瞼の裏には ( 白山胡蘿蔔)
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インディゴ

「山吹さん、今日はお疲れ様でした」

「お疲れ様です」

 ライブハウス、スタッフの詰め所。四畳くらいの狭い部屋は、書類やら何やらがうず高く積まれた机と椅子をふたつ置いただけで一杯になっている。そして私、山吹沙綾は椅子に座って父親より少し歳下ぐらいの男と向き合っている。彼はここの店長だ。

「ノルマ達成、バック分はこちらです」

「…はい」

 渡された封筒の中には千円札が三枚入っていた。ライブにつきものな"清算"。ノルマは要するにこっちが払う出演料で、自分達の呼んだ観客が払ったチケット代で相殺される。ノルマ以上に呼んだ人数分のチケット代は払い戻される、それがバック分。今回もどうにか自腹を切ることなくライブが出来た。

「対バンの子たち、凄かったでしょ」

「……」

 にやりと笑う店長に言われて、今回の対バン相手を思い出す。youthinema…ユーシネマ、と読むらしい。彼女達は私達と同じ21歳のスリーピースバンドだった。

 ベーシスト。腰の上まである長い髪を揺らしながら、へその位置に構えたベースを指で爪弾く。その太い音が土台となり、バンドを支えているのがわかった。音作りはりみと似ているけど、技術は(恐らく)比べ物にならないくらい上だ。どっしりとしたルート弾きに、要所で顔を出すメロディアスなフィルインがギターとドラムのふたつを繋ぐように流れていた。

 ギタリスト兼ボーカリスト。毛先が丸まったショートボブの髪型に、眠そうな目つきがミステリアスな雰囲気を醸している。右手でフレットを押さえ、左手に持ったピックでギターを掻き鳴らす。所謂レフティだ。風貌だけでなく、その技量も際立っていた。リズミカルで豪快なバッキングを弾いたかと思えば、ガラス細工を扱うように繊細なピッキングでソロを奏でる。男性とも女性ともつかない歌声は、どこまでも響き渡るような力強さと、ふとした拍子に消えてしまいそうな儚げな魅力を兼ね備えていた。

 そして、ドラマー。セミロングの髪を後ろで結っているのは私と一緒だけど、実力は段違いだった。一打で会場全体を揺らすようなバスドラム。小気味良いリムショット、流れるようなロールを奏でるスネア。そして驚くべきことに、彼女のドラムセットには、シンバルが二枚にハイハット・バスドラム・スネアの三点とフロアタムだけが置かれていた。それでいて、奏でられる音は私の何倍も多様な姿を持っていた。極端に音数を減らしたシンプルなビートを刻んだかと思えば、叩き方が想像もつかないような複雑なフレーズを繰り出す。しかもその全てが正確で、少しの綻びも見えなかった。

 飛び抜けた技術に、類を見ないほどの個性。そしてそれらが摩擦を産むのではなく、より強い輝きを放つものとして調和していた。

「…正直、勝てないと思いました。みんな、あの人達を見に来たんだなって」

「あの子らは凄いよ。中学からやってて、高校卒業してからすぐ東京に出てきたらしいから。場数も踏んでるし、何より覚悟が違う」

「覚悟ですか」

「そう。覚悟。見た感じ普段はそんなにピリピリしてないんだけど、いざ演奏となると別人」

「………」

 覚悟。私達とは縁遠いものだ。

「まあ今の時代にバンドで食っていこうなんて考えてる連中だし、ある意味当然なのかもね。なんにせよ、今日はありがとうございました。またお願いします」

 そう言って店長が頭を下げる。

「ありがとうございました」

 僅かに厚みを増した封筒を握りしめたまま、私は挨拶をして部屋を出た。

 二十一歳、同い年。埋めがたい実力差に打ちひしがれながら、機材を両手に持った重い身体を引きずるようにして地下のライブハウスから地上へと繋がる階段を登る。その両側の壁は様々な張り紙で埋め尽くされている。大きさはポスターサイズのものからハガキより少し大きいものまであって、内容はライブの告知や音源のリリースについて。日付は何年も前のものから、未来のものまで幅広い。書かれているバンドの名前は、誰もが知るところまで上り詰めたものがごく少数だけあって、残りはまるで聞いたことのないものだった。

 きっと誰もが色んな夢をこの壁に掲げて、その殆どが叶うことなく散っていったのだろう。まるで希望の残骸を見ている気分だった。たぶん、私達も「殆ど」の方だ。

「沙綾ちゃん、お疲れ様」

 地上に出て、道路の向こう側。ギグバッグを背負ったりみが労いの言葉をかけてくれた。

「お疲れ。おたえ、仕事だっけ」

「うん、明日早いからって帰っちゃった」

 二年制の専門学校に入学したおたえは大学に進学した私達四人より一足先に卒業して、今はバイトと時々入るギターの仕事で生計を立てている。

「香澄は?」

「煙草」

 りみの隣、壁にもたれて立つ有咲が不機嫌そうな表情で答える。

「臭いからやめろってのに」

「喉にも悪いらしいし、心配だよね」

 りみの言葉に、つんとそっぽをむく有咲。

(昔だったら、『べ、別に心配なんかしてねえ!』って怒ってたんだろうなあ)

 懐かしくなって、つい頬が緩む。

「沙綾、めっちゃニヤけてるけどどうした?」

「え、そんなに笑ってた?」

「ん。さっきまでちょっと辛そうだったのに」

「そっか。…私も、行ってくるね。機材見ててもらっていい?」

「うん、行ってらっしゃい」

 両手に持った荷物をゆっくりと下ろす。微笑みながら見送るりみと対照的に、有咲は携帯の画面を見たままこっちを見ようともしなかった。変わり始めた空気の匂いに秋の訪れを感じながら、私はその場所に向かう。しばらく歩いた路上、くすんだパーテーションで区切られた一角には煙が立ち込めている。板の間を覗き込むと、香澄と目が合った。

「さーや!」

 途端、飼い主を見つけた子犬みたいに表情が明るくなる。薄暗い喫煙所にそぐわない無邪気な笑顔に、さっきまで張り詰めていた気持ちがゆっくりとほぐれていくのを感じた。お疲れ、と声をかけてポケットから小さな箱とライターを取り出す。

「えへへ」

 私に倣って、大切な宝物のようにライターを取り出す香澄。シャーペンの芯入れを少し大きくした大きさの、お揃いのライター。ホタルみたいに小さな光がふたつ灯る。ふーっ、と煙を吐き出して香澄が言う。

「すごかったね、対バンの人達」

「うん、凄かった」

「なんか、上手く言えないんだけど…ぶわーっ!て感じ」

「あはは、全然わかんないよ」

 犬の耳みたいな髪型はもうしていないけど、香澄は変わらない。大学生になっても、いつの間にか煙草を吸い始めていても、便乗して私も煙草を吸い始めても、香澄はずっと変わらない。そんな香澄と二人で過ごせるこの時間は、私の宝物になっていた。

「ねえ、さーや」

 突然、しんみりした声色で香澄が聞いてくる。

「なに?」

「シューカツ、してる?」

「んー、一応してるかな」

 大学三年生、秋。自分の程度が見え始めて、現実と向き合う時期。私には家業を継ぐ選択肢があるから、食いっぱぐれる心配はそんなにない。けれどいつまでも家に頼っているのも悪いから、就職するという選択肢も残しておきたい。

「そっか」

 そう言うと香澄は俯いて黙り込む。大学三年生にもなれば、バンドで生活していくのは現実的じゃないことなんか誰だってわかる。わかるはずなんだけど、香澄もそうなんだろうか?

「さーや、わたしね」

 地面を眺めたまま、香澄はぽつりぽつりと話し始める。

「色んな会社のこと調べて、色んな人から仕事の話聞いて、でも、どれもよくわかんなくて。どうしたらいいんだろ」

「………」

 返す言葉が見つからなくて、パーテーションに身体を預けて空を見上げた。黒く塗りたくられた夜空にはいくつかの星が輝いている。もう、あんな風に輝くには遅すぎるのかもしれない。吐き出した煙がゆっくりと立ち上る。喫煙所は楽だ。会話をしなくてもそこにいることが肯定される。私達ふたりの間には沈黙と、夜の闇と、煙だけが漂っていた。

 しばらくして香澄が、短くなった煙草を灰皿の隅に置く。

「わたしね、もっとキラキラドキドキしたい」

「え」

 久々に聞く言葉に、懐かしさよりも驚きを感じた。

「おっきい体育館とかホールでライブして、お客さんがいーっぱいいて、挨拶するの。みんな今日はありがとー!って」

 そこまで言うと、香澄は小さく深呼吸をする。

「一階席〜!」

 内緒話をするような声でマイクを突き出す仕草をしながら、満面の笑顔を向けてくる。思わず気圧された私は観客の真似をする。

「い、いえーい」

「二階席〜!」

「いえーい」

「そして、アリーナ!」

「いえーい!」

 小芝居を終えて、ささやかなライブが始まる。

「聴いてください、一曲目---」

 香澄は、透明なギターを弾きながら囁くように歌う。見えない観客に向かって。その姿はまるで、夜空の星をそのまま持ってきたみたいに眩しかった。

(私も、そこにいられるのかな)

 目を閉じて想像する。広い会場…どこかの体育館かホール。照明が落ちて、観客席は地平線が見えない真っ暗な海のよう。ドラムセットで鳴らした音はどこまでも突き抜けていく。みんなの背中を見ながら、イヤーモニターから聴こえる音を頼りに広大な海を進む。そんな光景に思いを馳せる。

「じゃーん!」

 曲が終わったらしい。微笑む香澄の頬は、ほんのりと赤みを帯びている。

「…キラキラドキドキなんて、子供っぽいかな」

 自嘲しながらも、それを手放したくないという様子で呟く香澄。

「ううん、そんなことない」

「ほんと?」

「ほんと。………もっと、キラキラドキドキしようね、香澄」

「うん!」

 にっ、と歯を見せて笑う香澄に私も笑い返す。吹き抜けた夜風が思ったより冷たくて、鼻の奥がむずむずした。

「っくし!」

 ふたり仲良く、くしゃみをする。なんだかおかしくて、えへへと笑いあう。

 私は煙草の火を消して、吸い殻を灰皿に放り込みながら言った。

「行こっか」

「うん」

 答える香澄の表情は、煙で淀んだ空気とは裏腹に透き通っている。香澄が、みんながいれば、きっとどこだって行ける。だからあともう少しだけ、輝きを追いかけたい。そう思った。







pixivにも同じものを投稿しています。
https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=10268064


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言葉の森

「次で、最後の曲です!」

 スタンドに立ったマイクを使ってお客さんたちに告げる。「えー」の声は無いけど、ちょっとだけ。ほんのちょっとだけ残念そうな表情が見えた気がする。それはきっと、もっと聴きたいって思われてるってこと。あの日、喫煙所でさーやと話してから…もっとキラキラドキドキするって決めた日から、何かが変わった気がする。

「これからやる曲は音源も作ってあって…えっと、ちゃんとしたレコーディングじゃなくてスタジオの録音なんですけど、よかったら物販で買っていただけると嬉しいです!」

 フロアを半分くらい埋めたお客さんのうち、何人かが頷く。あの中の一人でも、手に取ってくれたら…。

「今日は本当に、ありがとうございました!Poppin' Partyでした!」

 そこまで言ってから、マイクスタンドから下がって頭を下げる。大喝采とまではいかないけど、拍手が起こった事実に勇気づけられながら後ろを振り返る。さーやが頷いて、カウントが四つ鳴る。最後はこの曲。世界に解き放つ、無敵で最強の歌!おたえの、伸び伸びと歌うようなギター!りみりんの、がっちり力強いベース!有咲の、優しくて頼りになるキーボード!みんなの背中を押してくれる、みんなを支えてくれるさーやのドラム!最高のみんながいれば、きっとどこまでも行ける!

 そして、わたしのランダムスター!魔法の杖か勇者の剣か分からないけど、これがわたしの最強の武器!これさえあれば、きっとなんだってできる!世界で一番、キラキラドキドキできる!

 最後のサビが終わって、アウトロに入る。力を溜めるみたいに、みんなで息を合わせて八分音符を徐々にゆっくり刻んで…さーやのフィルインから、一瞬のブレイク。溜めた分の力を解放するように、ギターを掻き鳴らす!もっと遠く、どこまでも届け!

 キラキラの音に包まれながら、みんなの顔を見る。りみりんの照れた笑顔も、おたえの穏やかな笑顔も、沙綾の暖かい笑顔も、有咲の柔らかな笑顔も、みんなキラキラしてて…すっごくドキドキした。追いかけ続けた輝きは、今もまだここにある。

 

「今日、なんか気合い入ってたね。香澄」

「うん、さーやのお陰だよ!」

「え、そうなの?」

「この前、もっとキラキラドキドキしたい!って話したでしょ?あの時から色々考えてて…って言っても、何か思いついたわけじゃないんだけど」

「なるほどねえ」

 出番の後、フロアの隅に儲けられた物販スペース。横長のテーブルの前、並んで座るわたしとさーや。積んであるCDは、ありがたいことに何枚か減った。また見に来ます、って言ってくれた人もいた。もっと良い曲を作って、もっと良いライブをすれば、もっと…。

『もっと』って、どこまで?こんなこと、いつまで続けてられるんだろう?

 音源作りも販売も、自分達だけでやるには限界がある。時間に余裕のある大学生という身分だって、あと一年半もない。そんな中で、あとどれだけ…。

 さっき感じた手応えはきっと本物だけど、感じている不安も確かなもの。CDの横に立ててある、りみりんとわたしで作った小さな手書きのポップを見て考え込んでいると、テーブルに突然影が落ちた。

「はじめまして、デリンジャーレコードのデグチと申します。Poppin' Partyの戸山さんと山吹さん…で合ってますか?」

 声をかけてきたのは、たぶん三十代くらいの男の人。両側が刈り上げられたベリーショートの髪型に、顎の周りの無精髭とべっこう柄の眼鏡。いかにも『ギョーカイの人』って感じ。けど物腰は柔らかくて、良い人そう?

「は、はい。戸山かしゅみです」

「私は、とあるレーベルを運営している者です。今日はPoppin' Partyさんにお話があるんですが、ここでするには少し長い話なので終演後にお時間いただいてもいいですか?」

 デグチと名乗ったその人は、名前を噛んだわたしを全く気にする様子もなく流れるような調子で言う。

「?いいですけど…」

「良かった。ではこちらに連絡先が載ってますので、皆さんの撤収が終わったらご連絡ください。あ、それとCD一枚貰えますか」

「はい、百円になります」

 名刺を受け取るわたし。いつものように会計をするさーや。戸惑うわたしを尻目に、デグチさんはCDを受けとって去っていった。

「レーベルの人って…なんの話なんだろ?」

「それより香澄、盛大に名前噛んでたよね」

「うう…」

「あと余計なお世話かもだけど、名刺を片手で受け取るのはマズいって…」

「あはは…反省してます」

 受け取った名刺には”出口正行 - Masayuki Deguchi”という名前と、連絡先が何点か書いてあった。そして後日、さーやの提案で大学のマナー講座に行くことになったのはまた別の話。

 

「アルバム?」

 待ち合わせたファミレス、六人掛けのテーブル席。わたしたち五人の声が重なる。

「はい。今回皆さんにお声かけしたのは、うちのレーベルからリリースするコンピレーションアルバムに参加していただきたいからです」

「こんぴれーしょん…」

 どこかで聞いたような単語だけど意味が思い出せない。

「前にパスパレとAfterglowが一緒にシングル出したことあったでしょ?あれと同じで、色んなバンドが一緒にアルバム出すんだよ」

 左斜め前の席に座るおたえが説明してくれた。そういうことです、と前置きしてから出口さんが説明する。

「うちの売り出したい若手に皆さんを加えて、七曲前後の予定です。専用のレコーディングスタジオを使いますが、費用は当然こちらが全部持ちます。当面はライブハウスでの手売りですが、売り上げが好調なら全国のレコード店にも置いていただく予定です」

「全国!?」

「座れって」

 思わず席から立ち上がったわたしを、左隣に座る有咲が押さえる。座るついでに、ささっと耳打ちする。

(ねえ、これってスカウトかな?)

(いや…それよりなんで私達に声かけたんだろうな)

(さあ…)

 わたしの右隣に座るさーやも同じ意見だったみたいで、少し疑うような表情をしている。確かに、なんでわたしたちなんだろう。

「…あの、良い話だとは思うんですけど。なんで私達なんですか」

 有咲は怪訝な表情をしたまま、小さく手を上げて質問する。

「すみません、説明してませんでしたね。うちのレーベルのyouthinemaが言ってたんですよ、気になるバンドがいるって」

「ゆーしねま?」

 聞いたことのある名前だけど、やっぱり思い出せない。

「前に対バンしたところじゃないかな?スリーピースで、ギターボーカルがレフティだった…」

「あっ、あそこかー!ありがと、りみりん」

 向かいに座るりみりんに言われて思い出した。そうだ、さーやと約束した時のライブ。もっとキラキラドキドキしたい。強くそう思ったライブ。あんな風にはなれないかもしれないけど…頑張ろうって思った、同い年のバンド。そんな相手に『気になる』って言われたのがちょっとだけ誇らしい。手が届かないってわけじゃなかったんだ!

「そう。そのyouthinemaが皆さんを是非呼んで欲しいと言うものですから、僕も今回ライブを見に来たわけです」

 にやりと笑う出口さん。何を言われるんだろう…ごくりと唾を飲み込む。

「ガールズバンドってことでyouthinema…シネマと比較すると、単純に音が厚くて良いね。それとコーラスかな、ポピパさんは割とみんなやってるじゃないですか。あの子らは高橋さん、ボーカルしか歌わないからね」

 ちょっと口調が柔らかくなった出口さん。だけどみんなは真剣な表情で話を聞いている。

「楽器とコーラスの厚さが良い。次に楽曲。ポップめからロックな曲、バラードまで割と色々やってるよね。作曲は誰が?」

「わ、私が作ることが多いです」

「牛込さんか。作詞は戸山さん?」

「はい!時々みんなに協力してもらったり」

「なるほど。牛込さんと戸山さんを中心に皆で意見を出し合って…って感じかな?曲は王道だけど幅があるし、歌詞も良いよね。気取らずに自分をそのまま出してる感じ。これが良い。ここもシネマとは逆かな、どっちが良いとか悪いとかじゃないけど」

 真っ正面から褒められて、嬉しいはずなのになんだか顔が熱い。がむしゃらに、一生懸命にやっていれば誰かが見つけてくれる。そんなことって本当にあるんだ…。

「最後に、ライブ。シネマは三人とも幼馴染で、もう十年以上付き合いがありますが演奏は真剣勝負。一切妥協しない、ヒリついた緊張感のある演奏をしています。反対にポピパさんたちは本当に楽しそうで、元気を貰えました。背中を押してもらえるような…踏み出す勇気も受け取ったように感じます。シネマもポピパさんも、見ている人を熱くさせるものがありますがその内容は対照的です」

 出口さんの口調はいつの間にか敬語に戻っていて、話す言葉にも熱が籠っている。

「同い年、同じガールズバンドでありながら正反対の良さがあるんですよ、シネマとポピパさんには。このふたつがぶつかりあったらどうなるか見てみたい。だから、コンピレーションアルバムに参加していただきたい。僕からもお願いします」

 そう言って出口さんは頭を下げる。その真剣な様子に気圧されたのか、みんな静まり返った。わたしは、膝の上に置いた両手をぎゅっと握り締めて呼びかける。

「ね、やろうよ」

「うん、やろう」

 即答するおたえ。反対にりみりんはちょっと心配そうな表情をしている。

「でもレコーディングって…すごく大変だって、前にお姉ちゃんも言ってて」

「ミスが許されないからね。いちばん大変なのはドラムかな。最初に録るから、そこが詰まると皆が困っちゃう」

 おたえがさらりと言って、さーやが苦笑する。

「でも、もともとドラムってそういう楽器だから。慣れてるよ」

 苦笑しながらも力強く言い切るさーやの視線が、おたえの視線とぶつかる。さすが沙綾、と目を細めて微笑むおたえ。私も頑張らなきゃ、と言い聞かせるように呟くりみりん。

「有咲は?」

 止めたってどうせ聞かねえんだろ、と呟いてから出口さんの方を真っ直ぐ向いて言う。

「やります」

「ありがとうございます。引き受けていただけるということで、このまま詳細についてお話しします」

 それから日程や当日の段取りについて話し合っている間、わたしはドキドキが止まらなかった。最高のみんなと一緒に、最高の音楽をもっと色んな人に届けられる!そんな気持ちが溢れて抑えられなかったから。

 

 迎えたレコーディング当日。十二月になって、吐く息は真っ白。手袋をしていても手は冷たくて、ちゃんと弾けるかちょっとだけ心配。

 わたしたち五人は住宅街の一角、小さな一戸建ての建物の前に集まっていた。

「スタジオって言うから、CiRCLEみたいなところだと思ったんだけど…」

「意外と普通の家みたいだね」

「蔵と一緒で、地下に防音設備があるんだろ。表札も出てるし、自宅兼スタジオってとこか」

 そんなやりとりをしていると、玄関から出口さんが出てきた。

「おはよーございます!準備出来てるんで、入って入って」

 パーティに誘うように楽しそうな様子で手招きする出口さん。緊張と不安、そして期待で胸がいっぱいになる。 

「みんな、頑張ろうね」

 いつもの蔵を飛び出して、ここからわたしたちの新しい音楽が始まる。そう思うと、冬の寒さも吹き飛ばせる気がした。

 そして、地下のスタジオで始まったレコーディング。まず初めにさーやがクリック、つまりメトロノームを聴きながらドラムを録る。わたしたちは出口さんと一緒に、ブースからモニター越しにその様子を見守る。出口さんはノートパソコンやミキサーの載った大きい机の前に陣取って、わたしたちはソファーに並んで座っている。

『最初に録るから、そこが詰まると皆が困っちゃう』

 専門学校を出て、今では時々ギターの仕事もしているおたえの言葉を思い出す。だけど、さーやなら。さーやならきっと、わたしたちをまとめて引っ張っていってくれる!

「…山吹さんって、吹奏楽やってた?」

 さーやが何度目かの録音をしている最中、出口さんがモニターを眺めながら背中越しに聞いてくる。

「やってない…と思います」

「え、そうなんだ。じゃあレッスンに通ってるとか?」

「うーん…たぶんそれもないと思います」

 わたしが答えると、驚いたと言わんばかりに出口さんは溜息を吐く。

「手足の基礎がしっかりしてるしロールも上手い、クリックに苦手意識も無い。独学でここまでか…」

「ふふん、凄いでしょ」

「なんでお前が得意げなんだよ」

 胸を張るおたえとすかさず突っ込みを入れる有咲。わたしはその様子を見て笑っちゃったけど、隣に座るりみりんの表情は固くて、なんだか不安そう…そっか、次はりみりんの番だから。

「山吹さん、OKです。上がってください」

 出口さんがマイク越しに呼びかけると、息を呑む音が聞こえた。

「りみりん」

 強張る両手を取って、真っ直ぐにりみりんの目を見る。

「大丈夫!」

「…ありがと、香澄ちゃん。行ってくるね」

 りみりんの表情は固いままだけど、その中には決意だとか勇気も含まれているはず!

「よし、じゃあ牛込さんいってみようか」

「はい!」

 さっき録ったさーやのドラムを聴きながら、りみりんがベースを録る。一回通したところでストップがかかった。

「牛込さん、あんまり固くなりすぎないで…って言っても難しいか。立って弾くのもいいんじゃない?牛込さんのアグレッシブさが活かせると思う」

 モニターに映るりみりんの表情はまだちょっとだけ心配そうだけど、何かを掴んだみたいに見えた。

「お行儀よくしなくていいよ。思いっきり。ライブみたいに」

 こくり、と頷くりみりん。その後はスムーズに進んで、何回か録音してOKが出た。牛込さんの良いところが出せてよかった、と出口さんは安心した様子で言う。

「次、花園さん」

「はいっ」

「うわ!」

 おたえが元気よく立ち上がって、隣の有咲が押しのけられる。呆れる有咲をほったらかして、そのまま鼻歌でも歌い出しそうな軽い足取りでスタジオに向かう。緊張なんかカケラもない、そんな様子がいかにもおたえらしい。実際、録音はとってもスムーズだった。スムーズだったんだけど。

『出口さん、あのアンプも試して良いですか?』

「花園さん、それ言うの二回目だよね?」

『大丈夫です、今度はフレーズも変えるので』

「大丈夫じゃないよ。何遊ぼうとしてんの」

 スタジオの中からマイク越しにお願いするおたえと、モニターに向かって大きく溜め息をつく出口さん。おたえがあっという間にOKを出したご褒美として、追加テイクをあげたことを後悔してそうだった。だけど…ちょっと楽しそう?

『えー…弾き足りないのに』

「ここから先は別料金だよ」

 出口さんはぴしゃりと遮るように言って、わたしを呼ぶ。

「戸山さん、ギターだけ先に録るから。準備お願いします」

 スタジオに入って、ヘッドホンで三人の音を聴きながらギターを弾く。歌わないでギターだけ弾くのはすっごく変な感じがしたけど、新鮮で楽しかった!録音もスムーズに終わった…と思う。

「じゃあ、市ヶ谷さん」

「っ、はい」

 立ち上がった有咲に声をかけようとしたけど、できなかった。いつものつんつんした様子だけど、なんだか…ピリピリしてる?ちょっと話しかけにくいくらい。モニターの向こうで、キーボードにかざした手が微かに震えているように見えた。

「……もう一回」

 何回か曲を通して、険しい顔で出口さんが言う。強張った表情で有咲が頷く。鍵盤の上を忙しく駆け回る両手には、溺れかけてるみたいな必死さがあった。

「有咲…」

 モニター越しに呼んだって届くわけがない。だけど、名前を呼ばずにはいられなかった。

「市ヶ谷さん、落ち着いて。まずゆっくりやってからにしよう」

 はい、と有咲の口が動いて、音をひとつひとつ確かめるように両手が動く。

「…有咲、苦戦してるね」

 隣に座ったさーやが心配そうに言う。だけど、わたしたちは見守ることしかできない。心配で、じれったくて、むずむずする。おたえとりみりんは黙り込んでいて、ブースの空気が重苦しい。

「……フレーズを端折ってもいいかもしれないね」

 できればしたくないけど、小さく呟く出口さん。

『っ、それは!』

 小さく叫ぶ有咲。それだけはやめてほしい、とその表情が言っていた。

「わかった、ならそのままいこう。もう一回」

 そうやってまた録音が始まったけど、じわじわと時間だけが過ぎていく。有咲の表情はどんどん曇っていって、それに引っ張られるみたいに音も乱れていく。もうすっかり、溺れてしまったみたいだった。

「…少し、休憩しよう」

 マイク越しに呼びかけて、出口さんは席を立つ。ちょっとして、疲れ切った様子の有咲がブースに戻ってきた。

「………外の空気、吸ってくる」

 絞り出すような声でそれだけ言って、有咲は去っていく。

「あり、」

「香澄」

 声をかけようとした瞬間、おたえに引き留められた。

「これは有咲の問題。有咲が自分で乗り越えなきゃいけないんだよ」

 レコーディングは自分との戦い。おたえはそんな風にも言っていた。上手くいかなくても、誰かが助けることなんて出来ない。その戦いに勝てないんだったら、妥協しなくちゃいけない。それがレコーディング。きっとおたえは、今までだってこういう場面に出くわしたことがあるんだと思う。

 …確かに、おたえの言う通りかもしれない。だけど、それでも、わたしは有咲の力になりたい!有咲のこと信じてるって、有咲の力が必要なんだって、伝えたい!いてもたってもいられなくなって、勢いよくソファから立ち上がる。

「…行ってくる!」

 玄関を出て、道を挟んで向こう側。電柱の横で俯いている有咲の姿が見えた。

「有咲!」

 名前を呼んで、小走りで近付いていく。

「な、なんだよ」

 つっけんどんな口調だけど、優しくて柔らかい声色。いつもと違うのは、その声から不安とか憂鬱とか、とにかくどんよりした色が滲んでいるところ。

「あのね、……」

「…どした、急に」

「えっと、その……」

 怒ってないのはわかるんだけど、睨むような視線に怯んでしまう。声をかけたのは良いけど、何を話すか全然考えていなかった。有咲のこと信じてる、大丈夫、頑張って…どんな言葉もなんだか嘘っぽい気がする。なんでもいいから、有咲が元気になるようなことを言わなきゃ…だけど、どうやって?自分でもわからなくなってきて、有咲の手を取る。十二月の寒さに洗われたその手を、思いっきり握り締めた。

「いたた、痛いって!」

 震えて、彷徨って、行き先を見失ったように見えた有咲の手。わたしにできることなんて、何一つないのかもしれない。だけど、わたしがここにいて、有咲がひとりなんかじゃないってことなら伝えられる!とにかくそんな気持ちを体温と一緒に手渡すつもりで、手を握り締める。

「…香澄!」

 名前を呼ばれて、視界に飛び込んできたのは有咲の泣き出しそうな笑顔。真っ白な肌に頬がほんのりと赤らんでいて…すごく綺麗だった。

「…ありがとな。貰ったよ、勇気」

 その言葉に、胸がかあっと熱くなる。

「うん。有咲のこと…信じてる」

 嘘っぽいと思った言葉を、本当の言葉として伝えた。

 

「市ヶ谷さん、いけそう?」

 ひとつ深呼吸してから、出口さんの言葉に力強く頷く有咲。わたしたちがブースで見守るなか、演奏が始まる。有咲は時々身体を揺らしながら、全身で歌うようにキーボードを奏でている。白い指が滑らかに鍵盤を行き来する。これは、と出口さんが驚いた様子で呟く。

「いけるかもしれない」

 だけど、問題なのはここから。最後のサビから繋がるアウトロ…有咲のピアノソロ。どうしてもここが弾けなくて、さっきまで行き詰っていた。でもそれは、さっきまでの話!今の有咲なら、絶対に弾ける!

「頑張れ、有咲」

 おたえが呟く。両手を合わせて目をつぶるりみりん。わたしとさーやは、ただ黙ってモニターを見つめていた。いよいよソロが近付いて、有咲の表情が強張る。不安を振り払うように、有咲が目を見開く。迷いなく両手が動いて、一音一音を積み重ねるように奏でていく。そして…。

「市ヶ谷さん、OKです」

 出口さんの言葉に、有咲の両肩から力が抜ける。

「やったあ!」

 つい叫んでしまう。スタジオまで飛んでいきたい気持ちを抑えて、有咲が戻ってくるのを待つ。そんなちょっとした時間がもどかしいくらい、嬉しさがこみ上げてくる。戻ってきたらどんな話をしよう?お疲れ様、ありがとう、嬉しい…気持ちが次から次へと湧いてきて、全然まとまらない。悩んでるうちに有咲が戻ってきた。

「有咲、おつかれー!」

 立ち上がって両手を広げて、ハグを求めるように出迎える。なーんてね、って言おうとした瞬間。ぼすん、という音がして、有咲が胸に飛び込んできていた。

「え?」

 そのまま、ぐっと抱きしめられる。いつもとはまるで逆だった。心臓が跳ね上がって、うるさいくらいに音をたてる。顔が真っ赤に火照っていく。

「あっ、有咲?積極的だね…?」

「おお、有咲が素直だ」

「香澄、照れてる?」

「有咲ちゃん、お疲れ様」

 おたえが驚いて、さーやがいたずらっぽく言って、りみりんがマイペースにねぎらう。そんな中でも、わたしは有咲に抱きしめられたままだった。

「えーっと…有咲…さん…?」

 何故か敬語になってしまう。

「さっきのお返し、だっ!」

「いたた、痛いよ有咲ー!」

 有咲はもっと強く抱き着いてくる。心臓の音が聴こえてしまうんじゃないかと思うくらい、強く。身体がぽかぽかと温まっていく。

「はは…戸山さん、準備いい?」

「は、はいっ!」

 苦笑いしてる出口さん。恥ずかしくて顔から火が出そう。

 有咲に届けた気持ちと、有咲から受けとった気持ち。その両方を持って、わたしはスタジオに入った。ヘッドホンから聴こえるみんなの音と、わたしの音。全部がわたしに力をくれる。もらった気持ちを、力を、全部!歌に乗せる!

 この世界は、ひとりなんかじゃない!

 みんなと一緒に、ずっと…ずっと探し続ける。

 わたしたちの、輝く(Light)喜び(Delight)を!

『戸山さん』

 出口さんの声がして、はっと我に返る。

『…OKです。完璧』

 全てを出し切った。その感覚だけがあって、頭がぼんやりしている。

『戸山さん、お疲れ様。……今日、レコーディングをやってよかった。僕はそう思うよ』

 

 スタジオを出て、駅までの帰り道。外はすっかり暗くなっていた。冬の寒さがちくちくと全身を刺す。

「完成、楽しみだね!有咲!」

「お前…それ言うの何回目だよ」

 わたしたちの歌が、キラキラドキドキが。もっと綺麗に輝いて、いろんな人に届く。そのことが嬉しくて何回でも言葉に出してしまう。

「だって全国だよ、全国!」

「全国制覇?」

「あはは、したいね。全国制覇」

 真顔のおたえに、微笑む沙綾。まだ決まってないだろ、と有咲が溜息を吐く。

「ちゃんと弾けてたかな…」

「大丈夫。私が保証するよ」

 心配そうにりみりんが呟くと、おたえが親指を立てて言う。

 ちょっと大変だったけど、楽しかったレコーディング。わたしたちの、新しいキラキラドキドキ。

 ふと空を見上げると、ちかちかと星が瞬いていた。

「みんな」

 空を見上げて、星を見つめたまま呼びかける。

「もっと、ずっと…一緒に、キラキラドキドキしようね」

 街中からも見える、夜空で一番眩しく光る星…一等星。わたしたちも、きっとあんな風に輝ける。そう思った。







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星のすみか

 年が明けて、一月も半分以上が過ぎた頃。お正月ムードのなくなった駅前で、手袋をした両手を擦って暖める。足元から身体の芯まで冷え込むような空気。来てからしばらく経ったけど、約束の時間にはまだ早い。さっき届いた『あと五分くらい』のメッセージ。会ったら何を話そうか考えていたら、見覚えのある姿が改札の向こうに見えた。頬が緩むのを感じながら手を振ると、両耳のイヤホンを外して少し早足で歩いてくる。

「遅いよ有咲ー!」

「いやまだ十分前だろ。どんだけ早いんだよ」

「楽しみだったんだもん!有咲だって早いじゃん、楽しみにしてた?」

「うるせー」

 あしらうように言って唇を尖らせる有咲。

「で、今日は結局どこ行くんだよ」

「まだ秘密」

「はー…なんかヒントくれ、ヒント」

「星のすみか、かな」

「星のすみか?…あー、わかった気がする」

「え、ほんと?」

「まあ、着くまでの楽しみにしとく」

 有咲はそう言うと、マフラーを巻いた首をすくめて微笑む。それを見ただけで、今日がすっごく良い日になるって、わかっちゃった。

 星のすみか。遠く遠く、遥か彼方の星たちと会える場所。

 

 駅からしばらく歩いて着いたのは、図書館くらいの大きな建物の前。

「とうちゃーく!」

「プラネタリウムだよな、やっぱり」

「え、わかった?」

「ああ。なんかいいな、その呼び方」

「えへへ…ここの六階なんだ、早く行こっ!」

 ロビーを抜けて、エレベーターで六階へ。望遠鏡や星座の絵が展示された博物館みたいなフロアには、殆ど人がいなかった。

「平日の昼間だから空いてるな」

「大学生の特権だよねえ」

 厚い扉を開けた先は、大学の中教室くらいの広さをした半球状の部屋だった。天井に広がる薄い青色の空。真ん中にある天球儀型のプロジェクターを囲うように並んだ座席に、ぽつりぽつりと何人かが座っている。

「確かにこれは、星のすみかだな」

「でしょ?」

 納得したように呟いて腰を下ろした有咲の隣に座って上映を待つ。次の回は十三時からだから、あと数分。

「わ、この座席倒せるよ!」

「静かにしろって。子供かよ」

 言いながら有咲も座席を倒して、並んで寝転ぶ格好になった。そうこうしているうちに入り口の扉が閉じて、辺り一面に夜が満ちる。

『携帯電話の電源をお切りください』というアナウンスの後に、上映プログラムの説明が始まる。世界各国の星空を巡る旅、がテーマらしい。初めに映し出されたのは見慣れた風景、東京の空。街の灯りが煌々と輝いて、星の光をかき消している。

「やっぱり都会だと見えないんだな」

「でも、一等星は見えるんだよ。シリウスとか、ベテルギウスとか」

「そうなのか?…ほんとだ、同じこと言ってる」

 感心した様子で天井を見上げる有咲の瞳に星の輝きが映り込んで、わたしの胸をぐっと暖める。

 一等星、わたしの一番好きな星。街の灯が眩しくても、それより強く輝けばきっと誰かに届くってことを教えてくれている。

『他に強い光の無い場所…例えばモンゴルの草原では、どんな星空が見られるのでしょうか』

 アナウンスが流れて、映し出された空がゆっくりと黒く塗りつぶされた後にじわじわと明るくなっていく。真っ黒な夜空とキラキラ瞬く星たちが視界いっぱいに広がって、星の海の中にいるみたいだった。あの時に聴いた音…星の鼓動が、確かに聴こえる。

「うわ、すげえ…!」

 声色から、有咲の興奮が伝わってくる。

「これだけ星が多いと、逆にどれを見るか迷っちゃう」

「贅沢な悩みだな、わかるけど」

「有咲、見て。あそこ、かに座」

 わたしが天井の一角を指差すと、有咲は眉間に皺を寄せて目を細める。

「んー…?あれか。蟹には見えないよな、全然。なんでかに座…って、誕生日だから?」

「頑張って覚えたんだ。有咲は何座?」

「てんびん座」

「なら夏だね!夏にまた来ようよ」

「今から夏の話すんのか」

 苦笑いする有咲。夏じゃなくても、春でも秋でも有咲と来たいな。そう言おうとした瞬間に、有咲がこっちを向いて視線がぶつかった。

「赤道直下なら、全部の星座が見られるんだって!」

 かろうじてひそひそ話、というくらいに大きくなった有咲の声。気付けば風景が切り替わっていた。赤道直下、インドネシア。さっきと違う星空、さっきと違う星座たち。

「てんびん座、見つけられるかな」

「絶対、見つけようね」

 有咲と一緒に、きょろきょろと夜空を見渡す。

「くっそー、全然わかんねえ…てんびん座って見つけるの難しい?」

「うん…明るくない星で出来てるから、周りの他の星座を目印にした方がいいかも」

 そんなやりとりをしているうちに、少しずつ空が明るくなる。行かないで、と心の中で呼び止めても作り物の夜は待ってくれなかった。風景が切り替わる中、アナウンスが流れる。

『地球上には、一日中夜空を見られる場所があります。太陽が昇らず、夜の終わらない場所が---』

「極夜か」

 アナウンスを聞いた有咲が言う。

「きょくや?」

「ああ、確か北極だと地軸の関係で太陽が見えない時期があるって」

 有咲の言う通り、次の目的地は北極だった。真っ白な雪原が星明かりに照らされて淡く光っている。きっと、ここより何倍も寒い世界。見ているだけで身震いしそう。

「ずっと夜ってことは、ずっと星が見られるんだよね」

「でも太陽が出ないってことはずっと真っ暗だぞ、しかも半年」

「半年?!」

 ちょっと大きい声が出て、係の人が白い目でこっちを見る。ふたりで一緒に『すみません』と手で合図する。

「半年真っ暗なのはちょっと嫌かも」

「逆に半年ずっと太陽が出てることもあるぞ、そっちは白夜」

「へー…」

 声を抑えて話していると、風景が切り替わる。さっきまでの暗闇が晴れて、視界が白で埋め尽くされた。陽の沈まない夜、白夜。タイムラプスの中で動く太陽は、地平線の向こう側に沈むことなく輝き続ける。

 少し明るくなった室内で、有咲の表情を見やる。

(来て良かった)

 ぱっちりした両目、微かに赤らむ頬。好奇心に満ちた表情が、心から楽しんでいることを教えてくれる。わたしは、身体の内側が暖かくなるのを感じながらゆっくりと目を閉じた。

 

「楽しかったね、有咲!」

「お前途中から寝てたじゃねーか!」

 上映が終わって、建物の外。肌を刺すように冷たい空気の中を、有咲と並んで歩く。

「あのあと凄かったんだからな、地球から出て銀河系の外まで行って…」

 白い息を吐きながら早口気味に語る有咲。高校の頃は、こういう風に話すことは殆どなかった気がする。

「有咲、ありがと」

「ん?」

「有咲と一緒に来られて良かった」

「…そうだな。楽しかった」

 にっ、と有咲が笑う。ふわふわのマフラー、赤くなった鼻の頭。キラキラの笑顔が眩しくて、暖かくて。

「今日だけじゃなくて、初めて会って、をくれて、一緒にいてくれて、本当に…良かった」

「お、おう。どうした急に」

 たじろぐ有咲。だけど、言葉も気持ちも止められない。心臓がズキズキと痛む。

「有咲、これからもずっと一緒に、バンドやろうね」

 有咲の両手を取って、ぎゅっと握り締める。手袋の感触がなんだかもどかしい。

「香澄…」

 有咲は目をぱちぱちさせる。…変に思われちゃったかな?

「お前、なんで泣いてんだ?」

「え?」

 言われて初めて、視界が滲んでいることに気付いた。

 思い出していたのは、昨日のこと。

 

 

「改めまして、みなさんこんにちは!Poppin' Partyです!」

 レコーディングが終わってしばらくして、新年初めてのライブ。

 殆どがお客さんで埋まったフロアに向かって呼びかけると、前より大きな拍手が返ってくる。寒くなってきたけど、照明の熱とライブの高揚感で身体はぽかぽかと暖かい。

「今やった曲なんですが、この前レコーディングをしました!大変だったんですけど、すっごく楽しくて…すっごく素敵なものが出来たので、物販で手に取ってくれると嬉しいです!」

 そこまで言うと、また拍手が湧いた。

(あの時よりもっと、キラキラドキドキしてる!)

 嬉しい、楽しい。身体の内側から湧き上がる気持ちが抑えきれない。振り向いて、さーやにアイコンタクト。スティックが四回鳴って、曲が始まる。

 おたえのギターは飛び跳ねてるみたいに元気いっぱいで、気を抜くと振り落とされそう。負けないようにわたしもギターを力いっぱい鳴らす!りみりんのベースは全身を揺らすくらいパワフルで、進む方向を教えてくれる。りみりんのお陰で、真っ直ぐ歩いていける!わたしの真後ろにいるさーやのドラムが、背中を押してくれる。顔を見なくても、言葉を交わさなくても、さーやの気持ちが伝わってくる!

 そして、並んで寄り添ってくれる有咲のキーボード。歌を、音を綺麗に彩ってくれる優しい音!…だけど、今日はなんだかヘンな感じがした。元気がないっていうか、大人しい?心の隅に何かが引っかかる感じ。

 終演後の楽屋で、キーボードをしまう有咲の後ろ姿に声をかける。

「有咲、今日具合悪い?」

「え?そんなことないけど…」

 振り向いた有咲の顔色はいつも通りで、無理してるわけでもなさそう。

「そうなんだ。なんか調子悪かったように見えたよ?」

「なんだそれ。全然元気だよ」

 首を傾げる有咲。気のせいだったのかな?

 片付けを一通り終えて携帯を見ると、出口さんからメッセージが一件入っていた。

『ライブ、お疲れ様でした。お話がありますので、よければ今から近くの喫茶店まで来ていただけないでしょうか』

(今日、来てたんだ)

 連絡も挨拶もなかったから知らなかった。話ってなんだろう?

「どした、香澄」

「出口さんから連絡来てて…ちょっと行ってくるね。物販、お願いしていい?」

「りょーかい」

 ゆるゆると手を振る有咲を見て、早足で楽屋を出た。

 

 ライブハウスから徒歩数分、ちょっと高めの喫茶店。入口から中を見渡すと、窓際の席に出口さんが座っていた。こっちに気付いて、真っ直ぐ挙げた右手を振っている。

 わたしは席に座って、テーブルを挟んで出口さんと向かい合う。前に会った時と同じ、ベリーショートの髪に無精髭とべっこう柄の眼鏡。

「お疲れ様です。急にお呼びしてすみません」

「い、いえ、大丈夫です」

 頭を下げる出口さんに声をかけたところで、店員さんが注文を取りに来た。

「ブレンドで」

「わ、わたしもそれで!」

 かしこまりました、と挨拶して店員さんが去った後、出口さんが口を開く。

「ライブ、お疲れ様でした。演奏もパフォーマンスも、以前より良くなったと思います」

「あ、ありがとうございます!レコーディングに向けて、いっぱい練習したのが良かったんだと思います」

「あはは、それはよくありますね。ごまかしが利かない分、みんな必死にやってくるんですよ」

「お客さんも前より増えてて、アルバムのお陰かなって思ってます」

「だと嬉しいですね。うちの若手の曲も収録されてますし」

 柔らかく微笑む出口さんを見て、少しだけ緊張がほぐれた気がする。ちょうど会話がひと段落したタイミングで、湯気をたてるコーヒーがふたつ運ばれてきた。出口さんはブラックで、わたしは砂糖とミルクを多めに入れた一杯を啜る。

 それから小さく深呼吸して、気になっていたことを質問した。

「…それで、話ってなんですか?」

「コンピレーションアルバムの販売開始から一か月。売れゆきが好調で、レコード店にも置いてもらうことにしました。まずは都内、そこでも好調なら関東。ゆくゆくは全国に展開します」

「本当ですか!?」

 思わず大きな声が出てしまう。どくん、と胸が高鳴る。周りの人がこっちを見ているのに気付いて顔が火照っていくのを感じた。そのまま、流れるような調子で出口さんは続ける。

「またこれをきっかけに、ポピパさんには正式にうちのレーベルに入って欲しい。音源の流通もバンドのプロモーションも、ノウハウと実行力がある。練習環境もライブ会場も相応のものを用意する。君達がもっと輝く為の手助けをしよう」

 軽く前のめりになりながら真っ直ぐにわたしを見る出口さんの両目から、熱意がひしひしと伝わってくる。だけど声色は明るくないし、表情も笑ってない。良い話のはずなのに、なんで?

「ただし、条件がある」

 暗く重たい声色に、わたしは唾を飲み込む。

「…市ヶ谷さんには、抜けてもらうこと」

「え」

 その言葉を聞いた瞬間、うっすらと聞こえていたざわめきが全部消え去った。

「なんで、そんな……」

 小さく声が漏れる。膝の上に置いた手が震えて、心臓がズキズキと痛みだす。出口さんは椅子に深く座り直してから言う。

「率直に言おう。市ヶ谷さんは君達についていけない…というか、もうついていけてないよ。レコーディングとかライブで、気づかなかった?」

 あの日、苦しんでいた有咲。鍵盤の上を溺れてしまったように動き回る両手と、疲れ切った表情。

 今日のライブ。なんだかヘンな感じがした有咲の音。

『なんだそれ。全然元気だよ』

(調子が悪いとかじゃなくて、有咲が、わたしたちに…)

 ついてこれなくなった?いつから?どうして?頭の中がぐちゃぐちゃに混乱する。テーブルに視線を落としたけど、答えが書いてあるわけなんかなかった。他のお客さんもいるはずなのに、痛いほどの沈黙が耳に響く。

 わたしは両手をぎゅっと握り締めて、顔を上げる。

「でも、有咲だって」

「頑張ってる。一緒にいると楽しい。それだけじゃダメなんだ。バンドで飯を食うって、そういうことだよ」

 どうにか絞り出したわたしの言葉が、先回りされて宙に消える。

「サポートメンバーはうちで用意する。実力は折り紙つきだ」

 黙り込むわたしに、出口さんが諭すような口調で言う。

「…気持ちの問題だよ。この話は無かったことにして、そのままバンドを続けるのも良いと思う。だけど僕個人としては君達が欲しいし、その為に決断して欲しい。バンドメンバーじゃなくなっても、友達として仲良くやってる。そういう人達だってたくさんいるよ」

「決断…」

 レーベルに入れば、きっと今までより良い環境でバンドができる。良いスタジオでいっぱい練習して、良い機材でレコーディングして。youthinemaの人達の近くにいれば、得られるものもたくさんあるはず。でも、そのためには有咲と…。出口さんの言う通り、バンドメンバーじゃなくても友達って関係もあるんだろうけど、有咲のいないポピパなんて…。

「…答えが出たら連絡してください。いつまでも、待ちます」

 丁寧に頭を下げた後、出口さんは伝票を取って去っていった。

 

「で、話ってなんだったんだ」

 ライブハウスに戻って、フロアの端にある物販スペース。横長の机に頬杖をついた有咲が聞いてくる。

「えっと…」

 言葉に詰まるわたしを見て、有咲が怪訝な顔をする。

「香澄、どうかしたの?」

 有咲の隣に座るさーやの心配そうな表情。何か、何か言わなきゃ…。

「……アルバム、すっごい売れてるんだって!このまま全国展開もあるかもって」

 わたしが言うと、有咲と沙綾の表情がぱあっと明るくなった。

「うお、マジか」

「全国制覇、しちゃいたいね」

 笑いあうふたりが、どこか遠くに感じる。

 …有咲とたくさん話がしたい。確かめるために、答えを出すために。

「ね、有咲」

「ん?」

「明日って暇?」

「暇だけど」

「有咲と一緒に、行きたいところがあるの」

 星の鼓動を聴けば何かわかる気がしていた。わたしの始まりの場所、星のすみかで。

 

 昨日寝る前も、部屋のベッドでずっと考えていた。有咲のこと、レーベルのこと、youthinemaのこと。一晩中考えてもやっぱり答えは出なくて、寝不足のまま家を出た。

 だけど今日、ふたりで一緒に星の鼓動を聴いてわかった。有咲の代わりなんて、どこにもいないってこと。

 

 手の甲で涙を拭うと、ハテナマークを浮かべていそうな有咲の姿が見える。

「大丈夫か?」

「うん、大丈夫。大丈夫だよ」

「ならいいけど…」

 言葉とは裏腹に、頼りなく震えるわたしの声を聞いた有咲の表情はどこか納得がいっていないみたい。

「ね、有咲」

「ん?」

 白い息を何度か吐いて、呼吸を整える。わたしの答えを、有咲に伝える。

「大学出ても、おばあちゃんになっても…一緒にバンドやろうね」

「…ああ」

 一月の街。曇り空の向こうで、夜が来るのを待っている星たちを想う。

 わたしのキラキラドキドキは、みんなと、有咲と一緒に探すもの。今までもこれからも、ずっと変わらない。そう思った。







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瞼の裏には

 夜八時過ぎ、スタジオ練習の後。道沿いにある野外喫煙所。筒状の灰皿とちょっとしたスペースがあるだけの簡素なものだ。

(うう、やっぱりこの季節は寒いなあ)

 なら煙草を止めればいいんだけど、そうもいかないのが喫煙者の悲しい性。香澄のマネでなんとなく吸い始めた頃は二人の時しか吸わなかったけど、いつの間にか一人でも吸うようになっていた。

 かじかむ手を温めて、咥えた煙草に火をつける。ゆっくり息を吸って吐くと、ドラムを叩いた疲れが溶け出していく心地良い感触に包まれた。

(今日も頑張ったなー…)

 曇り空を見上げて、雲の向こうにある星を思い浮かべる。いつだったか喫煙所で、香澄と一緒に見上げた夜空の星。あんな風に輝くには遅すぎるかもしれないとあの時は思った。だけどこの前参加したコンピレーションアルバムの売れ行きは好調で、ライブの動員も目に見えて伸びてきた。バンドのまとまりも以前より強くなって、楽しくて仕方ない。

(キラキラドキドキ、してるなあ)

 灰皿の端に煙草を置いてひと息つくと、灰皿を挟んで斜め向かいに真っ直ぐ立っている女性と目が合った。すらりとした長身に長い髪。カラスを思わせるモノトーンの装いと、ネコみたいにきらりと光る両目。タイトなシルエットに細い煙草がよく似合っていて、まるで映画かCMのワンシーンのようだった。

(あれ、あの人って)

 思い出そうと記憶を辿ったところで、向こうから声を掛けられる。

「ポピパのドラムの人だよね。山吹さん…だっけ?」

「あ、はい。山吹沙綾です」

「あたし、youthinemaのベース弾いてる首藤千佳なんだけど、覚えてる?」

「ああ、あのバンドの……ライブ、凄かったです」

「敬語使わなくていいよー、タメなんだし」

 そう言って首藤さんは切れ長の目を更に細めてにっこり笑う。演奏中の鋭い表情とは違う、人懐っこい笑顔。

「ポピパちゃん達の曲聴いたよー。明るいんだけど切ないっていうか、めっちゃ感動した!」

「ありがと。…youthinemaの曲も凄く良かった。技術も世界観も私たちより凄くて、敵わないなって思ったんだ」

「あはは、照れるなー。だけどさ、あたしらだってポピパちゃんのこと凄いと思ってるよ」

「え、そうなの?」

「うん。特にひかり…うちのギタボなんかさ、ポピパちゃんたちのことすっごい意識してて。アルバムのレコーディングに呼ぼうって言ったの、あの子なんだよね」

 ギターボーカルの子のことはよく覚えていた。レフティで、堅実なバッキングから派手なソロまで弾きこなして、消えてしまいそうな儚げな声とどこまでも通るような力強い声を併せ持つ、かなりの実力派。その実力とは裏腹に外見は大人しそうで、MCでも一言くらいしか喋らなかった。

「そうなんだ、なんか意外」

「あたしらもビックリしたよー。普段は全然喋んないし、何か決める時もふたりに任せてばっかだったのにさ。『気になるから』って代表…出口さんに直談判して呼んでもらったんだ」

「へー、そこまで…」

 同い年なのに、編成も技術も覚悟も違っていて、敵わないと思っていた。そんな相手に認められていた事実が、嬉しくて誇らしい。

「あ、そうだ山吹さん。これからちょっと時間ある?」

 

「おかえり、って…」

 首藤さんを連れてスタジオのロビーに戻ると、丸テーブルについた有咲が怪訝な顔で視線を投げかけてくる。隣のおたえは目をぱちぱちさせて、首を傾げる。

「誰?」

「直球かよ」

「あはは、覚えられてなかったかー。youthinemaの首藤千佳です。前に対バンさせてもらった、スリーピースでギタボがレフティのバンドでベース弾いてまーす」

 首藤さんは慣れた様子で簡単な自己紹介をすると、そのまま椅子を引いて席に着いた。

「あれ、戸山さんと牛込さんは?」

 辺りを見回してふたりがいないことに気付いた首藤さんの質問に、おたえが答える。

「新曲のアイディア出ししたいって、先に帰っちゃった」

「なるほどー。戸山さんが作詞で、牛込さんが作曲だっけ」

「うん。曲はわたしが書く時もあるけど」

「そうなんだ。結構かっちり作ってくる感じ?それともセッションで作っていく感じ?」

「最近は半々かな。りみが打ち込みで他のパートまで作ってくることもあるよ」

「へー、それいいね!あたしも勉強しよっかなー」

 まるで前から知り合いだったみたいにスムーズなやりとりをする首藤さんとおたえ。有咲が眉を片方上げて質問する。

「で、何の用事?お喋りしに来たってわけでもないだろ」

「おっと、忘れてた。今日はね、ポピパちゃんに耳寄りな情報があって来たんだよ」

 そう言って首藤さんはポケットから取り出した携帯をすいすい操作して、画面をかざす。私たち三人は軽く身を乗り出してそれを見る。

「……ライブ?来週末か」

「そそ。友達が主催してる対バンなんだけど、一組キャンセルが出ちゃって」

「それで代役を頼みに来たってわけか」

「うん。急だけど、どう?」

「ま、いいんじゃね?」

 有咲が言って、私とおたえを一瞥する。

「いいと思う」

「私も。香澄とりみりんに確認して決まりかな」

「りょうかーい。じゃ、決まったら連絡してね」

 私と連絡先を交換して、首藤さんは去っていく。その細長いシルエットが見えなくなった頃に有咲が呟く。

「しっかし、U-WESTって結構大きいところだよな」

「いつも通りやれば大丈夫だよ」

「蘭ちゃんみたいなこと言うな、お前」

 事もなげに言うおたえに有咲が突っ込む。私は、首藤さんの携帯に記されていた会場の名前を思い出していた。渋谷U-WEST。キャパシティは千人ちょっと。それだけ会場が大きいと、たぶん色々と勝手が違うだろう。だけどそのことに委縮するより、武者震いをしてしまうような気持ちがむくむくと湧き上がってくる。香澄の言葉が脳裏をよぎった。

『わたしね、もっとキラキラドキドキしたい』

 いつもより大きな会場は、もっと大きな会場へ進むための一歩になる。そう思って、拳を握り締めた。

 

「youthinemaと対バン?」

 蔵練のあと、さーやに言われたことを聞き返す。

「この前スタジオのあと、ベースの首藤さんと会って誘われたんだ。来週の日曜。おたえと有咲は確認してるけど、香澄とりみは大丈夫?」

「…うん、大丈夫だよ」

 りみりんが携帯を確認して言う。わたしもそれに倣って、携帯を見る。知っていたけど特に予定はなかった。

「わたしも大丈夫」

「じゃ、決まりだな」

「曲、何やろっか」

 そのまま、ライブの段取りについて話し合いが始まる。

「前と同じセトリでいいんじゃね?」

 有咲が現実的な提案をして、さーやも頷く…と思ったけど、首を横に振る。

「せっかく大きい会場なんだし、こう…勝負かけたいっていうか。攻めたい、かな。私は」

 熱の籠った声で言うさーやの瞳の奥が、燃え立っているみたいだった。

「ソロ回しとかやろうよ」

「今からフレーズ考えるの、大変そう…」

 目を輝かせたおたえの提案に、りみりんが困った顔をする。

「攻めるのは良いけど時間がないだろ。失敗するよりは、出来ることをしっかりやった方がよくないか」

「大きい会場なんだから、大きいことやんないと」

 正反対なふたつの意見がぶつかり合って、議論が白熱していく様子をぼんやり眺めていると、さーやの心配そうな声がした。

「香澄、どうかした?」

「ううん、なんでもない」

 レーベル加入の代わりに、有咲を抜けさせる話を持ち掛けられたことは、誰にも言っていない。そしてわたしはあれから、出口さんに何の連絡もしていない。

『いつまでも、待ちます』

 その言葉にもたれかかって、答えを先送りにしている。出口さんからは何の連絡もないし、みんながこの話を知っている様子もない。

「香澄はどう思う?」

「ちょうど二対二で、あたしたちじゃ決められないんだよ。香澄が決めてくれ」

「あ、えっと……」

 言葉に詰まるわたしを待つみんな。長引いて進まない議論の終着点を探しているみたいだった。いつもより大きい会場。いつものライブをするか、それとも新しいことに挑戦するか。さーやの言う通り、勝負してみたい。新しいことをやりたい。そう言おうとした瞬間に出口さんの言葉を思い出す。

『率直に言おう。市ヶ谷さんは……』

 ぐ、と唇を噛む。わたしのキラキラドキドキは有咲と一緒に探すものだから。

「…わたしも、有咲と同じ意見かな」

 有咲とりみりんが、ほっと胸を撫で下ろす。おたえはちょっと唇を尖らせる。

「うん、香澄が言うなら決まりだね。やれること、しっかりやろう!」

 さーやはみんなを鼓舞するみたいに言って、小さく手を叩く。だけど一瞬だけ…本当に一瞬だけ、残念そうな表情をしていた。

 

 豆電球を点けた寝室よりちょっと明るい程度の、蔵より広い十四畳の部屋。わたしたち全員がしっかり映る大きな鏡と向き合いながら演奏する。ステージ上の暗さに慣れるのと、お客さんからの見え方を確認する為に、ライブ前は外のスタジオを借りて練習することにしている。

 真っ赤なギターを掻き鳴らしながら歌う、鏡の中のわたし。少し横にずれると、元気な笑みを浮かべて楽しそうにドラムを叩くさーやが見える。向かって右側には、ベースを弾きながらコーラスを入れるりみりんの凛々しい顔。左端にいるおたえはギターを掲げたり鏡の向こうを指差したり、演奏だけじゃなくてパフォーマンスの確認にも余念がなかった。

 そしてその隣、キーボードを弾く有咲の姿。いつものすました表情に、何滴か笑顔を混ぜたような顔。ときどき頬が緩んで、優しく微笑んでいる。そんな有咲と鏡越しに目が合った。ほんの数秒、お互いにきょとんとしたあと、なんだかおかしくなって笑いあう。ステージで演奏している時はなかなか目を合わせられないから、練習中のこの瞬間がたまらなく楽しくて、愛おしい。

「で、ここでMCだよね」

「ちょっと休みたいから、長めに欲しいな」

「うーん、何話そうかな?」

 ライブを想定して、本番通りの曲順で演奏する練習の途中。何曲演奏して、MCをどこにどのくらい入れるかみんなで相談する。

「招待してくれてありがとうとか、youthinemaの話とかすればいいんじゃねえの」

「アルバムの話も」

「メンバー紹介は?」

「わわ、メモするからちょっと待って」

 みんなから出た案を箇条書きで携帯にまとめていく。一字一句決めるわけじゃなくてだいたい何を話すか程度だけど、やっておくと落ち着いて話せる。

「いいか、絶対おたえに喋らせるなよ?この前なんか酷かったしな」

 有咲が眉間に皺を寄せて画面を覗き込んでくる。

「わたしは楽しかったよ?みんな静かに聞いてくれたし」

「お前の感想は聞いてねえし、あれは困惑してたんだよ」

「?」

 小首を傾げて目をぱちぱちさせるおたえ。おたえの話は確かに面白いというか…個性的というか…なんかすごい空気になっちゃうから、気をつけないといけない。

「…よし、そろそろ続きやろっ!」

 偶然でもなんでも、大きな会場でライブが出来ることはすごく楽しみ。いつも通り準備して、いつも通りのライブを…。

『やれること、しっかりやろう!』

 そう言ったさーやは残念そうな表情をしていたけど、きっとこの判断は間違ってない。鏡に映ったわたしとみんなの表情が楽しそうで、キラキラしてるから。

 

 

 

 ライブ当日。ちょっとしたホールぐらいの広さがあるフロアで、出演するバンドのメンバーが輪になって集まっている。リハーサルの後、出演者の顔合わせ…要は自己紹介。二組めの自己紹介が終わって、youthinemaの番が来た。わたしたちの真正面辺りに並んで立っている三人。その真ん中にいる背の高い女の子が、白い歯を見せてにっと笑う。

「どもー。youthinemaの首藤千佳です、ベース弾いてます。今日はアクシデントとはいえ、ポピパちゃんたちとまたライブやれてすっごく嬉しい!」

 首藤さんは弾んだ声で言って、促すように隣をちらりと見る。

「中村ハジメです。今日はよろしくお願いします」

 右隣に立っている少し背の低い女の子がぺこりと頭を下げる。さーやみたいに頭の後ろで束ねたポニーテールが小さく揺れた。

「………………高橋ひかり。よろしく」

 その反対側に立つもっと小さい女の子が、どうにか聞き取れるくらいの音量でぼそりと呟く。ウェーブがかった前髪の向こうに表情が隠れていて、視線がどこにあるかもよくわからない。ギターも歌もすっごく上手くてステージ上だとかなり目立つのに、今は幽霊みたいに存在感がない。

「ああいうの、ミステリアスっていうのかな」

 隣の有咲に耳打ちする。

「だな」

「いいなあ…わたしも真似しようかな」

「いや、無理じゃね?」

 そんなやりとりをしていると、スタッフさんの声がした。

「じゃあ、次はPoppin' Partyさん」

 目を見開く。自己紹介は出演順だから、youthinemaの次に出番が来るってことだった。

「はい!戸山香澄です。今日はよろしくお願いします!」

 

 顔合わせが終わって、オープンの時間をちょっと過ぎた頃。広い楽屋の隅っこに集まって座るわたしたち。

「お客さん、結構入ってる…」

 客席の様子を見に行ったりみりんの声はちょっと不安そう。おたえはいつの間にか取り出したギターで本番前の最終確認…と思いきや、聴いたことのない曲を弾いている。

「よし、一曲書けそう」

「おたえ、凄いね」

 ちょっとだけ呆れた様子でさーやが言う。だけど表情には楽しさが滲み出ていて、ウォーミングアップで練習台を叩く音が軽快に弾む。早く演奏したくて仕方ない、そんな気持ちが音から伝わってくる。

「あれ、有咲ちゃんは?」

「そういえば、どこ行ったんだろ」

 辺りを見渡したところでちょうど、沈んだ表情の有咲が戻ってきた。

「……改めて見るとやっぱり広いな、ここ」

 顔色がほのかに青白くて、声は注意しないと聞こえないくらい小さい。

 有咲と一緒にいるために、有咲を助けるためにわたしができること…。きっと、あのレコーディングの日と同じ。気持ちを伝えること。

 力なく垂れ下がっていた有咲の手を取って、両手で思いっきり握り締める。

「いてて、いってーな!何すんだいきなり!」

「えへへ、緊張ほぐれるかなーって」

「はー、お前なあ」

 有咲にいつもの笑顔が戻ってきた。苦笑いだけど、いつもの有咲の表情。

「香澄ちゃん、わたしも」

「じゃあ、わたしも」

「それなら私も」

「ついでにあたしも」

 おずおずと手を差し出したりみりんに、ギターを置いたおたえとスティックを置いたさーやが乗っかって、最後に有咲が手を重ねた。五人分の手が重なって、まるで円陣を組む時みたいだった。

「円陣みたいだね」

 同じことを思っていたさーやがくすりと笑う。

「じゃあちょっと早いけど、円陣ってことにしよう!…今日もキラキラドキドキしようね、みんな!」

「おーっ!……って、あれ?」

 小さく控えめにかけた掛け声に、聴き慣れない声が混じっていた。

「いやー、ポピパちゃんのこういうとこいいねえ。うちもやりたいなー」

 円の外から聴こえた声の方向に目を向けると、すらりと細長いシルエットの女の子がひとり。服装は黒を基調とした落ち着いた色で、細い目と落ち着いた声によく似合っていた。

「首藤さん?」

「千佳でいいよー」

「じゃあ、千佳ちゃん!」

「順応早えな」

「キラキラドキドキかー。よくわかんないけど、ポピパちゃんたちはそれを探してバンドやってるの?」

「うん!わたし、小さい頃に星の鼓動を聞いて…」

「その話、長くなるしやめとけって」

「え、気になる!聞かせて聞かせてっ」

 目を輝かせた首藤さんが、椅子を引っ張ってきて座る。見た目は蘭ちゃんとか友希那先輩みたいにクールな美人さんだけど、さっきの笑顔も今の様子も子供みたいで可愛い。

「たぶん何言ってるかわかんないと思いますけど、我慢して聞いてやってください」

「市ヶ谷さん、お母さんみたい」

「はは…」

 

「ふむふむ、それでランダムスター使ってるんだ。いいねー、運命だねー」

 話が終わって、千佳ちゃんは腕を組んで頷く。

「千佳ちゃんたちは、なんでバンドやってるの?」

 ふと気になったことを聞く。千佳ちゃんたちyouthinemaは、どこを取ってもわたしたちとは違うバンドだ。編成はギターボーカル・ベース・ドラムのスリーピースだし、曲も重たくて激しいのが多い。そして何より、ライブの迫力。上手く言い表せないけど、明るく楽しく!って雰囲気じゃない。年齢以外は何もかもが違っていた。

「なんで、かあ。考えたことなかったなー。あたしら三人は幼馴染なんだけどさ、何かでたまたまバンドの映像見てこれやろう!ってなったんだっけ」

「適当だな」

「あ、でも続けてる理由ならはっきりしてるよ。ハジメもひかりも口には出さないけど、たぶん同じこと思ってる」

「どんな理由?」

「負けたくないから、かな。他のバンドにも、メンバーにも、昨日の自分にも」

「負けたくないから…」

 今まで、そういう理由でバンドをやっている人に会ったことがない気がする。ストイックさはRoseliaと似ているのかもしれないけど、『負けたくない』とはちょっと違うと思う。

「もちろん、ポピパちゃんにも負けないよ。あたしらの方が凄いって思わせてやるから」

 千佳ちゃんは、細い目をもっと細めて不敵に笑う。さっきまでのフレンドリーな態度とは似てもつかない、正面切っての宣戦布告だった。そんな千佳ちゃんの背後から、ポニーテールの女の子がひょっこり現れて、ぱっちりした目が何度か瞬きする。さっき自己紹介してた、中村ハジメちゃん。

「千佳、SE渡した?」

「わ、まだだった!今行ってくるー。じゃね、ポピパちゃん。今日はよろしくー」

 ふたりが連れ立って去っていくのを見送って、有咲がいまいましげに呟いた。

「”あたしらの方が凄い”、か。わかってるっつーの」

 

「そういえば、関係者席からライブ見るのって初めてじゃない?」

 フロアにせり出したバルコニーで、思い出したようにさーやが言う。

「上から見てると、なんかライブ映像みたいだね」

 柵に手を置いてステージを眺めると、りみりんの言う通り映像で見るような光景が広がっていた。フロアを埋め尽くすお客さん達はリズムに乗って揺れてひしめき合って、ときどき拳を突き上げる。だけど、映像と確かに違うものがあった。

 二階まで届くような熱気。聞こえてくる歓声は、映像より何倍も大きい。その熱と歓声の向く先に、千佳ちゃんたちがいる。たった三人だけで、こんなに多くの人達を熱く震えさせている。ステージを真っ白に照らす照明が眩しくて、鳴り響くリズムがわたしの心臓の音と重なった。

 星の鼓動を聴いた時とは全く違う音と光景。なのにわたしの心は、あの時みたいに…。

『はい!ってわけで、五曲続けて聴いてもらったんだけどー…改めて、来てくれてありがとね、みんな!』

 千佳ちゃんのよく通る声が聞こえて我に返る。五曲も演奏していたのに気付かないほど、夢中になっていた。

『えー、恒例のこのイベントに、今日は特別ゲストが来てくれてます!ポピパちゃん、いるー?』

 慌ててバルコニーの柵から身を乗り出して手を振ると、千佳ちゃんが大きく手を振り返してくれた。フロアのお客さん達も肩越しに後ろを見上げて、たくさんの視線が突き刺さる。

『ポピパちゃん達ってさ、やってる音楽はあたしらと違うけど、なかなかカッコいいバンドなんだよ!しかも同い年!意識しちゃうよね。ライバルとしてお互い……なんだっけ?磨きあっていくみたいなやつ』

『切磋琢磨ね』

『そう、それ!切磋琢磨していこうと思ってるんで、みんなも見逃したらダメだよ!』

 興奮した様子で話す千佳ちゃんと、冷静に助け船を出すハジメちゃん。ひかりちゃんはそんなふたりに目もくれず、レフティのギターをチューニングしたりフレーズの確認をしているみたい。

『特にひかりなんかポピパちゃんのことすっごい気に入ってて。あたしら最近レーベルのコンピレーションアルバムに参加したんだけどさ、ポピパちゃん呼ぼう!ってひかりが言い出して』

 千佳ちゃんの言葉に、お客さんの間にざわめきが広がる。ひかりちゃんは名前を二回呼ばれてようやく、首だけを動かして千佳ちゃんの方を見た。

『………………』

『ごめんごめん、怒んないでって』

「今の、怒ってたんだ?」

 隣のさーやがくすりと笑う。とってもわかりにくい怒りを表明した後、ひかりちゃんはまた視線を落とす。

『よし、じゃあそんな感じで次の曲、ってか最後だ!最後は、今日の為に作ってきた新曲やります!』

 一際大きな歓声と拍手が湧き上がって、千佳ちゃんは胸を反らせて得意げな顔をする。

『あたしらの後はポピパちゃんたちがバチっと盛り上げてくれるから、みんな楽しみにしててねー!』

 そう言って千佳ちゃんは手を振った。フロアが静かになるのを待って、ひかりちゃんが微かに身体を揺らしながら、囁くようなアルペジオを弾き始める。

 最後の一音が緩く伸びて、やがてその余韻がフィードバックの轟音に変わる。耳が痛くなる直前に、掻きむしるようなパワーコードのリフが叩きつけられた。静けさから一転して訪れた嵐。そこに、荒れ狂う波のように暴れ回るベースと、雷のように鳴り響くドラムが加わる。

「!」

 バルコニーにいるわたしたちと、そしてたぶん一階にいるお客さんが全員、息を飲んだ。

 三人とも自分の楽器に全神経を注いでいるみたいで、目を合わせようともしない。その必要はないと言わんばかりだった。だけど演奏は計ったようにぴったりと噛みあっている。三つの音が競い合って高め合って、ひとつの奔流になって溢れ出す。

「……すげえ」

 呆然と口を開けた有咲の声が、どうにか聞き取れた。

 怒涛の勢いで走る演奏に、ひかりちゃんの力強い歌声が加わった。普段の小さな声ともMC中の無口さからもかけ離れた、燃え上がるような気持ちが迸る。音と声が、心と身体を揺らす。血が沸き立って、身体中が熱くなる。

 二階にいるわたしにこれだけ伝わるなら、一階にいるお客さん達はどれだけ熱くなっているんだろう?あんな風に誰かを、自分を震わせる演奏が出来たら?あの場所から見る景色は、一体どんな景色なんだろう?生じた疑問が頭から離れない。

 あんな風に演奏したい。千佳ちゃんたちが見ている景色を見てみたい。

 あんな風に空を飛びたい。もっと、キラキラドキドキしたい。千佳ちゃんたちと競い合える場所にいれば、きっと…。

 熱狂が冷めないまま、曲は終わりに近付く。同じフレーズを繰り返して溜めた力を全部乗せて、最後の一音が鳴り響いた。その残響が、どこまでも飛んでいくみたいだった。

 音が小さくなって、入れ替わるようにお客さんの歓声が大きくなる。千佳ちゃんもひかりちゃんもハジメちゃんも、何も言わない。大きく上下する三人の肩が、全てを出し切ったことを物語っている。

 フロアが、今まで聞いたことのないような大歓声で埋め尽くされる。そんな中、ひかりちゃんが顔を上げて、ピックを持ったままの左手をゆっくりと挙げた。そのまま、人差し指でわたしを指差す。

(---負けない)

 一階と二階の距離、前髪の向こうに隠れた目。表情なんて分かるわけない。だけど言葉がなくても痛いほど伝わる気持ちが、わたしの胸に突き刺さった。

「ハードル、上げてきたね」

「うん、すごく楽しみ」

「頑張ろっ!」

 頷きあうさーやとおたえに、自分を鼓舞するように呟くりみりん。みんなしっかりした足取りで、バルコニーを抜けてステージ裏に向かう。

「どした、香澄」

 有咲の心配そうな声と、硬い表情。ぎゅっと握り締めた右手は、きっと不安を抑え込むため。…弱気になっちゃダメ。有咲と、みんなと一緒に。わたしたちらしい演奏をしよう!

「…行くぞ」

「う、うん!頑張ろうね!」

 有咲と、わたし自身に言い聞かせる。だけど気持ちがふわふわと宙を漂って、歩く身体は自分のものじゃないみたいだった。

 

 いつの間にかサウンドチェックが終わって、もうすぐライブが始まる。薄い青の暗がりの中、幕の向こうからお客さんのざわめきが聞こえる。流れているSEの音量がちょっと上がってから、ゆっくりとフェードアウトしていく。落ち着かなくて左右を見渡すと、いつもよりステージが広くて、みんなが遠くに行っちゃったような気がした。

 幕が上がりきって、見えたのは真っ黒な夜の海。しんと静まり返って、さっきみたいな熱狂を待ち焦がれている。地平線が見えなくて、どこまでも続いて…。

 突然、カウントが四つ鳴って心臓が縮み上がる。

(弾かなきゃ!)

 全身からさっと血の気が引く。曲の一番初めの音に乗り遅れた。どうにか追いついて立て直したけど、ずっと弾いてきた曲なのに手がバタつく。頭の中から消えかける歌詞を、どうにか手繰り寄せながら歌う。鳴っているはずのみんなの音も声も、聞こえない。ふとした拍子に全部台無しにしてしまいそう。

(……どうしよう)

 わからなくなった。わたしが何を歌ってるのか何を歌いたいのか、どうしたいのかどうなりたいのか……。地面が、底なし沼になったみたいに沈む。心臓がいつもと違う音をたてる。今はライブ中、迷ってる場合じゃない。だけど、わからない。

 わたしのキラキラドキドキって、なんなんだろう?

 わからないまま曲が終わった。さっきの千佳ちゃんたちとは全然違う、中途半端な拍手がぱらぱらと湧く。

「香澄」

 気付くと、おたえがすぐ近くまで来ていた。

「大丈夫?」

 眉を八の字にした心配そうな表情。おたえと同じ上手側にいる有咲も同じ顔でこっちを見ている。下手側にいるりみりんも、真後ろにいるさーやも、きっと…。

「MCの内容、忘れちゃった?代わりにわたしが…」

「わわ、大丈夫!大丈夫だから」

 慌てておたえを止めて、マイクスタンドに向き直る。

「…こんにちは、Poppin' Partyですっ!」

 どこか戸惑っているような、まばらな拍手が湧く。

「えっと、今日は千佳ちゃん…じゃなかった、youthinemaの皆さんに誘ってもらって…」

 携帯に書いたメモを思い出しながら話す。いつもはこうやって話してるうちに解けるはずの緊張が、まだ身体中にまとわりついている。

 一通り話し終えて、次の曲に行く。さっきより少しだけ、みんなの音と声が聴こえる。だけど、わたしは…。

 歌に気持ちが、心が乗せられない。空っぽの歌、空っぽの音。身体中から力が抜けて、息が苦しくなる。抜け出そうともがくほど、どんどん沈んでいって、目の前の真っ暗な海に全部飲み込まれて……溺れてしまった。肩にかかるランダムスターは、掴む藁にもならなかった。

 

 ライブ後の達成感だとか高揚感だとか、打ち上げが楽しみでそわそわする感じだとかで浮ついている終演後の楽屋。その隅っこのテーブルに固まるわたしたちは、無言で帰り支度をしている。

「……」

 緩いざわめきの中、わたしたちの周りだけが取り残されたみたいに静まり返っている。

「や、お疲れ様」

 声をかけられて振り向くと、千佳ちゃんがひらひらと手を振っている。開演前に見たのと同じ人懐っこい笑顔が眩しくて、ちくりと胸が痛んだ。

 せっかく呼んでもらったのに、大きな会場なのに、あんなに不甲斐ない演奏をしちゃったこと。同い年の千佳ちゃんたちが、どうしようもなく眩しく見えたこと。色んな気持ちがごちゃまぜになって、言葉が出てこない。みんな黙り込んでいると、頬に指を当てて不思議そうな顔をした千佳ちゃんが言う。

「ポピパちゃんたち、今日調子悪かった?なんか、前見た時と違う感じがしたかなー」

 うーん、と口をへの字にして首を傾げる千佳ちゃん。

「……あの、」

「まあそんな日もあるよね!じゃああたしら反省会するから、またねー」

 ごめんなさい、と言いかけたところで千佳ちゃんは去っていく。その先から、ひかりちゃんがこっちを見ている。

「…………」

 まるで写真みたいにぴくりとも動かない。だけど、長い前髪の向こうからほんの少しだけ見える瞳が、ぎらぎらと燃えたっている。

(がっかりした)

「……!」

 視線だけで伝えて、ひかりちゃんは目を逸らした。

 

 

 

「今日は、この辺にしとこっか」

 さーやが言って、みんな片付けを始める。さっきまで響いていた演奏も歌もすっかり消えて、蔵が静まり返る。

 この前のyouthinemaとのライブ以来、胸に何かがつっかえたままだった。いつもより大きなステージだったのに、力を出し切るどころか、お客さんにもひかりちゃんにもがっかりされるような演奏。情けなくてもどかしくて、思い出す度に胸が苦しくなる。

 次のライブは決まっていない。大学三年、長い春休みの予定は真っ白だ。

 いつだったか、さーやと喫煙所で話したことを思い出す。

『おっきい体育館とかホールでライブして、お客さんがいーっぱいいて…』

 そんな日が、いつか来るんだろうか。今のままじゃ、どこにも行けない。キラキラドキドキも、見つけられない…。

「お茶、取ってくるわ」

 有咲がそう言って蔵の階段を登っていくと、りみりんがいそいそと鞄から四角い筒状の箱を取り出す。

「りみ、それってカステラ?」

「うん!評判のお店だから、ちょっと並んで買ってきたの」

「へー、りみりんがチョコ以外を持ってくるって珍しいね」

「チョコカステラだよ?」

「流石りみ、ブレない」

 そんなやりとりをしていると足音がして、有咲が戻ってきた。蔵のテーブルに並べたお菓子をつまみながらみんなでお茶を飲む。高校の頃から時々開いている、ささやかなお茶会。

「はあ、おいし……」

「ほんとだ。有咲、今日のお茶なんか違うね」

「ちょっと良い茶葉が入ったんだ。百グラムで六千円くらい」

「つまり、一杯いくらなの?」

 考え込むわたしを置いて、何気ない会話は続く。湯飲みから立ち上る湯気が何故か、煙草の煙に見えた。

『香澄、なんか悩んでる?』

 あのライブの後に駅でみんなと別れてから、さーやとふたりで立ち寄った喫煙所。駅の近くだから人も多くて、端で身体を寄せ合っていた時に聞かれたこと。

『ううん、なんでも…』

『香澄』

 口ごもったわたしを真っ直ぐ見つめるさーやの目。嘘は、吐けない。だけどわたしにも、わたしが何を考えているのか、わからないから…。

『…ちょっとだけ、待ってて』

『いつまで?』

 心配する気持ちと怒りを半分ずつ混ぜたような声色だった。

『わかんない、わかんないけど…ちゃんと答え、出すから』

 わたしが言うと、さーやは黙って目を逸らす。仕切りの中を埋め尽くすように漂う煙が、夜空を覆い隠していた。

 

「香澄」

 いつの間にか雑談から抜け出ていた有咲が、わたしの顔も見ずにぽつりと言う。

「なに?」

「話あるから、ちょっと残れ」

「どしたの、急に…」

「ちょっ、おたえ!あたしの分まで食べるなーっ!」

 わたしの言葉を受け流した有咲が慌てて自分のお皿を取りあげると、おたえが納得いかない表情で首を傾げる。

「だって残ってたから」

「残してただけだ!まったく、油断も隙もねえ…」

 ため息混じりに有咲が言って、りみりんとさーやがくすりと笑う。みんなの、いつものやりとりだった。

 

 門の前でみんなを見送ってから、有咲の背中を追って蔵に戻る。

「有咲。話って、なに?」

「……」

 背中越しに問いかけたけど返事は無かった。そのまま黙ってふたりで蔵に入る。格子付きの窓から夕日が差し込んで、電気を点けなくてもどうにか周りが見えるくらいに明るい。後ろ手に扉を閉めて向き直った有咲は、眉間に皺が寄った険しい表情をしている。

「お前、あたしに隠し事してるだろ」

 鋭い声に胸を突かれた。心臓の辺りが苦しくなって、その感覚が身体の真ん中を包んでいく。

 隠し事なんかしてないよ、わたしの言葉を先回りして有咲が言う。

「プラネタリウム行った辺りから、なんか変だと思ってたんだよ。あと、この前のライブ。お前なら沙綾たちに賛成すると思ったのに、消極的なあたしの肩を持った。で、いざ本番になったらやけにビビってるし。どう考えてもおかしい。………なあ、あたしにもみんなにも、言えないようなことなのか」

「……」

「答えるまで、ここ開けないからな」

 突き付けるように言った有咲が扉にもたれかかる。目を閉じて、わたしの言葉を待っている。本当にずっと出られなさそうなくらいに動かない。

 木の匂いで包まれた蔵の空気を深く吸い込んで吐き出す。そうやって気持ちを落ち着けてから。

「あのね、有咲…」

 ずっと抱えていたことを、全部話した。

 

「………ついていけてない、か」

 有咲は俯いて、深く息を吐く。薄暗さに隠れて表情が見えない。静まり返った蔵の空気が全身にのしかかっている気がして、わたしも顔を上げていられなくなった。

「出口さんの言う通りだよ」

「え?」

 有咲の言葉に顔を上げると、ちぐはぐな笑顔が夕焼けの中に浮かんでいた。なにか大切なものを諦めて手放すような、寂しくて悲しい笑顔。

「あのレコーディングの最中に思ったんだよ。『こんなの早く終わればいい』ってさ。……みんなと違ってな」

 そんなこと、と呟いたけど否定できなかった。あの時は、さーやもおたえも楽しそうにしていた。りみりんだって最初は緊張してたけど堂々としていたし、わたしだって自分の全部を出し切れて楽しかった。

「だから、あたしは抜ける」

 呼吸が止まって、頭の中が白で埋め尽くされた。有咲は真剣な表情で、真っ直ぐにわたしを見つめている。もう決めたことだと、その瞳が言っていた。

「有咲が抜けるなんて、ありえないよ。わたしはずっと…」

「断りの連絡、入れたのか」

「まだ、だけど」

「あたしを抜けさせるつもりがないなら、なんで迷ってんだよ。あんな不甲斐ないライブまでして」

「それは……」

 わたしにもわからなかった。有咲と一緒にいたいから、有咲がいなきゃポピパじゃないから、レーベルの話は断る。それだけの話だった。なのに答えはずっと出ないままで、わたしにとってキラキラドキドキがなんなのかもわからなくなって…。考えがまとまらない。心臓の立てる音だけが聴こえる。

「……目ぇ覚ませよ、戸山香澄っ!」

 有咲の怒鳴り声がした。

「あたしの知ってる戸山香澄は、バカで向こう見ずで一生懸命で、キラキラする為ならなんだってやる奴だろ!あたしなんかに構って立ち止まるんじゃねえ!」

「でも、有咲…」

「でもじゃねえ、行けよ!感じたんだろ、星の鼓動を聴いた時みたいに…今よりもっと、キラキラドキドキできるって!」

 あの時、確かに感じた。千佳ちゃんたちの演奏を聴いた時、千佳ちゃんたちの演奏を見ているお客さんたちの熱気を見た時…星の鼓動を聴いた時と、同じドキドキを。あんな演奏をしてみたい。あんな風にお客さんを震わせたい。それはきっと、空を飛ぶのと同じくらいドキドキすることで…。

「でも、有咲、有咲は、どうするの?」

 聞かずにはいられなかったことを聞くと、有咲が胸に飛び込んできた。そのまま目も合わせずに、ゆっくりと言う。

「ポピパの何倍もカッコいいバンド組んでさ、みんなに追いつくよ。絶対、追いつくから…だから、先に行って待っててくれよ」

「う、うん。絶対、絶対だよ!」

 胸の中にいる有咲を強く抱き締める。この約束は、絶対に、必ず、何があっても守ってほしいから。有咲は一度鼻を鳴らしただけで、何も言わない。

 少ししてわたしが力を緩めると、顔を上げた有咲は目の端に涙を滲ませて、泣き出しそうな笑顔で言った。

「あたしがいなくても、気い抜くなよ?」

 

 蔵の扉が閉められて、広い庭に呆然と立ち尽くす。冬が殆ど終わって、吹く風は暖かくなっていた。風が砂埃を巻き上げて、瞬きをすると視界がすっかり滲んでいた。たちまち、胸の中にあるものが堰を切ったように両目から溢れだす。

「ありさ」

 震える声で呼んだ名前がどこか遠くに感じる。拭っても拭っても涙は止まらなくて、子供みたいに声をあげて泣いた。

 思い浮かぶのは有咲のことだけ。

 道端の星を追いかけて初めて出会った時のこと。おばあちゃんに名前を教えてもらった時のこと。(ランダムスター)をくれた時のこと。

 頬を膨らませて怒る顔も、どこか照れくさそうに笑う顔も、全部はっきり覚えてる。有咲が一緒にいてくれたから、星がわたしと有咲を繋いでくれたから、キラキラドキドキを追いかけることができた。これから先、いつかはわからないけど……また、一緒にキラキラドキドキできるって信じてる。

 有咲が、何もなかったわたしの手に沢山のものをくれた。

 目を閉じれば、瞼の裏に有咲がいる。だから。

「先に行って、待ってるね」

 涙を拭って、扉の向こうにいる有咲に伝えた。

 

 

 座ったままもたれている扉の向こうから、香澄が大声でわんわん泣いているのが聞こえる。

「……せっかくカッコつけて別れたのに、台無しじゃねえか」

 なんだか温度が下がったような気がする蔵の中を見ながら、がりがりと頭を掻く。思えば会ったばっかりの頃は、ここの片付けを手伝ってもらってたんだっけ。

 ランダムスターをケースごと落っことしてぴーぴー泣いて、修理の帰りに宝物みたいにランダムスターを抱えていた姿がなんだか眩しくて、五百四十円で譲ったこと。そのランダムスターを、初めてアンプに繋いで鳴らした時のはしゃぎようがやかましかったこと。ずいぶん前のことだけど、今でもはっきり覚えてる。

 あの時からずっと香澄は香澄だった。蔵からあたしを引っ張り出して、平穏な日々をぶっ壊した張本人。躓いたって転んだって、最後には前を向いて走り出す。そして躓いたり転んだりする度に、強く眩しくなっていく。

 そんな香澄についていけなくなったのはいつだろう。はっきりと意識したのはあのレコーディングの時だった。技術が足りないのはもちろん、私の気持ちがついていけてなかったのを、ほぼ会ったばかりの出口さんはモニター越しに見抜いていた。

「ほんと、情けねえ…」

 だけどあの時、香澄は私を信じてくれた。これからだってきっと、私を信じて待っててくれる。

 香澄が、乾ききっていた私の心に水をくれた。

 目を閉じれば、瞼の裏に香澄がいる。だから。

「待ってろよ、すぐ行くから」

 蔵の天井、その向こうにある夜の始めの空を想いながら、扉の向こうにいる香澄に伝えた。

 

 なんとなく蔵の地下に降りて、静まり返った部屋を見渡していると、みんなとの日々を思い出した。

 故障したベースアンプをりみと一緒に自前で修理して、お陰で配線に少し詳しくなったこと。

『有咲ちゃん、アンプから煙が…!』

『うおおおお?!とにかくコンセント抜けーっ!』

『これ、修理に出した方がいいよね?』

『いや、調べたら割と修理代高いしあたしたちでやっちゃおう』

『大丈夫かな…』

 やたらおたえの音が抜けてくると思ったら、おたえが勝手にギターアンプを改造してて苦笑したこと。

『おたえちゃん、ギターの音変わった?』

『うん、アンプの部品替えたからね』

『いや事前に言えよ。一応うちのだぞ』

 沙綾にドラムを教えてもらって、ちょっと叩けるようになったこと。

『有咲も叩いてみる?』

『お、おう。……こんな感じか?』

『うん、上手上手』

『あたしは子供かっ!』

『あはは、冗談だって。でも結構センスいいと思うよ?今度はこれをこうやってみて』

『なんかすっげー活き活きしてるな、沙綾』

『そう?』

 そして、香澄とのこと。

 蔵での練習中。休憩時間なのに、香澄はソファに座ってギターを爪弾きながら何かを口ずさんでいた。聞いたことがないからたぶん新曲だろう。時々うんうん唸ったり、唇を尖らせて考え込んだりしている。いつも見ている光景だけど、ふと気になったことを聞いてみる。

『なあ、お前ってさ。なんでそんなに歌いたいの?』

『なんでって?』

『いや、今までいっぱい曲作ってきたじゃん?よくそんなに思いつくなって』

 なんだか失礼な聞き方かもしれないと思ったけど、香澄は特に気にする様子もなく、口元に手をやって少し考えてから言った。

『歌いたいことがいっぱいあるから…かな?楽しい時は楽しいって、悲しい時は悲しい…けど頑張る!って』

 笑顔になったり落ち込む素振りを見せながら語る様子がおかしくて、思わず顔が綻ぶ。

『あとは、世界はすっごくキラキラで眩しいとか、ひとりじゃないとか、わたしはここにいるよ、って言いたい……のかな?』

『わかんねーのかよ』

 わかんないかも、とはにかんだ香澄はまたギターを弾き始めた。しばらくして始まった練習で聴く香澄の歌は、なんだかいつもより心の奥に届くような気がした。

 

「香澄にはああ言ったけど、これからどうすっかな」

 ソファに身体を投げ出して、天井を見上げながら考える。レコーディングを乗り切れない程度のキーボードの技術。おたえやりみの足元にも及ばないコーラス。それでも。

(歌いたい)

 確かにそう思う。世界は眩しいくらいに輝いてるってことを教えてくれた奴がいて、みんなひとりじゃないって教えてくれた奴がいて、そして、あたしがここにいるってことを歌いたい。勢いをつけて立ち上がって、スタンドに置きっぱなしになっているキーボードの電源を入れた。そのままコードをいくつか弾いて、違和感のなさそうなメロディを選んで口ずさむ。

 だけどしばらく続けても、形になる気配すら見えなかった。

「わかんねー……」

 呟いて、溜息をつく。

(まあ、ひとつずつやっていくしかないか)

 作曲や作詞の本を買う算段を立てつつ、あたしは蔵から出た。

 

 

 

 あれからだいたい半年が経った。わたしとさーやとおたえとりみりんの四人は、舞台袖に並んでステージを眺めている。

「いよいよだね」

 わたしが呟くと、みんな黙って頷いた。おたえはいつものように柔らかく微笑んで、さーやは景色を目に焼き付けるようにじっと動かない。りみりんはすぐにでも泣き出しそうだった。

 一番近い下手側、アンプの前でベースを構える女の人。雰囲気は蘭ちゃんみたいだけど、蘭ちゃんよりもトゲトゲした空気でちょっと怖いかも…。

 ステージの真ん中、少し奥の方にはショートボブの女の人がドラムセットの前で何度も深呼吸をしている。見た目は髪を短くした薫さんだけど、中身は花音先輩みたい。

 一番遠い上手側、あこと同じかひょっとしたらあこより小さいくらいの女の子。お人形さんみたいなふわふわのスカートとは正反対に、どっしりした七弦ギターを抱えて得意げな顔をしている。

 そしてステージの真ん中。一番お客さんの注目を浴びて、一番お客さんに近い場所に、有咲がいる。有咲がキーボードの上に立てたマイクに近付いて、言葉を発する。

「はじめまして!わたしたち---」

 新しいキラキラドキドキが、始まった。







pixivにも同じものを投稿しています。
https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=10954322


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