卑密の太陽 (渡邉 実一)
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#00

 誰か、俺の肉体から魂を取り除いてくれないかなぁ!

 そういうことを、固くて冷たい布団の中で考えていた。神様が、なにかのはずみで手違いを冒したんじゃないかと思ったから。

 そんな気持ちを抱きながら眠りに落ちたところ、

 

「……これ。この感じ。夢の中でも意識があるってやつか?」

 

 目の前には迷宮が広がっている。桃色の霧に包まれていた。

 目を凝らしてみると、ひどく角ばった造りだ。ああ、こういうの、見たことあるぞ。行ったことはないけど。遊園地、とかいうやつにあるんだろう? こういうのが。

 どんなに先でも手に取るようにわかるような、わからないような。そういう感覚が襲っている。

 とにかくだ。歩みを進めてみよう。

 妙な感覚だった。自分の頭で行く先を選んでいるはずなのに、そうではないような気がしてくる。まっすぐ行って、右に曲がって、次は左で、次も左で……。

 

「!」

 

 歩き回っているうち、女を見つけた。

 ……裸で、仰向けに倒れている。数多くの傷痕がある……と思う。ふとここで、心臓に何かが詰まったような感じがして、胸を押さえる。

 そのまま、ずっと眺めていたが、やがて、『触れたい』と思うようになった。

 ……手を触れる。

 

「あ……」

 

 触れる度に、崩れ落ちていく身体。

 

「思い出した。お前は、お前の名前は、ゆか――」

 

 口に出すことができない。そうしようとするほどに、その肉体は段々と消えていく。

 『やめてくれ!』と願ったけど、無駄だった。すっかりと、女は迷宮に溶けて――消えた。

 ……ナニカに心をとらえられ、夢中へと放り込まれてしまう。

 不思議なことに思えるかもしれないが、それは、大人だって子どもだっておんなじことだろう? 共通してるのは、なぜそんなに夢中になってしまったのか、理由を説明できないことだ。

 俺は今、あの女に夢中になってしまったが、どうしてそうなったのか、夢中になっていた俺でさえわからない。

 しいて言うなら、『俺もあの子とひとつになって消えたい』みたいな、変態的願望くらいなら願っていたかもしれない。

 いろいろと考えながら歩いていると……曲がり角に入った直後だった。男に出会う。薄汚れた格好をしている? ような気がする。よくわからない。

 おーい、と呼ばれた気がした。手を挙げて、こちらに挨拶をしてきたから。そいつは、段々とこっちに近付いて来る――どういうわけだろう、俺の肉体は、そいつとハイタッチを交わしていた。

 血に塗れた手。思わず、のけぞった。

 

『逃げろ! 早く』

 

 身体が動かない。捕らえられてしまう。

 そいつは、俺の肩に手を回してくる。

 

「やめろ……動け、早く動け……」

 

 ようやく動いた身体。そのまま、ずっと、ずっと前に進んでいった。

 やがて、そいつは密着を諦める。すると、俺の肉体は何メートルか前方まで走り込んだ。

 

「どうだ……?」

 

 諦めてなどいない。男の影は、一気にこちらへと。俺に抱きつく。

 ――拳を振り抜いた。すると、影は、もの悲しい泣き声とともに消えていく。

 また、歩き出す。が、完全に消えてしまう前に、俺は振り返って、そいつを見た。

 鉄格子にでもしがみ付いているように、こちらの方に手を延ばしていた。何者かに引き裂かれたかのように、引きつった笑顔を浮かべている。

 俺には、そいつが「なぜ?」と思っているようにも見えたし、「なら、それでいい」と感じているようにも見えた。

 

「……」

 

 また、前に進みはじめる。

 ……もう、どれぐらい歩いただろうか。五分? いや、十分? わからない。でも、ひと段落ついたことは確かだ。だって、目の前には新しい影が立っているから。

 黒い背広姿の男だった。細身に見える。でも、顔は見えない。

 こちらへと、ゆっくり歩いてくる。手をのばす。真っ黒な手を。ゆっくり、ゆっくりと。

 

「誰だ?」

 

 と、内心思ってはいたものの、身を任せてしまう。これは、なんという気分なのだろう?

 男の手が、俺の心臓へと置かれる。

 

「……あ」

 

 その、真っ黒な手を眺めているうちに、この見知らぬ男への思慕が目覚めていた。

 はるか彼方から、潮流が押し寄せてくる。かすかな波が、足元に触れたと思ったら――唐突に、高々と舞い上がったそれは、皮膚という皮膚を水浸しにして、俺の背丈をはるかに越えて、瞬く間、強大な波へと変化し、あらゆるものを呑み込んで、さらってしまう。

 女の名前を忘れた。意識は男の手へと移りゆく。

 

『これは……撫でている? 俺の心臓を。どうして? いや、そんなことはどうでもいい。これから、これから俺は、』

 

 まさか、と思った瞬間だった。その手が、俺の皮膚を突き破って、心臓を掴もうとしている!

 このままじゃ、だめだ! でも、なにもできない。冷や汗が流れる。

 なんだ? なんなんだ、この感じ。あ、いま、こいつの手が、俺の心臓に、触れた――




完結済みです。ライトノベル1.5~2巻分。
金・土・日に1部分ずつ投稿します。1話が4部分以上ある場合は、月曜日以降にまたがります。


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#01 誰にも届かない鼓動(1)

 誠実な方じゃないと思う。

 自分勝手で、天邪鬼で、気が短くて、そのせいで苦しんでばかりいる。

 だから昨晩、あんなに頭のおかしい夢を見ることになったんだ。

 あぁ、一体、今日という日をどんな気分で過ごすことになるんだろうか。恐ろしい。

 

「……やめた」

 

 寝床から上体を起こすと室内を眺めた。めまいに襲われる。

 

「飯食えばなんとかなるだろ」

 

 寝巻きのままで、歩き出す。畳の上が暖かいような、冷たいような。

 襖の梁の上に学ランがかけてある。ヨレヨレになっている。ロクに手入れをしていないから。

 

(わたる)。今日、早いね」

「まあな」

 

 背後を振り返ると、栞が布団に入っていた。いつもの、二度目の就寝というやつ。

 

「朝ごはん作ってあるから」

「ありがと」

 

 ぶっきらぼうな返事……だったと思う。

 襖を開けて、廊下に出た。さすがに足元が冷たい。

 トイレと、洗面所と、いま目覚めたばかりの寝室。この狭い家を回って身支度を整える。

 最後に辿り着いたのは、居間だった。

 襖戸が開いていく時の乾いた摩擦音を聞きながら、座卓の上を眺める。

 

「……お、いいじゃん」

 

 卓の真ん中に置いてある皿には卵焼きとウインナー、少しばかり端の方には、すまし汁の入った鍋が置いてある。

 畳の上にある炊飯器が目に入る。傍には俺の弁当が。

 

「……」

 

 卵焼きとウインナーを一切れ摘んで、胃に放り込んだ。朝飯は、ほとんど食べない。いつものことだ。

 時刻は、午前七時三〇分。履き潰されたスニーカーとともに家を出る。いつものことだ。

 玄関を出た直後、大きな杉の木ごしに隣家を見る。誰も居ないことを確かめてから、なんの舗装もされていない通学路へと飛び出す――いつものことだ。

 

 *  *  *

 

 霧雨が降っている。

 お天道さまが雲の切れ端に横たわっている。いわゆる、キツネの嫁入りというやつ。

 ……細かいシャワーの粒みたいな水滴が、俺の前髪をしとどに濡らす。手首から先にかけての湿った感じ。学ランの袖についた水分をシャッシャッと払い飛ばす。

 空を見上げると、太陽が雲の切れ端から飛び出して、いよいよ彼方の青空へと羽ばたこうとしているみたいだった。実際には、雲が動いているだけなんだけど。

 雨なんて気にならない。むしろ俺を濡らして欲しい。傘は面倒だし。

 

「ちょっと早すぎたな」

 

 小高い丘を降りていく。坂の下には国府第三中学校が見える。薄汚れたベージュ色の校舎。

 雨と晴れとの境界線を見やりつつ、真後ろを振り返る。

 やっぱり、来ていない。

 ……校舎の西側にある校門を通り抜け、下駄箱にスニーカーを放り込んで、すぐ傍にある階段を二段飛ばしで駆け上がり、渡り廊下を突っ走り、右手に曲がってまっすぐに廊下を行くと、3-3と書いてある年季の入った表札が見えてくる。

 スライド扉をくぐると、まだそう見慣れてもいない教室が広がる。

 午前七時五十五分。人はまばらだ。俺とそして、向こうに座っている(あつし)砂羽(さわ)を含めても十人ほどしかいないだろう。

 

「……」

 

 挨拶はしない。無言で教室に入る。

 俺たちに反応する奴なんていない。いないけど、先ほどまでは確かにあった喧騒の波が崩れるというか、空気が変わったのはわかる。

 

「はよっす~!」

 

 俺のすぐ後ろから、別の男子生徒が入ってきた。

 ざっくばらんにクラスメイトに挨拶をすると、また元気のよい挨拶が返ってくるのだった。朝の雑談の仲間がひとり増えたようだ。

 そんな様子を尻目に、すごすごと教室のはじ、窓際の最前列から三番目の席にカバンを置いた。

 

「渉、おはよう」

「……はよ」

「篤、砂羽、おはよう」

 

 小声で挨拶を返して、席に座る。

 すぐ前の席に居る篤は、いつものようにキリッとした、でもどこか冷たい表情で英単語ノートを広げている。ああ、ごめんな。勉強の邪魔して。

 もうひとり、最前列に座っている砂羽は……これまたいつものように、半目をこすりながら窓側に背をもたせている。

 俺も授業の仕度をとばかり、カバンの中身を机に入れ始めたところ、

 

「おはようっ!」

 

 ついに来た。いつもより五分ほど遅い。

 大きな声を響かせながら、ひとりの女子が入って来る。

 

「……」

 

 静寂。誰も挨拶を返さない。これもまた、いつものこと。

 この3年3組の教室に入って、ちょっと仕度を始めたところで、この女子、汐町由香里(しおまちゆかり)が入ってくる。

 ここまで全部、いつものことだ。

 

「……」

 

 由香里がこちらに歩いて来た。俺のすぐ後ろの席だ。

 今ちょうど俺は、一時間目の教科書類を確かめたところ。

 

「おはよう、渉」

「……おはよう」

「いつもより早かったじゃない。栞さんとケンカでもしたの?」

「そんなことない」

「え~、ほんとに? 急いだけど、追いつかなかったよ。ねえ、たまには一緒に登校しようよ」

「してるだろ。たまにだけど」

「ほんとに、たまにだけどね」

 

 勘弁してくれよ。もう中学三年生だぞ。

 

「ねえ、ところで。今日は、した?」

 

 ああ、コレもまた、いつもの流れだ。

 うっかり、渋い顔をしてしまった。

 

「してないんでしょ!」

「してないけど」

「いや、なんで?」

「なんでも」

「いやだから、なんで?」

「なんでも」

「いやいや、だっかっら~、なんで?」

「どうしても」

「いやいやいやいや、だからさぁ~~、な・ん・でっ?」

「わかってるんだろ」

「……」

 

 由香里が言ってるのは、アイサツのことだ。さっきみたいに、大きな声でみんなに「おはよう」を告げろと言っている。

 つい俺は、しかめ面になってしまう。おかしいのはお前だぞ。

 由香里は、ガンッ! と、いう音を立てて机の脚を蹴り飛ばすとともに、不機嫌そうに席についた。機嫌が悪い時はこんなことをする。

 

「おい、丸聞こえだったぞ」

 

 篤だった。こっちに視線はない。英単語ノートを読みながら話している。

 ふと見ると、その机の上に薄いピンク色の封筒が置いてある。封が開いている。

 

「なあ、篤。お前は、今日は挨拶したん?」

「僕は、毎日しているよ。ああ、聞くな。わかってるから」

「砂羽は?」

「……え?」

 

 ぼんやりとした様子の砂羽。

 

「いつものことだろ。そっとしておこう」

 

 篤の言葉を耳に入れつつ、封筒からはみ出した手紙に目をやる。

 ああ、そうか。わかった。どういうものかが。思い出してしまった。あの中には、A4サイズの一枚ものの手紙が入っている。

 ……さて。もう一度だけ、砂羽に聞いてみるか。

 

「なあ、砂羽はさ。教室に入った時、挨拶してるのか?」

「してない」

「なんで?」

「どうしても……」

 

 砂羽は、すぐ表情に出る。答えに窮しているのが手に取るようにわかる。

 

「いやいや、だから、なんで?」

 

 でも、問いかけをやめない。

 

「ええと、だから、どうしても……!」

「いやいや、だからさ、なんでなのか気になるだろ」

「……だって、みんな、」

「真似すんなっ! あんたに問う資格なしっ!」

 

 ガ、ガ、ゴッ! ガガッ!

 

 ……由香里が机を蹴り続けている。

 篤がため息をついた。

 

「諦めないといけないんだよ」

 

 小さな声だけど、はっきりと聞こえた。

 真実だけれども、由香里の鋼鉄のハートに響くことは一生ないだろう。

 ……周りを見渡さなくても、わかる。

 今この瞬間、クラスの全員、俺たちのことなんか誰も気にしちゃいない。いや、違う。気にしてないんじゃなくて、気にしたくないんだ。

 それでも、気にせざるを得ないから、こんなに変な空気になっている。誰も俺たちの方を見てないけど、心の視界では不愉快な遮蔽物として映っている。



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#01 誰にも届かない鼓動(2)

「さて、そういうわけで……それまでは、石器はせいぜい磨いたりするまでが関の山だった。でも、時代を経るごとに、粘土を焼いたら硬くなるとか、鉄や銅でも頑張ったら溶かせる、ということに気がつくわけだ。そして、冶金技術が広がりを見せた頃が石器時代の終わりの区切りになる……よし、ここもテスト範囲だからな。縄文時代と弥生時代の区別もつけられるように」

 

 落ち着かない教室。クラスの半分以上がおしゃべりに興じている。

 別段かわったところはない。いつも、こんな風だ。

 たまに、非常ベルが鳴ったりする。誰かがいたずらで鳴らしているのだ。そんなことは先生も生徒もわかっているから、非常ベルが鳴っても気にしない。

 俺はただ、機械的にノートを取っている。前の席を見る。篤は、熱心だった。ノートに独自の書き込みを加えまくっている。

 砂羽は、教科書のページが明らかに違ううえに、落ち着かない様子で貧乏ゆすりをしている。

 

「……」

 

 チラッと、真後ろを振り向いた。本当に、チラッとだけ。

 ……由香里は、片方の肘をついて教科書を読み込んでいた。ピンク色のマーカーが引いてある。

 

「ハイ! それでは~~っ!」

 

 教壇に立つ教師、赤木が大声を上げる。

 喧騒は止まない。

 

「静かにしなさい!」

 

 喧騒が少しばかり収まった。だが、時間の問題だろう。

 

「今日、いや前回もだが、先生な、大事なことを話したぞ。さて、なんだっけ? 身分制度に関することだったよな。はい、だれか」

 

 ……誰も手を挙げない。

 そんな中、篤だけが手を挙げた。

 

「どうした、ひとりだけか? わりと簡単なとこなんだぞ」

 

 生徒らを煽っていくも、誰も手を挙げない。

 

「ぎゃははははッ!!」

 

 教壇の近くの席で大笑いをしている者が約三名。

 箱田だった。ピシッとした制服の着こなしだけど、れっきとした不良グループのリーダーである。

 一緒に話をしているのは、鵜飼尚吾。俺の――

 

「やかましいッ!」

「あ?」

 

 どなる赤木に対し、睨みを利かせる箱田。一触即発。

 赤木は、深呼吸をしつつ、

 

「みんな聞きなさい。こんな成績加点チャンスはめったに無いぞ。今年は受験だろう」

 

 ここで手を挙げないのは不経済だと言っている。

 ……数人が手を挙げた。ひとりが指名される。

 

「ええと、弥生時代から国家が成立しはじめて……身分制度ができますっ」

「ああ、これは……もうちょっと! でも、平生点加点しちゃうぞ! ほかには」

 

 篤以外の全員が手を下ろしてしまった。

 赤木は、そぞろに教室中を見渡した。誰も手を挙げないのを確かめてから、

 

「よし、それじゃあ、神部(かんべ)。いってみようか」

 

 篤を指名する。

 落ち着いた調子で、回答が始まった。

 

「はい。以前に赤木先生がおっしゃったこと、そのままで失礼します……まず、弥生時代から国家が成立をしはじめ、身分制度が始まったと教科書には書いてありますが、事実と異なる部分があります。まず、縄文時代には国家の前段階としてのクニがあり、戦争がありました。そして、敗北したクニの人々は、勝利したクニの人々の奴隷となりました。特に、旧支配者層は弾圧を受け、生活するうえで著しく不便な地域へと強制移住させられました。これこそが、現代でいうところの被差別集落問題という国民的課題の始まりであり、その基礎を固めていったのが縄文時代です。すなわち、マルクスの用語でいうところの階級闘争です。虐げられた者たちは、物的生産過程の変遷によって古い生産関係を破壊し、新たな生産手段を身に付け、やがては支配者層への反逆を果たす。この典型が、平安時代に起こった鉄器の生産性革命における自立的村落の始まりです。これはそう、すなわち、弁証法的発展です」

 

 教室内が静寂に包まれる。

 ――静けさを破って、拍手が聞こえた。赤木ひとりによる。

 

「素晴らしい! 神部~、相変わらずだな。今回も満点を期待してるからな。弁証法的発展、なんと素晴らしい響きよ! ああ~、でもな。さすがに教科書にない範囲はテストに出せなくってな、申し訳ない。でも、君のようにやる気のある生徒がいる以上は、いつかはそんな問題を出してやろうと思うぞ、先生」

「恐縮です」

 

 教室内の空気は、しらけている……と思う。

 誰かが舌打ちをした。コソコソと話がはじまる。

 いつものことだ。

 

 *  *  *

 

 昼休み。

 トイレから戻ってくると、自分の席を確かめる。

 すると、当然のように由香里が俺の席を自分のと合体させている。

 

「渉、早く早く」

 

 『早く俺の弁当を広げろ』と言っている。

 

「ねえ、今日のお弁当は?」

「これ」

「卵焼きとウインナーがこんなに! 羨まし~!」

「そうか?」

「栞さん、お料理上手だもんね」

「……」

 

 ツッコミを入れることができない。

 いや、「こんなの誰でも出来るだろ!」とはっきり言えばいいのに。でも、俺には言えないし、言わない。

 

「おいしい」

 

 ごく当たり前に、卵焼きを口にする。俺はただ、おいしそうにもぐもぐする様子を眺めているだけ。

 さりとて、腹は減っている。今朝食べた分は、とっくに消化されている。

 ウインナーを手で摘んで、口に入れる。冷たい肉味を感じる。

 

「由香里の弁当は?」

「ん? いつものやつ。あたし、これいらないよ? あげよっか」

 

 レタスとハムが挟まっているサンドイッチを取り出した。コンビ二で買ったもの。

 

「じゃあ、もらうわ」

 

 サンドイッチを手に取ったなら、弁当を差し出す。

 

「ありがと。いつも」

 

 栞にいつも頼んでいた。できるだけ、多めに弁当を作って欲しいと。成長期の身体にこんなんじゃ足りない、と。

 それがいつの間にか、量が多くなってるだけじゃなくて、もう一組の割り箸まで付いてるときた。

 そんなこんなで、俺はサンドイッチを齧っている。

 ハムもチーズもレタスも、なんだか塩っ辛い。ああ、でも運動した後だと、こういうのがうまいんだよな、と思いながら――ふと、篤の席に目をやった。

 ……あの手紙が置いてある。中身が覗いている、あの手紙が。

 

「篤の机にモノが投げっぱなしなんて。珍しい」

「そういえば、最近ここにいないことがあるな」

「あたしは見てないよ。ねえ、砂羽は? 知ってるんじゃない?」

 

 砂羽は、もくもくと握り飯をほおばっている。

 水筒のお茶で喉を潤したなら、

 

「……ほかの男子といっしょにいる」

 

 静かな調子でそう告げた。

 寂しそう、とはなにか違う。心配、とでもいったらいいのか。

 

「あー。見たことあるわ。箱田とかと一緒に話してるとこ。いつの間に仲良くなったんだろ……でも、どうやって? ねえねえ、捜しに行こうよ!」

「……そんなに気になるか?」

「うん、気になる。教えて渉」

「そうか。気にしない方がいい」

「えー、なんで?」

「そのまま気にしないという選択肢はどうだろう」

「……何も気にせず、教えてくれるという選択肢はいかが?」

「篤を捜すのは諦めて、トイレで女子会話に混ざってくるのはどうだ」

「混ざってくるついでに、渉からアドバイスをもらったあたしが、篤を捜してみるのはいかが?」

「トイレに行ってみたはいいものの、ほかの女子に相手にされなかったので、そのまま引き返すことになるかもよ」

「そんな傷ついたあたしのために、渉が篤を捜しにいくのはいかが?」

「そして諦めて帰ってきた俺を、優しいお前らが放っておいてくれる未来を信じてる」

「そ・ん・なっ!!」

 

 由香里がキレてしまった。

 

「そんな諦めて帰ってきた渉が、あの山まで優しく吹っ飛ばされてみるのはいかが?」

「……」

 

 俺は、ふいに篤の机にあった封筒から手紙を取り出した。

 特に理由はない。話題を逸らしたいだけだ。

 サッと、三つ折りになったそれを開いたなら、流し読みをする。

 

「あ! 渉……人の手紙、とっちゃだめ」

 

 砂羽から注意が入る。

 

「いいだろ、俺にも来てる手紙なんだから。中身はわかってる」

 

 手紙の本文に入った。

 ――ほら、やっぱり。

 

ハ教総 第 13 号

永化3年4月9日

 

児童生徒・保護者 様

 

ハッピーマウンテン市教育委員会(教育総務課)

 

辻町地域学習会について(ご案内)

 

 平素よりハッピーマウンテン市教育行政へのご協力を賜っておりますところ、謹んで感謝申し上げます。

 さて、来たる4月21日(水)に表記の学習会(中学生が対象です)を行いますので、皆さま奮ってご参加ください。当日は、各々教科担当の先生のほかに、人権問題について見識のある方をお呼びする予定です。

 保護者の皆さまにおかれましては、引き続き活動へのご理解ご協力のほどお願い申し上げます。

 

 要約しよう。隣保館で学習会があるとのこと。

 手紙を破り捨てた。

 

「ちょっと! 渉」

「ばかじゃねえの。こんな会」

「……やりすぎだよ」

 

 抗議の声など知らぬとばかり、俺は、

 

「いったい、こんなところに通ってなんの意味があるってんだ? 意味がないからクソ会だって言ってんだ」

 

 すると、由香里が立ち塞がるようにして、

 

「やりすぎだよ。篤はね、あの国府高校に行くのが目標なんだよ。だから、この会に参加してるの」

「とっくの昔に知ってる。この会がそれに何の関係があるっていうんだ」

「うちの先生だって、ほかの学校の先生だって、国府高校の先生だって参加するんだよ? 関係あるに決まってんじゃん」

「そんな会に行かなくても、あいつは成績いいだろ」

「成績いいだけじゃだめなんだよ。公立高校なんだから。内申点」

「……ねえ」

 

 ここで、砂羽が割り込んでくる。

 ……目が笑っていない。

 

「ど、どうした? 砂羽」

「そんなに篤が気になるなら、今から直接聞きに行ったら? 手紙、破ったこと……謝らないといけないよね?」

「……」

 

 所在なさげに、砂羽の目をみる。そっぽを向かれた。

 が、また俺の方へと視線を戻す。かと思えば、またそっぽを向く。

 

「……わかったよ。行けばいいんだろ。行くよ。探しに」

 

 すごすごと、教室から出て行く羽目になった。



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#01 誰にも届かない鼓動(3)

「やっぱりな」

 

 学校の敷地の端。フェンスを挟んで向こうに道路(栞がケンドウと言っていた……)が走っている。

 校舎の壁とフェンスの間に、等間隔にヒマラヤスギが立ち並んでいる。

 その、一角だった。不良とおぼしき三人が篤を囲っている。さらにひとり、鵜飼尚吾も。

 俺は、校舎の陰から見守っている。

 

「おい、黙っとらんで、今週の分を出せや」

「……」

「お~い」

 

 箱田だった。

 樹木の陰になって見えにくいが、目の前で手を振るという挑発行為をしている。

 少しばかりの間が空いて、

 

「断る」

「ああ? なんだって?」

「こんなのは……友達でもなんでもないだろ」

 

 離れていてもわかる。

 篤の武者奮いが。それ以上に、心が震えている。

 

「おいおい、お前らがよおー」

 

 別の声になった。

 残りふたりのうち、どちらかだろう。

 

「お前らがよお、クラスの誰とも喋れないからってよお、箱田くんが不憫に思ったんだぜ? 俺らだってよ、ほかの連中と一緒で、怖くてしょうがねえんだ。でも、お前と一緒に遊んでやっただろうが」

「それは……感謝……いや、感謝とか、おかしいじゃないか。どうして一緒に遊ぶぐらいで」

「ガタガタ抜かしてんじゃねーぞ、オイッ!!」

 

 三人目の声。篤を突き飛ばした。

 

「誰がてめえらなんかとつるんだりするもんかよ。先公どもにしてもだ、普段はジンケンとかなんとか言ってるけどよ、そいつらからもロクに相手にされてないってんだからよ、お前らは。でもな、しょうがねえよな、それは。わかってんだろ。お前、あったまいいからなあ! いい加減、認めろよ。胸糞わるい。お前らがどこで暮らして、どんな死に方をするかくらい、自分たちでもわかってんだろ。その前に、オレが、寛大なこのオレが、いい思い出を作ってやったんじゃねえか……おら、分かったら、とっととお前なんかに付き合ってやったオレたちへの謝礼をよこせよ」

「……できない」

 

 箱田が前に出てくる。

 篤の胸倉を掴んだ。殴り倒そうとする。

 

「まあ、待てえや」

 

 遠巻きに見ていた尚吾。ついに参戦する。

 ――圧倒的不衛生。ボタンをほとんど留めていない学ランに、黄ばんだワイシャツが覗いている。ズボンはよれよれで、様々なモノが付着している。

 比べて、箱田は、これでもかというほどに模範的な着こなしをしている。ありとあらゆる制服の部位がピシッと際立っている。口調や振る舞いは品行方正とはかけ離れているが。

 

「鵜飼。悪いけど、お前には謝礼はやれん。俺たちみたく、こいつと遊んでやってないからな」

 

 篤の顔。見えないけど、手に取るように伝わってくる。

 

「まあまあ、箱田よ。篤だって、もういやじゃ言うとる。これまでの分で勘弁してやったらどうじゃ。軽く万は取ったじゃろうに」

「万と三千円じゃ。でも、三人で割ったら五千にもならん」

「いやいや、十分じゃろ? 堪えてやり」

「……おい、鵜飼よ。お前をここに呼んだのは、一応の筋やぞ。こいつと同じ『聚落(じゅらく)』の出なんだろ。だから呼んだ」

「ワシは、その……違うんじゃけどな。似たようなもんですらない」

 

 それだけ言うと、尚吾は、胸倉を掴まれている篤のところへと。

 

「……おい、篤よ。お前とはすぐ近所に住んどるだけで、別に友達ってわけでもないけどのお……お前の気持ちはどうなんじゃ。今払ったら、もう二度とこいつらがお前につるむことはない。ワシが保証する」

「……いやだ」

「アァッ!?」

 

 篤は、毅然とした態度で要求事項を跳ね退ける。

 堪忍袋の尾が切れてしまった箱田。

 

「これで最後なんだとしても、今ここで、お前に金を払ったら……僕はもう、未来の自分に顔向けできそうにない。今……そうだ、今なん――」

 

 言葉が途切れた。殴り飛ばされたから。

 

「オラ、死ねやっ!」

 

 続いて、ほかの二人も、地面に倒れ伏した篤をひたすらに蹴りまくる。

 

「……」

 

 ハア、とため息をつく尚吾。

 俺はただ眺めている。

 

「……」

 

 これこそが自然! とでも言わんばかりの勢いで、篤がリンチを受けている。

 胸のボタンが、またひとつ飛んだ。

 俺はただ眺めている。

 

「……」

 

 攻撃は続く。篤は、うずくまって痛みに耐えるだけで精一杯の様子だ。

 午前に降った雨のせいで、地面がぬかるんでいる。制服が泥だらけになっている。

 俺はただ眺めている。

 

「……」

 

 早いもので、もう二分が経っている。

 たった今、箱田が肘鉄をお見舞いしたところだ。

 俺はただ眺めている。

 

「はぁ……は、は、は、ああ! あぁ……!」

 

 空気が変わる。

 篤が、寝そべった状態からひざをついた。顔を上げて、不良どもを睨みつける。

 

「は、は、はぁ……!」

 

 これは、気のせいじゃ、ない――燃え滾るような大気を孕んだ風が、周辺を漂っている。

 

「オラァッ!!」

 

 ここで、箱田による容赦ない蹴たぐりが炸裂する。

 もんどり打って倒れてしまう篤。

 

「アブねえ。警戒しておいてよかった」

「おいおい、お前らのそれをよお、俺たちが見逃すもんかよ。お前らが能力を使う時、その印章(シンボル)とやらが出るんだろうが」

「そんなことしてるから、いつまで経っても信用されないんだよ。おら、なにしようとしてたのか言ってみやがれ!」

 

 篤の左手首に、勾玉が付けられた腕飾りがある。俺の手首にも。

 鬼食免(きじきめん)。俺達、使用者(エッセ)が装着を義務付けられているもの。

 

「ごふっ!」

 

 篤の腹を蹴り上げる不良たち。必死に堪えているのが伝わってくる。

 箱田は、すぐ傍に落ちていた石片を持ち上げると、そのまま、それを――

 

「しにやがれッ」

 

 振りかぶって投げた石片が、篤のどこしれぬ箇所にブチ当たった――と、箱田は認識しているだろう。

 

「あっ!?」

 

 が、その石片は、未だ自分の手に握られている。

 

「……は? おい、おい、これって」

 

 動揺している。残りのふたりは、そんな様子をいぶかしんでいた。

 尚吾がニヤついている。

 

「おい、待てよ」

 

 俺は姿を現した。粛々とした歩みで奴らの方に近付いていく。

 箱田が俺の姿を認めると、怪訝な顔つきでもって、

 

「なんだ、お前。見てたのかそこで。コソコソと」

「スギの木があったから。隠れるのにちょうどいい」

「そんなことはどうでもいい。そうだ、ちょっと教えてくれよ。さっきこいつは、どんな能力を使おうとしてたんだ?」

「それこそどうでもいいし、篤はもらっていく」

「だめだ! それとも、お前がこいつの代わりに一万払うってのか!」

 

 なぜだろう。心が涼しくなった。次の言葉が勝手に浮かんでくる。

 

「払うわけねーだろッ、ボケッ!」

 

 箱田を目がけて突っ込んでいく。その後ろでは、尚吾が変わらずにやついている。 

 

「人殺し野郎! オレがぶっ殺してやるっ!」

 

 箱田が拳を振り抜いた――俺の顔面を捉えている。捉えていた。

 

「……?」

 

 拳を振り抜いたはずの箱田。が、当たっていない。ほかの不良らも呆然としている。

 今度こそとばかり、突きに、蹴りに、掴みかかりを繰り返す箱田だったが、ただの一度すらも命中することはない。

 

「ああッ! なんでだ、おい……あがぁっ!」

 

 パァンッ! という小気味のよい音がする。ローキックを命中させてやった。

 すかさず距離を取る。

 

「やりやがったな。だが次は逃がさねえ、捕まえてボコボコにする」

「……もう、お前立てないぜ」

「ああ!? ほざいて……ろ……?」

 

 心の声が手に取るようにわかる。

 足元がおぼつかない。崩れ落ちようとする膝。手に力が入らない。これはいったい、どういうことなんだ――!?

 とでも思ってるんだろう。

 ……容赦はしない。ステップの踏み出しは左足から。間合いを計りつつ、二歩目、三歩目、箱田のすぐ傍に接地する。

 今、俺の左手はこいつの右袖を、右手が同じく鎖骨のあたりを掴んだところ。両手を連動させて、真後ろへとこいつの体勢を崩してやったときには、すでに俺の右足が振り上がっている――敵のふくらはぎを目がけて振り下ろされる、一閃――

 

「だりゃあッ!!」

 

 一本、それまでッ! という、審判のコールでも聞こえてきそうな勢いとともに、箱田は首から地面に落下した――大外刈り、炸裂。

 

「が、ああぁ……!」

 

 悶絶。力なく地面を転がり、うつ伏せになった。

 

「おい、箱田! 大丈夫かっ!」

「なんでこんなに動きが鈍いんだ?」

 

 不安の声が伝播している。気に留めず、倒れている箱田に近寄っていく。 

 

「お、おい! 道ノ上、お前ッ! 概念力(ノーション)を使ってるだろ、おい、おいぃ!! お前ら使用者(エッセ)は……!」

印章(シンボル)、出てないだろ。一切。だから、これはただのケンカ。なんのお咎めもない」

「う、うそを――」

 

 その顎に、スニーカーのつま先がクリーンヒットした。音もなく、その場に横倒しになる。

 

「そらっ!」

 

 もう一発ッ! 今度は、鼻っ柱にサッカーボールキックをお見舞いした。

 何度も何度も、地面を転がる羽目になる――さて、そろそろ頃合いじゃないか?

 

「おい、箱田。どうした。立てよ」

「……」

 

 ブルブルと震えている。戦意喪失といったところか。

 

「記念にその腕、叩き折ってやるよ」

 

 こいつの左腕を背後から掴んで持ち上げて、右足を肩甲骨に押し当てる。

 もう少しか? ……そう、そうだ。この角度。ここだったら、上腕骨を関節から剥がしてやれる。骨を折るよりもこっちの方がいい。

 

「そこまでじゃ! 渉」

「うおっ!」

 

 尚吾による体当たり。不意を突かれた、転びそうになる。ケンケンの後、なんとか体勢を立て直す。

 

「尚吾。なにすんだよ」

「邪魔して悪かったのう。でも、ほんとにやるつもりだったんじゃろ? 一般人(エンス)相手に概念力(ノーション)なんか使うてからに。ただのケンカにしたって、こりゃあひでえ」

「……」

 

 尚吾から視線を離した。残りの不良連中の方を見る。俺が見ていることに気が付いたようだ……。

 

「あ! あー、あー! あぁっ!」

「……」

 

 ひとりは絶叫を。もうひとりは絶望のあまり声を上げられずにいる。

 

「おい、どうした! 大丈夫か」

 

 尚吾の足元にすがる不良どもの姿があった。

 

「目が、目が見えないんだよっ!」

 

 顔面蒼白。この一言がふさわしい。ふたりとも尚吾の足先で蹲っている。

 

「渉! そろそろ……やめてやれ」

「チッ」

 

 概念力(ノーション)を解いた。ふたりとも我に返ったように肩で息をしている。

 

「尚吾。俺、なんにもしてないけど」

「……ゴジョーダンを」

 

 箱田たち三人を見下ろせるところまで歩いていく。

 

「おい、お前ら」

「あ、あぁ……うわあぁッ!」

 

 退散しようとする。が、足元がおぼつかず、ろくに立ち上がれもしない。

 

「尚吾、悪いな。お前がいなかったら」

「もうええ」 

 

 尚吾は、俺の肩をフワッと抱きしめる。

 

「もうええ、もうええ」

 

 そして、耳元でささやくのだった。

 

「……でも、渉。お前、概念力(ノーション)使っとったじゃろ」

「誰にも言うなよ」

「わかっとる。それに、あいつらも面子が丸つぶれになるけえの。先公どもには言わんじゃろう」

 

 *  *  *

 

「……」

「道ノ上くん、どうしてこんなことをしたの? 人として間違ってるって、わかるよね? 誰だって、殴られたり蹴られたりしたら痛いよね?」

 

 職員室。俺は今、担任である和田先生による詰問を受けている。

 あの直後だった。ごく普通に現場を押さえられてしまった。

 

「別に」

「別に、では済まないのよ? あなたは暴力をふるったの」

「あいつらだって」

「道ノ上くん。今はあの子たちは関係ないの」

「和田先生。あいつら、篤から金を取ろうとしてた。いじめ、いや違う、いじめなんて言葉でごまかしていいものじゃない。犯罪じゃないかよ。俺はそれを止めようとした……だけなんだ……それに」

「……いいのよ? 道ノ上くん。なにかあるなら言ってみて?」

「あいつら、普段は先生たちのことを馬鹿にしてるくせに、いざとなったら被害者面して、助けを求めて……恥ずかしくないのかよ」

「……道ノ上くん。どんな理由があっても、悪いことは悪いことなの。必ず見つかるのよ。空の上からお天道さまが見ているから。そういうものなの。だから、どれだけ隠そうとしても見つかるし、罰が当たる」

「……」

 

 歯軋りを隠せない。ギリ、ギリリッ、という音が漏れている。

 

「伝え方が悪かったわ。あなたのことを責めてるんじゃない。あの子たちが神部(かんべ)くんからお金を取ってること、先生、気が付いてたよ。だから、さっきだって君たちがあそこから居なくなる前に、先生たち辿り着いたよね。間に合ったよね。『なにしてるの』って、怒鳴っちゃったよね」

「……すいません、でした」

「もうしない?」

「それは……」

 

 ガタ、ガタ……ガー、ガタンッ! と、不機嫌な音を立てて職員室のスライド扉が開く。

 ――凄まじい剣幕とともに由香里(ゆかり)が入ってきた。近づいてくる。

 

「馬鹿ッ!!」

 

 俺の頬面を張り飛ばした手のひら。

 ……頬に血の感覚が滲んでいる。

 

「ねえ、どうして……?」

 

 力なく、俺の両肩を掴んで吐息を漏らす。

 

「どうして、いつもそんなんなの? だから、わたしたち、いつまで経っても溶け込めないんじゃない! もう……三年目なんだよ? ここにきてから」

「悪い」

「悪い、じゃないわよ……あやうく本気で殴るところだった」

『お前の本気で殴られたら、あの山の向こうまで飛んでいってる』

 

 言いかけて、思い留まる。

 職員室は、静かなようで、騒がしいようで――教育委員会という言葉が聞こえた。

 

「……」

 

 由香里の拳が肩口をトンと叩く。視線が交わった。

 

「いい? 合わせて。何も言わなくていいから」

「……」

 

 由香里はこの光景を眺めている教職員の方を向いた。

 

「この度は、ご迷惑をおかけしました。謝罪します」

 

 九十度の立礼。静まる、職員室。

 

「ごまかしません。こちらの道ノ上(わたる)は、特殊概念能力、いわゆる概念力(ノーション)を使いました。神部篤も使おうとしました。みなさまに不安と不信を与えてしまったことを反省し、二度とこのようなことをしないと誓います」

 

 職員室は、静かだ。

 

「だから、だから、もう一度だけ、もう……一度……だけ」

 

 泣き出してしまう。和田先生が止めに入った。

 由香里の肩を両手で掴んで、自分の方に向き直らせる。

 

「もういいのよ、汐町(しおまち)さん。あなたは……もう、十分だから」

 

 抱きすくめると、和田先生は、職員室全体をぐるりと見渡して、

 

「聞いてください。ご承知のとおり、この子たちは保護者の懸命な判断により……」

 

 それからも話は続いたが、てんで聞き取れなかった。

 目覚めたまま、意識は、ひたすらに落ちてゆく。ひたすらに、闇へと。

 ああ、いやだ。こんな感情、もういやだ。こんな気持ちにならないためだったら、なんだって、どんなことだってやってやる。やってやるよ――この気持ちは、確信なんだ。

 

 (第1話、終)



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#02 自分らしさの保証書(1)

 午前七時。国府第三中学校の東門が見える位置にいる。

 門を入ったところから校舎にいたるまで、延々と石畳が敷き詰めてある。

 が、それはメインロードだけの話。ちょっと目線をはずすと、舗装のされていない地面が目に入る。 

 俺は、そんな雑草という名の芝生で覆われた地点のひとつに立っている。すぐ隣にある技術教室が目に入った。窓ガラスに体操服を着た自分の姿を認める。

『いや、無理だろ』

『道ノ上くんなら、できる!』

 つい先日のことだ。

 和田先生から言い渡された罰は、花壇の設置だった。

 設置場所は、技術教室の窓に面したスペース。剥き出しの地面があるだけの。

 たったこれだけのことを命じるまでに一週間もかかったのか。

「こんなところに花壇だって?」

 あまりの絶望感。おっさん並みに心の呟きを漏らしてしまう。

 周りを見渡す。当然、誰もいない。

「ま、罰を受けるのが俺だけでよかった……おっ」

 東門から軽トラックが入ってくる。早朝であるためか控えめな運転に見える。

 ブイイィ、というエンジン音をともなって、こちらの近くに停まる。

 石畳と地面とのキワキワに着けていた。もう少しで、その間に埋め込まれた円柱状のレンガにタイヤをぶつけてしまうほどの。

 

「……おはようさん」

 

 その人が挨拶をしてくる。

 作業用と思しき帽子から、前髪がわずかに覗いている。これがあの、学校のテレビの中でしか見たことのない……土木作業員、というやつだろうか。

 作業服のところどころが痛んでいる感じが、なんだかリアルだ。

 

「おはようございます」

「……」

 

 あ、なんか会話が止まってしまった。ええっと、

 

「俺、道ノ上渉(みちのうえわたる)といいます。和田先生からは、お手伝いいただけるって……聞いてるんですが」

「ああ、そのとおりだ。三良坂(みらさか)という。今日から五日間、宜しくな」

「五日間!?」

「そうだ。といっても、工期は実質三日しかない。初日である今日は、とにかく準備に追われるし、最終日には完了検査があるからな。しくじるなよ」

「え、いや、一時間くらいやったら終わりかと。レンガ積むだけじゃないんですか」

「おいおい、花壇作るんだろ? レンガを積む前には、接着させるためのモルタルを用意する必要があるだろ。でも、それ以前に基礎になる土間コンクリートを打たないとな。まさか、地面に直接レンガを置こうと思ってた……なんてことはないよな。そんなことないよな? いやいや、それ以前に『設計』なり『仕様』なりがないと。プロが行き当たりばったりで工事してると思ったら大間違いだ」

「いや、俺、アマチュア……」

「いいや。プロだ」

「プロ……」

 

 そう言って、この三良坂という男は、軽やかな調子でこちらに歩いてくる。

 

「今回あんたに与えられた仕事はな。早朝と放課後の時間を使って、まともな品質の花壇を造成することだ。いいか、これは俺の仕事じゃない。あんたの仕事だ。あんたが動かなきゃ、俺は動くつもりはない」

「……そんな言い方」

「おい。確かに和田先生から依頼を受けたけれども」

「……」

「俺、学校の先生じゃねーからな。そこは忘れるなよ。いいか、これは因果応報。あんたに科せられた仕事なんだ」

「……」

 

 クソッ、やめてやろうか。

 ああ、でもな、今やめたら、由香里はなんて言うだろうか……。

 

「……五日間、宜しくお願いします」

「よし! じゃ、買い物に行くか」

「買い物? その車の荷台に置いてあるのは」

「これらは違う。工具類だ。さ、行くぞ。これは……道ノ上くんの仕事なんだろう?」

「……俺、なにからなにまでわからないんですけど。どうしたらいいんですか」

「どうしたらいいと思う?」

「……!」

 

 思わず、顔をゆがめてしまう。

 見られてただろうな。

 

「まーまー、落ち着け、キレたら負けだ。いいか、不可能なことをさせようとしてるんじゃない。それはわかるよな?」

 

 瞳を閉じる。

 ――五,六秒は経ったろうか。

 

「……手順、ひとつずつ教えてください。俺が思ってるより、だいぶ複雑なのは分かりました。でも、まずは準備物を集めないといけないのはわかります」

「わかるやつだな。よし、乗れよ。ホームセンターに行こう」

 

 *  *  *

 

 それから数分、今は国道を走っている。国道といっても、片側二車線しかない道路だけど。

 車が前に進まない。通勤ラッシュに巻き込まれてしまっている。

 信号は、未だに赤色のままだ。ああ、なんでだよ。もっと青の時間増やしてくれよ。こっちの道の方が、ずっと広いだろ。なんなら、永遠に青信号でもいいんだぞ。

 

「なあなあ、道ノ上くん。なんで罰なんて与えられたんだ?」

「聞いてないんですか」

 

 痺れを切らしたのだろうか。三良坂さんが話しかけてきた。

 

「うん、そこまでは聞いてない。気になる。ぜひ教えてほしいね」

「……教えないと、仕事に支障あります?」

「冗談だ。興味なんてないよ」

 

 車体がユルリと進み始める。信号は青になっていた。それから五分ほど走ったなら、ホームセンターに到着する。

 

「はい、これ」

 

 ホームセンター。材料市場。

 三良坂さんに必要物品リストを渡される。

 レンガの数から、砂袋、砕石袋、セメントなどの数量がきっちりと書いてある。

 

「じゃ、集めような」

「びっくりさせないでくださいよ。てっきり、俺が数量を決めるのかと」

「予算の都合がある。さ、材料を集めるんだ。場所がわからなかったら、遠慮なく店員にきけよ」

「……はい」

 

 貸出用のカートを使って材料を集める。

 数量は、セメント一袋、砂三袋、砕石を五袋。すべて25キロ入り。三良坂さんは後ろからついて来て、カートへの積み込みを手伝ってくれる。適当な単位になったら軽トラックの荷台に積み込む。

 

「あれ、会計は?」

「ああ、後でまとめて数量を言ったらいいんだ」

「そういうもんなの?」

「そういうもん」

 

 着々と積み込みが進んでいく。最後に載せたのは、塗装コンパネ二枚だった。

 早く終わった。所要時間は二〇分ほど。

 帰り道の通勤ラッシュは、それほどでもなかった。三良坂さんが言うには、午前八時を過ぎたあたりから車が少なくなるらしい。

 ……そして、中学校の東門へと入る間際だった、

 

「お?」

 

 栞だ。栞が自転車に乗っているのを見かける。

 麦わら帽子に、真白の花が彩られた温かそうなワンピース。これだけ見ると、どこぞのシュクジョ? みたいに見える。

 実際には、家のすぐ近くにある寂れた食料品店でアルバイトをしている。何年か前、「家計が苦しいんなら、もっと給料が高い仕事にしたら」と無責任なことを言った時、笑って濁された思い出がある。

 栞の指先が、いつも赤く剥けたようになっているのを思い出す。昔から、ずっとそうだった。



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#02 自分らしさの保証書(2)

「おし、準備物の搬入は間に合った。道ノ上くん、朝礼は間に合いそうな感じ?」

「なんとか」

「午後の部は、三時半からやるからな」

「はいよ」

 

 時刻は、午前八時十五分。いつもなら登校しているはずの時間。

 大急ぎで着替えを済ませ(トイレに隠しておいた)、下駄箱へと走り込んで、三段飛ばしで階段を昇り、渡り廊下を疾走する。

 ……教室の前にいる。この中は、いつもざわついている。こんな狭いところに四十人以上が在籍しているというのもあるけど、本質は、おそらくそこにはない。

 授業中だろうが休憩中だろうが関係ない。とにかく、うるさいのだ。どこの学校でもこんなものなんだろうか? 敷居を跨いだなら、そそくさと自分の席へと。

 

「……みんな、おはよう」

「おはよっ!」

「渉、おはよう」

「……はよ」

 

 篤を見る。まだ、傷が少し残っている。

 あれから、特に何も言ってくることはなかった。でも、それは篤の性格を考えれば当然で。いちいち何かを伝える必要はないと思っているだろうし、俺にしてもそうだ。

 と、ここで由香里が、いつものように、

 

「……あっれ~、渉? 教室に入る時、『おはよう』って挨拶した?」

 

 きやがった。にんまりとしている。

 これだから嫌なんだ。由香里より遅い時間に登校するのが。

 

「してないけど」

「しようよ」

「……あのさ、由香里。正味な話、ツラくないか? 毎日さ、挨拶してさ、それでもさ。今の状況だろう」

「あたしは大丈夫よ。気になんないし」

 

 『大丈夫』ってなんだよ。わけわかんねーよ。

 いちいち強すぎるんだよ。

 

「ほら、渉。やりなおして。教室に入るところから」

 

 しぶしぶと教室の入口に戻った。ご丁寧にカバンまで持って。

 ――ふたたび、わが3-3クラスに足を踏み入れる。

 すぐ近くに、四人のグループがいた。男ふたりに女ふたり。このクラスの中心人物たち……だと俺は思っている。

 授業中、景気のいい冗談をどんどんと先生にぶつけて、クラス中の笑いを誘いまくっている。運動会でも合唱コンクールでも、こいつらがクラスを引っ張ってきた。

 

「おはよーございますっ!」

 

 ああ、馬鹿みてえ。でも、やり遂げてやった。

 

「……」

 

 わかっている。

 俺達に挨拶なんて返す者は、このクラスにはひとりも――

 

「おはよう、道ノ上くん」

「……おう。おはよう……ええと、安田……くん?」

 

 こんなこと、初めてだ。いまだかつて経験がない。しかも、今のは安田といって、この集団内でもリーダーシップを取りまくっている人物である。

 ――凄まじい視線を感じる。由香里のものであるのは間違いない。この後、いったいどう反応してやればよいのだろう。

 おずおずと、自分の席に帰るのだった。視線を感じながら。

 

「なあ、由香里」

「……」

 

 由香里は、ただ俯いて、じっとしていた。なんだ、もっとその、大喜びすると思っていた。

 いつもと変わった面差しだった。照れているようで、しかしながら、落ち着きのあるというか。

 零れ落ちそうな笑みが眩しい――途端、ハッと我に返ったようになり、こちらを振り向くのだった。

 

「ねえねえ、渉。そういえばさあ。さっき、外でなにやってたの? 面白いこと?」

「これから面白くなるかも」

 

 しばしの沈黙。

 

「……面白くないのに、どうしてやってるの?」

 

 砂羽(さわ)だ。撫でつけるような、落ち着いた声色の小柄女子。

 

「砂羽。わかって言ってるな、お前」

「……ねえ、渉。花壇づくり楽しい?」

「たのしーよっ! もうすでに筋肉痛だし。ひとつ何十キロの袋、どんだけ運ばせるんだよ」

「楽しそうだね」

 

 ニッコリとした微笑み。砂羽にしては珍しい。

 

「……」

 

 篤は、無言を貫いている。参考書を読んでいた。

 聞いているらしい感じはわかる。

 

「ねえ、渉。あたしも手伝っていい?」

 

 由香里が、いたずらっぽい笑みとともに聞いてくる。

 

「だめ」

「なんで?」

「なんでも」

「なんでよ、いいじゃん」

「どうしてもだめ」

「ねえねえねえ、な・ん・で~~?」

「俺のこと嫌いになったんじゃないの」

「そんなことないよ。渉、篤のために頑張ったんだよね」

「こないだと言ってること違うじゃねーか」

「女の心は、千切れ雲なんだよ。千切れたり集まったりして、そんな心のカケラを……」

 

 ああ、くそ。

 ほんとにつえーな、お前は。

 

「悪いな、由香里。これは……あれだよ、『仕事』なんだ。おっ、和田先生」

 

 すりガラスの向こうに影が見えた。それだけでも相手がわかる。なんとなく、影が揺れている感じというか、そんなので。

 やっぱり、和田先生だった。粛々とした歩調で教室に入ってくる。

 HRが始まろうとしている。

 

「みんな。朝礼を始める前に、連絡事項があります」

 

 教室は、騒がしいまま。

 

「みんな、聞いて。大事な話です」

 

 教室は、騒がしいまま。

 が、少しばかり静かになった。ような気がする。

 

「……」

 

 やっぱり、うるさいままだ。しかしながら、和田先生は、ただじっと教壇の前に立ってクラスの様子を伺うのみ。「静かにしなさい」とは言わない。

 

「……」

 

 そろそろだろうか。あ、そうだ、今だ――ざわつきが止んだ。一瞬だった。

 そう。「静かに」なんて言わなくても、勝手に話が止むのだ。どうやら、そういうタイミングがあるらしい。

 

「はい、それでは連絡です……一週間前にケガをした箱田くんですが、もう少しの養生が必要ということです。仲間の復帰を願って、もう少し待ちましょう」

 

 箱田の話だった。

 不良たちの方をチラリと眺める。いたたまれない様子かと思いきや、そうでもない。普通にお喋りをしている。

 ふと、そのひとりと目が合いそうになった。凄まじい勢いで視線を逸らされてしまう。

 

「……じゃね?」

 

 誰かが、呟いた。「戻ってこなくていいんじゃね?」と。

 

「いま、なんて言ったの!?」

 

 天を突くような声。

 教室内の空気がピシャリと締まり、声を上げる者がいなくなる。

 

「ねえ、みんな。想像してみて。大きなケガをして学校に来ることができない時、そんなことを言われたらなんて思う?」

 

 先ほどとはうって変わって、山肌を撫でるような温かみのある声。

 教壇に両手をついて、クラス全員に訴えかけるように言を続ける。

 

「箱田くんは帰ってきます。その時はみんな……ううん、先生言わない。みんなわかってるよね、どうしたらいいのか。信じてる」



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#02 自分らしさの保証書(3)

 光陰矢の如し。

 すでに午後四時を回っている。

 篤に宿題を見せてもらっていたら、すっかり遅くなってしまった。

 

「……三良坂さん。遅れてすいません」

「まあ、誰にでもそういうことはある……いいよ、ちょうど準備が必要だったんだ」

「これでぜんぶ?」

「そうだ」

 

 花壇を設置しようとする場所のすぐ脇に置いてあったのは、塗装コンパネと、丸ノコと、スコップと、インパクトドライバーに工具箱。

 トラックの荷台に置いてあるのは、発電機、延長コード、木でできた小さな椅子、角材の破片。ほかにも、よくわからない器具がいくつか置いてある。

 

「どれからやるんだ?」

「まあ、まずは……これが設計書兼仕様書だ」

 

 メモ帳にフリーハンドで描かれた、花壇と思しき四角形。ほかにも書き込みが目立つ。

 

「ええと、タテ830mm×ヨコ1000mm×H600mm……四角形の端を基準にしてレンガを……なるほど……って、今朝はレンガ買ってないじゃないか。あと、モルタルや砂利の袋が見えないけど、どこにいった?」

「レンガを買ってないって? そりゃあ、今日はその工程まで辿りつくことができないし……軽トラックだからな。あんまり物を載せることができないんだ。ところでほら、メモの右上を見てみ」

 

 メモの右上。

 スケジュールが殴り書きしてある。

 

「……一日目。コンクリート基礎の型枠を作る。二日目。コンクリートを型枠に流し込んで整形する。三日目。午前にレンガを購入、午後にコンクリの硬度を確認し、レンガの仮置きをする。四日目。メジ用のモルタルをこねる。レンガを積み上げながらモルタルで固める。五日目。花壇に土を入れる。完了検査……」

「というわけで、さっそく型枠を作るぞ。トラックの上に小さな椅子がふたつあるだろう。取ってきてくれ」

「……はいよ」

 

 トラックの荷台から、高さ三〇センチほどの椅子ふたつを石畳の上に降ろす。その上に塗装コンパネを置く。やたらと長いので、引きずるように置く格好になった。

 発電機のスイッチを入れる三良坂さん。ワイヤーのようなヒモ(リコイルスターターというらしい)を引くと、ブブブブ……と、静かな音を立てて動き出す発電機。

 延長コードを使って、発電機と丸ノコとを繋いだ。

 

「これ……」

「これ? 発電機。ガソリンを電気に換える装置だ」

「知ってるよ! 発電機なら、週に何度か動かしてる。地下水の汲み上げ用ポンプ」

「へー……そうか、今どきの子はそうなんだな。俺が若い時は、親の手伝いとかで使ったな。渉くんの親父さんとかお袋さんとかは、こういうのを使う仕事なのか?」

「親父は仕事が忙しくて家にいない。たまに帰ってくる」

「じゃあ、お袋さんしかいないんだな」

「はやくやろう。みんなに見られる」

「ふーん……じゃあ、まずは……コンパネを切断しよう」

 

 三良坂さんは、胸ポケットから鉛筆を取り出すと、途中で九十度に折れ曲がった定規(サシガネというらしい)で直線の目印をつける。

 そうして、丸ノコのトリガーを引いたなら、ギュイイイ、という発電機よりも一回り大きな回転音が響くのだった。

 

「よーし、道ノ上くん。しっかりコンパネを押さえてろよ」

「わかった」

 

 ふたつの木椅子の上に置かれたコンパネ。上から体重をかけて固定する。

 

「切り始めようか」

「……うっ!」

 

 切断中の振動が伝わってくる。体重をかけているはずが、なにやら恐くなってきた。

 少しずつ、少しずつ。丸ノコの刃がこちらに近付いてくる。

 

「話しかけるなよ。油断してたら指が飛ぶ」

「……」

 

 刃が進んでいく。今は中ほど。

 

「……」

 

 4分の3まで行った。ここで、いったん止まる。

 三良坂さんは、サシガネを使って切断面がまっすぐかどうかを確かめる。

 

「……」

 

 再び、動き出した丸ノコ。

 

「……よっしゃっ!」

 

 切断完了。

 30センチ×180センチの板ができる。

 

「まだ切るのか」

「ああ、切るよ。これじゃ長すぎる」

「やらせてくれよ」

「だめだ」

 

 意外だった。

 今朝は、俺の仕事だと言ったのに。

 

「なんで」

「渉くんは、ほら……丸ノコの講習、受けてないだろ」

「それ受けたら、使えるのか」

「まあ、働いてないと受けられないけどな」

「じゃあ、使えないじゃないか」

「そういうことだ。残念」

 

 ……塗装コンパネの切断は進んだ。三良坂さんがひたすらに丸ノコで切りまくっている間、俺が押さえの役をする。 

 十分も経たないうちに切断が終わり、四枚分の細長い板が出来上がる。

 

「ええと、次は?」

「次は……なにをしたらいいと思う? 型枠って、なんのためにあるんだろうな」

「ええーと……型枠は……花壇の基礎になるコンクリートを囲うもの?」

「そうだ。出来立てのコンクリートはドロドロしていて、固まるまでに一昼夜以上かかる。ということは?」

「そうか、これから四隅を型枠で覆って、コンクリートが固まるためのハコを作るんだ」

「そのとおり。早速はじめよう」

 

 俺達はインパクトドライバーとネジ、角材の破片を拾い上げると、花壇の設置予定場所に移動する。

 

「さて。これから、花壇をどこに置くか決める。その細長い型枠の一枚を、地面にブチ込んでラインを作ってみな」

「わかった」

 

 恐る恐る、一枚の板を拾い上げ、地面に対して水平方向に差し込んだ。石畳が敷いてあるところと技術教室との、ちょうど真ん中の地点に花壇を置きたい。

 やがて、それらしい場所を見出すと、コンパネを地面に差し込んで位置取りをマーキングする。

 

「そのラインを基準にするからな。いいか、一番大事な作業だ。ここでつまづくと、以降の作業がすべて無駄になる」

「俺がやっていいの?」

「道ノ上くんの仕事だしな。ところで、なんでそこにした?」

「技術教室からほどよく離れてるし、歩行路、そこの石畳をはみ出ない限りは花壇に触れることもない」

「やるじゃん! なら、そこにしようか。そらっ」

 

 スコップを受け取る。

 いま引いたばかりのラインを基準にして、二人で四角形の穴の線を掘っていった。深さにして数センチほど。

 

「こんなもんか。よし、コンパネをもうひとつ持ってきてくれ」

「オッケー」

 

 掘ったばかりの穴にコンパネを差し入れる。さらに、もう一枚のコンパネと繋ぎ目を直角にして組み合わせる。

 次いで、インパクトドライバーを用意する。二枚の板の繋ぎ目に角材の破片を差し込んだ。

 

「これから穴を開ける。しっかり板を持っててくれよ」

 

 そして、インパクトドライバーのトリガーが引かれたなら――

 ガ、ガ……ウイイイイィィィ……ゴガガガガッ!

 

「おおっ!」

「こんな感じだ」

 

 ネジがコンパネを貫通して、角材の内部へと突き刺さっている。固定完了。

 

「いいか。まずは、ゆっくりと回転させてネジ穴を作るだろ。そしたら、一気に突き込んでやる。最後に、ダメ押しとばかりネジの頭まで木材にめり込ませる。見てろよ」

 

 手際の良い動きで、反対側からも同じことをした。

 最終的に合計四箇所、ガッシリと突き刺さったネジ。

 

「板同士の結節点、ひとつめ完了。あと三箇所だ。じゃあ、道ノ上くん」

「え?」

「次は、やってみるか?」

「俺、講習受けてないんだけど」

「インパクトドライバーはな、講習がいらないんだよ」

 

 答えは決まっている。

 

「……やる」

 

 インパクトドライバーの感触が伝わってくる。ずっしりと重たい。

 残りは三箇所、計十二穴。

 インパクトの先にネジを差し込んで、残りの板同士の結節点へと向かう。

 三良坂さんが、コンパネを運んでくれている。

 

「よし、これで……どうだ?」

 

 ネジの先を、コンパネへと当て込んだ。

 

「いい角度だ。よし、スイッチ押してみろ」

「……!」

 

 ガ、ガ、ガ…………ウイ……ウイィ……バチッ!

 

 ネジが吹っ飛んでしまう。

 

「もう一度!」

 

 ガ……ウイ……ウイ……イ……バチンッ!

 

「ああ、惜しい。もっと強く、前に押さないと」

「もう一回やりたい」

「何度だってやらせてやる……おっと」

 

 空を眺めた。夕闇が迫りつつある。

 

「そろそろやめるか?」

「まだまだっ!」

 

 今一度、挑戦する。

 ガ、ガ……ウイイィィ……ウイ……イ……

 

「……!」

 

 ウイイイイイイィィィ……ゴガガガガッ!

 

「やったっ!」

「よくやったな。じゃ、残りも頑張ろうか」

「おうっ!」

 

 ……悪戦苦闘。まさにその一言だった。

 この場所も、他の二箇所も、時間を要したものの終わらせることができた。

 差し込んでいた夕陽が、消えてなくなろうとしている。

 

「今日の目標は達成! 解散!」

 

 午後六時を過ぎている。

 

「まだできる! もっとやりたい」

「おいおい、勘弁してくれよ。残業申請、出してないんだよ」

「……渉? こんなところでなにやってるの」

 

 ――栞。東門に栞が立っている。自転車を引いて、こちらへとやってくる。

 

「渉。今日は五時間目で終わりなんでしょう? こんなところでなにをしているの?」

 

 手提げ袋を持っている。夕食の買い物帰りのようだ。ああ、くそ。いいところだったのに。

 

「ええと……これが例のやつ」

 

 栞を見ようとする。見上げそうになってしまう。

 俺と背がほとんど変わらない。むしろ高いくらいだ。

 

「あら、そうなの……これが? 土木作業なんてしないと、先生は許してくれないのね」

 

 今、感じた。確かに。

 三良坂さんが、栞に嫌悪の視線を送っている。

 

「三良坂さん。こちらは、俺の姉で――」

「初めまして。道ノ上栞(みちのうえしおり)と申します」

「……三良坂です。宜しく」

「三良坂さん、ておっしゃるの? 下のお名前は?」

「あなたのような女性が、肉体労働者の名前なんて聞くものじゃないですよ」

 

 ヘンな空気。ああ、これは嫌なヤツだ。

 

「……これは、失礼しました。お名前を伺う必要のない方に声をおかけして」

「そりゃあどうも。あなたのように高貴な方のお名前を伺えて光栄ですね」

 

 ……教室まで制服を取りに行き、着替えを済ませて帰ってきた後も――今日の片付けをする三良坂さんと、無言で立っている栞がいるだけだった。

 流れ解散となり、栞と一緒に家まで帰った。ああ、ホント苦手だ、こんな空気。いくつになっても慣れやしない。

 (第2話、終)



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#03 なんの取り柄もない自分にただひとつ(1)

「やっと終わった」

 

 午前七時五〇分。

 昨日、組み上げたばかりの型枠の中に、メッシュ筋なるものを固定する作業が終わったところだ。午後からのコンクリート混入の準備として、塗装コンパネにレベルラインを描き入れる。

 メッシュ筋というのは、コンクリートの強度を増すための格子状になった鋼鉄であり、レベルラインというのは、コンクリートの高さを均一に保つために書き入れる印のこと……らしい。

 今日は、朝の六時半から作業をしていた。ヨレヨレのクタクタで教室に入る。ほとんど誰も来ていない。

 と思ったら、見知った顔がひとり。なにやら、黒板に落書きをしている。

 

「おはようさん」

 

 鵜飼尚吾だった。

 

「尚吾、おはよ。いつも朝早いよな。不良のくせに」

「家におってもやることがないけえの。テレビもない、携帯もない、風呂もない、水道も――」

「やめてくれ。悲しくなる。俺んちも同じようなもんだ」

「知らんもんに話したらびっくりされるじゃろ?」

「そりゃそうだ。今どきあんな家はない。俺みたいな貧乏人だってわかる」

 

 尚吾は、急にけらけらと笑い出した。

 すぐ傍にあった教壇をバシバシと叩いている。

 

「気にするな! 箸が落ちてもおかしいってやつじゃ……ま、それはそれとして。今日も早朝作業をしとったのう」

 

 つい、訝しげな視線を送ってしまう。それに気付いてか、落書き作業に戻る。

 

「お前が上手くまとめてれば、こんなことにならなかったのに。なあ、うちの学校で一番ケンカが強いんだろ、鵜飼尚吾くんは」

「ワシにも立場ってもんがある。お前らのことを考えて、それでいてあの連中のことも考えるのは無理じゃ」

「ああ、わかる。わかるよ。俺たちのこと考えてくれてたの」

 

 すると、尚吾がこちらに寄ってきて、ガバッと首に手を回してくる。

 

「どしたんだ」

「そりゃそうよ、だってのう」

 

 一瞬の間。

 

「……あの時、ワシらのこと殺そうと思ったら殺せたんじゃろ? 神部のやつ」

「!」

「感付かれるまでもなく」

「ちょっと黙れ」

 

 即座に、周りの気配を窺う。

 

「……よかった」

 

 わかる。誰にも聞かれていない。

 

「ほかの奴には言うなよ、口が裂けても。じゃないと」

「わかっとる。まあ、同じ集落の出身じゃろ、ワシら。仲良くやろうや。山野辺が懐かしいな」

「……」

 

 俺は、人差し指で髪の毛を触り始めた。

 ああ、なんでだろう。日常会話の範疇なのに、どうしてこんなに落ち着かないんだろう。

 

 *  *  *

 

「はい、それでは。ここまで植物について復習をしてきた。植物の種類や作り、生育環境、成長というのは、高校受験での出題確率が高い分野だ」

 

 池上先生による理科の授業――いつものように、雑談で騒がしい教室だった。

 が、今の「受験」という言葉に対応してか、少しばかり静かになる。

 

「えー、どんな分野でもそうだが、実際に見て触ってというのが、理科における理解や関心を高めるポイントになる。みんなも、今日のうちに適当な葉っぱを真っ二つにしてみるといい」

 

 明らかにお喋りが止んだ。静聴モードに入ったようだ。

 うちのクラスにしては珍しい。

 

「葉っぱの断面に目を凝らしてみよう。今、先生が黒板に書いているとおりのものが見える。すなわち、葉緑体、細胞、葉脈、気孔だ。葉緑体は、目がいい人でも難しいかもしれない。でも、見える。いつもみんなに伝えているけど、理科というのは、ひたすらに現実感だ。無味乾燥な知識は、あまり役に立たない。いつかは忘れてしまう言葉の羅列にすぎない」

 

 喋り声がなくなった。

 

「最後に、少しだけ。これは受験とは関係ないが」

 

 池上は、黒板にグラフを描き始めた。

 最初は、数学で習った四象限に分かれるグラフ軸を。次いでY軸の上半分に『累積量』、X軸の右半分に『時間』、最後に、原点よりもわずかに上の地点から伸びる曲線を描くのだった。曲線は、Sのような形状に曲がりくねっている。

 

「これがなんだか分かる人」

 

 誰も手を挙げない。

 ……が、ここで「植物の成長?」と誰かが言った。

 

「そのとおり。これは、ロジスティクス曲線という……このグラフの意味を探ってみよう。まずは、時間tがゼロの地点だ。みんな、イメージしてみよう。どこかの原っぱでも、学校のグランドでもいい。ある植物の群れが芽生えを完了させ、これから成長しようとしている。これが「時間tがゼロの地点」。時間の経過とともに、これらの植物がぐいぐいと成長していく。ものすごい勢いで。イメージしてみよう、最初は十本だった草が、次の世代では二〇本、さらに次の世代では四〇本、といったように倍々で増えていく感じだ……みんな、どうかな? ここで、グラフのある地点に注目してみよう」

 

 池上が、S字になったグラフの転換点のひとつを指し示す。

 ここから、累積量Nの伸びが明らかに鈍化している。どういうことだろうか。

 

「ここで問題。どうして成長が止まったと思う?」

 

 誰かが、「増えすぎ?」と叫んだ。

 多分、今の声は篤だと思う。

 自信がなかったんだろうか、いつもより小声だった。

 

「そのとおり! イメージしてみよう、学校のグランドにたくさんの植物が生えているとする。そうすると、草一本あたりが受け取ることができる太陽光や、水分が減ってしまうよな? ということは、淘汰されて死んでしまう植物が出てくるということだ。それでも、植物は絶えず増えていくから、植物全体の総量、つまり累積量Nだな、これは増加を続ける……でも、いつかは限界に達してしまう。それ以降は、この曲線の頭打ちになっているラインでNは動かなくなる。これが均衡状態」

 

 教壇から身を乗り出すようにして反応をうかがっている。

 

「さて。これは植物の場合だ。自然の作用によって、最終的には総数が安定する……ところが、人間は違う」

 

 再び、反応をうかがう。そして、

 

「私や君たちの先祖、だいたい百年ほど前かな。当時は、「間引き」という習慣があった。間引きとは、つまり……自分の子どもを親が殺してしまうんだ」

 

 教室が、わずかにざわめく。

 

「習ったことがあるかもしれない。昔は、親が子どもを育てられないと判断した場合、赤ん坊だったら生まれた時に殺してしまっていた。ある程度、育っている場合は、人買いに売ったりする。子どもじゃないけど、老人、例えば自分の親だったら、こっそりと山に連れ出して捨ててくる……悲しいけど、これが私たち人間の歴史だ。人間は弱い。誰だって妥協をするし、嫌なこと、辛いことから逃げ出したりする。みんなは、小さいうちからお父さんやお母さん、おじいちゃんやおばあちゃんが偉いといって育てられてきたよな。でも、そんなことはない。誰かが誰かに対して偉いだなんて、そんな馬鹿なことはない。みんな、同じ人間なんだ。弱い存在なんだよ。自分は、教師としていつも考えていることがある。教え子には、不当な権力、不当な権威に屈することのない、そんな立派な大人になって欲しい、っていう思いだ」

 

 ガタタ、という、机と椅子とがずれる音がした。

 尚吾が、椅子の上で膝を組んだから。

 

「だったら、池上先生が実行してみせえや。世の中には偉い奴がたくさんおるじゃろ。例えば、ほら、校長や教頭には頭があがらんじゃろ」

 

 堂々と横槍を入れる。

 俺にはどうでもいい話題だったが、池上が尚吾にどう反応するかは、さすがに気になる。

 

「……鵜飼君。疑問をもってくれてありがとう。でも、先生たちは、ちゃんと有言実行しているよ。例えば、公立学校の教職員は公務員だから、憲法の理念に従って行動する責任と義務がある。でもね。文部省……校長先生なんかよりずっと強い権力をもっている人達は、それを許さない。入学式や卒業式などを行うにあたり、国旗を掲げたり国歌を歌わなければならないという強制を行っているんだ。もちろん、そんなことを書いてある法律は今のところ存在していないから、学校に従う義務はない。ないんだけど、強制される……ひどい目に遭うぞって、懲戒処分をちらつかせてね。いいか、みんな。これが権力の恐ろしさだ。国家の前には、個人の良心や思想の自由が有名無実になってしまう。私たち先生は、今までそういう連中と戦ってきた。戦いたくはなかったよ、平和でいたかった。しかしながら、そうでもしないと、今度は君たち生徒が国家権力の違法かつ不当な行使に苦しむことになる」

 

 そして、ひと呼吸おいてから、

 

「私たち広島県労働者連合会は、国旗掲揚・国家斉唱の強要に対して、断固反対する! 個人の思想・信条の自由への侵入をわずかでも許したら最後、権力者は国民を自分達の餌とみなすからだ!」

 

 すっかりと静粛になった3年3組。と、ここでまた尚吾が、

 

「池上センセー! でも、こないだ和田先生が、教頭相手にヘコヘコしとったで」

「和田先生は、教師として適格な方ではないよ。失格とまでは言わないが。権威や権力に対して従順すぎるよ、彼女は。同じ理科教師として恥ずかしい。かくいう私は、教頭や校長なんぞにヘコヘコしたことはないよ。それどころか、広島県労働者連合会ハッピーマウンテン支部執行委員のひとりとして、校長に対し、『学校活動の自由と自立を確保し、不当労働行為を一切行わないものとする』という旨の確認書を書かせたよ」

 

 一部の生徒から、「すごい」という声が上がる。

 「え、なんでなんで?」との声も。

 

「『教務主任』という教師の取りまとめ役があるんだけど、それをなんと、教員全員の総意ではなく、校長が独断で決めるなんて言い出したんだ! まったくふざけている。いいか、みんな。この社会にはたくさんの矛盾、おかしいことが存在するし、これからも新しく生まれてくる。そういう矛盾というのは、自分の権利をはっきりと確かめたうえで、主張して、打破、打ち砕くしかないんだ。だから先生、言ったんだ。みんなには権威や権力に屈することがない、立派な大人になって欲しいって」

「へえ、そんじゃあ」

「なんだい、鵜飼くん」

「おい、池上!」

 

 空気が凍りつくのを感じた。

 おいおい、いったいどうなるんだ?

 

「……どうしたんだい、鵜飼くん。なにかあるなら言ってみないと。何も解決しないよ」

 

 何事もなかったかのような。そんな感じだ。

 先生の方が一枚上手だった。

 

「ち、つまらん」

 

 広げていたノートに視線を落とした尚吾。

 またいつものように、何人かがお喋りを始める。

 

「ふあ~あ」

 

 あくびが出る。眠かった。

 今日も、早朝から働いていたから。



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#03 なんの取り柄もない自分にただひとつ(2)

「おう、来たか」

 

 軽トラックの前に、様々なものが転がっている。

 セメントや砂、砕石が入った袋、それにホース、タフブネに角型スコップ、鋤簾、刷毛、コテ。

 時刻は、午後四時を回っていた。いつも、三良坂さんは俺より早く来る。そのうえ、俺の仕事だと言ったのに、明らかにあっちの仕事量の方が多い。

 

「今日はいよいよ、あれをやる」

「コンクリート、作るんだっけ」

「そうだ。作り方、調べてきたか」

「いいや」

「ネット、しないのか」

「家にパソコンないし、携帯も持ってない」

「もしかして、渉くんの家って複雑な家庭だったりする?」

「別に。まあ、母親はいないけど。栞とふたりで暮らしてるようなもん」

「……悪いこと喋らせたな」

「いいよ」

 

 そんなこんなで作業が始まった。

 俺たちは、薄い緑色をした四角い風呂桶のような物体(タフブネという)に、セメント袋を開けて流し入れる。

 

「よし、次は砂を入れるんだ」

「OK」

 

 不慣れな手つきで、砂袋を開いて流し入れる。

 重たい。両手じゃないと、とてもじゃないが持ち上げられない。

 

「よっと」

 

 ひと苦労をして、ようやく流し入れることができた。

 

「お~し、渉くん。あとふたつな」

「手伝ってくれよ。重いんだから」

 

 三良坂さんは、笑いながら答えるのだった。

 

「もうすぐ十五才だろ? 頑張れ!」

 

 一、二分はかかって、ようやく砂袋を流し入れた。

 

「よおし、次はもっと重たいぞ。砕石だっ!」

「しゃっ! やるぞ」

 

 タフブネに砕石袋を立てかける。エイッと角型スコップで突いたなら、案外きれいに穴が開く。

 5~6センチほどの大きさの石が詰まっている。袋を持ち上げると、ガラガラと音を立ててタフブネへと入っていく。

 すぐ傍では、三良坂さんが次から次へと袋を開けて渡してくる。いいかげんキツかったが、なんとかこなすことができた。

 

「最後の仕上げだ。コンクリートを作る。このホースを散水栓に繋いでくれ」

「サンスイセン?」

「ほら、そこに水道メーターの蓋に似たやつがあるだろ? その下に、水を出すための蛇口がある」

「?」

「おい……まさか、水道メーター見たことないのか?」

「いや、その……」

 

 ああ、なんか答えづらいな。

 

「あら、申し訳ありませんね。上水道も通ってない家で」

「栞!」

 

 唐突だった。

 俺たちが話している斜め後ろから、ラフな格好をした栞が現われる。

 丈が膝までのジーンズに、上はスモックを着ている。

 

「一緒にやらせてもらって構いません?」

「……構いませんよ。好きにしたらいい」

「ああ、よかった! 『学校から許しをもらってるから』なんて、まるで圧力をかけてるみたいな言い方をしなくて済んで」

 

 三良坂さんの舌打ちが聞こえる。

 これはあれだ。わざと聞こえるようにやっている。

 

「じゃ、そこの散水栓のことを知っているお嬢さん。このホースを繋いでもらえます?」

 

 淡々とした口調で栞にホースを差し出す。

 

「承知しました……でも、お嬢さんだなんて。わたし、もう二十九よ」

 

 ホースを受け取ったなら、栞がチラリと三良坂さんを見た。俯きがちに視線を落としつつ、散水栓に向かう。蛇口をひねった。

 

「そら、スコップでこねまくるんだ」

「おう!」

 

 水がタフブネにあるセメントと反応して、砂や砕石を巻き込んでコンクリートへと変化していく……らしい。

 俺は角型スコップをガンガン突っ込んでセメントをこねていく。

 三良坂さんは、そのまま蛇口の辺りに構えていたが、やがて、栞に「もういい」と合図をすると、作業に加わった。

 男二人で、ひたすらにコンクリートをこねる。と、ここで、栞が近くに寄ってくる。

 

「これで、どのくらいの取れ高になるの?」

「どれくらいだと思う? ふたりとも」

「ええと……100キロ……以上かな」

「もっと重たいんじゃない? 300キロとか」

「250キロってところか。大きさで言ったら0.1立米だ。これをだな、昨日作ったあの型枠に入れて、一昼夜とちょっと置くんだ」

「わたし、あとはなにをしたらいいかしら?」

「ここに刷毛があるんで、あの型枠の内側に水を塗ってもらっていいか」

「なんの意味があるの?」

「剥離剤だ。コンクリートが型枠に引っ付いて取れなくなる」

 

 ……しみじみと、時間が流れた。

 男ふたりは、スコップでタフブネの底を走らせるようにしてコンクリートを練っている。時折、ガッ、ゴッ、というスコップが砕石にぶつかる音が聞こえてくる。

 すぐ脇では、栞がバケツに汲んだ水に刷毛を浸けて、型枠内への塗りを重ねている。

 

「こんなもんか。うん、よく混ざったな。じゃあ、お嬢さん。これからコンクリを流し込むんで」

「承知しました……あれ、どうしたの?」

「三人でこいつを持ち上げて、あの型枠に流し込むんだよ」

「わたしが? ご冗談を」

「ご冗談じゃありませんよ。その服装はあれですか、オシャレですか?」

「……」

 

 三人が、それぞれの配置につく。

 俺と栞が短い辺を、三良坂さんが長い辺のひとつを持つ。誰が決めたでもない。自然の配置でこうなった。

 

「せ~のっ!」

 

 ……あんまり持ち上がらない。

 

「さすがに入れすぎたか。まあ、なんとかしようやっ」

「重てえ!」

「ちょ、ちょっと……三良坂さん。これはさすがに」

 

 なんとなく、栞の方を見やると、体力が俺以上であることを思い出す。なんたって、五〇キロはあろうかという薪ストーブ用の丸太を軽々と持ち上げてしまう。

 

「もうちょっとだ、いける! せえ~のっ!」

 

 再チャレンジ。

 一回目よりもずっと大きく、タフブネが上がった――完全に持ち上げることに成功する。そのまま、タフブネを傾けてコンクリートを流し込んだ。

 

「粗方入ったな。よし、渉。タフブネに残っているコンクリをすくって、型枠の中に入れてくれ」

「了解」

「お嬢さんは……」

「栞でいいわ」

「じゃあ、栞は――ぐぼぉッ!!」

 

 声にならない声を上げて吹っ飛ばされる。

 栞の鉄拳が三良坂さんを殴り抜けていた。

 

「呼び捨てにしないでくれます? ここは、そう……栞さんって呼ぶところでしょう?」

 

 本性が出た。

 他人に対しては基本ネコを被るが、とにかく我が強い。

 

「あ、ああ。悪かった、栞さん。そこの鋤簾でコンクリートを均してほしいんだが……その前に、スコップでコンクリを突いてもらっていいか? 砕石が隠れる程度まで。渉も、その作業が終わったら栞さんに合流してくれ」

「どうしてスコップで突くの?」

「こねたばかりのコンクリって、中がスカスカなんだよ。だから、こうして」

 

 三良坂さんは、流し入れたばかりのコンクリートをスコップでガシガシ突いた。

 

「あ……!」

 

 すると、その面だけがわずかに低くなった。とともに、気泡が浮いてくる。

 

「見てのとおりだ。コンクリの中に空気が混ざってるから、このままだと強度に問題が出る。何年か経つとヒビが入ってしまうというわけだ」

「なるほどな」

 

 俺は、そこいらに投げてあったタフブネの中から、まだかろうじて残っているコンクリート(厳密には、砕石が混ざっていなければモルタルというらしい)をスコップですくい取り、型枠内に溜まったコンクリートに投げ込んでいく。

 三良坂さんと栞は、気泡が出なくなるまでスコップでひたすらに突きまくる。

 

「ふー、こんなもんか。ついに最後の工程だ。今日の」

「鋤簾で均すのね。一本しかないようだけど、三良坂さんはなにをするの?」

「渉と、あんた……」

 

 栞が睨みを利かせる。

 

「いいか。栞さんは鋤簾で、渉はコテを使ってコンクリを均してくれ。俺は、その間にタフブネやほかの道具を洗って片付けをする……わかるな? もう五時を回ってる」

「あら、ほんと。渉、さっさと終わらせて帰りましょう」

「……おう」

 

 作業が終了したのは、五時十五分だった。

 あぁ、やっぱり。集中していると、あっという間に時間が過ぎていくな。

 

「三良坂さん、いい汗をかけました。今日はありがとう」

「うまくコンクリが固まるといいけどな。栞さん、明日は来るのか?」

「いいえ。あなたが最低限信頼の置ける人物というのはわかりましたから。明日も弟を宜しくお願いします」

「恐縮なことで。渉はどうだった?」

「別に……明日も宜しく」

 

 軽く会釈をした。

 

「明日の午後に型枠をどかして、きっちり出来てるか確かめるからな。出来てたなら、レンガの仮積みをやろう」

「明日、何時集合にする? 六時か?」

「どのみちコンクリートが固まってないしなぁ。まあ、七時集合にしようや。というか俺、毎朝出勤してるけど、残業申請してないからな?」

 

 と、ここで、栞がこちらの方を見ている。

 ……話に入りたいんだろうか。

 

「あ……そういえば三良坂さんってさ、年いくつなんだ?」

「俺? 二十四。社会人六年目」

 

 ――視線。栞のものだ。見るまでもない。目を閉じていてもわかる。



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#03 なんの取り柄もない自分にただひとつ(3)

9/4 冒頭が抜けていたので追加しました。


 翌朝。コンクリートが無事に固まりつつあることを確かめてから、ホームセンターにレンガを買いに行った。

 ……結局、二百個以上はトラックに積んだろうか。タイヤを見ると、見るも無残に潰れかけていた。

 三良坂さんが言うには、まだこれでも過積載ではないらしい。いや、どう見ても過積載だろう、と思いながら助手席に乗り込んだけど、案外大丈夫なものだという平凡な感想しか出てこない。

 学校に戻ると午前八時を回っていたので、大慌てでレンガを降ろした。学校も終わって、さあいよいよと現場に向かったところ、コンクリートの強度が不十分ということで、作業は明日に延期となった。

 翌日の午後三時三〇分。作業四日目。満を持して、型枠を見下ろす三良坂さんと俺の姿があった。

 型枠の対角線の二隅をグイッと持ち上げる。地面から型枠が抜け始めた時の、わずかな感覚。三良坂さんと目配せをしたなら、型枠を一気に抜き取った。

 ……完成していた。コンクリートの基礎が。この上に、これからレンガを重ねていくのだ。

 型枠の解体をあっという間に済ませて、計六段あるうちの一段目のレンガを、コンクリートの基礎の上に仮置きしていった。それが終わると、いよいよ仕上げだ。

 レンガを積み上げていくのだが、その際にモルタルを練って、レンガ同士の接着剤として利用する。一枚一枚丁寧にレンガを積み上げて、コテを使ってモルタルで接着していった。

 結局七時前までかかってしまい、栞から大いに怒られた。

 この頃になると、クラブ活動や下校中の生徒からの視線がうるさくなっていた。こんなことをしていたら、いやがうえにも注目が集まってしまう。でも、個人的には、手伝いたいという由香里を宥めるのに一番苦労した……と思う。

 

 *  *  *

 

「最後の段階だな」

 

 男ふたり。今しがた集合したところ。

 時計は、午前七時を指している。今日は金曜日、完了検査の日だ。これまで四日間、必死に汗をかいてきた。

 ふと見ると、三良坂さんが乗ってきた軽トラックの荷台に土が積んである。

 

「これで最後?」

「そう、本当に最後だ。この花壇に足りないものは土と種を除いてほかにない」

 

 軽トラックの運転席に戻ると、車を発信させる。

 バックで花壇のすぐ前まで着けたなら、そのまま、運転席内でかがむような仕草をした。なにをしているのだろうか。

 

 ウイィーン……!

 

 この軽トラック、荷台が傾いて――ダンプ機能が付いている。

 あれよあれよという間に、トラックの荷台が傾いて黒土が落ちていく。

 ――ドバドバと流れ落ちる。零れ落ちている分もサービスだ、といわんばかり。

 

 ガコンッ……!

 

 落ち切ったなら、助手席に置いてあったスコップを使い、ふたりして花壇の土を整える。

 

「そうだ、渉。花壇といえば?」

「花……そうだ、花だ。でも、しばらくお預けか……」

「ほら」

 

 作業服のポケットから袋入りのパンジーの種を取り出した。花壇の中に規則正しく種を埋めていく。

 

「残りは渉が埋めてみな」

「わかった」

 

 種の入った袋から、ひとつまみ、ひとつまみ取り出しては等間隔に落としていく。

 我ながら、ぎこちない感じだった。種をすべて撒いた。

 

「……終わった。ほんとにこれで終わったんだな。ところで、これっていつ芽吹くんだ?」

「すぐかな」

「えっ?」

 

 意味がわからない。

 

「渉ーーーーッ!」

 

 下駄箱の方から由香里が駆けてくる。今日は早起きなんだな。

 

「由香里、なんでここに?」

「今日で最後なんでしょ? 渉の仕事、見ておきたくって――そちらのお方は?」

「どうも、汐町さん。三良坂といいます。宜しく」

 

 ふたりの視線が交わった気がする。

 そうか、今日が初対面か。

 

「――!?」

 

 これは……嫌悪感? 

 由香里の嫌悪感が伝わってくる。

 

「由香里。三良坂さん、いい人だよ」

「あ……渉がお世話になっています。汐町由香里(しおまちゆかり)です。今後とも――」

 

 身震いをした。

 

「今後とも、宜しくお願いいたします」

「そうだな。今後とも、という表現は正しい。なんたって」

 

 花壇に目をやる。

 純白の、青紫の、黄緑の――いつの間にやら、色とりどりのパンジーが咲き誇っている。

 

「なんだよ、これ……」

「渉、どうしたの? え、ちょっと、これ! さっきまでは確かに」

「……俺も、使用者(エッセ)の端くれだから。種だって花にしてしまうわけだ」

 

 言葉が出ない。

 

「ハッピーマウンテン市教育委員会、教育総務課。三良坂集(みらさかしゅう)。集って呼んでくれていい」

 

 *  *  *

 

「ちょっと、渉! どういうことよっ」

「栞、どうした?」

「どういうことって、言葉のとおりよっ。あの三良坂って人、公務員だって知ってたんなら、どうしてもっと早く言わないのっ!?」

「どうでもいいし……」

 

 平屋建ての一番奥にある部屋。俺たちの寝室だ。音がかなり響く。

 

「さては、渉。あんた……」

 

 「なんだよ」、と言いかける。

 

「お姉ちゃんがお嫁が行くのが嫌で、わざと紹介しなかったわねッ!」

「いや、さ。今日わかったんだよ。ホントに」

 

 後ろ暗い気分だ。俺だって、まさか公務員だなんて思わなかったから。……恐る恐る、栞の方を見る。微笑んでいた。

 

「まったく、いつまでたっても姉離れできないんだから」

 

 そのまま、俺を抱きしめる。話聞けよ。

 

「……」

 

 ふた房のうちのひとつが頭上に乗っかっている。

 

「……重たい」

 

 (第3話、終)



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#04 視界ゼロの海に落ちて(前)(1)

日本国憲法 第11条

 

第11条 国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。

2 ここにいう国民は、普通人である。特殊概念能力の使用者は、この限りではない。

 

 

 

 

 

 俺の名前が呼ばれると、教壇の前にぎくしゃくしながら立った。席を離れる際の、後ろからの視線がもどかしくてしょうがない。

 由香里、頼むから見ないでくれ。恥ずかしいんだ。

 

「はい! ということで、今回、道ノ上くんが学校に新しい花壇を作ってくれました」

 

 和田先生が、朗らかな笑顔とともに讃えてくれる。

 ――目の前を見ることができなかった。身体中から、痺れるような感覚が打ち昇ってきたから。

 相変わらず、ざわざわとしている。和田先生のことなど露知らずとばかり、雑談に興じる生徒たち。声が止むことはない。見慣れた光景だ。

 

「……」

 

 恐怖に打ち勝って、教室内を見渡した。

 真面目に聞いているのは、どうやら俺の仲間と、あとは……教室の後ろ端にいる、いつもの四人組だろうか。

 彼ら彼女らは、ただ聞いてるだけじゃない。適度に仲間同士でざっくばらんに話し込み、笑いあいながら、それでも先生が言った内容を理解しているという。俺には真似できない連中だ。

 残りはお喋りをしている。先生の話は耳に入っていない。

 

「先生、みんなに聞いて欲しいことがあるの。道ノ上くんは、悪いことをしました。暴力という悪い行いです。でも、彼は、『何かを壊そうとした』ことを『新しい何か』を創ることで償いました。みんな、いいですか……」

 

 あの、すぐ後だった。校長先生と和田先生が完了検査を行った。

 結果は、文句なしの合格点。「パンジーがきれいだね」という校長先生の言葉を思い出す。「これは概念力(ノーション)によって咲かせたんです」とは、さすがに言えなかった。

 ああ、もどかしい! もどかしいって、こんな感情だったんだな。

 

 *  *  *

 

 休憩時間。

 教壇のあたりで取り囲まれてしまう。例の四人組に。

 一年生の時も二年生の時も、彼等が体育祭、文化祭、その他もろもろの行事を取り仕切ってきた。俺なんかとはわけが違う。人生を楽しんでいる連中だ。

 

「ねーねー。毎日作ってたのって、花壇だったんだね。アタシぜんぜんわかんなかった!」

「道ノ上くん。ボクも技術教室の前のパンジー見たよ。綺麗だった」

 

 なんとか言葉を返そうとする。

 

「あ、あの……藤原さんも、安田くんもさ……見てたんだろ。あれ、作ったの俺じゃないんだ。あの大人の人がやってくれたんだ」

 

 藤原さんは、今どき? な感じがする女子。

 安田は、根が明るい? 真面目系の男子だ。

 

「うそよ。道ノ上くん、コテみたいなの使ってレンガにコンクリート塗ってたの、私見たよ?」

「本物の左官屋みたいだったじゃん、渉っち」

「いやいや、あれもほとんど俺じゃないから……ええと、みや……」

「宮本だよ?」

「渉っち、オレの名前知ってる!?」

「ええと、前田くん」

「あったりー!」

「えー、前田だけずるいよ?」

 

 笑顔が張り付いて取れない。耐えられなくなってきて、チラリと自分の席に視線をやる。

 すると、由香里がむずがゆそうな面持ちでこちらを睨んでいた。篤と砂羽の顔は見えない。

 ……尚吾は、露骨だった。頭を引っかき続けている。 

 

 *  *  *

 

 この日の四時間目は、技術家庭科だった。

 俺は今、窓の外に映るパンジーの花々をうっすらと眺めている。

 ……やっぱり気になるもんだな。自分で作ったものは。

 と、ここで、授業の準備をすっかり終えた技術科の沖浦先生が、

 

「はい、みんなぁ~! 前回までは、LED照明の原理や仕組みについて学んだり、製作キットを開けたり、見て触ったり、一番最初の組立てをしてみた。今日からは、いよいよ本格的に作っていこう! それじゃ、あの棚に自分のキットがあるから取りに行くように」

 

 技術教室の端にあるスチール棚。これまで自分が作ったLED照明キットが置いてある。

 前回は、照明基盤に配線やLEDライトを差し込むところまでいった。でも、今日は大変そうだ。というのも、

 

「それぞれの班に二台ずつはんだごてを配っている。使えるのは早い者勝ちだぞ」

 

 俺の目の前には、『はんだごて』なる機械が置いてある。

 LED照明キットの説明書を見てみると、どうやら『はんだ』なるものをはんだごての高熱で溶かし、電子回路から突き出ているリード線、その根元を固定するらしい。

 

『……早く、誰かやってくれよ』

 

 呟きそうになるくらい、誰も挑戦しようとしない。うちの四人班もそうだし、隣の班にしてもそうだし、ほかの班にしたって同じだ。

 電子回路に突き刺さったLEDライトをぼんやりと眺めながら、「俺って、ほんとホシュテキだよな」と思う。

 

「沖浦先生、まず先生がやってみてくれません? ボク、どうしても不安で」

 

 と、ここで安田が口火を切った。

 

「はっはー、安田、マジびびりでやんの」

「だったら前田! あんたやってみたらいーじゃん」

 

 安田たちの班だ。なるほど、先生に見本を見せてもらうパターンだ。賢い。

 そんな言葉を受け、沖浦先生は、技術教室の全体を見渡す。

 

「君達。何つまらないこと言ってるんだ、何事も実践! そらそら、恐がらずにやってみるべし!」

「……」

 

 俺は、はんだごてを手に取った。もう十分に温まっている。

 恐る恐る、はんだをリード線の根にもっていく。

 ……由香里も、篤も、砂羽も、俺の手元に視線を集めている。失敗が許されないわけじゃない。でも、やるなら本気だ。

 勝負は、一瞬――

 

「ねえねえ、道ノ上クン! はんだ、アタシにも付け方教えてよっ」

「!?」

 

 藤原さんだった。ほかの三人も。

 俺たちの班に遠征(?)している。

 

「え……こ、こうじゃないのか?」

 

 ええい、ままよ。とりあえずやってみる。

 電子回路上に等間隔に並んでいるリード線。抵抗器とやらを接着するため、はんだをその根元に近づける。

 視線を集中する。ゆっくりと、はんだごての先をはんだに当てる。

 

「……お! 溶けはじめた。すごいなぁ」

 

 誰かが感想を漏らした。安田だと思う。

 ……はんだの粒が、電子回路に垂れ落ちた。あっという間に固まる。

 

「うわあ、すごーい!」

 

 色めきたつ女子ふたり。藤原さんと、ええと……忘れた。

 

「やるやん! 渉っち。一番乗りとかマジやべえ。オレがやったら指が溶けちまいそう」

 

 前田だった。『渉っち』という、とんでもない呼び方をしてくる。もしや、こういう口調が流行ってるのか?

 

「ねえ、ほら、みんなも来て? 渉くんのはんだ付けが見られるよ?」

 

 思い出した! 宮なんとかさんだ。

 淑やかな声が響くと、導かれるようにみんなが集まってくる。

 

 ガタタッ、という音を響かせて誰かの椅子が床を転がる。多分、尚吾だ。

 

「おおい、鵜飼! どこに行くんだ、授業中だぞ!」

 

 尚吾はそのまま退出する。いや、まだ退出すると決まっちゃいないが、あいつはそういうヤツだから。そんなことより次のはんだ付けだ。

 

「もうちょっと、もうちょっとだ……!」

 

 心の声が漏れてしまう。

 震える手。由香里は、所在なさげにこちらを見ている……と思う。

 はんだを、はんだごての先に当てる。たったこれだけのことなのに、どうしてだろう。ひどく疲れる。不慣れ、だからだろうか。慣れたら楽しくなるんだろうか?

 はんだは、さっきと同じく一瞬で液状化した。水滴が落ちて、電子回路の穴を塞いだ。そのまま次々と、銀色の水の粒が――くるくると落ちる。

 最後に、はんだごての先端でもって、落ちたばかりの液体を撫でていく……ひとつめの抵抗器の接着に成功する。

 

「へえ~、こんな感じなんだ。アタシもやってみよっと」

「先達の存在はありがたいね。ボクは、うまくできない気がするけど」

 

 みんな、自分の席に戻ろうとしている。

 と、ここで、沖浦先生がなにやら頭を抱えている。教壇にいるので余計に目立つ。

 ――目の前を由香里が通り過ぎた。帰ろうとする安田たちに向かって、

 

「ね、ねえっ、よかったら……あたし達と、一緒にやらない?」

 

 教室中が黙りこくってしまう。

 こんな不気味な静けさ、初めてだ。

 

「え、ええーと? 塩……田さん?」

汐町(しおまち)だよ」

 

 由香里の苗字を間違えてしまっている。

 ……ええと、誰だっけ。宮……宮……

 教室内は、静かだ。

 

「汐町サーン、あのねー、えっとねー」

 

 前田が、訝しむような視線を送っている。さっきまでは余裕ぶってたのに。

 教室内は、静かだ。

 

「どうしたの? だめなの? ……いいじゃん、合同班。やってみようよ」

 

 由香里は譲らない。

 教室内は、静かだ。

 

「ちょ、ちょ、待って。沖浦センセに確認しないとまずいっしょ! ね、安田!」

 

 藤原さん。クールな対応をする。頭の回転が早そうだ。

 教室内は、静かだ。

 

「う~ん。まあ、そうだよね。でも、合同班も面白そうだなあ」

「わかった、安田くん。あたしが聞いてくる」

 

 由香里が走り出した。沖浦先生の元へと。

 教室内は、静かだ。

 

「……沖浦先生、お考えのところすいません、ちょっといいですか」

「お、すまんすまん! 生徒に気を遣わせてしまって! どうした?」

 

 教室内は、静かだ。

 

「……」

「……」

 

 話し声は、聞こえない。不安な気持ちで眺めるばかりだ。

 ふいに、篤と砂羽に視線をやった。目が合うと同時、視線を落とすふたり。強張っている。

 教室内は、静かだ。

 

「……」

「……」

 

 ――教室内は、静かだった。

 

「よお~し!」

 

 と、気合を入れながら、沖浦先生が俺たちの方を振り返った。

 

「これから第七班の四人は、それぞれが第一から第四までの各班にひとりずつ散ってみよう。いいかい、これは汐町さんの素晴らしい提案を受けてのことだ。先生の個人的体験だけどな、普段は交流することのない人と接すると、自分という人間が深まるんだぞ」

 

 静か……じゃないな、これは。

 なんだろう、血の気が引くというか、そんな感情の奔流があちらこちらから伝播してくる。

 

「……」

 

 周りを見渡す。

 篤は、どこか苛立った指の動きをしている。砂羽は、凍りついた面持ち――指先は、震えている。当の由香里は、晴れやかな笑顔で凱旋の途中だ。

 沖浦先生は小さくガッツポーズを決めている。



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#04 視界ゼロの海に落ちて(前)(2)

「ねえねえ、三人とも、どうだった? ほかの班は」

「……俺は楽しかったよ。安田たち、いい奴だった……と思う」

「篤は?」

「あんまり喋ることはできなかったな。『はんだごて貸してよ』とか『うまいね、見本みせて』とか、最低限な感じ」

「砂羽は?」

「もうわたしに話しかけないで。由香里のこと、もうずっと嫌いになる」

「ごめんって。でも、ああでもしないと、あたし達、いつまで経っても」

「……いつまで経っても、ずっとこのままでいいよ」

 

 空気が重たい。

 俺は、手元にある握り飯をほおばるのをやめて、

 

「な、なあ……ん、ぐっ!」

 

 喉の奥で米粒が舞っている。けど、ここで割り込まなくて、いつ割り込むというんだ。

 

「俺、さっきさ。沖浦先生の気持ち、わかったんだ。あることに困ってて、でも、由香里の話を受けてなにか閃いて……って感じだった」

 

 ……沈黙。

 押し破ったのは、篤だった。

 

「砂羽。その考え方も正しいよ。僕たちはほかの人とは違うんだから。砂羽は悪くない」

「……」

 

 砂羽はいじらしげに篤に視線をやる。

 

「だから、由香里と仲なおりしよう。たったこれだけの仲間なんだから」

 

 ここで、俺は後ろの席にいる女をチラリと見る。

 ……間違いない。机を蹴り飛ばしたいと思っている。そんな感じだ。

 

「……なにそれ、あたしが馬鹿みたいじゃん」

「由香里! 僕は、そんなこと言ってない。でもさ、色んな考え方があるだろ」

「いつもそうやって煮え切らないよね。篤はさ、いったいどっち寄りなの? こないだの地域学習会、参加したよね? うちの学校で来てる人は少なかったけど、みんなと一緒に勉強したり、ゲームしたり、喬木(たかぎ)議員のお話きいたりしたよね?」

「行ったよ。行ったさ。でも、それは国府高校の過去問が目当てだった」

「……ふーん」

 

 由香里は、さっと立ち上がったなら、篤のすぐ傍へと。

 

「やめろ! 由香里」

 

 すんでのところで、ブロックに成功する。篤の机をめがけて、蹴りを打とうとしていた。

 

「由香里。やめよう。何人か、こっちを見てる」

「篤! そうやって、いっつも冷静ぶって! それじゃあさ、篤はさ、砂羽と同じ考えなんだ……いつまで経っても閉じこもったまま。なんのためにこんな遠くに来たの!」

「由香里!」

 

 小さいながらも、確かな怒気をはらんだ声だった。次の瞬間、教室全体をさっと見渡したなら、

 

「よかった。本当によかった。昼休みが騒がしくて。せっかく由香里が頑張ってくれたのに、無駄になるところだった。ごめん」

 

 そう告げたなら、言い争っていた相手に笑ってみせる。

 かくいう俺は、耳を澄ませていた。

 

「大丈夫だ。誰にも聞かれてない。念のため、途中からは聞こえないようにしといたから」

「……」

 

 由香里は、すっかり押し黙ってしまう。

 そして俺は、ダメ押しとばかり、

 

「やめにしよう。どっちの考え方も、その……一理、あるだろ」

 

 篤は、席を立った。由香里の顔を見ている。

 

「由香里。言い過ぎた、ごめん」

 

 重たい沈黙。一理ない、ということだろうか?

 すると、砂羽が身を乗り出すようにして、

 

「わたしもごめん。でも、由香里、今しか言えないと思うから、言うよ」

 

 砂羽は、ボソボソとした声の調子で、

 

「わたし、ここに来てよかったって、思ってない。あんなことしなくてよくなったけど、生活が苦しくなった。みんなの家にも、ガスとか水道とか通ってないんでしょ? ご飯は少ないし、何日かに一回しかお風呂に入れないし……もういやだよ」

 

 か細い声。気持ちを伝えようとしている。

 

「それに……この近くに、あの、国府(こうふ)の森があるんでしょ? あそこの人たちが戦ってる場面、見たことあるけど……わたし、どれだけ修行してもあの人たちには勝てないって、そう思った」

「砂羽。心配ないよ……ないから」

 

 心に寄り添おうとする篤。重苦しい呟き。

 

「もういいだろ。考え方が違ったって」

 

 だめだ。月並みな言葉しか出ない。

 

「だからだよ」

 

 由香里がささやいた。いずれか知らぬところに視線をやりながら。

 

「新しい出発、したんだよね。あたしたちは。だったら、ここをいい環境にしようよ。自分達の力で。待ってるだけじゃ、環境は苦しいまんまだよ。ねえ、みんなと仲良くなろうよ。今日、ついに最初の一歩を踏み出すことができたんじゃない!」

 

 ……予鈴が鳴った。俺は、食べかけのおにぎりを見下ろしていた。

 気が付けば、その一部分が落っこちている。椅子の下に。けっこうなサイズだ。

 それを拾い上げて俺は、口に運ぶ。

 

「……」

 

 ホコリの味がした。じゃり、という音が耳内で響く。



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#04 視界ゼロの海に落ちて(前)(3)

 俺と由香里、ふたりの掃除当番は正面玄関だった。

 先のちびた竹箒。ないよりはマシだが、いかんせん性能が悪い。

 

「なあ、由香里。さっきのことだけど。ごめん」

「なんのこと?」

「味方、できなくて」

「ほんとにそう思ってる?」

 

 じっと、俺の目を見ている。すぐに堪えきれなくなって……目を逸らしてしまう。

 

「ほら、やっぱり。ゴメンだなんて、そんなこと思ってないんだ」

「ああもう、そうですよ! どうせ上っ面でごまかそうとしてましたよ! すいませんね」

 

「でも、気遣ってくれたんだ」

 

 あらためて、その瞳を見つめようとする。

 なんだかヘンだ、いつにも増してこの、どぎまぎとした感じ。

 

「遣われても嬉しくないくせに」

「うん! 嬉しくない」

 

 満面のスマイル。

 

「由香里はさ、強すぎるんだよ。なんで、どうして、そんなに平気なんだよ。こんな針のムシロみたいな環境で……ん?」

 

 悪寒がする。

 

「あ~、ついに本音を出したな~、無理しなくていいんだぞっ、それっ!」

 

 いたずらっぽく笑いながら、竹箒で俺の背中を小突いてくる。

 

「出してねえし」

「出してたし~! なあんだ、渉も仲良くしたいんじゃん!」

「違うって、そういう意味じゃ……! あっ」

 

 誰かの影。東の門から入ってくる。

 

「あれは……」

 

 その影は、先日、パンジーの種を植えたばかりの花壇で止まった。

 花々に目をくれたなら、さっとひるがえって、俺たちがいる正面玄関の方へと。

 

「おい、由香里。あれ」

「……!」

 

 嫌悪感が伝わってくる。

 そのまま影は、こちらへと。

 

「おーい、集!」

 

 手を上げて挨拶を返す。集は、やや早歩きになった。

 

「先週ぶりだな、ふたりとも」

「集、よく学校に来るのか?」

「いや、たまーにだな。届け物とか。今日は別の用事だ」

「へえ、どんな」

「ヨウジンケイゴだ」

「へえ! どんなことするのか教えてくれよ」

「渉! もういいでしょ」

 

 ここで、由香里が割り込むのだった。

 

「なんでだよ、俺達の恩人じゃないか」

「恩人?」

「集が花壇づくりを手伝ってくれなかったら、今日みたいに合同班になるのだって、夢のまた夢だったんだから」

「……それは」

 

 恨めしそうな面持ちになる。

 

「三良坂さん。ちょっといいですか」

 

 ようやく、集の方を向いて話し出す。

 

「先日は、渉がお世話になりました。でも、今は掃除中なんです」

「あ……そうだな、見てのとおりだよな。ごめんごめん! 時間とらせて。また今度な」

 

 そう言って手を振りながら、正面玄関に入っていく。

 歩く姿をまじまじと見ていた。

 

「あたし、あの人きらい」

「なんで? いい人だろ」

「そういう問題じゃないのよ……あれ、渉?」

「……」

 

 まただ。

 また、悪寒が襲ってきた。ナニカが来ている。

 

「どうかしたの?」

「なんか、変な感じがする。西門からだ。あっちの方は、篤と砂羽が掃除担当だけど……いやまさか、あのふたりがこんな不穏な印章(シンボル)を出すなんて」

「……あたしも感じた。いま」

 

 由香里の視線の先。それは、確かに西側の校門だった。

 でも、違う。この感じは、篤でも砂羽でもない。

 

「……あれか」

 

 校門付近に、三名分の人影が現われた――遠くからでもわかる、これは圧倒的というやつだ。こちらの方に近づいてくる。

 初老ほどの男性の隣に、それぞれ男と女が附いている。侍衛(プレシディオ)だろう。早い話が警護役。

 

「……」

 

 考えている間に、俺達のすぐ近くまで辿り着いてしまう。

 

「……」

 

 この人達は、お客さんだ。俺と由香里は、おおげさに道を開ける。

 ただ、じっと待つ。じっと……

 やり過ごしたいと願う。

 

「……」

 

 わずかに顔を上げる――目が、合ってしまった。女の方と。

 なにやら気まずい。目線を逸らす。

 

「あら? あんた、どっかで見たことある」

 

 パンク? な髪型の女だ。

 額から頭頂部に至るまで、ツンツン頭のショートカット。かと思えば、もみあげのあたりからツインテール? が伸びている。

 

「覚えてる? 景山(かげやま)よ。山野辺の聚落(じゅらく)で会ったことあるでしょ? ウチは、アンタのこと覚えてるよ。ねえ、道ノ上渉(みちのうえわたる)くん」

「ええと、たしか……秋の奉納祭りで……太鼓、教えてくれたような」

「そうそう~! でもさ、なんでこんなところにいるわけ? ここ、備後国府町(びんごこくふちょう)でしょ? あ、確かそう、ハッピーマウンテン市と合併するあたりで引っ越したんだっけ? それならさ」

「おい」

 

 男の方だ。

 無骨な感じだった。上背がある。

 

「ごめんね川上。ちょっとだけ」

 

 同僚にそう告げた後で、

 

「すいません、喬木(たかぎ)様。ちょっとだけいいですか? 同郷なんです」

 

 喬木というらしい、六十過ぎほどの男に寄っていく。

 ……角刈りのような髪型だった。スラリとした長身、灰色調のスーツがばっちり決まっている。

 部下の要望に応えて、その手を右胸の前に掲げる。「よい」というサインだろうか? ゆっくりと喋りはじめる。

 

「同郷? そうか。わかった、好きにやれ。わしは公務を済ませてくる。校舎内では別の警護を頼んである」

「喬木様。オレと景山がいれば十分でしょう?」

「そーですよ。わたしと川上のふたりもいれば」

 

 わかる。

 今、この喬木という男の表情がわずかに歪んだのが。

 このふたりは、主人の顔を見ないのだろうか?

 

「どういうことじゃ? それは」

 

 苛立ち。この男が示した感情。空気が変わる。

 

「それはなんじゃ? 安心ができるということか? お前たち、訪れたこともない場所で、いったいどういう根拠があってそんな無責任なことが言える」

「! それは」

「え、ええーと……」

 

 口を噤んでしまった。

 

「会議に参加した人間が刺客じゃったらどうする? どうやって責任をとるつもりじゃ」

「……」

 

 ふたりとも、何も言わない。

 心の底から後悔している顔つき。

 

「ここは学校。わしらがイニシアチブを持つ領域ではない。餅は餅屋、ということだ」

「す、すいませんでしたっ」

 

 景山が、さっと頭を下げる。

 川上と呼ばれた男が主人の傍に寄った。

 

「喬木様、恐れ入ります。誰が、いったい誰が警護役を勤めるかだけでも教えていただけませんか」

「ふむ……」

「あ、喬木議員。お疲れ様です」

 

 ――集。集だった。

 玄関口から、ヌッと現われた。スリッパを持っている。

 

「喬木議員、お世話になっております。本日は宜しくお願いします」

 

 俺は例のふたりの方を見た。見るからに気圧(けお)されている。

 

「あちらが、喬木議員の侍衛(プレシディオ)の方々ですか?」

 

 集は、そう言いながら、ふたりの方へと歩いていく。

 そして、

 

「初めまして。この度、喬木議員の警護を勤めます、ハッピーマウンテン市教育委員会、教育総務課の――」

 

 自己紹介を終える前に手をかざしたのは、川上だった。

 

「いや、いいんだ! あんたほどの人がオレ達に気を遣わなくても」

 

 景山は、川上の後ろに隠れているような、いないような。

 

「わかりました。では、喬木議員。こちらへ」

 

 よく見ると、その手にはスリッパのほか、靴ベラも持っている。

 集に導かれて、喬木が玄関へと足を踏み入れようとする。振り向いた。

 

「川上。景山。恥になることはするなよ」

「かしこまりましたっ!」

 

 恭しく敬礼をする。主人が校内に入ってしまうと、敬礼を解いて、

 

「さて、それでは」

 

 川上が俺たちを見た。何歩分かこちらへと。

 無意識だった――俺は由香里を守るように立ち塞がる。

 

「いま思い出したよ、お前たちのことを……景山よ。そいつらは故郷を捨てた連中だ。三年前に、道ノ上(さとる)という者を中心にして、いくつかの世帯が山野辺を離れた」

 

 『逃げたんじゃない』と叫びたかった。背後で、由香里の激情を感じる。

 

「あ、そういうことだったんだ! ウチ、知らなかった」

「構ってやるな。こいつらは負け犬だ。使用者(エッセ)としての重責に負けたんだ」

 

 まずい。これ以上は、由香里が俺の前に出てしまう。

 

「あんたら、どうしたの? 弁解したっていいのよ? 別に負け犬でもいいじゃない。逃亡には成功したんだから。でも、あんたたち、あんまり楽しそうじゃないわ。ねえ、知ってる? 逃げ出した先に楽園なんかないのよ?」

「……掃除に戻ります」

 

 俺は踵を返そうとする。

 

「どうした! 悔しいのなら力を示してみろ……オレ達のルールは覚えてるだろう?」

 

 俺は呟いた――すぐ後ろにいる由香里に対して。

 

「由香里。頼むから何もするなよ。この連中の意図はわかるだろ」

 

 言った直後に、景山がにじり寄ってくる。

 

「ねーねー、とにかくさ、あんたらはこんなところで消耗してるってわけね? 最後に忠告しといてあげる……そうね、よく考えたら、あんたって悪くないわ。あんたじゃなくって、親の方が低能チキンだったって話よね。ええと、なんだっけ、そうよ……『児童虐待を受けた子どもに責任はありません』てやつね。新聞折込に挟まってた広報誌に書いてあった」

 

 背中に圧を感じた。由香里の手が触れている。

 ……涙。悔しさの感情だ。

 ああ、皮膚を握るなよ。痛い痛い!

 

「はあ~あ」

 

 ワザとらしく、ため息を吐きながら前に出てみる。

 

「あ、そ~だ!」

 

 アホみたいな声だな。我ながら。

 

「どうしたの? 道ノ上渉くん……えっ? なに……これ……」

 

 景山は硬直している。俺の能力で視界を盗ってやった。

 ――すぐさま走り出す。その脇を抜けようとして。

 思い知らせてやる。

 

「どうだ、見えないだろ――!?」

 

 抜けた! と思った。思っていた。その矢先、景山のつま先が俺の足首を捉えていて――

 

「うがっ!」

 

 すっ転んでしまう。

 

「痛、くっそ……あ、ぎ、ぎああああぁッ!!」

「キャハハッ! こいつ、煽り耐性なさすぎじゃない?」

 

 ヒールの踵。それが右手の指の付け根を踏んづけている。

 

「うわ、だっさ、こいつ! ねえねえ、大人に手を出しちゃだめだよね。あんた、いまウチらの目、見えなくしてたでしょ~? なんて珍しい概念力(ノーション)ッ! でも」

「あぁ……ぐ……う……」

 

 痛みが引いた。ヒールが浮いたから――

 

「がっ! い、いぎああああああああああぁぁッ……!」

 

 直後。ヒールの踵で踏み抜かれる。

 

「いい? 目なんか見えなくても、ひよっこを転がすなんてわけないの。あ! そうだ……ねえ、ほかの生徒にも見てもらおうよ。ほらほら、何人かもう集まってきてる!」

 

 目を閉じている。痛みを紛らわすため。

 でも、わかる。こいつは、嬉々として俺を見下ろしている。

 

「基本的人権ってやつの適用除外でよかったわ。ほんと、さまさまね」

「景山よ。待て。これ以上、生徒連中が駆けつけることはない……わからないか? 微かではあるが、こいつからまた別の印章(シンボル)を感じる。おそらく、一般人(エンス)の聴覚を封じているのだろう」

 

「へー、印章(シンボル)ね。こんなもん」

 

 ジャララ、という勾玉同士が擦れる音。

 使用者(エッセ)の手首に巻かれた装飾品、鬼食免(きじきめん)を眺めているのだろう。

 

「こんなクソみたいな石で概念力(ノーション)の発動状況がわかるなんて、一般人(エンス)の連中、ほんとに信じてるのかしら? ごまかそうと思えば、いくらでもごまかせるのに。追い詰められた状況だったり、よっぽど威力があるヤツを打とうとしてるなら話は別だけど」

 

 ……痛い。とにかく痛い。

 

「う……う、あぁ……クソッ!」

「『クソ』じゃねーだろうが、年上に向かってよぉーッ!!」

「いづぅッ!」

 

 右手指の骨が軋んだ。真っ赤な激流が体中を駆け巡る。

 畜生、畜生、畜生――

 

「……景山よ」

 

 川上というらしい男。呆れたような声色だった。

 

「俺はそこで煙草を吸ってる。早めにしろよ」

 

 (第4話、終)



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#05 視界ゼロの海に落ちて(後)(1)

「ぎ、い……あぁ……!」

「なに叫んでんだよ。おねーさん達に生意気な態度とってごめんなさい、だろぉ? おい、さっきなにしようとしてたんだっけ? 大人に暴力ふるおうとしたんだよなあ、クソジャリがよお。生意気に」

「……」

「なんか言うことあるだろ? ほら、負け犬みたいにワンワンって、鳴いてみなよ」

 

 痛すぎてそれどころじゃない。

 ……考えろ、道はある。でも、まずは、変数を……変数を、作り出す……。

 

「……わん、わん」

「アハハハハハハッ! こいつ、本当にワンワンって鳴きやがったっ」

 

 快哉して、この女は由香里の方を向いた……と思う。

 

「ねえ、女の子。あんたも大変だね。こんな低脳ゴミクソチビ野郎なんて友達にもってさ」

 

 由香里は、黙っている。

 

「もしかして、彼氏とかだった? こんな弱い奴やめといた方がいいよ~」

 

 由香里は、黙っている。

 

「なによ、その顔。いやいや、冗談よ。そんなに恐い顔しないでったら~!」

 

 由香里は、黙っている――多分、心のなかで笑っているんだろう。

 この女の愚かさを。

 

「景山さん、でしたっけ? 足元、ご覧になってください」

「……え?」

 

 鉄の味が口内を支配している――唇の裏側にあるもの、すべて。前歯から奥歯まで、しっかとこの女の足首に噛み付いている。 

 

「! てめえぇーっ、なにしやがったっ!」

 

 大したタネはない。俺が噛み付いている部位の感覚を失くしてやった。

 絶叫とともに俺を振りほどこうとしている。死んだって離してやるもんか。

 

「このガキッ!」

 

 が、ついに肩に蹴たぐりが命中した。引き剥がされる。

 

「……!」

 

 サッと身を起こして、後退する。

 景山の方を見やる。

 

「……チッ!」

 

 舌打ちをしたのは景山じゃない。由香里だ。

 俺の方に歩いてくる。追い越してしまう。

 景山と対峙した。開口一番、

 

「この度は、真に申し訳ございませんでした」

 

 が、お辞儀はしない。

 

「おそれいりますが、お引き取りください。傷が浅いうちにお退きになることをお勧めいたします」

 

 顔が笑っていない。

 

「許すわけねーだろ、ボケッ。こうなったら本気でやってやるよっ」

「……寒い?」

 

 思わず身震いをする。なんだ? 何が起こっている?

 

「霧?」

 

 凍てついた……凍てついた霧が、拡がっているッ! あっという間に、この周辺を包み込んで――

 

「由香里!」

 

 まだ、なんとか視界は生きている。

 

「なんだよ、これ……」

 

 景山が右手を振り上げるのが見えた――たちまちのうちに集まっていく冷気。やがて、それらは塊となって、

 

大気の氷精(ブルーブレイカー)ッ! どうよっ」

 

 女の右腕、その延長線上に氷柱のような剣が生える。

 

「くらいなっ」

 

 剣を振り上げて向かって来る。

 さて、どうする?

 

「待ってください!」

 

 由香里の声がする。

 が、躊躇はない。氷の剣の矛先は、前方にいる由香里へと――

 

「由香里!」

 

 すんでのところで回避する。俺が声を出す前に真後ろに跳んでいた。

 

「ちょっと、そこの雑魚。さっきからうるさいよ。あんたも斬ってやろうか?」

 

 どこだ? 霧のせいで視界が怪しい。

 ……見つけた。景山は微かにしか見えないが、角度的に由香里だけは見える。

 

「ご迷惑をおかけしました。申し訳ありません」

 

 再び謝罪に出る。今度はしっかりと頭を下げている。

 

「本当に、すいませんでしたっ! 今後は、このようなことがないように注意を徹底してまいります。どうか、どうかこの度の件についてご配慮くださいますようお願いします」

 

 景山は不敵な笑みを浮かべている。

 

「そこの美人さん。ちょっといい? ウチね、難しい言い方わかんないの。もっと簡単に言ってみ?」

「……彼を諦めてください」

「だめえぇ~~ッ! こいつは、これからウチが家に持って帰ってぇ~、いろんなことして遊ぶんですぅ~~!」

「どうしたらいいですか?」

使用者(エッセ)なら、わかるよね?」

 

 睨みあう両者。視線をカッチリと合わせている。

 

「おい! 煙草の火が消えちまっただろう」

 

 割り込んできたのは、さっきの川上という男だった。

 霧が薄くなっていく――概念力(ノーション)を解除したのだろう。 

 

「お前たち。さっきも言ったとおりだ。こっちの意図は伝わってるよな? 戦いがしたいんだよ、戦いが。オレたちはプロだ。この道をギブアップしたお前さん達とは違う……いいか? 少しでも多くの経験と知識が欲しいんだよ。これから生き残っていくための! さて、そこの女。お前がどうしても戦いたくないなら、こいつを解放してやってもいい。ただし、その場合はお前さんに来てもらう」

 

「……」

「無論、オレ達に勝てば話は別だ」

 

 男は、にやついている。

 由香里は何も言わずにいる。

 

「……あー、わかった、わかったよ。ハンデ無しというのは酷だろうからな。この女、景山秋実に一撃当てられたら勝ちでいい」

「決まりですね」

「おいっ! 由香里」

 

 由香里は振り向いて、どこか悟ったようなスマイルを俺に向けた。まっすぐ、景山の方へと。

 ――右手の人差し指が天を向いている。心なしか左右に揺れている。

 

「ちょっと、あんた。言っとくけど、女だからって手加減しないよ? 歯とか折られてもいいなら、好きにおいで」

「そうですか? じゃ、遠慮なく」

 

 景山に近づいていく。

 

「阿呆な子……え!?」

 

 この戦いの部外者となった俺にもわかる――景山は動けないんだ。

 由香里はどんどん近づいていく。右手の指の振れはさらに大きく。

 

「お前、なにしやがったっ」

 

 女のすぐ前へと至る。

 

「どうかしました? 年上さん」

「……」

「あたしの勝ちですね」

 

 景山に触れようとする。

 

「引っかかったね、このアホッ!」

 

 速いッ!

 回し蹴り。その右足を、地面に固着した靴から抜きながら蹴りを放っていた―― と、俺が認識したその時、すでに由香里はいない。

 読んでいたのだろう。身を屈めている。敵人の残った片足を両手で掴んだなら――押し倒すッ! 見事、尻餅をつかせることに成功する。

 

「ぐっ……ああ、もう……ウチの負けかよ……くやしい」

 

 悔しがる景山をよそに由香里は立ち上がり、こちらを振り向くのだった――満面の笑みとともに。



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#05 視界ゼロの海に落ちて(後)(2)

「はっはっはっ! よくやったな……認めるよ。景山の負けだ」

 

 川上だった。大げさな拍手とともに近づいてくる。

 由香里は俺の隣に走り寄って……手と手が触れる。

 

「いったいどうやったんだ? オレに教えてくれよ」

「企業秘密です」

「そうか、残念だよ」

 

 由香里の手の温もりが伝わってくる。

 

「改めて。オレは、川上清大(かわかみせいた)という。どうだい、記念に握手をしてくれないか」

 

 すぐ傍にまで歩いてくる。差し出された、左手。

 由香里も、恐る恐る、左手を差し出そうとする――止まった。

 ……いったんは止まったものの、またゆっくりと、その手を川上に近付けていく。

 握手、成功――ああ、わかった、そういうことか。

 由香里は、眉をひそめながら、

 

「どこまでも汚いんですね」

「……なんだと?」

 

 川上が舌打ちをする。握手のまま。

 

「あなたのそれって、系統的に、魔導……ですよね? それ、使ってる時って、大気中を舞っている原子とか、分子とか、あと、電子や陽子の状態とか、どこまでイメージしてます? 例えば、真空状態とか……あれ、もしかしてあたしの声、聞こえてないですか?」

「……!」

 

 途端に息苦しい様子になる、川上。

 別に、由香里が騙し討ちにしたわけじゃない。今しがた、確かに見えたから――由香里への殺意が。

 でも、このままじゃまずい。『由香里、逃げろ!』と叫ぼうとした。叫べない。かくいう俺も、息が苦しい。

 

「ぐ、……え……ゲ、ゲホッ、ゲホッ!」

 

 川上は、握手をしていた手を切り離すとともに、足を振り上げる――ゴッ、という乾いた音。放たれた上段への前蹴りが、由香里の額あたりに当たった。

 見ていることしかできないわけじゃない。傾いた由香里の体を抱き止める。

 

「ゆ……かり……」

 

 意識が危うくなってくる。どうしたって酸素が薄い。そんな中でも、俺の眼は、憎悪とともにこいつを睨んでいる。

 

「……て、めえっ、ぶっ、殺してやるっ!」

「ぬんッ!」

 

 ――風圧。

 濁った風だった。身体が、身体が押さえつけられているッ! 動けない……。

 由香里を抱きかかえたまま、膝をつかされてしまう。

 ――由香里を見た。

 鼻血が出ている。悔しそうな面持ちだった、肩で息をしている。術者にしたって、苦しい空間に違いない。

 川上を見ると、喉元を押さえていた。苦悶に満ちた顔つきで。

 

「渉。ごめ……んね」

「なんで、お前が謝るんだよ。俺が、俺が――あぐっ!」

 

 血が流れ出る。

 真上の方向からの風の刃。肩と膝頭が切られている。

 

「ほんっと、馬鹿ねぇ」

 

 景山の声が聞こえてくる。いつの間にか後ろの方に移動している。

 声の調子は良さそうだ。それなりに離れているのだろう。

 

「どうして握手なんかしようとしたの? 山野辺で、聚落(じゅらく)で、あんた達は、いったい何を学んできたの? まあ、こうなったら、もう詰みね。川上が操る大気の刃で、そのまま切り裂かれなさい……て、おーい、川上! もう、ほかの生徒がこっちに気づいてる。軽く二〇人はいそう」

 

 ――感覚を研ぎ澄ます。

 

「……」

 

 西門側には、掃除を終えた生徒らがいる。こちらの様子に気が付いている。

 一方で、東門側にはほとんどいない。大丈夫だ。でも、そのうち寄り付いてくるだろう。

 

「がッ!」

 

 風の刃が、肉体を切る。

 背中、首元、胸、上腕、ふくらはぎ。

 ロクに動けない状況で、ありとあらゆる箇所が切られていく。

 

「うおっ」

 

 すんでのところで、頭を直撃していたであろう一撃を回避する。

 身体中に血が滲んでいる。

 

「……」

 

 由香里の顔を眺める。目が合った。

 目が合っただけなのに、一瞬で自分が何をすべきかを理解する。

 顔を上げた。まずは敵の姿を捉える……すべてはそこからだ。

 

「う、ぐ、おおぉ……!」

 

 男の息苦しい姿が目に映っている。

 そうだ、どっちにしたって苦しいんだ。俺達だけじゃない。あとは……!

 わかった。ようやく。

 濁った風なら、なんとか見える。けど、こいつが出している風の刃は見えない。

 しかしながら、今まさに、これとはまた別の印章(シンボル)が漂ってきている。すなわち、誰かが発動させたであろう、これとは異なる概念力(ノーション)が、今この場に現出しているということ。

 篤? いや、砂羽か? とにかく、誰かがこちらを援護しようとしている。

 

「おい、由香里。おいったら!」

「は、はぁ、あ……!」

 

 呼吸が荒い。首元には風による切り傷が。流血している……庇ったつもりだったのに。クソッ!

 拳を握り締めて、正面を見据える。

 誰が概念力(ノーション)を発動させようとしてるんだろうか。わからない。懐かしいような、でも、この感じは明らかに違う。感じたことのない質料(ヒュレー)だ。

 ……このまま、何も動きがないんなら。やるしかない。

 

「決めた。アレをやる」

 

 その時だった。

 パアンッ! という、固い床に濡れた雑巾を打ち付けたような大きい音とともに――風が消えた。

 視界が、開ける。

 

「なんだ? 何が起こった? ……ウッ!」

 

 目の前には、人間の形をした物体が――石畳に突き刺さっているような、へばりついているような。そう、まるで、車に轢かれた犬や猫がアスファルトにこびりついている。そんな物体があるだけだった。

 

「誰だ?」

 

 いったい誰だ? こんな概念力(ノーション)を放ったのは。

 

「ああ、川上、川上ぃ!!」

 

 絶叫が響いた。

 切り裂かれるような、大事なものを失ってしまったような、心の叫びが伝わってくる。

 

「まさか、生きてる?」

 

 その物体は折れた腕を必死に伸ばそうとしている。

 

「渉! 渉ッ!」

 

 走り寄ってくる、何者かの姿があった。

 これは、そう――

 

「砂羽ッ!」

「やったぁっ♪、殺せちゃったぁ~!」

 

 砂羽だった。

 

「見てみて、渉。アレ、骨と内臓が剥き出しになってるよ♪ 駆逐数1ポイントゲット! これで累計1,435ポイント! うちエッセ使用者の数、ちょうど1,000ポイント……ねえ、渉。もっと敵いないの? 今度は、手二本と、足一本もぎ取りたい! 足が一本だけ残るんだよ! 一本だけ。なんかそれって、逆ミロのヴィーナスみたいでかっこいいでしょ? あ、まだいる! 残ってる! あのメスの手足、一緒にもぎ取ろうよ。それで、もぎ取ったら死体処理屋さんに持っていって、お金もらって、帰りにまた四人でラーメン食べよう?」

 

 朗らかな笑みを浮かべている。

 ……これは、ただの笑顔だ。感動に満ち溢れた恍惚だとか、頭がおかしいんじゃないかってくらいのスマイルだとか、嬉しすぎてよだれを垂らしているとか、そういうんじゃない――あれは、いつもの笑顔の範疇に入る。

 

「さてと」

 

 俺は、拳を握りしめると、

 

「あうっ!」

 

 砂羽の頬をひっぱたく。

 鈍い音とともに、砂羽が体勢がのけぞった。

 そのまま両肩を掴んで、

 

「横尾砂羽っ! 目を覚ませ!」

「ハッ! あ……わたし、また……」

 

 しばし、沈黙が支配する。

 ばつが悪そうな顔をしていた砂羽も、十数秒が経って、

 

「渉。詳しい話はあと。今は逃げよう」

 

 いつもの口調に戻る。

 

「……砂羽がやったのか。今の」

「半分正解。半分はずれ」

 

 砂羽はそのまま、座り込んでいる俺と、そして、由香里の手を取った。

 サッと身を翻して、三人で東門側にある駐輪場に進もうとする。

 すると、

 

「渉! 大丈夫だったか」

「集!」

 

 集が駆けつけていた。

 スリッパのまま、こちらに走り寄ってくる。

 

「集。さっき、校舎の中に入っていったんじゃ」

「これだけの印章(シンボル)が渦巻いてるってのに、公務どころじゃない。会議は中止にした」

「さっきの重力系統(グラビタス)のやつ、この人が、わたしに質料(ヒュレー)を分けてくれたの。だから、あんな早い時間で強力なやつが打てたの……さ、ふたりとも。今のうちに」

「今のうちにって?」

「だから。逃げるの」

 

 そう言って、砂羽は急かすのだった。

 

「……渉、横尾さん。もう遅い。時間切れだ」

 

 諦念を漂わせつつ、集はそう言うのだった。

 

「どういうこと……あっ!」

 

 今さっき、集が出てきたばかりの正面玄関。

 そこに、喬木の姿があった。

 茶色い革靴を履いている。ゆっくりと歩いてくる。

 

「……お前達。どうしてこうなった?」

 

 部下ふたりの前に聳え立つようにして、低い声で唸りを上げる。

 景山は、必死の形相で、

 

「そ、そ、それは……あの子たちが、その……山野辺という聚落(じゅらく)出身の使用者(エッセ)なんですが、その界隈でも特に強い家柄の子どもたちで……」

「強かったから、負けたと?」

「……いいえっ、ウチが弱かったからですっ!」

「そうか。お前さんが弱かったから負けたんじゃの」

「はい……」

 

 うつむく景山。

 

「川上よ、お前はどうなんじゃ?」

 

 川上に視線をやった。

 息も絶え絶えだった。なんとか痛みを堪えながら、

 

「そ、れは……不意打ちです!」

 

 辛うじて動く指先が、砂羽と集に向けられた。

 そんな姿を見下ろして喬木は、

 

「……二言はないのう?」

「は、はい! し、神聖な勝負を、そいつらが汚したからですっ、不意打ちで!」

 

 喬木は、おもむろに右手を顎髭にあてる。

 

「ならば聞くが、景山が双手刈りを受けて転んだ時、どうして醜聞を捨てて助けてやらなんだ? あの時点で、敵の巧さは悟っておったろう? なあなあで収めればそれで済んだろうに」

 

 見るまでもない。川上の顔は、絶望に覆われている。

 

「それはそれとして、あちらの女子との戦いについてじゃ。お前さん、握手の時、不意打ちの風刃であの子らを切ろうとしておったのう。問題は、周囲の真空化によってそれが使い物にならなくなったあの時じゃ。あの子の顔を、その靴底で蹴り飛ばして優勢に立っていたのう……川上よ。なぜ、さっさとトドメを刺さんかった? 真空化の効力は半減しておった、ある程度は風の刃も通る。ならば、全力をもってあの女子の心臓に風のナイフを突き立てておれば、お前の勝ちで終わったものを。どうして、嬲り殺しにする方を選んだんじゃ?」

 

 川上の震えが止まらない。

 

「お前、わしに嘘をついたな。不意打ちなどではない、お前が油断したからこのような結果になった……さてと」

 

 喬木は、倒れ伏している川上のすぐ傍に寄った。

 

「待ってください! 喬木様、お願いします。ウチの唯一の同郷なんです、おねが――も、申し訳ありませんでしたっ、ごめんなさい、ごめんなさいっ」

「景山よ。これが目に入らんか?」

 

 喬木がかざした手には、長さにして二〇センチはあろうかというニッパーが握られていた。

 刃先には、無数の血がついている。

 

「ひいぃッ!」

 

 景山が腰を抜かした。

 川上は、土下座に近い状態で頭を下げるばかり。

 

「……」

 

 その足が振り上がったと思った瞬間だった。

 靴底が、川上の首を踏み潰した――べキィッ! という、ある意味快活な骨の声が響いたなら、周りのざわめきが最高潮に達する。もう、すでに五〇人以上は集まっている。

 ……当の本人は、殺したばかりの男の亡骸を見て、澄ました面持ちを保っていた。

 

「さて。侍衛(プレシディオ)が一人いなくなった以上は、また転職エージェントに当たる必要があるのう。どこにするか……おお、大事なことを忘れておった……景山、もうひとり欲しいか?」

 

 景山は、震えた顔で亡骸を見ていた。何も答えない。

 

「どうした、いらんのか」

 

 無言で、うんうんとうなずく。涙が滴っている。

 喬木は、俺達の方を向いた。

 

「三良坂くんよ! 今日の会合は、もうナシなんじゃろ。また案内の手紙を出してくれ」

「わかりました。早い日にちをセッティングしますね」

 

 ……集の声がよく聞き取れない。周囲が騒がしいから。

 「人殺し」「またあいつら」「追い出せばいいのに」……様々な声が聞こえてくる。

 

「おお、忘れるところじゃった。そこのふたり」

 

 これで終わりじゃない。喬木は俺たちの傍へと。

 正直、凄まじい迫力だった。緊張の一瞬――

 

「ようがんばっとったの。一般人(エンス)しかおらん環境に来てみて、どうじゃ?」

「あの、まあ、元気で……」

 

 とは言いつつ、俺はこの人のことを知らない。この人は知ってるんだろうか?

 

「喬木議員、すいません」

 

 由香里だった。

 ティッシュで鼻を押さえながら会話に入ろうとする。

 

「おかげさまで平和に過ごしています。その切は、どうもお世話になりました」

「ゆっくり休みなさい。三年か、早いものじゃな。少年よ、なにか苦しいことはないか?」

「大丈夫……です。おかげさまで、その……友人に恵まれてます」

「それはよかった……うん、なら、もうええ。じゃあの」

 

 一瞬だけ。

 ただ、その一瞬だけで、その場から喬木一行、という空間要素のひとつが消えた。

 見ていた者たちは、何事もなかったように校舎へと吸い込まれていく。やがて、こちらを見ている者はいなくなった。

 俺達は、四人で固まっていた。由香里が肩に寄りかかっている。鼻血が止まっていない、ティッシュで拭いてやる。

 

「!」

 

 ふいに、また別の印章(シンボル)を感じる――!

 

「みんな、伏せろ!」

 

 叫んだとともに、由香里を押し倒していた。

 ナニカ。燃えたぎるナニカが差し迫っている。わかるのは、それだけだった。もう少し、もう少し時間があれば……! 

 その時だった。ガキィンという、金属がレンガに跳ね返ったような音とともに――灼熱に燃え上がる槍が、玄関前に落ちた。

 バウンドを経て石畳の上に横倒しになった槍。橙色の火がしっかと燃え盛っている。

 

「おーい、大丈夫か!」

「篤!」

 

 真上を見上げる。

 校舎屋上、落下防止用のフェンスを乗り越えたところ――

 篤だった。離れていてもわかる。その瞳を、獲物を捕らえるために研ぎ澄ましている。

 

「すぐに行くからな!」

 

 そう叫ぶやいなや、屋上から飛び降りる――

 俺は、いまだに燃え上がっている槍を見た。概念力(ノーション)を解いたことで、あっという間に消えていく炎。

 槍の正体は、長さにして一メートルほどの鉄杭だった。篤が得意とする核熱系統(ニュークリウム)の魔導だ。

 また上の方を見る。人間が落ちるにはあまりに遅いスピードで、篤がゆらゆらと落ちてくる。地面まで数メートルまできたところで、概念力(ノーション)を解いて、さっと着地を決める。

 

「ずっと、見てたんだ。あのふたりと戦ってるところから」

「さすが、元班長はレベルが違う」

「もちあげるな。それより、由香里の様子は」

 

 由香里は、俺の肩から離れて歩き出す。

 ぎこちない足取りだが、大丈夫そうだ。

 

「篤、ありがとう。来てくれたんだ。大丈夫よ、もう少し休んだら質料(ヒュレー)も戻るから」

「ならいいんだが。でも、もう私闘はやめた方がいい。使用者(エッセ)にとって、新たな概念力(ノーション)を知るのは大事なことだけど……もう僕たちは、違うんだから」

 

 言い終わると篤は、集の方を向く。砂羽も。俺も。

 由香里は向いていない。

 

「なあ、集。教えてくれよ。さっきの人って」

「なんだ、知らなかったのか? 喬木直利(たかぎなおとし)。ハッピーマウンテン市議会議員七期目。広島県水平委員会委員長。ここ数十年、破竹の勢いだ。文教族で、若い頃から被差別集落問題について取り組んでいる」

「そういうことじゃなくて……」

「いろいろとガチな人だ。子どもの時から差別を受けていることもあって、一般人(エンス)に対する憎しみは相当なもんだ。水平委員会の言うことを聞かない企業や学校への襲撃も行っている」

「いや、それよりも」

「わかってる。あの人の概念力(ノーション)についてだが……さっき見たとおりだ。喬木議員にとっての人間の心というのは、まるで気心の知れた機械製品みたいなもんだ」

「……俺、もう疲れたよ」

「よし。頑張った渉くんにご褒美だ」

 

 集は、カバンから封筒を取り出す。

 

「なんだ、これ」

「今日、ここに来たついでに渡そうと思ってな。渉と由香里さん宛てで」

「……すいませんけど、名前で呼ばないでもらえます? 助けていただいたことには感謝してますけど」

「すまない、汐町さん。今度からそう呼ぶよ、うん」

 

  解散となった。

 俺は、由香里の手を引いて教室に戻っていく。砂羽も、由香里の手を引いている。そんな砂羽の手を篤が握っている。

 ああ、もう。なんだよこれ。



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#05 視界ゼロの海に落ちて(後)(3)

次回は5.5話です。
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「大丈夫か」

「うん、だいじょうぶ」

 

 放課後の駐輪場。ふたりきりだった。

 恐る恐る、由香里の手を取る。氷のように冷たい。

 

「無理、したんだな」

「無理も無理、大無理よ! あの空間、ほとんど真空にしてやったの……渉も、息できなかったでしょ?」

「いいから、もう帰ろう。明日は学校休むんだぞ」

「だめ。せっかく、今日はみんなと仲良くなれたのに……渉だって」

 

 そう言って、俺の手を握り返す。

 

「ねえ、今日は一緒に帰ってほしいな」

「なんでだよ! もうとっくの昔に中学生になったろ。男子と一緒に帰るなよ」

「ええ、なんで? たまにはいいじゃない」

「なんでも、だ」

「だからさっ、どうしてよ? 幼馴染なんだから、一緒に帰ってもいいじゃん」

 

 その肩を、俺の方に寄せてくる。

 自分の髪の毛を掻いた。

 

「……わかった。一緒に帰ろう。ああ、でも。集からもらった手紙を教室に忘れてきたんだ。ちょっと待っててな」

 

 ポツンと佇んでいるアルミ製のベンチに由香里を座らせると、足早に校舎内へと突入した。

 

 *  *  *

 

 教室の扉は、開け放たれていた。遠目から、机の中に手紙があるのを確かめる。

 俺の足は、一直線に進もうとする。が……。

 

「……だよね」

 

 誰か、いる。中から声がする。

 

「ねー、そーよね。あいつら、ほんっとナニ考えてんだろ! アタシら、もしかしてさあ……」

「待ってよ、藤原さん。めったなことを言うもんじゃない」

「……安田くんこそ待ちなよ? 想像してみてよ。殺されちゃうんじゃない、私たち」

「宮本ちゃん。だから憶測でそういうこと言うなって。それってさ、国府(こうふ)の森に入った人の話だろ? あの四人は違うよ、きっと」

「……どうして? 私、本気で心配してるのよ? こんなこと言いたくないけど、はっきり言うわ。あの人たちがどうして学校に通うことができるの? だって、使用者(エッセ)には戸籍もないんでしょう? パパもママも言ってたけど、ハッピーマウンテンの教育っておかしいよ」

「前田は、どう思う? ボクの意見について」

「なあ、安田っちさあ。そうしょげた顔すんなって。もう、明日からあいつらに絡むのやめような? オレら友達じゃん。ずっと仲良く、楽しくありたいじゃんか」

「そーだって! アタシいやだよっ、あいつらが人殺しじゃなくったって、ほかに仲間がいて、そいつらが前田や安田や宮本のこと傷つけたりするかもじゃんっ」

「どうしてもダメか? 僕は、僕は、なんとしても」

「うん。安田くん。『ダメ』だよ? あの子たち……『人間』じゃないんだよ? 見た目は似てるけど」

「ふあーあ。安田っち。つまんね」

「ねえ、アタシらさあ、ずっと友達だよね?」

 

 ――心臓の高鳴り。

 

「ボクには、願いがある!」

 

 動悸が激しい。

 スライド扉にもたれ掛かった。ずるずると、下に落ちていく。心も。

 

「僕の志望校、三人とも知ってるだろ。どうしてもあの国府高校に進学したいんだ。でも、合格するためには、どれだけ成績がよくっても、それだけじゃダメなんだ。ライバルは、みんなほとんど満点近くを取ってくるから」

 

 たった、四人だけの教室。決して五人にはなれない。

 

「でも……そう、内申点! それさえあればライバルに差をつけられる! こないださ、和田先生に呼び出されてさ、言われたんだよ。あの四人をクラスに溶け込ませてほしいって。あなたは、このクラスの交友関係の中心だからぜひお願い、って調子で頼まれたんだ。それでさ、僕」

 

 震えが止まらない。

 片方の手で頭を抱える。もう片方の手でひざを握った。

 

「僕、和田先生に言ったんだ。『国府高校に進学したいんです』って。そしたらさ、先生さ、なんて言ったと思う? 『安田くんは成績もいいし、クラスメイトのことを真剣に考えられる子だったら国府高校に推薦できるよ』って言ったんだ……三人とも、わかるだろ。僕の気持ちがさ」

「わっかるけどさぁー、安田さ、それにしても命まで掛けることはないっしょ」

「そうだよ、安田くん。私だって進学したい高校はあるよ。でも、それは正々堂々とした手段で行くべきであって、こんな手段、間違ってるよ?」

「なあ、安田っち。確実でもなんでもなくって、オレの勘だけどさ。あの四人のうち、二人ぐらいは人殺してるよ。火のないところに煙は立たないって。そりゃさ、友達としてどうかって言われたらさ、嫌いとは思わないけどさ、でも」

「汐町さんたちが不幸な境遇にあること、わかるよ。私だって、ものごころついたばかりの頃から人を傷つけるための技術を磨いたり、化け物と戦ったりしないといけない環境に生まれたら……辛いよ? でもね、無理だよ! 今、目の前でおしゃべりしてる人が、人を殺してるなんて想像したら……無理だよ……」

「わかった、みんな。心配してくれてありがとう……諦めるよ。国府高校には自分の力だけで挑戦する。そうだよね、先生に媚売って下駄を履かせてもらうなんて。恥ずかしいよね、人間として」

「……」

 

 俺は、その場で立ち上がった。

 

「じゃあな」

 

 呟いた。歯軋りとともに。

 振り返ろうとして俺は、足がふらついて、その時だった――スライド扉にぶつかってしまい、ガタガタ、という音が響く。

 

「!」

 

 扉の向こう側から伝わってくる感情――これは、恐怖だ。

 

「……」

 

 緊張が急に解けた。なにもかも、どうでもよくなる。

 教室へと、足を踏み入れた。不思議だった。今までで一番入りやすい。

 ……俺が俺であると認識する藤原、安田、宮本、前田の四人。

 もういいんだ。感情は嫌というほど伝わってくる。

 自分の机まで歩いていく。中から覗いている封筒を手に取った。

 

「……」

 

 帰り際、四人の顔を見た。どんな顔をしてるんだろうか?

 見えなかった。自分の涙で。心臓の鼓動が高まっていく。誰にも届かない鼓動。

 一歩、彼らへと踏み出す。

 

「ごめんな」

「……え?」

 

 頭を下げる。

 

「ごめんな。そんな想いさせて。仲悪くさせて」

 

 声を出す者はいない。

 ほんっと、クソだよな。なんだよ、この展開。

 

「俺がさ、ひとりでさ、和田先生を脅迫してたんだ。俺たちをクラスに溶け込ませないと……そこらへんの道路でぺしゃんこになってる犬猫みたいになっちゃいますよ、って」

 

 ああ、これは馬鹿なやつだ。俺って、ほんと低能だよな。

 

「……こんな人間だけど、折り入って頼みがある」

 

 ああ、もう。言わなくていいよ、そんなこと。

 つまんねー、やめとけって。

 

「どうしたんだい、渉くん。ボクに言ってみなよ」

 

 クソ野郎。

 俺たちのこと、散々利用するつもりだったくせに。

 憎い、憎い、憎い……ああ! なんて憎いんだろう! 嫌だ! こんな感情は嫌だ!

 

「……由香里。でもさ、由香里だけは違うんだ。あいつは、絶対に人を傷つけたりなんかしない。そういう奴なんだ。だから……このまま、ずっと……仲良くしてくれ。頼む」

 

 土下座をしていた。

 なんで、どうして、という感情はとうに過ぎ去っている。やってしまった今では、妙に冷静な感情が湧いてくる。

 

「わかったよ。渉くん、顔を上げてよ」

 

 そう言って、俺の肩を叩いた。

 ……なんだ? 笑っている? 涙でよく見えない。

 

「関係ないよ、そんなの。どうだっていい。汐町さんだけじゃない。君たち四人ともみんな、もうとっくに、僕達の仲間じゃないか!」

 

 俺の両手を取ったなら、グイッと引いて起こそうとする。起こした。

 

「僕達の、新しい関係は……今日だよ。今日、始まったばかりなんだから」

 

 安田が微笑みを投げる。

 

「……安田。ありがとう」

 

 伝わってくる、心――こいつは、嘘をついている。

 

 (第5話、終)




次回は5.5話です。
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#06 「あなたの名前はなんですか?」(1)

「おはよう、渉。ちょっと来てくれる?」

 

 午前七時四十五分。自室を出たところで栞に声を掛けられる。

 いつもの時間に起床し、布団をたたんで、寒い廊下に出て、汲取式のトイレで用を足し、洗面台で顔を整え、学生服に着替えて、カバンの中を確かめ、居間に弁当を取りに行くところだった。

 しいて言えば、考えごとをしていた。洗面所の蛇口から出てくる水が濁っていたから。

 

「栞、おはよう」

 

 うわの空で返事を返す。

 まだ、考えごとに耽っていた。昨日は雨だったから水が濁るのは当たり前だとか、我が家で数少ない電気設備である地下水の汲上げポンプが故障したらどうなるんだろうとか、とにかく色々と考えていた。

 

「ねえ、渉」

「……ん?」

 

 この時、ようやく気が付いた。

 居間に誰かいる。

 

「栞。誰か……いる?」

「お父さんよ」

「……!」

 

 恐る恐る、居間の様子をうかがう。

 襖の先は見えないけれども、気配がありありと伝わってくる。

 

「取って食われたりしないって」

「いや、だって久しぶりすぎるだろ」

「渉は一年半くらいだっけ? わたしは、月に一度は会ってるけど」

「生活費の受け渡しだろ? ったく、それぐらい銀行振込でいいだろ」

 

 ため息を吐くようにして栞は、俺の両肩に手を置いた。

 

「ダメなの。親子なんだから、どれだけ会えなくても、会える時には会っておくものなの」

「そんなこと言っちゃってさ、こっそりいいモン食べてるんじゃないのか? 親父と会ってる日、いっつも帰り遅いじゃん」

「大人には色々あるの! さ、入って入って!」

 

 この年にして姉に手を引かれ、居間への敷居をくぐる。

 カララ、という、襖が開く音――この時、俺には前を見ようという気持ちが起こらなかった。でも、いつかは見ないといけないって、そう思ったら、自然と目が開けてきた。

 ……部屋のど真ん中にある丸い食卓。そこに、眼鏡をかけた体格のいい男が座していた。いつもは朝食に出てくるはずのない焼き魚を箸で弄っている。

 その男、俺の父親である道ノ上覚は、さっとこちらを振り向いたなら、

 

「おお、渉! 一年と九ヶ月ぶりだなあ!」

「……」

 

 いったい、何を話せばいいんだろう?

 

「細かすぎるだろ……親父」

「いいだろ、気にするな。渉、なんだか背が伸びたな。そうだ、うん……間違いなく伸びてる! 十センチは伸びてるな! ほら、もうお母さんと同じくらいじゃないか」

「母さん、もう死んでるじゃん」

 

 ここで、真後ろから栞が入ってくる。

 

「……お父さん」

 

 そう言って栞は、親父の正面に正座をする。これまで見たことのない表情で親父をにらんでいる。

 

「すまんすまん! お姉ちゃんの間違いだった! いやー、似てるもんだから」

 

 箸を持っている左手首を、クルクルと回している。

 

「栞は、ええっと、167センチだったかな?」

「そうですよ。渉は、たしか……こないだの身体測定だと、165センチちょうどでした」

「そんなにあるのか! 父さんもウカウカしてられんな!」

「……」

 

 俺は、ため息をついた。親父の体格をざっくりと眺めていく。

 ……おそらく、190センチ以上はあるだろう。体格もガッシリしている。ワイシャツ越しにでもわかる、馬鈴薯がさらに肥え太ったような上腕二頭筋が目立つ。

 

「もう学校行くよ」

「行ってらっしゃい」

「あ、ちょっと待ってくれ。ちょっとでいい」

「なに?」

 

 親父の手に、なにやら紙が握られている。

 『ああ、あれか』と俺は思い、肩をがっくり落とした。

 

「渉よ。確かにな、うちは昔から貧乏だ……でもな、進路希望が「就職」なんてのは、ちょっと父さん、認めるわけにいかない。高校には行った方がいい。父さんな、最終学歴が中学校卒業でな、はっきりいって、生きるのに苦労した。栞だって、できれば高校に行かせてやりたかったが……今では人生の後悔のひとつになってる」

 

 俺は、その場で足をブンと振り上げる。

 炊飯器を蹴っ飛ばす――フリをした。

 

「俺の進路だろ。好きにさせろよ」

「……いいから、父さんの横に座りなさい。まだ時間はあるだろう」

 

 誰が座ってなんかやるかよ。

 そう思った直後だった。ああ、なんか息が苦しくなってきた。いや、静かなんだけど、空気が重苦しいというか。

 

「ねえ、渉。姉さんのいうこと、ちょっとだけ聞いて」

 

 それだけ言ったなら、俺の方を見やる。

 

「朝からこんな話になって悪いんだけどね。姉さんね、いま勤めてるお店のパートだって、面接に通るまでに三〇社以上も落ちたの。学歴のせいにしたくない。自分が悪いんだって思いたい。でもね、どうしても……」

「アー、アー、分かったよ! 分かった!」

「なにが分かったんだ?」

「俺はよお、さっさと社会で働きたいんだ! 学校から居なくなりたいんだよ!」

「どうして? 友達、何人もいるじゃない」

「理由なんか、話したってわっかんねーだろ! で、それで……そうだよ、就職、だけど」

 

 対峙。沈黙。停滞。

 親父は、所在なさげに箸を振るっている。俺の方は見ていない。

 ……搾り出すような声だったと思う。 

 

「公務員になってやるよ」

 

 親父が箸を落とした。

 

「なにを馬鹿なことを」

「お父さん。お願いだから渉のことを馬鹿って言わないで。馬鹿じゃないわ。成績はとても悪いけど」

「公務員でも、今どき中卒採用なんてやってるものか。それに、うちは水平委員会に加入していないし、していたとして、今の時代じゃコネも使えない。いったい、なにがどうして公務員になるなんて無責任なことが言えるんだ?」

「今はわからない……でも、相談できる人ならいる」

「……ほお?」

 

 卓上に落ちていた箸を拾い上げる。

 栞は溜まりかねたように、

 

「それ、心当たりあるわ。三良坂さんでしょう?」

「そうだよ」

 

 また箸を落とした。今度は、畳の上に。

 

「あ~、なあ、渉よ! その人が当てになるかはいったん置いといてだな、あ~」

「親父。もし、俺が公務員に採用されたら……就職の件、了承してくれよ」

「仮定の話にウンとは言えないな。それに、その、三良坂さん……だったか!? その人に相談したって、いい答えが返ってくるとは限らないだろう。彼にとって、お前はそんなに優先順位が高い人間なのか」

 

 カバンを開けて、あの時、集からもらった手紙を取り出した。

 栞に手渡す。

 

「なにこれ?」

 

 ……訝しむような言葉とともに、しばらく手紙を読んでいた。

 読み終わった後、親父に渡す。

 

「栞。どんな内容だった?」

「お父さん、まずは読んでみてください」

 

 

 

ハ教総 第 22 号

永化3年4月23日

 

保護者 様

 

ハッピーマウンテン市教育委員会(教育総務課)

 

 第40回文化会館まつりの動員について(依頼)

 

 この度、ハッピーマウンテン市教育委員会社会教育課の主催におきまして、みだしの行事を実施する予定です。

 つきましては、貴家の道ノ上渉様を運営スタッフとしてご派遣くださいますようお願い申しあげます。

 なお、同氏に対しては、別途ご依頼を申しあげ内諾を得ております。 

 

                     記

 

1 行事名

  第40回文化会館まつり

2 業務内容

  風船釣りコーナー運営(開催準備、代金収受、会場監視、後片付けなど)

3 日時

  永化3年5月5日(こどもの日) 集合時間 午前8時

 

 

 

「……やめておきなさい」

「なんでだよ」

 

 無慈悲。そんな言葉がぴったりと似合う。

 親父は――その手紙をびりびりと引き裂いてしまった。

 

「なにするんだよ!」

「お父さん……やりすぎですよ」

 

 親父は、その場で立ち上がった。

 

「上手くは伝えられないが……渉よ、公務員を目指すのは自由だ。父さん、認めるよ。でもな、この動員依頼は別だ……渉よ。利用されてるんだ、お前は。だから、ここに行くのはやめておきなさい。いや、やめろ……というか、その手紙は保護者宛てだろうが! なにを勝手にしまい込んでる」

 

 厳しい視線だった。動けない。

 

「……!」

 

 俺は、逃げ出した。それはもう惨めに。

 ああ、クソッ! でも、しょうがねえだろ! 勝ち目がないんなら逃げるしかないだろうが!

 

「渉! ねえ、ちょっと。お父さんはね……渉! わかってるよね!」

 

 スニーカーを飛び乗るようにして履いて玄関を出る。かかとは踏んだまま。

 なんの舗装もされていない道路に走り出たところで、由香里の家を見る。

 

「げっ!」

 

 ちょうど、由香里が出てくるところだった。

 気づかれないよう、コッソリと走り出した。

 

 *  *  *

 

 坂道を、ひたすらに駆け降りる。

 山沿いになっている道。下界が見えてくるにつれ、舗装状況が良くなっているのが手に取るようにわかる。

 さらに百メートルほど走ると、道沿いに砂防ダムが連なっている。あと一キロほど行けば、なだらかな丘の下に国府第三中学校が見えてくる。

 

「はっ、はっ、はっ……!」

 

 ここで立ち止まる。

 全力疾走だったから、額に汗が染み出ている。

 両膝を触りながら、地面を見つめていた。

 

「はー、はー、はー……」

 

 息が治まりつつあるのを認めて、顔を上げる。

 

「ワァッ!」

「わあああぁっ!!」

 

 尻もちをついてしまう。

 

「なに? そんなに驚いた? 昔からやってるでしょ、このおどかし方」

 

 由香里だった。といっても、目の前にはいない。

 ――斜め上を見上げると、いた。宙に浮きながら、ゆっくりと落ちてくる。

 スカートを片手で抑えながら、もう片方の手の人差し指を振っている。

 由香里の癖のひとつだ。概念力(ノーション)を使う時は、いつもああやって、ハクセキレイの尻尾みたいに指を振っている。

 

「びっくりした。器用だな」

「大気を遊ばせてるだけ」

「うらやましいよ。俺には、そういうタイプの才能はないから」

「別に。鍛えればできるんじゃない」

「無茶言うなよ。ところで、由香里はアレ行くのか。集から手紙もらったろ。文化会館のやつ」

「ああ、そういうことね」

「そういうことって……どういうことだ?」

「どういうことって、こういうことよ」

 

 由香里は、得意げに笑ってみせる。

 

「反対されたんでしょ」

 

 くそ。図星だよ。

 

「やっぱり」

「由香里は行けそうか? 動員、てやつ」

「あたしもママに反対された……でも、説得できたよ」

 

 由香里は、転がっていた石ころを蹴っ飛ばしながら言った。

 

「やるな。俺なんかさっぱりだった」

「渉、行かないの?」

 

 バツが悪い、みたいな顔をしてたと思う。

 でも、そうこうしているうち、由香里の目を見据えた。

 

「行くに決まってんだろ」

「つまんないの。どうせ決まってたんでしょ、答え」

 

 足先で、俺をちょいちょいと小突くのだった。

 

「嘘、つけないな。俺」

 

 由香里に笑いかける。それしかやることがなかった。

 

「由香里のお母さんはいいよな。明るくって、分別があるというか」

「そう? いつも家にいないイメージしかないけど。放っておかれてるだけじゃない?」

「そういうもんか?」

「そういうもんよ」

 

 久しぶりに、ふたりで通学路を歩いた。朝の時間、最後にこうして一緒に登校したのはいつだろう。もう覚えていない。

 ……本当に、それくらい久しぶりだった。久しぶりすぎて、周りからの視線が気になってしまうほどに。



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#06 「あなたの名前はなんですか?」(2)

 五月五日。こどもの日、というらしい。

 俺と由香里は、ハッピーマウンテン市文化会館に来ていた。

 

「……でかい」

 

 目の前には、見上げるほどの大きさの建物がある。高さにして、三〇メートル以上はあるだろう。

 

「でかすぎだろ、これ。市街地の方は違うな」

「あんな山奥と比べてもしょうがないでしょ。こないだも見たじゃない」

「あれは横に広かったんだ。こんなに高くはなかった……はず」

 

 由香里が一歩、前に踏み出す。腕時計を見ている。

 

「集合時間ぎりぎり。早く中に入ろうよ」

 

 暖色系を組み合わせた煉瓦タイルの上を歩いていく。

 点字ブロックをなんとなく避けつつ、正面入口へと。

 ウイイイイイイ……自動ドアが開いた音だ。

 

「これがあの……かの有名な……!」

「ちょっと。田舎者だってばれるでしょ」

「もうばれてるぞ」

「……集!」

 

 館内を見渡すと、左斜めの方向に利用者受付があった。五,六人ほどがいて談笑している。

 その辺りから、集が歩いてくる。

 

「ふたりとも、おはよう。動員協力ありがとな」

「集、あそこにいる人たちは?」

「渉! 挨拶くらいしなさい……」

 

 しまったと思いつつ、軽く会釈をした。

 すると集は、

 

「おはよう! 渉。そして、ええと、ゆか……いや、汐町(しおまち)さん。おはようさん」

「……おはようございます」

 

 斜め下へと、視線を逸らした。

 

「はは、冷たいな。あー、それで。あそこの受付にいる人たちはな、うちの職員だ。俺とは違う課で、社会教育課だ。今回のメインスタッフになる。で、渉と汐町さんが学生スタッフで、手紙のとおり風船釣りをやってもらう。ちなみに俺は教育総務課だ。動員要請に応えてる」

「へえ……」

 

 一階フロアを見渡す。

 すぐ目の前には、階段とエレベーター。右手を向くと、ガラスケースがある。野球やサッカーなどの記念品が並んでいる。

 左側には、ひたすらに廊下が広がっている。色々な部屋があるようだ。最奥にはトイレが。

 利用者受付の奥に、いくつもの机が置いてある。事務室だろうか?

 

「珍しいか」

「俺、山の方に住んでるから。こんな建物はぜんぜん」

「渉。ここからだいぶ離れてるけど、ハッピーマウンテンの中心には十一階建てのお店もあるのよ」

「十一階!?」

「はは、よし。そろそろ準備に入ろうか。こっちな」

 

 俺達は、外に出た。

 すぐ脇に立ててある看板には、「親善フットサルフェスタ」という文字が入っている。さらに、「来賓 市議会議員 喬木 直利 様」とある。

 自動ドアを出てすぐ、正面の奥に自動販売機が見えた。その脇には、しぼんだ丸型の家庭用プールと空気入れ(エアーポンプ)、ホース。それと長机、椅子が二つ、白い手提げカゴが置いてある。「風船釣り 一回200円」と書かれたプラ製の縦看板もある。

 近付いていくと、カゴの中が見えた。空気を入れる前の風船と、注射器みたいな形のなにか、輪ゴム、風船を釣るための針金と糸、プラスチックの極小パーツ、これまたよくわからない形状のプラ製の道具、バインダーに挟まった売上表、手提げ金庫、筆記用具……などなど。

 

「由香里、これ」

「あたしもわかんないわよ。なにしていいのか」

「ふたりとも。まずは、プールを膨らませよう。そのあと、このホースがあっちにある蛇口と繋がってるから、プールを水で満たそうな。で、プール作りが落ち着いたら、次は風船を作る。しんどい作業だ。九時までにやってもらう」

「よおし!」

 

 プールの空気栓にエアーポンプを繋ぐ。足で踏むタイプだった。踏むと、スコスコと音を立ててプールが膨らんでいく。

 

「うん、そんな感じだ。ある程度膨らんだら水を入れていい。さて……」

 

 由香里を見ると、白い手提げカゴから風船を取り出している。

 説明書らしきものを一瞥し、

 

「三良坂さん、教えてよ。これ、説明書があるけど、あたしだけじゃできそうにない。三良坂さん、できるんでしょ」

「いいね。積極性マル」

 

 集は、そのカゴから風船をひとつ取り出した。

 

「ああ、そうか、だめなんだ。水がない。おい渉、空気入れるのやめて、向こうにある蛇口をひねってくれ。自動ドアの右手に散水栓があるから。プールの空気は入れとく」

 サンスイセン? なんか、以前も聞いたような。とりあえず蛇口があるのだろう、と思う。

 

「はいよ」

 

 自動ドアの方に走っていく。視線は、その右手側へと。

 ええっと、サンスイセン、サンスイセン……。

 

「……ない!」

「あるって。ほら、今踏んでる!」

「踏んでる?」

 

 真下を見る。

 すっかりと銅色に錆びた蓋。よく見ると、「散水栓」と書いてある。

 蓋をめくる。中に蛇口がある。ひねった。

 

「そうだ、いいぞ」

 

 集が握っているホースの先から水が出ている。足元にあるエアーポンプを踏みながら、プールを満たしている。

 俺は、また走って戻る。

 

「散水栓……街中には、こんなのがそこら中にあるのか」

 

 水が入りつつあるプール。俺と由香里は、楽しげに見下ろすばかりだった。

 家庭用プールなんてものを見るのは、今日が初めてだったから。

 シュコ、シュコ、シュコ、シュコ……

 エアーポンプの音が響いている。

 ふと、集が踏んでいる足を休めた。屈んだなら、カラの水風船をプールに投げ入れる。

 

「よし、と」

 

 ホースを、プールに突っ込んだ。

 

「うおっ」

 

 中途半端に突っ込んだので、水の勢いでホースが飛び出した。

 足元が濡れてしまった。慌てて元に戻す。

 

「いいか。まずはこんな感じだ」

 

 集。その手には、さっきの注射器みたいなやつが握られている。

 注射器に水を入れて、今しがたプールに漬けた水風船を手に取った。そして、

 キュ、キュ、キュ……

 ピストンが鳴る音とともに、水風船が水風船になって(?)いく。

 十分に水を入れたなら、長机の方に歩いていく。

 

「まずは、この水風船の口に輪ゴムを二重にはめる。緩めでいい……さて、次が難関だ。このすごく小さい、口が開いたプラパーツがあるだろう。これをこの、お手軽パッチン、いや、俺が勝手に名付けたんだが……このセロハンテープの台みたいな器具にだな、こう、置くんだよ。それで……」

 

 説明しながら集は、お手軽パッチン? の上部にプラパーツを置いた。次いで、水風船に巻いた輪ゴムをプラパーツの口に噛ませつつ、ゆっくりと力を入れて、真下へと――パキンッ!

 

「おおっ!」

「こうやって作るのね」

 

 見事、水風船の口に極小のプラパーツが嵌まり込んだ。プールに投げ込んだところ、一滴の水も漏らさない。

 

「これを……九時までに五〇個作るんだ。あと四十五分で」

「五〇個!?」

「それで、料金は一回200円。釣れなくても残念賞で一個渡す。営業中に風船が足りなくなったら、追加で生産を行ってくれ。営業時間は、午後三時まで。目標売上は……一万円」

「一万円!?」

「そうだ。ちなみに、去年の売上は9,300円。俺がひとりで担当した……どうだ、できるか」

「……」

「やります」

 

 尻込みする俺をよそに、由香里がスマイルで応える。

 

「由香里、できるのか。一万円だぞ」

「ここで臆しちゃだめよ。成せばなる!」

「汐町さん、男前だね」

 

 ……わかる。由香里には計算がある。

 俺なんか比べ物にならないほどの頭の回転でもって、『一万円でも大丈夫』という結論を導いたに違いないし、また実際にそうだった。

 

 *  *  *

 

「ぜんぜん作れないぞ……」

「厳しいわね。あと十五分で始まるのに、まだ25個しかできてない……あんた、何個作った?」

「五個」

「……」

 

 由香里は、きっと呆れてるんだろう。

 俺は、水を入れたばかりの風船を、お手軽パッチンに置いたプラパーツに挟んだ。真下へと、力を込める。

 風船の口を縛っている輪ゴムへと、挟まっていくプラパーツ。

 ……パキッ!

 

「渉、どう?」

「だめだ。とうとうプラパーツが折れてしまった」

 

 風船の口がなかなか挟み込めない。たまには成功するのだが。

 

「なんでだろうな。由香里、やってみせてくれ」

「はいはい」

 

 軽くかぶりを振ってから位置につく。

 真後ろにいることで、髪の香りが漂ってきた。思わず、身じろぎをする。

 

「いい? 水風船の口に輪ゴムを巻いたら、このプラスチックのやつに挟むんだけど」

 

 風船と向き合う。真剣な目つき。

 

「この時、輪ゴムに噛ませるのは、ほんのちょっと。ガッツリ噛ませると、さっきみたいになっちゃう。一回失敗すると使い物にならなくなるみたいよ、このプラパーツ」

 

 由香里は、屈み込んだ。手元に視線をやる。

 

「さて、それでは――」

 

 力を入れる。輪ゴムを噛みつつあるプラパーツ。

 お手軽パッチンが、プラパーツを水風船へと嵌め込んでいく――パキンッ!

 

「……できたかしら?」

 

 水風船をプールに漬けてみる。

 ……ブクブク。風船の口から気泡が。

 

「だめね。これ、いつかはしぼんじゃう。ごめんね。参考にならなくて」

「十分だ。よーし、やるぞっ」



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#06 「あなたの名前はなんですか?」(3)

 時刻は、午前8時55分。

 

「できた!」

 

 最後に巻き返して、なんとかなった。

 ちょうど、集が玄関から出てくる。

 

「お、できたか」

 

 プールの水面に浮かんだ、色とりどりの水風船。

 赤と白、黒と青、橙と緑など、原色による組み合わせが多い。

 

『……あっ!』

 

 そうだ、公務員になりたいこと、相談したいんだった。

 

「よしよし、ふたりともよくやった。これやるよ」

 

 ビニール袋が差し出された。缶入りのジュースがたくさん入っている。

 

「これ、どこで買ったんだ」

「この館内だ。うどんとかフランクフルト、ジュースの販売をするんだ。先に買ってきたってわけ」

「サンキュー! やっぱ炭酸だよな!」

 

 炭酸飲料に目がない。ロクに小遣いもないのに、新しい商品を見るとついつい買ってしまう程度には。

 コーラを手に取った。

 

「そーだよな、渉。男だったら炭酸一択だよな! ええと、汐町さんはスポーツドリンクでいい?」

「いらないです」

「なんで? タダなのに」

「三良坂さん、公務員なんでしょ。これも一応、贈収賄に……」

「由香里、本当は好きなんだろ」

 

 俺は、ビニール袋からスポーツドリンクを取り出した。

 

「……渉がそういうなら」

 

 由香里が缶を開ける。

 パキリ、という開缶音とともに、グイッと、勢いよく飲み始めた。

 ……横目で、ちらちらと由香里を見ていた。水分を流し込んでいる喉の様子がわかる。喉仏が膨らんで、しぼんで。膨らんで、しぼんで。

 ただ、なんとなく。本当になんとなくだった。見ていたくて。ずっと。

 

「いよっ、男前! 女なのに」

 

 集だった。

 

「ぶふぅっ!」

 

 由香里が、煉瓦タイルの上に液体を吹き出してしまう。

 

「おい! だ、だいじょう――ぶしえええええええええええええええぇッ!!」

 

 刹那だった。右ストレートが集の胸部に直撃していた。

 その一撃は、圧縮された空気の炸裂をそのまま体現するかのように、大人の肉体を撥ね飛ばした。

 

「集、大丈夫か!?」

 

 すぐさま立ち上がるも、腰を押さえている。

 

「あ~、痛って」

 

 集がこっちに戻ってくる。仁王立ちの由香里。

 ――対峙。

 

「汐町さん、冗談きついって。俺も悪かったけどさ」

「あなたも使用者(エッセ)なんですから、このぐらい大丈夫でしょう!? もう話しかけないでください」

 

 由香里は、フイとこちらを振り向く。憮然とした様子で。

 

「由香里。そこのベンチで休もう」

 

 俺の手を取った由香里、ベンチへと歩いていく。

 途中で振り向いて、口の動きで集に「すまない」を伝えた。

 

 *  *  *

 

 時刻は、午前9時50分。

 

「風船釣り、やります!」

「ボクもやるー!」

「あらあら……すいません、子どもふたり分お願いします」

「はい。400円です」

 

 会場は、保護者と児童とでごった返している。

 風船釣りをやってみたい、という子どもの行列だけじゃない。やろうかどうか迷っている子どもたちもたくさんいる。

 ……あれは、午前九時過ぎのことだった。正面入口前のスペースを使ってのオープニング・セレモニーが始まったのは。

 俺たちと同い齢か、少し下くらいの女の子たちがチアのような服装で踊り狂っていた。盛大な拍手の後は、やはり同年代による男女混成の太鼓チームによる演奏があった。

 こんなのは、学校の部活動にはない。放課後に、そういうところに通って練習してるんだろうな。

 そういうわけで、セレモニー中は暇だったのだが――

 

「ああ、残念。釣り糸切れちゃったね。じゃあ、好きなの一個、持って帰ろうか」

 

 セレモニーが終わって十分ほどが経った頃だろうか。急に、お客が入りだして――今は、ごった返す会場の中、今にも泣き出しそうな子へのフォローをしている。

 俺は、プールのところで監視やらアドバイスやらを行うポジションに就いている。

 ふと、長机の方向、由香里がいる受付コーナーを見る。

 

「三人ですね。ありがとうございます、600円です。はい、1,000円ですね……こちら、お釣り400円です。それじゃ、こっちの釣り糸を使ってください。もし取れなくても、好きなのを一個持って帰っていいですからね……あ! 列はこちらです。やりたい子は、こっちに並んでね」

 

 お客に説明をしながら、料金の授受をしながら、売上表に記入をしながら……流れるような動きで仕事を捌いていく。

 当初は、逆の役割分担だった。が、俺があまりに使えなかったので代わってもらった。

 

「いかん! プールの空気がなくなってきた」

 

 立ち上がるとともに、足踏み式のエアーポンプを動かす。

 スコスコという音とともに、水風船が浮かんだプールが膨らんでいく。

 

「それ、やりたーい!」

「え、やりたい? じゃあ、俺みたいに足の裏で押してみようか」

「やった! せーの、えいっ、えい……えいっ」

 

 シュ……シュ……

 残念。小さい子どもでは脚力が足りないようだ。

 

「……うっ、ええっ、ええんっ」

 

 涙が浮かんでいる。

 

「あ……ええと……」

 

 サッと顔を上げる。由香里を見た――どう見ても忙しそうだ。

 

「気にすんなって。小学生になったらできるから」

「……ほんと?」

「ほんと」

「でも、いまさっき、ぜんぜん、」

 

 まずいっ! 今にも泣き出しそうだ。

 と、ここで、

 

「お兄さん、ごめんなさいねー。ほら、かいくん。今度は建物に入ろう? 二階に、平安時代の生活体験ができるコーナーがあるんだって」

 

 グッジョブ。母親が間に合ってくれた。

 子どもを抱き上げるとともに、去ろうとする。

 

「あの、お母さん。すいませんでした」

「そんな、こちらこそ! ご迷惑おかけして」

 

 会釈を済ませると、親子が館内に入っていく。

 

「……」

 

 俺は、何を言うでもなくエアーポンプを踏み続けた。

 

 *  *  *

 

 時が経つのは早いものだ。もう、午前10時30分になる。

 

「落ち着いてきたね」

「一時はどうなることかと。由香里がいなかったら詰んでたよ。俺、頭の回転が遅いからさ」

「どうも。あたしだって、渉がいなかったらうまくできなかったよ」

 

 俺達は、長机に座っている。

 ふと、机上にある文化会館まつりの案内冊子が目に入った。手に取る。

 パラパラと、めくっていく。

 

「親善フットサルフェスタ……午前10時30分開会。喬木議員が来賓で来るらしい」

「ふーん、そうなの」

「どんな人なんだ? 俺、あの時しか会ったことないから」

「うーん。地域学習会じゃ、フツーにいい人だったよ? 朗らかだし、話は面白いし、お菓子くれたり」

「そりゃ、政治家なんだからさ。市民にはそっちの顔つかうだろ」

「うん。こないだのあれで、十分わかったわ。でも……悪い人じゃないと思う」

「そうなのか……って、あ」

「……」

 

 不覚。お客さんに気がつかないとは。こんなこと、今日初めてだ。

 

「あ、ええっと。風船釣り、します?」

 

 女の子だった。

 ツインテールのような感じの長い髪に、パッチリとした瞳。

 年上? 年下? わからない。でも、同年代だよな? 別の中学校だろうか。

 

「ええっと、わたし……これをやります」

 

 目が合った。ドキリとしてしまう。

 視線を下に逸らした。が、胸元に目がいってしまう。

 

『だめだ! いかん!』

 

 目線を上げる……大きかった。

 

「ハイ、や、やるんですね? ええ、一回、200円です。ここに書いてあるとおり。200円」

 

 どぎまぎしてしまう。いやいや、反則だろう。こんなに可愛いの……。

 

「? ええと、これ……なんて読むんですか?」

「……はい?」

「これ、なんて読むんですか」

「ふうせんつり、いっかいにひゃくえん」

「どうやるんですか、ふうせんつりって」

 

 『硬直』、とはこういう事態を指すのだろう。チラリと由香里を見やる。不機嫌そうだ。

 

「ええと、このコヨリ、糸の先に針金がついてるやつ。これを……」

 

 椅子から立ち上がり、この人をプールに導いていく。

 

「コヨリを、この浮かんでる風船に輪ゴムがついてるから、引っ掛けて」

「引っ掛けて……?」

 

 興味津々に見ている。

 

「引っ張り上げる」

 

 水風船を、慎重に、慎重に……釣り上げることに成功する。

 

「わぁ、上がった! こんなに弱そうなのに」

「そう思うだろ。でも」

 

 釣られたままの風船を左右に振った。

 ボシャンッ! あえなく糸は切れて、水の入った風船が水面に落ちる。水しぶきが頬に撥ねた。

 

「……やってみる? 200円だけど」

「やります!」

 

 カバンに手を突っ込んだ。まさぐっている。

 ガマグチの財布が出てくると、長机に移動してお金を取り出そうとする。

 

「ええと、これで200円?」

「……え?」

 

 一瞬、止まってしまう。それは由香里も同じ。

 差し出されたのは――2万円。百回ほど挑戦できる金額だ。やりたくねえ。

 

「ええと、これは2万円。200円がいるんだよ」

「にひゃく……? あ……もしかして……」

 

 女の子は、肩に掛けていたカバンに手を入れてガサゴソとやったなら、紙束のようなものを差し出した。

 

「え……こ、これって……?」

 

 血の気が引く、とはこういう事態を指すのだろう。

 目の前に置かれたのは……。

 

「200万円!?」

 

 由香里の声で目が覚めた。

 なるほど。これが、かの有名な札束というやつ。これだけあれば、ええと……一万回ほど挑戦できる。やりたくねえ。

 俺は女の子の目をじっと見た。

 

「?」

「……!」

 

 だめだ。ドキドキしてくる。でも、逸らさない。逸らしたら負けだ。

 

「ほら、硬貨だよ。金属のコイン。ジャラジャラしてる、銀色の」

「あ! ええと……この銀色のやつ……だよね?」

「それは2円。あと198枚ないとできないよ。ええと、硬貨の表に数字が書いてあるよね?」

「あ、そうだ……ええと、にひゃく、にひゃく……?」

 

 約一分後。

 ガマグチの中から、ちゃんと200円が出てきた。

 

「お待たせして、ごめんなさい」

「いいよ。謝らなくて……うっ!」

 

 視線が痛い。由香里を見やる。

 ――さっきと変わらず、ぶすっとしている。

 

「はい、じゃ、これどうぞ」

 

 コヨリを渡した。わずかに触れた手の感触――吸い付くような感じがする。

 また、ドキリとした。不覚。だって、ずるいだろ。なんでこんなに可愛いんだよ。こんな美人、都会にしかいないんじゃないのかよ。

 

「ええと、あなたの名前はなんですか?」

「俺? 道ノ上渉」

 

 一瞬、目が合った。やっぱり可愛いな……。

 サッと、斜め下に目を逸らした女の子。次に、由香里の顔を見やる。

 

「あなたの名前はなんですか?」

「……汐町(しおまち)由香里」

 

 由香里は何かを悟ったような面持ちになる。こういう場合、大抵ロクなことがない。

 

「わたし、梔子(くちなし)ほのか! 渉くん、よろしくね。由香里ちゃんも」

「あ、ああ。梔子さん、宜しく」

「……ほのかでいいよ」

「ええと、ほのかさん」

「……ありがとう。そういう風に呼んでくれて」

 

 ほのかは風船を釣りに行った。たった今、プールの前にかがんだところ。

 ……奇妙な沈黙が支配している。

 支配していた。

 

「へえ、あんな女の子が好みなんだ?」

「別にそんなんじゃない。たしかに可愛かったけどさ」

「でもあの子、ちょっとおかしいんじゃない?」

「おかしいとか言うなよ。山野辺にもいただろ、あんな感じの」

「チテキショーガイだって、ぜったい」

「別におかしいとは思わないけどな。字が読めなかったり、お金が数えられなくても」

「……ねえ、渉。やっぱり地域学習会いこうよ。使用者(エッセ)の子も、一般人(エンス)の子も、何十人も集まってさ。フツーにお話とか、ゲームとかできるんだよ。渉の考え方ってさ、なんかこう、ピッタリ合ってると思うよ? シソーテキに」

「行かない」

「なんで?」

「行かないって決めたから」

「だからさ。なんで? 今の、答えになってないよ」

「ここで暮らしてる限りは、ずっとそうだ。孤立してなくちゃいけないんだよ、俺達は。一般人(エンス)と交わる経験なんてしなくていい」

 

 あの時の、安田のことを思い出していた。死ぬまで隠してみせる。

 

「……で、由香里はどうして学習会に行ってるんだ?」

「さみしいでしょ。四人だけじゃ。わたし、嫌なの。どうして、こんな気持ちのままでいないといけないの? どうして、みんなわたしたちのことを無視するの? ……壁はある。でも、壊せる。それは壊せるの」

「そういうもんか?」

「そういうものよ」

 

 穏やかな笑顔を浮かべている。

 

「最近ね、安田君とよく話すんだ。彼、最初は真面目なのか不真面目なのかよくわからない感じだったけど、案外そうでもなかったよね。佳奈子だって。あたし、人を上っ面で判断してた。はぁ、情けな……」

 

「よかったじゃん」

 

 心の奥がチクリと痛んで――椅子に棘でも生えたみたいだ。サッと立ち上がる。

 

「じゃ、俺。一回目の休憩に行って――」

 

 ガシャアァンッ!

 

「!」

 

 空を見上げた。キラキラと、日光を浴びて輝くナニカが落ちてくる。

 ――正面入口の前。多くの人が何事かと立ち止まっている。

 

「逃げろッ!」

 

 俺は叫んでいた。キラキラと、輝きながら落下を続ける物体は――粉々になったガラス片だった。

 

 (第6話、終)



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#07 「Dive or Die」(1)

 最上階から、夥しい数のガラス片が落ちてくるという非常事態。

 悲鳴や怒号、絶叫が飛び交うなか、俺達は目で合図を送り合う。

 分厚い構造になっているはずのガラスが、二枚目、三枚目、四枚目と次々に割れていく。四階を見上げると、こちら一面がガラス張りになっている。

 入口は、人で溢れていた。俺達は、人ごみの合間をぬって館内へと入る。

 

「早く逃げてください!」

 

 若そうな女性職員が、階段に付いて避難誘導をしている。

 

「……集!」

 

 集が階段から降りて来るのが見えた。

 こちらに走ってくる。

 

「逃げろ。これから館内放送で避難を呼びかける」

「何が起きてるんだ?」

「四階の体育ホールで喬木議員が開会挨拶をしてたんだが……襲われた」

「襲われた? 誰に」

「わからん。今はとにかく逃げろ」

 

 またガラスが割れる音がした。ベシャアッ! という鈍い衝突音が響いてくる。悲鳴も。

 

「人手が多い方がいいんだろ」

「いいから逃げろ! 人手は足りてる」

「あたし、行きます。放っておけません」

「……死ぬかもしれない。お前達の親がここに移ってきた理由を考えろよ、こんな争いから逃れるためじゃないのか」

「でも、ここで逃げたら一生後悔する」

 

 どうして、自分がこんなことを言ってるのか分からなかった。

 由香里にしてもそうだろう。どう考えたって、今は逃げるべきだ。

 ……腹を立てていたんだ。人が必死に売店を営業していたのに、せっかく人と繋がることを経験していたのに、邪魔をされてしまった。それが嫌だった……本当に?

 

「そりゃ、お前らの事情だろ。こっちにも色々と――」

「いや、でも! 戦える人間の頭数が」

「もめてる時間なんてないでしょ!」

 

 由香里の視線。その先を見る。

 正面入口の前に、先ほどの鈍い音の正体があった。

 ――血だるまになった物体が落下していた。黒調のスーツを着ている。煉瓦タイルが赤黒く染まっていた。

 さらに、十重二十重の炸裂音が上の階から響いてくる。

 

「……いいの? あんな目に遭う人が増えるんだよ。三良坂さん、公務員なんでしょ? この街の平和を守るのが仕事なんでしょ?」

「チッ」

 

 集が舌打ちをした。

 

「お前さん、どこまでも使用者(エッセ)だな。普通の中学生はな、ワーワー言いながら一目散に逃げるのが精一杯なんだよ。あいつらみたいに」

 

 血相を変えて、階段を降りてくる一団があった。青白縞のすっきりとしたデザインのユニフォームを着ている。見た目からして、中学生か小学生だと思う。

 彼らは、俺達のすぐ横を通って外へ出ようとした。

 

「ああ、早く、早く開いてくれ!」

「はやくー、はやくッ! 死にたくないっ!」

 

 自動ドアが開くまでの僅かの間ですら、恐怖を呼び起こす。

 

「あああああッ!! 死んでる!! 死んでる!! 人がッ!」

 

 外にある死体が目に入ったことで、さらにパニックになる。

 

「チッ、手間がかかる」

 

 再度の舌打ちとともに集は、開いたままの自動ドアに小走りで近づいていく。上と下にある丸鍵を回して開きっぱなしにした。

 帰り際、先ほどの死体をチラリと見たようだ。 

 

「よかった、あれは一般市民じゃない。喬木議員の侍衛(プレシディオ)だ」

「なあ、集。行ってもいいか?」

 

 すると、少しの間を置いて、

 

「仕方ない。じゃあ、俺の考えを伝えておく……いいか? 俺は、地方公務員。全体の奉仕者だ。お前らエッセ使用者のための奉仕者じゃない。現場に行ったらそういう考えで動くからな。見捨てられて死んでも文句なしだ」

 

「よっしゃ行くぞッ!」

 

 俺達三人は目の前にある階段を昇りだした。

 

 *  *  *

 

 瞬く間に階段を駆け昇り、体育ホールに到着する。

 

「……ここか」

 

 暖かい系統の色で塗られた幅広の廊下。

 左手側は、一面がガラス張りの構造であり、彼方にある山岳を眺めることができる。今では、ほぼすべてのガラスが打ち砕かれている。

 右手側には、スライドタイプと思われるオレンジ色の扉が、手前と奥にひとつずつある。扉の近くに体育用具入れが置いてあり、ラケットや柔らかい素材のボールなどが詰まっている。

 ……以上が、体育ホール手前の全容だった。普段と異なる点は、そこらじゅうに死体が転がっていること。

 

「……決着がついたか?」 

 

 音はない。

 てっきり、血なまぐさい戦いが行われていると思っていた。

 ……そこら中に転がっている死体をひとつひとつ見ていった。ある一体は、円形の支柱にぶつかって無残な姿を。また別の一体は、廊下の奥にある卓球台にもたれかかっている。

 この二体だけじゃない。ほとんどすべての死体について、胸から腹にかけての袈裟斬りの跡がある。

 

「……」

「まさか、『ひどい』なんて思ってないよね?」

「一瞬、思った」

「その年でヤキが回ったの? さ、それじゃ」

 

 俺達は、オレンジ色に塗られたスライド式の扉に視線を注いでいる。

 

「ふたりとも。ちょっといいか」

 

 集を見ると、小学生と思しき体操服の女子――どこそこから血を流して気絶している――をお米さま抱っこしていた。

 

「今から、この子を下に運ぼうと思う。逃げ遅れて気絶してるのがあと二人いる……おい、なんだ? その目は。俺さっき、確かに言ったよな?」

 

 俺は、『わかってる』と言わんばかりに、

 

「集。もし生き残れたら、教えてほしいことがある」

「『もし』だったら、今のうちに諦めとけ。使用者はすぐに死ぬんだから」

「そうだな。じゃ、絶対生き残るから」

「『絶対』という言葉をプロは使わない。嘘つきになっちゃうだろ?」

「まあ見てろって」

 

 耳を、澄ます……。

 間違いない。この体育ホールの中では、まだ戦闘が行われている。

 

「負傷者を全員降ろすまで二人で繋いでくれ。頼んだぞ」

「はいよ」

「あたしが死んだら、保険料、あなたに請求しますからね!」

「生命保険? 入ってるのか? 一般人の二十倍にはなるだろうに」

 

 軽口を叩いて集は、足早に階段を駆け下りていった――

 

「……いい? 渉。あたしがドーンと扉を開ける。ふたりとも中に入ったら、ドーンと閉める。あとはわかるわね。思い出せる? つい三年前までやってたこと」

「当然」

「じゃ、いくよ」

 

 ……右手の人差し指を揺り動かしている。

 1,2,1,2,1,2……何度目かで、右手を――前に振り出すっ!

 ガゴンッ! と、凄まじい勢いで開扉させる。かと思うと、すでに扉の仕切りを跨いでいる。

 一瞬、後に続いた。すると、入ったが最後とばかり、開いた時と同じくらいの勢いで扉が閉じた。

 

「伏せてっ!」

 

 ナイフ。だと思った――幾筋もの光が押し迫っている。いや、これは幾筋じゃない――軽く十本は越えているっ!

 

「ぎっ!」

 

 鈍い叫び声とともに、由香里が崩れ落ちてしまう。

 ……ナイフだった。由香里の肩、みぞおち、左脚へと突き刺さっている黒い刀身。生まれたての恥じらいのような鈍い光が目に入る。

 

「……」

 

 由香里に視線をやる。うつ伏せに倒れ伏して、てんかん持ちの発作のように体を震わせている。

 枯れ絞った声――痛みを堪えている。

 俺は由香里から目を離した。周りに視線を移すと状況の一部を理解する。

 

「俺に当たるはずのやつ、叩き落としてくれたのか」

 

 不思議な感覚に包まれていた。焦っているような、いないような。冷静であるような、ないような。

 俺は、倒れている由香里よりも前に進み出る。

 もう、後ろを見ることはないだろう。いや、ない。



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#07 「Dive or Die」(2)

「喬木様、今が逃げるチャンスです!」

 

 目の前に、体育ホールが広がっている。

 学校の体育館と同じく、横に長い構造であり、俺は今、長い辺の端あたりにいる。声の主は、その真向かいにあった。

 侍衛(プレシディオ)だった。女の。

 ほかの者と同じく、黒い色調のスーツに身を包んでいる。すぐ後ろには喬木がおり、彼を守るようにして非常階段に退こうとしている。

 さらに、この女の前に、先日やりあったばかりの――景山と川上の姿があった。が、川上の方は、明らかに様子がおかしい。

 いや、ちょっと待て。様子がおかしいとかいう以前に、どうして――?

 そして、なにより目に入ったのは――慄然と彼らの前に立ち尽くす、迷彩柄を着た黒いフェイスマスクの男だった。ゴツイ安全靴を履いている。

 体躯があり、背筋がしっかと伸びている。右手には、長さにして1メートルはあろうかという真っ黒なタクティカルナイフが握られている。さっきの飛び道具は、こいつから飛んできたに違いない。

 男が、こちらを振り向いた。

 

「……!」

 

 フェイスマスク越しに、目が合った。

 

「……」

 

 俺を一瞥すると、また喬木の方を向いた。

 苦々しい面持ちの喬木。非常階段までじりじりと後退していく。

 

「逃がさんッ!」

 

 まっすぐ、その方向に走り込んでいく。異常な速度だ。そう、まるで、自動車並みの。

 

「川上、待ってっ」

 

 川上が、無言で飛び出した。景山を守るようにして。

 いたるところ、傷だらけだった。見れば、右腕が取れかかっている。

 が、なによりおかしいのは。

 

「死んでる……?」

 

 グチャリ、という不愉快な音が響いた――タクティカルナイフによる一閃。人間大の果物があったら、あんな風に弾けるのだろうか。

 川上だったものの肉体が撫で斬りにされると、どす黒い血が男に撥ね返った。

 

屍体(パリディ)にしては、よくもったな」

 

 俺は、噴き出す血を眺めながら、すぐ後ろに倒れている由香里を意識する。

 

「身体能力の強化……いや、それだけじゃない。知能も加速してる」

 

 謎の男と対峙している景山を見据えた。

 視線をやると、ほんの一瞬だけ目が合ったが、すぐに逸らされる。

 

「なめてんじゃないよっ!」

 

 景山が、両掌を床へと接触させる。

 

「凍りつく、凍りつく、凍りつく……」

 

 辛うじて聞き取ることができる。呪詛のような、か細い言葉を。

 

「……!」

 

 男に撥ね返っていた血が凍り付いてゆく――男は動けないでいる。付着した血が動きを制約している。

 

「くらいなっ」

 

 ペットボトルを取り出した。回転を加えながら、逆さにする。

 すると、刃渡りにして1メートルを優に越える氷の刃が誕生する。

 そして――斬りかかったッ!

 

「おおっと」

「なッ!?」

 

 男が翳したのは、一瞬で引っ張り上げた――川上だったもの。

 景山が静止した。強張った視線、足元が震えている。今にも振り下ろさんとする刃は、空中で不自然に止まっている。

 

「……くそ」

 

 小声だったけど、聞こえた。呪いと怒りの感情が俺に伝播してくる。

 

「三流だな」

 

 次の瞬間。巨躯の男は、血による拘束を解き放っていた――屍体(パリディ)を床に投げ散らかすとともに、巨大なナイフを、景山めがけて――

 

「……?」

 

 一撃は、空振りに終わった。

 景山は、隙を縫って真後ろに下がる。

 

「なんだ、邪魔したのはお前か」

 

 重々しい声。人のものとは思えない。加工している?

 

「ああ、俺がやった。ほら、目、見えないだろ。なんなら治してやろうか?」

「……アァッ!? 今なんて言った!」

 

 ガアンッ! と、タクティカルナイフを地面に突きつける。

 床を軽々とブチ抜き、屹立したのを引っこ抜いたなら、また構える。

 

「そっちのお子さんのように、死ぬような目を見せてやろう」

 

 言い終えるやいなや、迷わず狂いなく、こちらへと走ってくる。

 

「くそ、やっぱりこのレベルの奴には」

 

 フローリングの床を蹴り続ける乾いた音。あっという間に、両者の距離が詰まる。

 

「おいおい、速すぎだろっ!」

「……終わりだ」

 

 しなるような動きでもって、左ストレートが放たれる――すんでのところで、横っ飛びに回避する。

 

「フンッ!」

 

 連絡技だッ! 回し蹴りが飛んでくる。

 ――チャンスッ!

 

「関節、もらったっ」

 

 飛んできたゴツイ脚へと絡みつく。が――

 

「ぐほッ!」

 

 豪脚による遠心力に振り回され、非常階段へと続く扉に激突してしまう。

 背中から叩きつけられるも、なんとか立ち上がる。

 ここで退けるものか。負けじ、敵前へと躍り出る。

 

「……やるじゃん」

「口だけは一丁前だな」

 

 ふたたび、こちらへと疾走してくる。

 

「!?」

「どうだ、今度は耳が聞こえないだろ。でも、目は見えるよな?」

 

 男は立ち止まり、つま先を体育館の床にトントン、と撫でつける。

 

「この戦況で、俺に視界をくれていいのか?」

 

 男は、左足の裏をしっかと床につける。

 屈んだような姿勢となった。クラウチングスタートに近い。

 

「フンッ!」

 

 フェイスマスクの影が揺れて、残像を作った――と思った矢先、敵が目の前にあった。

 豪腕により、振り下ろされるタクティカルナイフ。ギリギリのところで回避するしかない、と身構えたところで――男の動きが止まった。

 血だ! 血が滴っている。男の背中から流れていた。ぽたぽたと、床面に垂れ続けている。

 その正体を確かめる。わかってはいたのだが。

 

「……ご協力、どうも」

 

 ようやく、視認することができた。

 男の背中に突き刺さった、景山の手から延々と伸びる――長大なる氷柱を。

 

「ざまあないわ。ウチが寄ってくるの、わかんなかったでしょ……貫けッ! 大気の氷精(ブルーブレイカー)ッ!」

「考えたな。だがっ」

「ウソッ!?」

 

 謎の男は、そのまま前方向にしゃがみ込んだ。

 すると、背中に突き刺さっていた氷柱が、景山ごと、持ち上げられて――

 

「覇ッ!!」

 

 そのまま、一回転ッ! 景山が振り飛ばされてしまう。俺の方に飛んで来た。

 だめだ、避けられない。このままじゃ激突する。ええい、ままよッ! 受け止めようとする。が、てんでだめだ。受け止めきれない。

 

「がぁっ!」

 

 5,6メートルは吹っ飛んだだろうか。

 ふたりして背後にある壁に激突し、力なくずるずると倒れ込んだ。

 

「おい、大丈夫かっ」

「大丈夫なわけないでしょ。見てのとおりボコボコ……」

 

 かすれ声だった。左の瞼が腫れている。

 そのほかにも、肘や肩口などに変な色が浮かんだ打撲の跡が目立つ。

 

「……こんなところで。ようやく、ようやくまともな職……年収320万円の仕事に就けたっていうのに」

 

 俯いた景山。

 俺は、タクティカルナイフの男に視線をやっている。奴は、傷ついたばかりの背筋を伸ばしていた……こちらの様子をうかがいつつ。

 なぜ、すぐに襲ってこない? 不自然な感じがする。

 

「で、景山さん。次はどうする?」

「たぶん、もうだめね。あんた逃げてもいいよ。いや、逃げなさい」

「?」

 

 わからない。この間は、あんなに残忍だったのに。同じ人間なのに、どうしてこうも態度が違うのだろう?

 

「……景山さんってさ、もっと肉食で、血も涙もなくて……いや」

 

 景山の顔を見る。先日とは、異なる顔つき……のような気がした。

 いや、違う。景山さんは、優しい。優しかったんだ。そうだよ、どうして思い出せなかったんだ? 優しかったじゃないか。ようやく、昔のことを思い出した。

 秋にある神社の奉納祭りの時、毎年のように太鼓の打ち方を教えてくれたっけ。

 

「おい、おいったら! 景山さん」

「ん……なに?」

 

 草臥れている景山を揺り起こす。

 

「見ててください。カタキはとりますから」

 

 言ってみた。調子に乗りすぎだろうか。

 相手は、苦笑するばかりだった。

 

「強がりばっかり言って。こないだみたいにハリボテの自信なんでしょ。そんなんだから、ウチなんかにやられるんだって……協力してやりたいけど、今のウチには無理」

 

 協力――そうだ、どうして思いつかなかったんだ。

 景山の手を取った。

 

「嘘だ。嘘をついている。まだやれるって、景山さんはそう思ってる」

「……ふふっ」

 

 目の前の人が吹き出してしまう。

 ふいに、男の方を見る。

 ナイフをひゅんひゅんと振り回し、こちらを見据えている。

 

「時間の問題か」

 

 俺達ふたりは、立ち上がった。

 

「ねえ、道ノ上くん。あんたってさ、概念力(ノーション)の名前を叫んで発動するタイプ?」

「どっちでもOKなタイプ」

「羨ましい」

 

 男は、ゆっくりとではあるが、こちらに歩みを進めている。

 俺は、男を見据えている。景山も。

 

「……いくよ」

 

 景山の手が、俺の手に触れる。

 

白薔薇の檻(アイシクルカーテン)

 

 言霊とともに、辺り一面は真白の霧に覆われ一寸先すら見えなくなる。

 

「これで相手の動きが鈍くなるはず。ああ、もう質料(ヒュレー)が残ってないわ……じゃあ、後は頼んだよ」

 

 それだけ言うと、よたよたと壁にもたれかかる。

 俺は、凍てついた大気に目を凝らしていた。男の姿は見えない。が、機動力は落ちているだろう。

 

「空気そのものが凍りついてるみたいだ……それでいて寒くない。ん?」

 

 どこかで、誰かが叫んだ気がする。「寒い」と。が、気にしている暇はない。男はすぐそこにいるのだから。

 

「……なんとかしてみせなさいよ? 敵を取るって言ったんだから」

 

 景山が、小声でせっついてくる。

 

「あいつの行動、なんだかわかる気がする」

 

 小さい声で、「景山さん、ありがとう」と呟いて深呼吸をする。

 

「行くぞ、デカブツ野郎ッ!」

 

 小刻みにステップを踏んでから、走り出した。足音を感じながら。間を取りながら。

 ――いる。もう、あと4,5メートルほど向こうにいる。

 

「げっ!?」

 

 ナイフだった。飛んできたのは。

 足の力を抜いた。仰向けに倒れ込んで回避する――肩を掠めたナイフが、壁面に突き刺さった音がする。

 

「若造が。俺が走ってくるとでも思ったか?」

 

 霧の中から男が現われる。一瞬、一瞬だけ見えた。迷彩柄に張り付いた氷の粒が。

 心なしか、動きが鈍っている。

 

「さっさと死ねっ!」

 

 突撃とともに、タクティカルナイフが振り下ろされた。

 

「うおっ!」

 

 必死に身体を捻ってかわす。巨大なナイフは俺のすぐ手前、股下のあたりに突き刺さった。

 おいおい。動きが鈍ってるのは思い過ごしか?

 

「くそっ、こいつゴボウか。てんで抜けやせん」

 

 ナイフを抜くのに手こずっていた。その隙をついて立ち上がる――男の斜め後ろに回り込んだ。今も、ナイフと床面とが擦れる音が聞こえてくる。

 

「若造、どこへいったっ!」

「ここだっ!」

 

 敵人の右肩あたりを両手でざっくばらんに掴んだなら、自重を預ける形で跳び上がる。

 

「うおっ!?」 

 

 ――空中戦。右足を脇の下に、左足を首元に。敵の右腕をしっかと両手で挟み込んだなら、そのまま真っ逆さまに。

 ドシンッ! 両者の体重による衝撃が、体育ホールの床を軋ませる。そして、体勢は、

 

「ぐおぉっ!」

「極まったっ!」

 

 骨盤にしっかと固定された上腕二頭筋、技を掛けられる側の親指が天井を向いているという、まさに教科書どおりの理想形――腕ひしぎ十字固め、成立。

 『折れろ!』と心に願う。

 

「……効かんなぁ」

 

 一瞬、何が起きたのか理解できなかった。ただ、フワッと、腕ひしぎを掛けていたはずの身体が、持ち上げられて――

 男は何事もなかったように立ち上がる。ビュン、という風圧が耳を切った。

 

「がっ!」

 

 床に叩きつけられた。

 次撃の踏みつけをギリギリで回避する。

 

「しぶといな」

 

 重苦しく、しゃがれた声。どう考えても肉声じゃない。

 俺は、脱兎のごとく体育館内を走り回って、先ほど入ってきた出入口へと。

 

「やれやれ」

 

 声が響いてくる。距離を取ったはずなのに。

 

「こんなものか、つまらん。そのうえ、この様子だと霧もじきに晴れるだろう」

 

 男が、近付いてくる。

 

「……悪く思うなよ」

 

 黒光りするナイフを構えつつ。

 

「悪く思わないでくださいね」

 

 男の動きが止まった。

 

「なんだ、これは」

 

 由香里! 由香里だった。負傷したはずの由香里が、さっき倒れていた場所に佇んでいる。

 

「びっくりしました? 動けないでしょ。あたしの得意技なんです……見たところ、それ、ゴム素材の靴ですよね。そして、ここは体育館のフローリング。それでもし、あなたの靴底の周りが真空になったとしたら?」

「ぐ……!」

「その安全靴の紐、キツそうに結んでありますね。すぐにはほどけなさそう」

「クソがぁっ!」

 

 敵人は靴を脱ごうとしゃがみ込んだ。

 ――わかる。俺にはわかる。今、由香里は「勝った」と呟いた。

 というのも、男の背後には……俺がいるから。

 

「ガアアアアアッ!」

 

 しゃがんでいる大男。右手でその前襟を握ったなら、左手で逆側の襟を握る。そして、両手を――ネジのように、引き締めるッ! ……十字締め、成立。

 

「どれだけ……バフ肉体強化をかけようと……頚動脈は鍛えようがないよな」

 

 ぎりぎりと着実に男を締め上げる。抵抗を試みても叶わない。なぜなら――

 

「あ、あ、ぐ……」

 

 男の身体は、由香里の大気によって縛られているから。身じろぎがやっとだ。

 

「……」

 

 やがて、力なく崩れ落ちる。

 

「……」

「もうオチてるよ、渉」

「不安でしょうがないんだ」

精神魔法(スピリチア)で言ったら……覚醒? に当たるのかしら」

「たぶん。でも、ほかにも何かしてると思う」

「ま、とにかく。そいつ、まだ死んでないよ。とどめ刺しておく?」

 

 指先がパチパチと鳴っている。なにやら光も出ている。

 微細ではあるが、磁界が生じていた。

 

「こんな霧の中じゃ、ロクに電気も使えないし……うう、さむっ」

 

 身を震わす。

 

「いいよ、由香里。このまま逃げよう。集が来てくれ――おごぉっ!」

 

 みぞおちに一撃を食らってしまう。もちろん由香里に。

 

「どうせ、あんただけ寒くなかったってオチでしょ! あたしがどんだけ凍えたと思ってんの」

 

 よくよく見ると、由香里の全身に霜が降りている。髪も湿っていた。

 衣服の数箇所が血に濡れている。が、ピンピンしている。ある程度、ナイフを押し返せていたのだろう。

 俺は、お腹を押さえながら、

 

「うごご……でも、しょうがないだろ。だから、あんなにすばやく寝技を決めることができたんだ。あいつの動きが鈍ってたから」

「はいはい、よかったね渉クン。命が助かって。それに、あんたはいざとなったらアレがあるもんね」

「あれは、やらないし……できない」

「あっそ」

 

 バツが悪そうに歩き出す。俺も連れ立って、出入口の前へ。

 

「集も、負傷者の搬出は終えてるだろ」

 

 オレンジ色の扉を、ゆっくりとスライドさせる。すると――

 途端、凄まじい勢いで扉が殴りつけられた。衝撃の正体はわからない。でも、ただひとつ、わかるのは――

 

「渉っ!」

 

 俺の肉体は盛大に撥ね飛ばされていた。



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#07 「Dive or Die」(3)

 ……レールから外れたドアが、俺の両サイドに、ガン、ガンという接地音を響かせる。

 ハッとなって、目を開けると……七,八人だろうか? そこらに倒れている者達と同じ、黒の背広を着ている。

 そのうち、三人の男女が前に出てきた。

 

「ひどい有様ね。赤色の下痢便でもブチまけたみたいよ」

「報告によれば、敵はひとりという。体たらくもいいところだねぇー」

「まさか、オレたちまで駆り出されるとは。有給休暇返しやがれ!」

 

 口々に喋りながら、体育ホールに入ってくる。先ほどの、迷彩柄の男の方へと歩いていく。

 

「有給返せですって? それは喬木様に言いなさいよ」

「冗談! 俺の体が下痢便になっちまう……」

 

 喋っているふたりに構わず、残りのひとりが大男の前に座り込む。

 

「こいつかぁー。感じでわかる、こいつは覚醒系の精神魔法(スピリチア)だ。ご丁寧に、ありとあらゆる能力を強化していやがる。くだらねえ奴だねぇー……なあ、お前ら。さっさとトドメを刺そうぜ。そんで、一階でうどんでも食って帰るというのはどう」

「うどんはもうないわよ? フランクフルトも。あたしの可愛いペットに食べさせちゃった。あんたはかき氷でも詰め込んでなさい」

 

 その女は俺たちの前へと。

 

「あなたたちが倒したの? やるじゃない!」

「……」

 

 俺たちは、口を開かない。代わりに、謎の男の方に目線を向ける。

 

「!」

 

 手先が……動いている?

 

「由香里逃げろっ! そいつ、なにか魔道具(マギアツール)を! 間に合わない……」

 

 光。瞬く間に、白色の閃光が体育ホール内に満ち満ちる。

 ……真っ白いそれがスウッと晴れるとともに、気配の数が増えた。

 

「召喚しただとっ!?」

 

 そいつらは、男と同じく迷彩柄を基調とした服装だが、装備が違う。ライフル、散弾銃、ハンドナイフ、防弾盾、短機関銃。素人でもそれと分かるほどの兵器の類。まるで、映画にでも出てくるような。

 言葉は、不要だった。一斉に、ふたつの勢力が争いを始める。

 男の仲間が、その身体を引きずっていく。さらに、ひとりが盾を構えつつ散弾銃を連射すると、残り全員の重火器が一斉に火を噴いた。

 

「うおっ!」

 

 一目散に逃げ出せてよかった。そうでなければ死んでいた。

 ……耳が歪むほどの重低音。外耳をふさぐ。

 今しがた話しかけてきた女が、概念力(ノーション)を発動していた。こちらに飛んできた銃弾は、すべて四方八方に撥ね返ってしまう。

 間隙を縫って、ふたりばかりが刀剣を振り上げた。そのまま、敵陣へと斬り込んでいく――

 

「渉、逃げるわよ」

「当然」

 

 言うやいなや、その手を取って、全力で出入口へと。

 

「……大丈夫、罠は仕掛けられてない」

「サンキュ」

 

 無事、扉だったところをくぐり抜ける。すぐ背後では、耳がはち切れんばかりの衝撃音が鳴り響いている。

 

「……景山さん」

 

 無事を確認している余裕はなかった。けど――

 

「助けに来ます。なんとしても」

 

 何を、どうすればいいかなんて分からない。今は、この約束をするので精一杯だ。目指すは一階。さあ、階段を降りよう。

 

「急げ! 敵は四階だ!」

 

 絶望感。下の階から声が聞こえてくる。侍衛(じえい)側の増援……だと思う。

 

「くそ、喬木議員の仲間だ」

 

 深呼吸。周囲を見渡す――北の壁面はガラス張りになっている。厳密にいえば、なっていた。今では全部が粉々に砕けて真下に落ちている。

 

「由香里! この大窓から飛び降りるんだ」

「……」

「どうした」

「あのね。空中浮遊は一人用なの。二人以上は飛べないの」

「チッ」

 

 俺は舌打ちする。集の真似だ。

 

「じゃあ、お前だけで飛べ! 俺は死ぬ気でダイブする」

「……だめ。どっちもだめなの」

 

 うつむく由香里。

 

「だめ、じゃない」

 

 由香里の肩を掴んだ。すると顔を上げる。見るからに不安そうだ。

 喬木の侍衛(じえい)は警戒のためだろうか。二階あたりに留まっている……と信じたい。

 

「わかった。アレ、やるよ」

「ほんとに?」

「そっちこそ。本当にいいのか? 自分の力だけで飛べたって、証明できないのに」

「……!」

 

 由香里は、深呼吸をする。

 

「どうする? 由香里」

「……うん、大丈夫。飛べるっ」

 

 甲高い足音を伴って、喬木の侍衛(プレシディオ)が昇ってくるのが見えた。

 大窓の前に立っている俺たちの姿を認める。

 

「お前ら、そこで何をしてる!」

 

 返す答えは、ただひとつ。

 

「……空中浮遊」

 

 そのまま、由香里の手を引いて、

 

「せーのっ」

 

 ――落ちる。



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#07 「Dive or Die」(4)

 ついに飛び降りた。

 真下の光景が目に入る――砕け散ったガラスが玄関付近に散らばっている。傍らには死体がある。 

 手を繋いだままの二人。繋がった手を通して体重を感じつつ、空気抵抗に恐怖をおぼえる。

 高まる恐怖心。声が出そうになるも、由香里の体温を感じて耐える。

 ……時間を長く感じている。

 

『だめだ、このままだと――』

 

 ……浮いた。浮いていた。

 厳密には違う。ゆっくり、ゆっくりと高度が下がっている。

 一人だけなら浮くことができるに違いない、と思って由香里を見る――真剣な面持ちで目を閉じている。片手でスカートを押さえながら。

 ふわふわと空中を漂っていたと思ったら、もう地上まで三、四メートルのところだった。

 つま先から、地面に着地する。しっかとした地面の感触があって、そして――

 歓声とともに、拍手が起こった。数十名の市民が文化会館の前に残って館内の様子を気にかけていた。見た目からして保護者と思われる。

 道路にはパトカーが停まっている。が、警察官がこちらに来る様子はない。無線で何か話している。

 

「ああぁ、やめてくれえええっ!」

「あ、いや、いやああああぁッ!!」

 

 あの階から阿鼻叫喚が響いている。けたたましく打ち震える重火器の音も。

 

「くそっ!」

 

 地団駄を踏んだ。右掌を握り締める。

 

「渉! 汐町(しおまち)さん!」

 

 集が走ってくる。

 

「館内の避難は終わった。だが……」

 

 四階の方を見て眉を潜める。

 

「諦めろ。いったん、こうやってドンパチが始まったらどうしようもない。どちらかが死ぬまでだ。お前らもわかってるだろ? 使用者(エッセ)はな、こういう理由で社会から隔離されてるんだ」

 

 ……戦いという名の音楽を聴いているばかりだった。

 もう何もできない。俺たちの行為に何か意味はあったんだろうか? いや、ない。

 意味のないことをしてたんだ……いや、でも。少しくらいは……。

 もういい、諦めた。せめてここで見ていよう。聴いていよう。感じていよう。

 

「ねえ」

 

 誰かの声がしたような気がする。残念ながら心のゆとりがない。

 

「ねえってば!」

「?」

 

 振り向くと、そこには――梔子(くちなし)ほのかがいた。

 笑んでいる。

 

「わたしが、なんとかしようか?」

「!?」

 

 ほのかに近付いた。多分、怒気をはらんでいたと思う。

 

「おい、自分が何を言ってるのか、」

「わかってるよ」

「……え?」

 

 頭が追いつかない。

 

「なら、梔子(くちなし)さん。お願いするわ。やってみせて」

 

 由香里が前に出る。

 

「渉。この子、使用者(エッセ)よ」

 

 そうか、そういうことか。あの時、感じた違和感は……いや、でも。なんであの時、わからなかったんだ?

 

「どうして……」

「どうして、あの子は鬼食免(きじきめん)を付けていないのか」

 

 集が言葉を先回りする。

 

国府(こうふ)の森の人間はな、付けなくていいんだよ。贔屓じゃない。ちゃんと理由がある」

 

 どういうことだ? 理由がわからない。いや、それでもいい。そこは本質的なところじゃない。そんなことより、

 

「どうやって解決するんだ? 多勢に無勢、乗り込んでも殺される」

 

 ほのかは深呼吸をした。息を吐き出しながら、

 

「……」

 

 印章(シンボル)が見えた。黄色がかったような緑? そうだ、うん。どちらかと言えば、緑の方が強い。

 大気が印章(シンボル)の色にどんどん染まっていく。強い風に吹かれたそれらは、散り散りになって彼女の周りから消え去って、現われて、消え去って、現われて……奔流が駆け巡る。

 悲鳴がまた聞こえた。あそこが地獄であることを思い知る……ほのかに視線を移した。目を閉じている――開かれた。

 

 ――《大地加速(グランドアクセラレーション)》――

 

 地面が揺れる。

 耳が潰れそうなほどの大気の奔流。ところどころに植えてある木々がごうごうと鳴っている。思わず頭を押さえた。

 だめだ、今にも――吹き飛ばされる!

 

「由香里ッ!」

 

 吹きすさぶ風のなか、由香里の手を取った。

 集の方を向く。

 

「集、どこに逃げればいい? この、超強力な概念力(ノーション)……巻き込まれるッ!」

 

 凄まじい風圧だった。声が届いている自信はない。視界すら封じられている気がする。

 集は、ひたすらに佇んでいる。

 

「おい、集!」

「渉、大丈夫だ。暢気に構えてろ……これは攻撃じゃない」

 

 あっさりとした調子で答えている。

 

「これは単なる強化魔法(バフ)だ。攻撃手段でもなんでもない。が……国府(こうふ)の森の使用者(エッセ)が使うとこうなる」

「……どういうことだよ、おい。ただの強化魔法(バフ)って」

 

 強風が吹き荒れる中、集は平然とこちらに歩いてくる。

 

「彼女が桁違いに強い。それだけだ」

 

 俺は、ほのかに視線をやっていた。

 由香里の肩を抱いて。その震えを感じながら。

 

「……」

 

 ほのかの指先が、文化会館へと向けられる。

 

 ――《岩流圏暴走(アセノスフェア・クラッピング)》――

 

 声は、高らかだった。

 その瞬間、由香里を飛び抱えて身を伏せる。

 ドオ……ンッ!

 

「うわあぁッ!!」

 

 大地から拒まれたかのように飛び上がった。当然のごとく着地に失敗する。

 

「……」

 

 静寂が戻っている。どれくらい、じっとしていただろう。聴覚が生きているのを確かめて立ち上がる。

 

「……?」

 

 ない。

 文化会館がなくなっている。

 ……急に、周りが暗くなった。ただ、なんとなく。本当になんとなく、空を見上げる。

 あった。文化会館が――今ちょうど、太陽の光を遮る位置にきたところだ。

 

「……ははっ」

 

 笑うしかなかった。

 上空を移動するだけの物体となった文化会館を見ている。次第に、その影が山岳の方へと移ろっていく。

 太陽の光が戻ってきたことで理解する。高度が下がり始めたのを。

 どこだ? どこにぶつかる? 大丈夫だ、市街地じゃない。山の方に落ちるコースだ。多分。多分。多分――

 考えているうち、文化会館を見失った。なんだ、いったん落ち始めると、どんどん加速するんだな。

 

「あ、もう、落ちる……」

 

 呟いたのは、ほのか。

 パカンッ。擬音で表すとしたら、こんな感じだろうか。遠く離れているからだろう、あっけない音だった。

 『こっぱみじんにならないんだ』という、率直な感想とともに――山岳の尾根に突き刺さった、建物だったものを見ながら、思う。

 

 (第7話、終)



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#08 冷たい氷みたいに(前)(1)

 午前7時50分。

 国府第三中学校を見下ろせる丘にいる。

 左手の方向には、山の斜面に真っ逆さまに突き刺さった文化会館が見える。

 

「はあ……」

 

 暗い面持ちのまま、丘を降りる。

 道路に出ると、左に曲がって、また歩き出す。

 ――蒸し暑い。そろそろ学ランを脱ごうか。

 

「おーい!」

「!」

 

 背後からだった。

 俺の首元をガバッと抱いてくる腕が。

 

「早起きじゃの」

 

 尚吾だった。

 不良のくせに、朝早く登校するものだから、通学路でよく会う。

 

「お前こそ」

「んん? ワシが早起きしとる理由を聞きたいんじゃな?」

「違う」

「それはのう……おっ!」

 

 途端に、よそよそしく距離をとる。

 

「なるほど……あれか」

 

 自転車に乗った女子高校生が、こちらに走ってくる。もうじき、すれ違いそうだ。

 ……国府高校のセーラー服を着ていた。髪は後ろでポニーにしてある。肌の感じが瑞々しい。

 そんなことを考えているうち、すぐ横を通っていった。俺たちとは反対の方向に。

 

「尚吾、ああいうのが好きなのか」

「まあの。あれが見たくって、毎日こうやって早起きしとる」

「ふーん、国府第三中学校最強の男がねー」

「最強はお前らじゃ。奇跡が起きたって勝てんわ」

概念力(ノーション)抜きならどうだ?」

「それは……」

 

 尚吾が一瞬、頭を悩ませる。

 

「それでも勝てん。思い出したわ、昔、お前に骨を折られかけたこと」

「あれは尚吾が悪い。なにがどうして、○○を小屋に××んで△△……」

 

 尚吾がまた、俺の肩に手を回す。

 ……昔からそうだ。こいつなりの親愛表現というやつ。

 

「なあ、渉。ぜったい」

「うん。絶対言わない。約束な」

 

 *  *  *

 

 午前8時30分。

 チャイムが鳴った。朝礼が始まる。

 いつもどおりの、変わり映えのしない教室。ざわめきは、大きくなったり、小さくなったり。こんなにうるさいはずなのに、教壇にいる和田先生が出席簿をめくる音がはっきりと聞こえてくる。

 

「……おかしい」

 

 どうしてだ? どうして、みんな文化会館のことを気にしないんだ?

 あの山に、しっかと逆さまに突き刺さってるじゃないか。それなのに。

 

「はい、みなさん。静かにしてください」

 

 あまり効果がない。半分以上が無視している。

 

「……」

 

 和田先生は、何も言わない。

 

「……」

 

 和田先生は、何も言わない。

 

「……」

 

 和田先生は、何も言わない。

 

「……」

 

 静かになった。

 和田先生が、教室中をグルリと見渡す。

 

「はい、静かになりましたね。一分七秒もかかりました。人の時間を奪わないようにしましょう」

 

 どうしてだろう。なんというか、威厳というか。

 大人のなかには、そんな声色が身に付いている人がたまにいる。和田先生も、そんなひとりだ。

 

「今日から、箱田くんが復帰します」

 

 みんな、どんな顔をしてるんだろうか。

 

「時間が経って、箱田くんも考えることがたくさんありました。ともに学ぶ仲間の復帰をお祝いしましょう」

 

 それだけ言うと、教室の外に出て、箱田を呼んだ。

 やがて、先生に導かれ、おずおずと教室内に入ってくる――

 

「……」

 

 すっかりと自信をなくした様子で、たどたどしい歩き方だった。

 微かな調子で、『おはよう』とだけ告げて、机まで歩いていくと、ガタッ! という音がして――

 

「箱田くん!?」

 

 箱田が尻もちをついていた。

 これは、箱田の真後ろにいる席の不良――かつての仲間――が椅子をこっそりと動かし、位置を変えていたことによる。

 

「なにをしているの!? 箱田くん、大丈夫?」

 

 箱田は、何も言わない。黙って立ち上がる。

 心配そうに見つめる和田先生。

 俺は、そんな様子を醒めた目で見ている。

 

「和田先生の言うとおりだ! 恥ずかしいと思わないのか」

 

 ここぞとばかり、安田が吼える。

 

「あ? なんだよ」

「度を越えてるって思わないのか? 病み上がりの人に。自分がそんなことされたら、どう思う? 考えて行動しろよ」

 

 絶好調だ。相手が答えに窮している。そして、ひと呼吸おいたなら、

 

「……冗談だよ。わかってる。あとで箱田くんと仲良くするためにわざとやったんだよね?」

「ん……まあ、そうだよ」

 

 ここで助け船を出すとは。あいつはいろいろと次元が違う。良い意味でも悪い意味でも。

 

「失礼しました。和田先生、朝礼の続きをお願いします」

 

 和田先生は、安田を一瞥すると、いま座ったばかりの箱田に視線をやる。

 教室内は、いまだ静寂に包まれている。

 あれ? おかしいぞ。普段だったら、もうとっくに喧騒が支配しているはずなのに。

 

「みんな、ちょっと聞いて。いい? ……それじゃ、言います。人間はね、失敗する生き物なの」

 

 今の俺は、むず痒い顔になっている……と思う。

 

「どんな風に生きようと過ちを冒します。けど、一度も失敗を冒さないで幸せになることはできません。だから、時には道を誤ることがあっても、必要なことなんだって自分に言い聞かせてほしいの」

 

 生徒一人ひとりの顔を見ながら、

 

「でも……悪いことをすると、必ず見つかります――どんなに隠しても。どうしてだと思う?」

 

 静寂。

 

「神様が見ているから。だから、どんなことだって隠すことはできません。そして、罰が当たる」

 

 悲しげな視線を箱田に送るとともに――近付いていく。

 

「でもね。失敗を犯した人を攻めても、自分が偉くなるわけじゃない。それどころか、他人を貶めることでしか自分を満たすことのできない惨めな人間が誕生する」

 

 小さな声で、箱田に声をかけると――席を立った。

 視線が集まる。

 

「みんな、見て。箱田くんの制服を」

 

 箱田に視線をやる。

 ……学ランのボタン。すべて留まっている。さりげなく主張した、首筋からサッと覗いた襟のカラー。ズボンには丁寧にアイロンされた痕が見える。縦のラインがすらりと通っている。

 まさに、ピタッとした着こなしだ。黒というスマートな一色を体現している。

 

「見てのとおり……完璧な着こなしです。箱田くんは、一年生の時から毎日こうやって、正しい制服の着こなしを実践しています」

 

 おお、という大らかなざわめきが教室内にこだまする。

 

「いい? みんな。どんな人にでも良いところがあるの。そういう、人の素晴らしいところを見つけることができる。そういう人が、本当に良い人なの――みんなは、どうかな? ほかの人のいいところ、見つけられるかな?」

 

 箱田の顔は、先ほどとはうってかわって朗らかだった。

 てれくさい笑みが覗いている。

 

「……」

 

 俺は、後ろを向いた。

 

「なに、渉? どしたの」

 

 今、生まれたての言葉を並べてみる。

 

「よく見たら可愛いよな。今日」

 

 ――呆気にとられた面持ちとともに、その顔を真下に向ける。

 『いや、よく見たらじゃなくて、昔から……』と言いかけたところで、

 

「えっ、あ……も、もしかして、渉。わかるの? あたし、今日は、ほら」

 

 ウインクを繰り返した。なにやら、目の下がほんのりと赤い。

 

「それって……」

「こ……これ? チークよ、チーク」

 

 よく聞き取れない。

 

「チンコ?」

「そうそう、チンコ! それをね、目の下にね、こうやって当てて擦って……」

 

 ガッ、ゴッゴゴゴアkガガガガガガガqgッ ゴンッ!!

 

 凄まじい威力の蹴りだった。俺の体が、机ごと黒板まで蹴っ飛ばされてしまうほどの。

 騒然となる教室。悲鳴まで上がっている。

 ゆらゆらと立ち上がって、由香里の顔を――

 頬に涙が伝っている。でも、おかしい。悲しみの色が伝わってこない。そう、まるで、

 

「これ……誰の涙?」

 

 由香里が呟いた。本人にも涙の意味がわかっていない。

 

「あ、な、た、た、ち……」

 

 声でわかる。憤怒に染まった、和田先生の顔つきが。

 全身に打ち広がる痛みと対面しながら、呟く。

 

「……え? なんだこれ……これでいいの?」

 

 いいわけねーだろ。



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#08 冷たい氷みたいに(前)(2)

 六時間目。本日最後の授業だ。あくびをしながら聞いている。

 キャンパスノートよりも小さい国語の教科書。その中ほどにある話を小山先生が朗読している。ようやく話が完結したところだ。

 その題名は、『ベロ出しチョンマ』。

 

 ……あるところに長松という少年がいた。あだ名はチョンマ。彼の特技は、面白い顔をすること。妹が、あかぎれになった手の包帯を取り替える時に痛がって仕方がないので、眉毛をハの字にして舌を出すという表情をつくって、痛みを紛らわせてやるのだった。

 その年は、飢饉だった。年貢の負担があまりに多く、チョンマの父親が将軍への直訴を試みるが、失敗。一族郎党死罪となった。

 磔にされたチョンマとその家族。迫りくる槍、鋭い切っ先。恐がって泣き叫ぶ妹を、チョンマはいつものように面白い顔であやすのだった。自分が殺されるその時まで。

 その後、直訴が認められ、年貢は減らされた。助かった農民達はチョンマの家族を祭るための神社を建てた。何度も役人に壊されたが、何度でも建てられる。今では、その地で祭りが行われる時には、ベロを出した長松の人形が飾られるのだった。……

 

「ああ、つまんねえ。なんだよこれ……面白い顔ってどんなだよ……」

 

 つい、考えが口に出てしまう。

 

「どうでもいい? いや、違う。この感情はなんだ?」

 

 ここで、パン、パン、という手を叩く音がした。小山先生によるもの。

 

「それじゃ、いいかな……今日、この話を読んで、聞いて、どんなことを思った? このお話は、江戸時代を背景にしている。地理歴史の赤木先生から習ったかもしれない。身分制度と差別について。幕府の将軍が豊臣秀吉だった時代に、被差別集落で暮らしていたえた穢多や非人と呼ばれていた人たちを最底辺に据えた身分制度が作られた。彼らは、当時は実在を信じられていた『穢れ』なるものを一身に集めることをそのなりわい生業としていた。幕府は、この身分制度を利用して安定した統治を進めた。農民に対しては、生かさず殺さず。絞れるだけ年貢を絞り取る。困窮した農民は一揆を起こさざるを得なくなるが、その抑止力として、被差別集落に暮らす人々の存在があった。幕府の言い分はこうだ。『農民の暮らしが辛いのはわかる。だが、あの連中を見てみろ。汚物や罪悪に塗れて、あんなに苦しい生活をしている。それに比べて、自分達はまだ幸せな方だ』というのがお決まりの論法だ」

 

 捲し立てる小山先生。気迫に溢れた調子で喋り続ける。

 

「それだけじゃない。その次の時代、徳川政権となって以後は、集落に住んでいる人たちの税金を……」

 

 沈黙――生徒らの様子を伺っている。やはり、一部がお喋りに興じている。

 

「被差別集落に住んでいる人たちの税金を――全額免除したんだ」

 

『……え?』

 

 どよめきが広がる。え、どうして、といった声がクラス中から聞こえてくる。

 

「税が免除になったことで、集落に住んでいる人達の生活水準は向上した。『穢れ』という重みを除いて……さて、みんな。なんで税を免除したんだろうか」

 

 誰も答えない。答えることはできないだろう。と、ここで――

 

「反乱を防ぐ。そのための保険です」

 

 篤が声を上げる。どういうことだ? 反乱を防ぐって。

 

神部(かんべ)くん。続きを答えてみて」

「統治者にとって、最も避けねばならないのは反乱です。反乱を押さえればよいという問題ではなく、たとえ小規模な反乱であっても、それ自体が統治者への不信となって民衆に伝わります。ここで、集落に住んでいる人間の立場になって考えてみますと、先生のおっしゃるとおり、生活水準が高まったのであれば、穢れをその身に受けても構わないと考える人達もいることでしょう。しかしながら……」

 

 ひと呼吸おく。

 

「一般民衆はどうでしょう。自分達は税金を納めているのに、あいつらだけは免除されている。そんなのはずるい。お前たちはそのままずっと穢れを背負っていろ、と思うようになります。そして、ここからが肝心なのですが……統治者が為政者として相応しくない行動を取り続けた場合、当然に革命的運動、一揆が起こらなければならないところ、民衆と集落民が反目しあっている状況では、民衆側が一枚岩になることができないのです! ……革命的運動を企てるのは、人格・見識ともに優れた人間であるはずです。彼らは考えます。『民衆側が一枚岩になることができない状況で蜂起してもよいのだろうか?』と。これは、政治的に有効な戦略です。同じ身分の者同士で優劣をつけて扱うことにより、その集団間の団結を防いでいるのです」

 

 雑談に興じる者はいなくなった。本当にゼロだ。

 小山先生は涙目だった。感動に打ち震えている――

 

神部(かんべ)……そんなに人権教育に熱心だったなんて……先生、嬉しいよ。君のような生徒が、人権感覚に溢れた社会を作っていくんだ!」

 

 先生の心が乗っている。今までに感じたことのない、体の底から込み上げてくる力によってその身を支えているようで。

 

「さあ、それでは授業の続きといこう。時間が少ないから、巻いていく……さて、こうして差別を受けた人々は、江戸時代という近世を超えて、明治時代になっても救われることはなかった! 『四民平等』という形だけの近代化とともに、皇族や貴族が一定以上の収入を保証されたのに比べ、彼らには何も与えられなかった。ただそこには、名前だけの『平民』という肩書きがあるに過ぎなかった。いや、もっとひどい。というのも、江戸時代には、被差別集落に住んでいる人々が生業としていた――食肉業や皮革業、刑務官、葬儀業といった、法や慣習に確証づけられた専門の仕事があった。しかしながら、明治時代になると、これらの仕事が近代企業や公務員に奪われてしまう。そして、免税権も失われたことで本格的に困窮してくる……でも、これで終わりじゃないッ!」

 

 黒板を叩いた。凄まじい気迫だ。

 

「集落に住んでいた人たちが『平民』となることを、民衆がどう感じたかというと……自分達が低い身分の者と一緒になると考えたんだ。そして、怒りの矛先は明治政府ではなく、集落に住んでいる人々に向けられた……これが今でも尾を引いている。そういう、差別を受けた人々が集まり住んでいたところ……みんなも知っているだろう、それが被差別集落なんだ。ここに住んでいる人たちと、私たちの間には壁がある。差別という名の、歴史の壁がある! この際だからはっきり言おう、私達の先人は誤った道を歩んできた。だから、今のような状況になっている……同じ人間であるはずなのに……。先生、思うんだ。みんなには、自分から喜んで差別をするような人間になってほしくない。周りの大人が、どんなことを思っていようと関係ない。いや、それどころか、家に帰ったら、おとうさんやおかあさん、おじいさんやおばあさんと、このことについて話し合ってください。そのなかで、もし差別を肯定するような発言があったら、勇気を持って断じてください。『ねえ、それは間違っとるよ。いけんよ』って……小山先生は、思います。みんなには、『差別』と戦うことができる勇気のある、そういう人間になってほしいと願っています……はい、今日の授業はこれで終わりです」

 チャイムが鳴った。すべてを出し尽くしたような雰囲気の小山先生。手早く教材を片付け、教室を出て行った――

 

「なあなあ、篤」

 

 前の席にいる篤に話しかける。

 

「渉。訊ねたいことはわかってるよ。ほら」

 

 篤は、机の中から文庫本をチラリと出してみせる。

 どれどれ……『○×差別の構造とその思想』? よく読めない。難しいことが書いてあるんだな、ということをタイトルから察する。

 

「うーん。俺には真似できないな。篤って、やっぱりすごいよ。冗談抜きで」

 

 *  *  *

 

 カバンを揺らしながら、下駄箱へと。

 くたくたになったスニーカーに履きかえて、校門へと向かう途中――駐輪場が目に入る。アルミベンチがある辺りに視線を移す。

 由香里がいた。いつもは教室に残り、篤や砂羽と一緒になって宿題をこなしているはずの。

 一緒に話しているのは――集だった。

 俺は、声をかけようとして、止まる。

 

「やめとこう」

 

 ふたりの顔は見えない。

 なんだか、話しかけるのは間違いだと思った。由香里は……笑っている? 感じだった。

 集と仲良くする気になったんだろうか?

 

「……」

 

 頭を擦りながら、歩き出す。

 校門を越えると、今日で何度目だろうか――逆さまの状態で山にめり込んだ文化会館が見える。

 

「ニュースにもなってないし……」

 

 三六〇度、辺りを見渡す。

 異常などあろうはずもない。

 

「なんか暇だし、跡地にでも行ってみるか……ん?」

 

 誰かに、名前を呼ばれた気がした。

 

「……」

 

 気のせいだった。



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#08 冷たい氷みたいに(前)(3)

今話は長めです。8,000字程度。


 午後五時ちょうどだった。

 文化会館、いや文化会館跡は、国府第三中学校から歩いて二十分少々のところにある。

 

「……ひどい。具体的には、アリの巣に大水を流し込んで一昼夜過ぎた後の真っ黒い地面みたいに」

 

 立入禁止の看板が随所に掲げてある。俺は今、その前に居る。

 建物があった場所の淵々は、むき出しの大地になっていた。内側は大穴が空いており、底は不自然なほど深黒に染まっている。

 報道機関と思しき人々が、堂々と敷地内に入って写真を撮っている。

 俺は、そんな様子をじっと見ていた。見ていると、ふいに梔子ほのかのことを思い出す。

 

「あんな概念力(ノーション)、反則だろ」

 

 ……いてもたってもいられなくなる。

 杭に張ってあるロープを潜り抜けて、敷地内へと。

 恐る恐る、其処に近付く。

 

「どれどれ」

 

 地層の底にある岩盤? と思しき、ぐにゃぐにゃとしたカタマリが立ち昇っている。地面からの高さは、二メートルほどか。しばらく、それを眺めていた。

 おもむろに、落ちていた石を拾い上げる。記念になると思いポケットに入れた。

 

「ちょっと、そこどいてね」

 

 新聞記者に押されてしまう。

 

「あ! すいません」

 

 大きなカメラを構えていた。その人は、ひたすらにフラッシュを焚き続けている。

 彼に続いて、何人もの記者がこちらに歩いてくる。なんだか焦っている。

 別の方向に目線をやった。すると、『危険! 何人も立ち入りできません』という看板が退かされていた。記者団に視線を移す。

 

「次の記者会見はいつだって?」

「一週間後だってよ。煮え切らないよな、こんな騒ぎ起こしといて」

 

 彼らのうち、カメラを所持していない男がいた。

 

「おかしいと思わないか? 地元紙が一社もいない」

「チーフ。そりゃ、あれですよ。昨日のうちに撮ったんでしょう」

「地元のマスコミは今回の事件を取り上げてすらいないんだぞ? ……もういい。三箇所から撮ったんなら十分だ。帰るぞ」

 

 チーフと呼ばれた男が指示を出す。そんな様子を眺めていると、

 

「……なんだ? これ」

 

 寒気を感じる。

 

「おいおい、なんだこりゃあっ!」

 

 見えない! 見えなくなった。敷地外が暗闇になっている。いつの間に?

 ……暗闇のはずなのに、なぜか明るい。周りが見える。どうやら真上は塞がっていないようだ。

 

「立入禁止の札が見えなかったかしら? あれは私が立てたものよ?」

 

 いつの間にやら、女が立っている。

 先日、体育ホールで喬木議員を守っていた人だ。あの時と同じく、紺色調のレディース? スーツを身に付けている。真白のブラウスに、縁のない眼鏡、後ろでひと結びに束ねた髪。

 

「おい、あんた! なんのつもりだ? ここから出せ。そんなんだから、あんたら使用者(エッセ)は……」

 

 この場にいる記者は、十人少々といったところ。

 誰に導かれるでもなく、集まり始めている。

 

「そうだ! こんな事件を起こしといて、なにが立入禁止だ。ジャーナリストにはな、使命ってもんがある」

「……」

 

 女は、無言のまま、こちらに歩いてくる。彼等の数メートル手前で停止した。

 そして、口を開く。

 

「思い上がった連中。救いようがないわね……子どもまでいるじゃない……喬木様、処理はどうしましょう」

「!?」

 

 身震いを隠せなかった。いつからだろうか、記者たちの背後に――喬木議員の姿があった。

 

「うわぁっ!」

「なんだこのオッサン? これがあの、概念力(ノーション)ってやつなのか?」

 

 ――彼は、以前と変わらない。スラリとした長身に、角刈りが似合っている。男前という言葉がぴったりと似合う、初老ほどの男。

 

「近頃のマスコミは、礼儀がなっとらんのう」

 

 今しがた、三人組で話していたうちの一人、カメラマンへと近付いたなら――殴り抜けるようにして首根っこを掴むのだった。

 

「おい! あんた、警察……ぽぎぃッ!」

 

 弾けた。

 その表現が相応しいかはわからない。が、確かに今、この男のアタマが散り散りに弾け飛んでしまったのは確かだ。四方八方に噴き出した鮮血が、喬木の体を染め上げている。

 悲観、憤怒、憎悪、警戒、狼狽――ありとあらゆるマイナスの感情がこの一団を支配した。

 

「高森よ、今ほどの感じでよかったか?」

「はい。喬木様、お手伝いいただきありがとうございます。ですが、この程度の連中でしたら、そうやってアタマを抑えていなくても楽に始末できますわ」

「ははは、そうかそうか。では」

「!?」

 

 ――見えない。俊敏とか、そういうレベルの問題じゃない。

 チーフと呼ばれていた男のネクタイが掴まれている。喬木はそのまま、自分の方へと引っ張り込む。

 彼の正面を、高森と呼ばれた女に向けた

 

「あああッ! あーーーーーーーっ、あーーーーーーーーーーーーっ、す、すいません、すいあmせんんんtsっ」

「そう喚くな。ところで、君。立入禁止と書いてあったじゃろ。にもかかわらず、写真撮影をしていた理由は? どうせまた、ろくでもない報道でもするつもりだったんじゃろう?」

「あ、あ、市が、市役所が情報を提供しないから。かといって、こんな大事件を取り上げないわけにもいかず……で、でも! ただ、撮ってただけで! そんな、卑しい形での報道なんて、まともな報道しか、考えておりませんッ」

「ほお。例えば、記事タイトル『建物滅失 原因不明』のように、あくまで、謎は謎のままで済ませるつもりだったということじゃな? 間違っても、『完全破壊! 使用者(エッセ)による処刑場と化した備後国府!』のようなタイトルは考えていなかった、ということじゃの?」

「はい、そのとおりですっ!」

「嘘をつくな」

 

 女が指を鳴らした。

 男の身体がビクンッ、と戦慄くとともに――目と鼻と口から鮮血を噴き出して地面に沈んだ。

 ――狂っていた。二つの意味で。

 一つはもちろん、恐怖に塗れて右往左往している新聞記者であり、もう一つは、この場を処刑場と化しているあの両名である。

 

「さて。ひと段落したの。よし、次は……」

「思い出したぞっ! 市議会議員の、喬木直利(たかぎなおとし)だな! ……いいか、おい。こんな暴虐、誰にも知られずに済むはずがない! 後で死ぬような目をみるのはお前らだ! この建物の跡は……使用者(エッセ)、そう、しかも国府(こうふ)の森によるものだろう。あそこは穏健派と聞いている。こんなことが知れたら……!」

「おお、そうじゃの。そのとおり。国府(こうふ)の森は、聚落(じゅらく)の名門中の名門にして、穏健派じゃ。しかし……だ。おい」

 

 喬木の視線が、高森へと。

 

「初めまして、皆さん。お会いしたことがある方もおりますね。高森と申します」

「あ、あ……」

 

 誰かが、「人事課の職員だ! 市役所の」と叫んだ。

 

「いいえ。違います。それは、第二の身分です……それでは、あらためて挨拶をいたします。広島県の聚落(じゅらく)がひとつ、国府(こうふ)の森――初等魔術教育監の高森千尋と申します。緑ノ団の進路指導主事、及び能力開発を担当しております」

「……」

「ああ、勘違いなさらないでください。私は地方公務員ですが、それは第二の身分だと言っています。国民全体の奉仕者であるよりも前に、国府(こうふ)の森に住まう使用者(エッセ)全体のための奉仕者なのです。さて、ここまで言った以上は、あなた方の命がこれから蹂躪されるという事実を、当然に導くことができますね?」

 

 記者達は、微動だにしない……いや、違う。固まっている。

 喬木が彼らの元に歩いていく。

 

「残念だったの。わしはのう、国府(こうふ)の森の利益代表者のひとりなんじゃ」

 

 彼らは、放心している。

 そう、まるで、己が死を悟りきったような――

 

「待て! 待ってくれ!」

 

 俺は、叫ぶ。喬木がこっちを見た。

 

「おお、少年。前にも会ったのう」

 

 凄まじい視線。気圧される――

 ふいに喬木が笑んだ。

 

「心配せんでいい。同じ使用者(エッセ)のよしみじゃ、お前さんは逃がしてやる。興味本位で、ここに入ってしまったんじゃろ? ええ、ええ。許す」

 

 戦う前から負けてなるものか。

 なけなしの勇気を振り絞ったなら、

 

「喬木議員。言いたいことがあります……もう、十分だと思います。あの人たちは反省しています。これ以上はいいでしょう」

「……ほお?」

 

 形相が変わった。

 

「どうやら、お前さんにはわしの力が及ばないようじゃ。おかしいのう、使用者(エッセ)にも効果はあるはずなんじゃが。まあ、こんな少年を痛めつけるのも忍びない。では――」

「!?」

 

 おぞましいまでの恐怖感。心の内に広がっていく。

 心臓の底から立ち昇ってくる真っ黒い感情に、大声を出したくなる。

 

「これで最大出力じゃな。どうじゃ? わしの概念力(ノーション)は」

「……くそ」

 

 自らの顔を殴った。全力で。

 とともに、喬木に向かって走り出す。

 距離は近い。残り――

 

「!?」

 

 とある方角からの印章(シンボル)を肌で感じる。

 

「ぐぅっ!」

 

 謎の衝撃で吹き飛ばされた。地面から隆起した岩盤に叩きつけられる。

 

「ぐ! あ……くそっ、もうちょっとだったのに……!」

 

 地面に突っ伏した状態から、なんとか起き上がる。

 ……女の方を見た。不敵な笑みを浮かべている。

 

「あら、ごめんなさい。子ども相手につい。もう少しで殺すところだったわ」

 

 痛みを堪えつつ、喬木に視線をやる。

 先ほどと変わらず、超然としてこの場に佇んでいる。

 

「た……喬木議員!」

 

 思い切って、喋りかける。

 

「やめにしませんか! あなただって、昨日、危ない目にあったじゃないですか。自分の命と同じく、他人の命も大事にしてください!」

 

 ……幾秒かをはさんで、喬木の身体に震えが見られた。

 

「ぶふっ! はははは……! い、命……!? はははははっ」

「俺、なにかおかしいこと言いました?」

 

 中腰で立っている俺の、すぐ傍に寄ってくる。

 

「あれか、あれはな。ああいう演出だったんじゃ」

 

 ヌメリとした、しゃがれ声。

 

「……」

「おお、少年。どうした? 別に、意図を理解しろとは言っておらん……それにしても、この状況で……なかなかのタマじゃ。どうだ、中学を出たらわしのところに来んか?」

 

 喬木を見上げた。睨みつける。

 

「なら、問います。いまここにある風景は、わざとですか? 違うでしょう。だから、あなたは今、ここにいる。計画していないことが起こったから、気が気でない。違いますか」

 

 顔を歪ませる。図星だろうか。

 

「あなたの顔、(うっす)らと隈ができている。肌も黒ずんでる。昨日、大量に質料(ヒュレー)を消費したんじゃないですか……その能力で、人々の認識から文化会館を消すために」

「……はははははっ!」

 

 笑い声を上げる。

 

「そのとおりじゃ。昨日はあれから参ってのう。何十年か振りに過労死すると思ったわ……齢は取るものじゃないのお。いや、まったく! ……高森よ。ここにいる者は全員(・・)、始末だ」

 

「あなたの顔。薄らと隈ができている。肌も黒ずんでる。昨日、大量にヒュレー質料を消費したんじゃないですか……能力を使い、人々の認識から文化会館を消すために」

「……もういい。高森よ、ここにいる者は……全員、始末だ」

「かしこまりました」

 

 悲嘆に満ちた声とともに、記者らが暗闇の方に逃げ出していく。

 

「やめろッ!」

 

 ――血。

 それだけ。それだけしかない。

 悲鳴は、案外ほとんどなかった。あるのはただ、肉が裂け、脳が飛び散っていくだけのシュールな光景。たった、それだけだった。

 意味のある言葉を漏らすでもなく、俺は立ちすくむことしかできない。

 

「あ……あ……」

 

 血。死んでいる。先ほどまでは心臓が脈を打っていた。

 血。死んでいる。先ほどまでは命乞いをしていた。

 血。死んでいる。先ほどまでは必死に逃げ回っていた。

 うめき、わめき、ざわめき、雄叫び、絶望、怒り――たったこれだけの間に、負の感情が満ち満ちてしまう。

 

「……教えてくれよ、喬木議員。なんでこんなことするんだよ」

「よかろう。冥土の土産に教えてやる。本当なら、あの場でわしを襲った連中を高森が皆殺しにして終わりじゃった。翌日の新聞記事には、『また暴走、特殊概念能力使用者』といった記事が踊っておったじゃろう。民衆は使用者(エッセ)に恐怖する。が、それこそが営業活動のタネになる……そうじゃ、常人が持ちえぬだけの強さ。使用者(エッセ)が一般市民を凌駕しとるのは、このぐらいしかないからのう。しかしだ、聚落(じゅらく)の出身者は相当な数が仕事にあぶれておる……わしはな、今日、色々な資料や証人を引っさげてのう、記者会見を開く予定だったんじゃ。わざわざ何人かの婦女子を助けてな、あの日、文化会館にいたのは正しい志をもった使用者(エッセ)であって、そういう連中だったら世の中の役に立つ、と。そういう思いを世人に持ってほしかった! そして、新たな転職市場を開拓するんじゃ。転職エージェントの連中にも声をかけてあった! それが、こんなつまらんことに……」

「バカも休み休み言ってくれよ」

 

 あまりに馬鹿らしくて、声に出てしまった。

 

「いいえ、違うわ。少年」

 

 右手の関節をパキパキと唸らせながら歩いてくる、女。

 

「喬木様が市議会議員になって二十年以上、多くの聚落(じゅらく)で生活状況が改善しています。国府(こうふ)の森にしても、失業している者の割合は二割を下回っていますし、戦闘による死亡者も近年ありません」

「……難しいことはわからない。でも、これだけはわかる……お前達は悪だ」

「理解を得られず残念です……喬木様、本当によろしいのですね?」

「構わん。すぐに終わらせろ。今日は、これから例の会議があるからの」

「かしこまりました」

 

 高森と呼ばれていた女が、構えをとる。

 俺は、一歩だけ下がるとともに、学ランのボタンをはずす。

 ……捕まえることができたら、こっちのもの。寝技で仕留めてやる。

 互いの距離は3メートルといったところ。相手を見据えた――心臓が高鳴る。

 ガンッ、ガンッ。何かが、何かにぶつかる音が聞こえてくる。

 

「あら、なにかしら?」

 

 「いまだ」の「い」で、飛び出す!

 高森は、まだ後ろを見ている。

 ――こちらを振り向いた。手を振り上げる。

 

「やばいッ!」

 

 音速の衝撃が襲い来る。

 

「そらよッ!」

 

 秒も耐え切れず、ズタズタになってしまった――俺の学ラン。

 

「うそ、どういうこと……?」

 

 女の、斜め後ろに回り込んだ。

 続いて、投石。さっき拾った石を投げた。

 バチィ、という電気が棚引くような音とともに、石が弾け飛ぶ。

 

『もらったっ』

 

 心の中で呟くとともに、その手は、高森が着ているスーツへと――

 

「うぎっ!」

 

 地面に叩きつけられた。距離を取られてしまう。

 

「足が速いのね。でも、まだまだ青い」

「……恐縮です」

 

 すぐに立ち上がる――突進ッ!

 

「これでどうだっ」

「……?」

 

 今、この高森という女をまとっているであろう違和感。それは、触感の喪失だった。衣服を着ていることすら感覚できずにいる。

 距離を詰める――右手で女の横襟を掴んだ。と同時、右足を鎌のように振り上げる。左手でもって女の袖を掴んだなら――大外刈りッ!

 

「……触らないで?」

「がぁッ!?」

 

 吹き飛ばされた。上空に。先ほどとは異なる、やわらかな上昇だった。フワリ、フワリと宙を漂い、そして――

 

「わかってるんでしょう? これからどうなるか」

「……ははっ、まあ一応」

 

 ――身長二つ分の高さから大地にブチ落とされた。右掌で受身を取った。

 体中を痛みがのたうっている。隅々まで伝わる痺れ。苦し紛れに転がるしかない。

 

「なに? そのだらしない姿勢は。戦士の基本がなっていません」

 

 俺は立ち上がった。不敵に笑んで見せる。

 

「まあ、見ててくださいよ……」

 

 必死の強がりを決めつつ、掌に砂利をしのばせる。

 

「いや、でもね。正直、痛いんすよ」

「殺し合いの最中に泣き言ですか?」

 

「喬木様。お気持ちだけ頂戴いたしますわ……ゆっくり、ご覧になっていてください」

 

 あれしかない、という思いがよぎる。同時に、『あれだけはだめだ』という心の声も。

 ガ、ガ、ガ、ガガガガガガッ……!

 掘削音? が響いてくる。さっき聞こえたのと同じような。

 ただし、音程が異なるのと――大きくなっている?

 

「あんた。高森さんだっけ? なんか聞こえないか? さっきから」

「戦いに集中しなさい? これから、あなたは――」

 

 女は、指先をこちらに向けて横に移動している――俺から見て真東の方向に移った。

 ……いつの間にやったのだろう、スカートを引き裂いて動きやすくしている。

 

「なあ、お姉さん。なんでそんなことしてんの? 変態なの?」

「あなた。戦いになると性格が変わるタイプね」

「ところで、そういう高森さんは、ノーション概念力を使うとき、いろいろナントカ叫ばなくてもいいタイプなんですかね?」

「まあ、そういうことです……さようなら」

 

 見えなかった。見えたのは、彼女が小刻みにジャンプをしたところまで。

 ――吹っ飛んでいた。胸部が凄まじい力で殴られて、ただただ真後ろの方向へと、抉られるように、俺の体が。

 

「ぐぼっ!」

 

 暗闇の壁に突き刺さった体。

 

「あら? 馬鹿正直に当たってくれるなんて。お姉さんに優しいのね」

「……ごぼっ、げ、げほっ」

 

 俺の背中。闇にくっついて取れない。どういう原理で張り付いてるんだろう? 思いを馳せる。

 

「残念ですね。その壁に触れたが最後、抜け出せないの」

 

 まだだ。まだ負けてない。女に視線を向ける。

 

 だめだ、目がかすむ。もう、あれをやるしかない。

 ――深呼吸。

 

「なあ、死ぬ前に教えてくれよ。今の、どうやったんだ?」

「……例えばもし、私が一瞬だけ地面から離れるとしますよね? その間、地球は自転を続けていますよね? ……でも、私の身体が地球に置いていかれることはない。ですが、もし、地球から置いていかれるとしたら……あなたは、どう思われます?」

「はは、そんなことできんの?」

国府(こうふ)の森の使用者(エッセ)が使うのは、魔導ではなく魔術。魔導は、科学的な知識がなければ本領を発揮できませんけど、魔術は違います。想像力、すなわちイメージがものを言うのです」

 

 ……すぐ間際に女がいる。俺の心臓めがけて腕を出す。

 小さく、小さく、深呼吸をした。

 

 ――《幻 想 変 換(デモンズトレード)》――

 

「手に入れるのは……自由ッ!」

「!?」

 

 暗闇の壁が弾け飛んだ。肉体が自由になる。殴り抜けるようにして女のブラウスの襟ぐりを掴んだ。

 刹那、俺の右足が女の足首にしっかと掛けられる。流れるような手さばきで、女の袖口を――掴んだッ!

 

「おらぁッ!」

 

 大外刈りッ!

 

「ああっ!」

 

 頭の後ろを打つようにして、女が成す術もなく倒れた。

 

「とどめだっ」

 

 左手で、女の右手首を捕まえるやいなや、右手を下から差し込んで――腕がらみ(アームロック)――極まったッ!

 

「折れろっ!」

「あ、ああぁっ!」

「どうだッ!」

「……冗談です」

「え?」

 

 突き上げるような衝撃。上空に跳ね飛ばされた。

 肺のあたりに凄まじい痛みが襲ってくる。喉元には血の感触が。

 ――落下が始まる。

 

「ああ、この痛み。これが今回の代償か……」

 

 落下している。

 

「ごめんな、こんなに馬鹿で」

 

 落下している。

 

「……さよなら」

 

 落下――していた。

 

「!?」

 

 二本の腕が、俺の肉体をしっかと受け止めている。

 

「馬鹿野郎。なんでひとりで行くんだよ。学校で声を掛けただろ?」

「集……!」

 

 すでに暗闇はなかった。おぞましい呻き声とともに、そこら中に闇のかけらを撒き散らしていく黒い霧――消え去った。

 今はただ、地平線に広がる赤と紫色とが折り重なったような――春の夕暮れがあるだけ。



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#09 冷たい氷みたいに(後)(1)

 集。俺を抱き止めたのは集だった。

 一緒に花壇を造っていた時みたいなヨレヨレの作業服じゃなく、もうこちらの方が見慣れてしまったスーツ姿。

 真白のシャツ、水色のネクタイ。きらりと輝くネクタイピン。スラッとした体型が、スーツに入った縦のラインのおかげでより一層、引き締まって見える。

 

「……さて」

 

 喬木をチラッと見た後で、高森を見据える。

 

「おい、やってくれたな。人の弟子、ボコッてくれやがって」

 

 高森も負けじと睨み返す。

 

「相変わらず乱暴ですこと。さっきからゴンゴンうるさいと思ってましたけど、とうとう人の召喚獣に手を出しましたね?」

「おお、出してやったとも。そうでもしないとこいつが死んでた」

「あなたはもう一般人(エンス)の仲間なんでしょう? こういうことに手を出さない方がいいんじゃないかしら?」

「そこそこ関係があってな」

 

 今、集に抱えられて話を聞いている。なんだか恥ずかしい。

 

「おい。そろそろ降ろしてくれよ」

「ああ、そうだった。よし」

 

 地面に下ろされる。足手まといになるのは目に見えていた。後ろに下がる。

 

「渉。もっとだ。もっと、かなり後ろに行け!」

 

 告げた瞬間を狙って、音速の斬撃が飛んでくる。

 集の腕が真横に振られたなら、斬撃を打ち返してしまう――そこらに敷かれたタイルが割れ散った。

 

「逃がさない。魔術教育監として、こんなところで恥をさらすわけにはいきません」

 

 ……暗闇が晴れた後の風景が映っている。平日の夕方にもかかわらず、誰一人として通行人がいない。

 

「しょうがねえ……ちょっと、ちょっと! 喬木議員。もうすぐ例の会議ですけど?」

 

 喬木は車止めに腰をかけている。口をもごもごさせていたが、何かの液体を地面に吐き出した。

 ペットボトル入りの緑茶を手に持っていた。口を洗っていたのだろう。

 

「さて、どうするかのう……仕方がない、もう行こう。高森よ、後は頼んだぞ。それと三良坂君も。遅れんようにな」

 

「わかりました。俺が勝てたらね」

 

 喬木が腰を上げた。北の方角、国府第三中学校へと歩き出す。

 

「食らいなさいっ!」

 

 苛立ちを隠せない口調。高森が両手を地面に付ける。

 

「渉! とりあえずそこにいろ」

 

 力強い声。集が構えをとる。目の前には、詠唱らしきものを口ずさんでいる女がいる。

 ……詠唱が終わったなら、しっかと敵人を見据えて、

 

 ――《グラビティ・フォール》――

 

「やべっ!」

 

 集の周り、半径数メートル内の範囲が沈み込んだ。

 剥き出しの大地も、アルファルトで舗装された部分も、煉瓦製のタイルも、なにもかもが沈んでゆく――

 重力という名の暴圧に耐えつつ、集は深呼吸をする。

 

「ラッシュチューン」

「ラッシュチューン」

「ラッシュチューン」

「ラッシュチューン」

「ラッシュチューン――」

「ヘイストチューン」

「ヘイストチューン」

「ヘイストチューン」

「ヘイストチューン」

「ヘイストチューン」

「ヘイストチューン」

「ヘイストチューン――」

「マインドディスト」

「マインドディスト」

「マインドディスト」

「マインドディスト」

「マインドディスト――これでどうだっ!」

 

 一切、視認できなかった。瞬きの速度で女の懐に潜り込んでいる。

 

「うっ!」 

 

 突き上げられた拳――両手を組んで受け止める高森。防御もむなしく、紙くずのように跳ね飛ばされてしまう。

 その先へと、集が常軌を逸した速度で回り込んでいる。タイミングを合わせて、放つ――回し蹴りッ!

 

「がぁっ!」

 

 カーペットに投げられたぬいぐるみのようにバウンドをした高森、そのまま地面に転がって、引きずられて、勢いが止まる――止まったと思ったら、よろめきながら立ち上がる。

 余裕はなくなり、苦し紛れの笑みを浮かべている……ような気がする。

 

「自分の能力を高めるだけでなく……私に弱化魔法(デバフ)をかけたのね? 卑怯者」

 

 集を睨みつけている。その印章(シンボル)が止め処なく漏出して、周りの大気は――

 

「あれはっ!」

 

 女の背中に、燦然と輝くばかりの火柱が昇っていた。それは両対の翼を為して――体を空中に舞い上げる。

 瞳は、諦めていない。

 

「燃えよ、燃えさかって、焦げ落ちろ――ワイルドファイアッ!」

 

 集の真下の地面から業炎が舞い昇った。飛び上がって避けたものの、衣服の一部が燃えてしまっている。

 火の勢いは加速していく。燃焼材とはならないはずのレンガが真っ赤に燃え盛っていた。

 

「そおれっ!」

 

 何発もの火球を一気に打ち出した。集は人間離れしたスピードで回避し、高森へと迫っている。負けじと、炎の翼をはためかせて迎え撃とうとする。

 

「ごめんね? 本気でいくわ。かなり痛いと思うけど」

 

 炎の両翼から生まれ、次々と打ち出される火球。その数は、五、十、十五、二〇……あっという間に増えていく。

 身体ひとつ分のステップで避けていく集――最後の火球をかわしたなら、ターンを決める。

 左手を高く掲げて、

 

 ――《永久の霧雨(イモータル・ブルー)》――

 

 唱えたと思った矢先、目の前が真っ白になる。

 

「冷たっ!? なんだこれ……」

 

 上空から降り注ぐ、止め処ない雨。

 燃えている大地と接触した雨粒が、瞬く間に水蒸気と化した――辺りが霧に包まれる。

 

「あ、ああ、ああああああああああっ、翼、私の翼がっ」

 

 神々しかったはずの翼。あれよあれよという間に溶けてゆく。

 

「ブサイクが台無しだな!」

 

 集の姿は見えない。俺は迷わず水蒸気の霧の中へと。

 ……見つけた。両者が対峙しているのを。炎の翼はだいぶ小さくなっている。

 

「本気でいきます」

「……お手柔らかに」

 

 女は、小さくなった炎の翼に手を突っ込んだ。

 何かをまさぐっている、と感じたその時。出てきたのは――どこまでも、どこまでも長い――槍だった。

 

「紅蓮の神槍、串刺しなさいッ!」 

 

 投擲の構え。槍の先端に咲き誇った青白い炎が敵の方を向いている。底知れぬ怨恨を重ね重ねたような声だった。

 そして――槍を投げるッ!

 

「……」

 

 対する集は、左手を真正面に突き出す。

 

「卑金の障壁」ガッ

「卑金の障壁」ガガガガガガガッ

「卑金の障壁」ガンッ

「卑金の障壁」ガッガッ……ガッ!

「卑金の障壁」ガッ……ガッ

「卑金の障壁」ガッ

「卑金の障壁」ガガッ

「卑金の障壁」ガッ……

「卑金の障壁」ガ……

「卑金の障壁」……

 

 青白色に燃えている炎の槍が――集が呼び出した十枚分の壁のうち、八枚目にまで突き刺さっている。

 この壁の正体は、正面入口の跡から道路に向かって続いている煉瓦造りの石畳だった。あっという間に捏ね合わされて固まり、障壁を作った。

 

「ぐ、ううううう……!」

「文化会館さまさまだな。レンガの質によっちゃあ、俺が焼き鳥みたいになってたところだ」

 

 女は凄まじい形相で敵人を見据えている――やがて、呪文を唱え始めた。

 次の瞬間、右手の指を左肩に乗せる仕草をする。

 

猛き炎帝の護り(ファイアカウンシル)

 

 思わず、「熱い!」と叫びそうになる。凄まじい熱気だ。でも、これはおそらく攻撃手段じゃない。

 

「あんたも強化魔法(バフ)か? で、どうすんだよ。あの子みたいに超級概念(トランセンドノーション)でも使うつもりか?」

「あれは人間ではなく、別の生き物よ」

「おやおや。国府(こうふ)の森の魔術教育監ともあろうお人が、そんなこと言っちゃっていいんですかね?」

「あなたも……人間じゃないでしょっ!」

 

 刹那。燃え滾っていた炎槍が消滅する――集も障壁魔法を解いた。ただの土くれに戻っていく、壁だったもの。

 ……均衡。両者、一歩も動こうとしない。が、少しずつではあるものの、立ち位置が変化している。

 

「……?」

 

 今、高森が何度か瞬きをした。

 

「うおっ!?」

 

 いきなりだった。

 集の周りの地面が沈み込んで――身動きが取れなくなる。

 

「……グラビティ・フォール。ふう、詠唱なしでも案外いけるものね」

「畜生。やられた」

 

 集は足掻くも、動き切れないでいる。

 

「お得意の重力系統(グラビタス)か。やるじゃねーか、動けないぜ」

「……違います。重力系統(グラビタス)は、魔導の一系統でしょう? 私が使っているのは、魔術の一系統である緑ノ術よ? さあ、これからが本番。再び現われよ……紅蓮の神槍」

 

 自分の背と同じぐらいの炎の槍が出現する。クルリとひるがえし、逆手に持った。槍の大きさ、炎の勢いは先ほどのものより小さい。

 切っ先に迷いはない――まっすぐ集を向いている。

 

「ねえあなた。もう十分、生きたでしょ?」

 

 すぐ傍に近付いたなら、女がにっこりと笑った。

 

「高森さんほどじゃありませんよ」 

 

 炎の槍が突き立てられる。集は苦笑している。

 高森は――攻撃に移るべきタイミングを見極めている。

 

「さよなら、三良坂(みらさか)くん。私も死んだら、あの世で飲みに付き合ってあげる」

 

 放たれる、槍の一閃――集の口が動いたのを確かめる。

 

 ――《黒き血の星(ステラサグニ・ネグロ)》――

 

 俺は地面に伏せる。命を奪われかねないから。

 耳をつんざくような破裂音が聞こえたかと思うと、凄まじい蒸気圧が真上を通り過ぎていく。伏せていなければ、おそらく死んでいた。

 ……何が起きた? そうだ、この感じ。冷気だ。一瞬だけ見えた気がする、集が氷晶の固まりを呼び出したのが。

 ――水蒸気爆発。見たことはないけど、多分それだ。

 

「……どうなった?」

 

 爆発点まで近付いていくと、バッバッ、という、何かが転がるような音がする。

 

「集!」

 

 見つけた。駆け寄ろうとする。

 

「あち、あちちっ」

「集、だいじょうぶかっ」

 

 地面を転がり回っている集。体に付いた火を消そうと足掻いている。

 何度も、何度も転がって、ようやく火が消える。コゲだらけになった衣服を整えながら、

 

「水蒸気も晴れてきたな……さて」

「……は、は、はあ、はぁ……よくも、私の魔術を……利用したわねッ!」

 

 消耗した様子の高森。膝をついている。

 スーツがぼろぼろだ。はだけたブラウスからブラジャーの肩紐が覗いていた。肩紐のラインが真っ白い肌に覆い被さっている。

 それは、破れたブラウスと奇妙に合わさって、哀愁を漂わせている。ラインを追っていき、やがて塊のようなものが目に入った途端、我に返って目を逸らす。

 女がゆるりと立った。立ち眩みとともに後ずさる。

 

「は、は、はぁ、は……三良坂(みらさか)くん? 私がこれから何をしようとしてるか……あなたにわかる?」

「さあ」

「召喚獣を呼びます。私とあなたの真下に。特大のやつを」

「それは、あれですか。契約召喚?」

「そんな質料(ヒュレー)が残ってたら、とっくにあなたを殺せている……契約召喚ではなく、物理召喚です。それも見境なしの」

「へー、それで……ちーちゃん先輩、何が言いたいんです?」

 

 高森は唾を吐いた。

 

「二度とその名前で呼ばないで? ……さあ、いいかしら。文字どおりよ。これから、『私とあなたの真下に特大のやつを』召喚する、と言っています」

「……チッ」

 

 集は舌打ちをした。

 

「わかった、わかった! 俺の負けだ。降参!」

 

 両手を挙げる。

 

「わかればいいのです……」

 

 高森は、半ば悟ったような顔つきで、

 

「すいませんね。勝負に負けても、試合に負けるわけにはいきませんので……さあ、それでは」

 

 指先を額に当てる。呟いた。

 

召喚(サモン)、エルダードラゴンリッチッ!」

 

 ……彼方からの重低音が響いてくる。その方向に目をやった。

 先ほど殺されたばかりの記者達の真下に――真っ黒い穴のようなものが出現している。

 

「ヴオオオオオオオオ……!」

 

 黒。ただ、真っ黒だった。

 どこが目で、どこが口なのかわからない。ただ、巨大な塊が暗黒の中から現われて――死体が宙にフワリフワリと漂い始める。

 

「あれは……?」

 

 そいつの口が開いた。

 ガバリッ。そんな擬音がぴったりと似合う。緩やかな速度で口内に吸い込まれていく、宙に浮いた死体。

 

「……三良坂(みらさか)くん。別に、アレを使ってもよかったんですよ? いいえ、千の魔法を使えるあなたですから、ほかに手もあったんじゃなくて?」

「ご冗談を。アレはとっておきですよ」

「あら。けれど、あの能力なくしては、もはや貴方とは呼べなくってよ……あの……が……よく……まで」

 

 高森の姿が、真下に現われた穴へと消えていく。

 ……今なんて言っていた? 「あの落ちこぼれが、よくここまで」と聞こえた気がする。

 集が落ちこぼれ? そんな馬鹿な。今の戦闘、どれを取っても一級品だ。普通は、最初のバフを唱えた時点で質料(ヒュレー)が尽きる。

 

「覚えてなさい、三良坂(みらさか)くん。それと、そこの少年もね……右手の腱がまだ痛みます」

 

 女を見た。厳しい視線を向けている。

 

「少年。そいつに関わるのはやめておきなさい。いい? 少しでも違和感があったら絶縁するのよ。仲間がどうなろうと関係なく。ああ、それと……あなたって、案外公務員に……」

 

 姿が消えつつある。よく聞こえない。

 

「はいはい、高森さん(・・・・)。また会ったらよろしくね」

「……じゃあね、集くん。今度は地獄で」

 

 複雑そうな表情で、暗黒に消えていく女を見送る……見送った。

 女が吸い込まれた後、真っ黒い塊が這い散るようにして――穴が消えた。 

 

「おい、大丈夫だったか?」

 

 俺はバツが悪そうな顔になっている……はず。

 

「……まあ、かろうじて」

「これからどうするんだ」

「帰るよ」

 

 集の顔を見ることができない。すべてが見透かされていそうで。



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#09 冷たい氷みたいに(後)(2)

 国府第三中学校へと向かう道を、ふたりで歩いている。

 

『渉。話したいことは色々あるんだが……』

『なあ、集。会議、間に合うのか?』

『……受付係が時間オンチなのを祈るばかり、ってところだ。まあ、ゆっくり歩いていこうや。実は俺、参加したくねーんだ』

 

 という、今しがたのやり取りを思い出して、

 

「はあ……」

 

 ため息をついた。

 足取りは、重い。さっきから沈黙が続いている。

 

「渉」

 

 集が口を開く。

 

「どうしてこんなことになったんだ。死ぬところだったんだぞ」

「気になったんだよ。文化会館が」

「気になった?」

「あんな事件があったら、そりゃ、気になるだろ」

「……もしかして、自分たちであの騒ぎを収めようと躍起になったものの、てんで通用しなかったことでも気にかけてるんじゃないだろうな」

 

 由香里の真似をするがごとく、道に落ちていた石ころを蹴っ飛ばしてみる。

 

「そのとおりだよ! ……もやもやして、行ってみたくなった」

「病んでるな、渉くんは。もっと一般人(エンス)に対して無関心というか、そういうタイプだと思ってた」

「あいつらなんかどうでもいい! けど……自分のせいで誰かが苦しむのはいやだ」

「へえ、そうなんだ」

「……」

 

 肩のあたりを握った。

 

「なんてゆうか、そう……助けたいとか助けたくないとかじゃなくて、あいつらが原因で苦しくなることがあるんだよ。それは、あいつらの悪意によることもあるし、そうじゃなくて、俺たちの意識が元になってることもある」

 

 自分でも何を言っているのかわからない。

 集は、ただ聞いている。

 

「……あいつらの存在を気にしないでいられる。そんな自分になりたい」

「そーいうのは、お手本を探すといい」

 

 俺は、苦笑する。

 

「……由香里だ。あいつは、クラスの連中から無視されても、平気な顔で『おはよう』って言う。ほんと強いんだ、あいつ。あいつみたいになりたい」

「へえ、由香里ちゃんみたいになりたいんだ。どうすればなれると思う?」

「それがわかったら苦労しないよ……けど、ああ、そうだ。力、かな。力さえあればなんとかなる気がする。さっきの集みたいにさ、どんな使用者(エッセ)でもなぎ倒せるほどの力があれば、どんな境遇でも、チョウゼン、てやつ? そんな気持ちでいられる……と思う」

「そうなんだ。でも、あれ、すごかったじゃん……高森さんが最初に放っていたあの召喚獣、ドードルバグという異界の魔獣、その成れの果てなんだが、あれの暗黒拘束を打ち破った奴は初めて見たな」

「見てたなら、早く助けてくれよ」

「可愛い子には旅をさせろって言うだろ?」

 

 集は笑っている――

 わかってる。苦労してあの暗闇を薙ぎ払ってくれたことを。

 

「いや、そんなことより。あの時、お前がやったあの概念力(ノーション)。あれはいったい、なんなんだ? 教えてくれよ」

「あれは……俺が育った地域だと、幻想変換(デモンズトレード)って呼ばれてる。俺以外だと、栞が使える」

「どんな能力なんだ」

「先に願いが叶う。でも、その後で……なにかが持っていかれる」

「叶わない願いだったら?」

「栞が言うには……その場で粉みじんに砕け散るらしい」

「すごいじゃん。そんな能力があったら、ぜひ使ってみたいね」

「冗談だろ。なにが消えるかわからないのに」

「その代償をコントロールできるかも……とか、考えられないか?」

「無理だ」

「いやいや。もしかしたら失うんじゃなくて、逆に得られるかもよ」

「バカばっかり」

 

 また、無言になる。

 ただ、ふたりで歩いている。

 

「……なあ、集」

「どうした?」

「聞きたいことがある。本当は、あの日、文化会館で聞きたかった」

「ん、ああ、あれか」

 

 俺は、立ち止まる。集も立ち止まる。

 学校は目前だ。

 

「集。俺さ、公務員になりたいんだ。教えてくれよ、こんな俺でも公務員になれる方法をさ」

 

 集は、なんだか苦虫を噛み潰したような顔になる。

 

「どうしたんだよ、いつもはすぐに答えが返ってくるだろ。ダメなのか、俺じゃ。ふざけた理由なのはわかってるよ。でも、真剣なんだ」

「……基本的なところから行こう。まず、渉の場合は、中卒採用ということになるけれども、残念ながら中卒採用は現業職員しかやっていない。しかも、ハッピーマウンテン市では、使用者(エッセ)が一般行政職として採用されたことはない。だから、いわゆる……フツーの公務員というのは無理だ」

 

 そして、ひと呼吸おいてから、

 

「しかし、だ。魔導技術職なら話は別だ。これは使用者(エッセ)しか受験することができない。幸いにも、今年は秋に採用試験がある」

「……俺にも希望があるってことか?」

「いいや、ない。理由は倍率だ。今から約六年前に行われた備後国府町の魔導技術職採用試験の倍率は……約三五〇倍だ。一人の定員に、それだけの数が来た……渉。もうわかるよな?」

 

 わかる。俺の顔に笑みが浮かんでいる。

 

「希望、あるじゃんか。たった一人の採用でも、今年は採用試験をするんだろ?」

「いやいや。ハッピーマウンテン市と合併していることもあって、定員も三人に増えてはいるが……おい、どうして笑っていられる? 絶望するところだろ」

「為せば成る……って言えるほど自信があるわけじゃない。でもさ、俺にはさ、もうそれしかないんだよ。チャンスがあること自体、喜ぶべきだろ?」

「わかった、わかった! 第一関門クリアだな。じゃあ、お次は……精神的なところにいこう」

 

 集の、視線の先。

 国府第三中学校の校舎を眺めている。

 

「三川課長のくっそ長い挨拶も終わってる頃かな。渉、行こう」

「え?」

「これから会議がある。扉に耳を当てながらとまでは言わないが、外で話し合いの内容を聞いてもらう」

 

 え? どういうことだ?

 

「晴れて公務員になったとして、その職務を全うできなければ意味はない。いいか? この会議が終わった後で、自分が本当にこの仕事に就くことができそうか……しっかりと見極めるんだ」



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#09 冷たい氷みたいに(後)(3)

 午後6時15分。日はほとんど落ちている。夜の学校は初めてのはずなのに、不思議と慣れている感じがする。

 ひたすらに廊下を進んでいく。職員室に辿り着いた。

 ……部屋の中から、誰かが抑揚をつけて話す声が聞こえる。

 

「おいおい! 三川課長の挨拶、とっくに終わってるじゃねーか……」

 

 コン、コン、コン。

 三回ノックの後、「はい、どうぞ」という声があった。

 集は扉を閉じる際、少し開きっぱなしにしてくれた。

 

「失礼します。遅れて申し訳ありません」

三良坂(みらさか)。遅いじゃないか、先生方を待たせて」

 

 俺は壁に身をもたせている。

 

「すいません! 遅れてしまいました」

 

 くっきりとした声だった。「まあいいですよ」「座ってください」といった声が聞こえてくる。

 

「みなさん、よろしいでしょうか? それでは改めまして。全員が揃いましたので……」

「ん? この声は」

 

 和田先生だ。

 ズイッと、スライド扉に身を寄せる。

 

「それでは、この度の同和教育の推進に係る校内研修会、一人目の赤木先生による発表が終了いたしました。それでは、次は……えー、はい、挙手は待ってください。質疑応答は、後でまとめて行いますので」

 

 どうやら、司会役のようだ。

 

「二人目は、小山先生にお願いします……はい、小山先生。マイク、よろしいでしょうか。お願いします」

「はい、それでは参ります」

 

 国語の小山先生であることを察する。

 

「えー、皆さま。本日はこのような場を設けてくださり、ありがとうございます。特に、喬木議員のご協力なくしては、このような会を催すことはできませんでした。えー、私、国語科を教えている小山、コ・ヤ・マと申します。私たち広島県労働者連合会におきましては、道徳の時間ではなく、かといって人権教育のコマでもない、一般の授業時間中にあって、広く人権意識を子どもたちに涵養するための取り組みを進めているところであります。さっきの赤木先生ほどの情熱は、私にはツユホドモございません! しかしながら……はは、まあ、そうお笑いにならずに……身内同士の席ですので……」

 

 会議中の冗談はOKなんだろうか。話が進んでいく。

 小山先生の話は、とにかく退屈だった。ベロ出しチョンマの話は耳にタコができるほど聞かされている。声も小さくて聞き取りにくい。

 次は、池上先生。とにかくうるさかった。理科を教えるにあたって、自分がいかに人権のテーマと結び付けた話をしているか熱心に話していた。

 その次は、技術の沖浦先生だった。案の上、あの時の授業の話をしていた。合同班を作った話。

 

「ハア……沖浦先生、こんな下心があったのか」

 

 話が終わると、盛大な拍手が。

 ダントツでウケている。

 

「えー、皆さん……ゴホン、今の話を聞いておりましたでしょうか」

 

 喬木議員だ。

 

「一般児童と使用者との交流。まさに至高の授業内容です。児童生徒間の協調関係を強めようとしておられる、聖職者の鑑と言えましょう。皆さんもこうして、学校教諭としての力を最大限発揮し、人類至高の発明である人権の啓発を絶えず行ってくださいますよう、この喬木、喬木直利から何卒お願い申しあげます」

 

「喬木議員! まだ選挙期間じゃないですよ!」

 

 笑いが起きる。

 

「おお、これはいけない。まだ捕まるわけにはいきませんからな」

 

 ……その後も、何人かの先生が発表を行った。聞いたような話ばかりで、正直つまらない。眠くなってきた。

 

「それでは……最後は、わたしですね」

 

 和田先生の番が回ってきた。目が覚める。

 

「えー、先日のことですが、箱田君という生徒がケンカによる怪我が原因で学校を休んでいました。それが、先日復帰したんですね……」

 

 思いを巡らせる。制服の着こなしのことか。

 

「ええ、それはもう、言うことを聞かない子で。他の生徒を恐喝していたということで、今回は厳しく指導を行いました。ただ、復帰直後に、かつて仲がよかった子たちから、今度は彼が嫌がらせを受けてしまい……」

 

 自業自得、だと思う。

 前々から、ああいう奴だった。俺がやらなくても、いつかは天誅が下ったはず。

 

「箱田君には、いいところがありました。制服です。彼、制服を完璧に着るんです。それはもう、教科書どおりに。そういうところが素敵なんだよって、クラスのみんなの前で褒めました。そうしたら、みんなわかってくれたみたいです。彼、以前と同じように友達と話すようになりました」

 

 そうなのか? よくわからない。

 

「ですから、やっぱり生徒のいいところを認めることが大事なんです。あの子たちはそういう感情に飢えています」

「いや、でもね。その子だけを褒めたら、生徒を贔屓していることになるんじゃ?」

 

 赤木先生の声がする。歴史の授業の時みたいに、『主張せよ』とでも言わんばかりの声だった。

 

「そのとおりです! 褒めるんなら全員を褒めないと。全員が無理なら、褒めるだけの客観的な理由が必要です。制服の着方なんて、そんなことで褒めるのは……差別とまでは言いませんが、ちょっとねえ……」

 

 小山先生だ。いつもは大人しいくせに。やっぱりこいつ、二重人格だ。

 

「待ってください。そんな意図はありません。ただ……」

「いやいや、皆さん。ほんとにそうですよ。待ってください」

 

 喬木議員だ。こんなに重々しい声を聞き違えるはずがない。

 

「和田先生はですね、このままだと復帰が難しいと判断したから、みんなの前で褒めたのです。和田先生なりの愛情の示し方ではないですか。そんなにカリカリしなくても」

「そうですよ! 褒めるっていうのはね、生徒のモチベーションを保つために必要なことなんです」

「和田先生、わかりました。私の誤解でした。でも、今後は言い方に気をつけてくださいね」

 

 池上先生がフォローをすると、便乗して小山先生が手のひらを返した。

 はらわたが煮えくり返りそうだ。

 

「……それでは、わたしの発表も終わりましたので、これでお開きとさせていただきますが……皆さん、なにか意見がおありでしたら、どうぞ」

 

 沈黙している。誰も手を挙げない。

 と、ここで、

 

「はい、教育委員会教育総務課長、三川様どうぞ」

「えー、本日は、国府第三中学校の教頭先生、教務主任、進路指導主任、生徒指導主任、学年主任などの皆さまにお集まりくださり、大変よい会を開くことができました。私、この春に異動してきたばかりで、右も左も、上も下もわかりませんが……」

 

 どっと笑いが起こる。何が面白いんだ?

 

「これからもどうぞ、宜しくお願いいたします。次は、教育総務課主事の三良坂(みらさか)から一言があります」

「ええ、俺ですか!?」

 

 また、笑いが起きる――止んだ。

 

「えー、皆さま、初めましての方もいれば、そうでない方もおられますね。私、少しだけ自己紹介をいたしますと、魔導技術職として五年前に採用されました。今年の七月で二十四才になります」

 

 静謐な空間が広がっている。

 

「えー、私も、使用者(エッセ)という特殊な身分の生まれということで、子どもの時分はえらく寂しい思いをすることがありました。しかしながら、こうして健康に平和に生きていられるのは、ひとえにこうして、人権教育に励んでくださっている先生方、関係者の方々のご高配によるものであります。改めまして、感謝を述べさせていただきます。今後とも、こうした会合、二ヶ月に一度ではありますけれど、こうした会合を開くことで、新しい時代の人権教育を切り開くことができるものと存じます。本日は、ありがとうございました」

 

 ――静寂。そして拍手が。

 低空飛行な拍手だったと思う。みんな眠たいのだろう。

 

三良坂(みらさか)、ありがとう。それでは、これでお開きと……あ、違いますね、ごめんなさい。和田先生から最後にお話があるとか」

 

 三川、と呼ばれていたソーム課長? が和田先生に話を振る。

 ん? この感じは……。

 

「……えー、心苦しいのですが、提案があります。この会合、同和教育推進勉強会をはじめとして、教職員が夜の時間帯に勤務するような地域学習活動があります……こうした活動が教職員の負担になっているという意見が現場から上がっておりまして、それだけでなく、国の方針としても、教職員の勤務時間を縮減する方向で議論が進みつつあります。そこでですが、まずは嚆矢としまして、市内各地で行っている、同和地区に住んでいる子ども達を対象とした地域学習会、こちらを少しずつ削減しては、と思うんです」

 

 空気が変わった。一切を視認していない俺でもわかる。

 

「できるわけないでしょう!」

 

 誰の声だ? 怒りで声がひっくり返っている。

 

「できます。というのも、地域学習会というのは、条例や規則、要綱等で定めのない、形式的に非公式の活動だからです。実施主体も、学校というよりは水平委員会が主になっています。ですから、これは任意の活動なんです」

 

 ……時間が過ぎていく。十数秒ほどか。

 

「ほう、なるほど」

 

 喬木の声だ。

 

「いやなるほど、そういうわけですか」

「はい。おそれいりますが、教育委員会からも時間外勤務を減らすための改善案を練るよう、指示・指導を受けております」

 

 ……わかる。今、和田先生は、三川に視線を送っている。三川も視線を返した? もしやあれか、ネマワシズミというやつだろうか。

 

「ご存知のとおり、学校教員には時間外勤務手当がありません。その代わり、代替措置として給料の4パーセント分の教職調整額が支給されます。教委から出ている指示はつまり、残業代の削減というよりは、そもそもの教員の負担を軽減するというのが目的です。であれば、まずは法律などに根拠をもたない地域学習会から減らしていくべきかと」

 

 ……だんまりだった。

 あくびが出てきた。あぁもう、さっさと終わってくれよ!

 ん? 喬木議員がしゃべり始めた。

 

「さてさて。おっしゃりたいことはわかりました。和田先生はもしや、人権教育には関心がおありでない?」

「人権学習は必要です。でも、基本的には授業中に行うべきものです」

「なるほど……ところで、明らかに貧しい子どもだっておるでしょう。例えば、先ほどの三良坂(みらさか)君。彼が小学生の頃から知っておりますが、それはもう、ひどい暮らしをしていましたよ。けれど、地域学習会があったからこそ、国府(こうふ)の森の中で一生を終えるはずが、一般の子どもたちと同じ中学校に進むことができたのです。ところで和田先生、貧困にあえいでいる子どもが現在も一定数おりますが、彼らについて、どのようにお考えでしょうか?」

「……はい。わたしの考えを述べさせていただきます。そのような子どもには近付きたくありません」

「!?」

 

 ざわめき? どよめき? いや、違う! そんなもんじゃない。

 ……もっとだ。もっと。ずっと醜悪なナニカを感じる。 

 

「というのも、貧乏な家庭というのは、やはり遺伝子が劣悪というか。わかるんです。わたしのクラスにもいますよ。県営住宅に住んでるわ、就学援助は受けてるわ、自分の部屋はないわ、友だちはいないわ、成績は悪いわ……卑しい連中です。(けが)れているとはまさにこのこと」

 

 和田先生の様子がおかしい。それはわかる。

 ……でも、なんだ? この感じは。

 

「和田先生。ユニークなお考えだ。ところで、貧しい子どもといえば、片親の家庭に多いですな。それについては?」

「わたしの息子の結婚相手が片親だったとしたら、結婚を許しません。だって、そうでしょう? 子どもがいるのに離婚するなんて。その程度の親には、ロクでもない教育しかできないというのが私の持論です。なんというか、この一言に尽きますよね。そう……『片親の子どもは信用すべきでない』とでも言いましょうか。特にひどいのが母子家庭です。うちのクラスにもいますよ、汐町由香里(しおまちゆかり)さんという子が。育ちの悪さが、そのまま素行に表れているんです。怒ったら、すぐにどこそこを蹴っ飛ばしますし、こないだなんか、職員室で堂々と暴力を振るったんですよ。しかも、男子に対して。男に対して手を上げるだなんて、女子としての正しい教育を受けた者にはありえないことです! あの子の将来もきっとシングルマザーでしょう。見た目は麗しいかもしれませんが、精神性が醜く歪んでいる」

 

 やめてくれ。もうやめてくれ。くそ、くそ! こういう会を開いて、そういうことになるって、どうして言ってくれなかったんだよ、集!

 

「ほほう! しかしながらですよ……ちょっと、和田先生、どうしました? 冷や汗が出ていますよ。まあいい、続けましょう。ところで、片親家庭の子に問題が起こりやすいというのは、よくありがちな、そう、因果関係を見誤っているといいますか。認知的不協和ですよ! 『片親』だから子どもがおかしくなるんじゃなくて、『貧困』が原因でおかしくなるんじゃないですかね。片親というのは、離婚から生じる単なる事実であって、実際には、生活が貧しくなるから精神的余裕がなくなって、まともな子育てができなくなるんですよ。恒産なき者に恒心なしです」

「いいえ! 断じて違います。若くして結婚し、あっという間に離婚し、なんの考えもなく毎日ただなんとなく生きているだけの、自堕落で弱い人間。そんな人間、いいえ、動物から生まれてきた子どもは問題行動を起こすに決まっています! 歴史は繰り返すんです」

 

 会議は紛糾している。誰彼が何を話しているのかわからないほどに。かろうじて、この二人の声は聞こえている。

 

「では最後に、障がい者については? 障がい者も地域学習会の参加対象ですよ」

「全員死ねばいいと考えています。社会にとっての害悪です。あの連中、こちらが何を言っても変わろうとせず、謝ることもせず、それでいて、のうのうと息を吸っていられる。わたしたち健常者が必死に築いてきたものを平気な顔でたいらげるんです。障害者って、どうして生きてるんですか? 生まれた瞬間に、助産婦さんが首をキュッとやって、間引いてしまえばいいんです! それが社会全体のためです。だって、もしあいつらが私の家族に危害を加えても、あいつらは裁かれないんですよ!? そんなのおかしい。もし、わたしやわたしの家族が被害を受けたら……その時は、裁判所が許してもわたしが許しません――自力救済! 加害者を叩き殺します……ああ、そうです、ところで、障害者の中でも一番気に入らないのは、チック症やトゥレット症候群の連中です。あいつらときたら、年がら年中ビックビック震えて、気持ちが悪いったらありません! ほかの障害者と同じく、殺処分が妥当でしょう」

「はははは! 和田先生。なかなか、チック症ならぬ、畜生でいらっしゃる。おや、どうしました? 和田先生、感極まって泣いておられるのですか……ところで近年では、精神的な意味での、そうそう、発達障害なんかも注目されていますね。和田先生は適応指導教室の経験もお持ちだ。ご意見をうかがいたい」

 

 やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。ろ。やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。

 

「発達障害? ああ、あれがある意味、一番人間でない代物ですね。知的障害だったら、まだ許せますよ? 動物の仲間だと思えばいいから。でも、発達障害! あの連中ときたら、社会不適合者のくせに自分に人権があると思っているんです。社会のお荷物のくせに、漫画に、小説に、ドラマに取り上げられる本物の天才と自分たちを重ね合わせているんです。本当は、みんなから『死んで欲しい』って思われているとも知らずに。しかも、空気を読めなかったり、盆暗なミスを冒しても、自分に非がないという態度をとり、反省の色、悪いことをしましたという精神的姿勢がまるでない。そのくせ、自己主張だけは強いんだから。世間がどれだけ持て囃そうと、あの子たちは単なる無能なんです。特別な才能なんてない。『特別な才能がある』というのを口実にして、自分たちが社会から排除されつつあることに、いつになったら気が付くんでしょう、あの子たちは」

 

「……和田先生。あなたが教職員として問題のある方だというのはわかりました。さ、これでお開きにしましょう。どなたか、意見のある方はおられますか」

「社会の害悪はお前だ!」

「絶対にこの学校から追い出してやるからな、見ておけよ」

「あんな先生に教えられる子がかわいそう……」

 

 なんだ? なんなんだよ、これ。

 なんで、どうして、あの、喬木って人は……一般人(エンス)に対して、概念力(ノーション)を使ってるんだ? しかもばれてない。あの人と会った時、いつも鬼食免(きじきめん)を手首に付けていた。なのにどうして?

 

「……ははっ、いや。ずるいって意味じゃ、俺も同類か」

 

 涙が溢れてきた。

 職員室に耳を澄ます。

 

「えー、ほかに意見のある人はいないようですね。それでは……教頭先生」

「はいぃっ!」

 

 びくついた声。

 

「普段、どのような指導をされている? こんなひどい教師はないですよ」

「真に失礼いたしました! 綱紀粛正、徹底指導してまいります!」

「頼みましたよ。今後の対応について、校長先生と協議してください。さて、三良坂(みらさか)君。あとは、なにかあるかの?」

「ありません。もう七時が近いです、さっさと切り上げましょう」

 

 冷たく言い放った。

 

「えー、それでは、これにて解散とします。最後に、皆さん。この喬木直利からのお願いがございます……今日、ここであったことはご内密に願います」

 

 場が凍りつくとは、こういうことを指すのだろう。

 

「社会規範の礎ともいうべき教職にある者がかような発言をしたとあっては、市民に不安が拡がる一方です。まずは、学校内で話し合い、妥当な結論を導くべきかと。皆さん、いかがですか」

 

 沈黙。

 

「いいですな。それでは、他言無用ということで。ここにおられる方々は、約束を守る方であると考えています。もし万が一、どなたかが外に漏らした場合は……わが身命を賭して、粛清します」

 

 誰も、何も喋らない。

 

「それでは皆さん、長らくお付き合いくださりありがとうございました。これにて、本当に解散です……和田先生、どうしました?。自分の考えが受け入れられなかったからといって、そう落ち込まないでくださいね。あなたはまだ若い。チャンスはいくらでもありますよ」

 

 胸が苦しくなった。和田先生が号泣する声が聞こえてきたから。

 

 (第9話、終)



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#10 嘘(1)

 逃げるようにして学校を去った。

 会議室から雪崩のように出てくる教師たちの視線には入っていなかった……と信じたい。

 正直、バレてやしないかと気が気でない自分がいる。

 俺は今、国府第三中学校を見下ろせる小高い丘を下り切ってしまって、尚吾がそれなりの確率で追いついてくる地点にいる。

 いつもの時間に、いつもの通学路を通ってはいるけれども、正直、学校に行きたいという気持ちが起こらない。

 

「あ……」

 

 ふと、視線が泳ぐ。

 そこには、先日、尚吾と一緒に歩いている時にすれ違った国府高校の女子生徒の姿があった。今日も自転車に乗っている。

 

「……」

 

 つい見とれてしまう。あの時と同じく、髪を後ろで結ってある。

 

「……!」

 

 目が合った。気まずい。

 

「……!」

 

 目が合ってしまった。まずい。

 

「おはようございます」

「……おはようございます!」

 

 どうして俺に挨拶をしたんだ? 知り合いだと勘違いしたのか?

 すぐ真横を、反対方向にある国府高校へと通り過ぎていった。

 ふう、と胸をなでおろす。

 

 ヴイイイイイィンッ!!

 

「うわぁっ!」

 

 真後ろからのエンジン音。次いでクラクションが響いてくる。

 振り向くと、軽トラックだった。以前、集が乗せてくれたものと同じような型の。

 運転席を見ると……尚吾が乗ってるじゃないか! どういうことだ?

 ウィンドウが下がる。尚吾の顔がこちらを覗く。

 

「尚吾。どうしたんだよ」

「はは、どうじゃ。じいちゃんから借りたんじゃ。今日は、これでその辺をドライブするんじゃ」

「馬鹿いうなよ。免許持ってないだろ!」

「ええんじゃ。運転はできるから。毎日、親父に教わっとる。ワシのう、おとといな、建設会社から内定もらったんじゃ。今から小型重機に乗る練習がしたいって言ったらのう、まずはこれで練習せえって」

「……公道で乗ってみろって、言われたのか?」

「そんなわけないじゃろ! ワシがジコセキニンで乗っとるんよ」

 

 呆れてしまった。

 

「無茶はするなよ。死ぬかもしれないんだから」

「わかっとる! じゃあの。今日はフケるわ」

 

 ブイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイーーーッ!!

 

「うるさいぞ! この音なんだよ!」

 

 通り過ぎていた。車体がグラグラと揺れている。

 

「ギアチェンジが面倒なんじゃ! どうして、一速から五速にできんのかのう!」

 

 窓から身を乗り出して叫んでいた――走り去っていく軽トラック。

 

 *  *  *

 

 人の少ない教室。

 朝八時に来ているのは、十人と少しといったところ。

 

「いつもながら少ないな」

 

 安田たちは、まだ来ていない。

 出入口のすぐ傍で、ふたりの男子が雑談に興じている。「おいおい~!」と慄きながら、片方がツッコミを入れたところ。

 ――なんとなく。本当に、なんとなくだった。

 

「……おはよう」

 

 ボソッとした調子で、声をかけてみた。

 

「……?」

「……」

 

 かけるんじゃなかった。

 一瞬で、この一瞬だけで後悔が込み上げてくる。

 彼らの表情を読んだだけでも、『嫌悪』『恐怖』『逃避』といった感情が伝わってくる。

 

「……ぶふっ」

 

 ひとりの男子が笑った。先ほど、笑いとともにツッコミを入れた方の。

 同じ笑みでも、ここまで違う。違うんだな。

 サッと身をひるがえし、自分の席に向かう。

 すでに、篤と砂羽が登校している。

 

「おはよう」

「渉。おはよう」

「……はよー」

 

 砂羽は、眠たそうだ。

 篤は、いつもどおりのシャキッとした感じ。

 

「篤、中間テスト、どうだった」

「どうって?」

「平均点とか」

「ん、ちょっと待ってくれ」

 

 おもむろに机の中から答案用紙を出す。五教科分。

 

「……ぜんぶ95点以上かよ。すげえな」

「まあな。国府高校いきたいし」

「国府高校って、俺でもいけるのか?」

「どういう意味だ、それ。今の自分の成績で進学できるのか、それとも、俺たちの身分でも進学できるのか」

「後者だな。でも、前者も知りたい」

「前例はある。少ないけど。とにかく賭けてみる価値があると思うから、こうして僕は勉強してる……さて、それじゃあ渉の点数を教えてもらおうか?」

「平均で……六〇点くらいかな」

 

 篤は、しばし考え込んでから、

 

「偏差値でいったら、50くらいか。いや、僕の勘だ。業者テストを受けてみないと、なんとも言えない。国府高校の偏差値は60だから、もうちょっと……だと思う。でも、内申点がほとんど満点じゃないと、学科で満点を取っても合格できないよ」

「そういうもんか」

 

 サッ、と挿し伸ばされた手。砂羽がすぐ傍に来ている。

 

「わたしのへいきんてん、知りたい?」

「……何点だった?」

 

 おそるおそる、聞いてみる。

 

「22点」

 

 なん……だと……。

 

「砂羽は、高等専修学校に行くんだろ? 概念力(ノーション)に関係する教育が専門の」

 

 コクッと頷くのだった。

 

「篤。ヘンだと思う?」

「いいや。適性があると思うよ。僕たちの中で一番強かったのは砂羽なんだし、腕を磨いていくべきじゃないか?」

「うん、ありがと……それで、渉はどうするの? 進学」

『公務員になりたいんだ』

 

 胸を張って言えるんなら、どれだけ良かったろう。

 

「俺は……就職かな」

「中学校卒業で就職? できるのか、それ……ああ、たしか、鵜飼が言ってたっけ、『ワシには就職のツテがあるんじゃ』って」

「俺にはツテなんかないよ。でも、就職がいいんだ。できれば、その……」

「その?」

「公務員……とか」

「……」

「……」

 

 篤は、椅子を引いて姿勢を直した。

 砂羽は、頭をカリカリと引っ掻いている。

 

「渉。公務員試験って、すごい倍率じゃあないのか。そりゃ、使用者(エッセ)でも試験を受けることはできるさ。でも、それは選ばれし者の話だ」

「……わたしも受けようと思ってるよ、市の採用試験。事務職じゃなくて魔導技術職の。でも、お父さんもお母さんも、わたしが合格するなんて思ってないし、わたし自身も……」

「あー、あー、冗談だって! 進学に決まってるじゃん! 一応ほらさ、受けれるんだから受けてみようって、そういうヤツ」

 

 必死でごまかす。

 

「だったら、公務員とか言うなよ。真剣にやってる奴に失礼じゃないか」

 

 篤は、呆れている……と思う。砂羽の表情は読めない。

 

「本当になりたいなら、友人として応援するよ」

「わたしも。ライバルだね」

 

 それから、三人でいろいろな話をした。受験のこと、将来就きたい職業、家庭の様子……携帯電話を持ってみたいとか、11階建ての百貨店に行ってみたいとか、家にテレビが欲しいとか、だいたいそんなところ……だったと思う。

 話が小遣いに及んだところで、

 

「おはようございますっ!」

 

 由香里だった。

 いつもどおり、教室の後ろ側から入ってくる。心なしか気分がよさそうだ。

 ……本当にいつもどおりだった。由香里がみんなに向ける「おはようございます」に、挨拶を返す者はいない。

 時刻は、午前8時25分。3年3組のほとんどの生徒が揃っている。

 

「おはようっ!」

「由香里。おはよう」

「……はよ」

 

 俺は『おはよう』を言おうとする。言えない。心苦しい感じがする。

 

「どうしたんだ? 今日は、けっこう遅い方じゃないか?」

「うん、ちょっとね。立て込んでて。忙しかったの」

 

 おかしなニオイを感じる。

 

「由香里、あれ、なんかヘンな匂いがしないか? すえた感じ? というか」

「ちょっとー。それ、あたしがクサイってこと?」

「そんなんじゃない。ちょっと気になったんだ」

「あんたね、言いたいことがあるんなら、はっきり言ってよ。渉ってさ、普段と戦ってる時とで、キャラクター違いすぎでしょ! ね、篤も砂羽もそう思わない?」

 

 篤と砂羽を見た。苦笑している。

 

「い、いや。俺は……ああ、そうですよ! いつもいつも俺は、優柔不断な人間ですよっ、間違いない」

「わかればいいの。今度から、言いたいことがあったらちゃんと言ってよね」

 

 由香里の目を見る。視線が合った。

 ああ、そうだよな。自分が言いたいこと、ちゃんと言わないとな。

 

「……由香里。今日のお前、くさいぞ。なんかこう、ヨーグルトを熱して液体にしたような――ゴボォッ!」

 

 みぞおちを殴られてしまう。

 

「こ・ん・ど・か・ら、ちゃんと言ってね?」

 

 お腹を手で摩っていると、教室手前のスライド扉を開く音が。

 ……音の調子がいつもと違う。生徒のじゃないし、かといって和田先生のでもない。

 視線を移す。

 

「……あれ?」

 

 和田先生じゃない。小山だった。それと、あれは……校長先生だ。

 小山は、出席簿を開きながら、教室中を見渡す。校長先生は、ただじっとしている。

 ……いつの間にやら、静まり返っている。当然だ、こんな異常事態。静まらないはずがない。

 校長先生は、窮々とした面持ちで、こちらを見ている。白髪で、体型は細身。威厳があるような、ないような。

 ただ、心中穏やかでないことは伝わってくる。

 

「えー、校長の藤坂です」

 

 第一声。落ち着いている。様子をうかがう生徒たち。

 

「聞いてください。急遽の話で申し訳ありませんが、和田先生は今日から長期の休みに入られます。臨時の担任として、いつも3年3組の国語科を教えている小山先生が担当します。また何か決まったら、みなさんに連絡します」

 

 それだけ言うと、ほんの軽く会釈をして、静かな歩調で出て行くのだった。

 小山は、何を言うでもなく、和田先生がいつも持ち歩いていたノートを読み始めた。

 時刻は、午前8時28分。和田先生だったら、もうちょっと早く来ていた気がする。



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#10 嘘(2)

 薄い絨毯が敷かれた音楽室。

 俺から見て右奥にピアノがあって、今まさに先生が演奏している。一段上がった後ろ側には、合唱用のステージがある。

 いま演奏しているのは、世界にひとつだけの、ナントカ? という曲。

 顎に手を当てながらピアノを聴いていた――隣の席には、顔をボコボコに腫らした鵜飼尚吾がいる。

 

「おい……渉。おいったら」

 

 俺の席を足でつついてくる。

 

「おみゃあ、まさかチクッたりしとらんよな」

「そんなわけないだろ。よかったじゃん、警察よりも先に親が見つけてくれて」

「よくないわ……」

 

 ゆったりとした調子でピアノの椅子から立ち上がった演奏者――広中先生。

 

「皆さん。今日は大事なお知らせがあります」

 

 教室内のあちこちに視線を配る。

 

 ……すると、一人の生徒が席を立った。続いて、二人目、三人目、四人目と起立してゆく。

 その四人、男女ふたりずつが真後ろの一段上がったステージに集まると、くるりと反転して、視線をこちらに移した。

 音楽室が、奇妙な緊張感に包まれる――ひとりの女子が口を開いた。

 

「みんな、聞いてください。今日は大事な発表があります。まずは、これを見てください」

 

 彼女らはロール状にしてある紙の輪ゴムを取りはずし、縦横一メートルほどの、マジックペンで描かれた図表を広げる。

 縦に並んだ棒グラフが複数あった。それぞれの棒の下には年が書いてある。昭和四〇年から始まって、右方向に年が続いていく。

 内訳は、色の種類からして三つ。

 

「この記録表について説明をする前に、今日のお話の題名について……です。今日は、被差別集落についての話をしたいと思っています。みんな、聞いてください」

 

 広中先生が拍手を送る。ほかの生徒らも続いた。

 

 ふと、尚吾の方を見やる……聞いているのだろうか? でも、彼女らの方を確かに見ている。

 由香里は、ピシッとした姿勢で話を聞いている。篤にしてもそうだ。砂羽は……爆睡している。

 

「これは、かなり昔から毎年の一月、被差別集落に住んでいる子どもたちに取っているアンケートです。月に二回ある地域学習会でアンケートを配布します。問いかけは、『ぼくは、わたしは、学校が過ごしやすい。毎日でも学校に来たいと思う』というものです。選択肢は、三つあって、①そう思う、②そう思わない、③わからない、の三つです」

 

 いったん切って、男子生徒に交代する。

 

「え、えと、ええと、それでは、推移、を見てみます。昭和四〇年では、①②③の割合は、2:7:1でした。それが、年数を経るごとに、ええ、この色の変化を見てもらえれば一目瞭然ですが、昭和五〇年では、4:5:1に、昭和六〇年では、6:3:1と、逆転しています。ここから導ける結論として、昔は、被差別集落にいる子どもたちは差別をされていて、悲しい、淋しい状況にありましたが、近年では、皆一緒に、仲良くすることができています。これは、社会の進歩であると僕たち私たちは考えています」

 

 再び、最初の女子にバトンが渡る。

 

「差別を受けない、誰もが平和に暮らしてゆける社会は、誰にとっても大切なものです。今、わたしたちは、平和に暮らすことができています。この状態は、慣れてしまうと当たり前ですが、普段は気が付かない、けれど人間が生きるうえで一番だいじなものです。これからも、みんな、一緒に学級を盛り上げていきましょう。発表を終わります。ありがとうございました」

「はい、みんなありがとう! 勇気を出しましたね!」

 

 拍手が起きる。広中先生は涙している。しばらくの間、拍手は鳴り続いていた――

 ガンッ、ゴロゴロ、という乾いた音。俺の視界に何かが映った。

 それは、机と椅子だった。隣を見ると、目と口と鼻とを歪ませた尚吾の姿があった。

 

「ええ加減にせえっ! お前らはええじゃろうが、同和地区に住んどって。金がもらえるんじゃろうが。ワシらなんか見てみい、いつまで経っても貧乏なままじゃ。なにが言いたいかって、そりゃあ、ワシらの存在を忘れとるってことじゃ。自分らだけいい思いをしやがって」

 

 尚吾が吼える。

 対して、今しがた喋っていた女子が、

 

「鵜飼くん。どうしてそんなことを言うの? みんな、鵜飼くんのこと、仲間はずれにしようとなんかしてないよ。仲良くしようよ」

「じゃけえのう、そもそも、ぜん、ぜん……ええと……」

 

 『前提』と言いたいのだろうか? 小声で伝えてやる。

 

「ゼンテイがおかしいんよ。暮らしのレベルが違うんじゃ。どんなに仲ようしようゆうてもな、ワシらとお前らとの間には『差』がありすぎて、説得力がないんよ……お前らの家、見たことあるぞ。あの聖蹟(せいせき)町の団地に並んどる家じゃろ? ワシらの家なんか、トイレはボットン便所じゃし、水道も通ってなければ……え、ええと……電気は通っとるけど、たしか……よ、よし! 渉。言うてやれっ」

 

 俺に振るんじゃねえ! いやがうえにも注目が集まっている。

 心臓が脈打つのを感じる。

 

「え、ええとですね、いま尚吾が言ってたのは、具体的には……まず、俺たちの生活環境、特に家まわりは、みんなのと比べてよくありません……ボットン便所というのは、便器に大きな穴が開いていて、そこにし尿、うんこやしっこが、真下にある汲み取り槽に直接ボットンと入ります。とても臭いです。スイッチを押したら水が流れるなんてことはありません。そんな装置はついていません。例えば、スリッパが穴の下に落ちたら、外にあるマンホールを開けて、汲み取り槽に降りて、うんこまみれの空間に足を踏み入れることになります」

 

 どよめきが広がる。

 悪いどよめきじゃない……と信じたい。

 

「水道が通ってない、というのはわかりにくいと思います。みんなの家の前の道路には、水道局から延びた水道管が通っています。みんなの家は、この水道管を自分の家まで延ばしてもらって、きれいな水を使うことができます。でも、うちには通っていないので、代わりにそこらへんの地下水脈をポンプで汲み上げて使っています。ポンプは電気で動くので、停電したら水が使えなくなります。家の周りには排水溝がありません。大雨が降ったら、家の中が浸水します。土のうや布団でバリケードを作って、なんとか凌ぎます。凌ぎ切れなかったら……あらゆるものが水浸しです。あとは……家そのものですが、とてもボロくて、とても家賃が安いです。広さは、この教室の半分くらいで……一階建てです。少なくとも、俺、尚吾、汐町(しおまち)さん、横尾さん、神部くんの家はそんな風です」

 

 今、音楽教室は騒然としている。

 「そんな家があるの?」「冗談だろう」「知ってる、明治時代の家だ」など。

 

「ええと、だから。尚吾が言いたかったのは……」

 

 尚吾を見た。親指を立てている。

 ――大きく息を吸った。

 

「お前らのご先祖みたいな生活をしてる連中を前に、きれいごと抜かすんじゃねえっ!!」

 

 静かになった音楽室を見渡す。

 奥側にいる四人は、今にも泣き出しそうな顔をしている。

 ああ、言ってやった。言ってやったぞ。

 

「……も、もがっ!」

 

 息が出来ない。いや、それどころか、胸が……いた……い……。

 由香里を見やる――俺を睨んでいた。表情でもわかるし、机の脚を節操なく蹴り続けている。

 『うんうん』と頷くと、息苦しさが止んだ。

 

「みんな。授業中ですよ! 落ち着きなさい」

 

 広中先生だ。普段は大人しいけど、言うべき時はビシッと注意をする。

 

「おみゃあはだまっとれ、クソ教師!」

 

 と、ここで尚吾が割り込むのだった。ステージ上の四人に向かって、

 

「おみゃあら、思い出したど。ワシの親父が言うとった。うちの会社じゃあ、被差別集落とか同和地区に住んどる人間を差別するどころか、『差別』するという意識がないってよ。社会人は、どこのだれの生まれじゃろうと関係ない。一生懸命仕事に取り組んで、成果を出して、それで初めて社会から認めてもらえる。生まれなんか関係ないんじゃ……おみゃあらも、先公どもも、そうやって差別差別いいまくって被害者面しとるけえ、逆に薄気味悪い目で見られるんじゃ! ええか、人間じゃったらな、そうやって集団で可哀想アピールするんじゃのうて、自分の力で人の輪に入っていって、認めさせてみろや!」

 

 尚吾が俺の手をつつく。

 

「って、親父が言うとったんじゃ」

 

 俺はため息をつく。その途端、尚吾が急に飛び上がる。「あち、あちぃ!」と叫んで、床に尻もちをついた。

 

 教室中が笑いに包まれる。

 

「調子に乗り過ぎたから天罰でも下ったんだろう」

 

 篤だった。指先には、ほんの微かだが印章(シンボル)が見えている。尚吾の尻に、文字どおり火を付けたのだ。

 先ほどまで発表していた四人がしょんぼりしている。広中先生が寄り添っていた。



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#10 嘘(3)

 退屈な終礼だった。

 小山は、あまりに適当というか、緩いというか。

 和田先生だったら、「起立、礼」が揃ってなければやり直しをさせるし、それ以前に、「終わりの会を始めます。着席してください」なんて間抜けなことは言わない。

 教室が静まらない時は、ただ、ずっと教壇に立っているのだ。そう、文字どおり、ずっと。そして、みんな気が付くのだ。『このままでは家に帰ることができない』と。

 そうなると、あとは勝手に静まっていく。席を立って騒いでいる者も、気まずくなって自分の席に帰る。

 ……案の定、3年3組は騒然としていた。うるさい。いつもの二倍はうるさい。計器などなくても俺にはわかる。

 

「はい、それでは。連絡事項は以上です。ほかに何かありますか? えー。ないようだったら、これで終わります。日直さん」

 

 和田先生のことが頭を離れない。今は、どうしてるんだろうか。病院とか、行ってるんだろうか。

 

「起立! ……気をつけ、礼!」

 

 てんで揃っていない。バラバラだ。和田先生なら、やり直しをさせていることだろう。

 そんな、形ばかりの挨拶を済ませると、多くの生徒がいっせいに教室を出る。残ってるのは勉強熱心なヤツらだけだ。俺は熱心じゃない。

 由香里に謝ろうと、帰っていく彼女に声をかけようとする――

 近付くことができない。なんだか、遠い存在になってしまった気がして。そんなことはないのに。

 話しかけたい、と思っているのに。体が、心が言うことを聞かない。

 

「……」

 

「……」

 

 こそこそと、追いかける格好になる。

 廊下を渡って、階段を降りて、下駄箱に向かう。

 ふと、由香里のすぐ傍を、ほかの女子が通った。

 

「バイバイ」

 

 ……無視。当然のごとく、由香里の挨拶は無視されてしまった。

 また別の女子が、その近くを通り過ぎようとしている。

 

「バイバイ」

「バイバイ、由香里。今日も元気なんだね? うらやましい。私にもちょっと分けて欲しいな?」

 

 由香里の表情がパッと輝いた。

 

「そ……そんなことないよ! あたし、元気だけが取り得だから。じゃあね! ……ええと」

「宮本……佳奈子だよ?」

 

 宮本さんの膝下に包帯が巻いてある。俺達と一緒に遊びに行った翌週から、あんな痛々しいことになっている。

 

「佳奈子、バイバイ! また遊ぼうね」

「うん……さよなら」

 

 宮……なんとかさんだった。挨拶って、こういう自然にやるもの……だと思う。

 由香里に視線をやる。下駄箱を開けて、茶色い革靴を取り出している。革靴って、そんなにいいのだろうか。ほかの女子は、ほとんどがスニーカーなのに。

 靴を取り出して地面に置く時、左手でスカートの後ろを押さえながら、ひょいとしゃがんだ。股はきれいに閉じている。

 ……柔らかそうな髪の毛。覗いたうなじ、丸まった背中、張り出した尻部に視線をやる。昔から知ってる背中なのに、どうしてか今日は他人みたいな感じがする。

 指を突っ込むようにして器用に革靴を履いたなら、さっと立ち上がって――駆け出した。

 

「……!」

 

 立ち上がった瞬間。

 太股がはっきりと見えた。肌色に近い白。肌色のはずなのに、不思議と白に感じられる。乳白色? というのだろうか。

 もう少し勢いがあったら、下着まで見えたんだろうか。でも、あの真後ろから覗いた太股は……下着よりも興奮すべきものかもしれない。

 いや、この際だからはっきり言おう。下着は見えていた。ベージュの下着だったから見えにくかったのだ。俺の無意識はそれを、『ぎりぎりで見えなかった』と錯覚した。意図は不明だ。

 ……月に三度はあいつの下着を見ている。青色が多い気がする。行動がいちいち大振りなものだから、『ああ、やっぱり』といった場面で見えてしまうことになる。

 乳白色が頭を離れない。離れない――

 

「……ハッ!」

 

 頭をブンブンと振ったなら、自分の下駄箱に向かう。

 ボロボロのスニーカーを取り出して、地面に投げる。ざっくばらんに履いたなら、そそくさと外に出る。

 まだ、なんとか由香里が見える――嬉しそうな気分でいる。

 

『由香里、ちょっと』

 

 ――言えなかった。

 挨拶を試みるも、言おうとする気があるのに、言えない。

 本当に、嬉しそうだった。邪魔をするのが嫌になり、そのまま立ち止まってしまう。

 

「おい、渉!」

「うわっ」

 

 首周りを掴まれた。こんなことをしてくるのは、こいつしかいない。

 

「どうしたんじゃ、渉。今日は由香里と帰らんのか?」

「そんなの滅多にないよ。小学生じゃあるまいし」

「じゃあ、ワシと一緒に帰ろうや! 今日はのう、気が高ぶってしょうがないんよ」

「ヤバイものでも飲んだんじゃ」

「はははっ、ワシら、はす向かいに住んどる仲じゃろうが」

 

 どこ吹く風だった。

 

 *  *  *

 

 シャワーを浴びている。

 頭にお湯をかけながら、物思いに耽る。

 

『どうして? どうして由香里に声をかけられなかった?』

 

 前髪を、両手でざっくばらんに掻き上げる。ジャブジャブと、頭のてっぺんに振ってくるシャワーの湯。

 

「ねえ、渉……どう?」

 

 栞の声だ。凛々しいような、甘ったるいような。

 聞き慣れているはずが、場所が場所だからだろう、普段と違って聞こえる。

 

「ねえ、聞こえる? 石鹸取ってくれない?」

「……はあ」 

 

 立ち上がった。微妙に立ちくらみがする。

 風呂イスの前に置いてある真新しい石鹸を手に取る。

 

「栞! ほかのお客さんは?」

「いない」

 

 いま俺は、家から歩いてすぐのところにある公衆浴場に来ている。ひとりたったの100円で利用できる。そして、今しがた、栞から石鹸を投げ込むように依頼を受けたところだ。 

 ……視線を、天井付近に向ける。

 共同浴場の男女を仕切る壁の上へと、石鹸を振りかぶって――投げた。

 

「あ、きた。ありがと」

「……いい大人が」

 

 また、シャワーの雨に浸る。

 いつもより長い時間、風呂に入っている。まあ、特に問題はないだろう。栞は、あと30分はかかるだろうから。

 

「……なんでだ? どうして、今日は声を掛けられなかったんだ」

 

 みぞおちを殴られたから? 由香里を嫌いになった? それとも、なんとなく?

 様々な理由が思いつくが、どれも違う。

 

「うーん……」

 

 いま、あったばかりの光景。石鹸について、思う。

 ――石鹸について。石鹸といえば、さっき、俺があっちの女湯に投げ込んだばかり。

 なぜ投げ込んだかと言えば、女湯に石鹸がなかったから。

 なぜ石鹸がなかったか? こんなにボロくて小さい共同浴場だから。いや、それは大した理由じゃない。

 そもそも、石鹸とは何か? いや、問うべきことじゃない。

 ……なぜ投げ込んだかに戻ろう。そうだ、栞が求めたからだ。そして、俺という存在が物理的に投げ入れることができた。だから、石鹸はいま、栞の手元にある。

 誰かが求めて、誰かが可能で、誰かがひた走って、ある目的が成る。

 

「もしかして、概念力(ノーション)による影響を受けていた? 誰かが俺に、概念力(ノーション)を……」

 

 ダイヤル式のつまみを回すと、シャワーが止まって、代わりに蛇口からお湯が溢れてくる。

 サッと顔を洗ってから、勢いよく、風呂イスから立ち上がった。まっすぐに脱衣場へと。



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#10 嘘(4)

 夜の帳。

 通学に使っている里道が真っ黒に染まっている。わずかに備えられた街路灯が、ポツポツと道行く先を照らす。

 中学校を見下ろせるところまで来ていた。山の方を見上げる。田畑が続いている。

 田植えを終えたばかりの田んぼを眺める。ほの暗いような、明るいような。いや、やっぱり暗い。月明かりが水面を照らしているものの、ほとんど新月のようなものだから。

 

「誰だ? いったい誰が、俺に対して概念力(ノーション)を使った?」

 

 道に目を凝らす。なにも転がってはいない。

 ……ただずっと、ある一点に視線を向けていた。

 

「!」

 

 身構えつつ、山際に身を隠した。誰かが坂の下から近づいてくる。この暗さでは存在がわからない。

 数秒が経過すると、正体がわかった。

 

「あ……」

 

 今朝、会ったばかりの女子高生だった。

 帰り道だろうか。自転車に乗っている。地理的に考えて、おそらく近所に住んでいる。

 心なしか、焦っているような印象を受ける――通り過ぎた。

 

「……!」

 

 ライト。同じ方向から、ゆっくりと自動車が走ってくる。

 車のカラーは、白……? 大きくはない。

 坂道を、ゆっくりと登っているはずのそれ。心なしか速度が上がっている。いや、間違いなく上がっている!

 通り過ぎた。軽トラックが。運転しているのは……?

 

「尚吾!?」

 

 あいつまた、なにやってんだ。採用取り消されても知らないぞ。

 軽トラックはスピードを上げていく。その先にはあの女子高生が。

 ――スピードが、さらに、さらに上がっていく。

 自転車に乗っている影。真後ろを振り向いた。脅威に気が付いて、あるいは気が付いていたのか、立ち漕ぎに切り替える。無駄だった。

 

 ブイイイイイイイイイ……ガシャ、ガシャァンッ!!

 

 車体が、回り込むようにして自転車をぶつけ飛ばすと、その娘は泥だらけの地面にバウンドして、水を張った田んぼへと真っ逆さまに落ちていった。水音とともに。

 

「……」

 

 言えない。何も。

 トラックは様子を窺うように停車していた。十秒ほどが経過すると、運転席からがっしりとした体格の男が出てくる――間違いない。鵜飼尚吾だ。

 

「……」

 

 あぜ道をさっさと降りていく。田んぼに足を突っ込んだ音がした。

 バシャ、バシャという、あてどない不規則な水の音が聴こえてくる。

 

「やめてください、いや! いやあぁっ!」

「よいしょっと!」

 

 泣き喚いている。尚吾の肩に抱えられた女は、鈍い音が聴こえるほどの乱暴さで、軽トラックの荷台に積まれてしまった。

 ここからでもわかる。脱兎のごとく運転席に乗り込んで、アクセルを踏み切ったのが。悲鳴のように甲高い排気音。走り去っていく。

 

「……」

 

 唖然とはこういう状況を指すのだろう。

 傍にあった電柱に手のひらを当てる。額も当てた。頭を引っ掻いてみる。何度も引っ掻いているうち、その手を止めた。

 家のある方を見る。トラックが走り去ったのとは、てんで異なる方向にある。

 

「……」

 

 ため息を吐いて俺は、じわり、じわりと自宅に歩を進めようとする。

 

「……渉? どうしたの、そんなところで。今日はお風呂長かったね。追いついちゃった」

 

 ――動けない。なぜだろう。 

 

「どうしたの? 何かあったの? ああ、さっきの車ね。夜中なのに、あんなにうるさい音を立てて」

 

 俺は首をブンブンと振る。

 走り出した。全力で。

 

「渉! ほんとにどうしたのっ!?」

 

 *  *  *

 

 息を切らして、家の玄関に辿りつく。

 

「はあ、はあ、はあ、はあ……あぁ……」

 

 滴り落ちる汗。袖で拭う。

 鍵を持っていない。玄関口に座り込んだ。

 ……動悸が収まらない。天空を見上げる。

 落ち着け、落ち着くんだ。いいか、明日。そうだ、明日。警察に行こう。いや、その前に栞に相談しなければ。でも、なんて言って相談する? いや、待て。待つんだ! 相談した後のことを考えよう。栞が信じてくれれば、警察に連絡がいく。連絡がいけば、捜査が始まる。捜査が始まれば、証拠が見つかるかもしれない。証拠が見つかれば、尚吾は逮捕される。逮捕されれば、

 

「あ……あ……」

 

 声にならない呻き。由香里の名前を呟いた。

 体育座りのまま、頭をひざに埋める。

 

「……できるわけないだろ」

「おい、誰か居るのか?」

 

「!」

 

 声がした方に意識を向ける。

 

「……」

 

 ……諦めたか? よかった。胸をなでおろす。

 いや、待て。おかしい。声がした方は――汐町(しおまち)家。由香里の家だ。

 こっそりと隣家の庭に近付いた。杉の木に身を隠して、声の主を見やる。

 ……影はふたつ。玄関口にいる。新月に近い月明かりが照らしている。

 ひとりは、由香里だった。扉の前で佇んでいる。

 もうひとりは――集。集だった。由香里と向き合っている。

 

「なんだ、あの二人か」

 

 気が抜けてしまう。視線をふたりにやったまま。

 ……集が一歩を踏み出す。由香里のすぐ前へと。

 手をのばし、人差し指で由香里の顎を持ち上げる。身体を近付けて、その口に――キスをした。

 

「……!」

 

 由香里の唇は、身長差からか上向きだった。唇の位置をずらして、何度も、何度も男のそれに押し当てようとする。

 女の両指が男の胸板をしっかと掴んだ。舌を必死に伸ばし、男の唇をなめずっている。何度も、何度も、何度も。甘い蜜を吸っているかのように。

 やがて、女は両腕を男の首に回す。激しくなる口づけ。舌先と唾液とが絡まっていく卑猥な音がここからでも聴こえる。女の下半身が震えている。

 ……キスの嵐がおさまった。男と女はチロチロと舌先を絡め合いながら、甘い視線を送りあう。

 舌が離れたと思うと、女は真上を向いて大きく口を開ける。

 すると、男は、女の髪を撫で上げて、凄まじい量の唾液を女の口に注ぎ込んだ――

 垂れ切った液体を、噛み締めるようにして頬の内部で転がす。ぐっちゅ、ぐっちゅという、生々しい攪拌の音が響いてきそうなほどに。

 喉の動きでわかった。ゴクリと唾液を飲み干したなら、女の瞼が閉じる。零れた涙が頬を伝った――悲しい方の涙? いや、違う……違う。

 また、女が口を開いた。今度は小さめに。

 男の手が口内に伸びる。指が数本、入っていった。

 指が口内を出入りする度に、女の表情は恍惚感を帯びてゆく。

 口から指が抜かれると、唾液が垂れ下がって糸を引く。零れ落ちようとする唾液の橋――愛おしそうな仕草で、女の口がすくい取った。男の指先にしゃぶりついていく。

 

「んん……」

 

 甘ったるい、由香里の声が聴こえた。

 貪るような愛撫が続いている。手と手を握って。

 

「……だな」

 

 集がなにか言った。

 すると、由香里の肩を抱いて、家の中へと――入り際、由香里が何か言葉を返した気がした。絞り上げるような声で。

 

「……」

 

 股下に視線をやる。弾けていた。

 

 (第10話、終)



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#11 心らしきものが消えて(前)(1)

「気を付け、礼!」

 

 今日一日が終わる。これでもかというほどに早く。

 由香里は、学校を休んでいた。それが寂しいやら、嬉しいやら、安心したやら、自分でもわからない。

 篤も砂羽も、そそくさとした様子で教室を出て行った。いつもなら、ここに残って宿題を片付けてるんだろうけど。

 

「よ、渉ッ!」

「!」

 

 尚吾だった。

 今日は、一度も会話をしていない。

 

「どうしたんじゃ? ぜんぜん元気がないけえ、話しかけるのに勇気が要ったじゃろうが」

「ああ、うん。ちょっと……昼飯がさ、あんまり好きなもの入ってなかったんだ」

「はははは! わしなんか毎日握り飯じゃぞ! 冷凍してある米じゃけえ、これがまた固くって」

 

 肩口に手を回してくる。その手を払いのけようとして――やめた。

 

「……ごめんな。今日はちょっと」

「まあまあ聞いていけ。お前にな、わしのな、彼女を紹介しようと思ってな」

「へ、へえ。彼女って、どんな?」

「驚くなよ。年上なんじゃ」

 

 吐き気が込み上げる。

 

「へえ、年上なのか」

「渉は知っとろう。朝、たまに――あ、おいっ!」

 

 走り出した。ゴ、ガガッ! 痛い。教室を出る際に肩をぶつけてしまう。

 

「はっ、はっ、はっ、はっ……!」

 

 ひたすら走った。廊下を渡って、三段飛ばしで階段を降りていく。

 下駄箱に駆け込んで、スニーカーを放り投げた。考えうる限り最速で履いたなら、西側の校門に続いている石畳を駆け抜ける。

 

 あとは、ひたすらに続く坂道を登り続けるだけだ。

 

「はあ、はあ、はあ、はぁ……くそっ! もっと早く動けっ!」

 

 走り続ける。呪詛の言葉を吐きながら。

 ……我が家の入口が見えてくる。車一台分がなんとか入る程度の、木造の古風な門だ。

 敷地に駆け込んだと同時、由香里の家が目に映った。

 

「この、世界から仲間はずれにされたような感覚!」

 

 涙が零れそうになる。零れた。

 ……俺は今、玄関口にいる。

 

「ハア、ハア……!」

 

 汗で髪の毛がべたつく。

 

「風呂まで待てん」

 

 前を向いた。玄関扉の各所に穴が開きつつある。背負っているカバンを降ろして、手をかけようとする。

 

「この声……」

 

 耳を澄ます。

 

「親父が……いる?」

 

 扉に耳をくっつける。

 

「……だろう!」

 

 やっぱりだ。ついてない。

 口調が荒い。何の話をしてるんだろう。

 

「こないだ来たばっかりなのに」

 

 ドアノブに触れる。ガチャリと回して引こうとする。

 

「どうしてあの子の言うことを聞いてやらないんですか!」

「公務員になんか、あいつがなれるわけないだろう!」

 

 舌打ちした。集の真似だ。その場で立ちつくす。

 

「不採用になる可能性が高いのはわかってます! でも、あの子が決めた、あの子の進路でしょう」

「それで進学も就職もできなかったら、いったいどうするんだ。誰があの子の将来に責任を取るんだ。あの年代にとっての一年が、いったいどんなに」

「失敗してもいいじゃない。挫折しても、立ち上がる手助けをするのがわたしたちの役目でしょう」

「だめだ、認めない。渉は進学させる。いったい、なんのために此処に逃げてきたんだ?」

「逃げてきたなんて言わないで!」

「逃げてきたんだろう! 俺たちは! ああ、そうだよ。俺がみんなを導いたんだ。喬木の奴に唆されて! いや、言い訳はしない。俺が導いた! 成功だったか失敗だったか、まだわからないけれども……責任を取ることはできるつもりだ。今だって、片親の汐町(しおまち)さん家と鵜飼さん家は金銭的に面倒をみているし、俺が殺されたら保険金がおりる。みんなで分けたらいい」

「そんな話しないで! 今は渉の将来のことでしょう?」

「わかってるさ」

 

 どうでもいいし、興味がなかった。歯軋りをする。わずかに空いたドアの隙間に呪いの言葉を吹き込むかのように。

 早く、早く終わってくれ。このままじゃ家に入れないだろ。

 

「ねえ、どうして? あなた。どうして、そんなにあの子の道に反対をするの。あの子には概念力(ノーション)の才能があるし、公務員にも使用者(エッセ)を採用する枠があるんじゃないの?」

「それが恐いんだ。ざっくり言うとだな、あいつ、この間の文化会館まつりに動員されてたんだ。あんなに反対したのに。でも、それだけじゃない。ああもう、事実を言うとだな。俺はあいつと戦ったんだ。喬木を襲ったんだが、凄腕の護衛がいて。十中八九逃げられそうだった。ここの連中だけでも皆殺しにしてから脱出しようか、そう思っていた。すると、だ。下の階から渉と、汐町さん家の子が昇ってきた。それで、止むに止まれず戦うことになった」

「バカッ、あの子が死んだらどうするのよっ!」

「手加減はしたさ。不自然なくらいに。そうだよ、死ぬほど手加減した! とにかく、殺さずに済んでよかった……だがな。魔導技術職として採用されたら、俺以上に強い奴と戦うことになるだろう……5月5日の文化会館。あの日、あの時、喬木の周りには屍体(パリディ)になった連中がいて、まともに武器を振るっていた。しかも遠隔操作で。あんな神業ができるのは、枸橘朔太朗(からだち さくたろう)ぐらいのものだ。しかも、最後には梔子(くちなし)まで出てきた! あの場から逃げおおせた仲間は、四人だけだった。俺の息子には到底無理だ。あんな連中に手も足も出やしない……」

「やってみなくちゃわからないじゃない!」

「わかるだろ! (しおり)だったらわかるはずだ。あの連中がどれだけの化け物か」

「わかるわ。だけど、わたしは信じる。たった一人の息子だから。信じる」

「それは……ばかばかしい、なんてことはないが……とにかく、まずは公務員になれなかった時の保険を――そこにいるのは誰だ!」

 

 ショックのあまり、カバンを落としていた……と思う。走り去ろうとする時、無意識にカバンを持ってしまう。こんなもの要らないのに。

 なんの舗装もされていない、いつもの里道に出たところで西日が射した。地平線は薄い紫色の雲に覆われている。その雲にぼんやりとかかった、沈みつつある太陽。気持ち悪い。

 遮るために概念力を発動させ、自分で自分の視界を絶った。

 

「ああ、見えない。何も。久しぶりだな……」

 

 そういうわけで、この俺こそが、世界に生み落とされた最初の『人間』なんだと言い聞かせ、疾走を始める。いざ、夕闇へと。

 意外に転倒しないものだ。見えてないのに、見えている。自分の能力だもんな。当たり前か。

 ただ、ずっと、ずっと。自分が作った暗闇を走り続けている。何もかも忘れてしまいたい。でも忘れられない。夢に出てくる悪趣味な妄想ばかりが思い浮かんでくる。でも、それが楽しい。

 舞い散る汗。坂道を上って、下って、上って、下って、やがて地面がアスファルトになっていることに気が付いた。

 直後、フェンスにぶつかりそうになる。サッと向きを変えたなら、公園の入口に設置してある車止めを飛び越えた。

 夕焼けの生温さを肌に確かめながら、背後に迫った夜の帳にこんばんはを呼びかける。



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#11 心らしきものが消えて(前)(2)

 日が沈みかけている。

 夕暮れ時のうろこ雲。溢れ出したわずかな光が雲そのものを伝っていた。

 夜が迫っている。今にも沈まんとする太陽の最後の足掻きのごとく、ただ西の方角からの一隅を残すのみで、あとはほとんど暗がりだった。

 雲の縁々からは、薄もやのような赤い光が漏れ出ている。特に光量が多い部分が、ちょうど自分を照らしている。

 すべてを包み込むはずの、あの夜が間近に迫っている――帰る場所はない。

 

「首無地蔵菩薩……?」

 

 来たことのない場所だった。

 

「いや、違う。一回だけある。二年前だ。一年生の時、遠足でここの寺に来たことがある」

 

 高い、高い丘の頂にいる。風は冷たい。

 『足元注意』の看板に目をやる。境内に目を移すと、数人の参拝客が帰るところだった。

 お寺の入り口にはグレーチングがある。白いコンクリートで舗装された坂道を、参拝を終えた老人たちがゆっくりと下りていく。

 

「変わらないな」

 

 いくつものお堂がある。その中でも、特に大きな社屋の中に、頭が欠けたお地蔵――通称、首無地蔵がある。お経の書かれたタオルを買って、そいつの頭を摩ると願いが叶うという。

 

「『露の世は露の世ながらさりながら』、だっけ」

 

 首無地蔵が鎮座しているお堂。入ってすぐのところに、パソコンで印刷されたであろう俳句が貼ってある。

 ふらふらと、お寺の正面から一八〇度回転して反対側を向く。すると、この町を一望できるのだった。そのくらい、高い地点にいる。

 

「……あ」

 

 さっと、崖下を見下ろす。

 ガードレールはない。身を乗り出したところで、止める者はいないだろう。

 

「……」

 

 目を閉じる。

 そのままずっと、佇んでいた。

 ずっと、ずっと。

 

「……チッ」

 

 目を逸らした。舌打ちをした理由はわからない。でも、少なくともさっきは崖の下を観続けていたかった。理由? 知るか。

 

「あ、そうだ」

 

 左手側に向き直る。これまで辿ったであろう道を引き返すべく、身体が動こうとしている。

 

「けっこう走ったんだな」

 

 漫然と歩き出す。

 これまでに走ってきた道というのは、意外とキレイに舗装されていた。山岳地帯にあるというだけで、すべての道が舗装されてないわけじゃない。

 

「なんだよこの道路、立派すぎるだろ。いくら観光名所が近くにあるからって……」

 

 戻っている途中、こぢんまりとした変電所に出くわす。山の奥に続く小路があった。人ひとり通れるかも怪しい。

 通れるのだろうか? ……行ってみたい。なんだか、この小路に入ってみたい。けど、誰かに見つかったらどうしよう。しかし……」

 

「あーもう、行ってる場合か! やめやめ」

 

 かぶりを振って、また来た道へと。

 さらに、歩いて、歩いて。さっき車止めを飛び越えたばかりの、桜の名所で知られている大きな公園が見えてくる。

 

「……」

 

 葉桜の群れがあった。

 すっかりと薄緑色に染まった桜の木々を見て、思う。

 なぜ、自分は今、こんなところにいるのだろう。なにもかも気にせずに生きていければいいのに、と。

 出口まで来たところで山岳の方を向いた。

 

「ここから先には行けません、か」

 

 工事用の看板がビッシリと並んでいる。行く手を阻んでいるのは……これらの看板と、カラーコーンと、バリケードと、鉄条網。以上一式。

 ……国府(こうふ)の森。その入口である。

 山の奥へと向かう、はるか先にまで続く坂道をぼんやりと見上げる。

 

 グギュルルルルルルル……

 

 お腹が鳴った。

 いつもならとっくに夕食のはず。

 

「……ははっ」

 

 カバンを投げ捨てる。

 

「ああ、そうか。初めからこうすればよかったんだ」

 

 勢いをつけて走り出す。

 靴底に響いてくるアスファルトの感触。向こう側には、人の手が加わっていない自然道が見えている――あと三歩、あと二歩、あと一歩――すうっと、息を吸い込んだ。

 

「よっとっ!」

 

 鉄線の柵をしっかと順手で掴んだなら、空中に身を乗り出す。

 滲み出る血。その感触がむしろ心地いい。両手で鉄線を掴んだまま、前方にくるりと回転し、そして――

 

「着地成功!」

 

 足取りは軽やかに。心の(うち)は重くとも。

 

国府(こうふ)の森。頼んだぜ。俺の願いを叶えてくれよな」

 

 *  *  *

 

 カバンを投げ捨てたら気分まで軽くなった。

 一歩一歩、地面を踏みしめる。獣道とまでは言わない。かといって、そこまで生活感があるわけでもない。田舎道といったところ。

 横幅、およそ三メートル。草の丈はくるぶし程度。

 坂道を、足早に進んでいく。廃屋に近い状態の古い家や、ぼろぼろに朽ちた神社が残っている。かつては、このあたりにも人が住んでいたのだろうか。

 

「そうだ。ここはまだ国府(こうふ)の森じゃないんだよな。手前なんだよな」

 

 一歩、また一歩と、田舎道を進んでいく。

 歩き始めてから、少なくとも十分は経っている。額に汗が滲んでいた。フェイスタオルを取り出して、ざっくばらんに汗を拭う。

 タオルをじっと眺める。中学生になって初めての誕生日に、由香里からプレゼントされたもの。

 

「……ちょっと休むか。風情もあるし」

 

 立ったまま辺りを見渡す。

 この道と、民家との境目だった。ざっくばらんに石柱が横たわっている。俺は、吸い込まれるようにしてそこに座した。

 

「……」

 

 足元でコガネムシが死んでいる。つま先で、コロッとやって退かす。

 ……周辺には山林が広がるばかりで、開けた地形はないに等しい。

 道の先を見通すと、あるところでいよいよ森が始まっている。あれが入口だろうか。

 ――夜空を見上げる。満点の星々が広がっている。しみじみとした表情で、視線を前に戻すと、

 

「!」

 

 誰かが……目の前を通り過ぎようとしている。

 この近くに住んでいる人だろうか?

 

「……こんばんは」

 

 ついうっかり、挨拶をしてしまう。

 

「? 人がいたのか。あんた……見ない顔だな」

 

 暗い。顔がよく見えない。

 低めの声だった、背は高い。学ランを着ているが、あれは中学校のものじゃない。高校生だろう。

 

「帰りなよ。ここは危ない」

「それが、用事があって」

「ふうん。あんたがそう思ってるなら止めないよ。でも」

「……でも?」

「気が付いたら死んでいた、なんてことがないように」

 

 言い残して、坂の下の方に歩いていく。

 その姿が消えると、俺はまた国府(こうふ)の森の入口を眺めた。

 

「痛ッ!」

 

 足首に痛覚がある。

 ……コガネムシだった。靴下の上から俺の皮膚をガジガジと齧っている。

 

「え……なんで? こいつ、さっき確かに死んで――」

 

 ポロッ。足首を齧っていたコガネムシが地面に落ちる。

 

「……死んでる」

 

 変な気分だ。(かぶり)を振って追い払おうとする。

 すっと立ち上がった。また歩みを進めよう――



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#11 心らしきものが消えて(前)(3)

 ……ずにゅっ!

 

 地面がぬかるんでいる。手のひらを空に向けてみた。雨は降っていない。

 もう少しだ……ああ、ようやく見えてきた。国府(こうふ)の森のスタート地点が。

 森林のど真ん中に自然道が延びている。高く成長した樹が頭上を覆っていて、雨が降っても濡れる心配はなさそうだ。

 植生は……針葉樹だろうか? 竹が多い気がする。竹って、針葉樹だっけ?

 

「さ、行きますか」

 

 一瞬、頭をもたげる。集のことが。

 かぶりを振った。前方に進んでゆく。

 

「お前、どこのもんじゃっ!!」

 

 今まさに、国府(こうふ)の森に足を踏み入れたところだ。

 目の前に、声の主はいない。

 となると――

 

「どこのもんじゃと聞いとる!」

 

 真上を見る。

 

「!?」

 

 ――刃が降ってきた。人間ごと。

 バックステップッ! 真後ろに跳んでかわす。ズリュッという、ぬかるみの気持ち悪い感じ。

 ……背の小さい少年が立っている。

 

国府(こうふ)の森になんの用じゃ、お前」

「入れてくれよ」

「……あ?」

「俺を、国府(こうふ)の森に入れてくれよ」

 

 門番は、小刀を突き出して構える。

 

「ここから先に入りたいってか? そんなもん許さんわ!」

 

 ため息を吐く。

 

「なんじゃ? その余裕は。ほら、足元を見てみい」

 

 体勢を整えるべく、足先を上げようとする――上がらない。ぬかるんでいただけの地面が、すっかりと汚泥になっている。

 門番を見た。にんまりと笑っている。

 不思議だった。憎しみが伝わってきてもいいはずなのに、どういうわけか、楽しげな感情が伝わってきたから。

 

「そら、いねやっ」

 

 汚泥など無きがごとく、俊敏な動きで迫り来る。

 逆手に持った小刀を、まっすぐに振り下ろして――

 

「がっ!?」

「捕まえた」

 

 速い。が、単純すぎる。

 なんのことはない。俺は今、こいつの手首をしっかと左手で掴んだなら、残りの右手を上からスッと差し込んだ。そして、次の瞬間には完成していた――必殺の――腕がらみ(アームロック)がッ!

 

「がぁっ! ちくしょっ、いてぇ……!」

「……なあ、門番くん。俺、国府(こうふ)の森に入りたいんだけど」

「知るかぁ、入りたいなら、オレを殺してからにしやがれっ」

「わかった」

 

 腕がらみ(アームロック)を解いた。

 小刀を離していなかった門番は、サッと身構えようとする――よりも早く、次の寝技(?)が決まっていた。

 

「ごッ! おご……」

 

 神速、と言ったら自画自賛になる。

 ……袖車締め。片方の順手で頚動脈に沿った横襟を握り、もう片方の逆手で反対側の前襟を握る。そして、全力で――引きつける!

 

「ご、ご、お……」

 

 立ち姿勢での絞め技は不安定だが、これぐらい密着すれば支障はない。

 あとは、時間の問題……事切れた。

 

「ふう……いやいや、事切れさせちゃだめなんだよ」

 

 力が抜けて、だらりとなった敵を投げ捨てたなら、

 

「せーの、オラッ!」

「ぐ、げぼ、げほっ」

 

 そいつの元に歩み寄り、心臓にカツを入れてやる。まだ咳き込んでるが、そのうちに目が覚めるだろう。

 そして、俺は森の奥へと――足取りは、軽やかに。

 

 *  *  *

 

 さっきとはうってかわって、地面が乾いている。

 スニーカーで歩いているが、靴裏に土くれが付く心配すらないほどの、それくらい乾いた地面。

 入口から約一キロの地点。ここまで来る間に、農道や里道の名残りが見られた。かつては、ここいらでも農業に勤しんでいたのだろうか。

 俺は、おもむろに足を止める。

 

「……さて! そろそろいいだろ? 俺は初心者なんだ、手加減してくれよ」

 

 ガサガサと竹やぶが揺れる。

 

「ハハッ、ボクに気が付くなんて。外の連中にもまともなのがいるんだね」

 

 真上から声がする。

 

「さっき学ばせてもらったよ……変り映えのない」

 

 俺は、やや大きめの声で返事をする。ボソッと悪口を付け加えて。

 

「それはどうも。得物を使うなんて無粋な真似をしてすまなかったね。しかし、次はどうかな?」

「!?」

 

 ――真下からだ。気配を感じる。

 危険だ! と感じて、前方に走り込んだ。

  

「なんだ、今のは」

 

 何メートルか走って後ろを向くと――

 幾つもの土くれの塊が宙を舞っていた。旋盤のように。

 回転を加えながら突っ込んでくる。何発も、何発も。

 

「くそっ!」

 

 ひたすらに避け続ける。

 

「いづうっ!」

 

 肩に当たってしまう。

 ……痛い。冗談抜きで痛い。どこか折れたかもしれない。

 が、今のでわかった。これは、土だけじゃない。

 

「中身は岩石ってわけか。どうりで痛いわけだ」

 

 ――笹の葉が落ちてきた。

 樹上にいるであろう敵人を、しっかと見つめる。暗闇でよく見えない。

 今しがた俺にぶつかり、地面に落ちた土くれを掻き分ける。ああ、やっぱりだ。手のひらサイズの石だった。おにぎりかよ。

 拾った石を、しっかと握り締める。

 

「ハハッ、しっかりと罠にかかってくれたね。どうだ、ボクの輝石投射陣(ダイヤモンドクラスター)の威力は」

 

 ハハッ、じゃねえよ。どっかの遊園地にいるっていうネズミかよ。公民館の視聴覚ルームの中でしか見たことないけど。

 

「その、ダイヤモンドなんとかっていうの。けっこうきついかも。肩が痛てえ。なあ、手加減してくれねーの?」

「ハハッ、この世からいなくなったら、痛い思いをしなくていいんじゃないかな?」

 

 今のこいつの台詞を、あのネズミと重ねてみる。

 

「ブフッ……そりゃあ、名案だと思う」

「いったい、なにが面白いんだい?」

 

 敵の影が揺れるのを確かめる。身を乗り出したのだろう。

 なるほど、あそこか。

 

「ところであんた。概念力(ノーション)を使うときって、技の名前、叫ばないといけないタイプか?」

「さあね。人によるんじゃない」

 

 地面が盛り上がる際の、わずかな音を聞き分ける。

 ――今だ。たった今、地面からダイヤモンドなんとかが噴出した。高速回転が加わった石ころが、土くれを伴ってこちらに飛んでこようとしている――飛んできたッ!

 前転、横っ飛び、地面を転がる、伏せ、ありとあらゆる動きでもって、石をかわしてゆく。

 

「しつこいね、きみっ!」

 

 ゴ、ゴゴ……! 幾つもの土の塊が地面からせり上がって――宙を舞っている。

 

「トドメだっ!」

 

 物体が四方八方から迫ってくる――その軌道は、暗闇の中でも俺を器用に捉えているんだろう。

 

「……あ?」

 

 すべて、不発に終わる。

 真砂土という衣を身にまとった岩石は、なんの抵抗もなく地面に落ちた。

 

「ど、どういうことだ……? 目が、目が見えない! おごっ!」

 

 鈍い音が聞こえる。人が落ちてきたから。受身すら取れず、地面にバウンドして跳ね返った、あわれな肉の塊。

 何をどうしたかといえば、①攻撃を避けながら敵の位置を把握する、②敵が本気の攻撃に出るのを待つ、③視界を遮断して混乱させる、④最初に拾っておいた石をぶつける、⑤樹から落ちてくる。以上。

 落ちた敵のところまで歩いていく。胸ぐらを掴んで持ち上げた。様子を確かめる。

 

「おい、どうせ生きてんだろ。目、覚ませ!」

 

 頬をバシバシ叩いていると、

 

「ぐ……お前、どこの聚落(じゅらく)の者だ」

「その辺の田園地帯に住んでる」

「嘘をつくなよ……お前も使用者(エッセ)だろう」

「そうだ。山野辺から越してきた」

 

 こいつの感情が動いた。瞳孔の動きでわかる。

 

「山野辺……そうか。復讐に来たんだな」

「なんのことだ」

「とぼける……なっ、う……!」

「まぁ、あの高さから落ちたらな」

 

 血まみれの頭部にフェイスタオルを当ててやる。

 

「なにをする……? おい、やめてくれ、侮辱だ!」

 

 構うものか。血を拭う。

 

「……なあ。俺さ、国府(こうふ)の森に入りたいんだけど。何か方法とかあったら、教えてくれない?」

「プライドがないのか! ボクらが根絶やしにしたんだぞ、お前の故郷……を……」

「滅んだとは聞いてる。まあ、今の俺達には大した話題じゃない」

 

「気絶してる。出血がひどいな。カバンがあれば枕にできたんだが……おっ」

 

 先ほどまで戦いに使われていた石を持ち上げる。

 

「このくらいの石でちょうどいい。枕代わりになるな」

 

 『でも、こいつはやれないんだ』とタオルを取りながら呟いた。

 頭を石枕に乗せてやった後、さらに奥へと歩みを進めていく。

 残りは、ええと……直線距離だと3,4キロか? でも、山道だからな。もっとあるんだろうな。道がグネグネしてるだろうから。

 足取りは軽やかに。ここまで来ると心の(おり)も消えつつある。



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#11 心らしきものが消えて(前)(4)

「あれが、国府(こうふ)の森の八幡神社か」

 

 歩いていると、右手の開けた土地に神社があった。かなり大きい。

 

「……」

 

 境内に続く石段を見上げる。五十段以上はある。傾斜も強い。

 

「さすが、全国に名だたるだけはある」

 

 石段を昇っていく。

 じゃり、じゃり、という石床を踏みしめる音が響いている。

 

「……ですから……と……です」

 

 なにやら、話し声のような。そう遠くはない地点。

 部外者に気が付いたのか、声が途絶える。

 境内が見えるところまで昇っても、誰もいなかった。

 

「誰か、いた? 本当に?」

 

 いや、いる。いたのだ。少なくとも二人以上は。

 正面に神殿があった。二体の狛犬が立ち並んでいる真ん中に本殿が見える。

 境内の各所に盆提灯が設えてあり、ご神体に至る両開きの扉が開け放たれているのがわかる。

 さらに、さらに前へと進んでいく。

 

「……?」

 

 おかしい。人の気配があるのに誰もいない。

 さらに行って、狛犬を通り過ぎる。

 

「……!」

 

 間違っていた。『誰か』は確かにいる。いるけれども、

 

「おい、あんた! 大丈夫か」

 

 本殿に入るための階段から見て、右に二メートルほど――『誰か』が、ぶら下がっている。

 縄が屋根から伝っていて、その先で縛られて逆さ釣りになっていた。

 

「……あなた、誰? あなたも来てくれたの?」

「! その声……ほのかさん?」

 

 凍りついた。ほのかさん、と呼んだ直後だった。

 ――血。目と鼻の先には女の子の顔――逆さ吊りになっている。

 真白の肌襦袢(はだじゅばん)が血の色に染まっていた。胸、肩、二の腕、お腹、臀部、太股、ひざ、足首――あらゆる箇所が血の色に。

 逆さでなければ肩甲骨ほどまである髪がしんみりと下がっている。腕をだらりと垂らしていた。目を閉じていると死体に見えるだろう。

 襦袢のスカートは膝下までで、中はハーフパンツのような形状になっている。

 

「おい、それ。どうした……?」

 

 ほのかの指先を見た。鉄串が、すべての爪の間に深々と突き刺さっている。

 計十本の鉄串から血が流れ出ていた。ポツ、ポツと、大地が血を吸い続けている。

 ほのかに近付く。 

 

「何があった?」

「……わたるくん、だよね? あの時、風船釣り教えてくれた。うん、大丈夫。わたし、このくらいじゃ死なないから」

「そうじゃねえっ、どうしてこんなことになってる。誰にやられた? 国府(こうふ)の森の連中か!」

「あ、うん……連中、じゃないよ。仲間、だよ。わたしが悪かったの。あの時、介入をしてしまったから。だから、罰を受けてるん……だよ……」

 

 ほのかの顔をまじまじと見る。

 

「あはは、渉くん。恥ずかしいからやめてよ」

「よかった。顔は大丈夫だな。痛いだろ……ちょっと待ってろ」

「こんな体勢じゃ、舞えないよ……」

「そういう意味じゃない。いいから待ってろ。目、閉じて」

 

 ほのかが目を閉じる。その頬に手を当てた。

 

「あ、なんだか痛みが……消えて……あぁ……」

 

 こんな能力でも人の役に立つことがあるんだな。思い至ったところで、ほのかが、その身体を葉っぱにいる芋虫みたいに振っていることに気が付く。

 

「だめ、だめなの。わたし、罰を受けてるんだから……渉くん、ごめんね……解除する」

 言うやいなや、俺の概念力(ノーション)が消えた――一体、どうやって? 何かやった様子はなかった。

 

「渉くん、使用者(エッセ)だったんだ」

「知ってたくせに。どうせ初対面でだろ」

「あはは、ごめん……わたし、嘘つくのヘタなんだ」

 

 ほのかを見つめる。

 

「や、なに? 恥ずかしい……」

 

 その体をつぶさに観察する……致命的な傷はない。

 ただ、体の各所に抉られた痕がある。

 

「……!」

 

 視線が胸の辺りへと。激しく逸らした。

 

「どうしたの? 渉くん、何かあったの」

「なんでもない!」

 

 なんでもあるんだけどな。ほのかはクスッと笑みを洩らす。

 

「わたし、渉くんのこと何でも知ってるよ」

「ゴジョーダンを」

「冗談じゃないよ」

「じゃあ、試しにひとつ、俺の秘密を暴いてみて」

 

 ……肩にほのかの手が延びた。鉄串が髪に触れる。

 痛みが伝わってくるようだ。間近で見るとより恐ろしい。平然としてるけど、こんな痛みに耐えてるのか?

 

「ええっと、渉くんが今月、想像の中で女の子をエサ(・・)にした回数は……8回かな」

「……」

「8回中、同じ学校の子が3回。宮……なんとかさん、ていう子。それから、通学路ですれ違う女の人……あ、わたしこの人知ってる! それが2回。あとは……え、お姉さんが2回……? 渉くん、意外……」

 

 何を言ってるんだ? え? これって、おい、おい……!

 

「あの娘はいないんだね。一緒に風船釣りの営業してた子」

「……」

 

 本物だ、と念じた瞬間、ほのかの瞳が輝いた。

 

「わたしでもしてくれたんだ……!」

「ああああああああッ!!」

 

 地面へとダイブッ!! 頭を抱えて転がり回る――そうだ、そういえば、そうだった……!

 

「シチュエーションは……あ、これってデンシャ? 人がいっぱいのデンシャ……いいなあ、わたし乗ったことがなくて。この感じ、渉くんは乗ったことあるんだね。それで……あ、わたし、痴漢されてる……! 男の人が前から二人、後ろから一人……男の人だけじゃない、女の人も――」

「やめてくれええええええええええッ!!」

 

 叫んだ。いや、叫んでいない……!?

 

「渉くん。ばれちゃうよ? 居場所」

 

 俺は確かに叫んでいた。でも、事実は違う。叫んでいない。これもこの子の能力なのか?

 (かぶり)を振って俺は、ほのかに向き合う。

 

「取り乱してごめん。ええと、そうだ、冗談なんて言ってごめん。謝る」

 

 ほのかの目を見ていた。俺はこの子を嘘つきだと言った。直接ではないけど、似たようなものだ。

 ほのかは視線をさっと真下(?)に逸らした。数秒が経っても視線が定まらないでいる。

 

「ねえ、渉くん。話があるの。こっちに来て」

「?」

 

 導かれるように、ほのかの口元に耳をそばだてる。

 

『……エッチなこと、したい?』

 

 吐息が耳に伝わる。一瞬、震えてしまう。

 

「……ああ、そうだな」

 

 ほのかと向き合う。逆さだけど。

 その両頬に、手のひらを当てて鷲掴みにする。視線の先は、ほのかの瞳の真ん中にある。

 

「あ……」

 

 また、肢体をくねらす。右に、左に、振り子のように。顔を見られないようにしている印象がある。でも、最後には目が合う。

 

「……」

 

 切ない瞳。潤みを増していく。目は慣れたし、すぐ傍に提灯があるから表情がはっきりわかる――心も。 

 ほのかが目を閉じた。

 

「渉くん。いいよ……ふひゃあぁっ!」

 

 俺は今、両手でほのかの頬を揉んでいる。

 揉んで、揉んで、揉んで。最後は、ブニイイイィ、という効果音でも聞こえてきそうなくらい真横に引っ張る。

 

「目に異常なし。耳も大丈夫。口の中にできものや出血跡もない……低体温症のおそれなし。いやまったく、使用者(エッセ)の中の使用者(エッセ)はやっぱり違うな」

 

「わひゃるふん……?」

 

 手を離した。

 

「俺、行くところがあるんだ。どこかは言えないけど……ごめん」

 

 嘘を()いた。行きたい所はない。こうなりたい、という結果ならある。

 

「いいよ、そんなの。こっちこそ引き留めてごめんなさい」

「ほのかさん。あの時は、その……ありがとう。居てくれてよかった」

 

 ――涙。少女の眼から零れている。

 

「う、あ、うぅ……! ずるいよぉ……わたし……わたし、また……渉くんに逢えてよかった……もう二度と会えないって、思ってたんだよ」

 

 ……その涙に、そっとくちづけをした。

 唇を其処につけているうちに、一つの心を読み取ることができる。この血が心臓からどこかに流れ出て、また別のどこかから戻ってくる感覚――要約するとこうだ。

 実はそんなにロマンチックなくちづけじゃない。俺の舌は少女の瞼を撫でている。どこにキスをしようか迷ったところ、一番穏当そうな、穏当でない箇所にいったのだ。 

 まさか、こんなつまらないことが俺の運命を決めたりなんてしないだろう。俺はただ、あまりに意欲的すぎて抗うことのできない俺の意思に従っているだけだ。そして、とうとうこんなことになってしまった。

 唇を離した。手を当てると暖かさが蘇ってくる。これでよかった、いい記憶になりそうだ。提灯が暖めた大気の香りが漂ってくる。

 俺はこの香りを、ずっと覚えておこうと思う。心の中に祭っておこう。俺だけの隠れ家、不安や希望を好きなだけしまっておける、ただひとつの場所に。



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#11 心らしきものが消えて(前)(5)

 ザザッ、という物音がした。ほぼ真後ろからだ。

 

「お前えぇ、ほのか様に何をしてるっ!」

 

 その場から飛びのいた。先ほどの気配のひとつだろう、ほのか以外の。

 足早に歩いてくる。盆提灯のおかげで、ある程度の姿はわかる。

 ……着物のようだ。おそらく髪が長い、真後ろでひとつに結ってある。視線は鋭い。腰に刀剣を携えている。

 

「お前が侵入者だな? 今しがた、入口で一人倒しただろう」

「そのとおり。で、今しがた、そこの梢でもうひとり倒した。地面から土くれを打ち出してくる奴」

「……彦一だけでなく、史朗まで」

 

 怒気が伝わってくる。

 

「ねえ、ふたりとも。けんかしないで」

「ほのか様。お静かに」

 

 俺と女は、すぐ近くで向き合った。

 視線が交錯する――初めて会った気がしない。

 

「すまなかった……でも、俺は目的があってここにいる」

「名は?」

 

 俺は澄ました顔で、

 

「秘密」

「正しい判断だ」

 

 真後ろに跳んだ。鼻先に切り傷ができている。

 

「やるな。わたしの剣の腕前を知っていたのか?」

「いいや。でも、なんとなくわかるよ。心のざわめきというか、そんなので」

「わたしの剣筋が汚れていたというのか」

「いや、別にそんなことは……」

 

 ここで俺は、あることに勘付いた。深呼吸をする。

 

「いや、汚れていたね。心のどこかで、『うまくやってやろう』と思ってたんじゃ?」

「……!」

 

 相手は黙ってしまう。俺は、じりじりと後ずさっていく。

 蒸し暑かった。提灯の明かりのせいだろうか? こめかみに汗が流れるのを感じた瞬間、敵人が走り込んでくる。速いッ!

 

 一振り目。正面からの一撃――横っ飛びによる回避、成功。

 二振り目。下段からの袈裟斬り。後ろに退がるも尻餅をついてしまう。

 三振り目。尻餅をついている俺に向かって、そのまま、ひと突きを――

 

「なッ!? 目が見え……」

 

 今だ! 双手(もろて)刈りを仕掛ける――クリーンヒットッ!

 耳は相手の太股に密着し、指先はひざ裏の腱をしっかと押さえている。

 

「倒れろ!」

「きゃあっ!」

 

 絞り出すような声とともに女が倒れる。刀が飛んだ。

 俺は顔を上げる。いいぞ、俄然有利になった。こいつの腕を絞り上げて、参ったをさせてみせる。

 

「こら、やめろ! いや、いやっ! いやあぁ! わたしの身体をよじ上ってくるなぁ、だめぇっ!」

 

 どこかで聞いたような悲鳴だ。

 両手を使って、こちらの攻めをブロックしている。が、無駄だ。俺は今、こいつの身体に密着している――後は攻め上がるのみ。

 俺は今、この女の腹部に耳をつけ、両手は肋骨の辺りを掴んでいる。この体勢から、こいつを寝技で攻略してみせる!

 ……あと少し、あと少しで、この女の肘関節を。敵人は地面を引きずって後退することで寝技を防いでいる。

 必死の抵抗。が、体力ならばこちらが有利。どんどん昇っていく。

 

「いい加減にしろ!」

 

 敵人が拳を繰り出した――フロントガードポジションからの一撃。 

 

「その腕、いただきッ!」

「ぐぅっ! あ……あっ、あああああああぁッ……!」

 

 完全に極まっていた――腕がらみ(アームロック)ッ!

 

「おら、剣士さま。気分はどうだよ。利き手をもがれた気分だろ」

 

 剣士の顔を見やった。

 ――夜の闇でもわかる。敵はいまや静かに笑んでいる。

 何か喋りそうだ。いや、わかる。こいつは今から喋り出す。その瞳を覗き込んだ。

 

「……どうして、わたしの得意技が剣だって思ったの?」

 

 左手が差し出される。

 笑っていた。たおやかに。

 

「時間よ、止まれ」

 

――――――――――――――――

――――――――――――

――――――――

 

「時よ、そなたは美しい」

 

――――――――――――――――

――――――――――――

――――――――

 

 (第11話、終)



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#5.5:大嫌いな彼の手(1)

この話のみ、三人称視点です。渉の主観ではなく、カメラが映像を映しているイメージです。

全編完成した後に書き下ろしました。笑いと恋愛に(ほぼ)特化しています。


「気をつけ、礼!」

 

 教え子の声が響いた。教壇の前にいる女教師は、不揃いながらも一応全員が頭を下げたことを確かめて、

 

「……みんな、今日はよくできましたね。次はもっと上手くできるよ」

 

 ニッコリと笑ってから、出席簿と日誌を持ってスライド扉まで歩いていく。足取りは軽い。

 がやついた喋り声とともに、鞄やスポーツバッグを提げた生徒らが教室を出て行く。

 

「汐町さん、ちょっと待ってくれない」

「なに? どうしたの、安田君……」

 

 夕闇の訪れにはまだ早く、西日が教室の半ばまでを照らしている。

 時計は四時過ぎを指していた。皆がすっかりと3年3組の教室を出て行ったことを確かめるようにして、安田優一は汐町由香里に声を掛けた。

 

「ちょっといいかな。こっちに来て」

「ん……?」

 

 由香里は髪の毛を触りながら、安田の方へと。

 そんな様子を見守っている者が数人いる。宮本、前田、藤原である。訝しげな視線を二人に送っている。

 神部篤と横尾砂羽もそうだった。宿題に励みながらも、その耳は常に由香里の方にあった。

 

「和田先生、今日は礼のやり直しをしなかったね」

「うん。そうだね」

 

 安田の視線は、由香里の瞳を刺し貫くように――女子も、まっすぐに少年の方を見やりつつ、髪の毛をいじっている。残った左手はスカートの裾へと。

 

「安田君。あたしにこうやって話しかけるの……初めてだよね」

「そうかな? ま、いいじゃない。それで、単刀直入で何だけど……」

 

 由香里に近付いた。耳元で何かを呟いたなら、身を翻して教室を出ようとする――

 去り際に、由香里をチラリと眺めると出て行った。由香里は、そんな安田の後を追うような、追わないような素振りを見せていた。すると、

 

「なあ、俺もちょっといい?」

「え……!?」

 

 振り向くと道ノ上渉がいた。由香里の方を見ながら首元を掻いている。

 

「あ、な~んだ! 渉、居たんだぁ」

 

 少女の瞳の色が明るくなる。

 

「あ、いや……違う。由香里じゃないんだ。宮……宮……ええと」

「宮本だよ?」

「そうだ、宮本さん!」

 

 ガンッ! という物音がした。由香里が傍にあった机を蹴飛ばしていた。

 顔も向けず、早歩きでスライド扉に向かい、廊下に出てそのまま消えた。

 

「なんだ? あいつ……」

「道ノ上くんこそどうしたの?」

「宮本さん。俺達日直だろ。和田先生から言われてた例のやつ、宮本さんも待ってるんだよな?」

 

 宮本は、ボブカットを軽く振り回すようにして、

 

「受験対策プリントのホッチキス留めだっけ?」

「そう、それ」

 

 むず痒い微笑み。宮本の視線が床に落ちる。

 

「は? ナンだよ、それ……ちょ、宮本さあ……あ、いや。和田センセならしょうがないね」

 

 藤原が声を上げる。

 つい言ってしまった、とばかり罰の悪そうな顔つきになる。黒めの肌。歪んだ口角が滲んでいる。

 

「そーゆーこと! 藤原、今日はオレと帰ろうぜ」

 

 前田が大きな声を響かせると、藤原は顔をブンブンと振った。

 

「いーよ、一人で帰る! 塾だし!」

 

 安田がくぐったのと、同じスライド扉を開けて帰っていった。後を尾いていく前田の姿がある。

 宮本と渉が向き合った。距離にして一メートルほど。

 ……春の終わりの陽気が教室を照らしていた。光と影との境界線を跨ぐようにして、少女は少年がいる影の方へと入り込む。

 

「道ノ上くん。行こっか、私たちも」

 

 渉の肉体が寒気に震えた。背後からの視線――篤と砂羽のものを受けて。

 

「どうしたの? 早く早く。作業場所は理科準備室でしょ」

 

 *  *  *

 

 バチ、バチッというホッチキスの音が理科準備室に響いている。

 二人は樹木の植生についての三枚綴りの資料を綴じていた。渉の視線の先には一枚目の資料がある。

 

「この写真の樹木の中で……?」

 

 ホッチキスの音が止まった。渉のものだけではない。

 

「道ノ上くん? さぼっちゃだめだよ」

「悪い」

「……理科、好きなんだ? じゃあ問題。『この写真の樹木の中で、切り株だけになっても再生するのはどれでしょう』だって」

 

 渉は作業をやめて問題用紙を眺める。四種類の樹木――モミジ、ヒノキ、カイズカイブキ、マツが並んでおり、その中から正解の樹種を当てる問題が載っていた。

 宮本は悩ましげな視線をプリントに送っている。

 

「こんな問題が受験に出るのかな? 池上先生はこんなの教えてくれなかったよね」

「わかった。これだ」

 

 渉はモミジの絵を指差した。

 

「どうしてモミジを?」

「広葉樹だから。ヒノキやイブキ、マツとかの針葉樹は一回切り倒したら死ぬ。でも、広葉樹は再生する」

「なんで?」

「ええと……確か、そう。眠ってるんだよ、広葉樹は。芽が!」

 

 渉が顔を輝かせる。

 

「大抵の針葉樹って、一年中葉が茂ってる。だから、光合成をするための葉が無くなったら終わりなんだ。またイチから立派な葉を作らないといけないから……でも、広葉樹は咲いて散ってを繰り返すだろ。散ってる間に力を貯めてるんだ。だから、切り株にされても次の年になると枝が生える。それが成長して復活するんだ」

「……詳しいんだね? 正解。でも、理由がちょっと違うみたい」

 

 プリントの三枚目に書かれた正解を渉に見せた。それをひらひらと前後に振りながら、

 

()君、賢いんだね」

「まぁ……その。昔、生活するのに……」

「? 今なんて言ったの」

「なんでもないよ」

 

 むず痒そうな面持ちになった渉は、ホッチキスを再び手に取る。

 ……それから十数分、ひたすらに紙を綴じる音が理科準備室に鳴っていた。

 さらに時間が経って、すべてのプリントが綴じられた――

 

「よし終わった!」

「まだだよ?」

「え? 全部綴じたよな」

「今度はクラス単位で分類しないと。そしたら、次はこのゴム印『問題用紙』『解答』をプリントの右肩に押すんだよ? って私は和田先生から聞いてる」

 

 窓の外を見た。太陽は夕暮れの色を帯び始めている。

 

「じゃ、渉くん……悪いけど、私帰らないと」

「なん……だと……」

 

 クスリと笑って渉を見た。目が合うと、何秒かの間――微笑とともに顔を眺める。

 

「自転車がパンクしちゃってね? 近所の自転車屋さんがすごく安くしてくれるんだけど、もうお店が閉まっちゃうから」

 

 渉はそのまま宮本の瞳を見ていた。宮本もそうだった。が、最後に視線を斜め下へと逸らす。

 

「……ならしょうがない。宮本さん帰りなよ。後はやっとくから」

「え、本当に? ありがと~」

 

 指定鞄を足早に拾い上げて宮本は、そそくさと準備室から出て行こうとする。

 

「ねえ、なんで土下座したの?」

 

 渉の面持ちが強張った。唇を尖らせて眉間に皺を寄せる。

 

「それは――」

「また明日ね?」

 

 去り際、バイバイを告げる宮本に対し、渉は小さく手を振った。

 準備室を出た途端にステップで駆け出した宮本。鞄の中からシルバーの携帯電話を取り出すと、トイレに入っていった。



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#5.5:大嫌いな彼の手(2)

「土曜日、みんなで遊びに行かない? グランカワノベに」

 

 そう言って声をかけた安田――由香里を除く三人は難色を示している。

 3年3組の教室。時計の針は十三時二〇分を指していた。教壇から見て右側、窓際の列に、砂羽、篤、渉、由香里の順で座っている。鬱々とした表情の宮本が、安田のすぐ後ろに佇んでいる。

 ……渉が席を立った。

 

「安田。今、教室の空気がちょっと変わったぞ」

「みたいだね」

 

 暗い笑みを浮かべた。

 

「宮本ちゃんは予定ないんだって。藤原さんと前田は埋まってるみたいだ」

 

 四人は顔を見合わせる。しばしの沈黙が支配した。

 

「ちなみに、どうして僕たちなんかを?」

 

 篤が質問を投げた。安田が体の向きを変える。

 

「遊びたいだけだよ」

 

 篤は机に肘をついた。

 ……おもむろに砂羽を見る。震えた手で机を握り締めていた。

 安田の方に視線を戻す。

 

「やめた方がいい。僕はオススメしない。安田君だけじゃなく、後ろにいる宮本さんもそうだけど」

 

 一瞬の間があった。

 

「……襲われたら死んじゃうよ。二人とも。わたし達は生き残るけど」

 

 砂羽の声が響いた。低く、重く、しなるように。

 宮本の顔つきが変わった。口角を歪めている。

 

「うん! そ、そ……そうだよ!?」

 

 宮本は、安田の少し前に進み出る。

 

「そうだよね? 行くべきじゃないよね。やめと」

「行こうぜ」

 

 渉だった。軽快な調子で言ってのける。

 そのまま、ズイと宮本の前へと。

 

「……!」

 

 身長差からか、宮本は見上げるように渉を見ることになる。

 

「宮本さんって、優しいよな」

「……どういう意味?」

「ここに居るってことは、俺達と遊びに行くつもりがちょっとでもあったんだよな? 使用者(エッセ)に関わればどうなるか分かってて。それってさ……勇気がいるよ」

「そんなこと……ないよ? 私」

 

 視線を逸らす。

 

「大人だよ。俺なんかとは全然違う。羨ましいな、宮本さんみたいに優しい人間になりたい」

「ほ、褒めたって何にも出ないんだからね?」

「いらないよ。あ、でもノートは見せてほしいかも。成績いいし、字が綺麗なノートだから」

「えー。渉君、わざとらしいよ。そういうのやめなよ? フツーに寒いから……」

 

 渉君、という発音に残りの三人は何かを感じ取った。

 由香里は足先を椅子に絡め、篤は頬杖を深くした。砂羽の眉間に皺が寄っている。

 

「みんなはどうする? 由香里は行くよな」

「うん……行く」

「篤と砂羽は?」

「僕は勉強があるから無理だ。塾の体験講習があって」

「わたしは……家事がけっこうある」

 

 渉は片目を閉じた。顔を傾けて二人の顔を眺める。

 

「そっか。じゃあ、俺と由香里と、安田と……」

 

 宮本に視線をやった渉。

 

「その三人で行こう」

「なんでよ!?」

 

 ツッコミが入る。

 

「私も行くよ?」

「危ないから止めといた方がいいんじゃない?」

「私、安田君と一緒に学級委員してるんだから! クラスのみんなのこと、考えないといけないんだからね?」

「ははっ、じゃあ宮本ちゃんも決定ということで」

 

 渉は、由香里の顔を見た。はにかむように唇を結んでいる。足の甲をしきりと椅子にこすり付け、引っ掻いている。

 

 *  *  *

 

 大型ショッピングモール、グランカワノベの駐車場には数百台の自動車が停まっていた。最上階から駐車場を見下ろした視線が右に移ると、今度は立体駐車場が目に入る。

 視線を元に戻すと、渉は息を吐いた。

 

「渉くん、ここは初めてかい?」

「これ、どうなってるんだ……?」

「どうなってるって、こういうものだよ。ボクらが居たのはハッピーマウンテンでも田舎の方なんだ。でも、喜んでもらえてよかった。一番上の階を集合場所にして正解だったね」

「入口じゃだめだったのか」

「野暮ったいよ、そんなの。まるで、『喫茶店で待ち合わせ』と言ったのに、『喫茶店の前で待ってる』くらいに野暮ったい……あと、この階は狭いから集まりやすい」

「そういうもんか」

 

 二人は階段付近にいた。

 ガラス張りになった窓の先には開けた土地が広がっている。市街地を貫く国道の端にはズラリと商店が並んでおり、それ以外は住宅地だった。

 渉がフロアを見渡すと、中央の吹抜け部分にベンチが置いてあった。その奥にはゲームセンターがある。

 

「渉くん。今日はどうやって来たの? ボクは電車。宮本ちゃんは親に送ってもらうのかな」

「由香里と自転車で。姉さんに借りた。ついでに服と金も」

「え……?」

 

 安田は頬を掻いた。

 

「ここまで十五キロはあるよ……?」

「うーん。由香里を荷物にしても五〇分もかからないしなぁ。そんなことより、この服の方がもの凄い違和感なんだが」

 

 白色のチュニックの袖を引っ張るようにして足先を眺めている。灰色に近い黒のジーンズと、ぼろぼろのスニーカーが渉の目に映っている。

 

「これ女物なんだよ。姉さん、俺よりでかいんだ。安田は着こなしてる感じだな。大人っぽい。ええと……服の名前は知らないけど」

 

 上に下に、安田の装いを眺めている。

 ネイビーの襟開シャツに濃紺のスラックスを合わせていた。赤茶色のカジュアルシューズのつま先で、床をコツコツと蹴っている。

 

「店員さんが選んだ組み合わせなんだ。そりゃあ、誰だって決まるさ……渉くんだって似合ってるよ。細身だし、それに」

 

 渉の右手首に巻かれた勾玉――鬼食免(きじきめん)に視線をやる。

 

「ごめんね? 二人とも待ったよね」

 

 宮本が小走りで二人の方に向かっている。横には由香里がいる。

 安田は、由香里の七分丈のチノパンと、さほど主張していない胸の辺りをさっと眺めたなら、上気したその頬に視線を送る。

 

「ありがとね? 汐町さんが居なかったら、多分まだ迷子だったよ?」

 

 渉の目線は水色のフレアースカートへと。真珠色のパンプスに目を奪われる。

 

「あ……!」

「どうしたの? 渉君」

「ええと、宮……宮……」

「宮本だよ?」

「ごめん……宮本さん」

「いいんだよ? 私、どういうわけか最近、人に名前を忘れられるの……それで、なんて言おうとしたの?」

「ええと、なんかさ。その服……ファッション雑誌で見たことある。おしゃれだよな」

「そ、そう?」

 

 薄い生地のスカートを握り締める。

 

「あ、いや。その黒いポーチのこと。花の飾りが付いてる。かわいい」

「えぇ~!? 渉君……昨日から言ってるけど、なんにも出ないよ?」

 

 安田は、ハッとなって由香里から視線を離した。渉の肘を小突くと、わざとらしく後ろを向かせて囁きかける。

 

「どうしたんだ、渉くん。女子を褒めるなんて。なにかあった?」

「いや、栞……姉さんがさ。こうしろって」

「……なるほどね。じゃ、次は由香里ちゃんだね」

「あいつはいいだろ」

「だめだよ。こういう場ではみんなを立てないと」

「うぐぐ……」

「言わないならボクが言うよ」

「……」

 

 渉は由香里の前へと。

 

「……!」

 

 少女は困った顔で目線を下に逸らす。

 渉の目がぐりぐりと動いている。ベージュ色のチノパン、桃色の毛糸で編まれたシャツ、左手首にある鬼食免(きじきめん)、雪の形をあしらった髪飾り……。

 

「今日はオシャレだよな。由香里」

「それって、いつもはイモみたいってこと?」

「そういう意味じゃねえ!」

 

 落ち着かない様子でいる渉をチラリと眺めたなら、安田が後ろからやってくる。

 

「中学生で髪飾りって珍しいよね! すごく身分が高い感じがする。それ、どこで買ったの? 由香里ちゃんセンスいいね」

「これ? お母さんの。だいぶ昔のやつだけど……」

「そうなんだ。ねえ、近くで見せてよ」

 

 由香里は、思案顔で安田を眺めている。

 

「安田君、見たいの? これで……どうかな」

 

 近くに寄って髪飾りをズイッと示す。安田は身じろぎもせずに髪飾りを注視している。

 

「ああ、やっぱり……」

 

 安田の瞼が少しばかり閉じる。

 

「似合ってる」

 

 口角が上がる。その途端、彼の掌に違和感が生じた――渉がこっそりとメモを握らせたことによる。

 

「じゃ、みんな。そろそろ行こうか」

「安田くん? 今日はどこに行くの」

「んー、今が十一時だから……下に行って店を回ろう。そのうち昼になる。ご飯を食べて、最後はどうしよう」

「はーいっ!」

 

 由香里が手を挙げた。

 

「こういうのって、最後まで決めない方がいいよ。なにがあるかわからないし」

「うん、それがいいかな……? じゃ、とりあえず」

 

 安田の視線が、吹抜けの向こう側にあるゲームセンターに移っていた。

 『予算1,500円以内。俺と由香里込みで。追記 前より500円ほど下がりました。ごめん』

 と書かれたメモをポケットに仕舞いながら。



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#5.5:大嫌いな彼の手(3)

 四人はゲームセンターに足を踏み入れた。

 渉と由香里は慣れない様子で、種々並んだ筐体を見渡している。

 エアホッケー、スロットマシン、シミュレーション型の釣り、馬と騎手の模型が並んだ競馬、電車を運転できるもの、顔写真を整形して撮影できる機械など――

 

「渉くん、ゲームセンターは?」

「……もちろん初めてだ。あー、なんていうか……声にならない」

「声になってるじゃない」

「今のは比喩。ええっと、そう、アンユだ」

 

 安田が由香里を見ると、写真を撮影できる筐体の前に居た。隣に宮本がいる。

 興味深そうに機械を眺めている由香里の袖口を、ちょいちょいと摘んだ手――

 

「さっきはありがとうね? 案内してくれて。汐町さんもここ初めてなのに……ねえ、帰りにここでプリ撮らない?」

「プリってこれでしょ? 興味あるけど……でもなぁ」

「撮ろうよ?」

「うん。気が向いたら……」

「……由香里さん?」

「え!?」

「ていうんだっけ?」

「うん」

「私、佳奈子(かなこ)だよ?」

「知ってる」

「由香里さん?」

「な……なにっ?」

「名前で呼んでほしいな? 横尾さんの名前呼んでるみたいに」

「……」

 

 その表情が崩れる。いつの間にやら肩付近にまで寄っている宮本の気配に押されるようにして、顔を逸らした――

 

「……佳奈子」

「キャアアアアアアアアッ!! 呼んでくれた!? しかも呼び捨て!」

 

 尋常でない声色に、何かを察したように由香里は――宮本の近くに寄って両の瞳を覗き込んだ。

 

「呼び捨て、嫌だった? じゃあ……佳奈子さん」

「その呼び方も……尊いです……」

 

 心臓に手を当てた。口をパクパクさせて由香里を見上げる。

 

「尊い?」

「な、なんでもないよ? ただ、ちょっとからかっただけだからね?」

 

 安田は、そんな二人から目を離すと、渉のすぐ後ろについた。

 渉は、さっと振り返って、

 

「なあ、安田。携帯電話って持ってる? ほら……あいつらみたいな」

 

 エアホッケー台の傍にある木製ベンチに二名の男が居た。女性に声をかけている。

 片方の大きな男は赤色の携帯電話を取り出し、両手でボタンを押している。

 

「ナンパか。よくやるよ……ケータイだったね、ボクは持ってない。宮本ちゃんは持ってる。藤原さんと前田は親に交渉中。クラスではほとんど誰も持ってないんじゃないかなぁ。没収されるから学校に持ってこないだけかもね」

「そういうもんか……」

「ねえ、ところで」

「ん?」

 

 呟くようにして、渉のすぐ横に()いた。

 

「……由香里ちゃんと付き合ってる?」

「付き合ってない」

「なんで? カワイイのに。使用者(エッセ)同士でしょ?」

「あいつの、どこがそんなにカワイイって?」

「……ふんわりとした頬に、ちょっと切れ長の瞼。肩にかかった柔らかそうなセミロング。ピシッとした体型で姿勢もいいし、何より……横顔がいい」

「……」

 

 渉はため息を吐いた。

 

「安田。あいつはな、とっても」

「でも、ボクにとって一番の魅力は……暴力的なところかな」

「え?」

「引かないでくれよ。たまに思う時があるんだ……由香里ちゃんに殴られたら、どんな気持ちがするんだろうって……例えば、こないだの職員室の渉くんみたいなシチュエーション。由香里ちゃんに顔面をひっぱたかれて、鼻血が出たとするよね? ボクは懇願するような目で、『もうやめてください』ってお願いをするんだ。けど、由香里ちゃんは、『泣いてるの? ……もっと泣きなさいよ』って具合で、今度は倒れたボクの顔を素足で踏んづけるんだ。その時、足の指の間から漏れてくる、とんでもない臭さにボクの脳神経がナニカを感じる……それで、足がどいたら、ボクの胸倉を掴んで、昆虫を見るような目で見下ろすんだ。最後に、口の中でさんざん溜め込んだ唾を、ボクの顔を目がけて吐き出」

 

 渉は、安田の肩を掴んでいた。激しく前後に揺り動かす。

 店内をぐるりと見渡し、カッと目を見開いた。すると、手首に巻かれた鬼食免(きじきめん)から、微かな印章(シンボル)が現出する――

 薄紫色で、光沢を帯びた空気の塊が散らばってしまう前に、

 

「安田優一、目を覚ませっ!」

 

 渇を入れる。

 

『まさか、この近くに精神操作系の使用者(エッセ)が――!?』

 

 渉は、安田の目を食い入るように見詰めていた。

 十秒ほどが経った。

 

「ごめん。ボクとしたことが。頭がヘンになってたみたいだ」

 

 渉は安堵のため息とともに周囲を見渡す。

 

概念力(ノーション)、バレてないよな……?」

 

 誰も、渉の声がした方を向いていない。

 ここで、由香里と宮本の後ろ姿を認めた。雑談に興じている様子だった。

 

「なんてね。ボクがそんなこと言うと思った?」

「は……?」

「ボクは本気だよ。渉くんには悪いけど」

 

 両者の視線が交錯する。

 

「本気なんだ」

「……」

 

 呆れかえって、醒めざめとした眼が安田を見据えている。

 

「急にこんなこと言ってごめんよ。でも、今じゃないとダメなんだって、そう思った」

 

 渉を睨み返している安田の姿がある。真っ直ぐにその瞳を覗き込んでいた。顔は笑っていない。

 

「あー、わかったよ。本気なのは。わかった、応援するよ安田」

「……やっぱり、渉くんに話しておいてよかったね」

 

 片目を閉じてにんまりとする。

 渉は、ハッとなって由香里の方を見やる――由香里は後ろ手にサインを作っていた。人差し指を立て、ブンブンと振っている。

 

「後で怒られるな……由香里に」

「由香里ちゃんに怒られるの? 羨ましいな。今度、怒らせるコツ教えてよ」

 

 呆れ果てて唇を歪ませる渉だった。

 が、急に澄ました顔になると、安田の眼前に歩みを進める。

 

「宮本さんは彼氏いるのか?」

「いないよ」

「……そっか」

「もし彼氏がいたら?」

「ダブルデートするよ。こっちからは俺と由香里が参加する。それで、由香里は彼氏にくれてやる」

「へえ。それで渉くんがフリーになった宮本ちゃんと付き合うの?」

「いいや。それから、彼氏をぶっとばして由香里と別れさせるだろ。そしたら、次は彼氏を取られて傷心してる宮本さんにこう言うんだ。『由香里はホントは宮本さんのことが好き』なんだって。由香里にも同じことを言う」

「フッ……! そ、それで……?」

「それから……仲良くそういうコトをしてる二人の……う、もうだめだ……!」

 

 急に笑い出してしまった渉――安田の肩を掴んで引き寄せる。

 

「お前、けっこう馬鹿な奴だよな」

「君こそ」

「おーい、渉!」

 

 女子が肩を軽く寄せ合っている。

 

「そろそろ降りようよ?」

 

 宮本が首を傾けながら言った。

 

「そうだね。じゃ、降りようか。テキトーに見て回ろう」

 

 安田が先導するようにして四人は階段を降りていく。男子が先に進んで、女子は斜め後ろについている。

 やや暗くなった階段を、由香里は一段ずつ慎重に下りながら――渉の方を見ていた。

 

 *  *  *

 

「あのぬいぐるみ、いつか欲しいね?」

 

 宮本と由香里は女子トイレの手洗い場にいる。

 宮本は、ボブカットの後ろに結んだポニーテールを整えながら声をかける。

 

「あのぬいぐるみだよね。プリンが逆さになったやつ。高すぎよ、5,500円なんて。大人になっても買えやしない」

「え、そこは自信持とうよ?」

 

 由香里は洗面台の鏡とにらめっこしながら、胸襟の辺りに手を突っ込んで服の乱れを直している。

 

「佳奈子、ちょっと胸元が出すぎかな。あたし」

「そんなものじゃない?」

「ふーん、そういうもん?」

「ブフッ!」

 

 宮本は噴き出してしまう。

 

「なにかおかしかった?」

「だってさ? その口癖……そういうもんって……最初は何でもなかったけど、何度も聞いてるうちに……!」

「同意をすると同時に、同意を求めてるんだよ。すごいでしょ」

「へー。それでいつも渉君に同意してもらいたがってるんだ?」

「渉は幼馴染だから……」

 

 自らの手を脇の辺りに近づける形で、宮本が小さく挙手をする。

 

「渉君に興味がある人、挙手してね? ハーイッ!」

「……」

 

 沈黙を貫いている視線が蛇口に移った。透明な水がじゃぶじゃぶと音を立て、排水溝に吸い込まれていく。

 それを見詰めながら、鎖骨に手を当て、自分の中にある草の葉が揺れる音に耳を澄ます――天井に設置してある、まん丸な蛍光灯に目をやった。

 

「あたしさ、例えば……太陽が照ってるじゃない? 照らしてるんなら、それが中心だって思うよね。でも、あたしには……空に破けた穴に見えるんだ」

 

 宮本の顔を眺める。

 

「その穴に、大切なものが空に向かって落ちていくのを感じることがある。そんな時、ふとね――」

「詩人なんだね? いいよ。それ以上言わなくても」

「……いいの?」

「いいよ。だって、さっきの挙手、ウソだからね?」

 

 由香里の右腕が、宮本の胸ぐらを掴んだ。ゆっくりと、優しく――宮本を壁に押しやる。

 ……近づく距離。冷たい双眸(そうぼう)が小柄な女子へと降り注いでいる。

 

「佳奈子。冗談でそんなこと言っちゃだめだよ?」

「……!」

「じゃないと……」

 

 触れそうなほどに、唇が接近している。心音が本人の耳まで届いて、鼓膜を刺激し、目頭を熱くし、口角を歪ませる。

 宮本が動いた。人差し指と中指で由香里の唇を塞いだ。

 

「……謝らないよ?」

「うん。自分で嘘つきだって告白したんなら、嘘つきじゃないわ」

「ブフッ!」

「え? 今なんで噴き出したの?」

「だって、それ……私、もうウソついてるし……ウソついた時点でウソつきだし……由香里、寛容すぎでしょ……?」

「そ、そう?」

 

 一瞬、困った顔になって蛍光灯を見上げた。薄ぼんやりとした光の重なりが二人を照らしている。



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#5.5:大嫌いな彼の手(4)

一箇所だけ、マウスで選択すると見える所があります。


 熱せられた鉄板の前にあるカウンターに、八席ほどが並んでいる飲食店。

 お好み焼きが焼ける香りが店内に満ちる中、安田は水の入ったグラスが空になりかけているのを認める。

 

「はい、安田君」

 

 安田が席を立とうとした時、由香里がライトグリーンの水差しを渉越しに手渡した。右隣にいる宮本のグラスもいっぱいになっている。

 

「ありがとう。由香里ちゃん」

 

 由香里が鉄板の上に視線を戻すと、ほかの三人とは一段厚さが異なったそれが鎮座している。

 

「ハイ出来上がり! 肉玉そばの、もちチーズねぎベーコン乗せ」

 

 齢にして80歳前後かと思われる老婆がお好み焼きを作っている。髪が抜け落ちて、しみだらけの黒ずんだ肌に笑顔がくっきりと刻まれている。

 二本のヘラで、由香里の鉄板の真ん前へと料理を滑り込ませた。

 

「お嬢ちゃん、皿いる?」

「あ、いえ。あたしもいいです」

 

 老婆から見て、右から肉玉そば、肉玉うどん、一段厚めの肉玉そば、肉玉辛麺の順に並んでいる。

 

「みんなの分揃ったね。じゃあ、いただきます」

「食べるの遅くなっちゃったね。あたしのせいで」

「好きなもの頼みなよ。せっかく遠くまで来たんだし」

 

 四人が四人とも、慣れないヘラを使って根気よくお好み焼きを切っている間に、老婆は売上伝票をレジの近くに持って行った。総額欄に2,400円と書いてある。

 安田が手に力を込めて小突くと、なんとか蕎麦を切ることができたようで、これまた慎重に切れ端を口に運んでいく。

 渉は、肉玉うどんを優雅に切り刻んで食べている。後でまとめて生地を食するためか、鉄板の離れた位置にまとめている。

 由香里は苦戦していた。ガシガシとヘラを叩きつけるも、トッピング入りの生地を断ち切れずにいる。口を強引に近づけて大きな破片を掻き込むと、熱さと戦いながら平らげる。

 

「由香里。口に付いてるよ? タレ」

「ん~、ん、あい……がと……」

 

 宮本は、由香里の口元をおしぼりで拭いている。

 ヘラでなく割り箸を使っている宮本に隙はなく、順調なペースで真っ赤に染まった辛麺を食べ進める。

 会話はほとんどないまま、鉄板上の広島風お好み焼きが全員の腹の中に収まった。

 

「あ~、美味しかった。時間もあるし、なんか話そうよ」

「安田。ここ初めてか?」

「いや。下見した所なんだ。まぁ、その……本当は違う店に行こうと思ったんだけどね」

 

 予算のメモをこっそりと渉に示す。

 

「あー、そっか……ありがとう」

 

 宮本は、最後の一口を食べ終えたなら、水をグイと飲み干した後で、

 

「安田くん? 何の話題があるの。この四人に共通って……」

「ええと、それはだね。例えば……最初に『し』がついて、最後に『ろ』がつくもの。ヒントは三文字」

 

 宮本はムッと頬を膨らませた。渉が片目を閉じて安田を一瞥する。

 

「進路かぁ。安田君は国府高校だよね? 佳奈子は旭学園」

「なんで知ってるの?」

「こないだ教室で話してたよね」

「うわ、由香里。『千里眼』なんだね?」

「そうなの。『千里眼』なの」

 

 誰もが反応にあぐねる間隙を縫って、安田が声をかける。

 

「渉くんと由香里ちゃんは?」

 

 渉はヘラで鉄板をグリグリとやっている。考えあぐねている様子だったが、おもむろに口を開こうとする。

 

「俺の進路は……」

 

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「……決めてない」

「うーん、あたしもかな」

 

 由香里が元気なく返事をすると、宮本がその指先を小突いた。

 

「わかんないよ? 由香里って、たぶん私より成績いいよね。こないだ、ちらっとテストの点数を覗いたの。六教科くらい見たけど、ぜんぶ80点越えてたよ?」

「卒業したら、とりあえず親の手伝いでもしようかな……」

「由香里? なんでそんなにヒクツなの。わかんないよ」

 

 渉は鉄板をヘラで(つつ)いている。

 

「例えば、五年後に生きてるかどうかもわからないから。俺達は」

 

 二人とも言葉を失った。安田は難しい顔をして水を飲み干す。

 一方、宮本は、

 

「それこそわからないよ。一般の仕事に就いたらいいんじゃない? なにも、人をこ――」

 

 言いかけて留まる。店内の空気を察すると、安田と同じく水を飲んで場を濁すのだった。

 

 *  *  *

 

 四人はゲームセンターに戻っていた。

 階下に降りた時よりも足取りは重たい。由香里が肩に掛けていた鞄を反対に持ち換えると、宮本が真似をする。

 

「あれ、面白そうじゃない?」

 

 安田の視線の先にはクレーンゲームがある。二段階操作でぬいぐるみを取るタイプの機種だった。

 

「宮本ちゃん! これ、好きなやつだよね? たくさんあるよ。挑戦してみたら?」

「え~、Rebirthed-Pudding(リバースドプリン)、確かに好きだけどね? これ、ちょっと難しいよ?」

 

 ゲーム筐体のガラス面に、キャラクター紹介文が刻まれている。

 

『チョコの部分から、逆さに落とされたプリンの恨みが表現されたキャラクター! 俺を助けてくれ!』

 

「難しいよね。ボクもやったことあるけど、全然だめだった」

「どうしようかな。んん~!」

 

 瞼をしぱしぱと閉じて、開いて。閉じて、開いて。

 宮本が筐体に向かった――200円を投入し、一段階目の横ボタンを押そうとしている。真剣な面持ちで、逆さまになったプリンの人形を見詰めていた。うっすらと涙を浮かべている。

 ボタンが押された。宮本の瞳はクレーンの軌跡を観ている――やがて、目標物に対して垂直な位置で止まった。

 渉は様子を見守っている。

 

『いいコースだ。間違いない』

 

 今度は縦方向を見極めるため、宮本はガラスに張り付くようにしてリバースドプリンを捉えようとする。

 二段階目のボタンが押されると、クレーンは着々と目標物に近づいていく。口が開いたなら、逆さプリンを掴み上げて、取出口へと――

 

「あっ!」

 

 プリンは仲間のところに帰った。クレーンの挟み込む力が足りず、取出口の手前で落下した。

 

「もう一回……今度こそやるよ?」

 

 二回目もあえなく失敗する。さっき落としたものを再び拾おうとした結果、今度はクレーンが挟まることすらなかった。

 そして、三回目も、四回目も――

 

「ああ、私のお小遣い……横方向は一回も失敗してないのに……こんなのおかしいよ?」

 

 筐体の中を見渡すことで、最適な角度にあるリバースドプリンを探そうとする宮本。鬼気迫った顔つきで、とある一体を睨んだ。

 

「最後の……200円……!」

 

 ボタンを押した。横移動が終わると、ぴたりと正面につけていた。

 宮本の吐息がガラスに吹きかかる。上下の歯を食いしばった。

 

「……」

 

 そのまま、宮本佳奈子は動かなかった。微動だにしない間にも、クレーンの残り時間表示はゼロに近づいている。

 宮本の瞳は――益々、高まるような強さを秘めて、そして――

 

「……やめた」

 

 その場で筐体に手をついた。

 

「こんなの手に入れてもしょうがないよ? 多分。あ、でも欲しかったかも……」

 

 その時だった。宮本が、渉の存在に気が付いたのは。

 

「渉君。恥ずかしいとこ見せちゃったね? あれ、あの二人はどこに行ったの? ま、いいや。私、ちょっと休んで――えぇっ!?」

 

 宮本は驚きの声を上げる。

 渉が斜め後ろに立って、うなじの後ろから両手を差し込んでいた。右腕に男のそれが乗ったのを認めた時――乳房の端が男の腕に触れる。

 恥じらい。ただでさえ小さな身体を縮こめる宮本を、渉が見下ろしている。

 

「渉君、なにしてるの。セクハラやめてよ……?」

 

 涙声で訴える。

 

「いいんだよ」

「え?」

「失敗してもいい。本気でやれたならそれでいいじゃん……宮本さん、頑張ったんだから」

「あ……!」

 

 渉が残り時間のタイマーに目をやる。

 

「二十四秒か。ま、なんとかなるだろ。うーん……ん!?」

 

 右手は変わらず宮本のそれに乗っている。はらりと揺れた髪の匂いを感じて鼻息が荒くなる。

 

「ひぅっ!」

 

 男の吐息が頭頂部にかかると、女は身体をもじもじさせる。熱さ。鼓動。頬に滲んだ汗――クレーンが動き出す。

 女の口角が歪んだ。みぞおちの辺りを左手で押さえて目を閉じるも――おそる見開いて、またクレーンを見始める。

 

「……」

 

 それは、とあるリバースドプリンに辿り着いた。渉の掌がスイッチから離れて二秒にも満たない時間。

 小刻みに、揺れながら開いたアームが真下へと降りていく――掴んだ。目標物を。

 逆三角錐の、かなり下の方にアームが引っ掛かり、その体を持ち上げている。危なげな動きでリバースドプリンは宙を舞っている。

 取出口まであと二〇センチというところで、クレーンに挟まれた物体がカタカタと振動する。挟み込んだ箇所がずり落ちている。歪みは少しずつ大きくなる。

 そして、ぬいぐるみは、ズルリという触感を伴って、クレーンから――ずり落ちなかった。

 

「よっしゃっ!!」

 

 右手を取出口に突っ込んで獲物を取り上げる。プリンが逆さまになった不思議な形状のぬいぐるみを。

 

「やったぁ! 渉君すごい」

「ほ、ほら……やるよ。別に宮本さんのためじゃない。俺がやりたかっただけ」

 

 宮本は、渉を見上げるようにして両手を延ばす。俯くようにしてぬいぐるみを手に取った。互いの指の付け根が接触する。

 渉が、目をすぼめるようにして宮本に視線をやると、いつもとはうって変わって自信なさげな瞳と、パクパクと動く口元があった。

 

「ありがとうございます……!」

「可愛くない笑顔」

 

 渉が笑う。

 

「なんでよ? ひどい」

「だって、嘘ついて帰ったでしょ。和田先生の仕事を手伝ってる時」

 

 宮本は口をあんぐりと開ける。

 

「え、なんでわかったの……?」

 

 女の両手を取って持ち上げる。恥ずかしげに視線を逸らすのを尻目に、掌を観察している。

 

「やっぱり。自転車ダコがない。毎日なにかしら棒を握ってると、指の付け根にタコができるのに」

「……うぅ~! 騙されたフリするのもマナーなんだよ?」

 

 膨れ面になる宮本。

 

「ほら、やっぱり可愛くない」

 

 宮本がその右腕にパンチを打った。

 

「痛っ!」

 

 男の顔を見詰める。

 

「渉君のこと、嫌い」

 

 言われてすぐ、渉は少女の手首を握った。

 

「……嫌いって言ったよね?」

「そうは言っても、二人を探しに行かないと。さあ」

 

 二人はゆっくりと歩き出した。体を引かれ、緊張した面持ちで付き従う宮本を気遣うように、渉は歩幅を小さくする。

 宮本は渉の背中を見ていた。

 

「嫌い……」



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#5.5:大嫌いな彼の手(5)

次回で最後です。明日の昼に投稿します。


 スカイブルーの盤面(フィールド)上に、プラスチックでできた円盤(パック)を打ち合う軽快な音が響いている。

 

「それっ!」

 

 カン、コン……! 激しい打ち合いを経た後、パックは壁面にぶつかる音とともに安田のゴールに吸い込まれていった。

 

「由香里ちゃん、エアホッケー上手いね」

「どう? これでも初めてなんだから」

 

 由香里は大型筐体の盤面に手を当てた。真下に開いた無数の穴から吹き出した空気を感じている。

 筐体の端にある電子スコアボードには4-2と表示されている。

 

「あと二点取ったらあたしの勝ちだよね?」

「うん。勝ったら約束どおり、学校の近くにあるお好み焼き屋の半額券を……二枚あげる」

「安田君が勝ったら?」

「……写真」

「え? このエアホッケーの音でよく聞こえないの」

「あれで一緒に写真を撮ろう。二人で」

 

 安田の目線がプリントメイトというロゴが入った機械へと。

 

「プリ? いいわ。受けて立つ」

 

 ――直後だった。カァンという音が響いて、由香里のゴールにパックが叩き込まれた。

 

「ごめんよ。不意打ちみたいで。いや、はっきり言おう。今のは不意打ちだ……じゃ、本気で行くよ。由香里ちゃん」

「面白いッ! 望むところよ」

 

 ……競り合いが続いた。

 安田はしきりに壁を狙う。自分でも捉え切れないほどのスピードでパックを壁にぶつけ、無軌道な動きでゴールを狙おうとする。

 対する由香里は、パックが飛んでくる方向に対して、右手に握ったスマッシャーを突き出して防いでいる。パックが自陣にあることを認めたなら、全力一直線で安田のゴールを狙う。

 安田も入れられてはなるものかと、右手を激しくグラインドさせて由香里のスマッシュを防ぐのだった。そして打ち込まれる、壁を狙っての変化球。

 安田がチラリとスコアボードを見やる。5-5という表示を確かめたなら、全力で、今度は真正面に――パックを打ち込んだ。

 

「……!」

 

 由香里は素早く体勢を下げることで一撃を打ち返した。壁に一回当たったパックは、安田のゴールを目がけて突き進んだ。

 

「させるかっ!」

 

 ガカッ、というプラスチック同士の高鳴りがした。安田はスマッシャーを盤面に叩きつけることでゴールを守り抜いていた。

 パックをすいっと正面に移したなら、深呼吸――吸い終わるかどうかというところで、由香里の顔を突き刺すように見る。目が合った。互いに逸らさない。

 

「……」

 

 安田がパックを打ち込んだ。

 先ほどの一撃よりも遅かった。由香里のタイミングが崩れてしまう。動かしたスマッシャーの端にパックが接触し、軌道を変えて、ゴール横の壁へと――

 由香里の瞳がパックを睨んでいる。

 

『ごめんね』

 

 左手の人差し指を立てると、パックの軌道が僅かに変化する。内角寄りに変化したそれは、由香里のゴールへと吸い込まれる――

 鬼食免(きじきめん)からは、盤面の色と同じくスカイブルーの印章(シンボル)が漏れ出ていた。が、一瞬後にそれは消え去り、大気に混じった。

 5-6という得点が表示されたのを確認して、安田は安堵の深呼吸をする。

 

「負けちゃった。じゃ、約束ね。プリ」

 

 少女は、少年の傍に寄った。

 

「……はは、まさか使用者(エッセ)に勝てるなんて。信じられないよ」

「あたしたち、別に運動神経が神がかってるわけじゃないんだよ」

 

 安田の顔が曇った――手を振ってごまかす由香里の隣に二人の男が近付いている。

 一人は極端な細身で髪を脱色していた。もう一人は赤色の携帯電話を指で摘むようにして持っている。体躯は大きい。

 

「君、上手いね。ホッケー」

「……はい。ありがとうございます」

 

 ニッコリと笑って礼をした。

 

「ねえ、君。高校生?」

 

 携帯電話を持った男は由香里の傍に近寄ると、

 

「俺もこのゲーム好きなんだ。順番待ってたの。ねえ、次は俺達とやらない?」

 

 安田は、由香里の不安げな面持ちを見ると――男の前に立った。

 

「すいません。ボクの連れなので」

「へー、そうなんだ。連れだったらどうなるの」

「嫌がる子をナンパなんてよくないですね」

「おい、質問に答えろや?」

 

 大柄の男が、携帯をパカパカとやりながら安田を見下ろしている。

 安田は周りを見渡した。近くにスタッフはいない。スタッフルームを見つけるも、十メートルは離れた位置にあるうえ、辺りは稼動する機械の音で満ちている。

 

「おいこら!」

 

 細身の男も煽り立てる。

 

「と、とにかく!」

 

 少女の手を引こうとする。すかさず、男達は無理やり止めようとして――

 

「お前ら、何やってんの?」

 

 渉の声に、エアホッケーの前にいる者達の動きが止まる。その後ろで宮本が小さくなっていた。黒いポーチの中からぬいぐるみが覗いている。

 

「仲間連れかよ。オレもついてねーなぁー」

「おい。でも、そこのちっこい子も……いいかも」

 

 渉は無言で其処に近付いていくと、由香里の左手を持ち上げた。手首に巻かれた六~八個ほどの勾玉、鬼食免(きじきめん)を高々と掲げてみせる。

 

「は……?」

 

 呆気に取られた声。赤い携帯電話が床に落ちた。

 もう一人は、見開いた目を閉じることができずに瞬きを繰り返している。

 

「ちょい、由香里」

 

 手を引いた。数歩分、離れた所に移動する。

 

「今のゲーム。お前、右利きだっけ?」

「いいじゃない。別に……それより、見てたんなら早く助けてよ」

 

 渉はバツが悪そうに頬を掻いている。

 

「悪かったよ。謝る。そんなことより、バレなくてよかったな……ほら、さっき安田に花を持たせたやつ」

「あんなの、意識すれば印章(シンボル)を出さないことだってできるし……さっきは出ちゃったけど」

 

 話しているうちに、細身の男が舌打ちをした。憤懣やる方ないといった様子で出口に向かう。

 赤の携帯を拾った男も後に続く。その際だった、渉達の方を振り返って、

 

「山に帰れよ!」

 

 捨て台詞を吐いた。

 

「……待ってよ?」

 

 宮本は立ち去ろうとする大男の前に進み出る。数十センチの身長差をものともせずに立ち塞がった。細身の男は様子を伺っている。

 

「謝ってよ」

「ああ!? なんでだよ」

「渉君も由香里も、山になんて帰らなくていいからだよ」

「正気か? このちっこいの」

「宮本佳奈子よ!」

「名前なんてどうでもいい。お前、人間より使用者(エッセ)の肩を持つのかよっ!」

 

 睨み合い。両者、一歩も引くことなく対峙している。

 途中、スタッフらが声に気付いて駆けつけるも、鬼食免(きじきめん)の存在を認めると後ろに下がった。

 胸を大きく張って歯を食いしばる宮本。やがて、男は呆れた顔つきで、

 

「ま、いいさ。そのうち殺されないようにな」

 

 ドフッ、という音が響いた――宮本の拳が大男の腹にめり込んでいる。

 

「おぉ、痛い痛い!」

 

 てんで効いていないという調子だった。小柄な女子は、にやにやと見下ろされている。

 

「そのアホみたいな口振りを続けたら、今度は渉君が同じことしちゃうよ?」

「……!?」

 

 男は、渉の方をサッと見た。

 蟷螂のように色気づいて醒めた目をした少年が其処にいた。男は恐怖に慄いた様子で携帯をポケットに入れて退散しようとするも――宮本がブロックする。

 

「そんなこと言うのやめてよ……私の友達なんだよ?」

 

 ……男の視線がぐらついた。佇んでいる――自分が何を見ているのか分からないといった面持ちで。

 

「あれ? 俺、なんでこんなところにいるんだ……?」

 

 異常を察してか、細身の男が駆けつける。

 

「おい! どうした」

「おかしいんだよ……俺、ここに来たわけはなんだっけ? てゆうか、なんでお前といるんだ?」

「お前ら、概念力(ノーション)を使いやがったな」

 

 渉と由香里は顔を見合わせた。不思議そうな顔をしている。

 

「オレにも変な症状が出てる。連れの名前が思い出せないんだ。この小柄な子の名前だって、さっき確かに聞いたってえのに、ええと、宮、宮……だめだ、思い出せねえ。こんちきしょうめ! おかしいだろ、こんなのはよぉ……? おい、お前ら。オレらに何をしたんだよ……!」

 

 渉と由香里は、男らに近寄ろうとする。が、その前に出口に向かって進み始めたことを認めると、諦めて――安堵のため息を吐いた。

 

「……渉? 確認するけど」

「使ってないぞ」

「そうよね」

 

 二人が振り返ると、安田が宮本を気遣うように傍に立っていた。安田は二人の会話が終わったことを察すると、

 

「いやその、見苦しいものを見せてしまって……」

「なに言ってんだ。カッコよかったじゃん、安田!」

「まだまだだよ。こんなボンクラ、国府高校にふさわしくない」

「……ぷ、ぶふっ!」

 

 由香里が噴き出した。

 最初は小さな笑いだったが、やがてそれは大きくなって、ごまかし切れなくなったところで、魂が抜け切っている宮本の傍に寄った。

 

「佳奈子、ごめん。だってさ……あんなパンチ見せられたら……」

「あははははっ!」

 

 宮本も吹っ切れたように大笑いを打った。そんな様子を眺めて、渉と安田は苦笑いを浮かべる。



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#5.5:大嫌いな彼の手(6)

「じゃ、一人100円ずつで」

 

 お金を集めた安田は、筐体の前にある硬貨投入口に400円を入れた。筐体の前に掛けてあるカーテンにプリントメイトという流麗なロゴが刻まれている。

 渉と由香里は、宮本に導かれるまま――緊張した面持ちで幕をくぐる。

 

「これからどうするんだ?」

「あたし、わかんないよ……」

「まずは背景を選ぼう」

「この画面をタッチするんだよ?」

「……ハイケイヲエランデネ」

 

 案内音声が流れた。宮本が液晶に触ると、画面が左右に動いて背景が表示されていく。

 

「由香里、どれにする? 私は……」

「えっと、この虹色のやつがいいかも」

「水玉のは?」

「それもいい!」

 

 渉と安田は、女子が選ぶのを眺めている。

 

「とんでもないやつを選ばないでくれよ。ねえ、渉くん」

「なんでもいいよ。どれも悪くない」

「渉はどれがいいの?」

「あ~、強いて言えば、この星空がピカピカしてるやつかな」

「渉君、以外とロマンチックなんだね?」

 

 宮本が、渉の脇腹をつつく。

 

「宮本さんも大胆だよな。さっき、ガバッとしゃがみ込んでカーテンの中に人がいないか確かめてなかった?」

「あれは……ああいうものなんだよ? はい、それじゃ渉君が選んだのを背景にするね」

 

 宮本が画面をタッチすると、選んだ背景の枠がキラリと輝く。

 

「次は明るさだね?」

 

 宮本の隣にいる由香里は悩ましげな顔になる。

 

「明るさって?」

「文字どおりの意味だよ? ほら、そろそろ」

 

 筐体から音声が流れる――

 

「アカルサヲエランデネ」

「あ……すいません、ほんとすいません。あたし今日、調子に乗りました……もう一生プリ撮りません……」

『それはひょっとしてボケているのか?』

 

 渉は訝しむような視線を由香里に送る。

 

「イエエエエイッ!! この四人で遊べてよかったッ!」

「安田くん! ふざけちゃだめだよ?」

「ごめん。ボクとしたことが……明るさは普通でいいよね。テンションは高めで!」

 

 安田の爪先が画面にカチッと当たる。

 

「カメラヲミテネ。ポーズヲキメヨウ!」

「いよいよだよ?」

「え、え? どうするの……?」

「横にポーズの見本が貼ってあるでしょ? あんな感じで撮るの」

 

 渉が横面を見ると、様々なポーズが載っている。ピースサインを頬に当てているもの、両手指で鬼の角を作っているもの、悩ましげに掌を顎に当てているものなど。

 

「始まっちゃうよ? 由香里ちゃん。早く、早く……えっ?」

 

 急かされるより早く、由香里が両手でピースを作っていた。満面の笑み。

 カシャリッ、というシャッター音が鳴った――安田は無難にピースを決めており、渉は虫歯が痛いことを示すポーズを取っている。

 

「私、ポーズできなかったよ……?」

「佳奈子、次、次!」

 

 逆に急かされた宮本。あくせくしながら手でハートマークを描いてみせる。

 

「佳奈子、かわいいじゃん」

「なにも出ないよ……?」

 

 規則的なシャッター音――その都度、不器用ながらもカメラに向かって微笑みを投げかける。撮影が終わる頃には、皆の顔に汗が滲んでいた。

 

「次で最後だね?」

「よっしゃ! 佳奈子、画面に映ってるあたしの顔見て」

「え、なになに?」

「どうだっ!」

 

 その瞬間に、『ベヘッ!』というくしゃみのような音を立てて爆笑する宮本の姿があった。辛うじて、シャッターが下りる前に画面に映ることに成功した。

 

「ゆ、由香里……! 今のなに……?」

「目と鼻を全力で開けて疾走する競走馬の顔真似!」

「由香里の鉄板だな」

「……!」

 

 撮影直後に由香里の変顔を見てしまった安田は、笑い過ぎで床に縮こまっていた。片目で苦笑しながら見ている渉の目に、うっすらと涙が浮かんでいる。

 そのまま笑いこけていたものの、

 

「落書き時間! あと一分しかない!」

 

 大慌てで、宮本が『フレンド記念!!』と右下に書き込んだところで全ては終わった。カーテンを捲って四人が出てくると、由香里の手に今日の写真がしっかと握られている。

 そして、写真を取り分けたなら――なし崩し的にゲームセンターを出て、エスカレーターで一階まで降りて、正面入口のガラス戸を開いて駐輪場へと移動した。

 

「じゃあね。渉くん、由香里ちゃん」

 

 渉は自転車のサドルに跨った。由香里は後ろの荷物置きに腰をかけている。

 

「また学校で」

 

 二人と二人は手を振って別れた。

 自転車がスイスイと前に移動し、安田と宮本の姿が小さくなっていく中、由香里は何度も振り返って手を振った。

 やがて、自転車は曲がり角に差し掛かって安田と宮本が見えなくなると、由香里は振っていた左手と、サドルを掴んでいた右手を渉の腰元にそっと置いた。口元に笑みを浮かべて。

 由香里は、世界一幸せな少女だった。

 

 *  *  *

 

 頭に巻いていたバスタオルを洗濯機に投げ込んで、ドッグフードを携えた宮本が時計を見上げる。

 七時五〇分であることを確かめると、洗濯機の傍にある押し戸のドアノブを捻った。

 

「ハピネ。夕ご飯だよ?」

 

 暗闇の中で延びた手がスイッチに触れると、室内がパッと明るくなる――扉の先は、ガレージだった。

 

「ええと、このへんかな?」

 

 庫内に自動車はなく、作業台や電動工具、脚立、清掃用品などが置かれている。シャッター際には、ペットボトルやダンボールのごみがざっくばらんに投げてある。

 宮本の視線の先に、木材で組まれた犬小屋があった。そこから、のそのそとゴールデンレトリバーが出てくる――白に近い茶色の毛並みをブルッと奮わせて。

 宮本が持っているエサに気が付くと、尻尾をゆらゆらと左右に振り始める。舌を出した。

 

「はいはい、待ってね?」

 

 スリッパからサンダルに履き替えると、犬小屋の前に置かれた皿にドッグフードを流し込んだ。犬の表情が変化する。

 

「ハッハッハッハッ……!」

「マテ。マテ。マテ。まだだよ? マテ~!」

 

 尻尾を振る勢いが小さくなる。

 ……十秒ほどが経った。まだ振っている。

 

「ヨシ! 食べていいよ?」

 

 夕食に齧り付く大型犬を、しゃがんだ少女が眺めている。

 カリカリという食事音が響くなか、宮本は右手の甲に視線をやった。

 

「……」

 

 犬の食事が終わった。惜しむように皿を舐めている。

 

「……渉君」

 

 手の甲に唇が触れた。目を閉じて、左手を胸に当てる――

 右手に宿ったなにかを鼻で嗅いでいると、少女の体がビクリとなって後ろに倒れそうになる。左手で支えて体勢を戻すと、また手の甲に視線をやる。

 ……それをペロリと舐めたなら、今度は掌を首元へと。

 

「ひゃうっ!」

 

 飼い犬に頬を舐められて後ろに下がる。視線が犬へと移った。

 ハピネは、お座りをして主人の顔を見詰めている。

 

「カワイイデシュネエエエエエーーーーーーーーーーーーッ!!」

 

 抱きついた。頭を、背中を、足を、体の各所をひたすらに撫で回す。

 

「ハピネ。驚かせちゃだめでちゅよお……?」

 

 犬に目線を合わせ、首に抱きついて頬にキスをした。

 

「あぁ~ん、もぉっ! ハピネ、ハピネッ!」

 

 犬を抱きしめ続ける。鼓動を伝えるかのように。

 

「あたし、やばいかも……?」

 

 抱きつきを止める頃には、パジャマは犬の毛だらけになっていた。

 

「ねえ、ハピネ。どう思う?」

 

 ……その犬に表情はない。ただ、目の前の存在に対して首を傾げるのみ。

 

「え~、どうしたの? ハピネ。急に冷たくなって。私のこと嫌いになった?」

 

 その時だった。背後のドアが開く音とともに、

 

「カナ。風邪引くわよ」

「あ、ママ……ハピネに話聞いてもらってて」

「もう。またパジャマに犬の毛つけて……洗濯するのママなんだから」

「ごめんったら。もうしない」

「本当に? まあいいわ。早く車庫から出なさい」

「は~い」

 

 サンダルからスリッパに履き替えつつ、手を最大限に延ばして電気のスイッチを押そうとする。

 

「あっ!」

 

 スリッパに足の指を引っ掛けたことで体勢が崩れる。身体は真後ろに倒れる。

 

「カナ!」

 

 母の手が間一髪で娘の手を掴んだ。引き戻すことに成功する。

 

「あ……ありがと。ママ」

 

 両足を開いた姿勢のままで母親の顔を見上げた――刹那、握っていた手が乱暴に切り離される。

 

「え?」

 

 再び体勢を崩した宮本。前側にあった左足を引いて留まった。

 

「ママ……? ごめんって。もうパジャマに毛、つけないから」

「あなた、誰?」

 

 ガレージに降りた母は、娘の両肩を掴んだ。

 

「ママ。なに言ってるの?」

「どこの子? ねえ、どうやってこの家に入ってきたの? 教えて」

「え、だから……」

「真剣に話しなさい。でないと……警察を呼ぶわ」

 

 恐怖に引きつった少女は、母親の顔を見ることすら出来なくなる――ふいに、真後ろを振り向いた。

 

「ハピネ!」

 

 飼い犬は、お座りの状態から起き上がると、しばらく黙って二人を見ていた。

 ……やがて、彼の中で何かの感情が溢れかえった。ハピネはその激情を、侵入者に対して吠えるという行動で示した。

 幾度かの叫びの後に、犬は少しずつ宮本に寄ってゆく。牙で狙いをつけている――忘れられた少女の足首に。

 

「……ああ、私。本当にわかっちゃった。今日の理解なんて、大したことなかったんだ。あはは、わかっちゃった……使用者(エッセ)の気持ちが!」

 

 犬の唸りは続いている。

 

 (第5.5話、終)



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#12 心らしきものが消えて(後)(1)

「あれ?」

 

 ここはどこだ?

 

「……あー」

 

 間違いない。ごみステーションにいる。もちろん中に。

 盛大な可燃ごみの山に埋もれてしまっている。

 

「くせえ……」

 

 さて。まずは、この一帯を見渡すべきだ。

 初めは真上。すでに太陽が昇っている。一応、朝らしい。

 次に地面。まん前は道路であり、両サイドには歩道が備えてある。

 

「……通学路だ。いつもの」

 

 俺は頭を抱えていたが、やがて、すっくと立ち上がる。

 キイィ、という音を立てて、ごみステーションの扉が開く。

 グギュルウウウウウウウウウウ……お腹が鳴ってしまう。

 

「くそ、家には帰れないし……てゆうか、今何時だ?」

「見つけた」

「!?」

 

 ……由香里。由香里だった。

 澄ました表情を保っている……涼しげな明るさを湛えたあの笑顔を思い出す。

 右手を見ると、スカートの丈を握ったり離したりしていた。

 

「なにしてんの? 渉」

 

 涙が出そうになった。ぐっとこらえ、その顔を見る。

 

「ちょっと、なにしてんの? こんなところで。昨日、栞さん大変だったんだよ」

「由香里。ちょっといいか」

 

 ごみステーションの前から離れた。

 由香里の前へと。

 

「なに?」

「金を貸して欲しい。300円。今、手持ちがな――ブジエアアアアアアアアアアアsjfぢおさふぃだえらえっテッ!!」

 

 身体が飛んでいる――歩道から車道へ、車道からまた歩道へ。

 道路を挟んで向こう側にあるごみステーションの金網にぶつかり、もんどり打って倒れてしまう。

 ……由香里が歩いてきた。もう、すぐ目の前にいる。

 

「ゆ、由香里っ!」

「なに」

「……ごめんなさい」

「わかればよろしい」

 

 我ながら、情けない謝罪だった。

 自分の家の方角を見つめる。

 

「ねえ。いったい何があったの?」

 

 いつもそうだ。冷静。

 由香里は、危うい状況であればあるほど冷静になる。

 

「なあ、俺のこと、警察が捜したりしてるのかな」

「してるわけないでしょ。あたしたち、法律上は人間じゃないんだから」

「でも、栞は」

「もちろん探してるわ。今は、たぶん――」

 

 国府(こうふ)の森から少しばかり西側を指さす。

 

「荒谷町を探すって。今朝言ってた」

「……聞かないのかよ」

「なにを?」

「どうして俺がこんなこと、したのかって」

「ふーん……どうしてこんなことしたの?」

 

 考え込んだ。いったい、どう答えればよいものか。

 なにもかも、包み隠さず話すことはできない。できるものか。

 

「やっぱりいいわ。聞かない」

「なんで?」

「逆に考えてみて。問われているのが、あたしの方だったとするでしょ。それで、渉は、あたしが言いたくないことを強引に聞き出そうとしている。さあ……どうなると思う?」

 

 俺は、頭を引っかいた。知恵比べでは一生勝てないだろう。

 

「えーえー、どうせ俺は、人の気持ちなんてわかりませんよ……」

 

 ふてくされてしまう。情けない。

 (こうべ)を垂れていたところ、

 

『やばいっ、誰か来る』

 

 山の方に至る坂道へと逃げ込んだ。

 由香里もついてくる。

 

「……ふう」

 

 隠れおおせた。心臓がバクバクいっている。

 陰から身を乗り出すと、その正体が鵜飼尚吾であるとわかる。

 尚吾になら、見つかってもなんとかなったかもしれない。いや、だめだ。こっそり栞に報告するかもしれない。モノで釣られるとかして。

 

「あははっ! 渉、すっかりびびってる~!」

 

 由香里が笑い出した。

 ぐいっ。袖を握られてしまう。

 

「栞さんも概念力(ノーション)使えるんだからね。油断はぜったいダメよ」

 

 耳元で囁いて、俺の手を握ってくる。

 

「由香里。どうした」

 

 ……眼を閉じている。これは、概念力(ノーション)を現出させようとしている時の。

 

「エアリアル・プロンプト」

 

 呟きとともに、軽やかにジャンプ――あれよあれよという間に空中に舞い上がる。

 

「暴れないでよ」

「二人分、余裕で支えられるようになったんだな……やっぱり、由香里はすごいよ」

「まあね」

 

 そっけない返事だった。

 ……ユラユラと宙を漂っている。確実にこちらを見ている者がいるんだろうけど、見つからないという自信を持つことができる。きっと、工学迷彩的なナニカをやってるんだろう。

 

「もっと褒めてもいいのよ?」

 

 ……山蔭に、自分の家と、由香里の家と、篤の家と、砂羽の家と……ぼんやりと眺めながら、

 

「ありがとう。幼馴染に生まれてくれて」

「ばかっ」

 

 熱さを感じる。握られた手のひらに。

 

 *  *  *

 

 由香里の家。その玄関先にいる。

 午前8時40分。とうに朝礼が始まっている。

 

「おい、由香里。由香里ったら」

 

 腹を抱えて座り込んでいる。プルプルと震えて、右手で玄関前の朽ちた柱を握り締めている。

 やがて、『もうダメだ』とばかり、膝をついてしまい――

 

「ぷ、は、はは、は、はぁ、ぁ……!」

「……」

「もーだめ。もー、いやいや、まさか、国府(こうふ)の森に行ってたなんて! しかも、仲間に入れてくれ、だって。じゃーなんで、結局二人もブッ倒してんのよ」

 

 笑いがやまないでいる。箸が落ちてもおかしい年頃……というやつか?

 

「かなりの下っ端なんだろうけど……って、あんまり騒ぐなよ……お母さん、まだ寝てるんだろ」

 

 喋りながら菓子パンを頬張っている。今さっき、洗面台を借りて身なりを整えたところだ。

 

「渉、食べながら喋らない!」

「んぐぐ」

 

 残りを一気に飲み込んだ。いつもよりだいぶ遅めの朝食だった。昨日の夕食も食べていない。

 由香里を見ると、体育で使う青紫色のハーフパンツを履いているところだった。あれ、いつもそんなの履いてたっけ? まあ、履きたくなることもあるんだろう。

 ただやっぱり残念なのは、ハーフパンツをガバッと履いたことでスカートが捲れ上がり、下着が一瞬丸見えになったことだ。

 今日は薄めのオレンジだった。こう種類が多いと気が滅入る。お母さん、そんなにたくさん買ってくれるのか? 俺なんか4つくらいしか持ってないぞ。栞はもう少し持っている。

 余計な考えごとはよそう。今、本当に考えるべきことは――

 

「食った食った。さて次は。よいしょっと」

 

 汐町(しおまち)家の消臭スプレーを手に取った。シュッシュッと、学ランに振りかける。これで、生ごみのニオイも消えるはず。

 

「腹も膨れたし、消臭もOK。あとは」

 

 あの山の方を見やる。当然、国府(こうふ)の森を見据えている。

 

「ありがとな、由香里。じゃあ行ってくる」

「わかった」

 

 由香里は、カバンを肩に掛けたなら、

 

「実はね、裏道もあるのよ。どっちから行く?」

「……え?」

 

 お前は何を言ってるんだ?

 

「だから。正面突破だとバリケードがあるでしょ。あんたはいいけど、あたしが昇ったら制服のスカートが破けるでしょ」

「いや、概念力(ノーション)使おうよ」

「察知されたらどうするの?」

「う! いや、それは……」

「ほら~、渉! やっぱり甘いんだから!」

 

 いや、違う。そういうことじゃなくて。なんで、お前がついてくるんだ?

 負けじと、ふたつの瞳を覗き込む。

「家を出たいのは俺なんだ。なんでついてくるんだよ。おかしいだろ! 学校いけよ」

 

「家出したいのは俺だ。なんで付いてくるんだよ。おかしいだろ! 学校いけよ」

「学校なんてつまんないし」

「毎朝、元気に挨拶してるだろっ!」

「みんな、『おはよう』って返してくれないのよね。技術の授業で一緒の班になった子たちもね、ぜんぜんだめなの。和田先生にも相談できなくなっちゃったし……あたしも、国府(こうふ)の森で暮らしたくなったかも――あ、でもね! 安田君は話してくれるんだ」

 

 安田が? 和田先生はもう居ないんだぞ。なんのメリットがあって? ……いや、やめよう。こういう次元の低いことを考えるべきじゃない。あいつはあいつでいい奴だ。目標だって持ってる。

 

「もういいよ、好きにしろ。俺は、正面突破するからな」

「じゃ、あたしも」

 

 真っ暗な山林に一番最初に駆け入るのは俺で、その次が由香里だった。さらに次が砂羽で、最後は決まって篤だ。

 ……深呼吸をする。腹は決まった。

 

「由香里。俺についてきてくれるか」

「……うん。いいよ」

 

 コクリと頷いた。急にしおらしくなる。

 

「あら~! 渉君じゃない。久しぶりね~」

 

 突如、ガチャリと扉が開いたと思ったら――

 

「あ、水鳥(みどり)さん。どうも……お邪魔してました……」

 

 汐町水鳥。由香里のお母さんだ。

 パーマのかかった髪の毛がボフッとなっている。寝ていたのだろう。夜に仕事してるんだっけ? 

 

「どしたの? あんたたち。学校は?」

 

 娘を見ながら言う。

 

「うん、その……寝坊しちゃって……えへへ」

 

 バツが悪そうに笑んでいる。

 

「……それだけ?」

 

 こわばりを見せる由香里。あくせくしながら、

 

「ええと、あれの……が」

 

 最後は小声だった。

 まあ、分かるんだけどな。なんて言ったのか。心が揺れる感じで。

 最近目覚めた能力だ。誰にも言ってない。『ええと、あれの後始末が』かな?

 二人は玄関の中でボソボソと話している。

 

「……そこの男前くん! 娘のことでちょっといい?」

「ハッ、ハイ!」

 

 男前な方じゃないけど、消去法で俺になる。水鳥さんは両手を腰のあたりに当てて俺を睨んでいる。

 

「よく看てあげてね」

 

 そう告げて、俺のすぐ横へと。

 

『でも、ヘンなことしちゃだめよ? 大事(・・)な娘なんだから』

「ははっ、これはまた、ゴジョーダンを……」

 

 俺達の姿をチラッと見て、二階の寝室に戻っていった――

 俺の方を振り返って由香里は、

 

「よおっし。それじゃ、行きますか」

 

 そう言って、俺の斜め後ろへと。

 

「なんか、昔みたいだね」

「そうだな」

 

 汐町家の玄関を振り返る。あの日、あの夜に垣間見た情事がよみがえった。



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#12 心らしきものが消えて(後)(2)

 張り巡らしてある鉄条網。昨日は無理やり通ってしまった。

 いま俺は、鉄線に絡み付いているであろう血の跡――を高台から見下ろしている。

 

「まさか、こんな普通に通れるなんて……」

 

 昨日のあの道とは違う方角、およそ百平米ほどの溜め池を挟んで向かい側に、花見客向けの駐車場がある。

 俺たちの家からさほど離れていない其処に、コンクリート造りの階段があった。昇っていくと、薄暗い山奥へと続く道があるではないか。

 普段の往来がないためだろう。コンクリートで作ってはあるものの、隙間という隙間からツタやツルが生い茂っていた。

 そんな道を、どんどんと進んでいったなら――八幡神社の前に出てしまった。けっこうなショートカットだ。

 

「どうしてこんな道を知ってるんだ」

「そりゃ、あたしだって使用者(エッセ)だもの。全国に名だたる名門の聚落(じゅらく)に興味ないはずないじゃない」

「……」

 

 森林が広がっている。

 まだ青々とした葉をつけたもみじの樹が一面に生っていた。秋になると、上品に燃え上がった朱に目を奪われるに違いない。

 木漏れ日を見上げる。生い茂った樹木の葉を通り過ぎた日の光が白く輝いている。眩しくはない。ほんのりと暖かい。

 

「由香里、もうすぐだ。あそこの神社」

「あの子が吊り下げられてたっていう?」

「そうだ。今もいるかな」

 

 反射的に飛び出した。本殿に続く石段を駆け上がる――

 昇り切る前に、深呼吸。敵の気配を勘ぐる。よし、いない。

 

「ほのかっ!」

 

 いなかった。誰も。

 

「……」

「渉。あれ、見て。地面」

 

 血。血でできた水溜りの跡がある。

 

「ひどいことするわ。許してもらえたのかしら……もっとひどい目に遭ってるかも」

 

 俺はかぶりを振った。奥歯を噛み締める。ギリリ、と音がする。

 

「由香里の感覚だと、あとどれくらいで頂上だと思う?」

「……三時間くらい? 道、まっすぐってわけじゃないんでしょ。たぶん」

 

 山の頂に視線をやる。

 

「由香里。俺、決めたよ。いま。あいつを助けたい。ほのかさんにこんなことした連中に一泡吹かせてやる」

「目的が変わってる。仲間になりたいんじゃないの? ……あたしはいいけど」

 

 ――どうして、『あたしはいい』んだろう? どうして、こんなことに付き合ってくれるんだろう。てんで分からない。

 こんな危険なことに付き合わせたくない。でも、一緒に居て欲しい。矛盾している。

 

「よし! ぜったい登り切ってやる」

「あらら~! なんにも知らない人間が……」

 

 ――気配。敵か?

 由香里の左手首を握った。本殿の傍に寄っていく。

 

「そこなら攻撃を受けないって? まったく浅知恵だね」

「てゆーか、きみ。朝令暮改にもほどがあるよ? 昨日、入口でさ。彦一にさ、俺らの仲間になりたいって言ってなかった?」

 

 三人。いつの間にやら三人に囲まれている。

 彼らは飄々とした調子で歩いてくる。なぜだろう、歩行の音がほとんど聞こえてこない。 

 

「どうして、ほのかにあんなひどいことをした」

「口の利き方に気をつけろ。なにもわかっておらん小僧がっ!」

 

 四人になった。

 こいつは、ほかの三人と比べてガタイがある。成人のようだ、髭を蓄えている。

 みな、似たような服装だった。紺色の、作務衣のようなものに身を包んでいた。下袴が膝までのズボンになっている。

 

「お前、うちに入団したいそうだな」

「……」

「嘘、だな。ついでに言っておこうか。ほのか様を助けたいというのも嘘だ。わかるのは、ただひとつ。お前は、とある自分勝手な理由でここに来た」

「違う!」

「違わない。そういうわけで、我らは戦わねばならん……次は、ごみ捨て場ではない。あの世に送ってやる」

 

 バサッ、という音がする。由香里がカバンを投げ捨てた。

 お互いの背をつけるようにして敵集団と対峙する。俺の方には大柄の男が。由香里の方には残り三人が。

 背中越しに、触れ合った指先を押し合う。この場を離れる瞬間の合図を送りあう――今だッ! 戦いの火ぶたが切って落とされる。

 

「いくぞっ!」

 

 俺が走り出すと、男がファイティングポーズを取った。

 

「なんだ? 目が見えんっ!」

 

 いつもどおりの手。

 男の胸襟を掴んで、大外刈りで投げ飛ばそうとする――

 

「うおっ!?」

 

 叫んだのは俺の方だった。たやすくかわされる。次いで差し出された男の足につまづ躓きそうになる。

 

「くそッ!」

「お前の能力は把握している。強力だが、あまりに単純だ。ほかの者からも、こうやって避けられたことがあるんじゃないか」

 

 図星。

 

「わかるのだ、印章(シンボル)の感じで。おおよその位置が。彦一も、史朗も、いったいどうしてこいつに負けた? 塩飽(しわく)も苦戦したという。わからん」

 

 言い終えるやいなや、男が突進してくる。

 

「速いッ!」

 

 『走り始めた』と思ったら、もう目の前にいる。

 

「フンッ!」

 

 中段からのアッパーカット。大振り過ぎる。後ろに跳んでかわせ――なかった。

 

「がぁ!」

 

 人間の速度じゃない。背後に回られて拳骨を打たれた。直撃のようだ、背骨に痛みが走る。

 

「……!」

 

 もんどり打って倒れるとともに、勢いを味方につけて地面をゴロゴロと転がってゆく――体勢を整えた。

 

「遅いっ!」

 

 背後を取られた。一体なんなんだ? このスピードは。

 

「そらよっ!」

「! 卑怯者が……」

 

 拳が振り下ろされる直前――乾いた地面を蹴り上げて、敵人の眼に砂利をぶつけた。

 ……走り込むようにして後退する。今度は大丈夫だ、追ってこない。

 

「おい、あんた! こっそり肉体強化(バフ)を唱えてるだろ! それでも大人かよ」

 

「卑怯なことではない。が、これならば……少しは卑怯かもしれぬ」

 

 ヌラリと人差し指を出してくる。

 

「私は人刺し指と呼ばれている。どうしてか、わかるか」

 

 腰を落として俺は、防御の構えをとる。

 

「……来る」

 

 指がこちらを向くのと同時、俺は横っ飛びに走り出して一番大きな杉の木に身を隠した。

 

「ラッシュディスト」

「クリティカルディスト」

「ヘイストディスト」

 

 詠唱が聞こえる――いま俺は、たぶん冷や汗をかいている。大事な力が失われていく感じがする。そうか、これは。

 

「くそ、弱化魔法(デバフ)か……あがっ」

 

 痺れがきた。動けない。

 刻一刻と、近付いてくる敵人。心臓が早鐘を打つ。

 

「出て行ってやるよっ!」

 

 大声で叫んだ。

 

「どうした、はったりか。出てきてみろ」

 

 万事休す。

 ……自ら大樹の蔭から出ていった。敵人は、すかさず走り込んで距離を詰めようとする。

 今できるのは、敵を見据えること。そして――

 

「なんだこれはっ!?」

「どうだ、気持ち悪いだろ」

 

 敵が立ち止まる。

 

「なるほど。感覚であればなんでも無くせるのだな。見事だ、空気の流れすら感じることができん」

「そういうことだ!」

 

 逡巡している男を尻目に身構える。

 睨み合いが続いたが、やがて男が動き出した。不慣れな感覚のせいだろう、はっきりいって遅い。

 俺も走り出そうとする。走り出せない。

 

「くそ、動けっ!」

 

 まだ、さっきの弱化魔法(デバフ)が効いている――フラフラと身構える。

 

「頼む、頼む、頼む……!」

 

 距離が詰まりつつある。さて、相手の動きは?

 ……上段からの右ストレート。勝ったっ!

 

「ッ!」

 

 脱力することで上段からの一撃を回避する。が、尻もちをついてしまう。

 

「フンッ!」

 

 続いて繰り出された前蹴りに合わせ、なけなしの力を振り絞って、その足へとパンチを食らわせる――拳骨と布とが擦れ合う音。力負けして跳ね飛ばされる。

 

「ははは。まだまだだった……な……?」

 

 男の顔つきは、余裕から一転、

 

「ぎゃああああッ!!」

「どうだ、痛くってしょうがないだろ……ああ、その顔だよ、その顔。今さら気が付きましたっていう」

「あ、が、あああああぁ……!」

 

 コムシのように細くなっていく声。しゃがれも加わっている――やがて、泡を吹いて気を失った。

 

「一万倍以上の痛覚強化はやりすぎかな。質料(ヒュレー)が勿体なさすぎる……さて。自称人刺し指さんを片付けたところで」

 

 後ろを振り向いた。

 

「!」

 

 『由香里』と声を掛けそうになってしまう。

 ……防戦一方だ。三人組から一方的な攻撃を受け続けている。

 一人は、地面から植物のツタを吹き出して足を止めようとしている。

 もう一人は、炎熱を帯びた刀剣のようなものを振り回している。飛び散った炎が制服につきそうになったのを由香里が払い除けたところだ。

 最後の一人は、水の蛇を作り出して上空から狙いをつける。水は、すぐ近くにある手洗い場の蛇口から噴き出している。時を経るごとに、水の蛇は大きくなっていく。

 炎熱の刃が前方からの攻めなら、水蛇は背後からの攻めにあたる。

 

 危うい状況に違いない。

 

「……おかしい」

 

 なにか。なにかおかしい。

 血が滾ってこない。これはいったい?

 ――殺気。そうだ、殺気があまりに少ない。

 

「いや、確かに三対一で戦ってる」

「……くっ!」

 

 ツタが由香里を捕縛した。

 地面の穴という穴から薄緑色のツタが生え伸びている。そのうちの一本が太股に絡み付いている。

 

「捕まえた!」

「さて、逃がさないよ」

「あとで残りの男も片付けてやる」

 

 三人がそれぞれ近付いてくる。

 俺は、おもむろに目をこすった。まだ上天に昇り切っていない太陽に目をやった――八幡神社の境内をじりじりと照らしている。

 再び、目の前にいる男たちへと。

 

「……」

 

 ほっ、と胸を撫でおろす。

 視線を戻した。植物を操っている者以外のふたりの攻撃が迫っている。

 由香里は、動かない。動こうとすらしない。

 そして、ついに――

 

「ばかな……!」

 

 敵の攻撃は、当たっていない。当たりようがない。すべて、すり抜けてしまっている。

 

「……タービュランスッ!」

 

 一瞬だった。絡み付いたツタを引きちぎった由香里という名の物理的存在が、瞬きの速度で敵人との解をもった。

 

「なんで……僕の幻影が……!」

 

 ――鉄拳。その一撃がぶつかった刹那に何十メートルも弾き飛ばされ、山の斜面に転がり落ちていく。見えなくなった。残りの二人は霧のように消えた。

 俺は、手を振りながら由香里に駆け寄っていく。

 

「やるじゃん」

「本気でやったら、あの山の向こうまで吹っ飛んでるところよ」

 

 手洗い場の蛇口を止めに行く。地面から伸びているツタが萎れていくのを眺めつつ。あいつが本物だったんだな。

 由香里は、カバンを拾い上げて、山頂へと至る道に行こうとしていた。追いかける。

 

「由香里。いつ気が付いたんだ?」

「幻覚なのは、最初からわかってた。だって影がないもの」

 

 鼻を掻いた。

 

「敵の狙いは、なんだったんだろう」

精神魔法(スピリチア)が得意だったんでしょ? 相手を完全にビビらせて、それから色々とやるつもりだったんじゃない……例えば、震えて動けない相手に神経毒を打つとか」

 

 *  *  *

 

 それから俺達は、山頂を目指してひたすらに登っていった。

 ただただ、続いていく山道。常に人が歩いているのだろう、歩道は綺麗だった。うららかな陽気とともに呼吸をする草花を眺めつつ、昔いた山野辺という聚落(じゅらく)のことを思い出そうとした。

 でも、やめた。はっきりいって、ロクな思い出がないから。そんなこと、思い出す前からわかっている。

 ……いつからか会話が途切れてしまっていた。話しかけてもよさそうな雰囲気であることを確かめたなら、

 

「なあ、由香里はさ、どうして一緒についてきてくれるんだ。言っただろ、俺、国府(こうふ)の森で暮らしたいんだ。出来るなら、あっちの偉い人と話をして了承をもらいたい、って思ってる」

「ほのかちゃんはどうするの? ほのかちゃんと入団、どちらか一方しか取れなかったらどうするの? てゆうか、どっちも取れない可能性だってあるよ? ま、その時はあたしたち、死んでるだろうけど」

「ほのかさんだって、なにも命まで取られることはないだろ。ただ、罪……を減刑してもらえればそれでいい。それで、実力があるところを見せつけて、仲間に加えてもらうんだ」

「……ハア」

 

 由香里がため息を吐いた。

 

「どうして、ここで暮らしたいの?」

 

 口を開こうとして思い留まる。あんなこと言えるはずがない。

 

「由香里には言えない」

「なんで?」

「……どうしてもだ」

「だから、なんで?」

「どうしても」

「だ、か、ら~! なんで? なんでなの? あたしたち、ずっと一緒だったじゃん!」

「由香里にだから言えないんだ。篤や砂羽にだったら……言え……ない。やっぱり」

「なんなの!? バカッ!」

 

 落ちている石を蹴っ飛ばした。

 由香里の癖だ。気に入らないことがあると、すぐに何かを蹴っ飛ばす。いつも見ている素振りのはずなのに、久しぶりの印象を受けた。

 

「……」

「……」

 

 沈黙。山頂を目指しての歩みが続いている。

 

「逃げたいんだ。俺」

「へえ、そうなの」

「そうだ。逃げたい。それが理由じゃだめか」

「だめじゃないよ。否定しない」

「逃げてもいいのか?」

「いいよ。だって、あの渉がだよ? 逃げたい、なんて。あたしがそんな目に遭ったら、たぶん死んじゃう。弱いから」

「お前は強い」

「ううん。たぶん、渉の方が強いよ。あ……ちょっと待って」

 

 森の奥を見据えている。俺もいま気が付いた。

 ……いた。ひとり、ふたり。もっといる? ……いや、ふたりだけだ。

 

「……」

「……」

 

 ――言葉は不要。

 黒ずくめの被り物に身を包んだふたりが走り込んでくる。手元が光った。刃物を握っている。

 一人がわざとらしく白銀に光るナイフを振り上げると、こちら側に陽の光が反射してくる。すると、もう一人が手に持ったナイフを振りかぶって、そして――

 

「いくわよっ」

「おうっ!」



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#12 心らしきものが消えて(後)(3)

 どれだけの敵を倒しただろう。両手で数えられる範囲をゆうに越えている。

 一筋縄ではいかない連中ばかりだった。由香里のカバンに入っていた救急用具でやけど、切り傷、凍傷、打撲などを癒そうとしたものの、焼け石に水だった。

 太陽が南中高度に達してからも、敵は次々に襲ってくる。戦ったり、逃げたりを繰り返していたら、いつの間にか午後二時を回っていた。

 休む間もなく、戦いに明け暮れる。そんな日々を過ごしていた頃を思い出す。まだ、身長もロクに伸びていない頃の記憶を。

 迷った。ひたすら迷った。整えられた山道だったが、ところどころ二股三股に別れた箇所があって、山頂に至る道を選んだと思ったら危うく下山しかけた。

 しかも、その道の先は荒谷町ときている――栞が必死になって俺を探しているであろう地域だ。

 午後三時を回ったところで、身を隠せそうな場所をようやく見つけた。ふたりで同じ切り株に腰をかけ、菓子パンを口に運んだ。ご丁寧に、缶コーヒーまで用意していた由香里に敬意が湧くばかりだった。

 山頂は遠かった。遠いけれど、いつか必ず辿りつく。そんな思いで、ひたすら歩いた。歩いて、歩いて、歩いて。

 白く輝いている太陽が赤色を帯び始めた頃だった。山頂が目と鼻の先に見えてきたのは。

 ……由香里の手を握った。握り返される。

 

「もう少しだ。この広くなったところを抜ければ」

 

 その手を引いて、感慨に打ち震えながら歩みを進める。

 

「ねえ、渉。今まで何人倒したか覚えてる?」

「ええと、倒したのが十四人。戦う前に逃げたのが四回」

「これだけやらかして、仲間に入れてもらえるのかしら」

「どういう意味だ」

「もしかして、何人か殺してるんじゃない?」

「……使用者(エッセ)だろ。俺たちは」

「山野辺ではそうだった。でも、ここではそうと限らないよ」

 

 そう言って西を指さす。荒谷町の方角を。

 

「あっちの道から荒谷町に行けるかも……まだ間に合うよ。(しおり)さんに謝ろう?」

「ごめん。俺、決めたんだ。ここまでありがとう。ここからは――」

 

 林が揺れた。来た道の方だ。

 

「お前が……国府(こうふ)の森に入団できるわけがないだろう?」

「あんたか。昨日ぶりだな」

 

 ちょいちょいと、由香里が俺の握っている手を引く。

 

「やられた人?」

 

 と呟いた。

 イエスの代わりに手を握り返したタイミングで、女が喋り始める。

 

「それにしても、おそれいったぞ。ご丁寧に不殺とはな」

「それはどうも」

 

 姿を観察する。昨日と同じような出で立ちだ。

 着物。黒に近い灰色の布地に、白い斑点のような花びらの刺繍。髪を後ろで一本に結っている。刀を携えていた。柄に手をかけている、今にも抜きそうだ。

 

「意思確認を申し出る。お前は、わたし達の仲間になりたいのだな?」

「そうだ!」

「わかった。が、認めるわけにはいかない」

「あんたを倒したらいいのか?」

「決めるのはわたしではない。が、個人的意思として、こういう形での仲間入りを認めたくない。確信があるわけではないが……お前は嘘をついている。虚偽の志望動機は、認めない」

 

 ここで、由香里が前に出る。

 

「初めまして……いきなりですが、お伺いしたいことがあります。ここにいる彼は、道ノ上渉といいます。虚偽でもなんでもいいです。彼には、国府の森に入団する意思があります。使用者としての力は、ここまでご覧になったとおりです……お願いします。正式な手順があるんなら、どうか試していただけないでしょうか」

 

 言い終えて、腰を九十度に曲げる。頭を上げたなら、目の前の相手をしっかと見据えた。

 俺は、その顔を覗き込んでいた。『はがゆい』という気持ちが伝わってくる。

 

「実力は十分だ。が、仲間にはできない」

「あなたの個人的意思ですね。ほかの方ならわかる余地がある、と」

「そういうことだ」

「では、先に進みます」

「だめだ」

「どうしてですか?」

「……どうしてもだ」

「どうして、先に進んではいけないんですか」

「本来、部外者は国府の森に入ることはできない。今のお前達は違法状態だ」

「でも、入団希望者でしょう。話だけでもさせてください。せっかくここまで来たんですから」

「だめだ」

「どうしてですかっ!」

「だから、どうしてもだ」

「どうしてもばっかり、繰り返さないでください!」

「もういい」

 

 前に進み出る。

 

「だったら、あんたと決着をつけるっ! それで前に進む……俺一人でやる。手を出すなよ」

 

 後ろ手にサインを出す。

 

「……わかったわ。見てる」

「どうしても退かぬというなら、致し方ない」

 

 女が、こちらに歩いてくる――ここは開けた地形だ。素早い動きにも対応できる。

 

「おい、男子。死ぬ用意はできているな!?」

「当然」

 

 ――刀を抜いた。夕日にきらめ煌いている。長さは1メートルもない。やや短かめだ。

 敵人が構えをとった。体勢を斜めに傾け、刀身を前に突き出す。いつでも袈裟斬りができる姿勢になった。

 

「あれ、タイ捨流よ。覚えてる?」

 

 こくりと頷いて、俺は走り出す。敵が構えた。

 その間合いへと一気に――飛び込んでいくっ!

 

「むっ! 今度は触覚か……」

 

 構えが乱れる。その隙に双手刈りを仕掛ける。

 

「えげっ!」

 

 昨日のように股下に飛び込もうとしたところ、カウンターの膝蹴りが顔面にクリーンヒットした。血の味――地面を転がる。

 

「同じ手が通用するとでも?」

「まだまだっ!」

 

 懲りずに懐に飛び込もうとする。防ぐ相手――容赦なく斬りつけてくる。

 そうこうしているうち、両者の向きが入れ替わった。相手の背中は由香里を向いている。

 

「……」

「……」

 

 睨み合う両者。パチンッ! と、俺が鳴らした指の音とともに――

 

「ずる賢いな。読めておったぞ」

 

 女の背中を目がけて、そこらに転がっていた石を、風に乗せて打ち出していた――由香里が。

 

「ずる賢い? 勝つためならなんでもやるぜ。なあ、由香里」

「あんたと一緒にしないで」

「それでは、おふた方。正式に二対一……ということでよろしいか?」

「おうよっ!」

 

 再び、走り出す。

 

「道ノ上渉、伏せッ!」

「がはっ!」

 

 な……なんだ、これ。

 犬のように、地面に(こうべ)を垂れてしまう。動けない!

 これは……催眠術? ん、ちょっと待てよ。

 

「はっはっはっ、いい様だな」

 

 女は愉快に笑っている。

 

「次の相手は、そこの女子か……む? なんだ、今度は目潰しか。変わり映えのない」

 

 由香里へと、まっすぐに歩み寄っていく。目が見えないはずなのに。由香里の手は演奏指揮者のような動きで空を切っている。

 

「貫け、ウィンドランスッ!」

 

 概念力(ノーション)そのものの安定と、威力を上げるための叫びとともに、見えない槍撃が飛び出した。その数……三、四本か。

 

「効かぬっ!」

 

 風の槍撃を、刀身でことごとく打ち落としながら、

 

「お前の風の気、もらったぞ。魔法剣っ!」

 

 槍撃が打ち返される。複数の槍がひとつにまとまったことが、大気の流れが巻き上げた木の葉の旋動でわかる。

 

「……」

 

 由香里が両の掌を前に突き出すと、打ち返された風の一撃が雲散霧消する。そこかしこに斬撃が飛び散り、周辺の岩肌へと爪痕が刻まれる。

 ここで、女が一気に距離を詰めた。軽やかなジャンプとともに、お手本のような袈裟斬りが炸裂する――

 

「……ばかな」

 

 止まっていた。刃が。由香里の、人差し指の第二関節あたりで。

 それだけじゃない。女の身体が――浮いているッ!

 

「ばかじゃないわ。いい? あなたは今、あたしの力で宙に浮いてるの。そのままだと追加の力をかけられないでしょ? それでいて、あたしの回りには大気の壁がある。だから、傷ひとつつかない」

「ならば、これでっ」

 

 宙に浮いた姿勢のまま、刀身をまっすぐ、突き出すような姿勢へと。

 斬突の構え。ひと呼吸おいたなら――シュッ、と滑らかに、一直線に突き出される刀。

 

「……どう? 素人にしては上出来でしょ」

 

 無刀取り。相手が握っている刀の柄を自分が掴んでしまう。それによって技の威力を殺した。

 

「いつまでもつかな?」

 

 刀の切っ先がだんだんと喉元に迫っている。

 防ぐ者の表情は険しい。ワーキングメモリーはパンク寸前だろう。が、それは相手も同じ。俺は、なんとか身体を起こすことに成功する。

 全力で、その名を叫んだ。

 

「由香里!」

「え……? 何の用だ!」 

 

 違う! お前じゃねえ!

 

「由香里……術がたぶん解けた! 俺も加勢する」

「お前の加勢などいらん!」

 

 だからお前じゃねえ!

 

「へえ、そういうこと……渉。いいから、黙って……見てなさいッ!」

「う、苦し……これ……は」

 

 周辺のありとあらゆる原子を放り出して、ほぼ真空の空間を作る。由香里の得意技だ。

 そして、自らの身体を――敵にぶつけていくっ!

 

「うあっ!」

 

 地面に転がったふたり。でも、違う。それだけじゃない。

 転がってるだけじゃなく――由香里の唇が相手のそれに覆い被さっている。

 唇を斜め向きに合わせることで、しっかりとした密閉がなっている。逃げられないよう、両手で両手を押さえながら。

 ……苦しそうにもがいている。すでに一分が過ぎようとしていた……完全に、そう、完全に……相手の動きが止まった。

 

「ぷ、ふぅ、あぁ……!」

 

 唇が離れると、重なり合った唾液が垂れ落ちて――由香里は立ち上がる。

 

「渉、ありがと。おかげで隙ができた」

「えぐい技を使うんだな」

「使用者でしょ? あたしたちは」

「きっさまぁっ! よくもやってくれたなっ!」

 

 ――まだだった。ピンピンしている。

 

「初めて、だったんだぞ……」

 

 醒めた笑いを浮かべている。もちろん目は笑っていない。

 

「あら、あたしもキスは初めてよ。ま、女の子が初めてでも悪くなかったけど」

「!?」

 

 いや、それはおかしい。おかしいだろ。どう考えても。

 試しに、由香里の肩端にほんの少し触って、心を感じ取ってみる――

 

「……」

 

 嘘はついていない。『キスは初めて』という言葉は真実だ。

 一体、どういうことだ?

 

「おい、お前! 女の子が初めてでも、いい、とか……人を……おちょくってるのか……」

 

 女が指先をこちらに向ける。

 ……静かな怒り。それだけはわかる。それ以上はわからない。

 どんな感情を抱いてるんだろうか。わかっているのは、この女がいま流している――涙。 

 

「今度は、死んでしまうかもしれないけど……ごめんね」

 

 あの時と同じだった。どこか寂しげな面差し。

 

「時間よ、止まれ」

 

――――――――――――――――

――――――――――――

――――――――

 

「ぎゃふんっ!」

「催眠術。タネがわかればこんなもんか。俺達の聴覚を封じるだけでこうもあっさりと」

「なるほど。渉は、あなたにとっての天敵というわけね」

「く、殺せ……」

 

 由香里はカバンの中身をまさぐっている。出てきたロープで敵の身体を後ろ手に括りつけた。足も動けなくする。

 

「ごめんね? あんた、しぶとそうだから」

「その制服。お前たち、中学生だろう。もうちょっとなんとかならんのか、口の利き方」

「あなた、いくつ?」

「十六。高校二年生」

「俺達とそんなに変わらないじゃん」

「……国府の森に入りたいんだろう、道ノ上くん」

「渉でいい……ですよ」

「渉くん。国府の森の考え方を知りたければ、まずは論語を読むことだ。『所謂天下を平かにするは其の國を治むるに有りとは、上老を老として民孝に興り……』」

 

 年長者を敬うことで、平和でよりよい社会に繋がっていく。そういうことが言いたいらしい。

 

「行こう」

「そうね」

「待って!」

 

 サッと後ろを振り向いた。

 すると女は、神妙な面持ちで、

 

「わたしは……国府高校(こくふこうこう)に通ってるんだぞ!」

「それを早く言え……言ってくださいよ」

 

 この女に近付いていく。

 

「使用者の立場で、どうやって合格したんですか。教えてください」

「お前も国府高校に進学したいのか」

「俺は違うけど……友達が……」

 

 あれ? 俺、もしかして……この人、本当にどこかで見たことある?

 奇妙な光景だった。こちらが教えを請うというのに、相手方は両手脚を縛られたままでいる。

 

「長い話になる。まあ、いつかは教えてやるさ。ここから先、生き残ることができたらな」

「ああ。約束だ……ですよ」

「うん。約束するとも。さて……この先には、国府の森にあって、地の属性を守護する方がおられる。が、今はややあって、風の守護者が代理を務めている。そいつは、本来そこにおられるはずの方とは比べ物にならぬほど残忍だ。だから……」

 

 一瞬の間。

 

「早めに降参するんだ。燃え上がるとまずい」

 

 俺は頭の後ろを掻きながら、

 

「ありがとう。教えてくれて」

 

 笑顔を返した。なんだ、案外いい奴なんだな。

 あ、そうだ……名前を聞いておこう。

 

「……」

 

 由香里は沈みかけた西陽を見ている。

 

「渉、行こう」

 

 まあいいか。また会うこともあるだろう。



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#12 心らしきものが消えて(後)(4)

 道なりに歩いていったところ、かなり開けた場所に出た。円状に樹木が伐採されていて、向こう側にまた道が見える。

 四隅に提灯が点いていた。夕暮れ時のほの暗い空間に互いの姿を確かめる。

 ……制服がボロボロだ。汚れや痛みどころか、パックリと穴が開いて下の布地が見えている箇所もある。

 

「ねえ、渉。今更なんだけど」

「どうした」

「あんたの目的が叶ったとして、あたしは無事に帰してもらえるのかしら?」

「……わからない」

 

 ドン、と俺の背中を叩く。

 

「ほんっと、考えなしね」

「ありがとう」

「なにが?」

「ここまでついてきてくれて。俺だけじゃ、途中で死んでた」

 

 ……由香里は、髪を掻き上げる。

 俺は空を見た。天気が怪しい、小雨が降ってきそうだ。

 さあ、前に進もう。

 

「渉。決定権をもってる人と話さなきゃ、なんにも始まらないよ」

「おう!」

 

 小走り気味に飛び出そうとして、止まる。

 道の奥から誰か歩いてくる。

 

「お前達か。十数年ぶりの侵入者というのは」

 

 長い髪をした男だった。ワックスの臭いが漂ってきそうなくらい、棘々しい髪型をしている。

 ワイシャツの下には黒のTシャツ、下はジーンズ。鋭く光る眼が、しっかとこちらを見据えている。

 俺たちは、ゆっくりと動き出した。男の方に距離を詰めようとする。俺は左から、由香里は右から。じわり、じわりと、にじり寄りを続ける。

 

「わかってるみたいだな。オレの強さが……覚えとけ、吉利(きちり)だ」

 

 ここで、俺は深呼吸をして――駆け出すッ!

 あと、十五メートル……一〇メートル……5メートル……。

 

「……今だ」

 

 相手の視力を封じた。この技はけっこう時間が要る。使いどころが難しい。

 

「おお! これか。例の珍しい概念力(ノーション)ってのは」

 

 手を伸ばせば届く距離にいる。大外刈りを仕掛けるべく、敵の襟と袖口とを――

 

「そら、来てみやがれっ!」

「……!」

 

 寒気がした。いったん退くことにする。

 頭の上で何かが斬られた感触がある。

 

「……髪?」

 

 髪の毛だった。後ろの方で樹が倒れる音がする。

 

「そら、もう一発……うっ! なんだこりゃ」

 

 敵は動けないでいる。

 由香里が援護していた。風圧で敵の体を抑えている。

 頬に、小雨の粒が当たるのを感じた。一気に距離を詰める。

 敵人の背後に回り込むことに成功した――俺は今、真後ろから攻撃を仕掛けようとしている。チャンスは、一瞬ッ!

 シャツの襟ぐりに右手を差し入れたなら、左手でその斜め下を掴み取る。両の手で九十度を描くようにしながら――

 

「落ちろっ!」

 

 送り襟締めッ! 入った。これなら……!

 

「ごぷっ」

 

 ――違和感。一点だけじゃない。無数のそれが体中を襲っている。力が抜けてしまい、地面に落ちる。

 

「……あ?」

 

 穴だらけになっている? 全身が――

 頬も、胸も、肩も、腹も、膝も、ありとあらゆる箇所が抉られ、血が噴き出ている。

 

「あ、あ、あああああぁ……!」

「渉っ!」

 

 吉利は、襟元を直しながら、

 

「どうしてくれんだ。気に入ってたんだぞ、この服」

 

 直後、穴だらけになった胴体を――踏んづける。

 

「アアアアアッ!」

 

 我ながら情けない叫び声だ。死が迫っている? 信じたくない。でも迫っている。

 

「ウィンドランスッ!」

「ん? なにそれ」

 

 援護射撃も、敵に当たる前に掻き消えてしまう。

 

「残念だったな。オレの身体にはな、生まれつき風が宿ってるんだ。どんな時でも守ってくれる」

「これならっ!」

 

 由香里が……弓を構えるような動き……をしたような気がする。敵人は余裕ぶって構えている。

 意識が危うい。視界が半分暗闇に覆われる中、状況を知ろうとして腹ばいになる。

 

「グロリアス……ウィンドッ!」

 

 概念力(ノーション)同士がぶつかる音――風の矢が、風の障壁を打ち破ろうとしていた。

 なにもできない身体。ごうごうとした気流が吹きつける。

 

「なかなかだ。でも、効かないんだよ」

「タービュランスッ!!」

 

 今度は拳同士がぶつかる音。

 ……視界が消えそうだ。それでも顔を上げる。

 

「おら、これでどうだ?」

 

 ゆ、か、り……首が絞められている。

 二本の腕で、由香里の体が持ち上げられていた。嗚咽の音が漏れている。

 負けじと蹴たぐりを繰り返すも、男には通用しない。

 

「あ……あ……由香里」

 

 見ている。眼下に横たわる俺を。穏やかな目で見ている――笑った。

 

「……」

 

 俺は、グッと眼を見開く。

 呟いた。

 

 ――《幻想変換(デモンズトレード)》――

 

「手に入れるのは……雨!」

「……なんだこりゃあっ!」

 

 血。血の雨が降っている。

 純粋な雨の代わりに、真っ赤な液体が次から次へと天から降り注いでいる。

 最初の方こそ真っ赤だったが――すぐに通常の雨に戻った。

 

「由香里、これで……あいつのタネがわかったか?」

「ゲ、ゲホッ……十分よ」

 

 敵の胸元を蹴り飛ばした。危機を脱することに成功する。

 血の雨が降ったことで、明らかになっていた――敵がまとう風の正体が。

 数え切れないほどの、円盤の形を成した空気が集まって高速回転している――それが大気の壁の正体だった。

 

「よく見たら、隙間があるじゃない……ウィンドランスッ! 一点突破ッ!」

 

 一点に集められた槍状の空気が敵を貫く――かに見えた。

 

「へー。やるじゃん」

 

 手のひらで魔法を受け止めた。

 

「……地力が違うんだよ」

 

「きゃあっ!」

 

 風圧。ぬかるんだ地面に、由香里が叩き伏せられてしまう。

 

「あぁっ!」

 

 仰向けに倒れた由香里へと馬乗りになった。両手はその首へと。これ以上は見えない。

 

「ゆ……かり……」

 

 心臓が軋む。幻想変換(デモンズトレード)の代償だった。

 朦朧とする意識の中、

 

「あれ? どうして、雨なんて降らせたんだっけ……?」

 

 なんで記憶が? え? てゆうか、どうして俺、こんなところにいるんだ? え? あれ……?

 思いに耽る――目前にあるのは、女の上に乗った男の姿。

 思いに耽る――由香里は、電磁系統(エレクトリカ)重力系統(グラビタス)を得手としている。天候や引斥力といった、星辰の力を操るもの。

 思いに耽る――曇天の空。雨が降っている。雨が降っている時は……そうか、そうだったんだ。

 

「あーあ。なんか痛みも引いてきた。いや、痛みが引いたとかいう次元じゃない……むしろ楽になった。まさか俺、死ぬんじゃないだろうな?」

 

 思いに――耽っていた。

 

「由香里」

 

 飛び起きることができた。なぜだ? 痛みは完全に引いている。

 そのまま勢いで走り込んだなら、敵の背中に飛びついた。 

 

「があぁッ!」

 

 風の刃が肉体を切り刻んだ。

 ああ、まただ。俺の体、傷だらけになってやがる。

 でも、必死の飛びつきの結果として、女の真っ白い首筋を掴んでいた手が離れた。

 ……取っ組み合いが続いている。

 

「おい、おっさん! 離せよ。由香里を離しやがれっ!」

「あぁ!? おっさんじゃねえよ、吉利だ! この女はな、オレがぶっ殺すんだよ!」

 

 女の上に跨っての激しい取っ組み合い。次第に劣勢になっていく。

 

「……由香里、いいから由香里ッ! やれっ、俺ごとでい……がっ!」

 

 肘鉄や拳骨を食らいながらでも、伝えるべきことは伝えてみせる。

 

「おいガキ、離しやがれ! こういう女はな、ここで殺っとかないと将来に響くんだよ」

「由香里、俺の命……無駄にするなよ」

「……ねえ」

 

 訴えを続ける俺と、由香里の声がぶつかった。 

 

「ねえ、あなた。吉利さん。風を操る時って、どんなことをイメージしてます?」

 

 冷静な口調だ。男二人が体の上で暴れているというのに。泥だらけになったセーラー服が視界に映る。

 

「あぁ!? なに言ってんだ、敵をぶっ殺す、敵をぶっ殺す、敵をぶっ殺す、とにかくスパァーンと、ぶった切るイメージよッ!」

「それじゃあ、様々な条件下で素粒子たちが押し合いへし合い、空気中を行ったり来たりしている様子はイメージしないんですね?」

「知るかッ! 大事なのは科学的知識じゃねえ、想像力だッ!」

「じゃあ、例えば、今このあたりに陽イオンが集まっていて、あの雲の中にある陰イオンと繋がりたがってるって、想像できます?」

「……なにが言いたい?」

「ここに雷が落ちるって言ったら、どう思います?」

「はっはっはっはっ!」

 

 高笑いが聞こえる。

 

「雷を落とすだと? そんな神に等しい芸当ができる者など、この国府(こうふ)の森でも見たことがない。上空に雷を発生させることはできても、落とすことはできないときてやがる。だいたい、人間に認識不可能な速度のものをどうやって操るというんだ? 雷が落ちる~~? 嘘八百よッ、賭けてもいい」

 

 由香里は、にこりと笑う。

 

「正解です。だって、雷は上から落ちるんじゃなくて、地面から雲の上に昇っていくんですから」

「……マジで?」

 

 ――《紫電竜(しでんりゅう)》――

 

 由香里の手が俺の頬に触れた。覚悟を決めて目を閉じる。

 それは、光。ただ眩しかった。眩しいと感じた瞬間に、体中を熱が這い回って――素肌が、血管が、内臓が、焦げていく感触――!

 

「ぎあ嗚呼アアアァッ……!」

 

 絶叫がこだまする。

 

「……どれくらい経った?」

 

 俺は生きてるのか? 手のひらを見る。痺れてろくに動かない。

 不思議と痛みはなかった。痛みがないどころか、戦闘前より肉体が癒えている気さえする。

 由香里に目をやろうとすると、

 

「だいじょうぶっ!?」

 

 抱きついてくる。暖かい感触が胸筋を包み込んだ。ああ、けっこう胸、大きいんだな。

 

「なんとか無事だ……加減、してくれたのか」

「加減じゃない! 絶縁よ。絶縁体にしたの! じゃなかったら、あんた今頃死んでるわ」

「ははは……あーあ、もう。黒こげだ。学ランが」

「もう……制服の心配?」

「!」

 

 いま物音がした。草の葉ずれのような。

 

「あ~~、いい塩梅(あんばい)だった」

 

 血が凍りつく。そんな感覚だった。

 今倒したはずの男がすっくと立ち上がる。

 

「なるほど。雷は落ちるのではなく、下から昇っていくんだな。三〇年も生きてきて、それは知らなかった。雷を落とせる能力者がいないのもわかる。自然現象に反するものをイメージしていては、できるはずもない。少なくとも、俺達のような半人前には」

 

 ピンピンしている。

 痺れが取れない状況の中、由香里の手を取った。ふたりして立ち上がり、サッと後退。戦いの構えをとる。

 

「由香里、まだいけるか」

「もちろん」

 

 今のは虚勢だ。手が震えている――止まらない。わかってる、もうダメだ。俺たちは負ける。

 でも、できることを全部やってからだ。ブツブツと呟きを始める。

 風の刃がきたら、とにかくかわす。かわしながら由香里の援護を得る。援護を得ながら、掴みかかって寝技にもっていく。そして、腕がらみ(アームロック)を極めたなら、最後にダメ押しの幻想変換(デモンズトレード)ッ! これしか勝つ手はない。

 

「オレをここまで追い詰めたこと、後悔させてやる……男ッ! お前はジワジワと嬲り殺し。女ッ! お前は、その後で辱めてやる」

「……そこの三人。いったん止まれ」

 

 空気が変わった。誰か……誰かいる!

 

「吉利。ずいぶんと遊んでるな」

 

 現われた。山道の向こうから。長身だった、学ランを着ている。高校生だろうか。

 

「そうとも。ここじゃあ、肉体が傷ついても勝手に回復するからな。もてあそびにはもってこいだ。あの甘えん坊の思いつきそうな、甘っちょろい趣向だ。まさか拷問に使われるなんて思いもしなかったろうよ……まあ、それはそれとして……朔太朗。オレはな、四天王のひとりとして、きっちりと許しを得てここにいる。エリートの朔太朗君は帰りなよ」

 

 間違いない。昨日の、あの時の男だ。廃屋が立ち並んでいる山林で声をかけてきた、あの男。

 あの時と変わらぬ様子で学ランを着ている。国府高校の制服だ。

 今は展開を見守ろう。

 

「町議会の許可を持ち出すなら……俺だってそうだ。さっき、議会で決をもらってきた」

 

 吉利という男は、面倒くさそうに頭を掻いて、

 

「お前が守るのは北だろう。南が欠ければ、そちらに行くこともあるだろうが。いずれにしても、お前が出張るべき場面じゃねえ」

「侵入者が二人とあっては、こちらも二人でなければ非礼にあたる」

 

 笑いながら答えている。

 

「四天王が? ふたりも? ……チッ。屁理屈こねやがって」

 

 俺は、どうすべきか決められずにいる。逃げる? いやだめだ、逃げられない。ならば戦うか? ……生き残れる気がしない。

 

「由香里。質料(ヒュレー)はどれぐらい残ってる? 俺はあと五回分くらい」

「……ほとんどゼロね」

 

 ああ、いったいどうすりゃいいんだ? いや、ちょっと待て。ああ、そうか。そうだった。これでいいんだ。

 今ちょうど、『それじゃあやるか』とばかり、こちらを向いた敵が二人。

 

「由香里! 俺……」

 

 袖が引かれる。

 

「ねえ、渉」

 

 耳元で囁いた。俺の手を握って。

 

「バイバイ」

 

 ――風。風だった。

 

「飛んでけーっ!」

 

 抗えぬ風が真下から吹き上げてくる。紙束のように、軽々と空中に投げ出されてしまう。

 風に乗せられ、景色は目まぐるしく変わっていく。行き先は、目と鼻の先にある国府の森の村落のようだ。

 

「朔太朗ッ! お前いけっ!」

「……了解。まったく無駄なことをする」

 

 風が肉体を舞い上げている。高度は、およそ五〇メートルといったところ。

 備後国府町(びんごこくふちょう)を見下ろすと、街の灯りがポツポツと蛍のように輝いている。

 

「ん?」

 

 (ふもと)の方で、何かがパッと光った気がする。でも、そんなの、もうどうでもいい。

 

「はは……」

 

 涙が溢れてくる。

 

「由香里、ごめんな」

 

 俺の身体を優しい風が運んでいく。



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#12 心らしきものが消えて(後)(5)

 ……フワリ。着地、成功。

 辿り着いた地点は、今しがた眺めたばかりの村落。その出入口とも言える場所だった。 

 

「ここが……そうなのか」

 

 眼前には、かなり開けた谷が広がっている。この谷を渡すのは、樹木でできた橋一本のみ。

 

「……」

 

 振り返ろうとして、立ち止まる。

 

「由香里……」

 

 泣きそうになるのを堪える。

 

「おい、少年。待てよ」

「!?」

 

 後ろを振り返る――今しがた、『朔太朗』と呼ばれていた男だった。

 地面に目を凝らすと、すぐ真下に黒い空間が開いている――穴が消えた。高森とかいう女の人が使ったのと同じような空間移動だろう。

 

「さて、ええっと。道ノ上君だったか……わかるよな? これから俺がやろうとしてることが」

「……面接試験?」

 

 自分で言っておいてなんだが、苦笑するしかない。

 

「面接試験? 違うな、断罪だ。俺の配下が数名、お前にやられてる」

 

 ――言うやいなや、疾風のように駆けてくる。

 

「まー、やってみなよ! お前さんが俺を殺したって恨みやしない」

「くそッ!」

 

 まだ痛みがある。目眩も。が、やるしかない。勝てない? ああ、勝てないさ。でも――

 柔道の構えを取る。敵は目前だ。

 

「オラァッ!」

 

 両手で、しっかと襟と袖を掴んだっ!

 

「その構え、柔道か」

 

 横襟オーケー。袖口オーケー。繰り出すは――大外刈りっ!

 一瞬の脱力の後に、両手と両脚とが調和していた――胸板同士をぶつけつつ、相手の右膝裏にしっかと掛かった俺の右足。

 

「だりゃあっ!」

 

 ――倒れない。

 

「なんで……」

 

 その瞬間、かなり後ろの方で何かが弾ける音がした。バチバチと、森林が燃える音が聞こえる――さっきの場所だ。

 だめだ、今は目の前のことだけ考えろっ!

 

「……なんで、どうしてあいつは倒れないんだ……!」

「よく見てみなよ」

「オオオオオオオオオオ……」

 

 なにか、いる。大外刈りが命中し、一気に倒れるはずの背中をナニカが支えている。

 

 ――隷者の行進《ブラックパレード》――

 

 地面という地面が、真っ黒に染まっている。

 と思ったら、俺の左足が、ナニカにしっかと掴まれてしまった。

 

「これは……」

 

 屍体(パリディ)だった。こいつ、死霊術者(ネクロキャスター)か。それも、超一級の。

 男も女も、大人も子どもも、健常者も欠損者も、ありとあらゆる屍体が暗黒の穴の中から現われる。

 少なく見積もっても、三十体はいるだろう。

 

「なんだよこれ……」

「往け」

 

 囲まれている! ひとまずは足首を掴んでいる手を蹴っ飛ばし、この場を脱する。

 屍体(パリディ)はたちまちに襲ってくる。意外と足が早い。

 

「くそっ!」

 

 奴らの群れを振り切ろうとして、この谷の崖にある大樹の傍に逃げた――相当な高さがある。落ちたなら……あいつらの仲間になる。

 動きを変えた集団がにじり寄ってくる。

 俺は目を閉じる――見開いた。

 

「オオオオオオオオオオオオ……!!」

 

 屍体の集団は大混乱に陥った。押し合い、へし合い、もんどり打って自滅を繰り返す。

 運よくこっちの方に向かってきた一団も、俺を通り過ぎて崖下に落ちてゆく。

 

「……あっけない。これで終わりか?」

 

 敵の視線が、こちらへと。

 

「お前さんの能力は見せてもらった。珍しい概念力(ノーション)だ」

「へえ。国府(こうふ)の森の実力者からみても、そんなに珍しいのか」

「希少だとも。具体的には……回転寿司の皿には、一貫しかネタが乗ってないやつがあるだろう? ……そうだな。それくらい、希少な存在だ」

 

 カイテンズシとはなんだろうか? とにかく、国府(こうふ)の森の基準でも珍しい能力であることは伝わってくる。おそらく千人に一人とかいう、そういうレベルだ。

 

「なんていう名前の概念力(ノーション)なんだ? 教えてくれよ」

「……言わない」

「どうして?」

「別にいいだろ」

「もしかして、名前を言うのが恥ずかしいとか」

 

 図星だった。

 

「ああ、これはアレだな。お前さんぐらいの年齢によくあるやつ。その逆バージョンだ」

「違う!」

「自ら魔法の名を言明するのは、より強力なノーション概念力を導くための基本だろう。習わなかったか?」

「あー、想念(オブエクティジェ)とか変状(アフェクティオ)とかいうやつだろ? 三番目と四番目の工程だっけ? それでも時と場合によるだろ。少なくとも俺には必要ない」

「そうか、ならいい。そういう奴もいるにはいる」

 

 誰が言うもんか。こっぱずかしい。

 

「それで。説明、したくないんだよな? ならば」

 

 ――《プラトニック・マリオネーション》――

 

「ッ!?」

 

 身体が動かない。いや、違う。

 左腕が、次第に上がって……胸の前で、人差し指を立てたポーズになる。

 

「うん。説明にはそういう感じのポーズがいい」

 

「生きてる人間も操れるのかよ……」

 

 ――また、まただ。由香里がいる方角から、ズシンという大きな音が響いた。

 

「どうする? 自分から説明してもらってもいいんだが」

「あ……あー、あー……」

 

 口や喉は動くようだ。それ以外は動かせない。

 ……しょうがないか。

「スウゥー」

 

 深呼吸をする。

 

 ――《アイズ・ワイド・シャット》――

 

「おお! これがお前さんの概念力(ノーション)か……あ! あ、が、あぁ……!」

「どうだ? メチャクチャよく聞こえるだろ……お前が使役してる連中の声がよおっ!」

 

 男は、耳を塞いでしゃがみ込んだ。

 

「あぁ、が、あああああ……おいっ、お前! それ以上、近寄るんじゃない」

 

 近寄るな? 構うものか。むしろ走り寄ってやる――そこだっ!

 敵人の右腕が遊んでいる――それを両手で抱え込んで、自らの胸に当てる。体重を真後ろに預け切ったなら――仰向けに転がすッ! ……腕ひしぎ十字固め。すでに九割方完成している。

 

「完成だ! 折れ……ろ……?」

 

 何だ? 今、何が通った?

 

「ぐごっ!」

 

 蹴り飛ばされた。身体が。凄まじい力で。

 ……脇腹を押さえて立ち上がる。

 

「……!」

 

 佇んでいる。女が。

 ピンクとベージュが組み合わさった柄のアンサンブルを着ている。動きやすさのためか、だいぶ広がりのあるスカートだ。

 

「もしかして、こいつも死んでる?」

「やれ、アヤカ」

 

 アヤカと呼ばれた屍体(パリディ)が――俺を目掛けて突き進んでくる。

 速い。先ほどの連中とは雲泥の差だ。見れば、右手に小振りの刀を握っている。

 刃が首筋を掠めた――相当の切れ味と思われる。

 剣先が次々に襲ってくる。なんとか避けてはいるものの、正直、いつ当たってもおかしくはない。

 

「……ぱいろ……くらす……ト」

 

 俺の背後に火柱が上がる。逃げられなくなった。

 

「死んでるのに……どうやって、概念力(ノーション)を……?」

「オオオオオオオォッ!」

 

 焦りを察してか、走り込んでくるアヤカというらしい屍体。

 

「れい……やー、プロミ、ネンス……!」

 

 真円をなした炎の障壁が……目前に、立ち塞がっている……? いや、違う! むしろ、こっちの方に向かってきているっ!

 

「ええい、ままよっ!」

 

 炎の壁に突っ込んでいく。

 

「……!」

 

 肩と肘が焼けている。この制服も長くは持たないだろう。炎熱に耐え切った直後、前方回転受身によって着地を決める。

 

「オオオオオッ!」

 

 なんてことだ。俺を待ってやがった。って、よく見たら、お前もフツーに燃えてるじゃねえか――

 迫る、斬撃。

 

「ここだっ!」

 

 今しかない。双手刈りを仕掛けた……ヒットッ!

 予想は当たっていた。死んでいるだけあって、関節がうまく動かないようだ。驚くほど簡単に倒れてしまう。

 

「それ、よこせっ!」

 

 小刀を取り上げようとする。

 

「さがれッ!」

 

 だが、突如として煙に巻かれたように消え去った。

 

「……危なかった」

 

「どうした、おい。死体どもがいなけりゃ、なんにもできな……げ、げほ、ごほっ!」

 

 咳が止まらない。片手を地面についてしまう。

 ……なぜだ? デモンズトレードは使ってないのに。

 

「残念だったな。お前さんはもう病魔に冒されてる……アヤカに触れた時点で」

「う、あ、そういう……ことか……」

「だるさが出てきてるだろう? そのうち、皮膚から色々と吹き出してくる」

 

 なんだって? 一体、何が吹き出してくるって? ……じんましん? いや、もっと恐ろしいものだろう。俺にはアレルギーはないけど……ん? 待てよ。アレルギーといえば……思いついた。起死回生の一手を。

 

「なあ、頼みがある。こっちに来てくれよ……み、見て……欲しいものがある」

「……?」

 

 逡巡した後、男はこちらに歩いてくる。

 

「さて。どんな面白いものを見せてくれるって?」

「苦手な食べ物、教えてくれよ。できればそれのこと、考え込んでくれると嬉しい」

「へえ。面白いね」

 

 男は考え込んでいる。頼む、頼む、頼む。真実を答えてくれ――

 

「……梅干し」

「サンキュ」

 

 こいつの感覚神経を、数万倍に研ぎ澄ませる――味覚をっ!

 

「ッッッッッ!!」

 

 自虐的冒険心が強い相手で助かった。

 

「……!」

 

 いまだ地面をのたうち回っている。通常の味覚を1としたら、少なくとも1万倍のそれを味わっていることになる。

 俺は立ち上がって、由香里がいるあの森に視線をやる。

 

「あとは、この毒を解除して、それから……待ってろよ」

「やるじゃん、あんた」

「……え?」

 

 ごく自然に、そこに立っている。転がり回っていたはずなのに。

 

「悪いが、俺には自動回復(オートヒール)がついてる」

 

 そして、鬼のような形相とともに、

 

「覚悟しろ」

 

 回し蹴り、一閃――

 鼻先を掠めた一撃。飛び跳ねるようにして後ずさる。

 着地の瞬間だった、

 

『嘘だろ、こいつ』

 

 それくらい、速かった。

 

「げぼっ!」

 

 拳骨。みぞおちへの一撃が決まった。

 ……しかも身体がだるい。フラフラとよろめいて次の攻撃を待つしかない。

 

「ぐ……!」

 

 続く正拳を胸に受けたタイミングを狙って袖先を掴むことに成功するも、切り離されてしまう。

 

「あがっ!」

 

 パァン、という関節の弾ける音が響いた。凄まじい瞬発力のローキックを受けたことによる。もんどり打って倒れ込んだ。

 

「そら、小僧。さっきまでの威勢はどうした?」

「ごっ!」

 

 見えなかった。とにかく、何らかの蹴り技がこめかみにクリーンヒットした。地面にワンバウンドして、ようやく勢いが止まる。

 起き上がった矢先だった、また鉄拳が――

 

「がうっ!」

「チィッ!」

 

 噛み付いた。敵の拳の関節部分に。

 しっかと食い込んだ犬歯。血の味が染みてくる。

 

「なかなか骨のある。が、そろそろ終わりにしたい」

「あ、が、ぐぅ……!」

 

 今は耐えるしかない。

 

 ――《プラトニック・マリオネーション》――

 

「ぐっ……!」

 

 体が動かない。さっきと同じだ。この口だけは死んでも離さない。

 敵人は、ゆっくりと拳を振り上げる。

 

「とどめだ」

 

 ――《幻 想 変 換(デモンズトレード)》――

 

「手に入れるのは……解除(デスペル)ッ!」

「何だ? 急に動きがっ!」

 

 地面から飛び起きて、敵人の前襟と袖を握り締める。すでにこの右足は振り上がっている――振り下ろしたっ!

 一本、それまでッ! 相手の頭が、後頭部から地面に突き刺さるかのごとく――投げ飛ばすことに成功する。

 

「はあ、はあ、はあ、はあ、やった……!」

 

 違和感がある。ポケットだ。

 

「え?」

 

 由香里にもらったフェイスタオルを取り出そうとする――取り出すことはできた――握ることはできなかった。灰になっていたから。

 

「ははっ……こんな代償もあるのかよ……くっそ」

 

 灰を握り締めて額に手を当てる。すぐ間近で倒れている敵を見下ろした。

 

「……え?」

 

 いない。いなかった。

 

「惜しかったな」

 

 え……? まさか、これは……俺の真後ろに……立っている?

 

「さすがにアレを食らいたくはなかった」

「たしかに……刈り倒しただろうが……!」

「幻でも見たんじゃないのか」

「……畜生」

 

 俺は、目を閉じた……。

 ここまで由香里と一緒に歩いてきた道のりに心をやる。

 

「俺に力を貸してくれ」

 

 奥歯を噛み締める。涙の味がした。これで最後だ――

 

 ――《幻 想 変 換(デモンズトレード)》――

 

 まっすぐ敵を見据える。

 目が合った。微笑みと一緒に、静かな瞳をたたえている。

 その言葉を、口にするのが恐ろしくて。でも、ここで勝たなければ。いや、違う。勝ちたい。俺が勝ちたいんだ。

 俺は、こいつに勝つためなら――そして、願いを叶えるためなら――なんだってやってみせる。

 

「手に入れるのは……お前の死」

 

 人として壊れてしまった大切なナニカとともに、願ったことを確かめる。そして――

 バタッ、という地面に倒れる音が聞こえた。

 

「……」

 

 男を見る。表情はない。

 

「……」

 

 頬面を叩く。返事はない。

 

「……」

 

 心臓に手をのばす。鼓動はない。

 

「……」

 

 口元に耳を当てて呼吸を探る。

 

「……」

「おはよう」

「うわあああぁッ!!」

 

 心臓が凍りついた。

 なぜ? なぜだ? 確かに、俺は今確かに――

 

「次にあんたは、『確かに死んでいたのに』と言う」

「確かに……死んで……死んでいたのに……!」

「惜しい」

 

 死んでいたはずの男が起き上がった。首の後ろに手を回し、痒いところを掻いている。

 

「ああ、言ってなかったけど。俺、死んでも蘇るんだわ」

「……何を言ってるんだ?」

「死んだままでいることもできるし、本当に死ぬことだってできる」

「……」

 

 男が近付いてくる。

 

「お前さんの能力、思い出したよ。見たことがある……代償、いるんだろ?」

「ああ、要るよ。代償」

 

 平静を装うも、顔に出ていると思う。

 

「さて。何を失うんだろうな……あんたの命で代償になればいいんだが」

「は、はは……命……?」

 

 ――代償。

 何が? 一体、何が失われる? 俺は、俺は、殺そうとした。いや、殺した。殺した、殺した、殺した……!

 

「後悔……してるんだな。じゃ、そろそろ終わりしよう」

 

 俺は笑い返す。醒めた笑いを。

 

「後悔……いや、これでよかった。むしろ嬉しいよ」

 

 その時だった。

 ズシャアッ、という、大人ほどの重さの物体が地面を滑る音とともに、

 

「渉、大丈夫だったっ!?」

 

 この声は……栞?

 

「……チッ」

 

 男が舌打ちをする。

 

「よりによってあの人か。ついてない」

 

 後ろを振り返った。

 ……栞だ。栞がいる。さっきより傷だらけになった由香里も。

 そして、今しがた滑り込んできた物体の正体は――

 

「……」

 

 吉利だった。顔中がボコボコに腫れ上がっている。気絶しているようだ。

 

「そこのあなた。国府(こうふ)の森の四天王が主席、黒ノ団――玄冥(げんめい)枸橘朔太朗(からだちさくたろう)ね」

「……いかにも」

「見てのとおりの状況よ。どうする?」

「あなたと戦うのは得策じゃない。これ以上うちの者を傷つけないと誓うんなら、去るがいい」

 

 栞は、俺の手を取って引き寄せる。

 

「では、お言葉に甘えて。渉、由香里ちゃん。帰りましょう」

「ところで、道ノ上栞さん。俺達が初対面でないことはご存知かな」

「……大きくなったわね」

「恐縮です。あんたは確か、この橋の向こうに行ったよな」

「ええ、そうね。懐かしい……。お母さん、元気?」

「死んだよ。あんたの傷が原因で……気にすんなよ。母さんが弱かったのが悪いんだ。俺はもっと弱かったし、今でもそうだ」

 

 二人は何を話してるんだ? 腑に落ちないけど、気にしている余裕はない。

 栞は、俺だけでなく由香里の手も取った。適当なタイミングで歩みを始める。慣れない歩き方のせいか遅い。

 後ろを見た。彼はただ、俺達を見送っている。やがて見えなくなった。

 ……淡々としたペースで下山が進んでいく。

 

「栞、その」

「渉」

「は、ハイッ」

「……心配したよ」

 

 コツンと、拳骨が額に当たる。柔らかいパーになって俺を包み込んだ。

 

「ごめん。栞、ごめんよ」

 

 俺を抱き寄せる。

 

「弟が大事じゃない姉がどこにいますか」

 

 優しい声だった。

 それから、何度か後ろを振り返ろうと思ったけど、できなかった。まだ彼がこちらを見送っているような気がして。

 自分の胸に手を当てる。喜んでいるのか、悲しんでいるのか。よくわからない。



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#12 心らしきものが消えて(後)(6)

 出口付近にいる。もうすぐ八幡神社というところ。

 下山まで二時間もかかっていない。『あっという間だったな』、とばかり夜空を見上げる。

 

「さっすが、栞さんですね。渉とは大違い」

「由香里ちゃん。もっと褒めてもいいのよ?」

「この辺り、詳しいんですか?」

「わたしもね、若い頃は色々ね……」

 

 二人の後ろに尾いている。

 栞は元気そうだけど、由香里は少しびっこを引いている。それに鼻声だ。相当、疲れてるんだろう。俺がもっと強かったら……。

 感慨に耽るように、八幡神社に視線をやった。どうでもいいけど、カバンを国府(こうふ)の森の入口に投げっぱなしだ。

 

「……」

 

 八幡神社。

 今でも、ほのかの血の跡が残ってるんだろう。小走りに駆け出した。

 

「渉、どうしたの」

「ちょっとだけ」

「しょうがないわね」

 

 栞もついてくる。

 ほのかが吊るされていた場所はすぐにわかった。

 

「これ、血の跡ね。どうしたの」

「友達ってほどじゃないけど、知ってる奴がさ。ここに吊るされてたんだ」

「昔と変わらないのね。でもね、そういうのが必要なときもあるのよ」

「……」

 

 ただ、ずっと。血が染みた跡を見つめていた。

 やがて、さっと身を翻して由香里がいる方に歩いていく。

 俺は決意した。

 集に会いに行こう。いつになるかは分からない。でも、必ず――なんて言えばいいのか、今はわからないけど。でも、聞くんだ。あのことを聞くしかない。

 

「渉、止まりなさい!」

 

 栞の声だ。強張りとともに立ち止まる。

 眼前を見据えると、由香里の姿があった――首元に刃物を突き立てられている。

 

「動くんじゃなあどっ!」

 

 暗闇でもわかる。これは昨日、森の入口で倒した小柄な少年だ。

 由香里に視線を移す。ごめん、という言葉が伝わってきそうな瞳の色だった。

 

「昨日の落とし前をつけさせてもらおうか? 敵に塩を送られたままじゃね。あの石枕、快適だったよ」 

 これまた見覚えのある奴が。ダイヤモンドなんとかいうのを打ち出してきた。

 

「小僧。詰めが甘かったな」

「おい、女。あの一撃、痛かったよ。さんざん吹っ飛ばしてくれちゃって」

 

 午前中、この八幡神社で会った奴らだ。

 それだけじゃない……囲まれている。左からも、前からも、右からも、続々と敵が押し寄せている。

 数十人とか、そういう次元じゃない。もっと、ずっと多い。

 

「渉。最悪の場合、由香里ちゃんは」

「わかってる」

 

 ……後悔はしたくない。

 まだ集まりきってはいないだろう。隙があるうちに、なんとしても由香里を――

 足先で、トン、トンと地面を鳴らし、飛び出すべき瞬間を見定めようとする。

 神社の前に並んだ盆提灯の微かな灯かり。ある程度は、敵の数を把握することができる……少なくとも百人といったところか。

 すぐ後ろでは、栞がなにか呪文を唱えている。大技だろうか? 俺は、由香里の姿を見た――暗闇でもわかる。覚悟を決めた目。

 

「……いくか」

 

 ――みんな、待って――

 声がした。

 

「なんだ……いまの?」

 

 森の奥から女の声がした途端に、ザッ、ザッ、という靴音の連なりがあった――敵が一斉に向き直っている。声がした方へと。

 

「……」

 

 遅い。なかなか現われない。コツ、コツという、何かで地面を叩くような音なら聴こえてくる。

 

「……この音、松葉杖?」

 

 声の主が現れる。

 

「みんな、待って。この人たちを傷つけないで」

「ほのか! 元気になったのか」

 

 いつの間にか呼び捨てにしている。その声がする方に駆け出した。

 

「待て、小僧!」

「ここにおられるのは誰だと思ってる!」

 

 何人もの使用者(エッセ)が道を塞いでいる。

 ほのかのすぐ後ろには介助者の姿があった。

 

「どなたって……梔子(くちなし)ほのか、じゃないのか?」

 

 誰かが呆れるようにため息を吐いた。

 介助者が前に進み出る。

 

「……!」

 

 やっぱり。夕方に戦った、あの女剣士……だろうか? いや、間違いない。あの時の女だ。

 国府高校の制服であるセーラーに身を包んでいた。真後ろで一本に括っていた髪を下ろしている。

 

「このお方は……国府(こうふ)の森の四天王がひとり。緑ノ団、句芒(こうぼう)の梔子ほのか様である」

「四天……王……?」

 

 ああ、そうか。そういうことか。合点がいった。

 

「彦一。その子を離してあげてくれる?」

 

 恭しい声だ。

 

「ハイッ! ほのか様」

 

 由香里が解き放たれた。こちらに駆けてくる。

 ほのかも、ゆっくりと俺たちがいる方へと。

 

「ごめんね、渉くん。こんなことになって」

「謝るのはこっちだ。ほのかの仲間をたくさん怪我させた」

「ねえ、渉くん。お互い水に流せないかな?」

「そうしてくれるとありがたい」

 

 ……沈黙。和解ムードなのはいいが、何を話せばよいのやら。言葉を探る。

 

「うわっ!」

 

 ズイッと、ほのかが寄ってくる。やっぱり、相当に美人さんだ――胸が高鳴る。

 

「渉くん。これだけは言わせて……わたし、嬉しかったの。下界のお祭りに行って、あんな風に優しくしてくれたの、渉くんだけだよ」

 

 小声だった。吐息が伝わってきそうな。

 

「お……おう。じゃあ、またな。今度また、一緒に遊ぼう」

 

 ほのかは寂しげな笑みを浮かべる。

 

「じゃあね。渉くん、また逢おうね……そうだ、これ。あとで読んで」

 

 囁きとともに渡された、これは……手紙? サッと懐に仕舞う。

 

「みんな、聞いて」

 

 一転、ほのかは配下の方を振り返ったなら、

 

国府(こうふ)の森のために戦ってくれてありがとう……ありがとうっ! でもね、わたし。みんなに傷ついてほしくないの。だから……今日だけ、今日だけでいいから、この人たちを帰してあげて」

「……御意にございますッ!」

 

 あっという間にカタがついた。

 ひと揃いの掛け声とともに開かれた道。最後に、ほのかと手を振って別れた――

 そうして、俺たちは今、森の入口にいる。本当にあっという間だった。

 

「由香里。また明日な」

「……うん。じゃあまたね。わ・た・る・くんっ!」

 

 真似するんじゃねえ!

 さり気ない仕草で手を振ったなら、今日、一緒にいてくれた影が夜の闇に消えていった。

 

 (第12話、終)

 

 

 

 

 

国 人 第 7 号

永化3年5月12日

 

道ノ上 渉 様

 

国府町(人事委員会)

 

採 用 内 定 通 知 書

 

 あなたは、5月12日付けをもって国府町採用候補者名簿に記載されたので通知します。

 採用候補者名簿とは、採用試験に合格した者が名簿に登録され、国府町職員に欠員が生じたときに順次採用されるものです。

 この名簿の有効期間は1年間ですが、今この時をもって、あなたを採用する予定です。

 つきましては、国府町への就職の意思について、次の欄内に記入のうえ、郵送または持参にて5月31日までに回答してください。

 

 私は、国府町への就職を、

 

 □ 希望します

 □ 希望しません

 

  ※希望しない場合は、下の括弧内に予定している進路を記入してください。

   (             )



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#13 終わらないパズル(1)

「いてて……」

 

 三日ほどが経っている。まだ痛む箇所を押さえながら学校に向かう。

 午前八時前。誰もいない通学路。誰もいない……はず。

 今になってもにやつきが止まらない。やった、俺はやったんだ。来年からは公務員として――親父、なんて言うかな。栞はどうだろう。喜んでくれるに違いない。

 ゆっくりと歩いていると、誰かが近付いてくる感じがする。

 

「よ、渉!」

「尚吾か。不良のくせに――」

「朝早いじゃろ?」

 

 これまでに百回以上は交わしてきたやりとりだ。

 

「もっと遅く来てもええじゃろうに」

「あんまり遅いと教室に入る時にさ、あいつがうるさいんだよ。『挨拶したの?』って」

「そんな奴、おったか?」

「いるだろ。ひとり」

「ワシでもない、渉でもない、砂羽でもない、篤でもない。一体、誰じゃ?」

 

 ……え?

 

「おい、尚吾。冗談きついぞ」

「なにを言っとる?」

「……キツイって」

「どうかしとるんじゃないんか」

 

 ……さて。これはどういうことだ? 何が起きている?

 

 *  *  *

 

 ガラガラと音を立て、3年3組の教室のドアが横に滑る。

 

「……おはよう」

「おはよう、渉くん!」

 

 安田だった。お手本のような笑顔を振りまいている。

 いつもの四人グループで雑談をしていた。あれ、今日は、机の上に参考書が置いてあるぞ……。

 でも、宮本さんは元気がない。瞳が沈んでいる。

 両手に包帯を巻いていた。ケガ……をしてるようには見えないんだけどな。

 

「いつも早いんだね」

「まあな。最近は、安田も早いじゃん」

「みんなで朝勉強してるんだ。もう受験だからね」

「あー、受験かーって、あれ。由香里は、まだ……来てない?」

「……?」

 

 お前は何を言ってる? そういう目。

 

「あ、別のクラスの子だった! ごめんよ」

 

 どっと、笑いが起きる。

 

「え、もしかして、ボケた? 渉くんが?」

 

 安田は俺の肩を抱いてくる。

 

「そうそう、渉くん。もっとさ、級友に心ひらいてさ」

「はは……ありがと」

 

 微妙な雰囲気のまま、自分の席へと。

 ……篤と砂羽がいる。篤は、今日も勉強か。こんな朝早くから勉強なんて、俺には絶対できない。って、おいおい、砂羽まで勉強してる。今日は太陽でも降るんじゃないのか?

 

「篤、砂羽。おはよ」

「おはよう」

「……はよ。ねえ、どうしたの? さっき、なんか、おかしかったよ」

 

 砂羽。それ以上、言うな。

 

「ゆかりって、誰?」

 

 やめろ。やめてくれ。

 篤が席を立った。俺の近くに来ると小声で喋り始める。

 

「渉。さっきの、人として正しい行動だと思うよ。でも、使用者(エッセ)一般人(エンス)が相容れることはないんだ。ずっと学んできたことだろう?」

「あ……ああ。そうだった。俺、なんかおかしいかも」

「気にするなよ。僕だって、人と交わりたい――そんな気持ちになることがある」

「……」

 

 俺は、頭を掻きながら席につく。

 

『……いや、待て待て。おかしいだろ』

 

 あるじゃないか。由香里の席が。俺のすぐ後ろに。

 

「……」

 

 ある。あるのに。

 

「どういうことだよ……」

 

 それから、いつものように朝礼が始まって、授業があって、昼飯を食って、掃除をして、終わりの会があった。

 今日は一日が早かった……ような気がする。

 由香里、由香里……由香里。

 

 *  *  *

 

 下駄箱を眺めている。

 ひとつずつ名前を確かめて、視線を移していく。

 ……誰かが後ろを通り過ぎた。

 

「あいつ、なにやってんだ?」

「あれだよあれ。変質者の見習い」

 

 気にしない。探し続ける。

 

「やっぱり、ある」

 

 汐町(しおまち)、というラベルシールが貼ってある。

 

「……」

 

 靴に履き替えて歩を進める――下駄箱を出て、駐輪場に向かう。脇にあるアルミベンチ。誰も座っていない。

 

「よし。考えよう」

 

 ベンチに腰をかけて目を閉じる。

 

「由香里は、どこにいる? わからない。見当がつかない。では、問いを変えよう。由香里は、どんなことが原因でいなくなった? 答えは……」

 

 目を見開いた。

 

「さらわれた。まず、ここから考えよう。由香里がいなくなった。いなくなると……どう困るって、説明はできないけど……とにかく、俺は困る。嫌だ……よし、次。では、見つける方法は? 見つける方法、見つける方法……まったくもって見知らぬ人間にさらわれた場合。これは手がつけられないから後に回そう。では、見知った人にさらわれた場合は?」

 

 足をぶらぶらさせる。

 天井を見上げた。打ち放しのコンクリートが視界に映る。

 

「親しい人物である可能性が高い……親しい人……篤や砂羽の可能性はゼロと考えていい。じゃ、尚吾……」

 

 あの夜の記憶が頭をもたげる。

 ベンチに座っているのが嫌になった。あの時の、具体的なシーンが脳裏に浮かんでしまう――

 いや、違う。尚吾じゃない。

 昨日、尚吾から彼女の紹介を受けたばかりじゃないか。彼女の正体は、あの夜、あいつが軽トラックで自転車ごと田んぼに突き落とした、あの娘だった。そう……塩飽縁。あの使用者(エッセ)だ。なんかもう、とんでもなく気まずい思いをしたのを覚えている。

 あの場でこっそり、勇気を出して尚吾に聞いてみたじゃないか。そしたら、大した驚きようで、『あいつはのう、ああいう過激な状況でしか興奮できんのじゃ……』って、もの悲しく言ってたじゃないか。

 あいつの胸に手を当ててみたけど、真実だった。あの娘の胸に手を当てる? できるわけねーだろ。

 ため息をつく。

 

「……それじゃ、ほかに誰がいる?」

 

 考えたくはなかった。でも、考えなくちゃいけなかった。疑わなくちゃいけなかった。

 できなかった。目を逸らしていた。恐かった。信じていた。

 骨の髄まで疑って、それでも確証がなければ、それでいいはずだった。でも、結局、疑うことすらできずにいる。今日まで、ずっと。これからも続いていくのか?

 ……身体が勝手に歩き出していたみたいだ。西の校門まで来ている。

 

「教育委員会って、どのへんにあったっけ?」

 

 東門に引き返す。歯軋りをしながら。

 

 五月の半ばにしては冷たい風が吹いている。



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#13 終わらないパズル(2)

 教育委員会の庁舎前にいる。

 敷地内には大きめのアナログ時計が設置してある。時刻は、午後五時二〇分。すぐ隣には、『ハッピーマウンテン市教育委員会』という丸めのゴシック体で書かれた案内看板がある。

 ふいに、庁舎を見上げる。

 

「……でかい」

 

 この庁舎は、通称『教育の塔』と呼ばれている。

 外観がすべて打ち放しのコンクリートという、公共施設としては珍しい、現代的な建築物……と和田先生が言っていたような気がする。実際、立派な威容といえるだろう。

 

「さてと、まずは」

 

 騒然としていた。正面玄関の前に百人以上もの群集が押しかけている。横断幕を掲げた人々が、シュプレヒコール、だっけ? を叫んでいる。

 水平委員会によるデモ活動だった。警察署や市役所の前でもやっている。学校でも。というか、どこでもやっている。

 

「差別」「対策予算」「解消」「水平委員会」「勝利を」

 

 それくらいは聞き取れる。さらに観察を続ける――

 プラカードを持った数人が建物内になだれ込もうとするのを職員達がブロックしている。が、多勢に無勢。暴力にこそ晒されていないものの、可哀想になってくる。

 彼等の争いが止まない限りは庁舎内に入れそうにない。玄関の奥にも職員らしき影がある。まごついている様子だ――もしや、こいつらが職員を退庁させまいとしている?

 

「こんなところで……! さっさと埒を開けてみやがれッ!」

 

 集団に近づくと、職員の一人と目が合った。『危ない!』と言われた気がした。

 五月蝿さは最高潮に達している。

 

「ちょっと黙ってろ」

 

 ――《アイズ・ワイド・シャット》――

 

 右手の指を前に出して、パチリと鳴らした。こんなに鬱々とした気分だと、こうでもしないとうまく発動できないから。

 ――阿鼻叫喚。そんな言葉が似合う光景だった。

 視界を失った群衆がパニックを起こしている。押し合いへし合い、雪崩のように倒れていく。

 縮こまって震えている者、どこそこへと這うように移動する者、天に祈るような格好を取る者、罵詈雑言を撒き散らす者。

 

「お、お前ら、使用者(エッセ)なんか雇いやがって! 人権、人権侵害だ!」

「喬木さんに伝えるからな! おい、職員ども!」

「あぁ、ああー、あーッ! 助けて、助けてぇっ!!」

 

 うるせえな。誰かに縋らなきゃ生きられねえカスどもが。

 由香里を。由香里を探しに来たんだ、俺は。それだけなんだよ。

 群集の波が開けた一点を通って、真正面に向かう。先ほどの職員のすぐ横を通った際に、

 

「すいません。三良坂(みらさか)さんを知りませんか?」

 

 年季の入った職員だった。すると、明瞭ではない声で、

 

「ああ……五階だよ。議事堂にいる」

 

 察した様子だった。パチンッ。概念力(ノーション)を解除するとともに、教育の塔への一歩を踏み入れる。

 

「しゃ、行くぞ!」

 

 庁舎に入った直後、眼前に見える階段を目がけて走り込んだ。

 

 *  *  *

 

 二段飛ばし。三段飛ばし。ええい、四段飛ばし。脱兎(?)の勢いで階段を昇っていく。

 最後の階段が見えてくる。

 

「よ、はっ、せいっ!」

 

 計四回のジャンプで昇り終えた。豪奢な造りの扉が見える。両開きのようだ、開け放たれている。

 

「……!」

 

 駆け込もうとした時に、ガタガタ、という椅子が床を滑るような音が聴こえた。悪意が籠もっている?

 ついにここまで来た。身を潜めて内部を覗く。

 

「すげえ……」

 

 この五階というのは、ほとんどすべてが講堂のようだ。あのおじさんの言ったとおり、まさに議事堂といったところ。

 落ち着いた暖色の絨毯が広がっている。中央には円卓が鎮座していて、真っ白いクロスが掛けてある。今しがた、ガタガタと音を立て、床面を滑ったばかりの木目調の椅子がある。

 片付けようとする動きはない――一触即発。そんな雰囲気だ。

 左側にいる、喬木議員を含めた三人が水平委員会。右側にいる、集を含めた三人が教育委員会か。

 それぞれ、緊張した面持ちで場を去ろうとしているように思えた。

 

「最後に確認しますが、どうしても地域学習会への助成金は減額するということですな!?」

 

 喬木だった。強い口調で攻めている。

 

「おっしゃるとおりです。議論の余地はありません。最後まで議論が平行線なのは残念でしたが」

 

 この声、聞いたことがある。あの夜の会議の時の、集の上司……三川、といったか。

 

「まともに学校に行けない子どももおるんですよ。地域学習会は、まだ必要性がある」

 

 喬木の隣にいる男だった。

 三川は、立ちはだかるようにして、

 

「何度も申しあげているでしょう。もうそんな時代ではないんです。貧困を理由とする不登校児は、当市においてはゼロ人です」

 

「加えて、配布資料にもありますように、」

 

 集だ。補足説明を始める。

 

「地域学習会一回ごとに、1,500円の手当が指導教員に払われています。昨年度は全部で3,500万円以上も支出している。条例や規則に根拠をもたない活動にこんな金額が。しかも成果は不明瞭ときている」

三良坂(みらさか)君! 君がそれを言うかね。君だって学習会の恩恵に預かったひとりだろう!」

 

 もう一人の喬木の側近が声を荒げる。

 

「そもそも、同和教育というのは――」

「いい大人が、議論を蒸し返すのはやめなさい!」

 

 最後に言を放ったのは、教育委員会サイドの一番奥にいる小柄な男。

 背は小さいが、なんというか、圧倒的だ。ただものじゃない。それだけはわかる。

 

「私たちが述べたことを、もう一度掻い摘んで言います。地域学習会は、一般の児童生徒を対象としていない時点で教育活動の公平性に問題があること、地域学習会で教えている講師には教職員でない者が相当数含まれており、教育の政治的中立という基本理念に反するおそれがあること、今後において大切なのは、集落内・集落外の子どもたちが普段の生活においてどれだけ仲良くなれるかであって、生活習慣の確立や学力の確保ではないこと。以上の三点です」

 

 静まる講堂。三川が続ける。

 

「えー、いま木坂教育長がおっしゃったことと関係しますが、喬木議員。先日、あなたは一人の女性教員に対して攻撃を加えましたね」

 

 和田先生のことだ。はがゆい思いが胸を締め付ける。

 

「あなた方を見ていて常々思うのですが、自分達の仲間以外に人権はないのですか。人権、人権とはおっしゃいますが、なにゆえに人権が存在するのか、なにゆえに尊重されねばならないのか。そういう根本のところの哲学が、あなたたちには欠けているように思える」

 

 人権……そういえば、授業で聞いたことがあるくらいで……人権って、そもそも何なんだろうか?

 

「はははははっ」

 

 急に喬木が笑い出した。

 

「いやいや、木坂さん。さすがはハッピーマウンテン市の教育長じゃ。かなわんのう」

 

 捨て台詞を残して、喬木と側近二名が出口へと歩き出す。階段の影に身を隠した――開かれた扉から出てくると、エレベーターに進んでいく。

 

「……」

 

 恐る恐る、階段から身を乗り出してみる。

 

「よし、いない」

 

 チャンスだ。講堂の中へと。

 

「いいから逃げてください!」

「?」

 

 集が熱弁を奮っている。直後、教育長と三川を連れ立って講堂の奥の小部屋まで走っていき、身を隠させた。

 

「集!」

「渉? どうしてここに」

「いや、集に用事があって。会いに来たんだ。どうしても相談したいことがあって」

「……チッ」

 

 舌打ち。聞き慣れた感がある。

 

「よりによって、こんな時に……」

「危険な状況なのか? 下にいる奴らが押しかけてくるとか」

「それより億倍まずい状況だ。さっきの喬木議員のあれ、どう思った」

「笑ったやつか? なんだか、いかにも強がりというか。悔しそうな感じだった」

「さっきのあれはな、フリなんだ。あの人がああいう風に去っていった場合、必ず、その日のうちに……」

「……」

「殺しに来る。具体的には、あと一分以内。あの側近を逃がしたら引き返して来るだろう――うぉっ!?」

 

 細切れの衝撃音が響き渡る。ガラスが割れた音だ。しかも――この部屋すべての。

 

「窓ガラスがっ!?」

 

 ――《神性変異(スティゾフィニア)》――

 

「なん、だ……これ……」

 

 恐怖。力が抜ける。立っていられない。ああ、思い出した。たしかこんなだった。

 

「ほら、しっかりしろ」

「えっ?」

 

 楽になった。集の手が肩に触れている。

 

強化魔法(バフ)をかけた。しばらくは大丈夫だ。しばらくはな――さあて、喬木直利。姿を見せやがれっ!」

「やれやれ。お前さん方は関係がないから、特別に配慮して……楽に死なせてやろうと思ったのに」

 

 講堂の入口を見た――喬木がいる。

 上着を脱ぎ捨てた。右手で片方の扉に触れる。

 

「は……?」

 

 あの豪奢な扉が……崩れた? いや、違う。朽ちたというべきか。

 

「教育長を引き渡せ。ならば見逃してやる。そこに隠れておるんじゃろう?」

「ふざけるんじゃねえ。うちのトップの首を誰が渡すかよ」

 

 啖呵を切った集。

 ここで、周りを見渡してみる。

 ……少しずつ、本当に少しずつ。絨毯、カーテン、円卓、椅子、壁面、扉。ありとあらゆるものが、少しずつ……腐食、している……?

 

神性変異(スティゾフィニア)は、絶対腐敗の概念力(ノーション)。あれで何千人という政敵を物理的に、そして社会的に葬ってきた。あの能力の前では、物質だろうと精神だろうと朽ち果ててしまう」

「……で、どうしてやればいいんだ? 俺達は」

「はっきり言おう。相手が悪すぎる。あいつは国府の森の利益代表者(スポンサー)の一人だからな」

「集。違うんだ。あいつをボコボコにしてもいいのか、って聞きたかった」

「……はは、渉くん。面白い冗談言うね」

「そうだろ」

 

 笑うしかなかった。



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#13 終わらないパズル(3)

この回は長めです。


 一方的な攻勢だった。防戦を強いられている。

 

「そらっ、落ちろ!」

 

 指先を天井へとやる喬木――講堂の真上、等間隔に並んだ照明器具がひとつ、またひとつと落ちてくる。

 甲高い音――砕け散った。

 

「痛ッ!」

 

 飛び散ったガラス片が俺の指に刺さる。

 ……逃げる、逃げる、逃げる。今は逃げることしかできない。

 さすがの集も、任意の空間を腐食させる能力を前にしては防戦一方だった。そうこうしている間にも講堂内部はどんどん腐り落ちている。

 

「ははは、どうしたんじゃ。最初の勢いは。そら、三良坂(みらさか)君!」

 

 攻撃の矛先を集に向ける。

 

「やべっ!」

 

 逃れるべく前方回転して床を転がる。

 

「そらっ!」

「ぐぅ……!」

 

 真下の床面が抜けた。集は嵌まってしまい、身動きが取れないでいる。

 

「これで終わりじゃな……ん? これは……何も見えん」

「どうだ!」

 

 しばし、沈黙が支配する。

 

「……ははははっ」

「なにがおかしい」

「有難い。目が見えぬおかげでますます魔力が冴える」

「集ーーッ!」

 

 床面に埋まっている集に手を伸ばす。ぐいと掴んだなら、全力を込めて、

 

「ふんっ!」

 

 ズボォッ! セーフ。床から身体が抜けた。

 

「お前達もしつこいのう」

 

 次々と、喬木は床面を腐り落としてゆく。

 

「修繕費、高くつきますよ。どうしてくれるんですかね」

「全部終わったら弁償させてやるわい、教育委員会のサイフからのおっ!」

 

 集の手をさらに強く握る。

 

「おい、集! ドカーンと、一発決めてやれないのか」

「できない」

「なんで! こっちも飛び道具とかさ」

「飛び道具か……スポットオンなアイディアだ」

 

 講堂の奥に走り込んだ。あの円卓の近くだ。俺も続く。

 

「どこに逃げてもわかるぞ? 視界など、使用者(エッセ)にとっては取るに足らん存ざ……がァァッ!」

「純粋な物理攻撃だったら検知できねえだろ。今は盲目なんだからな。ざまあねえ、もう一発食らいやがれっ!」

 

 集は、今しがた会議に使っていた椅子を真上に放り投げていた。

 放り投げたと思ったら、喬木の方へと蹴っ飛ばしていた――魔法による加速をつけて。

 さらに、もう一発――クリーンヒットッ!

 

「ぐおぉ……!」 

 

 なんの変哲もない椅子だった。が、この空間に置いてあるからには高級品なのだろう、神性変異(スティゾフィニア)に持ち堪えている。

 

「とどめだっ!」

「……腐り落ちろ」

 

 瞬きの間。そんな言葉がぴったりと似合う。

 喬木を目がけて蹴っ飛ばしたはずの椅子は――埃でも舞い散るかのように粉みじんになる。

 

「やってくれたのう」

「なんだよ、これ……」

「相変わらずの化け物っぷりだな」

 

 ふと見ると、一番奥にあるカートに積んであったパイプ椅子が……瞬く間に灰になった。 

 

「集、逃げろ!」

 

 その身体を押し倒す。俺も前方に転がって身を伏せる。

 

「よく次の手がわかったの」

 

 明白だった。いま俺達がいるこの円卓が狙われるのは。

 サラサラと、風に舞い踊る砂粒のように砕け散っていくアンティーク。それは、俺達に敵の焦点が当たっていることを意味している。

 

「はあ、はあ、はあ……!」

 

 肩で息をしている。額には汗がびっしょりと。集もさすがにキツそうだ。

 

「障害物がなくなってきたのお……では仕上げじゃ。それ」

 

 右手の人差し指を立てて構える。

 

「ヘイストチューン」

「ヘイストチューン」

「ヘイストチューン」

「ブレイクチューン」

「ブレイクチューン」

「ブレイクチューン」

 

 滑るような口調。還暦を過ぎているとは思えない。

 

「こんなものか。この年になると、どうも体力というやつが……のうッ!」

「おごっ!?」

 

 鳩尾(みぞおち)への一撃。見えない――速すぎる! こんなに距離をとっているのに。

 

「うえ、えぇ……ごほ、ごほっ!」

 

 嗚咽。色褪せた絨毯にひざをつく。

 

「俺の学ランが……!」

 

 朽ちて灰になりつつある。

 

「くそっ!」

 

 学ランを脱ぎ捨てた――瞬く間に灰へと帰す。

 

「いい調子だのう」

「!」

 

 見えなかった――すぐ横を喬木が通り過ぎている。狙いは集しかない。

 

「さあ、これでどうじゃ? 打つ手もないじゃろう」

 

 右手がどんよりとした黄金色に輝いている。あれに触れたら、それこそなんでも腐り果ててしまうのだろう。

 

「三良坂、お前との付き合いもここまでじゃ! 往ぬれ」

「……老衰を希望します」

 

 魔法で高められた一撃一撃を、しなやかな動きでもって避けてゆく。

 が、次第に追いつめられる。壁いっぱいのところに追いやられた。

 喬木はタイミングをうかがっている。

 

「集に触るんじゃねえ!」

 

 今度は視界ではなく、触覚を潰してやった。

 

「うん? なんじゃ、これは」

 

 変調をきたしている。その間隙を縫って、

 

「集! こっちだ」

「サンキュ!」

 

 ……急場を切り抜けた。が、講堂内では互いの位置が筒抜けだ。あっという間に迫られるだろう。高速移動に対処するべく背中合わせになる。

 

「集、なんで攻撃しないんだよ! 老人でもいたわってんのか?」

「そりゃあ……」

 

 神妙な面持ちになる。

 

「高森さんの時とは条件が違う。いいか? いつ、どんな瞬間にも俺たちにかかってる神性変異(スティゾフィニア)に対する防御を解くことができないわけだろう。解いたが最後、あっという間に腐り落ちてしまうから。ええとだな、何が言いたいかというと」

「ワーキングメモリーが不足してて、強力な魔法が打てないってことか?」

「そういうことだ」

 

 その間にも喬木が迫りつつある。ある地点まで行ったら畳み掛けるつもりだろう。

 でも、今この時だけは大事にすべきだ。

 

「わかった。じゃあ、もしさ、俺が壁役になれたら……どうにか、なる?」

「……なる。でもな、時間がかかる」

「……」

「……」

 

 合図は不要――二手に別れて散った。

 集は、講堂の最奥にあって、辛うじて外観を保っている演台のあたりにいる。眼を閉じて、精神を集中している。

 俺は、覚悟を決めて喬木の前に進み出る。

 

「おや? この後に及んで何をするつもりじゃ? まさか、一人で相手か……? 三良坂(みらさか)の奴め、薄情なことをする」

「薄情? 覚悟の間違いだろ」

「お前さんは、ずいぶんとあいつを買っておるんじゃのう……ならば、せめてお前さんは生きるという道もある」

「何が言いたい?」

「水平委員会にとって、あれが邪魔な存在であることはわかった。が、お前さんは違う……言いたいことはわかるな?」

「いや。わからない」

「一人で撤退したとして、追うつもりはないと言っておる」

「お断りだ」

「命を無駄にすることもあるまい」

 

 ……違う。こいつは今、追い詰められている。だから、俺に逃亡を促したんだ――勝てるかもしれない。

 

「分からず屋じゃのう」

 

 言い終えるやいなや、指先をこちらに向けた。腐食攻撃が飛んでくる。

 

「!」

 

 床板が外れて足が引っかかる。くそ、ここもかよ! 逃げられる場所が無くなってきている。

 続いて、喬木本人が凄まじい速度で飛び込んでくる。動きが若々しい。

 

「そらッ!」

 

 右ストレート。すんでのところで避けるも、

 

「ぐぼっ!」

 

 ひざ蹴りだった。なんの変哲もない――腹部に直撃し、忽ちへたり込んだ。

 

「お前さんくらいの時は、わしもよくケンカをしたのう。わしが暮らしておった集落に、よく一般人(エンス)の連中が来て、いやがらせをしておった。自分より下の人間がおらんとムシャクシャするという戯けた理由でな、人の家に毎日のように火をつけるんじゃ」

「へー、あっそう。ふーん……うごッ!」

 

 胸倉が掴まれた。片手で俺を持ち上げている。

 

「お前さん、いい先生に恵まれたのう。わしの頃は、担任の教師がのう、教室にみんながおる前でのお、山の集落の方を指さして、『あそこには四つ指の畜生どもが住んどる』なんてほざくんじゃ。お前さんは幸せな時代に生まれたと思わんか?」

 

 感覚の一部が……消えた。どこかもげたのか? と思い立ち、確かめようとするも恐ろしくてできない。

 

「わしがのう! わしが、これまでの政治家人生の中で、そんなことをほざく連中を矯正させ、矯正できなかった者はこの世界から消してきたから今の時代があるんじゃろうが! それを、お前らは……!」

「はは……喬木議員って、意外とお喋りなんですね……」

「お前らの先祖がのう、心の闇を被差別集落の民にぶつけてきたから、わしらは立ち上がる必要があったんじゃ! お前らが、グチャグチャとした醜い感情の廃棄先をわしらに選んでおらんかったら、わしはただの」

「……ただの?」

「ただの人間でいられたのに」

 

 ――ああ、朽ちている――

 そんな確信が持ててしまうほど強力な概念力(ノーション)だった。俺だけじゃない。この講堂内のほとんどがそうだ。真っ黒に染まっている。

 

「最後に聞きたい。お前さんは……どういうわけで、わしに勝てると思ったんじゃ?」

「教えられない」

「なぜ?」

「教えたら、あんたが勝っちまう」

「わからんな。わからん。なぜ、こんな状況で希望が持てる?」

 

 喬木に掴まれている首のあたり。今にも溶け落ちそうな気がする。『痛い』と感じていたけど、それが痒いになって、今では感覚すらない。

 

「う……くそっ、放しやがれ……畜生」

「誰が四つじゃ!」

 

 最後の力を振り絞る。真っ黒に朽ちたシャツを引き裂いて――喬木へと、蹴りを食らわせるっ!

 

「しつこいのう」

 

 何度も打った蹴りのひとつが顔に命中した。支配から脱する。

 

「鍋底にこびり付いた米くずみたいじゃのう」

「あんたこそ」

 

 片膝をついた状態から、よろよろと立ち上がる。

 

「喬木さん。あんたこそ、いったいどうやって勝つつもりでいる?」

「今の三良坂(みらさか)に攻撃手段はない。わしの神性変異(スティゾフィニア)でサッサと追い詰めて、腐らせて、それで終わりじゃ。お前さんは何をしようと、わしに効くような力は持っておらんじゃろう? ならば、場の状況を変える変数とはならない。わしの勝利は揺るがぬ」

「その考え、完璧ですよ……不可能という点を除けばね」

「……なんじゃと?」

 

 ――《永久の霧雨(イモータル・ブルー)》――

 

 降り注いだ。雨が。清らかな。

 

「馬鹿な、どうしてじゃ! 奴は神性変異(スティゾフィニア)を止めるのに精一杯のはず」

「でも、もし――急に集中力が増したとしたら? 何らかの手段、例えば、そう……目を閉じた状態で、さらに聴覚も触覚も封じるとか。五感のすべてを封じたかったんだけど、あいにく質料(ヒュレー)が足りなくてね」

「きさま……! しかもなんじゃ、これは!」

 

 雨。どこから降っているのかわからない。しかしながら、流麗な直線を描いた水滴があちらこちらから降り注いでいる。

 冷たいような、温いような水滴が体を濡らした。黒く染まった床から水蒸気が舞っている。そんな雨が、この講堂の何もかもを飲み込みつつある。

 ただの水でないことはすぐにわかった。というのも、喬木の右手に宿っていた黄金色がすっかりと消えていたから。

 それだけじゃない。俺を蝕んでいた腐食が消えてなくなっている。

 

「はは、我ながらとんでもない雨だ……よし、渉!」

 

 低めの声だった。集が歩いてくる。

 

「この雨は、喬木議員を倒すまで降り続く。それこそ永遠に」

 

 喬木を見た。わなわなと震えている。

 

「お前ら、覚悟せえ……」

「いやいや~! 俺の人生で一番危ない場面でしたよ。初めて、あなたから一本取りましたね」

「参れっ!」

 

 水晶のような菱形を懐から取り出すと、床面に叩きつける――絨毯の上に真っ黒な穴ぼこが増えていく。これは――

 

「召喚魔法だ。魔道具(マギアツール)を用いての」

 

 穴の中から、一人、二人、三人……黒服姿の侍衛(じえい)集団が出てくる。

 

「集……十人以上だ。全員帯刀してる」

 

 背中合わせになる。

 

「たった二人だ! 慎重に取り囲め、逃がすなよ!」

「お前ら、喬木様に手出してタダで済むと思うなよ! 地獄を見せてやる」

 

 集団で、じりじりと距離を詰めてくる。

 

「……かかったな? 喬木議員」

 

 この場を異様な気が包んでいる。それはわかる。でも、この不吉な感じは? うすら寒いような、ほの温かいような。

 そんな印章(シンボル)を伴って、魔導の圧が高まりつつある。

 

「渉」

「どうした、集」

「一瞬でいい。こいつらの目を潰せ!」

「任せろっ!」

 

 ――《アイズ・ワイド・シャット》――

 

「なんだこれは?」

「目が見えん……」

「うろたえるな、ハッタリだ!」

「距離を詰めるんだ。それで問題ない」

 

 背中越しに体温を感じる。だからこそ、わかる……集はとんでもないのを打とうとしている。

 

「いくぜ」

 

 人差し指が、喬木の顔に向けられる。

 

 ――《人権蹂躙(ヒューマンライツ・ブレイカー)》――

 

「……終わった」

 

 静寂。

 

「な、なにが、終わったじゃと?」

 

 喬木はピンピンしている。

 

「ははは、これのどこが終わったというん――!?」

 

 一瞬、何が起こったのかわからなかった。

 言えることは、ただひとつ。喬木自身が呼び出した配下のひとりが、躊躇なく、その主の背後を日本刀で斬りつけたこと。

 

「お前! 危なかったぞ。いったいどういう――」

 

 さらに一太刀。今度は別の配下が真正面から斬りつける。後ろに下がったものの、尻もちをついてしまい――

 

「あ、あ、あ……!」

 

 這いずるように逃げまどう。が、体がうまく動くはずもなく――初めて会った時とは比べ物にならないほど無様な姿だった。

 

「あ、あ、あ……!」

 

 静けさの中、呼び出した手下衆に囲まれ、かつての王者が攻撃を受けている。

 

「集、これ……」

「ヒューマンライツ・ブレイカーは、この世界の法則そのもの改変する。文字どおり、かけられた者の人権を剥ぎ取ってしまう」

「人権を……?」

「この技にかかったら最後、誰からも認識されなくなるし、されたとしてもゴキブリ未満の扱いを受けることになる」

「……喬木議員」

 

 無様だった。

 

「ああ、やめろ。やめんか!」

 

 無様だった。

 

「わかった、給金じゃな。わかった、わかった、いくら……ごあああぁっ!」

 

 無様だった。

 

「お前の伴侶のことは残念じゃった! が、あれは仕方なかったんじゃ、仕方がなかったんじゃあっ!」

 

 無様だった。

 

「やめてくれ! や、やめてっ! やめてくれえっ」

 

 無様――だった。

 

「そこまでだ」

 

 俺は立ち塞がった。今にも主人を斬り殺しそうな集団の前に。

 どうして自分がこんなことをしたのか理解できなかった。

 

「……」

 

 敵の集団がまとめて日本刀を振りかざす。

 ……体が動かない。動かしたい、と思っても動かせない。

 そうか、死を。死を悟ったらこんな気分なんだ。よかった、これでようやく――

 

「由香里」

 

 名前を呼んでみた。ただ、それだけ。

 

「……ん?」

 

 目を開ける。 

 

「!?」

 

 刃を向けていた黒服が、みな床面に倒れ伏している……死んではいないようだ。

 

「これは……」

 

 ふと、彼らの真下から光が出てきて――あっという間に吸い込まれていった。

 

「どうしてだ? 渉。なぜ、こんなことをする」

 

 すぐ傍に来ている。

 

「ああ、これは。その」

 

 厳しい視線を感じる。

 

「まさか、信念もなしに助けたんじゃないだろうな?」

「……それは」

 

 すっかり縮こまった喬木に視線を投げる。涼しげな眼でこちらを見ている。

 俺は、集の方へと向き直って、

 

「集の言うとおりだ。許せない人だと思う。でも……俺は」

 

 集は黙って聞いている。

 

「俺が、集の立場だったら……殺して解決するんなら殺すし、殺して解決しないんなら……殺さない」

「……」

 

 反応はない。

 

「おい、どうなんだよ」

「……」

 

 反応はない。

 

「おいったら! 集」

「ぷ……ぶはははははははっ!」

 

 笑い出した。

 

「なにがおかしいんだよ!」

 

 さんざんと笑いこけてから、

 

「わかった、わかった! ほら――解いた。今、解いた。ヒューマンライツ・ブレイカーを」

 

 聞くやいなや、喬木がバッと起き上がる。

 哀愁の漂う顔つきで、

 

「……礼は言わん」

 

 聞いてみたいことがあった。

 

「喬木議員、教えてください。どうして和田先生にあんなことを話させたんですか」

「話させてなどおらん。わしにそんな能力はない……が、人の性を白日の元にさら曝け出すことはできる。あれは、あの女の本性じゃ。心の底にああいう感情があった。だからじゃ。それにしても、あそこまでの教員は初めてじゃ。正直、あの時はわしも小便ちびりそうになったわい」

「わかりました……でも、俺が知りたいのは、もっとこう、意図というか、動機というか……俺、思うんです。あなたは悪い人じゃないって。そう思う」

「まだ早い。大人になれば分かる。まあ、教えてやらんこともないが……気が向いたらの」

 

 そう言い残して、傷ついた身体を引きずって出口まで歩いていく――喬木の姿が消えたのを確かめる。

 

「……集。悪い」

「謝るくらいなら助けるんじゃねーよ」

「ごめん」

「チッ、しょうがねーな」

 

 俺の頭を撫で回している。

 

「おいこら、集! こそばゆい」

「はははは」

 

 割れた天窓の外を見た。日が暮れている。

 

「はははは、は……時間なんてあっという間だな」

「集。下が騒がしい」

「あれだけ暴れたらな。下の連中も怖くてしょうがなかったろう。さて、教育長と三川課長を迎えに行かないと。三川課長、今ごろガタガタ震えてるだろうな」

「普通はそうだろ」

「それにしても、講堂がこの有様じゃなあ。教育長からゲンコツをいただきそうな勢いだ」

 

 緊張が解けて笑いが吹き出してくる。

 

「じゃあな、集。俺は適当に消えるわ」

「おう。そうだ。今度さ、俺の家に来いよ。公務員試験のこと、いろいろ教えてやる」

「本当か!?」

「もちろん。ああ、でも、なるべく早い方がいいな。いろんな意味で」

 

 その日、俺は小躍りでもしかねない勢いで我が家に帰った。

 なりたい。絶対になりたい。集と同じ、ハッピーマウンテン市の職員になりたい! ああ、でも。俺、もう内定があるんだよな。集にあの手紙を見せたらどう思うだろう。別に、集の家に行かなくても――

 

「……あ」

 

 芽生えた、想い。

 疑惑という名の花と、それを摘み取ろうとする鋏。

 決めた。今、俺は決めた。

 

 (第13話、終)




明日の朝に最終話を投稿します。


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#最終話 だけど「大丈夫」なんて嘘を

「へえ、ここが」

「どうだ、狭苦しいだろう」

「なに言ってんだ、部屋が四つもあるじゃん。俺の家より広い」

「ははは、謙遜はよせよ……って冗談にもならんな。すまん」

 

 家が狭いだの広いだの、どうでもいいことだ。

 俺はいま、集の家にいる。国道に面したマンションの十一階、その一室。

 

「これが……公務員試験の問題集?」

「そうだ。魔導技術職採用試験にも筆記試験はある。この職種は、頭の回転の遅さが死に繋がるからな。頭の鈍い奴が入ってこないようにしてるんだ」

 

 パラパラとめくってみる。

 ……図表なんかが並んでいたり、何本も数直線が引いてあったり、クソ長い文章題だったり。

 とにかく、ちんぷんかんぷんだ。

 

「これ、何点くらい取ったらいいんだ」

「70点も取れば一次試験は通過できる」

「70点で?」

「世の中、大抵の試験は70点少々を合格ラインに定めている。公務員試験も例外じゃない。ただ」

「……ただ?」

 

 集は、キッチンまで歩いて行きつつ、

 

「先ほども言ったが、公務員には頭の回転が求められる。その問題集に載ってるやつを一問につき三分ちょいで回答できなければ合格は難しい」

「あー。なんか、もう……なあ、集。俺、どうやったらハッピーマウンテン市に採用されると思う? 公務員試験なんて、俺には難関過ぎてさ」

「焦るなよ。ほら」

 

 髪の毛を掻いていると、集がお盆に載せたコーヒーを持ってくる。

 

「まあ飲め」

「ありがと」

 

 ズズズ……コーヒーを啜った。

 苦い。

 

「にっげえよ、集!」

「おいおい、高い奴なんだぞ」

「あー、あー、にがいよ、にがい。口を洗わせてくれ」

 

 その場で起立をすると、ふらふらとダイニングの中をさまよい歩く。

 

『……もうちょっとか?』

 

 心の声に留めるはずが、呟いてしまう。

 

「おおっと! ストッピング!」

 

 ふらついた俺の身体を抱き竦める。

 

「ちょっと待ってろ。ジュース用意してやるから」

 

 元の場所に座らされてしまった。

 

「ジュースってどんなやつ?」

 

 集は、カーテンレールで仕切られた先にあるキッチンの冷蔵庫へと。

 カーテンは、半分ほどが開いている。

 

「好きなのを選べ」

 

 俺もキッチンに移動する。ドカッ、という感触が肩にあった。間仕切りのカーテンにぶつかったようだ。

 中途半端に閉じられたカーテンのせいで、冷蔵庫のあたりが暗い。

 

「どれどれ」

 

 狭いキッチンだった。二人も入ると動きにくいほどには。

 冷蔵庫を覗いた……庫内の飲み物は、すべて炭酸飲料だった。

 

「……あー、ごめん。俺さ、炭酸、飲めないんだ」

「そうだったか?」

「ごめん」

「謝るなよ。歩いて行ける距離にコンビニがある」

 

 集は、それだけ言うと、玄関の方へと。

 

「じゃ、欲しい参考書選んどけよ」

 

 出て行った。扉が閉まろうとする――よし、閉まった。

 恐る恐る、玄関扉に近付いてみる。

 

「よし、いない」

 

 廊下を進んで、さっき居たリビングに入る直前で立ち止まる。

 このスライド扉の向こうがリビング。リビングとキッチンは、カーテンを挟んでひと繋がりになっている。右手に進むとトイレと浴室。一番奥に集の部屋がある。

 

「トイレは見た。浴室も見た。となると……」

 

 集の部屋へと歩いていく。

 ハンカチを握った状態で、ドアノブに触る。

 

「……」

 

 ……開いた。見たところ、変わった点はない。

 左奥にベッド、右の方には本棚、事務机、洋服箪笥など。

 目を閉じて、息を吸い込んだ。吐き出す、言霊は。

 

「デモンズトレード」

 

 呟いた。

 

「手に入れるのは――真実」

 

 発動させたはいいものの、目を開けることができない。

 もし、もし。この部屋に。もし……!

 

「……ごふっ!」

 

 勢い、ハンカチを口に当てる。

 吐血だった。これくらいの代償は、もう慣れてしまった。

 肺のあたりと、瞼の裏側がめちゃくちゃに痛い……無理もない。今日、これで三回目だからな。

 一回目は、集の家に入った直後。集の目を盗んでリビングで。二回目は浴室で。

 

「こりゃ、もう、だめかな」

 

 フラフラとしながら廊下を進んだ。

 

「あれは!」

 

 まだ調べていないところがあった。

 廊下の壁面に備え付けてある押入れだ。こんなにオシャレな収納庫、生まれてこのかた見たことがない。

 

「デモンズトレードの効力は、まだ残ってるな……よし」

 

 心臓がバクバクいっている。一歩、また一歩と。

 ギギィ……玄関の方から音がする。

 

「待て、落ち着け」

 

 建て付けが悪いのだろうか? いや、今は気にすべきじゃない……ぼうっとする頭に、渇を入れたなら――

 物置を開けた。

 

「……なにもない。すっからかん、だ……はあ」

 

 力なく手が下がる。廊下を進んでリビングに帰った。スライド扉は開いている。サッシを跨いで中へと。

 正面には、窓ガラスが見える。ここは相当な高さだ、家賃も高いのかな。

 コタツ机。その上に広がる公務員試験の参考書がたくさん。テレビのリモコンと、コーヒーカップがふたつ置いてある。カーペットの色はベージュ、落ち着いた色合いだ。しかも暖かい。高いんだろうな。

 おもむろに、机の上にあるリモコンを手に取る。

 

「使い方がわからん」

 

 カーペットに放り投げた。キッチンの方に歩き出す。

 冷蔵庫に向かっている。炭酸が飲みたくなったから。

 本当は、炭酸飲料が大好きだ。砂糖がたっぷりと入っているであろう。

 リビングとキッチンとを仕切っているのは、半分ほどが開け放たれたカーテンだ。

 

「ああ、このカーテン。さっきもぶつかりやがって」

 

 右の奥にある冷蔵庫へと歩を進めるため、カーテンを右いっぱいに、開け放った――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。

 

 ……由香里がいる。服を着ていない。生まれたままの姿。

 

「え?」

 

 手の震えが止まらない。手だけじゃない、足元だって――心臓も。

 

「え? なんでだ、由香里? なんで……片脚が無いんだ?」

「え? え? なんで?」

「おかしいだろ、なんで。なんで、そんな穏やかな顔で」

「由香里、あ、ああ、あ……なんだ、生きてる? そっか、そうだよな。ああ、」

「……見たな? 渉」

「え? ……あ……あ」

 

 振り返ると集がいた。スポーツドリンクを携えている。

 

「ああ、これな。コンビニに行かなくても、エントランスの自動販売機で売ってるんだ」

 

 笑顔だった。

 

『ああ、ありがとう。それ、もらうよ』

 

 この期に及んで、そんなことを言おうとしていた。言わなきゃならないのは、もっと別のことだろう。

 心臓の高鳴り。この動悸、この圧迫、この緊張――

 でも、この一歩を踏み出さなきゃ、たとえ死んだ後だって後悔する……に違いない。

 

「集。どうして、こんなことをしたんだ」

「ああ、それのこと?」

「どうして、片脚が無いんだ?」

「ああ、右脚? 美味しかったよ」

「……わからないな。なんでそう、平然と答えられる?」

「だって、俺、人間じゃないし。人間の肉が好きなの」

 

 いつもと変わらない。あまりにも変わらない。

 必然、込み上げてくる感情。

 

「どうして食ったんだよッ!!」

「あー。経緯から行こうか、結論から行こうか。どっちがいい」

 

 身体が動く方が早かった。

 ――突進。最速で、最短のアプローチで組み手を奪う。

 引き手ッ! 釣り手ッ! 柔道の構えが成る。両手で体幹を揺さぶるとともに、振り上がった右足が、まっすぐに膝裏へと――当たったッ!

 

「……え?」

「いや、そんなんで俺が倒せるわけないじゃん」

「ごぷっ」

 

 抜き手が左肺を刺し貫いている。『あぁ、穴が開いてるんだ』と直感する。カーペットに倒れ伏した。

 

「さて。それじゃあ、話しやすい順番でいくな。渉くんがさ、今年の四月中頃に傷害事件を起こしたよな? けれども、渉くんの指導を進んでやりたいという教師はひとりもいなかった。とーぜん、同じ使用者(エッセ)である俺にお鉢が回ってくるよな。しかしだ。渉くんがさ、思ったよりもはるかに面白い奴だった……ここまではいいか?」

 

 頭に入れようとしても、入らない。

 血が、ドバドバと流れ出ている。

 

「聞き終わる前に死にそうだな。よし、巻いていこう……そんな時、気が付いた。渉くんがさ、由香里ちゃんのこと好きなんだって。文化会館の時だ。それで、いろいろと画策して……今、この時を迎えたというわけ」

「……それ……で……結局は……なんなんだよ」

「わからないか? なんとなくでも。渉くんがさ、せっかくと俺のことを信頼してくれてるわけじゃない。それでさ、渉くんが大好きな、人生にとっての太陽である由香里ちゃんをさ、俺のものにしてさ、初めてのキスから、初めてのセックスから、殺害する権利から、血肉を食べる権利から、なにからなにまで、こうやって奪い取った後でさ、打ち明けるのは……おもしろい、ということにならないか?」

「……」

 

 涙が溢れてきた。

 目から溢れて、頬を伝って、カーペットに落ちて。

 

「というわけで、俺はお前に嘘をついていた。ひとつ。文化会館まつりの時、スタッフの動員依頼をかけただろ? あれ、嘘。普通に考えて、中学生なんか動員するわけねーだろ。由香里ちゃんの性格を把握したかったから。ふたつ。文化会館の四階が襲われた時、俺は負傷者を優先して助けたろう。あれ、嘘。負傷者なんていない。俺が幻影で作った。お前らが使用者(エッセ)として、どの程度の腕前なのか興味があったから。お前らが本当に死にそうになったら、あのデカイ奴は即座にブチ殺してたろうな。みっつ。渉くんが高森さんと戦った日だけど、あいつの召喚獣を破るのに手こずったって言ったよな。あれも嘘。わざとギリギリになって参戦した。渉くんさ、なんか能力隠し持ってるよなーって思ってたら、まさかあんな化け物じみた能力だったとは。よっつ。渉くんさ、俺が由香里ちゃんの家の玄関前で、そういうことしてるの見たよな。由香里ちゃんさ、俺にメロメロになってたよな。あれ、嘘。実は、何度も会ってるうちに、少しずつ催眠を上塗りしてたんだ。そんなわけで、俺と由香里ちゃんは、五月五日、あの文化会館まつりが終わった日の夜、初めてのラブラブセックスと相成ったわけだ。いや、なにが言いたいかって、こどもの日にこども作ってんじゃねーよって話。いや、すごかったね、布団の上の由香里ちゃんは。ちょっとばかし、しこりのある乳房。でもさ、重みがあって、それがまたいいんだ……いや、ハタから見るとラブラブセックスだったよ。動画サイトにもアップしたけど、すげえ高評価だったし。いや、でもさ、由香里ちゃんが俺に惚れてたわけじゃない。あくまで催眠。本人は、むしろ俺のことが大嫌いときてる。ここ、大事な部分。一回さ、セックスしてる時に催眠を解いたことがあるんだけど、そりゃあもう、スゴイ反応だったね。俺、感動して涙が出てしまった……

ああ、でも勘違いするなよ。由香里ちゃんの初めては俺じゃない。あの母親、水鳥さんがさ、またすごいんだ。由香里ちゃんが家に帰って来るとさ、居間に知らないオッサンがいるわけよ。それで、引き合わせて挨拶をさせる。もうわかるだろ? 実の娘を売ってるんだよ。あの子の箪笥に凄まじい数の下着があったのはそういうことだったんだな……いやぁ、俺、あまりに罪深くって射精しそうになってしまった。まあそう、心配すんなよ。俺が由香里ちゃんとセックスしたかったから、客は全員ブチ殺しておいた。ああ、あと。サービス中のキスは禁止だったみたいだ。やろうとした客がいたけど、水鳥さんが三〇発ぐらい殴って失神させてたっけ。まあ、俺には関係ないから、シラフの状態でもすぐ発情する程度にはキス調教してやったけどな。知ってるか? 由香里ちゃん、キスがめちゃくちゃ上手いんだぜ」

 

 ……話の内容は入ってこない。でも、とんでもないことを話しているのはわかる。俺はただ、こいつが、こいつが――!

 最後の力を振り絞って、立ち上がる。

 力が入らない。膝が震えている。

 

「最後、いつつめ。先週、喬木と戦った時、俺、はっきりいって苦戦してたよな。あれも嘘。やろうと思えば、一分程度でブチ殺せたよ」

「……もう、話は終わりか?」

「ああ、終わり。どうだ、なにか感想でも」

 

 ――《幻 想 変 換(デモンズトレード)》――

 

「おぉ、面白いっ! さあて、なにをやるつもりだっ?」

 

 心は、決まっている。

 

「手に入れるのは――俺の本心。俺の本当の気持ちが知りたいっ!」

「へえ、面白いね。聞かせてくれよ」

「代償は……」

 

 集の目を見つめる。涙が溢れてきた。

 

「代償は……お前の命だ。三良坂集」

「……は?」

 

 見えない、けれど確かな物理的綻びが――集の肉体に幾筋も走る。綻びのラインは、やがて真っ赤に変わって、

 ブチブチブチブチイィッ!

 

「ぎいいいいッ!」

 

 ズタズタに引き裂かれ、バラバラに砕け散っていく男を一瞥する。

 

「あ、が、やめ、や、やめてくれえええええぇッ!!」

 

 叫び声を聴いている。

 

「あ、あ……由香里、由香里」

 

 這いずり回る。由香里らしきものとの距離が詰まっていく――

 やっと、やっと辿り着いた。由香里のようなものを見る。

 

「あ、これ……死んでるんだ」

 

 由香里が死んでいること。今、初めて確信した。

 表情だけを見ると眠っているようにしか見えない。けど、存在しているんだ。生者と死者との境目が。今ここに。

 

「……」

 

 頬に触れる。

 

「……由香里。俺さ、ずっと……お前になりたかった」

 

 頬を撫でた。

 

「すげえよな。あんなに、毎朝ビシッと挨拶決めてさ。無視されるって、わかってるのに」

 

 手が頬からずり落ちる。

 

「あと、俺。国府の森に入りたい、って言ってたじゃん。嘘なんだ、あれ。本当は、自殺したかった……あいつらには見抜かれてたよな。笑える……なあ、由香里。進学するとかさ、就職するとかさ、家の仕事を手伝うとかさ、色々と進路があるじゃん? だったらさ、その中にさ、自殺、っていう進路があってもいいんじゃないかって。そう考えてたんだ」

 

 由香里の瞼を見つめる。

 

「ごめん」

 

 由香里だったものに触れようとする。

 

「うっぐっ……!」

 

 やっぱり。左の肺に穴が開いてる。なんでまだ生きてるんだ?

 

「あ、あ……」

 

 さよなら、由香里。

 

「あー、痛かった。渉くん。俺、死ぬかと思ったよ」

「うそ……だろ……」

 

 振り向かずともわかる。当前のようにそこに立っている。

 

「残念。俺は、お前の大事なものじゃなかったみたいだ」

「う……」

 

 集の肉体。冷蔵庫の扉に映っている。まだ左半身が戻っていない。

 けど、みるみるうちに肉体だったものが集まっていく。

 俺は目を閉じる。

 

「……」

「さーて。それじゃあ終わりにするか」

「……」

「ん、どーした? もしや、絶望とか通り越して、むしろハッピーに? そんなわけないよな。でも、渉くんなら」

「……」

 

 集が攻撃をしてこないのは……俺を恐れているからだ。

 そうだ。集は、いま死にかけた。万全でない状況で攻撃を仕掛けることはないと考えていい。

 少しだけど、時間はある。

 

「おいおい、渉くん。無視はやめようよ」

「……」

 

 何をすればいい? いや、何をすべきだ? 俺は何がしたい? 何をやりたい?

 それがないなら、この場で死ぬべきだ。

 ――それがないんなら、この場で死ぬべきだ。

 

「冷たいね。死線をくぐった仲じゃん、俺達」

「……」

 

 罪。今、思いついたばかりの、罪。

 

「じゃ、そろそろいこう……渉。楽しかったよ……またな」

 

 目を見開いた。冷蔵庫に映った影――左手が変形して、水晶色の鋭利な物体と化している。

 

「なあ、集」

「どうした? 渉」

「ありがとう」

「……何が?」

 

 ――《幻 想 変 換(デモンズトレード)》――

 

「俺の願いを、叶えてくれて……しかも、ふたつ」

「チッ」

 

 斬突が飛んでくる。

 その刃は、俺の心臓をまっすぐに刺し貫いた後、ただ虚しく宙にあるばかりの存在となった。

 ――俺は、生きている。だって、俺の体は、もうこの世界にはないから。

 

『手に入れるのは……由香里』

「……は? 嘘だろ」

『代償は――俺の命』

「ハハッ」

 

 こりゃあなんだ? 理屈じゃねえ、何が起きてやがる? 細かな粒子と化した渉の体が……由香里ちゃんの中に入っていくだとッ!?

 一つになろうとする肉体。頭、首、肩、胸、胴体、手足、指――  

 

「……!」

 

 欠けていた右脚が凄まじい速度で再生している。肉体の張りも瑞々しく。この二人の身体が正しく歪み続けている。

 

「笑うしかねーだろ、こんなの」

 

 そして再構成を終えた体――その目がゆっくりと見開いた。

 

「……」

 

 仰向けの姿勢から、だるそうに上体を起こす。

 床に指を立てつつ、膝を曲げる。

 すっくと立ち上がった、その肉体は、紛れもない――汐町由香里(しおまちゆかり)のもの。

 

「これが、由香里の……からだ」

 

 周りを見渡している。

 

「……」

 

 名状しがたい表情、としか言いようがない。

 

「これが、由香里の……こころ」

 

 心臓に手を当てた。その鼓動を確かめるように。

 

「……ああ、やっとだ、やっと解放された。強い人間に……なったんだ……!」

「あ、あぁ。その……よかったな。おめでとう」

「……」

 

 声が止まる。何も言わなくなった。

 

「お、おい……?」

 

 俺のすぐ横を通り過ぎたその女は、いま下の自動販売機で買ってきたばかりの飲み物が床に転がっているのを確かめる。

 躊躇はなかった。その女が蹴っ飛ばしたペットボトルは、そこらへんの壁にぶつかって、べコッ、という音とともに俺の方へと跳ね返ってきた――たった、それだけのこと。



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