに距離を縮めることが正しかったのか、不安もある。

 

 でも、だけれど、いま兄が泣いている事実が。悲しみや苦しみといった負の感情でなく、歓喜に声震わせる兄の声が、いま幸せを感じている福音を知らせてくれている。

 

 それだけで不安が吹き飛んだ。

 

 きっと間違いじゃない。これが正しい。

 

 いつだって貧乏くじを引いて、他人に貶められ、孤独の世界に生きてきて、一年掛けて現実の幸福に目を向け出して……。

 

 いま、足を踏み出した。

 

「よがったね、おにいぢゃん……!」

 

 手の甲で目元を乱暴に拭って兄のこれからを想う。

 

 兄と一緒に歩いてくれる、あの人との未来の姿を想像する。

 

 それはきっと、なんて素敵な光景なのだろう……。

 

 

 

 

 



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瞬く間に、川崎沙希は距離を縮める 2

 沙希がいる。赤子のように泣き叫んだ俺を優しく包んでくれた沙希が隣にいる。気まずさや恥ずかしさは少しあれど、それに勝る安心感が心を支配していた。

 

 俺が泣き止んでから、お互い無言で隣り合って座っていた。部屋は静寂が支配しているのに、寂しさはどこにもない。人の温かさがたゆたっていてそのまま眠ってしまいそうだ。だけど隣の沙希をもう少しだけ感じていたい。

 

 さらけ出してしまった。決して人に見せまいとした姿を見せてしまった。沙希の依頼をなんにも解決していないのに、俺だけ得をしてしまったようなものだ。さすがにバツが悪かった。

 

 左手に沙希の手が重なる。自然な動作だった。まるで家族にするようなそれ。左手にじんわりと体温が灯る。脳髄が痺れて負の思考が止まる。

 

「あんたがずっと無理してたのは知ってた。変わっていることもなんとなく分かっていたけど、過去の傷はずっと残るよね」

 

「……そうだな」

 

「八幡の一端を垣間見れてよかったよ。ずっと、あたしだけが寄りかかってばかりだったから。少しでも楽になれたならうれしいかな」

 

「そんなことないだろ。沙希の問題をなんとかしなきゃならんのに、こんなんなってすまん……」

 

 沙希が強く首を振る。

 

「いままでの自分を曲げてまであたしのために動いてくれた。一年前の八幡を知っているから、それだけでうれしい」

 

 救われたよ、と沙希が目を細めて告げ、言葉を紡ぐ。

 

「寂しかった?」

 

「そうだな。そうかもしれん」

 

「つらかった?」

 

「麻痺する程度には」

 

「うん、あたしもそうかも。人間関係が上手くいかなくていつもひとりだった。やっぱり、家族だけじゃ寂しかった。でも、もう大丈夫だね」

 

「そうだな」

 

「うん、あたしには八幡がいるし、八幡にはあたしがいる。なら、きっと大丈夫」

 

 それは一体どういう意味だろう。

 

 あれは依頼のことを言っていたのではなく、この先のことを指していたのだろうか。

 

 沙希の言葉にもはや微塵の疑いも持てない。だから額面通りに受け取ってしまう。心の殻が粉みじんにされたぶん、疑う精神を持てないかもしれないことに、わずかばかりの恐怖を覚えた。

 

 世の人すべてを無条件に信頼することなどできない。だから、沙希には開いたまま、他を今まで通りにすればいい。二種類の防壁を相手によって付け替える、それだけだと結論づけた。

 

 いや、信頼できる人物なら他にもいる。その人たちも信頼の枠に入れてしまっていいはずだ。もはや、彼ら彼女らに壁を築く必要などないのだから。

 

「ん、朝ごはん食べないとね」

 

 沙希が立ち上がる。確かに、小町の発言で俺の朝ごはんがご破算になっていたところだ。小町の姿を探すもいるはずの場所にいない。気を利かせて自室に戻ったのだろう。まったく、いちいち気の回る出来た妹だ。

 

 沙希が台所に向かってエプロンをつける。

 

「ん、沙希が作るのか?」

 

「作るって言っても目玉焼きくらいだよ。大体小町が作っちゃってあるからさ」

 

 冷蔵庫から卵を取り出しながら沙希が言った。家庭的な何気ない仕草にどきりとした。なるべく変な意識をしないようにいつも通りを心掛ける。

 

「客に作らせて悪いな」

 

「んーん。毎日作ってたし、料理するのも好きだから。ただやりたいだけだよ」

 

「そうか。やりたいなら仕方ないな」

 

「そ、仕方ないの」

 

 料理をする沙希の後ろ姿を眺めつつ思考を飛ばす。今日は何をするか。まったくもって決まってないが、雪ノ下と由比ヶ浜が贈ってくれた指針だけはある。

 

「なあ、どこか行きたい場所とかやりたいことあるか?」

 

「んー、とりあえずまたゲーセン行きたい」

 

「またあれやるのか」

 

 料理をしながらもよどみなく沙希が答える。

 

「今日行くとこにあればね。いままで何もしてこなかった分、色々やってみたいから」

 

「なるほどな。他には? 今日丸一日ゲーセンで潰すわけにもいかんだろ」

 

「特になにか買いたいものがあるわけじゃないけど、ららぽかな。気兼ねなく回りたい。八幡を引きずり回しちゃうかもだけど、いい?」

 

「お手柔らかに頼む。だがまあ、ちゃんと付き合うわ」

 

「ありがと」

 

 料理を終えた沙希が、テーブルで待っていた俺の前に配膳していく。なんだか夫になった気分で気恥ずかしい。

 

 今日は白いご飯に焼き魚、味噌汁に目玉焼きだ。相変わらず朝から豪勢だ。小町ちゃん、いつもありがとうね。

 

 いただきます、と手を合わせて食事を始める。沙希はエプロンを脱いで対面に座ると頬杖をついた。

 

「本当の八幡は、優しいんだね」

 

「どうだかな。まあ、身内には甘いぞ。特に小町にはダダ甘だな。甘すぎてハーゲンダッツを奢りまくるまである」

 

 そういえばハーゲンダッツ買ってくるの忘れてたな……。今日にでも買ってくか。

 

「私はもう身内?」

 

「身内にすらあんな醜態さらしてねえぞ。察してくれ」

 

「ん、そっか」

 

 なら、超えられたのかな……。

 

 ぽつりと沙希が言葉を吐き出した。それは安堵にも聞こえたし、燻るような焦りにも感じた。

 

 言わんとしていることは朧気に理解できた。誰かに知ってほしい、見てほしい、感情を注いでほしい。家族だけでなく、他の誰かに。

 

 この社会は厳しい。いたるところに不幸は転がっていて、普通からはみ出せば落とし穴にはまり、無様と嘲り蔑みながら石を投げられる。だから人は、第三者に認められないと生きることがとても難しい。ひとりで生きるには、この世界は悲しみに充ち溢れすぎている。

 

 それでも、比べるものではないのだ。不幸も幸福も個人の尺度であり、絶対的な物差しはどこにもない。個々人が感じたそれが絶対で、あとは他者による勝手な価値づけに過ぎない。

 

 感情は難しい。理解できない。計算できない。

 

 だから面白いのかもしれない。ひとつひとつに一喜一憂できるのかもしれない。

 

 ――計算できずに残った答え、それが人の気持ちというものだよ。

 

 いまさらになって恩師の言葉が思い浮かぶ。

 

 安息を知らない思考の拷問。かつて、計算できないものを思考せんとしたときに感じたうすら寒いもの。

 

 いまはどうだろうか。思考しているのだろうか。傷つける覚悟すらもって、大切にせんと強く想っているのだろうか。

 

 深く息を吐く。

 

 まったく、あの人はその場にいなくてすら教師をしているのだから困る。

 

 いますべきは、沈黙でも肯定でもなく、一言結論を出すことだ。俺なりの、いま感じたものを。

 

「比べるもんでもないだろ、そういうのは」

 

「うん、ただの自己満足」

 

 からからと沙希が笑う。

 

 伝わっただろうか。言葉とは時として無力であり、決定的なすれ違いを生む凶器ともなる。

 

 言葉は何のためにある?

 

 他者との相互理解を深めるためだ。だからもっと語ろう。勘違いさせないように。ちゃんと分かってもらえるように。

 

「人に対する感情なんて色々だ。そいつと過ごした過去が絡んでくるからな。だから感情の強弱なんて付けられん。好きにも種類があるし、嫌いにも種類がある。普通だって同じだ。だから……だから、なんて言えば良いか分からんけど、不安があるなら、思うことがあるなら言ってくれ。対処する」

 

 沙希が目をぱちりと瞬く。やがて、眉をハの字にして目じりを落とした。

 

「うん、ありがとう」

 

 そのまま他愛のない話をしながら朝食を終える。

 

 今日はららぽへ行ってからゲーセンへ。他はそのとき浮かんだ沙希のやりたいことに任せることに決めた。

 

 着替えをしようと自室へ戻ると、小町がベッドに座って待っていた。目元はうっすらと赤かった。まったく、こいつもなかなかのブラコンっぷりだ。

 

「今日のデートのために服を見に来てあげましたー。これって小町的にポイントたっかい~♪」

 

 きゃぴるるん☆ とウィンクする小町の頭にぽんと手を置いた。しばらくわしゃわしゃと撫でていると、最初はされるがままだった小町の顔が渋いものに変わっていく。あれ、どうしたのかな? いつもと反応ちがくない?

 

「む、なにさー。急に大人ぶった目しちゃって。むかつくー」

 

「小町ちゃん。むかつくとかお兄ちゃんに言わないの」

 

 ふふんと大人ぶって言い返す。

 

「ぶえー、むかつくなー」

 

 ぷんぷんしながらも、小町はくしゃりと笑った。

 

「さてさて、服決めといたからさっさと着ちゃって」

 

 ピッとベッドの上を指差すと、小町が腰を落としていた傍に選んだであろう服が並んでいた。用意が良すぎる……。この子、一体なにを目指しているのだろう……。お兄ちゃん、妹の将来が万能過ぎて怖くなっちゃうよ……。

 

「んじゃ、今日も楽しんでくるんだよー」

 

 のほほんと言って部屋を出ようとする小町を呼び止める。

 

「小町、ありがとな」

 

 小町は振り返らず、その場で天井を見上げた。

 

「……うん。がんばってね?」

 

「あいよ」

 

「ならよし! それじゃあ小町は部屋でのんびりしてるよー。夕飯いるなら早めに連絡してねー」

 

 ひらひらと手を振った小町が部屋を出る。

 

 さて、さっさと着替えようかね。

 

 

 

 温かい陽気の下、沙希とふたりで住宅街をとぼとぼ歩く。

 

「今日は暑さが和らいだね。いい天気」

 

 そう言った今日の沙希は、髪を由比ヶ浜のようにお団子で纏めていた。上は白のレースガウンに淡いベージュのカットソー、下はデニムスカートに黒のサンダルだ。

 

「太陽も連休くらいは休みたいんだろ。働きたくないのは太陽だって同じだ。やっぱり働いたら負けだな」

 

「相変わらずの捻くれだね」

 

 苦笑した沙希が俺の顔をじっと眺める。注がれる視線が熱くて顔が赤くなりそうだった。

 

「あんた眼鏡似合うね。学校でも付ければどう?」

 

 沙希はふっと華やかに微笑んだ。

 

 言われた通り俺は、珍しく伊達メガネを掛けている。昨日、親父が俺の腐り目をなんとかせんと、ガラスを通せばマシになると豪語して買ってきた代物である。でも眼鏡姿の俺を見て「俺の息子じゃないみたいだ……」は酷いんじゃないですかね……。どういう意味か今度訊いてやろう。あと、「これであの子を落とせ。いまのお前ならできる」は一言余計だ。まるでいままでの俺じゃ駄目みたいではないか。まあ、駄目なんですけどね……。

 

 そんなこんなで、親父は大層沙希のことが気に入っているらしい。母親も同様だ。その大半は、「息子が女の子を連れ込んだ」という事実に起因しているかもしれない。なんだろう、涙が出てくるよ。主に悲しみで……。

 

「目立ちたくないから付けたくないな。ぼっちが目立つとかどんな拷問だよ」

 

「まあ気持ちは分かるよ」

 

 今日は一緒に家を出て駅へ向かっていた。さすがにもう待ち合わせなんて無駄に待たせることはしたくないと沙希の意見を尊重した形だ。ええ子や……。

 

 京葉線に乗って南船橋駅で降りる。最初に向かったのは、ららぽーとTOKYO-BAY。目的は沙希希望の当てのないウィンドウショッピングだ。

 

 沙希とふたりで、ららぽの北館と南館を隔てるハーバー通りに入る。俺は一瞬左手にあるサイゼリアに目が奪われるが、川崎が逆方向に顔を向けていた。遅まきながら俺もそちらに視線を投げると、セガのゲーセンがあった。

 

 あ、うん……ほんとゲーセンに嵌ったのね沙希さん……。

 

「行くか?」

 

「ん、んー……あとにする!」

 

 まるで好物を我慢する幼子のような必死の形相で沙希が言った。知らず苦笑が漏れて沙希に軽く肩を叩かれた。

 

 並ぶテナントを眺めながら最初は帽子屋に入る。沙希はなにを思ったか俺に似合う帽子を探し始める。

 

 俺はこんなお洒落空間に縁などないので居心地が悪くて仕方がない。沙希は店内をぐるりと見渡すと、目につく帽子をぱっと取り俺の頭に乗せ、喉の奥でうーんと唸る。

 

 モナコハンチングにプロムナード、マリンキャップ、カンカン帽に、果てはシルクハットまで被せられ、俺は完全な着せ替え人形にされていた。行っている当の本人は真剣そのもので、帽子を持ってきては被せ、少し離れてじっと眺めて首を傾げる(可愛い)を繰り返している。

 

 あらかた沙希が選んだものを被り終えて一言、

 

「あんた、帽子似合わないね」

 

 袈裟斬りにされる。サキサキ酷くない……?

 

「こんだけ被せて出した結論がそれか……」

 

「ん、素の方がいいってこと」

 

 ぽんと肩を叩いた沙希は、外したベレー帽を元に戻すと俺の手を引いて歩き出す。手の平に体温が灯る。それだけで気分が高揚してしまうのだから、いまの俺は随分と単純になったものだ。

 

 沙希に連れられ、彼女が興味を示す店へ片っ端から足を踏み入れていく。なにを買うでもなく、眺めたり手に取ってみたり、服飾であれば身に着けてみたりと、表情をころころと変えながら店を冷かしていく。実に経済的で女子高生的な買い物である。まあ、女子高生となんて買い物いかないから知らんけど……。

 

 大層疲れるかと思いきや存外に沙希との買い物は早く過ぎていき、気づけば時刻は正午を過ぎた頃になっていた。

 

「そろそろ飯行くか」

 

「そうだね。確かにお腹すいたね」

 

「希望あるか?」

 

「今日は八幡の食べたいものを食べたい」

 

「そうか、そんなにマッカンが飲みたいか。ダースで買ってくるぞ?」

 

「あたしは食べ物を食べたいんだけど?」

 

 沙希が冷ややかな目で俺を見てくる。久しぶりに見たよガンくれてくるサキサキ。ひぃぃ、怖いよぉ……。

 

 ふわっと沙希が表情を和らげる。

 

「どうしてもっていうなら、それでもいいけど?」

 

「冗談だ。ま、ピッツァ屋でも行くか。サイゼ好きとしては気になる」

 

「いいね。行こっか。どこにあるか分かる?」

 

「ぼっちはひとりで来た時のために。目ぼしい店の位置を把握しておくもんだ」

 

 もうぼっちじゃないくせに、と沙希がくすくす笑う。

 

「癖はそう簡単に治らないから癖って言うんだよ」

 

「相変わらず屁理屈ばっかり捏ねちゃって。そういうところは変わらないんだね」

 

「とりあえず行くか。南館三階な」

 

 エスカレータに乗って三階へと昇り、目的地が見えたところで唐突に嫌な予感がした。

 

「あ、せ~んぱ~い。奇遇ですね~」

 

 甘くとろけるような声が背中から強襲してきた。声の方向を見るまでもない。奴が来た。来てしまった。総武高校が誇る最強のあざと可愛い後輩。一年生から生徒会長を続け、その愛くるしさから全男子生徒のアイドルとなった存在。

 

 無視することもできず仕方なく目を向ければ、そこには私服姿の一色いろはが小走りで来るではないか。この子、面倒事ばかり俺に頼んでくるから会うたびに身構えちゃうんだよなあ……。

 

「これからお食事ですか~?」

 

 あっ、と小さく悲鳴を上げた一色が途中で躓く。お兄ちゃんスキルが勝手に発動し、一色の身体を受けとめる。あ、ヤバい。なんか罠にはまった気がする……。

 

 耳元に唇を寄せた一色が、俺にしか聞こえない程度で、しかし妙に迫力のある声でつぶやく。

 

「……なんですかその女近くないですか騙されてますよ先輩貢いだりしてませんよね前話してくれた先輩のお父さんのありがたい教訓を忘れたんですか助けてあげますからさっさと離してくださいごめんなさい」

 

 怖い、めっちゃ怖いよいろはす!

 

 振り芸の内容を変えて声を冷たくするとめっちゃ怖いから。八幡ちびっちゃう!

 

 飛びのくようにして一色から離れる。沙希は一色の顔を見て誰であるか分かったのか苦笑していた。

 

 うん、その笑いの意味が分かるのがなんか嫌ですねえ。

 

 昨今の総武高における比企谷八幡の立ち位置は、ぼっちであると同時に奉仕部の一員、そして一色いろはの下僕である。

 

 繰り返そう。

 

 一色いろはの下僕である。

 

 一色は以前ほど厄介事を持ち込む回数は少なくなったものの、それでも面倒事は容易く持ってきては俺にぽいぽいと投げるのだ。あげく、奉仕部の中でも一色は俺の担当となってしまってからは、徐々に学校内でこう囁かれるようになったのだ。

 

「あの生徒会長にこき使われてる冴えない男子って誰?」

 

「三年のヒキタニってやつらしいよ」

 

「ああ、あの子の可愛さにやられちゃったんだ。かわいそ(笑)」

 

「ああなっちゃ男もおしまいだよね(哀)」

 

 ……俺の平和なぼっち生活を返して!

 

 こいつのせいで主に下級生の女子生徒に影で哀れまれているのだ。夜中に布団の中で思い出して泣きたくなったこともあるくらいだ。

 

 そんな一色いろはがゴールデンウィークに俺の眼前に立っているのである。しかも妙に怖い雰囲気をまとわせて。どうしよう、いますぐ無かったことにして逃げられないかな……?

 

 きゃぴるるん☆ と完璧な作り笑顔を作った一色が沙希へ身体を向ける。

 

「あ、初めまして。私、「八幡先輩」の後輩やってます一色いろはっていいます」

 

「知ってるよ。生徒会長でしょ。いつも八幡を引きずり回してるじゃん」

 

 一色の顔面にヒビが入った……気がした。微妙に唇端を震わせた一色が、小首を傾げながら顎に指を添える。

 

「えっとー、どこかでお会いしたことありましたっけ?」

 

「去年度のバレンタインイベントに参加してたよ。妹連れてね」

 

「ああ、あの可愛い女の子……って、先輩この人先輩ですか⁉」

 

 沙希のときとは打って変わって、ものすごい剣幕で俺の袖口を掴んでくる。えっとー、仕草は可愛いのに今日の一色は顔面力が怖すぎですねえ。

 

「お前がなにをどう勘違いしてるのか知らんが、こいつはクラスメートの川崎沙希だ」

 

「つまりは、まさか、まさかとは思いますが……」

 

 衝撃を受けたらしい一色が、声を震わせて続けた。

 

「先輩に、友達ができたんですか……?」

 

「お前一回俺に謝れ」

 

 なんでこの子は俺を落とさなきゃ気が済まないのかね。

 

 俺の心など知らない一色は目をくわっと開いて畳みかけてくる。

 

「だって先輩ですよ? 友達ひとりできるかなを地で行く孤高のぼっちですよ? これは奇跡です! 相手が女子なのは気がかりですが、世界が作り替わったに等しいほどの神業ですよ⁉」

 

「ねえ、一色さん? 君さっきから俺の心を抉ってることに気づいてる? もうそろそろ泣いていい?」

 

 最近涙もろいから悲しくても泣いちゃいそうで怖い。

 

 ひとまず落ち着いた一色は、ちらちらと沙希を見つつ会話を重ねてくる。

 

「それにしても先輩に友達ですか。中二先輩と戸塚先輩以外にもちゃんといたんですね友達。しかも女子友達ですか。良かったですね先輩。念願叶いましたね。初めての女の子の友達じゃないですか」

 

 あの、お願い。そんなにこの人友達いなかったアピールするのやめて……‼

 

 よかったですね~と一色は俺の肘をバシバシ叩いてくる。痛い、地味にそれ痛いから!

 

 ひとしきり叩いて満足したか、一色が胸の前でぱちんと手を叩いて俺たちを見上げる。潤んだ瞳は小動物のようで思わずなんでも言うことを聞きたくなってしまう。意図が透けているのに相変わらずあざとい。あざといぞいろはす!

 

「せっかくなので記念に一緒にお昼しましょう! もちろんいいですよね、先輩?」

 

 断ったら分かってんだろうな、という副音声が聞こえたのは間違ってはいないだろう。

 

 

 

 



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瞬く間に、川崎沙希は距離を縮める 3

「先輩の後輩としましては、先輩がちゃんと友達が出来ているのか知る権利があると思うんですよ。これでもちゃんと心配してましたからねー」

 

 ピッツァ屋に入り席に座った途端、開口一番に一色が言った言葉がそれだ。お前は俺のオカンか。

 

 俺の内心の突っ込みなど気にせず一色がまくし立てていく。

 

「ということで川崎先輩、今日はなにする予定なんですか? ちゃんと先輩は予定組んでくれましたか? この人、唐突に帰りたいとか言ってないですよね? 映画を見ようとして別々の作品をそれぞれで見よう、とか意味不明なこと提案してないですよね? あとこれデートじゃないですよね? 友達ですもんね?」

 

 ねえ、やっぱり以前の取材のこと根に持ってるよね? というか、ゴールデンウィークなのになんで普通にここにいるのこの子……。サッカー部はどうした。あ、どうせサボりですよねー……。

 

 対する川崎は、頬杖をついてくすくすと笑っていた。後輩の一生懸命な姿に思うところがあるのだろう。まあ、その一生懸命の理由がすごく酷い気がするのは気のせいではないだろう。

 

「うーん、予定は秘密。でもちゃんと八幡が考えてくれたよ。帰りたいなんて一言も言ってないし態度にも出してない。映画はまだ見てないけど、うん、映画もいいかな? あと、これはデート。少なくともあたしはそう思ってる」

 

 不意打ちでそういうこと言われると恥ずかしいんですけど……。よく考えれば、後輩に沙希と一緒にいる姿を見られてしまった。学校とかで噂されないよね? 恥ずかしいなあ……。

 

 変なことを考えて口元がニヤつくのを必死で押さえている俺とは異なり、一色の表情がどんどん硬くなっていく。

 

「むむむ、突っ込みどころが多すぎます。先輩がちゃんとデートの内容を考えるなんて、天変地異でも起こったんですか? それに先輩が家に帰りたいって言うのは絶対のはずないのに……。しかも、しかも、川崎先輩が先輩を名前呼び……。一体なにがどうしてこうなってるんですか、先輩?」

 

「色々事情があったんだよ」

 

 ひと言でまとめると、色々あったのだ。それを言うのは守秘義務に抵触するし、なにより俺が恥ずかしい。沙希に見やると、微笑ましい目つきで一色を眺めていた。と、思いきや、

 

「あ、ごめん八幡、一色、ちょっと席外すね。すぐ戻るから」

 

 突然立ち上がると、沙希は店内の最奥部の方へ歩き出した。あれはうん、余計な詮索はやめよう。

 

 沙希が居なくなってから一色の表情に憂いが生まれる。わずかに身を乗り出して桜色の唇を俺に近づける。

 

「本当に大丈夫ですか? 騙されてませんよね? 先輩の優しさにつけこんできて好き放題やられてるとかないですよね? これでも本気で心配してるんですよ……」

 

「沙希はそんな奴じゃない。あれだ、本当に色々あって、まあ、俺も信用してるんだよ」

 

「先輩まで名前呼びしてるんですか……。まあいいです。信用って、雪ノ下先輩や由比ヶ浜先輩、私くらいですか?」

 

「比べるもんじゃないが、まあかなり信用していると思ってくれ。小町もたぶん似たようなもんだろ」

 

「小町ちゃんまで……。分かりました。とすると……ごめんなさい。かなり邪魔しちゃいましたね」

 

 しゅんとした一色が頭を下げる。いつも横暴なくせにこういうときは殊勝なのだから、やっぱり可愛い後輩だと感じてしまう。

 

「ま、気にすんな。沙希が戻ったらそれとなく謝っとけ」

 

「はい、本当にすみませんでした」

 

 一色はもう一度ぺこりと頭を落とす。こんな一色など見たことないから面白くなってしまう。俺の口元が緩んだのを目ざとく見ていた一色が、いつものあざとさを取り戻してぷくーっと頬を膨らませる。

 

「なに笑ってるんですか。後輩が謝罪してるんですよ。威厳ある面持ちで受け止めるのが先輩の甲斐性ってやつじゃないんですか?」

 

「だったら後輩らしくもう少し俺に遠慮しろ。毎回仕事押し付けやがって」

 

 にっこり笑顔を作り、ふわっとした声で一色が言い返す。

 

「責任とってくれるって言ったじゃないですか~?」

 

「言ってねえからな。あと生徒会選挙の件を持ち出すのやめてね。もう時効だ時効」

 

「いいじゃないですか。私も、きっかけがないと奉仕部に行けないんですよ……」

 

 ふと、寂し気な顔で一色が笑って言った。

 

「別に、気にしないで好きなときに来ればいい。あいつらだってお前のこと待ってるからな」

 

「はい、分かってます。ただ、本当は頼りたくないんです。ちゃんとできるって証明したいんです。でも、やっぱりあの空間に居たいんですよ」

 

「複雑な心って奴か。まあ、がんばりたきゃがんばればいい。だが、息抜きくらいに来るのは別にいいだろ。理由なんかなくてもな」

 

「ありがとうございます」

 

 この際だ、もうひとつ言っておこう。

 

「仕事振るのマジでやめてね。最近の俺の評価が大暴落してるから」

 

 一色の笑顔が急に威圧感を放ち始める。あれ、変なこと言ったかな俺……。

 

「あの先輩? いま感動の場面でしたよね? なんでいきなり台無しにしてくれてるんですか? バカなんですか。アホなんですか? 八幡なんですか?」

 

「八幡は悪口じゃねえよ。小町に悪影響を及ぼしてると思ったら、小町からも悪影響もらってんのかよ。やっぱ会わせるんじゃなかったわ」

 

 小悪魔とあざと女子を配合すると、小悪魔あざと女子が出来上がる。まったく、厄介なことになったもんだ。

 

「おまたせ」

 

 ふわりとした雰囲気を漂わせて沙希が戻ってくる。俺と一色の様子を見てひとつ笑みを落とす。

 

「やっぱあんたら仲いいんだね」

 

 沙希を見上げる一色が、恐る恐る切り出す。

 

「あの、川崎先輩……」

 

「うん? どしたの?」

 

「さっきはごめんなさい。勘違いして失礼な態度を取ってしまって……」

 

 謝罪する一色に、沙希がゆっくりと首を振る。

 

「いいよ。気にしないで。八幡のこと知ってたら、客観的に見てあたしの存在は怪しいからね。単純に心配してるんだって分かってたから、気にしてないよ」

 

 一色が目をぱちくりとする。

 

「そこまで分かってたんですか……」

 

「分かんないけど、なんとなくかな。あたしも八幡と似たような立ち位置だし、いきなり仲良さげに男子とデートしてたら騙されてるとか思われそうだからね」

 

 だから、と沙希が続ける。

 

「あんたと八幡の仲が羨ましいとは思うけど、怒っちゃいないから。安心して。さ、注文しよっか。あんまり変に長居しちゃうとお店に迷惑だよ」

 

「はい、そうですね。じゃあ、何にしましょうか」

 

 あっけらかんとした態度の沙希に、一色も平常運転に戻ったようだ。きゃぴきゃぴと女子らしく、ふたりでああでもないこうでもないと言い合ってメニューの上に指を滑らせている。

 

 うん、なんというか。急に疎外感感じちゃったな俺。寂しいなあ。俺ちゃんとここにいるからね? はい、いつもいないもの扱いの俺です。

 

 なんて、思ってる間があるわけもなく、

 

「八幡はなにがいい?」

 

「先輩~。今日は記念なんだからなんか奢ってくださいよ~」

 

 沙希はやっぱり優しいし、一色はいつも通りどころか一層厚かましくなっている。

 

 まったく、もう少し浸らせてくれないかなあこの子たちは。なんて、そんなことを微塵も思っていない事実にもはや驚きすら浮かばなかった。

 

 

 

「ではでは、私はこれで~。川崎先輩、今度先輩のエスコート内容を報告して下さいね~。私がばっちし採点しますので! あと先輩、その眼鏡とても似合ってますよ。学校に付けていったらモテるんじゃないですかね? それではまた」

 

 食事を終えたあと、店の前で一色とは別れた。いちいち無駄な一言ばかりを付け足し、手をふりふりしながら小走りで去っていく一色の後ろ姿を少しの間沙希と一緒に眺めていた。

 

「……いい子だったね。あんたのことすごく心配してた」

 

「心配されるようなところ見せた覚えないんだがな」

 

「あの二人は、あたしのことをどう思うのかな」

 

 沙希が呟いた言葉は大きくなかった。想像するまでもなく、あの二人がどう考えるかなど分かっている。沙希には言えないが、そもそも既に報告を入れているからだ。

 

「沙希のこと心配するだろ。変なことされてないかって、俺をからかいながらな」

 

「ほんと、あんた偽ぼっちだよね。しかも周りは女の子ばっかり」

 

「待て、戸塚を忘れるな」

 

 沙希の呆れ顔。

 

「あんた……本当に戸塚が好きなんだね」

 

「当たり前だ。戸塚は俺の天使だ。崇め奉るまである。別のクラスになったと知った日なんて枕を濡らしたくらいだ」

 

「あんた、意外と泣いてるんだね……」

 

「俺を泣き虫みたいに言うのやめてね」

 

 ふーんだ、と沙希がぷいっとそっぽ向く。どうやらご機嫌斜めのようだ。理由が分からないから困る。

 

 若干慌てふためいていると、ちらりと俺を見た沙希が破顔した。

 

「なーんてね。冗談だよ。さあ、続き行こっか」

 

 沙希が右手を差し出す。その手を自然と取れるようになったのは、彼女への信頼の証か。それとも、やはりそうなのだろうか。

 

 まだどこかに恐怖は残っている。いつも失敗してきたから。いつも間違ってきたから。自分の想いすら満足に理解できてこなかったから。

 

 もっと考える必要がある。心の動きを紐解く必要がある。俺には感じることはやっぱり難しくて、理論立てて消去法で真相を掴んでいくことしかできない。

 

「お互いね」

 

 ふいに、握った手の感触を確かめていた沙希が小さく言った。

 

「もっと素直になろうね」

 

 難しいこと言ってくれる。あれだけ醜態をさらした後だって、俺はやっぱりどこかで感じているのだ。人の心は恐ろしいと。

 

 そして、いまは相手が沙希であれば余計に恐怖を覚える。それは決して沙希が怖いとか嫌いとかそんなものなんかではなくて。

 

 沙希が俺のことをどう想っているのか。少しでも良い感情を抱いていて欲しいという願望から来る、真反対だったときを想定した先回りの恐怖だ。

 

 これもう、落ちてんじゃねえかな。

 

 思わず顔を覆いそうになって、無理やり右手の力を抜いて落とす。

 

 結論付けるのはまだ早い。まだ時間はある。まだ一緒にいられる。なら、余計なことを考えて無駄に時を過ごす暇はない。

 

「んじゃ、適当に回るか」

 

 沙希の手を少しだけ強く握る。ぴくりと動いた沙希の手が、心を繋げんとばかりに握り返してくる。

 

 これだけの動作で、心の底がわっと騒いだ。こみ上げてきたものは、きっと歓喜の噴水だ。体中が潤って世界すべてが輝いて見える。この世は嫌なことばかりではないと言い切れる。

 

 無上の喜びを感じながら、沙希とららぽ内のテナントをハシゴしていく。沙希は色々な表情を俺に見せてくれた。俺も同じだろう。

 

 楽しかった。昨日よりもずっと。明日もそうだろう。その次も、またその次も。楽しさがどんどん膨れ上がって、幸せで身体が破裂してしまうのではないだろうか。

 

 下らない妄想を垂れ流していると、沙希が俺の肘に触れる。唐突の感触に目を向けると、俯いた沙希が恐る恐るというように繋いだ手をほどき、俺の腕に右手を回す。更に左手も添えて身体を預けてくる。

 

「このままでいい?」

 

 こくん、と喉を鳴らす。

 

 艶のある瞳で見上げられ、囁きに動く沙希の唇がどこか扇情的で。一瞬で思考が吹っ飛ばされた。

 

 なにも言わない俺に沙希の顔に不安が滲みだす。俺はぐっと奥歯を噛んで空白を取り戻そうと口を開く。

 

「ま、やってみるか。やったことないから知らんけど」

 

 沙希の顔に光が生まれる。

 

「うん、あたしも初めて。八幡だったらいいよね」

 

「あの、俺を実験台にするみたいな言い方やめようね?」

 

「八幡優しいもんなー。これくらいじゃ怒らないよねー」

 

 あらやだこの子、態度が小町に似てきたわ。やっぱひとつ屋根の下で暮らすと似てくるのかしらん。

 

 沙希に腕を絡められながら先へ進む。視線があちこちから刺さっている気がして身体がちくちくする。気のせいかな、とちらっと周りに目をやる。

 

 本当にみんな見てるよ……。まあ見るよね。沙希ってかなり美人だしね。俺なら彼氏側の男を呪い殺す勢いで睨みつけて家に帰って藁人形と五寸釘を用意するまである。って、彼氏じゃないのに呪い殺されちゃうよ俺。

 

 うすら寒いものを感じていると、沙希が更に身体を密着させてくる。自動で仰け反りそうになるのをぎりぎりのところで堪える。

 

 ほんとにやめて! 心臓に効くから!

 

「ね、ゲーセンやめてカラオケ行こ?」

 

 沙希が甘え声を出して上目遣いに俺を見る。

 

 死ぬかと思った。

 

 隙を見せたら殺られる。なにがどうしてそうなるのか分からないが、本気でそう思った。それくらい破壊力がある仕草と声だった。

 

「うん? どうしたの?」

 

 沙希が小首を傾げる。

 

 ぐっ……。

 

 この人はこれを無自覚でやるから困る。一色とは違う天然畑の可愛さだ。

 

「あれだ、カラオケな。分かった。行くか、うん、カラオケな、知ってる知ってる。あの歌って踊るやつだろ」

 

「歌うのは知ってるけど、踊るの? え? カラオケってそんなところなの? 行ったことないから知らないんだけど」

 

 腕を抱いたまま沙希が俺に詰め寄ってくる。大きな胸が潰れて俺の腕を包み込んでくる。迷走した会話を戻そうとしていた頭がぶっ飛ばされる。

 

 落ち着け比企谷八幡。現状を確認しろ。いま把握すべき大事な科白があったぞ。

 

 頭をフル回転して沙希の言葉を思い出す。

 

 うん、行ったことないから知らないんだけどって言ってたね。

 

 沙希さん、カラオケ初めてなのね。一体どうして……ああ、友達がいなかったんですね。分かりますぅ……ぐすん。

 

 沙希がカラオケを知らない理由が悲しすぎて涙がちょちょぎれそうだ。ついでに心臓が過負荷で止まりそう。

 

 誰か! 誰か俺を助けて!

 

 馬鹿なことを考えながらも足は止まらず先へ進んでいく。この辺にカラオケがないのが分かっているので自動で駅へ向かう。おかしいな、頭が死んでるのに足が勝手に動くよ。

 

「八幡? どうしたの? それより踊るの? 殴るの?」

 

「待て、どうしてお前はすぐに殴りたがるんだよ。それにカラオケは踊らないからな」

 

「なんだ、驚いたよ。踊らなくていいんだね、良かった」

 

「あんだけ昨日踊っといて言う科白か」

 

「あれはゲームでしょ。さすがに歌いながら踊れないよ」

 

「歌いながらじゃなきゃ踊りたいって科白に聞こえるな」

 

「うん、あれまたやりたい」

 

 昨日の楽しそうに踊る沙希を思い出す。もう一度あの光景を見られるならダンレボがあるゲーセンを探してもいいかもしれない。最悪もう一度千葉まで行くか……。

 

 そうこうしている内に駅に着き、電車に乗って稲毛海岸駅に着く。その足で駅前のカラオケボックスへ向って受付を済ます。

 

 ここはフリードリンク制だから歌っている途中で店員が入ってくるという悲劇は回避できる。

 

 あれ嫌なんだよなあ。電波ソング歌ってるときに店員が来た時のあの気まずさといったら、冷や汗で水たまりができるレベルだ。

 

 俺は甘いコーヒーを、沙希は冷茶を入れて部屋に入る。室内はふたりには程良い広さだった。ひとまずソファーの隅っこに腰かける。隅っこってやっぱ落ち着くよね。すみっこぐらし最高、なんて考えていると沙希がすぐ隣に座る。

 

 うん、分かってたけどね。そんな気がするって。でもさっきまで密着してたから妙に居た堪れない……。

 

 女子特融の身体の柔らかさがまだ左半身に残っているから、すぐ傍に沙希の身体があることが少し、というか大変気まずい。大いに気まずい。

 

 自然と身体を密着させようとする無意識を意識的に止める。近づきたいけど離れたい。誰か分かってくれないかなこの複雑怪奇な俺の気持ち。

 

 俺の脳内が変な懊悩をしている間でも、沙希は興奮気味に部屋の内装に目をやっている。良かった、俺の挙動不審具合がバレなくて。

 

 沙希がタブレット型リモコンを手に取って、しげしげと興味深げに熱い視線を注いでいる。

 

「ね、これどうするの?」

 

「とりあえず先に言っとく。カラオケで殴る要素はどこにもないからな」

 

「失礼だね。あたしは暴力は振るわないよ」

 

「自分の発言をいま一度思い返せ。ことあるごとに殴るの? とか訊いてきただろうが」

 

 本当に覚えていないのか、むー、と沙希の目が虚空を睨みつけている。うん、あとその真剣な目が少し怖いかな……。

 

「とにかく教えて? それとも先に歌ってくれる?」

 

「世の中にはレディーファーストってあるだろ。だから先に歌っていいぞ。ぜひ歌ってくれ。なんなら最後までオンステージでも構わないぞ。俺はタンバリンでも叩いてるから」

 

 ふーん、と沙希の目が細くなって口元がニヤつく。

 

「自信ないんだ?」

 

「誰かと行ったことかあんまないんだよ」

 

 まあ、材木座は別だが……。

 

 くすりと沙希が笑う。

 

「ん、別に下手でもいい。あたしも初めてだからね。だから下手っぴでも笑わないでね?」

 

「人の歌を笑えるほど上手くねえから安心しろ」

 

 再びタブレットに目を落とした沙希に使い方を教えていく。沙希がを探している間、俺はマイクを取って彼女に渡す。しばらくすると、沙希がそわそわし始めた。

 

「まずどうすればいいの? やっぱ――」

 

「殴るなよ? 頼むから」

 

「違うから。その、一緒、一緒がいい。一緒に歌おう?」

 

 俺の腕を掴んだ沙希が俺に縋ってくる。その一生懸命さがあまりに可愛くて、思わず胸を押さえそうになった。危ない。最近俺の身体が反抗期だ。もうちょっと落ち着こうね。

 

「そもそも何歌うんだよ。分からない曲なら歌えんぞ」

 

「八幡なら知ってるはず。小町が言ってたし」

 

「あいつが教えた曲とか悪意しか感じられないんだけど……」

 

 嫌な予感がしつつ沙希が持ち上げたタブレットに目を落とし、思わず咳込んだ。

 

「おまっ、おま……! なんでこれ……?」

 

 沙希が不思議そうに目を丸くする。

 

「なんでって、けーちゃんがいつも見てるから覚えちゃって」

 

 まさかここでけーちゃんが出てくるか。さすがけーちゃん。ナイスすぎるぞ!

 

 何を隠そう、沙希が示した曲はプリキュアの主題歌だ。やっぱりこれを歌わないとカラオケに来た意味ないよね。しかも歌って引かれないどころか逆に誘われているのだ。ここで歌わなきゃいつ歌うの? いまでしょ!

 

「よし、任せろ。むしろやらせろ。やるぞ沙希」

 

「急にやる気出した……。小町の言った通りだ」

 

 曲を入力すると、しばらくして前奏が始まる。

 

 わあ、始まったあ……!

 

 ハートキャッチ!

 

 ……。

 

 歌い終わった後に沙希に訊いたところ、このときの俺は相当テンションがおかしかったらしい。曰く、たぶん八幡じゃなかったら引いてたとのこと。やっぱり沙希の前でも歌うのやめようかな……。

 

 かなり凹んでいる俺を横目に、沙希はソファーの上でひとり笑い転げている。

 

 ひどい。

 

 さっきは笑うなって言ってたくせにいまめちゃくちゃ笑ってるじゃん!

 

「それ以上笑うのはやめてね。いまなら井戸の中に飛び込んで一生出てこなくなる自信があるぞ」

 

「ごめんごめん。なんか面白くって」

 

 目じりに浮かんだ涙を拭って、沙希が俺の腕を両手で掴む。

 

「ほら、機嫌直して次歌おう?」

 

「穴があったら入りたい……」

 

 相変わらず落ち込んでいる俺を見て、沙希が困ったようにため息する。

 

「もう、これで機嫌直して、ね?」

 

 頬に熱い感触。思わず目を剥いて沙希を見る。交錯した視線がすぐに外れる。赤面した沙希が恥ずかしそう目線を外していた。

 

「えっと、その……駄目?」

 

 突然のことに言葉が出ない。沙希と瞳が合う。沙希の手が伸びて指先が俺の頬に触れる。人肌が触れている感触が気持ちよくて、思わずその手を握った。

 

「八幡……」

 

 沙希が手の握りを変える。互いの指を絡める。沙希の濡れた唇が動いた。

 

「なんだか……ね。すごく……胸が熱いの」

 

 目を潤ませた沙希が恥ずかし気にはにかんだ。見ていられず思わず目を横に流した。これ以上見つめていたら、自分を制御できそうになかった。

 

 こてん、と肩に沙希の頭が乗った。

 

「少し……このままで」

 

 しじまの中で、沙希の体温の熱さと自分の心音が、痛いばかりに室内に響いていた。

 

 

 

 




ええ、このために初めて歌聞きましたよ……


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瞬く間に、川崎沙希は距離を縮める 4

 もどかしかった。

 

 感情を形にして見せられないことが、どうしようもなく口惜しかった。せめて何かを伝えたくて、沙希の頭を右手で撫でた。さらさらとした手触りが手のひらに伝いに脳を痺れさせた。

 

 沙希が鳴く。その声が愛おしかった。

 

 自分のものにしてしまいたかった。身体を真っ二つにするほどの強い欲求。これほどまで誰かを求めたことなどなかった。

 

 吐息が震えた。

 

 沙希が身をよじらせる。

 

「胸が……切ないの」

 

 ここがどこなのかどうでも良くなった。身体を沙希へ向ける。彼女の頭部を胸に押し付ける。沙希の左手が迷い人のように背中を這う。彼女の甘い息が胸をくすぐり、心臓を高鳴らせた。

 

「こんなに幸せなの、初めて」

 

 沙希は涙声だった。そして、嗚咽が俺の胸を打った。

 

「ずっと、怖かった。誰にも見られてない気がして。家族しかいないって思って。誰もあたしを見てくれないって、そう感じてた。だから家族だけが大切だった。他に欲しいものなんてなかった。そう、信じ込んでた」

 

 心の内を吐露し始めた沙希の涙が、したたかに胸に浸透していく。

 

「でも、弟と妹ができてお姉ちゃんになって。あたしなんかよりこの子たちを守らなきゃって。どうせあたしのことは誰も見てくれない。家族しかいない。だからすごく大切にして、自分の時間を削って相手してお世話して……。急に分からなくなったの。あたしを幸せにしてくれる人が、どこにいるんだろうって」

 

 沙希の告白が続く。ずっと抱え込んでいた負のダムが決壊する。

 

「ねえ、あたしはここにいる。ここにいるよ?」

 

 沙希が額を押し付けてくる。かすれ濡れる声はそれでも止まらない。

 

「あたしを見て。あたしを見つけて。お願いだから……。あたしはここにいるから……。どうかどうか、あたしを求めて」

 

 かろうじて保っていた沙希の声が、このとき壊れた。

 

「ひとりは嫌だ。もう寂しいのは嫌だ。一緒に居て。ずっと傍にいて。あたしから離れないで。ひとりにしないで。もう、ひとりでいることが耐えられないの……!」

 

 赤子のように沙希が泣く。

 

 息が詰まる。肺が呼吸を忘れる。

 

 こんなときになにも言えない。いつもは達者に回る口が少しも動かない。言葉なんて、肝心なときに役に立たない。こんなにも孤独に打ち震える沙希を安心させられることもできないなんて……。

 

 歯がゆさが全身を支配する。無力感で死んでしまいそうだ。

 

 だから、行動で示そうと思った。沙希の身体を強く抱きしめた。壊れるくらいに強く、ひとつになってしまえと願うほど激しく。せめて、俺だけは沙希の傍にいると知ってもらいたくて。

 

 永遠にも思えて、一瞬にも感じる時間。

 

 歓喜と高揚と興奮と欲望と幸福と満足と希望と勇気と感謝と愛しさと……。

 

 もう、言葉に表すことのできない色彩豊かな感情の花が胸中を咲き誇る。

 

 涙を涸らしきった沙希がこいねがうように問う。

 

「ねえ……傍にいてくれる?」

 

「……ああ」

 

「ずっと、見ていてくれる?」

 

「……ああ」

 

「お願い。あたしに……幸せを見せて」

 

「分かった。約束する」

 

 ――ありがとう。

 

 安息地を見つけた旅人のような安堵の声で言って、沙希が全身の力をゆっくりと抜いた。身体を預けられた俺は、沙希の頭に顎を乗せて声を漏らす。

 

「もう、お互い離れられんな」

 

「うん」

 

「なんなんだろうな、この気持ち」

 

「分かんない。こんなの初めて」

 

「まあ、いまはいいか」

 

「うん。理解できなくたって、温かいのが分かるから」

 

 だから、と沙希が願いを告げる。

 

「お願い、終わりまであたしを抱きしめて」

 

 互いの心中を理解し、それでもなお互いを求めてやまない。そんな関係が得も言われぬ安心感を心に与えていた。

 

 時間いっぱいまで抱き合って、俺たちはカラオケボックスを後にした。

 

 外は既に黄昏のカーテンが街を覆っていて、黄金色に輝いていた。

 

 カラオケでのことがなんだか気恥ずかしくて、お互い少しだけ距離を取って歩いていた。沙希は無言で前だけを見て歩いて、俺も同じように前だけを見据えていた。なぜなら、ちょうどその方面に太陽が沈もうとしていたから。きっといまの赤い顔も、夕日のせいにできるはずだった。

 

 ふいに思い出す。

 

「沙希、夕食どうする?」

 

「え、あ、うん……どうしよっか」

 

「家に戻るなら小町に連絡しないとな。あとさすがにハーゲンダッツ買ってやらないと」

 

「うんうん、そうだね」

 

 ふふ、と笑った沙希が目じりを下げる。

 

「あの……ね、八幡。お願いがあるの」

 

「どうした?」

 

「今日は……ずっと一緒に居て」

 

 真剣な目で願う沙希の意図が掴めない。

 

「ずっともなにも、家に泊まってるだろ」

 

 そうじゃない、と沙希が首を振る。

 

「夜、ね。傍にいたいの。一緒に寝たい」

 

 瞠目する。

 

 俺の反応に慌てた沙希が言葉を重ねてくる。

 

「そうじゃなくて、そうじゃなくて……。ただね、ぎゅっとしながら寝たいの。ずっと寝れて無くて、八幡の家でようやく眠れるようになったけど……。やっぱり寂しくて。八幡の体温を感じて寝たいの」

 

「なんかあったらどうする気だ……」

 

「信じてる」

 

 その信頼はひどい。いまの俺は俺を信用できない。俺の苦い顔を見た沙希が、苦しそうな表情で首を横に振る。

 

「違うの、そういう意味じゃないの。なにかあってもいい。あったっていいの。嫌なんて絶対にない。八幡と一緒にいたいの。暗い中でも、八幡がいればそれだけでいいって思えるから」

 

 ねえ、伝わるかな。

 

 必死に縋りつくような顔で沙希が言った。

 

「分かってる。理解してる。ただ、俺は俺が信用できないだけだ。理性の化物なんて言われたくせにな……」

 

 出てきた言葉は自嘲だ。

 

 なにが理性の化物だ。沙希を腕の中に仕舞えるならば、沙希を自分のものにできるのなら、どんなことだってしてしまいたいと思えるほど、いまの俺の感情は正常な思考を妨げている。

 

 俺は俺が怖かった。決定的な何かを壊してしまいそうだった。なによりも大切にしたいくせに、欲求だけが膨らんで何をするか想像すらできない。あまりに本能に忠実な自分が嫌いになりそうだ。

 

 眉間にしわを寄せた俺を見上げた沙希が涙を浮かべる。

 

「ごめん、ごめんね。嫌なこと考えさせちゃった。ほんとごめんね。馬鹿な事言っちゃったね。傷つけてごめん。でもね、そんな風に考えてくれて、大切に思ってくれて、すごく嬉しいの」

 

「謝らなくていい。これは俺の問題だ。俺の理性の問題だ。沙希があんまりに可愛いから、ずっとひっちゃかめっちゃかで思考がぐちゃぐちゃなんだよ」

 

「そのひっちゃかめっちゃかなの、訊きたい。どんな言葉でもいいから、全部教えて」

 

 息を合わせたように俺と沙希が立ち止まる。視界の奥に海が見えた。当てもなく歩いている内に、稲毛海浜公園まで足を伸ばしていたようだ。

 

 一度息を短く吸って吐く。

 

「公園でも行くか。少し話そう」

 

「うん」

 

 公園に入って適当なベンチに沙希を座らせる。

 

「飲み物買ってくる。お茶でいいか?」

 

「……うん」

 

 既に夜の帳が下りていた。空は黒のペンキを垂れ流したように暗くなり、その中で星が瞬いて自己主張をしている。こんな時間だからか園内は人がまばらだった。近くの自販機で飲み物を買って、街灯が照らすベンチへ戻る。

 

 沙希にお茶を渡し、俺はコーヒーの缶を手の中で転がした。

 

 口火を切ったのは沙希だった。

 

「ごめんなさい」

 

「なんで謝るんだよ」

 

「迷惑ばかり掛けてるから。すごく、申し訳なくて……。八幡は優しいからなんでも聞いてくれて、でも甘えすぎてた。もっと八幡の気持ちを考えなきゃいけなかった」

 

 さらに続きそうな自虐の言葉を止めるために無理やり割り込む。

 

「待て待て待て。迷惑だなんて思ってない。正直言って昨日から人生で一番楽しい。こんな幸福だったことなんてない。それだけは絶対だ」

 

「重荷になってない?」

 

「なってない。むしろ軽いまである」

 

「そっか……。なんだろうね、良かったって思うのと、嬉しいって思うのと……。よく分かんないね」

 

 そう言って沙希が小さく笑った。

 

 潮風が鼻をくすぐる。海が近いからか、少しだけ風が冷たかった。気づけば、人の姿はどこにもなかった。俺と沙希が座るベンチだけが街灯に照らされ、世界から隔絶されているようだった。

 

「俺は、まだこれがなんなのか分からん」

 

 抽象的な言葉。ただ胸からうち出る感情をそれらしい言葉に変換して吐き出しているだけだ。

 

「本当はたぶん分かってる。過去の記憶と、黒歴史と、経験と、捻くれた性格が答えを出すのを妨げてるだけで、本音の部分じゃもう決まってる」

 

「うん」

 

「形にするのが嫌なんだとも思う。一般的な枠組みでくくられる気がして……。そうじゃなくて、もっと他に言い表せる適切な言葉があるんじゃないか、これ以上はないって形があるんじゃないかって……な。まあ、とりあえずよく分からん」

 

 伝わっただろうか。

 

 自分でも分からないこの想いをどうすれば理解してもらえるのか。どれほど想っているか分かって欲しいのに、言葉にできないことが悔しくて仕方ない。

 

 無言が続く。

 

 耳が痛いほどの静寂の中、沙希が細い息を吸った。

 

「ねえ……なんで、こんなに同じなんだろうね」

 

「同じ?」

 

 おうむ返しする俺に、沙希が眉を下げて口端を緩く上げた。

 

「すごく、八幡の気持ちが分かるの。きっと、あたしもそんな風に感じてる。あたしも捻くれてるし色々あったから、言いたいことが朧げにだけど分かるよ。うん、なんでかな、分かっちゃう」

 

「……そうか」

 

 声が掠れる。

 

 誰かが同じ気持ちでいてくれている。それはなんて、素敵なことなのだろう。胸が高鳴って幸せが全身を巡るようだった。

 

「本当に……」

 

 ――この世界は本物か?

 

 口の中でつぶやいた言葉に戦慄した。

 

 だって、昨日からおかしいじゃないか。何もかもがまるで俺に都合よく作り直されたようで、どこに行ったって楽しくて、嬉しくて、幸せなことばかりで、嫌なことなど起こりやしない。

 

 本当にここは現実か?

 

 夢じゃないのか?

 

 俺はちゃんと生きて両の足で確かな地面の上に立っているのか?

 

 どれもが信用できなくて、すべてが不安の種になりそうだった。

 

 でも……。

 

 すべてがまやかしであったとしても、

 

「あたしはここにいるから。八幡の隣にいるから」

 

 俺の手を包んでくれる沙希の両手が、伝わる体温が、漂う空気が。

 

 沙希の存在だけは確かなものだと俺に教えてくれていた。

 

 沙希がいるなら俺はここにいる。ならそこがどこであろうがどうだっていい。沙希がいれば、きっとすべてが大丈夫だと思えるから。

 

「そうだな。なら、なにも問題ないな」

 

「うん、問題ないね」

 

 沙希が頭を預けてくる。

 

「あと三日だね」

 

「まあ、別に過ぎても今生の別れになるわけでもないだろ」

 

 嘘だ。そんな日なんて来なければいいと思っているくせに。

 

「そうだけど、そうなんだけど、ほら、もうちょっとなんかないの?」

 

「捻くれてんだよ。素直になれないんだよ」

 

「めんどくさいなあ八幡は。あたしもめんどくさいから、ふたりして面倒だ」

 

 ころころと沙希が笑う。沙希が笑うだけで空気が朗らかになる。感じていた風の冷たさも、いまではどこかに行ってしまったようだ。

 

「まあ、あれだ。寝るか、一緒に」

 

「いいの?」

 

「なんつーか、ほれ。あと三日だし。寝るのも三日だし。それくらい大丈夫だし」

 

「語尾がなんか変なんだけど」

 

 やらしいなあ、と沙希がにやつく。その顔は腹立ちますねえ。やられるとどうにもやり返したくなる。やられたらやり返す、倍返しだ。

 

「んじゃひとりで寝る」

 

「やだ」

 

「即答だな」

 

「やだ、一緒に寝る」

 

「駄々っ子かよ」

 

「駄々こねて一緒に寝られるなら駄々こねる」

 

「駄目って言ったら?」

 

「……ほんとに駄目?」

 

 一体今日何度目になるのだろう、沙希の上目遣いが俺に刺さる。ああもう可愛いなあもう!

 

「駄目じゃない……から、一緒に寝る」

 

「ん、ありがと」

 

 あ、と沙希が思い出したように声を上げる。

 

「お風呂は別だからね?」

 

「なんでそこまで一緒にいなきゃいけないんだよ。風呂くらいひとりで入りたい。人生の疲れを流せる場所にひとりでいないなんて信じられないだろ」

 

「あたしといると疲れるの?」

 

「主に心臓がな。可愛すぎて心臓に悪い」

 

「ん、誉め言葉として受け取っとく。あたしもすごくドキドキしてるから、おんなじだね」

 

 沙希の声が心地よく響く。

 

 色々な不安が同じで、たくさんの想いも同じで、すべてをさらけ出してなお嫌わない存在。そんな都合の良い人、果たしてこの先に存在するだろうか。いないだろう。沙希しか、沙希だけがその人だ。

 

 本当にもう、たった二日でこんな風になるなど想像すらしなかった。

 

 だからこそ、やっぱりもどかしい。この気持ちに名前を付けて、沙希と共有したかった。でも怖い。源泉はやっぱりそこだ。性根の部分で怯えているのだ。だから形にできないし、伝えることができない。完全には素直になり切れていない。それが沙希に対する裏切りのようで、その臆病さが嫌だった。

 

「家に帰ろっか。今日は小町と一緒に食べよう?」

 

「なら電話しないとな。ちっと遅れちまったから怒られそうだけど」

 

 腰を上げて、沙希の身体を引き上げる。立ち上がった沙希が俺を見て、嬉しそうに微笑んだ。それを見ているだけで身体の芯がじんわりと温かくなった。

 

「んじゃ、帰るか」

 

「うん、帰ろっか」

 

 あ、ハーゲンダッツも忘れずに買ってかないと!

 

 

 

 初めての三人での食事を終え、沙希は風呂場へ、俺はいつも通り自室へと戻ってベッドに寝転んでいた。

 

 バタバタしたい。超バタバタしたい。布団被って、うわあああああああ、とか叫びたい。

 

 なに今日の俺。何もかもがおかしすぎだろ。沙希だってあんなに可愛くなっちゃって。

 

 ごろんごろんとベッドの上を転がる。何かに触れてないと落ち着かなくて、枕を抱きしめて再びごろんごろん。

 

 うわあ、大胆なことしちゃったよ。なんか一足飛びに距離を詰め過ぎた気がするけど大丈夫かなあ。わあ、なんか幸せだなあ。

 

 感じたことのない奇妙な高揚感のまま足をばたつかせる。こんなの小町に見られたら憤死ものだ。まさか、見てないよね?

 

 挙動不審の身体を無理やり止めて自室のドアを見る。よし、空いてない、隙間もなし。

 

 よーし、バタバタするぞー!

 

 と、上半身を捻ったところでスマホが鳴った。なんだよもう、これからがいいところだったのに……とか意味不明なことを思いながら、発信者も見ずに電話に出る。

 

「はいもしもし」

 

「随分と上ずった声ね、浮かれが谷くん」

 

 冷ややかでいてどこか親愛の情が含まれた声で、雪ノ下が言った。

 

「雪ノ下か。わざわざ電話してくれたのか」

 

「ええ、あなたのことだからどうせ連絡してこないと思ってね。あと、先に報告があるのだけれど、一色さんから連絡が来たわ。私の方からも説明しておいたから、あの子のことは許してあげて頂戴」

 

「無駄に心配かけたみたいだからな。今度礼言っとかないといけないか」

 

「そうね、あの子も結構取り乱してた自覚があるみたいだし、相当心配していたようよ?」

 

「俺はそんなに美人局に引っかかってるように見えたか……」

 

「川崎さん、相当綺麗になっていたんでしょう? 相手があなたなら当然ね」

 

 おおう、辛辣ゥ!

 

「それより、今日も大丈夫だったのか訊きたかったのだけれど、その声の調子なら問題なさそうね」

 

「ああ、楽しんでたと思う」

 

「そう、良かったわ。でも気になる点がひとつ。私たちに相談していること、恐らく川崎さんにはまだ話していないのでしょう?」

 

「まあ、最初に黙っていてくれって言われてたしな」

 

「もちろんあなたは詳細を伝えないようにしていたし、守秘義務はぎりぎり履行されているはず。詭弁に近いと思うけれどね。でも、それと感情は別よ。どこかで折を見て伝えなさい。でないと、彼女は裏切られたように感じるはずよ」

 

 後頭部を金づちで叩かれたような衝撃を受ける。

 

 そこまで考えていなかった。依頼をこなすために必死になっていたあのとき、俺はそんなことまで思考を回していなかった。迂闊だった。沙希を助けるための行動が沙希を傷つけるかもしれないなんて……。

 

「そう……だな」

 

「そんな声出さないで。あなたは間違ったことはしていない。最善を尽くした。ただ、人の感情は、相手がその人のために頑張っていても納得できないことがある、ということよ。それは肝に銘じておきなさい」

 

「分かった。サンキューな」

 

「いえ、この件に関しては私も由比ヶ浜さんから教えられた口だから、感情の鈍さについてはあなたと同じね」

 

「さすが奉仕部のコミュニケーション担当だな」

 

「それならさしずめ私は意思決定担当で、あなたは策謀担当かしら。あら、やっぱりフィクサ谷くんね」

 

「そんなこと言われたら明日からフィクサ谷八幡って名乗っちゃうだろうが」

 

「あまりに自然だからそのまま受け入れてしまいそうね。そもそも、あなた名前知られてないもの」

 

「やめてくれ。最近後輩の女子に顔だけは認知されてんだから……」

 

 くすくすと雪ノ下が歌うように笑う。

 

「一色さんの下僕、だったかしら? 実際は本当に裏で手を色々回している策謀家だというのにね。見る目がない子たちだわ」

 

「それは褒めてるのか?」

 

「もちろん褒めているわ。下僕という評価は戯言だと思って訊き流しなさい。どうせ表面しか見られない薄くて矮小な観察眼の結果よ」

 

 最後の方はもはや絶対零度の声だった。

 

 いつか後悔させてやるわ。そんな声があとになって聞こえた気がした。怖いよゆきのん……。

 

「まあ、あれだ。実際振り回されてるのは事実だしな。そろそろ雑用は勘弁してもらいたいもんだが」

 

「あなた面倒見がいいのだもの。それに、私たちも彼女には弱いところがあるから。初めての可愛い後輩というのもあるし。しばらくはその身分に甘んじておきなさい」

 

「ま、仕方ないな」

 

「ええ、いい後輩を得た反動といったところね。それよりも、明日の予定は決めたのかしら? それとも、その場その場で川崎さんの行きたいところを訊いている感じなの?」

 

「両方だな。意外と普通の遊びを知らないみたいでな。色々試してみたいらしい」

 

「そう、それならいいわ。川崎さんだけでなく、あなたも楽しんでいるみたいだし。良い関係性だと思うわ」

 

 優しい声音で言って、雪ノ下が続ける。

 

「だから、川崎さんのこと、大切にしてあげて。いまがどんな状況か分からないけれど、あなたが浮かれられるほど幸せな場所に立っているのは分かる。だからこそ、一度落ち着きなさい。あなただけじゃなく、川崎さんもよ。分かるかしら?」

 

「ああ、俺もあいつを大切にしたい」

 

「いい答えよ。なにかあったら連絡しなさい。夜中でもいいわ。私でなくとも、由比ヶ浜さんでもいい。彼女もあなたからの連絡ならいつでも出ると言ってくれている。今回の件、私たちはあなたを全力でバックアップするわ。依頼だけでなく、川崎さんとあなたの心もよ」

 

 まったく、頼もしすぎる。

 

「ありがとな。心強いわ」

 

「いいえ。どうやら、少し落ち着いたようね。電話してよかったわ」

 

「まったくだ。さっき布団でバタバタしてたからな。なんとか通常営業に戻った」

 

「あまり捻くれは発揮しないように。じゃあ、そろそろ切るわね。おやすみなさい」

 

「電話ありがとな。おやすみ」

 

 電話を切ってスマホをポケットにしまった。喉の渇きを覚えた。リビングでコーヒーでも淹れるかとドアを開けた途端、思いもよらない人がいて仰け反った。

 

「っと……! 沙希か、びっくりした……」

 

 沙希は無言だった。不信に思って顔を見るも、俯いているせいか表情が見えない。

 

「どうしたんだ?」

 

 それは、

 

「……八幡」

 

 蚊の鳴くような声の、

 

「あの二人に、話してたんだ……」

 

 処刑宣告だった

 

 

 

 

 



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瞬く間に、川崎沙希は距離を縮める 5

「人に話さないでって頼んだ……」

 

 泣き崩れそうな表情で沙希が言った。

 

 背筋に冷水が刺さったと思った。心臓がきゅっと縮んで、勝手に喉が短く息を吸った。

 

 物言わぬ俺に沙希が言葉を叩きつけてくる。

 

「あの二人は、やっぱり特別? 八幡だから話せたこと……言っちゃったの?」

 

「違う」

 

 やっと声が出た。酷い事態が起こってしまったと、ようやく頭が理解できた。

 

 沙希は聞いてしまったのだ。俺が雪ノ下と連絡を取っている声を。そして、雪ノ下の危惧した通り、その事実は沙希の心を突き刺した。それが、いま目の前で涙を流し始めた沙希の表情が証明していた。

 

「ずっと、話してたの? 一緒に遊んだことも、食事に行ったことも、カラオケのことも、公園のこともなにもかも、ぜんぶぜんぶ話したの?」

 

「違う。沙希、聞いてくれ」

 

「聞きたくない!」

 

 伸ばした俺の手を払いのけた沙希は両手で耳を塞いだ。

 

「そうだよね。あたし、たった二日だもんね。あの二人には勝てないもんね。知ってた。分かってた。だから……だから、うれしかったのに……!」

 

 沙希の嗚咽が落ちる。俺の頭はもう真っ白で何も考えられなかった。言い訳だってできない。だって事実だから。細かく話してなくても、きっと沙希にとっての一線を越えてしまったのだ。誤解の余地などない。

 

 沙希が俺を見つめ、大きく表情をゆがめた。

 

「あたし……バカみたい……!」

 

 踵を返した沙希が走る。廊下を駆けて階段を下りていく。

 

 残ったのは虚無感。

 

 そして、俺は動けなかった。

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 やっぱり急ぎ過ぎた。

 

 二階から悲痛に響いた沙希さんの声を聞いて、わたしは事態の動かし方が早かったのだと確信した。

 

 声は聞こえど内容は分からない。だけど、いま沙希さんを行かせてはいけないことだけは分かっていた。どうせ兄は突然のことに動けないはずだ。

 

 だからソファーでだらけていた身体を弾く様に起き上がらせ、全力で玄関の前で両手を広げて立ち塞がった。ちょうど階段から降りてきた沙希さんと対峙する。沙希さんの両頬には涙が伝っていた。

 

 沙希さんは、わたしの姿を見て困惑したように視線を迷わせた。

 

「小町……あたし……」

 

「兄の話を聞いてください」

 

「……でも」

 

「お願いです。兄の話を聞いてください。言い訳もなにもかもを。兄は、自分の不利益になることばかり表に出して、言い訳を口にしません。兄は自分が悪者になることに慣れています。だからお願いします。兄だけを悪者にしないでください。どうかお願いします。兄の言い訳を聞いてあげてください」

 

 誠心誠意をこめて頭を下げる。いままで一度だってこんな風に心から頭を下げたことがあるだろうか。たぶんないんじゃないだろうか。でも、兄のためならこれくらい簡単にできる。だって、この機を逃したら、兄がどうなってしまうか不安で仕方ないから。

 

「違う。そうじゃない、そうじゃない! 八幡は悪くなくて、あたしが……あたしがただ自信がないだけで……」

 

 沙希さんが大きくかぶりを振る。

 

 内心ほっとした。決定的なすれ違いが起こったわけではなかったみたいだ。なら、まくし立てて立ち止まらせて、兄の下へ戻すことはきっとできる。

 

「兄は、これ以上ないくらい沙希さんを信頼しています。兄が家族の前であんな風に泣いたことなんて一度もありません。兄は、心の内に溜めたものを吐き出すのが苦手なんです。だから沙希さんは兄にとってもう特別なんです。

 

 兄は……兄は、身内には甘いんです。絶対に裏切ったりしないんです。全力で大切にするんです。そのなかに、もう沙希さんはいるんです。お願いします。

 

 どうか、どうか……!

 

 ――兄からもう、大切なものを奪わないでください」

 

 この言い方は卑怯だ。まるで沙希さんが悪者みたいな言い方だ。説得の方法としてはきっと最低の部類。兄とは真逆の責任を他人に擦り付ける方法。

 

 でも、仕方ないよ。

 

 わたしにとっては、兄が一番だから。なによりも大切な家族だから。兄には幸せになってもらいたいから。

 

「お兄ちゃんを……ひとりにさせないで……!」

 

 涙は必死でこらえた。その一線だけは超えてちゃいけないと思った。

 

 これは嘘だ。兄はひとりじゃない。昔と違って、少ないけれど決して離れない友人を見つけた。大切な人を手に入れた。

 

 でも……真実でもあるのだ。

 

 心を言葉にして全部をさらけ出して、良いところも悪いところもぜんぶ受け止めてくれる人は、きっと沙希さんしかいないから。

 

「わたしをどれだけ罵ったっていいです。憎んだって構いません。だけど、その代わり、お兄ちゃんの下に戻ってください。

 

 一生のお願いです。

 

 お義姉ちゃん……!」

 

 ああ、もうだめだ。なんでだろう。涙が止まらないよ。

 

「小町……!」

 

 沙希さんの声がして、顔を上げると同時に思い切り抱きしめられた。

 

「ごめん、ごめんね。言いにくいことばかり言わせちゃったね。聞くよ。ちゃんと八幡の言葉を聞くから。ひとりにしないから。大切なものを奪ったりしないから。だから安心して。小町のことだってそう。嫌いになったりしない。憎んだりなんかしない。だってあたしにとってもう妹みたいなものだから。あたしは、家族は絶対に嫌いにならないんだから……!」

 

 沙希さんの言葉が胸を打った。素敵な人だと思った。あんなひどい言い方をしたわたしにこんな言葉をかけてくれて申し訳なかった。

 

「おねえぢゃん……!」

 

 悪者にしてごめんなさい。卑怯な言い方をしてごめんなさい。嘘をついてごめんなさい。

 

 そしてなにより……。

 

「立ち止まってくれて、ありがとう……!」

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 放心していたのは五分か、それとも十分か。

 

 気づいたときには沙希はもういなくて。致命的な時間だけが過ぎ去ったことだけは確かだった。

 

 失敗した。大事なところで失敗した。雪ノ下がせっかく忠告してくれたというのに。されてすぐに失敗するなんてとんだ愚か者だ。滑稽すぎて笑い話にすらならない。

 

 ふいに、階下で声が聞こえた。沙希と小町の声だ。石造になっていた足を叩いて無理やり動かす。

 

 まだチャンスはあるかもしれない。全部話して謝って、元に戻れる機会があるのならば、いまは全力でそれにしがみつきたい。

 

 階段を下りて玄関口を見ると、驚くべき光景がそこにはあった。

 

 最愛の妹と大切な人が抱き合って、わんわんと大声で泣き崩れていた。

 

 なんだこの地獄絵図は……。

 

 あまりにも予想外の事態に逆に冷静になった。

 

「ふたりとも、どうしたんだよ」

 

 俺の言葉に小町が顔をあげる。

 

「お兄ちゃんのバカ、アホ、ボケナス、八幡! ちゃんと何があったか沙希さんに説明して!」

 

「小町ちゃん。いまの俺に罵倒は結構効くからやめてね」

 

「ぶえー。沙希さん泣かせといてなに言ってんのさ。ほら、沙希さん連れて部屋に戻ってちゃんと話す! ほらダッシュ!」

 

 小町が立ち上がりながら沙希を引き上げ、そのまま俺に渡すと、さっさと行けと言わんばかりにシッシと手首を振った。

 

 お兄ちゃん、全然状況分かんないんだけど……。

 

 それでも、挽回の機会は巡ってきた。いまだ泣く沙希の身体を抱えて俺の自室へと向かう。沙希をベッドに座らせ、俺も隣に腰を落とした。

 

 泣いていた沙希も、しばらくして涙を拭って俺に視線を注いだ。

 

「まずはごめんなさい。癇癪起こしちゃって。八幡の言い分も聞かずに勝手にどっかに行こうとして本当にごめんなさい」

 

「もっと早くに伝えられたらよかったんだがな。なかなか、言いづらくてな」

 

「うん、今度はちゃんと訊くから教えて?」

 

「ああ。沙希から相談されたとき、正直手に余ると思った。俺の家に泊まったところで、沙希の価値観を変えるようなことをしなきゃ、たぶん家に戻ったって意味がない。だがな、生憎と女子高生が楽しくなるようなことが分からなくてなあ……。それで、雪ノ下と由比ヶ浜に頼った。沙希の事情は伏せて、泊っていることと、なにをすればいいかの相談をしたってところだ」

 

「……そうなんだ。そうだったんだ」

 

「さっきの雪ノ下からの電話もその確認みたいなもんだ。あいつも過保護でな。俺がちゃんとやってるか確認してくるんだよ」

 

「デートの内容とかは、ふたりに訊いたりしてるの?」

 

「いや、訊いてない。あいつらの結論は、沙希が行きたい場所に俺の意思で連れていく、ってことくらいだ。だから今日は沙希に行きたい場所を訊いたし、突然他のことをしたくなったらそれを優先するようにした」

 

「なんだ……そういうことなんだね。じゃあ、別にあたしたちのしたこととか、話したこととかは伝えてないんだね?」

 

「んなことするかよ。恥ずかしいし、そもそも誰にも教えたくない」

 

「そっか、そっか……!」

 

 沙希の表情が和らぐも、すぐに表情を真剣なものにする。

 

「あのね、さっきのあたし……嫉妬してたの。別に話したことはいいの。すごく大変なことを依頼してる自覚はあるし、全部を八幡に押し付けて、八幡が他の人に助けを求めたら嫌なんて傲慢なことは考えてない。

 

 ただ……ね。あの二人は、ずっと八幡の傍にいたから。あたしには勝ち目がないから。ずっと気になってて、それが今日になって表に出てきちゃって、あんな癇癪を起しちゃったの。ごめんね八幡」

 

 頭を下げようとする沙希を止める。

 

「謝らなくていい。謝るのは俺の方だ。どんな形であれ約束を破ったのは俺だ。ちゃんと伝えたうえであいつらに相談するべきだった。すまなかった」

 

「うん、分かった。大丈夫だから、ね。頭上げて?」

 

 顔を上げて沙希を見る。沙希は困ったように微笑んで俺を見つめていた。

 

「なんか、今日は怒涛の一日だったね」

 

 まったくだ。

 

「俺は泣くわ沙希も泣くわ一色は襲撃するわ喧嘩するわで、まあ、濃い一日だな」

 

 頷いた沙希が頭を肩に預けてくる。

 

「でもね、お互いのこといっぱい知れた気がする」

 

「そうだな。本音を訊けて良かったわ」

 

 自然と沙希の身体を抱き寄せる。沙希はされるがまま身体を密着させて、甘い吐息を吐く。

 

「ねえ、八幡。わがまま言っていい?」

 

「内容によるけど、言ってみ?」

 

「そろそろ寝たいからお風呂入ってきて」

 

 かくんと頭が落ちそうになる。

 

 えー……いまそんな場面だった?

 

 もっとこう、余韻に浸るとかないの?

 

 顔を引きつらせていた俺を見て、沙希が困ったように訊いてくる。

 

「えっと、いますごく呆れてる?」

 

「そこそこな。まさかそんな科白が出てくるとは思わなかったわ」

 

 沙希が恥ずかしそうに、人差し指同士をを胸の前でちょんちょんと突く。

 

「んと、実はすごく眠くて。だから一緒に寝たいんだけど、まだ八幡お風呂入れてないし、でもあたしも眠いし、だからわがまま言って早く入ってきてもらおうかなーって」

 

「ま、しょうがない。分かったよ。俺のVITAちゃん貸してやるから寝ないで待ってな。やり方は小町に訊いてくれ」

 

 沙希と一緒にベッドから腰を上げて、VITAちゃんを連れてリビングへ戻る。小町はいつも通りにソファーの上でぐでーっとしながら雑誌を広げていた。俺たちに気づいた小町が顔を上げて問いかけてくる。

 

「あ、ふたりとも仲直りした?」

 

「なんとかな。で、風呂入ってくるから沙希にVITAちゃんの使い方を教えてやってくれ」

 

「お、わたしのVITAちゃんですな! 小町にお任せあれ!」

 

 ソファーの上で正座をした小町が、ピシッと敬礼してみせる。

 

 あれ? VITAちゃん俺のなんだけどなあ……。いつから小町のものになったの?

 

 疑問は浮かぶが、ひとまずVITAちゃんを小町に預け、準備をして風呂に入る。

 

 ほけーっと風呂に入って出ると、四十分経っていた。どうやらぼーっとし過ぎてしまったようだ。リビングへ戻ると、VITAを真剣な表情でやる沙希に、その後ろからあれこれと指示を飛ばす小町の姿が見えた。こうしてみると本当に姉妹みたいだ。

 

「あ、沙希さん右! そっちじゃない、そう、そいつ!」

 

「殴ればいいんだね。任せて、得意だから」

 

 サキサキぇ……暴力振るわないんじゃなかったのかよ……。

 

 思わず脱力しかけるも、楽しそうでなによりだ。

 

「出たぞー」

 

「あ、八幡」

 

 沙希が視線を俺へ向けた途端、小町があーっと残念そうな声を上げる。

 

「死んじゃったー。お兄ちゃんバッドタイミングだよ」

 

「おい、俺の所為にするな。というか、そのゲームは沙希が狂暴になるからやめなさい。ただでさえテンパると殴りたがるんだからこの子」

 

 沙希がきょとんと首を傾げる(可愛い)

 

「え、殴るって言ってた?」

 

「めっちゃ言ってましたよ」と小町。

 

「さっきも言ってたな。得意とも言ってた」と俺も同調。

 

「ええー……」落ち込む沙希。

 

 三人で顔を見合わせ笑い合う。

 

「じゃあVITAちゃんは回収で~す。しばらく小町が預かりま~す」

 

 小町が沙希の手の中のVITAちゃんを取り上げる。ちょっと名残惜しそうにその様子を見ていた沙希の顔が可愛かった。

 

「小町ちゃん、それお兄ちゃんのものだからね? 盗っちゃだめだよ?」

 

「お兄ちゃんのものは小町のものでしょ?」

 

 なにそのジャイアン理論。小町ちゃん、横暴よ。

 

 俺の渋い顔を受けて小町がころっと表情を和らげる。

 

「冗談だよ。今日はなんか遊びたい気分だから借りるねー」

 

 ではではーおやすみなさーい、と小町は小走りにリビングを出て自室へと引っ込んだ。ホントに返してくれるよね……? お兄ちゃん心配だなあ……。

 

 VITAちゃんとの思い出に想いを馳せるが、孤独にやっていた記憶しかないのでろくな思い出がない。まあ、面白いんだけどね!

 

「んじゃ、俺らも寝るか」

 

「あ、うん」

 

 なにか気後れしているような沙希に疑問を覚えるも、疲れが出たのか眠くなった俺は彼女を連れて自室へ戻る。そのままの勢いでベッドに倒れ込んで枕を抱え込んだ。

 

「ああ、枕ちゃんと結婚したい」

 

「さすがに枕には嫉妬できないなあ……」

 

 沙希が呆れ顔で笑う。

 

「まあまあ、ちこうよれ。余は眠いのだ」

 

 くわっと欠伸をして布団に潜り込む。今日は楽しかったが疲労感が半端でなかった。目を閉じたら本当に寝そうだ。

 

「はいはい、すぐ行くから電気くらい消させて」

 

 沙希が電気のスイッチを消す。部屋に闇が満ちる。沙希が手探りでゆっくり近づいてくる音を訊きながら、俺はまぶたを閉じた。しばらくして、沙希が布団の中に入ってきて俺の身体にしがみついた。服越しに生暖かい体温が伝わり、眠気が深まっていく。

 

「ん、いい抱き枕。これならすぐ寝れそう」

 

「俺は寝る。超眠い。来年起こしてくれ。おやすみ」

 

「明日起こすからちゃんと起きてよね。おやすみ」

 

 危惧した雰囲気など微塵もなく、俺たちは五分と経たずに現実から夢の世界へと旅立った。

 

 

 

 

 



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幕間
Interlude


 電話を終えてほっと息をつく。飲みかけの紅茶を口に含んで、冷めきっていることに顔をしかめた。

 

 誰もいないマンションの部屋。由比ヶ浜さんはよく来てくれるし、最近では彼女と一緒に比企谷くんも訪れるようになって、すこしだけ賑やかになった私の居場所。

 

 以前まで、この部屋は冷たかった。世界から隔離された場所で、たったひとりだけの私の場所だった。寒かった。いつも凍えていた。

 

 でも、いまではひとりになっても温かい気分になれた。たぶんそれは、あの二人のお陰なのだろう。

 

 いまでもたまに顔を出す姉との仲も良好になったし、両親とも和解した。いまの私は自らの意思で自分の道を歩むことができる。

 

 もちろん、独り暮らしなんて贅沢をさせてもらっている以上、高校生らしく品行方正に、学力も高く保って運動も頑張って。

 

 軽く息を吐いて、紅茶を淹れなおす。かぐわしい香りが室内に充満し、心を満たしていく。

 

 一口紅茶を飲んでから、私は今回の依頼の件について考えを巡らせた。

 

 比企谷くんは大丈夫だろうか。なにか酷い事態になっていないだろうか。例えば、川崎さんと喧嘩をしてしまうような、そんなことが……。

 

 考えられる原因は先ほど電話で口にした通りだ。由比ヶ浜さんに言われるまで気づかなかった自分の愚かさを呪いたいくらいだ。

 

 きっと彼なら大丈夫。

 

 そう思うのだけれど、この信頼はただの責任放棄だ。明日、折を見て電話で確認する必要がある。

 

 でも、それだけじゃない。

 

 まだひとつ、決定的でひどく悩ましいことがあった。

 

 私と由比ヶ浜さんは、果たしてこの依頼を受けるべきだったのか。当然、受けないという選択肢はない。比企谷くんが率先して他者を助けんとするその行為を称えることはあれど、非難することなどできようがない。

 

 この場合の焦点は、依頼の内容ではなく、私たちの心の問題だ。

 

「私はこのままでも良いと思っているのだけれどね」

 

 呟いた言葉が虚空に消える。

 

 いまの私にとって、彼は良き友人であり、最も頼れるひとりであり、放っておけない子どものような存在。

 

 でも、彼女は?

 

 由比ヶ浜さんは現状を良しとしている?

 

 それ以上を望んでいると願っていたら。私のこの行動は、どれだけ彼女の心を傷つけているのだろう。

 

 選択するのは由比ヶ浜さんで、私ではない。それでも友人だから。親友だから。彼女の想いが通じて欲しいとも思ってしまう。

 

 ……なんて。

 

 自分の心の在りかさえ理解できていない私が、これ以上を考えられるはずないのだけれど。

 

 本当に人の心は複雑だ。

 

 理解できない。

 

 計算できない。

 

 自分と他人はどうしようもなく違っていて、想いが一方通行になるなんてよくある話。

 

 そんな世界で、自らの想い人を心で決めて、まっすぐに向かっていくことが、あるいは内に秘めて強く想い人の幸せを願うことが、とても素敵なことだと思えるようになった。

 

 だから……。

 

「私の心の在りかはどこにあるの?」

 

 この疑問だけが、あの日からずっと抜けてくれない。

 

 

 

 

 



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三章
さり気なく、戸塚彩加はきっかけを与える 1


 それとの再会はいつだって突然で、容赦がない。

 

「はいはいみんな、比企谷くんのことが嫌いなのは分かるけど仲間外れはダメよ! 仲間外れは!」

 

「こいつの白衣カレーくせぇ」

 

「別に手を繋がなくてもいいよね」

 

「このお札は誰が取って来たんだ?」

 

「友達じゃダメかなぁ?」

 

「マジキモい、やめてくんない?」

 

「今電源切れてるんだよね、あとでこっちからメールするね」

 

「比企谷は普段しゃべらないのにマンガの話のときだけやたらしゃべるよな。ちょっと……アレだわ」

 

「一年の比企谷さんのお兄さん」

 

「引きこもりくん」

 

「マジありえないんだけどー」

 

「しゃーざーい、しゃーざーい」

 

「あんたもやれば出来る子だと思ってたんだけどねぇ……」

 

「なんで名前知ってるの……怖い……」

 

「あの、本当にやめてくれる?」

 

 過去の黒歴史は、ときに巨大な運河となって記憶の表層にあふれ出す。それは俺にとっては当たり前のことで、毎度のたうち回りたくなるほど胸をかき乱すものだった。

 

 そして味わうたび誓うのだ。

 

 二度とそんな想いはするまいと。

 

 人に期待せず孤高に生き、ぼっちを極め、世を斜に見て性根を捻くらせる。そうすれば自分は守れる。誰のためでもない、自分のためだけに生きる。目の前で起きていることはいつだって自分の出来事で、人のことなんてどうだっていい。

 

 それが比企谷八幡だ。

 

 だけどいまさらになって思うのだ。

 

 本当は痛いと叫びたかった。

 

 ひとりは嫌だと心が悲鳴を上げていた。

 

 誰かに大切にしてほしい、求めてほしいと願っていた。

 

 だから俺はあの日、あの場所に通い出したのだろう。きっと心のどこかで期待して、やさしい世界がきっとそこにあるのではないかと夢見ながら。

 

 ――そんなもの、どこにもないはずだと知っていたのに。

 

 

 

 最悪の目覚めだ。

 

 夢を見た。俺を嘲笑し罵倒し、あるいは俺の勘違いが生んだ黒歴史の夢。

 

 飛び起きた俺は頭を抱えてその場でうずくまった。

 

 頭の奥がじわじわと痛む。鼻の奥がツンとする。目が痛くてたまらない。吐き気がして思わず口元を押さえた。

 

 おいおい、こんなのいつものことだろ……。

 

 身体のあんまりな反応に思わず苦笑するも、満足に表情を作れない事実に驚愕する。

 

 息が掠れる。心臓が破れるほどに痛い。乗り越えたはずのものが、いきなり死神となって大鎌を構えながら追いかけてくる。

 

 そんなの、ただ目をそらして逃げていたに過ぎないじゃないか。

 

 胸が痛かった。息が苦しかった。

 

 温もりがほしかった。誰かに抱きしめてもらいたかった。そんなことをしてくれる人なんて、一体どこにいるというのか……?

 

「八幡?」

 

 沈んでいた思考が引き上げられる。

 

 はっとして落としていた顔を上げると、起きた沙希が俺を心配そうな表情で見つめていた。

 

「どうしたの? 嫌な夢でも見たの?」

 

 なんでもない。

 

 反射的に口に出るはずの言葉は、喉に蓋をされてしまったように発することができなかった。

 

「……抱きしめてくれ」

 

 代わりに出てきたのは、ひどく自分の科白からかけ離れた言葉だった。

 

「ん、いいよ。つらい夢見たんだね」

 

 柔らかい声音で言った沙希の両腕が俺を包み込んだ。互いの心音すら聞こえるほど密着する。俺は沙希の首筋に顔を埋める。沙希が俺の頭をゆっくりと撫でた。

 

「なにも言わなくていいよ。つらくなくなるまで、ずっとこうしてるから」

 

「……悪い」

 

「いいよ。昨日いっぱいあったから、色々溢れてきちゃったのかもね」

 

「そうだな。そうかもしれん」

 

「あたしもね。少しだけ嫌な夢みたから。だから……ぎゅってして」

 

 言葉の代わりに腕を回して力の限り沙希の身体を抱きしめた。

 

 沙希が震える声で鳴く。

 

 負の感情が消えていく。

 

 いつのまにか感じていたのは、沙希の存在だけだった。

 

 もう少し。あともう少しこのままで。そんな気持ちが止められない。沙希のすべてを手に入れてしまいたい。獣の欲望が胸の内に現れ、荒れ狂いそうになる。

 

 ――一度落ち着きなさい。

 

 ふと、雪ノ下の言葉が脳裏によぎった。

 

 一気に冷静になる。

 

 大きく息を吸って、長く長く吐き出す。

 

 ぽんぽんと沙希の背を叩いてから身体を離した。名残惜しそうにしていた沙希の顔を見てもう一度抱きしめそうになるが、そこはなけなしの理性で我慢した。

 

「とりあえず起きるか。いま何時?」

 

 ぽーっと俺を眺めていた沙希が、はっとしたようにスマホを取って画面を見る。

 

「もう八時だね。早く起きないと」

 

 言って、沙希が何かに気づいたように続ける。

 

「八幡のスマホ光ってるよ? なにか着信してるんじゃない?」

 

「ん、マジだ。雪ノ下か由比ヶ浜か?」

 

 どれどれ、とスマホを見てみれば、確かにメールの着信が一件。開いて驚愕する。こんな奇跡があるのかと、天を仰いで喝采したくなった。

 

「と、と、戸塚だと……?」

 

 内容はこうだ。

 

「突然ごめんね。明日一緒に遊べないかな?

 

 ちょうど部活もスクールも休みだから、八幡とゴールデンウィークに遊びたいなって思って。

 

 忙しかったらぜんぜん大丈夫だからね?

 

 返信まってます」

 

 慌てて着信時刻を見る。

 

 昨日の夜九時だった。

 

 なんたる不運。その時間は既に寝ていたじゃないか!

 

 なぜ気づかなかった比企谷八幡!

 

 お前は天使からのメールを十一時間も無視していたんだぞ!

 

 恥を知れ!

 

 などと頭の中で己を罵倒していると、肩にぱふんと温かい感触が灯る。沙希が俺の肩に顎を載せてスマホの画面を見ていた。

 

「あ、戸塚からだね。ふふ、戸塚も八幡のこと大好きなんだ」

 

 沙希が面白そうに笑う。頬に髪が触れてくすぐったい。

 

「ね、良かったら戸塚と遊ぼうよ」

 

「ん、俺は嬉しいが、沙希はいいのか?」

 

「うん、知らない仲じゃないからね」

 

 それに、と沙希が続ける。

 

「八幡の友達だから、仲良くしたい」

 

「……そうか」

 

 なにか感極まるものがあって、一瞬だけ言葉に詰まった。

 

 もう一度落ち着くために深呼吸をして、戸塚に返信をする。戸塚からの返事は電話で来た。

 

 天地万物を祝福する、天使の声が聞こえた。

 

「もしもし、八幡? おはよう」

 

 ああ、あまりの清らかさに心が浄化されるようだ。思わず昇天してしまうまである。死んじゃうのかよ。

 

「おお、おはよう戸塚。返事遅くなって悪かった。昨日は色々あってすぐ寝ててな」

 

「そうなんだ。気にしないで。返事してくれて嬉しいよ。それでなんだけど、今日大丈夫かなあ?」

 

「俺は問題ないぞ。で、相談なんだが、沙希……川崎も一緒に連れてきていいか?」

 

「もちろん! あれ、でも八幡いま……川崎さんのことを名前で……?」

 

 しまった。わずか一日で癖になった名前呼びを思わずしてしまった。

 

 動揺で背に汗を滲ませている俺の隣で、聞こえていたのか沙希がくすくすと笑う。

 

 くっ……! 他人事だと思って余裕ぶりやがって。戸塚に会えば追及されるのは沙希も同じなんだからな!

 

 戸塚から俺と沙希の仲を訊かれる未来を想像しつつ、会話の方向を無理やり変える。

 

「そ、それじゃあ十三時千葉駅でいいか? 川崎には俺から伝えとくわ」

 

「あ、うん。分かった。楽しみにしてるね! またね、八幡」

 

「おう、またあとでな」

 

 電話が切れると同時、深い息が漏れた。相変わらず沙希は笑っていた。

 

「八幡にしては珍しい凡ミスだったね」

 

「アホ、それで困るのは俺だけじゃないんだからな」

 

「戸塚なら話しても大丈夫じゃない?」

 

「俺が良くても沙希が……っていいのかよ!」

 

 思わず突っ込んじゃう。え、いいの?

 

「だって、八幡と戸塚の間にいきなりあたしが出てくるとか不自然でしょ。それだったらちゃんと話しておいたほうがいいと思うよ。大事な友達に嘘、つきたくないでしょ?」

 

 ふっと微笑んで沙希が言った。まったく、言い分がころころ変わる困った依頼者さんだ。

 

 沙希が良いと言うなら、俺も腹をくくろう。

 

「分かった。戸塚にも事情を話すか」

 

「うん、そうしよっか」

 

 さて、顔でも洗ってくるかーと立ち上がろうとしたところでスマホが鳴る。ぼっちだった俺に連絡が連続で来たことに沙希がにやつく。

 

「八幡大人気だねー」

 

「今回はあいつらな気がするな。順番的に由比ヶ浜か?」

 

 画面を見ると、☆☆ゆい☆☆の文字が踊っていた。相変わらずどこぞのスパムみたいな名前だ。

 

「おはよーさん。俺から連絡する隙もなく連絡してくるなお前らは」

 

「おはよーヒッキー。なんか心配になっちゃって」

 

 たはは、と由比ヶ浜の笑い声。

 

「それで、ゆきのんから伝えてもらったけど、昨日は大丈夫だった?」

 

「ああ、喧嘩したわ」

 

「ええ⁉ な、仲直りは⁉」

 

 そこで横合いから沙希が声を滑り込ませてくる。せっかくだからスピーカーモードにして沙希にも聞こえるようにした。

 

「したよ。いま隣にいる」

 

「沙希の声がした⁉ なんで⁉ そうだった、沙希はヒッキーの家に泊まってるんだった!」

 

 相変わらず朝からアホの子だ。

 

「朝からセルフ突っ込みご苦労さん」

 

「ひとり漫才してる訳じゃないからね⁉」

 

 鼻息荒く突っ込む由比ヶ浜を、どうどうと慰める。

 

「わたし馬じゃないから!」

 

「じゃあ鹿か?」

 

「人だよ! ちゃんとした人だから! あ、馬に鹿って、バカって言いたかったのヒッキー⁉」

 

「よく気付いたな。留年は避けられるかもしれないな」

 

 ムキーと由比ヶ浜が唸る。沙希は俺たちのやり取りが楽しいのか腹部を押さえながら声を抑えて笑っていた。

 

「なんか沙希が笑ってる声が聞こえるー。二人してひどいよもう。折角心配してたのに……」

 

「悪い悪い。色々考えてもらってありがとな。まあ、雪ノ下から伝えられた場面を沙希に見られてバレて喧嘩したから、ちょっと遅かったけどな」

 

「助言のタイミングに駄目だしされた! でも仲直りできたみたいで良かったよ」

 

 沙希が笑いを止めて前かがみになって俺に目をやった。どうやら話したいことがあるようだ。以心伝心とでも言えば良いのか、なんとなく言いたいことが分かるようになってきたのかもしれない。

 

「色々考えてくれてありがとね」と沙希。

 

「ううん、こっちこそ沙希を傷つけてごめんなさい。もっと早くに気づけばよかったんだけど……」

 

「そこはもう気にしてないから、由比ヶ浜ももう気にしないで」

 

「うん、分かった」

 

 ねえ、と由比ヶ浜が訊きづらそうな声を出す。

 

「沙希の事情、訊いてもいいかな?」

 

「いいよ。それなら、由比ヶ浜と雪ノ下は今日暇?」

 

「え? あ、うん。今日は空いてるよ。ゆきのんは訊いてみないとだけど、どうしたの?」

 

「今日戸塚と一緒に遊ぶ約束があってね。どうせだったらふたりも呼んでぜんぶ話そうかなって」

 

「いいの? 行く! ゆきのん引っ張ってでも行くよ!」

 

「おい、それはさすがにちゃんと予定訊いてこい」由比ヶ浜のテンションの上りように俺が突っ込みを入れる。

 

「ヒッキーに沙希に彩ちゃんの組み合わせと遊べるなんて滅多にないんだよ⁉ 行くに決まってるよ!」

 

 俺たちはツチノコかなにかか……。

 

 微妙な言われようにどう言い返してやろうかと考えていると、いきなり自室のドアがけたたましく開いた。何事かと思って見ると、小町がにっこり笑顔で俺たちを見ていた。

 

「話はすべて聞きました! 小町も参戦します!」

 

「あ、小町ちゃんの声だ! 小町ちゃんも一緒にあそぼー!」

 

「もちろんです! ではでは、みなさん千葉駅十三時ということでよろしいですかー?」

 

 あれ、急に小町が仕切り出したぞ。おかしいな、仕切りは俺だったはずなのに。どうも、いつのまにか妹に仕切られてる千葉のお兄ちゃんです。

 

 あれよあれよという間に由比ヶ浜と雪ノ下、そして小町のメンバー追加が確定し、電話は切れた。

 

 さて、いい加減諸々朝の準備をしようか。

 

 ようやくベッドから降りた俺と沙希は、ふたりして一階に降りてそれぞれ身支度をする。着替えが終わり洗面所で濁った瞳とにらめっこしていた折、三度俺のスマホに連絡が来る。誰だろうかと見てみれば、今度は雪ノ下だった。

 

「おう、雪ノ下か。おはよーさん」

 

「ええ、おはよう。比企谷くん、早速訊きたいことがあるのだけれど。良いかしら?」

 

「なんとなく想像は付くが、いいぞ」

 

「さっき由比ヶ浜さんから電話で「十三時に集合だからゆきのんは家で待ってて。迎えに行くから」とだけ言われて電話を切られたのだけれど、私は一体どこに連れていかれるのかしら?」

 

 あいつ、事情すら説明せず本気で無理やり引っ張ってくるつもりだ。アホの子ここに極まれりだ。一応奉仕部のコミュニケーション担当なのになあ。テンションが上がるとどうもその辺のことが吹っ飛ばされるらしい。まあ、雪ノ下を信頼しているということだろう。

 

「話の流れで俺と戸塚と沙希、そして由比ヶ浜と小町とお前の六人で遊ぶことになった」

 

「よく分からないのだけれど……。とりあえず了承したわ。待ち合わせ場所は?」

 

「千葉駅だな。間違いなくその前に由比ヶ浜がそっち行くはずだから、臨機応変に対応してくれ」

 

「ええ、そうするわ。それで、懸念事項について訊いても?」

 

「あの電話を聞かれてて、ふたりに話していたのが沙希にバレて喧嘩した。小町のお陰で仲直りした。で、今日沙希がみんなに事情を話す決心をした、ってところか」

 

 雪ノ下の声音が下がる。

 

「なるほど……。ごめんなさい、タイミングが悪かったみたいね」

 

「いや、雪ノ下と由比ヶ浜に責任はない。それにもう終わった話だし、沙希も気にしてないって言ってるからもう忘れちまえ」

 

「そう言ってくれると助かるわ。じゃあ、十三時にまた会いましょう」

 

「了解だ。またな」

 

「ええ、ではまた」

 

 電話を切ってほっと息を付く。

 

 こんな大人数で遊ぶのは一体いつぶりだろうか。去年、なにかしらの打ち上げで連れられた気がするが……。

 

 それはともかく、だ。

 

 戸塚と遊べる。遊べるのだ。しかもあの天使自ら誘ってくれたのだ。心の底からひゃっほーいと叫びたい。なんならいますぐ外に出て叫びながら街を一周したって構わない。

 

 うっほほーい!

 

 拳を天へと突き上げその場でジャンプ。やっべー、無意識にやっちまった。っべーよべー。思わず戸部語になるくらいご機嫌でワクワクだ。

 

「なにやってんのお兄ちゃん……」

 

 見られていた。小町に思いっきり見られていた。まるでゴミムシでも見る濁った瞳で俺を見下していた。あの、小町ちゃん……? その目はやめて……。

 

「いいからさっさとリビングに来て。朝ごはん片付けるよ?」

 

「……了解」

 

 なんだろう。小町の中で俺の評価ってどうなってるのかな?

 

 この二日でだいぶ落ちている気がするけど……大丈夫かな?

 

 盛大なため息を漏らして去っていく妹の後ろ姿を追いかけながら、俺は小町の好感度をどう上げればよいのか新たな悩みに頭を回転させていた。

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 ゴールデンウィークとはかくも煌びやか日々なのだろうか。

 

 約束の十三時まであと十分。

 

 千葉駅で俺は、駆け寄ってくる天使の姿を視界に収めながら、俺は天にも昇る気持ちでいた。具体的には昇天寸前だった。

 

 立てば花が咲き乱れ、座れば後光が滲みだし、歩く姿はまさに天使のよう。

 

 戸塚あり、ゆえに世界あり。戸塚がいない世界など崩壊してしまえばいい。

 

 結論。

 

 戸塚超可愛い。

 

「はちま~ん!」

 

 ああ、呼ばれている。天使に名前を呼ばれている。なんて尊い……。

 

 世の愚民ども控えおろう。天使のご降臨であるぞ!

 

 ばちこん、と頭をはたかれる。反射的に振り返ると、腰に手を当てた小町が侮蔑の視線で俺を見上げていた。やだ、その視線やめて……。

 

 もう一度「はちま~ん」と呼んでくれた戸塚が肩で息をしながら俺の前で立ち止まる。にこぱー、と太陽すらその輝きが陰って見えるほどの笑顔で俺を見つめてくる。

 

「八幡! よっす!」

 

「おう、よっす」

 

 ああ、すさんだ心が癒される。

 

 もう成仏寸前だった俺と向き合っていた戸塚が、小町と沙希の存在に目を向ける。

 

「小町ちゃんもこんにちは!」

 

「こんにちはです戸塚さん!」

 

 軽い挨拶の応酬。そして……。

 

「川崎さんもこんにちは!」

 

「ん、こんにちは。邪魔したみたいで悪いね」

 

「そんなことないよ! 川崎さんと遊べてぼくも嬉しい。それよりも川崎さん、すごい綺麗な恰好だね。すごく似合ってるよ!」

 

「そう? ありがと」

 

 戸塚の明るさにあてられた沙希が緩やかに微笑む。

 

 今日の沙希の恰好は、白のトップスにシルバーラメのカーディガン。ひざ丈の黒のスカートに黒のサンダルというモノトーン系の服装だ。相変わらずどこの東京のOLだと言わんばかりの大人の女性コーデだ。髪はいつも通りシュシュでまとめたポニーテール。

 

 四人で話しているうちに由比ヶ浜が雪ノ下を連れてやってくる。

 

「やっはろーみんな」

 

 ネイビー色のリラックスニットに、ベージュのショートパンツ姿の由比ヶ浜が、飛び上がらんばかりに手を振って近づいてきた。

 

「こんにちは、みんな」

 

 由比ヶ浜に手を引かれる雪乃下は、袖口にファーがあしらわれた黒のトップスに、ラベンダーカラーのロングスカート。リボンが特徴的な茶色のサンダルといういで立ちだ。

 

 次々に挨拶をしていく連中を尻目に、俺はいつも通りぼけーっと突っ立っていた。元ぼっちたるもの、グループ行動をするときは存在感を消すべし。これ豆な。

 

 というか、なぜ俺はこんなところで街角ファッションチェックなんぞを繰り広げていたのだろう。

 

 とりあえず戸塚を拝んどこう。

 

 ああ、今日も尊い……。

 

 戸塚はベージュのTシャツの上にニットベストを重ね着し、下はスキニージーンズに青のスニーカーだ。うん、可愛い(語彙力喪失)。

 

 小町は妹だから割愛。でもいつも通り最強の妹です。

 

「あ、ヒッキーが眼鏡してる!」

 

 由比ヶ浜が早速絡みを入れてくる。俺が掛けているのはご存じ親父が買ってきた伊達メガネだ。目の濁りを緩和すると巷(比企谷家と沙希)で評判の便利グッズである。

 

 おー似合ってるーとかなんとか言いながらじろじろ見てくる由比ヶ浜の後ろで、雪ノ下がふぁさっと髪をかき上げ言った。

 

「あら、フィクサ谷くん。目の濁りが見えないわね? 本当に本人なの?」

 

「出会いがしらに煽ってくるなよ。目の濁り具合でしか俺を判断してないのか」

 

「いえ、たまにはやっておこうかと思って。最近は誰かさんのお陰でそんなことしている心の余裕がなかったから」

 

「それを言われるとなにも言えんな」

 

「気にしないで。冗談よ」

 

 くすくすと口元を隠して雪ノ下が笑った。俺をからかって遊ぶのはもう雪ノ下のお家芸だ。いまさら目くじら立てるものでもないし、内心楽しかったりするのだから困る。あらやだ、私調教されてる?

 

「なんだか賑やかで楽しいね、八幡」

 

 俺の隣に来ていた戸塚がこっそりと耳打ちしてくる。はっとして見ると戸塚がにっこりと笑っていた。

 

「いきなり人数増えて悪かったな」

 

「ううん、大勢の方が楽しいもん。それに、八幡も友達が増えたなーって思ってぼくとしても嬉しいかな、うん。ふたりきりでもよかったんだけど……ね」

 

 戸塚が胸の前で恥ずかしそうに手を組んで、すぐにえへーと照れ隠しの眩い笑顔。

 

 なんだろう、この神々しい人物は。戸塚ルートってないのかな?

 

「ほら八幡、顔がおかしいことになってるよ」

 

 呆れ顔の沙希に後頭部をぽんと叩かれる。

 

「おい沙希、いまの俺は頭はおかしいが顔はおかしくない。これでも目を除けばそこそこイケメンなんだぞ?」

 

「まあ確かにそうなんだけど、自分で頭がおかしいっていうのはどうなの?」

 

「戸塚が目の前にいればそうなる」

 

「えっと、ごめんなさい?」と戸塚が首を傾げる(超可愛い)。

 

 そんなやりとりをしていると、後ろで何やら変な声が聞こえ始める。

 

「聞きましたか結衣さんや。お兄ちゃんと沙希さん、お互いを名前で呼んでるんですよ。あらやだまあまあ、若いっていいですねえ」

 

 小町だった。俺の妹だった。どこの井戸端会議中のおばちゃんだよ。

 

「ほんとだ! なんで⁉ なにがあったの⁉」由比ヶ浜が目を丸くして小町へ疑問を投げ飛ばす。

 

「ひとつ屋根の下で家族はいれどふたりで過ごす。だんだんとお互いの距離は縮んでいき、最後には……きゃー‼」と小町が騒ぎ出した。

 

 うん、あいつらうるさいですねえ。

 

 渦中の人物のひとりである沙希は、雪ノ下とのほほんと談笑していた。あれ、この人たち初対面のときはあんなに険悪だったのに、いまでは仲良しさんに見えるんだけど。

 

「そういえば八幡。一色さんは呼ばなかったの?」

 

 戸塚が疑問に思っていたのか聞いてくる。

 

「あいつは部活だ。そう何度もサボってたら葉山も怒るだろ」

 

 そもそも昨日の段階で隙を見てメールで葉山にチクったのだ。今ごろ一色は地獄を見ているだろう。心配してくれたのはありがたいし申し訳なく思うが、それとこれとは別だ。精々青春の汗でも流すといい。

 

 くつくつと笑っていると、近づいてくる人影が二人。

 

「ヒッキー! それに沙希! もういい加減聞かせてもらうからね⁉」

 

 沙希を引っ張ってきた由比ヶ浜が、俺の前で仁王立ちをしながらよく分からない宣言をした。

 

「そうね、私としても確認はしておきたいわ。いいかしら?」

 

 雪ノ下もひょっこりと現れては由比ヶ浜側に着く。

 

 戸塚は何も知らないのできょとんと首を傾げるだけだ(可愛くて死ぬ)。

 

 俺と沙希は顔を見合わせる。そもそも沙希から話すと決めたのだ。俺がいまさらそれを反故にする必要もない。あとは沙希の意思次第だ。

 

 沙希はひとつ頷く。

 

「ん、話すよ。ひとまず、みんなが入れるカフェにでも行こうか」

 

 沙希の提案を受け、俺たちは千葉駅周辺にあるカフェへ向かうことになった。

 

 沙希が決意したのなら、俺はもう何も言うまい。

 

 

 

 

 



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さり気なく、戸塚彩加はきっかけを与える 2

 由比ヶ浜の案内でパンケーキがおいしいと有名なカフェに入ることになった。慣れた様子で由比ヶ浜は個室を希望し、店員に案内され最奥部にあるちょうど六人席の個室へ移動する。

 

 個室は広かった。ネイビー柄の落ち着いた壁紙に、黒い皮のソファーが丸テーブルを中心に並んでいる。照明は窓から差し込む光のほかに、壁際にひっそりと置かれたスタンドライトが複雑な影を描きながら室内をほんのり照らしていた。

 

 うん、とりあえずお洒落だなーという感想しかない。こういう店に来るとなんだか落ち着かない気分になるんだよね。

 

 個室に入ってから由比ヶ浜が仕切り、奥から右回りに俺、沙希、小町、雪ノ下、由比ヶ浜、戸塚という順に座る。俺の隣に戸塚を座らせるとは、さすが分かってらっしゃる。崇め奉らないと!

 

 全員が注文を終えたところで、由比ヶ浜が切り出した。

 

「沙希……なにがあったか、訊いてもいい?」

 

 ん、と沙希が吐息して頷く。

 

 大した話じゃないよ、と前置きをして沙希が話し始める。

 

「戸塚以外はたぶん家の事情はある程度知ってると思うけど。うちは四人姉弟でね。あたしが長女なんだけど、下に弟がふたり……長男の大志は小町の同級生だし知ってるかな? あと渉、妹の京華がいるんだよ。子どもが四人ってなるとお金もたくさん必要だから、両親は共働きで昔から家事や育児は大体あたしが担当してたんだ。大変だって思うことはたくさんあったけど、それでも家族の世話をするのは好きだった」

 

 過去を思い出しているのか、沙希が天井を見上げる。

 

「いまでは落ち着いたけど、昔は大志もやんちゃ坊主だったな。けーちゃんもわっくんもいまは手が離せないけど、可愛い盛りだよ、ほんとに」

 

 ただ、と沙希が視線を戻す。

 

「なんか……ね。疲れちゃったんだ。三年生になって受験が本格的になって、でも家事も弟妹の世話もしなきゃいけなくて。将来の不安もあるし、なんだか色々なことが手に着かなくなって……。たぶん、誰かに助けて欲しかった」

 

 ふっと沙希が微笑む。頬が引きつった不器用な笑いだった。

 

「自分のために時間を使いたいけど、そういう訳にはなかなかいかなくて……。でも将来を考えると勉強しないといけないし。こんなこと、相談できる相手なんかいなくて……。そんなときに、比企谷にぽろっと口に出したのが今回のきっかけ、かな?」

 

 これでお終い、と沙希が話を終える。

 

 言葉にすれば、家族への愛と自身の将来への不安で潰れたと説明できる。だが、当人にとってはそれだけではない、心に大きな靄がかかって先の見えない闇の中を歩いているような気分だったのだろう。

 

 人は、希望なくして生きられるほど強くはない。

 

 沙希は希望足り得るものを持っていなかった。だからパンクしてしまった。

 

「沙希……つらかったんだね。ずっと、頑張ってたんだね」

 

 感受性の高い由比ヶ浜が瞳を潤ませて沙希に声を掛ける。一瞬目を見開いた沙希が、小さく頷いた。

 

「あなたの現状、理解できるなんて傲慢なことは言えない。でも、これだけは言わせて。私たちはあなたの味方よ。あなたの問題、解決するまで必ず支え続けるから」

 

 雪ノ下が柔らかい口調で告げる。沙希は俯いて一言、ありがとうと呟いた。

 

「それから川崎さん、改めて謝罪させて。あなたの意向を無視して、事情は伏せられていたとはいえ比企谷くんから相談を受けていたこと、本当にごめんなさい」

 

「ごめんね、沙希」

 

 雪ノ下と由比ヶ浜が頭を下げる。沙希はそれに対して首を振って、

 

「気にしないで。大した話じゃないって言ったでしょ? これくらいのこと、そこらの家である話だからさ」

 

「そんなことないよ!」

 

 そこで口を挟んだのは戸塚だった。

 

「川崎さんは頑張ったんだよ。それは誰かと比べるものじゃない。川崎さんのつらさや、頑張りは、川崎さん自身のものなんだよ。だからそれを肯定していいし、弱音だって吐いていいんだよ」

 

 沙希が喉の奥で悲鳴を漏らした。

 

 まったく、先に言われた……。戸塚は物事の本質を捉えるのがうまい。

 

 そう、沙希はもっと自分を労わっていいのだ。家族を重荷に感じる、現状に不満を抱く、未来が不安になる。誰もが経験し、誰もが嘆き、苦しみ、きっと口にしているものだ。沙希はそれをしてこなかった。すべてを内に秘めて鍵をかけてしまった。大本の原因はきっとそれだ。そして、沙希をそんな風にしてしまった過去がどうしようもなく痛ましかった。

 

 俺も、同じだから。

 

「ま、戸塚の言った通りだな。ゴールデンウィークで抱え込んだもん全部吐き出せ。勉強なんて休みの後でも取り戻せるし、家族のことだって大志がいる。なんとかなるだろ」

 

 言って俺は沙希の頭に手を載せた。それが合図になったように、沙希が顔を両手で覆って嗚咽をこぼした。いままで黙していた小町が沙希の背中をゆっくりとさする。いよいよ耐え切れなくなったか、沙希は口元を押さえて号泣する。

 

「すみません、ちょっと席外しますね」

 

 小町が沙希を連れて部屋を出ていく。

 

 その様を眺めていた雪ノ下が視線を俺に向けた。

 

「あなたがやろうとしていること、ようやく分かったわ」

 

「他に方法が思いつかなかった。悪手だったか?」

 

 雪ノ下が首を振る。その仕草は、まるで教え子を前にした教師のような温かさがあった。

 

「いいえ、私もこれが最善だと思うわ」

 

「えっと、どういうこと?」

 

 由比ヶ浜が頭上に疑問符を浮かべる。答えるのは当然雪ノ下だ。

 

「川崎さんの現状をなんとかするために必要な条件はみっつ。

 

 ひとつ、川崎さんの心を正常な状態に戻すこと。

 

 ふたつ、この休みを終えても心の平穏を自分で保つことができるようにすること。

 

 みっつ、家族が持つ川崎さんに対する甘えを薄め、彼女の置かれている状況を理解してもらうこと。

 

 これらすべてを同時に解決できる方法、それが今回の家出ね」

 

 わー、こうも見事に当てられると八幡恥ずかしくなっちゃう!

 

 合ってるかしらと話を振られれば、俺としては頷いて同意を示すしかない。

 

「あ、だからテンションが上がるとこーって話だったんだね」

 

 ようやく合点がいった由比ヶ浜が胸の前でぽんと手を合わせた。

 

「ま、そういうことだ。現状の息抜きと、今後自分でストレス解消する方法でも見つけてくれればいいと思ってな。まあ、女子高生の息抜きとストレス解消法なんて分からなかったから、ふたりに相談したってことだな」

 

「そうなると、私たちの回答が今回の問題に即していたか、一考の余地はあるわね」

 

 指で顎に触れながら雪ノ下が考え込もうとするが、俺はそれを止める。

 

「問題ない。意外とやりたい事があるみたいでな。二日間でやったことも色々初体験ばかりみたいだったし、ストレス解消法も案外見つけられそうだ」

 

 ただし、殴る方面でのストレス解消法に目覚めないことだけは祈っておく。

 

「そう、それなら良かったわ」

 

 安心したように雪ノ下が微笑む。

 

「八幡はいつだって人を助けてるんだね」

 

 戸塚が誇らしい友人でも持ったように言うから、照れくさくて頭を掻いた。

 

「そんなんじゃない。色々思うことがあってな……。なんつーか、小町も似た境遇だから重なってな」

 

 くすっと笑って雪ノ下が茶化してくる。

 

「確かに、比企谷くんという大変な兄がいる点では、小町さんは苦労しているものね」

 

「自覚あるからそういうこと言わないでね」

 

 まったく、隙あらば雪ノ下は俺を罵ってこようとするのだから困る。

 

 雪ノ下と由比ヶ浜、戸塚の三人が話し始めた隙を拾って、沙希を助けようとした理由を少し考えてみる。

 

 そもそも、小町は社交的だし内に抱えるタイプではない。それでも、いつか来る想像の小町と重なった。だから助けざるを得なかった。

 

 いや、これは適切ではない。助けたかった。なぜだか分からないが、助けたいと思えた。それがなんであるか、いまになっても言葉にできないのだが……。

 

 個室のドアが開き、小町と沙希が戻ってくる。続いて店員が入ってきて注文の品をテーブルの上に並べていく。

 

 店員が去ると、雪ノ下が俺を見て言う。

 

「それじゃあ比企谷くん、音頭をお願い」

 

「は、俺? なんで?」

 

「ここにいるのはすべてあなたと親交のある方々よ? それも、あなた中心のね。なら、誰が音頭を取るかは決まっているでしょう?」

 

 どうだと言わんばかりに胸を張る雪ノ下だが、俺としてはそもそもの疑問がある。

 

「なあ由比ヶ浜、そもそもこういうカフェで音頭とかいるのか?」

 

「あははー……いらないんじゃないかな?」

 

 由比ヶ浜が乾いた笑みを漏らす。うん、やっぱそうだよね。ゆきのんも由比ヶ浜に言われて「え、そうなの?」的な顔してるし。

 

 そして、こんな微妙な空気に出張ってくれるのはいつだって小町だ。

 

「おーっと、ならここは小町の出番ですねー。不肖小町、ここは乾杯の音頭を取らせていただきまーす! じゃあ、みなさんグラスを持ってくださいねー。ほらほらお兄ちゃんに沙希さんも早く早く! 雪乃さんもそんな落ち込んでないで持って持って! さてさて、よろしいですかー? いきますよー? ではではー、お兄ちゃんの成長にかんぱーい!」

 

 かんぱーい、となぜかお洒落なカフェで乾杯する六人の姿がそこにはあった。なにを隠そう俺たちである。うん、やっぱなにか間違ってると思うんだよなあお兄ちゃん。しかも俺の成長に乾杯って……。小町が俺のことをどう思っているのか、その端緒が垣間見れた気がするよ……。

 

 まあ、空気が一変して和やかな雰囲気になったから、やっぱり必要なことだったのかもしれない。

 

 さて、みんなもパンケーキに向かっているようだし、俺もそのお洒落なスイーツとやらを食べてみようじゃないか。眼前の皿に手を伸ばさんと視線を向けると、そこには俺のためのパンケーキがなかった。

 

 反射的に小町を見る。小町の皿の横に俺が頼んだパンケーキが引き寄せられていた。

 

「小町ちゃん。そんなに食べると太るわよ? というか、お兄ちゃんのパンケーキ返しなさい」

 

 めっ! と注意するも小町は不敵な笑みを浮かべていた。

 

「ふっふっふ。小町は訊いているんだよ。一昨日、沙希さんとお兄ちゃんが洋食屋でやったことを」

 

「一体なんの――ッ!」

 

 瞬間、脳髄に電撃走る。まさか、こいつ、訊いたのか?

 

 視線を沙希へ向ける。沙希は頬に冷や汗を流して固まっていた。

 

「沙希、話したのか……?」

 

「こ、小町の追及がすごくて……つい……」

 

 さっと背筋が寒くなる。小町め、まさかここでやらせるつもりか……?

 

 ふっ、と小町が口端を吊り上げる。その様はいまの俺たちにとっては悪魔のような邪悪な笑みに見えた。

 

 小町はなにを思ったか突然立ち上がり、ぱんぱんと大きく手を叩いて注目を集める。

 

「さあさあ、寄ってらっしゃい見てらっしゃい! 小町主催、お兄ちゃん争奪戦開始でーす!」

 

 どんどん、ぱふぱふー! とか口で効果音をつける小町。まったくなにがなんだか分からない。ただ、ろくでもないことだけは確かだ。

 

「なになにー? 小町ちゃんどうしたのー?」楽しそうな由比ヶ浜。

 

「なにかしら、その胡乱な催しは……」雪ノ下が目を細める。

 

「なんか楽しそうだね」戸塚はいつだって天使……!

 

 嫌な予感しかしない。

 

 小町が手をパンパン叩きながら声を張る。小町ちゃん、ここお店の中だから静かにね。

 

「ではではー。山手線ゲームを始めましょう! ルールは次の通り! 『お題出す、みんな答える、リズムよく!』さあ、今回のお題はお兄ちゃんの良いところ! 当然お兄ちゃんは抜きで沙希さんからスタートです!」

 

 え、なにそのざっくりした説明? あれ、俺の良いところとかなにそのお題。恥ずかしいから今すぐ止めて!

 

 俺の願い叶わず、小町が音頭を取り始める。

 

「古今東西、お兄ちゃんの良いところ!」

 

 最初は沙希だ。

 

「優しい」

 

 手拍子が打たれ、小町に続く。

 

「面倒見が良い!」

 

 お願い誰か止めて! 顔が赤くなっちゃう!

 

 止める者など当然おらず、無慈悲な手拍子と共に雪ノ下に回る。

 

「ず……賢い」

 

 おい、いまずる賢いって言おうとしただろ!

 

 小町判定ではセーフのようで、由比ヶ浜に回る。

 

「眼鏡が似合う!」

 

 それ良いところなの? 疑問に思っているうちに次の戸塚へ続く。

 

「つらくても頑張るところ!」

 

 じーんときた。ちょっと、これまだ続けるの?

 

 手拍子はまだ打たれる。一周回って次は沙希。

 

「あたしを受け止めてくれた」

 

 手拍子。

 

「わがまま聞いてくれる」小町が言う。

 

 手拍子。

 

「成長したわ」雪ノ下が微笑む。

 

 手拍子。

 

「身内にだだ甘!」ふふんと由比ヶ浜が笑う。

 

 手拍子。

 

「尊敬できる!」戸塚が誇らし気に答える。

 

 あの、そろそろ本気で泣きそうなんだけど。目の奥が熱いよ?

 

 二週目が終わった。小町がふんふんと頷き指揮を取る。

 

「さあ、思いのほかお兄ちゃんが愛されていることが分かって、小町感激です! ということでこの流れで王様ゲーム行ってみましょう! 王様はお兄ちゃんに何でも命令できるってことでよろしくです☆」

 

 きゃぴるん、とあざとくウインクした小町が、どこから出したのか人数分の棒を握った右手を前に突き出す。俺以外の全員が棒を持つ。案外ノリ良いね君たち……。そんなに俺に命令したいの?

 

「さあさあ行きますよー、王様だーれだ!」

 

 小町の掛け声と共に全員が棒を引き抜く。全員が棒の先を見る中、小町があーっと声を上げる。

 

「これは小町が王様ですねー」

 

 作意ぃ! 作意しか感じないぞ! さては小町め、合法的に俺に命令するためにこんなことをしてるんじゃあるまいな……?

 

「ではでは、お兄ちゃんが一番にパンケーキを食べさせてもらう!」

 

「あ、あたし一番だ」

 

 ほわーっとした表情で沙希が宣言する。おい、沙希。状況を見ろ! なんで若干嬉しそうなんだよ!

 

「じゃあお兄ちゃん! 命令だよー。沙希さんにパンケーキを食べさせてもらう。レッツゴー!」

 

 小町がびしっと俺と沙希を交互に指差して命令する。

 

「うう……」三番の由比ヶ浜が唸り。

 

「はあ……」四番の雪ノ下がため息し。

 

「わあ……!」二番の戸塚が楽しそうに声を漏らす。

 

「待て、ここでやるのか? ハードル高くない?」

 

 なんとか逃げようと小町に言うも、妹は首を縦に振ってそこはかとない迫力を滲ませて言う。

 

「お兄ちゃん、沙希さん、やらないと……言うよ?」

 

 はいぃぃ!

 

 俺と沙希の背筋がびしっとなる。

 

 小町怖い! いろはすの怖さが移ってるよ! いろはすめ、うちの妹に悪影響ばっか及ぼしやがって……!

 

 もはや恐怖と恥ずかしさでガクブルになった沙希が、震える指でパンケーキをナイフとフォークで切り取る。一口サイズになったそれをフォークで刺して俺に差し出してくるが、ぷるぷる震えて普通に食べられない。というか鼻に生クリームが当たる! あたっちゃうから!

 

「ほ、ほら八幡、さっさと食べて!」

 

「はいアウトー!」

 

 そこで小町が遮ってくる。

 

「沙希さん、そこは『はい、あーん』でしょう⁉ やりなおし!」

 

「うぅ……」

 

 小町の思いのほか強い駄目だしに沙希が呻く。

 

 右手でフォークを持って、左手を添えて俺の口にゆっくりと近づける。本当にゆっくりすぎてハエが止まるくらいの速度だ。

 

「は、はい、八幡、あ……あーん」

 

 いまだ恥ずかしくて口をもごもごさせていると、やっぱり小町から注意を受ける。

 

「お兄ちゃん? 王様の言うことが聞けないの? 尊王攘夷でもしたいの?」

 

 尊王攘夷は天皇を敬って侵略してくる敵を排除することだ。全然関係ねえよ、と突っ込みを入れたいが余裕がない。

 

「小町さん、尊王攘夷はそもそも王を尊び侵略者を斥けようという思想であって、決して革命的な意味合いでは……」

 

「雪乃さん、いまはそんなことどうでもいいです」

 

 俺の心の声を代弁しようとした雪ノ下が、小町によって撃沈する。しゅん、となった雪ノ下を由比ヶ浜が慰めている光景がなんだか悲しすぎる。小町さんが怖い、という雪ノ下の言葉は聞かなかったことにしよう。

 

「あれー、お兄ちゃんできないの? おかしいなー一昨日は……」

 

「分かったやる! やるから!」

 

 あぶねー。小町め、さらっと爆弾落そうとしやがって。

 

 腹に力を込めて沙希と向き合う。もはや熟れたリンゴのような顔をした沙希が、ぷるぷると両手を震わせながらフォークを構えていた。

 

「は、はい。八幡、あーん」

 

「……おう」

 

 開けた口の中にパンケーキが放り込まれる。甘さとか柔らかさとか、色々と味覚で感じるものがあるのだろうが、いまの精神状態で味わえるだけの余裕なぞない。というか、みんな見過ぎだから! 特に由比ヶ浜さん、そんなウルウルした瞳で見ないでね!

 

 一連の流れを見た小町が満足そうに頷く。

 

「うんうん、さすが仲良くなったふたりですねー。まるで本物の恋人みたいです。いっそ恋人になっちゃってはどうですかねー? では二回戦行ってみましょー」

 

 まだやるの⁉ どんな拷問⁉

 

 全員からささっと棒を回収した小町が再び握った右手を突き出す。

 

「王様だーれだ!」

 

 皆が棒を引く。一部真剣な表情で勢いよく引いた人物がいたが、見なかったことにしよう。どんな命令をされるのか予想がつかな過ぎて怖い……。

 

「あ、ぼくだ!」

 

 戸塚! 戸塚が王様だ!

 

 わーいわーいとはしゃぐ姿がとても愛らしい。天使の舞だ。

 

 勝負事にはめっぽう本気の雪ノ下は脱力し、由比ヶ浜は悔しそうに相変わらず唸っている。沙希はさっきの出来事でいっぱいいっぱいなのか、顔を赤くしたまま黙り込んでいた。

 

 そのとき、戸塚と小町の間でなにか視線が交わされた気がした。ん? なんだろう、急に悪寒が……。

 

 戸塚がひとつ頷いて命令を告げる。

 

「じゃあ、八幡が三番にパンケーキを食べさせる!」

 

「あ、またあたしだ」と沙希。

 

 謀ったな小町!

 

 再び立ち上がった小町が拳を天井に突き上げる。

 

「それでは行ってみましょー! お兄ちゃんが三番の沙希さんにパンケーキを食べさせる。れっつらごー!」

 

 王様は戸塚。戸塚の命令は絶対。ならばやるしかあるまい……!

 

 腹の底に力を込めて、いざパンケーキを三角形にナイフを入れる。一口サイズのそれを沙希の口元へと持っていく。

 

 沙希はぶるぶると身体を震わせながら俺とフォークを何度も見比べていた。

 

「さ、お兄ちゃん。言うことあるよね?」

 

 小町が追い打ち掛けてくるよー……!

 

 ぽふんと俺の肩に手を置いた戸塚と視線が合う。

 

「八幡、男ならちゃんとやらないと駄目だよ?」

 

 戸塚ぁ……お前までそんなこと言うのか。

 

 うぅ、と内心で由比ヶ浜みたく唸りながらも、恐る恐る口を開く。

 

「沙希……あ、あーん」

 

「う、うん……。あーん」

 

 濡れた沙希の唇が開かれて、ちろりと見えた赤い舌の上にパンケーキを入れる。ぱくりと閉じた唇からゆっくりとフォークを抜いた。なんだか変な気分になりそう……。

 

 もぐもぐこくん、と喉を鳴らした沙希がほんわり頬を染めて一言。

 

「ん、おいし」

 

 味分かるのかよ。俺は全然分かんなかったけどな。

 

 そのとき、そっと沙希が俺に耳打ちする。

 

「味分かんないけど、八幡が食べさせてくれたからおいしいの」

 

 顔が爆発した。一気に思考が消え去り沙希しか目が入らなくなる。ふふっと笑った沙希がナイフとフォークを持とうとして……。

 

 由比ヶ浜がついに我慢の限界を迎えた。

 

「むー! 沙希ばっかりずるい! わたしもヒッキーに命令したいー!」

 

 がらりと空気が変わった。近づいていた俺と沙希の距離が離れる。

 

 あぶない。何か間違いを犯すところだった。ナイスだ由比ヶ浜。でも何をそんなに命令したいのか私すごく気になります……!

 

 ゆったりと腕を組んだ雪ノ下が不敵な笑みを浮かべる。

 

「確かに、比企谷くんを下僕にできるというのは魅力的よね」

 

 雪ノ下さん、あなたゲームの趣旨間違えてるよ?

 

「もちろん、このゲームは続けるのよね?」

 

 雪ノ下の笑みの温度が下がる。あらゆるすべてを凍てつかせる絶対零度の笑みだ。

 

「ね、小町さん?」

 

 さっきの意趣返しか、雪ノ下の攻撃が小町へ向く。雪ノ下の背後には修羅の姿があった。

 

「も、ももももちろん! た、たたたた楽しいゲームはここここれからですすすすす!」

 

 面白いくらいに小町がキョドっていた。やっぱり雪ノ下を本気にさせると怖いよねえ……。お兄ちゃん分かるよ!

 

 こんな状態でも戸塚はにこぱーと煌めく笑顔。戸塚って意外とメンタル強いな……。

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 王様ゲームで盛り上がった後は、沙希さんの希望でゲーセンに行くことになった。初日に話していたダンレボをやりたいのだと言っていた。

 

 兄と沙希さんを先頭に千葉の街を歩いていく。私は最後尾でとぼとぼとひとり歩いていた。

 

「さっきのはやり過ぎよ」

 

 ふと、いつの間にか隣に並んでいた雪乃さんが声を掛けてきた。その声音は強いものではなく、優しく諭すようなものだった。

 

「分かってます。でも、もう決めたんです」

 

「ええ、見てれば分かるわ」

 

「誰に恨まれようと、私は止まるつもりはありません」

 

  そう、と雪乃さんが頷いた。

 

「私も何が正解か分からない。ただひとつだけ言えることは、比企谷くんが自分の感情を理解して、その上で答えを出した結果を受け止めることだと思っているわ」

 

「はい。お兄ちゃんはめんどくさいので、きっとまだ屁理屈こねてちゃんと気持ちを決めてないと思います」

 

「同意見ね。けれど、私には小町さんだけの味方になれない理由があるから」

 

 私はこくんと首を縦に振る。

 

「分かってます。敵対したって構わない、嫌われることすら覚悟してます」

 

 雪乃さんが瞠目すると、一度大きくため息をついて私の背中に触れた。

 

「小町さん、それは思い違いよ。どういう結果であれ、私たちはあなたを嫌いはしないし恨んだりしない。それだけは間違えないで」

 

「……はい、ありがとうございます」

 

 ひとつ微笑んだ雪乃さんが空を仰ぐ。午後三時を回った空は、ゴールデンウィークらしく雲ひとつない快晴だ。

 

「恋は難しいわね。私も自分の心の在りかも理解していないの。だから比企谷くんの気持ちも、なんとなくだけど分かるのかもしれない。あるいは、そう感じることが人の心を自分の物差しで測ろうとする傲慢なものなのかもしれない。たった想いひとつだというのに、完全に知ることができない。見えないというだけで、計算できないというだけで、こんなにも難しいものなのね。だから……」

 

 雪乃さんが私に瞳を向ける。心すら見透かすような綺麗な視線で私を見つめて、花の微笑みを湛えた。

 

「お互い、頑張りましょうね」

 

「……はい」

 

「これから苦労しそうね」

 

「それでも兄ですからね。なんとか頑張ります」

 

「私もこういうことは得意ではないのだけれど、あなたの真っ直ぐな一生懸命さを見ているとやる気になってくるわ」

 

「手ごわいですね。手加減してください。カー君の写真ならたくさん渡しますので」

 

「賄賂とは、なかなか本気ね。でも、私はこと勝負事に関しては常に本気よ?」

 

「猫の誘惑に負けない雪乃さんを初めて見ました……!」

 

「今回はそれだけの大勝負ということよ」

 

 顔を見合ってふたりしてクスクスと笑う。

 

 前を行く兄の後ろ姿を見る。並んで歩く沙希さんと楽しそうに会話をしている。その様子はやっぱり恋人にしか見えなくて、どの角度から見たってお似合いの二人だ。

 

 だから、お兄ちゃん。

 

 そろそろ、自分の気持ちに形と名前を付けてあげて。

 

 

 

 




そろそろ感想が欲しいなあ……(/・ω・)/



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さり気なく、戸塚彩加はきっかけを与える 3

 がちゃがちゃとした電子音があちこちから響き合うゲームセンター。初日に沙希といった場所だ。沙希は興奮した面持ちでずんずんと前に進んでいく。それを追いかける形で俺と戸塚、小町に由比ヶ浜、最後尾に場慣れしていない雪ノ下が付いて行く。

 

 やはりというか、ダンレボの区画には人はひとりもおらず、今回も確実に独占できる状態になっている。ちなみに、ダンレボとはDance Dance Revolutionの略だ。知らない人はググってね?

 

 いつの間にやらちゃっかり硬貨を投入していた沙希が、パネルの上に立って俺を催促してくる。

 

「ほら八幡!」

 

「すげえノリノリだな……俺これ下手なんだけど」

 

 ぶつくさ言いながらも沙希の隣に立つ。ちらりと後ろに目をやると、小町と由比ヶ浜がぽかんとした様子で沙希を眺めていた。

 

 まあ、そうなるよね普通。

 

 他の面子に視線を移せば、戸塚は目をキラキラさせて俺を見ているし、雪ノ下は既に環境にやられたのか頭を押さえて眉間に皺を寄せている。誰もこちら側に上がってきそうにはない。

 

「じゃあ行くよ八幡」

 

 沙希の声は弾んでいる。

 

「頼むからなにも殴るなよ……せめてステップ踏んで踊るだけにしてくれ」

 

「あんたはあたしをなんだと思ってるのさ……」

 

 沙希にジト目で見られるも、ゲームが始まると途端に視線をディスプレイに戻す。

 

「一緒に踊るよ」

 

「そういうゲームじゃないんだよなあこれ……」

 

「いいから行くよ!」

 

 二の足を踏んでいる内にゲームが始まる。矢印の数が初級レベルより遥かに多い。こいつ、中級レベルっぽいの選びやがったな……!

 

 矢印に合わせてパネルを踏むも、数が多すぎて足がもつれる。隣では沙希が悠々と鼻歌を歌いながらステップを刻む。思わずムキになるも半分程度しか成功しない。

 

「ほら、手ぇ出して」

 

 見かねた沙希が手を差し出してくる。仕方ねえなあとその手を取ると、自然と沙希と息が合ってリズムが合ってくる。なにやら背後でわちゃわちゃと会話している声が聞こえた気がするが、意識から勝手に排除排除される。

 

 瞬間の間。互いの呼吸で手を離し、沙希がその場で一回転。ふわりとスカートがなびく。再び繋いで次の矢印へステップを踏む。

 

 途中からはパーフェクトで一曲目が終わる。二曲目へ続くその間に、ようやく雑踏が聴覚に入ってくる。

 

「見ましたか由比ヶ浜さんや。あのお二人、仲良さそうに手を繋いで息もぴったりです。これはもう、あれですねえ、あれ! 愛いですねえ……!」

 

 相変わらず小町の科白はおばさん臭い。将来井戸端会議するようなおばちゃんになっちゃうのかしら……。お兄ちゃん心配だなあ。

 

「むむむ……あ、あたしだってできるもん!」

 

 子犬のような唸り声をあげた由比ヶ浜が、パネルに侵入してくる。

 

「沙希! 交代!」

 

「ん? いいよ」

 

 一曲踊って満足したのか、沙希が由比ヶ浜に場所を譲る。ならば俺も逃げる。これ以上は無理だ。

 

「八幡!」と丁度よく戸塚も乱入。

 

「よし任せるわ」

 

「うん、任された!」

 

 天使の頷きをした戸塚とバトンタッチ。ついでとばかりにすれ違いざまに手を叩き合う。これ戸塚とやってみたかったんだよなあ。夢かなったよ……。

 

「あ! ヒッキー逃げた! 彩ちゃん、みんなに目にもの見せてやるよ!」

 

「うん、がんばろー!」

 

 二曲目が始まり、ふたりがゲームに興じる。その様を眺めていると、隣に雪ノ下が立っていた。

 

「相変わらず騒がしい場所ね」

 

「やっぱり慣れないか?」

 

「いいえ、そろそろ慣れてきたわ。それにしても、なかなか面白そうなゲームね。川崎さん、とても上手だったわ」

 

 雪ノ下の視線の先には、上気した表情で沙希が小町と楽しそうに話していた。満足そうで何よりだ。

 

「次は私もやってみようかしら」

 

「いいんじゃねえの? 小町とやってみろよ」

 

「あら、一緒に遊んではくれないの?」

 

「苦手なんだよ俺は……」

 

「さっきは川崎さんと手まで繋いでやっていたのに?」

 

「ぐっ……あれは、なんだ……不可抗力だ」

 

 答えに窮する俺に生暖かい視線を注ぎながら、雪ノ下がくすくすと笑う。

 

「そういうことにしておきましょう。では他のゲームを一緒にやってもらいましょうか」

 

「ゲームに興味あるのか?」

 

「いままでやってこなかったから、たまには興じるのも良いと思ったのよ。折角みんなで来たのだから楽しまないと損でしょう?」

 

「雪ノ下の科白とは思えんな」

 

「私も変わったのよ。あなたがそうであるようにね」

 

 二曲目が終わる。振り返った戸塚が俺に手を振ってきたから、片手を上げて応える。

 

「見た見た? あたしたち完璧だったよ!」

 

 興奮気味に由比ヶ浜が身を乗り出してくる。

 

「おーう、すごかったな」

 

「ええ、さすがね由比ヶ浜さん」

 

 一歩雪ノ下が踏み出し戸塚へ声を掛ける。

 

「戸塚くん、交代よ」

 

「うん!」

 

 そのまま自分が行くのかと思いきや、雪ノ下は俺の腕を掴んでパネル上まで引っ張り上げる。

 

「ちょ、雪ノ下おま、なに?」

 

 パネルに俺を乗せた雪ノ下は、そのままの動きでパネルから離れて俺の隣に陣取る。

 

「言ったでしょう? 一緒に遊ぶと。でも由比ヶ浜さんはまだやり足りなそうだから、私は傍で見ていてあげるわ」

 

「ゆきのんナイス! 奉仕部パワーを見せるよー!」

 

 うえ、三曲目が始まった。しかもさっきより矢印多いんだけど⁉ ふぇぇぇ、足が追い付かないよぉぉぉぉ……!

 

 初っ端からテンパっていると、落ち着きなさい、と雪ノ下が囁く。

 

「由比ヶ浜さんと呼吸を合わせて。ほら、足元が留守になっているわよ。なにをやっているの。画面をよく見て。曲に乗って。右、左、上、下、右、左、上、下、ほら簡単でしょう?」

 

「お前は専門家か何かか……?」

 

 思わず突っ込むも、「よそ見しない」と怒られる。うわあ、この人本気だ……!

 

 雪ノ下のお陰かは分からないが、徐々に成功率が上がっていく。うん、怒られるのが怖くて必死こいてるだけなんだけどね!

 

「上、上、上、上、上、右、左右、左、右、左、右、上、下、上下」

 

 リズムを取り指示を出しながら雪ノ下がぐるりと俺の後ろに回り、俺と由比ヶ浜の間に立つ。

 

「はい、ふたりとも手を出して」

 

 怒られるのが怖くて右手を差し出す。ふと、温かい感触と触れ合う。ぎょっとして見ると、由比ヶ浜の手だった。由比ヶ浜も無意識だったのか、俺を見て目を見開いていた。

 

「ふたりともよそ見しない。画面見なさい。いくわよ」

 

 はい、と手を叩いた雪ノ下が今度は清らかな声で歌い始める。

 

 最初のぎこちなさが嘘のようにステップが合っていく。合っているのだが……。

 

「ちょ、ヒッキー……これ恥ずかしい……!」

 

「言うな! 本気になった雪ノ下には逆らえん!」

 

「静かに! 集中なさい!」雪ノ下が一喝。

 

「ゆきのん怖いよぉー!」由比ヶ浜が半泣き状態でステップを踏んでいく。

 

 ふぇぇぇ、俺も怖いよおぉぉ……。

 

 俺も由比ヶ浜も内心でガクブルしながらパネルを踏む。女の子と手を繋いでるのに怖いとかどういう状況だ。

 

「由比ヶ浜さん、半テンポ遅い!」「比企谷くん、次何が来るのか分かってるのだから流れを意識して身体を動かしなさい!」「由比ヶ浜さん焦りすぎよ!」「比企谷くん! 上下と左右は全然違うわ! 小学生からやり直させるわよ!」「由比ヶ浜さん左手に意識が向き過ぎよ!」

 

 などなど、逐一雪ノ下に注意を受けながら地獄の時間が過ぎ、ようやく一曲を終えた。

 

 おかしいな、ほんの数分なのに一時間以上経過した気がするよ……。

 

 ゆきのん鬼軍曹だよ。ゲームに本気出し過ぎだから……!

 

「ヒッキー……あたし、このゲームトラウマになったかも……」

 

「言うな……俺もトラウマになりそうだ」

 

 繋いだ手を解いて二人して肩で息をする。ちらりと雪ノ下を見れば、部下の成長を喜ぶ教官のように腰に手を当てて満足げに頷いていた。更に視線を奥に移すと、なにやら小町が頭に抑えてやれやれと首を振っていた。

 

「雪乃さん……これはひどい」と小町がぼやく。

 

「何かが決定的に間違っている気はするね」沙希も呆れ顔だ。

 

「なんか分からないけど、迫力がすごかったよ!」戸塚はいつだってフォローしてくれるが、どうにも声に張りがないのは気のせいだろうか。

 

 ここにきてようやく己の失敗を悟ったか、困惑した表情になった雪ノ下が由比ヶ浜に近づく。

 

「ゆ、由比ヶ浜さん、いまのもしかして、おかしかったかしら……?」

 

「なにが合ってるのかあたしが聞きたいよ⁉」

 

 くわっと目を剥いた由比ヶ浜に雪ノ下がおろおろする。

 

「あの、遊びでも全力を出そうと思って……」

 

「ゆきのん……全力の方向性が全然おかしいよ……」

 

 がくん、と脱力した由比ヶ浜だったが、やっぱりいつも通り「ゆきのーん」と言ってゆるゆりし始める。うん、平常運転ですね。

 

 そんなことよりだ。折角戸塚と一緒に遊んでいるんだ。戸塚と遊びたい!

 

「とつ……」

 

「戸塚さん、小町と一緒にやりましょー!」

 

 小町がインターセプトしてきやがった。戸塚もすぐに反応して太陽の輝きで頷く。

 

「うん、やろっか小町ちゃん!」

 

 小町ぇ……。

 

 相変わらずゆるゆりしているふたり、小町と戸塚はダンレボに向かい、結局俺が取り残される。

 

「なに寂しそうな顔してるの?」

 

 傍に寄ってきた沙希が、腰を折り曲げて下から俺の顔をのぞき込んでくる。いまの俺の気持ちはただひとつだ。

 

「戸塚と踊りたかった……」

 

 くすりと沙希が笑む。

 

「まだ時間はあるから、チャンスはあるんじゃない?」

 

 ぐぬぬ、と渾身の精神力でもって欲求を我慢する。まだ大丈夫。まだ時間はある。きっとできる。一緒に踊れる。よし、我慢……!

 

 戸塚とゲームを楽しんでいる小町の姿が視界に入る。おのれ小町……。

 

「戸塚はやらん、やらんぞ小町ぃ……!」

 

 ぽろっと本音が零れてしまった。

 

「普通逆でしょそれ……」

 

 当然聞こえていた沙希に呆れられてしまった。いや、分かるんだけどね。ほら、戸塚って性別が戸塚だからね?

 

 守りたい、戸塚の将来……!

 

 戸塚が絡むと、どうも俺の頭はご機嫌になり過ぎておかしくなるようだ。自制しなければなるまい。

 

「ふたりが終わったら次なにやろっか?」

 

「もういいのか?」

 

「今日は色々やりたいかな」

 

「そうか。じゃあ適当に回るか」

 

 沙希と言葉を投げ合いながら過ごしているうちに、戸塚と小町の番が終わる。ふたりとも満足した様子でパネルから降りてこちらにやってくる。ゆるゆり組も正気に戻ったようだ。

 

「あー、ホッケーあるよ! ホッケーやろー!」

 

 由比ヶ浜が前を指差して声を上げる。おい、ダンレボといいエアホッケーといい、ここのゲーセンはなんでそんな古いものばっか置いてるんだ。

 

 若干の疑問を抱きつつも、沙希も由比ヶ浜に同意したようなのでエアホッケー台へ向かう。

 

 集まった一同であったがエアホッケーは二対二の四人用ゲームだ。必然的に二人あぶれるわけだが、

 

「では、第二回戦と行きましょうか雪乃さん」

 

 なぜか無駄にやる気の小町が、沙希の腕を抱えつつ雪ノ下に喧嘩を売った。

 

「ええ、いいでしょう。もちろん負ける気は微塵もないわ」

 

 対する雪ノ下も、なにも分かっていない顔の由比ヶ浜の肩に手を置いて、小町へ殺気にも似た鋭い視線を注ぐ。

 

「ゆ、ゆきのん? 二回戦ってなに? というかなんか勝負してたの?」

 

「小町? 急にどうしたの?」

 

 由比ヶ浜も沙希も困惑した表情で互いのペアに疑問を投げていたが、その返答はひどいものだった。

 

「由比ヶ浜さん。負けたら勉強会の量を倍に増やすわ」雪ノ下の極寒の笑み。

 

「沙希さん、負けたら今日のご飯は抜きです」小町は瞳を滾らせていた。

 

「なんかとんだとばっちりだ⁉」由比ヶ浜は頭を抱え。

 

「そもそも今から戻っても夕飯遅くなるから外食になりそうなんだけど……」沙希は現実的な突っ込みを入れる。

 

 女同士の争いは遠くから見守るのが一番だ。親父が言ってたからたぶん合ってるんじゃないかなあ。

 

 俺と戸塚は数歩後ろに下がり戦いを見守る位置取りをする。

 

 こうして、小町&沙希VS雪ノ下&由比ヶ浜のエアホッケー対決が始まった。

 

 

 

「九対十だな」

 

 俺は冷や汗をかきながら言った。

 

 円盤――パックが小町サイドへと放たれる。すかさず沙希がマレットでパックを壁面に叩きつける。直角軌道を描いたパックが相手ゴール目がけて猛烈な勢いで疾走する。

 

 が、雪ノ下がそれをマレットで盤上を叩きつけて止める。唖然とした。驚異的な反射神経だ。

 

「由比ヶ浜さん!」

 

 盤上とマレットの間に挟まれているパックを雪ノ下が由比ヶ浜に放る。

 

「行くよー!」

 

 のんきな掛け声と共に、由比ヶ浜が上半身を使った動きでパックを突く。真正面からゴールへと向かうパック。それを遅いとばかりに小町が手首の振りだけで壁面に叩きつけた。反応の速さと最小限の行動が凄すぎてあり得ない。

 

 二回三回と小町サイドでバウンドするパックに、沙希が再び直角コースでマレットを振る。残像すら見えんばかりの勢いでパックが放たれる。

 

 雪ノ下のマレットが反射防御。

 

 甘い位置に流れたパックを沙希が三度直角攻撃。

 

 苦い表情で防ぐ雪ノ下。

 

 沙希とは反対側に行くパックを小町が「うりゃあ!」と本気声で弾く。

 

 パックは由比ヶ浜のマレットへ向かう。

 

 反応できなかった由比ヶ浜のマレットの端にぶつかり、パックはゴールへ吸い込まれていった。

 

「十対十だな」

 

 俺はもはや息も絶え絶え言った。隣に立つ戸塚は驚きと羨望で目が輝いている。 

 

 実に二十投目のゲームは、小町サイドのゴールによって決まった。この間、常に一進一退の攻防を両者は繰り広げていた。三点と差は付かず、ほとんどが交互に点数が入っていく。しかも内容は濃く、とても初心者がやっているとは思えない高度な内容だ。唯一由比ヶ浜だけが常人のプレイだろう。そう考えれば、雪ノ下の技量があり得ないほど高いのは想像に難くない。

 

 ゲームは十一点先取。

 

 最終場面。

 

 最後の一投。

 

 両者ともに息を呑む。

 

 じりじりと身を焦がすような緊張感。

 

 そして、パックが放たれた。

 

 反応したのは小町。

 

 防御担当だった小町が初めて本格的な攻勢に回る。沙希とは逆サイド側の壁をクッションにし、直角コースで由比ヶ浜を狙い撃ちにする。

 

 ひゃあ、と悲鳴を上げる由比ヶ浜のマレットの前を何かがよぎる。パックが弾かれ小町サイドへ。

 

 雪ノ下のマレットだ。あいつは由比ヶ浜が反応できないと見るや、自分のマレットを滑らせたのだ。

 

 だが、それは致命的な隙だった。甘すぎる速度のパックへ、飴が滴るような笑みを湛えた沙希が直線コースで雪ノ下目がけてマレットを叩きつける。

 

 徒手空拳状態の雪ノ下。

 

 否。

 

 右手にはマレット。

 

 あり得ない……!

 

 雪ノ下がマレットの底を持ち上げる。吸い込まれるように入ってきたパックを寸分の狂いもなく捕まえた。

 

 小町サイド有利だった状況を覆す。

 

 一体なにがどうして雪ノ下はマレットを持っていたんだ……?

 

 視線を動かすと、由比ヶ浜が無造作に盤上に投げられていたマレットを捕まえているところが目に入った。そう、由比ヶ浜が雪ノ下にマレットを横流ししたのだ。なんという変則プレー。

 

 最終局面かつ危機的状況でマレットを手放す雪ノ下。そして自身のマレットを渡した由比ヶ浜。どちらも常人のプレイではあり得ない。

 

「まだ足りない」

 

 雪ノ下が笑った。いつもの笑みではない。唇の両端を吊り上げた、悪魔のような凄絶な笑みだ。

 

「もっと私を楽しませなさい」

 

 本気の雪ノ下が動く。マレットを前に動かす。

 

 小町と沙希が反応するが、パックが来ない。

 

 パックは雪ノ下サイドを真横にバウンドしていた。雪ノ下は前に動かす動作と同時にマレットを傾けパックを横に弾いたのだ。神業か⁉

 

 反射したパックに雪ノ下がマレットを振りかぶる。超スピードのパックが小町のマレットに直撃。

 

「うぇ」と情けない声を出した小町はマレットを動かすこともできず、パックをそのまま雪ノ下サイドへ反射させてしまう。

 

 雪ノ下はパックを今度は壁際をクッションに直角攻撃。相手は小町だ。

 

 今度はぎりぎりで反応できた小町も、防御するのが精いっぱいで甘い速度でパックが雪ノ下サイドへ再度流れる。

 

 雪ノ下が神速で振る。

 

 高速のパックが沙希の真横を通過、沙希も反応できずに小町サイドの最奥部でパックがバウンド。雪ノ下サイドにパックが三度返ってくる。

 

 このとき、既に小町と沙希の表情に極大の動揺が浮かんでいた。

 

 その感情の間隙を縫って、雪ノ下が全力でマレットを叩きつける。

 

 完全にフリーとなった小町サイドのゴールへパックが一直線。

 

 ふたりとも一瞬遅れて動くも、その僅かが勝敗を分けた。

 

「十対十一だ。雪ノ下と由比ヶ浜の勝ちだな」

 

 なにもしていなかった由比ヶ浜はぽかんと口を開ける。雪ノ下がふぁさっと髪をかき上げ、悪魔の微笑みと共に言った。

 

「楽しかったわ。面白いくらいに翻弄できたわね」

 

 ぐぬぬ、と小町が悔しそうに唇を噛みしめる。沙希は少し疲れたのか長く息を吐き出していた。

 

「今回は小町の負けです……」

 

「ああ、あたしは夕食抜きなんだね……」

 

 小町の苦渋の発言と、沙希の苦笑いの言動がまったくマッチしていなかった。

 

「とりあえず……」

 

 審判をしていた俺が重い口を開く。

 

「お前ら本気出し過ぎ。怖えぇよ」

 

「う、うん。す、すごい迫力……だったね」

 

 戸塚もフォローできない様子だ。

 

 やっぱりここで気づいた雪ノ下は、笑みを消してあわあわとうろたえ始める。

 

「ゆ、由比ヶ浜さん……もしかして、また私……?」

 

「超怖かったからね⁉ 最後の科白とかどこの悪役かと思ったよ⁉」

 

 由比ヶ浜の突っ込みがゲームセンターに冴えわたった。

 

 

 

 

 



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さり気なく、戸塚彩加はきっかけを与える 4

「なんか分からないけど喧嘩はダメだよ!」

 

 由比ヶ浜の謎の説教により、小町と雪ノ下はしゅんとした様子で仲直り? をした後、ゲームセンター内を六人で回る。

 

 俺は隙を見て戸塚を誘い、念願叶ってふたりでダンレボを遊ぶことができた。見ているこちらの相好が崩れるほど楽し気な戸塚をみて、俺……もういま死んでもいいかも……なんて思ってしまった。

 

 思い思いにゲームに興じたところで、夕食時となりゲーセンを出る。

 

 夕焼けに照らされた千葉の街を六人でぞろぞろと歩く。

 

「ところで小町、あたしは結局夕食抜きの刑なの?」

 

 純粋な疑問といった形で沙希が訊く。ぎくっと肩を震わせた小町が歯切れの悪い口調で返した。

 

「いえ、あれはその、なんといいますか……冗談です。はい。すみません。なので夕食はお兄ちゃんが奢ります」

 

「小町ちゃん。しれっとお兄ちゃんを巻き込まないでね?」

 

 あははーと小町が空笑いで誤魔化す。

 

 もう、お兄ちゃんの財布は何気にピンチなんだからもっと労わってよね!

 

「ご飯どうしよっか? みんななにか食べたいものでもある?」

 

 先頭を歩いていた由比ヶ浜がくるりと振り返って訊いてくる。

 

「肉」俺は即答。

 

「がっつりお肉!」戸塚も俺に続く。

 

「私は魚がいいわ」雪ノ下が反論する。

 

「小町はみなさんの笑顔が見られるならなんでもいいです☆」いきなり好感度を稼ぎに来た小町。

 

「んー、ラーメン?」沙希が何かを思い出すように首を捻る。

 

「私も先輩おすすめラーメンに行きたいです☆」謎のあざとい声が届く。

 

「そうだな。俺も比企谷行きつけのラーメン屋に行ってみたい」追加でさわやかボイスが響く。

 

「おいちょっと待て。いきなりしれっと入って来やがったぞこいつら」

 

 俺が突っ込んだ先にいたのは、部活帰りと思わしきジャージ姿の一色と葉山だった。俺の姿を見止めた一色が、まるで忍者の速度で俺の隣に移動する。

 

 ほわんとした笑顔の裏に凄まじい負のオーラを宿した一色が俺に迫る。

 

「なんですか葉山先輩にチクったんですか心配してあげたのに恩を仇で返すなんてどんな畜生なんですかここで奢って貰わないと怒りが解消できないので奢ってくださいごめんなさい」

 

「なあ、最近お前の振り芸多彩になってない……?」

 

 一色はただ奢れという無言の圧力をかけてくるだけだ。

 

 ふいに、一色の隣に葉山が現れる。葉山も葉山で顔面に怒りオーラを滲ませていた。

 

「比企谷。俺をいろはの監督役かなにかと勘違いしてるのか? いい加減いろはのお守り役から解任させてくれ。こっちは部員を率いるだけでも大変なのに戸部までいるんだよ。ってことで奢りよろしく」

 

「お前……一色と戸部に謝れ」

 

 だんだんと良い性格になってきた葉山に突っ込む。一色も呆れ交じりのため息を漏らしていた。

 

「せんぱーい、最近葉山先輩がひどいんですよ。サッカー部でも私に対してだけ素ですよ素。まさかの素です。扱いの改善を希望しますよ!」

 

「俺が知るか。葉山と勝手に相談してくれ。そして帰れ」

 

「私を人身御供にして先輩たちだけ遊ぶんなんてひどいじゃないですかー! 一緒にご飯しましょうよー! 先輩の奢りでラーメン食べたいです!」

 

「いろは、君にとって素の俺はそんなにひどい男なのか……?」

 

 なぜだか葉山が落ち込んでいるがどうでもいい。至極どうでもいい。なんなら一生落ち込んでくれて構わない。

 

 ここでまあまあと割り込んできたのは由比ヶ浜だ。

 

「ふたりともやっはろー。部活お疲れー」

 

「あ、結衣先輩お疲れ様ですー」

 

「やあ結衣。ほんとにみんな勢揃いだな」

 

 葉山の視線が流れて沙希で止まる。葉山がそっと俺だけに聞こえる声で言う。

 

「比企谷、なにかあったのか?」

 

「お前は厄介事しか持ち込んで来ないんだからこれ以上無駄に詮索するな。余計厄介になる」

 

「君は……まあいい。分かった。ラーメンで手を打つよ」

 

「本気で奢られる気満々なのかよ……」

 

「二年の最後で色々手を回してあげただろ」

 

「それ以前に結構骨を折ってやった記憶があるんだがな」

 

 ふたりして黙り込む。

 

「とりあえずお互いチャラにしよう。今回は自分で払うよ」

 

「そうしてくれ。ついでに一色連れてきたんだからあいつの分もお前が持て」

 

「いろはのお守り役だけは続けろってことだな……」

 

「サッカー部の部長だろ。それくらい我慢しろ。生徒会側はこっちが持ってやってんだからイーブンだろ」

 

「まあ、確かにそうなるか。お互い苦労するな」

 

「まったくだ。あざとい後輩を持つとろくなことがない」

 

 ふたりしてくつくつと笑うも、同時に笑みが固まる。

 

 背筋に悪寒。

 

「あのー、おふたりともー。人のことなんだと思ってるんですかねえ?」

 

 獄炎の怒りを瞳に宿らせた一色が、にこにこ笑顔で俺たちの背後に立っていた。ねえ、さっきから君、ほんとに気配消して動くの得意なんだけど、忍者なの?

 

「まあ、一色さんが面倒というのは確かなことだけれど」

 

 見かねた雪ノ下が参加してくるが、地味に言っていることがひどい。一色もさすがにうっ、と呻いた。

 

「雪乃せんぱーい……」

 

「それでも可愛い後輩なのだから、大切にしてあげましょう?」

 

 雪ノ下が可憐に微笑む。一色はあざとく目をウルウルさせながら雪ノ下にすり寄っていた。

 

「あんた、葉山と仲良かったの?」

 

 沙希が疑問を投げてくるが、俺は速攻で首を振る。

 

「んなわけあるか。ただの元クラスメートだ」

 

「つれないな」

 

 葉山が苦笑するが、そもそもこいつと連絡を取り合うことになったのも一色を押し付けようとしたのが発端だ。一色の扱い以外で葉山とやり取りすることなどない。

 

「でも考えてみると、比企谷とのやり取りは大抵いろは絡みだよな」

 

「お前が『いろはが生徒会忙しいアピールしてくるんだが』とかメールしてくるんだろうが。事前に逃げる準備できてこっちは助かるけどな」

 

「比企谷も、『一色が面倒事を押し付けてきそうだからサッカー部に縛り付けろ』とかヘルプ求めてくるだろう?」

 

「先輩がた……裏でそんなやりとりしてたんですか……」

 

 一色が本気でしゅんとした顔をする。

 

 その様子を由比ヶ浜があははーと乾いた笑みで眺めている。

 

「八幡、葉山くん。駄目だよ、一色さんは一生懸命頑張ってるんだから」

 

 戸塚がぷんぷんと頬を膨らませて俺たちを叱る。戸塚の言うことならば仕方ない。と、言いたいところだが……。

 

「聞いてくれ戸塚。一色の俺の酷使具合は本当にひどいぞ? なんで毎回行事の度に椅子やらシートやら運ばされなきゃいけないんだよ。いつの間にか職業見学の事前アポ取りまでやらされてるんだぞ? そもそも葉山と連絡取るきっかけが生徒会代表として部活の部長会連中とのやり取りに巻き込まれたからだ。あげくは、『せんぱ~い、生徒会でつまむお菓子一緒に買いに行ってくれませんか~。あ、勘違いしないでくださいね? もちろん荷物持ちです☆』とかまであるぞ。俺はこいつのパシリか」

 

 これでもかと言わんばかりにまくしたてると、この場にいる全員が顔をしかめた。

 

「一色さん……仕事しよっか」戸塚が怒気を孕ませた声で言う。

 

「いろはちゃん……そんなことまでヒッキーにやらせてたの……?」由比ヶ浜は若干引いていた。

 

「これは私の認識が甘かったわ……。ごめんなさい比企谷くん。しばらく一色さん絡みの仕事は引き受けないようにしましょう」雪ノ下が額に手を当てる。

 

「いろはさん……これは小町も庇えません。というか、あまりお兄ちゃんをこき使わないで下さい……」小町も疲れた息を吐きながら言った。

 

「あたしはノーコメントにしとくよ」沙希は苦笑しながら一色の肩を叩いていた。

 

 完全に敗北の流れに一色が更に身体を小さくする。

 

「うぅ……ひどいです先輩……」

 

 恨みがましい目で一色が俺を見てくるが、葉山が追撃を加える。

 

「いろは、比企谷に頼りたくなるのも分かるが、たまには解放してやってくれ。でないと比企谷から俺に来るメールの闇が深くてたまらない」

 

 ああ、一色への愚痴をゴミ箱のようにぽいぽいと葉山へ投げてるんだよなあ。なんだかんだで可愛い後輩だから手伝っちゃうんだけどね。

 

「先輩……」

 

 ちょこちょこと寄ってきた一色が上目遣いで俺を見る。袖口に手を伸ばして、でも掴む勇気がなくて胸の前で手をぎゅっと握る。あざとい。あざといぞいろはす……!

 

「ほんとに頼っちゃ……だめですか……?」

 

 涙を滲ませた瞳で俺を見上げる。

 

 これは罠だ。

 

 分かっていても、途端に強烈な罪悪感が浮かぶ。

 

 くっ、胸が痛い……!

 

 いや、だって、ほら、一色だし。部活だって掛け持ちしてるしね? ちょっとくらい手伝うのは先輩の役目だよね?

 

「ま、まあ……ちょっとだけ、な」

 

 顔を背けてなんとか声を出すと、一色がにぱあと表情を和らげる。あざといと分かっていても甘やかしてしまう。そんなお兄ちゃん気質のどうも俺です。

 

「比企谷くん……」

 

「ヒッキー……」

 

 なんてことを考えていたら、雪ノ下と由比ヶ浜がジト目で俺を睨んでくる。

 

「比企谷、これは自業自得なんじゃないのか?」

 

 葉山がやれやれといった様子で言ってきやがった。

 

 うん、まあ、自覚はある。

 

 どうにも小町と一色の頼み事には弱いのだ。

 

「ま、とりあえずなりたけ行くか。ラーメン食いたくなってきた」

 

 ああもラーメンラーメン連呼されるとラーメン魂がうずいてしまう。やばい、炭水化物が取りたくなってきた。

 

 いいか、と目をやると全員が頷いてくれた。雪ノ下まで賛成するとは、さてはラーメンにハマったな? それはないか。修学旅行のときげんなりしてたし。

 

 由比ヶ浜も見た感じ興味はありそうだし、戸塚や小町はよく一緒に行くから問題ない。沙希もさっきラーメンってなぜか言ってたし、奇跡の満場一致だ。

 

 総勢八名となった俺たちはなりたけへ向かう。

 

 ちょうど八人とか、大勢なのになんだか気分が良い。

 

 八幡だけに八人とか、ちょっとウケるー。なんで折本が出てきちゃうんだよ。

 

 あれ、なんかひとり忘れてる気がするな……。

 

 気のせいか。

 

 

 

 なりたけを出ると、もう千葉は夜の街に変貌していた。

 

「先輩、せっかくこんなに集まったんですから、カラオケでも行きましょうよ」

 

 一色が俺の袖口をくいくい引っ張って声を上げる。

 

 カラオケと聞いた沙希が勢いよく顔を逸らした。昨日のことを思い出したのだろう。かくいう俺も同じことを瞬時に回想して顔が熱くなる。

 

「カラオケか、いいんじゃないかい? 比企谷の歌を聞いてみたいしね」

 

 葉山が乗り気な口調で一色の提案を支持する。比企谷の歌、というところで噴出した沙希には口止めしておいた方がいいのかな……?

 

「いいね、行こうよカラオケ! ゆきのんとデュエットしたい!」由比ヶ浜が雪ノ下に後ろから抱き着く。

 

「仕方ないわね……」由比ヶ浜に弱い雪ノ下は即陥落。

 

「小町も参加しますよー!」ノリの良い小町は当然参加だ。

 

「ん、あたしも大丈夫だよ」結局昨日は一曲しか歌えなかった沙希がようやく平常運転に戻る。

 

「ぼくも行きたいなー」戸塚が言ったところで、

 

「よし行くか。すぐ行くか今すぐ行こう」

 

 戸塚とカラオケ行きたい!

 

 俺……戸塚とデュエットするんだ……!

 

「先輩……戸塚先輩のこと好きすぎですよね……」

 

 一色がドン引きしているが知ったことか。戸塚が行くところに俺は行く。これは真理だ。

 

 全員でまたぞろカラオケ屋に向かって歩き出す。俺はしれっと最後尾に陣取り前を歩く七人を眺める。八人揃うとさすがに壮観だ。この中に俺がいるのだから、人生何があるか分かったものではない。

 

 ふと、沙希が歩みを緩めて隣にやってくる。全員が俺から視線を逸らしている瞬間を見計らって、沙希が耳打ちしてきた。

 

「ね、また一緒に歌お?」

 

 沙希の声が直接耳朶を打って心臓が高鳴る。あざとさがない分、こうかはばつぐんだ。毎度毎度心臓を直撃してくるのやめてくれないかな。心不全でいつか死ぬよ俺?

 

 沙希が、あ、と続ける。

 

「プリキュア以外でね」

 

 心臓の心拍数が一気に下がる。平常心に戻るどころか一気に鬱モードだ。

 

「一言余計なんだよなあ……」

 

「あたしは良いけどみんなから顰蹙買うんじゃない?」

 

「名曲なんだがなあ……」

 

「それは認めるけど。ね、他の歌お? あたしが笑い転げちゃうから」

 

「ひでえな沙希……」

 

「だって八幡のテンションが変なんだもん。さすがに戸塚もびっくりしちゃうよ?」

 

「今後人前で絶対に歌うのやめよう」

 

「戸塚を引き合いに出せば八幡は引くんだ……」

 

 ふふっと宝箱を開いたような沙希の微笑み。

 

 おっと、沙希の八幡検定が徐々に上がっていく気がするぞ。既に小町並みの有段者でしたね……。

 

「あと小町かな?」

 

 おうふ。俺の弱点が暴かれていく。

 

 俺の反応を見て取った沙希がくすくす口元を緩める。

 

「それから、あたしも入ってる?」

 

 息が止まる。

 

「……たぶんな」

 

「ん、ありがと……」

 

 沙希が俺の指先に触れて、すぐに手を引っ込める。

 

「みんなとも楽しいけどね……?」

 

 沙希がそっと俺の袖口を掴む。立ち止まった俺に沙希が寄りかかった。灯った体温が体中を駆け巡って思考が消えそうになる。眉を下げた沙希が熱い視線を注いでくる。見ているだけで吸い込まれて心の内が焼き焦がされてしまいそうな、そんな瞳。

 

「やっぱり、ふたりがいいかな?」

 

 消えるか。

 

 そう言いそうになるのをなんとか堪えた。

 

 小町を監督しないといけないし、戸塚を守らなきゃいけない(何から? 男からに決まっている)。

 

 それでも、沙希の言葉が俺の芯を捕まえて離さない。しばらく見つめ合って、沙希がふっと笑む。可憐な微笑みを形作る綺麗な唇から目が逸らせない。

 

 俺は一体何を考えてる?

 

 ここは街中だぞ。

 

 みんなだって前にいるのに。

 

 どうして、沙希を視界から外せないんだろう。

 

「八幡」

 

 愛し気に沙希が呼ぶ。

 

 沙希の指先が頬に触れ、瞳を閉じる。

 

「みんな……きっと見てないから」

 

 心の琴線に触れた。

 

 もう、考えなくてもいいと思った。

 

 沙希だけを見て、沙希だけに触れて、沙希だけを感じていたい。

 

 腕が勝手に動く。沙希の身体を抱き寄せるように伸ばした腕が、

 

 

 

「行くわよふたりとも。遅れているわ」

 

 

 

 雪ノ下の声によって止まる。ひとり俺たちを眺めていた雪ノ下が、額を手で押さえながら首を振っていた。

 

「うぇ……! お、おう」

 

 思わず変な声で答える。沙希も慌てて俺から離れて下手な口笛を吹いていた。

 

 ため息をついた雪ノ下が背を向けて歩き出す。だが、ちらちらとこちらを見ているあたり、さっさと来いと注意されているようで気が気でない。

 

 仕方なく心を落ち着かせて足を踏み出す。沙希ももはや音すら出ていない口笛をしながら隣を歩く。

 

 ようやく動き出した俺たちを見て雪ノ下は安心した頷いた。

 

 直後。

 

「またあとで……」

 

 沙希が小さな声で請う。

 

 それはきっと、お互いに思っていたことで、きっといつかはと心の宝箱に仕舞っていた大事な気持ち。

 

 ――さっきの続きをしようね?

 

 

 

 

 



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さり気なく、戸塚彩加はきっかけを与える 5

 カラオケを終えて一行は解散する運びとなった。時刻も夜九時を回っており、そろそろ高校生は帰宅する時間だ。

 

「いろはは俺が送ってくよ」

 

 葉山が一色を連れて千葉駅へと向かっていく。

 

「由比ヶ浜さんと雪ノ下さんはぼくが送ってくね」

 

 戸塚がふたりに声を掛ける。そこで追加で参加を希望したのが、

 

「小町もお願いしまーす」

 

「うん、いいよ。帰ろうか」

 

 戸塚は何の疑問も抱かず承諾。首をひねった由比ヶ浜と目を細めた雪ノ下の背を、さささーっと小町が推して京葉線の方へ歩き出す。

 

 見事に置いてきぼりをくらった俺と沙希は、ふたりしてぼけーっとその場で突っ立っていた。あれ、おかしいな。みんな一緒だったはずなのになんで帰りは放置されるんだろう。やっぱりカラオケで引かれたのか……。プリキュア歌ってないんだけどなあ……。

 

 若干落ち込んでいた俺に沙希が寄ってくる。

 

「少し、寄り道しよ」

 

 手を掴まれた俺は沙希に引っ張られる形で隣を歩く。左手に沙希の体温を感じながら、夜の千葉をてくてく歩く。沙希は特に行先は決めてないようで、あちこちを眺めながら時折俺を見ては可愛らしくはにかんでいた。

 

 沙希がふと視線を止める。マンガ喫茶の看板だった。

 

「ん、ちょっとだけあそこ行ってみよ?」

 

「ああ、いいぞ」

 

 少し。あと少しだけ。もう少しだけこうして二人でいたい。

 

 衝動的な感情は底をつくことを知らず、心の内から間欠泉のように湧き出てくる。だって今日はふたりの時間がなかったから。これくらいいいじゃないか。そんな言い訳すら浮かんでくる。

 

 理由なんてなんでもよかった。

 

 ただ、ふたりでいられればどこでもいいし、理由なんて必要ですらない。

 

 ふたりでマンガ喫茶に入って一時間で設定、ペアシートの個室に入る。二人用のソファーに並んで座る。

 

 目的はなかった。漫画もBlue-layも借りず、PCすら触らずただ手を握りあっていた。それだけで幸せだった。この世のなによりも素敵な空間だと思えた。

 

「なんだろう。あのね」

 

 沙希が口を開く。俺に視線を注いで柔らかい声で続ける。

 

「楽しかったけど。少しだけ寂しかった。みんな八幡のことが大好きみたいだからかな……?」

 

 思わず苦笑する。確かに、元ぼっちにあの人数はキツイのかもしれない。俺だって各人の対応に苦心していたくらいだ。沙希ならなおさらだろう。

 

 ただ、本音の部分では、友人同士の集まりなのになお嫉妬してくれているのではないかという嬉しさが強くあった。もしかしたら勘違いかもしれない。読み違えているかもしれない。でも、そうであったらとても喜ばしいことだと思った。

 

 言葉にするには恥ずかしい感情を伝えるために、強く手を握った。肩をぴくっと動かした沙希が更に強く握り返してくる。それだけで多幸感で胸がいっぱいなのに……。

 

 足りなかった。

 

 もっと欲しいと強く感じた。

 

「沙希」

 

 名を呼んだ。万感の想いをこめて。

 

「八幡」

 

 名を呼ばれる。沙希が一度顔を伏せて手を解く。急に体温を失って寂しさに胸が吹き荒れる。だがすぐに体温が戻ってくる。沙希が対面になって俺の膝乗ってきた。

 

「もう……ね」

 

 沙希の目が潤む。眉が下がり、唇が蠱惑的に輝いていた。

 

「いっぱい、欲しいの」

 

 ソファーに落ちていた俺の両手を沙希の手が絡めとる。そのまま顔を近づけてきて、俺の首筋に頭を埋めた。

 

「こんな強い気持ち、初めて……」

 

 心臓の高鳴りが止まらない。視界が明滅する。息も荒くなって、吐息が沙希の頬を強く撫でる。その度に沙希が背を仰け反らせて小さく鳴いた。

 

 衝動で動きそうになった身体を無理やり制止させる。瞬間的に雪ノ下の言葉を思い出し、一気に心を冷静の領域へ落とす。

 

 でも、

 

「八幡」

 

 沙希が顔を上げて、まぶたを閉じる。すぐに心が乱れる。

 

「もう、誰もいないから……いいよね?」

 

 沙希の美しい表情がゆっくり近づいてくる。触れるだけで心捕らわれる顔から目が離せなくて、見とれて掴まれて、身体が勝手に動いていた。

 

 唇が触れる。淡いキス。触れた瞬間、全身に電流が流れたような衝撃が走った。思わず自分のものとは思えない吐息が漏れる。

 

 怖くて、恥ずかしくて、嬉しくて、幸せで、どうにかなってしまいそうで。俺は沙希から顔を離そうとして、

 

「やだ、離れないで」

 

 沙希が右手を解いて俺の後頭部に腕を回した。

 

 そのまま再び唇が重なった。一回目より少しだけ深く、強く、永遠すら遠く感じるほどに長く。

 

 額を合わせたまま唇を離す。顔を真っ赤にした沙希が、幸せそうに微笑んだ。

 

「コーヒーの味がする。甘いね」

 

「カラオケで飲んだからな」

 

「あのガムシロいっぱい入れてたやつだね」

 

「沙希のはリンゴの味がした」

 

「うん。リンゴジュース飲んだから」

 

 沙希が左手も解き、俺の両頬に手を添える。

 

「まだね、足りないから……もう一回」

 

 沙希が唇を甘く開く。自然と俺から唇を合わせる。今度は舌先を触れ合わせた。幸福が神経を通って全身を駆け巡る。脳髄が痺れていた。

 

 沙希の甘い、甘い吐息。息だけですら触れるだけで愛おしく感じた。

 

「甘いの……もっとちょうだい」

 

 上唇を挟まれて、沙希の舌を口内に入る。視覚も嗅覚も聴覚もなくなって、触覚と味覚だけが鋭敏に沙希の柔らかい唇と艶めかしい舌を感じた。沙希の舌を唇で食む。沙希が吐息と共に背を仰け反らせる。その背を俺が強く抑えた。

 

「やだ……これ、すごいの」

 

 蕩けた顔で言った沙希が、また唇を触れさせてくる。

 

 幸せが止まらない。幸福の沼に突き落とされていくような感覚。あまりにも歓喜が止まらなくて、心がおかしくなってしまったのかと思った。

 

 もっと。もっとたくさん。ずっと、時間いっぱいまでこうやって……。

 

「沙希……」

 

 自分の声ではあり得ない優しい声が出た。沙希が目をとろんとさせる。

 

「その声……好き。もっと呼んで。もっとたくさん、キスして」

 

 思考なんてなかった。頭は白昼夢でも見ているかのように真っ白。その世界には沙希だけがいて、沙希以外はなにもなかった。

 

 沙希から感じる感覚だけがすべてだった。

 

 きっとこれは、人と人との関係での幸せな最もたるもの。

 

 一時間なんてあっという間だった。

 

 気づけば終了時刻三分前で、慌てて正気をひっ捕まえて沙希の背を叩く。

 

 沙希のねだり声。

 

「ん、やだ、まだぁ……」

 

「時間だ時間。それにそろそろ帰らないと補導時間になるぞ」

 

「じゃあ八幡の部屋でする」

 

「アホ、自制が効かんくなる。とにかく出るぞ」

 

 うぅーと唸る沙希を引き連れてマンガ喫茶を出る。駅まで歩く途中、まだ足りないと言わんばかりに沙希が俺の左腕に抱き着いてくる。というより身体ごと俺に押し付けてきて感触やらなにやらで色々ヤバい。理性が欲求に押し込められそうで、沙希から離れようとするが当の本人がそれを許さない。離れたら死ぬとばかりに引っ付いてくる。

 

「沙希、少し離れてくれ」

 

「やだ」

 

「いい子だからほら、飴ちゃんあげるから」

 

「飴ちゃんよりちゅーがいい」

 

「ここ街中だからね? ほら、みんな見てるから。恥ずかしいから……!」

 

 夜だからか本当はそこまで視線を感じないが、沙希から離れるために俺も必死だ。というか自制が、自制がもたない……! 頑張って理性ちゃん!

 

「やぁだぁ」

 

 沙希の甘え声が耳をくすぐる。背筋がぞわぞわした。このまま宵闇の中へふたりで消えてしまいたい欲求をぎりぎりのところで抑える。

 

 一度落ち着けと空気を飲んで沙希の髪をなでる。

 

「あれだ……帰ったら、またするから……いまは、な」

 

「……ほんと?」

 

 上目遣いの沙希の表情はまだ蕩けたままだ。普段とのギャップが凄くてそれだけで胸が早鐘を打つ。もはや魅了の魔眼だ。目を合わせれば最後、堕ちるとこまで堕ちるしかない。そんな瞳。

 

 だからなんとかその瞳の引力から逃れて、視線を外へ逃がす。

 

「約束する」

 

 目線を戻すと、へにゃりと沙希が口元を笑う。

 

「うん、わかった」

 

 沙希が俺の腕を開放して、でもすぐに手を繋ぐ。指同士を絡め合わせて沙希が嬉しそうに微笑んだ。

 

 なんとか変な気を起こさずそのまま電車に乗り、住宅街を進んで家の前まで着いた。玄関の扉を開けてそのままリビングに入ると、珍しく母親が帰ってきており、ソファーに座ってテレビをほけーっと眺めていた。

 

「ん、おかえり八幡、沙希ちゃん」

 

 ふたりして返事をして、小町の帰りを聞くと、既に風呂に入って自室に引っ込んでいるようだ。沙希は母親に勧められるままに風呂へ。俺はそのまま部屋に戻ろうとしたところで、母親に引き留められる。

 

「あんた、惚れた?」

 

 あまり干渉してこない母親にしては珍しい。しかも内容が直球過ぎて答えづらい。ほら、やっぱり恥ずかしいし……。

 

「……たぶんな」

 

 俺の答えが不満だったのか、母親がこれ見よがしなため息をした。その、アホじゃないのこの男は、みたいなため息はやめてほしいな。

 

「別に殻に閉じこもる必要のある相手じゃないでしょ。違う?」

 

「……違わんな」

 

「なら、もう少し素直になってもいいんじゃない?」

 

「結構素直になってるつもりなんだけどな」

 

 はっ、と母親が鼻で笑った。

 

「どこが。どうせ内心でびくびくしてるんでしょう? あと、沙希ちゃんが今回の件で負い目を感じてるだろうからーとか無駄な気を回してるんじゃない?」

 

 ぐさりと刺さった。包丁で直接心臓を抉られた気分だ。さすが母ちゃん。無駄に俺の思考を読んでくるなあ……。

 

「かもな」

 

「そんな考えは無駄だから放棄しなさい。素直に心を見つめればおのずと答えは出るんじゃない?」

 

 次々と言葉を放たれてしまうと、俺としては頷くしかない。なにせ自覚があるのだから反論などできない。

 

 あとひとつ、と母親が言葉を付け加える。

 

「あんたには、沙希ちゃんみたい子が合うよ」

 

 さすがにもう反応すらできず、部屋に引きこもろうとしたところで、もうひとつ、と言葉を放ってくる。なんなの、歳食うと子供に説教したくなる人って。あれめんどくさいんだよなあ……。

 

「するなら避妊だけはしときなさい」

 

「しねえからな!」

 

 というか持ってないし! 買ったこと無いし! だっていままで必要な機会なんて無かったし!

 

「お父さんがあんたのために昨日買ってきたから、さっき部屋の机の上に置いといたよ」

 

「なにしてくれてんだこの親は!」

 

 ヤバい! 沙希が風呂から出る前に隠しとかないと! ほんとにもう、余計なことばっかりするんだから!

 

 慌ててリビングを出る直前、

 

「気持ちだけは口にして伝えなさい」

 

 母親の言葉が背中に当たった。思わず瞠目して、でもすぐに階段を駆けて自室に戻る。色々な思考に頭が費やされながらも机上を見る。ブツはすぐにあった。

 

「親父ぇ……」

 

 ブツの傍には小さなメモ。

 

 ――ゴールデンウィーク中に落とすんだ八幡! By父親

 

「親父ぇ……」

 

 ブツとメモを速攻で机の引き出しに隠してその場で頭を抱える。

 

 母親の言葉が脳内でリフレインする。

 

 分かっていた。全部俺の臆病が根源だ。

 

 ただ怖い。

 

 もしかしたら断られるかもしれない。依頼のことで沙希がいまみたいな態度を取っているのかもしれない。あるいは、沙希が変に勘違いして一時の感情で浮かれているだけなのかもしれない。今日までの全部が幻なのかもしれない。

 

 なにもかもが恐怖の対象だ。

 

 もし、告げてしまったら……。

 

 いまの関係が崩れてしまうのではないかと思えてしまって。

 

 ふいに、スマホがメールの通知を鳴らした。のろのろとスマホを取り出して画面を見る。戸塚からのメールだった。内容を見て目をみはる。

 

「ちゃんと自分の気持ちを決めなきゃだめだよ。

 

 もう、本当は決まってるんでしょ?

 

 あとは素直になるだけだね。

 

 だから、がんばってね!」

 

 はは、と乾いた笑いが漏れた。

 

 誰もかれもお節介焼きだ。他人事だと思って好き勝手言いやがって。俺だって色々考えてるんだよ。怖くて、恐ろしくて、形にすることを想像しただけで身がすくむような思いがするんだよ。こんな気持ち初めてなんだから……。

 

 こんこん、とドアがノックされる音。

 

 遅れて返事をするとゆっくりと扉が開かれる。寝間着用の淡い紫のワンピース姿の沙希が入ってきた。

 

「八幡、お風呂空いたよ。って、どうしたの?」

 

 俺の恰好を見て沙希がきょとんとする。それはそうだ。床に座って頭なんぞ抱えていれば誰だって不審に思う。

 

「あ、いや、あれだ。色々考えてたらこうなっただけだ」

 

「難しいこと?」

 

 沙希が近寄ってくる。隣に腰を落とした沙希がこてんと俺の肩に頭を預けてきた。

 

「いや、単純なことだ」

 

「ん、なら訊くのはやめとく」

 

「そうしてくれ」

 

「あたしもね、お風呂で色々考えちゃった」

 

「色々か?」

 

「うん、色々」

 

 ふふっと笑った沙希が、俺の首筋に頭をこすりつけてくる。

 

「いまはね、このままがいいかなって。考えてる時間がもったいないなって」

 

 だって、と沙希が上目遣いで俺を見て、飴色の声で続ける。

 

「あと二日しかないから」

 

 沙希が俺の頬に触れて、そのまま口づけしてきた。

 

「うん。我慢しないとって、ちゃんと考えて理解してるから」

 

 あたしのこと大切にしてくれてありがとうね。

 

 耳元で囁いた沙希が、俺の後ろに回って抱きしめる。

 

「うん、我慢我慢。これならちゅーできないね」

 

 ころころと沙希が笑う。本当に色々な声で笑うから、こっちもなんだか愉しい気分になってしまう。色々考えていることが馬鹿みたいだ。

 

 素直になろう。そう、思えた。

 

「ところで、胸が当たってるんだが……」

 

「当ててんのよ」

 

「さっきと言ってること違くない?」

 

「なんかずっと無意識で当ててたことに気づいたから、いまは意識的にやってみようかなーって」

 

「そういう無防備なところがですね、男の理性をガリガリ削るんですよ?」

 

「ヤバい感じ?」

 

「いや、あったかい気分になる。このままがいい」

 

「ん、ならよかった」

 

 ふにゃん、と沙希が一層強く胸を押し付けてくる。柔らかくて暖かくて、なんだかそのまま寝入ってしまいそうだ。

 

「これいいな。寝そう」

 

「お風呂入ってからじゃないとダメだよ」

 

「分かってる。でもなあ、このまま寝たい気分が強い」

 

「じゃあ、寝る前にまたやってあげるね」

 

「頼むわ」

 

 んふふー、と沙希が俺の首に顔をすりすりしてくる。

 

「やめ、くすぐったいから!」

 

「だぁめ。お風呂入らないとずっとこうしてるもん」

 

 ぞわぞわとした感触が神経を駆け巡って、単純にすごくくすぐったい。身体がそわそわする。

 

「分かった。分かったから! 風呂入るからそれやめて!」

 

「ほんとに? 言葉だけじゃないの?」

 

 うりうりーと沙希がこすってくる。

 

「ちょふぇ! 入る! 入るから! なんならいますぐ入るまである!」

 

 ようやく沙希が身体を開放してくれる。笑いをこらえていたせいで息が荒い。ぜいはあと大きく息をしてから立ち上がる。

 

「じゃあ入る。俺は風呂に入る」

 

「うん、そんなに宣言しなくても分かってるよ」

 

 沙希が口元を押さえてぷぷぷと笑う。なんか負けた気分だ……。寝るときに仕返ししてやりたい。やられたらやり返さないと!

 

 そのとき、ポケットにしまっていたスマホが鳴った。

 

「ん? あのふたりかな?」

 

 沙希がどれどれと近づいてくる。

 

「さっきまで一緒にいたのにまだ確認することあるのか……?」

 

 疑問に思いながら画面も見ずに電話に出る。沙希もいるからスピーカーモードだ。

 

「はいよ、比企谷だ」

 

 ふたりのものではない、荒い息遣いが聞こえた。顔をしかめる。誰だ?

 

「比企谷先輩……」

 

 その声は大志だった。嫌な予感がした。

 

「大志か、どうした?」

 

 引きつったような声がスマホから響く。

 

「姉ちゃんを……家に帰してくれませんか……?」

 

 ――もう限界なんです。

 

 大志の声は、背筋を凍らせるほどに震えた声だった。

 

 

 

 

 



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幕間
Interlude


 今日はちょっと無理を言って泊めてもらうことになった。すごく強引に迫っていたかもしれないけれど、きっと事情を察知してくれた彼女はひとつ返事で頷いて家に招いてくれた。

 

 かつて来たときは少し寂しい部屋だと思ったけれど、いまは温かく感じる彼女の部屋。

 

 モノトーンが基本の部屋の中で、二人隣同士でベッドに腰かけた。

 

「つらかったかしら……?」

 

 わたしのことを気遣ってくれる声。わたしは頭を振った。つらかったのもある。普通に考えればつらいしかないはず。でも、それだけじゃなくて、そんなんじゃなくて、もっと大きな気持ちが心を占有していたから。大丈夫だと思えた。

 

「平気……じゃないけど、これで良かったって思えたんだ」

 

「……どうして?」

 

 彼女の純粋な疑問。

 

 人を好きになって、他の人と好きな人が一緒になって、好きな人がもう一人の人を好きなってしまう。それはとても悲しいことのはずだ。わたしだってそんなこと分かるし、きっといまの自分もそういう気持ちがあるのだ。つらいものはどうしたってつらい。

 

 でも、そんな気持ちが吹き飛ぶくらいに価値あるものを見ることができた。

 

 だって。

 

「あんなに楽しそうな顔、初めてみたから」

 

 すごく良い顔をしていた。ゴールデンウィーク初日とは比べ物にならないほど毎日が楽しそうで、とても格好良くなっていて、とても、とても幸せそうだった。

 

「あんな顔みせられたら、わたしじゃ無理って分かるよ」

 

「……ごめんなさい」

 

「なんでゆきのんが謝るの。誰のせいでもないよ。もっと早くに行ってれば、なにか変わったのかなあ?」

 

 なんて、あり得ないもしもを考えてみる。

 

 でも現実はいまここにあって、もしもなんて考えてみても意味がなくて、やっぱり少しだけ悔しいなあなんて思う。

 

 沙希はすごく綺麗だった。恋する女の子だった。誰の目からみても彼のことを深く信頼して、強く想っているのが明らかだった。

 

 たぶん、わたしはそこまでになっていなかった。好きだった。ずっと一緒にいたいって思ってた。

 

 でも、三人でいる時間もとても大切で。

 

 壊したくない宝物のひとつだった。

 

 わたしはそれをふいにする勇気がなかった。

 

 何もかもを捨ててでも彼を手に入れようとするだけの気概がなかった。

 

 だったら、この結末はすんなり受け入れられた。

 

 つらくて、胸が痛くて、心が泣いていて、後悔だっていっぱいあるけど、これがわたしの恋の結果。

 

 素敵な失恋。

 

 良い思い出になると思う。失恋したばかりのいまだって、そんな風に思えるのだ。あとになって振り返れば、きっと温かくて楽しい気分になるはずだ。

 

「ねえ、ゆきのん」

 

「なにかしら」

 

「お願い、ひとつしていい?」

 

「いいわよ」

 

「ゴールデンウィークの最終日、ディスティニーに行こう? それで、ぱーって遊ぶの!」

 

「ええ、いいわね。そうしましょう。パンさんのバンブーファイトをふたりでたくさん乗りましょう」

 

「わたしは他のも乗りたいよ⁉」

 

 くすくすと彼女が笑う。でもいつもの華やかさがなくて、枯れた花のような悲し気な笑い。

 

「私も、そんな気分なの」

 

「うん、分かってる」

 

「あなたと同じね」

 

「うん、おんなじだ」

 

「だから、ね?」

 

「でもずっとバンブーファイトは嫌だからね⁉」

 

「えー……」

 

 彼女の見慣れない反応が楽しくて笑う。そしたら彼女も笑って、ふたり見合ってずっと笑って。

 

 気づいたら、ふたりでたくさん泣いていた。

 

 

 

 

 



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四章
どんなときも、最後に頼れるのは家族である 1


 想定していた最悪の事態のひとつが起きた。

 

 これは少なからず考えていた事象だ。だが、早すぎた。まさかゴールデンウィーク中盤に発生するとは想定していなかった。甘かった。

 

 こくんと喉を鳴らす。隣にいる沙希は震えていた。大丈夫だということを伝えたくて手を握った。沙希の震えが止まる。お互い見合って頷いた。

 

「なにがあった?」

 

 電話口の大志は意気消沈の雰囲気を出していた。それでも高校生として成長したからか、出した言葉はちゃんと精査されていた。

 

「まず、姉ちゃんがいないことで京華と渉が泣き出しました。なんとか俺がなだめすかしたんですが、日に日にひどくなっていって……。うちの両親はゴールデンウィークも結構仕事入ってて、いまは家事とか俺がやってるんですが、やっぱり料理がうまくいかなくて。二人とも結構ご飯とか残しちゃうんですよ。俺も結構それがショックで……。両親も徐々に二人の様子がおかしいことに気づいて家族で会話の場を持ったりしたんですが、やっぱり姉ちゃんがいないことがすごく大きくて……。しまいには両親が喧嘩を始めて、京華と渉もそれにびっくりして癇癪を起しちゃって、さっきようやく静かになったとこです」

 

 聞く限り、やはり川崎家で沙希の存在はあまりにも大きかったのだろう。沙希という柱が無くなっただけですべてが狂いだした。

 

 正直これは手に余る。俺だけじゃ対処できない。

 

「大志……ごめんね。ほんとにごめんね」

 

 沙希が泣きながら大志に謝る。大志は慌てたように声を重ねた。

 

「違う! 姉ちゃんのせいじゃない! 俺が、俺たちが姉ちゃんに頼りすぎてたんだよ。ゴールデンウィークでそれがよく分かったんだ。今日だってそれを言ったんだけど、みんな余裕がなくてなかなか聞いてくれなくて……姉ちゃん、俺どうすればいいんだろう……? ホントは姉ちゃんにこれ以上迷惑なんて掛けたくないのに、もう訳わかんなくて……」

 

 思考する。

 

 大前提として、俺だけじゃ無理だ。第三者介入が必要だ。すぐには結論が出せない。だが、事態の解決は早急に行わなければならない。でなければ、沙希が帰ったとしてもまたパンクする。それは最悪の結末だ。

 

 俺は慎重に言葉を選ぶ。

 

「大志、明日まで待てるか? こっちで対処法を考える」

 

「……はい。比企谷先輩、うちの家族の問題に巻き込んで本当にすみません」

 

「気にすんな。もう最後まで付き合うつもりだったからな。こっちでなんとかする。お前は今日は何も考えずにゆっくり休め。今日までご苦労だったな」

 

「ありがとうございます。比企谷先輩、姉ちゃん……夜遅くにホントにごめんなさい。あとお願いします。おやすみなさい」

 

 電話が切れる。

 

 沈黙が部屋を支配する。

 

 考えろ。解決法を導き出せ。これは絶対に失敗できない。誰に頼るのが一番だ?

 

 由比ヶ浜か? 雪ノ下か?

 

 駄目だ。

 

 高校生が出張って対処できる事態を越えている。

 

「八幡……」

 

 沙希が不安な表情で俺の手を強く握ってくる。俺は問題ないと頷き、反対の手で沙希の髪を撫でた。

 

 沙希の心を守る。川崎家を守る。これが用意すべき結末だ。

 

 俺の面目など、もうどうでもいい。

 

「……最後の手段を使う」

 

 沙希を引っ張り上げる。

 

「どうするの?」

 

「俺たちは高校生だ。ようするにまだ子供だ。なら、親に頼ればいい」

 

 言って、俺は沙希と一緒にリビングに降りた。リビングには相変わらずソファーでテレビを見ていた母親と、いつの間にか帰ってきていた父親の姿があった。

 

「おう、八幡に沙希ちゃん。まだ起きてたのか」

 

 父親が小町が用意していた夕食を食べながら俺たちに声を掛ける。その声はどこか嬉しそうだ。

 

 返事はせず、リビングの入口で立ち止まってふたりを見る。

 

「母ちゃん、親父、話がある」

 

 久しぶりに両親へ向けた真面目な声。ふたりは俺の様子にすぐに気づき、一度目を見開いた後、大きく頷いた。

 

「おう、なんだ? まずいことでも起きたか?」と父親。

 

「川崎家で問題発生だ。沙希がいなくなったことで家が回らなくなった。さっき沙希の弟からヘルプの電話が掛かってきた」

 

 二人の眉が上がる。

 

「お父さん、明日仕事休める?」即座に母親が父親へ問いを投げる。

 

「仕事もあらかた片付いたし、代休を無理やりねじ込む。お前は?」

 

「同じ。問題ないよ。明日沙希ちゃんの家に行こう」

 

 即断即決だった。

 

「え、仕事大丈夫なんですか?」

 

 沙希が慌てて声を挟む。二人は安心させるような笑みを沙希へ向けた。

 

「大丈夫。沙希ちゃんはもう娘みたいなもんだからな。困ってるっていうなら助けるさ。大人っていうのはそういうものだからな」

 

「八幡と小町が世話になってるしね。沙希ちゃんの両親にお礼に伺う良い機会だわ」

 

 母親が一拍おいて、沙希へ訊く。

 

「沙希ちゃん、家に帰りたい? それともここに居たい? 本音を教えて?」

 

 沙希が息を呑んだ。視線を彷徨わせて唇を震わせる。喉の奥を小さく鳴らして、

 

「……帰りたく、ないです」

 

 沙希が告げた。

 

 ふたりが大きく頷く。

 

「なら決まりだ。明日沙希ちゃんの家に行く。一応小町も連れてこう。八幡は来た方がいいと思うか?」と父親。

 

「正直、男の家に泊まってるってのは心証はよくないね。けど、連れてく」

 

 いい? と母親に目線で問われる。当然頷いた。

 

「うん、よし。あんたなら大丈夫」

 

 母親が微笑み、沙希へ視線を向ける。

 

「ほら、沙希ちゃんおいで」

 

 沙希がとぼとぼと母親の下まで行く。ソファーから立ち上がった母親が沙希を抱きしめた。

 

「あんたは頑張ったよ。頑張った頑張った。偉いよ、すっごく偉い。だから大丈夫。あとはお母さんたちに任せなさい。明日のことは大丈夫よ」

 

 ひっく、と沙希がしゃくりあげる。

 

「いいよ、泣いちゃいなさい。たくさん涙が溜まってるでしょう? ほら、お母さんが全部受け止めてあげるから」

 

 沙希が母親の背に手を回して、嗚咽を吐き出した。その様を眺めていた俺の肩に力強い感触。父親だった。

 

「行くぞ。こういう女の涙は見ないようにするもんだ」

 

 父親と一緒にリビングを出て自室へ入る。父親は閉めた扉に背を預けて腕を組んだ。

 

「よく頼ってくれたな八幡。俺は嬉しいぞ」

 

「いいのか? 正直気が進まなかったんだが……」

 

「いいに決まってる。お前は頼ることを知らなすぎるからな。もう少し頼って欲しかったんだよ。いい機会だ。親父と母ちゃんの格好いいところを見せてやるよ」

 

「ありがとう」

 

 父親がくしゃりと笑った。

 

「お前も変わったな。沙希ちゃんのお陰か」

 

「かもしれん」

 

「なら、今回は頑張らないとな」

 

「なんとかできそうなのか?」

 

 不安になって訊くが、問題ないというように父親は頷く。

 

「こういうのは親の仕事なんだよ。ま、沙希ちゃん家の事情も分からないことはないし、うちだって似たようなもんだからな。正直家が回ってるのは小町と八幡がちゃんとしてるからだ」

 

「小町だけだろ」

 

「なに言ってんだ。お前もだよ。小さいころから小町の面倒見てくれただろ。ちゃんと知ってるんだぞ? いまだってそうだ。小町のことよく見て面倒見てくれてる。だから小町も大丈夫なんだよ」

 

 うるっときた。まさかそんな風に見られていたとは思わなかった。

 

 父親が照れくさそうにガシガシ頭を掻いた。

 

「まあ、こういう機会でもないと言えないからな。八幡には感謝してるよ。小町の面倒みてくれてありがとうな」

 

「ちょ、やめろって。最近涙もろくなってんだから……」

 

「おう、泣け泣け。俺も抱きしめてやろうか?」

 

「泣くのは沙希の前だけでいい」

 

「おうおう、こりゃ随分と落とされたな」

 

 父親が野太い声で笑う。だが、すぐに笑いを収めて真っ直ぐに俺を見つめてくる。

 

「八幡、いい加減腹くくれ。もう、いい加減いいんじゃないか?」

 

 なんのことを言っているかすぐに分かった。

 

「……そうだな」

 

「まあ、いまの事情が事情だし、いますぐにってはいかんだろうが、最終日には決めてこい」

 

「まったく、誰も彼もそればっかだな」

 

「そりゃお前が好かれて心配されてる証拠だ。良かったな」

 

 目の奥が熱い。本当に泣きそうだった。ぐっと奥歯を噛んでなんとか堪える。その様をじっと眺めていた父親は、一度ふっと笑みを漏らして背を向けた。

 

「小町には俺から話しておく。今日はふたりでゆっくり寝な。おやすみ」

 

「……ああ、おやすみ」

 

 部屋を出る直前、あ、と父親が声を上げて振り返った。

 

「あれはちゃんと使えよ?」

 

「なんで最後に台無しにするのこの親父は⁉」

 

 思わず叫ぶ。呵々と笑った父親はそのまま部屋を出て小町の下へ向かった。

 

 なんとも言えない気分になってごろりとベッドに転がる。

 

 そういえば、両親にこうして頼ったことなどあっただろうか。記憶を遡る。

 

 ない。

 

 一度もなかった。問題に直面すればそれはいつだって俺だけの問題で、俺が解決すべきものだった。

 

 そう、思っていた。

 

 それで何とかなってきたのだ。色々なものを犠牲にしてしまったが、いまさら後悔などできない。できれば黒歴史は消したいが……。

 

「間違ってたのか……」

 

 素直にそう思えた。許容量を超えれば誰かに頼ればいい。そうでなくても相談すればいい。そんな簡単なことが俺には難しかった。それが今回できた。たぶん、これは成長と呼べるものなのだろう。

 

 人生はひとりで生きていけるほど甘くはない。分かっていたはずなのに、根本で理解できていなかったのか。あるいは、人という存在に嫌悪にも似た恐怖を抱いていたから頼れなかったのか。もしくは、ただの諦めなのか……。

 

 はっ、と笑った。

 

 いまになって過去の自分を考察しても意味がない。成長できたのなら、乗り越えられたのなら、次は前を見よう。

 

 やらなければならないことがある。

 

 助けたい人がいる。

 

 助けたい場所がある。

 

 なら、いまは振り向かず立ち止まらず、前だけをみて歩こう。

 

 控え目のノック音。

 

 少しだけドアを開けた沙希が顔を覗かせる。

 

「入っていい?」

 

「いまさら気にする必要ないだろ」

 

「うん」

 

 おずおずと沙希が部屋に入ってベッドに腰を下ろす。俺も上半身を起こして沙希の隣に座りなおした。

 

 沙希の顔を見ると、目元がうっすら赤くなっていた。でも、どこかすっきりしたような顔をしていた。

 

「ね、良い家族だね」

 

「まあ、否定はしないな」

 

 とてん、と沙希が頭を肩に乗せてくる。

 

 恋しかった温もりが灯る。心がぽっと温かくなった。沙希を感じるだけで不安が吹き飛んだ。なんとかなる、そう思えた。

 

 ねえ、と沙希が愛しい声を出す。

 

「少し、ちゅーしていい?」

 

 即答しかねた。さすがにまだそういう行為に羞恥心は拭えない。だって今日初めてしたんだもん……!

 

「改めて言われると恥ずかしいんですけど……」

 

 ぷいっと顔をそむける。

 

 じゃあ、と沙希が顔を向けた気配がした。伸びた指先が俺の両頬を挟み、沙希へ優しく導かれる。心から恋焦がれる端正な顔が近づいてくる。

 

「無理やりする」

 

 そっと触れるだけ。今度は心が温かくなった。冬だった季節が急に春に変わったかのような、そんな温かさだ。

 

 目をとろんとさせた沙希が唇を開く。

 

「あと十回」

 

「ちょ、多っ……!」

 

 つっこみを入れる前に口を塞がれた。さっきよりも深く長く。互いの吐息を交換できるほどに。

 

 やがて顔を離した沙希がくしゃりと笑った。

 

「うん、やっぱり次で最後にする。だから……」

 

 飴色の表情で沙希が再び顔を近づける。瞳を閉じて、心震わせる声で言った。

 

 ――長く、ね?

 

 自然と動いていた。

 

 唇が重なるだけで、心が触れあっているような感覚がした。ひとつになって、溶けて別の何かに変貌していくような、それでいて不安感なんて微塵も感じなくて。ただ、いまこの瞬間が永遠に続けば良いのに願って。逆らえない自然の摂理だけが唯一の不満だった。

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 夜が過ぎて朝になると、にわかに比企谷家は騒がしくなった。母親と父親は朝から手土産がどうだの服装がどうのとバタバタしているし、小町も家事で忙しなく動きまわっていた。かくいう俺と沙希は、三人から「ふたりでどっか行ってろ」と言われてしまった。

 

 外出でもするかとリビングを出る直前、俺だけ母親からちょいちょいと呼ばれる。なんだ、と疑問に思って沙希を玄関に向かわせ母親の下へ向かうと、いきなり五万を目の前に差し出される。

 

 諭吉様が五人も現れて俺としては思わず拝みたくなる。

 

「小町から聞いたよ。あんた、沙希ちゃんに五万渡したんだって?」

 

 なんで言っちゃうかなあの子は……。お兄ちゃんの情報が全部母ちゃんに筒抜けな気がしてきたよ。

 

「あんたがなんでその発想に至ったのかが親としてすごく心配だわ。まあ、相手が沙希ちゃんならいいんだけれど。まあ、そんなわけで同じ額渡しとくわ。高校生の貸し借りは面倒だからあげちゃいなさい」

 

 大金が舞い込んで思わず恐縮しつつ受け取る。

 

「元からそのつもりなんだけどな」

 

 俺の返答に母親が絶句していた。

 

「塾の費用を懐に入れてるあんたがそんな科白を吐くなんて……」

 

 知ってたのかよ……。

 

「まあいいわ。とりあえず行った行った」

 

 母親に背を押され、ふたりして家から追い出される。

 

 そんな訳で、俺と沙希は住宅街をとてとてと歩いていた。

 

 相変わらずゴールデンウィークは程よい天気だ。太陽もまだやる気がでないのか、ポカポカした陽気で、時折吹く風は心地よくて非常に過ごしやすい。まだ春が続いているような気候だ。青葉も萌えて見ていて気分が良い。

 

 天気予報によると、五日間はずっと晴れが続く。降水確率も低いし、突然の雨に降られることもないだろう。

 

 なにはともあれ、今日も非常にお出かけ日和ということだ。まあ、普段あまり家を出ないから気にしたことはないけど……。

 

 隣を見る。

 

 今日は普段通りの装いに戻った沙希は、淡い水色のTシャツの上に白のパーカーを羽織り、青のスキニーデニムに白いスニーカーを履いた格好だ。

 

「行きたいとこあるか?」

 

「んー、どうしよっか。時間も決まってるし」

 

 俺の問いに沙希が首を捻る。

 

 十四時には家族全員で川崎家に行くことになっているから、そこまで遠出はできない。

 

 考えた末に沙希が出した答えは、ここら辺の高校生が出すいつもの回答だ。

 

「イオンで時間でも潰そっか」

 

「だな。行くか」

 

 元々駅へ向かっていたから、駅前にあるイオンというのは実に都合がよい。主にあまり歩かなくていいという点では満点だ。働きたくない、永遠に……!

 

 少し無理をして残念なことを考えていても、やっぱり沙希のことが気になった。こっそり様子を伺うが、一見していつもと変わらない表情と雰囲気をしていた。だが、少し目が虚空を泳いでいるようにも見えた。やはり家のことが気になるのだろう。

 

「八幡」

 

 突然沙希に呼ばれて変な声が漏れる。

 

「んぁ? どうした?」

 

 沙希が頬を赤らめて顔を逸らした。

 

「そんなに見つめないで……その、ちゅーしたくなるから」

 

 ぼん、と顔が一気に熱を持つ。

 

「悪い……」

 

「ううん、いいんだけど。ほら、昨日いっぱいちゅーしたから、まだ感触が残ってて……」

 

 沙希が艶のある唇に触れる。昨日のことを思い出して俺は赤面することしかできない。ふたりとも寝入るまでずっとキスしていたのだ。まったく青春だな、とか自分で自分を茶化してないと平常心が保てそうにない。

 

「その……ね」

 

 沙希が言いづらそうに言葉を重ねる。

 

「やっぱり、その……ふたりになれる場所がいいかも」

 

 ぱっと浮かぶ二人になれる場所。カラオケにマンガ喫茶。ふたつとも沙希と濃厚な時間を過ごした場所で、思い出すと身体が熱を持つ。

 

 こくんと喉が鳴った。

 

 落ち着け比企谷八幡。

 

 今日はそんな場合じゃない。大事な用事があるんだから、浮ついているときではない。

 

 軽く深呼吸をして、心を保つ感情の天秤を冷静に傾ける。

 

「個室のカフェでも探すか。確かこの辺にもあったはずだし」

 

「……うん」

 

 沙希が手を差し出す。それを握って駅前を散策する。少ししてカフェが見つかって、店内に入って店員に確認すると個室席があった。案内されて中に入ると、簡素のテーブルと対面に並べられた椅子の少し狭い場所だった。ふたりで過ごすには丁度良い場所だった。

 

 沙希はカフェオレを、俺はコーヒーを頼んでしばらくふたり見つめ合った。最初に口を開いたのは沙希だ。

 

「……やっぱり、少し不安かも」

 

 沙希が顔を伏せて視線をテーブルに落とす。

 

「だろうな。何が不安か言ってくれ」

 

「分かんなくて。ただすごく罪悪感があって。あたしがもっとちゃんと強ければって思っちゃう……」

 

「沙希は頑張りすぎるほど頑張った。だから少しくらい休んでもいい。なあ、たぶん、沙希のことで家族間でちゃんとした会話の場を持って来なかったんだろ?」

 

 こくんと沙希が頷く。

 

「置かれた状況をちゃんと説明して、自分の気持ちを素直に言えば良い。今回は俺も小町も親父も母ちゃんもいるからな。全員沙希の味方だ。まあ、別に川崎家が敵ってわけじゃないし、沙希が自分の想いを伝えるための機会ができたってくらいに考えとけ」

 

「なんだかね。すごく不安なことばっかりで……。あたし、家族を裏切ってるんじゃないかって。あんなに大事だったのに重荷になんて感じて、こうして逃げてることが本当に良かったのかなって……」

 

 沙希が心中を吐露する。

 

「あたしはすごく楽しかった。八幡と一緒にいられて幸せだった。でも、あたしだけがそんな良い目あってるのに、家族は大変な状況で……。なんだか、胸が痛いの……」

 

 沙希の中で家族の優先度はまだ高い。もっと自分本位になっていいはずだ。

 

「沙希、お前はもっとわがままになっていい。高校生にしちゃあ上出来すぎるくらい家族に尽くしてる。俺を見てみろ、毎日ぐだぐだしてるぞ。普通の高校生なんてそんなもんだ。少しくらい楽したって責められるもんじゃない。もっと気楽に考えていいんだよ」

 

「そうかな……」

 

「家族に不満を持ったり家族の愚痴を言ったりなんて、割と普通なことだ。別に特別なことなんかじゃない。沙希は頑張りすぎてるんだよ。もっと自分を労わっていいし、甘やかしたっていい」

 

 うん、と沙希が頷いた。

 

 しばらく無言の時間が続いた。

 

 ふいに、個室の扉が開いて店員が入ってくる。カフェオレとコーヒーをそれぞれテーブルに置き、店員が一礼して去っていく。

 

 俺はスティックシュガーを五本くらい掴んで入れようとして、沙希に止められた。

 

「八幡……やっぱりそれ止めた方がいいよ。糖尿になるよ?」

 

「人生苦いんだからコーヒーくらいは甘くていいだろ」

 

「あたしが甘くしてあげるから……それじゃだめ?」

 

 言葉に詰まる。実はここ数日マッカンを我慢していて若干禁断症状が出ているのだ。あの黄色いパッケージが恋しい……!

 

「こ、コーヒーは甘いくらいが丁度いいんだよ……」

 

 なんとか捻りだした科白は全然説得力がなかった。沙希が苦笑する。

 

「ホントに甘いの好きなんだね。今度お菓子作ってみよっかな」

 

「作れるのか?」

 

「んーん。ほとんど作ったことなくて。でも八幡に食べてもらいたいから挑戦してみようかなって」

 

 作っている姿を想像しているのか、沙希が顔を綻ばせる。

 

「是非甘いのにしてくれ」

 

「そこは前向きに検討しておくよ」

 

「社会人のお断り常套文句だな」

 

「八幡の捻くれが移っちゃったのかもね」

 

 くすくすと沙希が笑う。そこに負の感情は見られない。沙希の中にある不安が顔を出さなくなったことにひっそりと安堵する。

 

「ま、とりあえず善処してくれ。切実に」

 

「女の子より甘いもの好きだよね八幡」

 

「甘いものは脳を活性化させるからな。頭がよくなる気がして気分がいい。あと疲れが取れる」

 

 人生疲れることばかりだからな、と付け加えておく。

 

「いまはどう? 疲れてる?」

 

「いや、沙希が来てからそんなことはないな」

 

 むしろ無駄に元気になってきている気がする。もう、原因は明らかなのだけれど。

 

「そっか。あたしもね、八幡といるとつらいこととかすぐに忘れちゃえるよ」

 

「そりゃあよかった」

 

 平然と返すが、内心は嬉しかった。同じ心の情動を共有していることにこの上ない満足感を覚えた。

 

 沙希が身を乗り出して俺の顔を覗いてくる。いきなり顔が近づいてきて恥ずかしくなる。

 

「もしかして、照れてる?」

 

「そ、そんなことないぞぞ?」

 

 うん、思いっきり噛みましたね。もうバレバレですね。

 

「照れてるんだ。ふふ、可愛い」

 

 案の定見透かした沙希がころころと笑う。沙希のひとつひとつの笑顔が見ているだけで幸福感を覚える。もう、これは惚れたからと言わざるを得ない。

 

 結論は出たな……。

 

 こんな何気ない会話ひとつで幸せになれて、一緒にいるだけで心が子供みたいに喜んでいて、目が合うだけで恥ずかしいけどやっぱり安心感が生まれる。

 

 その源泉にある感情は、心の水面を掬わなくとも明らかだった。

 

 俺は沙希が好きだ。

 

 誰よりも。何よりも。沙希が好きで、好きで、堪らなく好きだ。

 

 この感情に嘘は付けないし、蓋を被せられるほど弱いものじゃない。あまりにも強くて、勝手に外に出てきてしまうくらいだ。

 

 思わず震える息を漏らした。

 

 初めての強い感情に気づき、急に身体が熱を持つ。胸に奇妙な感覚が生まれて、頭の中は沙希のことでいっぱいで、もうなにも考えられない。

 

 好きだと言いたかった。心の言葉を伝えたかった。

 

 やっぱり恐怖もある。心は怯えてるし、拒絶されたらどうしようかとも思う。でも、そんなことよりも、なにより言葉にして伝えたい。

 

 ようやく形にできた。言葉に変換できるようになった。無駄に遠回りをして、変に思考を拗らせて、結局ありきたりな答えに辿り着いてしまったけれど、これが俺が出した心の結論だ。

 

 分かってほしい。実ってほしい。欲してほしい。知ってほしい。隣にいたい。一緒に歩きたい。ずっと、繋がっていたい。

 

 そんな想いばかりが心の中からぽんぽんと現れる。

 

 これは重症だ。完全に恋の病に侵されている。

 

 だから、告白しようと思った。ゴールデンウィークの最終日に、沙希に心の丈をすべて伝えてしまおうと強く思った。

 

「なあ、沙希」

 

「うん?」

 

「今日全部片付いたらさ」

 

「うん」

 

「明日、ディスティニーランドに行かないか?」

 

 勝負の場所は決めた。あとは沙希が乗ってくれるかだ。

 

 沙希が目をぱちくりする。でも、すぐに満面の笑みで頷いてくれた。

 

「うん、行く。行きたい」

 

 もう足踏みするのはお終いだ。気持ちが決まり、抑えきれないほどの想いがあるのなら、あとは前に進むしかない。

 

 たとえそれが、失敗に終わってしまうものであったとしても……。

 

 きっと、後悔だけはしないから。

 

 

 

 



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どんなときも、最後に頼れるのは家族である 2

 川崎家は昔ながらの古い一軒家だった。父親が改まった様子でドアベルを鳴らすと、引き戸が開いて母親らしき女性が顔を出した。その表情は少しだけ疲労感が見えていた。

 

「お母さん……」

 

 呟いた沙希の声は震えていた。ちらりと川崎母が沙希に目をやり、やんわりと笑む。すぐに父親と母親に向き直ると深く腰を下げた。

 

「お待ちしておりました。沙希の母です。わざわざお越し頂きありがとうございます」

 

「いえ、こちらこそ突然お邪魔して申し訳ございません」父が返す。

 

 中へどうぞ、と促されるままに俺たちは川崎家へ入る。居間に案内されてしばらく待っていると、川崎父と大志がやってくる。ふたりとも沙希へ一度目線を投げてから座り、こちらに向き直る。

 

「沙希の父です。沙希がお世話になっています。連休中は比企谷さんの家に泊めて頂いたそうで、ご迷惑をお掛けしました」

 

「こちらこそ息子と娘がいつもお世話になっています。こちら、つまらないものですがお家族で召し上がってください」

 

 母親が午前中に買ってきたという高級チョコレート菓子の包みをテーブルの上に置く。丁重に受け取った川崎父が、それをテーブルの端へ滑らせた。

 

 一拍。

 

 丁度よいタイミングで川崎母がやってきて全員にお茶を置いて、自らもまた川崎家側に腰を下ろす。

 

「今回お邪魔させて頂いたのは、まずは娘さんの沙希さんにお世話になっている件についてです。沙希さんには息子の八幡と娘の小町の相手をして頂いているようで、両親共働きのうちとしては大変助かっています。情けないことに私どもは家事のほとんどを小町がやっていまして、そのため昔から甘やかしてばかりなんですが……どうにも川崎さんの娘さんはしっかりしているご様子」

 

 父親がのっけからジャブを打った。隣に座る小町が小さい声で「うへぇ」と呻く。

 

 父親の言葉を母親が引き継ぐ。

 

「まだ高校生だというのに、大変よくできた娘さんなようでして。娘の小町から聞いていますが、掃除や料理の手伝いまでしてくれているようでして、しかもすべてお上手とのこと。川崎さんにとってはさぞご自慢の娘さんでしょうね」

 

 なんでこう大人の会話って裏ばっかりあるのかしら。字面だけ見れば普通なのに、変な副音声が混じっているような気がしてならない。

 

 俺が訳すところの副音声はこうである。

 

「うちも同じなんだよねー」

 

「でもうちはちゃんと小町をフォローしてるんだけどなー」

 

「沙希ちゃんはすごい子なんだけど大変そうだよ?」

 

「あれれ、おかしいねー?」

 

 ……である。

 

 最低の内容だ。軽く頭を抱えたくなる。

 

 なに? なんで好きな人の家族に喧嘩売ってんのこの人達……。

 

 若干憂鬱になっている俺をよそに、大人たちの会話は続いていく。

 

「ありがとうございます。私どもも娘のお陰でだいぶ助かっています」川崎父が細い声で言う。

 

「ただ、うちは他にも小さい子どもがまだふたりいまして……。沙希には負担ばかり掛けて申し訳ないと思ってます」川崎母も声に張りはなかった。

 

 二度頷いた父親が言葉を返す。

 

「うちも子どもが小さい頃は大変でした。小学生の八幡が家事をやって小町の面倒もみていました。小町が大きくなってからは家事担当が小町になりましたが、それまで八幡には大変な苦労を背負わせていました」

 

 いきなり話の焦点が俺に当たる。母親が父親に続いて話す。

 

「本当は八幡にもっと目を掛けてやるべきだったんしょうけど、やはり小さい小町の方にばかり目が向いてしまって……。私たちに見せる八幡の顔がどうにも大人びたものだったので、問題ないとばかり思っていたのですが……。たぶん、相当苦労させたと思います」

 

 よみがえる。かつての光景が。

 

 学校でうまく行かず、家でも親はいない。小町の面倒は見なければならず、妹ばかりが優遇される。誰も見てくれない。だから、自分で自分のことを対処するしかなかった。

 

 誰も、見ていないと思っていた……。

 

 兄は……と小町が声を滑り込ませる。

 

「兄は、つらそうでした。私にはそんな顔は見せませんでしたが、部屋で泣いている声は何度も聞きました。日に日に疲れていって、性格も捻くれて……だから、兄にばかり迷惑は掛けられないと思ったんです」

 

 あのときはごめんね、そしてありがとうね、お兄ちゃん。

 

 小町が俺に顔を向けて恥ずかしそうに言った。

 

 熱いものが流れた。それがなんであるか、咄嗟には分からなかった。ただ、心の内にあったよくないものが、溶けて浄化されて流れ出していく感覚だけは強くあった。

 

「……あ」

 

 嗚咽が零れた。ようやく流しているものが涙だと知った。気づいてしまえば、涙は滂沱と流れ出てきた。思わず口を押えて声を噛み殺す。

 

 背中に優しい感触が灯る。

 

 小町と沙希が俺の背をさすってくれていた。

 

 泣いている息子に注目を集めまいとばかりに父親が声を被せる。

 

「結局、親の怠慢はどこかで子どもに負担が来るんですよ。うちは今でもふたりに迷惑ばかり掛けています」

 

 やめてくれ。

 

 心が叫んだ。

 

 そんなことを言わないでくれ。

 

 涙が止まらないだろうが……!

 

 涙を止めんと苦心していても大人たちの会話は止まらない。

 

「はたから見ればうちの息子は捻くれていますが、根は真面目で優しい子なんですよ。それが表に出せない原因の一端は、やはり我々にあるのでしょうね」

 

 難しいですね、と母親が悔いるように言った。

 

 鼻をすすって涙を拭う。ようやく開けた視界の中で、川崎母が俺を見据えていた。

 

「うちはどうなんでしょうか……」

 

 川崎母が苦悶の表情で俯く。そして掠れた声で続ける。

 

「いつもほとんどを沙希ばかりに任せていて、沙希のことを考えていたのか……。目が行くのはやっぱりまだ小さい京華や渉ばかりで、沙希にまで気が配れていなかったのかもしれません……」

 

 顔を上げた川崎母が沙希に向く。

 

「沙希……もしかして、つらかった?」

 

 沙希が息を呑んだ。

 

 無言の瞬間。

 

 やがて、沙希が頷いた。

 

「少しだけ……やっぱり大変だった」

 

 川崎両親の表情に悲痛が走った。大志も表情をこわばらせている。

 

 沙希が一度歯を食いしばってから述べる。

 

「いままでは大丈夫だったんだけど、やっぱりもう受験の年で……。なんだかいっぱいいっぱいになっちゃって、どうしていいか分からなくて……。たぶん、疲れちゃったんだと思う」

 

「姉ちゃん……」

 

 大志の表情がくしゃりと歪む。

 

「誰も悪くない。分かってる。みんな大変だって。でも……だけど、やっぱり自分の時間が欲しかった。誰かに助けてもらいたかった」

 

「そうか、そうだったのか……」

 

 川崎父の声は、悔恨の念に満ちていた。

 

 ほんの少し。小さい子たちに向けていた目を沙希へと注いでいたら、こんなことにならなかったのかもしれない。きっと、川崎両親ともに家庭を守ろうと精一杯だったのだろう。だから手の掛からない沙希や大志に目が行かず、昔から家事を担当していた沙希に負担が集中した。

 

 これは決して川崎両親や大志が怠慢だったわけではない。彼らも彼らで自分ができることをやっていた。沙希自身の性格の問題もあるだろう。そして、それが作られてしまった過去も起因している。

 

 誰が悪くて、誰が正しい。そんな簡単な二元論では説明できない。ただ歯車が噛み合わなくてこんな結果になってしまった。

 

 たぶん、それだけのことなのだと思う。

 

「だから、連休になって家を出ちゃったの。八幡と小町が、うちへ来いって言ってくれたの。あたしを助けてくれたの」

 

 テーブルの下で沙希が俺の手を握った。俺も手に力を込めた。

 

「まだ完全に整理がついてなくて、いま帰ったらきっとまたおかしくなっちゃう。大変だって大志から聞いてる。想像だってつく。けーちゃんも、わっくんも、きっと寂しがってるって思う。だけど……だけどお願い。もう少しだけ、家を出させて……」

 

 あたしに……。

 

「高校生らしいことをさせて」

 

 たぶん、これが決定打だった。

 

 川崎家三人の表情がこのとき壊れた。

 

 沙希の切実な訴えは、きっと異常だ。高校生が高校生らしくないなんて、字面にすれば格好良く見えたり大人びて見えたりするだろう。だが実際はおかしいのだ。高校生が高校生らしくないなど、とても正常とは言えない。なら、沙希を取り巻いていた環境が間違っていたのだ。

 

 そして、そのことに川崎家三人が気づいた。いや、あるいは気づいていたのに対処が遅れた。

 

 結局、誰も悪くはない。誰もが少しずつ悪くて、誰もが少しずつ被害者だ。たまたま水面に浮上したのが沙希だった。

 

 こんなこと、どこの家庭だってきっとある。不満のない家なんて探すだけ無駄だ。それくらいありふれたものだ。

 

 だから、素直になって話し合って知恵を出し合って解決する。きっとこれがやるべきことなのだろう。

 

 いま、川崎家はようやくスタートラインに立った。それだけのことだ。

 

 涙を流した沙希に川崎家の三人が近寄る。俺たちは邪魔にならないように部屋の隅へよけていった。

 

「うまくいったのかな?」

 

 小さな声で小町が問う。俺は首を振った。

 

「分からん。あとは沙希たちで話し合うしかないだろ」

 

 突然、居間の引き戸が音を立てて開いた。飛び込んできたのは小さな女の子と男の子だ。女の子の方は何度か会ったことがある京華だ。男の子は話題に出てきた渉だろう。

 

 ふたりが泣きながら沙希に向かって飛びつく。

 

「さーちゃん!」

 

「お姉ちゃん!」

 

 二人に気づいた沙希が目を丸くして、顔をくしゃくしゃにして泣いた。

 

「けーちゃん、わっくん……!」

 

 飛び込んできた二人を沙希が抱きとめる。三人でわんわん泣いて、気づけば川崎家全員が涙を流していた。

 

 その姿をいつまでも見ているわけにはいかないと、父親に従って全員が一度玄関まで戻る。

 

 川崎一家の嗚咽だけが響いていた。

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 帰りの車の中でほっと息を付く。右隣に座る沙希は泣き疲れたのか俺の肩に頭をもたれて寝入っていた。

 

 結局、沙希は連休中、比企谷家に滞在することに決まった。

 

 これから、全員で川崎家を守っていくというのが出した結論のようだ。それに異を唱えるつもりはない。ただ、話し合いの場が持てて良かったと思った。

 

 沙希の心も、川崎家も、一定の落としどころが見つかった。

 

 ただ、なにもできなかったな、という言葉が頭の中に浮かんでは消えていた。そんな俺を見透かしたように、運転している父親が声を掛けてきた。

 

「お前のお陰でなんとかなったよ八幡」

 

「泣いてただけだけどな」

 

「あれで川崎家の内情を引き出した。それはお前の手柄だ。良くやったよ」

 

「泣かせといて褒めるなよ……」

 

「すまんすまん」

 

 父親がからからと笑う。照れくさいのだろう、ぽりぽりと頬を掻いていた。

 

 父親がちらりとルームミラーに目をやる。視線の先は夢の中にいる沙希だった。

 

「決意は決まったか?」

 

 明日の予定が脳裏によぎった。

 

「まあな」

 

「そうか。なら言うことはなにもないな」

 

 黙っていた母親が口を挟んでくる。

 

「沙希ちゃん泣かせたら怒るからね」

 

「はいよ」

 

「あんたも……大きくなったね」

 

 感慨深げに母親が言う。

 

「どうだかな」

 

 変わった感触も、成長した実感もある。これが良い変化なのかはまだ自覚できていない。

 

「お兄ちゃんはめんどくさいからなー」

 

 隣に座る小町がげしげしと脇腹を突いてくる。そこくすぐったくなるからやめて! 変な声出ちゃって沙希を起こしちゃうから……!

 

 そうこうしているうちに比企谷家に着く。起きる様子のない沙希をお姫様抱っこでなんとか持ち上げ、俺の部屋まで運ぶ。ベッドに寝かせて布団をかぶせる。

 

「お疲れさん」

 

 顔にかかっていた髪をかき分けてすっきりさせてやる。静かな寝息をたてて布団を上下させる姿をしばらく眺めてから部屋を出た

 

 リビングで思い思いに過ごしている家族を前にして、なんとなく言っておく気分になって、ドアの前で立ち止まった。

 

「……ありがとな」

 

 軽く頭を下げる。頭を上げると、全員が目をぱちくりさせていた。

 

 あれー、俺がお礼を言うのってそんなに珍しいの? おかしいな。怠惰な生活を送らせてくれる両親と小町に常に感謝の念を捧げているというのに……!

 

「ま、八幡だしな」と呆れたように父親。

 

「たしかに、八幡だしね」と母親が同調。

 

「お兄ちゃんだもんなー」と小町がからからと笑う。

 

「ねえ、ひどくない? 俺の感謝返して?」

 

 八幡は悪口じゃないからね! ちゃんとした神々しい名前だよ! 名前負けしてるけどね!

 

 ひとりぶすーとむくれていると、笑いをおさめた小町がやってくる。

 

「そだ、お兄ちゃん。ハーゲンダッツ買いに行こう!」

 

「えー……どうせ奢らせる気だろ」

 

 小町ちゃん、ことあるごとにお兄ちゃんにたかろうとするのやめようね。めっ、と注意するも、小町がやれやれと首を振った。

 

「この流れでそんなことするわけないじゃん。今日はお父さんが出してくれるよ。ってことで、全員分のダッツを求めてれっつらごー!」

 

 結局自分は出さないんですね……。ただ、金をたかられている親父がなんだか嬉しそうなのが怖い。娘のおねだりってそんなに嬉しいもんなのかな……。

 

 まいどおおきに~と、小町が商人の真似をしながらお金を受け取って、とてとてと玄関へと向かう。俺もそれに続いてふたりして外へ出た。

 

 日が傾いていた。夕焼けに伸びる影を踏みながら妹と共にコンビニへ。

 

「ありがとうお兄ちゃん」

 

 前を向いたままの小町がぽつりと言った。

 

「なんでお礼言われてんだ俺は……」

 

「いままでのこと。まえも言った気がするけど、改めて言う機会かなって」

 

「ま、どういたしましてだ」

 

 とりあえず小町の頭をわしゃわしゃと撫でまわしておく。きゃーと小町がノリよく騒ぐ。よーしよしよし、小町ちゃんかわいぞーと、ムツゴロウさんばりにくしゃくしゃやっていたら、さすがに「そろそろやめて」と素で言われた。さすがにやりすぎた……。

 

 こほん、と小町が咳払いする。

 

「明日はどうするの?」

 

「ディスティニーに行ってくる」

 

「それで?」

 

 暗にそれだけじゃないだろと小町が訊いてくる。

 

 仕方なく伝えることにした。なんだかんだで今回の件では小町にだいぶ迷惑をかけているのだ。これくらいの決意は伝える必要があるだろう。

 

「……告白する」

 

 恥ずかしくなってぽいっと顔を明後日の方向に背ける。なんか騒がれるんだろうなーと思いきや、小町は「そっか」と言っただけだった。

 

 気になって小町を見る。小町は嬉しそうにやさしく微笑んでいた。

 

「なんだよ」

 

「成功するといいね」

 

「まあな。失敗したらしばらく引きこもる」

 

「大丈夫。お兄ちゃんだもん。成功するよ」

 

「俺だからってのは説得力に欠けるんだけどなあ……」

 

 この手の戦いで勝利したことなどないのだ。もっとも、勝負の舞台に立てていたかすら怪しいところだが……。

 

 過去の記憶が走馬灯のように蘇る。

 

 折本のときといい、他の子のときといい、マジでろくな思い出がねえ……。

 

 げんなりしていると手に体温が灯る。小町が手を握っていた。

 

 あれ、小町ちゃんどうしたの? やけに今日はサービスいいね。とか、どこぞの中年サラリーマンみたいなことを考えるくらいには慌てた。

 

 にへへ、と小町が俺を見上げて笑う。

 

「なーに言ってんの。小町のお兄ちゃんだよ? うまくいくに決まってるじゃん。いまのお兄ちゃん、最高にかっこいいんだからね」

 

 いつもの科白が無かった。ポイント制度はどこに行った? あれ、いつの間にか廃止になったの? ポイント還元セールもなくなっちゃったの?

 

 訳が分からなくて混乱していると、小町の笑みが深くなった。それは、妹の成長を感じる大人びた表情だった。

 

「大丈夫だから。しっかりやってきなさい」

 

 ぎゅっと、力強く手を握られる。

 

 どうやら、今日はとことん俺に甘い日らしい。

 

 はは、と湿っぽい笑みがこぼれた。今日は涙腺が緩みっぱなしだ。ダッツと一緒にマッカンでも買って水分を補わないと……!

 

「ま、なんとかやってくる」

 

 兄らしく答えてみせて手を握り返す。

 

 ずっと、線を引いていた。

 

 他者と自分とを隔てる明確な境界線を。誰とも交わず、はっきりと蓋をして、誰よりも鈍らせて、もの言わぬ像のようになって、賢しらに語れる観測者の立場に身を置いてきた。

 

 それがどんな理由であったかも明確だ。

 

 間違えないように。後悔しないように。勘違いしないように。痛いことは嫌だから。もう、つらい思いだけは絶対にしたくないから。

 

 思考が被る。かつて抱いた思考をなぞっている。一体いつのことだったか。どうせ、あの人に見透かされ、言われた後のことだろう。

 

 だが、いまは自信をもって答えられる。

 

 俺は彼女に恋をした。

 

 これが俺の本当の恋だ。

 

 

 

 



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幕間
Interlude


 夢のような日々だった。福音の調べでも聴いているかのように幸せで、きらきらと七色に輝いている日を過ごすのは初めてだった。

 

 嬉しかった。言葉に言い表せないほど幸福だった。しかも、あたしの問題の何もかもを解決してもらって、どうすればこの感謝を伝えられるのか分からないほどだ。

 

 だから、この日々に終わりが訪れる明日が怖かった。八幡との物理的距離が離れるのが恐ろしかった。

 

 なにより、本当に自分が好かれているのか自信がなかった。

 

 本当は、あたしよりもあの二人の方が……。

 

 これはある種、強迫観念のようなもので、ふとした瞬間に心に浮かび上がってくるのだ。どうしてもそれを止められなくて、不安で胸がきゅっと締め付けられるように苦しかった。

 

 お願いだから杞憂であってほしい。きっとあたしを見ていてくれる。あたしの傍にいてくれる。ずっと、隣で歩いていてくれる。

 

 確信しているはずなのに、心のどこかが違うと囁く。

 

 だって、たった四日だから。

 

 一緒に過ごした時間が短すぎるから。

 

 信じてるのに……どうしたって嫉妬が顔を出して心にちょっかいを出してくる。

 

 お前じゃあの二人に勝てない。負担ばかりかけているお前が、どうして彼に好かれようか。彼にお前は似合わない。あの二人のほうが遥かにお似合いだ。身の程を知れ。分をわきまえろ。

 

 やめて。一番痛いところばかりを叩かないで……!

 

「八幡……」

 

 家主不在の部屋の中で、布団に包まってひとり呟く。

 

 寂しかった。いま触れたかった。いま傍にいないことがつらかった。たった一瞬でも隣にいないことが、どうしようもなく怖かった。

 

 彼がいないだけで、世界に色が無くなってしまったように感じる。目の前が絶望に満ちているようだ。

 

 こんな風になっちゃいけないと理解している。ひとりで立てるだけの力をもらった。心の平穏を保つ方法も教えてもらった。

 

 ぐっと身体の芯に力を入れる。嵐の中で必死に立ち続けるように、自分の身体を抱きしめた。

 

 不安よ吹き飛べ。

 

 川崎沙希、あんたはそれだけのものを比企谷八幡からもらったんだから。

 

 笑いなさい、不幸など感じたことがないように。

 

 喜びなさい、すべてが幸いだとでもいうように。

 

 だから、八幡……明日、聞いてほしいことがあるの。

 

 ねえ……伝えたいことがあるの。

 

 やっと、言葉にできるようになったことがあるの。

 

 想いがやっと形になったの。

 

 この大切な気持ちをあなたに届けて、同じものを返してくれるのだとしたら。

 

 あたしはきっと、誰よりも幸せになれるよ。

 

 ですから、どうかお願いします。

 

 神様。

 

 少しでいいですから、ほんの少しだけでいいから、あたしの不安を消し去る勇気を下さい。

 

 

 

 



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五章
そして、ふたりが選び取ったものは 1


 連休最終日は、朝から心が浮ついていた。どうしてかジッとしていることができなくて、勝手に貧乏ゆすりをしたり指を組んだり外したりと、なかなかに忙しい。その様を小町は大人の笑みで眺めているだけだ。

 

 今日は最終日とあって、小町の勧めで俺だけが先に出て舞浜駅前で待ち合わせをすることになった。

 

 久しぶりに駅までの道をひとりで歩く。電車に乗って舞浜駅まで二十分ほどをつり革に摑まってゆらゆらと揺られる。

 

 今日自分がやる事を考えると、緊張のひとつでも出てくるはずなのに至って平常心だ。むしろ、楽しみだと思う感情が強く表れている。これで断られたら一体どれだけ凹むのだろうか。

 

 そんなふうに電車に乗っていると、窓の向こうに東京ディスティニーランドのアトラクションが目に入る。

 

 うわぁ、早く沙希と遊びたいなぁ。

 

 なんて、らしくもない考えが浮かぶ。心が昂っていた。

 

 ワクワクしながら舞浜駅を降りる。ディスティニーの発車ベルの音を聴きながらホームを下りて改札を抜けた。

 

 集合場所に辿り着く。腕時計に目を落とすと集合時刻までまだ時間があった。いつもならスマホでニュースサイトでも見るところだが、どうにも落ち着かなくてその場でそわそわする。

 

 ふと、スマホが鳴る。沙希からのメールだった。

 

「もう着いた頃?」

 

 簡素な内容。それでも嬉しいと感じるのは恋のなせる魔法か。

 

「丁度着いた」

 

 こちらも簡単に返信する。

 

「そっか、もうちょっと待って。こっちももう少しで着くから」

 

「気にするな。元ぼっちは待つのが得意だからな」

 

「ようやく元って認めたんだ」

 

「いまさら無駄な予防線を引いても仕方ないだろ」

 

 ぽんぽんメールが飛び交う。いつもは長い一分がすぐに過ぎ去っていく。時が圧縮されたように十分が過ぎて、舞浜駅に着いたという沙希に声を掛けられた。

 

「おまたせ」

 

 視界に入ってきたのはアネモネを連想させる淡い紫だ。

 

 珍しく帽子を被った沙希が柔らかく笑み、その場でくるりと回って見せた。

 

「どう?」

 

 今日は髪をストレートにして被っているのは可憐な桜色のキャスケット。白地に花びら模様が散ったワンピースを着て、腰には梅色のベルト。その上から淡い紫のカーディガンを羽織り胸元を白いリボンで留めている。足元は動きやすそうな白のサンダルだ。

 

 まあ、なんというか、服装なんて基本どうでもいいとは思っているのだけれど。

 

 つまりは可愛すぎた。

 

 一輪のアネモネを連想させる甘い恰好。

 

「まあ、その、なんだ……可愛い」

 

 ぼそっと呟く。

 

 にんまり笑った沙希がふわっと背を向けると、「やった」と小さく拳を握った。そんな仕草も可愛く感じるのだから困る。なにこの子、相変わらず天然で一色を越えてくるんだけど。

 

「ん、行こっか」

 

 反転した沙希が俺の腕に抱き着いてくる。沙希の感触を腕全体で味わいながら、ふたりで歩き出す。

 

 入場待ちの列に並んで、チケットをパスに引き換えてエントランスゲートから中へ進む。

 

 本当は当日券を購入する予定だったのだが、親父が昨日わざわざチケットを買ってきてくれたのだ。

 

 曰く、「息子の勝負くらい手伝わせろ」とのことだ。親父ぃ……あんた、いま最高に輝いているよ。

 

 なんにせよ、この大型連休最終日にチケットなしでディスティニーに来ようとした計画性のない俺にびっくりだ。いつもはワクワクしながら綿密に計画をたてるというのに……!

 

 ともかく、沙希と一緒に広場のような場所に出る。映画から飛び出してきた西洋風の建物が並ぶメインストリート。背景には白亜の城がそびえ立つ。人は多いが、俄然気分が上がっていく。沙希も思わず声を上げてあちこちへ視線を飛ばしていた。

 

 目の前にひときわ目立つ人だかりがあった。人相の悪いパンダ、ディスティニーの看板キャラクターであるパンさんが観光客に囲まれていた。うわあ、雪ノ下がいたら絶対に特攻してくだろうなあ。

 

 さすがにあの人込みを突破することなどできず、迂回して先へ進んでいく。

 

 ここで問題が発生。

 

 どこを回ろうか……。

 

 折角のデート。しかも告白なんぞをかまそうというのに、園内の回り方ひとつ考えていない、どうも俺です。

 

 ちょっとまずったなあと隣を見るが、沙希はそんなことどうでもいいとばかりに目をあちこちにやって「どこ行こっかなー」とのぼせたように呟いている。

 

 うん、沙希の行きたいところに行こう(思考放棄)。

 

 なんだろう、こういうとき男は引っ張るものだとか一色に言われた気がするけれど、沙希には意外と当てはまらない。そんなところが気分的にも楽で、やっぱり沙希と一緒にいるのは精神的にも良くていいなあ、なんて思ったりする。

 

 あ、と声を上げた沙希が、もこもこ怪物ヌーヌーのゴー&ライドの建物を指差す。人気アトラクションだというのに奇跡的に行列が短く、沙希に手を引っ張られて最後尾に着く。

 

「これ行ってみたかったの」

 

 沙希のテンションは留まることを知らないようだ。さっきからきゃっきゃと笑い声をあげて飛び跳ねている。

 

「そりゃあよかった」

 

「まえに一度来たことあるけど、けーちゃんのお守りで行きたいとこに行けなかったから」

 

「なら今日は沙希の好きなとこでも行くか」

 

「いいの?」

 

 沙希が目を輝かせる。こんなことで喜んでもらえるのなら来た甲斐があったというものだ。

 

「構わん。行きたいとこ言ってくれ。全部付き合う」

 

 やった、と沙希がその場で跳ねる。うん、胸もばいんばいんしてるからそろそろやめようね。八幡目が逸らせなくなるから……!

 

 俺の視線に気づいた沙希が、んふふーと意地悪そうに笑んで腕に抱き着いてくる。思い切り胸を押し付けてくるのですぐに頭が沸騰する。

 

「沙希さん、少し離れませんか?」

 

「やだー」

 

 ふふふと微笑む沙希は俺の腕をがっちり掴んで離さない。人肌の温もりと女の子の柔らかさと好きな人に触れている恥ずかしさとで、頭がしっちゃかめっちゃかになる。

 

「あれだ、なんだ……まあいいか」

 

 結局負けた。なんかもうこのままでもいいかなと思った。だってほら、ここ夢の国だし。別に現実のこと考えなくていいもんね。ちょっとくらい良い気分を味わったってバチは当たらないよね。

 

「うん、いいの。今日はずっとくっついてる」

 

「ま、ほどほどにな」

 

 保ってほしい、俺の理性……!

 

 沙希が抱き着いたまま俺を見上げてくる。夢の世界にいるせいか沙希の瞳の輝きがいつもより増していて、まるで宝石のようだった。

 

「あのね、なんだか今日はずっと楽しいの」

 

「まだ来たばっかだぞ? ついでに言うとまだなにも乗ってないしな」

 

「うん、でもすっごく楽しいの。なんでだろうね」

 

 意味深に笑ってみせて、沙希が頬をこすりつけてくる。

 

 俺も同じだ。

 

 この場にいるだけで心躍る気分になる。これがディスティニーランドの魔力なのか、あるいは沙希がいるからなのか。もしくは、その両方なのか。疑問に明確な解答はない。感情なんてそんなものだ。

 

 どうだっていい。

 

 いまがすごく楽しいのだから。

 

「ま、今日は難しいことは無しだ」

 

「うん、そうだね。ヌーヌー楽しみだなあ」

 

「気弱フェルトのムクムクもいいぞ」

 

「ムクムクも好き! 抱きつきたい!」

 

「誰しも一度は考えるよなあ。あれは抱きつきたい。むしろ布団にして寝たいまである」

 

 気弱フェルトのムクムクとはパンさんに次ぐ人気キャラクターで、雲のようなもくもくした毛に覆われた白い羊だ。全世界抱きつきたいキャラクターランキングで常にトップに君臨しているキャラクターでもある。ムクムクの抱き枕とかあったら欲しいなあ。

 

「じゃあムクムク見つけたら抱きつきに行こうよ」

 

「だな、ふたりで抱きつきにいくか」

 

 わあ、ムクムクと会えないかなあ。いまから楽しみだ。

 

 

 

 ヌーヌーのゴー&ライドから出る。ライドに乗っている最中、沙希は幼子に戻ったかのようにしゃぎっぱなしだった。その様がアネモネの妖精のように可愛らしくて、見ているだけで幸せな気持ちになれた。

 

 むにゅっと沙希に腕を掴まれてランド内を散策する。

 

 お掃除をしているキャストさんが、歌いながらモップで地面に絵を描いているところに遭遇した。

 

「あ、おしゃまキャットメリーちゃんだ!」

 

 沙希が驚きと興奮の声を上げる。キャストさんがモップでメリーちゃんの絵を描いていた。よく聞けば歌もメリーちゃんのテーマソングだった。なんだか得した気分になってふたりして写真をパシャパシャ。キャストさんが気を利かせて、絶妙な角度で絵と俺たちを写真で撮ってくれる。

 

 うわあ、本当に夢の国みたいだあ……。

 

 ふたりでわーきゃー言いながらランド内を歩く。泥まみれ姫サーリンの白亜の城が近づき、沙希が歓声を上げながら俺を引っ張っていってサーリン城の列に並ぶ。

 

「女子はサーリン好きだよな」

 

「女の子の憧れだからね」

 

 城を見上げて沙希がしみじみと言う。

 

「沙希もサーリンみたいに王子様でも待ってたのか?」

 

 どうだろ、と沙希が首を捻る。

 

「王子様っていうより、あたしを見てくれる人を待ってたのかもね」

 

 薄く笑んだ沙希が俺を見上げる。意味ありげな科白が心をかき乱す。思わずそわそわしそうになって、でも、いまは楽しむだけにしておこうとじっと心を落ち着かせる。

 

 しばらくして順番になり、サーリン城の中を散策する。物語の中に入ったような気分にさせられるその内装にふたりして感嘆。有名なガラスの靴が展示されているのを眺めたり、そのガラスの靴に履けると分かって嬉々として沙希が靴を履いたり。終始ふたりで騒いでいた。

 

 サーリン城を出てランドを歩いていると、なんと、ムクムクと遭遇する。もはや丸としか言えないもこもこしたシルエットが、のっそのっそとランド内で飛び跳ねている。

 

 わあ、ムクムクだあ。柔らかそう。抱き着きに行かないと!

 

 沙希と見合わせてムクムクへ突撃する。

 

 了承を取ってふたりで抱き着き、むくむくの身体を堪能する。雲に包まれたような感覚で思わず夢見心地になる。

 

 ああ、やわっかいなあ。気持ちいい。このまま寝たい……。

 

 キャストさんに写真を撮ってもらって、名残惜しくもムクムクから離れる。ムクムクは俺たちに愛くるしい瞳を向けて短い手をたくさん振ってくれた。

 

「ムクムクうちに欲しい!」

 

「抱き枕売ってねえかなあ……」

 

「うん、抱き枕欲しい!」

 

「帰りにショップ寄ってくか。抱き枕を探すぞ」

 

「うんうん、探そー!」

 

 そろそろ時刻は正午を回ろうとしていた。いい加減小腹が空いてくる時間だ。

 

「どっかで昼飯でもとるか」

 

「うん。ここってレストランより軽食の方がおいしいらしいよ?」

 

「詳しいんだな」

 

「昨日調べた!」

 

 すごいでしょ、と沙希が自慢げに言ってくる。もう、この子は昨日から楽しみにしちゃって。えらいぞーと左手で頭を撫でてやると、んふーと沙希が相好を崩す。

 

 近くにあった軽食屋に寄る。

 

 俺はかっちんタートルのミーくんが焼き印されたパンケーキサンド、沙希はパンさんのスパイラルロールを購入。席に座ってふたりしてもふもふと食べる。うん、かっちんタートルなのに柔らかい……。なぜだ……でもうまい。

 

 沙希が俺のパンケーキをじっと見ていたので、口に突っ込んでみる。んふふーと嬉しそうにそれを咀嚼した沙希は満足げに頷いた。

 

「おいしい。でもカメなのに硬くないね」

 

「やっぱそう思うよなあ」

 

「こっちも美味しいよ」

 

 はい、と沙希がスパイラルロールを差し出してくるので、失敬して拝借。パンさんが竹を携えくるくる回っているパッケージを見つつ、ロールにかぶりつく。カリッとした触感の後にピザソースとチーズの濃厚な味が口内に広がった。

 

「うまいな」

 

「うん、おいしいでしょー」

 

 うまい美味しい言いながら軽食を食べ終える。立ち去るついでにパンさんのチュロスを二人して買って、食べながら歩き回る。

 

 周囲がにわかに騒ぎ出す。卵の殻を被ったいたずら好きのウサッピーが、あちこちに嵌っているへんてこな青いおもちゃが現れたのだ。おもちゃの上では仮装したパンさんがゲストに手を振りながら踊っている。

 

 なにあれすごい!

 

 パレードが始まったようだ。次から次へとへんてこすぎるおもちゃがやってくる。周囲が歓声を上げる。沙希もわあと声を漏らして飛び跳ねる。あの、気持ちは分かる。すっごく分かる。でも、腕を抱えたまま跳ばないで! 身体が、がくがくするから……! あとやっぱり胸ぇぇ!

 

 俺の葛藤など知らぬとばかりに沙希がはしゃぎまわる。仕方ないなあなんて苦笑して、沙希に引っ張られながら人込みをかきわけ最前列へ。

 

 うわあ、ディスティニーキャラがいっぱいいるよお。

 

「すごいすごい! やっぱり来てよかった!」

 

 沙希が笑いながら俺に引っ付いてくる。

 

「ありがとうね八幡。大好き」

 

 ぼん、と顔が赤くなった。一瞬、なにを言われたか分からなかった。沙希を見ると、なにを言ったのか気づいていないのか愉し気な表情でパレードを眺めていた。

 

 告白ではない。

 

 きっと、告白などではないのだろうけど。無意識でそんな言葉が出てきたという事実に心が喝采を上げた。純粋に生きていて良かったと思えた。

 

 もしかして、今日の告白は成功するのではないかと期待が膨らんだ。そうなると心の内にあったわずかな不安も吹き飛んで、どんどん気分が上がっていく。

 

 気を取り直してパレードをふたりで鑑賞。次から次へと現れるディスティニーキャラとそのイベントの内容に、元ぼっちの俺たちはらしくもなく大盛り上がりだった。

 

「すごかったね。ウサッピー可愛かった」

 

「ウサッピーたくさんいたな」

 

「うんうん。あんなたくさんのウサッピーが見られるなんて映画の中にいるみたい」

 

「夢の国だからな」

 

「えへへー、楽しいなー」

 

 にへらと笑った沙希がしなだれかかってくる

 

「もう、いっぱいいっぱい幸せなの」

 

 一瞬の隙を取られて口づけされた。ぎょっとして顔を仰け反らせると、沙希がしてやったりという表情をして俺を見ていた。

 

「んふー、あたしの勝ち―」

 

「なんの勝負なんですかねえ」

 

「隙を見せたらちゅーする勝負」

 

 なにその俺得勝負。ちょっと本気出しちゃおっかなあ。

 

 思わずやる気になっていると、沙希がぷいっと顔を逸らす。

 

「八幡はだめー。あたしがずーっと勝つんだもん」

 

 ショートケーキもかくやの甘さだった。漂う空気がぬるくて、脳髄を痺れさせるほどに甘く、胸がきゅっとなる。

 

「ま、恥ずかしいしな」

 

 頬を赤らめて言うと、沙希がむーっとむくれる。

 

「えー、してくれないの?」

 

「勝ちたいのか負けたいのかどっちなんだ」

 

「ちゅーしたいだけー」

 

 んもう、サキサキったらワガママさん! でもやっぱりまだ恥ずかしいからふたりになれる場所でね!

 

 どんどん沙希が好きになっていく。底の見えない崖を転がり落ちている感覚。きっと、その先にあるのは沙希によって張られた甘い恋の罠。もう完全に嵌っていた。

 

 いっそこの場で抱きしめたかった。燃え上がるこの想いを言葉にして伝えたかった。どんな結果でもいい、声に出してふたりで共有できるなら、どこでだって構わない。そんな狂える衝動に襲われた。

 

 一拍の隙。

 

 再び口づけされる。えへへーと笑う沙希があまりにも可愛くて、強固だった理性にヒビが入った。

 

 まだ昼だ。まだ耐えろ。折角の告白だ。場所だってもっといいところでしたいし、ここは人が多すぎる。

 

 一瞬、沙希が目を剥いた。唇がわなわなと震え、遠くを見ているように見えた。瞳が言いしれない不安感に滲み揺れているようだった。

 

 思わず声を掛ける。

 

「どうした?」

 

 はっとしたように俺に視線を戻した沙希が、すぐにくしゃりと笑ってみせた。

 

「んーん、なんでもない。行こ?」

 

 俺の手を取って沙希が進んでいく。腕に絡みついてこないことに違和感を覚えた。

 

 なにかあったのか。俺の対応に問題でもあったのか。急に不安がこみ上げてくる。

 

「沙希……」

 

「違うの」

 

 なにか言う前に遮られる。

 

 手を解いて振り返った沙希が俺を見つめる。甘くも儚いアネモネの微笑み。

 

「ただ、怖くなっただけ。あまりにも幸せだから」

 

 あたしでいいのかなって。

 

 最後の言葉は、ほとんどが園内の喧騒の中にたゆたって消えた。

 

 なにかを言うべきだった。だが、声に出すべき言葉が見つからない。

 

 再び楽しそうな笑顔に戻った沙希が俺の腕を抱きしめてくる。もうつまらない話は終わりとばかりに。

 

 ただ、俺の心に一抹の不安が汚泥のように溜まり始めていた。

 

 

 

 

 



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そして、ふたりが選び取ったものは 2

 パークをふたりで巡る。アトラクションやイベントを体験しなくても、散策しているだけで楽しめる。夢の国と言われるだけあって、どこもかしこもお祭り騒ぎで、心が浮ついて仕様がない。

 

 小腹が空いて、軽食店でポップコーンをひとつ買ってふたりでそれを分け合う。

 

「八幡、はい」

 

 言われれば口を開けてポップコーンを沙希に放り込まれ、

 

「ほれ、沙希」

 

 言って沙希の口にも入れ返す。

 

 んふふーとにやけた沙希が身体をこすりつけてくる。すっかり腕に抱き着かれている状態になれてしまって、困った奴めと視線で応えてやる。

 

 可憐なアネモネの笑みを浮かべた沙希が、人込みの視線の隙をついて口づけしてくる。たったそれだけで身体が熱くなった。

 

 だが、心中は穏やかではなかった。不安は沼となって両足を引きずり込んでいた。悪い癖だ。吉兆も福音もすべてを反対にとらえ、勘違いしないようにと自らの立場を孤独な観測者として置いていた過去。それらの過ちが形を変えて罰となり、俺の心に突き刺さっていくようだった。

 

 それを必死で抗おうと沙希との時間を楽しんだ。沙希が隣にいるだけで心が温かくなれた。手を繋ぐだけで心底安心できた。声を聞けるだけで幸せだった。

 

 だから、大丈夫だと思った。

 

 アトラクションを楽しみ、ショップを回り、イベントを見て歓声をあげ、夢の時間を過ごしていく。時が過ぎるのはあっという間だった。

 

 気づけば夜になっていた。パーク内がライトアップされ、昼間と雰囲気ががらりと変わる。魔法が解ける時間まであとわずか。

 

 次第に俺の腕に抱き着く沙希の力が強くなっていく。

 

 海から吹くかぜがにわかに冷たくなってきた。それでも、お互いの体温を分け合っているお陰で身体は暑いくらいだった。

 

 モノレールに乗りたいと言った沙希と一緒にステーションへ向かう。ハリネズミのユーフィーが描かれたモノレールに乗る。車内はディスティニーキャラクターの意匠で彩られていた。ムクムクを基調とした座席に座り、ディスティニーリゾートを一周する。

 

 窓側に座っていた沙希は、両手を窓に付けて外を眺めながら嬉しそうな悲鳴を上げた。モノレールの外は、ライトアップされたリゾートが宝石箱をばらまいたみたいに煌びやかに輝いていた。

 

「夜景きれいだね」

 

「おう、そうだな」

 

「ムクムクの抱き枕買えたね」

 

「家に届けられるのが楽しみだよな」

 

「うん。あれで毎日気持ちよく寝れそう」

 

「俺は起きれなさそうだ」

 

「あたしもそうかも」

 

 沙希が苦笑して言った。かつて、ふたりで遅刻の回数を争っていた時期があった。そのときのことを思い出しているのだろう。

 

「八幡。来てよかったね」

 

「だな、ディスティニーではしゃいだのは初めてだ」

 

「すごく楽しかった」

 

「俺も楽しかった」

 

 そのまま少し雑談をしながらディスティニーリゾートの夜景をふたりで眺める。

 

 ふいに、沙希が囁くように言った。

 

「ふたりになりたいの」

 

「ん?」

 

「ふたりにね、なりたい」

 

 振り返った沙希の瞳は潤んでいた。

 

「なんだろうね。すごくね、触れたいの。いっぱいいっぱい触れたくて、我慢できなくて。どうしていいか分かんないの」

 

 俺も我慢の限界だった。うちに秘めた想いを言う時間だと思った。

 

「……分かった。行くか」

 

「うん、ありがとう」

 

 モノレールを下り、スーベニアメダルも買わずにステーションを出る。サーリン城を通り過ぎて、炎の修道女ロザリロンドの願い井戸にたどり着く。ロザリロンドと六人のローザンヌ達のオブジェが地面からライトアップされていて、人もまったくいなくて、ロマンチックな空気が溢れるくらいにたゆたっていた。

 

「やっと……ふたりになれた……」

 

 沙希が正面から抱き着いてくる。俺も沙希の背に腕を回して力を込めて抱き返した。

 

 沙希の艶っぽい吐息。

 

「沙希……」

 

 勝手に声が出た。自分のものとも思えぬ、柔らかい声。

 

「八幡……」

 

 抱きしめてくる沙希の力が強くなる。

 

 息が震えた。あまりにも愛しくて。

 

 好きで、好きで、大好きで。これ以上の言葉などどこを探しても見つかりはしないとばかりに感情が間欠泉のように湧き出してくる。それを抑えている喉が悲鳴を上げていた。もう吐き出してしまえと訴えかけていた。

 

 己の心の切実さに、理性が限界を迎えた。

 

「沙希」

 

 もう一度名を呼んで、名残惜しくも沙希の身体を離す。少しだけ距離を開けて沙希と向かい合った。

 

「伝えたいことがある」

 

「うん」

 

 深く息を吸う。

 

 生まれて初めての本当の告白。

 

 緊張はある。でも、本物の想いを言葉にしたくて、声に乗せて伝えたくて。

 

 俺は告げる。

 

「好きだ」

 

 沙希が目を見開く。

 

「誰よりも沙希が好きだ」

 

 沙希の目じりに涙が浮かんだ。

 

「沙希の声も、仕草も、笑顔も、大切な家族を想う心も、何もかもが好きだ」

 

 もっといい言葉はきっとあった。心震わせる表現はもっとあったはずだ。でも、好きという感情が勝手にまろび出てきて、頭で思考する隙すらなく声になって外へ放たれていた。

 

「俺と付き合ってくれ」

 

 満感の思いを込める。この五日間で抱いた感情すべてをこの言葉に乗せる。

 

「俺の恋人になってくれ」

 

 沙希の顔が綻ぶ。涙が頬を伝い、顎に滴って地面にぽたぽたと落ちる。

 

「あたし……あたし……!」

 

 沙希が声を震わせる。両手を胸に抱いて、何かを伝えようと必死になって口を開こうとする。だというのに、嗚咽が零れて言葉にならないようだった。

 

 だから待った。

 

 どんな言葉だって受け止められると思った。

 

 沙希の言葉だったら、どんなものであっても聞きたかった。

 

 一分の間。

 

 涙を拭って嗚咽を飲み込んだ沙希が俺を見て――

 

 

 

 絶望の顔をした。

 

 

 

 恋は難しい。

 

 まず、何が正しいか分からない。なにせ人によって恋の価値観が違うから。俺にとっては正しいことでも、彼女にとっては不都合なことなのかもしれない。

 

 恋は予測できない。

 

 言葉や態度は感情と必ずしも一体とは限らない。表層など容易く取り繕えるから勘違いして恋慕を募らせ暴走して、取り返しのつかないことになる。

 

 そもそも恋がわからない。

 

 いつだって俺の恋は紛いもので、心の底から本当の恋というものを感じたことがない。言葉や態度の裏を読む癖があるから、生まれる期待は産声を上げる寸前に意識がぎゅっと押し込んで殺すのだ。

 

 恋なんてしたくない。

 

 分からないから。理解できないから。納得できないから。他人を許容することも、自分をさらけ出して寄りかかることも、俺にとってはひどく難しいことで、判然としなくて、とても怖いことだから。

 

 人の心はとても曖昧で繊細で、確固たる形を持たない。未来の自分の心はおろか、いまですら完全な制御ができない。

 

 それでも、理解してくれようとしてくれる人がいる。知りたいと願える人がいる。さまよえる情動の中で、俺は確かに眩い何かに気づいたのだ。

 

 俺は沙希に恋をした。

 

 俺は沙希が好きだ。

 

 社会は憎悪と悪意に満ち、苦痛や孤独の怨嗟の声に溢れていても、きっといまこの瞬間の俺は誰よりも幸せだと。生まれて初めて手にした恋が、かくも人の闇を祓い盲目にするのだと。

 

 恋が、これほどまで心に荒波を立てるものだと知ってしまった。

 

 だから願うのだ。分かってほしい。実ってほしい。欲してほしい。知ってほしい。隣にいたい。一緒に歩きたい。ずっと、繋がっていたい。

 

 なのに、人生というやつはつくづく苦いらしい。

 

 目の前の彼女が、瞳を驚愕と恐れと懊悩に揺らし、俺を見ずに遥か向こうへと視線を泳がして、首を振って唇を震わすその姿は。きっと、拒絶と定義されるべきもので、俺が欲しかった答えなどではない。

 

「沙希?」

 

 急に不安になって問う。沙希はわなわなと肩をびくつかせて、勢いよく顔を伏せる。

 

 声が聞きたかった。なんでもいいから言葉にして欲しかった。もういっそふってくれたっていいから、一言、どうか一言を……。

 

 沙希が顔を上げる。涙で顔をくしゃくしゃにして、大きく悲しみに歪んだ顔で、沙希が言った。

 

「……あたしじゃ、やっぱり無理だよ」

 

 世界が壊れた。

 

 逃げるように沙希が走り去っていく。俺は動けない。なにも感じられない。すべてが終わった。何もかもが、終幕の奥へと追いやられていく。

 

 もう、なにも考えられない。

 

 

 

 

 




一話の伏線回収完了。

紫のアネモネの花言葉は「あなたを信じて待つ」。
アネモネの花言葉は「はかない恋」「恋の苦しみ」「見捨てられた」「見放された」。


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そして、ふたりが選び取ったものは 3

 兄の帰りをソファーで座って待っていた。バラエティ番組を見ながらも内容は上の空。結局、兄は大丈夫かと心配になってくる。

 

 この五日間を見ればその不安も杞憂だ。沙希さんは確実に兄を想っているし好いている。そうとしか考えられない。なら、心配なんてするだけ無駄だ。

 

 兄は吉報をもって帰ってくる。

 

 今日は少し奮発してケーキ屋でチョコレートケーキを買ってきた。甘いもの好きの兄ならきっと喜ぶだろう。

 

 初めて人と想いを交わし合った兄の姿が早く見たかった。徐々に落ち着きが無くなってくる。ソファーから意味なく立ち上がったり座ったり、リビングを歩き回ったりしながら兄を待つ。両親は今日も仕事で遅いから、私の興奮が家じゅうに広がっていく。

 

 やがて、玄関からドアが開く音がした。

 

 兄だ。

 

 リビングから飛び出して兄を出迎える。

 

「おかえりー! お兄ちゃんうまくい……お兄ちゃん?」

 

 喜びに溢れた声が疑問に変わる。

 

 兄はどこか疲れた様子だった。いつもそんな感じだけど、それを三倍にしたくらいひどい有様で、放っておけばその場に倒れそうなほど憔悴しているように見えた。

 

「お兄ちゃん? 大丈夫?」

 

 顔を伏せた状態の兄へ慌てて駆け寄るも反応がなかった。

 

 急に不安に襲われた。

 

 兄が顔を上げる。

 

 背筋が凍った。

 

 目が死んでいた。

 

 もはや何者も信用しないと言わんばかりの、あらゆるすべてを拒絶する眼だった。

 

「お兄ちゃん……なにがあったの?」

 

 怖くなった。なにかとんでもないことが起こったんじゃないかと勝手に頭が思考を始めた。

 

 もしかして沙希さんが事故にでもあった? なら兄がこんなところにいるわけがない。あるいは喧嘩した? でもそれだけで兄がこんな風になるはずがない。なら一体何が……。

 

 問いの答えは思いの他すぐに返ってきた。

 

「ふられた」

 

 は?

 

 思考に空白が生まれる。

 

 イマ、ナンテイッタ?

 

「寝るわ」

 

 兄がよろよろと身体を揺らしながら階段を昇っていく。私はその姿を呆然と見つめていることしかできない。

 

 なんで? どうして? 疑問ばかりが浮かんで、ようやく兄が心配になった。

 

 静かに二階に上がって兄の部屋の前に立つ。そっとドアに耳を寄せると中から声が聞こえた。

 

 兄の嗚咽だ。

 

 必死で悲しみを殺さんとする、聞く者の心を引き絞る声だった。

 

 今度こそ頭が真っ白になった。そして目が飛び出さんばかりの驚愕。次に「なぜ」と疑問が浮かび、やがてそれは、マグマのような怒りに変わった。

 

 なぜふった?

 

 どうして断った?

 

 一体どんな理由でお兄ちゃんの告白を蹴った?

 

 あれだけこれ見よがしに好意をまき散らした結果がこれだって?

 

 ……。

 

 許さない。

 

 絶対に許さない!

 

 裏切ったな……!

 

 私のお兄ちゃんを裏切ったな‼

 

 兄に気づかれないようリビングに降りる。スマホを取り出して沙希さんへ電話を掛ける。繋がらない。また掛ける。繋がらない。何度も掛ける。繋がらない。なぜ繋がらない。ふざけるな。言い訳のひとつでも言ってみせろ!

 

 開かない埒を無理やりこじ開けようと、大志くんに電話を掛ける。

 

 沙希さんは今日、ディスティニーの帰りにそのまま家に帰宅する予定だった。兄が家に帰ってきたならば、沙希さんも川崎家にいるはずだ。

 

 三コール目で大志くんが電話に出る。

 

「もしも――」

 

「沙希さん出して。早く!」

 

「ひ、比企谷さん? 一体なにを……」

 

「いいから出せ!」

 

 小さく怒鳴る。本当は叫んでやりたかった。

 

 お前の姉は私の兄を裏切った。さっさと出せ。言い訳を聞かせてみせろ。私を納得させられるだけの説明をしてみせろ!

 

 だが、大志くんの反応は予想外だった。

 

「……お兄さん何したんすか?」

 

「は?」

 

 疑問。

 

 気づく。大志くんの声には怒りが混じっていた。

 

「……姉ちゃん、帰ってきてからずっと泣いてます。お兄さん姉ちゃんに何したんすか?」

 

「はあ?」

 

 泣いている? ふった側が? なぜ?

 

 すぐに怒りが降ってくる。

 

「ふざけないで! なんで沙希さんが泣くのさ! 泣きたいのはこっちだ‼」

 

 裏切ったのはそっちだろう!

 

 大志くんが声を張る。

 

「比企谷さん待った! なんかすれ違ってる気がする!」

 

「どうでもいいからさっさと沙希さんを出せ!」

 

「無理っす!」

 

「どうして⁉」

 

「姉ちゃん、見たこともないくらいひどい有様で泣いてて、人と話せる状況じゃないっす」

 

「だからなんで沙希さんが泣くのさ‼」

 

 ふざけるな。ふざけるな!

 

 お前が泣いていい理由なんてこの世にはひとつたりともありはしない‼

 

 怒りに任せて叫ぶ。

 

「ふったのはそっちだろ‼」

 

 そのとき、電話口で大志くんが息を呑んだ。

 

「……姉ちゃんが、お兄さんを振った?」

 

「そうだよ!」

 

「ありえない……」

 

 この世のものではないものを聞いたように、大志くんは掠れた声で言った。

 

 はたと私も気づく。これはおかしい。なにかがすれ違ってる。

 

 一旦落ち着いて冷静になろう。波立っていた心の水面を平静に保つ。ようやく感情の波が収まってきて、深く息を吸って長く吐いた。

 

「怒鳴ってごめん。大志くん、整理しよう。こっちはお兄ちゃんが落ち込んで帰ってきて、訳を聞いたら『ふられた』って言ってた」

 

「こっちは帰ってきたときには号泣してて、なにも聞けてないっす」

 

 わけが分からない。世の理不尽を詰め込んだような事態が起きていると思った。

 

「分かった。いまは理由……聞けないよね。こっちも同じような状態だから」

 

「はいっす。どうしたらいいか……」

 

 ふたりして黙り込む。

 

 ふいに、キャッチが入った。画面を見ると、雪乃さんからの電話だった。少しでも知恵が欲しかった私はそれに飛びつくことにした。

 

「ごめん大志くん、キャッチ入った。もしかしたら理由が分かるかもしれないから、一回電話切るね」

 

「分かりました。こっちでもなんとか探ってみます」

 

「ごめんね、ありがとう」

 

 電話を切ってすぐに雪乃さんへ掛けなおす。雪乃さんへはすぐに繋がった。

 

「小町さん? 遅くにごめんなさい。比企谷くんに連絡を取りたかったのだけれど全然出てくれなくて……」

 

「はい、兄はいま電話に出れない状態でして……」

 

「やっぱり……」

 

 いま、なんて言った?

 

 もしかして雪乃さんは何か知っている?

 

「雪乃さん、なにか知ってるんですか?」

 

 一拍の無言。

 

 そして、がりっと奥歯を噛む音が聞こえた。

 

「……小町さん。最初に伝えておくわ。最後までしっかりと聞いて。なにを思っても、どうか最後まで聞いてちょうだい。その後ならなにを言ったっていいから。いいかしら?」

 

 猛烈な悪寒。寒気とかそういうレベルではない。全身が総毛だった。

 

 なにか知っているどころの話ではない。雪乃さんは確信に食い込んでいる。

 

「……はい。お願いします」

 

 雪乃さんが長く、長く息を吸う。

 

「私と由比ヶ浜さんは今日、ディスティニーランドにいたの」

 

 ……ああ。

 

「ええ、まったくもって偶然よ。知らなかったのよ。途中でふたりがいることに気づいて、本当はそのときに出ていけば良かったのだけれど、あの広い園内でもう一度出会うことなんてないと思ったから気にせずにいて……」

 

 ……なんてひどい。

 

「いつしか彼らがいることを忘れて楽しんで、最悪のタイミングで遭遇したのよ」

 

 ……これは悲劇か、それとも喜劇か。

 

「たぶん、あれは比企谷くんが川崎さんに告白してるところだったと思う。川崎さんが途中で私たちの存在に気づいて……」

 

 何か言っている。もう言わないでいい。すべて分かった。理解した。納得した。世のあまりの不合理さに神を呪い殺したくなった。

 

 その後、雪乃さんたちはどうしていいか分からずその場に立ち尽くしていて、気づいたら兄もいなくなっていた。慌てて兄に電話を掛けるがつながらず。混乱して錯乱して、ようやく妹の私の存在を思い出して掛けてきた。それがさっきの電話だ。

 

 長い息が出た。

 

 理不尽だと分かっていても、一言だけ伝えたかった。

 

「雪乃さん……」

 

「……なんでも言ってちょうだい」

 

 雪乃さんの懺悔の声。

 

「恨みます」

 

 雪乃さんが息を吸った。

 

「ええ。それだけのことをしでかしてしまった自覚はあるわ」

 

「でも、教えてくれてありがとうございます。あとは、なんとかします」

 

「もう、関わらせてはもらえないのかしら……」

 

「いえ、たぶん頼ると思います。私もどうしていいか分からないんです。原因は分かっていて……。でも正直、いま私も混乱してるんです」

 

 電話口の声が変わる。

 

「小町ちゃん、まずはみんな落ち着こう?」

 

 結衣さんだった。その声はひどく落ち込んでいて、いまにも死んでしまいそうなくらいな細い声。

 

「はい……」私は頷く。

 

「ごめんね、本当にごめんね。わたしたち邪魔しちゃって。折角の大事な告白をひどい有様にしちゃって。ごめんね。謝っても全然足りないけど……本当に、ごめんなさい」

 

 必死で涙を堪えた結衣さんの掠れ声が耳朶を震わせる。

 

「もう、いいですから。結衣さんたちのせいじゃないって分かってますから。さっきは雪乃さんにひどいこと言ってごめんなさい」

 

「いいのよ。私たちはそれを言われるだけのことをしたと痛感しているの」

 

 スピーカーモードにしているのだろう、雪乃さんの声が届く。

 

「比企谷くんは、いまどんな様子……?」

 

 恐る恐ると言った様子で雪乃さんが訊いてくる。

 

「……端的に言ってひどいですね。あんなお兄ちゃんを見たのは初めてです」

 

 ヒッキー……と結衣さんの悲痛な声。

 

「ということは、恐らく川崎さんもそうかしら……」雪乃さんの問い。

 

「はい、大志くんに電話して確認しました。たぶん、似たり寄ったりでしょう」

 

「事態はおよそ最悪というわけね……」

 

 本当に最低なことをしたわ、と雪乃さんの悔恨。だが、すぐに声が冷静に戻る。

 

「反省は後よ。いまは知恵を出しましょう。事態を動かすのよ」

 

「一体どうすれば……」

 

 困惑した私の弱音を雪乃さんが受け止める。

 

「原因と落としどころは分かっている。なら逆算すればいいだけ。原因は間違いなく私たちの存在よ。彼女にとって、私たちの存在は思いのほか大きかったということ。気持ちは分かるもの。ならそれを覆せばいい。落とすべきところはふたりをちゃんと冷静な状態で会わせることよ」

 

 粗いが道筋ができた。

 

 結衣さんが原因を探っていく。

 

「沙希にとってわたしたちって、恋敵だよね。しかも一年も一緒にいたから、沙希からすればすっごい存在感あるし、きっと急に怖くなったんじゃないかな。自分よりわたしたちの方がふさわしいとか、そんな感じで」

 

「たぶんそうだと思います」

 

 沙希さんは自己評価が低い。そして近しい者を優先する傾向がある。性格から考えるに、結衣さんの言う通りだろう。

 

「つまり、川崎さんの中で私たちと比べて自身を上位に持っていけば良い、ということね」

 

「ゆきのん、それってどうすればいいの?」

 

「さすがに難儀ね。他人の感情、しかも価値観に近いものを変えるのはすぐには……」

 

 三人して考え込む。

 

 この五日間で沙希さんは自分を取り戻した。見ていてくれる人、心配してくれている人、助けてくれる人がいることを知った。兄に強い恋慕の情を抱いた。

 

 これだけの前提を揃えてなにがある?

 

 沙希さんにとっての敵は雪ノ下雪乃と由比ヶ浜結衣の圧倒的存在感。容姿端麗、頭脳明晰、そして同じ奉仕部員として長い時間を過ごした雪乃さん。同じく奉仕部で飛びぬけた容姿と明るく人懐こい性格の結衣さん。

 

 沙希さんが勝てるものはたくさんある。でも、たぶんそれでもなお一年という奉仕部の見えない時間が邪魔をした。

 

 ならばなにがある?

 

 たったひとつでいい、沙希さんが誰よりも勝ると信じられるものは……。

 

 ……お兄ちゃん?

 

 瞬間、ひらめいた。

 

 もはや悪魔染みた考えが浮かんだ。

 

 これは人の思考じゃない。人の道を踏み外した外道の思考だ。

 

 思わず笑みが生まれた。冷静になって導き出した方法がこれだ。うん、やっぱり私はお兄ちゃんと真逆だなあ。

 

「雪乃さん、結衣さん……最低な考えがあるんですが、聞いてもらえますか?」

 

 ふたりが頷く。

 

「いいわ。なんでも言ってちょうだい」雪乃さんは覚悟が示し、

 

「うん、ヒッキーのためならなんでもするから」結衣さんが献身をあらわにする。

 

 ならばあとは、言葉にして伝えるだけだ。

 

 非道の理論を。

 

 話し終わった後、しばらくふたりは絶句していた。だけど、

 

「……ひどい人ね」くすくすと雪乃さんが笑う。

 

「うん、ほんとだ。ヒッキーとは全然ちがうね」あははと結衣さんも呆れていた。

 

 でも、とふたりが声を揃える。

 

「やる」

 

 あの日私は誓った。

 

「……ありがとうございます」

 

 なにをしてでも兄を幸せの道に導いてみせると。なら、この程度の罪悪、噛み砕いて飲み込んで腹に抱えてしまえばいい。

 

「小町さん。私も恥と外聞もなにもかも捨てるわ。明日、あらゆる伝手を使ってでもふたりの心を救ってみせる。由比ヶ浜さんもいい?」

 

「うん、ゆきのん。わたしも絶対にふたりを仲直りさせてみせる」

 

 ごめんなさい。

 

 ありがとうございます。

 

 待っていてお兄ちゃん。大丈夫だから。きっと、きっと大丈夫にして見せるから。もう一度勇気を取り戻して。

 

 できるよね?

 

 だって小町の自慢のお兄ちゃんだもん。

 

 

 

 



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そして、ふたりが選び取ったものは 4

 奈落に落ちたような気分だった。幸せの穴だと思っていたそれは、背中を蹴られて飛び込んでみれば絶望の深淵だった。

 

 歴史があざ笑う。だから言ったろうと。正常に回りだした思考が呆れる。人に期待することが愚かだと。

 

 その通りかもしれない。でも、それでも。

 

 後悔だけはしたくなかった。

 

 白夜を行くなかで初めて見つけた幸せだったから。それに手を伸ばさんとする行為だけは、誰にも間違いだと言わせたくなかった。

 

 気づけば連休の開けた朝六時だった。

 

 嫌な朝だった。

 

 俺に都合の良かった世界が元に戻ったような気がした。のろのろと身体を起こして一階に降りてシャワーを浴びる。身支度を終えてリビングに入ると、家族全員が揃っていた。

 

 誰も昨日のことは訊いてこなかった。小町でさえ、いつもの態度で俺に接してくる。その気遣いがありがたかった。

 

 両親が仕事へ向かい、小町とふたりになる。総武高校の制服に着替えてきた小町がソファーにどさりと座った。

 

「うぇー、連休後の学校って嫌だよねぇ」

 

「まあ、休み明けってのは大体そんなもんだ。学校でこんな気分になるんだから社会に出たらもっとひどいだろうな。やっぱり働きたくねえ」

 

 なんとか普段を装って言葉を放る。

 

「ぶえー捻くれてるなー」

 

 ぶーぶーと批判してくる小町の頭を「こやつめー」と撫でまくる。うぎゃー髪が乱れるーやめてーと騒がれ地味にショックだった。

 

 俺から離れた小町が必死に髪を整える。

 

「まったく、小町はこれでも人気あるんだから。髪がぼさぼさになったら今まで築いてきた小町ブランドが地に堕ちるよ」

 

「なにそれ。ブランドなんてあるの? 可愛いのは当然だけど、ブランドってなあ……。あとお兄ちゃん彼氏なんて許しませんからね」

 

「小町可愛いからなー。すぐにできちゃうかもしれないなー」

 

「よし、男が近づいてきたら俺に言え。追い払ってやる」

 

「うえー、それは嫌だなあ」

 

 そんな心底こいつ駄目な兄だなっていう表情で言わないで! 結構心に来るから!

 

 こそこそっと近づいてきた小町がうりうりーと脇腹を突いてくる。だからそこはやめて! 弱点だから!

 

「シスコンめー」

 

 によによしながら小町が言ってくる。

 

「シスコンじゃねえよ」

 

 小町がきょとんと首を傾げる。あらやだ可愛い。

 

「じゃあこまコン?」

 

「新しい言葉を作るんじゃありません」

 

 これだから若者は新しい意味不明な言葉をすぐ作るから困る。日本語の乱れは文化の乱れだよ! 気を付けよう!

 

「やっぱりお兄ちゃんはめんどくさいなあ」

 

「人間そうそう変わらないってことだな。参考にしていいぞ」

 

「駄目な見本だよね。反面教師ってやつ?」

 

「それはまあ、否定できないな」

 

「そこは否定してほしかったなー」

 

「めんどうな妹だ」

 

「妹は大抵面倒なんですー」

 

 ふん、とそっぽを向いて小町が語尾を伸ばした。そのまま時計を見た小町が「そろそろ時間だ」と言って立ち上がる。

 

 途端に憂鬱になる。学校に行きたくなかった。現実を見せられると思うと身がすくむような思いがした。

 

 震えそうになる身体を必死で鼓舞して腰を上げる。その様を見届けた小町が鞄を持って玄関へ向かう。その後に続いてふたりで家を出た。

 

 今日は生憎の曇り空だった。ゴールデンウィークの輝きが嘘だったかのような鈍色の雲が空を覆っている。それだけで気分が滅入った。

 

 家を出てすぐに突っ立っていると、小町が自転車をもってやってきた。

 

「ほらお兄ちゃん。休みボケしてるのは分かるけどほら乗って」

 

「おう」

 

 俺がのろのろと自転車にまたがっていると、小町も自分の自転車を引いてくる。

 

「それじゃ、学校へ向かってれっつらごー!」

 

 勢いよく前方を指差した小町と共に自転車を走らせる。

 

 道中も小町は何も聞いてこない。普段通り、いな、いつもよりも明るく俺に接してくる。負の感情など吹き飛ばせとばかりに。さすが長年付き添ってきた妹。俺の心を把握していらっしゃる。それが嬉しくて、情けなくて、いまこの瞬間が怖くて、やっぱり学校へ行くのは嫌だった。

 

 こんな風に感じるなど久しぶりだ。

 

 どうした比企谷八幡。期待するのは辞めたんじゃなかったのか。諦めたからすべてに線を引いたんじゃないのか。それを自分から取っ払っておいて何を今さら怖気づいている。後悔など当の昔に全て済ませたじゃないか。

 

 ――だったら、怖いものなどないだろう?

 

 馬鹿を言え。こんな感情、俺は知らなかった。誰もが一度は経験するであろうこの痛みを俺は理解していなかった。

 

 契りきな かたみに袖を しぼりつつ

 

 末の松山 波こさじとは

 

 百人一首の一句を思い出す。

 

 約束したのだ。一緒にいると。隣にいると。互いに涙してすべてを吐き出し、受け止め合って。それが変わることなんて、あり得ないと信じていたのに。

 

 馬鹿々々しい。現実を直視しろ。心変わりしない人間などいない。女心と秋の空と言うだろう。現に俺は見たではないか。その瞬間を。決して見たくはなかったその刹那を。

 

 信頼していた。誰よりも。小町すら勝ると思うほどに強く信じていた。これはなんだ。裏切られたのか? 俺が悪いのか? それとも、沙希が非情だったのか?

 

 分からない。

 

 なにもかもが初めてで、汚水のごとき黒い感情がなんであるかを知る経験がない。ただ、この感情を育ててしまえば、自分の中で何かが壊れると思った。それだけはやってはならないと冷静な部分が指摘していた。

 

 考えないようにしたかった。それでも痛む胸が訴えるのだ。

 

 思い知れ、これが人の裏側だと。

 

 そして、いっそ憎んでしまえと囁くのだ。そうすれば、自分だけが被害者でいられるから。心の平穏をほんの一時でも得られることができるから。

 

 思わず自転車を止めた。数舜遅れて、俺の異変に気付いた小町もブレーキを掛ける。

 

「お兄ちゃん?」

 

 心配の孕んだ小町の声に俺は反応ができない。

 

 頭を抱えたかった。妹の前なのに、兄らしく恰好つけることすらできそうになかった。もう泣きたかった。

 

「大丈夫だよ」

 

 闇に抱かれそうになった俺に、小町がやさしく言った。俯いていた顔を上げる。小町が慈しむ表情で俺をじっと見つめていた。

 

「なにが大丈夫なんだ?」

 

 無理やり平然とした口調を作る。小町はそれを苦笑して受け止めて、言った。

 

「小町が、小町たちがお兄ちゃんを守るから」

 

 科白の内容に目を剥いた。

 

 いつも、心のどこかで妹を守らなければと思っていた。しっかりしているのは妹の方だというのに、やっぱり兄である自分が妹を助けなければと考えていた。

 

 それがいまはどうだ。その保護対象である妹から守ると言われている。これを情けないと受け取ればいいのか、成長したと喜べばいいのか、いまの俺には判断することができない。感情の舵取りが上手くいかない。ゆらゆらと正と負の狭間を揺らいでいて、少しでも油断をすれば負の方向へ進んでしまう。

 

 物言わぬ石像となった俺に小町がやさしい言葉を注いでくる。

 

「絶対に、守ってみせるから」

 

 小町が続ける。

 

「もう、ひとりで抱え込まなくていいんだよ」

 

 奥歯を強く噛んだ。これ以上妹の顔を直視していたら壊れると思って目を逸らした。喉の奥で悲鳴を殺した。

 

 だからと、小町が掠れた声で言葉を重ねる。

 

「もう一度だけ勇気を出して。必ず舞台を用意するから」

 

 舞台ってなんだ。またふられろとでも言うのか。そんなの耐えられるはずがない。たった一度でこれだぞ。そんなに俺の心を砕きたいのか。

 

 反論をしようと小町を睨んだ瞬間、時が凍った。小町が、妹が、いままで見たことのないような真剣な眼差しで俺を見つめていた。

 

「私を信じて」

 

 言葉に乗った想いの切実さが、俺の胸を鋭く打った。

 

 勝負をする前から分かり切っている。妹に勝てるはずがない。いつだって兄は妹に弱いのだ。

 

 それに――

 

 妹を信じない兄なんていないだろ……。

 

「……頼む」

 

 小町が真摯な表情で頷く。

 

「任せて」

 

 勇気よ奮い立て。あと一度でいい。小町が作ってくれたチャンスを掴むための力を俺に寄越せ。

 

 

 

 学校に着いたのは、遅刻にはならないが教室に入るのはぎりぎりといった、いつもの俺の登校時間だ。パタパタと駆ける小町と一緒に昇降口に入る。そこに散見されるのは、足早に教室へと向かう生徒たちの姿。普段の光景。

 

 昇降口で小町と別れ、時間のせいか短い挨拶が飛び交う中を進んでいく。次第に生徒たちの喧騒が大きくなっていく。階段を昇り、廊下を進んで教室の中へ影のように忍び込む。

 

 ゴールデンウィークを終えたからか、生徒たちはいつもより活気に溢れているように見えた。連休でリフレッシュでもできたのだろう。こっちはどん底の気分なんだが……。水たまりで滑って転べばいいのに、とちんけなことを考えてみる。この呪い、みんなに届け! 届かんな。

 

 ふと、女子生徒と目が合う。沙希だった。心に動揺が生まれるが、違和感に気づく。目元に濃い化粧を施していた。普段は化粧などしていないのに。

 

 俺を見つめる沙希の瞳が揺れたように見えた。表情が強張り、何かを言いたげに口元が動く。だが声は聞こえない。

 

 予鈴が鳴り、絡ませていた視線を外して席に着く。沙希はずっと俺を見ていた。話しかけたかったが、今は我慢した。いま口を開けば何を言うか分からなかった。小町が作ってくれるという舞台を待つ。そしてそれまでに勇気の土壌を固める。俺にできることはそれだけだ。

 

 朝のホームルームを終え、再び室内がにわかにざわめきだす。普段通りの光景。俺は可能な限り気配を消して背景に徹して机に伏せる。

 

 唐突に女子生徒が大きな声で言う。

 

「そういえば知ってるー? 連休中さー、あのヒキタニと川崎さんが仲良さそうに腕くんでデートしてたんだけどー?」

 

 目を剥いた。おい、待て、それはいまの俺に効く。思わず顔を浮かせかけるが必死にそれを堪えた。

 

 いまの声は、同じクラスのカースト上位の女子だったか。名前は……知らん。確か容姿は三浦に似ているが性格は似ても似つかない嫌味ばかり吐く奴だったはずだ。やっぱり名前は思い出せない。

 

「えーマジ―? あのヒキタニとデートとか、ウケるんだけどー」

 

 会話に参加してきたのは劣化三浦の腰ぎんちゃくだったか。名前はやはり知らない。というか興味がない。

 

 待て待て。久しぶりに教室に居づらい。というか本気で胸が痛いくらいに動悸が酷い。

 

「でしょー、ウケるー。ヒキタニって生徒会長の下僕じゃなかったっけー? 川崎さんに鞍替えしたの? 超腰軽なんだけど」

 

 会話は無慈悲に続いていく。教室内の空気がおかしくなっていく。視線が俺に集中しているのが分かる。沙希がどういう状況か分からない。だが、同じ気分を味わっているのだろうと思うと腸が煮えくり返る思いがした。

 

 どうする。この状況を覆すには何をすればいい?

 

 まったく想定していなかった。本来ならば一番に警戒すべき事柄だったというのに。全然考えていなかった。己の浅慮を呪い殺したくなる。

 

 にたにたした下品な笑みが室内に広がっていく。俺たちの心が土足で踏みにじられていく。

 

 どうすればいい。思考がまとまらない。いままでならばどうしてきた。比企谷八幡、ここで動かないともっとひどいことになるぞ。

 

「比企谷」

 

 ふいに、室内に響き渡る爽やかな声が俺の耳に届いた。反射的に顔を上げる。葉山だった。

 

「やあ比企谷。連休中はよくもいろはを俺に押し付けてくれたな。まあ、ラーメンに連れて行ってくれて助かったよ。いろはも機嫌を直してくれたみたいだし」

 

 これ見よがしに声を張った葉山が、室内に入って近づいてくる。クラスメートが水を打ったように静かになる。それを目ざとく拾った葉山が、視線を沙希へと向ける。

 

「川崎さんもあのときはありがとう、楽しかったよ。ラーメンも美味しかったよな」

 

 ごく自然に、葉山は親友かのように声を掛ける。沙希はぽかんとした表情でこくんと頷いていた。

 

「で、比企谷、相談なんだが。戸部もなりたけに連れて行ってやってくれないか? ヒキタニくんとラーメンに行きたい、とかなんとかしつこいんだよ」

 

「お前が連れてけよ……」

 

「そういうなよ。戸部は比企谷をご所望なんだから。あとついでにいろはももう一度連れて行ってやってくれないか? 部活でしごきすぎてすこぶる機嫌が悪い」

 

 葉山が苦笑する。教室に動揺が生まれていく。

 

「一色の管轄はお前だろ……」

 

「部活はな。生徒会側は比企谷の担当だろ? 少しは手伝ってくれよ」

 

「そう言っていつも引きずり回されてるんだけどな……」

 

「比企谷は仕事が早いからな。いろはも頼りたくなるんだろ」

 

 そこまで言ってから、葉山が「おっと時間だ」とわざとらしく壁に掛けられた時計を見る。

 

「じゃあ、戸部といろはのこと頼んだぞ」

 

「おい待て、ふたりは勘弁しろ。せめてどっちかひとりお前が担当してくれ」

 

「部長は忙しくてね、暇がない。じゃよろしく」

 

 好き勝手言いまくった葉山が教室を出ていく。室内の雰囲気はもはや困惑の一言に尽きた。

 

「え、ヒキタニと葉山くんって仲良かったの?」

 

「生徒会長の管轄ってどういう意味?」

 

「生徒会長の下僕じゃなくて頼られてたってこと?」

 

 いつも好き放題言っていたクラスメートたちの視線が好奇なものに変わる。

 

 そんなことはもはやどうでも良くなった俺は、葉山の意図を考える。

 

 なんのつもりだ? あまりにもタイミングが良すぎる。小町から伝わった? それで動くような奴か? そもそも、小町と葉山は繋がっていない。なら一体……。

 

 思考の渦に嵌っている間に教師が入室し、授業が始まる。

 

 内容などひとつも頭に入らず授業が終わる。

 

 そして、今度やってきたのは戸塚だった。

 

「あ、はちまーん!」

 

 天使の降臨に思わず頬が緩む。戸塚、今日も可愛い。

 

 こっちに来るのかと思いきや、なぜか視線をこっちに向けたまま別の方向へ進んでいく。あれ、戸塚さん、俺のところに来てくれないのん?

 

 戸塚の動きを追っていく。戸塚は沙希のところまで行くと、「川崎さん、行こ!」と腕を掴んで引っ張ってくるではないか。あら戸塚、なんて大胆!

 

「はちまーん!」

 

 うん、戸塚。意図は全然読めないがものすごく不自然だぞ。戸塚が沙希の腕を引きながら俺のところに来るとか、クラスメートとかもう固まっちゃってるからね。

 

「いきなりどした?」

 

「うん、ふたりの顔を見たくなっちゃって」

 

 戸塚が頬を赤らめて言って、照れたようにえへへと笑った。

 

 守りたい、この笑顔。

 

 でも表情と行動が全然一致していないのはなんでなんですかね。沙希もなんだか慌てている様子だ。思わず俺も口元がもにょもにょとなる。両者の顔を見やった戸塚が、ぱちんと胸の前で手を叩く。

 

「そういえば、ふたりとも歌がすっごくうまかったよね」

 

 あれ、それ俺の黒歴史じゃね? 正確には沙希とふたりでカラオケに行ったときの黒歴史だけれど……。

 

 そこで沙希がぶっと噴出した。おい沙希てめえ、なに笑ってやがる……!

 

「は、八幡の……歌……ッ」

 

 腹を抱え出した沙希を戸塚が不思議そうに見つめる。うん、俺も思い出しただけで気分が落ちるわ。

 

 沙希がぼそっと一言。

 

「ハートキャッチ」

 

「沙希さん? これ以上の追い打ちはやめようね」

 

「だってあれ、すっごく面白くて……。そのあと――」

 

 そこでふたりしてぼんっと顔が赤くなる。うん、思い出しちゃいけないものを思い出しましたね……。

 

 くすくすと戸塚が笑う。

 

「やっぱり二人は仲がいいね」

 

 そこで戸塚が特大の爆弾を落とす。

 

「八幡には雪ノ下さんか由比ヶ浜さんかなって思ってたことがあったけど、やっぱり川崎さんが一番お似合いだね」

 

 無垢な笑顔でさらっと戸塚が言った。俺と沙希が凍る。

 

 えへへ、と微笑む戸塚は「もう時間だ。またね、八幡、川崎さん」と可愛く手を振って教室から去っていった。

 

 あれー、今日は一体なんなの?

 

 取り残された俺と沙希がその場でもじもじとする。

 

「ま、またね」

 

 一瞬早く自分を取り戻した沙希が、自分の席へ戻っていく。

 

 そして教師が来て授業が始まって休み時間を迎える。今度やってきたのはあざと生徒会長の一色だ。

 

 きゃぴきゃぴしながら小走りでやってきた一色は、俺を見るや「せんぱ~い。ひどいんです~」とかなんとか言いながらやって来る。

 

「先輩、葉山先輩ったらひどいんですよ! 色んなところで、『いろはが生徒会の仕事を比企谷に頼ってる』って言いふらしてるんですよ! そんなことされたら私の面目丸つぶれじゃないですか! なんとかして欲しいです!」

 

「いや、事実だし。というか上級生のクラスで大声でそんなこと言ったら意味ないからな」

 

「は、なんですかもしかして口説いてるんですか私のために頑張ってくれている事実を広めて外堀から埋めるつもりですかでも私よりも川崎先輩の方が先輩にはお似合いなので身を引かせて頂きますごめんなさい」

 

 一息でそこまで言った一色がぺこんと頭を下げる。

 

「なんか知らんが理不尽に振られたことだけは分かった」

 

 相変わらず早すぎて何を言ってるのか聞き取れない。というかもはや一色の振り芸は聞き流してるまである。

 

 室内が騒然としている気がするが、今回で三回目だ。いい加減慣れた、というか無視だ無視。視線が痛くて堪らないから、お願いだから見ないで!

 

 そんなことを考えていると、一色が沙希の方を見やいなや、大きく手を振って声を上げる。

 

「あ、川崎先輩。先輩とのデートの内容そろそろ教えてくださいよ~。採点したくてずっとうずうずしてたんですから」

 

 やめて! こんなところで言わないで!

 

 八幡のライフがゴリゴリ削られてるから!

 

 沙希もこれには頬が引きつっていた。構わず一色が続ける。

 

「でもでもー、あのときの川崎先輩すっごく美人でした。先輩もやりますねー。あと先輩も眼鏡掛けたら結構イケてますよね」

 

 いろはす、目が笑ってないよいろはす。なんでクラスメートに喧嘩売るような視線を投げてるんですかね?

 

「先輩のクラスは……」

 

 一色がぐるりと教室を見渡し、

 

「はっ!」

 

 鼻で笑った! 鼻で笑ったよこいつ!

 

 ころっと表情を変えてにこぱー☆と一色が笑う。

 

「やっぱり先輩たちが一番ですねー!」

 

 怖い。超怖いよいろはす!

 

「あ、そろそろ時間ですねー。ではでは、またラーメン連れてって下さいね。よろしくです☆」

 

 きゃぴるん、とウィンクしてあざとく敬礼した一色が、とてとてと教室を出ていく。なんだ、あの嵐のような奴は……。

 

 とにかく、なにか起きていることだけは分かった。大いに分かった。これ以上は分かりたくないくらいに理解した。

 

 思いっきり俺の心をヤスリで削りに来ている気がするけど、なんとなく善意ということだけは分かる。

 

 小町め……一体何を企んでやがる……。

 

 

 

 

 



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そして、ふたりが選び取ったものは 5

 三限目後の休み時間には誰も来なかった。その代わり、一色からメールが一件来ていた。

 

 内容はこうだ。

 

「深刻な問題が発生したので、いつもの場所で相談に乗ってくれませんか?」という実に行く気力が無くなるものだ。なんとか無視できないものかと考えていると、さらに一件が追加で受信。今度は葉山からだ。

 

「いろはの相談の件、乗ってやってくれないか? 結構重い話のようでね」

 

 うん、分かった。葉山は敵だ。奴は間違いなく俺の敵だ。一色を押し付けようとする奴はみんな敵だ。そんなこと考えつつ少し一色が心配になるどうも俺です。

 

 なんだか裏に小町が関わっている気がしないでもないが、後輩からのヘルプである以上無視するわけにもいくまい。

 

 一色には「了解」と、葉山には「くたばれ」と返信し、四限目の授業をなんとか過ごす。この頃になると、俺や沙希に対する視線の感情が負のものからよく分からないものへと変化しているのを感じた。確実に葉山たちの効果だろう。居心地が悪いのは変わらない部分は難儀なところだが……。

 

 授業が終わると同時に教室を出て購買へ向かう。適当にパンを見繕い、自販機でマッカンを買っていつもの昼飯場へとぼとぼと歩いていく。

 

 いつもの昼飯スポット。特別棟の一階。保健室横。購買の斜め後ろの低位置。五月の曇り空の下、少し寒いくらいの風が吹き抜ける場所には、既に一色がいた。

 

「あ、先輩」

 

 表情はいつもと変わらずあざとい申し訳なさそうな顔だ。適当に返事をして少し離れた場所に座り込む。袋を開けて購買で買ってきたパンを物色しつつ確認を入れる。

 

「で、面倒事ってなんだ?」

 

 一度小さく息を吸った一色が「友人の話なんですが」と前置きして話を始めた。その前提がそもそもあり得るのかという疑問があったが、一応後輩の手前飲み込んでおいた。

 

「わたしにとってとても大切な人がすごく大きな悩みを抱えているみたいでして」

 

「ほーん」

 

「なんとか力になりたいと思っているんですが、どうしたらいいでしょう?」

 

「さてな。どこのどいつだか知らないが、一色に心配されている時点で相当重症だろうな」

 

「……先輩、ひどくないですか?」

 

「日頃の行いを思い出せ」

 

 むー、と一色が頬を膨らませる。むくれても駄目だからね!

 

 こほん、と一色が逸れた話題を戻す。

 

「とにかく、わたしとしては助けたいんですよ。すごくお世話になっている人ですから」

 

「人は人を簡単に助けられん。できるのは、たぶん、話を聞くことくらいだろうな」

 

 賢しらに人を救うことなど、一般人にできることではない。人の心など容易く理解できない。理解したと思っていてもそれは勘違い。ただの思い込みだ。だから、話を聞いて発散させてやること、ある程度道を示すことが精々できる方法だ。

 

 そうですか、と一色が頷いた。

 

「じゃあ質問を変えます。先輩は、なにか話したいことがありますか?」

 

「ないな」

 

「本当に?」

 

 表情を真剣なものにした一色が俺を見つめる。その瞳にいつもの作られたあざとさは微塵も感じられない。本気の顔だ。見たことのない一色の表情に思わず息を呑む。

 

「川崎先輩と何かありましたか?」

 

「……それ小町から訊いたのか?」

 

「いえ、なにも。ただ、その発言からするに、なにかあったのは確かみたいですね」

 

 墓穴を掘ったか。内心焦りながら返す。

 

「気にするな。大したことじゃない」

 

「先輩がそういうときって大体ひとりで何かしら抱えてるときだと思うんですけど」

 

「そりゃ勘違いだ。俺は大体ゲームとか漫画とかアニメとかマッカンのことしか考えてない」

 

「それ受験生としてヤバくないですか……? あとMaxコーヒーって考える必要あるんですか?」

 

 一色の表情に呆れが生まれるが、すぐにこほんと話題を戻す。というか、さっきから話を逸らしまくってごめんね。俺にとってはセンシティブな話題だから。

 

 一色が視線を外してテニスコートへと向ける。いつもならいるべき人物は今日そこにはいなかった。

 

「川崎先輩と喧嘩でもしましたか?」

 

「してないな」

 

「じゃあ、ふられちゃいましたか?」

 

 言葉に詰まった。その様子を見た一色が苦笑する。

 

「バレバレですよ? 先輩って意外と態度に出ますからね」

 

「……そのことを笑いにでも来たか?」

 

「そんなわけないじゃないですか。心配したんです。先輩が大丈夫かって気になったから、こうして会って話してるんです」

 

 自分の返答のひどさに吐き気がした。

 

「……すまん」

 

「いえ、先輩からすればいつものわたしらしくない行動でしょうから、そう思うのも無理ありません。ですが、本気で心配してます」

 

 何も言えなかった。言う言葉が見つからなかった。

 

「なんでもいいです。話してみて下さい。これでも女心は分かっていますから、アドバイスでもなんでもできます」

 

 一色が慈しむように笑む。見せたことのない真剣な表情だった。

 

「深刻な問題とやらはどこにいった?」

 

「先輩の深刻な問題を聞きに来たんです」

 

 一色が続ける。

 

「たまには、後輩を頼ってください」

 

 長く息を吐く。

 

 どうやら本当に俺の話を訊きに来たらしい。あの一色にここまでさせている自分に呆れ、相談に乗ってくれると言う彼女の申し出が嬉しかった。

 

 確かに、誰かに吐き出したい気分だった。この渦巻く感情を誰かに伝え、理解してもらいたかった。そんなこと、今までなかったというのに。まったく、人間変われば変わるものだ。

 

「昨日、ディスティニーランドに行ってきた」

 

「はい。先輩にしてはいいチョイスです。合格点を差し上げましょう」

 

「そりゃどうも。で、ふられた」

 

「端折り過ぎですね。もう少し細かくお願いします」

 

 一色に指摘され、今一度昨日のことを思い出す。

 

「最初はヌーヌーのゴー&ライドに乗った。沙希が乗りたいって言ってな。楽しそうだった」

 

「腕を組んだり手を繋いだりしましたか?」

 

「ずっと腕を組まれてた」

 

「ほうほう、それから?」

 

「掃除のキャストさんが絵を描いてるところに遭遇した。ふたりで写真撮って、それからサーリン城に行ったな」

 

「いい偶然ですね。なかなかレアな体験です。川崎先輩の様子はどうでした?」

 

「終始はしゃいでたな。あんな姿を見るのは初めてだった」

 

「本当に楽しかったんでしょうね。それから?」

 

「ムクムクに抱き着いて、軽食を食べたな」

 

「食べさせっこしたり?」

 

「そうだな」

 

「それから?」

 

「パレードを見て、キスされたな」

 

「大胆ですね。それでそれで?」

 

「急に沙希の様子がおかしくなった、そんな気がした」

 

「心当たりはありますか?」

 

「ないな」

 

「そうですか。それから?」

 

「色々巡って、ポップコーンを食べたり、列車に乗って夜景を見たりした。沙希がふたりになりたいって言ってきてな。ロザリロンドの願い井戸に行った」

 

「あそこは夜なら雰囲気最高ですからね。人も少ないですし、いいチョイスです。満点を差し上げましょう」

 

「そりゃどうも。で、告白した」

 

「告白の感触はどうでした?」

 

「たぶん、良かったとは思う。ただ、急に表情が強張って、ふられた」

 

 ふむ、と一色が言葉を止めて考え込む。

 

「なにかおかしいところはあったか?」

 

 一色が首を振った。

 

「いえ、なにもないです。わたしだったら……そうですね、普通にOKしてますよ。というより、川崎先輩側の反応を見る限りNOを言う理由がないですね」

 

「だが現にふられたぞ」

 

「ええ、そうです。だから別の要因でしょう。絶対に先輩は好かれていますよ」

 

 それは間違いないです、と一色が太鼓判を押した。

 

 顎に指を添えて考え込んでいた一色の表情が変わった。一瞬だけ目を見張って、そういうこと、と息を吐いた。

 

「なんか分かったのか?」

 

「……いえ、ただ。先輩が原因ではないことは分かりました。たぶん、川崎先輩の自信の問題でしょうね」

 

 自信の問題、と一色の言葉を胸の中で繰り返す。すぐには思考を辿れない。

 

「どういうことだ?」

 

「先輩は自覚ないでしょうけど、先輩の周りには雪乃先輩に結衣先輩、それにまあわたしもいるじゃないですか? 美女揃いですし、過ごした時間も川崎先輩より遥かに長いです。それが何かの理由で告白のときに頭に過って自信が無くなった。そう考えるのが妥当だと思います」

 

「それでふるっていう決断になるのか?」

 

「怖くなったんだと思います。本当に自分でいいのか。雪乃先輩や結衣先輩の方がふさわしいんじゃないか、あるいは、あの二人から先輩を盗ってもいいのか」

 

 女心は複雑なんですよ、と寂し気に一色が言った。

 

 つまり、と一色が表情を真面目なものに変えて言葉を重ねる。

 

「まだ先輩の恋は終わっていません。諦める必要はありません。押して押して、押しまくればいいんです。他の誰よりも川崎先輩が一番だと訴えればいいんです。川崎先輩の不安を吹き飛ばす勢いで」

 

「そんなことして迷惑じゃないのか?」

 

「いえ、そんなことはありません。好きな人から好きと言われて嫌な女の子なんていません。絶対に嬉しいんです。それだけで幸せになれます。だから言っていいんですよ」

 

 自信を持ってください先輩、と一色が微笑んだ。

 

 後輩の言葉が胸に染みた。まさか一色に相談に乗ってもらえる日が来るとは思わなかったから、足元を揺るがすような感動すら覚えた。

 

 そんな風に感慨深げに一色を見ていると、当の本人は微妙そうな顔をする。

 

「先輩、なんですかその後輩が成長したなーっていう目は」

 

「いや、実際そうだろ。感謝と感激を同時に感じてるぞ」

 

「先輩はわたしのことをなんだと思ってるんですかね……」

 

「あざとい後輩。あと面倒事ばかり投げてくる後輩」

 

「はあ、まあそんなことだと思ってましたけど……」

 

 一色がこれ見よがしにため息をつく。

 

 いや、ほら、それ以外だと可愛い後輩とかあるけど、さすがに本人を前にして言うのは恥ずかしいしね。

 

 なんだかおかしくなって、くつくつと喉の奥で笑う。

 

「なんで笑うんですかー! ひどいです!」

 

「悪い、でもサンキューな。だいぶ気が楽になった」

 

 目をぱちくりした一色が、ふふっと笑った。自然な微笑みだった。

 

「お役に立てたなら良かったです。これでようやく先輩と肩を並べられるようになった気がします」

 

「そんなことないだろ。もともと頑張ってたしな」

 

「先輩に頼ってばかりでしたけどね」

 

「まあ、そうだが。悪い気はしてなかった」

 

「急に素直になりましたよね先輩……川崎先輩効果ですか?」

 

「だろうな」

 

 なら、と一色が遠くを見る。テニスコートを越えたその先を。いつの間にか雲間から太陽の光が零れ落ちていた。煌びやかに地上を照らすその光は、天使の梯子だ。

 

「また告白するしかないですね」

 

「だな」

 

「さて、お昼食べちゃいましょう。可愛い後輩とふたりきりでお昼できるなんて、先輩は幸せものですねー」

 

 急に調子に乗り出した一色に、俺は適当に棒読みで返す。

 

「はいはい、幸せ幸せ」

 

「なんですかその適当な返事は!」

 

 ぷんすかと一色が怒ってぽかぽかと俺を殴ってくる。その姿がなんとなく本当に可愛らしくて、思わず俺も笑ってしまった。

 

 唐突にスマホが鳴る。一色の攻撃を避けつつ画面を見ると、雪ノ下からのメールだった。

 

 ――放課後、奉仕部に必ず来なさい。これは部長命令よ。

 

 なかなか高圧的な言い方である。緊急事態でもあったのか。今日の放課後は沙希に時間を割きたかったのだが、仕方がない。緊急招集であるなら行かざるを得ないだろう。

 

「なにかあったんですかね?」

 

 堂々とスマホをのぞき込んでいた一色が訊いてくる。こら、人のスマホをむやみやたらに覗いたら駄目って教わらなかったの?

 

「さてな。一色が知らないのなら別の面倒事だろ」

 

「本当にいい性格してますよね先輩は……」

 

 まったくこれだから先輩はとかなんとかブツブツと一色が呟いていたが、急に苦笑して俺を見た。

 

「何かあったら言ってください。微力ながら力をお貸ししますよ」

 

「助かる」

 

「ではでは、そろそろ本格的にお昼と行きましょうか。可愛い後輩とお昼ですよー」

 

 きゃぴきゃぴし始めた一色が弁当箱をぱかんと開く。

 

「そのくだりはもういいだろ……」

 

 げんなりと言うと、一色もどうようにうぇぇと気持ちの悪いものを見たかのような顔をする。その表情は心を抉るからやめてね……。

 

「ノリ悪いですね……そんなんじゃモテませんよ」

 

「人がこれから告白するってときにそういうこと言うんじゃありません」

 

 まったく、やはり一色の相手は大変だ。お砂糖も素敵な何かも与えてもらえたが、スパイスが効きすぎては堪らない。

 

 沙希はどうなのだろうか。

 

 女の子はお砂糖とスパイスと、そして素敵な何かでできている。

 

 このマザーグースの歌に、沙希を当てはめるとどうなるのだろう。そんなことを考えながらパンを口に放り込んだ。

 

 

 

 

 



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そして、ふたりが選び取ったものは 6

 帰りのホームルームを終えると、教室は生徒たちの会話やらなんやらで騒がしくなる。その中を気配を消して俺は鞄を持って立ち上がる。ふと沙希に目をやってみれば、スマホに目を落としたまま足早に教室を出るところだった。声を掛けたかったが、部活に行かなくてはならないから衝動をぐっと堪えた。

 

 相変わらず奇異の視線を浴びながら教室を出て、特別棟へ続く廊下を歩いた。

 

 今日は妙なこと続きだった。葉山は現れるし戸塚も行動が不審だったし、一色に至っては俺の状態を見抜いて相談すら受けてくれた。少なくとも普通ではない。こんな奇妙な状況を作ったのは誰かと考えれば、事情をしる小町以外考えられないのだが、葉山の存在を考えるとそれも怪しい。加えて今回の強引な招集だ。俺の知らない水面下で何かしらが動いていると考えて差し支えないだろう。

 

 ようやく回りだした思考が異常を察知したところで、部室が見えてくる。部室の扉の前に女子生徒が立っていた。小町だった。

 

「あ、お兄ちゃん」

 

 やほーと軽く手を上げる小町の雰囲気に特別なものは感じられない。表情も仕草もなにもかもがいつも通りだ。

 

「部室に来るなんてどうしたんだ? 部員じゃないだろ」

 

「ん、ちょっとお兄ちゃんに伝えることがあって」

 

 少し寂しそうな顔で小町が言って、俺に向き直る。

 

「どした?」

 

「うん、一応言っておくね。恨むなら小町を恨んで」

 

「は?」

 

 科白の内容の酷さに、小町が何を言っているのか一瞬分からなかった。儚く散りそうな表情をした小町が言った。

 

「きっと、お兄ちゃんのことだから自分を責めるとかしそうだから。その怒りを小町に向けてってこと」

 

「まったく意味が分からないんだが……」

 

「うん、すぐに分かるから」

 

 とりあえず入った入った、と小町が部室の扉を開けて俺の背を押してくる。押されるままに部室に入ると、既に雪ノ下も由比ヶ浜も揃って椅子に座っていた。

 

 雪ノ下が申し訳なさそうな表情で俺に声を掛けてくる。

 

「いきなり呼び出してごめんなさい。どうしても重要な用があって比企谷くんには来てもらったの」

 

 よく見れば、雪ノ下も由比ヶ浜も普段と違って表情が強張っているような気がした。何が起きているのか把握できず、少し困惑した状態でいつもの席に腰かける。

 

「で、なにがあった?」

 

「いえ、なにかがあったという訳ではないの」雪ノ下が答える。

 

「じゃ、重要な用ってのは?」

 

 俺の問いにふたりが沈黙する。

 

 途端に静寂が部室内をひたひたと支配する。居心地の悪さを感じていると、こほん、と雪ノ下が咳払いをした。

 

「比企谷くんに来てもらったのには理由があるわ」

 

「だろうな。で、その用ってのは?」

 

「私と由比ヶ浜さんがそれぞれ用にあるのだけれど、同じ用だから一緒に話すわ。あまりあなたの時間を私たちに割いて欲しくないから」

 

 妙な言い回しをする。俺は部員なのだから部活動の時間は拘束されて当然だ。まあ、今日は抜けようと考えていたのだが……。

 

「比企谷くん、申し訳ないのだけれど、依頼者側の席に座っていただけないかしら。できれば対面で話したいのよ」

 

「あ、ああ」

 

 机の端に座っていた俺は、荷物を持って席を移動する。雪ノ下と由比ヶ浜の対面になる依頼者の席に腰を落とす。いよいよこの状況が普通の状態ではないことに疑いを挟む余地はなかった。

 

「ヒッキー。大事な話があるの」

 

 いままで黙っていた由比ヶ浜が口を開く。いくばくかの緊張感を纏っていた先ほどと異なり、何か決意を固めたような瞳で俺を見ている。

 

 ふと目を逸らした由比ヶ浜が、雪ノ下と目を合わせる。目だけで語り合った二人が頷き、ふたりとも俺に目を向けた。二対の視線が俺の身体を射抜く。そんな錯覚を覚えるほどの強い想いを持った視線だった。

 

「ヒッキー。ううん、比企谷八幡くん」

 

 由比ヶ浜が決意の顔で口を開く。

 

「好きです。あたしと付き合ってください」

 

 空白。

 

 何を言われたのか分からなかった。

 

 言葉の意味を咀嚼する前に雪ノ下が続く。

 

「比企谷くん。私もあなたのことが好きよ。私と付き合ってくれませんか?」

 

 混乱。困惑。動揺。そして驚愕。

 

 唐突のことで状況が理解できない。ただひとつ明確なことは、ふたりに告白されたことだ。そして俺はそれに答えなければならない。

 

 だが、いきなりどうして?

 

 疑問は水泡のように無数に浮かんでは消える。

 

 時間は無慈悲に過ぎていく。室内の壁時計の秒針が律義に時を進めている。答えなければならない。黙したままなにも言わないなど最低だ。分かっている、分かっているのだが……。

 

 ふっと、雪ノ下が微笑んだ。

 

「さすがに混乱しているようね。無理もないわ。でもごめんなさい。私たちとしても、いまを逃すわけにはいかないのよ」

 

「ヒッキー。よく考えてみて。いま誰のことを一番考えているか。わたしたちのこととか考えなくていいから、難しいかもしれないけれど、もう一度自分の気持ちを思い出してみて」

 

 考えるまでもない。今日一日で、一色のお陰で、沙希のことが好きだと再確認できた。

 

 それは単に恋が終わっていなかったということだけではなくて、どうしたって彼女のことを忘れることができないのだ。あの五日間があまりにも綺麗な思い出になっていて、これからもふたりでそんなものを作っていきたいと心から願ってしまうから。

 

 そうなれば、答えなど決まっている。

 

「すまん、ふたりとも……。俺には好きな人がいる」

 

「ええ、知っているわ。それは誰かしら?」雪ノ下の細い声で問うてくる。

 

「沙希だ」

 

「うん、やっぱりそうだよね」由比ヶ浜が掠れた声で頷いた。

 

 ならどうして……。そんな言葉が脳裏に浮かんだ。報われないと知っていて、断られると分かっていて、どうして俺に告白なんてしてきたんだ。

 

 想われている自覚はあった。それが恋愛感情なのか友情感情なのかまでは気づけなかったが、それでも、憎からず思われていることは知っていた。一年も一緒にいて、色々な経験をして、たくさん話をして、三人で強固な絆を繋いだ。

 

 だというのに、いまふたりが何を考えているのか想像すらできない。

 

「さて、そろそろ邪魔者は退散しましょうか。由比ヶ浜さん、行きましょう」

 

「うん、ヒッキー……頑張ってね」

 

 雪ノ下と由比ヶ浜が立ち上がって、部室を出て行こうとする。その背に何か言葉を掛けたいはずなのに、口が開こうとしない。部室から去る直前、雪ノ下が俺に振り返る。

 

「あなたは負い目を感じなくていい。あなたは誠実に私たちの告白に返事をしてくれた。それはとても素晴らしいことよ。だから、あなたはあなたの恋を頑張りなさい」

 

 それだけ言って、俺の返事など聞かずに部室を出て行った。ひとり残された俺は動けなかった。

 

 そして……。

 

 部室の扉が開いた。

 

「……沙希?」

 

 沙希がいた。大粒の涙を流して顔をゆがめた沙希が、部室の前で立ち尽くしていた。

 

「聞いてた……のか?」

 

 こくん、と沙希が頷く。

 

「小町から……メールが来て。ここに来いって……そしたら、あんなことになって……あたし……」

 

 思わず顔を覆った。恨めとはそういうことか……。

 

 ――あいつ、雪ノ下と由比ヶ浜を捨て石にしやがった……。

 

 沙希が近づいてくる。力が抜けたのか鞄を取り落とし、ふらふらと俺の前までやって来る。

 

「八幡……あたしね……」

 

 涙を顎に滴らせながら沙希が訴える。

 

「ずっと不安で、あの二人には勝てないって……ずっと思ってて。あの日、八幡が告白してくれたときに、ふたりが後ろにいるのが見えて、急に怖くなったの。あたしじゃダメだって。あたしなんかじゃ敵わない。でも……だけど……!」

 

 沙希が嗚咽を飲み込んで言った。

 

「八幡じゃないと嫌だよ……!」

 

 沙希が抱き着いてきた。その矮躯を俺も力を込めて抱きしめる。

 

「ごめん、ごめんね。あのときあんな酷いこと言っちゃって、本当にごめんね。自信がなくてごめんなさい。断っちゃってごめんなさい。こんな大変なときに来ちゃってごめんなさい。あたしは、あたしは……」

 

 声を震わせ、沙希が告げる。

 

「八幡が好き。大好き。他の誰かじゃだめ。八幡じゃないとだめなの……!」

 

 胸が熱くなった。想いが通じ合っただけで、急に幸せが溢れ出した。これ以外などもう何もいらないと思えるほどに。

 

「沙希、俺も好きだ。俺と、付き合ってくれ」

 

 胸の中で沙希が何度も頷く。

 

「うん、うん。お願い、あたしと付き合って」

 

「ああ」

 

 深い息が漏れた。幸せの頂点にいると思えた。それなのに、心の底にしこりのようなものができていて、無条件に喜ぶことができなかった。

 

 この結末はなんだ。雪ノ下を、由比ヶ浜を無意味に傷つけ、あまつさえそれを第三者である沙希に見せた。ふたりにとっては、本来侵されざる聖域を土足で踏みにじられた気分だろう。

 

 発端は俺だ。雪ノ下も由比ヶ浜も異性だ。だが、彼女らの好意に甘えて関係を明確にせず、ぬるま湯の場所に浸り続けてきた俺の責任だ。誰もが悪く、誰もが等しく被害者だ。そこに明確な善悪は存在しない。

 

 それでも、たぶん小町は一線を越えた。超えてしまった。

 

 沙希も俺の気持ちが分かったのか涙を止めて俺の顔を見上げた。化粧がはがれた目元は、不自然に赤くなっていた。

 

「沙希、これから話さないといけないやつがいる」

 

「うん」

 

「さすがに今回ばかりは叱ってやらないとな」

 

「うん、そうだね」

 

 沙希が真剣な眼差しで頷く。

 

 俺は沙希を離すとスマホを取り出して電話を掛ける。相手は一コールで繋がった。

 

「はーい、愛しの小町ですよー」

 

「よう小町。話があるから面貸せ」

 

 俺の強い口調に対し、小町はからからと無邪気な笑みを返す。

 

「うん、そう来ると思ってた。屋上で待ってるよ。これだけ言えば、分かるんだよね?」

 

 特別棟の屋上のことを言っているのだろう。あそこの鍵が壊れているのは女子の間で有名らしいとは、確か沙希から訊いた話だったか。

 

「分かった、すぐに行くからそこを動くなよ」

 

「かしこまり―」

 

 ふざけた返事をした小町が電話を切る。耳から離したスマホをしばらく見つめる。俺は怒っていた。よりにもよって、人の想いを利用するやり方をした小町に憤りを感じていた。

 

 一度深呼吸をして心のさざ波を落ち着かせる。

 

 分かっている。誰のためにそんなことをやったのかも。今日一日起こったすべてには結局のところ小町に繋がっていることも。全部、俺のためにやったことなど言われなくとも気づいている。知っている。

 

 何が正しくて何が間違っているかなど、断じるほど物事に精通などしていない。ただ、やってはいけないことというのは、なんとなく分かる。たぶん、小町が講じた最後の一点は間違っていた。感情的なのか、道徳的なのか、はたまた別のものなのかは知らないが、過ちを犯した。

 

 ならば俺はどうする。決まっている。

 

 説教するしかあるまい。

 

 古今東西、間違ったことをしたら怒られるのが世の常だ。

 

 もっとも、この思考の流れすら、小町の想定通りだろうけれど……。

 

 

 

 



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そして、ふたりが選び取ったものは 7

 沙希を昇降口で待たせてひとり屋上に行くと、フェンスに寄りかかった小町が俺を待っていた。小町を俺の顔を見るや否や、あははと空笑いを浮かべた。

 

「やっぱり怒ってるかぁ」

 

「そりゃあな」

 

 小町の傍まで近寄って、同じようにフェンスに背を預けた。いまや雲が消えて晴れた空から、五月の日差しが比企谷家の兄妹を照らしていた。

 

「私もね、やりすぎだって分かってた。間違いな方法だって知ってた」

 

「ならなんでやった」

 

 当然でしょ、と小町が苦笑する。

 

「お兄ちゃんのためだよ」

 

 幸せになってもらいたかった、と小町は続けた。

 

「どれだけお兄ちゃんの不景気な面眺めてきたと思ってるの。そろそろ明るい表情のひとつでも見せてほしくて。だから、今回は頑張った」

 

「無駄に張り切り過ぎだ。雪ノ下と由比ヶ浜、あの二人についてはどうすんだよ」

 

「ちゃんと話して協力してもらったよ。そうだね、ていのいい人身御供だよ」

 

 あはは、と小町が笑った。それが俺の怒りを振り切らせた。小町の胸倉を思い切り掴み上げる。小町は抵抗ひとつしなかった。

 

「やって良いことと悪いことの区別も付かなくなったか?」

 

 決して妹に向けたことのない、ドスを効かせた声を出す。小町は無表情だった。

 

「そうだとしたら?」

 

 はっ、と息が漏れた。小町から手を離す。小町は少し困惑した顔をしていた。その様が、まるで自分の無能さを突き付けられているようでつらかった。

 

 思わず顔を覆って俯く。

 

「俺はまたなにか間違えたか?」

 

 小町が息を呑む。わなわなと身体を震わせて言った。

 

「な、んでそうなるの」

 

 そして、大喝した。

 

「なんでそうなるのさ!」

 

「お前、バカだけど人の気持ちが分からないような俺とは違うだろ」

 

 小町の目が泳ぐ。そうだ、当人が言った通り、どれだけ非道なことをしたか小町は分かっている。だというのに、敢えて実行した。なぜだ。兄貴が愚かだからだ。幸せを拒絶するほど臆病で、生きることに不器用だったからだ。全部俺のツケを小町が支払ったに過ぎない。

 

「俺の所為か……」

 

「違う!」

 

 小町が叫ぶ。もはやそれは悲鳴だった。

 

「違う違う! お兄ちゃんは悪くない! 今回のことは、私が全部悪い! それでいいでしょ! なんでそこで自分が悪いって思うのさ!」

 

「やったのはお前でも、動機が俺じゃ俺がやったのと変わらんだろうが」

 

 その場に崩れ落ちる。膝を抱えて頭を落とした。

 

 何が妹を叱るだ。

 

 阿呆か俺は。

 

 全部俺が悪いんだろうが。今まで生きてきた十七年間の積み重ね、それが巡り巡って罪となって小町が背負ったに過ぎない。まさに因果応報。愚かここに極まれりだ。

 

 妹にあんなことをさせてしまった。あのふたりを傷つけてしまった。どうすればいいのか分からない。自分のあまりの最低さに吐き気がした。

 

「お兄ちゃん!」

 

 小町が俺の名を金切り声で呼ぶ。なんだ、お兄ちゃんいま考え中なんだから黙っててくれよ。ちょっとこれ、正直どう償っていけばいいか皆目見当もつかないんだよ。

 

 そのとき、屋上の扉が開いた。反射的に俯かせていた顔を上げる。そこには、雪ノ下と由比ヶ浜の姿があった。

 

 宇宙の中心でも体現するかのように、ぴんと背筋を伸ばした雪ノ下が俺を見て開口一番鼻で笑った。

 

「無様ね比企谷くん。あまりの無様さにその頭を踏みつけてやりたいくらいよ」

 

 空気が固まった。否、完全に凍てついた。

 

「ゆ、ゆきのん……それはさすがに……」

 

 隣の由比ヶ浜はドン引きしていた。

 

 そこでふっと雪ノ下が微笑む。

 

「冗談よ。ちょっと言ってみたかっただけ。ふられた腹いせと言ったところかしら? これくらいは勘弁して頂戴」

 

 雪ノ下が由比ヶ浜を連れて俺の前まで歩いてきて、すぐ傍で立ち止まって膝を落とした。俺と同じ目線になった雪ノ下が、困ったように俺に笑いかけてくる。

 

「どうやら、小町さんの作戦は上手く行かなかったみたいね。もともとそんな気はしたのだけれど、どうやら比企谷くんの性根の部分はさほど変わってないみたいね」

 

「だねー。えーっと、内向的で捻くれ屋で自罰的、だっけ? やっぱり予想した通りだったね」

 

 由比ヶ浜も俺と同じ視線の高さになって言った。

 

 いきなり現れて言いたい放題の二人に俺は何も言い返せない。というか、普通こんなところで登場する? さっき告白受けて断ったばっかだよ?

 

 雪ノ下がこてん、と首を傾げる。

 

「もしかして、小町さん話してないのかしら? 比企谷くん、あまり事情が分かっていないみたいだけれど」

 

 雪ノ下の視線が小町へ向く。小町は急にバツが悪くなったように顔を逸らした。雪ノ下が纏う空気の温度が百度は下がった。目に見えて小町が怯える。

 

「はあ……小町さん。ひとりで背負おうとしたわね。そんな勝手を許すと思っていたの? 甘く見られたものだわ。比企谷家のやり方はもう散々見てきて知ってるのよ」

 

「うんうん、結局ぜーんぶ自分で抱えちゃうんだよね」

 

 由比ヶ浜も雪ノ下に同意する。

 

 雪ノ下が俺に向き直る。

 

「比企谷くん。先ほどの私たちの告白は紛れもなく本心。川崎さんへ聞かせていたことも当然知っている。ここまでは小町さんの考え、それは分かる?」

 

「お、おう……」

 

「では次ね。あの告白は、正直私たちにとっては願ったりかなったりでもあったのよ。比企谷くんと川崎さんが付き合うのはもう秒読み段階。なら、伝えるならあの場面しかなかった。だから、あれは私たちの我儘なの」

 

 分かるかしら、という雪ノ下の問いに首を振る事しかできない。

 

「でしょうね。つまり私たちと小町さんの関係は一方的なものではない、いわゆる共犯なのよ。そうなるとどうなるかしら。一体だれが悪いのかしらね?」

 

「誰も悪くないね。強いて悪いとしたら、私たちかな? というか、やっぱりあれは卑怯だったよね……」

 

 答えない俺に変わって由比ヶ浜がしみじみと言った。

 

「ええそうね。比企谷くんの傷心に付け込もうとしたのだから、罰せられるべきは私たちでしょうね」

 

「じゃあ小町ちゃんとヒッキーはどうなるかな?」

 

「無罪放免ということかしら」

 

「やったねヒッキー。前科つかないよ!」

 

 勝訴だとばかりに由比ヶ浜が喜んでいるが、何かがおかしい。これって裁判だったの? そもそもなんでこの人たち俺がふられたこと知ってるの⁉

 

 雪ノ下が一度苦笑して、表情を真面目なものにする。

 

「比企谷くん。先ほどは黙っていたけれど、やはりちゃんと話すわ。昨日比企谷くんが告白するとき、運悪く私たちが出くわしていたのよ」

 

「は?」

 

 驚愕だ。え、なに、いたの? ていうか見てたの? そういえば沙希がそんなことを言ってたような……。

 

 由比ヶ浜が申し訳なさそうに眉をハの字にした。

 

「ごめんねヒッキー。その前にも実は遭遇してて、沙希に気づかれてたんだけど、まさかもう一度会うなんて思ってなくて……。告白を台無しにしてごめんなさい」

 

 立ち上がった由比ヶ浜が深々と頭を下げた。おい、待て、なんだこれ。全部が繋がった気がするぞ。沙希が途中おかしくなったのは二人を見つけたからで、告白の段になって様子が変わったのは二人に見られていたからで……。つまり、

 

「マジでお前らが原因だったのか……」

 

 一色さんマジですげえ。当たったよ。大当たりだよ。沙希も確かに言ってたけど、色々な意味でドストライクだよ。まじパネェよあの後輩。

 

「崇め奉ってください☆」と脳内で一色がウィンクする。いまなら本当に崇め奉っちゃう! なんならお供え物だってしちゃうし仕事だってガンガンやっちゃうまである!

 

 俺の言葉を変に受け取ったのか、雪ノ下も悲痛の表情で立ち上がって頭を下げる。

 

「本当にごめんなさい。あなたが怒るのも無理はないわ。言い訳の余地も……」

 

 もはや処刑される寸前の様相を呈してきた雪ノ下と由比ヶ浜に、慌てて答える。

 

「待て待て、別に怒っちゃいない。一色の洞察力の鋭さに崇め奉ってただけだ」

 

「お兄ちゃん……それ意味分かんないから」

 

 小町が呆れ顔で言う。

 

 小町ちゃん、ちょっと黙っててね。

 

「あれだ、今日葉山やら戸塚やら一色やらが来たのは、小町の策略か? それともお前らの手か?」

 

「それは私たちね。伝手を総動員したわ」

 

 調子を取り戻した雪ノ下が、少し誇らしげに胸を張った。伝手が少なすぎる……。

 

 由比ヶ浜が雪ノ下に抱き着きながら秘密を明かす。

 

「ヒッキー。ゆきのんね、隼人くんにまで自分でお願いしたんだよ?」

 

 絶句。未だ遺恨のある葉山に対して自ら依頼したというのか……。

 

 俺の視線に気づいた雪ノ下が恥ずかしそうに頬を赤らめる。

 

「ま、まあ、それくらいしないといけないと思って……。あなたのことだから考えてはいたと思ったのだけれど、一応周りに対する牽制要因は必要と考えてね」

 

 あと、一色さんへのお灸を据える意味もあったのだけれど……という言葉は聞かなかったことにしよう。確かに一色が一番割に合ってねえ……。

 

 なんにせよ……。

 

「助かったわ。連休が終わったあとのことは何も考えてなかったからな」

 

 くすくすと雪ノ下が笑う。

 

「なら良かったわ。あなたはどこか抜けたところがあるから」

 

 そこでパンっと由比ヶ浜が胸の前で手を合わせる。

 

「これで一件落着、でいいかな?」

 

 一件落着。問題になっていた事象に決着がつくこと。川崎家の問題、俺と沙希との問題、これらは解決した。雪ノ下と由比ヶ浜の件だって、ふたりはちゃんと納得して彼女たちなりの利を得て動いていた。

 

 なら、残るはひとつだけ……。

 

 膝を打って立ち上がる。俺の表情を見た雪ノ下と由比ヶ浜が一歩後ろに下がった。俺は小町に向き直る。妹は困ったように頬をかいていた。

 

「小町」

 

「うん?」

 

「悪かった。それから、ありがとう」

 

 俺の言葉を受けた小町が一瞬だけ驚いたようにして、すぐににこりと笑った。

 

「いいよ。妹だからね」

 

 妹のその科白と微笑みは、たぶん一生忘れないと思う。

 

 

 

 

 




次が最終話……のはず


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終章
だから俺は彼女に恋をした


 あの日から沙希は目に見えて変わった。校則違反にならない程度の化粧をするようになったし、人当たりも柔らかくなって、笑顔をよく見せるようになった。お陰でクラスの男どもが群がるようになったが、それは沙希の変わらぬ眼力によって一蹴されていた。ついでに俺も怖かった。彼氏になったいまでも沙希のガン飛ばしにビビるどうも俺です。

 

 それでも、川崎のモテっぷりは天井知らずだった。

 

 例えばこんな一幕があったそうだ。

 

 放課後の黄昏の下。特別校舎の屋上。どこか特別な空気感を感じさせるその場所で、沙希はクラスメートの男子生徒に呼び出されたそうだ。男子生徒は少し気後れしたように顔を逸らした後、すぐに頭を下げてこう言ったらしい。

 

「俺と付き合ってください」

 

「やだ。帰る」

 

 即答である。あまりの即断即決っぷりに男子生徒はうろたえ、こう縋ったそうな。

 

「ヒキタニより俺の方がいいに決まってる、もう一度考え直してくれ!」

 

 このとき、沙希は自分がどうなったかあまり覚えていないらしい。後から思い出す限りでは、

 

「あんたあたしの彼氏を馬鹿にしてるわけ? 名前すら間違えるとかあり得ないでしょ。殴られたいの? 顔は許してやるからボディだしな。殴るよ? あんたのどこが八幡を上回ってるわけ? 一欠けらもそんなとこないでしょ。というか人の彼氏を引き合いに出すとか最低じゃないの? 一回死ねば? というかお願いだからあたしの視界から消えて、今すぐに」

 

 とかなんとかボロクソに言葉を叩きつけて、部活をしている俺を待つために図書室に向かったそうだ。

 

 後日、クラスの噂を訊いた限りではその男子生徒は一週間は寝込んだそうだ。

 

 そして俺はと言えば……。

 

 沙希の勧めで伊達メガネを掛けるようになり、さらに沙希という美人の彼女を持ったことによって、周囲から好意的に受け止められるようになった……気がする。まあ、それでも遠巻きに見られるだけなんだけどね!

 

 ただ、葉山の噂による効果が効いたのか、『一色の下僕』から『生徒会のフィクサー』という物騒な呼ばれ方を陰でされるようになってしまった。お陰で下級生からはビビられるわ羨望の眼差しで見られるわと、今までの平穏が完全に崩れてしまった。まあ、一色に関わってしまった時点で平穏もなにもないのだが……。

 

 ちなみに、葉山の約束であった戸部と一色をなりたけに連れていくという約束だが、本当に履行させられる羽目になった。陽乃さんを使った葉山の策略により、俺は完全に逃げ場を失った。

 

 当日、戸部はひたすら「べーっべーこのラーメンっべーわー。ヒキタニくんやっぱパナいわぁ。フィクサ谷くんだわぁ」と言いまくり、一色は一色で「戸部先輩うるさいです。黙ってください。ラーメンがまずくなります。あ、でもでも、ラーメン奢ってくれたら許します☆」などと終始あざとかった。いや、あざといというか戸部の扱いがひどすぎる。とりあえずふたりとも黙って食べて欲しかった……。

 

 ともかく、陽乃さんには葉山を虐めまくるように雪ノ下経由で依頼はしておいた。当然だ。遠巻きに高笑いを浮かべているであろうあの野郎は地獄に叩き落されるべきである。

 

 俺の天使であるところの戸塚だが、沙希と付き合った日の夜に報告を入れた。すぐに電話が掛かってきて、戸塚はこの世すべてを祝福せんと言わんばかりに喜んでくれた。やはり戸塚は天使だった……。思わず「毎日俺の味噌汁を作ってくれ」という科白を飲み込むのにどれだけの気力を使い果たしたか、筆舌にし難い。

 

 そして、奉仕部の部室はいつも通りの空気感だった。かぐわしい紅茶の香り漂う部室で、俺と雪ノ下は相変わらず読書をし、由比ヶ浜は携帯を弄る普段通りの光景。

 

「あ、ヒッキー。なんか新しいクレープ屋ができたみたいだよ」

 

「ん、沙希と行く。どこだ?」

 

「んーとね、ここ。なんかお洒落だし美味しそうだよ」

 

 由比ヶ浜が携帯の画面を見せてくる。千葉に出来たという新店だ。フランスから東京に進出し、千葉まで浸食してきたらしい。ほほう、これはなかなか良さそうだ。

 

 ふむふむとふたりで眺めているところに、雪ノ下がわざとらしく咳払いをする。

 

「ところで比企谷くん。いつだったか小町さんがたくさんくれると言っていたカマクラさんの写真はまだかしら? ずっと待っているのだけれど」

 

「小町に催促しろよ……。俺は持ってないぞ」

 

 俺の返しに雪ノ下がくわっと目を剥く。ちょっと怖い……。

 

「なぜ持っていないの? あれほど愛くるしい存在の写真を常備していないなんて考えられないのだけれど」

 

「お前は自分のキャラをどうしたいのかが俺には分からねえよ」

 

 やれやれと雪ノ下が首を振る。こっちがやれやれなのだが、そんな俺の思いなど構わず雪ノ下が告げる。

 

「猫とパンさん好きを隠していたことは愚かだったわ……。好きなものを好きという。そして声を大にして良さを広める。これこそ真実の愛よ……!」

 

 拳を握る雪ノ下に由比ヶ浜は苦笑していた。どうやら雪ノ下は未知の扉を開いてしまったようだ。できればその扉は開かない方が良かっただろうとは、口が裂けても言えそうにないが。

 

 そこにがらりと扉を開ける厄介者が一人。当然一色いろはだ。

 

「雪乃先輩、先輩借りに来ました~」

 

「帰りなさい。フィクサ谷くんは休暇中よ」と雪ノ下が即座に言い放ち、

 

「そーだそーだー! ブラック労働を許すなー!」由比ヶ浜がなぜか労働問題を唄い出す。

 

 困惑したのは一色だ。当然だ。いままでひとつ返事で頷かれていたというのに、途端に俺という労働力が借りられなくなったのだ。

 

 すぐに涙を目じりに滲ませた一色が、驚くべき素早さで俺の隣にやって来る。相変わらず忍者みたいだなこいつ……。

 

「先輩……ちょっとだけ、ダメですか……?」

 

 潤ませた瞳で上目遣いに俺を眺め、柔らかく握った拳を口元に持っていき、もう片方の手で袖口をちょんちょんと引っ張ってくる。

 

 あざとい。そして胸が痛い……。ここで断れば一色は大変な目に合うのではないかという嫌な想像が浮かぶ。

 

「先輩がいないと……困るんです」

 

 ぐぬぬ……。

 

 だが、

 

「比企谷くん」

 

「ヒッキー」

 

 ふたりが俺の心の惰弱さを叱咤する。

 

「川崎さんと約束があるのでしょう?」

 

 それは荒野に落とされた一滴の雫。魔法の言葉だ。一気に断る勇気が出る。

 

「よし一色帰れ。すぐ帰れ今すぐ帰れ帰らないなら俺が帰る!」

 

 鞄を持って立ち上がった俺に一色が慌てふためいた。

 

「ちょ、せんぱい! 急に辛辣過ぎます! 扱いの改善を希望します!」

 

「先週丸五日間手伝っただろ。そろそろ沙希とデートさせろ。というかさせてくださいお願いします」

 

 もはや懇願だ。相談に乗って貰ったという借りもあってか、ここのところずっと一色の手伝いをしていたのだ。さすがにもう休暇が欲しい。沙希との時間が欲しい。イチャイチャしたい!

 

「むぅ、確かにずっと手伝ってもらってましたし……今日のところは引き下がります」

 

「まるで悪の親玉の科白ね」

 

 むくれる一色に雪ノ下が苦笑を向けると、立ち上がって紅茶を淹れる準備を始める。

 

「折角だから休憩していきなさい。比企谷くんはもう行きなさい。川崎さんが待っているのでしょう?」

 

「助かる。んじゃ、またな」

 

 三人がそれぞれ返した挨拶を受けて、俺はそのまま部室を後にした。放課後の廊下を歩いて階段を降り、図書室へと向かう。

 

 途中、何かとすれ違った気がするが、気のせいだと無視した。

 

「ハチえもーん」とか言ってた気がするが絶対幻聴だ。無視だ無視。いまこそステルスヒッキーの本領を発揮するとき、とか思っていたが、やはり奴には敵わなかった。

 

 ふんす、と鼻を鳴らした材木座が俺の前に立ちはだかる。すげえ邪魔なんだけど……。

 

「八幡! 我の! 我の一大傑作が遂に出来上がったのだ! 読みたいというのならば見せてやらないこともないぞ!」

 

 うぜぇ……。

 

「全然まったくこれっぽっちも読みたくない。彼女が待ってるから俺は行く。じゃあな」

 

「辛辣ゥ! そしてリア充爆発しろ!」

 

 丁度いいのでそのまますれ違って立ち去ろうとするも、がしっと肩を捕まれる。

 

「そんなこと言わないで読んでよーハチえもーん!」

 

「気持ち悪い声出すな。同類だと思われちゃうだろうが」

 

「またもや辛辣ゥ! でも我は話すぞ! だって誰かに読んでもらいたいんだもん」

 

「もん、とか言うな気持ち悪い。感想が欲しけりゃ雪ノ下のとこにでも持っていけ」

 

「あの女子は的確に我の急所を抉ってくる宿敵よ。奴に勝つためにはまず八幡の意見が訊きたいと思ってな」

 

「要は雪ノ下に話しかける勇気もないし感想でぶった切られるのも怖いってことだろ」

 

「そうとも言う!」

 

「威張るなよ……」

 

 そのまま行こうとするも肩を掴んだ材木座の手は離れない。無視して無理やり進んでもいいが、このままでは確実に沙希との時間を邪魔される。折角久しぶりの放課後デートだ。邪魔者には即座に退散して頂く必要がある。

 

 結論。

 

 折れるしかなかった。

 

「分かったからさっさと手を離して原稿を寄越せ」

 

「ふっ、やはり我の作品は読まずとも万人を引き付ける魅了の力を宿しているのだな。ついに八幡もその力に堕ちてしまうとは……いやはや、我の才能が眩しすぎる」

 

「さっさと死んでくれない?」

 

「辛辣ゥ!」

 

「そのネタ飽きたわ。もう読まん」

 

 一気に無駄に落ち込んだ材木座が潤んだ瞳で見上げてくる。非常に気持ち悪い。これが沙希だったらと思うと余計に殴りたくなってくる。

 

 しかし我慢して「早く寄越せ」と目配せする。

 

「さすが我が相棒!」

 

 素直になった材木座がずずっと俺の顔に原稿を押し付けてくる。それをひったくって乱暴に鞄に仕舞うと、「じゃあな」と言って今度こそその場から離脱を謀る。去り際に「感想待ってるぞハチえもーん!」という言葉は鼓膜の手前でスルーすることにした。

 

 無駄な時間をかけてようやく図書室に辿り着く。図書室には三年生と思われる受験組の姿がいくつか見受けられ、参考書片手に勉強に励んでいた。その中には沙希の姿もあって、真剣な表情で何やら問題と格闘していた。

 

 そろっと近づくも、すぐに沙希に気づかれる。ほんわかした微笑みを湛えた沙希が、手早く勉強道具を鞄に仕舞うと立ち上がってやって来る。

 

「待たせたな」

 

「んーん、全然。行こっか」

 

 思わず花も恥じらうような笑顔で沙希が首を振って、俺の手を取って引っ張っていく。されるがままの俺は沙希についていき、昇降口から外に出た。

 

 外はまだ太陽の昇る時間帯で空は青い。六月も近づいたからか、にわかに暑くなってきたが、それでもまだ千葉は過ごしやすかった。

 

 駐輪場に行って自転車を取ると、ふたりの鞄を籠に入れて歩き出す。

 

「一週間お疲れ様」

 

 校門を出たところで沙希がくすくすと笑って言ってくる。言葉の裏には、一色の相手をして大変だっただろうという声が隠れていた。

 

「まったくだ。今回ばかりは疲れた。しばらく休みたい」

 

「お休みはもらえた?」

 

「雪ノ下達も口添えしてくれたし、たぶん大丈夫だろ。たぶん……きっと……恐らくな」

 

 俺の言い方に沙希が苦笑する。

 

「そこは絶対じゃないんだ」

 

「一色だしな」

 

 ああ、と沙希が空を仰ぐ。それで伝わってしまうのが一色いろはという存在だ。まあ、それでも可愛い後輩なんだけどね。でもそろそろ葉山にバトンタッチする頃合いだろう。あとでメールをぽいぽい投げく必要があるだろう。喜びはみなと共有し、苦しみは葉山へ投げる。これがいまの俺だ。

 

 駅までの道をのんびり歩く。スーパーを通り過ぎると、そこで偶然小町と遭遇した。買い物袋を抱えた小町がこちらに気づき、「おやおや」とニヤニヤした笑みで近づいてくる。

 

「もしかしてこれからふたりで放課後デートですかぁ? いいですねぇ。青春ですねぇ。お兄ちゃんやるなぁ。このこの、憎いねぇ! 結婚式はいつですかぁ?」

 

 小町の行動に沙希は苦笑。俺は悩ましい気分になってくる。なんだろう、連休中に猛烈な進化を遂げた妹だが、どうにもこれは……。

 

「小町、お前どんどんオバチャン化してないか……?」

 

「ガーン」と口で言った小町が顔を固まらせる。やがて、ぶるぶるっと肩を震わせると、

 

「お兄ちゃんのバカ! アホ! ボケナス! 意気地なし! 甲斐性なし! 八幡! 今日は夕飯抜きだからね! 沙希さんと夕飯食べて来なさい!」

 

 捨て台詞をあるだけ吐き捨てて、ぷんすか怒りながら踵を返してしまう。どうしたものかと思っていると、小町がすぐに立ち止まって振り返る。その表情には先ほどまでの怒りなど微塵もなかった。

 

「ふたりともあまり遅くならないようにね」

 

 ふっと微笑んで小町が言った。

 

「あいよ。行ってくるわ」俺は軽く手を上げる。

 

「小町も気を付けて帰るんだよ」沙希が柔らかく微笑んだ。

 

「うん、行ってらっしゃい」

 

 ひとつ頷いた小町がのんびりと足を進めて帰路に着く。妹の背を二人で眺めて、俺たちも駅へと足を運ぶ。

 

 両手を背中で組んだ沙希が腰を曲げて俺を見つめてくる。

 

「ね、ふたりになれるとこ行きたいな……」

 

 綿菓子のように甘い声に、飴色のとろけるような笑み。あまりに蠱惑的な沙希に、思わず背筋がゾッとした。こうなった沙希にはどうあがいても逆らえない。

 

「また襲う気か……?」

 

 せめて反撃くらいはしてやろうと言葉を返すと、沙希は笑顔を引っ込めて慌てまくる。

 

「お、襲ってないし! あのときはちゅーしたかっただけだし! 八幡も喜んでたし!」

 

「『し』が多すぎる。お前は一体何ヶ浜だよ……」

 

「川崎沙希だよ!」

 

「知ってる。したがりなのに恥ずかしがり屋だよな」

 

「うぅ……。八幡だってして来るくせに」

 

「そりゃ好きだからな」

 

 ぷすん、と沙希が顔を真っ赤にする。たぶん俺も赤くなっているはずだ。

 

 しばしの間ふたり無言でとぼとぼ歩く。

 

 でも……と沙希がハンドルを握る俺の手に触れる。唐突に沙希の体温が灯り身体が熱くなる。

 

「今日は……いいよね?」

 

 瞳を濡らした沙希が俺を見上げてくる。その視線の熱に心臓が止まる思いがしてその場に立ち止まった。沙希が身体をすり寄らせてくる。天下の往来だというのにも関わらず、いまは奇跡的に人がいない。

 

「一週間待ったから。それに……」

 

 いま、誰もいないよ。

 

 囁いた沙希が瞳を閉じる。恋する乙女の美しい顔が近づいてくる。

 

 俺は恋をした。

 

 俺は沙希が好きだ。

 

 社会は憎悪と悪意に満ち、苦痛や孤独の怨嗟の声に溢れていても、きっといまこの瞬間の俺は誰よりも幸せだと。生まれて初めて手にした恋が、かくも人の闇を祓い盲目にするのだと。

 

 実った恋が、これほどまで心を掻き乱し、それでいて約束の地のような安らぎを与えてくれるものだと知ってしまった。

 

 だから願うのだ。見てほしい。聞いてほしい。触れてほしい。知ってほしい。欲してほしい。隣にいたい。一緒に歩きたい。ずっと、繋がっていたい。

 

「沙希……」

 

「八幡……」

 

 淡い口づけ。

 

 それだけでは足りなくて。もっともっと触れていたくて。そんな想いすら同じだと分かってしまって。ふたり見合ってはにかんで。

 

 人が来るまでのほんの一瞬。

 

 もう一度だけ、沙希と重なった。

 

 

 

 

 




これにてこの話は完結。
あとがきは活動報告にて


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