生まれ変わったら竜になりたい女の子とお話しするお話 (Senritsu)
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生まれ変わったら竜になりたい女の子とお話しするお話

 

「生まれ変わったら、竜になりたい」

 

 青空が、とてもきれいだ。

 この地域では珍しいことだった。鬱蒼と木々が生い茂る原生林では、そもそも空があまり見れないから。見えても大抵曇っているか、雨が降っている。

 開けた空間の周囲から、鳥の鳴き声と流れる水の音が折り重なって聞こえてくる。

 

 彼女は、巨大な蛇の竜の、お腹の上に腰掛けていた。

 蛇の竜は、息絶えている。

 

「……それはまた、どうして?」

「竜になったら、空を飛べる」

「まあ、飛竜なら飛べるだろうけど……」

 

 私は言葉を濁しながら、剥ぎ取りナイフで蛇の竜の鱗の一枚をざくざくと剥ぎ取っていく。

 流れ出す血は、黒く染まった紫色をしていた。あまりそれに触れないように気を付けつつ、彼女との話を続ける。

 

「空を、飛びたい?」

「うん」

「地上を見下ろしたい?」

「空を……見たい」

 

 今、見えてるのに。

 私は顔を上げた。相変わらず彼女は竜の亡骸の腹の上に座っている。

 蒼火竜(リオソウル)の軽鎧に、火竜の太刀、飛竜刀。頭の鎧は脱いでいて、青鈍色の髪が肩まで垂れ下がっている。

 彼女の名前は、テルーといった。

 

 彼女は空を見上げていた。湿地帯特有の低く立ち込める雲はそこにはなく、抜けるような青空が広がっている。

 彼女の視線はここからでは見えなかったけれど、意識は遠くへ向いているように思えた。

 空を飛んで、空を見る。それは、地上から見るのとは違う。より広く、蒼い。そんな空を、彼女は見たいのかもしれない。

 

 ただ、それは何も、竜にならなければ実現できない望みというわけでもない。私は彼女に問いかけた。

 

「それなら、気球じゃだめかな? あれならゆっくり空を見れる」

「……それでも、いいかも」

 

 遠くの狩場へ行く時などに使う、気球。それほど珍しくもない。立っていれば勝手に空の高いところまで送ってくれるのだから、空からの景色を見るにはそっちの方がお手軽だ。

 けれど、はじめは頷きを返したテルーは、ややあって言い直すように小さく首を振った。

 

「でも、やっぱり人は小さいから。小鳥もそう。両手を広げても、これだけ」

 

 やんわりと両手を広げる。私から見た彼女はちょうど逆光となって、光と影のシルエットのように見えた。

 そのまま彼女は手を伸ばす。弛緩した手で、ゆっくりと。まるで、遠くの何かに引き寄せられているかのように。

 

「竜になって、大きな翼で……空を掴めたらいい」

 

 逆光の中で、その横顔から、彼女が少しだけ口角を持ち上げて、どこか楽しそうに笑っているのが見えた。

 

 

 

 

 

 短編『生まれ変わったら竜になりたい女の子とお話しするお話』

 

 

 

 

 

「また狂竜化のクエストが出てる……」

 

 ハンターズギルドの集会場に設置された掲示板の前で、テルーと私は顔を見合わせた。

 掲示板の『優先して受けてほしい欄』に張り付けられていたそのクエスト用紙には、『生態未確定』のスタンプが。

 

 そのスタンプは、調査職員さんが観測したときに明らかに普通でない行動をしていたり、不自然に小型モンスターがいなかったり死んでいたりしたときに押されるものだ。経験則から言えば、十中八九モンスターが狂竜化している。

 ここ数年は鳴りを潜めていたはずなのに、ここ最近はしょっちゅう見かける。狩っても狩っても出てくる、という感じだった。

 

「もしかして、またゴア・マガラが出たの?」

 

 そのクエスト用紙を引き抜いてクエスト受付のカウンターまで持ってきた私は、向かいの受付嬢さんにそう尋ねてみた。ゴア・マガラは、狂竜化のそもそもの原因になるモンスターだ。

 

「ええと……ギルドの予想ではその可能性が高いみたいですが、ゴア・マガラは見つかっていないようです」

 

 受付嬢さんは羊皮紙をぱらぱらと捲って今分かっている情報を読み上げる。まだ調査は始まったばかりのようだった。

 

「そうなんだね。まあ、今は目の前のことに対処していくしかない……というわけで、このクエスト受けるよ」

「ごめんなさい。アルハさんたちにばかり生態未確定の依頼を斡旋してしまって……」

 

 受付嬢さんは申し訳なさそうに言う。

 私とテルーは専業と言っていいほどに、狂竜化モンスターの依頼を受け続けていた。他に誰も受けたがる人がいないのだ。

 ふつうの狩猟依頼に比べれば良い報酬が貰えるけど、得体が知れないし、何よりも慣れていないひとの事故死率がかなり高い。誰も受けたがらないのも、当然と言えば当然だった。

 

「別にいいよ。稼ぎもいいし、慣れてる人がいけるなら、それにこしたことはないもの。それに、テルーも嫌じゃないみたいだから」

 

 テルーの方を見る。こういった交渉事は私に任せっきりなテルーはこくりと頷き返した。

 

 他の人から見れば、私たちは不人気なクエストばかり受ける変人のように思われているかもしれないし、ギルドのいい駒のように思われているかもしれない。

 まあ、別に他人からどう思われようとどうでもよかった。むしろ狂竜症が忌み嫌われているせいで避けられている節もあって、変に絡まれるよりは全然いい。女性二人だとその辺りがとても面倒なのだ。

 

 簡単な手続きを済ませて、私はテルーの手を引いて集会場から出た。今のうちに準備を済ませて、明日の朝には狩場に向けて出発だ。

 今度の生態未確定モンスターは、ケチャワチャという名前の猿のようなモンスター。遺跡平原地域に現れたらしい。この前のガララアジャラから続き、骨が折れそうだった。

 

 

 

 

 

 遺跡平原は、原生林とは違ってよく晴れていることが多い。

 いつもなら見晴らしのいい場所は心地よい風が吹き抜けているものだけど、このときばかりは、禍々しい空気が風に乗って不穏な雰囲気を醸し出していた。

 そこから時折響き渡る咆哮に、理性と呼べるようなものはほとんど感じられなかった。

 

 私たちは、狂竜化したケチャワチャと相対している。

 

 だらんと脱力された状態から、右手が急に振り抜かれる。それを仰け反って何とか避けて、牽制するように自らの武器、セルレギオスのスラッシュアックスを振るう。

 裂かれた右手の甲から溢れ出す血は、紫色に染まっていた。人によっては不気味に感じられるかもしれないが、私たちに限ってはむしろ馴染み深い。

 手を斬られるのはかなりの痛みがあるはず。しかしそのケチャワチャは怯むことなく、バランスを崩していた私に向けて手を伸ばす。

 腕の筋肉が膨れ上がっている。異常に力が入ったその手で身体を掴まれれば、私の着る柔らかいフルフルの防具では握り潰されてしまうだろう。避けるには──。

 

 咄嗟にスラッシュアックスを割り込ませて掴ませようとする前に、ケチャワチャの背後から音もなく近づいていたテルーが、その腹に太刀を突き入れた。

 飛竜刀の刃先がケチャワチャの腹の中に入り込み、じゅうぅ、と肉や内臓を焼き焦がしていく。刀身からは炉のように炎が迸っていた。

 

 流石に許容できない痛みだったのだろう。横っ飛びしたケチャワチャは焼かれた腹をさすり、金切り声のような咆哮を上げながら喚き散らした。

 ケチャワチャの顔はあの獣特有のお面のような耳に隠されていてよく見えない。けれど、まともな表情はしていないだろう。

 本来は、あのような傷を受けたらその場から逃げ出してしまうような、臆病で理性的な面を併せ持つはずなのに。その理性が完全に剥がされてしまっている。

 

「アルハ、抗竜石切れた」

 

 テルーがケチャワチャに向けて走りながら、すれ違いざまにそう告げた。

 

「ん、じゃあ次は私の番だね」

 

 私はそう返事をしながら、走っていくテルーの後ろ姿を見送った。

 テルーがやや大袈裟に太刀を振って、ケチャワチャの注意を引きつけている。私はその隙にポーチから手の平くらいのざらざらな赤い石を取り出して、剣モードのスラッシュアックスの刀身を研ぐように塗布した。

 

 抗竜石。モンスターの狂竜化を鎮静する効果を武器にもたらす特殊な砥石だ。そう何度も使えるようなものではないけど、二人で順番に使えばしっかりと効果は出る。

 武器の刀身に金糸織りのように抗竜石の砂が散りばめられていることを確認して、すぐに私は一人で戦うテルーのもとへと駆け出した。

 

 

 

 さっきのやり取りをした段階で、ケチャワチャは既にだいぶ弱っていた。

 数時間近く私たちと戦って傷だらけだったというのもあるけど、狂竜化が身体にかける負担がかなり大きかったみたいだ。ケチャワチャも立派に強いモンスターだけれど、どうしても飛竜種などには生命力で劣る。その差が直に出たのかもしれない。

 

 無理やり大暴れして、酸欠になってよろめいているところを、テルーが一閃。後ろ足の腿を絶たれたケチャワチャが、がくりと座り込む。

 その無防備な胸元に私は飛び込む。剣モードのスラッシュアックスをその心臓部分に突き入れた。

 

 おぞましい悲鳴が上がる。両腕が私の防具を掴むけど、その引き剥がそうとする力になんとか抗う。いや、抗えてしまう程に、その力は弱かった。

 

 侵入した刃は浅い。けれど、突き入れたと同時にスラッシュアックスが力強く振動し始める。エネルギーは切先に伝えられて、掘削するように奥へ奥へと入り込んでいく。

 私の持つセルレギオスの剣斧、アクサアルダバランが搭載しているビンは強撃ビン。属性開放突きに溢れ出す属性はなく、ただただ純粋に、推進性と破壊力を底上げしている。

 危ないけれど、ぐっと剣の近くに身体を引き寄せて、激しく暴れるスラッシュアックスを両手で抑えつける。最後の爆発の瞬間まで、手元から離さないように。

 

 そのとき、噴き出す紫色の血液の量が一気に増えて、私のフードと顔を濡らした。

 ────大動脈まで届いた。致命傷だ。

 

 そう悟った瞬間、それまで私をなんとか引き剥がそうとしていたケチャワチャの両手の力が、ふっと弱められる。

 むせ返るほどの血の匂い。私は顔を上げた。

 

「……ごめんね」

 

 思わず口から零れ出た言葉。私は目を閉じて首を振って、その自らの言葉を否定した。

 それは、誰に向けた言葉でもない。自分を慰めることすらない。

 

 大動脈に刃が届いたことで、刀身に塗布した抗竜石の効果が最大に発揮されたのだろう。

 最後の一瞬だけ理性を取り戻し、なぜ? とでもいう風に私を見下ろしたケチャワチャの瞳に、もう光は宿っていなかった。

 

 

 

 

 

「あふ、けほっけほっ……」

「テルー、大丈夫?」

 

 キャンプへの帰り道。テルーが咳き込んでいるのを私は聞き逃さなかった。

 テルーは「大丈夫」と言って微笑む。その顔は少しだけやつれているようにも見えて、私を心配させる。

 けれど、彼女はいつだってこんな調子だし、その上であんなに鮮やかに太刀を扱ってみせる。狩りの才能というのやつかもしれない。

 

「もう、気をつけてよ。狩りの途中なんかで咳込んだりしたら、笑いごとにならないんだから……っ、こほっ」

「アルハも人のこと言えない」

「……むう」

 

 いつものように小言を言おうとして、似たような咳をしてしまう。してやったりという風に微笑むテルーに、私は頬を膨らませた。

 まあ、確かにその通りなんだけど。とどめの一撃でちょっと無茶をした自覚はある、というよりも、最後にあのモンスターの血を大量に浴びてしまったのがよくなかった。

 狂竜症だ。まだ発症まではしていないけど、しっかり感染してしまった。

 

 狂竜症はゴア・マガラというモンスターが撒き散らす狂竜ウイルスを浴びたり、狂竜症に罹ったモンスターの血を受けたり飲んだりすることで感染する。けど、人ならすぐに発症はしない。

 発症する前では、ちょっと頭ががんがんして、咳が出て、何かを壊して回りたい衝動に駆られるくらい。厄介だけれど、私もテルーもその衝動とには慣れっきりになってうまく付き合えるようになっている。

 

 症状は焦燥感や心拍数が上がったりすると酷くなる。もう戦う必要がない今、発症までいってしまう心配はほぼない。落ち着いていれば大丈夫だ。

 人間の私たちだから、その程度で済んでいるとも言えた。モンスターたちにとっては、狂竜症はほぼ致命的で、一度感染したらごくごく稀にしか生還できないらしい。人間の方が生き残りやすい病気なんて、なんだか不思議な話だった。

 

 

 

 キャンプまで戻って、一夜を明かして、ギルドからやってきた竜車に乗る。丸鳥ガーグァが引っ張る竜車だ。

 がたごとと荷台が揺れる。私とテルーはへりのほうに体を寄せあって座りながら身体を休めていた。防具を来ているので、互いの体温はあまり感じられないけど。

 テルーは目を閉じているけど、眠ってるわけではないみたいだ。私はぽつりと呟いた。

 

「……もし、テルーが竜だったらさ」

「うん」

「さっきのモンスターみたいに狂竜化しちゃったら、もう長くは生きられないよ。他のハンターに狩られちゃうかもしれないし」

 

 この前、テルーは生まれ変わったら竜になりたいと言っていた。

 そのとき、そしてそのあとも、私はテルーに不思議な印象を抱いていた。

 

 空に向けて、焦がれるように伸ばした手。そのまま空を掴んで、遠くへ行ってしまうような。

 すぐ傍にいるはずなのに、その存在があまり感じられないような気がして。ただのテルーの願い事を、引き止めるようなことを言ってしまった。

 重いなあ。と自分で反省していたら、彼女はゆっくりと答えた。

 

「…………それなら、人みたいに克服すればいい」

「ええっ? 極限化しちゃうの?」

 

 極限化。狂竜症を克服したモンスターのことを言う。それができるモンスターは本当に稀で、私やテルーも話に聞いたことがある程度だ。

 極限化モンスターは恐ろしく強いらしく、しかもゴア・マガラのように狂竜ウイルスを撒き散らすようになるので、ギルドからとても警戒されている。

 でも、そのあとは容態が落ち着くらしい。竜になったテルーはそれを目指すという。

 

「うん。極限化する。それで治す」

「ひえ……極限化テルー……」

 

 手がつけられないくらい強そうだ……。

 私の反応が面白かったのか、テルーは笑った。私もつられて笑ってしまう。そのせいで、さっきの不安はどこかへ行ってしまった。

 テルーの笑顔で安心したかっただけらしい。我ながら単純なものだった。

 

 

 

 

 

 私たちの拠点はバルバレという街にある。バルバレは移動式の集会場と一緒に旅をしているので、地図に載らないという珍しい街だ。

 即席で作られた広場をぐるっと商隊の竜車が取り囲むという見慣れた光景。私とテルーはギルドの集会場の横にある小ぢんまりとした診療所に足を運んでいた。

 

「こんにちは、ハシバミさん」

「やあ、こんにちは」

 

 診察室のカーテンを捲って挨拶すると、白衣を着た若い男の人が慣れた感じで答えた。亜麻色の長髪を首のあたりで一つに結っている。

 ハシバミさん。ハンターズギルトの職員で、ドンドルマという遠く離れた街からバルバレに来てくれているお医者さんだ。

 

「調子はどうだい?」

「悪くはない、です。でも、やっぱり咳が止まらなくて」

「ううむ、狂竜症は長引くようなものじゃないはずなんだけどな……」

 

 正直に現状を答えると、彼は難しい顔をして唸った。

 

 狂竜症は人だったら治るという話、実は私たちに限っては当てはまっていなかった。

 悪化して発症まで至ることはないけれど、完治もしない。「治りきらない」状態がずっと続いている感じだ。

 テルーも私と同じで、もう数年前からこんこんと咳をしている。目の奥が重くなるような頭痛も止まない。二人揃っていつもそんな感じなので、馴染みの商人さんや加工屋のひとにしょっちゅう心配されていた。

 

 ちょっとした雑談のあと、診察が始まる。

 問診をしたり、脈を測ったり、喉を視たり。採血をして、聴診器という不思議な道具でお腹や肺の音を聞いたり。

 テルーがちょっとむず痒そうにしていて笑ってしまう。けれど、そんな楽観的な私たちに対して、ハシバミさんの表情は優れなかった。

 

 肺や気管支の音に異常はないのに、咳だけは出続けている。狂竜ウイルスに感染している兆候は出続けたまま、良くも悪くもならない。お医者さんとしては歯痒いところなんだろう。

 もし君たちの唾や採血から狂竜ウイルスが規定値を超えて出ていたら、強制的にギルドの隔離病棟まで連行なんだけどね、とハシバミさんは真顔で言う。あれは本気だ。まあ確かに、狂竜症を発症させたままバルバレに戻ってきた人を放っておくわけにはいかないよね。

 

 結局、処方箋だけ渡されて診察終わりということになった。ハシバミさんは前もって用意していたらしい袋を渡す。

 

「はいこれ、いつもの。ウチケシの実と、抗菌石の粉末。ウチケシの実の成分は抗生物質もダメにしちゃうから、先にウチケシの実の粉末を飲むこと。そして、今日はしっかり寝なさい」

「はーい」

「一応医者の立場から忠告しておくけど、しばらく狂竜病のモンスターを狩るのはやめておいたほうがいい。その咳が狂竜症絡みだってことだけは明らかなんだから」

 

 ハシバミさんの忠告に、私はちょっと間を開けて「……はーい」と答えて診療所を後にした。

 

「今日はちゃんと寝なさい、だってさ。それくらいはちゃんと聞いておかないとね。でも、その前に何か食べたいな……クエスト報酬もあるし」

「ニャルの、ニャルのネコの屋台に行きたい」

「うーん残念! 今はあのキャラバンはここにいないから、あのアイルーさんの屋台はないよ」

「……悲しい」

 

 あからさまにがっかりした仕草をするテルー。確かに気持ちは分からなくもない。あの不思議な口調のアイルーさんの振る舞う「おふくろの味定食」は本当においしいのだ。

 屋台探しをするにも、狂竜症に関して悪い噂が立っている私たちを快く受け入れてくれる人たちはあまりいない。

 結局、ギルドの酒場でちょっと豪華な食事をしようということで落ち着いた私たちは、商人たちが行きかういつもの喧騒の中を歩いていった。

 

 

 

 

 

 たまに、幼い頃の夢を見る。

 

 森の中の道をがたごとと行くキャラバン。四つの竜車、二組の家族ぐるみの商隊。穀物や香辛料を載せてバルバレを目指していた。

 私とテルーはそのときに出会った。お互いに旅する商人の一人娘だった。すぐに仲良くなった私たちは、竜車を引くアプトノスの世話を一緒にしたり、荷台に潜り込んで話し込んだりと、旅の間はいつも一緒にいた。

 

 護衛のハンターは二人つけていた。彼らは噂に聞くような素行の悪い人ではなくて、ギルドからしっかり依頼を受けて来ていたし、腕も立った。

 小型モンスターに商隊が襲われたときには商品と私たちを最優先で守ってくれたし、ケルビやウサギを狩ってきてはその肉を私たちに分けてくれたりもした。ハンターにしては珍しく優しい人たちで、ちょっとした憧れがあった。

 

 いつものように街に着いて、しばらく滞在して、荷台に新しい荷物を積んで、また旅に出る。そんな行商人の日常が、繰り返されると思っていた。

 それこそ、バルバレでテルーとお別れになるだろうことも予感していて。寂しいけど、そのときになるまでは考えないようにしよう、なんて考えたりもしていたのだ。

 

 そんな旅は、バルバレに着く前に終わりを迎えた。

 突然アプトノスたちが怯えだして、これはよくない兆候だと避難しようとした矢先に、ソレはやってきた。

 

 隠れていた荷台の隙間から、地面を霧のように這う藍色の霧と、その中で浮き立つような純白が見えた気がして。

 気付けば、そこにあった命は私とテルーだけになっていた。

 

 ひっくり返った竜車と、辺りに散らばった袋や毛皮。

 ハンターの人たちの亡骸は原形を留めていなかった。何か巨大な腕で、地面に叩きつけられたかのような。

 お父さんやお母さん、他の商人の人たちは、みな地面に倒れ伏していた。自分で自分を傷つけたのか、互いに傷つけあったのか、顔や手から血を流して、ひどく苦しそうに死んでいた。

 

 暗い藍色の霧の残滓と、残骸と、肉片。地獄のような光景の中で、私は呆然と地面を見渡していて。

 テルーは、ぼんやりと空を見ていた。

 

 

 

 夢は大抵、そこで終わる。

 そのあと、私たちはバルバレからやってきたギルドのアイルーたちに保護された。ギルドの施設に住み込みで働いて、それからハンターになって、今に至る。

 

 私たちが出会った白いモンスターはシャガルマガラという名前で、あのあと、我らの団というキャラバンのハンターの手によって倒されたらしい。

 お父さんやお母さんからこういったことはよくあることなんだと教えられてきた私は、仇を討とうという感覚も特に抱いていなかったけど。とにかく両親を殺したモンスターは人の手によって殺されたことになる。

 

 けれど、縁は切れていなかった。

 かの龍、シャガルマガラを発端として始まったモンスターの狂竜化は未だに収まっていないし、極限化モンスターや新たなゴア・マガラの出現という新たな脅威も現れるようになっている。

 そして何より、あの一度だけのシャガルマガラとの邂逅を境にして、私とテルーはある病を抱えることになったのだ。

 

 治りそうで治らない、延々と続く狂竜症を。

 

 

 

 

 

 狂竜化モンスターの狩猟依頼が増え始めてから数か月くらいが経った。相変わらずゴア・マガラは見つかっていない。かの竜はなかなか隠れ上手みたいだ。

 原生林地方の狩場で、私とテルーはリオレイアと戦っていた。邂逅した段階で既に狂竜化していて、私たちを見つけた途端に襲い掛かってきた。

 

 リオレイアはとても強い飛竜だ。それが狂竜化してしまっているので、本当に手強い。

 私は側頭部を尻尾に打たれて、耳元からべったりと血を流している。かの竜の尻尾の棘は強い毒を持っていて、傷口からの血が止まらなくなる。一時は頭がぼうっとしてふらついてしまった。

 テルーもまた、狂竜化モンスター特有の錯乱したような突進にぶつかってしまって、しばらく動けなくなっていた。咄嗟に閃光玉を投げていなかったら危なかったかもしれない。

 

 けれど、二人ともまだ死んでいない。

 むしろテルーに至っては、戦いに復帰してからどんどん調子を上げてきている。飛竜刀はリオレイアとの相性が悪いから、私のアクサアルダバランにがんばってもらおうと打ち合わせていたはずなのに、それを覆す勢いだ。

 突進や飛行で距離を稼がれても、すぐに詰める。最低限の回避で太刀をひたすらに振るい続ける。その立ち回りはどこか狂気的なものすら感じさせた。

 

「テルー?」

 

 呼びかけてみたけど、返事は帰ってこなかった。

 これは、私たちだけがいつも身に宿している狂竜ウイルスの影響を、我が物にして過集中になっているのかもしれない。私にも覚えがある。

 

 狂竜症は、悪い感じで発症すると傷の治りが極端に遅くなってしまう。それなのに精神がとても狂暴になってしまって、それを抑えつけるのには強い苦しみを伴う。

 ただ、それとは逆に、発症する前に制御することもできる。

 自らに巣食う狂竜ウイルスを受け入れて、湧き上がる殺戮衝動を聞いて、それを逆に支配してしまうようなイメージ。そうしたら殺意が研ぎ澄まされて、五感が鋭くなって狩りに集中できるようになる。

 

 こう言うと文字通り狂ったかのように聞こえてしまうかもしれないけど、そうやって狂竜ウイルスを我が物にできたときは、とても気持ちがいい。没入感と高揚感が入り混じって、ぞくぞくする。

 何より、このときだけは、あの息苦しさから解放される。

 

 すう、と息を吸い込めば、それが雑音なく肺へと届けられる、目を開いて景色を見渡しても頭が痛くならない。とても、懐かしい感覚だ。

 ここ数年単位で治らない、あの咳と頭痛が鳴りを潜めてくれる。それはどうにも抗いがたい魅力だった。

 

 

 

 テルーの奮闘の甲斐あってか、リオレイアが瀕死に至るまでに長い時間はかからなかった。

 私も肩で息をしている。手に持つ斧はとても重く、それを振るうのも走るのも億劫だ。全身の汗が、防具の内側をぐっしょりと濡らしているのも感じ取れる。

 ふう、はあ、と熱っぽい吐息を漏らしながら、武器を構えて、もう何度目かも分からない、リオレイアと相対する。

 

 リオレイアの口からはどす黒い涎が垂れ流されていて、全身の傷口から流れ出る毒々しい色の血も相まって異様な雰囲気を感じさせる。

 けれど、私たちに限ってはそれがいつものことだし、その濁った眼の瞳孔の動きから、もうまともに目も見えないだろうことも感じ取れた。

 それはどこか、以前の弱り切ったケチャワチャを彷彿とさせるようだ。

 

 突然、テルーが飛竜刀を仕舞った。そして、リオレイアの方へ無防備に歩き出す。

 私はそれを、なんとなく、というとてもあいまいな理由で、止めることができなかった。

 

 熱病に浮かされた人のように、よたよたとリオレイアがふらつく。もう飛ぶどころか、自重を両脚で支えることも難しいようだった。

 私たちが傷つけて大量に失われた血液、そして体を蝕む狂竜ウイルス。二つの死の刃に板挟みにされて、もう何もせずとも、あと数分もしないうちにリオレイアの命の灯は消える。

 

 そんなリオレイアに無言で歩み寄ったテルーは、何をするわけでもなく。

 ただ、その竜の頭を抱きかかえた。

 

「テルー……?」

 

 リオレイアが崩れ落ちる。体力の限界を迎えたようだ。

 くた、と弛緩した首の先、頭だけがやんわりと持ち上がっていた。テルーがそれを支えていた。

 

 リオレイアを見るテルーは、幼いころの記憶、お母さんが寝る前の私に向けてくれた微笑みのような。とても優しい笑みを浮かべていて。

 抱えきれないほどに大きな竜の頭。その額と自らの額を、そっと重ね合わせた。

 

 狂う竜を、慈しむ。

 

 リオレイアはテルーに向けてか細い鳴き声を上げて、その口から紫色の血が零れ出て、やがて眠るように目を閉じた。

 その最後は、狂竜化していたとは思えないほどに安らかなものだった。

 

「どうしたの、アルハ」

 

 テルーの呼び声で、私ははっと我に返った。いつの間にか、その光景に見入ってしまっていた。

 

 自分の今の姿と、彼女の姿を見比べる。血濡れの剣斧を握りしめて棒立ちする自分と、自ら血に濡れながら力尽きたリオレイアの頭を腕に抱くテルーを。

 そこには見えないけれど、とても大きな壁があるように思えた。歩み寄りづらい、近づきがたい雰囲気。別にテルーが拒絶している風ではないのに。

 私の無意識が、それに近づいてはいけないと訴えかけているかのようで。

 

 

 

 ────私は、笑いかけた。

 

「その子、ちょっと優しい顔で眠ってるね」

「……うん」

 

 私がそう言うと、テルーは頷いてまた微笑んだ。

 場違いな話だろう。モンスターを殺した当人が、その死に顔を語っている。

 けれど、今のテルーと私では、考えていることに程遠い違いがあるのだろうと感じた。テルーがその後に続けた言葉で、それは確信へと変わる

 

「よかった。とても、寂しそうだったから」

「……そっか。テルーは、優しいね」

 

 苦しそう、でも、怯えてそう、でもない。力尽きたその竜を、寂しそうだったと彼女は言った。

 寂しいという感情を竜が持つのかは分からない。けれど、うまく言葉にできないけれど、テルーは狂竜化したリオレイアにそれを見出した。共感していて、だからかの竜の頭を抱いた。

 

 人と竜は相容れない。互いの気持ちを伝え合うことなんてできない。

 その上で、竜の気持ちを読み取れるとするならば────。

 

 

 

 目標は達成したので、ちょっと木陰で休もうという話になった。

 狂竜化モンスターの周りには小型の肉食モンスターも寄り付かないから、狩り終わったあとに少しゆっくりできる。とか言っていたら別の狂竜化モンスターが乱入してきました、なんてこともあるので眠ったりはできないけど。

 

 周辺を漂っていた禍々しい雰囲気は鎮まって、いつもの森に戻りつつある。隠れていたらしい鳥が、ピピピ、と鳴きながら湿地の空を飛んでいくのが見えた。

 リオレイアの尻尾に打たれた側頭部がじくじくと痛む。これはちょっと厄介な傷かもしれない、などと思っていたところで、テルーがまたぽつりと呟いた。

 

「生まれ変わったら、竜になりたい」

「うん」

「空を飛んで……移り変わるものを、見たい」

 

 テルーが自分から話を進めていくのは珍しい。聞き覚えのある出だしだったけれど、後に続いた言葉は以前とは異なるものだった。とても抽象的な言葉だ。

 リオソウルの防具が木陰に溶け込む。テルーの瞳は髪の色と同じ青鈍色だ。その瞳の先は、森の木々の向こうを見つめていた。

 

「森の中に小さな花がひとりぼっちで咲いてたら。その花が地面に落ちるまで、傍で眠ってあげたい」

「そっか。なら、間違って踏みつけたりしないように、気を付けないとね」

「……うん」

 

 木々の向こうに咲いていたのは、白い花だった。竜草の花だ。ここからでも見えるということは、とても大きい。もしかしたら人の身の丈の半分くらいあるかもしれなくて、竜草でもここまで大きく育つのは稀だろう。

 テルーだってそれくらいは直感的に分かるはず。けれど、彼女はそれを見てひとりぼっちで咲く小さな花だと言った。認識の食い違いが生じている。

 

 大きさの認識は相対的なものだ。私たちの手の平に収まるような木の実も、小さな虫が見ればとても大きく感じるだろう。時間の認識についても同じ。とある竜人族の女の人は、人間はとても生き急いでいるように見えると言っていた。

 もしかしたらテルーは、あの花を直接的に例えたわけではないのかもしれない。けれど、もしそうだとしたら、テルーはとても大きな視点でそれを見ているのだ。

 

 そう、とても大きくて、命の長い、「移り変わるもの」を観れるほどの視点から。

 

 

 

 

 

 狩場から数日かけて帰ってきて、ギルドから傷の手当てを受ける。テルーは早めに解放されたけど、私の方がやや重傷だったみたいで、専門的な治療をするためにギルドの施設に居残りすることになった。

 一緒にいようかとテルーが言ってくれたけど、先に私たちの宿まで帰っておくことをおすすめした。テルーも疲れているだろうし、他に理由もある。

 

「薬、もうすぐ切れちゃうしね。明日はハシバミさんが来てるはずだから行ってみよう」

「……わかった」

 

 他のハンターの治療に行っているのか、ハシバミさんの姿は見られなかった。今日のところは宿で一眠りして、明日の早朝にでも診療所を訪ねればよさそうだ。

 私はどうやらギルドの治療室で一夜を明かすことになりそうだった。荷物の持ち帰りをテルーにお願いして、私たちはそこで一度別れた。

 

 

 

「意外と早く終わっちゃったな……」

 

 その日の深夜、私は夜の通りを一人で歩いていた。

 側頭部の傷の具合は酷かったけど、化膿や壊死はしていなかったので予想より早めの解放となった。早めに毒の棘を抜いて、痛いのを我慢して定期的に包帯の貼り換えや消毒をしていたのが功を奏したみたいだ。

 顔に若干傷が残ってしまうみたいだけど、狂竜化した飛竜を相手にしてその程度で済むならいいかな、とも思ってしまう。こんなことを言ったら受付嬢さんあたりから怒られそうだ。

 

 バルバレは夜になるといくらか静かになるけど、明かりがついたままの建物もいくつもある。商人の街はあまり眠らないのだ。

 それなりに人通りがあるとはいえ、夜道を一人で歩くのはよくない。けれどテルーのもとへ早く戻れるのは私にとっていいことだ。足早に私たちの宿へと向かった。

 

 下宿に近いかたちで泊っている宿に辿り着いた。ただ、もう遅い時間なのでテルーは眠っているだろう。

 彼女を起こしてはいけないと、私はそっと扉の合鍵を回して部屋の中へと入ろうとした。

 扉の取っ手を握る手は、少し引かれたまま、固まった。

 

「ごほっ、ぐ、うぅ……」

 

 聞こえてきたのはとても苦しげな呻き声。かろうじて、それがテルーの声であることが分かる。

 一瞬、もしかして傷の具合が急に悪くなったのかもしれないと思った。しかし、その考えはすぐに否定された。

 私に背を向けてうずくまるインナー姿のテルー。その傍にあった机の上に、コップとナイフ、そして手のひらくらいの赤い石が置かれているのが見えたのだ。

 

 テルーは、抗竜石を削って飲んでいた。

 抗菌石ではない。抗竜石だ。狂竜化したモンスターに打ち込んで鎮静化させるための、人に使うなんて想定もされていない狩猟用の道具だ。

 それをナイフで削って飲んでいた。そしてそれが、彼女が苦しんでいる直接的な要因になっているようだった。

 それが指し示す事実はひとつだけ。そして、私の頭の中で様々なことが繋がり始める。

 

 もしかしたらテルーは、これまでもこうやってたまに抗竜石を粉末にして飲んでいたのかもしれない。ただ、私が知らなかっただけで。

 とても強い苦しみなのだろう。嗚咽にも似た呻きを漏らしながら、テルーは胸を押さえて苦しみに耐えている。私が扉を開けたことにも全く気付いていない様子だった。

 

 私は部屋に入らず、そっと扉を閉める。その傍の壁に寄りかかって、ずるずると座り込んだ。

 口を手で覆う。吐く息は、小刻みに震えていた。

 

 

 

 

 

 狂竜ウイルスの影響がいよいよ深刻になってきた。

 人的被害が相次ぐようになって、バルバレが取り仕切る未知の樹海と呼ばれる狩場まで狂竜化モンスターが現れ出した。

 ギルドも必死になってゴア・マガラを探している。その竜はどうやら人から逃げるように動いているみたいで、だからなかなか見つからなかったみたいだ。けれど、包囲網は徐々に狭まりつつある。

 

 未知の樹海の、深い森の中にぽっかりとできた広場のような場所で、私たちは狂竜化したフルフルと対峙していた。

 白く艶のあるはずの全身を覆う皮は、今は紫の血管が浮き出て異様な模様を描いている。普段はこんな陽の当たる場所まで出てくるような竜ではないのに、そんな本能すら塗り潰されていた。

 

 狂竜化しているとはいえ、私の防具のもとになっているだけあって、フルフルは比較的狩り慣れている飛竜だ。けれど、思いがけず私たちは大きな苦戦を強いられていた。

 二人一組のパーティなので、狩りの進行にはお互いの連携がとても大切だ。それこそ、片方の調子がとても悪いと、あるいはソロのときよりも危ない狩りになってしまう。

 そして、このときに調子が悪かったのは、言うまでもない。私の方だった。

 

「ごほっ、ごほっ……う、あぁ…………ガ、ア……」

 

 過呼吸に陥ってしまったかのようだ。

 息をしているのに身体の末端が痺れて、息苦しくて、代わりに強い渇きの感情が沸き上がる。斧を杖のように立てて、赤く染まっていく視界の中、ぜいぜいと浅い呼吸を繰り返した。

 フルフルの返り血を浴びてから私を蝕み始めた狂竜症が、その本性を現し始めた。

 

「アルハ」

 

 テルーが私の様子に気付いた。

 がくがくと首を痙攣させながらフルフルが放った地を這う電撃を、テルーは私にぶつかって紙一重で避ける。そして間髪置かずに立ち上がると、紫の涎を垂らすその口を一文字に斬り裂いた。

 嗄れた悲鳴を上げて怯んだフルフルに向けて、テルーは強引に切り込んでいく。さらにポーチから松明の燃料を取り出して、飛竜刀で火をつけて周囲にばらまいた。獲物を熱で視るらしいフルフルの知覚を惑わしているのだ。私に標的が向かないように。

 

 無理に突っ込むテルーの身体を容赦なく電撃が焼く。テルーはそれでも止まらなかった。蒼雷を刀身に纏わせながらも突き入れられた飛竜刀が、フルフルの首筋を焼く。

 ぐら、とフルフルの身体がよろめいた。死んだ、のではない。浮き出た血管がやんわりと鎮まっていく。狂竜症の鎮静化だ。テルーが飛竜刀に塗布していた抗竜石がここにきて効果を発揮した。

 息を吐き、理性を取り戻して怯えたように周囲を見渡したフルフルは、ばさりと翼を広げて飛び立った。眠って体力を回復するつもりかもしれない。追いかけるべきだけれど、そんな余裕はとてもなかった。

 

 フルフルがいなくなったのを惜しく感じている自分がいる。その皮を切り裂いて、浴びるほどの血を浴びたかった自分がいる。

 血に飢えていた。喉の渇きが止まらなかった。狂竜症の怖いところだ。こんな渇望を抱かせながら、傷が全く治らなくなるのだから。

 

 こうなったのは初めてではないということがいくらか救いだった。テルーがフルフルを退けてくれたのが残念で、ありがたかった。

 気休めに過ぎないけれど、震える手でウチケシの実を取り出して咀嚼する。

 衝動に負けて暴れ出すとどんどん苦しくなるから、じっとしたまま、ただひたすらに耐えるしかない。この衝動の波が引くまでの、とてもとても長く感じる時間。けれど、いつか終わりは来る。

 

 そのとき、私に歩み寄ってくるテルーの足音を聞いた。

 私は心の底から怖さを感じた。テルーに、ではない。自分にだ。

 狂竜症の殺戮衝動に見境なんてものはない。むしろ、親しくしてる人にこそ、衝動は強くなるんじゃないかと感じる程で。

 

 テルーを、食べてしまいたくなる。

 

「テルー。だめ。いま、ちかづいたら」

「アルハ」

「テルー……!」

 

 テルーが歩いてくる。なんの警戒もなく、自然体で。私は武器を握っているのに。

 

 私が狂竜症を発症させてしまったのは、他でもない。テルーのことを考えていたからだ。

 竜になりたいと話す。よく遠くの空を見つめている。人とは思えないような視点になることがある。──抗竜石を、自ら食べていた。

 そんなテルーの姿がぐるぐると廻って、狩りの間でもそれが離れなくて。全く集中できていなかった。最悪の立ち回りだった。テルーは、ちゃんと狩りができていたのに。

 

 ああ、テルーは。私の目の前にいる、リオソウルの少女は。

 

 いったい、何者なのだろう。

 

 思い切ってスラッシュアックスを放り投げた。そうしないと斬りかかってしまいそうだったから。

 そしてテルーに飛び掛かる。テルーを押し倒して、その首を絞めようとする。防具の皮防具に阻まれて、無意識に力のこもった手がぎりぎりと音を立てた。

 

 いけない。私はなんてことを。けど止められない。むしろ、私の心を乱した彼女を貪ってしまえば。いや、それだけはだめだ。だめなのに、絶対にそうしたくないのに、私は、私は────。

 

 テルーは何も抵抗しなかった。ただ黙って、私を見つめ続けていた。

 そして、口から血が滴るほどに歯を食いしばった私の顔に、そっと手を伸ばす。

 

「アルハ。わたしは、怖くない」

 

 テルーはふわりと微笑んで、私の頬を撫でた。

 

「怖くないよ。アルハ。何も、怖くない」

 

 ────なんで、こんなときに笑うことができるんだ。

 怯えた表情を浮かべてほしかった。この手を振り払ってほしかった。ふつうの人としての、反応が欲しかった。

 

 狂う人を、慈しむ。

 

 あの日、テルーがリオレイアの最期を看取ったときの、かの竜の気持ちが分かった気がした。

 テルーはリオレイアだけに話しかけていたのではなかった。リオレイアに巣食っていた狂竜症。()()()()()()に、話しかけていたのだ。

 鎮まりなさい、と。ただ、それだけで。

 

 テルーの首を絞めつけていた手の力が弱まっていく。赤く染まっていた視界が元の色彩を取り戻していく。

 後悔よりも先に、とても強い眠気が来た。異常に昂っていた感情が急に霧散して、意識が急に遠のいていく。

 

 どさりと倒れ込んだ。テルーが下敷きになるかたちだ。テルーが私の身体をそっと抱いてくれたような気がしたけど、その感触を確かめるまでもなく、私は深い眠りに落ちた。

 

 

 

 不思議な夢を見た。

 私は地面に立って空を見上げている。浮雲がちらほら流れているけど、概ね良い天気だ。

 

 じゃあ、飛んでみようか。

 とても自然にそう思い立った。夢の中の私があれっと思う頃には既に、私は空へ向けて地を蹴っていた。

 

 ばさっと背中から音が聞こえた。視界の端に、白い切れ端が映る。ふわりと浮き上がる感覚と共に、二度、三度と背中に生えたそれを大きく動かして、私は空に飛び立っていた。

 あっというまに地上の景色が遠のいていく。気球や飛空船では考えられないくらいの躍動感。けれど酔ったりはしない。自分自身で、その動きを生み出しているのだから。

 浮雲の高さをも超えて、昇って昇って、ばっと背中のそれを目一杯に広げて止まる。それまでほとんど見上げてばかりだった私は、初めて地平線を眺めた。

 

 広い。途方もなく、広い。

 空の青色は少し深みを増して、果てしなく続いている。多くの雲は眼下を流れていた。雲海を見るのは初めてではないけれど、陽光に白く照らされて、地上に影を落とす様子が鮮明に映る。

 全身に当たる風を受け止める。ごうごうと流れていく風。緩やかに下降して、ひと羽ばたきして浮き上がることを繰り返す。水中で自らを浮き上がらせるように。それは驚くほど抵抗もなく、軽やかに。

 

 ああ、なるほど。

 これが、空の中にいることと、空を掴むこととの違いか。

 彼らが、竜たちが見ている景色はこうも違うのか。

 

 もしこうやって空を駆けることができるなら、それを戸惑わなくてもいい存在ならば、私は。

 私は────。

 

 

 

 ふつ、とその景色は途絶えた。

 代わりに、ぱちぱちと何かが燃えるような音と、ゆらゆらと揺れる橙色の光が瞼の裏側から届いた。

 ゆっくりと目を開けると、見知った垂れ幕が見えた。仰向けになった私を柔らかく支えている、紛れもないベッドの感触。未知の樹海の入り口のキャンプだ。

 

 目だけを動かすと、テルーがベッドに座っているのが見えた。

 テルーは上半身の防具を脱いで、回復薬を染み込ませた布で身体を拭いている。その肌には無数に枝分かれした焦げ跡が刻み込まれていた。かの竜の電撃に焼かれた証拠だ。やりきれない気持ちになって、胸が痛んだ。

 

 さっきのような衝動が沸き上がる様子はない。狂竜症は落ち着いたようだった。

 身じろぎをするとテルーが振り向いて、目が合った。私が何かを言う前に、一口サイズに切り分けられたウチケシの実をぐいっと差し出される。私はありがたくそれを受け取った。

 

 私が意識を失ったあとのことについて訊ねると、私が丸一日近く眠っていたことが分かった。その間に、テルーがフルフルにとどめを刺したことも。

 確かに最近はまともに眠れていなかったし、精神的にも肉体的にも疲れ切ってしまっていた。狂竜症に蝕まれて消耗も激しかったから、これだけ眠ってしまうのも仕方ないかもしれない。

 

 けれど、そんな私の事情と、今回の狩りで足を引っ張ったこと、一人で狩りに赴かせてしまったこととは話が別だ。私は素直にそれを謝った。

 テルーは自らの傷の手当てをしながら、穏やかな表情で気にしなくてもいいと話す。本当に気にしていない様子だった。テルーらしいなと思う。

 

 こうやって話を交わしていると、テルーに感じていた違和感なんて、全て私の勘違いなんじゃないかと感じてしまう。人のかたちをしている、人だ。何もおかしなところはない。

 

 ────そんな見方こそ、幻想にすぎない。

 夢を辿って分かった。ここ最近のテルーの様子の変化も腑に落ちた。

 

 今、目の前にいるテルーは、人のかたちをしている、人でない何かだ。私は、それをやっと受け入れた。

 テルーは、変わりゆく自分をなんとなく許容している。そうでなければ、こんなに穏やかに、こんなに自然に笑ったりはしないだろう。

 そして、もし少しでもそこに拒絶や嫌悪があったならば、自惚れかもしれないけど、私にそれを伝えるはずだ。それだけの時間と、信頼があったと、私は信じている。信じることしかできない。

 

 その上で、私はどうするべきか。簡単なことだ。狂竜化したリオレイアを狩ったあの日、私はそれを実践できている。

 私はベッドに寝転がったまま、ぽつりと呟いた。

 

「ねえ、テルー。もしも、テルーが竜になったらさ。……ごほっ、空を飛ぶんだよね?」

「……うん」

 

 突拍子もない話。治らない狂竜症のせいで咳が出る。

 二拍ほどかけて返ってきた答えに。私は少し悪戯っぽい笑みを浮かべた。

 

「もしかしたら、ひとりぼっちかもしれないよ。私は空を飛べないし」

「それは……」

 

 テルーは微笑みを引っ込めて、戸惑ったような表情を浮かべた。大空にばかり憧れて、そこを考えていなかったのだろう。

 少し意地悪な質問だ。それは、彼女の願いの延長線にあるものだから。

 

 リオレイアを看取ったときにテルーが語ったように、彼女は竜の寂しさを分かっている。そして、人の寂しさも兼ね備えているなら、空はちょっと、広すぎる。

 本格的に困ってしまったらしいテルーを見て、私はくすりと笑った。やっぱりテルーはテルーだ。

 人であるか否かというよりも、テルーという人格に軸を据えて視るのが、私には合っている。そして私は甘い性格なので、テルーを困らせたままにはしたくなかった。

 

「だからさ、たまに、私を乗せてよ」

 

 人と竜のおとぎ話にあるみたいに、私を背中に乗せて空を飛んでほしい。もしそれができないなら、飛んでいる彼女を空から眺めているだけでいい。その景色はとてもきれいだろうし、見ているだけで幸せになれそうだ。

 自分で投げかけた問いに、自分なりの答えを上乗せする。やっぱり意地悪だったかもしれない。けれど、テルーはそれを聞いてぱっと表情を変えて、嬉しそうにはにかんだ。

 

「……もちろん、いいよ」

 

 

 

 

 

 狂竜症ってなんだろう、と思うことがある。

 竜を狂わせて、血や体液を介してどんどん感染する。人ですら免れることはできず、狂暴になって、自らの大切な人や自分自身まで傷つけてしまう。そんな恐ろしい病。それが通説だ。それ以上でも以下でもない。

 

 けれど、それはあくまで症状であって、本質じゃない。十年近くもの間、治らない狂竜症を抱えてきた私はそんなことを考える。

 狂竜症は、いったい何が目的で、竜や人を狂わせるのだろう。いや、そもそも狂わせること以外に、もっと別の意図があるのかもしれない。

 

 ハシバミさんから聞いた話によれば、狂竜症で死んだモンスターからその血や体液を採って調べてみると、不思議な細胞が見つかることがあるらしい。それは、ゴア・マガラの細胞に酷似しているのだそうだ。

 さらに、確証が得られているわけではないけれど、極めて稀にそのモンスターの死骸からゴア・マガラの幼体が現れることがあるらしい。もしそれが本当であれば、ゴア・マガラは狂竜症を介して繁殖していることになる。

 それを聞いたときにはとても驚いた。雄と雌を持たず、まるで冬虫夏草のような繁殖をするモンスターがいるなんて思わなかったから。

 

 つまり、狂竜症の目的はゴア・マガラが子孫を残すこと。

 狂竜症が他のモンスターにどんどん感染するようになっているのは、子孫の数を増やすため。でもそれは、竜を狂わせる理由にはならない。いや、大暴れさせれば感染源としてはありがたいかもしれないけど、その結果として狂竜化したモンスター同士での食い合いなんかもしょっちゅう起こっている。

 しかも、そんなことをしてその地域一帯の生き物が全滅してしまったら、ゴア・マガラは次の世代を残せない。そんなことはしないんじゃないかなと、私は思う。

 

 そしてこれは、つい最近思いついた私の勝手な考えだけれど。

 狂竜ウイルスは、宿主をゴア・マガラにつくり変えたいのかもしれない。

 

 そのために宿主の身体の中で精いっぱい頑張る。血をあんな色に染め上げたり、宿主の身体の隅々まで、それこそ脳に至るまで行き渡って、宿主の身体の組織をゴア・マガラのものに組み替えようとする。

 そんなことをするから、宿主は狂ってしまう。自らの身体を内側から食い破られているのと何も変わりはない。その苦しみは想像を絶するものがあるはずだ。

 

 しかも、ゴア・マガラが成長して脱皮した姿であるシャガルマガラは紛れもない古龍らしい。ゴア・マガラは「古龍ではない」というだけで「竜である」というわけではないのだ。

 つまり、狂竜ウイルスはふつうの生き物を、その場にいるだけで天災と言われる古龍に変えてしまおうとしているんじゃないか。

 狂竜症に罹ったら強くなるのはそのせいで、器はそのままなのに無理やり古龍のような力を引き出させられているのにも等しい。とてもではないけど、並大抵の竜や獣に耐えられるような代物じゃない。

 

 狂竜症を治せる人やアイルーは、身体の仕組みが竜たちとはかけ離れすぎているんだろう。狂竜ウイルスの方が私たちに馴染まないのだ。

 不幸中の幸い、というべきかもしれなかった。人の社会でこれが流行ってしまったら、どうなってしまうかは想像もしたくない。

 

 その上で、私とテルーについて考える。とは言っても、言えることはただ一つだけだ。

 ずっと治らない狂竜症。今までの考えに基づけば、つまりそれは「()()()()()()()()()()()」か「()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()」ことに他ならない。

 

 私とテルー、どちらが、どちらか。

 もう、聞くまでもない話だ。

 

 

 

 

 

 私が変わっていくテルーを受け入れたあの日から、それが最後の引き金を引いたかのように。

 テルーの容体は、一気に進行し始めた。

 

「…………」

「テルー。狩りに行こう」

「…………」

 

 宿の中で、ぼうっとしているテルーの肩を叩いて話しかける。けれど、彼女はあまり反応を返さずに黙ったままだった。

 困ったな、と腕組みをした私は、ふと思いついて装備品入れから飛竜刀とリオソウルの防具を取り出す。そして、テルーの目の前までそれを持っていってみた。

 

 自らの装備を見て、うたた寝からぱちっと目覚めたかのように顔を上げたテルーは、私の方を見て微笑む。

 よかった。視覚の方はまだ人の側が有利らしい。一度防具を着れば、それが切り替えスイッチの役でも担っているのか、テルーはちゃんとハンターをしてくれる。

 

 今回の依頼は、未知の樹海の探索調査だ。

 ゴア・マガラは未知の樹海に逃げ込んだらしい。けれどあそこは途方もなく広大だ。ハンターを始めてから何度も赴いたけど、地理的に同じ場所に立ったことはほとんどない。人海戦術で探すのにも無理がある。

 

 あの竜が行きそうな場所に目星をつけたので、そこへ行って探索して、もしゴア・マガラを見つけたら信号弾を撃って、できれば討伐してくださいとのこと。

 指示が曖昧だし、外れの可能性が高い。けれど、それはそれで構わなかった。テルーと行く散歩のようなものだと考えれば、割となんでも楽しみになるものだ。

 

 

 

 丸一日をかけて飛空船で未知の樹海まで辿り着いて、周囲を探索し始めてすぐに、異様な光景と出くわした。

 薙ぎ倒された木々、一部は黒焦げになっている。周囲の林はめちゃくちゃになっていた。その破壊の跡を辿っていくと、そこには身体をぼろぼろにして倒れるイャンクックの姿があった。その周辺には黒紫の靄が燻っていた。

 さらにその奥地では、ランポスとイーオスの死骸が散見されるようになった。周囲は腐臭で充満していた。種族間で殺し合っていたらしい。木の幹や地面にこびりついた血はどす黒い紫色だった。

 

 これはもう、間違いない。ゴア・マガラがここにやってきたのだ。急な来訪を受けて、モンスターたちは事前に逃げだすことができなかった。その結果がこれだ。

 もうゴア・マガラはここにはいない。狂竜ウイルスの散布がされてから、それなり時間が経っている。この状況をギルドに報告して、足早に帰還した方がよさそうだった。

 

 そのことをテルーに伝えようとした私は、そこで足を止めた。

 私からやや離れた場所で立ち尽くしているテルーの、その身に纏う雰囲気があまりにも人からかけ離れていたからだ。

 

 腐臭と狂竜ウイルスの残滓に塗れた森の中、ふつうに生きて息をしている私たちは、むしろ異質だ。

 けれど、そこに立つテルーは何もしていないのにその場に馴染んでいた。まるでその場にいることこそが、彼女の正しい在り方であるかのように。

 彼女は真っすぐに私を見ていた。その青鈍色の瞳は私だけを捉えていて、私はほとんど反射的に背中に担いだ剣斧の柄を握りそうになった。それは、おおよそ人の持つ圧ではなかった。

 

「あなたは、人?」

 

 彼女の口から零れたのは、限りなく根本に立ち返った問いかけだった。

 息を吸って、吐く。吐く息がちょっと震えた。そうしてから、私はゆっくりと答えを返した。

 

「……うん。私は、人だよ」

「そうか、人か…………」

 

 彼女は感慨深そうにため息をついた。

 見れば分かること、確かにその通りだ。それが人の視点ならば。

 人とあまりにも価値観が違う存在が人を見たとき、それはランポスやコンガなどの小型モンスターと区別をつける必要があるだろうか。

 最初の質問は、そういう類のものだろう。

 

 それから彼女は、古い記憶を探るように視線を遠くに向けながら訥々と語った。

 

「人は、ふしぎだ」

「すぐに死んでしまうときもあるのに、とても強いときもある」

「仲間で集まって、大きな巣をつくってる。うろこも、鳴き声も、ひとりひとり違うのに、寄り添って生きてる」

 

 それは人でないものが、人という生き物、そしてその社会を見たときの話。

 

 人という器の中にいるからこそ、その想いは言葉というかたちを持つ。いや、あるいは、人がそれを理解できていないだけで、彼らは彼らなりの言葉を持つのかもしれない。

 少し沈黙が降りて、自分自身の言葉に納得するように頷いた彼女は、遠くに追いやっていた視線を戻して、再び私を見た。

 これが彼女の本心とでもいうように、告げる。

 

「人は、とてもかしこいな」

 

 そして、届かない憧れを見ているかのような、どこか寂しそうな笑みを浮かべた。

 

「────すこし、羨ましい」

 

 

 

 

 

 バルバレまで帰ってきて、現状をギルドに報告してから宿に戻る。

 宿に着くや否や、テルーはすぐに眠りについてしまった。最近の彼女は狩りをしているとき以外はだいたい無反応状態になっているか眠っている。まるで()()()みたいだな、と私は思った。

 テルーがそんな調子なので、武器の整備や道具の買い出しなどは私が担う。ギルドショップに向かおうとしていたところで、私を呼び止める声が聞こえた。診療所の方からだ。

 

「アルハくん」

「ハシバミさん……」

 

 声のトーンが少し落ちる。後ろめたさを感じて、私は目を逸らしてしまった。

 けれど、反応してしまった以上はやり過ごすこともできない。私は診療所へと足を向けた。

 

「すまない。僕の力不足だ」

 

 開口一番、ハシバミさんはそう言って私に向けて頭を下げた。

 

「は、ハシバミさん。頭を上げてください。むしろ迷惑をかけたのは私の方なのに」

 

 慌てて私は取り繕う。ハシバミさんが責任を感じる必要なんて全然ない。私の方が謝らなければいけないことだった。

 

 テルーが抗竜石を飲んでいたことが分かったあの日、気が動転した私は、診療所へと転がり込んだ。

 何か大きな怪我でもしたのかと慌てて駆け付けたハシバミさんに縋りついて、私は泣きながら言ったのだ。

「テルーを助けて」と。

 

 テルーの行為を知った彼は衝撃を受けていた。

 私がずっと狂竜症の初期症状を患い続けていた理由が「常にウイルス感染源が傍にいたから」で、その感染源は診察の前に抗竜石で無理やり体内の狂竜ウイルスの活動を抑えつけていた。だから狂竜ウイルスが規定値以上に検出されなかった、なんて、想像もできるはずがない。

 後日になってテルーの身体を彼女に悟られない範囲で詳しく検査したハシバミさんは、彼女の身体に何が起こっているのか、研究を始めた。

 

 その研究について、とりあえずの見当がついたらしい。彼はそれを私に伝えるために、私を呼び止めた。

 

「テルーくんの血液から、古龍の血の成分が検出された」

「……古龍の……」

 

 ハシバミさんはきっぱりとそう言った。決定的な一言だった。

 人が罹る狂竜症とも、竜が罹るゴア・マガラの幼体を生み出すための狂竜症とも全く違う何かが、彼女の中で起こっている。

 ゴア・マガラや極限化モンスターですら、古龍の血は検出されないのだ。それをすっ飛ばして、狂竜症に罹っているだけだったはずのテルーがそれを持っていた。

 

 狂竜症と関りがあって、古龍の血をもつ存在はひとつのみ。

 なんだか、途方もない話だ。

 

 それを前置きしたうえで、ハシバミさんはテルーが言わば手遅れの状態であることを告げた。彼女の変化は不可逆で、人間の血と古龍の血の成分の割合を調べる限り、()()()だと。

 最初に謝られた時点で察しはついていたし、最近のテルーの様子を見れば否応なく感じ取れるものだったけど。そうやってはっきりと言われるといよいよ目を背けられなくなる。けれど、慰めも何もないその一言が、私の胸にすとんと落ちたのも事実だった。

 

「これから急いでドンドルマに行って、狂竜ウイルス研究所に彼女を預ければ、病状の進行を遅らせることができるかもしれない。それくらいの手配はすぐにしよう。……どうする?」

 

 嘘偽りなく事実を私に告げたうえで、彼は真剣な顔で、私に一つの選択肢を残してくれた。

 少しだけ考えて、けれど私は微笑みながらやんわりと首を振った。

 

「気遣ってくれて、ありがとうございます。……こほ、こほ……でも、もうすぐゴア・マガラがやってくるから。私も、テルーも、それを待っているので」

 

 秒読みが零を迎える日。それがいつになるかを考えたとき、かの竜のことが思い浮かんだ。

 過去にゴア・マガラとシャガルマガラを討った、あの有名な旅団のハンターさんは今ここにいない。なら代わりとして誰に依頼が出されるかは、もうほとんど決まっているようなものだった。

 もしハシバミさんの提案に従ってドンドルマに行けば、テルーといっしょにいられる時間は伸びるかもしれない。けれど、そうしたらゴア・マガラの狩猟依頼を受けることができなくなる。それは、なにか、ひとつの結末を捨ててしまうような気がした。

 

「……分かった。君たちのその選択が、君たちにとって最善であることを祈るよ」

 

 私の答えを聞いたハシバミさんは、私の曖昧な意志を尊重してくれたらしかった。

 そして、私がその提案を断るだろうことも予想していたらしい。棚から手のひら大の紙包みを取り出して、私に手渡した。

 

「抗竜石に手を加えてテルーくん用に合わせた粉薬だ。抗竜石より効き目は低いが、効果は長続きする。恐らく君たちはその瞬間を狩場で迎えたいんだろう? テルーくんがこの街中でそうなってしまったら悲劇だからね。街にいる間は、それを飲ませておくといい」

「──っ、ありがとう、ございます」

 

 少し視界が滲んでしまった。それは、今の私が本当に欲しかったものだ。

 ハシバミさんが私たちの担当医で本当によかった。街のお医者さんなら、私たちが狂竜症の症状を持ち続けている時点で、街からの追放を指示してもおかしくはない。彼はそのリスクと私たちの意志の双方を考え抜いたうえで、そんな薬を手渡してくれたのだ。

 

 その薬でテルーの変化が止まることはないという。それでも全く構わない。むしろ、その方がいい。私は何度もお礼を言って、診療所を後にした。

 

 

 

「…………狂竜症とは、古龍とは、一体なんなのだろうな」

 

 

 

 

 

 ハシバミさんが処方してくれた薬は確かな効果を発揮してくれた。

 予想外に嬉しかったことが、最近起きていてもほとんど無反応状態だったテルーが私の話を聞いてくれるようになったことだ。

 たくさん話をした。最近まともに話せなかった分を、さらに倍にして上乗せするように。

 おいしいものもたくさん食べた。あのおふくろの味定食が食べられなかったのは残念だったけれど、代わりにベルナ村という地方からやってきた商人さんがチーズフォンデュなるものを振る舞ってくれた。あれには私もテルーも大満足だった。

 

 狂竜化したモンスターを狩り続けた。未知の樹海の生態系は大混乱になっていて、捜索は難航していた。人から逃げ続けるという手段を取ったモンスターがものすごく厄介だということを、ギルドは思い知っているようだった。

 そんな中でもテルーの太刀筋に狂いはなかった。むしろ、私との実力の開きが出ていて若干の焦りがあった。下手をすれば死んでしまうような大型の狂竜化モンスターとも戦ったけど、そのほとんどはテルーの飛竜刀の前に倒れ伏していた。

 

 時間からすれば、一月も経っていない。けれど、とても活き活きとしていた。

 たくさん話して、たくさん狩って、たくさん笑って────

 

 

 

 

 

 その日、青鈍色だった彼女の瞳は、血のような赤色に染まっていた。

 私は何も言わず、ギルドからの緊急クエストを受けて、未知の樹海へ向かうための竜車に乗った。

 

 彼女は、いつものように空を見上げていた。

 

 

 

 限界まで強化を重ねた馴染みの防具を着て、不具合なんて万に一つもないくらいしっかりと整備してもらったいつもの武器を担いで、私たちはその竜と相対していた。

 

 墨のようにざらついた漆黒の鱗に覆われた身体。大型の飛竜よりも大きく感じる程の図体。四本足に、対の翼。肩部分の特徴的な鉤爪。何より、周辺を漂う黒紫の濃霧。

 黒蝕竜、ゴア・マガラが私たちの目の前に立っていた。

 

 強力なモンスターを初見で相手取るときに、最初から正面に立つのは無謀に過ぎる。奇襲を仕掛けたり、誰かが囮を担って罠に誘導したり、とにかく自分たちの有利な状況に立つことが先決だ。

 けれど、私たちはその定石に真っ向から逆らうように、ゴア・マガラと堂々と対面していた。

 そして、当のゴア・マガラは────何かに怯えるように、後退りした。

 

 テルーが一歩歩み寄る。ゴア・マガラは一歩後ろに下がる。テルーはいつものように落ち着いていて、ただ、その眼の色だけが紅い。

 二度、三度とそれを繰り返して、ゴア・マガラは堪えきれない様子で力を溜め、未知の樹海を轟かせるような咆哮を放った。

 

 視界の景色の、明度と彩度が一気に下がった。

 太陽の光が霞む。まるで昼の中に無理に夜を形作ったような、見えるけれど、暗い世界。分かることは、それらがすべて撒き散らされた狂竜ウイルスであろうということだけ。

 やはり彼は、古龍に成れる竜なのだろう。ただの竜にはこれはできない。周辺の環境を一変させ、天候すら変えてみせる。そんな古龍の力の一端を、彼は既に持っている。

 

 ゴア・マガラの姿形もまた、先ほどとは全く違うものとなっていた。

 丸みを帯びていた頭部からは、天を向く二本の捻じれた角が生えた。飛竜の翼と似た特徴を持っていたはずの両翼は展開されて、五本目、六本目の腕のようなかたちとなっていた。その翼膜からは絶え間なく鱗粉のようなものが舞い散っている。

 これが、ゴア・マガラの臨戦形態。私たちが脅威として認められた、ということなのかもしれない。

 

 まだ、何もやっていないけど。こんな状況下で、私はちょっと可笑しくて口角を上げながらスラッシュアックスを構えた。

 死なないことを最優先に掲げたとしても、生き残れるか分からないくらいの脅威であることは間違いない。しかもきっと、狂竜化モンスターと比べれば生命力が桁違いに高いはず。

 まさに生きるか死ぬかの戦いが始まろうとしているのに、私の意識は別のところに向いていた。

 

 この場の主役は、テルーだ。最初から彼女が主導権を握ってしまっている。

 

 ゴア・マガラは目が見えないらしい。けれど、明らかにテルーを警戒して、怯えている。テルーの中で目覚めようとしているものに気付いているのだ。

 そして最近のテルーは、内側にそんな存在を宿しているにもかかわらず、本当に、強い。

 

 ひょっとしたら、いや、ほとんど間違いなく、狂竜症の正の効果だけを引き出している。

 ハシバミさんは、彼女の身体には古龍の血が流れていると言っていた。未だに成分や作用が全く解明されていない、古龍だけが持つはずの血だ。それがあるということは、古龍の力すら使えてしまえているのかもしれない。

 剣捌きが尋常でなく速く、鋭く、重い。モンスターの攻撃がまず当たらないし、当たっても傷をあまり受けない。集中力も、その持続力も底なしだ。つまるところ、人間離れしていた。

 

 決着は早く着く。そんな確信にも近い予感があった。

 私は、その先のことを考えていた。

 

 

 

 テルーが狂竜ウイルスをその身に馴染ませた日。それはきっと、家族のキャラバンがシャガルマガラに襲われた日と重なっている。

 古龍となったシャガルマガラの放つ狂竜ウイルスを、子どもが吸ってしまったというのが鍵になるのかもしれない、そうハシバミさんは言っていた。ふつうなら、そんなゴア・マガラのそれよりも強力な死の霧の只中で、子どもが生き残れるはずがない、と。

 

 だから、私が生き残ったのはまさに偶然(奇跡)で。テルーが生き残ったのはある種の必然(選定)だったのかもしれない。

 テルーは、シャガルマガラの狂竜ウイルスに蝕まれ、そして適合した。

 

 十年近くをかけてゆっくりと作り変えられていったテルーの身体。狂竜ウイルスやシャガルマガラに恨みを抱くべきか、私には分からない。

 少なくともテルーはそれを拒絶しなかった。自らが変わっていく自覚はあったはず。それを受け入れて、()()()()()()()()()()()()()()()()、空や輪廻への想いを抱き続けた。

 

 いや、たぶん。どちらの願いかなんてあまり意味がない問いなのだろう。

 テルーは、それを自らの願いとすることすら受け入れたのだから。

 

 

 

 ごっ、とかの竜の右翼で殴られて、私は軽々と吹き飛んだ。

 傾斜の地面に叩きつけられて、かはっと乾いた悲鳴を漏らす。全身がむち打ちのように言うことを聞かなくなったのを自覚してすぐに、私は口の中に含んでいた秘薬を噛み潰して飲み込んだ。

 お腹が熱くなって、痛みが和らいでいく。というよりも、認識できなくなっていく。そうやって動かない身体を強制的に動かすようにして、自然治癒を一気に促進させるのが秘薬だ。後のことはもう考えない。

 

 切れた額から流れ出る血を拭って、剣斧を支えに立ち上がる。そしてまた、ゴア・マガラへと向かって駆け出した。

 あの腕として用いられている翼がとても厄介だ。視界の上からやってくるのでどうしても対処が遅れる。あれを両翼で頭上に持ち上げて、振り下ろして地面を砕くなんて荒業もやってのける。それに捉えられた日には、間違いなく潰されて即死だろう。

 

 しかし、そんな中でもテルーの動きは軽やかだった。

 ゴア・マガラは私に追い打ちを仕掛けたかったはずだ。けれど、テルーがそれを許さなかった。既にかの竜の身体のあちこちには、深い斬撃と火傷の跡が刻まれている。

 今も左翼による引っ掻きを斬り下がって避けて、直後に横一文字に一閃。翼爪の一本が切り飛ばされて地面に落ちた。仰け反るようにして怯んだゴア・マガラは、目の前のテルーを排除すべく即座にブレスを放つ。

 

 狂竜の力が凝縮されたような炸裂型のブレス。その爆発が起きるたびに地面が抉り飛ばされ、その場には濃い瘴気が漂う。

 人が当たれば、発症ラインを優に超える狂竜ウイルスを全身に叩きつけられて、吹き飛ばされた先で発狂してしまうのではないかと思う。それくらい凶悪なブレスだ。

 

 あくまで、人に当たれば、だが。

 テルーはそのブレスの直撃を受けてなお、その紅い瞳を濁らせることはなかった。足を踏ん張らせて衝撃に耐えて、そこに立っていた。

 驚愕したゴア・マガラが僅かな隙を晒す。その隙を逃すほど、テルーも私も狩人を続けていない。

 

 頭部に生えた二本の触角。その一本を飛竜刀が焼き斬って、もう一本を遠心力の乗った斧モードのアクサアルダバランが叩き切った。

 

 血飛沫が散って、絶叫が響き渡る。

 もんどりうって倒れたゴア・マガラの姿が再び変わっていく。身体は縮こめられて、両翼は畳まれて、出会ったときと同じ姿へ。

 さらにかの竜は、私たちの姿がよく見えなくなっているようだった。あの触角は私たちの居場所を捉えるための、とても重要な器官だったのかもしれない。

 それでも、かの竜は翼をはためかせて狂竜ウイルスを撒き散らす。一度相対した以上、どちらかが死ぬまで戦い続けることを悟っているのだろう。

 

 テルーが走り出す。私も駆ける。ゴア・マガラは咆哮で迎え撃った。

 互いに分かり合えない存在の、どこまでも愚直な戦いだった。

 

 

 

 どうして、テルーはシャガルマガラに選ばれたのだろう。

 もしかしたらあの古龍は、自分が人の手によって倒されることを予感していたのかもしれない。

 

 だから種を撒いた。自分がだめでも、他の誰かがシャガルマガラになってくれるように。新たなゴア・マガラを生み出すための苗床となってくれるように。

 今戦っているゴア・マガラも、そうした経緯で新たに生まれた存在だったとするなら、かの竜とテルーは兄弟みたいなものなのかもしれない。

 

 人のことを羨ましいと言っていた。社会というものは理解できないけど、とても賢く生きる種族だと。

 もし本当に、テルーの中にいる古龍がそう思っていたとするならば、かの龍はある願いごとのようなものを持っていたのだと思う。

 

 人を、知りたい。

 

 そのための、最短かつ最も効果的な手段は、人でありつつも、龍になること。

 それはきっと、この世界のあらゆる古龍たちの中でも、シャガルマガラにしかできないことだ。「人に感染る」という技能を持つ彼だけが持つ特権だ。

 テルーはその願いを受け入れた。それが叶ってしまう特異な性質だった。それもそのはず。私は頷きざるを得ない。テルーはいろいろと優しいのだ。

 

 だから、そんなテルーがこれからどこへ向かうのか。

 私は、見届けないといけない。

 

 

 

 ゴア・マガラが命を落としたのは、戦い始めてから半日くらいが経った頃。

 

 止めを刺したのはやはりテルーだった。ゴア・マガラは瀕死でも一気に脱皮してシャガルマガラになってしまうくらいの生命力を持つ。だから、確実に殺しきらないといけない。

 それを知ってか知らずか、テルーは私が切り開いた胸の傷口に、飛竜刀をその刀身が埋まるくらいまで突き入れて、それを止めとした。

 腹の中を火竜の炎によって燃やし尽くされて、この数か月の騒動を引き起こした竜は力なくその身を地に伏せた。そして、もう動くことはなかった。

 

 私は奇跡的に五体満足の状態を保っていた。でも、古龍種に匹敵するモンスターを無事に倒したという感覚はない。

 満ち満ちた狂竜ウイルスの霧にあてられて、狂竜症が発症してしまったのも一度や二度ではなかった。その度にウチケシの実を食べて、見境なく向きそうになる殺戮衝動をなんとかゴア・マガラだけに向けて戦った。

 前のように倒れることなくそれができたのは、やはりあのときよりも精神が安定していたからだと思う。そして何よりも、ひとつの覚悟があったから。

 

 全く息をしなくなったゴア・マガラの腹から飛竜刀を抜き取ったテルーは、ひゅっと刀を振って刀身の塵を飛ばした。刀身に触れたものを容赦なく焼く飛竜刀は、血に濡れることがない。

 そして、いつものように空を見上げた。

 

「テルー。あの山に登ってみようか」

 

 私は、そんなテルーの後ろからいつもの口調で話しかけた。

 指差したのは、未知の樹海によくある赤土の山。森の木々の中から小さく顔を出している。

 テルーが頷いたのを見て、私は信号弾を空に向かって打ち上げる。遠く離れた場所で観測していたギルド職員さんも、これでかの竜の居場所が分かるだろう。私たちがいないことを見てちょっと騒ぎになるかもだけど、それは後で謝れるなら謝ろう。

 

 そして、私とテルーは並んで歩きだす。

 

「手、繋いでもいい?」

 

 普段はこんなことしないけど。私は思い切って提案してみる。

 この樹海は起伏が多いから、手を繋いで歩くってなかなか大変なんだけど、それでも言ってみたかった。

 私の方を見た赤い目のテルーは、いつものように微笑んだ。

 

「うん。わたしも、手を繋ぎたかった」

 

 

 

 どれくらいの時間歩いただろう。辺りはすっかり夜になってしまっていた。

 モンスターや生き物たちの気配は感じられない。狂竜化モンスターが現れたときと同じで皆逃げ出しているか、もしかしたら、死んでしまっているのかもしれない。

 静寂の森の中を、手を繋いで二人で進む。岩を掴みながら急斜面を上ったり、壁に生えた蔦を使って二人で崖を乗り越えたりした。

 

 そうやって辿り着いた山の頂上は、思っていたよりも開けていて、広く景色を見渡せた。

 月明かりが照らす、未知の樹海の風景を一望できる。

 狂竜ウイルスの霧も静まって心地よい風が吹いているけれど、ほっと息をなでおろした途端に、私は膝をついて咳き込んでしまった。

 

「ごほっ、ごほっ……ちょっと、疲れちゃった。ごめん」

 

 ゴア・マガラを倒してからほとんど休みなく歩いていたので、身体が悲鳴を上げている。

 狂竜症の影響も抜けきっているとは言えなかった。動悸がして、息苦しい。

 そんな私に対して一つも息も切らさずに辿り着いたテルーは、地面に私を寝かせてその隣に座った。

 

「休んでいていい。傍にいる」

「ありがとう。ごほっ……それなら、安心……」

 

 すぐに眠気がやってくる。固い地面の上だから決して寝心地がいいとは言えないけど、今は休息の欲求の方が勝った。なんだか狩りの後は眠ってばかりだ。

 本当は夜が明けるまでずっとテルーと思い出話でもするつもりだった。でも、傍にいると言ってくれたからには、目覚めたときに彼女がいないなんてことはない。信じ切れる。それがテルーという少女だ。

 数分もしないうちに、私は深い眠りに落ちた。

 

 

 

 眠っている間、夢は見なかった。けれど、その間にテルーが唄を歌ってくれているような気がした。

 

 一番は、夕闇の中でひとり空を飛ぶ火竜を想う詩だ。

 火竜の朱は夕暮れに溶けこむ。そして夜闇に沈んでいく。

 彼らは翼を休めない。休めずとも飛べるから。ずっとひとりで風を切り裂いて飛んでいける。

 そんな火竜は、少し悲しそうに見える。そんな詩。

 

 二番は、岩陰に咲く一輪の落陽草の花を想う詩だ。

 落陽草は常に日陰の場所でしか育たない。深い森の中とか、岩陰にひっそりと生えている。

 ある日の夜にだけ、そっと花開く。その花は生き物を癒す力を持つ。けれど、ほとんど気付かれることはない。誰の目にも止まらず、誰にも愛でられないままに、その日の夜を咲き続ける。

 そんな落陽草はきっと切ない。切なく見える。そんな詩。

 

 三番は、わたしと共に歩むあなたを想う詩だ。

 人の領域から抜け出して、獣や竜の領域をたった二人で歩む。

 虫の囁きが聞こえる。遠くで獣の鳴き声が聞こえる。風音、水音、足音。漣のような静穏の中で、なにか物言うこともなく。ただ共に歩んでくれる。

 そんなあなたもきっと、寂しいのだと思う。そんな詩。

 

 荒々しくも眩しい世界の、ほんのひと欠片を慈しむ唄。

 テルーが好きな唄だった。

 

 

 

 瞼の向こうに光を感じて、私は目覚めた。ぐっすりと眠ってしまっていたらしい。

 地面で防具をつけたまま寝たせいか、少し体の節々が痛いけれど、眠る前よりはだいぶ楽になった。

 と、寝る前は隣に座っていたはずのテルーがいなくなっていることに気付く。身体を起こして周囲を見渡すと、私と白んだ空との間に人影があった。

 

 いや、龍の影か。

 

「テルー……」

 

 あるおとぎ話で語られていた「天使」とは、まさに今の彼女を指すのだろうと思った。

 

 脱ぎ取られたリオソウルの鎧。露になったその背中から、一対の純白の翼が生えていた。翼のかたちはゴア・マガラのそれに似て、一対の腕のようにも見えた。

 頭からはゴア・マガラのそれを硬質化させたような角が生えていた。髪の色は青鈍色から純白に染め上げられて、風にたなびいている。

 ゴア・マガラが闇ならシャガルマガラは光だと聞いたけれど、まさにその通りなんだな。と私はテルーを見て思った。

 

 振り返ったテルーの朱い瞳が私を捉える。その口が開かれて、透き通るような声が耳に届いた。

 

「おはよう。あるは。よくねむれた?」

「おはよ。おかげさまでぐっすりだったよ。……テルーは、ちょっと見違えちゃったね」

 

 立ち上がりながら正直な感想を言うと、テルーはきょろきょろと自分の身体を視る。戸惑っている様子はないから、自覚はあったみたいだ。

 正直なところ、彼女とまだ話せることができたことが驚きだった。もう言葉が話せなかったり、意思疎通すらできないかもしれないと思っていた。

 一通り自分の身体を眺めたテルーは、背中の翼をばさりとはためかせながら首を傾げた。

 

「こわくない?」

 

 人は、こんなものを見たら恐れ慄くものだと思ったけど、という言外の意思が伝わってくるかのようだった。

 今までは微妙に分かたれていた人と龍の意識が、ほとんど融和している。今はもう、ヒトという名の古龍、くらいの立ち位置なのかもしれない。

 私は息を吸い込んで、はっきりとテルーの目を見て返した。

 

「怖くないよ。このままテルーが私を食べちゃったとしても、怖くない。テルーは、テルーだもの」

 

 あの日、狂竜症を発症してテルーに飛び掛かった私へと語りかけた言葉を、そのまま返すように。

 彼女くらいに自然体で話すことはできないけれど、その分、意志を込めて。

 嘘はついていない。自分を誤魔化してもいない。鼓動が早まっているのは、半分龍になったテルーが、思ったよりもずっと美しかったから。それと、もうひとつ────

 

 私の答えを聞いたテルーは、少し照れるようにして笑った。見れば、眉や睫毛も白く染まっていた。

 そしてテルーは、何も言わずに傍に置いていた飛竜刀を手に取り、鞘から刀を抜く。ただそれだけを見ても、歴戦の太刀使いだったことが分かる、とても洗練された動きだった。

 

 からん、と音を立てて鞘は地面に転がった。生身の刃を手に握って、テルーは一歩私へと近づいた。刀身からちりっと火の粉が舞う。

 もしかしたら、その刀で私を斬るつもりかもしれない。それこそ、私を殺して食べるために。

 それならそれで構わないと思った。私は、一歩も退かずにテルーを見守った。

 

 しばらく足音だけが聞こえて、私はテルーの飛竜刀の間合いの内側に入った。

 テルーが飛竜刀をゆっくりと持ち上げる。斬撃の構えを取るように。刀身が陽光を反射してきらりと光った。私はその一部始終を、一切抵抗せずに受け入れるつもりで────

 

 テルーは、私の目の前に飛竜刀を掲げた。私が手に取れるくらいの柄の握りを残して。

 

「この たちで、わたしを つきさしてほしい」

 

 そして、いつもと変わりない口調でそう言った。

 

「あのりゅうの ほのおなら、きっとわたしを ころしつくせるから」

 

 

 

 テルーが飛竜刀だけを担ぐようになったのは、いつ頃からだったか。

 リオレウスを狩れるようになる前は、テルーは様々な種類の太刀を担いでいた。氷刃や斬破刀、骨刀とか。

 二人揃って大怪我をしながらリオレウスを狩って、テルーの太刀を新調しようという話になって。

 十数日後に加工屋さんがテルーに手渡してくれたその太刀を見て、テルーは珍しく、とても安心したような笑みを浮かべながら言った。

 『あぁ、これなら』と。

 

 あのときの、後に続く言葉の答え。

 もし、彼女がこの瞬間をあの頃から予見していたのであれば、その答えは。

 『私を殺せる』だったのかもしれない。

 

 

 

 私とテルーの間で沈黙が下りる。テルーは私に向けて飛竜刀を掲げたまま、動かない。

 私は立ち尽くしたまま。俯いて、しばらくしてから口を開いた。

 

「……テルーは、そのまま龍になるつもりはないの?」

 

 その声は、どうしようもなく震えていた。

 

「空を飛びたいって昔から言ってたよね。その大きな翼があったら、空だって飛べるよ。あの竜にも勝てるくらい強いなら、きっとどこへだっていける」

 

 溢れ出す感情をそのまま言葉として吐き出す。縋りついてでもそう訴えたい気持ちを、私はぐっと抑えた。

 心のどこかで予感はしていた。テルーがそんなことを言い出すんじゃないかって。その先のことを考えるのを何よりも恐れていた。

 

 けれど、そうやって目を逸らし続けた先に突きつけられたテルーの選択は、私にとって、あまりにも残酷すぎた。

 この手で、龍になっていくテルーを終わらせること。テルーの命を絶つこと。そんなこと、できるはずがない。考えたくもない。

 私は耳を塞いで蹲ってしまいたくて、けれど、目の前に差し出された抜身の飛竜刀が、テルーの意志が、そうさせることを許さない。

 

「……私なんて置いていっていいから……あなたが生きているなら、それでいいから……っ!」

 

 両手の拳を強く握って、俯いて、絞り出すような声で訴える。

 テルーといっしょにいられないのはつらい。けれど、それは以前から覚悟していたことだった。龍になったテルーが大空を駆けていくところを見れるなら、それがお別れになるなら、もうそれで構わないというところまで決心はできていた。

 

 けど、それがどうして、こんな。

 飛べる翼を手に入れたのに、あれだけ憧れた空が目の前に広がっているのに。彼女はまだ、一度も空を飛んでいないのに。

 人では決して叶えられないはずの夢が叶おうとしているのに、その夢を終わらせようとする。私に、その幕引きを担わせる。

 

 私は、テルーに生きていてほしい。

 共に生きて、なんて言わないから。テルーが自由に生きてくれればそれでいいから。言葉は声にならなくて、私はただ、唇を震わせていた。

 

 

 

 そのとき、目の前に立つテルーが、片手に掲げた飛竜刀をすっと下ろした。

 私ははっと顔を上げる。私の願いが聞き届けられたのかと。その純白の翼で空を飛ぶことを選んでくれたのか、と。

 

 顔を上げた私と目を合わせたテルーは。

 涙を流すわけでもなく、悲しい顔をするわけでも、聞き届けられない願いに怒るわけでもなく。

 ただただ、いつものように笑っていた。

 いつもより、ほんの少しだけ寂しそうに、笑っていた。

 

「あるは。わたしは、()()()()()()()()、っていったよ」

 

 その上で、自らの意志は変わらないことを。

 ここで空を飛ぶことが、テルーの願いではないということを、告げる。

 

「ひとから こりゅうになるのも いいかもしれないけど。わたしはたぶん、ひとには かてないから」

 

 それは過去にも言っていた。人は強い、という話。

 

 その通りだった。テルーはたぶん、ハンターに追いかけられて殺される運命にある。

 人を龍に変えられるのはシャガルマガラだけで、そしてシャガルマガラは、きっとこの世の中で最も人と相容れない古龍だ。人が、その存在を許すわけにはいかない古龍だ。

 

 テルーはとても強い。今ならひょっとすれば、武器を使わずとも飛竜に勝ててしまうかもしれない。

 しかし、人には勝てない。人は負けない。それを殺しきるまで、決して諦めない。

 

 生きとし生ける古龍の中で、きっと最も若いだろうテルーが、そのことを最も分かっている。

 だって、テルーに棲みついたシャガルマガラがまさに、自らが人に殺されることを悟った古龍なのだから。

 人以上に、自らと人が相容れないことを知っている、そんな存在なのだから。

 

「それに いまのわたしは あまりそらをとびたくない。それだけで たくさんのいきものをころしてしまうから」

 

 さらに重ねられたのは、テルーの人としての願い。

 テルーは独特の価値観を持っている。狩人として竜を殺すことに一切の戸惑いはない。けれど、同時に命を慈しんでいる。過去の狂竜化した雌火竜や私に取った行動がまさにそれだ。

 

 そんな彼女が大空を飛べば、それだけでたくさんの竜が死んでしまうかもしれなかった。シャガルマガラとは、そういう古龍なのだ。その役を請け負うには、テルーは少し人として優しすぎた。

 別にシャガルマガラに責任はない。彼らにだって種を残すという目的がある。そのために竜や獣を殺すのが悪いだなんて、人が一番言ってはいけないことだ。

 ただ、それを分かっていてもなお、割り切れないものが人にはある。テルーの「あまり空を飛びたくない」という一言にそれが集約されていた。

 

 テルーが歪ながらシャガルマガラの役を担ってしまったとき、テルーはあんなに空に憧れていながら、気の向くままに空を飛べない。そんなテルーのせいでシャガルマガラは、種として次の世代への布石を残せない。

 人でありながら、龍であるからこその柵。誰も幸せにならない構図がそこにあった。

 

 そして私にとっては、何よりも。

 テルーが空を飛びたくない、と言ったことが、深く深く、胸に突き刺さった。

 

「もしかしたら わたしはもう、わたしじゃなくなってる(シャガルマガラになっている) かもしれないけど」

 

 そうやって私の心を縫い留めた上で、テルーはさらに言葉を重ねる。

 一言一言を考え抜いて、もう人の思考を保つことすら難しいだろうに、私へと語りかける。

 

「それでも、いままであるはが そばにいてくれて、ほんとうにうれしかった」

 

 私への、感謝の言葉を。

 

「ひとと りゅうのあいだを さまようのは、ゆめみたいな きもちだったよ」

 

 自らの今までの日々を、幸せだったと伝える言葉を。

 

「だから……あるはが そのゆめを おわらせてくれないと、わたしは どうしたらいいか、わからなくなるから」

 

 私がテルーに依存していたように、テルーもまた、私なしでは生きられないという、事実を。

 

「ゆめみごごちの ままでいるのは……ずるいかも、しれないけど」

 

 他でもない『私』に終わらせてほしいという、願いを。

 

「あるは、おねがい」

 

 

 

 テルーが、もう一度飛竜刀を私の目の前に掲げた。

 

 やがて私は、その柄を手に握って、受け取った。

 

 テルーは笑って、ちょっとふざけるように、ばたんと背中から倒れ込む。下敷きになった背中の翼がばさりと広げられて、藍色の鱗粉が辺りを舞った。

 そしてテルーは、仰向けになって空を見る。

 

 私は何度も息を吸って、吐いて。その間、一言も話すことなく。

 テルーの上に跨って、両手に握った飛竜刀の柄の方を上に掲げて、刃先をテルーの胸元の、白い鱗が見え隠れする、柔らかな肌の上に当てた。

 つ、と刃先が皮膚を破って、赤い血の玉を浮かべさせる。

 

 もういちど、息を、吸って、吐いて。

 空を見ていたテルーと目が合って。

 テルーが、笑って。

 

 

 

 その太刀を、突き入れた。

 

「あ、がっ…………! ア゛、アア゛ア゛ッ……!!」

 

 瞬間、テルーが絶叫する。

 溢れ出す血を紅蓮の炎が焼き尽くす。腕のような翼が無茶苦茶に暴れまわり、自らの胸を貫いた飛竜刀を弾き飛ばそうとする。

 それをテルーの手が抑えつけた。竜の咆哮のような声を上げながら、生きるために抗う本能と戦っていた。

 

 私は歯を食いしばって、飛竜刀を地面に縫い付け続けた。

 心臓を穿っているのに、それだけで人はすぐに死ぬはずなのに、凄まじい力で抗ってくる。少しでも力が緩まれば、気の迷いが生じれば、両手に握ったこの太刀は弾き飛ばされてしまう。

 

 火竜の炎がテルーの身体を焼いていく。鱗に燃え移った火が全身へと波及していく。

 テルーの抑止を振り切った翼が私を殴りつけて、テルーの腕がまたそれを抑えつけて、私はひたすらに飛竜刀を地面に縫い留め続けた。

 

 テルーの中にいるシャガルマガラと、テルーと私との決別のための戦い。

 

 

 

 長い、長い。本当に長い、数分間だった。

 

 

 

 

 

「あ、る……わ、たし……りゅうに…………なり、たい」

 

「…………そっか。テルーは、どんな竜になりたい……?」

 

「りお……そうる」

 

「そら、つかんで……うつり、ものを、みて…………それで……」

 

 

 

「また、あなたにあいにいく」

 

 

 

「うん……うん……っ! 待ってる。私、ずっと待ってるから!」

 

 胸に空いた大穴。炭化した皮膚、もう動かない翼。

 何かを話そうとした彼女は、その口から溢れ出した血に阻まれて、声にならなかった。

 

 それを見た私は、テルーの顔の近くに自らの顔を近づけた。

 たとえ掠れて声にならなくても、その言葉を一言一句聞き逃すものか、と────

 

 不意に顔を持ち上げたテルーの唇が、私の唇と重なった。

 濃い鉄錆の味が口の中に広がる。そして何か、()()()()()()()が彼女から渡された(うつされた)ような。そんな感覚を本能が訴えた。

 

 それが、振り絞られた全ての力だったのだろう。とさりと頭が地面に落ちる。瞳の赤色が徐々に色褪せていく。

 血の気を失った、白い肌のテルーは。

 

 いつもよりもずっと、明るくて、泣きそうな笑顔で。

 

「あるはが、さみしく……ない、ように」

 

 絶対に私を悲しませまいと。最後の、最後まで。

 

 笑って。

 

 

 

「わたし……いつ、いっしょに…………────」

 

 

 

 

 

 そして、彼女は目を閉ざした。

 その顔は、壮絶すぎる終わり方だったのにもかかわらず、誰が見て驚くくらいに穏やかだった。

 

 私は、テルーを跨いで膝立ちして、飛竜刀を地面に突き刺したまま。

 燃え移っていた炎がすべてを焼き尽くすまで、ずっとそのままでいた。

 

 最後まで泣くところを一度も見せなかった彼女の亡骸に、ぽたぽたと涙を零しながら。

 彼女が灰となって風に運ばれていくのを、ずっと見届けていた。

 

 

 

 

 

 半年近くバルバレを騒がせたゴア・マガラの事件が収束して、どれくらいの時間が経っただろう。

 今日も私は生業に勤しむために、賑やかな雑踏を抜けて、集会場へと足を運ぶ。

 

「こんにちはー」

「ようこそ。アルハさん」

「何か急ぎのクエストとかある?」

 

 狂竜化モンスターの被害はあれからも出続けていたけど、今はとっくにそれも解決している。新たに狂竜ウイルスを媒介する極限化モンスターが現れなかったのが救いだった。

 狂竜化モンスターばかりを狩り続けていた私も、今はふつうのモンスターの狩猟依頼や探索、採取依頼を受けることがほとんどだ。

 受付嬢さんの案内に従って、私は自分に見合ったクエストを探す。

 

「じゃあ、このクエストを……っ、ごほ……っ!」

 

 見出した依頼書にサインをしようとした私は、不意に咳き込んでしまった。

 受付嬢さんに片手で謝って、私はもう片方の手を口に当ててけほけほと咳を繰り返す。それを見た受付嬢さんが、心配そうに声をかけた。

 

「アルハさん、しばらくハンターの仕事を休んでもいいのでは? あなたはもう十分にこのギルドに貢献しています。休業しても、いっそのこと引退しても、誰も文句は言いませんよ」

 

 純粋に私の身を案じてくれている。こうやって心配して、支えてくれる人がいるのは、とてもありがたいことだ。

 けれど、私は苦笑しながら首を振った。

 

「心配してくれてありがとう。けど、ちゃんと休みは取ってるし、薬も飲んでるから大丈夫。むしろ、ハンターをやめて身体が弱ったりした方が危ないから」

「そう、ですか……でも、無理はしないでくださいね。ハンターの皆さんが怪我をするのは、嫌なんですから」

「はーい」

 

 そんな、わりとよくある掛け合いを交わして、私はまた狩場へと赴く。

 この咳は治らない。一生付き合い続けないといけないものだ。テルーがそれを宿命づけた。

 

 君だけの狂竜症。命名はハシバミさんだ。

 決して治らない代わりに、誰にも感染することはない。身体が作り変えられることはないけれど、発症しないほどに柔でもない。

 テルーが口移しで与えた、人と龍の血によって創り出された狂竜症だ。

 言い方は悪いけど、ちょっとどころじゃない呪いだね、とハシバミさんは呆れ顔で言っていた。

 

 けれど、私はそれを悲観してはいなかった。むしろ、この病に私は生きる気力を貰っている。

 空を見上げる。彼女がよく見上げていた、翼を持つ竜の領域を。

 

 

 

「────テルー」

 

 巡って廻って、やがて、戻って来る。

 

 私の身体の中で生き続ける。竜になって空を駆ける。そのどちらも、テルーといういのちのかたちだ。

 いつか迎えに来ると彼女は言った。私は、私が生きている限り、それを待ち続ける。

 

 

 

 かつて、生まれ変わったら竜になりたかった少女がいた。

 人と龍の狭間を、移ろいながら生き抜いた少女がいた。

 

 狂竜症という病を巡った、人と龍の不思議なお話。

 

 

 

 私が好きだったひとの、物語だ。

 

 

 

 

 





連載小説の方を差し置いてこちらの短編書いてました……申し訳ないです。

追記
こんなことを言われると何とも言えない気持ちになるかとは思うのですが、よろしければ感想、評価をよろしくお願いいたします……


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