緋い羽根のおはなし (西風 そら)
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はじまりのおはなし
海に降る雪・Ⅰ


*全40話・約15万文字(文庫本一冊程度)
*お茶受けに、のんびり楽しんで頂ければ幸いです





 灰色の海と灰色の空が溶け合って彼方まで続く。

 狭い湾だが、こんな霧の中だと無限な空間に感じられる。

 このまま砂を歩いて行ったら、この世の果てまで行き着く事が出来るのかしら?

 

 木枯らしの中、波打ち際を歩く子供は裸足だった。

 肩からずり落ちそうな着衣をはためかせながら、打ち上げられた流木を拾い拾い歩いている。

 

 ・・!!

 立ち止まって子供は空を仰いだ。

 風の気配が変わったのだ。

 海から一直線に吹き抜けていたのが、霧の向こうで何かにぶつかって捩(よじ)れている。

 その捩れは移動して、上空から段々に近付いて来る。

 

「ハァーア――!」

 子供は白い息と共に驚嘆の声を上げた。

 

 灰色の空から影を落として降りて来たのは、深緑の、草で編まれた馬だった。

 人が乗って草原を駆ける馬と同じ姿かたち。筋肉や腱までも見事に再現され、違う所は草の隙間に風を孕(はら)ませザワザワとそよがせている事だ。

 

 子供から少し離れた砂浜に、馬はフサリと降り立った。

 背には、分厚いマントを目深(まぶか)に被った男性。

 群青色の長い髪が一筋、フードからこぼれて風に弄(もてあそ)ばれている。

 

「や……あ…‥」

 男性の口から音が発せられた。何だかとても震えた音。

「シン……リィ?」

 

 子供は流木を放り投げ、だぶだぶの衣服を翻して逃げ出した。

「待って!」

 子供は止まらない。

 知らないヒト、知らない音、それらはただひたすらに怖い物なのだ。

 

 入り江の奥、低い灌木の林の中に、粗末な小屋がある。

 存在その物を否定されているような、傾いて朽ちかけた住処。

 周囲に流木が重ねて立て掛けられ、茅で編んだ戸口は風に煽(あお)られている。

 

 戸口に立つヒトが居る。

 風になびられる白い髪がなければ浜辺の朽木(くちき)かと見まごうような、痩せて生気のない男性。

 子供はそこに向かってひた走る。

 あのヒトの処へ戻れば安全だ、何からも護って貰える。

 

 浜と林の間の浜昼顔の群落を駆け抜けて、子供は彼の懐に飛び込んだ。

 男性は無言で小さな肩を受け止め、骨ばった指で頭を撫でる。

 その身の両側から、薄い緋色(ひいろ)の何かが広がる。

 羽根だ。潮に焼けてバサバサに干からびた、みすぼらしい羽根。

 

 その羽根の中が子供には、世界で唯一安心出来る場所だった。

 安心出来る感触、安心出来る匂いの中で、子供は満足して目を閉じる。

 

 

 

 有翼のそのヒトは、子供を抱きながら彼方を見据えている。

 先程の騎馬が、浜をゆっくり歩いて来ていた。

 

 羽根は隠れるように細くたたまれ、彼は黙って子供を小屋の中へ押しやった。

 子供はされるままに従う。

 このヒトに逆らう事も、見知らぬヒトに好奇心を抱く事も、この子供には有り得ない事だった。

 

「……お久し振りです」

 フードの男性が下馬して話し掛けたが、有翼の男性は無言だった。

 潮焼けた髪の奥の錆びた瞳も、乾(から)びた唇も、置物のように生気を感じさせない。

 

(これが本当に、あのヒト……なのか?) 

 

「シンリィ……です、よね、その子供。……男の子だったんですね、はっきり知らなくて……」

 フードの男性は言葉を選びながら歩み寄り、浜昼顔の中へ足を踏み入れかけた。

 

「・・そこで、止まれ!」

 有翼の男性が鋭く言った。抑えられていたが強い声だった。

「何か、用か?」

 

 フードの男性は次の言葉を出すのを躊躇(ためら)って、何回も唾を呑み込んでから、短く聞いた。

「ユーフィは?」

 錆びていた相手の瞳に、鈍(にぶ)い光が走る。

「・・何故、生きていると、思う?」

 

 雷に打たれたようにビクンと揺れ、男性はフードを肩に落とした。

 群青色の長い髪の、妖精族の青年。

 ここより遥か内陸の草原にある『蒼の里』に住まう者だ。

 有翼の男性はよく知っている。何故って彼が数年前までそこに暮らしていたからだ。

 

 青年の整った顔が悲哀に歪む。

「シンリィが生きているのなら、もしかして……もしかしてと、思ったんです」

 

 有翼の男性はその顔を見て一瞬目を緩めたが、すぐまた無表情に戻った。

「とおに、諦めていると、思っていた」

「カワセミ長……」

「ボクはとおに長じゃない。じき、キミが長だろう? ナーガ・ラクシャ」

 

 ナーガと呼ばれた青年は、遠い記憶に胸を焦がした。

 その名をこのヒトから授かった時、こんな最果てでこんな風に対峙するなんて、想像出来ただろうか? 

 

「ユーフィの、墓に、参らせて貰えますか?」

「墓は、無い」

「無い? 無いって?」

「自分を焼いた灰は海に撒いてくれと言った。墓になりたくなかったんだ、ユユは」

 

 妹の懐かしい幼名。ナーガはまた胸を締め付けられた。

 このヒトは、妹が成人の名前を授かっても、つい幼名で呼んでしまっていた。

 

 輝く月(ユーフィ)のような妹は、蒼の里の偉大な長の側でそう呼ばれて、いつも幸せそうだった。

 

 

  ***

 

「あたし、明日から修練所に行かない」

 

 白インゲンみたいな小鼻を膨らませて、妹はいきなり宣言をした。

 

「行かないって、そんなの通る訳ないだろ。蒼の里の子供はみんな修練所に通ってきちんとした教育を受けるって、ここに来た時、父上に教わったろ」

 勉強机の前で山のような書物に囲まれて、兄はゲンナリ振り向いた。

 またワガママ娘の思い付き発言が始まった……

 

「だってナナは、どの教科も一番の成績を取って、長の血筋の子供として恥ずかしくないように頑張っているんでしょ。なのに双子の妹のあたしが味噌っカスのドンケツだから台無しだって、いつもブツブツ言っているじゃない。ならナナの評判を下げない為にも、あたしは修練所に行くべきじゃないって思うの」

 

 この妹が屁理屈をこねだしたらキリがない。だからって自由勝手にさせておいたら、自分が父に叱られる。

「じゃあ、修練所に行かなくて何をするっていうんだ。ブラブラ遊んでいるようじゃ、あっという間に山に帰されるぞ」

 

 自分達は、山の神殿の守り人をしている母の元で育った。

 修練所に通う七歳になって初めて山を下りたのだが、里に来てみたら、母がいかに貴重な血筋か、里の者達がいかに自分達に期待を寄せているかを、思いっきり自覚させられた。

 どこへ行っても大人に取り囲まれて、やたらとちやほやされるのだ。子供ってそういう物かと思ったが、どうやら自分達だけみたいだし。

 

 で、自分は皆の期待に違(たが)わぬよう、勉強も振る舞いも粉骨砕身頑張っているのだが、妹の方はまったく無頓着なのだ。

 

「大丈夫、やる事は決めているわ」

「へえ、何をやるっていうんだ」

「カワセミ長様の弟子になるの」

「はああっ!?」

 

 里でただ一人の有翼の妖精カワセミは、今の長だが、自分達と血縁はない。

 

 本来、蒼の里の長は世襲制だ。長の血筋の者にしか特殊な術の力が継承されないからだ。

 だが、血筋だからって必ず能力を持って生まれる訳じゃない。現に、母は大した術者ではなかった。

 

 長の血筋に適任者がいない時代は、里人の中から術力の高い者複数人が選ばれて、協力して長を務める事になっている。で、カワセミは今の三人長のうちの一人なのだが……

 

「弟子って、あのヒトが弟子なんか取る訳ないだろ。何を空恐ろしい事を……」

「あら、カワセミ様、いいって言ってくれたわ。勿論一回目のお願いでじゃないけれど。何回お願いしたかは忘れちゃった。まあいいじゃない、とにかくもう決まったの。……あっ!」

 

 音もなく戸口に有翼の妖精が現れた。

 水色の長い髪の奥の目は鋭く、眉間にはいつも不機嫌そうな縦線が入っている。

 絶大な守護力を持つと言われる背中の翡翠色の羽根も何だか冷たく恐ろしく、ナナは里に来た時からこのヒトが苦手だった。

 

「・・ユユ、行くぞ」

 

「はあいっ」

 妹は乗馬用の頭絡と自分の細剣を掴み、空色の巻き髪をひるがえして駆け出す。

「じゃ、ナナは勉強、頑張ってね」

 

 妹は分かっていない。

 修練所でどんなに一番を取ったって、蒼の里始まって以来の術者だと噂される人物の弟子になる事と比べたら、芥子粒(けしつぶ)みたいな物だって事。

 自分がどんな思いであの時見送ったかなんて、あの子は永遠に知らないままなんだ。

 

 

「ああ、カワセミから聞いていた。事後承諾だが……まあ、いいんじゃないか」

 帰宅した父の呑気な言い草に、ナナは焦れた。父はいつもいつも、妹にだけ甘すぎる。

 

「よくないと思います。あのヒト危ない任務地へ赴く方が多いって聞きました。ユユの身が心配じゃないんですか。父上から言ってやめさせて下さい」

「う~ん。『長の決め事は絶対』って掟があるからなあ」

「父上だって長でしょう?」

 

 父のツバクロも三人長のうちの一人だ。もう一人の長ノスリと共に、カワセミとは幼馴染(おさななじみ)の親友で、里で数少ない『カワセミに意見出来る』人物だ。

 

 そもそも、突然の先祖返りで羽根を持って生まれ、長の血筋に匹敵する術力を持つと言われるカワセミは、皆にもっと尊重されてもいい筈だ。

 それが逆に遠巻きに避けられ気味なのは、ひとえにその壊滅的な人見知り(ツバクロ・談)が原因だ。まともに会話出来るのは親友の二人くらい。

 

 実質、外交能力の高いツバクロと人望厚いノスリが居てこそ、里の運営は成り立っている。

 カワセミの出番は、『話をする気のない魔物系』が出て来た時だけ……要するに修羅場担当で、そんなヒトに妹を預ける事に、父はもうちょっと躊躇(ちゅうちょ)して欲しい。

 

「大丈夫だよ、あいつも昔に比べたら大分丸くなったし。弟子を取る気になるなんて大進歩だな。それよりお前は余計な事にとらわれず、今自分のやるべき事をしっかりやっておきなさい」

 父はそう言ったが、その時ナナの心に一つの恐れが芽生えた。

 

 いつの日かカワセミが、「蒼の里の長に相応しいのはユユの方だ」と言い出したら、父は、「長の決め事は絶対だ」と言って、従ってしまうのではなかろうか。

 

 

 ナナの心配は杞憂に終わった。

 三人長の師匠でもある大長の弟子にもなれ、血筋通りに高度な術を次々習得して行くナナに対して、妹は何年たっても味噌っカスなままだった。

 その代わりに父のツバクロが、別の衝撃的な台詞をカワセミの口から聞く羽目となる。

 

「は・・? えっと? 変な聞き間違いをしたみたいだ。もう一度言ってくれないか」

 

 その頃にはナナは修練所を卒業して、父やノスリの補佐として『長の執務室』で働いていた。

 今聞こえた台詞に父と同じく驚いて、ノスリと顔を見合わせている。

 

「ユユを、妻に、したい、と言った。今度は聞こえたか?」

 

 ・・・・・・・・・・・・

 自分と子供の頃から連れ添った旧友が、自分の娘を嫁に欲しいと言う。

 そんな事を言われた父親の衝撃は、多分どこのどんな種族でだって同じだ。

 父はよく乗り切ったなあ、と思う。

 

 ユユの一途な猛アタックにカワセミ長が押し切られた……って聞かされたのは、大分後の事だ。

 

 

 蒼の里の奥は広い放牧地になっていて、春には毬(まり)のような黄色い花が咲き揃う。

 昔誰かが東から持ち帰った『金鈴花(きんれいか)』が代を重ねて亜種となり、ここだけの花になったという。

 

 土手の上から、風に乗って自在に草の馬を飛ばせる妹を見守っている。

 空中で縦回転なんておっかない事、里で出来るのは、父とあの子だけだ。

 何でも妹に勝(まさ)っていると思っていたが、そういえば飛行術だけは敵わないなと、今気付いた。

 

「ああ、楽しかった。ありがとう、ナナ……じゃなかった、ナーガ・ラクシャ」

 

 妹が独りで馬から降りようとするのを、慌てて駆け寄って手を添える。

「これっきりの約束だぞ。父上にもノスリ長にも、お前を馬に乗せるなって言われているんだ」

 

「風の妖精なのに身重(みおも)ってだけで乗馬禁止だなんて、お父様達、過保護が過ぎるわ」

「お前が尋常じゃない飛び方をするからだよ」

「あんなの普通だわ。本当に尋常じゃないってのは、空の色が変わる所まで急上昇して……」

「言うな、聞いているだけで目眩がする」

 

 厩からこっそり曳いて来たユーフィの馬は、鞍を外してやると、青草の中で気持ちよさそうに転がった。

 二人、土手に座ってそれを眺める。

 

「ナナ……ナーガは変わったわね。昔は大人の言い付けを破るなんて考えられなかった」

「そりゃ、もう子供じゃないからな」

 お前と自分とを比べる馬鹿馬鹿しさに気付いたからだよって、それは悔しいから言わない。

 

「変わったのはお前だろ、カワセミ長のどこが良かった訳?」

「うふふ」

 

 返事の代りに妹は、先程から作っていた黄色い花冠をバサリと被せて来た。

「おまじない。ナーガも早く、自分を必要って言ってくれるヒトと巡り逢えますように」

 

 陽を受けて黄金(こがね)に輝く花の中、こぼれるように微笑む妹……

 それが、ナーガが記憶している限り最後の、彼女の笑う顔だった。

 

 

 




挿し絵「金鈴花」

【挿絵表示】




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海に降る雪・Ⅱ

 



 

 

 ***

 

「要件はそれだけか?」

 

 木枯らしの浜辺。

 無機質なカワセミの声に、心を呼び戻された。

 

「いえ」

 一拍息を呑み込んで、ナーガはザッと頭を下げた。

「まず謝らなければなりません。貴方と、そしてユーフィに」

「…………」

 

 ピクとも表情を動かさない相手に、ナーガは波打つ鼓動を抑えて顔を上げた。

 ここからが本題だ。このヒト相手に話を通せるか……だが。

「里へ戻って下さい。シンリィ・ファと共に。彼は、蒼の里の大切な子供です」

 

 カワセミは無表情が崩れた。目を見開いて口を半開きにした。

 

「今更何をと呆れられるのは分かっています。でもそういうのは横へやって、今はシンリィの事を考えませんか?」

「…………」

「貴方だっていろいろ教えられるでしょうけれど、こんな辺境の海辺で二人きりで育つのが、あの子の為になるとは思えません」

 

「・・長の血筋が欲しいか」

 カワセミの半開きの口が冷ややかな声を出した。

「そんな!」

 今度はナーガが頬をはたかれたような顔をした。

 子供の為という薄っぺらい大義名分など、やはりこのヒトには通用しない。

 

「少し、離れませんか?」

 小屋の中を気にしながら、ナーガは浜の方を促した。粗末な板壁と茅の戸口は、何の遮(さえぎ)りにもならない。

 

「気遣い無用」

「いえ、あの子にあまり聞かせるべきではないと」

「気遣い無用と言っている」

「でも……」

「シンリィには言葉を教えていない」

「えっ・・!?」

 

「この世の言葉はあの子を傷付ける事しかしない。だから教えない」

 

「だ、だけど……」

「誰がどんな会話をして、うっかりそれを耳にするような事があっても、シンリィは傷付かない。そういう風に育てた」

 そう話す白い髪の下の唇は、あくまで淡々と無表情だった。

 

 ナーガは身体中から力が抜けた。

 膝を折って、それから項垂(うなだ)れて、手を砂の地面に付いた。

「そん……そんな……」

 パタパタと浜昼顔に滴が落ちる。

 

 カワセミは静かにそれを見ていた。

 

 長い沈黙があった。

 

「シンリィの為と言うのなら」

 沈黙はカワセミが破った。

「忘れてくれないか。キミ達はキミ達で、忘れて、前を向いて生きていてくれないか」

 

「僕は……確かに、里の為にシンリィを連れに来ました。だけれど……!

ただ……シンリィに逢いたかった。これは本当です。あの子が生きていると知って、いても立ってもいられなかった」

 

「そうだな、ボクの結界を破ったもんな」

 カワセミの無色だった声に、少しだけ色が付いた。

 高い崖に囲まれたこの湾にはずっと霧が立ち込めていて、外界の全てを拒絶していた。

 

 ナーガは堰が切れたように続ける。

「シンリィ・・! 本当なら友達と草原を駆け回っているような幼子(おさなご)が、こんな木枯らしの砂の上で、ひとりぼっちで・・! お願いです、里へ戻って下さい!」

 

「無理だ」

 

「無理じゃないです!」

 顔を上げてナーガは逆らった。

「シンリィは生まれて七年も生きています。貴方の力でしょう? 貴方の術かその羽根の力かで悪魔は追い祓えたって事でしょう? なら僕が、里の民に向けて、大丈夫だと宣言をします。次期長の僕が!」

 

 相手はただ静かに無言を貫いている。

 それでナーガは少しイラついた。

「シンリィは貴方の『モノ』じゃない! あの子にだって色んな権利があるんだ!」

 

「…………」

 カワセミは踵を返して、小屋の御簾をくぐって、七つにしては小さ過ぎる子供を連れて出て来た。

 子供はちょっとビクついたが、両肩に手を置かれて、すぐ安心の表情になった。

 

 不意にカワセミは子供の衣服を開けて、胸を曝(さら)した。

 ナーガは息が止まる。

 カワセミが抑えた声で呟く。

「悪魔は去っていない。ずっとここに居るんだ」

 

 キョトンとする子供の胸から下、小さな身体は、真黒い斑点に覆われていた。

 

「シンリィが何故生きながらえているのか、ボクには分からない。ユユが散り際に何かの術を施したのかもしれないが、今更そんな事を知ったって何の意味もない。はっきりしているのは、悪魔は去っていないって事だけだ。そしてこの子の側に居られるのは、羽根に護られているボクだけ」

 

 思わず後ずさりしそうになって、ナーガはハッとして踏み留まる。

 しかしそれを見逃すカワセミではなかった。

「分かっただろ。キミでさえ恐れる。当然だ」

 

 返す言葉のないナーガに、カワセミはほんの少し情の入った声で言う。

「この子はボクが育てる。平穏な安堵だけに包んで。この子に権利が有るとすれば、誰からも何からも傷付けられない権利だ」

 

 何も言えない。どうしようもない。ナーガは凍りついた表情で立ち尽くす。

 

「分かっていると思うが、里へは直に帰るなよ。何処か生き物の居ない場所で、時間をおいて様子を見るんだ。悪魔を貰っていないか」

 

「……はい」

 

「蒼の里の次期長をこんな風に心配したくない。だから、もう来るな」

 色褪せた羽根を揺らして、カワセミは背中を向けた。

 

 後ずさりしながら、ナーガはもう一度子供を見る。

 里に居た頃のカワセミと同じ、水色の細い髪。

 はなだ色の大きな瞳は、妹の幼い頃に切ないくらいそっくりだ。

 だけれど近付く事も出来ないこの子供に、ナーガは辛うじて微笑みかけた。

 シンリィは無反応だった。言葉だけでなく、ヒトとの交わりも教えていないのだろう。

 

 この子がこんな風に育つなんて、誰が望んだっていうんだ。

 

 

  ***

 

 

 七年前。

 

 遥か西の大陸から草原に、黒い悪魔が忍び寄った。目に見える侵略ではない。

 今から考えると、目に見える相手の方が、まだどれだけかマシだった。

 悪魔は黒い斑点と共に、生き物すべてを根絶やしにせんばかりの勢いで、瞬(またた)く間に広がった。

 弱体化していた人間の草原の帝国は、これでとどめを刺された。

 

 黒い疫病は人外だろうと区別なく襲い掛かり、無防備な妖精の部族が幾つか壊滅した。

 蒼の里では、術者達が何重にも結界を作って、外から入る風を塞いだ。

 けして隙間は作らなかった。……作らなかった、筈なんだ……

 

 悪魔の侵攻が明らかになった時期、カワセミは深山に居て情報が遅れ、里へ戻り損ねていた。

 折しもその十数年前に大長が行方知れずになっていた。

 不明になった場所が、後々、黒い影が最も濃かった地域だと分かり、皆はある程度の覚悟はしていたが、カワセミだけは最愛の師匠の行方を、事ある毎に捜索し、帰りが遅れてしまう事がままあった。

 執務室の者達は慌てた。一筋の風も通せない今、通信用の鷹すら使えない。

 ツバクロが高空を飛んで迎えに行くと言ったが、ノスリは長を二人も欠く危険は冒せないと止める。

 

 言い合っている面々の前に、ユーフィが緑の石版を抱えて入って来た。

「カワセミ様は大丈夫だわ」

 

「大丈夫って、どうしてそんな事が言える?」

 問いただすナーガの前で、彼女は石版を大机に置いて、蝋石を構えて目を閉じた。

「見ていて」

「??」

 

――ボクは大丈夫――

 

 書いてから、手を開いて見せてくれたのは、空豆大のピンクの石。

「この護り石と石版には、カワセミ様の術が掛けられているの。弟子だった時代に通信用に掛けて貰ったんだけれど、役に立ってよかった」

 

 そうして遠くから送られて来るカワセミの意思は、妻を通して皆に伝えられた。

 里から彼への返信は、やはりユーフィが、石を握った手で蝋石を持って文字を書く。

 それが消えたら『伝わった』合図。

 文字は書いた先から消える事もあれば、翌日消えている事もあった。

 

 カワセミは冷静だった。何となく確信はあったらしい。

――ボクの背中の羽根の守護は、悪魔に対しても効くみたい。だからボクは感染しない――

 

「あいつ、文字だけになってもいつもと変わらんな。物凄い事をサラッと報告しやがって」

 ノスリが言って、皆を笑わせた。

 

――知識があったら、ある程度は悪魔に対抗出来る。ボクは、弱い種族に防疫の知識を伝布して回る――

 

――無理するなよ――

 

――ボクは、蒼の長だから――

 

 執務室の皆は、文章でカワセミを励ます事しか出来ないのが歯痒かったが、それすら度々は躊躇(ためら)われた。

 石の通信はユーフィの体力を消耗させたからだ。彼女は臨月だった。

 

 

 そしてあの朝……眠れない男性陣の耳に響いたのは、元気な産声ではなく、産婆と女性達の金切声だった。

 

「ああ、あ、悪魔が・・!!」

 生まれたばかりの赤子の全身に悪魔の斑点があるというのだ。

 

「外と交信する事で悪魔を呼び入れてしまったのよ! 早く、早く『それ』をどうにかして!」

 パニックに陥りとても妹には聞かせられない言葉を叫ぶ女性を、慌てて抱えて遠ざけた。

 

 他の女性たちも落ち着かせ、身を浄めさせるのに手間を割いて、母親と赤子に対する注意が遅れた。

 一瞬の遅れを後悔する暇もなく、産屋はもぬけの殻だった。

 産褥の中動けるとは誰も思っていなかった。

 厩からはユーフィの馬が消えていた。

 

 追い駆けようとするナーガをぶん殴ってノスリに託し、ツバクロが自分の馬で飛び出した。

 

 が、そう時間を置かずに、唇を噛みしめながら戻って来た。

 『空の色が変わる所』までは、彼にも昇る事が出来なかったのだ。

 

 勿論、その後も捜しに行こうとした。行きたかった。

 だけれど、悪魔は明らかに里に狙いを付けている。もう風を通す訳には行かない。

 長達は辛い判断を下さねばならなかった。

 

 

 数日後、執務室の机に置かれた石版が、蜘蛛の巣状に割れていた。

 

 それきり、カワセミも、消息を、絶った。

 

 

 蒼の里は、じっと耐えるしかなかった。

 黒い悪魔が草原を蹂躙し尽くし、やっと下火になった頃には、二年の歳月が流れていた。

 草原の様相は大きく変わり、かつての生命溢れる豊穣の地は窶(やつ)れ荒れ果て、多くの大切な物が失われていた。

 

 外へ出られるようになり、ナーガは一番にユーフィとカワセミの行方を捜した。

 消息を絶つ直前に滞在していた山の民の村までは、簡単に割り出せた。

 そして、疲れ果てた生き残りの話を聞いて、また胸を潰す事となる。

 

 ユーフィはピンクの石を頼りに、カワセミの元へ辿(たど)り着けていた。

 しかしその時はもう、彼女も悪魔の手の内で、子供は虫の息だった。

 

 悪魔に憑かれた妻子を抱え、カワセミはその村から身を引いた。

 山の民が俯(うつむ)いて教えてくれたのは、そこまでだった。

 身を引いた、という言い方をしたが、現実がどうだったのかは、ワカラナイ……

 

 その後、子供は不思議に命を取り留め、ユーフィは海の灰となった。

 命を搾って何らかの力を我が子に与えたのだろうか? 

 カワセミにも分からない事が他者に分かる筈もなく、推測で語るような物でもないのだろう。

 

 山の民は最後に、俯(うつむ)いたまま教えてくれた。

 赤子には、父母二人で名を授けていたと。

 小さな額に二人の手を重ねて、『シンリィ・ファ(金鈴花)』と名付けていたと。

 

 

 

 里より遥か北の果ての海辺の二人を見つけたのは、殆どその為だけに必死で修行を積んだナーガの『内なる目』だった。

 世界から忘れ去られた小さな湾で、カワセミは干からびた羽根と共に、シンリィを包み込むように生きていた。

 

 

 里への高空気流の中で、ナーガは涙を凍らせながら叫ぶ。

「あの子ひとり救えなくて、何のための長だ……!!」

 

 

 

 



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海に降る雪・Ⅲ

「いいかいナナ。この見える範囲すべて、あちらに青くけぶっている山々まで、蒼の長の統括する土地だ」

 

 里から出てすぐ側の、ハイマツに覆われた小高い丘。

 肩に大きな手を置いて、父は遠くを指して教えてくれた。

 

「ええっ、こんなに広いの? 蒼の長って、蒼の里だけの王様かと思ってた」

 山で母に、「蒼の長様は偉大な存在なのだから、お父様にもきちんと礼儀を尽くすのですよ」と言われていたが、『イダイ』って何なのか、いまいち実感がわいていなかった。

 

「統括といっても、税を取って治めている訳じゃない。『規範』ってやつかな。誰かと誰かがケンカした、仲直りさせなきゃならない、それには皆を納得させる『正しさ』が必要なんだ」

「う――んと・・?」

 

「まあまだ分からなくてもいい。そんな感じで昔っから、蒼の長は周辺の者に頼られているんだ。誰だって本当はケンカなんかしたくないだろ? 『正しい』者がいてくれるだけで、皆、安心出来るの」

 そういうのを『信仰』とも呼ぶ……ってのは、後から知った。

 

「父上も『正しさ』が分かるの?」

「うーん、残念ながら、僕は違う。長の一人だけれど、『内なる目』の力は無い」

 

「ウチナル、メ?」

「『この世の流れを見据えて正しき方向へ風を流す力』……蒼の長の血筋にだけ継承される能力だよ。血筋にその能力を持つ者がいない時は、判断を『間違えない』ように、複数人で話し合いながら長を務めるんだ」

 

「ふうん……」

 

 

 あの時は分からなかった。実は今もあんまり分かっていない。

 

 精神集中の修行を繰り返す事によって、確かに他では誰も出来ない術が使えるようになった。

 シンリィを見付けたのは、『同じ血を持つ者を捜す術』だ。ノスリはそれも『内なる目』のひとつだと教えてくれた。でも、こういうのが『正しさ』に繋がるのかどうかは、ピンと来ない。

 里の皆を不安にさせるから言えないけれど。

 

 

 

 見慣れた草原が眼下に広がり、ナーガは高空気流から飛び出して、馬を降下させた。

 父とユーフィにしか出来なかった『高空飛行』だが、吐くような思いをして無理やり会得した。

 飛ぶのは苦手だなんて言っていられなかった。これが出来なきゃシンリィを捜せなかったのだ。

 

 ハイマツの丘を過ぎ、そこから旋回して結界を越えると、それまで見えなかった蒼の里の全景が、いきなり現れる。

 手前に馬繋ぎ場と厩舎群、そこから扇状に居住区、奥に修練所と放牧地。

 昔は外から帰るとホッとしたものだが、今は目をそらすのが癖になっている。

 大好きだった里の変わりようが空から見えてしまうのが、辛かったからだ。

 

 そう、蒼の里も結局悪魔の侵入を許した。

 シンリィが生まれた時ではない。その二年後、外界の病渦が下火になって油断が出た頃だった。

 里の端からいきなり始まった災厄は、瞬く間に多くの命を削り取って行った。

 

 馬繋ぎ場の中心に降り立ち、係の者に馬を託す。

 ここから見上げる風景も変わった。

 居住区の斜面にひしめいていた獣皮で造られた住居(パオ)は、今は往時の半分以下だ。

 その分、地面に焼け焦げた跡がある。悪魔の侵入した家は焼いて清めるしかなかった。

 ナーガが幼い頃育った家も、無い。

 

 ガランとしたメインストリートを登り、坂の上にある石造りの執務室を目指す。

 入り口の二重の御簾を開けて中に入ると、奥の長椅子に横たわる人影があった。

 ナーガは足音を忍ばせてそっと大机に向かったが、人影はすぐに起き上った。

 

「ナーガか? ああ、寝ちまってたようだ。おかえり」

「あ、あの、すみません、ノスリ長」

 

 ノスリは大きな身体を揺らして、椅子に座り直した。

 ガタイは大きいが、頬は痩けて目の下に隈が出来ている。

 

「何、構わん。寝食惜しんで捜していたんだ、見付けたのなら速攻飛び出しちまうのはしようがない。だが今度からは置手紙じゃなく、ひとこと断ってから行ってくれな、夜中でも構わんから」

「……すみません」

「で、逢えたのか? 奴に」

「はい、一応」

 

「そうか、元気にしとったか?」

「…………」

「んん?」

「羽根が」

「??」

「見事な翡翠色だった羽根が、緋(あか)く干からびてバサバサで」

 

 ノスリは眉間にシワを入れた。

 

「ユーフィは?」

「…………」

「駄目だったのか?」

「はい」

 

「子供は?」

「…………」

 

 ナーガは何をどう言っていいのか、言葉が出て来なかった。

 察したノスリも質問は止め、彼を座らせ、茶を飲ませて落ち着かせた。

 

 

「そうか、悪魔は憑いたまま……」

 一通り聞いたノスリも言葉に詰まり、額に手を当てた。

「それで奴は、全て捨てて、子供の側にいる事だけを選んだのか。……そうだろうな」

 

「納得するんですか?」

 古くからの親友である彼の方が、カワセミの事を解るのだろうが、しかし……

 

「納得してやるしかないだろう。俺たちがユユに、ユーフィに、どんな仕打ちをしちまったか」

 

 ナーガ達兄妹にとって、幼い頃から面倒を見てくれたこのノスリは、もう一人の父親のような存在だ。だが、昔は頼もしかった大きな背中が、今はとても心許なく見える。

 

「本来なら、お産が終わって、祝福されて誉められて、ホッと休めるべき時に。あの子が外から聞こえる喧騒にどんな思いをしたか。ナーガ、俺はそれを考えると、消えてしまいたくなる」

 

 ナーガだって同じだ。

 喧騒の中には、その場を収めようとする自分の事務的な声も混じっていた筈だ。何故そんなのを放り出してすぐ、妹の元へ行ってやらなかったのか。その後悔がずっと胸を押し潰している。

 でもノスリには言えない。言うと彼を慰め役に回してしまうからだ。

 

「ね、シンリィの事をどうにかしてやれませんか。あれでいい筈がありません」

「うむ……」

「せめて言葉くらい教えてやるべきです。あの浜から出られないにしても、工夫すればもっと豊かに生きられる筈。文字を知れば書物も読めるし。あのままじゃあんまり……」

 

「ナーガ、奴は『忘れてくれ』と言ったんだろう?」

 

「でも、でも」

 ナーガは食い下がる。

「子供ってのは、笑ったり泣いたり、失敗したり誉められたり、歓びを積み重ねて大きくなって行く物なのに、あの子にはそんなの、何にも無いんです」

 

「知識を与えて苦しんだらどうする? しまったと思っても後戻り出来ないんだぞ」

「…………」

 

「それに、何も無いって事はないだろう? 父親の愛を一身に受けている」

「でも、他に、何も……」

「その愛さえ受けられずに育つ子もいる。どちらがより不幸かなんて、他者には分からないだろう?」

「…………」

 

「なあナーガ、肝心なのは俺たちが、その子を不幸だと決めつけて、憐れんで見下ろしちゃいかんって事だ。その子の事は、その子と、七年二人きりで暮したカワセミにしか分からんと思うぞ」

 

 

 

 海辺で子供が流木を拾っている。

 

 今日は空から草の馬が降りて来ても、前ほどには驚かなかった。

 一度見慣れたモノ。自分の信頼するヒトが追い払わなかったヒト。

 シンリィの中で、『コワクないモノ』に分類されたんだろう。

 それでもこの子供にとっては、波打ち際の割れた巻き貝と同じくらいどうでもいい存在だった。

 

「こ・ん・に・ち・は」

 離れた所で、ナーガは下馬して話し掛けた。

「僕はナーガ。ナ・ア・ガ・だよ、シンリィ」

 

 子供は流木を抱えたまま、首をすぼめて後退りする。

 

「そう、これを君にあげようと思ったんだ。お・み・や・げ」

 ナーガは鞍袋から小さなフェルトの靴を取り出した。

 

 シンリィはそれを見もしないで、サッと横へ駆けた。

 そちら方向、浜と林の間に、いつの間にカワセミが立っていた。

「来るな、と言った筈だ」

 

「裸足の甥っ子に靴をあげるくらい、いいでしょう」

 

「この子は……」

 カワセミは、しがみ付いて来る子供の頭を撫でながら言った。

「裸足が好きなんだ。ボクがこの子に靴を履かせようとしなかった、とでも思ったか?」

 

「……いえ」

 ナーガは出過ぎた事に恥じ入って俯(うつむ)いた。

 

 だが、これくらいで引き下がれない。

 ノスリ長の言う事は分かる。だけれどやっぱり放っておけない。

 この子の事が分からないのなら、これから知って行けばいい。

 

 

 

   ***

 

「ノスリ長は、貴方の言う通り、シンリィはそっとしておく考えです」

 

 浜を歩く二人と距離を取りつつ、ナーガは喋りながら着いて行った。

 シンリィはカワセミにぴったり寄り添っている。

 

「・・ツバクロは?」

 カワセミがぽそりと聞いた。つい会話に乗ってしまった、という感じだ。

 

「父は……生きていれば、僕より先に此処へ来たでしょうね」

 

 後ろ姿のカワセミがピタリと止まった。

 

「里も結局、悪魔の侵入を許してしまいました。シンリィが生まれた時じゃなく、ほとんど終息した二年後に。大勢命を落としました、子供がたくさん……」

 

「……そうか」

 時間をかけて呑み込んで、カワセミはまた歩き出した。

 シンリィも慌てて着いて行く。

 

「ノスリは……」

 珍しくカワセミから喋り出した。

「子供の頃からボクの言うことは、文句を言いながらも通してくれた。ボクとツバクロはいつもケンカしていた。だけれど、何かをやらかすのはいつもツバクロとで、ノスリは止める役回りだった」

 

 カワセミが立ち止まって空を仰いだ。ナーガも距離を保って立ち止まった。

「夕まづめだ」

「え?」

「風が止まる。湾に澱んだ気が溜まる。もう、帰った方がいい」

「はい」

 ナーガは素直に従って、馬を引き寄せた。

 

「また来ます」

「もう来るなと……」

「来ます」

 

 蒼い妖精は群青の髪を翻して、上昇しながら叫んだ。

「シンリィ、またね!」

 

 

 

 蒼の里の執務室は、ノスリの長男を補佐に据えて、何とか回っていた。

 早い内に草原全体を立て直さねば取り返しがつかなくなるし、力の弱った里を狙う外からの侵入者もある。気は抜けなかった。

 

 生き残った術者達は一長一短で、オールマイティのナーガに負担が掛かる事が多かったが、ノスリがなんだかんだ言いながらもフォローして、彼に時間を作ってくれた。

 僅かな時間を割いては、ナーガは高空気流に乗って、小さな湾に足を運んだ。

 

 

 

「・・しつこいな」

 すっかり枯れ野になった浜昼顔の中で、カワセミは眉間に縦線を入れて振り向いた。

 しかし最初の錆びた無表情はなくなっている。

 

 相変わらず距離は取っていたが、シンリィは『群青色の髪のヒトがそこにいるコト』に慣れて、独りで浜を歩いている。

 「シンリィの風下に立つな」という言いつけと一定の距離さえ守っていれば、カワセミはいちいち「来るな」とは言わなくなった。

 

「そんなに度々草原を留守にしていていいのか。次期長だろ、キミは」

「はい、次期長なのに、まだほとんど『内なる目』の術が使えないんです。ねえ、ご指導願えませんか」

「キミがここへ来る理由をこじつけようとしても無駄だ。ボクは長の術なんか知らん。とっとと自力で一人前になってノスリに楽をさせてやれ」

 

 最初に比べたら随分と雑談してくれるようになった。

 思えば里に居た頃は、このヒトとこんなに沢山喋るなんて、夢にも思っていなかった。

 

「そんなあ……だいたい、僕が母のお腹にいる時に早々(はやばや)と、この子は次期長だって宣言しちゃったのは、貴方でしょう?」

 

 カワセミの顔がこわばった。

「・・知っていたのか?」

 

 一瞬(しくじったか?)と焦ったナーガだが、頑張って話を続けた。

「父が教えてくれました。隔離場所に運ばれる直前に」

「…………」

「『今度、山の神殿で生まれる双子の男の子の方が、長の資質を持っている』。父とノスリ長と、限られたヒトだけの秘密だったらしいですね、貴方に『預言者』の能力もあるって事」

「ツバクロのお喋りめ……」

 

 カワセミは羽根を後ろに払って、浜昼顔の中にドサリと胡坐をかいた。

 ナーガも離れた砂浜に座った。

 

「『預言者』なんて大層な物じゃない。もともとあった小さい予知や透視能力の延長で、たまに意識もせずに閃くだけだ。そんなハンパな力があるって知れ渡ってもロクな事にならない。大長がそう言って、ノスリとツバクロも同意して、黙っていてくれたんだ」

 

「父は青年時代、何度も貴方の予知に救われたと言っていました」

「あれらは運がよかっただけだ。肝心の時に役に立たねば何の意味もない。それに……」

 骨ばった指が浜昼顔の枯れ葉をパキパキとむしる。

 

「後悔している。生まれる前の赤子の未来を決めつけてしまうような事、予言があっても、報せるべきじゃなかったんだ」

「ええ? 僕は気にしていませんよ。子供の頃から目標を与えられて、頑張れたし……」

 

「阿呆か、キミは」

 カワセミは、むしった枯れ葉を地面に投げつけた。

「『双子の片方が長の資質を持っている』って予知は、『もう片方はそうじゃない』って言っているような物なんだぞ」

 

「・・!!」

 

「ボクも阿呆だった。七年経って、その片方が山から下りて来るまで気付かなかったんだ。自分がどれだけ残酷な宣告をしたか」

 

 

 

   ***

 

「誰も言わない、でも分かるの。母様はあたしにだけ優しい、父様はあたしだけ叱らない。ナナは要る子で、あたしは要らない子だから」

 

 弟子にしてくれと捻じ込んで来た娘は、『要る子』になりたいと唇を噛んだ。

 見込みがあったわけじゃない。ただ、修行と称して自分にくっ付いて来る時だけ、この娘(こ)の瞳は希望に満ちていた。『血筋に関係なく最高の術者になれた者』を、間近に感じていたかったんだと思う。

 

 最初は罪滅ぼしのつもりだった。見栄えのいい術のひとつふたつ覚えさせてやったら、自信を持って生きられるようになるだろう……ぐらいに思っていた。

 しかし驚いた事に、教えても教えても教えても、何ひとつ出来ないのだ。

 

「ある意味すごいぞ。あのそら恐ろしい飛行術のエネルギーを、何故手元の術に変換出来んのだ」

「あたしにだって分からないわ。あーあ、いつになったら『要る子』になれるのかしら」

 

 そう言いながらこの娘はいつの間にか、『要る子要らない子』にこだわる事をやめていた。

 そして逆に、術を習得する事を無意識に拒んでいた。

 理由は……まあ、うっすら分かる。兄の為だ。

 この娘の臆病で神経質な兄が、彼女の成長を怖がっていたからだ。

 

 馬鹿馬鹿しい……と思っても、指摘はしなかった。

 そんな彼女がいつも隣にいる事に、自分が馴染んでしまっていたからだ。

 

 

 山の民の村で、赤子を抱いて馬から崩れ落ちた彼女を抱き止めた時は、さすがに心が凍った。

 言われなくても何があったか想像出来た。

 だが彼女は、残して来た兄や父親や、出産に立ち会ってくれた女性達の心配ばかりしていた。

 それでも自分は何を犠牲にしてでもこの子供を護りたいとも。

 

 なら、ボクがやる事はひとつだ。彼女の遺志を守り通すだけ。

 

 

 

 カラカラと乾いた音が響く。

 浜辺でシンリィが、抱え過ぎた流木をぶちまけてしゃがみこんでいた。

 カワセミは立ってそちらへ向かい、散らばった流木を共に拾う。

 二人並んで杣家(そまや)まで歩き、板壁に立て掛けられた流木にそれを重ねる。

 

 ナーガは黙って眺めていた。

 白い骨を思わせる色の抜けた木々は、重なり合って、何かの生き物の残骸のようだった。

 

「分かったか。最初に残酷な『この世の言葉』を吐いたのは、ボクだったんだ。だからキミもノスリも、もうこれ以上傷付いていないでくれ」

 

 

 

 

 

 

 




表紙絵「海辺の子供」

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海に降る雪・Ⅳ

   ***

 

 草原の雪が消え、陽射しの暖かな時間が増える。里は少しづつ復興していた。

 痛々しい焦げ跡の上にも新たなパオが建ち、日々の営みに塗りつぶされて行く。

 妻を亡くしたノスリ長の所にも孫が立て続けに誕生し、命の明るさを取り戻しつつある。

 生命の力強さを感じる日々。

 

 そんな毎日から北の浜辺に足を運ぶと、時間が止まっているようだった。

 出逢ってひと冬が過ぎるというのに、相変わらずシンリィには気にも止めて貰えない。

 浜昼顔の群落だけ鮮やかに新芽を色付かせているのが、返って空々しく見えた。

 

 それでもナーガは訪問をやめなかった。何の為に訪ねるのか、自分でも分からなくなっていた。

 

 

「何度来たって、どうしようもないだろう。キミはあの子の為には何も出来ない」

「ええ、出来ません。貴方の為にも」

「なら、何故来る?」

「寂しいからです、僕が」

「は……?」

 

「一緒にこの世の光を見た妹も、人生の灯台であった父も亡くした。物凄く寂しいです。里が復興すればするほど、そこに居ないヒトの影が僕の中で色濃くなって行く。ここに来るとその影から逃れられて、安らぐんです」

 

 カワセミは狐に摘ままれたような顔をした。

「しっかりしろ、キミは、次期長だろう」

「次期長でもなんでも寂しいものは寂しいんです」

「ノスリに言ってみろ。あいつはそういうのはちゃんと聞いてくれるぞ」

「言える訳ないでしょう。あのヒトだって自分が立ち直るのに精いっぱいなんだ。何でよりによって一番頼れないヒトしか……」

 

 そこまで喋って、ナーガはハッと自分の口を押えた。

「今のは……今のは、忘れて下さい。何を言っているんでしょうね、僕は」

「…………」

 カワセミは風に髪をなびらせながら、黙ってナーガを見つめていた。

 

 

 

 

 

 その日はしばらく振りの訪問だった。

 ことさら霧の深い日で、かなり高度を下げるまで視界が開けなかった。

 

 白い浜が広がるとすぐ、波打ち際を歩くシンリィが見えた。

 相変わらず腕一杯の流木を抱えていたが、数歩先で波に洗われている大きな木の根に興味が行っているようだ。

 

「拾えるのか? あんな重そうな物」

 手伝ってやりたいが、近付く訳には行かない。ナーガは馬を止めて上空で見守った。

 

 木の根は波の行き来に弄ばれ、程なく大きな波が沖に持って行ってしまいそうになった。

 子供は不器用にザブザブと追い掛け、木の根の端に手を掛ける。

 

「あっ!」

 一瞬の出来事だった。

 大きな返し波が木の根を凶器に変えた。

 あっと思う間に子供を押し倒し、深みに引き摺って行く。

 衣服が引っ掛かって外れなくなっているんだ。

 水色の髪が海中に沈む。

 

「シンリィ!」

 ナーガは我を忘れた。馬から飛び降りて、上空から海へ――!

 

――!!!!――

 

 衝撃。

 海に入る間もなく、強い力で陸へ弾き飛ばされた。

 息を詰まらせながら砂の上を転がる。

 

 痺れの残る身を起こすと、離れた砂の上に、カワセミが子供を抱いて立っていた。

 白い髪と乱れた羽根から、雫がポタポタと滴(したた)り落ちる。

 

「・・帰れ、二度と来るな」

 顔は最初の無表情に戻っていた。

 

「カワセミ長……」

 

「キミは、自分が今、何をしようとしたのか、分かっているのか」

 

「シンリィを助けようとしました、いけませんか。水に沈んだ甥っ子を助けようと。これが『正しい事』でないのなら、この世の何処に正しい事があるっていうんだ!?」

 

 カワセミは子供を脇に降ろし、しゃがんでナーガに目線を合わせた。

「ナーガ、『正しい事』と『いい事』とは違う。いい事が必ずしも正しいとは限らない」

 

「分かりません」

 ナーガは子供みたいに首を振った。

「大切な者を見捨てて『正しい事』しか追っちゃいけないのなら、僕には蒼の長なんか務まりません」

 

「キミがそこまでヘタレだとは思わなかった」

「ヘタレですよ……昔っから!!」

 

 自分でも抑えられないままに、溜まっていた言葉が喉から溢れ出した。

「分かっていたんです。シンリィが生まれたあの時、妹は女性達の声に傷付いたんじゃない。一緒にこの世の光を見た筈の僕の事務的な冷たい声が、一番にあの子の心を抉ったんだ。周囲をガッカリさせないように繕い続けた僕の声が」

 

 ナーガは両膝を抱えて顔を埋めた。

「……みんなみんな、当たり前に期待を寄せて来るけれど…… 僕は……僕は、皆が思っているような者とは違う」

 

「…………」

 カワセミの反応がないのでそっと目を上げた。

 彼は横を向いて、いささか動揺している。

 隣の子供がナーガをじっと見ているのだ。

 今まで無関心だったのが、初めて目に映ったかのように。

 

「シンリィ?」

 

 カワセミがスッと立ち上がった。

「ナーガ、もう帰れ」

 子供の手を引き、背を向けて歩き出す。

 

 そんな、やっと意識して貰えたのに。

 二度と来るなと言われた。今度こそもうお終いなのか?

 

「・・来られるか? 明日」

「えっ?」

「来てくれ、朝まづめの時」

 

 何を聞く暇もなく、カワセミはシンリィの肩を抱いて霧の中へ消えた。

 

 



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海に降る雪・Ⅴ

  ***

 

 自分に出来る事は限られている。本当のホントに微々たる事だ。

 

 二日続けて里を空けるなんて勝手を、ノスリは自分が盾になって通してくれた。

 それでなくても、汚(けが)れの付いた親族の元へ次期長が通うのを苦い顔で見ている者も多いのに、ノスリはそういうのすべての防波堤になってくれていた。

 たとえヘタレだろうと、このヒトの為にだけでもちゃんとした次期長でいようと、ナーガは思った。

 

 

 カワセミに言われた通り、朝まづめの時間に浜辺に降りた。

 今まで風が止まっている時は来るなと言われていた。

 空気の動いていない浜は、何だか勝手が違う。

 

「……??」

 いつも浜辺をほっつき歩いているシンリィがいない。 

 霧の中、胸騒ぎを抑えながら、ナーガは目を凝らした。

 

 小屋の前の浜昼顔はもうかなり緑に繁り、その中にうずくまる影がある。

 下馬して恐る恐る近寄り……息が止まった!

 

 砂の上に座り込んだ子供の背中に、昨日までカワセミの背にあった薄緋色の羽根が

 ・・あった。

 

 子供は小さい体に羽根が重くて、立ちあがれなくてもがいているのだ。

「な、なんで、なんてコトを!?」

 

「・・もう近寄ってもいい」

 不意な声にナーガはそちらを向いた。

 小屋の御簾がたくし上げられ、中の寝台に腰掛ける長い髪のカワセミが見えた。

 シルエットだが、背中に羽根が無いのが分かる。

 

「『羽根を譲り渡す』。何となく可能な気はしていたんだが、やってみれば出来てしまう物だな」

 暗がりで表情が分からないが、今までと打って変わって、穏やかに力の抜けた声だった。

 いやでも多分、想像を絶する術を使った直後なのだ。

 

 ナーガは小屋の中とうずくまる子供を交互に見ながら、おずおずと歩を進めた。

「シンリィ?」

 

 子供は砂の上をいざりながらこちらを見上げた。初めて間近で見る、懐かしいはなだ色の瞳。

 羽根の為上半身の衣服がはだけているが、確かに黒い斑点は跡形もなく消えている。

 羽根が悪魔を浄化した? 本当……本当に、この子は救われたのか?

 

 手を伸ばして丸い頬に触れてみる。

 子供はさして嫌がらず、されるままでいた。

 頬から肩、腕、背中……なんて心許ない、か細い身体なんだろう。

 それでもこの子は暖かかった。ちゃんと生きていてくれた。

 そうだ、この子は生きていてくれた、生きていてくれた……

 

 子供に触れながら涙を落とすナーガを、小屋の中のカワセミは静かに見つめていた。

 

「キミに、預ける」

「えっ?」

「里ではなくて『キミに』預ける。いいか、忘れるなよ、『キミに預ける』んだ」

 

「え、でも、貴方は? 里へ帰ってくれるんですよね?」

「そうだな」

 カワセミは他人事のように軽く言った。

「これから、考える」

 上の空な返事。何だか変だ? 

 

「カワセミ長?」

「……ああ」

 カワセミは我に返った感じでナーガに向いた。

「まずシンリィを里へ連れて行ってくれ。どのみちキミの馬一頭しかいないんだから」

 

 道理だ。筋道は通っている。

「居なくなったりしないで下さいよ」

 ナーガはカワセミの気持ちが変わらないうちにと、慌てて浜で待つ馬を引いて来た。

 シンリィを抱えて鞍に押し上げたが、彼は抵抗しなかった。

 小屋の中の『信頼するヒト』が、阻止せずにじっと見ているからだろうか。

 

「シンリィを降ろしたらすぐに戻って来ます。だから、そこに居て下さいね」

「ナーガ」

「何です?」

 

「すべての事に意味がある。キミが生まれて来たのにも、ユユが生まれて来たのにも」

 

「?? ……そ、そこに居て下さいね!」

 とにかく目の前の事をすぐに片付けて、このヒトをノスリ長の元へ連れて行こう。

 旧友に会えばきっと平常に戻ってくれる。

 ナーガは急いて馬を発進させた。

 

 

 薄暗がりの妖精は、寝台に腰掛けたまま小さく手を降っていた。

 

 そうして、二人を乗せた馬が上空の霧に溶けてから、パタリと横に倒れた。

 

 

 

 

 浜を飛び立ったナーガは、里へ向かう高空気流を探した。

 前に乗せた子供にはマントを頭からすっぽり被せている。

 高さに怯えないようにだが、シンリィは意外なほど大人しくしていた。

 力を抜きすぎて馬の首の方へずりそうになるのを引き寄せて、腕に何か触った。

「??」

 

 シンリィの首に掛けられた石の首飾り。

「ユーフィのピンクの石……」

 カワセミが持たせたのだろう。ナーガはそれをそっと摘まんでみた。

「あれ?」

 ピンクの石の横に、新しい留め具でもう一つ、半月型の半透明の石が繋がれていた。

 通信用と言っていたから、ピンクの石の片割れ、カワセミが持っていた物だろう。

 

「なんで?」

 急激な違和感。

 なんで、通信用の護り石を、両方とも持たせるんだ?

 

 ……そうだ、羽根をやり取り出来ると分かっていたのなら、何故もっと早くに試さなかった?

 それこそユーフィが生きている間に。

 

 

 

「やはりこうなってしまうか」

 カワセミは寝台で丸くなった。

 ようよう上げた両手には、黒い斑点が生き物のように広がって行く。

 

「ずっと羽根に護られて生かされて来たんだ。それだけの跳ね返りもあるんだろうさ」

 こわばった指を懐に入れて、細い布きれを取り出す。

 空色の巻き髪にいつも絡み付いていた、緋(あか)いリボン。

 

「ユユに、逢いたいな……」

 

 暫く見つめていたそれが手から滑り落ちて、地べたに触れた瞬間、ぽうと火が着いた。

 

 

   ***

 

 シンリィをしっかり懐に抱いて急降下して来たナーガは、地上を見て全身の毛穴が開いた。

 

 干からびた小屋は、積み上げられた流木と共に、青い炎に包まれていた。

 

「カ、カワセミ長――!!」

 

 地面に着くのももどかしく子供を抱えたまま飛び降りるのと、小屋が崩れ落ちて積み上げた流木に埋まるのと、同時だった。

 

「風! 風よ!!」

 ナーガの呼んだ風が砂を巻き上げ小屋を覆ったが、白熱した炎が勝(まさ)った。

 尋常な炎じゃない。明らかに強い術から生まれた炎。

 

「アァ――アア!!」

 マントを抜け出したシンリィが小屋に向けて走り出した。

 

「見るな!!」

 ナーガが再びマントで覆って倒れ込む。

 

 炎が生き物のように流木を包み、瞬時に燃え上がって、そして、波が引くようにおさまった。

 

 後には、この世の果てみたいな、白い残骸の山。

 

 駆け寄ったナーガの前を、浜から海へ激しい風が吹き抜けた。

 残骸は一瞬で風に砕かれ灰となり、大空に散る。

 

 風が去った後には、焼け焦げた砂があるばかりだった……

 

 

 浜昼顔の葉は、何事もなかったかのように、残り風に揺れている。

 

 シンリィが、絡んだマントからようやく抜け出し、あたりをキョロキョロ見回す。

 その小さな身体をナーガはしっかりと抱き寄せた。

 

「分かっていたんだ。そうだよ、あのヒトは『予言者』だったもの」

 子供の細い肩を抱きながら、絞り出すように呟く。

 

「自分の子供と、自分の荼毘(だび)の為の祭壇を積み上げていたんだ」

 

 

 白い灰は風に乗って灰色の海に散々(ちぢ)に舞う。

 

 ……海に降る雪みたいに…………

 

 

 

 

 

 

 

 




扉絵 「海に降る雪」

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~はじまりのおはなし・了~





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ひとつめのおはなし
欲しいモノ あげたいモノ・Ⅰ


    

 シンリィにとって、この世は複雑で分からない記号だらけだ。

 だけれど、それらの隙間に、さまざまな仕掛けがひっそりと隠されている。

 

 それは、とっても、不思議な事だ……

 

 

   ***

 

 蒼の長の執務室は、坂の上の一段高い所に建っている。

 里では珍しい石造りで、獣皮で造られた他の住居パオよりふたまわり大きい。

 昼間は長の手足として働く者達が忙しく出入りする玄関デッキも、朝露に濡れる今はひっそりしたものだ。

 

 ホルズの朝一番の仕事は、外部から届く手紙に目を通して本日の依頼を振り分ける作業だ。

 依頼というのは、里の外、草原に点在する他種族から送られて来る、あれやこれやの頼まれ事。

 蒼の里が……というより蒼の長が、考え方も習慣も違う多くの種族に、『規範』として頼られているのだ。

 

 争いの調停・住み分けの取り決め等、第三者が介入した方が丸く収まりそうな事は真っ先に「じゃ、蒼の長様に伺いを立ててみよう」となる。

 その他に、知識の伝授、ルールの制定、鬼が出た魔物が出た、井戸が枯れた呪われた、うちのシャーマンがこんな事言ってるんですけど等、もろもろの依頼・問い合わせが、文書やその他の伝達方法に乗ってやって来る。

 税を取って治めている訳ではない。感謝の礼くらいはあるが、確約された見返りは無い。

 

 何でこんな面倒な図式になっちまってるんだよと愚痴ったら、「昔っからこうなんだよ」と、父が身も蓋もない答えを返してくれた。

 父のノスリはその面倒な長をやっている。三人でやっていたのが、二人に先立たれてしまって、今、目の下に隈を作って上を下へのおおわらわだ。

 

「子供の疳(かん)の虫が治まらないって、それは蒼の長に訴えるような案件か?」

 頭をかきむしりながら手紙を整理し終え、一息付くつもりで玄関デッキに出た。

 今日は春霞が薄く、草原の地平に遠くの山々が青くけぶって見える。美しい土地だと思った。

 

 父が言うには、『本物』の蒼の長さえいれば、この図式でも全然大変じゃないらしい。

 そもそも『本物』の蒼の長がいてこその制度なのだ。

 『本物』とは、長の血筋とその能力『内なる目』を受け継いだ人物だ。

 血筋にその能力の者が生まれなかった時代は、父のように複数人で話し合いながら長を務める。要するに、制度を継続させる為の代替え長だ。

 

(若い頃は、親父が貧乏くじを引かされている気がして、不満に思ったものだが)

 成人して草原の外まで足を伸ばすようになり、里の力の及ばぬ場所の惨状を見ると、自分が当たり前に思っていた草原の平和は奇跡のような物だと知った。

 

 多種多様な種族をまとめあげるのが如何に難儀な離れ業か。『内なる目』って奴は、バラバラの価値観を持つ異種族みなを納得させる『正しい答え』を導き出せるらしい。

 確かに凄い。それが『信仰』なる物の糖衣を被っていたとしても。

 

 昔っからその図式でバランスを保てて来たこの奇跡は、確かに守っていかねばならぬ物なんだろう。だから自分も、この美しい土地の平和を維持継続させる為に助力惜しまぬ一員になろうと……

 

 

「シンリィ、シーーンリィ――」

 いい感じで決意を固めている所に、間延びしたのどかな声が聞こえて来た。

 例の、自覚の無い『本物』野郎だ。ホルズはうんざりとそちらを見た。

 坂の反対側から、群青色の長い髪のひょろひょろした青年が、周囲を見回しながら歩いて来る。

 

「また居なくなったのか? まったく首に縄でも付けときゃいい」

 ホルズにとってこの青年は幼い頃から面倒を見た弟のような者なので、次期長だろうと口に遠慮はしない。

「まさか、山羊の仔じゃあるまいし。昨日お腹をこわして苦い薬を飲ませたから、ヘソを曲げたのかもしれません」

 すぐに居なくなる目の離せない子供を捜して歩くナーガの声は、里の朝の風物詩になっていた。

 

「お前、『内なる目』が使えるようになったんだから、そいつで捜しゃいいじゃないか」

 

「簡単に言わないでください、あれ使ったら目が回ってしばらく起き上がれなくなるんですよ。それに里では同じ血の者が多すぎて、僕の能力じゃシンリィだけを判別するなんて無理です」

 

「情けねぇ次期長様だな」

「そんなにいっぺんに色々出来るようにはなりませんよ。いいじゃないですか、そんな事。それより今はシンリィを……」

 

(こいつが長になっても、全然大変じゃなくならない気がする……)

 

 ホルズは溜め息して、デッキの柵に頬杖付いた。

「なあナーガ、お前さん、あの子に手間を取られ過ぎてやしないか?」

「はあ、言葉を覚えれば、修練所に通わせる事も出来るんですが」

 

 里へ来て一ヶ月。

 あの羽根の子供は、いまだ迷い込んだ雛鳥のように、ビクビクと落ち着かない。

 正直ここまで馴染まないとは思わなかった。ナーガが七つで里へ来た時、さして苦労していた記憶はないし、ユーフィなんか来た瞬間我が物顔だった。

 

 言葉だって、もっと気楽に考えていた。

 皆で話しかけている内に自然に覚えるだろうぐらいに思っていたのだ。

 しかし大人がいくら教えようとしても、まずガンと口を開かない。

 身振り手振りのコミュニケーションには反応するものの、言葉は頑なに受け付けない。

 

 言葉で自分の意思をヒトに伝える事をしないのは、七つにもなる子供としては、とっても困る。

 本人は意外と困らないのだが、周囲が困る。

 

「七年間言葉なく育ったとしても、この一ヶ月はナーガが話し掛けながら暮らしたんだろう?」

 地声の大きなホルズは、ちょっと声を潜めた。

「ナーガ、あの子は七つにしては、ちょっと、その……頼りない。仮にも七つっていうと、修練所に通い始めて、秋には人生を共にする馬を宛がわれる。お前さんは長になろうと決意した。そんな歳だ」

 

 ナーガは口を結んで目をそらした。

 ホルズが遠回しに言いたい事、里の皆も何となく囁いている事だ。

 悪魔は子供の脳ミソも喰い潰してしまったんだろう……と。

 

「なあ、ナーガ。お前さん、長になるまでまだまだやっとく事が山積みだ。何度も言うが、シンリィはノスリ家で引き取ってもいいんだぞ」

 最初はホルズの末妹がシンリィの面倒を見に通ってくれていた。

 しかしすぐに引き受けた事を後悔し始め、子供はしょっちゅういなくなるしで、気まずくなって自然消滅的に来なくなってしまった。

 そういうゴタゴタもナーガの悩みの種なのだが、ホルズはあまり気にしていない。

 

「その、アイツの事だが」

 悩めるナーガにお構いなしに、ホルズはズイッと迫った。

「ちっとやそっとでよく知りもしない子供の世話なんぞ引き受けないぞ。あいつそれだけお前さんを憎からず思っているってコトで……」

 

「あ――! あっちを捜して来ます!」

 ぶっち切ってダッシュで逃げる青年を、ホルズはもう一度溜め息を吐きながら見送るのだった。

 

 

 

   ***

 

「冗談じゃない」

 執務室から放牧地に向かう坂を駆け下りながら、ナーガは口の中で呟いた。

 

 昔は大勢いたらしい長の血筋の能力者も、血が薄まって、今じゃ滅多に生まれなくなった。

 貴重な男子がもうそろ年頃だぞとばかりに里の老人達が持って来る山のような縁談にも辟易しているのに、最近はノスリ長やホルズまで、隙あらば話を差し込んでくる。

 ノスリ長の「なんだったら後宮作ってもいいんだぞ」発言も、冗談に聞こえなくて怖い。

 

「でかい羽根を持った小悪魔だけでも持て余しているのに」

 これ以上ヒトの面倒を見る余裕なんかあるもんか。

 女性なんて、なんだかんだ言って、結局面倒をかける権化なんだ……

 

 坂を下った所に山茶花(さざんか)の灌木帯があり、その奥に踏み入ると、地面にパオの形の大きな焦げ跡がある。

 表の居住区の焦げ跡はほとんど塗りつぶされているが、ここはポツンと手つかずだ。

 焦げた円の真ん中に立ってみた。

 

 七年前、カワセミとユーフィはここに暮らしていた。

 所帯を持ったんだから新しい住まいを建てればいいのにと言う周囲に、二人は笑いながら首を振って、古い小さなパオに住み続けた。

 

 あの日、予定よりかなり早く産気づいたユーフィは、医療院へ移動する余裕もなく、産婆と助産師を呼んで、ここで出産した。

 結末は、里の者ほぼ全員が知っている。

 

 

「ナーガ様……?」

 

 細いかすかな声がした。

 振り向くと、一人の少女が大きな洗濯カゴを抱え、山茶花の中に立っていた。

 まだ色の薄い前髪をきれいに切り揃え、そばかすだらけの、鼻より頬が高いまん丸顔は、見覚えがある。

 

「あ――えっと……」

「エノシラです。先月名前を頂いたばかりの」

「ああ、エノシラ」

 ノスリ家の親戚筋の、何度か見掛けた事はある娘だ。

 

「何か?」

「いえ……」

 少女は口ごもった。

 

 用事もないのに声を掛けられるのは昔っから慣れているが、余裕のある時だけにして欲しい。

「シンリィ、見ませんでした?」

 

「ああ、あの子供? ごめんなさい、今日は見ていないです」

「そう、ありがとう」

 

 立ち去ろうとするナーガに、少女は凄く勇気を振り絞った感じで声を掛けた。

「あっ、あの、あの」

「はい?」

「今、ちょっとだけ、お話していいですか?」

「……いいですよ」

 

 ナーガはなるべく穏やかな顔を作って少女に向いた。どんな些細な、ナーガにとって脱力するような事でも、きちんと向き合って聞くのは彼の生業(なりわい)だ。

 

 少女は長いおさげを後ろに垂らしてナーガを見上げ、姿勢を正して息を吸った。

「あの、あたし、助産師になる事にしたんです。春から医療師のオウネお婆さんに弟子入りして、色々習っていて、その……」

 

 ナーガが黙って話の核心はまだかと待っているので、少女はしどろもどろになって来た。

「今日もこれからオウネお婆さんの所へ行って、まだ雑用しかやらせて貰えないけれど、毎日叱られてばかりで……あのあの、えっと……」

 

 ああ、この少女は、将来の道を決めたのを次期長殿に報告して、何か弾みをつける事を言って貰いたいんだな。彼女にしたら大切な事なんだろう。

 

「険しいが、良き道を選びましたね。今はこつこつ頑張りなさい。何事も近道はありません。頑張るヒトの前には必ず道が開けますからね」

 ナーガは判で押した台詞を優しく言った。

 

 しかし少女は瞳を大きく開いて、ブルブル震えだした。

「本当? 本当にあたし、助産師になってもいいんですか?」

「??」

「お怒りを貰うかと思って、ずっと心配で……」

 

「?? 貴女の目指す物に、口を差し挟める者などいないでしょう?」

 よく分からずありきたりな事を言うナーガに、少女は瞳を潤ませて手を合わせた。

「あ、ありがとう……ありがとうございます。今日、ここへ来てよかった」

「??」

 

 その時、朝一番の鐘が鳴り、少女は慌ててカゴを抱え直した。

「大変、遅れちゃう!」

 身を翻しながら、もう一度ナーガを振り向く。

「挫けそうになった時ここへ来て、自分の行き先を確かめるんです。母さんの出来なかった続きを出来るようになろうと。お会い出来てよかったです」

 

 ナーガは雷に撃たれたみたいに茫然と少女を見送った。

 彼女の母親が誰だったか、今やっと思い出したのだ。

 

 ユーフィがシンリィを産み落とした時……悪魔の黒斑を持って生まれた赤子を見て一番パニックを起こしたのは、助産師の一人、エノシラの母親だった。

 とても妹には聞かせられない言葉を泣き叫ぶ彼女を抱きかかえて産屋から遠ざけ、パニックが伝染して悲鳴を上げる他の女性達をなだめている間に、妹と赤子は姿を消した。

 

 考えたってどうしようもない、時間は戻せない。彼女達を責めるのは筋違いだ。悪魔の病が怖いのは当たり前だ。

 頭で分かってはいるのだが、ナーガは出産に立ち会った女性達によそよそしくなった。

 それどころか女性全般に……何というか、幻滅してしまったのだ。

 

 そう言うと大袈裟なのか? しかし元々あまり接しなかった女性って奴と、全く関わりたくなくなった。

 出産という、男性には立ち入れない厳粛な現場であんな修羅場に遭遇してしまったんだから、心の外傷の一つでも負ったんだろうと自己分析してみたが、分かっていてもどうしようもなかった。

 

 エノシラの母親もまた、悪魔の犠牲になった。

 ユーフィの出産の時ではない。あの時は結局、産婆も助産師も、誰も感染しなかった。

 里に悪魔が降りたのは、それから二年近く後。人間界の病禍が下火になって、油断が出た隙だった。

 里の端からいきなり広がった災厄は、炎が舐めるように多くの命を削り取って行った。

 

 羅患者を隔離する場所に、どうしても、病人を世話する覚悟を擁した看護人が必要だった。

 ノスリ長の妻のフィフィが先頭で名乗り出た。ずっと修練所の教官をしていた彼女は、患者の中の大切な教え子達を放っておけなかった。

 エノシラの母親も進んで看護に加わった。彼女もまた、戻せない時間に苦しんでいた一人だったのかもしれない。

 

 その娘のエノシラが、母と同じ助産師になると言う。隔離場所に向かう母親は、小さい娘に何を伝えたのだろう? 

 

 何ともいえない気持ちになった。

 あんな少女ですら、傷を乗り越え、前を向いて歩き出している。

 自分はいつまで足踏みしているんだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 



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欲しいモノ あげたいモノ・Ⅱ

  ***

 

 エノシラはカゴを胸に抱えて全力で走っていた。

 朝二番の鐘までに洗濯を済ませて来なさいって言われていたのに。

 師匠のオウネお婆さんは、かなり厳しくて怖い。

 

 修練所の廐(うまや)前にさしかかった時、暗がりの通路に、薄い緋色がチラと見えた。

「あの子……」

 ナーガ様が探していた羽根の子供がそこにいる。

 しかし自分は急ぐ。あそこなら直、あの方が見つけられるんじゃないかしら。

 

 駆け去ろうとした時、子供が一人ではないのに気付いた。

 里の子供、同い年かちょっと上くらいの男の子五・六人に囲まれている。

「!!」

 大きい子が羽根の子供を壁に向けて押さえ付けている。

 後の子供は羽根を引っ張って、無理矢理広げようとしていた。

 

「あ、あんた達、何やってんの!」

 エノシラはカゴを抱えたまま踏み込んだ。

 子供達は一斉に振り向く。

 

「何って、羽根を見せて貰おうと思って……」

 子供が目新しいモノに興味を持って遠慮なく手を伸ばすのはままある事。

 本人達に罪の意識はない。

 

「その子、嫌がっているじゃないの。ヒトの嫌がる事をしてはいけません!」

 名前を貰ったばかりのエノシラは、頑張って子供達を諭した。

 

「えー? だってこいつ、嫌がってないモン」

 名前を貰ったばかりの娘のたどたどしさを、子供は簡単に見透す。

「嫌だったら言うだろ。やめて、とか」

 

「言えない子供だっているんです!」

 エノシラは更に頑張って子供達を睨み付けた。

 

 睨みが利いたのか、羽根を引っ張っていた一人が手を離し、それを見てもう一人も離した。

 真ん中で背中を押さえていた子が離れると、羽根の子供はその場にペタンとしゃがみ込んだ。

 振り向くでもなく泣くでもなく、無言だ。

 エノシラも、この子供は見掛けた事があるだけで、近くで接するのは初めてだ。

 

 黒の病の心配はまったく無いと説明されていたのだが、強いて理由もなしに近寄る事もなかろう……というのが、多くの里人のこの子供に対する対応だった。

 

「あんた、大丈夫?」

 子供は言葉に何の反応も示さず、地べたを見回して、散らばった羽毛をノロノロと拾い始めた。

 

「な、変だろ、そいつ」

 真ん中の子が、皆を代表するように言った。

「俺達、仲間に入れてやろうとしたんだ、ホントだよ。でも何にも言わないんだ」

「蹴り玉やオモチャも、分けてやるって言ったのに」

「…………」

「そんで今度は、羽根を見てやる事にしたんだ。教官センセが、ヒトと仲良くなろうと思ったら、まず相手の良い所を見付けて誉めてあげなさいって言ってたから。んで、広げて誉めてやろうとしていたの」

 

 エノシラは溜め息を付いて、子供達の目の高さにしゃがんだ。

 オウネお婆さんに大目玉を食らうのは覚悟した。

「そうなの。でも、ね、この子は、羽根を誉めて貰いたいのかしら?」

「……んーと……」

 子供達は顔を見合わせた。

 

「もしあたしだったら、『してやる、してやる』って取り囲まれたら、びっくりするだけで、何も嬉しくないと思う。あんた達だってそうじゃない?」

「蹴り玉をくれるって言われたら嬉しいよ!」

 左の子が子供らしい屁理屈で抵抗した。

 

「そう……ね……」

 エノシラは考え込んだ。

 子供達は、戸惑いの顔を見合わせた。大人っていつも決めつけて叱るばかりで、こっちの言う事を真に受けて考え込んでくれる大人なんて、そうそういない。

 

「うん、そう! 欲しいモノをくれるって言われたら嬉しいよね。では誰かを喜ばせようと思ったら、そのヒトが何を欲しいのか考えればいいと思うな」

「そんなの分かんないよ。こいつ喋んないし」

 子供には不満な答えだったようだ。

 

 その子供達の目の前に、緋(あか)い固まりが差し出された。

「??」

 羽根の子供が両手に拾ったふわふわの羽毛を、子供達に向けて突き出しているのだ。

 

 なんて真青(まさお)な瞳をしているのかしら・・! 

 エノシラは一瞬、時と場所を忘れた。

 

「お前、何だよ」

 子供達は訝(いぶか)しがって後退りした。

 

「くれるんじゃないかしら?」

「はあ?」

「羽根を引っ張ったから、羽根を欲しがっていると思ったのよ。ね、あんた、そうでしょう?」

 羽根の子供は相変わらず真面目な表情で両手を突き出している。

 

「貰ってあげなさいな」

 しかし子供達は顔を見合わせて躊躇(ちゅうちょ)している。

「どうせくれるなら、そんなゴミみたいなのじゃなくて、そっちの長いのがいいな!」

 左の子が無遠慮に、翼の先端の、大きな風切り羽根を指差した。

「あ、俺も、そっちがいい」

「俺も、俺も」

 

「あんた達……」

 エノシラが呆れて今一度子供達に説教をくれようとした時、羽根の子供は黙って左手で翼を引っ張って、右手で先端の大きな羽根を引き抜こうとした。

 

「あんた、よしなさい!」

 制止の手を出す前に、子供の右手は後ろから別の大きな手に掴まれた。

 

「シンリィ、それは駄目だよ」

「ナーガ様……!」

 

 

 

   ***

 

 長様の執務室の偉い大人の出現で、子供達は緊張した。

「君達」

「は、はいぃ・・」

「この子と遊んでくれていたの?」

「は、はいっ、そう、そうですっ」

 エノシラがキッと睨んだが、子供達は目をそらした。

 

「そう…… この子はシンリィっていいます。言葉のない遠い国から来たんだ。言葉を覚えるまで時間がかかるから、それまで色んな事を大目に見てやってくれるかい?」

「は、はいっ」

 子供達はゲンキンに良い返事をした。

 

 朝の二番目の鐘が鳴って、子供達はお辞儀をして、修練所の建物へ走って行った。

「さてと」

 ナーガは色々言いたそうな少女のカゴをヒョイと取り上げ、もう片手で子供の手を引いて、外へ向いて歩き出した。

「貴女をオウネお婆さんの所まで送るとしましょう。時間に遅れた理由を僕が説明すれば、罰を受けずに済むでしょう」

 

「ナーガ様っ」

 エノシラは勢(いき)り立って追い掛けた。

「あの子達っ、その子を苛めていた訳じゃないんですよっ。いろいろと、その、えっと……」

 

「分かっていますよ」

 ナーガは廐を出た所で振り向いて、少女を待った。

「早くにそこに来ていました。貴女が飛び込んだのが見えて」

「!? それで……見ていたんですか? あたしがあたふたするのを」

 

「いえ、感心していたんですよ」

 エノシラが追い付くと、ナーガはまたスタスタ歩き出した。

 歩幅が大きいから子供はチョコチョコと小走りだ。

 

「貴女、手を出さないで、子供達に言葉で分からせようと……自分の意思でシンリィから手を離させようとしていたでしょう? それで、凄いなあと」

「ス、スゴイ?」

 

「僕だったら、まず手が出て、シンリィから子供達を引き離すでしょうね。で、苛めていたんだと誤解したまま、さっきみたいに当たり障りのない事しか言えない。でも貴女は子供達と目線を合わせて、真剣に向き合っていた。それで、凄いなあ見習わなくちゃ、と」

 

「み、見習う? ナーガ様が?」

「はい、僕は、このたった一人の子供とすら、まだ向き合えないでいる」

「……」

 

 歩きながらエノシラは、この立派な大人の端正な横顔を見上げた。

 このヒトが、あたしを、見習う? 

「いえ、結局うるさがられただけだわ。誰もちゃんと聞いてくれなかった」

 エノシラは耳まで赤くなりながら俯(うつむ)いた。

 

「今すぐは分かって貰えなくていいんですよ」

 ナーガは少女に向いて優しく言った。

 さっき焼け跡の前で話した時の優しさと、別な感じの優しさだった。

「貴女に言われた事をカケラでも覚えていれば、いつかふと、ああそうだったかと、分かって貰える時が来るかもしれません。そう考えたら、今言う事は決して無駄ではありません」

 

 洗濯場のお姉さん達がこのヒトの噂でキャイキャイ言うのが、今やっと理解出来た気がする。

 なんだろ? この、一声掛けられる度にフワフワする感じ……

 

 

 医療院の入り口で、怖い顔をしたオウネ婆さんが待っていた。

「エノシラ! 真面目にやる気がないのならっ」

 

「まあまあ」

 ナーガがエノシラの前に立ち、彼女が子供を助けて遅れた事を説明した。

 あと、この娘の見上げた正義感は師匠の日頃の教育の賜物ですねと、ヨイショも追加した。

 

 ナーガが婆さんの長話に付き合っている間、エノシラは洗濯物を干していたが、ふと視線を感じた。

 羽根の子供が見上げている。

「えと、どうしたの?」

 戸惑うエノシラに、子供はさっき拾った羽毛の一枚を差し出した。

 

「くれるの?」

 両手を出すと、小さな指で、掌(てのひら)にヒラリと乗せてくれた。

「……きれいね……」

 花びらほどの重さもない、ほんわかと暖い、薄緋色の羽根……

 

 

 ナーガが子供を呼んで立ち去った後、オウネ婆さんは挨拶もしないで突っ立ったままの弟子に喝を入れようと近寄って、驚いた。

「おやまあ、お前、エノシラ、どうしたね?」

 

 少女のそばかすの頬には幾筋もの涙が伝っていた。

「あ、ああ、……すみません」

「どうしたね?」

 老婆は、弟子の掌の羽根を見ながら、もう一度聞いた。

 

「分かったんです。何故だか、今、急に、分かったんです」

「何がだね」

「母さんが、看護をしに行くって、うちを出る時。黒い病の隔離場所へ」

「……うむ」

 

「あたし、本当は腹が立ってしょうがなかった。何で母さんが行かなきゃならないの? あたしの事は大事じゃないの? って」

「……うむ」

 

「母さんは、あたしの為に行ったのよ。命の為に働く人生を全(まっと)うする姿を、あたしに見せる為に、行ったんだわ」

「……うむ」

 

「今、急に、霧が晴れたみたいに、分かったんです」

 

 オウネ婆さんは、弟子が涙を流し終えるのを待ってやった。

 里の口塞がない噂が、幼い少女を傷付ける事もあったろう。

 しかしその母の姿を見ていたからこそ、この娘は傷を越えてここへ来たのだ。

 

 

 

 




挿し絵「受け取ったモノ」

【挿絵表示】





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欲しいモノ あげたいモノ・Ⅲ

   ***

 

「ただいま戻りま……した?」

 執務室の御簾を開けて部屋に入ったナーガだったが、中の空気が不穏なのに気付いた。

 大机の向こうで、ノスリとホルズがしらじらしく、明日の天気について話している。

 絶対、自分が入って来るまで別の事話してたんだ。

 

「シンリィ、いました」

「あ、ああ、いたか。よかったな」

「今日の仕事に連れて行きます」

「そうか? まあ気を付けてな」

「いや、親父、いつまでも仕事に子供を連れ回すのもどうかと思う」

 ノスリはナーガに甘いが、ホルズは兄貴代わりの遠慮無さで意見した。

 

「でもやっぱり、シンリィは目が離せないです。今も……」

「どうした、何かあったのか?」

「修練所の子供達に羽根が欲しいって言われて、何の躊躇(ちゅうちょ)もなく風切り羽根を引っこ抜こうとしたんです」

「そりゃ、また……」

 その意味が分かるノスリは言葉に詰まった。

 

「ほお、そいつは気前が良いな。風切り羽根は抜けたら生えて来ないのか?」

 ホルズは呑気に聞いた。

 

 シンリィが羽根を持った経緯は、ナーガとノスリの胸だけに収めてある。

 守護の羽根が譲り渡せるなんて、絶対に広めてはいけない禁忌だ。譲り渡したカワセミがどうなってしまったのかも。

 色が違うせいもあって、ホルズや里人は、たまたま後から生えて来た・・ぐらいに思ってくれている。羽根持ちのカワセミの息子なんだから、不自然ではない。

 

「そもそも『護りの羽根』なんだろ? あれは」

 

「その護りの羽根に何かあったらどうなるか、我々は何も知らないんです。知った時は手遅れな状況かも。僕はもうそんな後悔、したくないんです」

 

「ふむぅ」

 そう言われてしまうと、ホルズも引き下がらざるをえない。

 

「すみません、あまり危なくない仕事を選んで回して貰っているの、分かっています」

「おお、気にするな。最近身体を動かすようになって腹回りの肉が落ちた。ありがたい事だ」

 ノスリが豪快に笑って片目を瞑って見せたので、ホルズも渋々、見習いに行かせようと思っていたヌルい仕事を回してやった。

 

 

 ナーガが子供の手を引いて馬繋ぎ場へ下りて行ったのを見計らってから、ノスリは大机に両肘を乗せて、ホルズに顔を寄せた。

 

「で、誰だっけ? その……」

「エノシラだよ、叔父方の遠縁の。親父が先月名前を授けたろ?」

「というと……ああ、あの娘! 何というか、その……」

「癒し系」

「そうそう。その『癒し系』がナーガと親しげに歩いていたというのか? あの女嫌いのナーガと」

「ナーガ限界説と言われていた二往復半を大きく越えて会話していたって。しかも荷物まで持ってやって」

 

「おお、そりゃ快挙だぞ! しかしここからが大事だぞ、ホルズ」

「分かってるよ。今までは早過ぎるタイミングで焚き付けて、スタートラインにすら立たせる事が出来なかった」

「そうだ。だからだな、ここは大事にだな、大事に大事に……」

「遠くから急かさず触らず、優しくそっと見守るんでしょ。俺も兄弟姉妹にネットワーク張って、暖かい包囲網を形成するぜ。何たって里の未来がかかってる」

 

「ああ、頼んだぞ。いやあ大家族作っといてよかった。こういう時、身内の結束が物をいうなぁ」

「一日も早く所帯を持って子供の世話からも解放されて貰わんとな。こちとら、あいつの能力にあんなヌルい仕事をあてがっているような余裕はないんだ」

 

「所でホルズ、そのエノシラだが」

「んん、目立つ娘ではないけれど、気立てはいいと思うよ」

「そこじゃなくて」

「あ?」

「尻はデカイか?」

「えと?」

「子沢山の素質があるかって事だ」

 

 今までナーガの縁談が壊れまくっていたのは、案外ナーガの女性嫌い以外の原因もあったんじゃないのか? と、ちょっとだけ思ったホルズだった。

 

 

 

   ***

 

 馬を曳いて出かける素振りをすると、シンリィはその時だけ腕にしがみ付いて来る。

 懐(なつ)いて着いて来たがっている訳じゃない。

 空飛ぶ馬で飛べば、いつかあのヒトのいる浜に戻して貰えると思っているのだろう。

 

 だから目的地に到着すると、あから様なガッカリ顔になる。

 その度にナーガは、どうしてやったらいいのかとオロオロするばかりだった。

 

 自分は本当にこの子供をきちんと育てる事が出来るんだろうか? 

 カワセミ長が命掛けて託してくれたというのに。

 最近のナーガはその事で頭がいっぱいだった。

 

 こうやって飛びながらもボケッと考えて、傍から見たらそれこそ外に出始めたばかりの見習いに見えてしまう。

 

 不意に懐のシンリィが、身体をこわばらせて腕を掴んで来た。

「どうした?」

 ワンテンポ遅れたが、ナーガも気付いた。

 

 ――!!!――

 

 馬を急旋回させると同時に、何もない空中から炎の帯が走った。

 

「フラフラ飛びやがって、隙だらけだぜ!」

 

 野太い声がして、炎が渦巻いて野牛ほどもある巨大な狼の姿になった。

 銀の三白眼が刃物のように鋭く、蹴爪(けづめ)とたてがみからは炎が立ち昇っている。

「蒼の妖精の次期長様じゃなかったのか? それともクビになったのか?」

 

「またお前か」

 ナーガはマントを引っ張って、懐のシンリィを覆った。

「去れ、邪悪な獣」

 

「隠す事ないだろう。俺様がガキに優しいのは知っているだろ?」

「ここにはお前の糧になる者は居ない。去れ」

「ご挨拶だな。俺様を呼んだのはお前だぞ」

「・・・・・・」

 

「必要になったら何時(いつ)でも駆けつけてやるって言ったじゃんよ、お前さんがそいつと同じくらいのガキの時」

 狼はニヤニヤしながら空中を歩き、騎馬のまわりを回った。

「契約しといて良かったな、ん? 今、お前さんの心は不安でいっぱいだ、俺様には一発で分かる、お前さんの一番の理解者だからな。さあ、望みは何だ? 遠慮なく言ってくれ、その欲望のままに」

 

「契約など、し・て・い・な・い! 去れ!」

 ナーガが腰の剣に手を掛けたので、狼は宙返りして後ずさった。

「まあいいさ、今回はそのガキの顔を見ておくついでもあったしな。この世の総ての厄介事を抱え込んだ、可哀想な蒼の長の血脈がまたひとり……」

 

「去れええぇ――――っ!!」

 

 剣を抜くと同時に、狼はシュッと音を立てて消えた。後に小さな残り炎がポッポッと瞬いた。

 

 何事もなかったかのような青空に、ナーガの騎馬だけポツンと浮かんでいた。

 シンリィが珍しく、ナーガを見上げている。

「・・ごめんよ、びっくりしたかい」

 やっと言ったが、額の脂汗とカタカタいう震えは止まらない。

 

「あれはね、シンリィ、邪悪な獣。欲望の赤い狼」

 喋っても分かる訳ないという気楽さから、ナーガはつらつらと言葉に出した。

「まだ小さい時、自分の能力が信じられなかったんだ。それで焦って、あんな獣に付け入る隙を与えてしまった。ヒトの欲望を糧にして生きているんだって。それ以来忘れた頃に現れては、ああやって誘惑して来る。久し振りだったな、もう諦めてくれたと思っていたのに」

 

 見ると、シンリィはこちらの目を覗き込んで強張(こわば)った顔をしている。

 まさか分かるのか?

「僕さえ毅然としていればどうって事はないんだ。里の者には言わないでくれよ……ああ、それは大丈夫か」

 

 分かっているのかいないのか、ナーガが話し終わっても子供は掴んでいる腕を緩めなかった。

 まああんな魔物を見たら、普通に怖いよな。

 この子に当たり前に物を怖がる所もあってよかった。

 

 

 

 



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欲しいモノ あげたいモノ・Ⅳ

   ***

 

 エノシラはここの所、不満に思っている事がある。

 従兄姉や叔父叔母に、めったやたらにお使いを頼まれるのだ。

 オウネお婆さんにシゴかれてヘトヘトで帰って来るのに。

 用事の先は、決まって執務室のノスリ長様かホルズ叔父様。そして届け物を持って執務室を訪ねると、必ず二人とも居なくて、ナーガ様が羽根の子供と留守番をしているのだ。

 

「叔父様達ってそんなに忙しいのかしら? 用事先の相手がいる時間くらい確かめとけばいいのに」

 

 ナーガはここの所、困ってしまっている事がある。

 夕方の鐘が鳴ってから……要するにエノシラがオウネ婆さんの所から帰る時間になると、ノスリとホルズがそわそわし出して、やれ見回りだの寄り合いだの、何やかやと理由を付けて執務室からいなくなるのだ。

 そして、風呂敷包みを抱えたエノシラがやって来る。

 

「わざとらし過ぎるっ! 画策するならするで、もうちょっと僕に分からないように、スマートに出来ないのかっ!」

 

 こんな篠付(しのつ)く雨の日は、勘弁してやればいいのに。

 

「こんにちは」

 外で緊張の声がする。

「どうぞ、お入り」

 雨合羽のフードを降ろして、丸顔のそばかす娘が御簾の隙間から顔を出す。

「ノスリ長様は?」

 

「寄合所に行きました。将棋(シャタル)の約束があったそうで」

「あら、将棋仲間の叔父からの誘いを言付かって来たのですが?」

「まったく、つじつま位合わせておけばいいのに」

「はい?」

「いや、いいんです。ご足労でしたね、雨の中」

 

「いえ、では寄合所で会えていますね。あたしは帰りま……ああ――っ!」

 エノシラは雨合羽を打ち捨てて、執務室に飛び込んだ。

「ど、どうし……?」

 

 ビックリ仰天のナーガを通り越して、三歩で部屋を横切り、奥の大机に走る。

 そばかす娘が手を伸ばすより、羽根の子供が机の上の墨壺をひっくり返す方が、早かった。

 

「ああ・あ・あ~・・・」

 間に合わなかったエノシラは、自分のせいみたいに情けない声を出した。

 机に墨が広がり、シンリィは真っ黒な両手を眺めてキョンとしている。

 更に何を思ったか、その真っ黒な手を傍らの書類の山に伸ばす。

 

「あっ、そっちの書類はヤバイ!」

「あんた、駄目よ!」

 ナーガも駆け寄ったが、エノシラはそれより早く机を飛び越えてシンリィを抱いて止めた。

 シンリィは大人しく止まり、ナーガは書類の束を持ち上げて、二人は溜め息と共に肩を下ろした。

 

「書類、大丈夫ですか?」

「大丈夫ですけれど……貴女……」

 エノシラの衣服の下半分は机を拭いた形になり、黒い墨がベッタリ染み込んでしまっている。

 おまけに胸にくっきり、小さいモミジみたいな両手形……

「平気です。洗えばなんとかなります」

「…………」

「汚れついでにお掃除しちゃいますね。あんた、手を洗って来なさいな」

 

 エノシラはとっとと雑巾を見付けて机を拭き始め、シンリィはナーガの所へやって来て、罪のない顔でほわっと見上げた。まったく……! 

 

 雨を幸い屋根から滴る水でシンリィに手を洗わせていると、エノシラが合羽を羽織って出て来た。

「掃除終わりました。あたし、帰りますね」

「あ……」

 ナーガは何と言っていいか、言葉が出て来なかった。エノシラは怒っている風でも悲しんでいる風でも、無理に明るく見せている風でもなく、無表情に事務的だったのだ。

 

「……ありがとう」

 それだけやっと言って、雨の中駆け去る少女を見送った。

 

 

「大馬鹿野郎オォ――!!」

 執務室をほったらかしてほっつき歩いていた親子に、ハモって怒鳴られた。

 

「書類なんか書き直しゃあいいだろっ! 何、最優先に庇ってんだっ!」

「唐変木もそこまで行くと笑えないぞ! そこで、着替えさせるとか、色々、色々、あるだろうがぁ~~!」

 

「そんな事出来る訳ないでしょう。第一僕が何をしたっていうんです。元はといえばシンリィが……」

 

「おお、シンリィ!」

 二人の大男は小さい子供を囲んで、両側から頭をガシガシ撫でた。

「お前は良い子だ。帰っちまいそうなお姉ちゃんを唐変木が引き留めないもんで、気を利かしたんだよなあ」

 

「シンリィをいかがわしい大人の物差しに乗っけないで下さい!」

 脳を揺さぶられてクラクラしている子供を引き寄せ、ナーガは後ろ手で出口の御簾を開けた。

「ついでに言うなら、見えすいた画策はよして下さい。僕はともかくエノシラが可哀想だ。毎日オウネお婆さんにシゴかれてヘトヘトになってんのに」

 

 頼むからもうやめてくださいねと重ねて懇願し、ナーガはシンリィを伴って家に帰って行った。

 

 残った二人のいかがわしい大人は、唐変木の言葉の最後の一節にだけ食い付いていた。

「可哀想とな! あの、女性に無関心なナーガが!」

「親父、こりゃ、思ったよりも脈ありだな!」

 

 

 

   ***

 

 エノシラはぐったりと腫れぼったい目で、夕べ遅くまで洗っていた衣服を眺めていた。

 どんなに眺めたって、この黒い染みが無くなる訳ではない。

 

「はあ~……」

 叔母にとっておきの石鹸を借り、かなりな時間を掛けてこすったのだが、やはり墨を落とすのは無理がある。鮮やかなヤマブキ色の長衣に、墨の黒が無惨だ。おまけに胸に子供の両手形。

 

「よりによって……」

 いつもの仕事着を洗ったのが雨で乾かず、仕方なくよそ行きの一張羅を着ていた昨日に限って。

 あの時は夢中で書類を守ったが、後からズンズンと後悔がやって来た。

 ショックのあまり、執務室で何を話してどうやって帰って来たのかも覚えていない。

 

 しょんぼりと干した衣服を眺めている少女の所に、親戚の女性達が慰めようと集まって来た。

 早くに父も母も亡くしているこの娘を、皆は何かと気に掛けている。

 容姿が今一つの無器用な娘だから尚更だ。

 その中に、羽根の子供の世話を引き受けていたノスリの末娘もいた。

 

「あたしはナーガ様の花嫁候補から外れて正解だったわ。もれなくあの子供が付いて来るんだもの」

「あら、貴女はそれを狙って引き受けたんじゃなかったの?」

「あんな子だなんて思わなかったのよ。何をしてあげても一言も喋らないし、ちっとも可愛くない」

 

「そもそもあの子の母親も可愛げがなかったものね」

「あ? それ言っちゃう? 生まれがハズレだからって独身の長様に色目を使うとか、必死だったわよね」

「およし、そんな事を言うもんじゃないわよ」

 

「あら、叔母様が言ってたんじゃない。小さい時からワガママで好き勝手やってたから、バチが当たってあんな子が生まれたんだって」

「キャァ、ヒドーイ。ね、貴女も嫌だと思ったら、早いめにハッキリ断らなくては駄目よ」

 

「……は……?」

 ぼぅっと聞いていたエノシラは、ここで初めて自分が蚊帳の外ではない事を知った。

 

「あた、あたあたあたあたしは……」

 どもりながら立ち上がって、それから皆の後ろのパオとパオの間を見て、凍り付いた。

 

 子供を伴ったナーガが、口を結んでそこに立っていた。

 

「!!!」

 エノシラの視線で振り向いた女性達も、口を開いたまま真っ青になった。

 

 ナーガは黙って、すうっとパオの影に消えた。

 

 

 

 打ちひしがれて仕事場にやって来たそばかす娘に、オウネ婆さんは大きな風呂敷包みを手渡した。

「ナーガ殿が今朝方持って来た、お前に渡してくれと。自宅の方へ持って行きゃいいのにな?」

「……?」

 

 包みをほどくと、古びてはいたが、丁寧な作りの桃色の絹衣装だった。

「ほお」

 驚くエノシラの後ろからオウネ婆さんが覗き込んだ。

「懐かしい」

「え?」

「ユーフィが少女時代に着ていた物だのう。よく笑う、お陽様みたいな娘じゃった」

 

「あっ、あの!」

 エノシラは包みを胸に抱えて立ち上がった。

「お休みをください、一刻だけでも」

「罰則を受ける覚悟があるのなら」

「はい、幾らでも!」

 少女はおさげをひるがえして、風呂敷を抱えたまま飛び出した。

 

 

 執務室にナーガはいなかった。子供がまた迷子になって捜しに出たのだという。

 留守を預かるホルズは、今朝の顛末を知っていた。

 気に病むなと慰めてくれるのにお辞儀だけして、里の奥へ走る。

 

 案の定、山茶花(さざんか)林の奥の焼け跡に、ナーガは居た。

「あの……」

「……やあ」

「あ、あああ、あの」

「シンリィ、知らない?」

「すみません、見ていないです」

「そう……」

 

「あの、あの」

「大丈夫ですよ」

 ナーガは静かに横顔を上げた。

「ああいうのに傷付かないよう、カワセミ長はシンリィに言葉を教えなかったんです」

「!!」

 

 不意に胸の奥が熱くなって、エノシラは涙をポロポロこぼした。

「何で貴女が泣くんです?」

「分かりません」

「…………」

 

「あの子が傷付かないからって、大丈夫じゃないと思います」

「どうして?」

「あの子の隣で、代わりに傷付くヒトがいるからです」

「…………」

 

 エノシラは垣根があるように遠くから、風呂敷包みを突き出した。

「頂けません。こんな大切な物」

 ナーガはゆっくり振り向いて、ちょっとの時間、包みを眺めてから言った。

「気に入りませんでしたか?」

「えっ、いえっ、そんなんじゃなくて。勿体ないっていうか、あたしなんかに」

 

「着る者がいなければただの布きれです」

「……」

「まあでも、受け取ってしまうと、貴女の立場が悪くなりそうだ」

 

「いいえ、いいえっ、ちちちがうんです、ユーフィさんの独身時代、里の男性の視線総ざらいだったっていうし、そんな方の衣装なんか着たら比べられちゃってあたし大変だなあとか、皆その頃、意中の男性に振り向いて貰えない経験がもれなくあって、ちょっと根に持ってるっていうか、あの、えっと、だから本当に嫌ってる訳じゃなくて……」

「…………」

 

「あああ、あたしもあの子、捜して来ますっ」

 エノシラはその場にいたたまれなくなって、風呂敷包みを抱えたまま駆け出した。

 

 

 

 

 



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欲しいモノ あげたいモノ・Ⅴ

  ***

 

 ナーガは駆け去る少女を眺めながら、まだ動けずにぼぉっと焼け跡に佇んでいた。

 

 今朝方、ノスリとホルズに言われた事。

「なあ、シンリィだが、ちょこっとの間、山の神殿のお袋さんに預けたらどうだ? お袋さんも喜ぶだろうし」

「何の為に?」

「里が、次期長としてのお前さんを取り戻す為だよ!」

 歯に衣を着せないホルズの怒鳴り声に、ナーガはビクンと揺れた。

 

「お前さんの身はお前さんだけの物じゃないんだ。次期長のお前が子供一人に振り回されているのを見たら、里の者が浮足立つ。里が長を大事にしないと、草原全体に悪影響が出る。蒼の長ってそういう存在なんだ、自覚してくれ」

「…………」

「それから妹からの伝言だ。エノシラがいる所に自分達が勝手に寄ってお喋りを始めただけで、あの子は何も関係ないっとさ」

 

「僕はカワセミ長に、キミに預けるって念を押されて、シンリィを託されたんです」

「なら、カワセミの為にも、あの子が穏やかに暮らせる道を考えてやってくれ」

 

 そんな会話に翻弄されている間に、デッキで待っていた筈のシンリィがいなくなった。

 話は改めて夜にする事として、ナーガは子供を探しに出たのだった。

 

 里の奥の円の焼け跡……シンリィはここからこの世に来た。

 全ての事に意味があるのなら、あの子の生まれて来た意味って何なんだ? 

 

 

 

 

 エノシラは胸に風呂敷包みを抱いて走っていた。まぶたにまだ涙が残っている。

 何だかとっても哀しい。ナーガ様はただあの子を愛したいだけなのに、どうして上手く行かないんだろう? 

 

「??」

 緋い羽毛がひとひら風に運ばれ、目の前に来た。

 風上は……向こうの風景が水底を通したように歪んで見える。そこにも緋い羽毛が揺れていた。

「結界の境目だ……」

 外へ出ちゃったんだ、あの子。

 

 蒼の里を守っている結界は、外からは上空からしか入れないが、出るのは簡単だ。

 悪いモノが迷い込んだ時に追い出しやすいように、そうなっているらしい。

 

 厩まで馬を取りに行こうか? でも今なら、すぐそこにいるかも。

「ええい!」

 エノシラは息を吸い込んで、結界を駆け抜けた。

 

 景色が歪んで、水に流されるように身体が外界へ押し出された。

 いきなり丈の高い萱草が視界を遮る。しかし少し先の草に、緋い羽毛がくっ付いている。

「なんだって、こんな先も見えない所を分け入って行こうなんて思えるの?」

 

 蒼の里で育ったエノシラだが、物心付いた頃は草原は悪魔に脅かされていて、外の世界を知らずに大きくなった。外出が解禁されたここ何年かも、『外は怖いモノ』の意識が刷り込まれていて、進んで外に出ようとは思わなかった。ましてや馬に頼らず徒歩で出るなんて、トンでもない事だ。

 

 恐々と草をかき分けて行くと、目の前に小高い丘が現れた。

 上の方のハイマツに緋色の点々が見える。

「ここを登ったっていうの? 何でわざわざ……」

 

 それでもエノシラはハイマツをよじ登りくぐり抜けして、ふうふう言って丘を登った。

 頂上の開けた砂利の広場にたどり着き、反対斜面を見て・・心臓が止まりそうになった! 

 

 赤い獣・・!! 

 

 血のような真っ赤な野牛程もある狼が、空中をゆっくり円を描いて歩いている。

 首の周りのタテガミと蹴爪からは炎が立ち、周囲の空気までをも赤く揺らめかせている。

 どう見たって普通の獣じゃない。

 

 その円の中心に、羽根の子供が立っている。

 こんな状況なのに怖がりも泣きもせず、ぼぉっと赤い光に照らされている。

 狼はだんだんに円を縮め、柔らかそうな頬に鼻先を近付けている。

 

「や、やめてえぇ――!」

 エノシラは飛び出して、抱えていた風呂敷包みを投げ付けた。

 勿論そんなのでこの獣を追っ払えっこない。でも注意は引ける。

 

「あ、あたしの方が丸々してて、食いでがあるよ!」

 狼がこっちを向いてくれれば、子供に逃げる隙が出来る。

 

 しかし狼の銀の三白眼は、妖精の娘ではなく、ほどけて落ちた風呂敷の中身を凝視していた。

「……ふうん?」

 炎の口元から言葉が出て来た。

「あの小娘が着ていた物だ。次期長殿から貰ったのかい? お前さん、奴の気に入りか?」

 

 狼は空中を歩いてエノシラに近寄った。

「ふうん、ふうん・・ なあ、お前さん、俺の姿がどう見える? 恐ろしいかい、そんなに身を強張らせる程に?」

 熱い鼻先が頬をかすめる。

 

「ほおお!」

 狼は感嘆の声を発して、一足飛びに下がった。

 エノシラが歯をガチガチ言わせながらも、懐剣を抜いて振りかざしたのだ。

 

「あ、あっちへ行け!」

「物騒なモン持ってるな」

「刃物は助産師の基本だって、師匠が」

 

「しまえ、しまえ。俺様に本気で相手して欲しいってんなら別だが?」

 薄ら笑いを浮かべ、狼は空中で腰を下ろした。

「そこのドチビとたまたま会って、値踏みしていただけだ。心配すんな、こんなつまらんガキに用はない」

 

「つまら……ん?」

「ああ、つまらんつまらん、こんなガキ。欲がカケラもない」

「欲……」

「そう、欲! ヒトの欲は面白い。欲望が大きい奴ほど、俺様の姿が偉大に恐ろしく見えるのだ。そういう者の欲を叶えれば、俺様はその通りの姿になれる!」

 

 獣の目的が血肉ではなさそうなので、エノシラは肩を降ろした。

「でも欲がないって、それは、良い事じゃないの?」

「良い事ぉ?」

 狼は口の端を上げて歯を見せた。

 

「欲ってのは生きるエネルギーだ。生きとし生ける者の糧だ、お嬢ちゃん!」

 妖しい銀の目で見据えられ、背中に鳥肌が立った。

 同時に金縛りに遭ったように動けなくなった。

 

「キレイなおべべが着たいだろう? 誰にも嫌われたくない好かれたい、スゴイねエライねって褒め称えられたい。恥ずかしい事じゃない、生きる原動力だ」

 すぅっと狼は立ち上がった。

 

「ヒトの子が最初にどうやって言葉を覚えるか知っているか? 欲を満たす為だよ。自分を見ろ! 自分を自分を自分を! しかしこのガキにはそういうのが一切無い。だから言葉を覚えない」

「…………」

 

「今、俺様が興味あるのは、お嬢ちゃんの方なんだよなあ・・」

 いつの間に、エノシラの目の前に、炎をまとった真っ赤な口が迫っていた。

 

 

 

  ***

 

 空を斬って光が走った。

 

 獣は後方へ飛び退(すさ)っている。

 

――・・破邪! ――

 

 瞬間、エノシラの身体の呪縛が解け、前のめりによろめいた。

 その目の前に、群青の長い髪がフサリと降りる。抜刀したナーガだ。

 

「去れ、獣!」

 

 遥か上空から、草の馬が後を追って来る。

(あんな高さから飛び降りてらしたの?)

 息を呑むエノシラの横に、馬は砂利を飛ばして着地した。

 

「シンリィを連れて逃げて!」

 

「は、はいっ」

 エノシラは最初の場所で突っ立ったままの子供の所へ走った。

 

――――!!??――――

 目の端で、群青の髪がくずおれるのが見えた。

(えっ?)

 

「おや、おやおやおや~」

 狼の愉快そうな声が聞こえる。

「いつの間に破邪の術なんか使えるようになったんだよと感心してやったのに。そのチビを捜すために術力を使い切っちまったのか? 情けねぇなあ、お嬢ちゃんを逃がす間くらい、平気なふりして踏ん張るモンだろうが……おっと」

 狼はぴょんと跳んだ。ナーガが片膝付きながらも剣を振り回したからだ。

 

「だ、だまれ・・」

 汗で髪が張り付いた額も蒼白だった。

 強い術は術者の血を蒸発させる・・オウネお婆さんが言っていたのを、エノシラは思い出した。今このヒトの目の前は真っ暗な筈だ。

 

 エノシラは慌てて左右を見回した。助けになる物なんて何もない。

 とにかく子供だけでもと、身体を抱えて馬上に押し上げた。

 しかし草の馬はおろおろと動揺している。

 

「行って、逃げなさい」

 尻を叩いて叱咤しても動かない。倒れた主に気が行っているのだ。

 ああ、どうしたら……

 

「おじょうちゃん~~」

 見逃しはしないぞとばかりに狼が振り向いた。

 今一度銀の眼で捉えられ、エノシラはまた動けなくなる。

「俺様と契約しない? そしたらこいつらには何もしないで見逃してやる」

 

「な、なに? ケイヤクって?」

「耳を貸すな、エノシラ」

「今、い~い所なんだ、黙ってろ、ガキ!」

 

 炎をまとった蹴爪が跳躍し、ナーガの背中と剣を握った腕を踏み付けた。

「・・!!」

 嫌な音がした。

 

「待って、やめて、あ、あたし何をすればいいの?」

「エノシ・・」

 再び踏み付けられる鈍い音。

 

「簡単だ、望みをひとつ言え。その欲望が俺様の糧になる」

「そ、それだけでいいの?」

「俺様の力で叶えられる望みだ。『草原の久遠(とわ)の平和』なんて嘘っぽい奴もダメだぞ。思いっきり私利私欲にまみれたえげつない奴を頼むわ。欲の力がなきゃ糧にはならんからな」

 

「…………」

「時間を掛けるとこいつの手足が一本づつイイ音を立てるぞ。さあ早く言え、早く早く」

 

「やめろエノシラ、ひとつで済むもんか、一度嵌(おとし)められたらズルズル脅されて……」

「黙ってろと!」

 狼はナーガの頭を乱暴に踏み付け、口を塞いだ。

 

「ああ、言います、言います!」

 エノシラがおろおろと叫び、狼は喉で笑いながら彼女に向いた。

 

 

 

 

 次に何が起こったか。

 砂利に押さえ付けられているナーガには、見る事が出来なかった。

 

「あ、あんた、ダメ・・」

 エノシラの緊迫した声。

 ザクザクと砂利を歩く音。

 その二つは、狼の慌てふためいた悲鳴にかき消された。

 

「よ、よせ、やめろ! やめろやめろやめろ!!」

 

 獣の足に一瞬力が入ったが、それは彼が飛び退(すさ)る為だった。

 

「あの小娘と同じだ、嫌なガキだ、嫌なガキ・・やぁめろぉっていってるだろうがぁぁああ!!」

 

 狂ったような叫び。それがだんだん早くなり、そして途切れた。

 

 

 静寂。

 

 ナーガが軋(きし)む身を起こしてそちらを向くと、羽根の子供の後ろ姿があった。

 赤い逆光に縁どられ、いつもと変わらずぼぉっと突っ立っている。

 

 子供を正面から照らしているのは、狼の残り炎だった。

 そこから上空に赤い帯を引いて、逃げ去った直後なのが分かる。

 それらはポッポッと瞬いて、ほどなく消えた。

 

(何があった? 何をやった? シンリィ)

 

 反対側には、棒立ちになっているエノシラ。 

 

「エノシラ、エノシラ!」

 

 ナーガの声にハッと我に返ったエノシラは、慌てて駆け寄って来た。

「大丈夫ですか、ああ、動かさないで、見せて下さい」

 言いながら娘はひざまずいて袖をまくり、ナーガの踏み付けられた腕をなぞった。

 

「いや、それより教えてくれ、いったい……うぁっち!!」

「痛みますよね、ちょっと我慢して下さい。ああ、これは……ね、あんた、ここを持って」

 呼ばれて子供は素直に寄って来て、ナーガの腕を支えた。

 

 エノシラは、転がっていたハイマツの枝を拾い、そして自分の衣服の袖をむしり取った。

「え、いや、いいです、貴女の衣服……」

「応急手当もしていない怪我人と帰ったら、オウネお婆さんに叱られます」

 

 てきぱきと添え木を設えるエノシラは、さすが医療師の弟子といった所だ。

 ほんの一時前、狼に脅され怯えていた娘とは思えない。

 医療従事者だから? ……そういう物なのだろうか。

 

「あの、エノシラ、見ていたんだよね。シンリィは何をやった?」

「それが……よく分からないです」

「術を使ったの? それの光が眩しかったとか?」

「ええ、はい、多分……」

「……??」

 

 カワセミ長がシンリィに何らかの術を教えていた可能性は、無きにしも非(あら)ずだ。

 落ち着いたらもう一度、エノシラに思い出して貰おう。

 

 迎えに来たノスリに無茶苦茶に怒鳴られたので、ナーガの思考はそこで中断された。

 

 

 

 

 

 

 



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欲しいモノ あげたいモノ・Ⅵ

  ***

 

 夜闇に沈むハイマツの丘。

 昼間の出来事が嘘のように、ひっそりと静まり返っている。

 

 砂利の音をさせて降り立った騎馬は、あまり飛行に慣れていないようだった。

 

「ここに来れば俺様に逢えると思ったか? 随分と安く見られたもんだ」

 

 細い炎が周囲を照らして、赤い狼の姿になった。

「なんだ? やっぱり俺様に叶えて欲しい願いがあったのか?」

 

「はい」

 馬から下りたそばかす娘は、唾を呑み込んで狼に向いた。

「昼間、言おうかどうか迷ったんです。でもナーガ様に聞かれたくなくて」

 

「何だ、そんなに恥ずかしいお願いか? ククク・・」

 狼の半笑いはすぐ消えた。

 娘がポケットから取り出した物を、目の高さに差し出したからだ。

「何の、マネ、だ」

 

「やっぱり、これその物に威力がある訳じゃないんですね」

 そういうエノシラの掌の上には、以前羽根の子供に貰った小さな羽根が乗っていた。

 

「ふ・ざ・け・る・な!!」

 狼の全身から炎が立ち昇った。

 

「あの、怒らないでください。ナーガ様にも誰にも言うつもりはないです。あたしが見た事」

「・・・・・・」

 

「だからその、ナーガ様とあの子供に、もう近寄らないで下さいませんか」

「俺様を脅迫しようってのか!」

「そうなります」

 

 エノシラはそこで黙らされた。

 一足飛びに飛んで来た狼の牙が、喉に息が掛かる距離まで迫ったからだ。

「勘違いするな! お前さんを物言わぬ物体にする方が手っ取り早いんだぞ!」

 

「すみません・・」

 銀の眼を間近に見ながら、エノシラは素直に口を閉じた。

 本当はもっと言いたい事があった。

 

 ね、狼さん、ナーガ様の怪我、どうしてみんな身体の中心を外れていたんでしょう。

 まるで本当に危ない所をわざと避けてくれたみたいに。

 爪もかかっていなかったし、見た目は派手だけれどかすり傷ばかり。

 折れた音は後ろ脚でハイマツの枝を踏んだ音。まんまと騙されちゃいました。

 

 ね、狼さん、貴方、本当は何をやりたかったんです……?

 

「蒼の長の血筋の者とは切っても切れん腐れ縁がある。お前さんの脅迫には乗れないな」

「そうですか……」

 

「代わりに、契約無しで一回だけ願いを聞いてやる」

「本当ですか?」

 エノシラの台詞は棒だった。まるでそう言われる事を予想していたかのように。

 

「気が変わらん内にさっさと言え」

「はい、言います」

 

 

 

   ***

 

 朝の馬繋ぎ場に、ナーガと羽根の子供の姿があった。

 いつもと違うのは、ナーガの腕と頭に包帯が巻かれている事、馬が大きな荷物を積んでいる事。

 

「おはようございます」

 声に振り向いて、ナーガは目を見開いた。

 懐かしい桃色の衣装が、そばかす娘を包んでそこにあった。

 ただの布切れがヒトの形になるだけで、こんなにも違って見えるのか。

 

「着てくれたんですね、お似合いです」

「ちょっとキツイです、恥ずかしい、ダイエットしなくちゃ」

 

 見ると子供が、衣装の両袖を引っ張っている。

「シンリィも見られて良かったな。これから山の母の所へ送って行くんです」

 ナーガはなるべく感情を気取られないように、後ろを向いて馬の荷物をポンポンと叩きながら喋った。

「母はこの子の事を気に入っているし、僕も助かるし、執務室も助かるし……」

 

「シ・ン・リィ」

 ナーガは驚いて振り向いた。

 エノシラが子供の目を覗き込みながら、初めて名前を呼んでいた。

 

「シンリィ・ファ!」

 呼ばれて子供は、両袖を掴んだまま、彼女の腰にギュッと抱き付いた。

 

 ・・・・・なぜだ??!!

 

 

 

「……えーと??」

 ノスリとホルズは上手く呑み込めなくて、三回聞き直した。

 

 山へシンリィを送りに行った筈のナーガが、エノシラを伴って戻って来た。

 ユーフィの桃色の衣装なんて着ているもんで、『ナーガの贈り物を受け取った』=『仲直りでラヴラヴ!』という図式を勝手に描いて、二人ちょっと浮かれたが、そうでもないみたいだ。

 

「あたし、シンリィ・ファの『お母さん』になります!」

 

「えーと、だから、それって、ナーガと所帯を持つ……って事……だよな?」

「いいえ!」

 エノシラは、トンでもないですよねぇ! と、後ろで呆然と突っ立っているナーガに同意を求めた。

 ナーガだって、さっき馬繋ぎ場でいきなりそんな事を言い出したそばかす娘に困惑している。

 

「叔母様みたいに通いで世話するんじゃなく、お母さんとしてずっと一緒に寝起きして暮らすんです」

「はあ……」

 ノスリとホルズはナーガを伺い見た。また「カワセミ長は僕に託してくれたんです!」とか、この唐変木が意地を張りやしないかと。

 

 しかし当のシンリィが、さっきからエノシラの腰にガッシリしがみ付いて離れないのだ。

 

 

 

   ***

 

「それでその娘はどんな願いを言ったのかしら?」

 

 万年雪に覆われた山岳地帯。

 頂上直下にやや突き出た棚があり、尖端に白いローブの女性が佇んでいた。

 何故こんな険しい雪山に? という俗な疑問を吹き飛ばすほどの、当たり前然とした威厳がある。

 

「ケッ」

 赤い狼は、凍った岩の上で、嫌そうに舌打ちした。今日の彼は、きめ細かい炎を静かに瞬かせ、普段の猛々しさはない。

「時間を戻してくれっとさ」

 

「あら難しそう、そんな事、貴方に出来るのですか?」

 

「出来る訳ねぇだろ、出来たら怖いわ。まあ、『地の記憶』を利用して、過去のひとつの地点に意識を飛ばしてやる事くらいは出来るわな。地面に刻まれた記憶を辿るだけだから、行ったって何も出来ない。ただボケッと眺めて帰って来るだけ。当たり前だが、歴史を変えられないのは、全ての術の理(ことわり)だ」

 

「それはそうですよね」

「そう説明したら、ちょっと考え込んでから、それでもいいって言いやがった」

 

 少し風が吹いて、女性の白いローブをひるがえした。

「それで飛ばしてあげたのですか?」

 

 言われなくても行先を知っている風な女性の態度に、狼はイライラした感じで後ろ脚で身体を掻いた。炎の体毛がチリチリ散って空中を焦がす。

「目の前の事に手出しも出来ねぇ、虚しくなるだけだってのにな」

「…………」

 

「まあ、約束だから送ってやった。後は知らねぇ」

「そう、ありがとう」

「俺様に礼を言うなって、何度言ったら覚える?」

 

 静かに微笑む女性の背後には、見事な彫刻が施された白い氷の門柱がそそり立っている。

 風の神を祀る神殿の玄関口だ。

 頂上直下の山その物が掘り抜かれて巨大な神殿となっている。

 いつ誰がどうやって造ったのかは、彼女も知らない。

 

「せっかく長の家系に新顔が登場したのに、つまらんガキでガッカリだったわ」

「いい加減諦めればいいのに……」

 

「諦めないね、草原に君臨する蒼の長様が欲望に支配されたら、俺様はいったいどんな姿になれるのか? 考えるだけでも身体の芯がゾクゾクしやがる」

「懲りないヒトですね、一度それで酷い目に遭った癖に」

 

「ああ、あの小娘な」

 狼は忌々し気に、口を歪めた。

「兄貴が意外と頑固だったもんで、妹の方がフワフワして扱い易(やす)そうに見えたんだ」

 

「何て言われたんでしたっけ」

「思い出したくもねぇ。親の教育が悪すぎるんだ」

 

「うふふ・・あら、噂をすれば」

 女性が何かに気付いて空を見上げた。

 

「思ったより早かったわ。ねえ、……あらら」

 振り向くと、氷の溶けた足跡を残して、狼の姿は消えていた。

 

 

 

 上空の高空気流から飛び出して、蒼の妖精の草の馬が姿を現す。

 二人乗りなので、いつもより丁寧に降下している感じだ。

 

 氷を散らして着地した馬から、まず群青色の長い髪の男性が降り立った。

「お久し振りです、母上」

 

「ごきげんよう、ナーガ。今日はシンリィを連れてはいないのですね。残念だわ」

 

 ナーガに支えられて後から下馬したそばかす娘が、身体をこわばらせた。

「あ……すみません、あたし……」

 

「無茶言わないで下さい。蒼の里でこの高さまで飛べるのは僕の馬しかいないんですよ。大人二人だってギリギリです」

「情けない子ね。貴方のお父様は平気で他の騎馬も引きつれて飛ばしていましたよ」

「父上の場合、馬もバケモノでしたから」

 今その馬は、母と共にこの神殿で暮している。主に先立たれた草の馬は、大概ほどなく枯れてしまうのだが、たまに新たな主を得て寿命を延ばす馬もいる。

 

「それより母上、お言い付けどおり連れて来ましたよ」

 ナーガはそう言って、娘の肩を掴んで押し出した。

 

「あう、は、はじめまし……」

 ガチガチに緊張している娘を通り越して、女性はナーガに鋭い視線を向けた。

「貴方のお父様は、女性の紹介の仕方も教えてくれなかったのですか? やり直しなさい」

 

 思い切り苦い顔をして、ナーガは娘の肩に手を置き直した。

「エノシラ嬢です。拝名はこの春。ノスリ長の祖父の兄の妻の方の系譜で……」

 

「もうよろしい」

 女性はますます不機嫌になって息子の口上をぶった切った。エノシラは蒼白で気絶寸前だ。

 

 そんなそばかす娘の正面に立って、女性は被っていたヴェールを肩に落とした。

 たおやかな微笑みが現れる。

「初めまして、ナーガの母です。シンリィがお世話になっているんですってね。本当に感謝しています」

 

 エノシラは唾を呑み込むしかなかった。

 ヴェールの向こうの女性は、この世の者とは思えぬ美しさだった。真っ白な肌に空色の髪。

 美しいなんて単純な言葉だけでは言い表せない、雪から生まれた女神様のよう。

 

「エノシラ、エ・ノ・シ・ラ」

 黙っている娘に気を使って、ナーガが挨拶を促した。

 しかしそれも母の勘に触ったようだ。

「ナーガ、貴方は神殿の居間に行ってお茶の支度をしていらっしゃい」

 

「あ、あたしが……」

「あら、お嬢さんは私(わたくし)といらして。そう、ナーガの子供時代の衣服が無駄に沢山あるのよ。シンリィに似合いそうな物を見立ててくださらない?」

 女性はエノシラの手を優しく引いて、神殿を入って右の居室に誘(いざな)った。

 

 ナーガはまた苦い顔をしながら、母の言い付け通りに左の居間に向かった。

 古今東西、蒼の里の次期長をここまで石コロ扱い出来るのはあの女性(ヒト)ぐらいだ。

 

 シンリィを初めてここに連れて来た時などもっと酷かった。とろけるような笑顔で孫に飛び付き撫でくりまわし、ナーガの存在に気付いたのなど、お茶のお代わりを入れ直した頃だった。

 

 前回の訪問時、シンリィを世話してくれる女性が見付かったと報告したら、何故連れて来て紹介しないのかと滅茶苦茶怒られた。いや勘違いしないで下さい、あくまでお母さん役をやってくれているだけなんですと、何度も念を押したが、通じているかどうか……

 

「エノシラ、大丈夫かな。あのヒト思い込みが激しいから……」

 

 

 衣服を選んでと連れて来たのに、女性は衣装箱を開けるのもそこそこに、部屋の真ん中の長椅子に毛皮を敷いてエノシラを促した。

「あの、すみません。あたしが出しゃばったせいで、お孫さんと暮らせる機会を」

「あら、いいんですよ」

 

 女性は遠慮している娘の肩を抱いて、共に隣に座った。

「蒼の妖精の子供は、蒼の里で生きるべきです。そう思ってナーガとユーフィも送り出したのですから」

 言いながら、白い指をエノシラの手に添えた。

 

「ユーフィの事……教えて下さいますか?」

「…………」

「行ったのでしょう? シンリィが生まれたあの朝に」

 

 

 

 

 



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欲しいモノ あげたいモノ・Ⅶ

 夏草の香りにむせかえる。

 ここは里の裏の放牧地。彼方の空が僅かに白み始めている。

 

 薄明かりの中、エノシラはただ突っ立っている。

 五感はあるが、地に足が付いている感じがしない。

 去年壊れた筈の水車がちゃんと動いている。

 

(狼さんは願いを叶えてくれたんだ)

 

 背後の気配に振り向く。

 羽根の子供が所在なさげにそこに立っていた。

(こちらの術は出来るかどうか保証しかねるって言われたけれど、成功したみたいね、よかった)

 

 エノシラは子供の手を取った。どちらの手も半透明だ。

 ここは七年前の『地の記憶』。自分達は存在しない者。

 

「あんたにとって、これは夢。今頃おうちでスヤスヤ眠っている筈。さ、行こう」

 

 言いながら手を引いて、草の中のある一点を目指して歩いた。

 そこにうずくまる人影がある。

 今しがた、あちらの灯りの付いているパオからよろけながら歩いて来た影だ。

 

 近寄ると血のにおいがする。

 空色の前髪は巻いた形で額に張り付き、荒い呼吸の懐で、小さな小さな赤子が息づいている。

 

(何も出来ない。虚しくなるだけって狼さんは言った。本当にそうだ)

 

 それを聞く前は、子供の自分が赤子をひったくってカワセミ長に届けに行くつもりでいた。

 それでも結局は沢山のヒトを悲しませる。母さんもナーガ様も苦しむだろう。あたしの自分勝手な自己満足だから、私利私欲にまみれたお願いという条件は満たしていると思った。

 

(でもそれが叶わないのなら、いっそ……)

 お願いの内容をちょっと変えて貰った。

 羽根の子供も連れて行ってあげたいと言ったら、狼さんは思いっきり眉間にシワを入れた。

 それでもこうやって叶えてくれたんだから、いいヒトだ。

 

「ね、あんたのお母さんよ、お・か・あ・さ・ん……わかる?」

 繋いだ手を離してやったけれど、子供はただ突っ立っている。

 母親に一目逢わせてあげたいなんて、それこそあたしの傲慢な自己満足だったのか。

(だとしたら、このヒトが苦しみながら厩まで這って行くのを見せるだけになってしまう……)

 

「シンリィ」

 

 小鳥のような声に、エノシラと、そして子供もビクンと揺れた。

「金鈴花(シンリィ・ファ)だわ。ねぇ、あたし、この花が一番好きなのよ」

 女性の目の前の草の中に、咲き遅れた黄色い花が、一輪だけ残っていた。

「カワセミ様に持って行ってあげようね」

 手折った花を赤子の包(くる)みの懐に差して、彼女は顔を上げた。

 

 エノシラは我が目を疑った。

 笑っているのだ。こんな状況で、この女性は微笑んでいるのだ。

 

「大丈夫だよ、カワセミ様がきっと何とかしてくれる。もし、何とかならなくても……」

 女性は勢いを付けて、よろけながら立ち上がった。

「あたしがあんたを護るから。何があってもどんな事をしてでも護るから」

 

 赤子を抱いて、一歩一歩厩に向かう。

 それでも、少し歩いて、またうずくまってしまった。

 当たり前だ。一晩かかったお産の直後なのだ。

 

 何の手助けも出来ない拳を握りしめるエノシラの横で、羽根の子供がスッと動いた。

 

 歩きながら両手で背中の羽根をブチブチむしり、女性の正面に立って……掌(てのひら)一杯のそれを、腕を伸ばして差し出した。

(あんた……)

 

 欲望の赤い狼に対しても、この子は同じ事をした。

 それは狼を苦しめた。彼の炎がみるみる小さくなって行ったのだ。

 だからって、この子が狼に対して攻撃している風には見えなかった。

 

 ではこれは、この行為は、この子にとって何なのだろう。

 一度羽根を受け取ったエノシラには、何となく分かるような気がする。

 ヒトの生きる原動力は『欲望』だけではない。

 

(あんたは欲しがる事をしない代わりに、ただあげたい気持ちだけを持って生まれて来たんだね)

 

 遠くの雲の切れ間から、一筋の朝陽が射した。

 温まった風が羽根を舞い上げ、女性の前にハラハラと落とす。

 陽光をたたえた彼女の瞳に緋い色が映るのを、エノシラは確かに見ていた。

 

 女性はもう一度立ち上がって踏ん張った。

「頑張らなきゃね。あんたもあんなに頑張って生まれてくれたのに」

 そして正面の何もない空間に向けて、最上の笑顔を見せる。

 

「そう、生まれて来てくれてありがと。あたし、こんなに、嬉しい」

 

 あたりが白いもやに包まれて来た。術が切れるんだ。

 エノシラはさっきから、子供の後ろから腕を回して抱きしめている。

 自分の頬から滴(したた)る涙が自分の腕を濡らしている。

 そこに自分のじゃない涙も混じっていた。

 

 明日の朝一番に、桃色の衣装を着てナーガ様の所へ行こう。

 

 この子が何も欲しがらないのなら、こちらがただあげたい物をあげればいい。

 

 

 

 

 エノシラはハッと顔を上げた。

 氷の神殿の長椅子の上。

 隣の女性の白い指が、自分の指にギュッと絡まっている。

「ごめんなさいね、強引に覗いてしまって、重い記憶を繰り返させて」

 女性は顔をそむけながら、丁寧に指を離した。心持ち声が上ずっている。

 

「あ、いえ……」

 強引に覗かれたのは構わない。これは誰も知り得なかった筈の記憶で、現在(いま)を生きるヒトに話していい物かどうか、自分には判断出来なかったから。でも、この方にはきっと必要だったのだろう。

 それにしても、ナーガ様は自分の母は大した術は使えないと仰っていたけれど、これは大した術ではないのだろうか。長様基準って分からない。

 

「先に居間へ行ってナーガの相手をしていて下さいな。私(わたくし)もすぐに行きますから。ほら、滅多に来てくれない息子の前で、湿っぽい顔をしていたくないでしょ。本当にごめんなさいね」

 女性の声がだんだん繕(つくろ)えなくなって来ているのに気付いたエノシラは、慌てて立ち上がった。

 

 居間では、ふてくされたナーガが所在なさ気にお茶のスプーンをかき回していた。

 エノシラが一人なのを知ると、ひとしきり母親の愚痴を話し出した。

 とりとめのないそれを聞きながら、エノシラはぼぉっと考える。

 

 狼さんは、欲望の強い者ほど自分が恐ろしい姿に見えると言った。

 ではあの羽根の子供の目に、彼はどう映っていたのだろう。

 

 

 

 離れた山の凍った頂、背中を反らせて伸びをする赤い狼。

(本当に、嫌な所ばっかり似やがって、あの空色の巻き髪の娘に)

 

『願い? あたしの願いは特に無いわ。術なんかいらない、ナナを困らせるもの』

『カワセミ様の心が欲しかろうって? バカね、自力で振り向かせなきゃ意味ないじゃない』

『どうしてそう度々あたしの前に現れるの? そうだ、ならあたしがあんたのお願いを聞いてあげるよ。だってあんた、そんなに儚(はかな)げで、いつもとっても苦しそう。ね、あたし、あんたの為に何が出来る?』

 

「冗談じゃねえ。あの言葉にどれだけ魔力を吸われた事か。炎が消えちまって何年も動けなくなって……くそ! 肝心の時に現れてやれなかったんだ……!」

 

 

 

   ***

 

「はぅあっ! 遅刻よぉお――!」

 胸に子供の手形のある服を着たそばかす娘が、里の奥の道を全力疾走している。

 その手には、手形の主の小さい手がしっかり繋がれていた。

 

 途中、執務室を出て仕事に向かう髪の毛一本隙のないナーガとすれ違う。

「また寝坊ですか?」

「起こしてくれるって言ったじゃないですか!」

 エノシラはその場足踏みし、シンリィも楽しそうにチョコチョコ真似をしている。

「起こしましたよ、パオの外から。返事しましたよ、確かに」

 

「耳元で優し~く起こしてやんなきゃ」

 ノスリが混ぜっ返して追い越して行った。

 

 

「今の家族から独立して住む家が欲しいんです」

 そう言ってエノシラは、山茶花(さざんか)林の円の焼け跡の場所に住みたいと願い出た。

 中古のパオでいいと言ったのに、ノスリ長は新品の小綺麗なパオを設えてくれた。

 そうして、ナーガは今まで通り長の家を守り、シンリィは二つの家を行き来して、意外と上手く収まっている。基本『お母さん』と寝起きし、たまにナーガの側にもいるって感じだ。

 

「この子はバカじゃあない。やっちゃイケナイ事はやらないさ」

 オウネ婆さんはそう言って、弟子がコブ付きで修行に通うのを、あっさり認めてくれた。

 お陰で執務室も遠慮なくナーガをコキ使えて、ホルズもホクホクだった。

 

 先日驚いた事に、あの厩で出会った子供達の中に、シンリィが居た。ごく自然に当たりに、輪っかの端っこに加わっていたのだ。

 子供の方が余計な算段をしない分、話が早いのかもしれない。修練所に通える日もそう遠くないだろう。

 

 

 

 二人を見送って、ナーガは馬繋ぎ場でノスリに追い付いた。

「危なっかしい二人だな。『お母さん』どころか、子供が二人で暮らしているみたいだぞ」

 言っている事と裏腹に、ノスリの口調は穏やかで楽しそうだ。

 そう、完璧主義のナーガが世話しているより、今のシンリィの方が、安心して見ていられるのだ。

 

「元来『お母さん』ってそんなモンじゃないか? フィフィも毎日上を下への大騒ぎだった。多分……」

 ユーフィが生きていてもそんな感じだったんじゃないか……という言葉は口にしなかった。

 

 

 

 

 

 



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受け取ったモノ

ひとつめのおはなしの最終話です





 執務室のホルズは相変わらず忙しい。しかし最近ちょっぴりの変化があった。

 診察や急患でオウネ婆さんの所を閉め出されている時、シンリィがちょこちょこっとやって来るのだ。

 言葉も通じず、澄んだ目を真っ直ぐに向けて来る子供を、彼は苦手に思っていた。

 

「呑気な奴だな」

 長椅子に収まって羽根の先っぽをいじくっている子供を眺めていて、不意なデジャヴに襲われた。

(昔の執務室……)

 

 大机の父の横で、子供だったナーガが雑務を手伝い、ツバクロ長が御簾を跳ね上げて元気に帰って来る。カワセミ長は長椅子で羽根をだらしなく投げ出して、半目を開けてオカエリって言ったっけ。

 三人長の師匠であった大長もまだ健在で、後方から頼もしく支えていて。まだ若造だった自分は、そんな頼もしい大人達の、安心出来る執務室が大好きだった。

 

 さして術力のない自分が大机を預かっているのは、父が亡くなった二人の長の代わりに飛び回らねばならなくなったからだ。人数が減って執務室はカツカツで余裕もない。

 自分の憧れの場所は二度と戻りはしないと思っていた。

 

「無くなったモノを惜しむのではなく、新たにこれから作ればいいんだよな」

 フッと口を付いて出た。

 言ってしまってから我に返ると、長椅子の子供が例の澄んだ目で見つめていた。

 しかしその時は少しも苦手に思わなかった。

 

 ああ、自分はこの子供を苦手だったのではなく、自信のない自分が嫌だっただけなんだ。

 別に忙しいのが変わる訳ではないが、ホルズの心にちょっぴりの余裕が出来ていた。

 

 

 

 夕刻、御簾を上げてノスリが戻って来る。

「親父、お疲れ」

「んん?」

「どした?」

「いや、何となく……何か変えたか?」

 

「別に、ああ、シンリィが、午後一杯手伝ってくれた」

「シンリィがか?」

「大した事じゃないよ。書類に穴を開けて綴じたり道具の手入れをしたり。やって見せれば飲み込みは早いよ、アイツ」

「ほお」

 

 ノスリは長椅子の上に残っていた一枚の羽根を拾い上げた。

「思えば、大人がもて余して疎んじるのを聡く感じて、居場所を捜して里をさ迷っていたのかもしれないな、あの雛鳥は」

「…………」

「ここもあいつの居場所のひとつになれたか?」

 

 薄緋色の羽根がクルクル回ると、なんだか暖かくなった気がした。

 

 

     

 

   ***

 

 もうすっかり夏草の放牧地を、ナーガはゆっくり歩いていた。

 前の方をシンリィが、羽根を少ぅし膨らませて、ツーステップで跳び跳ねながら歩いている。

 まったく、エノシラといると、思いも寄らない動きを会得して来る。

 

 金鈴花はもう終わって、今は所々にカンゾウのオレンジがポツポツ見える。

 久し振りに明るい内に仕事が終わったので、執務室にいたシンリィを伴ってこちらまで来てみたのだ。

 

 思えば、やらなければいけない事に追われて、こんな風にシンリィとそぞろ歩く気分になったのは初めてかもしれない。色んな意味で余裕が出来たお陰だが、ずっと張り付いていた時よりもシンリィが近くにいる気がする。

 

 牧場(まきば)には、あどけないクリクリ目の当歳馬が、三々五々遊んでいる。

 懐っこい仔馬に鼻を寄せられて、シンリィは嬉しそうに鼻を押し付け返している。

 

「馬は好きかい?」

 振り向いて片えくぼを作ったシンリィは、馬の背中に触ってナーガを見た。

「駄目だよ。出来立ての当歳は、まだ草がしっかりしていないから」

 

 ちょっとガッカリ顔な子供に、ナーガは生まれて初めての感情が湧いた。

「ね、シンリィ」

 しゃがんで自分の両肩を子供に示す。

 よく分かっていないシンリィの後ろに回って、足の間に頭を突っ込んで持ち上げた。

 

 初めての経験。ナーガも、シンリィも。ちょっとヨロけ気味の頼りない肩車。

 

 いきなり視界の高くなったシンリィの興奮が、体温で伝わる。

「ハァ!」

 子供は感嘆の声を発して、空に向かって両手を突き出した。

「シンリィも馬に乗れるようになろうな。僕の肩よりずっと気持ちいいぞ」

 

 ナーガはゆっくり歩き出した。子供ってこんなに甘い匂いがするんだな。

 心のどこかで、今まで凍り付いていた塊(かたまり)が、溶けて流れる気がした。

 

「シンリィ、お前のお母さんは……」

 肩の子供がじっとナーガの言葉に心を預けているのが分かる。

「お前のお母さんは、里で一番馬に乗るのが上手な子供だったんだ。だから、お前もきっと上手に馬に乗れるようになるよ」

 

 ずっと封印していた妹の顔を思い浮かべた。

 何故か一番覚えているのは、シンリィと同じ位の、里へ来たばかりの頃の妹だ。

 

「それとお前のお母さんは、太陽みたいで、大輪の花みたいで、ヒトを幸せにして。僕はそんな妹が、羨ましくて……」

 言葉が頭を通さないでサラサラと流れ出て来る。

 シンリィはナーガの肩で揺られながら大人しく聞いている。

「羨ましくて、憎たらしくて………・・大好きだった……!」

 

 土手を登った所でナーガが立ち止まり、しゃがんだので、シンリィは羽根を広げてフワリと前に降りた。

 振り向いた子供が見た物は、片膝着いたままのナーガの情けない顔だった。

 

「ごめんな、お前のお母さん、護れなくて、ごめんな……」

 

 ナーガの頭に小さな手が触れる。顔をあげると、子供は羽根を大きく広げていた。

 バサバサで野放図で、陽に透けて半透明な羽根。

 その向こうに、あの時の妹の笑い顔を見た。

 

「そこに、いたのか、ユユ……」

 

 次の瞬間、細い両腕が花冠のように、頭をギュッと抱いて来た。

 

 

 風が丈の高い夏草を撫でて、波のようにうねらせる。

 今、確かに何かを受け取った。

 

 草の海の中、ナーガはゆっくり立ち上がる。 

 小さな手を今度こそ離さないよう、しっかりと繋いで。

 

 

 

 

 

 




挿し絵「かたぐるま」

【挿絵表示】

~ひとつめのおはなし・了~







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閑話・宵待ち草

「そっち行ったぞ、走れ!」

「戻って戻って、守れー!」

 

 昼休みの修練所前広場。

 十人ばかりの子供が蹴り球(けりだま)遊びに興じている。

 シュロの葉を固く巻いた球は軽くてよく弾む。それを手を使わないで奪い合い、杭を立てたゴールに蹴り込んで点を取るゲームだ。

 

「ちょっとルールが変わったか? 俺らの頃は一点取る毎に陣地替えとかあったけれど」

 所用で修練所に来ていたホルズは、土手の上から懐かしそうに見物していた。

 

「ルールは子供達でその都度変えて行っているみたいですね。元々子供が考えたゲームでしょう?」

 隣で受け答えするのは、今年から新任の若い男性教官。名をサォといい、子供達に人気がある。

 

「あの球の巻き方も上の子から代々伝授しているみたいだし、本当に子供って何かを作り出す天才ですよね」

「ああ、そうかもな……んん?」

 

 ホルズは身を乗り出した。

 蹴り球がそれて土手の下まで転がったのだが、丁度そこに羽根の子供がフヨフヨ歩いて来たのだ。

 

「おーい、羽根っ子、ゴマメっ子」

 子供の一人がシンリィに向けて両手を振った。

「それこっちに投げてくれ」

 シンリィは神妙な顔で蹴り球を拾った。

 その瞬間子供達は止まった。走りかけていた子は片足立ちでグラグラしている。

 

「どうしたのかな?」

「羽根の子供が蹴り球に触っている間は動いちゃいけないってルールが、最近出来たみたいですよ」

「はあ?」

 

 シンリィは両手を頭の上に振り上げて、精一杯の動作で球を放り投げた。

 それでも男の子達の大分手前で落ちてテンテンと転がる。

「サンキュ、羽根っ子」

 球が落ちると同時に子供達は動き出し、ゲームが再開された。

 

「どういう意味があるんだ?」

「さあ、私もちゃんと問いただした事はないのですが」

 

「ゴマメっ子だからだよ、センセ」

 土手の反対側から一人の男の子が駆けて来た。当番で遅くなった子だ。

「あの子、羽根が重くてすぐ後ろにひっくり返るでしょ。目の前まで走り込んで急かしたら、慌てさせちゃって危ないじゃん。だからあの子が蹴り球に触っている間は、時間を止めてあげるんだって」

 

「ふむ」

 確かにシンリィの運動神経は壊滅的だ。身体に比べてデカ過ぎる羽根を背負っているんだから、しようがない。

 

「そういうルールって皆で考えるのか?」

「うん、大体ジュジュが言い出すかな。センセ、僕もう行っていい? 昼休み終わっちゃう」

「おう、行け行け」

 男の子は大急ぎで皆の中へ駆けて行った。ほんの少しの時間でも蹴り球に参加していたいのは、男の子の性(さが)だ。

 

「ジュジュってどの子だ?」

「あちらのゴールを守っている年長の子ですよ。髪の色の鮮やかな」

 コバルトブルーとも言える明るい髪色の少年が、難しいコースをキャッチして喝采を浴びている所だ。年齢は十一,二歳、腕に巻いている山吹色のスカーフが髪に映えて、何気に目を引く子だ。

 

「子供達のリーダー格なのか?」

「うーん、そうでもないんですが。年齢の割には大人びた気配りが出来て、それで皆に一目置かれているって感じかな。うちで寝起きしていますが、小さい子の面倒もよく見てくれます」

「そうか、ハウスの……」

 

 先の病渦で、里には親を失くした子供が少なからずいる。

 サォ教官はそんな子供の為に、教習生時代から自宅を開放している。

 正式に引き取った子は数人なのだが、誰でも好きに出入り出来るようにしている内に、子供達のたまり場になった。

 

 親戚の家に身を寄せている子も、何となくいつの間にかそちらで暮している。

 多分皆、この裏表のない熱血教官に心を許しているのだろう。

 子供達はいつしかそこを『ハウス』と呼ぶようになった。

 『安心して帰れる家』という意味だ。

 

 そんなサォ教官だが、シンリィが修練所に通うのにも結構骨折ってくれた。わざわざエノシラの所に出向いて、色々と話し合ってくれたらしい。まだ若いのに物怖じしない有言実行っぷりに、ホルズは密かに一目置いている。

 

「シンリィは『自然法術』が大好きで、毎日この時間には必ず来るんですよ」

「あいつ、講義を聞いて分かるのか?」

「さあ、それは私達には知りようがないです。担当の先輩教官は、あんまり食い入るように見つめられるんで緊張するって言っていました」

「ふむぅ」

「ホルズ殿、あの子は脳みそが欠けてなんかいない、ちょっと繋がり方が違うだけなんじゃないかと思います」

 

 そのシンリィは、校舎の方まで歩いて行ったものの、途中で止まって足踏みしている。

 校舎の入り口では昼休みを終えた女の子達が固まって、ワキャワキャと立ち話をしていた。

 

「なんだあいつ。女の子が嫌なのか?」

「ああ、何ででしょうか嫌がりますよね。甲高い声が駄目なんでしょうか」

 

「はは、カワセミ長とおんなじじゃないか」

 ホルズがククッと笑った。

「親父に聞いた話だけれどね。子供時代、女の子が近付くと、『術が逃げる』って意味不明な事を叫んで逃げ回っていたらしい。うちのお袋が『ヘタレ、ヘタレ』ってからかいながら、嫌がるあのヒトを追い掛け回していたって」

 

「フィフィ教官ですか!?」

 サォ教官が目を輝かせた。

「あ? ああ」

 ホルズの母のフィフィは、自分の子育てを終えた後、修練所の教官を務めていた。その頃のノスリ家には、色んな子供がわちゃわちゃ出入りしていて、丁度今のハウスのようだった。

 

「私はちょっとひねくれていた時期がありまして。あの方の親身な指導がなければどうなっていたか。本当に感謝しているんです」

「へえ……」

 ホルズは生返事だった。いい大人になってから母親を褒められるのは、非常にこそばゆい。

 

「素晴らしい女性でした。凛々しく雄々しく温かく、時には聖母のような……」

 スイッチの入ってしまった教官の傍らで、半笑いを浮かべるしかないホルズ。

(天然なんだろうけど、この空気を読まない所が、良い所でもあり、心配な所でもあるな……)

 

 何とか話を変えようと、ホルズは頑張って話題をヒリ出した。

「そ、そういえば、今日ナーガの仕事は山の神殿の近くなんだが、シンリィを連れて行けば良かったのにな。行ったついでに会わせてやったら、お袋さんも喜んだろうに」

 

「エノシラが、また連れて行って貰ったみたいですよ」

「なに?」

 自分の知らない情報が転がり出て、ホルズは今度は喰い付いた。

 

「彼女、ナーガ様の母君に用事があるらしいです。前日には分かっていたので、オウネお婆さんの所は休みを貰って。あ、帰って来るまでシンリィはハウスの方で預かりますので」

 

「ほほお・・」

 ナーガの奴、またエノシラと出掛けるのを隠しやがって。帰ったら袈裟固めだな。

 

 

   ***

 

 雪を頂いた氷の神殿。

 

 玄関エントランスから空色の髪の女性が、ヴェールをひるがえして駆け下りて来た。

「ああ、エノシラさん、よくいらしてくれたわ。寒かったでしょう、ささ、中へ中へ。あらナーガいたの?」

 

 相変わらずの息子の空気扱いっぷりにうんざりしながら、ナーガは事務的に述べた。

「今日はこちら方面に所用があったのです。僕はご一緒出来ませんが、夕方また迎えに来ますので」

 

「はいはい構いませんよ。あっそうそう、可愛いお菓子があったのよ、生姜味はお好き? あらナーガ、まだいたの」

 

 苦虫を噛み潰した顔の息子が「では後ほど」と言って飛び立つや、女性はエノシラに腕を絡めて、弾むように神殿内に誘(いざな)った。

「来て下さって嬉しいわ。こんな寒い何も無い山、若い娘さんにはつまらないでしょうに」

 

「いえ、ここから見る景色は素晴らしいし、今日も楽しみにしておりました。あの、これ、先日のお礼です」

 エノシラは鞄から小さなツボを取り出した。

 前回の訪問時、「寒いでしょう」と真っ白い毛皮のケープを頂いた。里に帰ると叔母達が飛び上がって驚いて、絶対にお礼をしなければ駄目よと口々に言われたのだ。

 

「お口に合えばいいのですが」

 フワリと甘酸っぱい香り。里の水辺で採れるエビガライチゴの砂糖漬けだ。

「あらあら、いいのにお礼なんて、いいのにいいのに……ああいい香り」

 女性はニコニコして目を細めた。

 

 居間の小テーブルを挟んで、エノシラはシンリィの近況を話した。

 女性はうなずきながらひとつひとつを嬉しそうに聞く。

 

 話し終えると、エノシラは少し間を置き、居ずまいを正して切り出した。

「あの、実は相談したい事があるのです。相談っていうか、えっと、ご意見を伺いたい事……です」

 

「あらあらあら」

 お茶のお代わりの手を止めて、女性は目を輝かせて顔を上げた。

「当ててみましょうか。恋の悩みでしょう」

 

 エノシラは湯気が見えるかと思えるくらい真っ赤になった。

「そそ、そんなんじゃ、そんな大それた……ただもう、どうしたらいいのか分からなくて。あたしこの通りのみすぼらしい外面だし、頭悪いしドジだし」

 

 女性は立って隣に歩いて来て、指まで茹で上がった娘の手を取った。

「そして思いやりと勇気に溢れた美しい魂の持ち主だわ。しいて悪い所を捜すなら、そんな自分に気付いていない所かしら」

「…………」

「もっと胸をお張りなさいな」

 

 

  ***

 

 夕刻の蒼の里、坂の上の執務室。

 

「えーと??」

 ノスリとホルズの執務室コンビは、上手く呑み込めなくて、三回聞き直した。

 目の前には、組んだ指をモジモジさせるエノシラ。

 確か今日はナーガと出掛けた筈だが、何故か彼女だけでやって来た。

 そして重ねて何故か、隣に修練所のサォ教官。

 

「もう一回、順を追って説明してくれるか?」

 ノスリが額に手を当てて、何回聞いても同じであろう答えを聞いた。

 

 教官が緊張気味の声で答える。

「はい、私には目標があります。尊敬するフィフィ教官のように、寂しい子供達の居場所になれる暖かな家庭を築く事です。そして、その礎(いしずえ)となる生涯の伴侶はこのヒトしかいない! と、一目会った時、天啓のように閃いたのです」

 

「そ、それでエノシラ、君は彼の申し込みを受けた……のか?」

 

「はい」

 エノシラはまつ毛を伏せて、はにかみながら答えた。

「あたしは修行中の身だし、一緒になるのはまだまだ先だと思うんです。でも、あたしがシンリィのお母さんをやっている以上、長様方にきちんと報告をしなければと思って。ナーガ様にはさっき帰って来る馬上でお伝えしました」

 

「ああ……そう……」

 ナーガが里に戻っているのに執務室に顔を出さない理由が分かった。

 

「最初、シンリィの面倒を見ているのだからナーガ殿の決まったお相手だと思って、一目惚れした途端失恋かあ……と、勝手に落ち込んでいたのです。でも別にそうでもないって聞いて、思わずその場でプロポーズしてしまいました」

 

「サォ教官に申し込まれて、ずっと悩んでいたんです。でも『あるヒト』に相談して、励まして頂きました。もっと胸を張りなさいって」

 

 誰だあっ? そんな余計な後押ししちゃったのはっ!! 

 

 

 

 

「究極のアホウだな」

 赤い狼は、その周辺の氷がすべて溶けるかと思える程の大きな溜め息を吐いた。

 

「だって、恋の悩みって、ナーガの事だとしか思わなかったんですもの」

 白い神殿前の階段で、女性がヴェールごと頭を抱えて丸まっている。

「やっと進展してくれたかと大喜びで励まして、でも途中でどうやら相手が違うのではと気付いたのだけれど、もう話をくつがえす訳にも行かなくて……」

 

「大した母親だな」

「言わないで……」

「あの娘、見かけによらず大物だったぜ。でかい魚を逃がしたな。ふむ、この砂糖漬けうめぇ。おい、もっと酒ねぇか」

 

「ああ・・何がいけなかったのでしょう、私(わたくし)の自慢の息子なのに。素直で可愛くて性格も良くて……でも頑張って普段からベタベタしないように努力していたんですよ。今時の娘さんってそういうのにドン引きするのでしょう?」

 

 狼は聞こえない声で「そういう所だぜ・・」と呟いた。

 

「あいつ今頃、弱り切ってるだろうな。そうだ、今なら容易(たやす)く誘惑に乗ってくれるやもしれんな」

 狼は愉しそうにクスクス笑った。

 

 しかし背後に、ズゴゴゴゴ・・・と、オーラを感じる。

「冗談だ、冗談。あんたを怒らせる程命知らずじゃねぇよ」

 

 

   ***

 

 蒼の里の放牧地。

 今昇った三日月に照らされて、土手の上に膝を抱える影ひとつ。

 

「ナーガ様?」

 

 声がして、子供が二人、オレンジのカンテラを灯してやって来る。

 背の低い方は羽根を背負ったシンリィ。

 背の高い方は十二歳くらいの明るい髪色の少年。

 

「あ、えっと、ハウスの……?」

「ジュジュです。この子を送って行く途中だったんですが」

「そう、ありがとう」

 

 ナーガは手を伸ばしてシンリィの頭をなでた。

「ただいま、シンリィ」

 優しく言ったが彼は座り込んだままで、立ち上がる様子がなかった。

 

「あー、今日の仕事でちょっと術を使い過ぎて。少し休んだら回復するから、すまないけれどシンリィを先にエノシラの所に送って…… シンリィ?」

 

 羽根の子供はナーガの前に突っ立ったまま動かない。

 表情のない子供と表情の死んでいる大人の双方を見比べて、ジュジュはそぉっと言った。

「あの、ナーガ様、元気出して下さい、次がありますって」

 

 ナーガはしゃっくりしたみたいにせき込んだ。

「いや、僕は別にそんな、いやだな、勘違いだよ、僕はそんなんじゃなかったし」

 

「そうですか? だったらいいんですけど」

 ジュジュはシラッと目を反らし、執務室の方を見た。

「センセは天然な所あるけど、俺にでも分かる事、大人のクセに何で気付かないかなあと思っていました」

 

「だ、だから君の思い過ごしだってば。サォ教官は素晴らしい人物だよ、うん。そんなヒトが僕らの恩人のエノシラを見初めてくれるなんて、喜ばしい以外の何物でもないよ」

「…………」

 

「ただ……びっくりしたんだ、いきなり過ぎて。エノシラも言ってくれればよかったのに。なあ、シンリィ」

 ナーガは紛らわすように傍らの子供の頭をなでた。

 シンリィは髪をワシャワシャされながら、そのままユラユラ揺れている。

 

「……あの、ナーガ様」

「ん?」

 言い掛けて、ジュジュは呑み込んだ。

「あ、やっぱいいや、いいです。じゃあ俺ら、行きます」

「そう?」

 

「ナーガ様も冷えない内に帰って下さいね」

 ジュジュは羽根の子供の手を引いて、土手の道を下った。

 シンリィは振り返りながらも、素直に彼に従って歩いて行った。

 

 三日月が中天高く昇り、里の灯りが半分になった頃、ナーガはのろのろ立ち上がる。

「はあ、あんな子供にまで心配されるなんて」

 

 これじゃ、ノスリ長やホルズにどれだけ気の毒がられる事か。そちらの方が気が重いんだ。

 本当に、皆、早合点し過ぎなんだ、僕自身は、まったく、どうって事、ない、のに。

 

 立ち上がりはしたが、膝がカクカクとよろめく。

「あれ、おかしいな、しびれちゃったかな」

 

 

 

 

 

 

 

   

 



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閑話・木守りの実

   

「まったく、何で自分の気持ち一つ分からないんだろ、大人のクセに。

 なあ、羽根っ子……あれ?」

 

 執務室への坂道を登りながら、ジュジュは振り返って仰天した。

 繋いでいると思った手がもぬけのカラ……

 

(いつ抜け出したんだよ、ナーガ様の事は放って置いてあげろよ!)

 

 慌てて踵を返すと、遠くの坂の下に緋色の羽根が見える。

 後ろ姿は道から外れて、灌木の林に吸い込まれて行く。

 そちらは放牧地と全然違うし、里外れで行っても何もないぞ――っ。

 

「お、おーい、羽根っ子、シンリィ!」

 呼んでも子供は一瞬の躊躇(ちゅうちょ)もなく、ぐんぐん歩いて行く。

 この辺りの結界の境目は柵がない。そういえばサォせんせに、シンリィは平気で結界を越えてしまうから気を付けるように言われていた。

 

「冗談じゃない」

 エノシラさんにくれぐれもと頼まれているのに。

 

 羽根の子供は普段はとてものろいのに、何故だかぜんぜん追い付けない時がある。

 足が速くなるのではなく、時間の進みがズレたような、こちらが重い水の中をかいているような、変な感覚になっちゃうんだ。

 

「わざとやっているのなら凄いんだけれどな。蹴り球ゲームで無双出来るって」

 しかし多分あの子は分かっていない。何かに集中するとたまたまそうなってしまうみたいで、本人は自覚なくキョトンとしている。

 

 エノシラさんもサォせんせも知らない。何かおかしいなと思っても、大人ってだいたい『自分の思い過ごし』で済ませちゃうから。

 ナーガ様はどうだろ? 次期長様だからさすがに何も気付かないって事はないだろうけれど、あのヒト、この子の事となると何でか『見ないようにしている』んだよなあ。

 

 同じ目の高さで生きる子供達の方が敏感に感じている。

 あの子は何だか違う、不思議、不可思議。

 だから特別ルールを作って囲った。仲間外れにならないように。

 

 彼は異質な者・・ゴマメっ子なんだ。

 

 

 月明かりの下、前を行く緋色の羽根の後ろ姿が止まった。

 枝をかき分けて追い付くと、トゲのある茨(いばら)に羽根を絡ませて、物理的に動けなくなっている。それでも手を空(くう)に泳がせて、前に進もうとジタバタしている。

 

「待て待て、動くな。羽根が傷んじまうぞ」

 小刀を取り出して、ガッツリ食い込んでいる大きな蔓(つる)を切ってやると、子供は残りの小さい蔓は引きちぎって、更に奥に進もうとする。

 羽毛が散って羽根の幾つかが変な風に折れ曲がったが、気に掛ける素振りもない。

 

「そんなにまでして、どこに行きたいってんだよ」

 

 この子には何かはっきりとした目的がある、やり遂げるまで誰が止めてもきっとあきらめない。

 ジュジュは息を大きく吐いて、付き合ってやる決心をした。

 

 

 

 

「帰って……い・な・い?」

 執務室で、自宅から引き返して来たエノシラの報告を受けて、ナーガは思わず大声をあげた。

 放牧地で二人と別れてからかなりの時間が経っている。

 

(また、自分の事にかまけて、『あの子』から目を離してしまった・・・!)

 ナーガの顔がみるみる青ざめて行く。

 

「おいおい、ジュジュが一緒なんだ、そこまで心配しなくていいだろ。シンリィも最近しっかりして来たし、男の子らしくイタズラでも教わっているんじゃないのか」

 おどおどしているエノシラを気遣って、ホルズが明るく言った。

 

「・・!」

 何か言いかけるナーガの肩に、ノスリの無言の手が置かれた。

 それでナーガは呼吸を整えた。

 

「エノシラ……エノシラは、自宅で待っていて下さい。大丈夫ですよ、僕の術で捜せます。ホルズ、すまないけれど、サォ教官のハウスにも伝言を……」

 

 

 

 

「もうちょい、そっちに足掛けて」

 曲がりくねった黒い老木のてっぺん近く。

 懸命によじ登る子供のすぐ下で、ジュジュは彼を支えながら一緒に登っている。

 

 

 灌木帯を抜けると何故か広場になっていて、その中心に、竜のように空に伸びる大木があった。

「里にこんな場所あったっけ?」

 

 広場は丈の高い草に覆われているが、過去に整地された跡がある。木の周囲にも人為的な手入れが見られる。

 しかし長らく放置されていたんだろう。初夏だというのに、木は寒々と枯れていた。古い木みたいだし寿命なのかもしれない。

 

 その木の幹に取り付いて、シンリィはいきなり登ろうとしたのだ。

「おいおい」

 視線の先を見ると、てっぺん近くにまだ生きている枝があり、申し訳程度の葉の中に、黄色い実が一つ見える。

 

「あれが欲しいのか? 俺が採って来てやるよ、待ってろ」

 ジュジュが靴を脱いで幹に足を掛けたのだが、その横でシンリィはなおも登ろうとしている。

 どうやらこの子の前進は、『あの実を自分で採る』まで止まらないらしい。

 

 

「よし、もう届くぞ。支えているから、手を伸ばせ」

 ジュジュが下肢を抱えるように支え、シンリィは枝の上につま先立って、黄色い実に手を伸ばした。

 小さい指が握りこぶし程の実を捕え、パチンと音がして子供は目的を達した。

 

「やったな」

 後はこの子を安全に下ろすだけだ。

 自分一人ならギリ飛び降りられる高さだけれど、この子はそうもいかないだろう。

 考えながら足元を見て、腕の力が少し緩んだ。

 

 シンリィの身体が傾いだ。羽根も一緒に大きく揺れる。

「ああっ!」

 やばい、油断した!

 

 幹を突き放して、落ちて来る子供の頭を懐に抱く。

 

 

 

  ***

 

 ・・・・・・・・・・

 

 落ちたのは確かだ。

 ここは地面だ。

 仰向けの空に三日月が浮かび、さっきまで居た梢が揺れている。

 

 腕の中に硬直したシンリィ。

 伸ばしたままの手に、しっかりと黄色い実。

 こいつ……

 

「あいたたた……」

 予期しなかった声に、ジュジュは飛び起きて振り返った。

 自分たちの尻の下に、大の字にのびた次期長様。

 

「ナーガ様!」

 

「取りあえずどけてくれ。落ちて来る子供二人は、さすがにちょっと無理があった」

 

 何で下敷きになっちゃうかな、このヒトなら風の術で俺らぐらい軽く舞い上げられるだろうに?

 慌てて横にまろぶと、ナーガの顔色が異様に悪い。

 目の焦点が合っておらず、汗をにじませ、肩で大きく息をしている。

 

「す、すみませんでした、どこを痛めましたか?」

「いや、大丈夫」

 ナーガは笑って見せて、額を押さえながらゆっくり上半身を起こした。

「シンリィを捜すのに手間取って、『内なる目』の術を使い過ぎただけ。まったくどうやってこんな所まで来たの?」

 

「どうやってって、歩いて……」

「あるいて・・・」

 ナーガが口を半開きでまじまじと見て来るので、ジュジュは戸惑って、懐に抱えたままのシンリィを伺った。

 硬直していた子供はこのタイミングでナーガに気付き、今更ビクッとしている。

 

「ここ、蒼の里の中じゃないんですか? いつ境界を越えちゃったのかな、気付かなかったけれど。とにかくシンリィを追い掛けて来たらここに着いたんです」

 

「追い掛けて来たら……」

 ナーガは何だか脱力して周囲を見回している。彼の知った場所なんだろうか。

 

「それで、あの木のてっぺんに一個だけ生っていた実を、シンリィが自分で採りたがって。

・・・シンリィ?」

 

 不意に、ナーガの視界を黄色が覆った。

 羽根の子供がいつの間にか傍らに来て、今採った黄色い実を彼に向けて差し出しているのだ。

 

「く、くれるの、僕に?」

 ナーガが戸惑いながらも受け取ると、シンリィは何事もなかったかのようにスンとその場に座り込んだ。

 

「何だよ、とどのつまり、ナーガ様にその実をあげたかった訳?」

 今度はジュジュが脱力した。

「回りくどいったら……」

 言い掛けて留まった。

 

 回りくどくなんかない。彼は一直線にここに歩いて来たのだ。

 茨(いばら)に遮(さえぎ)られようと、羽根がボキボキ折れようと。

 多分自分が居なくても、一人で木に登っただろう。

 

「木守(こもり)の実だね」

 ナーガが老木を見上げて言った。

 

「コモリ……ですか?」

「うん、木が守ってくれるって意味。実を収穫する時、全部は採ってしまわないで、いざという時の為に一個か二個残して置くんだ。この木は冬を越しても実を大切に保ち続けてくれるからね」

 

「へえ、じゃあ、その実、去年収穫したヒトが残して置いてくれた奴ですか?」

「さあ……」

 

 変に濁すからそちらを見ると、ナーガはゴツゴツした黄色い実に頬を寄せて目を閉じている。

 話し掛けちゃ駄目な感じだ。

 

 ジュジュは膝を抱えて顔を埋めた。

 俺、居ても居なくても同じじゃん。

 

 

 ・・・鼻の奥を突き刺す甘酸っぱい香り?

 顔を上げると、香りは目にも突き刺さってくる。

 

「シンリィ、駄目だよ、近付け過ぎ」

 ナーガの苦笑いな声がするが、視界は真っ黄色だ。

 羽根の子供が半分に割られた黄色い実を、ジュジュの眼前に突き出していた。

 

「君にもあげたそうだったから。半分コだよ、ジュジュ」

 

「えっ、いやいやいや、いいですよ、ナーガ様の何だか大切なナニカなんでしょ?」

 慌てて遠慮したが、シンリィはぐいぐい胸に押し付けて来る。

 

「あははは、金輪際断れないだろ、こちらの気持ちなんかお構いなしに」

 

 次期長様が笑っている、さっきまであんなに具合が悪そうだったのに。

 おずおず受け取ると、ひんやりした感触と、清(すが)しい柑橘の香り。

 

「僕の妹もそうだった」

 ナーガは実の切り口に鼻を寄せた。

 

「僕が落ち込んでいる時……試験の点数が悪かったり父に叱られたりとかで……この実で作った菓子をくれるんだ。干して蜂蜜に漬けた奴。いらないって言っても無理やり。自分が大好きだからって、僕もこれで慰められると思ったんだろ。大人になって伴侶が出来たら頻度は減ったけれど」

「…………」

 

「里には無い実だから、何処で採って来るのか聞いても、『ナイショ』って教えてくれなかった。こんな所にあったんだなあ」

 一気に喋って、ナーガはもう一度老木を見上げた。

 笑っていた筈なのに、頬に涙の筋があった。

 

 

 三日月の空からナーガの深緑の馬が降りて来る。驚いた事にジュジュの馬を引き連れている。

「まさか、馬が必要なほど遠いんですか、ここ?」

「うん、まあ、術で捜すのに少し頑張らなきゃならなかった距離かな。シンリィ、もう勘弁してくれよ。助けたい時に術力が尽きて身体を張らなきゃならないとか、こりごりだ」

 

 月明かりに、馬を並べて空(くう)を飛ぶ。

 広場は蒼の里から馬で半刻(とき)ほどの場所だが、徒歩での短時間ではありえない……らしい。

(本当に不可思議な奴)

 

 懐の半分の実はひんやりと、相変わらず甘酸っぱい香りを放っている。

 

「俺にとっては何の思い出もないのに、何でくれたんだろ?」

「あげたい気持ちに『何で?』もないでしょ」

 そう答えるナーガの懐では、羽根の子供が半寝でうつらうつらしている。

 

(ああそうか)

 ジュジュは何となく気付いた。

(ナーガ様がこの香りで昔の事を思い出したように、俺はこの香りで今日の事を思い出すんだ)

 

 例えば、今日の三日月。

 素直に一本道な子供。

 素直じゃない次期長様。

 素直じゃない……俺。

 

 

「あの、ナーガ様」

 ジュジュは改まって切り出した。

「今日の昼間、ホルズさんが修練所の所長を訪ねて来たんです。放課後に執務室で小間使いをやってくれる子供が欲しいって」

 

「ああ、そんな事を言っていたな」

「俺を推薦して貰えませんか?」

 ナーガは真顔になって彼を見た。

 

「ホルズさんは、十四歳くらいの、卒業したらそのまま執務室見習いに入れる子って指定したけれど、ナーガ様の推薦なら、多少年齢が下でも通りますよね」

 

「それは構わないけれど……いいの? 君くらいの歳だったら、まだ放課後は蹴り球をやっていたいんじゃないの?」

「俺、早くハウスを出たいんです」

「え……」

 

「ハウスが嫌いってんじゃないですよ」

 少年は先回りして否定した。

「ただ、いつまでもあそこの世話になっている訳にもいかないし、とっとと自立した方が恩返しにもなるかなって。小間使いになったら、執務室見習いのヒトたちと同じ下宿に入れるらしいんです」

 

 ナーガは口を結んで彼を見た。

 ハウスといっても教官の個人宅だし、場所が狭いのは否めない。後から来る子の為に、空きを作ろうとしているのだろう。

 

「うん、大丈夫だと思うよ、ホルズに言っておくよ」

「本当ですか、やったあ」

 

 子供らしくガッツポーズをしながら、ジュジュは懐の実を服の上から撫でた。

 あの三つ編みの女性がハウスに手伝いに来る度に目で追っていたのも、もうおしまい。

 俺にも、『早く立ち直って次に行け』って事なんだろ?

 

 ナーガの懐のシンリィは、もうすっかり夢の世界で、くぅくぅと寝息を立てている。

 

 三日月は、おつかれさまでしたとでも言うように、二騎の先行きを照らしていた。

 

 

 

 

 

 

 

 




挿し絵・「あげたいもの」

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挿し絵・「黄色い実」
 元のお話では、ジュジュの役割はルゥという女の子がこなしていました。
 改編にあたってテーマを統一する為いなくなりましたが、大好きなキャラでした。

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ふたつめのおはなし
風露の谷・Ⅰ


 ~ふたつめのおはなし~のはじまり

「ふうろのたに」
 ちょっぴりシンリィから離れて、ナーガのおはなしです


 

 蒼の里より数十里、東に離れた深山地帯。

 

 針葉樹の切り立った谷に、一つの集落があった。

 といっても、谷底の集落ではない。

 彼らは空中を住処とする。

 

 太古の地殻変動でこの辺りの地層は縦に走る。

 柔らかい地層は侵蝕されて固い地層が垂直に残り、見上げるような天然の塔が幾つもそそり立つ不思議な光景を作っていた。

 

 塔の一つ一つの頂上に、石と粘土で造られた住居。

 塔と塔の間はツタを編んだ太いロープが渡され、山側の斜面に一番近い塔からのみ、外界に向けての梯子が水平に掛けられている。 

 

 今、その梯子を歩いて、一人の蒼の妖精が、集落の入り口に差し掛かっていた。

 

「お止まり下さい。風露(ふうろ)の谷にご用がお有りか?」

 大きな窓から番人の若者が、形式通りの呼び掛けをして来た。

 この集落特有の紫の髪は、近隣では他に見掛けない。

 

 梯子の先の塔は関になっていて、木造の門戸と石積みの小屋がある。

 外来者はここを通過しないと集落の者と接触出来ない。

 それだけここには守らなければならないモノがあるという事。

 

「ラゥ老師にお繋ぎ頂けるか? 風の末裔の使者、ナーガ・ラクシャが訪ねて来たと」

「風の末裔の……ああ、はぁ……」

 

 関の番人は、受付カウンターにもなっている大窓から、首を伸ばして梯子の向こうを見た。

 深緑の草の馬が、足場の悪い山の斜面で居心地悪そうにこちらを見ている。

 草の馬で飛べば容易(たやす)いのに、わざわざ山側に降りて細い梯子を渡るのは、蒼の一族が風露の民への礼節をキチンと守っている証だ。

 

「蒼の一族の……ナーガ・ラクシャ殿……」

 門番は分厚い名簿を引っ張り出して、パラパラと繰った。

「最後には、いつ頃来られましたか?」

 

「私はここへ来るのは初めてなのです。以前はツバクロ長が来ていました。濃い紺色の癖ッ毛の」

「ああ、はいはい、ツバクロ殿! あの方ね!」

 番人は頁を繰る手を止めて、にこやかな顔を上げた。

 

「此度(こたび)より、蒼の里よりの使いは私が参る事となりました。ナーガ・ラクシャです。お見知りおきを」

「承知しました。ツバクロ殿は? 引退にはお早いでしょう?」

「黒の病で……」

「ああ……」

 

 番人はにこやかが消え、会話を切って、名簿に朱色で何か書き入れた。

 集落を訪ねる縁者が連ねられたその名簿は、よく見ると朱色だらけだ。

 皆、最近書き込まれた物だろう。

 

「優しい方でした。私は子供でしたが、竹細工の玩具の作り方を教えて貰いました」

「…………」

 

 番人は名簿から顔を上げて、部屋の奥を振り向いた。

「フウヤ、お使いだ」

 部屋の隅で小刀を持って何やら彫り物をしていた子供が、顔を上げた。

 番人とは違って、白っぽい猫っ毛の釣り目の男の子。

 

(シンリィよりちょっと上くらいかな?)

 

 子供はナーガにチョコンとお辞儀をして、滑車の付いた『へ』の字型の木棒を持って出て来た。

 それをツタのロープに引っ掛けてぶら下がり、勢いを着けて隣の塔へ滑って行った。

 

 上手いもんだと見惚れているナーガに、番人は熱いコカ茶を勧めてくれた。

「先の災厄で、この谷を訪れる者も減りました。風露の谷には幸い黒い悪魔はやって来ませんでしたが、皆、外の顧客の安否を心配しています。しかしこちらから訪ねに出向く訳にも行きませんし」

 

 風露の谷の住民は、ほぼ外に出ない。

 集落外どころか、集落内の家々の間も滅多に往き来しない。

 大人のお使いでツタを滑って往き来するのは、子供の役目だ。

 

 では集落から出ない尖塔の住民達がどうやって暮らしているのか? 

 水は長い滑車で谷から汲まれ、食料や生活必需品は関を通して外部から運び込まれる。

 それらをどうやって調達するかというと、この集落の『ある特産品』と交換されるのだ。

 

 ほとんどは個人の顧客が注文し、対価として請求された物資を持って来てくれるのだが、その物資は集落全体の収入として皆に分配される。

 それを仕切る番人は、修行中の若者が交代で勤めている。

 

 『特産品』を造る技術は門外不出で、外に対して厳しく秘密を守っている。

 だからその技術を会得している大人達は、ここを出ないのだ。

 『出る』という事は、部族の財産である『技術』を外に出す事になる。

 それはこの心許ない集落の、存続の危機を意味する。

 

 命じられなくとも尖塔の住民達は、ここを出ようなどとは思わなかった。

 皆、この集落を愛している。ここ以外で生きようなどと、頭の端にすら思い浮かべない。

 

 父のツバクロから聞いていた風露の谷の概要は、そんな所だった。

 自分が外交の真似事をやるようになるとは思わなかったので、その時は他人事のように聞いていた。

 

 生涯、尖塔の石の家に隠(こも)って暮らすなんて……ナーガはひ弱い民に哀れを感じていた。

 生き物は、暮らしやすい所、便利な土地に暮らしたがる。

 強い者は良い土地に、弱い者は悪い土地へ追い立てられる。

 こんな水を汲むにも大仕事な、トンでもなく不便な土地へ追いやられるなんて、何て虐げられた弱い部族なんだろう。

 

 ロープを滑ってフウヤが戻って来た。

「ラゥ老師がお待ちしておりますと」

 

 

 

   ***

 

「長らくご無沙汰した非礼をお詫び致します」

 ナーガはまず、飾り気なしに謝った。理由は聞かれたら答えればいい。

 

「構いませぬ。災厄でどこの部族も痛手を追ったと聞きますじゃ。まずは外交より、内部の立て直しが大事なのは皆同様。お忙しい中、よう来てくださった」

 ラゥ老師は賢明だった。こちらは何も言い訳をしないで済んだ。

 その人生のほとんどを座り作業に費やして来たと分かる身体で、わざわざ戸口まで出迎え手を握ってくれた。

 

「ツバクロ殿がお隠れになられたとは、寂しい限りです。あの方は本当に良き友でいて下さった。我等も深く哀悼の意を捧げましょう」

「恐れ入ります」

 

「貴方様はご子息か?」

「はい、ご存知でしたか?」

「その細筆で墨を引いたような眼の縁と眉を見て、誰が他人と思いましょうか」

 

 老師の住居は他の塔よりやや高見にあり、集落全体を見渡せた。

 数十の塔群に網目のようにツタが張り巡らされた光景は、何かの巣を連想させる。

 窓から遥か下、霧に見え隠れする川だけが、ここと外界との隔たりを教えてくれていた。

 

 窓の外、住居の横の僅かな平地に、草の馬が窮屈そうに立っている。

 許しを貰って移動は馬で飛んだ。あのロープを滑るのは、さすがにちょっと怖い。

 

「ツバクロ殿も挑戦してみて、こりゃダメだと笑っておられた」

 ラゥ老師は懐かしそうに目を細めた。

「我等は、発注してくれる顧客以外と付き合いはせん。そんな我等と友好を結んで何の意味があるのかと訪ねたら、あの方はなんと答えたとお思いか?」

 

「そうですね……多分、はっきりした答えはなかったのでは?」

 

「その通りですじゃ」

 老人は膝を叩いて笑った。

「意味がなければ友達になっちゃいけないんなら誰とも友達になれません、だと。一本取られたと思いましたじゃ。あの頃は初々しい若者であられた」

 

「あの」

 ナーガは話題を変えようとした。

 父の事を誉められるのは嬉しいが、失った穴に苦しむ身にしたら、この話題が長いとちょっと辛い。

 

「この集落の技術は門外不出と聞きました。私を招き入れるにあたって道具や材料を仕舞っておかれるだろうと思ったのですが、こんなに曝(さら)して良いのですか?」

 室内には様々な材料が立て掛けられ、工具が並んでいる

 

「ああ」

 老人は細い目を更に細めて、穏やかに言った。

「我等の技術は、目では盗めませぬ」

 そして、ふと思い出したように、顔を上げて窓の外を見た。

 太陽が遠くの山の頂に触れかけている。

 

「ちょっと失礼しますよ。『音合わせ』の時間ですじゃ」

 そう言って、作業所に立て掛けていた馬頭琴を手に取り、窓から外に出て、外壁に突き出た出っ張りにトンと腰掛けた。

「??」

 ナーガは黙って目を丸くしている。

 

 老人は一息吸って、馬頭琴の弓を立てて、スウッと弾いた。

 澄んだ単音が谷に響く。

 

 ほどなく、隣の尖塔から、別の楽器の音が流れて来た。

 隣の住民が奏でているのは笛だが、それも同じ音程の単音だ。

 途端、谷の各家から、様々な楽器の同じ単音が長く伸ばして聞こえて来た。

 

 細い音、重い音、柔らかな音、冴え渡る音。

 それらは霧の谷に満ちてこだまする。

 

 長い一音が終わって、老師が窓から室内に戻る頃には、陽は山に隠れていた。

 

「『音合わせ』……ですか?」

 不思議な単音のハーモニーに心を奪われていたナーガは、我に返って聞いた。

 

「そうですじゃ。楽器という物は奏で合わねばならぬ。別の種類の楽器同士でも音が馴染まねば、それは音楽から遠退いてしまいますのじゃ」

 老師は馬頭琴の弦を外して作業台に寝かせ、微妙なラインを削りながら答えた。

 

 この谷の特産品である『風露の民の楽器』が、他所で作られる楽器より格段に素晴らしい音色がすると珍重されるのが、何となく分かった。

 こんなに丁寧に音に魂を込めて造っているからだ。

 

 これは見たからって真似できる代物ではない。

 この谷と、過酷な環境に甘んじる彼等の誇りの成せる技だ。

 ナーガは自分の思い違いを反省した。彼等は追いやられたひ弱い民なんかじゃない。

 

 

 フウヤがツタを滑ってやって来た。

 老師の塔は少し高いので、ツタがたるんで途中で止まってしまうのだが、子供は勢いを付けてぽぉんと飛び移った。ナーガは目が眩みそうにヒヤヒヤしたが、この子供には日常なんだろう。

 ナーガをチラと見てから、ラゥ老師に寄って何やら耳打ちする。

 

「ほぉ」

 老師は優しい目になった。

「誰が言い出したね?」

「お姉ちゃんです」

「フウリか、二胡造りの。あの娘らしい思い付きじゃ。承知、と伝えなさい。後、各オルグ長達にも伝言を頼むよ」

 

 何だか忙しそうだ。暇乞(いとまご)いした方が良いだろう。

「では、私はこれにて」

 ナーガは腰を上げようとした。

 

「まあ、お待ちなさい」

 老師は奥から、古びた黒い馬頭琴を持ち出して来て窓を出た。

 先程の造りかけでなく、こちらは愛用品なのだろう。

 外の椅子に腰掛けて、ナーガを手招きする。言われるまま老師の横の窓枠に腰掛けた。

 

 山は稜線に茜を残して、谷は藍色に沈みかけている。

「ほい、そろそろフウヤが回り終えた頃じゃ」

 老師は再び弓を立てて、馬頭琴を弾き始めた。

 

 今度は単音ではない、曲だ。もの悲しいが美しい曲。

 

(聞き覚えがある……)

 僅かな記憶を手繰りながら、ナーガは静かに聞き入った。

 

 いつの間に、谷全体が同じ曲を奏でている。

 先程の様々な楽器が見事に重なって、ひとつの曲を合わせ奏でているのだ。

 それぞれの音が塔の間を竜のように走り、絡み合い、谷を駆け抜けて天に昇華する。

 

 まるでこの世の物でないそのひとときに惹かれるように、背後の山から青い月が顔を出して集落を照らした。

 

 演奏終わって、ラゥ老師がナーガに向く。

「二胡造りのフウリと部族の若い者達が、ツバクロ殿の為に一奏差し上げたいと申しましてな」

 

「……感謝します」

 ナーガは心から礼を言った。

「この曲は覚えがあります。幼い頃、父が、母の側でよく弾いていました」

「ああ」

 老師はこれ以上ないくらい嬉しそうに、両頬を上げた。

「ツバクロ殿に馬頭琴の手解きをしたのは儂ですからの。口説きたい女性がいるとか、臆面もなくあの方は」

 

 

 




挿し絵「風露の谷」

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風露の谷・Ⅱ

  ***

 

 薄暮(はくぼ)が過ぎ、家々にカンテラの柔らかい灯りがともされる。

 あの一つ一つの灯りの元で、木を削り骨を磨ぎ、真摯な手で誇り高い楽器が造り出されているのだろう。

 

 帰り支度をして草の馬の腹帯を締めながら、ナーガはそっと振り向いた。

「あの、父の馬頭琴……多分この谷の出自品だと思うのですが。すみません、処分せねばならなかったんです。黒の患者の持ち物は皆」

 

「それは、哀しい事でしたな」

 ラゥ老師は責めるでなく、ただただ哀しい顔をした。

 

「私個人として、新しい物を注文出来ますか? ラゥ老師のお造りになる馬頭琴」

「ホホ、儂の楽器は十年待ちですぞ」

「…………」

 

「急がれるのか?」

「母に、聞かせたいのです」

 

「若い者の造る物でよろしければ、そうお待たせしますまい」

「お頼みします」

「あの曲の譜もお付けしましょうな」

 

 ラゥ師作のブランドにこだわらずただ純粋に馬頭琴を欲しがるナーガに、老師は最初より解(ほど)けた表情で微笑み、両手を併せて一礼をした。

 ナーガも礼を返して草の馬を上昇させた。

 

 来た時に馬を繋いだ山の斜面に降りて、今一度梯子を渡って関を訪ねる。

 手続き上、帰りも関を通過する形を取らねばならないのだ。

 

 

「あれ?」

 建物から出てカンテラで梯子を照らしてくれているのは、昼間の若者とは違った。

 頭で束ねた紫の髪がフワッと広がる、細面の女性だ。

 髪の色よりやや薄目の藤色の衣装がカンテラのオレンジに映えてきれいだな、と思った。

 

「えと、貴女が番人?」

 女性は顔を上げてナーガを見た。

 一重にスッと切れ込んだ瞳も風露草(ふうろそう)みたいな紫だ。

 

 ツタを渡って、カゴを背負ったフウヤが来た。

「お姉ちゃん、夜食」

「あ、ああ、ありがと……」

 呆けていた女性は我に返って、横に退いてナーガを通した。

 

「じゃあ貴女が、二胡造りのフウリ?」

 姉弟というが、歳は大分離れているようだ。

 彼女は小さく頷いて、顔を伏せたまま受付に入って分厚い名簿を開いた。

 風露の文字で書かれたナーガの新しい頁に、多分日付と帰りの時刻が書き込まれた。

 

「ご苦労様でございました」

 フウリはやはり俯(うつむ)いたまま小さい声で言い、名簿を閉じた。

 

「あの、素晴らしかったです、先程の楽奏。父も喜んでいると思います。ありがとうございました」

 

「いえ……」

 戒律厳しい部族の慎み深い女の子にあまり話し掛けても宜しくないんだろう。

 そう思ってナーガは、代わりにフウヤにニッコリ微笑んで、梯子に向いた。

 

「お姉ちゃん!」

 フウヤが叫んだ。

「行っちゃうよ、このヒト! わざわざ頼んで番人を代わって貰ったのに、いいの?」

 

「フウヤ!」

 女性は慌てふためいて大声を出した。

「い、いいのよ、いいんです。さ、夜闇が静寂の魔を連れて来る前にお帰りにならないと。いいんです、お帰りになって……」

 

 ナーガは肩を降ろして、梯子の所から引き返した。

 今日の仕事はこれで終いだ。

 シンリィはエノシラが見ていてくれるし、少しくらい遅くなっても構わないだろう。

 絶句しているフウリの前を通り過ぎ、受付の名簿に手を掛けた。

 

「ね、これ、少し見せて頂けませんか? 父の足跡を、ちょっとだけ覗きたいんです」

 

 

 

  ***

 

「ツバクロさまだぁー!!」

 

 向かいの山肌に降下して来る草の馬を目敏く見付けた子供が叫んだ。

 遠くの家々から伸びるツタを滑って、子供達が一斉に入り口の関に集まって来る。

 蕗の葉の雨粒みたいだ。

「大人気ですね」

 受付で名簿を開く番人の横で、濃い縁取りの目の蒼の妖精は、肩を竦めて苦笑いをした。

 

「竹トンボ! 竹トンボの削り方もういっぺん教えて! 上手く飛ばないの!」

「こないだの鞠つき数え唄、六つの次、誰も思い出せないの。何だっけ、ねぇ、何だっけ?」

 

 あっと言う間に子供達に囲まれるツバクロの後ろで、番人が叫ぶ。

「こらこら、ツバクロ殿はラゥ老師にご用なのだ。邪魔をしては駄目だよ」

「後でね、後で絶対だよ! ツバクロさま!」

 

 子供達の人垣を抜け出して、ツバクロは馬に跨がった。

「竹トンボは出来るだけ丁寧に薄く削るんだ。『六つ村雨七草七夜』、続きは後でね」

 空に舞い上がって老師の塔へ向かう前に二回転宙返りのサービスも忘れないで子供達の大歓声を浴びるツバクロを、番人も浮き浮きした気持ちで見送った。

 本当にお陽様みたいなヒトだ。

 

「ここからも賑々しいのが見えました。ホンに子供達は貴殿が好きなのじゃなあ」

 ラゥ老師は弦を依っていた手を止めて、奥の作業場から出て来た。

 弟子の少年がコカ茶を運んで来る。

「たまにしか来ないからですよ。美味しいトコだけ頂いて、申し訳なく思っています」

「いやいや」

 

 確かに当初、友好を結んだ蒼の里の外交官の青年が部族の大人にいないタイプだったのに、老師は危うい物を感じた。

 門外不出によって保たれて来たこの部族の礎(いしずえ)が、子供達が外に興味を持つ事で崩れてしまうのではないかと。

 

 心配には及ばなかった。この外交官は心得ていた。

 子供達に他愛ない遊びは教えたが、外の話は一切しなかった。

 馬に乗せてやれば大喜びさせてあげられるのは明らかだったが、その辺りはツバクロはしっかり線を引いていた。

 

 他の民族に自分達の価値観を重ね合わせないのが蒼の里の姿勢だ。

 分からなければ分かるまで努力すればいい。

 それでも分からなければ、分かれない、という事を自覚すればいい。

 

 友好を結ぶのは、どんな形でもそれが糧と成るようにとの願いからだ。

 『目的』ではない、『願い』だ。

 その『願い』を胸に、ツバクロは年の半分諸外国を飛び回る。

 

 

 ラゥ老師との話が終わり関へ戻ったツバクロを、子供達が手ぐすね引いて待っていた。

「見て、ほら! 竹トンボ! こんなに飛ぶようになったよ」

「ねえねえ、また面白い唄、教えてぇ」

「こっちが先だよぉ」

「おーい、みんな、ツバクロ殿は一人しかいないんだ。口々に喋るんじゃない!」

 

「大丈夫ですよ。今日はこの後予定がないので、子供達とのんびり遊んで帰ります」

 自分は特別凄い事を知っている訳でも、子供の機嫌を取るのが上手い訳でもない。

 風露の集落の子供達の日常にあまりに刺激がなさすぎるのだ。

 しかし、刺激的な日々を送る事が豊かな人生とは限らない……

 

「あれ、フウリがいないね?」

 いつもツバクロの右斜め後ろを定位置にしていた女の子が、今日はいない。

 物静かで内気だが、ツバクロの言う事をひとつも聞き洩らすまいと、いつも真剣に構えていた子だ。

 

「フウリは、弟子入りが決まったの」

「へえ、もうそんな歳だっけ?」

「うん、呑み込みが早いって誉められたの。先月お母さんの所を出て、二胡造りのオルグに入ったの」

「そうか、フウリ、器用だったもんな」

 

 楽器造りを学び始めると、正式な職人の仲間入りだ。

 外へ出るのも、外の者と関わるのも制限される。

 ツバクロは、まだ十分に幼い、杏(あんず)みたいな頬の女の子を思い浮かべた。

 ワイワイ元気な子より、何かをシンと秘めた子供の方が気に掛かる性分なのだ。

 

「あれ、ツバクロさま、寂しいの? フウリがスキだったの?」

「スキだったんだあ!」

「勘弁してくれ。もうすぐ娘に子供が生まれるんだ。そしたらオジィチャンだよ、オジィチャン」

「オジィチャン! オジィチャン!」

 

 夕暮れて、子供達はツバクロに習った竹細工の蝶をヒラヒラ飛ばしながらツタを渡って家に戻って行った。

 

「さて……」

 ツバクロは関の番人の方を見て、ウインクした。

「一局、行きましょうかね」

 番人は照れ臭そうに笑った。

 小屋の中に、将棋(シャタル)の盤が、しっかり駒が並べられた状態でスタンバイされていた。

 

「今ん所の戦績は?」

「番人チームの三十六勝十四敗です」

「そろそろ本気出して行こうか」

「本気じゃなかったんですか?」

 

 二人、カンテラを灯して駒を指し始める。

 

「フウリもその内、番人の役割が回るようになると、また会えるかな?」

「そうですね。今は修行が優先なのでまだまだ先ですが。私も、弟子入りして貴方に会えなくなった時、寂しかったですよ」

「ホント?」

「貴方はそうやって、沢山の子供を見送って来たんですか?」

「そんな大層なモンじゃない」

 

「風露の部族って、正直どうなんです? 他所から見たら、変ですか?」

「部族なんて千差万別で、僕にも基準なんて解らない。風露の部族は……」

「はい」

「好きだよ、僕は。尊敬している」

「ありがとうございます、王手」

「うわっ、ちょっと待ってくれ!」

 

 負け数をひとつ増やしたツバクロが関小屋を出る頃には、月が中天に登っていた。

 番人の照らすカンテラの灯りを頼りに、梯子を渡る。

 

「あれ?」

「どうしました?」

「馬が」

「えっ?」

「いない……」

 

 

 

 

 



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風露の谷・Ⅲ

  ***

 

 ツバクロは馬を繋いでいた場所の足元を調べている。

「どうしたっていうんです」

「…………」

「助けを呼びますか?」

「…………」

 

「ツバクロ殿?」

「いや、大丈夫だ」

 ツバクロは両手を上げて、梯子を渡りかける番人を制した。

 

「多分退屈して、自分で綱をほどいて散歩に行っちゃったんだ。心配しなくていいよ、よくある事だから。足跡があるからすぐ見付けられる」

「本当に、大丈夫ですか?」

「ああ、だから、その梯子は渡るんじゃないよ」

「はい……」

 職人となった風露の民は、掟で集落の外へは出られない。

 

「下の谷の方へ行ったみたいだ。喉が渇いたのかもしれないな。僕は足跡を追って、馬を見付けたらそのまま帰るよ。じゃあ、さよなら、またね」

「ああ、はい。さようなら、お気を付けて」

 

 番人は梯子の手前で蒼の妖精を見送った。

 ちょっと慌て気味だったのは、愛馬に勝手されてしまった事への照れ隠しだったのかな。

 風の末裔の乗馬の名手でもあんな事あるんだな。

 

 

 

 ツバクロは足跡と馬を繋いでいた所に漂っていた匂いを追って、夜の山道を急いだ。

 足跡は下っていたが、谷ではなく、山を回り込んだ風穴(ふうけつ)の岩場へ向かっていた。

 空気は風穴の湿気を帯び、路の両側には夜露をまとった風露(ふうろ)の花が真っ盛りだ。

 

 案の定、月明かりに照らされた紫の群落の中に、彼の馬と……小さな人影があった。

「やはり君だったか、フウリ」

 この間まで子供だった少女が、風露の花と同じ色の瞳でツバクロを見ていた。

 

「以前僕の馬の好物の話をした事があったからね。君はそんな些細な事でもちゃんと覚えていたんだね」

 少女の手には山生姜の塊が握られている。

 馬はボリボリと音をさせて夢中でそれをむさぼっていた。

 気難しい馬だけれど、この好物にだけは屈服する。

 どこがそんなに美味しいんだと思うのだが。

 

「何か僕に用事があるのかい?」

 ツバクロは出来るだけ優しく聞いた。

 この少女は何重もの掟破りをしている。

 いい加減な子ではない。考え抜いた結果なんだ。

 思い詰めた表情がそれを語っている。

 

「あの……」

 少女は森の奥のブッポウソウよりも微(かす)かな声で言った。

「連れて行って下さい」

 声は小さいが言った言葉は衝撃だった。

「下働きでも何でもします。私を蒼の里に連れて行って下さい」

 

「どうしてかな?」

 ツバクロは動揺を抑えて、務めて静かに聞いた。

 自分まで掟通りの答えを返すと、この少女の逃げ道を塞いでしまう。

 

 フウリは俯いて黙ってしまった。

 でも小さな手は馬の手綱を固く握りしめたままだ。

 ツバクロは肩を降ろして辺りを見回した。

 風穴の入り口に乾いた平らな場所がある。

「その辺の落ち枝を拾って」

「え?」

 

「焚き火を起こそう。腰を下ろしてゆっくり聞くから」

 素早く焚き火の土台を組みながら、少女の心細い顔を見た。

「冷えると口も心も固まっちゃうからね」

 

 小さな火が起こり、二人の手を暖めた。

「背が延びたね」

 焚き火を挟んで差し向かいに座るツバクロに急に言われて、フウリははにかんだ。

「はい、ちょっと」

 

「蒼の里に来たいの?」

「はい」

「風露の集落は、嫌い?」

「いえ、嫌いって訳じゃ……」

「何か、嫌な事あった?」

「いえ……」

 

 ツバクロは質問をやめてゆっくりと焚火を組み直した。

 急かしたらこの娘はますます喋れなくなる。

 

「可能性……」

 フウリはポツンと切り出した。

「うん」

「可能性を、探してみたいんです、自分の」

「うん」

 

「自分に出来る事は、本当に二胡造りだけなのか? って」

 それは多かれ少なかれ、風露の若者の誰もが思っている事だろう。

「だから、私、二胡造りになるにしても、色んな可能性の中から、選びたかったんです」

 

 

 

 ***

 

 聡い子供だとは思っていた。だけれどこんなに行動力があったとは予想外だ。

「お願いしますっ」

 少女は両手を合わせて懇願した。

 

「ふうん、分かった」

 暫く考え込んでいたツバクロがサラリと言って、フウリは目を輝かせて顔を上げた。

 その頬の横に、いつの間にか伸びていたツバクロの手が添えられた。

 

「僕と来るって事は、僕の言う事何でも聞くんだよ。僕の命令には逆らえない」

「……はい」

「じゃあ、まず、何して貰おうかなぁ?」

 ツバクロの添えた手が、女の子の頬を摘まんで引っ張った。

 

「そんなに私を連れてくの、嫌なんですか?」

 フウリが、小さいが芯の通った声で言った。

 ツバクロは拍子抜けして手を引っ込めた。

「ダメ?」

 

「本気かお芝居かぐらい分かります。私が泣き出して逃げ帰ればよかったですか?」

 フウリはさっき手を添えられた頬に、自分の掌を当てた。

「ツバクロ様は自分がどれだけ好かれているか分かっていないんです。そっちの方がずうっと寂しいです」

 

「ごめん……」

 この子は正直な思いを打ち明けてくれたのに、確かにこんな誤魔化しじゃ駄目だ。

 

「分かった」

 ツバクロは立ち上がった。

「じゃあ、僕も君に、真実を教えてあげる」

「えっ?」

 

 焚き火を始末して、一本の細長い薪を松明代わりに、ツバクロは少女の手を引いた。

「おいで」

 

 

 

「私の本気、分かって貰えましたか? 私、例えツバクロ様が連れて行ってくれなくても、どこか別の場所に行きます。集落には帰りませんから」

 頑張って決意を表明する少女の手を引きながら、ツバクロは黙って細い道を下って行った。

 

 やがて水音のする谷底に着く。

 さらに下には深い川があり、その両脇の斜面に、壁のような柱が幾つもそそり立っている。

 

「ここは?」

「君達の住む塔の根元だよ」

「根元……」

 たまに霧が晴れた時、下の川は見えたりするが、真下の根っこは見た事がない。

 見ようと思った事もない。

 

「こんなに太いんだ。あれ?」

 石柱の周りを歩いたフウリは、異質な物に目を止めた。

 柱の周囲に人工の石垣が積まれている。

 松明の明かりの中よく見ると、どの柱も人工の補強がされている。しかも新しい物だ。

「これ、大人のヒト達がやっているの? 聞いた事ない」

 

「蒼の里で、請け負っているんだ」

 ツバクロはゆっくり言った。

「えっ?」

「今日ラゥ老師を訪ねたのは、工事の経過を報告する為なんだ」

「…………」

 

「この尖塔が長年の侵蝕で出来た物っていうのは知っているだろう?」

「はい……」

「侵蝕は止まる物ではない。ほんのちょっとづつ続いているんだ。長い歴史の上では、塔はいつか崩れて、集落は姿を消す」

「えっ! ええっ!」

「すぐにじゃないよ。ずっとずっと、何百年も後だ」

 ツバクロは動揺する少女の先回りをしてフォローした。

 

「だから、ずっと将来の、何代か先の子孫の為に、今出来るだけその侵蝕を遅らせる工事をしておくんだ」

「…………」

「皆に言うと今のフウリみたいに動揺しちゃうから、老師と各オルグ長しか知らない。この谷は霧がみんな覆い隠してくれるからね」

 

「あの」

 フウリは自分の欲求は一旦忘れて、純粋な疑問を口にした。

「蒼の里の方々は、何で、私達の為にそんな事をしてくれるんですか? 何か契約を?」

「うん、契約とかじゃない」

「好意、ですか?」

「それもちょっと違う」

 

「じゃあ、何で」

「ああ、んーと、大切だから?」

「……?」

 

「風露の部族に受け継がれる技術と、あの谷でしか生まれない音は、『大切』なんだ。誰にとってとかじゃなく、とにかく大切なモノなんだ」

「…………」

 

「石垣作り、地味な作業で大変だと思うだろ? でも里で、ここの仕事は人気が高いんだ。何でだと思う?」

「なんで?」

 

「たまに上から音が降って来る。音合わせや演奏や。それを聞くと、自分達の護ろうとしているモノを誇れるんだ」

「…………」

「無くしたら二度と戻らないモノなんだよ」

 

 丁寧に積まれた石垣を指でなぞりながら、ツバクロは静かな声で言った。

「でもやっぱり、工事をしても、いつかは風化して塔は確実になくなる。いつの日かは、風露の谷も今の楽器造りの技も、この世から消えてしまう。その摂理には逆らえない」

「…………」

 

「長い長い谷の歴史の中で、風露の民がここに住むのはほんの一瞬なんだろう」

 蒼の妖精は真っ直ぐに少女を見た。

「その一瞬に、君は存在する」

 

 懍々とした瞳に、松明のオレンジが揺れていた。

 

 

 

 




挿し絵「千島風露」

【挿絵表示】

晴れの日より霧の日の方が、色鮮やかで美しい



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風露の谷・Ⅳ

   ***

 

「それで、私、集落に戻ったんです」

 

 関の小屋でカンテラのオレンジに照らされながら、フウリは一息着いた。

「ツバクロ様に風露の谷の運命を聞かされて、自分にとって何が本当に大切か気付いたんです」

 

「そう……」

 ナーガもカンテラに照らされながら、静かに言った。

「父には分かっていたんですよ。貴女を引き取って面倒を見る事は出来るけれど、それは逆に貴女の可能性を摘み取る事になると」

 

「はい」

 集落を出て雑多なモノを経験したら、多分二胡造りには戻れなかったろう。

 例え戻っても、自分にとって元の風露の谷ではなくなっている。

 二胡造りの端くれになった今のフウリになら十分理解出来た。

 

 ナーガの繰(く)る分厚い名簿の父の頁は、その日の日付で途切れていた。

 それからすぐ後に、草原を災厄が襲ったのだ。

 ナーガが今日風露の谷を訪れたのは、中途になっていた工事の再開の目処が立った事を、老師に報告する為だった。蒼の里も、漸く普請に人数を割ける余裕が出来たのだ。

 

 

「ナーガさまぁ!」

 家に帰した筈のフウヤが、ツタを滑って飛び込んで来た。

「ね、竹トンボ、上手く飛ばないの。昼間の番人さんがナーガさまに聞いてみろって」

「フウヤ、もう寝る時間でしょう」

「だって、ナーガさま、明日はいないんだもん」

 

「貸してごらん」

 ナーガは古い竹トンボを受け取って、カンテラの熱に当てながら少し角度を変えた。

「こういうの、父が一杯教えてくれたな。修練所へ上がる前の、本当に小さい頃」

 

 カンテラの灯りの室内を、竹トンボが真上にゆっくり飛び、フウヤが歓声を上げる。

 

 そういえば、自分の子供時代だって風露の子供達に負けず劣らず狭い世界だった。

 雪山の凍った神殿で母と妹と。それで自分を不幸だと思った事なんてなかった。

 

 ふ……と、風もないのに、竹トンボが横に流れて小屋の奥へ飛んだ。

「あ」

 フウリが小さく声を上げた。羽根が止まって落ちた所は、細長い包みの上だった。

 昼間はなかった物だ。

 

「お姉ちゃん、これ、さっき持って来た奴?」

 フウヤが竹トンボを拾いながら包みに触れようとした。

 

「フウヤ! お休みの時間はとっくに過ぎてるわよ!」

「はあい」

 爆発寸前の姉の気配を察して、フウヤはとっととツタを滑って退散して行った。

 

 残った二人。

 罰悪そうなフウリの横をすり抜けて、ナーガは惹かれるように包みに近付いた。

「これ?」

 

「あの、あの……」

 フウリは迷いながら小さい声で言った。

「私が初めてちゃんと仕上げた製品を、ツバクロ様が真っ先に注文するよって仰(おっしゃ)って下さっていて…… それで今日、子息様がいらしたと聞いて、仕舞っていたのを引っ張り出したんです。でも……」

 

「開けていいですか?」

 返事も待たずにナーガは結び目に手を掛けた。

 

 フウリはオロオロと言い訳をする。

「久し振りによく見ると、未熟な品で。それに貴方は馬頭琴を注文されたというし、そちらの方が……」

 

 モスリンの柔らかい包みの中から姿を現したのは、柄が長目で少しバランスが悪いけれど、美しい曲線の二胡だった。

 手足の長い父の身体に合わせようと、試行錯誤したのかもしれない。

 

 弦の調節棒に、黒地にオレンジで、風を表す螺鈿模様が施されている。

 父のストールと同じ色……

 ナーガは黙ってその二胡を凝視した。

 

「恥ずかしいです、あちこち手が足りなくて……」

 

「これ、譲って下さいますか?」

 慌てる娘の声を遮って、ナーガは続けた。

「父の持ち物は皆、焼かねばなりませんでした。形見が何もないのです。これこそ、父の遺した、立派な、大切な、形見です」

 

 フウリは何かが溢れるのを抑えるように、両手を口に当てた。

「勿論、対価はお払いします」

「対価はもう頂きました。あの夜に」

 

 

 

「二胡って弾いた事がないんです」

 帰り際、梯子の手前でナーガが照れ臭そうに振り向いた。

「ていうか、音楽のたしなみが全くないのです」

 

「聞く心もたしなみの内です。ナーガ様は十分にお持ちです」

 カンテラを掲げながらフウリは、はにかみながら言った。

 

「あの、私で宜しければ、お教えしましょうか?」

「えっ?!」

 

「お忙しいのなら難しいですが、私が番人の日になら」

 

「……是非ともにお願いします」

 

 蒼の妖精の騎馬は青い月を背景に舞い上がった。

 

 天空にて真摯な手で造られた楽器は、野に降り、真摯な音を地に広げる。

 その音はヒトの手により音楽に紡がれ、やがて幾百の安らぎを生み出す。

 

 

 

 




挿し絵「形見」

【挿絵表示】

 二胡弾きの方から「二胡デカすぎる!」と失笑頂きましたが、風露オリジナルという事で・・





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巣落ちの雛鳥・Ⅰ

前話「風露の谷」から一か月程あとのおはなしです



 ここ最近のナーガはあからさまに機嫌が良い。

 妙にニコニコ思い出し笑いして、つまずいたシンリィに頭からお茶をかけられても蹴り球をぶつけられても、いいっていいってと、鼻血をたらして上の空だったりする。

 

「ナーガ様、拾った水晶を磨いてくれって持って来たけれど、どうやらあれ女性用のブローチを作るつもりみたいだぞ」なんて近所の研磨職人から聞いた話を小間使いのジュジュが洩らしちゃったもんで、執務室コンビは俄然色めき立った。

 

「おそらく外部の女性だ。里の中では今の所、ナーガに接近している女のコはおらんからな」

 腕組みしたノスリとホルズが、大机の前で鼻息荒く頷(うなず)きあっている。

 

「何でそんな事、言い切れるんですか?」

 ジュジュは「また始まった」風な呆れ顔で、さっさと終いの掃除を始めた。

 

「ノスリ家女性陣ネットワークを嘗めるんじゃないぞ。里の中の女のコ情報は、彼女達が完全に把握している」

「…………」

 

「下手にカマを掛けても、ナーガは口を割らないだろう。逆に意地を張らせて駄目にしてしまう恐れがある」

 ノスリがさも重大事項のように重々しく言い、ホルズが机の真ん中に過去の日程表を広げて、棒で指しながら解説を始めた。

 

「この何週間か、奴は必ず水の曜日に休みを作りたがっている。実際、昨日今日と仕事を前倒しにして飛び回っている。水曜の明日に休みを取りたいのが見え見えだ。恐らく相手は、毎週決まった曜日に暇が出来る、規則正しい仕事に従事している女性だろう」

 

「だから、相手を知ってどうするってんですか?」

 ジュジュは腰を浮かせて逃げる機会をうかがっている。

 巻き込まれたら絶対ロクな事にならない。

 

「あのナーガが自力で何とか出来ると思うか? エノシラの時だって、のんびり構えて放って置いたら、トンビに油揚げさらわれたんだ。やはり俺達がちゃんと相手を知って、鮮やかにフォローしてやらなきゃならんだろう」

 

「お、俺には無理ですからね。ナーガ様に気付かれずに尾行するなんて」

 後退りする少年の腕を、ホルズがニコニコしながら掴んだ。

「その点は抜かりがない」

 

 外でパタパタと不器用な足音が近付いて来る。

「いるだろうが! 可愛い可愛いナーガの『クックロビン』が」

 修練所の掃除当番を終えて駆けて来たシンリィが、御簾を開けてキョロンと覗いた。

 

「シンリィ、いいかぁ。オジサンの言う事を、よぉく聞くんだよぉ」

 ホルズが羽根の子供の小さい肩を両手でガッツリ掴んで、ジュジュと並べて長椅子に座らせた。

 シンリィは早くいつもの書類を綴じる作業をやりたくて、大机とホルズを交互にソワソワ見ている。

 

「明日はナーガにくっ着いて行くんだ。お前が可愛くすり寄れば、奴は拒否出来ないからな」

「でも、シンリィが見たって、ホルズさん達に伝えられないでしょう?」

 

「大丈夫だ」

 ノスリが、奥の物入れから埃だらけの木箱を出して来た。

「そこで、この『ノスリ家の秘宝』が役に立つ」

 大きな肺活量で埃をフウッと吹くと、部屋中真っ白になった。

 直撃を受けたシンリィは、ケホケホ咳き込んでいる。

 

 仰々しい木箱の紐を解いて出て来たのは、握りこぶし程の二等身の木彫り人形だった。

 飛び出した真ん丸な目、大きなワシ鼻、分厚い唇、頭には角みたいなのまである。

 お世辞にも可愛いとはいえない。どちらかというと不気味だ。

 

「な、何なんですか、これが、秘宝?」

 ジュジュは胡散臭そうに眺める。

「親父、この人形本当に大丈夫なのか? 子供がふざけて作った出来損ないにしか見えないが?」

「ああ、確かにこれだった。カワセミが術を込めた傑作品『現(うつ)し身人形』だ!」

 

 ノスリは箱から人形を摘まみ上げて、少年に向けた。

「人形の目を見るんだ。正面から、しばらくじっと睨んで」

 少年がおっかなびっくり人形を覗き込むと、木肌の表面が薄くポゥッと光った。

 ノスリはそれを大机に置き、大きな鏡を正面に立てて唱えた。

「お前と最後に目を合わせた無礼者の名は?」

 

「おお!!

 鏡を覗き込んだホルズが叫んだ。

 小さな人形サイズの少年が映ったのだ。

 

 その現し身が喋り出した。

《・・ジュジュ、蒼の妖精、蒼の里の執務室で働いてる。両親はいないけれどサォ教官がお父さんみたいなものかな。初恋はエノシラさん、今はホルズさんとこの真ん中の娘(コ)と付き合ってる。ノスリ家ネットワークって聞いて焦ったけど、どうやらバレずに済んでるみたい。意外とザル……》

 

 ジュジュがバッタの如く跳ね飛んで、鏡をバタンと伏せた。

「ほ・お・・・・」

 ホルズが腕組みして閻魔様みたいな顔で少年を見下ろす。

 

「ははは、シンリィ、凄いだろ。お前の親父さんの術だぞ」

 ノスリがその場を取り繕うように大声で叫んで、シンリィの頭をワシワシ撫でた。

「ま、ざっとこんな感じだな」

 

 脳を揺すられてクラクラしているシンリィの手を取って、不気味人形を無理やり握らせる。

「これを持って行って、ナーガが会いに行った相手と睨めっこさせるんだ」

 シンリィは人形を一目見て、口の両端を下げて心底嫌そうな顔をした。

 

「それにしても、凄い術力(じゅりょく)だな。正式には何に使う物なんだ?」

 ジュジュにヘッドロックをかけながらホルズが聞いた。

 

「昔、俺の取っておきの隠し酒をフィフィに頂かれてるかもしれないってボヤいていたら、カワセミが作ってくれたんだ。酒瓶の上に置いときゃいいって」

「………」

「ちなみにモデルはフィフィだそうだ」

「………」

 

 ジュジュだけでなくホルズまで、聞くんじゃなかったって顔になった。

 凄い術力の無駄遣い……

 

 

 調子っ外れな鼻唄が近付いて来る。

「ただいま戻りましたぁ! あれ、皆さんお揃いで」

 噂の主は弾んだ声で御簾をくぐって来た。

 仕事が済んで一晩寝たらあのヒトに逢えるって喜びが、身体のあちこちから立ち昇っている。

 本当に隠しておけないヒトだ。

 

 

 

  ***

 

「いいかい、シンリィ。ナーガが会いに行った相手の女のヒトだぞ。人形と睨めっこさせたら、こう素早く返して貰って、後は誰にも見せんように布にくるんで懐にしまうっと。もういっぺんやろうか?」

 朝、ノスリとホルズにジェスチャーたっぷりに何回も見せられてクラクラしながら、シンリィは馬繋ぎ場のナーガの所へ向かった。

 

「申し訳ないね。明日は埋め合わせるから」

「いえいえ、『たまたま』休暇が出来て良かったですね。のんびりして来て下さい」

 馬装を手伝う振りをしながらナーガの足止めをしていたジュジュは、羽根の子供が下りて来てホッとした。

 

 シンリィはホテホテ歩いて、ナーガの横にピタリと張り付く。

「どうした、シンリィ?」

「一緒に行きたいんじゃないですか?」

 

「ええ? そうかなあ」

 半分困った素振りをしながらも、ナーガはまんざらじゃなさそうだ。

 この子供が懐いてすり寄るなんて珍しいからだろう。

「まあいいか」

 

 ナーガはあっさり子供を鞍の前に乗せた。

 懐にノスリとホルズの策略人形が忍ばせてあるとも知らないで。

 

(何事もなく過ぎればいいけれど)

 一抹の不安を感じながらも、少年は二人乗りの騎馬を見送った。

 

 



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巣落ちの雛鳥・Ⅱ

 上昇気流に乗って、ナーガは風露の谷へ馬を向けた。

 前のシンリィは大人しく、彼専用に鞍の前に付けたベルトに掴まっている。

 この子も最近は落ち着いて来たし、先方で迷惑をかける事もあるまい。

 

 それよりもこの子がいれば、フウリと二人きりの気づまりから解放されそうだ。

 いや、週に一度楽器を習いに行くのは間違いなく楽しみなのだが、いざ二人になると何を話していいやら分からない。

 子供がチョロチョロしていてくれたら話題に出来るし、場が和やかになるだろう。

 

 それに、シンリィならフウリの事がバレる心配がない。

 とにかくあの執務室コンビにはだけは絶対に知られたくない。

 どう転んだって確実に面倒くさい事になる。

 

 

「今日は一段と綺麗だな」

 風露の集落の向かいの山に馬を繋いで、ナーガは何気なく呟いた。

 普段から幻想的な谷なのだが、今日は霧が深く、谷に沈むミルクの海から塔がニョキニョキ突き出た光景は、まことに美しかった。

 

「ありがとうございます」

 山から塔の入り口に掛かる梯子の向こうに、本日の関の番人フウリが立っていた。

 

「い、いや、風景の事で……」

 ナーガがいらん言い訳をしている間に、フウリはニッコリ笑って道を開けてくれた。

 ノスリかホルズがこの場に居たら、後頭部をはたかれていた事だろう。

 

 風露の娘の藤色の衣装はいつもと同じだが、髪の結位置が心持ち高く、しかも鮮やかな牡丹色の紐が結ばれている。

(本当に一段と綺麗だ……)

 そのささやかなお洒落が自分の為だと嬉しいんだけれど……心の中で呟いてすぐつぐんだ。

 自惚れてロクな目に遭った事はない。

 

「今日は連れも一緒させて下さい。甥っ子のシンリィ・ファ、もうすぐ八つです」

「あら、じゃあフウヤと二つ違いかしら。あとで仲良くしてあげてくださいね。さ、こちらへ」

 フウリは珍しそうににシンリィの羽根を見つめたが、特に話題にはしなかった。

 

 関の小屋の中の小卓に、二胡と譜面が置かれている。

「前回の続き、三段目から始めましょう」

 ナーガが席に着くとシンリィも来て、神妙に譜面を覗き込んだ。

「シンリィ、これに音楽が書いてあるんだって。分からないだろ、僕にもさっぱり分からない」

 

「はい、貴方にはこれ」

 フウリが部屋の奥から、手の平ほどの長さの竹を割った棒を持って来た。

 真ん中に長いコの字型の切れ込みがあり、その部分を弾(はじ)くとビンと音がする。

 そこを口にくわえて弾くと音がビォンと大きくなって、シンリィの目をまん丸に見開かせた。

 

「口の中で共鳴させるの。口琴(こうきん)っていうのよ。練習すれば色んな音が出せるようになるわ」

 

 羽根の子供は外の椅子に腰かけて、熱心に竹を弾き始めた。

 音を鳴らすにはコツが要るようで、絶妙に鳴ったり鳴らなかったりする。

 子供を夢中にさせておくにはもってこいな代物だな。

 

「あれも風露の楽器ですか?」

「いえ、フウヤが作った玩具です。ああいうのを作るのが好きな子で」

「ほお、将来有望ですね」

「そうですね……」

 フウリが何となく話を切って二胡を構えたので、ナーガも本日の課題に没頭した。

 

 ロクに譜面の読めないナーガは、フウリの指を見て目で覚えているのだが、これがなかなか頭に入らない。論語や経書は幾らでも暗唱出来るのに、何でだろう? 

 

「ナーガ様は音楽を理屈で考えようとしているんです。音を浮かべて指が動くようになれば、何でも弾けるようになりますよ」

「遠い道のりです」

「でも最初よりとても良い音が出せるようになりました。お母上にお聞かせするのが楽しみですね」

「ああ、ハハ‥…」

 

 老師、そんな事喋っちゃったのか……

 

 

 

 ふと気付くと、外の口琴の音色が格段に上手になっている。

 いや、よく聞くと、音が二重になっている。

 

 いつの間にやって来たのか、フウヤがシンリィと差し向かいで口琴を奏でていた。

 シンリィはフウヤの見よう見まねで、なかなか綺麗な音を出せるようになっている。

 二人でビォンビォンと調子を合わせて揺れていると、子鬼のダンスのようだった。

「お前、めっちゃ上達早いな。よし、僕の一番弟子にしてやる」

 

「フウヤ、ナーガ様の連れの方なのよ」

「お姉ちゃん、お昼ご飯!」

 フウヤは唇を尖らせて、背負っていた布袋をズイと突き出した。

「いいじゃん、ナーガさまは偉い大人だけれど、こいつは僕と同じ子供でしょ」

 

「フウヤ・・」

「いや、いいんです、フウリ」

 

 ナーガは実はちょっと感動している。

 フウヤと向かい合っているシンリィは、まるで普通の子供みたいなのだ。

 言葉を発しないのは変わらないが、修練所のどの子供の前でも、こんな頬を上気させた解(ほど)けた表情はしなかった。

 

(馬が合うって奴なんだろうか。友達って無理に作ろうとしなくても、こんな風にひょんと出逢う物なんだろうな)

 

「この子はシンリィ・ファっていうんだ。すまないけれど、言葉をまだ覚えていなくて……」

「ふうん、うん、オッケー」

 

 フウヤはサクッと受け入れた。羽根にも興味はあるだろうけれど、聞かない。

 様々な者が訪れる風露の関では、ヒトの『変わった所』や『変わった事情』を気にしない嗜(たしな)みが染み付いているんだろう。

 

 四人で輪になってお昼を済ませた後、小さな事件が起きた。

 シンリィの弾き損ねた口琴が、思いのほか飛んで、塔の外へ落っこちてしまったのだ。

 

「はぅ……」

 大層ショックを受けた様子で崖っぷちから覗き込む。

 下は霧に阻まれて何も見えない。

 

「気にしなくていいわよ、フウヤ、他にも沢山あるんでしょ」

「うん……でもお姉ちゃん、初めて音を出した楽器って、他のとは違うんじゃないかな」

「…………」

 

 フウリが黙らされた。

 このフウヤって子なかなか面白いなと、ナーガは改めて彼を見た。

 他の風露の民と違って髪は真っ白、いたずらっ子らしい釣り目も色があるかないかのグレーだ。

(混血なのかな)とも思うが、風露の民に習って深く聞くのはやめておこう。

 

「この下ならイワタケの岩場だよ。案外すぐに見付けられるかも。ひとっ走り行って来るよ」

 フウヤは身軽に駆け出し、梯子を二段飛ばしに渡って行った。

 向かいの山で山菜やキノコ採りをするのは、職人になる前の子供達の仕事だ。

 

「あっ?」

 シンリィが止める間もなく、フウヤの後を追った。

 

「お、一緒に行くってのかい? よし、ちゃんと着いて来いよ」

 霧の向こうの山の斜面から声だけ聞こえる。

 

「フウヤ、その子はお客様なのよ」

「こいつが来たいんだからいいじゃん。こっちだ、行くぞぉ」

 

 霧の向こうの声が遠ざかってさら、口元を押さえて黙っているナーガを、フウリは不思議そうに覗き込んだ。

「いえ、シンリィが、あんなに積極的に他の子供に着いて行きたがるなんて……初めてなんです。めめしいですよね、これしきの事で感極まるなんて」

「まあ、フウヤのどこを気に入ってくれたのでしょう。でも、あの子もきっと嬉しいと思いますよ」

 

 二人は二胡を持ち直して稽古に戻った。

 下手くそなナーガが何とか六段目まで弾き通せるようになった頃、太陽はかなり傾いていた。

 しかし子供達が戻らない。

 

「そんなに遠くはないんですが」

「子供二人だし、山遊びに夢中になっているんじゃないですか」

「いえ、遊びながら歩くような道ではないですし」

「え・・?」

 

「かなり急な角度ですから、這いずって歩くような」

「えっ、えっ?」

 

「崖を降りて、最後の急な所は飛び降りて、イワタケを取って崖に張ったツタを登って帰って来る道なんです」

「えええっ!」

 

「??」

 のんびり構えていたフウリも、ナーガの様子で、何か行き違いがあった事に気付いた。

 

「でも、あの子飛べるんでしょう? 羽根があるし……」

「!!」

 

 ナーガは真っ青になって立ち上がった。

 トンでもない勘違いだ。いや羽根があったら普通にそう思うのか? 

 だとしたらフウヤもそう思って油断しているのか?

 

 とにかく運動神経ゼロに近いシンリィが、険しい崖を這いずってツタ登りしなきゃならない羽目になっているなんて!

 

 不安な顔のフウリに気を配る余裕もなく、ナーガは関の小屋を飛び出した。

 

 梯子の所で息せききったフウヤと鉢合わせする。

 

「ナーガさまぁ!!」

 

 フウヤ一人だ。背筋に冷や水が流れる。

 

「シ、シンリィが、落ちた!!」

 

 心臓が凍り付いた。

 

 

 

 

 

 




挿し絵 ~口琴~

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巣落ちの雛鳥・Ⅲ

  ***

 

「ツタを登る崖の所で。霧で下が見えないんだ」

「あ、案内して!」

 

 ナーガは馬の所までまろびながら辿り着いて、フウヤを手招きした。

 

 オドオド近寄るフウヤを引っ張り上げて前に乗せ、馬を急発進させる。

 いつものナーガなら、子供を乗せてそんな飛び方は決してしない。

 下に硬直しているフウリが見えたが、気にしている余裕はなかった。

 

 

「シンリィは崖を見て怖がったんだ。だからツタを身体に結わえて、先に登って引っ張り上げたの」

 フウヤは馬のタテガミにしがみ付きながら、震え声で言った。

 

「うん、それで?」

 ナーガは早口で冷たい口調だった。今、すべてにおいて余裕をなくしている。

 

「あと一息って所でシンリィの懐から何か転げ落ちたの。それを掴もうとして身体が逆さまになって、ツタから抜けちゃって」

「・・!!」

 一体、何を掴もうとしたってんだ、あいつ! 

 

 眼下に岩山と、霧の崖に掛かるツタのロープが見えた。

 ナーガは馬を空中で止め、印を結んで集中する。

 

《同じ血で結ばれし者、血に応えよ!》

 

 谷中の『気』がナーガに集まる。植物の気、動物、虫の気……

「……い・な・い……??」

 どんなに神経を凝らしても、蒼の妖精のシンリィの気配はない。どうして? 

 

 ナーガは馬を急降下させた。

 フウヤは目を開けていられなくて、ただただ馬にしがみ着いている。

 ミルク色の霧の海に突入し、目を凝らす。

 ごつごつした崖の表面が見えて来た。

 

「!!」

 突き出た崖の岩肌に、点々と朱の色が見える。

 近付くと、数枚の羽根が岩肌に引っ掛かっているだけで、血ではなかった。

 

 だからって安心って訳ではない。

 ここでバウンドして下に転がり落ちたか? 

 恐ろしい光景が脳裏を横切って息が詰まりそうになった。

 あの羽根が『護りの羽根』といっても、生まれ持った物ではないし、こんな時にあの子を護ってくれる保証なんて何処にもないんだ。

 

 だんだん角度が緩やかになる崖をジグザグに飛びながら下へ向かう。

 視界を遮る濃霧が忌々しい。

 

 どこかで痛い、辛い思いをしているシンリィ。一刻を争う状態かもしれない。

 一秒でも早く見付けてやらなくては。

 

「ナーガさま……」

 懐のフウヤが凍えそうな声で言った。

「ごめ、ごめんなさい……僕、自分が落ちないようにしがみ付くだけで精一杯で……」

 

 そこでナーガはやっと我に返って、岩肌にフウヤを降ろした。

 馬に乗った事すらない子供は、ガクガクと地面にヘタリ込む。

 

「すまない、ごめん」

 しかしナーガはフウヤに気を配っている余裕はなかった。

 

 再び馬を上昇させ、風向きを変えながら何度も印を結んだ。

 だが、血の呼び掛けにはクスリとも反応がない。

 

 

「ナーガ様ぁ!」

 岩場に大勢の人影が現れた。

 フウリの報せを受けて、風露の部族の若い者達が降りて来ていた。

 掟だとか言っている場合ではないと、ラゥ老師が寄越してくれたのだ。

「フウリと何人かは、谷に直接降りる方の道を行っています」

 

「す、すまない、ありがとう」

「何か手掛かりは?」

 ナーガは首を横に振り、部族の者も顔を曇らせる。

 長い歴史の中で、誰も塔から落ちなかった訳ではない。

 

 皆で手分けして谷をくまなく捜したが、羽根の一枚も見付からなかった。

 フウリの組とも合流したが、やはり見付けられなかったらしい。

 フウリは真っ青で泣き出しそうだった。

 

 塔の根元の工事が先週で終わってしまった事が悔しい。

 せめて草の馬を持つ蒼の一族がいてくれたら。

 

 

 日暮れかけ、若者の一人が遠慮がちにナーガを呼んだ。

 さっきの崖の延長で、そのまま下の川に落ち込んでいる箇所がある。

 

「……………」

 ナーガはドウドウと流れる濁流を見つめる。後ろに皆も集まって来た。

「………ありがとうございました………」

 流れを見据えたまま、彼は小さな声で呟いた。

 

「禁を破ってまで、探してくれて、ありがとうございました。暗くなると危ない。皆さん、もう、戻って下さい。僕は、下の川を、捜します。だから、皆さんは、もう……」

 

 あれだけ呼び掛けても谷にシンリィの反応はない。

 川に流されたか、『気配のない存在』になっているかだ。

 ナーガは馬を引き寄せた。誰も何も言えない。

 

 

「ナーガさま!」

 静寂を破るフウヤの叫び声。皆、一斉に振り向く。

 

 岩を越えて下って来た彼の手には、羽根の子供の手がしっかり繋がれていた。

 

「シ、シ、シシシシンリィ・・」

 

 ナーガがフラフラと駆け寄る。

 

「さっきの、岩に羽根が引っ掛かっていた所の風下に行ってみたの。落ちた時羽根を広げたように見えたから、もしかしてって思って」

「…………」

 

「だいぶん風に流されたみたいで、遠くの木の上で降りられなくて困ってた。怪我はないみたい。な、お前、あんなに飛んでくなんて凄いよな」

 

 フウヤが喋っている間にナーガは無言で歩いて、真ん前まで来ていた。

 シンリィはフウヤの手を離して、ナーガを見上げた。

 

―――ぱし―――

 乾いた音がして、シンリィが横を向いていた。叩かれた頬に赤みがさしている。

 

「ぼ、僕でしょ、叩かれるとしたら!」

 フウヤが慌てて割り込んだが、ナーガは膝を折って、フウヤごとシンリィをガバリと抱きしめた。

「うぎゅ、く、苦しい」

 

 二人に寄り掛かったまま動かなくなったナーガを、フウリが覗き込んで言った。

「気を、失われています」

 

 

 

  ***

 

「ナーガさま、凄い勢いで術を使いまくっていたから」

 

 草の馬で運ばれ関の小屋に寝かされても、ナーガは目を覚まさなかった。

「蒼の妖精の偉いヒトでも、やっぱり術を使い過ぎるとぶっ倒れたりするんだね」

 

 風露の若者達は、まあ良かった良かったと言ってくれて散り、ラゥ老師にはフウリが報告して来た。

 小屋にいるのはフウリとフウヤ、神妙なシンリィ、そしてノビてるナーガ。

「僕らとあんまり変わらないんだね。心配して取り乱したり、ひっぱたいたり」

 

「当たり前だわ、どんなヒトだって大切な者を思う心は変わらないもの。でも無事で良かった、本当に」

 フウリは両手に温かいコカ茶を運んで来た。

「叩いた手も痛いのよ。叩かれたホッペタと同じ位」

 

「へぇ、お姉ちゃん、いつもそんなに痛かったの? 僕をひっぱたく度」

「フウヤ、ちょっと黙りなさい。今、この子にお話しているの」

 フウヤは不満そうに鼻を膨らませたが、黙ってお茶をすすった。

 

 フウリは羽根の子供にお茶のカップを渡してから、温みの残った手で叩かれた頬を撫でた。

 ナーガ様はこの子は言葉を解しないと仰っていたけれど、ヒトの心はちゃんと分かっている気がする。

「大丈夫よ、口琴も見つかって良かったわね」

 

 そんなフウリの目の前に、いきなりヌッと不気味な木彫りの顔が現れた。

「ひっ」

 フウリは思わず尻餅をついた。

 シンリィが懐から出した人形を、真剣な表情で突き出しているのだ。

「え? ええ??」

 

「あ、その人形、さっき落っことしそうになった奴。うわあ、そんな不気味な人形が大事だった訳?」

 フウヤが覗き込んで顔をしかめた。

 

 シンリィは更にグイグイと、フウリの目の前に人形を押し付ける。

「ええと、私にくれるの?」

 どう見たって可愛くない、目玉の飛び出した二等身人形。

 

「あ、ありがと……」

 フウリは口の端をヒクヒクさせながら、両手を伸ばして人形を受け取ろうとした。

 しかし、何故かシンリィは人形を離さない。

 

「あっ?」

 二人の間で人形は弾んで、落っこちた下には、お約束通りナーガの額があった。

 

―――ゴン!!―――

 

 

 額のコブを濡れ手拭いで冷やしながら、ナーガはシュンとしたシンリィを睨む。

「まったく、皆にどれだけ迷惑かけたと」

 

「許してあげて下さい」

 人形を両手で持ったフウリが口を挟んだ。

「このお人形、私にくれるつもりだったみたいです。それを落としそうになって慌てたのね」

 

「…………」

 ナーガは大きな溜め息を付いた。まあ、無事だからよかったものの。

 

「お茶、入れますね」

 フウリは人形をもったまま立ち上がって、釜戸の方へ歩いた。

 その時丁度霧が流れて、窓からの月明かりが彼女を照らした。

 

《私はフウリ・・》

 いきなり無表情な声。

 ナーガは振り向き、フウヤも、えっ、って顔で姉を見た。当のフウリも驚愕の表情だ。

 

《私は、風露の谷のフウリ。二胡造りのフウリ・・》

 フウリ本人の口は動いていない。声は別の所から聞こえる。

 

「その胸のブローチだ!」

 フウヤが叫んで指差した。

 フウリの胸には滑らかな水晶のブローチがあり、その中に小さなフウリが映って喋っているのだ。

 

《昨日は大事な化粧板を磨ぎ損ねて割ってしまった。火曜日は何だか作業に集中出来ないの・・》

 ナーガも目を丸くしている。

 フウリ本人は空の月より蒼白だが、ブローチの中のフウリは屈託なく笑った。

《水曜日は朝からウキウキしてる。朝から髪を念入りに結って・・》

 

 声が途切れた。

 フウリが人形を取り落として、胸のブローチを引きちぎっていた。

「ヒドイ! こんな、こんな物を!」

 

 恥ずかしさに身体中震わせて、フウリはそれをナーガに投げ付け、小屋を飛び出した。

 そのまま全力でツタまで走って、あっという間に夜の闇に滑り入ってしまった。

 

「ナーガさま……」

 フウヤがブローチを拾った。

「これ、ナーガさまのプレゼントだったの?」

 

「ああ、でも……」

 ナーガは茫然自失と凍り付いている。

「そんな、術なんて、掛けていない。掛ける訳ない……」

 

「うん」

 フウヤは次に、木彫りの人形を伏せたまま拾い上げた。

「犯人はこっちの人形じゃないかな」

「えっ?」

「だって、何だか薄く光っているよ。術が掛かってるんじゃないの、これ」

 確かに人形は、言われなければ気付かない程度にうっすら光っている。

 

「ね、ナーガさまは蒼の里のえらいヒトなんでしょ。だったら蒼の里にはナーガさまの交際相手を探りたいヒトだっているよね。そういうヒトがシンリィを利用したんじゃないの?」

「い、いや、その、交際とかじゃないし」

「傍(はた)から見たら十分交際だけれど」

 

 ナーガは、腕組みするフウヤと泣き出しそうなシンリィを交互に見た。

 そう言われてみれば、思い当たる節は、ありまくる。

 

「はあぁ……」

 思いっきり脱力して、ナーガはシンリィの頭に手を置いた。

「うん、そうかそうか分かった。シンリィ、いいよ、もう帰ろう」

 

「ええっ、何が分かったの。お姉ちゃんの誤解、とかなきゃ」

「いいんだ、もういい」

「何が!」

「これは僕への戒(いまし)めだよ。自分の事だけにかまけていて、シンリィが危ない事に気付いてやれなかった」

 

 フウヤの顔がフッと能面みたいになったが、ナーガは気付かなかった。

「馬鹿みたい。そんなすぐ諦めちゃうようなヒトに、お姉ちゃんを譲ってやろうとしていたなんて……」

 少年は口の中だけで小さく小さく呟いた。

 

 ツタを滑って来る者がいる。風露の民の若い男性だ。

「どうしたんです? フウリが来て、番人の交代の時間を早めてくれって」

 

 入れ違いにフウヤが男性の腕を掴んだ。

「僕が戻って来るまでそのヒトを引き止めておいて。絶対だよ!」

 

 

 

 



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巣落ちの雛鳥・Ⅳ

 ~ふたつめのおはなし~の最後のおはなしです


  ***

 

 フウリは自室の作業場で、一心に化粧板を磨いでいた。

「あんまりだわ」

 あんな物を利用して、ヒトの心を探るヒトだったなんて。

 

「だからそれはナーガさまの台詞(セリフ)だって」

 戸口からフウヤがズカズカ入って来た。

 

「フウヤ、大人の話に首を突っ込まないの。早く寝なさい」

 言われた事を無視して、フウヤは持って来た人形をギッと睨んでから、作業台にドンと置いた。

 そしてピカピカに磨かれた割れた化粧板を手に取って、人形にかざした。

 

「言う事を聞きなさ……」

 再度叱ろうとしたフウリの言葉は、どこからともなく聞こえて来た声に止められた。

 

《フウヤ、風露の民のフウヤ・・》

 弟は口をきゅっと閉じている。

 

《でも僕は知っている。僕は風露の民じゃないんだ。皆が当たり前にやっている音の聞き分け、僕だけ全然分からないんだもん・・》

 フウヤは唇を噛み締めて、化粧板をフウリに示した。

 そこには小さなフウヤが映っていた。

 

《ラゥ老師に問いただしてやっと教えて貰った。僕が捨てられ子だったって事。でもさ、僕は嬉しかったんだ。だってそれ、お姉ちゃんと血が繋がっていないって事で・・》

 

 バタンと音をさせて、フウヤは化粧版を伏せていた。

「ひぃゃぁあ、凶悪だな、こいつ」

 

「フ、フウヤ……」

「今の僕の奴はサクッと忘れてくれたら嬉しい。それよりお姉ちゃん、悪いのはこの人形だよ。ナーガさまは知らなかったんだ」

 

 

 

 

 番人の若者は途方に暮れていた。

 小屋の隅でどよーんと折れススキみたいになっている蒼の里の次期長様。

 フウリと何かあったんだろうなあ、あの娘(こ)生真面目過ぎるからなあ。

 掟厳しい部族だが、皆が皆頭が固い訳じゃない。

 

「あのぉ、坊っちゃん、無事で良かったですね」

 番人は当たり障りのない声を掛けてみた。

「はあ、すみません、ご迷惑をお掛けして」

「迷惑だなんて思っていません。子供が大事なのは誰でも一緒です」

 

「いえ、僕は名ばかりの親です。本当の親だったら、この子が危ない事とかちゃんと分かってやれただろうに」

 蒼の妖精は、隣で所在無さげに座る羽根の子供の頭を撫でた。

「すまなかったな。もうお前の他に大切なモノを作らないよ」

 

「あのぉ」

 番人はソロリと口を挟む。

「子供はそういうの、喜ばないですよ。子供は大人に幸せになって欲しいんです。でないと自分も幸せになれませんから」

 ナーガは顔を上げて若者を見た。

「あ、勿論、僕等は見識が狭い。風露の部族ではそうだって事です」

 

 

「どこでだってそうだよ!」

 フウヤがツタの所から一気走りして来た。

 後ろに罰の悪そうなフウリが続いている。

 

「ホンット、大人って馬鹿みたい。なあシンリィ」

 シンリィの肩に手を回し、反対の手で番人の若者も引っ張り、三人で外に出て、代わりにフウリを小屋の中に押し込んだ。

「ちゃんと仲直り出来るまで小屋から出るの禁止!」

 言うが早いか、フウヤは外からバタンと扉を閉めた。

 

 

 額に思いっきり縦線の入ったナーガに、フウリは恐る恐る声を掛けた。

「あの、私の誤解だって分かりました。早合点してごめんなさい」

 

 ナーガは下を向いて黙っていたが、決心したように外へ飛び出し、すぐ戻って来た。

 その手には不気味人形が握られていた。

「??」

 

「あ、貴女に恥をかかせてしまいました、すみません。ぼぼ、僕も、同じ目に遭いますっ!」

 一息にそう言うと、人形の目を見据えて光らせてから机に置いて、震える手でさっきのブローチをかざした。

「貴方がいいって言うまで、このブローチは降ろしませんっ」

 

 あまりに一方的で自虐的な償いにフウリは唖然としたが、気の済むようにやらせてあげたいとも思った。

 月明かりがクリスタルに小さいナーガを映す。

 

《ナーガ・ラクシャ、蒼の里の次期長。常にプレッシャーでヘコミがち。本当は全然自信が無い、何も護れる自信が無い・・》

 いきなりな暴露にナーガは目眩がしたが、頑張ってブローチをかざし続けた。

 

《いつもいつも失うのを恐れている。ユーフィ、父上、自分を育んでくれた平和な里。失ったモノを想うほどにどれだけ苦しい思いをするか。もうこれ以上失いたくない・・》

 ナーガは小刻みに震えた。何を言い出すんだ、この人形は……

 

《最初から何も持たねば失わずに済む。僕は……ヒトもモノも、好きになりたくなかった・・》

 赤いのを通り越して蒼白になるナーガを、フウリは紫の瞳をしばたかせてじっと見つめる。

 

《谷に落ちたシンリィを探している時、怖かった。この子がいなくなったら、僕はどんな気持ちになるだろう?・・》

 

「もう、許して下さい……」

 ナーガは小さい声で言った。

 

「駄目です」

 フウリは毅然と言った。

 

《失ってホッとするんじゃないか? 持ち続ける不安より、とっとと失ってしまいたい自分がいる・・》

 ナーガは愕然とした。これは間違いなく自分の心の奥底から出た言葉なのだ。

 

 フウリは目の奥を揺らしながら口をキュッと結ぶ。まだ終わらせちゃいけない……

 

《でも、でも……シンリィが岩の向こうから顔を出してくれた時・・》

 

「嬉しかった」

《嬉しかった・・》

 

 現実のナーガと幻影のナーガが同時に喋った。

 

 俯(うつむ)いた頭に、近寄ったフウリの体温を感じる。

 ブローチを持つ冷えた手を、暖かい両手が包んだ。

 

「もう、いいですよ」

 

 

 

  ***

 

「もう少し、休んで行かれれば宜しいのに」

 梯子の手前でフウリが心配そうに言う。

 

「いえ、明日も早い仕事があるので。シンリィも修練所に行かなきゃ」

 ナーガは目をそらして事務的に答えた。

 

 醜態を曝し過ぎて、一周回って頭が冷えた。

 仲直りはしたが、あまりにも気まず過ぎる。

 フウリはさっきの出来事以来、目を合わそうともしてくれない。

 

 フウヤともう一度口琴を合わせていたシンリィが、ナーガに呼ばれて駆けて来た。

 手には元凶の不気味人形が握られている。

 

 そうかあの人形、言葉を使わないシンリィの心を知るのに役立つじゃないか! と、ナーガが思い付いたタイミングで、シンリィが転んだ。

 

「あっ」

 そんなに強い衝撃を加えた訳でもないのに、打ち所が悪かったのか、人形は縦にパキンと割れた。

 

「あーあ」

 フウヤがシンリィを助け起こして、割れた人形のカケラを見下ろした。

「バラバラだね。でも潮時だったんじゃない? こいつ凶悪すぎたもん」

 

「あ、ああ、そうだな……」

 ナーガはちょっと残念そうにカケラを眺めた。

 結局一番ヒドイ目に遭ったのは自分だったような気がする。

 そして持ち込んだ本人はのほほんと……あれ? 

 

 隣でフウリが身をそらせて後退りしている。

 シンリィがいつの間にかそこに来て、割れた人形のカケラをフウリに向けて差し出しているのだ。

「え、ええ?」

 

 はなだ色の澄んだ瞳が大真面目にフウリを見上げる。

 

「お姉ちゃん、そんなカケラじゃもう術も効いていないんじゃない?」

 フウヤに言われて、フウリは恐る恐る手を伸ばして木切れを受け取った。

 確かに光は消えているし、もう魔法人形の役割は果たしていないのだろう。でも……

 

「ナーガ様」

「は、はい」

「二胡を置いて行って下さい」

「え? あ、でも」

 最悪の事態を想定してナーガは青くなった。

 

「造り替えたい所があるんです。来週来られるまでに仕上げておきますから」

「……って? 僕、来週も来ていいんですか」

「当たり前でしょう。まさかもう曲をマスターしたつもりなんですか?」

 ナーガは一生懸命首を横にブンブン振った。振り過ぎてクラクラした。

 

「この木切れ、ナーガ様の二胡の弦を支えるコマに使います」

 フウリはニッコリ笑って木切れを見つめた。

 そう、手にした瞬間、職人としての自分が、この木切れの行先を知ったのだ。

 

「これからこの二胡は、貴方の正直な心の音色を奏でる事になるでしょう。綺麗な音が出せるよう、一緒に頑張って行きましょうね」

 

 

 

 展開が急過ぎて着いて行けないナーガは、このフウリの言った言葉の一つ一つを里に帰り着く頃にやっと呑み込めて、いきなり雄叫びを上げてシンリィをビクッとさせるのだった。

 

 

 

 

   ~余話~

 

 ・・・・・・・・・・・・・・

 ミルクの海に沈む風露の谷。

 

 落ちたシンリィを捜して、フウヤは霧の中を駆けていた。

 

 僕のせいだ。もっとしっかり支えてやっていたら。

 でも一瞬だったけれど、あの子の広げた羽根が風に乗ったように見えたんだ。

 だとしたら真下じゃなくて、術の届かないくらい遠くの風下に流れて行ったんじゃないかな。

 

 一縷の望みだけれど、何もしないで待っているよりはマシだ。

 岩場を素早く飛び渡って、樹林帯に出た。

 

「!!」

 遠くの棚の上に人影が立っている。

 ドキドキしながら近付いたが、子供じゃなさそうなのでガッカリした。

 風露の誰かだろうか、でもこんなに遠くまで?

 

 更に近付いて、フウヤは首を傾げた。

 人影は、近付いているのに、まったくはっきりして来ないのだ。

 霧のせいじゃない。

 

 ただ、そのヒトが長い髪をしているのが分かる。

 ナーガさまよりも全然長いし色も白っぽい。

 細っこくて輪郭がはっきりせず、風に吹かれるようにユラユラしている。

 

 そのヒトはフウヤに気付いているようだった。

 こちらを向いて手招きし、右手を高く上げて、一点を指さした。

 

「あ!!」

 今度は歓びの声が出た。

 指された先の梢の上に、緋色の羽根の子供が見えたからだ。

 羽根が枝に引っ掛かってジタバタ動いている。

 生きている! しかも元気そうだ。

 

「シンリィ、シンリィ!」

 フウヤは駆け出した。

 

 ・・??

 指さすヒトが、フッと居なくなった。

 その場所に辿り着くと、木彫りの人形が落ちていた。

 さっきシンリィの懐からこぼれ落ちた奴だ。

 うっすら光っている気がしたが、手に取るとすぐ消えた。

 

 

 

 

 




「奏」挿し絵

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~ふたつめのおはなし・了~






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みっつめのおはなし
山の子谷の子・Ⅰ


 一年以上おいて、「みっつめのおはなし」を全面改訂する事にしました
 どうしても4人の子供の関係性が物足りなくて、いつか書き直そうと思っていたのですが、
やっと形にする事が出来て、ホッとしております。




 抜けるような青い空に、鳶(とび)が円を描いている。

 

「いいなあ、鳶は」

 

 初夏の三峰の岩尾根で、スラリと手足の長い少年が、空を見上げて呟いた。

 赤っぽい黒髪に鮮やかな絹織りのバンダナ、髪の両側に垂れる派手なビーズ飾りは、この辺りの山岳部族(ハイランダー)特有の物だ。

 

「ヤン!!」

 尾根の下から狩猟化粧の男が叫んだ。

「呆けているんじゃない! 鹿はどっちへ行った!」

 

「あ、えと……」

 少年は慌てて谷を見渡す。自慢の視力が灌木の僅かな揺れを見止めた。

 

 ――ヒュ――ピピピピ――

 

 指笛の音色と長さで、獲物の居場所を谷の仲間に知らせる。目のいい自分の役割だ。

 これが出来るから、まだ成人の歳ではないけれど、狩猟に同道させて貰えている。

 

 

 

 大きな獲物を担いで、男達が集落に帰還する。

 出迎えの女達が労い、巫女が祝詞(のりと)をあげて厄落としの儀式を行う。

 若者が極端に少ない。

 ヤンが幼児の頃流行った疫病で、同年代の子供が根こそぎ失われたからだ。

 

「族長、イフルート族長! ねえったら!」

 賑々(にぎにぎ)しい人混みをかき分け、男達の中心の鷲羽飾りの逞しい男性に、ヤンはやっと辿り着いた。

「今日の牡鹿の角は僕が貰う順番だ。この間約束してくれたでしょう!」

 

「ああ、ヤン、今日はよくやった」

 イフルートと呼ばれた男性は、包容力のある優しい瞳を少年に向けた。

「しかしずっと追い続けていたあの牡鹿が『たまたま』今日仕留められたのは、『偶然』かい?」

「…………」

 

「まあ、約束は約束だ。角を手に入れてどうする?」

「麓の街の市の立つ日に持って行って、馬と交換するんだ」

「お前、まだそんな事を……」

 

 三峰の集落は、幾重もの尾根と切り立った崖で構成された、大きな洗濯板みたいな地形にある。

 狩猟に馬は役に立たない。

 家畜は乳を出す山羊と毛を採るヤクが主だ。馬を養う習慣はない。

 

「僕は、自分の乗用馬が欲しいんだ。家畜小屋の端も確保してあるし」

「……やれやれ」

 族長もそうだが、この集落の大人は数の少ない子供に甘い。

「乗用馬は猫のような愛玩動物とは違う。きちんと自分で管理するんだぞ」

 

「うん、勿論! ああっ、その角、僕の! 僕の――っ」

 少年は解体される鹿に向かって、また人混みをかき分けて走って行った。

 

「いいのか族長。馬なんか持たせたら、外の世界に憧れてここを出て行ってしまうかもしれんぞ」

 側近らしい男が、横から渋い顔で進言した。

「それはそれで構わんさ。見分を広めて戻って来てくれれば」

「戻って来るとは限らんぞ」

「来るさ、俺はちゃんと戻ったろ?」

 

 鷲羽のイフルートは若い頃、放浪癖があった。だけれど、どこに何年出掛けても必ず戻って来た。

 そして帰って来る度に、新しい便利な知識をこの集落にもたらした。

 今でも彼の豊富な知識は度々皆の役に立っている。

 だから若い者はどんどん外に出て世界を見て来るべきだと、彼は考えている。

 

「それに外に出てこそ分かるのさ。三峰のこの山がどれだけ掛け替えのない物かって事がな」

 側近の男は首をすくめて苦笑いをし、族長は角を掲げて満面の笑みの少年を目を細めて眺めていた。

 

 

 

 角と肉を抱えて自宅に戻る途中、桑畑の小高い所で、ヤンはまた空を見上げた。

 夕焼けに色付く雲の間、数頭の騎馬のシルエットが見え隠れしている。

 あちらの草原地帯を統べる、蒼の一族の空飛ぶ騎馬だ。

 どこかへの通り道になっているのだろう。この時間によく見られる。

 

「カッコいいなあ」

 種族が違うんだから自分が飛べないのなんか分かっているのだが、憧れるのは自由だ。

 憧れに近付く第一歩が、彼にとっては馬を持つ事だった。

 

 

 

   ***

 

 霧深い風露(ふうろ)の谷に、様々な楽器の音が響く。

 朝イチの音合わせの時間。

 

 今なら皆、音に集中しているから、怪しい動きをしても見つからない。

 白い猫毛の少年は、小さな風呂敷包みを背負って、山の近くの塔の壁を降りていた。

 表の梯子を渡ると関の番人に見つかるからだ。

 張り出した木の枝を掴み、幹を伝って山の斜面へ辿り着く。久々の苔とシダの匂い。

 

 もう一度、風露の集落を振り返る。ミルク色の霧に包まれた、生まれ育った尖塔の谷。

 門外不出の技術を守って、世界に広がる音色を削り出す事に一生を捧げる風露の民。

 少年もその一員でいるつもりだった。

「ごめん、お姉ちゃん……」

 

 

 

「フウヤ!?」

 

 尾根の裸地を歩く少年の前に、深緑の草の馬が降りて来た。

「どうしたの、確かもう弟子入りだよね? 集落を出てはいけないんじゃなかったっけ?」

 馬上には長い髪の蒼の一族の男性。曇り一つない額に翡翠の飾りが揺れている。

 

 まったく何で、今日という日に、このヒトに見付かっちゃうんだよ。

「ナーガさま、どうしても行きたい所があるの。見なかった事にして貰えない?」

 

 

 

 風露の谷より少し離れた、山の麓の川沿いの集落。

 川の浅瀬に桟橋が作られ、女達が布を晒している。

 それらを見渡せる崖の上に、ナーガとフウヤが立っていた。

「『川柳(かわやなぎ)』と呼ばれる集落はここだけだよ」

 

「ありがと……」

 結局しつこく問いただされ、馬で送って貰う流れになってしまった。

 あまり世話になりたくなかったのだが。

 

「フウヤが会いたいヒトって、あの中にいるかい?」

「……」

「遠過ぎる?」

「顔を知らないんです」

「??」

 ナーガは怪訝な顔をした。

 てっきり、山で見かけた女の子に一目惚れでもして会いに来たかった……ぐらいに思っていたのだ。

 

「えと、誰なの、フウヤの?」

「……おかあさん……」

「えっ?」

 

 フウヤは、話す事にした。下手にごまかしてもしようがない。

「僕のおかあさん、風露のヒトじゃないの」

「そう……」

 ナーガは言葉少なに頷(うなず)いた。

 風露の民からかけ離れた彼の外見から、それは気付いていた。

 

「おとうさんは分からないけれど、多分ここにはいない」

「……」

「僕のおかあさん、お腹の子供と一緒に神様の所へ行こうと、山をさ迷ってたって。雨の日に」

「……」

「そんで、風露の集落に助けられて、大人のヒト達で色々、色々話し合って、僕は風露の子になったの」

「……そうか」

 

 ナーガは小刀を取り出した。

「左手を出して。少し我慢しなさい」

 少年の薬指の先を小刀で突くと、赤い血の玉が膨らんだ。その指を右手の薬指と血で張り付ける。

 ナーガが呪文を唱えると、重ねた両手がすうっと動いて、前に突き出された。

「君の血が呼ぶのは、あのヒトだね」

 

 目の前のくっ付いた薬指の指す先に、一人の女性がひときわ鮮やかな布を川に浸していた。

 他の女性に比べて肌も髪も色が薄く、そしてフウヤと同じ猫みたいな釣り目。

 フウヤは口をキュッと結んで、その女性を見つめた。

 

「優しそうなヒトだね」

「うん」

「それに、きっともう、神様の所へ行こうとはしなさそうだね」

 女性の周囲に小さい子供が二人まとわり付いていた。女性と同じ髪色の猫目の子供。

 

「会って行く?」

「ううん、一目姿を見て、けじめを付けたかっただけ」

「そう、じゃあ帰ろう。掟破りがバレちゃう前に」

 ナーガは少年の両肩に手を置いた。

 

「帰らない」

 フウヤは首を横に振った。

「僕は風露の民にはなれない。音が全く分からないもの」

 

「えっ、いや、それは……音が分からなくても出来る事はないのか?」

「お姉ちゃんは、漆とか彫金とか細工専門の職人になればいいって」

「うん、フウヤ器用だもの、それでいいと思うよ」

 

 フウヤはフッと能面みたいな顔になった。

「自分の人生を『それしかないからそれでいい』って、そんな決め方したくないと思う」

 

 ナーガはぐっと詰まった。今、この子をとても傷付けてしまった。

 

 そんなナーガには無頓着に、白い猫毛の子供は振り向いて笑顔を作った。

「要するに、僕は風露を出た方が道がいっぱいあるって事。今すっごいワクワクしてるんだよ!」

 

 

 




挿し絵「三峰の少年」

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山の子谷の子・Ⅱ

 

 

 賑やかな掛け声の屋台の間を、ヤンは浮き立つ気分で泳ぎ歩いていた。

 

 年に一度の麓の街、壱ヶ原(いちがはら)の大市。

 さっき漢方薬商人に売った大鹿の角が、思いの外高額になった。

 これなら若馬一頭買っても、残りで母さんにお土産を買って帰ってあげられる。

 甘い物がいいかしら、それとも新鮮な果物? 

 

 キョロキョロと歩く少年の前に、突然何かが転がって来た。

 

「痛ぁい・・」

 転がったのは細い手足の男の子で、ヤンに蹴飛ばされる形になった。

 色白の釣り目で、頭は綿帽子みたいな白い猫っ毛。この辺の部族にはいないタイプだ。

 

「ごめんごめん、だいじょう……」

 ヤンの言葉が終わる前に横から野太い腕が伸びて、子供の首根っこを掴まえた。

 屋台の料理人らしい前掛けの、赤い顔をした大男。

 

「このガキ逃げやがって! 俺様の店で食い逃げとは太ぇ野郎だ」

「違うよぉ、急に怖い顔で迫って来たから」

「お前が食ってすぐ立ち去ろうとしたからだろ」

「あ、そうか、ごめんなさい」

 

 降ろされた子供は胸の前で両手を組んだ。

「ごちそうさまでした」

「…………」

 

「じゃあね」

「こらあああああ!!」

 

 輪をかけて真っ赤になった料理人が再び子供を捕まえた。

「金を払えって言ってんだ、金を!」

「カネってなあに?」

「ふざけんな!」

「おじさんが、どうぞ食べて行ってって呼び込んでたんじゃないか」

「このガキィイ!」

 

 クスクスいう笑い声に、料理人はキッと振り向いた。

「あっすみません」

 思わず吹き出してしまったヤンは、慌てて謝った。

「あの、僕、少しなら払えます。その子幾ら分食べたんですか?」

 

 払いはお土産に考えていた金額で足りた。母さんには今の面白かった話で勘弁して貰おう。

 ちょっと出来ていた野次馬も散った。

 

「えと……」

 子供はヤンに頭を下げた。

「ありがとうございました」

 

「うん」

 ヤンは屈んで、子供の両肩に手を置いた。

「僕は狩猟の民だ。皆で力を合わせて大変な苦労をして獲物を捕る。ね、あの屋台の肉は誰かがそうやって捕ってくれた物、おいしく料理してくれるのはあのおじさんの労力。市場でそれらを頂くには、対価を払わなくちゃいけないんだよ。それを便利にする為に『お金』って物があるの」

 

「そうだったんだ」

 子供は、ヤンが見せてくれた銅貨を見つめて、素直に頷いた。

 

「あの、僕、『お金』持ってないけど、これ……」

 腰ベルトの物入れから、猫の形の木彫りが出て来た。よく見ると笛になっている。

 

「へえ、可愛いね」

「僕が作ったの」

「そう、有り難く貰うね。お土産に丁度いい。僕の母さん猫好きなんだ」

 二人は、小さく笑い合い、手を振って別れた。

 

 

 

「ここにいたんだ、どうしたの? フウヤ」

 一人になってボウッと突っ立っている子供に、長い髪の男性が歩み寄った。

「着る物とかだいたい揃ったよ。他に欲しい物ない?」

 

「本当にいいです、ナーガさま、そんなにしてくれなくても」

「ちょっとくらい何かさせてよ。『現し身人形』の件では、君に沢山お世話になったんだ」

 

「……ねえ、僕、やっぱり蒼の里に行かなきゃダメ?」

「まだそんな事言っているの? 里で預かるって事でラゥ老師にも話を通したんだよ。その方がフウリだって安心だろうし」

 

「そんなんじゃ、あそこを出た意味がない……」

 フウヤは口の中でゴニョゴニョ言った。

 

「まだ十歳なんだから、里でゆっくり勉強しながら将来を決めればいいじゃないか」

 奉公先を紹介する事も出来るが、この子はあまりにも世間を知らなさ過ぎる。

 ナーガにしたら、せめて手元で少し学ばせてやりたかった。

(それに、この子が来たら、シンリィがきっと喜ぶ)

 

「そうそう、馬を見に行かないか? 草の馬は蒼の一族しか乗れないから、フウヤに合う馬を捜しに行こう」

 気乗りしなさそうな子供の背中を押して、ナーガは馬市の方に向かった。

 

 

 

 ヤンは、馬商人の勧める色とりどりの馬の間で、目移りしまくっていた。

「イフルート族長はなるべく肩の立った馬が山に向いてるって言っていたな。ああでもよく分からない」

「坊ちゃん、馬ってのは相性でさぁ。最初にビビッと来た奴でいいのさ、ビビッとね」

「そうは言っても……」

 

 不意に、後ろから何者かがヤンの腕を掴んだ。

「!?」

 さっきの白い髪の子供だ。

 腕を絡めて思い切り引っ張られたので、三歩ほどよろめいた。

 

「お兄さん、走って!!」

「えっ、えっ?」

 

「フウヤ、待ちなさい!」

 人混みをかき分けながら、長い髪の男性が追い掛けて来る。

 そして何故かその後ろから、先程の屋台の大男も走って来る。凄い形相で。

「えええっ!?」

 

 ヤンは何が何だか分からないままに、子供と走り出した。

 その子供の反対側の手には、よく焼けた骨付き肉がしっかり握られている。

 

 追い掛けるナーガの肩を、大男がガッシと掴んだ。

「あんたあのガキの連れだろ? 金払え、金!」

 

 

 

 黒と茶色の大きな牛達の間に、子供とヤンは隠れるように座り込んでいた。

「何だってんだ、一体。その肉、盗んだのか?」

「ううん、あの長い髪のヒトがお金を払うから大丈夫。一緒に食べよ、お兄さん」

 子供は飄々と肉をかじったが、ヤンは訝(いぶか)し気に睨んだ。

 

「ね、お兄さん」

「ヤンだよ」

「そう、ヤン、僕はフウヤ。物は相談だけれど、僕をヤンの村へ連れて行ってくれない?」

「はあ?」

 腰を浮かしかけたヤンを、フウヤが空いている方の手で押さえた。

 

「ヤン、狩猟の民だって言ったよね。僕も狩猟の民になりたい。自分で選んだ仕事で働いて、きちんと対価を得られる者になりたいんだ」

「いやいやいや、無理だろ」

「どうして?」

「そんな細っこい身体で」

「お肉いっぱい食べたら、すぐにヤンみたく大きくなるよ」

 

 子供は意地を張るように肉をガシガシかじり、ヤンは溜め息ついて隣に座り直した。

「さっきのヒト、お兄さんか? 心配しているんじゃないの?」

 

「僕には家族なんかいない」

 かじり終わった骨で子供は地面をガリガリ引っ掻いた。

「あのヒトとは行きたくない……」

 

 ヤンの表情が曇った。

「まさか、ヒト買い・・か?」

 先の災厄でどの部族も子供が少ない。身寄りのない子供をお金で売り買いする商人がいるって聞いた事がある。物扱いで売られた子供は、行った先でもだいたい物扱いになる……とも。

 

「ヒトカイ? えっと、うん、そうそう」

「…………」

 

「ここにいた!」

 牛の頭越しに、さっきフウヤを追い掛けていた長い髪の男性が覗いた。

「まったく、いきなり、どうしたの?」

 

 ヤンは男性をジッと睨んだ。

 一見優しそうだけれど、この虫も殺さなそうな顔で子供を家畜みたいに集めて売り飛ばすのか? 

 すっくと立ち上がって、懐から巾着袋を引っ張り出した。ヤンの全財産だ。

「足りないかも。だけれど、これでこの子を自由にして!!」

 

 押し付けられた財布に目を白黒させる男性を尻目に、ヤンはフウヤの手を掴んで駆け出した。

 

 

 

***

 

 市を抜け、街を抜け、少年二人は手を繋いでひたすら駆けた。

 

「追って来る感じじゃないよ」

 フウヤが振り向いて言った。それでも用心して岩影に隠れて息を付いた。

 

「あれで足りたのか? お前安かったんだな。まあ細っこいもんな」

「でも丈夫だよ、ヤンの役に立つよ。あのお金の対価の分、ヤンの為に働く」

 

「いやいや、僕はヒト買いじゃないし。フウヤ、もう自由なんだから家に帰れよ」

「僕には家族なんかいないって言ったでしょう」

「…………」

 

 

 微かに草を踏む音がした。

 フウヤが岩影からそっと覗いて、声を上げた。

 

「ヤン!!」

「追って来たのか?」

「違う、ヤン、あれ!」

 

 ヤンもそちらを見て息を呑んだ。

 夕陽のオレンジの草原を、肩を並べて二頭の馬が歩いて来る。ヒトの姿はない。

 

 二頭とも骨格の綺麗な若駒で、新品の馬具を付けていた。

 片方は四白流星の栗毛に黒い鞍。

 片方は一点の白もない黒砂糖みたいな栃栗毛に白い鞍。

 

「誰かの馬かな?」

「いや……」

 ヤンは栗毛の頭絡に結ばれていた手紙をほどいた。

《親切なビーズ飾りの少年へ。馬商人さんのお勧めです。ビビッと来てくれればいいんですが》

 

 黙って栗毛の鼻面を撫でるヤンを、フウヤは神妙に覗き込んだ。

「何か分かんないけど、よかったね、ヤン」

「そうか?」

「だってヤン、ニコニコしてる」

「そうか……」

 

 

 黒砂糖はフウヤの分の馬なんだろう。

 そう考えるともうヤンはフウヤを突き放す気になれず、結局一緒に三峰に戻った。

 

 ヤンが馬のオマケに子供を連れ帰ったと聞いて、村人がワイワイ集まって来た。

 集落に子供は少ない。どんな子供だ? と、皆が首を伸ばして覗き込む。

 

 鷲羽のイフルートが総括した。

「いいんじゃないか? 若い者は宝だ。お前、三峰の子供になるか? この集落で大人になって所帯を持ち、三峰の民として骨を埋めるか?」

 

「分かんない、僕、来た所だもん」

 白い子供はキョンと答えた。

「でも、ヤンは好きだし、狩猟の民になりたいって思ったの。大人になって死ぬ時の事、今決めなきゃ駄目?」

 

「正直者だ」

 イフルートは白い歯を見せて苦笑した。

「その場限りの迎合を言うお調子者なら要らない。三峰の一員になるかは暫(しばら)く居てから決めるがよい」

 

 皆の信頼厚いイフルート族長が認めてくれたのなら安泰だ。ヤンもフウヤに微笑みかけた。

 

「でも、ヒト買いから逃げたのなら、故郷へ帰りたくないの? お母さんは?」

 一人の女将さんが女性らしい心配をした。

 フウヤは俯(うつむ)いて黙った。

 

「馬鹿ね、子供をヒト買いに渡すなんてよくよくの事情があったのよ」

 助け船を出したのはヤンの母親だ。

「うちへおいで。フワフワ猫毛が可愛い事」

 

「マァサ、猫じゃないんだ。ヒトの子だぞ」

 彼女の猫好きを知っている村人達は笑った。

 

「だって、ヤンにだって兄弟が欲しいわ。ティコだってビィだって、生きていればこれ位……」

 そこまで言って、母親は慌てて口を塞いだ。

 それは言わない約束なのだ。災厄で幼子を亡くしたのは彼女だけではない。

 

 何にしても、仲のいいヤンの家庭に引き取られるのが自然だろう。

 その日はお開きになり、皆帰宅した。

 家の物入れの奥にしまった子供用の衣服、あの子に合うかしら? 明日持って行ってあげようと考えている者が、複数いた。

 子供の数より、しまわれた小さな衣服の数が多い村だった。

 

 

 

 三峰の真上の夜空。

 星を背景に一頭の騎馬が浮かぶ。

 

「まったく、誰がヒト買いだ!」

 ナーガは苦笑して馬を上昇させた。

 

「結局、自分で道を切り開いてしまった。フウリ、君の弟は君に似て、岩のように頑固で……たいした大物だよ」

 

 

 

 

 

 



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草原の子・Ⅰ

 息の出来ないノスリが長椅子に転がっている。

 大机でもホルズがうつ伏せて、ヒクヒクと呼吸困難になっている。

 

 入り口に突っ立っている不機嫌なナーガ。

「そんなに笑わなくったっていいじゃないですか」

 

「だ、だって、食い逃げの代金払わされて、ヒト買い呼ばわりされた挙句、その子供に逃げられたって?」

「全く、歴代長の中で多分一番愉快な長様になれるぞ、お前さんは!」

 

「はいはい、全然威厳のない次期長だって言いたいんでしょ? しょうがないですよ、僕は僕でしかないんだから」

 

「まあそうだ。だがその『僕』ってのもやめて、『我』とか『儂(わし)』とか、そろそろ権力者らしくしたらどうだ?」

「嫌ですよ。さすがに白髪のお爺さんになったら考えるでしょうけれど」

 

 

「ただいまぁ! あっ、ナーガ様、おかえりなさい。フウヤって子は? 俺、案内しますよ」

 元気よく入って来た明るい髪色の少年は、小間使いのジュジュだ。

 

 まだ修練所に通う学生で、放課後雑用を手伝いに来てくれているのだが、働き者で機転も利くので、ホルズに大いに気に入られている。

 学業をやりながらでも正式な『見習い』に格上げしてもいいんじゃないかという話も出ているくらいだ。

 

「フウヤは来ない事になったんだ。まあ色々あって」

 ホルズが適当に濁した。

 

「えっ、そうなんですか、楽しみにしていたのに」

「楽しみにしていてくれたんだ?」

「はい、俺らの世代って人数が少ないじゃないですか。何をするにもずっと同じ面子(メンツ)だったから、新しい子が来るって聞いたら、みんな大喜びしちゃって」

 ジュジュは両手を上に向けてがっかりを表現した。

 

「そうなんだ。すまなかったね」

「それと、上級生の女子達がめっちゃ盛り上がっていましたよ。あの女嫌いのナーガ様を射止めた絶世の美女の弟なんだから、さぞかし美少年だろうって」

「……えっ、ちょっ、待っ……!」

 

 ナーガは泡喰って後ろを睨んだが、執務室コンビはあさっての方向を見てシラをきっている。

 どこから漏れるんだ、まったく油断も隙も……

 まあ、こんなんじゃ、硬派に独り立ちしたがっていたフウヤには三峰の方がよかったのかもしれないな。物事って成るように転がる物だ。

 

 

「そういえば、シンリィは?」

 最近のシンリィは、修練所に通ったり子供達の輪の中にいたりと、ナーガにとって喜ばしい進化を遂げている。

 相変わらず言葉を使わず、しつこく構うと逃げてしまうような所はあるが、最初に比べたら全然安心して見ていられるようになった。

 

「ああ、あいつ、今日は居残り」

「おっ、何かやらかしたか?」

 ナーガよりもホルズが先に、ワクワク顔で身を乗り出した。

 

「罰当番じゃないですよ。ほら、秋には乗馬教習が始まるでしょ、あいつの学年」

「おっ、いよいよだな」

 

 空飛ぶ草の馬は、蒼の妖精の象徴と言ってもいい。

 

 子供達は修練所に入った七歳の秋に、生涯を共にする自分の馬を宛がわれる。

 その瞬間、馬に対する責任が生まれる。

 馬は主の資質に沿って成長し、みっともない馬に育ったら主にとってとても恥ずかしい事だ。

 だから蒼の妖精は馬の為に自分を磨く。

 

 草の馬と共に在り、草の馬と共に生きる。

 別名『風の末裔の一族』と言われる由縁だ。

 

 草の馬を造る技術は里内の特定の家系にだけ伝えられ、彼らによって生産されているのだが、実は草で編まれた馬型に命が宿る理屈は誰にも分かっていない。

 ただ太古より伝えられた様式通りに祝詞を唱え編み上げると、『風の末裔(生身の肉体を終えた名馬)の魂』が引き込まれる……らしい。

 この世の知識を蓄えた蒼の一族にだって、分からない事は分からない。

 

「シンリィ、羽根が重くていつもヨタヨタしているでしょ。馬選びも慎重にしなきゃならいだろうって、馬事係の頭領を呼んで、見て貰うんだって」

「そうか」

 生涯を共にするのだから子供の馬選びは大切だ。一人一人の子供に合った馬を、馬事係と教職員で夏頃から何度も擦り合わせる。シンリィにもちゃんと気を配ってくれているんだなあ、ありがたい事だと、ナーガは単純に感謝した。

 その頃修練所でどんな話になっているのかも知らないで。

 

 

 夜も更けてから、サォ教官が重い面持ちで執務室にやって来た。

 馬事係の頭領も一緒だ。

 

「の、乗せられないって、シンリィを? どうして!」

 

「今はまだ乗せられないって事です」

 サォ教官は慌てて訂正した。

「羽根が重過ぎるんです。しかも自分の思い通りにならない。ある程度開いたり閉じたりは出来るんですが、閉じている力が弱いみたいです」

 

 ナーガは思い返した。

 確かにシンリィの羽根は、いつもだらしなく半開きだ。

 鷹のようにきっちりたたまれていたカワセミ長の羽根とは大分違う。

 馬に乗せる時は自分の前に羽根をクロスさせて乗せていたので、気にした事がなかった。

 

「一人で馬に乗せてみると、速足程度でも、風をはらんだ羽根に引っ張られて、転げ落ちてしまうんです」

 馬事係の頭領が、その先を継いだ。

「ただの馬と違うんだ、空飛ぶ馬だ。馬事を仕切る者として、そんな子供に馬を配する訳にはいかねぇ」

 

「カ、カワセミ長はどうしていたんです?」

 ナーガは動揺してノスリを振り返った。

 

「カワセミは、普通の鳥並みに羽根を自由に操れた。固くたたんでいる事も出来たし、そもそも七つの頃なんて羽根はあんなに大きくなかった……」

 ノスリも声が上ずっていた。

 考えてみれば当然の事なのに、気付いてやれなかった自分に悔んでいる。

 

「大きくなって風圧に負けない体力が身に着いてからだな。それしかないと思いますぜ」

 頭領の言葉に、誰も反論する余地はなかった。

 

 

 二人が去った執務室。黙っていたホルズが口を開いた。

「あのやせっぽちが大きくなるって、いったい何年先だってんだ。なあ親父、『長の決め事は絶対』の強権発動して、シンリィに馬をくれてやれんのか」

 

「無茶いうな。頭領の判断は筋が通っている。長が自分勝手な権力行使に走ったら『長の決め事は絶対』って掟その物が危うくなるんだぞ」

「分かってるよ、言ってみただけだよ」

 

 ナーガは二人のやり取りをぼぉっと遠くに聞いていた。

 シンリィがどんなに馬が好きかって事は、普段から分かっていた。

 自分だってあの子がユーフィのように自由に飛び回れる日を楽しみにしていたのだ。

(同い年の子供が皆馬を貰える横で、どんな思いをする事だろう……)

 

 悲痛な面持ちの大人達の脇で、書類綴じを終えたジュジュがそろっと言った。

「あの、終わりました。他には……」

「お、おう、今日はもういいぞ、ご苦労だったな」

 

 

 執務室を出て少年は、坂を登って居住地の反対側、放牧地方面に向かった。

 下宿は放牧地を通り越して修練所の地続きにあるのだが、最近、帰り道によく会う奴がいる。

(今日もいた)

 

「よお、羽根っ子、執務室はお前のせいでお通夜みたいになっていたぞ」

 

 月明かりに照らされる土手の上、羽根を揺らして子供が振り向いた。

 最初の頃の危うい感じは薄れているが、相変わらずこうやって独りでいる事が多い。

 

「今日はもう帰った方がいいぞ。エノシラさんにだって話は行っているんだろうし、きっと心配しているぞ」

 

 子供は土手を下りて、ジュジュに小さく手を振り、自宅のある山茶花(さざんか)林の方へ歩いて行った。

 

 あの子は毎日ここで何を考え事をしているんだろうな。

 少なくとも、大人達があれこれ心配している事とは、まったく別方面な事を考えているような気がする。 

 少年は何となくそう思った。

 

 

 

 



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山の子谷の子・Ⅲ

    

 

 ―――ヒュ―――ィイイ―――

 

 盛夏の緑萌え立つ三峰に、ヤンの指笛が谺(こだま)する。

 

「あっちだ!」

 

 石弓を持った男達が、合図で知らされた方向へ走る。

 逞しく盛り上がった体躯を持つ三峰の民は、下生え厳しい山中の急斜面を物ともしない。

 

 四方から獲物を巻いて谷に追い詰めるのが、いつもの定石(セオリー)だ。

 でも、最近はちょっと違う。

 

 ―――ビュン!――― 

 

 頭上高く風切り音がし、梢をしならせて、何かが飛ぶように移動する。

 影だけが地上を走って行く。

 

「よし、いいぞ、フウヤ! 追い越せ!」

 

 谷を渡って反対の山へ逃げようとする牡鹿の目前に、白い影が飛び降りた。

 鹿はUターンはしない。大概、利き足側に直角に曲がる。

 曲がった瞬間、待ち構えていたイフルートの弓が、鹿の急所を撃ち抜いた。

 

「凄い、また族長さんが一番矢だ!」

 頬を上気させたフウヤが、イフルートに駆け寄った。

 

「フウヤ、まず、祈りだ」

「あ、はい」

 

 男達は武器を下ろし、絶命させた鹿の前で、祝詞(のりと)を唱え頭を下げた。

 三峰の者達は、獲物を集落へ運ぶ間、決して談笑したり自慢したりしない。

 山から授かった命への礼儀だという。

 

 

「フウヤ、よくやったな」

 石尾根で合流したヤンが小声で話し掛けた。

 

 チビで細っこいフウヤが狩猟の役に立つとは誰も期待していなかった。

 事実、山を走ると下生えに埋もれてあっという間に置いて行かれた。

 

「僕、高い所の木の枝を渡る方が得意なんだけどなあ」

「はは、まさか」

 

 しかし、背の高い木にぶら下がって反動を付けて飛び渡って行くと、本当に早かった。

 谷へ落っこちて行く形になるのにフウヤは怖がらず、獲物に向かって一直線に樹上を飛んで行けるのだ。

 頭上から獲物を追い抜いて逃げ道を塞ぐのがフウヤの役割になった。

 そして狩りの成功率がグンと上がった。

 

「今日は終いだ。早く帰れる。皆、家族の為に時間を使え」

 イフルートが宣言をして、男達は和(なご)やかな顔になった。

 狩りの成功率が上がったからって、三峰の民は獲物を余分に捕ったりはしない。

 

 

 集落へ戻り、厄落としの祈りが終わって、やっと自由に喋れるようになった。

「ね、ヤン、イフルートの弓ったら凄いの。狙った所に吸い込まれるみたいに飛んで行くんだよ。まるで魔法!」

 フウヤは狩猟に参加出来るのが嬉しくてしょうがないみたいだ。

 どんな育ちをしたのかあまり語らないが、見る物聞く物何にでも感動して大騒ぎする。

 

「はいはいそうだな。それよりフウヤ、午後の時間どうする?」

 ヤンが煮られた鹿の内蔵の碗を差し出しながら聞いた。

 集落の歯の有る者全員の義務で、一口ずつ食す事で命を頂く業を分担する、という意味がある。

 

「勿論!」

 フウヤはそれを素早くかき込んだ。

 最初は苦手だったが、すっかり慣れたようだ。

「馬の練習をしよう! 僕、今日は東尾根を止まらず駆けられるようになるよ!」

 

 連れ立って厩へ走る少年二人を、イフルートと側近の何人かが眺めていた。

「相変わらずだな、あの二人。そんなに乗馬は面白いかね?」

「養蚕の手伝いもきちんとやっているし、いいんじゃないか? 騎馬を上達するのは悪い事ではない」

「本当に出て行っちまうぞ」

「行きたくなったら行けばいいんだ」

 

 イフルートも若い頃、外に出て何年も帰って来ない事があった。

 だが黒の病がこの地を席巻した時、慌てて戻って来て、村を立て直すのに必死に尽力した。

 

 どんな所にいても、故郷がある安らぎが自分を支えてくれているのだと気付いた時、彼は剣を弓に持ち代えて狩猟の民に戻った。

 だから、若者はどんどん旅に出るべきだと思っているし、ちゃんと戻って来ると信じている。

 

「俺みたいに頭でっかちにならないで、遠くを見渡せる者になって欲しいな、あの二人には」

 

 

 

 夕暮れ、二頭の騎馬が長い影を落として帰って来た。

 フウヤはやたらニコニコしている。

 

「馬の世話は僕がやっとくから、早く届けて来な」

「うん、ヤン、ありがと!」

 

 白い少年は泥の付いた布包みを大切に抱いて、厩を飛び出した。

 家々には明かりが灯り、其処此処(そこここ)で機織りの音が響く。狩猟の民であると同時に、養蚕の民でもあるのだ。

 

 フウヤの足元を目指したように、糸玉が転がってきた。集落に飼われるヤクの毛を紡いだ糸。

「また……」

 玉から伸びる糸を辿って、静かな灯りの漏れる窓辺に行き着く。

 

「こんにちは」

 糸玉を持って、そぉっと窓から覗いた。

 

「あっ!」

 窓辺のベッドで、いつもは長い三つ編みの女性が静かに佇んでいるのだが、今日はその女性は身体を二つ折りに荒い息をしている。

 

「おばさん、どうしたの、大丈夫? おーい、誰かいませんか!」

 フウヤが大声で呼んだが、家人は不在なようだ。

「もう!」

 フウヤは窓を乗り越えた。

 

「どこが痛いの?」

 背中をさすって声を掛けると、女性の息は穏やかになった。

「さすったら楽になる?」

 女性が小刻みに頷くので、フウヤはひたすらさすり続けた。

 

「お前! ここで何をしている!」

 怒鳴り声に飛び上がると、部屋の入り口に男性が仁王立ちしていた。太い眉がつり上がって見開かれた目は充血している。

 

「あ、あのあの、おばさん苦しそうだったから」

 このヒトの家だったのか、近寄らなきゃよかった。狩りの時に見かけるヒトで、顔も怖いけれど声も大きくて、とにかく全部が怖かったのだ。

 

「苦しそう?」

 男性はベッドにうずくまる女性に近付いた。

「また、胸か? 大丈夫か?」

 

「ええ……」

 女性は目を閉じたまま細い声で答えた。

「もう治まったわ。カペラがずっと背中をさすってくれたの。優しい子……」

 

 黙って唇を結ぶフウヤの肩に、男性が手を置いた。

「ああ、優しい子だな。まったく、また無理をして編み物などしているから」

 女性の枕元には編みかけ毛糸の入ったカゴがある。

 

「だって、カペラのセーターが小さくなったから、ほどいて編み直そうと思って」

「そうだな、子供はすぐ大きくなる。さあもう寝なさい、おやすみ」

 男性は木の椀に粉薬を溶いて、女性の頭を支えて飲ませた。

 

「おやすみなさい、あなた、おやすみ、カペラ」

 

 

 フウヤは男性に肩を押さえられて、部屋を出た。

 隣の玄関側にフウヤは初めて来たが、材料や工具が立て掛けられた広い工房になっていた。この男性は狩猟にも出るが、本業は職人らしい。

 

「あの……」

「ああ、あいつの世話を焼いてくれていたんだな。怒鳴ったりして悪かった」

「僕、カペラじゃない」

「分かっている」

 

 男性は戸棚を開けて干した果物を取り出した。

「ヤンと食え」

 

「ありがと。ね、おばさん、病気なの?」

「お前は気に掛けなくともよい」

 フウヤは不服そうに、「だって……」と俯(うつむ)いた。

 

「あいつに会うのは今日が初めてではないのか?」

「ここへ来た次の日に、窓から転がった糸玉を拾ってあげたの」

「そうか。最近はどの子供も見ない振りをしていたからな。お前もいちいち相手にしなくていいんだぞ」

 

 それには答えず、フウヤは懐から泥の付いた包みを出した。

「何だ?」

「参(しん)。ヤンが教えてくれた」

 包みの中は、太く曲がりくねった植物の根。

「あばさんにあげて。滋養にいい薬なんでしょ? さっき山で見付けたの」

 

 男性は眉を下げて困った顔をした。

「有り難いが、しかし参は滅多に見付からない貴重品だ。ヤンの家で欲しがるのではないか?」

「山の恵みは一番必要な者の所にって、教わった」

 フウヤは参を作業台に置いた。

 

「じゃあ、おじゃましました」

 

「同情はあまりよくないんだ。ああいう心の病には」

 

 後ろ姿に言われて、フウヤは振り向いた。

「僕、お母さん二人いるの。僕を生んでくれたお母さん、育ててくれたお母さん。でも二人とも、僕を必要にしてくれなかった。だから、僕でも必要にしてくれる『お母さん』も居るんだって分かったら、凄く凄く嬉しかった」

「………」

「おばさん、お大事にっ」

 

 出て行こうとした子供の肩を抑えて引き留め、男性は戸棚の上から何かの包みを取り出した。

「やる」

 

 フウヤは目をパチパチして、突き出された小さな鞘付きナイフの丁寧な彫り模様と、男性の武骨な表情とを見比べる。

 

「お前の手に丁度いいだろう。どうした、受け取れ」

「……カペラの、なの?」

「まだあいつの誕生日ではなかった。だから誰の物でもない」

「受け取れない」

「道具は使ってくれる者の元にあって欲しい」

「・・・・」

 

 フウヤは礼を言って両手でナイフを受け取り、丁寧に胸にしまった。

 

 手を振りながら駆け去る子供を、男性は見えなくなるまで見送った。

 

 

 

 馬の世話を終えたヤンが、帰り道の四辻(よつつじ)で、木桶を下げたまま空を仰いでいる。

 

「ただいま、ヤン、渡して来れたよ」

「そう、何かあった? 神妙な顔して」

「ううん、それより、何を見ていたの?」 

 駆け寄ったフウヤは、ヤンと同じ方向を見上げた。

 

 暮れかかる空を数頭の騎馬が横切って行く。

 少年は瞳に憧れをたたえて、遠くの茜雲に消えるまでそれを目で追っている。

 

「ヤン、草の馬が好きなの?」

 彼はハッと振り向いた。

「草の馬っていうの? フウヤ、知っているの?」

「そんなに詳しくは知らない……」

「そうか。たまに見かけるんだ。いいよな、あんな高い所を飛べて」

 

「そんなにいいモンじゃないよ……」

 フウヤは聞こえない声でボソッと言った。

 

「蒼の一族ってヒト達なんでしょ? 知り合いになれたら、あの馬、貸してくれるかなぁ」

 並んで家を目指しながら、ヤンは楽しそうに話を続けた。

 

「草の馬は蒼の妖精じゃなきゃ飛ばせられないよ。あのヒト達小さい時から『飛行術』ってのを習ってて、何年もかかってやっと免許皆伝なんだって。その他にも色々掟が厳しいらしいし」

「やっぱり詳しいじゃないか、フウヤ」

 フウヤは慌てて口をつぐんだ。

 

「フウヤが元いた土地では交流があったの?」

「どうだったかな。この辺では交流は無いんでしょ?」

 この話題を早く終わらせたいフウヤだったが、ヤンは思いがけない事を言った。

「ううん、僕が小さい時、一度だけ蒼の妖精が来たよ。母さんが言うには、僕の命の恩人なんだって」

「えっ?」

 

「知ってるだろ? 黒い病が蔓延した時、病に対抗する知識を教えに、この辺りを回ってくれた蒼の妖精の話」

 

 フウヤはあまり知らない。風露の谷には、病その物がやって来なかったのだ。

 

「僕の弟達も亡くなって、母さんはピリピリして、毎日泣いて、たまに怒ってまた泣いて、亡霊みたいにガリガリに痩せて……あ―― あんまり思い出したくない」

「あのヒトも……」

 

「そんな時、一人の蒼の妖精が来てくれたんだ。風を通して日光を受け、水を沸かして不浄を遠ざけてって、そのヒトに教わった通りにやったら、病気が広がる勢いが弱まった。だから僕は生き残れたんだって」

 ヤンはもう一度、空飛ぶ騎馬が飛び去った彼方を見つめた。

 

「カッコよかったよ、チラリとしか見ていないけれど。目の覚めるような翡翠色の羽根が、太陽に当たってキラキラしてた」

 

 

 




 挿し絵・「三峰の二人」
 元のお話では、ヤン十六歳、フウヤ十二歳なので、ちょっと上に見えます
 (この話では、ヤン十二、フウヤ十歳くらい・・)

【挿絵表示】




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草原の子・Ⅲ

 うす惚(ぼ)けた緋色のバサバサ羽根が、白い霧の中に見え隠れする。

 

 蒼の里、肌寒い初秋の早朝。

 朝イチの厩当番の為に修練所の厩舎に向かう途中、ジュジュは、霧の中を泳ぐように移動する緋い羽根を見付けた。里はまだ目覚めていない。

(ええっ、そっちは結界の境目だぞ?)

 

「おーい、羽根っ子、シンリィ!」

 声を掛けたが羽根は止まらない。追い掛けようとしたジュジュだが、思い直して厩に走った。

(あの様子だと、どうせまた追い付けない)

 

 放牧地の最奥、後少しで結界の境目という所で、羽根の子供の前に碧緑(へきりょく)色の騎馬が降り立った。

「上から来る者には効かなかったな、お前の目くらまし」

 

 顔も上げずに馬の脇を通り抜けようとする子供を、ジュジュは馬から飛び降りて捕まえた。

 顔を覗き込んでギクリとした。羽根の子供は今まで見た事もない不機嫌な顔で、鈍く光らせた上目を向けて来たのだ。

 ごくたまに怖がったり笑ったりするシンリィだが、こんなに不機嫌な表情は初めて見る。

 

「お前でもそんな顔をするんだな。大人のやり口にキレたか?」

 

 昨日、シンリィと同い年のチビッコ達が、それぞれに自分の馬を宛(あて)がわれ、乗馬訓練が始まった。この子供だけその場が見えないように引き離されて、上級生の座学の教室に座らされていたのだ。

(そんなその場しのぎでごまかしたって、何に解決にもならないのにな)

 別に正義の味方ぶりたい訳ではないのだが、ジュジュにも何となく面白くなかった。

 

 シンリィは表情を変えずに、掴まれたままズンズン進もうとする。

「分かった分かった、まあちょっと待て」

 

 ジュジュは無理に引っ張ろうとしないで、子供の前に回り込んで両肩に手を置いた。

「大人はお前の事を、儚げで、か弱い子供だとしか思っていない。お前がどんなに豪胆でどんな目的があって外に出ようとも、居なくなれば大騒ぎになっちまうんだよ。エノシラさんが泣くの嫌だろ? 俺に任せれば、穏便に上手く連れ出してやる。お前の行きたい所に付き合ってやるよ、どうだ?」

 

 羽根の子供は光を湛えたままの目で、ジュジュをじっと見つめた。

 

 

 

「だから、てっきり修練所の課外授業か何かだと思っていたんだ」

 

 夜の執務室。

 丸机の上に置かれた手紙を睨んで茫然とするホルズ。

 今朝、執務室の入り口に挟まっていた物だ。

 

《――今日は里の外へシンリィも連れて行きます。遅くなるらしいので、小間使いはお休みさせてください。ジュジュ――》

 

「そんな、外に出る行事なんてやっていませんよ」

 顔色を失くすサォ教官。こちらは、たまに小間使いの用事で修練所を抜けるジュジュや、好きな講義にしか来ないシンリィなので、居なくても気に止めていなかった。夜になってのホルズの問い合わせに、慌てて執務室にやって来たのだ。

 

「絶妙な言い回ししやがって。こんな書き方じゃ、『大人の誰かが知っている外出だろう』と勘違いしちまう。しかも嘘はついていない。どこで覚えるんだ、こんな小賢しい悪知恵」

 

 壁際で腕組みするノスリ。

「まあ、嘘をついたら小間使いをクビにするって最初に脅したからな。しかし馬を勝手に連れ出したのはまずいぞ。そんな事の分からん子じゃなかろうに」

 

 修練所を卒業していない学生が許可なく馬で外に出るのは禁止だ。誇り高く頑固な馬事係を怒らせると、非常に面倒な事になる。事情があろうとなかろうと、たとえ執務室がとりなそうと、彼らは筋を違えない。

 

 皆で頭を抱えている所に、入り口に気配がした。ナーガが帰って来たのかと思ったが、気配は外で止まった。ささやき合う数人の声がする。

 ホルズがそっと立って、扉をバッと開いた。

 

「うああっ」

 三人の男の子が転がり込んだ。ジュジュより三つ四つ年下の、ハウスの子供だ。

 

「お前たち……」

 あきれて見下ろすサォ教官の足元で、三人はホコリを払って立ち上がった。

「へぇ、シツムシツってこうなってんだぁ」

「おっきい机! ジュジュお兄ちゃんの言ってた通りだね」

「剣がある、剣! かっけぇ――!」

 

「こら、ここは遊び場じゃない」

 外へ押しやろうとするサォ教官の脇から、慌てて子供達は叫んだ。

「指令で来たんだってば、ジュジュお兄ちゃんの指令!」

 

「し、指令って、ジュジュは帰って来ているのか?」

 

「ううん、朝に指令されたの」

「夜になるとサォせんせが執務室に呼ばれるから、出て行ってからゆっくり百数えて、それから追い掛けろ、って」

「ちゃんと声に出して数えたよ!」

 

 豆鉄砲喰らった顔のサォ教官の脇から、ホルズが覗き込んだ。

「指令とは?」

「手紙の配達!」

 三人はそれぞれに、懐やポケットから紙切れを取り出した。三枚合わせると一枚の手紙になる。……手が込んでいる、大人に簡単にバラさない為なんだろうが。

 ホルズがひったくって丸机に並べた。サォ教官とノスリも覗き込む。

 

《――これを読んでいるって事は、夜になっても自分は帰っていないんですね。って事は、けっこう時間が掛かるのかも。えっと、これは自主的な家出です。帰る時になったらちゃんと帰りますので、あんまり心配しないで下さい。食糧や野営装備も持っています。あ、シンリィは一緒です――》

 

「これだけかよ!」

 ホルズが叫んだ。ノスリは考え込んでいる。

 

「ジュジュは他に何も言っていなかったのか?」

 教官が焦った様子で子供たちに問いただした。

 男の子三人は口をつぐんで下を向いている。これ以上の事は聞き出せそうにない。

 

「どちらにしても放って置く訳には行かないぞ。馬事係の方では『馬の行方不明事件』として動くだろうし」

 

 

「ただいま戻りました! どうなっていますか?」

 扉が開いて、仕事帰りのナーガが飛び込んで来た。後からエノシラが続く。馬繋ぎ場で待っていた彼女におおよその事を聞いたのだろう。外套も外さぬまま、ホルズに指さされた丸机の手紙に喰い付く。

 

「……捜すのは僕が行きますから、大事(おおごと)にはしないで下さい」

 しばらくして手紙から顔を上げたナーガは、周囲を見回してゆっくり言った。不思議に落ち着いた声だった。

「ノスリ長、申し訳ありませんが、馬事係の頭領を説得して下さいませんか。ひとまずナーガ・ラクシャに預けて、抑えて頂けないかと」

 

「分かった、引き受ける。……おい、ちょっと休んで行ったらどうだ」

 

 引き止める声に「後はお頼みします」と会釈だけして、ナーガは今入った扉を忙(せわ)しく出て行った。

 

 

 サォ教官と子供たち、エノシラを帰宅させて、執務室にはホルズとノスリが残る。

 

「親父、俺はジュジュを手放したくないんだがな。やっぱりクビにしなきゃならんか」

 悲痛に語るホルズに、ノスリは丸机の二通の手紙をもう一度眺めながら言った。

「あぁん? クビにする理由なんかないぞ」

「は?」

 

「ジュジュは巻き込まれただけだ」

「誰にっ!?」

「シンリィに、に決まっているだろうが」

 

 ノスリは二通の萱紙を指で辿りながら、両目尻にシワを寄せた。

「この家出の主役はシンリィだ。ジュジュは多分、放って置けなくて付き合ってやっているだけ。分かるだろ、この行間で。シンリィのせいに見えないようにしたいのが見え見え過ぎて、逆に丸分かりだっつーの」

 

「いやそんなの分からんって。親父こそ何で分かるんだ」

「俺は大昔、カワセミとツバクロのそういうのに無茶苦茶振り回されたんだっ」

 

 

 外套をはためかせながら坂を下るナーガを、サォ教官が追って来た。

「私も行きます。ジュジュの事は私の監督不行き届きです」

 

 ナーガは立ち止まって、ゆっくりと振り向く。

「あの子が……シンリィが、初めて大人に歯向かって来た。そしてそれを助けてくれる友達がいる」

 振り向いたナーガの顔に、教官は目をまん丸に見開いた。

 

「ねえ、サォ教官、僕は今、どんな顔をしていますか?」

 

「・・すごく嬉しそうです」

 

「でしょう。ここは僕一人に行かせてください」

 

 長い髪をひるがえしてナーガは坂を駆け下りて行った。

 

 

 

   ***

 

 

 蒼の里より遠く離れた丘陵地帯。

 

 夜闇に光る沢山の目が、ゆっくりと輪を縮めている。

 その輪の中に、羽根の子供と明るい髪色の少年。そして怯える碧緑色の草の馬。

 

 ――バシィッ!!――

 輪の一角で衝撃波が炸裂し、獲物を囲んでいた狼たちが、怯んで後退りした。

 

「シンリィ、連続で上げろ!」

 

 膝から先をブラブラさせて構えながら、ジュジュが叫ぶ。

 シンリィは真剣な顔をして頬を膨らませ、両手を合わせて風の渦巻きを作っている。

 ブンブンうなるそれを、ジュジュの頭上に投げ上げた。

 

「行けえっ!!」

 体重を乗せて蹴られた風玉はブーメランみたいな弧を描いて、親玉狼の鼻先で炸裂した。

 

 ――ギャウン!――

 親玉狼は悲鳴を上げて、三歩退いた後、踵を返した。

 厄介な相手と判断したのだろう、他の狼たちもパタパタと退散した。

 

「今の内だ、行くぞシンリィ」

 ジュジュは馬を引き寄せて、素早くシンリィを押し上げた。

 自分はお尻の側から飛び乗って、風を巻いて上昇させる。

 下界に、藪で様子を伺う狼たちが見えた。

 

「お前さすがだな、あんな風の蹴り玉を作れるなんて。伊達に自然法術の講義を受けていたんじゃないな。話の合間に教官がちょっとやって見せてくれるだけだったのに」

 羽根の子供は懐で、フウ・・と息を付いている。

「全然か弱い子供じゃないよな、お前」

 

 

 ジュジュの飛行術では、馬は一度のジャンプで丘ひとつ越えられる程度だ。しかも二人乗りなのであまり連続して飛べない。本当なら、一日がかりでも里からそんなに離れられない筈なのだが……

 

「まただ」

 頬に受ける風がぐにゃりと歪み、周囲の空気が一気に変わる。暗くてよく見えないが、眼下の景色も変わっている気がする。里を出てから何度か、ジャンプした時この感覚に見舞われた。

 前に乗っている子供は、ひたすら遠くを見つめている。行きたい先を思う心が、無意識に空間を歪めちゃうんだろうか。

 

(そら恐ろしい奴……)

 ジュジュは溜め息して、袖をまくって腕に巻いていた布を裂き、細工してから地面に落とした。

 

 目の前に広葉樹の山稜が広がる。もう、ジュジュにはまったく見当の付かない土地だ。

「お前いったいどこまで行きたいんだ?」

 

 シンリィは相変わらず前を凝視している。

 思う方向から逸れたら、腕を上げて行きたい方向をさす。

「王子様気取りかよ」

 後ろ頭を軽くこずくと、子供は呑気にゆらゆら揺れた

 

 月と星からして、彼が見つめる方向は一定だ。明確な目的地があるのは確からしいのだが、距離がさっぱり分からない。さすがにちょっと不安になって来た……が……

 

「まあいいか」

 

 ジュジュは自分の無鉄砲さに自分で驚いていた。手堅く生きて来たつもりだったんだけれどな。

 不安より、行った先に何があるかのワクワク感の方が勝るのだ。

「俺もまだまだ子供だったって事か」

 

 

 ―― ヒュ――――ィイイ ――

 

 前方の山麓に微かな音が上がった。

 鳥の声? いや、あれは誰かの指笛……?

 

 シンリィがビクンと揺れた。

 

 

 

 



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白蓬(しろよもぎ)・Ⅰ

「もおっ、みんな、みぃんな、僕を子供扱いし過ぎっ!」

 

 寝ワラ返しの三本ホックをクルクル回しながら、フウヤがぶぅたれた。

 

「まぁ子供だからな。ほら、とっとと手を動かさないと終わらないよ」

 ヤンは黙々とホックを動かし、昼間日光に干されてホコホコになった寝藁(ねわら)をかき集める。なんせここの厩舎は三峰と比べ物にならないくらい大きく、先が見えない遠くまで馬房の列が続いている。

 

 ここは三峰から馬で数時間程の山麓(やまふもと)、『五つ森(いつつもり)』と呼ばれる集落。半狩猟半牧畜で暮らす、騎馬民族の村だ。ヤンとフウヤは、かれこれ一ヶ月ほど前からここで世話になっている。

 

 彼らが市場で入手した二頭の馬はある程度の調教が成されていたが、二人とも馬に関してはど素人。最初はイフルートが装蹄などを教えてくれていたのだが、彼も自己流だったので、この際、騎馬の盛んな所にきちんと習いに行ってはどうかと、紹介状を書いてくれたのだ。

 

 五つ森は、三峰との境界に深い森があるので、普段はあまり交流がない。共通の行商人を通して情報をやり取りする程度だが、イフルートは若い頃に逗留していた事があるらしい。『伝統を重んじる歴史の古い部族だ、礼節を怠らぬよう』と釘を刺されて、二人は緊張して出発したのだった。

 

 

「だってヤンと三つしか違わないじゃん。なのに僕だけ、こんな玩具みたいな」

「分かるけどさ……」

 

 草原の部族は思ったより堅苦しくなく、遥々(はるばる)やって来た山岳の少年たちを優しく迎えてくれた。

 優し過ぎて、華奢なフウヤを心配し、彼専用に小さいホックや桶をわざわざ作ってくれたのだ。ありがたいが小さ過ぎて、それこそ子供のお手伝いみたいな作業しか出来ない。大人の道具を使っていると、危ない危ないケガをすると、大袈裟に止められる。

 

 昨日行商人が届けてくれたヤンの母親からの手紙も、それに輪を掛けた。

『全然便りがないから心配している、手紙くらい寄越しなさい。フウヤは無茶をしていない? あの子は自分の体力を推し量れないから、気に掛けてあげなさい。朝晩冷えて来たし、風邪などひかせても先方に迷惑をかける、そろそろ帰って来てはどうか』という、これまた子供扱いな内容。

 

「ちぇっ、次に来る時はイフルート族長みたく、筋肉ムキムキになっててやる」

 フウヤは相変わらずむくれている。

 

(あの手紙を見てそんな不満が一番目に来ている内は、まだまだ子供なんだよな……)

 ヤンは心の中で溜め息付いた。彼にはこの集落でもっと不安を抱いている事があるのだが、フウヤは気にしていないみたいだ。

 

「おーい、坊やたち、もうあがりなさい、後は儂(わし)らがやっておくから」

 見知った髭面の男性が、厩の窓から覗いた。

 黒々とした髭に、眼の縁に赤い隈取りの入れ墨。この部族の習慣なのだが、最初は怖かった。

「今日のお宿は、フウヤは薬師の親方の家だな。ヤンは繁殖場の場長の……」

 

「あの」

 ヤンが遮った。

「明日帰るんだし、最後の日ぐらいきちんと仕事をやり遂げたいです」

 あまり自己主張しない彼の進言に、男性だけでなくフウヤもキョトンとした。

 

「感心な心がけだが、親方んトコの婆さんがその子が来るのを楽しみにしとるんだ。ヤンの所も……」

 

「ごめんなさい、お願いします。装蹄も馬の病気の治療もいっぱい教えて貰って助かったのに、最後までお客扱いじゃ、気が済みません。手助け無しに二人だけでやらせて下さい」

 フウヤも小さいホックを握って、横でブンブン頷いた。

 

「え・・あ、ああ、そうか、……子供はそんな事気にしなくてもいいのだが……まあ、うん、分かった、無理せぬようにな」

 男性は歯切れの悪い感じで話を切って、そそくさと何処かへ去って行った。

 

「勝手に決めちゃって悪かったな、フウヤ」

「ううん、いいよ。毎日違うおうちにお世話になるのって、最初は楽しかったけどだんだん疲れて来ちゃって。ヤンと仕事している方がいいや。ねえ、装蹄とかいつ習ったの?」

「習っていないよ……」

「??」

 

 そう、ここに来て勉強したかった事……削蹄装蹄(さくていそうてい)や馬の健康管理など、そういう肝心な事を一切教えて貰えなかったのだ。頼んでも、「誰それが居ないと」「道具が見つからない」などと、はぐらかされる。

 最初は、弟子入りと同じで一生懸命働いて信用を得てからなのかな? と思ったが、こき使われる訳でもなく、皆優しく、仕事そっちのけで遊びにばかり誘われる。

 ……モヤモヤとした嫌な予感。それに加えて、三日前に更に不信を抱く出来事があった。

 

 ヤンは周囲を見回して誰もいないのを確かめてから、後退りでフウヤに寄って、そっとささやいた。

 

「フウヤ、ちょっと教えて欲しい」

「なぁに?」

 

 

 

 辺りが暗くなった頃。

 全部の馬房に寝ワラをきっちり敷き終えて、フウヤは迎えに来た薬師の親方に連れられて行った。ヤンも繁殖場長の家に案内される。

 

(二人別々に色んな家に泊まった方が社会勉強になるって言われて、最初は納得したけれど)

 

 ヤンにはすぐに分かった。この集落には子供がほとんどいない。建物が多い割にヒトの数が少なく、あちこち傷んだまま手が行き届いていないのは、一時期に人口がガクンと減ったせいだろう。多分、黒い病渦の被害が、三峰よりもずっと酷かったのだ。

 

(イフルート族長は知らなかったんだろうな……)

 

 どの家も、子供が居る晩餐に長らく飢えていて、下にも置かない扱いでもてなしてくれる。自分達が求めているのはそういうのじゃなかったのに。

 

 

 

 

   ***

 

 月が昇って夜半。

 五つ森集落の一番奥、牧草地の手前にある繁殖用厩舎。そこに向かう二つの影。

 

「こっちだ」

 先に立って案内するのは、繁殖場の親方の息子。後に付いて歩くのはヤンだ。

 

 着いたその日に、種牡馬の気の立った奴はトンでもなく危ないから、繁殖場には絶対に近寄るなと、この男性に釘を刺されていた。

 ヤンもフウヤも言い付けを守って、牧草地に行く時は遠回りしていた。

 

 男性の歳はヤンの母親ぐらいだが、この部族では若い方だ。独特の団子鼻に丸顔で、このヒトだけは赤い入れ墨があってもあまり怖くなく、馬の事を質問した時も、比較的キチンと教えてくれていた。

 三日前、他の家に泊まっていた時、夜中に窓をコンコン叩いてこっそり訪ねて来られた時も、彼だったからヤンは気を許したのだ。

 

「明日帰っちまうんだってな。だから特別に見せてやるよ。三日前に話した、親父と俺の宝物」

「…………」

 

 黙って着いて来るヤンを振り返りながら、団子鼻は一番奥の独立した馬房に案内した。他の厩舎に比べて屋根が高く、木目がまだ鮮やかで、最近新しく建てられた物だと分かる。扉は厳重にカンヌキが掛かっており、窓は屋根に一か所しかない。

 中から動物の息づく気配がする。

 

「ほら、ここに足を掛けて、上から覗いて見な」

 団子鼻は唯一ある天窓を指して、足がかりの板を置いてくれた。ヤンは黙ったまま登り、窓枠に手を掛けて顔を近付けた。

 

 薄暗い馬房には、細い寝ワラがゴッソリ山になっている。その真ん中、僅かな月明かりの下、馬の形をした生き物が立っている。

 この明かりでは細かい所までは見えない。だが、他の馬と明らかに違う。

 体毛が無い。無いっていうか、体表が枯草を丸めたようなゴワゴワ。普通の馬の二歳ほどの大きさだが、首と脚が妙に長くて、辛うじて馬に見える? ぐらいのシルエット。

 

 不意に動物が顔を上げた。

 暗闇に、夕陽みたいに燃える二つの赤い瞳。

 視線が合った。ヤンの背中が総毛立った。

 怒っている。この動物は一見静かだが、身の内々で物凄く怒っている。

 

「な、凄いだろ、『草の馬』だ」

 硬直しているヤンに、団子鼻が下から誇らしげに言った。

「親父と俺で繁殖した、五つ森産の草の馬だ」

 

(違う……)

 ヤンは窓枠を握りしめながら、口の中だけで呟いた。

(フウヤに聞いた。草の馬は繁殖では増えない、雌雄の区別すら無いと。それにやっぱり見た目が違う、草の馬なら馬の形に、きっちり綺麗に編まれているって)

 

 三日前、凄い話があると夜中に忍んで来た彼は、この集落に草の馬がいるんだと、嬉しそうに教えてくれた。多分ヤンが草の馬に憧れている事をフウヤから聞いたのだろう。

 

(ほんの一瞬期待した自分がバカみたい……)

 草の馬は蒼の里でしっかり管理されているから他所にいるなんて有り得ない! ともフウヤは言っていた。

 

 今見せられているこの動物は、別の妖獣か何かだろう。

(結局このヒトもそうだったのか……)

 勘違いしているだけならまだいい。けれども多分、分かっていてわざと、自分を繋ぎ止める為に嘘を付いているんだ。僕の長年の憧れを、こんな形で利用して……!

 

(しかもその為に、何の獣か知らないけれど、こんな天窓しかない厩に押し込めて、こんなに身も世もないくらい怒らせて……!)

 

 普段は穏やかなヤンの心に、フツフツと怒りが湧いて来た。まるで獣の怒りが染み移ったかのように。

 

 

 

「ヤン! ヤン――!」

 

 突然、遠く住宅区で、声変わりしていない子供の声が響いた。

 他に複数の不穏な声。

 

「フウヤ、僕は・こ・こ・だ!!」

 

 屋根の上からヤンが叫ぶ。

 大人しい少年の腹の底からの声に、団子鼻はビクッとなった。

 

「ヤン――!」

 子供の声は近付いて来る。同時に後ろから迫る乱暴な足音。

「いい子だからこの薬をお飲み、ちょっとくらいパァになっても構わないじゃないか」

 という老婆の声も混じっている。

 

「やだってば!」

 夜闇から白い子供が飛び出した。

 団子鼻が捕まえようと手を伸ばすが、子供はスルリと身をかわす。その隙にヤンが飛び降りて、扉のカンヌキを引き抜いた。

 

「あ、何をする!」

 

「それはこいつの台詞だ! 自分勝手な嘘の為に、こんな所に閉じ込めて!」

 

 途端、勢いよく開いた扉にヤンは吹っ飛ばされた。

 四足の駆け出る足音、ひっくり返ったヤンには見えなかったが、それは一瞬で山側の藪に飛び込んで、バサバサと逃げて行った。

 

「あああ、何てことを!!」

 団子鼻のうろたえようから、『嘘』ではなく『勘違い』の方だったのかもしれない。

 

「ごめんなさい、でもあれ草の馬じゃないですから」

 ヤンは跳ねるように立ち上がった。ボヤボヤしている場合じゃない。

 

「フウヤ!」

 白い子供の手を掴んで、茫然としゃがみ込む団子鼻の脇を駆け抜けた。

 

 

「くそ、すばしこい子供だ」

 追い掛けて来たのは族長の他、集落の主な者達だった。明日帰ると聞いて、今夜でカタを付けるつもりで用意した、色んな拘束道具を手に持って。

 

「大丈夫だ、別の者があの子らの馬を押さえに行った。こんな時に備えて厩舎の一番奥に入れさせていたのだ」

 という族長の余裕の表情は、「大変です、あの子たちの馬が居ません!」という報告で崩れた。

 

 ―― ヒュ――――ィイイ ――

 

 響くヤンの指笛。

 牧草小屋の裏に隠れていた二頭の馬が躍り出た。四白流星と黒砂糖、二頭ともしっかり馬具を付けている。さっき居残り仕事のついでに、二人がこっそり仕込んでおいた。

 彼らは最初から、朝ではなく今、集落の門ではなく裏の牧草地から、『帰る』予定だったのだ。

 

 二人の子供が馬を得て、牧柵を飛び越える蹄音がした。

「追え!」

 騎馬ならこちらが長けている、地の利もある。

 

「ぞ、族長・・!」

 馬を引き出そうとした男達は情けない声を出した。

 馬具という馬具の金具が外され、引っ張るとスルンと抜けてしまう。鞍の鐙も腹帯も外されて、持ち上げると分解する仕様になっていた。

 それも勿論あの二人が、『ついで』にやって行った事。

 

 

 族長は歯噛みした。

 自分達だって、最初からあの子供達を我が物にしようと思っていたのではない。ただ、あんなに元気で健やかな子供を見てしまうと、かつて栄華を誇った自分達の、現在のみじめさが際立ってしまうのだ。他所に勉強に出せるほど子供溢れる村もあるというのに……と。

 

 急激な不満が頭をもたげた。皆も同じだった。誰言うともなしに集まって愚痴をこぼし合った。

 山岳部族の子供が騎馬に興味を持ったのは、我らの元へ来る運命だったのではないか。誰かがそう言うと、皆もそうだその通りだと応じた。

 

 この子達を手に入れたら、何かが変わる、光明が射す。

 子供はこの部族のかつての繁栄の象徴なのだ。

 

 後は、話し合いがサクサクと進んだ。

 滞在を引き延ばす為、なるべく学ばせぬようにと通達した。求められる事を教えてしまうと、自分達の価値が失われてしまう。ずっと『大人に依存する半人前の子供』でいて貰わねば困るのだ。

 

 子供同士で情報を共有させぬよう、宿泊は切り離す事にした。

 持ち回りで各家に泊まらせると通達したら、どの家も、特に年寄りのいる家庭がこぞって名乗りを上げた。結局クジ引きになったほどだ。

 

 子供が居るだけで、皆がこんなに積極的になれる、一体感が湧く。

 この子達は自分達に昔のような繁栄をもたらしてくれるに違いない。

 決して手離しては駄目だ、今逃すと二度と機会は無くなる。

 逃がす訳には・・行かぬ!!

 

 

   ***

 

 五つ森の集落を出て草原を抜け、二頭の馬は山の麓に取り付いた。灌木のまばらな斜面を駆け上がる。

 

「ああ怖かった、諦めてくれたかな」

「いや、諦めないだろうな」

「ヤン~~・・」

 

「夜中にこっそり静かに帰りたかったんだけれど、やっぱり無理だったな。『草の馬』を見に誘われて、どうしてもこの目で確かめたくなったんだ。それが余計だったよな、ごめん」

 

「ううん、こっちも寝静まるどころか皆ギンギンだったから。仕方がないから先に寝たふりしたら、薬を飲まそうと鼻をつままれた。思いきり噛み付いちゃったけどいいでしょ? で、その『草の馬』はどうだった?」

「偽物だった」

「やっぱり」

 

 前を行くヤンの背中に、フウヤは頬をふくらませて抗議した。

「もっと早くに教えてくれればよかったのに」

 

「知らずに済むなら知らない方がいいかと思ったんだ。最初は穏便に帰れるつもりでいたし」

「ちぇっ、すぐにそうやって世間知らずな子供扱いする」

 

「ごめんってば。だってフウヤ、お年寄りに大人気だったじゃないか。動けないお婆ちゃんまでが、フウヤ、フウヤって手を伸ばしてお菓子をくれようとしたり」

「自分トコの子供になって欲しいからでしょ」

 

「それだけじゃないと思うよ」

 ヤンはそこだけ穏やかにゆっくり言った。

「フウヤは、何だか、ヒトを引き付ける何かを持っているんだ」

 

「ええ――っ、何それ、おだてたって僕が怒っているのは変わらないんだからっ」

「いいだろ、僕なんか二十も年上の女性との縁談を持って来られたんだぞ、大真面目に」

「うひゃ、それは……」

 

 二人は苦笑いを交して、馬を進めた。

 

「でも、日を追う毎にだんだん笑いごとじゃなくなって来た。皆、目付きがおかしくなって行ったんだ。焦ってるっていうか、何かに憑かれているっていうか」

「全然分かんなかった……」

 

「今朝、母さんから手紙が来たから明日帰りますって言ったでしょ。あの時が決定的だった。皆の顔にさぁっと、ヒトじゃないみたいな影が走ったんだ。『誰が手紙を渡したんだ!』って、稲妻(いなづま)みたいな怖い目を見交わして……すぐに張り付いた笑顔に戻ったけれど」

 

 フウヤは前を行く黒髪の背中を見つめて口を結んだ。まだ帰りたくないとムクれるばかりの自分の横で、ヤンはそんなに怖い思いをしていたのか。

 

「あの手紙は、放牧に出た時行商のヒトに行き会って、たまたま直接受け取れたんだ。あれ多分、初めての手紙じゃないと思う。行商さんはしょっちゅう来ていたみたいだし、僕だって手紙は書いていたんだよ。渡しておくって預かってくれたから、出したつもりでいたけれど」

「…………」

 

「そういうのとか分かって、ああこれはもう尋常じゃない、これ以上ここに居てもお互いロクな事にならないって確信した。それで夜にフウヤに言って逃げる算段をしたんだ」

 

「凄いね、ヤンは。僕は全然ダメ、何でもそのまま信じちゃってさ。早くヤンみたく賢くなりたい」

 

 フウヤのその言葉には応えないで、ヤンは黙々と馬を進めた。

 僕だって信じていたかったさ。せめて団子鼻のあのヒトだけは信じたかったんだ……

 

 

 

 坂が急になり、馬が息を付き始める頃、小さな尾根に出た。月明かりに三峰の頂が見える。

 

「フウヤ、ここで別れよう」

「えっ?」

「あのヒト達、普通じゃない、絶対に追って来るから。一緒に捕まったら元も子もない。別方向に逃げた方が、どちらかが逃げ切れる可能性が高い。イフルート族長に知らせさえすれば、片方が捕まっても助けに来て貰える」

 

「…………」

「僕は右の道、フウヤは左だ」

 

 泣き出しそうなフウヤだったが、ヤンの真剣な表情に、唇を結んで頷いた。

 右の方が開けた本道だから見つかりやすい。左は山の者しか知らない獣道。

 ヤンは僕を優先で逃がすつもりだ、僕を信用してくれている。

 だったら、絶対の絶対に、僕が三峰に辿り着かなくちゃいけない。

 

 

 

 

 

 



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白蓬・Ⅱ

 

 月明かりの草原。

 

 つい先程、ジュジュとシンリィが狼と格闘していた場所だ。

 乱暴に蹴散らかされた焚火の跡を調べていたナーガが、立ち上がった。

 

「こんな所で野営をしたら、狼が寄って来るに決まっているじゃないか。危なっかしいなあ、もぉ」

 

 深緑(しんりょく)の馬を引き寄せて、長い髪を振ってナーガは舞い上がる。

「まあジュジュとシンリィなら、狼くらいは、いなせるだろうけれど」

 

 手綱に結ばれた山吹色のスカーフがサワサワとそよいで、この先の地面に反応を示している。

 さっき出発直前に、駆け寄ったハウスの子供に渡された物だ。

 

「僕はジュジュ兄ちゃんの別指令。サォせんせが呼び出されたら、馬繋ぎ場で待っていて、出掛ける直前のナーガ様にこれを渡せって」

 

 スカーフは半分に裂かれていた。特徴のある山吹色は、ジュジュがいつも腕に巻いていた物だ。

 残りの半分は細く裂かれ、『道標(みちしるべ)の呪符』に結ばれて、これまでの道々に落としてあった。

 それのお蔭で、さして苦労せずにここまで追って来れたのだ。

 

 その呪符は、ナーガが作って執務室に常備していた物だ。

「今朝、手紙を置きに来た時に、ちょろまかして行ったんだろうな」

 そのヒトの身に付けている『大切な物』を一つ裂いて足跡を残して行く『道標の呪符』。普段ほとんど使われずに奥にしまわれていたので、ホルズも気付かなかったんだろう。

 

 はぁ・・と、ナーガは息を吐いた。

 確かに全方位捜すよりは飛躍的に楽ではある。一回シンリィ捜しでヘロヘロになった所を見せちゃったから、見付けて貰う為というより、僕を気遣っての事なんだろう。

 けれど……

 

「何でこの呪符がお蔵入りになっているのか、ちょっとは考えればいいのに。一見便利そうな術ほど、手痛いしっぺ返しがあるんだぞ」

 

 前方の山麓に松明を掲げた騎馬群が見える。殺気立っているのがここからでも分かる。

 それらは分散して山を駆け登って行く。

 

「嫌な感じだ。麓(ふもと)だけじゃなく山全体が……とにかく嫌な感じだ」

 

 

 

   ***

 

 獣道を登り切ってフウヤは、いつも狩りで来る見知った風景に出会えてホッとした。

 

 月の薄い光に、三峰集落の遠景が見える。あと一息だ。

 

「ヤン・・」

 逃げ切っていてくれればいいんだけれど。捕まって酷い目に遭わされていたら……

 フウヤは頭をブルンと振った。やる事はひとつだ、一刻も早く三峰の大人に知らせなきゃ。

 

 馬は粘っこい汗をかいて項垂れている。体温も上がって多分限界が近い。

「もうちょっと頑張れない? 駄目か……」

 フウヤは下馬して手綱を引いた。少し先に湧水がある。そこで休ませよう。

 馬が回復しないようだったら、そこからは自分の足で三峰まで走ろう。

 

 しかし馬に水を飲ませているうち、フウヤもへたり込んで立てなくなった。

 自分の体力の限界を推し量れていなかったのだ。

 

 

「わああ――っ!」

 

 ――バサバサバサ――ッ――

 

 頭上からいきなりの騒音。

 思わず頭を抱えたフウヤの目の前を、斜めに何かが降って来た。

 

「痛ってえ――・・」

 草をなぎ倒してひっくり返っているのは、目の覚めるような綺麗な髪色の少年。

 年はヤンと同じくらいだけれど、種族が明らかに違う。

 離れた所に大きな草の固まり・・? と思ったら、一回転して立ち上がると馬だった。

 

(草の馬……)

 

「・ったくもう、何でいきなり落っこちるんだ?」

 青い髪の少年は立ち上がってキョロキョロし、硬直しているフウヤと目が合った。

「驚かせてゴメン、ね、君、この辺の子? 小さい男の子見なかった? やせっぽちでボケッとした奴。はぐれちゃったんだ」

 

「知らない」

 フウヤは無愛想に答えた。

 このヒトは蒼の一族だ。ナーガさまに僕の居所を知られたら、また物凄い勢いで構いに来るに決まってる。押しかけて来られて、「この子を宜しく頼みます」なんて言われたら堪(たま)ったもんじゃない。

 ここは僕が自分の力で築いている僕だけの場所なんだ。

 

「そう、ね、ここは何ていう山?」

 少年は重ねて聞いて来た。

 

「…………」

「ねえ」

 

「……あそこの棚に集落があるでしょ、迷子を捜しているんならあそこで聞いたらいいと思うよ、貴方の馬ならひとっ飛びでしょ」

 子供の指さす向かいの山腹の集落に、少年は今気付いて、ああ、と頷いた。

 

「そうだね、ありがとう」

 少年は馬を引き寄せた。

 

「あの……」

「うん?」

「行ったらついでに、ここで僕が助けを呼んでるって伝えてくれると嬉しい」

「…………」

 

 一度馬に跨(またが)った少年は、鼻から息を吐いて降りて来て、フウヤの両脇に腕を回した。

「顔色が悪いからおかしいと思ってたんだ。助けて欲しい時は素直に助けて欲しいって言えよ」

「いや、助けて欲しくなんか……」

「俺が君を運んで行く方が早いだろ。君の馬もバテているみたいだから、ここで充分に休ませて、後で誰かに迎えに来させればいい」

 

 半ば強引に草の馬に乗せられ、フウヤは少年の馬で運ばれた。

 飛ぶのは何回目だって慣れないし嫌いだ。ヤンと変わってあげたい。

 

「俺、ジュジュっていうんだ、君の名前は?」

「僕は……カペラ……っていいます」

 

 

 

 

 



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白蓬・Ⅲ

「あっちに逃げたぞ!」

 

「そっちか!」

 

 昨日まで優しかった男達の怒号。

 灌木を踏みしだく蹄音。

 殺気が伝染した馬たちの荒々しいいななき。

 

 それらが通り過ぎて……

 

「もういいか」

 

 本道のすぐ脇、それこそ今彼らが通り過ぎて行った地面真下の崖の窪みに、ヤンは馬と共に身を潜めていた。

 逃げた者を探す視線は遠くに行きがちで、すぐ側に子供と馬が隠れていられるとは、ゆめゆめ思わなかったろう。

 

「お前もよく辛抱したな」

 

 鼻面を撫でてやると愛馬は得意そうに目を細めた。

 

 これだけこちら側に引き付けたら、フウヤは大丈夫だろう。あの道は五つ森では知られていない直登道(ちょくとうみち)だし、黒砂糖は登りが得意だ。多分逃げ切れている筈。

 

 そのまま道に上がらずに、ヤンは谷へ下った。三峰に背を向ける形になる。

 山を巻いて反対側から三峰に向かうルートで、丸一日かかってしまう遠回りだが、途中に九ノ沢(ここのさわ)という大きな集落がある。この辺りで一番勢力のある山岳部族だが、普段から三峰とは懇意にしてくれている。いざとなったらそこに逃げ込めると思ったのだ。

 

 沢を一つ横切って斜面を登り、小尾根に出ると、向こうの山肌で松明がうろうろしているのが見える。上手く離れられたようだ。

 この先は九ノ沢の縄張り。

 狩猟民族は猟場の線引きに厳しく、イフルート族長も常に気を配っていた。

 あのヒト達だって、武闘派と名高い九ノ沢の縄張りで、余計な騒ぎは起こしたくないだろう。

 

 用心深いヤンも、さすがに気が抜けた。

「お腹空いたな……」

 

 夕べの晩餐は豪華だったけれど、何が入っているか分からないので、お喋りに夢中な振りをしてほとんど手を付けなかった。

「鶏肉をバターで揚げたのなんて初めて見た。贅沢品なんだろうな。いい匂いだったなぁ」

 きっと元々はいいヒト達だった筈。なのに何でこんな事になっちゃったんだろう。

 

 フウヤには言えなかったけれど、あのヒト達の『おかしな執着』は、本当に危険だった。そうでなければ、イフルート族長の紹介だし、多少嫌な事があっても我慢するつもりだったのだ。

 

(子供が欲しいだけなら、幾らでも日陰のルートがあるじゃないか。僕でも知っている位なんだから)

 彼らは違う、子供が欲しい訳ではない。

 草の馬モドキの動物が閉じ込められた、窓のない馬房を思い出した。

 

 あのヒト達は『他人の羨ましい部分』が欲しいんだ。頼んで譲り受けるんじゃなく、奪って抱え込んで我が物にするという行為に、執着している。それで、偉くなった、強くなった気分になって、安心したいのだ。

 

 ヤンには分かる。三峰だって一時そうなりかけたんだ。

 ただその時、自分達には鷲羽のイフルートが帰って来てくれた。

 

『悪魔が通り過ぎた後が大切なのだ。自棄(やけ)を起こして我を忘れ、滅びに向かった部族をいくつも知っている。我らは誇りを失くさずしっかり生きよう。日々を真っ当に積み重ねれば、少しずつでも必ず立て直して行ける』

 そう言って皆を鼓舞し、先頭に立って昼夜惜しまず働いてくれた。そんな彼を三峰の民は信頼し、家系の途切れていた族長に推した。そうして愚痴を呑み込み励まし合って、ここ何年かでようよう立ち直ったのだ。外から見ると分からないのだろうが。

 

「自分達だけ痛かったと思うなよ・・僕が何人兄弟だったかも知らないくせに」

 

 道々採った木の実を馬と分け合いながら、ヤンは谷へ下って行った。

 フウヤは尾根に出た頃かな。

 あの子はこんな濁った怒りなど抱かず、澄んだ明るい笑顔でいて欲しい。

 

 

 ――チャプ――

 

 重みのある水音。

 ヤンは立ち止まった。この先の川に何かがいる。

 下馬して馬を待機させ、徒歩で身を潜めながら降りて行った。

 五つ森の騎馬だったら静かにUターンしよう。

 

 梢から延びる月明かりの下、浅い流れに脚を浸け、一頭の動物が佇んでいる。

 

(さっき逃がした妖獣!)

 

 暗い厩内では分からなかったが、こうしてよく見ると本当に奇妙な動物だ。

 ベースは馬なのだが、首と足が細く長く、枯れ草を丸めたような身体は、所々向こうが透けて見えている。

 長いタテガミと尻尾は、絡まってグシャグシャ。伏せた瞳は赤、身体色は……高山植物のような、白濁した銀鼠色(ぎんねずいろ)。

 知らないヒトが見たら、誰かがイタズラで置いた作り物かと思うだろう。

 

(あっ・・!)

 

 妖獣の前方から、ゆっくり近寄る影がある。

 子供だ。

 フウヤよりちょっと下くらいの、やせっぽちで裸足の男の子。

 水色の髪、はなだ色の瞳、背中に大きな緋い羽根。

 

(羽根があるって、もしかして蒼の一族の子?)

 

 獣は近寄る者に警戒して筋肉を縮めている。

 子供は獣の赤い瞳を見つめながら、ゆっくりゆっくり近付いて行く。

 

 ―― !! ――

 

 獣の筋肉が一気に緊張した。

 ヤンは考える前に身体が動いた。

 

 考えられない早さとしなやかさで、妖獣はその場で飛び上がって身体をひねり、子供に向かって両後肢を蹴り上げた。

 身体の柔らかさはやっぱり馬じゃない、どちらかというと豹(ひょう)か山猫。

 

 頭があった場所を後蹄が薙いだが、走って来たヤンに押し伏せられて子供は難を逃れた。

 それでも蹄先がかすめた前髪数本が、そこに舞っていた。

 

 着地した妖獣は、次の一歩で水を散らせて山側に登り、次の一歩で灌木の中へ消えた。

 

「大丈夫かっ」

 ヤンが身を起こして叫んだが、羽根の子供は仰向けに水に浸かったまま妖獣が駆け去った方向を見つめ、そして首を動かして、恨めしそうな表情を向けて来た。

 

「いや野生動物に安易に近付くなよ、頭吹っ飛んでたぞ」

 と言うヤンを通り越して、子供の恨めし気な視線は後ろの藪に注がれている。

 

 

   ***

 

「動くな!!」

 

 夜闇に冷徹に響く男の声。

 動物が駆け去ったのと反対方向の藪が揺れ、数人の足音がバラバラと降りて来た。

 しまった、追い付かれたか?

 

「あれ?」

 身構えて振り向いたヤンは、ホッと肩を降ろした。

「えっと、九ノ沢の方々ですよね、僕、ヤンです、三峰のヤン」

 そこには、よく見知った緑の狩猟装束の男達が、石弓をつがえて立っていた。

 

「三峰・・鷲羽のイフルートの所か」

 

「はい、事情があって迷い込んでしまいました、ごめんなさい。……あの、弓を下ろしてください?」

 

 名乗ったのに表情を柔らげず、むしろ弓を引き絞る男達に、ヤンは焦った。

 九ノ沢は五つ森と違って、たまに縁談を結んだりする、三峰とは親しい間柄な筈。

 

「ごまかすな、今、狩りをしようとしていただろう。我が縄張りで夜中にこっそりと。あちらの山が騒がしいから偵察に出てみたら案の定だ」

 男の声は、大人が子供のイタズラを叱る程度の物ではなく、心底の侮蔑が込められている。

「イフルートはこんな子供にまで悪事を働かせているのか。ガキだからって甘く見て貰えると思ったら大間違いだ」

 

 思いもしない言葉を投げ付けられ、ヤンは混乱した。

「ち、違います、本当に迷い込んだだけで……五つ森の集落から帰る途中で……」

 

「見え透いた言い訳をするな。五つ森から三峰に帰るのなら、こちらは反対方向だろうが」

 

 頭から喧嘩腰だ。全部話したって信じて貰えるかどうか。

 切羽詰まっている所へ、男達の後方から声がした。

 

「ちょっと待て、ヤンだって?」

 

 灌木をかき分けて出て来た男は、ヤンのよく知った人物だった。近所に住んでいる九ノ沢から嫁いだ女性の兄で、訪ねて来る度に菓子をくれたり、小さい頃は遊んで貰ったりもした。

「おう、久しぶりだな」

 

「おじさん・・」

 馴染みのある顔に出会えて、膝の力が抜けそうになった。

 やれ果物が採れたキノコが採れたと理由を付けてはしょっちゅう妹宅を訪れる、シスコン気味だけれど優しいヒトだ。

 

「この子の事は俺が保証する。嘘は付かない真っ直ぐな良い子だ。馬が好きと言っていたので、五つ森にいたと言うのも本当だろう。なあ、我らの事情は差し置き、子供は大切に扱おうではないか。山の恵みと同じく天からの授かりものなのだから」

 

 男性に弁護して貰い、ヤンはすっかり安心した。

「猟場破りなんかやる訳ないです。本当にそんな事やらかしたら、イフルート族長にめちゃめちゃ怒られます」

 

 男性が怪訝な表情になった。

「お前……ヤン、その五つ森に、どのくらい滞在していた?」

 

「一ヶ月くらいです」

「そんなに長くか、では知らないのだな」

「??」

 

「我が部族と三峰は、今、決裂しているんだ」

「ええっ!」

 

 ヤンの驚愕の声は、別の男の叫びでかき消された。

「羽根だ! その子供、羽根がある、蒼の一族の有翼人だ!」

 

 ヤンの隣で子供が立ち上がろうと身体を回し、水に浸かっていた羽根がザブッと跳ねあがった所だった。

 

「捕まえろ!」

「えっ、えっ?」

 

 正面の男性の優しかった顔が、さぁっと冷たくなった。

「そうか、三峰は蒼の一族と懇意にしていたのだな。だからいきなりあんなに強気になったのか」

 

「い、いいえっ、この子は今初めて偶然ここで出会ったんです。え、三峰は今どうなって……」

 

「そんな事は後だ!」

 言い終わる前に、後ろから来た男の太い腕に薙ぎ払われた。

 

「足を狙え! 羽根は傷付けるな、死なせなければ後はどうでもいい!」

 弓をつがえた男達が駆け降りて来る。本気だ。

 

「や、やめろ!」

 ヤンは先頭で弓を放とうとする男に体当たりした。足場が悪いので相手は簡単に転んだ。

 

「お前、逃げろ、早く!!」

 子供は後ずさろうともがくが、水を含んだ羽根に邪魔されてジタバタしている。

 

 駆け寄ろうとしたヤンは、今転ばせた男に首を掴まれ、水中に沈められた。

 一切手加減のない大人の力。

 

 ――ゴボガボゴボ・・ 

 鼻と耳から凄い勢いで水が入って来る。

 どうしたって抵抗出来ない。力が違い過ぎる。

 ダメだ、頭の芯が熱い、意識が・・

 

 不意に男の手が離れた。いきなり自由になった勢いで、ヤンはひっくり返った。

 頭が水から出ると、周囲の喧騒が一気に入って来た。

 

「うわあっ」という男の悲鳴、灌木の折れる音、土を引っ掻くけたたましい足音。

 

 びっくりした。目の前でさっきの妖獣が暴れている。

 

 

 

 

 

 

 




挿し絵 ~月光の下で~

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白蓬・Ⅳ

「何なんだ、この獣は!」

 

 九ノ沢のヒト達も知らない生き物らしい。

 銀鼠(ぎんねず)のタテガミを逆立て歯を噛み鳴らして、妖獣は男達を威嚇する。

 さっきの木漏れ月の下の静かな雰囲気とは大違いだ。

 

 飛び道具はまったく当たらない。獣が早すぎる。早くて鋭い。

 正面の者は鞭のような首で薙ぎ払われ、逃げる者は噛みつかれ。

 後ろに回ると大鉈(なた)のような蹴りが飛んで来る。

 武闘派で名高い九ノ沢の男達が、二歳馬ほどの大きさの獣に、すっかり翻弄されていた。

 

 気が付くと、咳き込んで水を吐いている自分の背中を、羽根の子供が一生懸命さすってくれている。

 バサバサで毛羽立った羽根は、あの見事な翡翠色の羽根とはずいぶん違う。

 

「大丈夫だよ。ほら、今の内に行こう」

 ヤンは子供の手を引いて、川の反対側に走った。

 

「こっちに来てくれるなよ・・って、うわあっ」

 ヤンの願い虚しく、妖獣は逃げる者に反応してか、水しぶきを上げながら追って来た。

(ヤバい!)

 

 しかし獣は止まった。ヤンの後ろを凝視している。

 振り向くと、上で待たせていた四白流星が勝手に下りて来て、ヤンの後ろから妖獣を睨んでいた。睨んでいるといっても、元が優し気な馬なので、全然迫力が無い。

「お前、やめてくれ、勝てる訳ないだろ」

 

 ところが妖獣はクルリと踵を返し、後ろの男達に再び向かって行ってくれた。

 た、助かった・・ 

 

「急げ、乗って!」

 慌てて子供を馬上に押し上げ、自分も飛び乗って、馬を発進させる。

 体力を温存していた馬は、二人乗りでも力強く斜面を駆け上がってくれた。

 

 

 ほどなくさっき越えて来た小尾根に辿り着いた。

 振り向くと、川を挟んだ反対側の斜面を、グシャグシャなタテガミが駆け去って行くのが見えた。

「とんでもなく凶暴じゃないか。五つ森で逃がした時、襲われなくてよかった」

 

 追っ手の気配は無い。こちらを追うどころじゃなくなっているのだろう。

「おじさん、大丈夫だったかなあ」

 かといって、戻る訳にも行かないんだけれど。

 

 この尾根は、九ノ沢と五つ森の猟場の境界線になっている。

 どちらにも下りたくないので、このまま登って行く事にした。

 道なき道だが、時間をかければ三峰の猟場に出る事は可能だ。

 

 ヤンは下馬して馬を引いた。羽根の子供も下りようとしたが、手で制止した。

 さっきの水場の様子から、この子に自分達と同じペースで歩かせるのは無理だと思った。

 

 少し歩いて落ち着くと、馬が後ろから鼻を付けて甘えて来る。

「お前さあ、無茶すんなよ。あんなのに向かって行ったら命が幾つあっても足りないぞ。まあ、でも、ありがとな」

 馬はフルルと頷いた。

 

 馬上の子供はというと、向こうの山の、妖獣が去った方向を見つめている。

 よっぽどあいつが気になるんだな。

 

「あのね、興味を持ったからって、野生の獣に安易に近寄っちゃダメだよ」

 子供はヤンに向き直った。

 

「どうしても近寄らなきゃならない時は、さっきみたいに目を見ちゃダメだ」

 子供は驚いた表情で目を丸くした。

 この子、喋らないけれど、会話は成立するんだな。

 

「自分は無害だって知らせたいなら、視線は相手の目よりちょっと下な。『挑む』んじゃなくて『伺う』って感じ、分かる?」

 尾根筋を歩きながら、ヤンは子供に講釈した。

 返事はないが、この子が真剣に耳を傾けているのは分かる。

 

「あと、真正面もダメ。あいつら僕らと見え方が違うから、真正面はめっちゃ圧迫感があるんだって。勿論真後ろはもっとダメ。正解は斜め前。出来れば利き足側の。あ、利き足の見分け方は、こう、駆け足した時に前脚が先に来る方……さっきの妖獣は左だな。あとは……」

 

 ヤンは苦笑いした。この子は蒼の妖精じゃないか。

 草の馬を駆る一族に向かって、何を偉そうに言っているんだ、僕は。

 

 

   ***

 

 前の灌木が揺れた。

 思わず馬を引き寄せて身構える。

 

「俺だ、一人だから安心してくれ」

 ガサガサと出て来たのは、さっきの、九ノ沢の顔見知りの男性だった。

「どさくさに紛れて抜けて来た。本当に一人だから」

 

「…………」

「思い直したのだ。お前は嘘なんか言う子じゃなかった。その羽根の子には偶然会ったんだよな、決めつけて済まなかった。怖かったろう、ケガはなかったか?」

 男性はヤンの見知った人情味のある顔に戻っている。

 

 ヤンは肩を降ろして聞いた。

「おじさんこそ大丈夫? 他のヒト達は無事? 随分凶暴な動物だったけれど」

 

 男性は頓狂な顔をした。

「あれは、お前のペットだろう?」

 

「ええっ? 違いますよ!」

「だって、お前を水に沈めていた奴に真っ先に突進して行ったのだぞ。それに俺は襲われなかった」

「何で……」

 

「そいつを止めようとしていたからじゃないか? あの獣、お前を守ろうと奮闘しているようにしか見えなかったぞ。お前が逃げるとすぐ俺らから離れて行ったし。本当にお前のペットではないのか?」

 

「いやいや違いますって…………あっ」

 思い当たった。

「あの動物、五つ森で草の馬と間違えられて閉じ込められていたんですよ。僕が扉を開いて逃がしてやったから……まさかのまさかで、その恩返しに来たとか?」

 

「本当か、はあ、そんな事もあるのだなあ」

 男性は素直に納得した。

「ああ、皆もれなく被害を受けたが、大きな怪我をした者はいなかった。お前はあまり気にしなくていい」

 

 ヤンは肩を降ろした。もうこの優しいおじさんと普通に付き合えなくなるかと心が痛んでいたから、そうならなくてよかったと、心底ホッとした。

 

「なあ、その羽根の子供はどうするつもりだ?」

 

「三峰に連れて帰ります。イフルート族長なら人脈も広いから、この子の帰る場所が分かるかもだし。何より、ここに置き去りにする訳にも行きませんから」

 

「そうか……」

 男性は眉を寄せて、少し迷った末、口を開いた。

「やめた方がいいと思うぞ」

 

 目を見開くヤンが聞き返す前に、男性は言葉を継いだ。

「信じられないかもしれないが…… 我らの間でここ一か月、『蒼の一族の羽根が羨ましい、妬ましい』って風潮が広がったのは、三峰からだぞ。嘘じゃない、俺が実際に聞いたのだから。イフルートが、『奴らは神に依怙贔屓(えこひいき)されている』と、不満をぶちまけていたのを」

 

「まさか……」

 

「『護りの羽根』なんだってな、あれ。災厄の時に来た羽根持ちの蒼の妖精に聞いたんだと。この羽根は悪魔の病をも跳ね返すって。俺らが聞いても、はぁ凄いな、ぐらいにしか思わないが、あいつのようなインテリだと受け取り方が違うのだろうな。お蔭でうちの族長にまで伝染しちまって」

 

「…………」

 その話はイフルート族長に聞いた事はある。だけれど只の雑談で、妬んでいるようには感じなかった。

 

「とにかく今のイフルートは、お前の知っているイフルートとは違うぞ。元々うちは、……その、言っちゃなんだが、三峰を侮って、越境して猟をしちまうような連中がいたんだ。族長が黙認していたのもいけなかったと思う。だが、ある時いきなり、三峰がやり返して来たんだ。大挙してこちらに踏み込んで、獲物を根こそぎ狩って行った」

 

「ええっ、そんな、嘘でしょ」

 そちらの方が信じられない、とても信じられない。

 

「俺も嘘だと思いたかったわ。うちの族長も……ああ、あのヒトも今どこかおかしいんだ、変な激を飛ばしちまってな。お蔭で山全体が好戦的でピリピリしちまってる。……どっちが上とか、どうでもいいのになぁ、今まで平和に付き合って来たのに」

 男性は心底残念そうだ。嘘を付いているようには見えない。

 

「なあヤン、俺の妹がもしあちらで迫害を受けていたら、構わないから帰っておいでと、伝えて貰えぬだろうか」

 

「それは……」

 ヤンは答えあぐねた。このヒトの妹の家は、子供はいないけれど周囲も羨むオシドリ夫婦だ。

 

 それ以前に、今言われた事すべてが信じられない。

 でも、もし、本当だったら……自分の知らない所で思いもよらない事態が起こっているのだとしたら……

 

 ザワザワと胸騒ぎがする。

 

「フウヤ・・!!」

 

 

 

 

 



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白蓬・Ⅴ

「わぁあ――っ!」

 

 悲鳴とともにフウヤは、地面に投げ出されて転がった。

 青い髪の少年と草の馬も、離れた所に砂煙をあげて引っくり返っている。

 

「だから空を飛ぶのは嫌なんだ!」

 ふて腐れながらフウヤは起き上る。

 初対面のジュジュという少年に三峰に送られる途中、風もないのにいきなり馬が傾(かし)いで、キリモミしながら墜落したのだ。

 

 そういえば、さっきも目の前で斜めに落っこちて来たんだった。

 このヒト、もしかしなくても……

「飛ぶの下手?」

 

 悪態付いたが、少年は動かない。馬は首を上げたが、立ち上がれないでいる。

「ええっ ちょっと、冗談でしょ」

 蒼の一族が空から落っこちて動けなくなるなんて?

 

 

「フウヤ!」

 

 声に振り向くと、鷲羽のイフルートをはじめその取り巻きたちが突っ立って、茫然とこちらを見ている。

 見回すと、そこは馴染みのある筈の三峰集落の広場だった。馴染みがある筈なのに、すぐに分からなかった。だって、あまりにも様相が違っていたから。

 

「フウヤ、一体どうしたのだ。ヤンはどうした? その少年は?」

 

「え、えっと・・」

 とにもかくにもフウヤは、五つ森であった事、ヤンが捕まったかもしれない事、この少年と出逢った経緯等を、最短で話した。

 

 話しながらも、広場に吊るされた沢山の獣の遺骸と血の匂いに、意識が遠くなりそうだった。

 ひと群れ分の鹿、イタチ、狐、普段は見逃す子供の兎まで。

 いつもは獲物は持ち帰ってすぐ感謝の祈り共に解体し、骨の一片まで綺麗に消費する。こんな風景は見た事がない。いったい何がどうしちゃったの。

 

「ねえ、何でこんなに獲物を獲って放ったらかしなの?」

 フウヤは思った事を素直に聞いた。

 

「裕福になる為だ」

 族長は少し眉を動かしたが、怒った態度は見せず、噛んで含めるようにゆっくりと答えた。

「肝や皮などの高額で売れる所を優先的に取って、後は必要に応じて解体する。傷んだら廃棄して、また新たに獲れば、高価な部位が手に入る。裕福になる為にはその方が効率が良い」

 

 フウヤの聞きたい事とはズレている。何だかいつものイフルートと違う。

 

「でも、族長さんがいつも僕に言っていたじゃない。調子に乗って獲り過ぎたら三峰の山から獣がいなくなっちゃうぞって」

 

「奪えばいい」

 側近の男が横から口を挟んだ。

 

「うばう・・?」

 

 他の男も口々に言う。

「猟場は奪えばいい。『取り尽くしても、足りなくなったら奪えばいい』、こんな簡単な事、何で今まで思い至らなかったんだ」

「我々には奪う力がある。奴らに数では負けるが、一人一人の能力では上回っている」

 

「え、・・ええ・・?」

 

 イフルートは硬直しているフウヤから視線を外して、てきぱきと指示を出し始めた。

「ヤンを取り戻しに行かねば。人数を集めろ。装備は怠るな」

 側近の一人が、は、と返事をして夜闇に走って行った。

 

「そちらの少年はどうだ?」

 

 ジュジュの側に屈んでいた男性が、彼のあちこちを探りながら答えた。

「頭は打っていないようですが。目を回したのかな、蒼の一族だろうに。息は安定しているし、すぐに意識を戻すと思いますよ。後はすり傷程度です」

 

「そうか、運んで寝かせて置いてやれ。ああ、鍵のかかる所だぞ。馬は家畜小屋の一番奥に……」

 

「あ、あの……そのヒト、誰かとはぐれたって……」

 フウヤの言い掛けた言葉は、激しく叫ぶ女性の声に遮られた。

 

「フウヤ! フウヤ! 帰ったのね、よかった! 全然手紙に返事をくれないんだもの。ヤンは? 一緒ではないの?」

 ヤンの母親だ。でも何だか、このヒトも、感じが……違う?

 

「ヤンとは別々に帰途に着いたそうだ。大丈夫だマァサ。なに、たとえ一戦交える事になっても、必ず取り戻して来る。任せろ。我らの財に手出しする者は容赦せぬ」

 

「財……」

 イフルートの物言いに頭が追い付かないフウヤだが、ヤンの母親に抱えられて無理矢理歩かされた。

 青い髪の少年は担がれて運ばれ、草の馬はそれとは反対方向に引かれて行くのが見えた。

 

 

「ヤンと一緒じゃなくてごめんなさい」

 家路を辿りながらフウヤは謝った。

「いいのよ、族長様が迎えに行ってくれるんだから、大丈夫。そう、きっと朝には元気で帰って来るわ。とにかく貴方が無事でよかった」

 

 自宅に戻るとヤンの母親は、先にフウヤを押し込んで、後ろ手で掛け金をガチャリと閉めた。

「そんなの……あったっけ?」

「付けたのよ、鍵をかけないと盗られるから、守らなきゃ」

「盗るヒトなんていないでしょ?」

「いるわよ」

 

 ヤンの母親は頑なに言って、フウヤに近寄った。

「とにかく、貴方はうちの子なの。今更欲しがるヒトがいたって、うちが最初に取ったんだから」

「……??」

 

 カンテラの灯りに照らされて、違和感の正体が分かった。

 彼女はありったけの装飾品を身に付けている。普段は質素で身綺麗なヒトだったのに、今はゴテゴテと着飾って、逆にだらしない。

 

 分厚く紅を塗った唇から流れる言葉は、耳を疑う物だった。

「ああ私は運がいい、神様はちゃんと見ていてくれた。一生懸命ガマンしていたら、ティコやビィの代わりを寄越してくれたもの。私は頑張った、可哀そうだった、だからご褒美なの、そうでしょう、私の坊や」

「・・!!」

 

 フウヤは身をかわし、後退りで鍵を開けて外に飛び出した。

「何処へ行くの、他所のヒトとお話してはダメよ!」

 甘ったるい声を振り切り、闇雲に走った。

 

 顔見知りの男性に正面からぶつかった。

「ご、ごめんなさ……」

「おおフウヤか、物は相談だが、うちの子にならないか? うちに来たら跡取りだ、好きな物を好きなだけ与えてやる」

「い、いらない」

 

 横にすり抜けて逃げたが、しつこく追って来る。

「マァサの所は一人生き残ったじゃないか」

「不公平だ、子供を失った家に配するべきじゃないのか」

「あの子みたいな狩りの名手は、猟師の居ない家に寄越すべきだ」

 

 いつの間にか追い掛ける人数が増え、人数分の理屈を振りかざしながら迫って来る。

 何でこんな夜中に、地霊みたいに皆出歩いているんだよ!

 

「もうやだ! いつもの三峰に戻してぇ!」

 

 

   ***

 

 角を曲がった所で、足元に糸玉が転がって来た。

 糸の伸びている窓から、三つ編みの婦人が手招きしている。

 迷っている余裕はなく、フウヤは窓枠に手を掛けて飛び込んだ。

 婦人が窓を閉めると、直後に大勢のけたたましい足音が外を駆け抜けて行った。

 

「もう大丈夫ですよ」

 

 女性の声で、フウヤはベッドの下から這い出した。

「……ありがとう」

 このヒトは大丈夫だろうか?

 

「どういたしまして。えと、貴方はマァサの所に居候している子供ね。フウヤ、でしたっけ? いつかは参(しん)を有り難うね」

 女性はカンテラの灯りを絞りながら、明朗に喋った。

 よかった、今日は頭がちゃんとしているみたいだ。

 

「何かイタズラでもしたの? あんなに大勢のヒトに追い掛けられて」

 

「何もしていないんだけれど。あ、そうだ、おばさん、今の三峰の皆って変だと思う?」

 

「う~~ん?」

 女性はこめかみに指を当てて小首を傾げた。

「別にこれといって…… ああ、ここ最近、皆さん、素直になったと思うわ」

 

「す、素直?」

 

「そう。欲しい物は欲しい、やりたい事はやりたい、嫌いな物は嫌い、悲しい事は悲しい。そういうのを我慢せずに素直に言ったりやったりするようになったわね」

「…………」

「もっと早くにそうすればよかったのに、ねぇ」

 

「それって、何か切っ掛けとかあったの? 悪い奴が魔法をかけに来たとか」

 

 フウヤの質問に、女性はクスリと笑った。

「悪い奴の魔法? 凄い事考え付くのね。う~ん、違うと思うわ。だって元々皆の心にあった事だもの。最初からあった心が表に出ただけで悪い魔法っていうのなら、そのヒトは元々悪いヒトだったのかしら」

「…………」

 

「そうそう、丁度よかった、肩幅を合わさせてちょうだい」

 女性はベッド脇のカゴから編みかけのセーターを取り出した。

 

「え……それ、カペラのじゃなかった?」

 フウヤはマジマジと女性の顔を見た。

「ええ、カペラのよ」

「………」

「だってフウヤはカペラだもの」

 

 フウヤはがっくりと肩を落とした。このヒトに何を期待したのだろう。

「僕、カペラじゃない。ヤンのお母さんは、僕をティコやビィの代わりだって言うし、皆は僕を物みたいに公平に分配するって言うし。でも僕はフウヤなの、フウヤでしかないの」

 いつもは受け流す所を、イラついて反発が口を付いて出た。

 

「そうね、貴方はフウヤだわ」

 女性は俯いてセーターを見つめた。

 

「でも、私の心の中だけでは、カペラが私を慰める為に貴方にイタズラを働いて、三峰に来るよう仕向けたと思っていたいの。マァサにとってはティコやビィなの。そう思うだけでどれだけ心が救われるか。

 あのね、フウヤ、マァサも皆もずっとそういう風に思っていたの。面と向かって言わなかったのは、貴方を傷付けたくなかったから。でも私は、貴方が与えられるばかりの幼い子供ではない事を知っているわ」

 

「………」

 

「だからね、フウヤ、貴方、マァサを許してあげてね」

 

「………」

 

「村の皆も許してあげてね」

 

 

 

 集落の広場に、白い子供が立った。

 周囲を囲んでゴチャゴチャ言って来る者を無視して、出立の指示を出しているイフルートの所に、真っ直ぐに歩いて行く。

 

「おお、どうしたフウヤ。ヤンが心配か? 大丈夫だ、必ず取り戻して来る」

 

 それには答えないで、フウヤは彼の真ん前に立った。

「ね、イフルート族長、三峰が裕福になるのが、貴方の望みなの?」

 

 族長は顎に手を当てて少し考える素振りをした。

「裕福だけでは駄目だな。俺は安心が欲しい」

 

「安心?」

「そう、三峰が蒼の一族のように強く揺るぎのない部族になれば、俺は安心して旅に出られる」

 

「旅に、出たいの?」

 

「そうだ・・俺は、いつだって旅に出たかった、旅に、出た かっ た」

 つい出てしまった言葉を、イフルートは噛み締めるように繰り返した。

 

「一度しかない人生だ、このまま二度と旅にも出られず終わるかと、ふと夜に目覚めたりするんだ。若いお前たちが羨ましかった。だが俺は三峰を愛している。この集落が寄る辺ない今の状態でいる限り、俺はここを離れる訳には行かぬ」

 

 それは、たった数ヶ月しかここで暮らしていないフウヤにも分かった。

 この集落はそんなに順調ではない。小さな困窮は度々起こっている。その度に、鷲羽のイフルートが皆を励まし鼓舞し、皆がそれに応える形で乗り切って来た。

 彼がいないと駄目なのだ。

 

「そう、それが、素直になった貴方の望みなんだね……」

 

 瞳を伏せて呟いた後、白い子供はキッと顔を上げた。

「僕は、三峰が好きだ」

 

「ん?」

 

「ヤンも、ヤンのお母さんも、イフルート族長も、この村の皆が好きだ。だから、皆の役に立って、ここに骨を埋(うず)めたい」

 

「それは正式に三峰の民になるという事か?」

 族長がフウヤの澄んだ目を見つめながら聞いた。

 

「うん・・」

 水の底にいるみたいなシンとした声だった。

 

 

 

 

 

 



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白蓬・Ⅵ

 うう・・気持ち悪い・・・

 ジュジュは悪寒と共に目を覚ました。

 どうしたんだっけ。向かいの山の集落に一飛びした時、急に視界が歪んだんだ。

 

(ああ、一緒にいた白い頭の子供、どうなったんだ?)

 辺りは薄暗い。室内か? まだ夜なのか?

 身を起こそうとしてびっくりした。後ろ手に縛られている。足もだ。

「えええええっ!」

 

 落ち着け落ち着け落ち着け。

 里からあれだけ離れたんだ。蒼の長の威厳が通用しない地域の可能性も十分有り得る。

 空から降って来たらそりゃ怪しまれるよな。

 大丈夫、話をすればきっと分かってくれる。さっきの子供だって会話は通じたし……

 

(え? もしかして、あの子供が落ちた時にどうにかなっちゃったとか?)

 背筋が冷たくなった。

 

 細い光が射した。

「お、坊主、起きたか」

 光は男が持ったカンテラで、彼の後ろに見える暗がりから察するに、まだ夜らしい。

 

「あ、あの・・!」

 ジュジュが何か言う前に男は背後に回った。縄を解いてくれるのか?

「痛っ・・つつ!」

 

「男の子だろ、ちょっと我慢しな」

 肘のすり傷の手当てをしてくれているみたいだ。ツンとする薬の匂い。

「膿まずに済みそうだな。他に痛い所は? 頭はどうだ、はっきりしてるか?」

「はい……」

「待ってろ、何か食べ物を持って来てやる」

 

「あ、あの、子供は無事でしたか、白い頭の子供」

「心配するな、ピンピンしている」

 よかった……  

 

「じゃ、あの子に聞いてくれたら分かると思うんですけど。俺、迷子を捜しているだけで、怪しい者じゃないです、縄を解いて下さい」

 

 一度出て行きかけた男は、気の毒そうな顔で戻って来た。

「悪いな、出来ないんだわ、族長の命令だから諦めてくんな。痛かったら緩めてやるから言え。でも抜け出そうとしてくれるなよ、俺が罰を受ける」

「…………」

 気のいい男のようだが、上の者でないと話が付けられないみたいだ。

 

「これから族長や主だった者が出掛けるから、帰って来るまで我慢しろ。迷子も見付けたら連れ帰ってくれるってさ。やせっぽちでボケッとした男の子……だっけ」

 

 あの子供、ちゃんと伝えてくれたみたいだ。その点は良かった。

「あ、あと、羽根があります。背中に緋いバサバサの羽根」

 

 男の顔色が変わった。

「羽根? 羽根って言ったか? 蒼の一族の、羽根持ちの子供?」

 

「はい? でも、あんまり役に立たない、でかいだけの羽根ですよ?」

 

 ジュジュが話し終わる前に、男はバタバタと出て行った。

 

「だから、いったい何なんだよ。食べ物……持って来て貰えそうにないな……」

 本当によく分からないけれど、厄介なヒト達の住む山に降りてしまったようだ。

 

 まったくシンリィ、なんだってこんな山の上空で、いきなり飛び降りたりするんだよ。

 

 

 

 ガチャリと音がして、さっきの男性が戻って来たのかと思ったら、覗いたのは白い頭の子供だった。

「えっと、カペラ?」

「うん、ごめんなさいジュジュ、こんな事になって」

 

 子供は足早に近寄って、縛られた縄を切ってくれた。

 持って来てくれたパンをかじり、足のいましめを自分で外している間に、子供は奪われていた腰ベルトとナイフも捜し出してくれた。

 

「草の馬は桑畑の方の馬房。さっき確認して来た。でも今はゴタゴタしてるから、もうちょっと待った方がいいと思う。案内するから」

「ありがとう。本当に助かるんだけれど、カペラ、大丈夫なの? 罰とか受けるんじゃないか?」

 

 暗がりだが子供が微笑んだのが分かった。

「いいヒトだね、貴方」

 

 外の物音が遠ざかって静まってから、子供の導きで、ジュジュはそこを抜け出した。

 閉じ込められていたのは石で作られた頑丈そうな倉庫だった。

 結構ガッチリ監禁するつもりだったんだな。

「なあ、何で俺、拉致られたの? 蒼の一族が何か恨まれるような事をやったのか?」

 

「恨まれてはいないと思うよ。皆に聞き回って、だいたい把握出来たんだけれど」

 物陰に隠れながら前を行く子供が、小声でささやいた。

「草の馬が欲しいみたい」

 

「ええっ!」

「声が大きいよ」

 

 ジュジュは慌てて口を押えた。

「いや、確かに、よく知らないで、ただの空飛ぶ馬だと思って欲しがるヒトが多いって話は聞くよ。でも、草の馬ってのは……」

 

「蒼の一族と共に在り、蒼の一族と共に生きる。一人が一生に一頭だけを与えられ、飛行術がないと飛べないし、扱いには厳しい掟がある……でしょ」

 子供はシレッと答えた。

 

「わ、分かってるじゃないか。馬だけ手に入れても意味がないぞ」

 

「僕は、たまたま教えてくれるヒトがいたから知っているだけで、この辺りのほとんどのヒトは知らないんじゃないかな。それに、この集落のヒト達は、多分、空を飛ぶ事には興味がないと思う」

 

「じゃあ何で欲しがるんだ?」

 

「ただ、欲しいから」

 

「ええ・・」

 ジュジュは脱力した。子供かよっ!

 

 

 人家がまばらになり、桑畑のシルエットに家畜小屋の三角屋根が突き出ている。

 そこに草の馬が入れられているらしいが、入り口に寝ずの番が居る。

 

「ここで待ってて」

 子供が立ち上がった。

「おじさん!」

 

 遠目に、子供が番人に何かの瓶を渡すのが分かった。

 男は上機嫌でそれをラッパ飲みしている。おいおい……

 

「少し待ってね。あのおじさん、飲むとすぐ寝ちゃうから」

 戻って来た子供はシレッと言って、隣にしゃがんだ。

 

「本当にいいのか? 君、部族のヒト達をめっちゃ裏切ってない? いや、俺が言うのもなんだけどね。俺、ほんのちょっと前に君に会ったばかりの、ほぼほぼ初対面だぞ」

「あはは」

 子供は軽く笑った。さっきからこの子供は、喋っている言葉が何だか上滑りしている。

 

「なあ、さっき手当てをしてくれたおじさん、『羽根』って言葉に反応してたけど。もしかして草の馬と一緒な感覚で、『羽根』も欲しいの?」

「そうだね」

「いや草の馬は分かるけど、羽根ってどうなの? そんなに欲しがる要素ある?」

 

「どうだろ。さっき聞き回った時に誰かが言ってた。黒い病で地獄だった時、空から来た羽根のヒトの無敵感がハンパなかったって。あれは神様の依怙贔屓(えこひいき)だって。その羽根が常時部族にあればなあって思っちゃう気持ちは、何となく分かる」

「…………」

 

「だからって『有翼人を誘拐してでも囲い込んで、部族にその血脈を流し入れる』って発想になるのは、ビックリした」

「え”・・??」

 

「ねえ、僕、よく世間知らずって言われるんだけれど、それにビックリしちゃうのも、やっぱり世間知らずだからかなあ?」

 

 

 見張りの男性が眠かけ漕ぎ出した。

 二人はそろりと動き、小屋の壁沿いに奥に回った。

 碧緑(へきりょく)の馬は臨時に仕切られた馬房で大人しくしていたが、ジュジュを見ると嬉しそうに鼻を鳴らした。

 

「馬具はそっちの棚。僕が鞍置くから、頭絡やっちゃって」

「分かった、ありがとう」

 

「今度は落っこちないでね」

「ああ……」

 ハミを掛けていたジュジュは手が止まった。

「何で落っこちたのか分からないんだ。初めてなんだよ、あんな事。飛んでいる最中、急にクラッと来て。体調は悪くないと思うんだけどなあ」

 

 子供も手が止まったが、すぐ動き出して、腹帯を締めながら言った。

「『術切れ』って事は? 飛行術も、術の一種なんでしょ」

 

「術? 俺は術なんか……・・あ・・」

 『道標の呪符』、あれって細工して落とす時、術を使った事になるのかな。そういえばナーガ様オリジナルの呪符なんだよな。

 うわっ、もしかして、気付かない内に術力をゴッソリ持って行っちまうような術だったんじゃないか? あのヒト、基本術力(ベース)の桁が違うし。そもそも俺って、術力あんまり高くないんだよな……

 

「大きい力を使う術、例えば誰かを捜す術とか、そういうのを使い過ぎたら、しばらく飛行術すら使えなくなる、最悪倒れちゃって回復するまで目を覚まさない。……知っているヒトが、そうなっちゃったコトある」

 

「へぇ……」

 ジュジュは訥々(とつとつ)と喋る子供の後ろ姿に聞いた。

「ずいぶん詳しいんだな。誰、その、知っているヒトって?」

 

 子供は振り向かないで、ピシャリと言った。

「大嫌いなヒト」

 

 

 馬を引き出した所で、居住区の方が騒がしくなった。

 ジュジュが逃げたのがバレたんだろう。

 

「朝までは大丈夫だと思ってたんだけどな」

 子供はそちらを向いたまま言った。

「最後にひとつお願いがあるの」

 

「ん、何でも言ってくれ、俺に出来る事か?」

 ジュジュは鞍を掴んで馬に上がりながら聞いた。

 

「ちょっとそこまで、乗せて行って貰えない?」

 

「あ? ああ、構わないぞ。少し眠ったから、多分もう落っこちないだろ。ほら、手を出して」

 何だ、この子もここを抜け出したかったのか。待遇悪いのかな、早く言ってくれればいいのに。

 白い子供の手を取って引っ張り上げた。

 

 二人を乗せて、馬はフワリと舞い上がる。

 

 居住区からこちらに向かって来る松明やカンテラの灯りが見える。男達が出掛けているので、女性と年寄りばかりだ。

 子供は遠ざかるその灯りをじっと見つめていた。

 

「ヤン、僕は君みたいに賢くないから……×××××……」

 

 呟いた声が小さ過ぎて、ジュジュには聞こえなかった。

 

 

 

 

 

 



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白蓬・Ⅶ

「それなら尚更、急いで三峰に戻らなきゃ!」

 

 麓の谷の小尾根。

 ヤンは正面の男性にキッパリ言った。

「僕の相棒が先に三峰に向かったんだ。僕が五つ森に拉致されそうって助けを求めている筈だから、おじさんが言ったようにイフルート族長がおかしくなっているんなら、どうなっちゃうか分からない」

 

「そりゃ確かに、即座に殴り込みに行きかねんな。三峰からだと下りだから早いし」

 九ノ沢の男性は、顎を押さえて表情を曇らせた。

「いや、それはまずいぞ」

 

「どうしたんです」

 

「三峰との境界に斥候を立たせているんだ。奴らがこんな夜更けに山を下り出したら、九ノ沢にも即座に知らせが行って、応戦に出るぞ」

 

「ええっ」

 

「族長の所に説明をしに行かねば」

 男性が動きかけた時……

 

 

「こんな所にいやがった!」

 いきなり別の男の怒号と、まばゆい松明。

 

 五人ばかりの九ノ沢の男が藪を飛び越え、武器を向けて囲んで来た。

「おお、お前、よくやったな。羽根の子供もいるじゃないか、でかした!」

 

 男性は狼狽した。

「い、いや、俺は本当に一人でこっそり来たんだ、信じてくれ」

 

「信じますよ……」

 ヤンはうんざりと言った。どっちにしたってこの状況は変わらない。

 

 だけど、こちらには切り札がある。ヤンは子供と馬を後ろ手で庇いながら、男達を観察した。

 五人の内四人は、頭や手足に布を巻いている。さっき妖獣に襲われた面々だ。

 

「行かせて下さい。邪魔したら、あの妖獣を呼び寄せます」

 指で輪っかを作って口にくわえる。案の定、男達はビビってくれた。

 

 ヤンは指笛を構えながら、男達の間を割って前進した。距離を取ってから乗馬して、どちらかの谷に駆け下りて姿をくらまそう。

 知り合いのおじさんは困惑した表情でこちらを見ているが、とりあえず口出しせずに黙ってくれている。

 

 しかし怪我をしていない一人が、ズカズカと迫って腕を掴んだ。

「獣一匹に何をビビッているんだ。お前ら九ノ沢の戦士だろうが。こんなガキ、とっととフン縛って簀巻きにしちまえばいいんだよ」

 

「お、おい……」

 他の四人は及び腰だ。

 普段、熊だのウルバリンだのも相手にしている九ノ沢の猟民だが、あんな、何を考えているか分からない、まったく動きの読めない不自然な獣に遭遇したのは、初めてだったのだ。

 彼らの経験から来る本能が、あれは関わってはならぬ物だと告げていた。

 

 

 ――ふすっ――

 

 気の抜けた音。

 腕を掴んだ男とヤンは、思わずそちらを見上げた。

 羽根の子供が馬上で、ヤンの真似をして指をくわえている。

 

 ――ふすっ ふすっ――

 子供は真剣だ。

 

「あのさ、指笛ってそんなに簡単に鳴らせるモンじゃないぞ」

 ヤンの呆れた声に、その場の空気が少し緩んだ。

 

「有翼人ったって子供だな」

 腕を掴んでいる男まで苦笑いをしている。

 

 ・・と、ガフッと、動物の威嚇する声。

 その場の全員が硬直した。

 

 が、声の出所はヤンの馬だった。鼻を広げてグフグフと荒い息をしている。

「驚かすなよ、坊主の馬かよ」

 

 言いながら男は、馬の視線の先を見て戦慄した。

 数十歩先の藪の奥、夕陽みたいな赤い瞳が二つ、闇に爛々(らんらん)と燃えている。

「き、来やがった」

 

 たちまち緊張が走った。男達は後退りしたが、ヤンだって怖い。

 『恩返し』なんてこちらが勝手に想像しているだけで、ただの好戦的な凶獣かもしれないのだ。

 

「お、おい、坊主、平和的に行こうって話を付けてくれ」

「いやそんな無理です」

「お前のオトモダチだろうが……おぉおうっ!」

 

 いつの間に、羽根の子供が馬を降りて、赤い目に向かってフヨフヨ歩き出している。

 

「止まれ坊主!」

「やめろって、また蹴とばされるぞ!」

 

 子供を止めに行こうとするヤンを、男は腕を掴み直して引き戻した。

「いや待て待て、自分達だけ逃げて、俺らを襲わせるつもりだろ」

「だったら貴方達が先に逃げたらどうです!」

 

 子供は羽根を揺らしながら横にずれ、獣の左斜め前から近寄って行く。

 律儀だな、いや、教えたからって、やれって言った訳じゃないからっ!

 

 妖獣が一歩前進し、暗がりから姿を現した。グシャグシャのタテガミを逆立てて、喉から低い唸りを発している。

 ヤンの馬も同じように唸り出した。

 

「お前の馬に、ケンカを売るなって言ってくれ!」

「それも無理です!」

 

 子供がついに獣の真ん前に立った。獣は歯を剥いて鎌首を持ち上げる。

 

「逃げろっ 早くっ 逃げろ――っ!」

 ヤンは掴まれたまま身悶えた。男はどうやっても離してくれない。

 

 

 長い短い時間が過ぎた。

 獣は止まっていた。

 

 子供が右手で獣の鼻先を押さえているように見える。

 いや違う、右手には一本の緋色の羽根。

 獣は寄り目でその羽根を凝視して、止まっている。

 

「すげえ・・」

 ヤンの腕を掴んだまま、男が呟いた。

「あれが、護りの羽根の威力って奴か?」

 

「やはり絶対に得なければならぬ」

 後方の男の一人が、何かに取り憑かれたようにささやく。

「幸いにして幼い男子だ。天が我らにもたらしてくれたに違いない」

 

「な、何を言っているんです。あの子迷子でしょ? 蒼の一族のヒト達がきっと捜していますよ」

 ヤンの言葉を、男達は口々に遮る。

 

「身柄さえ拘束すれば、後はどうとでもなる」

「岩屋に隠してしまえば、見つかりはしない」

「何、幼子だ。故郷の事などすぐ忘れる」

 

 ヤンは背筋がザワザワした。会話が成り立たない。

 本当に、このヒト達、九ノ沢のヒト?

 

「分からないです、この辺りの部族はみんな、災厄の時に有翼のあのヒトに助けて貰ったんじゃないんですか? 僕はずっと恩を感じていたんだけれど、九ノ沢では違うんですか?」

 

「血を取り込むんだとよ! 九ノ沢の部族をもっともっと強くするんだ!」

 

 ヤンの喉がヒヤリとした。

 男が腕を拘束したまま、山刀を抜いて押し当てて来たのだ。

「おい、そこのバケモンと坊主、こいつの首がブランとなるのを見たくなかったら、大人しくしていろ!」

 

 他の四人の男は、ロープを投げ輪に作って、ゆっくりと四方に散っている。

 

「頼む、この子を傷付けないでくれ」

 最初の知り合いの男性が、山刀の男の側に寄って言った。

 

「ああそうか、お前が目を付けていたガキだったな」

 男の言葉を他の男も受けた。

「宴席で言っていたな、三峰に父親のいない健康な男の子がいるから狙ってるって」

 

「あ、あれは酒の席の冗談だ」

 

「酒の席だから本音が出るんだぜ。お前だって一人息子を悪魔に持って行かれたんだ。欲しがる権利はあるだろうが!」

 

「やめて! もう沢山!」

 

 

 妖獣が飛んだ。

 助走もなく、その場でギュッと縮んで、恐るべきバネで跳ね上がったのだ。

 

 男達は、予想外の動きに呆気に取られて反応出来なかった。

 

 獣はその一歩でヤンの真ん前に来た。

 グシャグシャのタテガミに、羽根の子供がしがみついてぶら下がっている。

 

 

 その先の記憶は、ヤンにとって断片的だった。

 

 子供の手と獣の口に捕まれて引っ張られたのは、何となく覚えている。

 

 次には、山刀を持った男の腕をおじさんが押さえているのと、自分の馬が谷側に逃げるのが、何故か足の下の遠くに見えた。

 

 男達が指さして見上げているのは、もっと小さく見えた。

 

 

 

   ***

 

 ―― あ は は は は は ―― 

     ―― あ は は は は は ――

 

 耳の奥がキンキンする。

 頭に響く笑い声に、ヤンは意識を引き戻された。

(寒い、すごく寒い)

 

 動物に跨(またが)っているのは分かる。

 馬? じゃないよな、ガサガサしたおかしな感触。

 

 ・・って、これ、あの凶暴な妖獣!!

 

 前に羽根の子供が跨っているのも分かる。

 目一杯左右に広げた翼が、トンボの羽根みたいにブンブン震えている。

 

 そして凄い勢いで上昇しているのも分かった。

 斜めじゃない、真上だ。動物は水平を向いているのに、真上に上がっている。

 

「笑っていたの、お前か?」

 子供ははじけた笑顔で振り向いた。はなだ色の瞳をまん丸に見開いて、口の端いっぱいに興奮をたたえている。

 

 ――この子はこちらの方が本来の姿だ!?

 ヤンは直感で分かった。

 大き過ぎる羽根は、地面で生活する為にあったんじゃない。

 馬に跨って左右に広げて、初めて本来のバランスになるんだ!

 

 もちろん馬具なんか付けていない。子供の指はグシャグシャのたてがみを握っている。

 ヤンはその子供の胴体にしがみ付いていた。とてもじゃないが、そうしなければ乗っていられない。

 

「上がるのを止められないか? 耳が痛くて痛くて」

 子供も羽根を広げたままバランスを取るのに精いっぱいに見える。彼にもコントロール出来ていないのか。

 動物はますます上昇し続け、何だか知らない冷たい粒が、バシバシ身体中に当たる。

 

「頼む、止まってくれ、僕、もう……」

 空飛ぶ馬に乗りたいとは思っていたけれど……これ、違う……

 

 

 

「シンリィ、止まれ!」

 

 凛とした声。グラグラするヤンの身体を、力強い腕が支えた。

 

 上昇は止まっていた。

 

 隣にいつの間にか大きな馬がいて、馬上のヒトが身を乗り出して自分を支えてくれている。

 目が回って顔を上げる事が出来ない。そのヒトの群青色の長い髪が目の前に滑って来た。

 見た事のある髪……? と思ったが、頭が働かない。

 

「あ、ありがとうございます……」

 やっと言えたが、返事はなかった。腕は消えていた。いたと思った大きな馬もいない。

 幻覚? まさか。

 

 半(なか)ばもうろうとしながら、ヤンは紺碧の空を見た。

 いつもの水色の空は見慣れた白雲と一緒に、遥か足下にあった。

 湾曲した地平線に見た事もない大きな太陽が一筋の光を伸ばし始めている。

 

 

 動物はゆっくりと下降を始めていた。

 前の子供は羽根を上げたり下げたり、広げて踏ん張ったりしている。制御出来るようになったのか?

 

 よく見ると、山吹色の布を繋いで輪っかにした物を馬の口に掛け、手綱の代用にしている。

 スカーフみたいだけれど、あんなの持っていたっけ?

 

 昇る時はあっという間だったが、降りるのは時間を掛けてくれた。耳が痛いままだったので、助かった。

 

 

 朝焼けの薄明かりの中、山の木々の形が見える所まで降りた頃、山の中腹の谷に、松明がポツポツと見えた。

 丁度、三峰と五つ森と九ノ沢の三つの部族の中間辺りだ。灯りはそちらに集まって行く。

 

 胸騒ぎがした。

 

「ね、あそこに降りられる?」

 子供が羽根を傾けると、動物は向きを変えてくれた。

 

 

 

 

 



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白蓬・Ⅷ

 夜明け前のうすぼんやりした空を、ジュジュは白い子供を乗せて飛んでいた。

 

「今度は大丈夫そうだな、頭、はっきりしてるし」

 それでもいきなりクラッと来ても大丈夫なように、木にぶつからない程度の低い所を滑空する。

 

 前に乗せた白い子供は、上昇してからずっと黙ったままだ。やっぱり怖いのかな、最初乗せた時もムスッとしていたし。

 でもいい奴だ、事情があるんならハウスに連れて行ってもいいかな。ナーガ様にめっちゃ頼んでみよう。

 

(さて、この子を安全な所に降ろしたら、シンリィを捜しに行かねば)

 

 飛び降りた時、羽根を広げて風に流されて行ったから、行方の見当が付かない。

 さっきの部族のヒト達が物騒な考えを持っているみたいだし、ちょっと心配だな。

 あいつ、誘拐されても危機感なくてキョトンとしていそうだもんなあ。

 

 ・・ん? 山の中頃に、上方から来た二つの沢が合流して三つ又になっている谷が見える。その周辺に結構大勢のヒトがばらけて立っているのだが…… 

 何だろう、意味もなく背中がゾワゾワする。何だか雰囲気が禍々しい?

 

 

「僕、ここでいい」

 

 前に乗せていた子供が、いきなり片膝を付いて、鞍の上に立ち上がった。

「え? ちょ、待っ、今、降り・・!」

 

「ありがと、ジュジュ」

 子供は軽く跳んで飛び下りた。そして、すぐ下の梢の枝を掴んで、谷に向かって飛び移って行った。

 

 ええええ――――っ!!

 昨日といい今日といい、何でそんなにポンポン飛び降りられなきゃならないんだ。俺の馬ってそんなに乗り心地が悪いのかっ? 

 

 

 

「蒼の、妖精、の、ヒト?」

 

 いきなり後ろで声がした。こんな空の真ん中で声を掛けて来るのは?

 振り向くと、見た事もない馬(?)と、それに乗った赤っぽい黒髪の男の子と……

 

「シ、シ、シンリィぃいいっ!!」

 

 何だよその変な馬は、何だよその知らない子は、たった数時間の間に何やってたんだよ――っ!

 

「やっぱり迷子だったんですか? この子と九ノ沢の谷で出会って……」

 男の子は話を不自然に切った。下の谷を凝視している。

 

「ああ、そうそう迷子。捜していたんだ、ありがとう、助かっ」

「行って! 今すぐ、あそこの三つ又になっている所! あああ・・」

「えっ、えっ?」

 

 シンリィが慌てて馬を操作しようとするが、パニクってモタモタしている。

 

「こっちに乗れ、一直線で行ってやる!」

 何か知らんが、この子の様子で緊急事態なのは分かる。

 さっきの白い子供が行った方向じゃないか。

 

 黒髪の男の子は、横付けしてやった馬に滑り込むように移って来た。

「頼みます・・」

 

「シンリィは後からゆっくり来い!」

 ジュジュは馬をロケットスタートさせた。

 

 

 

   ***

 

 馬が地上に着く前に、男の子は飛び降りた。

 転がるように走る先には、何十人かの山岳民族が見える。

 

 ジュジュも後から付いて行った。

 ふたつの沢が合流して、斜面が三つに分かれている地形だ。

 

 上の斜面に、男の子と同じビーズ飾りの男達。

 左の斜面に、緑の狩猟装束の、重武装の男達。

 右の斜面に、赤い隈取り入れ墨の、馬を連れた男達。

 それぞれが三々五々に突っ立って、石弓をぶら下げて放心状態だ。

 

 彼らの視線の先、中央の沢のヤチブキの茂みの中に、立派な鷲羽飾りの男が屈み込んでいた。

 傍らに二人、それぞれの部族長らしき装束の男達が、同じ場所を見つめながら、やはり茫然と立っている。

 

 男の子はまろびながらそこに駆け込んだ。

 

「フウヤ――!!」

 

 ・・え、フウヤって・・

 

 ジュジュは胸をザワ付かせながら近付いた。

 

 

 背筋が凍り付いた。

 

 沢に赤い筋を作って、白い子供が、身体の半分を赤い水に浸して横たわっていた。矢は抜かれていたが、一体何本刺さっていたのか考えたくもない。

 

「フウヤ、フウヤ、フウヤ!」

 

 男の子は鷲羽の男を押し退けて子供にすがり付いた。

 

「我々が、今まさに挟撃しようとした時、上から飛び降りて来たのだ」

 左側の緑の装束の族長が、抑えた声で言った。

「逃げる時間はたっぷりあったと思う。我々は、この子供はすぐに逃げると思って、一拍待って弓を引いたのだ」

 

「俺達だってそうだ。この子は素早しこいから大丈夫だろうと」

 右側の赤い隈取りの族長も声が上ずっていた。

「両手を広げて、何も言わず、そこに留まっていたのだ。・・何故だ!!」

 

「最初の矢が身体に刺さっても、まだそのまま立っていた」

 緑装束の族長の言葉を聞いて、上方のビーズの部族の何人かが、膝から崩れ落ちた。

 

 その様子を見て、それから自分の部族をぐるりと見渡してから、緑の族長は鷲羽の男に声をかけた。

「この子供は三峰の者か?」

 

「生まれは別だが、我が部族に迎えた所だった……」

 鷲羽の男は俯(うつむ)いたまま、絞るような声で答えた。

 

「そうか、天よりの授かり物だったやもしれぬな」

 

 

「フウヤは普通の子供だよ!!」

 

 男の子の絶叫に、三部族の男全員、ビクンと揺れた。

 

「何も特別な事はない、何処にでもいる普通の子供だよ!」

 

 ずぶ濡れの身体を抱き締めて、彼は目を見開いた。

「心臓が、動いてる!」

 

「本当か!」

 

「でも微かだ。ねえ、助けて、フウヤを助けて!」

 

 

 

 勘の良い何人かがハッと頭上を見上げた。

 上空で慌しい気配。

 

 ――ボギボギ、バサバサバサ――

 

 枝葉と共に、緋い羽根の子供が落っこちて来た。

 斜面に落ちてゴロゴロ転がり、羽根を踏んづけながら立ち上がったその姿は、皆が思っている雄々しい有翼人とは違った。

 

 唖然とする視線の中、子供は沢の二人に駆け寄ろうとして、また羽根を踏んで転んだ。外面も何も無い、立ち上がる事を諦めて泥だらけで這いずる彼の目には、大切な友達しか映っていない。

 さすがに今、羽根の子供に手出ししようとする者はいなかった。

 

「あ・あ・あ・・」

 声にならない声をあげながら、シンリィは白い子供の前につんのめった。

 

 ――ブチブチブチ――

 

 妙に響いたその音に、立ち尽くしていた男達は顔を上げた。

 羽根の子供が思い切り引き抜いた両手一杯の羽根を、フウヤの胸に押し当てている。

 

(どうにか出来るのか? いや、あそこまで血が流れていたら、ナーガ様にだって無理だ……)

 そう思いつつもジュジュは、もしかしたらと、一抹の期待を持った。けれど……

 

 羽根はすぐに真っ黒に干からびて落ちた。血は一瞬だけ止まったが、すぐにまた溢れ出る。

 シンリィは慌てて背中から右の翼を引っ張って、そのままフウヤに押し当てた。緋色の翼がみるみる黒く干からびて行く。

 

 だが傷口に変化はない。血は止まらない。ちょっと止まっても、すぐ押し返すように溢れて来る。焼け石に水、というのが見ていて分かった。

 

 翼を押さえた手にパタパタと雫が落ちた。シンリィが声をあげて泣いている。翼はもう半分真っ黒だ。いや、彼の身体の右半身も、血の気を失くして青黒い色が透け出して行く。

 

『あの子の羽根に何かあったらどうなるか分からない。気を付けてやってくれな』

 ジュジュの頭に、ノスリ長に言われていた言葉が過る。

(悪者になっても、俺が言わなきゃならない!)

 ジュジュは息を吸った。

「シンリィ、もうやめろ」

 

 

 その言葉の前に、傍らの鷲羽の男が、シンリィの手を取って翼を離させていた。

 

「誰か、血止めを持っていないか!? 頼む!」

 

 朗(ろう)としたその声に、周囲の男達は、今まさに『我に返った』。

 

「ち、血止めなら、うちの薬師の親方の十八番だ!」

 赤い隈取りの族長が、自部族の男達に叫んだ。

「皆、ありったけ出せ。他の薬も全部持って来い!」

 

「ウェン!」

 緑の装束の族長の声に、後方から弾かれたように一人の理知的な顔の男が駆けて来た。

「湯を沸かしてくれ。布を敷いて平らな所に寝かせろ。清潔な布をあるだけ集めてくれ」

 

 すべての男達が動いた。

 誰一人余計な口は利かなかった。

 

 

 

 子供三人は、大人達の治療の輪からはじき出されて所在なく突っ立っていた。

 シンリィはもう泣いていない。肌の色はまだ少し悪いがしっかり立って、フウヤの居る方向をただ見つめている。

 

「あのさ、君……」

「ヤンです」

「そう、ヤン、俺はジュジュ、こいつはシンリィ。で、あいつはフウヤ……で、いいの?」

「はい」

「あのさ、シンリィがあんまり役に立たなくてごめんな」

 

 ヤンは不思議そうな顔を向けて来た。

「どうして?」

「え・・だって、いかにも何とかなりそうな登場だったじゃん。期待しちゃうだろ、知らない奴は」

 俺だって一瞬期待したし……

 

「ああ、そんな感じだったかも」

 ヤンは気遣っている風でもなくサラリと答えた。

「でも羽根がどうのって九ノ沢のヒト達も言っていたけれど、僕が昔に見たのと違い過ぎるし、それに……」

「それに?」

 

「この子、普通の子供じゃないですか」

「普通の子供、シンリィが?」

「そう、ドン臭いけど一生懸命出来ない事をやろうとして、思い通りにならないと不機嫌になって、思い通りになったらはしゃいで、……口をきかない以外は、まるっきり普通の子供じゃないですか」

 

「そうか、普通の子供か……」

「そうですよ」

 

 谷に遅い朝陽が射した。

 

 

   

「縫合は終わった。運を天に任せねばならぬような傷もあるが」

 ウェンと呼ばれた治療師は、手を洗いながら呟いた。相当腕が良いらしく、他の部族の治療師は彼の助手に徹していた。

 

 白い子供は包帯でぐるぐる巻きで、どこが顔やら手足やら状態だったが、最初よりは生命力が戻っているように見える。ウェンは目を上げて、子供を囲む多くの瞳を見渡した。

 災厄の時代以降、とても手が届かないと憧れていた蒼の一族の神秘の力、それ以上の力が、こんなに身近にあったのだな。

「家に帰れるぞ、坊主」

 

 

「やはりその子供は天からの授かりモノだ。命の糧や水や大地のように。ないがしろにしてはならぬな」

 そう言って、緑装束の族長は、仲間を引き連れて去って行った。

 

 赤い隈取りの族長は、鷲羽の男と少し話し、簡単に何かを取り決めてから握手して、仲間に号令を掛け山を下って行った。

 去り際にヤンが小さく手を振ると、照れくさそうに振り返していた。

 

「俺でよかったら運びます」

 という蒼の妖精の少年の言葉を丁寧に断って、フウヤは三峰の者が戸板で運んで帰った。

 斜面の下になる一番重い部分を、糸球夫人の夫が、揺らさぬよう大切に持ち上げていた。

 

 

 大人達がいなくなってから、妖獣が姿を見せ、三人の子供の側へやって来た。あの獰猛さは何処へやら、すっかり羽根の子供に懐いている。

 

「空を見せてくれてありがとうな」

 ヤンがそっと話し掛けると、妖獣は夕陽みたいな赤い瞳を瞬かせた。

 遠くから見て憧れるのと、実際乗ってみるのとは全然違う。でも……

 

「あの透き通った紺碧の空、僕は一生忘れない」

 

 

 

 

 



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白蓬・Ⅸ

 

 三峰の山遠く、朝焼けの薄黄金(うすこがね)の空の中、ジュジュはシンリィと馬を並べて帰途に着く。

「お前結局、ここに来た目的は何だったの? やっぱりその馬をゲットする為?」

 

 シンリィの身体は何とか回復し、今は馬を制するのに執心している。羽根を開いたり寝かせたり・・右の羽根が不揃いになったが、それにも一生懸命慣れようとしているようだ。

 身体で覚えるタイプだったみたいだな。誰だよ、到底馬を配せないとか言った奴。

 

 蒼の里の放牧地で毎晩、この世のどこかでこの馬が生まれ落ちた気配を察して、一生懸命探索していたのかもしれないな。目星が付いて迎えに行こうとした所で俺に邪魔されて、それで恨めしそうな目を向けて来たのか。分かる訳ないだろ、そんなの。

 

(それにしても……)

 見れば見るほど変な馬。こうしてシンリィと飛んでいるんだし、草の馬って言い張れば通るかもしれないけれど、馬事係の頭領が発狂しそうだな……あれ?

 

 馬の手綱代わりの山吹色のスカーフに、今気が付いた。

(俺のじゃん)

 エノシラさんが自分の服の余り布だけどと分けてくれたスカーフ。今回、道標の術に使う為に泣く泣く裂いたのだった。

 

 そういえば、ナーガ様が本気で追跡して来たら、とっくに追い付かれている筈なんだけれど……シンリィは会ったのか? 

 だとしたら何やってんだ、あのヒト!?

 

 

 

   ***

 

 朝陽射す、五つ森の集落。

 出掛けた男達はまだ帰っていない。

 

 集落奥の繁殖場、その一番奥の背の高い厩舎の天窓からも朝陽が射し込んでいた。

 朝陽の下には、群青色の長い髪の妖精。

 マントを外して法衣となり、馬房中央の枯草の山に祈りを捧げている。

 

 後方に一人の老人が控えている。

 特徴のある団子鼻は、多分あの彼の父親で繁殖場の場長。

 供えられた酒と塩は、男性に頼まれてこの老人が用意した物だ。

 

 老人は黙って見ていた。

 数か月前、遠くの親戚を訪ねた折に、海辺の灌木帯に二頭の変わった馬を見かけた。

 八年前に一度だけ見た蒼の一族の草の馬だとすぐに分かった。

 

 一切の馬具を付けておらず、一昼夜待っても持ち主が現れない。

 心が動いた。あの空飛ぶ特別な馬を手に入れたいとの衝動が湧いた。

 

(放たれ馬になっていたのを保護するだけだ。捜しに来たら返せばいい)

 自分にそう理屈を付け、頭絡を掛けて連れ帰った。

 馬は大人しく、仲睦まじく寄り添っており、長年の勘で、つがいだと思った。

 

 だが数日たった朝、二頭とも厩で崩れて枯れ果てていた。

 その枯れ草の山の間に、小さな仔馬が震えながら立っていたのだ。

 

(この集落で産まれたからうちのモノだ。五つ森産の草の馬、儂は草の馬を繁殖させたんだ)

 あんなに胸が躍ったのは何年振りだったろう。

 

 

 祝詞を唱え終わり、最後に藁山から二切れ摘まんで奉紙に包み、男性は老人に向き直った。

 

「この二頭を保護して下さった事、感謝致します」

 多分蒼の一族であろう男性は、老人が何か聞く前に、先回りして頭を下げた。

「これは、私の妹夫妻の馬でした。お陰でこうやって供養してやる事が出来ました」

 

「その……妹御は……」

「草の馬というのは、主と寿命を共にする物です」

「…………」

 

「ただ、妹の夫君が、そういうのから解き放して自由にしてあげたみたいですね。自分達と共に朽ちる馬に憐れを覚えたのでしょうか。今となっては知りようはありませんが」

「…………」

 

 解放された馬をまた自分が呪縛したから、術が解けて枯れてしまったのだろうか。

 この男性はそういう事を責めるつもりはなさそうだった。

 あの逃げた仔馬の事は言うべきだろうか。

(いやでも、そんな事より……)

 

「あ・・!」

 法衣の男性がマントを羽織りながら、頭上を見た。

 

「??」

 老人も釣られて天井を見上げ、何もないので目を戻したら、もう男性はいなかった。

 

(聞き損ねてしまった)

 何でそんなに髪も法衣もボロボロなのか、その背中の大きな三本のカギ裂きは、一体どうした事なのかと。ここに来る直前まで、あの方は何処で何をやっていたのだろう。

 

 

 

   ***

 

 ヤンが、ジュジュに教えて貰った場所へフウヤの馬を迎えに行くと、四白流星が、疲れて眠っている黒砂糖に寄り添っていた。

 独りでここまで戻って来てくれたのかと感心していると、下の繁みに五つ森の団子鼻の後ろ姿が見えた。

 下の方で見付けて、わざわざ連れて来てくれたのだろう。

 「ありがとう」と叫んだが、反応はなかった。

 『嘘』って決めつけてしまった事だけは、いつかちゃんと謝りに行きたいと思った。

 

 遠景に、朝陽に照らされる三峰集落が見える。

 いつもと変わらない風景。

 でも、ジュジュに聞いた彼の受けた仕打ちは、ヤンには信じ難い事だった。九ノ沢に対してだけでも自分はあれだけショックだったのに、フウヤはどんな思いをした事だろう。

 

 イフルート族長や他の皆と話してみても、何故一ヶ月足らずでこんな事になってしまったのか、明確な答えは誰からも出て来なかった。

 切っ掛けが何だったとか、誰も思い出せない。帰って広場の有様を見て、今更ながらに驚愕している者もいた。何故これをおかしいと思わなかったのだろうと。

 

 五つ森も、九ノ沢も、きっとそうだったんだ。

 それぞれのヒトの中身は変わらない。ただそのヒト達が心の奥底に持っていた欲望を露(あら)わにし、それが伝播してしまっただけ。

 

 それだけであんなに変わってしまう物なのか。

 あんなに怖い世界が実現してしまう物なのか。

 足の先まで冷たくなった。黒い疫病並みに恐ろしい災厄だったのかもしれない……

 

「フウヤ……」

 

 対価を得られる者になりたいと言っていたけれど、僕らは君に、いつもいつも与えられるばかりだ。

 

 

 

   ***

 

 

 赤い光に照らされる樹林の梢をかすめるように何かが走る。

 野牛程もある、炎をまとった赤い狼。

 

 後方から深緑の草の馬。

 馬上に、青く光る槍を構えたナーガ。

 

 赤い狼がジャンプして、空中のある一点に飛び込むのと、ナーガが槍を放つのと同時だった。

 

 ――ドシュ!――

 

 槍は狼には当たらず、脇をかすめて、彼の手前から飛び出した巨大な生き物に直撃する。

 黒くぬらぬら光る、三本指の目のない蜥蜴。

 

 「破邪・・!」

 ナーガが唱えると刺さった槍が光を放ち、蜥蜴はカサカサに砕かれて空中に散った。

 後に小さい小さいカナヘビが残り、手足をバタ付かせながら森に落ちて行った。

 

「ふん、こいつで最後だろう。取り逃がしがあったとは迂闊だったなぁ、蒼の一族の時期長様よ」

 

 鼻から火炎を吐く赤い狼の十歩手前で停止して、ナーガは剣の束に手を掛けた。

 

「おっと、俺様はこいつらとは無関係だぜ」

 

「本当に仲間ではないのか」

 ナーガは狼を睨んだまま構えを崩さない。

 

「当たり前だ!」

 狼は不機嫌に背中の炎を噴き上げた。

 

「俺様の縄張りでせこい真似してやがったんで、文句を付けに来ただけだ。そしたらお前さんが大勢の蜥蜴に囲まれて何だか面白そうだったから、まぁ見物していたんだが。相変わらずヘッポコで笑っちまったぜ。途中で空の天辺まで飛んじまったガキ共の面倒を見に行かなきゃならなくなって、それで隙を突かれて背中に一発喰らったりな」

 

 せせら笑う口端から炎が洩れる。

「つまんねぇよなあ、お前さんがそんなになって何十匹の蜥蜴を相手して、下界の連中の欲の呪いを解いたって、だぁれも気付かないから感謝しても貰えない。蒼の長なんぞとんだ貧乏クジだわな、あぁん?」

 

 ナーガが黙ってじっと見ているので、狼は更にイライラした感じで話を変えた。

「だいたい、こんなチンピラと一緒にするんじゃねぇ。欲望ってのはな、もっとギラギラと一途に澱みなく、究極まで行き着く覚悟を持っていなくちゃならねぇ。

 中途半端な欲しか持っていない連中ばっかり相手にしているから、あんな醜い姿にしかなれねぇんだ。見ろ、俺様のこの美しい炎! 分かるか!?」

 

「・・分からない、分かりたくもないし」

 

「は、相変わらずつまんねぇ奴」

 赤い狼はクルンと回って空中に消えた。

 

 

 ナーガはまだ炎の熱をおびる空中を、じっと見据えていた。

 彼の言った事は本当だ。蒼の長なんて貧乏クジもいい所なんだろう。だけれど……

 

「欲の呪縛が解けたのは、僕の所為じゃない」

 

 自分がやった事は、『欲望に拍車をかける呪い』を撒き散らしていた魔性を退治しただけ。その欲望は、元々その者の身の内にあったモノだ。呪いが止んでも、以前の道に戻れるかどうかは本人次第なのだ。蒼の長にそこまでの手出しは出来ない。

 

 道を一気に照らし出し、皆の顔をそちらへ向けたのは……

「フウヤ・・」

 

 背中をやられて体力を削られ、一旦引くかと迷った刹那があった。その時、蜥蜴達に急激な変化が起こった。あんなに堅く厄介だったウロコが崩れ、目や爪と共にボロボロと剥がれ落ちたのだ。

 そう、蜥蜴を肥やしていた大勢の欲の力が失せた瞬間だった。

「あの子に助けられるのは二度目だな、本人は知る由もなかろうが」

 

 ナーガは昇る朝陽に影を縮めて行く山腹の集落を見た。

 蜥蜴の呪いは、放っておけばこの辺り一帯を滅びに向かわせただろう。それを防いだのはフウヤばかりではない。彼を大切に育んでくれた三峰の民がいてこそだった。

 ナーガは静かに頭を下げた。

 

「八年前に貴方がこの辺りの集落を回った事は、決して無駄ではなかった。すべての事に意味がある……・・でしたよね、カワセミ長」

 

 

 

 

 

 

 



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白蓬・Ⅹ

「みっつめのおはなし」の最終話です





「それで、相手方の部族に、何のお咎めも無しで帰って来たのか」

 

 蒼の里、朝イチの執務室。

 今帰ったナーガが、長椅子で伸びている。

「嫌ですよ、あんな場所に出て行くの。空気変わっちゃうじゃないですか」

 

 ホルズは腕組みをして鼻から息を吐いた

「連れ戻しに行った二人に姿も見せないで、先に帰って来ちまうのも分からん」

 

「カッコ悪いでしょう、こんなヨレヨレの姿。追い掛けやすいように細工されていたのも何だか癪(しゃく)に触ったし。まあいいんじゃないですか? 結構充実した家出みたいだったから。気が済んで自分の意思でおうちに帰るまでが家出ですよ。あいたたた・・」

 

 ナーガは顔をしかめた。背中の負傷にはオウネ婆さん特製の湿布が貼られている。

 高空飛行でここまで飛ぶのが精一杯で、充分に治癒する術力も残っていなかったのだ。

 

「しかし、他の二部族はともかく、三峰に対しては、何も無しって訳には行かないぞ。ジュジュと草の馬を監禁されたのは事実だからな。シンリィにだって良からぬ計画を立てていたのだろう?」

 

「言ったでしょう、心に悪影響を及ぼす性質(たち)の悪い魔性が大繁殖しちゃってたんですよ。まあ、栄養をあげていたのはあのヒト達ですが……もういいじゃないですか、退治したんだし」

「そういう問題じゃないだろ」

 

 ナーガはだるそうに寝返りを打った。

「じゃ、ジュジュの報告を受けてから、それなりの裁定をして下さい。夕方には帰って来るでしょうから」

「投げやりな奴だな」

「ちょっと寝かせて下さいよぉ。超苦手な破邪の術を連発で、おまけにあんな高さまで蜥蜴を振り切って急上昇させられて・・何だよ、あれ、あんな規格外な馬、反則だろ・・勘弁してくれよ、シンリィ・・ うぐぅ、頭痛い・・」

 

 大机の奥で黙って聞いていたノスリが、聞こえない声でボソッと呟いた。

「カワセミがそこにいるみたいだ」

 

 

 

   ***

 

 

 万年雪の神殿。

 エントランスの階段で、白いヴェールの女性が、風に吹かれている。

「あら、居たのですか?」

 女性は機嫌がよさそうに、振り向いた。

 

「ずぅっと居たんだがな、そんなに面白かったのか、今の風が持って来た噂話は?」

 赤い狼は退屈そうに寝そべった。相変わらずこの神殿にいる時は、彼の炎はチロチロと瞬(またた)くのみだ。

 

「ええ、シンリィが自分の馬に出逢えたんですって」

「ああ、何かそんな事になっていたな。主に似てトンでもなく抜けてる馬で、大笑いだったがな」

「そうなのですか?」 

 

「羽根のガキと会う前に、たまたま出会った山岳民族(ハイランダー)のガキを気に入っちまって、勝手に主認定しようとしやがったんだ。あのガキの愛馬が必死に『この子はボクのモノ!』って説得して諦めさせたんだが」

「あらあら」

 

「草の馬の自覚あんのかって話だぜ、まったく」

「それ、実現したらどんな事になっていたでしょうね。ちょっと見てみたかった気もするわ、うふふ」

 

「阿呆ぅ、お前さんの息子がストレスで禿げ散らかすぞ」

「それは困るわ」

 

 女性は、ヴェールを揺らして棚の端まで歩いた。遠くに霞む下界は、この万年雪の山と違って季節がある。

「ナーガがシンリィに出逢ってそろそろ一年ね」

 

 世界は少しづつ変わって行く。

 蒼の里も、それを取り巻く草原も、来年の今頃は今よりずっと変わっているのだろう。

 

 

 

 

   ***

 

 

 初雪の薄い白に蹄跡(ていせき)を連ねて、二つの騎馬が行く。

 

「おーい、無理するな。包帯が取れたばっかりなんだぞ」

 ヤンがイフルートに借りて来た地図を広げながら、先を行く子供に叫んだ。

 

「大丈夫だよ。……あ、あれ! あの山の間の谷だよ」

 秋からかなり背の伸びたフウヤが、弾んだ声で指差した。

 腕の長い彼にピッタリのセーターは、糸玉夫人の特製品だ。

 

 冬の間、三峰では狩猟の頻度を落とす。

 冬を生き抜く強い獣を狩り過ぎると、山が活力を失うからだ。

 それで二人は旅に出たいと願い出た。

 

 秋の三部族の争いは、二人にとってショックだった。

 でも、自分達の知る範囲はとても狭いという事を知った。

 もっと世の中の沢山の事を見たい、知りたい、そう言うと、イフルートは目を細めて送り出してくれた。

 

「僕達が大人になって今よりもっと強くなったら、今度は族長さんを送り出してあげるね」

 生意気を言う白い子供を軽く小突いて、鷲羽の族長は峰の上で見送ってくれた。

 

 幾つもの塔のそそり立つ谷に二人が到着したのは、冬空が微かな夕色に染まる頃だった。

 馬から降りて、二人並んで倒木に腰掛ける。

 

 一際高い塔から一つの音が流れ、一拍置いて沢山の音が空から降って来た。

「よかった、『音合わせ』、ヤンに聞かせたかったんだ」

 

「うん」

 ヤンは谷に満ちる音が見えているかのように目を細めた。

「フウヤはこの音を聞いて育ったんだね」

 二人はしばらく目を閉じて、音を心に沁み込ませた。

 

「寄ってく? フウヤ」

「ううん、行ったってお姉ちゃんには会えないもの。僕、もう風露の者じゃないから」

「……」

 

「平気だよ。ちゃんと帰る場所があるんだ、僕には」

 

 居場所って、頑張って無理やり作る物じゃない。

 色んなヒトに出逢って、好きになったり好きになって貰ったりして、自然に出来て行く物だったんだ。

 茜に変わって行く空を見つめながら、フウヤは心の中で、大好きなお姉ちゃんに別れを告げた。

 

 

 

 

 




挿し絵・「白蓬」

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みっつめのおはなし・了


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おしまいのおはなし
巣立ちの雛鳥


最終話です。



 

 早朝の、蒼の里の放牧地。

 冬の繋ぎ目のない空の中、溶け込みそうな白蓬(しろよもぎ)色の馬が舞う。

 馬上には、目一杯羽根を広げたシンリィ。

 

 デジャブな感覚に囚われながら、ナーガはそれを見上げて歩いている。

「馬術もクソもないな。馬と一つの生き物みたいだ」

 

「ナーガ様」

 土手の上にはジュジュが座っていた。ナーガを見止めると、立ち上がって礼をする。

「さっき縦回転を決めたんですよ。羽根が欠けてるのにもすっかり慣れたみたいだし。あーあ、早く俺もやってみたい」

 

「乗馬禁止罰はまだ解けないの?」

「まさか無制限って喰らうとは思わなかったです」

「すまなかったね、馬事係の頭領にお願いしたんだけれど、やっぱりケジメだって言われて。シンリィは掃除罰だけで済んだのに」

「あいつ、建前では馬を持っていない事になっているから」

 

 白蓬(しろよもぎ)を連れ帰ったシンリィだが、馬事係は『草の馬』とは見なさなかった。おかげで規則に縛られずに乗りたい放題な訳だが。

「大人っておかしいよ」

「そうじゃないよ、ジュジュ。馬事係はいさぎ良かった。自分達が括(くく)る物じゃないと判断したんだ」

「それって……」

 依怙贔屓(えこひいき)、と言い掛けてジュジュは呑み込んだ。その言葉を自分が使うのは、何だか悔しかった。

 

「無制限にしたのは、いつでも解いてやれるように、だと思うよ」

「まさか」

 

 ところで、と言う感じで、ナーガは口調を変えた。

「この間から、旅装の子供二人の目撃情報が入っているって言っただろ? 多分君の友達の」

「はい、聞いた特徴だとぜったいあの二人だなって。え、もしかしてこの辺りに来ているとか?」

 

「夕べ遅くに帰って来た者の話だと、ハイマツの丘近くで夜営していたって」

「ええっ、うあああ!」

 

 ジュジュは頭をかきむしった。乗馬禁止罰って、実質『外出禁止』みたいな物だ。友達が近くに来ているのに会いに行けないなんて。

 結界に守られている蒼の里は、外からは見えない。

 

「ジュジュお兄ちゃん!」

 ハウスの小さい子供が駆けて来た。

「お馬のトウリョウが、お兄ちゃんにすぐ来るようにって」

「!!」

 

 ジュジュは目をまん丸にして、ナーガを振り向いた。

「罰則終了の訓告がちょっと長いだろうけれど、我慢するんだよ」

「は、はい、はいぃい!!」

 

 泡喰って土手を滑り下りる少年の背中に、ナーガはもう一度声を掛けた。

「で、何て言ったっけ、その友達の名前」

 

「ヤンとカペラです!」

 

 駆け去る後ろ姿を見送りながら、ナーガは肩を落として溜め息を付いた。

 フウヤは自分に対して、あくまで身を隠していたいようだ。

(独り立ちしたがっている男の子の成長を、大人しく喜んであげるべきなんだろうか)

 

 ジュジュだって、執務室を困惑させた。

 三峰で監禁された事を、まったく報告しなかったのだ。

 

 彼がいない所でノスリとホルズと額突き合わせて議論して、結局そのまま何も無しという方針を、ナーガが強引に押し通した。

 だって『正しい裁定』は、既に下されていたのだ。白い子供の行動で、彼らが自ら『内なる目』を見開き、自分の『正しさ』を思い出すという形で。

 蒼の長の出る幕はなかった。

 

 ナーガは今一度空を見上げた。馬と子供は羽根を震わせて、急降下と急上昇を楽しんでいる。

 あやふやに草を丸めただけの馬で、よくぞあんな真似が出来るもんだ。

 

 

「表面だけでもちゃんと編んでやろうとしたんですぜ。しかしまったく触らせてくれん」

 先程会った馬事係の頭領は、そう言って肩を竦めていた。

「ヤワな見かけとは裏腹に、気性は相当荒いですぜ」

 

「まあ、編まなくても大丈夫じゃないでしょうか。空の色が変わる所まで急上昇しても平気でスンとしていましたし」

「そいつぁ……」

 草の馬を知り尽くしている馬事係から見ても、この白い馬は不可思議でしようがないみたいだ。

 

「俺は思うんだが……元々の風の末裔の依り代は、あんな容(かたち)だったんじゃなかろうか。それを我々が誰でも乗れるように改造して行って、今の草の馬に行き着いたんじゃねぇか……そんな気がして来やした」

「偶然の先祖返りって事でしょうか」

「そうだな」

 

(カワセミ長の羽根と同じように……)

 それも偶然なのだろうか。

 

 風の神殿に暮らしていた有翼人が野に降り、大地の精霊と交わって発生したのが、今の蒼の一族。自分達に伝わる伝承ではそうだ。

 だが口伝えのみで、それを詳しく記す文献(ぶんけん)等は残っていない。

 

 想像の範疇でしかないが、彼らはシンリィと同じように、『言葉』を使わなかった……必要にしなかったのではないだろうか。

 多分、一番最初の蒼の長は、そういう存在だったんだ。

 

 退化して『変わって』しまったのは、自分達の方なのかもしれない……

 

 

 上昇していたシンリィが、不意に方向を変えた。

「ヤン達を見付けたんだな」

 修練所の厩の方から、ジュジュの馬も飛び上がった所だ。

 二頭の馬は、絡まるようにクルクルと螺旋を描きながら、ハイマツの丘の方へ飛んで行った。

 

 

 

   ***

 

「え・・シンリィが・・?」

 

 執務室前の玄関デッキで、ジュジュの唐突な報告に、ナーガは動きが止まった。

「ああ、はい、多分そうだと思います。ヤンとカペラは、親御さんに許しを貰って来たら構わないよって、今、ハイマツの丘で待ってくれています」

 ジュジュは神妙に言った。ハイマツの丘で旧交を温めあった四人だが、どうやらシンリィが二人の旅に着いて行きたがっているらしいのだ。

 

「ジュジュ、君は?」

「まあそりゃ、行きたいっちゃ行きたいですけれど……いや、俺はあいつと同じではいられない。俺には俺の身の丈があるし、修練所も執務室も俺にとっちゃ大事ですから」

「…………」

 

「ちょっとジュジュ、どういう事なの?」

 エノシラがシンリィを伴って坂を上がって来た。

 神妙な顔の子供の脇には、旅装用の鞍袋がしっかりと抱えられている。

「いつの間にこんな物……シンリィが自分で用意したとは思えないんだけれど、ねえ」

 

「エ、エノシラさん、仕事は?」

「今日はオウネお婆さんが出掛けているからお休みです。残念だったわね、こっそり出て行けなくて。さあどっちが先にお尻をぶたれたい?」

 最近のエノシラは、ナーガの前だろうと遠慮しない。

 ジュジュが慌てて、家出じゃない事を説明した。

 

「シンリィが行きたいってんだから、行かせてやったらいいじゃん、エノシラさん」

「旅行に行くなとは言わないわ、けど何もこれから冬に向かう時期に。暖かくなってからじゃ駄目なの?」

「行きたい時が行き時でしょ」

「連れて行ってくれるのも子供なんでしょ? 熱を出したらどうするの、怪我をしたらどうするの」

 

 言い合いをする二人の傍らで、ナーガは屈んでシンリィに目線を合わせた。

 はなだ色のまん丸な瞳が、まっすぐに見つめて来る。

 

(あの二人に着いて行きたいからじゃない……)

 何だかナーガには分かった。

 この子はいつだって、自分が何処へ行ってどうするべきか、スルリと分かって行動していた。

 今は……

 

「……うん、いいんじゃないかな……シンリィが、行きたいなら、うん……」

 ナーガは声が上ずらないように努力しながら、やっと言った。

 

 ナーガにそう言われれば、エノシラも反対している訳には行かず、渋々と承知した。ハイマツの丘に行って同行の子供達に挨拶する為に、ジュジュとシンリィと共に厩に向かう。

 

 坂を下りる三人を、ナーガはぼぉっと眺めていた。

 

「お前は見送りに行かなくていいのか?」

 いきなり後ろから耳元に囁かれて、ナーガは飛び上がった。

「ノ、ノスリ長……」

「シンリィがお前を必要にしなくなっちまった気がして、寂しいんだろ」

 

「な、何言ってるんですか、フウヤが僕に会ったら罰悪かろうと思っただけです。ちょっとの間いなくなるだけじゃありませんか。嫌だな、必要にするとかしないとか大袈裟な。そんな子供みたいに寂しがったりしませんよ、僕は」

「そうか?」

「そうですよ、さ、今日の仕事だ」

 

 ナーガは身支度をする為に、一旦自宅に戻った。執務室のすぐ裏の、一段高くなっている家だ。

 扉を開けると、やけにガランと広く感じる。

 何で? シンリィはエノシラの家に居る方が多かったのに。

 

「??」

 真ん中の小卓の上に、何かがあるのに気が付いた。

 シンリィの持ち物? 近寄ったナーガは、思わず飛び退いた。

 

「こ、これ・・! 何で、これがっ!!」

 そこにあったのは、『あの』木彫りの人形。

 

「砕けたはず……?」

 気持ち悪いモノを感じた。

 目を合わさぬようによく見ると、あの古びた不気味人形ではなかった。

 同じ作りだが、彫り跡がきれいだ。

 新しい物? だけれど薄っすら光っている。

 

 ナーガは入り口の鏡を取り、そおっと人形の前に立ててみた。

 果たして、鏡には人形ではないモノが映った。

 

 銅色の鏡面に浮かび上がったのは、はなだ色の瞳の羽根の子供。

 その小さい唇が開く。

 

《・・ナーガ・・》

 

 小鳥のような声に呼ばれた。

 遠い記憶にある声……ユーフィ……いや、ユユの声だ……

 

 ―― ナーガ あ り が と ――

 

 パキンと音がして、人形はまた砕けた。

 

 

 

  ***

 

 ナーガは立ち上がって家を飛び出した。

 

 執務室のデッキで、ノスリとホルズが立ち話をしている。

「どうした、血相変えて」

 

「すみません、すぐ戻ります!」

 それだけ言って走り去ろうとするナーガの肩を、でっかい掌が捉えた。

「ノスリ長?」

「すぐ戻んなくていい。お前が納得するまで、ちゃんと『見送って』来い」

 ナーガは目だけで応えて、駆けて行った。

 

「親父ィ・・」

「午前中、俺が倍働けばいいんだろ。まぁったく世話の焼ける子供ばかりだ」

 

 

 厩の前の交差道で、誰かにぶつかった。こんな時に……! 

 助け起こした相手は、さっきシンリィを見送りに行った筈の娘だった。

「エノシラ?」

「ああ、ナーガ様、ごめんなさい、急いでいて」

「どうしたの?」

 彼女がぶちまけた沢山の布を拾ってやりながら聞く。

 

「お産です、そこの家のおかみさんが急に産気付いたって。さっき厩の前でいきなり呼ばれて」

「ええっ、一人で大丈夫なの?」

 今日はオウネお婆さんは、他所の部族のお産に、ベテランの助産師を伴って出掛けている筈。

「大丈夫も何も行かなくちゃ、あたしの役割だもの」

 

 ナーガが心配する間もなく、坂の上からノスリ家の女性陣が、桶やら何やらを抱えて物凄い迫力で駆け下りて来た。

 

 

 

 執務室の扉が開いて外の雑音が入る。

 

「早かったな、もうシンリィを見送って来たのか?」

 ホルズは大机の書き物から目を上げないで聞いた。

 

「いえ、見送りはやめました」

 

「どうして?」

 ホルズは顔を上げた。

 

 机の前に立つナーガは逆光で表情が分からないが、先程とは別人のような落ち着いた声をしていた。

「親鳥から離れて独り立ちしようって子供に、僕が追いすがっちゃ駄目だと思って」

 

 ホルズは目を丸くしたが、ほお、まあ、そうだな、と呟いて、書類に目を戻した。

 

 ナーガは群青色の長い髪をひるがえして、自分の役割、今日の仕事に駆け下りて行った。

 

 

 

 夕刻の執務室に斜めの夕陽が入る。

 ホルズは書き物を一段落し終え、大きく伸びをした。

 目の前の長椅子では昨日まで、羽根の子供が一生懸命に書類の綴付け作業をやっていた。

「今頃、どのあたりを歩いているんだろうな。馬から落っこちていなければいいが」

 

 五か月前、言葉を解しない貧弱な子供をナーガが連れ帰った時は、子供の血統に期待を寄せていた周囲と同様に、自分も心底ガッカリしたものだ。その頃を思い返して苦笑いする。

 

 扉が開いてノスリが入って来た。一瞬長椅子に目を向けてから、大机の方へ歩く。

 親父はどうやら、羽根の子供が長椅子に収まっている風景が好きだったのだ。

「早かったな、親父」

 

「ああ、見習い連中に任せて来た。あいつら、もう俺がいなくても大丈夫だ。次から単独で出していいぞ」

「じゃあ、簡単な仕事から回してやっか」

 

「それからな、この機会にあの話、具体的に考えて行かないか?」

「ナーガの事か?」

 この機会とは、シンリィが旅に出た機会で、あの話とは、ナーガの『次期長』の『次期』を取っ払う事だ。

 

「まだ頼りないっちゃ頼りないが……俺が長を襲名した時はもっと頼りなかった。まあ三人長って強みはあったが。その分ナーガには、俺達がフォローしてやりゃいいだろ」

「ああ、そうだな、カワセミ長から託された子供も、あそこまできちんと育てる事が出来たんだから、役目も果たしたって言えるだろうし」

 

「ああん?」

 ノスリが眉端を上げて顔を寄せて来たので、ホルズは戸惑った。

「俺、おかしな事を言ったか?」

 

「俺は途中から気付いていたんだけれどな」

 ノスリは両手を腰に当ててゆっくり言った。

 

「カワセミは、ナーガに、シンリィを、託したんじゃない。

あの野郎、シンリィ『に』、ナーガ『を』、……ヘタレで泣き虫でどうしようもない雛鳥を…… 託しやがったんだ」

「…………」

 

「役目を果たして離れて行ったのは、あの子供の方だよ」

 

 

 下の居住区で、何かの合図のような元気な産声。一拍置いて、喜びの歓声。

 里の命は永々と引き継がれて行く。

 

 

 

 

 

 シンリィにとって、この世は複雑で分からない記号だらけだ。

 だけれど、それらの隙間に、様々な仕掛けがひっそりと隠されている。

 

 それは、とっても、不思議な事だ……

 

 それは、とっても、愛(いとお)しい事だ……

 

 

 

                           ~おしまい~

 

 

 

 




挿し絵「愛おし」

【挿絵表示】


挿し絵「四人」

【挿絵表示】


一年前の前作から、全面的に書き直した後半戦。
自分なりに理想に近い所まで持って行けた・・・気がします。
ここまで読んでくださった方、本当に感謝です

あと一夜、あとがき・画集・余話、があります

一応の時系列
『碧い羽根のおはなし』→『ネメアの獅子』→『春待つ羽色のおはなし』→『緋い羽根のおはなし』→『六連星』→『星のかたちの白い花』









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あとがき・画集・小品

 『風の末裔シリーズ』という長いお話を書いています。

 ホームページで第七シーズンまで、PDF形式で公開しています。

 (作者名をクリックした作者情報欄にURLあり、スマホ不可) 

 

 『緋い羽根のおはなし』は、第四・五シーズンの一部分を抜き出し、独立した一つの話として再構成した物です。

 短い中で設定をきちんと説明し、初見の方にも分かるよう心がけましたが、至らない点が多々あったかもしれません。お付き合い下さった読者様には本当に感謝です。

 

 ホムペの作品とは、登場人物やエピソードを大幅改変しましたので、ぜんぜん別のおはなしになりました。気に入って楽しんで頂けたなら、至上の幸いです。

 

 

【画集】

 

浜辺(カラー) 

【挿絵表示】

 

飛翔(カラー) 

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海に降る雪   

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受け取ったモノ 

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かたぐるま   

【挿絵表示】

 

あげたいモノ  

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黄色い実    

【挿絵表示】

 

風露の谷    

【挿絵表示】

 

口琴      

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形見      

【挿絵表示】

 

奏(かなで)   

【挿絵表示】

 

三峰の少年   

【挿絵表示】

 

ふたり     

【挿絵表示】

 

四人      

【挿絵表示】

 

月光の下    

【挿絵表示】

 

愛おし     

【挿絵表示】

 

命名(未掲載) 

【挿絵表示】

 

木霊(未掲載) 

【挿絵表示】

 

草笛(未掲載) 

【挿絵表示】

 

現し身(未掲載)

【挿絵表示】

 

四コマ(未掲載)

【挿絵表示】

 

金鈴花(花の絵)

【挿絵表示】

 

ふうろ(花の絵)

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【おまけの小品】

 

 ~二重奏~

 

  

 尖塔の谷、風露の里に、二胡の音が流れる。

 珍しく霧のない澄んだ夜で、青い月の空間に音色が染み込むようだ。

 

「僕の父が初めて母に聴かせたのが、この曲だったらしいです。老師殿に合格点を貰って、その足で山に飛んだとか」

 蒼の妖精は群青色の長い髪を揺らして、弓弦(ゆづる)を降ろした。

 

「そう、お母上、嬉しかったでしょうね」

 風露の娘は正面で柔らかく微笑んだ。

 

「それで、曲を弾き終えた父は、母に言ったんです」

「……はい?」

「貴女は、この青い月のように、どこに居ても、その明るい光で僕を照らして下さいますか?」

「…………」

「貴女は、貴女の生きる場所で、僕と肩を並べて人生を歩んで下さい」

 

 とおに交代に来ていた番人の若者が、外の窓の下で溜め息と共に呟く。

「遠回し過ぎる」

 

 狭い谷間の帯状の空に糠星(ぬかぼし)が煌めき、まるで星の川のようだ。

 外の椅子で天河を眺めていたラゥ老師の耳に、毎週の上達を楽しみにしている二胡奏が聞こえて来た。

「良き奏(かなで)じゃ」

 

 二胡の音色はいつしか重なり、塔の間を寄り添うように流れる。

 音は心を繋ぎ、未来(さき)の星空にも届く。

                              ~ fin ~

                        

 

 

 




ここまでお付き合い下さった、すべての皆様に感謝です。
ありがとうございました。


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おまけ ~フタリシズカ~

 
 ナーガがシンリィを連れ帰って数日後、初めて母にシンリィを会わせに行く時のお話
 本編ではないがしろになっていた大長の事に、ちょっとだけ触れています


 

 

「あれ?」

 

 西北の山岳地帯、風出流山(かぜいずるやま)の手前に広がるブナの森。

 馬から下りたナーガが声を上げた。

 

 樹齢長けた大木が覆うこの森で、ここだけ草地の小高い丘になっていて、山の頂がくっきり見える。

 丘の上の瓦礫のケルンは、五年前にナーガが積み上げた物だ。

 下には父の指輪が眠っている。

 

 

 ***

 

 

 父が疫病に倒れた時、ナーガは一瞬、風出流山の神殿を守る母を頭に過(よぎ)らせた。

 あのヒトなら何とか出来はしないかと。

 

 そんな息子の心を見透かすように、父は、「この世の全ての風が集まるあの神殿に、今の下界のヒトカケラも持ち込んではいけない」、と言い残し、隔離場所へと運ばれて行った。

 

 

「父の望み通り、指輪はこの神殿の見える場所に埋めて来ました。本当は母上に届けたかったのだけれど」

 地上の災禍が収まり、ようやくこの神殿を訪れた息子は、疲れた顔で母にそう告げた。

 

「……そう……」

 息子に負けず劣らずやつれた神殿の守り人は、言葉少なに俯(うつむ)いた。 

 彼女とて、手をこまねいているしかない自分に、ここで身を焦がす日々を送っていた事だろう。

 いつもは感情の起伏の激しいヒトだけれど、本当の本当に哀しい時は、底が抜けたように空っぽになるって事を、ナーガは知っていた。

 

「……では、夏草色の馬が欲しいわ。良いでしょう?」

「ち、父上の馬ですか?」

 

 黒い災厄の渦中、カワセミ長の羽根の他に、もう一つ例外があった。

 ――草の馬。

 名馬の魂を、草で編まれた器に宿した、異形の馬。肉体を持たぬ馬達は、疫病を媒介する事はなく、羅患者の乗っていた馬も、しばらく隔離すれば問題はなかった。

 ただ、主を亡くした馬のほとんどは、元気を失くしてすぐに枯れてしまうのだが。

 

「確かに夏草色の馬は、主と運命を共にするなんてタマじゃないですね。枯れる気は微塵も無さそうです。でも……」

 里を出奔している母に、新たに馬を配するのは難しい。

 

「風の聖地の神殿に奉納するとか、そんな名目をでっち上げて下さい。融通がききませんね、次期長でしょう?」

 このヒトが言い出したら聞かない事も、ナーガは知っていた。

 

 

 

「あの方らしいな。賢明だ」

 ノスリ長はあっさり承諾した。

「いいんですか?」

 

「あの馬は高空気流が大好きだ。誰が乗っても高空飛行が出来ちまう。もっとも、乗っていられればの話だが。要するに、地上から神殿への経路を絶っておきたいんだ、神殿の守り人殿は」

 

 ナーガはそこでやっと母の考えに気付いた。

(僕はまだまだだな……)

 

 

 ***

 

 

 その後すぐに神殿に夏草色の馬を届けたのだが、今、それ以来初めてこの丘を訪れている。

 指輪を埋めた時にナーガが里から持って来た金鈴花がきちんと根付いて、小さな群落となっている。

 上手く増えれば、山の神殿からもこの黄金色が見られるかもしれない、そう思って植えたのだが、今日はケルンの下に別の色が見えた。

 それで思わず、「あれ?」と声が出たのだ。

 

 近付いて見ると、幾本かの手折られた花。

 古い物らしく干からびているが、どう見ても風で飛んで来た感じじゃない、誰かが供えてくれた物だ。

「母上? いやまさか、何があっても山を降りるヒトじゃないし」

 

 考え込んだナーガだったが、ふと横を見て、思考が中断された。

 そこに居た子供が消えている。

「シンリィ!?」

 慌てて見回すと、羽根の子供は、丘の麓の森林との切れ目で座り込んでいた。

 周りを小さい木霊達が囲んで、羽根を突ついたり引っ張ったりしている。

 

 ナーガは息を吐いて、坂を下りた。

 あの用心深い木霊があんなにワラワラと集まるなんて、よっぽど無害に見えるんだな、あの子供。

 

「シンリィ」

 ナーガがもう一度呼ぶと、木霊達は森へ散り、子供はキョロキョロと辺りを見回した。

「おいで。お祖父様のお墓に参るって、昨日教えたよね」

 

 ナーガに誘(いざな)われてケルンの前に来たシンリィは、にわかに目を煌(きら)めかせ、枯れた花に手を伸ばした。

 

「ああ、シンリィ。それは誰かがお供えしてくれた物だから、駄目だよ」

 

 言い終わる前に子供は先程の場所へ駆け戻り、藪の中に頭を突っ込んだかと思うと、一本の白い花を摘んで来た。

 葉の形が供えられていた物と同じだ。

 

「ああ、きっとこの花だね」

 森の下生えに混じって咲く、名もない目立たない花。

「シンリィもお供えしてくれるの?」

 

 子供がケルンの前にしゃがんでいる間に、ナーガは深緑の馬を引いて来た。

「これからお祖母様にも会いに行くんだよ。あのヒトはお前のお母さんが大好きだったんだ。だからきっとお前の事も大好きになってくれるよ」

 

 

 

 シンリィにとって、この世は複雑で分からない記号だらけだ

 

 だけれど、色んな所に色んな仕掛けがひっそりと隠されている

 

 それは、ちょっと、面白いコトだ

 

 

 ***

 

 

 夏草色の馬を届けた後、母の神殿には中々来られなかった。

 里の復興と平行して、どこかで生きているかもしれない妹夫妻と子供を探す事に没頭して、毎日が一杯一杯だったのだ。

 

 何せ、自分の上に叔父の大長と、父はじめ三人の長が居てくれたのが、この十数年でノスリ長一人になってしまったのだ。

 そのノスリ長が泣き言も言わず、コツコツと何倍も働くので、ナーガも弱音を吐けなかった。

 

 だから今日は久し振りに母を訪れ、しかも行方知れずだった孫にも会わせてあげられるので、結構浮き立つ気持ちでいる。

 あのヒトの心に、この子供が、ちょっとでも灯(あかり)をともしてくれればいいな。

 

 シンリィは、鞍の前にシンリィ用に付けたベルトに掴まって、大人しくスンと乗っている。

 不思議なほど高空飛行を怖がらない。

 その辺は、父やユーフィの遺伝子なんだろうか。

 

 父だったら「サービスサービス♪」とか言って宙返りの一つもやってあげたんだろうな。

 僕はやってあげられなくてゴメンな。

 

 そんな事をぼぉっと考えていると、シンリィが内懐をチョンと引っ張った。

「あっ」

 神殿を通り過ぎる所だった。

「ごめんごめん、ありがと、シンリィ」

 ナーガは深緑の馬を制して、ゆっくり下降しながら、ふと思考が止まった。

 

「…… ね、シンリィ、ここ、初めて来たんだよね……?」

 

 子供は降下は怖いのか、ベルトにしがみ着いて、近寄る雪の斜面をじっと見つめている。

 程無く、氷の石柱そびえるテラスの前庭に降り立った。

 

「んん?」

 いつもはすぐに気付いて出迎えてくれる母の姿が無い。

 玄関ホールに、母の馬と夏草色の馬が並んで、二人を見ているだけだ。

 

「何かで手が離せない? 眠っていても気付くヒトなのにな」

 

 ナーガはシンリィの手を引いて階段を登り、馬達の横をすり抜けて左手の居間の方へ向かった。

 馬は初対面のシンリィを鼻息荒く睨み付けたが、シンリィはキョンと眺めて通り過ぎた。

 

「あれ? 何だか」

 居間の扉を開いても母の姿は無かったが、いつもと違うのに気付いた。

 何がどうって訳じゃなく、何となく……?

 

 例えば、敷物の張り具合、酒瓶の場所、クッションの向き……

 ……微妙に……そう、微妙に、何かが違う……?

 

 その時、一番奥の衝立(ついたて)で仕切られている場所で、影が動いた。

 そちらは一段低くなっていて、大きな木のタライのある行水場だ。

 布の掛かった衝立の向こうで、白い湯気が上がっている。

 

「ああ、湯あみをしていたのか」

 

 ナーガは肩を降ろして、二、三歩居間に踏み入って……・・止まった。

 

 衝立の横の衣紋掛けに、明らかに母の物と違う衣服が掛かっている。

 そう……その…………どう見たって……男性用の……

 

 ナーガはシンリィの手を引いたまま、後退りして居間の扉を閉めた。

 

 

   ***

 

 

 まさかまさかまさかまさかいやいやいやいやいや……!!!

 ナーガは何回も何回も深呼吸して、自分を落ち着かせた。

 

 蒼の妖精は長く生きる分、何度か連れ合いを亡くしては、新たな縁を結んだりする。

 実際母には、自分達が生まれる前に、亡くした夫と子供がいたという。

 父が亡くなってまだ五年、もう五年なのか? いややっぱりまだ五年、よく分からない。

 

「そうだ、行き倒れた旅人に湯を恵んでいるだけかもしれない。そうだ、きっと、そうだ」

 孤立峰で行き倒れた旅人もない物だが、ナーガは無理やり納得しようとした。

 でも無意識にお子様のシンリィを後ろに追いやって、もう一度居間の扉を細く開けた。

 

 衣紋掛けの横の小机に、酒瓶と盃が二つ。

 水音の向こうに母の声。

 

「お背中、流しますか?」

 

 ナーガは、扉に手を掛けた仏像のような形のまま、フワフワと後退りした。

 

 そりゃ母は、息子の自分が言うのも何だが、トンでもなく美しい。

 だからって、何もそんな場面に出っくわさなくたって、いいじゃないかぁ……

 

 コツンと背中に当たったのは、夏草色の馬の鼻面。

「お前も、切なかろう」

 

 馬の鼻面を撫でようとしたナーガは、しかし馬の後ろにシンリィを見た。

「……シ……?」

 と言った所で、子供は無表情で馬の尻尾を思い切り引っ張った。

 

 夏草色の馬はピャアッと叫んで立ち上がり、前方に突進。

 即ち、細く開いたままの居間の扉に向かって。

 

「あ――っ!!」

 跳ね上げる馬の後脚からシンリィを庇う方が先だったので、ナーガは馬を抑えられなかった。

 馬は扉をブチ開けて、そのまま居間に駆け込み、躊躇なく奥の衝立に突っ込んだ。

 

「きゃあぁっ!!」

 母の悲鳴と、モウモウたる湯気。

 衝立とタライが破壊されるバキバキという音、ザバアと水の弾ける音。

 

 ・・・・・

 ナーガは恐る恐る顔を上げた。

 仰向けに庇われていたシンリィは、ボォッと天井を眺めている。

 

 水浸しの居間を見るのも怖いけれど、衝立の向こうを見るのはもっと怖い。

 ナーガは腹を決めて振り向いた。

 

 ――??

 倒れた衝立の向こうには、母が薄着で髪をまとめ上げ、腕捲りにたすき掛けしていたが…………一人だった。

 

「ナ、ナーガ?」

 呆然と、やっとそれだけ言う。

 

「母上、一体どうしたっていうんです?」

 ナーガはフラフラと母に近寄る。

 水浸しの床で足がピチャリと音を立てた。

 

「どうしたって、それはこっちの台詞です。な、何の恨みがあって……あ・あ・あ・もう、敷物が、家具が、水浸しじゃないの!」

 

「す、すみません」

 

 慌てて謝るナーガの横をすり抜けて、シンリィが女性の前に進み出て、ペコンとお辞儀をした。

 ここへ来る前に『初対面の挨拶』って奴を教え込んで来たのだが、何も、今しなくても……

 

「こ、この子……まあ、アナタ……」

 母は、興奮していた顔がみるみる治まり、ただ口をパクパクさせる。

 感動の出逢いにするつもりだったのに……

 

 ガッカリする事この上ないナーガだったが、更にシンリィの手元を見て、驚愕の顔になった。

 前に突き出したシンリィの両手には、白い小さな花が握られていた。

「も、持って来ちゃったのぉ?」

 てっきりケルンに供えたと思っていたのに。

 

 しかし女性は、その花とシンリィを見比べて、みるみる表情を崩した。

 たすき掛けをほどいて、両腕を大きく開く。

「おいで……」

 

 シンリィは水浸しの中を躊躇無く裸足でバシャバシャ歩いて、彼女の前に立った。

 

「よく来てくれました」

 水浸しの中、膝を折り、彼女は子供をふうわり抱き締めた。

 子供は素直に身を預けて目を閉じる。

 

 少し時間が流れて、女性は立ち上がった。

「さて」

 子供の肩を抱いて、水の来ていない椅子とテーブルの方へ誘(いざな)う。

「お菓子食べますか? ああ、暖かい飲み物の方がいいわね。貴方はここに座っているのよ。

・・ナーガ」

 

「は、はい」

 茫然と突っ立っていた息子は、弾かれたように返事をした。

 

「私(わたくし)は着替えて来ます。ここの片付けをお願いしますね。床に水滴一つ残さぬよう」

「は……い……」

 

 腑に落ちないモノを感じながら、床を拭き敷物を乾かすナーガの横で、シンリィは言い付け通り椅子から動かないで、足をブラブラさせていた。

 

 この小悪魔……!

 

 衝立(ついたて)やタライも修繕して、ようよう一息付いた頃、母は柔い部屋着に着替え、子供の世話をあれこれ焼いていた。

 白い花は大切にコップに生けられ、シンリィは大人しくされるがままだ。

 

「あのお……僕も、お茶を頂いて、宜しいでしょうか……」

「ああ、そこにお湯が沸いてるから、自分で入れて下さいね」

 いそいそと、甘い菓子を子供の前に並べながら、母は素っ気なく答える。

 

 取りあえず自分で注いだ紅茶をすすりながら、椅子に落ち着いたナーガは、そぉおっと聞いてみた。

「お背中流しますか……って、空耳かなあ……?」

 

 女性はヒタリと停止した。

 

「それに、あれ、どう見たって、男性用の肌着……ですよね」

 水浸しの床から拾い上げた肌着が、暖炉前に情けなく吊るされている。

 

「あっあれはっ・・ツバクロ殿、貴方のお父様の物ですっっ」

「はぁ、父上の?」

 確かに、神殿に滞在する事もあった父の衣服が残っていても不思議じゃない……が。

 

「あの……えと……」

 ナーガは心配顔になって、マジマジと母を見た。

「大丈夫ですか? 母上」

「大丈夫です……」

 

「父上は、亡くなったんですよ……分かりますよね?」

「ごっこ遊び、です」

「は?」

 

「だって、退屈だったんですもの!!」

 女性は下を向いて真っ赤になって、両手で顔を覆った。

 

「ツバクロ殿が夏草色の馬で降りて来て、居間へ誘(いざな)ってお酒を勧めて、湯あみの世話をしてって、『居る』つもりでやっていたんです。笑っていいですよ。物凄く退屈だったんですもの!」

 

「そ、それで……その、『エアーツバクロごっこ』……をやっていたんですか? わざわざ湯まで沸かして?」

「エアーナーガの時も、エアーユーフィ夫妻の時もありました」

「……………………」

 

 ナーガは、物凄く大切な大切な大切な事が抜け落ちていた自分に、茫然とした。

 父も、妹も、そして大長もいない今、この神殿に足を運べるのは、自分一人しかいないではないか。

 

「すみません……あの……」

 

「いいんです。里が大変なのは分かっています。この子を探すのだって、一筋縄では行かなかったのでしょう?」

 

「いえ、でも……そう、僕はいつもそうで……すみません、ユーフィも護れなくて」

 言ってしまってからナーガはハッとした。

 前回も前々回の訪問時も、口に出せなかった言葉だ。

 

 慌てて前を見ると、母も真顔になってナーガをじっと見ている。

 

 ずっとずっと……ずっとずっと……戻せない時間は、皆の心に爪を立てている。

 

「あの子は、貴方の事をいつも誇りに思っていました。だから自分の欲望を優先したくなった時、身を引いたんです。妹ってそんなものなんです。だから……」

 言葉を重ねる毎にナーガが俯(うつむ)いて、これ以上喋ると消えてしまいそうになったので、母は黙った。

 

 俯くナーガの前に、スプーンが差し出された。

 妹と同じ瞳の子供が、神妙な顔で、蜂蜜の乗ったスプーンを突き出している。

 ナーガはシンリィの頭をクシャクシャと撫でて、それを口に含んだ。

 頬の内側が心と共に溶けそうになった。

 そうして、今、妹が、自分にこの子を遺してくれた事実を、噛みしめる。

 

 

 ***

 

 

「私(わたくし)の事は気にせずとも大丈夫です。馬達もいますし、氷蝙蝠(コォリコウモリ)などの生き物もたまに来るので、まったくの独りぼっちでもないのですよ。夏草色の馬を独りで飛ばしてやると、面白いお土産を持って帰ってくれたりもしますし」

 母は、明るい顔でナーガに言った。

「それに、私はこの神殿が大切なのです。貴方達やツバクロ殿との思い出が、沢山詰まっていますからね」

 シンリィの食べかすを取ってあげる仕草は、ナーガにとっても、どこか懐かしい物だった。

 

「蒼い月を眺めがら、ツバクロ殿の馬頭琴を聞くのが大好きでした。今日はそこまで演じるつもりだったのに、邪魔が入ってしまいました」

「はあ、すみません」

「ふふ」

 久し振りに、少女のような顔で母は笑った。

 

 

「あの」

 陽が落ちかけて、帰りがけ、ナーガはちょっとはにかんで振り向いた。

「馬頭琴、練習します。父には及ばないだろうけれど」

「楽しみです」

 母は、やっとしみじみ、息子の顔を見た。

 

「シンリィ、帰るよ、シンリィ」

 羽根の子供が居間から駆けて来た。

 

「お菓子は持たせて貰ったから。一度にあんまり食べるとお腹を壊すぞ」

「何事も経験させなさい」

 

 母の有り難くも無茶苦茶な言葉を頂いて、深緑の馬は二人を乗せて飛び立った。

 

 女性はその姿が点になるまで見送って、幸福感を噛み締めながら、居間に戻った。

 

 

 居間の暖炉の前には、ガチガチ歯の根も合わない彼女の兄が、うずくまっていた。

「酷いですよ。一旦外に誘うとか、方法はあったでしょう」

「あら、私だって『アブナイヒト』を演じざるを得なかったんだから、おアイコですよ」

「おアイコですかぁ?」

 

 

 

 ・・・・・

 十数年行方知れずだった兄……大長が、夏草色の馬に乗せられて、この神殿に突然訪れたのは数日前。

 出先でやはり黒い疫病を貰ってしまい、霊山の氷室に籠って、ひたすら回復に努めていたという。

「一か八かでした。一時はダメだったかもしれません。外に居た闘牙の馬が、枯れてしまっていましたから」

 奇跡的に生還を果たし氷室を這い出した物の、馬がいないしさてどうしよう……とウロウロしていた目の前に、夏草色の馬が舞い降りて来た、との事。

 まったくどこまでも飄々と、悪運だけは強いヒト、と、妹は思う。

 

「里に、無事だけでも報せればいいのに。皆心配していますよ」

「んん・・ 皆、私が居ない状態で回しているのでしょう? そこに割って入るのは、何だか勿体ない気がしましてねぇ」

 

 そんな事を言うので、神殿で匿(かくま)い、今日は湯あみを世話していたのだが。

 夏草色の馬に襲撃され、一瞬を突いて馬の背中を踏み台に天井の物置に隠れたはいいが、兄は客人が帰るまで、半裸で震えながらそこで待つ羽目になっていた。

 まぁ、気にしていなかった訳ではないが、里の皆に心配をかけておいて、何だかフリーを満喫している兄に、ちょっと意地悪をしてみたい気持ちもあった。

 ・・・・・

 

 

 妹は罰悪そうに兄にガウンを被せた。

 兄は熱い蜂蜜湯をすすりながら、妹を責めるのを止めた。

 

 それからシンリィの持って来た白い花を、二人で見やる。

「大した子供ですねぇ。私が天井に逃げる隙を作ってくれました。あれ、打算じゃなくナチュラルにやっているんでしょうかねぇ」

 天井に這い上がりながら目が合った仰向けの子供は、瞬きもしないでこちらをジッと見ているだけだった。

 

「兄様が蒼の里から身を隠していたい理由なんか、あの子には知る由もないだろうから、本当に感覚のまま動いているだけでしょう」

「さすが、カワセミの血を引いているだけありますね」

 大長は、さっき天井に向かってサヨナラと振ってくれた小さな手を思い出して、笑みを溢した。

 

「呑気ですね。本当に里に戻らないんですか?」

 

「う~ん・・ノスリもナーガも本当に立派になったようだし、私はもう居ない存在になった方が良いと思いませんか?」

 

 妹は、それを否定するのをやめた。

 思えば、物心付く頃からずっと『長』を背負って来た兄だ。何者でもない身になったのは初めてではないか。ここいらで少々我が儘を通すのも、有りと言えば有りだろう。

 

「兄様の好きにされたら? 何かあってもナーガが何とかしますから」

 

「そうですね、彼は本当に頼もしくなった、まだたまに抜けているけれど」

 

 

 ***

 

 

「あれ?」

 帰り道の馬上、ナーガは、シンリィの懐から覗く白い花に気付いた。

「残っていたのか。そういえば、ケルンの方の枯れた花、誰が置いてくれたんだろう?」

 

 子供は懐で甘い匂いをさせて寝息を立てている。

「まあいいか。いい一日だった。明日からまた忙しいぞ」

 

 

 ***

 

 

 大長はテーブルの上の白い花に手をかざして、また目を細める。

 遠く離れていても、花を手折って供えるくらいの事をやってのける者を、彼は知っていた。

 

 明日の朝には、夏草色の馬を借りて、ここを発とうと思う。

 里から離れて肩書を外した今、長年の懸念と向き合う時が来たのだろう。

 これから、自分なりに遠くから、『風の末裔の一族』を支えて行く心づもりだ。

 

 フタリシズカ・・・

 一つの茎から二つの花房を伸ばすこの花は、『離れていてもいつまでも共に』という意味がある。

 

 

 

 

 

 

 シンリィにとって、この世は複雑な分からない記号だらけだ

 

 だけれど、色んな所に色んな仕掛けがひっそりと隠されている

 

 それは、ちょっと、素敵なコトだ

 

 

 

 

          ~フタリシズカ・了~

 

 

 

 

 

 

 

 

 




 
続編に取りかかっているので、投稿しました
読んで頂いてありがとうございます


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