お前、あたしの番になれ! (沖縄の苦い野菜)
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第一話 狩人と少女

サラーサの性格とかに触発されて、好きに書いてみようと思った所存。
どうか、お楽しみいただければ幸い


 血糊化粧が宙を彩る。重力に逆らうように跳ねた赤色は、綺麗な放物線を描いて大地に散った。遅れて、鈍い音と共に獣の首が大地に叩きつけられる。

 獣の首。それは既に絶命しているにもかかわらず、生きているかのような錯覚に陥るほどの力強さがあった。子どもが見れば、これが生首だとわかっても泣き出すだろう。突然目の前に現れれば、大人であっても大半は失禁を免れない。ともすれば、心的外傷後ストレス障害を伴ってもおかしくない。今にも動き出しそうなほどの覇気をまとった、生首。

 そう、生首だ。既に獣は死んでいる。その顔は、死んだことを理解していない。それどころか、自分が狩る側であることを信じて疑っていない。反応するよりも先に、絶命していた。

 

「安らかに眠れ」

 

 そんな獣の首に向けて、手を合わせる男が居た。身の丈六尺弱の偉丈夫のヒューマンだ。筋骨隆々とした体つきから、角があれば少し背の低いドラフにも見える。髭は生えていないが、彫りの深い顔立ちだ。そんな彼が姿勢を正して礼を取れば、さぞ高名な修行僧に見えないこともない。

 

 祈り終えた男は、すぐ傍に刺していた身の丈程ある異様な戦斧を担いだ。刃渡りが二尺ほどの肉切り包丁に似た刃の部分が、特に目立っている。よくよく目を凝らせば、刃には濁った赤の波紋が怪しくはしっている。持ち手が刃に比べて細いことが、その戦斧を余計に悪目立ちさせている。

 そんな戦斧を軽々と担いだ男にとって、狼よりも一回り大きい魔獣の亡骸を掴むことは造作もなかった。後ろ足を持って逆さにすることで、血抜きがてら本日の晩飯を住処に運ぶ。

 

 ぬかるんだ獣道を進む。鍛えられた体幹に、ヒドラの頭蓋骨さえ踏み砕くその足は、雪道であっても平然と進めるだけの力強さがある。衣服が泥に汚れることなど、端から頭の中にはない。大胆に、前へ。

 方向感覚を見失うような数多の木々に囲まれながらも、男の歩みに迷いはない。立ち止まるどころか、周囲を見回すことすらせず、ただ真っ直ぐ歩き続ける。そんな男の軌跡を、首の無い獣の血が残している。

 

 森の中であるにもかかわらず、静寂に包まれていた。近くで獣が吠えることもなければ、鳥が羽ばたく音さえ聞こえない。世界に一人、ぽつんと取り残されてしまったかのような、不気味な光景。

 しばらくは、そんな静寂が続いたが。しかし、時間が経つごとに、彼に近づく音がひとつ。最初は小さな空気の震えだったが、それは次第に大地を震えさせるほど大きくなっていく。地響きが背後から迫る中、しかし男は何事もないかのように平然と、歩くだけだ。

 

「獲物なら、他を当たれ」

 

 息遣いさえ聞こえてくるほど接近されて。ようやく、男はその口を開いた。彼の背後に居るのは、男の体躯を優に超える赤い鱗を持つ七つ首の龍、ヒドラだ。ただの村人であれば、その威容に動くことさえ出来ず食い殺されるだろう。徒党を組んだならず者であれば、罵詈雑言を飛ばしながら撤退するだろう。手練れの傭兵、あるいは騎空士であれば、唐突な遭遇に驚きこそすれども、何とかして殺し切るだろう。

 しかし、男は意に介した様子を一切見せない。ヒドラが口を開けば、瞬く間にその胴体を噛みちぎられるほどの接近を許しても、動じない。

 対して、ヒドラは男の様子を窺うように、接近はすれども攻撃はしない。しかし、その後を執拗には追っている。おこぼれを貰えると思ったのか、それとも油断している隙に食い殺そうと考えているのか、定かではないが。14の瞳は、男のことを凝視している。

 

「明日も、明後日も、雨が降るだろう。今ここで殺したところで、独りでは食い切れぬ」

 

 その言葉の重みを、意味を理解しているのか。ヒドラはその足を止めた。そして、男を視界におさめたまま、静かに、後ずさりをし始める。まるで龍らしからぬ動き。

 男は、相も変わらず前を進むだけだ。ヒドラに目をくれてやったことなど、一度もない。その事実が、二者の関係を明確に表していた。

 

 男とヒドラは、気が付けばお互いに見えぬ位置まで離れていた。そこでようやく、男の耳に慌しい地響きが聞こえてきたが、彼はただ前に進むだけだ。

その地響きが唐突に途絶えたところで、男の気にするところではなかった。

 

 

 

「命に、感謝を」

 

 男の夕餉は、あまりにも大雑把であった。焼いただけの肉が、部位など関係ないとばかりに盛られた木の器がひとつ。米も、パンも、雑穀もない。葉っぱものさえない。ただ、肉だけが全てを占めている。

 別に、男が肉ばかりを好んで食べる偏食家だというわけではない。今日獲れたモノが、たまたまそれしかなかったせいだ。運のよい日であれば、山のように盛られた肉が倍になり、ついでにそれと同じくらいの野菜も用意されていただろう。穀物はどちらにしても無い。

 

 さて、そんな男の食事風景は。何とも豪胆なものであった。肉を切り分ける時に使っていた立派な戦闘用のナイフで突き刺し、それを食う。フォーク、食事用のナイフ、あるいは東で使われる箸。そんなものはない。この戦闘用のナイフもなければ、平然と素手で肉を食していたことだろう。

 

「血となり肉となることに、感謝を」

 

 食事が終われば、男はそう言ってナイフを置き、手を合わせた。祈りを満足するまで捧げる姿は、まさしく求道者のようであったが。男は信仰心というものを欠片ほども持ち合わせていない。命を尊び、自然を謳歌しているだけなのだ。

 

 食事の後は、とかく淡泊なものであった。使ったナイフを住処の近くに通っている川で洗い、手を清め、着ていた服はさっさと脱ぐと水に浸して汚れを落とした。洗った服は大木の枝を折っただけの物干しに引っ掛けて、自分は臭いを落とすために水浴びをした。臭いを消さねば、それを頼りに獣が群れてくるのだ。そのことに煩わしさを覚えてから、男は狩りの前以外で水浴びをするようになった。

 

 水浴びを終えると、男は住処に戻った。住処といっても、大樹の根に出来た空間を活用するだけの宿である。大樹の樹齢のおかげか、偉丈夫な男が座って暮らす分には困らないほどの空間がある。陽が当たらないこともあり、夏は存外に涼しいことが利点の一つだ。冬は身を刺すような寒さに晒されるが、厚着をすれば凌げる程度のものである。

 男の手元に戦斧は無い。あの大きな戦斧は、この大樹の宿の中でとかく邪魔なのだ。外に立てかけている。こんな場所に人間は来ない。よしんば来たとしても、戦斧を持ち上げて持って帰れるほどのバカはなかなかいない。戦斧を盗まれるという心配を、男は微塵もしていない。

 

「明日は、雨か」

 

 空に見える雲と、流れてくる臭い。そして、森で暮らしている経験則が、男の天気予報の根拠だ。ここ数年は、予想が外れた例がない。

 男は雨が好きだ。雨は足音を消してくれる。雨は臭いを流してくれる。雨は獣の視界を奪い、足場を脆くする。狩りをするのに、これ以上うってつけの環境は他にない。

 

 明日の予定を頭の中で描き終えると。

 男は静かに、眠りについた。

 

 

 

「………」

 

 朝一番。男は宿の前で雨に打たれながら、口を閉ざしていた。一文字に結ばれた唇だけではわかりづらいが、その眉はわずかにひそめられている。機嫌はすこぶる悪かった。

 

 なぜなら、戦斧を盗まれていたのだ。

 

 今までの経験から、起こり得たことのない出来事だった。だからこそ、偶然にも獣がもっていっただの、雨がさらっていっただの、という妄想は即座に捨て去った。明らかに、人為による仕業である。

 天気は男の味方をした。ぬかるんだ泥の中を進んでいったのだろう。盗人の足跡は、大地にくっきりと残っている。途中で空や、川、海にでも逃げない限り、追跡はいたって簡単なものだ。そしてこういった痕跡は、川が氾濫して大地が丸ごと流されでもしない限り消えることは無い。

 

 男は悠長に朝餉を食した後に、足跡を追跡するのであった。

 

 

 

 ◆◇◆

 

 

 

「ふんふんふふーん」

 

 雨に濡れて重みをもった鉛灰色の長髪を尻尾のように揺らしながら、龍の牙に見劣らない立派な双角を携えて。ドラフの少女は鼻歌を口ずさみながら歩いていた。

 右手には黄金色の豪奢な斧が、左手には怪しく刃をきらめかせる戦斧を手にしている。どちらも、ドラフ特有の身長の低い彼女には見合わぬ巨大な武器だ。しかし、それを片手で持ちながら気軽に歩いている姿こそ、それらの武器を十全に扱えている証左でもある。

 

 彼女の上機嫌の理由は、新しい武器の発見だ。今までもっていた斧も確かに使い心地は良かったのだが、拾った戦斧には斧とは違った扱いやすさがあった。元から持っていた斧よりも長大なリーチに、広い刃渡りは、ドラフの少女にとって足りないリーチを補ってくれる。華奢な持ち手に見合わぬずっしりとした重みは、命を預けられるだけの安心感をもたらした。

 一度握って、気に入ったから拾った。捨てられていたのはラッキーだ、と少女の機嫌はとかく良かった。住処には昨日狩ったばかりの大量の肉が残っている。

 

 少女は、幸せの絶頂に至っていた。

 

「こんな良い武器を捨てるなんて、ばかな奴も居たもんだな」

 

 戦斧を改めて振るい、感触を確かめてしみじみと、ひとり頷きながら言った。これだけ長大な得物だ。兎を狩ることも、鹿を狩ることも、今までより容易になるだろう。考えれば考えるほど、次の狩りが楽しみになっていく。体から力が湧き上がってたまらない。

 

 そうして、気分良く歩いて。時間が経ったときのことだった。

 

 雨はますます強くなっていき、中型の獣の足音さえ聞こえなくなるほどだ。目の前は雨粒が線となって灰色に染まり、森そのものの臭いが地面から湧きたち、獣の臭いは洗い流される。

 思わぬ幸運に少女は浮かれていた。更にはそんな悪環境だったからこそ、少女は気づかなかった。いつもならば、必ず気を付けていたにもかかわらず、この時ばかりは疎かになった。

 

「そこの少女」

「ん? あたしのこと――ッ?!」

 

 雨の中、声を掛けられて気配を察知して。ようやく、少女は気が付いた。しかし、その時には既に相手の間合いに入っていた。野性の本能から、全神経を逆立たせた。全身が粟立ち、背後を振り返ると同時に思わず、大きく三歩も距離をとった。

 大して動いても居ないのに、少女は肩で息をしていた。視界が悪い中、それでもその存在からは絶対に目を離さない。目を離せば、食い殺されると思った。聴覚を限界まで研ぎ澄ませた。雨の音だけでなく、相手の息遣いまで正確に、耳に伝わってくる。嗅覚は、雨の中で使い物にならないから諦めた。機能する全神経を、目の前の相手に集中させた。

 

「お前っ、なんで、ここに」

 

 息が荒く、とぎれとぎれの言葉。必死に絞り出した少女の言葉に、男は特に近づくわけでもなく、その場で堂々と口を開いた。

 

「その戦斧。それは俺のものだ」

「――ッ!」

 

 心臓が、凍り付いたかのような錯覚に陥った。

 そういえば、と思い出すのは。ねぐらの様な大樹の傍に立てかけてあった、戦斧のことだ。

 

 少女は、現状を素早く理解した。つまり自分は、相手のねぐらにあった大切なモノを盗んで逃げてきたってことに――

 

「ぬ、盗むつもりは、なかったんだ!」

「……そうか。ならば、返してくれないか?」

「そ、そうすれば許して、くれるのか?」

「外に置いたこちらにも、落ち度はある。許そう」

「わ、わかった! ほら、か、返すっ!」

 

 少女は気が動転していた。だから、思わず戦斧を相手のいる方に向けて力いっぱいにぶん投げた。早く返す、近づきたくない、という二つの意識が強すぎて、無意識にそんな行動をとってしまっていた。

 少女の力は、並大抵のものではない。それは片手ずつに斧と戦斧を持っていたことからも明らかだ。そんな彼女が全力で戦斧を投擲すればどうなるか。

 

 戦斧は、目の前の灰色の線を切り裂いて真っ直ぐ、相手に向かっていった。それも、尋常な速度ではない。その威力たるや、並の魔物であれば衝撃だけで吹き飛ぶだろう。直撃すれば、ヒドラであっても即死を免れない。

 

「あっ――」

 

 やってしまった、と思った時には全てが遅かった。賽は投げられた。風の星晶獣の奥義のような威力をもって。どう言い訳を並べ立てたところで、それは戦闘行為に他ならない。

 少女の世界が、モノクロに染まる。雨一粒が明瞭に見え、戦斧はゆっくりと進んでいく。彼女の瞳に映る世界が、引き延ばされていた。一刻も早く逃げようとしても、体は思うように動かない。

 

 この時点で、少女は逃げることが不可能だと悟った。もはや、生死を掛けた、喰うか喰われるかの勝負に持ち込むしかないと、恐怖に震えながら己に喝を入れた。やらなければ、喰われるのはお前だと。自身を、強迫観念で突き動かそうと必死になった。

 

 相手は、泰然自若としていた。不意打ちに動じるわけでもなく、あまりの威力に驚くわけでもなく、ただ当然のように手を前に伸ばしていた。自分に直撃するとわかるや、体を少し捻りながらも手を伸ばした。戦斧が迫る僅かな時間で、しかしその相手は確かに戦斧の直撃を免れ――

 

 ――その手に、勢いの乗った戦斧を掴み取った。

 それは、少女が体勢を立て直すのと、ほぼ同時だった。

 

 少女は、一歩踏み込んだ。このまま反撃の隙を与えることなく、一撃で屠るために。確実に、自分が勝つために、喰われないために。

 

「えっ――?」

 

 少女の引き延ばされた世界は、いつの間にか元に戻っていた。

 目の前に映るのは、戦斧を既に振り抜いた後の相手の姿。遅れて、赤色が自分の目の前に飛び込んで来た。

 

「あぁ――」

 

 終わったのだと悟り、力が抜けた。少女は膝を泥の中に沈める。馬鹿な失敗を連続してした自分は、喰われてしまうのだと、思い知らされた。

 何せ、自分の足元いっぱいを染めるほどの赤色だ。助からないのは、目に見えていた。賽を投げつける相手を、致命的に間違えた。あれは狩人で、自分は獲物なのだと、思い知った。思い知ったところで、喰われれば次もないのに。

 

「――まったく」

 

 元から少女は、目の前の相手にだけは関わらないと、決めていた。ただそこに居るだけで、自分では勝てない狩人なのだと悟っていた。殺したことを気づかせない殺しを目撃した瞬間に、心は折れていた。争うつもり何て初めから無かった。見つかるつもりなんて絶対に無かった。

 

 ――きっと痛くないのも、あたしが気づかない間に喰われているからなんだ。だから、痛くないんだ。

 

 少女は、何よりも怖れていた。目の前の相手、狩人を。

 向かえば、気付かない間に喰われると、本能が知っていた。

 喰われたくないと、ずっと逃げてきた。

 

 あっけない、幕切れだった。

 

「そこの少女」

 

 狩人の呼び掛けに、少女は力のない瞳をそちらに向けた。

 ドラフのようなヒューマンが、戦斧を担いで近づいて来る。

 

「油断をするな。余計な殺生をした」

「……よ、けい?」

 

 よけい、余計といったのか。この狩人は。

 あろうことか、この狩りを余計だと、無駄だと罵ったのか。

 頭が沸騰するような激情に襲われた。目の前が、真っ赤に燃え広がった。

 

 鈍器で頭を殴られたかのような衝撃と共に。

 理性が、吹き飛んだ。

 

「ぶっ潰れろォォォォォォ!!」

 

 殺されていることに気付いていない? もう喰われている?

 体が動くなら、そんなことは知ったことか!

 脱力していた体に、今この時だけは力が沸き起こった。今まで感じたことのないほど、莫大な力を乗せた。過去最高、人生において最大の一撃を、狩人に向けて、振り下ろした。

 

 大地が、はじけ飛んだ。

 ぬかるんでいた泥は衝撃によってことごとく吹き飛び、溜まっていた赤色は空を舞った。空気そのものが破裂したような爆音が、森の中に轟いた。衝撃は大地だけに飽き足らず、周囲に生えていた木々さえも圧し折った。遅れて、露出した大地に亀裂が生じ、割けていく。地割れが、怒りという名の力業によって発生した。

 

 ただの力が、大自然に天変地異のような牙を剥いた。それは少女の矜持、魂の叫びだった。喰う、喰われる。それを越えた先にある、最後の意地だった。

 

 斧伝いに少女の手にもたらされる情報。そして力を可能な限り振り絞ったことによる反動から。少女は――本日二度目となる――膝を着いた。手に持った斧は、もはや杖代わりのようになり、ろくに力など入っていなかった。

 

 狩人は、少女の全力の一撃を、完璧に受け止めていた。

 

「見事な一撃だが。何故、憤怒に身を焦がす?」

「――意地、だッ!」

 

 声を張り上げて、力の限り叫んだ。少女にはもはや、顔を上げる力すら残されていない。今にも倒れ込みそうな体を支えているのは、まさに根性論。意地だった。

 

「そうか。そうか」

 

 狩人の嬉しそうな声が、少女の耳を打つ。力が残っていれば、その顔に拳を叩きつけたものを。少女は、悔しさに歯を食いしばった。

 

「それが、子飼いのペットでなければ、何より」

「……それ?」

「後ろだ。戯け」

 

 ゆっくり、振り返ってみてみれば。

 そこには、首の無い水色の鱗をもつ巨体が、力なく横たわっていた。切断された首からは、とめどなく赤色が流れ出ており、少女が膝を着いている大地にまで、それは伝ってきている。

 

「どら、ごん?」

「敵意に、注意をすることだ」

 

 言葉は少なく、それだけを言うと。狩人は少女を横切った。

 少女は、自分の足元に広がる赤色を見て、ようやく違和感に気が付いた。自分の身体はどこも赤く染まっていないのに、地面だけが赤いのだ。

 

 何よりも、いつまで経っても、死が訪れない。命が、死という名の狩人に喰い殺されていない。

 

「あれ、なんで? あたし、死んでいない、のか?」

「少なくとも、俺は何もしていない」

 

 狩人は、少女に目もくれず、彼女の後ろのドラゴンの亡骸を捌いていた。

 少女の頭の中では、情報が錯綜していた。自分が喰われたという錯覚と、自分が生きているという現実が、交差していた。あまりにも大きな間違いに、頭から煙が出そうなほど考え込んだ。少女の低い唸り声が、雨の中に溶けていく。

 

「とかく、そこの少女」

「うー、もうっ、なんだよ?」

「俺だけでは、これは食い切れぬ」

 

 狩人はドラゴンを指してそう言った。

 少女はそれを、怪訝な目で見た。

 

「明日も食えばいいだろ」

「塩が無い。陽射しもない。冷やせもしない。時が経てば、腐る」

「あー、それはもったいないな」

「だから、食うのを手伝え」

 

 喰う。自分が、喰う。

 

「あたしが、ドラゴンを喰う?」

「そうだと言っている」

 

 喰う側の立場。そこに立たされてようやく、彼女の頭は自分が生きていることを正しく理解した。

 気づかぬ間に喰われたのではなく、最初から喰われていなかったのだと。

 

 現実を正しく認識した途端、ぐぎゅるる! と怪獣の腹の虫の様な爆音が間抜けに、雨の音を押しつぶした。目の前に飯があることに、子どものように目を輝かせた。

 

「お前、いい奴だな!」

「そうなのか?」

「あぁ、あたしが言ってるんだ。間違いない!」

 

 自信満々に、豊満な胸を張って言ってのける少女に、狩人はこれといった反応をみせることは無かったが。

 

 

 

「だから、あたしと番になれ!」

 

 

 

 そんな少女からの言葉には、さしもの狩人も眉をひそめた。眉間の皺を手で伸ばしながら、空を見上げた。あいにくの空模様で、顔に降りかかる冷たい雨が、火照った頭を冷ますのにちょうど良かった。

 

「寝言は寝て言え」

 

 悩んだ末、狩人はそんな言葉を吐き出しながら。

 少女に、ドラゴンの肉の半分を押し付けるのであった。

 

 

 




感想とかいただければ嬉しいなぁ、と思ったり。
リハビリと、息抜きに一筆。モチベ次第で続けていければ幸いです。


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第二話 弱いんだから

 

 水色の鱗をもつ龍の肉は、脂身が少なく鶏肉のように淡泊な味わいだ。氷の魔法を操るせいか、脂はすぐに固まって身体から老廃物として抜けていく。老成した龍であればあるほど、脂はより早く固形化して糞として排出されるものだから、肉としての旨味は未熟な龍であるほど良質なものになる。

 

 今回の水色の鱗の龍の肉は、焼けば食えないほどではなかった。決して当たりとは言い難いが、それでもマシな部類であることを男は知っている。もくもくと、山盛りの肉にナイフを突き立て頬張っていく。

 

「なぁ」

「……なんだ?」

「こいつの肉、美味くないな」

「まだマシな部類だ」

「これでか?」

「これでもな」

「ふーん」

 

 美味くない、とは言っているものの。少女もまた男と同じ肉を食べていた。口直しに脂ののったヒドラの肉を何度も摘まんでいるが、それでも食う量は尋常ではない。食べ始めは同じだったにも関わらず、既に少女は男の倍は食っている。

 

 そんな咀嚼音と、時折交えられる会話を除くと、耳に届くのは外で降り注ぐ雨の音が精々だ。川が氾濫するほど強いというわけではなく、かといって視界をしっかりと確保できるほど弱いわけでもない。

 

 場所は、男の住処であった。男は肉を少女に半分押しつけてすぐさま帰ったのだが。しばらくすると、少女の方から男の住処にやってきた次第である。手土産に、大量の肉を持って。

 男からすれば迷惑以外の何物でもない。しかし、濡れネズミにねった少女と、頑張って運んできた肉の事を考えると、男は渋々ではあるが迎え入れる他になかった。食えなくなってしまっては、もったいないのだ。

 

「お前はどうして、そんなに強いんだ?」

 

 唐突だった。何の脈絡もなく、今日の天気でも訪ねてくるように少女が聞いてきた。

 男は少女に怪訝な目を向けた。

 

「藪から棒に何だ」

「……? やぶから、ぼう?」

「……いきなりどうした、という意味だ」

「へー。難しい言葉知ってんだな」

 

 言いながら、少女は口いっぱいに肉を頬張った。花の咲いた様な笑顔を浮かべている様子から、どの肉を食べているのかは明らかだった。

 しっかりと咀嚼して、飲み下してから。

 

「お前に、勝てる気がしない。最強の筈のあたしが、勝てないって、本気で思った」

「そうか。だが、俺の答えなんぞ、つまらないぞ?」

「それでもいい。強さの理由、教えてくれ!」

 

 真っ直ぐな瞳が、男を見ていた。あまりにも純粋で、簡単に水底まで見えてしまいそうなほど透き通っている。

 男はその瞳を静かに見つめ返した。眦を裂けんばかりに見開いて、重みをもって相対した。それだけで、空気が鉛のように重苦しくなっていく。

 

 少女は、目をそらさなかった。

 ただジッと、男のことを見つめ返した。

 

 男は変わらない少女の眼差しに、目を伏せた。

 そしてぽつり、と水滴一粒零れ落ちるかのように、静かに語り始めた。

 

「死の恐怖を、克服するためだ」

「あっ、それはわかるぞ! あたしも喰われないために、強くなったからな!」

「否、そうではない」

 

 男は少女の言葉を否定した。

 深い、闇の中に居るような、幽鬼の瞳が少女を見た。

 

「克服するのは、己が死の恐怖ではない」

「……?」

 

 どういう意味なのか、少女には全くわからなかった。男の言葉はあまりに言葉足らずだ。それを自覚しているからこそ、続けて口を開いた。

 

「俺が目指すは、刈り取る命がもつ死の恐怖の克服。獲物に、死の恐怖を与えず殺す術」

「それ、って……」

 

 少女の心を圧し折った、男の絶技。獲物を、殺したと悟られず絶命させる一撃。

 気が付けば、死んでいるのではない。死んだことに気付かないのだ。

 だが、その命は確かに絶たれている。

 

 少女は、その話に強さの根幹があると、本能として理解した。

 だから、食べる手を止めて、身を乗り出して聞きに徹する。

 

「死の恐怖は、残酷だ。弱肉強食といえばそれまでだが。しかし、俺は奪った命を糧に、命を繋いでいる」

 

 少女にとっても身近な話だ。聞き手の少女もまた、弱肉強食の森の中で生きてきた。森に育てられてきたという自負があるし、そのおかげで強くなったという矜持がある。自分が最強だといって憚らない豪胆な自信と実力を持っている。

 

「奪った命に対して与えるのが、死の恐怖だ。己が為に奪った命への仕打ちだ。いくら感謝をすれども、祈りを捧げようとも。俺は奪い、果てはその心さえも犯している」

 

 自然に対する感謝。命に対する感謝は、少女にも理解することができる。

 しかし、少女は割り切っていた。死の恐怖なんてものは、弱肉強食の世界では当然のことなのだと受け入れていた。

 

 少女にとって、それに対して悩む男の考えは、まさに青天の霹靂と言わざるを得ない。

 目を見開きながらも、口から言葉に出そうになるのを堪えながら、少女は男の次の言葉を待った。

 

「……考えた。俺はどうすれば、散っていく命に対して、奪った命に対して最高の手向けを呈する……感謝を、贈れるのか」

「それが、喰われる恐怖の克服だっていうのか?」

「然り」

 

 重々しく頷くと、男は口を一文字に結んだ。これ以上語ることは無いと、まるで地蔵にでもなったかのように動かない。

 

 少女は別に、無言のメッセージを読み解いたわけではない。

 それでも、彼女は沈黙していた。

 男の絶技の理由を理解した瞬間に、胸に浸透していく温かさに困惑を覚えたせいだった。今まで恐ろしくて堪らなかった男の強さが、途端に怖くなくなった。腹の奥で空腹とは違った、くすぐったい疼きを覚えた。頭に血が昇っていくが、嫌な感覚ではなかった。

 

 少女は自分の胸に手を当てた。手で分かるほど、体は温かい。ぽかぽかとした陽気の中、草原の真ん中で寝っ転がっているような、そんな感覚。

 普段なら、その温かさに心が満たされている筈だった。しかし、少女は温かさを感じながらも、まるでぽっかりと穴が開いたような、飢餓にも似た物足りなさを覚える。

 

 視線を落としても、自分の軽く握られた手と、豊満な胸が映るだけだ。自分の身体は、どこも欠けていない。

 

 ――足りない。

 

 もしかして、自分の強さを確かめたいと思ってしまったのだろうかと、斧を手に持った自分をイメージした。しかし、手に掛かる重みのイメージは、求めているものとは違っていた。

 

 ――何か足りない。

 

 ふと、少女は男の方に目を向けた。

 俯いて、石にでもなったかのように動かない、ドラフと見間違うほど偉丈夫のヒューマンだ。その姿が、何故だか少女には小さく見えた。好物のエディブルラビットよりも、さらに小さく。

 

 ――そうだ、絶対にそうだ。

 

「お前、弱いんだな」

 

 少女の小さな手が、男の頭の上に、柔らかく置かれた。

 不意のことに、男は瞠目して顔を上げた。

 

「何を」

「……あれ? なんか違うな」

 

 男の頭を横に撫でて、少女は首を傾げた。

 気を取り直して縦に撫でて、またも首を傾げた。

 

 もっともその首を傾げたいのは、男の筈なのだが。

 

「あぁ、そっか」

 

 少女は男の目の前まで近寄ると、その後頭部に手を置き、自らの方へと引き寄せた。

 あまりにも理解の出来ないことの連続に、男はなされるがまま、少女の胸に顔をうずめることになった。

 

「お前、弱いんだから。無理するな」

 

 少女の手は、男の背中と後頭部に添えられていた。

 力などほとんど入っていない、柔らかい手つき。

 宥めるように後頭部を撫でて、背中をさすった。

 

 男は頭の中では混乱の極致に至りながらも、目を閉じてそれを受け入れていた。

 

「お前はいい奴だ。でも、いい奴すぎるから弱いんだ」

 

 言い聞かせるように。

 耳の中に心地よく、少女の声がこだまする。

 

「弱いと、喰われるからな」

 

 ――だから、最強のあたしと。

 少女は純粋無垢な微笑みを浮かべながら。

 

「お前、あたしの番になれ」

 

 水浸しの冷たい服の上に、温かい雫が沁み込んだ

 

「あたしの名前は、サラーサ」

 

 少女、サラーサは男に名を告げた。名を名乗る声は、柔らかいものではなかった。無神経に一切合切を振り払ってしまうほど力強く、自信に満ちた真っ直ぐな名乗りだった。

 

「……俺は、スレイドだ」

 

 男のしゃがれ声が、名乗りと共に吐き出された。

 そんな男、スレイドの名乗りを認めると、サラーサはまた彼の背中をさすった。

 

「よろしくな、スレイド」

 

 どこまでも明るいサラーサの声が、雨音さえも打ち払って、彼の住処の中で響き渡るのであった。

 

 

 

 




多分、サラーサが母性に目覚めたらこんな感じ。
そんな妄想を、形にしてみました。


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第三話 燻りと清流

 

 

 春の森は穏やかな陽気に包まれる。特に何の工夫をせずとも過ごしやすい気温で、心地の良い風が吹き抜ける。風は甘い香りを、華やかな彩りを鼻に訴えかけてくる。森の何処に、何があるのかを教えてくれる。

 特に先日は雨が降ったばかりだ。森は土の匂いに満たされている。そこに差し込むように風が吹いて来れば、嗅覚が比較的鈍いヒューマンでも、わかるものだった。

 

 スレイドは風を頼りに、森の中を進んでいた。彼の鼻が正しければ、目的地は森の中心部になりそうだ。獣の皮で作られた粗い革袋をいくつか腰につけ、愛用の戦斧を担ぎながら歩く威風は、まさに老練された狩人を彷彿とさせるが。目的は、狩りではなかった。

 

 この季節になると、森には多くの花が咲く。毒を持つ物、薬となる物。そして、非常に多くの蜜をもつ物。

 スレイドの狙いは、特に蜜を多く持っている花の採取だ。そこから蜜を採り、森の中でも数少ない甘味として嗜む腹積もりである。特に、この森の花の蜜は雨の日の後に、よく熟成されたものが採れる。良い品質のものを狙うなら、雨が降った三日後が狙い目なのだ。

 

「あれは……」

 

 森を抜けると、拓けた中心部に出た。一面が色とりどりの花が咲いている、自然の花畑。天から差す陽の光も相まって、自然の中にきらめく宝石のように美しい光景が広がっている。

 だが、スレイドが声を出したのは、別の理由だ。

 

 ブンブン、と虫の羽音が少し離れた彼の耳まで届いて来る。花畑には、ビースティンガーの群れが集まっていた。蜜をせっせと集める姿はいっそ愛らしささえあるが、遭遇すれば堪ったものではない。気づかれれば、あの数十匹に及ぶ群れが、劇毒の針をもって殺到してくるのだ。

 そもそも、一部界隈において幻ともいわれているビースティンガーとの遭遇自体、スレイドにとっても数年ぶりの出来事だ。対処方法など、知っているわけがない。

 

 だが、チャンスでもあった。

 ビースティンガーの巣には、人間が花から採取するよりも更に数段上質な蜜が採れるのだ。その品質たるや、フルーツを蜜漬けにすれば自然の宝石と呼ばれるほどの光沢と、一国の重鎮であっても滅多に口にできない最高級の嗜好品となる。ただの蜜であっても、パンケーキにかける最高級のシロップとして活躍する。

 

 ビースティンガーが幻と言われる所以は、ここにある。

 贅沢思考、もっと、を突き詰める人間でさえも、誰もが最高級品と認めるだけの嗜好品。それは当然、自然界の中でも最高級の嗜好品として君臨している。

 端的に言えば、ビースティンガーの巣というものは狙われやすいのだ。人間からもそうだが、何より野生動物が蜜の芳醇な匂いに釣られて群がってくるのである。

 

 ビースティンガーも、決して弱い魔物ではない。毒針の一撃は強力の一言に尽きる上に、群れの総数は優に百に及ぶ。一匹の大きさもヒューマンの頭部ほどであり、大きさに見合った生命力も申し分ない。

 しかし、自然界ではその体の大きさが仇となる。的が大きくなった分、ウルフリーダーには容易に噛み殺され、ミノタウロスには脳天からかち割られ、グリフォンには爪で引き裂かれ、果ては人間にさえも武器をもって容易に殺される。通常の蜂程度のサイズであれば問題にならなかったことが、浮き彫りになっている。

 体が大きい利点は、毒針の大きさと毒の容量が増えたことと、炎にすぐに焼き殺されなくなったことくらいだろう。

 

 だからこそ、ビースティンガーは自然界では非常に数を減らしやすい。的が大きくなって殺されやすくなったこと。そして、巣に溜めた蜜を狙って襲われる日々。魔物一匹、たかが複数人の人間如きに群れは後れを取らないが、それが積み重なれば話が違う。消耗が激しいのだ。加えて、体格が大きくなっていることで、通常の蜂の10分の1の出生率というのも数を減らすことに拍車をかけている。

 

「……しかし、あの数」

 

 ビースティンガーの群れは、何も花畑を占領しているだけではなかった。見上げれば、空に無数とも呼べる数が円を描きながら飛行している。まるで蜜を採っているビースティンガーを守るために哨戒しているような様子だ。それらの個体は下で蜜をとっているビースティンガーよりも毒針が大きく、顎も立派なものだ。総数は、百や二百じゃきかないだろう。

 

「女王種か」

 

 通常のビースティンガーの群れは、これほどまで統率された動きはとらない。女王種直轄の部隊でもなければ、哨戒に適した戦闘蜂まで一緒に出払うことは無い。巣の近くを必ず警護している筈だ。戦闘蜂まで一緒に居るのは、巣が近い証拠か。あるいはよほど重要な補給部隊なのか。

 

 どちらにしても、巣の規模は莫大なものだろう。ただの一区画にこれだけのビースティンガーを派遣しているのだ。巣に所属しているそれは、軽く見積もっても三千。場合によっては、万に届く最大規模の巣になっている可能性もある。

 

「――妙だ」

 

 スレイドはビースティンガーの様子を見て、喉に小骨が刺さったような、言いようのない不信感を抱いた。スレイド自身、ビースティンガーを見るのは数年前になるので、確信を覚えたわけではなかったが。

 

「何故、この森に?」

 

 問題は、そこであった。

 ビースティンガーは本来、スレイドの活動区域である森には生息しない筈の魔物だ。外から蜜を集めに迷い込んだビースティンガーを見る機会が、ごくごく稀にあれども。それさえも、数年に一度のことだ。

 

 あの規模のビースティンガーが遠出をするのは、有り得ない。少なくとも、戦闘蜂を連れてくるなど、ここ十数年の間にスレイドは見たことがない。

 

 観察してしばらくすると、ビースティンガーは蜜を集め終えたのか、戦闘蜂を連れて東に向かっていった。スレイドはそれを見ると、静かにビースティンガーを追跡し始める。

 

「確かめねば」

 

 異変が起き、森に害があるならば――

 

 スレイドは戦斧を持つ手に力を込めながら、羽音の軌跡を踏みしめた。

 

 

 

 ◆◇◆

 

 

 

 それはもはや、虫の豪邸とも呼ぶべき佇まいであった。

 樹齢千年はいくであろう、森の中でも一二を争う大樹を覆いつくすほどの蜂の巣。いや、もはや大樹と一体化していると言えばいいだろうか。その先行きの見えない異様な住処は、ともすればダンジョンの入り口に見えなくもない。大きな入り口であれば、スレイドが少し屈めば入れるほどなのだから。

 

 例え普通の蜂よりも大きいビースティンガーの巣であっても、この規模は尋常ではないのだ。

 

 そんな巣の前には、数多のビースティンガーの残骸が転がっている。巣の目の前の地面を覆いつくすほどの数である。そして、その死骸の手前には多種多様な動物の死骸がゴロゴロと転がっている。兎の群れ、数匹の熊、ウルフリーダー率いる狼の群れ、果ては一匹のグリフォンまで。

 血生臭さも、異臭も、特に鼻につくことはない。そもそも、襲撃者側の骸からは殆ど流血していないのだから。ビースティンガーの残骸の臭いが鼻につくこともない。それ以上に濃い、甘く鼻の奥を通り抜けるような芳醇な蜜の匂いが全てを上塗りしている。

 

「女王種が居るのは、確定か」

 

 巣からひとつの茂みを挟んだ木の影に身をひそめながら、スレイドはビースティンガーの巣を観察していた。戦闘になる場面も何度か観た。ただの魔物とは思えないほどの連携で、最小限の被害をもって敵を殲滅する様は、巣の中にまだ見ぬ軍師を幻視するほど鮮やかだった。ビースティンガーの亡骸よりも巣に近い侵入者の遺骸がないことが、それを何より物語っている。

 

 近くを通りかかった獣が、定期的にビースティンガーの巣を狙って現れるが、空と巣の中から警戒をしている戦闘蜂に殺されていく。比較的弱い魔物であれば、ビースティンガー側は無傷で戦闘を乗り切っているようだ。しかし、熊や集団の魔物に襲われれば、消耗を余儀なくされて死骸が増えていく。

 

「………」

 

 スレイドは隠れることをやめ、茂みの中を歩き始めた。自らの胸中に燻った思いを押しつぶし、瞳を据わらせ戦斧を担ぐ。その背中は燃え尽きたように生気が感じられず、しかしそびえ立つ城壁の如く大きかった。

 

 巣の目の前まで歩けば、空と巣の中から百に近いビースティンガーが彼に向けて殺到した。激しい羽音を鳴らしながらの突撃は、本能によるがむしゃらな突撃ではない。波状攻撃となるように、先陣が失敗しても第二、第三の攻撃を行えるように工夫された陣形を敷いている。普通の魔物、人間であれば確殺に至る戦術。

 

 しかし、スレイドは戦斧を凪ぎ。

 瞬く間に、己に迫るビースティンガーを塵殺してみせた。

 

 波状攻撃をしようとした第二、第三のビースティンガーも例外なく、ただ戦斧を振るい胴体を真っ二つに切り裂いた。ビースティンガーの羽音があまりに大きすぎるために、戦斧を振るう音はまるで響かない。音もなく、塵殺してみせる狩人がそこに居る。

 

「……終わりか?」

 

 迎撃してきたビースティンガーの数が少ないことに、スレイドは訝しそうに眉をひそめた。明らかに花畑で見たビースティンガーよりも数が少ないのだ。あのビースティンガーたちは、一体どこに行ってしまったというのか。

 何より、耳につく音が不気味だった。確かにビースティンガーの羽音が耳に届くにも関わらず、空にも、巣の中にもその姿が見えない。森の中は、あまりに雑然としていて姿を捉えることができない。

 

 これだけ巣に近づかれているにも関わらず、攻撃が失敗したとみるや、まるで観察するように周りに待機する。野性の魔物という枠を、逸脱し過ぎた行動だ。例え女王種がいたとしても、この立ち回りには違和感だけが残る。

 

 しかし、結局やることに変わりはない。

 スレイドは、戦斧を両手で振り上げた。

 

「この森を乱す者共よ」

 

 ――その一切合切、塵殺せむ。

 

 そして、唐竹に一閃。

 音もなく、大地を傷つけるでもなく、振るわれた刃は。

 

 ビースティンガーの巣を、縦から真っ二つに両断してみせた。

 

「ワッ」

 

 巣を切り裂いたことで、蜜の香りが更に濃くなって鼻を刺激する。見てみれば、巣から大地に大量の蜜が溢れ出しているのだ。陽の光を浴びて、本物の黄金にも劣らないきらめきをみせている。

 一瞬、そんな蜜の光景に目を奪われたが。スレイドは自分のすぐ目の前に勢い余って放り出された魔物を、油断なく見下ろした。

 

 それは、人型の魔物であった。まだあどけない少女のような顔立ちに、ポニーテールのように巻かれた蜜に負けず劣らずの黄金色の髪。太ももと胸部の谷間を露出させた銀の甲殻のような鎧に身を包む姿は、背伸びをした姫騎士を連想させるほど微笑ましく可愛いものだが。

 その背中からは、陽の光に当てれば先が透けて見える琥珀色の一対の羽を生やし、臀部からは巨大な果実の様な、警戒色の蜂の尾が付属している。

 

 ビースティンガーの女王種、というには成熟し切っていないように見られる、魔物の少女だ。

 少女は急いで起き上がると、スレイドを見上げて驚愕に身を震わせた。

 

「モ、モクテキ、ナニ?!」

 

 その女王種には、片言ではあるものの言葉を操れるだけの知性があった。しかし、スレイドは別段驚いた様子もなく、相も変わらず据わった瞳でその姿を射抜いた。知性があること自体、ビースティンガーの動き方を見ればわかることだった。

 

「森から往ね」

「デテイケ? デキナイ! モウ、ドコニモイケナイ!」

 

 空気を切り裂かんばかりの悲痛な声音で、少女は叫び散らした。

 それでも、スレイドは己の姿勢を崩すことがない。

 

「それは、適した居場所がわからないからか? それとも、力がないのか?」

「リョウホウ」

「そうか。ならばここで――」

「マ、マテ! アトスコシ、タクワエアレバ、デテイク!」

 

 スレイドが戦斧を構えようとしたところで、慌てて少女が両手で彼の動きを制した。殺されぬように、目尻に波を浮かべて懇願する。

 

「ジョウオウ、モウ、ワタシダケ。ワタシガシネバ、シュゾク、ゼツメツ! タノム、マッテ!」

 

 鉄が軋むような音が響く。

 スレイドが沈黙している間にも、魔物の少女はありとあらゆる言葉で助命を懇願し続けた。それこそ、地に頭をこすりつけることさえして、命を繋げようと感情を曝け出した。

 

 スレイドは一歩、前に踏み出した。

 そして少女の前に立つ――

 

「――忠告しておく」

 

 ――ことなく、その横を通り過ぎ。

 両断された巣から溢れ出した蜜を、粗末な革袋に詰め込んだ。

 

「命惜しくば早々に、この森から往ね」

 

 その声音は、地を這う蛇のように少女に纏わりつき、重くのしかかった。

 

 スレイドは少女に目もくれず、さっさと来た道を引き返していった。

 少女はそんな彼の背中を、その場にへたり込んでただ見送るほかになかった。

 

 

 

 ◆◇◆

 

 

 

「スレイド! 良いもの採ってきたぞ!」

 

 その日の夜のことだった。

 鉛灰色の髪を靡かせながら、スレイドの住処にサラーサが突如やってきた。もとから喜びを隠す気がないのか、満面の笑みを浮かべて、片手には斧を。もう片方の手には人の胴体ほどある大きな壺をこさえている。

 

「その壺。何処から持ってきた?」

「これか? 前に森に散らばっていた荷物を漁った時に手に入れたんだ! いいだろ?」

「そうか」

 

 大方、迷い込んだか近道をしようとして森に入った商人などが、荷台を放棄して逃げようとしたといったところか。一年に数回は、森に荷物が散乱している光景を見ることがあるのだ。

 

 サラーサは壺をスレイドの目の前に置き、その中身がよく見えるように傾けた。

 透き通るような甘い香りが、彼の鼻によく届いた。

 

「ハチミツだぞ! 壊れていた巣から溢れているのを見つけたんだ!」

「……そうか」

「でかかったぞ。大木がまるまる巣になってたんだからな!」

 

 スレイドは壺の中に指をつけて、その蜜を口に含んだ。鼻の奥にまで届く花の香りが肺にまで達し、胸を焼き焦がす様な熱が湧きおこる。

 それを全て飲み下して、スレイドは雫を落とすように呟いた。

 

「うまい」

「そう思うだろ? あたしもハチミツの中だと、これが一番美味いって思うんだよな!」

 

 サラーサは無邪気に、自分が如何にしてこのハチミツを手に入れるに至ったか。どんな苦労があったか。魔物の群れと格闘してその全てを打倒した自分の強さがどれほどのものだったか。語ることが尽きないとばかりに、蜜を肴に朗々と明るい声を上げ続けた。

 

 スレイドは、そんな彼女の言葉に適当に相槌を打つ。聴きに徹して、全てを飲み下して。蜜を口に含むたびに、燃え上がるような熱を腹底に溜めながら。

 

「あっ、それと安心していいぞ」

「……何を?」

「あいつ、殺してないから。殺したら、この蜜もう喰えないからな!」

 

 サラーサの言葉に、スレイドはキョトンと目を零しそうなほど見開いて、間抜けな面を晒した。その面構えときたら、一流の道化師が大笑いするほどに酷いものであった。

 そんな彼にお構いなく、サラーサは続けざまに言った。

 

「今度は一緒に、この蜜を採りに行けたらいいな!」

「……くくっ」

 

 スレイドが腹から震えて、声を上げた。噛み殺したような声を低く上げながら、しかしその顔は雨上がりの空を見上げるように清々しく。

 

「あぁ、そうだな」

 

 サラーサの言葉に頷いて、蜜を一口舐めとった。

 燻った埃を水で押し流すように。華やかな香りは全身に行き届き、口の中には甘い幸せが広がった。

 

 

 




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こんな感じで、少しずつ続けさせていただきます。
どうぞ、よしなに。


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