異世界で友達を作る話 (塩崎廻音)
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序章
序章 前編
薄く油をひいたフライパンを中火で熱し、温まったら弱火に落とす。そこに卵を割り入れて、蓋をせずにじっくり五分くらい火を通す。聞いたところによると蓋をしないのが鮮やかな黄身の色を残すコツらしい。
子供の好物と言ったら定番はカレー、スパゲッティ、ハンバーグと言ったところだろうか。私もご多分に漏れず子供のころからそれらが好きだった。中でも特に目玉焼きを乗せたハンバーグには特別な思い入れがある。と言っても別にドラマチックなエピソードがあるわけではない。ただ、子供の頃に勉強やら習い事やらで大きな成果を上げたときに、母さんがご褒美として作ってくれる料理がそれだったのである。思い出の味と言うやつだ。
砂時計をひっくり返して焼き時間を測る。初めに料理を習った時の癖でもあるけど、私は砂時計のこのアナログな感じが好きだった。落ちた砂がガラスの中で山になっていくのを見ると、こうして一秒一秒が積み重なって未来に進んでいくんだってことが実感できるのだ。その点、キッチンタイマーやなんかで測るのは正確だけど味気ない。
しばらく考え事をしているうちに砂が全部落ちていた。卵を見ると焼き加減はバッチリで、綺麗な橙色の黄身が光り輝いている。カリカリに焼けた目玉焼きの香ばしい香りも漂ってきた。
「――お姉ちゃん、お母さんたちそろそろ着くって。ご飯できた?」
出来上がった目玉焼きをハンバーグに載せ、お皿に付け合わせの温野菜で彩りを加えていると、琴歌がそんなことを言いながらリビングに入ってきた。
琴歌は私と一緒にこのアパートで二人暮らしをしている可愛い妹だ。どのくらい可愛いかと言うと、『姉妹並ぶと似ていますね』、なんてお世辞を言われるたびに心の中で『心にもないことを言うなこんちくしょう』と毒づいてしまうくらい。彼女はまるで流れ星が人の形を取ったかのような幻想的な容姿をしていて、姉妹の欲目を抜きにしても相当な美人である。もちろん私とは似ても似つかない。さしもの私もスッポンを自称するほど女を捨てちゃいないが、流石に星とは並べなかった。
「ん、ちょうど全部できたところ」
「…おお、相変わらずすごくおいしそう。やっぱりコックさんになれるよね、お姉ちゃん」
「そういうんじゃないって前に言ったでしょ。ほら、運んで」
「はあい」
琴歌に頼んで盛り付けた料理をリビングに運んでいく。既にテーブルに並べたサラダとカルパッチョと、今出来上がったハンバーグに鍋で煮込んでいるスープ。うん、上出来だ。お盆に乗せた四人分のハンバーグを琴歌に手渡して、私はスープの盛り付けに移った。
琴歌は久々に母さんたちに会うのが嬉しいのか、上機嫌で鼻歌を歌っている。よく見ると結構めかしこんでいて、家族にと言うよりはまるで彼氏にでも会うつもりなのかという様子だ。
「やけに嬉しそうだね、琴歌」
「うん、嬉しいよ、とっても。お姉ちゃんは違うの?」
「そりゃあ私も嬉しいけど。でもその恰好、恋人にでも会うみたい」
「えぇ?恋人なんていないってば」
「知ってるよ。琴歌は歌が恋人だもんね?まったく勿体ない…」
数年前、こっちの生活に慣れてきたことに油断してちょっと目を離した隙に琴歌は歌手になっていた。公園で歌っていたらスカウトされたらしい。そして、デビューするなりその類まれな歌唱力と容姿であっという間に人気歌手となってしまった。確かに元々歌が大好きだったとはいえ、いきなりのことで父ともども大いに驚いたものである。ちなみに母さんは知っていた。
そんな琴歌は大勢の観客に囲まれてステージで歌うことが楽しくて楽しくて仕方がないらしい。黙っていれば浮世離れしたミステリアスな美女で通るというのに、浮いた話はまるでない。変な男に引っかかるよりはマシとはいえ、折角の青春を仕事に費やしてしまって、お姉ちゃんは心配です。
「何言ってるの。お姉ちゃんだって似たようなものでしょう?」
「私はいいんだよ。そういうの、興味ないし」
「もう、そんなこと言って。今もそんな野暮天な格好しちゃって…」
ちなみに今の私の出で立ちはTシャツとジーンズである。いや、言われるほどひどくないと思うんだけど。
「いいじゃん、動きやすいんだから」
「…はあ、お姉ちゃんはちゃんと結婚できるのかなあ」
「ええ…それは私が琴歌に言いたいんだけど…」
「いいえ。お姉ちゃんのほうが心配です」
「いや、琴歌の方が…」
そんなことを言い合っているうちに可笑しくなって、二人一緒に笑いあう。本当そんなことないはずなのに、今となっては生まれたときから一緒だったみたいに感じる。不思議なものだ。
「あ、お姉ちゃん、それも運ぶよ」
「良いの?じゃあお願い」
差し出されたお盆にスープカップを乗せていく。それを見ている琴歌はさっきまでよりも楽しそうにニコニコと笑みを深める。なんかいいことでもあったのだろうか。
「…どうしたの、楽しそうじゃん」
「楽しいよ。だって、こういうの久しぶりだもん」
「あぁ、なるほど」
琴歌の言いたいことは何となく分かった。実家にいた頃、私と母さんが作ったご飯を運ぶのは専ら琴歌の役目だった。父さんは帰りがいつも遅かったし。でも、最近は二人暮らしになったせいでわざわざ琴歌に出来た料理を運んでもらう必要がなくなっていた。そもそも、今の琴歌は仕事が大忙しで家になかなか帰ってこないのだ。
だから、こうやって私が料理を作って琴歌が運んで、なんていうのは、それこそ実家を出たとき以来の光景だった。
「にへへ、久々に家族一緒って感じ」
「感じというか、そのまんまでしょ」
「そーだね、そーだね。楽し!」
気分が乗ったらしい琴歌はリビングでくるくると周りながら本格的に歌いだす。聞き覚えのないメロディーに『家族でお食事楽しいな』みたいな歌詞。多分、今この場で作った歌だろう。即興の作詞作曲は彼女の得意技だ。
私の大学進学に伴い、私と琴歌はアパートを借りて二人暮らしを始めた。私は私の夢をかなえるために実家から離れた大学に通う必要があったし、琴歌も仕事の都合上いつまでも実家から通うのは大変だったし。実家を離れての二人暮らしは困難も多く…なんて最初は思っていたがあっという間に慣れてしまった。もっとも、琴歌はもともと働いていたし、私も一人で暮らした経験はあるので当然と言えば当然か。
そして、今日は私たちが二人暮らしをして初めて父さんと母さんがこのアパートを訪問する日だった。
「…最近はお姉ちゃん楽器弾かなくなっちゃったからなあ。前は私の歌に合わせて伴奏してくれたのに。つまんないの」
料理もテーブルに並び手持無沙汰になったらしい琴歌は、そうぼやきながらリビングのソファに寝転がり私の方に視線を向けてくる。
「いや、琴歌が見てないだけでちょくちょく弾いてるよ」
「ええ?そうかなあ。…前はそれこそ一日中だって弾いてたのに」
「もうプロを目指すのは辞めたから。そんなに弾く気が無くなったの」
「それは知ってるけど、それはそれとしてまた私の歌と一緒にヴァイオリン弾いてくれたらなって」
「まあ、琴歌も最近は忙しくて離れ離れの時間が多かったもんね。久々に後でやろっか」
「やった!」
そう言って跳ね起きた琴歌は、ソファに座ったままさっきの即興歌を歌って左右にゆらゆら揺れ出した。こうも目に見えてはしゃぐ琴歌を見るのも久々だ。琴歌は家族というものが大好きで、だから久々の家族団欒の機会に舞い上がっているらしい。最近はようやく落ち着いてきたのに珍しくはしゃいでいるのはそのせいだろう。
「…お姉ちゃんが何考えてるのかはその生ぬるい視線で大体わかるけど、お姉ちゃんも大概だからね?最近明らかに浮かれてる風だったし」
「え、ホント?そんなに?」
「そうよそんなによ。今日だって服装は野暮天だけどお化粧はいつもよりずっと気合入れてるし」
「うぐ…これは、その、身だしなみだよ。いつもやってることだから」
「見栄っ張り。大学行くときはもっと適当じゃない。私知ってるのよ」
「……だって母さんに会うし」
「はいはい。お姉ちゃんもお母さん大好きだもんね。素直でよろしい。まあでもそこはお父さんも入れてあげてね。泣いちゃうから」
「気持ちには入ってた」
「減らず口」
そう言って琴歌が笑う。内心の浮かれぶりが筒抜けだったと分かって顔が熱いけど、楽しみにしていたのは確かだ。母さんとは色々あったから複雑な気持ちではあるんだけど、でもやっぱり私たち姉妹は母さんのことが大好きなのだ。父さん?ほら、まあ、うん。
琴歌はこれでけっこう寂しがり屋だ。それは琴歌の過去がそうさせているのかもしれない。ずっと一人ぼっちで歌う事しかできなかった琴歌は、家族と離れ離れになることを嫌がる。友人からのお誘いであってもお泊りは全て断っていたし、歌のお仕事で帰りが遅くなることはあっても家に戻らない日は無かった。
それにもかかわらず、二人暮らしを始める時、琴歌は特に反対もせずにすぐ着いてきてくれた。確かに琴歌自身も実家から通い続けるのに限界は感じていたとは思う。けど、それでも、ただでさえ仕事が忙しくなって家にいられる時間が少なくなっていた琴歌は、口には出さずとも引っ越してから寂しい思いはしていたんだろうとは思う。私も、その、ちょっとね。だから分かる。
「…ねえ、琴歌」
「ん?なあに、お姉ちゃん?」
「その、私、あなたとこうして一緒に居られて嬉しいよ」
「もう、どうしたのいきなり。いつもはそんなこと言わないのに」
「……なんとなくだよ、なんとなく!」
「ふふ、なにそれ」
可笑しそうに琴歌が笑う。なんだこのやろう。せっかく頑張って口に出したのに。恥ずかしかったのに。いつもは歌うことしか頭にありませんみたいな感じで子供っぽい癖に、ときどきそうやってお姉さんぶった顔するのがズルいんだ。
ニコニコと笑う琴歌を睨みつけていると、にっこりと笑いかけられて思わず逃げるように視線を逸らしてしまう。昔から彼女のこの笑顔には弱かった。横目で琴歌の表情を盗み見ていると、琴歌は少し目を細めてこう言った。
「でも、そうだね。私もお姉ちゃんと一緒にいられて幸せ」
「…毎日おいしいご飯も作ってあげてるし?」
「なるほどそれもあるわね」
もう一度二人笑い合う。この正直者め。まあ、私としても作った料理をおいしく食べてもらうのは嬉しいわけだけど。そのためにわざわざこうして一人じゃなく二人で暮らしているようなものなんだし。
うん、そうだね。やっぱり琴歌と一緒が一番だ。
そうこうしているうちに玄関のチャイムが鳴る。母さんたちだ。琴歌がバッと立ち上がり目を輝かせて玄関に向かってピョンピョンと走る。さっきまでのお姉さんぶった雰囲気が嘘のようなはしゃぎっぷりだ。お子様。
「転ばないでね」
「だいじょおぶ…っとあぁ!」
「…だから言ったのに」
まったく、そそっかしいやつめ。
「たぁすぅけぇてぇ…」
「はいはい。手、貸して?」
廊下で転びそうになって変な体勢でもがく琴歌を助け起こして、二人一緒に玄関へ向かう。また転ばないように手は握ったままで。さっきのドタバタが聞こえていないといいんだけど、でも、察しのいい母さんのことだから気付いてるかも?やだもう恥ずかしい。
「さ、琴歌。ドアを開けたら一緒にお出迎えしよ?」
「はあい。了解です」
琴歌にそう声をかけ、母さんたちが待つ玄関の扉を開ける。爽やかな春の風が吹き込み、私たちの髪をたなびかせた。本日は快晴、雲一つなし。麗らかな陽光の中に母さんと父さんが佇んでいる。
こんにちは。
お元気ですか。
そんな気持ちを込めて、私と琴歌から、あなたへ。
「「ようこそ、いらっしゃい」」
***
例の噂のこと聞いた?
そうそう、『願いの星』の噂。最近街に変な女の人がいて、色んな人の願い事を聞いて回ってるって。それで、願いを叶えたいって人に『願いの星』っていうタイトルの絵本を渡すってやつ。聞いたんだけど、こないだ恵美もその女の人に会ったんだって。全体的に真っ白で目深にフードをかぶってて、「叶えたい願いはありますか」、だって。宗教かよって話じゃん。まあ恵美は特に願い事とかなかったから絵本は貰わなかったらしいけど。
え?私?いやあ、私もいざ叶えたい願いは、って聞かれたら出てこないんじゃないかなあ。部活とかも真面目にやってないし、勉強とかどうでもいいし、そこまで欲しいものもないし。あ、ミグーンのライブのチケットとか?ま、冗談だけど。
何あんた、そんな怪しい人に頼んでまで叶えたいことでもあるの?あ、ひょっとしていつも声かけてるあの子のこと?やめときなって。絶対ロクなことにならないって。噂話に聞くだけでも怪しい女みたいだし。そもそもそういうのって、自分で叶えようとしない奴にバチが当たるのが相場なんだから。
いやまあ、そりゃおとぎ話とかの話だけど。でも、この噂もおとぎ話か都市伝説みたいなもんじゃない。
…ねえ、私は止めたからね。
***
時々、母さんは死んだ方がいいんじゃないかと思う時がある。
***
「あ、あの、提橋さん!この後博物館に行く予定なんだけど、良かったら提橋さんも一緒に…」
「ごめんなさい。早く帰って楽器を練習するように母に言われているので」
「…はい」
いつも通りの放課後、朝霧さんの誘いに定型文のお断りを返す。朝霧さんは、『しょんぼり』という言葉のお手本みたいな顔をしてとぼとぼと廊下へ消えていった。心なしか彼女のチャームポイントでもある長いツインテールが力なく垂れ下がっているみたいに見える。小柄で童顔な朝霧さんを落ち込ませるのはなんだか子供をいじめているような気分になるのだが、かといって彼女の誘いを受けるわけにもいかなかった。
彼女からお誘いを受けるのはこれが初めてではない。むしろ、僕なんかの何を気に入ったのかほとんど毎日のように誘われていると言ってもいい。全体に小ぶりな彼女の雰囲気も相まって、小動物か何かに懐かれたような気分だ。だけど、僕が彼女の誘いに乗ったことは一度もない。いつもの断り文句は口実ではなく、実際にお母さんからそう言われているのだ。
――現実を見なさい、真琴。お友達と遊んで今一時楽しくても、後になってきっと真面目に練習しておけばよかったと後悔するから。
小学生の頃、クラスメイトと遊びに出かけて帰るのが遅くなった時にお母さんが言った言葉だ。その時の僕は今ほど聞き分けが良くなかったので反発して部屋に閉じこもったりした。お気に入りのひよこのマグカップと共にお菓子とジュースを持ち込んで、徹底抗戦の構えで。
だけど、お母さんの言う事は正しかった。
それを早くも痛感したのはその次の週のコンクールだった。いつもだったら何でもないようなメロディーでミスを連発して、僕はレッスンの先生にも確実だと言われていた受賞を逃した。
それは、お母さんと先生の指導のおかげでメキメキと上達して少しばかり天狗になっていた僕にとっては天地がひっくり返るほどの衝撃だった。その日の夜、打ちひしがれる僕にお母さんは『楽器の練習は一日怠ければ三日分後退するものだ』と言った。クラスメイトと一日遊んで、その後も部屋に籠って楽器に触れなかった僕は、一体どのくらい他の子と差をつけられただろうか。これじゃあ兎を笑えない。プロになんてなれっこない。それをたった一日で思い知った。
それ以来、僕はお母さんの言葉に逆らわなくなった。
お母さんは正しい。お母さんの言う事は聞くべきだ。逆らってはいけない。朝霧さんを悲しませるのは不本意だけど、これは仕方がないことなんだ。
『友達より優先するなんて、そんなに母さんのことが大切なんだね』
後ろから聞こえたその声を無視して席を立つ。僕は出来るだけ早く帰ってヴァイオリンの練習をしなくてはならない。だから、この嫌な女に構っている暇はない。
僕の通っている高校は最寄駅から大体二十分くらいの場所にある。入学したての頃は裏道を使って最短距離で駅に向かうことができたのだが、半年くらい前に近くで変質者が出没するという報告があり裏道を使うのは禁止された。表通りを使うとちょっと遠回りなので乗る電車が一本遅くなり、帰るのが遅くなると練習時間が減ってしまい、練習時間が減るとお母さんの機嫌が悪くなる。そして僕は怒られる。まったく、趣味のために人に迷惑をかけるのはやめて欲しい。
街中を一人進んでいくと、数人の学生がワイワイと楽しそうにしながら道沿いのファミレスに入っていくのが見えた。たぶん同学年の男子生徒が五、六人くらい。学校帰りに寄り道だなんて僕はついぞ経験したことがないことだ。だから彼らの様子はこうやって傍から見ている分には楽しそうに見えるが、それが実際どのくらい楽しいのかは良く分からなかった。
しばらくじっと、ファミレスの中へ消えていく学生たちを僕は立ち止まって眺める。同じ高校に通っているはずなのに、その瞬間僕と彼らは全く違う世界に存在していた。
『ふふ、羨ましいんだ』
ショーウィンドウのガラスに映った『僕』が、教室の時と同じように僕を嘲笑う。嫌な女。
中学に入ったあたりから、僕は鏡の中の『僕』と会話できるようになっていた。もちろん僕以外に『僕』の声は聞こえない。始めは空耳か何かだと思っていたけど、何度も話しかけられるうちに気のせいではなかったことに気付いた。もっとも、会話できるといっても和やかに談笑したりなんて夢のまた夢で、大抵はこうやって僕を苛立たせるようなことばかり言うのだけど。
一度、この女についてお母さんに相談しようと思ったこともある。だけど、『鏡の中の自分が話しかけてくる』なんて母さんに言ったところで、ふざけたことを言って練習を怠けようとしているだなんて思われるのが関の山だ。お父さんはほとんど家にいない。
結局、『僕』のことは無視するのが一番だという結論に至った。この女につける
さておき、『僕』を無視して僕は再び駅に向かって歩き始めた。この道には店が多くて僕が映り込むガラスには事欠かないから、『僕』はますます楽しそうな表情で『あ、無視するんだ』だの『それって図星ってことだよね』だの言い募ってくる。
だけどお生憎様。彼らの様子を見ていたのは純粋に何が楽しいのだろうかと気になった、ただそれだけ。『僕』を無視するのは単にこの女が嫌いなのと人前で幻覚であるこいつに反応すると外聞が悪すぎるからである。前に一度それをやって、『ねえママあの人…』『こらっ!人を指差してはいけません!』なんて漫画の中のやり取りを体験する羽目になったのは忘れない。絶対に。
『…自分に嘘を吐きすぎると心が歪むよ。ま、今もよっぽどだけど』
信号待ちをする僕に、自販機に映りこんだ『僕』がそんなことを言った。また嫌味かと反射的に『僕』を睨みつけたが、珍しいことにあの不愉快なニヤニヤ笑いがない。忠告のつもりなのだろうか。ただ、言っている内容はイマイチ理解できなかった。
「嘘ってなに」
『……』
思わず聞き返した僕であったが、これまた珍しく『僕』からの返答はなかった。ただ自販機のボタンがチカチカと自己主張するだけ。いつもなら、僕がちょっと言い返せば待ってましたと言わんばかりにその数倍くらいの言葉をたたきつけてくるというのに。
何となく『僕』の言葉が気になって、僕はさっき学生たちが入っていったファミレスの方を振り返った。彼らはもう全員中に入ってしまったので、ここからは彼らの様子は伺えない。かと言って、もう一度道を戻ってファミレスの中を覗いてみる気にはなれない。
『僕』は自分に嘘をついていると言った。だったら僕は、本当はどう思っているのだろうか。何を感じたのだろうか。だけど、自問自答してもその答えは杳として分からない。もしかして僕は、彼らと同じように友達と楽しく過ごしたいとでも思っているのだろうか。
「――叶えたい願いはありますか?」
不意に掛けられたその声に、ドキリと心臓が跳ね上がる。
その白い女性は幽鬼のように前触れもなく僕の目の前に現れた。全身白一色の丈の長いガウンに目深に被ったフード。よく見ると袖や裾やらが金糸の刺繍で縁どられており、飾り気のない服でありながらどこか高貴な印象も受ける。問題なのは今はハロウィンではないということか。
彼女は見るからに異質な出で立ちであったが、周囲を歩く誰も彼女を気に留める様子はない。『僕』が増えたのかとも思った。今までに『僕』が増えた経験はないが、元々どうして現れたのかも分からないやつだ、前触れもなく増えたって不思議はない。だけど、目の前の女性は明らかに『僕』――幻覚とは思えない強い存在感を放っていた。
「あなた、誰?」
思わず、そう問いかけた。僕の問いかけにその女性がじっと僕を見つめる。瞬間、僕は周りの音が妙に遠くなったような錯覚を覚えた。いや、音だけではない。目に見える風景も、それなりの多い通行人も、すぐそこにあるはずの交差点や自販機までもが遠ざかり、周囲から僕とその女性だけが孤立して違う世界に落ちた。
現実とは思えない異常な状況に本能が警鐘を鳴らす。心臓の鼓動が煩いほどに大きく感じる。今すぐ彼女に背を向けて逃げ出したい。なのに、フードの奥から見える彼女の瞳に射すくめられ、僕は動くどころか呼吸すらままならなかった。
ああ、僕はこのまま取って食われてしまうのだろうか。そんな僕の内心とは裏腹に、彼女は朗らかな笑顔で微笑んだ。
「あ、ごめんなさい。怖がらせちゃったかな?」
まるで縁側に寝転ぶ家猫のような気楽な口調で、その白い女性はそう返答した。そしてその瞬間、今まで彼女から感じていた強い存在感が嘘のように消え去り、急速に周囲の音と景色が蘇る。僕の意識は、再びあの交差点の傍に戻っていた。
そこで僕はようやく呼吸することを思い出し、荒い息をつきながら周囲を見渡した。歩行者信号がチカチカと点滅し、機械音声のアナウンスがのんびり屋な歩行者を急き立てる。紅潮した頬を撫でる涼しい風が街路樹を揺らし、名前も知らない小鳥たちがチイチイと楽しそうに囀っている。元の世界に戻った。それに安堵した僕は、もう一度深くため息をついた。
「ごめんなさいね。こっちには私の気配にこれだけ当てられちゃう人って滅多にいないから、ちょっと油断しちゃった」
そう言って、その女性はぺこりと頭を下げる。さっきまでの威圧感はなくなって、なんだか第一印象よりずっと気さくな感じだ。最初はそれこそ怪獣か何かに睨まれた気分だったのに、今は従妹のお姉さんと話しているような気分になっている。
――…いや、逆に怖い。
するりと心の内に潜り込まれたような気味の悪さを覚える。家族写真に知らない人が映っているみたいな。他人なのに他人に思えないのだ。やっぱりこの人は普通じゃない。というか多分、人ですらない。
「…あなた、一体何者なんですか?」
「あ、えっと、それは…今はまだ名乗るのもちょっと…」
ごにょごにょとそう言った彼女は何かを悩むように明後日の方向を向いて頬を掻き、ややあって何かを思いついたような表情でこう名乗った。
「そうだ、そう、私のことはミーティアって呼んで欲しいかな」
…聞いたのは名前じゃなかったんだけどな。
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序章 後編
「僕は提橋真琴です」
ミーティアさんに合わせて僕も名乗り返す。本当は彼女の正体と言うか、どういう存在であるのかを聞きたかった。天使とかその辺?でも、彼女の様子からしてそれを教えるつもりはないみたいだ。名前だって明らかに今考えた偽名だし。とは言え、何処にあるかも分からない逆鱗に触れるのも怖いのでもう彼女の正体には言及しないことにした。
「…えっと、僕に何か御用なんでしょうか。願い事がどうとかって」
代わりと言う訳ではないが、気になるのは彼女の目的だ。彼女は叶えたい願いがあるかと聞いてきた。僕の願いなど聞いて何をしようと言うのか。まさか、彼女はサンタクロースのお使いでクリスマスに向けてアンケートを取っている、なんてことはないだろう。赤くないし。
「え?あ、そうそう。それを聞きに来たんだった。私、人が願い事を叶えるお手伝いをしてるの。趣味と言うか、生き甲斐と言うか…真琴ちゃんは叶えたい願い事って、ある?」
「趣味、ですか?」
「うん、趣味。願いを聞いて、それが叶うところを見るの」
そう言って、ミーティアさんはにへらと笑った。顔がだらしなく緩んで今までの不思議で神秘的な雰囲気とかが台無しになる。分かった、この人変人だ。そんな僕の内心は露知らず、何かを思い出すような噛み締めるような表情で、ミーティアさんは言葉を続けた。
「人が自分の願いを叶える瞬間って、素敵だと思うの。キラキラ輝いてて、熱っぽくて。ふへへ、なんだか私まで興奮しちゃう」
「…えっと、ちょっとよく分かりません」
「でねでね、願いが叶う瞬間を堪能するには、やっぱりその願いに挑戦して少しずつ達成に近いづいていくところを見たいじゃない?叶うところだけ見たって、推理小説の解決編だけ見てるようなものだし。あ、今の子ってあんまり推理小説なんて読まないかしら」
「え、あ、いえ、僕はたまに図書館で…」
「それでね、願いの成就に私自身が関わっちゃうのはちょっとはしたないけど、お手伝いくらいはしようかなって。せっかくいいもの見せてもらう訳だし。まあ、お礼って訳でもないんだけど」
「あの…」
「ほら、お手伝いさせてもらえば、自分もその願いを一緒に夢見たような気分に浸れるじゃない?あっは、まるで何度も願いを叶えるみたい!なんて素敵!」
「…あはは」
目を爛々と輝かせて自らの思いを語るミーティアさんに思わず苦笑いが出る。堰を切ったようにとはこのことか。僕のことなどお構いなしに捲し立てる様はもはや自然災害の如し。
でも、それほどまでに何かに熱中できるということには羨望を覚えざるをえなかった。僕にはそんな、我を忘れて没頭できるようなものなんて…
「ね、真琴ちゃん。君の願い事って、何かな」
「ぅえ?」
突然の問いかけに、思わず変な声が出た。ミーティアさんはそんな僕を見て微笑ましそうにクスリと微笑む。この人、僕を完全に無視して一人で語っていたと思ったら、油断したところで急に水を向けてきやがった。くそう、恥ずかしい。
火照る頬を押さえて抗議の視線を送るが、ミーティアさんはニコニコとしてまるで意に介さない。あれだ、多分こういうタイプには勝てないやつ。素直に話してしまうのが一番だろう。
「…そうですね、僕はヴァイオリンのプロの演奏家を目指してます」
「なるほど」
ミーティアさんの反応は意外にも淡白だった。さっきまでの願い事へのこだわりから考えると、僕が夢を語った瞬間に大はしゃぎするんじゃないかと内心身構えていたのだが。それとも、ミーティアさんにとってみれば僕の夢は平凡すぎて取り立てて騒ぐようなものでもないという事なのか。
ミーティアさんがじっと僕の瞳をのぞき込む。ローブの奥に見えるタンザナイトの瞳に思わず身構えてしまう。何だかその視線が心の奥底まで見通しているようにすら感じた。
「うん、それは君の願いじゃないね」
「…え?」
その言葉にガツンと頭を殴られた。呆然とした僕の頬をひんやりとした風が撫で上げる。ミーティアさんが口にしたのは僕にとって予想外の一言で、でもその言葉は驚くほどすんなりと僕の心に突き刺さった。
「あれ、私なんか変なこと言ったかな?ん?あれ?」
そんな僕の様子を見て、ミーティアさんはワタワタと慌てだした。僕の反応が相当に予想外だったみたいだ。そして、宿題が鞄に入っていなかった小学生みたいな混乱ぶりで、虚空をバシバシと叩いて何かを確認しだした。
「…いやでも、その願いはやっぱり君のじゃないよ。願いセンサーにも反応がないし。それにほら、これも」
そう言って、ミーティアさんは何処からか一冊の絵本を取り出した。タイトルは『願いの星』。表紙には、夜空に輝く大きな星と、それを見上げる人々の絵が描かれている。
「この絵本、願いの星はね、人の願いを叶えるサポートアイテムなんだ」
「サポートアイテム」
「そ。と言っても、本当にお手伝いだけだけどね。持ち主が願いを叶えやすいように場を整えたり、妨げになるものを少しだけ退けたり」
ミーティアさんは手に持った絵本を僕の方に向かってグッと差し出した。
「この絵本に何も感じないでしょ?強い願いがあるとこの願いの星に強く心惹かれるようになるの。何と言っても頼りになるお手伝いさんだから」
じっ、と差し出された絵本を見つめる。確かにミーティアさんの言う通り、どんなに見つめてもその絵本に対して特別な感情は何も浮かんでこなかった。
「…はい。特に変な感じはしないです」
「ん、だよね。むう…本当は真琴ちゃんにこれを渡すために来たんだけど、明確な願いがない子に渡すと危ないからなあ…」
そう言って、ミーティアさんは再び虚空をいじりだした。さっき言っていた願いセンサーというやつだろうか。僕からはまったく見えないが、時々何かツマミのようなものをぐりぐりと回したりボタンを押したりしているので見えない機械がそこにあるんだと思う。あ、また叩いてる。
その時、僕は何処からか女の人の歌声が聞こえてくることに気づいた。とても素敵な、心惹かれる歌声。それは、あの絵本、願いの星から聞こえてくるようだった。
「あの、ミーティアさん…」
「――あれえ?さっきは願い強度がギリギリとは言え閾値を超えたはずなんだけど、今は全然だ。おかしいなあ。旧式とは言え実績のあるセンサーを持ってきたはずなんだけど…」
「…その絵本から、何かの歌が聞こえるんですけど」
「やっぱりマニュアルを読んだだけ……って、え、なに?この本から?」
「はい」
僕の言葉にミーティアさんは目を見開き、「ちょっと待ってて」と言うと再び見えない装置をいじりだした。そしてその合間にも、絵本から聞こえる歌声は徐々に大きくなっていく。まるで、声の届かない相手に何度も呼びかけているかのように。
「…むう、確かに、ほんのちょっとだけどこの願いの星と真琴ちゃんの間に縁が結ばれてる」
「縁、ですか?」
「うん。この絵本は持ち主と縁を結んで、その縁を頼りに願いを読み取るの。歌が聞こえるのはその繋がりのおかげだね」
「…それ、なんかちょっと怖いです」
「いやいや、大丈夫だよ。縁の繋がりと言っても感覚的なものだし。自分の願いを一生懸命に聞いてくれて、しかもそれのお手伝いをしてくれる人って親しみを覚えるでしょ?そんな感じ。ほら、触ってみて」
そう言って差し出された絵本の表紙に軽く手を触れる。不思議な絵本だ。表紙の輝く星は小さく瞬いているようだし、それを見上げる人たちは懸命に何かを祈っているように見える。心を込めて描いた絵には魂が宿るともいうが、本当にそこに何かが息づいているようだった。表紙の絵をそっと撫でる。とくんとくんと、何かの鼓動が伝わってくるような気がした。
「ね。なにか繋がりがあるのが分かるでしょ?」
「…はい、なんとなく」
「うむ。…それにしても、どうして真琴ちゃんとの間に繋がりができたんだろ。この縁結びは願いのお手伝いをするための機能なんだけど…真琴ちゃん、本当に自分の願いに心当たりはないの?」
ミーティアさんの問いに僕は頷く。
――自分に嘘を吐きすぎると心が歪むよ。
その時ふと、先ほどの『僕』の言葉が脳裏をよぎった。ひょっとして、僕はあるはずの自分の願い事を無いものと思い込んでいるのだろうか。そんなの無いよ、と自分自身に嘘を吐いて。分からない。自分の心の底なんて、どうやって見ればいいの?
「うぬぬ…いつもは願い事がある子にはその助けになるようにってこれを渡してるんだけど、願い事が無いなら渡さないほうがいいのかなあ。半端に変な欲求を拾って悪さしちゃうとマズいし…」
「…あの」
僕はそんな風に悩むミーティアさんに断りの言葉を伝えようとした。自覚していない願い事のためにサポートアイテムを貰ってもどうしようもない。何としても夢を叶えたい、本当に必要としている人に渡すべきだ。
だけど、ちょうど決心したその瞬間に、自販機に映った『僕』が口を開いた。
『母さんから離れたい』
ミーティアさんが視線を『僕』へと向けた。
僕はひどく驚いた。だって、今まで『僕』の声を聞くことができるのは僕だけだった。家でも、学校でも、街中でも。何度も『僕』は話しかけてきたが、一度としてその声に反応した人はいなかった。ただ一人、僕を除いて。だから僕は、『僕』が幻覚か何かだと思っていた。でも、ミーティアさんは間違いなく『僕』の声が聞こえている。
「…なるほど、そっちか」
「ミーティアさん、そこにいる『僕』の声が聞こえているんですか?」
「ん?ああ、そうだね。私ちょっと器用だから、そっちの真琴ちゃんみたいな特別な子のことも分かるんだ」
「器用」
はたしてそれは器用さがどうのと言う問題なのだろうか。
「でもそっか。今の真琴ちゃんはちょっと複雑なんだね」
ミーティアさんは何かに納得したように一つ頷くと、手に持っていた絵本、『願いの星』を僕の方へと差し出した。
「これ、受け取って。きっと真琴ちゃんの助けになるから」
「…いいんですか?さっきの話だと、僕が持っていたらダメなようでしたが」
「ん、良いの良いの、それは私の勘違いだから。ほら、きっと役に立つよ?」
ミーティアさんはグイグイと絵本を僕に押し付ける。何だか押し売りを受けているような気分だ。けど、この絵本のことがとても気になるのは確かだし、多分ミーティアさんにも悪意はないはず。勧められるがままに、僕はその絵本を受け取った。そんな僕を見てミーティアさんは満足そうに頷く。
「よしよし。その願いの星が、きっと君の助けになるよ」
もう一度、僕はその絵本、『願いの星』に視線を向けた。僕の願いを手助けしてくれる不思議な絵本。今はもう歌声は聞こえない。僕に声が届いたから、声を張り上げる必要がなくなったのだろう。
「君の願い事、叶うと良いね。見守ってるから」
視線の端からそんな言葉が聞こえる。慌ててミーティアさんの方に視線を戻すが、そこにはもう誰もいなかった。最初に現れたときのように忽然と、ミーティアさんは虚空に消え去った。
「…白昼夢?」
思わずそう呟くが、手の中の『願いの星』はそれが現実であったことを主張している。やっぱりミーティアさん、人じゃないんだろうな。
「…って、違う!電車!」
そこで僕は、自分が家へと帰る途中で会ったことを思い出す。慌てて時間を確認すると、いつもより数分遅れている。泡沫の夢のように実は一瞬の出来事でした、みたいなのを期待したのだが、現実は無情だった。
歩行者信号が青に変わるのと同時に駅に向かって走る。この電車に乗り遅れれば、次が来るのはおよそ二十分後だ。電車に乗り遅れて練習時間をロスしたなんて、五分やそこらでもお母さんの機嫌が悪くなるというのに!
ミーティアさんとの不思議なひと時の余韻も忘れて、僕は懸命にひた走った。でも僕は極度のインドア派なので走っても徒歩とあまり変わらなかったりする。多分これ間に合わない。ああ、ミーティアさん、願い事ができました。今すぐ駅まで僕を届けてください。どこへ行ったかも知れないミーティアさんに、僕はそんなことを願った。
もちろん電車には乗り遅れた。ちくしょう。
***
――よくお聞き。
祖母のその言葉を甘く見ていた自分の愚かさを今さらながら痛感する。考えてみれば、俺はいつもそうだった。他人の忠告にろくろく耳を貸さず、後になって言われた通りだと気付く。後悔先に立たずとはよく言ったものだ。内心歯噛みするが、もはや成す術はない。
その歌を聞いた瞬間から、俺は完全にその少女の虜になっていた。
満天の星空の下、少女が楽し気に歌う。白い肌は月明かりにうっすら光るようで、透き通った空色の髪は冷たい潮風に吹かれて紗のようにたなびく。その星屑を拾い集めたような瞳に見つめられた瞬間、俺の心臓は大きく高鳴った。
いっそ非現実的なほどに美しい少女。
人間ではない。一目でそれを理解した。
だから、今すぐ逃げ出すべきだ。
冷静にそう判断した思考とは裏腹に、俺の心はその少女を求めてやまなかった。
いや、心だけでなく体までもが。
いつの間にか、俺は自分の足がその少女に向かっていることに気付いた。
――これが
すぐにそのことを理解するがどうしようもない。既に、俺は身も心も目の前の魔性の少女に支配されていた。
フラフラとした足取りで近づいていく俺の姿を見て、少女は笑みを深める。そのあどけない童女のような笑顔に、俺の心臓はますます早鐘を打つ。
どうしようもなく、魅せられている。
その事実に俺は恐怖していた。
だけど俺の足は止まらない。
いつの間にか少女の歌は終わっていたが、もうそれがなくても関係ない。ほどなくして俺の体は少女の目の前へと差し出された。浜辺の大岩に座ったその少女を俺は見上げる。少女はそんな俺の顔を見つめ返して、そっと俺の両頬に手を差し伸べた。
ひんやりとした両手に包まれ、頬が熱くなるのを感じる。
愛しの少女に触れられる喜びと
「…ねえ、
少女が俺の瞳を覗き込みながらそう言った。冗談じゃない。
逆光の中でなお輝く星の瞳が俺の心と体を縛り付けていた。
操り人形のように唯々諾々と、俺は少女の言葉に頷いた。同時に、意識がぼんやりと霞んでいくのを感じた。ああ、これで俺は完全にこの少女の人形になるんだ。消えゆく意識の中でそれを理解する。
そして、ぱあっと花が咲いたような少女の笑顔に看取られて、俺の意識は闇の底へと沈んでいった。
***
ミーティアさんから貰った『願いの星』という絵本は、表紙から抱いた印象とは違ってなかなか恐ろしい内容だった。人間を惑わす悪魔の少女に何人もの村人が操られ、残った村人が星に願ってその悪魔を封印するというもの。絵本であるため詳細な説明こそ書かれていないものの、簡潔に要点を抑えた描写は村人たちの恐怖を見事に描いていた。
なるほどこれは大した絵本である。直接的な描写があるわけでもないのに僕の心は大きく揺り動かされた。表紙を見たときから思っていたが、この絵本の作者は相当に精魂を籠めて描いたに違いない。
ただ、一つだけ大きな問題があった。
「この絵本が僕の何の助けになるの?」
誰にともなく、ベッドの中で僕はそう独り言ちる。
ミーティアさんからこの本を受け取ったとき、彼女はこの本が僕の助けになると言っていた。あの時の話の流れからして、それは僕の願いを叶える助けになるという事なのだろう。
だけど、僕はそもそも僕自身の願いが何であるかすら未だに理解していない。少なくとも彼女が言うには演奏家になることではないらしい。でも、その他に思い当たるものは全くない。そんな状態で、この『願いの星』はどんな手助けをしてくれるのだろうか?
それに、『僕』の言った言葉も気になった。
「『母さんから離れたい』。どういう意味なんだろう」
あの時、『僕』は確かにそう言った。お母さんから離れる。もちろん物理的な意味ではなく精神的な意味だろう。言ってしまえば親離れしたいという事?まあ確かに、以前から『僕』はお母さんのことが気に入らないとでも言うような言葉を口にすることがあった。
ただ、だからと言って『僕』がそれを願う意味は分からなかった。そもそも、元から『僕』はお母さんに認識されていないのだから、わざわざ離れたいなんて願うまでもない。
「…ねえ、何が言いたかったの?」
姿見に映った自分に向けてそう問いかける。正直なところ返答は期待していなかった。僕から話しかけることは滅多になかったけど、そういう時に限って『僕』は僕をきっぱり無視してきた。
だけど、今日はそうじゃなかった。
『自分で考えて』
たった一言、いつもとは違う素っ気ない態度で、しかし『僕』はそう言葉を返してきた。
「考えても分からないから聞いてるんだけど」
『…自分で気付かないと意味がないんだよ』
「何を…」
そう言いかけたところで、暗闇の中から僕を射貫く視線に気付いた。僕が思っている以上に、『僕』はあの願いに意味を籠めている。それは分かったが、あの願いが意味することはやっぱり分からなかった。
だって、お母さんから離れることでなにか得があるとは思えないんだ。金銭的に世話をされているとか、家事をやってもらっているとかだけじゃない。家でヴァイオリンの指導をしてもらうのも、コンクールを探して手配してくれるのも、オーケストラのコンサートに連れて行ってくれるのだって。私生活のあらゆる部分で、僕はお母さんお世話になりっぱなしだ。
だから、わざわざお母さんから離れてまで『僕』が何をしたいというのか。僕には全く理解できない。
「やっぱり、考えても分からないよ」
『…そう』
そう言ってそれきり、『僕』は黙り込んでしまった。何で分からないのと、詰ることもなく、嘲るわけでもなく。その期待を裏切られたかのような声色に、僕はもう一度『僕』に話しかけようとした。
「…ねえ」
「――真琴、夜更かしは明日の練習に響くからそろそろ寝なさい」
「はい、もう寝ます!」
部屋の扉越しに話しかけてきたお母さんに慌ててそう返す。お母さんは僕が夜更かしをして次の日に疲れを残してしまうことが心配らしい。こうして、毎晩僕がちゃんと寝ているかを確認してくる。そんなことしなくったって、僕に夜更かしをする理由なんて無いんだけど。
絵本を本棚の一番下にしまってベッドに潜り込む。寝る前にもう一度だけ姿見に視線を向けるが、やっぱり『僕』は何も言わなかった。
***
「あ、あの、提橋さん!今日は公園で散歩でもしようかと思ってるんだけど、良かったら一緒にどうかな?」
「ごめんなさい、早く帰って楽器を…」
次の日の放課後、いつものように朝霧さんからお誘いを受けた。
公園と言うのは学校から歩いて二十分くらいの場所にあるコンサートホールに隣接したやつのことだ。ちょうど近場にあってそこそこ広いので、うちの高校の学生たちが時々その公園に集まって遊ぶらしい。らしい、と言うのはもちろん僕が行くのは専らホールの方で公園には行ったことがないからだが。
なんてことはない日常の一コマ。早く帰ってヴァイオリンの練習をしなければならない僕は、いつものようにお断りしようと思った。
だけど、そこで突然ミーティアさんの言葉が頭に思い浮かんだ。
――それは君の願いじゃないね
昨日のミーティアさんと『僕』の言葉は、僕の心に大きな爪痕を残していた。一体、僕の願いとは何なのだろう。僕は本当は何をしたいんだろう。その疑問が頭の中を駆け巡り、心を掻き毟り、正常な思考を妨げる。溺れた人が藁を掴むように、僕は目の前の少女が口にした『願い』に縋り付いた。
「…あの、朝霧さんは、どうして公園に行きたいと思ったんですか?」
「え?」
気が付けば、そんな質問が僕の口から飛び出していた。朝霧さんも、いつものように断られるだけだと予想していたのだろうか。僕の言葉を聞いて、呆気にとられたかのような表情になった。
「わ…」
「わ?」
「私の名前、提橋さん覚えててくれたんだ!」
ぐいと眼前に迫り僕の両手を握った朝霧さんは、瞳を潤ませてそんなことを言ってきた。近い。それに、ちょっと荒くなった吐息が頬に当たってなんともこそばゆい。しかし失敬な、いくら人付き合いが極度に少ない僕とは言え、最低限の礼儀くらいは弁えています。
「それはまあ、いつも話しかけてくるクラスメイトの名前くらいは覚えてますよ」
「…クラスメイト…それに敬語」
ふらりと一瞬後ろに傾いた朝霧さんは魂が抜けたような表情で何かを呟く。声が小さくて全く聞こえない。何を言ったのかと聞き返そうとしたのだが、そこで何かを決心したような表情の朝霧さんがぐわと顔を近づけてきたので驚いて聞きそびれてしまった。
何だか握られた手が熱い。多分、窓から差し込む光が強くなったせいだ。
「い、いえ、それはいいの!それよりもしかして、提橋さんも公園に行く気になったとか?!」
そしてこれである。散歩と聞いた仔犬のような剣幕に押されて、何と返したらいいのか分からなくなってしまった。どうにも僕がお誘いを受けたと誤解しているらしいので、それをまず訂正しなければならないのだが。
「えっとね、今の時期は特に桜が、とか紅葉が、とかは無いんだけどね。でも、風が気持ちいいからきっと提橋さんも気に入ると思うの!」
キラキラと輝く目で朝霧さんはそう語る。いや困った。まるでサンタさんにプレゼントを願うような表情でそう言われては、誤解だと訂正するのが心苦しいくて仕方ない。
「朝霧さん、その…」
「それで、もしよければ途中でお菓子とか買っていって、公園のベンチで一緒に食べない?」
「あ…」
それでも何とか断りの文句を口に出そうとしていた僕だったが、朝霧さんのその提案に一瞬思考を奪われた。帰り道でお菓子を買って友達と一緒に公園に行く。昨日見た男子生徒たちの姿が脳裏に浮かぶ。寄り道。それはどんな感覚なのだろうか。
「朝霧さん、お聞きしたいことが…」
「うん、なになに?なんでも聞いて!」
「…友達と寄り道するのって、そんなに楽しいんですか?」
「うん?」
僕の言葉を聞いた朝霧さんはきょとんとした顔になった。僕自身も変なことを聞いている自覚はある。多分、小学生だってこんなことは聞かない。
でもだって、本当に分からないんだ。
「…えっと、もしかして寄り道とかしたことない?」
「はい。いつも楽器を練習するために出来る限り早く帰宅しているので」
「なるほど。提橋さん、やっぱり真面目なんだ。…ちょっと待ってね」
朝霧さんはわざとらしく腕を組んで目を瞑りうむむと唸った。寄り道の楽しさをどう説明しようか考えているのだろうか。先生から急に当てられた小学生みたいだ、とは口に出さないでおく。
「その、言葉にするのが難しければ無理をすることは…」
「待って、大丈夫。せっかく初めて提橋さんが頼ってくれたんだもん。頑張らせて!」
「あ、う、うん…」
目を爛々と輝かせて力強くそう言った朝霧さんに僕は気圧された。脳裏に昨日のミーティアさんとの会話が蘇る。『願い事』に対する強い想いを語るミーティアさんに、僕は成す術もなく押し流された。僕には、あれほどまでに熱中できるものはないから。そして、目の前で一生懸命に考え込む朝霧さんも同じだ。
どうして彼女は、そんなに強く生きることができるんだろう。
「…うう、ごめん、やっぱり口で説明するのは難しいかも。…あ、でも、やっぱりこういうのって自分で体験してみるのが一番だから!」
「自分で…?」
「そうそう。ほら、楽器の練習も今日くらいはお休みして、一緒に公園に行ってみない?今日は晴れてるから、きっとすっごく気持ちいいよ」
朝霧さんが差し出した手を、僕はただ呆然と見つめた。
朝霧さんと、友達と、一緒に公園に行く。こういうのもピクニックと言うのだろうか。やったことは一度もないけど。ただ、一度もしたことがないのに、きっと楽しいのだろうなと僕は何故だか心のどこかで確信していた。
「…僕なんかが、一緒に行っていいんですか?」
「もう!『なんか』じゃないよ、私は提橋さんと一緒に行きたいの」
もう一度、朝霧さんの顔を見る。その輝かんばかりの笑顔が、春の陽光のように僕の心を照らしているような気がした。僕は誘われるようにおずおずと手を伸ばして…
――後になってきっと後悔するから。
手が止まる。母さんのあの言葉が、僕の心を零下に落とし込んだ。スッと朝霧さんの笑顔が遠く離れていくような錯覚を覚える。雨雲が窓の外で拡がっていく。さっきまで僕たちを照らしていた太陽は、分厚い雨雲に隠れてもう見えなかった。
「ごめんなさい、やっぱり早く帰って練習しないと」
「……そっか。無理に誘っちゃったみたいで、ごめんね?」
そう言って、朝霧さんは寂しそうに笑った。その顔に罪悪感を覚えたけど、僕はもう自分自身を自由に動かせないでいた。僕はそれ以上何も言わずに、朝霧さんに背を向けて教室を後にした。朝霧さんとしばらく話し込んでしまったので、帰りの電車の時間が危うい。二日連続で帰るのが遅れてしまっては、お母さんがなんて言うか分からない。早く帰らないと。
『…どうしてそうなるんだよ、この臆病者』
窓に映った僕が、涙を流しているような気がした。でもきっと気のせいだ。雨が窓に当たって、そう錯覚しただけだろう。本格的に降り始める前に、早く家に帰らなくてはいけない。
***
『本当、呆れた。友達にあんな顔させて楽しいの?』
帰宅後、着替えのために部屋に戻った僕は姿見の中の『僕』から冷ややかな言葉を浴びせられた。ただ、言葉こそ辛辣なものの、『僕』の表情は僕を責め立てているというより哀れんでいるように見える。
「…仕方ないでしょ。練習のために寄り道する時間がないのは、本当なんだから」
『いい加減、自分に嘘を吐くのはやめなさい。本当に戻れなくなるから』
「嘘ってなんだよ…」
迂遠に僕を責めるその言葉に、思わず苛立ちが漏れ出る。昨日も似たようなことを言われたが、『僕』が何を伝えたいのか全く理解できない。これなら、いつものようにニヤニヤ笑いで馬鹿にされた方がずっとマシ。目隠しのまま言葉だけで道案内をされているようで、行先の分からない不安と苛立ちが止まらない。
「何が不満なのかはっきり言えよ。治しようがない」
『…昨日も言ったけど、自分で気付かなきゃ意味がないんだよ』
「なにそれ。母親にでもなったつもり?そんなこと言われたって、分からないものは分からないんだよ!」
『……』
僕と『僕』は姿見越しに睨み合った。そのまましばらく、沈黙の時が流れる。やがて、『僕』は観念したように長くため息をつくと、渋々と言った風に口を開いた。
『…朝霧さんの誘いを断ったのは、なんで?』
「練習しないといけないから。分かってるでしょ?」
『じゃあ、なんで練習しないといけないの?』
「プロの演奏家になるために必要だから。ねえ、なにが言いたいの」
分かり切った質問を繰り返す『僕』の意図が読めず、僕の苛立ちが徐々に増していく。煙に巻こうとしているのかと、僕は『僕』を睨みつける。だが、次の言葉で僕は冷や水を浴びせられた。
『…じゃあさ』
『なんであなたはプロの演奏家になりたいの?』
「なんでって…」
分からない。言葉が出ない。答えに窮した僕は、唇をかんで俯いた。なんでプロの演奏家になりたいのか。僕は物心ついたころからお母さんにヴァイオリンを教えてもらって、やがて自然と演奏家を目指すようになっていた。どんなきっかけでその夢を持ったのかなんて覚えていない。
部屋に沈黙が流れる。やがて、僕は絞り出すように、思い浮かんだ一つの可能性を答えた。
「…それは、その、プロの演奏家に憧れたから」
『嘘。だったら、その憧れの演奏家の名前は挙げられるの?』
「……」
答えられない。世界がぐるぐると回って、何処までも落ちていくような心地がする。吐きそうだ。涙で視界がぼやけてきた。
『ちゃんと自分で考えて。あなたが何を望んでいるのか。本当は練習なんかサボって、朝霧さんと遊びたかったんじゃないの?』
「…そんなの、分からないよ…だってそうしないとお母さんが後悔するって」
『また母さん…!自分の言葉で言えないの?!』
姿見の中で『僕』が憤慨の声をあげる。何がそんなに『僕』の気に入らないか、僕には分からない。なんで?お母さんの言う通りにするのが、いつも一番うまくいくはずなのに。それさえ守っていれば幸せになれるはずなのに。なんで僕が間違っているみたいなことを言うの?
暗闇の中で迷子になったような気持ちになって、僕はすがるように『僕』を見つめた。だけど、『僕』は突き放すように大きくため息をついて頭を振った。分かっていたことだけど、『僕』は手を差し伸べない。
『…処置無し。本当はもう少し様子を見るつもりだったけど、仕方ない』
諦観と苛立ちの混じった声に僕の肩が跳ねる。まるで死刑宣告でも受けたような暗澹たる気分だ。僕を見据える『僕』の視線が、僕の心臓をギュッと握りつぶす。
『本棚の絵本を取って。昨日ミーティアさんから貰ったやつ』
「…うん」
命じられるがままに、僕は本棚に近づいて『願いの星』を取り出そうとした。
「――真琴!着替えだけにいつまでかかってるの、早くしなさい!」
なかなか部屋から出てこない僕に焦れたお母さんが催促にやってきたのは丁度そのタイミングだった。お母さんの言う通りに早く着替えて練習に向かわなくてはならない。思わず本棚に背を向けた。
だけど、本棚を離れようとした僕に、『僕』が強く呼びかけた。見えない手が僕の両肩を押さえるような、力強い意志を込めた言葉だった。
『…提橋真琴。今すぐ絵本を手に取りなさい。母さんに従わないで』
「時間が勿体ないわ。すぐに練習を始めなさい!」
相反する二つの呼びかけに、僕は混乱する。どうしよう、どうすれば良いの、なにが正しいの?その時、なぜだか僕は姿見に映った『僕』の瞳に目を向けた。
僕に何かを願うような、儚く期待するようなその瞳。
それを見た瞬間、僕は思わず本棚に向かった。そして、一番下の段に仕舞った『願いの星』を取り出し『僕』の目の前に突き付ける。
差し出された『願いの星』を見て、『僕』が安堵したように息を吐く。そして、何かに祈るように胸の前で手を組んで、その願いを口にした。
『提橋真琴が■■■■に申し上げる。『僕』の願いは『母さんから離れる』こと。その願いを叶えるため、助力を希う』
瞬間。
白い光が僕の体を包み込み、世界を真っ白に染め上げる。お母さんが扉越しに叫ぶ声ももう聞こえない。ただ、僕の魂だけがふわふわと白い光の中で漂っていた。
そして、僕はいつかのどこかへと飛ばされていった。
***
「…お、真琴ちゃん、願いの星を使ったんだね」
そう呟いて、視線を空に向ける。昨日出会った小柄な女の子、真琴ちゃんはなかなかに複雑な事情を抱えているようだった。願いはあるようだったが、それを真琴ちゃん本人が正しく理解できていない。もう一人の『真琴ちゃん』はもうちょっと自分のことを理解しているようだったけど。いずれにしても願いをそのまま押し殺してしまう恐れはあったので、ちゃんと願ってくれて一安心だ。
「やっぱり、願いはちゃんと叶えないとつまらないもんね」
人の願いが叶うところを見たい、というのは自分の趣味である。だが、それを抜きにしても願いというのは挑み叶えるべきものだというのが私の個人的見解だった。少なくとも、挑んでは欲しい。だから、その助けになるように『願いの星』を配っているのだ。
「君の願い、叶うと良いね」
空の向こう、遥か遠くに向かったらしい真琴ちゃんに向かって小さくエールを送った。
「…さて!次は誰の願い事を聞こうかな!」
念入りに調整を加えた願いセンサーに目を向け、強い願い事を持った人間を探す。昨日までは調整不足で上手く対象者を見つけられなかったが、今日はちゃんと願いを持った人の居場所がセンサーに現れている。
「って、近い近い。すぐそこだ」
センサーの指す方向に目を向けると、真琴ちゃんより小柄な女の子がトボトボと歩いているのが見えた。チャームポイントはその長いツインテールだろうか。ただ、なにか落ち込むようなことがあったらしく、ツインテールも力なく垂れ下がっているようだった。いかにも悩み事があります、と言った様子だ。
うむ、これは話を聞かなければなるまい。そう決心して、その小さな女の子の元へと駆け寄った。
「ねえ、そこの君。ツインテールが可愛いあなた。そうそう、キミキミ」
訝しむようなその子の視線を無視して、いつものように決め台詞を言い放つ。
ねえ、君が何を望み願うのか、教えてくれるかな?
「叶えたい願いはありますか?」
***
母さんが自分の夢に囚われるようになったのは、僕がヴァイオリンを初めてすぐのことだった。僕自身はもう覚えていないけど、母さんも最初からここまで演奏家になるという夢に固執していたわけではなかったらしい。父さんに聞いたところによると、大学の時点で夢をあきらめた母さんは、それなりに自分の人生に折り合いを付けていたんだとか。
母さんがおかしくなったのは、僕にヴァイオリンの才能があることに気付いた時だった。
自分では届かなかったプロの演奏家になり得るだけの才能を持つ我が子。しかも、自分の時は妨げになった両親の無理解も今度はあり得ない。だって、自分がその母親なのだから。
そんなことを母さんが考えたのかどうかは分からない。ただ、自分の教えを余すことなく吸収し、演奏家としてぐんぐんと成長する僕を見るうちに、母さんは心の奥底に埋めた自分の夢を再び掘り起こしてしまったらしい。
母さんの教えは徐々に厳しくなっていき、やがて僕は母さんが大学時代の伝手を使って探したレッスン教室に通うようになった。プロの演奏家を目標とした厳しい教室だ。そこまでなら娘に高等な音楽教育を施す教育ママで済んだのかもしれない。だけど、僕が成長するにつれて母さんの願望は狂気的なまでに肥大化していった。
友達よりもヴァイオリンの練習を優先すべきと娘に言い放ち、僅かな練習時間の損失にも苛立ちを感じる。父さんが必死に取り成さなければ、学校に通う時間すらも無駄と言い張って僕を家に縛り付けていたかもしれない。
今となっては、母さんの夢はもはや妄執とでも言うべきところまで歪んでしまった。
時々、母さんはいっそ死んだ方がマシなんじゃないかと思う時がある。だって、妄執にとらわれて常に苛立ち苦しむ人生は辛いものでしかないはずだから。母さんにとって、演奏家になるという夢はもはや自分自身を苦しめる枷でしかないんじゃないかと思う。
だけど、そう思ったところで僕が具体的に何かできるわけでもない。小学生の時のあの一件以来僕は母さんの言う事に依存しきっているし、まして母さんの妄執をどうにかするなんて。だから、苦しそうに日々を送る母さんを横目に、僕も母さんの夢に囚われもがき続ける日々が続いていった。
ミーティアさんに出会ったのはそんなある日のことだった。
風のように自由に己の憧れを語る彼女は、僕に叶えたい夢はないかと聞いた。残念ながら僕には思い当たるものはなかったみたいだけど、『僕』には抑圧された僕の願いが分かる。
だから『僕』はミーティアさんにこう願った。
『母さんから離れたい』
そして、母さんを、僕を、あの夢への妄執から解放したい。
その末に『僕』が消えるのであれば、それは本望だ。
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