Futures ( 白山胡蘿蔔)
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Sweetness

 レスポールが苦手だ。独特のふくよかな音色だとか、マーシャルとの相性の良さは魅力的だと思うけど、太いネックに重たいボディ。いくら音が良くても、これだけ弾きにくいとブーツを履いてダンスを踊るようなちぐはぐさを感じる。

「やっぱり苦手だなー、レスポール」

 椅子に座って、蘭から借りた赤いギターを抱えたまま呟く。

「じゃあ、借りなきゃいいんじゃない」

 怒るでも呆れるでもなく蘭が言う。そんな蘭は、感触を確かめるようにわたしのギターでパワーコードやオクターブを鳴らしている。

「弾きやすいね、モカの」

「そりゃあ、手塩にかけた大事な相棒だからね~」

「……」

「あ、蘭のことも同じくらい大事に思ってるよ~」

「はいはい」

 大学に入ってからも、Afterglowの活動は変わらずに続いている。スタジオ練習の合間。時々こうやって、互いのギターを交換するのがちょっとした気分転換になっていた。

 わたしは蘭のギターをスタンドに立てかけて、ぐっと背伸びをする。これまで試奏で色んなギターを触ってきたけど、レスポールだけは弾く気にならないな、と思った。

 

 

 大学2年。長い夏休みも終わって、後期の授業が始まった頃。

 秋が近付いていて、吹き抜ける風が気持ちいいと思ったから。

 タンデムシートに乗って、強くしがみついてくる蘭をちょっとだけからかいたくて、いつもよりスピードを出したから。

 わたしがいい加減で、無責任だったから。

 

 がしゃん、と音がした気がする。記憶には靄がかかっていて、覚えているのは擦り傷くらいしかなかった自分に、横倒しになったバイクと、ぐったり倒れ込んだ蘭の姿だけ。ヘルメット越しには表情なんてわかるはずもなくて、ましてや生きているかどうかなんて。さあっ、と血の気の引く感覚。寒くもないのに、一瞬で体温が何度も下がったような気がした。ぶるぶる震える手で携帯を取り出す。救急車って何番だっけ。どうやったらここに来てもらえるんだっけ。視界がぐるぐると回り始めて、真っ直ぐ立てなくなる。電話越しに何を話したかは、覚えていない。

 

「うわ!」

 自分の間抜けな悲鳴で目が覚めた。自室のベッド。あれから何日か経って、毎日こんな調子だ。軽傷だったわたしは念の為に、と受けた検査もすぐ終わって解放されたけど、蘭は未だに面会謝絶らしい。らしい、というのは当日に医師から説明を受けたきりだから。

 ずっと悪い夢の中にいる気分だ。全身に力が入らなくて、何も出来ない。ベッドに横たわって、逃げるように目を瞑り、意識が落ちるのを待つだけ。あんなに旺盛だった食欲もすっかりなくなっていて、一日に一食摂れればいい方だ。

 気付けば、バケツで水を被ったように全身が汗で濡れている。

(そろそろ、シャワー浴びなきゃかな…)

 それすらも億劫だ。頭の中に泥が詰まった感覚。何も考えられない。なんとなく上体を起こして、枕元の携帯を手に取る。時刻は深夜2時。Afterglowのグループチャットに、いくつか通知が来ていた。

『蘭、明日から面会できるんだってさ。何時に行こうか』

 そんな巴の呼び掛けから始まったやり取りが、お昼過ぎに集まって病院に行くという結論で終わっていたことを確認して携帯を放り投げる。事故があってから、親以外の誰とも会っていない。もちろん、巴達とも。

 会ったら何を話せばいいんだろうか。自分勝手な動機で蘭を酷い目に遭わせて、挙句に自分は軽傷で即日退院。顔を合わせた途端に殴られるかもしれない。けれど、その方がよっぽど楽だ。そんなことを延々と考えながらベッドに倒れ込んで、ぎゅっと目を閉じた。

 

 お昼過ぎ。這うようにベッドから出て、シャワーを浴びて支度を済ませてから玄関を出ると3人の姿があった。

 モカちゃんおはよう、とつぐみが言えば、もうおはようの時間でもないけどねー、とひまりが微笑む。モカはいっつも寝坊するもんな、そう言って巴は白い歯を見せて笑う。いつも通りの3人だ。…いや、違う。いつも通りになろうとしている。わたしが黙り込むのを気にも留めず、3人は努めて平静を装う。その気遣いが今は却って心に突き刺さる。悪意なんてあるはずもないのに、針の筵に座っている気持ちだ。病院までの道のりは、ひどく長く感じた。

 

 

「---号室にお見舞いの方達ですか?」

 病院。待合室のベンチで横並びになって待っていると、白衣を纏った医師に声をかけられた。

「はい、そうですけど…」

 小首を傾げながら、つぐみが答える。

「お伝えすることがあります。少し、こちらへ」

 医師は踵を返し、何歩か進んでから振り向いて手招きする。釈然としない表情のままついていく巴とつぐみ。わたしは、吐き気がするほど嫌な予感がしていた。きっと何か、取り返しのつかないことが起きている。

「モカ?」

 ひまりが、ベンチから立ち上がろうとしないわたしの顔を覗き込んでくる。

「……」

 怖い。話を聞くのが、怖い。俯いていると、膝の上で握り締めていた両手が、ふわりと温かい感覚に包まれる。顔を上げると、子供をあやすような表情で微笑むひまりと目が合った。

「…行こ?」

 わたしの両手を柔らかく包んだまま、寄り添うような声で促す。悪い予感は拭えないままだけど、どうにか立ち上がることが出来て、やっぱりママみたいだなあと改めて思った。

 

 暫く歩いて行き着いたのは人気のない廊下。陽が当たりにくい場所なのか、漂う空気はどんよりと湿気を帯びている。

「それで、話って?」

 重苦しい雰囲気の中、巴が切り出す。

「美竹さんのことです」

 医師の冷淡な台詞に、ごくりと唾を飲み込む。ひまりの左手と繋いだ右手に汗が滲む。

「容体は安定していて、命の危険もありませんが…」

 口籠る様子に全身の毛が粟立つ。嫌だ。聞きたくない。きっと、悪いことが---。

「美竹さんは、聴力を失っています」

 心臓を握り潰された気がした。頭が真っ白になる。医師が何か説明しているが、欠片も頭に入ってこない。

「あ、うあ」

 漏れた声が自分のものであることに、一瞬遅れて気付いた。吐き気がこみ上げてきて、口元を押さえる。呆然と立ち尽くす3人を見て、わたしは走り出した。ひたすらに、逃げることだけを考えて。巴がわたしを呼んだ気がしたけど、振り返らなかった。

 

「っはあ、はあ…」

 自室に戻ってすぐ、後ろ手でドアに鍵をかけた。ずり落ちるように座り込んで、荒れた呼吸を整えようとする。だけど何度も、あの瞬間がフラッシュバックする。

『美竹さんは、』

 やめて、

『聴力を失っています』

 わたしのせいだ。全部。何もかも。わたしが蘭から、奪った。

「はあ、あ……」

 心臓が、肺が、身体の芯が、ずきずきと痛む。何もかもを忘れたくて、膝を抱えて目を閉じた。

 

 どれくらいの間、座り込んでいたのだろうか。すっかり日は暮れて、部屋の窓から夕陽が差し込んでいる。夕焼け。あの時に蘭と見た景色は、きっともう二度と。

 ふと、部屋の隅に立ててある青いギターが視界に入った。よろよろと立ち上がったわたしは、藁にも縋る気持ちでそれに手を伸ばす。ストラップを肩にかけて、部屋に置いてあるアンプの電源を入れるとボリュームノブを限界まで右に回す。じいい、というノイズが走るのもお構いなしに、弦を掻き毟った。普段より何倍も大きい音が部屋中に響き渡る。耳をつんざく轟音は、胸の痛みを和らげてくれるような気がした。暫くの間、音の濁流に溺れていると、どたどたと足音がする。

「ちょっとモカ、どうしたの?!」

 ドアを開けたママと目が合った瞬間に、情けなくて涙が出てきた。

「…わたしのせいで、蘭が」

 その後は、言葉にならなかった。

 

 

 

「もかちゃん」

 幼稚園の頃。初めて名前を呼ばれた時。

「もか」

 小学校に入った辺り。ちゃん付けをしなくなった。

「モカ」

 中学に上がってから、ちょっとだけぶっきらぼうにわたしを呼ぶようになった。

「モカ!」

 ギターソロの前。心を奮い立たせる、朗らかな声。

「…モカ」

 最高の演奏をした後。じんわりと胸が温かくなるような、優しい声。

 生きているのか死んでいるのか、起きているのか眠っているのか、わからない。そんな意識の中、蘭の声だけを思い出していた。ずっとずっと、忘れないように。

 

「モカ」

 聞き覚えのある声。誰だっけ?張り付いたように閉じたままの瞼をどうにか持ち上げる。

「あー、トモちん………?」

「なんで疑問形なんだよ」

 巴は頬をかきながら苦笑する。いつの間にか部屋まで上がり込んでいたようだ。

「どしたの、急に」

「急じゃないだろ。何日連絡してないと思ってるんだ」

「………」

 結構な時間が経ったらしいけど、そんなことはどうでもよかった。

「なあ、ちょっと飯でも食いに行かないか?ひまりとつぐみも心配してるからさ」

 労わるような調子で、巴が言う。行きたいなんてこれっぽっちも思わなかったけど、断るのも気が引けるから申し出に乗ることにした。

 

 

「あのさ、モカ」

 なんとなくファミレスに入って、なんとなく食事をして、一通り食器が下げられてから。さっきまで他愛もない話をしていた巴が、急に真剣な声で名前を呼んでくる。

「……」

 わたしは応えない。何を言われるか予想がついてたから。

「蘭の、お見舞いに行かないか」

「行かない」

 遮るように即答すると、巴の眉間に皺が寄る。

「……辛いのは、わかるけど。いつまでもこのままって訳にもいかないだろ」

「わかんないよ、トモちんには」

 自暴自棄になっていたわたしは、かけられた言葉を踏み躙って、吐き捨てる。

「わたしが勝手に蘭を乗せて、勝手に事故って、あんな目に遭わせて、どんな顔で『お見舞いに来ました』なんて、言えるの」

 徐々に震える自分の声を顧みることなくまくし立てる。

「きっと恨んでる、憎んでる、だって、蘭から歌もギターも全部奪ったのは、わたし、わたしだから、」

 視界が滲む。誰の顔も見たくなくて、空っぽのテーブルに視線を落とす。心臓が早鐘を打って、呼吸が浅くなる。心が溺れるような感覚に襲われているわたしの意識を引き戻したのは、つぐみだった。

「そんなことないよ。蘭ちゃんは、絶対そんなこと思ってない」

 力強い口調に、思わず顔を上げる。ぼやけた視界の向こう、斜向かいの席。胸の前で右手を握るつぐみの姿。

「蘭ちゃんは、そんな人じゃない」

 つぐみは凛とした表情で真っ直ぐにわたしを見つめながら、言い聞かせるように言う。だけどわたしにはその言葉すら空しく聞こえて、右隣の席で心配そうな表情をしてわたしを見ているひまりの姿が、腹立たしいとすら思った。脳の血管が湧き立つのを感じながら、小さく叫ぶ。

「つぐは、蘭じゃないじゃん」

 え、と声を漏らすつぐみ。テーブルを叩く音がした。びくりとした次の瞬間、身を乗り出した巴に胸倉を掴まれる。見開かれた両目。瞳は、火が出るんじゃないかと思うくらいに烈しく燃え立っている。

「…今の、もう一回言ってみろ」

 ぎり、と歯を食いしばる音が聴こえそうだ。お望みなら、何回でも言ってやる。

「つぐは、」

「やめてよ!」

 一際大きな声の主は、ひまりだった。両手がスカートの裾を強く握り締めている。

「やめてよ、モカも、巴も………」

 消え入るような声は、やがてすすり泣きに変わる。騒ぎを聞きつけた店員が飛んでくるまでの間、4人掛けのテーブルは水を打ったように静かだった。

 

 気まずい空気から逃れるようにして自宅へ帰ると、キッチンからママの声がした。

「おかえり、モカ。晩御飯食べてきたの?」

「んー…」

「…そう。モカの分も作っておくから、食べられそうなら食べてね」

「うん」

「あ、モカ宛てに手紙が届いてたから、机に置いてあるわよ」

「手紙?」

「中身は見てないけど、懸賞か何かじゃないかしら」

 ママはそう言ったけど、応募した覚えはない。今どき手紙なんて、一体誰が書いたんだろう?

 

 自室の机の上には葉書が1枚置いてあった。楷書と行書の間くらいの崩し具合が美しい、まさに達筆というべき文字で、うちの住所が書いてある。差出人は見なくてもわかった。葉書を手に取って、裏返す。

「モカのヘタレ。腰抜け」

 その一文だけが、やはり達筆な文字で書いてあった。

「はは、」

 何故か、笑いが漏れた。とんだ意趣返しだ。

 あの日以来、久々に笑った気がする。

 

 翌日。わたしは一人で病院を訪れた。受付で部屋の番号を聞いて、病室に向かう。目的地が近付くにつれて心拍数が上がっていくのを感じるけど、行かなきゃならないと思った。

 4人部屋の右奥、ベッドの上で半身を起こして文庫本を読む姿を見つける。

「蘭、」

 言葉が出終わる瞬間に思い出した。蘭は、もう。自分のしたことの重大さを改めて思い知って、立ち尽くす。だけど、もう逃げない。ゆっくりと近付いて何歩か進んだ辺りで目が合った。蘭は手にしている本をぱたんと閉じて、ベッドテーブルの上に置く。そのまま本の横に置いてあった手帳とペンを取って、さらさらと書きこむ。

『久しぶり』

 ページをかざす蘭の表情は驚くほどいつも通りだ。まるで、何事もなかったかのように。

 わたしはベッドの傍の椅子に腰かけて、手帳を受け取る。

『ひさしぶり』

 震える手で書いた文字は、まるで小さな子供が書いたようだった。

『あんまり寝てないでしょ』

『さすがにね』

 いつもとは逆で、わたしが蘭に見透かされているみたいだ。わたしの動揺を知ってか知らずか、蘭は言葉を書き加える。

『Afterglowはどうしたの』

 綴られた言葉に、手帳を落としそうになる。どう、って。そんなの。

「っ…」

 唇を噛む。出来ないに決まってる。蘭のための場所なのに、蘭が居られない場所なんて意味がない。

『できないよ』

『出来ないって何?』

 刺々しい言葉。心なしか、その筆致すらわたしを責め立てているように感じる。蘭の顔を見るのが怖くて、手帳に視線を落とす。返す言葉もない。けど、答えなきゃいけない。

『蘭がいないAfterglowなんて、やっても意味ないよ』

 また、心臓を握り潰されるような感覚。何もかも、わたしが壊した。

 全部、全部わたしのせい。そう思って手帳に文字を書き加えようとした矢先、蘭はひったくるようにして手帳を奪って、がりがりと書き込む。

『私のせいにしないで』

『蘭のせいじゃないよ、わたしのせいで』

『確かにあの時、悪かったのはモカかもしれない。だけどそれで辞めるっていうのは、私のせいにしてる』

『でも、蘭なしで続けても、辛いだけだよ』

 手帳を手渡すと、ここまで流れるように滑らかだった蘭の手付きがぴたりと止まった。もともと静かな病室が、手帳の会話も止まって更に静まりかえる。重たい空気が肩にのしかかっている気がした。ふと手帳を見ると、ページにいくつかの滴が溢れる。その源は、蘭の両目。

「------っ」

 滲んだページを気にも留めず、蘭は文字を書き殴る。

『辛くないわけない。悲しくないわけない。だけど、皆から音楽を奪う方がもっと辛い。』

  そこまでをわたしに見せ、手の甲で涙を拭った蘭は、すっと顔を上げてわたしを見つめる。潤んだ瞳からひしひしと伝わる強い意志にたじろいでいると、蘭は病室の隅を指差す。ベッドを挟んで反対側、見慣れたギターケースが立てかけてあった。

 愕然とするわたしに、手帳に刻まれた一言が突きつけられる。

『受け取って』

 導かれるようにわたしは立ち上がって、ぐるりとベッドを回り込む。ギターケースのファスナーを恐る恐る開ける。赤い、レスポール。

 蘭が手帳に新しい言葉を紡ぐ。

『これは呪い。私のことを忘れられなくなる呪い』

『私の分も、弾いて、歌って。悪いと思ってるなら、そうやって償って。一生かけて償って』

『いつか私にも聴こえるくらい、大きな声で』

 呪い。そうか、呪いなんだ。これからわたしは、蘭にかけられた呪いの為に歌う。

『わかった』

 手帳を受け取ってそう書き込んだ途端に、胸の奥からこみ上げてくるものが抑えきれなくなった。

「蘭」

 届くはずもないのに、言葉が漏れる。

「ごめん、本当に、ごめん……!」

 縋りつくように蘭の両手を握って、何度も何度も、言葉を繰り返した。

 

 

 何日か経って、いつものスタジオ。防音扉の前でひまりが心配そうに声をかけてくる。

「ねえモカ、その…大丈夫?」

「うん」

 言い切ったけど、実際のところ心臓は騒ぐのをやめてくれない。

 ひとつ深呼吸をしてから、扉のハンドルを捻ってぐっと押し込む。見慣れたスタジオの風景が、やけに広く感じた。

「…」

 みんな黙りこくったまま、それぞれ楽器の準備に移る。

「あのさ、」

 3人の背中に向かって、わたしは話し始める。

「…ごめんなさい。つぐにもトモちんにもひーちゃんにも、酷いこと言って、心配かけて………」

 そこまで言って、頭を下げる。

「ううん、気にしないで?」

「あたしもちょっとやり過ぎたってか、知ったようなこと言い過ぎたよ。…ごめん」

「ほんとに、心配したよお…モカ、ずっと辛そうにしてるし……」

「…ありがと、みんな」

 話し終わると、室内に再び静寂が満ちる。わたしはギターケースのファスナーを開けて、ギターを取り出した。ストラップを肩にかけると、その独特の重みがずしりとのしかかる。

「モカ、それ…」

 ドラムセットの前に座る巴が、僅かに目を見開いて呆然とした様子で言う。

 ひまりとつぐみも、驚きのあまり息を呑んでいる。

呪いをかけられたんだよ、蘭に(約束したんだよ、蘭と)

 赤いレスポールを持った自分の姿がスタジオの大きな鏡に映るのを見て、我ながら似合わないなあ、と思った。

 

 

「いけるか、モカ」

 巴の問いかけに無言で頷く。ひまりとつぐみの目を順番に見る。

『私の分も、弾いて、歌って』

 瞼を閉じて蘭の言葉を反芻する。

 わたしたちの、初めて作った曲。

 いち、に、さん、し、と頭の中でカウントを取って、バッキングのフレーズを弾き始める。

 2小節後に、ひまりのベースが寄り添うように鳴り始める。簡単なフレーズのはずなのにヨレヨレなわたしを立て直そうとしてくれているのが伝わる。

 巴のシンバルとつぐみのピアノが重なるその瞬間、入れ替わりにリードのフレーズへ移る。巴のクレッシェンドに合わせて、力を溜めて解き放つ。フレットを押さえる左手がバタつく。ピックを持つ右手は頼りなくて、気を抜くとピックを取り落としそうだ。

 レスポールが苦手だ。独特のふくよかな音色だとか、マーシャルとの相性の良さは魅力的だと思うけど、太いネックに重たいボディ。いくら音が良くても、これだけ弾きにくいとブーツを履いてダンスを踊るようなちぐはぐさを感じる。その証拠に、弾き慣れたこの曲のイントロですらボロボロで、不甲斐無さに思わず苦笑するほど。

 後悔、自責、蘭への気持ち、みんなへの気持ち。色んな感情が胸につっかえて、息が詰まりそうになる。心臓の軋む音を聴いた気がする。こみ上げてくる何もかも全部を、蘭にも聴こえるような大きな声で、吐き出すように目の前のマイクにぶつけた。









pixivにも同じ作品を投稿しています。
https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=10102285


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A Praise Chorus

「アンコールありがとー。いえーい」

 ステージからマイクスタンド越しに挨拶して、ひらひらと手を振ると歓声が返ってくる。

「えー、ワンマンってことで箱埋まるか不安だったんだけど」

「おいおい、そういうこと大っぴらに言うなよ」

 巴の突っ込みに、フロアを埋め尽くす観衆から笑いが漏れる。

「たくさん集まってくれてありがとうございますー。今日もいつも通り、最高の演奏ができたんじゃないかなーと思ってるわけですが…みなさんどうですかー?」

 呼びかけると、再び歓声が返ってくる。思わず気圧されそうな大音声だ。

「おー、活きがいいですなー」

「モカ、魚じゃないんだから」

「へへ」

 下手、ベースアンプの前に立つひまりが苦笑交じりに言う。上手にはころころと笑うつぐみ。安心感に思わず頬が緩む。

「じゃあ緊張もほぐれたところで、やりますか」

「最初っからしてないだろ」

 巴の入れた茶々をスルーしつつ、目を閉じて頭の中で独り言を言う。

(緊張してるのはほんとなんだけどな)

 いち、に、さん、し。左足の爪先でカウントを取って、バッキングのフレーズを弾き始める。休符を意識して歯切れよく。二小節あとに入ってくるひまりのベースと足並みを揃える。ふたりで二小節。巴のシンバルとつぐみのピアノが入ってくる瞬間から、リードのフレーズに切り替わる。伸びやかに、歌い上げるように。クレッシェンドで力を溜めて、思い切り解き放つ。レスポールの太いネックと重たいボディは未だにちょっと苦手だけど、あの頃よりは何倍も上手に弾けるようになった。

 

「いやー、今日のライブも最高だったな!」

 控え室。とめどなく流れる汗をキラキラと輝かせながら、巴は快活に笑ってペットボトルの水を呷る。八月の中旬、夏真っ盛りの気候にステージの熱気。その上ドラマーの巴は人の何倍も汗をかく。

「うん!お客さん凄く盛り上がってたし、新曲も反応良かったよね」

「わたし、あの曲のラスサビ前好きだなー。モカとつぐが二人だけになるとこ!」

「えへへ、あそこはね、蘭ちゃんから歌詞を貰った時に…」

 談笑する三人を横目に見ながら、わたしはソファに座って携帯を眺めていた。

『Afterglowのワンマンめっちゃ良かった、新曲も最高!』

『あれ弾きながら歌ってるってやっぱりモカやべえわ』

『ひまり、あんなに可愛いのに音はゴツいし客煽るし超カッコいい』

『巴の音が熱すぎて震えた、あとハモり上手い!!』

『つぐみのピアノで感動して泣いちゃった、アレンジの才能もあるし凄すぎ』

 SNSの検索結果に並ぶライブの感想。いつの間にか、本番後の習慣になっていた。

「どうしたの?」

 ひまりが顔を覗き込んでくる。

「ひーちゃん直伝のエゴサーチだよー」

「直伝って…それよりモカ、打ち上げ行くでしょ?早く片付けようよ」

「りょうかーい」

 言って、ソファからゆっくり立ち上がる。ひとつ息を吐いて、いくつかの書き込みを思い出す。

『そういえばAfterglowの作詞やってる美竹蘭って誰なんだろ』

『結構前からAfterglow聴いてるけど知らない』

『有名な作詞家の別名義じゃないの?あれは完全にプロの仕事でしょ』

『バンドのマスコットキャラみたいな架空の人物じゃね』

『それだったら作曲と同じAfterglow名義でよくない?』

 脳裏をよぎるのは、病室で蘭から受けとった言葉。

『これは呪い。私のことを忘れられなくなる呪い』

 打ち上げ会場に向かう間、背負ったギターケースがやけに重く感じた。

 

「いああ、きょうのらいぶもさえこうだったなあ……」

 安居酒屋の喧騒の中で、巴の調子外れな声が響く。

「巴、明日仕事でしょ?もうやめときなって」

「お水、もらってくるね」

 隣に座るひまりが背中をさすりながら心配そうに言い、わたしの隣に座るつぐみが店員に声をかける。正面に座る巴は右手にコップを、左手にビール瓶を握り締めたまま時折唸り声をあげながら俯いている。いつも通りの光景。

 ちょっと前に分かったことだけど、巴は意外とお酒に弱い。そしてまた意外なことに、ひまりは割と飲める方だ。つぐみは完全な下戸で、ひと口飲んだだけでひっくり返ってしまう。わたしはたぶん強くも弱くもないけど、少なくとも巴よりは強いと思う。

「いままれもこれからも、あふたーぐおーが最高…」

 自分達のバンド名すら言えなくなった様子を見ていると流石に心配になってくる。

(タクシー呼んだ方がいいかな)

 ジントニックの半分残ったグラスを置いて、ポケットから取り出した携帯の画面に目を落とした瞬間。急に巴が顔を上げる。

「わ!」

  ひまりが小さく叫ぶ。

「モカ」

「へ?」

 真剣な声色と、射抜くような鋭い視線に思わず間の抜けた声が漏れてしまう。さっきまでとはまるで別人だ。前にも似たようなことがあった気がする。

「いつになったらマジになるんだ」

「マジになる、って」

「いつになったら、------?」

 巴の言葉に頭を殴られたような衝撃を覚えて、目を見開く。

「え、巴、何?」

「巴ちゃん?」

 ひまりとつぐみは聞き取れなかったのか、巴の顔を覗き込む。そんなふたりを気にも留めず、巴は左手に持ったビール瓶の先をわたしのグラスにがつんとぶつけて、そのまま中身を注ぎ込んだ。乱暴に注がれた黄金色の液体が、元から入っていた半透明の液体と混ざりあって、グラスの中に淀んだ色が満ちる。

「うわー……」

「あはは…」

 心底呆れ果てた、というような表情を浮かべるひまりと苦笑いするつぐみ。わたしはそのグラスを暫く見つめてから、一気に飲み干した。巴の問いかけを飲み込むように。

 

『---ってことがあって』

『相変わらずだね』

 八月の終わり頃。なんてことはない、ファミレスのチェーン店。向かい合って座るわたしと蘭は手と指を動かして会話をする。

『この前渡した歌詞、どうだった?』

『上々。お客さんの反応も、良かったよ』

『なら良かった今回のは思いついてからまとまるまで時間かかったんだけどそこからは一気に書けて最後のサビ辺りは特に気に入ってて』

『ちょっと待って、早い早い』

『ごめん』

 読み取れないほどの勢いで語り始める蘭を静止する。そんなやりとりがなんだかくすぐったくて、クスクスと笑い合う。わたしだって手話を使いこなせてるとは思うけど、普段から使っている蘭の方がずっと流暢だ。

『蘭はどれにする?』

『いつもの』

『唐揚げ定食ご飯少なめね』

 頷いて、机の上のブザーを押す。暫くしてやってきた店員に、わたしは二人分の注文をする。かしこまりました、と挨拶して店員が席を離れた。

『華道は調子どう?』

『まあまあかな。この前---』

 蘭はまた滔々と語り始める。昔の、口数の少なかった頃では考えられないほど饒舌に。

 あれから、そろそろ五年が経つ。蘭は本格的に家元としての活動を始めた。わたしたちは仕事をしながらスタジオ練習や音源制作、そして何ヶ月かに一度のライブとバンド活動に励んでいる。蘭が詞を書いて、わたしたち四人が曲にする。形は変わってしまったけど、新しい"いつも通り"が続いていた。

 

 金曜日の夜。最寄り駅の改札を出たわたしは、駅前の喧騒をすり抜けて帰路に着く。徒歩十分、アパートの部屋の前。鍵を開けて、ひとつ溜息をつく。ポケットから携帯を取り出すと、大量の通知が目に飛び込んでくる。

(…あ、今日って)

 朝から忙しくて忘れてたけど、今日は九月三日。わたしは二十五歳の誕生日を迎えていた。お祝いのメッセージにひとつひとつ返信しつつ、冷蔵庫から缶ビールを取り出し、蓋を開ける。その音がちょっとだけ、パーティで鳴らすクラッカーみたいに聞こえた。そんなことを考えながら帰り道で買った何本かのフライドチキンとショートケーキを平らげたわたしは、ほのかな酔いを覚えながらベッドに仰向けになって、巴の言葉を思い出す。

『いつになったら、自分の為に歌うんだ?』

 あれ以来、わたしの音楽は蘭の為にあった。もともとそうだったけど、想いが更に強まったというべきか。五年近く経っても呪い(約束)解けて(ほどけて)いない。けれど、そろそろ自分の為に歌ってもいいのかもしれない。二十五歳の誕生日、なんとなく今日がその日だと思った。少しだけ勢いをつけてベッドから起き上がる。

 ちゃぶ台代わりの小さなテーブルの上、チキンとケーキの空き箱を除けて作ったスペース。普段使いの手帳を広げ、ペンを取り出す。使っている部分と被らないように、後ろの方から書いていく。言葉は次から次へと浮かんできて、みるみるうちにページが埋まる。これは、多分わたしの言葉じゃない。けれど、きっとわたしの気持ち。熱に浮かされて、一心不乱にペンを動かす。

 なかったことにはならない。今だって時々眠れなくなることがあるし、あの時の夢を見て飛び起きることもある。高校の頃は日中にどれだけ寝ても、夜はちゃんと眠れたのに。それでも、歌い続ける。一生かけて償って、という言葉に嘘はないはずだし、裏切るつもりもない。だけどここに居る自分を、ここに在る心を、この音楽を否定しない。そんな気持ちを綴った。

 最後の一文を書き終えて、ふとそれが目に付いた。部屋の隅、壁に立てたままになっているギターケース。ファスナーを開けて青いギターを取り出す。メンテナンスは定期的にしているけど、弾くのはだいぶ久しぶりだ。ケースのポケットに入れっぱなしだったシールドを引っ張り出して繋ぐ。ストラップを肩にかける。アンプの電源を入れて、ボリュームノブを限界まで右に回す。じいい、とノイズが走った。

 スタジオ練習やライブの時みたいに、真っ直ぐ立って左足でリズムを取りながら、パワーコードで即興のリフを刻む。あの時とは違って、弾くべき音は分かっていた。歌うべきメロディも。ギターの爆音に負けないように声を張り上げて、さっき書いた歌詞を乗せる。

(------ああ、)

 身体の内と外、両方で鳴る音に溺れそうになりながら、わたしは実感した。

(楽しい、な)

 まるで、魔法みたいだった。

 その夜。いつ以来か分からないくらいに、ぐっすり眠れた。

 

「モカ、誕生日おめでとー!ケーキ買ってきたから、後で食べよっ!」

 翌日、土曜日の昼下がり。スタジオ練習の合間、ケーキ屋のロゴが入った箱を両手で掲げるひまりの顔は心底嬉しそうだ。

「ありがとー。でもさ、この歳にもなると誕生日ってなんかフクザツだよね」

「うっ…ま、まあそうだけど」

「二十五歳か、早いよなあ…」

 一足先に誕生日を迎えている巴が、腕を組んだまましみじみと言う。

「つぐは来年だからいいよねー、みんなより若くて」

「そんなに変わらないんじゃないかな?」

 冗談か本気かわからないトーンでひまりが呟くと、つぐみが頬をかきながら苦笑する。

「あのさー」

「どした?」

「新曲の歌詞、持ってきたよ」

 言って、印刷してきた紙を渡す。巴はそれを受け取って、しげしげと眺める。視線が左から右へと流れて、しばらく行ってはまた同じように流れる。それを何度か繰り返してから、呟く。

「うん。凄く良いな、これ」

「巴ちゃん、次わたしにも見せて?」

「わたしも!」

 これまで歌詞はグループチャットに直接投稿されたり、直筆の手紙でみんなの家に届けられたりと、形はどうあれ蘭から発信されていた。だけど、今回は。

「やっぱり蘭は良い歌詞書くよなあ」

 目を細めて、噛み締めるように巴が言う。こくこくと頷くひまり。

「モカちゃん、どうかしたの?」

 黙り込むわたしを不思議に思ったのか、怪訝な顔をしたつぐみが尋ねてくる。

「その歌詞さー」

 事実だけど、言うのは少しだけ勇気が要る。躊躇った一瞬で、空気がぴりりと音を立てた気がした。

「わたしが書いたんだよね」

 呆気にとられる三人。はじめに口を開いたのは、つぐみだった。

「モカちゃんが…?」

「ん」

「……マジか」

「モカ、歌詞書けたんだ?」

「うん。昨日の夜、なんか急に」

「昨日の夜?!」

 巴が素っ頓狂な声を上げる。無理もない、自分が一番驚いているんだから。今まで作詞どころか作文も碌にやって来なかったのに、一晩で一曲分の歌詞を書いて、あまつさえ、それが。

「完璧に、蘭の歌詞だと思った………」

「やっぱり、巴も?」

「だって、こんな……上手く言えないんだけど、蘭のだろ、これ」

「そう…だけど。モカちゃんが嘘吐くわけないよ」

「蘭の歌詞だよ」

 告げた言葉に三人が息を呑む。

「だけど、わたしの気持ち」

「え?」

 困惑するみんなを置き去りにして、言葉が口を突いて出た。

「---まあわたしもよくわかんないんだけど、蘭の歌詞をずっと歌ってるうちに身体が勝手に覚えちゃったっていうかー」

 真面目な空気を振り払いたくて雑に説明したけれど、予想外に真剣な表情で巴が言う。

「なあ、早くやりたくないか、この曲」

「やりたいって。コードも決まってないよ?」

「そこは気合で」

「もー、巴はいつも簡単に言うよね……いい加減ギターでも練習して作曲手伝ってよ」

「あはは、まあ、そのうち、そのうちな?」

 むー、と頬を膨らませるひまりを巴があしらう。作曲の話になるとだいたいこんな感じだ。

「コードなら決まってるよ」

「そうなんだ。モカちゃん、書いてもらってもいい?」

「ん、すぐ書くね~」

 言って、紙を受け取る。メモはしていなかったけど、あの夜の魔法は身体に刻み込まれている。

「曲調とかテンポとか、どういう感じにするんだ?」

 うずうずした様子の巴が聞いてくる。答えはひとつだ。

「それは、もちろん」

 ほんのちょっとだけもったいぶって、わたしは言う。

「最高にエモく、でしょ」

 

 練習の後、自室。カーテンを開けっ放しにしていた窓から夕陽が差し込んで、部屋の中を橙色に染めていた。荷物を置いて、携帯を取り出す。二件の通知。蘭からだった。昨晩寝る前、手帳に書いた歌詞の写真を送っていたことを思い出す。心拍数が跳ね上がるのを感じながら、メッセージアプリを開く。

『良いじゃん』

『すごく、モカらしい歌詞』

 短い返答。それなのに、胸がいっぱいになる。

「わたしらしい、歌詞」

 貰った言葉を改めて口に出す。鼻の奥がツンとして、胸に熱いものがこみ上げる。唇が微かに震え始めた。返事をしなくちゃいけない。

(蘭のお陰だよ)

(蘭がいたから、書けたんだよ)

(これからもずっと、蘭の為に)

(だけど、これからは)

 次から次へと言葉が湧いてきて、思考がまとまらない。こんな時、直接会って話せたら。浮かんだ言葉を全部ぶつけることが出来れば。

「っ、」

 気付けば、それは零れ始めていた。携帯の画面に水滴が落ちる。ひとつ、またひとつ。視界はぼやけて、声が抑えられなくなる。

「これからは、わたしの為にも歌うよ、蘭」

 夕陽に包まれながら、誰にも届かない言葉を吐き出した。

 

 ライブ直前、楽屋。ステージに繋がる扉の前。わたしたち四人は横並びに立って出番を待つ。扉を真っ直ぐに見据えたまま、巴が言う。

「モカ、なんか変わったよな」

「まあ、ギター替えたからね~」

「…いや、そうじゃなくて。なんか、さ」

「そう、かな」

 会話はそこで途切れて、楽屋は沈黙で満たされる。

「SE鳴ってるし、そろそろ行こっか」

 扉に耳を当ててから、ひまりが呼びかける。

「よし」

 巴は呟くと重い扉をゆっくり引いて、堂々とした足取りで歩いていく。胸の前で拳を作ったつぐみが続くと、ひまりがくるりと向き直って、わたしに右の拳を突き出す。

「がんばろっ!」

 にっ、と白い歯を見せて笑うひまりの表情が眩しい。わたしは無言で拳を突き合わせて、扉の向こうへと進む。

 ライトに照らされたステージに足を踏み入れると、割れんばかりの歓声が鳴り響いた。薄暗いフロアに詰めかけた観客から熱気が伝わってくる。スタンドに立ててある青いギター。わたしの相棒。ゆっくりと、そこに向かって歩き出す。ストラップを肩にかけた時、いつもと違う重さを感じた。

(軽いなあ)

 履き慣れた靴のような感覚を覚えながら、ギターのボリュームノブを回す。ドラムセットの前に座る巴が、親指を立てて合図を送っている。上手、キーボードの前に立っているつぐみは人差し指と親指で輪を作る。下手、ベースアンプの前でひまりが頷く。準備は出来た。マイクスタンドに向き直るその瞬間、わたしはその声を聴いた。

『モカ、やるよ』

 聞こえるはずのない言葉。だけど、確かに届いた。心の中に火が灯る。

「こんばんは、Afterglowです」

 マイクで呼びかけた直後、弾けるようなスネアの音がした。一拍置いて。わたしはギターのネックを右肩の上まで振りかぶって、叩きつけるように鳴らす。雪崩のように畳み掛ける巴のドラム。怒涛の勢いで暴れ回るひまりのベースの上に、つぐみのピアノの音が雨になってきらきらと降り注ぐ。掻き鳴らすギターが突風のように吹き荒れて、フロアから歓声が湧く。びりびりと空気が震えて、鼓膜を揺らす。どきどきと鼓動が高鳴る。身体はぶるぶると震えて、まるで初めてステージに上がった時みたいだ。だけど、緊張の仕方なんてもう忘れてしまった。どこまでも行くための一歩を、今夜ここで踏み出そう。

 オープンのハイハットが四つ鳴って、キックとスネアがリズムを刻む。ベースが寄り添うように絡み合って作り出したビートに散りばめられるピアノの音。そして、豪快に刻むパワーコード。わたしたちと、わたしの為の歌。心の中のすべて、これまでのすべてを何もかもマイクにぶつけた。







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