南海諸島共和国物語 (あさかぜ)
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始まり:南海諸島共和国について

 南シナ海上に存在する現実のマックルズフィールド堆(中沙諸島の西沙諸島寄り)とスプラトリー諸島(南沙諸島)に当たる場所に、史実と異なりそこそこの大きさの島がこの世界には存在する。前者は朱印島(しゅいんとう)、後者は遠南島(えんなんとう)と名付けられており、それぞれ約450㎢、約280㎢の広さがある。

 この2つの島と周辺の諸島を合わせた領土を持つ国家として「南海諸島共和国」が存在する。首都は朱印島の南江(なんこう)に置かれ、首都の人口は約11万人、総人口は約65万人(朱印島に約45万人、遠南島に約20万人)となっている。国民の殆どは朱印島と遠南島に住んでいるが、これは人が住める広さを持った島がこの2島以外殆ど存在しない為である。

 

 朱印島と遠南島の地形だが、共に島の中心部がやや高くなっている以外は平坦な島となっている。最も高い部分でも300m程しかない。

 それ以外の島では人が暮らせる程の大きさが無いが、後述の列強による開発で幾つかの島は埋め立てが行われ、その影響で幾つかの島は居住可能となっている。それでも、面積が1㎢程度しか無い為、百人から数百人が暮らしているだけである。

 植生はヤシ林が主となっているが、沿岸部には少数だがマングローブ林が形成されている。内陸部は、海鳥によってフィリピンやマレーなどの植物や樹木の種が持ち込まれた。それ以外にも、交易活動によって偶然付着していた種子が持ち込まれるなどして多様な植生が存在するが、多くが外部からの流入の為固有種が少ない。

 動物についても同様で、固有種は殆ど存在しない。多くが交易によって持ち込まれたり、海流で流れてきたり、自力で海を渡ってきたものである。

 

 民族は、日系人が総人口の30%程度だが、政治・経済・文化など各方面に影響力を保有している。「日本人」では無い理由は、他の民族との混血が進んでいる為である。

 それ以外には、漢民族やフィリピン人、ベトナム人、マレー人、インド系やそれらにルーツを持つ人々が多数暮らしている。イギリス系やオランダ系、フランス系、スペイン系、ポルトガル系などヨーロッパ系の住人も存在するが、合計しても10%に満たない。それでも、経済的な影響力は強く、日系人以上の経済力を有している人も多い。

 言語については、南海語が公用語となっている。日本語が基となっているが、中国語(広東語)やマレー語、タイ語にタガログ語、ポルトガル語などからの借用語も多い。また、基となった日本語も後期中世日本語(Wikipediaによると、室町時代に使われていた日本語)となっている(徳川幕府との関係が途絶えた為、現在の日本語の基となった近世日本語が入ってこなかった)。

 

経済は、繊維業と観光業、鉱業(1960年代まではグアノ、1980年代以降は石油・天然ガス)が主体となっている。他にも、農業(サトウキビ、ココヤシ、コーヒーなど)や水産業、食品加工業も存在するが、これらは1970年代になってから急速に規模が縮小した。

 かつては農業と水産業が主要産業だったが、近代に入ってからはヨーロッパ列強や日本の影響下に入った事で、プランテーションや食品加工の工場が進出した。また、外資によるパラセル諸島やスプラトリー諸島における硫黄やグアノ採掘も行われた。

 冷戦中は、アメリカからの支援で軍事基地が置かれたり、アメリカ資本や日本資本のホテルが建設されるなどした。また、ベトナム戦争中に石油の存在が確認され、1980年代になってから商業開発された。主にアメリカと日本、タイ向けに輸出されている。

 冷戦終了後、日本や満州、ヨーロッパを対象とした観光地化の整備を強化している。また、石油と天然ガスの輸出、観光で得られた外貨を活用してソブリン・ウエルス・ファンドを設立、機関投資家としての側面も持つ様になった。




2019/7/6
編集前
『民族は、日系人が総人口の5%未満だが、政治・経済・文化など各方面に影響力を保有している。それ以外には、漢民族やフィリピン人、ベトナム人、マレー人、インド系やそれらにルーツを持つ人々が多数暮らしている。それ以外には、イギリス系やオランダ系、フランス系、スペイン系、ポルトガル系などヨーロッパ系の住人も存在するが、合計しても1%程度しか存在しない。それでも、経済的な影響力は強く、日系人以上の経済力を有している人も多い。』

編集後
『民族は、日系人が総人口の30%程度だが、政治・経済・文化など各方面に影響力を保有している。「日本人」では無い理由は、他の民族との混血が進んでいる為である。
 それ以外には、漢民族やフィリピン人、ベトナム人、マレー人、インド系やそれらにルーツを持つ人々が多数暮らしている。イギリス系やオランダ系、フランス系、スペイン系、ポルトガル系などヨーロッパ系の住人も存在するが、合計しても10%に満たない。それでも、経済的な影響力は強く、日系人以上の経済力を有している人も多い。
 言語については、南海語が公用語となっている。日本語が基となっているが、中国語(広東語)やマレー語、タイ語にタガログ語、ポルトガル語などからの借用語も多い。また、基となった日本語も後期中世日本語(Wikipediaによると、室町時代で使われていた日本語)となっている(徳川幕府との関係が途絶えた為、現在の日本語の基となった近世日本語が入ってこなかった)。』

日系人とヨーロッパ系の総数を増やしました。また、使用している言語についても多少説明を加えました。

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2019/10/17
編集前
『経済は、農業(サトウキビ、ココヤシ、コーヒーなど)と水産業の第一次産業、農産物や水産物の加工業、繊維業、観光業が主体となっている。
(中略)
 冷戦中は、アメリカからの支援で軍事基地が置かれたり、アメリカ資本や日本資本のホテルが建設されるなどした。
 冷戦終了後、日本や満州からの観光客が多数訪れる観光地となり、観光業の整備が進んでいる。また、近年は領海内に石油や天然ガスの存在が確認されている事から採掘計画が立てられており、外資の力を借りて開発が進められている。2013年には試掘が完了し、数年以内に本格的な採掘が行われる予定となっている。』

編集後
『経済は、繊維業と観光業、鉱業(1960年代まではグアノ、1980年代以降は石油・天然ガス)が主体となっている。他にも、農業(サトウキビ、ココヤシ、コーヒーなど)や水産業、食品加工業も存在するが、これらは1970年代になってから急速に規模が縮小した。
 (中略)
 冷戦中は、アメリカからの支援で軍事基地が置かれたり、アメリカ資本や日本資本のホテルが建設されるなどした。また、ベトナム戦争中に石油の存在が確認され、1980年代になってから商業開発された。主にアメリカと日本、タイ向けに輸出されている。
 冷戦終了後、日本や満州、ヨーロッパを対象とした観光地化の整備を強化している。また、石油と天然ガスの輸出、観光で得られた外貨を活用してソブリン・ウエルス・ファンドを設立、機関投資家としての側面も持つ様になった。』

現在執筆中の内容に合わせる為、設定を変更しました。


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1話 朱印島・遠南島の発見・開発

 この島が形成されたのは、偶然の結果と言っても過言ではない。比較的大きな2つの隕石が地球に飛来し、それが現在の南シナ海に当たる地域に落ちた。これにより、落ちた部分の隆起が大きくなり、それが朱印島と遠南島の原型となった。

 その後、地殻変動や海面上昇などの大規模な自然現象によって現在の形となった。

 

 文献上、「朱印島と遠南島の発見」に関する最古の記録は、秦王朝の頃まで遡る。しかし、その後の秦の滅亡と漢王朝の海洋進出の消極性、三国時代などの要因から、中華中央部の海洋進出が殆ど行われなかった。公的な海洋進出は唐王朝の頃まで待たなければならなかった。

 しかし、漁民や遭難という形で島に来る人は少なからず存在し、特に朱印島は漁民の一時的な基地や退避場所、海賊の拠点として利用されており、南部の住民にはある程度知られていた。

 唐の頃、海洋貿易が盛んになり、中央も両島の存在を知る様になった。その為、冊封体制に組み込もうとしたが、国家としての体を成してなかった事から、体制に組み込まれる事は無かった。また、唐が領土に組み込む事も無かった為、島の開発も行われなかった。

 

 その後、宋王朝や元王朝、明王朝になっても変わらず、中華王朝による領有は行われなかった。当然、国家による大規模な開発は行われなかった。それ処か、台湾や海南島と同じ様に「化外の地」と呼ばれて放置された。

 しかし、漁民や海賊、遭難者による小規模な開発は行われており、この頃には沿岸部を中心に居住区画や漁港が存在した。また、内陸部の木材の切り出しや漁船の修理なども行われており、都市の形成が進みつつあった。これにより、両島が倭寇の拠点としても活用され、実際にここからフィリピンやボルネオ、ベトナム、タイへの略奪行為が行われている。

 

 本格的な開発が行われる様になったのは、17世紀初頭の事となる。これは、徳川家康が海外交易に熱心であった事から朱印船貿易が行われ、東南アジアとの交流が活発となった。また、東南アジアへの人の進出も活発となり、以前から細々とあった日本から東南アジアへの人の流れも増加した。これにより、東南アジア各地に日本人街が形成された。特に有名なのが、タイのアユタヤだろう。

 ある時、日本人が主体の朱印船が南シナ海でやや大きい島を確認した。その島は、漢人やベトナム人が多く生活しており、少数ながら南蛮人(スペイン人、ポルトガル人)や紅毛人(オランダ人、イギリス人)も存在した。その島は一定程度の港湾施設があり、日本と東南アジアとの中継点として最適だった為、日本人も利用した。また、その島には沈香の存在が確認されており、サトウキビ栽培にも適している事から、それらの輸入元とする考えもあった。

 この報告を受けて、1608年に九州の大名数組が幕府にこの島の開発願いを出した。幕府も、砂糖や沈香が手に入るのならばと容認し、浪人対策として人を送り込めれば国内の治安も改善すると見た事も容認を後押しした。これにより、1610年からその島の開発が行われる事となり、朱印状で開発が認められた事から「朱印島」と命名された。

 

 開発だが、北東部の一角に拠点が設けられそこが朱印島開発の中心となった(この拠点が後の南江である)。島の住民は、統治者が現れた事を最初は認めようとはしなかったが、豊富な資金や武力を背景に手懐けた事で日本人を支配者と認めた。これにより島の開発は進み、住人の協力も得やすかった。

 島では、沈香の採取とサトウキビの生産が行われたが、沈香の採取については2年程で終わった。これは、島に自生している数が少な過ぎた事が原因で、早くに採り尽くしてしまった為であった。

 一方、サトウキビ生産は順調に進んだ。島の土壌と気候がサトウキビ栽培に適していた為であった。それに伴い、砂糖の生産も拡大していき、日本への輸出量も増加していった。

 日本への砂糖の輸出の帰りに、日本から朱印島への人の流れもあった。多くは浪人であったが、新天地で一旗揚げようという思惑があって向かう人もいた。

 また、島で生産が出来ないモノを手に入れる為、周辺地域との交易も盛んに行われた。朱印島からは砂糖や木材が輸出され、日用品や労働力が輸入された。

 

 朱印島の開発が行われてから20年程が経過したある時、朱印島を出発してタイ方面に向かった船が嵐に遭った。それにより、南に流され島に漂着した。その島は、僅かな漁民が暮らしている以外は人がおらず、樹木が生い茂っていた。彼らは、この島がサトウキビ栽培に適しており、他の産物もあるのではと見て領有を決意した。

 その後、この島の位置を把握した結果、朱印島からの距離が遠くない事を知った。その為、島の木で船を修理して、朱印島に戻った。

 朱印島に戻った後、南にも島がある事、その島は殆ど人が住んでいない事、その島の環境はこの島とよく似ている事を伝えた。この時、外部からの流入と自然増によって人口増加が激しく、耕地不足とそれに伴う食糧不足が懸念されていた為、島の有力者達はこの島への入植と開発を決定した。1629年の事だった。

 

 翌年、朱印島から南の新島に向けての船団が出発した。船団には、開拓移民団と各種食糧、植物の種子や苗、武器や資金が積まれていた。船団は数日で新島に到着し、島の北側に拠点を設けた。

 島を細かく調査した結果、報告にあった通り、島の住民は僅かな漁民以外は存在しなかった。しかし、外部が島の存在を知らなかった訳では無く、時々拠点として活用しているが、島の領有を何処も行っていなかった。

 また、この島の植物を調査した結果、香料については確認出来なかったが、サトウキビ栽培に適していた。その為、この島もサトウキビ栽培を中心としていく事となった。

 こうして、この島の開発方針が決定し、島の住人には資金と武力を活用して支配権を認めさせた。また、島の名前は朱印島よりさらに南である事から「遠南島」と名付けられた。

 

 同じ頃、幕府では対外政策の転換期を迎えていた。国内では、禁教令の発布によりキリスト教徒や宣教師の追放や処分が行われており、1630年代には対外貿易や渡航制限の通達が何度も出された。特に、1635年の通達によって日本人の海外渡航及び海外に住んでいる日本人の帰還が禁止となった事で、新たな日本人が来る事が無くなった。貿易も同様に閉じられるかと思われたが、琉球王国経由での貿易が行われた為、辛うじて日本との交易は途絶える事は無かった。

 但し、この海外渡航及び貿易の事実上の中止によって、朱印島と遠南島は日本本土から切り離された。その為、両島は日本のコントロールから離れ、独自の道を歩んでいく事となる。



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2話 日本本土との決別

 徳川幕府による海外渡航・交易規制によって、朱印島と遠南島は日本本土との関係がほぼ絶たれた。その為、両島は自給体制を整えていかなければならなくなった。

 

 幸い、両島では食糧栽培は難しくなかった。島の耕作地では、甘藷(サツマイモ)や大藷(ダイジョ。ヤムイモの一種)が多く栽培されており、時代が下るとキャッサバも追加された。これにより、サトウキビ栽培に適さない土地でイモ栽培が広がり、食糧供給に役立った。

 イモ以外にも、サゴヤシが多く生えている為(サゴヤシの幹からデンプンが採れる)、炭水化物については充分だった。

 サトウキビ畑については、日本向けの輸出が無くなった事から減らす事も考えられたが、専売品として安定した収入源を得たい事、他の作物の耕作地との兼ね合いから、現状以上の耕地面積の拡大を行わない事とした。

 

 真水が少ない事からコメ栽培には向かなかったが、コメについてはベトナムや華南から輸入する事で対応可能と判断された(一応、陸稲の生産は行われていたが、需要を満たす程生産されていない)。但し、コメの殆どがインディカ米で、日本人好みのジャポニカ米については余り入ってこなかった。その為、2つの方法が取られた。1つは現地の様にインディカ米を調理して頂く、もう1つは現地でジャポニカ米を生産してそれを輸入するというものだった。

 前者については、タイ人やキン族(ベトナムの主要民族)など周辺地域から移住してきた人々から教わった。後者については、ベトナムやカンボジア、タイで土地を借りて栽培してもらう事で対応した。だが、ジャポニカ米は現地の熱帯性気候との相性が若干悪く、現地住民との対立もあって上手く行かない事が多かった。インディカ米の調理方法の確立と味に慣れた事もあり、ジャポニカ米の現地生産計画は10年程で縮小していった。

 

 主食以外についてだが、周辺が海に囲まれている事から魚の供給には問題無かった。その後、西沙諸島と南沙諸島を領土とすると自国の消費以上の供給が生まれた。その為、魚の加工品(鰹節、鯖節、魚醤、フカヒレ)の生産が盛んになり、輸出品ともなった。

 一方、肉については放牧地が少ない事、家畜のエサが少ない事から、豚とヤギが主流となった。その後、鶏も多少飼われる様になったが、牛についてはエサの問題から殆ど飼われなかった。

 

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 人については、東南アジア各地にいる日本人を引っ越させる事で対応した。当時、日本人街が攻撃され日本人が虐殺される事件が何度が発生した。これにより、現地に住む事が難しくなった一方、帰国は幕府によって許されなかった為、彼らの存在は宙に浮いた存在となった。

 そこで、彼らを両島に移住させようという動きが浮上した。日本人勢力が固まっていた方が身の安全は確保しやすいし、少しでも日本人を増やしておきたいという考えもあった。

 考えが固まると、現地日本人の移住計画の実施は早かった。保有していた船を総動員して、東南アジアに散らばっていた日本人(約1万人)を10年掛けて移住させた。こうなると移住というよりエクソダス(民族脱出)に近く、実際、移住の際に現地民や海賊による襲撃があった。これにより数千人が亡くなったが、生き残った人々は日本人社会が残る地域に移住した。

 

 これら以外にも、日本本土との繋がりがある地下組織(商人系と武士系の2種類がある)の伝手を使い、国内にいた隠れキリシタンや浪人も移住させた。少しでも日本人の数を増やしたいが為であった。

 当然、この動きは幕府にも知られる所となったが、国内の治安対策やキリシタンの数を減らせるのならという考えもあり、「キリスト教布教を行わない事」、「帰国させない事」、「貿易は行わない事」を条件に黙認された。

 その為、冒頭に「日本本土との関係は『ほぼ』絶たれた」とあり、細々とした繋がりはその後も維持された。実際、琉球経由で何度か通信使(正式には「南海来聘使」と呼ばれた)を派遣しており、特産品の黒糖や真珠、サトウキビから創られたお酒(この時は黒糖で作った焼酎だが、後にラム酒も追加)などが送られた。

 

 日本人以外の民族については、現在居住している人々の帰還はさせなかったが、以降は日本人との同化が奨励される事となり、言語も日本語が奨励された。また、以降の大規模な集団移民については禁止される事となった。

 

 例外だったのが、ポルトガル人やオランダ人などヨーロッパ系の人々であった。彼らは、この島で貿易や布教の為に居住していた人達だが、一部には他地域から追い出された人もいた。技術や教育の面で必要になる為、言語については奨励されたが、日本人よりも他の住人との婚姻を奨励して数を増やす様にした。

 

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 食糧と人口の課題については何とかなりそうだが、今後の方針をどうするかが残っていた。つまり、国内の統治体制の構築と外交方針である。

 

 だが、国内統治については大きな混乱は生じなかった。朱印島に統治機構が置かれ、遠南島は朱印島に従属する事に変わりなかった。

 問題となったのは、統治者をどう決めるかであった。この島には天皇陛下は勿論、幕府も存在しない為、統治機構の中核とその長が存在しない。一応、朱印状による島の統治を認める者は存在するが、複数人による共同統治という形の為、代表者が存在しなかった。

 だが、会合衆(都市の自治を行っていた集団)による統治が行われていた為、これを拡大させる事で対応した。1639年に「南海合議会」が設立され、その構成員として朱印島在住者8人と遠南島在住者3人の計11人から成り、代表の1人が「南海統裁」の肩書が与えられ国内統治の最上位となる。後に両島の人口拡大により南海合議会の構成人数は拡大し、最終的に朱印島出身者10人と遠南島出身者7人の計17人となる。

 

 外交方針については、当時の情勢からすれば一つしか無かった。つまり、中華王朝の冊封体制に組み込まれる事であるが、それも難しかった。

 当時(1630年代中頃~1640年代初頭)、中華王朝は明だったが、北方の後金(後の清王朝)との戦争で疲弊しており末期状態だった。その後、1644年に明が滅んだが(南部に亡命政権が樹立され、そちらは1661年に滅亡。これを以て、正式に明が滅んだ)、この時はまだどうなるかが不明だった。

 それでも、早急に中華王朝からの庇護が欲しかった南海は明に使節を派遣したが、明は「それ処では無い」として追い返された。その後、中華中央部の混乱から、数十年間は大陸との交流は最低限となった。

 

 これが変化したのは、南明が滅んだ後の1665年からである。中央の混乱がある程度収まったこの時期、南海は初めて清に使節を派遣した。清は王が居ない南海を軽視しそうになったが、歴史上にも中華の地で王が居ない時期があった事、諸事情で王を輩出出来ない事を伝えた結果、南海は清に認められた。これにより、南海統裁に「南海国王」の称号が与えられ(国内的には南海統裁を使い続けた)、冊封体制に組み込まれた。この時の交渉で面白いと判断されたのか、金印が下賜された(綬の色は青、つまみは蛇)。

 1673年に発生した三藩の乱(元・明の武将が封じられた雲南・広東・福建で反乱。原因はこの3地域が半独立国化して脅威になった事、中央集権化を進めたかった事。1681年までに全て鎮圧)によって清が滅亡しかけた(一時は長江以南の全域が占領された)が、何とか反乱は鎮圧され清は存続した。

 この間、南海は清との連絡を密にした。南海は三藩の更に南に位置している為、多少なりとも三藩側の事情を知りたかった清にとって、南海を繋ぎ止める必要があった。その為、清は一時的に献上品の免除をし、その代わりに三藩への偵察と情報収集を要求した。水軍が殆ど無かった三藩に南海の動きは止められず、また華南出身者を選抜して偵察に送り込んだ事で、内情を知る事も出来た。この情報は清にとって値千金であり、反乱鎮圧に大いに役立った。

 反乱鎮圧後、南海は清から多くの褒章を下賜された。この時の対応によって玉印(綬は萌黄色、つまみは魚)を授かり、冊封国内の序列でも最上位に就く事となった。



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3話 新たなる関係の構築

 清王朝から冊封体制内での最上位の序列を得た南海だが、これに驕る事は無く、周辺諸国との友好関係を築く事を重視した。一応、清から王の位を授かった事で対外的には王国となったが、実態は王朝を持っていなかった為、王国と見做す国は少なかった。王を持たない政体は当時の東アジア世界では浮いた存在であり(当時のヨーロッパでもヴェネツィアやスイスなど少数だった)、いくら冊封体制内での序列が最上位でも低く見られる恐れがあった。それを避ける為、東南アジアでの積極的な外交と貿易が行われた。

 

 幸い、日本やヨーロッパから持ち込まれた技術による知識量の多さ、ヨーロッパとの交易を維持している事から新技術や高価値商品を保有しており、貿易に有利になると見られた。また、東南アジア各地や日本から来た日本人を中心にキリスト教が広がっている事も、ヨーロッパとの心理的障壁が低くなると見られた。

 アジアでの足場を強固にするという意味でも、スペイン、ポルトガル、オランダ、イギリスは南海との貿易を続けていた(この為、南海はヨーロッパ各国にとって、一種の中立ゾーンとなった)。朱印島・遠南島から産出される香辛料(胡椒・丁子)や砂糖、魚の加工品、真珠が輸出品となった。この中で、魚の加工品である魚醤や鰹節が真新しさや美味である事から珍重され、香辛料の収穫量減少もあり、主要輸出品となった。

 

 南海のヨーロッパ諸国からの輸入品として、武器や薬品、変わったモノとして資料があった。当時、南海はヨーロッパからの情報を欲していた。軍事や外交だけでなく、宗教、科学、文化など、ヨーロッパに関するありとあらゆるもの情報を受け取った。書籍や現物だけでなく、乗組員の話を細かく書き記すなどして情報を得た。一か国からでは無く、複数の国から情報を得た為、多くの有益な情報を得られた。

 尤も、情報の内容は玉石混交であり、時間が経過して価値が薄れたもの、重複しているもの、明らかに間違いなものなど様々であった。だが、これらの情報を記した文書は後に歴史的に大きな価値を持つ様になり(ヨーロッパで失われた文化や風習などの記録が残されていた)、この時の対応が後世評価される事となった。

 

 また、東アジア世界でキリスト教を維持していた事、ヨーロッパ諸国との交流を維持した事は、19世紀に大きく役立った。ヨーロッパ列強のアジア進出の際、南海は列強の植民地となる事は無かった。

 流石に人種差別や貿易上の不利益は避けられなかったが、法整備が早かった事、ヨーロッパとの取引を熟知していた事から、列強と結ばれた条約には「南海領域内で罪を犯した者は、何人も南海の法によって処罰される」、「関税は従価税(価格に応じて課税される)とする。税率は双方の協議で決定する」とあり、一応は対等な関係となった。

 

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 アジアでの外交は、近隣のフィリピンやベトナム、タイとの交流を深めようとした。しかし、当時(17世紀後半)の東南アジア情勢は混乱の最中であり、外交や貿易を行うには非常に難しい状況だった。特に難しかったのがベトナムだった。

 

 ベトナムは黎朝が統治していたが、当時は黎朝に権限は殆ど無く、北部の鄭氏と中部の阮氏が実権を握っていた。また、阮氏が南部に進出して、隣国カンボジアとその背後にいたシャム(タイ)と戦争していたなど、外交的にも付き合うのは難しかった。

 だが、南海は阮氏に付いた。両者は王族を無視して争っている事は共通しているが、鄭氏は王族を無視して政治を動かしており、それは重臣としてあるべき姿では無いとして付き合いは難しかった。また、阮氏はポルトガルとの交流があった事から付き合い易いとして、間接的にだが武器や道具の支援を行える事もその理由だった。

 結果として、この支援は大当たりだった。18世紀に阮氏は南部でカンボジアとの戦争を続けていた為、武器の需要は非常に高かった。また、南部開発の為の道具の需要もあり、重要な交易ルートとなった。

 尤も、長年戦争を行った事の負担は民衆に向かい、それが原因で1771年に反乱が発生、そこに付け込む形で鄭氏も侵攻した。これにより、1777年に阮氏は一人を除いて滅亡したが、反乱軍と鄭氏の対立、黎朝と鄭氏の対立、阮氏の生き残りによる巻き返しなど内部は混乱状態となり、この混乱は1802年に阮氏の生き残りがベトナムを統一するまで続いた。

 阮氏による統一王朝となったベトナムは、当初は南海とは対等な関係を築いていた。しかし、次第に中華王朝としての支配体制を固めると、南海をベトナムの冊封体制に組み込もうとしてきた。流石に、ベトナムのその姿勢は受け入れられるものでは無かった為、何度も拒絶している。一時はベトナムに侵攻されそうになったが、その前にフランスのコーチシナ侵攻があった為、侵攻される事は無かった。

 

 それ以外の地域についても外交と貿易が行われた。有望な商品が多くない為、中継貿易を行わなければ利益を生み出せない為である。その為、周辺地域(フィリピン、タイ、ボルネオ)だけでなく、遠方(マラッカ、ビルマ、マラッカ諸島)への航海も行われた。

 これにより、インドやマラッカ諸島に進出する様になり、清との中継貿易を行う事で莫大な利益をを得た。清も、南海からもたらされる珍品を重視し、南海の行為を黙認した。

 

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 南海の海洋進出によって、得られたものがあった。それは、西沙諸島・南沙諸島の領有と、進出した海域の海賊である。

 

 西沙諸島は朱印島の西側に位置する諸島であり、南沙諸島は遠南島が属している諸島であるが、人が居住出来る広さを持つ島が殆ど無かった。その為、領有する意味が無く、この時までは何処も手付かずの状況だった。

 しかし、ヨーロッパ向けの魚の加工品と朝貢用の真珠の需要が高まり、その供給源として朱印島・遠南島沿岸だけでは不足となった為、新たな原材料の供給源として近隣の西沙諸島と南沙諸島に白羽の矢が立った。島から近い事、浅い海で漁場として最適な事、人が一時的に住める広さがある島がある事などから、18世紀前半には幾つかの島に拠点が設けられた。

 その後、東南アジアがヨーロッパ列強の植民地となっていく中で、南海は列強のルールをある程度分かっていた。その為、西沙諸島と南沙諸島は南海の所有物である根拠(拠点、拠点を設けた年など)を並べた事で、列強から「パラセル諸島(西沙諸島)とスプラトリー諸島(南沙諸島)は南海の領土」という認識を確認させた。

 

 南海が東南アジアとベンガル湾に交易路を築いた時、現地の海賊に悩まされた。自力で軍事力を整備して撃退する方法も考えられたが、それには時間が掛かり過ぎる事、資金不足から難しかった。また、金で懐柔する方法も考えられたが、当時はそこまで多くの金が無い事から、少数なら懐柔出来るが多数となると難しくなる事、懐柔し続ける為の金が持つか不明だった事から、他に案が出なかった場合に採用するとなった。

 一方で、三藩の乱時に整備された水軍は、機動力ある船と船上の対人戦に長けた戦闘部隊の為、近隣の海賊であれば討伐する事は不可能では無かった。また、海賊を懐柔出来れば、船と人が一遍に手に入れる事が出来る為、海賊対策は次の様に決定した。

 

・金で懐柔出来る場合、暫く金で懐柔した後、水軍に組み込む。従えばそれで良し、従わなければ排除する。

・金で懐柔出来ない場合は討伐する。但し、拠点などの情報を確保してから討伐する事。また、遠距離の場合は近隣勢力に情報を与える事で対処する。

 

 この2つの考えの下、交易路付近の海賊対策が行われた。最初こそ、交渉の失敗や戦力不足から討伐に失敗する事はあったものの、貿易が順調に行われ金に余裕が出てくると、懐柔される海賊も多く出た。彼らを上手く利用し、戦力の強化やライバルの根拠地の情報の獲得、海賊同士を戦わせて共倒れを狙うなど、様々な方法で海賊を減らしていった。

 海賊の討伐は南海単独で行う事は少なく、ヨーロッパ諸国に行ってもらう事が多かった。特に、フィリピンを植民地とするスペイン、スンダ列島やモルッカ諸島に影響力を及ぼそうとしていたオランダからの依頼は多く、共同で討伐する事も多かった。これにより、フィリピン南部のスールー王国、スマトラ島北部のアチェ王国など、東南アジアの国家へ打撃を与え、これらの地域の平定が史実より四半世紀程早くなった。また、ティモール島からポルトガルが追い出されたり、ブルネイ王国内外の動乱を鎮圧してボルネオ島北部の領有を助けるなど、多くの方面で影響を与える事となった。



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4話 近代における東南アジア世界の変化とヨーロッパ列強との付き合い

 海上交易の隆盛、海賊討伐などで名を上げた南海だが、スペインやオランダなどヨーロッパ諸国との関係が深い事、彼らからの依頼で海賊討伐や敵対国への攻撃を行う事もあった。その為、「ヨーロッパの犬」や「ヨーロッパの侵略の尖兵」として蔑まれる事もあった。

 尤も、海賊に悩まされている周辺国からは、自国だけでは対処が難しかった海賊を討伐してくれる手助けをしている事もあり、南海の存在を重視している面もあった。

 

 特にブルネイ王国は、東のスールー王国、西の内紛を抑えてくれた事でボルネオ島北部の支配権を確固たるものにしてくれた事に感謝していた(最終的に、史実のブルネイ、マレーシアのサバ州・サラワク州、インドネシアの北カリマンタン州が、この世界のブルネイの領土となる)。その為、交易の優先権や国内の共同開発など、幾つかの特権を獲得した。また、海賊討伐の為のノウハウや海軍の運用をブルネイに教えるなどして、単体では難しくなった海賊討伐を肩代わりさせる事となった。

 それ以外の地域でも海賊の出現が減少し、マラッカ海峡やジャワ海に面した国からは礼を受けている。

 

 しかし、海賊の減少は一時的なもので、海賊が消滅する事は無かった。その為、その後も何度が海賊討伐の依頼を受けており、実際に討伐しているが、その時はブルネイと共同して討伐に当たった。

 

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 清への冊封、ブルネイと共同しての海賊討伐、スペインやオランダなどとの協調によって、南海は順調だった。時折、海賊の襲撃を受けたり、台風の直撃や豪雨、高波で大きな被害を受けるなどの被害があったが、概ね順調だった。

 

 しかし、それも19世紀に入ると東南アジア世界はヨーロッパ列強の植民地化によって終焉を迎える。ナポレオン戦争の最中、フランスにオランダ植民地を通じて協力を求められたり、それをイギリスが阻止しようとするなどした、その余波で、近海でイギリス海軍とフランス海軍が戦闘を行うなど、徐々に列強が近い存在になりつつあった。

 これまでも沿岸部が列強の勢力圏となっていたが、19世紀以降は商品作物(コーヒー、サトウキビ、ゴムなど)の栽培や資源(スズ、石油など)を求めて内陸部に進出する様になった。また、産業革命に伴う近代化これにより、マレー半島とインドシナ半島の東側(ミャンマー)はイギリスの、インドシナ半島の西側(ベトナム、カンボジア、ラオス)はフランスの植民地となった。また、既に一部の植民地化を進めていたオランダとスペインは、それぞれスンダ列島とモルッカ諸島(インドネシア)、フィリピン南部の進出を強めて植民地を拡大した。

 

 列強による植民地化の流れの中で、タイとブルネイ、南海は植民地化される事は無かった。しかし、列強の影響力の強化は避けられなかった。

 タイは史実通り、イギリスとフランスと外交による交渉によって、領土の割譲はあったものの独立を維持した。

 ブルネイは、タイと同様に外交による交渉で独立を維持したが、相手がイギリスとオランダという違いがあった。最終的に、先述した史実ブルネイ、サバ州、サラワク州、北カリマンタン州を領土として確立する事に成功するも、両国のコントロール下に置かれる様になった。

 

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 南海は、列強との繋がりが深い事、土地が広くない事(=資源が少ない、商品作物の栽培面積も狭い)から、どの列強も進んで植民地化しようとはしなかった。また、南海の交渉が上手い事もあり、列強とやや不平等ながら通商条約を結んで独立を維持した。

 

 しかし、南海の領土内である西沙諸島と南沙諸島の幾つかの島でグアノ、つまりリンが採取出来る事が判明すると、列強が挙って採掘しようとしてきた。リンは化学肥料や産業用の触媒などに活用される為、需要は高まる一方だったのである。無許可で採掘しようとするものは居なかったが、列強が集団で採掘しようとした為、為すすべも無く認める他無かった。最終的に、1885年に西沙諸島はフランスとイギリスに、南沙諸島はオランダとイギリスに採掘権を付与した。

 だが、南海もただでは転ばず、列強との合弁会社を設立させて、その会社に採掘権を譲渡させた。これにより設立されたのが、西沙諸島を担当する「パラセル諸島開発会社」と南沙諸島を担当する「スプラトリー諸島開発会社」となる。前者は仏:英:南海が9:8:3、後者は蘭:英:南海が10:7:3の割合で株式を保有しており、南海は僅かながら利権を残して貴重な外貨獲得源となった。

 

 グアノ以外でも、サトウキビやココヤシの栽培の拡大も行われた。共に以前から栽培が行われていたが、開発会社を経由して栽培面積が拡大され、特にココヤシの方が重視された(ココヤシから採れるコプラは、マーガリンの原料となる)。

 この時、朱印島・遠南島でも拡大が行われたが、食糧用の畑も部潰して拡大が行われた為、3か国に抗議している。これに対しては、「各種食糧をタダ同然で輸出するから、それで我慢しろ」とあり、これ以上抗議すると国を潰されかねないので素直に従った。また、国内で問題となっていた人口増加に対しても、「リンの採掘に優先的に雇用する」、「植民地に移住させる事も条件に加える」とされた為、尚更従った。

 

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 グアノやサトウキビ、ココヤシなどを列強に安価に取られた事は、南海にとってショックだった。前から人種差別を感じていたが、長年の付き合いがある事もあり、もう少し手加減してくれるのではと見ていたが、認識が甘かったと実感させられた。

 これでも大分甘い方なのだが、やはり長年付き合いがある関係でこの結果というのがショックだった。

 

 その為、現行の法の根拠となっている律令と慣習法を基に、成文法の整備が1887年から進められた。整備と言っても、律令と慣習法を基に成文化し、足りない部分をヨーロッパの法を導入する形で作成された。

 その為、1895年3月までに六法(憲法、民法、商法、刑法、民事訴訟法、刑事訴訟法)の施行が完了した。憲法の制定は最後になったが、それでも東アジアでは日本に次ぐ早さで憲法を持つ国家となった。

 この法整備によって、南海は共和制国家である事、「南海諸島共和国」を国号とする事、国家元首は今まで通り「南海統裁(英訳にPresidentが充てられる)」とする事、三権分立と法の下の平等を定めている事など、国家の根幹に関わる事が決められた。

 議会制度についても取り入れられたが、人口の少なさや民衆への政治参加に対する不信感から、制限選挙(一定額以上の納税者)が導入された。今まで存在した南海合議会を拡張する事で対応した為、自然と一院制となった。

 

 法整備が進み浸透も早かった事から、列強も南海との付き合いを正常なものにしていった。1910年までに、ヨーロッパ列強との条約改正が完了し、少なくとも不平等な条約は解消された。

 それでも、合弁企業による資源の安価な買取はそのまま残り、列強の国内での優位な状況は資金力の差からどうしても埋められなかった。流石にこれは法整備でどうにかなる問題では無い為、止む無くそのままとなった。



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5話 列強との新たな関係と新たな列強との関係

 何とか独立を維持した南海だが、ヨーロッパ列強の影響力が高まる事は避けられなかった。英仏蘭の企業の進出が強まり、製品の多くも三国のモノに取って代わられた。また、資源開発も三国主導で行われ、南海が意見を出せる状況では無かった。

 それでも、資源開発で得られた利益の一部は南海の国庫に入る事、今まで手作業だった水産加工品の生産工程の一部が機械化されて効率が上がった事による生産量の拡大とそれに伴う輸出量の増加などから、不満はあっても表に出る事は無かった。実際、収入の拡大に伴う港湾や道路などのインフラ整備はゆっくりとだが進んでおり、首都・南江の統裁官邸や中央省庁庁舎の建て替えの計画が立てられていた(1912年に全ての工事が完了)。

 また、周辺に三国の植民地がある事も幸いした。19世紀末まで、北は香港(英)、東はフィリピン(西)、南はブルネイ(独立国だが英蘭の影響下)と東インド(蘭)、西はインドシナ(仏)に囲まれており、積極的に南海を利用する必要は薄かった。

 その為、三国の影響力下には置かれたが、内政まで口を出してくる事は殆ど無かった。三国が南海に求めた事は、周辺地域における緩衝地帯としての役割であった。

 

 また、日本との関係も強化された。江戸時代初期の幕府の政策が原因で南海が成立したので、明治維新によって幕府が消滅して新しい政府が樹立した事で、関係の改善が可能と判断された。

 日本としても、列強以外で国交を樹立する事は重要であると認識しており、旧政権とは違う事をアピールする為にも南海との関係改善は重要であった。また、可能であるならば、沖縄県の様に併合する事も念頭に入れていた。

 交渉は1880年代から行われた。途中、朝鮮や清国との関係が拗れた事で交渉は滞ったが、1891年に「日南修好条規」が締結された。これは対等な通商条約であったが、国力差から日本に有利な内容となった。また、国内の食品加工産業に日本資本が入ったり、日用品の輸入の多くが日本になるなど、日本の影響力は拡大した。

 しかし、日本人移民が無かった事(南海そのものが移民を送り出す側で、受け入れる余地が無かった)、併合や保護国化しない事を明記した事、法を順守して一線を守っていた事もあり、大きな不満とはならなかった。

 

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 ヨーロッパ列強との関係を再確認し、日本とも新たな関係を築いた南海は、南シナ海における列強の緩衝地帯として独立が確認された。日本及びヨーロッパ列強は、南海での戦闘を避ける為、紳士協定で何処か1国が影響力を拡大させて独占する事、軍事力派遣は行わない事とした。

 

 しかし、そこに口を出してきた国があった。アメリカとドイツである。

 アメリカは、1898年の米西戦争とその講和条約であるパリ条約でフィリピンを獲得した。これにより、南海の東でアメリカと隣接する様になった。中国への進出拠点の獲得及びアジアでの影響力拡大の為、南海へ経済進出を行おうとした。

 ドイツは、植民地獲得競争で英仏に遅れを取っていた。その為、植民地獲得を「やや強引な方法」で行っており(英仏目線でという意味)、他のヨーロッパ列強が手を出していなかった地域(サモア、ニューギニア島北東部、タンガニーカなど)を獲得した。また、中国への進出拠点として青島を獲得したが、そこまでの補給拠点と東南アジアでの影響力拡大を狙って南海に進出しようとした。

 

 これに対し、南海は勿論、現状維持を望んでいた日英仏蘭が猛反対した。特にアメリカに対しては、今まで関係を持っていたスペインを追い出した関係から悪く、数年間はフィリピンとの関係を縮小した(その代わり、日英仏蘭との関係を強固にした)。アメリカとの国交樹立こそ1903年に実現したが、通商関係については1912年まで構築されなかった。

 ドイツも、この時点で英仏と事を構えるのは危険だと考えており、無理してまで欲しい場所でも無かった為、1901年には南海と国交を樹立して保護国化する考えは放棄した。しかし、交易の拡大による市場化の考えは捨てていなかった為、無理を承知で商品を輸出したり、醸造所や加工工場など合弁会社を設立するなどして影響力拡大を狙った。これらは南海の法に則って行われた為、表立って批判される事は無かったが、他国から警戒される事となった。

 

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 南海は、列強間のパワーバランスに巻き込まれながらも、何とか独立を維持していた。

 そんな中、1904年の日露戦争では微妙な立ち位置に置かれた。南海は日英仏蘭の影響下にあるが、当事者である日本とその同盟国であるイギリス、日本と戦争状態になったロシアの同盟国のフランスと3国が戦争当事国及び同盟国であり、この3国からの工作が懸念された。

 しかし、各国は工作を行う事で中立状態が崩れる事は避けたかった為、3国間で話し合いが行われた結果、以下の事が決定した。

 

・3国はこの戦争中、南海が中立状態である事を確認する。

・フランスは南海でロシアに支援しない。

・3国は南海で情報活動を行わない。電信も同様とする。

 

 これらは現状の確認程度でしか無かった。ロシアに対する支援もインドシナで行った方が効率が良く監視もされ難い、また不要な軋轢を生む事も少なかった。日英としても、監視ならマラッカ海峡や台湾海峡で行える為、わざわざ南海を使う必要が薄かった。

 利用価値が微妙だからこそ、現状維持が再確認された。その為、日露戦争中は南海は何事も無く過ごした。その後も、南海は列強の間で何とか生き残った。



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6話 南海の政変と日本への急接近

 20世紀に入っても、南海の状況は大きく変わらなかった。相変わらず日英仏蘭の影響下にあり、ドイツが強引に割り込んできたり、アメリカがちょっかいを出すなどあったが、大きな変化では無かった。

 

 1914年にヨーロッパで大戦争(第一次世界大戦の事)が発生しても同じだと考えていた。主戦場はヨーロッパであり、南海から敵性国家であるドイツ、オーストリア=ハンガリー、トルコの勢力圏は遠く、一番近い場所でドイツ租借地の膠州湾とドイツ領太平洋保護領(パプアニューギニア北部と南洋諸島)であり、戦力も大したものが置かれていなかった為、戦場とはならなかった。

 だが、無関係でいられた訳では無かった。南海にはドイツ資本で建設された建物や工場が存在しており、連合国である日英仏(蘭は中立国)の影響力下にある為、連合国寄りの中立状態であり続ける事を「要請」した。実際には「強要」であり、逆らった場合は一瞬で蹴散らされる事が分かっていた為、従う他は無かった。

 

 世界大戦が連合国の勝利で終わった後、南海には連合国からのご褒美として、南海国内にあるドイツ資本の利権の譲渡と日英仏蘭名義の利権の一部譲渡が行われた。これにより、国内資本の充実が図られた一方、より一層四国の影響力が高まる事となった。

 特に、この4か国の中で日本の影響力が高まる事となった。南海と本国からの距離が最も近い事、言語・民族共に近い事、南進論の存在(この時は経済的進出の方が強かった)もあり、年々関係を強化していった。

 しかし、この日本の強引な進出は、英仏蘭の不信感を募らせる結果となった。その不信感はまだ小さいものだったが、ワシントンとロンドンの両海軍軍縮会議でも日本海軍の拡大は止まらず(※1)、世界恐慌をいち早く脱した事などもあり、次第に大きくしていった。

 

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 世界大戦後も、南海の状況に大きな変化は無かった。日本の進出が強まったり、英仏を通じてアメリカが進出したり、パラセル・スプラトリー両諸島で勝手に埋め立てが行われるなどあったが(後に正式な謝罪と無償での譲渡が行われた)、概ね平穏な状況だった。1920年代は列強間の平和が保たれており、それに伴い植民地と勢力圏の平穏も保たれていた。

 

 その平穏が終わったのは、1920年代も終わろうとしていた1929年10月24日、ニューヨーク証券取引所で株価が大暴落した事から始まった。後に「暗黒の木曜日」と呼ばれる現象から始まったウォール街大暴落を発端に、世界各国の経済は急速に悪化した。世界恐慌の始まりだった。

 世界恐慌により、列強各国は影響力が及ぶ地域以外との貿易に高い関税をかけて自国経済の保護を行った(ブロック経済)。しかし、ブロック経済によって世界貿易が縮小し、却って経済再生に時間が掛かる様になった。また、資源の不均衡もあり、持てる国(米英仏ソ)と持たざる国(日独伊)との関係が冷却化する様になった。

 

 この間、南海では政変が起きた。1933年7月、南海の首都・南江で日本の影響を受けた警備隊(予算と人口の関係上、軍は非効率だとして警察の重武装化で対応)の一派が主要施設を占領して軍事政権が樹立した。当然、この軍事政権は親日政権であり、以降10数年間は日本の影響力が強まる事となる。

 尤も、この軍事クーデターは日本の予想外の出来事であった。当時、日本は満州事変とその後の満州国建国、国際連盟脱退と外交面で大きく揺れていた時期であり、クーデターによる親日政権樹立は全く考えていなかった。日本の影響力が強まる程度を期待したが、それ以上の結果となってしまった。

 満州に続き南海でも、日本が陰謀によって影響力を強めようとした事に列強は許す筈も無く、日本に正式に抗議文を送っている。流石に今回の事は日本も想定外であり、「警備隊への影響力を強化していたのは事実だが、クーデターについては関与していない」、「軍事政権との関係も未定で、列強との関係を壊す気は毛頭無い」など、兎に角正直に全てを話した。

 

 しかし、満州での出来事から日本に対する信用は失墜しており、列強は日本の言う事を信じなかった。

 だが、新政権が「欧米列強の利権については手を出さない」、「今まで通りの関係を構築したい」との親書を送った事で、日本の影響力が高まる以外は変わらない事を確認した。これにより、英仏蘭については何とかなったが、アメリカはクーデター前に戻す事を要求した為、関係が拗れた。

 結局、日本・南海とアメリカとの直接交渉は纏まらず、以降、アメリカは日本への敵対姿勢を強める様になる。だが、南海からアメリカ資本が撤退する事は無く、暫くは5か国の緩衝地帯として存続した。

 

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 事実上、日本の衛星国となった南海では、日本資本の受け入れによる国内の「開発」が進められた。この開発により、国内の食品加工工場や日用品の生産拠点の近代化が進められた。また、一部の島や環礁の埋め立てが行われ、入植やヤシの植林が行われた。

 また、航空路線の開設も行われ、1937年には大日本航空による乗り入れが開始された。ルートは東京―福岡―台北―広東―南江―遠南と横浜―福岡―高雄―南江―遠南の2つあり、前者は陸上機での、後者は飛行艇での運行となっていた。

 

 だが、開発の中には大規模浚渫工事や港湾設備の近代化・大型化があった。これは有事の際は軍艦の入港が可能な事を意味し、日本海軍の東南アジア進出の拠点化が懸念された。1940年には「大規模農地」という名の飛行場の建設が開始され(翌年完成)、同年の北部仏印進駐と合わせて武力による東南アジア侵略の拠点となると目された。

 それは現実のものとなり、太平洋戦争(大東亜戦争)の時に使用される事となる。




※1:「架空の財閥を歴史に落とし込んでみる」の『番外編:この世界での日本海軍・日本陸軍・大日本帝国の状況(第一次世界大戦後~第二次世界大戦直前)』参照


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7話 第二次世界大戦から太平洋戦争までの南海

 1939年9月1日、ドイツがポーランドに侵攻した。2日後、英仏がドイツに宣戦布告した事で第二次世界大戦が始まった。

 

 2度目の世界大戦が始まったが、南海が出来る事は無かった。主戦場は遥か遠くのヨーロッパであり、近隣にはドイツの勢力圏が無い為、戦場になる可能性はほぼゼロだった。「ほぼ」となっている理由として、ドイツの仮装巡洋艦が存在する可能性を否定出来ず、戦闘が発生する可能性があった為である。

 実際、1940年からドイツの仮装巡洋艦が太平洋・インド洋方面で活動する様になり、南海沖でもイギリス船舶の船を撃沈するなどしている。

 

 日本が参戦するまで、ドイツの仮装巡洋艦が南海に寄港する事は無かった。それは、南海は日本の影響力が強いと言っても、英仏蘭の影響量も強い為であった。もし寄港した場合、所在地が簡単に割れる為、寄港出来なかったのである。

 また、連合国の軍艦が寄港する事もあまり無かった。周辺には連合国の拠点があり(イギリスは香港とシンガポール、フランスはインドシナ、オランダは東インド)、わざわざ寄港する必要は無かった。それでも、1940年2月と1941年9月に「表敬訪問」という形でイギリス海軍が寄港した事があった。

 一方、日本の軍艦は練習艦隊が寄港した。政変以降、東南アジア方面に移動する場合は寄港する事が多くなり、1940年も寄港した(史実では朝鮮沿岸と東シナ海のみだった)。

 

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 第二次大戦から最初の1年間は空白地帯だったが、1940年9月22日に日本軍が北部仏印に進駐し、その5日後に日独伊三国同盟が締結されて以降、俄かに注目を浴びた。

 日本から見れば、台湾と仏印を結ぶ中間地点であり、ここを抑える事が出来れば両地域の交通の安全は保障されるだけでなく、マレーや蘭印への進出もし易くなると見られた。また、南海を哨戒基地とする事で、南シナ海北部における小型艦艇や潜水艦の行動を制限出来ると見られた(※1)。

 また、連合国側から見ればその逆であり、日本の東南アジアへの交通の監視や妨害が可能となり、進出を抑えられると見られた。

 

 南海が日本と連合国のどちらの側に立つのかの外交合戦が行われた。

 尤も、当時はバトル・オブ・ブリテンと時期が重なっており、連合国にとっては正念場だった。その為、地球の反対側で外交を行う余裕が無かった。その後も、地中海と北アフリカ、ギリシャでの戦闘が発生した為、独ソ戦が始まる1941年6月後半まで余裕が無かった。その間、日本による有形無形の支援があった為、既に日本寄りの姿勢を明確にしており、その後の交渉は纏まらなかった。

 南海が日本寄り、つまり枢軸国入りか枢軸国寄り中立国となった事は明白であり、連合国は対応を変更した。貿易の制限や諜報活動の強化など、敵としての対応を次第に行う様になった。

 

 連合国による貿易の制限が強くなる程、日本との経済的繋がりは強まった。食糧や日用品のみならず、軍艦も輸出した。この時輸出されたのはこの世界のマル3計画で建造された海防艦をモデルとしており、史実の鵜来型となる。それが2隻建造され、艦名はそれぞれ「朱印」と「遠南」と命名された。1940年2月に建造が開始され、1940年末までに全艦が完成した。その後、日本近海で訓練を行い、1941年8月に実戦配備が完了した。

 海防艦の建造に合わせて、朱印島と遠南島の港湾設備の拡張工事も進んだ。工事そのものは1930年代中頃から行われていたが、世界情勢が怪しくなった1938年から更なる拡張工事が行われた。計画では、トラック諸島並みの停泊能力を持ち、2万トンの重油を保存出来る地下燃料タンクや簡易的な補修が出来る工廠が建設される事になっていた。工事は当初、諸外国の目がある事から当初は土地の収容程度しか進んでいなかったが、第二次世界大戦が始まると南海に目を向ける余裕が無くなった事から工事が急速に進んだ。日本から数少ない重機が持ち込まれたり、日本から「労働者」として軍が入るなどして、僅か1年半で港湾設備の大半と燃料タンクの6割が完成した。工事の残りについては、日本の戦争準備に資材と労働力が取られて進捗が鈍化し、太平洋戦争開戦によって中断となった。

 

 港湾設備の整備と同時進行していた飛行場の整備も完了し、日本から少数の練習機と偵察機、哨戒機が供与された。供与された機体の内訳は、九五式一型練習機3機、九五式三型練習機4機、九七式司令部偵察機2機、九六式艦上攻撃機4機だった。

 また、水上機の供与も行われ、その内訳は九三式水上中間練習機4機、九四式水上偵察機3機、九五式水上偵察機3機だった。

 航空機の運用については、数年前から水上機の運用が行われており、水上機については大きな問題は無かった。一方、陸上機については初めての運用となる為、1年前から日本で練習機の運用を行っていた。これにより、陸上機を運用できるパイロットは存在したが、規模の拡張はこれからであった。

 飛行場の整備と共に、格納庫や航空燃料の保管庫、爆弾の保管庫の建設も完了したが、航空隊の規模に比べて格納庫や保管庫が大きかった。明らかに、日本の航空隊の進出を目的とした整備だった。

 

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 1941年11月、日米開戦はほぼ不可避となった頃、日本本土から海上警備総隊(※2)の航空隊と人員が飛行場に進駐した。それ以前にも軍艦の運用の教練の為に人員が入ってきていたが、それはあくまで軍事顧問として入ってきた。今回は進出であり、明らかに戦争準備であった。

 更に、11月末には海軍航空隊の陸攻隊も進出してきた。合わせて、保管庫に航空燃料と爆弾が大量に補充された。

 そして、日本時間12月8日午前2時、日本は米英蘭に対し宣戦布告を行った。これにより太平洋戦争が始まった。




※1:この世界は「架空の財閥を歴史に落とし込んでみる」と繋がりがある為、日本の対戦能力は史実より高い。既に対潜哨戒機を少数ながら実戦配備している。
※2:「架空の財閥を歴史に落とし込んでみる」世界における日本の通商護衛部隊。海軍内の組織だが、命令系統上では連合艦隊とは独立している。この頃には、旧式ながら航空隊の規模を拡大させていた。


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8話 太平洋戦争中の南海

 1941年12月8日、日本は米英蘭に対し宣戦布告して、ここに太平洋戦争が勃発した。これにより、太平洋と東南アジアが戦場になる事が確定した。これから約3年半の間、日本はアメリカとその他の連合国と血みどろの戦闘を繰り広げ、最終的に日米の手打ちという形の日本の敗戦で戦争は終了した(詳しい内容は「架空の財閥を歴史に落とし込んでみる」の『番外編:この世界の太平洋戦争①~⑨』参照)。

 

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 太平洋戦争中、南海は戦場にはならなかった。戦争開始から僅か半年で東南アジアの殆どを占領した事、連合国側の準備が整っていなかった事もあった。戦争後半も、1945年1月に米軍がフィリピンに侵攻したり、連合国のビルマ反攻で東南アジアにも大規模な戦火が押し寄せかけたが、前者は連合艦隊の奮戦で米軍が撤退し、後者は陸軍の決死の遅滞戦略によって連合国軍がビルマ中部で手間取っている間に終戦となった。

 そのおかげで、南海はマーシャル諸島やパラオの様な地上戦が起こる事は無かった。

 

 だが、戦争とは無関係では無かった。1940年に結んだ「日南攻守同盟条約」によって南海は日本との同盟国となり、開戦後の12月11日に英蘭の影響下にあるブルネイからイギリス軍の爆撃機が飛来し、遠南島と朱印島を爆撃している。これにより、数機の航空機と港湾施設の一部、8人の死者と十数名の負傷者という被害を出した。これが要因で、翌年の1月10日に南海は米英蘭に対する宣戦布告を行った。空襲後、ブルネイに日本軍が上陸して占領下に入り、1942年中頃までに全東南アジアが日本の占領下に入った事で、取り敢えず安全は確保された。

 その後は、東南アジア方面の通商路の拠点として活用された。開戦後に海上警備総隊が進出し、新設された第五護衛艦隊の司令部を朱印島の南江に置いた。これにより、海上警備総隊の艦艇や航空隊が大挙して進出し、南シナ海における通商護衛が行われた。南海が保有する海防艦「朱印」と「遠南」は第五護衛艦隊の指揮下に入り、南シナ海での通商護衛任務に就いた。護衛艦隊の配備によって敵潜水艦の活動は低調となり、ミッドウェー海戦やソロモン作戦、い号作戦(この世界のい号作戦は、ニューヘブリデス諸島及び豪州北部への大規模な攻勢防御作戦)、チッタゴン作戦など1943年前期までの大規模攻勢によって連合国軍の東南アジア方面での通商破壊は低調となった(ソロモン、太平洋方面ではそこそこ活動していた)。

 

 戦争中盤に日本軍の攻勢は終わり守勢に回った。だが、主要な戦闘では大敗する事は無く、連合国も攻めあぐねていた。それでも、連合国は物量にモノを言わせて反攻を続け、1944年までにパラオ諸島を占領し、フィリピンへの足掛かりと日本本土空襲の拠点が建設された。

 この頃になると連合国による通商破壊が激化し、今まで比較的安全だった南シナ海にも潜水艦の影がちらつく様になった。第五護衛艦隊の活躍で何とか潜水艦の活動は抑えているものの、被害の発生は避けられなかった。幸いな事に、「朱印」と「遠南」は被害を受ける事は無かった。

 日本にとって幸いだったのは、マリアナ沖とレイテ沖で勝利した事で、敵機動部隊が常に半壊している事である。機動部隊を再建する為に空母や護衛艦艇の整備に力を注がなければならず、そちらに力を入れている間は潜水艦の整備は後回しになる。潜水艦の整備が遅れれば、撃沈されたり損傷した潜水艦の補充は遅れ、その分通商破壊は低調となる。潜水艦の低調と機動部隊による南シナ海の通商破壊が無かった事で、南方航路は先細りとなりながらも終戦まで途絶える事無く存続した。

 

 海での被害は無かったが、地上と沿岸部の被害は少ないながらも存在した。成都にB-29が進出した1944年後半以降、何度か南海を空襲している。規模こそ10機に満たない数だが、国土が数百㎢の南海にとってはそれの数でも脅威だった。

 初めて空襲を受けたのが1944年9月で、朱印島に爆弾と機雷が投下された。これにより、南江の中心街の半分が焼失し、港湾も大きな被害を受けた。それに加え、機雷によって港湾が使用出来なくなり掃海に手を取られた事で、一時的に通商護衛にまで手が回らなくなり、その時に潜水艦による被害が相次いだ。

 その後も、終戦まで何度か空襲に遭い、終戦までに朱印島と遠南島の港湾設備や飛行場、その他施設にも被害が出た。爆弾の一部は居住区に落下し、軍民合わせて数百名の死者(日本軍関係は除く)、数千名の負傷者という人的損失もあった。

 

 それでも、太平洋戦争中の被害はこれだけであり、他の国と比較すると全く被害を受けていないと言える。その様な状況で1945年6月5日を迎え、日本はアメリカと停戦した(「連合国と停戦」では無い事に注意)。その後、7月2日に日本は連合国と終戦に関する文書を交し、正式に終戦を迎えた。同時に、南海も連合国との戦争が終わった。



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9話 戦後の始まりと混乱

 戦争中の被害が軽微だったが、戦後の処理が残っている。枢軸国として参戦し、事実上敗戦で終えたのだから、連合国からの賠償は相応のものだった。

 停戦後、連合国軍(イギリス軍とフランス軍が主力、次いでアメリカ軍、オランダ軍と中華民国軍は少数)の駐留が開始された。軍政こそ敷かれなかったものの、間接統治によって連合国に優位な状況となった。その様な状況で、1946年に結ばれたマニラ条約の内容は次のものだった。

 

・戦前に日本と結んだ条約の破棄と改めて条約の締結の実施

・南海に存在する全ての日本の権益を連合国(この条約の「連合国」は米英仏蘭中の事)へ譲渡

・南海における連合国に有利な経済活動の実施の容認

・軍備の縮小と連合国の各国軍の駐留

・旧政権の関係者の追放

・政変以降に移住した日本人の帰還

 

 割譲出来る領土が存在しない為(割譲となった場合、国家の併合となる)、領土面の賠償は無かったが、経済的な賠償が多くなった。賠償金については取れる様な経済力は無い為、企業の進出を優位にする事、米英仏蘭に有利な貿易の実施によって得られる利益を事実上の賠償とする事となった。

 また、戦争に参戦する要因とされたクーデター政権の主要閣僚や軍民の有力者は全員追放され、裁判によって処罰された。死刑になった者は一人もいなかったが、多くの財産を没収されたり国民の支持を失うなどして亡命や自殺する者も少なくなかった。

 

 政府の刷新は行われたが、政権の連続性は保たれた。当初、連合国による直接統治も検討されていたが、攻め込まれた訳では無く、名目上講和という形で戦争を終えた為、直接統治は相応しくないとされ実行されなかった。中華民国は執拗に実施を求めたが(最終的には併合しようとしていた)、アメリカの無関心(正確には、極東にかかりっきりとなり東南アジアに手が回らなかった)と英仏蘭の否定的反応によって反対された。

 この事が、米英仏蘭から南海にさりげなくリークされた事で、南海内にあった反連合国の感情は急速に弱まり、親連合国の感情が急速に強くなった。また、アメリカから大量の物資が入ってきた事で、戦前戦中の物資不足から解放された。これにより、その後の関係の構築が行い易くなり、マニラ条約の締結もスムーズに進んだ。

 一方で、中華民国に対する感情は悪化し、その後暫くは中華民国及び中華人民共和国との関係は冷却化した。また、反共主義についてはそのままとなった為、ソ連に対する感情は戦前から悪いままだった。

 

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 連合国による一時的な統治とその後の親西側体制が構築されつつある中、東アジア及び東南アジアは大混乱だった。何とか平穏だったのは、日本と南海ぐらいだった。

 

 中国大陸では国共内戦が再開され、国民党が敗れて海南島と雷州半島に落ち延びた。大陸は中国共産党のものとなり、1949年に北京で「中華人民共和国」の建国が宣言された。これに伴い、中華中央部から多くの人が共産主義化から逃れる為に、海南島やアメリカ、後述の台湾に逃れる事となり、一部は南海に逃れた。

 中華の周辺部では、満州にソ連が居座り続け、プリモンゴルとウイグルも飲み込もうとしていた。チベットは中央部の混乱によってコントロールから離れ、1950年代にアメリカとインドの後ろ盾を得て独立する事となる。台湾はGHQの占領統治を経て独立し、朝鮮半島は北はソ連の、南はアメリカの後ろ盾を得て独立するが、「半島統一」を掲げて1950年に戦争する事となる。

 

 東南アジアも、ベトナムでは植民地支配の回復を図るフランスとそれに反対するベトミン(正式名は「ベトナム独立同盟会」)との間で対立が生じ、1946年の末から戦闘状態となった(第一次インドシナ戦争)。戦争状態は1956年7月のジュネーブ協定締結まで続き、その間に多くのベトナム人が難民となって周辺国に流れた。この周辺国には南海も含まれる。

 インドネシアでも、植民地支配の回復を図るオランダと現地の独立勢力との対立から戦闘状態となり、その混乱によって南海に難民が押し寄せた。他にも、フィリピンでは親米政権と親ソの武装組織(共産党系の抗日武装組織「フクバラハップ」)との対立が激化し、その余波で難民が生じ、一部が南海に逃れた。

 

 南シナ海沿岸国からの大量の難民が入ってきたが、全てを受け入れるのは国土の広さから不可能だった。その為、多くはブルネイやアメリカに再移動したり混乱が落ち着いた本国に戻ったが、数万人は南海に移住する事を希望した。幸い、アメリカから大量の物資が入ってきていた為、彼らを養う事は難しくなかったが、民族的問題が生じた。

 南海は多民族国家だが、当時の南海内での国民の区分として、近代(この場合の「近代」は、1895年の憲法制定以降を指す)以前までに南海に住んでいた人達、近代以降に移住してきた達、太平洋戦争後に移住した人達の順に分かれていた。当然、古くから南海に住んでいる人の方が日本人化が進んでおり、日本人化が進んでいる人達の方が政治的・経済的に有利なのが現実だった。たとえ、大陸や半島にルーツを持つ人でも、日本人化が進んでいる人とそうでない人の差は大きく、それが対立を生む事となった。

 また、難民に混じって共産主義者が流れ込んだ事もあり、余計にややこしくなった。この頃、国内の失業率は高く、治安も悪化していた時期だった為、共産主義革命が起こるのではと見られた。

 結局、難民問題や経済問題は自国だけで対応が出来ない為、1952年にアメリカ主導の下、次の様な政策が実行された。

 

・アメリカ資本による繊維工場、リゾート地の整備を行い、雇用を改善させる

・治安回復の為、アメリカの支援の下で警察力の強化を行う

・居住区問題の解決の為、朱印島と遠南島、周辺の幾つかの島を埋め立てる

・雇用については、元難民を優先的に雇用する

 

 これらの政策により、1953年以降から治安は回復した。また、大量のドルが入ってきたこともあり、社会資本の整備が急速に進んだ。同時に、警察力の強化も進められ、アメリカ沿岸警備隊と日本の海上保安隊の協力で沿岸警備隊の再建も進められた。

 一方で、宅地開発や工業開発に注力される様になり、農地が宅地や工業地に転換される様になった。以降も農業は国の主要産業として存続するも、農業生産高は以降減少に転じる様になる。

 また、アメリカの影響力が強まったのも事実で、以降はフィリピンや台湾と共に東南アジアの共産主義者の監視拠点として活用される事となる。それに伴い、米軍やCIAの職員が駐留する様になり、情報収集に活用される様になる。



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10話 冷戦①:ベトナム戦争まで

 1950年代中頃、南シナ海周辺は混乱していた。

 中国大陸では、国共内戦の末に共産党が勝利して中華人民共和国を建国し、国民党は敗れて海南島に逃れた。

 東南アジアの大陸部では、フランス領インドシナで共産主義勢力が拡大し、ベトナム北部に共産主義国家が樹立した。残るベトナム南部、ラオス、カンボジアでも共産主義勢力が活動を行っており、予断を許さない状況となっている。

 島嶼部では、オランダ領東インドで独立戦争が発生し、インドネシアとして独立した。フィリピンでは、親米派と共産主義者の対立が発生しており、親米派が有利だが混乱が続いていた。

 タイやブルネイは比較的安定しているが、内部では民族対立や共産主義者の存在によって、何か切欠があれば暴発する可能性がある状況だった。

 

 その様な状況の中、南海は安定していた。周辺から多くの難民が流れてきたものの、アメリカからの大量の支援やアメリカ主導での経済建設などにより、難民対策が行われた為である。これにより、国内の治安は悪化する事は無かった。

 アメリカの支援により、観光業と繊維業の整備が行われた。朱印島と遠南島には繊維工場とホテルが建設され、ビーチなどが整備された。また、この頃になるとスプラトリー諸島とパラセル諸島のリン鉱石をほぼ掘り尽くし、採掘していた島の多くが無人島となった。それらの島の埋め立てと整地を行い、ホテルとビーチの島として整備された。

 これらの開発により、1960年代には東アジア及び東南アジア有数のリゾート地として整備された。かつて列強が利用していた植民地のリゾートが軒並み利用出来なくなった為、南海に移った形となる。高所得層が殆どの為、数こそ少ないものの利益は高かった。

 その後、ベトナム戦争で大規模なリゾート地となり、中所得者向けのリゾート地としても有名になっていく。

 

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 周辺地域が混乱状態となると、駐留しているアメリカ軍の動きは活発となった。南シナ海の要衝に位置する南海に基地を置く事で、周辺地域及び交通路の監視が行い易かった。監視が行えるという事は封鎖も行える事でもあり、南シナ海は東アジアの交通の要衝である為、ここを抑えているだけで交通を左右出来る程である。この効果が表れたのはベトナム戦争であった。

 ベトナム戦争により、アメリカ軍とアメリカと同盟を組んでいる国(日本、台湾、フィリピンなど)の軍隊がベトナム共和国(南ベトナム)に進出した。また、南海とフィリピン、タイがアメリカ軍とその同盟国軍の後方基地となった。その為、大量の外貨が落とされて国庫を潤した。

 それだけでなく、アメリカ軍主導による道路、港湾設備、飛行場の整備が進み、この頃に現在まで活用されるインフラの整備が急速に進んだ。また、後方で休息・療養する兵士の為のリゾート整備、各国兵士の為の大量の補給物資の流入により、日本やアメリカの新しい文化や各国の文化や食事が入ってきた。

 また、後方支援基地及び偵察・哨戒の拠点として南海は重要だった為、自力での警備が求められた。これにより、アメリカから大量の小銃や機関砲、数隻の哨戒艇、数機の航空機とヘリコプターが供与された。これらの供与された兵器により、警察力の更なる強化と周辺海域の哨戒に活用され、ベトナム民主共和国(北ベトナム)入りするソ連国籍や中国国籍の船舶の監視や偽装漁船(見た目は漁船だが、強力なレーダーや通信機を搭載している)の発見などの戦果を挙げている。

 ベトナム戦争中、アメリカ、日本、台湾、フィリピン、タイ、ブルネイと共に遠南島沖での合同軍事演習を何度か行っており、これが後に東南アジアにおける大規模な海上軍事演習「オーケアニデス」の基となった(リムパックとは交互に実施)。

 

 アメリカ軍による特需の一方で、治安の悪化という問題もあった。多くの兵士が入ってきた事によって、言語や人種、宗教に倫理観の違いなどから傷害事件や性的事件が多く発生した。これらの問題はアメリカなどからの謝罪と補償で一応の解決は見られたが、国民の中では一定の不信感が残った。

 最大の問題は、ベトナム系及び中国系の住人による反戦運動と軍事施設を狙ってのテロ活動だった。第二次大戦後に移住してきた者がこの運動の中心におり、彼らは本国の共産党の指示に従っての行動だった。

 尤も、彼らの行動は国内の反共主義を強くする結果に終わった。戦前から反共色が強い南海では社会主義的活動そのものが忌諱されており(戦後に社会民主主義政党が設立されたが、議会での勢力は最弱)、共産党色が強い反戦活動に胡散臭さを感じており共感していなかった。また、特需で経済が好調な事、反戦活動組織とテロ組織が繋がっている事が判明した事で支持を失い、最終的に警察によって鎮圧された。

 

 南海がベトナム戦争から離脱する事は無かったが、その行動は戦争の行方を左右する事は無かった。北ベトナムはアメリカ軍の猛攻に耐え、1973年1月27日にパリで和平協定が結ばれて戦争が終了した。

 しかし、この協定は停戦協定であり終戦の和平条約では無かった。当初予定されていた統一に向けた選挙は行われる事は無く、アメリカも今までの散財と和平協定の締結から南ベトナムに向けた援助が年々減少していった。また、パリ協定後のアメリカの内政状況の混乱とソ連の宇宙開発に対抗する意味からそちらに注力される事となり、ベトナムへの関心は急激に低下した。

 これを好機と見た北ベトナムは、以前から行っていた南ベトナムへの攻撃を激化させた。1975年3月10日、北ベトナム軍は全面攻勢を開始した。アメリカからの援助が激減した南ベトナム軍は抑える事が出来ず、4月30日に首都・サイゴン(現・ホーチミン)が陥落してベトナム共和国は滅亡した。

 

 全面攻勢以降、南ベトナムから脱出する民衆が多数出た。特に富裕層や宗教関係者の脱出が多かった。亡命者の脱出支援を目的にアメリカや日本などの空母が派遣され、ヘリによるピストン輸送で多数が脱出した(フリークエント・ウィンド作戦)。他にも、航空会社や軍の輸送機を利用しての輸送作戦や船舶による脱出作戦も実施された。

 南海もこの脱出作戦に参加しており、警備隊のほぼ全ての艦艇と航空機、航空会社の予備機、国内の船舶のほぼ全てを投入している。また、同時期にカンボジアからの脱出作戦も実施されており、日米が亡命者の一時避難場所として南海を活用した為、一時は国民の半数程度のベトナム人とカンボジア人が存在した。その後、多くのベトナム人・カンボジア人亡命者はアメリカや日本、オーストラリアなどに亡命したが、一部は南海に根を下ろした。

 ベトナム統一後も、ボートピープルとして多くの難民が南海にやって来た。だが、この頃になると国内の開発は飽和状態となり、これ以上の難民の受け入れは難しかった。彼らもより裕福なアメリカや日本、香港への亡命を希望していた為、殆どがその方面に移動した。この流れはドイモイ政策の成果が表れる1990年頃まで続いた。



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11話 冷戦②:ベトナム戦争後の政策変更と資源開発

 1975年4月30日、北ベトナム軍の攻撃によりベトナム共和国(南ベトナム)の首都・サイゴンが陥落し、南ベトナム政権が崩壊した。これと同時に、北ベトナムの傀儡政府である南ベトナム共和国が一時的に統治し、翌年の7月2日に北ベトナムが南ベトナムを吸収する形でベトナムは統一した。

 これらと前後して、1975年4月にカンボジアでは王制に戻ったが、「王冠を戴く社会主義」という異例の政体となった。同年12月にはラオスは王制を排して社会主義共和制に移行し、ビルマも1977年のクーデターで親ソの社会主義政権が樹立した。ビルマの社会主義政権樹立から翌年、政府軍とクメール・ルージュとの内戦が終結し、ここにインドシナにおいてタイ以外の全ての国家が親ソ社会主義国家となった。

 

 東アジアにおいては、中華人民共和国(大陸)では文化大革命の真っ只中で、事実上の内戦状態になっていた。1950年代末の大躍進政策の失敗もあり、中国大陸の政治・経済・流通などは大打撃を受けた。

 ベトナム戦争中の1972年2月にニクソン大統領の訪中と1974年の中華人民共和国の国連加盟(史実よりも3年遅い)、1979年1月にアメリカとの国交樹立といった国際関係への取り込みがあったものの、大きな変化は無かった。この世界の中華民国(海南島)は常任理事国では無い為、常任理事国の変更は発生しておらず海南島の国連離脱も無かった事、米中関係の構築が却って日本や台湾、チベットなど西側及び親西側の中立国の対米感情を悪化させた事、満州やウイグルなど親ソ国家の対中工作が拡大した事など、東アジア・東南アジア世界を混乱させただけだった。その為、1970年代後半から1980年代前半までの約10年間は冷戦最後の軍拡競争の時期にも関わらず、アジア方面ではアメリカとの距離感があった(アメリカは東アジア・東南アジア諸国を繋ぎ止める為に、最新兵器・技術の安価での売却や国内市場の開放を認め、新自由主義経済の押し付けを抑える羽目になった)。

 

 中国以外では、米中関係の好転によって海南島が危機的状況に陥るも、国連脱退という事にはならなかった。だが、アメリカが2つの中国を認めた事に大きなショックを受け、数年間は外交的に混乱が続いた。日本と台湾は、中国の内情を把握していた為、その情報をアメリカに送ったが、反応を示さなかった事に失望した。その為、レーガン政権になるまでアメリカとは一時的に疎遠となり、経済攻勢を強める要因となった。

 

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 ベトナム戦争中、南海はアメリカからの支援で多くの外貨を得た。それだけでなく、アメリカを中心とした多国籍軍の進駐によって軍需の急速な拡大があった。これにより、経済は急速に拡大し国内のインフラ整備も進んだ。

 一方で、ベトナム戦争中のアメリカの外交によって東アジア世界が混乱し、その影響で南海の政策も一部変更する事となった。南海はアメリカの軍事力と経済力は頼りになる一方、対アジア外交の無知によって更なる混乱が発生する可能性が高いと見て、3つの考えを持った。一つ目はアメリカが親中政策を採れないぐらい東アジア・東南アジアに足を突っ込ませる事、二つ目は日本やタイとの連携を強化する事、三つめはベトナムとの関係改善に乗り出した。

 

 一つ目は、ベトナム戦争中に存在が確認された石油をカードとした。1973年10月の第四次中東戦争中にOPEC(石油輸出国機構)が石油価格を大幅に値上げし、OAPEC(アラブ石油輸出国機構)がイスラエル支援国への石油禁輸及び非支援国に対する輸出量削減を行った事で石油価格は高騰した。アメリカは自国の油田では供給量を賄えなかった為、自国が使える油田を探していた。

 南海はこれを利用し、合弁での石油採掘事業を提案した。アメリカからすれば、アラブより近くカントリーリスクも小さい反面、新たに開発する必要がある事、埋蔵量が不透明な事から敬遠するかと思われた。それが、1960年代からの資源ナショナリズムでオイルメジャーが産油国に対する影響力を大幅に低下させた事から、新たな収益源を欲していた事もあり1978年に合弁会社の設立が決定した。尚、合弁会社の株式の割り当てとして、南海に30%、アメリカに40%、日本とイギリスにそれぞれ10%、オランダとフランスにそれぞれ5%となった。

 油田開発は1980年から進められ、1983年には試掘が行われた。その結果、原油推定埋蔵量約60億バレル(9540万kL:2017年の日本の石油使用量の約40年分)、天然ガス推定埋蔵量約5兆㎥(2017年の日本の天然ガス使用量の約45年分)というかなりの規模を持っている事が判明した。十分以上の大規模油田であり、採算も乗ると判断され、開発が進められた。1985年には日本とアメリカへの輸出もスタートした。

 油田開発は、アメリカと中国の関係を微妙なものとした。中国は南海の巨大油田の存在が確認されると、歴史的経緯から自国領と主張し油田開発に割り込もうとした。当然、中国の主張は受け入れる余地は無く、武力行使をちらつかせるなど印象を最悪なものとした(実際、1980年代に何回か南海艦隊の艦艇を南海近海に出撃させている)。アメリカも中国のこの動きに批判し、一時は中国との関係を後退させるなどの措置を採った。その後も、中国が南海に仕掛けようとすればアメリカと日本が動くシステムが自然発生的に構築された事で、南海の目的は達成された。

 

 二つ目は苦も無く実現した。日本とは近世からの繋がりがあり、戦後もアメリカ程では無いにしろ経済や技術の交流は行われていた。タイとも近代から人的交流が行われており、戦後は貿易や商業、土建などでの繋がりが深かった。

 石油開発も、日本が間に入らなければ実現しなかったと言われている。その為、商業採掘が始まると、最初の輸出先は日本とアメリカだった。その後、採掘量が順調に増大し、タイや台湾、イギリスなどへと輸出された。

 

 難しかったのは三つ目だった。戦争中はベトナム主導のデモ活動やテロ行為を潰したとして準戦争状態となっており、戦後も南ベトナムと国交を結んでいた事から断絶状態だった。それでも、ベトナム系南海人及び在南海ベトナム人と本土のベトナム人との交流は民間や非公式ながら存在しており、1985年2月に国交樹立(事実上の回復)が実現した。この実現は、国交樹立前年の4月から7月に発生した中越国境紛争で事実上敗北した事で、周辺国との対立を減らそうという考えがベトナムの指導部にあった為でもあった。

 兎に角、政治的事情は色々あるが、南海とベトナムの国交は回復した。国交回復後、ベトナムではドイモイ政策の実施によって部分的に市場経済が導入され、南海資本がベトナムに投下された。その後、南海はベトナムとアメリカの仲介役を務め、1993年に両国の国交が樹立して新たな関係を構築した(史実では1995年に樹立)。

 

 これらの政策によって、南海は石油と天然ガスによって膨大な外貨を獲得した。また、アメリカと日本は南海の資源の円滑な輸送と安全の観点から、中国の海洋進出に目を尖らせた。その為、フィリピンのスービック海軍基地が活用され続ける事となり(史実では1991年11月に閉鎖)、日米海軍が定期的に来航する事で中国を牽制している。



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12話 冷戦③:冷戦構造の崩壊

 石油・天然ガスという新しいカードの確保、それに伴う保有する外貨の増大とアメリカを中国と極力結び付けない外交方針が1980年代中頃に整えられた。これにより南海の経済力が更に増し、アメリカが南海や日本、フィリピンなどの同盟国を見捨てない事を確認させた。

 一方で、中国が南海の資源獲得と東アジア・東南アジアでの影響力拡大を目的に海洋進出に乗り出した時期でもあった。米中接近とそれに伴う国交樹立、極めて安価な労働力と税制の優遇に惹かれたアメリカ及び西ヨーロッパの資本と技術が投下され、急速な経済の再建が行われた。同時に、軍の近代化も行われ、特に海軍力の強化が叫ばれた。

 

 それと同じ頃、冷戦構造は終わりを見せた。1985年、ソ連でペレストロイカが始まり、体制内での改革が始まった。だが、軍備偏重や過剰な重工業重視と軽工業軽視、非効率な運営によって経済はガタガタであり、政治も硬直状態、内部からの反対も大きく改革は困難を極めた。同盟国である東ヨーロッパも同様の状況で、今までの外交方針からの転換(※1)もあり、急速にタガが外れた。

 その結果、1989年から90年の間に東ヨーロッパ諸国で社会主義政権が相次いで倒れた。多くの国では一応平和裏に政権の移譲が行われたが、ルーマニアだけは首都で内戦が発生し、チャウシェスク大統領夫妻も銃殺されるなど、暴力的な革命となった。

 社会主義の総本山のソ連は、この状況に対して特に動く事は無かった。自ら掲げた外交方針に従った面もあるが、経済的混乱やグラスノスチ(情報公開)による共産党内部の対立、中央からの統制が緩んだ事による地方の混乱によって大きく動く事が難しかった。最終的に、1991年12月25日にソ連が崩壊し、名実共に冷戦が終了した。

 

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 ヨーロッパ方面での冷戦は終了したが、アジア方面での冷戦は終わった訳では無かった。1989年の12月のマルタ会談で米ソ両首脳による「冷戦の終結」が宣言されたが、アジア方面ではマルタ会談に当たるものが無かった。ベトナムのカムラン湾には活動が低調になりつつも駐留ソ連海軍が活動を続けており、前述の様に中国の経済発展に伴う海軍力強化が計画中であり、満州やベトナムなどでも同様の計画が立てられていた。

 だが、満州とベトナムの海軍拡張計画は中国への対抗という意味合いが強く、日本や台湾などにもオフレコで伝えられていた為、大きな反感は無かった。

 

 それでも、この頃には一部の同盟国に対する統制は緩んでいた。フィリピンでは1986年2月にマルコス政権が崩壊したが、それを継いだアキノ政権との関係は維持された為、大きな変化は無かった。

 日本と台湾は満州との新たな関係の構築を始めており、経済面でアメリカと対立しつつあったが、それでも同盟関係は維持された。

 韓国では、20年以上続いた軍事政権が終わって文民政権が誕生したが、今までの反動から左派色が強くなり、日本との対立を強めたり同盟からの離脱が懸念されている。

 

 これらに対し、南海は大きく行動を変える事は無かった。アメリカとの関係を維持しなければ中国への対抗は難しく、ベトナムとフィリピン、中華民国(海南島)は未だに経済力が小さいか内政が不安定で対抗するには厳しい事もあった。

 アメリカにしても、中国との関係は経済とソ連の後背を突くという重要な目的があったが、石油発見後の中国の対応は盗人そのもので、信用出来る存在ではないと判断した。その為、経済では交流するものの政治・軍事では距離を取る方針が取られ続けた。この方針は1989年6月4日の天安門事件以降は顕著になり、以降は先端技術の輸出・移転は行われなくなり、対中投資も減少させた(日台については以前から投資・技術移転は低調)。

 

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 中国が海軍力の増強をしており、それに満州やベトナムも乗った以上、南海も乗らざるを得なかった。それが軍拡の基本だからである。石油や天然ガスの輸出で資金面では余裕があるが、人口の関係から大規模な軍拡は不可能だった。そもそも、軍事力を持っているのが警察組織の為、その範疇を超えた装備(対艦ミサイルなど)を装備するのは難しかった。

 その為、沿岸警備隊は人員と艦船数の増加が行われたが、1隻当たりの人員は減らされた。これは、システム化の推進や軽武装による人員の削減によって実現した。速力や船体構造などは軍艦と同一の設計にした事から高価になったが、石油・天然ガスの輸出によって財政的に余裕が生まれた事から実現した。

 その他にも、固定翼機とヘリコプターの増備も決定し、パイロットの増員も行われた。一部は巡視艇への搭載となり、海上での哨戒能力の向上が期待された。

 

 この警察力拡張は冷戦には間に合わなかった。計画の立案が1986年、1番艦の竣工が1991年、最終の8番艦の竣工が1995年となった為である。

 だが、これにより中国の海上警察(※2)に遅れを取る事は無くなり、無茶な海洋進出を抑える事に成功した。当初の対象だったソ連海軍の代わりに、中国の海上警察と漁船に監視対象が変わった事は、冷戦が崩壊したという現実と新たな火種を予感させた。




※1:「社会主義圏全体の利益の為ならば、1国の社会主義国の主権を制限する事はやむを得ない」という制限主権論(ブレジネフ・ドクトリン)を放棄、衛星国の民主化の容認、東西冷戦の終結、核戦力の削減など。
※2:この時の中国の海上警察はそれぞれ、国家海洋局(海洋調査を行う組織)系の中国海監、武装警察系の海警、交通運輸部系の海巡、農業部系の漁政、海関総署(税関)系の海関の5つが存在した。


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13話 冷戦後①:南海の経済構造

 南海は、安定した内政状況と豊富な資金、発展著しい周辺国からの観光客誘致の為、新しい形の観光開発を行う事となった。今までの様な高級路線では無く、中間層や新興富裕層向けの観光開発が行われた。その中の目玉がカジノ開発だった。

 

 1980年代、東アジア・東南アジア世界でカジノが解禁されていた国・地域はマレーシア、フィリピン、日本(※1)、マカオぐらいであり、マレーシアを除けばどれも国内向けの性格が強かった。その中で南海は、国外向けのカジノの整備を進めた。

 1960年代に整備されたホテルには小規模ながらカジノが併設されており、ベトナム戦争中に整備されたリゾート地ではガス抜き目的で賭博が容認されていた。その為、下地はあったが、前者はヨーロッパ向けの高級カジノであり、後者は闇賭博に近い方式だった為、ラスベガスの様なカジノのノウハウが無かった。

 

 1985年、ラスベガスや日本でのカジノ施設の見学が行われ、1年に及ぶ調査とノウハウの取得が行われた。翌年、調査団が帰国するとカジノ運営会社が設立されて、3年以内のオープンが決定された。

 当初、建設場所はかつてグアノの採掘を行っていた島で、比較的大きく標高のある朱印島北西沖と遠南島南西沖の2つの島が選ばれた。

 だが、南シナ海は台風の通り道であり、孤島の標高は2m程しか無い為、嵩上げ工事や護岸工事などの大工事が必要となる。また、移動手段は船か航空機になるが、台風の場合は運行が不可能となる為、文字通りの孤島になる事からリスクが大き過ぎると判断された。その為、建設予定地を開発が遅れている朱印島西部と遠南島東部に変更する事となった。

  そして、1989年6月に朱印島側のカジノ「パラダイス・オブ・サウスシーズ」がオープンした。翌年には遠南島側の「オーシャン・パレス」がオープンし、その後も複数のカジノがオープンした。

 尚、カジノ誘致予定地だったグアノ採掘地は、嵩上げ工事と護岸工事が行われた後、漁業基地や哨戒拠点として活用される事となった。

 

 カジノのオープンにより、日本やタイ、ブルネイからの観光客が増加した(1987年:60万人→1990年:150万人)。折りしも日本はバブル景気の真っ只中で、プラザ合意による円高の進行、海外渡航の一般化も合わさり、海外渡航者数が急増した(※2)。南海も渡航先に選ばれ、1990年の訪問外国人の4割が日本人という統計が出た程だった(残りの6割は、香港・台湾など中華圏、東南アジア諸国、欧米からそれぞれ2割)。

 その後、湾岸戦争に伴う海外旅行の停滞、バブル景気の終息で日本人旅行者が減少したが、同時期に東南アジアの経済発展が進んだ為、東南アジアからの旅行者が増加した事で相殺された。だが、経済力の差から観光収入は低下し、それもアジア通貨危機と極東危機で更に減少した。

 この流れが回復するのは2002年になってからであるが、この頃になるとマカオとの競争にも晒される様になった。だが、中国の経済力が史実よりも低い事や中国と統合した事などがマイナス要因となり、それが南海への回帰に繋がった。

 

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 石油・天然ガス、観光が順調な一方で、この頃になると今までの南海の産業に衰退が見られた。

 水産業と水産加工業は未だに雇用の面で主要産業だが、収益率で見ると一桁台にまで低下していた。だが、水産加工物は南海の伝統的な食品であり、ブランドとしての価値も高い為、衰退させる気は無かった。

 しかし、乱獲や周辺諸国の漁船の侵入、油田・ガス田開発などによる海域汚染などによって水産資源量の減少は著しく、このままでは壊滅する可能性もあった。以前から乱獲規制や不法侵入した漁船の排除などを行っており、違法漁業(ダイナマイト漁、毒を用いる漁)をした者への取り締まりの強化などを行ってきたが、それでも資源量の減少は止められなかった(※3)。

 その為、日本と協力して養殖と栽培漁業の拡大を行っており、現地水産資源の回復を目指している。

 

 水産業関係は何とかなっているが、厳しいのが農業関係と繊維業である。農業は土地の開発が既に完了しており、これ以上の農地拡大は不可能だった。それ処か、増加した国民や難民の受け入れで人口増に対応する必要があり、宅地造成の為に農地を転換する必要があった。また、カジノ建設予定地が本土に変更された事で、更に農地が転換される事となった。

 その為、1950年代から農地面積は年々減少し、1990年代には殆ど農地が無くなった。合わせて、ラム酒製造なども縮小した。現在では、ブランド化したラム酒やヤシ酒用に僅かに農地が残っている程度であり、水産加工業を除く食品加工業も酒造用に残っているぐらいである。

 

 繊維業は、1960年代までは比較的延びていたが、1970年代以降は香港や他の東南アジア諸国との競争にさらされており、人件費の面で苦戦している。高価値商品を生み出そうも開発のノウハウが無い為、競争に負けて撤退する企業も相次いだ。

 現在では、工場跡地は都市郊外にある利点を生かして、宅地に転換されたり大型ショッピングモールになるなどしている。残っている工場では新しい機械を導入したり特産品の製造を行うなどして独自色を出しているが、競争が激しい業界の為、21世紀には産業としては成り立たなくなると見込まれている。

 

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 石油・天然ガスの輸出とカジノによって、南海は膨大な外貨を得た。だが、南海はこの状況に胡坐をかく事は無かった。地下資源はいずれ枯渇するし、カジノを始めとした観光収入も情勢の変化や天候によって左右され易い不安定なものという事を認識していた。

 その為、安定し多角的に収入を得る為に1994年にソブリン・ウエルス・ファンド(※4)「南海政策投資機構」が設立され、日本や台湾、香港、シンガポール、アメリカ、西ヨーロッパへの投資を行った。対象は金融、不動産、化学、製造業など多岐に亘り、複数の方面に投資する事でリスクの分散を行っている。

 一方で、情勢が不安定な地域や内情が不明な企業への投資は避けており、堅実に稼ぐ方針が取られている。その為、投資先は先進国の企業が殆どであり、新興国や途上国に対しては「安定している」と判断された場合にのみ行っている。

 

 資源、観光、投資による収入の三本柱は、南海の経済基盤を盤石なものにした。どれか一つに頼った経済では無い為、急な要因で不況になる恐れは弱いと見られた。

 実際、1997年のアジア通貨危機、2002年から翌年のSARS(重症急性呼吸器症候群)の大流行、2008年の世界経済危機などでも大きな影響を受けていない。流石に観光客の減少や株価の低迷は避けられなかったが、大きく景気が落ち込むという事態にはならなかった。




※1:この世界の日本では「戦後復興の支援」を目的に1952年に解禁された。だが、反社会勢力の資金源となる事、過度な競争による共倒れを防ぐ目的から、同時に「カジノ法」が制定された。後にカジノやパチンコなどによるギャンブル依存症や破産者が多数確認された事で、規制強化や依存症者の更生支援などが事業者に義務付けられる。
※2:史実では、1886年の550万人から1990年の1100万人と4年で倍増している。この世界でもほぼ同様に、1986年の600万人から1990年の1300万人と倍増している。史実よりも多い理由として、人口そのものが多い事、中間層と富裕層が厚い事が挙げられる。
※3:それでも、史実の様に各国が入り混じっている状況ではなく、明確な治安組織が存在する為、史実の様な無軌道な乱獲は起きていない。その為、資源量は史実の3割程多く残っている。
※4:政府が出資する投資集団。主な原資は天然資源の輸出で得られた利益か外貨準備高となる。


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14話 冷戦後②:21世紀の南海

 南海の経済的躍進は目を見張るものがあった。観光(カジノ、リゾート)、資源(石油、天然ガス)、投資の三本柱は堅固であり、東南アジアではシンガポール並みの経済力を有するまでになった。これらの産業は時々下がるものの基本的には右肩上がりであり、今後も資源を除いては安泰だと見られている。

 20世紀末には、人口増大や新しい病気の発見、ITの急速な拡大から、医療産業やIT・情報産業への参入も行われている。競合他社が多い事から苦戦しているものの、国による新産業育成の後押しがある為、投資は続いている。

 この成果は2010年頃から現れ、新薬やワクチンの研究の為に日米欧の医療機関との連携や、日米欧のIT企業からのアウトソーシングが行われている事実から窺う事が出来る。

 

 一方で、これらを守る為の力は人口の面から弱いという欠点があった(総人口約65万人)。その為、警備ならば自国で何とかなるが、大規模な軍事力となると外国の軍に任せていた。

 だが、そうであるが故に、諸外国からの侵略の危険性は非常に低かった。何せ、駐留しているのがアメリカ軍であり、攻撃すれば直ちにフィリピンやグアム、台湾に駐留しているアメリカ軍の報復が待っているのだから、おいそれと攻撃出来なかった。アメリカ軍としても、東南アジアの要衝であり資源の輸入元でもある南海を手放せない存在である為、守るに値する場所である。

 

 兎に角、21世紀中は南海の安全はアメリカによってほぼ守られているという事になる。南シナ海に面する東南アジア諸国にしても、武力で奪うにはリターンが合わず、今までの秩序を壊す事も憚られた。また、日米台による監視の目もあり、その三国の東南アジアに対する政治的・経済的影響力を無視する事は出来ない為、東南アジア諸国が損害や報復を考えない限りは侵略されないと見られた。

 ただ、南海の周辺海域に対する影響力を強めたい様で、200カイリ内部における共同開発を持ち掛けるなどしている。流石に領有まで主張する事は無く、南海としても連携を強化して少しでも警戒心を和らげたいと考えており、不利益にならなければ共同開発を認めている。

 中華民国(海南島)についても、1970年代までは虎視眈々と狙っていたが、現在はアメリカの監視や経済格差から連携を望んでいる。だが、向こうの面子の問題もある為、表向きは何かしら言ってくる事が多い。

 

 その様な中で、注意するべき存在が中華人民共和国(中国)である。東南アジア諸国と海南島はアメリカとの同盟関係にあったり南海との繋がりが深いが、中国はそのどちらでもない。中国からすれば、南海はかつての冊封国であり、つまり臣下として見ている。

 近年、中国の経済発展に伴い自国内の資源だけでは賄いきれなくなった。その為、アフリカへの進出を強化しているが、その場合は資金や通商路の問題がある為、自国の近くで獲得したいという考えが強かった。その対象に選ばれたのが、石油や天然ガスを産出する南海だった(※)。

 勿論、アメリカ軍という後ろ盾から、中国も軍事的冒険をする事は無い。一度、1990年代末に台湾沖と海南島沖に進出した事があったが、その時は日米両海軍の空母機動部隊が大挙して進出してきた事で撤退せざるを得なかった。しかも、その報復で資本撤退やら技術供与停止やらの経済制裁を受けた為、以後四半世紀は中国による海洋での軍事的冒険は無いと見られている。

 だが、万が一の事がある為、海南島や香港と協力して中国本土の監視を続けている。

 

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 21世紀に入って10年以上経過したが、東南アジアにおける南海の存在感は大きい。周辺諸国も製造業の拡大などで経済力が上昇しているが、長年の影響力や金融力の差からその地位を脅かされるには至っていない。寧ろ、東南アジアにおける中立地帯として各国が維持しようとしている。日米欧台もそれを望んでおり、疑似的な中立地帯となっている。

 その状況を打破しようとしている筆頭が中国だが、日米台の監視や東南アジア諸国の対中不信からそれは今世紀中は不可能と見られている。それ処か、自国内の状況が不安定であり、中国が自国領と主張している満州やプリモンゴル、海南島、ウイグル、チベットと対立している状況では本格的な海洋進出はまだ先の事と見られた。

 

 今後も、南海の状況は安定するだろう。石油の採掘量については近年減少傾向にあるが、まだ十数年間は採掘可能と見られている。また、新鉱区の発見や採掘コストの低下による採掘可能量の増加、天然ガスの利用によって、更に十数年間は採掘可能と見られている。

 資源以外にも、東南アジア諸国やインドの経済発展による中間層や新興富裕層の拡大によって、これらの国からの観光客が急増している。それによって、1990年には150万人だった観光客数が2000年には200万人、2005年には250万人、2010年には350万人と年々増加している。この急増に対応する為、国内ではホテルやカジノの建設、空港や港湾施設の拡大に追われており、一時的ではあるが建設ラッシュに沸いている。

 投資の方も、東南アジア諸国及びインドの発展が著しく、その方面への投資も拡大している。これにより、各国の経済建設が更に進み、南海の機嫌を損ねて資本撤退されたくないから、南海との関係を維持しようと努力を務めるという循環になった。

 

 また、南海から海外への旅行も急増した。1980年代までは数万人だったが、1990年代から急速に伸び、21世紀初頭には50万人越えをした。これは延べ人数だが、国民の約8割が海外旅行をした計算となる。旅行先も今までは近隣の南シナ海諸国や南海系の移民がいる日本、台湾、アメリカが主流だったが、近年ではインドや満州、カナダにヨーロッパなど山や雪のある地域が多い。

 

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 中国が台頭し、日米台から見捨てられ、東南アジアが明確な野心を持つその日が来なければ、今後も南海は安定するだろう。経済状況は外部に左右されやすく、台風の通り道というリスクこそあるものの、南シナ海の要衝という場所故に、混乱する事を誰もが望んでいない為である。

 




※:同様に選ばれているのが、石油・天然ガスのウイグル、カザフなどの中央アジア諸国、レアメタルのモンゴル、プリモンゴル、チベット。他に重化学工業の満州、海洋進出の台湾、海南島も対象となっている。


これにて終了となります。中途半端かと思いますが、ネタが思い浮かばなくなってしまい、これ以上書き続けるのは難しいと判断して、ここで終わらせます。短い内容でしたが、ご愛読ありがとうございました。


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