角谷杏は土下座が好き (sugi103)
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角谷杏は土下座が好き

「どういうつもりですか?」

「認めていただくまで、このままでいるつもりです」

 西住しほは、目の前にいる相手に隠すことも無く、分かりやすい溜息をついた。

 ここは熊本、西住邸。西住流の次期家元とはいえ、実質的にはすでに家元も同然の立場であり、来客があることはそう珍しいことではない。むしろ来客がない日のほうが珍しいくらいであるので、状況としてはいつもの日常であるといえる。

 女子高生が面会の相手というのは少し珍しい。西住流は育成年代から選手の養成には力を入れているので、黒森峰の高等部や中等部の隊長格の子どもに薫陶を与えたり助言を与えたりすることはあるので、頻度は少ないものの全く無いというわけではない。

 何かしらの依頼をされることも無いわけではない。雑誌への寄稿依頼であったり、戦車道の臨時指導者の依頼であったり、用件はさまざまだが、実質的な流派の長には様々な依頼が舞い込むことも承知済みだ。

 しかし、目の前の光景はとても異質だ。来客の相手は女子高生で、ある依頼について直接頼み込みに来た。そこまではいい。そして彼女は今、畳の上に自らの額をつけ平伏していた。俗に言う土下座である。

「もう一度整理しましょう」

「はい」

「貴方は大洗女子学園の生徒会長、角谷杏さんなのですね」

「そうです」

「そして、貴方はみほが転校する際には是非大洗に来てほしいと」

「そうです」

「その目的は、戦車道を近々復活させるつもりなので、みほの力がほしいと」

「その通りです」

 もう一度、しほは分かりやすい溜息をついた。会ったばかりの人間に土下座をされれば、誰であろうと面食らう。

「私のところへ直談判しに来るくらいですから、みほがどういった経緯で転校するのか、ご存知なのでしょう?」

「……大まかに、ですが」

 西住しほの娘、西住みほは、前回の高校戦車道全国大会決勝で失態を演じ、それまで九連覇していたチームを十連覇に導くことができなかった。その失態というのは、しほから言わせればみほ個人の責任などではなく、王者たる慢心と油断の結果であることは明白であるのだが、半ば責任を全て背負うような形で、みほは戦車道から身を引いた。次期家元の娘二人を擁して挑んだ大会において十連覇というのは至上命題で、なおかつ試合があのような形での幕切れとあっては、勝敗に納得がいかないお偉方の気を済ませるためにも、分かりやすい人身御供が必要だった。

 悔しい気持ちをバネに、というような性格では決して無いみほは、戦車道とはかかわりの無い人生を望んだ。しほは娘の希望を最大限叶えてやり、その後のことは自分とまほが背負うことで、集中砲火に晒してしまった罪滅ぼしとするつもりだったのだが、これはどうしたことだろうか。

「あの子が転校するのは、戦車道の無い学校であるという前提条件について、お話したはずなのですが」

「無理は承知の上です。どうしても戦車道の経験者、それも、飛びぬけた能力を持つ人材がほしいんです」

「……戦車道を復活させるだけなら、何も飛びぬけた能力を持つ人材など必要ないでしょう。何か裏がありますね?」

「…………今は申し上げられません」

 しほも伊達にこの世界で生きてきたわけではない。看破され口をつぐんだ角谷さんとやら、自分の身の丈に合わない面倒ごとを背負い込まされているように見えて、しほは少しだけ同情をした。

 十中八九、みほの戦車道の力を目当てにしているということは分かってはいるが、しかし言ったように、戦車道を復活させるだけであったら、何もわざわざ西住流総本家まで出向いて土下座までして頼みこむ必要は無い。

 角谷杏という娘は、責任感と強い意思の塊のような娘であることは、少し話しただけでも分かったが、そんな十八にも満たない娘に土下座までさせるというのは、何かあくどい大人の影がちらつく。しほはその真意を直接問う。

「私のところにわざわざ出向いて土下座までする貴方のことです。大洗にみほが転校した場合、強引にでもあの子を戦車道に巻き込むつもりなのでしょう?」

「……回答は控えさせていただきます」

 回答は控えると言っているが、実質的には「巻き込む」と言っているのと同じだ。この点、言質としては回答は控えているので、後で何かあったときの言い訳にもなる。自分と西住流次期家元の二人だけしかいない空間でこの落ち着きと肝の据わり方は、並大抵の器ではない。

 しほは考える。しほとしても、戦車道に携わる一人として、みほの天賦の才をみすみす逃すことは惜しかった。まほが歴代の西住流を体現する者だとしたら、みほは名門の中に現れた異物だ。異物だからこそ流派の中では疎まれる存在となるが、しかしその才を生かせる環境があれば、たちまち大輪の花を咲かせるだろう。

 島田流は、人材を成長させるのはその身のおかれた環境だと説いた。悔しいが、それは伝統に根ざした西住の家にはない。西住は弱兵を強兵に変えるが、指揮系統は一つにまとめられる。すなわち、西住を体現する一人の指示で全員が手足のように動くからこそ、西住を西住たらしめているのである。よって、みほの考える戦車道は、西住では異物となる。それは断じて容認できるものではなかった。母親として子どもの意思を尊重してあげたい気持ちもあったが、一人の戦車道に関わるものとして、この先みほがどのような戦車道を体現するのかが見られないということもまた、残念に思う気持ちも強かった

 この年齢に見合わない肝の据わり方をした生徒会長なら、何かあったときにみほを守ってくれるかもしれない。流派に縛られて何もできなかった自分には無い立場と、強い意志を持っている。

「……いいでしょう。それとなく大洗を勧めてみることにします。みほが大洗を選ばないという可能性もありますし、転校したとしても戦車道を遠ざけるということも十分にありえますが、それでもよろしければ」

「い、いいのですか?」

 畳に額をつけていた杏が、思わずしほの顔を見上げた。

 しほは始めて杏の「表情」を見た気がした。決して自分の本意ではないというわけではなかったろうが、それでも土下座などしたくないのが普通だろう。杏の驚いた顔には、駄目元で熊本までやって来たのに、まさか願いを聞き届けてくれるとはという驚きの顔が、まさしく張り付いていた。しかしその後すぐに、表情は引き締まった。隙を見せまいという態度がかえって彼女の「無理」を露にさせている。

 これでも武芸の流派をまとめてきた身だ。人を見る眼はあると思っている。この娘は小さな背中にすべてを背負い込んで、分不相応だと自覚しながら、それでも二つの足で懸命に立ち上がっている、そんな気がする。

 みほを転校させることにいいも悪いも無いし、本人が望むかどうかも分からないのだが、まるで信じてはくれないようだ。

「私にも打算があってのことです。恐縮する必要はありませんし、礼なども必要ありません」

 そう本心から言ったのだが、杏は何か裏があるのではと勘ぐっているような表情をしている。土下座をしているときはあまり表情に出なかったが、そのときにも増して、勤めて表情に出ないように意識しているため、かえって目立ってしまっている。

 このままでは自分が本心から大洗への転校を望んでいることが分からないだろう。この意志の強い娘の元なら、実の姉でさえ難儀したあのじゃじゃ馬も乗りこなせるかもしれない。そう思っているのだが、何を言っても信じてはもらえなさそうだ。

 ふと、しほは思い浮かんだことを口にした。

「……そうね、ひとつ条件を出しておこうかしらね」

 あの敗戦に対する禊として一度出された退部届けは、もう引っ込めることはできない。西住流の流儀を戦車道以外の部分でも取り入れている黒森峰にいることもまた、あのみほの性格を考えると不可能だろう。転校しか道は無いわけだが、しかし親元を離れての生活になるわけだ。戦車道を続けてほしいという以上に、息災であってほしいという願いも大きかった。

 少し考えた末、普段のしほからは想像もできないことを言うことにした。後ろに控えている菊代にはあとで何か言われるだろうが、知ったことではない。

「みほを強引に戦車道へ引き込んでも構わないけれど、その上であの子がもう一度戦車道を拒否したら、その時は大人しく引き下がって頂戴」

「……承知しました」

 承知したと口では言っているが、土下座までして頼み込むこの娘のことだ。強引にでも戦車道をやらせるだろう。それはむしろ好都合なので、念を押すようなことはしなかった。みほは大洗に行くとは限らないが、この生徒会長なら、という気にさせてもらったのは大きい。杏には「それとなく」と言ったが、みほには大きく大洗を推してみようと思う。

 決まりきった文句が並んだ大洗女子学園の魅力について杏から説明を受けた後、彼女は大洗へと帰っていった。その背中は今にも風に吹かれて飛ばされそうな儚いものだったが、しほには何もすることは出来ないのだから、黙って見送りをするだけだ。

 しほは杏から手渡された大洗女子学園のパンフレットを眺めながら、ふと思う。

「あとは、あの娘が大洗を選ぶかどうかだけど……」

 そこにはどこにでもある、何の変哲も無いどこにでもあるだろう高校の様子が載せられていたが、そんな表面的なことではなく、これはそう、女の勘というやつだ。

「何故だか不思議と、みほは大洗に行きそうな気がするわね」

 杏がお土産にと、大洗女子学園のパンフレットともに置いていった日本酒の瓶をコツンと叩くと、内陸にある西住邸にはありえないことだが、なぜだか潮風のしょっぱい匂いが香ったような気がした。

 

 

 

 ■ ■ ■

 

 

 

「また土下座ですか」

「……」

「認めてもらうまでこのままというのも、以前と同じね」

 しほはため息をつく前に呆れ返った。自分の眼前で土下座が展開されることなどそうはない。人生で一度か二度あるかないかだろう。しほも、旦那が西住の家に結婚の許しをもらいに来たときと、大学時代、島田千代が西住邸に遊びに来たとき、熊本の強い焼酎でやらかして畳を総取替えになったときだけだ。

 しかし今年は異常だ。これまでの人生で二度しかなかったものが、すでに二回も経験している。それも娘と同い年の高校生に、だ。

「みほの転校の件については、もはや礼の必要もないですが、今日はその件ではないのですね?」

「はい」

「……蝶野から話は聞いています」

 もう一度あきれながら、そう言葉にするので精一杯だった。

 土下座をされるいわれはないが、この生徒会長に頭を下げられる理由については思い当たる節が一つある。というかそれしかなかった。

 深々と頭を畳につけた大洗女子学園生徒会長、角谷杏は恭しい口ぶりで言った。

「本日はその件で、ご協力のお願いに参りました」

 大洗の存廃問題。これは大洗の問題だけではなく、戦車道という競技そのものの問題である。高校戦車道の全国大会で優勝した学校を廃校にしようというのだ。ここまでコケにされても理事長は抗議に及び腰で、まず第一報をくれた蝶野がその態度に非難轟々だったのを思い出す。

 この件に関しては、対応は蝶野の連絡を受けた時点で決まっている。

「この件は大洗だけの問題ではなく、高校戦車道全体の問題です。高校戦車道連盟の理事長として見過ごせない問題です」

「それでは……」

 角谷杏は手を畳についたまま少しだけ顔を上げ、しほを見やった。

「あえて貴方に頼まれるまでも無く、文科省には一度行こうと思っていました。来年の黒森峰が、貴方たちを叩き潰せなくなりますしね」

「ありがとうございます」

 角谷杏はもう一度深々と土下座をした。…………が、その深々と下げた頭を一向に上げようとはしない。

 しほは、この展開にも思い当たる節があったので、少し意地悪かと思ったが聞いてみることにした。

「何かまだあるのかしら?」

「……」

 目の前の女子高生は土下座の体勢を崩そうとはしない。まあ十中八九、今度大洗が直面するであろう試合で、大洗が勝つためにどうしても必要な「あの」件だろう。

 文科省の大洗廃止強行の報を蝶野から受けて以来、菊代にはそれとなく探らせていた。どうやら大洗廃止はすでに規定路線で、万一何らかの強硬手段に大洗側や高校戦車道側が及んだ際に動かす駒として、大学選抜が準備されているようだということが分かってきた。大学戦車道は島田千代の島田流が管轄下に置くが、選抜チームということで文科省の息が多分にかかっており、この戦いに意味などないと分かってはいても、命令が下れば駆り出される他ないというのが菊代の見立てだった。

 それを裏付けるかのように、先般島田千代から久しぶりに電話がかかってきた。あまり大きな声では言えない話であるし、何より確証がなく単なる勘だと前置きして、大学選抜への文科省の息のかかり方がきな臭いものになってきているようで、近いうちに望まざる試合が組まれることになるやもしれないということだった。菊代の調べていたことの裏づけにもなるし、島田千代の勘はあれでよく当たるので、文科省が積極的に動いているというのも真実なのだろう。

 しほは最初に吐いたため息よりも大きなため息を、思わず吐いてしまった。そして語る。

「……蝶野に話を聞いてから、おそらく何かしらの試合が組まれるのなら、出てくるのはおそらく大学選抜だろうというのは調べがついています。そういった準備をする動きもあるようですし。あちら側のトップともそれとなく話をしましたが、あちらもメンツがあるので、そういったことがある場合にはベストメンバーで行くようです。その上で、大洗には勝ってもらわねばなりません。そのための協力は惜しまないつもりです」

 なんとも焦点のボヤけた会話だが、まだ試合が組まれることすら決まっていないのだから仕方がない。

「それでは……」

「もし試合が行われるようなことがあれば、黒森峰は必ず駆けつけます。何があろうと」

 しほのその言葉を、角谷杏はかみ締めているようだった。深く畳に顔をつけているため表情はうかがい知れないが、彼女の背中は少し震えているようだった。

 この娘の両肩には、大洗女子学園の生徒だけではなく、学園艦で働く職員や一般人の運命まで、全てがかかっているのだ。賭けに勝てる保証はないが、それでも希望は捨ててはいないのだろう。

 その後は、試合での決着で大洗の存廃問題が解決するように仕向けるにはどのようにすればよいか、意見交換が行われた。この会談が無駄になった上で大洗が存続すればいいのにと、しほは心底から思った。

 意見交換も終わり、あとはもう文科省に掛け合うばかりとなったとき、しほは思わず口に吐いていた。

「……みほは」

 そういえば、みほの様子を聞いていないと思ったのだが、まさか口に出るとは思わなかった。

「はい?」

 角谷杏が聞き返す。

「……いえ、何でもありません」

 しほは、自分の思考に戸惑ったのち、ごまかすように前の言葉を打ち消した。

 すると杏は、しほのその言葉ですべてを察したのか、誰に促されるでもなくみほの学園での様子について語り始めた。

「西住ちゃん……いえ、みほさんについては戦車道で関わるようになってからのことしか分かりませんが、今はとても楽しそうに、日々の生活を送っています」

 それからというもの、しほは小一時間ほどみほの学校での様子を聞いていた。そこで語られるみほの姿は、あまり前に出たがらないみほらしいと思えるもの、幼少期のやんちゃだったみほの姿が思い起こされるものなど、しほの知っているみほの姿から、そうでないものまで、みほの近くにいたからこそ知りえるものだった。中でも、プラウダ戦での四方を囲まれた際の顛末は、今までまほの一歩後ろをずっと歩いてきたみほが、自分の力だけで苦難を乗り越えようとするさまを詳しく知ることができた。

 西住流の戦車道とはかけ離れているみほの戦車道だが、西住流の師範としてではなく一人の戦車道ファンとして、苦しい状況で一気に才能を開花させた選手に対して、しほは心の中で静かに賛辞を送った。

 角谷杏はみほの生活の様子について一通り話した後、大洗へと帰っていった。おそらくは連絡役の蝶野を介して、また会うことになるだろう。それが大洗なのか、あるいはここなのか、それとも文科省なのかは分からないが。

 先ほどまで角谷杏が土下座をしていた広間には、しほ一人が残された。そして、おもむろに電話機を取り、何処かへコールする。

「もしもし、まほ?」

 少しの間。

「察しがいいわね。こちらにも聖グロリアーナから連絡が来ました。あなたにも来たのでしょう? ……ええ、ええ。理事長にはあとで話をつけるので、戦車の準備と乗員の選抜を進めておきなさい」

 電話相手の少し驚いたような声とともに、しほは薄く笑顔を作った。

「私はみほに助太刀するのではないわ。あんな我侭娘には付き合いきれません。私は、みほを戦車道の道に戻してくれた、大洗の生徒会長に恩を返すのです」

 

 

 

 ■ ■ ■

 

 

 

「あなたは顔を合わせるたびに土下座をしていますね」

「はい、そうですね」

 ここまでくると、土下座といえば角谷杏、角谷杏といえば土下座である。しほは、この娘と会うと必ずため息を吐いているなと思った。

「そんなに土下座が好きなのですか?」

 しほは冗談めかして言ったが、眼前の杏は土下座の姿勢を崩さない。思わず大きなため息をついて、やはりこの娘の前ではため息ばかりだと心の中で自嘲する。

「今日は何をお願いしに来たのですか?」

「本日は今までの非礼の数々に対するお詫びと、すべての御恩に対する御礼に参りました」

 何をそんなことをと思ったが、しかし眼前の角谷杏は本気らしい。

「私自身も必要があったので動いただけです。みほの転校のことも、大学選抜の試合のことも。特に貴方が恩を感じることはありません」

「それでも、です。私は西住みほさんと貴方には一生かかっても返しきれない大恩があると感じています」

「でしたら、謝意だけで、土下座をする必要はありません」

「そんなものでは、私は感謝を返せません」

 そうのたまって、角谷杏は畳に額を当て土下座をした。そんなに好きか、土下座が。

「私には恩に報いるための便宜も図れないですし、謝罪のためのお金もありませんから、こうして土下座をするしかないんです。それが何も無い私からのせめてもの礼儀です」

「そうですか」

「ええ。他の高校はともかく、高校戦車道の代表者である西住家とつながりの深い黒森峰が、独断であれほど早くに助太刀に来られるとは思いません。西住家トップの力があったはずです。ですから私は、土下座をします」

 杏はそう言いきって、なおも続ける。

「私にはこうするしかありませんので」

 ふむ、言いたいことは分かった。まあ、土下座までされるのは納得できてはいないが、しかしその想いは分かった。

「それでは、こちらも義は果たさなければいけませんね」

 そう言って西住しほは、畳の上に三つ指をついて、静かに額を畳につけた。俗に言う土下座である。

「娘を預かっていただき、あまつさえ、不出来な親に代わって戦車道の道に戻して頂きました。大変、感謝しております」

「……え?」

 杏は目の前の光景が理解できなかった。

 西住流の、いや全国の高校生戦車道選手のすべてを束ねる西住しほが、自分の目の前で土下座をしているのだ。これには流石の杏も土下座の姿勢をすぐに崩し、恐縮しながら未だ畳に三つ指を突く西住しほに駆け寄った。

「や、やめてください! そんなに恐縮していただくようなことはしていません!」

 慌てて叫ぶ杏に対し、しほは頭を畳につけたままの姿勢を崩そうとはしない。

「貴方は恩に対して礼を尽くしました。であれば、私もそれに応えることは当然のことです」

 しほは頭を畳に向けたまま続ける。

「私としても、みほに戦車道を辞めてほしいわけではありませんでした。しかし、あの時のみほの意思は硬かった。角谷さんが私に最初に頼み込みに来た時に戦車道の優秀な人材が欲しいと言っていたけれど、みほが戦車道の道に戻るなんて考えられなかった。それでも、貴方の許なら息災でやれるだろうという確信がありました。ですから、私はみほに大洗を強く勧めました」

 杏はしほの長台詞を、神妙な面持ちで、噛みしめるように黙って聞いていた。

「母としては、みほが息災であればそれでよかったのです。それをあまつさえ、戦車道の道へ戻し、あの子の笑顔まで取り戻していただきました。そして、まほも」

「まほさんも?」

「ええ。まほは自分を責めているようでした。あの敗北はみほ一人に責があるわけではなく、チームの敗北なのだと分かりきっていたことなのに、みほを隠れ蓑にのうのうと隊長に留まっている自分が、甚だ許せなかったのでしょう」

 さも事も無げにしほは言うが、それを察していながらみほに責があるように振舞わなければならない立場というのは、どれだけの心労があったのだろうか。杏は自分のことではないのにも関わらず、思わず胸を押さえた。

「西住家の当主として、みほとまほの母として、大変感謝しております」

 もう一度、しほは深々と頭を下げた。

 杏はそれを止めることができなかった。自分の双肩に大きな重圧がかかっていたように、彼女の双肩にも母親としての至らなさや不甲斐なさ、娘に対する申し訳なさなど、自分の立場と母親としての矜持が全てのしかかっていたことは、想像するに難くない。

 大切な二人の娘と、自分の生きてきた(流派)と、決して天秤になどかけられないものを、天秤にかけなければいけない辛さ、どれほどのものだったろう。

「改めてもう一度。みほを大洗で引き取っていただいて、大変感謝しております。ありがとうございました」

 何度も何度も、重ねあわせるようにしてしほは杏に頭を下げた。杏は何も言うことができなかった。

「……」

「……」

 そのまま少しばかりの気まずい沈黙ののち、入り口の襖が静かな音を立てて開いた。

「失礼いたします」

「……菊代」

「お茶菓子と、お茶のおかわりをお持ちいたしました」

 まるで図ったようなタイミングとはこのことだろう。話が進まなくなった瞬間に現れる異物は、膠着状態を否が応でも解きほぐす。頭を上げたしほが少しだけ表情を歪めているのを見ると、やはり意図的なものなのだろう。

「何か?」

 二人の視線が集中しても、こうやってこともなげにとぼけられる肝の座り具合は、流石は西住家に仕えている女中筆頭だなと杏は納得半分あきれ半分で苦笑した。

 杏はしほのほうを見やると、こちらも苦虫をつぶしたような顔。そんなしほの心中を知ってか知らずか、何食わぬ顔で羊羹をしほと杏の眼前に置き、無くなった二人の湯飲みを取り上げると、茶菓子と一緒に持ってきたおかわりのお茶を急須でこぽこぽと注いでいる。

 その所作のなんと洗練されたことか。おかげで何もしないままに二人の湯飲みにお茶が注がれ、二人の眼前に静かに置かれた。

「ありがとう、菊代」

「お安い御用です。それはそうと、しほ様?」

「何かしら?」

「角谷さんに『もっと』聞きたいこと、あったのでしょう?」

 それを聞いた瞬間、しほは啜っていたお茶を喉に詰まらせ、ゴホゴホと咽ていた。今の流れで言えば、聞きたいことというのは、あのことしかないだろう。

「ちょ、ちょっと……!」

「それでは、私は失礼いたします」

 当主を全く無視して、菊代と言われた女中は襖を音もなく閉めて去っていった。

 杏は冷静になって気が付いたが、『もっと』聞きたいことがあるという話を、かの女中はどこから聞いたのだろうか。

「あっ、そうか」

 そこまで考えて、ごくごく当たり前な結論にたどり着く。こんなごく私的な話、『誰か』に伝えていなければ誰も知ることはなかったろうに。その『誰か』が知っているのであれば、自ずとそういう話――愚痴と言ってもいいだろう――をしていたことになるだろう。西住流当主の知られざる一面を見た気がした。

「何ですか?」

「い、いえ」

 目の前の鉄の女も一人の母親なんだという顔が出てしまっていたのか、その『母親』が杏をギロリと睨みつけた。

 やがて、それすらも意味のないことだと諦めたのか、ほっとしたようなため息を一つ吐くと、諦めたように苦笑を作って、

「……この間のように、あの子の学園での様子について、詳しく聞かせて頂戴」

 と言った。杏はこのことを西住ちゃんにどう話したものか一瞬考えたが、やはり伝えないほうが双方にとってもいいのだろうなと、そのことについての思考を手放し、目の前の『母親』と、これまでの思い出話をすることにした。

 それからというもの、二人は時間の許す限り話をした。話の中心には、おっとりしているようでいて、何をしでかすかわからない、全く扱いに困る一人の少女がいた。しほも杏も、その少女にまつわる苦労話を共有しあい、ため息の応酬となるのだった。

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ 

 

 

 

「くしゅん! っくしゅん!」

「西住殿、風邪でありますか? 風邪薬、持っていますから飲まれます?」

「いや、そういうのじゃないと思うなぁ。何だろう?」

「噂でもされているんだろ」

「まあ、みほさんはモテモテですね」

「いいなあみぽりんは」

「モテモテと言っても、戦車女子に、でありますけどね」

「あっ、それなら私もだよ! 何でか女子にはモテるんだよねぇ」

「よかったじゃないか沙織、貰い手はより取り見取りだな」

「今日び、できないことではありませんよ、沙織さん」

「私にそっちの気はないの! 麻子も華もひどい!」

 

 

「…………」

「みほさん、本当に風邪ではないですか?」

「いやね、本当にそういうのじゃなくて、なんだろうな、自分の与り知らぬところで、自分の恥ずかしい話が広まっているような、そんな感覚でね。なんかむず痒くて」

「ああ、西住殿分かりますその感覚。私も胸騒ぎがして家に帰ったら、母に私の部屋の惨状を、近所の奥様方に触れ回っているのを目撃してしまったことがあります」

「おばぁが私の寝坊を言いふらすせいで、近所の爺さん婆さん連中みんなに朝が苦手なのを知られている」

「麻子の寝坊癖はそれでなくともみんな知ってるでしょ」

「むぅ……」

 

 

「全然関係ないんだけどさ、昨日から会長の姿を見てないんだけど、どこに行ったか知ってる?」

「そういえば、ヘッツァーも自動車部のみなさんが長期整備(オーバーホール)を行っているようでした」

「会長さんは学園艦の外にお出かけのようですよ。昨日、大荷物で歩いているのをお見かけしたのでお声をかけたら、九州行きの船に乗るのだと」

「九州! 遠くまで行くんだねえ」

 

 

「九州…………なんだかとても、嫌な予感がする」

「み、みぽりん、最初に会長に呼びつけられた時みたいに、なんか暗くて黒いよ!?」

「だ、大丈夫でありますか西住殿?」

「なんか急に、動悸が……」

 

 

<FIN>



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