百合習作 (SWORD Team HQ)
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エンター・ザ・ナイト

 たぶん、今日が一番最悪の気分だった。すえた安アパートの匂い。転がった缶からこぼれたアルコール。テーブルの上に無造作に投げうたれた拳銃。そして、天井から吊した白い縄。首をくくってしまえば、その縄も見えなくなるので、幾分かましではあった。あと数秒もすれば血圧が低下、意識が落ちて、数分もすれば脳細胞の破壊が絶望的な状況になる。ばがんばがんという銃声。この町では日常茶飯事だ。そんな生活音も、もうあと少しで二度と聞こえなくなる。そんなことを考えながら、私はだらんと下げた自分の腕を見た。視界がかすんでくる。南米のぬるい風の温度がどんどん冷たくなって、世界から音が消えていく。そして最後に聞いたのが、どすん、と電話帳を落としたような音だった。

 

 

 

 

 ひどく頭を打ち付けて、私の精神は一気に覚醒した。

「う……?」

 べっとりと頬に、冷たい感触。安物のフェイク・フローリングだ。うめき声。

「それ、Mk25?」

 不意に、声がかかる。私はどうにか首を捻ると、声の主を見上げた。

「そのテーブルの上の」

 それは女だった。それも、かなり美しい部類の。薄く広がる鋭い目に、背景から浮き上がったような白い肌。片側のもみあげは長く垂れ、首には十字架のついたロザリオを提げていた。右手には拳銃が握られていて――多分グロックの45口径モデル。エクステンドマガジン、銃身長不明、オスプレイ・サプレッサー装備、と脳が勝手に判断を下す――その銃口からは、煙草のように白煙が立ち上る。相当連続発射したのだろう。よく見れば、身体のあちこちに小さく返り血が付いていた。靴は動きやすいトレッキングシューズ。しなやかな肢体の動きを阻害する装飾品はなし。プロだ。

「錨のマークにUIDコード。脱柵? アンダーカバー? は、ありえないか……じゃあ何? お姉さん、海軍さんでしょ」

 そうやって、彼女は銃口でくるくると円を描いた。

「……わからない」

 私は、ぽつりと答えた。

 よく考えれば、縄で首を括らなくても、口にMk25の銃口を突っ込んで、引き金を引いてしまえば終わりだった。なぜ、そうしなかったのがわからない。とにかく、そうするのは嫌だった。仕事道具を、自分の甘ったれた感情のために使うのは。この無骨で無愛想な金属の塊を、くだらない感傷に付き合わせるのは、申し訳なかった。

「あっそ」

 そう言うと、彼女は肩をすくめて、踵を返した。私の首から伸びる白い縄の先は、黒く焦げて千切れていた。

 

 

 

 

 

 翌朝、私はカバンの底に入っていた賞味期限切れのエネルギー・バーを胃に放り込むと、拳銃をベルトに挟んで、町外れの教会へと向かった。

 この町は南米の中でもまあまあ都会な場所だったが、近くに大きな畑がいくつもある田舎でもあった。ダウン・タウンの方には背の高い建物も密集しているが、外れに来ると、大きな十字架を額に載せた教会は、ずいぶん目立つ存在だった。

 結局自殺は失敗してしまった。縄はおそらく、45口径の弾丸にきれいに撃ち抜かれて、私の体重に耐えきれず事切れてしまったようだった。

 事切れたといえば、階下の住人だ。朝、階段を降りていくと、警察の連中がうろうろとしているのを見かけた。どうやら、アパートの下の階に巣食っていた麻薬グループが、一人残さず殺されていたらしい。昨日の銃声が何かと思えばそれか、と合点が行きつつ、朦朧とした頭で見たグロックの銃口を私は思い出していた。まさか、と。

 そんなことを考えながら歩いていれば、もう教会は目と鼻の先だった。

 大きなトラックが横に二台ほど停まっていて、なにやら荷物の上げ下ろしをしているようだった。私はついと通り過ぎると、大きな門へと向かった。ヨーロッパとは違う、どことなくインカ文明の影響を受けたようにも思えるそのエスニックな佇まいは、どこか浮いたままの私の気持ちを慰めた。

 教会へ来たのは、たぶん懺悔のためだ。別段、そこまで信心深い方ではなかったが、子供の頃には日曜学校に行っていた。全ての繋がりが切れて、社会的にもほとんど死んだ状態の私に残されたのは、この細い糸しかなかったのだ。具体的にどうしよう、などとはあまり決めていなかった。とにかく、自然に脚が動いていた。あのまま部屋で朽ちるのには、タイミングを逸してしまったからだ。

 ひんやりとした静謐な空気が、高い天井に渦巻いていた。懺悔室はどこだろう。

「告解ですか?」

 よく伸びるシスターの高い声が、後ろから聞こえた。

「ええ、まあ」

 私は振り返って、そのシスターの顔をまじまじと眺めた。

「あれ」

向こうも気づいたようだった。同じ目鼻立ち、同じロザリオとくれば、同一人物でない可能性は低いだろう。

「昨日の自殺ちゃん」

「昨日のグロック女」

ふたつの声が、重なった。

 

 

 

 

 どうせならお茶でも行こう、などというシスターらしからぬ言葉でもって、私は街へと逆戻りしていた。彼女は昨日と同じ黒いノースリーブのニットシャツと白いボタンダウンに着替えており、返り血はなかった。わたしはみすぼらしい古びた革ジャンと、よれよれのTシャツ、それにもう10年以上履きつぶしているリーバイスのデニム。

 テラスでコーヒーのカップを揺らしながら、彼女は笑う。起きたのが遅かったのか、もうすっかり昼下がりだ。太陽が正面から少し顔を背けている。

「ごめんね、今神父(ファザー)は留守でさ。下働きの大男はいるけど、脳みそまで筋肉で出来てそうなやつに懺悔を聞かれたくないでしょ?」

 ざっくばらんな言葉遣いとは裏腹に、上品な所作で彼女はカップに口をつけた。

「それで、何を話したいの。人間関係? 子供のこと? 仕事のこと?」

「全部だ」

 私はつぶやいた。正直、こんな街角で話すことでもなかったが、半ば自棄だった。

「私はSEALsだ。いや、SEALだった、と言ったらいいのか……」

「やっぱりアメリカ海軍だ」

「特殊部隊の女性参加プログラムがあっただろう。あれで、私はFBIのSWATチームから転属になったんだ。SEALの訓練はパスしたし、ほとんどSEALチームの隊員と変わらなかった。M4ライフルを持って、テロリストやドラッグの製造グループを殺すのが仕事だった」

「ふうん」

彼女は興味深げに、目を細めた。

「自分のチームは私の存在や実力について、ずいぶん疑っていたが……結果を出して黙らせた。女がマッチョの中で生きるには、自分がマッチョになるのが早い」

「名誉男性ってやつ?」

「フェミニズム研究は大学の教養で取った以来だよ。とにかく、私達は実力を示した。他の誰も見つけられなかったターゲットや爆弾を発見したし、怪しいスパイの女も摘発した。一緒にいる女の仲間も多かったし、まあ楽しかったよ。そんなふうにして、あの任務についた。ティフアナ・カルテルの下部組織の一つを潰すために、麻薬取締局(DEA)の特殊部隊と合同で強襲作戦を実施することになった。攻撃はうまく行って、あとは撤収だけだったが、運悪く私達の乗ったブラックホーク(ヘリコプター)は攻撃され、撃墜された」

 私はそこで話を切ると、黒い泥水に口をつけた。

「RPGの破片が下腹部に直撃した。お高くて重いセラミック・プレートは心臓や肺を守ってくれたが、子宮は守ってくれなかった。そこにいた、小さい命も」

 私は、少しだけ微笑んだ。

「最後の任務だった。私は27歳までには子供を産む予定だったし、妊娠の兆候が発覚したのは出撃の数時間前だった。部隊の責任者にだけ伝えて、私はブラックホークを降りたら、その足で本国に帰還する予定だった。結局、部隊は全員、私の妊娠を知ることなく、死んだ」

 今でもはっきりと覚えている。まず最初に、誰かがRPG!と叫んだ。瞬間、激しい衝撃。激痛。けたたましい警報。揺れる機体。――オートローテーションを!――燃料が漏れている!――メイデイ、メイデイ――瀑布のような、激しい銃撃音。機体に据え付けられたドアガンのM134ガトリングがまばゆいオレンジ色を吐き出す。機体の外板に敵の重機関銃の弾丸が当たっている音がした。機内に飛び込んだ弾丸が跳ね回り、目の前の隊員の脳を砕いた。

「墜落後、運良く生き延びた私は命からがら逃げ出して、22時間後に空軍の特殊部隊(パラレスキュー)に救出された。あと15分発見が遅れていたら、死んでいたそうだ」

無人機(ドローン)のバックアップは?」

「なかった。もちろん、戦闘ヘリもだ。洋上から発進したブラックホーク三機による回収作戦だった。アフガニスタンでもない土地で、充実した護衛をつけるという発想がそもそもなかったんだろう。……医者は、腹の子が身を呈して守ってくれたんだろう、と言った。ばかな話だ。結局、大きな金属片が食い込んで、子宮は全摘出するしかなかった」

 墜落したあと、瀕死の私は右手にMk25ピストルを握っていたらしい。ライフルを失い、F-16も飛んでこないあの絶望的な戦場で、最後に残っていた武器だった。あの地獄の22時間を共に生き延びたこの物言わぬ金属の彼を、私は他人だとは思えなかった。現場も混乱していたため、救出の過程で紛失したとして、私は彼を引き取った。

 ああ、今わかった。絶望的な状況下で、必死にあがき生存しようとした私に付き合ってくれた彼を、今更死のうなんて情けないことをするのに使いたくなかったのだ。

「夫とは、それをきっかけに関係が拗れて、離婚した。アメリカ軍は、負傷して長く入院した私を厄介払いとばかりに内勤に押し込んだ。任務も、部隊も、家族も、すべてを失った。気付いたら、ここにいた」

 私は革ジャンのポケットに手を突っ込むと、もそり、と背もたれに沈み込んだ。夕陽が差し始めている。

 

 

 

 その子に会ったのは、ただの偶然だった。

 今回の仕事は、ある組織の構成員の頭に一発ずつ鉛玉を撃ち込んで帰ってくる内容だった。無警戒のアジトに突入し、一人ひとり、端から撃っていった。中には抵抗しようと銃を持つものもいたが、ほとんどを撃たれる前に処理した。撃たれたあとでも、慎重に処理すれば問題ない。

 だいたい掃討し終えて、私はふと撃ち漏らしがあったら怖いな、と思いついた。その場で死体に一発ずつ弾丸を追加したあと、上の階へと向かった。たまたまドアが開いている部屋があったので、ちらりと覗いてみれば、なにやら見飽きたシルエットがゆらゆらと窓に浮かんでいる。ああ、そういうことか、と思った直後に、部屋の片隅に武器を発見したーー仕事柄、ナイフとか、包丁とか、斧とか、銃とか、そうした人を傷つけられそうなものには敏感になるーーSIG SAUERのP226。アメリカ海軍仕様のMk25、それに二次元バーコードが印刷された管理用のUIDコード……官給品? まさか。

 私の勘がピリリと違和感を告げた。次の瞬間には、その女の子の首を締めていた紐を撃っていた。

 どさり、と落ちた女の子が、うめき声を上げる。よかった、生きている。ならば、質問ができる。

「それ、Mk25?」

 聞くと、首が回って、目がこちらを見た。そしてその瞬間、私は電撃に打たれたような衝撃を受けたのだ。

 まるで、武器だった。武器そのものだった。私の体に備えられた、武器を検知するセンサーみたいな感覚、それが一斉にわめき出した。余計なものが一切削ぎ落とされて、ただ力そのものになったかのような……ただ無造作に床に置かれた、剥き身のブロードソードのような危うさと鋭さだった。

「そのテーブルの上の」

 私は、努めて冷静に聞く。彼女はまだ、全ての感傷や、この世の何もかもを映していないような空っぽの瞳で、こちらを見ていた。

 素晴らしかった。私が今までの人生の中で、握り、人の首を切り落としてきたどんなナイフよりも、激しく、そして魅力的に見えた。きっと私が彼女を握って振るえば、百人くらい一気に殺せるんじゃないか、と馬鹿げた思いが湧き出てくるくらいに、彼女は素敵だった。そう、私はひと目見ただけで、彼女に惚れ込んでしまったのだった。

「錨のマークにUIDコード。脱柵? アンダーカバー? は、ありえないか……じゃあ何? お姉さん、海軍さんでしょ」

 わざと揺さぶりをかけてみる。すると彼女は、困ったような、少し悲しそうな顔をしながら、ただ一言、「わからない」とつぶやいた。

 その時の表情が、まるで月の光に当てた刀身の揺らぎのようで、私の頭は一気に沸騰仕掛けた。

 結局、そっけない返事を残して、その場を立ち去るのが限界だった。

 その日は真っ直ぐ教会に帰って、神父に仕事の報告をした。いつものように彼は「よくやった」とだけ言って、目を閉じた。私が麻薬カルテルの傭兵組織を飛び出してから数年経つが、彼はその間ずっと一緒にやってきた仲間だ。元英軍らしく、変に真面目で、かと思えば裏表を作るのがうまい。いろいろ不器用な人間なので、いざというときは私やもう一人の仲間――下働きの大男で、名をカルロスという――が大立ち回りする、という役割だ。

 彼は最後に、明日は不在だから荷卸は大男に任せる、お前は適当に来た客を追い返してくれ、との命令を出した。私は喜んで、と答えたが、その間もずっと考えていたのは、あの剣のような――いや、もはや現代でもっとも洗練された武器、「銃」そのもの言っていい――彼女の事だった。

 まるで私は初恋をした乙女のように、枕を抱いて寝た。

 翌朝、私は毎日の糧に手を合わせていただくと、愛用のグロック21をベルト正面のコンシールド・ホルスターに入れ、修道服を着て教会の掃除へと向かった。

 庭ではカルロスがメキシコ海兵隊から流出した装備品を積み下ろしている。私は柄にもなくうきうきした気分で箒を持つと、聖堂の端の方から埃を掃こうとしていた。まさに、その時だった。

 からんころん、とドアを開けて、一人のの人間が入ってきた。その影はゆらり、と現実感なく揺れながら、みし、みしと床を鳴らして、祭壇の方へと歩いて行った。

 私はうっかり足音を消しながら、声をかける。

「告解ですか?」

 彼女は振り返って、私の顔をまじまじと見た。私はわざとらしく「あれ」と声をあげると、必死に言葉をひねり出す。

「昨日のグロック女」

「昨日の自殺ちゃん」

 失敗だっただろうか。

 

 

 

 

「私の話はこれで終わりだよ、次はあんただな」

 私がそう言うと、細い目を広げて彼女は驚いた顔をした。

「え、あれ? 私の?」

「あんたのだよ」

 私は背もたれに沈み込んだまま、ぼそぼそと呟いた。

「懺悔室じゃないんだから、私だけ話すのは不公平だ」

「ああ、なるほど、それじゃ……」

 彼女は恥ずかしそうにはみかみながら、少しセーターを持ち上げて、その白いへそと……その下の拳銃を見せた。

「君が昨日見たのは夢じゃないよ」

「あんたがやったのか」

 私の脳裏にあるのは、昨日の大量殺人だ。あの連中は確か、ショットガンや拳銃で武装していた。それが複数人いたはずだ。手傷を負わずに、それを全員やるのは、相当な手練れでないと難しい。と、私の兵隊としての本能が告げていた。

「そうだよ」

 彼女は、きわめて淡々と話すように、言葉を選んでいるようだった。

「私は数年前まで、カルテルの傭兵だった。小さいころから兵士として、ハッパとガンパウダーを嗅がされながら育ってきた。ちょっと前にそういう連中に嫌気が差して――全員殺して逃げた。その時に助けてくれたのが、うちの神父」

「殺し屋か」

「似たようなものかな」

 彼女は笑って言った。

「たくさん殺してきた。ピストル、ライフル、狙撃銃、ナイフ。石とか、素手でも」

「ずいぶん活きのいいシスターだな」

「まあね。でも君も――」

 彼女が言葉を止めるよりも早く、私の背筋を鋭い悪寒が襲った。直後、彼女も硬直する。何か来る――一秒後、人ごみを縫って、彼女の背後に男が現れた。

「エセシスターめ!兄弟の仇だ!」

 拳銃を抜かれる。彼女は左手で勢いよく服を上に持ち上げると、露になった腹からグロックを抜こうとして、一瞬私の背後に目をやった。ああ、なるほど、と私の頭が理解する。彼女の反応が一瞬遅れる。私の瞳は、意識せず彼女の視線を確認。二人かな、と目算を着ける。多分間に合わないだろう。と、思った瞬間には、跳ね上げた右足がテーブルを蹴り倒していた。同時に、グロックを抜きかけていた彼女の首根っこを掴んで、引き倒す。そして、彼女の首に手を伸ばしたころには、私の右手は腰からMk25を抜いていた。

「私は六時」

 引き倒しながら、私は告げる。衝撃、背中から落下。間髪入れずに、私は引き金を引いた。まず一人目。マシンピストルを持っている。脅威度高。腹に一発。次。拳銃を持った男。腹に一発。すかさず、先に撃った男がよろめいたところで、胸、首あたりに二発。戻して二人め、ゆっくり落ち着いて、頭部に一発。

 だがががん、と9ミリの轟音が耳に届いたところで、私は初めて、地面に倒れながら銃を撃っていることに気付いた。

ばがん、ばがんと大きな発砲音。グロック21だ。やはり45口径。正面の、最初に声をあげた男の顔がぱっくりと割れていた。どさり、と体が倒れる音。私の目は素早くあたりを見渡して、他に脅威目標がいないか調べる。もちろん、銃口も一緒に。クリアだ。

 あたりを、劈く悲鳴がこだました。

 しまった。やってしまった。ほとんど自動的に体が動いた。くそ。昨日まではあんなに死にたかったのに。武器を持った相手が現れた途端にこれだ。ぼうっとしていたのが悪かったのか。自暴自棄になっていても、どうやら叩き込まれた訓練は簡単には抜けてくれないらしい。

「悪い、つい――」

 地面に転ばせた彼女に謝ろうとして、私は言葉を止めた。

 何故なら、彼女の唇が、私の唇を塞いでいたからだ。

「んう……」

 しかも、離れない。私はしばし硬直したのちに、思わず後ろへとひっくり返った。

「い、いったい何を」

「さいっこう!!!」

 彼女は、はちきれんばかりの笑顔で叫んだ。

「私、君のことが大好きだ」

 何を言われたのかわからなかった。私は呆けた顔のまま、彼女を見つめた。

「君は最高だよ。私が今までに手にしてきたどんな武器よりも、ああ、最高だ……」

 彼女は恍惚としながら、私の腰に手を回して、身体を擦りつけてきた。

「お、おい」

「ああ、そうだ」

 彼女はふと気づいたような声をあげると、顔をあげて言った。

「私はエマ。君は?」

 細い瞼の奥から、きらきらと輝く虹彩が、私を貫いていた。

「……クロエ。クロエ・ピアース」

「クロエ!いい名前だ」

 彼女が手を叩く。路地の向こう側から、パトカーのサイレンの音が聞こえてきた。

「おっと、そろそろ不味い、行こうか」

 エマは立ち上がると、手で埃を払った。

「行くって、どこへ」

 私が聞くと、彼女はその大きな口をにんまりと三日月の形にした。

「夜さ」

 雲が赤く輝いている。私はベルトにMk25をねじ込むと、彼女に手を引かれながら、走った。

 どう思う? ふと思い至って、腰の彼に聞く。845グラムの金属の塊は、何も言わずにばたばたと服の下で暴れた。

 

 

 

 

 

 

 

おわり

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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~ボイネコ、とろける、独占欲の夏2(7)19~

 短い前髪が好きだ。短い後ろ襟が好きだ。刈り上げたもみあげが好きだ。私はアタシが好きだ。アタシの見た目が好きだ。そうやって、超硬度アクリル複合透過パネルに反射した、自分の毛先を見る。

 その向こうに、お目当ての首が見える。距離600。レンジ、イン。ロック。

 

「メイ、バックアップ。私が出る」

 

「あ、ちょっと、シェリー」

 

「行くぞ!」

 

 アタシはハッチを蹴り上げると、時速200キロで滑空する航空/宙空間戦闘機から飛び出した。ぶわり、夏の風。ねっとりとした湿度が、私の頬を撫でる。

 

『でええ!? 馬鹿か、おまえ!』無線が絶叫。

 

「バカでケッコー! 無法も通せばただの法だぜ!」

 

 そのまま宙返りをずると、高速道路の上、必死に逃走する青いスポーツカーの上に、飛び降りた。と、言うには、いささか乱暴だったかもしれない。軋むフレーム、水素エンジンの悲鳴。

 

「うわあ! お前頭おかしいのか!?」

 

 先ほどとは違い、生の声で男が叫んだ。

 

「おかしいのさ、とっくになあ!」

 

 アタシはとっくに時代遅れになったリボルバーを腰から抜くと、粉々に砕けたフロントガラス越しに、銃口を突き付けた。

 

「おいくそったれ。罪状は公序良俗法違反、強盗殺人、誘拐、薬物売買、殺人教唆、詐欺、ええとあと……わかんねえや、鉛玉10発分ってとこだな」

 

「こんの……”市民の味方、名誉私立探偵シェリー”の名前はどこ行った! このメスゴリラめ!」

 

 がしゅう、とアタシの美しい義脚から、冷却用のガスが噴出。

 

「ただのトラブルスイーパーを勝手にありがたがって喜んでるやつの好きにさせてよお、何が悪いってんだ? とにかく、アタシは軍警ほど優しくないし、あいつらよりも馬鹿じゃねえ。見ろよ、このクレバーな捕り物を。ゴリラにゃできないぜ」

 

「ン馬鹿野郎! ゴリラは旧式戦闘機からジャンプしねえし、だいたいそんなペッタンコなムネが人間のメスかよ!」

 

「あー……? わかった、鉛玉20発分だな」

 

「おーい、わかった。わかった、話し合おう。実は今ハンドル握ってねえんだ。自動で直線走行はしてるが、このままじゃ次のヘアピンカーブで二人ともシリウスの彼方までブッ飛ぶぜ?」

 

「5秒あれば足りんだろ。ごー、よーん……」

 

「頼むよ、今額にアナボコが開いたらせっかく考えた口説き文句が流れ出しちまう」

 

「アタシが大事に拾ってやるよ。天国へのエレベーターがそろそろ来るぜ」

 

「俺ァ天国になんか行けるわけねえだろバカ!!」

 

 ぎゃり、とハンドルが切られる。

 

「ンなろっ」

 

 アタシは凹んだエンジンカウルに手をかける。蛇行するスポーツカーが、必死に追手を振りほどこうと暴れている。

 

「観念しやがれ! 明日の太陽はお前のためには上らないぜ!」

 

「ほざけチンピラ女!」

 

「テメーに言われたかねえぞ半グレがあ!」

 

『シェリー、次の直線、あと12秒、警察の検問がある。それまでに止めて』

 

「人遣いが荒いねえ、お嬢様!」

 

「ブッ飛べえ!」

 

 男がハンドルを切り返す。

 

「どわっ」

 

いきおい、リボルバーが宙に舞う。そのまま、車の後部座席、貴金属で膨れ上がった鞄の上へ。

 

「はっ、ヘヘッ、運の尽きだなア、私立探偵!」

 

 男は嬉しそうに、自分の懐から拳銃を抜く。その銃口は、ぴたり、

 

「そうかなあ」

 

 アタシに向く前に、やつの指ごと吹き飛んだ。答えは簡単。アタシがやつよりも早く、もう一丁の拳銃を――最新鋭のポリカーボン・オートピストルを抜いて、撃っていたからだった。

 

「は?」

 

「難しいなら、無理にわかる必要はねえよ」

 

 あっけにとられた奴に鼻を鳴らして、私は全弾を右のタイヤに撃ち込んだ。当然、車は激しいスピンを起こし――トンネルを抜ける、輝くオレンジのナトリウムランプ――火花をあげながら、停止。ちょうど、パトカーの列の目の前だった。

 

「やあ、お仕事ご苦労さんです。連続宝石強盗、善意の市民による現行犯逮捕権を行使し、ただいま捕まえましたあ」

 

 アタシはニヒルに笑うと、運転席で目を回している男の首根っこをひっつかんで、振り回した。

 

「動くなア!」

 

 ところが、信じられない事が起こった。その場にいる憲兵の銃口は、なぜかアタシに。

 

「へ、なんで?」

 

「毎度毎度、法治都市の上空を無許可の戦闘爆撃機で飛び回り、挙句の果てにカーチェイスならぬファイター・チェイスまでやらかしおって!」

 

 拡声器を手に、初老の男が大声で怒鳴った。

 

「ありゃ、話が違うぜハムチーズ警部。役所の許可は取ってあるし、対惑星爆撃用のAGモードAIは外してあるよう」

 

「橋藻棟図だ! 無能の都市運輸物流局の仕事ぶりはどうでもいい! 今日という今日は我慢ならんぞ! このどうしようもないアバズ――」

 

「キャーッッ!!! シェリー様ァー!!」

 

 突然、パトカーが文字通りひっくり返った。

 わあ、と悲鳴も上げる間もなく、重武装のSWATたちが女たちのピンヒールに踏みつぶされていく。アーメン。複合セラミックの防弾チョッキがあるんだから、死にはしないだろ。

 

「やあ、今日はどうしたんだ、えーと、マリアにナオミ、アリスにモモにまたマリアに……ええと」

 

「おおっと多くは聞かぬが街の華! 宝石強盗を追っかけてる変な飛行機ってニュースがネットに流れた瞬間、大熱狂!」

 

「つまり、シェリー様ファンクラブ……」

 

「大集合!」

 

「あれ、これって《シェリーちゃんを愛でる会》の緊急即応行動会じゃないの?」

 

「あっこいつ異端者だぞ、やっちまえ!」

 

「なによこのー!」

 

「あんたなんか名前なんて覚えてもらって、このっ、このっ」

 

「マリアなんてこの街に200人はいるわよー!」

 

「まあま、落ち着けよ……」

 

「キャーッシェリー様が私に声を……きゅう」

 

「バカッッ! 今のは私のよ! 起きなさいって、このっ、このっ」

 

「ね~え、シェリー? 今夜は誰と遊ぶの? 最近うちの店にも来てくれないじゃない」

 

「アーッ汚い手でシェリー様に触るなこの娼婦!」

 

「異教義派だ! 囲め!」

 

「こ、コラア! 君たち、無許可でのデモは都市基本法で禁止されているぞ! ただちに解散しなさい!」

 

「無能の軍警は黙ってなさいよ!」

 

「この無能ー! このっ、このっ」

 

「な、ぐわあ!」

 

「り、陸自のヘリに応援を! ナラシノから空挺団を……」

 

「このっ、このっ」

 

「わアー!」

 

「電磁警棒どこやった! あっこら、ライフルに触るな!」

 

「ねえシェリー、今夜久しぶりに……どう?」

 

「う、うう……あ! この隙にこっそり……って、手錠?」

 

「ワシが犯罪者を逃すわけなかろう」

 

「ゲエエ!? ”不死身のハムチーズ!?”」

 

「橋藻棟図だ! お縄だ、神妙にしやがれ!」

 

「ひーッ!!」

 

 ずるずると端っこのほうで、先ほどの強盗男が引きずられている。その間にも、アタシへの四方八方からの攻撃は止むことはなかった。

 

「あの、私実はず~っと前からシェリーさんに憧れてて……あなたの活躍を詩にしたためてきたんです! ざっと64ヘキサバイトくらい」

 

「ね~え、シェリー、たまにはいいでしょ? 昔みたいに、さ」

 

「キャーッシェリー様!」

 

「あんたは離れなさいよ、このっ、このっ」

 

 あまりにもカオスな様相を呈した状況に、アタシはもったいぶってため息をついた。

 

「あー、ったく、……しょおがねえなあ~! いいぜ、お願いは聞いてやるから一列に待ってろよ、アタシはこの街のトラブルスイーパーだからな」

 

 仕方がないので、彼女たちにウインク。正直、悪い気分ではない。女は好きだし、こんな扱いをされるのも嫌いじゃない。昔っから、女にはもてるほうだったし、アタシもそれでいいと思ってた。あらゆる浮名は第五次惑星間大戦の戦死者数よりも流してきたつもりだったし、今でも女に言い寄られることは星の数ほどあるし、アタシもそれを拒もうとしない。

 昔は、もっと無邪気に喜んでいた。嬌声をあげて熱狂する彼女たちのことを見て、ふと思う。

 ああ、私は汚れてしまった。

 ごう、とMRCプラズマ高周波インパルスエンジンが、高速道路の出口を吹き抜けた。

 

『シェリー、帰るわよ』

 

「……あいよ、相棒」

 

 

 

 

 

 地球を覆うアステロイドベルトの隙間を、一機の戦闘機が駆けていく。かつて、第9世代・空間邀撃爆撃万能複座戦闘偵察機《ファルコン》と呼ばれたものの一つ……今は《フルール・ド・リス号》と呼ばれているものだ。元々長距離・長時間の偵察行動を想定していたらしく、コクピットの内部は広く、生活空間すらある。飛行機というよりも、半ば軍艦と言っても差し支えのないサイズだったが、アタシはそのへんの軍事的事情とやらには詳しくないし、興味もなかった。ただ、アタシともう一人の体が寝られる場所があればいい。窓の外には昔の戦争の残骸でできた岩石の数々が、流れて行っているのだろう。

 

「今日も人気だったわね」

 

 そう隣で、美しいブロンドの女が告げた。狭い仮眠シートに寝ながら、物理キーボードをいじっている。

 

「妬いたか?」

 

「さあね」

 

耳元で、囁くように彼女は告げる。彼女の手は艶めかしく私の太ももを伝い……鋭利な針を突き刺した。鋭い痛み。まるで、それを待っていたかのように、アタシの体はその異物を受け入れる。アタシの体細胞に装備された可塑性の相互通信端子が、針の周りに瞬時に形成されたのだ。

 

「ずいぶん、無理をするのね」

 

表示されたアタシの脚部ユニットのエラー報告を見て、彼女はそっと言った。

 

「無理も通せば無理じゃない」

 

私は、いくつかの精霊合金製データバス・ケーブルが刺さって不自由な首を身じろがせて笑った。

 

「そうやって、私を否定するの?」

 

「おまえ自身でもあるからか? この体は」

 

 アタシの体は、ほとんどアタシじゃない。

 両脚、脊髄、左腕の全部、右手、両目、頭蓋骨、それらは全て強化タンパク能動アレイ素子――《始祖の骨》で構成された人工物だ。それとシームレスに接続された元の体も、拒否反応を強制キャンセルするために、常にナノマシンによる遺伝子コマンドプロセスを実行し続けている。その結果、アタシの全身は、完全に生態系から閉じた生物へと変貌しつつある。構成している物質的組成はほとんど人間と同じなのに、どちらかというとこの体は機械や工学に近い……その基礎システムを作ったのは、この女だ。

 

「メイ……」

 

「私が作った128ヨタバイトの身体制御プログラム。それがあなたの体を動かす妖精の正体」

 

「詳しいことはアタシには理解できないよ。けれど、おまえをあの世界から救い出したのはアタシだ。あの暗くて、狭くて、どろどろとした膿が溜まったあの世界から」

 

「けれど、私は呪いを受けて崩れゆくあなたの体を救った。世界の理から外れつつあったあなたそのものを、この世界につなぎ止めた」

 

 身を起こす気配がする。周りの様子は見られない。彼女のシステムが、私の中枢神経系にマスキングをかけて、シールドしている。きっと今彼女は、長いブロンドを垂らして、私の顔を見下ろしているのだろう。

 

「また、虐めるのか?」

 

「ねえ、人間はどこまで人間だと思う?」

 

 白く濁った私の瞳を、彼女の舌がつるりと舐めた。

 

「――エリザベス女王はトルーマン夫妻の娘じゃないぜ」

 

「様相的同一性か。あなたらしいね。でも、もし記憶の全てが消えたとして、この可能世界におけるあなたは連続性を保っていられる? それとも、誰か別の――あなたとまったく同じような身体的特徴を持った人間に、あなたの記憶をインストールしたら、それはあなたじゃないと言える――『あなた』のことよ」

 

「メレオロジカルな議論は嫌いだ」

 

「わざとやったくせに」

 

「なにがだ」

 

「私、あなたが好きよ」

 

 ばちり、と体に衝撃が走る。脳をいじったな。全身の感覚が一瞬失われる。自己診断プログラムは無駄だ。いま、アタシは完全にこいつの支配下にある――アタシが望んで、そうしている。

 

「どこまで切り分けても、どこまで分解しても、決して失われない、その芯にある何か――ねえ、知ってる? 昔、自分の脳波をネットにアップロードすることで、永遠の魂になれると謳った宗教があるそうよ。馬鹿ね、ゴーストはそんなところにはないのに」

 

「ゴースト?」

 

「意識を意識たらしめるものよ。クオリアの対角線上には実在があるけど、ゴーストの対角線上にあるのは虚無よ。無と有。ゼロと1。ねえ、これってディジタルに似てると思わない?」

 

「5世紀前の情報交換プロトコルか」

 

「人間はどうやってもメタ領域には上り詰められない。なぜなら、私たちは実在でしかないから。物質は、本質の影でしかないから」

 

「アタシは、アタシじゃなくなるのか」

 

「そういう問題じゃないの。あなたは私になりかけてる。私はあなたになりかけてる。でも、あなたはあなた。『アタシ』はそこに居続けるわ。だって、そうじゃないと前提の概念自体が崩れてしまう。『成り立たねば、世はあるまじ』」

 

「宇宙の教義とやらか」

 

「世界の教義よ。宇宙なんて狭すぎるわ、あなたと私には」

 

 ぐい、と股を押し広げられる感覚。

 

「私、あなたが好き」

 

「知ってるよ」

 

 貪るような口づけ。肩に食い込んだ彼女の爪が、新鮮な痛覚を意識へと流し込んでいた。

 

「あなたの体も、薄い胸板も、アスファルトを粉々にできる脚も、匂いも、首筋の色も、『ここ』だって……」

 

 メイの指が、私の生身の部分に触れる、ちかちかと頭が揺れる。きっと、彼女が脳をいじくりまわしているせいだけではない。ああ、煽ったのはアタシだ。こうなることを、知っていたから。

 

「やっぱり、妬いてんじゃねえか。スケベ」

 

「そうやってなんでも見える目、私は嫌いよ」

 

「好きってことだろ?」

 

 がちん、と四肢の感覚がロックされる。ああ、来る。

 

「あなたをあなたたらしめているのは、私なの。他の誰でもない。私があなたの臍の尾であり、テセウスよ。あなたという船は、美しい船は、私によってこの世界に浮かび続ける――永遠に」

 

 白皙を赤く染め上げた表情の奥で、二つの蛇の目がぎょろりと蠢くのを知覚した。

 

「ねえ、お馬鹿なあなたに教えてあげる。あなたは、私のものよ」

 

 知ってるよ。そう思考しようとしたシナプスは快楽の信号に塗りつぶされて、128ヨタバイトの明滅の奥に消えた。

 

 

 

 

 



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