石上優は見舞いたい (瑞穂国)
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石上優は見舞いたい

石つば小説を書こうとしたけど、情報量が足りなくて、拗らせた結果なぜか石ミコ小説が生まれました。なんでだ・・・

でもとっても楽しんで書けたので、全然オッケーです


「なっ・・・んで、石上がいるのよ」

 

扉が開かれるなり発せられた第一声に、石上は無言をもって答えた。目の前の伊井野に、一から事情を説明するのが面倒―――というよりも、できればここまでの詳細を語りたくないというのが、石上の本音だ。

いつも通りの調子で石上の言葉に反応した伊井野。だがその姿は、普段のきっちりとした、いかにも風紀委員らしい格好からは程遠い。緩い寝間着は皺だらけで、今まで寝ていたことを窺わせる。小さな伊井野の顔に比して大きなマスクから覗く、朱の差した表情は、明らかに羞恥から来るものではない。潤んだ瞳には、いつもの鋭さが宿っていなかった。

それがどうにもいたたまれず、故に石上は努めて普段通りに、溜め息など交えつつ、ビニール袋を掲げて答えた。

 

「見舞いに来たんだよ。伊井野が、風邪引いたって、聞いたから」

 

 

 

 

 

 

時間は今日の朝まで遡る―――

 

朝礼ぎりぎりに登校してきた石上は、すぐに違和感とその正体に気づいた。

 

―――「遅いわよ」

―――「もっと早く来なさい」

 

毎日のように前の席から浴びせられる小言が、今日に限ってはない。それもそのはずだ。学校にはいの一番に登校して、朝礼まで自習や風紀委員、生徒会の活動に精を出している伊井野の姿が、今日に限ってはない。活動が長引いているのかとも思ったが、担任が教室に入ってきても、一向に伊井野は姿を現さなかった。

 

「ああ、ミコちゃんなら風邪引いて休むって」

 

文化祭以来、伊井野と親しくしている小野寺は、石上の質問にさらっと答えた。

 

―――伊井野でも、風邪なんて引くんだな。

 

石上の率直な感想であった。

真面目が制服を着ているような伊井野である。常に模範生らしく振舞う彼女は、当然ながら学校を休んだこともない。体調管理にまで気を遣い、決して欠席をしてこなかった。

その彼女が、風邪を引いたというのである。石上にしてみれば、青天の霹靂に近い衝撃だ。何かよほどの事情があったのかもしれない。

 

だが、とそこで石上はかぶりを振った。いくらなんでも考えすぎだ。

季節は冬。学年末テストを控えた二月だ。風邪の一つや二つ、引いたって別におかしくはない。インフルエンザの可能性だってある。

とにかく、何もなかったのであれば一安心だ。石上の考え得た最悪のパターンは、意外とチョロい伊井野が登校中に口車に乗せられ、誘拐されることだった。

 

 

 

「石上、ミコちゃんのお見舞いに行ってきなよ」

 

本日二度目となる青天の霹靂が石上の脳天を直撃したのは、終礼が終わった直後だった。

雷を落とした張本人・小野寺は、澄ました顔のまま石上の前に立っている。

 

「な、何で僕が?」

「だって石上、ミコちゃんと仲いいじゃん」

 

何かとんでもない解釈違いが起こっている気がした。

 

「いやいや、それは絶対ない。第一、伊井野は僕のこと、嫌ってるだろ」

「まあ、そうだね」

 

否定しないのかよ。

 

「でも、石上といる時のミコちゃんは、めちゃめちゃイキイキしてるよ」

「・・・は?」

「だから、石上がお見舞いに行ったら、風邪なんてすぐ直るんじゃない?」

 

小野寺の視線は、今回も真っ直ぐだった。

 

小野寺は、いわゆる陽キャ・リア充と呼ばれる人種に分類される。言葉を選ばなければ、その見た目も言葉使いも、随分とチャラい。だが、体育祭、文化祭を通して石上が感じた小野寺の印象は、真っ直ぐな、自分に正直な女生徒だ。キャンプファイヤーの許可を取り付ける際も、彼女は積極的に伊井野に協力していた。そういう、自分の意見を言える我の強さ、ある種の頑固さが、伊井野と馬が合う理由なのだろう。

だから、遠慮なくこちらを見る真っ直ぐな瞳と言葉に、嘘偽りのないことを、石上はわかってしまう。

 

「何だよ、その矛盾だらけの論理は」

「別に、矛盾なんてないでしょ。()()()()()()だと思うけど」

 

その確信がどこから来るのか、石上には皆目見当もつかなかった。

 

 

 

 

 

 

そんな経緯があって、石上は伊井野の見舞いにやってきたのだった。

 

「見舞いに来たんだよ。伊井野が、風邪引いたって、聞いたから」

 

小野寺とのやり取りを全てすっ飛ばして、石上はそれだけ答える。

伊井野はキョトンとした表情を浮かべた。マスクで隠れたその口が何かを言うことはない。夕焼けの中、石上と伊井野はしばらく黙って向かい合っていた。

 

「っ!」

 

と、突然伊井野は、玄関の扉を閉じようとした。

 

「ちょっ」

 

あまりに唐突な出来事に、石上は慌てて扉の隙間に足を差し込む。病人とは思えない力で土踏まずが圧迫され、鈍痛が走った。

 

「おまっ、そんなに僕が嫌かよ」

「ちがっ・・・違う、からっ。いいから、少し待っててっ」

 

扉の向こうから聞こえた伊井野の声には、聞いたことがないような必死さがあった。拒絶、ではない、と石上は感じた。今は大人しく、伊井野の言うことを聞くべきだとも。

そっと足を引き抜く。閉じる寸前、扉の隙間からこちらを覗いた伊井野は、やはりどこか弱々しい声で、先と同じことを繰り返した。

 

「・・・少し、待ってて」

「・・・おう」

 

見たことがないほどしおらしい態度に、石上は戸惑いながらも頷いた。

 

待つこと五分。玄関で手持無沙汰にしていた石上は、伊井野の手で家の中へと招かれた。

 

「・・・入って」

 

―――いや、プリントだけ渡して、帰るつもりなんだけど。

 

とは、言えない雰囲気で、石上は黙って頷いた。何より、風邪で弱っている様子の伊井野を、放ってはおけなかった。

 

伊井野の家は、どこかガランとしている。広いとか、そういうことではない。人の気配がしない。生活感がしない。温度とか匂いとか、そういう生活しているうえでどうしたって生まれるものが、この家にはない。

うっすら感じられるのは、どこかで嗅いだことのある香りだけ。

 

「伊井野、親は?」

「仕事。家政婦さんも、今日は来れなくて」

 

つまり今日、伊井野はこの家にたった一人だった。

 

―――・・・それは。

 

何とも言えない感情が、石上の中で沸き起こる。この感情に名前なんてない。ただ何かが、石上の心にわだかまる。

いつも頑張っている奴が、弱っている時に、たった一人という現状。それは何かが間違っていると、石上は感じていた。

 

通されたリビングで、石上は学校から預かっていたプリント類を取り出す。

 

「これ、今日配られたプリント。テストの範囲表も入ってる」

「・・・ん。ありがと」

 

調子が狂うというのは、こういうことを言うのだと思う。噛みつくような覇気も、小型犬のような威勢も、今の伊井野からは全く感じられない。そこにいるのは、風邪を引いて弱っている、少し背の低い少女。学校でのやり取りとはあまりにもかけ離れていて、それが石上の調子を狂わせる。普段通りの石上に対して、明らかに違う受け答えをする伊井野に、戸惑いを隠せない。

 

石上はさらに、持ってきたビニール袋を掲げる。中身はスポーツドリンクや、ゼリー、果物の缶詰やらだ。

 

「それからこっちは、差し入れ」

 

テーブルの上に置いた袋の中身を、伊井野は遠慮がちに覗き込んだ。それからまた、「助かる」などと、弱々しい声で言うのだ。

 

だが、それ以上の言葉は、両者の間にない。

そもそも石上は、ここに世間話をしに来たのではない。病人の見舞いに来たのだ。プリントと、差し入れさえ渡したら、帰るつもりだった。それが、気づけば家の中に招かれ、ここにいる。だからだろうか、今更、たった一人の伊井野を置いて帰っていいものか、迷っている。

伊井野は伊井野で、何かを言いたそうにしながら、しかし何かを言い出すわけでもなく、もじもじと床を見つめていた。

 

「なあ、伊井野」

 

何とか会話の糸口を掴もうと、石上は口を開く。

 

「さっきは、部屋の片づけでもしてたのか?」

 

もしそうなら、そんなことをしなくてもいいのにと、言うつもりだった。病人の第一は、すべてに優先して休息だ。人を家に上げるために、片づけなんてしなくていい。

伊井野は真っ赤な顔をさらに赤くして、答える。

 

「ち、違う。家はいっつも、きれいにしてる」

 

どこかいじけた、髪をいじりながらの言葉だった。

 

「ていうか、あんまりジロジロ見ないで」

「あ、ああ。すまん」

 

精一杯きつくした目元に安堵する。いつもの伊井野だ。今の今まで、実は別人なのではと、ほんの少し、思っていた石上であった。

日頃の調子を思い出し、石上はさらに言葉を続ける。

 

「それで、体の具合はどうなんだ?熱は?」

「・・・朝よりは、大分下がった、と思う。体はまだだるい」

「そうか」

 

一先ず熱の具合を確かめようと、石上は伊井野の額に手を伸ばす。ひたり、触れたおでこは確かに熱い。同じようにした石上の額よりも、おそらくは一度ほど、体温が高いはずだ。

 

「・・・石上の手、冷たい」

「さっきまで外にいたからな」

 

二月の外気に触れた手は、確かに冷たかっただろう。

 

とりあえず、伊井野を椅子に座らせて、熱を測るように促す。石上はその間に、持ってきた差し入れを冷蔵庫に入れることにした。伊井野が飲みたいと言ったスポーツドリンク一本を残して、残りを袋に入れたまま立ち上がる。

体温計を手にした伊井野は、スイッチを入れ、それを脇へ差し込むところだった。

 

「・・・んっ」

 

見てはいけないもののような気がして、石上は慌てて目を逸らした。

体温計を差し込むとき、伊井野はあろうことか、寝間着の胸元から手を突っ込んだのだ。白い鎖骨と谷間が、当然のようにちらつく。

 

心頭滅却。石上はそう念じながら、冷蔵庫を開く。

冷蔵庫の中身はよく整理されていた。どこに何を置くべきなのか、初めて見た石上でも容易にわかる。整理の仕方に従って、持ってきた差し入れを冷蔵庫に仕舞っていった。

 

冷蔵庫を閉じて、石上は伊井野の方を振り向く。体温計はまだ鳴らないのか、背もたれに身を預けて、伊井野はゆっくり息をしている。深い呼吸に合わせて、想像以上に大きな胸が上下していた。

やはり見てはいけないもののような気がして、石上は目を逸らす。

 

伊井野の体温は三十七度九分だった。

 

「まだ結構熱あるな」

「・・・ん」

 

頷いた伊井野から、腹の虫が鳴く音がした。

一瞬流れた沈黙。石上から目を逸らし気味に、伊井野は小さな声で言い訳する。

 

「お昼、少ししか食べてなかった、から」

 

思わず吹き出しそうになってしまったが、それを寸でのところで堪えた。今笑ったら、大して痛くない本気のパンチを、ポカポカと喰らうことになる。

 

「キッチン、借りていいか?何か作る」

「石上、料理なんてできたの?」

「・・・いくら僕でも、お粥くらいは作れる」

 

再び立ち上がり、石上はキッチンへと向かった。冷蔵庫の中身は、さっき大体把握できた。お粥とスープくらいは作れるはずだ。

 

「伊井野、部屋で休んでていいよ。できたら声かけるから」

 

伊井野から返事はない。米の量を計りつつ振り返ると、伊井野は机に寝そべって、じっとこちらを見ていた。

 

「・・・伊井野、」

()()()()()

 

ようやく答えた伊井野の目は、弱りながらも確かに据わっていた。こうなった時の伊井野が、死んでも譲らない性格であると、石上も把握している。

 

「ここに、いさせて」

 

もう一度言われては、石上も溜め息交じりに承諾するしかなかった。まあそもそも、ここは伊井野の家であるわけだし。

 

伊井野の視線を感じつつ、石上は料理に取り掛かる。白銀のように普段から手料理をするわけではないが、人並み程度にはできるつもりだ。

伊井野の家で、風邪を引いた伊井野のために、料理をする石上。その現状を何かに例えそうになって、石上は慌てて目の前の作業に集中することとした。

 

 

 

♀♀♀

 

 

 

ミコの体はだるく、節々痛くて意識も曖昧だが、最低限現状を把握しているつもりであった。さすがに現実と夢の区別はつくし、今目の前の光景が現実であることも認識している。

ただふとした時に、これは夢なんじゃないかと思ったのは、事実だ。

 

ミコの家に人はいない。いるのは基本的にミコ一人で、家政婦さんも住み込みではないし、毎日来るわけでもない。忙しい両親とは、月に数回、顔を合わせられればいい方だ。それも、家族揃って食卓を囲むなど、年に一回あるかないかだ。それがミコにとっての当たり前だった。

故に、一人でいることに抵抗はなく、一人でいることを寂しいと思ったことはない。

強いて言えば、両親がこれほど忙しくしなければならないほど、悪意に満ちた世界が許せなかったことくらい。

 

だから、たとえ風邪を引いて、家に一人でも、いつもと変わらない―――はずだった。

 

―――咳をしても一人。

 

自室のベッドで寝転んでいる間、家の中に物音なんてしない。響くのは自分の咳と、寝返りを打つ音。間違っても、誰かが部屋のドアをノックして、中に入ってくることなんてない。

それが当然で、当たり前。寂しくなんてない。けれど・・・けれど、本当にほんとうに、ほんの少しだけ・・・心細かった。

 

だからという訳ではないが、夕方に鳴ったインターホンに、そして玄関前に立っていた()に、とてもとても驚いて・・・泣きたくなるほど、安心した。

 

それ故に、今でも、この光景が夢なんじゃないかと、思えてしまう。

キッチンに立つ石上。学校帰りの制服と、だらしない寝間着。いつも角を突き合わせている大嫌いな相手と、いつもとは違う形で同じ部屋にいる。そんな現実を、あるがまま受け入れろという方が、無理な相談だ。

 

頭を両腕の上に乗せ、ただ静かに、石上を見つめる。ここにいるとは言ったものの、やることはないし、気力もない。できるのは、じっと、石上の様子を見ることだけだ。

でも、今はそれでいいと思えた。

別に、石上の側にいたいわけじゃない。断じてない。けれど今は、誰かが近くにいることを、確かめていたかった。

 

料理をする石上は、時折ミコの方を振り向く。何かを問いかけることもなく、数秒こちらの様子を見て、再び料理に戻る。そんなことを繰り返していた。

 

―――心配しすぎよ・・・ばか。

 

おかげで、途切れることのない安心感を、ミコは感じていられた。

 

やがて、できたての料理を、石上がお盆で運んでくれる。並んでいたのは、シンプルな卵粥と、中華風のスープ。具材はそれほど多くないが、だるさの残る体には優しい見た目だった。

 

「いただきます」

 

手を合わせ、お粥を食べ始める。見た目に違わず、優しい味付けだ。薄い味と、ほんの少しの塩気。暖かな湯気が、ゆっくりゆっくりと、体の中に染みてくる。

 

「どうだ?」

 

正面に座った石上が、ミコに尋ねてくる。いつぞやのチャーハン対決を思い出しながらも、ミコは素直に答えることを選んだ。それが、ここまでしてくれた石上への、せめてもの礼儀だと思った。

 

「・・・うん、おいしい」

 

石上はあの時のように、「へえぇぇ・・・」と勝ち誇った笑みを浮かべ―――てはいなかった。

ただただ優し気で、まるで―――まるで大切な人を見るかのように、石上は柔く笑っていた。

 

「そっか」

 

どういう訳か熱くなる頬をごまかそうと、ミコは慌ててスープに口をつけた。

 

 

 

♂♂♂

 

 

 

「じゃ、これで帰るよ」

 

食器の片づけを終えた石上が、そう言って玄関のノブに手をかけたのは、まもなく午後八時を回ろうかという時間になってからだった。

玄関まで見送りに来てくれた伊井野が、こくりと頷く。相変わらず顔は朱いが、いくらか調子がよさそうだ。とろんとしていた目も、今は普段通りの輝きを取り戻している。やはりご飯を食べたのが大きいか。

 

「スープは少し作り置きあるから。温めて食べろよ」

「うん。明日は家政婦さんも来るし、大丈夫」

「そうか」

 

それだけ確認して、石上は玄関の扉を開く。随分と長居をしてしまった。

 

「石上」

 

ふと、今まさに背後で閉まろうとした扉から、伊井野が手を伸ばしていた。その指先が、石上の袖を摘まんでいる。

 

「今日は、ありがと」

 

マスク越しでも、笑っているのがわかる。脳裏によぎるのは、文化祭の夜の、あの笑顔だ。

こちらを見上げるようにして浮かぶ笑顔は、実に―――

 

否、と石上はかぶりを振った。

 

自分よりもずっと小さな背。学校にいるときは思いもしなかったが、こうしてみると、簡単に折れてしまいそうなほど、伊井野は小さく儚い存在に思えた。この体のどこから、あれだけの頑張りが絞り出されているのか。石上にはとんと想像がつかない。小うるさい同級生ではあるが、それでもその努力は、きっと報われてほしいと、願っている。

それ以上でも、それ以下でもない―――はずだ。

 

「どういたしまして。それじゃ、また学校で」

 

短く答えて、石上は伊井野に手を振り、家路についた。

 

 

 

 

 

 

伊井野が学校に来たのは、石上が見舞いに行った二日後だった。

相も変わらず朝礼ぎりぎりに登校した石上は、自分の前の席に人影がいるのを認める。校則通りにきっちりと制服を着こなす伊井野。その姿に、二日前の寝間着が重なった。

 

見舞いに行った、ただそれだけだ。成り行きで家に上がり、夕飯を作ったりはしたが、ただそれだけだ。仲が良いかどうかはともかく、多少なりと関わりのある同級生を見舞いに行って、図らずも普段とはかけ離れた姿を目にした。本当に、ただそれだけなのだ。

だが、今こうして、いつも通りの伊井野を目にしたとき。やはりどうしたって、あの日のことが思い出される。

 

平静を装って、石上は自分の席につく。間髪を入れずに振り向いた伊井野からは、普段と同じように小言が、

 

「お・・・はよう、石上」

 

飛んでこなかった。

 

完全に説教を聞き流そうとしていた石上は、予想もしなかった不意打ちに、自分でも信じられない勢いで顔を上げた。そこには当然のことながら、体を捻ってこちらを振り向く、伊井野の顔がある。

ただありきたりな、しかし二人の間ではついぞ交わされたことのなかった、朝の挨拶。それをたった今発した伊井野は、すでに風邪も治ったはずなのに、わずかに頬を赤くしていた。

 

「お、おはよう。風邪、治ったんだな」

「・・・うん、おかげさまで」

 

何とも殊勝な態度に、再び石上の調子が狂う。間の抜けた顔をしているのが、我ながらはっきりとわかった。

 

プイと伊井野が前に向き直ったその時、担任が教室へ入ってきて、朝礼を始める。だがその間も、石上の意識は目の前の少女に引き寄せられて、上の空であった。

 

 

 

♀♀♀

 

 

 

記憶なんてものは、そうそう簡単に消えたりしないものである。

いくら風邪を引いて、弱っていたからといって、その間の記憶がきれいさっぱり抜け落ちているなんて、そんな都合のいいことはまず無い。

故に、ミコは石上が見舞いに来た日のことを、ばっちりくっきり憶えていた。

 

あの日は、意識がはっきりしなくて、思考もあやふやだった。が、風邪が治った途端、あの日のことを思い出したミコは、あまりにあんまりな自分の行動に、死にたいほど悶絶していた。

自分以外に誰もいない家に男子を上げるだけでも、十分にスケベだというのに。その上、差し入れだの、熱を測るだの、お粥を作らせるだの、それはまるで―――

 

―――まるで同棲してる恋人みたいじゃないっ!!

 

それ以上の思考はあまりに刺激が強すぎたので、ミコは強制シャットダウンした。

 

そもそも。そもそも、だ。相手はあの石上である。ミコとは決定的に反りの合わない、石上である。視界に入れるのも嫌なほど大嫌いな、石上である。

()()()()()は、絶対に絶対に、何があったってあり得ない。そのはずなのだ。意識するだけ馬鹿らしい。

 

・・・けれど。

あの日の石上の姿が、何度も何度も、フラッシュバックする。玄関に立つ姿。ミコを心配する姿。キッチンで料理をする姿。なぜか、優しく、笑った姿。

あの姿も、紛れもなく石上だ。嫌いなはずのミコを、疎ましいはずのミコを、心配して、側にいてくれたあの姿も、石上だ。

それだけは、認めなければなるまい。

 

だからといって、何かが変わるわけではないのだと思う。石上は相変わらず、ゲームだの漫画だのを平気で持ち込む不良学生なのだろうし、それをミコが注意し続けることにも変わりはない。二人の馬は決定的に合わないままで、やはり意見と主義主張はぶつかり続けるのだろう。

 

ただ。ただ、せめて。

普通の挨拶を交わすくらいには、なりたい。ごくごくありきたりな同級生くらいには、なりたい。

そんなことを思った理由も経緯も、ミコには皆目見当がつかなかった。

 

いつも通り、朝礼ぎりぎりの時間にやってきた石上を見つける。いつも通り、石上は特に誰かと話すわけでもなく、ミコのすぐ後ろの席にやって来る。その石上を、ミコは振り返った。

決意。覚悟。深呼吸を挟んだミコは、ただ一言、どこにでもありふれている言葉を、訳の分からない緊張感の中で、口にした。

 

「お・・・はよう、石上」




石つばも石ミコもどっちも好みなのですが、何でもいいから早くクリパの話が見たいっていうのが本音です。今夜が楽しみだなー


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