花嫁の未来たち (アランmk-2)
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二人のペルソナ使い

一花の子供、上杉華梨の話


 私には二人のお母さんがいる。

『絶対に許せません。こんな……こんな人を踏みにじるような事を!』

 可憐な容姿から、鈴を転がすような、荒々しいうねりのような千変万化の声を出して、どんな役でもこなす人気女優・中野一花と、

「華梨ちゃーん。お母さんと遊ぼう」

 掃除ができなかったり寝る時にいつの間にか裸になってしまうダメな所も多々ある上杉一花の二人だ。

 と、上杉華梨(かりん)は幼心にそう思っていた。

「ね、ね、画面の向こうじゃなくてすぐそばにお母さんがいるんだよ」

「今いいとこだから、あとでね」

「風太郎くーん娘が冷たいよー!」

 家を空ける事も多い一花に代わって家事のほぼ全てを担っている、一花の夫、華梨の父、上杉風太郎は洗っていた皿をふきんで拭きながら言った。

「華梨、お母さんの仕事が忙しいのは知ってるだろ? 優しくしてやれ」

「しょうがないなぁ……」

「うーんなんだか納得いかないけど、まあいっか」

 一花は普段撮影などで触れ合えない分を埋め合わせるように愛娘に抱き着いた。そんな事をされている当人である華梨はというと、抱きしめられる事自体は嫌いではない。むしろ好きなのだ。普段会えない母親からともなればなおさらである。

しかし、ドラマでカッコいいセリフを叫んでいる人物と、目の前にいる母親とが上手く像を結ばずに混乱しているというのも嘘ではないので複雑な心中だった。

「うちの華梨が世界一かわいー」

「お母さん苦しい」

「嬉しいのは分かるが加減しろ馬鹿」

 洗い物を終えた風太郎は、行き過ぎた一花の愛に歯止めをかけるべく軽く頭を小突いた。

「あてっ」

「まったく……華梨、おいで」

 女優という特殊な職業上仕方のないことだが、上杉家の一人娘華梨は、母親の一花に構ってもらえないので父親の風太郎に良くなついていた。

「ずるい風太郎君、私の華梨を返して」

「ずるくない。それに俺の娘でもあるんだから返すもくそもあるか」

「ぶー」

 頬を膨らませて不満を露わにした一花に、もう三十になるんだからその癖を止めとけ、と言った事を思い出して風太郎は苦笑した。「私は心が少女だからいいの」と反論される事も合わせて記憶の中から浮かび上がってくる。

「失礼な事考えてない?」

「考えてない」

「ふーん。まあいいや。華梨ちゃん、最近どんな事があったかお母さんに話して。お父さんに言った事でもいいよ。私は華梨ちゃんから、どんな事でもいいから聞きたいんだ」

 さっきまでのおちゃらけた少女の面影は吹き飛んで、優しく微笑んで一花は娘を撫でた。その顔は慈しみに満ちていて、愛しさが溢れて、会う機会が少なくても大好きなお母さんの顔だ。胸の奥がむずむずするような嬉しさを感じながら、華梨は最近あった出来事を話し始めた。

 

 

 最近の幼稚園の話題と言えば、もっぱらお遊戯会の事だった。

 題目はシンデレラ。そのために華梨がいるひまわり組ではアニメ映画を見たり、皆で本を読んだりして備えていた。

 皆の中でシンデレラがどういう物語なのか固まったころに、先生は何の役をしたいのか聞いていた。

「シンデレラやりたい人は手をあげてー」

 はーい、と言って手をあげる先生につられて何人もの女の子が手をあげた。

 しかし最初、華梨は手をあげていなかったのだ。それを不思議に思った友達は首をかしげながら尋ねた。

「華梨ちゃん、しないの?」

「うん。よくわかんないし」

「えーもったいないよ。せんせー、華梨ちゃんがいいと思いまーす」

「ちょっとさーやちゃん……」

 華梨の友達のさーやちゃん、武田紗矢子は父親ゆずりのきらきらフェイスからウインクを飛ばしながら先生に推薦した。

「華梨ちゃんもやりたい?」

「わたし……」

「わたしは華梨ちゃんがいいと思います。だって花梨ちゃんのお母さんは女優なんだよ」

 紗矢子は無邪気にそう言った。自分の大好きな友達の母親の事を言うのは、何だか嬉しくてついつい口が滑ってしまう。華梨は別に隠そうとしている訳ではなかったが、お母さんと女優という言葉が自分の中でうまく繋がっていないので、口に出すのをはばかっていたのだった。

「えーすごーい! 華梨ちゃんのお母さんってじょゆーさんなんだ!」

 女優というものがいまいち分かっていない子でも、その仕事が皆の憧れの職業であることくらいは知っているので、目を輝かせながら華梨に尊敬のような目を向けた。

「うん……」

「私は華梨ちゃんでいい」

「わたしもー」

 シンデレラをやりたいと言っていた女の子も、女優という響きにやられたのか華梨を推薦する立場に回った。

「華梨ちゃんはどう? やりたい?」

「えっと……」

 先生は最初手をあげていなかった華梨に気遣って意思を確認してくる。しかし、友達がきらきらと期待の眼差しで見つめてくるものだから、とてもいいえとは言えなかった。

「やります」

 ここにひまわり組組長上杉華梨が誕生したのだった。

 

 

 あまり乗り気ではないお遊戯会に、華梨は普段は真面目な児童だがいまいち集中力を欠いていた。

 その日も劇の練習をしていたが、華梨の内心は早く帰りたいなあという気持ちでいっぱいだった。

「華梨ちゃん、お母さんが迎えに来てくれたよ」

 夕方になってお迎えを待っていた華梨は耳を疑った。いつもならもう少し遅い時間になってから父親である風太郎が迎えに来てくれるのだ。それが今日はこんな早い時間に、それも母親である一花が迎えに来てくれるなんて。

「華梨ちゃんのお母さん!? 見たい見たい!?」

 残っていた女の子たちは一気に色めき立った。

 幼稚園の行事に参加しているのはもっぱら風太郎の方だったので、彼女達は一花に直接会った事は無かったので否応なしに期待が高まってしまっていた。

 お迎えに来た一花は、華梨が大勢の女の子を引き連れて歩いてきているのを見て驚いた。

「あれがじょゆー」

「きれいだね」

 後ろにいた友達が口々にそんな事を言うものだから、華梨はなぜだか居心地が悪くなり、一花に抱き着いた。

「華梨ちゃん大人気だねー。お母さんも鼻が高いよ」

 一花は抱き着いてきた華梨をそのまま抱き上げて、

「これからも花梨と仲良くしてね」

 と付いてきてくれた友達に言って駐車場へと向かった。ばいばーい、と軽く手を振りながら立ち去っていく後ろ姿を眩しそうに眺めながら皆は見送った。

「おーらが違うおーらが」

 何人かが意味は良く分かっていないが何だか凄いらしい言葉を言いながら一花をそう評した。そして、お遊戯会の主演を華梨に決めたのは間違いではなかった、と無責任に思うのだった。

 

 

 華梨はぶすっとして流れる景色を眺めていた。

「どうしたの?」

 一花はそんな娘の様子を不思議に思いながら、優しく語り掛けた。

「華梨、皆の人気者じゃん。お母さんびっくりしちゃった。お父さんそういうこと言ってくれないからなー」

 呑気な言葉に、華梨はなぜだか怒りたい気持ちになった。

「そんなんじゃないもん」

「え? どういう事?」

「ねえお母さん、女優ってそんなにすごいの?」

「お遊戯会の事で悩んでるの?」

 母親のそんな見透かしたような言葉に、華梨は少し恥ずかしくなって、それでも頷いた。

 主役になっちゃったけど、どうして皆主役になりたいんだろう。どうして舞台の真ん中に立ちたいのかな。恥ずかしくないのかな。色んな人に見られるって、そんなに楽しい事とは思えないよ。

 華梨はところどころつっかえながら、そのような事を言った。

「そっか。華梨ちゃんはお芝居が好きじゃないのかな」

 というのも違うような気がしたが、母親のその言葉が自分の気持ちに一番近い気がして、

「うん」

 そう頷いたのだった。

「そっか。うーん」

 一花はそんな娘の為に知恵を絞ろうとする。この子にどうにか前向きになってもらいたい、という親心だった。

「でもイベントってめいいっぱい楽しんだ方が良いよ。お父さんだって、いっつもあんな仏頂面してるけど、イベントはいっつも凄い楽しみにしてたんだよ」

「そうなの?」

 いつも落ち着いている父からは想像もできない、と華梨は目を輝かせた。

 上杉風太郎という父親は優しいけれど、勉強の事は優しくない父親だった。別に勉強が嫌いという訳ではなかったが、華梨にとって父親との過ごし方は部屋で本を読んでくれたり、ひらがなの書き取りや簡単な計算を一緒にしたり、という物だ。そんな父親がイベント事を楽しみにしていたなんて、と意外な一面を知った花梨だった。

「でも……」

 でもそれはお父さんでしょ。私はお父さんじゃないもん。

 そう言いたかったが、普段から世話を焼いてくれる父親を悪く言うのははばかられて口をつぐんだ。

「ね、華梨ちゃん。良いとこ連れてってあげる」

「いいとこ?」

「ついてからのお楽しみ」

 ね? と一花は世の男達が卒倒しそうな笑みを浮かべてウインクをした。相手が娘なので男殺しは一ミリも効力を発揮しなかったが。

 

 

連れてこられたのは、知らない大人が両手の指では数えきれないほどにいる所だった。

「中野さん、その子は?」

「私の娘」

「へえー。ねえ君、お名前教えてくれるかな?」

 母親に手を引かれて歩いてきた華梨を迎えたのは、自分の母親と同じくらいの年齢の女性だった。細い顎に切れ長な目で、どちらかというとカッコいいタイプの女性だった。

 花梨はその迫力に思わず後ずさり、母親の影に隠れた。

「うわー可愛い~。うちに頂戴」

「あげないから」

 一花は愛娘をこれ見よがしに抱きかかえてベーっと舌を出した。

「でもどうしたの?」

「せっかくだから私の仕事ぶりでも見てもらおうかなってね」

「監督が良いって言うかな」

「ここに来る前にスタッフに聞いたけど、お父さんに見ててもらうって言ったら良いってさ」

 入り込めない二人の間に自分の知っている人の話題が出た事で、それを起点に華梨は口を挟んだ。

「お父さん来るの?」

「来るよ~。あ、来た来た」

 そう一花が指さした方を見ると細身の男性がきょろきょろ辺りを見回して走っていた。

「こっちだよ」

 華梨の手を取ってそれを大きく振ると、こちらに気が付いたようで駆け寄ってくる。カッコいい顔立ちの女優友達は「お邪魔虫は退散」と言って立ち去ってしまった。

「一花、いきなりどうしたんだ」

「ね、華梨ちゃんがお遊戯会でヒロイン演じるの知ってる?」

「え? ああ、もちろん」

「ひどいなあ、ちゃんと私にも教えてよ」

 一花は風太郎に娘を渡した。

「だからね、お芝居の先輩としての姿を見せてあげようかなと思ったの。じゃあ行ってくるね。よろしくお願いします」

「お願いされます」

 夫婦の二人は軽く笑い合うと、婦の方、一花は衣装に着替えに行った。

 パリッとしたパンツスタイルのスーツに身を包んだ一花が撮影の準備を進めているのを見ると、華梨は不思議な気持ちになった。

あれは上杉一花じゃなくて中野一花だ。

 と、思ったのだった。

 カメラの、音声の、光源のスタッフが慌ただしく動き出して、本番の準備が進められる。

「華梨、しーだぞ」

 風太郎のは唇に人差し指を立てて喋らないように注意を促した。

 華梨は頷いて、母親に見入った。

 一花の演じる女性刑事が上司と問答をしているシーンだ。

 何を言っているか細かい所は分からなかったが、一つとても心に残ったセリフがあった。

 一花はポケットから手帳を取り出すと、そこに挟んでいた写真を見て言う。

『……息子は、私に残された最後の希望ですから』

 気の強い役柄の、そんな気弱な所を見せるシーンは見せ場の一つだ。

 普段は吊り上がった目元が優しく下がって、気の張る必要がないからか、口元がほころぶ。

「おかあさ……」

 そんな母親の姿を見て、思わず華梨から声が漏れる。抱きかかえている父親にも聞こえないほどの小さい声だったので咎められることは無かったが、約束を破ってでも声をあげたかった。

 チェックを終えて、オッケーが出たので一花は娘の下へ歩いて行く。

「お母さん!」

 華梨はやって来た一花に駈け出して、そして飛びついた。

「うわ、どうしたの華梨ちゃん?」

 そんな娘を一花は優しく受け止める。その顔を見ると大きな瞳に涙を浮かべて、月明かりが光って波打つ。泣き出しそうなその顔に、そうっと頭を撫でて答えて上げた。

「私男の子じゃないよ」

「え?」

 娘のその突拍子もない言葉に一花は一瞬固まる。しかしその意味に気付けば、微笑ましいおかしさが胸の内から湧き上がって笑い声となって零れる。

「……ぷっ、あはは」

 華梨はさっきのセリフを一花が本心から言っていると思ったのだ。お芝居と現実をごっちゃにしてしまう幼さを、一花はなんて愛おしいんだと思った。

「ねえ、お母さんどうだった?」

「え……えっと、違う人みたいだった。」

「うんうん」

「いきなり息子がとか言っちゃうし」

「それで?」

「でも、カッコよかった」

 一番聞きたかった言葉を娘から聞けた一花は、力いっぱい抱きしめた。

「苦しいー」

「ねえ華梨ちゃん。お母さんさ、家ではダメダメだけど、でもそればっかりじゃないよね……たぶん」

「うん」

 華梨は普段の一花を思い浮かべる。

 家にいる時は眠い目を擦りながら朝ご飯を用意してくれる優しい所。自分が悪い事をしたときに叱りつける厳しい所。自分とお父さんを引っ張っていってくれる頼もしい所。

「違う人かと思った。息子とか言うから、って言ったよね」

「うん」

「でもね、同じ人なんだよ。一緒に過ごした事がない息子に、あんな風に言えるのは、華梨ちゃんが大好きな気持ちを使ってるからなんだよ。自分の中にある気持ちを使ってるんだ」

 そんな母親の言葉を聞くと、華梨の中で歯車がかみ合う感覚がした。別々の人のように感じていた女優の『中野一花』と母親の『上杉一花』がきちんと像を結んだのだ。

 あの可愛らしい女の子の役も、お父さんと恋をした経験があったからできたんだ。

 あの怖い先生の役も、自分を叱ってくれたりたまに勉強を教えてくれたりする所からできてるんだ。

 そう思うと、演じるという事は素晴らしい事に思えた。自分の嬉しい気持ちで、多くの人を嬉しくさせたりできるのは、きっととっても凄い事なんだ。

「お母さん」

「なあに?」

「私もお母さんみたいな女優になれる?」

 そこにはお遊戯会の主役が嫌だとぐずっていた華梨はいなかった。演じるという事への興味と、自分の中にあるもので他の人を喜ばせる事ができるのかな、という走り出して確かめたいような好奇心に満ちていた。

「なれるよ。だって私の自慢の娘だもん!」

 

――

 ガラスの靴が差し出される。

 意地悪な母親がそれに足を入れる。だが入らない。

 意地悪な姉がそれに足を入れる。しかし入らない。

 意地悪な姉が馬鹿にしながらシンデレラがそれに足を入れる様を見ている。

 それは正に魔法のように彼女の足にぴたりとはまった。

 シンデレラはにこりと笑って王子様との結婚を喜ぶ。

 誰も彼も、彼女の笑顔に見とれていた。

――

 

「ねえお母さん、本読んで」

「んー? はいはーい」

 あのお遊戯会から、華梨はよく本を読んでもらいたがるようになった。

 その理由は、

「お母さんダメ、人魚姫のとこは私が読むの」

 この前みたドラマで、役者は本読みをするというのを見たからだった。

 そんな娘に苦笑いする一花を見て、風太郎は心底おかしそうに笑う。

「一花、とんだライバルを生み出してしまったかもしれないな」

「そうなっても風太郎君は私を応援してくれるよね」

「お父さんは私を応援するの!」

 そんな二人の可愛らしい火花に、風太郎は今度は声をあげて笑った。



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冷たいケーキの温かさ

二乃の娘、上杉笑凛の話


 焼きたてのお菓子なんて大嫌いだ。

 焼けた小麦粉の香ばしい匂いに、砂糖の甘いベールが躍り出して、部屋いっぱいに幸せのワルツが躍り出す。

 温かいお菓子を口にすれば、オーブンの熱が残った表面はカリッと楽しい歯ざわりを残して、その中から内にこもっていない水蒸気が湯気となって立ち昇り、甘い香りが鼻腔をくすぐる。ふわふわした中はとろけるように舌に纏わりついて、体中に広がる幸福感は他に例えようがない。

 そして何より、焼きたてという事はそれを作った人がすぐそばにいるという事だ。

 それこそお菓子のように甘い微笑みを浮かべた母親が、優しく語り掛けてくる。

「美味しい?」

 料理上手な友達のお母さんは、よくそう言って手作りのお菓子を出してくれた。

 皆は夢中になって頬張って言うのだ。

「美味しい!」

 だけど、その中で一人複雑な内心を抱えながら、彼女はいつもこう思っていた。

――ママのお菓子の方が美味しいもん。

 だからこんなに甘くて美味しい香りを立ち昇らせる物なんて嫌いだ。

 お母さんのお店で出る物より美味しいと言ってしまいそうだったから。

 上杉笑凛(えみり)の抱える悩みとはそういう物だった。

 

 

 この町一番の人気者と言えば、それは上杉二乃の事だ。

 可憐な容姿に遜色ない華麗な洋菓子を振る舞う姿は、ローカル局ではあるが何度もテレビが取材に来るほどだ。

 一人の可憐な女性として、たくましく働くお母さんとして、皆の憧れの的だった。

「笑凛ちゃんのお母さんってすごいね」

 と、友達はいつも羨ましそうに褒めてくれる。そんな母親は笑凛の誇りだった。

 幼稚園から家に帰る道の途中に上杉二乃のお店はあって、その前を通る時にはいつもがんばれーとテレパシーを送っていた。

 店の名前は『Zéphyr(ゼフィール)』。春の訪れを知らせる風の神ゼピュロスのフランス語読みからとられている。彼女の知り合いはその名前を聞いただけで「ごちそうさま」という気分になるのだ。なぜなら上杉二乃の夫の名前は風太郎だから。

「私に春風を運んでくれた運命の男の子なの!」

 と言ってはばからない彼女は、まさに恋に一直線の乙女といった具合で。ゼピュロスって何人もの奥さんがいたらしいけど良いの? という姉妹が言った事は都合よく無視して、煉瓦造りの外観にきらきらとその名は輝いている。

 今日も笑凛は、父親の友人の娘で幼稚園が同じな武田紗矢子の家に遊びに行く道すがらに、大好きなお母さんへ気持ちを送っていた。

「いらっしゃい」

 笑凛が友達の家のインターホンを押すと、待ちきれなかったかのように飛び出してきて歓迎された。誕生日に買ってもらった人形を見せてもらう約束だったので、さっそく部屋に入れてもらう。

 お洒落なミニチュアの家でお人形遊びをしていると、リビングの方から友達のお母さんの呼び声が聞こえた。

「さーや、笑凛ちゃん、ケーキ焼いたから一緒に食べましょう」

「はーい。行こう笑凛ちゃん」

「うん」

 子供部屋の扉を開けると甘いチョコレートの香りが漂ってくる。その匂いに引き寄せられるようにリビングまで行くと、小さなカップケーキがいくつか置いてあって、すぐ傍で友達のお母さんが紅茶を淹れてくれていた。

 机について「いただきます」と一言。紅茶にミルクを一匙入れてかき混ぜて、そのスプーンでまだ熱いアルミカップに入ったチョコレートケーキを一突きした。

 サクッと軽い音を立てて表面が崩れる。温かい空気に乗ってチョコレートの香りが笑凛と紗矢子の鼻をくすぐると、期待に胸を膨らませてそれを一口食べた。

 オーブンの熱源に晒されて少し焦げた表面は、歯を立てると容易くほどける。中のスポンジがふわふわと口を楽しませると、じんわりと溶けて飲み込めるほどに蕩けた。

「おいしい」

「よかった。二乃さん……笑凛ちゃんのお母さんのレシピを参考に作ったの」

「ママの?」

 そう言われて笑凛はケーキをしげしげと眺める。お店で出されているお菓子の中に、こんな感じのケーキが売ってある事を思い出した。

「どう? お母さんと私、どっちのケーキが美味しい?」

 ニコニコと、おどけた笑みを浮かべた紗矢子の母親は尋ねて来る。それはただの世間話の一つで、大した意味合いなんてものは無いのだが、笑凛にとってはそうではなかった。

 お母さんのお店で買ったお菓子はもちろんどれも美味しい。けどそれは冷めても美味しさを保つしっとりとした物で、こんな風なふわふわとした軽やかな美味しさとは違った。どっちも美味しいよと言えるほど大人ではない笑凛は、このケーキが美味しかった事になぜだか悔しくて、こう気持ちのこもってない答えを出した。

「ママのケーキの方がおいしい」

 言われた紗矢子の母親は楽しそうに笑った。

「ちぇー、まだまだ二乃さんにはかなわないか」

「お母さん、しょーじんして」

「はいはい、励みますよ」

 偉そうな事を言う紗矢子のチョコレートでベタベタな口元を拭ってやりながら、紗矢子の母親はこの幸せな一時を味わっていた。

 

 

「エミー、お待たせ」

 上杉二乃は従業員に後を任せて笑凛と帰路につく。しっかりしてきたとはいえまだまだ小さい子供だから、出来るだけ一緒にいる時間を作ろうとしている二乃だった。そのために人件費がかかるとは言え、お金の事に料理の事も任せられるスタッフを雇っている。

 二乃は笑凛の手を引きながら、近くのスーパーに足を向けた。

「何か食べたい物ある?」

 洋菓子だけでなく、家庭料理の腕も逸品の二乃に、あれが食べたいと言って出来ないと言われた事のない笑凛だったが、今回は頼み事の趣が違った。

「焼きたてのケーキが食べたい」

 意外な娘のお願いに、ぷっと二乃は吹き出した。

「だーめ。さーやちゃんのお母さんに作ってもらったでしょ?」

「なんで知ってるの?」

「さっき写真が送られてきたんだもの。今日は我慢しなさい」

「えー」

「えーじゃない。虫歯になっちゃうわよ~。そしたら歯医者さんに行かなくちゃいけないんだから」

「歯医者さんやだ!」

「でしょ? だから今日はだめ。あ、今日はお魚が安いからこれにしましょうか」

 メインが決まった事により二乃の脳内でレシピが組み上がっていく。ぽんぽんと脈絡なく見える買い物に、笑凛はいつも目を真ん丸にさせていた。

 

 

 

『今日は家庭でもできるプロの味、という事で先生を呼んでいます。上杉二乃さん、よろしくお願いします』

『はい、よろしくお願いします』

 ある日友達の家で遊んでいると、つけっぱなしにしていたテレビから笑凛の聞き慣れた声が響いてきた。

「あ、笑凛ちゃんのお母さん」

 友達が言った通り、そこに映っているのは見慣れた大好きな母親だった。

『今日は二十分で出来る、おやつにぴったりなドーナツのレシピを紹介します』

『はい、お願いします』

 テレビに出ているアイドルにも負けないくらいに綺麗な顔をカメラに向けてにっこり笑うと、材料を紹介した。

「ねえ、一緒に作ってみようか」

 友達の母親はそれを見ながら提案してきた。素早く録画のボタンを押して見返す準備は万端で、紹介された材料は全て家にあって、あと必要なのはやる気だけである。

「作る!」

「私も」

 一緒に遊んでいた友達は楽しそうにそう言った。笑凛はテレビで調理する母親を不思議な気持ちで見つめながら、

「私もやりたい」

 ゆっくりと頷いた。

 ホットケーキミックス粉を取り出してきて、皆は二乃が言う通りに作っていく。

『はいこちらに調理済みの物が……』

「もー調理済みなんて裏技使わないでー」

 友達の母親はちょっと茶目っ気を見せながら、子供達の料理を手伝っていた。

 先にテレビのお料理コーナーが終わってしまったが、きちんと録画しておいたので何度も見直せるのでそこは問題なかった。

 最後の油で揚げる所は母親がして、子供達はそれをカウンターの向こう側から見ている。

「もういいんじゃない?」

「まだだよ」

「ねえねえ、まだ?」

「笑凛ちゃん、お母さんがきつね色になるまで揚げてくださいって言ってたでしょ。もうちょっと待たないとね」

 そんな話をしているうちに、ドーナツの表面がこんがりときつね色になって出来上がった事をその身で表現していた。一つ手に取って割ってみる。生地にちゃんと熱が通ってさっくりと出来上がっていた。

「さ、出来たよ」

 揚げたドーナツをキッチンペーパーの上に置いて油を取り、粗熱が取れるまで置いておく。しかし、食べたい食べたいと大きな目を光らせる子供達に負けて、まだ熱々のドーナツにグラニュー糖を振りかけて振る舞った。

 子供達は喜々としてかぶりつき、熱さにびっくりしながらも一つを平らげた。

「えへへ、おいしいね」

「うん」

 作った達成感も相まって、熱々のドーナツはそれ自体が持っている味よりも美味しく感じて、思わず笑みがこぼれた。

『今日の料理コーナは上杉二乃さんでした。ありがとうございました』

『ありがとうございました』

 二乃は朗らかに笑って、そこで録画が切れて止まった。

 笑凛はそんな母親の笑顔に見惚れて、皆の笑っている顔を見た。ドーナツを口いっぱいに頬張り、喜びの表現に惜しみのない友達を見ると、やっぱりママは凄いんだと誇らしい気持ちになる。

 けど……

 テレビには止まったままの二乃の笑顔が映し出されている。

 テレビ越しじゃなくて、目の前で作ってもらうのは贅沢なのかな、と笑凛は少し悲しい気持ちでドーナツを齧った。

 おいしい。けど、素直にそう言いたくなかった。

 

 

「エミー、ごめんね今日はお店から離れられないの。でもちょっと待っててね。迎えが来てくれるから」

 従業員に娘が来たと告げられた二乃は、奥の厨房から出てきてお菓子の甘い匂いを纏いながら、その匂いの様に優しく笑凛に笑いかけた。

「ママ、私出来立てのケーキが食べたい」

「なあに? またその話?」

 くしゃくしゃと二乃は子供の細い髪を撫でて話しかけた。

「ねえエミー、実は出来立てのケーキってあんまり美味しくないのよ。一日くらい置いておいて甘さがケーキになじんだころの方が美味しいの」

 その言葉は正しい。

 正しいが、それが相手にきちんと伝わるかどうかは別の話だ。

 大好きな母親の話でも、それはどこか言い訳のように笑凛には聞こえた。

「でもママ、テレビで出来立てを食べさせてたじゃん」

「あの収録今日だっけ。見てたの? でもあれはケーキと違うから……」

「もういいもん!」

 突如として笑凛は大きな声をあげた。元気な子とは言え、そう叫んだりすることのない娘の姿に目を丸くする。

「友達のママは作ってくれるのに、どうしてママは作ってくれないの!? もうママなんて知らない!」

 複雑な胸中を爆発させた笑凛は、その勢いのまま店を飛び出した。

「エミー!」

 止めようと伸ばした二乃の手は、何もつかめず空ぶった。

 

 

 茜色に染まる空を、ブランコに揺られながら見上げている。

 流れる白い雲がうっすら赤くなって、そんな雲をラズベリーが乗った後のクリームみたいだと笑凛は思った。

 飛び出したはいいけど、このあとどうしようかな。と、考えなしにお店を出た事を今更ながらに後悔していた。

 謝りに行こうか。でも作ってくれないママが悪いんだ。あんなにたくさんのケーキやお菓子を作っているのに、どうして私に作ってくれないの。

「笑凛」

 鬱々とそんな事を考えていると自分を呼ぶ男の人の声がした。その方を向くと、この世にいる誰よりも大好きな二人のうちの一人が立っている。

「パパ!」

 ブランコから下りて駈け出した笑凛に、パパと呼ばれた男、上杉風太郎は飛びついてきた娘を受け止めた。

「ただいま。良い子にしてたか?」

「うぅ……」

 何気ない日常の会話に笑凛は詰まった。母親にあんな文句を言って、良い子にしていたとはとてもじゃないが言えなかった。

「ママと喧嘩したんだって?」

「でも……でもママが……」

 大好きな母親にあんなことを言ってしまった自己嫌悪と、けれど相手が悪いんだという怒りがない交ぜになって複雑に心境を彩る。

 二乃から事の顛末を聞いた風太郎はどうした物かと頭を捻った。

「笑凛、買い物に行こうか」

「え? でもママが買い溜めしていたおいたって言ってたよ」

「いいから」

 風太郎は抱っこしていた娘を下ろして、手を引いて近所のスーパーへと向かった。

 風太郎が出張でいない間話せなかった分を埋め合わせるように、笑凛は目一杯喋った。見たテレビの事、幼稚園で会った事。しかしその話題の中に、普段なら絶対に出てくる母親の話題は不自然に無かった。

「笑凛、乗るか?」

 スーパーについた風太郎はカートについている子供席を指さしながら言った。

「もう子供じゃないもん」

「はは、そうか。もう立派なレディーだもんな」

ポンと娘の頭を撫でて風太郎は店内に入って行った。

「ねえパパ、何を買うの?」

「ん? 笑凛だったら分かるから当ててごらん」

 そういう父親の優しい笑顔に、笑凛は手を繋いで隣を歩く。

 風太郎はスマホを片手にカートに次々商品を入れていく。

小麦粉、卵、砂糖、生クリーム。

「ケーキ!」

 それは母親である二乃が良く慣れ親しんだ物だ。何回もこの材料が、皆を笑顔にさせるケーキやクッキーなどのお菓子に変わっていく所を、直接だったりテレビを通して見て来たのだから間違える訳がなかった。

「正解。ご褒美に好きな物を乗せる権利をやろう。何がいい?」

「イチゴがいい」

「よし。好きなのを買ってきていいぞ」

「やったー」

 笑凛は普段買ってもらえないイチゴを買ってもらえる事が、忙しくてこういう風に構ってくれない父親が今いるという状況と合わせて、踊りだすくらいに嬉しかった。

 二乃の店で一番人気はチョコレートケーキだったが、笑凛はイチゴのショートケーキが好きだった。真っ白い大理石のステージのようなクリームに、真っ赤なドレスを着たお姫様がちょこんと座っているように思って、幼心に憧れる舞踏会に見立てて楽しくなるのだ。

 笑凛はなるべく真っ赤なイチゴを選んで父親が持っている籠に入れる。これが自分の意思でどうこうできると思うと、わくわくするような気持ちになった。

 

「さあやるぞ。笑凛、手は?」

「洗った」

「エプロンは?」

「着けた」

「心の準備は?」

「できた!」

「よし始めるか」

 帰宅してから二人は、普段から二乃に口を酸っぱくして言われているからではないが、念入りに手を洗ってエプロンを着けて準備万端だ。

 ボウルに卵を割って砂糖を加えてすぐに混ぜる。笑凛は泡だて器を使って混ぜるが、重くて取り落としそうになっているので風太郎は支えた。

「ほらしっかり持って」

「重いよー」

 見ている時は思わなかったが、間近に泡だて器を使うとうるさい物だった。ボウルに当たるとガリガリと嫌な音がして振動で腕が疲れる。まだ小さい笑凛にとっては泡立て一つをとっても重労働だった。

 その後も細々と気にすることが多くて笑凛は頭がこんがらがりそうになる。温度の管理に生地の固さに気を配ったり。スポンジの時は温めて混ぜたのに、クリームの時は冷やすのは理解し難かった。

 ケーキを作るのってこんなに大変なんだ。

 笑凛は母親にあんな事を言ってしまった自分を恥じた。そして、謝りたいと思った。

「笑凛、自分で作ってみてどうだった?」

「こんなに大変だったんだね」

「そうだな。こんな大変な事をママは毎日しているんだ」

「うん。ごめん」

「謝るのは俺じゃないだろ?」

「うん。ママにちゃんと言う」

 風太郎は頷いて、しゅんとした娘の肩を叩いた。

 しばらくするとオーブンから甘い香りが部屋いっぱいに広がってきて、笑凛は達成感に満たされていた。

 笑凛は思う。このスポンジにクリームを塗って食べたら、頬っぺたが落っこちるくらい美味しいに違いない。

早く焼けないかな。

「笑凛、ママがもうすぐ帰ってくるぞ。イチゴの用意してくれ」

「はーい」

 冷蔵庫に収めていたイチゴを出して、父親の監視下のもと半分にカットしてトッピングの用意をした。

  チーン

 オーブンから音がした。

 鍋掴みを着けた風太郎はスポンジを熱いオーブンから取り出す。型から外して手順が書いてあるページを開いたスマホを見た。

「えーとこのまましばらく置いて冷ます、と」

「焼きたてが食べたい!」

「分かった。少しな」

 四分の一ほどカットして、残りはレシピ通りに冷ます手順をとった。

 まだ温かいスポンジを半分の厚みにスライスして、その断面にシロップを塗る。クリームをのせて塗り広げ、そこにイチゴを並べたらさらにその上にクリームをのせておおったら、半分に切ったスポンジをかぶせた。表面にもクリームを塗って真っ白に染め上げて、そこに真っ赤なイチゴをのせて完成した。

「できた!」

「頑張ったな」

 風太郎は完成品を前にご満悦な笑凛を撫でて労った。

「ママと一緒に食べて仲直りするの」

 満開の花のようにふわりと笑顔が花開くと、それを見ていた風太郎は眩しい物でも見るように目を細めた。優しい子だなと思うのは親バカだろうか、と彼は考えていた。

「ただいま」

「ママ帰って来たぞ」

 玄関から聞こえた声に、弾かれたように椅子から立ち上がって母親の下に駈け出した。

「ママ!」

笑凛は帰って来た母親に抱き着く。

「エミー、ごめ……」

「ごめんなさいママ!」

 その謝罪の言葉と共に、二乃に抱き着いた腕に一層の力を込めた。

「ごめんなさい。ケーキ作ったの。重くて、大変で、知らなかった。だからごめん、ママ」

「ううん。私こそごめんね。出来立てが美味しいケーキなんていくらでもあるのに」

「一緒に食べよ? 仲直りしたい」

「ふふっ、ご飯の前よ……って言いたいけど、今日は見逃してあげる。パパは?」

「あ、置いてきちゃった」

「あーあ、可哀そうなパパ」

 二乃は靴を脱いでスリッパをはき、リビングへ向かった。玄関にいても漂ってきていたが、部屋にはいるとケーキを焼いた甘い香りが鼻腔をくすぐった。

「上手に出来たのね」

「えへへ」

 キッチンで紅茶用のお湯を沸かしていた風太郎は、二人の足音と共に扉が開いた音を聞きつけ顔を出した。

「お、ママお帰り」

「ただいま。パパが見てくれたのよね。ありがと」

 二人は顔を見合わせて二人にだけ分かるアイコンタクトを交わす。

「?」

 それが何をしているのか分からない笑凛は頭にはてなを浮かべて首をかしげた。

「ねえ食べよう」

「そうね」

 お茶を淹れるのは風太郎に任せて、二人はテーブルについて切り分けたケーキを目の前に置いた。

「「いただきます」」

 フォークを一刺しして口に運んだ。笑凛は万感の思いで自分の作ったケーキを口に入れた。

「……あれ?」

 どうしてだろう。あまりおいしくなかった。

 いつも食べるショートケーキは、クリームのなめらかさが舌に広がり、噛むとスポンジとの甘さが絡まり合い、そこにイチゴの酸味がして、言葉にならないような幸せに包まれるのに、このケーキからはそういう感情が湧き上がってこなかった。

 あんなに食べたかった出来立てのケーキなのに……。

「エミー、トーストにのせたバターは溶けるでしょう?」

「う、うん」

 二乃はちょっと悲しそうな笑顔をしながらそんな事を言う。笑凛はいきなり朝食の話をされて戸惑ったが、いつもの朝を思い出して頷いた。

「クリームも同じなの。脂だから溶けちゃうのよ」

 そう言われて笑凛はどうして出来立てのケーキを作ってくれないのか理解した。お店で言っていたように理由があったのだ。

「ご……ごめんなさい、ママ、し……知らなくて……」

 せっかく作ったケーキが美味しくないのは嘘だと思いたくて、笑凛はもう一口ケーキを口に運んだ。

 スポンジに乗ったクリームが溶けてベシャベシャになって、母親の作る秩序だったような味の調和なんてものは全くない。きちんと焼いたスポンジはその溶けたクリームで台無しで、際立つイチゴの酸っぱさは空しく口に広がって、とても美味しいとは言えなかった。

「うぅ……ぐすっ……ごめんなさい、ママ……あんな事言って」

 二乃は一口、娘の作ったケーキを口に運んだ。

二乃のその大きな瞳が涙で潤んで、一筋涙が流れた。それを見た笑凛はとても、とても悲しくなる。

「ごめんなさいママ、美味しくなくて」

「ううん。違うの。違うのよ、笑凛」

 二乃は、いつものように愛称であるエミーではなく、きちんと愛娘の名前を呼んだ。

 

「嬉しくて。笑凛の作ってくれたケーキが世界一幸せにしてくれる、だから泣いてるのよ」

 

「え?」

 笑凛は理解できなくて、涙の溜まった目を大きく見開いて母親を見つめた。

「でも、でもこんなにクリームが変で、ママの作るケーキみたいじゃないよ」

「いいの。笑凛が私に一緒に食べようって言ってくれただけで、このケーキは世界一美味しいの」

「どうして?」

 ぱたぱたと母娘の相貌から涙がこぼれる。

「ママはね、笑凛がしたことが何でも嬉しいの。生まれて来てくれた事、ハイハイするようになって、立って歩くようになって、話すようになって、会話ができるようになって、喧嘩して、そしてこうして仲直りのケーキを作ってくれた事。そのどれもが私にとって世界一幸せな事だから、だからこのケーキは忘れられない世界一のケーキなの」

 二乃は席から立ち上がって笑凛のすぐ傍に歩いて行った。

「ごめんね、笑凛。焼きたてのお菓子くらい、いくらでも作ってあげるから」

 ぎゅっと二乃の心に溢れる、娘への愛しさのままに抱きしめた。

「ううん。私の方こそごめんなさい。わがまま言って、困らせて。知らなかった、こんなにお菓子を作るのって大変だったんだね」

 自分一人では満足に持てなかった泡だて器の重さを思い出して、あれを何人もの人の為に振るう母親の事を思うと信じられないような気持ちになった。そして、同時に誇らしかった。

 作ったお菓子で何人もの人を笑顔にして、そんな事は自分のママにしかできないんだ。

「いつもありがとう、ママ」

「私の方こそ、ありがとう笑凛」

 微笑ましく笑い合う母娘に、蚊帳の外の父親、風太郎は一つ咳払いをした。

「お茶淹れたぞ。笑凛、ママのお店でケーキ買ってたんだ。一緒に食べて今後の参考にしような」

「もう! パパ台無し!」

「はぁ?」

 最近は埋もれていた二乃の、その舌鋒鋭さが久々に顔を覗かせて風太郎は戸惑いの声をあげてしまう。

「今は私のケーキなんてどうでもいいの! 何で分からないの?」

「す、すまん」

 付き合っていたころは、どちらかと言うと風太郎の方が力関係は上だったのに、結婚してからすっかり尻に敷かれてしまった男の情けなさそのままに、とりあえず謝罪の言を述べた。

 そんな小さくなってしまった風太郎をとりあえず無視して、二乃は娘に言った。

「明日一緒に残ったケーキを完成させましょう。絶対に世界一美味しいわ」

「うん。ちゃんと美味しいケーキを作るよ」

 

 

 焼きたてのお菓子が大好きだ。

 焼けた小麦粉の香ばしい匂いに、砂糖の甘いベールが躍り出して、部屋いっぱいに幸せのワルツが躍り出す。

 温かいお菓子を口にすれば、オーブンの熱が残った表面はカリッと楽しい歯ざわりを残して、その中から内にこもっていない水蒸気が湯気となって立ち昇り、甘い香りが鼻腔をくすぐる。ふわふわした中はとろけるように舌に纏わりついて、体中に広がる幸福感は他に例えようがない。

 そして何より、焼きたてという事はそれを作った人がすぐそばにいるという事だ。

 それこそお菓子のように甘い微笑みを浮かべた母親が、優しく語り掛けてくる。

「上手に出来たじゃない」

「えへへ」

 一緒に作った喜びに、母親と娘は笑いあう。

 あれからお菓子作りに興味を持った笑凛は、二乃がお店を早くあがれる時に、たまのお休みに二人で、時には三人で料理をしていた。

「ねえ今日のはどれくらいおいしい?」

 二乃は焼きたてのクッキーを齧りながら、口の中で転がして吟味する。

「うーん、そうね、世界で二番目かしら?」

「えーまた二番目!?」

「毎回毎回一番を更新しようなんて甘いわよエミー」

「むー」

――いつかママより美味しいお菓子を作ってみせるもん。

 

 上杉笑凛の抱える幸せな悩みとは、そういう物だった。



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最強の二人

滅茶苦茶久しぶりです。三玖編になります


 きっかけは、ロマネコンティの一雫。

 なんて言うと、なんてロマンチックな響きだろう。物は言いようとはよく出来た言葉で、ただお酒に酔って口を滑らしただけの事を、こんな風にも言い換えられる。

 何の話かって?

 上杉風太郎が中野風太郎になったきっかけの話。

 あれは私達の誕生日に皆で集まって成人のお祝いをしている時の事だった。お父さんがこの日の為にと買っていた、私達の生まれ年のロマネコンティをソムリエに開けてもらい、その圧倒的な力に酔いしれて、ふわふわと良い気分の時の会話がそうだった。

「お父さん、何か欲しい物ある?」

 ワインに濡れてルージュを差したような唇を艶っぽく光らせながら、一花はそう聞いた。お父さんの誕生日というわけではないけど、もう一月も経てば父の日だから、複数あれば皆で分担して、高い物なら皆で協力して買い物をしようと事前に決めていた。

 しかし、お父さんの口から出て来たのは、予想外の言葉だった。

「跡継ぎが欲しい」

 お父さんは、傍目にはいつも通りだけど確かに酔っている口をそう滑らした。

 その言葉に私達は顔を見合わせて笑うしかない。お父さんには私達五人というの子供がいるけど、女の子なのでいつかは中野家から出て行ってしまう。女でも跡継ぎにはなりえるとは思うけど、この大きな家のあれこれをする器量は私達にはないな、と皆こっそり思っていたので、この家の跡継ぎという物はいないという現状だ。

「三玖、フ―君に家に来てもらうように言ったら?」

 酔って軽くなった二乃の口からそんな言葉も飛び出して、きっとそれは冗談だったと思うけど、私は真剣に頭の中でそれを考えた。

 フータローは家柄は良いとは言えないけど、でもそれを言ったら私だって本来は家柄の良い娘と言うわけでもない。けれどフータローは大学で主席が行う新入生挨拶を任されるほど頭が良いし、愛想が良いとは言えないけど昔とは違って人付き合いもきちんとある。フータローの人の心に寄り添える温かさは、きっと病院という悩みのるつぼにあって一際輝く代えがたい美点だと思った。

 それから私は、お父さんがどんな事をしているのか教えてもらうようになった。

 医者としての仕事はもちろん、色々なパーティーに出席したり、関わりのある人に贈り物や手紙を出したり、何かにつけてあるらしい会合に顔を出したり、などなど多岐にわたる。

 言葉を借りて言うなら、こんなに一緒にいるのにそんなこと全然知らなかった、だろうか。まあ言ったのは私なんだけど。

 私はどうしようかとある時フータロー相談すると、彼はくすくす笑って頭を撫でてくれながら、こんな事を言った。

「金持ちになろうって夢を叶えさせてくれるなんてな」

 そんな冗談めかした口調に、私はちょっと怒って食って掛かったけど、そんな私を手で制して、黙らせるように唇をふさいできた。……ずるい、と思ったのを覚えている。

「病院の経営なんて立派な仕事、お義父さんが認めてくれるなら、俺の力の全てを使って勤めたい」

 そんな前向きな言葉を貰って、私はお父さんを説得しに行った。

 お父さんは簡単に説得とはいかなかったけど、意外にも乗り気だったのはお爺ちゃんだった。今は亡きお母さんを大切に思ってくれて、再婚する素振りのないお父さんをせっつくより、結婚する気のある私達を中野家に入れたほうが速いと思ったのかもしれない。

 フータローのお父さんはと言うと「貰ってくれるっていうなら苗字くらい払わないとな。ガハハ!」だそうだ。らいはちゃんは「これからお兄ちゃんの名前を言う度に『え、お義兄さん?』って会話をしなくちゃいけないのかな」なんて言ってたけど、好意的な様子だったので一安心した。

 婚約者になった風太郎と一緒に、色々な家の事を手伝って改めて思った事は、これでは体力も気力もいる料理の道との両立は出来ないのではないだろうか、という事だ。

 私は同じ夢を持つ二乃と一緒に、大学で経営学を学びながら料理の学校も通っていたが、料理の学校は辞めて勉強に専念する事にした。

 大学を卒業する時に、

「中野家の風太郎を認めさせるために、主席で卒業して」

 なんて無茶を言ったのは反省してるんだよ?

 でも風太郎はそれを成し遂げて、卒業生代表の挨拶を読んだのは、記憶に新しい。見に行っていた私はそれを見て泣いちゃって、周りの人に変な目で見られたことも思い出かな。

 お父さんは「他の世界を見て、それから病院の経営に携わっても遅くはない」って言ったから、風太郎は中野家とは全然関係ない、けど大きな企業に就職した。ちなみに私は病院に事務員として就職した。

 籍は入れてたけど結婚式はまだいいかな、なんて話を大学卒業前にしていたら、お父さんは脅すみたいにこんな話をしてきた。

「後にすればするほど、中野の人間として呼ばなければならない人が増えるが、いいのかな? 早いうちなら上杉として最後だから、と身近な人達だけの式を挙げても文句は言われにくいだろうけどね」

 二人で相談して、落ち着いた式にしたいと早くに挙げる事を決めた。

 友達と、お世話になった人、まだ出会ったばかりの職場の人を呼んで、お城みたいな会場で行った結婚式はとても幸せだった。式は高いとか煩わしいなんて言われても、この幸せを知っている人がいるなら無くならないんだろうな。

 お爺ちゃんが建ててくれた大きな家に、夫婦二人じゃ広すぎるね、なんて風太郎に言った事もあった。

 

 そんな事を言った一年も経たない内に、[[rb:春希 > はるき]]と[[rb:夏月美 > なつみ]]は生まれてきたんだったね。

 

 姉妹の皆も、両家のお父さんお爺ちゃんお婆ちゃんも大喜びしてくれて、二人はこんなに望まれて生まれて来たんだよ、と言ったけど、小さすぎて分からなかったよね。

 中野のお爺お婆ちゃんは男の子が生まれてくれてほっとしていた。もちろん女の子の夏月美がどうでもいい訳じゃないけど、やっぱり跡目を継いでくれる男の子は単純に嬉しい意外の感情もあるんだろうな。

 普通の二倍大変だけど、四倍嬉しい怒涛のように押し寄せる幼児期を過ぎたら、この子達の教育と言うものを考えなければならない。

 昔の私みたいにならないように、と沢山の勉強をさせた事、二人はどう思っているかな。習い事を、やりたい事を見つけてともっともらしい事を言って何個もさせている私は、世間一般で言う所の教育ママというやつだろうか。

「中野さん、中待合でお待ち下さい」

「はい」

 私を呼ぶ声に、はっと回想の渦から引き戻されて立ち上がった。仕方のない事だけど、病院の待ち時間は長すぎる。大学時代から今までたっぷり思い返してしまった。

 ぶるぶると震えたスマホを見て、春希と夏月美が家から出発した事を知らせる、位置情報アプリを開いた。

 二人は本当にいい子に育ってくれた。

 頑張り屋で、何にでも取り組む姿勢は大人の私もはっとさせられる物がある。そんな二人を見習ってほしいな。

 誰がって? それは……

 

 

 

 

 

 

のどかな休日の昼下がりに、仲良く手を繋ぎながら歩いている子供達がいた。握った手をぶんぶん振り回しながら、童謡を口ずさんでいる。二人の歩く整備された土手には、青々とした草が伸びて初夏の訪れを感じさせる。抜けるような青空を、その子供達は母親譲りの青い瞳で見上げていた。

「おーいそこの双子―」

「「あっ」」

 そんな微笑ましい二人の間を割って入る一つの声があった。

 二人はその呼びかけられた方向を向くと、スポーツウェアに身を包んだ、マラドーナを彷彿とさせる縮れ毛にひげ面の男が立っていた。髪にひげに、ところどころ白いものが混じっていて年齢を感じさせる。

「監督だ」とは春希、

「ヘボ監督」そう言うのは夏月美だ。

 春希と夏月美が二人でいる時は、基本的に春希の方から口を開いて会話のきっかけをつくりだしている。少ししか生まれた時間が違わないが、そういう所でお兄ちゃんぶりを周囲に示しているのだ。

「その言葉を聞くと、本当にお前達が三玖の子供なんだなという事を実感するな。大人だって傷つくんだぞ夏月美」

 とてとてした足取りで双子は土手を下って、恰幅のいい男のお腹を見上げた。

 男は子供サッカークラブの監督だった。二人は数か月後にここのクラブの年少クラスへ通う事が決まっており、何回か責任者である監督と顔を合わせている。

もう十年近く昔とは言え、非常に珍しい五つ子の姉妹を覚えていた監督は、これからサッカークラブに通う事になる子供の親がその五つ子の一人である事を驚いたものだった。しかもそれはヘボ監督などとありがたくない言葉を放った三玖だったので二つの意味で驚きだ。

「次のクラスの時間まで空いてるから少し練習していかないか?」

 ボールを片手に笑いかけてくる監督を前に、双子は顔を見合わせて、それだけで二人の意思の疎通は滞りない。

「んー、しない」

「お母さん迎えに行くの」

 双子はニコニコ笑うと、父親と母親が持たせてくれたスマホやブザーや財布やらを見せて喜々として捲し立てる。監督は自分の子供がこんなに無邪気だったころを思い出して、勝手に目頭が熱くなっていた。

「くっ、美しい親子愛。最高だぜ。うちの子供にも見習ってほしいくらいだ。まあそれなら引き留めて悪かったな。お母さんによろしく伝えてくれ」

「「?」」

「どうした?」

「習うのこっちじゃん」

「よろしくって何で?」

 双子は首をかしげながら尋ねた。

教わる側として、教えてくれる人にありがとうの気持ちを持って教わりなさい、という母親の言葉には包括しきれない人間関係の複雑さに、二人は頭を悩ませた。

「おいおい、こういうのはお互いへの尊重があって上手くいく物なんだぞ」

「「そんちょー?」」

「つまり、大切ってことだな」

「「うーん」」

「よし、じゃあ単純な話をしよう」

 と監督は言うと、その大きなお腹を揺らしてカゴから一つボールを取り出した。

「二人とも、このボールを見てどう思う?」

 そう言われて、双子は再び顔を見合わせた。

 何の変哲もないサッカーボールである。強いて言うなら、

「新しいね」

「ぴかぴかー」

 二人の正解者に、よくできましたと監督は頭を撫でた。

「そうだこのボール全部新品にしたんだ。で、このボールにできたのは、お前達のお父さんとお母さんがお金を出してくれたからなんだぞ」

「お父さんと」

「お母さんが?」

 そう言われると、ただのボールにも俄然興味が湧いてくる。双子はボールを手に取って、そこから両親を感じ取ろうとべしべし叩いた。

「二人とも、何か物を買ってもらったら何て言う?」

「「ありがとうって言う」」

「そうだな。だから俺も子供達皆のためにボールを買ってくれた、お前達のお父さんお母さんにありがとうって思っていることを、俺からも言うがお前達からも伝えてほしいんだ」

「分かった」

「ありがとうって言ってたって言うね」

 双子は貰ったからありがとう、という単純な論理は理解できたので、さっきの疑問がなくなった晴れやかな心でそう言った。

「しかし安い買い物じゃないからな。さすがお金持ち。これぞノブレスオブリージュだな」

「のぶれす」

「おぶりーじゅ? 何それ」

 聞き慣れない言葉に、小さな子特有の何それ何それ攻撃が開始された。その一転攻勢にたじろぎながら、監督はきちんと説明した。

「ノブレスオブリージュってのは、まあ簡単に言うとお金持ちが寄付したりして人の役に立つことをするって事だ。お前達のお父さんお母さんは立派な人だな」

 大好きな両親が褒められて、双子はキャッキャと喜んだ。

「お前達も立派な大人になるんだぞ」

「大丈夫だよ」

「他の習い事も頑張ってるもん」

「偉いな。ちなみに何してるんだ?」

「水泳と」

「ピアノ」

「「英会話」」

「お坊ちゃんお嬢様な習い事してるな。三玖の奴、結構教育ママなんだな」

 監督は感心したように顎髭を一撫でした。三玖が教育に熱心なのは、自分が勉強ができなかった事の裏返しだが、そんな事は知る由もない。

「きょーいくママって無理やり勉強させるお母さんってテレビで言ってた」

 春希は唇をつーんと尖らせながら、不服そうに言った。その少しネガティブな意味を持った言葉を母親に適応させる事に、異議を夏月美が春希から継いで唱える。

「勉強って皆嫌って言うけど、夏たち嫌じゃないもん。だからお母さんはきょーいくママじゃないよ」

 どうだ、とばかりに二人は誇らしげに胸を張った。

「お前達すごいな。うちの子供に爪の垢でも煎じて飲ませてやりたいぞ」

「あ、そろそろ行かないと」

「春くん早く行こう」

「悪かったな引き留めて」

「「ばいばーい」」

「またな」

 大きく手を振りながら、双子は祖父が経営していて母親も務めている病院へと足を進めた。

 二人は新しく知ったノブレスオブリージュという言葉を、自分達で実行してみたいなと思っていた。

 必要とされる人間になる、というのは父親である中野風太郎がよく言っている事だったので、双子にとって目標に掲げやすい言葉だった。

 それに……

「「のぶれすおぶりーじゅ!」」

 何だか必殺技みたいでカッコいい。

 自分の中に生まれた新しい価値観に、二人はそんな事を思って笑い合った。

 

 

 街中を歩いていると、意外にも寄付を募る団体の多い事に双子は気が付いた。二人はその全てに小遣いや手伝いで貰ったお金を少しづつ入れて回ると、そのうちの団体の一つから羽を貰い、それを胸に差して勲章に見立ててお互いを褒め合う。

 赤信号を待っている時に、春希の視界の端で気になる物が映った。歳を経た女性が、ゆっくりとした足取りで歩いている。それだけなら何の変哲もない光景だが、春希はその足取りがふらついている事を目ざとく見つけた。

「行こ」

「もー! なに、春くん?」

 ぐいっと手を引かれた事に文句を言いながら、夏月美は兄に手を引かれるに任せて後をついて行く。

「おばあちゃん、大丈夫?」

 余裕のない息使いをしていた女性は、突然の声に立ち止まって、声の方向を見下ろした。幼い真ん丸な目が、気遣うように見上げている。

「どうしたの、ぼく?」

「ふらふらしてたよ」

「そうなの? 病院行く?」

 ひょこっと夏月美は兄の後ろから顔を出して心配しながら聞いた。

「これから病院行く所だったのよ。いつもだったら病院が出してくれるバスに乗って行くんだけど、今日は乗り遅れちゃって、歩いて行こうと思ってたの」

 自分の孫ほどの子供に心配される自分を情けなく感じながら、ゆっくりと心配してくれる二人の子供に語り掛けた。

「ふらふらするならやっぱり車に乗らないと。夏、タクシー呼んで」

「うん」

「いいのよそんな……」

 止めようとした声は、タイミングよく来ていたタクシーが目の前で停まった事で遮られる。

 開いたドアに向かって双子は女性を押した。彼女もここまで小さな子供に心配されて意地を張るほど子供でもないので、大人しくタクシーで病院に行く事にした。

「どちらまで?」

「中野医院まで」

 女性の口から知っている場所の名前が出てきた事に、なぜだか二人は嬉しくなって飛び跳ねる。

「お孫さんを乗せてください」

「いえ、孫ではないんですけど。ぼく達、どこに行くの? 病院の方に行くなら一緒に乗って行く?」

「「ううん。歩いて行く」」

「そう? ありがとうね」

「あ、そうだ」

 と、春希は何か思いついたように財布をごそごそ探った。お目当ての物を見つけると、女性に差し出した。

「あげる」

「なあに?」

 差し出された物をそのまま受け取ると、それは五百円硬貨だった。子供にとってはとんでもない大金だ。慌てて返そうとするが、双子は満足そうな顔をして歩きだそうとしている。

「じゃあねおばあちゃん。僕達のおじいちゃんに診てもらったらすぐ良くなるから大丈夫だよ」

「あの、お名前教えてちょうだい」

 このふらつく足では元気な子供に追いつけない、と思った彼女は、それならこの子供達の祖父を通じてこれを返そうと思った。

「僕、中野春希」

「私は夏月美」

「「ばいばい」」

 それだけ言うと、無駄なほどに元気に駈け出して、あっという間に彼女の視界からいなくなってしまった。

 立派な子供もいるものだ、と彼女は感心しながらタクシーを発進させる。持たせてくれた五百円硬貨を大切にポーチにしまって、きちんとお礼を添えて返そう、と微笑んだ。

 

 

 

 

 隣の話声も油断していると聞き逃してしまいそうな、そんなざわめきにあって存在感を放つ声が遠くで上がった。

 わあわあと響くそれは向かい合う子供の泣き声で、しかし心配そうな目を向ける人はいても、駆け寄って「大丈夫?」と聞く人はいなかった。それは泣いている二人が白人と黒人の子供で、見るからに厄介そうな問題に好き好んで首を突っ込む人はいないからだった。

 そんな気になる泣き声を、遠くから夏月美は耳ざとく聞きつけて、それがどんな人の物なのかも考えずに兄を引っ張るように駈け出した。

「なんだよー」

「誰か泣いてるよ。助けてあげないと」

「ほんと? どこ?」

 二人は保育園では組の中心的存在だったので、自分達が間に入れば丸く収まるだろうと、外の世界には何の根拠もない自信を胸に、その泣いている人がいる所へ向かった。

「大丈夫?」

 そんな渦中に飛び込んだ春希と夏月美の双子は、優しいのかただ考えていないのか。

 黒い瞳と青い瞳に睨まれたが、そんな事で二人はひるまない。英会話に来てくれる先生は、山の様に大きなお尻を持つアメリカ人女性で、それに比べれば可愛い物だと二人は思っていた。

「こけたの?」

「血が出てるよ」

 と笑いかけながら聞くと、しかし相手からの反応は芳しくない。

 泣いているヒステリックそのままに、彼らが口を開けば『何言ってんだ』に始まり『どっか行け』『関係ないだろ』のコンビネーションが繰り出され、最後には『バカ野郎』と大きな声を浴びせかけられた。

 そこまで聞いて双子は、ああ日本語じゃ伝わらないんだと理解した。話している言葉が通じない、という事は怖さを覚えるかもしれないが、少なくともこの双子にはなかった。

「えっと、『大丈夫?』かな」

「あ、春くんすごい。じゃあ『助けになれない?』」

 そんな双子を変な奴と思った二人の少年は、知らない人に泣いている所を見られたくなくて突き放す言葉を投げつけた。

『なれない! いいから。どっか行け』

「通じた通じた!」

「英語習っててよかったね!」

 しかし目の前の日本人は手を取り合って喜んでいるので、少年二人はポカンと大口を空けてそれを眺めていた。

「バンドエードある?」

「持ってない」

 いつもならポケットに一つ二つ母親が忍ばせておいてくれるのだが、今日の服は自分で決めた物だったので、運悪く持っていなかった。

「「……」」

 双子はじっと互いを睨みつけると不意に、

「「じゃんけんぽん」」

 春希はグーを、夏月美はパーを出した。

「私の勝ち。春くん買ってきて」

「もう一回」

「やだ! この前お母さんとお父さん起こしに行った時も、最初は私が勝ったんだから」

 夏月美は再戦を望む兄の言葉を撥ね付けた。先日どちらが両親を起こしに行くかでじゃんけんした時に、最初負けた春希が三回勝負しようと言い出して、それに負けてしまった事を未だに根に持っているからだ。

「分かったよ」

「でっかいやつだよ」

 負けた春希は、渋々といった様子で財布の中身を確かめて、すぐ傍のコンビニへ駈け出した。

 一人残った夏月美は、二人の少年の怪我がどのような物か改めて見た。

 白人の男の子は、肘の辺りを擦りむいて薄く血が滲んでいる。膝頭が隠れるほどのズボンだったので、膝のあたりは砂ぼこりが付いている程度だ。

 黒人の男の子の方は膝をしたたか打ち付けて擦りむいたようで、切れた肌から真っ赤な血が流れ落ちて、靴下まで赤く染めていた。

『洗わないと』

 彼女はそう言って二人を公園の蛇口まで引っ張って行った。

『痛い!』

『男の子でしょ。泣かないの』

 溢れんばかりの文句を浴びせてやろうかと思った少年達は、どう見ても年下な女の子から母親みたいな事を言われて、言い返そうとする自分がひどく子供っぽく感じられたので黙って手を引かれるに任せた。

 血の滲んだ傷口に砂粒が食い込んで、けれど触るのも痛いので放っておいたそこに、夏月美はゆっくりと水をかけて洗い流してやる。父親の友人が新婚旅行に言った時に買って、お土産にくれたハイビスカスの鮮やかなハンカチで濡れた箇所を拭くと、折よく買い物を済ませた春希がやって来たので絆創膏を傷口に張った。

『もう喧嘩しちゃダメだよ』

 夏月美は胸元に差していた羽をとって、春希もそれに倣って彼らにあげた。二人は胸元に差された羽を見て互いの顔を見合わせる。

 双子は満足気に頷いて手を振りながら、二人の少年の下から去って行った。

 良い事をしたなあという充実感にみたされながら、双子は母親がいる病院への道を歩いて行った。

「夏」

「なに? 春くん」

「お金なくなっちゃった」

「えー」

「お母さんに謝ろう」

「うん」

 

 

 診察を終えた私は、受付で支払いをしながら知り合いと少し話していた。

「中野さんと会いたいのですが……」

 突然出た私の名前に驚いてその方を見た。白髪交じりの年配の女性だ。

 いや、中野という名前なんてそんなに珍しい名前じゃない。この病院にも二人の中野先生がいる。お父さんの中野院長と、小児科医の中野先生だ。

「中野先生ですか? 当院には二人中野先生がおりますが」

「はい。春希君と夏月美ちゃんというお孫さんがいる中野先生にお礼を言いたいんです」

 えっと私は小さく声を漏らした。どうして春君と夏ちゃんの名前が。

「うふふ……」

 そばにいた私に気が付いた受付の人は、おかしそうに笑った。

「どうかされました?」

「いえ、春希君と夏月美ちゃんの一番の関係者がすぐ隣にいたもので。すみません」

 隣? と口を動かして、その年配の女性は私の方を見た。

「あなたが?」

「あ、はい。春希と夏月美は私の息子と娘です」

「え、そうなんですか? お若いんですね」

 にこにこと微笑みながら女性は話してくれた。

 歩いて病院に来ようとしていた時に、立ち眩みしそうになっていた自分に声をかけてきて、無理せずタクシーに乗るように勧めてくれてお金を出してくれた、という話だった。

「そうですか。二人がそんな事を」

「ええ、本当に立派なお子さんですね」

 そんな話を聞くと、胸がいっぱいになる思いだ。あの子達が人の為に気を遣うことができて、子供の決して多いとは言えないお小遣いを躊躇いなく出すなんて、そうそう出来ることじゃない。

「あ! お母さん!」

「お母さーん」

 噂をすればなんとやら。受付に子供の大きな声が響いて、ぱたぱたと走っている足音が聞こえる。

「春君、夏ちゃん」

 私はその場に屈んで走って来た二人を受け止めた。額を伝う玉のような汗を拭いてやりながら二人を褒めてあげる。

「二人とも偉いね」

「なにが?」

「どうしたのお母さん」

「あの人がお礼を言いたいんだって」

 といって二人をお礼を言いたがっている女性の方に向かせた。隣を通り過ぎたのに気が付かない視野の狭さは、普段なら咎めるべきなんだろうけど、私に一直線な視線は何て可愛いんだろうとも思っちゃう。

「あ、さっきのお婆ちゃん」

「さっきはありがとうね。どうしても二人にお礼を言いたかったの」

 二人は照れくさそうに笑うと、誇らしげに胸を張って言った。

「のぶれすおぶりーじゅって言うんだって」

「お父さんお母さんみたいな立派な大人になるの」

 誰から聞いたのだろう。聞いた事をすぐにしたくなる子供っぽさで、こんな風に人の役に立つ行動をとれるのは、なんて凄い子達なんだろうな。

「難しい言葉知ってるね」

女性は膝が良くないそうなので椅子に座って話かける。鞄から財布を取り出して五百円硬貨を二枚取り出して春君と夏ちゃんの手に握らせた。

「ありがとう。二人の優しい気持ちで元気になったから、お返しとそのお礼」

「「どういたしまして」」

 二人はそれを受け取ると満面の笑みを浮かべる。自信に満ちたその顔は、私が風太郎を好きになって、好きになって貰えるように自分を磨いて身に着ける事ができた物で、こんな小さなうちからそんな顔を出来る事に、この子達は本当に立派に育ってくれているんだと胸が熱くなる。

 診察の順番が来た女性は二人と握手をして立ち去って行った。

「帰ろうか、二人とも」

「「うん!」」

 私は右手に春君、左手で夏ちゃんの手を繋いで帰宅の途についた。元気にぶんぶんと振り回される手に、普段ならそんな動きは疲れるのに、二人がそうさせるのならむしろ元気になれるなんて、母親って不思議な生き物だなと思う。お母さんも私達姉妹にそう思ってくれていたのかな。

「せんせー」

 大きな声で話していた春君が、一際大きな声を出した。

 見ると、ブロンドの女性が子供を二人連れて歩いている。それは英会話の先生に来てもらっている女性だった。風太郎よりも背が高い上に横にも大きいので迫力が凄い。

「ハル、ナツ。さっきはありがとうね」

 彼女は日本に住んで長く、日本語もペラペラだ。

「何が?」

「今日せんせーに会うの初めてだよね」

「私はね」

 彼女はそう言って笑うと、力強い手で両手に引いている子供を無理やり自分の前に連れてこさせた。ブロンドの恐らく彼女の息子と、友人から預かっているのか黒人の子供だ。胸に募金したら貰える羽をつけている。

「あー」

「さっきの」

「この二人、あなた達に怪我の手当てをしてもらっておきながらお礼も言わなかったそうじゃない。感謝の言えない子にさせたくないから、知ってる子達で助かったわ。ほら二人とも、お礼言いなさい」

 二人の男の子は少し俯いて口をぱくぱくさせている。これくらいの男の子にとって、自分よりも年下の男の子にも女の子にも改めてお礼を言うなんて、ちょっと恥ずかしいかもしれない。

「「アリガト」」

 日本語はあまりしゃべっていないのだろう、少しカタコトなありがとうで、でもそれだけで気持ちは充分だ。

「「いいよ」」

 えへへ、と笑いながら二人は男の子達のそばに行き、その手を握っている。大人だって、知らない人に手を差し伸べられるとは限らない。二人にはこの美点を、子供の怖い物知らずな時期だから出来る物で終わらせてほしくないな。

「二人とも、凄いね」

 日が傾き始めて、煌々と照り付ける光が柔らかな茜色になっていく中を歩いて行く。

 土手の下ではサッカークラブに通う小学生がボールを追いかけている。大きな体の監督が、ディフェンダーの子に線を引くような仕草をしながら熱っぽく指導をしていた。まさかあの監督に自分の子供が教わる事になるなんて、全く想像していなかったな。

「ねえお母さん」

 そんな私の視線に、春君は思い出したように手を引いて何かを言いたそうだ。

「なあに? 春君」

「監督がね、ボールをありがとうだって」

「監督が言ってたの。寄付したりするのは立派な事だって。夏たちもお父さんお母さんみたいになれるように頑張るからね」

 子供っていう存在は凄い。私達が知らない間にどんどん大きくなって、あっと驚かせてくれる。この驚きの連続の喜びは、きっと何事にも代える事はできないんだ。

「ねえ春君、夏ちゃん」

「「なに?」」

「人の為に何かを出来る人であり続けて」

 私は自分のお腹に一回目を落として、そして二人を見つめた。

「これからお兄ちゃん、お姉ちゃんになるんだから、お手本になってあげてね」

 どういう事? と二人して首を傾げて少しすると、ようやく意味が分かったのか大きな声をあげて喜んだ。

「本当? お母さん」

「うん。本当だよ」

「弟? 妹?」

「まだ分からないよ。でもね、一つだけ決めてる事があるの」

「「なーに?」」

「男の子でも女の子でも、秋って言葉は入れようってこと」

 お爺ちゃんが作った、お母さんが再婚して【中野】になる時に、お父さんとの間に子供ができるくらい回復してほしいという願いが込められた、子供の名前候補帳の事を思い返した。

「春、夏」

 春君は自分と、夏ちゃんを指さして流れる季節の順番を確かめている。

「秋!」

 夏ちゃんが私のお腹を指さして、楽しそうに声を張りあげた。

「だから二人とも、弟か妹どっちでも優しくしてあげてね」

「「まかせて!」」

 笑い出した二人につられて私も笑った。

 家族が一人増えて、単純に手間が一つ増えるだろうし、苦労も増えるのは二人を産んだ時に知っているけど、それでもまた子供が欲しくなるのは、幸せは二乗されていくのも知っているからだ。

 春君がいて幸せが二になるなら、夏ちゃんがいてそれが四になる。少し未来に生まれてきてくれる、秋君か秋ちゃんかまだ分からないけど、その子がいてくれるなら幸せは八に大きくなってくれるに違いない。

 小さな大切な命を新たに迎える事に、心配なんて無かった。

「お兄ちゃんお姉ちゃんになった友達から話を聞こうよ」

「じゃあ私は他のお母さん達に話を聞く。お母さん、ちゃんとお姉ちゃんになるからね」

「僕もね」

 だって、立派に育ってくれた最強の二人がいるから。

 



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