ハリー・ポッターと病める血の少女 (ぱらさいと)
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ハリー・ポッターと賢者の石
目覚め


 スリザリンならこいつの出番、という話。


 ぼうっと外を眺めて時間を過ごす。

 人生で初めての入院生活は、私にはあまりにも退屈だった。

 ベッドから下りていいのはお風呂とお手洗いのときだけ。

 どこも悪くないのに散歩もさせてもらえない。

 ご飯はあんまりおいしくないし、量が少ないからいつも腹ペコ。

 採血は太い針を刺されてとても痛いから大嫌いだ。

 はやく家に帰って白いご飯が食べたい。

 一日三食ぜんぶパンで、毎朝焼きすぎのスクランブルエッグと脂っこいベーコンが出てくるのもいい加減あきてしまった。

 この本も変なお話ばかりでちんぷんかんぷんだ。

 どうせならゲームボーイでもあればいいのに……イギリスの魔法使いは、いったい何百年前から同じ生活をしているんだろう。

 退屈とストレスでベッドに縛られながら、中庭で遊んでいる人たちをじっと見つめているうちに、今日のお昼もゆっくりと時間が進んで行く。

 

 

 病室の扉が乱暴に開いた。

 看護師さんではないし、ショウブおじさんは物音を立てずに動くから違う。

 いつもベッド脇の本棚を埋めていく人でもなさそうだ。

 入ってきたのは、色素の薄い男の子だった。

 顎の尖った細い顔に、機嫌の悪そうな表情、それにあの人とそっくりの薄い金髪。

 少し離れたところからこちらを観察している。

「父上から聞いたよ。君、吸血鬼に噛まれたんだって?」

 自分でもよく分からないが、そのようなので頷いた。

 おじさんがお仕事でイギリスに行くから、夏休みだった私もいっしょにやって来た。

 ナントカという古い町のお城に泊まって、そこからの記憶がない。

 彼のお父さんが誰なのかは想像がつく。

 ということは、私は吸血鬼に噛まれて病院に運ばれたのだ。

「そりゃ災難だったね。魔法省もこの事件で大騒ぎだ。まったくたるんでるよ連中は……なんのために父上が多額の寄付をなさっているのか分からないじゃないか」

 色々とイギリスの魔法界に詳しいようで、大臣は辞任すべきだとかよくわからないことを延々と喋っている。

 学校の先生たち職員室が話しているときと似たような雰囲気を感じた。

 むう……病院食に比べたら給食の方がマシだったなぁ。

 少なくとも口内炎が出来るようなことはなかったし。

 金曜日のカレーライスとデザートのヨーグルトに思いを馳せていると、男の子は「君もそう思わないか?」と話を振ってきた。

 いや、ヨーグルトもいいけど季節のフルーツも捨てがたい。

 とつぜんビワが食べたくなってきた。

 毎日のように水っぽいオレンジはもういらない。

 ドラコの話しはちっとも聞いていなかったので「そうですね」と返す。

 水曜日の揚げパンや、月曜日の磯辺揚げも懐かしい。

 けどなにより月一の鯨肉が恋しい。

 硬めの牛肉みたいな食感だけど、私はなぜかあの竜田揚げが気に入っている。

 脂でぎとぎとのベーコンよりずっといい。

 考えていたらお腹が鳴りそうだ。

「ぐう」

 鳴った。

「なんだ今の音は。君の腹の中で飼ってるトロールがいびきでもかいたのか?」

「かもしれません」

 男の子は面白くなさそうに本棚の前へ立った。

 金髪の魔法使いが置いていった英語の本を見て、鼻で笑う。

「ここにある本、僕はもう全部読み終えたぜ」

「そうですか。私には難しくって」

「難しい? たかがゴブリンの反乱の解説書じゃないか」

「大人の人が読む本なのに、すごいんですね」

 イギリスの魔法界の歴史なんてなにも知らないので、ゴブリン関連だけ書かれても全体がどうなっているのかさっぱりだ。

 この男の子は全部把握しているから簡単に読めたのだ。

 褒められても「当然だ」と言わんばかりににやりと笑っている。

 こういう感想は慣れっこらしい。

「この程度、マルフォイ家の長男としては当然さ」

 マルフォイという名前で確信した。

「お父さんは、ルシウスという人ですよね」

「そうだ。父上の名はルシウス・マルフォイ、僕はその息子でドラコ。ドラコ・マルフォイだ。よく覚えておくんだな」

「えーと、初めましてドラコさん。葵菫(アオイ・スミレ)です」

 オールバックの男の子あらためドラコは片眉を上げて驚いてみせた。

 元が整っている顔だから自然と様になる。

「君は中国人か。どうりで平べったいまな板みたいな顔してるわけだ」

「日本人です」

「大して変わらないだろ。畑耕して米を食ってるんだから」

 全然違うのだけれど、この自信溢れる言い様からして説明するのは面倒に思えた。

 だから私はなにも言わず適当に微笑み返しておいた。

 ドラコは目に付いた本を手に取り、ぺらぺらとページをめくる。

 そのまま心底興味がない様子でとんでもないことを口にした。

「アオイももうすぐ退院だ。そうしたら、しばらくは僕の家に来ることになる」

「あなたの家……? 日本に帰るんじゃないんですか?」

「父上から聞いていないのか? 役立たずのファッジが君の帰国を渋ったのさ。吸血鬼になったかもしれないヤツを野放しにできるか、ってね」

 私が吸血鬼?

 そんな馬鹿なことが――確かに貧血はあってもそれはお母さん譲りの体質だ。

 色白なのはお祖母ちゃん、眠りが浅いのはお父さんから受け継いだものだ。

 持って生まれた体質を理由に、そんな横暴なことがあってはたまったものじゃない。

「イギリスは原種クラスの吸血鬼の絶滅宣言を出してる、それをさんざん自慢してたのに、街レベルで何百年も生き延びてたなんて海外に知られたら面目丸つぶれだ。つまり君は、馬鹿で無能な魔法省のプライドを守るために――」

「これドラコ、知ったような風に言うでない」

 開いたままの扉からマルフォイさんが見えた。

 真っ直ぐ長いプラチナブロンドの髪に、透き通ったアイスブルーの瞳。

 キレイな黒のローブがいかにも貴族らしい恰好だ。

「ミス・アオイ、失礼しても構わないかな?」

「いえ、ぜんぜん、遠慮されても困ります」

「ではお言葉に甘えるとしよう」

 ゆったりとした言葉遣いや物腰も品がある。

 こういう人のことを『紳士』と呼ぶに違いない。

 きっとドラコも、いずれは立派な紳士になるのだろう。

「叔父上に代って退院を報せに来た。彼は今、院長室でその手続きをなさっておられる」

「ありがとうございます」

「よい報せのあとにこれを伝えねばならぬのは心苦しいが……そこのお喋りからすでに聞いたかね?」

 頷く。

 退院してもイギリスから出られないこと。

 魔法省が私を吸血鬼だと疑っていること。

 その二つについてはついさっきドラコが教えてくれた。

 マルフォイさんも残念そうに首を左右に振る。

「嘆かわしい……診断でミス・アオイの健康無事は確認出来ているというのに、愚かしいことだ。この措置は魔法省にとって最大の汚点となるだろう」

 しかしマルフォイさんはすぐに微笑んだ。

「だが安心したまえ。そちらの新学期が始まる前には帰国できるよう、すでに手配してある。大臣閣下は君を一年以上も留めておくつもりのようだが、それはあまりに残酷すぎる」

「お気持ちは嬉しいのですけど……ご迷惑がかかるのでは……」

「その心配は不要だ。私とて子を持つ親、我が子を待つ辛さを思えばこれくらいはどうということもない」

 うっすらと、けれどとても優しそうな微笑みだった。

 叔父さんのお友達というだけでこれほどよくしてもらって、私にはどう言えばこの気持ちを伝えられるのか分からない。

 ただただ涙を堪えて頭を下げるしかできなかった。

「喜んでもらえたのであれば私も嬉しい」

「待たせたなスミレ、ルシウス。ようやく手続きが終わった!」

 足音一つ立てずにショウブおじさんが来たらしい。

 ひどく声が怒っている。

 江戸っ子というかちょっと気の短いところはあるけれど、こんなに苛立っている叔父さんは初めてに思えた。

 耳を澄ますと遠くで大騒ぎが起きているようだった。

「随分と手間取ったな」

「なに、若い癒師の野郎が俺の姪っ子をバケモノ呼ばわりしやがったんでな。顔に一発お見舞いしてやった」

「優しいな。一発で済ませたのか」

「手じゃなくて脚だ。んなこたいい、魔法省の横槍が入った」

 マルフォイさんの声が険しくなる。

 影で酷いことを言っているお医者さんがいたから、蹴られたのはその人だろう。

 叔父さんのキックも魔法で治せるから、あまり意味はないと思うけれど。

 私も顔を上げた。

 今度はどんなことになるのか不安で不安で、心臓が潰れそうな苦しくなる。

 どっと冷や汗をかきながら叔父さんの言葉に耳を傾ける。

「まあ待て、今は姪御の退院を祝そうではないか。ついては今晩にも当家でささやかながらパーティーを開きたいのだが、ご出席願えるかな?」

「っ……ああ、そうだな。もっともだ。スミレ、お前どうする? パーティー行くか?」

「ご飯、食べていいんですか?」

 今度もやはり薄い微笑だったけれど、マルフォイさんは優しげに頷いてくれた。

 歯を見せてニッコリ笑っているショウブ叔父さんが荷物整理を始める間、私は服を着替えて病室の隅でじっとしていた。

 窓辺で読書をしていたドラコはいつの間にか部屋を出ていたが、読んだ本は元の場所に戻していた。




 要はスリザリンの大物と顔見知りということ。
 スミレちゃんの実家についてはそのうち。
 設定は映画版とごちゃ混ぜかつ吸血鬼、マホウトコロ関係は公式データが少ないからほぼオリジナルになります。


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ブリティッシュ・ディッシュ

 序盤の人間関係が分かるだけのお話。


 ドラコの家に泊まり始めて二週間。

 もうすぐ8月も終わりが見えてきた。

 イギリスの短い夏が終わり、私も来週には日本へ帰る。

 そんなある日、カローという家から誕生日パーティに招待された。

 末っ子のフローラとヘスティアという姉妹が8月31日で誕生日を迎えるから、ぜひお祝いに来て欲しいと。

 呼んでいただけるのはうれしいけど、大きな問題があった。

「私、フローラさんもヘスティアさんも会ったことないですよ」

「アイツらに会ったことがあるやつなんてそういない。暗い性格の双子でね、滅多に人前に出てこないのさ」

 ドラコもこの双子の姉妹を見分けられないと言った。

 辛うじて母上……ナルシッサおば様は、見分けがつくという。

 まともに会話したことがあるのはおそらくカローの身内だけとも。

 そんな人に会わなきゃいけないのかと思うと少し怖い。

「そう心配するなアオイ、どうせ双子は挨拶が済んだらすぐに引っ込む。毎年そうなんだ」

「それもありますけど、またパイやお肉ばかりなんでしょうね」

 イギリスのご飯は毎日ジャガイモとお肉と小麦生地のものばかり。

 それだけでも重いのに、油で揚げたりパイにしたり味の濃いソースをかけたり……おかげでここ最近胃もたれと口内炎が辛い。

 屋敷しもべのドビーさんが用意してくれるポリッジという麦のおかゆだけが癒しだった。

 温かくてほんのり甘くて、腹持ちも悪くない。

「そんな弱っちい胃袋でホグワーツに入る気なら考え直した方がいい」

「ホグワーツにも屋敷しもべさんはいるそうですから、なんとかなると思います」

「いちいち手間のかかるやつだな。それに屋敷しもべなんかに『さん』づけするなんて変わり者もいいところだ」

 E.T.とマスター・ヨーダの合いの子みたいな見た目に雑巾同然のボロボロな服を着た妖精さんを、ドラコはじめ魔法使いはみんな奴隷だと思っている。

 はじめは気になったものの、屋敷しもべの人たちもそういう扱いが名誉なことだと考えているので、私もなるべく深く考えないようにした。

 ドラコは新しく買ってもらった歴史の本を読みながらリンゴを齧っている。

 芯だけになったリンゴをドビーさんに渡すと、思い出したように本を閉じた。

「そう言えばもうすぐ日本に帰るんだって? 煙突を使うのか?」

「日本に煙突はありませんよ。囲炉裏だって今どき珍しいです」

「煙突も囲炉裏もない? どうやって部屋をあたためてるんだ?」

「普通はガスや電気、石油のストーブかエアコンですね」

「それはアレか、マグルの道具か」

 ドラコのほっそりした顔に嫌悪の色が浮かぶ。

 イギリスでは、純血であることが自慢の魔法使いは魔法使いでない人々をマグルと呼んで軽蔑している。

 だが日本とイギリスでは色々と事情が違う。

「そうですね。日本は魔女狩りが無かったですから。隠れなくてもある程度は安全でしたし」

 イギリスはじめヨーロッパの魔法使いが『マグル』から身を隠しているのは、そもそも魔女狩りや異端審問で長く弾圧された過去があるからだ。

 日本ではキリシタン狩りや廃仏毀釈はあっても、魔女狩りはない。

 その辺りの違いを踏まえると、ドラコも少しだけ納得してくれた。

 本当に少しだけではあったけれど……。

 イギリスでは距離を取って隠れる方法で、日本ではむしろ一体化して溶け込む方法で今日まで魔法の世界は生きてきた。

 飛行機で片道何時間もかかるんだから違って当然だ。

 それにしたって、リビングでも靴を履く習慣だけは一生馴染めそうにない。 

 

 

 双子の誕生日パーティーが始まってから数時間。

 ナルシッサおば様からいただいたドレスは、デザインも含めてあまりにも馴染みのない衣装だった。

 黒をベースにしたフリルたっぷりのロリータで、しかも赤いリボンまみれである。

 なんでもおば様のお姉さん――ベラトリックスという方だそうで、今はイギリス国外にいらっしゃるのだとか――が着ていたものらしい。

 ベラトリックスさんがまたこれを着ることはないからと、私に譲ってくださった。

 ……吸血鬼を連想する色合いがとても気になる。

 ハイヒールも足首が疲れるし、なによりドレスが重い。

 フリルとリボンが過剰に盛られているせいだ。

 立っているのも辛くなってしまい、今はホールの隅っこで椅子に座り休んでいる。

 フローラとヘスティアのご親戚、アミカスさんとアレクトさんにもご挨拶したし、パンジーやミリセントはドラコと一緒にいるから邪魔したくない。

 あの二人はドラコが好きなのだ。

 おば様譲りのスマートな顔立ちにおじ様そっくりのプラチナブロンドと上品なブルーの瞳、貴公子という言葉がよく似合っている。

 パンジーもミリセントも――少し性格のきつそうな雰囲気だけど――目鼻立ちのくっきりした美人だから付き合うならお似合いだ。

 一方で私は小柄で鼻も小さいし、なによりみんなより年上に見えない。

 それに家は貴族でもなんでもないから礼儀作法も粗末だ。

 なんとなく場違いというか、居心地よくないなあと思いながらグラスのリンゴジュースを飲む。

 ほんのり甘い香りがして、酸味が強い。

 日本のリンゴとはずいぶん違う味わいだ。

 たしかにイギリスのは青みがかっていて小ぶりだった。

 あれはあれで美味しいけど、私はやっぱり酸味が少なくて甘いリンゴの方が好きだ。

 ご飯にしてもローストビーフやステーキがほとんどで、野菜といえばスープに入っているグリーンピースと玉ねぎぐらい。

 新鮮な青野菜のサラダが欲しい。

 屋敷しもべさんも見当たらないので、今晩はリンゴジュースとプリン一口で終わりそうだ。

 イチゴジャムのパイをおかわりしているクラッブとゴイルみたいに丈夫な胃があればと思ってしまう。

 ……もうすぐこの生活と離れられる、けれどそれは、ドラコたちと何年も会えなくなるということ。

 嬉しいような悲しいような、複雑な気持ちになる。

「お隣、よろしいですか?」

「どうぞ」

(わたくし)もよろしいですか?」

「どうぞ」

 左右から声をかけられて、ぼーっとしたまま答えた。

 相手が誰か見ていなかったけど、多分知らない人だろう。

「今日は(わたくし)たちの誕生日をお祝いに来てくださって、ありがとうございます」

「近くイギリスを経たれると聞いていましたから、お会いできないかと思いましたわ」

 ふと両隣を確かめると、カロー家の双子、フローラとヘスティアがいた。

 どちらがフローラでどちらがヘスティアか見分けがつかないけれど、灰色がかった青い瞳と薄い唇はどちらも微笑んでいる。

 二人とも妖精……屋敷しもべさんと違ってとても冷たい雰囲気だけれど、それも含めて美人だった。

 相手は二歳も年下の女の子なのに目線をあわせていられない。

 吸血鬼の眼光にはチャームの力があるというが、フローラとヘスティアは本当に瞳だけで相手を魅了する力を持っているようだ。

「い、いえ……そんな、見ず知らずの私まで呼んでいただいてありがとうございます……」

 言葉に詰まりながら頭を下げる。

「スミレさん、でしたか」

「日本からお越しだとか」

「そうなんです。はい」

 顔はとても美人なのに、ドレスはキュロットを履き忘れたピーターパンかリンクだ。

 魔法界の不思議なセンスが少し冷静にしてくれた。

「スミレさんの叔父様には以前お目にかかったことがありますの」

「魔法医薬会の国際フォーラムでご挨拶させていただきましたの」

 ショウブ叔父さんの研究は医療品、特に魔法のお薬が専門だ。

 学者には見えないがっしりした身体だがいくつか賞も貰っている。

 今回は万病に効く医療薬があったという噂を確かめに行って、そこで……。

「自慢の叔父さんです。いつも忙しいから、とっても早足ですけれどね」

 競歩の選手になれそうなほど速い。

 運動神経はいいのに箒に乗れないのだから世の中は不思議だ。

「ええ。お別れしてすぐに見えなくなってしまわれました」

「てっきり杖を使わず『姿現し』をしたのかと驚きました」

「そんなことが出来る人がいるんでしょうか……?」

「ええ。ホグワーツ魔法魔術学校の校長」

「大魔法使いアルバス・ダンブルドアは」

「それは……すごい方だったんですね」

 初めて名前を聞いた。

 ドラコはダンブルドア先生をあまりよく思っていないようだったし、アミカスさんやアレクトさんもそんな雰囲気だった。

 こういうところでもイギリスの純血の家系は色々とある様子だ。

 私は少し前まで純血もなにも関係ない生活をしてきたから、ちょっと不安になってしまう。

 ホグワーツでうっかり失礼なことを言ってしまわないよう注意しよう……。

 純血とマグルのこともそうだけど、私は知らないことが本当に多すぎる。

 家に帰ってからでもよく勉強しよう。

 キレイな双子の女の子に見つめられて、落ち着かないながらそんなことを考えて空腹を誤魔化していた。



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魔法の世界へ

 銀行と杖のお話。


 人生二度目のイギリスも曇りだった。

 鞄にはホグワーツ魔法魔術学校から届いた入学許可証と日本語の本が数冊。

 学校へは特急列車で行くから退屈しのぎに持ってきた。

 魔法界の本と違って表紙や挿絵は動かない。

 動く方がおかしいと思うのは私が『マグル』の価値観に染まっているからだと、ドラコかパンジーあたりは言いそうだ。

 入学にあたって教科書に制服、杖、ペット、その他羽ペンや細々としたものが必要になる。

 特急に乗る前に買い揃えるため、ダイアゴン横町へやって来た。

 魔法使いの道具はだいたいここで手に入るそうだ。

 手に入らないのは『こすると魔神が出てくる魔法のランプ』や『空飛ぶ絨毯』だろうか。

 まあ、そういうのはイギリスにはないだろうけど。

 あるとすれば砂漠の洞窟だ。

 ダイアゴン横町は色んなお店がずらりと並んでいる。

 商店街のような場所で、きれいに整った石畳の上をたくさんの人が通っている。

 とんがり帽子に長いローブ、髪はもじゃもじゃだったり三つ編みだったり、行き交う人のほとんどが魔法使いの恰好だ。

 ショウブ叔父さんは白いシャツの上に黒いジャケットを羽織って、普通の黒い革の靴。

 私はいつものTシャツにスニーカーを履いてきた。

 なんだか魔法の世界に迷い込んだ一般人だ。

 準備物のリストを見て、叔父さんは行き先を決めた。

「さて……まずは銀行に行くとするか。預けてるモンもあるしな」

「ここ銀行があるの?」

「ああ。お前が倒した吸血鬼いただろ、あいつの遺産をぜんぶそこに預けてる」

「私が? 倒した?」

 私はその辺りのことをよく覚えていない。

 今の今までずーっと叔父さんと魔法省の人が助けてくれたと思っていたのに、とんでもない新事実だ。

 叔父さんは「その辺は、また今度にな」と私の手を引っ張って猛スピードで歩き始めた。

 あれから背も伸びて、走ればなんとか追いつけるようになった。

 けれど銀行に着いた頃には少し疲れてしまった。

 そこはグリンゴッツという銀行で、大昔にグリンゴッツという小鬼が始めたからこの名前になっている。

 日本の銀行とは比べものにならないほど大きくて広い。

 大理石のホールでは何人ものゴブリンが帳簿を作ったり宝石を秤に載せたりしている。

 背丈は私よりまだ小さいのに、頭は大きくて耳と鼻は尖っている。

 ツメも鋭いし表情もちょっと怖い。

 叔父さんは適当なカウンターへ進んでゴブリンに声を掛けた。

「おはようさん、スミレ・アオイの預けものを引き取りに来た」

 眼鏡を掛けたゴブリンは分厚いレンズの向こうで小さな目をぎらりと光らせた。

 ジャケットの内ポケットから取り出したカギを受け取ると、小さく頷く。

「確かにスミレ・アオイ様の金庫のカギです。他の者にご案内させましょう、グリップフックこちらのお客様もお願いしたい」

 グリップフックさんもやっぱりゴブリンで、チューバッカみたいな毛だるまの大男と眼鏡の痩せた男の子を見送っていた。

 ひょこひょことこちらへ来ると奥の扉へ案内してくれた。

 途中、叔父さんがふとグリップフックさんに尋ねた。

「さっきアンタが案内してたのはハリー・ポッターか?」

「ええ。左様でございます」

「その人も叔父さんのお友達?」

「有名人だ。魔法使いで知らなきゃモグリってレベルで有名人」

「ポール・マッカートニーとかフレディ・マーキュリーみたいな?」

「うーん、かもしれない」

 それにしてはとても普通の、私のクラスにいてもぜんぜん違和感が無さそうな雰囲気だった。

 とてもポール・マッカートニーやフレディ・マーキュリーみたいに追っかけがいるとは思えない。

 彼が武道館でライブをしても気絶する人はまずいないだろう。

 チューバッカの方が私はよっぽど気になる。

「どうぞ後ろの席へ。足下にお気をつけください」

 ロンドンの地下にダンジョンみたいな空間が広がっている。

 化石ポケモンが出てきそうな洞窟を移動するのにトロッコを使うとは……。

 叔父さんが先に乗って、私の手を引いてくれた。

 おっかなびっくり周りを見渡しているとボロボロのトロッコが急発進した。

 がくんと首が揺れて、車輪とレールがギシギシ音を立てている。

 グリップフックさんはなにもしていないのに、トロッコは勝手にレールの上を爆走して何度も坂を登ったり下りたり、分岐点を数え切れないほど通り過ぎていく。

 遠くには滝も見えた。

 溶岩があればもっと雰囲気が出ただろう。

 後ろから他のトロッコが追いかけてくれば『魔宮の伝説』だった。

 つい興奮して声を挙げてしまう。

「ジェットコースターみたい!」

「…………」

 叔父さんは顔を真っ青にして黙っている。

 もしかしたらジェットコースターは苦手だったのかもしれない。

 お父さんは苦手そうだけど、お母さんはこういうの好きだろうな。

 遊園地に行ったら必ずジェットコースターとお化け屋敷に行くから。

「着きました。230番の金庫です」

 風で髪型が崩れた叔父さんがフラフラと先に下りる。

 私もトロッコから飛び降りて、大きな扉の前に立った。

 姫路城の正門くらい分厚そうだ。

 さっき叔父さんがカウンターで渡したカギを使い、グリップフックさんが扉を開ける。

 重い音が響いて、だんだん中の様子が見えてきた。

 

「話しは聞いてたが……こりゃ、スゴイな……」

 

 私の金庫の中は、金色のコインが山脈を作っていた。

 さらに奥でまた金色の富士山が出来ている。

 硬貨の漂わせるひんやりした空気に誘われて、一歩踏み込んだ。

 これがぜんぶ私のモノ、その実感がちっとも湧いてこない。

 誰かが遺してくれたでもなく、譲ってくれたでもなく、欠落した記憶の中で起きたことがもたらした大金……。

 こんなのあってもうれしくない。

 はやく処分してしまいたい。

 

「カネの方は腐らせとけ、今日はその杖を取りに来ただけだ」

 

 後ろから呻くような叔父さんの声がした。

 私がこのお金を嫌がっていると気づいている。

 ……卒業したら病院かどこかに寄付しよう。

 杖は金貨の小山の上に鎮座していた。

 全体は真っ黒で、持ち手のトコロには金で植物の彫刻が飾られている。

 気味が悪いほど成金趣味なそれを手に取ると、生まれた頃から持っていたように馴染む。

 30センチ以上はありそうなのに重さもなにも感じないほどしっくりくる。

 不気味な魔法の杖が怖くて、叔父さんの方を振り返った。

 

「こ、これ、なに?」

 

「お前の杖だ。気に入らないなら鞄に入れておけばいい」

 

 言われたとおり肩から提げた鞄に放り込む。

 すぐに金庫を出て扉を閉めてもらった。

 トロッコに乗る前、叔父さんの骨張った手が私の頭をそっと撫でた。

「銀行を出たら、ちゃんとした杖を買いに行こう」

「うん……」

 

 帰りのトロッココースターは景色を見る気力も湧かなかった。

 ただ、地上に戻ってくると叔父さんの顔色がもっと酷くなっていた。

 銀行を出るときに「二度と来ねえぞ」と呟いたのを私は聞き逃さなかった。

 

 

 グリンゴッツ魔法銀行の次は『オリバンダー』というお店にやって来た。

 由緒正しい杖作りの名店で、ここの店長さんは世界一の職人と評判だとか。

 叔父さんの杖もここで買ったものだと教えてくれた。

 お店の中は昼間なのに薄暗くて少し埃っぽい。

 私と叔父さんが入ると奥から優しそうなお爺さんがやって来た。

「いらっしゃいませ」

「久しぶりだな、爺さん」

 眼鏡をかけたその人がオリバンダーさんだった。

 にっこりとして「懐かしい顔だ、杖を買って以来になるか」と言った。

 叔父さんはもう30歳を過ぎている。

 杖を買いに来たのは20年以上も前になるのに、このお爺さんはそのことを覚えているようだった。

 それはお世辞でもなんでもなく、スラスラと杖の材質や長さを言い当ててみせた。

「ヒイラギとユニコーンの尾、32センチ。頑固でしならない……ふむ、あの頃に比べてずいぶん落ち着いたようじゃな」

「そうかもしれん」

 病院で私の悪口を言ったお医者さんを蹴飛ばしたけど。

 お母さんも怒るととても怖いらしいから、私はきっとそういう家系なんだと思っている。

「今日は姪っ子の杖を買いに来た」

「ほほう、ではこの子もマホウトコロに行くのかね?」

「ホグワーツだ、色々あってな」

 色々。本当に、色々あった。

 オリバンダーさんもその言葉にただ頷いて、なにも聞こうとしなかった。

「さて、それでは早速拝見しましょう」

 それからは利き腕やら身長を細かく計測されて、私と相性が良さそうな杖を探し始めた。

 魔法の巻き尺が鼻の穴まで計ろうとしたところで奥から「もうよい」と声がした。

 言われて巻き尺は地面に落ちてクシャクシャに丸まった。

 しばらくしてオリバンダーさんは長方形の細長い箱を持って戻ってきた。

「では、こちらをお試しください。りんごの木にユニコーンの毛。22センチ、手触りがよいい。手に持って、軽く振ってご覧なさい」

 その通りにしてみると魔法の巻き尺が天井まで跳ね上がった。

 オリバンダーさんは杖をもぎ取ると別の一本を持ってきた。

 今度は少し長くて赤っぽい。

「ナシの木に不死鳥の尾、34センチ。ずしりと重い。どうぞ」

 これはドアを切り裂いた。

「こりゃいかん――別の杖にせねば」

 叔父さんが驚いて飛び上がり、杖は別のものと取り替えられた。

 今度のはさっきのものに比べて半分ほどの長さしかない。

「これはどうじゃ。クルミにドラゴンの心臓の琴線、14センチ。思いの外に軽い。ささ、振ってご覧なされ」

 軽く手首を動かすとついに椅子の一つが砕け散った。

 それから色々な杖を試し、お店の中を破壊しながら合わなかった杖の山が出来上がっていく。

 オリバンダーさんの考えていることが分からず困ってしまい叔父さんを見たが、叔父さんは黙って見つめ返してきただけだった。

 お店で扱っている木材はもうほとんど試した気がしてきた。

 けれどお爺さんはとても楽しそうで、ウキウキしているのが一目で分かる。

 なにもかも不思議な世界で、今のところこの人が一番不思議だ。

 棚の一番上の一番奥から取り出した箱を開けて、すごく愉快そうに目を輝かせている。

「さあて難儀なお客様じゃ。ん? そう心配なさるな、必ずばっちりの杖を探してさしあげますでな……次はどの杖がよいかな……おお、これは滅多に無い組み合わせじゃな。桜の木にドラゴンの心臓の琴線、32センチ、良質でしなりがある」

 全体が真っ白でところどころにほんのりとピンク色が見える。

 いかにも桜の木らしい色合いの杖を振ると、お店の中なのに桜の花びらが舞った。

 どこにも木は生えていないし花も咲いていないのに、カウンターや椅子の上にほんのりピンク色の小さな花びらが載っている。

 ショウブ叔父さんは拍手喝采、オリバンダーさんも「ブラボー!」と叫んでいる。

 私だけが状況を分かっていない。

「よろしいかなアオイのお嬢さん、桜というのは実に神秘的な木でしてな。西洋では軽んじられておりますが、それは偏見です。この木を元に作られた杖はどのような魔法でも強大な力を発揮します、それだけに持ち主はきわめて少ない。とても気位の高い杖なのですよ」

 この組み合わせはオリバンダーさんがお店を継いでから5本と売れていない。

 それだけ珍しくて強い杖だと教えてもらった。

 お店で使うのは私の地元の桜だけで、色々試してみたけれど他の木ではここまでの杖にならなかったらしい。

「今日はなんと素晴らしい日じゃ……これほど運命的な出会いを二度も目にしようとは」

 軽く涙ぐむオリバンダーさんへ叔父さんが杖のお代を払って店をあとにした。

 あの人は昔からああいう調子で杖を作ることと持ち主を選ぶことに楽しみを見出していると、叔父さんが呆れた顔で言っていた。

 そのあとは鍋や手袋を探して横丁を行ったり来たり。

 必要なものはあと教科書と制服だけになった。

 ペットはもう連れてきているので見なかった。

 家の裏に棲んでいる大きな蛇だ。

 人に噛みついたりしないし、私があげた餌しか食べないから大丈夫。

 小腹が空いたけれど電車の時間もあるから我慢する。

 最後に来たのは『マダム・マルキンの洋装店』……服屋さんだ。

 ただし、Tシャツもデニムもない。

 周りの人たちが着ている長いローブやマントが並んでいる。

「教科書を見てくるから先に終わったら店の前で待ってな。こっちはすぐ終わる」

 服屋さんはちょうど二人の採寸が終わったところだった。

 一人はドラコ、もう一人は眼鏡を掛けたくしゃくしゃ頭の男の子。

 銀行で入れ違いになったハリー・ポッターだ。

 ドラコはこっちに気づいて肩で風を切りながら近づいてきた。

「久しぶりだなアオイ、さっきのは君の叔父さんだね」

「お久しぶりですドラコ。ええ、本屋さんへ教科書を見に行ってくれました」

「ならいい機会だ、僕も挨拶しておこう。父上も本屋にいらっしゃるんだ。じゃあ、あとで会おう」

 私の右肩をポンと叩いてドラコは店を出て行った。

 あとからやって来たハリー・ポッターは少し訝しむような感じだった。

「去年彼の家にホームステイしてたんです。一ヶ月だけ」

 そう言うと本気で驚いたような顔をした。

「本当に!? 大変じゃなかった?」

「大変でした。テレビもなんにもない生活なんて初めてです」

「いや、そっちじゃなくて……テレビ?」

「あなたもご存じないんですか? 四角い箱に画面がついていてですね……」

「それは知ってる。見たことはないけど。僕が言ったのは――」

 あなたがなにを言っているのか私も分かりませんよ。

 テレビを知ってるなら見たことくらいあるでしょう、イギリスでドラえもんをやってるかどうかは知りませんけど。 

 噛み合わないのに話が弾む。

 なんてトンチンカンなやり取りなんだ……。

 お互い頭の上にハテナマークを浮かべながらアレはどうだソレも知らないと言い合っているうち、藤紫色ずくめのふくよかな女の人に奥へ案内された。

 あの様子だとハリー・ポッターはアメリカのスターウォーズどころか、同じイギリス生まれのビートルズも知っているのか怪しい。

 階段下の物置で暮らしていれば当然かもしれないが、そもそも階段下の物置は聞き間違いだろう。

 物置は物置であって人が生活する場所じゃない。

 この国の魔法使いは本当に不思議だ。

 私の常識がまったく通用しないのだから。

 長々と続く採寸の間も、台の上で棒立ちのまま通りを行き交う人々を眺めていた。

 彼らはきっと魔法がない生活を不便で退屈に思っているんだ。

 魔法がある方が便利かもしれないけれど、楽しいことに魔法はまったく関係ないと知っている人はほとんどいないように思えてしまう。

 そういう考え方をしているのは、ドラコのような貴族の家だけだといいのだけれど……。




 杖:ドロップアイテム
 金:撃破報酬

 杖は日本人だしここは桜でしょというチョイス。
 ちなみに桜×ドラゴンの心臓の琴線はロックハート先生と同じ組み合わせなので縁起が悪い。


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Hogwarts Express

 イギリス縦断鉄道の旅。


 買い物を終えてキングスクロス駅へ。

 ロンドンのど真ん中にある大きな駅だ。

 改札を通る前に近くの喫茶店でお昼ご飯を済ませておく。

 お砂糖の入った紅茶とたまごサラダのサンドイッチは美味しかった。

 薄いトーストがさくさくで、たまごサラダもマヨネーズ控えめなのがうれしい。

 厚焼きたまごじゃないのはこれが初めて。

 でも叔父さんが言うにはたまごサラダが普通らしい。

 美味しいけど、たまごサンドと呼んでいいのか微妙なラインだ。

 店員の人に見えないようゆで卵を鞄の中に入れてお店を出る。

 特急電車が駅を出るまでまだ時間がある。

 9と4分の3番線へ向かうと、ときどき大荷物の人たちが柱の中へ消えていく。

 おっかなびっくりで進んでみると柱の向こう側に長い列車が停車している。

 ただし、電車じゃなくて汽車だけれど。

 紅色の立派な蒸気機関車が白い蒸気を噴いている。

 幼稚園の頃に梅小路の鉄道博物館で見たD51(デゴイチ)を思い出す。

 ホームには見送りの人がたくさんいた。

 魔法使いの恰好をしている人もいれば私と似たような――電車でもバスでも目立たない――普通の恰好をしている人もいる。

 ホグワーツ魔法魔術学校は純血もそうでない人も入学出来るようだ。

 これで少し安心した。

 不思議の海のナディアは流石に通じないと思うけど、スターウォーズやビートルズを知っている人はいるんだ。

「こりゃあいいな。ウミツバメよりずっと安全で快適だ」

 叔父さんはそんなこと言いながら使い捨てカメラで写真を撮っている。

 家に帰ってみんなに見せるつもりだ。

「汽車ばっかりじゃ味気ないな。スミレ、記念に一枚撮るか?」

「うん。この辺でいいかな」

 汽車の顔が真横にくるように少し移動する。

「上等なのもあるのになァ、いい機械ほど壊れるってのは時代遅れだぜ。なぁ?」

「そうだけど、誰も困ったことなかったんじゃない?」

「俺はめちゃくちゃ困ってる……ほらピースしろピース。はい、チーズ」

 右手でピースを作るとシャッターが下りた。

 カチっという音がして、叔父さんの顔がカメラから離れる。

 ローブを着た魔法使いが何度か叔父さんを見ていたけど、あなたたちも面白い格好してここまで来たんだからおあいこだと思う。

 ドラコはどこか探してみても見つからない。

 人が多すぎてぜんぜん見えない。

 柱の時計は長い針が10を指している。

 発車の時間が近くなってきて、叔父さんは席を取ろうと歩き始めた。

 先頭に近い車両はみんな満席だ。

 客車の中でも席の取り合いが起きている。

 これ、もしかして毎年……?

 私、こういう席取りって本当に苦手なのに……。

 後ろの方まで行かないとダメかと思ったところで、頭の上から懐かしい声がした。

「そんなところで忙しそうじゃないか。家に切符を忘れて来たわけじゃないだろうな?」

「ドラコ。私そんなにウッカリしてませんよ」

「けど席は見つかってないだろう」

 お見通しだった。

「こっちは僕とパーキンソンだけだ。まだ二人分空いてるけど、クラッブとゴイルが座るにはちょっと狭いと思わないか?」

 狭いだろうなぁとは思ったけれど、そこについてはノーコメント。

 少し意地悪い顔のドラコに勧められるがまま個室席、コンパートメントという四人一部屋の席に入った。

 この列車は一部の上級生専用席の他はみんなこのスタイルのようだ。

 叔父さんは物珍しいのか車内の写真も撮りたそうだった。

 重たいトランクを持ち上げてくれたのはクラッブとゴイルの二人だった。

 去年の夏より大きくなった気がする……もしかしたらホグワーツには相撲部があって、二人はそこに入るつもりなのかもしれない。

「ありがとうございます。お元気そうですね」

「うん。ほんとちっさいなお前」

「ああ。ちゃんとご飯食べてるか?」

「食べてますよ、一日三食」

 これっぽっちも信じていない顔だった。

 一日三食を肉・芋・小麦で統一している国じゃないんだから当然だ。

 おひたしやきんぴらだってあるし、私は白いご飯と漬け物があればいい。

 そこからも二人が荷物を運びつつ人を押し退けて、ドラコのいるコンパートメントに案内してくれた。

 クラッブとゴイルは通路を挟んで向かい側の席にいる。

 心底嫌そうな顔をしているのは知らない男の子だった。

 ひょろりと背が高くて、あまり肉がついていない。

 なんとまく、ガイコツみたいな印象がある。

 つい漏れてしまった「豚骨と鶏ガラ……」という呟きが英語じゃなく日本語だったのは本当に幸運だった。

「相変わらずピクシーと見分けつかないわね、ちゃんと食べてるの?」

 ドラコが進行方向に背を向けた窓側で、その隣にはパンジー・パーキンソンが座っている。

 私はドラコと向かい合う座席に座った。

 彼女まで同じコトを言ってきた。

 すらっとしたスタイルに睫毛も眉毛もしっかりした目力のある女の子で、ブルネットのボブカットが似合う見た目通り気の強い子だ。

 彼女も以前より背が伸びている。

「ま、食が細いならスリムなのも当然かしら」

「毎日お肉とジャガイモ食べてるわけじゃないので」

 あんな生活がこれから何ヶ月も続くと思うと心が苦しい。

 窓際で頬杖をついたドラコは興味なさそうにホームを眺めている。

「日本人ってなに食べてるのよ。昆虫?」

「あなたの中の日本のイメージを聞くのが怖いです」

 ライオンキングにそんなキャラクターいたなぁ、なんて名前だったかな。

 ジャングルの奥で虫だけ食べてるイノシシとイタチみたいなコンビ。

 あのアニメだと美味しそうだったけど、実際は佃煮か干物か揚げ物なんだよパンジー……色は渋い茶色オンリー。

 見た目も色もぜんぜん可愛くない。

「ねえ、スミレはペット連れてきてないの?」

 私の荷物に動物がいないと気づき、パンジーは興味津々の顔になる。

 肩から提げた鞄を見せて「この中にいます、家から連れてきました」とだけ教える。

 人混みが嫌いだし、多分まだ食事中なので出さないでおく。

「窒息してないか確かめた方がいいわよ」

「大丈夫ですよ。これ、四次元ポケットなので」

「四次元ポケット?」

「中がとっても広いんですよ」

「あー、検知不可能拡大呪文ね」

 なんですかそれ、とは言わなかった。

 私は四次元ポケットと解釈しているし、これをくれたお母さんだって「四次元ポケットみたいなもん」と言ってた。

 理屈は違っても使い方は同じだ。

 けれど気になってしまったので少しだけ中を覗いてみる。

 底の方で黒い杖に絡みついて遊んでいた。元気そうだ。

「ミリセントとダフネはどうしたんでしょう」

 ふと去年知り合った友達がいないことに気づいた。

「ダフネは前の方、身体が弱いから上級生が対処できるようにって。ミリセントは寝ぼけて――」

「アタシだってとっくに起きてるから。席が見つからなかったのよ」

 ガラリとドアが開くと、疲れた顔のミリセント・ブルストロードが立っている。

 どうやらドラコを探して一番後ろからここまで来たみたいだった。

 いくら背丈でゴイルに並ぶからって、流石に無茶だ。

 おでこに汗が滲んでいる。

 折角なのでドラコの向かいの席を譲るため立ち上がる。

「去年の夏以来ですねミリセント。窓際どうぞ」

「ありがと……前より背、伸びたじゃない」

 ミリセントは三白眼ぎみの瞳でニッコリ笑いながら窓際に座った。

 相変わらず仲良しなのに恋敵の二人は目線で火花を散らす。

 汽車の汽笛が響くと、叔父さんが窓辺からぬっと覗き込んだ。

「記念写真撮るぞ-! こっち向いて笑って-!」

 ドラコはにやっとニヒルに、パンジーとミリセントは見ず知らずの人に驚いて目を見開いていた。

 私は両手でピースを作って歯を見せた。

 ルシウスさんの苦笑が聞こえる。

 挨拶し損なったと思ったが汽車が動き始める。

 ガタンと一度揺れて、列車はどんどん進み始めてしまった。

 慌てて窓際に駆け寄って、そのまま身体を乗り出す。

 ショウブ叔父さんは大きく手を振っている。

 大きく口を開けて「頑張れよ」と叫んでいる。

 私も思いっきり手を振って「行ってきます」と叫んだ。

 

 汽笛と車輪の音にかき消されないように、喉が裂けるほど声を出して。

 

 

 汽車がキングズクロス駅を出て1時間が過ぎた。

 ロンドンの町並みがなくなって、窓の外には山もなにもない一面の平原があるだけ。

 日本じゃまず見られないのどかな景色がずーっと続く。

 お昼ご飯は食べたけど、朝ご飯が早すぎてもうお腹が空いてきた。

 鞄から弁当箱を取り出す。

 真っ先にパンジーが反応した。

「なにそれ。もしかして家から持ってきたの?」

「はい。おにぎりです」

「……おにぎり?」

 聞いたこともない単語に首を傾げている。

 ミリセントもプラスチックの四角い箱を見つめている。

 魔法の世界にはプラスチックの製品がないから珍しいのだろう。

 フタを開けると小さな丸い物体が4つ、サランラップにくるまれていた。

 凸凹の丸いおにぎりはお母さんが作った証拠だ。

「白いご飯を塩で味付けして、丸や三角にかためた料理です」

「じゃあじゃあその赤いのは? アンズじゃなさそうだけど」

「梅干しです。梅の実をお酢と塩と紫蘇の出汁に漬けて作ります」

「色づけしたピクルス?」

 酢漬けのキュウリと同じなのかは微妙なところだったが頷いた。

 お漬け物には変わりない。

 お母さんも好きな我が家秘伝の梅干しだ。

 死人も甦って口をすぼめると評判の酸っぱさがクセになる

「一つどうですか? まだたくさんありますし」

「臭わない?」とミリセント。

 ドラコは「いらない」と断った。

 お弁当箱と別に、鞄の中からタッパーを出す。

 こっちは魔法のお札で水漏れしないようになっている。

 少しだけすき間を空けて、二人に差し出した。

「ニンニクみたいになったりしません」

「じゃあ1つだけ……」

「いただきます……」

 恐る恐るな二人より先にクラッブとゴイルが突撃してきた。

 梅干しの匂いに気づいたのだろうか。

 油まみれの指を突っ込まれては困るので、慌てて新しく取り出して掌に載せてあげた。

「もっと欲しい」

「ケチケチするなよ」

「まず一口、美味しければまたあげます」

 2人は不満そうに一口でばくりと食べてしまった。

 案の定、お砂糖まみれの口は普通に食べるよりずっと酸っぱく感じられたようだ。

 顔がじょうごみたいになってしまっている。

 ひょっとこなんて次元は通り過ぎていた。

 パンジーとミリセントは大爆笑、ドラコも振り返ってむせ返っていた。

 

「しゅっぱい!!!!」

 

「ちょっぱい!!!!」

 

 クラッブとゴイルはバタバタと元の座席に戻って涙を浮かべながらチョコレートを食べ始めた。

 おにぎり分けてあげようかな、と思うほど可哀想だった。梅干しが。

 ひとしきり笑ってヒイヒイ息を荒げている2人をよそに、私もおにぎりを食べ始める。

 これが最後の白いご飯。

 食べ終わったら次は冬休みまでお預けだ。

 だからよく味わって、涙を堪えて食べる。

 お母さんの下手くそな凸凹おにぎりがとても愛おしい。

 ああ、どうして私はホグワーツに……。

 なにも悪いことなんてしていないのに、どうしてこんな、監視されるような仕打ちを……。

 

「車内販売はいかがですか?」

 

 おにぎりがなくなって、底なしに沈んでいく気分をパンジーとミリセントが吹き飛ばす。

 ガラガラとカートを押したおばさんを呼び止めると、買えるだけお菓子を買ってテーブルの上に広げ始めた。

 見たこともない変なお菓子がずらりと並び、ちょっとした山を作る。

 ナントカボッツの百味ビーンズに、大鍋ケーキ、カボチャパイ、カエルチョコレート……なにこれ?

「日本じゃこういうのはないでしょう? どうせマグルと同じお菓子ばっかりでしょうし、本物の魔法使いの味を教えてあげる」

「カエルチョコレート、箱の中から鳴き声が……」

「そりゃそうよ。だってカエルチョコレートだもん」

 五角形の青い箱を開けると、チョコレート色のカエルが飛び出した。

 顔にぶつかりそうになったのをドラコが手で叩くと、仰向けになってパンジーの前へ落っこちる。

 倒れた時の暴れ方までカエルだ……き、気持ち悪い……。

 パンジーもミリセントもとくに気味悪がっている様子じゃない。

 

 どんな生活をしていたらこんなお菓子を思いつくんだろう。

 そしてなぜ人気なのだろう。

 ドラコも自分のカエルチョコレートの箱を開けると、がっかりしたようにため息をついた。

「ふん、またニュート・スキャマンダーか。もう5枚も持ってるよ」

 ダイアゴン横町で手に入れた教科書『幻の動物とその生息地』の著者だ。

 投げ捨てられたカードにはクシャクシャの赤茶色の髪をした男の人が映っていた。

 青い瞳がとても綺麗で、少し力ない感じの笑顔が優しそうに見える、

 こんな顔の人なんだと眺めていたら、慌てた様子で突然どこかに行ってしまった。

「あの、スキャマンダーさんが消えました」

「そのうち帰ってくるわ。みんなたまにふらっと消えるの」

「は、はあ……あ、帰ってきました」

 紺色の小さなカモノハシを頭の上に載せている。

 上着のポケットからは緑色の植物がこちらに手を振っている。

 裏にはニュート・スキャマンダーの説明があった。

 

 ~ニュート・スキャマンダー~

 

 ――世界的ベストセラー『幻の動物のその生息地の著者』であり魔法動物学の権威。生態の研究に留まらず『狼人間登録簿』『実験的飼育禁止令』など法律分野でも功績を持つ。闇の魔法使いグリンデルバルドを最初に逮捕した人物。好物はポンチキ。――

 

 法律は、なんとなくスゴい人なんだということだけ伝わってきた。

 このグリンデルバルドというのは誰なのだろう。

 ドラコなら知っているかなと思ったが、先にミリセントが私もカエルチョコレートを開けるよう急かしてきた。

「アンタの最初のカード、はやく見せてよ」

「はい。どんな人かな……」

 フタを開けて蛙が飛び出さないよう左手で掴みながら、カードを見た。

 映っているのは髪も肌も真っ白、全体的に色素の薄いお爺さんだった。

 心地よさそうに眠っている。

 名前は……ニコラス・フラメル?

「へー珍しい。錬金術関係はラインナップ少ないのよね」

「いいなあ。私なんてまたセミラミスよ、ちっとも魔女っぽくないのよ。ホラ」

「似たもの同士ってことなんじゃないの?」

「ならアンタのはカリオストロ伯爵ってワケ?」

 パンジーが見せてくれたカードの魔法使いは、キレイな黒髪と長く尖った耳の女の人だった。

 黒いドレスを着てそっぽを向いている、気難しそうな雰囲気だ。

 裏面の解説によるとアッシリアという大昔の国の女王で、記録上はこの人が起こした毒殺事件が世界で最初になるらしい。

 それと『空中庭園』というものを作ったとも書いてある。

 古代にビルなんて建てられたんだと驚いたけれど、魔法があればなんでもありだと気づいてしまうとすぐにそうでもないように感じられた。

 セミラミスもすぐにどこかへ行ってしまい、鳩が何羽もうろうろしている。

「セミラミスって2,3日はふつーにいなくなるから人気ないの」

「確かにスキャマンダーさんとは真逆のタイプでしょうね」

「そういうとこソックリだって言ってんの。でもスミレはツイてたわね、集めると必ず錬金術系でつまずくから。アタシもパラケルスス持ってないし」

「パラケルススも賢者の石を作った人でしたっけ」

 そんなことを言いつつ裏の解説に目を通す。

 ニコラス・フラメルとパラケルススと言えば賢者の石で有名な人たちだ。

 流石に私でもそのくらいは知っている。

 

 ~ニコラス・フラメル~

 ――ボーバトン魔術アカデミー出身。中世を代表する錬金術の大家で『賢者の石』を創造した史上唯一の人物である。アルバス・ダンブルドアとの共同研究で多くの論文を発表した。現在はイギリスのデボン州にて妻のペレネレ夫人とともに隠棲中。趣味はオペラ鑑賞。――

 

「えっまだ生きてる」

「『賢者の石』の持ち主だものね。長生きもするわよ」

「それもそうでした」

 ニコラス・フラメルだけが『賢者の石』を作り出せた……ということは、パラケルススは作っていないか成功しなかったということになる。

 けれど私の知識が魔法界のそれと色々とズレていると思うと、わざわざカボチャパイを食べているのを邪魔してまでドラコに聞くのも悪い気がした。

 会話の流れはパンジーとミリセントが取り合っているし、私は素直に聞き手に徹した方がよさそうだった。

 カエルチョコレートを食べつつ2人の話を聞いて時間を過ごす。

 私の手から逃げようと暴れ倒している気色悪いお菓子は、味は本当にふつうのミルクチョコで拍子抜けした。

 全体的に他のお菓子も甘ったるい中、バーティーボッツの百味ビーンズだけは刺激的なフレーバーと巡り合えた。

 

 マンゴー味だと思って選んだ黄色いゼリービーンズは、まさかのマスタード味だったのだ。

 

 もしこの狂った製品を世に送り出した張本人が目の前にいれば、このバカヤロウと言ってやりたい。

 

 そしてこの発狂した味音痴にしか思いつかない駄菓子がイギリス魔法界で大人気の理由もサッパリ分からない。

 盛り上がるにはうってつけだけど。

 百歩譲ってマスタードやワサビ、チリペッパー、赤トウガラシはいいとして。

 だからってゲロや耳くそはやりすぎだ。

 

 この大バカヤロウ。




 スペシャルゲスト複数名、そしてスミレはついに魔法の学校へ。
 ポンチキはジェイコブ・コワルスキーが得意なドーナツの(おそらく)原型となったポーランドのお菓子です。
 中にフルーツジャムやクリームが入った甘い揚げドーナツになります。


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組み分けの儀式

 スミレの絶望はここから始まる。


 列車から降りた頃にはもう夜だった。

 終点の駅名は『ホグズミード』

 学校の近くにある小さな村だとざわめきの中で耳にした。

 駅からはチューバッカことハグリッドの先導で馬車と船を乗り継ぎようやくホグワーツに着く。

 湖のほとりに建つ大きな大きな古い城が私たちを見下ろしていた。

 入り口の前から見上げたら後ろに倒れそうだ。

 みんなしてひな鳥みたいに口を開けて同じ方へ向いているのはちょっと面白い。

 なんとなく後ろを向いて目を凝らすと、湖のずーっと遠くの方からタコ(あるいはイカ)の脚が水面から伸びて、こちらへ手を降っている。

 あんな化け物に襲われたら、さっきの小舟じゃひとたまりもない。

 1人で勝手にゾッとしながら、ハグリッドから案内を引き継いだマグゴナガルという先生の話を聞く。

 この人も見るからに魔女で、緑色のローブにつばの広いとんがり帽子をかぶっている。

 いかにも厳しそうな雰囲気で、逆三角形のシャープな眼鏡が余計に『厳格』の二文字を印象づける。

 先生が城の門を開け、そのまま後に続いて石畳のホールを通り抜けていく。

 中には電気もガスもない。

 灯りはドラコの家と同じく蝋燭で、廊下やホールはぼんやりとした弱々しい光で照らされている。

 どこかに在校生が集まっているらしく、遠くからザワザワと人の声がする。

 小部屋に新入生を集めると、先生は振り返った。

 それから簡単な挨拶と寮生活の長い説明を済ませて、組み分けが始まるまではここで待つように言うと部屋を出て行った。

 このあと『組み分けの儀式』を執り行って、それが終わったら新入生の歓迎会がある。

 結構な時間がかかるはずだ、夕食まで持たないと分かっているからみんな車内販売であんなにたくさんお菓子やジュースを買っていたのか。

 ならもっとお腹にたまるサンドイッチとかパイ類を充実させればいいものを、値段と気色悪さばかり突き抜けた品ばっかり置いている理由は謎のままだった。

 それにしても落ち着かない。

 慣れない制服は着心地が悪いのもあるし、なによりこのスカートだ。

 小学校の間にスカートなんて一度も履かなかったし、ネクタイも長いローブもまったく経験がない。

 不慣れなのは制服を含めてなにもなも、魔法が関わるすべてだが。

「やぁ、えっと、また会ったね」

 左にいたのはハリー・ポッターだった。

 彼の隣には鮮やかな赤毛に、手足の長い男の子もいる。

 ドラコ、パンジー、ミリセントを睨んでいるような気がするけれど触らぬ神に祟りなし……素知らぬ顔でハリーに微笑む。

「ええ。服屋さんで会いましたね」

「おや、アオイとお知り合いだったとはねポッター。そうならそうと言ってくれればよかったじゃないか……なんだって君というやつがウィーズリーといるんだ」

 少し上の段からドラコも加わった。

 ハリー・ポッターはドラコに苦手意識があるのか、笑顔が少し引きつった。

 口ぶりからしてウィーズリーと呼ばれた彼は純血ではないらしい。

 あからさまに見下して馬鹿にしている。

 すると今度は赤毛の男の子も乱入して、いっきに私は蚊帳の外へ押し出される。

「黙ってろよマルフォイ。誰も君に話しかけてないだろ」

「そりゃ失礼。君がここにいるとは思わなくてね、てっきりあの崩れかけた犬小屋を修理しているとばかり思ってたんだ」

 クラッブとゴイルが目線の合図に合わせてわざとらしく笑い声をあげると、ドラコはさらに畳み掛ける。

「それとも崩れて根無し草になったのか? ああ、入学じゃなくて就職か。毎日のトイレ掃除、よろしく頼むよ」

「よくも言ったなマルフォイ!」

 ウィーズリーは上手く言い返せず顔を真っ赤にして怒った。

 なるほど、ドラコは頭に血が上りやすいタイプをからかうのが好きらしい。

 そのうち殴られて痛い目に遭いそうで少し心配になる。

 クラッブとゴイルはちょっと素早さに欠けるところがあるし……。

 しまいに偶然近くにいたガマガエルを抱えたナントカボトムくんにも飛び火し、どんどん嫌みの応酬が拡大していく。

 こういうときは黙って知らない顔をするに限る。

 ハリー・ポッターを観察していると「なんとかしてよ」と言いたそうな目線を返してくるが、彼の額の傷が気になってそれどころではない。

 ……物置き暮らしと犬小屋暮らしのコンビとはどんな巡り合わせだ、オリバンダーさん風に言うなら『滅多にない組み合わせ』だなあ。

 ああ、犬小屋は悪口か。

 パンジーとミリセントもニヤニヤ笑っているから、多分そうだ。

 皮肉屋のドラコが言うことだからおそらく私のイメージほど酷いことはないだろう、そうでなければ彼もハリー・ポッターなみに小柄で痩せているはずだ。

 この口喧嘩には関わりたくないなあと壁を眺めていると、妙なものが見えた。

 私の手を掴んで離さないミリセントに耳打ちする。

 あの壁から次々と現れて、談笑したり挨拶を交わしているおかしな幽霊たちを……。

「あの……さっきから何か変なものが……」

「なに? ウィーズリーんとこの馬鹿面が増えた?」

「そうじゃなくてあの人……半透明ですよ……」

「ゴーストでしょ。これだけ古い城ならそのくらいいるって」

「ゴッ、ゴ、ゴースト!?」

「驚くようなこと?」

 湖の怪物に今度は幽霊、もう最悪だ。

 学校だと言うのにとんだ事故物件である。

 これでお墓と殺人事件があれば役満じゃないか。

 姫路城には女妖怪とお岩さん、ホグワーツ城には怪物イカ(もしくはタコ)と幽霊たちときた。

 戦国時代の南蛮人みたいな格好をした男の幽霊は嬉しそうな顔で新入生を見ている。

 いまどきは1LDKの賃貸ルームにだって幽霊が出る、これだけ大きくてしかも古そうな城となると何十、何百と湧いてきそうだ。

 おまけに心霊写真さながらに動く肖像画に風景画に静止画、ここで撮影すれば驚くほど安上がりで幽霊映画が出来上がるだろう。

 ミリセントのがっしりした手を握りしめて、はやく組み分けが始まらないかと必死に逃げ出したい気持ちを堪える。

 本当に最悪だ、こんなに恐ろしい学校が由緒ある名門校ならあの頭がおかしなゼリービーンズも人気商品になって当然だった。

 

 

 口論が取っ組み合いの大喧嘩にならずほっとしたのも束の間。

 胸をなで下ろしながらマクゴナガルの引率で案内されたのは、それは素晴らしい『魔法』に満ちた『黄金』と言うべき空間だった。

 ダーズリー家のあの薄汚くて狭い物置からダドリー坊やのほこり臭い空き部屋へ移ったときでも、これほど心が躍ったりはしなかった。

 何千というキャンドルが宙に浮かび、天井には満天の星空が輝き、4つの長テーブルの上に並べられた金に輝くのゴブレットと大皿――夢のような光景は、ハリーにとって夢ですら見たことがない奇跡だった。

 ついさっきまで耳を真っ赤にして怒っていたロンもすっかりホグワーツの魔法に心を奪われ、半ば上の空で列に従って歩いている。

 上座の長テーブルは先生たちの席だ。

 新入生はちょうど先生に背を向け、在校生全員と向かい合う形で置かれた椅子に座った。

 何百人の目線が一斉に降り注ぐ。

 それから逃げるようにまた上を見上げて、近くに座っているらしいハーマイオニーが天井の夜空の説明をしているのを無視した。

 マクゴナガルが四ッ脚のスツールの上に古いとんがり帽子を置くと、在校生の注目は新入生から古帽子へと一斉に移った。

 それに気づいたハリーも慌てて帽子を見ると、静かになった大広間の真ん中で帽子が歌い始めたのだ。

 口のようだと思ったつばのへりの大きな裂け目が本当に口になって、四つの寮を説明する古めかしい詩を歌い上げた。

 

 グリフィンドールは勇敢で騎士道精神にあふれた者が。

 

 ハッフルパフは大らかな心を持ち人を思いやれる者が。

 

 レイブンクローは知的好奇心が旺盛で勉学熱心な者が。

 

 スリザリンは揺るがぬ冷静さと鋼の精神力を持つ者が。

 

 組み分けは生徒自身の性格を基準とする、ということのようだった。

 しかしみんな入学したばかりなのに、誰がどうやって性格を分析し相応しい寮を判断するのか、ハリーを含め新入生の誰もが疑問に思っていた。

 ロンは兄に教えられていたとんでもない方法が嘘っぱちだと分かって安堵している。

 拍手喝采の中、ハリーは手品よろしく帽子からウサギかハトが出てくるんだと思っていた自分が馬鹿馬鹿しく感じられた。

 しかしそれ以上に、知識もなければ勇気もない――ハリー自身は己をそうだと思っている――自分がどれかの寮に入れてもらえるのか不安で不安でたまらない。

 それでも『組み分けの儀式』は進んで行く。

 

 マクゴナガルが蛇みたいに長い羊皮紙の巻紙を手にして、一歩前へ進み出る。

「ABC順に名前を呼ばれたら、帽子をかぶって椅子に座りなさい」

 

 一人目は金髪のおさげの少女。

 緊張して転がるように前に出てきた。

 

「ハッフルパフ!」と帽子が叫ぶ。

 

 右側のテーブルから歓声と拍手が上がり、彼女はハッフルパフのテーブルに着いた。

 太った修道士のゴーストがハンナに向かってうれしそうに手を振っているのが見える。

 

「アオイ・スミレ!」

 

 二人目はハリーの知っている顔だった。

 ダイアゴン横町の『マダム・マルキンの洋装店』ですれ違い、キングズ・クロス駅でも後ろ姿が見え、しかもついさっき待機していた小部屋で再会した少女だ。

 今の今まで名前も知らなかったが、耳にしてみたところでヨーロッパでもなければアジアっぽくもないように感じた。

 真っ白な肌に真っ黒な長い髪、悲しそうな表情をした小柄な少女が早足で前に出た。

 革靴なのにまったく足音が聞こえない。

 指示通りに帽子を被って椅子に座るが、トップバッターのアンナ・ハボットと異なり組み分け帽子はなにも言わない。

 重い沈黙が広間を支配する。

 隣でロンがつば(、、)を飲む音すら聞こえるほど静まりかえっていた。

 ネビルは謎のプレッシャーに圧されて落ち着きを失い、マグル出身の他の生徒も冷や汗が頬を伝った。

 緊迫感が純血の生徒にまで広まっていく。

 見えない糸が緊張で張り詰め、今にもちぎれてしまいそうに感じられた。

 数時間も待たされたような感覚に陥りかけたハリーの意識を帽子の一声が現実へ引き戻す。

 

「スリザリン!」

 

 緑色のネクタイを締めたスリザリンの生徒たちは拍手でスミレを迎えた。

 他の三つの寮は心底残念そうに、あるいは心底恨めしげに嘆息している。

 ハリーもスリザリンの評判の悪さを知っていたし、ドラコの偉そうな態度もあって「あの寮は嫌だな」と思っていただけに、スミレがそこへ組み分けられたのは残念だった。

 彼女は真っ青とも違う、ゾッとするような顔色のままニコリともせずに上座へ向いている。

 歓声が静まるとマクゴナガルは次の生徒の名前を読み上げ、儀式をどんどん進めていく。

 自分が呼ばれるまではまだまだ先だ……。

 胃の底に重いモノが残った感覚を引きずりながら、ハリーはじっと順番が回ってくるのを待っている。

 

 

 お恨み申し上げよう組み分け帽子殿。

 本年度最初のスリザリン生になってしまった。

 常に冷静で強い精神力を持っていると言えば聞こえはいいが、裏を返せば「情に流されず冷徹に物事を判断できる素養がある」と全校生徒の前で暴露されたようなものだ。

 それは、他の寮が勇敢さ、寛大さ、聡明さを要求すると言われたあの場で周知されるにはあまりにも惨い。

 先輩たちも口開けば「純血」の二文字、イギリス生まれのイギリス育ちだろうに他の英単語をご存じないのか。

 私は血の話題なんて一生聞きたくないのに、やれ『穢れた血』がどうだ『マグル』がどうだとつまらないことをベラベラと喋り倒している。

 だいたい、真剣に考えているから話しかけてはまずいと思って黙っていたのだ。

 それを延々と人の頭の上で唸り続けて、導き出した結論がコレか。

 知り合いが誰もいなければ明日の朝一番で退学届けを出し、教科書もなにもかもみんな破り捨てて燃やしたあと日本に帰っていただろう。

 もはや儀式にも歓迎会にもなんの興味はない。

 今すぐにも寮へ行って寝る支度を整え、さっさとベッドに潜り込んでしまいたい。

 私がスリザリンに組み分けられたときの他の寮が見せた反応で、この緑色の蛇が周りからどう思われているか察しがつく。

 こんな1対3でいがみ合っている環境でまともな生活は無理そうだ。

 学校という空間にこれほど悪感情を抱いたこともない。

 もしも、もしも誰かがイギリス魔法界を転覆させてくれるなら、私は喜んでその偉大な魔法使いに協力する。

 たった今そう決めた。

 私の人生を滅茶苦茶にした奴らがどうなろうと、被害者の身なのだから慮る義務はない。

 ふつふつと苛立ちが沸き上がって、天井の星空まで憎らしく思えてきた。

 同じ純血主義でもこの上級生たちに比べればドラコのなんと謙虚なことか……。

「お前もスリザリンか。僕と同じ寮に入れて光栄に思えよ」

「とても安心しています。よろしくお願いしますね」

 クラッブとゴイルが押さえていた席にドラコがどっかり腰掛け、私の右にミリセント、左にダフネ、向かい側にパンジーがやって来た。

 ライトブラウンのセミロングに一房だけ白髪の交じったダフネは、とろんと目尻の垂れた顔でほっとしているようだった。

 これで全員揃ったからもう重要イベントは終わったも同然だ。

 他の新入生がどの寮に入ろうがどうでもいい。

 手元を見つめてテーブルの古さに歴史を感じていると、ダフネが私の脇腹を肘でつついた。

「ほらスミレ、有名人の組み分け始まってるよ」

「有名人? ヒキガエル探しのロングボトムですか?」

「すっとぼけてないで、あ。かぶった」

 そこまで言われるのは魔法界のキング・オブ・ポップことハリー・ポッターのことだろう。

 こちらに背を向けているミリセントに後ろから尋ねる。

「彼、なんでそんなに有名なんですか?」

「それも知らないの!? 賢者の石は知ってたのに!?」

 頬杖をついてたドラコが崩れた。

 クラッブとゴイルまで唖然としているし、周囲の――他の寮の生徒まで――驚いた顔で振り返っている。

 なんだか馬鹿にされている気がする。

 つとめて笑顔で会話を続ける。

「つい最近までこちらのことなにも知らなかったので」

「ヤツの額に傷があっただろう。あれがその証拠だ」

 アルファベットのNとも稲妻とも取れる痕があったのは覚えている。

 頷いて返すと、今度こそドラコの口調は忌々しげになった。

 親の敵じゃあるまいし。

「あの傷が、十一年前に例のあの人を……」

「例のあの人?」

「話の腰を折るなアオイ。十一年前、例のあの人がマグル生まれの魔法使いを一掃しようと立ち上がった。けれど志し半ばで亡くなられたんだ」

「はあ」

「まだ赤ん坊だったポッターは――どんな手品かは知らないが――例のあの人を倒した上に傷一つで生き延びた英雄ってわけだ。そんなやつがグリフィンドールとは、お似合いだと思わないか?」

 親の敵のようなものだった。

 ドラコもパンジーもミリセントもダフネも、間違いなく純血の家系と認定された『聖28一族』の生まれだ。

 いずれも保守的な純血主義の最右翼、であれば過激な純血主義者であらせられる『例のあの人』こそ真の勇士であって、ハリー・ポッターは英雄殺しの裏切り者となるわけだ。

 私にとって知ったことではないけれど。

 せっかく教えてくれたのだからちゃんとお礼は伝える。

 こうして軽く頭を下げて感謝を告げると、ドラコの口は軽くなる。

「それは確かに。ようやく彼のことが分かりました、ありがとうございます」

「これは噂だが……」

 そこまで言ったところで校長先生が登場し話は中断された。

 一見すると非常に気品があって威厳のある老魔法使い、賢者の風格を漂わせている。

 ヒゲとシワに包まれた顔でも無邪気な笑顔がよく分かる。

 なるほど人徳というのはああいう人物が持っているモノだ。

 

「おめでとう! ホグワーツの新入生、おめでとう! 歓迎会を始める前に、二言、三言、言わせていただきたい。では、いきますぞ。そーれ! わっしょい! こらしょい! どっこらしょい! 以上!」

 

 …………????

 

 なにが起こった。

 いや、なにを仰った。

 ポカンとして反応できない新入生を別にして、誰もが惜しみない拍手を送っている。

 きっと毎年の恒例行事なのだろう。

 だから上級生はみんな慣れた顔で対応できているのだ。

 飛び抜けた天才は変人が多いと聞く、信長もそうだったし秀吉もそうだった。

 アルバス・ダンブルドアもきっとそういう類いの方に違いない。

 そんな風に解釈して、遅ればせながら私も拍手を送る。

 七年間あの人の手の中にいるのだから、変に目立ってもしょうがない。

 第二の『例のあの人』が現れるはずもない、そんな諦観を込めて手を叩く。

 満足そうな表情で校長が席に戻ると、目の前の皿に料理が現れた。

 またイギリス料理だ。

 味が濃く、食材が一辺倒で、胃もたれと口内炎の元凶。

 ローストビーフの切れ端を一口だけ取って、あとは煮込み料理のスープだけ飲む。

 流石に祝いの席でオートミールは出なかった。

 この国の料理で身体にあうのはあれぐらいしかない。

 ダフネも食が細いので、今晩はクラッブとゴイルも遠慮なく食事できている。

 どんな料理でも二皿はぺろりといってしまう彼らが羨ましい。

 パンジーとドラコは家の料理に比べて味が良くないと不満をもらし、ミリセントはと言えばブレーズ・ザビニとブラックプディングを奪い合っている。

 名前からして黒ごまプリンかと思っていたのに正体は豚の血液入りソーセージ、これだけは死んでも食べたくない、いや食べるくらいなら自決する。

 ああ嫌だ、これから毎日こんな思いをするんだ。

 さっさとフォークを置いて目を閉じる。

 すると食器がぶつかる音やざわめき、パイ、肉、フライ、ソーセージを食べる音が脳裏に響いて暴力を振るってきた。

 耳を塞いだら周りに余計な心配を掛ける。

 もう少し食べて時間を潰すしかない。

 渋々目を開けてなるべく軽いものがないかと探してみる。

 ポークチョップやラムチョップ、揚げ物、芋は論外だ。胃がもたれる。

 白身魚はフライや干物ばかりで消化に悪いこと請け合い、人気がないのは湯むきの冷しトマトぐらいだった。

 ただし周囲にはマヨネーズやドレッシングがズラリと並んでいる。

 これで味をつけないと食べられないなんてことないはずなのに……。

 1つだけ皿に取って口へ運ぶ。

 

 ……。

 

 ……。

 

 いたって普通のカットトマトだ。

 調味料なしでも十分に美味しい。塩くらいならかけてもいいかもしれない。

 黙々とトマトを食べている私が面白いのかザビニが鼻で笑った。

 こんな偏った食事でも健康なイギリス人の方がよほど面白い生き物なはずだ。

 にこりと笑顔を返してまたトマトと向き合う。

 これで塩昆布でもあれば文句もないのに、残念だ。

 水分と酸味が身体に染み渡る。

 ちまちまと生野菜を食べているうちに小さなボウルが空いた。

 おかわりが欲しいと思っていたのに、追加されたのはバターと砂糖と小麦がたっぷりのデザートたち。

 赤いイチゴのゼリーに生クリームのかかっていないイチゴをのせてみる。

 これは美味しそうだ、なにより見た目がいい。

 ドラコもすっかり機嫌が良くなっていつもの自慢話を始めている。

 私は聞き下手なので黙っていれば問題はない。

 最初に取った分をのんびり食べているうちにデザート類もなくなっていく。

 クラッブが取り過ぎてザビニが怒ったり、ゴイルがすぐに食べ尽くしてドラコが一口も食べられなかったり、あとはダフネが私の前にライスプディングを置いてくれた。

 牛乳で米を煮込んだ乳粥である。

 私が米好きと知っていて気遣ってくれた。

 彼女も好物だろうに、遠慮しないでと自分は一口も食べようとせずトライフルを探している。

 残念ながらそれはノットが持って行ってしまってもう残っていない。

 言い出せないままデザートもあらかた品切れになり、校長から軽く注意事項が伝えられ最後に校歌を斉唱してお開きになった。

 何故か校歌は歌詞だけ決まっていて、生徒ごとにメロディが違う。

 私は面倒なのでパンジーと同じ曲調――有名なベートーベンの第九だ――で歌っておいた。

 近くからクイーンのボヘミアン・ラプソディが聞こえたが、スリザリンでマグルの曲はちょっとマズそうなのでやめた。

 そのまま大広間を出て、監督生の某の引率で寮へ向かう途中。

 口の端に赤いベリーソースをつけたパンジーがふと。

「四階の右側の廊下に何があると思う?」

 校長先生が言うには『恐ろしい死』が隠されているという。

 よりにもよって校内にも怪物の類いがいると思うと頭が痛い。

「さあ……闇の魔法がかかった品だと思います」

 魔法省も大したことがなさそうだし、それならダンブルドア先生の方で預かってもらった方がまだ安全だろう。

 この学校に安全な場所があるのかはさておき。

 パンジーはどうも校長のことを信用していないらしく「魔法省に渡せばいいのに」とぶつぶつ言ってる。

 どうせ一年生には関係のない話だ。校則違反で減点されても面白くない。

 それよりあの甘そうなソースが気になる。

「パンジー、ここ」

 自分の口元を指さしてついてますよと教えると、今度は慌てて口元を手で隠した。

 ドラコが気づいているかどうかは、私には知りようのないことだった。




 というわけでようやく判明したスミレの容姿。
 常識人だし人付き合いは上手いけどそれはそれとしてちょっと傍観者気質、スリザリンのキテレツな面子と仲良くなれるくらいには空気が読めます。


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学校生活〔Ⅰ〕

 魔法薬学と飛行訓練をセットにしたら一万字を超えてマジ卍


 ホグワーツ城は幽霊・怪物・危険物の心理的瑕疵もりだくさんな事故物件だ。

 そのうえ階段がその時々の気分で勝手に動くわ、あっちこっちに隠し通路があり迷路状態になっているわと深刻な欠陥建築でもあった。

 グリフィンドール塔のゴースト『ほとんど首なしニック』ことニコラス・ド・ミムジー・ポーピントン卿やハッフルパフの『太った修道士』は寮に関わりなく、新入生相手なら気前よく教室への道を教えてくれる。

 サー・ニコラス、と彼の希望する呼び方なら『ほとんど首なしニック』はスリザリン生の私でも道案内してくれた。

 この呼び方をしてくれる生徒がほとんどいないのでとても嬉しいようだ。

 レイブンクローのゴーストは人嫌いで滅多に顔を見せないらしく、スリザリンの『血まみれ男爵』もひどい癇癪持ちで話しかけづらい。

 他にもピーブスというポルターガイストがいるものの、アレについては無視している。

 ああいうのは放っておくのが一番いい。

 リアクションを返すから次も手を出してくるのだ。

 3日目にして足元でキーキーと騒いでいたが、今は魔法薬学の教室へ行くので忙しい。

 なんせ担当はスリザリンの寮監であるスネイプ先生だ。

 髪も目もローブも黒、カラスのように不吉な黒ずくめの先生は薄暗い地下室でじめじめと生徒を待っていた。

 鉤鼻の下で口をへの字に曲げて薬草や怪しい標本、保存液の臭いで満ちた地下牢の教壇に陣取り、扉を開けた生徒を一人一人じろりと睨む。

 あの『絶賛大量出血中』の幽霊男爵よりよっぽど怖い。

 紫ターバンのクィレル先生がこの人の前ではいつも以上に震える気持ちも分かる。

 教室には大きな机が二つあり、それぞれに小ぶりな鉄釜と今日使うであろう材料が並んでいる。

 スリザリンとグリフィンドールの合同授業なので、当然赤いネクタイを締めた生徒もいる。

 指示されたわけでもないのにキッチリ寮で分かれている辺り、溝は深いと思われた。

 生徒が揃うとスネイプ先生は出欠を取り始める。

 逆に『薬草学』のスプラウト先生と『闇の魔術に対する防衛術』のクィレル先生は取らなかった。

 他の授業だと『呪文学』のフリットウィック先生やマクゴナガル先生は必ず出欠を確認するらしい、実際に2人とも真面目そうな人だった。

 名簿を読み上げるスネイプ先生の声は囁くような小ささで、あの大広間どころかここが変身術の教室であっても聞こえそうにない。

 今朝のベーコンの塩加減が不満でもここまで暗い顔をする必要はないだろうに。

 

「ああさよう」粘っこい猫なで声だ。

 

「ハリー・ポッター、我らが新しい……スターだね」

 

 わざとらしくハリーを凝視している。

 初日から運がない……完全に目をつけられてしまっている。

 

「このクラスでは、魔法薬調剤の微妙な科学と、厳密な芸術を学ぶ」

 先生が生徒全体へ話しはじめた。ボソボソとくぐもった声なので、聞き漏らすまいと必死に耳を澄ます――ある意味で、マクゴナガル先生と同じように、スネイプ先生もクラスをシーンとさせる能力を持っていた。

「このクラスでは杖を振り回すようなバカげたことはやらん。そこで、これでも魔法かと思う諸君が多いかもしれん。フツフツと沸く大釜、ユラユラと立ち昇る湯気、人の血管の中をはいめぐる液体の繊細な力、心を惑わせ、感覚を狂わせる魔力……諸君がこの見事さを真に理解するとは期待しておらん。我輩が教えるのは、名声を瓶詰めにし、栄光を醸造し、死にさえふたをする方法である――ただし、我輩がこれまでに教えてきたウスノロたちより諸君がまだましであればの話だが」

 杖を振るのが苦手なので正直安心した。

 そのくせ私の杖は珍しいからかやたら注目される。

 魔法の知識がゼロなのだから、飛行呪文に失敗してなにが悪い。

 初めから才能があればとっくにこの学校を吹き飛ばしている。

 演説が終わったとたん「ポッター!」と大声で先生に指名され、ハリーがのけぞる。

 記念すべき魔法薬学初の質問だった。

 ほとんどキラーパス、いや、デッドボールである。

 先生の憎しみに満ちた顔は餓鬼か般若のようだ。

「アスフォデルの球根の粉末にニガヨモギを煎じたものを加えると何になるか?」

 生ける屍の水薬。強すぎる睡眠薬で、調合がとても難しい。

 教科書の後ろの方に書いてあった。

 あの分厚い本を最初から最後まで読む変態には見えなかったが、やはりだった。

 そんなこと先生は百も承知のはず。

 これは完全な私怨と思われる。

 最初の授業までに教科書を読破した変態ことハーマイオニー・グレンジャーが選手宣誓でも始めそうなほど真っ直ぐ手を挙げている。

 先生は挙手を無視してハリーをいびることを優先した。よほど彼女のことも気に入らないと見える。

 ……この先生の機嫌を損ねないよう気をつけないと。

 どんな嫌がらせをしてくるか分かったものではない。

「ではベゾアール石を持ってこいと言われたら、君はどこを探すかね?」

 山羊の胃袋。

 しなびた肝臓のような見た目で、主成分は食物繊維と毛。

 単体でも優秀な解毒剤として使えるが稀少なため非常に高価。

 これも先生が期待した通りで、ハリーは「分かりません」としか答えられなかった。

 それでも牢名主様の暗い目を真っ直ぐに見つめ返している。

 おかげで地下牢の主はさらに機嫌を悪くして、畳みかけ始めた。

「クラスに来る前に教科書を開いて見ようとは思わなかったわけだな、ポッター、え?」

 どこの世界に授業前の時点で教科書を読破する人間がいるのか聞きたくなった。

 そこで挙手し続けている電柱は別だ、

 私も知っているけれど、この授業ではなにも発言したくないので黙っている。

 無視され続けているハーマイオニーの腕はプルプル震えていた。

「ポッター、モンクスフードとウルフスベーンとの違いはなんだね?」

 どちらもトリカブトの別名、東洋では『烏頭』や『附子』と呼ばれ極めて強い毒を持つ。

 中国では漢方薬の素材として用いられる。

 薬草学の知識も要求されるなんて厄介な科目だ。

 この質問でとうとうハーマイオニーは椅子から立ち上がり、地下牢の天井に届かんばかりに手を伸ばした。

 髪の毛を脚に見立てたらエッフェル塔だ。あれはフランスの名所だけども。

「わかりません」ハリーは落ち着いた口調で言った。

「ハーマイオニーがわかっていると思いますから、彼女に質問してみたらどうでしょう?」

 グリフィンドールの生徒が数人、笑い声を上げた。

 しかし、スネイプは不快そうだった。

「座りたまえ」スネイプ先生の口調は容赦ない。

 しかも今度はスリザリンに暴投し始めた。

「さて、この惨めな不勉強者の有名人ミスター・ポッターを助けてやろうという生徒がいれば手を挙げたまえ……いないようであれば我が輩が指名しよう。ミスター・ザビニ、どうかね?」

 リーダー格のドラコではなくブレーズ・ザビニを指名する辺りぬかりない。

 なんせドラコはパンジーと小声で「ここに知ってるやつがいるのか」と喋っていた。

 ちなみにドラコは間違いなく知っている、ルシウスさんが予習を手伝っているのも去年の夏に見ている。

 ブレーズも教科書の目次から該当のページを全部見つけている。

 だが彼は質問への回答を断った。

「失礼ながらスネイプ教授、私よりもっと詳しい生徒がいると思うのですが」

「ほう? 我が輩の目にはとてもそのような生徒がいるように見えないのが?」

 陰湿な目でちらりとハーマイオニーを見てせせら笑う。

 さっきハリーがハーマイオニーに渡したバトンを無視したのに、自分の寮となるとこの調子である。

 こんなに贔屓していれば誰だってスリザリンに悪感情を持って当然だ。

 ブレーズはここでドラコを指名して花を持たせる気だ。

 そうすれば自分はドラコに気に入られ、ドラコは自尊心を満たせる……win-winとなる。

 が、私の予想は大ハズレだった。

「ミス・アオイです教授、彼女の叔父上は高名な薬学者のアオイ・ショウブ博士です」

 2人から睨まれてもザビニの顔は冷笑を浮かべていた。

 叔父さんから日本語の参考書をもらったことを知っているようだ。

 もしかしたらキングズ・クロス駅で見ていたのかもしれない。

 忘却呪文は1年生には難しそうだが、練習する価値はありそうだ。

「それはそれは……かのアオイ博士から直々に教わったとあれば是非みなで拝聴せねばなるまい。立ちたまえ」

 ……抵抗したら私が悪者だ。

 それだけは避けなければ。

 グリフィンドールからの印象は改善しようがない以上、同じスリザリンにだけでも味方を作らないと。

 諦めて言われたとおりに立ち上がる。

 心を無にして、知っている範囲で話す。

「存じ上げている範囲で結構、順に答えたまえミス・アオイ」

「アスフォデルの球根の粉末とニガヨモギを煎じると強力な睡眠薬が出来ます、使用量を誤ると一生眠ったままになるため『生ける屍の水薬』の別名があります」

「ではその他の素材も述べよ」

「催眠豆の汁、ナマケモノの脳みそ、水。より効果を高めるためカノコソウの葉を入れる場合もあります」

「この場合のナマケモノとはポッターを意味するものではない。ではベゾアール石はどこを探せば手に入るか」

「山羊の胃袋です」

「名の由来は」

「古代ペルシア語で『解毒』を意味します」

「モンクスフードとウルフスベーンの違いについて」

「同じ植物です。どちらも有毒植物のトリカブトを意味します」

「他の名称を最低2つ述べよ」

「烏頭と附子、これは東洋での呼称です」

「よろしい。着席してよい」

 教室内の沈黙で押し潰されてしまいたい。

 私だって好きで喋ったわけではないのに、特にハーマイオニーの視線があまりにも鋭い。

 そんな「好敵手見たり」と言わんばかりの眼光でこっちを向かないで欲しい、そして赤毛のウィーズリーまで一緒になっている理由を教えてくれないだろうか。

 スネイプ教授はご機嫌にローブを翻して教壇へ戻った。

 しかめ面もおっかないけれど、笑ったら笑ったで冗談抜きに薄気味悪い先生だ。

「ミス・アオイの知識に敬意を表しスリザリン10点」

 ザビニの方から嬉しそうな口笛が聞こえた。

 グリフィンドールからは歯ぎしりが聞こえてきそうだ。

 スリザリンの拍手が収まりきる前に教授はトドメを刺しに入った。

「ポッター、君の不勉強と無礼に対しグリフィンドール2点減点」

 そうして魔法薬学の授業が始まった。

 案の定空気は最悪、しかもグリフィンドール、スリザリンともこの科目はみんな苦手らしくどちらのテーブルでも失敗が多発している。

 教室を歩き回って見境なくプレッシャーを振りまいているスネイプ先生が悪い。

 ご自分の顔を1度鏡で確認なさるべきだ。

 そんな中でハーマイオニーは自分のペースでてきぱきと『おでき消し薬』の調合を進めている。

 こっちはザビニと先生のせいで他の人から「教えて」「ここからどうするの」と質問攻め、自分の鍋の様子を見るのが精一杯である。

 教科書を読めばいいのにと嫌気が差してくる中、ザビニも悠々と鼻歌交じりで山嵐の針を鍋に放り込んでいる。

 この質問攻めが嫌で私に押しつけたのだった。

 これは実にスリザリンらしい狡猾さ、手際のいいことである。

 文章が読めないクラッブとゴイルの頭を教科書で殴りたい衝動に駆られつつ、どうして私より手際のいいドラコに教わらないのかと聞くタイミングを計ろうにもそれどころではない。

 ミセス・ノリスの手も借りたいほどだ。

 先生はドラコの角ナメクジの茹で具合や蛇の牙の砕き方を褒め、それを材料にグリフィンドールをねちねちと叱る。

 そんな光景に爆笑するクラッブとゴイルの頭をミリセントが拳で殴りつつ、ロングボトムの大ポカまでハリーが責任を背負わされまた減点……そうこうしていると調合が終わった。

 一列に並んで教壇のスネイプ先生に提出するのだが、グリフィンドールの生徒は全員お説教されていた。

 ハーマイオニーなんて「文句なしの出来栄え」と言われたのに他の人より長いのだからひどい仕打ちだ。

 スリザリンはドラコとザビニが「たいへん結構」で私は「よろしい」の評価を貰ったが、なに1つとして喜ばない。

 ハリーがスネイプ先生に目をつけられたように、私もハーマイオニーからライバルと思われてしまったからだ。

 

 こんな思いをするためにイギリスまで来たんじゃない。

 

 

 色々な授業を受けて分かったことがある。

 授業中に先生から質問され自分から発言すれば、どんな先生も必ず5点はくださるということだ。

 スネイプ先生はかなりスリザリンを贔屓しているが、他の先生方は特に偏りもなく、教科書の内容をキッチリ暗唱すれば10点は確保できる。

 宿題も『変身術』はボリューミーだが、他はレポートという体の感想文。

 杖を使う『変身術』と『呪文学』は校則の関係で予習には限度があり、天文学は星座の知識があればいい……つまり復習はどの科目も均等に、宿題は『変身術』を優先、予習は『魔法薬学』を重点的にこなせば授業のペースに置いて行かれずに済む。

 なので勉強熱心なハーマイオニーと面倒くさがりな私の実力差は『魔法薬学』を除くと日に日に開いていくばかりだ。

 それを悔しんでいるのが私自身でなくパンジーとミリセントとダフネの3人というのはトンチンカンな話だと思う。

 昼食の席でも私も加えてハーマイオニーの悪口ばかりである。

 私は黙ってリンカーシャーソーセージと戦っている。

 この脂っこさははどうにかしてほしい。

 茹でれば少しはサッパリすると思うのだけれど……。

「マグル出身だから少しでもいい顔したいのよアイツ、偉そうにアピールしても純血にはなれないのに!」

 私に向かってしたり顔してくる以外はなにも気にならない。

 だがパンジーはあの態度が我慢ならないとスクランブルエッグをケチャップまみれにしながらおかんむりである。

 奇しくもグリフィンドールの色になっている。

 ミリセントも「ムカッ腹の立つスカしたヤツ」と気に食わない様子で、ダフネも誰彼かまわず間違いを指摘してご満悦なのが気持ち悪いらしい。

 多分、ダフネの意見はグリフィンドールでも通用するだろう。

 誰とも口を利かずに大広間で本を読んでいるのだから……。

「そう思わないスミレ!?」

「え、ああ、はい。パンジーの言うことはもっともです」

 このライトグレーのソーセージは皮が薄くて美味しそうだと思ったのに、ハーブが効きすぎていて舌がピリピリする。

 ヨークシャープディングがなければ大変だった。

「あの箒頭を黙らせるにはどうしたもんか……」

「未知数なのは箒飛行だけ、他はみんな大得意なんだよね」

「箒頭……」

 またもや強烈な悪口だ。

 私なんてエッフェル塔か東京タワーしか思いつかなかったのに。

 3人は再び悪口に花を咲かせ身体に悪そうな肉料理を食べ始めた。

 ハーマイオニーは両親とも普通の市民、魔法とは無縁の生活をしてきたはず。

 ホグワーツに入学したら突然あの性格になるわけもなく、普通の学校にいた頃からあんな調子でお節介を焼いては煙たがられていたのだろう。

 だから1人ハムステーキを切り分けていても平然としている。

 昼休みの後に『飛行訓練』の授業があるのに、みんなよく食べられるものだ。

 

 

 その日の昼下がり。

 肌を撫でるそよ風と午後のぬるい日差しが心地いい。

 こんな天気の日は縁側で寝るか近所を散歩するに限る。

 教本によれば、まず箒を掴む動作を学び、そこから正しい箒の持ち方を確認、次に15メートルまでの範囲で浮遊するところまでを連続して学ぶのが最初の練習となる。

 今日は10メートルも飛ばない、まず2〜3メートルで慣らして、行けそうなら次から少し高くすればいい。

 本によれば箒に跨って魔法のボールを追いかける競技があるらしいが、それは普通のサッカーじゃダメなのだろうか。

 人数分が並んだ箒に――眠たい数名を除いた――みんなが目を輝かせていると、担任のマダム・フーチが颯爽で芝生を横切ってきた。

 黄色い鷹のような鋭い目に逆立った白髪、猛禽を彷彿とさせる凜々しい雰囲気の先生は、昼のだらりとした眠気と無縁の活発そうな人だ。

「皆さん揃っていますね、これから『飛行訓練』の授業を始めます」

 立ち止まる前に挨拶をして、ピタリと足を止めると一喝。

「なにをボヤボヤしているんですか。みんな箒のとなりに立って! さぁはやく!」

 首から下げたホイッスルと先生の剣幕にもせっつかされて全員がすぐに箒の左隣に立った。

 これはまた……えらく気の短い人だ、体育会系のスパルタ先生である。

 

「右手を箒の上に突き出して。そして、『上がれ!』という」

 

 今度は合図を待たずにみんな『上がれ!』と叫ぶ。

 箒はうんともすんとも言わない、

 小枝まみれの痛んだものばかりで、こんな頼りないものに乗ってみんな空を飛ぶのかとヒヤヒヤする。

 いつもの6人……ドラコ、パンジー、ミリセント、ダフネ、クラッブ、ゴイルは誰も箒をつかんでいない。

 ザビニやセオドール・ノットも悪戦苦闘しているし、それどころかあのハーマイオニー・グレンジャーすら箒がピクリとも動かずどんどん顔が険しさを増している。

 上手くいったのはハリー・ポッター1人だ。

 私が最初でないなら何番目だろうと構わない、それこそネビル・ロングボトムより遅かろうと気にしない自信があった。

 全員の手に箒が収まると、先生はあちこち移動して正しい持ち方へ改めさせていく。

 散々に自慢してうんざりされていたドラコも間違っていたし、それを馬鹿にしたウィーズリーも間違っていた。

 こそっと「どんぐりの背比べ」と日本語で呟いた。

 コレなら誰にも聞き取れまい。

 マダム・フーチが最初の位置に戻るとついに初飛行の時が来た。

「さあ、私が笛を吹いたら、地面を強く蹴ってください。箒はぐらつかないように押さえ、二メートルぐらい浮上して、それから少し前屈みになってすぐに降りてきてください。笛を吹いたらですよ――一、二の――」

 情けない「うわあ」の声がした。

 なんだろうと確かめるのも馬鹿らしくなるが、その理由はロングボトムだった。

 またしくじって箒がぐんぐん空へ飛び上がっていく。

 あのぷかぷか浮かぶ雲よりロングボトムの顔は白く、遠ざかっていく地面を見下ろして泣き叫びそうな状態だった。

 泣き叫ぶより先に箒から落っこちて、重力の見えざる手に導かれて芝生に落下。

 ポキンと小気味よい音を響かせたあとはそのまま突っ伏している。

 首でなければ名医のマダム・ポンフリーがいるから死にはしないだろう。

 頭だったらもう少し出来が良くなる可能性も捨てきれない。

 ロングボトムと同じくらい真っ青になった先生が慌てて駆け寄り、脈を確かめる。

 肩を担いで立ち上がらせ、

「私がこの子を医務室に連れていきますから、その間誰も動いてはいけません。箒もそのままにして置いておくように。さもないと、クィディッチの『ク』を言う前にホグワーツから出ていってもらいますよ」

 キツく警告してから泣きじゃくるロングボトムを連れて芝生を後にした。

 手首を押さえていたから、折れたのは右の手首だろう。

 ホグワーツなら骨折程度は一発のはずだ……心配すべきは彼のドジ具合である。

 1週間に何度も何度も医務室に運ばれているような気がする。

 合同授業でそんな調子ならグリフィンドール単独だといっそ可哀想なレベルではないか?

 つい、呆れて愚痴がこぼれてしまった。

「医務室で一番寝心地の良いベッドはどれか教えてもらわないと」

「それいいわね。このオンボロ箒でどれが一番乗りやすいのかも調べさせましょう、ロングボトムもようやく特技が見つかったんだから喜ぶわよ」

「あんなボンクラの大間抜けに箒の違いなんて分かるもんか! 根こそぎどこかへ飛んでいって授業が出来なくなるぞ」

 パンジーとドラコの冗談にクラッブとゴイルを始めスリザリン生は大笑いする。

 意外にも堅物そうな印象があったセオドールもお腹を抱えていた。

 少し騒がしいけど今日は良い天気だ。

 今が授業中でなければ大広間でゆっくりお茶していたい。

 芋ようかんと緑茶が恋しい……はやく家に帰りたい……。

「今のはなかなかセンスがあったよ。初めてにしちゃよく出来た方だ、どこぞのウスノロ泣き虫デブに見習わせたいね」

「それはどうも」

「記念にこれやるよ。取っておけ」

「?」

 ドラコが投げて寄越したのは……ガラス玉?

 掌より少し大きく、中になにも入っていないという面白味のないゴミだった。

「なんですかこのゴミ」

「ロングボトムの『バカ玉』さ」

 ロングボトムの『バカ玉』とはなんのことだ。

 確かに彼は少し間抜けで体型も丸っこいが、クラッブの方がよほど馬鹿でデブだ。

 どういうアイテムなのかと首を傾げて、しかし邪魔なので来月から『呪文学』で練習する『浮遊呪文』の的にする。

 実のところこの呪文、便利だからと叔父さんがこちらに来る前に教えてくれていた。

 日本では7歳で学ぶのだからその気になればすぐに習得できる。

 それに足下は芝生、もし落ちても割れる心配はない。

 ネビルは手首を骨折したがあれは不運な事故だ。

「こんなもの必要ありません、ウィンガーディアム・レビオーサ 浮遊せよ」

 呪文は上手くいった。

 謎のガラス玉はふわふわと宙を浮かび、日の光を反射して輝いている。

 中が空なので軽いし、大きさも練習台に最適だった。

「やめてやれよ、それネビルの『忘れ玉』だぞ」

 グリフィンドールの方から抗議の声がした。

 誰が言ったのか目で探してみるが、みんな似たような雰囲気で面倒くさい。

 金田一耕助や明智小五郎のように犯人捜しする気分にもなれず、そう言えばここはイギリスなので名探偵と言えばシャーロック・ホームズだと思い出した。

 じゃあ私のジョン・ワトソンは誰だ。

 身近にはレストレード警部とモリアーティ教授とアイリーン・アドラーしかいない。

 しかし、そうか……『馬鹿玉』はネビル・ロングボトムへの悪口ではなくそういう名前のアイテムのあだ名だったとは。

「泣かせるじゃないかシェーマス、落ちこぼれ同士の友情か? ホラどうした、要らないのか? 君が取り返そうとしたら木っ端微塵になるだけだから口しか出せないんだろう」

 壊したらあとが嫌なので手元へ引き寄せようとしたガラス玉こと『忘れ玉』をドラコが引ったくる。

 さっき私に渡した張本人なのに気まますぎる。

 が、おかげでもうどうしようもなくなった。

 ドラコと口論しているあの黄土色の男子が爆破マスターのシェーマス・フィネガンか。

 魔法薬学で釜の中の薬品を吹っ飛ばしたのは彼だったのか……。

 しかし爆破の才能があっても、天才毒舌家に勝てるはずがない。

 舌戦では百戦百勝のドラコに案の定言い負かされている。

 さて、これで杖の出番はなくなったのでローブの袖に仕舞う。

 緊張しなければすんなり成功したのはいい経験になった。

 忘却呪文などの便利な魔法を練習するときのためにもこの事は覚えておこう。

「ふあ」 

 寝不足のせいかあくびが漏れる。

 この授業が終わったら少しだけお菓子を食べて寮に戻ろう。

 夕食まで少し寝て、このしつこい眠気を払いたい。

「ねえ! 聞いてる!?」

「うわ。なんですか、聞いてません」

「あなたのせいで! 2人とも箒で飛んでるの!」

 目の前に立っているハーマイオニーはえらい剣幕だ。

 優等生らしく違反行為には我慢ならないようだ。

 指さす先ではドラコとハリーが『忘れ玉』を巡り空中で衝突していた。

「2人とも上手ですね」

「そうだけどそうじゃない! 先生の指示に逆らってる!」

「じゃあ全員で飛んでしまえば」

「赤信号みんなで渡ればってもう! コントやってる場合!?」

「ツッコミもお上手です。座布団1枚」

「今クッションもらっても嬉しくない!」

「あ、すみません。こっちに大喜利システムないんですね」

 切り返しが面白くてつい悪のりしてしまう。

 弄り甲斐のある優等生、ネビルのような大間抜けやハリーのような有名人よりよほど世のためになる稀少な人材だ。

 ハーマイオニーと談笑しているうちにハリーが華麗な箒さばきで『忘れ玉』を取り返し、さらに見事なランディングを披露してグリフィンドールの拍手を浴びている。

 状況の変化に気づいて振り返った優等生が耳を赤くしている。

 私も怖いもの知らずの操縦テクニックに拍手を送る。

「待って。この騒動はあなたのせいよ?」

「いいじゃないですか、見応えありましたよ」

「こっちは一番の見所をなんにも見てないんですけど」

「よそ見したからいけないんでしょう? チャンネルはそのままって言いません?」

「言うけど! あ、ハリーがいない!?」

「マクゴナガル先生がさっき連れて行きましたね」

 マダム・フーチの警告通り退学になるんだと騒ぐハーマイオニー。

 けれど、ついさっき芝生へ駆けつけた変身術の先生はとてもそんな雰囲気ではなく、宝物を見つけたと言わんばかりに目を輝かせていた。

 それにハリーが退学なら、未だに箒で宙に浮かんだままのドラコも連れていかないと。

 場の主導権を握ったと思ったら全部かっ攫って行かれて、放心状態だった。

 どうもあの2人は相性が悪いらしい。

 一気にしおれたスリザリンがグリフィンドールを睨む中、立っているのも億劫なほど眠くて眠くて倒れそうだった。

 もう夕飯はいらないかな……どうせイギリス料理しか出ないし……。

 

 ドラコの家のご飯よりはやく飽きてしまっている。

 ホラ混じりの自慢ではなく、本当にマルフォイ家の食事はホグワーツより美味しいようだ。




 魔法薬学:得意
 呪文学:やや得意
 飛行訓練:苦手
 その他:平均レベル

 魔法そのものや勉強自体は嫌いなので、どうやってもハーマイオニーより上手にはなれないポテンシャル。好きこそ物の上手なれ。
 賢者の石編はスミレの頭の中と人間関係をお見せするのがメインになる予定です。


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灼熱のハロウィン

・おいカボチャパイ食わねえか。

・バカそうな顔してるわね

・おいまいするぞ!



 
 


 今日は特に眠れない。

 目が冴え渡ってしまっている。

 教室間の移動と飛行訓練で疲れているはずだ。

 しかし、いくら目を閉じても外の風の音が気になる。

 ここが我が家なら縁側に出て夜空でも眺めていられたが、ここはホグワーツ『監獄』城なので自由なんてない。

 馴染みのない布団と枕が原因だろうか。

 それとも食事のストレスか……ストレスの原因はこの学校のほぼすべてと言える。

 いちいち遠回しに嫌がらせをしてくるザビニを始め、極端な贔屓家のスネイプ先生、教室とターバンの異臭がひどいクィレル先生、それにやたら突っかかってくる赤毛のウィーズリーをはじめとしたグリフィンドールの同級生。

 思い返したらもっと眠気が遠のきそうだ。

 魔法史の授業を思い出そうにも、記憶に残らなさすぎて思い出せない。

 ノートを取ってあるかすらも不安になる。

 明日パンジーに見せてもらおう。

 あの子もノートを取っているか微妙だけど、ミリセントとダフネはずっと寝ていたから……。

 

 ぼーっとしていたらお腹も鳴った。

 学校に来てからまともに食事を摂れていない。

 朝のオートミールを除けばお肉を一口二口に生野菜ばかりの生活。

 そろそろ調理室に行って昼食と夕食にもオートミールを出してもらえないか相談しないと。

 隣のベッドでごろんと寝返りを打ったパンジーは今日もタラのフライを山盛り食べていた。

 私もあんな風に目の前の料理を好きなだけ食べられたなら……。

 山盛り食べられるくらいに美味しいんだから、みんなと一緒にご飯やデザートの話がしたい。

 お腹いっぱい食べて、それからなにも考えず気持ち良く寝たい。

 難しくもないはずなのに、私には出来ない。

 考えれば考えるほど惨めな気分になる。

 地元の友達には嘘をついて、まともに文通も出来ないところに閉じ込められて、そのまま七年も過ごさないといけないんだ。

 新聞のインタビュー記事で偉そうにしていたあのナントカ大臣が憎い。

 人の人生を滅茶苦茶にして、そんなこと知りませんという顔で自分は大真面目に働いていますと嘘八百の自慢話をしている詐欺師だ。

 アイツの人生も、アイツを崇めているヤツの人生も、滅茶苦茶になってしまえばいい。

 

 遠くで犬の鳴き声がした。

 あの雄々しい声をした犬が、卑怯者たちを食い殺してくれやしないだろうか。

 

 眠れない夜はいつまでも続く。

 

 きっと、卒業するまでこんな状態が続くに違いない。

 

 

 

 入学から1ヶ月が過ぎた。

 どの授業もだいたいの進行速度を把握して、勉強の計画も調整出来ている。

 面白いかどうかは別にしても『変身術』以外はまだそれほど難しくはない。

 気に入っている授業は1つだけ。

 フィリウス・フリットウィック先生の『呪文学』だ。

 杖を振って呪文を唱えることを、初めはスネイプ先生と同じように「馬鹿馬鹿しい」と思っていたが、今は完全に違う。

 色々な呪文を覚えればそれだけ相手を負かす手段も増える。

 この授業は便利な魔法を覚えるための第一歩となる。

 前向きに考え直して臨んだ10月末日の授業。

 私より小さいフリットウィック先生は2人1組に分かれ『飛行呪文』を練習するように言った。

 呪文をかけるのはあの『ガラス玉』より軽い羽だった。

 私とペアを組んだパンジーはなんども杖を振っているが上手く行かない。

 スリザリンとグリフィンドール、どちらも悪戦苦闘している。

 ちらと周りを見ても軽く揺れたり床に落ちるだけのようだった。

「見てよアレ、グレンジャーとウィーズリーよ」

「そのようですね。夫婦ケンカってあんな雰囲気ですよね」

 ハーマイオニーは赤毛のウィーズリーとペアだった。

 怒りっぽい2人はガミガミ言い合いながら練習中だ。

 器用なことをするものだ。

 ときどき優等生の視線は真っ赤なタワシからこちらに向いている。

 そろそろ私もやろう、見ているのも飽きてしまった。

「えー、ウィンガーディアム・レビオーサ 浮遊せよ」

 白い桜の杖を「ビューン」「ヒョイ」の動作で振る。

 日本語訛りの英語でも呪文は大丈夫なようだ。

 白い羽は頭上1メートルほどの高さまで飛んでそのまま浮遊している。

 向かい側ではハーマイオニーも一発で成功したようで、今日は羽を爆破してススまみれのシェーマスや羽を探して半泣きのネビルも上を見ていた。

 私と同じ高さが気に入らないのかハーマイオニーはさらに1メートルほど高い場所まで上昇させたが、こちらはやり方が分からないので無視した。

 それでも先生は私たちの成果に大喜びだったので、基礎中の基礎は習得出来たらしい。

 この呪文の使い道はまったく謎である。

 

 

 今日は10月末日、ハロウィンである。

 お化けや魔法使いやミイラや狼男の仮装をして近所を練り歩き、カゴいっぱいにお菓子をもらって帰る日で……なかった。

 お化けと魔法使いは学校中にいるし、この世界には本当に狼男もいるらしい。

 クィレル先生も「きゅ、きゅきゅきゅっ、きゅ吸血鬼は私もめっ目にしまっしましたが、お、狼男はその……ま、まだ……」といつぞや授業で仰っていた。

 そんなに嫌なら言わなきゃいいのにと思う。

 どれだけトラウマを抉られようと、質問にちゃんと答えてくれる真面目な先生だ。

 私がホグワーツに来た理由を知っているのは校長のダンブルドア先生と副校長のマクゴナガル先生、寮監のスネイプ先生に『闇の魔術に対する防衛術』担当のクィレル先生、それに校医のマダム・ポンフリーだけ。

 あのターバン先生は血を吸われたわけでもないのに教室を干しニンニクとニンニクのお香で充満させて、吸血鬼という単語だけで普段の倍は震えと吃音が酷くなる。

 授業の内容と別のところであの先生は頼りない。

 私なんて噛みつかれて少しだけ血を吸われたけれど元気……いや元気じゃない。

 睡眠不足だし胃痛もする。

 カボチャまみれの夕飯なんてとてもじゃないが食べられそうにない。

 煮びたしは当然のように出なかった。

「なんだってこんなカボチャまみれにするのよ」

 焼きたてのパンプキンパイをフォークに刺したパンジーが愚痴る。

 今日のデザートはみんなカボチャ味、大広間はカボチャのほんのり甘い香りが漂っている。

 いつもより手が込んでいるけれど、これは手加減なしのパンプキン・アタックだ。

 しかも飲み物までカボチャジュースで統一されては口直しも出来ない。

 これは流石にくどすぎる。

 スネイプ先生とマクゴナガル先生も私や何人かの生徒と同じく胸焼けしているようだった。

 ニコニコなのはダンブルドア先生と森番のハグリッドだけ。

 あの2人は底なしの甘党に違いない。

 クィレル先生がいないけれど、もしかすると双子のウィーズリー兄弟が吸血鬼の仮装をしていると思って部屋に閉じこもっているのかも。

 噂を聞く限り、あの双子はそのくらいやりそうだ。

 グラスのカボチャジュースを一口飲んで、ミリセントはゴイルが独り占めしていたカボチャスコーンへ手を伸ばした。

 持ち主は食べるのに夢中で気づかない。本物のアホだ。

「うーん、濃い目のお茶が欲しいんだけど。どこかにないの?」

「じゃあ厨房にでも殴り込みなさいよ、トロールの仮装してるし丁度いいでしょ」

「なら一緒に行きましょピクシー小妖精さん、あなたなら屋敷しもべ用の出入り口もくぐれそうよ」

 これでも仲良しこよしである。

 お互い挨拶代わりに悪口を言える程度には対等だ。

 クラッブのソーセージみたいな指がパイへ伸びるたび、パンジーはフォークで追い払っている。

 今も威嚇された蛇みたいにクラッブの手が引っ込んでいく。

 流石にクラッブが可哀想に思えてきた。

「一切れくらいあげればいいじゃないですか」

「ダメ。絶対にダメ、これだけはアイツにはあげない」

 もし一口でもあげれば味をしめて最後の一切れまで食べられちゃう、というのが理由だった。

 ジョーズの人食いサメと同じパターンだ。

 そんなに美味しいのなら食べてみたいが、あの分厚い生地とたっぷり塗られたバターでつやつやな表面を見ると二の足を踏んでしまう。

 それに私だけ貰ったのではクラッブが本当に不憫だ。

 我慢しよう。お互いのために。

「髪までカボチャ色にならないよう祈っとくわ」

「そんなに危ない食べ物だったとは……」

「ならないならない! 聞いたことないからそんなパイ!」

 眼が覚めると思って喋ってみても睡魔は一向に離れてくれない。

 むしろどんどんまぶたが重くなってきた。

 今日の勉強は明日にして、さっさと寮に戻ろう……。

 

 机を支えに立ち上がるのもフラついてしまう。

「ねえスミレ大丈夫? 医務室に行った方がいいよ」

「ただの寝不足ですから……ご心配なく……」

「どこが大丈夫よ。ホラ、医務室連れてくから」

 パンジーに手を掴まれても、振りほどく力も出ない。

 部屋に戻って常備薬を飲むつもりなのに、医務室で胡散臭い魔法の薬品を出されるようだ。

「残ってるパイ、食べていいわよ」

 クラッブは大喜びで温かいパイを皿ごと引き寄せた。

 そのまま手を引かれて大広間を出て行く。

 クィレル先生のダサい紫色のターバンと途中ですれ違ったが、双子のウィーズリーに驚かされて転んだ拍子に本体をほったらかして逃げ出したんだろう、きっと。

 ああ……それにしてもお腹が空いた……。

 

 

 病院で処方された常備薬があるならわざわざここに来ないでそっちを飲みなさい、とマダム・ポンフリーは当たり前の対応で私とパンジーを医務室から追い出した。

 貴重なベッドを自分で対処できる人間に埋められては困る。

 ごもっともだが、付き添い人はご立腹だった。

 長々と歩いて少し眠気も失せて、1人で歩く分には問題ない。

「なんのための校医よ! こんなにフラフラなのにベッド1つ貸さないなんて職務放棄もいいところだわ!」

「いいですよ、別に。枕が違うのは同じなので」

 まぁまぁとパンジーをなだめつつスリザリンの寮がある地下牢を目指す。

 せっかくのハロウィンなのに悪いことをしたなと思うものの、だからと言って私になにが出来るでもない。

 とことん気まずい状況で女子トイレの前を横切ると、すすり泣く女の声が聞こえた。

 不意を突かれて背筋がゾッとする。

 ピーブズがこんな手の込んだイタズラをするはずもない。

 まるでトイレのお岩さんだ。

「『嘆きのマートル』?」

「確かめてみますか?」

「面白そうね、行きましょっか」

 杖を構えて入ってみると、入り口に背を向けて箒みたいな髪型の女子生徒が泣いていた。

 まだ少し寝ぼけた頭でも誰だか分かる。

 そして、最悪の面子が揃ってしまったことも。

 グリフィンドールの優等生と、その(非公式の)ライバルと、優等生を目の敵にしているお嬢様の揃い踏みだ。

 パンジー・パーキンソンの底意地が悪い笑顔はやはり怖い。

 ドラコの前では乙女な表情しか見せないくせに。

 驚くほど表情筋が発達している。

「あらあら誰かと思えばグレンジャーじゃない! 愛しい赤毛のダーリンに悪口言われて傷心ってわけ? ひとりぼっちのハニーと喧嘩してくれる優しい優しい彼氏、羨ましいわぁ!」

 ああ……ドラコと並ぶ暴言製造機がフル稼働を始めてしまった……こうなったら緊急停止ボタンを押すしか……ボタンはどこ?

「お友達だってたくさんいるんだからこんなとこで『嘆きのマートル』ごっこしてないで、行って慰めてもらいなさいよ。みんな図書室から出てこられないんだからアンタが行かなきゃ会えないわよ?」

 ハーマイオニーは背を向けて泣いたままだ。

 いつ泣き叫び出すかとこちらは気が気でない。

 ところで『嘆きのマートル』というのはどの生徒のあだ名だろう。

 ラベンダー・ブラウンか、パドマ・パチルか、パーバティ・パチルか、それとも他の誰かなのか。

 無反応なのが癪に触ったパンジーはズカズカと涙を流しているハーマイオニーへ近づいた。

 流石に止めようと思ったが、遅かった。

「あらごめんあそばせ! 小うるさいパグが迷い込んだのかと思っちゃった! 練習したわけでもないのにそっくりだったわよミス・パーキンソン!」

 嘘泣きで油断させて近くまでおびき寄せ、胸ぐらをつかめる至近距離で杖を突きつけた。

 よくもまあこんな、喧嘩上手な優等生様だ。

 一瞬で逆転されたパンジーも万事休す。

 杖を使った魔法でハーマイオニーには遠く及ばない、さあどうしたものかと歩き出す直前の体勢で私も動けない。

 ここから反撃開始。

 そう思われたが、2人はビクンと震えてこちらを向いた。

「ね……ねえグレンジャー……今、揺れなかった?」

「ええ、ゆ、揺れたわ……これって地震……?」

 ふうん。イギリスって地震ないんだ。

 そこだけは日本よりずっといい。本当に、そこだけは羨ましい。

 私も遅れて妙な震動に気づき、確信した。

 地震なら強弱の差はあれもっと小刻みにグラグラと来るが、これは一定の間隔をあけてズシン……ズシン……とスローテンポだ。

「これは地震じゃありません。工事でも始めたんでしょうか」

「工事じゃない……マズいことになったかも……」

「『かも』じゃなくってかなりマズい状況ね……」

 床と別に何故か震えている2人は、私の頭上を見つめている。

 まさか今の喧嘩をマグゴナガル先生に見られでもしたのか。

 それは確かに『かなりマズい』……冷や汗が頬を伝うと同時に、背後から別の2人の声がした。

 女子トイレなのに男子のコンビである。

「スゲえや。ミリセント・ブルストロードのやつ、あんなに上手くトロールに変身してるよ!」

「そうかな。ごめん、僕、トロールとミリセント・ブルストロードの見分けついてないんだ」

「大して変わらないよ、ただこっちのトロールはアイツと違ってオスだね」

 沈黙。

 ややあって絶叫。

 頭上から伸びる大きな影で私も察した。

 

 

 

 

「トロールだー!!!!」

 

 

 

 

 驚いた拍子にすっ転んで棍棒の横薙ぎは避けられた。

 個室の壁を片っ端から粉砕して、狭いトイレの中に水しぶきと木片を撒き散らす。

 杖を持っていても使える魔法がない。

 習ったのはまだ『浮遊呪文』だけ、なにをどうしたら切り抜けられるかなんて思い浮かばない。

「どうすんのよコレ!」

「ちょっと黙ってて! 考えてる!」

「脚の間通り抜けられない!?」

「クラッブ並みに太い脚で蹴られろとでも!?」

「ロン、まず杖だ! 杖を持って!」

 バタバタと逃げてしゃがんで叫んで転んで。

 本で読んだ呪文はいくつかあるが使ったことがない。

 練習場所もないので「いつか試そうリスト」入りしていたものばかり、おまけに発音がわからない。

「ハリーそこどいて!」

 咄嗟にハーマイオニーが叫んだ。

 

「インセンディオ! 燃えよ!」

 

 杖の先から炎が吹き出してトロールを包んだ。

 が、壊れた配管の水がすぐに消してしまった。

 ワンテンポ遅れて熱さに気づき、木偶の坊は怒り始めた。

 さっきより動作が速くなっている。

 

「フリペンド! 撃て!」

 

 ヤケクソで私も呪文を放ったが、相手が大きすぎて効き目が弱い。

 しかも運悪く目に当たってしまい変に痛くさせただけだ。

 

「こっちだウスノロ!」

 

 しかもロンの投げたガレキの方が痛かったらしい。

 トロールはぐるんと身体の向きを変え、入り口前の2人へ重そうな棍棒を振り上げた。

 

「浮遊呪文!!」

 

 誰かが叫び、ハリーが応えて杖を振る。

 

「ウィンガーディアム・レビオーサ!!」

 

 ゴツゴツした手からすり抜けた棍棒がフワーッと浮かび上がり、ロンが投げたガレキより軽い脳みそは間抜けにも上を向いてしまった。

 魔法が切れて落っこちた岩みたいな巨木の一部が、トロールの顔面にめり込んだ。

 そのまま『我らが大きな緑色の友』は気絶してうつ伏せに倒れた。

 禿げ上がった後頭部を右足で踏みつけ、ロンは口の片端を吊り上げる。

「呪文は下手くそなのによく覚えてるじゃないか」

 長い手脚のおかげで様になっている。

 サッカー選手が好きそうなポージングだ。

「さて。僕はこいつで『浮遊呪文』の復習でもしようかな」

 拾ったガレキに呪文をかけてトロールの後頭部に落とした。

 コツンと音を立てて蛇口の一部が床に転がる。

 ああ……落ち着いたら余計に眠気が……。

 視界がぼんやりし始めた。いい加減に限界だけれど、この事を先生に報告しないと……。

 

 

 スミレが立ったままうとうとし始めている頃。

 ポーズを決めてご満悦のロンの身体がぐらりと揺れた。

 姿勢を立て直して隣にいるハリーを見たが、とても腕が届くような距離ではない。

 杖を含めてもまだ離れている。

 まさかね、と念のため足元へ目を向け、天を仰いだ。

 

「ねえロン、下がった方がいいわ。そっと、そっとよ」

 

「分かってる。やあマイフレンド、いい朝だね」

 

 叫びそうになるのを堪え飛び退いた。

 こんな時でも冗談を欠かさないのはやはりフレッドとジョージの弟らしかったが、この先どうするか思いつかない自分自身に落胆してもいた。

 もしロンが本気で怖がっていれば、ハーマイオニーかパンジーのどちらかは限界に達してトロールの脇を通り抜け、女子トイレから逃げ出していただろう。

 顔が陥没気味のトロールは鼻血を垂らしながらゆっくりと立ち上がり、自分の歯がめり込んだ棍棒を掴んで雄叫びをあげる。

 鼻血混じりのシャワーを浴びた5人が死を覚悟した瞬間。

 冷ややかな声が謎の呪文を発した。

 

「インカーセラス」

 

 

 虚ろな目のスミレが放ったロープがトロールの首に絡みつく。

 見た目にはなんの変哲もないただの縄だというのに、ビール樽のように太く丈夫そうな首を締め上げている。

 苦しげに呻き、鼻から空気が漏れるたび濁った鼻血の塊が床に落ちて飛沫をあげる。

 気絶寸前のほとんど意識がない状態で、壁にもたれかかったままスミレは新しい呪文を放った。

 ハーマイオニーも知らない、おそらく監督生でも使いこなせるか怪しいような恐ろしい呪文を。

 

「――フィーンドファイア」

 

 桜なんてふざけた木材と侮るなかれ。

 ギャリック・オリバンダーが認めた神秘の木から生まれた杖、その丸みを帯びた先端から巨大な蛇の顎が現れる。

 煌々と燃え盛る炎の身体で鎌首をもたげ、人間程度は容易く飲み込みそうな巨躯を窒息寸前のトロールへ絡ませる。

 4人のローブの裾まで焦げ始めた矢先――

 

「フィニート・インカンターテム!」

 

 すべても焦がす炎の大蛇は姿を消した。

 熱された空気が渦を巻く中、駆けつけた教授たちの目の前で、糸が切れたように小さな身体が崩れ落ちた。

 マグゴナガル教授が仰向けで動かないスミレに駆け寄り脈と息を確かめると、目を見開いたスネイプ教授を呼ぶ。

 いつも渋面の彼が驚いていることに、4人は驚きを禁じ得なかった。

 

「セブルス、貴方は彼女を大至急医務室へ。マダム・ポンフリーには校長がお許しになるまで絶対安静かつ面会謝絶と伝えてください」

 

「承知した」

 

 短く答え、陰気なローブの裾を水に濡らし、スネイプはスミレの身体を抱きかかえてトイレを去っていった。

 

「クィリナス……貴方も見たでしょう、あれは一年生に使える呪文ではありません。そうですね?」

 

「えっ、ええ。お、お、仰るととととと通りです……わ、私はこっ校長にほ、報告を」

 

「そうしてください。報告後はダンブルドア校長の指示で動くように」

 

 コクコクと頷いて、深呼吸をする間も惜しいとクィレル教授はターバンの端を翻して廊下を走り出した。

 これでトイレに残ったのはマグゴナガル教授と4人の生徒、それに辛うじて残ったトロールの遺灰だけである。

 教授の瞳は怒りと安堵、そして混乱の色を浮かべていた。

「あの……アオイは生きてますよね?」

「ミス・アオイの命に別状はありませんよ、ロナルド・ウィーズリー。気絶しただけです。その前に貴方はまず、ご自分のなさった事を省みるべきでしょう」

「違うんです先生、私の――」

「この件は後日、各寮の寮監が聞き取りを行います。怪我がなければそれぞれの寮に戻ること、これ以上の発言は許可しません。また不必要に口外することも禁止します」

 有無を言わさぬ口調に、優等生も問題児も関わらなく黙らざるを得なかった。

 マグゴナガル教授の毅然とした態度以上に、隠そうとしてわずかに見え隠れする動揺と混乱が事態の深刻さを十分に物語っていたからだ。

 ハロウィンの宴に現れたトロールと炎の蛇は、しばらく4人の脳裏から離れずに残ることとなる。




 スミレ大暴走の巻、トロールは見事灰となりました。


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スリザリンの守護神

 賢者の石編もそろそろ終わりが近いです。
 次回、次々回、その次であと3話くらいの予定。


 トロールの襲撃から一週間。

 ハロウィンの騒動も忘れ去られつつある。

 ホグワーツはそれほどに様々な事件と話題が飛び交い、生徒の関心は次から次へと移ろいゆく。そのうちの何割かはフレッドとジョージのウィーズリー兄弟が起こした騒動である。大抵の被害者は嫌われ者のフィルチか気弱なクィレル教授、あるいは不運な生徒だった。

 スミレは未だ退院が許可されず、医務室のベッドでぼんやり日本語の小説を読んで1日を過ごしている。

 最近はマダム・ポンフリーが見舞いを許可してくれるようになり、薄味・淡白・野菜好きのイメージが強い彼女にどんな品を持っていけば喜ばれるかでみんな頭を悩ませていた。

「ハグリッドが育ててるオレンジはどうかな」

「『命乞いフルーツ』なんて貰っても困るだけよ。無難にトマトとかキュウリとか、水気の多い野菜でいいじゃない」

 ロンは黙っていた。

 こういう時こそアップルパイやトライフルなんかの甘いお菓子か、ソーセージやキドニーパイのような精のつくものを食べればいいのに。アオイはそれらがみんな苦手と聞いて、普段どんな食事をしているのかまったく想像がつかなかったのだ。

 しかもハーマイオニーの情報源があのパンジー・パーキンソンなのだからマグルの道具より不思議なこともあるものだ。

「それに、薬草学のスプラウト先生に事情を話してもう貰ってきてあるの。喜んで鉢ごとくださったわ。このトマトがそうよ、流石に鉢はお返ししたけど」

 ハーマイオニーが抱えている紙袋には真っ赤に熟れたトマトが詰まっていた。スプラウト教授が趣味で温室栽培している植物の中に、たまたま一株だけトマトがあったこと。ハロウィン以来入院しているスミレを先生も心配していること、見舞いの品を探していると話したら是非持っていくよう言われたことを長々と聞かされてロンは「最高の先生だよ」と返した。

 医務室の近くに来ると、クィレル教授がニンニクの臭いを漂わせていた。

 薬品臭い手提げ鞄カバンを片手に、ちょうどマダム・ポンフリーとなにか話しているところだ。

「や、やぁ、皆さん。ア、ア、アオイくんのおおおお見舞いですか?」

「はい。先生もお見舞いですか?」

「い、いえ、わっ私は――その、べっ、別件ですよ」

 明らかに目線が泳いでいる、隠し事をしていると3人とも確信したが、マダム・ポンフリーが大きく咳払いをして雑談をやめさせた。教授はこれ幸いに吃りながら「また授業で会いましょう」と言い残して逃げるように去っていった。

「お見舞いですね。その紙袋は?」

「スプラウト先生からいただいたトマトです。スミレが野菜好きと聞いて、是非持って行って欲しいと」

「よろしい、許可します。彼女もきっと喜ぶでしょう」

 3人は窓から一番遠いベッドへ案内された。

 紙袋はマダム・ポンフリーが受け取り、部屋の隅にあるテーブルへ運んだ。

 他のベッドはみんな空いてあるのだから日向の多いところへ寝かせてあげればいいのに、と思ったが、スミレの真っ白な肌を見ると彼女自身が希望したのかもしれないと思った。

 パーカーにジャージ姿で上体を起こし、ベッドの脇には私物であろう文庫本の山ができている。ハーマイオニーは彼女がどんな本を読むのか気になって背表紙を見たが、どれも日本語なのでなんと書かれているかわからなかった。

「お久しぶりです。元気そうですね」

 抑揚のない英語は以前より少し明るい。

 肌もツヤがある。

 表情は石膏像のように不動のままだった。

「あなたこそ。顔色もよくなったみたいね」

「そうですか? 自分ではなんとも」

 真っ暗な底なしの瞳を向けられる。

 手元の文庫本を閉じると、無愛想な黄土色のブックカバーが表紙を覆い隠していた。この学校で他に誰が日本語を読めるのかまったく謎で、わざわざ表紙を隠しているのが3人にはとことん奇妙だった。

「久々に満腹感を得られたので、きっとそのおかげでしょう」

「差し入れはトマトよ。スプラウト教授が無農薬で育てたトマト」

「ああ……それは美味しそうですね、ありがとうございます。教授にも退院したらお礼を伝えないと」

 ようやく真っ白な顔に笑顔が浮かんだ。

 笑えば可愛らしいが、すぐに元の仮面じみた状態に戻った。

 それからは『魔法薬学』の授業でスリザリンの生徒が苦労していること、ネビルが一週間で8回ペットを見失ったこと、クィレル教授は吸血鬼のほかトロールでも怯えるようになったことを話した。

 逆にスミレは和食が好きで、お茶漬けやおひたしなどサッパリした味付けが好みだと教えてもらった。またスリザリンの生徒だが純血やマグルに対して拘りがないことも分かり、退院したらネビルのカエル探しを手伝うと申し出たことはスミレに対する印象を逆転させるのに十分だった。

 体調も万全なのでマダム・ポンフリーは長話を大目に見てくれていた。

 離れた場所で花瓶の花を入れ替えている。

 これはいい機会だとハリーはハロウィンの前から気になっていることを打ち明けた。

「スミレ、君は『賢者の石』って知ってる?」

「知ってますよ。ニコラス・フラメルが作った奇跡の鉱物ですね。飲んだ者に永遠の命をもたらす『命の水』を生み出すとか」

 そのものピシャリと言い当てた。

 場の雰囲気が変わる。もしかすると彼女は味方になってくれるかも、という希望が3人の脳裏をよぎる。

「その『賢者の石』がホグワーツに隠されてるんだ。入学式で校長先生が言ってた、立ち入り禁止の廊下にある」

「なぜフランス人の作ったものがイギリスに? フラメル夫妻にとっては生命線のはずですが……」

「誰かが盗もうとしてるんだよ。ニコラス・フラメルは親友のダンブルドアに預けて、ダンブルドアはグリンゴッツ銀行の金庫に隠した。けどそこも危なくなって、ハグリッドにホグワーツへ移させた。ダンブルドアの予想通り石があった金庫はこないだ襲われた。ハグリッドは変な動物を飼うのが趣味で、石はいま3つ首の猛犬が守ってる」

 ロンが一息で事情を話し切ると、スミレは少し考え込む。

 彼女が『魔法薬学』でハーマイオニーに匹敵する頭脳を持っていることは誰もが知っているし、少なくとも『賢者の石』については自分たちのように図書館へ通い詰めなくてもスラスラと説明できた。

 問題は彼女がスリザリンの生徒で、スリザリンの寮監が石を奪おうとしている張本人と思しきスネイプであることだ。

 そこだけはまだ明かせない。

「しかし誰がそんなものを……」

「スネイプだ」

 隠し通すのは不可能、そしてスミレ自身が核心に触れた。

 ハリーも覚悟して打ち明ける。

 ロンとハーマイオニーは黙って反応を待った。

「私は……クィレル教授かと思いました」

「そんな! クィレルは『闇の魔術に対する防衛術』の担当だ、石を守るにはうってつけじゃないか!」

「じゃあハリー、いま目の前に闇の魔法使いがいたとして……クィレル教授と他の教授がいたらどちらを頼りますか? もう1人はどなたでも構いません」

「そりゃ他の教授だよ。なんせあのニンニクオーデコロン先生ときたら、トロールを見ただけでひっくり返ったんだぜ」

 先生への悪口を嫌うハーマイオニーも今回は突っ込まなかった。

 ニンニク臭いのもトロールを見ただけで気絶したのも――後者は伝聞だが、大広間でのことだったので多くの生徒が見ている――嘘偽りのない事実だからだ。

 ロンとハリーにしても、5人がかりとは言え現物に立ち向かった本人からすれば、ちらっと見ただけで慌てふためき失神する本職を頼る気にはなれない。しかし、スネイプが疑わしいという考えは取り下げなかった。それだけ3人はスネイプを信用していないのだ。

 実際、ハロウィンのときスネイプは真っ直ぐ地下へ行かず例の四階の部屋へ向かっていた。

 混乱の隙に乗じて盗もうとしているのは明らかだ。

 それを3人からそれぞれ違う推論を交えつつ聞かされた上で、スミレは敢えて「誰が狙っているかはさておいて」と一言置いて切り出した。

「校長先生がいらっしゃるなら大丈夫でしょう」

 まったく正論を叩きつけられた。

 グリンゴッツへの侵入と金庫破りが不発に終わったのもダンブルドアがそれを事前に見抜くか察知していたからだ。ハリーは特に不満が募っていたが、しかしスミレを納得させられるだけの情報が揃っていなかった。そう、ホグワーツには今世紀最高の魔法使いアルバス・ダンブルドアがいる。

 これほどの安心材料があって、それでも心配する必要なんてどこにもないのだ。

 そこで沈黙が訪れた。

 すぐに魔法の掛け時計から蛙の鳴き声が響く。

「さあさ、お喋りはその辺にしてちょうだい。これからミス・アオイの問診をしなければいけませんからね」

 一瞬でベッド脇までやって来たマダム・ポンフリーが急かして手を叩きながら3人を追い出す。体温から心音と調べ終えて入念に過ぎる問診から解放されると、スミレは本の山の一番上からカバーのついていない小説を取った。

 買収工作を重ねたにも関わらず文学賞で落選した主人公が復讐の鬼と化し、裏切って自分を落選させた選考委員を片っ端から殺して回るという物騒な物語だ。実在の選考委員たちを揶揄し、モデルとなった文学賞をコキ下ろして馬鹿にした内容が読者の反響を呼び文壇からひんしゅくと関心を買った。

 しおりを挟んであったページを開くと、男色趣味の選考委員に自らの身体を差し出してまで買収を行なうシーンだった。

 もしも教職員に日本語を理解出来る者がいれば、誰であっても取り上げていただろう。

 この辺りは親譲りの趣味であったが、教える相手がいなかった。

 

 

 11月の半ばにはスミレも退院し、スリザリン内外での評判が微妙に変化したことも気にせず普段からドラコと行動していた。性格最悪のマルフォイのそばにいる、無愛想な黒髪のチビ。そんな立ち位置は同じまま冬の足音が間近に迫っていた。

 震えるほど寒い、よく晴れた朝だった。

 ソーセージの焼ける香ばしい香りとクィディッチの白熱した試合を待ち望むワクワクした空気で大広間が満ちている。

 あのドラコでさえ誰かに突っかかることなく朝食を摂っていたのだ。

 それでもスミレは味噌汁と白ご飯と漬物が恋しくてたまらない。

 ナス、キュウリ、ダイコン、ミブナ、ショウガ、カブ、ラッキョウ、ワサビナ……味噌汁は巻き麩と刻み青ネギにワカメだけでいい。温かいお粥といっしょに漬物を鳴らして食べる朝は、年が明けた夏休みまでお預けである。

 この日の朝食には本年度初のパンケーキが出た。

 これがスリザリンに本日1つ目の衝撃をもたらす。

 あまりにも『なにも食べない』新入生を案じていたスリザリンの監督生まで息を飲む。

 肉類にはまったく手をつけないのは変わらず。しかし金色の大きなトレーに並べられた丸いパンケーキをスミレが自分の皿に取り、苦もなく完食して2枚目に手を伸ばした。彼女がこの大広間で3分以上ナイフとフォークを動かした最初の日である。

「ホグワーツの記念日になるかも」

 自分のポテトスコーン(ジャガイモパンケーキ)に小さく切ったベーコンをのせ、ケチャップとマスタードをかけながらミリセントは感動していた。

「あーもう、口元にジャムつけない」

「すみません」

「いいわよ謝らなくて、むしろホッとしてるくらい」

「いえ。そこのクリームチーズを取って欲しくて」

「ああー……はいはい」

 食事そっちのけで世話を焼いているパンジー。ダフネはキレイなままの彼女の皿にそっとスコーンを移し、小皿にジャムとクリームを盛り付けている。全校生徒で一番小さな身体に5枚のパンケーキと紅茶3杯、スネイプが処方した『新しい常備薬』が収まると、スリザリンのクィディッチチームは意気揚々として大広間を後にした。

 

 

 クィディッチの試合が行なわれるのは屋外の専用スタジアムだ。

 楕円形ですべて木造、フィールドの両端に三本づつ輪っかのついた柱が立っていること以外はサッカーやラグビーと大差ない。しかしホグワーツ城のある地域は11月でも十分に寒い。コートにくるまって寒風に耐えながらスミレは上級生に囲まれて座っていた。

 彼女のペットがスリザリンの紋章と同じ蛇で、しかもフラッグの絵とも色が近いため縁起を担ぎたい先輩たちに連れて来られたのだ。肝心の守護『蛇』はあまりの寒さにずっとコートの中である。たまに頭だけ出してもすぐに引っ込んでしまう。

 談話室でお披露目したときを思い出し、ダフネは苦笑した。

「みんなの悲鳴、スゴかったね」

 ちゃっかり特等席へ滑り込んだブレーズが肩をすくめる。

 ドラコはそのせいですこぶる不機嫌だった。

「キングコブラの赤ん坊かと思った」

「あんな粗野で下品な蛇と一緒にしないでください」

「そりゃ失敬。けど、あちらさんは『物騒だ』って猛抗議だったろ」

 スミレの飼っているアオダイショウは大きい。全長3メートルの大蛇で、変身術の授業で目にしているスリザリンとグリフィンドールの生徒はもう慣れている。だがレイブンクローとハッフルパフはスタジアム近くで初めて目撃した。

 女子生徒が大騒ぎして、1年生のザカリアス・スミスが杖を抜いて『キングコブラの赤ん坊だ』と叫びパニックに。その場に居合わせたレイブンクローの監督生が『アオダイショウは大人しい性格で無毒だから大丈夫』と周りを宥めて騒動は収まった。

 が、スミレがここで蛇を出さなければ騒動は起きなかったとしてスリザリンは1点の減点が言い渡された。

「おかげで1点減点だ。守護神さまさまだぜ」

「お前なら1週間でその何十倍も減らせるだろうザビニ」

 男子の間で散る火花を無視してスミレは空を眺めていた。

 今日は少し風がある。雲の流れが心なしか速い。

 試合のことは頭の片隅に追いやられている。

 考えているのはダンブルドアの『隠し物』だった。

 ハリーたちトリオが見た頭が3つある巨大な犬、何年か前に従兄たちが遊んでいたゲームで見かけた記憶がある。ゲーム内では真っ白なライオンだったが実際は3つの頭を持つ番犬で、甘いお菓子と美しい音楽には滅法弱いという設定があった。

 しかしそれ以外に弱点はない。番犬としてはとても優秀と言える。

 それに番犬だけで済むはずがない。

 何重にも罠を仕掛けられているはずだ。それもダンブルドアを始め、優れた魔女、魔法使いが罠の設計に関わっている可能性が大きい。となるとグリンゴッツ銀行とは比べものにならない難攻不落の防御。『賢者の石』がもたらす永遠の命すら仮初めでしかないのなら、リスクが大きすぎる。

 クィレル教授は信用ならない。

 吸血鬼にニンニクが効くなんて迷信を信じている。効かないのはスミレが身を以て証明したのにも関わらずだ。

 あの胡散臭いターバンをどうやって引き剥がそうか考えていると、双眼鏡を覗き込んでいるダフネが声を挙げた。

「ねえ見て、ハリー・ポッターの動きが変よ」

 ミリセント、パンジーと順に回ってきてスミレも上等なファー付き手袋が指さす先を見た。

 シーカーとして出場したハリーが箒から振り落とされそうになっている。箒は気が違ってしまったみたいに上下左右へ暴れ、グリフィンドールの秘密兵器である最年少シーカーを地面へ叩き落とそうとしていた。

 上級生たちはフリントのプレイに集中していて気づいていない。

「おやおや……マクゴナガルの可愛いポッター坊やがピンチだぜ」

「いい気味だ。寮監が権限振りかざして校則をねじ曲げた罰さ」

「ポッターの脊椎に5クヌート賭けるか?」

「乗った。いつもみたいに逃げるなよ」

 スリザリンの反応は冷ややかだった。

 才能があるからと寮監が校則を破って高級な箒を買い与え、しかも積年の惨敗を巻き返そうとこの大試合で投入している。顰蹙ものである。スネイプは減点加点であからさまに贔屓するが、マクゴナガルも他の部分では相当に甘い。どっちもどっちだと切り捨てて、スミレは双眼鏡をダフネに返す。

 次第に他の観客も異常事態に気づき、実況のリー・ジョーダンも「スリザリンお得意の卑怯卑劣な陰謀ではないか?」と発言して隣にいるマクゴナガルに睨まれていた。ハリーの箒はいくらか落ち着いたが、今度はフィールドの外へ出ようとしている。

「杖を持ってる生徒はいないわ。じゃあ箒の不調?」

「冗談抜かせよ。あのニンバス2000に限ってそんなワケあるか」

「ポッターがヘマしたに決まってる! どうせデビュー戦でお腹壊したんでしょうよ」

 スミレの関心はもはやポッターにはなかった。

 もちろん試合の展開でもない。

 大切なペットを散々に罵倒したシェーマスへのお礼参りも重要だが、今は違う。

 教師の中の誰かが箒を呪っているのだ。止める気はサラサラなかった。

 コートの中にいるアオダイショウが寒くないようポケットを手で温めながら、魔法瓶に入れた紅茶を啜る。

 この調子で行けばスリザリンが勝つだろう。

 シーカーがいなくなればスニッチはまず捕まえられないと聞かされていた。

 だからこのアクシデントは解消する必要がない。

「命が無事なら、それでいいでしょう」

 それでなくても乱暴な競技なのだから、多少の怪我は覚悟しているはず。

 そう思ってぼんやりと空を眺めている。

 周囲の声が徐々に静まっていくのも構わず、日本列島のような形の雲を見つけてホームシックが再発していた。電子機器がまともに動かない環境で、音楽もテレビもない生活はいい加減にうんざりしていた。

 意識がクィディッチに戻ったのはジョーダンの「グリフィンドール、一七〇対六〇で勝ちました!」という叫び声が何度か響いたあとだった。

 惨敗で終わったスリザリンの生徒が競技場から引き上げ、ぼーっとしているスミレもミリセントに手を引かれて校舎に戻っていく。後ろからいつまでも聞こえるグリフィンドール、ハッフルパフ、レイブンクローの歓声がスリザリンの現状を物語っていた。




  なんだかんだ甘やかすパンジーとしっかり食べてるミリセントと気遣いのダフネトリオ。2ヶ月近く断食同然だったので誰でもそうなる。
 そしてスミレの閻魔帳にまた1人。


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みぞの鏡

 ちょっと先取りしていくスミレ。


 ホグワーツに本格的な冬が訪れた。

 ドラコを中心としたスリザリンの7人組もスコットランド・ハイランド地方の容赦ない寒さに身震いし、最後まで大広間に残り食事を続けている食いしん坊に呆れながら廊下を歩いていた。

 ドラコは真夜中に寮を抜け出した罰則で『禁じられた森』へ入らされたことをまだ引きずっている。フィルチのようなスクイブが職員として勤務していることに始まり、ハグリッドが違法にドラゴンを飼育していたこと、罰則で『禁じられた森』へ行かされたことなどを延々と非難していた。

「そもそもあの木偶の坊がドラゴンを飼育していたのが問題だ! 職員の法律違反は見逃して、生徒の校則違反には厳罰なんてどうかしてる!」

「フィルチのクズからすれば楽しいひと時だろうけど、罰則とはいえ『禁じられた森』へ行かせるなんてやり過ぎもいいとこだわ。それもお供が臆病な犬一匹はもう正気じゃないね」

「ケンタウロスだけでも危ないのに吸血鬼までいるなんて……ドラコに怪我がなくて本当に良かった。学校もきっとあの森のことを把握してないんだわ。そうでなきゃ生徒を行かせたりしないでしょ?」

 ダフネはドラコの身を案じてもいたが、同時に学校そのものがもはや安全とは言い難い状況にあると感じていた。吸血鬼は許しがなければ部屋に入られない弱点がある。しかし彼らは魅力の魔法を駆使してこの弱点を克服する。

 となると、ホグワーツの守りなど羊皮紙より頼りない。

「自分のことながら、あんな恐ろしい光景を見せられてよく正気を保っていられると思うよ。吸血鬼がユニコーンの生き血を啜るところなんて……」

 ドラコは思い出すのも忌々しいという風だった。

 ついその情景を想像してしまいダフネもサッと青ざめる。

「あのターバン先生も吸血鬼にはビビるしか出来ないから、そのうち城の中に吸血鬼が入り込んで大騒ぎになるかもね」

 パンジーが披露した『吸血鬼に怯えて吃るクィレル』の真似でみなが笑い声をあげると、本当に吸血鬼のような顔色のスネイプが地下牢の扉をあけて現れた。

「随分と楽しそうな声がすると思えばミスター・マルフォイ……察するによほどフィルチ氏の罰則が楽しかったとお見受けする。深夜の散歩はどうだっかね?」

 ドラコの笑顔が引きつった。

 いくらスリザリンには甘いスネイプ教授でも、ついこの前に1人で20点の大減点を食らったうえ、報告相手を誤ってマグゴナガル教授に告げ口した大ポカを説教されたばかりである。その説教に時間をとられてスネイプは大事な実験を延期させられた。

 場の空気が城の外よりずっと冷たくなる。

 死より恐ろしい沈黙でドラコが萎縮しきったのに満足したのか、スネイプはふんと鼻を鳴らした。

「しかし我が輩も鬼ではない……先の失態で周囲からの目線もさぞ痛かろう。よって汚名返上のチャンスを与える」

 鬼より死神か吸血鬼の方が近い。

 5人全員が心のうちで呟いた。

「明日の日没までに吸血鬼に関するレポートを提出すること。羊皮紙に裏表で2枚、能力と弱点について特に詳しく記述するように」

「で、ですが今からでは図書館は……」

「本を探して借りるだけの時間はある。それに1人で探せなどと我が輩は口にしておらん」

 ドラコたちはバタバタと足音を立てて図書館へと走っていった。

 スネイプは眉をひそめたまま『地下牢』の鍵を閉める。

 レポートの出来などこれっぽっちも期待していない。

 ただ、自分の見立てが正しければ、指定した文量だけのレポートを書くのに必要な文献は見つからないと考えていた。

 ニコラス・フラメルについて記した文献も一時期根こそぎ見当たらず、貸出記録にもなかった。ならば今回も……その確認を取るため、口実としてレポートを課したに過ぎない。

 

 

 図書館では吸血鬼に関する文献が見つからなかった。

 しかしドラコには当てがあった。スミレの参考書である。

 日本語で書かれたホグワーツで最も解読困難な本を揃え、談話室の一角で羽ペンを躍らせていた。スミレが音読し、そこからダフネが要約、それをドラコがレポートにするリレー形式である。ほとんどイカサマだが、そもそも文献がないのでどうしようもない。

 クラッブとゴイルが大広間から戻った時点で羊皮紙裏表に1枚と半分が終わっていた。

 もう少しで書き上がるという段階にさしかかって、ダフネがスミレの音読を止めた。

「待って。今のところ、もう一回聞かせて」

「『吸血鬼は生きた人間、ないし動物の生き血を啜る。この点についてはあらゆる地域で共通しているが、ヨーロッパではさらに特筆すべき点が挙げられる……』」

 ダフネはメモを取っていない。

「『特に西ヨーロッパの吸血鬼はマグル界と魔法界、双方で確認できる生物のみを餌として好む。例外的に人狼、ケンタウロス、水中人など半人種は時として襲われるが……』」

 青白い顔を真っ赤にしたドラコも、すぐにペンを止めた。

「『ユニコーン、ヒッポグリフなど人間種の要素を持たない生き物が襲撃されたとする記録は現時点では存在……しない……?」

「じゃあ僕が見たのはなんなんだ……?」

 誰も答えられない。

 生き血を啜る者と言えば吸血鬼だ。

 植物の中には吸血性のものもある。だがドラコが見たのは確かに二足歩行だった。

 上級生に聞けば誰であれ教えてもらえるだろう。

 しかし「何故そんな質問をするのか」尋ねられると面倒くさい。

 一番手っ取り早いのはスネイプ教授に質問することだ。

 しかしもう寮から出ていい時間ではない。

 ついこの前に大量失点を犯したばかりでの校則違反は出来なかった。

 ひとまずレポートを完成させる。その方向で作業を再開したが、クラッブとゴイルはなにがなんだか分からず、大広間から持ち帰った山盛りのカップケーキを食べながら5人を見守るしかなかった。

 

 

 ドラコの吸血鬼レポート作りを手伝って翌朝。

 吹雪のため『飛行訓練』の授業は中止された。スパルタのマダム・フーチも横殴りの暴風と雪による視界不良では危険が多いと判断した。特に初回の授業で起きたネビルの『事故』が堪えているようだった。

 嫌いな箒での飛行をしなくていいと分かりスミレは気分が良かった。

 それでニコニコ笑顔になるわけでもないし、朝から月のように白い顔で黙々とパンケーキを5枚食べて頬骨の張ったスリザリンの監督生を安心だか心配だか分からない気分にさせた。

 珍しく浮かれた、ホームシックとは無縁の1日となる――はずだった。

 現在、スミレは迷子になっている。

 クィレル教授がいるであろう『闇の魔術に対する防衛術』の教室へ行こうとしていたのに、意地悪な階段に惑わされ、気づいたら目的地と遠く離れた場所にいた。ちょっと休んで落ち着こう、急ぐ用事でもなし時間もあるし。のんびり構えて階段や絵画の中身が好き勝手に動くのを眺めている。

 すると、上からキーキー声がした。

 

「よお嬢ちゃん、迷子かい?」

 

 ツギハギだらけの赤い上着に鈴のついた黄色い帽子。ポルターガイストのピーブズが空中で向かい合うようにあぐらをかいている。スミレは授業初日の移動中に羽ペン用のインクを奪われ黒インクを頭からかぶせられて以来、ピーブスを一切無視している。

 最初は音を上げると踏んでイタズラを繰り返しても避ける素振りすら見せない徹底ぶりに傷ついたのか、声を掛けてきたのはかれこれ2ヶ月半ぶりである。スミレは今回も無視した。

 

「もう嬢ちゃんには降参するよ。こうもシカトされちゃあ敵わねえ」

 

 口ではなんとでも言える。

 無言・無視・無反応で返され、道化姿のゴーストがついにポケットから白いハンカチを取り出した。ふるふるとそれを揺らして肩を落とす。

 

「コイツを振ったのはあの『男爵サマ』とダンブルドアだけだ。アンタはこの城で史上三番目にオイラを降参させた、しかも1年目でな!」

 

 ダンブルドアと『血みどろ男爵』の名前を出してようやくリアクションが返ってきた。

 この小さな女子生徒がゴースト嫌いなのは学校中の幽霊と絵画の住人たちの知るところである。声を掛けても怖がって逃げてしまうし、しばらく自分の前を通らなくなると誰もが言っている。

 しかも自分に向けられる目の濁りよう。あのピーブスですらイタズラはよそうという気分にさせられる。下手をすると何年か後に突然、彼女の手で永遠に封印されそうな予感さえした。少しでも機嫌を良くしてもらおうと、とっておきの隠し物の場所へ案内しようと思いつく。

 

「詫びってワケじゃねえけど、降参のシルシにいいもん見せてやろうか?」

 

「タチの悪いイタズラですか」

 

「二度とアンタにそんな真似するもんか! どうせ無視されるに決まってらあ」

 

 まだ降参したのを信じていない。

 こういう手合がピーブスにとっては一番苦手だ。

 いない者扱いされるより心にクるものはない。男爵のお叱りもダンブルドアの仕置きも、絶対にいつかは終わるからシカトされるよりよっぽどマシだ。

 手間暇掛けたイタズラも無反応じゃ味気ない。

 

「面白え鏡があるんだ。欲しい物が見えるだけだが、これが百発百中!」

 

 欲しい物は分かりきっている。

 だが外れるかもしれない、自分の予想を裏切る何かが出てくると期待してしまう。

 スミレはピーブスの案内でその鏡のある場所へ向かう。

 立ち入り禁止の廊下の奥から聞こえるうなり声は、気づいていないふりをした。

 

 

 ピーブズに案内された空き教室へ入ると、外から魔法でカギを閉められた。

 閉じ込められたことに気づいてもスミレは動じない。

 すぐに授業で習った魔法を使い部屋に明かりを灯す。

 

「ルーモス 光よ」

 

 杖の先端が光を放つ。

 クィレル教授から『闇の魔術に対する防衛術』で最初に教わるシンプルな呪文だ。

 弱いゴーストなどはこれで追い払えるという。

 幸い部屋の中にはスミレしかいなかった。

 そこは長年使用されていないようで、蜘蛛が巣を作っている。

 壁際にはテーブルと机が山積みにされバリケード状態。

 そして、やけに大きな鏡が1つ。

 前に立ってみると教室の様子が移っているだけだ。

 なんの変哲もない学校の日常風景。

 

 ホグワーツではなく、地元の中学校。

 

 長いローブに革靴ではなく、セーラー服にゴムの上履きを履いた自分。

 

 地元の友達と隣り合って退屈そうに先生の話を聞く後ろ姿。

 

 振り返ってもそこはホグワーツだ。

 あり得たかもしれない『今』は、すべて鏡の中の出来事だ。

 見たくない物を見せられて気分は最悪。

 これはもう手に入らないと分かっている。

 目の前の虚像は『諦めなくてはいけないもの』だと。

 どうやったって手に入らない。現実になり得ないと言われたようで、恨めしさが募る。

 椅子の1つを手で運び鏡の前に置いた。

 やはり椅子は映らない。

 青空の下、白い半袖の夏服を着た自分が見える。

 屋上でよく知った顔の女子と弁当を食べていた。

 母親の作る不格好なおにぎりに、手が込んでいるとは言い難いおかずたち。

 少し焦げたたまご焼きと、適当なサイズに切って炒めたウインナー、そしてプチトマト。

 懐かしいメニューに目が熱くなる。

 

「私をバカにして。叩き割ってやる」

 

 もうダメなのに。なくしてしまった物なのに。

 それでも見せつける鏡を割ってしまおうと、椅子を掴んだ。

 ありったけの怒りを込めてぶっ壊す。さあ覚悟しろと置物に叫ぶ。

 すると鏡の中身が変化した。

 

「……これは、どこ」

 

 まったく知らない場所が映っている。

 薄暗い、黒と緑の煉瓦造りの空間。真ん中に立派な噴水がある。

 デパートの地下街にありそうな景色だ。

 暖炉が整然と並び、知らない顔が高笑いしている。

 のっぺいりと青白い顔は鼻がなく、蛇のそれに似た縦の亀裂が2本走っているだけ。

 とても人間と呼べない顔面のソイツは喉が裂けんばかりに喜んでいる。

 その様子を見る人物の中にはダンブルドアがいた。

 ハリー・ポッターがいた。

 名も知らぬ痛んだ黒髪の魔女がいた。

 

 そしてあの魔法大臣も――

 

 事切れて寝間着姿のまま床に転がっている。

 自然と口の端が吊り上がる。

 まったく無様な死に様だ。洒落たコートなら少しはサマになるものを。

 白地にライムグリーンの縦縞とはあまりにも滑稽。

 クスクスと押し殺した声が漏れる。

 蹂躙の舞台はどこであれ、これこそ最高のショーに他ならない。

 どんな授業よりも魔法よりも心が躍る。

 夢のような一時に終わりを告げたのは、あることか魔法使いだった。

 

「おお、ここにおったか。はやりピーブスに誘われたようじゃのう」

 

 鏡の端に映り込んだもう1人のダンブルドアが、穏やかに虚像のスミレを見ている。

 

「妙な歌を歌っておったのでな。もしやと思いこの部屋へ来てみたが、やはり正解じゃった。どれほど神妙な顔をされようとアレの言葉を信じてはならんぞ。ピーブスはどんな闇の魔法使いよりも嘘をつくのが上手でのう、先生方でさえ手を焼いておるのじゃ」

 

 ダンブルドアはスミレの隣に立って鏡を眺めた。

「この鏡は『みぞの鏡』と言うてのう。実に不思議で、しかし恐ろしい物じゃ」

「危ない物には感じませんでした」

「そこなのじゃよミス・アオイ。それ故、今まで何百人もの人間がこの鏡の虜となった」

「見る者の願いを見せるから、ですか」

 ゆっくりと頷いてダンブルドアは鏡に手をかざした。

 どこからともなく布が現れて鏡面を覆い隠してしまう。

「心の奥底に眠る『のぞみ』を知ることは、けして悪いことではない。しかしこの鏡がなにより危険なのはのう、目の前の光景が果たして未来の可能性なのか、それとも過去の出来事なのか、起こりうる結果なのか誰にも判別できぬことじゃ。そうして現実と虚像の区別を失い、鏡に心を奪われ、時には発狂してしまう」

「闇の魔術以外でも、恐ろしいものがあるのですね」

「使い道を誤ればなんであれ危険になる。ナイフも魔法もそれは同じということじゃのう」

「それは『賢者の石』もでしょうか」

「そうじゃ。しかしよく気づいたのう、生徒には知られんよう注意しておったというのに」

 半月型の眼鏡の奥で、深い青色の瞳がきらりと光った。

 それもスミレの底がない黒い目には映っていない。

「ではわしからも1つ尋ねるとしようかのう。ミス・アオイはこの鏡で、いったいなにを見ておったのか教えてくれぬか」

「地元の友達と、地元の学校に通っていました。お母さんのお弁当を食べて、数学や英語の授業を受けて」

 そこに魔法はひとつもない。ただ普通の世界があるだけ。

 彼女が歩むはずだった人生に魔法が存在する余地はないのだ。

 少女は、望むまでもなくそこにあったはずの日々をなによりも望んでいる。

 ホグワーツは生徒にとってもう1つの『家』となり、友は『家族』でもある。

 だがこの少女にとって『家』は1つ。そこにしか家族はいない。

 それどころかつい数日前までは食事すらまともに摂れていなかった。

 アオイ・スミレは魔法によって『家』と『家族』から引き裂かれた。

 この歳で心を固く閉ざすのも道理であった。

 スミレはこの話題を拒否した。校長には話したくないと、本心を告げるように。

「先生はなにが見えましたか」

「わしはレアステーキが見えた。ほどよく赤身が残っておる」

 杖の光に照らされても、黒い瞳は輝かない。

「その昔、ニコラス・フラメルの家でご馳走になってからというもの、ステーキはレアが好みでのう。ホグワーツでもどうにかレシピに加えられぬものか苦心しておるのじゃが……屋敷しもべたちはウェルダンしか出してくれぬ」

 ウィンクにも少女の顔は曇ったままだった。

 もの悲しげに隠された鏡を見つめている。

 

「」




 魔法省での帝王vs校長は名シーンですね。


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クリスマス

 と言ってもクリスマスは10行しかありませんです。


 日本人のスミレにとってクリスマスは『朝起きたらプレゼントがある日』でしかない。

 あとは大掃除を済ませ、大晦日に除夜の鐘を聞きながら年越しソバを食べて寝る。

 ホグワーツで迎えた最初のクリスマスはまったく違う。

 友達はみんな家に帰った。スリザリンの寮で残ったのはスミレだけ。

 寝室も談話室も大広間も、他にスリザリンの生徒はいない。

 スミレのクリスマスはあと6回も『ずっと1人で過ごす日』となった。

 朝起きたらプレゼントの山が出来ていたが、1つ1つ開けて中身を見てそれっきり。

 休暇中は食欲も消え失せ、1日の大半を寝室のベッドの下で過ごしていた。

 面白くもない学校生活が地獄と化した日々である。

 1990年のクリスマスは9月の入学式とともに人生最悪の日として記憶された。

 

 

 クリスマス休暇が終わるとホグワーツは以前の活気を取り戻した。

 ネビルのヒキガエルが脱走したり、双子のウィーズリーがフィルチの頭をリンゴ飴より真っ赤にしたり、シェーマスがなにかを爆発させたり。

 スミレは父親が趣味で作っているスクラップブックのコピーを送ってもらった。

 学生の頃――両親とも『マホウトコロ』への入学を許可され、断った。なので普通の高校生のとき、という意味だ――からずっと続けており、ときどき耳にする『例のあの人』のことを調べようと思ったのだ。

 新聞の記事を切り抜いて貼り付けた印刷紙の束を読む。

 記事はどれも小さく、日本での関心の低さを窺わせた。

 しょせん遠い外国の事件だ。明日の天気がよほど重要である。

 得られた情報はごく僅か。

 多くの人々が『例のあの人』こと『ヴォルデモート卿』とその配下に殺された。

 純血主義でなければまず生き延びられない時代だったようだ。

 恐怖と暴力の支配が終わった日こそハリー・ポッターという英雄の生まれた日でもある。

 彼こそ生き残った男の子。額の傷は『闇の帝王』の死を象徴している。

「……ということしか分かりませんでした」

「私だってそれ以上は知らないわ。生まれてすぐだし」

「そりゃそうよ。マグル生まれのエセ魔女だもの」

 向かい側で鼻を鳴らすパンジーをハーマイオニーは無視した。

 大広間で顔をつきあわせる3人、周囲はどういう組み合わせか分からず目を離せない。

 だが会話の内容は耳にするのもおぞましい。

「なにかご存じだと思ったんですけどねえ」

「それこそビンズ教授やダンブルドア校長に聞けばいいでしょ」

「聞きづらいですよ。どんな趣味と脳みそしてるのか疑われます」

「私もあなたの趣味とアタマを疑ってます」

「知的好奇心って言いませんでしたっけ?」

「どう考えても言い訳でしょ!」

「よく考えた言い訳でしょう?」

 グリフィンドールの優等生は呆れたり怒ったり突っ伏したりと忙しい。

 スリザリンの優等生は少し首を傾ける以外になんのアクションもない。

 スミレは当時の日刊予言者新聞を手にとって嘆息する。

「名前を呼ばないなんてまるで貴人ですね」

 自ら『(Lord)』を名乗ったことを皮肉ったが通じなかった。

 (いみな)を避け官職や(あざな)を用いる東洋の風習である。

 ヴォルデモートが本名とも思わなかったが……どうにも聞き出せる空気ではない。

「それ、他の人の前で言わない方がいいわ」

 ひそひそ声で周囲の耳を気にしているが、それはハーマイオニーとパンジーだけだ。

 肝心の変わり者は『ヴォルデモート()はとっくに死んでいる』と言って譲らない。

 2人はこの話を続けても意味がないと強引に話題を変えにかかった。

 成績も性格もまったく似ていないが、この時だけはアイコンタクトに成功したらしい。

「そう言えばグレンジャー、アンタこの前なんて言ってたっけ? この子が入院してるとき変な話をしてたわよね」

「ええ、ちょっと難しいお話をさせてもらったわ。あなたにはとっても(、、、、)でしょうけど? なんならミス・グリーングラスでもお呼びしてはどうかしら?」

「なんでお二人はいつも喧嘩腰なんですか」

 ハーマイオニー・グレンジャーとパンジー・パーキンソンは手元に飲み物がなかったことを天に感謝した。感情の読めない目をしたスミレは「それはともかく」と突っ込ませる隙を与えなかった。

「誰が怪しいという話でしたら、私はやはりクィレル教授です。スネイプ教授には石を狙う理由がありません」

「そうよ。ニコラス・ナントカの石っころは寿命を延ばすんでしょ? そんなお迎えが近い歳でもないし病気でもないのに、なんでスネイプ教授が……」

「ソレ、そっくりそのままクィレル教授も当てはまりましてよ。年齢で言えばスネイプの方が上だし」

「なっ……だ、だからって先生が犯人だって根拠もないじゃない! 単に授業で怒られたのが気に食わないから、スリザリンがムカつくから疑ってるんじゃないの!?」

 ハーマイオニーの反論にパンジーの顔が赤くなる。頭に血がのぼって大声になり、またもや周りの視線を集めた。野次馬が集まりそうな気配になってきて、ようやくスミレも少し焦り始める。

 テーブルに身を乗り出して、ぐっと2人に顔を近づける。

「スネイプ教授の贔屓癖が心象を悪くしているのは私も同感です。ですが、クィレル教授は2つも嘘をついています」

「クィレルが嘘? 生徒を騙してるって?」

「聞き捨てならないわ。ちゃんとした証拠があるんでしょうね」

「生徒どころか校長すらご存知ないかも……あの、場所を変えませんか? 声を出してもよさそうなところに」

 上級生も厄介だったが、なにより時間的にパーシーやフレッドとジョージがいつ来てもおかしくなかった。変なところで詮索癖があるロンの兄たちには絶対に聞かれたくない。立ち入り禁止の廊下に入ったことがバレてしまう。あの誇らしげな監督生バッジに知られれば、減点間違いなしだ。

 それだけはまっぴらゴメンである。

 

 3人が小走りで大広間を出たが、天文台へ行く間の道でも十分に行き交う生徒の注目を集めた。

 

 

「クィレル教授は吸血鬼に襲われていません」

 三階の女子トイレへ場を移すや否や。スミレは単刀直入に言い切った。そこはハロウィンにトロールと戦った場所で、殺されたトロールの幽霊が出るという噂が流れ、誰も近寄らなくなっていた。

 トロールが殺されたのは事実だが、もしゴーストになってもスミレの前には現れないだろう。

 ハーマイオニーは腕を組んで不機嫌そうだった。

 沈黙で続きを促す。パンジーはもう意味不明で言葉が出ない。

「吸血鬼にニンニクは効きません。ちょっと不快な思いをするだけで行動を縛るほどの力はないんです」

「どの本にも『吸血鬼や悪霊を退ける』と書いてあるわ」

「私は実体験です。ニンニクを身に着けていても襲われました」

 自分を見つめる瞳を直視できない。

 今度はハーマイオニーも混乱した。

 目の前にいるライバルが吸血鬼に襲われた?

 確かに、血を吸い尽くされていなければ治療は可能だ。わざわざ日本の魔法学校へ行かず、ホグワーツへ入学した理由も治療目的とすれば筋が通る。

 思考が乱れていくのが嫌でも分かった。

「吸われた量は少しです。睡眠不足で具合の悪い時期はありましたけど。ハロウィンの時期が一番大変でした」

「じゃあ、なんでホグワーツに来たの? ウチにいればいいじゃない、身体壊してどうするのよ」

「魔法省の都合だそうです。色々あるんでしょう」

 ……今はまだ、そこまで話すつもりはない。

 話してどうなるわけでもないし、スミレにとって重要なのはクィレル教授の隠し事の方だ。

 スミレの無表情がぼーっとしているときの顔ということは2人もよく知っている。下らないことを考えているか、あるいはなにも考えていないか。そのどちらかだ。

 だが今は明らかに怒っている。

 眉間にシワが寄っているのはこれが初めてだった。

「教授が本当に吸血鬼に襲われたのなら、ニンニクではなく純銀の十字架をつけるはずです。けどそうせず、教室をニンニクくさくしている」

「……知らない可能性は?」

「あり得ます。ですが、少なくとも私は襲われていないと思っています。あのターバンでなにかを隠しているはず」

「なにかって? 後頭部にもうひとつ顔があるって言うの?」

 ほとんど叫んでパンジーは尋ねた。

 目の前の秀才たちがなにを言っているのか、頭で理解することを諦めていた。

「引き剥がしてみないとなんとも」

「ともかく。誰かが賢者の石を狙ってるのは間違いない。そこは同じ考えだと思っていいのよね?」

 スミレも頷いた。パンジーはもはや答えようがない。

 外から吹き込んでくる風がいやに寒い。

「じゃあ私も考えてることを話す。石を狙っている誰かが先生の中にいるのは間違いない。だから、動くタイミングは学期末試験の最終日になるわ」

「それこそ……なんの根拠があるのよ」

「各学年のテストやレポートを採点するから。どの先生もそっちに集中して、あの廊下に目を向けてられない。ものを盗むなら見つかりづらいタイミングが一番でしょ」

 だから、私たちはそのタイミングで最初に動いた方を疑う。

 暗にそう言っている。

 スミレはハーマイオニーたちがどう対処するのか知らない。

 ハーマイオニーもパンジー・パーキンソンの前で『透明マント』のことを話すつもりはなかった。

「それと、ついでに1つ聞いていいでしょうか」

 急にいつものぼんやりした雰囲気に戻られてハーマイオニーは怯んだ。スイッチの切り替えが早すぎて追いつけない。

「ユニコーンの血を吸う生き物ってなんだと思います?」

「それ、ハリーが『禁じられた森』で見たっていうアレ?」

「ええ。私もドラコから聞いたんですが、吸血鬼じゃないようなんですよ」

 ようやく自分も会話に参加出来るかもと思ったが、すぐにパンジーの期待は裏切られた。この2人の会話はどうにもレベルが違いすぎてついていけない。

「人間だと思う。だってユニコーンの血には延命効果が……」

「石を狙う誰かとユニコーンを襲った犯人、同一人物だと思いませんか?」

「クィレルがユニコーンを仕留められるわけない。あんなとろくさいヤツに、どうやって」

「もしクィレル教授がトロールを学校へ誘導したなら、ユニコーンを仕留められるだけの実力があっても不思議じゃない。けど、どっちも証拠不足よ」

 可能性の域を出ないと切り捨てられて、スミレも「そうですね」と素直に引き下がった。本人は本当にただ気になっただけで、分からないならそれで構わないらしい。

 そのまま3人は天文台の寒さが我慢できなくなり、それぞれの寮の談話室へ駆け込んだ。

 長話ですっかり身体が冷え、風邪を引きそうだった。

 こうして情報交換は終わった。

 そのあとクラッブとゴイルを引き連れて地下牢へ戻ったドラコの自慢話に付き合わされても、この日のパンジーはほとんど上の空でまともに話しが頭に入ってこなかった。

 




 次回と次々回で『賢者の石』編は終わりです。


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A New Hope

エピソードⅠなのに新たなる希望。


 試験最終日。

 もし自分が犯人ならやはり今日決行するだろう。

 ハーマイオニーの予想を信じて、夜中に寝室を抜け出す。

 談話室には寝間着姿のパンジーがいた。

 可愛らしいフリルつきのパジャマは、華奢な彼女によく似合っている。

 暖炉の前に座りじっと考え込んでいる。

 足音に気づいて振り返った。私を見て、ようやく察したようだ。

 

「スミレ、あんたやっぱり……」

 

 いざ知られてしまうと妙に恥ずかしい。

 少し俯いて「お恥ずかしながら」と答えた。

 表情を見るのは、私には怖くて出来ない。警戒した声がすべてを物語っている。

 

「これからどうするの?」

 

「『賢者の石』を見に行きます」

 

「そうじゃない。私を襲うのかって聞いてるの」

 

 なにをおかしな事を……。

 確かにパンジーはあまり勉強が得意なタイプではない。しかしこれはちょっと……。

 クィレル教授やケトルバーン教授が聞いたら泣いてしまう。

 私も呆れた顔をしてしまうほど酷い発言だ。

「私もパンジーも女ですよ。女性の吸血鬼が対象にするのは男の血です」

 

「あれ? そうだっけ……うーん?」

 

「しっかりしてください。クィレル教授が必死に教えてくださったのに」

 

 どうしてこう、パンジーと授業の話をするといつも締まらないんだろう。

 ミリセントも大概だけど今回のミスは深刻だ。

 私が教授だったならその発言だけでスリザリンから20点は減点している。

 パンジーは必死に思い出そうとしているが難しそうだ。待っているだけで夜が明ける。

「でも血、飲まなきゃ大変じゃないの?」

「お腹は空いてます。でもいいんです、用が済んだら薬を飲むので」

「ふうん。そう、ならアタシもついて行く」

「ダメです。フィルチさんに見つかったらどうするんですか」

「隠れたらなんとかなる。ミセス・ノリスなら蹴っ飛ばしてやりましょうよ」

「それもダメですって……可哀想ですよ」

 むしろ蹴っ飛ばしたい風に聞こえる。声が弾んでいますよパンジー。

 ……どれだけあの管理人さんとペットの猫は嫌われているんだろう。

 校則違反しなければ、廊下ですれ違ったとき挨拶するくらいしか話す機会もないのに。

「ベッドに戻ってください。ちゃんと寝ないと……」

「もう授業もないでしょうがおバカ」

「そうでした……」

 今日は試験最終日だった。

 パンジーは頑として道を譲らない。こうなったら私の負けだ。

「アンタが戻るまで動かない」

「分かりました。じゃあ一緒に行きましょう」

 

 ――その代わり、少し血をもらいますよ。

 

 嫌だったけれど、私も切羽詰まっている。

 これで引き下がってくれるだろう。

 だって吸血鬼に血を吸われるなんて、誰だって嫌だから。

 なのにパンジーはいきなりパジャマのボタンを上数個だけ外し、首筋を露わにした。

 吸えと。顔を上げると、真っ直ぐに私を見つめている。

 

「フィルチに捕まったあとで『お腹が空いてたから』なんて聞きたくないの。あのグレンジャーに一泡吹かせられるなら、ちょっとなんて言わず好きなだけ飲んでいいわ」

 

 覚悟を決めるのは私の方。

 少し痛いかもしれませんよ、と最後に一言。

 このくらいで怖がるならとっくに寝室へ戻ってる。

 腕を回り込ませて軽く抱き寄せる。ちょうどいい高さに真っ白なうなじが来た。

 体温が冷たくなった私には、パンジーの身体は火傷しそうなほど熱い。この内には、真っ赤な血が脈々と流れている。けれど肌は透き通って白い。見蕩れるほどに柔らかい肌が、無防備に私の牙を待っていた。

 

「早くしなさいよ。アイツらのほうがあの廊下に近いのよ?」

 

「……いただきます」

 

 こうするしか、私には出来ない。

 今私の感じている香りがボディソープなのかシャンプーなのか、それともパンジー自身のものなのか。

 判別出来ないまま、さらに顔を近づける。

 

 

 ずっと考えていた。クィレル教授の隠し事とはなにか。

 何故、口にすれば呪われるユニコーンの血をわざわざ求めたのか。

 何故、数々の危険と不完全な不死しか得られないのに『賢者の石』を求めたのか。

 もっとも欲しい情報……ヴォルデモートの生死は謎のまま。

 マグル出身で学年最高の頭脳を持つハーマイオニーから得られなければ、他の生徒には期待できそうにない。まして私は嫌われ者のスリザリン、数少ない情報源が彼女しかいないのでこの情報は諦めざるを得なかったが。

 しかし確かなことがある。

 ヴォルデモートは姿を消した。すっかり見かけなくなったのだ。

 11年前のあの日以降、誰も『闇の帝王』の死体を見ていない。

 けれど姿を消してしまったから倒れたと。配下の『死喰い人(デスイーター)』すら主の死を認めた。

 そうしてハリー・ポッターの名は伝説となる。

 生き残った男の子は死後も永遠に英雄として語り継がれる存在となった。

 そのハリーはもうすぐ死ぬ。

 

 ハリー・ポッターが生き残ったように、ヴォルデモートもまた生き延びていたから。

 

 この結果は偶然の産物か、はたまた事前の準備が功を奏したのか。

 いずれにせよ、私はまだ希望を失っていない。この学校にいる目的を見つけた。

 

「小娘……貴様、なぜここにいる」

 

 そして私の予想は正しかった。

 クィリナス・クィレル教授は『賢者の石』を探している。グリンゴッツに押し入り、学校にトロールを侵入させ、ハリーの箒を呪ってまで石を盗もうとしているのは彼だった。

 ではスネイプ教授はやはり校長の側ということだ。ただし、ハリーの側かは微妙だが。

 

 どもりも震えもない、冷静で低鋭い声の教授がこちらを向く。

 あのピーブス以上に不愉快極まる鏡を背にして、しゃんと立っている。

 先生からの質問に嘘偽りなく答えた。授業と同じく。真面目に。

「どちらが犯人か確かめようと」

 ターバンをほどいた教授は肩を振るわせて笑い始める。

 ウフフと弱気なものではなく、勝ち誇っているのが嫌でも分かる。 

「好奇心で! たかが好奇心であの罠をくぐり抜けたのか!!」

 ぜんぶ吸血鬼の力でごり押したことは黙っておこう。

 仕方がないから嫌々でやっただけだ。出来ることなら、頼りたくはなかった。

 どうやらクィレル教授は興奮しすぎて気づいていないようだし。

「馬鹿者め……小娘1人に乗り越えられるものか……」

 鏡に映った青白い蛇のような顔が喋った。声は今にも死にそうである。

 あちらの顔はやはりお見通しだった。

 叱られた教授は「なんと、ではヤツは今まさに吸血鬼なのですか」と驚いている。

 それが一人芝居か二重人格のようでコミカルだ。つい口元が緩む。

 鋭くなった犬歯がにょっきりと上唇から顔を見せているだろう。それだけで答えになる。

 教授は杖を手にして一歩踏み出した。

 顔から笑顔は消えていた。

「この場を見てしまったからには生かしておけない。お分かりだろうアオイくん」

「その前に教えて欲しいことがあります」

「時間稼ぎかね? まあ構わん、どのみち血を吸えぬ吸血鬼など取るに足りん」

「ヴォルデモート卿を復活させてどうするんですか?」

 血を吸えないのではなく吸わないんだ。

 私は怪物になったつもりはない、ちゃんと人間に戻るためにこの学校へ通うと決めた。

 用が済めばこの忌々しい杖も制服もみんな焼き捨てて家に帰る。

 ただ、それは心の内に秘めたまま教授の爆笑を聞く。

 身体をくの字に折ってゲラゲラとお腹を抱えている。

「主の復活を望まぬ僕がいるか!? お勉強はできても常識は持ち合わせていないなァ!!」

「そうですね。ではあなた、復活してどうするんですか?」

 喋るのも一苦労。一言一言で寿命が削れているようだったが、石があれば問題ないだろう。

「わしは再びこの世界を、あるべき姿へ戻す……魔法は純血にのみ……」

 あの喋る後頭部はまだ初心を失っていないらしい。

 初心に囚われている風でもない。ちゃんと意思疎通出来ている。

 私が知る限り幽霊と言うのは生前の記憶も人格もほとんど失い、残滓だけでこの世にしがみついているものだった。イギリスではどうもその辺の勝手が違う。我が強いのかなんなのか、彼らはみなボケていない。

 それならば……賭けてみる価値はある。

「なら、それを見せてください」

「ほう……」

 教授から私のことは聞いているはずだ。

 呪われた街で吸血鬼に襲われ、血に飢えるようになった日本人。

 人間の血を残しながら人間の生き血を欲する、病める血の少女だと。

 ヴォルデモート卿の笑い声は咳かなにかと大差ない。相当弱っている。

 だが意思はしっかりしているなら大丈夫だ。

「我が君、如何なさいますか」

 床に転がったハリー・ポッターと私を交互に見比べて、クィレル教授は迷っている。

 石か目撃者か。どちらを優先するか判断を主君の仰いだ。

 パンジーを連れて来なくてよかった。もしこの場にいたらどうなっていたか。

 ヴォルデモート卿は純血の魔法使いに寛大だ。

 けど本体は……クィレル教授は慎重だ。臆病だから目撃者を消したがる。

 

「娘は捨て置け……石を奪うのだ……」

 

 教授は杖をしまってハリーへ近づいた。

 頭を打っても血は流れていない。眼鏡は割れているが、それは魔法で直せる。

 可哀相に。だが親に会えるなら、そう悪くもないだろう。

 苦痛を感じることもなく死ねて、あちらで再会できるなら、その2点だけは幸せだと思う。

 少し離れた位置で様子を見守っていると、悲鳴が挙がった。

 驚いてひっくり返った私の目に、皮膚の焼けただれた教授の右手が飛び込んだ。

 

「わ、我が君! 手が焼ける!! これでは触れられません!!」

 

 ……これが、赤ん坊を帝王から生き延びさせたカラクリなのか。

 害意をもって触れると傷を与える、そういう呪いの一種。

 泣き叫ぶ教授に後頭部から激怒の声が飛ぶ。

 

「杖を使え愚か者め! 小娘、貴様もだ!」

 

「そんな……私じゃとても無理です……」

 

 馬鹿を言うなと叫びたい。

 仮にも『闇の魔術に対する防衛術』の教授と、魔法を学び初めて1年目のひよっこ。

 吸血鬼化して使える魔法が増えたからどうした。あんな呪い、私だって見たことがない。

 知識そのものは変化していないのに。

 教授はついに『死の呪い』を放とうと杖を構える。

 

 だが、それも失敗に終わった。

 突然意識を取り戻したハリーが教授の顔と右腕を掴んだ。

 顔を焼かれる激痛で呪文どころではない。後頭部のヴォルデモート卿も絶叫している。

 全身がズブズブとただれ始めた教授は悲鳴をあげた。

 右腕がもげた時点でハリーはまた気絶し、こちらに気づいた様子もない。

 だが闇の帝王も敗北した。

 

 部屋中に木霊する二重の断末魔。

 クィレル教授の身体は跡形もなく崩れ落ち、依り代を失った霊体は泣き叫ぶように声にならない声を放ちながら逃げ出した。

 どす黒い煙が私の目の前で真っ直ぐに部屋の外へ消え、残ったのは惨めな吸血鬼だけ。

 腰が抜けて立ち上がれず、這ってハリーへ近寄る。

 息はしているし怪我もない。

 本当に失神している。でも何故、一度復活できたのか……。

 

「なんなんでしょうね、あなたは」

 

 ぽつりと呟く。

 彼は英雄になった。だが、それは間違いのようだ。

 ハリー・ポッターは英雄になる。

 闇の帝王を本当に倒せるのは、この痩せた男の子だけ。そんな根拠のない確信があった。

 

 ――カラン

 

 

「?」

 

 乾いた音に周囲を見渡す。

 他に誰かいたのかと思ったが、違う。部屋の中には私だけだ。

 なんだったんだと思いながらハリーの方を見ると、落ちていた。

 ズボンのポケットにあった『賢者の石』が床に落ちた音だった。

 赤くきらめく小さな鉱石、これが不老不死の源か。

 

 なんとなく拾ってみたが、ありがたみはない。

 これは金属を純金に変える力もある。では私の病んだ血も癒やしてくれるのだろうか。

 そうであれば、この学校に留まる理由もない。

 夏休みになればまたみんなには会えるんだから……手紙のやり取りだって出来る。

 物は試しに使ってみたくなった。

 しかしどう使えばいいのか分からず眺めているばかり。

 錬金術の書籍を読めば良かった。勉強不足がこんなところで裏目に出るとは。

 ハーマイオニーを少しは見習うべきだった。

 

「飲み込めばいいか……」

 

 赤いし、そこまで酷い味じゃないはずだ。

 やってやるかと口を大きく開く。

 

「これこれ、それを食べてもなんの足しにもならんよスミレや」

 

 ……ダンブルドア。

 この人は苦手だ。前の『みぞの鏡』といい、来て欲しくないタイミングで現れる。

「それは友人からの預かり物でのう。そろそろ返そうと思っておったのじゃ。何者かが石を狙っているから安全な場所に隠してくれと頼まれておったのじゃが……やはりホグワーツより安全なところはないのう」

「……私は、なにもしていません。ただ見ていただけです」

 隠しても意味がない。

 彼には人の心が読める。

 

 だから、最後の力を振り絞って心を閉ざす。

 

 見せてたまるか。

 私の心を、この学校を愛している人間に。

 理解できるはずもないこの苦しみを、勝手に分かち合おうとなんてさせない。

 

「勇気にも色々あるのじゃよ。恐怖に立ち向かう勇気もあれば、正義を信じて友に立ち向かう勇気もある。そして誘惑を退ける勇気ものう……君もまた素晴らしい勇気を見せてくれた。それこそが勝利へとつながったのじゃ」

 

 まだ隠しきれなかったのか。それともただ推理しただけなのか。

 判断のしようもなく、確かなのは、この石を諦めるしかない現実。

 今回は仕方がない……。

 

 石を渡そうと思ったところで限界だった。

 

 吸血鬼が貧血なんて間抜けだなあ。

 

 暗い底へ意識が沈む直前、あの鏡が見せた光景を思い出した。

 

 

 




 スミレ、vsクィレル&ヴォルデモート戦なにもせず。
 スネイプの薬を飲まずわざと吸血鬼化してみたもののようガス欠で最後はダウン。
 身体が治ることなく次回で『賢者の石』編が終わります。


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寮対抗杯

 これにて『賢者の石』完結です。
 ダンブルドアによる講評をお楽しみください。


 翌日。

 私は医務室で目が覚めた。

 ベッドはカーテンで仕切られ面会謝絶。

 クィレル教授が作っていた『抑制剤』を点滴で注射され、ハロウィン以来の一週間寝たきり生活が始まる。スネイプ教授の用意した色々な薬を決まった時間に飲みながらダラダラ過ごしていた。

 山のような差し入れ……魔法界の本を読む。

 これはこれで面白いが、どうにも絵本のおとぎ話のようで筒井康隆や横溝正史が恋しくなる。

 白いカーテンの向こうでハリーとダンブルドアが話しているのも全部聞こえていた。

 2人ともヴォルデモートが生きていると確信している。

 彼が吸血鬼という存在を軽視していることも。

 そして、何故ハリーがクィレルを倒せたのか。

 

 あれは特別な呪いでもなんでもなく。

 母親の『愛』だと、ダンブルドアの口から語られた。

 ヴォルデモートがヴォルデモートである限り、この魔法を破ることはできない。

 それこそが彼の最初と二度目の敗因。

 まぁ、次はもっと上手くやるだろう。

 それは誰であっても考えることだ。

 もしも次があるなら、私ももっと上手くやらねば……。

 

 

 例の『立ち入り禁止の廊下』にある部屋の1つが丸焼けの状態で発見された。校長は朝食の席で「その部屋に『賢者の石』を隠していて、丸焼けになったのは石を守ろうとした者がウッカリやってしまったのだ」と説明したそうだ。

 可哀相にハグリッドは愛犬のフラッフィーが死んだためおいおい泣いて、隣にいたフリットウィック教授は涙の滝に打たれていたらしい。ハーマイオニー曰くあのケルベロスはまだほんの子犬らしい。『悪霊の火』で焼き払って正解だった。

 学校で怪物を飼うな。

 生徒を殺す気か。

 ……『賢者の石』の件は先生たちと生徒の秘密。

 そうして、この話は締めくくられた。

 何人がこれが本当の話だと信じるかはさておき。

 石はダンブルドアが砕いてしまったそうだ。

 クィレル教授が亡くなり、ヴォルデモートが逃げ出した翌日。ダンブルドアが医務室でハリーにそのことを話し、ハリーも医務室でハーマイオニーとロンに話し、ハーマイオニーが廊下で私に教えてくれた。

 フラメル夫妻はこの世を去る道を選んだ。

 闇の帝王が蘇るくらいなら、という考えだろう。

 石だけが復活の手段とは思えないが……。

「おい、僕の話を聞いてるのかアオイ」

「なんの話でしょう。テストの出来ですか?」

 年度末最後の朝。

 談話室でドラコはご機嫌だった。今年も寮対抗はスリザリンの圧勝で終わるから、というのが理由らしい。

 家に帰れるのがうれしくてほとんど聞いていなかった。

「……ダンブルドアはクィレルが悪霊に取り憑かれてたなんて言ってたが、本当かどうか怪しいって話だ。もう腹が減ったのか」

「あの話は本当ですよ。私、見ましたし」

 教授が昨年、研究旅行中にタチの悪い霊に憑かれたこと。

 そして後頭部に宿った霊をターバンで隠していたこと。

 ハリーを殺そうとして返り討ちに遭い、霊ともども倒れたこと。

 全部が全部本当というわけではない。だがこれでいい。

 何でもかんでも本当のことを言えばいいとは限らない。

 ドラコは私の話を聞いて呆気にとられている。

「本当に使えない男だな……ポッター程度にやられるなんて、本当にホグワーツを卒業したのかも怪しいレベルだ。お前まさかとは思うが、ポッターに手を貸したんじゃないだろうな」

「私は見ていただけです。腰が抜けてしまって」

「こ、腰が抜けた?」

 ドラコが噴き出した。

 どうにか話を逸らせられた。

 根掘り葉掘りで嘘がバレたら話がこじれる。

 ダフネは「先生がそんな悪い人なら腰も抜けるよ……」と同情してくれたが、それは申し訳なかった。私はただ一連の出来事を眺めていただけだ、何もしていないのは嘘じゃないけれど。

「グリフィンドールの減点がなかったのは惜しいけど、どのみち連中は今年最下位が確定してるし。石を守ったってから加点するならスミレも関わったから大丈夫そうね」

「どうでしょう。ダンブルドアは信用できません」

「まったくだ。アイツが石を学校に置いたせいでクィレルはトロールを侵入させた、おまけに森であんなものを見せられて。あのグズの森番もそうだ。ホグワーツはいつから見世物小屋になったんだか!」

「同感です。敷地内にケルベロスやケンタウロスがいるなんて、安全管理に問題がありますよ。なんであっちこっちに危険な生き物がウジャウジャ……」

 考えるだけで恐ろしい。

 この調子だとまだまだハグリッドの違法ペットがいそうだ。

 今年は時間的に無理でも、来年には一匹残らず駆除せねば。

 それでなくとも物騒な学校だ。

 少しでも安全に過ごせるようにしたい。

 

 それにしても。

 パンジーからの目線が痛い。

 昨夜の一件は根に持たれそうだ。ちゃんと説明したいが、今はタイミングが悪すぎる。

 

 

 ハリーも校長の許可でどうにかベッド生活を脱したらしい。

 ホグワーツの一年を締めくくる『学年末パーティー』とやらで、大広間はいつになく盛り上がっている。この場で寮対抗戦の結果発表があるようだが、大砂時計を見れば一目瞭然でスリザリンの圧勝だ。

 広間は銀と緑のスリザリンカラーで飾られ、天井からはスリザリンの寮旗が垂れている。あまり興味なかったが、これは壮観だ。周りの浮かれようもなんとなく分かる。

 勝てば嬉しい、当たり前の話だ。

 少し時間が早いのか、他のテーブルにはちらほら空席が目立つ。

 パーティーまで時間がありそうだし、今日のドラコは立て板に水で自慢話がノンストップだ。セオドール・ノットとザビニには悪いが聞き役はお任せする。

 今回の席争奪戦はミリセントが勝利し、運悪くもう片方の席にはダフネが座ってしまった。これなら盗み聞きされる心配もない。

 となりのパンジーにそっと耳打ちする。

「血、吸わなくてすみません」

「理由を聞かせて」

 そうだろう。

 誰だって、吸血鬼に血を吸われたくなんてない。

 なのに自分から差し出すと言ってくれた。それを断って逃げたのだから、説明しないのは不義理だ。

「私と同じ思いをして欲しくないんです。何も面白くありませんから……ただ不便なことが増えるだけです」

「…………」

「誰かを見るたび、お腹が空くんです。同じ人間が食事に見える。友達にそんな感覚を知って欲しくありません」

 すれ違うたび、相手の心臓の鼓動が聞こえる。

 砂みたいに乾いた自分の身体が、みずみずしい血を飲むために飛びかかりたくてしょうがなくなる。鮮血が染み渡る感覚を、この病んだ身体は本能で知っている。それを味わいたいなんて、人間の感覚じゃない。

 ただの化け物だ。

 誰かにこれを味わわせるなら自滅した方がマシなくらい。

「別に、それでいいと思ったの」

 ……今、なんて?

「アタシ1人なら絶対イヤ。でも2人なら辛いのも半分でしょ」

「本当にすみません」

「謝らなくていいけど。私以外の誰かから血を貰ったら、そのときは許さないから」

「……どうしても欲しくなったら、お願いしてもいいですか?」

 本音を言えば、脂身の少なそうなパンジーの血は美味しそうだ。

 欲を言えばもう少し野菜を食べて欲しいけれど。

 ホグワーツであなたより魅力的な女性は、きっと見つからないでしょう。

 ふざけたつもりはなかったけれど、言われた側は「命に関わるなら文句ないわ…………ていうか、冗談言えたのね」とあっさり流されてしまった。

 冗談じゃなくて本気ですよと説明したかったが、ダンブルドアの声が響いてすべての雑談を遮った。

 

「――また一年が過ぎた!」

 

 歓迎会と同じ、朗らかな調子だ。

 

「一同、ご馳走にかぶりつく前に、老いぼれのたわ言をお聞き願おう。みなの頭も以前と比べ少しでも何かが詰まっておれば良いが……新学年を迎える前に、頭がきれいさっぱり空っぽになる夏休みがやって来る。その前に、寮対抗杯の表彰を行うとしよう」

 

 ドラコは喋り足りないようだが、結果はすでに全員の知るところだ。スリザリンの……自分たちの勝利と分かっていれば、負けず嫌いの彼も黙って発表を待っていられる。

 

「点数は次の通りじゃ。四位グリフィンドール、312点。3位ハッフルパフ、352点。2位のレイブンクローは426点。そしてスリザリン、472点」

 

 学年最高の優等生ハーマイオニーがいようと、校内最強のトラブルメーカーことウィーズリー兄弟とあのハリー・ポッターがいてはこの点差も自然だ。3人は校則違反への抵抗が欠落している。

 大はしゃぎのスリザリンはさておき、2位のレイブンクローまでグリフィンドールと同じくらい残念そうなのは……やはり寮同士の関係の表れなのだろう。

 ようやく一週間ぶりのまともな食事だと思いきや。

 結果発表はまだ終わらない。

 ああ……あの人は厄介なタイプの天才だった。

 九月の歓迎会で披露したあの音頭への感想を、今更になって思い出す。

 

「よしよし、スリザリンの諸君。よくやった。しかし、つい最近の出来事も勘定に入れねばなるまいて」

 

 しん――と大広間は静まり返る。

 スリザリンは――ソロ船長風に言えば――嫌な予感、他の寮は微かな希望を抱いて、校長を注視した。

 

「駆け込みの点数をいくつか与えよう。えー、まずは……ロナルド・ウィーズリー君」

 

 誰かと思ったが、ロンというのはロナルドの略称か。

 

「この何年間か、ホグワーツで見ることのできなかったような最高のチェス・ゲームを見せてくれたことを称え、グリフィンドールに50点を与える」

 

 これで点差は110点。

 だがハーマイオニーとハリーで50点ずつ稼いでも同点だ。

 スリザリンが優勝した事実は変わらない。

 

「次に……ハーマイオニー・グレンジャー嬢、火に囲まれながら、冷静な論理を用いて対処したことを称え、グリフィンドールに50点を与える」

 

 あと60点差。

 私がヴォルデモートを見逃し、結果的にハリーを見殺しにして、最後の最後で石を奪おうとした事をバラすならばスリザリンの負けだ。だがそれは、私をこの学校に閉じこめたい魔法省の意向に逆らうこととなる。

 さあどうする。

 

「三番目はハリー・ポッター君。その完璧な精神力と並外れた勇気を称え、グリフィンドールに60点を与える」

 

 3つの寮から歓声が爆発した。

 スリザリンの7年連続単独優勝を阻止できたのが、よほど嬉しいのだろうか。それともこのサプライズに興奮しているのか。私には分からないし、残念ながら同じスリザリンの愕然とした顔も哀悼の意を表する他に反応出来ない。

 競争とか勝負は昔から苦手だ。

 

 これでグリフィンドールとスリザリン、ともに472点。私が減点される可能性は大きい。それがある限り、落ち着かない。

 

 ダンブルドアは手を広げた。

 とたんに大歓声は静まり返る。

 

「恐怖に屈することなく真実を見届けた鋼の精神力と、揺るぎない意志の力をもってサラザール・スリザリンの理想を示してくれた。これを称え、スミレ・アオイ嬢に50点を与える」

 

 追加は50点。これで再び突き放した。

 駆け込み加点の理由は創設者の1人、サラザール・スリザリンの理想を示したこと。組み分け儀式の際にあの帽子が歌ったとおり。冷静に状況を判断し、ときには非情なほど利己的に目標を達成する決断力。

 私は『賢者の石』を巡る騒動でそれを示した、らしい。

 あれは偶然が重なっただけだ。石を守った覚えはない。

 それにまだ謎のままの部分も多い。真実を見届けたなんて、私自身はこれっぽちも思っていない……。

 さらにスリザリンへの加点が続く。

 なんと面倒なことをする人だ。

 

「苦しむ友を救うため我が身を惜しまぬ勇気は実に素晴らしい。同時に、わしはその美しき友情も称えたいと思う……パンジー・パーキンソン嬢に50点を与える」

 

 私に血を吸うよう迫ったことか。

 どうせなら私への加点をそのままパンジーに渡して、1人で100点を稼がせてあげて欲しかった。特になにもしていないような人間よりずっと立派なことをしたんだから。

 改めてスリザリンが沸き上がる。

 偉業を達成できるか否かの瀬戸際でどんでん返しなんて趣味が悪い。エンターテインメントにしてもやりすぎだ。ああ、これで落ち着いて家に帰れる。

 なんてほっとした。

 だが、アルバス・ダンブルドアがこれで終わると何故みんな思ってしまったのか。

 最後の最後にひっくり返してこそ観客にとって面白いのに。

 やられる側は堪ったものじゃないけれど。

 

「勇気にも色々ある」

 

 

 全員の時が止まったようだ。

 私も校長から目が離せない。

 

「敵に立ち向かっていくのにも大いなる勇気が必要じゃ。しかし、味方の友人に立ち向かうのにも同じくらい……時にはそれ以上の勇気が必要となる。そこで、わしはネビル・ロングボトム君に100点を与えたい」

 

 私は葬式に参加している。

 真横のグリフィンドールのテーブルからは狂ったような歓声。大広間が震えるほどの熱狂と歓喜で鼓膜が裂けそうだ。一方、スリザリンのテーブルは耳を澄ませばお経が聞こえそうなほど悲愴感に包まれていた。ドラコがあんな死んだ目をしているなんてよほどだ。

 ザビニの顔からも薄ら笑いが消え、ダフネなんてこの世の終わりを迎えたかと思ってしまう表情。まさしく絶望である。

 

 何よりレイブンクローとハッフルパフまでスリザリンが優勝を逃したことを祝っている。

 

 つくづくスリザリンはよそと仲の悪い寮である。

 

 ロンとハーマイオニー50点。

 そこからハリーの60点でグリフィンドールとスリザリンが同率首位で、私とパンジーへ50点ずつ加算。これで突き放したと思わせ、最後の最後にネビルへ追加で100点。グリフィンドールが優勝寮に躍り出て、スリザリンは七年間の優勝杯独占に失敗した。

 結果で見れば同率一位、つまり二位に落とされたのではない。

 しかしスリザリンにとっては屈辱だ。7年連続での単独優勝は叶わぬ夢に終わった。それも多くの生徒が不倶戴天の敵とみなすグリフィンドールとの同時優勝は、特に最上級生には屈辱だった。悔し涙を流す監督生や7年生、それより下の学年も手放しで喜べない空気が漂っている。

 あのドラコすら怒りに震え、ザビニとセオドールがいなければネビルを呪い殺しそうなほどだ。グリフィンドールの、あのロングボトムがスリザリンの偉業を邪魔した。そう思っているのだ。

 ミリセントもダフネと小声で不満を言い合う。

 嬉しいのと悔しいのとでごちゃ混ぜになり、パンジーは呆然としたまま泣いている。

 もしかするとハーマイオニーに並べたからかもしれない。

 私は『来年こそは失敗すまい』と心に誓った。

 たかが寮対抗で死人が出るのは困る。それも友達が犯人になりかねないとあっては、ちょっと以上に問題だ。

 

「さて、飾りつけをちと変えねばならんのう」

 

 7年目にして雪辱を果たしたと言わんばかりの狂喜乱舞を、ダンブルドアは一瞬だけど鎮めた。ほんの一瞬、手を叩いて横断幕と寮旗が加えられるそのひとときだけ。

 

 右半分は赤と黄色のグリフィンドール、左半分は緑と銀のスリザリン。

 何度目かの大爆発は、今度こそ止まらないし止めようがない。

 葬式から法要くらいには明るくなったスリザリンのテーブルで、遠くにあるトライフルをこちらへ貰いながらふと思う。

 校長はこうなると予想していたのではないか?

 ハリー・ポッターに華を持たせる。

 そしてネビル・ロングボトムにも。

 その上で、私に今後どう振る舞うべきか示したかった。

 あの鏡の前では隠しきれていなかったから、きっと気づいているはずだ。

 ……なるほど、教育者としても天才だ。

 全部お見通しでここまでされたら堪ったものじゃない。

 

 久々のパンケーキに生クリームをのせてハッとする。

 

 私はホグワーツの生クリームが大の苦手だ。

 

 

 私の成績は普通だった。

 飛び抜けて悪い科目はない、強いて言えば『飛行訓練』が全科目中で一番低かった。この授業は今年だけだからなんとか頑張ったが、やはり箒は苦手だ。

 しかしパンジーやミリセントの前で「普通でした」と言ったら怒られた。

 魔法薬学と呪文学は本気で取り組んだのだから、その分良くて当然だ。他の科目は人並み。あまり関心もないし将来使う予定もない。卒業とともに「お役御免」なのは2本もある杖だって同じことだけど。

 

 着替えと本を鞄に押し込め、ベッドの下から出たがらないアオダイショウの『ザクロ』を首に巻いて準備は終わった。

 

 ……私個人の成績より、スリザリンから魔法薬学と呪文学で酷い点数を取った人が出なかったことが何より嬉しい。字もまともに書けないゴイルでさえ人並みの成績だったのだから……これは自慢していいはずだ。

 成績不振で退学にならなかったことをロンとハリーは残念がっていたが、お手盛りで優勝出来たのだから我慢して欲しい。

 

 帰りのホグワーツ特急も行きと同じ顔ぶれ。

 キングズ・クロス駅に着いたときには、ドラコの『ゲラート・グリンデルバルドがいかにダンブルドアより素晴らしいか』という話が3周目に突入して乗り物酔いみたいになっていた。

 制服から普通の服に着替えて、降車用の改札を通る。

 叔父さんがクリスマスにくれた四次元ポケットのキャリーケースを引きずりながら、みんなと別れる。こけないかと心配されるが、私だって背は伸びた。あれだけ肉ばかりの生活をしていれば当然だ。

「ちゃんと三食食べなさいよ。そんでなくても小さいんだから」

「あなた基準だとみんな小さいのでは」

「食べて頭に行かなきゃ意味ないでしょ。ああでもスミレってそもそも食べないのよね」

「無理せずでいいよ? 少しずつでもちゃんと……」

「日本食は普通に食べられますからご心配なく」

 思い出すだけでお腹の虫が鳴く。

 早く帰って白いご飯が食べたい。

 そんな挨拶をしつつ改札を出る寸前になって、

 

「というか、私が歳下みたいな扱いになってますよね!? 今年で14なんですけど!?」

 

 気づいたがもう遅い。

 みんなバラバラに別れ「なにを今更。当たり前だ」と笑顔で手を振りながら、家族といっしょに1991年のロンドンの雑踏に消えていく。

 いつものみんなはイギリスの魔法の世界へ。

 そして私は日本の普通の生活へ。

 

 ――純血の寮と言われるスリザリン生なのに、堂々とマグルの乗り物で家へ帰る変人。

 

 来年はそんな風に言われるんだとぼんやり思いながら、私はロンドン名物の黒塗りタクシーに乗り込んだ。




 次回からは『秘密の部屋』が始まります。
 今回で1年目が終了。現時点ででスミレが得意な魔法は『悪霊の火』と『閉心術』の二種類、ただしどちらも吸血鬼化しないと使用出来ない制限付きです。他の呪文は授業で習う範囲を出ません。
 通常時は格上相手にまともに戦えない状態です。


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ハリー・ポッターと秘密の部屋
フローリッシュ・アンド・ブロッツ


 始まりました『秘密の部屋』編。
 ドビーが怖くて映画公開当時は苦手でした。


 親戚が揃うとスミレは一番小さかった。

 年齢もそうだし、背も低い。同い年の従姉と比べても華奢だ。

 そんな『ちびっ子』も成長期を迎えた。

 夏休みで南硫黄島から帰ってきた(アザミ)は愕然とした。

 文字通り肩が並ぶほどになっている。

 左右に並べられてつい心の声がこぼれてしまう。

「やっぱ食ってるもんが違うのか……」

「え? 私太ったかな?」

 背は伸びてもズレた頭はそのままであった。

 二人はなにもかも真逆だった。

 好きで魔法を学んでいるアザミに、渋々で魔法学校へ通うスミレ。

 長身で髪の短いアザミと小柄で髪の長いスミレ。

 得意科目から好きな料理、苦手なものまでなにもかも対極だった。

 それが今やこうして、同じ高さの目線で話している。

 駅の改札前で最後の確認中。ラフなTシャツにデニム姿のスミレと、薄手のジャケットで肌を隠しているアザミ。歳の離れた姉妹にしか見えない。

「忘れ物してない? 酔い止めは?」

「要らないよ別に。帰りも平気だったし」

「念のために持っていく。お土産、飛行機とかバスに忘れないようにして」

「アザミ姉ちゃん私より誕生日1週間早いだけでしょ」

「やかましい。んー、ちょっと肌見せ過ぎじゃない?」

「いまさらやめてよ気になってきた」

「ああもう上着あげるからホラ」

「いや暑いからやっぱいらなーい」

「あ、コラまだ話終わってない!」

 逃げるように改札を通ったスミレは「じゃあ行ってきます!」と手を振っている。

 言いそびれたが、伝えないのも腹立たしい。

 手でメガホンを作ると、アザミはスミレの背中に向かって叫んだ。

「来年からは私もホグワーツに行くから! 待ってなさいよー!」

 ああスッとした、見送りも済んだし家に帰ろう。

 肩の力が抜けて自然と笑顔になる。

 去年の今頃はめそめそ泣いていた従妹が、あんなにも楽しそうにしている。来年がもう楽しみになりながら、薊は渡し損ねた手作りのお守りに気づいた。

 八月中旬、夏真っ盛りの早朝。

 セミの声が木霊する駅前で、葵薊は自分のうかつさに頭を抱えた。

 

 

 新学期前になるとフローリッシュ・アンド・ブロッツ書店は混む。

 そもそも小さな書店なのに、やたらと品揃えがいい。

 しかも学校指定の教科書が買える本屋が他にないせいだ。

 加えて家族連れで来る生徒の多いこと。おかげで店の壁がいつ弾け飛んでもおかしくない。

 なにの、今年は何故かこの時期を狙ってサイン会が開かれていた。

 魔法界で今人気沸騰中の若き作家、ギルデロイ・ロックハートの新刊『私はマジックだ』の発売を祝した記念イベントである。店の入り口に横断幕があった。

 男性客は興味もなく、興奮したオバサマたちの人だかりを鬱陶しそうにかき分けたり避けたりして、目当ての本棚へ進んでいる。私はもう奥へ行く気力もない。

 売れっ子作家のサイン会なんて珍しくもないが、ロックハート氏はどうやらオバサマ層のファンが多い。ロンは必死に列に並ぶ自分の母親を眺めて呆れていた。

「大変そうですね」

「そう見える? ならいい暇つぶしでも教えてよ」

「そこの本を立ち読みするとか」

 私が指差したのは法律関係の分厚い書籍だった。

 面白くなさそう。

 本棚を背に、手すりへもたれかかるロンは「ハーマイオニーみたいなこと言うなよ」とうなだれた。

 赤毛にそばかす、背の高い末の弟くんは本が嫌いらしい。

 まぁ私もこういう専門書にはあまり手が伸びない方だ。

 パンジーもいるが、ロンに喧嘩を売る元気もなかった。

「どうしたんですか。並んでたわけでもないでしょ」

「並んでたわよ。あー……並ぶのもだけど、ミリセントのロックハート語りがしつこいのなんのって……」

 ただただご愁傷様だった。

 綺麗な黒髪のブルネットもどこか元気がなかった。やはりミリセント・ブルストロードのパワーは凄まじい。というより彼女、授業以外で本を読むんだ……。

 あのミリセントがそこまでハマるロックハートとはどんな人なのか、私はよく知らない。ちらっとでも顔が見えないか窺ってみる。新しい教科書の著者がどんな人か、気になったのだ。

「そこの本に映ってる」

 パンジーの指差す先を辿ってみる。

 

『狼男と大いなる山歩き』

 

 表紙に飾られた写真の中のロックハート氏が、弱々しい細身の狼男と肩を組んで歯を輝かせている。カールした豊かな髪に、キラリと美しい白い歯。笑うと目尻にシワができるのが、確かに中高年の主婦には受けそうだ。

 登山服からタキシード、アロハシャツと色々な衣装でそれぞれの表紙に登場してはハンサムなスマイルを振りまいている。天性のアイドル気質、人気者になるべくしてなる人のようだ。

 近所の魚屋のおばさんもこういうアイドル顔がタイプである。

 それにしても本のタイトルが酷い。軽すぎて笑えてくる。

 まだあるぜとロンも目の前に別の本を置いた。

 

泣き妖怪バンシーとのナウな休日

ギルデロイ・ロックハート著

 

グールお化けとのクールな散策

ギルデロイ・ロックハート著

 

鬼婆とオツな休暇

ギルデロイ・ロックハート著

 

トロールとのとろい旅

ギルデロイ・ロックハート著

 

バンパイアとバッチリ船旅

ギルデロイ・ロックハート著

 

狼男との大いなる山歩き

ギルデロイ・ロックハート著

 

雪男とゆっくり一年

ギルデロイ・ロックハート著

 

「探したらそこの列の中に教授がいそうね」

「なんだい、キミ知らなかったの? 今年の『闇の魔術に対する防衛術』の担当はうちのママなんだ。庭の手入れとか屋根裏お化けの対処法を教える予定だよ」

「そんな……勉強の合間に読むためにオススメの本をリストアップしてくださっただけですよ……きっと」

 そんなことにこんな高い本を買わせるなと言いたい。

 ……前向きに考えよう。でないと去年より辛くなりそうだ。

 が、はやくもあの科目の先行きが不透明になりつつある。

 これなら説明が聞き取りにくいだけだった、あのクィレル教授の方がずっといい。今からでもフラメル氏を訪ねて、新しく石を作ってもらいたいくらい不安になる。

 店内の片隅でげんなりしていると、列の奥から脱出したダフネがフラフラとこちらにやって来た。

「ス、スミレ……久しぶり……」

「お久しぶりです、あなたもサインを?」

「ミリセントが離してくれなくて……」

 かけるべき言葉が出てこない。

 言語を絶するストレスと苦労がうかがえる。

 集まった全員が目を伏して祈るように頭を垂れている。

 まるでミサか葬式だ。全員魔法使いか魔女なのに。

 そしてこの場にいない、学年最優秀の魔女が気になった。

「まさかハーマイオニーも並んでませんよね」

「残念だけど……」

 ロンの隣にいる赤毛の女の子が、悲愴な面持ちで首を左右に振る。

「勉強が出来ても頭がおかしいんじゃねえ……」

「僕も同感。というか勉強し過ぎて壊れたんじゃないかな」

 口が悪い者同士、パンジーとロンは純血云々を別にすると似たような性格をしていた。どことなく微笑ましいのは私もダフネも同じだが、上の階にいるシェーマスは心底嫌そうな顔で奥に消えた。

 あちらは放っておくとして。

 一階の奥でハリー・ポッターはロックハートに捕まっていた。

 そこへカメラマンが現れ、二人で記念撮影。有名人の登場にご満悦の作家先生は気前よく自分の著作全巻セットをプレゼントした。あれを全部古本屋に売れば型落ちした箒くらい買えそうだ。

 

「なんと記念すべき瞬間でしょう!私がここしばらく伏せていたことを発表するのに、これほどふさわしい瞬間はまたとありますまい! さて……間もなく彼は、私の本『私はマジックだ』ばかりでなく、より素晴らしいものをもらえるでしょう。驚くなかれ、彼とその学友は、なんと『私はマジックだ』の実物を手にすることになるのです」

 

 バシバシとうるさいシャッターの音と、ファンの黄色い声がピタリと止んだ。

 歓迎会や学年末パーティーでのダンブルドアを思い出させられ、滅入った気分がグリンゴッツ銀行名物・トロッココースターよりも高速で急下降していく。

 

「みなさん、ここに、大いなる喜びと、誇りを持って発表いたします――この九月から、私ギルデロイ・ロックハートはホグワーツ魔法魔術学校にて、『闇の魔術に対する防衛術』担当教授職をお引き受けすることになりました!」

 

 拍手喝采。

 そして絶望。

 『望み』が『絶たれる』と書いて『絶望』

 その二文字が脳裏に浮かび、ロックハートのアンダルシアを照らす太陽より目映い笑顔とともに弾けて紙吹雪が舞った。

「今年も大変そう……」

 ダフネがそんなことをつぶやく。

 確かに大変そうだ。去年は自称『吸血鬼に襲われた』先生が、今年は『吸血鬼とクルージングした』……クルージング? 意味が分からずタイトルを見直して『バッチリ船旅』の文字を再確認。船旅である。つまりクルージング。表紙の背景には豪華客船が映っている。

 表紙をめくって目次を見たが序章の『アンダルシアの波止場にて〜あの太陽に乾杯!〜』で本を閉じた。

「お、お会計済ませてきますね……」

「僕のお古いらない?」

「遠慮しておきます。新品でしょうそれ」

「おや本当だ。おったまげた」

 家に帰りたい、今年の先生も大丈夫ではなかった。

 ハーマイオニーまで壊れたらもうホグワーツはおしまいだ。

 つまりもうどうしようもない。なるようになれ。

 登校前から嫌だなあと思いつつロックハート祭りの特設コーナーから教科書を見つけ、レジを探す。

 この大混雑の中どうやってレジへ行こう。

 かき分けるにも一苦労しそうだ。

 どこにレジがあったか思い出そうとしているうちにハリーもこちらに来ていた。

 すでによれよれでプレゼントの全巻セットが重そうだ。

 そこへ一番面倒くさい男が参上する。

「いい気持ちだったろうねぇ、ポッター?」

 目立ちたがりで負けず嫌いで彼だ。

 声だけで機嫌が悪いと分かる。

「有名人のハリー・ポッター。ちょと書店に行くのでさえ、一面大見出し記事かい?」

「ほっといてよ。ハリーが望んだことじゃないでしょ!」

 ロンの横にいた赤毛の女の子が言い返した。

 髪色と背丈からしてロンの妹だ。

「ポッター、ガールフレンドができたじゃないか!」

 マルフォイがねちっこく言った。

 それで言えばあなたはパンジーとダフネとミリセントにクラッブとゴイルもガールフレンドになりますよ、という呟きは日本語で済ませた。流石に英語では無理だ。命が惜しい。

 ロンの妹はドラコの挑発で顔と髪の区別がなくなっている。

 人混みから抜けて輪に混じっていたミリセントとハーマイオニーとロンのお母さん……どういう組み合わせ? 大事故があっちでもこっちでも起きている。

「なんだ、君か」

 ロンはもう疲れ切って寝不足のブルドッグみたいな表情。

 とんでもない変顔だと勘違いしてドラコの眉間にシワが寄る。

 誰かこの状況を止めて。

「僕も君がこの店にるいのを見てもっと驚いたよ、ウィーズリー」マルフォイの暴言ラッシュが始まった。

「そんなにたくさん買い込んで、君の両親はこれから一ヶ月は飲まず食わずだろうね。まあ普段口にしてるのもおが屑とドブ水だったか、なら心配するだけ損かな」

 

 ――給料日はネズミかフクロウの餌かい? 

 

 ……とも付け加えて。

 顔は笑っているが内心で腸煮えくりかえっているときの勢いだ。

 流石にキレたロンとその妹をハリーとハーマイオニーが後ろから押さえ、ミリセントはずんずんこっちへ来た。ターゲットは私だ。

「ロン!」

 ロンのお父さん――判断基準は見た目の年齢と髪の色――が、フレッドとジョージと一緒にこちらに来ようと人混みと格闘しながら呼びかけた。

「何してるんだ?ここはひどいもんだ。早く外に出よう」

 本当にひどい。

 私だけでも早く外に出させてください。お会計まだなので無理ですね。

 ダフネはパンジーを連れてちゃっかり店の外へ移っていた。

 流石の判断力である。

「これは、これは、これは――アーサー・ウィーズリー」

 ついにマルフォイ氏も参戦してしまった。

 ドラコの肩を蛇頭の柄で抑え、息子そっくりな微笑を浮かべて立っていた。

「ルシウス」

 ロンのお父さんは首だけ傾けてそっけない挨拶をした。

 息子たちが不仲なら親同士でもその通りであった。

 まあ二人ともいい大人、流石に取っ組み合いはならないか。

 最悪、私が身を挺して(色々知らないフリをして)割って入ろう。

「お役所は忙しいらしいですな。あれだけ何回も抜き打ち調査をなさっておられれば……残業代は当然払ってもらっているのでしょうな?」

 マルフォイ氏はジニーの大鍋に手を突っ込み、豪華なロックハートの本の中から、使い古しの擦り切れた本を一冊引っ張り出した。私も持っている「変身術入門」だ。

「どうもそうではないらしい。なんと……ファッジは君の仕事に些かの敬意も持ち合わせていないようだ。実に、実に嘆かわしいことだ。魔法界いちの汚れ仕事を引き受けた甲斐がないのではありませんかな?」

 はてさてなんの仕事だろう。

 吸血鬼、人狼、あるいはもっとおぞましい生き物を管理しているのだろうか。

 この世に吸血鬼より下等な生物もいないだろうけれど。

 ウィーズリー氏はロンやジニーよりももっと深々と真っ赤になった。

「マルフォイ、魔法界の汚れ仕事がどういう意味かについて、私たちは意見が違うようだ」

「さようですな」

 マルフォイ氏の薄灰色の目が、ロックハートと和やかに会話している夫婦に移る。身なりを見るにマグルで、状況的にはハーマイオニーのご両親か。娘が大ファンの作家と話せてご機嫌なようだ。

「しかし、魔法界にあまりご友人がいらっしゃらないところを察するに……どうやら私の意見が世の多数派と言わざるを得ませんな」

 やはりドラコのお父上なだけはある。

 嫌み一つでもいちいち正論で言い返そうにも言い返せない。

 やっかみや不快感をひた隠して上品に振る舞っているだけに、ここで手を出せば負けだ。

 口喧嘩とはそういうものだとお母さんもよく言っていた。

 負けたら「喧嘩売ってるのか」と殴りかかるのが学生時代のお母さんでもある。

「おやスミレくん、今年は一人かね?」

 そして勝ち逃げした。

「お久しぶりですマルフォイさん。叔父さんはいまアメリカです。両親も仕事が忙しくて」

「息災なようで安心した。私はこれから少々野暮用があるので、これで失礼する。アーサー、ではまた後日、魔法省で会おう」

 この微妙な空気の中に私を置いていかないで欲しい。

 顔がぼーっとしているから気にしていないと思ってるのだろうか。

 店の外から「はやく来い」と呼ばれて、ドラコもロンと妹を鼻で笑い、ハリーとハーマイオニーには目もくれずに出て行った。

「なにぼーっとしてロックハート様の本抱えてるのよ。そこ並んで。サイン貰ってきなさい」

 空気を読まずにミリセントが私の腕を掴む。

 去年よりパワーが増している。

 気まずい雰囲気を吹き飛ばそうと、ロンのお母さんも過剰なほど元気だ。

「さあさあ、今なら列も空いてきてるわ。ほらジニーちゃんも。ロン、あなたも一緒に並ぶんですよ。お兄さんなんだから妹のあと、いいわね。フレッド! ジョージ! 折角のサイン会なのにどこへ行くんです!」

「折角だからお友達も呼んであげれば?」

 機嫌が良すぎて頭のネジが焼き切れているハーマイオニーの提案に、テンションが上がり脳神経が故障しているミリセントは頷いた。「ダフネ! パンジー! アンタたちもこっち並びなさいよ、サイン貰ってないでしょ!」と呼ばれた二人の顔は死んでいた。

 南無阿弥陀仏。

 南無妙法蓮華経。

 アーメン。 

 ソーメン。

 塩ラーメン。

 このあとお昼ご飯どうしよう。

 ちょっと本格的にお腹が空いた。

 そんなことを考えて、心を無にして新たな『闇の魔術に対する防衛術』担当教授、ギルデロイ・ロックハートの前に立つ。




 この章では原作よりルシウス・マルフォイが活躍するっていうか原作で『預かり物の分霊箱ロスト』『スリザリンの秘密兵器喪失』『秘密の部屋バレ』『グリフィンドール生専用の対分霊箱破壊兵器が爆誕』とやらかし倒してるとかそういう悪口やめなさい。
 次回はホグワーツ特急と入学式です。


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呪いのアイテム

 今回は短めです。


 ホグワーツ特急がキングズ・クロス駅を出て一時間。

 ロンドンの街並みを抜けて、徐々に窓の外の景色がのどかになっていく。

 客車の中は賑やかだ。

 大体は夏休みどうしていたかという話で、成績のことにはなるべく触れない。

 私は旅行も成績も話題がなかった。ずっと家でゴロゴロしていたからだ。

 日本のじめっと湿った空気すら懐かしいし、友達はみんな都会に行ってしまった。

 残っているのはあまり交流のなかった魔法使いの子ばかり。

 魔法の話をしたくないので家から出なくなっていた。

 他の四人はそれぞれ色々なところへ旅行したそうだ。

 どこも聞いたこともない土地ばかりで反応に困ったが、適当に微笑んで誤魔化した。

 ドラゴンを見にルーマニアへ行ったとか、魔法界では有名なバンドのライブに行ったとか。

 CD聞いて鼻歌歌ってたなんて言えない。

 さらに、ドラコはついこの前の話題を出した。

「今年の成績がよければ、父上が『ボージン・アンド・バークス』でなんでも欲しい物を買ってくださるんだ。最近はなかなか首を縦に振ってくださらなかったから楽しみだよ」

「いいなあ。お爺様は私があそこに行くのはまだ早いって。みんな行ってるのに、お店の場所も教えてくださらないのよ」

「私もあそこで色々見て回るの好きなんだ。もう何年も行ってないけど、夏休みの間にまた行きたいなあ」

「その『ボージン・アンド・バークス』というのは古物屋さんですか? ダイアゴン横町にはなかったと思いますが」

「なんだ、アオイはそんなことも知らないのか。叔父上から聞かなかったのか?」

「叔父さんは食事以外の寄り道が嫌いな人なので。古物にも興味ないですしね」

 うちの家系はみんな買い物に掛ける時間が短い。

 買うものを事前に決めて、リストの商品を揃えたらすぐに帰ってしまう。

 ダフネも行くような店となると由緒正しい名店なのだろうか。

 ドラコは「お前も安物なら一つくらい構わないとおもうよ。ま、そこは今後の振るまい次第だな」となにやら鼻を高くしている。

 とりあえず「それはどうも」と笑顔を返しておいた。

「『ボージン・アンド・バークス』っていうのは『ノクターン横丁』にある曰く付きのインテリアだけ扱ってるお店なの。魔法界でもあそこより品揃えのいいところはないし、品質もいい老舗よ」

「特に最近は闇の物品が多く集ってる。この前だって『栄光の手』があったんだ。これなら来年の夏には宝の山が出来てるぞ」

「曰く付き……って言うと、呪いのネックレスとかですか?」

「そうそう。流石に刃物とか棘がついてるのは危ないから買ってもらえないけないけど、やっぱり手元にあるってだけでもステータスよねぇ」

 パンジーのうっとりした顔である。

 色々な場面で感性が違うなと思うことは多々あった。

 その中でもこれほど理解しがたいのは今日が初めてだ。

 ドラコが言っていた『栄光の手』も、確か人間の手の屍蝋だったはずだ。

 買ってもらってどこに飾る気だったのだろう。聞くのも怖い。

 ダフネすら『鉄の処女』や『ギロチン』は華があっていいと言う。

「なのに魔法省の連中と来たら! 毎週毎週抜き打ち検査であれこれ没収しようとする!」

 没収して当然だと思う。

 ドラコたちには悪いが、こればかりは私も魔法省側だ。

 そんな危ないものが民間人の元にあるのはよろしくない。

 この空気で言うのは命懸けだけれど。

 ただ、ずっと聞き手だとドラコがどんなキラーパスを放ってくるか分からない。

 とびっきりのネタを披露するいい機会でもある。

「私の家にも似たようなモノがありますよ」

「へえ、そっちにもあるんだな。どんな品だ?」

「掛け軸と聞いています。お姫様の見返り図だとか。ただ、その顔がたまに笑うんです」

 道具自体は話せばたったそれだけの内容だ。

 ドラコは吹き出し、パンジーは唖然、ダフネは苦笑している。

 魔法界の写真や絵はもっと動く。たかが顔の表情一つ、怪談でもなんでもない。

 しかし、これで終わるならどれだけよかったか。

「その絵を描いたのはマグルです。魔法は使われていません」

 件の掛け軸は魔法と無縁の品。

 タネも仕掛けもないのに笑う。

「『その絵が笑うと不幸が起きる』……そんな言い伝えがありまして。実際、持ち主の長男は幼くして発狂。養母も間もなく病死しています」

「大した話でもないな。よくあるネタだよ、呪いの仮面でもなんでも置き換えられるありきたりな設定だ」

「そうですね。ただ、この発狂した長男というのがさっき言った『幽霊屋敷』の元凶なんです」

「掛け軸に呪われて、おかしくなった……それで家族をみんな?」

「ええ。お婆ちゃんはそう考えていました。この話の面白いところはですね、呪いの掛け軸が幽霊屋敷の悪霊を生み出しただけじゃないんです」

「まだあるのか……?」

 ドラコも少し怯んでいる。

 いい調子だ。

「掛け軸の最初の持ち主は田舎の炭鉱王でした。あるとき炭鉱で火事が起きて、たくさん人が亡くなっています。それ以来、彼の屋敷には事故死した坑夫の霊が出て、恨み言を言うんです」

 

 いたるところに石炭がある炭鉱で火がつけば、消すのは不可能だ。

 鎮火するには炎上している坑道を封鎖。酸素を断つしかない。

 逃げ遅れた人たちはみな、閉ざされた炭鉱の中で生きたまま焼かれ命を落とした。

 ならば怨まれても仕方ないものがある。

 

「この炭鉱王は後に家族を手にかけています。自らに火を放ったと記録がありますが、こういうときって油をかぶるものなんです。彼はマグルですから魔法は使えません」

 

「しかし油の痕跡がどこにもない。しかも、炭鉱王の身体にはなぜか石炭の燃えかすがあった。先に殺されたはずの妻子も、生きたまま石炭で焼かれていた。刀で斬られても生きていたんです」

 

「この無理心中で炭鉱王の家は途絶えました。彼の持っていた掛け軸は別の富豪のものとなり、その家の長男を狂わせた。この長男は『床下の人』が自分に「殺せ」と囁くと訴え、家の一室に閉じ込められた」

 

「日本の古い建物は通気性を確保するため、軒下があるんです。人が這って入れるくらいの隙間です。長男は皆が寝静まったのを見計らい、床板を外して軒下から部屋を脱出して家族を襲った。その家は数年後、売りに出されてある夫婦が買い取りました」

 

「この夫婦も資産家で、親に捨てられた赤ん坊を何人も引き取っていたんです。でも家に赤ん坊の姿はまったくない。親戚や友人に預けた、と夫婦は説明していました」

 

「どんどん赤ん坊を引き取り、同時に家から漂う異臭にご近所も悩み始めます。ついに誰かが警察に通報して、夫婦は赤ん坊を引き取ってすぐに殺し、床下に埋めていたと判明したんです」

 

「逮捕された夫婦もまた、『床下から聞こえる声に命令された』と供述しました。見つかっただけでも十人を超える赤ん坊が犠牲になったとか……その後、この家は不吉だからと取り壊されました」

 

 言い切ると同時に青ざめた顔のパンジーが叫ぶ。

 これも予想通りだ。

 私一人だけ盛り上がり、ダフネまで冷や汗をかき始めている。

 

「取り壊されたって、じゃあアンタの家にあるカギはなんなのよ! 話がめちゃくちゃじゃない!」

 

「まあまあ、すぐに分かりますから。そのあと戦争で辺りはみんな更地になりました。そこから、復興のために区画整備をして新しく住宅街を作ったんです。当然ですが、新しくやってきた人々はこれまでの嫌な出来事なんて知りません」

 

「さて。ここであるご家庭の娘が都会から実家に戻ってきました。結婚のためです。戦争以前からの名士の家に嫁ぎます。夫は立派な若者で評判でした」

 

「その夫が今度は奥さんを……?」

 

「いえ。結婚式が終わって家に帰ったら間も無く、花嫁の母親が自殺したんです」

 

 その母親は『赤子の声がする』と訴え、ノイローゼ気味だった。

 しかし近所に赤ん坊などいない。

 友達すら疑い始め孤立していたところへ首吊り自殺。花嫁は後に離婚し、父親とともに土地を離れてしまった。

 

「ね、ねぇスミレ。もしかしてその赤ちゃんの声って、まさか床下から……?」

 

「そうですよダフネ。どうも娘さんは都会で悪い男に騙され、おまけに妊娠していた。慌てて連れ戻し、中絶して、バレる前に適当な家へ押し込めようとしたのでしょう。そこへ資産家夫婦に殺された赤子の霊が現れ、勘違いの果てに命を絶った」

 

 さらに、この地域には他にも『床下がゴミまみれの家』『放火未遂を繰り返す少年』『床下の猫に話しかける老婆』がいると話し、締めに入る。

 

「怪談が怪談を生み、増殖する。これこそ最強の怪談でしょう。そのせいでしょうか。話すだけでも、聞くだけでも祟りがあると言われています……まぁ私も元気ですから大丈夫ですよ。お婆ちゃんも死ぬまでずっとパワフルでしたし」

 

 三人とも大きく息をついた。

 私が元気かはさておき、祟られた人間はいない。

 それを聞いて安心したようだ。祟りがあると言ったときの、この世の終わりみたいな顔から一転して余裕と安心に満ち溢れている。

 ダフネとパンジーはもう言葉も出ない様子だ。

 ドラコも声が少し震えている。

「長いなりに、そ、そこそこ面白かったよ。海外の本格的な怪談は初めてだけど、これくらいならイギリスにも掃いて捨てるほどある。君にも今度聞かせてやるよ」

「それは楽しみです。まあイギリスの建物は軒下がないですから、祟ろうにも幽霊が入り込む隙間なんてありませんしね」

「そう! そうよ! よく考えたらホグワーツにも家にもそんな換気用の床下スペースなんて――」

「あ。でもホグワーツのベッドは、下に人一人分くらいの隙間がありましたね」

「そうだったかな? ぼ、僕はブレーズに借りていた本を返してくるよ! すぐ戻るから気にしないでくれ!」

 今度こそ青ざめたドラコはコンパートメントを飛び出し、周りを押しのけて逃げていった。ダフネに至っては泣き出す寸前だ。そんなに怖かったのか今の話は。

 やりすぎちゃった。

「まあ、どれも関係ない土地の話なんですけどね。事件自体も似たようなものがいくつもありますし」

「そ、それもっと早く言ってよ……私、二度とホグワーツで寝られなくなるところだったのに……」

「まさかこんなに怖がるなんて思いませんでした。あとでドラコに謝らないと……その前にこちらですね」

 私の隣ではパンジーが涙を流して気絶している。

 我慢の限界に達っしてしまったようだ。

 どうしようかな。ロックハート教授なら上手く盛り上げてくれそうだけれど、あの人を連れてくるのが大変そうだ。それにファンが押しかけてくるのも困る。

 仕方がないので、起きるまで手を握ってあげることにしよう。

 どのみち気づいてないだろうけれど。

 そのくらいは、流石にしないと良くない気がした。

 

 あの怪談の一番怖いところは、実は『増殖する』ところよりも『関係ない土地なのに大元は同じ』という点である。

 

 しかし今までこの本当のネタばらしにたどり着いたことはない。

 

 今回も失敗してしまったのがとても残念だ。




 怪談の元ネタは『残穢』です、少しアレンジを加えてますけど。

 歓迎会はカットして、次回は翌朝からスタートします。


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ギルデロイ・ロックハート

 今回は長いですよ。
 朝食~ロックハートの初授業です。


 翌朝、スリザリンのテーブルはある話題でもちきりだった。

 昨日、新入生の歓迎会の最中のことだ。

 前年度に『賢者の石』を守ったハリー・ポッターとロン・ウィーズリーがとんでもない騒動を起こしたのだ。それも憎きグリフィンドールの、特に憎い二人とあって大いに盛り上がっている。

 ホグワーツ特急に乗り損ねた二人は、あろうことかロンの父親の空飛ぶ車を盗んで学校まで乗りつけ、挙句に貴重な『暴れ柳』という古木に傷を負わせた。

 しかも複数名のマグルが空飛ぶ車を目撃し、記憶を削除するため魔法省は大慌てで忘却術師を出動させる大事件に発展。これが『日刊預言者新聞』の一面大見出しとなり、翌朝には全校生徒の知るところとなった次第である。

 危うく魔法界の存在が明るみに出る寸前だった。

 古木の損傷だけでも重い処罰は免れ得ないところを、魔法省まで巻き込んだ事態に発展してしまっている。

 そして翌日。生徒は誰もが二人の退校処分を確信していた。

 が、学校は厳重注意と重い罰則を課したに留まった。

 その証拠にハリーとロンが朝食の席に堂々といるのだ。

 ドラコが大声で――二人によく聞こえるようにという彼なりの『気遣い』である――当事者を罵倒する一方、別のところを気にしている生徒もいた。

 スリザリンでも貴重な優等生、ダフネ・グリーングラスは空飛ぶ自動車そのものを問題視していた。

「……ねえ、マグルの自動車って空は飛べないよね?」

「ええ。車が空を飛ぶなら飛行機は必要なくなります」

「やっぱり魔法で空を飛べるようにしてたんだ。スミレは知らないかもしれないけど、こっちだとマグルの製品に魔法をかけるのは法律違反なの。それを取り締まる局が魔法省にあるくらい問題視してる」

「なるほど。つまりウィーズリー氏が非難されているのは、役人にも関わらずその法律を破って今回の騒動のきっかけを作ったから、ということですね」

 ダフネは頷き、さらに付け加える。

「しかもマグル製品不正使用取締局のトップがアーサー・ウィーズリー、そこの赤毛の父親。『聖28一族』の恥さらしよ。もしかしたらチェンジリングで取り替えられたマグル生まれかもしれないけど」

 普段の大人しい雰囲気が嘘のような辛辣さ。

 どうしたんですか、と尋ねるのもはばかられるほどダフネの言葉は厳しい。

 書店でルシウスの言った『魔法界いちの汚れ仕事』とはマグルの品を相手にすること。

 純血を誇るスリザリンにしてみれば「マグル生まれじゃないか?」と言われるのは耐え難い屈辱だろう。ドラコや他の生徒ならいざ知らず、ダフネが口にするほどアーサー氏の評判が悪いことにスミレは問題の根深さを再認識した。

 パンケーキをナイフで切り分けながら「それより校長のグリフィンドール贔屓が私には気になりますね」と返す。

「ううん、あれは絶対にポッターがいるからだよ。だって従兄に聞いたら私たちが入学する前はあんな駆け込みで大量に加点しなかったって言ってたし」

「では今年のクィディッチはブラッジャーの活躍に期待しましょう。あの殺人暴れ玉がキッチリトドメを刺してくれれば問題は解決です」

「スミレって澄ました顔でサラッとひどいこと言うんだね……」

「冗談のつもりだったんですが」

「ならせめて作り笑いしなきゃ。真顔じゃ誰も冗談だと思わないよ?」

 こうですか、と指で口の両端を上へ押し上げる。

 不格好な笑顔にクスクスと笑うダフネ、それを見ながらパンケーキを食べるスミレ。

 いつの間にかスミレの左右に座っていたヘスティアとフローラがいそいそチーズとトマトを皿に載せてスミレの前に並べる。

 変な教授はいるが賑やかな初日だ。

 フクロウ便が手紙や新聞を届けに来る朝食の席。

 今年は何事もなく終わりますように、とダフネは心の中で祈った。

 しかし一通の手紙がすべてぶち壊していく。

 

 

「ロナルド・ウィーズリー!!!!」

 

 

 なにかが爆破したのかと思うほどの衝撃。

 震動で天井からパラパラと埃が舞うほどの声で吠えたのは手紙だった。

 ウィーズリー夫人の怒り狂った声が反響し、壁際にあるスリザリンのテーブルはぐわんぐわんと頭の中までかき回されるほど凄まじい。

 

「――車を盗むとはなんてことです!!」

 

 全校生徒と全教職員はその一言ですべてを察した。

 生徒は『吼えメール』の内容を聞き届けるのに――誰も示し合わせることなく――黙りきっていた。

 

「……まったく愛想が尽きました。お父さんは役所で尋問を受けたのですよ。みんなおまえのせいです。今度ちょっとでも規則をやぶってごらん。わたしたちがおまえをすぐ家に引っ張って帰ります」

 

 文面を読み上げ終えると手紙は発火して燃え尽き、ロンのオートミールの上に出来たてアツアツな灰のトッピングを加えた。

 夏休み中お世話になった夫妻に申し訳ない気持ちで胃が焼き切れてしまいそうなハリー。

 あまりの恥ずかしさで今すぐにでも『姿現し』でどこかへ逃げてしまいたいロン。

 そして冗談も愚痴も出てこないパーシー、フレッド、ジョージ、ジニー。

 そこへドラコが追い打ちを掛ける。

 

 

「一週間後には君たちともう会えなくなるなんて残念だよ。まあフィルチはタチの悪い生徒が二人も減って喜ぶんじゃないか?」

 

 

 入口の脇で、心底嬉しそうに頬肉を歪ませている管理人がすべてを物語っていた。

 爆笑の渦に包まれるスリザリンのテーブルに対し『吼えメール』だと盛り上がっていたグリフィンドールのテーブルは静まりかえっていた。

 この二人が一週間も校則違反せずにいられるのか、誰もが不安でならなかったからだ。

 

 

 ホグワーツでの生活が始まった。

 今年最初の『魔法薬学』はレイブンクローとの合同で、するとスネイプ教授の贔屓は嘘のようになりを潜めた。

 どのみちスミレはパンジーに火加減の調整を注意し、ミリセントに材料を加えるタイミングを確認させ、クラッブとゴイルには文章の意味をこんこんと説き、セオドールには鍋の中身を混ぜる回数を教えている。

 そのため自分の魔法薬は大した出来映えにならない。

 当人は「まあいいや」と気にしていないので周りも頼りっぱなしである。

 一方、他の授業では地味で目立たない。

 ハーマイオニーに比べれば『呪文学』での成果も微々たるものだ。

 たまに暇なロックハート教授が授業の見学に現れ、先生方をイラつかせながら自慢話を披露しているうちに金曜日がやってきた。

 今年の『闇の魔術に対する防衛術』は金曜日にグリフィンドールと合同で行なう。

 スミレは廊下ですれ違ったフローラとヘスティアに授業の内容を聞いていた。

 

「教授の自伝を読むだけですわ」

 

「教授の自慢を聞くだけですわ」

 

「それ授業なんですか?」

 スミレ以上に無表情な二人がうんざりした顔を見せた。

 それだけでも冷や汗ものである。

 しかし彼は女子から人気が高い。

 教授陣の中でも若くハンサムでオシャレだ。

 双子はスリザリン以外の男子の中にも少なからず信奉者がいると嘆いている。

 教科書の『狼男と大いなる山歩き』で、電話ボックスに追い詰められて絶体絶命の状況を、腕っ節と天才的な閃きで切り抜ける場面が受けてしまったらしい。

「コリン・クリービーというマグル生まれがいますの」

「魔法のことなどなにも知らないただのカメラ好きが」

「まさか授業の最後に教授の撮影会が始まるだなんて……」

「今すぐにでも昨年の教授を呼び戻して欲しいですわ……」

「……大丈夫なんですかねその子は。将来詐欺に引っかかりそうですよ」

 重ね重ね『賢者の石』を作り直すべきでは、とスミレは思う。

 クィレル教授の死はホグワーツにとって大きな損失だった。

 コリン・クリービー少年についても、顔も知らないグリフィンドールの新入生だが、今から将来が不安になってしまう。

 ……これが最初の報告だった。

 ハッフルパフのジャスティン・フィンチ・フレッチリーという礼儀正しい男子から情報を得たシェーマスもスミレに話しかけてきたのだ。

 普段はスミレをドラコの取り巻きと認識して嫌っていたが『背に腹は替えられぬ』と腹をくくったようだ。

 スミレからすればいい迷惑である。

「ハーマイオニーがいれば大丈夫と思ってたけど、彼女アイツにどっぷりなんだよ。ロンは杖が折れて役に立たないし、ネビルは……分かるだろ?」

「そちらにはハリーがいるでしょう。なんだって私にそんな面倒くさいことを……」

「ダメだ。ロックハートのやつハリーのことを気に入ってて隙があったら絡みに行くんだよ。『有名虫』がなんとか言ってベラベラうるさくってさ」

「知りませんよ……ロンのお兄さんになにか役立つモノでも売ってもらえばどうです? それで保険には十分じゃないですか」

「相手は『闇の魔術に対する防衛術』の教授だ。イタズラ道具ぐらいでどうこうなると思うのか?」

 思いませんが私は減点されかねないことはしません、と協力ならぬ共犯関係を求めてくるシェーマスを撤退させてもまだ止まらない。

 面倒見がいい性格だと学年に知れ渡ってしまっている。

 あのクラッブとゴイルに文章の意味を教える変人は彼女だけだ。

 金曜日当日の朝には、双子の妹から授業での大惨事について教えられたパーバティが「隣か後ろの席に座ってもいい?」と聞いてくる始末。

 妹のパドマ・パチルはレイブンクロー生で、ハッフルパフと合同でスリザリンより先に授業を受けていたのだ。

 よほどの事故があったようだがスミレは追及せず「お好きにどうぞ」と頷いておいた。

 ハーマイオニーがロックハートファンとなったことでグリフィンドールには不安が広がっている。

 スミレも授業の前からサボろうかとばかり思っていた。

 あらゆる学年の生徒が寮を越えて情報を交換し合う中、なにも知らない――あるいは知らされていない――ファンたちのボルテージが静かに上昇していくのを肌で感じながら、ついに運命のときが訪れる。

 

 教室はクィレル教授のときと様変わりしていた。

 天井からドラゴンの骨格標本が吊るされ、あの強烈なニンニク臭さはない。その分だけ教授が胡散臭くなった。

 他は去年と同じく人数分の机と椅子が並び、ロックハートの肖像画や写真が飾られている。

 興奮に頬を赤くする一部の女子たちに対し、大半はどんどん覚めていく。

 南極と南国が隣接しているような雰囲気などいざ知らず。

 颯爽と現れたロックハートは教授室の扉の前でまずはにかんだ。

 綺麗に整列した白い歯がきらんと光った。

 

 堂々とした足取りで階段を降りると、ネビルの持っていた『トロールとのトロい旅』を取り上げ、表紙を掲げる。

 

『トロールをステーキにしたヤツの前でよくやるよ』

 

 ロンの寄越したメモにハリーは噴き出しそうになった。

 パンジー・パーキンソンの席が離れているのがとても残念だった。

 

「皆さん――私です」

 

 表紙の写真と本人が同時にウインクした。

「ギルデロイ・ロックハート。勲三等マーリン勲章、闇の力に対する防衛術連盟名誉会員、そして、『週間魔女』で五週連続『チャーミング・スマイル賞』を受賞――ですが、この話は置いておきましょう。バンドンの泣き妖怪バンシーをスマイルで追い払ったわけじゃありませんからね!」

 彼なりの気を利かせたジョークだったが、教室内の温度差が広がるだけだった。

 寒すぎて顔の筋肉が凍っている気すらしてくる。

 スミレの隣にいるパンジーは窓の外を眺めている。

 スリザリンで真面目に話を聞いているのは一人だけ。

 サイン会で大はしゃぎだったミリセント・ブルストロードだ。

 グリフィンドール生はハーマイオニーの他、ラベンダー・ブラウンも夢見る乙女の顔でロックハートの言葉を噛み締めていた。

 噛み締めるほどの厚さがあるかはさておき。

 

「全員、私の本は勿論揃えていますね? そして当然一、二冊くらいは読み終えている事とは思います。そこでまずは簡単なミニテストを実施します。心配ご無用! 君達が私の本をどれくらい読んでいるかをチェックするだけ。満点を取れて当たり前のテストです!」

 

 そう言って答案用紙を配り始める。

 確かに教科書は娯楽的なものだったが『どのようにして敵を打ち倒したか』は描写されていた。

 そこから闇の生物に対処する手段を学ぶのか――誰もが一瞬、好意的な捉え方をして、間も無く打ち砕かれる。

 最初の問題で、彼がまともな人間でないと気づかざるを得ない。

 

 

「さあ、制限時間は三十分。始め!」

 

1.ギルデロイ・ロックハートの好きな色は何?      

 

2.ギルデロイ・ロックハートのひそかな大望は何?

 

3.現時点までのギルデロイ・ロックハートの業績の中で、あなたは何が一番偉大だと思うか?

 

 こんな調子の問題が裏面までビッシリだ。

 大半の生徒はもはや答えを書き込む気力すら奪われ、体面を気にしたネビルや数名だけはそれらしい答えをでっち上げてなんとか空欄を残さなかった。

 最前列にいるハーマイオニー、ラベンダー、ミリセントの三人だけが顔を用紙にキスしかねないほど近づけてペン先を走らせていた。スミレは分からないフリをして寝ていたし、授業態度には気をつけているダフネすら夕飯はなんだろうと考えている。

 試験開始から三十分後。

 時間となり、答案を集め終えると、ロックハートは大袈裟に首を左右に振った。

 それでも笑顔を忘れないのはある意味プロだ。

「おっとっと――私の好きな色はライラック色だということを、ほとんど誰も覚えていないようですね。『雪男とゆっくり一年』に書いてありますよ。『狼男との大いなる山歩き』をじっくり読まなければならない方も何人かいるようだ。第十二章ではっきり書いているように、私の誕生日の理想的な贈り物は、魔法界と非魔法界のハーモニーです!」

 ロンは意識を異次元に飛ばそうと必死だった。

 ディーンとシェーマスは笑いを圧し殺すのに必死で、最前列で一人だけの男子ネビル・ロングボトムはこれがどう授業に関係あるのか分からずにいる。

 そしてやはり最前列の四人で自分だけ名前が呼ばれず、落ち込んだ。

「……ところが、ミス・ハーマイオニー・グレンジャーは、私のひそかな大望を知ってましたね。この世界から悪を追い払い、ロックハート・ブランドの整髪剤を売り出すことだとね――よくできましたそれに――」

 ロックハートは次の答案用紙を見た。

「それにミス・ラベンダー! 誕生日プレゼントがオグデンのファイヤー・ボトル・ウィスキーであればお断りしないことをよくご存じでした! 実に素晴らしい! 『鬼婆とのオツな休暇』をよく読んでいます!」

 満点でもないのに――と悔しがるハーマイオニーと、年季が違うのよと鼻を鳴らすラベンダー。

 ハリーは今すぐにでもスネイプにこの科目を担当して欲しくなった。

 いっそハグリッドの――飼うだけで命懸けな――ペット自慢の方が有意義な気がし始めた。

「そしてミス・ブルストロード! なんと私の杖がサクラとドラゴンの心臓の琴線、22.5センチであることを知っているのは全学年であなただけでした! 『週間魔女』で三度目にチャーミングスマイル賞を受賞したときのインタビュー記事を覚えているとは!!」

 スミレは今にも泣きそうだった。

 まさかあのロックハートと杖の木も素材も同じである。

 オリバンダーの言う『運命的な出会い』がこれなら運命の女神は即刻廃業すべきだ。

「三人ともすばらしい! それぞれに一〇点ずつあげましょう!」

 これほどありがたみのない一〇点はホグワーツ史上初だろう。

 ドラコも嫌みがまったく思いつかない。

 自分の知性がクラッブやゴイルと並んでしまったような危機感を覚えた。

 そんな生徒の懸念は露知らず、ロックハートは机の後ろにかがみ込んで、覆いのかかった大きな籠を持ち上げ、机の上に置いた。

 杖を抜いて神妙な面持ちになる。

 なまじ二枚目であるから、どんな表情も様になる。

「さあ――気をつけて! 魔法界の中で最も穢れた生物と戦う術を皆さんに授けるのが、私の役目です! この教室で君たちは、これまでにない恐ろしい目に遭うことになるでしょう。ただし、私がここにいるかぎり、何物も君たちに危害を加えることはありません。落ち着いているよう、それだけをお願いしておきましょう」

 スミレがパンジーにメモを投げた。

 

『それ吸血鬼の前で言います?』

 

 笑っていいのかいけないのか、とことん判断に困る。

 だがロックハートの授業よりはセンスがあった。

 

 籠は藤色の覆いで中が見えない。

 だが生き物が閉じ込められているのは確かだ。

 しきりに甲高い鳴き声が聞こえ、籠をガタガタと揺すっている。

 誰もが息を飲んでじっと籠を見つめる。

 

「どうか、叫ばないようお願いしたい――」

 芝居がかった口調と大仰な身振り手振り。

 なにより緊迫した面持ちに、誰もが引き込まれていた。

 マクゴナガルの厳格さ、スネイプの威圧感、そのどれとも違う鎮め方だった。

 世に名高い若き冒険家がここまで警告するのだ。

 どんなにおぞましい生物が飛び出すかと身構える中、ロックハートは覆いを剥ぎ取った。

 

「連中が興奮してしまいますので――!!」

 

「捕らえたばかりのピクシー小妖精です!」

 シェーマス・フィネガンはこらえきれずにプッと噴き出した。

 ロックハートはめざとくシェーマスを見つける。

「どうかしたかね?」

「コーンウォール地方のピクシー小妖精ですよ?」

 群青色の肌に顎と耳の尖った、お世辞にも愛らしさからは程遠い見た目だ。

 しかし少々不細工なだけでどこも恐ろしくない。

 これなら薬草学で鉢植えをしてやった幼いマンドレイクはよほど危ない。

 アッカンベーをされてドラコのこめかみに青筋が立ち、自分を横目に見ながらナイショ話されたブレーズも少し気分が悪い。

 そんなスリザリンの様子もあってシェーマスは噴き出す寸前である。

 教授が苦笑しながらたしなめるのも余計にツボだった。

「おやおやフィネガンくん! 彼らを侮っていますね? では結構、君たちがどう扱うか――お手並み、拝見!!」

 言い終わると爽やかに白い歯を輝かせ、予告もなしに籠を開け放った。

 寿司詰め状態のピクシーたちが雪崩を打って教室へ解き放たれる。

 失笑と興奮は悲鳴へ生まれ変わった。

 誰も彼も見境なく襲いかかる羽の生えた邪悪の化身、ネビルは不運にも数匹がかりで持ち上げられシャンデリアに吊されてしまった。

 教科書が宙を舞いネビルの鳴き声が頭上から聞こえ黒いインクが降り注ぐ。

 生徒も手で払ったり教科書で吹き飛ばして応戦するがキリが無い。

 特に学年で一番髪の長いスミレは執拗にストレートヘアを弄られていた。

 が、掴んだピクシーの指を一本一本折り始めていた。

 無表情、無感情、無反応でポキン――ポキン――と。泣き叫ばれるのもお構いなしだ。

 丁寧に丁寧に手脚の指を逆方向に曲げて骨を折り、頭をインク瓶にねじ込んで窒息させる。

 あまりの恐ろしさにピクシーたちがスミレを避けて動き始める。

「さあ、捕まえなさい。たかがピクシーでしょう――」

 ロックハートも踊り場から叫んだ。

 生徒の阿鼻叫喚に腕まくりをして杖を振り上げ「ベスキビクシベステルノミ!<ピクシー虫よされ>」と呪文を唱える。

 何の効果もない。

 しかもたった二匹のピクシーに杖を奪われ、ドラゴンの骨格標本を吊っていた鎖を切られてしまった。

 本格的な大惨事を前に、偉大なる冒険家は乱れた髪を手で整え授業を締めくくる。

「今日の課題です! その辺に残っているピクシーをつまんで、籠に戻しておきなさい!」

 そして後ろ手にすばやく戸を閉めてしまう。

 取り残された生徒は教室から逃げ出した者もいれば、ピクシー除けになるスミレの周りに集ってやり過ごそうとするか、勇敢に杖や教科書ですばしっこい連中に立ち向かっている。

 ロンの耳を囓るピクシーをぶん殴って吹き飛ばすと、ハーマイオニーは杖を構えた。

 空中に向かって「イモビラス! 動くな!」と一声。

 静止呪文は見事に暴れ回るピクシーたちから動きを奪い、青い厄介者は無重力状態で空中を漂うだけになった。

 ダフネの背中に入り込んだピクシーをつかみ出して床に叩きつけながら、パンジーもスミレを小突く。

「ちょっと! アンタもなんかやりなさいよ!」

「え? ああ、そうですか。そうですね。これ『闇の魔術に対する防衛術』でしたね」

 ハーマイオニーがさっきロックハートの失敗した呪文でピクシーたちを籠に押し込めていく。

 キーキーと不愉快な声で鳴く『闇の生物』が一匹残らず金属の籠に押し込められた。

 澱んだ目のスミレも、真っ黒の亡骸を格子のすき間から中へ捻じ入れる。

 インクが滴る全身骨折したピクシーの亡骸を片づけると杖を持った。

 サクラの杖を籠に向け「インセンディオ 燃えよ」と呪文を放つ。

 

「片付けは最後までしないと。でしょう?」

 

 言葉遣いこそいつもとなんら変わりない。

 抑揚に欠ける淡々とした風だが、眉間にはハッキリと皺が刻まれている。

 アオイ・スミレは普段からは信じられない早足で教室を出て行く。

 

 アイツも怒ることがあるんだな――

 

 なにがあってもスミレの髪を勝手に弄る真似だけはすまい。

 宙ぶらりんのまますべてを見届けたネビルさえ心に刻んだほどだった。

 

 誰だって命は惜しい。

 生きたまま籠の中で、ウィッカーマンさながらに焼き殺されるのは勘弁だ。




 被告! ピクシー!
 被告! バケモノ!
 判決は死刑! 
 死刑だ!
 死刑!
 死刑!!
 死刑!!!!

 死刑!!!!!!

 というオチ。
 スミレはそもそも魔法動物そのものが大嫌いなので、自分に手出しされてなくても焼いてますけどね。
 そしてロックハートと同じ杖でした。
 スミレの方がちょっと長いです。


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ミズチウタ

 


 最初の授業以来、ロックハートは授業に魔法動物を持ち込まなかった。

 初めから最後まで教科書の朗読である。それでも筆者直々に臨場感たっぷりで読み聞かせてもらえるというだけあり、ファンは大喜びだった。興味のない生徒は各々で内職に勤しんだり上の空になったり、気ままに過ごしている。

 とにかく教授の独擅場さえ無視すれば快適な時間である。

 ニンニク臭くないというだけでも昨年よりずっとマシだった。

 だが問題も多い。

 そもそも『闇の魔術に対する防衛術』を教えてもらえないのだ。

 教科書が自伝の時点で察するべきだったかもしれない。

 やむを得ず、スミレとダフネは独学で防衛術を学習することにした。

 図書館で借りた本を基本にして、不明な点があれば各教授に質問する。

 二年生で最初の週末から早々に自習三昧である。

 今はアクロマンチュラという巨大な蜘蛛の生態と対処法をまとめている。

 ボルネオ島に多く棲息し、人肉を好む獰猛な種だ。さらに知能も高く人語を操る。

「魔法を使ってまでこんなものを生み出して……正気じゃありませんね」

「家や宝を守らせるためのものだからこれでよかったんだと思うよ」

 スミレの魔法動物嫌いは筋金入りだった。

 魔法薬学で若いマンドレイクを大きな鉢へ入れ替えるのも、一つこなして気絶した。

 叫び声を防ぐ耳当てをしていたが、根っこのあまりのおぞましさに耐えられなかったのだ。

 ロックハートの授業では教室に残っていたピクシーをすべて殺処分している。

 ダフネにしてみればそこまで嫌う理由が分からない。

 マグル育ちでもここまで病的に嫌がっているのはスミレだけなのでつくづく不思議である。

「対処法は『アラーニア・エグズメイ』……蜘蛛以外には効果がないなら、試し撃ちしてもよさそうですね」

「四年生で習うらしいけど、フリットウィック先生に相談してみる?」

「来週にも授業の後で聞いてみましょう。使うタイミングはないでしょうけど」

「あったら問題だよ。アクロマンチュラは有償無償問わず、国内で取引しちゃだめなんだから。違反したら罰金刑って書いてあるし」

 指さす文章を読むと確かにその通りだった。

 スミレの全財産に比べれば端金だが、並の魔法使いには縁遠い次元だ。

 さらにその下へ目を向けると天敵の記載があった。

「強大なアクロマンチュラ種も、毒蛇の王バジリスクの前には恐れをなして逃げ出す……バジリスクって、目を見ただけで死ぬんですよね?」

「そうそう。大昔に“腐ったハーポ”って魔法使いが孵化に成功して、一時期は闇の魔法使いが好んで飼おうとしたの。けど中世には禁止されてる」

「……前から思っていたんですが、魔法使いって危ないモノにも平気で手を出す人が多すぎませんか。目を見ただけで死ぬ怪物を飼おうなんてなにを考えてたんでしょう」

 挿絵のバジリスクを忌々しげに見つめながらスミレは呟いた。

 異常に強力な毒の牙を持ち、環境によっては気化した毒で周囲の生物まで殺してしまう。

 さらに制御不能の恐ろしい『目』がある。

 何故こんなものを、という疑問はもっともだったが、ダフネにはなんとなく理解出来た。

「ステータスになるから。バジリスクは蛇の王者、だから『蛇語(パーセルタング)』で操れるはず……あのバジリスクを使役してるってだけでスゴイことなのに、しかも『パーセルマウス』って証明になるから、二重にスゴイってことになるでしょ?」

「パ……パーセル? なんですかソレ?」

「パーセルタングが蛇の言葉で、パーセルマウスが蛇語を使って蛇と話せる人。現代で使える人はみんなサラザール・スリザリンの子孫だって言われるくらい、滅多にない才能なの。あのダンブルドアだって聞き取るのが精一杯の難しい言葉だってお爺様が仰ってた」

 スミレはダフネの説明に聞き入っていた。

 よほど興味を惹いたのか、もしかするとペットが蛇なので関心を持ったのかもしれない。

 普段なら上の空な表情なのに真っ直ぐ見つめられ、ダフネも嬉しくなった。

 それだけスミレは周りから『人の話をちゃんと聞いているのか怪しい』と思われているということだ。

「純血の家系でも特に古い血筋で有名なゴーントって一族がいてね、そこでは家族同士でもパーセルタングで話してたって噂があるの。あそこはスリザリンの直系だって言われてたけど、何十年も前に途絶えてるから、多分もう突然変異でもないと正真正銘のパーセルマウスはいないと思う」

「ダンブルドアもその……パーセルタングを話せないのですか?」

「聞き取ることは出来ても自分で話すのは無理なんじゃないかな。パーセルマウスは七変化とかアニメーガスなんて比べものにならない稀少な才能だもん。自力で勉強するにしたってそもそも話せる人がもう何十年もいないんだし、教わりようがないよ」

「なるほど……ではダフネも見たことはないんですね」

 なにを言うのかと思いつつ「残念ながら」と返した。

 スミレは無表情に戻って、口をうっすら動かした。

 赤い唇の小さなすき間から空気の漏れるような音がする。

 それらしい真似をしてからかっているんだと思ったが、

 

「うそ……」

 

 女子寮の階段から、アルビノのアオダイショウがのっそりと談話室へ下りてきた。

 普段は天井近くに陣取って動こうとしず、飼い主と一緒でなければ外へ出ようとしない大人しい大蛇が、自分から談話室へ姿を現す。

 シューシューとスミレが音を鳴らすと、蛇は黙ってテーブルの足下に落ち着いた。

 差し出された飼い主の腕に絡みついて、分厚い本や羊皮紙の置かれたそばへ移される。

 そこでとぐろを巻いて、ちらりとダフネを見てすぐにそっぽを向いた。

 

「初めてパーセルタングをお聞きになった感想は?」

 

「え……えっと、え? もしかしてスミレって、パーセルマウスなの?」

 

「ええ。うちではミズチウタと言うんですが、使う場面がないので黙ってました」

 

 確かに必要ないだろう。

 日に数回の餌やりと休日の散歩以外に触れあう事なんてないのだから。

 だが、目の前の友人のイタズラ成功と言いたげな笑みが新鮮すぎる。

 スリザリンの末裔なのか、とか、いつ使えるようになったのか、とか。

 そういう出て来て当然の質問が後回しになってしまう。

「うちの家系は蛇神様を祀っていますから。話せなくても、聞き取れる人は多いですよ」

「蛇神って、それこそバジリスクみたいな?」

「とんでもない、清流や水源を守ってくださる立派な神様ですよ。あんな怪物とは格が違います」

 スミレがバジリスクまで嫌っているのは十分に伝わってくる。

 ダフネだって別に好きなワケでは無いが、スリザリンではこの恐るべき蛇の王がちょっとした崇拝対象になっている。

 なにせ寮にその名を残すサラザール・スリザリンがパーセルマウスであり、そのためにスリザリン寮は蛇をシンボルとしているのだ。

 蛇の王が敬われるは当然の流れだが、しかし、スミレはそこに関心を持っていなかった。

 談話室にいるのは二人だけ。「百害あって一利なしの毒蛇」「蛇神様の足下にも及ばない」と言いたい放題である。

 上級生に悪口を聞かれてはマズいので慌てて話題を逸らす。

「そ、その子、ザクロはあんまり喋らないの?」

「ええ。無口ですので。ぶっきらぼうですしね」

「へ……へえ……去年クィディッチを見て、なにか言ってた?」

 またスミレはパーセルタングでザクロに話しかける。

 白い大蛇は短くシュツと音を出した。

「『寒いから二度と行かない』って」

「だよね……11月はもうかなり寒いし」

 じゃあ今年は守護神の仕事しないんだね、そう言いたかったが、それこそ問題だ。

 フリントを始め、ザクロを敬っている上級生たちにどう説明するつもりだろう。

 彼らのクィディッチ熱はそのまま守護神への信仰心に結びついている。

 もしスミレとザクロが観戦しないとなると、大揉めすることは想像に難くない。

 だがダフネは「シーズンは何ヶ月も先だから」と頭の奥底にしまい込んだ。

 そうして勉強を再開するが、今度はスミレのパーセルタングが気になって集中出来ない。

 

 

 結局、週末の勉強会は初回から微妙な成果しか出せなかった。

 

 

 ドラコ・マルフォイを見下しているグリフィンドール生は多い。

 だが積極的に突く生徒は、レイブンクローやハッフルパフでもごく稀だ。

 彼の父親が持つ絶大な権力を恐れている。

 家族の誰かや親戚が魔法省に勤務していれば左遷や降格のおそれがある。

 故にドラコの身は安全というわけだ。しかもスネイプのお気に入りなのでさらに万全だ。

 が、中には怖いもの知らずな者もいる。

 家庭内はおろか親戚中どこを探しても魔法界関係者が自分だけという、マグル出身者。

 あるいは初めからマルフォイ家と不仲な者。

 スミレとダフネが談話室で勉強会を開いている頃、大広間でドラコは顔を真っ赤にしていた。

 取り巻きのクラッブとゴイルは親分の怒り具合にかける言葉もなく、ただ狼狽えている。

 状況を知らずにセオドール・ノットはうっかり正面に座ってしまった。

 

「ああ、ドラコか。……どうしたんだ、機嫌が悪そうだな」

 

 向かい正面の両隣から非難とも警告とも取れない目線がとんで来た。

 二人に構うほどお人好しでないセオドールは半ば好奇心で尋ねてしまった。

 もう半分はたまには愚痴でも聞いてやるか、という親切心だった。

 いつもの気取った口調はどこへやら。ドラコは声も手も肩も震わせている。

 

「昨日、魔法省の抜き打ち検査があった」

 

「またか。うちも二回やられた、おかげで父上はえらくお怒りだ」

 

 ノット家は純血の名門だが、父は高齢で他家の当主に比べ家に籠もりがちだった。

 その分インテリアの収集に凝っているから抜き打ち検査であれこれ没収され機嫌が悪い。

 マルフォイ家の当主――ルシウス・マルフォイはむしろ若い方だが、やはり先代譲りの蒐集家で有名だ。

 

「それがなんだ! 父上が僕のために買ってくださった『栄光の手』を、連中は難癖つけて盗んだんだぞ!」

 

「あ、ああ……それは、横暴だよな。本当に魔法省はやり過ぎだ……」

 

 突然爆発されて怯もうと、慎重に言葉を選ぶ余裕はあった。

 セオドールに言わせればそんなものを欲しがるセンスもひどければ、息子が欲しがったからと買い与える父親も大概に問題だ。

 絞首刑になった囚人の手を切り落し、屍蝋化させた道具である。

 使うのは泥棒か頭のイカレた殺人鬼だけと相場は決まっている。

 如何にマルフォイ家でも『栄光の手』は没収されるだろう……セオドールも本音は魔法省に味方していたが、そんな気配は微塵もさせずにドラコの肩を持つフリをした。

 

 育ちは良いくせに家具の趣味は最低最悪、同級生の間でももっぱら評判だった。

(なのに女子への贈り物はいつもドンピシャなんだよなコイツ)

 心底呆れながら「まったくだ」とか「父上もお前と同じことを仰ってた」とか適当に相槌を返しながら逃げるタイミングを見計らう

 こんな場面には誰だって長居したくない。

 セオドールにとって幸いだったのはこの場にブレーズ・ザビニがいないことだった。

 彼がいればドラコを煽るだけ煽ってそそくさ逃げ出していただろう。

 さてどうやって口実を作るか、と頭を悩ませていると、脳天気な声がした。

 

「あの、失礼ですがどこかお加減でも悪いのでしょうか?」

 

 ――悪いのはお前が話しかけたタイミングだこの馬鹿!!

 

 心の中で絶叫し、「なんでもない。気にしなくていい」と手を振って追い払おうとした。

 だがハッフルパフの二年生、ジャスティン・フィンチ・フレッチリーは本気で心配そうにドラコの様子を窺っている。

 マグル生まれの大金持ちで、馬鹿みたいに正直で裏表のない人間で有名だ。

 今も心からドラコのことを案じているのだがそれがマズかった。

 ドラコ・マルフォイは父親以上のマグル嫌いである。

 

「お前に心配されるほど落ちぶれたつもりはない! さっさと失せろフレッチリ-! それともなにか!? お前は『栄光の手』がどれだけ貴重な物か分かるって言うのか!?」

 

 セオドールはもはや諦めるしかなかった。

 かたや筋金入りのマグル嫌いで坊ちゃん育ち、かたや筋金入りのお人好しで馬鹿正直。

 割って入るなどとてもではないが無理だ。彼には部外者面で逃げ切るしか道は無い。

 侮辱されたジャスティンは、しかし一瞬ムッとした顔を見せただけで、すぐにいつもの丁寧な物腰に戻った。

 

「『栄光の手』ですか? あれはとても邪悪な闇の物品ですよね、なぜマルフォイくんがそんなものを欲しがっている風に仰るのでしょう?」

 

 クラッブとゴイルはドラコへの助け船を出した。

 ただし泥舟、あるいはタイタニック号である。

 これから始まる惨劇などセオドール・ノットの想像力では描ききれない。

 ドラコの顔から赤みが引いていく。怒りが一線を越えた瞬間だった。

 

「ドラコの父上がこっそり買ってたんだ。ドラコにあげようって」

 

「それを魔法省が危ないからって取り上げたんだ」

 

「当然だと思いますよ。真っ当な人間には必要ないものですから」

 

 セオドールは教科書を抱えて席を立った。

 もはやこの場に留まるのは馬鹿か怖い物知らずか物好きだけだ。

 

「……心配掛けて悪かったね、いや、聞いた僕が間違いだったよ。君のような『穢れた血』なんかに『栄光の手』の価値なんて理解出来るはずなかったんだから」

 

 背中を丸めてコソコソと大広間から逃げ出したセオドール・ノットの背後で物音がした。

 怒鳴り声も聞こえるし、笑い叫ぶ声もする。

 自分の不運と無力さを噛みしめ、上手く脱出できたことに安堵しながら図書室へ向かった。

 小さい頃からドラコとは家ぐるみで付き合いがあった。

 だが当時から年々ひどくなるあのお坊ちゃまの趣味の悪さには辟易せざるを得ない。




 スミレの新技能:パーセルマウス
 イギリスでは激レアでも地域差はあるでしょという体で一つ。
 次回はお待ちかねのハロウィーンですよ。

 秘密の部屋に「アラホモーラ」


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生贄の夜

 それでは『秘密の部屋』に「アラホモーラ! 開け!」


 十月三十一日はハロウィーンである。

 ホグワーツでは屋敷しもべが朝から丹念にカボチャの下拵えをしている。

 晩餐で振る舞われる大量のカボチャ料理を思うとスミレはもう胸焼けがした。

 学校中どこにいてもカボチャの甘い香りがするので昼もほとんど食欲がない。

 常備薬はキッチリ飲んでいるが、やはりあのカボチャラッシュは耐えがたいモノがある。

「トロールが来ないだけマシよ」

 去年、女子トイレで繰り広げた大乱闘を思い出してパンジーは呟いた。

 ちょうど一年前、スミレは吸血鬼化が進んで食事も睡眠もとれず心身が疲弊しきっていた。

 それを思えばカボチャの匂いで胸焼けしている現在、薬のおかげとは言えホッとする。

 クラッブとゴイルはさておき、大の甘党であるドラコもこの数日の不機嫌が収まったようだ。

 ロックハート熱病を患っているミリセントは今日がハロウィーンでなくても浮かれているだろうけれど。

 

 スミレには魔法界のあらゆる文化が馴染まなかった。

 ダンブルドアがパーティの余興に『骸骨舞踏団』という人気音楽グループを呼んだと噂になっていたが、試しにパンジーが持っていたレコードを借りて一曲聴いてみると、Aメロが終わる前に蓄音機を止めた。

 ヘヴィメタルは趣味ではない。

 結局、今年のハロウィーンもデザートを待たずに大広間を後にした。

 去年はパンジーが連れ添ってトロールの襲撃に巻き込まれたが、今年は頼れる後輩がいた。

 カボチャ嫌いのカロー姉妹である。

 今日のために実家からクッキーとチョコレート、それに瓶のトマトジュースを送って貰ってあるという。

 二人ともソースのかかっていないプディングを少し食べて、生地までカボチャ味になっていることに失望し早々に退出したのだった。

「本当に助かりました……空腹で一晩過ごすのかとばっかり」

「スミレ姉様とご一緒できて嬉しいですわ」

「フローラと私だけかと思っていましたの」

 三人仲良く「せめて食事は普段通りに」とか「ソースや生地までカボチャだなんて」と愚痴を言いながら地下の談話室を目指す。

 人気のない廊下をロックハートの悪口で賑やかす。

 なまじファンが多くおおっぴらに言えない現状も鬱陶しい。

 

『――――――ス……』

 

「?」

 

 囁くような呻くような、低く湿った声。

 ピーブスのおどけた調子ではないのでスミレも足を止めた。

 遅れてカロー姉妹も立ち止まり振り返る。

「どうなさいましたスミレ姉様?」

「お加減が優れないでしょうか?」

「いえ、今誰かが壁の中で喋ったんです」

「申し訳ございません、私たちは何も……」

「お姉様とのお喋りに夢中でしたので……」

 ヘスティアとフローラが申し訳なさそうにするのを気にしないよう宥め、もしかするとタチの悪いゴーストかもしれないと言って声を追うことにした。

 襟の中にいるザクロが《壁の中に蛇がいる》と言うので、もしパーセルマウスのゴーストなら、ダフネにパーセルタングを教えてくれないか頼んでみるつもりだった。

 自分が教わるのは絶対に嫌だがダフネは気にしないだろう。

 あとを追うと徐々に掠れた声が明瞭になっていく。

 すると聞き取りづらかった言葉もはっきりし始めた。

 

『八つ裂きにしてやる…………』

 

『殺す…………殺すときが来た…………』

 

 気づいた時にはもう遅い。

 廊下の向こうに生徒の姿が見えた。

 男子二人に女子一人、三人はまさに現場の真っ只中にいた。

 有名なグリフィンドールの『トリオ』はスミレとカロー姉妹を見た。

「うわあ……だから離れようって!」

 相手がウィーズリー家とカロー家ということもあり、険悪な空気が漂う。

 上級生相手に礼を失するフローラとヘスティアではないが目線は冷たい。

「今の声、君も聞こえた? 壁の中から声がしたんだ!」

「はあ。聞いたような気がしたんですが、どうも最近眠りが浅いので」

 スミレはとぼけた。

 それでなくてもグリフィンドール内で自分は都合がいい時以外、まともに見られていない。

 そこへサラザール・スリザリンと同じパーセルマウスだと知られればもっと心証に響く。

 出来うる限り日常生活のストレスは少なく。叶うなら魔法界に報復を。それがスミレの基本スタンスである。

 なにより、友達でもなんでもない相手に明かす気になれなかった。

 ロンは震える手で壁を指さした。恐怖で顔が青ざめている。

 ヘスティアとフローラはその先に目を向け、薄い唇を動かした。

「秘密の部屋は開かれた」

「継承者の敵よ、心せよ」

 壁の高いところに書き殴られた文字を読み上げ、黙り込んだ。

 松明の灯で鈍く光る赤い文字がなにで書かれているのか嫌でも察してしまう。

 さらに水びたしの床が天井の様子を反射する。

 謎のメッセージが意味するところを論じる前に、六人はようやく恐怖を分かち合った。

 

 逆さまになって揺れるミセス・ノリス、管理人の猫が凍りついていた。

 松明の腕木に尻尾を引っかけ宙吊りになっている。ぎょろりとした黄色い瞳は見開かれ、表情はなにかに怯えているようだ。

 僅かに揺れている以外には微動だにせず、どう言い訳しようにも死んでいた。

 スミレは重々しく口開いた。

「早く逃げて、マクゴナガル教授にでも報告すればよかったのに……」

「ホント同感。これをフィルチに見られでもしたら腹ペコのまま退校だね」

「ロン、冗談言ってられる状況じゃなくなったわよ」

 遠くから聞こえるざわめき。

 スミレたちが来た方から押し寄せてくる人だかりは、ハロウィーンの宴を終えて寮に戻る学生たちだ。

 しかも中にはドラコ・マルフォイもいる。

 現実の方がよほど冗談じみていた。シニカルに口を歪めたロンは呆然とする。

 何百という足音がみるみる近づいてくる。満腹になったご機嫌な声、男女を問わずお喋りに花を咲かせて惨劇の現場へ踏み込んだ。

 廊下を埋め尽くすほどの大人数は壁の文字を見、水びたしの床を見、そしてミセス・ノリスを見、次々に生気を失っていく。先頭からどんどんと宴の余韻が消え去り、重く苦しい沈黙に支配される。

 その中で目を輝かせている一人が声高に叫んだ。

 

「継承者の敵よ、心せよ! 次はおまえたちの番だ、この『穢れた血』め!」

 

 血色の悪い白い顔を紅潮させ、覚めきった青い瞳をらんらんに輝かせながら最前列へ躍り出て、ドラコはグリフィンドールの三人へニヤニヤと笑いかけた。

 何人かの上級生から睨まれてもお構いなしでさらに畳みかける。

 少し後ろでクラッブとゴイルもゲラゲラ笑い声を上げている。

 

「ついにやったな。これでお前たちも退学処分だ……ああ、けど随分持ったじゃないか、豚小屋に戻されるのはそんなに嫌だったかウィーズリー!」

 

 ここが大広間で、今が食事時であればフローラとヘスティアも笑えただろう。

 流石に遠くから見覚えのある禿頭がチラチラ覗き始め、ついに面倒事の予感が勝った。

 

「なんだ! なんの騒ぎだ? どけ、邪魔だ! 通るぞ」

 

 ドラコの大声を聞きつけてフィルチも現場に駆けつけた。

 薄暗い廊下を照らす大きなランタンを掲げ、顔に濃い影を作りながら垂れ下がった頬肉をにんまりと歪め、ハリーとロンを見遣る。

 彼の中で二人はもはや双子のウィーズリーに並ぶ要注意人物となっていた。

 

「ポッター、またお前なにか……」

 

 そうして床と壁に目線を移し、老管理人もついに見てしまった。

 哀れなミセス・ノリスの姿に震え、目に涙を浮かべて戦く。

 フィルチは口を手で塞ぎ、後ずさりしながら悲鳴をあげる。

 

「私の! 私の猫だ! ミセス・ノリスに何が起こったんだ!」

 

 金切声でフィルチが叫ぶ。

 日頃生徒の大半から恨みを買っている男が、今だけは同情を集めていた。

 いかに憎かろうと、彼は今、愛する者を失って取り乱している一人の老人だった。

 その痛ましさたるやハリーに掴みかかるのを誰も止められないほどである。

 

「お前だ! お前が私の猫を殺したんだ! お前があの子を! 私がお前を殺してやる!」

 

「ぼ、僕じゃない! 本当です!」

 

 嗚咽混じりの雄叫びを上げるフィルチは、今にもハリーの首を絞めようと手を伸ばした。

 すんでのところで静止する声があり恐慌に陥った管理人を制する。

 

「アーガス!」

 

 鋭い一声でダンブルドアが人混みの中からフィルチを止めた。

 連れ従って駆けつけた教授たちも、目の前の光景に背筋が凍りつく。

 

 六人の脇を通り抜け、ダンブルドアはミセス・ノリスを松明の腕木から外す。

 その隙にスミレは後輩二人の様子を確かめる。驚いてはいるが冷静さを失っている様子はない。フローラとヘスティアをすぐに人混みの中に紛れ込ませた。教授の誰もが壁の文字とミセス・ノリスに目を取られ、暗がりの中へ隠れた双子の姿を探そうともしない。

 集まった生徒たちに振り返ると、その方向の生徒たちが逃げるように道を開けた。

 

「アーガス、一緒に来なさい。ポッター、ウィーズリー、グレンジャー、アオイ。君たちもおいで」

 

 四人は黙って従う。

 もはや校長にすべてを委ねるしかない。

 身の潔白を証明するのも、あのダンブルドアに任せれば大丈夫――そう信じたか、あるいは単に抵抗するだけ無駄だけ諦めたのか。

 そこへロックハートが進み出て、何故か自慢げに切り出した。

「校長先生、私の部屋が一番近いです。すぐ上です、どうぞご自由に」

「ありがとう、ギルデロイ」

 校長が先頭に立ち、その後をマクゴナガルが続く。

 そして誇らしげに胸を張るロックハートが堂々たる足取りでフィルチの肩を叩く。

 生徒四人を見張るようにスネイプが最後尾へ陣取り、両脇に退いた野次馬をただの一瞥だけでその場から移動させる。

 監督生が下級生を寮ごとにまとめていくのを聞きながらスミレは考える。

 

 壁の中の声はパーセルタングで呟いてた。

 そして確かに移動していた。手段は不明だが、そんな芸当が出来るのはネズミかゴーストのどちらかしかいない。

 この件は『血みどろ男爵』に報告し、今夜の来訪霊を調べて貰う必要がある。

 次は誰が襲われるか分かったモノではない。

 友人に犠牲が出る前に手を打たねば――

 

† 

 

 ロックハートの部屋は主同様に自己主張が激しい。

 写真たちも同様で、校長の来訪に慌ただしく身なりを整え始めた。

 スミレは空腹が辛く、衣服のポケットというポケットを漁りチョコか飴でもないかと必死になっている。

 何もないと分かると窓の外をぼーっと眺めて飢えに耐える。

 ダンブルドアはミセス・ノリスをよく磨かれた机の上へ置く。

 早速間近で様子を観察し、マクゴナガルも同じように至近距離で毛並みや筋肉の状態を事細かに調べ始める。

 スネイプは部屋の片隅で影の中に身を隠している。

 なにが愉快なのか口元が小刻みに震えていた。

 ダンブルドアは指先で優しく強張ったままの身体を撫でる。

 ロックハートはせわしなく部屋を歩き回り、ろくに調べもせずあれこれ意見を述べた。 

 

「猫を殺したのは呪いに違いありません! 恐らくは『異形変身拷問』の呪いでしょう! 私は何度もこれと同じものを目にしましたよ!」

 

 ご自慢の武勇伝も今はただ虚しい。

 フィルチのすすり泣く声の方がよほど胸を打つ。

 両手で顔を覆い、ミセス・ノリスを直視することも出来ず泣きじゃくる姿はあまりにも痛々しいものがあった。

 ハリーもロンもハーマイオニーもフィルチは心底嫌いだし、ミセス・ノリスも同じくらい忌々しい猫だと思っていた。

 だがいざこうなってみると、可哀想でならない。

 杖で一通りの呪文を試し終え、ダンブルドアは魔法がなんの効果もないと把握した。

「――そう、非常によく似た事件がウグドゥグという田舎町で起こったのですよ。次々と犠牲者が出る大事件でしたね。私の自伝に一部始終書いてありますが。私が町の住人にいろいろな魔よけを授けましたところ、あっという間に事態は収束したのです」

 壁の写真たちが本人の話に合わせていっせいに領いていた。

 一人はヘアネットをはずすのを忘れていた。スミレが黙って手で「忘れてますよ」と教えると、気恥ずかしそうにこっそり外してはにかんだ。

「――アーガス、猫は死んではおらんよ」

 ダンブルドアは優しい声でフィルチに声を掛けた。

 泣きはらして目が充血したフィルチはさっと顔を上げる。

 似たような事件と、犠牲者の数とを延々列挙していたロックハートも「えっ」と声を挙げた。スネイプが爆笑するところを見たくてスミレはそちらに目を向けたが、睨み返されたので素直に校長の方を眺めた。

「けれどこんなに冷たくなって――固くなって、いったい何が!?」

「石になっておる。生半可な呪いではない……学生には到底出来ぬ、極めて高度な魔法じゃ」

 マクゴナガルもダンブルドアに同意し頷いた。

 この二人が認めた以上、二年生の四人が潔白なのは明らかだ。

 だがフィルチの剣幕は収まらない。

 ハリーがやったんだと金切り声で喚き、それをダンブルドアがまた優しく宥める。

 

 ダンブルドアですら手も足も出ない石化など、ハーマイオニーですら知らなかった。

 石化呪文は『フィニート・インカーターテム』で容易に解除出来る。

 薬や、特定の動植物の鳴き声の類いに思われたが、それなら石化ではなく失神のはずだ。

「校長、我が輩からも一言よろしいですかな」

 スネイプが助け船を出すなど、ハリーには信じられなかった。

 自分をさらに不利な状況に追い込む気だと確信していた。

「ポッターとその仲間は、単に間が悪くその場に居合わせた可能性はありませんかな」

 影の中から助け船を出されるなんて。

 あまりに不吉な助言だったが、その通りだった。

「ミス・アオイは元より少食。昨年に比べ体調はすこぶる良好のようですが……今宵の晩餐も彼女の生まれから推察するに、舌に合わぬのではないかと」

 暗い目は次にハリーたちへ向けられた。

 今度こそ徹底的に追及し、尻尾を掴んでやるぞと無言の内に宣言している表情だった。

「しかし、未だ疑わしい状況にある生徒が残っている……彼らは何故、大広間にいなかったのか。これは無視し難い疑念ですぞ校長」

「ほとんど首なしニックの『絶命日パーティ』に参加してました。寮憑きのゴーストたちが証明してくれる筈です」

「ではその後大広間に来なかった理由は? 何故あの廊下に行ったのかね?」

「それは……僕たち疲れていて、すぐにでもベッドに行きたかったんです」

「食事も摂らずにかね? ゴーストの晩餐で人間に食せるものがあったとはとても思えんが?」

「出された食べ物がみんな腐ってたんです……おかげで食欲がなくって」

 見計らったようにロンのお腹が鳴った。

 確かに、空腹であれ腐った料理など目にしては食欲も失せる。

 ハーマイオニーもどの料理がどんな風に腐っていたかを正確に説明した。

 蠅のたかるローストビーフ、ウジ虫に覆われたチーズ類、茶色く濁りどろどろになったコンソメスープ、形崩れしたプディングやソーセージは皿に青緑色の汁を垂らしていた。

 それはもうひどい有様である。スネイプはあまりに気色が悪い光景を想像させられて吐き気を催した。

 袖で口元を押さえながら、それでも攻撃の手は緩めない。

 ロックハートもある意味でプロ並に図太いが、スネイプの執念深さも本物だった。その気配を察して、ダンブルドアはさらに追い討ちを掛けようとするスネイプを制した。

 この状況を利用して、ハリーを今年のクィデッチシーズンから排除しようとしてもおかしくない。そのくらいスリザリンの寮監は勝利に対して貪欲だった。

「疑わしきは罰せず、じゃよセブルス」

「罰せず!? 私の猫が石にされたんだ! 罰を与えなけりゃ収まらん!」

 今度は落ち着いたかと思ったフィルチが激昂した。

 またもや金切り声をあげ、生徒四人を飛び出した目で何度も何度も睨みつける。

「落ち着くのじゃアーガス、君の猫は治せる。スプラウト先生が温室でマンドレイクを育てておってのう。それが成長すれば、石にされた者を治す薬を作ることができる」

「マンドレイク薬でしたら是非この私にお任せください! これまでに何度も調合してきました! 今なら眠りながらでも、簡単に作れてしまいますよ!」

 またもやロックハートが会話に飛び込んだ。

 マンドレイクと言えばまだ記憶に新しい単語だ。

 九月のはじめ薬草学の授業でまだ若い木の鉢の植え替え作業をした。そのときにヘマをして気を失ったネビルを思い出す。スミレもあまりの醜さに卒倒して赤っ恥をかいた。

 教授が許可すれば、ピクシーと同じく温室もろとも焼き払ってしまいたいほど不愉快な植物である。

「魔法薬学の担当は君ではなく我が輩だったはずだが?」

「おっと、これは失敬! スネイプ教授の貴重な出番を横取りしてしまうところでした! いやぁ、ですが『秘密の部屋』だなんて、また随分と手の込んだイタズラじゃありませんか!」

「……ダンブルドア校長、これ以上四人を留める必要はないでしょう。寮に戻らせてもよろしいのではありませんか?」

 生徒を案じたマグゴナガルの言葉にダンブルドアも頷いた。

 フィルチとスネイプは不満げだったが、校長の判断に逆らえる者などホグワーツにはいない。

「四人とも、もう戻ってよろしい。じゃが、確かに出来る限り廊下では二人以上であった方が良い。明日の朝にも、改めてわしから皆に伝えるとしよう」

「寮監に連絡して、監督生には先に報せるようお願いしておきましょう。念には念を入れた方が良いでしょうから」

「そうしてくれるかのうミネルバ。セブルス、ミス・アオイを寮まで送り届けてくれんか。スリザリンの寮監は君じゃ、監督生に伝える件もあるしのう」

 フィルチに一つ頷いた後、ダンブルドアは解散を言い渡した。

 ロックハートは部屋に取り残されたが、めげることなくフィルチを相手に輝かしい武勇伝を語り聞かせていた。

 スネイプに「来い」と言われ、スミレはようやく解放されたと一息ついた。

 

 寮に戻る途中、色々質問したかったがとても聞いてもらえる雰囲気ではなかった。

 

 ネビルが鍋の中身を爆発させ、頭から失敗作を被ってもこれほど張り詰めた顔はしていない。

 

 もしかして予想以上の大事なのかと気づいた時には、もうとっくに寮の談話室に着いていた。




 ついに第二章が本格的に始まります。
 シリーズでも『アズカバンの囚人』と並びホラー色が強い私のお気に入りです。


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嘆きのマートル

 原作より速いマートル登場です。


 秘密の部屋が開かれた――

 

 クィデッチシーズンを間近に控え、季節の風物詩である『宿題をほとんど出さないマグゴナガル』に皆が顔を綻ばせる時期。

 にも関わらず、生徒の話題は『秘密の部屋』と『スリザリンの継承者』の二つだった。ハロウィーンの惨劇によって、誰もがホグワーツで最も忌まわしい伝説が現実となったと思っている。

 伝説の概要は学校が創設された時代へ遡る。

 四人の偉大な魔法使いと魔女、現在は寮にそれぞれ名を残す創設者たちが決別した逸話に付随するものだ。

 あるとき、サラザール・スリザリンは入学の条件に確かな純血の生まれであることを求めた。

 これにゴドリック・グリフィンドールが猛反発し、親友であった二人の関係は破綻する。ヘルガ・ハッフルパフとロウェナ・レイブンクローもこの条件には反対した。

 勇気と騎士道を求めるグリフィンドール。

 知性と探究心を求めるレイブンクロー。

 あらゆる条件を付けないハッフルパフ。

 そして厳格に純血を求めたスリザリン。

 創設者たちの思想は寮の理想に反映されている。

 結局、スリザリンは三人と再び手を取り合うことなくホグワーツを去った。

 そのとき、学校内に自らの理想を受け継ぐ者のみが開くことのできる『秘密の部屋』を残し、中には真の継承者だけが操れる『恐怖』を閉じ込めたと言われている。

 継承者が扉を開くときこの『恐怖』が学校に解き放たれ、スリザリンの理想と合致しない生徒は追放されるとも伝えられる。

 

 継承者の候補に上がったのはやはり目撃者の六人だった。

 しかしロンとハーマイオニーはすぐに除外された。

 前者は純血の名門ながら反純血主義で有名なウィーズリー家の出身であり、後者は優秀だがマグル出身……スリザリンの継承者からすれば攻撃対象である。

 カロー姉妹は純血生まれの純血主義だが、そもそも二人は一年生だ。いくらなんでも新入生がダンブルドアの手に負えないレベルの闇の魔法を使ったなんて、誰も信じない。

 残ったのはハリーとスミレだった。

 二人がどれだけスリザリンの思想と相反する人物か、それぞれの寮の生徒はよく理解していた。

 かたや純血主義を真っ向から否定し、かたや趣味の大半がマグル界のもの。もしもどちらかが継承者なら今頃サラザール・スリザリンは草葉の陰で泣いていよう。

 それを考慮せず面白い方に飛びつくのがホグワーツの生徒だ。

 マグゴナガルは腹立たしいと事あるごとに注意したが、彼女は学生時代、それはもう堅物の優等生だった。生徒の噂を止めようがないと経験から分かっていた他の教授たちは「あまり気にしないこと」と助言するに留めた。

 それでもハリーは日に日に苛立ちを募らせる。

 スミレも真顔の仮面の下に恨み辛みを溜め込んでいく。

 

 が、すぐに状況は一変する。

 

 ハリーが対スリザリンとクィデッチの試合に臨んでいる最中。

 ブラッジャーがハリーの腕をへし折った。しかもこの暴れ玉はハリーを付け狙い、マダム・フーチも試合中断を了承してゲームを再開するか確認したほどだった。

 スミレはこのとき、ドラコの初試合だからと渋々観戦していた。

 ザクロは寝室で留守番中である。そんな時にハリーが大怪我を負いながらスニッチを掴み、なおも暴れ狂うブラッジャーはハーマイオニーが破壊して事なきを得た。

「あちらは医務室でしょうね」

 ぼんやりとハリーの方を眺め、軽い打ち身で大騒ぎするドラコはパンジーに任せている。粉々になったブラッジャーの破片を拾ってみるものの、素人なのでなにも分からない。

 ドラコは迫真の演技でパンジーの気を引こうとしているだけだ。

 わざわざ駆けつけたスミレは寒さに震えるばかりだった。

「ドラコ、あなたクィデッチ向いてないんじゃ……」

「言ってる場合!? 見てよ、ドラコがこんなに痛がってる!!」

「だからですよ」

 恋は盲目……そんな呟きを胸にしまい込み、グリフィンドールの人だかりへ向き直った。ミリセントが連れてきたロックハートは杖を構え、「大丈夫、私に任せなさい! これまで何度使ったか知れないほどこの呪文は得意ですからね!」と喚きハリーの嘆願を無視した。

 怪しい発音で呪文を叫ぶと、心配の声は悲鳴に変わった。

 

「あー……まぁ、たまにはこういうことも起こり得ますね! でもホラ、もう痛くなくなったわけですから! 骨折は治りました!」

 

「痛くなくなった!? 骨がなくなったんじゃろが!!」

 

 ゴム製品のようにだらしなく肩から垂れ下がった腕を掲げ、ロックハートは苦し紛れにスマイルを振り撒いた。それを怒鳴りつけるハグリッドの声で、シャッター音はかき消えた。

 

「怪我人ですよ、やめなさい」

 

 無神経にシャッターを切るコリンを後ろから引っ張り、赤と黄色の輪からカメラ小僧を切り離した。キョトンとした顔のコリン・クリービーはスミレに向けてシャッターを切った。

 

「…………」

 

 もし写真に自分が写っていなければ、大勢に自分が吸血鬼だとバレる。コリンの胸ぐらを掴む勢いで顔を近づけて、なるべく声のトーンを落としてゆっくり話しかける。

 

「私は写真を撮られるのが大嫌いです。分かりますね」

 

「えーっと、ちゃんと断らないとダメですか?」

 

「断らなくても、ダメです。そのフィルムを渡しなさい」

 

 これは最後通牒です――そう迫ったところで、またもや取り残されたロックハートがスミレとコリンに目をつけた。相変わらずカメラ小僧は自分が怒られている状況を把握できていない。

 しかもハリーを『骨抜き』にした教授はマイペースだった。

「おやおやクリービーくん、ミス・アオイが仰る通り、さっきのはいただけませんでしたね! ハリーは怪我人だったのですから、何も言わずにパシャリとやるのはちょっと失礼ですよ! まあ私はいつでもどこでもカメラは大歓迎ですがね!」

 自分の失敗を撮られたことを気にしていた。

 言っていることはもっともらしいのだが。

 このあとマグゴナガル教授とマダム・フーチが生徒を解散させた。

 その後、スミレは校舎に戻ってからずっとどうやってフィルムを奪うか悩みに悩む。

 

 ――顔を見られるわけにはいかない。

 

 ――まして杖もそうだ。サクラの杖は置いていこう。

 

 ――口封じも必要になる。

 

 ――服従の呪文はどうすれば使えるんだ。

 

 今も窓や鏡には自分の顔が映っている。

 しかし写真はどうかなんて聞いたことも見たこともない。

 いっそフィルムを現像させ、自分の写真だけ持って来させるか?

 そのためにも『服従の呪文』が必要になる……!

 

 半年以上ぶりの眠れぬ夜を過ごして翌朝。

 スミレの元に吉報が舞い込んだ。

 

 二人目の犠牲者である。

 コリン・クリービーが石となり、カメラも破壊されていた。

 

 カメラが壊れたなら医務室を襲う手間も省けた。

 だが同時に、前日クィデッチのピットでコリンを脅していた場面を皆が見ていたことも思い出す。

 

 こうして六人でスタートした継承者の最有力レースからハリーが脱落し、スミレの単独一位が確定してしまったのである。

 

 

 他の寮から継承者と後ろ指をさされたところで、スミレの生活にはなんの変化もなかった。スリザリン生で噂を間に受けるような者がいなければ十分すぎた。

 マグル趣味にどっぷりの東洋人が偉大なるサラザール・スリザリンの後継者なはずがあるものかと、全員が確信を持っている。

 大広間での食事もあまり落ち着かないが、そもそもホグワーツで心から落ち着くことが少ない。ドラコの嫌味にいつもより集中できる程度のものだった。

「また『穢れた血』が倒れた、継承者は本気だ。次は誰がやられるか見ものだな。愉快な上にホグワーツが綺麗になるんだから継承者さまさまじゃないか」

 グリフィンドールからの恨みが込められた目線をドラコは痛快に笑い飛ばす。マグル出身者がどうなろうと知ったことか、という雰囲気はスリザリン全体に漂っていた。

 スミレは純血の生徒が襲われようと興味はなかったが、ハロウィーンの夜に聞いたパーセルタングは気になっていた。

「……ところで去年から気になっていたんですが『嘆きのマートル』って誰ですか?」

 コリンの一件で他の寮憑きゴーストからは話を聞けそうにない。

 名前を知っているゴーストで、寮憑きでないのはマートルだけだった。しかし肝心のマートルのことを何も知らないでいた。

 パンジーがドラコにソーセージを食べさせながら教えてくれた。

「三階の女子トイレにいる、ブスで泣き虫の陰気な幽霊。それ以上は誰も知らないわ。だってどうでもいいもの、あんなうるさいブス」

 そんなに酷い顔なのかと困惑を禁じ得ない。

 もしかして頭がぐちゃぐちゃになっているとか、伽倻子みたいな状態なのかと恐ろしくなってきた。

「けどなんで今さらマートルのコトなんて聞くのよ。なにか使い道でも見つけた?」

「ええ。霊探しを手伝ってもらうつもりです」

「モグモグ」

「スミレってゴースト苦手じゃなかった?」

「モグモグ」

「どうも城のどこかにパーセルマウスのゴーストがいるようなので、是非会ってみたいんです」

「モグモグ」

「パーセルマウスの? 男爵に聞けば一発でしょ」

「モグモグ」

「男爵のお知り合いにはいないとのことでした。ほかに頼れそうな霊もいませんし……」

「ねえパンジー、ドラコなにか喋りたいんじゃない?」

「ヤダほんと! ゴメンねドラコ! はいトマトジュース!」

 パンジーは慌ててピッチャーからグラスにジュースを注ぐ。縦長のグラスを引ったくると、なみなみに注がれた鮮やかな赤色の液体を一息で飲み干した。

 口の端についた赤いトマトの果汁が血液のようで、尖った顎と青白い肌も相まって吸血鬼に見える。ドラコは大きく息をついて、マートルのことを話し始めた。

 

「どの教師も『秘密の部屋』は存在しないと言っているが、父上は違う。五十年以上前に、一度部屋は開かれていると仰っていた」

「ダンブルドアだって見つけられなかったはずだろ?」

「奴はグリフィンドール出身だ、偉大なるスリザリン卿の遺産に触れられるはずない。ともかく……前に開かれた時は生徒が一人死んだだけだ、たかが『穢れた血』一匹で大騒ぎになったらしい」

「その生徒が『嘆きのマートル』かもしれない……」

 全員声を潜め、なるべく話を聞かれないよう注意していた。

 ドラコとダフネ、それにセオドールは何度かグリフィンドールを睨み返し、相手の集中を乱しながら会話に加わる。

「なかなか面白い話ですね。調べ甲斐がある」

 ゴーストへの嫌悪感が初めて他の感情に塗りつぶされた。

 いつもと同じくパンケーキを食べながら、スミレは色白な顔に笑みを浮かべて放課後を待ちわびた。継承者が誰であれ『秘密の部屋』は大いに興味がある。ホグワーツを閉鎖に追い込めるこれ以上ない機会、最大限に生かさねばなるまい。

 

 

「なによ。スリザリンの生徒がこんなところに。また私を笑いに来たんでしょ! ブスで泣き虫で卑屈なマートル! 『ホラ見て!あの馬鹿トイレで死んだわ』って!」

 私服で来るべきだったとまず後悔した。

 女子トイレのゴースト、マートルは緑色のネクタイとローブを見るなりヒステリックに泣き叫んで会話どころではない。

 スミレはどうにか落ち着かせようとするが、どうしようもないくらい半透明の女子生徒は取り乱している。

「そんな、誤解です! 私はあなたとお話がしたくて来たんです!」

「嘘! 嘘! 嘘! スリザリンは大嘘つき!! 私を騙して笑い者にしようたってそうはいかないんだからこの卑怯者!!」

「私まだ挨拶しかしてませんよ! そこまで酷く言われるなんて心外です!」

「アンタたちが今までアタシにして来たことよりずっと優しいわよ! アンタ、頭に教科書ぶつけられたことある? マートルの頭に当てたら二〇点! 腹に当てたら五〇点! 相手が怪我しないからって、やっていいことと悪いことがあるわよ!!」

「ですから、私も立場がないんです! 私が『秘密の部屋』を開いて生徒を襲ってるとみんな噂してる!」

 するとマートルはようやく窓辺から滑るように下りて、スミレの目の前に立った。前評判と比べ、大きな丸メガネと濃く太い眉こそ目を引く。それに少し老けて見えたがそれだけだ。

 美人とは言い難いが、抜きん出て不細工でもない。中途半端な顔立ちである。

 怒り狂ってマートルは銀色の唾を飛ばす。

 唾までゴーストなので当然スミレの身体をすり抜けた。

「ならアンタがやったのよ! この人殺し!」

「無茶言わないでください! 私、ホグワーツに来るまで日本で暮らしてたんですよ!? それもマグルとして! なにが『継承者』ですか! 知りませんよサラザールだかサラダボウルだかいうとっくの昔に死んだようなハゲのことなんて!! 誰が好き好んでこんな陰気な学校になんか!! なんで私だけこんな怖い思いばっかりしなきゃいけないの!!」

 去年からずっと溜め込んできた本音をぶちまけると、女子トイレは静まり返った。

 マートルが鼻をすする音が響き、壊れた便座から溢れ出る水の音にかき消された。

 泣き腫らした目の色が少し濃くなっている。

 ゴーストが充血するとこうなるようだ。

 

 

「そう……そうなの……なんていうか、アンタも大変なのね。ごめんなさい。アタシって死ぬ前もあとも、スリザリンの制服にろくな思い出がなくって……いい思い出がないのはこの学校もそうなんだけど……」

 

「いえ、いいんです。まぁグリフィンドールも似たようなところがあるとだけ訂正させてください」

 

「分かる! 本っっっ当によく分かるわ! スリザリンは陰湿だから大っ嫌いだけどグリフィンドールも乱暴で品がないから大っ嫌い!! あ、アンタは別よ。スリザリンだけど。ちっこくて可愛らしいし」

 背丈のことは言われたくなかったが我慢した。

 イギリス人から見て己がチビなのは、スミレも事実として認めている。

「で。なにが聞きたいの? トイレで考える哲学なら幾らでもあるけど。ざっとウン十年分くらい。あ、もしかしていい身体してる監督生のこととか?」

 

(なんで知ってるんだろう。もしかして覗き?)

 

 仲間意識を持たれていた。

 いじめに近い扱いをしてくるのはスリザリン以外の生徒で、スミレにしてみれば態度が気にくわないだけなのだが。それもマートルにしてみれば我慢ならないだろうと確信していた。

 急に親身になったマートル女史のゴーストに、スミレは顔のあらゆる筋肉を総動員して温和そうな微笑みを贈った。

 

「ええ、パーセルマウス……蛇の言葉を話せるゴーストがいらっしゃらないかと思いまして。前に壁の中から蛇語が聞こえたので、もしかしてと思ったんです」

 

「蛇と話せる……? ううん、いないと思う。ホグワーツにいるゴーストってすごく多いけど、みんな普通の卒業生だし。サー・ニコラスの知り合いにもいないんじゃないかしら。ホラ、あの人っていい意味でグリフィンドールっぽいじゃない?」

 

 ――純血主義拗らせたようなヤツとは付き合わないと思う

 

 言われてみれば確かに。

 スリザリンの血筋が特に強いゴーント家と同時代の人間がいたとして、礼儀正しいあのサー・ニコラスが親しくするとも思えない。それはゴーストでも同じだと思われた。

 しかしこれは問題だった。

 

 あの夜、壁の中にいたのは『本物の蛇』ということになる。

 

 今ならマートルは機嫌がいい。

 彼女がどうやって死んだのか確かめたいところだが、このヒステリックで情緒不安定な先輩にどう接したらよいか分からない。なにが地雷なのかさっぱりである。

 まずは、手始めに名前を呼ぶところから始めた。

 

「えっと、マートルさん。でいいですか?」

 

「マートル・エリザベス・ウォーレンっていうの。みーんな『嘆きのマートル』って馬鹿にして呼ぶから、フルネームなんて誰も知らないんでしょうね……」

 

 マートルは自分で言って自分でダメージを負い、また涙ぐんだ。

 

「二年生のスミレ・アオイです。呼び方はマートルさん……でいいでしょうか。私より先輩ですし」

 

「スミレ……綺麗な名前ね。ちょっと不思議な響きも似合ってるじゃない。あと、さん付けなんてしなくていいから。スミレとアタシの仲じゃない!」

 

 女子トイレで数分ほど口論しただけである。

 

「じゃあマートル……その、とても聞きづらいことなのですが」

「なに? 遠慮しないでどんどん聞いて?」

「この前、猫と生徒が石になったんです。その生徒と少し揉めていたので私が疑われてしまって……前に『秘密の部屋』が開かれたときと同じ状況かどうか、ご存知なら教えてくれませんか?」

「あ……ごめんね、私もよく知らないの。同級生にいじめられて、悲しいからそこのトイレで死について考えてて、犯人の顔とかはなにも……扉も閉めてたし」

「……そう、ですか。なんと言えばいいのか……嫌なことを思い出させてしまってすみません」

 参考にはならないが、思い出していい気分になる話題ではない。

 存命の生徒に謝罪されたことがないのか、大声でマートルは嬉し泣きしながら「いいの、友達だもの」とどうにか言葉を発した。幽霊から友達と呼ばれる日が来ると昨年の自分に言えば、二度とホグワーツに戻らない気がした。

「ありがとうございます」

「けど、そこの蛇口の前で男子がうるさくしてたのは確かよ」

「女子トイレに男子が? 不審者じゃないですか」

「でしょう? だからアタシもついカッとなって『出てってよ!』って叫んだの。そしたら声は止んだわ」

「なにを喋っていたとかは覚えていませんか?」

 性別が分かるなら声を聞いたはずだ。

 呪文か、あるいはなにかを使役したのか。

 ヒントだけでも手に入ればと聞いてみた。マートルはしばらく考え込んで、口をすぼめ「シューシュー」と妙な音を出した。それ自体にはなんの意味もない。だが、発音の近い言葉はある。

 スミレは雷に撃たれたようだった。

 まさか、かつて学校にパーセルマウスの生徒がいたなんて。

 ともすればゴーント家の誰か、そうとしか考えられない。

「こんな感じよ。気持ち悪いでしょ?」

「ええ……気味が悪いですね」

「それで声が止んだと思ったら、上からなにかの気配がしたの。で、見上げたら……」

 黄色い大きな目が二つ。

 それがマートルが生前、最期に見た光景。

 スミレの頭の中でパズルは出来上がりつつあった。

 謎はまだ残っているが、それを考えるのはまた後だ。

 マートルに勧められて適当な便座に腰掛ける。鼻が触れ合いそうな距離ほど近くに――相手はゴーストなので触れずにすり抜けるが――マートルも座った。空気椅子ならぬ幽霊椅子で、恥ずかしそうにモジモジとしている。

 どうしたのかと聞く前に、相手はおずおずと身の上を話し始めた。

「アタシね、一人っ子だったの。兄弟も姉妹もいないし、親戚もみんなお爺ちゃんお婆ちゃん。学生なのはアタシだけ」

 相槌に困ってやんわり微笑むしか出来なかった。

「死ぬ前に一度でいいから『姉さん』って呼ばれたかったけど、叶うまえに死んじゃった。だから……その……スミレが嫌じゃなかったら、アタシのこと姉さんって呼んでくれない?」

 

 毎回じゃなくていいから、たまに、トイレから離れるときだけでも。

 

 よく分からないお願いだなぁと反応に困るスミレ。

 つくづくイギリス人の考えることは分からないが、相手を『姉さん』と呼ぶのは末っ子なので慣れている。同い年の相手すら姉呼びである。従姉だけで五人もいれば自分が妹になるのもどうってことはない。

 

「分かりました、マートル姉さん」

 

 こうですか? と聞く前に、マートルは絶叫して隣の便器へダイブした。水飛沫が床を濡らし、スミレはもうわけが分からず辺りを見渡してしまった。

 泣き声はしないから怒らせたようではないと判断し、そっと個室を出る。

「あ、ちょっと……あぁ」

 誰も使わないと聞いていたトイレに、誰かが来ていた。

 叫び声に驚いて逃げ出したが女子に違いない。間違っても男子が来ることはないだろう。そんな生徒が今年もいるなんて信じたくなはい。

 しかも驚いた拍子に落としたのだろう。

 足元に古い日記帳が転がっていた。杖で浮かしてみると中は羊皮紙だった。フィルチに届けるべきか迷うスミレの背後から息の荒いマートルが顔を並べた。

「あー死ぬかと思った……あら、まァた誰か捨てて行ったのね。今度の子はいったいどんな夢を見たのかしら」

「何度も捨てられているんですか?」

 もう死んでるでしょ、と危うく突っ込みかけた。

「ええもちろん。気になるなら中を開けてごらんなさいな、もンのすッごいから!」

 水の滴る日記帳に手を伸ばし、指でつまみ表紙を開けるとか

 異様に興奮したマートルが囃し立てながら現れた一日目は――

 

「チッ!」もンのすッごい舌打ちだった。

 

「空白のままですね」

 

 ――T・M・リドル――

 

 

 滲んだインクで人名が書かれているだけ。

 名前の部分はイニシャルなので性別も分からない。

 ハッキリしているのは、先ほどの女子生徒は未使用の日記帳を捨てたことだけ。マートルがもっと見せてとせがむのでさらに何ページかめくってみるが、やはりどこも綺麗なままだ。インクのシミひとつない。

 スミレはただの落し物だと確認できて安心した。

 が、マートルは頭を抱え天に向かって叫んだ。

「あー!! 年代物だからさぞエゲツないと思ったのに!!」

「エゲツない、ああ。恨みつらみとかですね」

 マートルが好きそうな物だと納得した。

「ウフフ、そうよね。たしかに愚痴とかも悪くないわよ? でもね、一番読み応えがあるのは……」

 二人きりの女子トイレで、何故かマートルはスミレの耳元に囁きかけた。十秒、二十秒と時間が経つにつれ、月より透き通った白い肌がみるみる赤くなる。

「えっ、え、それって。ど、いや、?」

「キャー! いいわその反応、サイッコー! いつもは読み終えたら水に流してあげてたけど、今度からはスミレにも読ませてあげてからにしなきゃだわ!」

「べ、別に、わた、私は、そんな」

「遠慮しなくていーのよスミレ。先輩に任せときなさい、死んだのは何十年も前だけど……たかが何十年で乙女の楽しみが変わってないことはアタシがバッチリ確認してあるから」

 個室の扉に手をついて目が泳ぐ。

 額に汗をにじませて慌てふためく後輩をじっくり堪能しながら、マートルは粘着質な笑みを浮かべてもう一度囁く。今度はとびきり甘ったるい声で。

「ここの使い方も教えてあげる……」

「つっ  使い、方」

「怖くなんてないわ、アタシそっちもよーく観察してたから……」

 

 この後、たまたまこの女子トイレの前を通りかかった女子生徒は悲鳴をあげて逃げる羽目になった。

 あの『嘆きのマートル』の高笑いが廊下中に響きわたり、ついにあの泣き虫ゴーストが発狂したのだと恐れをなしたのだ。

 

 それから数週間というもの。

 

 マートルに呼び出されたスミレのほかには、誰もこの廊下に近寄ろうとはしなかった。

 が、日記帳の名前について尋ねようとマートルを訪ねたあるときのこと。

 女子トイレに先客がいた。

 話し声からして男女が数人、金属の音もする。

 不思議に思って中を覗いてみると、大きな蛇口の前でハリー、ロン、ハーマイオニーが鍋で薬を煎じていた。

「なにやってるんですか?」

 魔法薬学の自習という雰囲気ではない。

 面子だけならその可能性も十分あり得た。

 三人は驚いた顔で飛び上がった。ロンとハリーが鍋を隠すように横に並ぶ。

「ま、魔法薬学の自習だよ。僕もロンも苦手だから」

「そうそう! たまにはハーマイオニーに勉強を見てもらおうかなって」

「そうですか」

 興味はなかったが、床に置きっ放しの本が見えてしまった。

 苦しい言い訳だったがスミレは反応が薄かった。

 鍋の中から漂う臭いを軽く嗅いで頷いた。

「ニワヤナギにクサカゲロウ……ポリジュース薬……?」

 二人は顔を見合わせた。

 相手はハーマイオニーと同じくらい魔法薬学が得意で、親戚には研究家がいるのだ。

 隠し通せないで当然だった。

「そうよ。私たち、何十もの校則を破ってポリジュース薬を作ってるの」

「ハーマイオニー気は確か? 継承者かもしれないヤツに喋るなんて!」

「何度も言ったけど、むしろ彼女は狙われる側よ。マグル育ちで純血主義に興味がない。スリザリンの継承者になれるはずがないわ」

 噂を真に受けず常識的に考えている。ハーマイオニーはとても冷静だ。

 スミレも三人に話すことはないので、この場から退散することにした。

「私はなにも見ていませんし、聞いていません。ただ、あまり無茶はしないでくださいね」

 どのみち毒ツルヘビの皮の千切りなど稀少な素材を必要とする魔法薬だ。

 校則で禁止されていようが、まず完成させる手段がない。

 誰に化けるつもりかを聞かずスミレはそれだけ伝えて女子トイレを去った。

 

 ロンはふと、トイレを出て行った優等生に疑問を抱いた。

 

「こんなところに何しに来たんだろう?」

「確かに、ここってレイブンクローの近くだ。スリザリンなのにどうしてかな」

 ハリーも言われて疑問に思ったが、ハーマイオニーが咳払いをした。

「そんなことより! 調合に戻りましょう、焦げ付いたらそれでお終いなんだから!」

 あの恐がりな性格でマートルと友達と言うこともない。

 道に迷ったか、あるいは本気で『秘密の部屋』を探しているのか。

 どちらにせよ時間があるときに聞けばいいと、ハーマイオニーも意識をポリジュース薬に戻した。




 五十年前の享年十四歳にいじられる現役の十四歳。
 お年の割に詳しいマートルとよく知らないスミレでしたとさ。


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T・M・リドル

 ここから『秘密の部屋』は徐々に原作と違ってきます。


 トイレで拾った持ち主不明の日記帳。

 年季の入った黒革の表紙で、持ち主はT・M・リドル。

 ティファニー(Tiffany)トレイシー(Tracy)セルマ(Thelma)ティナ(Tina)……思いつく限りの名前を調べても、スリザリンはおろか他の寮にもT・Mに当てはまる生徒がいない。

 拾得物なのでフィルチに届け出るのが筋だが、ミセス・ノリスが石になって荒んでいることろへコリンが襲撃された。ハリーが医務室に押し込められている間の出来事である。自然と怒りの対象がスミレに移り、なんとなく話しかけづらい。

 日記帳は女子寮のベッドの下に置いて、同室の三人にも黙っていた。

 それから二週間が過ぎた。十一月も終わりが近い。

 スコットランドの容赦ない寒さが廊下で待ち構えている。

 正体不明の襲撃者よりよほど厄介だ。

 コリンの件はハリーやロックハートが「撮影を注意していただけだ」と証言したが、継承者騒動はまったく鎮静化しなかった。心ない、というよりハリーもロックハートも信用していない生徒の方が圧倒的に多いからだ。

 スミレ本人も彼らの言い分に納得している。

 なにせ昨年の寮対抗杯で、ダンブルドアが『サラザール・スリザリンの理想を体現してみせてくれた』と全校生徒を前にして讃えてしまったのだから。

 異国の出身だとかマグル趣味だとか、そんな理由はもはや通用しない。

 恐怖はそこかしこに蔓延し、内側へ忍び込んでいる。

 そうなっては反論も面倒なので好きに言わせている状況である。

 相手が聞く耳を持たないのなら言うだけ損だ。

 襲撃の恐怖冷めやらぬホグワーツでスミレの周囲は賑やかだった。

 マグル出身者は襲撃を恐れて恭順を示す。それで助かる可能性は変化しないのに。

 純血の生徒も家系の正当性を示そうと家系図の写しを見せる。

 当人はただ「次の襲撃があればみんな目が覚めますよ」と無関心である。

 周囲にいるのはみな純血、襲われるはずがないという余裕があった。

 恭順者の中には露骨に賄賂として食べ物や書物を献上する者もいる。

 どちらもスミレの趣味に合わないため、飲食物はスリザリンの談話室に、書物は寝室の隅に放置されている。

 今日だけで合計三箱の百味ビーンズを受け取った。

 それをクラッブとゴイルに渡し、スミレはため息をつく。

 魔法界のお菓子はほとんど嫌いだ。味か発想か、あるいは両方狂っている。

 二人を外で待たせ、ドラコたちはトロフィー・ルームにいた。創設以来、生徒に授与した色々なトロフィーを展示している。ハリーの父親も名前があるし、ロンの兄もいる。ドラコ、パンジー、ミリセント、ダフネ……スリザリンの家系の名前もだ。

 中には現在教授職にある人物、例えばミネルバ・マクゴナガルなども在籍中に表彰を受けている。ここには先人たちの勝ち取った『栄光』があるのだ。

「こっちに来い、これが父上のトロフィーだ、七年生のときスリザリンの主席に選ばれたことを讃えるものさ」

 ドラコが示す金の盾には、確かにルシウス・マルフォイの名前が刻まれている。

 他の監督生より大きいのは寮内最優秀の証しである主席であったからだろう。

 魔法界における彼の権力は絶大だが、在籍中も生徒に対して並々ならぬ影響力を持っていたに違いない。

 マルフォイ家の当主に相応しい実績と名声を若くして手中にしていた。

 さらに昔の監督生の中にもマルフォイ姓がある。ドラコはそれを延々と自慢している。

 監督生やクィディッチのエース、そして特別功労賞……学校のあらゆる賞や実績に彼の先祖や親戚が連なっているのだ。

 確かに誇らしいのだろうが、スミレはあまり興味がなかった。

 自分の親戚が見つかるはずがないのだから尚更だ。主席よりもさらに大きな盾を見て、ぽつりと呟いた。

「この特別功労賞というのは、毎年いるわけではないのですね」

「そうだ。そこに名前があるだろう、その方は僕の先祖の一人さ。父上から見て五代前の御当主だよ」

「とても古い血筋なんですね……では一番新しいのはどれでしょう」

「もう何十年も出てないみたい。あ、これじゃない?」

「それだけ貴重な賞なんだ。これは学校の危機を救ったとか、そういう英雄的な行いをした生徒だけが授与される。ソイツは……トム・マールヴォロ・リドル? 聞いたこともないな」

 ドラコの顔が険しくなる。

 らんらんと輝いていた目に陰険な光が宿った。彼の知る限り、純血の家系に『リドル』という一族はいなかった。下等な『穢れた血』か、半純血の雑種だと判断した。パンジーも同じで、『生粋の貴族-魔法界家系図』にそんな姓はなかったと口にする。

 だがダフネは黙っていた。

 どこかで聞いたような。しかし思い出せない。

「うーん、トム・マールヴォロ……トムはマグルですけど、マールヴォロはどうなんです?」

 日本人でも知っているほどメジャーなファーストネームに対し、ミドルネームは馴染みがない。自分には調べようがないと早々に尋ねると、ドラコは神妙な態度に変わる。

「待て。トムはマグルの名前? そうなのか?」

「ええ。略称ですね、トマスとかトーマスとか」

「つまりコイツは半純血の紛い物だ。アオイは知らないだろうから教えてやるが……マールヴォロは僕たち『聖28一族』でもっとも高貴な家系の当主の名だ。ソイツが死んで、ゴーント家は途絶えた」

「ダフネが前に言ってましたね。サラザール・スリザリンの末裔、でしたっけ」

 ドラコもダフネも頷く。

 奇妙な一致の理由は色々と考えられた。

 偶然だと片付けることも容易い。

 ゴーント家に恩を受けたリドル氏が息子に当主の名をつけた可能性もある。

 だが今、四人はあることを確信していた。

 トム・マールヴォロ・リドルは正しい意味で純血ではない。

 純血の家はどこもその事を主張する。

 だがリドル家という名は聞いたことも見たこともない。マグルの血筋と考えるのが自然だ。

 西暦一九四三年……およそ五〇年前、前回『秘密の部屋』が開かれた年である。

 その年度に特別功労賞を授与された、彼の英雄的な行いでホグワーツは窮地を脱したのだ。

 

 彼が犯人を突き止めたことで、かつての継承者はサラザール・スリザリンの崇高な理想を果たし損ねた……それも、スリザリンの血を引く最後の魔法使いと同じ名前を与えられた者の手で――

 

 四人には、最も新しい特別功労賞のトロフィーを苦々しく見つめるしか出来なかった。

 

 

 その日の夜。

 スミレは談話室に下りて自習していた。

 表向きは苦手な天文学の復習である。

 実際は五〇年前の『秘密の部屋』事件を整理するためだ。

 マートルは巨大な目を見て死んだ。

 問題は遺体がどうなっていたか。

 石化していたなら恐怖の正体は間違いなく『毒蛇の王(バジリスク)』である。

 どの程度のサイズかは掴みきれていないが、おそらく壁の中にあるパイプを這っていたのだ。

 だからパーセルマウスの自分と蛇のザクロには声が聞こえた。

 コリンはカメラ越しに目を見たのだろう。

 だからカメラは壊れたが、コリンは石になって済んだ。

 ミセス・ノリスは床の水を鏡にして目を見た。

 直接的に見ていないからやはり死なずに石になった。

《楽しそうだな》

 ザクロがスミレの顔を覗き込む。

 言っている本人は面白く無さそうだ。

《怪物を疎んでいると思っていたが》

《そうだよ。怪物は嫌い、けどこれはチャンスなの》

《ウチに帰る、か》

 

 ――ここは寒すぎるかもな

 

 ザクロも乗り気では無いが止める様子もない。

 蛇語で会話しながら情報をまとめる。

 問題は二つ。トム・リドルが本当にマールヴォロ・ゴーントの血を引いているのか。

 そしてトムが五〇年前に事態を収束させたのかどうか。

《その日記に聞くしかない》

《だよね》

 羽ペンの先を黒いインクにひたす。

 十分にインクを吸わせて、適当なページへ書き込んだ。

 案の定、紙に留まるはずのインクは吸い込まれるように消えていく。

 

『初めまして日記さん』

 

 しばらくして、返答が浮き上がってきた。

 

『初めまして。僕は日記ではなく、トム・リドルです』

 

《面白いこともある》

《マートルには感謝しなきゃ》

 

『失礼しましたリドルさん。私はアオイ・スミレです』

 

『初めましてアオイ・スミレ。僕のことはトムで構いません。早速ですが、君はどうやってこの日記を拾ったのですか?』

 

『トイレに落ちていました。誰かが落としたのでしょう』

 

 返事はゆっくりだった。

 わざと焦らしているような気配すらある。

 スミレも羽ペンで字を書くのは苦手なので気長に待った。

 

『この日記は今、ジニー・ウィーズリーが使っています。もしお願いできるのなら、彼女に返してあげてはくれないでしょうか』

 

『分かりました。明日にも届けます』

 

『ありがとう。優しい人に拾ってもらえてよかった』

 

 大昔に卒業した生徒を名乗り、こうして人間と受け答えできる日記帳だ。

 そんな胡散臭い物を素直に返すつもりはサラサラない。

 ウィーズリーという姓からしてロンの妹だろう。

 あの強情そうな赤毛の一家に目をつけられるのも困る。

 

『実は、あなたの名前を知っています。五〇年前、特別功労賞を授与された方ですね』

 

 返事はなかなか来なかった。

 マグルの生徒から献上された普通のグミをつまみながらのんびり構えている。

 

『そうです。当時の、ディペットという校長からいただきました。まだ僕のトロフィーが展示されているのですね』

 

『はい。あなたはどんなことをして、授与されたのでしょうか。参考にしたいです』

 

『話せば長くなります、それにとても恐ろしい記憶です。知ればきっと後悔するでしょう』

 

『それは“秘密の部屋”ですか?』

 

 トムの答えは『はい(YES)』だった。

 スミレはゆっくりと、しかし迷いなく質問を書き込んだ。

 相手が何者だろうと構わない。真実を知らねば。

 もしも怪物が予想の通りなら、絶対に手に入れてやるんだ――

 

『今、五〇年ぶりに秘密の部屋が開かれました。生徒が一人襲われ、校長も打つ手無しの状況です。あなたが部屋についてご存じのことを、教えてもらえないでしょうか』

 

『この日記帳には僕の記憶が封印されています。かつて、その部屋は伝説だとして誰もが存在を否定していた。虚構だと思われていた古い言い伝えが現実となり、ホグワーツ魔法魔術学校で悲劇が起きた。数人の生徒が襲われ、一人の死者が出てしまったのです。僕は当時、思い違いをしていたのです。罪のない生徒を犯人として捕らえ、学校に突きだした』

 

《どこまで本当なんだかな》

 

『その生徒は杖を奪われ、学校を追放された。僕は偶然にも部屋を閉じる手段を持っていたから、隙を見て扉を閉めました。怪物の正体も部屋を開けた犯人も曖昧なまま、ディペット校長は終息を宣言した。死者が出て、魔法省がホグワーツの閉鎖に乗り出そうとしていたためです。終息宣言が嘘だと知っていた僕に校長は輝かしい特別功労賞を与え、このことを誰にも話さないよう約束させました。だから、この記憶はとても恐ろしく、そして恥ずべきものなのです』

 

『でもあなたは今、私に話しました』

 

『その通りです。僕は怪物がまだ生きていて、学校に潜んでいることを知っていた。だからその記憶を日記帳に隠し、いつか再び部屋が開かれるときに備えようと思ったのです』

 

『今回は黒幕がまったく謎です。事態はなにもかも謎のまま。まだ生徒が襲われる。前はどんな状態だったのですか』

 

『お望みならばお見せしましょう』

 

 スミレはペンを持ったまま首を傾げた。

 この日記帳が言うことをすべて信じるつもりはない。

 だがトムという男子生徒はパーセルマウスで、その能力を使い部屋を閉じた

 部屋がどこにあるのか突き止めるには丁度いいか……かなり分の悪い賭けである。

 だがどのみち放っておいてもまた誰かが解決してしまうだろう。ならばその前に、学校も魔法省もぶち壊してやる。

 復讐心に駆られて、スミレは『お願いします』と綴った。

 

 日記のページが突如、強風に煽られたようにパラパラとめくられ、六月の中ほどのページで止まった。

 六月十三日と書かれた小さな枠が、小型テレビの画面のようなものに変わっていた。

 いきなりの事で反応できずにいたスミレの体が椅子を離れ、ページの小窓から真っ逆さまに投げ入れられる感覚に襲われた。

 そのまま意識が落ちていく――色と陰の渦巻く中へ。

 

 両足が固い地面に触れたような気がして、震えながら立ち上がった。

 すると周りのぼんやりした物影が、突然はっきり見えるようになった。

 自分がどこにいるのか、スミレにはまったく分からなかった。

 円形の部屋は壁中肖像画だらけで、どの絵もヒゲを生やした老人だった。みなうつらうつらと居眠りしている。 

 デスクで手紙を読んでいる人物も見たことがない。

 小柄で弱々しい雰囲気、禿げ上がった頭に僅かに残った白髪が薄ら寒い。

「あの、すみません」スミレはおそるおそる言った。

「失礼ですが、ここはどこでしょう?」

 魔法使いの反応は無い。

 あのスネイプ教授でも声を掛ければ目を向けるくらいはするのに、随分感じの悪い魔法使いだ。

 少しムッとしながら、部屋の様子を確かめる。

 やたらと分厚い本があちこちで山を作っている。

 グリンゴッツ銀行の口座を思い出す光景だった。

 それにしても広々した部屋だ。

 デスクの周囲をうろうろしても無視された。絵画の老人たちも気づいていない。

 それをいいことにあちこち歩き回っていると、誰かが扉をノックした。

「お入り」老人が弱々しい声で言った。

 ハンサムな少年が入ってきて、三角帽子を脱いだ。銀色の監督生バッジが胸に光っている。 ゾッとする白い肌に真っ黒の髪だった。役者のような美男子である。

「ああ、リドルか」

「ディペット校長、何かご用でしょうか?」

 男子生徒が日記の記憶の主で、魔法使いは当時の校長だった。

 なるほど。ドラコの父親と似たような、少し冷たい美形である。

 ローブの色からしてリドルもスリザリンだと分かる。どうも緊張しているらしい。

「お座りなさい。ちょうど君がくれた手紙を読んだところじゃ」

「はい」と言ってリドルは座った。両手を固く握り合わせている。

「リドル君」ディペット校長はやさしく言った。

「夏休みの間、学校に置いてあげることはできないんじゃよ。休暇には、家に帰りたいじゃろう?」

「いいえ」

 リドルは即答だった。

「僕はむしろホグワーツに残りたいんです。その――あそこに帰るより――」

「君は休暇中はマグルの孤児院で過ごすと聞いておるが?」

 ディペットはリドルの実家について興味深げだ。

 マグル出身と指摘されて、リドルは恥じ入るように顔を赤くした。

 いかにもスリザリンらしい反応で、スミレはドラコを思い出しクスリと笑った。

 気の短いドラコなら、ここであからさまに機嫌を悪くするのだろうなと思った。

「はい、先生」

「君はマグル出身かね?」

「ハーフです。父はマグルで、母が魔女です」

「それで――ご両親は?」

「母は僕が生まれて間もなく亡くなりました。僕に名前を付けるとすぐに。孤児院でそう聞きました。父の名を取ってトム、祖父の名を取ってマールヴォロです」

 ディペット先生はなんとも痛ましいというように領いた。

 祖父の名はマールヴォロ。その情報には重要な価値がある。

 母が魔女で、その祖父がマールヴォロという名前。

 つまりトムの実母次第でゴーント家の血筋が絶えていないと証明できる。

 証明してどうするか考えていないので、スミレのテンションはそこから一気に平静へ戻った。

「しかしじゃ、トム」先生はため息をついた。

「特別の措置を取ろうと思っておったが、しかし、今のこの状況では……」

「先生、襲撃事件のことでしょうか?」

 スミレは校長の言葉に耳を傾けた。

「その通りじゃ。君もわかるじゃろう? 今学期が終わったあと、生徒がこの城に残るのを許すのがいかに愚かしいことか。特に、先日のあの悲しい出来事を考えると……。痛ましいことに女子学生が一人死んでしもうた……。孤児院に戻っていた方がずっと安全なんじゃよ。実を言うと、魔法省はすぐにもホグワーツを閉鎖しようと考えておる。我々はこれら一連のおぞましい事件の怪――いや……――源を突き止めることができん……」

 リドルの反応は衝撃そのものだった。

 どうやら彼はスミレと逆で、ホグワーツに残りたいらしい。

 理解し難いが、帰った先が家庭と呼べるものでなければこうなるのかもしれない。

 自分にはリドルの反応をどうこう言えないと、己を戒めた。

「先生――もしその何者かが捕まったら……もし事件が起こらなくなったら……」

「どういう意味かね!」

 ディペット校長は居住まいを正し、小さな身を起こし上ずった声で言った。

「リドル、何かこの襲撃事件について知っているとでも言うのかね?」

「いいえ、先生」

 嘘だ。日記が正しければ、この時点でリドルは事件の全容を掴んでいる。

 どうも襲われた生徒そのものよりも自分の都合を優先して動いたようだ。

 どこまでもスリザリン的な性格である。スミレはまあそんなものかと考えた。

 失望の色を浮かべながら、ディペット先生はまた椅子に座り込んだ。

「トム、もう行ってよろしい……」

 校長に言われるがままトム・リドルは部屋を後にした。

 早足に、どこかへ急ぐように階段を駆け下りていく。その後を早歩きで追いかけながら夕暮れのホグワーツ城へ目を向ける。生徒がまったくいない。今回より多くの生徒が襲われ死者が出てしまい、放課後は談話室に待機しているらしい。

 なので玄関ホールまで誰にも会わなかったが、そこで、長いふさふさしたとび色の髪と髭を蓄えた背の高い魔法使いが、大理石の階段の上からリドルを呼び止めた。

「トム、こんな時間に歩き回って、何をしているのかね?」

 今より五十歳若いダンブルドアにまちがいない。

「はい、先生、校長先生に呼ばれましたので」

 校長の向こうでは教授が数名がかりで担架を運んでいた。

 盛り上がったシートのすき間から腕が垂れ下がっている。しかしその左腕は凍ったように動かない、石化していた。

「また生徒が襲われたのですか」

「そうじゃ。ディペット先生からも聞いたじゃろう。もはや一刻の猶予もならんというのが、魔法省の見解じゃ。君もすぐ寮に戻りなさい。明日の朝にも荷造りをせねばならん」

 ダンブルドアの声は震え、しかも厳しいものだった。

 怪物バジリスク……何者かが『秘密の部屋』から解き放ち、無差別にマグル出身者を襲わせている。これで五人目。もはや猶予はないと、生徒の安全を考える魔法省は非情な決断を下した。

 

 リドルにとって、ここが家なんですね……。

 

 部屋を閉じた時点で薄々気づいてはいた。

 彼が五〇年前の継承者であるにせよないにせよ、自分とは逆の人間だ。

 純血もマグルも関係ない。

 彼は大多数の生徒と同じく、ホグワーツは帰るべき場所の一つ。

 はっきり気づいてしまうと急に心が冷めていく。

 五人襲ってたかが一人なんてだらしないと、呆れてしまうほどだ。

 今やリドルへの関心は薄れていた。しかし彼の見せる過去は続く。

 寮に戻るフリをして廊下を歩くうち、人気のない一角へ辿り着いた。

 どこかからガタガタと物音がする。少し周囲を見渡し、リドルは杖を手にした。

 

 近くの鉄扉が軋みながら開き、中で誰かのしゃがれた囁き声が聞こえた。

「おいで……おまえさんをこっから出さなきゃなんねえ……さあ、こっちへ……この箱の中に……」

 聞き覚えがあるようなないような。

 どうにも思い出せないスミレの脇をすり抜けてリドルは部屋の中へ飛び込んだ。

 巨人のような体躯の男子が廊下へ暗い影を落としていた。

 大きな箱を傍らに置き、開け放したドアの前にしゃがみ込んでいる。

「こんばんは、ルビウス」

 リドルが鋭く言った。

 少年は重そうな鉄扉を片腕で閉めて立ち上がった。

 ルビウス。彼は学生時代のハグリッドだった。

 髭こそ生えていないが、今より少しスリムだ。

 もう少し痩せればボリス・カーロフの代役くらいはこなせそうだった。

「トム。こんなところでおめえ、なんしてる?」

 一歩近寄り「観念するんだ」とリドルが告げた。

「ルビウス、残念だが君を学校に引き渡すつもりだ。このまま襲撃事件が続けば、ホグワーツが閉鎖される。明日にも全校生徒は家に送り返される、校長もご存じのことだ」

「な、なんが言いてえのか――」

「僕だって君が誰かを意図して殺しただなんて思っていないさ。だけどルビウス、怪物はペットになれないんだ。君は運動させようとして、ちょっと放したんだろうが、それがミス・ワレンを――」

「こいつは誰も殺してねぇ!」

 若きハグリッドは先ほど閉めた扉の方へ後ずさりした。

 その少年の背後から何かが蠢く音がした。あの向こうにナニかがいる。

 この頃からタチの悪いバケモノを飼う趣味があったのかとずっこけそうだった。

 彼の悪趣味は筋金入りだ。ミリセントやハーマイオニーのロックハート熱病が軽く思える。

「さあ、ルビウス」リドルはさらに詰め寄った。顔は切羽詰まっていた。

「死んだ女子学生のご両親が、明日学校に来る。娘さんを殺した犯人を、確実に始末すること。学校として、少なくともそれだけはできる」

「こいつがやったんじゃねぇ!」

 悲痛な叫びだった。

 しかしやったかどうかなど、スミレには重要ではない。

 リドルとて監督生だ。ならばアクロマンチュラに石化の力がないことは知っていよう。

 飼い主であるハグリッドも……ならば、トムは自覚してこの大男を捕らえたことになる。

 スミレは目の前の美男子への仲間意識を失った。

 もしこの過去に干渉出来るなら、ハグリッドごと怪物を吹き飛ばしてしまいたかった。

 そんな強力な呪文は習得していないけれど。気持ちとして。

「こいつにできるはずねぇ! 絶対やっちゃいねぇ!」

「どいてくれ」リドルは杖を取り出した。

 リドルの呪文が燃えるような光で廊下を照らした。

 ハグリッドの背後で扉が突如として開き、彼は反対側の壁まで吹き飛ばされた。中から出てきた物を見た途端、スミレは思わず悲鳴をあげ廊下へ逃げ出した――誰にも聞こえない長い悲鳴を――。

 毛むくじゃらの巨大な胴体が、低い位置に吊り下げられている。

 絡み合った黒い脚、ギラギラ光るたくさんの眼、剃刀のように鋭い鋏。

 ボルネオ島の肉食蜘蛛、アクロマンチュラそのものだ。まさかこの年で法律違反とは。

 恐怖と怒りで涙がこぼれた。

「アラーニア・エグズメイ! 蜘蛛よ去れ!」

 最初の呪文は外れた。

 リドルがもう一度杖を振り上げたが、遅かった。その生物はリドルを突き転がし、八本の脚を走らせ廊の向こうへ姿を消した。リドルは素早く起き上がり、後ろ姿を目で追い、杖を振り上げた。

「やめろおおおおおおお!」

 巨体が細身のリドルに飛びかかり、杖を奪ってそのまま投げ飛ばした。

 そして、記憶の世界が渦を巻いて闇に溶ける。

 再び目覚めたとき、テーブルの上のザクロは窓の外を眺めていた。

 スミレはソファの上で眠るように姿勢を崩していた。

《戻ったか》

《うん……なんとか?》

 リドルの日記は最初に開いたページのままだ。

 トム・リドルはなんらかの理由でハグリッドを生贄に、ホグワーツの閉鎖を阻止した。

 そのためあの巨漢は杖を奪われ学校を追われた。だから森番なのだ。魔法は必要ない。

 ディペット校長も彼が継承者と思っていなかったのだろう。

 しかし怪物はアクロマンチュラで、学校にはもういない。飼い主は追放したから、もう『秘密の部屋』は開かれることもなかろう。

 そして、リドルがパーセルマウスで部屋を閉じ、襲撃事件は幕を下ろした。

 結果的にトムはホグワーツ閉鎖の危機を救った。

 だから特別功労賞を与え、この件について口を閉ざすよう頼んだのだ。

《どうだった》

《怪物はバジリスクだ……》

 ザクロは鼻で笑った。

 あのアクロマンチュラが恐れる蛇は一種だけ。毒蛇の王、バジリスクのみだ。

 スミレは興奮を抑えきれずペンを取った。

 挨拶も抜きに日記帳へ書き込む。

『怪物は蜘蛛ではなかった。バジリスクですね』

 

『よく気づきましたね。そう、あの蛇はまだ生きている』

 

『そしてあなたは継承者として解き放つ日をそこで待った』

 

 日記帳はそれまで以上に沈黙していた。

 五分ほどして、ようやく文字が浮かび上がった。

 

『なるほど、そこまで掴んでいたとは。どうだろう、君の目的を果たすのならばスリザリンの継承者は最良のパートナーではないかな?』

 

 共闘の申し入れだった。

 明確に受諾して変な呪いを掛けられたくない。

 スミレは遠回しに、そうとも取れる答えを返した。

 

『適当にマグル出身者を襲うのでは面白くありません。ジニー・ウィーズリーから生徒の目を逸らすためのスケープゴートを用意しましょう』

 

 だからそれまで襲撃は待って欲しい。

 リドルの日記はそれが誰か尋ねた。スミレは思いつく限り最善の案で答える。

 襲撃のタイミングはこちらに任せるよう申し出て、リドルの日記は受諾した。

 ジニー・ウィーズリーに返すのはいつでもよいと付け加えて。 

 

 浮かび上がった文章に微笑みかけて、スミレは日記帳を閉じた。

 これで全部を終わらせてしまおう。

 忌々しいファッジの権力も、彼を支えるダンブルドアも、私を苦しめる魔法界も。

 ちょうど今年は都合のいい駒もいることだ――

 

 この夜、スミレは久々に快眠できた。

 

 翌朝の目覚めは心地よく、心まで爽やかに晴れ渡っていた。




 時期的にはハリーの腕が治った頃です。
 原作で言うと『狂ったブラッジャー』と『決闘クラブ』の中間ですね。
 次回はお待ちかねの『決闘クラブ』です。


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決闘クラブ

 映画版『秘密の部屋』の前半で一番好きな場面です。


 十二月に入るとスミレを『継承者』とみなす生徒が激増した。

 物品の献上だけにとどまらず『彼女こそサラザール・スリザリンの偉業を果たす』と喧伝し始めたのだ。

 それにピーブスが絡んでいるのは確かな事実である。

 ビンズ教授の言葉を借りるなら『実態のある、信ずるに足る、検証可能な』事実だ。

 常識的に考えればあまりにも荒唐無稽な嫌がらせである。

 教授たちまでピーブス狩りに出動しかねないほど騒ぎは深刻で、そんな噂を信じてしまうほど生徒たちの中に継承者への恐怖が忍び込んでいた。

 それはまさしく見えざる『スリザリンの怪物』さながらに。

 そんな中、一部の口が悪い生徒は「ザクロこそスリザリンの怪物だ」とか「『秘密の部屋』の主だ」と言いふらすようになった。

 それを耳にするたび、マグゴナガル教授やスネイプ教授が減点を申し付けて口をつぐませようと躍起になる。

 過度のストレスで吸血鬼化する可能性がないとも言えないためだ。

 が、ロックハートはと言うと「確かに、ミス・アオイのミステリアスな瞳には、かのサラザール・スリザリンの残した『恐怖』とやらもメロメロになるかもしれません!」とトンチンカンなジョークを吐くだけだった。

 すでに人望を失っているから大した問題にはならなかった。

 もはや狂信の域に突入しかけていたラベンダー・ブラウンですら「流石にないわ」と少し正気を取り戻したほどである。

 ロックハートはスミレの吸血鬼化を知らない。

 それが明らかになって、パンジーはさらに失望させられる。

 ただし生徒で気づいたのはパンジーとスミレ本人だけだが。

 クリスマス休暇にマグル出身の大半が帰宅を選び、逆にスリザリン生が多く残ることとなった一九九二年。

 もうすぐ年末という時期、ポリジュース薬の素材を盗むためハリーたちが魔法薬学で騒ぎを起こしスネイプを激怒させることもあった。

 これは首尾よく運んで、ゴイルの鍋に『フィリバスターの長々花々』が投げ込まれるという事件は迷宮入りし、トリオは無事に目当ての材料を手に入れた。

 この一件ではゴイルのほか数名が被害を受けたに過ぎない。

 クリスマスを目前に控えたある日、掲示板に恐るべき告知が掲示された。

「『決闘クラブ』? 誰が教えるの?」

 昼食後、談話室でくつろいでいたダフネが気怠そうに聞き返した。

 主催者の名前がない時点で参加意欲が起こらない。

 ろくでもない事故に巻き込まれるのはご免です――そんな風に態度で示していた。

 が、今回はパンジーも譲らない構えを見せる。

「好きに魔法を使えるのよ? 何十人も集ったらダンブルドア以外に止められるもんですか!」

「だから危ないって言ってるのに。ナメクジ呪いなんて喰らったらどうするの?」

「やられる前にこっちがやっちゃえばいいじゃない!」

 あっけらかんと言い切るパンジー・パーキンソン。

 彼女はこれでも『聖28一族』のパーキンソン家に連なる正真正銘のお嬢様である。

 同じテーブルを囲みカロー姉妹とサンドイッチを食べているスミレは興味なさそうだ。

 あちらの三人も純血の名門に生まれている。襲撃の恐怖とは無縁だった。

「……見に行くだけだからね?」

「そう来なくっちゃ! スミレ! フローラとヘスティアも聞いたわね!」

「なにをですか?」

 ハムサンドに夢中だったようだ。

「ロックハート教授の『決闘クラブ』ですわ姉様」

「折角ですし、スミレ姉様も参加なさいますか?」

 カップに温かい紅茶を注ぎながら姉妹が教える。

 スミレは「皆さんが行くなら」と本気でどうでもいい様子だ。

 この場合は強制的に肯定へ変換されてしまう。

 

 大広間の入口脇にも同じ羊皮紙が張り出されていた。

 こちらも人集りが出来ていて、見に行った四人で一番背の高いミリセントが長身を生かし文字を読み上げた。

 

  

本日午後八時より大広間にて『決闘クラブ』を開催する。

 

 夕食後、談話室に戻らなかった生徒が大広間の近くにたむろしていた。

 その間は大広間の扉が閉ざされていたが、予定より十五分早く入場が始まった。

 パンジーたちは一度寮に戻り、色々と呪文を確認して誰を狙うか相談した。

 まずネビル・ロングボトムの名前が挙がり、パチル姉妹、ジャスティン・フィンチ・フレッチリー、ザカリアス・スミス、ハリー・ポッター、ロン・ウィーズリー、ハーマイオニー・グレンジャーと日頃から険悪な面々が揃ってしまった。

 とりあえず目に付いたヤツから隙を見て呪ってやろう、という方向で決まる。

 ノリ気のパンジーとミリセントは呪文が不得手だったが、スミレもダフネもカロー姉妹もそのことは無視した。

 大広間に行く途中から廊下は大混雑。

 ほぼ全生徒が集っているような状況である。

 上級生は冷やかしなので余裕があったが、新入生はみな真剣な面持ちだった。

「誰が主催するんだろう。フリットウィック先生かなあ。学生の頃は決闘チャンピオンだったでしょ? トロフィーもあったし」

「意外とスネイプ教授だったりして。闇の魔術にもお詳しいそうよ?」

「もしマクゴナガルだったら帰ってやろっと。お願いだからグリフィンドールの化け猫じゃありませんように……」

「誰でもいいですよ。『闇の魔術に対する防衛術』の教授でなければ」

 大蛇のような行列がぞろぞろと大広間の中へ流れていく。

 その様子をピーブスが「怪物様が『秘密の部屋』へお帰りだ!」と茶化し、通りかかった『血みどろ男爵』の雷が落ちて場が和んだ。

 中にある長テーブルと椅子は片付けられ、金色の舞台に青色の布が被せられていた。

 天井は何度も見慣れたビロードのような黒。

 その下には、興奮した面持ちで杖を持つ生徒がひしめき合っていた。

 誰が教えるのか、どんな内容なのか、誰もが思い思い好き勝手に喋っている。

 ただしスミレの周囲には純血のスリザリン生――パンジー、ミリセント、ダフネ、カロー姉妹にドラコとその取り巻き二名だ――ばかりが集っているだけで、近くにいる他の生徒は露骨に遠ざかりながら継承者が視察に来たと怯え、疎み、苛立ちながら囁きあっている。

 ときおりクラッブとゴイルがじろりと睨んで黙らせるが効果は薄い。

 スリザリンの怪物に比べれば二人の拳骨なんて豆粒より軽い。

 興奮と恐怖の入り乱れたカオスな空気をブレーズ・ザビニは鼻で笑った。

 あのダンブルドアが校長に就任してすぐ解散させた悪名高い『決闘クラブ』だ。

 マダム・ポンフリーは一週間は徹夜だろうよ――と、そんな予感がしていた。

 彼も名門ではないにせよ純血、この大騒動は特等席で楽しめる。

 さて、ちょいと一年連中を揉んでやるとするか。

 などと心を躍らせていると、冷や水を浴びせられた。

 ギルデロイ・ロックハートが舞台に登場したのだ。

 きらびやかな深紫のマントをまとい、颯爽と中央へ進み出る。

 そして観衆にサッと手を振り「静粛に」と呼びかけた。

「みなさん、集まって。さあ、集まって。みなさん、私がよく見えますか! 私の声が聞こえますか! 結構!」

 好奇心と不安の目ばかりでも大満足だった。どこまでも鈍感である。

「最近何かと物騒ですからね! ダンブルドア校長先生から『決闘クラブ』を開くお許しをいただきました。私自身が、数え切れないほど経験してきたように、自らを護る必要が生じた万一の場合に備えて、みなさんをしっかり鍛え上げるためにです――詳しくは、私の著書を読んでください」

 ロックハートは満面の笑みを振りまいた。

 丸めて投げ捨てたマントをラベンダー始め数名の女子生徒が奪い合う。

「残念ながら今回は急を要する事態だったものですから、他の教授に助手をお願いする時間がありませんでした。そこで! 上級生のどなたかに、模範演技のお手伝いをしていただきます! 武装解除呪文を使うだけで結構です!」

 フレッドとジョージがパーシーを左右から肘で小突いた。

 ペネロピ・クリアウォーターにイイトコ見せるチャンスだぜ、と持ちかけても「僕だって命が惜しい」とイタズラな笑みを浮かべる弟たちに言い返した。

 監督生たちですら尻込みする中、一人の男子生徒が名乗りを上げた。

 真っ直ぐあげられた手に気づきロックハートは舞台へ招く。

「では、この勇敢なるセドリック・ディゴリーくんと私で、決闘の基本的な流れと武装解除呪文をご覧に入れましょう! 心配ご無用! 杖を取り上げるだけの簡単な呪文です! 皆の人気者を哀れなピクシー小妖精みたいにしたりはしませんよ!」

「根に持たれてない?」

「あんなバケモノを連れてくる方が悪いんですよ」

 スミレはパンジーの皮肉をバッサリ切り捨てた。

 思い出しただけで目つきが鋭くなるほどピクシーを嫌っている。

 ロックハートとセドリックは向き合って一礼した。

 少なくともロックハートの方は――腕を振り上げ、くねくね回しながら体の前に持ってくる奇妙な形で――大げさな礼をした。

 セドリックは腰を四十五度前へ傾ける丁寧な礼だった。腕は身体の横側に添えられている。 

 それから舞台の両端まで歩き、二人とも杖を剣のように前に突き出して構えた。

「ご覧のように、私たちは伝統的な作法に従って杖を構えています」

 ロックハートはシーンとした観衆に向かって説明した。

 彼がちゃんと教授らしいことをした最初の瞬間だった。

「三つ数えて、武装解除の呪文をかけます。杖がなければ魔法を使えませんから、これが最もスマートで安全な手段です」

 生徒は固唾を呑んで見守った。

「一――二――三――」

 二人とも杖を肩より高く振り上げた。セドリックとロックハート、同時に叫んだ。

 

「エクスペリアームス! 武器よ去れ!」

 

 目も眩むような紅の閃光が走ったかと思うと、セドリックの杖は宙へ飛び上がった。

 回転しながら再び持ち主の手に戻る。セドリックはちゃんとキャッチした。

 ロックハートは舞台から吹っ飛び、後ろ向きに宙を飛び、壁に激突し、壁伝いにズルズルと滑り落ちて、床に無様に大の字になった。

 マルフォイや数人のスリザリン生が歓声をあげた。

 ハーマイオニーは恐ろしくて見ていられないと両手で顔を覆った。

 それでも心配するのは忘れていない。

「先生、大丈夫かしら?」

「知るもんか!」

 ハリーとロンが以心伝心で笑った。

 ロックハートはよろめきながら立ち上がった。

 金色の帽子は吹っ飛び、カールした髪が逆立っていた。

「さあ、みんなわかったでしょうね!」

 足下が覚束ないまま壇上に戻ったロックハートが胸を張る。

「あれが、『武装解除の術』です――ご覧の通り、私は杖を失ったわけです。あぁ、ミス・ブラウン、ありがとう」

 セドリックは教授に「申し訳ありません」と頭を下げた。

 毒気というものが一切ない好青年ぶりにロックハートも嫌み一つ言う気力が起こらず、誤魔化すように笑顔でやり過ごした。 

 セドリックはそのまま助手として舞台の上に残っている。

 教授を吹き飛ばしてしまったのが気まずい様子だ。ロンもドラコも感心してしまった。

 ロンは「なんでホグワーツにいるんだろ」と呟き、ドラコは「ゴミ捨て場だと思っていたが、まともなのもいるんだな」と吐き捨てた。

「模範演技はこれで十分!これからみなさんのところへ下りていって、二人ずつ組にします。ディゴリーくん、君にもお願いしよう」

 二人は生徒の群れに入り、二人ずつ組ませた。

 ロックハートは、ネビルとジャスティン・フィンチ・フレッテリーとを組ませた。

 セドリックはなるべく別グループ同士で組ませた。

 何人かが不満を漏らしたが「継承者は君たちの知らない相手だ。顔見知りと練習しても本番じゃ役に立たないだろう?」と笑顔で説明し、あまりの人格の立派さにフレッドとジョージが口笛を鳴らすほどだった。

 スリザリンでも彼の指示には誰もが黙って従うほどだった。

「君は……ええと、その杖で大丈夫かい?」

 テープで補修された杖にセドリックの笑顔が引きつった。

 ロンも「かもね」と見学することにした。

「それじゃあ君の相手は……」

 誠実そうな灰色の瞳がハリーを見て、練習相手を探し――

「スリザリンの君。そう、金髪の。済まないね、名前を知らないんだ」

「ドラコ・マルフォイだ」

「マルフォイくん、君はハリーと組んでくれ。次はそちらのお嬢さんたちだね……」

 流れるように手際よくペアを作っていく。

 後輩相手にも折り目正しいが、ハリーは感謝の言葉を思いつかなかった。

 ドラコも心底不機嫌そうにズカズカやって来る。

 向こうではハーマイオニーがミリセント・ブルストロードとペアになっていた。

 あのゴイルと肩を並べる長身に加え、肩幅や手脚もゴツい。

 魔女と言うより女性アスリートに近い容姿だ、あれでいいとこのお嬢様なんてハリーには信じられなかった。

 ハーマイオニーはかすかに会釈したが、むこうは会釈を返さなかった。

「相手と向き合って!そして礼!」壇上に戻ったロックハートが号令をかけた。

 ハリーとマルフォイは、互いに目をそらさず、わずかに頭を傾げただけだった。

「杖を構えて!」

 ロックハートが舞台の上から声を張り上げた。

「私が三つ数えたら、相手の武器を取り上げる術をかけなさい。武器を取り上げるだけですよ、みなさんが事故を起こすのは嫌ですからね。一――二――三――」

 ハリーは杖を肩の上に振り上げた。

 が、マルフォイは「二」ですでに術を始めていた。

 呪文の効果は強烈だった。

 まるで頭をフライパンで殴られたような衝撃で一瞬目の前が暗くなった。

 ハリーはよろけたが、他はどこもやられていない。

 間髪を入れず、ハリーは杖をまっすぐにマルフォイに向け、「リクタスセンブラ」と叫んだ。

 銀色の閃光がドラコの腹に命中し、そのまま体をくの字に曲げて苦しげに笑い転げた。

「武器を取り上げるだけだと言ったのに!」

 ロックハートが慌てて、練習どころか戦闘まっただ中の生徒の頭越しに叫んだ。マルフォイが膝をついて座り込んだ。

 ハリーがかけたのは「くすぐりの術」で、これを喰らえば笑い転げて立つことさえできない。

 相手が座り込んでいる間に術をかけるのはスポーツマン精神に反する――そんな気がして、ハリーは一瞬ためらった。

 これがまちがいだった。

 息苦しさを堪え、ドラコはハリーに杖を向け別の呪文を放つ。

「タラントアレグラ! 踊り続けろ!」

 次の瞬間、ハリーの両足がピクビク動き、勝手にクイック・ステップを踏み出した。

「やめなさい!ストップ!」

 ロックハートは叫んだが、舞台の上からがセドリックが呪文を使った。

「フィニート・インカンターテム!」

 ハリーの足は踊るのをやめ、ドラコは笑うのをやめた。

 そして二人ともやっと周囲を見ることができた。

 緑がかった煙があたり中に霧のように漂っていた。

 ネビルもジャスティンもゼエゼエ言いながら床に横たわり、パドマ・パチルは目を回しているシューマスに駆け寄り、パーバティとパンジーは呪文を誤射して同時にディーンにぶつけてしまっている。

 ハーマイオニーとミリセント・ブルストロードは杖を手放していた。

 ミリセントがハーマイオニーにヘッドロックをかけ、ハーマイオニーは痛みで泣きながらギブギブと叫んでいる。

 近くにいたパーシーとペネロピが二人を引き離した。

 スミレは三年生のリー・ジョーダンと真面目に練習していた。

 双子のカロー姉妹は笑顔を浮かべ、次々と同級生を呪文でノックアウトしている。

 威嚇するように唸るミリセントから逃げたハーマイオニーはラベンダーと組んだ。

 ラベンダーはロンと組もうとしたが、ロンは折れた杖を見せて「暴れ柳と十分やったから」と断ったのだ。

「なんと、なんと……」

 ロックハートは生徒の群れの中をすばやく動きながら、決闘の結末を見て回った。

「マクミラン。立ち上がって……気をつけてゆっくり……、ミス・フォーセット。しっかり押さえていなさい。鼻血はすぐ止まるから。あぁ、ブート……」

「上級生同士で演技を見せた方がよいでしょうか」

 セドリックが舞台から下りてロックハートに提案する。

 大広間の中心で面食らった顔のまま立ち尽くしていた教授は、「まあ上級生に限らず、腕のいい生徒に模範を見せて貰うとしましょう」と手を叩いた。

「さて、誰か進んでモデルになる組はありますか?――ロングボトムとフィンチ・フレッチリー、どうですか?」

「二人はさっきの練習で疲労が溜まっています、これ以上は事故につながりかねません」

「マルフォイとポッターはどうだね?」

 ロックハートは先ほどの二人に気づいていないらしい。

「ハリーとドラコは攻撃こそ優秀ですが防御は不慣れです。二年生でしたら、ミス・グレンジャーとミス・アオイはどうでしょうか。力量で言えば四年生が相手でも十分にやれます」

 ロックハートはハーマイオニーとスミレに大広間の真ん中に来るよう手招きした。

 他の生徒たちは下がって二人のために空間を空けた。

「さあ二人とも、互いに杖を向けたら、こういうふうにしなさい」

 ロックハートは自分の杖を振り上げ、何やら複雑にくねくねさせたあげく、杖を取り落とした。

「オットット! 私の杖はちょっと張り切り過ぎたようですね!」

 ロックハートが急いで杖を拾い上げるのを、セドリックは困った顔で見ていた。

「まず基本の礼から始めるんだ。そのあと教授が三つ数える、それから呪文を唱えてくれ。相手が杖を落とすか、降参させるか、教授が勝負ありと判断したら終わり。ただし、殺傷性のある呪文は使わないこと。いいね?」

 全員によく聞こえるようルールを説明した。

 あくまで進行はロックハートに任せるところがお人好しすぎるくらいだった。

 スリザリンはスミレを、他の寮はハーマイオニーを応援している。

 ここで継承者をやっつければ襲撃が終わると信じているかのように。

「一――二――三――!」

 ハーマイオニーとスミレはすばやく杖を振り上げ、「エクスペリアームズ! 武器よ去れ!」と唱えた。

 杖の先から放たれた閃光はぶつかってあらぬ方へ飛んでいく。

 どこへ行ったのかも確かめず、ハーマイオニーはすぐさま「オブスキューロ!」と目隠し呪文を使った。

 黒い布がスミレの両目を多い、視界を塞がれたスミレはとっさに「フィニート・インカンターテム」で布を取り払う――それがハーマイオニーの狙いだった。

 再び武装解除呪文を放ち、スミレの白い杖を吹き飛ばす。

 さらにその杖を自分の方へ飛ばし、空の左手で捕まえた。

 手際の良さにセドリックが拍手を送る。

 グリフィンドールを中心に歓声があがった。

 しばらく賑やかせてロックハートが悠々とした足取りで二人の間に入ると「エクスペリアームズ」――身なりだけは立派な教授が再び空中へ飛んでいき舞台の下へ落下した。

「先生、まだ終わっていませんよ。シレンシオ 黙れ」

 閃光がハーマイオニーを貫く。

 黒い杖を手にしたスミレの呪いでハーマイオニーは口を封じられた。

 歓声はブーイングに変わるが、セドリックは手で試合続行を示した。

「タレントアレグラ」「――」「リクタスセンプラ」「――」「オブスキューロ」「――」

 ハーマイオニーはプロテゴからフィニートまであらゆる呪文を駆使して守りに徹する。

 しかし肝心の沈黙呪文を解除出来ず、たまに閃光を飛ばしてもスミレには効果がなかった。

 呪文を唱えられないのでプロテゴが脆く、二発以上耐えられない。

 じわじわと舞台の端へ追い詰められたハーマイオニー、グリフィンドールから悲鳴があがる。

 黒い杖は白い杖より呪文が重い。スミレはトドメを刺そうと杖を大きく振り上げた。

 

「エクス――」

 

 油断して動きが鈍くなった。その隙を突き、ずっと速い動作で全力の武装解除呪文を撃つ。

 狙いを定めることもなく放たれた魔法はスミレの小さな身体を反対側まで吹き飛ばした。

 幸か不幸か、ロックハートのように気絶はしなかった。

 だが起き上がる前にもう一度、目隠し呪文を喰らわされ、スミレは再び混乱しはじめる。

 あらぬ方に呪文を放って壁にぶつけると、口から聞いたこともない音を発した。

 

「スリザリンの怪物だ!!」

 

 舞台の下からザカリアス・スミスが叫んだ。

 袖の中かどこかにいたのだろう。

 真っ白な大蛇を自分の首に巻き付かせ、頭はまるで助言するかのように耳元に位置していた。

 セドリックやスリザリンの上級生が声を挙げるより早く、スミレは杖だけザカリアスに向け、「ナメクジくらえ!」と叫んだ。

 聞き覚えのある呪文にロンは顔をしかめる。フレッドとジョージは声をあげて笑った。

 膝を突いて口から巨大ナメクジを吐くザカリアスをネビルとジャスティンが両脇から肩で支え、大広間から連れ出した。

 粘液とナメクジで床を汚し、真っ青な顔になっていた姿をロンは静かに哀れんだ。

 吐き気も辛いが口の中がつねにナメクジのネバネバで気色悪いのだ。

 スミレはさらに「シャー」や「シュー」など掠れた音を出し、ヘビは観衆をじろりと見た。

《そのまま腕を左に》

《このくらい?》

《それでいい》

 蛇と会話している――!

 ハリーは動物園でオオニシキヘビと会話したことを思い出した。

 去年のことだったが、思えばあれが初めて魔法を使った瞬間だった。

 驚いて逃げ出したダドリーが面白くて微笑んでいたが、周りの沈黙が不可解だった。

 舞台の上を見るとセドリックさえ驚いて目を見開いている。ハーマイオニーもだ。

 スミレを応援していたスリザリン生たちですら何か異常なモノを見たような顔でだんまりである。

「ロン……みんなどうしちゃったの? スリザリンの怪物はいないだろ?」

「ああ……うん、ハリーは知らないんだね。アイツは今、パ――」

 

「スリザリンの継承者よ!!」

 

 誰かが悲鳴をあげた。

 声のした方を見ると、マリエッタ・エッジコムという女子生徒が真っ青な顔でスミレを指差していた。

 レイブンクローの青いローブを着ている。

 さらに小さな悲鳴も聞こえたが、スミレはそれを無視して杖を構える。

 連鎖する悲鳴を合図に、ハッフルパフやグリフィンドールの何人かが舞台に上がった。

 セドリックは「これは決闘クラブだ! マナーを守れ!」と怒鳴ったが、それを無視して乱入者は次々に呪文を放つ。

 それぞれフリペンドやデパルソを唱え、セドリックは呪いそらしで麻痺呪文だけは天井の方へ軌道を変えさせた。

 激昂したスリザリン生が舞台へよじ登るより先にスミレは防御呪文を叫んだ。

 透明な壁が閃光や光弾を弾き、白い大蛇がハーマイオニーの前に立つ生徒を威嚇した。

「イモビラス 動くな」

 ロックハートの最初の授業でハーマイオニーが見せた呪文だ。

 立ちはだかる生徒の動きを封じ込め、さらに追撃する。

 身動きの取れない相手に手際よく武装解除呪文をぶつけ、舞台の上から弾き出した。

 きれいに大の字でのびているロックハートの左右に並んで気絶させられ、近くにいたラベンダーが驚いて飛び上がった。

 遅れて加勢したフリントたちへ対抗するようにリー・ジョーたちも舞台へ上がった。

 フレッドとジョージもいたが、双子は自分たちを壁にしつつハーマイオニーにここから下りるよう説得していた。

 それを頑として拒む理由はすぐに分かった。スリザリンの援軍にはドラコの姿もある。

 上級生を盾にして、ニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべている。

 クラッブとゴイルを引っ張り上げることもせず自分の杖を手にしていた。

「君の彼氏だろ? なんとかしろよパーキンソン」

 ロンがおろおろとしているパンジーに言った。

 パンジーは耳を赤くしながら「先に上がったのはそっちでしょ!」と怒鳴る。

「やめてくれロン。それが本当ならどんな悪夢より恐ろしいよ」

「おや、そりゃごめんよ。けどそれっていまロックハートが復活するよりおっかないの?」

 それは聞かなくても分かるじゃないか……そんなこと言って本当にアイツが目をさましたら君のせいだ。

 ハリーも加勢しようと杖を持ったが、パーシーに肩を掴まれた。

 これ以上ややこしくするなと目が痛切に訴えかけてくる。

 あの場にいるのは全員がハーマイオニーレベルの魔法使いと魔女と思うと、確かにとんでもない状況だと思った。

 ドラコを止めないとハーマイオニーが危ない、しかしあのハーマイオニーがドラコなんかにやられるはずもない。

 問題はスリザリンの方が人数が多いことだ。

 多勢に無勢、ということもあり得る。なんとかしたいがどうにも出来ないもどかしさに舌打ちをする。

 一触即発の状況を破ったのは案の定、ドラコ・マルフォイだった。

 

「サーペン・ソーティア!」と大声をあげ、爆発音を響かせた。

 杖の先から、長い黒ヘビが飛び出てきた。

 黒字に毒々しい赤や黄色のまだら模様の大蛇は舞台の床にドスンと落ち、鎌首をもたげて攻撃の態勢を取った。

 周りの生徒は悲鳴をあげてあとずさりし、そこだけが広く空いた。

「いいぞマルフォイ!」

 フリントたちも同じように杖から蛇を出し、グリフィンドール側にいたジョーダンへけしかけようとする。

 それをスミレが蛇語で止めさせた。

 

《止まりなさい、彼は敵じゃない》

 

 それを白い大蛇が邪魔する。

 

《敵はあの女だ。見ろ》

 

 黒い蛇たちは一斉に、さきほど叫んだマリエッタを見た。

 今度はスミレが怒鳴った。彼女があんなに声を荒げているのを見たのはこれが初めてだ。

 

《どこだ! どこにいる!?》

《お前は目の前に集中しろ》

《うるさい! 誰か私を馬鹿にした! 望み通り石にしてやる!》

 口論に黒い蛇たちも混乱し、どちらに従えばいいのかと交互に見ては《左斜め後ろです》《こちらはお任せを》《ご命令を》とてんでバラバラに喋っている。

 言われた方に身体を向けてマリエッタを探すスミレ、見つかったらタダですまないと人混みの中を逃げるマリエッタ。

 その行き先を報告する蛇もいれば、舞台から下りて探しに行こうとする蛇、マリエッタとジョーダンどちらを狙うか尋ねる蛇で蛇語が飛び交っている。

 が、白い蛇が一喝した。

《食い殺されたくなければあの女を襲え》

 

 黒い蛇たちは一斉に舞台を離れ、マリエッタを追いかけた。

 襲われてはたまらないと皆が飛び退いたせいでマリエッタは逃げ道もないまま三匹に追い詰められ、絶体絶命に陥る。

 舞台の上でスミレが杖を振り上げた。それを白蛇が叱りつける。

 人だかりのせいでセドリックからは蛇が見えない。

 ハリーはとっさに飛び出して三匹の蛇に呼びかけた。

 

《彼女を襲うな! 今すぐここから去れ!》

 

《なんだ貴様は》

 

《邪魔をするな》

 

《ではお前が先だ》

 

 蛇たちは鎌首をもたげ、頭をハリーの方は向けた。

 あの白蛇の命令を忠実に守っている。完全に服従していた。

 もう一度《ここから去れ》と言う前に、入口の方から暗い声がした。

 

「ヴィペラ・イヴァネスカ 蛇よ去れ」

 

 目の前で黒い蛇たちは尻尾から灰になっていく。

 涙目で息の乱れているマリエッタ・エッジコムを他のレイブンクロー生が庇い、グループの輪の中に連れて行った。

 生徒たちが一斉に振り返ると、黒装束のスネイプがゴーストたちを連れて大広間に来たところだった。手にはやはり黒い杖を手にしている。

 スネイプの後ろにはフリットウィックもいる。『太った修道士』と『ほとんど首なしニック』がフワフワと空中を漂っていた。

 スリザリンの寮監は生徒の集まりを軽蔑と冷笑のこもった目で睨みながら、ここがまるで葬式かのように重苦しい声を出した。

 

「全生徒は、速やかに寮へ戻れ。グリフィンドールとハッフルパフはゴーストが、レイブンクローとスリザリンは寮監が引率する」

 

「さあ諸君、今日の『決闘クラブ』はこの辺にしてよく休みなさい! 明日は大雪だ、寝るときは暖かくしておくように!」

 

 フリットウィックも手を叩き、ゴーストもそれぞれの寮の生徒を手招きした。

 上級生も手伝いながら寮ごとに分かれていく。

 険悪な空気が流れたままの舞台上も、フレッドとジョージが茶化しはじめどんどん緩くなっていった。

「さあさハッフルパフはこっちじゃ! ポモーナはマンドレイクの番で忙しいでな、ワシが皆を案内しよう」

 

「最高に熱いバトルだったなジョージ。あれを見てなきゃ死んでも死に切れないぜ」

「ああ、ほとんど首なしニックももっと早く来たらよかったのになフレッド」

「なんと。それは実に残念でした! ですが成仏してしまっては元も子もありますまい!」

 

「ねえ先生。次はいつやるの?」

「おおミス・ラブグッド……君の期待もよく分かりますが、残念ながら次はありません。その分、呪文学の方で頑張りましょう」

「そう。面白かったのに残念」

 

 スリザリンだけは誰一人として言葉を発していない。

 未だに蛇語でスミレと白蛇がケンカしているだけだ。

 スネイプが杖で目隠しを解いてからも、真っ黒な瞳はずっとマリエッタを捉えて逃さなかった。

 ハリーはあの目が突然赤く光っても今なら驚かない自信があった。

 ハーマイオニーの見事な杖さばきをフレッドとジョージ、それにほとんど首なしニックが褒め称えながらグリフィンドールの寮へ戻る。

 ハリーは特に何をしたつもりもなかったのに、何故かみんなが自分を遠ざけ、恐れるような目でチラチラと窺ってくるのが気に入らなかった。

 そのとき、誰かが後ろからハリーの袖を引いた。

「ハリー!」ロンの声だ。

「ほら、先に行こう」ハリーの耳にささやいた。

 ロンがハリーをホールの外へと連れ出した。ハーマイオニーも急いでついてきた。

 三人が先頭へ移ると人垣が割れ、両側にサッと引いた。

 まるで病気でも移されるのが怖いとでもいうかのようだった。

 ハリーには何がなんだかさっぱりわからない。

 ロンもハーマイオニーも何も説明してはくれなかった。

 もちろんニックは何も見ていない。だからスリザリン相手に健闘したハーマイオニーを「グリフィンドールでも最高の魔女となる、ミネルバ以来の才女ですよ」とベタ褒めしていた。

 人気のないグリフィンドールの談話室までハリーを延々引っ張ってきて、ロンはハリーを肘掛椅子に座らせ、初めて口をきいた。

 他の生徒はハリーを避けて寝室に戻ってしまった。

「君はパーセルマウスなんだ。どうして僕たちに話してくれなかったの!」

「僕がなんだって?」

「パーセルマウスだよ! 君はヘビと話ができるんだ!」

「そうだよ」

「でも、今度で二度目だよ。一度、動物園で偶然、大ニシキヘビをいとこのダドリーにけしかけた――話せば長いけど――そのヘビが、ブラジルなんか一度も見たことがないって僕に話しかけて、僕が、そんなつもりはなかったのに、そのヘビを逃がしてやったような結果になったんだ。自分が魔法使いだってわかる前だったけど……」

「大ニシキヘビが、君に一度もブラジルに行ったことがないって話したの!?」

 ロンが力なく繰り返した。

 呆れながら器用に驚いて見せたのだった。

「それがどうかしたの? 魔法界にはそんな人、いくらでもいるだろ?」

「それがいないんだ。そんな才能はざらに持っていない。ハリー、まずいよ」

「何がまずいって?」

 説明の不足ぶりにハリーは心底腹が立った。

「みんな、どうかしたんじゃないか! 考えてもみてよ。もし僕が、マリエッタを襲うなってヘビに言わなけりゃ――」

「へえ。君はそう言ったのかい?」

「どういう意味? 君たちあの場にいたし……僕の言うことを聞いたじゃないか!」

「僕、君がパーセルタングを話すのは聞いた。つまり蛇語だ」

 ロンはようやく重要な部分を話した。

 それでも何がマズいのかは不明のままだ。

 だからそれを聞いたなら――声を荒げそうになったハリーへ、ロンは説得するように落ち着いた口調で続けた。

「君が何を話したか、他の人には分かりっこないんだ。蛙チョコレートに入ってるダンブルドアのブロマイドよりずっとレアなんだよ。マリエッタがパニックしたのも無理ない。君、まるでヘビをそそのかしてるような感じだった。あれには僕もビビったよ」

 ハリーはまじまじとロンを見つめた。

「僕が違う言葉をしゃべったって? だけど――僕、気がつかなかった――自分が話せるってことさえ知らないのに、どうしてそんな言葉が話せるんだろう?」

 ロンは首を振った。

 ロンもハーマイオニーも通夜の客のような顔をしていた。

 そもそも何がそんなに悪いことなのか、ハリーにはまったく理解できなかった。

「僕はあのヘビがマリエッタの首を食いちぎるのを止めた。それがいったい何が悪いのか教えてくれないか? 彼女がニックの代わりに『首無し狩』に参加するはめにならずにすんだんだよ。どういうやり方で止めたかなんて、問題になるの?」

「問題になるの。それも大問題よ」

 ハーマイオニーがやっと押し殺した声で話し出した。

 ニックにすら聞かれたくない風だ。

「何故かって……サラザール・スリザリンは蛇と会話ができることで有名だったからなの。当時の人は彼を『蛇舌』と呼んだくらいよ。だから蛇がスリザリン寮のシンボルに選ばれた」

 ハリーはポカンと口を開けた。

 そんなこといま初めて知った。

 だったらどうしたと言おうにも、まさか自分がスリザリンと同じ才能も持っているなんて、夢にも思わなかった。

「その通りさ。今度は学校中が君のことを、スリザリンの曾々々々孫だとかなんとか言い出すだろうな……」

 ロンも沈鬱な面持ちだ。

「だけど、僕は違う」

 ハリーは言いようのない恐怖に駆られた。

「それを証明するのはとても難しいわ」

「クラッブかゴイルが魔法大臣になるよりね」

 ハーマイオニーの言葉はあまりに重かった。

 ロンの例えを踏まえて聞くと、彼女の説明はとんでもなく絶望的なように感じられた。

「スリザリンは千年も前の人物よ。分家の分家のそのまた分家、という形でスリザリン家の血があなたに流れている可能性は十分あり得る」

 

 ハリーはその夜、何時間も寝つけなかった。

 四本柱のベッドのカーテンの隙間から、寮塔の窓の外を雪がちらつきはじめたのを眺めながら、思いにふけった。

 

 ――僕はサラザール・スリザリンの子孫なのだろうか?

 

 ハリーは結局父親の家族のことは何も知らなかった。

 ダーズリー一家はハリーが魔法に関する話題を口にしたらひどく怒った、それは顔も知らない両親についても同じだった。

 ペチュニアおばさんはバーノンおじさんもダドリーもいないところで母親のこと――おばさんの妹がハリーの母親、それだけは知っていた――を呟くことがあった。

 父親は名前を呼ぶことすらしなかった。

 けれどいつも悪口ばかりで、むしろ聞きたくないだけだった。

 ハリーは布団を被り、こっそり蛇語を話そうとした。

 が、言葉が出てこない。

 ヘビと顔を見合わせないと話せないようだ。

 

 ――でも、僕はグリフィンドール生だ

 

 僕にスリザリンの血が流れていたら、「組分け帽子」が僕をここに入れなかったはずだ……。

 

「フン」頭の中で意地悪な小さい声がした。

 

「しかし、『組分け帽子』は君をスリザリンに入れようと思った。忘れたか?」

 

 ハリーは寝返りを打った――明日、薬草学でマリエッタに会う。

 そのときに説明するんだ。

 僕はヘビをけしかけてたのじゃなく、攻撃をやめさせてたんだって。

 ――けれど、どんなに頭がバカでも、あの状況ならそのぐらいわかるはずじゃないか!!――

 

 思い返すと腹がたって、ハリーは枕を拳で叩いた。

 




 原作と違ってスネイプ先生がいないのでみんな大暴れです。
 そして色んな同級生の練習風景も追加しました。
 ただしミリセントは原作の通りハーマイオニーにヘッドロックをかましてます。

 セドリックがハーマイオニーとスミレを挙げたのは『先生の言うことを聞く』『馬鹿な呪文を使わない』『下級生だから知ってる呪文に限りがある』と判断したためです。
 なおザカリアス。


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ポリジュース薬

 クリスマス編(二年目)です。
 


 ロックハートの顔は青ざめていた。

 そんな彼をトム・リドルは冷たい目で歓迎する。

 華やかなバイオレットのローブも泥まみれ、自慢のチャーミングスマイルもどこへやら。  ずっと歳下のスミレに怯え歯を鳴らしていた。

 ここは五〇前に一度閉じられ、半世紀を経て再び開かれた。

 スリザリンの遺産とも呼ぶべきその空間は、至る所に蛇の彫刻が施された『スリザリン神殿』と呼ぶべき異様な場所だった。

 ここが魔法界における純血主義の聖地と言えよう。

 偉大なる始祖の悲願が込められた始まりの土地でもある。

 サラザール・スリザリンの巨大な像を背に二人を出迎えたトム・リドルは、見ず知らずのロックハートに目を向けた。

「彼は誰だい? 生徒ではないようだが」

「ギルデロイ・ロックハート教授、今年の『闇の魔術に対する防衛術』を担当されています」

「ああ……なるほど、専門家を連れてきたわけか」

 トムの整った顔に冷酷な笑みが浮かぶ。

 獲物を前にした蛇を思わせる無機質な瞳は、その専門家を馬鹿にしたように鋭く歪んだ。

「勲三等マーリン勲章、闇の力に対する防衛術連盟名誉会員……あとチャーミングスマイル賞でしたっけ」

「それはそれは。さぞ偉大な功績をお持ちなのだろうね、そのロックハート教授とやらは」

 スミレは肩を落として教授を見上げた。

 震えあがり縮こまって、まるでネズミだ。

 あの英雄がこの調子ではミリセントが不憫でならない。

 彼女はまんまとペテンに嵌り、詐欺師に貢がされたり上、貴重な時間を無駄にしていたのだ。

 そう思うとこの男に腹が立って仕方がない。

「先生は純血ですよね? あれ、半純血でした?」

「ま、待ってくれ! ここでその話は惨すぎるだろう!? 継承者が目の前にいるんだぞ!?」

「気にすることはない。半分であれ純血は純血、身の程を弁えているのならそれで十分だ」

 

 尊く聖なる血が流されるのは忍びない――

 

 ロックハートから取り上げた杖を手に、トムはクスリと笑った。

 スミレと同じサクラにドラゴンの心臓の琴線。

 薬品か何かで変色させられた茶色の棒きれを撫でている。

 トムに向き直り、スミレはさっそく先だっての襲撃について問いただした。

「それはそうと、なぜジャスティンを襲ったのです。どうせならザカリアスを狙えばいいのに」

「バジリスクは手近な獲物があればそちらで済ませたがる……アレは外の世界を知らない。生まれてからずっと、千年ものあいだこの部屋に閉じ込められていたんだ。君と同じように、そして君以上の世間知らずでね」

 五〇年前も随分と苦労させられたよ、と。

 リドルはバジリスクに聞き取れない人間の言葉でせせら笑った。

 そんな雑談だけでロックハートの歯は今にも砕けそうだ。

 スミレは世紀の大世間知らずだと嘆息する。

 自分も大概だが、それ以上とは恐れ入る他にない。

 ジャスティン・フィンチ・フレッチリーの件はそれで終わり、二人はようやく本題に入る。

 ロックハートは二人から目を向けられ、腰を抜かした。

 石の床を冷たく濡らす水がはねた。

 スミレの細い脚にも数滴かかる。

「ま、待ってくれ! 私は確かに『闇の魔術に対する防衛術』の教授職を受け持っているが、この騒動については契約外だ! 関わるつもりなんてこれっぽっちも――!」

 あまりにもあんまりな言葉にスミレは何も言えなかった。

 トムすら五〇年後の後輩たちを哀れんだ。

 それほどに無責任で心ない、惨めな命乞いだった。

「教授はどうやってあんな大冒険をでっち上げたんですか?」

「ぼ、忘却術だ! 他人から経験を聞いて、忘却術で忘れさせ私のものにした! 考えてもみたまえ! アルバニアの、熊みたいな魔法戦士があの内容を書いてベストセラーになるかね!?」

「なりませんね……では、忘却術はお得意なんですか?」

「そうだ! それだけは、絶対に成功する自信がある!」

「……では、それを彼女にも教えてあげてくれ。承諾してくれるなら、この場にいる誰も君に危害は加えない」

 取り上げた杖を差し出しながら、トム・リドルは冷酷非道の『継承者』とは思えない慈愛に満ちた笑顔で「約束しよう」と囁いた。

 誰だって命は惜しい。そして臆病な者ほど死を恐れる。

 震える手を伸ばし、魔法使いの証である杖を手に取った。

 かつてギャリック・オリバンダーから『常に己を律すること。それを忘れぬ限り、あなたはこの杖で輝かしい栄光を掴むでしょう』と告げられた日は、今思い返すとずいぶん昔のことだった。

 あのとき、彼は『魔法』という奇跡に心躍らせたのだ。

 この素晴らしい力を悪用する者がいることに失望し、同時に激しく憤ったのはホグワーツに入って最初の年。

 まだ十一歳の子供だった。

 ギルデロイ・ロックハートは幼い頃に抱いた『あらゆる悪を根絶する』という無垢な夢を思い出し、そしてたった今、永遠の別れを告げた。

 

 

 クリスマスは例年になく閑散としていた。

 ジャスティン・フィンチ・フレッチリーと同時に見つかったサー・ニコラスがミセス・ノリスやコリンのとき以上に生徒の恐怖を駆り立てたのだ。

 スリザリンの怪物が待つ即死の力はゴーストにも効くのだ。

 しかしゴーストはすでに死んでいるから石にしかなりようがなく、ジャスティンも運良く半透明のゴーストであるほとんど首なしニックを通して怪物を見たため死なずに済んだ。

 だがゴーストすら逃れられない力とは一体なんだ!?

 生徒たちは慌ててホグワーツ特急の席を予約し、ウィーズリー兄妹もエジプトにいるビルと会うより学校にいる方を選んだ。

 ハーマイオニーはこの事件を親に伝えていない。

 いたずらに怖がらせたくなかったからだ。

 スミレは『秘密の部屋』の件があるためホグワーツに残った。

 スリザリンでは事件を面白がっているドラコと、何をするにも言いなりのクラッブとゴイル、それにパンジーが残った。

 静かな談話室で『秘密の部屋』についてあれこれ話したり、ロックハートの悪口で大笑いしたりして過ごした。

 ミリセントはついにロックハート・コレクションの処分を決断し、カロー姉妹は祖父の誕生日なので帰らざるを得ず、ダフネは妹が寂しがっているからと帰宅した。

 ハリー、ロン、ハーマイオニーのグリフィンドール・トリオとパーシー、フレッド、ジョージ、ジニーのウィーズリー兄妹――そしてドラコ、クラッブ、ゴイルのドラコトリオに、パンジーとスミレのスリザリンコンビだけが大広間で食事を摂っている。

 あまりに異様な光景だった。

 クリスマスの朝、スミレとパンジーはまずプレゼントを交換しあった。

 パンジーからは季節の花が咲く魔法のドレス、スミレからはザ・ビートルズのレコードだった。

「とても綺麗です……今度パーティーに行くときはこれを着ます」

 真っ白な生地に同じく白いスノードロップが咲いている。

 そこだけ花畑のような可愛らしいデザインで、スミレは魔法の道具にはじめて心から満足した。

 パンジーもすぐに談話室の蓄音機にかけて、マグル界の世界的かつ伝説的アーティストの名曲に聞き入った。

 遅れて起きてきたドラコは二人にそれぞれ『ハチミツ詰め合わせセット』と『アメジストとヒスイの首飾り』を手渡した。

 ドラコの両親からはチョコレートの詰め合わせが、実家からは流行りのミステリー小説と新しい服、ミリセントからはハーブティーセットが一式、ダフネは手作りのカップケーキ、カロー姉妹はザクロとお揃いの手編みマフラーだった。

 マフラーは寝室でこっそり編んでいたという。

 白地に青と緑のラインが入った立派なものだ。

 スミレは二度目のクリスマスもプレゼントの多さに驚くばかり。

 しかしドラコのプレゼントの山に比べればあまりにも普通に見えてしまう。

「毎年こんなものさ。アオイだって親戚は多いんだろ?」

 母親は五人兄妹の下から二番目、従兄姉は九人、再従兄姉は未だに顔の知らない人がいる。

 しかしここまで本格的に祝うことはなかった。

 おまけにクラッブとゴイルからも巨大な缶詰めのショートブレッドを二つも渡された。

 四人ともホグワーツのクリスマス・ディナーには大喜びだった。

 大広間は豪華絢欄だった。

 霜に輝くクリスマス・ツリーが何本も立ち並び、ヒイラギとヤドリギの小枝が天井を縫うように飾られ、魔法で暖かく乾いた雪が降りしきっていた。

 ダンブルドアはお気に入りのクリスマス・キャロルを二、三曲指揮し、ハグリッドはエッグノッグを杯でがぶ飲みするたびもともと大きい声がますます大きくなった。

 ドラコたちがローストターキーや羊肉と香辛料のミンスパイを食べている間、ザクロはロックハートと飲み比べをしていた。

 彼の授業を受けたことのないファンから届いた“オグデンのファイヤー・ボトル・ウィスキー”がみるみる減っていき、大きな瓶が空になった頃にはロックハートは山火事でも起きたように真っ赤な顔で眠っていた。

 クリスマスプディングもヴィクトリアスポンジケーキもアップルクランブルも山盛り食べ終えると、ザクロ相手に教授たちが代わる代わる飲み対決を挑んでいた。奇妙な挑戦者にみんな浮かれているようで、スネイプもロックハートの介抱をほったらかして注目している。

 まずマダム・フーチが「昔っから大得意」なジンで勝負したが二本目でダウンし、スプラウト教授とケトルバーン教授も同じくらい飲んだところで負けを認めた。

 ゴーストのビンズ教授すら「世紀の対決であります」と目を離さず、大好物のウィスキーで果敢に挑んだフリットウィック教授も見事に降参し、白蛇の健闘を讃えた。

 ケトルバーン教授は「本当にただの白蛇か?」と驚いていた。

 ザクロがパーセルタングで《まだ足りん》と愚痴るのにはダンブルドアも手を叩いて喜び、『初代クリスマスチャンピオン』の称号を授与された蛇として名を残すこととなった。

 次第に生徒も寮に戻る中、スミレはアルコールのないエッグノッグが気に入って五杯目を飲んでいた。

 クラッブとゴイルを連れて帰るからと、パンジーとドラコを二人きりにさせてのんびり暴食を眺めている。ザクロはハグリッドとブランデー入りのエッグノッグを飲んでいた。

 デザートが底をつき、残ったカップケーキを抱えた食いしん坊二人と大広間を出る。

《俺はまだ足りんぞ》

《酔っ払いはみんなそう言うの》

 飲み足りないザクロを首に巻きつけ、恐ろしく寒い廊下を歩く。

 ダンブルドアから校長のゴブレットを『初代クリスマスチャンピオン』のトロフィーとして受け取ったものの、ザクロは寒さからすぐに服の中へ逃げ込んでしまった。

 ちなみにこのゴブレットはまだ四つ予備があるらしい。

 校長室でバタービールを飲んでいて、もう三つ割ったことも教えてもらった。

 後ろの二人はドライフルーツ入りのケーキにご満悦だ。

 

「…………なんですかコレ」

 

 階段を昇り終えてすぐのところに、チョコレートケーキが二つ、宙に浮かんでいる。

 あからさまに罠だったが、スリザリンの胃袋怪物たちはスミレが止める前に鷲掴みにして一息に食べてしまった。

 

「バカなんですかあなたたち……」

 

 スミレに「残念だったな」と不敵な笑みを向け、二人同時にその顔のまま仰向けに倒れた。

 こんなに重たい荷物どうしようと項垂れていると、鎧の陰からハリーとロンが早く行ってくれと言いたげにスミレの様子を窺っていた。どうやらクラッブとゴイルになりすますつもりのようだ。

 

「出来ればドラコとパンジーを二人きりにしてあげたいんですが……」

 相思相愛なのだから余計な邪魔は望ましくない。

 少し悩んだが、ポリジュース薬を見逃した時点でこうなる運命だったと観念した。

 スミレは自分の髪の毛を一本抜いてハリーに差し出す。

「ハーマイオニーに渡してください。ミリセントは猫を飼ってます、もしかしたらその毛かもしれません」

「その間君はどうする気? あのトイレは寒すぎるよ」

「マートルがお茶を出してくれるなら話は別だけどね」

「そんなタイプじゃないでしょう。私がハーマイオニーになります。ポリジュース薬、せっかくですし一口ください」

 ハリーとロンは顔を見合わせた。

 ハーマイオニーは頭がいいけど少し――具体的にはロックハートに入れ込んだり――変なことろがあるのは知っていたが、スミレも同じくらい頭のネジが飛んだタイプの優等生だ。

 勉強のしすぎで頭がおかしくなるのは本当だと、二人は新たな真理を見つけた。

 

 

 

 マートルのトイレで四人が合流し、ロンとハリーがミリセントの毛が飼い猫のものかもしれないこと、その代わりにスミレの髪を貰えること、そしてスミレはハーマイオニーになることを説明した。

 トイレの便座にタンブラー・グラスが三つ用意されていた。

 初代クリスマスチャンピオンのトロフィーを足せば人数分揃う。

 お互いの寮の合言葉を確認しあい、四人は大鍋をじっと見つめた。

 近くで見ると煎じ薬はコールタールか底なし沼の泥のようで、鍋の中で鈍く泡立っている。

「すべて、まちがいなくやったと思うわ」

 ハーマイオニーはかび臭い『最も強力な魔法薬』を執拗に読み返す。

「見た目もこの本に書いてある通りだし……。これを飲むと、また自分の姿に戻るまできっかり一時間よ」

「次はなにするの?」

「薬を四杯に分けて、髪の毛をそれぞれ薬に加えるの」

 ハーマイオニーが古びた柄杓でそれぞれのグラスに、どろりとした薬をたっぷり入れた。

 そして震える手でスミレの長い黒髪を自分のグラスに振り入れる。

 煎じ薬はやかんのお湯が沸き立つときに似た甲高い音をたて、激しく泡立った。

 次の瞬間、ヘドロは上品なヴァイオレットに変わった。

「ミリセント・ブルストロードのよりはいいお味(、、、、)がしそうだね」

 ロンが変わらぬ臭いに顔をしかめた。

「うわぁ……ブルーベリーヨーグルト味だ」

「キャロットジュースとでも思ったの? さあ、あなたたちも加えて」

 マダム・ポンフリーのような口調で促した。

 ハリーはゴイルの髪を真ん中のグラスに落とし、ロンも三つ目のグラスにクラップの髪を、スミレはチャンピオントロフィーにハーマイオニーの髪を入れた。

 三つともシューシューと泡立ち、ゴイルのは鼻くそのようなカーキ色、クラップのは濁った暗褐色になった。

 ハーマイオニーの髪が入った薬は金色だった。

 どのみち鼻がねじ曲がりそうな臭いはそのままである。

「ちょっと待って」

 ロンとハーマイオニーがグラスを取り上げたとき、ハリーが止めた。

「みんな一緒にここで飲むのはマズい。クラップやゴイルに変身したら、この小部屋に収まりきらないよ。ハーマイオニーとスミレが押しつぶされるかも」

「よく気づいたなぁハリー。掃除用具入れに収まったから忘れてたよ」

 ロンは戸を開けながらドラコの取り巻きを笑い飛ばした。

「三人別々の小部屋にしよう」

 ポリジュース薬を一滴もこぼすまいと注意しながら、ハリーは真ん中の小部屋に入り込んだ。

 かんぬきを閉めて他の三人に呼び掛ける。

「みんないいかい!」

「ああ、こっちはいつでもいいよ」

「大丈夫、心の準備は済ませてる」

「……覚悟は出来ています」

「それじゃあ、いち……にの……さん……」

 鼻をつまんで、ハリーは覚悟を決めて二口で薬を飲み干した。

 煮込み過ぎたキャベツのような味だ。

 途端に体の内側が蛇を躍り食いしたようにに振れだした。

 あまりの吐き気でしゃがみ込む――すると、焼けるような感触が胃袋から全身、ついに手脚の先端へと広がり始める。

 徐々に息が詰まりそうになる。

 骨まで溶けるような気持ちの悪さに襲われ、たまらず四つん這いになった。

 体中の皮膚は熱で溶ける蝋のようにとろけ、ハリーの目の前で手が急成長する。

 不格好なほど指は太くなり、爪は横に伸びた。握り拳は岩石さながらだ。

 両肩は音が鳴るほど骨が伸びて痛み、針でも刺されたような痛みが額を襲う。

 指で触れてみると生え際が眉のすぐ上まで迫っていた。

 薄かった胸囲も立派に也、樽の金具が弾け飛ぶ具合にハリーのローブを引き裂いた。

 足は二回りも小さいハリーの靴の中で蠢いている。

 始まるのも突然だったが、終わるのも突然だった。

 冷たい石の床の上にうつ伏せで突っ伏す。

 その体勢で一番奥の個室から「嘆きのマートル」の気難しげに唸る声が聞こえた。

 身体が落ち着くとハリーはどうにか靴を脱ぎ捨てて立ち上がった。

 いつもより目線が高く、ゴイルの見ている世界は新鮮そのものだった。

 彼が見ている風景は分かっても頭の中は謎のままである。

 巨大な震える手で、踝から三十センチほど上にぶら下がっている自分の服をはぎ取る。

 着替えのローブを上からかぶり、態度同様にデカい靴の紐をしめた。

 手を伸ばして目を覆っている髪を掻き上げようとしたが、ごわごわの短い髪が額の下の方にあるだけだった。

 どうにも目がよく見えず困っていたが、原因が眼鏡だと気づいた。

 もちろんゴイルはメガネが要らない。本を読まない以前に文字が読めるかも怪しい。

 ハリーはメガネをはずして三人に呼びかけた。

「みんな大丈夫?」

 口から出てきたのはぶっきらぼうな低音のしゃがれ声だった。

「ああ」

 右の方からクラッブの唸るような重低音が聞こえた。

 声だけじゃなくて頭までクラッブ基準になっていないか心配になる。

 ハリーは扉を開け、ひび割れた鏡の前に移った。

 ゴイルが脳みそほど小さな目でハリーを見つめ返してくる。

 ハリーが耳を掻くとゴイルも馬鹿みたいな顔で耳を掻いた。

 ロンの戸が開いた。二人は互いに観察しあい頭は大丈夫か聞きたいのを我慢した。

 変身のショックで少し青ざめた顔を別にすれば、鍋底カットの髪型もゴリラのように長い腕も、あのふてぶてしいクラッブそのものだった。

「うん、クラッブだ。顔を見てるだけで吐き気がぶり返してきたよ」

 鏡に映った自分の顔に向かってロンは「オエー」と舌を出した。

 クラッブの団子鼻を突っつきながらまたボヤく。

「ちょっと夕飯食べすぎたかも」

「気持ちは分かるけど急いだ方がいい」

 ハリーは太い手首に食い込んでいる腕時計のバンドを緩めた。

 ゴイルの体格じゃ改札口も通れそうにない気がしてきていた。

「ドラコがすぐに口を割る保証はどこにもない。パンジー・パーキンソンとイチャついてたらこっちもそれどころじゃなくなるよ」

 ハリーをまじまじと見つめていたロンはまだ自分の顔に馴染めていないようだ。

「ゴイルがそんなに賢そうなこと喋るなんて自分の正気を疑うよ」

「クラッブが二言以外の会話をしてるなんて世紀の大発見だ」

 それから少し遅れてハーマイオニーとスミレも個室から出てきた。

「いつもより視界が高くて歩きづらいわ! ねえロン、サンダルかなにか持ってない?」

「失礼ですけどそれって私の真似? もっとフレンドリーに喋ってると思うわ!」

 失礼ながら二人とも口調はハーマイオニーだった。

 姿形までハーマイオニーの方が片方の眉を吊り上げた。

「さあホラ、三人とも急がないと。薬の効き目はきっかり一時間、それまでにドラコから『秘密の部屋』に関する情報を引き出さないといけないのよ?」

「私普段そんな話し方してるの? ねえ、ちょっと聞いてる?」

「薬は失敗だったな、ゲレンジャー」

 ロンの真似にハリーは吹き出した。

 単語の発音をいつも間違えるところまで同じだった。

 ハーマイオニーみたいにハキハキと喋るスミレがクラッブとゴイルを急かす。

 こちらも片方の眉を吊り上げて怒っている。

「ああもう! 時間が惜しいわ! あとでちゃんと説明してもらいますからね!」

「ちゃんとスミレになりきりなさい! あの子はそんなにうるさく喋らないでしょ!」

 ついにロンも吹き出した。

 どっちがどっちか分からなくなりハリーはロンを見た。

「その目つきの方がゴイルらしいや」

「先生がアイツに質問するといつもそんな目をする」

「なにを言われても表情を変えなかったらだいたい同じです、さあ急いでください」

 ハーマイオニーの見た目からスミレの口調が飛び出した。

 石像のような真顔で急かしてくる。

 念のためにザクロをハーマイオニーの首に移す。

《どうも落ち着かん》

 蛇の言葉が分かるようになったはいいが発音が謎だ。

 ハリーとロンは情報の変化が多すぎて頭が追いつかない。

 ふとハリーは腕時計を見た。貴重な六十分のうち、五分もたってしまっていた。

「時間が来たらここで会おう」

 ハリー/ゴイルとロン/クラッブとハーマイオニー/スミレはトイレの入り口の戸をそろそろと開け、周りに誰もいないことを確かめてから出発した。

「腕を振って歩かない方がいい」

「そうかな? 普通はこうするよ」

「クラッブは歩くときも腕を突っ張ってる」

「こんな感じ?」

「ソックリだよロン、あと口を半開きにして」

「そんな馬鹿みたいな顔……してるねあの馬鹿」

「もう少し静かにして、喋りすぎよ」

 ハーマイオニーが手書きの地図を片手に先頭を歩く。

「スミレはもっと淡々と話してたろ」

「……こうですか?」

「そうそう、機嫌悪い時のキミもそのくらい静かだといいのに」

 三人は本物とまったく対照的なほど賑やかに大理石の階段を下りて行った。

 どんどん城の地下に向かっていく。

 下は暗く、クラッブとゴイルのデカ足が床を踏むので足音がひときわ大きく響く。

 隠れる必要もないのに自然と緊張してしまう。

 運良く迷路のような廊下には人影もなかった。

 三人は残り時間を確認しながら学校の地下深くへ進んで行く。

 何度目かの曲がり角の向こうで背の高い影が揺れていた。

「人がいる!」

 しかし誰だか分かると落胆した。

 スリザリン生ではなくパーシーだった。

「こんなところでなんの用……なにしてる?」

 ロンが驚いて声を掛けてしまった。

 パーシーはむっとした様子だ。返事は無愛想だった。

「君が知る必要はない。そこにいるのはビンセント・クラッブだな?」

「え、ああ……ウン」

 クラッブのファーストネームをまさか兄から教わるとは予想外だった。

 ドラコは誰彼構わず名字で呼ぶから耳にする機会がなかったのだ。

「では自分の寮に戻りたまえ。近頃は遅い時間に廊下を歩き回ると危険だ」

「オマエはどうなんだ」

「僕は監督生だ。僕を襲うものは何もない」

 胸を張るパーシーがロンは恥ずかしかった。

 突然、ハリーとロンの背後から声が響いた。

 ドラコ・マルフォイがこっちへやってくる。

 ハリーは生まれて初めて、ドラコに会えて安心した。

「お前たち、こんなところにいたのか」

 三人を見て、いつもの気取った言い方をした。

「二人とも、今まで大広間でバカ食いしていたのか? アオイもこいつらのバカ食いに付き合うな。見るだけ食欲が減ると言っただろう。それに、お前がまたロクに食べなかったらまたパーキンソンとブルストロードがうるさくなる」

 妙にスミレを心配しているのが薄気味悪かった。

 ドラコはパーシーを威圧するようににらみつけた。

「ところでウィーズリー、こんなところでなんの用だ?」

 上級生相手にせせら笑った。

 挑発されてパーシーは一瞬で沸騰した。

「監督生に少しは敬意を示したらどうだ! 君の態度は気にくわん!」

 ドラコはフンと鼻であしらい、三人についてこいと合図した。

 ハリーはもう少しでパーシーに謝りそうになったが、危うく踏みとどまった。

 ハーマイオニーはスミレの癖を思い出して、すれ違い様に軽く会釈した。

 それでパーシーも少し落ち着いたようだった。つられて会釈を返している。

 三人はドラコのあとに続いて急いだ。角を曲がって次の廊下に出るとき、ふとドラコが言った。

「あのピーター・ウィーズリーのやつ――」

「パーシー」

 思わずロンが訂正したが、ドラコは気にしなかった。

「そんなことどうでもいい。あいつ、どうもこのごろかぎ回っているようだ。何が目的なのか僕にはわかってる。スリザリンの継承者を、一人で捕まえようと思ってるんだ」

 ドラコは嘲るように短く笑った。

 ハリーとロンはまさか本気なのかと驚いて目と目を見交わした。

 湿ったむき出しの石が並ぶ壁の前でドラコは立ち止まった。

「新しい合言葉はなんだったかな?」

「純血です」

「あ、そうそう――純血!」

 ドラコは「ちゃんと覚えていたのか」とホッとした顔をした。

 壁に隠された石の扉が音もなく開いた。

 まずドラコがそこを通り、三人がそれに続いた。

 スリザリンの談話室は細長い天井の低い地下室で、壁と天井は粗削りの石造りだった。

 天井から丸い緑がかったランプが鎖で吊るしてある。

 前方の壮大な彫刻を施した暖炉ではパチパチと火がはじけている。

 ザクロはするするとハーマイオニーの首から下りると暖炉の前に陣取った。

「ここで待っていろ」

 ドラコは暖炉のそばにある空のスツールをハリーとロンに示した。

 ハーマイオニーは肘掛付きの立派な一人掛けソファだ。

 明らかに待遇が違う。

「今持ってくるよ。父上が送ってくれたばかりなんだ」

 いったい何を見せてくれるのかといぶかりながら、三人は椅子に座り、できるだけくつろいだふうを装った。

 二人掛けの椅子に腰掛けているパンジーは鼻歌を歌っていた。

 ハリーとロンはそれがなんの曲か分からなかったが、ハーマイオニーはあまりにもショッキングでソファから滑り落ちそうになった。

「なにしてるのよ。寝ぼけてるの?」

「い、いえ。クシャミが」

「驚かさないでよね。今ちょうどサビなんだから」

(なんでパンジー・パーキンソンがザ・ビートルズなんて聞いてるのよ!? この世の終わりでも来るの!?)

 あのガチガチの純血主義者がまさかマグルの音楽を好んで聞いているなんて、ハーマイオニーにはスリザリンの継承者よりそっちの方がよほど怖かった。

 だがロンはそんなことも自分がクラッブなのも知らず呑気に「いい曲だね」なんて言い始めた。

 ハリーまでゴイルであることを忘れて「なんて歌手?」と尋ねる始末。

 バレやしないかとハーマイオニーの心臓が爆発寸前に陥った。

 ドラコは間もなく戻ってきた。パンジーの隣に座る。

 肩が触れ合うほどの距離でドラコ・マルフォイとパンジー・パーキンソンが並んでいる光景に三人は寒気がした。

 スネイプがスキップしながら魔法薬学の教室に入ってきていきなり「天気が良いのでグリフィンドールに二〇〇点」と言い出す方がずっと正気に思えた。

 ドラコは新聞の切り抜きのような物を持っている。

 それをロンの鼻先に突き出した。

「これは笑えるぞ」

 ハリーはロンが驚いて目を見開いたのを見た。

 ロンは切り抜きを急いで読み、無理に笑ってそれをハリーに渡した。

 今朝の「日刊予言者新聞」の切り抜きだった。

 

――魔法省での尋問――

 

マグル製品不正使用取締局局長のアーサー・ウィーズリーはマグルの自動車に魔法をかけたかどで、今日、金貨五十ガリオンの罰金を言い渡された。

ホグワーツ魔法魔術学校の理事の一人、ルシウス・マルフォイ氏は同日、ウィーズリー氏の辞任を要求した。

なお、問題の車は先ごろ前述の学校に墜落している。

「ウィーズリーは魔法省の評判を貶めた」

マルフォイ氏は当社の記者にこう語った。

「氏は魔法界の法律を制定するに相応しくないことは明らかであり、彼の手になる愚かしい『マグル保護法』は速やかに廃棄すべきである」

ウィーズリー氏のコメントは取ることができなかったが、彼の妻は記者団に対し「とっとと消えないと、家の屋根裏お化けをけしかけるわよ」と発言した。

 

「どうだ!」

 ハリーが切り抜きを返すと、ドラコは待ちきれないように答えを促した。

 パンジーはケラケラと笑っている。やはり本物だった。

「おかしいだろう!」

「ハッ、ハッ」ハリーは沈んだ声で笑った。

 ハーマイオニーは黙っていた。

 いつものスミレみたいに話を聞いているのかいないのか分からない顔で、虚空を見つめている。

 しかしドラコの話は一言一句聞き逃さないので、ハリーとは違うベクトルで辛かった。

「アーサー・ウィーズリーはあれほどマグル贔屓なんだから、杖を真っ二つにへし折ってマグルの仲間に入ればいい」

 ドラコは蔑んで吐き捨てた。

「ウィーズリーの連中の行動を見てみろ。ほんとに純血かどうか怪しいもんだ」

 ロンの——いや、クラップの——顔が怒りで歪んだ。

「クラップ、どうかしたか?」

 ドラコがぶっきらぼうに聞いた。

「腹が痛い」ロンがうめいた。

「ああ、それなら医務室に行け。あそこにいる『穢れた血』の連中を、僕からだと言って蹴っ飛ばしてやれ」

 ドラコがクスクス笑いながら言った。

「それにしても、『日刊予言者新聞』が、これまでの事件をまだ報道していないのには驚くよ」

 ドラコが考え深げに話し続けた。

「十中八九ダンブルドアが口止めしてるんだろう。魔法省にこの事態がバレる前になんとかしたいのさ。何十回も探してその度に「存在しない」と報告していた『秘密の部屋』が実在したんだ、一刻も早く解決しないと校長は責任を取って辞任させられるからね。前の校長も同じ理由で理事会に退任させられた。ま、ダンブルドアがいなくなればホグワーツも少しはまともになるだろう」

 存外にドラコも馬鹿ではなかったが、しかしハリーは腸が煮えくりかえる思いだった

「奴はマグル贔屓だ。まともな校長ならクリービーみたいなクズのおべんちゃらを入学させたりしない」

 ドラコは架空のカメラを構えて写真を撮る格好をし、コリンの物まねをしはじめた。

「ポッター、写真を撮ってもいいかい? ポッター、サインをもらえるかい? 君の靴をなめてもいいかい?ポッター?」

 ハリーとロンは怒りを堪えるのに必死で黙ったままだった。

 ドラコは手をパタリと下ろしてハリーとロンを見た。

「二人とも、いったいどうしたんだ!」

 もう遅過ぎたが、二人は無理やり笑いをひねり出した。

 それでもドラコは満足したようだった。

 たぶん、クラップもゴイルもいつもこれくらい鈍いのだろう。

 いつも魔法薬学でこの二人の面倒を見ているスミレの気が知れない、ハーマイオニーなら『さんさいからはじめるおうたしゆう』を叩きつけている。

「聖ポッター、『穢れた血』の友」

 ドラコはゆっくりと言った。

 とても冷たく、湿った、憎しみのこもった声だった。

「あいつもやっぱりまともな魔法使いの感覚を持っていない。そうでなければあの身のほど知らずのハーマイオニー・グレンジャーなんかとつき合ったりしないはずだ。それなのに、みながあいつをスリザリンの継承者だなんて考えている!」

 ハリーとロンは息を殺して待ち構えた。

 あとちょっとでドラコは自分がやったと口を割る。

 しかし、そのとき――

「いったい誰が継承者なのか僕が知ってたらなあ。アオイ、お前はなにも知らないのか?」

 じれったそうに言って、ハーマイオニーに話を振った。

 ハーマイオニーは「特には」と短く答えた。

 話を聞いていないときスミレはよくこの返答を使う。

 ドラコも慣れっこなのか機嫌を悪くすることもなかった。

「もし誰か分かれば色々と手伝ってやれるのに」

 ロンは顎がカクンと開いた。

 クラップの顔がいつもよりもっと愚鈍に見えた。

 幸いドラコは気づかない。ハリーはすばやく質問した。

「誰が陰で糸を引いてるのか、君に考えがあるんだろう……」

「ない。ゴイル、何度も同じことを言わせるな」

 短く、キッパリと答えた。

「スミレは教師連中に知っている奴がいると言っていた。五〇年前より昔からここに勤めていたのはダンブルドアと、それにゴーストのビンズ、ケトルバーンの爺さんも可能性がある……だったな?」

 ハーマイオニーは黙って頷いた。

 ビンズ教授に質問したとき散々渋ったうえ、質問にも一切応じなかったのは歴史的に見て確度が低いからではなかった。

 彼は当時からホグワーツにいた。そしてかつての事件を見聞きしている。

 その恐ろしさを克明に記憶しているからこそ、あのとき頑なになっていたのだ。

 ハーマイオニーの中でようやく教授への疑問が晴れた。

 それと同時に、まったく会話に加わらないパンジーはやはりバカだと再認識した。

「それに父上は前回『部屋』が開かれたときのことも、まったく話してくださらない。もっとも五〇年前だから、父上の前の時代だ。でも、父上はすべてご存知だし、すべてが沈黙させられているから、僕がそのことを知り過ぎていると怪しまれると仰るんだ。でも、一つだけ知っている。この前『秘密の部屋』が開かれたとき、『穢れた血』が一人死んだ。だから、今度も時間の問題だ。あいつらのうち誰かが殺される。僕はグレンジャーだといいな」

 ドラコは小気味よさそうに言った。

 ロンはクラップの巨大な拳を握りしめていた。

 今ここでドラコにパンチを食らわしたら正体がばれてしまうと、ハリーは目で忠告した。

「前に『部屋』を開けた者が捕まったかどうか、知ってる?」

 間をもたせようとハリーが聞いた。

 対するドラコは本気で覚えていないようだった。

「ああ、ウン……誰だったにせよ、追放された。多分まだアズカバンにいるだろう」

「アズカバン?」ハリーは知らない単語にキョトンとした。

「アズカバン――魔法使いの牢獄です」

 ハーマイオニーが口を挟み、ドラコに追及する隙を与えない。

「アオイですら知ってるというに……まったく、お前がこれ以上うすのろだったら、明日にも後ろに歩きはじめるだろうよ」

 ずっと黙って聞いているのが辛くなってきたハーマイオニーも一つだけ尋ねることにした。

 ドラコが犯人でなければ父親が黒幕だと考えたのだ。

「ドラコのお父様は他になんと?」

「父上は静観しておけと仰った。揉め事にのこのこ首を突っ込んで痛い目を見るだけ損だとな。だから僕は観客として、事態が解決したら結末がどうであれ最低限、拍手だけしておけばいい。それに魔法省も今大騒ぎでね。またファッジの馬鹿さ。この前、家に抜き打ち検査が入ったんだ」

 ドラコは椅子に座ったまま落ち着かない様子で体を揺すった。

 ハリーはゴイルの鈍い顔をなんとか動かして心配そうな表情をした。

「そうなんだ…!」

「父上は趣味で闇の道具を集めてる、単に飾るのがお好きなんだ。それを魔法省の連中、無遠慮に根こそぎ取り上げて検査結果も伝えようとしない。しびれを切らして父上がファッジに直談判したらあの役立たず、まさか『紛失した』なんて答えたんだ!」

 これには三人も素直に驚いた。

 趣味のコレクションが闇の道具なのはさておき、まさか紛失されてしまうとは。

 今回ばかりはルシウス・マルフォイも運がない。いい気味である。

 三人とも笑顔を堪えるのが大変だった。

 すると、パンジーがようやく会話に参加した。

「ねえ、あんまりお喋りしたら喉が乾くでしょうドラコ? お茶でも欲しくない?」

 信じられないくらい甘えた声でサブイボが立った。

 ドラコはパンジーにベタベタされるのがまんざらでもないらしく、気障ったらしくパチンと指を鳴らした。

 魔法のティーセットでも現れるかと思ったが、実際は違った。

 ボロボロの薄汚れた枕カバーを来たドビーがティーセットを持って現れた。

「こちらにございますドラコ坊ちゃま」

 恭しく――あのドラコなんかに!――頭を下げながら、ドビーは丁寧に人数分のソーサーとカップを並べ、魔法で浮かせたポットから順にお茶を注いでいく。

 白い湯気とともに、テーブルの周囲へ紅茶のいい香りが広がる。

 全員分に注ぎ終えるとドビーは再び姿を消した。

 ハーマイオニーは初めて見た屋敷しもべ妖精の痛ましい姿に、手が震えそうだった。

 スミレはきっと反応しないだろう。本人が納得しているなら、と言うハズだ。

「……飲み物だけっていうのも味気ないな」

 ドラコはぽつりと呟いた。

 甘い物に関してはクラッブとゴイル以上の執着を見せる彼らしい。

 パンジーがすっと立ち上がった。

「プレゼントに甘い物がたくさんあったから取ってくるわ。スミレ、アンタもショートブレッドがあったでしょ」

「……ええ」

 パンジーに促され、ハーマイオニーも女子寮へ移る。

 地下というだけあってどこか薄暗いものの、基本的にはグリフィンドールと同じだ。

 四柱の天井付きベッドが四人分。

 日本語の本が山積みにされているのがスミレのベッドだろう。

 ダフネは……キッチリ教科書が本棚にしまわれている。

 ミリセントのベッド脇にはネズミのオモチャがある。

 マンガや雑貨まみれになっているのがパンジーのベッドということになった。

「えっと、ショートブレッド……」

 どんな入れ物だろうと探してみる。

 背後で扉の閉まる音がした。全員が全員お嬢様らしく、過剰に厳重なしつらだ。

「どういう魔法でスミレに化けてるわけ?」

 パンジーの声こそむしろ偽物に聞こえてしまう。

 感情剥き出しに近い声で喋っているのが、今は冷静そのもので鋭く問い質す。

 杖を抜いて背中を見せているハーマイオニーに先を向けた。

「どうなさったんですか? ボンボンでも……」

「とぼけないで。アンタの下手な芝居はもう見飽きたの」

 袖に隠した杖を抜こうとしたが「動かないで」と静止させられた。

 膝を曲げ、腰をかがめた姿勢でハーマイオニーは動きを封じられてしまう。

 逃げようにも狭い空間にモノが溢れかえっているから難しい。

 パンジーは警戒しながら尋ねた。

「スミレはいまどこ?」

「私に化けて、グリフィンドールの談話室にいる。魔法薬よ、一時間で解ける」

「どういうつもりよ。クリスマスだからって、悪ふざけにも限度があるわ」

「例の襲撃者を探してる。ドラコならなにか知ってると思った、それだけよ」

 パンジーは杖を下ろさない。

 そのまま一歩踏み込んでくる。お互いに相手の力量は知っている。

 下では男子たちが二人が戻るのを待っている。

 折れたのはパンジーの方だった。

「ドラコは全部話したわ。用が済んだならさっさと消えて」

「じゃあ最後に一つだけ聞かせて。なんで偽物だって分かったの?」

 それだけは把握しておきたかった。

 自分にも知らないクセがあるのか、あるいは同室の人間だけが知る何かか。

 どんなトリックかと期待したハーマイオニーだったが、答えは拍子抜けするものだった。

 パンジーは思い切り小馬鹿にした顔で言い切った。

「あの子、顔や態度には出ないけど雰囲気でダダ漏れなの。アンタみたいに上手く隠せてないから」

 

 それを自慢げに言われても――!!

 

 誇らしげに言い放ってご満悦のようだが、ハーマイオニーはポリジュース薬を作ると決めた時点からスミレのクセや言葉遣いはずっと観察していた。

 あの眠いのか機嫌が悪いのか微妙な表情も完璧に真似できている。

 感情がまったく読めない瞳や仕草までトレースしたと思っていたのに。

 一ヶ月の調査でそんな情報どこにもなかった。知っているのはパンジーだけだろう。

 奇妙な友情だが、そこを計算しきれなかった自分の負けだと認めざるを得なかった。

 

 このあとハリーとロンに目配せして、効果が切れる寸前にスリザリンの談話室を脱出した。

 三人大慌てで廊下を走り抜けマートルのトイレへ一目散。

 階段をドタバタと駆け上がり、暗い玄関ホールにたどり着いた。

 クラッブとゴイルを閉じ込めて鍵を掛けた物置の中から、激しくドンドンと戸を叩くこもった音がしている。

 物置の戸の外側に靴を置き、靴下のまま全速力で大理石の階段を上る。

 途中でハーマイオニーも靴がきつくなって脱いだため『嘆きのマートル』のトイレに戻ったときには三人とも靴下のままだった。

 スミレがまだ戻っていないものの、待っている間にフィルチが来る可能性もあった。

 それにパーシーが見回りを終えるより先に談話室へ戻らなければいけない。

「まあ、まったく時間のムダにはならなかったよな」

 ロンがぜいぜい息を切らしながら、トイレの中からドアを閉めた。

「襲っているのが誰なのかはまだわからないけど、まさかマルフォイ一家がシロなんて!」

 ハリーはひび割れた鏡で自分の顔を調べた。ちゃんと普段の顔に戻っていた。

 ロンとハーマイオニーも個室から出てきた。

 納得のいかない部分もあったが、得られたものも確かにある。

「これでますます継承者が誰か分からなくなったわね」

「去年はクィレルだったし今年はロックハートかもね」

「教授がパーセルマウスなんて、スリザリンに失礼だ」

 そんなことを言い合いながらグリフィンドール塔に着いた。

 入口の『太った婦人(レディ)』に合い言葉を告げて談話室に入ると――

 

 

「なにやってんだよ!!!!」

 

 

 ロンは思わず全力で叫んだ。

 

 ハリーはポリジュース薬の副作用を疑い、ハーマイオニーは夜風に当たろうと踵を返す。

 

 膝を叩き大笑いするフレッドと手を叩いて大笑いするジョージ。

 腹を抱えて苦しそうな笑い声をあげるジニー。

 そして、ロックハートのモノマネをしているスミレ。

 

「よろしいですか皆さん! 杖を構えた私に怒り狂った魔法戦士の斧が襲いかかったのです! それをこう! いいですか! こうです! こうやって! さあハリー、杖を斧の代わりに振り上げて! おお流石です、板に付いていますよ! このようにして華麗に避け前々回の『トロールとのトロい旅』でも登場しましたね! 『稲妻大爆発呪文』を唱えたのです! すると全身金属まみれの魔法戦士は――おっと、残念ながら今日の授業はもう時間になってしまいました! 素晴らしい一時というのは、いつも一瞬で過ぎ去ってしまうものです! ではまた次回! ごきげんよう! ああ、お帰りなさい」

 

「だからなにやってんだよ!!!!」

 

 三人が戻ってきたのに気づいて、ネタまでロックハート風に締めたスミレがふうと一息ついた。

 改めてロンは叫んだが、今度は笑いながらだった。

 流れで寸劇に巻き込まれたハリーもおかしくってたまらなかった。

 ハーマイオニーは「グリフィンドールの談話室でモノマネをしたスリザリン生は史上初ね」と感想を述べた。

 笑うだけ笑ってようやく落ち着いたフレッドとジョージが「過去にも未来にもいやしねえよな」と続き、ジニーはハリーに気づくと顔を真っ赤にして女子寮の階段を駆け上がった。

 照れくさそうに頬を赤くしたスミレが「じゃあ私も帰りますね」と手を振って帰ろうとしたとき。

 運悪くパーシーが戻ってきてしまった。

 が、談話室にいるスミレを見て驚きまた外へ出て行った。

 普段のおっとりした雰囲気からは想像もつかない猛ダッシュで談話室から逃げ去ったスミレを、結局パーシーはフレッドとジョージのイタズラだと判断して大いに怒った。

 パーシーから怒られるのに慣れている双子は「俺たちから苦労の絶えないパーシー兄さんへクリスマスプレゼントさ」と笑い飛ばして、寝室へ逃げ込んだ。




 そう言えば『秘密の部屋』では二人の掛け合いやってなかったなと。


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魔法大臣

 そろそろ『秘密の部屋』編も終わりが近いですね。


「で、そのトム・リドルがどうしたの?」

 図書室の隅でダフネ・グリーングラスが尋ねた。

 自習中の生徒はいつもより少ない。

 勉強云々よりも継承者が怖いのだ。

 それでも足を運ぶのだからハーマイオニーとダフネの熱心さは学年でも群を抜いている。

 ダフネは純血の家系でドラコと親しいスリザリン生だが、他の寮とも付き合いがある珍しい人種だ。

 なによりあの集団の中では得難い常識人であり優等生である。

 ハーマイオニーとも真面目な話であれば付き合ってくれる。

「ハリーがトム・リドルの日記帳を拾ったの。表紙に名前が書いてある」

「五〇年前の生徒じゃない。なんでホグワーツにそんなものがあるの?」

 当然の疑問だったが、ハーマイオニーは首を左右に振るしか出来なかった。

 ハリーはマートルのトイレで拾ったこと、その日記帳に隠されていたトムの記憶……五〇年前の事件の一部始終を見せられたことだけ話した。

 どう考えてもあの日記帳は闇の道具だ。

 再三ハリーにも捨てるよう促したが、今朝盗まれた。

 トイレに捨てた人物が継承者の手先だと、ハーマイオニーはそう考えている。

 グリフィンドールの談話室に忍び込み、男子寮を滅茶苦茶に荒らしてまで。

 みんながスリザリン生を疑ったが、あの夜談話室にいた三人は違った。

 クリスマスの夜にスミレへ合言葉を教えたが、三回も間違えていたのだ。

 だから中に入った瞬間一発でばれ、ポリジュース薬のことを全部話してしまった。

 しかも『太った婦人(レディ)』は気まぐれで頻繁に合言葉を変える。

 あれからもう十回は変わっているから、スミレに盗み出すことはまず不可能だ。

 しかもダフネに聞けば彼女はよく合言葉を忘れるらしい。

 だからいつも誰かと一緒に行動しているわけだ。

 ハーマイオニーが合言葉を答えたとき、ドラコが感心したのはそんな事情があったのだ。

「ポッターはどこまで見せられたのか知ってる?」

「表向きとしてはトムが犯人を捕まえたことになってる。ハグリッドの飼ってたアクロマンチュラが怪物の正体だって、そう学校に報告したらしいわ」

 ダフネは頭痛がした。

 まさかとそんな馬鹿はいないと、思っていたことがホグワーツの職員がその馬鹿だった。

 ハーマイオニーもハグリッドの怪物好きは心配に思っている。

「なんでそんなもの学校で飼うのよ……疑われたって文句は……」

「そのせいでハグリッドが五〇年前の犯人にされた。だから杖を折られてホグワーツを追放されたの。ダンブルドアが校長になってから、森番として学校に呼び戻したみたい」

「やっぱり冤罪なんだ……ちょっと待って、スリザリンの怪物がアクロマンチュラ? 襲われた生徒は亡くなった生徒もみんな、石みたいに固まってたって言わなかった?」

 ダフネもトムの証言が抱える矛盾に気づいた。

 ハーマイオニーは黙って頷く。

「あの蜘蛛は強い毒を持ってるけど、誰かを石にする力はないはず。監督生に選ばれるような生徒が知らないなんてこと……」

「間違いなく冤罪ね。トムはホグワーツの閉鎖を止めようとしただけでしょうけど、ハグリッドに酷いことをしたのは事実よ。そのせいで彼は退学処分になった…………私たちにとって一番の問題は、今暴れている怪物の正体だけど……」

 ダフネはハグリッドの冤罪にハーマイオニーほど悲しむことはなかった。

 法律に反して凶暴極まる怪物を飼っていたのだから、自業自得である。

 少し考えれば冤罪だと分かることを指摘しなかった当時の大人たちは度し難いが。

 さらにハーマイオニーはミセス・ノリスが襲われたあの夜以降、ハリーが何度も壁の中から声を聞いていることも打ち明けた。

 ロンは気づいていないようだったが、ハーマイオニーも恐ろしい予感がしてロンに同調せざるを得なかった。

 ここで話せばドラコに漏れる可能性は大きいが、継承者の正体を知らないならバレても問題ない。

「あなたも『決闘クラブ』で見たでしょう? ハリーはパーセルマウスで蛇と会話できる。去年にはもう蛇と話せたそうよ。それで考えたんだけど……私とロンに聞こえなくて、ハリーに聞こえた声の正体って蛇だと思わない?」

 ダフネもハーマイオニーの言わんとしていることを即座に理解し、青ざめた。

 ハリー・ポッターに聞こえているならスミレにだって聞こえているはずだ。

 また彼女は誰にも言わず、自分一人で何ヶ月も抱え込んていた。

「ちょ、ちょっと待ってよ。じゃあなに? 学校の壁の中を蛇が這ってて、ブツブツ蛇語で呟きながら生徒を石にして回ってるの? 直に見たのがニックだけだから誰も死んでないとすれば……」

 怪物の正体はバジリスクだ――それを口にするのが恐ろしかった。

 証拠が揃いすぎている。否定材料を見つける方が難しい。

 だがそうだとしたら誰に止められるというのだろう。

 強大な毒と即死の眼光を持つ蛇の王を、いったい誰が倒すと?

「まだ証拠が足りない。ううん、信じたくないだけね」

「それ、ロックハートも同じコト言ってた気がする」

「この本を読んだの?」

 ハーマイオニーは手にした古い書物を見せたが、ダフネはハッキリと否定した。

「怪物のことは知らないと思う。最近部屋に蜘蛛がよく出て困る、スミレの蛇が怖いのかもって笑ってたから」

「それって命懸けのジョークね……」

 恐怖に駆られたせいでマリエッタ・エッジコムは少なくとも十年は寿命が縮んだだろう。

 あのザカリアス・スミスはようやく愉快な目に遭ったというのに。

 どこまで怖いもの知らずなのか不思議な一方、スミレも相当怒っている気がした。

 またいつ爆発するか分かったモノじゃない。

「それはいいとして。ロックハートは『秘密の部屋』の入口はパーセルマウスにしか開けられないんじゃないかって言ってた。それなら歴代の校長も魔法省も見つけようがないでしょ? だって、蛇語を話せるのはスリザリンの末裔以外にまずいないんだから」

「スミレは……部屋を開けられても、バジリスクの影を見ただけで倒れそうね」

「マンドレイクで気絶しているようじゃね……」

 スプラウト教授の呆れた顔を思い出してつい笑ってしまった。

 可愛いという教授の意見には同意できないが、あの程度で倒れる魔女なんて彼女くらいだ。

 ハーマイオニーは本のページを千切って握りしめ、「それじゃあまた。もうすぐクィディッチの試合があるの」と言って図書室を出て行った。

 丁度探していたページを持っていってしまわれた。

 どうしよもなくなったダフネは、まだ少し肌寒い廊下に出るのが嫌だったので、せっかくだし昼食まで本を読んでいくことにした。

 

 その後間もなく、校内放送で全校生徒は各寮の談話室に集められた。

 

 第四と第五の犠牲者が発見されたのだ。

 

 一人はレイブンクローの監督生、ペネロピ・クリアウォーター。

 

 もう一人はグリフィンドールの誇る才女、ハーマイオニー・グレンジャーである。

 

 

「全校生徒は夕方六時までに各寮の談話室に戻るように。それ以後、決して寮を出てはならん。授業に行く際は必ず一名以上で教授が引率する。食事、手洗い、図書館に行く場合も必ず教授の同伴を必要とする。クィディッチの練習も試合も、すべて無期限延期となる。無論だが、放課後のクラブ活動も無条件に認められん。例外は、いずれもなしだ」

 超満員の談話室で、スリザリン生は黙ってスネイプ教授の話を聞いた。

 羊皮紙を広げて読み上げ終えると紙をクルクル巻きながら、いつも以上に暗く沈んだ声で続けた。

「諸君らに言うまでもないが、我が輩とてこのような状況に陥ったことは極めて遺憾である。一連の襲撃事件の犯人が捕まらぬかぎり、ホグワーツ魔法魔術学校の閉鎖も十分にあり得よう。犯人について、何か心当たりがある生徒は速やかに申し出るように」

 石の扉から出て行く教授の足取りは、いつもよりぎこちなかった。

 あのスネイプ教授が、あれほどショックを受けていると誰もが気づいた。

 途端にスリザリン生は口々にしゃべりはじめた。

「これでグリフィンドール生が二人やられた。寮付きのゴーストを別にしても。レイブンクローが一人、ハッフルパフが一人」

 監督生が指を折って今までに石にされた者を数えた。

「レイブンクローのペネロピ・クリアウォーターは半純血だ。他は全員『穢れた血』だったが、アイツは違うぞ。継承者は真に純血の生徒以外を認めないつもりだ……スリザリンにだって半純血はいる。俺たちも他人事じゃなくなった」

 マーカス・フリントはフンと鼻を鳴らした。

「出来過ぎだと思わないのか? 半純血だって襲う気なら、真っ先にスリザリンの誰かを狙えばいい。その方がなに考えてるのかハッキリしてお互いに勘違いしなくて済む。なのに今更になってレイブンクローのクリアウォーターだと? 犯人はレイブンクローかグリフィンドールにいるに違いねえ」

 名推理に拍手が湧き起こり、レイブンクローとグリフィンドールを糾弾する声があがった。

 ドラコはどちらもバカバカしいという顔でパンジーを隣に座らせてふんぞり返り、ミリセントも自分は関係ないとティーカップを傾けていた。

 スミレは黙々とチョコレートをつまんでいる。

 彼女も純血、襲われないのは確かだ。

 カロー姉妹がダフネにお茶のお代わりは必要か尋ねたが、ダフネにはもはや夕飯を食べる気分すら湧かない自信があった。

 

 

 ハリーとロンがハグリッドの小屋を訪ねたのは、ハーマイオニーが石になったその日の夜だった。

 蜘蛛のアラゴグと『秘密の部屋』について話を聞くつもりだった。

 透明マントで身を隠し、いつもの森小屋の扉を叩いた。

 ハグリッドはおかしなくらい動揺していて、ハーマイオニーが襲われたことの他にも――例えば昔に飼ってたペットがまた暴れているとか――何か悩んでいる様子だった。

 そこへダンブルドアとコーネリウス・ファッジ魔法大臣が来訪するとは誰も予想し得なかっただろう。

 黒の山高帽に上等なスーツ姿で、まんまるとした肥満体は威厳というものがまるでなかった。

 普通にしていれば温和な紳士なのだろう。しかしファッジは見るからにしょぼくれている。

 透明マントに隠れたハリーとロンに気づく様子もなく、背の高いダンブルドアの隣でおずおずと切り出した。

「ハグリッド、状況はよくない」

 ぶっきらぼうで、しかし震えた声だった。

「すこぶるよくない。マグル出身が四人もやられたとあっては、魔法省も動かざるを得ん。なんとかしなければ……」

「俺は、決して」

 ハグリッドの小さな黒い目が、すがるようにダンブルドアを見た。

「ダンブルドア先生様、知ってなさるでしょう。俺は誓って、決して……」

「もちろんじゃよハグリッド。コーネリウス、これだけはわかって欲しい。わしはハグリッドに全幅の信頼を置いておる」

 ダンブルドアは眉をひそめてファッジを見た。

 あの態度を見れば明らかだ。校長は魔法大臣に抗議している。

 まともな頭なら嫌でも分かる。被害者の状況と怪物の特徴は一致しないのだから。

「しかし、しかしだアルバス」

 それをファッジも分かっているのだろう、申し訳なさそうに言葉を返した。

「ハグリッドには不利な前科がある。魔法省としても、何かしなければならん。『日刊予言者新聞』にあの事(、、、)を知られてはマズい、取り返しがつかん。致命傷になる」

 冤罪で生徒が一人退学させられ、杖まで奪われたことを隠し通したいらしい。

 ハリーはむかっ腹が立った。

「コーネリウス、もう一度言う。ハグリッドを連れていったところで、なんの役にも立たんじゃろう。それに君もよく分かっているはずじゃ」

 ダンブルドアのブルーの瞳に、これまでハリーが見たことがないような激しい炎が燃えている。

「私の身にもなってくれ……」

 山高帽をもじもじいじりながら今にも泣き出しそうだ。

「どこからか情報が漏れた。魔法省は連日『秘密の部屋』でもちきり、有力者たちはみな怒り心頭だ。新聞がいつ君を証人として召喚し、この騒動の責任追及をしろと騒ぎ立てるか分からん! 先手を打たねば! ハグリッドを連行して、形だけでも彼らを落ち着かせんと……!」

「俺を連行?」

 ハグリッドは震えていた。

「どこへ?」

「ほんの短い間だけだ」

 ハグリッドと目を合わせずに、俯いて告げた。

「私にはもはやこれしか手立てがない……一時的なものだ。犯人が逮捕され次第、君は十分な謝罪を受けて釈放される」

(五〇年前に逮捕できなかったから今こうなってるんじゃないか!)

「まさかアズカバンじゃ? あの忌々しいバケモンどもの巣に俺を放り込む気かい!」

 ファッジが答える前に、また激しく戸を叩く音がした。

 一番近くにいたダンブルドアが戸を開けた。

 今度はハリーが脇腹を小突かれる番だった。

 全員に聞こえるほど大きく息を呑んだからだ。

 うんざりした顔のルシウス・マルフォイ氏が、夜闇を照らすランタンのような笑顔のギルデロイ・ロックハートと二人並んで立っていたのだ。

 丈の長い黒の外套に身を包み、氷のように冷たい目も疲れている。

 ファングが低く唸り出したが、ロックハートはそちらにも微笑みかけた。

「こんばんはハグリッド! ダンブルドア校長、こちらにいらっしゃいましたな……これはこれは! 大臣閣下までお越しとは! 私もお邪魔して構いませんね?」

「……もう来ていたのか。ファッジ」

 何もかもが場違いに明るいロックハートは金色のローブを輝かせて遠慮なく小屋に入った。

 マルフォイ氏は「では失礼……」と断って後に続く。

 二人とも気に食わないハグリッドは大声で言った。

「ここになんの用があるんだ? 俺の家から出ていけ!」

「見たところ、紅茶にブランデーを入れすぎたようですね! まあ私も気持ちは分かりますよ! 突然の来訪者をもてなすのは実に難しいものです! 今度カンタンもてなし術について解説した私の著書をお持ちしますよ!」

「言われるまでもない。君の――あぁ――これを家と呼ぶのかね? その中にいるのは私とてまったく本意ではない」

 ルシウス・マルフォイはせせら笑いながら狭い丸太小屋を見回した。

 ロックハートを視界から外そうとしているのかもしれない。

「校長室を訪ねたところ、ファッジはこちらにいると聞いたものでね」

「私に? こんな時に一体なんの……」

「私としても極めて残念だがね。ファッジ、見たまえ」

 マルフォイ氏が、長い羊皮紙の巻紙を取り出しながら物憂げに言った。

「有力者たちは納得のいく説明を求めている。私も微力ながら説得を試みたものの――あまりに無力だった。彼らはもはやダンブルドアが事態を把握しきれておらず、ただ成り行きに任せるがままホグワーツは閉鎖されるのだと考えている。これだけの人数がアルバス・ダンブルドアの証人喚問要求に署名した……こうなってしまっては、理事会が手を尽くしたところでもうどうにもならん」

「おぉ、ちょっと待ってくれ、ルシウス」

 ファッジが驚愕して言った。

 目に涙が浮かんでいる。

「ダンブルドアを証人喚問……!? 絶対にいかん。今という時期に、それだけは絶対に困る……」

「それは私とて百も承知だ。質疑応答は非公開、そこで彼らを納得させる他にあるまい。署名を撤回させ、世にこの件が知られる事だけは避けねばならん。燃え上がった火が全てを焼き尽く前に、誰かが鎮めなければな」

 マルフォイ氏はよどみなく答えた。

 自分もファッジの側に立っているはずなのにどこか他人事のような口調だ。

 彼の息子以上に冷酷そうな声がそう感じさせるのだ。

「元より君の失態が引き起こしたことなのだから」

「ルシウス、待ってくれ。それは私の責任では――」

 ファッジは鼻の頭に汗をかいていた。

「では誰が責任を取る? あのウィーズリーに焚きつけられる程度の頭しかない君の部下たちを処分して片付ける気か。せめて私を立ち会わせればいいものを、よりにもよって妻一人の

時を一方的に令状を突きつけて一族秘蔵のコレクションを奪い去った挙げ句、ろくに検査もしないまま紛失したのがそもそもの原因だろう。そして元を正せばファッジ、君が我々の助言を聞き入れてあの私怨にまみれた抜き打ち検査をやめさせていれば、私とてこの真夜中に君を探し廻らず済んだ……!」

 今にもファッジを頭から食い殺しそうな剣幕でマルフォイ氏は大臣相手に詰め寄った。

 持ち手が蛇の頭になっている杖で今にも殴りかかりそうだ。

 だが大臣も懲りずに「ルシウス、君があんな物を買わなければ……」と口の中でゴニョゴニョと呟き、ついにマルフォイ氏の不健康に白い額に青筋が浮かんだ。

 怒り狂った顔もやはり息子にそっくりで、糸のように細くなった瞳がそのままファッジを貫き殺しそうである。

 一節ごとに区切りながらゆっくりと言葉を発する様には、気づかれていないはずのハリーとロンすら背筋が凍った。

「私のささやかな趣味をとやかく言われる覚えはない……魔法省の方針に従って、今まで何度も検査に出し安全を確認させてきた……その事を知らぬとは言わせん……」

「あー、ゴホン! お取り込み中のところ大変失礼!」

 マルフォイ氏の眼光なら見たものを石に出来そうだ。

 それに気づかず、ロックハートは大変失礼なことに大きな咳払いをして二人の会話に堂々と割って入った。

 矛先を向けられる前にダンブルドアが「して、君はここに何の用かのうギルデロイ」と暗に離席するよう促すほどだ。

「ええ、実は校長のお耳に入れねばならない話がありまして! 校長室をノックしたのですが、先生はこちらにいらっしゃると親切に教えていただきまして! そこへちょうどマルフォイ氏もお越しになられたのでご一緒させていただきました!」

(ご一緒の間ずっとロックハートの駄法螺を聞かされたから目が死んでたんだ……)

 今度こそハリーも小指の先ほどながら、マルフォイ氏が哀れに思えた。

「それは急を要することと考えてよいのじゃな?」

「もちろんですとも! 大臣閣下もよろしければお聴き願えますかな?」

 ハグリッドがハリーのためにと淹れた濃いお茶を一口飲んで、ロックハートは狭い小屋の中をうろうろと歩き始めた。

 しかし何もないところで蹴つまずきすぐに歩くのをやめた。

「『秘密の部屋』について、おおよそどこにあるのか! その目星がついたのです!」

「おい! 嘘っぱちも大概にせえ! ダンブルドア先生様ですら見つけられねえもんを、お前さんが!? 法螺にしても下手が過ぎるわい!」

「落ち着くのじゃハグリッド。まずは、ギルデロイの話を拝聴するとしよう」

 ダンブルドアがたしなめた。

 ロックハートはにこやかな笑顔で「さて」と切り出した。

「事の発端について……創設者たちの話は割愛するとしましょう、なんせ誰でも知っていることですからね。私が、この場で話すまでもありません……では、早速で申し訳ありませんがダンブルドア校長、五〇年前に襲撃された生徒がいるそうですね! 生徒の名前をお教え願えますか?」

「マートルじゃ。マートル・エリザベス・ウォーレン、レイブンクロー出身の君には馴染み深い名じゃろう」

「女子トイレのゴーストですから顔は存じ上げませんがね! 不幸なミス・ウォーレンは石になった状態で、亡くなられていた。顔には、この世のものとは思えないほどの恐怖が浮かんでいたとか……」

 ダンブルドアは頷いた。

 ハグリッドは忌々しい記憶を呼び起こされて機嫌が悪い。

 それに気づかず名探偵気取りのロックハートはさらに続ける。

「『秘密の部屋』はスリザリンが残したもの。そこで私、ギルデロイ・ロックハートは歴代校長について調べてみました。無論、我らがダンブルドア先生も含めてです! そしてある共通点を見出したのです!」

「共通点? そんなものがあるのかね?」

「私も驚きました、大臣閣下も無論仰天なさるでしょう……マルフォイ氏も、そこのお利口そうなワンちゃんもね!」

 

(勿体つけてないで早く言えよ)とロンは心の中で呟く。

 

 ファングがお利口に見える人間はとてもお利口とは言えない。

 

「誰一人……そう、誰一人として、パーセルマウスではなかった! 四人の創設者をみな校長とみなすのならば『秘密の部屋』を遺したサラザール・スリザリンその人を除き、ただの一人として、蛇語を話せる校長は存在しないのですよ!!」

 

 ダンブルドアが目を閉じた。

 その隣でファッジは口を開けたままだんまり、マルフォイ氏もロックハートを見直したように熱のこもった目で見ている。

 ロンはハリーを見ていた。顔は真っ青で、唇は震えている。言葉がなくとも伝わる。

 ホグワーツの運命は今やハリーの手に委ねられている。

 蛇と会話できるのは、この場にいるハリー・ポッターともう一人。

 白い大酒飲みの蛇を飼っている無愛想な女子の二人しかいないのだ。

 その事実にハリーは心臓が止まりそうで、ロンが安心させようと必死になっているにのも気がつかない。

「君の言う通りじゃギルデロイ。わしを含め、ホグワーツの歴代教員にすらパーセルマウスの者はおらん。サラザール・スリザリンを除いてはのう」

「ではやはり『秘密の部屋』はパーセルマウスでなくては開かないと? スリザリンの血を引くものでなくてはならない、そうなのか!? スリザリンの末裔はもう誰も生きておらんというのに!?」

 取り乱すファッジの肩にダンブルドアが手を置いた。

 彼も、世界一の大賢者もまた、結論に行き着いている。

 それはあまりにも無理難題で冷酷な答えだ。とても口に出来ない。

 ましてハグリッドの前ではとても――

 

「こ、国外からでも構わん。どこでもいい、パーセルマウスの魔法使いを招いて闇払いたちと共に『秘密の部屋』へ送り込むしかない。協力してくれルシウス!」

「私にも責任の一端がある……言われるまでもないことだが、なおのことダンブルドアの言葉が必要になりましたな。世にも稀な蛇舌を死地へ送り込むことになる、交渉は難航必至だ」

 

 マルフォイ氏の言う通りだ。

 スリザリンの怪物は並大抵のものではないだろう。

 去年ハグリッドが飼っていた『ふわふわのフラッフィー』やあのおっかない『暴れ柳』とは比べものにならない、城に棲み始めてからでも千年は生きている正真正銘のバケモノである。

 そんな怪物の巣穴に貴重なパーセルマウスを好き好んで送り込む国がどこにあろうか。

 だが、ダンブルドアには当てがあった。

 ハグリッドの手前、誰のこととは言わなかったが、ハリーとロンは察しがついた。

 

「ファッジ、わしはあの生徒を家に帰す時が来たと思っとる」

「あり得ん事だ、断じてあり得ん。繰り返し言ったはずだぞアルバス。彼女の件に関して魔法省はこれ以上、絶対に、一切、何があろうと譲歩しない」

「ファッジ。私も一児の父として言わせてもらうが、生徒の安全を考えれば――「何度も言わせないでくれルシウス! これが最終決定だ。もし私の目の前で『例のあの人』が蘇ろうと覆ることはない!」

 

 ファッジは二人の説得で逆に怒り始めた。

 さっきまであんなにおどおど落ち着きのない様子だったのが、今は長身だらけの中で堂々と胸を張りハッキリと声をあげて喋っている。

 大きく広がった額まで赤くして頭頂部からは湯気が登りそうだ。

 そしてダンブルドアに向き直りはっきりと拒絶を示した。

 

「魔法省大臣として言わせてもらおう。もし仮に、今後最悪の事態――即ちホグワーツ魔法魔術学校の閉鎖が決定したとしてもスミレ・アオイの帰国は許可されない! すでに決定したことだ! そちらは明日にも部下に令状を持って来させる! ハグリッドとアルバスについては既に令状がある!」

 

 その剣幕は「今すぐにでもスミレまでアズカバンに送りたい」と言い出しかねないほどで、怒りに震えながら椅子に腰掛けていたハグリッドの気勢を削いでしまっていた。

 ダンブルドアもファッジの頑なさを前に、説得不可能と判断したようだった。

 ロンも兄たち――ビルとチャーリーのことだ――あまりファッジについては話そうとしないのは、パーシーの前まで悪口を言うのが気まずいからだと悟った。

 沈黙を破ったのはマルフォイ氏だった。

 ロックハートが何か言おうとしたのを遮った形だ。

 扉を開け、まだまだ冷たい夜風を小屋の中へ招き入れた。

 ロンとハリーは思わず震えてしまった。

「さて、これで話は済んだ。我々は今、何より時間が惜しい――違いますかな?」

「そうじゃのうルシウス、急がねばならん」

 ダンブルドアがハグリッドを連れ、小屋を出ようとする。

 立ち止まったとき、誰もが甘いものを欲しがるなと思ったが、違った。

「おおそうじゃ、一つ言い忘れておった。忘れるでないぞ、わしがほんとうにこの学校を離れるのは、わしに忠実な者がここに一人もいなくなったときだけじゃ。そしてよくよく覚えておくがよい。ホグワーツでは助けを求める者には、必ずそれが与えられる」

 一瞬、ダンブルドアの綺麗な目がハリーとロンの隠れている小屋の片隅へと向けられた。

 少なくともハリーはその確信があった。

「あっぱれなご心境だ」

 ファッジは頭を下げて敬礼した。

「校長、理事会はこの恐るべき事態が一刻も早く解決に向かう事を望むばかりだ」

 マルフォイ氏はダンブルドアに一礼して先に小屋を出た。

 外の真っ暗闇に溶け込んで待つ姿は吸血鬼のようだ。

 ファッジは山高帽をかぶりハグリッドが先に出るのを待っていたが、ハグリッドは足を踏ん張り、深呼吸すると、言葉を選びながら言った。

「誰か何かを見っけたかったら、クモの跡を追っかけて行けばええ。そうすりゃちゃあんと糸口がわかる。俺が言いてえのはそれだけだ」

 ファッジはあっけに取られてハグリッドを見上げた。

「よし。行くぞ」

 いつもの厚手木綿のオーバーを着た。

 ファッジの後に続いて外へ出るとき、戸口でもう一度立ち止まり、小屋の中へ大声で言った。

「それから、誰か俺のいねえ間、ファングに餌をやってくれ」

「もちろんですとも、ご安心なさい! 犬の飼育についても自信がありますからね!」

 ロックハートが慌てて先に出た面々を追うと、ロンが『透明マント』を脱いだ。

「大変だ」

 ロンの声は掠れていた。青い目も充血している。

「今夜にも学校を閉鎖した方がいい。ダンブルドアがホグワーツにいなくなったら、一日一人は襲われるぜ」

 ファングが、閉まった戸に鼻を押し当てながら悲しげに鳴きはじめた。




 下手すると原作以上に大ポカなルシウスさんでした。


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血の警句

 どこぞの首なし初代教区長は関係ありません。


 季節は巡り五月の半ば。

 ホグワーツは春を過ぎ、温かな日差しに包まれている。

 新たな犠牲者が二人も出て学校の緊張はむしろ冬より高まっていた。

 さらに悪いことは続き、襲撃の直後、魔法省がなんとダンブルドアとハグリッドを連れて行ってしまう。

 マクゴナガル教授が副校長として先生たちをまとめているが、生徒の安心感は以前より格段に薄まっていた。

 アルバス・ダンブルドアへの信頼は、それほどに篤い。

 奇妙なことに、あの夜、その場に居合わせたロックハートも多くを語らなかった。

 目立ちたがりでお喋りで派手好きな彼が妙に静かなのは気色悪いが、元気なときよりずっと害がないので誰も気にしていない。

 きっと頭以外の具合も悪くなったんだとハリーは思っている。

 そして五月の始め。月曜日の朝食の前のこと。

 校長代理としてマクゴナガル教授がある通知を出した。

 六月一日に期末試験が始まるのだ。

 こんな状況で試験をするのかと不満が噴出した。

 だが決定事項は覆らない。

 期末試験の備えを始めると、みんな恐ろしい継承者と襲撃事件のことなど忘れていった。

 なにを勉強すればいいのか誰もわからない『闇の魔術に対する防衛術』を置いて、特に難しい『変身術』と『魔法薬学』、それに授業中ほとんど話を聞いていなかった『魔法史』に多くの時間を割く。

 そして試験二日前。

 マンドレイク薬を間も無く作り始めると発表があった。

 スミレはパンジーとカロー姉妹の勉強を手伝うため、大広間で教科書やノートを広げていた。

 天井は青く澄み渡って、蝋燭がなくても日の光だけでとても明るい。

 どこで勉強しようと今のホグワーツ城は静まりかえっている。

 放課後になればみんな各寮に戻ってしまうからだ。

 生徒の多くはまだ談話室から出たがらない。

 放課後に寮の外で自習するのは怖いもの知らずか、あるいは間違いなく純血の家系のみ。

 大広間に集っている彼女たちは後者、正真正銘の純血である。

 スミレは魔法薬学と変身術を担当。ダフネは魔法史と天文学を受け持っている。

 カロー姉妹の呪文学は早々に切り上げてた。

 あの『決闘クラブ』での暴れようを見れば必要性は極めて薄い。

 代わりに変身術の論述対策をしている最中、ダフネが呟いた。

「スリザリンの怪物って、やっぱりバジリスクだったんだ」

 するとパンジーの羽ペンが止まった。スミレは注意するそぶりすら見せなかった。

 虚ろな目でスミレの説明を聞いていたのが嘘みたいに元気だ。

 フローラとヘスティアもペンは止めていないが耳を傾けている。

「それ本当? ダフネ、アンタなにか見つけたの?」

「うん。最近あちこちに蜘蛛がいるでしょ? 気になって捕まえたんだけど……ホラ、これ」

 ダフネは頷いて鞄から透明な瓶を取り出した。

 コルク栓で口を閉められた瓶の中には小さな蜘蛛がいる。

 それを見たパンジーの顔がブルドッグのようになった。

「アクロマンチュラっていう危ない種類。昔学校で誰か飼ってたんだと思うけど、これがみんな城から逃げ出してたの」

「よくそんなの捕まえたわね……で、ソイツらが逃げたからどうしたって言うのよ。怪物殺しが怖いのかもしれないじゃない」

「そんな化物までいるんですか?」

「スミレ、この鏡見てみなさい」

「?」

 スミレはパンジーから受け取った手鏡の意味が分かっていない。

 ダフネは構わず説明を続けた。首を傾げているのが面白いからだ。

「この蜘蛛の天敵がバジリスクだって本に書いてあったの。それにバジリスクの目は直視した者の命を奪い、間接的に見た者は石に変える力があるんだって」

「つまり、医務室にいる方々は運が良かったと?」

「まさか、学校に怪物バジリスクが棲んでいる?」

「そうだと思う。スミレも何度か声を聞いてるんじゃない?」

「聞いてますよ。ゆっくりお話ししたことはまだありませんけど」

 教授に伝えないのか、とは誰も聞かなかった。

 襲われたのはスクイブの猫にマグル出身者が一匹、おまけに裏切り者のウィーズリーと親しい半純血である。

 彼女たちの心を痛めるような事は何も起きていない。

 ハーマイオニーはいつもの出しゃばりで継承者の不興を買ったとスリザリン生は信じていた。

 胸の前で腕を組んで天井を眺め、パンジーは頭の中に廊下を這うバジリスクを描いた。

 その後ろを顔の見えない継承者が歩いている。

 ドラコならいいのにと思わなくもないが、あの様子だと望み薄だ。

「でもバジリスクって大きいわよね? 普通に廊下を移動してたらすぐに見つかりそうだけど」

「水道管の中を移動してたなら見つからないはず。だから今年は廊下が濡れてることが多かったんだよきっと」

「あー……全身ズブ濡れのバジリスクが廊下をね……」

 思い返せばハロウィーン以降のフィルチは廊下の床を拭いてばかりだった。

 誰もがマートルか双子のウィーズリーだと思っていたが……いや、マートルは実際に廊下を水びたしにすることがままある。

 ともかく、怪物バジリスクは水道管の中を通り学校を行き来していた。

 だからこそスミレは今、じっと足下の床を見つめているのだ。

 ダフネの表情が引きつった。

「……いるの? 真下に?」

「いますね。挨拶します?」

「アンタ以外に言葉通じないでしょ」

 襲われないと分かっていても、恐ろしいものは恐ろしい。

 バジリスクは仰々しい口調でスミレに語りかけた。

《血の僕、間もなくだ。万事を手筈通りに進めよ》

《承知しました。念のため手伝いを連れて行きます》

《……構わん》

 床下から囁いたバジリスクは伝言を済ませすぐに去って行った。

 パーセルタングを発したスミレに四人は言葉を失う。

 遠のいていく《血を畏れぬ者に死を》という声にザクロが笑いを圧し殺す。

 視線を床から上げたスミレが「これからどうしましょっか」と笑った。

 真っ白な顔と真っ黒な髪のコントラストに赤い逆さの三日月が加わる。

 思えばもうすぐまる二年が経つのに、四人ともスミレがこんなにハッキリと笑顔を浮かべているところを見た記憶がない。

 いつも無表情で、ふて腐れているような顔だった。

 するとパンジーが立ち上がって羽ペンを放り投げた。

「騙して催眠術かけて置いてったことはまだ忘れてないわよ!」

「催眠術? あなた、何したの?」

 ダンブルドアが昨年、寮対抗杯の結果発表のとき口にした『スリザリンの理想』という言葉もずっと引っかかっていた。

 いつも上の空で、利己的どころか面倒見がいいくらいだ。

 パーセルマウスの他にスリザリンらしいところなんてどこにもない。

 この機会に尋ねてみたが、スミレは「それはお楽しみです」とニッコリ笑っただけだった。

 そのままウキウキとしながら勉強道具をてきぱきと片付け始める。

「ここからレイブンクロー寮は少し遠いですが……まぁ大丈夫ですよね。じゃあみんなで『秘密の部屋』へ探検に行きましょう」

「え、でもバジリスクが……」

「目隠し呪文の練習ならクリスマスに散々やりました。おかげで目隠ししてても平気です」

「それはザクロがいれば元から平気だったと思う」

 さあ早く早くと急かされるダフネも渋々用意を始めた。

 最悪殴ってでも引き返すつもりで、一番重い教科書がどれか確かめながら。

 先輩三人が出発準備を整え始めたのでカロー姉妹も身支度に取りかかる。

 互いにネクタイを締め直し、制服や髪の乱れをチェックし合う。

 ピクニック気分の女子五人が大広間を出る直前、校内放送でマクゴナガル教授の声が学校中に響き渡った。

 いつになく張り詰めた様子に流石のスリザリン生も注意を引かれた。

 

『生徒は全員、速やかに各寮の談話室に戻りなさい。教職員は全員、急ぎ職員室にお集まりください』

 

「また誰か襲われたりして?」

「他に何があるって言うの?」

「襲った帰りに寄ったんですね」

「この機会にどうでしょう姉様方」

「冒険を怪物退治に変えてみては」

「それアリね、今年はグリフィンドールに追い込みで加点なんてさせてやるもんですか!」

 まあこれだけの人数ならグリフィンドールに加点があっても大丈夫かな。

 ダフネはまだ撤退を諦めていない。

 ミリセントのようには行かずとも、ヘッドロックをしてでも足止めするつもりだった。

 幸いと言うべきか呪文学に関しては全員人並みより優秀だ。

 パンジーもクリスマス中に練習したのか上達していた。

 特にケンカやイタズラに使える呪文の習得度だけならハーマイオニーにも負けない。

 その熱意を他の科目や呪文にも向ければいいのに、と口にするほどダフネは迂闊ではなかった。

 そうして全員の準備が完了。さっそく移動を始める。

 先生たちに見つからずマートルのトイレへ駆け込む作戦はすぐに頓挫した。

 大広間を出て五分としないうちにロックハートと出くわしたのだ。

 全身ヴァイオレットのコーディネートにエメラルドグリーンの長いマントを羽織って、眠そうな顔をして曲がり角の向こうからやって来るのが見えた。

 やり過ごすにも隠れる場所がなくあっさり見つかってしまった。

 大あくびを見られていたなんて露知らずの顔で満面の笑みを浮かべている。

 白い歯がキラリと光った。

「おっとっと! 生徒だけで出歩くなんて、あまり感心しませんね! もしかして、お喋りに夢中で今の放送を聞き逃してしまいましたか? 生徒は全員、各々の寮の談話室に戻るようマクゴナガル先生が仰っていたでしょう? やれやれ、私も急がねばならないのですが、状況が状況のようですから……よろしい! 私が寮まで引率しましょう! で、スリザリンの談話室はどちらです?」

「『秘密の部屋』を開くにはパーセルマウスの力が必要です。失礼ながら、先生方全員で束になっても継承者に会うどころか扉をノックすることさえ出来ません」

 ダフネが単刀直入かつキッパリ言い切ると教授も「ええ! アナタの仰る通りですミス・ブルストロード」「グリーングラスです」「失敬、お二人とも目がくらむほどお美しいものですからつい、ウッカリ」と得意の笑顔で誤魔化した。

「職員室で待ちます。お話が終わってから引率をしていただければ結構です」

「ああ……まあ確かに、マクゴナガル先生は昔から時間に厳しい方でしたからね。私が学生の時も、多くの生徒が先生からお叱りを受けたものです――今もそうなのですか?」

 五人とも即座に頷いた。

 スネイプ教授と並んで特に厳しい。

 学生時代を思い出した顔でロックハートは額に手を当て、大きく息をついた。

 前髪をかき上げて「では急いで職員室へ行きましょう! 皆さん、お説教はお好きではないでしょうからね!」とあっさり折れた。

 

 

 マグゴナガル教授の放送で寮に戻らなければならない。

 だがあの震えた声に感じた違和感の正体を知るため、グリフィンドール塔に戻る事なく職員室に留まった。

 ハリーとロンは職員室の衣装タンスに身を隠す。

 間も無く先生方たちが駆けつけた。

 一様に恐怖や当惑を映し出した顔で、肌は蒼ざめ、葬式場の空気の中でみな副校長を待つ。

 フィルチを連れたマグゴナガルは職員室に入るや否や口を開いた。

 老管理人も怯えた様子でマダム・ポンフリーの横に並んだ。

「ついに起こりました……」

 声は震え、威厳に満ちた瞳から輝きが消えていた。

「現時点だけでも五人の生徒が石に……加えて、一人は怪物に連れ去られました。『秘密の部屋』そのものにです」

 フリットウィックは堪らず悲鳴をあげ、スプラウトは口を手で覆った。

 スネイプは椅子の背を強く握り締め、声を絞り出した。

「何故、それほどの自信をもって断言できるのかね?」

「『継承者』を名乗る犯人から新たな警句がありました。石にされた生徒は、アーガスとゴーストたちが発見しています」

 フィルチは首の骨が折れそうな勢いで頷いた。

 意地悪で陰湿な目は涙を浮かべている。

「新たな警句は最初に残された文字のすぐ下に『彼女の白骨は永遠に『秘密の部屋』に横たわるであろう』と、血で書かれていました。ネズミの死体が周囲に散乱している状況です、恐らくあの場で生き血を絞ったのでしょう」

 フリットウィックはついに声を挙げて泣き出した。

 マダム・フーチすら腰が抜けたように椅子にへたり込む。

 マントの影に隠れているロンとハリーも心臓が止まりそうだった。

 継承者はこの期に及んで次々と生徒を襲っている。マグル殺しの総仕上げと言わんばかりに。

「一体……どの生徒ですか?」

「さらわれたのはジニー・ウィーズリー、石にされた者は……」

 そのとき太った修道士が壁から現れ、マグゴナガルに素早く耳打ちをしてまた壁の中へと去って行った。

 報告を聞いて、目に絶望の色がよぎった。

「…………犠牲者が出続けています。修道士によれば、学校中で石にされた生徒が相次いで発見されていると。ホグワーツは今まさに襲撃を受けています」

 ビンズ教授まで泣き崩れた。スネイプも俯き沈黙している。

「四つの寮すべて、マグルも半純血も見境いなくです。もはや事態は我々の想像を超えています」

 ハリーは隣でロンが崩れ落ちるのを感じた。

 実の妹が連れ去られ、さらに寮も生まれも無差別に襲撃が起きている。

 マグゴナガルの決定を聞くまでもなく状況は最終段階だった。

「全校生徒を今すぐにも家へ返さなければなりません。ホグワーツはお終いです。ダンブルドアがいつも仰っていた通り、この学校はもはや生徒にとって安全ではなくなりました」

 その言葉を発するのがどれほど苦しいか、心中を察すれば涙を流す教授がいるのも至極当然だった。

 そのとき――職員室の扉が勢いよく開いた。

 ダンブルドアだと期待したハリーは、ひどく落胆させられた。

 よりによってロックハートだ。白い歯を輝かせた笑顔ではないか。

「大変失礼しました。ついウトウトと——それで、何か聞き逃してしまいましたか?」

 放送で何も察していないのかご機嫌な様子で、しかも後ろには生徒を連れている。

 あらゆるアクションが悉く最悪の男だった。

「何故ここに生徒を連れてきたのですギルデロイ! 寮へ戻るよう伝えたのが聞こえなかったのですか!」

「あぁー……そ、それについては弁明しようもありませんなマグゴナガル教授! ですがその、彼女たちが是非とも先生方にお伝えしたいことがあるとかでしてはい」

 雷が落ちて瞬く間にすくみ上ったロックハートの後ろから、スミレが前に進み出た。

 マグゴナガルの説教を遮って勝手に話し始めた。

 襟元から顔を覗かせている蛇は衣装タンスを見つめている。

 ハリーにはあの蛇が笑っているような気がした。

「怪物の正体はバジリスクです。さっき大広間で真下を通った時――」

「大広間の真下? アオイくん馬鹿を言っちゃいかん! あの下にあるのは排水管の巨大なパイプだけだと、何十年も前に……ダンブル、ドアが……」

 遮ったフリットウィックも自分の言葉で気づいた。

 頭に昇った血がまた失せて、顔が青ざめていく。

 脳内では薄暗い排水管のパイプを廊下にして移動する、巨大な毒蛇の姿を思い浮かべていることだろう。

「『秘密の部屋』の怪物がバジリスクと、いつ気づいたのです」

「確信したのはさっきです。床下から呻くような声がして、パーセルタングが聞こえました」

 何度か頷き、マグゴナガルは冷静に五人へ真実を告げた。

「その事実を伝えてくださったことに感謝します。ですが……残念ながら、ホグワーツは間もなく閉鎖されます。バジリスクは純血の生徒もマグル出身者も無差別に襲い始めました」

 ついにスリザリンの生徒にも戦慄が走る。

 今まで安全だと思って他人事と思っていた怪物が、自分たちにも牙を剥いたと知ってようやく他の寮の生徒がハロウィーン以来ずっと抱いてきたモノの凄まじさを理解した。

 それに驚かないのはダフネとスミレだった。

 ロックハートは愕然としてマグゴナガルを見ていた。

 事ここに至ってようやく深刻さを理解した様子だった。

 とことん見下げ果てたと一瞥して、ダフネもマグゴナガルに知っている事を報告した。

「それに、ロックハート教授は部屋の開け方をご存知です」

 憎しみの込められた教授たちの目線に、わずかばかり喜びが混じったように見えた。

 何がそんなに面白いのか、スミレはよく分からず黙っている。

 マグゴナガルはこれ幸いとスネイプへ目配せ。

 スネイプもマグゴナガルの意を汲み、副校長以下、全教授を代表するかのように皆が自身に望んでいる役目を果たす。

「なんと、ここに適任者が」

「てっ――適任者?」

「聞こえなかったのかね。まさに君が適任だ。ロックハート、女子学生が怪物に泣致された。『秘密の部屋』そのものに連れ去られた。いよいよ君の出番が来ましたぞ」

 ロックハートは笑顔が強張った。

 後ろにいるパンジーとカロー姉妹は指先の震えに気づいた。

「その通りだわ、ギルデロイ。昨夜でしたね、『秘密の部屋』への入口がどこにあるか、とっくに知っていると仰っていたのは?」

「私は――私は、その……」

「そうですとも。『部屋』の中に何がいるか知っていると、自信たっぷりに私に話しませんでしたか?」

 スプラウトとフリットウィックも意気揚々としたロックハートを思い出しながら頷く。

「い、言いましたか? 覚えていませんが……」

「我輩はしかと覚えておりますぞ。ハグリッドが捕まる以前、怪物と対決するチャンスが訪れず心から残念だと、そう仰いましたな。逮捕後は口を閉ざしておられたがなんとあの時点で部屋の在り処を突き止められていたとは……」

 やはりあれだけの偉業を果たすお方は違いますな――感服した、という口ぶりで追い討ちをかけるスネイプの愉快げな声。

 もし彼が満面の笑みならバジリスクも石になりかねなかった。

 狼狽しきったロックハートへマグゴナガルがトドメを刺す。

 生徒の前で堂々と、校長代理として明確に決定を下す。

「私は……何もそんな……皆さんの誤解では……」

「それではギルデロイ、『秘密の部屋』についてはすべてあなたにお任せしましょう。今夜こそ絶好のチャンスでしょう。誰も邪魔などいたしません。お一人で怪物と取り組むことができますよ。お望み通り、お好きなように」

 校長代理の最終決定は覆らない。

 ロックハートはもはや別人と化していた。

 歯を輝かせて笑うハンサムは消え去り、残されたのは震える唇と蒼白の顔……まるで瀕死の病人である。

「よ、よろしい。へ、部屋に戻って、し——支度します」

 生徒五人などまるでいないかのように、ロックハートは逃げた。

 職員室の扉がバタンと閉まると、パンジーの「何の支度よ? 夜逃げ?」という呟きがよく響いた。

 スネイプは「それで一向に構わん」と返す。

 他の教授たちも大きく頷いた。

「寮監の先生方は各寮に向かい、生徒たちに現状をすべて説明してください。ポモーナ、貴女はその後、屋敷しもべたちに事情の説明を。可能な限り生徒の荷造りを手伝わせなければなりません。明日の朝一番で全員をホグワーツ特急に乗せるのです。他の先生方は寮の外に生徒がいないかゴーストたちと確認を。アーガス、貴方は担架の準備です。石にされた生徒たちを医務室に運ぶ用意を進めなさい、私は生徒に説明後、ダンブルドアと魔法省に事態の報告を行います」

 マグゴナガルは明確かつ適切に指示を出す。

 一人また一人と教授たちは職員室を出て行った。

 スネイプが女子たち五人を連れスリザリンの寮へ向かう。

 ハリーの人生で最悪の一日となった。

 これほどグリフィンドール塔が静かな事は二度とないだろう。

 明日になれば、この城から永遠に生徒がいなくなるのだから。

 談話室は生徒でごった返していたが、片隅に座り込んだフレッドとジョージが痛ましく誰も何も言えなかった。

 パーシーは両親にフクロウ便を送ってから、寝室にこもったきり出てこない。

 ときおりサー・ニコラスが顔を見せたが、こんなに悲しげな表情をしているグリフィンドールのゴーストは誰も見たことがなかった。

 もはや別れの挨拶をする元気も湧かず、フレッドとジョージもこの場所にいるのが辛くなり、他の生徒と同じように寝室へ引き上げていく。

 談話室に残った二人は、屋敷しもべたちの持ってきた軽食に手をつけることもなく黙って暖炉の火を見つめていた。

「ハリー、ジニーは何か知ってたんだ……」

 職員室の衣装タンスに隠れてから、ようやくロンは喋る余裕を取り戻した。

 目をこすりながら、ロンは俯いたまま声を出した。

「だからスリザリンの奴らまで襲って誤魔化そうとした。だってジニーだって純血だ、継承者のことを知ってたから口を封じたかったんだ。他に理由なんてない……」

 談話室のどこを見ても赤色。

 暖炉の火も、壁も、足元の絨毯も、窓の外の夕日まで血色だ。

 目を開けている限り最悪の結果を暗示させてくる。

 自分に出来ること、スミレたちも知らない何か――考えても、考えて、その前にまず行動、と思い至ったとき、ロンが叫んだ。

「ロックハートのところに行こう! アイツが『秘密の部屋』の入り口を掴んでいても、入り方を知らなかったら意味ないよ。もしパーセルマウスが必要だったらドアをノックすることしか出来ない!」

 それ以上の名案もなく、ハリーはロンに賛成した。

 昨年と同じく透明マントと杖を持って談話室ん飛び出す。

 今年はハーマイオニーがいない、けれどあの談話室でジニーが死ぬかもしれないのにじっとしていられなかった。

 

 

「『聖なる血』……ですか」

 トムの演説を聴き終えた最初の感想は、それだけだった。

 彼は随分とお喋りで気障ったい。ジョークの一つも言えない優等生の典型だ。

 かれこれ三〇分ほど聞き手を務めている間に身体が冷えてしまった。

 この部屋はあまりにも寒い。

 バジリスク以外が棲むことを想定されていないのだろう。

 爬虫類の住処にしてはあまりにも低温のような気もするけれど。

 トム・マールヴォロ・リドルは反応の薄さに不満そうだ。

 不満だからと言って私を絞め殺すどころか殴ることも、呪うことさえ彼には出来ない。

「君、もう少し何か言ってみたらどうだい。喋れないわけでもないだろうに」

 床の上に横たわっているジニー・ウィーズリーを眺めながら頭を捻る。

 彼女は果たして助かるのだろうか。

 もし死んだら、ハーマイオニーは悲しむのだろうか。

「この小娘が気になるのか? 純血でありながらマグルに組みする裏切り者が」

「友達の、そのまた友達の妹なので。悲しむのかなあと」

「あの小賢しい『穢れた血』か……仕留め損ねたのは実に残念だったよ。バジリスクにああも早く気づくとは想定外だった」

「ハリーが狙いだって言ってませんでした?」

 そのハリー・ポッターはまだ来ない。

 先回りして待っているものの、足音一つ聞こえやしない。

 厄介なことにジニーはあと三〇分もすれば息絶えてしまう。

 記憶のトムは薄笑いを浮かべて私を見下ろす。

「その通りだ。なんら特別な力を持たない赤ん坊が、不世出の偉大な魔法使いをどう破った? ヴォルデモート卿の力が打ち砕かれたのに、君の方はたった一つの傷痕だけで逃れたのはなぜか……」

「失礼ですが、もしかしてご本人?」

「なんだ、気づいていると思っていたが……」

「何でもお見通しってわけじゃないので」

「では教えてあげよう。僕の祖父はマールヴォロ・ゴーント、メローピー・ゴーントはその娘であり僕の生みの親だ。かのサラザール・スリザリンの末裔であるゴーント家の聖なる血がこの身体には流れている。分かるかい? この僕は、生まれながらにスリザリン卿の崇高な使命を引き継ぐ使命を帯び、そのための名こそが――」

 ヴォルデモート……なるほど。

 じゃあみんなが恐れている闇の魔法使いは、もう七〇近い?

 言ったら怒りそうなので黙っておこう。高齢者は気が短いから。

「『聖なる血』ってスリザリンの血筋ってことですね」

「道理で話が噛み合わないわけだ」

 日記の中身はうすぼんやりとした輪郭で、肩をすくめた。

「先に言っておくが、バジリスクを乗っ取るつもりなら諦めたまえ。あれはパーセルマウスでもスリザリンの末裔だけが操れる……仮に血を吸っても、濃さは圧倒的に僕が勝る」

 会話しているうちにトムはどんどん陶酔していく。

 ご先祖の、それも父方ではなく母方の……スリザリン家とゴーント家、家名としては既に途絶えた血筋を、まるで先祖伝来の家宝みたいにありがたがっている。

 貴族制の名残なのかもしれない。

 私の興味はもうトムにはない。だから、返しも雑になる。

「あの大きな蛇はエサ代がかかりそうなので遠慮しておきます。それに貴方の血はまだインク臭そうですしね」

 私をここで殺してやりたい、そう目が物語っている。

 黒く涼やかな瞳が赤く光った。

 自分は本体ではなく、ヴォルデモートの残骸に過ぎないことを気にしているようだ。

 ついでに気になっていたことも確かめる。

「何故ジニーを連れてくるついでに襲わせたのですか?」

 トムはさも当然のように微笑んで答えた。

「この城が閉ざされると知れば、ハリー・ポッターは必ずここへ来る……来ざるを得なくなる。そのためにも、より多くの犠牲者を出す必要があってね」

「そうでしたか。バジリスクが狂ったのかと思いましたが、安心しました。私まで狙われてはたまりませんから」

 こちらの意図などお見通しだと、トム・マールヴォロ・リドルはほくそ笑む。

 ここに来ればどうあれ彼は勝つだろう。

 それを見届けるのが私の役目だ。

 ただ、もう少しバジリスクのご機嫌伺いをしてくれないだろうか。

 ああいうずっと機嫌の悪いタイプはとことん苦手だ。

 すらりと背の高い長身から私を見下ろし、軽蔑の目線を投げかけた。

 こういう性格もあまり好きじゃない。

「ダンブルドアも魔法省も、吸血鬼(怪物)のなり損ないを城に入れるなんてどうかしているよ。純血の生徒が襲われたらどうするつもりなんだか……」

「教えたのは失敗でしたね。黙っていればよかった」

 私も包み隠さず本心を打ち明ける。

 お互いに言いたいことを言い終えて、そのまま沈黙に入った。

 この寒い部屋であと何分待てば良いのだろうか。

 みんな遅いなと思いながら、今夜の分の『常備薬』を飲む。

 これもまた身体が冷える。

 魔法瓶を持ってくればよかった。




 恐れたまえよハリー・ポッター……。


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秘密の部屋

 vs.トム・マールヴォロ・リドル戦です。


 ロックハートは職員室を去って夜逃げを決意した。

 そこへ『秘密の部屋』について伝えようと駆けつけたハリーとロン。

 さらに乱入してきたパンジーとダフネ。

 多勢に無勢、杖を奪われ正真正銘の役立たずとなった詐欺師を連れてレイブンクロー寮のトイレに向かう。

 五〇年前、マートルが命を落としたトイレに隠された入口。

 あの立派な手洗い台が『秘密の部屋』に通じる扉だった。

 ハリーがパーセルタングで「開け」と命じると、仕掛けが作動する。

 蛇口が妖しく光り、手洗い台が床に沈んで、配水管が残った。

 大人一人分はある。ここを出入り口にして、バジリスクが生徒を襲っていたのだ。

「さて、私にもう用はありませんね──!」

 逃げ出そうとするロックハートを男子二人で取り押さえる。

 自分の部屋で女子二人に殴られ蹴られして、杖まで奪われてまだ諦めていない。

 ロンはほとほと呆れてパンジーとダフネを見た。

「なんで連れてきたんだよこんなヤツ……」

「責任取らせるためよ。決まってるでしょ」

「ちょっとは怖い思いをしてもらわないと」

「こ、これに一体なんの意味が?」

 四人から杖を突きつけられて、青ざめた顔に笑みの残骸を貼り付けている。

「先に降りるんだ。教師だろ」

 ついにロンがのど元へ杖を食い込ませる。

 凄まれて観念したロックハートは排水管の底を見る。

 真っ暗な闇が獲物を待つ蛇のようだ。

「ね、ねぇ君たち、誰か先に──」

 パンジーが背中を蹴飛ばした。

 ロックハートの絶叫が聞こえなくなると、ハリー、ロン、パンジー、ダフネが続く。

 蛇のように曲がりくねった急勾配を五人の絶叫で響かせながる。

 配水管の滑り台が平らになると、そこが終着点だった。

 冷たい石の床に投げ出された五人に怪我はなく、全員ゆっくりと立ち上がる。

 足下からバキバキと何かの砕ける音がした。

 松明や燭台の類いすらなかった。とても暗い。

 近くにいるはずのロンがどんな顔をしているかさえ見えない。

「ルーモス 光よ」

 ダフネの杖が照明になった。

 ロンも続こうとしたが、ロックハートの杖を振る勇気はなかった。

 床には小動物の骨が散乱している。

 足下の音の正体はこれだ。

 粉々になったネズミの頭蓋が待ち受ける未来を暗示しているようで、ロンとハリーは下を見ないようにした。

「きっと湖の底だよ……」

「地下牢より深いわよね……」

「みんな、何か動く気配がしたらすぐに目を閉じるんだ。いいかね?」

 全員頷く。

 それを確かめて、ハリーを先頭に地下を進む。

 ロックハートは杖を持たず、背後で女子二名が見張っている。

 パンジーも杖に光を灯すと薄暗かったトンネル全体を見通せた。

 ゴツゴツした岩肌が剥き出しで、ここはむしろ洞窟だ。

 ジメジメと湿った天井は高さもまちまち。自然に出来た空間に思えた。

 周囲の気配に警戒して進むと道が塞がれていた。

 女子二人が前に出てよく照らすと──

 

「なんてこった……」

 

 通路を埋め尽くすほどの巨大な抜け殻だ。

 バジリスクの抜け殻がとぐろを巻いて横たわっている。

 毒々しく濁った緑色の皮が床を埋め尽くす。

 ロンの声に誰もが同意した。全長は軽く二〇メートル近い。

 本体がどれほど巨大な生物なのか嫌でも予想出来る。

 

《殺す……血を捧げる時が来た……》

 

 この先にいる怪物の存在を思うと心臓が痛む。

 目など見なくても、影が視界の端に映っただけで脳が焼き切れてしまう気がした。

 息を飲み足が止まっている最中。

 囁くようにあの呪詛が聞こえた。それも今まで以上に明瞭に聞き取れた。

 

「みんな急ごう。ジニーが危ない」

 

 一歩前に出て振り返ったが何もいない。

 前へ向き直る際に左右も確かめ、安全と判断した。

 バジリスクの声はずっと遠くに去って行く。ハリーはそれを追った。

 誘導するようなやり口に疑問を持ちながら、どこへ進めばいいか分からない。

 道中に会話はない。

 男子はグリフィンドール、女子はスリザリン。互いに良い印象がない。

 沈黙を貫きながら何度目かの分かれ道を抜ける。

 怪物の声が止むとぱったり同時。壁に埋め込まれた金属の壁に行き着いた。

 二匹の大蛇が絡み合った彫刻を施され、眼窩では大粒のエメラルドが輝いている。

 何をすべきかすぐに分かった。

 女子二人が背後から壁を照らす。そこへ、ハリーが蛇語で語りかける。

 乾ききった口で、トイレの手洗い台と同じ言葉を発した。

 

『開け』

 

 他の四人には空気の漏れる音でしかない。

 正しい合い言葉だったようで、金属の大蛇が動き始める。

 中心で絡み合った状態から壁の縁に沿う形で円を描く。

 すると独りでに壁──正確には扉が開いた。

 向こう側は洞窟より明るい。足下はさらに低く、錆びついたハシゴがある。

 ロックハートが最初で、あとに生徒が新たな空間へ踏み込んだ。

 

 

 細長い、通路のような部屋だった。

 牙を剥いた蛇の頭像が左右一対、真ん中の石畳を睨んでいる。

 奥へ行くにはここを通るしかない。

 目をこらしてみると薄暗がりの中に無数の脇道がある。

 他のトイレにも同じ手洗い台がある。バジリスクは城中どこにでも出られるのだ。

 黒緑色の床は一面水びたしで、歩く度にビチャビチャと音を立てて水が撥ねる。

 そのまま警戒しつつ先へ進む。

 開けた空間に出ると、怒りの形相を浮かべた老人の頭像が待ち構えていた。

 年老いた猿のような頭、長い顎髭、それに陰鬱な目元。

 サラザール・スリザリンへ捧げられるように、ジニーが力なく横たわっていた。

 滑らかな床も構わず、ロンとハリーは鮮やかな赤毛の少女に駆け寄った。

 杖すら放り出し制服に水が撥ねるのも気に留めていない。

「ジニー!」

 二人とも叫んでいた。

 見える範囲に怪我はない。ローブに制服もそのままだ。

 だがジニーには意識がない。手を握ると大理石のように冷たくなっていた。

「ジニー起きろよ! 寝るんじゃない!」

「ジニー! 目を覚まして!」

 肩を掴もうが大声で呼び掛けようが、まぶたは固く閉じられたままだった。

 少し離れた位置にいるパンジーとダフネには亡骸のように映った。

 むしろ関心は部屋そのものに向いている。

 スリザリン像の端には一際大きな排水管がある。

 そこから僅かに水が流れ出していた。

 湖からなのか、あるいは学校のどこかか。

 その水が像の周囲に浅い堀を作っている、そしてその堀のそばに六人目の生徒がいた。

「ね、ねえアイツ……」

 袖を引っ張られたダフネもパンジーの指さす先を追った。

 緑色のネクタイと蛇の紋章はスリザリン生の証明。しかし、見たことのない顔だった。

 黒髪で長身の男子生徒がグリフィンドール生二人に微笑みかけた。

「目は覚めないよ」

 ロックハートも声に気づいてそちらへ目を向ける。

 見ず知らずの男子生徒がゆったりとした足取りでハリーたちへ近寄った。

 何故か輪郭のぼやけた生徒の名をハリーが呼んで、みながハッとする。

 

「……トム? ――トム・リドル?」

 

 ハリーの顔から目を離さず、スリザリンの少年──リドルは領いた。

 パンジーもおぼろげながら記憶に残っていた。何十年も前、学校から表彰された生徒だ。

 ダフネも同じく思い出していた。

 だがロン同様、声を出せない。

 何故、五〇年前の生徒がそのままの姿でここにいる。

 

 あの日も変わらないまま、どうして──

 

「目を覚まさないって、どういうこと? そんな、ジニーはまさか──」

「その子はまだ生きている。 辛うじてだがね」

 穏やかに教え諭すような口調がロンは気に障る。

 外面では親切のフリをして腹の底では見下されているような気がした。

 あのパーシーが聖人君子に思えるほどイヤなヤツだ。

 パンジーはどうにも理解が追いつかずリドルに尋ねた。

「あなたはゴーストなの?」

「記憶だよ。五十年間、日記の中にあった」

 その視線が一瞬ハリーから逸れたのをダフネは見逃さなかった。

 スミレがベッドの下に隠していた古い日記帳だ。開かれたまま床に転がっている。

 それが事実であろうとあるまいと、あの上級生を信じる気はなかった。

 助けを求めるハリーを無視し、足下に転がった杖を拾い上げている。

「スミレはどこ。先にここへ来たはずよ」

「少し席を外してもらったよ。これから大事な客人をもてなさなければならなくてね」

「まさかアンタ、バジリスクを──」

「おっと、勘違いして貰っては困るな。彼女は純血だ……変人だが、それは事実だ」

「すぐに会わせて。無事なら出来るでしょう」

 リドルは一瞬たりともハリーから目を離さない。

 拾い上げた杖を弄びながら、薄笑いを浮かべている。

 しなやかな指で所在なげに手の中で回している。

「もういいでしょ! バジリスクが来たらどうするのよ!」

「バジリスクは来ない。僕が呼ぶまではね」

「杖を返してくれ。必要になるかも──」

「ポッター、君ならもう気づいて良いはずだ! その記憶が五〇年前と今回、『秘密の部屋』を開いた張本人だとね。ウィーズリーの妹を連れ去ったのも、瀕死にさせたのも、生徒を石にしたのも全部目の前にいるトム・リドルがやった!」

 泣き叫ぶようなロックハートの声で四人の視線は一カ所に集る。

 リドルの微笑がますます広がった。

 小刻みに肩を振るわせ気怠げに手を叩く。ついに本性を隠すこともやめたようだ。

「五〇年前に開いたのはこの僕だ。しかし今回は違う。すべてジニー・ウィーズリーがやったことだ。『穢れた血』と猫にバジリスクをけしかけ、継承者のメッセージを壁に書き残したのもすべてそのおちびさんがやったことだ」

「無理よ。パーセルマウス以外に『秘密の部屋』を開く事は出来ない」

「その通りだミス・グリーングラス。ジニーは僕の日記に心を開き、なにもかも……そう、なにもかも話した。兄さんたちが馬鹿にする、本やローブはみんなお下がり、そして有名な、素敵な、偉大なハリー・ポッターが、自分のことを好いてくれることは絶対にない……とかね」

 とても疲れたという表情でリドルは続けた。

 しかし端正な顔は冷たい笑みが滲んでいる。

 これがあの優等生の正体だ。

 仮面の下には冷酷な蛇が巣食っていた。

「十一歳の小娘の悩み事を聞き続けるのはまったくうんざりだったよ。だが僕は辛抱強く返事を書いた。同情してやったし、親切にもしてやった。そうしてジニーは僕に心を打ち明けることで、自分の魂を僕に注ぎ込んだ。彼女の魂こそ僕の必要としたものだ。僕は相手の心の深層の恐れ、暗い秘密を餌食にして力を増していく。今やかつてとは比べものにならないほど己を取り戻した。そして十分に力が満ちたとき、僕の一部──魂の欠片をウィーズリーのチビに注ぎ込んだのさ」

 つぅっと細まった瞳が笑った蛇を連想させる。

 ハリーは爪が手のひらに食い込むのも構わず拳を握りしめた。

「バカなジニーのチビが僕を信用しなくなるまでに時間はかからなかった。兄に比べればマシな頭だったんだろう。一人目の『穢れた血』を襲わせた直後、日記帳を捨てた。東洋人が現れた! 彼女は君たちの誰よりも優秀だったよ。日記帳を開いたのはたった一度、襲われた生徒はまだ一人の段階で、僕の素性から五〇年前の事件の真相まで突き止めていた。にも関わらず彼女は馬鹿正直に日記をジニーのもとへ返してくれた」

「馬鹿正直? アンタがそうするように仕向けたんでしょ!」

「いいや、残念ながら僕はあの小娘を操ることが出来ない。会話する日記帳を警戒して、最初に開いたきり返すまで放ったらかしにされたんだ。たかが一歳の差でこれほど違いが出るとはね。この兄にして妹ありだ。おかげでお優しいジニーは君のことを不用心に色々と聞かせてくれたよ。ハリー、君の輝かしい経歴をだ」

 リドルの鋭い目がハリーの稲妻形の傷を舐めるように見つめた。

 獲物をむさぼるような表情が、より一層顕わになる。

「君のことをより知る必要があった。会って、話をしなければならないと。だから君の信頼を勝ち取るため、あのウドの大木のハグリッドを捕まえた場面を見せてやった」

「ハグリッドは僕の友達だ! それなのに、君はハグリッドを嵌めたんだ! 僕は君が勘違いしただけだと思っていたのに!」

 リドルは甲高い笑い声をあげた。

「貧しいが優秀。孤児だが勇敢そのものの監督生で模範生、もう一人は週に一度は問題を起こすドジで間抜けな木偶の坊。ディペットの爺さんがどちらを信じるかなんて、考えるまでもない。あんまり計画通りに事が進んだものだから、僕も驚いたよ。たった一人……ダンブルドア先生だけは、ハグリッドを無実だと思っていたらしいが」

「きっとダンブルドアは、君のことをとっくにお見通しだったんだ」

「そうだろうね。ハグリッドが退学になってから、ダンブルドアは僕を徹底して監視するようになった。自分の在学中に『秘密の部屋』を再び開けるのが危険なことは僕も分かっていた。しかし費した年月を無駄にするつもりはない。日記を残し、十六歳の自分をその中に保存した。いつか時が巡ってくれば、誰かに僕の足跡を追わせて、サラザール・スリザリンの崇高な職務を成し遂げることができるだろうと」

 リドルはすべてを打ち明けた。

 五人を前に──うち一人は何も出来ない役立たずだが、彼は勝利を確信している。

 それもすべてバジリスクの存在によって成り立つ。

 嬉々として語る『記憶』へハリーは勝ち誇ったように言う。

「成し遂げていないじゃないか。猫一匹すら死んでいない。あと数時間でマンドレイク薬が出来上がって、石にされた人はみんな元に戻るんだ」

「……まだ言っていなかったかな? 『穢れた血』の連中を殺すことはもうどうでもいい。この数ヵ月間、僕の新しい狙いは──君だった」

 ハリーは目を見張ってリドルを見た。

 じっと二人を観察していたダフネも気づいた。

「五〇年前にトム・リドルはホグワーツの閉鎖を防いだ。懲りもせず怪物を飼っていたハグリッドを生贄にして、表面上だけはぜんぶ丸く収めた。なんでそんなことをしたと思う? ソイツは孤児よ、本当の意味で帰る家なんてなかったとしたら? 学校が閉鎖されれば、孤児院か里親の元に送り返される──」

「その通りだよミス・グリーングラス。あのときの僕はホグワーツが必要だった。穢らわしいマグルの元で生活するなどもっての外だ。なのに『穢れた血』が一匹死んだだけであのディペット爺さんは震え上がり、僕に家へ帰るように言った。おまけに魔法省は学校を閉鎖しようとした……だから、五〇年前はやむを得ず『秘密の部屋』を閉じたんだ」

「今度は閉鎖へ追い込むために、あんなに大勢襲った?」

「ああ」

 リドルは頷いて微笑んだ。

 その態度は恐ろしいほど軽々しい。

「ジニーに自分の遺書を書かせ、ここに下りてきて待つように仕向けた。それだけでは不足だろうと、前回より多くの生徒にバジリスクをけしかけた。アレは誰より学校の仕組みに詳しい、簡単にこなしてくれたよ。君が来ることはわかっていたよ、ハリー・ポッター。君には色々と聞きたいことがある」

「何を?」

 誰もが息をのむ。

 ハリーの静かな声が部屋に木霊した。

「これといって特別な魔力も持たない赤ん坊が、どうやって偉大な魔法使いを破ることが出来たんだ? 何故その傷だけで、君は逃れることが出来たのか? ヴォルデモート卿の力は打ち砕かれたのに──」

 獲物を前にした捕食者の目に、妖しい赤い光が灯った。

「どうして気にするんだ? ヴォルデモートは後の人だろう?」

「ヴォルデモートは──僕の過去であり、現在であり、未来なのだ」

 トムはそう告げ、ハリーの杖で空中に文字を書いた。

 三つの言葉が、揺らめきながら淡く光った。

 

 TOM(トム)( ・) MARVOLO(マールヴォロ)( ・) RIDDLE(リドル)

 

 もう一度杖を一振りする。

 すると名前の文字が並び方を変えた。

 

 I AM LORD VOLDEMORT(わたしはヴォルデモート卿だ)

 

「君が、ヴォルデモート……?」

 リドルは囁いた。

「ホグワーツ在学中からこの名は使っていた。もっとも、知っているのはごく限られた生徒だけだ。あぁハリー……穢らわしいマグルの父親の姓を、僕がいつまでも使うと思うか? サラザール・スリザリンの聖なる血を受け継いだこの僕が? ただ魔女と言うそれだけの理由で母を捨てたクズの名を? ハリー、ノーだ。だから僕は自分で自分に名前をつけた。いつか僕が世界一偉大な魔法使いになったとき、誰もが口にすることを恐れる名前を。当然、その日が来ることを僕は知っていた。僕が世界一偉大な魔法使いになるその日は、必ず訪れると」

 ロンすらリドルを見ていた。

 目の前にいる学生がかつて魔法界に恐怖をもたらした『闇の帝王』その人だ。

 多くの魔法使いとマグルが殺された。その記憶は未だ強く残っている。

 その名は彼自身が望んだとおり、誰もが恐れ口にすることも、耳にすることすら拒む。

「世界一偉大な魔法使いはアルバス・ダンブルドアだ」

「ダンブルドアは僕の記憶に過ぎないものによってこの城からいなくなった!」

「いなくなりはしない。彼を心から信じる者がいる限り!」ハリーが言い返した。

 ダンブルドアを恐れるからこそ、彼は必死になって追い出したのだ。

 だから五〇年前は襲撃を止めた。

 そして今も、ダンブルドアが城を離れるまで派手に動けなかった。

 リドルは悪鬼の形相で口を開き、途端にその顔が凍りつく。

 どこからともなく、美しい歌声が聞こえてきたのだ。

 歌は徐々に近づいてくる。それにつれて大きく響く。

 この世のものとも思えない旋律はある者に恐怖を与え、またある者には勇気を与える。

 炎の中から深紅の鳥がドーム型の天井に姿を現した。

 鳥はハリーの方にまっすぐに飛んでて、運んできたボロボロのものをハリーの足元に落とす。

 ジニーの傍らに降りたって、寄り添うようにしながらじっとリドルを見つめた。

「フォークス!」

 ダンブルドアの飼っている不死鳥だ。世にも珍しく、美しい生き物。

 ただ歌うだけの鳥などではない。

 この場でそれを知っているのはハリーだけだ。

 一方で『秘密の部屋』に継承者の高笑いが響く。

 大きな亀裂の入ったボロの正体は『組み分け帽子』だった。

「ダンブルドアが味方に送ってきたのはそんなものか! 歌い鳥に古帽子じゃないか!」

 ハリーは答えなかった。

 フォークスや『組分け帽子』がなんの役に立つのかはわからないにせよ。

 ダンブルドアがこれを届けたのなら、きっと意味がある。

 恐怖は消え失せていた。今は、かつてないほどに勇気が湧き起こってくる。

「ハリー、本題に入ろうか。僕たちは互いの過去と未来において、二度も出会った。そして二回とも、僕は君を殺し損ねた。君はどうやって生き残った? すべて聞かせてもらおう。」

 そしてリドルは静かにつけ加えた。

「長く話せば、その分だけ君は生きながらえることになる」

「君が僕を襲ったとき、どうして君が力を失ったのか、誰にもわからない」

 ハリーは唐突に話しはじめた。

「僕自身もわからない。でも、何故君が僕を殺せなかったか、僕にはわかる。母が、僕をかばって死んだからだ。母は普通の、マグル生まれの母だ」

 ハリーは、怒りを押さえつけるのにワナワナ震えていた。

「君が僕を殺すのを、母が食い止めたんだ。僕は本当の君を見たぞ。去年だ。誰かに寄生しなければ姿を保つことも出来ないほど穢らわしい残骸だ! 辛うじて生きているだけで! 醜い姿で逃げ隠れしている!」

 リドルの顔が怒りに歪んだ。

 それを冷酷で残忍な笑顔で取りつくろった。

「そうか。母親が君を救うために死んだ。なるほど。それは呪いに対する強力な反対呪文だ。わかったぞ──結局君自身には特別なものは何もないわけだ。実は何かあるのかと思っていたんだ。ハリー・ポッター 、何しろ僕たちには不思議に似たところがある。君も気づいただろう。二人とも混血で、孤児で、マグルに育てられた。偉大なるスリザリン卿ご自身以来、ホグワーツに入学した生徒の中で蛇語を話せるのは、例外を除けばたった二人だけだろう。それに見た目もどこか似ている。しかし、僕の手から逃れられたのは、結局幸運だったからに過ぎないのか。それだけわかれば十分だ」

 例外、確かにその通りだ。

 アオイ・スミレは普通と違う。

 東洋人で、吸血鬼で、それにマグル趣味のスリザリン生。

 トム・リドルの目には奇人変人としか認識されていないのだろう。

「サラザール・スリザリンの継承者たるヴォルデモート卿と、かの有名なハリー・ポッターとで、お手合わせ願おうか」

 リドルはフォークスと『組分け帽子』を嘲笑うように一瞥してその場を離れた。

 自分たちの方へ近づいているのに気づき、パンジーとダフネはロックハートの背後に隠れる。

 ロックハートは盾にされても身動きひとつせず、曖昧な笑みを浮かべているだけだった。

「目を閉じていたまえ。もっとも、命が惜しいならの話だがね」

 そして三人に無防備な背中を晒す。

 ロンはジニーを庇い強く抱きしめた。

 リドルの薄い唇から微かに空気の漏れる音が聞こえても、喋っている言葉は聞こえない。

 ハリーとトム・リドル、そしてバジリスクのみが意味を理解出来た。

 

『スリザリンよ。ホグワーツ四強の中で最強の者よ。我に語りたまえ』

 

 ハリーが向きを変えて石像を見上げた。

 フォークスはロンの肩の上で揺れる。

 スリザリンの巨大な石の頭像が動き始めた。閉ざされていた口の部分がゆっくり開く。

 継承者の呼び掛けにスリザリンが応えたように見える。

 奥に潜む何かが、ずるりと外へ這い出た。

 誰もがかたく目を閉じる中、継承者は蛇語で怪物へ命じる。

 

《あの小僧を殺せ》

 

 恐怖で声が漏れるロンはすぐ後ろに巨大な何かの気配を感じた。

 バジリスクの全身が床に下りると、部屋全体が揺れる。

《他は無視しろ。ヤツ一人を狙え》

 蛇の王は継承者に一言も返さない。

 重い音を立てて石の床を這う。

 リドルの手がロックハートに下がるよう促し、道を空けさせる。

 ハリーまで一直線になると同時。バジリスクの足音は速さを増した。

 立ち向かう術がない。杖さえあればいいが、それは取り上げられてしまった。

 背後から迫る凄まじい殺気に追われて走り出したハリー。

 石畳に躓き、床でしたたかに顔を打った。

 ロの中いっぱいに血の味が広がる。毒蛇はすぐそばまで来ている。

「パーセルタングを使っても無駄だぞ! 僕だけに従──」

 バタバタと何かが倒れる音。

 そしてロックハートの「うわぁ!?」という声。

 リドルは怒り狂って叫んだ。

「貴様ら何をしている!? 誰の邪魔をしているか──」

「オブスキューロ! 目隠し!」

 それを遮ってダフネの声が爆ぜた。

 ハーマイオニーとスミレが『決闘クラブ』で披露した、あの呪文。

 布切れが顔に巻きついて目隠しする。それだけのもの。

 しかしこの状況で最も有効な一撃を受け、バジリスクは雄叫びをあげる。

《こっちに構うな! 臭いで追え! 小僧はそこだ!》

「ポッターもう大丈夫! 目を開けて!」

 パンジーが叫ぶと同時、リドルは半分うつ伏せのままハリーの杖で「スピューティファイ! 麻痺せよ!」と呪文を放つ。

 杖の先で爆発した赤い閃光は、ダフネに髪を掴まれたロックハートの顔面に直撃した。

 気絶した成人男性一人に女子生徒二人、凄まじい重さで身動きの取れない継承者とハリーを確かめるまでもなく、バジリスクは目の前で起き上がろうとするハリーを狙った。

 言われるがままに目を開けると、バジリスクの黄色い目は真っ黒な手拭いで覆い隠されている。

 怪物は視界を封じられて動きが鈍くなった。

 その隙にホークスがハリーの手元へ『振り分け帽子』を再び運んだ。

 大きさの通り少し重いのは昨年に知っていた。

 が、今はもっとズシリとくる。

 中に何かある──手を突っ込んで引っ張り出すと、一振りの剣があった。

 掴んだのは眩い光を放つ銀の剣。卵ほどある紅玉が柄に埋め込まれ、煌々と輝いている。

 明確な武器を得てハリーはさらに勇気づけられた。

 ダンブルドアが寄越したのだから疑問を抱く理由などなにもない。

 バジリスクは再び標的を見つけると、大きく顎を開き無数の牙を剥き出しにする。

 荒々しく吠えて噛みつこうと飛び掛かる。

 二〇メートルに迫る巨体の体当たりを済んでのところで避けたが、ノコギリ刃のような鱗が右腕を掠めた。

 ほんの少しだが肉を抉られ、傷口から血が溢れる。

 今度こそ大蛇の鼻先はハリーから大きく離れた。

 リドルの方を見るとロンも加勢して杖の取り合いになっている。

 あちらに行けばみんなを巻き込む──ハリーは咄嗟に蛇像の間を走り抜け、その向こうにある排水管の中へと逃げ込んだ。

 水を飛び撥ねさせ、カンカンと革靴で排水管を叩きながら。

 その音を頼りにバジリスクもハリーが駆け込んだ排水管へと姿を消す。

 ロンがほんの一瞬だけハリーに注意を逸らした。

 

「フリペンド!! 撃て!!」

 

 

 トムの呪文でロンは吹き飛ばされ、放たれた衝撃波がパンジーとダフネを怯ませた。

 全員杖を取り落とす。乾いた音を立てて床を転がっていく。

 その隙にリドルはロックハートごと後ろの三人を同じ呪文で弾き飛ばし、まんまと姿勢を整えた。

 顔に浮かぶ微笑みは凍てついている。

 彼女たちへの罰を思案して怒りを鎮めているのだ。

 余裕があると装っても声は怒気に満ちていた。殺意も篭っている。

「さあ、愚かで勇敢な諸君……この神聖なる『秘密の部屋』で、スリザリンの紋章を抱きながらグリフィンドールと手を組んだ罰を与えようじゃないか」

「な、何が『神聖な秘密の部屋』だよ! スリザリンが処分し損ねたペットの巣穴じゃないか!」

 頭を打ち付けてフラつきながらもロンは強気に言い返した。

 徐々に血色が戻り、みるみる耳まで赤くなる。

 ついに髪の毛と同じぐらい顔を真っ赤になった。

 他方、リドルの顔から笑みが消える。

「自分じゃなーんにも出来ない日記帳がよく言うぜ! 十一歳の小娘ジニーに頭を下げなきゃ字の一つも書けないなんて、トロールよりマシなだけじゃないか! それをご大層に『僕は記憶だ』なんて笑っちゃうよ! 自分で『僕はただのインク染みです』って認めたようなものだろう!」

「……そのインク染みによって今、君の可愛い可愛い妹は死につつある。安心したまえよウィーズリーくん、彼女一人になんてさせやしない。事が済んだら、残ったご家族も同じところに送ってやろうじゃないか……だが、それには少し時間がかかる」

 リドルは素早く杖を振り上げ「クルーシオ!」と叫ぶ。

 瞬間、ロンの身体を苦痛が襲う。

 筋肉という筋肉、あらゆる臓器を痛めつけ、その耐え難さに舌が麻痺しもはや悲鳴すら出ない。

 音もなく身体を仰け反らせて悶え苦しむ姿を、リドルは慈しむように笑みながら眺めていた。

「ジニーから聞いたよ、君たちは純血でありながらマグルの肩を持つ裏切り者だそうじゃないか。あぁ……なんと嘆かわしい……聞けば、ご両親ともあのダンブルドアをありがたがっているとか。まったく、半世紀ほどで魔法界はずいぶんと堕落してしまったようだ。その象徴こそウィーズリー家というわけか」

 するとトムは突然、呪いを解いた。

「聞いているのかミスター・ウィーズリー。人が真面目な話をしているときは、ちゃんと相手の目を見るようにとご両親から教わらなかったのい? そんな程度のことも躾けられない大馬鹿者までホグワーツに入れたとは、やはりダンブルドアのやり方には問題があるな……純血というだけで入学を許可するのも弊害が多い」

 息も絶え絶え、胃の中身を床にぶちまけながら、ロンはまだ心が折れていない。

 ジロリとリドルを睨みつけて耳をすますポーズをする。

 弱りきった声で挑発を繰り返した。

「わ、悪いね……書き損じのインク染みが喋ってるときどうするか、教わってないんだ……」

 ニコニコと優しい顔だったリドルが、ついに歯をむき出しにした。

「おいおい……見ろよみんな、なんだいアイツは。同じ監督生のくせにパーシーより口下手なんて、情けないったらないぜ……君、勉強は出来ても頭は回らないのか? そんなだから五〇年前も一人しか殺せなかったんだ。そこで馬鹿みたいに口を開けっぱなしのご先祖様に謝ったほうがいいぜ。『僕は日記の染みになるしか出来ない一族の面汚しです』ってね」

「なんだと貴様……裏切り者の穢らわしい舌で、魔法界で最も聖なる血を受け継いだこの僕を侮辱するとは……」

「何が聖なる血だ、このスットコドッコイのモヤシ野郎。こんなジメジメした部屋に閉じこもってたせいで羊皮紙にカビが生えちまったのか!? 自分で何もしてないくせに、ベラベラベラベラ長ったらしい自慢ばっかり!」

 自分で言いながらロンはゲラゲラと笑い始める。

 やけを起こして粗末な頭がおかしくなった。

 パンジーもダフネを顔を見合わせロックハートを脇にどける。

「ス、スットコドッコイのモヤシ野郎……い、言われましたねトム。す、すみません、面白くってつい……」

 ロンの笑いに混じる、囁くような少女の声。

 憤怒と憎悪で端正な顔を歪めたリドルに睨まれても、スミレは平然とクスクス笑っている。

 インク染み……と呟いて収まりかけた笑いがぶり返す。

「その様子だとハリー・ポッターは死んだようだな。死体はどこだ」

「バジリスクが食べちゃいました。形見はこれだけ」

 大事そうにローブを抱え、ジニーのそばに立つ。

 綺麗に折りたたまれたローブにはグリフィンドールの紋章。

 赤地に描かれた獅子は血で汚れている。

 さらにスミレが出てきた排水管からバジリスクがズルりと頭を出した。

 口元からは鮮血が滴り、端からは破れたローブが垂れ下がっている。

「ハリー……そんな……」

 杖を突きつけられていることも忘れ、ロンはジニーの元へと駆け寄る。

 トムはバジリスクの側へ向かった。

 涙も流れず、掠れた嗚咽が途切れ途切れに漏れる。

 顔は見えずとも足取りすら痛ましい。

 目も当てられない有り様のロンにローブを手渡し、何か二言三言スミレが囁く。

 そして、ロンは膝を折った。

 血に濡れたグリフィンドールの紋章を抱き締める様に、トム・リドル──は高笑いを上げて勝ち誇った。

 

 再び開かれた『秘密の部屋』で立つ二人のパーセルマウス。

 俯いて沈黙するスミレと、狂ったように歓喜を吼えるヴォルデモート。

 

「アルバス・ダンブルドアも目が曇ったな! ハリー・ポッターが選ばれし者だなんて見当違いも甚だしい! 勇敢にも『秘密の部屋』に乗り込んで僕を止めてくれるとでも思ったか!? 無様にバジリスクの餌となった!! お前を信じる者はこれでホグワーツからいなくなるぞ!!」

 

 ハリー・ポッターが死んだ。

 目の前で死なれたならショックもあろう。

 だが実際は死体の一部さえない。

 現実を前にしてダフネにさしたる驚きはなかった。

 むしろ自分の冷淡さに驚くほどだ。

 別に親しくもなかったし、どちらかと言えば不仲に近い。

 限りなく微妙な関係だが、目を合わせたのは『秘密の部屋』に来るときが初めてか。

 そのハリー・ポッターはバジリスクの餌食となった。

 悲願を果たしたスリザリンの継承者は今、機嫌が良い。

 時間を稼げばそれだけ自分の寿命は延びる。

「……ジニー・ウィーズリーは生徒の純血と非純血をどこまで知ってたの? それともバジリスクの能力?」

 リドルは上気した頬をダフネに向けた。

 いくらか血の気を取り戻している。

 だからと言って蛇のようだという印象は変わらない。

「いいや。そんな能力はない。もちろんバジリスクにも」

「じゃあどうやって? 新入生にあれだけ調べる手段なんて……」

 それでなくともウィーズリー家は貧しい。

 人脈はあろうと金銭もなしにあの短期間で調べ上げるなどまず不可能だ。

「コリン・クリービーだけはジニーが知っていた。呪文学の授業で親しくなったそうでね、あの無神経なカメラ小僧のことを嬉々として日記に書き込んだよ。おかげで最初の標的はすぐに決められた。他の連中はアオイが教えてくれたのさ」

「クリービーが襲われてから、みんなスミレに家系図を見せてた……」

 勝手に勘違いして命乞いをしたのが、逆に命を危険に晒していた。

 信じていなかったのはスリザリン生と教授たちだけだ。

 十一月の時点で誰が襲われてもおかしくなかった。なんとも滑稽な話だ。

 普段忌み嫌うスリザリンの生徒に媚びへつらってこのザマとは。

 揃いも揃って馬鹿だ。

 これならいっそ閉校してもいいかもしれない──

 ダフネ・グリーングラスの心に冷たい笑いが湧き起こる。

 あの『決闘クラブ』でどれだけ怒りっぽいか気づいていたはずだ。

 それでも襲撃の恐怖に屈した。そうして襲撃対象のリストに名前が載るとも知らず。

 隣でパンジーはずっと考え込んでいる。

 リドルは黙ったままのパンジーにも水を向けた。

「そちらの君も、知りたいことがあるなら言いたまえ。僕の気が変わってバジリスクの目隠しを解いてしまえば、今度こそ君たちはお終いなのだからね」

「じゃあ一つだけ。アンタはさ、もう何回もスミレと話してるのよね?」

「それがなんだと言うんだ? 当然じゃないか、何を言っているんだ」

「どこまでその子のこと知ってるのか気になって」

 リドルはもう一度爆ぜるように笑い出す。

 耳障りな甲高い声が何重にも反響して『秘密の部屋』を満たす。

「そこの小娘の血が病んでいることか? ああ勿論知っているとも! 『穢れた血』よりもホグワーツに相応しくない怪物だと自ら告白したよ! 僕をヴォルデモート卿とも知らずにね!」

「そう。それが分かればいいの。それだけ」

 意図するところを問い質そうと、リドルは二人のいる方へ近づいた。

 そして気づく。

 同じ大蛇(サーペント)の紋章を抱く女子生徒の顔に恐怖の感情がない。

 勝ち誇った顔で、片方など胸を張ってふんぞり返っている。

「なんだその表情(カオ)は。ヴォルデモート卿の復活を前にして、何故……」

「ねえ知ってる? アンタが味方と思ってるヤツ、滅茶苦茶キレるわよ」

「ああ、同じ時代に生きていてくれたらと思ったさ。味方にすれば心強い──」

 胸元に杖を突きつけられて、パンジーは「ハン」と鼻で笑う。

 露骨に挑発する表情でリドルを見返し、目線を後ろへ送る。

 ジニー・ウィーズリーはもう間もなく死ぬ。

 ロン・ウィーズリーは肉体も精神も限界だ。

 スミレ・アオイはバジリスクが見張っている。

 では一体何が。

 思い至る最悪の可能性にリドルは身体ごと振り返った。

「待て、何をする──」

 床に置かれ、ページが開いたままの日記帳。

 その前にはロンがいる。掲げられた手には未だ毒液の滴る巨大な牙が。

 スミレはバジリスクの隣で微笑んでいた。

 足を負傷してよろめくハリー・ポッターをちらりと見遣る。

 一切が狂言だった。

 そう気づいた時には、何もかもが手遅れ。

「──やめろ、よせ!」

 姿を現したときよりずっとトム・リドルの輪郭は鮮明になっていた。

 そして死にゆくジニー・ウィーズリー。

 分かってみれば簡単なトリックだった。

 目の前にいるサラザール・スリザリンの継承者は幻影に過ぎない。

 本体はこの日記帳だったのだ。であれば、どうすべきかは自明である。

 バジリスクの牙が羊皮紙のページへ突き刺さる。

 耳をつんざくリドルの絶叫。

 身を悶え、苦しみ、のたうち回る五〇年前の記憶。

 毒で穴が広がり、そこから鮮血のように黒いインクが吹き出す。

 どす黒い液体が顔へかかろうとも怯まない。

 何度も何度も何度も牙を突き立てられ、日記帳はみるみる形を失う。

 リドルは最期、その整った顔立ちを恐怖と苦痛に支配されながら消えた。




 第二章『秘密の部屋』編はあと二話、エピローグが入れば三話で終わる予定です。


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C.o.T.S

 第二章『秘密の部屋』もあと僅か。


 リドルの断末魔で水面が揺れる。

 

 記憶の残響も途絶え、ようやく静けさが戻った。

 

 返り血のようにインクを浴びたロンが毒牙を後ろに放った。

 牙はスリザリン像の手前の掘りへ、ポチャンと音を立てて落ちる。

 素手で触れたせいだろう。手が痺れるように痛む。

 魂を奪っていた日記帳が破壊されたからだろう。

 すぐにジニーの身体は熱を取り戻す。

 ゆっくり目を覚ますと、奥の排水管へ去って行くバジリスクを見て悲鳴を挙げた。

 ロンに飛びついて声にならない声で叫ぶのを、ロンが「アイツは放っておいていいんだ」と落ち着かせる。

 ハリーも血のついた剣を手放し、二人の元へ走った。

 目覚めたばかりのジニーはハリーの顔を見て泣き出した。

 そのまま怯えた表情でへたり込む。

「ハリーあたし、朝食のときあなたに打ち明けようとしたの。でも、パーシーの前では、い、言えなかった。ハリー、全部あたしがやったの。でも、そんなつもりじゃなかった。う、嘘じゃないわ。みんなリドルがやらせたの」

 そして、自分の傍らに転がっている日記帳に気づく。

「リドルはどこ!? リドルが日記帳から出てきて、その後のことなんにも覚えていない!」

 明るい茶色の瞳からぼろぼろと涙を零す。

 身震いするジニーへ、ハリーは穴まみれで崩れそうになった日記帳を見せた。

 日記帳は毒に焼かれ大穴が開いている。

 何度も牙を突き立てらればらける寸前だ。

 もはやいつ形を失ってもおかしくない。

「もう大丈夫だよ。リドルはもうおしまいだ、バジリスクは……今は敵じゃない」

 スリザリンの血は途絶えた。

 この学校に、あの怪物を操ることの出来る人間はもういない。

 

 ──あたし、きっと退学になる!

 

 襲撃の実行者とはいえ操られていた身だ。

 その身分であそこまで泣かれるとスミレには立場がなかった。

 そうさめざめと泣くジニーをよそに、スミレはパンジーとダフネの元へ向かう。

 二人ともすっかり腰を抜かしてしまっている。

 スミレはローブの中からチョコレートを取り出した。

 ハリーが排水管へ逃げ込むのを待っている間、こっそり食べていたのだ。

 銀紙は半分剥かれ、小さな歯形がついている。

「コレ、食べます? ちょっと囓っちゃいましたけど」

「い、いらない……色々ありすぎて食欲が……」

 ショッキングな出来事の連発だった。ダフネは首を振って断る。

 パンジーも今はなにも喉を通らないと告げた。

 スミレが床に転がった二人の杖を拾い上げ、ローブで水を拭き取る。

 それぞれの杖を拾って手渡し、隣にしゃがんだ。

「どうやってバジリスクを手なずけたのよ?」

「トムがスリザリンの使命を放棄したからです」

 説明の必要はあったが、足が疲れてそれどころではない。

 大きく息をついて疲労感に蝕まれた足を揉みほぐす。

 途中で割って入ろうか何度も迷ったが、トムの長話を邪魔して失敗しては元も子もない。

 我慢に我慢を重ねた末の疲れだった。

 何時間も立ちっぱなしだったのだ。

「え? それだけ?」

 離反の理由はあっけないものだった。

 だが他に理由はない。スミレも頷くほかになかった。

 スリザリン卿の崇高な使命──継承者はこの『秘密の部屋』を得るとともに、その使命を負う。

 継承者は『聖なる血』の僕だ。

 だがトム・リドルは「使命などどうでもいい」と口にし、あまつさえスリザリンの認める正統な純血まで襲わせた。

 僕が主人たるスリザリンの血を裏切った……彼はその罰を受けたのだ。

 自らの僕だと思っていたバジリスクの牙に魂を貫かれ、毒される苦痛を味わって果てる。

 血に酔った(、、、、、)とでも言うべき無残な末路。

 だが同じスリザリンの生徒ですら五〇年前の継承者を哀れまなかった。

「アイツ半分マグルなんだし、どれだけ偉ぶってもねぇ?」

「うん。純血には……なれないよね」

 パンジーと言いダフネと言い、存外に辛辣だった。

 死んでも散々に言われる有り様にスミレも苦笑を禁じ得ない。

「なりたくてもなれないから憧れたのかな」

「かもしれませんね」

 リドルの真意はもはや分からない。

 スミレは吸血鬼の力を消し去ろうとして、ヴォルデモートの力があればあるいはと期待した。

 しかし、彼は不純物の混じった血に苦しみ抗うあまり、またもや転げ落ちたのかもしれない。

 何度か言葉を交わしてスミレが受け取ったのは拒絶と軽蔑だけだった。

 最終的な目的はさておいても血の純化に拘る点は同じはずなのに。

 病んだ血と濁った血、望まずして不純を宿している同士でありながら、リドルはついぞスミレを同胞と見なさなかった。

 だから逆に見放されたのだ。

 実際はもっと下らない──当人にとっては深刻極まる──理由なのだが。

 それはこの場では喋らなかった。

 否、喋る時間がなかった。

 

「さあ、冒険はここまでだ生徒諸君!」

 

 いつの間にか復活を遂げたロックハートがロンの杖を持っている。

 自分の研究室で襲われたとき、密かに回収して隠し持っていたのだ。

 スミレの後頭部に先端を突きつけ、乾いた唇を舌で舐める。

 憔悴しきった瞳で笑みながら他の四人に杖を捨てさせた。

 どうしようもない往生際の悪さにロンは「トムよりずっと執念深いや」と声を漏らす。

「心配は要らん、世間にはこう言っておこう──『みな勇敢に戦った。恐るべきスリザリンの怪物に立ち向かい、その恐ろしさのあまり哀れにも、正気を失ってしまった』と!」

「大した勇気の持ち主だよ……」

「勇気? コイツは盾になっただけじゃない!」

「それも君が髪を引っ張って盾にしたんじゃないか」

「ナニよ文句あんの!? おかげで逃げられたんでしょうが!」

「ねぇ、みんな人質を取られてるの忘れてない?」

 口を開くと騒々しい。

 唖然とするジニーに見せるまいとロンが壁になった。

 ハリーもようやく不死鳥の涙でバジリスクの毒が癒えたばかり。

 女子二人は最も警戒されている。

「君たちの記憶を消し、その牙と日記帳を持ち帰って私が報告すれば、誰もが真実と受け入れるだろう。大丈夫、諸君らの名前は私の新たな自伝によって、後世まで語り継がれる。」

「それが名誉だと思ってるなんて正気か!?」

「日記帳に隠されていた『例のあの人』の記憶が『秘密の部屋』を開き生徒を襲っていたなどと、いったいどこの誰が信じるかね!? それこそ与太話だ! 真実を真実として認めさせるのには相応の地位と名声が必要になるのだよ!」

「これが教師の言うことだなんて……」

「あの。私いま絶体絶命なんですけど」

「あぁ──怖がる必要はない。君は魔法に関する一切の記憶を消し去った上で、ご実家に送り返そう。そのためにあの亡霊と手を組んでいたのだろう? むしろ喜びたまえ、私がその願いを叶えて差し上げようじゃないか」

 手を組む、その言葉にジニーが声を挙げた。

 ロンの背後から顔を覗かせてスミレを指さす。

「その人よ! あたしが捨てた日記帳を、寮の寝室に置いていったの!」

「待ってくれ、ジニーがこれを捨てたのはクリスマスの後じゃないか」

 ハリーがトム・リドルの日記帳拾ったのはクリスマスから数週間後だ。

 ハーマイオニーがミリセント・ブルストロードのものだと思っていた毛が実は猫のものだってと分かって胸をなで下ろした日のことだった。

 そしてスミレがグリフィンドールの談話室に入ったのはクリスマス当日だ。

 ポリジュース薬でハーマイオニーに化けていた間だけである。

「違うの、コリンが襲われたすぐ後に一度マートルのトイレに捨てて、あたしはすぐに逃げた。だから手元にはなかったのに、十二月にジャスティンが……」

「……その頃には、もうあなたの中にリドルがいた。だから日記帳があろうとなかろうと、どのみち同じだったそうですよ」

「じゃあなんで戻したんだ。君は喋る日記を警戒して、ずっと放っていたはずだ」

「もう一度捨てさせる必要がありました。……ハリー、あなたに拾って貰うためですよ。初めはトムからバジリスクを奪う計算だったのに、アレはスリザリンの末裔以外には従えられない……おまけに、ファッジが例え閉校になっても私を家に帰らせないと断言した。それじゃあこの騒動の意味がない!」

 後ろにいるロックハートのことも忘れてスミレは声を荒げた。

 以前の怒り狂って我を忘れたパーセルタングとは違う。

 泣き出す寸前で今にも決壊しそうな英語だった。

 だがロンもそれを汲むつもりはない。彼女も黒幕の一人なのだから。

「確かに言ってた。ハグリッドの家に来たとき、ファッジのやつ妙に怒ってた。けどそれがなんだい、自分ちへ帰るためだけにこんなことしなくったっていいじゃないか!」

「そうですよ! 私は普通の生活がしたかった! 普通の勉強をして、普通のお菓子を食べて、普通の遊びがしたい!! 誰が、誰が好き好んで魔法なんか!! 家に帰って普通の学校に通いたい!! 幽霊も怪物もいないところがいい!! この学校がなくなれば、元に戻れると思ったのに!! 『賢者の石』でもダメ! 『秘密の部屋』でもダメ! 私はどうすればいいの!?」

 未だロックハートは杖を下ろさない。

 微笑みを浮かべて忘却術を唱える。

「さぁアオイ、魔法の記憶に、分かれを告げるといい──オブリビエイト! 忘れよ!」

「お前も道連れだロックハート──オブリビエイト! 忘れよ!」

 少女の瞳に憎悪が満ちる。

 二人の叫ぶ声が響いたのは同時。

 スペロテープで補強された杖は爆ぜ、光は逆行し、スミレの杖から放たれた青白い極光に飲み込まれる。

 遠く入り口付近まで吹き飛ばされたロックハートを案じる者はいない。

 立ち尽くすスミレの手から杖が落ちる。

 泣き叫び、黒い瞳から大粒の涙をこぼす。

 家に帰りたい。魔法と縁のない人生を取り戻したい。

 ハリーには同情も共感も不可能な理由だった。

 このホグワーツが家なのだから。

 血の繋がった家族はもういない。

 魔法の世界に来てハリーの人生は変わった。

 階段下の物置みたいに薄暗く埃っぽい日々が、なにもかもキラキラと光り輝く奇跡のような毎日。

 そのすべてが真逆の人生なんて、想像だに出来ない。

 所構わず騒ぎ立てるゴーストたちに怯え、奇々怪界な魔法の数々に恐れをなし、この世のものとは思えない生物の影に震えて暮らす生活なんて──

 目の前で泣き崩れる女の子と自分、けして混ざり合うこともなければ触れ合うこともない。

 どんな言葉を交わすべきか。

 ただ沈黙するばかりのハリーへ、ホークスが近寄った。

 事情を知るパンジーが目を伏せたまま、つぶやいた。

「先に行って。こっちは気にしなくていいから」

 言われてロンが帽子と剣をハリーに手渡し、部屋を出ようと促す。

 ジニーを連れ。不死鳥の先導で来た道を引き返していく。

 スリザリンのローブを羽織った三人とバジリスクを残し、五〇年ぶりに『秘密の部屋』は閉ざされる。

 

 

 バジリスクの背に乗って、マートルのトイレに出た三人。

 住人であるマートルとの挨拶もそこそこにマクゴナガルの部屋へ向かう。

 涙も枯れ、目元を真っ赤に腫らしたスミレを二人で支えながら。

 もう夜明けが近い。

 廊下はうっすらと日に照らされ、暖かな空気が流れていた。

 ジニーを連れたウィーズリー夫妻と入れ違いになった。

 記憶を完全に失っているロックハートもロンに引っ張られながら出て行った。

 残っているのは泥まみれで現れた三人組に目をむくマクゴナガル、そして魔法省から戻ったダンブルドアとハリー。

 事件の経緯についてはすでにロンとハリーが話した。

 そのためマクゴナガルもいくらか冷静さを取り戻していた。

 小さく咳払いし、厳格な態度で三人へ問いかける。

 それでも混乱の残滓は声の端々に残っている。

「あなた方も『秘密の部屋』へ行ったのですね? フォークスの助けを受けず、どうやってあの地下深くから戻ったのです」

「バジリスクに運んでもらいました」

 ダフネがまず答えた。

 入り口だけスミレがパーセルマウスで開き、バジリスクが地下に消えてからまた閉じた。

 それから『秘密の部屋』のこと、『継承者』の資格などを説明した。

 部屋を開いても、怪物は操れない。

 スリザリンの血を受け継いだ者だけがバジリスクの主足りえる。

 トム・リドル亡き今、怪物が生徒を襲うことはもはや起こりえない。

 スミレも自身が日記帳に少なからず関与したことを話した。

 本気でホグワーツを閉鎖に追い込もうとしたことも。

 そのために十人を超える生徒が石にされたことも。

 すべてを話し終え、言葉を発する者はいない。

 だがダンブルドアは静かに頷く。

 マクゴナガルも瞼を閉じ、沈黙したままだった。

「石にされた者たちとそのご家族のほかに、誰も君を責めることは出来ん。じゃが罰則なしというわけにもいかんでな、わしからアオイさんのご両親に宛てて手紙を書こう。学校として、事の次第をすべてお伝えせねばならん」

 ハリーは何か言いたげだったが、それが許される空気ではなかった。

「そしてグリーングラスさん、パーキンソンさん。新入生のカローさん姉妹を巻き込んで学校中を混乱させ、さらに寮の外を歩き回り、ロックハート教授を巻き込んで重大な事故を引き起こしたことも考慮せねばならんのう」

 パンジーの顔色がさっと青ざめる。

 あの双子に「派手にやれ」と言ったのは自分たちだ。

 教室を爆破したりピーブスをけしかけるなんてことはやりかねなかった。

 大減点の上に両親へ手紙を書かれる。

 ダフネすら胃が潰れそうな感覚に襲われた。

 そんな二人へ、ダンブルドアは青い瞳をきらりと光らせた。

「五人全員に、ホグワーツ特別功労賞を与える」

「へ?」

 間の抜けた声を発したパンジーにハリーがクスリと笑う。

 そうなるだろうと思っていた。

「そしてヴォルデモートを恐れることなく立ち向かった勇気をたたえ、グリーングラスさんとパーキンソンさんに二〇〇点ずつ与える。カローさん姉妹とアオイさんも、その優れた機転と知識に一〇〇点ずつじゃ」

 三人全員が呆気にとられていた。

 勇気や知識と言われても思い当たるものがなかった。

 打算と偶然、それに趣味が功を奏したに過ぎない。そう思っていたからだ。

 半純血のくせに純血社会の頂点に立ったような物言いが、無性に不愉快だったのが一番大きい。

 けれど貰えるものは貰っておこう。

 勲章にはあまりにも立派なものだから。

 スミレは辞退したかったが、それを申し出る前に、マクゴナガルがようやく微笑んだ。

 

「今日は宴です。各自、シャワーで身だしなみを整え、ベッドで体をよく休ませたのちに大広間へ来るように。寮の皆さんに無事な姿をお見せしなければいけませんからね」

「はい、先生」

 嬉しそうなハリーの返事でこの場は締められた。

 四人連れ立って部屋を後にし、それぞれの寮へ引き上げる。

 別れるまでスリザリンとグリフィンドールの間に会話はなく、最後まで言葉を交わすとのないままだった。

 どこまでも相容れない。

 そのことがより鮮明化している。

 互いによくよく理解できていた。

 

 そのことを確認しあうこともなく、四人はそれぞれの道へ進んだ。




 スミレはハリーとは何もかもが真逆なのです。
 バジリスクはスミレにも制御不能、そのまま地下の排水管をウロウロしてたまーにハリーやスミレが声を聞いたり聞かなかったり。
 ただのギャグ描写にみせかけて日記帳返還するイベントも盛り込んだクリスマスの一幕だったのでした。


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幼年期の終わり

 宴とその後、短めになります。


 スミレが目覚めたのは真夜中だった。

 宴に行くか行くまいか、真剣に悩む。

 どうせ食べられる料理はほとんどない。

 それにまだまだ眠かった。

 何より、空腹なのはいつものことだ。

 舌に合わない英国料理に──去年ほどではないが──強い吸血衝動。

 舌を、喉を、身体を、魂を、熱い血潮で潤したい。

 逃れられない本能的な飢餓感に絶えず苛まれている。

 薬のおかげでかなり楽だがそれでも辛い。

 本能が欲する血を理性が拒絶する。

 このホグワーツで満たされることなど何一つない。

 ましてや閉校にならなかった記念の宴である。

 まったく祝う気力が起きない。

 もう一度寝よう。寝て起きたら、もしかしたら閉校になっているかもしれない。

 夢物語に期待して瞼スミレは目蓋を閉じる。

 すべてがまやかしに過ぎない夢の中でくらい、現実から逃れられるはずだと信じて。

 ゆっくりと意識が沈んでいく。

 もうすぐ眠りの底に、そのタイミングでルームメイトが目を覚ました。

「ウソ、もうこんな時間!?」

 驚いた声にスミレの眠気も吹き飛んだ。

 パンジーの高い声が右隣のベッドで炸裂した。

 部屋の明かりも忘れてバタバタと着替え始める。

 スミレが照明を点けると、パンジーはパジャマから制服に着替え終えたところだった。

 私のことは気にせず、と断る間もなく布団を引っぺがされた。

 

 ──みんな向こうで待ってるでしょ!

 

 そう言ってスミレの手を引き立ち上がらせる。

「もう! 急いで急いで!」

 時計を気にするパンジーに手伝われてスミレも着替えを終える。

 まだ宴に行くかとも聞きれてすらいない。

 問答無用で談話室へ引っ張り出される。

 廊下に出ても人の気配はない。

 フィルチやゴーストすら宴の場にいるらしい。

 ただ、壁の中で恨みを言う声( 、、、、、、、、、、)があるだけだ。

 五〇年前の事件は幕を下ろした。

 しかし千年前の恐怖は未だこの城に生きている。

 いつか必ず──その思いを込めて、今は前を向いて走った。

 ずっと後を追ってついてくるかと思った声は途中で消えた。

 小柄だが素早いパンジーの背中を追って、見失わないようにスミレも必死に足を動かす。

 また一年が過ぎて二人の背丈はスミレが上回った。

 けれどパンジーが先を歩くのは変わらない。

 昇り階段を二段飛ばしで走り抜け、あちこちの隠し通路を突っ切って辿り着いた大広間。

 中から聞こえる声のなんと賑やかなことか。

 日付が変わっても未だにパーティーが終わる気配がない。

 そして漂ってくる色々なご馳走の匂い。

 一生分にも思える疲労が抜けて襲いかかる空腹が刺激される。

 大広間の扉を開くと、飛び交う笑い声が静まり返った。

 喧騒は嘘のように立ち消える。

 集まる視線に今までのような怖れや拒絶はない。

 千人近くから注目されて緊張するスミレだったが、いっそ傲岸不遜なほど堂々としたパンジーに励まされていつも通りに振る舞えた。

 特にスリザリンの新入生は尊敬の眼差しを向けている。

 こういうのもたまになら……と考える時間もすぐに終わる。

 カロー姉妹とミリセントに二人まとめて抱き締められ、勢いあまって倒れそうになる。

 何を言われても答える余裕がなかった。

 抱き着かれて増した空腹感を堪えるのに必死で、ダフネがミリセントを落ち着かせてくれなければ意識が途絶えそうだった。

 席へ案内されて長椅子に腰掛け、ようやく一息つけた。

 パンジーはドラコの右隣に座り仲睦まじくし始める。

 その甘えっぷりにミリセントの眉間はシワが深くなる。

 肉料理の載った皿を自分の方に引き寄せ、そちらから目を逸らした。

 手前には分厚いステーキ。

 後からソースで味をつけるのか、塩胡椒がかけられている。

「見せつけてくれるんだから……」

「いいじゃないですか。相思相愛でしょう」

 スミレはそれを微笑んで眺めながら、自分の皿にちまちまと野菜やプディングを盛っていく。

 野菜類は少ない。

 その中で蒸したジャガイモや焼いた野菜を探す。

 周りはグレービーソースを、スミレはチーズやホワイトソースの残りをつける。

 赤身の鮮やかなレアステーキを食べながら、ミリセントの切れ長の瞳がスミレへ向けられる。

「ヘスティアとフローラ焚きつけたってホント?」

「ええ。二人は何をしたんですか?」

「あっちこっちの配水管を壊して、学校中が水浸し」

「それは……」

 さぞや大混乱だっただろう。恐慌は予想に難くない。

 あの『決闘クラブ』など比にならないほど慌てふためいたはずだ。

 きっと先生方も寿命が縮まる思いをしたに違いない。

 生徒を攫った上、廊下に怪物が解き放たれたと思うのが普通だろう。

 いかにホグワーツの教授職として迎えられるほどでも、バジリスクの瞳と毒にはひとたまりもない。

 その様を想像するとスミレの顔が綻んだ。

「屋敷しもべどもすら逃げ惑ってたわ。声と音だけで笑い死ぬかと思った」

「それは残念なことをしました。けれどまた機会もあるでしょう」

「いや、あんな面白いことが二度もあるわけ……」

 微笑みの意図に気づいてミリセントが顔を近づける。

 声をギリギリまで圧し殺し、周囲の目を気にしながら尋ねた。

「まだ生きてる?」

「もちろんです」

 スリザリンの口を閉ざすことが出来る者はもういない。

 スミレが一言あの手洗い台に『開け』と命じれば、制御不能の大怪物が地下から現れ、スリザリンに認められざる生徒を殺して回るだろう。

 正しく純血でない者を一人残らず、この城から消し去るために。

 果たしてそれがホグワーツと呼べるかなど二人には関係ない。

 より面白おかしければそれでいい。

 恨みを晴らせるのならそれでいい。

 すべては、よりよい明日のために。

 笑みを交わして食事を再開する。

「そう言えば、アンタ普通のステーキはどうなの?」

 食べたことなど一度もない。

 もともと焼肉やバーベキューをした事がなく、そうした料理とは一生無縁だと思っていた。

「どうなんでしょう。でもソースがないなら……」

「なら試してみないと。食わず嫌いはもったいない!」

 それを合図にスミレの皿へレアステーキが盛られていく。

 脂にまみれた肉汁が野菜を侵す。

 断面の赤色は肉と血の赤色。

 血を啜る怪物(オニ)が何より愛する真実だ。

 これこそ最良の糧、食らうのになんの躊躇いもない。

 ナイフとフォークを使い切り分け口へ運ぶ。

 舌に流れる肉と脂のくどさ。

 噛み締めるたび滲み出る微かな血の風味。

 よくよく咀嚼して命の源を取り込む。

 胃へと走る重々しい感触が過ぎ去り、熱が灯る。

 身体の内に点いた火が全身を温める感覚。

 底なしの飢えがようやく満たされた瞬間だった。

 ホグワーツに来てから初めてこの言葉を口にした気がした。

「………………美味しい」

 ただ一言でスリザリンのテーブルが震える。

 寮一の偏食が初めて肉を口にして喜んだ。

 クラッブとゴイルはフォークに刺したソーセージを落とし、ダフネは咳き込んだ拍子にカボチャジュースでむせた。

 ブレーズも、セオドールも、そしてドラコとパンジーも。

 誰もが獅子と蛇の寮旗が飾られていることなど忘れている。

 二年越しでスミレがようやくまともな食事を始めたのだ。

 これで悩ましいのは残すところ試験だけである。

 どのテーブルも大賑わいを見せるところで、ダンブルドアが壇に上がった。

 軽く手を挙げらと大騒ぎが静まり返る。

「さて、騒ぎ疲れて頭がぼうっとする前に皆に伝えておかねばならんのう」

 寮対抗杯の結果発表が始まった。

 本年度も優勝はグリフィンドールとスリザリンの同率優勝、流石に昨年ほどハッフルパフとレイブンクローは盛り上がらなかった。

 今年はグリフィンドールに大減点がなく、スリザリンもクィディッチの試合結果が奮わず加点が少なかったためだ。

 一九九二年度の結果発表はそれほど盛り上がらないまま、二年連続ダブル優勝として決着する。

 閉校撤回の方がよほど嬉しいのだからしようのないことである。

 さらにロックハートが事故(、、)により長期入院を必要とするため『闇の魔術に対する防衛術』の職を離れることも発表された。

 未だに彼を慕う奇特かつ危篤の生徒はごく僅か。

 むしろ歓声があがるほどだった。

 教授たちの中にさえ喜ぶ者がいる。

 ギルデロイ・ロックハートはたった一年足らずでファンも名声もすっかり失っていた。

 さらに記憶を完全に失ったのだから因果応報である。

 あのミリセントすら「いい気味だわ」と鼻で笑った。

 表向きは事故、その場に居合わせた者には『自爆』と『反撃』で半々、実際は『自爆』と『口封じ』で半々である。

 だがわざわざスミレが真実を話すことはない。

 もし誰かに知られても「人質にされたスミレの反撃は正当防衛だ」とみなされるだろう。

 こうして『秘密の部屋』に新たな『秘密』が刻まれた。

 けして暴かれない真実もある。

 ロックハートのメッキにまみれた偉業ともども、時が過ぎれば忘れ去られる。

 ダンブルドアはさらに続け、緑色のとんがり帽子を被ったマクゴナガルを示した。

「最後にマクゴナガル先生から大切なお話がある」

 変身術教授が立ち上がり微笑んで大広間を見渡す。

 どんなおっかない発表が来るかと身構える生徒たち。

 ほんのごく一部だけ期待に目を輝かせている。

「これまでの経緯を踏まえ、お祝いとして期末試験を取りやめとします」

 どこからともなく──もちろんハーマイオニーのいる場所からである──「そんな!」と落胆の声が聞こえたものの、大広間に盛大な歓声と拍手が響いた。

 パンジーとミリセントもほっと胸をなで下ろす。

 ダフネは少し不満そうだったが、「自習時間が増えたしいいか」とすぐに切り替えた。

 ドラコをはじめ男子たちも大喜び。

 心配事がみんな吹き飛んでいったのだ。

 スミレは来年の『闇の魔術に対する防衛術』が誰であれ、今年より酷い先生はあり得ないと信じてステーキを頬張る。

 今日一番であろう大盛り上がりを見せたのちも宴は続く。

 明け方には『秘密の部屋』の件で学校を去ったハグリッドも戻り、ドラコがファッジの失態に口元を歪めスリザリンのテーブルも賑わいを見せる。

 夜明け前にようやくお開きとなって、その翌日から授業が再開された。

 

 夏のうだるような暑さの中で、ホグワーツはようやく日常を取り戻した。

 試験が中止されたため学期末の慌ただしさもなく、教授の退職により『闇の魔術に対する防衛術』は授業そのものが立ち消えた。

 のぼせるほどの太陽に見下ろされながら時間が過ぎていく。

 事件のきっかけとなった日記帳はルシウス・マルフォイ氏が出所だったが、しかしファッジの優柔不断と部下の失態がなければ……という追及に始まり、純血が襲われたのは一部の人間がダンブルドアをホグワーツから引き離したせいだと大騒ぎ。

 結局、マルフォイ氏は『校長への証人喚問要求を取り下げようと奔走した』という根拠から理事の地位を辛うじて──反対票も多かったが──失わずに済んだ。

 相変わらずドラコは肩で風を切り、クラッブとゴイルはトロール並の語彙力で愛想笑いを披露する。

 たまにハリーたちと喧嘩したりネビルにちょっかいを出したり。

 それをハーマイオニーに咎められたり、たまにロンと取っ組み合いになったり。

 喧嘩に杖が出ればハリーやダフネが武装解除呪文の練習台にする。

 スミレは暇そうに、パンジーは心配そうにして眺めるか見守るかするのが常だ。

 フローラとヘスティアのカロー姉妹に『秘密の部屋』のことを話し、それが一年生に広がって新しいカルトの礎となるのは、また別の話。

 なんとも穏やかな夏学期は一瞬だった。

 時間は光のように過ぎ去っていく。

 激動の一年を終え、馬なし馬車で駅へ運ばれる。

 ホグワーツ魔法魔術学校はもう影すら見えない。

 遠く離れた駅でロンドンへ戻る列車を待つ間、新しく増えた荷物を大事そうに抱えていた。

 ダフネとスミレが作った膨大な量のメモと写しだ。

 男系としては途絶えようと、どこかに必ず女系の血が残っている。

 スリザリンの末裔を探す途方もない試みはこれから始まるのだ。

 継承者の資格たる『聖なる血』を取り込むべく、スミレはようやくホグワーツに友人以外の価値を見出した。

 

 自らが真の継承者としてバジリスクを統べるその日のために。

 

 だが今は、前を向こう。

 

 自分の名を呼ぶ友達の方へ、キャリーケースを引きずって歩き出す。




 これにて『秘密の部屋』は完結。
 一〜二話分のインターバルを挟んで『アズガバンの囚人』に入ります。

 原作からの変更点としては『バジリスク生存』と『ルシウス・マルフォイの理事続投』です、グリフィンドールの剣は原作通りバジリスクの毒を吸ってます。


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アズカバンの囚人
夏の水辺に花は盛り


 幕間というか序章?
 今まで料理下手の設定だけ出ていたスミレの母親が登場します。


 実家に戻って一ヶ月と少し。

 スミレの夏休みはとても静かだ。

 学校で得られない、理想的な日常を過ごしている。

 この暑さではたまに近所を散歩するのも難しい。

 イギリスに比べ日本の夏のなんと不快なことか。

 全身に湿気がまとわりつき、太陽がそれを熱して人間を蒸し殺そうとしている。

 汗は流れる。流れるが、しかし、常に滲むような汗がダラダラと服を湿らせるだけ。

 スポーツをした後のような心地よさはまったくない。

 畳敷きの部屋で寝転び、縁側から吹き込むぬるい風に撫でられる。

 課題もそこそこにのぼせ上がり勉強は一時中断。

 涼むついでに水風呂でもしようかと思ったが、もう服を脱ぐのも面倒くさい。

 ごろんと寝返りを打った拍子にシャツがめくれ上がってへそがまる出しになった。

 行儀は悪いが直すのも億劫だった。

 冷蔵庫に麦茶があったはずだ。

 昼食のソーメンで用意した氷も余っているし、それで涼もう。

 上半身を起こすと肩や首元から水分が滴り落ちた。

 畳の上に落ちた雫はすぐに吸い込まれ、小さな染みを作る。

 体中から水分が抜けてしまった気がする。

 このままだとミイラになりそうだ。

 ふと外を見ると、澄んだ青空に大きな白い入道雲が浮かんでいる。

 いかにも夏らしい。

 ただ、蝉の大合唱を聞いていると余計に体温が上がりそうだった。

 もしアイスがあれば一つ貰っていこう。

 ついでの戦利品も決めていざ廊下へ。

 だだっ広いお屋敷の台所に向かうと、誰もいなかった。

 母親がここにいるのは稀だ。料理なんてインスタント食品が精一杯の不器用な人である。

 カップ麺やレトルトカレーを『料理』と呼ぶのは些か疑問があった。

 食器棚から背の高いグラスを取り出し、電気冷蔵庫を開ける。

 中の冷気で少し顔を涼ませてから麦茶の入ったガラスピッチャーを掴む。

 外に出すとすぐに水滴で覆われる。

 製氷室から氷をつまんでグラスに入れ、そこへ麦茶をなみなみ注ぐ。

 一息に飲み干すと食道から胃へ冷たさが落ちていき、全身の熱が逃げていく。

 頭も良い具合に落ち着くと汗まみれの状態が気になってしまう。

 袖なしのタンクトップに股下の浅い短パンは汗を吸って色が濃くなっていた。

 全身に吸いついて気持ちが悪い。

 肌着までずぶ濡れである。流石に着替えないと厳しいものがある。

 水風呂に入ろうと決心するとスミレの行動は素早かった。

 まず外の駄菓子屋に行って贅沢にコーラ瓶を二本買い、戻るとさっき使ったグラスを洗って水気を拭く。

 どちらも冷蔵庫に放り込んで部屋に戻り、着替えとタオルを用意する。

 広い脱衣所にそれを放って浴槽を洗い、泡を流し終えたら熱湯の代わりに冷水を流し込む。

 あとは待つだけ。

 椅子を引っ張ってきてそこで小説を読みながら時間を潰す。

 ある大富豪の老人が生きた恐竜を展示した夢のテーマパークを開こうとしていた。

 琥珀に眠る遺伝子を元に最先端の科学技術で恐竜を蘇らせたのだ。

 が、報酬に不満を抱くプログラマーの裏切りで警備システムが停止。

 その隙に凶暴な肉食恐竜が解き放たれ、開業前なのにパークは地獄と化してしまう。

 愚かな人間から順に死んでいく痛快パニックホラーだが、それだけではない。

 メアリー・シェリーの人造人間に代表される『科学と生命』の問題も描いている。

 SFもなかなか馬鹿に出来ないなと読みふけっているうちに、浴槽は十分な量の水で満たされていた。

 物語はちょうどトイレに隠れた弁護士がTレックスの餌食となった場面だった。

 溢れて床にこぼれる水のけたたましい音でハッとする。

 本を適当な台の上に置いて浴室を覗きすぐに水を止めた。

 ひんやりと冷たい水が日の光を浴びてキラキラと水面を輝かせている。

 さて、コーラとグラスを取りに行こう。

 あちらも準備は整っているはずだ。

 今日はどうせ家に人がいないから、バレないか。

 そう思って上を脱ぎ衣類籠へ放り投げたと同時。

 新聞と着替えを手にして従姉のアザミが顔を出した。

 全身汗だくで滝に打たれたようだ。

 げんなりした顔でスミレに気づき、さらにげんなりする。

 藍色の甚平が着崩れていた。

「アザミ姉ちゃんもお風呂?」

「このクソ暑いのに扇風機じゃやってられないでしょ」

 葵の屋敷はエアコン設備が不十分だった。

 エアコンのない部屋があちこちにある。

 スミレの寝室には設置されているが、隣に勉強部屋にはない。

 大概が狭い部屋ばかりなので夏場は苦労する。生活環境はアザミもスミレと同じだった。

「なに、アンタも入るの?」

「準備したの私だよ」

「うぅ……でも待つのは……」

 この蒸し風呂状態で待ちたくないらしい。

 煩悶する従姉の心情をスミレはそんな風に解釈した。

 実際は十五歳にもなって従姉妹同士で風呂に入るのが嫌なのだ。

「冷蔵庫にコーラあるから、私と姉ちゃんで一本ずつね」

「取ってこいと」

「冷えてるグラスは私のだから」

「分かった。分かったから、スミレも水着取ってきて」

「なんで?」

「修学旅行でもないのに従姉妹でハダカ見せ合うとか無理」

「水着持ってない」

 公立校ならいざ知らず。ホグワーツに水泳の授業はない。

 泳ぐ機会がそもそもないので水着を新調する必要がなかった。

 マホウトコロは真水での水泳術が必修、選択で海での遠泳も学べる。

 そしてスミレは生まれつきのカナヅチである。泳ぐための衣服など持つ意味がない。

「……去年買ったので使ってないやつ、あげるから。待って」

「分かった分かった。早く取ってきてよ、もう汗だくだく」

 姉の心、妹知らず。

 せっかくだからデパートで買った高い方を渡すつもりだったが、普通に学校指定の予備で済ませることにした。

 アザミが脱衣所を後にするとスミレは服を脱ぎはじめた。

 と言っても下は二枚ともまとめて投げてしまった。

 そちらも洗濯カゴに放り投げる。

 アザミが全速力で戻ってくる頃にはとっくに水風呂に入っていた。

 中高の修学旅行で同級生と入る風呂がどんなものか、経験してみたかったのだ。

 そちらは熱い湯が張ってあるのだろうけれど、この炎天下に普通の熱湯では命に関わる。

 一足先に大きな湯船で身体を冷やす従妹を見て、パシリをさせられたアザミは何もかも馬鹿らしくなり床に水着を投げ捨てた。

 

「着ないの?」

 

「もういい!」

 

 シャワーで身体についた汗をサッと流す。

 つま先から順にそっと入ると、冷たく心地いい水の感触に包まれる。

 おそるおそるへその辺りまで沈めると今までの暑さが嘘のようだ。

 自然と声が漏れる。

 防水呪文を施した新聞を浮かべ、互いのグラスにコーラを注ぐ。

 シュワシュワと炭酸の弾ける軽やかな音色がいかにも夏であり、涼しげである。

 黒っぽいのに不思議と暑さを軽くする、文字通りの清涼飲料水だ。

 乾杯なんてまだるっこしい儀式は飛ばして一口飲む。

 なんとも言い難い薬味と甘さ、強い炭酸の刺激が舌の上で暴れる。

 この強炭酸も学校に行けば味わえなくなる。

 もう一本買っておけば良かったと、スミレは少し後悔した。

「やっぱたまに飲むとおいしい」

「こういうの学校にないもんねー」

 絶対にひっくり返らない魔法のお盆の上へ瓶とグラスを置く。

 アザミは身体をだらりと伸ばして天井を見上げた。

「すずしー……夏の間ずーっとこーしてたい」

「アザミ姉ちゃんクラゲになるの?」

「こんなに気持ちいいならクラゲでもなんでもいいや」

「私はタコがいいなぁ、アシたくさんあって楽しそー」

「やめやめやめ。脚広げないでよもう」

「姉ちゃんも広げろー」

「あー! やっぱ水着着とけばよかったー!」

 スミレの真っ白で筋肉の少ない細い脚で、アザミの引き締まった脚線美に立ち向かえるはすがなかった。

 バシャバシャと波打つ水が音を立てる。

 しっかり組んで隠している従姉とだらりと伸ばしている従妹。

 怒ったら笑ったりして見せろ見せないと言い合い、器用に脚を絡ませたり弾いたりする。

 シミひとつないスミレの白く柔らかい肌が小麦色に日焼けした肉つきのいいアザミの脚に吸い付く。

 モチモチと赤ん坊のように瑞々しいのが羨ましくてならない。

 遠泳に着衣水泳その他諸々でアザミの身体には筋肉がついてしまっていた。

 この夏一番の真剣勝負は二分と待たずに決着した。

 一瞬の隙を突いて目当てのものを確かめたスミレは「おおー」と感嘆の声を漏らした。

「おっとなー。お姉ちゃんカッコいー」

「学校でも散々いじられたのに……!」

「い、いじられ? 姉ちゃんそんな大人に……」

「違うわ! ネタにされたって意味! 彼氏なんかいるわけないでしょ!」

「なーんだ。そっか、ビックリした」

「そういうスミレはなに? そっちはアンタみたいに残さないのが流行りなの?」

「私は前からこうだよ。けど他のみんなは知らない、学校にはシャワーしかないし」

 ホグワーツに風呂があることをスミレは知らなかった。

 監督生とクィディッチのキャプテンだけが使える浴場があるものの、他はみんなシャワー室だけだ。

 アザミは手入れしている様子のないスミレの肌に少しばかり嫉妬して、フンと鼻を鳴らした。

「背丈は伸びてもチビはチビのまんまね」

「うん、向こうだとまだチビだし、なんだか体重も増えたなぁ……」

 しょんぼりと二の腕や脇腹をつまむが、アザミから見れば普通の肉つきだった。

 背丈は二人でほぼ同じである。

 その上で筋肉が少ないのに、気になるほど体重が増えているということは、即ち──ついにアザミは、身長以外でも敗北を喫したことを意味する。

 思わぬカウンターにダメージを受け、やけくそで瓶から直にコーラを喉へ流し込む。

「彼氏かぁ。卒業までに出来そうにないわ」

 マホウトコロの男子を思い出しても、喧嘩一筋で──魔法が使えないため──忍術主義に明け暮れるバカや面倒くさい薬学オタク、頭の中が鎌倉時代で止まっているクィディッチ狂いしか出てこない。

 スミレも何人か知り合いや友達の顔を思い浮かべて、すぐに消し去った。

「私も同じかな。別に興味もないけど」

「ほんと子供ね、キスくらいしてみたいと思わないの?」

「お姉ちゃんはあるの?」

「思うくらいは、そりゃあ……うん」

「ないんだ」

 小さく頷く。

 比較的に生徒の恋愛は盛んだが、アザミは家が家なので近寄ってくる異性が少なかった。

 近寄ってきたところで大抵は顔と名前が分かればいい方である。

 従姉もまだ経験がないと知ってスミレが満面の笑みを浮かべた。

 だらしなく仰向けで伸びきった姿勢から四つん這いになる。

 重力に引かれた水が胸の先から流れ落ちる。

 冷水はゆらゆらとして安定しない曲線を伝い、小ぶりなとんがりを中心に、短い時間だけ細い滝が現れた。

「じゃあ私としよう」

「なんでよ」

「いつも私だけお古だったから、たまにはおニューが欲しい」

「バカ。アタシはアンタのおニューとかいらないの。てか従姉妹同士でしょーが」

「あ、ホントだ」

 また四つん這いから仰向けに戻る。

 一番歳下で、一番甘やかされて、けれど一番大変な思いをしている妹が珍しくはっきりと甘えてきた。

 振り回されてばかりとはいえ『なにかちょうだい』という形で甘えられた記憶は、小さい頃だけでもほとんどない。

「日帰りで海でも行く? アタシのおニューでまだ使ってない水着ならあげるから」

「だから私泳げないんだってば」

「あ……そうだった、ごめんごめん。なら服でもなんでも、欲しいの一つ買ってあげるから」

 あんまり高いのは無理だけどね。

 ちゃんと付け加えた途端、風呂場の引き戸が開いた。

 ガラガラと音を立てた戸の向こうに立っていたのは、

「あ、お母さん。どうしたの?」

「暑いから涼もうとしてるんだよ。入っていい?」

「うん。いいよー」

 (アオイ)椿(ツバキ)……スミレの母親であり、アザミの伯母──父の姉だ──であった。

 黒目の大きい無感情な瞳に、薄く長い唇。

 スミレの色白とほっそりした体つきは彼女からの遺伝だった。

 ざんぎりの黒髪を腰まで伸ばせば娘そっくりになるだろう。

 洗面桶で頭から冷水をかぶり、すぐに浴槽へ。

 ビール缶を開けて中身を直に呷る。

 アザミは空の瓶をお盆に戻して、大事なことを思い出した。

「あの、ツバキおばさん。今日の夕飯はおばさんが作るんですよね……」

「あ、あぁ、そうそう。二人ともなに食べたい?」

「なにって……」

 答えに窮する。

 大家族だから普段ならツバキの番は来ない。

 しかし今、水風呂で涼んでいる三人の他はみんな出払っている。

 仕事や部活、友達づきあい、留学中などなど。

 必然、食事の用意は保護者としてツバキ受け持つ。

 しかし彼女は炊事洗濯掃除のいずれも不得手であった。

「お母さん卵焼きとウインナー炒めしか出来ないでしょ」

「ソーメンも作れる。レパートリー増やしてるんだぞ」

「お昼に食べましたよ。もう飽きてますしソーメン」

 二本目のビール缶を開けながらツバキも肩を落とした。

 ショウブよりずっと若々しい、なんならスミレと並んでも年の差を感じさせない顔でため息をつく。

「この暑いのにコンロ使う料理はなぁ……」

 そうなると夕飯は冷や奴と冷やご飯だけになる。

 この時期に卵かけご飯は少し遠慮したい。

 下手すると娘と同じくらいマイペースな性格の母親だ。

 そもそも昼間からビールを飲み、タバコの匂いを漂わせている。

「出前でも取ろうか。寿司でいい? ピザとか中華もあるけど、熱いのやだし」

「うん。和食がいい、絶対和食」

「アタシはなんでもいいです」

 そうして今日の夕飯は出前の寿司に決まった。

 学校にいる間ずっと洋食のスミレにしてみれば最高だ。

 もうピザもハンバーグもオムレツも口にしたくない。

 イギリス料理と同じ分類されたらイタリア人、ドイツ人、フランス人は怒りそうだが、スミレにしてみればゴテゴテと脂と肉と乳製品を盛り付けて焼くだけの料理だ。

 今は新鮮な魚とふっくらしたコメ、それ以外には必要ない。

 アザミはあまりにも気まずくて、話題を探した。

 高校生でも十分通用する伯母と、まさかこの歳でいっしょに風呂に入るなど想定していなかった。

 二本目を半分開けたツバキは娘と姪を見比べてまた缶に口をつける。

 腕で隠しそうになるが、そうしたら間違いなく弄ってくる。

 この童顔主婦はそういう性格だ。

「スミレ、もしかして向こうじゃ剃るのが流行ってたりする?」

 またその話か──!

「なにもしてないよ」

「じゃあ小学校の頃からそのまま? ふうん……」

「変かな?」

「そういうこともある。気にすることない」

 アザミも特に手入れしたことはない。

 弄った回数は数え切れないけれど、それはここで言わない方が良さそうだ。

 スミレにはまず通じるかも怪しかった。

「中学になったら風呂で親は邪魔かなぁって思ってたけど」

「そんなことないよ。私、お母さんとお風呂入るの好きだよ?」

「私も好き……まぁ、スミレもそのうち分かるさ。なぁアザミ?」

「え、あぁ……はい」

 答えにくいことを普通に振ってくるから苦手だ。

 中性的な顔立ちに薄笑いを浮かべている。

 何歳か知らないが、三〇歳よりは上だろうに、大学生と言われても信じ難いほど若々しい。

 こういう気ままな性格が若さの秘訣なのかもしれない。

 母娘でそっくりではないか。

「そういえばスミレ、去年に言ったでしょ。アタシもホグワーツに行くって」

「行ってたね。でも大丈夫? 廊下でイタズラされるよ?」

「それはこっちも同じ。その留学の話ね、延期になったわ」

「延期? 謹慎でも食らったの? 魔法で刀でも出しちゃった?」

「ショウブがポン刀振り回してから禁止されてなかった?」

 若かりし日の父の凶行に頭を抱えてしまった。

 確かに、所帯を持っても短気は治っていない。今でも兄弟喧嘩する仲だ。

 人は落ち着いたと言うが、元が酷すぎる。

「アタシのせいじゃない。ホラ、この記事見て」

 新聞を広げて、中程にある国際欄を指差す。

 下の右端に小さく枠を取って、ある事件が報じられている。

 スミレが「殺人犯の脱獄?」と呟く。

 記事は『シリウス・ブラック』という名前の大量殺人犯が脱獄し、現在警察が行方を追っている、という内容だった。

 母親の肩にアゴをのせたスミレは頭上に疑問符を浮かべている。

 娘の頬をフニフニと手で遊びながらツバキは「ふうん」と漏らした。

 記事にはシリウス・ブラックが爆弾で合計十三名を同時に殺したことが注記されていた。

 アザミはマホウトコロから届いた通知を思い出し、知っている範囲で二人に説明する。

「コイツ、ブラックって闇の魔法使いなんです。ヴォルデモートって頭のおかしいヤツの子分で、親分が消えてからあちこち逃げ回ってるうちに追い詰められてドカンと」

「そのボルデモトはちょっと前テレビに出てた白衣の汚いオッサンと同じタイプか」

「そんなカンジです。残党の中でも特に危ないヤツが逃げちゃったから、捕まるまではとりあえず向こうに行くのは延期になっちゃいました」

 ツバキと手を繋ぎながらスミレはすうっと目を細めた。

「じゃあ私もうちにいよっと」

「そうしな。どうせピリピリしてて居心地悪そうだし」

「いや。まずホグワーツって城だから。警備は万全じゃない」

「去年は十四、五人ほど怪物に襲われて石になってるけどね」

「怪物? もしかして城の中になにかいたの?」

 首肯。

 今度はアザミが頭の上に疑問符を浮かべる番だった。

 世界最高峰の魔法教育機関にそんな生き物がいるはずがないのだ。

 詳しく事情を聞きたかったが、ツバキが立ち上がって話の腰を折った。

 ザバアと水しぶきをあげ、真横にいたスミレは頭から被る形になる。

「先に上がってスイカ切ってくる」

 自分が食べたくなったのだろう。

 それに外の熱気も凄まじい。湯船の水もぬるくなっていた。

 三人が一緒に入っていればすぐに温まってしまうらしい。

 今度は氷を準備しないと。

 アザミが反省を胸に刻む中、タオル一つ身につけないままツバキは入り口の前で振り返った。

 開けっぴろげすぎるのは誰譲りなのかまったく分からない。

 父は短気だがそれなりに気を使うとこもあるというのに。

「学校行くまで時間あるだろ。スミレに色々教えてやってくれよ、十五にもなってなんにも知らないのはちょっとマズいわ」

「アタシが!? おばさんが教えればいいじゃないですか!!」

「んなもん親から教わるやついないっつーの」

 後ろ手にピシャリと戸を閉めて言ってしまった。

 確かにツバキの言い分は正しい。

 正しいけれど。

 会話の意味を把握出来ず、不思議そうな目で真っ直ぐ見つめられては言いづらい。

 瞳の純真さが自分はもうあの輝きを失ったと嫌でも理解させられる。

 またもやアザミは頭を抱えて唸った。

 似たような性格で似たような背格好のくせに。

 肉付きに反して子どもっぽい部分もあるところとか。

 同性で親戚だからとことん無防備な伯母と従妹に葵薊、満十五歳の心はかき乱される。

 

 冗談を真に受けて困り果てている姪のことなど露知らず。

 袖なしのシャツに短パンを穿いたツバキは台所へ向かう。

 ちなみに冷蔵庫の中にスイカはない。

 昨晩、夕食の後で食べたことを忘れていた。

 

 ビール缶二本で酔っ払っているのだった。




 健全。
 ただの入浴シーンですもんね。

 スミレのマイペースは母親譲りです。
 ツバキの本格的な出番は次章『炎のゴブレット』にて。
 ハリーがダーズリー家で最悪の夏休みを過ごしている頃、スミレは従姉や母親と水風呂で涼みながら駄弁ってぐーたら。

 そうして始まる『アズカバンの囚人』編の前夜でした。


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Apéritif(アペリティフ)

 


 スミレの真っ白な肌色に不快な感情が充満していく。

 表情は微動だにしないながら刺々しい気配はより鋭くなる。

 アーネスト・“アーニー”・マクミランは想像を絶する重圧に晒された。

 激昂されたり、あるいはいっそ無視されてしまった方がずっと気楽に違いなかった。

 その静けさは限りなく張りつめていて、けれど冷たい。先祖達が眠る地下埋葬所(カタコンベ)で感じたあの空気と同じだ。どこか“死”を連想させるような厭な沈黙を破ったのはスミレの方だった。

 

「……どちら様ですか?」

 

 拒絶とも困惑ともとれる声だった。

 アーニーはいまにも叫びそうになりながらも踏みとどまった。

 そもそも。彼女の不興を買うような真似をしたのは誰でもない自分自身である。

 

「ハッフルパフの、キミと同じ三年生で……」

 

「それじゃあコレが初対面ですね」

 

 とことん容赦ない口撃に思えてならなかった。

 スリザリンとハッフルパフで交流に乏しいのは分かるが、合同授業なりで顔を合わせたことは数えきれないはずなのだ。二年間を同じ学校で過ごしていながらごく自然にそんなことを言ってしまえるということは、つまり、スミレの中でアーニーの存在は認識されていなかったことになる。

 追い打ちをかけるように「スリザリン寮所属の三年生、アオイ・スミレです。はじめましてアーネスト(、、、、、)さん」と丁寧な自己紹介をされたところでアーニーの精神は限界に達しつつあった。

 

「それで、ご用件はなんでしょうマクミランさん?」

 

 心の底からこちらに関心がないと理解させられる問いだった。

 声をかけたときに「去年のことを謝らせてほしい」と前置きしている。たった数分のやり取りできれいさっぱり忘れ去ってしまっているなんて、よっぽど相手に対して無関心でなければできっこないことだろう。もしかすると周囲への関心を捨て去ることが『秘密の部屋』を巡る騒動に巻き込まれたスミレなりの、追い詰められた末の自衛手段だったのかもしれない。

 そう思えばアーニーはいっそう罪悪感に苛まれるのだった。

 

「アオイさん、ボクはキミを『スリザリンの継承者』だと誤解して、その、とても酷いことを……」

 

「ああ、そのことですか」

 

 小さくため息をついてスミレは続けた。少し驚いたように見えるのは気のせいだろうか。

 

「あのあと誰も謝りに来なかったので、すっかり忘れていました」

 

 いまも根に持っているし、恨み骨髄であった。

 そんなことはないと装って「忘れた」なんて言ってみても、謝罪がなかったことはしっかり覚えているのだから、今の今までアーニーへも怒りの矛先が向けられていたのだ。とぼけた風に「そんなこともありましたね」と口元だけで笑って、真っ黒な視線はじっとアーニーを捉えて離さない。

 

「今さらどうでもいいことです。お互い水に流し(、、、、)ましょう(、、、、)

 

 水に流そう――スミレはそう言ってゆるやかに微笑んだ。

 ホグワーツでほとんど見たことがない笑顔はどこまでも優しげで、幼い顔立ちながら品のある目鼻立ちからも育ちの良さがうかがえる。いままでそんな風に意識したことがなかったアーニーは、暗い印象を抱いていたスミレが実はかなり可愛らしい女の子なのだと気づいて、心臓が跳ね上がるあまり口から飛び出しそうに思えた。

 ひどく図々しいうえに恥ずかしいからけっして悟られるまいと平静を装う。

 一方、スミレはそれで用が済んだと判断したのかまた本棚と向き合っている。

 フローリッシュ&ブロッツ書店の照明もほとんど届かないような薄暗がりで、埃をかぶった古くさい本を手にとってはまたもとの位置に戻していく。

 スミレが最後に目次をあらためた一冊を見てみる。タイトルには『近代魔法史』とある。

 魔法史の課題レポートは中世における魔女狩りについてだったから、わざわざ読む必要があるとは思えなかった。奇妙に思いながらもアーニーは親切心から自分が参考にした文献がないかと背表紙の列を眺めてみたものの、どうにもこの本棚はここ数十年の魔法史について厚かった書籍しか置いていないらしかった。

 けれど話しかけるきっかけ欲しさからなんとか口実を見繕うのだった。

 

「アオイさんは魔法史に興味があるのかな。ずいぶん熱心に何か探しているらしいけれど、微力ながらボクにも手伝わせてくれるとうれしい」

 

 拒絶されやしないかと内心で怯えながら、もう一度あの微笑を期待している。

 話しかけられたスミレの方はいつもの血の気も凍りついたような無表情で「『生粋の貴族―魔法界家系図』です」と答えた。

 望んでいた反応でなく残念に思うよりも驚きが勝ってアーニーは下心が吹き飛んだ。

 

「それは見つかりっこない!」

 

「それは絶版になった、ということでしょうか」

 

 否否、そうではないんだ――とアーニーはゆっくりと首を左右に振る。

 こういういちいち芝居がかった仕草から「鼻持ちならないヤツ」と少なからず煙たがられているし、スミレの視線にも苛立ちが滲んでくるのだが、自覚出来ていればそんなことにはならないのである。

 探し求めている書籍が如何なる素性であるのか。無自覚な気障ったらしさでアーニーが朗々と語り尽くすのをスミレはひたすらに待ち続け、長い講釈が終わるやいなやため息をつくのも惜しいと言わんばかりに「そうですか」と素っ気ない感想を述べた。それを置き土産に目にも止まらぬ速さでその場を去って行く。

 拍手までは求めないが賛辞の一つくらいあると踏んでいたアーニーは見事に置いてけぼりを喰らうかたちになった。

 

 

 ウィーズリー夫妻の口論を聞いてしまったハリーは今晩眠れる自信がなかった。

 いざ二階の客室へ戻ってベッドに寝転がっても、シリウス・ブラックのことが頭の中をぐるぐると彷徨って睡魔をどこかへ追いやってしまっていた。ホグズミードへ行ける見込みはまったくなくなってしまったし、あのウィーズリー氏があそこまで悪し様に言う“アズカバンの看守たち”とはいったいどんな連中なのだろう?

 考えれば考えるほど目が覚めてしまう。

 とにかく寝なければ。新学期は明日なんだ。

 荷物だって山のようにある。たとえ首尾よくホグワーツ特急に乗り込めたって、こんどは席を探さないといけないんだぞハリー。

 そう自分に言い聞かせても意識は覚醒したままだった。

 いっそこのまま朝まで起き続けてしまおうかな。

 眠るなら列車の中でも出来るんだから、と思い始めたそのとき。

 誰かがハリーの泊まっている客室をノックした。枕元に置いていたメガネをかけて扉の方へ目を向ける。

 

「誰?」

 

「僕だよハリー!」「私よハリー!」

 

 圧し殺した声で尋ねるとロンとハーマイオニーが同時に答えた。

 ホッとしたのが正直な気持ちだ。ハリーは鍵を開けて二人を迎え入れた。

 どうせ眠れないなら話し相手がいてくれた方がいい。それも親友の二人なら最高だ。

 ロンはすこし眠たげな目をしている。パジャマの胸ポケットが膨らんでいるのは、ついさっきハリーが食堂で見つけてあげたネズミドリンクの小瓶だった。ハーマイオニーの方は羊皮紙も教科書も持って来ていないけれど、思い悩んだように所在なさげにしている。

 

「えーっと……ハリー、ロンのご両親の話してたことなんだけど……」

 

「盗み聞きしようと思っちゃいなかったんだ。だけど、二人して声が大きいもんだから……」

 

 確かに『漏れ鍋』はずいぶん古い建物である。どこかで誰かが口論を始めればすぐにも二階に響いてしまう。それが一階の食堂でみんなが寝静まった時間におっ始めようものなら言わずもがなである。ロンは呆れた表情で肩をすくめて見せた。実際はそれほど大きな声ではなかったけれど、ハーマイオニーもたまたま目が覚めたときにでもうっかり聞いてしまったのだろう。

 

「スミレの祖父さんが『例のあの人』の支援者だったなんて信じられないね」

 

「それもだけど、正直タイミングがよすぎない? 『例のあの人』の信奉者で殺人鬼のシリウス・ブラックがアズカバンから脱獄したのと、『例のあの人』の支援者の孫娘がイギリスにやって来るのと……ああハリー、あなた今年こそは気をつけなきゃ」

 

「何に気をつけろって? またぞろ『骨生え薬(スケレ・グロ)』のお世話にならないように?」

 

 茶化すようなロンの口ぶりにハーマイオニーはイライラとした目で睨み返した。

 同じコトを言おうとしていたハリーは「気づかなかったよ!」という表情を作った。

 

「自分から飛び込んでいったりなんかしないさ……」

 

 怒りの矛先が自分の方へ向いたのに気づいてしおらしい態度をとった。

 

「いつもトラブルの方が飛び込んでくるんだ」

 

「相手はハリーの命を狙う狂人だぜ。自分からのこのこ会いに行くバカがいるかい?」

 

 そう笑い飛ばそうとするロンも表情は強張っている。

 ハリーが想像していたより二人は重く受け止めていた。二年連続でハリーが騒動の中心にいただけにシリウス・ブラックの脱獄をひどく恐れているようだった。

 古びたウッドチェアに座り直してロンは「それより」と言った。

 

「最悪なのは問題の“孫娘”が二人になることだよな。一人だけでも手に負えないっていうのに、なんだってもう一人寄こしてくるんだろう」

 

「少しでもスミレを落ち着かせようって考えなのかもしれないわ。あの子って、ウーン…………そう、繊細なのよ。すっごく繊細(、、、、、)だから、家族がそばにいれば少しは気持ちが楽になるかもしれないじゃない?」

 

「だからって『例のあの人』に協力してたようなヤツの身内を送り込んでくるなんて、無神経じゃないか。魔法省は誰も反対しなかったのかな」

 

「ルシウス・マルフォイが根回しなり恐喝して押し通したのかも」

 

 意外な人から意外な意見が飛び出した。

 ハーマイオニーの推測にロンだけでなくハリーも驚いて身を乗り出した。

 憶測や推論に否定的な彼女がそんな発言をするなんて予想だにしなかった。

 驚愕の反応に気づいたハーマイオニーは少し不機嫌そうに片方の眉を吊り上げた。

 

「なんの根拠もなく言ったんじゃないわ。スミレの叔父さんにショウブって人がいるの。魔法薬の研究家として最近注目されてるんだけど、彼のスポンサーがマルフォイ家なの」

 

「ウヘェ。キミの前じゃプライバシーなんてあったもんじゃないなぁ」

 

「なに言ってるのロン。日刊予言者新聞の独占インタビュー記事に書いてあったのよ」

 

 残念ながらハリーもそんなところまで読んだことがなかった。

 クィディッチのゲーム結果と新しい箒の広告に目を通すくらいである。

 

「つまり、マルフォイやブラックが仕えていた『例のあの人』にスミレの祖父さんがカネを渡してて、その祖父さんの息子に今度はマルフォイがカネを出してて、ついには祖父さんの息子の娘までホグワーツに来るってタイミングでブラックが脱獄? なんだい不気味な連中ばっかり関わってるじゃないか」

 

 改めてロンに言われるとハリーはさらに気持ちが深いところへ沈んでいくように思えた。

 ここまで来るともはや不気味なんてもんじゃない。マルフォイとアオイとブラックの三人が示し合わせて自分を狙っているかもしれないのだ。証拠のあるなしなんてこの際まったく関係なくなってしまった。

 何もかもが完ぺきなタイミングなのだ。

 いっそ完ぺきすぎるくらいで、むしろ偶然を疑いたくなる。

 どんどん不安が押し寄せてくるハリーをハーマイオニーは励ますように言った。

 ウィーズリー夫人も言っていたし、もしも両親が生きていれば同じコトを言っただろう。

 

 

「けれどホグワーツにはダンブルドアがいるわ。あの人がいる限り、ホグワーツはイギリスで一番安全な場所よ。そうでしょう?」

 

 けれどロンが抱いている不安はおそらく魔法界のみんなが共有しているはずだ。

 ウィーズリー氏だけじゃない。なんなら『漏れ鍋』の亭主であるトムだって薄々ながらでも感じているはずだ。

 そのくらい状況はよくない。ファッジ大臣がハリーの身を案じて『漏れ鍋』まで出向いていた理由もそこにある。

 

「ブラックがどうやって脱獄したのか誰も分かっちゃいない。これまで脱獄した者だっていない。しかもアイツは囚人の中で一番厳しい監視を受けていたんだ……」

 

 ロンはひどく落ち着かない様子で言った。まるで視察にでも行って来たような口ぶりだ。

 悲観論を退けるようにハーマイオニーの口調は力強かった。

 

「だけど、すぐ捕まるわ……マグルまで動員して大人数でブラックを捜索しているのよ」

 

「相手はアズカバンの看守の目をかいくぐったようなヤツだ。こう言っちゃあなんだけど、マグルを何人連れてきたって見つかりっこないよ……魔法省が総動員しても三週間かかって手がかりなしなんだから」

 

 ハリーは頷くこともできず、ただ黙って握りこぶしを見つめるだけだった。

 改めて自分の置かれている状況を再認識させられる。最悪中の最悪もいいところだ。世間にしてみればブラックは指名手配犯だが、ブラックの方にしてみればハリーこそ賞金首である。なにせ『闇の帝王』ヴォルデモート卿の失墜を招いた張本人である。闇の魔法使いたちにとってハリー・ポッターこそご主人様の仇なのだ。

 

「ハリー、キミ本当に今年は気をつけないといけないよ。ホグズミードに行くのだってマクゴナガルはいい顔しないぜきっと……」

 

 その心配だけはまったく必要ないのが殊更に悲しい。保護者(ダーズリ-)はサインをしてもらうどころじゃなくなってしまったし、ファッジ大臣やウィーズリー氏もダメだった。たとえこんな状況でなくたって、あの厳格なグリフィンドールの寮監がハリーにだけ例外を認めてくれるハズがない……。

 



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黒い悪魔がやってきて ハード・コアな気持ちにさせる

 新学期がはじまる九月一日。脱獄犯(シリウス・ブラック)の行方は杳として知れないでいる。

 魔法省はいよいよ手詰まりに陥っていた。大臣の言う“総力を挙げての捜査体制”はまさにその極地だろう。闇祓い(オーラー)を筆頭とした専門家たちだけでなく、まったくの門外漢まで動員したところでいったいどのような成果をあげられるというのか。日刊予言者新聞のバッシング記事でさえいつになく正論を述べているのだから、魔法省の迷走はもはや止めようがない。コーネリウス・ファッジに魔法省大臣の地位を退くよう迫る声もじわりじわりとその勢いを日に増しつつある。

 ヴォルデモート卿がもたらした恐怖の記憶はいまだ色濃い。

 十二年前に闇の帝王は失墜した。帝王の“軍隊”もまた崩壊した。

 種族の垣根を越えて結集した闇の住民たちはついに日の当たる場所へ辿り着くことなく、かつてのように日陰へ追いやられた。

 にも関わらず、帝王こそ我が主君と仰いだ貴族たちは?

 新たな“闇の王国”での地位を望んだ純血一族たちはどうか? 

 アズカバンへの収監を逃れたばかりかその権勢はまったく衰え知らず。マルフォイ家などはむしろ魔法省への影響力を強めさえした。闇の帝王に抗った勇気ある人々ばかりが血を流し、未来を絶たれた。そしてマグルキラーである死喰い人(デス・イーター)たちを裁くはずの法廷はほとんどその役目を果たすことがなく、新たに大臣の地位を得たのはルシウス・マルフォイの傀儡に等しいコーネリウス・ファッジなのだからとにかく始末が悪い。せめてもの救いはファッジ大臣が純血主義者のみならずダンブルドアの助言も受け入れていることぐらいである。

 その事実がスミレとアザミの苦しい立場をよくしてくれる道理は皆無である。

 二人の祖父は間接的とはいえ少なくないホグワーツ生徒にとって親族の仇なのである。

 どれも“今さら”の事ではない。因縁ははじめから存在していた。ただこれまでは認識されてこなかった――あるいは認識しつつも意図的に無視してきた――だけで、シリウス・ブラックが“脱獄”という形できっかけをもたらしたのだ。だから、今さらどころか“ようやく”始まったのである。長く堰き止められてきた恨みはついに流れを得た。その勢いはこれまでに築かれてきたささやかな交流をたちまち呑み込んでいく。

 ついにスミレもスリザリン生らしい環境に置かれることとなった。

 これまでの寮をこえた交流がほとんど絶たれたのである。

 グリフィンドールやハッフルパフの生徒は示し合わせたようにスミレを避けるようになった。中でもグリフィンドール生――ハリー・ポッターと親しい者たちは敵愾心を剥き出しにする。あるいは敵意こそ示さないが、あからさまに距離を取るなどの形で拒絶する生徒が多数派となった。少なくともドラコ・マルフォイとの関係がさらに心証を悪くさせた要因の一つだろう。

 そうした因縁と怨恨に対してスミレはまったく無頓着だった。

 あらためて純血主義の不支持を宣言するでもなく。反純血主義からの迫害を訴えてドラコに助けを求めるでもなく。寮内の結束が強いスリザリンにあってその輪に加わるでもなく。一貫して旗色は不鮮明なまま。ただフワフワと気まぐれに振る舞っている。事情に疎いアザミでさえ異様な空気を察しているにもかかわらず、である。

 ホグワーツ特急のコンパートメントにアザミと二人きり。

 せまい通路をはさんで反対側にドラコたちが陣取っている。

 パンジー・パーキンソンとミリセント・ブルストロードがその左右をかためる。セオドール・ノットは細長い身体をビンセント・クラッブとグレゴリー・ゴイルの間で窮屈そうにさせている。

 そんな友人たちの様子にも我関せず。スミレはダイアゴン横丁で買い込んだ書籍を読み耽る。アザミはというと都立小笠原高等学校南硫黄島分校中等部三年七組――通称“マホウトコロ”のクラスメイトたちから届いた手紙をひとつ残らず破り捨てていた。

 紙屑の山を丸めて窓の外のダストボックスへ放り投げる。

 見事に可燃ゴミのポストへ入るとアザミは満足げに脚を組み直した。

 気まぐれに顔をあげたスミレが「読まなくていいの?」と尋ねる。

 余計な手荷物を処分し終えたアザミはフンと鼻を鳴らし、

「どうせ捨てるならいつ捨てたって同じでしょ」

 と言い放った。スミレはただ「ふうん」とだけ返してそれきり深掘りしようとしなかった。アザミもそれ以上はなにも話さなかった。相手の交友関係にまったく興味がないことはお互いよく承知している。

 発車時刻までしばらく時間がある。

 アザミは通路を行き交う生徒を観察している。

 窓ガラスの向こうを多様な人々が次々に過ぎ去っていく。

 猫を抱えた少女と言い争う、長身と赤毛が印象的な男子。そのうしろをやぼったい丸眼鏡に無造作な黒髪の少年が追う。エキゾチックな東洋系の美女がいかにも凡庸そうな巻き髪の女学生と笑い合う。燃えるようなルビーレッドのスーツを着た女性は奇怪な眼鏡をかけたプラチナブランドの女の子に手を引かれている。

 水族館のような趣を感じないでもない。これはこれで面白い。

 ホグワーツ特急は――各寮の主席と監督生たちは例外として――すべて自由席である。おかげで例年きまって尋常でなく混雑する。座れないということはまずないものの、不幸にも相性の悪い者同士が近しいシートにおさまることもままある。ドラコのように親しい者でかたまっていればそんな不運もある程度は回避出来る一方。アオイ姉妹はといえば熾烈な座席争奪戦に敗れた生徒がいつ駆け込んでくるか、時間の問題であった。

 

 ――――――発車時刻が目前に迫っても勇者は現れなかった。

 

 ついにホグワーツ特急がキングス・クロス駅を発つ。鮮やかな真紅の蒸気機関車がもうもうと白煙を吐きながら走り出す。家族や親しい人々に見送られながら、列車は一路ホグワーツを目指す。

 生徒たちもそれぞれの客室でおしゃべりに花を咲かせている。

 スミレとアザミは刺々しいほど会話をせず自分の時間を過ごす。従姉妹仲はむしろ良好で、ただ二人ともが気ままな性格をしているだけである。スミレは純血一族の家系に詳しい歴史書を読み漁る。アザミは闇の魔法生物の生態を記した専門書と戦っている。

 二人の意識が書籍から離れたのは車内販売の声だった。

 ゆるゆると顔をあげてスミレが先に尋ねた。答えは分かりきっていたが黙っているのも無愛想な気がしたのだ。

「姉ちゃんは何か食べる?」

「いらない。ノド渇きそうだし」

「そう。私もいらないや」

 対するアザミも適当な理由をでっち上げておいた。一つ二つくらい買ってもよいのだが、スミレはああいう色鮮やかな駄菓子を好まないから見送ることにした。いくら親の目が届かない異国の地であっても、白昼堂々と買い食いをするなどというのは、なんとなく後ろ髪を引かれたのも理由の一つである。

「山吹さんは喜ぶんじゃない?」

「ガムとかグミ大好きだもんね」

「椿さんはどうだろ。チョコにビールって」

「前にスイカで日本酒飲んでたけど」

「分かんないわあの人。ホント綺麗なのにさ」

「私に似て?」

「似たのはスミレの方でしょ」

 たしかにツバキは三十路に入っても二十代前半、身なりを整えれば十代後半でも通用するほど若々しく美しい。スミレも母の美貌をしっかり受け継いでいるから――性格はさておき――容姿だけなら人並み以上の素質を備えている。アザミはこの母娘がひどく羨ましかった。彼女は万人が認める父親似で、険しい眼光や薄い唇など可愛らしさとは真逆の顔立ちをしている。それでも端正な部類なのは祖母にあたるヤマブキからして抜きん出た美形であるからだろう。

 それでもアザミはモテたためしがない。スミレも同様である。

 やはり性格に問題があるらしい。自覚の有無だけが違っている。

 己の人間性に難点があると認識したところでアザミも修正するつもりは一切ないのだが。

「スミレさ、学校に友達いないの?」

「いなかったらわざわざ来ないよ」

 何を今更と呆れた表情で返された。

 納得はいかないがだいたい察しはついた。

「あのマルフォイってのは違うんだ」

「うん。友達の友達ってだけ」

「アイツ面倒くさそう」

「やっぱり分かる?」

 二人とも人間の好き嫌いが激しい。そして苦手な人種も近い。

 ドラコ・マルフォイのような特権意識と自己顕示欲が強い手合いはつい“面倒くさい”と感じてしまう。そうなると派閥の中にいるのも億劫なので今のように距離をとりたくなるのだった。

「なんかさ、ホグワーツってこう、大変そう」

「姉ちゃんいつもそんなこと気にしないじゃん」

「こっちが無視してもあっちから視界に入ってくるし」

「そうなんだけど。だからって蚊じゃないんだから……」

 ため息にため息が重なる。伝え聞くホグワーツ魔法魔術学校の事情だけでも胃もたれを覚えるアザミである。ことにドラコはスリザリン寮における中心人物に位置付けられ、同学年や後輩への影響力も無視できないとあってはなにやら不安な気持ちが募らないでもない。自分がスリザリン寮に入ろうと入るまいと、彼との関係を断ち切ることは不可能に思われた。

 人間関係に無頓着なスミレがつくづく羨ましい。

 こういうとき自由気ままな性格は何かと都合がよい。

 しがらみに耐えかね孤高の一匹狼を気取ってみたところで、我が身一つでできることなど高が知れている。得手不得手や人種といったきわめて微細な相違点こそあれ、おおよその性能はそれほど隔たってはいないのである。だったらあらゆるしがらみをはじめから“ないもの”として振る舞った方がずっと手っ取り早い。

 ただ己の都合だけをもって他者を利用する。

 相手が友達であるかは別にして。それが出来れば苦労はない。

 けれどもアザミのたった一人の従()は苦もなくこなしてみせるのだ。

 顔つきだけでなく不器用さも父から受け継いでしまっているらしい。

 だからやはり、いい加減に友人の作り方を学ぶべきなのである。

 そういう意味でもホグワーツ留学は絶好の機会であるのだが、如何せんに言葉だけでなく慣習から価値観からすべてが壁として立ちはだかるので、これからの数年間を思うと重々しいため息を禁じ得ないのだった。

 物憂い明日を忘れようと缶コーヒーのプルタブを開ける。キングズ・クロス駅構内の売店で買い求めた品である。アザミは基本的にコーヒーを愛飲している。味に拘りはないし淹れ方や豆の玉石(ピンキリ)を意識したこともないが、インスタントの類いは手軽な気分転換になるから実家にも学生寮にも必ず常備している。流石に缶コーヒーともなると粉っぽさや味の希薄さを意識することもある。けれど別段気にしたようなこともないため出先ではよく自動販売機や売店を頼るのだった。

 スミレは偏食のうえ舌が肥えているから安物には見向きもしない。

 長旅には決まってペットボトルのミネラルウォーター。しかしながら、軽食に買ったのはアザミと同じタマゴサンドである。刻んだゆで卵をマヨネーズで和えたサラダスタイル。透明なビニルで包装されている。

 昼食を手早く片付けてしまえばまた時間が余る。

 蒸気機関車での列車旅も十五歳には退屈が勝った。

 アザミもスミレもまだまだ成熟しきれていない。

 ホグワーツ特急は東海道新幹線よりもよく揺れる。車窓からの景色に趣きを感じられる感性が備わってもおらず、勝手知ったる身内と二人きりなので自然と話題もセンシティブな内容に偏っていく。おそらく他のホグワーツ生がいればはじめから言及を避けたであろうテーマ……かつて人々を震撼させ、いま再び世間を震撼させる脱獄犯。十三名のマグルに対する大量殺人を犯したシリウス・ブラックと、その()()()()()()()()について。

「じーちゃんがヴォルデモートにカネ貸してたと思う?」

「貸してたっていうか、()()()()してたんじゃないの」

 自分から提供しておいてスミレは従姉のレスポンスに困惑した。

 事の真偽を究明すべきとの考えがあったことは確かだ。

 昨年の“大騒動”で魔法使いたちの浅慮は思い知っている。今回もつまらない風聞を真に受けて猜疑心に囚われているだけに過ぎない。学友たちへの根深い不信感を隠そうともせず、アザミに同意を求めたところ返ってきたのは予想だにしない意見であった。そしてそれは実に信憑性がある。ただ目の前の事象に一喜一憂するだけの自分には思いつきもしないだろう。その思慮深さにはただただ感服するほかになかった。

「やっぱり不老不死なのかなあ……」

「だと思うけど。ウチはもともとそっちが本業なんだし」

「ってことは成功しちゃってるじゃん。アイツまだ死んでないよ」

「失敗とは言えないけどさ。だったら成功なのかって言われると、それはそれでビミョーじゃない?」

「ギリギリ()()()()()()()だもんねー。ん、んん、んー…………………?」

「なにか気になりでもした?」

 いざ尋ねられると答えに窮する。胸のうちでざわめく違和感の正体がうまく言語化できない。

「ねえ、ヴォルデモートってなんで死んだと思われてたの?」

「なんでって……そりゃあ死の呪い(アバダ・ケダブラ)で……?」

「あんなに難しい呪文、赤ん坊(ハリー・ポッター)なんかに使えないよね。だったらハリーのお父さんかお母さんと相討ちってこと?」

「言っちゃ悪いけどそんな程度で倒せるなら帝王なんてとっくに死んでんじゃない?」

「だよね……だけどヴォルデモートはまだ生きている」

 死者の蘇生、あるいは不老不死――古くはバビロニアのギルガメス王や古代エジプトのミイラ文化にはじまり、新訳聖書はイエス・キリストの復活(リザレクション)を伝える。秦の始皇帝は永遠の命を求めた果てに不死の仙丹と信じて水銀を呷った。西行法師の試みた反魂術は不完全に終わっている。アドルフ・ヒットラーもまた聖遺物信仰にのめり込み、オカルト的な聖杯探索に執念を燃やしたという。

 歴史上、死を忌避し永遠の命を追い求めた者は数知れない。

 聖女の死に正気を失い錬金術と悪魔崇拝に耽溺した“青髭”ジル・ド・レェ伯。

 悪名高い“血の伯爵夫人”バートリ・エルジェーベトは美と若さに取り憑かれ、メアリー・シェリーの“フランケンシュタイン”は科学による生命の創造という新天地を描いた。あるいはラヴクラフトの“屍体蘇生者ハーバート・ウェスト”もまた然り。

 その物語が真実であれ虚構であれ迎えた結末はすべて同じ。

 みな失敗に終わり、悲劇的なかたちで幕を下ろしている。

 ヴォルデモートは死を克服したというのか。

 それとも、ただ死ぬこともままならず、哀れな残骸と成り果ててなお現世に縛りつけられているだけなのか……あるいは未知の外法を以て奇跡を成したのやもしれない。

 どのような手段であったにせよ――あるいは如何なる偶然の産物か――闇の帝王は、その御業に触れた廷臣たちでさえ主の死を確信せざるを得ないほどの事態に見舞われたのである。その上で()()()()()()だけはかろうじて免れた。

 だとすれば、ポッター夫妻の知られざる才能に可能性を見出すのはいささかナンセンスである。そんな実力があるのならば、はじめからそうしていればよかった、という問題に突き当たる。であるならば。帝王の死は必然でなく、帝王に従う死喰い人たちの敗北は突然であり、まったく予想だにしない展開であったからこそ、戦後処理は不完全なものとなったのだ。

「ワケ分かんなくなってんだけど。ヴォルデモートを破滅させたのがヴォルデモート本人ってナニそれ。バカみたいな話だと思わないの?」

「だってしょうがないじゃん! ダンブルドアと決闘して負けたとかじゃなくって、ハリーのご両親が相手だったんだから他にあり得ないって!」

「たしかに一応の理屈は通るけど。よく考えてみな、撃った呪文を弾き返されて瀕死なんて、そんな間抜けいると思う? スミレのそれも相当ヤバいから」

 反論はいくらでも可能だが、より理論的な仮説の提示はできなかった。

 闇の帝王に匹敵する魔法使いはアルバス・ダンブルドアのみ。そのダンブルドアが現場にいなかったのなら、闇の帝王を破滅に追いやれるのは闇の帝王その人しかありえない。アザミもその点は同意見である。

 ただ、そもそも死の呪いを弾き返せるのかという問題があり、そんな手段があると仮定すると、闇の帝王は何らかの対策を講じているはずなのだ。だからこそスミレの仮説は破綻している。けれど他になにも思いつかないのもまた事実。

 だから、二人はこの話題を棚上げすることにした。

 もはやこれ以上続けても延々と同じやりとりを繰り返すだけだ。

「図書館で探せばきっとなにか見つかるよ。ダメなら取り寄せればいいんだし」

「探してダメなら先生に聞けばいいか。こっちにはいくらでも時間があるんだ」

 そうだ、そうしよう――“ヴォルデモートの死”への探求はこうして先送りされた。

 いくら声量が大きくなっても母国語であるから盗み聞きされる心配がない。ここはイギリスでありアオイ従姉妹(シスターズ)は異邦人である。周囲への配慮を要求されないために議題はどんどん先鋭化していく。

 車窓に広がる湖水地方の美しい景色はそっちのけである。

 (ニーズル)どころかズーウーさえ殺しかねない好奇心は、さらに加速する。

「まったく……これからの学校生活が楽しみだよ」

「楽しみって。さっきは大変そうって言ってたのに」

「面白可笑しくなるに決まってる。なんせ皆がみーんな、帝王の仇は生き残った男の子だと思ってるんだぜ?」

「まさかブラックがホグワーツに? 今さらなにしに来るんだろ」

「バカ! ハリー・ポッターを殺すんだよ! ご主人様の仇討ちなんて美談じゃんか。世が世なら歌舞伎か浄瑠璃の演目にでもなってるね」

「それもそうか。流石にダンブルドア先生も黙って見過ごすはずないし、城の警備を強化するくらいしそうだけど。あの人、なんでかハリーに甘いし」

「そりゃ甘くもなるって……ああ、けど闇祓いに常駐されるのは邪魔だなあ」

「邪魔だねえ。どうせ何人来たって見つけられっこないくせに……」

 数名の闇祓いを配置した程度で捕らえられるなら事態は夏休み中に解決している。

 けれどそうはならず、魔法省は総動員を行なってなお進展が見られないまま。そして解決の糸口を掴めないまま迎えた新学期である。もしも闇祓いたちがホグワーツまで来たとして、それはもはや形式的かつ政治的なアピール以外の何ものでもない。しかもコーネリウス・オズワルド・ファッジの政治生命はとうに尽きているから、例え少なからず意義があったところでなんらの延命効果も見込めないのである。

 であればただただ滑稽なだけの喜劇である。自分の生活空間で繰り広げられるのがアザミには心底迷惑で、スミレは自分の生活環境に干渉されるのが心底不愉快だった。

 気に食わないことがあると不貞腐れるのが葵菫という人間だ。

 対する葵薊は気に食わないなりに置かれた状況を楽しもうと考える。

 今回とて例外ではない。魔法省が擁する精鋭中の精鋭でさえ捕まえられない脱獄犯を、名前も知らない赤の他人からさえも忌み嫌われている自分が捕まえるようなことになれば、いったいどれほど面白いだろうか? こんなにエキサイティングでスリリングなゲーム、不参加の選択肢は存在しない。

「スミレ、私たちでブラックを捕まえよう。そんでもってダンブルドア校長の前に引きずり出してやるんだ」

「ただ捕まえるだけじゃつまんないから()()()()()()()()捕まえようよ。殺人狂が城に入り込んだって分かったら、みんなどんな顔するかなあ?」

「それ最高。だったらまず脱獄に使ったトリックを突き止めないと。ま、こっちには都合のいいエサがあって、便利な道具だって揃ってる。チュートリアルにはちょうどいいや」

「隠し事をするのに便利な場所なら知ってるよ。ああ…………はじめてホグワーツに行くのが楽しみになってきた」

「そうそう。どうせ学校生活はなくならないんだし、それなら思いっきり楽しまなきゃでしょ。どいつもこいつも最高の一年にしてやろうじゃない」

「秘密の部屋やスリザリンの継承者より怖がってくれるといいね。何がなんだか分からないモノじゃなくって、今度は正真正銘の大量殺人犯だもん……」

 憂いを帯びた白い顔に見たこともないような満面の笑みが浮かぶ。

 本当ならスミレは表情豊かであり、笑顔の絶えない陽気な性格のだ。

 これほど感情の変化に乏しいというのはよほど耐え難い環境なのだろう。

 けして我慢強い部類ではないにせよ。これほど不満げにしているのも珍しい。

 だから――というわけでもないが、アザミは()()と別に()()を用意することにした。

 スミレ自身が「友達ではない」と切り捨てたあの少年(ドラコ)であれば構うまい。

 

 ――男なら、武勇伝の一つくらいはないと示しがつかないしな

 

 鼻高々に親の七光りを伝道する真っ最中のドラコと視線が重なる。

 それはほんの一瞬の出来事で、意識しなければ気づけないほど僅かな、ほんのコンマ数秒という世界で生じた“間”だった。

 だけれど二人はたしかに相手の表情を認識した。

 スミレそっくりの底抜けに明るい笑顔と、不自然なほど瓜二つの顔が並んでいることへの困惑。

 そのまま長い時間が経過していてもなんら不自然ではなかった。

 真っ先に異変を察知したセオドール・ノットが細長い首をさらに伸ばす。その様子を見てドラコも腰をあげる。いよいよ鈍感な他の面々も事態に気づいた様子で――クラッブとゴイルはただあたふたと目の前のお菓子を胃袋へ詰め込んでいくだけだが――パンジー・パーキンソンはいの一番で自分の席を飛び出した。

 ノックも忘れて隣のコンパートメントの扉を開け放つ。

 瞬発力よりも判断力よりも、意中の相手であろうマルフォイ家の貴公子を置いても、まずスミレを優先したその事実にアザミは目を見開いた。

「スミレ、そっちは大丈夫? 何も変なことは起きてない?」

「どうしたんですかパンジー。その、変なことって?」

「気づかないのかよ。列車、止まってんぞ」

「えっ」

 呆れた口調のアザミに指摘されてスミレもようやく気づいた。

 石造りの陸橋の上でホグワーツ特急は停車している。

 空を覆い尽くす黒雲と降りしきる大雨。さっきまで聞こえていた列車の走行音がすっかり止んで、雨風ばかりが轟々と響いてくる。突然の嵐の真っ只中のせいかしきりにガタガタと客車全体が激しく揺れる。

 あり得ないタイミングであり得ないことが起きている。

 外の様子を確かめようとパンジーは窓に近寄った。

 逆にアザミは通路の様子を窺った。他のコンパートメントからも不思議そうな顔が覗いている。誰もこの状況を説明できそうにはない。ただ耳元に囁きかけてくる声を信じてドラコたちに「客室の鍵を閉めろ」とだけ伝え、元いたコンパートメントへ大慌てで引き返した。()()()が現実になってしまったら、たかが鍵の一つや二つでどうこうなる可能性は絶望的である――それでも、このまま何もしないよりはマシに思えた。

 振り返ることなく後ろ手にこちら側も鍵を閉める。

 ガチャンという派手な音にパンジーが飛び上がった。

 抱きつかれたスミレは驚いたあまり両手を上に挙げた。

「なになになにナニ!? 今の音はナニ!?」

「む、胸が……パンジー、胸が苦しいです……」

「こんなときに遊んでんなよ。ったく、嫌な予感がする(I've got a bad feeling about this.)

「東洋のコトワザなんか言ってないでなんとかしなさいよ!」

「に、日本じゃなくて、ア、ア、アメリカです……」

「そんなの今どうでも――――――」

 なんの前触れもなく車内の灯りが消えた。いきなり暗闇に包み込まれ、いよいよパンジーは恐怖のあまり悲鳴すら出せなくなる。吐息が白くなるほど冷え切っていく車内。なのにスミレだけはみるみる全身が火照っていった。

 頼りにならない従妹をよそにアザミは杖を抜いた。

 もはや状況は非常事態に突入している。自衛策が必要となる。

 急激な気温の低下だけでなく、異変が次々と押し寄せてくる。

 窓ガラスの水滴が真っ白に凍りつく。どころかペットボトルのミネラルウォーターまであっという間に凍ってしまう。さらに激しく揺れる客車。まさか――考えたくもないが、最悪の展開を覚悟せざるを得なくなる。

()()()()()。スミレ、ドアから離れてな」

 荒れ狂う吹雪のような低い風音が聞こえる。

 冬の夜の冷たさを思い起こさせる、あの厭な地響き。

 雪国に生まれ育ったスミレとアザミのよく知る『死』のかたち。

 恐怖そのものを象った悪魔が、細長い指をゆっくりと伸ばす。

 襤褸をローブのように纏った姿は幽鬼のよう。宙を漂う様は揺蕩う水死体を彷彿とさせる。骨だけとなった上肢に貼りつく肌は腐乱死体さながらの灰色。まったく生命の気配を欠きながら、明確な意思を持って車内の通路に存在している。

 緩慢な挙動によってコンパートメントの鍵はたちまち開かれた。

 わずかな隙間へ差し込まれた右手。襤褸で覆い隠された顔はその表情を窺い知ることが出来ず、ただ口元に空いた真っ黒な空洞からあの()()が聞こえてきた。

 ひとたび対峙しただけでアザミの闘志は尽き果てた。

 いまや身動きをする気力すら失い、もはや滾る活力もなく、ただの惰性で杖を突き出しているだけ。

 

 魂まで凍てつきそうな冷気に蝕まれる。

 

 眩暈がするほどに精気が消えてしまっていた。

 

 指先に走る痛みさえ感じられなくなって、ついにアザミの意識は途絶える――――――




 スミレも性格悪いけどアザミも大概だよというオチ


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美少女の花が 満開 全開

 冷たい横殴りの雨はついに止まなかった。

 それどころかホグズミード駅に着く頃にはより激しく降り始めた。

 狭いプラットホームはごった返しで、誰も彼もが風雨に叩かれながら、ひとりでに動く奇怪な()()()()()へと乗り込んでいく。いつもなら簡素な荷台にこれまた簡素な車輪が四つ取りつけられた、ひどく簡素な造りなのだが、今年は何やら豪勢に扉付きの四人乗りであった。

 ホグズミード駅は鬱蒼とした森の手前にある。ホグワーツ城へは森の中を突っ切るかたちで開かれた道を通るしかない。もちろんアスファルトで舗装されているようなことはない。よって今日のようにひとたび雨が降ればすぐに泥濘む。駅前の寂れようは、スミレとアザミの地元の比でなかった。なにせ石造りのとってつけたような駅舎と、こじんまりした駅前広場のほかに、まったく何もないのである。

 馬車に揺られているうちアザミの瞳はもとの険しさを取り戻した。

 顔色はまだいくらか青ざめているものの、列車を降りるまでのあの呆けた様子はちっとも見られない。それにスミレも血の気が失せたような白い顔をしているから、二人が並べばよく似た顔立ちの姉妹に見えなくもないだろう。

 実際は従姉妹であって、母親と父親の方が姉弟にあたるのだが。

 パンジーもようやく活力がもどり始めていた。彼女もやはり顔色は優れない。ブルネットのボブカットはすっかり雨に濡れてしまっている。

 そんな様子でさえも可愛らしいからスミレは目のやり場に困った。

 ホグワーツ特急で間近に迫られたときも本当に危なかった。

 彼女の一挙手一投足から愛嬌がとめどなくあふれ出ているのだ。

 美少女という神秘の存在にどうやって接すればよいのか。それこそホグワーツ魔法魔術学校で教えてくれればよいのに。

 まだ倦怠感が抜けきらないでいるアザミはぐったりとスミレにもたれかかる。

 それでも魔法省を罵倒するだけの気力は復活しているのだった。

「ナニ考えてんだよ魔法省は。よりにもよって吸魂鬼(ディメンター)を解き放ちやがって、死人が出たらどうすんだバカが」

 伝わってくる鼓動の速さはあえて気づいていないことにした。

 止まっているのでなければ問題ないだろう。体温の高さも。従姉の手を握るか握るまいか逡巡して挙動不審になっているのも。いちいち指摘するほど悪趣味な嗜好には目覚めていないし、なにより体力が惜しかった。

 ホグワーツ特急を停車させたのも吸魂鬼であった。

 シリウス・ブラックの捜索を口実に車内へ乗り込んできたのだ。

 結果的に数名の生徒が体調を悪くするだけに終わった。

 運よく新任の教師が数名乗り合わせていて、アザミは発車前に見かけた真紅のローブの魔女に気付け薬を手渡された。魔法薬学の教授はそれほど高齢でなく、薬草学の教授は年配に見えるが健康そのものというから、退職続きの闇の魔術に対する防衛術か、あるいは他の科目を受け持つのだろう。

 ブランデーの甘く芳醇な香りがする“気付け薬”を少しずつ舐めながら、アザミは小窓を開き外へと目を向ける。

 馬車の大行列は森を抜けていた。

 大きな湖の畔をゆっくりと進んでいる。

 大雨のせいで月明かりもない。雨粒のレースと夜闇のカーテンの向こう側にホグワーツ城のシルエットがぼんやりと浮かぶ。いくつもの立派な尖塔が空に向かって伸び、それらを擁する城郭は威風堂々として黒い湖と森とを見下ろす。

 巨大な鋼鉄の扉を過ぎる。目を凝らすと、左右にそれぞれ聳える門柱の上には有翼の猪の像が置かれているのが分かった。さらに門柱の前には一体ずつあの忌々しい吸魂鬼が控え、正門の警備を行なっている。ホグワーツ特急での一幕を思い出し、アザミの眉間に深々とシワが刻み込まれた

 わざとらしく音を立てて窓を閉めても相手は微動だにしない。

 いよいよ面白くないアザミはふんぞり返って脚を組んだ。

 眼を細めるといかにも気の短い粗暴な印象が強くなる。不機嫌な表情まで従妹とそっくりながら、やはり顔の作りは父親から受け継いでいるようだった。

「アザミはこのあと大丈夫? 新入生の組み分けの儀式だけでも時間がかかるし、晩餐会だってあるから今夜は長丁場になるけど」

「……吸魂鬼のせいで具合が悪いなんて言ったらマダム・ポンフリーにベッドに縛りつけられませんか?」

「だったら時差ボケですって言うさ。こんくらい、気合い入れて寝たら一晩で治る」

「スミレスミレ、それって気合いで治ったりするの?」

「パンジー、時差ボケが気合いで治るわけありませんよ」

「治したんだよアタシは。経験者なんだって」

「どうなってるのよアンタの姉さん。いつもこんな調子?」

「うーん、ちょっとはしゃいでると思います。はじめて海外に来たから」

「イラんこと言うなや。生まれてはじめてなんだからしょうがねえだろ」

 いまにも額に青筋を浮かべそうな笑顔でアザミは応じた。

 八重歯を覗かせるギラギラした表情は威圧感たっぷりだったが、スミレもパンジーもそれよりずっと気がかりなことがあった。

 蓋が開けっ放しになった金属製のスキットル。ホグワーツ特急で新任教師を名乗った魔女がアザミに押しつけたものである。中身は気付け薬であるらしい。最初こそ舌先でおそるおそる舐めるようにしていたのだが、いまやグイと煽るたびにアルコールの香りが漂ってくる。ゴクリと喉を鳴らしながら胃へと流し込んでいる。悲しいかなパンジー・パーキンソンは魔法薬の知識に乏しい。よって自然とスミレへ責任がのしかかる。

 数十分前まで血色不良が抜けきらないでいたアザミは、気づけばすっかり紅潮し耳の先まで赤くしているのだった。顔を見合わせる気力さえ湧いてこない。この有り様を見た教授たちになんと言い訳すればよいのか。まさか、新学期当日にこんな課題が襲いかかってくるとは想像だに出来なかった。

「カンペキに酔ってますよね」

「うん。どう見ても酔っ払ってる」

「フザけんな、素面に決まってンだろ」

 呂律も怪しげな状態を“素面”と言わないのは魔法界も非魔法界も同じだ。

 どんどんテンションが異次元の高まりを見せるアザミをわきに、スミレとパンジーはアルコールを一滴たりとも摂取していないにもかかわらず頭が痛かった。

 坂道で馬車はいっきに加速する。そのまま勢いよく急勾配を登りきると今度はなめらかに停車して、やはり独りでに扉が開いたのだった。

 雨足はホグズミード駅に着いたときと比べていくらか落ち着いていた。

 スミレが真っ先に飛び降りて続くパンジーが雨に濡れないよう傘を差しだした。

「気持ちは嬉しいんだけど、肝心のアンタが濡れちゃったらダメじゃない」

「いいんです。ちょっと冷えたくらいで風邪を引くような身体じゃないので」

「アザミの方はいいから先に着替えてきなさい。荷物はクラッブかゴイルに運ばせるわ」

「そんな……あの二人に悪いですよ。姉さんの分は私が運ぶから大丈夫です」

「どうせ今年も教科書の読み方から教えないといけないんだから。このくらい授業料よ授業料」

「なるほど。そういうことなら、ザビニにでもお願いします。迷惑料の前払いということで」

「なによ、いい根性してるんだから。ふうん……ちょっとは打たれ強くなったみたいね」

 両手で大きな旅行鞄を引きずりながらパンジーもどうにか馬車を降りる。

 華奢な身体にはかなり重いらしい。三年生にもなると教科書の厚さが桁違いで、さらに選択科目も増えるので高貴な生まれの生徒たちには大変な重労働である。しかしアザミはほぼ同程度のサイズのキャリーケースを軽々と片手で従えながらなんの苦もなく馬車から降り立った。

 ほぼ同じタイミングで少し離れたところからいかにも腹立たしげな声が聞こえた。

「おいおい、なんだいアイツ。どの面下げてまたホグワーツへ来たんだ?」

「向こうには恥知らずって言葉がないんだろ。きっと」

「それは知らなかったよ。ハーマイオニー、キミわざわざ日本語まで勉強してるんだから、そうと知ってるなら教えてくれたってよかったじゃないか!」

 スミレははじめから聞こえていないよう振る舞った。もし自分がその気になれば、いつでも彼らをバジリスクの餌にできるのだ。ネズミの鳴き声だと思えばむしろ怒る方がみっともない気がする。パンジーが反射的に杖を抜こうとするよりも、揶揄の声を聞きつけたドラコの加勢が先だった。

「これはこれはご機嫌ようハリー・ポッター。いい夏期休暇だっ…………おやおや、しばらく見ないうちに随分やつれたみたいだね。まさかとは思うが、夏休みのあいだどこかに監禁でもされていたのかい? 例えばそうだな――()()()()()()()()()()()()、とか」

 タイミングを見計らったようにクラッブとゴイルが豚のような笑い声をあげた。

 ロン・ウィーズリーの鼻の穴がさらに大きくなった。ドラコは何も言い返せずにいるハーマイオニーを肘で押し退け、石階段の半ばで振り返った。グリフィンドールの三人組と城との間に立ちはだかる位置から、ハリーたちを嘲笑った。

「まったく君たちは()()()が……いや違うな。ああそうだ、こう言うべきかな――――()()()()()のだけは得意らしいね」

「ご丁寧な挨拶に身の上の心配までわざわざどうも。けど大丈夫だよ、なにせあのダーズリーも君たち親子ほど堕落してなければ腐ってもいない。流石は名誉あるスリザリンの家系らしい邪悪な魂の持ち主だよ」

「これは驚いた……英雄ともあろうハリー・ポッターが犬畜生に育てられていたなんて。そりゃあ礼儀作法なんて知りようもない、むしろ咎めた方が不躾なくらいだ。世の中どうなっているんだろうねェ、これじゃあいよいよご両親が報われないじゃないか、なぁ?」

 スミレはこういう舌戦が苦手だった。まず言葉が思うように出てこない。それに相手の境遇を揶揄するのも心苦しいものがある。だからではないけれど、やはりドラコ・マルフォイのことを好きにはなれないし、ロン・ウィーズリーも根本的には彼と同類であると認識している。結局は口ばかりなのだ。我慢できるなら黙っていればいいし、聞き捨てならないなら黙らせてしまえばそれでよい。スミレは基本的に前者の対応をとる。喧嘩をすれば親に迷惑がかかるからだ。

「それはそうとポッター、吸魂鬼が恐ろしいあまり気絶したんだって? ロングボトムの言うことなんて信じたくもないがその顔色はどうやら本当らしいな」

「黙ってろよマルフォイ。どうせ君の父親の差し金だろう? 闇の連中とは長い付き合いなんだ、吸魂鬼なんていくらでも好きに出来るじゃないか」

「どうしたんだウィーズリー。そんなに髪まで真っ赤にした怒るなんて、さては君もおっかなくてネズミみたいに震え上がっていたのかな?」

 端正な顔立ちが底意地の悪い笑みで歪んでいく。

 格好の獲物を前にして翡翠色の瞳は冷酷に輝きを放つ。

 こと口喧嘩に限ればドラコは向かうところ敵無しだろう。

 限界まで膨れ上がった怒気を鎮めたのは穏やかな男性の声だった。

「どうかしたかな?」

 馬車からゆっくり降りてきたのはスミレの見知らぬ人物だった。

 けれどその後に続いてあの真紅の魔女が現れたので、この酷くやつれた男も新しい教授なのだと分かった。鳶色のコートは継ぎ接ぎだらけ。手元の鞄もずいぶん古いうえに傷んでいる。とてもではないが教授には見えない。だとするとアーガス・フィルチの後任なのかもしれない。

 しかし残念ながらハーマイオニーは男性を「ルーピン先生」と呼んだ。

 わざとらしく「先生」と呼ばれた理由はあちらも察していた。

 血色の悪い顔で力なく微笑んで、

「あまり連中の名前を呼ばない方がいい。アズカバンの看守などと言っても、闇の生物には違いないからね」

 初対面の教授を前にしてドラコはあっさり引き下がった。

 白髪混じりの頭髪や顔の大きな傷痕をジロジロと観察してから、

「肝に銘じておくことにしますよ――――先生」

 と嘲りを隠そうともせず皮肉を込めて言う。そのままクラッブとゴイルに目配せして三人ともども城への石階段を登っていった。

 ハーマイオニーは何事もなかったように――言いかえるなら、ドラコたちなど存在していなかったかのように――もう一人の女性についてルーピンに尋ねた。パンジーへの当てつけなのは明白である。

「ルーピン先生、そちらの方はどなたでしょうか」

「彼女かい? バスシバ・バブリングといって、えーと……史上最年少の“呪い破り”、でよかったのかな」

小鬼(グリンゴッツ)との契約は終了している。今はホグワーツ魔法魔術学校の古代ルーン文字学教授だ」

 呪い破り――ハリーとスミレのどんな職業なのか分からなかったが、ハーマイオニーやロンの驚きようからどれほど凄いのか、なんとなく察せられた。どうやらただの研究家ではないらしい。初対面のスミレはさておきハリーはルーピンのことを完全に信頼しているから、その彼がわざわざ史上最年少と前置きしたことも聞き逃してはいなかった。

 バブリングはダークブロンドの髪を左右非対称(アシンメトリー)で小綺麗に整え、力強い眉や目元と合わさって舞台役者のような迫力がある。真紅のスーツはルビーを鋳溶かして染め上げたように鮮やかで、なにかの冗談みたいなファッションを完璧に着こなしている。しかし無機質な氷蒼(アイスブルー)の目がまったく情熱を感じさせない。

 突き放すような口調も酷薄な印象をさらに強くしている。

 視線はずっとアザミの方を向いて微動だにしない。その理由が気にならないではなかったが、生徒を乗せた馬車が次々にやってくる。周囲の目を気にしたロンとハーマイオニーに背中を押されたハリーは石階段を駆け上っていった。アザミは自分のコウモリ傘を広げていて、気づけばスミレはパンジーと二人で相合傘をする形になっていた。

 何もかも面白くないパンジーがスミレの手を引っ張って城へ向かう。

 その後ろをアザミがゆっくりとした大股で追いかける。いきなり手を掴まれたスミレは何がなんだか分からないまま顔を真っ赤にして、ブランデーを飲み過ぎたはずのアザミはけろりとしている。長い長い行列の流れに従って進んでいくうちに正面玄関――樫の木で造られたとても重厚で巨大な扉だ――を通り抜け、とてつもなく広い玄関ホールへと入った。松明で明るく照らされたホールの奥には上階へ通ずる大理石の階段がある。緻密な彫刻が施された階段をのぼって右を向くと大広間が待ち構えている。

 年代モノであろう扉のそばに薄暗い人影が見えた。

 近づいていくとそれは魔法薬学教授であるセブルス・スネイプその人と分かった。黒ずくめの服装に険悪な表情がいかにも陰気なスリザリンの寮監は、人混みの中にスミレの姿を見つけると「アオイ! ああ失敬、今年からは二人いるのだったな……両名とも我が輩の研究室へ来るように。今すぐだ」と低く湿った声で呼び止めた。

 囁くような声量でもしっかり聞き取れるから妙に薄気味悪い。

 今度はアザミがスミレの手を掴んで引っ張った。力負けしたパンジーまで巻き込まれて、結局三人ともスネイプの前までやって来ると、呼びつけた張本人は眉ひとつ動かさず「ミス・パーキンソン、君を呼んだ覚えはないが。まあ差し支えあるまい」といやに寛大な態度を見せた。スリザリン生には一事が万事こんな調子で甘いのである。これがグリフィンドール生相手ならあからさまに眉間に皺を寄せ、露骨すぎるほど不快感を示して追い払うのである。

 だからスミレはこの教授のことを欠片も尊敬できずにいる。

 セブルス・スネイプが教職に相応しくないという一点において、グリフィンドール生たちの主張に共感すらしている。

 昨年()()()()()()()()()あのギルデロイ・ロックハートもさることながら、何故ダンブルドアはこんな人間を聖職者たる教員として置いているのかまったく理解できない。

 三人はまとめてスネイプの研究室へ通された。天井まで届くほど背の高い棚で壁が埋め尽くされ、無数の引き出しにはそれぞれ保管されている魔法薬の材料名が記載されていた。教室とはうってかわって整理整頓が行き届いているのも、先祖代々で魔法薬の研究を()()()()生業としてきた葵家に生まれていれば驚くには値しない。

 論文を執筆するためだけの簡素なデスクと、椅子や照明など必要最低限の調度品を除きあらゆる無駄を廃した室内はいかにも研究者らしい。スネイプに許可されて三人は来客用のソファに座った。座り心地など考慮されているはずがなく、低反発どころか無反発の代物だった。かえって腰に悪いような気がしてならない。

「バブリング教授から我が輩宛てにフクロウ便が届いている。しかも速達でだ。何故このようなものが送られてきたのか、諸君らもよく承知していることだろう」

 回りくどい前置きをしなければ他人と会話が出来ない体質らしい。

 これが同級生や後輩ならアザミはとっくに殴りかかっている。

「無論、列車内での一件について報せたものだ。我が輩としてはにわかに信じ難い事だが……吸魂鬼がコンパートメントへ侵入してきたというのは事実かね?」

 そう尋ねられ、パンジーが真っ先に頷いた。アザミもやや遅れて「はい」とだけ答えた。スミレは「あの奇妙な生き物が噂に聞く吸魂鬼(ディメンター)か」と納得するのが先になり、会話の流れに乗り損ねてしまった。

 土気色をしたスネイプの顔はますます陰気なものに変わる。

 生きているのか死んでいるのか。それさえ怪しげな顔色であった。

「ダンブルドア校長は本件を深く憂慮されている。後日、校長閣下直々に魔法省へ正式な抗議を行うとともに、父兄に対し謝罪の手紙を送付なされる」

 それはつまり、必要以上に騒ぎ立ててくれるなという要求であり、これで手打ちにして欲しいという要望でもあり、そしてスネイプの口ぶりはほとんど命令に等しかった。パンジーはもちろんのことアザミもわざわざ騒ぎを大きくするつもりはない。おそらくこの呼び出しもダンブルドアから火消しを指示されてのことだろう。新学期早々から気苦労の絶えない教授の心中を思えば、まさか約束を反故にするような真似は憚られた。

 吸魂鬼の一件はひとまず決着した。スネイプは「時間割について話がある」とだけ言ってアザミを残し、パンジーとスミレはそのまま解放された。結局、一度たりとも身を案じてくれるような言葉の類いは出てこなかった。セブルス・スネイプにそのような人間性を期待するのがそもそも誤りなのかもしれない。スミレは改めて魔法薬学教授に失望したのだった。

 二人がスネイプの研究室から出ると、古代ルーン文字学教授のバスシバ・バブリングが外で待ち構えていた。

「寮監殿の用事は済んだらしいね」

 先ほどとは別人のように柔らかな態度だった。あまりの豹変ぶりにパンジーは開いた口が塞がらないでいる。

「恥ずかしながら人見知りなんだ。大人数だと緊張してしまう」

 そう言って苦笑すると親しみやすい雰囲気がある。

 あのよく言えばスマートな、悪く言えば冷淡な第一印象が大きく裏切られた。

 しかし授業ともなれば少なくない人数の生徒が一度に集まるのだ。そうなるとこの気さくな人柄に触れられる機会はごく限られてくる。よほど生真面目な性格でもなければ授業のほかで教授と会うこともない。しかも今日は新学期、バブリングは赴任したばかりである。まだ他の誰も知ることがない新教授の意外な一面に触れられたのは、素直に嬉しいものがあった。それが同性でさえ憧れるほどの美人ともなれば尚更だ。

「もう一人はまだ時間がかかりそうだ。よければ大広間まで一緒にどうかな?」

「もちろん、是非お願いします」

「私も……せっかく待っていてくださったなら……」

 パンジーとスミレはすっかりこの若い女性教授を気に入っていた。

 三人で連れ立って歩いている途中も他愛ない雑談で盛り上がり、教授も愛嬌のある生徒と出会えたのが嬉しいらしく色々な思い出話を聞かせてくれた。その中にはあの悪名高いギルデロイ・ロックハートや悲惨な末路を辿ったクィリナス・クィレルも登場し、スミレは教授との奇妙な縁を感じさせられた。

 大広間の近くまで戻ってきたとき、バブリングはふと思い出したように「そうだった」と手を叩いた。

「……アオイくん、は二人いるんだったか」

「スミレで構いませんよ。ややこしいですから」

「ではお言葉に甘えて。スミレくんの叔父上から話は伺っている、君もホグワーツの食事は苦手だそうだね」

「それってショウブ叔父さんから?」

 スミレと血が繋がった()()は他にいない。本家五人姉弟のうちショウブを除けばみな婿養子である。もともと世界中を飛び回っているからどこに知り合いがいてもおかしくはないが、まさか教授がその一人とは思いもしなかった。

 そしてバブリングは頷いたあと「私もここの料理は学生時代からあわなくってね」とため息をついた。事実、スミレは日々の食事に散々悩まされていて、原因は繊細すぎる味覚と本人の頑固さにある。パンジーにはとても理解の及ばない世界である。

「もしよければ、このあと私の研究室で一緒に食事でもどうかな。前もって作り置きした簡単なものしかないが……ああ、もちろんパンジーとアザミもきてくれると嬉しい」

「是非ご一緒したいです、アザミ姉さんも辞退しないと思います。えっと、パンジーは……その、どうしますか?」

「んー…………お腹は空いてるけど、正直、今日はあんまりガッツリ食べたい気分じゃないのよね。ホラ、()()()()()があったあとだし」

「うんうん。玉葱のコンソメスープに、卵とほうれん草のキッシュなら胃にも優しいだろう。食べ足りないならチーズと果物もある」

 おそらくアザミはそれでも食べ足りないだろうけれど。きっと、本調子だったらスミレも満腹にはなれないけれど。しかしただ空腹を満たすだけが食事ではない。たまには美味しい物をつまみながらおしゃべりに花を咲かせるのも良いものだろう。少なくともこの二年間、心の底から美味しいと思えるような料理など、スミレの記憶の中にはほとんど存在していないのだ。




 本作におけるバスシバ・バブリングの容姿は映画『ジョン・ウィック2』より女暗殺者アレス(演:ルビー・ローズ)を参考に。服のデザインは“ルビー”に加え映画版ハリー・ポッターに登場するバスシバ・バブリングがしばしば赤い衣服を着用していることから。


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さあ、晩餐を共にしよう

 三人が大広間に着くとフリットウィック教授が組み分け帽子と三本脚の丸椅子を脇に片付けている最中だった。新入生の組み分け儀式がちょうど終わってしまったらしい。パンジーは悔しげに「ツイてないわ」と小さく呟いた。スミレはさしたる興味もなかったので一向に構わなかった。

 バブリング教授は真っ赤なヒールを鳴らして教職員の席へと向かって行った。派手な装いが人目を引いてくれたおかげでパンジーとスミレはすんなりとスリザリン寮のテーブルに三人分の空席を見つけられた。フローラ・カローとヘスティア・カローがあらかじめ確保してくれていたのだ。

 席につくまでに後ろを振り返ったり心配そうな顔をする生徒はいたが、指を差したり何か囁きあったりするようなことはなかった。体調について尋ねてくる上級生が数名いたぐらいのものである。それも親切心からのお節介であるから、スミレもいちいち答えるような真似はせずに曖昧な笑顔を作って応じた。

 スリザリン寮も吸魂鬼(ディメンター)でもちきりだった。ホグワーツ特急での騒ぎはあっという間に学校中へ知れ渡っている。

 もちろんフローラとヘスティアもある程度は知っているらしい。双子の姉妹はそれぞれスミレの手を握りしめた。

「スミレ姉様のお身体に何事かあったのかと不安で不安で……」

 フローラは目尻に浮かぶ涙をローブの袖に染み込ませた。

「もしもお見えにならなければ医務室までお邪魔しようと……」

 フローラは声を震わせて口元をローブの袖で覆い隠した。

 そんなに慕っているなら素直に思いの丈を伝えればいいのに……なんだか知らないが退屈な芝居を見せつけられている気分で、パンジーは白けた表情を隠そうともせず頬杖をついた。さらに気に入らないのは自分のすぐ右隣もちゃっかり確保していることだ。アザミもここへ呼びつけるつもりなのだ。そんな余裕があるならドラコを……と思ったが、クラッブとゴイルもついて来ることを考えると、やはりこれで良かったのかもしれない。

 アンニュイなため息と同時に勢いよく扉の開く音が響いた。

 奥の扉から登場したスネイプがマクゴナガルの隣に座る。

 教職員がようやく揃って、いよいよダンブルドアが壇上に立った。たったそれだけで大広間は一瞬のうちに静まりかえる。

 齢百歳を超えてなお強烈なパワーを秘めている。

 万人が認める規格外の天才であり、かつ多くの人々に慕われながら、隠者のように振る舞うことを好む偏屈者でもある。パンジーはこの老人がどうしても好きになれなかった。それは彼がマグル贔屓を公言し、事あるごとに純血主義を批判するだけではない。少なくとも今はこの老人を信用できない理由がもう一つある。

 それというのも、スミレへの不自然な態度にある。

 

 ――どうして彼女をホグワーツに通わせるのだろう?

 

 半吸血鬼になったからと言って、他に治療する手段はいくらでもあるはずだ。なにもホグワーツ魔法魔術学校でなければならない理屈があるとは思えないし、ダンブルドアほどの人物ならいくらでも選択肢を用意できるだろう。けれどこの老人は頑なにスミレを手元に置こうとしている。

 そこには必ず何か理由がある。ダンブルドアはかつて不死鳥の騎士団を率いていたのだから、当然、アオイ家とヴォルデモート卿のつながりは知っているはず……。

 考えても考えてもそれらしい可能性は思いつかなかった。

 吸魂鬼がコンパートメントに入ってきて以来、ずっと心がざわめいて落ち着かない。

 

「おめでとう!」

 

 ダンブルドアの象徴とも言える、半月形の眼鏡と白く長い顎髭だけが、蝋燭の灯りを反射してキラキラと光り輝いていた。

 新学期の挨拶が耳を右から左へ通り抜けていく。今年で三度目になるということもあり、飽きてしまっているのも事実だった。

 吸血鬼のこと、脱獄犯のこと、新しい教授のこと。なにもかもに関心が向かない。自分はずっとスミレのことを心配しているというのに、当のスミレはこちらの胸の内などまるで知らずフローラとヘスティアに囲まれて仲睦まじくやっている。これが馬鹿馬鹿しくなければいったい何なんだろう。

 腹立たしくなってきたパンジーはダフネやミリセントがどこにいるのか探すことにした。

 周囲に目を向けてみるとスリザリンのテーブルだけは険悪なムードに包まれている。よほどのことがあったのだろうと思ったが、あの忌々しい吸魂鬼がアズカバンを離れてそこらをうろついているよりも悪いことなんてあるなんて考えられなかった。

 ()()()()()()()()()()()()()をはじめから予想していたように、ダンブルドアは“サッ”と長い両腕を広げて万雷の拍手喝采とささやかなブーイングを静止した。皆の気持ちはよう分かると言う風にニッコリと微笑んでみせる。

 全校生徒の注目を一手に集めながらダンブルドアはにこやかに言った。

 とても因縁を感じさせない雰囲気にみんな忘却呪文(オブリビエイト)でもかけられたかのように()()()を忘れてしまっているようだった。

「新しい先生方のほかにもう一人、みなに紹介せねばならん」

 そう前置きすると「もうとっくに知ってるんじゃないか?」と耳元に囁く声がした。

 驚いて振り返ったパンジーの隣で、ホグワーツの制服を着たアザミが冷笑を浮かべている。

「いつ来たのよ!?」

「さっきだ。いちいち驚くなよ」

「ムチャ言わないで……って、なんでもう座ってるワケ?」

「騒々しいお嬢様だな。どうだっていいだろそんなの」

 髪も瞳もスミレと同じで底なしの真っ黒。

 見つめていると吸い込まれそうになる。だけれど、シニカルに歪んだ唇や切れ長の瞳は覗き込まれることを拒絶しているようで、そこが決定的にスミレとは違っている。

 やはり実家育ちと寮生活を経験しているのとではいくら親戚仲がよくっても対称的な性格になるのだろうか。

 スミレも目の前にアザミがいることに気づいてさらに明るい表情になった。

「あ、姉さん。もう組み分け終わったんですね」

「そんなわけあるか。立ってるのに疲れたんだ」

「革靴って履き心地よくないですもんね。むくみません?」

「最悪だよ最悪。明日からスニーカーじゃあダメなのか?」

「いいワケないでしょ。堂々と校則違反なんてしないでくれる?」

「「まだスリザリンに入るって決まってないのに?」」

 示し合わせたようにキョトンとした顔をする二人。自制心を働かせてなんとか姿勢を保った。少しでも油断していたら今ごろはテーブルに突っ伏しているところだった。スミレは心底不思議そうにしているし、アザミはからかい甲斐のある相手を見つけて満足げにしている。一人でも手に余る問題児がさらにもう一人現れ、パンジーはため息を我慢するのに苦労させられた。

 ――――先が思いやられる。

 ダンブルドアはそんな懸念など素知らぬ顔をして、芝居がかった身振りで大扉の方を指し示した。

 手筈通りにアーガス・フィルチはミセス・ノリスを抱きかかえて隅へ移っている。

 全校生徒と教職員の視線の先には、当然ながら、誰も立ってはいない。

 沈黙と困惑、そして衝撃がざわめきが広がる。みんな目の前で何が起きたのか分からず、たったいま自分が目の当たりにした出来事について、周囲に説明を求めている。教授たちはずいぶん落ち着き払ってなにやら話し合っている。

 アザミはいかにも底意地の悪い笑顔を浮かべた。薄い唇が歪んで、隙間からは真っ白な八重歯が覗く。生徒たちが困り果てている様子をしばらく観察してようやくアザミは口を開いた。ただし……言葉を発したのはダンブルドアのすぐ隣に現れた()()()()()()()()であって、パンジーの隣にいる方はいまも愉快そうに眼を細めている。

 スミレも一緒になって周囲の混乱を面白がっている。

 流石は血縁というべきか、意地悪な笑顔がよく似ている。

「みなさん誰をお捜しなのやら。自分のほかにも留学生がいるようですが」

 皮肉たっぷりの台詞にみんなが声のした方へ向き直る。

 そこにはいかにもスマートな雰囲気の女子生徒が立っている。

 引き締まった筋肉質な脚は陸上競技のアスリートを思わせる。背丈はそれほど高くないし、体格もやはり男子に比べればずっと華奢で繊細なのに、その佇まいからは競走馬や野生の鹿のような俊敏さと機能美に溢れた印象を受ける。ただ……何故か妙に存在感が薄いような気がするのは全員に共通する疑問であった。

 挨拶らしい挨拶もなければ自己紹介もない。

 無言でじっと立ち尽くしている。みんなが続く言葉を待っていると、スリザリンのテーブルから一人目のアザミが勢いよく立ち上がった。物音を耳にした何人かがまず最初に気づいて、そこからみるみる驚きの声が大きさを増していく。

 それを無視してアザミは颯爽と壇上へ向かっていった。

 もう一人の自分に並ぶと肩をかるく叩いた。

 すると、先に壇上で立っていたアザミが白煙に包まれる。

 その中から一羽の大きな烏が飛び立って、笑顔を浮かべたアザミの左肩にとまる。

「まずはつまらない手品によるお目汚し、失礼しました」

 つらつらと澱みない口上がはじまる。

 表情はごく穏やかなものに変わり、この場しか知らなければごく大人しそうな女子生徒に見えることだろう。

「国立小笠原高等学校南硫黄島分校中等部三年七組、葵薊です。ダンブルドア校長並びに魔法省の多大なるご尽力と寛大なるご配慮により、今年度からホグワーツ魔法魔術学校で魔法を学ぶこととなりました。そちらの従妹である葵菫ともども、どうぞよろしくお願いします」

 留学生とは思えないなめらかな口調だった。どれほど聞き辛いものかと身構えていた者も少なくない中で、アザミはまったく違和感なく挨拶と自己紹介とをやってのけた。夏休みのあいだ必死になって練習していたことはスミレだけが知っているのだった。

 拍手が鳴り止むのを待ち、ダンブルドアは組み分け帽子を示した。

 フリットウィック教授がもう一度、古びた帽子と地味な丸椅子を運んでくる。

 幸いアザミはそれほど背丈に恵まれていなかった。おかげで教授もなんとかアザミの頭に組み分け帽子を載せることができた。それだって壇上で思い切り背伸びしてやっとである。転んでしまわないかと肝を冷やした生徒は少なくない。教授が無事にミッションを果たし終えたとき安堵の息が漏れ聞こえてきたのは幻聴でもなんでもない。

 組み分け帽子は見た目にはただの古帽子である。しかし新入生の組み分けはこの古帽子がなければならないほど、ホグワーツにとって必要不可欠な存在なのである。

 そんな組み分け帽子はほんの数秒ばかり考え込んで、すぐに結論を出した。

 

「よかろう――――スリザリン!!!!」

 

 どの寮からも落胆の声はあがらなかった。

 むしろこの結果に心から感謝したいくらいだった。

 あの陰気で狂暴な蛇女の親戚といっしょにホグワーツで暮らすなんて考えられなかったし、極東の由緒ある血筋ならば自分たち純血の一族とともにホグワーツで多くを学ぶ()()がある――そんな思惑から大広間には、今夜何度目かの拍手喝采が鳴り響いたのだった。

 

 

 

 

「居心地のよさで言えばレイブンクローもそう悪くはなかった」

 

 バブリングはフルーツビネガーを味わいながら言った。

 ただ目立つだけの悪趣味なスーツも彼女が着ると何故か似合う。

 一人掛けのソファでゆったりと脚を組むだけでも画になる。まったく不思議なことに、partⅠのマーロン・ブランドやpartⅡのアル・パチーノのような威圧感を放ちながら、凛とした顔立ちはヘップバーンにも似た気品を備えている。どれもパンジーには通じないだろうから、スミレもわざわざ口にはしなかったが。

 ローマの街並みはさておきベスパは似合わないように思えた。

 スーツにあわせるならやはりコブラ・マスタングだろう。

 微炭酸の泡に包まれたミントの葉を眺めつつ、学生時代へ思いを馳せるように教授は呟いた。その表情はどこか寂しげに見える。ブロマイドに欲しくなる美しい横顔だった。スミレはただただ見惚れてしまっていた。意識すると頬がじわりと熱を帯びる。

「どの寮であれ人間関係の煩わしさからは逃れられないが……」

 スミレは思わず頷きそうになった。パンジーの手前なんとか自重したものの、寮内での立場を守るためとはいえドラコやザビニとも付き合っていかなければならないのは、心理的に大きな負担であった。セオドール・ノットのような一匹狼が羨ましいくらいだ。

 さもなければアザミのように気ままに振る舞ってみたい。

 ここまで強気に生きられたらどれほど楽になれるだろうか……。

 考えても仕方がないと分かっていてもつい想像してしまう。もっと自分の意思を強く主張できたなら――――少なくとも、ホグワーツで人間関係に悩まされることはなくなるはずだ。

 それだけでも素晴らしい。しかし、それができれば苦労はない。

 出来ないからこうして想像に耽るのが精一杯なので、つくづく自分の引っ込み思案でお人好しな性格が嫌になる。

 パンジーはすっかりバブリングの学生時代のことに夢中だった。とりわけあのギルデロイ・ロックハートについて興味津々で、時間のことなどすっかり忘れていた。教授はロックハートと同級生であっただけでなく、スネイプやルーピンのことも少なからず知っているらしい。なるたけ色々聞き出そうとしているうちに掛け時計が大きな音を立てて時間を告げた。

 教授はゆっくり掛け時計の方へ振り返り、

「今日はここまでにしよう。そろそろ晩餐会も終わっている頃だ」

 名残惜しくはあったが明日の朝一番から授業が始まる。それも新教授による初の古代ルーン文字学である。まさか教授といっしょに夜更かしして寝不足なんてことがあってはいけない。三人は大人しくバブリングに促されるまま研究室を出てスリザリンの寮へと歩いていった。

 いくつも廊下を曲がり、階段を下って地下牢に着くと、どんどん気温が低くなっていくような気がした。それでなくてもこの区画は湖の中に沈んでいるのだ。日の光どころか壁の向こう側は水中である。なにやら生きた心地がしないのは談話室も同じだった。真っ黒な石造りの壁とぼんやり灯る緑色の照明。窓ガラスの外はもう湖の中だ。

 いかにも神秘的で、どこか秘密主義的な雰囲気を漂わせる談話室――アザミはもの珍しさに興奮していた。スミレはまさに地下牢のような閉塞感と狭苦しさに窒息しそうだった。

 他学年の生徒はみんなアザミに興味津々だった。隣町からの転校生でさえ二人の地元ではとても珍しいのだから、留学生なんて上野動物園のパンダよりも注目を集めて当然だ。それでもぐるりと取り囲んで質問攻めにしないのは、ホグワーツ特急での一幕を知っているからである。それは吸魂鬼にも臆さない自己犠牲の精神と、不屈の闘争心へ敬意を表してのことである。

 アザミの寝室は――ほかに空いているベッドがなかったこともあって――スミレと同じ部屋が割り当てられていた。ベッドの木材はすべて黒檀が用いられている。四本の柱に支えられた天蓋からはエメラルドグリーンのカーテンが、広い部屋の中央には細工が施された香炉があり、ほかにも上等なツイードのラウンジソファや、年季の入った学習机が人数分だけ用意されていた。運び込まれた荷物はそれぞれのベッド脇に置かれている。

 アザミは真っ先に父親のお古のキャリーケースを開けた。

 パジャマに着替えようとしていたパンジーは妙な寒気に身震いした。

「ねえちょっと、まさか今から予習しようなんて言わないでしょうね」

 吸魂鬼の騒動に続き脳天気なアオイ従姉妹、なにやら訳ありな闇の魔術に対する防衛術の新教授、人当たりが良さそうで相当に偏屈そうな古代ルーン文字学教授……それでなくとも脱獄犯やら追加の選択科目やら、心労が絶えない一日で心身ともにヘトヘトだった。そこへ追い打ちを掛けるように勉強熱心なルームメイトなんて、いくらなんでも冗談では済まされない。

 くたびれた声に振り返ったアザミは「何言ってるんだ?」と呆れた顔をした。

 取り出したのは細長い桐箱だった。小豆色の紐で封印されている。

「何よそれ。ポスターなんて飾る気? やめてよ、去年だって散々見たのに……」

「ミリセントのロックハート熱病(フィーバー)、一時は本当に重症でしたもんねえ……」

「一緒にするな。これはそれはそれは由緒ある掛け軸なんだぞ」

骨董品(アンティーク)掛け軸(タペストリー)って……渋いっていうかもう年寄り臭いわよ」

「いや、コレはそこまで古くねえよ。まだ描かれて百年経ってないはずだ」

 花押かなにか入ってなかったけ、と言いながらアザミはバラバラの状態で持ち込んだ飾り台を手際よく組み立てていった。どんな絵なのか気になってパンジーは着替える手が止まってしまっていた。背の高い飾り台を完成させるとそのままベッド脇へ設置する。慣れた手つきで器用に掛け軸を開き、掛け紐をセットするとそのまま矢筈という道具を使って飾り台へ吊した。

 描かれているのは左を向いた婦人の図である。

 糸のように細い切れ長の瞳と真一文字に結ばれた薄い唇。

 日本画と西洋画の技法がまぜこぜになった奇妙なタッチだ。

 他に見るべきところのない退屈な人物画――そんな印象が強い。

「まあ悪くはないけど……なんで好きになれないのかしら……?」

 パジャマに袖を通すのも忘れてパンジーは首をかしげた。ショッキングピンクの水玉模様が浮かぶ黒地のシャツの方が、アザミにはよっぽど不可解な趣味に思えた。正直にダサい。

 紫色のジャージに着替え終えたスミレが掛け軸に気づき「あっ」と声を挙げた。

「姉さん、それってあの()()()()()じゃない? 倉庫にしまってあったヤツ」

「ああ。留学祝いが欲しいって爺さんに言ったらコレ持ってけって」

「うわ、どうしよ。去年みんなにその絵のハナシしちゃったんだよね」

「別にいいだろ。そうそう表情が変わるようなもんじゃなし」

 ナイーブだなぁと笑い飛ばしてアザミは自分の寝間着を探し始める。

 ローリング・ストーンズの鼻歌を聞きながらスミレはパンジーの方を見る。

 意志の強そうなアーモンド形の瞳は限界まで見開かれ、白すぎず紅すぎない頬はまったく血の気が失せて青ざめている。呼吸を忘れたように口を痙攣させ、指を震わせながら、今さっき飾られたばかりの掛け軸をさして――――

 

「姉さん姉さん、ちょっと……」

 

「なんだよ。着替えたんなら寝ろよな」

 

「そんなことより。アレ、よく見て」

 

「ああ? 何が言い――た、い――あっ」

 

 観察するまでもなく。つい先ほどまで婦人画は澄ました顔であったはず。

 

 掛け軸とともに語り継がれ、葵家に伝わる怪談は想像の産物にあらず。

 

 現実の怪異であると物語るように眼を細め、口を歪め、満面の笑みを湛えている。




 小説『残穢』及び『残穢~住んではいけない部屋~』より“奥山家の掛け軸”が本格参戦。
 ネタっちゃネタですが、せっかくスミレに語らせたんだし本物にお越し願おうかなって……そして早々にお顔が歪みあそばしました。ぜんぶ吸魂鬼が悪い。


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And another one gone,and another one gone

「おい、見ろよアレ」

「それってどっちの方?」

「ロングヘアーの隣にいる」

「あのハンサムな女の子?」

「いま目があったかも」

「話しかけてみようかな」

 明くる朝、寮を出るなりアザミは囁き声につきまとわれた。朝食のために大広間への廊下を歩くだけでほとんどの生徒が足を止める。すれ違えば振り返り、ときには引き返してくることすらあった。適当な席で新聞を読んでいれば隣の席を巡って上級生たちが火花を散らす始末。

 英国流の朝餉(イングリッシュ・ブレックファスト)を満喫するような状況ではなくなってしまった。

 下級生も下級生で遠巻きにじっとアザミの様子を窺っている。

 それで気分を害するほどアザミは繊細な神経を持ち合わせていなかった。はじめから眼中になければ心穏やかでいられる。

 薄く切ったトーストにたっぷりバターを塗り、さらに宝石のようなイチゴのジャムをのせる。分厚いブラックプディングと目玉焼き、カリカリに焼かれたベーコン、スクランブルエッグとベイクドマッシュルームも山盛りにしてオレンジジュースはコップになみなみ注いだ。紅茶には角砂糖を三つ入れ、たっぷりのミルクも忘れてはいない。

 まだパンケーキもあるので適当にセーブする必要がある。

 昨日の夕食も素晴らしい味わいには違いなかった。ただとにかく量が少ないし腹持ちも悪い。

 おかげで今朝はいつも以上に食欲旺盛なのだ。

 十五歳といえば育ち盛りである。

 日によっては一日四食でも足りないくらい腹が減る。

 とにかくアザミは好き嫌いなくよく食べる。

 右隣に座ったスミレとは対称的だった。スミレも食事量こそ人並みより多いが、とにかくひどい偏食で、今も温かいポリッジに粉砂糖、シリアル、カットされたリンゴやイチゴ、バナナ、クランベリーをこれでもかと盛りつけている。肉類にはいっさい手をつけようとしない。けれどもアザミはスミレの食生活を監督してやるつもりなんてさらさらないし、スミレもアザミの食事に思うところは何もないので、二人とも相手の食事にはまるっきり言及せずに仲良く日刊予言者新聞の朝刊を読んでいるのだった。

 相変わらず一面はシリウス・ブラックの記事である。

 情報提供を広く呼びかけている。魔法省はもはや無策だ。

 三枚目のトーストを胃袋に仕舞うとアザミはため息をついた。

 口の片端だけ吊り上げて笑っている。

「いつ捕まるかな。あと何年かかると思う?」

「本懐を遂げるのとどっちが早いかじゃない?」

 ニコリともせずスミレは物騒なことを言う。

 さらに「吸魂鬼もアズカバンを離れっぱなしじゃ大変だよ」と続けた。

 哀れむような口ぶりにアザミは朝から気分を害した。

「あんな連中は飢え死にしたらいいんだ」

「じゃあそのあと誰がアズカバンを見張るの」

「知らないって。それこそ魔法省でどうにかしてよ」

 まったく正論だったのでスミレは反論できなかった。

 実際問題、吸魂鬼と手を組むのはよくないと思う。どれだけ彼らの望むままに餌を与えてやったところで所詮は怪物なのだ。いつ何時に手を噛まれるか知れたものではない。手を噛みちぎられるぐらいならいっそマシだろう。下手をすれば命を落とすより残酷な結末だってあり得る。

 義理や恩というものは人間の理屈であり都合だ。

 ダンブルドアが言ったとおり怪物(あちら)人間(こちら)の方便は通じない。

 あるいは、だからこそかもしれない――――怪物は人の理から外れた、文字通り()()なのである。

 同じ人間同士でさえ理解しあえないのに、種として異なる存在が相手になると心通わせることが出来るなんておかしな話ではないか。

 だからスミレは動物全般が嫌いだった。力尽くで排除しなければ耐えられないではないが。やはり傍に寄られると不快感を覚える。

 例外的に蛇だけは好ましかった。

 人間と同じように言葉が通じるからだ。

 もちろん、人間と同じように、何を言っても通じない気性の蛇もいる。

 本当の意味での相互理解が成り立たないにせよ。形だけでもコミュニケーションが可能ならそれで十分だろう。

 ふと吸魂鬼とはそんなに厄介な生物なのか気がかりでもある。

 ホグワーツ特急でアザミは失神、パンジーもひどく消耗していたが、スミレは体感気温が下がったほかになんの影響もなかったのだ。

 やはりここは専門家に尋ねるのが手っ取り早いだろう。

 けれど間違っても魔法生物飼育学の教授には相談したくない。

 安全管理という考えが欠落したあの森番を信用できないでいる。

 どうせならまだ()()()()はまだあるのだろうし、そのままアズカバンに収監しておいてくれた方がずっとよかった。

 教授の職を得たところで元から遵法意識がないのだ。学生時代からしてアクロマンチュラの飼育に手を染めていたような男だ。つけ加えるなら、ほんの二年前にはドラゴンを学校の敷地内で孵化させ、それに飽き足らず密かに育てようとさえしていた。あのケルベロスだって好き好んで飼っていたのだから、この調子ではいずれ人狼の多頭飼いくらいのことはしでかしかねない。その程度にはスミレの中でハグリッドに対する不信感は大きくなっていた。

「……本当に魔法生物飼育学を受けるの?」

 本音を言えばやめてほしい。怪我をしてからでは手遅れなのだ。

「勉強するためにホグワーツへ来たの。受けられる授業は全部受ける」

 至極真っ当な理屈だった。海外留学に要する諸費用を思えば勉学に勝る優先事項など存在し得ないのだ。時間割が重複していないのなら受講するのみであって、無為に放課後を遊んで過ごすことなど許されない。そしてアザミ自身、勉強を苦痛と感じない人種であった。

 どころか奇特にもこれがアザミにとって数少ない趣味なのだ。

 成績通知書と格闘ゲームのスコアがまったく同じものなのである。

 スミレにはなかなかに理解し難い世界である。

 遊び呆けて学生の本分を蔑ろにするよりはマシだろうけれど。

 アザミは皿に載った料理をペロリたいらげた。クランペットへハチミツからメイプルシロップ、生クリーム、バター、色とりどりのソースにフルーツまで片っ端からトッピングしていく。もはや違法建築の域だった。

 見ているだけでも胃もたれしそうな有り様だ。

 白湯のようなブラックコーヒーを啜る。味も香りもなく極めつけに不味い。目を閉じて全神経を味覚に集中させてみればわずかに酸いような気もする。モカだろうか。スミレはさし当たって豆に拘るほど珈琲愛好家を自負するようなこともなかったが、何年か前にお歳暮で届いたモカはあまり好みでなかった記憶がある。輪切りのオレンジを一口齧った。酸いながらも瑞々しく甘い果汁がコーヒーの出涸らしを洗い流してくれた。

 もっと言うなら朝食は必ずお茶漬けか粥である。

 新学期がはじまって間もないのにお茶漬けがたまらなく恋しい。

 ()()()と刻み海苔の香りに淹れ立ての緑茶が爽やかで、夏ならごはんを氷水で洗い、梅干しをのせた上から麦茶を注ぐ。茄子や胡瓜のお新香があればなおよい。塩辛や辛子明太子をそえればなかなかの贅沢だろう。

 あと一ヶ月。いや一週間。せめて一日だけでも新学期を遅らせてくれたのならどれほどよかったか。スミレにとって我が家は一つだけなのだ。ホグワーツはただの学校であって、多大な苦痛と計り知れない心労が襲いかかり、とにかく耐えがたい生活を強いられる。

 みるみる塞ぎ込んでいくスミレのせいでみなアザミに近寄れずにいる。

 昨年に決闘クラブで不用意な発言をしたザカリアス・スミスとマリエッタ・エッジコムが――前者については誰もが自業自得ないし()()()()()()()と思っている――どんな目に遭ったか忘れ去れようはずがなかった。同じ蛇舌(パーセルマウス)であり、“生き残った男の子”の色眼鏡を加味しても、やはりハリー・ポッターと比べればスミレはずっと陰気かつひどい癇癪(ヒステリー)の持ち主だと思われている。

 身内のスリザリン……とりわけ上級生からも冷淡さを理由にやや遠ざけられつつある。スミレの方が頑なに心を閉ざし、冷たくあしらっているのだから、どれほど巧妙に取り繕ったところでいずれは露呈する。結局のところ鍍金が剥がれ始めただけなのだ。

 アザミはようやく腹八分目に達したようだった。

 恐るべき胃袋の持ち主である。

 こんな食生活を一ヶ月も続けていれば糖尿病と肥満に陥るだろう。

 授業の準備があるから、とだけ告げてアザミはさっさと大広間を去っていった。何人かの生徒が後ろ姿を目で追った。ただ早足で歩いているだけでも様になるのは得がたい才能と言えるかもしれない。留学生という肩書きの物珍しさも少なからず評判に影響を及ぼしているのは確かだ。

 アザミが去るとみんなスミレから遠のいた。

 顔立ちの可愛いらしさならアザミよりずっと勝る。それでもこの陰気さは如何ともしがたい。

 多少強面でもユーモアを感じさせるだけスミレより好印象なのだ。

 中には蓼食う虫も好き好きで、敢えてアザミの姿が見えなくなってからスミレに話しかける変わり者もいるにはいるのだった。

 緊張と気恥ずかしさからアーネスト・“アーニー”・マクミランの声はやや裏返っていた。

 ドン・キホーテを気取るにはやや蛮勇に欠ける。

「おっ、オハヨウ、アオイさん」

 スミレは自分が話しかけられているのだと気づいて、やや躊躇した。

 わざわざ対応するのが心の底から煩わしい。シリウス・ブラックの学生時代について詳しいニュース記事の方がよっぽど重要だった。

 しかし妙な律儀さと自己保身のために渋々振り返った。

「おはようございます」

 たったその一言を発するのに多大な心理的ストレスが生じる。

 等価交換の法則は人間の精神までカバーしていないらしい。だとすれば大変な不手際である。残念でならない。

 名前を呼ばなかったのは意図してである。思い出す時間と労力を惜しんだからだ。単純に忘れていたのではなく、端から思い出そうともしなかったのだからなお悪い。

「アオイさんも……その、今から朝食かい?」

「もう済みました。お気遣いなく」

 突き放す口調でも意に介する様子はなし。

 新聞記事にかかりっきりのスミレを無視して、アーニーは大胆不敵にも隣に座ってもいいか尋ねた。

「もし……差し支えなければ、隣に失礼しても構わないかな」

「どうぞご自由に」

 自らの意思を以て拒絶する苦労さえ惜しい。

 相手に最終決定権を、責任を押しつける方がずっと楽で済む。

 アーニーはスミレの無表情の下の本音など気づきもしない。まったく幸せ者だった。

 ぎこちない動作でついさっきアザミが座っていた席へ腰を下ろした。

 空の食器はすでに引き下げられている。真新しい取り皿をはじめ食器一式が目の前に現れて、アーニーはスミレが読んでいる記事を覗いた。ほんの好奇心である。

「知られざる、若き貴公子の黒い真実……?」

 そんな見出しから始まる虚実ないまぜのスクープ、否、極めて悪質なゴシップである。ボリューム自体はたかが知れている。

 記者の名はリータ・スキーターという。

 大変に厄介な人物だ。日刊予言者新聞(デイリー•プロフェット)のみならず週刊魔女(ウィッチ•ウィークリィ)にもよく掲載されている。真実など二の次、センセーショナルな内容にはほとんど事実が含まれていない。おそらく一割もあれば上等だろう。それとて不正確だから、やはり報道というより創作に等しい。

 にも関わらず彼女の記事はよく売れている。

 おそらくエンターテイメント性が高いのだ。フィクションと割り切ってしまえば、低俗さは依然としてあるものの、退屈凌ぎ程度にはなかなか面白い読み物だ。

 だから週刊誌でも少なからず受けがいい。冒険家にして伝記作家のロックハートが文字通り彗星の如く消え去った今、スキーターはクィディッチに次ぐ大衆娯楽の担い手といっても差し支えないくらい大きな存在となっている。

 スミレが読書家なのはアーニーもよく知っていた。

 ほとんど活字中毒といってもいい。

 放課後はいつも文庫本を持ち歩いているのだ。内容どころかタイトルさえ誰も知らないように思えた。スリザリンの友人に貸している様子もない。だとすれば日本語で書かれているのかも知れない。東洋のマグル文化なのか、ブックカバーで表紙を隠しているから、却って印象的だった。だいたい繰り返し読んでいれば、あるいは時間の経過とともに、安価な文庫本はすぐ劣化する。たかだか表紙カバーをそれほど大切に保護する理由を聞いてみたいが、なかなかその一歩を踏み出せずにいる。

 話しかけるのだってどれほどの勇気を要するか。

 プラスチック製の安いボールペンでこちらも安っぽいメモ帳に何か書き込み、それが済むと左手首に巻いた腕時計をチラと見、スミレは新聞を畳むとおもむろに立ち上がった。

 さらりと長い黒髪がゆれる。その隙間から覗く赤い視線は、あの白い大蛇のものか。

 人工的なほど整った横顔。底の見えない黒い瞳。生気に乏しいほど白い肌。無彩色の中に佇む、鮮血よりもずっと鮮やかな、赤い唇。

 磁器人形も恥じらう美貌――これは魔性だ。

 機敏さをまるで感じさせないゆっくりとした動作ながら、スミレの行動はいつも数秒ほど予想よりも素早い。

 生者とは異なる時間の流れを歩んでいるような。

「授業がありますので。それじゃ」

 スミレは得意の愛想笑いどころかアーニーの顔を見もせずに言った。

 あからさまに不機嫌な態度を隠そうともしない。けれど二人はほんの一分と話していないのだから、スミレの示した態度はまったく不当である。反感を抱いてもなんら不自然ではない。しかしアーニー・マクミランはそんな意図をまるで持ち得なかった。慌てふためいて半ば腰を上げて発したのは、

「古代ルーン文字学ならボクも――」

 と、完全に裏返った情けない声だった。

 返ってきたのはまたもや「どうぞご自由に」の一言だけ。

 凍りつく無感情にもめげず、アーニーは遠のいていく後ろ姿を追った。

 

 

 

 

 大広間から古代ルーン文字学の教室は目と鼻の先である。

 長い長い螺旋階段をぐるぐるとのぼって一番上である。

 おそらくバブリングは尖塔の最上階を教室に希望したのだ。たしかに気位の高そうな女史であった。ルーピンが――顔色の悪さや衣服のみすぼらしさを差し引いても――親近感を抱かせる人物であったのとは対称的だった。スネイプのような陰性の孤独主義よりもむしろルーピンの対比となるのはバブリングの孤高主義であるように思われた。ホグワーツに入学して間もない頃の自分を思い出させられて、ハーマイオニーは古代ルーン文字学の新教授へのささやかな苦手意識を抱きつつある。

 いずれにせよ授業に出席する苦労は計り知れないものがある。

 どうにか教室へ滑り込んだとき生徒のほとんどは肩で息をしていた。

 もちろん学年最優秀の地位を不動のものとするハーマイオニーとて例外ではない。どころか成績と反比例して体力面は同学年と比べてかなり不安がある。もともと運動全般に関してはあまりセンスに恵まれていない自覚がある。サッカー観戦への熱狂具合とセリエ(アー)のスター選手になれる確率は必ずしも比例関係にはないのだ。

 可哀想にマイケル・コーナーは額に脂汗を浮かべ吐き気と戦っている。

 パーバティとパドマのパチル姉妹もようやく具合が落ち着いた様子だ。

 ほかも似たり寄ったりの死屍累々の状況である。大量の教科書を抱えてきたハーマイオニーほど悲惨ではないが。マクゴナガルの助言に従い朝食を控え目にしていなければ今ごろは目も当てられない有り様に陥っていただろう。

 授業開始のベルが鳴り終わるのをまってバブリングは声を発した。

 張りのある、しかし熱量の乏しい機械的な声質だった。

 

「教科書は必要ない。羊皮紙と羽ペン、それに頭脳があれば結構」

 

 ザカリアス・スミスがハンナ・アボットに「それじゃあこの身体も必要ないのかな」と囁いた。

 バブリングは早速、恐るべき地獄耳を披露しながらニコリともせず応じた。

 

「その通りだスミス。キミがシリウス・ブラックの犠牲者リストに加えられたとしても、ゴーストになって出席したなら無条件に学期末考査の受験資格は認められ、かつご実家に成績表を送付させて貰う」

 

 センシティブすぎてまったく笑えない冗談だったが、スミレだけはクスクスと声を殺して笑っていた。恥をかかされたと思ったザカリアスは顔を耳まで赤くしていたが、あの白銀の大蛇に凝視されるとイヤな記憶が蘇ったと見え、すぐに目を逸らした。意外だったのはブレーズ・ザビニとセオドール・ノットまで怯んでいることだった。筋金入りに純血主義者である二人がブラックの標的になる可能性など万に一つもないはずだが、ハーマイオニーはすぐに意識を授業に集中させた。

 

「心配せずとも飢えた吸魂鬼が城を取り囲んでいる。迂闊に近寄れば連中の餌になるだけだ」 

 

 事実はそうだろうが表現の一つ一つが厭でならない。それではブラックより自分たちの方がずっと悪い状況に置かれているように聞こえてくる。なんならホグワーツが第二のアズカバンになってしまったようにも解釈できてしまう。最悪も最悪すぎる言い表し方ではないか。

 

「挨拶代わりの冗談はこのくらいにしておこう」

 

 とんでもない挨拶があったものである。既に教室の空気は冷え切っている。

 猛吹雪の真っ只中で野外授業を敢行しているかのような気分にさせられる。

 ちょうどホグワーツ特急の客室に吸魂鬼が乗り込んできたときの感覚と同じだ。

 バブリングはニコリともせずに演説を続けた。教室中の誰の顔も見ず、あらかじめ決められた文句をあらかじめ決められたタイミングで発しているだけに思えた。

 

「諸君らが自覚しているかはさておき。二年後には普通魔法レベル(Ordinary Wizarding Level)試験が控えている。六年次以降も古代ルーン文字学の受講を希望するならば、この試験でO評価を得るように。これに満たない者は例外なく受講を許可しない」

 

 普通魔法レベル試験・・・・・・頭文字から“OWL(フクロウ)試験”と呼ばれるテストがあることは上級生や家族、親戚から聞かされた生徒も少なくない。もちろんハーマイオニーも選ばれたパーシー・ウィーズリーやマクゴナガル教授から情報を得ている。難易度そのものよりも試験結果が将来に直結するという重大性をどこまで認識しているかは教室内でもばらつきがある。なんのことかサッパリという顔をしているのはスミレくらいで、スリザリンのグループもバブリングの宣言に少なからず動揺しているようだった。

 ハーマイオニーなどは血が凍る思いだった。

 OWL試験の合否は三段階ずつあわせて六段階の評価で通知される。

 不合格を示す“不可(Poor)”、“最低(Dreadful)”、“トロール( T r a w l )”。

 合格を示す“可”(Acceptable)、“期待以上、良(Exceeds Expectation)”、“最優(Outstanding)”。

 バブリングは“最優”以外の評価をすべて不合格と見なすと宣言したのだ。

 ほんの十数名しかいない生徒をさらに選抜しようなんてスパルタもいいところだ。

 ザビニやノットはどこ吹く風だが、むしろ動揺している方が多数派だった。

 ただ一昔前の言葉や文法を習うだけで済まないことくらい、教科書を流し読みすればいやでも理解させられる。

 新学期を早々にとてつもない不安が募る。

 頭痛を覚えるほど先が思いやられるのだった。

 表情の冴えない生徒に気づいたのかバブリングはようやく表情を笑顔に変化させ――つまりは下手な愛想笑いを浮かべただけなのである――慰めるように言った。

 

「そう難しく考える必要はない。OWL試験の出題範囲は本年度ですべて終わる」

 

 余命どころか死刑を宣告されたような気分がした。

 この調子ではOWL試験どころか学年末さえ自信を失ってしまう。

 ハーマイオニーにはここが葬儀場か古代ルーン文字学の教室か、判断できない。

 それはみんな同じ気持ちであった。ただスミレとアザミだけは「そりゃそうだ」と言わんばかりに従姉妹同士で顔を見合わせ、キョトンとしている。



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なんて綺麗な眺めなんでしょうか!

「気にするなよハリー。相手はあの吸魂鬼なんだ、何が起きたっておかしかないんだぜ」

 

 朝食の席でのことである。スリザリンの上級生たちがハリーを揶揄しては大声で笑いあっているところへ、たまたまフレッドとジョージが通りがかり追い払ってくれた。四年生になるカシウス・ワリントンが泣き叫びながら二人のいるコンパートメントへ駆け込んできたうえ「あんときゃ確かパンツにご立派なクソを漏らしてなかったかジョージ?」「おまけに小便もチビってたよ。ありゃあ吸魂鬼よりよほど最悪の出来事だったぜフレッド」と散々に恥をかかせて追い払ったのだった。

 ようやくハリーの周囲が落ち着いたのを見てジョージが上のようなことを言った。

 しかしホグワーツ特急で気絶したことはハリーにとって簡単に()()()()()には出来ずにいた。顔に出ているのだろう。フレッドもジョージに続いて援護射撃を飛ばした。

 

「いつのことだったかな。親父が魔法省の仕事でアズカバンに行ってきた日、あったろ。覚えてるかジョージ」

 

「忘れるもんかよフレッド。あの楽天家な親父が憔悴しきって震えながら帰って来たんだ。顔面なんて真っ青通どころかもう真っ白。母さん箒もなしに飛び上がってたし、俺たちも言葉が出なかったよな」

 

「あんなに具合の悪そうな親父は見たことなかった。吸魂鬼ってヤツらは人間の幸福とか希望ってモンを根こそぎ奪っていくんだ。アズカバンの囚人たちはみんな気が狂っちまう」

 

「開幕戦のあとじゃ吸魂鬼だってスリザリンの連中には見向きもしなくなるぜハリー。今回ばかりは賭けたっていい」

 

「よせよ兄弟。賭けにならないんじゃイカサマよりタチが悪い、いくら胴元が一番儲かる仕組みだってそいつは阿漕がすぎるってもんだ」

 

 フレッドとジョージは笑いあいながら言った。

 ハリーもようやく明るい気持ちをいくらか取り戻した。

 よく覚えている。ハリーは一年生でグリフィンドールのシーカーに選ばれ、スリザリンが相手なら二年間を通して負け知らずなのだ。去年も初陣に臨むドラコとの一騎討ちを制し、そのときの試合もグリフィンドールの勝利だった。二重にドラコの高慢ちきな鼻っ柱をへし折ってやったことを思い出すとずいぶん晴れ晴れした気分になる。

 ようやくハリーはソーセージと焼きトマトを皿に盛り付けた。

 その隣ではハーマイオニーが新しい時間割を見るなり目を輝かせた。

 

「最高だわ。今日から新学期が始まるなんて」

 

 幸せそうな声だ。

 水を差すようにロンがハーマイオニーの肩越しに覗き込む。たちまち顔を顰めた。テンポがよすぎて事前に打ち合わせしているとしか思えなかった。

 

「なんだいハーマイオニー、君の時間割ときたら酷すぎる。ご覧よ、ここなんて一日に十科目もあるじゃないか。流石の僕だって一日が二十四時間しかないことくらい知ってるんだぜ、どうして君ともあろう者がそんなことも忘れてるんだい」

 

「心配してくれてありがとうロン。けど大丈夫。()()、ちゃあんとマクゴナガル教授とよく相談して決めたのよ」

 

「先生の名前を出してまで僕を担ごうとするなんていよいよ()()()ない。今日だって一時間目から三つもかぶってる。占い学に数占い学、それに古代ルーン文字学? 予言者にでもなろうって考えてるなら止したほうがいいと思うね」

 

「予言しなくたってロンが変身術のレポートに手を付けてないことは誰だって分かります」

 

「あ、あれは仕方ないじゃないか! だって杖がポッキリ折れててほとんど練習もなんにも出

来なかったんだ。ハーマイオニーもよく知ってるだろ、僕がドブネズミをゴブレットに変えようとして散々にしくじってたのは!」

 

「一応言っておきますけど、古代ルーン文字学はあなたが想像しているようないかがわしいオカルト紛いのインチキじゃあなくて純粋な語学ですから。流石にまだ授業を受けてない段階じゃ言い切れないけど、教科書を読んだ限りだと古代ギリシャ語とかラテン語の読み書きを習うのとそんなに変わらないわ。あっ、ヒエログリフの親戚って言えば伝わるかも……ただちょっと歯ごたえがあるのは確かね。数占い学だって数秘術やゲマトリア的な性格があるのは確かだけど、本質的には数学がメインで……」

 

「ウーンもうお腹いっぱいだ。降参、降参するよ。ここらで許してください」

 

「許すもなにも私これっぽっちも怒ってないですから。後ろ指をさされてるような気になるのは日頃の学校生活について自覚があるからじゃないの?」

 

「十分怒ってるじゃないか!? 成績表を見たときのママと一字一句同じことを言ってて腹を立ててないなんて理屈が通るもんか!」

 

 ハーマイオニーはただ客観的事実に基づいて正論を述べているだけのつもりなのだろう。問題があるのは完全に受け取り手であるロンの方なのだが、どうやらウィーズリー夫人は成績はじめ学校生活全般について説教するとこんな風になるらしい。普段の賑やかな様子からはあまり想像がつかない。

 ハリーには通知表を見せる相手さえいないので少しだけ羨ましい。

 ダーズリーの誰かに手渡したところで突き返されればマシだろう。頭の中にトロールのクソが詰まっているダドリーなんて食べ物と勘違いしてそのまま丸めて口に放り込みかねない。

 

「ともかくさ。どうやって一度に三つの授業に出るんだい?」

 

「さっきからバカ言わないでロン。そんな人間いるわけないでしょ」

 意外にもロンはあっさり脱線した話題を元の軌道に戻した。

 しかしハーマイオニーも追求に応じるつもりはまったくない。露骨にこの話題を避けようといきなりハリーへバトンを放り投げてきた。

 

「ハリー、そこのママレード取ってくれない?」

 

「で、どんな手品を使おうって?」

 どこまでも食いついてくる野次馬根性にハーマイオニーが折れた。

 

「あのねロン。私の時間割がちょっと愉快なことになってるからって、アナタがそこまで気にする必要はどこにもないの」

 

 ママレードが欲しかったのは本当だった。ハリーから陶器の入れ物を受け取るとそのままトーストにたっぷり塗りつけて勢いよくかじりついた。

 ほかには何も手をつけることなく、砂糖もミルクもなしの紅茶を啜りながら、ハーマイオニーはあまり深掘りしないでほしいと言いたげに呟いた。

「それにマクゴナガル教授と相談して決めたって、さっきも言ったじゃない」

 ロンはまだ引き下がりたくない様子だったが、ハグリッドが大広間にやって来たのでこの話題は無理矢理に打ち切られてしまった。

 いつもの年季が入った木綿のオーバーオール姿で、ゴツゴツとして大きな手の片方でフェレットの死骸の束をぶら下げている。きっと禁じられた森のどこかで飼っている世にも奇妙な生き物の餌に違いなかった。それも肉食の。アラゴグとその子供たちでないことを祈るばかりだ。

 職員用のテーブルに向かう途中、妙に上ずった声でハグリッドは真顔で言った。

 

「おう、元気にしとるか?」

 

 緊張しているのだ。森番の仕事に加え、今年から魔法生物飼育学の教授も兼任することになって張り切っている。あの血に飢えた教科書もウンウン唸って悩みに悩んだ末の結果だと思えば、多少は納得できてしまう。

 

「オメエさんたちが俺のイッチ番最初の授業だ! 昼休みのすぐあとだぞ!」

 

「みんな今か今かと楽しみにしてるよ。もちろん僕らもね」

 

「そいつァありがてェこった・・・・・・なんせ五時起きして、なんだかんだと準備してたんだ……まぁその、色々とな」

 

 所在なさげに空っぽの手でお腹をポンと叩く。

 楽しみにしているのは嘘偽りなく本当なのだが、ドラゴンのニューバートに始まりケルベロスのフラッフィー、人喰い蜘蛛のアラゴグ、そして怪物的な怪物の本……これは教科書なのだが、ともかくハグリッドにとって“面白い”生き物は普通の学生には命懸けで相手をしなければならない。

 特にハリーたちはそのことをよく知っているから緊張せざるを得なかった。流石に授業でバジリスクを引っ張ってきたりはしないだろうが……。

 今回の教授就任はハグリッドにとって長年思い描いてきた夢だ。彼の性格からして落ち着いて取り組めというのが無理な相談でもある。なにせ五〇年前のことがあって、さらに去年のことがある。ふとロンは分厚いベルトに刺さった“棒きれ”に気づいた。

 ハグリッドの手に収まったならひどく粗末な枯れ枝にしか見えない。

 しかし注意深く観察すれば、それはハリーたちと同じ魔法の杖なのだ。視線に気づいてハグリッドは声をひそめて言った。

 

「ホレ、例の秘密の部屋の件でな。魔法省の連中もいよいよ俺とアラゴグが()()だっちゅうことを隠し通せなくなったんで、仕事ンときはコイツを使ってもエエっちゅうことになったんだ」

 

「仕事のときだけ? そんなの理不尽よ、そもそもハグリッドは一度だって咎められるようなことなんて……まして杖を没収されるようなこと、何もしてないわ」

 

「ありがとうよハーマイオニー。けどこれでエエんだ。ダンブルドアにこれ以上迷惑を掛けるわけにもいかん……なぁに、森番の仕事でならしくじるこたぁねぇ」

 

 もししくじったってカボチャがちっとばかし大きくなるくれェのモンだ――そう言って笑い飛ばしてみせた。ハリーとロンはアラゴグは今言及すべきではないと自分に言い聞かせた。

 そのままハグリッドは自分の席に向かって行った。いよいよロンは不安げに「何を準備してるんだろう」と漏らした。

 一限目の授業がはじまる時間が近づいてくにつれ大広間から生徒の数が減っていった。

 自分の時間割を見て、

 

「僕たちもそろそろ行った方がいい。この占い学ってのは北塔のてっぺんでやるんだ。ここからじゃ着くのに十分はかかる・・・・・・」

 

 ハリーとハーマイオニーは城の隅々まで知り尽くしてはいない。その点、ロンは両親どころか親戚みんなホグワーツの卒業生である。誰かに聞けばどの教室がどこにあるかくらいは把握できる。そのロンが遠いと言うのなら疑う方が合理的でない。

 皿に残った朝食を慌てて片付けるや三人はフレッドとジョージに挨拶して、来たと同じように長い長いテーブルの間を横切った。

 スリザリンのテーブルからクラッブとゴイルの馬鹿そうな笑い声が聞こえてきた。ドラコが何故かクスリともせず黙り込んでいるのはむしろ気味が悪いくらいで、ハリーは思わず立ち止まりそうになるのを我慢するのに苦労させられた。

 大広間から北塔までは延々と登り階段である。

 二年間をホグワーツで過ごしたが、これほど移動が大変だったことは一度もなかった気がする。ひどく遠い道のりである。

 ロンは七つ目の大階段を登りきる頃にはすっかり肩で息をしていた。

 頼みの綱のハーマイオニーも教科書を山ほどバッグに詰め込んでいるから、今にも疲労困憊のあまり卒倒しそうな顔色であった。おかげで二人ともが道順を忘れてしまいてんでバラバラな方向へ進もうとしていた。

 

「北塔はこっちよ。そっちは大広間に戻る下り階段しかないハズでしょう」

 

「そっちは南の方角だ。ホラ、そこの窓のトコロからほんの少しだけ湖が見える」

 

 ハリーは壁に飾られた絵を観察していた。

 灰色に白い斑がある太ったポニーがのんびりと草地に現れ、無頓着に草を食みはじめた。

 ホグワーツの絵は中身が動く。ときには額を飛び出してお互いに尋ねあうこともある。三年生にもなると流石に驚くようなことはなくなったが、やはりハリーはこうして絵を見るのが好きだった。

 背後では調子を取り戻した二人が道順を巡って言い争っている。

「この辺りに近道があるハズなんだ。フレッドとジョージがフィルチから逃げるときに何度か使ってたって聞いたことが――」

 

「それだったらあの二人に直接聞かなきゃいけないじゃない。変な隠し通路に入り込んで一週間も行方不明になるのはイヤなの」

 

「冗談じゃないよ。そんな危なっかしい廊下があったらとっくにダンブルドアが封鎖してるに決まってる。ただ見つけづらいってだけに決まってるさ」

 

「見つけづらいかどうかはちゃあんと見つけてから言ってくださる? ただ単にあなたが思い出せないだけで誰でも気づけるような隠し方かもしれないもの」

 

 腕時計によればまだまだ余裕がある。ハリーはもうしばらくポニーの食事を眺めていることにした。これまでは触れる機会そのものがなかったとはいえ、芸術鑑賞を趣味にするほど大人びて見られたいとも思ったことはなかったが、ホグワーツに飾られている絵を見るのはやはり面白い。この世界では写真だってテレビや映画のように動くのだ。これが面白くなくってなんだと言うんだ。

 ポニーはいつまでも食事を続けている。額縁の向こうからずんぐりとした甲冑姿の騎士が現れた。歩くだけでガチャガチャと甲冑が騒々しく鳴るのでポニーもようやく食事を止めて振り返り、これまたのんびりと騎士から離れるように歩き始めた。

 甲冑のそこかしこに青々とした草がついているところからして、つい今し方に落馬した様子だった。騎士はハリーたちに気づくや雄々しい鬨の声を上げて威嚇をはじめた。

 

「我が領地に侵入せし、不届きなる輩は何者ぞ! もしや、我が落馬を嘲るか? いざ下郎どもめ、汝が剣を抜けい!」

 

 身の丈ほどある剣を鞘から抜き放った騎士は、怒りに任せながら跳びはねるようにして、半ば振り回されるかたちで鋭い刃を乱舞させた。ハリーもロンもハーマイオニーも驚きのあまりそろって言葉を失ってしまう。呆気にとられているうちに長すぎる剣をひときわ激しく振り回した騎士はバランスを崩し、そのまま顔から草地へとつんのめった。

 不幸なことに刃は深々と地面に突き刺さってしまっている。騎士がいくら引き抜こうとしても微動だにしなかった。結局、再び鞘に戻ることはなかった。

 疲弊しきった騎士は草地にどっかり座り込んだ。兜の前面を開けると汗まみれの顔を拭った。

 

「あの、大丈夫ですか――」

 

 ハリーが絵に一歩近づく。老騎士が息も絶え絶えなのは好都合だった。

 

「僕たち、北塔を探してるんです。道をご存知ありませんか?」

 

「探求であったか!」

 

 老騎士の中で怒りは消し飛んだようだった。

 鎧をガチャつかせて立ち上がると、威勢よく叫んだ。

 

「我が朋輩よ、我に続け。求めよされば見つからん。さもなくば突撃し、勇猛果敢に果てるのみ!」

 

 もう一度剣を引き抜こうと悪足掻きをしてみたが、やはり徒労に終わった。太った仔馬に跨ろうとも試みてこれも失敗。苦し紛れに老騎士はまた叫んだ。

 

「されば徒歩あるのみ! 紳士淑女諸君、進め! 進め!」

 

 

 

 

 老騎士――カドガン卿の破天荒さには辟易させられたが、道案内の仕事は間違いなくこなしてくれた。

 ハリーたちは授業開始のベルが鳴る前に占い学の教室に辿り着き、空席を見つけることが出来た。

 占い学の担当はシビル・トレローニー教授である。ハーマイオニーによればカッサンドラ・トレローニーという祖母だか曽祖母だかな当たる人物は高名な予言者だったが、この教授についてはよく分からないらしい。

 教室は屋根裏部屋と古い紅茶専門店を組み合わせた雰囲気で、小さな丸テーブルとスツールのセットが二〇近く並べられている。窓という窓はカーテンで閉め切られている。ランプのほとんどが深紅のスカーフで覆われ、元から弱々しげな照明がぼんやり灯るばかり。古びた暖炉の上に吊るされた銅製のヤカンからは吐き気がするほど濃いお香の匂いが漂ってくる。

 調度品も一つ一つがいちいち大仰である。埃を被った羽根であるとか、何かの動物の骨や燃えさしの蝋燭、色褪せたタロットカード、それに数えきれないほどの水晶玉と紅茶のカップ……あまりにも如何わしい雰囲気の中、ハーマイオニーは隣に座った女子生徒の顔を見て飛び上がりそうになった。

 

「ちょっと、どうしてあなたがいるのよ」

 

「オレがいちゃ何か都合が悪いのか」

 

 ぶっきらぼうな口調で言い返してきたのは例の留学生である。スミレの従姉――アザミは切れ長の瞳をさらに細くして、冷酷な表情をしながらフンと鼻を鳴らした。生徒は綺麗に寮ごとでグループを作っているのにも関わらず、わざわざハーマイオニーの隣を選んだせいで非常に目立っている。誰からも揶揄われるようなことはなかった。ただ視線だけはじっとハーマイオニーとアザミのペアに注がれている。

 

「他に空いてる席がないんだ。悪かったな」

 

 そう言われてしまってはむしろ反発した方が悪者である。

 落ち着いて考えればどの授業も席は指定されてはいないのだ。

 勝手に寮で固まっているだけだ。みんな友達同士で一緒にいる事が多いから自然にそうなりやすい部分もあるが、グリフィンドールとスリザリンに限ってはむしろ寮同士の歴史的な対立関係がそのまま人間関係に影響している。

 アザミは留学生だ。ホグワーツ創設者たちの歴史も、純血主義と反純血主義の対立も、ほとんど無関係のところにいる。

 この席を選んだのも消去法にならざるを得なかったからに過ぎない。

 本当にたまたまハーマイオニーの隣しか空いていなかったからそこに座っただけなのだろう。

 いよいよ気まずい。しかし授業開始のベルが鳴ってしまった。

 教室が静まり返るのを待ってそれまで微動だにしなかったトレローニー教授がゆっくりと立ち上がった。全体に肉の削げ落ちた身体を怪しげな貴金属の装飾品やスパンコールでローブを覆っている。分厚いレンズの眼鏡を掛けて、絵本に登場するトンボのような印象がある。

 教授は霧の彼方から聞こえてくるようなか細い声を発した。

 

「ご機嫌よう子供たち……この現世で皆様のお目にかかれたのも運命のお導きでございますわ……」

 

 嫌な緊張感が走る。何やら危なっかしい雰囲気がひしひしと伝わってくる。

 

「占い学へようこそ。(アタクシ)はトレローニー教授……おそらく皆様、私の姿をご存知でいらっしゃらないでしょうね。騒々しい俗世に入り浸っておりますと『心眼』が曇ってしまいますの」

 

 ああ、この教授はかなり“大丈夫ではない”人だな――

 ハーマイオニーは薄々ながらこの授業を希望したことを後悔しはじめていた。

 

「皆様には予めお断りしておきますが、占い学は数ある学問の中で最も難解かつ深淵なるモノ――『内なる目』の備わっていない方に私がお伝え出来ることはそう多くありませんの。この学問では、書物はある段階までしか教えてくれませんのよ」

 

 教授の言い様にロンとハリーはニヤっとして同時にハーマイオニーを見た。ハーマイオニーの方は二人がどんな顔をしているか分かりきっていたので端から無視を決め込んだ。書物の内容が役に立たないなんて信じられないことではある。

 アザミはまったく無表情なのでむしろその方が意外だった。

 

「世の多くの魔法使いや魔女たちは、珍妙な音を立てたり、奇天烈な光を放ったり、馬鹿馬鹿しい薬品を煎じたり、滑稽な姿に化けることばかり得意にしていらっしゃいますわ。ですが神秘のヴェールに覆われた未来を見通すことは、皆様揃ってお出来になりません」

 

 眼鏡の向こうから瞬き一つせず生徒の顔を観察している。

 みんなの不安げな顔を無感情に見比べながら、さらに続けた。

 

「『心眼』は限られた者にだけ与えられる天分とも言えましょう……嗚呼、そこのアナタ。そうそこの男の子」

 

 教授に突然話しかけられてネビルは椅子から転げ落ちそうになった。

 

「アナタ、お婆様はお元気?」

 

「げ……元気だと思います」

 

「私がアナタの立場でしたら、それほど自信ありげにお答えできませんわ」

 

 暖炉の炎がゆらめくと教授の細長い顔に濃い影が生じた。

 見開かれた両目が分厚いレンズでさらに大きく見え、異様な眼力と底知れない不安感を無差別に撒き散らしながら、トレローニー教授はさらに声を震わせながら言った。

 

「一年間は基礎的な占いの術を学んで参りましょう。今学期は最も初歩的なお茶の葉を読むことに専念いたします。来学期は手相学に進み……ハッ! そちらの三つ編みのアナタ!」

 

 ダフネは既に疲れた顔をしていた。まさか自分のことだと思えず、後ろを振り返る。クラッブとゴイルは不機嫌そうに口を曲げて「俺たちが三つ編みなワケないだろう」「オマエのことだぞグリーングラス」と無理矢理かつ無気力なバトンパスを拒否した。

 

「十月十六日にご注意なさって。ほんの一瞬でしたが私には『兆し』が『視え』ましたわ」

 

 大真面目に心配するパンジーの方こそむしろ心配だった。ダフネは適当に驚いた顔を作ってリアクションを済ませた。教授はまだ満足し足りないのか神懸かり的な予言を続けていった。

 

「学年末には水晶占いを扱いますわ――ただし、炎の試練を乗り越えられたらですけれど・・・・・・つまるところ、望ましからざる未来でございますわ・・・・・・この学年は邪悪の流感により中断されることを意味しますの。私自身も言葉を発することが難しくなります。イースターが近づく頃に皆様の中のどなたかと永久にお別れしなければなりませんでしょうね」

 

 いよいよ予言に感化された生徒は全身を強張らせた。ハーマイオニーとダフネはもはや呆れて反応を示すのも億劫なくらいである。教授に指名されて銀のティーポットを暖炉のそばのテーブルまで運んだラベンダー・ブラウンなどは特に気に入られた様子だった。あるいは悪目立ちする大きなリボンのせいでパフォーマンスの標的にしやすかったのかもしれない。

 引き攣った笑顔で「どうもありがとう、ミス・ブラウン」と礼を伝えた口で「ところでお気に障ったならごめんあそばせ。アナタ・・・・・・赤毛の男の子に注意なさってね」

 凍りついた顔で凝視されたロンは咳をして誤魔化した。

 少なくとも理性があるなら馬鹿げた冗談だと思って欲しい。

 残念ながらラベンダーは理性を神秘のヴェールの向こうに投げ捨ててしまっていた。

 トレローニー教授は素知らぬ顔でそのまま授業を始めた。

 

「それでは皆様、二人一組になっていらっしゃいますわね。そちらの棚からお好きなカップを選んで、私のところへいらっしゃいまし。お茶を注いで差し上げます。そうしたら元の席ですべてお飲みになって・・・・・・」

 

 各々立ち上がって思い思いのティーカップを手に取り、言われたとおり教授の前へ並んだ。紅茶は一気に飲み干せるくらいまでぬるくなっていた。全員がカップを空にするのを待って教授は立派な背もたれの安楽椅子に腰掛けた。

 たおやかにケープを掛け直すと最初の落ち着いた口調に戻った。

 

「それでは左手でカップを持ち、このように内側に沿って三回だけ回してくださいまし」

 

 奇妙な儀式だったがみんな教授の手本通りに動作を行なった。さらにカップをソーサーに伏せて最後の一滴が落ちきるのを待つ。その間に教科書『未来を晴す霧』の五ページと六ページを開き葉の模様の種類を確かめた。あとは互いのカップを交換し、それぞれの茶葉の模様がどのような未来を示しているのか読み取るのだ。

 ハーマイオニーは鈍い頭痛を堪えてアザミに尋ねた。

 

「私のカップ・・・・・・何か見える?」

 

「アールグレイ葉の滓」

 

「誰が銘柄なんて聞いたのよ」

 

 冗談のつもりかと思ったが、表情は冷たいままだった。

 もしかしてスミレ以上にとぼけた性格なのだろうか・・・・・・?

 教授の悪趣味な()()()にも辟易するし、自分のペアは()()スミレの身内な上にスリザリン生だし、締め切った部屋でお香を焚いているから、頭痛はするし眠気でボーッとしてくる。ちょっと茶化してくれたのは正直なところありがたいくらいだ。

 パンジーの手前もあって堂々とお礼を言う気にはなれなかったが。

 アザミは『未来を晴す霧』を辿りどうにかそれらしい項目を見つけた。

 

「輪っか・・・・・・円形は恋愛・結婚の成就や異性からの情熱的アプローチを示す。で、こっちの五芒星は計画の成功、将来の安泰か。カンペキすぎて面白くないなコレ」

 

 ニコリともせずに言われると愉快ではなかったが、トレローニー教授の解釈はさらに不愉快だった。音もなくアザミの背後に立った教授は「ごめんあそばせ」の一言でスッとカップを取り上げ、反時計回りに回しながら大きな目を限界まで細めた。

 

「あらあら・・・・・・まぁ、まぁ・・・・・・さぁ、よおくご覧になって。この五芒星は流れ星ですから、むしろ計画の破綻と不透明な将来を暗示しておりますの。それが円環の完全性を損なっていマスでしょう? コレではむしろアナタの見立てのまったく逆のように思えませんこと?」

 

「つまり結婚や恋愛は先行き不透明でむしろ破局傾向?」

 

 再解釈を受け取った教授は悲壮感たっぷりに指環だらけの手を胸に当てて大きく頷いた。

 何となく不吉な未来を喜んでいるような気配を感じる。ハーマイオニーはますますこの授業への不信感を募らせていく。

 アザミはむしろ対称的にはじめて教室内で顔をほころばせた。けれどにこやかに笑ってもどこか陰湿さが見え隠れする。この状況ではまったく隠し通せていないが。

 

「だってさ。オレのはどうなんだよ」

 

 膨れあがった反発心を刺激するような催促だった。

 とにかく面白味のない解釈をぶつけてやろうと目を皿にして教科書とカップを見比べる。

 ユーモアをかなぐり捨てた如何にもなシンボルの組み合わせを思いついた。

 

「正位置の三角形の中に収まった円環・・・・・・じゃなくって硬貨だから、遺産相続の予兆じゃないかしら」

 

「遺産ってなんだよ。ンなもんウチにあるわけねえだろ」

 

「知らないわそんなこと。あなたの茶葉にそう出てるんだもの」

 

「おや・・・・・・なるほど、確かにこのような迂遠な形による“死”のお告げもありますわ。けれどコレは硬貨かしら・・・・・・むしろ十字架でなくって・・・・・・?」 

 

「歪んだ十字架は苦難と試練の暗示よ。つまり遺産というのは単純な金銭や土地じゃあなくって、むしろ望ましくない厄介事を意味しているんじゃない?」

 

「厄介事を背負わされるってンなら・・・・・・今がまさにそのときだろうさ。爺さんが余計なコトしてくれたおかげで孫のオレはまったくいい迷惑だよ」

 

 

 普通なら眉間にシワを寄せるなり怒りの反応を見せるところである。

 ハーマイオニーもその可能性を承知で酷い解釈をしてやったのだった。

 にも関わらずアザミの表情は愉快そのもので腹を立てているようにはまるで見えない。

 周囲はまったく笑えないでいた。端から見ればアザミとハーマイオニーの二人がトレローニー教授を間にはさみながら激しく火花を散らしている状況である。いつ炎が上がってこっちに燃え広がりやしないかと不安でたまらず、ティーカップの中でふやけている茶色いカスなどどうでもよくなっていた。

 肝心のトレローニー教授だけは惨憺たるお告げに心底ご満悦な様子で「心からお二人の幸運を祈っておりますわ」とぎこちなく微笑んだ。



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この翼に輪を付けるかは 僕ら次第ですから

 ロンとハリーは占い学の神秘的で暗示的な雰囲気に圧倒されてしまっている――ハーマイオニーは少なくとも自分はあの詐欺師ことシビル・トレローニーの術中に嵌っていないと考えていた。ネビルが二つティーカップを割ることや、ラベンダーが星占いをはじめとしたスピリチュアルな事柄に影響されやすいのは、その気になればいくらでも事前に把握出来る。所謂ホットリーディングと呼ばれる手法である。

 さらにあの露骨な演出の数々!

 ロンやパンジーは古くから魔法界に根差した家系の生まれだから様々な迷信に触れる機会が多い。さらにネビルは心理的なプレッシャーにあまり強くない。ディーン・トーマスや自分のようなマグル出身ならばいざ知らず、こうした性質を備えた生徒であれば、幾つかの仄めかしを用いることで望んだ方向へ誘導するのは難しくはないだろう。

 ……という自論を展開してロンを励まそうと試みたが成果は芳しくない。なかなか迷信深い気質(タチ)なのか、結局、ロンが昼休みのあいだに口にしたのはカボチャジュースをゴブレットに一杯分とミートパイを一齧りだけだった。

 ハリーはすっかり持ち直していた。

 たかだかお茶っ葉の残り滓がおかしな形をしているのに一喜一憂するなんて馬鹿馬鹿しいと気がついたのだ。そうすると占い学に対して批判的なマクゴナガル教授やハーマイオニーの態度はごく当然のものだと納得もできる。

 

「きっとアレは教授なりの“つかみ”のパフォーマンスなんだ。そりゃあエロイーズ・ミジョンに『明日の朝目が覚めたらニキビがもう一つ増えてます』なんてお告げをしたって誰も面白くないだろう?」

 

「言うまでもないさ。ニキビが一つ増えようが二つ増えようがアイツの顔ならどっちでも同じことだ。そんモノをいちいち数えてたら髭が真っ白になって膝下まで伸びきっちゃうね」

 

 青空ばかりが気持ちいい昼下がりであった。

 昨夜の大雨はやんでくれた。しっとりと濡れた芝生の柔らかに弾む感触が心地良い。

 ロンとハーマイオニーが見解の不一致で喧嘩するのも慣れたものだ。

 どちらかがおかしなコトを言っているのではなく、ただ意地を張り合っているだけなのだ。

 

「本当に気をつけた方がいいよハリー。グリムってのはとにかく不吉なんだぜ、僕だってあんな茶葉で自分の将来が分かるなんてこれっぽっちも思っちゃいないけど……アレだけは本物だ。ビリウスおじさんだけじゃあないんだ……グリムはただの亡霊なんかじゃない、死神そのもの……魔法使いにとっては最悪中の最悪もいいところだ」

 

「三年連続で自分から厄介事へ首を突っ込むなんてバカな真似はしないよ。それにこう言っちゃあなんだけど、僕が例の大きな黒い犬を見たのはもう半月ちかく前だ。ビリウスおじさんはグリムを見て丸一日して亡くなったんだろう? だったらアレはグリムなんかじゃあなくってただの野良犬さ……それだって危なかったのは事実かもしれないけど」

 

「幽霊の正体見たり枯れ尾花って言うしな。偶然の一致ってのはどこにでもあるもんだ。それにポッターが見たのはそもそも心理的な原因で生まれた幻で、本当はそこに犬さえいなかったのかもしれない。在ると信じ込めば在り得べからざるモノさえ現実に受肉し此岸の側に在るモノとなる……先生は“虚妄(コモウ)”なんて言ってたっけか」

 

「コモールってのが何かは分からないけど、そう、偶然の一致だと思えばあんなお茶っ葉は怖くなくなった。ロンだっておかしいと思わない? 授業中にトレローニーが予言して的中したのはネビルがティーカップを二つも落っことして粉々にするだけ。あれくらいダドリーにだって言えるよ……なんだったらスネイプなんて今週ネビルがダメにする鍋の個数までピタリと当ててみせるに違いない」

 

「コモールってのは何だロシア語か? っかしネビルってヤツはえらく鈍臭いンだなあ。そのうち大ドジこいて医務室送りになったりしないだろうな、いちいち授業が止まるなんてまっぴらだぞこっちは」

 

「心配ないよ、ロングボトムは飛行訓練の最初の授業で手首の骨を折ったきり吹き出物や大きなコブを作ることはあっても医務室に担ぎ込まれたことは……待てよ、ハーマイオニーがどうしてそんなこと聞くんだ?」

 

 違和感に気づいたロンがハーマイオニーの方を振り返る。

 声のする方には誰もいない。自分が三人の中で一番後ろにいた。

 前を歩いていたらハリーとハーマイオニーは奇妙なモノを見る目でロンの様子を窺った。トレローニーの怪電波にやられてしまったのかもと不安を感じたのだ。

 

「ハリーもロンもさっきから誰と話してるの? 私さっきから『怪物的な怪物の本』をどうやって読めばいいのかずっと考えてたわ」

 

 靴紐で雁字搦めに縛り上げられた教科書が怒りの唸り声をあげた。

 

「そんなバカな! ま、まさか……シリウス――」

 

「ンなワケがあるか! オレだよ、アザミだよ! ちょっとした悪巫山戯のつもりだったのに、本気で引っかからないでくれ」

 

 脱獄犯の名前を言いきるより先にアザミが種明かしをした。

 三人の視線が動く方向と逆の方へ動き、常にみんなの視界に入らないよう立ち回っていたのだという。呆れるほどくだらない悪戯である。ロンは腹を立てる気力さえ湧いてこなかった。

 それでも相手がドラコ・マルフォイと同じスリザリン生であることは彼女を拒絶するに十分すぎる理由であった。

 

「キミはスリザリンだろう? わざわざ僕らの方に来なくたってすぐ先にマルフォイたちがいるじゃないか。留学してきてもう()()()なんてことはないはずだ」

 

「別にいいじゃないか。占い学じゃ一緒に呪いあった仲だろ」

 

「変な言い方しないで。私はただティーカップの茶葉の形からシンボルを読み取っただけ、どんな呪文も使ってないわ」

 

 アザミの言い様にハーマイオニーはすぐさま抗議した。

 まるで自分がところ構わず杖を抜いて暴力に訴える野蛮人のようだ。そんな表現をされるのはまったく不本意であり、不正確であり、不適切である。

 けれどアザミは鋭い反論を受けても目を細めて笑顔を浮かべた。

 笑うと蛇にそっくりだ。ハリーは不意に背筋が寒くなった。

 城の地下深くに巣食う“スリザリンの蛇”を思い出した。アレがもしも笑ったら、きっとこんな目をするのだろう。

 

「不確定の未来を言葉にするのも立派な呪いさ。誰かを呪うのに呪文なんか必要ない、今さっきポッターが言ったみたいに“思い込む”って心理にはとんでもないパワーがあるんだぜ。手口は……そう、トレローニー教授がやったのとおんなじだ。相手が信じやすい視点からゆっくり小刻みに情報を流し込んで、スムーズに消化させてやる。そうしてちゃんとした下地を作っちまえばあとはいくらでもどうとでも丸め込める」

 

 まさしくネビルはトレローニー教授の術に嵌ったのだ。

 ネビル・ロングボトムはけして臆病者ではないことはハリーたち三人ともよく知っている。けれど彼はひとなみはずれて迂闊なところがあり、それを自覚して注意深く振る舞っているのだが、可哀想に自己暗示に掛かって余計なプレッシャーを感じ冷静さを失ってしまう。まんまとこの性質を教授に利用されたと言えば、そういう見方も成り立つのだ。

 改めてハーマイオニーは占い学への不快感を強めた。

 なにせ学問としては極めて不正確なのだ。マクゴナガル教授が指摘した通り、およそ体系的な研究などほとんど行われて来なかった歴史がある。さらにその知識はまったく主観的かつ属人的で、にも関わらず知識を()()する手段だけは多様かつ体系化されている。

 こんなものを授業として扱うこと自体そもそも如何なものだろう。

 流石にそこまでの批判を口にするのは自制心がゆるさなかった。

 けれどもようやくロンも――相手の経歴はさておき――新しい視点から教えられて、いくらか恐怖心が和らいだ気がした。

 不思議とアザミの言葉はすんなり馴染む。

 気取らない男勝りな口調がそうさせるのかもしれない。

 

「ま、肩肘張らずリラックスできるんだから、気分転換と思えばそう悪い時間でもねえだろ。けどあのお香はマジでどうにかならねえかなあ……臭えよな、アレ。服に染みつきやしねえか心配だったもん」

 

 涼やかな風に吹かれながらゆるやかな坂道を下る。

 遠くに見える暴れ柳ものんびりとしているようだった。

 森番小屋の前に着くとハグリッドが生徒を待っていた。

 足下には年老いたボアハウンド犬のファングが寝そべっている。爺さんにしては鋭い勘を持っているが、ここ一番でイマイチ頼りにならない番犬である。一年生、二年生と立て続けに禁じられた森で置いてきぼりを喰らったハリーにはどうしてもその記憶が先に来てしまう。ファングの方は素知らぬ顔で日向ぼっこをしている。

 集ってくる生徒は予想していたよりずっと大勢であった。ハリーはざっと周囲を見渡してみるが、グリフィンドールなんてほぼ全員いるように思えた。ハッフルパフも出席率はほぼ同じで、レイブンクローがそれよりやや少なく、スリザリンでさえ過半数が来ている。森番小屋の前はいつになく大賑わいなのだった。それどころか溢れた生徒はカボチャ畑の前にまで並んでいる。

 ハグリッドの胴間声は集った全員によく聞こえた。

 

「ええかみんな、こっちゃ来いや。今日はみんなに見せたいモンがある――スゴイ授業だぞ! ついて来いや!」

 

 一瞬、三人の心臓はまったく同じタイミングで跳びはねた。まさか今から禁じられた森に入るのではと不安になったのだ。あの森の中でいったいどれほど寿命が縮んだか。授業のアシスタントにアラゴグを紹介された日にはロンなんて恐怖のあまり死んでしまいそうだ。ドラコもユニコーンの生き血を啜る“影”を思い出して冷や汗をかいた。

 ハグリッドは大勢を引き連れて森の縁にそってどんどん進んで行く。

 五分ほど歩いて辿り着いたのは低い石垣で囲まれただけの放牧場だった。中は空っぽで、小鳥さえとまっていない。

 

「そんじゃまずはその辺に集れや。さあて、イッチ番最初にやるこたぁ教科書を開くこった。四十九ページだな」

 

 すかさずドラコが陰湿な声を発した。この瞬間を待ち構えていたと言わんばかりにハグリッドを睨みつけている。

 教科書如きに悪戦苦闘させられた恨みもある。それ以上に恋人(パンジー)の前で見栄を張りたいのだ。

 

「どうやって開けと?」

 

「あ?」

 

 思わず聞き返したハグリッドにドラコは嘲笑を浮かべた。

 

「どうやってこの教科書を開けばいいと仰るんです、()()

 

 わざとらしく「教授」の部分だけを強調する。

 ドラコの教科書は分厚い鎖で封印されていた。他の生徒も丈夫なベルトで締め上げたり、大きな袋に閉じ込めて本を押さえつけていた。そうでもしなければこの恐るべき怪物に指や鼻を食いちぎられてしまう。

 ちなみにハリーは靴下とスニーカーを一足ダメにした。

 流石のハグリッドも大きな両肩をガックリ落とした。

 きっと生徒は喜んでくれると、本気でそう思っていたのだろう。

 いつだって彼に悪気はない。

 ただ感性が致命的にズレている。

 

「だ、だーれもまだ教科書を開けなんだのか――」

 

 みんなが頷いた。学年一の秀才、ハーマイオニー・グレンジャーさえ匙を投げたのではどうしようもない。怪我をしないよう対策するのが精一杯だった。誰も鼻や指が欠けていないのが奇跡のように思える。それは同時にハグリッドの落胆をより大きなものにした。

 

「背表紙を撫ぜりゃーええんだ」

 

 たったそれだけで本当にこの怒り狂った怪物を鎮められた。

 いよいよ馬鹿馬鹿しさのあまり溜め息が漏れ聞こえた。幸いにもハグリッドは“見せたいモン”を呼びに行ったのでその場にいなかった。またもドラコの自己主張が始まると矛先はいつもの如くハリーに向けられた。

 

「まったくホグワーツはどうなってしまうのやら。あんな木偶の坊が教授だなんて、もし父上の耳に入ったらなんと仰るか……!」

 

「口を閉じろマルフォイ。その本みたいに行儀良くしていたらどうだ」

 

「それは君の御友人に言ってやり給えポッター。そんなにポカンと開けていたんじゃ羽虫が飛び込んで来てしまうからね」

 

 クラッブとゴイルが大袈裟に吹き出した笑う。細い顎に生白い指を当てて陰険な笑みを浮かべるドラコ。沸き立つ怒りに任せて杖を抜いてしまいそうになる自分を抑えつけ、ハリーは両眼にありったけの憎しみを注ぎ込んでスリザリンの三人組を睨みつけた。

 しかしドラコはハリーの胸中さえ見透かすように嘲笑した。

 

「おや、僕は吸魂鬼たちのことを言ったつもりだったんだが。おいおいポッター……君というヤツは、まさかこともあろうにウィーズリーやロングボトムへの侮辱と履き違えたんじゃないだろうね?」

 

 もしもハグリッドの戻りがあと数秒遅ければ、間違いなく杖を抜き放っていた。それはハリー自身だけでなくロンやハーマイオニーを含め、彼の性格をよく知る者は誰もが確信を持って証言できた。それくらいドラコの口撃はかつてなく苛烈だった。

 ハリー・ポッターが臨界点を超えたことはドラコも認識している。

 ただし自分の側にはアザミという保険がある。教科書から目を離そうとしない彼女だが、右手はずっと杖に触れているのだ。であれば想像し得ないような事態には陥るまい。己の運とアザミの腕が良ければ夕食前にも医務室を追い出されるだろう……そんな算段があって、さらに追い討ちを掛けたのだ。

 ラベンダー・ブラウンの悲鳴が張り詰めた空気をぶち壊した。

 不意を突かれたハリーとドラコはよろめいてしまった。

 ハグリッドは十数頭もの魔法生物を連れてきた。

 胴体の後ろ半分は馬、前半分と大きな翼は猛禽の身体である。嘴や前脚の爪は鋼鉄も容易く切り裂けそうな鋭さで、人間などはひとたまりもないだろう。見るからに凶暴なようでいて鷲そっくりの瞳はただ獰猛なだけでなく底知れない気品を感じさせる。

 それぞれ首に分厚い革の首輪をつけ、それをつなぐ太い鎖の先をハグリッドの大きな手が一まとめに束ねている。

 猛々しいながら美しいその生き物を、ハグリッドは「ヒッポグリフ」と呼んだ。

 眼光の険しさに後退りしつつも不思議と目が離せない。

 珍妙奇天烈な教科書のことなどすっかり忘れてしまうほど、みんなヒッポグリフに魅了されてしまった。

 

 ただ二人だけは……ドラコとアザミだけは、心底醒めた暗い目で()()()()()()()()()()()を眺めている。

 

 

 

 

 ホグワーツの図書室は誰でも自由に閲覧できる一般書架と別に、教授の署名した許可証が必要な閲覧禁止の書架が存在している。少なくとも三年生のレポート課題で禁書指定された文献が必要になる可能性はゼロである。そもそも上級生でさえ教授のサインを得るのはそう簡単なことではないらしい……少なくともスミレが相談を持ちかけたダフネは、これまで何度か許可証にサインを求めたが、一度として叶わなかったという。

 スネイプ曰く「上級生でさえ易々と許可は出せん」らしい。

 つくづくギルデロイ・ロックハートの失職が惜しまれる。

 あれほど無思慮な人物は世に二人といないだろう。

 おかげでスミレは早くも行き詰まった。

 ヴォルデモートが縋った不死の秘術を突き止めようと試みたものの、闇の魔術について詳しい書籍を一般書架に置くほどダンブルドアは迂闊な性格ではあるまい。もしかすると自分の手元に……つまりは校長室に隠している可能性も考えられたが、まずは禁書指定の棚を確かめてみないことには始まらない。

 三年生風情には高嶺の花である。

 差し当たって一般書架を尋ねるしかなかった。

 図書室は閑散としている。生徒の姿はなく、ほとんど貸し切り状態に近い。司書のイルマ・ピンスが蔵書目録の羊皮紙を整理する微かな音、小さな窓ガラスから差し込む午後の日差し、無数の書籍から漂うほのかな埃と黴のにおい……不思議と居心地の良さを感じられる空間だった。

 羊皮紙の乾いた手触りを感じながらページをめくる。

 この感触はそれほど不快ではない。むしろ面白い。

 インクの色褪せ具合や滲み方まで千差万別である。工場の機械で均一に印刷、製版された書籍では味わえない。

 世の中には本棚を隙間なく埋めるため古書を探し求める風変わりな蒐集家もいるというが……今のスミレなら彼らの情熱に共感できる気がした。

 でもどうせならインテリアとして飾るだけでなく何度でも読み返したいのがスミレである。

 古代から中世にかけての伝説的な魔法使い、錬金術や黒魔術に取り憑かれたマグル、様々な発明に心血を注いだ賢者や天才……いくつかの書籍を流し読みして得たのは――どれほど優れた魔法使いも、完全な不老不死だけは実現出来なかった――そんな事実である。

 例えばニコラス・フラメル。彼が発明した賢者の石を触媒とする霊薬は、使用者の寿命を大きく伸ばすことは出来ても、不慮の事故や暴力による死を退ける力はない。また定期的に霊薬を摂取する必要もある。これでは完全からは程遠い。

 ユニコーンの血には延命効果が認められている。ただし、生きたユニコーンを殺めた者はその罪深さから永遠に呪われるという。この手段も一時的な延命でしかない。それでは賢者の石と同じだろう。また代償の存在も大きい。

 アーサー王伝説に登場する『聖杯』など実在性に疑問符がつく。

 少なくとも魔法界における“大魔法使い”マーリンとアーサー王伝説の“花の魔術師”マーリンが異なる人物であるように、“救世主の血を湛えた”聖杯と“命の窯”としての聖杯は元を辿れば同じものには違いないが、どちらも逸話と由来の後付けを繰り返した結果の産物に思われた。

 一息ついてメモ帳を読み返す。紀元前の時代から人々を魅了し続ける“永遠の生命”は様々なアプローチを通して非実在性ばかりが証明されてきた。単刀直入に言うなら“失敗の歴史”そのものだ。分かりきっていたことではある。再確認できただけ今日のところは十分な収穫だ。

 

 それにしても……彼らは何故諦めなかったのだろう?

 

 これまで成功した者は一人としていない。

 途方もない時間とを膨大な労力を費やして、思い描いた夢は最後まで夢のまま。

 誰も代償に見合うだけの対価を得られなかった。

 にも関わらず、自分は同じ轍を踏まないと、先人たちよりも優れた存在なのだと、どうして確信してしまったのだろう? 

 冷静に考えれば――その言葉が思い浮かんだとき、スミレは気づいた。()()使()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。とにかく短絡的なのだ。すぐに先入観で目を曇らせ、そもそも判断基準は著しく偏狭で独善的、そして万事に主体性を欠く。そんなだから軽々しく人生を棒に振る。

 真面目に考えれば考えるほど、彼らの一挙手一投足に神経を苛立たせている自分がひどく狭量で幼稚な人間に思えてくる。

 

「……………………………………」

 

 ――――――――不憫だ。

 

 魔法使いたちがではなく、自分自身(アオイ•スミレ)がである。

 ホグワーツ魔法魔術学校にいる限り逃げられない。やはりここは監獄に等しい。

 シリウス・ブラックがアズカバンを脱獄したのが羨ましい。

 彼は吸魂鬼たちさえ欺けばそれで済んだ。翻って自分はどうだ。仮にすべての目を欺き、城を脱したところで、遠く離れたロンドンまでの道のりを踏破する手段が分からない。キャッスルロックの四人組よろしく線路をとぼとぼ歩くにも体力の限界がある。

 思うにブラックの脱獄劇は協力者の存在が必要不可欠のはずだ。

 さもなければとっくに捕まっていなければ筋が通らない。

 だが現実は違う――未だに魔法省はブラックに関する情報提供を訴えているし、アズカバンの看守たちは遠く離れたホグワーツで警備の任に就いている。これで単独犯などあり得ない。いくら彼が天才であったと仮定しても、イギリス全土に及ぶ捜査網を掻い潜り、ダンブルドアの肥後下にあるハリー・ポッターを殺害するなど……。

 そんな無理難題に命を賭けるくらいなら大人しくクィリナス・クィレルの後塵を拝してヴォルデモートの復活を試みる方が、勝率で言えばよほどマシだ。

 あとはブラックにこの損得勘定が出来るだけの理性が残っていることを祈るしかない。

 悩みの種はいつまでも尽きず、どころか際限なく湧き出てくる。

 憂いの溜め息をついてみたところで……状況は何一つ改善しないが。

 それに妙に肩が凝る。

 疲れるほど本を読んだのかと首を傾げた。

 

 瞬間――――雄叫びのような、不気味で異様な風音が図書室に木霊した。

 

 完全に不意を突かれたスミレ。身体のバランスを崩し、椅子ごと後ろに大きく揺れた。その反動で勢いよく机に額を打ちつける。頭蓋骨を貫き脳へと叩きつけられる激痛と衝撃。あまりの長い髪を振り乱して仰け反ったまま、今度は椅子ごとひっくり返った。

 倒れた拍子に革靴が片方だけ投げてあらぬ方向へ飛んでいく。

 ほんの一瞬のあいだに天地が裏返り視界に火花が散る。何が起きたのかを理解することさえ出来ないまま、全身を板張りの床に打ちつけた身体が痛みを訴える。途絶えかけた意識が回復すると間もなく視界が涙でぼやけ、畳み掛けるように身体の節々がひどく痛んだ。

 

「い…………いた…………」

 

 呼吸も覚束ない中で無意識に手を伸ばす。

 指先が古書の背表紙に触れる。自分の置かれた状況を知ろうとして、けれど意識が混乱しているあまり正常な判断が出来ないでいる。立ちあがろうと手に力を込めた。

 古書を掴んでいるとは気がつかない。

 年代物の洋書である。結構な重量のあるそれが、そのまま引き寄せられる形でスミレの頭部へと落ちてきた。

 

 骨に響く鈍い音を最後に、スミレの意識はブツリと途絶える。

 



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So,can you see the meaning in your darkness?

 魔法生物飼育学の記念すべき初回授業は伝説となった。

 文字通り“怪物的な教科書”を手懐けるところから始まり、ヒッポグリフとの触れ合いという極めて貴重な体験――そしてドラコ・マルフォイを襲った“不幸な事故”……そのどれもが話題性抜群であり、夏季休暇明け初日を終えたばかりの生徒たちにはとてつもなく刺激的な事件であった。

 なにせドラコはスリザリン以外から蛇蝎の如くに嫌われている。

 筋金入りの純血主義者で大のマグル嫌い。

 出自の良さばかり鼻にかけた傲慢な態度。

 これで万人から慕われるはずがない。

 拍手喝采とともにバックビーク――()()()()()()()()()()()()()()()()()()()偉大なるヒッポグリフの名前だ――にホグワーツ特別功労賞を授与すべしの声があがらなかったのは、親愛なる森番のルビウス・ハグリッドの失職が懸念されたからに他ならない。

 間違ってもドラコ父親、ルシウス・マルフォイの権力を恐れてではない。彼の有する権力が通用するのはごく限られた人々だけだ。魔法界においてはその大半が支配者という存在に対して無頓着な傾向にある。それはホグワーツの生徒にも当てはまる。

 スリザリン生たちはそうした他寮の態度にも不快感を覚えていた。マルフォイ氏の権力そのものを否定されたように感じたのだ。そしてその印象は正解である。マルフォイ家と同じく魔法界における貴族階級を自認する純血の名門にとって、反権力志向は自分たちの地位を否定されることと同義なのだ。

 理事会はダンブルドアにハグリッドの免職を迫るだろう――スリザリン寮内の意見はこのような方向で一致している。特にドラコに親しいパンジー・パーキンソンやビンセント・クラッブ、グレゴリー・ゴイルはひときわ声が大きい。

 しかしダフネ・グリーングラスはというと、ハグリッドが教授職を解かれる可能性は限りなくゼロだと考えている。

 ルシウス・マルフォイにとって純血主義はあくまで集客力のある看板に過ぎない。対するアルバス・ダンブルドアは強硬な反純血主義を隠そうともせず、世間的には半純血・マグル生まれ・スクイブの庇護者と認識されている。当然、伝統的に純血主義と反マグル主義を重んじるスリザリンにとっては最大の敵である。ダンブルドア個人もまた学内に存在する()()()()()()()派閥への妥協を拒絶することは目に見えている。

 さらに教職員の任免は学校長の権限だ。

 これに関しては成文化された規則である。

 不当な要求に抵抗するにあたって規則ほど有効なものはない。

 限りなく低い勝率――加えて理事長と学校長の対立を鮮明化させるメリットもなく、そうなるとルシウス・マルフォイが腰を上げるとすれば、おそらくもっと別の方法を選ぶ。

 だからハグリッドは来週も魔法生物飼育学の授業をするだろう……という内容を聞かされて、留学生は吊り上がった細い目を三日月の形に歪めた。これが彼女の笑顔だというのなら随分と邪悪な笑顔である。

 

「そんなに嬉しい? 浮かれているにしても、ハグリッドの()()()()()は度を越してる気がするけど」

 

「面白くなるに決まってるじゃないか。なんせいくらゴネたって教授は無傷だろうに、マルフォイの方はプライドが邪魔して引っ込みがつかなくなるんだからな」

 

「さてどうだか。まあ、一番の被害者はあのヒッポグリフになるのかなあ。次点でパンジー」

 

「恋は盲目なんて言うだろ。誰が言い出したかは知ったこっちゃないが……けれどアイツの場合、本気でマルフォイを心配してるのか心配してる自分に酔ってるのか、かなり怪しい」

 

 相手をよく見ているような、まるで見ていないような。

 そんなアザミの意見にダフネは適当な相槌を返した。

 パンジーの取り乱しようは悲劇のヒロインを演じたい気持ちが大きい。

 もともと自己主張が強く目立ちたがりな性格をしている。それは幼馴染として確信を持って断言できる。ドラコとは……似た者同士で波長が合った、と言うべきだろうか。

 そしてハグリッドだが――おそらく当面は精神的に立ち直れない。

 少なくともドラコの怪我に責任を感じているはずなのだ。伝え聞く限りでも右前腕に大きな裂傷があるという。ヒッポグリフの成体の前脚でやられたのであれば骨に達するか、少なくとも傷口から骨が覗く程度に深いことが予想される。森番としてはベテランでも教職としてはまったくの未経験でこの事故は、少なからずショックだろう。

 もしも理事会が動く気配があればダンブルドアから先んじて自主的な謹慎をするようにとの“助言”があるはずで、いくら教科書選定のセンスが壊滅的であっても、事態の重大さを理解するだけの能力は備わっている……と信じたい。

 だからきっとハリー・ポッターたちはこのあと森番小屋に向かう。

 あの三人組は典型的なグリフィンドール生だ。眩いほどの騎士道精神に溢れている。

 勇気・正義・連帯を旗印に掲げるだけあって彼らは根本的な人間性が善なのだ。

 そんな立派な人間性がハグリッドを放置することを許すとは考えられない。

 グリフィンドール寮のテーブルの様子を窺っているのはそんな理由があるのだが、アザミはまったく無関心にキドニーパイをおかわりしていた。

 この調子ではクラッブとゴイルの取り分がなくなってしまいかねない。

 食欲オバケの二人が食事を忘れるくらいだから、よほど心配しているらしい。

 

「ドラコって意外と慕われてたんだ……」

 

「それは慕ってない人間の言うセリフだな」

 

「友達の友達は友達じゃないから」

 

 ようやくアザミの顔から笑みが消えた。

 彼女は黙っているときの方がよほどマシである。

 

「人間関係のややこしいのは嫌いだ」

 

 そう言ったきりアザミは晩餐に意識を向けた。

 空腹感が気になる程でもなく、ただ人付き合いで大広間まで来たダフネは、ビーフシチューを二口だけ啜ってスプーンを置いた。「図書室に行ってくる」とアザミに伝えて席を離れる。しばらく校内を散策しようかと思ったが、変わり者(ルーニー)に見られるのは不本意なので、素直に目的地である大時計の下まで直行した。

 流石に九月初旬で肌寒いということはなかった。

 日没までまだいくらかの猶予がある。

 しかし教授たちに見つかれば小言は避けられまい。

 変身術の課題を片付ける時間と天秤に掛けて、もう十分だけ待つことにしたとき、ようやくハリー・ポッターたち三人組の姿が見えた。一度グリフィンドール寮の談話室に戻ったのか私服姿である。あちらも制服姿のダフネに気づいたが、立ち止まる気配はまったく見られない。仕方なく声を掛けると心底不快そうにロンは鼻の穴を大きくした。つい笑いそうになる。

 

「ポッター、あなた放課後に出歩く許可は得ているの?」

 

 ……こんな風では皮肉に聞こえただろうか。

 もう少し、柔らかな言い方があったかもしれない。

 すべてはあとの祭りである。ハリーは眉間に深々とシワを寄せた。

 

「二人とも止めなかったのは意外ね。脱獄犯もそうだけれど、吸魂鬼だって何をしでかすか分からない連中なのに」

 

「君に心配される筋合いはない。マルフォイといいそうやって僕を揶揄うのが好きみたいだけど、本当はそっちこそ吸魂鬼が怖いんじゃないのか」

 

「もちろん私は吸魂鬼が怖い。怖くないなんて言ったなら、それこそウソになる。……だから、森番小屋に行くなら、せめて明るいうちにした方がいいと言ってるだけよ」

 

 思いもよらないダフネの言葉にハリーは怯む。

 こうして直接に会話したのはこれが初めてだった。秘密の部屋へ一緒に乗り込んだときもほとんど口をきいた記憶がなかった。

 囁くような低く静かな声が鼓膜を直に揺らす。

 前髪の隙間から蜂蜜色の瞳がじっとハリーを見つめる。

 トパーズのように深みのある、そして無機質な光を帯びている。

 

「騒動が起きるのは決まってハロウィーンの日没後だから、今のうちに気が済むまで好き勝手やってもらった方がいいかもしれないか……」

 

 独り言のつもりだろうがしっかり聞こえている。

 根も葉もないどころかまったくその通り。城にトロールが入り込んだのも、ミセス・ノリスが石になったのも、一昨年と去年の一〇月三十一日のことだった。ハリーの両親が命を落とし、闇の帝王が斃れ、ハリー・ポッターが“生き残った男の子”として伝説になったのも十三年前の一〇月三十一日である。

 今年こそカボチャパイの甘い香りに浮かれていられるかどうか……どうしても不安は拭えない。

 

「どうしてそんな顔をするのか知らないけど、お願いだから二年連続で命懸けの冒険に巻き込んだりしないでね。私、せめて成人するまでは長生きしたいから」

 

「頼み事をする相手が違うだろう。君が言うべきなのはスミレの方だ――どうかお願いだからシリウス・ブラックを城の中に入れるような真似はしないでくれるな、って」

 

「だったら寮の談話室に張り紙でもしておきなさいな。“喧嘩を売って良い相手かどうかよく考えましょう”……とか。ああ、それはスリザリンの方にも必要かもしれないけど」

 

「名案だとは思うけど、クラッブとゴイルの()()()じゃあ羊皮紙に何が書いてあるか理解出来るかさえ怪しくない?」

 

「別にいいのよ。ビンセントとグレゴリーはどうせ死ぬまで失敗からしか学べないから。サーカスの獣と同じよ」

 

 ロンの言いぐさも酷いものだがダフネはさらに辛辣だった。

 子供用の三輪車に跨がったりカラフルな大玉の上で逆立ちする二人を想像してハーマイオニーは危うく吹き出しそうになった。ハリーとロンも苦笑いを浮かべている。無表情のままでいるのはダフネだけだ。もしかすると彼女にとってはユーモアでなかったのかもしれない。想像したことすらなかったが、スリザリンでの生活にもそれなりに苦労があることだけは察せられた。

 

「それじゃあお休みなさい。卒業式を一緒に迎えられるよう祈っているわ」

 

 ダフネはそう言って三人に道を譲った。柱の影にほっそりとした身体が半ば隠れてしまう。彼女にはスミレともパンジーとも違う儚げな線の細さがある。

 足跡の聞こえない様は猫というよりゴーストのようだ。

 ハリーはただ「おやすみ」とだけ返した。そのまま駆け足に森番小屋の方へ去っていく。ハーマイオニーも訝しむ気持ちがあって、咄嗟に気の利いたことを言う余裕がなかった。それでも「また明日」と付け加えてあとに続く。ロンだけは猜疑心に満ち溢れた目をしてダフネを見つめている。

 

「お友達のところへ行かなくっていいのウィーズリー」

 

「君こそパンジー・パーキンソンを放ったらかしにしてるじゃないか」

 

 痛いところを突かれた。

 否、触れられたくなかった。

 パンジーはいま泣きじゃくっている。そんな幼馴染みをミリセントに押しつけ、自分はその場から逃げ出したのだ。挙げ句にハリーたちが本当に友達を案じているのか確かめようともした。いくら言葉を並べ立てても、自分が友達を……数少ない親友を見捨てた事実は変えようがないのに。

 沈黙を保ってみたが体裁はまったくである。

 悲しいかな。現実から逃げているだけに終わった。

 呆れ果てたと言わんばかりにロンはため息をつく。

 掛けるべき言葉もないとそのまま立ち去る。ダフネはやはり無言を貫く。今さら弁明しても醜態だ。恥の上塗りをするくらいなら、と思えば口を開く気にもなれない。日没前の風に吹かれて身震いしながら来た道を引き返そうとする。

 例えドラコとパンジーの恋愛が半ば茶番であっても。ショックのあまり取り乱しているのは間違いない。ならば慰めの言葉の一つも掛けてあげるのが親友なのだろうが……やはりダフネ・グリーングラスという少女は冷淡に「ドラコは完治する。パンジーはすぐに泣き止む」と判断して、せめて一肌脱ぐことが出来ないのだった。

 その性格を知っているからミリセントは止めなかったし、パンジーも「きっと新学期の初日で疲れていたんだ」と好意的に解釈してくれるという()()があって、好き勝手に振る舞えた。ロンはそんな自分本位な態度を咎めたのだ。その上で「友人でない相手」だからとそれ以上の指弾は拒んだ。形の上では自分がパンジーにしたこととそう変わらない。

 のし掛かる沈黙が重苦しい。

 自分の表情を知りたい。

 一人立ち尽くすダフネは来た道を引き返す。

 まだ初秋ながら日没前になると風が肌寒い。

 寒がりであることを差し引いても、やはりホグワーツの空気は冷たい。

 罪悪感から談話室へ帰ろうにも足が重い。本当に図書室へ向かおうか……なんの用事もないのにどうしてこんな目に遭うんだろう、と肩を落としながら廊下を歩く。

 水平線の向こうへ太陽と一緒に気持ちまで沈んでいくようだ。

 セオドール・ノットに呼び止められても振り返るのが億劫だった。

 無視してしまおうと決めて気づかぬ振りをしたが、痺れを切らしたノットに「アオイが医務室運び込まれた」と言うや、無意識に脚が止まってしまった。

 それは断じて異変に見舞われた友人を思ってではない。

 歩くトラブル・メーカーがまた騒動の渦中にいるのでは、という恐怖心からだ。

困ったことにアオイ・スミレという女子生徒は意図の有無に関わらず、極めつけの不幸を呼ぶのである。

 この一点についてはダフネも絶対的な確信がある。

 

 

 

 

 目覚めると苦痛に悶える声が呻いた。

 自分の声帯から発せられたものかと驚いた。

 慌てて周囲を見渡す。白いカーテンの間仕切りが施されている。外の様子は窺い知れない。同時に外からの視界も遮られていた。誰か悪魔に魘されているらしい。あるいは食べ過ぎたのか。いずれにせよ重症ということはないだろうから、構わず目を閉じた。

 またぞろネビル・ロングボトムが授業でヘマをしたに決まっている。

 さもなければ双子のウィーズリー兄弟の被害者だ。スミレにとっては赤の他人だ。

 それにしても医務室で目が覚めるなんて……思い当たる節がまったくない。

 やわらかい枕に頭を載せたまま何度か首をひねってみる。

 昼食後は図書室に籠もって文献を漁っていたはずだ。

 いったい何をしでかしたら医務室のベッドで横たわっているのやら。

 世の中には幾らでも不思議な事が起きる。思い出す作業を放り投げてスミレはゆっくり瞼を閉じようとした。すると向かい側から聞こえる呻き声が気になる。耳元を蚊が飛んでいるのと同じだ。一度でも気に障ると仕留めてしまうかほかの部屋に移るかしない限り、意識がずっとそちらに向いてしまう。

 思い切り怒鳴りつけてやりたい衝動に駆られる。

 場所が場所だけに自制心を働かせて踏みとどまる。

 不用意な真似をしてマダム・ポンフリーの逆鱗を踏みたくはない。小さくため息をつくのが精いっぱいの抗議だった。

 どうせならバジリスクかトム・リドルと茶飲み話でもしている方がいくらかマシだ。

 まったく退屈だ。こんなことなら鞄に小説でも入れておけばよかったと思う。

 寝返りを打ってみたり頭の中で羊を数えてみたり。色々な方法でどうにか時間を潰そうと悪戦苦闘するが、こんな調子では一分が一時間にまで伸びたような気がしてくる。

 ベッドの上で布団にくるまり芋虫の真似事をしているうちに遠くから話し声が聞こえた。

 誰かがマダム・ポンフリーと談判しているらしい。自分が面会謝絶であるはずもなければ、ネビルのヘマなどたかが知れているはずだ。間違っても消灯時間に近いなら談話室の外を出歩いて医務室まで来るなど考えづらい。ではいったいどうして……と考えている間にもすんなり面会を許可された二人組がスミレのベッドへとやって来た。

 間仕切りを開けたダフネがわざとらしく草臥れた表情を作った。

 その後ろから長身のセオドールが覗き込むようにしている。

 

「何してるのスミレ」

 

「暇だったのでつい」

 

 当然、何があったのか尋ねられる。二人だけでなくスミレ自身も疑問だった。

 

「図書室で気絶したって聞いたけど。寝不足だったの?」

 

「まさか。夜更かしなんてしてませんよ、知ってるでしょう」

 

「それじゃあ()()()()()を飲み忘れでもした?」

 

「それこそ絶対にあり得ませんよ。()()()()()()()()()()()()()()

 

 お互いニコリともせず無表情のまま喋っている。心の底から笑えないのでこればかりは仕方がない。まったく事情を知らないセオドールは蚊帳の外に置かれた居心地の悪さから口を挟みそうになり、しかしどうしても二人から発せられる無言の圧力から、苦し紛れに女性のようなアゴを掻いて誤魔化すしか出来なかった。こういうときブレーズ・ザビニなら都合のいい文句を幾つも備えているはずだ。

 結局、何かの拍子に転んで頭を打ったということで二人は妥協した。

 ようやく割り込めるタイミングを見つけたセオドールはすかさず口を挟んだ。

 

「ドラ……マルフォイは大怪我するわアオイは気絶するわ。パーキンソンは泣きっぱなしの騒ぎっぱなし、カローも別人みたいに慌てふためいて……何なんだろうな今日は」

 

「パンジーがずっと泣いてるって、もしかしてドラコが怪我をしたんですか?」

 

「最初にそう言ったはずだ。頼むから聞いてなかったなんて言わないでくれよ」

 

「だって聞いてなかったんだから仕方ないじゃないですか」

 

「冗談だろ!?」

 

「これが冗談を言ってる顔に見えますか?」

 

 そう聞き返されたところで、スミレの表情が変化しているところを見た記憶がない。いつだってどんより曇った蒼白い顔である。どこまで本気で言っているのか掴みかねているセオドールを無視してスミレは冷たく言い放つ。

 

「どのみち心配する必要もないでしょう。どうせ教授の説明を聞かずに迂闊なことをしただけ……自業自得です。それにマダム・ポンフリーならどんな重傷も一晩で元通りに治せますよ。頭と胴体がくっついていればですけど」

 

「全部ドラコ本人に聞こえてるけどいいの?」

 

 ようやくスミレは目を見開いた。その威圧感にセオドールは思わず仰け反った。

 

「ネビルじゃなかったんですか!? なあんだ――」

 

「ロングボトムだったとしても心配する気なんて端から無いくせに」

 

「そ、そんなこと……ありませんよ? ………………多分、きっと、あるいは、おそらく」

 

 弁明しても苦し紛れだった。ついさっき欠片も心配せず、どころか日常の出来事だと無関心だったことは鮮明に記憶している。忘却呪文を習得しているからといって()()ほど熟達しているほどの自信を持つにはまだ経験不足である。となると選択肢は一つ。逃げるだけだ。

 自ら布団を剥ぎ取り勢いよくベッドから飛び降りる。

 この状況でドラコと一晩も医務室で過ごすのは遠慮したい。

 

「もういいのか? 頭を打ったなら今夜は安静にしていた方が……」

 

「ご心配なく。むしろパンジーたちが心配です、のんびり気絶していられません」

 

 むしろ本心はこちらの方だった。何気なく言ったつもりがつい冗談を装ってしまった。敢えて隠す必要があったかと問われれば、スミレ自身にも答えられない気がした。ダフネの物静かな黄金色の瞳は無感情なままじっとスミレを観察している。自分でさえ分からない心の奥底を見透かされているようで、つい無意識に視線を逸らした。

 そう。例え相手の方が歳下であっても。どんな相手とだって友人にはなれる。

 生まれた国も生きてきた世界も、価値観や話す言葉さえ違っても……。

 あまりの気恥ずかしさから口には出せなかった。

 素直に言うべきなのだろうが、スミレにはただ耳まで真っ赤にするのが限界だった。



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