空の魔法使い (ほしな まつり)
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空の魔法使い・1

やっぱりこの二人は仲良しさんだな、の第一話。


「キリト、キリトっ、起きてよっ」

 

急いていてもどこか優しげな友の声が顔の上から振ってきて、キリトは「うぅっ」と寝ぼけ気味の唸り声を漏らす。

 

「……あと五ふ……ん……」

「だーめっ、もう皆、集まってるんだからっ」

 

みんな?、みんなってナンダ?……と回らない頭に浮かんだ疑問をそのまま眠気の中に溶かして、ゆっさゆっさと自分を揺らす友の腕を掴もうと片手を彷徨わせながらキリトはうっすらと瞼を押し上げた。

 

「……ユージオ……」

「うん、おはよう……なのかな?。今は『茜空の魔法使い』の時間だけどね。とにかく、起きてっ、キリトっ」

 

キリトにとっては数少ない、友、と呼べる少年、ユージオは勝手知ったるキリトの家、とばかりに寝室まで普通に入って来て、亜麻色の髪が振り乱れるのも構わずに名前を呼び続けたにもかかわらず力尽きた手をぱたり、と落とし再びその真っ黒な瞳を隠してしまった寝ぼすけの肩を揺すっている。目の前の寝ぼすけキリトは「ううぅっ」と言葉にならない声をその振動に合わせ、口の端から零していたが、そのうちガクンっ、ガクンっ、と容赦ない揺さぶり方になってきた事で観念したのか、ボソボソと「わかった、起きる」と言って大きな欠伸をひとつした。

ほっ、とした表情に緩んだユージオは次に翡翠色の瞳を輝かせる。

 

「ほら早くっ、きっと僕らが一番最後だよ」

 

掴んでいた肩をそのまま少しスライドさせてキリトの両腕を握ったユージオはそのまま勢いよく友の上半身を引き上げた。その反動でぐらり、と大きくキリトの頭が前後に揺れたが、それでようやくしっかりと目が覚めただろうと思ったようで、ユージオが笑いながらその手を離す。こうなってしまっては、とキリトも目を擦りながらもそもそと起き上がり、寝間着を脱ぎ捨てて手近にあった服に着替えながら顔だけを友に向けた。

 

「さっきから何の話なんだ?、ユージオ」

「新しい仲間が来たんだ」

 

ユージオの弾んだ声を聞いたキリトは一瞬、その瞳を見開いたものの、すぐに興味を静め、それでいて何かを納得した顔になる。

 

「あ……ああ、そっか……」

「キリト?」

 

突飛で不可解な言動はこの友の専売特許なのだが、その度に関心を寄せて説明を求めてしまうのもユージオのいつもだった。

意味を問われたキリトが珍しくも少し照れたように天井の隅を見ながら頬を人差し指で引っ掻く。

 

「もう……オレ、彼女に会ったんだ……」

「ええっ!?」

 

キリトは昨日の夜、自分の腕の中でスヤスヤと眠る長い睫毛の少女の寝顔を思い出して誤魔化しがきかないほど頬を赤らめた。

 

「『転移の泉』に現れたのが夜だったからさ、たまたまそこにいて……」

「あー、なるほどね」

 

決して懇切丁寧とは言えないキリトの説明に、それでも付き合いの長いユージオは大筋の内容をくみ取って頷く。

要はこれから仲間として皆に紹介されるだろう新参の魔法使いは女性であり、珍しくも夜に、ここ『空の魔法使い』達が住まう浮遊城アインクラッドの『転移の泉』に現れたというわけだ。通例ならばその顕現を察知した長が泉に迎えに行くのだが、今回は『夜空の魔法使い』であるキリトが既にその場所にいたのだろう。彼が真黒の夜に泉の近くで空を眺めているのは珍しい事ではないらしいから本当に偶然、魔法使い誕生の場に立ち会った事になる。

 

「夜にやって来るなんてキリト以来かな?」

「そうだな」

 

『空の魔法使い』の活動時間はほとんどが者が日中のせいか『転移の泉』に誕生する時間も昼間である者が圧倒的に多い。今現在、アインクラッドに住んでいる魔法使いで夜に現れたのは『夜空の魔法使い』のキリトだけだった。だからキリトはこの浮遊城では『青空の魔法使い』であるユージオが起きている時間にベッドに潜り、空を司る魔法使いが『茜空の魔法使い』に代わる頃、その日の役目を終えた友が家に寄ると少しの時間、お喋りをしたりする。そして家路につく友の後ろ姿を見送った後、夜の間、自分の役割を果たし、まだ薄暗さが残る明け方には全くもって不似合いな『暁天の魔法使い』の清々しい笑顔を見届けてから、ひとつあくびを零して再びベッドに潜り込むのである。

空を司る魔法使いは四人。

常に誰かが自身の魔法で空を維持しているのだが、別に終始呪文を唱えているわけでもないし、空に向かって両手の平から何かを放出し続けているわけでもない。ただ空の下で意識を保っていれば普通に空は維持できるのだ。

同様に魔法使いもそこにいるだけで魔法使いである。

望んだわけでもないし、学んだわけでもない。

『空の魔法使い』の場合はある日突然、浮遊城アインクラッドの『転移の泉』に現れた者がすなわち『空の魔法使い』なのである。

誕生した時の年齢や性別にも規則性はなく、子供であったり老人であったりと様々だ。それでもこの城に来れば自分が何の魔法使いなのかは自然とわかるし、魔法も使えるから戸惑いはない。

文字通り空に浮いている城に住む『空の魔法使い』達は空を司る魔法使い達だけではなく、むしろ他の気象を司る魔法使い達の方が大勢いて、彼ら、彼女らはアインクラッドを拠点として世界各地を飛び回り魔法で気象状況を操作している。例えば「霧」を発生させる魔法使いなら「山霧の魔法使い」「海霧の魔法使い」「川霧の魔法使い」と複数の魔法使いが存在していて、けれどどの魔法使いも共通している事がひとつ……それは何も見えない夜空の下では魔法が使えないという事だ。

だから『空の魔法使い』はもちろん、浮遊城を見上げながら日々の営みを紡いでいる多くの普通の人間達や動物達も更に彼らと関わり合いながら暮らしている地上の魔法使い達も夜の訪れと同時に眠りにつき、夜空の下では皆等しく目を閉じた真っ暗闇の中『暁天の魔法使い』が魔法を使うその時を待つのである。

 

「彼女は何の魔法使いなんだろうね」

 

城の広場へと早足で移動しながらユージオは隣の相棒へ問いかけた。

キリトの方はユージオの歩みにつられるように足を動かすだけで精一杯なのか、返答もせずにまだまだ寝足りない顔をむぐむぐと動かしている。どうやら眠気をかみ殺しているようだ。ユージオは構わずに今現在空席になっている『空の魔法使い』の名を羅列する。

 

「不在なのは……『五月雨(さみだれ)の魔法使い』に『淡雪の魔法使い』、あとは……」

「多分、だけど……違うな」

 

期待していなかったキリトからの声にぼんやりとした中にも芯を感じて、光沢のある翡翠の瞳が驚きで大きくなった。

 

「へぇ、そうなんだ」

「ああ、眠ってたから言葉を交わしたわけじゃないけど、もっと一瞬で閃くような強さのある魔法使いだと思う」

「『金風の魔法使い』アリスみたいな?」

「そーいや最近見てないな、アリス」

 

ほぼ同時期にこの浮遊城アインクラッドへ顕現したキリト、ユージオ、アリスの三人は歳が近い事もあって「親しい」と言える間柄だが、アインクラッドから居場所を移動させる必要のないキリトとユージオとは違い、アリスは「風の魔法使い」であるから、世界各地の空を飛び回っていて城に戻っていない日も珍しくない。

 

「あと数日もすれば帰って来ると思うけど」

「ふーん、相変わらずユージオには知らせてあるんだな」

「それはっ、ほらっ、アリスが城を出る時ってだいたいキリトが寝てる時間だからっ」

 

なぜか慌てて説明をするユージオの横顔を興味なさげに見たキリトはうっかりと小さな欠伸を漏らして、誤魔化すように息を吐いた。

 

「別に。ただアリスがいないと静かで昼寝もしやすいなぁ、って思っただけだよ」

「キリト…………それ絶対アリスに言っちゃダメだからね」

 

そうなのだ、自分達の活動時間である昼間に睡眠をとっている『夜空の魔法使い』の元へわざわざ出向いて親交を深めようと思う魔法使いなど、この城には二人くらいしかいなかったのである。




お読みいただき、有り難うございました。
キリト、ユージオ、アリスの三人分しか名前が出てないので、
アリシ編みたいだ……。
「金風」は「秋の風・秋風」の事です。
金の字を使いたいだけで決まった「金風の魔法使い」(苦笑)


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空の魔法使い・2

やっぱり「長」はこのヒトだよね、の第二話


この世界の大地を覆う空、そして、その空を司る魔法使いと空に起こる気象のそれぞれを司る魔法使い達、総称『空の魔法使い』達が本拠とする「浮遊城アインクラッド」……今、その城前の広場には現在、城に留まっている魔法使い全員と言っていい人数が集まっていた。

広場から城内へと続く階段の上にいた城長(しろおさ)ヒースクリフは広場に一番最後に到着した年若く、それでいてこの空の主軸の二人が到着したことを認めて、空の色を確認する。

予想通りと言うべきか、既に『茜空の魔法使い』の時間も終盤に近い。新たな仲間の魔法使いをゆっくりと紹介している時間はなさそうだ。今回は色々と不可思議な点があるが、それはまた追々説明するしかないだろう、と城長は寝起きの悪い『夜空の魔法使い』を恨めしげに見た後、そのまま自分に集中している視線をゆっくりと押し返した。

 

「待たせたね。では紹介しよう」

 

大声ではない、低く落ち着いた声がその場にいる魔法使い達の耳すべてに確実に浸透していき、その場が水を打ったように静まりかえる。丁寧に撫でつけた長髪を後ろでひとつに結んでいるヒースクリフはその毛先を緩やかに揺らして城内へと振り返った。夕陽に照り返る白金の髪色はこの城の長にふさわしい彼の潔白な人となりを表しているようだ。

 

「出てきたまえ……」

 

片方の手の平をすくい上げて誘い、促す声が城の内まで届くと、カツンッ、カツンッ、とゆっくり石畳を踏む音が響く。屋内から赤橙色の陽光に照らされた場所へと徐々に姿を現したその容姿を目にした魔法使い達の多くが知らずに息を止め目を瞠った。

少女の殻から抜け出しつつある年齢特有の無垢な柔らかさと芳潤な色香を同居させた体付き、手足も首筋もほっそりとしているが骨張ってはおらず、緊張しているのか前身の上で一つに合わさっている両手は互いをきつく握りしめていて、同様に綻べばさぞ愛らしいだろうと想像できる薄い唇も今は真一文字に結ばれている。少し色づいている頬は全ての目が自分へと集中している事への恥じらいなのか、それとも夕陽のせいなのか……全魔法使いが彼女の一挙手一投足に注目している中、ただ一人、キリトだけはその目元に視線を固定させ訝しげに首を傾げていた。

ヒースクリフの横に並んだ彼女が足を止め、こくり、と唾を飲み込むと、続けて胸元辺りまで伸びている栗色の髪をさらり、と滑らせ深々と一礼をする。

 

「皆さん、初めまして……アスナ、と言います」

 

多少堅さはあるが、それでも鈴を転がすような声に皆が聞き惚れた……が、次の言葉を待つ全員の期待に戸惑いを浮かべたアスナは「あっ」と気付いて、わたわたと少し早口になる。

 

「ご覧の通り、目は見えませんが感じ取る事は出来るので……」

 

日常の生活には問題ありません、と続けようとしたのだが集まっている魔法使い達から一様の「えっ!?」と驚きの気配を察知して、自分の発言の間違いに気付き口を噤んでしまう。そこにヒースクリフの声が割り込んできた。

 

「みんな、新しい仲間となったアスナくんは目が見えない。しかし本人も言っていたとおり周囲の様子はどうやら感覚で認識できるらしい。今も普通に一人で歩いている姿を見たからわかると思うが……」

 

そう言われれば、とその場に集っていた魔法使い達は記憶を巻き戻す。確かに城長に名を呼ばれた時、彼女は一人で歩み出てきたし、その歩き方にも不安定な所はなかった。過去には耳の聞こえない者や口のきけない者も『空の魔法使い』として存在していた記録が残っているし、目が見えない、と言ってもほとんど支障はないらしいとわかり皆の表情は落ち着きを得る。強いて言うならここまで整った容姿の彼女が瞳を開いている顔が見られない残念さくらいだ。

広場の雰囲気が安定したところで再びヒースクリフは口を開いた。

 

「とは言え顕現したばかりの身だ。実際に見える物と感知する物とでは違いが出る可能性もある。そこで慣れるまでの間、誰かと一緒に行動してみてはどうか、と思うのだが……」

 

最後まで言い切る前に、男女を問わず複数の手や声が次々と上がる。もちろん全員が好意からの申し出だが、若干青年魔法使い達がやに下がった顔つきになっているのは仕方のないことだろう。彼らの表情の内にある感情も見極めたヒースクリフの真鍮色の瞳が細くなり、つられるように眉尻も下がった。

 

「積極的な申し出は有り難いが……実は彼女自身、自分が何の魔法使いなのかわかっていない」

 

突然告げられた言葉にその場の全員が息を呑み固まる。

ここ浮遊城アインクラッドに出現したのだから『空の魔法使い』ではあるのだろうが、自分の魔法が分からない魔法使いなど聞いた事もないからだ。自分が何者なのか……それは魔法使いとなった時点で当たり前のように自覚できる自分の存在意義と言っていい。

魔法使い達の驚きを眺めながらヒースクリフは続けた。

 

「そして彼女がこの城に現れたのは真夜中なのだよ」

 

何かのスイッチを押されたように魔法使い達が一瞬、ギョッと目を見開きすぐに周囲を見回す。そして目当ての魔法使いを発見すると、不躾な視線はその人物に集中した。穴が空くのでは?、と思うほど多くの魔法使い達に見つめられている一人の魔法使いの隣で戸惑いの友の声が「キリト……」と囁くが、この城にいる魔法使い達の一種嫌悪すら混じった眼差しは揺らぐことはない。

けれど城長の隣にいたアスナだけはキリトの存在に気付くと迷いも見せずにトンッ、と広場へ降り立ち、タタッ、と小走りに歩み寄って、閉じた瞼のまま、ふわり、と微笑んだ。

 

「あなたよね。昨夜、私を運んでくれたの」

「……、あ……ああ」

 

目が見えない、と言うのは無数に突き刺さる視線に籠もった感情までは計れないのか、とキリトはアスナの行動に対する周囲の驚きと、そこに共存する忌避から早く彼女を遠ざけたくて一歩後ずさり、この場から離れようと身体を捻った……と、それよりも一瞬早くキリトの手をアスナの両手が包み込む。

 

「ありがとうっ」

 

純粋な声と共にキラキラと弾ける光の粒が繋がった手から流れ込んでくる感覚にキリトは漆黒の瞳をパチパチと瞬かせた。

 

「わかるのか……?」

 

しっかりと握りしめられている手を見つめてもそこに何の異変も存在しない事を確認してから一呼吸置いて呟いた言葉に含まれた多様な意味を察したのか、アスナは嬉しそうに笑う。しかし、その光景の一部始終を見ていた広場の魔法使い達はキリトよりも驚きを濃くしていた。

大勢の魔法使い達が集まっている広場の中を身軽な足音だけでキリトの元へ辿り着いた盲目であるアスナの感覚と一寸の迷いも見せずに触れた『夜空の魔法使い』の手……夜を苦手とする魔法使い達には考えられない行動だ。対局にいる『青空の魔法使い』は同等の力を有しているせいか触れる事に躊躇いはないが、穏やかな笑みが基盤のユージオも初対面に近いアスナがやってのけた偉業に驚きを通り越してただ呆然と目の前の二人を見つめている。

しかし時が刻刻と過ぎて、太陽が沈みかけている事に気づいたヒースクリフは「こほんっ」と咳払いをしてキリトに意味深な笑みを投げかけた。

 

「では、アスナくんのサポートは君に頼もう」

 

今度こそ広場に集まっている魔法使い全員が「ええっ!?」と声を揃える。そのまま言葉を続けたのはキリトだった。

 

「おいっ、ちょっと待って……」

「彼女が何者かはわからないが、夜に顕現した事と、実は彼女、先程まで眠っていたのだよ。この時間に目覚めるのなら共に生活する相手は君しかいないだろう?」

 

一見問いかけているような言葉遣いでもヒースクリフの声や表情は反論を許さないものだ。

 

「この城での生活に馴染むまでだ。他の魔法使い達との交流を制限するわけでもない。さして問題はないと思うが」

「共に生活って、問題おおありだろっ」

 

平素から何事にも動じない城長の内に秘めた少し面白がっている気配に気付いているキリトは思わず噛みつくが自分の手と繋がっている細い指がきゅっ、と強張った変化に慌ててアスナを見た。

 

「私が一緒じゃ、ダメ?」

 

挨拶の場で大勢の魔法使い達を前にし若干緊張はしていたものの、スッと背筋を伸ばしていた彼女が、今は一転して瞑ったままの目をこちらに向け不安そうに見上げてくる面差しを至近距離で見せられたキリトはつい、うぐっ、と声を詰まらせてから降参したように「……ダメじゃない」と告げてしまう。しかし、せめて住む家は別にしようと提案しかけた始まりの「けど」と言う言葉は、出たか出てないか自分でも分からない時点でヒースクリフの「決まり、だな」という声と、ユージオの「決まりだねっ」という声、それに「よかったぁ」と心底嬉しそうなアスナの声に阻まれて存在を消されたのである。




お読みいただき、有り難うございました。
アインクラッドで「長」が付くエライヒト、と言えばもう
このヒトしかいないでしょう。
悪巧みはしてませんよ(苦笑)


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空の魔法使い・3

二人で歩く時はそうなるよね、の第三話


アスナとの同居を半ば押し付けられるように受け入れたキリトは握られている手をそのままつなぎ直し、好奇、驚き、妬み、そねみの視線から逃れるように広場から彼女を連れ出した。二人の後ろ姿を「ふーん」と見送っているユージオの口元が嬉しそうに曲線を描いた後、すぐに欠伸を押し出したのは知る由もない。

『茜空の魔法使い』の力はどんどんと弱くなっている。『青空の魔法使い』であるユージオはいつもならキリトがしっかり起きたのを確認して自分の家に戻り、そろそろ寝る支度にとりかかっている頃だ。

他の魔法使い達も同様に空の色を見て、姿を消した若い二人の魔法使いの影を追っている場合ではないと気付いたのだろう、ひとり、またひとりと去って行き、広場に静寂が戻るとほぼ同時に太陽の存在が空から消えたのを見届けたヒースクリフもキリト達が立ち去った後をほんの一時見つめてから城内へと引き上げたのである。

 

 

 

 

 

「とりあえず君はオレの家で……」

 

と言いながら振り返ったキリトは、はた、と現状に気付いて足を止めた。

外出の時は既に無意識で着用している黒の指ぬきグローブ……当然、今も自分の手に装着しているが、意識してみればグローブごしにもハッキリとわかるほど細く柔らかな感触が伝わってくる。

 

「わっ、悪いっ…………あれ?」

 

知らずに握っていた手の力を抜いても、感触が消えない事を不思議に思って、未だ自分の手と繋がったままのアスナの手をまじまじと見てからそのまま顔を上げ、今度はその手の持ち主を見るが疑問の視線に気付いているのかいないのか、アスナはことり、と首を傾げた。

 

「あなたの家、もう着いたの?」

「いや……まだだけど……」

「だったら急ぎましょう。もう交代の時間なんでしょ?」

 

どこまで『空の魔法使い』としての知識があるのか……なんでこんな所で立ち止まったのよ?、と少し呆れ気味の声にキリトは更に「あれれ?」と思い悩む。戸惑う気配に痺れを切らしたアスナは急かすように自らが握っているキリトの手を軽く揺さぶった。

 

「周囲の気配はわかるから歩くのは問題ないけど、さずかに行った事もないあなたの家の場所まではわからないわよ」

「……だろうな……じゃなくてっ」

「私は別に夜になっても構わないけど……」

 

『夜空の魔法使い』の時間は空も地上も真っ暗闇となる。加えて魔法使いとしては魔法が使えない時間でもあり、それは一種の恐怖や嫌悪の感情を生み出していた。キリトに普通に接してくれている魔法使い達は皆一様に「ゆっくり休めていい」と言ってくれるが、それがかなりの少数意見で優しい好意に包まれている事はキリト自身がよく知っている。

だから出会ったばかりの少女が臆することなく見せてくれた夜への平常心をキリトは信じる事が出来なかった。

 

「それは……まだ、君が夜を知らないからだ」

「んー、城長さんに少し聞いただけだけど……」

 

アスナはそう切り出すと、すぐに混じりけのない笑顔を向けてくる。

 

「目が見えない私にとって真っ暗なのは今もそうだし、魔法が使えないのも今と一緒だもの」

 

そう言われてみれば、とキリトは自分以外の魔法使いが忌み嫌う状況がアスナの通常なのだと気付いて、一旦は抜いた手の力を再びギュッと込め直し、少し息苦しそうな顔をした。「だからこのまま『夜空の魔法使い』のお仕事をしていいわよ」と気軽に言ってくる彼女にキリトの声が少し小さくなる。

 

「君は……アスナは……オレが何をしてるのか……知ってるのか?」

 

思いがけず真剣な声で問われた内容にアスナは少し驚いたのか、細い眉を僅かに跳ねかせてからすぐにへにょり、と芯を失わせた。

 

「ごめんね、そこまで詳しくは知らないの。ただ、私は夜でも平気だってこと、あなたに伝えたくて……」

「キリト、だ」

「え?」

「オレの名前」

「キリト、くん?」

 

黙って頷いたキリトの顔にほんのり浮かんでいる照れ笑いが、見えないはずのアスナに伝染してこちらも口元がほころぶ。

 

「……目覚めてすぐ城長さんが教えてくれたの。私を見つけてお城まで運んでくれたのが『夜空の魔法使い』さんだって。運ばれている時、意識はなかったけどすごく安心できたのは覚えてたから……だからキリトくんが司る空なら絶対に大丈夫。怖くないよ」

 

広場の時のように繋いでいる手を通じてアスナから流れ込んでくる光の粒を感じたキリトは今度はそれを疑う事なく受け入れた。さっきは戸惑うばかりで存在そのものを見極めようとしてしまったが、アスナから絶対の信頼を感じた今、彼女から寄せられる感情と共に自身に浸透してくるそれはキリトの胸に淡い温もりを感じさせる。

 

「アスナは……強いな」

「そうかな?、でもそれはきっとキリトくんが傍にいてくれるから」

 

少しはにかむような笑顔に、つい空いている手までが彼女に伸びそうになって、慌ててそれを引っ込めた。初対面どころか視力を封じられている彼女に自分は一体なにをしようとしたのか……見えてはいないはずだが感覚で知られてしまったかもしれない、という自分でさえ意味不明の行動と感情に翻弄され、盗み見るようにアスナの様子を窺ったキリトだったが、アスナは気付いた様子もなく周囲を物珍しそうにキョトキョトと見回している。

 

「この辺のお家ってだいたい同じ感じなのね。みんな一人で暮らしてるの?」

「ああ、常にこの城にいるのは城長と空を駆け巡る必要のない『青空の魔法使い』『茜空の魔法使い』『暁天の魔法使い』そして、オレ、『夜空の魔法使い』だけだから、他の魔法使い達は留守にしている事も多いんだ」

 

へぇ、とアスナは再び辺りに届かない視線を巡らせてから「それで、キリトくんのお家は?」と小首をかしげた。

 

「もう少し行った所だ」

 

ある程度家がまとまっている地域からは外れた場所にある『夜空の魔法使い』の家、その意味するところをアスナが理解しているかどうかは分からないが、彼女はふわり、と笑うと「早く見たいな」と再びキリトを急かす。キリトはもう手を離そうなどと思いもせずに、そのままアスナと歩みを再開させた。

 

「『浮遊城アインクラッド』って呼ばれてるけど城で暮らしてるのは城長のヒースクリフだけで、他の魔法使い達の家は城の周囲にあるんだ」

「昨日、私がいた……えっと、『転移の泉』?……そこは?」

「そこも城の近くだけど、家が集まっているこの辺りとはまた別の場所で……それで、ここがオレの家」

 

一旦、入り口の前で立ち止まると、アスナはこれまで以上にキョロキョロと家全体を眺め、ついでに周辺も眺めてから納得したように、うん、とひとつ頷く。それを合図のようにキリトがギイッ、と扉を押し開けた。

 

「お、お邪魔します」

 

ひどくゆっくりと足を踏み入れるアスナを隣で見ていたキリトは、別に何の仕掛けもないけどなぁ、と少し可笑しくなって顔を緩める。

 

「笑わないで、魔法使いのお家なんて初めてなんだから」

「うぇっ……」

「言っておきますけど、今のはキリトくんの気配でわかったのよ。目が見えなくてもキミって分かりやすいわ」

「へいへい。そーですか……でも、魔法使いの家って言っても特別何もないだろ」

「…そうね。どっちかって言うと物がなさ過ぎるくらい」

 

落ち着きを取り戻したアスナの眉が今度は不満を表す角度になっていて、それはそれでまた可笑しくなったキリトは正直に、ぷっ、と笑い声を漏らした。

 

「とりあえずオレはもう行かないと。アスナは……奥が寝室になってるから、オレのベッドが嫌でなければ…」

 

寝ててくれ、と言う前に「眠くないわよ、私」と素直な声が割り込んでくる。

 

「忘れちゃったの?、城長さんも言ってたでしょ。私、ここに来てからずっと寝てたんだもの」

 

そう言われてみれば、とキリトもヒースクリフの言葉を思い出して頭を抱えた。自分以外の魔法使いは皆、夜になると寝ているから、ついアスナもそうだと思い込んでいたが、そもそも共同生活を勧められた一因は彼女が『茜空の魔法使い』の時間まで起きてこなかったからだ。

 

「じゃあ……どうします?」

「うーん……、キリトくんがよければ、だけど、このお部屋と寝室のお掃除や片付けをしてもいい?」

 

言われてみて改めて自分の家の中を見回したキリトは一呼吸置いてから「オネガイシマス」と頭を下げる。物が少ないのと掃除がしてあるのは別問題なわけで、寝室のベッドに脱ぎっぱなしになっている寝間着の存在を思い出したのは、アスナが「いってらっしゃい」と手を振って見送ってくれてから随分とたった後だった。




お読みいただき、有り難うございました。
「旋風の魔法使い」に室内の埃を飛ばしてもらう、って
手もあります(笑)


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空の魔法使い・4

質の良い睡眠って大事だよね、の第四話


空を『暁天の魔法使い』に渡し終えたキリトはいつものように疲れ切った身体を引きずってどうにか自分の家まで辿り着いた。足取りも意識さえも覚束ない状態だったが、帰巣本能とでも言うのだろうか、身体は休息を求めて霞んだ視界のままでも目指す場所は毎日変わらない。

キリトのこんな姿は『暁天の魔法使い』さえ知らない事だ。

『茜空の魔法使い』から引き継ぐ時もそうだが、天空を司る魔法使い同士、直接のやりとりは必要ない為ここ最近はユージオ以外の二人の魔法使い達の顔は見ていないが、特に『暁天の魔法使い』特有の気取った口調は苦手でも、毎日、きちんと朝を迎えられるのは彼のお陰だと、ほんの少しだけ感謝のような気持ちが湧く。

今日もいつも通りキリトの魔法力が弱まってくる頃に合わせて目覚めてくれたのだろう、朝陽が少しずつ夜空を明るくしていくのを感じながら自分の家の扉を開けたキリトは薄暗いリビングを突っ切る途中でお決まりになっている行動を始めた。

まずは黒のロングコートを脱いで椅子の背にかける。

次いで指ぬきグローブをはずしテーブルめがけて放る。

意識は朦朧としているが毎日繰り返している動作は寝ていても出来る気がする程、身体に染みついていた。

寝室のドアを開けてすぐにベッドへとダイブしたい欲望をなんとか堪えて、一旦腰掛け、靴を脱ぐ。感覚さえ覚束なくなっている足先を更に解放させる為、靴下を脱ぎ終えると徐に立ち上がり上下黒の衣類を取っ払って、確かこの辺りにあるはず、とシーツの上に片手だけを滑らせて寝間着を掴んだ。

後はこれを着てベッドに倒れ込むだけだ。

こうなればゴールは間近、と最後の力を振り絞って手早く着替えをすませ、頭からベッドに突っ込む。

ぼふっ、と僅かにベッドが跳ねたのとキリトが意識を手放し始めたのは同時だった。

ゆっくり、ゆっくり、まるで夕陽が沈むように穏やかな速度で眠りの世界へと落ちていく。

だからさっき手に取った寝間着がきちんと畳まれていた事やリビングのテーブルが片付いていた事など気づくはずもなく、もぞっ、と身じろぐと、すぐ隣に温かくて柔らかい何かがあって、それを無意識に抱きしめてしまったのも致し方ない事だったのだ……。

 

 

 

 

 

アスナは自分が眠りから覚めた事を実感する前に身動きが取れない感覚に狼狽えた。

昨日は陽が沈む直前にキリトを送り出し、それから室内の掃除を始めのだ。家主であるキリトに初めて招き入れられた時は随分と物の少ない部屋だと思ったからまともな掃除道具があるのかと心配だったが、部屋の片隅にはホウキやバケツが思いっきり存在を主張して居座っていた。ついでに隣の寝室も恐る恐る覗いてみたのだが、本当に今まで一人で暮らしていたのかしら?、と首を傾げたくなるほど彼の雰囲気にはそぐわない大きめのベッドがひとつあって……けれど、その上にあったのは脱ぎ捨てられた寝間着が一組だけで、それでやっぱり一人でこのベッドを使っていたのだと、なぜか少し安心した。

そうして一晩かけて家の中の掃除と片付けを終わらせたアスナは、ぽふんっ、とベッドに座り「キリトくん、まだかな」と呟いて、こてんっ、と横になったのである。

そのままシーツに溶けてしまうように眠りに付いたアスナは開かない瞼のまま既に夜が明けて相当の時間が経っている事を感じる前に自分の身体を縛り付けている物を感じ取って「ひぅっ」と息を飲み込んだ。幸い、と言うべきか、両腕は自由に動かせたので、そろりそろり、と胴回りあたりに指先を伸ばす。

触れればすぐにそれは人の腕なのだとわかり、そう気付けば冷静さが戻って来て自分の背中や後ろの首筋に吹きかけられている、スー、スー、と静かな寝息も耳に届いてきた。

一気に脱力したアスナは「はぁっ」と肩の力を抜いて、ちゃんと帰って来てくれた家主の存在に安堵した後、自分が背後から抱きしめられている状態に、えっ!?、と気づき、再び紅く狼狽えると同時に飛び出すはずだった叫び声を寸前で、はむっ、と口を閉じる事で押し込め、自分を落ち着かせる。

ドキドキドキ、とやけに心臓の鼓動が大きく、早く感じて、この振動が巻き付いている腕から伝わって彼を起こしてしまうのでは、と心配になるくらいだ。

けれどそんなアスナの心配をよそに相変わらずキリトの寝息は規則正しく後ろから聞こえてきて、意識すればするほど恥ずかしさと心地よさと少しのくすぐったさが密着している背中から全身に広がっていく。

キリトの事でアスナが知っている事と言えば『夜空の魔法使い』である事と日常生活がちょっとズボラな人である事くらいだ。

あとは、この「浮遊城アインクラッド」に顕現した自分を一番最初に見つけてくれた人で、意識のなかった自分を城まで運んでくれた人でもある。それから城長に共同生活を言い渡されて困惑したくせに、自分が不安そうにすれば渋々了承してしまう、気の優しい人。

出会ってほんのわずかな時間しか共有していない相手なのに、これほど一緒にいる事が嬉しくなってしまうのはなぜかしら?、とアスナは内心で首を傾げ、それからやっぱり内心でプルプルと首を横に振った。

きっと今考えても答えは出ない。

それなら、今やるべき事は自分の指先が触れている冷え切った手を温めてあげる事だろう。

さっきから全く体勢を変えず泥のように眠っているキリトが『夜空の魔法使い』として何をしているのかは分からないが、疲労困憊で魔法力がほとんど残っていないのは体温の下がっている身体と、回復しきっていないカサついた手でわかる。こんな生活を毎日続けていたのかと思うと「ほんとに、もう……」と溜め息をひとつ落としたアスナはゆっくり、慎重にキリトの腕の中から抜け出したのだった。

 

 

 

 

 

コトコトコト……とトロみのある液体が更に柔らかく煮込まれていく音と、それに伴って寝室に流れ込んでくる匂いにキリトは耳と鼻をぴくっ、と動かした……いや、実際にはそこまで器用に動いてはいなかったかもしれないが、とにかくその外的刺激で目が覚めたのだ。

友の呆れ声でもなく、ゆっさゆっさと無遠慮に身体を揺すられるでもなく、寝ている事が勿体ないとさえ感じさせてくれるその音と匂いにふんわりと目覚めるのはなんと気分の良いことだろう、と寝起きが悪い自覚を持つ自分がすんなりと眠りから抜け出すなんてこの城にやって来て初めての経験だな、と思いながらキリトは身を起こした。

どうやらこの目覚まし代わりの音と匂いは隣のリビングから漂ってきているらしい。

と、そこまでを感知してからリビングに誰かがいる事と、昨日から同居人がいる事を同時に思い出して、一瞬でパッチリ、シッカリと目が覚めたキリトは慌ててベッドから飛び出し、隣室へと繋がっている扉をバタンッ、と乱暴に開いた。

 

「アスナ!?」

「おはよう、キリトくん……あ、おはよう、って変?、もうお昼すぎだもんね」

 

鍋の中身をかき混ぜながらキリトへと振り返ったアスナは目を閉じたままの笑顔で挨拶を済ませてから少し眉根を寄せ「でもお家の中で、こんにちは、って言うのもちょっと違うような……」と考え込んでいる。

 

「へ?、昼すぎ?」

 

当のキリトは挨拶すら返さずに鳩が豆鉄砲を食ったように目を丸くしていた。

 

「そう、私もちょっと前に目が覚めたの。キリトくん、いつもは今頃起きるの?」

「……ソウ、ダナ」

 

思わずカタカナ語になってしまったのは、間違っても『茜空の魔法使い』も中盤の頃に心優しい友に叩き起こされているとは言わない方がいい、と野生の…いや、魔法使いの勘が告げたせいだ。それにしても、と今度はキリトまでもが眉間に皺を寄せた。いつもなら使い果たした魔法力を回復させる為にまだまだ睡眠を必要とするはずのなに今日に限って既に気分はスッキリとして魔法力も随分回復しており、そのお陰ですり切れた皮膚や身体の痛みも殆ど残っていない。

 

「なんだかすごく気持ちよく眠れた気がするんだよなぁ」

 

理由が分からず首を傾げるキリトは、こちらを向いていたアスナがなぜか顔を背け、早口で「ごはんにするから着替えてきてっ」と投げつけてきたので、無条件に「はいっ」とこたえ、再び寝室へ飛び込んだので気付かなかったのだ、彼女の耳がほんのり染まっていたことに。




お読みいただき、有り難うございました。
キリト、最高の抱き枕ゲットの回でした(笑)


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空の魔法使い・5

美味しいご飯も大事だよね、の第五話


寝室に引き返したキリトは改めてさっきまで自分が寝ていたベッドを目にして「ええーっ」と大声を上げた。それを聞きつけたアスナもすぐに「どうしたのっ!?」と慌てて駆け寄ってくる。

 

「ベッド……ベッドが……」

「ベッドがどうかしたの?、私、昨夜は床掃除をしただけでベッドは特に触ってないわよ」

「ベッドが…でっかく、なってる……」

「え?」

 

アスナまでもが信じられないキリトの言葉に仰天の声をあげた。ベッドが勝手に大きくなるなんてあるのだろうか?、と考えてみたが、ずっと使い続けていたキリトが大きさを間違えるとも思えない。それに自分がこのベッドを前にした時、一人で使うには随分と大きめだなと感じたのを思い出して「どういう事?」と混乱を口にすると、隣では先に事態を理解したらしいキリトが「はぁぁっっ」と溜め息なのか声なのかわからない音を吐き出した。

 

「二つに増えると思ってたのに……」

「それ、どういう意味?」

「だからアスナの同居が決まって城の魔法が発動した結果、ベッドの数じゃなくて大きさが変化したっていう……」

「お城の魔法?」

「『浮遊城アインクラッド』に住む為の魔法だよ」

「?」

「さっきアスナは床掃除をした、って言ってたけど、元々この家に掃除用具なんて揃ってなかったんだ」

「えぇっ?」

 

信じられない、と綺麗な顔全体で表現しているアスナの、存在しない視線から逃れるようにキリトは彼女を見ない方向に顔を動かして小さくもごもごと「オレは住むのに掃除ってあまり気にしないし……」と言うと「アスナが掃除をしたい、って思ったから掃除用具が現れたのさ」と説明を戻す。

 

「そんな事ってあるの?」

「ああ、だって城が地面ごと空に浮いてるんだぞ。それこそ魔法の力だし……ちなみにオレは今まで料理らしい料理なんて作った事がない」

「ええぇぇっっ、だっ、だって、お鍋やフライパンも、それに食器だってちゃんと揃ってたし……あの使いやすいキッチンスペースも?」

「アスナ、料理作るの好きなんだな」

 

あわあわと薄桃色の唇を忙しなく動かしているアスナの表情が可笑しくてキリトは優しく微笑んだ。

 

「ベッドの大きさに合わせて寝室も広くなったみたいだし、リビングの方もアスナが願えばもっと物が増えると思う」

「そ、そうなんだ……魔法って不思議」

 

振り返って顔全体をリビングに巡らせていたアスナだったが「あっ」とスープの存在を思い出し、煮込んでいる鍋の前へと駆け戻っていく。それから「帰って来た時は全然気付かなかったなぁ」と頭をポリポリ掻きながら未だベッドを眺めているキリトにくるり、と振り返り、ついでに手にしていたお玉もくるり、と振った。

 

「とにかく着替えてっ」

「ふぇーい」

 

寝室に消えたキリトを確認してから、ふと部屋の隅に鎮座してるバケツやモップに顔を向ける。確かに、使い込まれた、と言うよりはどう見ても新品だったそれらを見て、なんだか楽しくなってしまったアスナは「ふふっ」と笑ってから料理をよそうために食器を並べたのだった。

 

 

 

 

 

「はーっ、うまい。こんなちゃんとした食事、久しぶりだな」

「いままではどうしてたの?」

 

半日ほどですっかり聞き慣れてしまった呆れ声が向かいから飛んでくる。それを気にする事なくスープ皿を空にしたキリトは探るような上目遣いで「アスナ、もう一杯分、ある?」とお伺いを立てた。

手足の冷え切っていたキリトに温かなスープは大正解だったらしい。我ながら優しい味に仕上がった事に満足していたアスナだったが、おかわりを求められれば作り手としてはこれ程嬉しい事はなく、少し照れくさくて唇がむずむずと自然に動いてしまったがそれでも差し出されたスープ皿を無言で受け取る。食卓に置いてある鍋の蓋を持ち上げれば二人の間に白い湯気が立った。

湯気の向こうで嬉しそうに鍋の中を覗き込もうとしているのを感じたアスナはスープを注ぎながら「キリトくん」と名を呼んでもう一度「だ、か、ら、今までは?」と一文字一文字の圧を強くする。

 

「食事かぁ、そうだな……水瓶の水はいつもあるから喉渇いたなー、って思った時はそれ飲んだり……」

「それ、食事って言わないわよ」

「ちょっと違う物飲みたいなぁ、って時はあそこの棚に置いてある瓶を振れば城の魔法でジュースやお茶が飲めたし」

「……飲み物以外でっ」

「時々ユージオが果物を持って来てくれたり、ああ、アリスがサンドイッチを作って来てくれた事もあったな」

「……要するにキリトくんは自分でお料理はしないのね」

「だって魔法使いは地上の人間達と違って、腹、減らないだろ?」

「それはそうだけど……でも、おいしい、って感じる気持ちは持ってるでしょう?」

「魔法力の回復になるからなぁ。寝るか食べるかで回復するから、両方を取り入れてる魔法使いは多いけど、オレは寝て回復させる方が得意って言うか……」

「それって単にお料理が面倒なだけじゃないっ」

 

アスナはぷくり、と頬を膨らませた。とは言えキリトが魔法力の回復を睡眠だけに頼っていたのは事実だろうがそれだけではない予感がしている。少し前、自分が目覚めた時のキリトの様子を思い起こせば、日中に起きて料理をするほど体調が戻らない日もあるのでは?、と疑ってしまうのは仕方がなかった。

 

「ねぇ、キリトくん。昨晩(ゆうべ)の『夜空の魔法使い』のお仕事、いつもより大変だったの?」

 

自身の魔法が何かもわからないアスナはキリトが使う魔法の具体的な内容までは知る由もない。けれど二杯目のスープを頬張っていたキリトは何でもなさそうに首を横に振り「んーんーぅ」と否定の音を閉じた口の中から響かせた。

 

「別に、いつも通りだったけど?」

 

スープを飲み込んでから告げられた言葉にアスナは唖然として食事の手を止める。真偽を確かめるように、じっ、と正面の真っ黒な瞳を見えない目で覗き込んでみるが、そこに誤魔化しの色は混じっておらず、どちらかと言えば、なんでそんな質問?、と素朴な疑問で丸くアスナを見つめ返していた。逆にたじろいだのはアスナだ。今の言葉が本当ならキリトは毎日魔法力が枯渇するまで自身を酷使し、意識すら定かではない状態で空を引き渡した後、次に夜空の時間となるまで死んだように眠って使い果たした魔法力を回復させていた事になる。

「空の魔法使い」なら当たり前の生活なのかしら?、と、自分の感覚では到底納得出来ないアスナだったが、この城にやって来て一日しか経っていないんだから安直に意見を言うべきじゃないわよね、と判断してとりあえず手にしていたパンをちぎり、口に入れた。

 

「そう言えばこのパン、カゴに入ってたからお皿に全部載せちゃったけど、食べきったら次はどうすればいいの?」

 

少し堅めの黒褐色のパンだったがカリッとしている表面はスープに浸せば味を吸い込んで柔らかくなり、中心部はそのまま口に含んでよく噛むとほんのりとした甘さがにじみ出てくる。さっきからキリトが手と口を休む事なく動かしている為、皿に盛ってあったパンの数はみるみるうちに減っていった。

 

「このスープに合うパン、って、アスナ、考えただろ?」

「え?、そうかな……」

 

単にスープが出来たから他にも何か、と思って、ふと目に付いたカゴの蓋を開けてみただけなのだが、そう言われてみると無意識に、あとパンがあるといいな、と思ったかもしれない、と最終的には「うん、そうね」とキリトの問いに首肯する。

 

「もし、今、パンが足らなくて、オレがもっと食べたいなぁ、って思ってカゴの蓋を開ければ、そこにはこれと同じパンがあるよ」

「えっ!?、ホントに??」

「でも今はこれで十分。アスナ、食事の支度してくれて助かった」

「別に…これくらい。私も食べたかったし……」

 

キリトの冷えきった手足を何とかしてあげたいと思ったのが最初だったが、料理がしたい、何か食べたい、と思ったのも事実で、その自分の欲求に「あれ?」と首を傾げた。

 

「なんで私、お料理できるんだろう?……それに魔法が使えないのに眠くなったり、食事がしたいって思ったり……」

 

睡眠や食事が魔法力の回復の為の行為と言うなら、魔法が使えないアスナには必要のない物だ。しかしその疑問に答えるどころか更に謎を深くさせたのはキリトの言葉だった。

 

「夜に顕現した、って事自体、特殊だしな」

「そうっ、それっ。その時の私ってどんなだった?」

「全然覚えてないのか?」

 

こくり、と素直に頷くアスナを見て、キリトはとりあえず残っていたスープをズズッ、と飲み干した。




お読みいただき、有り難うございました。
ま、魔法って便利ー(魔法使いにとっても、書き手にとっても)
ベッドの個数よりサイズを調整する「城の魔法」とは
友達になれる気がする(笑)


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空の魔法使い・6

食後のお喋りって止まらないよね、の第六話


食事の後片付けを終わらせた二人は先刻と同じように向かい合わせでテーブルについた。

各々の目の前には丸みを帯びた素焼きのマグカップが置かれていて、キリトは昨日までなかったその食器の存在と、更にカップが持つ風合いが洗練された鋭利な美しさより温かみを感じる形や手触りにアスナの好みを感じ、ついでにかなり前にユージオから貰いっぱなしだった茶葉はこんな香りがしたんだなぁ、という初体験とが全部混じり合って行き着いた「ほほう」という一つの短い感嘆詞を口から吐き出す。

 

「……何が、ほほう、なのよ」

 

どうやら食後のお茶を出したアスナとしては理解の範疇を超えた感想だったらしい。疑問、と言うよりは、呆れ要素の濃い声にキリトは手元を見つめながら答えた。

 

「このカップがさ、なんとなくアスナらしいなと思って」

「と言うことは、このカップも?」

「うん、初めて見た」

 

キリトの言葉に今度こそ疑問が勝る。

 

「このカップが私の願いを反映してるなら、なんでベッドは数じゃなくて大きさが変わったのかしら」

「まあ、オレも軽く予想してた程度だし」

「だったら今から強くお願いすればベッドは二つになるの?」

「それはどうかなぁ。城の魔法って言っても願い事を全部叶えてくれるわけじゃないから……」

 

明確な規則性はないのだと知ったアスナは華奢なおとがいに人差し指を当てて考え込んだ。

キリトの言葉を借りれば城の魔法と言うのはこの浮遊城アインクラッドに住む為に必要な物を出してくれるのだ。だったらアスナがキリトと一緒のベッドではここで暮らしていけない、と本気で思えばベッドが二つになるのではないだろうか?……と思ってはみたが、今日、自分が目覚めた時の状態を思い起こせばすぐに頬の赤みが蘇るけれど、だからと言ってベッドを別にしたいという感情はわき上がってこない。

それよりも自分が居る事で少しでも安らかな寝顔になって欲しいと思ってしまう気持ちを認めてしまえばベッドに関してこれ以上悩む必要はないわけで、アスナは「ま、いいわ」とその問題を終わらせた。

 

「それで、私がこのお城にやって来た時の話だけど」

「じゃあ、まずは一般的って言うか、この城にいるオレ以外の魔法使いが顕現した時の話をするか」

 

そう言ってカップの中身で喉を潤してからを「まず最初に」と、話し始めたキリトをアスナは背筋を真っ直ぐに伸ばして真剣な表情で耳を傾ける。少し緊張気味なその様子に思わず口元を緩めたキリトだったが、何も言わずに話を進めた。

 

「普通はどんな魔法使いでもこの城に顕れるのは昼間なんだ。あと顕現する場所も『転移の泉』って決まってる、って言うか、外からこの城への出入り口はそこしかないから当たり前なんだけど」

「外から?」

「そう。地上にいる魔法使い達がやって来たりするんだ」

「あ、それで『転移』なのね」

 

ひとつの疑問が解消したせいか、アスナの表情から緊張が僅かに抜ける。

この城以外に存在する魔法使い達に関しては話が広がりすぎるので、キリトは『転移の泉』に焦点を戻した。

 

「魔法使いなら誰でも利用できるから泉に人が現れる事自体は何も特別じゃない。けど、この城の新たな住人になる魔法使いの場合は城長のヒースクリフがその出現を察知して迎えに行くんだ」

「でも、私の時は夜だったから?」

「いや、少し待っていれば来たと思う。オレがアスナを城に運んだ時も城長はすぐに出てきたし身なりもちゃんとしてた。何よりオレが顕現した時だって迎えに来たし」

「でも、ここの魔法使いさん達ってキリトくん以外の人は夜は出歩かないんじゃないの?」

「ああ、夜に城長に会ったのは顕現した時だけだな。あの人は……なんか、特別なんだと思う。だいたい『城の魔法使い』のヒースクリフが夜に魔法が使えなかったら、この城は毎晩地表に落下してる事になるだろ」

「そっか……」

 

昨日、アスナが城で目覚めた時に城長であるヒースクリフから受けた説明によれば、彼は気象を司る「空の魔法使い」とは一線を画しており、アインクラッドが浮遊城である為の魔法使いなのだそうだ。

 

「え?!、でも……そうしたら、城長さん、一日中起きてるってことに……」

「そう、それそれ」 

 

すぐに魔法使いの特性から疑問を抱くアスナの理解力にキリトは感心しながらもにやり、と笑む。

 

「このアインクラッドの七不思議のひとつになってる」

「えーっ」

「でも、寝ぼけてるヒースクリフなんて見た事ないし、直接聞いても答えてくれないからこれはもう謎のままでいいか、って、みんな諦めてるんだよなぁ」

 

考えても尋ねても答えが出ない疑問をいつまでも抱えているほど魔法使い達は暇ではないようだ。

 

「とにかく、後はアスナの状況とあまり変わらない。基本的なことをヒースクリフが説明して、城にいる魔法使い達に紹介して、生活をする上でサポートが必要なようならオレ達みたいに元から居る魔法使いと一緒に住んだり、住む家を隣同士にしたり」

「子供やお年寄りの場合が殆どだって聞いたけど」

「そうだな。でも子供であっても老人であっても魔法使いならすぐに自分の魔法は使いこなせるようになるし一人暮らしにも慣れてサポートの必要もなくなるんだけど……」

「私は自分の魔法がわからないわけよね」

 

瞼が持ち上がらない事での支障は今のところさしてないが、魔法が使えない魔法使いはかなり肩身が狭い。

 

「あっ……もしかして…………」

 

急に不安に駆られたような声でアスナの綺麗な眉にギュッと力が籠もった。

 

「私……魔法使いじゃない、とか……」

「それはない」

「ホント?」

 

見えないはずの瞳が不安げに揺れるのを感じたキリトは無意識に目の前にある彼女の手に自分の手を被せる。

 

「アスナにはちゃんと魔力がある。昨日、少しだけど感じたんだ。アスナの手から金色の砂粒みたいな光がキラキラとオレの中に流れ込んできた。感情が高ぶったりすると無意識に魔力が漏れ出るのは魔法使いの証拠だし、それに……」

「それに?」

 

続きを強請る声に従って言いそうになった言葉をキリトは「んぐっ」と飲み込んだ。

自分に向けられたアスナの魔力が今まで見たこともないほど綺麗で輝いていた、なんて言った後、自分はどんな顔をすればいいのかわからない。実際、言ったとしてもその時の自分の顔を彼女が見る事はないのだが……感覚でわかる、ってどんな感じなんだろうなぁ、と今更ながらキリトはアスナの閉じられたままの目を見つめた。

 

「そ、そんなに見ないでよ」

「へ?…………あ、そういうのもわかるんだ」

「キリトくんが分かりやすすぎるんでしょっ……と、とにかくっ、私はちゃんと魔法使いってことで、でも、どうやったら自分の魔法が何なのかわかるのしら」

「基本、今現在不在になってる魔法使いが新しく顕れるんだけどなぁ」

「それはどんな魔法使い?」

 

聞かれてキリトは昨日ユージオが口にした魔法使いの名をそのまま告げる。

 

「『五月雨(さみだれ)の魔法使い』と、あとは……『淡雪の魔法使い』、だったかな?」

「私がそのどっちかって可能性は……」

「ないな」

 

ハッキリとした断言にアスナは疑うことなくその可能性を捨てて考え込んだ。

 

「じゃあ、今のところ私は自分の魔法がわからない魔法使いなわけだけど、その場合、キリトくんはいつまで私のサポート役をしてくれるの?」

「それは……」

 

じっ、と返事を待つアスナから逃げるように視線を逸らしてからキリトはポツリと、けれど意志の強さを思わせる芯のある声で答える。

 

「アスナが……オレを必要としなくなるまで、だな」




お読みいただき、有り難うございました。
『城の魔法使い』はキリトがアスナを連れてくるのをわかってて
城から出ずに待っていた(楽をした)ようです。


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空の魔法使い・7

助け合いが必要な時ってあるよね、の第七話


予想外に真剣な声で返されたアスナはその瞳が開いていれば、ぱちくり、と音がしそうな程瞼を開閉させただろうくらいに眉を跳ねかせ驚きを表してから、軽く「ぶっ」と噴き出した。

 

「なっ、なんだよぅ」

 

一気に気の抜けた声の後、キリトが非難がましく唇を尖らせる。

 

「だ、だって……」

 

楽しそうに肩を揺らしながら言葉の途切れているアスナの真意がわからず、彼女に伝わるように、じいいっ、とその綺麗な尊容を睨み付けると、「こほんっ」とわざとらしく咳払いをしたアスナは僅かに口角を上げた。

 

「このお家のお掃除をしたのは?」

「…アスナさんデス」

「さっきのご飯を作ったのは?」

「それもアスナさん…デス」

「どちらかと言うと私がキリトくんのサポートをしてるみたいなんだけど?」

「うぐぅっ」

 

唸り声しか出てこないキリトは悔しまぎれに「オレは別に部屋が掃除されてなくても平気だし、ご飯がなくても寝てればいいんだっ」という強がりが一瞬脳裏をよぎったが、ちらり、と視線を巡らせば日中の明るい室内が隅々まできちんとしている気持ちよさとさっきのスープの温かさが思い出されて意地っ張りの自分を蹴飛ばした。

 

「なら、なんでそんな事、聞くんだよ」

「サポートしてくれる期間が決まってるのかと思ったのよ」

「あ、そーゆー……」

 

今度こそ互いが自覚できるほど見つめ合ってから同時に笑顔になった二人だったが、先に笑いを引っ込めたのはアスナだ。自分の手の上にあるキリトの手を更に覆うようにしてもう片方の手を被せる。

 

「キリトくんの手が、あったかくなってくれて、よかった」

「オレの……手?」

「自分で気付いてないの?、今日、私が起きた時、キリトくんの手、すっごく冷たかったんだから。いくら城長さんが決めた事とは言えいきなりお家に押しかけちゃったし……少しでもキリトくんの役に立てればいいな、って。それがいつまでなのか、ちょっと気になっただけ」

「あー……うん、有り難う、アスナ…………確かに、これじゃあオレの方がアスナに助けられてばっかりだな」

 

夜明けの時は手足の感覚さえ覚束ないのが当たり前のキリトはあらためて今、アスナの手に挟まれている自分の手の温かさが自分の心にまで届いている事に気づく。

けれどアスナはキリトの言葉に首を横に振った。

 

「違うよ。キリトくんが私を見つけてくれたから」

「でも、それは偶然で、本来はヒースクリフのはずだったし……」

「言ったでしょ、覚えてるって……お城まで連れて行ってもらった時、すごく、すごく、安心できたの。このお家もそう。私はキリトくんと一緒にこのお家で暮らす事ができて、すっごく幸せ」

「オ……オレと一緒にいて……幸せ、だなんて言う魔法使い……」

「キリトくん?」

 

いつの間にか両手で包んでいるキリトの手が微かに震えている。

俯いて黙ってしまったキリトの様子を見て、何かおかしな事を言ったかしら?、と慌てたアスナがもう一度キリトの名を呼ぶと、キリトはゆるゆると顔を上げた。少し苦しげに見えるキリトの笑顔は理由も分からずにアスナを不安にさせる。

 

「アスナはさ……もっと色んな魔法使い達と関わるべきだ。たくさんの人達と一緒の方が魔法力だって発揮できると思うし……」

「…………キリトくん……なんで……」

 

そんな顔でそんな事を言うの?、と問いたかったけれど、きっと今その理由を聞いても答えてくれないとわかってしまったアスナは開いていた唇をゆっくりと閉じた。それからキリトの震えを無理矢理抑え込むのではなく、収まるまで寄り添うと伝わるように優しく握る。

すると繋がっている手からキラキラとしたアスナの魔法力が湧きだし、キリトの心を潤していった。

 

「あ、アスナ…今、アスナの手から魔法力が……」

「えっ?、どこっ?、どれっ?」

「へ?……自分でわからないのか?」

 

キリトに指摘された途端、自分の手を閉じた瞼の前まで持ち上げて表裏を交互にクルクルと回していたアスナだったが、どうやっても何も感じ取れないのだろう、肩と眉がへにょへにょ、と力を無くす。

 

「うっ……わかんない……」

「そ、そっか……うん、まぁ、そういう事も、ある……のかも、だしな」

 

「大丈夫、きっと、そのうちわかるようになるさ」と励ましてくれるキリトが随分と嘘くさい笑顔で最後に「多分」と付け加えてから、そっと小声で「アスナが野分きの魔法使いや篠突く雨の魔法使いじゃなくてよかった……」と呟いている。

それを耳ざとく聞きつけたアスナはぴっ、と眉毛を復活させて「そうだっ」と声を弾ませた。

 

「私には分からなくてもキリトくんにはわかるんでしょ?、私の魔法力」

「まぁ、そうだな」

「なら、そこから私が何の魔法使いなのか、わからない?」

「えーっ」

 

そんな無茶苦茶な……と出かかった言葉は、可愛らしい顔のまま意外なほど真剣な声を正面から受け止めてしまい口に出来なかった。キリトだってわかるものなら教えてやりたいが、如何せん空の魔法使いは気象現象の数だけ存在が可能なのだ。しかも普通は無意識でも魔法力が溢れた時は大なり小なりその魔法が発動するはずなのだが、そっと周囲に目をやっても室内は何の変化も見られない。

もしも彼女が『野分きの魔法使い』や『篠突く雨の魔法使い』ならば部屋の中は矢のような突風か吹き荒れたか、鋭い雨粒が床に突き刺さっていただろう。

 

「悪いけど、アスナ…オレには無理だよ」

「…そっかぁ」

 

わかりやすい程に意気消沈したアスナだったがそれでも諦めきれないと、上目遣いで僅かなヒントを欲してくる。

 

「そういう事に詳しい魔法使いってやっぱり城長さん?」

「んー…どうかな。ヒースクリフは城のシステムには詳しいんだけど、ここに住む個々の魔法使い達にはあまり興味がないっぽい」

 

他の魔法使いと交流がない事に関しては自分も同じようなものだけど、と考えたキリトはある存在を思い出し、握り拳でもう片方の手の平をポンッと軽く叩いた。

 

「あ、そうだ。城の中に図書室がある」

「図書室?」

「ああ……と言ってもオレは行ったことないんだけど、ユージオが言ってたんだ」

「ユージオ…くん?」

「オレと同じ天空を司る『青空の魔法使い』さ」

 

友の名を口に出したすぐ後、躊躇うような妙に間の空いた叩扉の音が控えめに「コン……コン」と室内に響く。『夜空の魔法使い』の家の扉を丁寧にノックする魔法使いなんて一人しか思い当たらないキリトはそれでも「いつもは寝室まで勝手に入ってくるのになぁ」と少し可笑しそうに目を細めてから友を出迎える為に立ち上がったのだった。

 

 

 

 

 

「お邪魔…します」……普段から物腰の優しい青年だが、ことキリトに関してはかなり容赦ない言動が常の『青空の魔法使い』は開かれた扉からよそ行きの言葉を述べながら足を踏み入れ、真っ直ぐ先のテーブルに腰掛けているアスナに気付いて頭を下げる。聞き慣れない丁寧な言葉遣いに扉を開けたキリトが思わず肩を揺らすと、決まりが悪そうにユージオは小さく「キリトっ」と小声で叱咤した。

二人のやり取りで互いの信頼性を感じたアスナが、カタッ、と立ち上がる。

慌てて押しとどめようと両手を動かしたユージオに声を発する間も与えず、アスナは迷いのない足取りで彼の目の前まで歩み出た。

 

「こんにちは、『青空の魔法使い』さん」




お読みいただき、有り難うございました。
果たしてアスナは何の魔法使いなのか……?


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空の魔法使い・8

親友だって開けられないドアはあるよね、の第八話


閉じたままでもわかる優しげな目元だったがそこからユージオへと伸びてくるのは真っ直ぐな誠意だ。真摯で、それでいて清楚な笑顔に驚いているとキリトの肘がユージオの脇腹を突ついた。

 

「ぃてっ……こ、こんにちは、アスナさん。僕のことはユージオでいいよ。ここでの生活はどう?……それにしてもキリトがこの時間に起きてるなんて、この城が地上に墜落するくらいの大事件だよ」

 

陽だまりのようなユージオの笑みとその次に飛び出した例えにアスナはくすくすと声を転がす。

 

「私のことも、アスナ、でいいわ。なら今まではユージオくんがキリトくんを起こしていたの?」

「そうだよ、キリトは放っておいたら昼でも夜でもずっと寝てるからね」

「そっ、そんな事はっ」

 

友の発言に焦り声のキリトが否定を試みるが、ユージオは落ち着いたまま肩をすくませた。

 

「今まで『茜空の魔法使い』が何回僕のところに泣きついてきたと思ってるのさ、キリト」

 

う゛っ、と続くはずの言葉を飲み込んだ所を見ると、少なくとも過去には空を明け渡す時間になってもキリトが目覚めず、『茜空の魔法使い』が困り果ててユージオの元を訪れた事が何回かあるのだろう、と推測したアスナが呆れた様子で「キリトくんたら……」と零す。

単純に、なぜ『茜空の魔法使い』は直接キリトくんを起こしに来ないのかしら?、という疑問は浮かんだが、アスナはそれよりもキリトがここまで気を許している友にさえ深く長い眠りの理由を明かしていない事に寂しさを覚えた。きっと友達だからこそ心配を掛けたくないのだというキリトの優しさはわかるが、一人で背負うにはあまりにも寂しすぎる。

 

「あら?、私にはいつも昼頃目覚めるような事を言ってた気がするんだけど?」

 

この場の空気を重くしないよう、わざとらしく首を傾げればキリトは続けざま二回目になる「う゛っ」を発した。

 

「へえぇ、キリトがお昼に起きてる姿なんて一度も見たことないけどなぁ」

 

アスナに調子を合わせたユージオも真面目ぶった顔でキリトを見れば二人に挟まれた形の『夜空の魔法使い』は「勘弁してくれ」と白旗を揚げる。

 

「オレより先に起きたアスナが食事を作ってくれたんだよ。その匂いで目が覚めて……」

「そりゃあスゴイ。このキリトが匂いで起きるなんて」

 

キリトに向ける物とは全く純度の違うユージオの笑顔にアスナは恥ずかしそうに小さく首を振った。

 

「そんなに手の込んだ料理じゃないのよ」

「いや、あのスープは絶品だった」

 

今度はキリトが真剣に何度も頭を上下に動かす。二人の様子を眺めていたユージオは昨日、城の広場から立ち去る後ろ姿の二人を見送った時と同様に、内心「おぉっ」と珍しさと嬉しさを同居させた。

 

「だからなんだね、随分と調理器具や食器が充実したじゃないか、キリト」

 

上体を傾げて部屋の奥にあるキッチンを覗くユージオが感心したように今朝から存在を始めた鍋や皿を眺めていると、アスナが慌てて「ごめんなさい」と謝る。

 

「いつまでも戸口に立たせたままで。どうぞ…って言っていいのかしら?、キリトくんのお家だけど」

「ありがとう、アスナ。室内も少し広くなったみたいだね。それなのに部屋の隅にあった埃は無くなってるし。アリスが戻って来てこの部屋を見たらきっと驚くだろうなぁ……寝室のドアは変わってないみたいだけど、開けたら廊下になってるのかい?」

 

昨日までは毎日のように開けていたドアを目指しユージオが一歩を踏み出すと、「ぴっ」と小動物みたいな鳴き声をあげて固まったアスナとは反対にキリトはすぐに友の前へ立ちはだかった。

 

「この家の寝室はアスナの物でもあるわけだから……」

「わかってるさ、もちろんアスナの寝室は覗かないよ。でもあのドアを開けないとキリトの寝室にも行かれないんだろ?、場所を確認しておかないと、これからも僕が起こさなきゃいけない場合があるかもしれないし…」

「それはない」

「なんで言い切れるのさ?」

「なんでもだ」

「キリト……」

「とにかくっ、ユージオでも誰でもっ、あのドアは俺とアスナしか開けちゃダメなんだっ」

 

珍しく強引な言い方に眉根を寄せたユージオが納得出来る説明を求めてアスナへと視線を動かすが、頼みのアスナも真剣な表情で小さな頭をコクコクと一生懸命縦に振り続けるだけで口を開く様子がない。これ以上は何を聞いても無理なのだろう、と判断したユージオは軽い溜め息ひとつついてから「わかったよ」と不承不承の態で追求を諦めた。

 

「じゃあ折角この時間にキリトも起きていることだし、アスナにこの辺りをボク達が案内するっていうのはどうだい?」

 

一転して『青空の魔法使い』に相応しい晴れやかな笑顔を向けられたアスナの表情がつられるように、ぱぁぁっ、と輝く。

 

「いいのっ?」

「もちろん」

「行こっ、キリトくんっ」

 

しかしすぐさま戸口から飛び出していきそうな勢いのアスナに待ったをかけたのは意外にも少し乾いたキリトの声だった。

 

「オレは、いいよ」

「えっ?」

 

瞑ったままのアスナの目が大きく開かれたのがわかる。そしてすぐに綺麗な眉毛が「どうして?」と問いかけるように、へにょり、と垂れた。

同様に戸惑い顔のユージオが「キリト…」と友の名を呼ぶが、次の言葉を探しているうちに、キリトは自身の黒髪を乱暴にガシガシと掻いて大きな欠伸をする。

 

「お腹もいっぱいになったし、なんだか眠くなってきた。いつもなら寝てる時間だしな。二人で行ってこいよ。オレは『茜空の魔法使い』と交代するまでもう一眠りさせてもらうから」

 

早くも眠気に勝てそうにないと目を擦り始めたキリトにアスナは「えーっ」と不満の声をあげるが、構わずキリトは彼女の後ろに回り両手で細い背中を押した。

 

「大丈夫だって、ユージオならちゃんと案内してくれるから」

「そこは心配してないわ。だってキリトくんのお友達でしょう……もしかして私と一緒がイヤ、とか……」

 

元はと言えばアスナとの同居にあまり乗り気ではなかったキリトだ。それを承諾したのは城長であるヒースクリフからの要請もあったが、なりよりアスナ本人が強く希望したせいでもある。食事は喜んでもらえたが、それ以上の好意を求めるのは間違っていたのだろうか、と揺れる声で不安を口にすれば、背中に触れていたキリトの手がアスナを支えるように両肩を掴んだ。

背後のキリトが一歩を踏み出し、自分の手の甲に額を乗せる。

 

「違う……アスナの事がイヤだなんて、絶対にない…………」

 

それからゆっくりと頭を上げ、トンっ、とひと押し、アスナを戸口まで押し出した。

 

「さっきも言っただろ、アスナはもっと多くの魔法使い達と出会うべきだって。ユージオと一緒なら…………それに、ほら、城の図書室の事も聞けるし……じゃあ、ユージオ、頼んだ」

「あ、うん…僕は構わないけど……」

 

手を振るキリトの顔を見たユージオは一瞬呆れた表情をしてから「じゃあ行こうか、アスナ」と戸惑いで未だ足が動かない彼女を促す。

これから暮らしていくこの場所を知りたい気持ちも、城の図書館に行きたい気持ちも抱えたまま、それでもキリト一人を残して行く事に納得できないアスナだったが「ね、アスナ」とユージオに微笑まれたら自分を気遣っての誘いを今更断ることも出来なかった。

それに確かにキリトの手は温かくなっていたが魔法力の回復の為、本当にまだ睡眠が必要なら自分の願いなんてただの我が儘でしかない。本当はキリトくんと一緒に行きたかった、という気持ちを飲み込んだアスナは、キリトの存在を感じる位置に振り返る。

 

「…行って来るね……空がキリトくんの時間になるまでには戻って来るから」

「ああ、わかった」

 

キリトに見送られて歩き出した時、隣を行くユージオが小さく「あんな顔をするくらいなら一緒に来ればいいのに」と悔しそうに呟いたが、「あんな顔」をアスナの開かない瞳で見ることは叶わなかった。




お読みいただき、有り難うございました。
ユージオに貰った茶葉、美味しかったよ、って言うの
忘れてるぞキリト。


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空の魔法使い・9

ユージオとお出かけするアスナ、の第九話


ユージオと共に家を出たアスナは後ろを振り返ることなく歩を進めながら午後の穏やかな陽射しが満ちている外の空気を吸い込んだ。

 

「気持ちの良い空ね、ユージオくん」

「ありがとう、アスナ」

 

空の色が見えなくても頭上に広がっている青がどれほど澄んでいるのかを感じ取る事はアスナにとって簡単なことで、それは同時にユージオの人となりも示している。アスナからの素直な賞賛に優しい笑みで嬉しさを表したユージオだったが、なぜかすぐにその笑顔に苦味を混ぜた。そして言いにくそうに言葉を詰まらせる。

 

「え、と……その感じだと大丈夫なのかな?」

 

聞かれた意味が分からずに足を止めて隣にいるユージオへアスナが小首をかしげると、更に言葉にしづらいのか『青空の魔法使い』は「その……」と言いよどみ、彼女に向け人差し指をちょんちょん、と動かした。

 

「ユージオくん?……ごめんね、あまり細かい動作までは感じ取れないの」

「えっ!、あっ、そ、そっかっ。ごめんっ…………あの、手を……」

「手?」

 

どうやらユージオがアスナの手を意識している事は理解できたが、その先の意図が見えず互いに合わない視線で見つめ合う。二人共無言の時間が流れた後、このままでは埒が明かないとユージオが今度は頬を赤くして小声で申し出た。

 

「手を……つないだ方がいいのかなって……」

 

そこでようやくユージオの心遣いの意味がわかったアスナは慌てて「ありがとう」と言ってから「でも、大丈夫」と笑った。

 

「お城までの道はちゃんと覚えてるし、それに歩きづらい場所もなかったから」

 

昨日、キリトと手を繋いだまま城の広場から逃げ出すように立ち去ってしまった自分達の姿をユージオも見ていたのだと気付いたアスナが彼の思案の元であった手の平を、ひらひらと振る。あの時のアスナはキリトを見つけた嬉しさで思わず手を握ってしまい、そのままキリトに連れられて場所のわからない彼の家まで案内してもらう間もずっと手を繋いだままだったのは今思い返してみれば嬉しさ半分、恥ずかしさ半分の思い出だが、だからと言って同様にユージオの手も、という気持ちは欠片もない。

傍にいる事も手を繋ぐ事も、果ては同じベッドでくっついて眠る事さえ気恥ずかしさからの戸惑いはあるもののアスナの中で自然と受け入れられるのはキリトだけだ。だからなのか、彼が居残っている家を出てまだほんの少ししか経っていないというのに、既にアスナは小さな寂しさを感じていた。

キリトくん、本当に寝ちゃってるのかな……と『夜空の魔法使い』の今を想像しているアスナの耳に、あからさまな安堵の声が届く。

 

「よかったぁ……」

 

そこまで心配をかけるほど危なっかしい歩き方だっただろうか?、と思いながらもユージオの、ほっ、とした様子にアスナは寂しさを引っ込めて微笑んだ。

 

「目が見えていなくても普通に歩くのは問題ないのよ?、ここは地面も平坦だし……」

「ああ、そうじゃなくてっ……君と手を繋ぐと、きっとキリトがさ……」

「キリトくんが?」

「……うん、まぁ……これ以上は言わないでおくことにするよ」

 

困っているような、それでいて嬉しそうな『青空の魔法使い』のちぐはぐな雰囲気を疑問に思っていると、なぜかご機嫌なユージオが今度は少し急かすように「さ、行こうよ」とアスナを促してくる。その誘いにつられるようにアスナも「うん」と頷き、二人は並んで城を目指したのだった。

 

 

 

 

 

魔法使い達の家がある集落までの道のりはよかった。

風はなく、青空から降り注ぐ陽射しはどこまでも二人に優しい。きっとユージオの気分が少なからず反映しているのだろう。そう考えればほんの僅かな時間しか接していないアスナでさえ感じ取れるほど温和な気性の彼は、まさに青空を司る魔法使いに相応しいと思えてくる。いや、こんな人だから『青空の魔法使い』なのだろうか……ぐるぐると考えを巡らせて辿り着いたシンプルな疑問をアスナは溜め息と共にぽつり、と落とした。

 

「魔法使いってなんなのかしら?」

 

すると意外にもすぐ隣から、ふっ、と笑いにも似た息づかいが聞こえる。

 

「ユージオくん?」

「僕もね、同じような事を思ったことがあるよ」

「君も?」

「うん。空を司る僕達四人の魔法使いやあるゆる気象の魔法を使う多くの魔法使い達。地上に降りれば各地に存在する魔法使い達はたくさんいるいるから……魔法使いが誕生する理由を知りたくて」

 

どこか恥ずかしそうに笑うユージオは「それで城の図書室にも行ったことがあるんだ」と打ち明けてくれた。

 

「そう……なんだ」

「地上の魔法使い達の多くはその土地に住む人間達と共存してる。もちろん距離を取って暮らしている魔法使いもいるし水の中で生活している魔法使いもいるけど……魔法使いは魔法が使える以外は地上の人間達と見た目も殆ど違いがないのに僕達は突然生まれるんだよね」

「突然……」

「『空の魔法使い』は『転移の泉』に出現するって知ってる?、人間みたいに女性のお腹から赤ん坊で生まれてくるわけじゃないんだ。親もいないし」

「そっか……そうよね……」

「それなのに僕達は今のアスナみたいに既にある程度の知識を初めから持っている。当たり前のように服を着て言葉を交わし食事をしてベッドで眠る。僕達はどうして人間みたいな生活をするんだろう?」

 

ユージオは立ち止まってふらり、と頭上に広がっている澄み切った青空を仰ぎ見る。

まるでその先に求める答えがあるのだと言いたげにどこまでも続く空を見上げているユージオの隣でアスナもまた足を止め、顔を上に向けた。

もちろんアスナに青を見ることは叶わない。しかしそこにある純粋な空を感じる事は出来た。

確かにアスナは誰に教わるわけでもなくキリトの家を自分にとって「初めて訪れる魔法使いの家」と認識し、その家で戸惑う事無く掃除をして料理を作ったのである。それを見たキリトは何の疑問も抱かずアスナを料理好きと評していた。

 

「それで、わかったの?、ユージオくんが知りたかったこと」

 

首を傾げ、改めてユージオを斜め下から覗き込んだアスナだったが、見えずとも彼が小さな溜め息と共に首を横に振ったのが分かる。

 

「魔法使いは元々人間だったんじゃないかな、っていうのが僕の予想だったんだ」

「私達が…人間?、地上で暮らしてる?」

「それなら外見の姿形や生活様式が似てるのも、既に基本的な知識が備わっているのも納得できるだろ?」

「ユージオくんやキリトくんや私がこのお城に来る前、地上で暮らしてたってことになるのね」

「うん、けど、僕達にそんな記憶はない」

「私だってないけど……」

 

けれど喋れるし掃除のやり方も料理の仕方も知っている……図書室と聞いてすぐにそこには沢山の本があるのだとわかったし、本がどんな物かも知っていた。この城にやってきてからの今までを思い出してみればユージオの言う事がますます真実のように感じてくる。

 

「確かに、人間と魔法使いの共通点は多いわよね。でも、そもそもどうしてそんな事を調べようと思ったの?」

 

単なる思いつきと言うにはユージオの声はあまりにも真剣味を帯びていた。

 

「あー……っと、最初に調べてたのはちょっと違う事なんだ」

 

途端に声が緩んだ。きっと同じように表情も一気に緩んだのだろうと想像できてアスナの好奇心もむくむくと膨れあがる。

 

「ちょっと違う事?」




お読みいただき、有り難うございました。
うん、手は繋がなくて正解だと思うよ、ユージオ。


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空の魔法使い・10

魔法使いって不思議だらけだね、の第十話


「魔法使いは使える魔法が最初から決まってるから、それはどうしてなのかなぁ?、って……」

 

最初から決まっている……そうなのだ、アスナにもアスナにしか使えない魔法が備わっているはずなのだ。何となく忘れかけていた図書室行きの目的を思い出したアスナがこっそり、しゅん、と項垂れる。

 

「そうよね…そうなのよね……」

「うん。それで魔法使いの最初って不思議だよな、って考えてたら、魔法使いになる前は人間だったのかも、って思って……」

「魔法使いなら自分の魔法がわからないなんておかしいのよね……」

「えっ?、あれ?、アスナ?、どうしたの?」

「うううん、何でもないの」

「それでね、僕はアスナがキリトと一緒に暮らしてくれる魔法使いで本当に嬉しいんだよ」

 

いきなり話が飛んだ気がするが、アスナはそれに構うことなくユージオの口から飛び出した『キリトと一緒に暮らしてくれる魔法使い』という言葉に「えっ?」と顔を強張らせた。

私の魔法って『キリトくんと一緒に暮らせる魔法』なの!?、と思いっきり見当違いの方向に思考が埋め尽くされる。

そんな魔法が本当に自分の魔法だとしたら……彼の睡眠に寄り添い、彼の生活環境を整え、彼の食生活を健全化させる為の魔法と考えれば昨日からの自分の行いを振り返って妙な説得力に「ううっ……」と僅かな唸り声しかでてこない。

 

「だけど……魔法なんて使ったつもり全然ないのに……あっ!、だから?…だからキリトくんにしか私の魔法力、わからないの!?」

 

混乱が小声で漏れ出している事すら気づかないアスナは俯き加減で拳をおとがいに当てつつ自問自答を繰り返している。

突然、挙動不審に陥ったアスナを心配してユージオが顔を近づけ、「……アスナ?」と声を掛けてると、ほぼ同時に彼女がバッ、と顔を起こし情けない声を発した。

 

「それじゃ、私、『空』の魔法使いじゃないってこと!?」

「?……何言ってるのさ、アスナは『空の魔法使い』だよ」

「ふぇ?、だ、だって、ユージオくんが……」

「僕が?、とにかく落ち着いて、アスナ。ホントにもう、心配してた通りだな」

 

ふぅ、と溜め息と共に両肩を落としたユージオが小さく「キリトのやつ、やっぱりちゃんと説明してないんじゃないか」と予想していたらしい親友の落ち度に諦めに近い声で文句を零した後、ぴっ、と姿勢を正しアスナに向き直る。

 

「いいかい、アスナ。ヒースクリフにも聞いたと思うけど、君は正真正銘『空の魔法使い』だ。これまでの記憶がないのに生きていく為の知識は持っているし、『転移の泉』に意識を失ったまま自分の意思ではなく顕現したんだから」

 

そこまでは理解して、納得してくれた?、と陽の光に照らされたユージオの瞳が翡翠のように優しく煌めくが、その美しさを正確には捉えきれないアスナの目は精一杯の頷きで信頼の証を示す。

 

「そして魔法使いは夜に魔法を使えない……たった一人を除いてね」

「…『夜空の魔法使い』のキリトくんね」

「そうなんだ。大半の魔法使いはね、自分の魔法を自己の存在意義と考えているから、それが自由に使えない状態をとても嫌うのさ」

「でも、その魔法を使う為の魔法力の回復に、睡眠は必要でしょう?」

 

正確には睡眠と食事によってだが、キリトのようにほぼ睡眠のみで力を回復させる事は可能なのに対し、食事のみで魔法力を回復させようとする魔法使いはまずいない。食事だけだと用意する時間と手間がかかる上にかなりの量を摂取しなければならないからだ。

昔、この城に食事のみで魔法力の回復に挑戦した魔法使いがいたらしいが、結果、力が増幅すると共に体重も増量し、体型も膨張して空を飛べなくなったという話が言い伝えられており、特に若い女性魔法使い達にその話の浸透率は高い。

だから、どの道魔法使いにとって眠りの時間は必要不可欠なはずなのに、と訴えてくるアスナにユージオは「そうだね」と肯定してから眉尻を落とした。

 

「でも、自分で魔法を使わないのと、強制的に使えないのとでは、やっぱり違うんだよ。まぁ、夜空の時間以外でも魔法を使えない魔法使いがこの城には三人もいるけどね」

「え!?」

 

綺麗な細い眉が素直にぴょっ、と飛び跳ねる。

 

「一人は僕、『青空の魔法使い』。それに『暁天の魔法使い』と『茜空の魔法使い』さ。僕達は自分の空の時間にしか魔法が使えないんだ。例えば『茜空の魔法使い』がどんなに頑張っても夜を拒む事は出来ないし、逆にキリトの夜空を『暁天の魔法使い』が勝手に奪い取る事も出来ない。僕達四人に互いの空の時間は不可侵なんだ」

 

ならばユージオはキリトの「夜空」を挟んで「茜空」から「暁天」の時間までは魔法が使えないという事になる。

初めて聞いた「天空」を司る四人の魔法使い達の有り様に相づちすら忘れていたアスナだったが「だから僕は他の魔法使い達みたいな夜空に対する拒否感がないんだと思う」……困っているのとは違う、複雑な顔で笑うユージオの真意は何なのか、その時のアスナが完全に理解する事は出来なかった。

 

「じゃあ…………キリトくんが今以上に魔法を使う事は、ないのね」

 

今朝の意識のないキリトの姿を思い起こしたアスナが願うようにユージオへ問いかければ、僅かな間を置いて何かを数えたユージオの答えは肯定でも否定でもなく、これまたアスナが初めて知る事柄だった。

 

「あと少しで『影濃天』の日だから、その日が一番大変かな」

 

「えーこくてん?」

「一年で夜が一番長くなる日のことだよ。ちなみに昼間が一番長い日が『栄晴天』って言って僕がヘトヘトにな日さ」

 

さすがのユージオもその日の疲労度を考えると笑顔に苦味が混ざる。

それからアスナに「ちょっと手の平借りていいかい?」と聞き、ゆっくりと差し出された白い手に指先を滑らせた。

 

「元々は『永黒天』と『永青天』っていう字でね。どっちも空の色を表してて、単純にその色が長いって意味だったのに夜空への忌避と、逆に昼の空を讃える風潮が続いて今ではこっちの文字が定着しちゃったんだ」

 

それぞれ二種類の文字の並びを理解したアスナが感心したように「ユージオくんは物知りなのね」と言うと「実はこれも図書室で調べ物をしてた時に偶然知ったんだけどさ」と少し照れた声が返ってくる。ユージオにとっては「永青天」でも「栄晴天」でもあまり印象に違いはないらしいが、キリトの方は随分と負の感情を背負っている文字だ。直接的には文字も見えないアスナだが、自然とこみ上げてくる感情は怒りと悲しみが混ざり合っていて、それが時折ユージオが発している物と同種だと直感し思わず繋がったままの彼の手を取る。

 

「キリトくんの夜空はユージオくんの青空と同じくらいとっても綺麗なのにっ」

「わわっ、ア、アスナ?!」

 

文字を理解してもらう為に軽く触れていた指先がいきなりギュッと握られて、盛大に慌てたユージオの声が青空の下、無駄に響き渡った。その直後ユージオの声が呼び寄せたのか「みーつけたッ」と無邪気な声が頭上から降ってきて「ユージオっ」と名を呼ぶ高い声と共に小柄な少女が空から舞い降りてくる。

少女は軽やかに片足で着地した後、そのままの勢いでユージオの腕にしがみついた。

 

「ユージオっ、今日のユージオの空、とっても気持ちよかったっ」

 

片方の手の指をアスナに握られ、もう片方の腕を小柄な少女に掴まれたユージオは「ええっ!?」と正面を向いたまま素っ頓狂な声を上げたのだった。




お読みいただき、有り難うございました。
もうアスナは…『キリト(くん)と一緒に暮らせる魔法使い』で
いんじゃね?(笑)


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空の魔法使い・11

ユージオ、両手に花だね、の第十一話


吸ってぇ、吐いてぇ……すぅっ、はぁっ、と深呼吸で自身を落ち着かせたユージオは先に話の通じる相手としてアスナを選んだ。

 

「彼女を君に紹介するから、ちょっと手を離してもらっていい?」

 

昨日と同様に感情が高ぶったせいで思わず握ってしまった相手の手を今回は、ぱっ、と離したアスナが「ご、ごめんね」と謝る。

それに対して気さくに笑ったユージオは、次にその自由になった手で腕にひっついている魔法使いの少女の手を、とんとん、と労るように軽く叩いた。

 

「お疲れさま、今日戻ってきたのかい?」

 

ユージオの言葉にすぐさま反応して顔をあげ「うんっ」と元気良く返事をした少女は、たった今気付いたとばかりに彼の向こう側にいるアスナを見て少々つり目気味の瞳を丸くする。

 

「ユージオ、この人、だれ?」

「アスナって言うんだ。昨日この城にやって来たばかりの魔法使いだよ……アスナ、彼女はシャーリ、『白雨(はくう)の魔法使い』さ」

「初めまして、アスナです」

「あっ、さっき皆が話してたっ。すっごい美人なのに目が見えなくて、それに魔法が使えないって!」

「シャーリ!!」

「だって本当なんでしょ?」

 

悪びれもせず真正面から言葉をぶつけてくるシャーリにアスナは、クスッと笑ってから「ええ、本当よ」と彼女と顔の高さを合わせるため、膝を折って姿勢を低くした。

 

「でも自分が美人かどうかは目が見えていたとしても判断は難しいけど」

「大丈夫っ、私が知っている魔法使いの中で一番の美人よっ」

「ありがとう。シャーリちゃんもふわふわの髪の毛に大きな瞳でとっても可愛いわ」

 

どうやらアスナより年下らしいシャーリは今まで目上の女性魔法使いから「シャーリちゃん」などと呼ばれた事がないのだろう、さっきよりも更に大きく目を見開いて「シャ、シャーリちゃん!?」とびっくりした声を跳ね上げた。

それから自分の頬にかかっているクルクルと丸まった白銀の髪を指に絡めジッ、と見つめた後、アスナの顔を見て「ユージオっ」と未だ、ギュッ、としたままの腕の持ち主を見上げる。

 

「アスナは本当に目が見えないの?」

「今、アスナが本当だって言っただろ?」

「他の魔法使い達も皆そう言ってたけど、私の髪の毛がふわふわだって……」

「アスナは見えなくてもある程度はわかるんだって」

「へえぇっ」

 

どこか感心したような口調に加え大きな瞳の輝きが増した。

 

「すごいのねアスナって。それなのになんであの『黒の魔法使い』のキリトと一緒にいるの?。そうだっ、城長に『もう大丈夫』って言えば皆と同じ場所に新しい家を用意してもらえるよっ」

 

全く他意のない純粋な言葉にユージオもアスナも困ったように眉尻を落とすが、そんな二人に構わずシャーリはニコニコと誘い続ける。

 

「私はあんまりこの城にいないけど、他にも色んな魔法使いが暮らしてるからあんなヤツと一緒にいるより楽しく過ごせるしっ」

「シャーリ……」

 

静かにユージオが『白雨の魔法使い』の名を呼ぶが、シャーリの口は止まらなかった。

 

「だって空を黒に染めちゃうキリトは嫌いっ。それに自分だけ夜に魔法が使えるなんてズルいもんっ。一緒に暮らすなんてアスナが可哀想っ」

 

今までの眩しいほどの笑顔を一転させ泣き出しそうに眉を歪ませたシャーリは同意を求めるようにユージオへと背伸びをする。意外にも何も言い返さず真っ直ぐシャーリを見つめるユージオの瞳の色に呼応したのか、空の青が少し薄くなった。

きっとシャーリの今の言葉が魔法使い達の共通認識なのだと感じたアスナは困り顔のまま「シャーリちゃん」と呼びかける。

 

「私はこのお城にきてまだ一日しか経っていないけど全然可哀想じゃないよ?…シャーリちゃんやユージオくんみたいに素敵な魔法使いさんに出会えたし、これからもっと沢山の魔法使いさん達に出会えるんだもの」

 

自分より年上の魔法使い達がよく見せる「あーあ、仕方ないわね、シャーリは」「ほんと、お子様なんだから」「はいはい、わかったからキャンキャン叫ばないでちょうだい」と適当にあしらうような声ではなく、穏やかだが対等に向き合ってくれているアスナの声にシャーリは笑顔を取り戻した。それなら、あんな『夜空の魔法使い』の家に居なくてもいいはずだ、と次に聞こえてくるはずのアスナの言葉に期待した彼女だったが、目の前の盲目の魔法使いは白磁の頬をほのかな薄紅色に染め「けどね」と続けた。

 

「一番嬉しかったのはキリトくんと出会えた事なの」

 

「はぁぁっっ?!」と仰天の大音声、それを吐き出すに相応しいサイズの大口にこれ以上は開かないだろうと思われるほど見開かれた瞳、と同時に何千、何万という細い長針のごとき真っ直ぐな雨が突然、ザァッ、という雨音と共に一気にその場に降り注ぐ。

 

「うわっ」

「きゃっ」

 

雨雲さえ必要ない『白雨の魔法使い』はその名の通り、空を明るい晴天のままこの場所のみに雨を降らせると、数刻後にはまるでなかった事のようにピタリと降り止ませ、するり、とユージオの腕を開放し、やって来た時と同じように、すすーっ、と空に浮き上がった。

 

「シャーリっ、こらっ、逃げるつもりだろ。まったく君は魔法力の制御が甘いんだから」

「私のせいじゃなくてアスナのせいよ」

「私っ!?」

「アスナがおかしな事を言うから、熱でもあるのかと思ったの。どう?、頭、冷えたでしょ?」

 

自分でもかなり苦しい言い訳だという自覚があるのだろう、その証拠に大好きなユージオから必死に距離を取ろうと目も合わさずに、まごまごと空を漂っている。

 

「頭を冷やすどころかアスナも僕もずぶ濡れじゃないか」

「ふっ、ふぅっ、へくちっ」

 

赤みがかっていた頬も驚きで色をなくし、頭のてっぺんからつま先まで見事に濡れ鼠となったアスナはもう一度盛可愛らしいクシャミをした。さすがにマズイと思ったのだろう、既にかなり上空まで移動したシャーリは「ごめんね、アスナっ」と叫んだ後「でも気が変わったらいつでも大歓迎よ」と言い残して飛び去って行く。その姿を最後まで追いかける事無くユージオは「大丈夫かい?、アスナ」と急いで駆け寄った。

 

「だ、大丈夫。『空の魔法使い』の魔法、初めてだったから驚いちゃった」

「うん…白雨は晴れた空で降る雨だから長くは続かないけど結構勢いのある魔法なんだ。今のはシャーリの感情の乱れで瞬間的に降っただけなのにこの有様だからね。普段から魔法力の制御の仕方をもっと訓練するよう言ってるのに……ごめん、アスナ」

「ユージオくんは悪くないし、シャーリちゃんだって謝ってくれたから。それに、私、最初から怒ってないのよ?……言ったでしょ、ビックリしただけ……でも、晴れた空に降る雨の魔法使いだから、あんなにユージオくんを慕ってるのね」

 

もちろんユージオの優しい人柄なら好意を寄せてくる魔法使いは多いだろうが、魔法の性質を教えてもらうとシャーリの懐きっぷりも余計に納得ができる。

 

「まあ、妹みたいな存在かな。彼女の場合、雨雲も従えないし一時降る雨だから他の雨の魔法使い達から軽んじられる事が多くて。それで僕の所によく来るんだけど……」

 

そう説明している間も合いの手のように、くしゅんっ、とクシャミを繰り返しているアスナを見て、ユージオは誰かを探すように首を巡らせた。




お読みいただき、有り難うございました。
「白雨」とは「にわか雨」です。


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空の魔法使い・12

雨に濡れた時の魔法使いは?、の第十二話


「困ったな……『白南風(しはらえ)の魔法使い』でもいれば暖かい風で乾かしてもらえるんだけど」

「そうだっ、お、お風呂っ、お風呂に入ればいいと思うのっ」

 

衣服まで全てぐっしょりと雨水が染み込んでしまったアスナはぶるり、と身体を震わせてユージオに提案する。

 

「折角誘ってくれたユージオくんには悪いんだけどお城の図書室はまた今度にして、今日はもう帰りましょう」

 

確かに予定外のシャーリとのお喋りで大分時間を食ってしまったようで、ユージオも自分の空の時間の終わりが近い事に気づいていた。それにしても魔法使いの不思議を考えた時と同じように、今、水気を含んでしまった栗色の髪を束ねてギュッ、と手で絞っているアスナを見てユージオは首を傾げる。例えば彼女が雨の魔法使いならシャーリと同じように雨に濡れても平気なはずだし、風の魔法使いなら雨を弾くはずだ。雪や雷の魔法使いだとしても同様に影響を受けることはない。そうでなければ空で自分の魔法が使えないからだ。

しかしアスナはユージオと同じようにシャーリの魔法力の制御不足のせいでどこもかしこも見事にびしょびしょである。

素直に気象の魔法を受けてしまうのはユージオやキリトのような、要するに天空を司る四人の魔法使い達だけなのである。

とは言えこの城で暮らしている分にはそうそうこんな目に遭う事はないのだが…………自分の亜麻色の前髪から、ぽたり、と垂れた雨水と一緒に「はぁっ」と溜め息を落としたユージオは、シャーリの力の制御特訓の必要性をひしひしと感じながら「そうだね」と力無く頷き、来た道をアスナと共に引き返したのであった。

 

 

 

 

 

音を気にして出来るだけ静かに扉を動かす。

本当にキリトが眠っていたら、と思っての気遣いだったが、眠っているとしたらその場所は寝室なのだろうし、そもそも『夜空の魔法使い』の出番が近づいてきているので本来なら寝てもらっていては困る時間だ。それでもアスナは城に行くためにこの家を出た時のキリトの様子を思い出し、更に城までたどり着けなかった気まずさも重なって、そっと家の中に入った。

誰もいないと思われたリビングには窓からは優しい茜色が入り込み、その一角だけ淡い火が灯ったような暖かさで室内を色づけている。その光色になぜか泣きたくなるような懐かしさを感じたアスナが時を止めていると、黄昏の斜光が届いていない場所から小さく「アスナ?」と頼りない声が浮き上がった。

 

「っ…キリトくん……ただいま。そんな所で寝てたの?」

 

部屋の薄暗さはアスナには関係ない。すぐさま声の方へと足を向け、そこが昼間、一緒に食事をした時に彼が座っていた場所だとわかって思わず駆け寄った。キリトが言うにはテーブルも大きくなったらしいが彼はそこに一人ぽつんと腰掛けていたのだろうか。

そしてキリトも足早に近づいてくるアスナを迎える為、カタリ、と立ち上がった。

昨日、初めて城前の広場でその存在を認識した時のように、その胸に飛び込んでしまいそうな勢いでキリトの元へ一直線に辿り着いたアスナは見えない目でその表情をうかがう。

自分を呼んだその声が迷い子のように少しだけ震えていた気がしたからだ。

怯えや不安、臆病さなんてキリトには似合わない。

眠ってなどいなかったのはすぐにわかったが、アスナはふっ、と頬を緩めると自分より少しだけ高い位置にある黒髪に片手を伸ばした。

 

「髪の毛、跳ねてるよ」

 

くすくすと笑いながら乱れてもいない髪を丁寧に梳く……まるで泣いている子の頭を撫でるように。

 

「アスナ……」

「どうしたの?、寝ぼけてる?、あ、それとも私達が遅いから心配した?、ごめんね、時間ギリギリになっちゃって……」

「アスナ」

 

自分で送り出したくせに、もう帰って来ないかも、と、ほんの僅かな可能性がずっと頭から離れず、結局彼女が不在の間ずっとイスに座っていただけのキリトはアスナの言葉に更に顔を歪めた。他の魔法使い達との交流を勧めたのは自分だ、アスナなら皆とうまくやっていくだろう、夜に眠らないのなら自分は『夜空の魔法使い』なんだから、その夜を守ればいいだけだ、と…………しかし頭ではそう判断出来るのに自分のもっと奥深いところでは聞き分けのない子供のように「イヤだ」と叫ぶ声がする。

けれどこの世界の全てから忌み嫌われている自分がいつまでも彼女の傍にいられるわけはない、と、それどころか彼女からも避けられるようになるのではないか、と勝手な思いが膨らんで自分の願いを嘲るのだ。

それなのにアスナが帰って来て、当たり前のみたいに真っ直ぐ自分の所まで駆けてきてくれて、迷うことなく触れてくれれば暗い気持ちが一気に消え去った。

 

「ああ、遅いから…………」

 

なんとかつっかえながらそれだけを伝えると、それでアスナは全てを理解したらしく、ふふっ、と笑ってもう一度「ごめんね」と謝ってから黒髪を弄っていた手で前髪とおでこに触れる。すると彼女の手の平から魔法力が滲み出し目映い光に目がくらんだキリトは「わっ」と反射的に目を瞑ってから「んっ?」と顔面を硬直させた後いきなりカッ、と目を見開き、ガシっと彼女の手首を掴んだ。

 

「なっ、なんでこんなに冷たいんだよっ」

「ぺくしゅっ」

「あー……」

 

キリトから顔を背け、掴まれていない方の手で口元を隠してクシャミをしたアスナとその後方、未だ戸口に立ったままのユージオがバツの悪そうな声を発したのは同時だった。

 

「ユージオっ」

 

飛んで来た声には明らかに戸惑いが混じっていて、彼女の身を預かった責任上ユージオは素直に「ごめん、キリト」と眉尻を下げたまま二人に近づく。

 

「キ、キリトく…くしゅんっ、違うのっ、これはユージオくんの…しゅんっ、せいじゃ、なくて……」

 

一度破裂し始めてしまうとクシャミは止まらなくなり、ついにはキリトとユージオに挟まれて言葉を発せなくなったアスナは下を向いて肩を跳ねかせながら口元を押さえ続けた。クシャミに同調して揺れる髪の不自然さにキリトがその一房を握り、湿っている感触に目を丸くする。そのまま彼女の全身に目を走らせれば頭からつま先までぐしょ濡れで服は完全に色が変わっている事にようやく気づき、キリトの黒瞳も愁いの色に染まった。

 

「大丈夫か?、アスナ……」

 

そうだっ、タオルをっ、とアスナの手と髪を離したキリトが身体を反転させようとすると、ようやくクシャミの収まったアスナが下を向いたまま鼻声で小さく「……お風呂」と呟く。

 

「へ?」

 

何と言ったのか聞き返すためアスナの顔を覗き込もうとしてしゃがんだキリトの目の前にバッ、と顔を上げたアスナの顔はクシャミのしすぎで真っ赤になっていたが、それはそれで可愛らしいものだった。

 

「キリトくんっ、ここのお家、お風呂あるっ?」

「う゛…………」

 

必死の様相なのに、なぜかそれを至近距離で見せられたキリトの頬まで僅かに色づいてしまい、思わず視線を逸らせば見覚えのない扉が目に飛び込んでくる。そのタイミングといい視界の先に現れた角度といい「城の魔法」の優秀さに「ぅぐっ」と唸ったキリトだったが、すぐさまその扉を指さしアスナに「多分、あそこ」とその存在を伝えた。

 

「ありがとうっ、使わせてね」

 

扉を確認してから再度キリトに振り返り、嬉しそうな声を発するアスナにキリトもまた苦笑で返す。使わせても何もアレはアスナの為に現れた扉だ。そして一目散にその扉へ向かうと思われたアスナだが、何を思い出したのか「あっ」と戸惑いをひとつ零して風呂への期待を一旦止め、眉と一緒に閉じているの瞼にキュッと力を込めた。




お読みいただき、有り難うございました。
またまた増改築された『夜空の魔法使い』の家(笑)


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空の魔法使い・13

やるべき事をやろう、の第十三話


「もう…時間が…………キリトくん、お出かけしちゃう?」

 

自分が風呂に入っている間にキリトが居なくなってしまうのが嫌なのか、迷うようにキリトと扉の交互に顔を振ったアスナを見てユージオも「キリト」と声をかけた。『影濃天』が近いせいもあって茜空の時間は瞬く間に終わりもうすぐ夜空の時間がやってくる。キリトが夜の間いつも『転移の泉』へ行っているのは知っているが、多少遅くなっても問題はないだろうし、このまま家にいてもいいじゃないか、とユージオの翡翠色の瞳が訴えていた。

アスナの問いより少々圧のあるユージオの声と視線を跳ね返す力もなく、キリトの眉尻が落ちる寸前、アスナの何かを振り切ったような声が二人の間に割り込む。

 

「いってらっしゃい、キリトくん……でも、あまり無理はしないこと……それと、ちゃんと帰ってきてね」

「アスナ……」

 

キリトを困らせるのは本意ではない。食事の時にキリトは昨日の夜が通常だと言っていたのだから、自分の為に無理にその行動を変えさせたくはないし、そもそも外出について即答できないキリトが既に答えだ。

 

「ゆっくりお風呂に浸かって、このお家で待ってるから」

 

綺麗な曲線を描いている口元を見てキリトも少し辛そうではあったが同じように淡く微笑む。

 

「ちゃんとあったまるんだぞ。それと眠くなったら先に寝てていいから」

 

アスナは小さく頷いてからもう一度「いってらっしゃい、気をつけて」と言い残して新たに出現した扉へと消えていった。その後ろ姿を見送ってから少し待ってみるが、引き返してこないところをみると本当にあの扉の先は浴室で特に足りない物もないらしい。

ふぅっ、と肩の力を抜けばすぐ隣からも同様の雰囲気を感じてキリトは戸棚からタオルを引っ張り出し、ユージオの頭にそれをポイッ、と放り投げた。

 

「ありがとう、キリト」

「『青空の魔法使い』が形無しだな…………でも、ずぶ濡れになったのは……オレのせいか?」

 

目線を逸らし罪悪感を滲ませたような声にユージオは、くくっ、と明るい笑い声を上げる。

 

「まさかっ、なんでキリトのせいでびしょ濡れになるのさ」

 

キリトが想像している理由を察してユージオはわざと気付かないふりで陽気に肩をすくませた。

 

「実は城の図書室どころか魔法使い達の集落にもたどり着けなかったんだ」

「え?」

「その手前でシャーリに逢ってね」

 

『白雨の魔法使い』の名を聞いて途端にうんざりとした目になったキリトにユージオの笑顔にも苦味が混じる。けれど実はキリトがそれ程シャーリを嫌っていない事には気付いているのだ。

なぜなら他の魔法使い達はキリトの存在を無視する者がほとんどで、時には顔を合わせるとすれ違いざまに皮肉めいた言葉や謗言を吐いてくる魔法使いもいるのだが、シャーリに限ってはキリトを見つけるとわざわざ近寄って来て真正面からケンカを売ってくるからである。いや、本人は真剣にケンカを売っているのだろうがキリトは全く相手にしないのでユージオから見れば「売られているって気付いてないのかな?」と思うほどだ。

だからと言ってシャーリにもっと違う売り方を、とアドバイスするのも違う気がするので結局二人が出会ってしまうとその場にいればユージオが仲裁に入り、そうでなければキリトと遭遇した後にシャーリがユージオの元までやって来て悔し泣きをしつつ文句をぶつけてくるのである。

 

「どうせアスナにオレの事を卑怯だとか嫌いだとか言ったんだろ」

「まあ、そうなんだけど……あ、でもアスナの事は綺麗だって褒めてたよ」

「ふーん」

 

なんでそこでキリトがまんざらでもない顔をするのさ、と言いそうになった口をユージオは両手でぺたり、とふさいだ。それからタオルで髪や顔を拭きながらこっそり友の顔を盗み見る。城長からアスナを頼まれた時は他の大勢の魔法使い達が見ている前だったし彼女も望んでいたようだったから断ることはないと思っていたが、たった一日一緒に生活しただけで随分と彼女を受け入れているし、アスナの方はキリト以上に分かりやすく好意を抱いているようだ。

ただ、アスナは未だに自分の魔法がわからないようで、それだけが気がかりなのだが……次こそはちゃんと城の図書室まで案内して一緒に手がかりになりそうな本を探そう、と固く決意したユージオの心の内を読み取ったようにキリトが「アスナの魔法力なんだけどさ」と話しかけてくる。

 

「うん」

「さっき、少しだけ出てたの、見たか?」

「本当っ!?……全然気付かなかったよ」

「そっか……一瞬だったしな」

 

少し残念そうな口ぶりなのは、きっとユージオの意見が聞きたかったからだろう。

 

「でも、ちゃんと魔法力が出せるなら後はコントロールが出来るようになれば何の魔法使いなのかわかるね」

 

アスナの雰囲気からすると一体どんな魔法だろう?、キリトは眠っている彼女を見て閃くような強さを感じたらしいけど、と想像しようとしたユージオは自分で言った「コントロール」という単語にシャーリを思い出して話を戻した。

 

「そうそう、それでシャーリがね、アスナの言葉に驚いて、つい魔法を暴走させて……」

「またか。これまでだって何度も暴走させてるだろ。あいつ、そろそろ本当に他の魔法使い達から嫌われるぞ」

 

会えばいつも突っかかってきて嫌悪の言葉を吐いてくる魔法使いに対して、心配を口にするキリトをユージオは目を細めて「わかってる。僕が面倒みるから」と約束する。

 

「ユージオは優しいかならぁ。今度アリスが戻ってきたらシャーリの相手を頼んでみたらどうだ?」

「うーん、それはちょっと……」

 

『金風の魔法使い』アリスは自分にも厳しいが他者にも厳しいのだ。一瞬で二人の関係が爆発しそうな予感がしてユージオは「やっぱり僕がみるよ」と弱々しい声で頷く。アリスとシャーリの相性など気にもしていないキリトは「まあ頑張れよ」と友を応援してから首をかしげた。

 

「でもシャーリが暴走するくらい驚いたアスナの言葉って、何を言ったんだ?」

 

そこでユージオはその場面を思い出し、思わずタオルで顔を隠した。あの時のアスナは頬を初々しく染めて、嬉しさが伝染しそうなくらい甘い声でキリトと出会えた喜びを口にしたのだ。もし瞳が開いてそこに幸せの色が宿っていれば、それはもう極上の笑顔となっていたに違いない。

 

「うん、キリトには教えない」

「なんだよ、それ」

 

これはきっと僕が伝えていい言葉じゃないから、とユージオは珍しく隣の友の専売特許とも言える悪戯っ子の笑みを浮かべる。今、傍にいないもう一人の気心の知れた仲である『金風の魔法使い』は強くて真っ直ぐで、それでいて実はちょっと不器用なので、さっきのアスナみたいな、はにかんだ表情や素直な気持ちは中々自分の手元に零れ落ちてこないから正直キリトが羨ましいとか、そういうのじゃないから、絶対に……と内心懸命に言い訳をしているユージオへ少し不満げなキリトの顔が近づいてきた。

 

「ユージオ」

「教えないからね……どうしても知りたいなら直接アスナに聞きなよ」

 

アスナからは既に「一緒に暮らせて幸せ」との言葉を貰ってたが、まさか自分のいない場で初対面の魔法使いに「キリトくんに会えた事が一番嬉しかった」と言われているとは思いもせず、しかも普段は温厚な友が頑なに要求をはねのける不可解さもあり、ついでに自分の知らないアスナをユージオが知っている事実になぜかもやっ、とした気分になったキリトは暗い声で「わかった」とだけ告げて黒い指ぬきグローブを手に取りいつものように外出の準備を始めたのだった。




お読みいただき、有り難うございました。
アスナが何を言ったか……シャーリに聞く、という選択肢はない(笑)


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空の魔法使い・14

いつも通りのキリト、の第十四話


ホカホカと湯気が立ち上がりそうな程お風呂で温まったアスナは首にかけたタオルで髪を拭きながら浴室の扉を開けまっ暗なリビングを見渡した。当然そこには誰もいない。

ユージオが「アスナの後に僕もお風呂をもらっていいかな?」と冗談半分で聞いたが、すぐさまキリトから射殺されそうな目で睨まれ、引きずられるようにしてこの家から連れ出されたのは随分前の事だ。

わかっていたがそれでも無人のリビングに「ふぅっ」と息を吐いたアスナは窓の外がすっかり暗闇になっている事に気づいてポソリと「キリトくん」と零す。

ユージオはアスナの為にも出来ればキリトを外に行かせなくなかったようだが、アスナはこの家に残って欲しかったわけではなく、今朝のような状態になる事を心配したのだ。自分がキリトの『夜空の魔法使い』としての役目に意見するなんて思ってもみないが親友のユージオの言葉にすら一切の譲歩をみせなかった所を見ると、キリトにとって『夜空の時間』に『転移の泉』へ行く事は絶対なのだろう。

 

「やっぱりボロボロで帰ってくるのかな」

 

今朝のキリトの冷たい手足を思い出して、風呂で温まったはずの身体をブルッと震わせたアスナは、すぐに「そうだっ」と大きく口を開ける。

 

「キリトくんもお風呂に入れば……」

 

そこまで声に出して、自分のひらめきに笑顔になりかけたが、すぐにその口は窄んだ。キリトが風呂を必要としていれば、とっくにこの家に備え付けられているはずなのだ。ユージオと帰って来た時は冷え切った身体とキリトの様子が変だったので深く考える余裕はなかったが、よくよく思い返せば、昨日この家の掃除をした段階で風呂場へと続く扉がなかった事は確かだ。だからキリトは今までずっと冷たい身体のまま布団に倒れ込んでいた事になる。

これはアスナの想像だが、この家に帰って来るのが精一杯で風呂に入る余力すら残っていないのだ。きっと今朝も意識が覚束ない状態で寝室のドアを開けたからベッドにいるアスナの存在すら気付かずに潜り込んだに違いない。

 

「そうじゃなかったら、あのキリトくんが何も気にせず私と同じベッドに横になるとは思えないのよね」

 

加えてかなりの密着状態を強いられていたのだ。結果的にはキリトの魔法力の回復に繋がったから良かったものの、アスナだって相手が彼でなかったら渾身のグーパンチをお見舞いするくらいはしていただろう。

となれば、キリトを待つしかない身の自分が出来る事と言えば……と考えたアスナは寝衣の袖をくるくるとまくって「うん、やっぱり美味しいご飯よね」と頷いたのだった。

 

 

 

 

 

すぅっ、と意識が浮き上がったのを自覚したキリトは次いで「もうちょっとだけ寝かせて」といういつもの思考が頭の中に生まれたが、それはすぐに嗅覚がとらえた匂いの正体を探る思考に取って代わられた。

なんだろ?、随分甘くていい匂いが……それは昨日目覚めを促したような料理の匂いではなく、しかも自分のすぐ近くから香ってくるのだ。でもこの匂いが初めてではないと感じたキリトが、うつらうつらとしながらも「いつだったかなぁ」とのんびり考え続けていると次第にぼやけた記憶が脳裏に再生され始める。

それは今朝、いつものようにこの家に帰ってきた時の様子だ。

扉を開けたらふわり、と甘い匂いが香って、顔を上げる力さえ残っていなかったが耳にはうっすらと「お帰りなさい、キリトくん」と労いの言葉が染み込んでくる。それに答える事すら出来ないのに優しい存在はずっと自分の傍にいてくれて、寝間着に着替えベッドに倒れ込んだ後も腕の中に居てくれたのだ。最後に「おやすみなさい」と言われたのは夢だったのか、それくらい全てが薄ぼんやりとした記憶の中で終始自分が吸い込んでいた匂いと同じ……それとも、もしかして全部夢だった?、と考えてみても、夢の中の出来事だったとしたら匂いまで覚えるなんて、記憶力に関しては自信を持って「自信が無い」自分にありえるだろうか?、とシーツの上で目を瞑ったまま軽く首を傾げてみるが、随分と思考がハッキリしてきたにも関わらずその匂いは漂い続けている。こうなるともうその発生源を確かめたい、匂いの正体を知りたいという欲求が眠気に勝ってゆっくりと瞼を動かしたキリトは嗅覚の次に聴覚までもが甘く刺激され、一気に目覚めた。

 

「あ、起きた?、おはよう、キリトくん」

 

本当に目の前に、自分と向かい合わせで瞳は閉じられたままだがアスナの綺麗な笑顔が現れる。

驚きで息を呑んだキリトはそれから全身を硬直させたまま「おはよう」と返して「何をしているんデス?」と問いかけた。

冷静に考えれば何をしているもなにも、ここはキリトとアスナのベッドなのだからキリトと同じように睡眠を取っていたと言われてしまえばそれまでだが、幸いなことにアスナはキリトの知りたい事をちゃんと理解してくれていた。

 

「キリトくんの寝顔を見てたの……あ、見えてはいないけど……どんな寝顔が気になって……」

 

少し唇と眉間を不格好にさせて「うーん、どう言えば伝わるかな」と考え込んでいるが、キリトとしては既に耳に飛び込んで来た言葉だけで大混乱だ。

 

「オレの寝顔?!、なんで?!」

「だって、ほら……起きられないでしょ?」

 

それこそ何を言ってるんデス?、と問い返そうとしたキリトだったが、もしもアスナの瞳が見えていたら、チラリと視線で促したんだろうなと感じる仕草に従って彼女の顔から徐々に首、胸元と見ていけば、その先には細い腰をしっかりと抱き寄せている自分の腕がある。

 

「うわぁっ、ごっ、ごめんっ」

 

すぐさま腕をのかせて、パッと自分の背後に隠し、焦りと恥ずかしさと申し訳なさで口をあわあわさせているキリトに、やはりアスナはふわり、と微笑んだ。

 

「そんなに重くないから大丈夫。それに今日はちゃんとご飯の準備をして寝たから私ものんびりしようかな、って」

 

それがどうして隣で寝ている魔法使いの寝顔を見るに繋がるのかが理解できないキリトだったが、理解できないと言うなら寝ている間の無意識とは言え腰に腕を回されてそのままでいるのもそうだ。色々疑問だらけで何から解決していいのか迷っている間にアスナがむくり、と起き上がる。

 

「でもそろそろ起きよっか?、先に洗面所を使わせてね」

 

軽やかに寝室を出て行くアスナを見ながら、彼女がベッドから離れていくのと同時に薄まっていく甘い匂いに「ああ、やっぱりこれはアスナの…」と確信したキリトは一人置いてきぼりにされたような感覚の中、うっかり引き留めるように伸ばしてしまった、さっきまで彼女に触れていた手をペタリと落とした。

それから昨日と同様に熟睡できたお陰で魔法力が戻ってスッキリとした頭で考えてみても今の自分の手の理由もアスナの言動の意味も分からなかったのである。

一方、アスナの方はと言えばパシャパシャと顔を洗った後、タオルで顔を拭きながら少々深い息を吐き、次に安堵で唇を緩めた。明け方帰って来たキリトが家の扉を開けると同時に出迎えたのだが、俯いたままの顔、荒い呼吸に一歩動くだけで今にも倒れそうに左右に揺れる身体に驚き、思わず支えるように彼の腕を抱えて泣きそうな声で「おかえりなさい、キリトくん」と言ったのだが聞こえていなかったかもしれない。

その後はまるで意思の感じられない動きでコートやグローブを脱いで寝室に移動し、寝衣に着替えて無言のままベッドに崩れ落ちたキリトの苦しげな顔は、もう何も見たくないのだと訴えるように目はきつく瞑られ、自分以外何も存在していないと割り切っている寂しさに溢れていた。それでもアスナがその隣に身体を横たえ小さな声で「おやすみなさい」と告げると、キリトの震える手が何かを求めるように浮いて、すぐ近くの細い身体を探し当てるとしがみつくように腰に絡んできたのだ。だからアスナは自ら彼の身体に寄り添うように距離をなくしてから眠りについたのである。




お読みいただき、有り難うございました。
ボロボロになるのも「いつも通り」なら
素敵な抱き枕にしがみついて寝るのも「いつも通り」に
なりつつあるキリトでした。


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空の魔法使い・15

睡眠と食事は大事だよね、の第十五話


「ほら、見て見てキリトくん。オーブンっ」

 

ジャジャーン、と効果音が鳴りそうな仕草でアスナが示した指先のその先にあるのは更なるキッチンの充実ぶりに一役買おうと満を持して登場したようなレンガ造りのオーブンだった。それを目にしたキリトは驚きの「ぅおっ!?」を誤魔化すように「ぅおおーっ!」と感嘆の言葉に変える。

内心「えー、ちょっと城の魔法ってアスナに甘くないか?」と思っているのだが、当のアスナは喜びが止まらないらしく無駄に笑顔をまき散らかしていた。

 

「あったらいいなぁ、って思ってたの」

「…よかったな」

「これで色んなパンが焼けるし……あ、お城の魔法さんが用意してくれるパンも美味しいのよ。でも、ほら、やっぱり自分で色々作ってみたくて」

「…色々って?」

 

今回の魔法はかなり嬉しかったようで『城の魔法』にさん付けまでしているアスナのウキウキが少しずつキリトにも伝染する。

 

「生地に木の実を練り込んだり、ドライフルーツを混ぜたのもいいわよね。それにミートパイも焼けるし……あ、キリトくんは甘いの好き?、だったらクリームパイやお菓子も作れるでしょ」

 

今度こそ心から感嘆の「おおーっ!」を吐き出したキリトにアスナは「それでね」と言ってからオーブンの取っ手を掴んだ。

 

「初めてだから上手く出来たかわからないけど……」

 

パカッ、と開いたオーブンの中からすぐに香ばしいパンの香りが漂ってきて、スゥッ、と吸い込んだ匂いに反応したらしくキリトのお腹がぐうぅっ、と鳴る。アスナもまた取り出したパンの表面を確認して納得の頷きを繰り返した。

 

「うん、いい焼き色。火加減はお城の魔法さん任せだけど材料の配合や生地を捏ねて成形まではちゃんと自分でやったのよ」

「早く食べようぜっ」

 

さっきまでぼんやりとしていたキリトの目にピカッ、と光が宿っている。その顔にアスナもまた焼き上がりのパンを見た時より笑顔になってホカホカのパンをカゴに移したのだった。

 

 

 

 

 

「ごちそうさまでした」を言い合った後、アスナが用意してくれたコーヒーを一口啜ったキリトは「はぁ、うまかった」と満足そうに笑って「ありがとう、アスナ」と感謝の言葉を捧げる。アスナにとっては料理の美味しさよりその言葉を貰った事の方が嬉しかったのだろう、こちらも「おそまつさまでした」と返す口元はこれ以上ないくらいに喜びを表していた。

 

「それでね、キリトくん……あのね…えっと……、ちょっと提案があるんだけど…」

 

珍しくも少しもったいぶった切り出しにキリトはカップを手にしたまま「ん?」頭を傾ける。

 

「こうやってゴハンを食べると魔法力、回復するんでしょう?」

 

自分の魔法が何かも分からないアスナは当然魔法力の増減を実感した事がないので自然と疑問形になってしまうが、睡眠と食事が魔法力の回復方法だと城長から得た基礎知識の再確認にキリトは短く「ああ」と肯定して続きを待った。

 

「キリトくん、『夜空の魔法使い』のお仕事でたくさん魔法力を使うみたいだし…」

 

瞳は開いていないのにキリトから視線を外して頬がほんのり色づいているのは昨日、今日と睡眠による魔法力回復という行為にアスナがキリトの抱き枕になっているからだろうが、当の本人は今朝の体勢すら偶然と処理しているので彼女の朱に全く心当たりがない。

どちらかと言えばほぼ力を使い切って帰宅している自分の姿がアスナにはどんな風に感じ取られているのかが気になって……ヨレヨレヘロヘロはさぞかし情けなくてかっこ悪いだろうな、と想像したキリトが俯きそうになった時、おずおずとした声が耳に届く。

 

「お弁当……とか……せめて暖かいスープ……を……」

「へ?」

 

パッ、と顔を上げるとアスナのピンク色の唇が未だにもごもごと動いていて、そこに目が吸い寄せられ思わず腰を浮かしそうになったキリトだったが、意を決したアスナの顔がキッ、と睨むように勢いを付けてこっちに戻って来た。

 

「だからっ、折角パンも焼けるようになったからっ、サンドイッチとかっ」

「えぇっ?!」

「じゃっ、じゃあっ、スープっ。具だくさんのスープっ…………なら、お仕事中でも、口に…できる?」

 

全部…全部、オレのため?、夜空の時間にオレの魔法力が枯渇しないようアスナが考えてくれた……胸の真ん中あたりがポカポカしてきて、それがどんどん全身に伝わり気付けば顔まで熱くなって、その熱に押し出されるようになぜか目から涙が零れそうになる。

 

「嬉しいよ、アスナ……ありがとう」

「うん、毎日用意するね……あ、でもお弁当持ってお出かけもしたいな」

 

そんなはにかんだ笑顔でお願いされて断れる男がいるのだろうか?

 

「どこか行きたい場所とかあるのか?」

「うんっ、『転移の泉』」

「あそこって昼間は本当にただの泉だけど、魔法使いが使う時しか……そうだっ、明日の午後なら地上から魔法使いがやってくるはず」

「そうなのっ?!」

「ああ、オレの知り合いの『鉄の魔法使い』が…」

「キリトくんのお友達?」

「友達ってほどじゃないけど……偶然出会ったのがきっかけでそれから忘れた頃に顔を見せにくる程度だから」

「それでもキリトくんに会いにこの浮遊城まで来るんでしょう?」

「まあ、暇なんだろ……この家まで押しかけられると面倒だから『転移の泉』で出迎えて適当に追い返そうぜ」

 

いつもなら「顔、見たし、さっさと帰れよ」とそっけない態度しかとらないキリトがなんとなくあのお調子者の『鉄の魔法使い』を出迎えもいいと思ったのはアスナの提案が嬉しくて、つい気分が良かったからだ。だから自分よりよほど社交性の高い彼女が弾んだ声で次に思いつく内容など予想出来るはずもなく……。

 

「だったら『転移の泉』のほどりで皆でお弁当を食べましょっ」

「ええぇーっ」

 

初めてのアスナの弁当をなんでアイツと分けなきゃいけないんだっ、と上げそうになった抗議の声は目の前でオーブンの出現よりも更に抑えきれないワクワクを大量放出している彼女を前にあえなく消え去ったのである。

 

 

 

 

 

こんなに確かな足取りと鮮明な意識を保ったまま玄関まで辿り着くとは……と『暁天の魔法使い』に空を明け渡したキリトは自分の家の前で感動にも近い何かを覚えていた。扉の取っ手に伸ばす手だって少しも震えていない。

さすがに疲労感はゼロではないが、今までを思えば体調はすこぶる良かった。だから家の扉をゆっくりと開ける。

もしもアスナが先に寝ていたら、という気遣いができるほど余裕があるからだ。けれどそれは全く無用の長物で、開いたドアの向こうには薄暗い部屋の中でもそこだけが輝いているような錯覚を覚えるくらい眩しい笑顔のアスナが立っていた。

 

「おかえりなさい、キリトくん」

 

途端に鼻腔を擽る甘い香りが漂ってくる。

ああ、やっぱり……と思いながら「ただいま、アスナ」と応えてから腰に下げていた水筒を取り出した。

 

「これ…本当に……」

 

まとまらないまま浮かんだ言葉を並べているキリトの口から「本当に」の次が出てくる前にその身体がふわりと包まれる。温かい、と思って気が緩むとやはり少し身体が傾いた。するとキリトを包んでいる温もりから小さな声がする。

 

「やっぱり、ちょっと冷えちゃってる。スープだけじゃダメかなぁ」

 

悔しそうな声が少しだけ可笑しくて可愛くて、心のままキリトはアスナを抱きしめた。睡眠促進効果でもあるのだろうか?、と疑いたくなるくらいアスナの匂いをかぐと眠気が一気にやってくる。

 

「も、ねむぃ……」

 

アスナとしてはお風呂を勧めるつもりだったのだが、既に身体を不安定に揺らし始めたキリトをこのまま湯船に入れされるわけにはいかない、と判断して「しょうがないんだから」と抱擁を解き背中に回る。

 

「はい、コート脱いで……グローブも……」

 

多分言われなくてもいつも通りキリトは着替えをするのだろうが、いつもと違いその口元は穏やかで浅い息継ぎもしていない。いつもなら放り投げられるそれらもアスナの手によってきちんとした場所にしまわれた。最後だけは変わらずぺしゃり、と潰れたようにベッドに横になったキリトだったが、既に半ば夢現なのだろう、片腕を上げて本能で「アスナ」と欲しい名前を呼ぶ。

呼ばれたアスナは少し呆れて、少し恥ずかしそうに、けれどそれ以外の全部は嬉しそうにしてまだ少し体温の戻りきっていないキリトの腕の中に収まり「おやすみなさい、キリトくん」と告げると、寝息のような「ん」という声が返ってきて彼女の身体を引き寄せたのだった。




お読みいただき、有り難うございました。
微妙な温度調節も「どんなもんだいっ」と自信満々にこなす
お城の魔法さんデス(笑)


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空の魔法使い・16

これは出迎えであってデートではない、はず…の第十六話


何度聞いても、聞く度に温かい気持ちになる声で「キリトくん」と呼ばれて目を開ければ、何度見ても飽きない笑顔が目の前にあって、寝起きで理性が働かないまま手を動かすと、逃げるように遠ざかりつつ「早く起きてね」と優しく笑う彼女が甘い残り香だけを残してベッドから抜け出して行く。

無駄なあがきと思いつつも伸ばした手で何度も宙を掻くがアスナは引き返すことなく、それでもちょっと心が揺らいだのか「ダメ」と自身に言い聞かせるように拒否を示した。

 

「…アスナぁ……」

 

寝起きのせいか幾分子供っぽくグズるキリトの声にアスナの柳眉が僅かに歪む。けれどここでその手を取っては時間がなくなる、と彼女は振り切って寝室の扉を開いた。

 

「キリトくんは軽くシャワーでも浴びたら?」

 

体温に問題はないようだが、熱めのお湯は身体を温めるだけではなく目をシャキッと覚ます効果だってある。

少し離れた場所から聞こえてきたアスナの声で浴室にはバスタブだけでなくシャワーも完備されている事を知ったキリトが今度はさっきよりもハッキリとした声で「アスナは?」と問い返してきた。

 

「私?、私はキリトくんが帰って来る前に浴びたの」

「そっかぁ」

 

その残念そうな声が意味するところは何なのかしら?、と疑問に感じたアスナだが、時間がないのだと思い出してのろのろと起き上がりかけているキリトに笑顔を贈る。

 

「私はその間にお弁当の支度をしちゃうから」

 

黒髪に隠れていた耳がピクッ、と「お弁当」というパワーワードに反応して動いたのに気づいたアスナが小さく笑ってから「照り焼きサンド、作るね」と言って寝室から去って行くのをしょぼついた目で見送ったキリトは「なんで好物ってバレたんだ?」とベッドに座り込んだまま、はて?、と首を傾げたのだった。

 

 

 

 

 

空の魔法使い達の家が集まっている場所を通り抜ける道の方が広いし歩きやすいんだ、と説明したキリトだったが、アスナに説得されて反対側の毎日『夜空の魔法使い』として使っている獣道のような狭い道を案内する。

「周囲の様子はだいたい分かるし通い慣れているキリトくんと手を繋いで歩けば大丈夫」と押し切られてみたものの、確かにゴツゴツと大小入り混じったサイズの石が不規則に転がっている悪路をアスナは一回も躓くことなくひょい、ひょい、とまるで見えているかのように避けて難なく目的地である『転移の泉』に到着してしまった。初日にアスナを案内した道だと家を出て魔法使い達の集落を抜け、城を通り過ぎた先が泉となるので距離的にも遠回りになるし、アスナと二人で歩いているところを他の魔法使いに見られて眉をひそめられるのはなんとなく避けたかったので結果オーライというところだろう。

泉のほとりは開けていてピクニックシートを広げるのに丁度良い草原が広がっている。

昼前、家を出る時に当然のようにアスナから渡されたピクニックシートとアスナの手料理が詰まっている蓋付きバスケットの出現は今更言及するまでもないだろう、と素直に受け取ってここまで持って来たキリトはシートを広げ、アスナは泉を覗き込んでいた。

 

「あんまり乗り出して落っこちるなよ」

「……ここ、お水があるのよね?」

「だから泉って呼ばれて……え?、アスナ?……」

 

まさか泉の水が見えないのか?、と聞こうとして言葉を飲み込む。元々、アスナの目は開いていないのだから、水どころか正確には何も見えていないのだ。けれど彼女はキリトが言いたかった事を当たり前に受け止めて返事をした。

 

「うん、昨日のお風呂はちゃんと浴槽にお湯が溜まっているのがわかったのに、この『転移の泉』には何もない空間って感じしかしないの」

「スゴイな……確かにここは泉って呼ばれてるけど実際水をすくえるわけじゃない。手を入れても濡れないしな」

「そうなの?」

 

しゃがんで泉と呼ばれている空間に指先を伸ばしてみるが確かに何も感触は得られない。

 

「ちなみにオレの目には、今、アスナが水の中に指を入れているように見えてる」

「へぇ、面白い……じゃあこうやったら?」

 

泉に浸した手を少し乱暴に動かすアスナの元へと歩み寄りながらキリトは「水が跳ねてるように見えるよ。まぁ、服が濡れる心配はないからいいけどさ」とその隣に立った。

 

「……そんな風に見えてるんだ」

 

今までなら見えていなくても大丈夫、と明るく笑っていたアスナの珍しく少し沈んだ声に、キリトは気付かぬふりでスッと泉の一点を指さした。

 

「あの辺だったかな。アスナが顕現した場所」

 

指し示す方向に顔を向けいつもの優しい声に戻ったアスナが「キリトくんが見つけてくれたのよね」と微笑む。

 

「ああ、あの夜はこの泉がすっごく静かでさ……」

「いつもは、静かじゃないの?」

 

ふと浮かんだ疑問と共に見えない瞳を真っ直ぐに向けられ、いかにも口を滑らせた、と言わんばかりの慌て声で「そっ、そういうんでもないけどさ、と、とにかく驚くほど静かな夜だったんだっ」と説明するキリトの隣ではこちらも全く信じていない口ぶりで「ふーん」という声が返ってくる。

 

「で、オレはいつもの……あ、あそこっ、あの岩に座って泉を眺めてたら……」

 

キリトがいつもいるという岩を確認してから再び泉に顔を向けたアスナは泉の内側に小さな違和感を感じて「え?」と思わず隣にある腕にしがみついた。しかしキリトはその時の様子を話すのに必死なのか依然として口を動かし続けている。

 

「水面に小さな波紋が浮き上がってさ、それがどんどん大きくなって……」

 

話すタイミングに合わせるようにキリトの指し示す場所から泡がぷくり、と浮き上がってきて、それがポコポコと数を増していった。

 

「えっと…キリトくん?」

「そしたら、まるで水の中で眠っていたみたいにゆっくりとアスナの全身が浮かび上がってきたんだ」

 

彼女が顕現した時の姿をキリトが夢中で話している間も泉に湧き出ている泡は量と大きさをどんどん膨らませ、ついでに音さえもゴボッ、ゴボゴボゴボと不気味さに拍車を掛けている。

何もない空間から大量の泡が溢れ出てくる様に「ひぅっ」と声を詰まらせていると、ようやくキリトが自分の腕にしがみついているアスナの手の必死さに異変を感じ取り意識を戻した。

 

「アスナ?」

「キリトくんっ、キリトくんっ、あれっ、あれっっ、私もあんな感じだったのー!?」

「は?」

 

アスナの指し示す水面を見たキリトはその異様な光景に「げっ」と頬を引き攣らせると泉から庇うように彼女の肩を抱き、半歩ほど後ずさる。その間も泉の水は沸点を越えた熱湯のように巨大な泡を次から次へと弾かせ続けていて…………

 

「ぷはぁーっ!!、げほっげほっげほっ!」

 

突然、その泡の中から何かが飛びだしてきて、思わずアスナは「きゃぁっ!!」と叫んでキリト本体に抱きついた。

同時にキリトもアスナをしっかりと抱きとめて「うえぇっ!?」と声を上ずらせる。

キリトの視線とアスナの閉じた瞳の先には泉のほぼ中央に立ち、身体を折り曲げて盛大にむせている一人の青年がいて、咳き込みが止まらないせいで俯き、片手で口元を押さえたまま「げふっ、ごふっ」と揺れながらキリトとアスナのいる岸へと向かってヨロヨロ歩いてくる。

出迎えるつもりだった二人が無言のままその様子を見守っていると、ようやく岸に辿り着いた青年が下を向いたまま「ぅう……溺れるかと思ったぜ……」と呟いてふと足を止めた。泉のほとりに人がいたのだとようやく気付いて「ん?」と顔を上げ、キリトを見てパッと表情を明るくし、続いてその隣にいるアスナを見て「あ゛?」と咳すら忘れて全ての動きを止めた。

それを見たキリトがそっとアスナから片手を離し、そのまま青年に向けて少し持ち上げ「よ、よう、クライン」と挨拶をする。何の反応も返ってこないことを訝しんでいると胸元から小さく「キリトくん」と自分を呼ぶ声がして、当然、キリトはその声を優先させた。

 

「どうした?、アスナ」

「みんな『転移の泉』にこんな感じで来るの?」

「まさか。普通はもっと普通に来る」

「よかった。あんなふうにはならないのね」

「なってたまるか」

 

至極当たり前に身体を寄せ合って不安そうな声のアスナの腰を片腕で支えているキリトに喉の痛みも忘れてクラインの声が飛んでくる。

 

「キリトっ!、どーゆーことか、説明しろー!」




お読みいただき、有り難うございました。
ある意味、とても派手な(?)登場となったクラインです(苦笑)


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空の魔法使い・17

正しい『転移の泉』の使い方は?、の第十七話


「説明しろ、って言うならクライン、お前の方だろ」

 

あきれ顔で言い返されたクラインはさっきまでの自分の醜態を思い出して、ふっ、と気まずげに視線を外した。

 

「あれは、その…なんだ……俺だっていつもはあんなんじゃねーぞ。ただ、今日はつい油断したっつーか……」

「『転移の泉』を使う時に何を油断するんだよ?」

「だからっ、地上の『転移の泉』は人間達も普通に泉として使ってるだろ。んーで俺があっちの『転移の泉』のほとりで魔法力を発動させる寸前、後ろから突き飛ばされたんだよ」

「突き飛ばされた?!、一体誰に……」

「いや、あいつは別に突き飛ばすつもりじゃなかったんだろーけど、相変わらず無駄に元気良く『いってらっしゃーいっ』とか言ってたしな」

 

そう話すクラインの声や表情で心当たりの人物を思い出したキリトは「あー」と声を伸ばしたままなんとか名前を思い出そうとして力尽きる。

 

「この前言ってた……鍛冶師の女の子だっけ?」

「おう、そいつがよ『見送りに来てあげたわよ』とか恩着せがましい言い方で泉で待ち伏せしてて」

 

むぅっ、とそれまで二人の会話を黙って聞いていたアスナの唇が前に突き出た。どうしてわからないのかしら?、とついでに眉毛までご機嫌斜めの角度になっている。話を聞く限りではその鍛冶師の女の子はわざわざこのクラインという魔法使いを見送る為に待っていたに違いない。「いってらっしゃい」を言う側は同時に「無事に帰ってきてね」を願ってその言葉を口にするのだ。

それに彼だってその子に自分の予定を話すくらい心を許しているのに……とアスナが見知らぬ少女の気持ちを思いやっている間、当の本人もキリトもその事に全く気づいていないらしく、二人の男性魔法使いはアスナを蚊帳の外に話を続けていた。

 

「それで魔法力の発動のタイミングをミスったのか?」

「ま、そーゆー事だな」

「まぁ、お前くらいの魔法使いならそうそう大事(おおごと)にはならないだろうけど……」

 

消えた声の先にはそれでも少量の心配が漂っていて、それを敏感に嗅ぎ分けたクラインは「ありがとよっ」と笑顔を添えた後、その笑顔に別の意味をにまにまと混ぜ込んでグッとキリトへ顔を近づける。

 

「それよりもキリトの字、俺がちょっと来ない間にお前……」

「…そういう笑い方はやめてくれ。あと、そういう目でアスナを見るな。目が見えてなくても彼女にはわかるから」

「見えてないっ?!」

 

緩んでいた口元が一気に驚きで大きく開いた。

人の良さは十分伝わってきているけど、随分直情的な魔法使いさんね……、と逆に心配になったアスナは彼らが話していた鍛冶師だと言う女の子に同情しつつも困り笑顔で「はじめまして」と挨拶をする。

するとクラインから離れたキリトが素早くアスナの隣へと戻ってきた。

 

「紹介するよ、『空の魔法使い』のアスナだ」

 

本来であればもっと詳しい気象の名を付けるのが当たり前なのだが、生憎とアスナには自覚がない為、漠然とした紹介になってしまう。しかしクラインは軽く微笑んだアスナの笑顔にほぇぇっ、と見とれて気にも止めていないようだ。

 

「アスナ、こっちが『鉄の魔法使い』のクライン。普段は地上の良質な鉄が産出される鉱山で暮らしてるんだ」

 

自分の名を告げられて我に返ったようにクラインがピシッと背筋を伸ばす。

 

「『鉄の魔法使い』やってます、クラインと言いますっ。本日は天候も良くっ」

「いや、ここだといつも青天だぞ。『青空の魔法使い』がいるんだから」

 

幾分緊張した面持ちのクラインとそれに半眼で返すキリトにアスナが耐えきれず、くすっ、と笑えばそれを見たクラインの頬がますます紅潮していった。彼女の顔から目が離せないのか硬い表情で固まったまま唇だけがだらしなく半開きになっている。

するとアスナを隠すようにキリトが半歩前に出た。人付き合いにおいては淡泊なイメージの『夜空の魔法使い』の独占欲ともとれる行動に一瞬驚いたクラインの口元が再びほほう、とうねり始める。

 

「それで?、何で今日は泉にいるんだよ。俺を出迎えに来てくれたのか?」

 

いつもは俺が家まで押しかけても冷めた態度のお前が、とは言わないでおいてやると素直に返答できずに視線を泳がせているキリトの隣から顔を出したアスナが「ゴハン、ご一緒しませんか?」と笑顔で誘いを口にした。

 

「ゴハン?、メシ?、ここで?」

「はい、実はお弁当持ってきてるんです」

 

そう言って振り返り、キリトがセッティングしてくれたピクニックシートを示すと何かのスイッチが入ってしまったらしいクラインが「うおぉっっ」ともの凄い雄叫びを上げる。アスナがニッコリと笑い、クラインの目が蓋付きバスケットに釘付けになっている中、多分こんな感じになるだろうな、と予感していたキリトだけが、はぁっ、と少々重めの溜め息をついたのだった。

 

 

 

 

 

「それじゃあクラインさんはいつも地上の人達と暮らしてるんですね」

「まぁ、暮らしてる、ってのはちょっと大げさだけどな。住んでる場所が近いだけで」

「でも互いに顔も名前も知っていて交流があるんでしょう?」

 

バスケットを中心にしてシートに座り、アスナからおしぼりを受け取りながらクラインが自分の日常を話して聞かせていると、瞳が見えていなくても彼女の好奇心が疼いているのがわかる。

 

「地上の人間達に魔法使いはそれ程珍しくねーんだ。ここは魔法使いしかいないから分かりにくいかもしれねぇけど」

 

感心したように頷いているアスナが「あっ」と意識を隣に向けた。キリトにおしぼりを渡そうとしていた手が止まる。

 

「ちゃんとグローブはずしてからね」

 

ついいつもの癖で装着してきてしまったのだろう、少しお姉さんぶった言い方をされキリトが焦ったように「ぁっ…おうっ」と素直に返事をし、寸暇を惜しんで黒の指ぬきグローブを脱いだ。

そして「さぁ、どうぞ」と蓋を開けたアスナの声が合図のようにバスケットの中身を見たキリトとクラインの声が「おおっ」と揃い、次いで二人の手が高速で伸びてきたのは言うまでもなかった。

それからクラインがアスナに請われるまま地上での日々を説明し、時々キリトが補足をして、お弁当は着々と消費されながら和やかな雰囲気のまま食事が進む。

若鶏のローストと香草のサンドイッチを小さくパクリと一口囓ったアスナが丁寧に咀嚼している間に同じ大きさのサンドイッチを二口、三口で食べ終えたクラインが、次は何にしようかと手を彷徨わせていると、その手の着地点を見極めるべくずっと視線をロックオンしていたキリトは、狙いが最後の照り焼きサンドに定まったと気付くやいなや食べかけのサンドイッチを無理矢理全て口に押し込んでその奪取を阻止した。

いや、クラインから見れば横取りしたのはキリトの方だろうが、口に詰め込んだサンドイッチがかなり大きめだったらしく「う゛ぐぐっ」と喉を詰まらせる音を聞いて慌てたアスナが急いで「大丈夫っ?!、キリトくん」と飲み物の入ったカップを手渡し、続けて彼の背中を撫でている様を見せつけられては言うべき言葉が見つからない。

自分の胸をドスドスと叩き、背中を美少女にさすられている『夜空の魔法使い』を見ながら、それでもクラインは安心したように瞳を緩めた。実は地上にいる魔法使いや人間達はそれほど『夜空』を忌み嫌ってはいないのだ。

この城のように衣食住が魔法で賄われてはいない地上では、魔法使いにとって夜は無条件で魔法力の回復に専念できる時間だし、人間にとっても日中活動している大型の肉食動物に命を脅かされることなく安心して眠りに就ける時間だからである。




お読みいただき、有り難うございました。
「刀」関連の魔法使いにしたかったので単純に
『鉄の魔法使い』になりました。
『鋼の魔法使い』じゃ格好良すぎる(笑)


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空の魔法使い・18

もしかして「鉄の魔法使い」はお邪魔虫かな?、の第十八話


ひょんなきっかけで知り合いになった魔法使いが天空を司る四人の内の一人だったと知った時は驚いたが、クラインがもっと驚いたのは同じ『空の魔法使い』であるはずのキリトに対する浮遊城アインクラッドでの扱いだった。城長は無干渉らしいが、彼と普通に会話を交わす魔法使いをクラインは二人しか知らない。

一人は『金風の魔法使い』と言うらしいが会った事はなかった。

もう一人はキリトと同じ天空を司る魔法使いの一人で『夜空』とは相対する位置に在る『青空の魔法使い』である。

クラインがキリトの家を訪れていると、そろそろ『茜空』と交代だろうから俺は帰るぜ、と思う頃に決まって彼がやって来て「今日はちゃんと起きてるんだね、キリト」と翡翠色の瞳を細めるのだ。

その台詞で普段のキリトの所行も推し量れるというものである。

そのキリトが今日は午下に魔法力の回復不足による疲れも見せず真っ黒な瞳を輝かせて用意してもらった食事を美味しそうにぱくついていて、その隣ではそれを嬉しそうにしている少女がいる。彼女の目が見えないとは言え、この城にいる『空の魔法使い』の殆どがキリトに向ける嫌悪すら孕む視線とは雲泥の差だ。

目の前の微笑ましい光景に気が緩んだクラインはどうにか落ち着いたらしいキリトと、安堵の息を落としているアスナへ何の気なしに今日の食事の礼にと誘いを投げかけた。

 

「今度はお前達が地上に来いよ。俺のいる鉱山周辺も色々面白いぜ」

 

案内してやる、というクラインの言葉にアスナは両手をギュッと握りしめ「本当にっ?!」と喜びを表す。

 

「ついでに今日、俺を『転移の泉』に突き落とした鍛冶師にも会ってみるか?」

 

頼もしく笑うクラインに人間の女の子を紹介してもらえると聞いてアスナは栗色の髪が乱れるのも構わずコクコクと頷いた。けれどそこに躊躇いがちのキリトの声が入って来る。

 

「悪い、クライン……さっきも言ったけど、アスナはまだ何の魔法使いかわかってないんだ。当然、魔法力も転移の泉を通れるほど使えない」

「あー……そうだったな。すまねぇ、うっかりしてた」

 

失言だったと謝るクラインに、ついさっきまでの期待を萎ませて、しゅん、と俯いたままのアスナの頭が小さく動いた。

 

「クラインさんのせいじゃないです。私がちゃんとした『空の魔法使い』になっていれば……」

「そんなに思い詰めるなよ……そのうち『転移の泉』だって自由に使えるようになるさ」

 

キリトが言葉と同時に慰めるようにアスナの肩を優しく撫でる。そこにクラインも続いて明るい声をかけた。

 

「ああ、それどころか『転移の泉』を使う必要すらないかもしれないぜ」

「あっ、そうだな……」

「空を飛行できないのは天空を司る魔法使いだけだから、よほど離れた場所へ急ぐなら使う時もあるだろうけど、普通は自分で空を飛んで移動するだろ」

 

だからずっと『転移の泉』のほとりにいても他の『空の魔法使い』がやって来ないのだと気付いたアスナはシャーリが言っていた言葉を思い出した。

『私はあんまりこの城にいないけど』……魔法力を自在に操れるようになれば『空の魔法使い』として地上のあちこちに行かれるようになるわけだが、それは同時に今のようにずっとキリトの傍にはいられないという事だ。初めから城長にもこの城での生活に馴染むまでと言われていたし、キリト自身もアスナのサポートは自分が必要な時までと強く決めている節があった。

アスナだって『空の魔法使い』でありながら魔法を使えないままは嫌だしキリトのお荷物にもなりたくはない。けれど一人前になる事が同時にキリトと距離を置く生活になるのだと改めて突きつけられたアスナの心はこの《浮遊城アインクラッド》に来て初めてと言っていいほど揺れ動いていた。

キリトとの会話に出てくる魔法使いはダントツにユージオが多いのだが、彼ほどではないにしろ『金風の魔法使い』もよく話題に上がる。どちらかと言えば彼女の場合は単体ではなく決まってユージオとセットになっているのでアスナはまだ会ってもいないアリスに対してなんだか微笑ましい印象さえ持っていた。

そう、それくらいキリトとの思い出がある彼女さえ、アスナが顕現してからはまだ一度も《浮遊城アインクラッド》に戻って来ていないのだ。ユージオに聞くと「そろそろ帰ってくるよ」と笑っていたから、特別長期で留守にしているわけではないのだろう。

『空の魔法使い』として独り立ちしたらキリトと顔を合わせない日が何日も続くかもしれない、と想像したアスナが思わず隣にあった黒いシャツの裾を握ると「アスナ?」と不思議そうな声と共にキリトが顔を覗き込んできた。

 

「どうした?、疲れたのか?」

 

ちゃんとした『空の魔法使い』にはなりたいけれど、今のキリトとの生活も続けたい、と我が儘めいた望みが口に出来るわけもなく、アスナは黙って頭を振る。

 

「空の魔法が自由に使えなくても、魔法力は減るんだから…アスナはもう少し食べた方がいいと思うんだよなぁ」

「寝てばっかりのお前がそんな事を言う日がくるとはな……」

 

嬉しい変化ではあるのだが今までの自分に対する雑な扱いに比べると、随分と盲目の魔法使いに対しては気遣いをみせているキリトに半ば恨めしげな視線を送ったクラインは、次にキリトがそのまま自分の前髪を手で掻き上げてアスナと額同士をくっつけるとこれ以上ないくらいに目を剥いて仰天の声を飛ばした。

 

「なっ!、キリトっ、おめぇ何やって……」

「何って、魔力が不安定だと熱が出たり目眩がしたりするだろ。アスナの場合、目が見えてないから症状が出るとすれば熱かな、と思って」

「だからって…………」

 

どこをどう見てもお年頃の女の子にいきなりしていい事じゃねーだろ、と諭そうとしたクラインは、遅ればせながらアスナの表情を見て口は開けたまま声だけを無音化させる。驚くとか照れながら怒るくらいの反応が妥当だと思っていたのだが、当の彼女はほんのりと頬を赤らめたまま勝手に触れられても特に気にする風でもなく、それどころか「大丈夫だよ」とキリトの気遣いを受け入れているのだ。

まさか目の前の二人が毎日同じベッドで、しかもかなりの密着度で寝ているなどと想像もしていないクラインはあんぐりと口をあけたまま、はぁっ、と重い息を吐き出した。

 

「キリト、お前こそもうすぐ『影濃天』なんだから体調を整えとけよ」

 

短い時間だが二人のやり取りを見ていれば今のキリトの魔法力の安定にアスナが関与している事は火を見るよりも明らかで、だからこそクラインは託すような視線をアスナに送る。これから更に夜の時間が長くなっていけばキリトは自分の空の時間以外は誰にも会わず、家にも入れず、ずっと籠もりっぱなしになるからだ。

かなり前に一度キリトの家まで様子を見に行った事があったが、親友と呼ぶに相応しい『青空の魔法使い』さえ鍵のかかった戸口の前で門前払いをくらっていた。「この時期は仕方ないのかな」と困ったように笑う翡翠色の瞳は寂しさと不安に満ちていて、あの少年はキリトと対局にいるからこそ出来る事と出来ない事を十分理解しているらしく、そのまま静かに立ち去って行ったその後ろ姿を知っているからこそ誰も寄せ付けず孤独に『影濃天』を支えるキリトの味方にこの少女がなってくれたら、と切に願ってしまう。

 

「『影濃天』ってそんなに大変なのね。ユージオくんも『栄晴天』にはヘトヘトになるって言ってたし」

 

『青空の魔法使い』の場合はその状態を見て「魔法力の鍛錬が足らないのでは?」と厳しい言葉と共に肩を貸してくれる『金風の魔法使い』がいるので毎年ヘトヘト程度で済んでいるらしいが、自分が初めてキリトと共寝をした時の様子を思い出すと、既に日常でヘトヘト以上の負荷がかかっているように感じたアスナの唇が、むむぅっ、とすぼまる。

そうなるとこれからはキリトに抱きしめられて寝る時間も今より長くなるかもしれないから夜のうちに行う食事の仕込みは万全を期さないと、と考えを巡らせ、食事量も増えるのかしら?、と想像してから握っていたシャツの裾を手放し、両手でキリトの手をギュッと握る。

 

「私がキリトくんの傍にいるからね」

 

出来るならこれからもずっと、という純粋な願いはキラキラと輝いてキリトの中へと流れていった。




お読みいただき、有り難うございました。
「鉄の魔法使い」のクラインも帰りはアスナのお弁当のお陰で
魔法力みなぎってますっ


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空の魔法使い・19

寝ても寝ても眠い時はある、第十九話


『転移の泉』のほとりでピクニックシートを広げた日から『影濃天(えいこくてん)』を更に意識するようになったからか、じわじわと長くなっていく夜空の時間と同調したようにアスナ自身の体調にも変化が起きていた。

キリトにおいては予想通り一日の生活もどんどん夜を中心とした物になっており、同居を始めた頃と比べると家を出る時間はより早く、帰宅はより遅くなっている。少し前なら帰ってきた時の挨拶も弱々しくはあったがちゃんと笑顔だったのに、今では扉を開けた瞬間、出迎えに立っているアスナへ覆いかぶさるように倒れ込む始末だ。

それでもアスナに肩を借りながらベッドに辿り着くまでにどうにか自分で着替えはしてくれるので毎日ちゃんと柔らかな睡眠を得ているが、もし彼女が居なかったら戸口近くの床に崩れ落ちたまま寝落ちしていたかもしれない。

就寝時間が遅くなったので当然起床時間もズレてきて、ここ最近ではアスナが用意する食事はブランチではなく、少し遅めのランチになっている。それをどこか空元気に見える様子で平らげた後、うっかりするとアスナが気付かないうちにキリトはイスに座ったまま舟をこいでいるのだ。

それを見たアスナがさすがに「一体、今までどうしてたのっ」と何に怒っているのか自分でもよく分からないままキリトにぶつけると、キリトは目を擦りながら「アスナがいてくれると安心して気が緩むんだよなぁ」と納得していいのかわからない答えを力の無いくたくたの笑顔で返してくる。

これでは本当にここから、キリトから離れられなくなってしまう……自分だって立派な『空の魔法使い』になりたいのに、というアスナの葛藤を表している固い拳に気付いたわけでもないだろうが、そこにキリトが言葉を付け足した。

 

「『影濃天』が過ぎれば大丈夫だから」

 

その言葉はアスナにとって、ほっ、と出来る言葉のはずなのに、なぜかチクリ、と心が痛む。

ただアスナが気付いた自身の変化は自分も眠気がキリトに引っ張られるように長くなっている事で、それも『影濃天』の影響なのかしら?、と少し不安なのだが、こんな状態のキリトに相談するのは気が引けて内にしまいこんだままだ。ここまでキリトと生活のリズムが同期してしまうのは一緒に暮らしているからなのか……キリトの方はアスナが自分に合わせてくれていると思っているようだが、それだけの理由で午睡まで付き合うはずがないとは思い至らないのだろう。

自分の魔法が分からない上に原因不明の眠気とアスナは少々困惑気味で、少し前にユージオに連れて行ってもらった城の図書館も頼れないので、ここはキリトに倣い『影濃天』が終わるまで一旦棚上げを決めこんでいる。

《浮遊城アインクラッド》の図書室……そこは確かに圧巻と言うべき蔵書の数だったのだが、手近にあった本を抜き取りその表紙を見たアスナはあまりの落胆で膝から崩れ落ちそうな感覚を味わった。

字が……読めないのだ。

文字が書いてあるのは分かるのに、内容が感じ取れない。

開かない自分の目をその時ほど恨んだことはなかった。

泣き出す一歩手前のような表情に同伴していたユージオが慌てて理由を聞いてきたので、素直に打ち明けると優しい彼は自分が読んで聞かせる、と申し出てくれたのだが、さすがにそこまでしてもらうわけにはいかないと丁重に辞退した。

もちろん城から帰ってきて本が読めないと報告した時のキリトも一瞬ポカンとした後、かなり頑張った声で「オレが代わりに読もうか?」と言ってくれたが、ちょっと悪戯心が湧いて「ホントに読んでくれるの?」とアスナが首を傾げれば、今度はキリトも「うーん」と首を傾げ「……一冊くらいなら」と難しい顔で返してきたので「やっぱり、いい」と、こちらも断ったのだ。

きっと自分の魔法が使える『空の魔法使い』になればこの目も開くだろう、と根拠はないけれど確信めいた予感はあって、その為には藁にもすがりたい気分なのに、ヒントになるかもしれない図書室が利用出来ないのは開かない目のせいで……と、城から戻ってきてから日に何度も繰り返している堂々巡りは肩にかかってきたくすぐったい重みで停止する。

続いて聞こえてくるキリトの寝息。

今日も昼食を食べ終わった後、アスナが片付けをしているほんの僅かな間は長椅子に座りちゃんと目を開けていたはずのキリトだが、いざ彼女が隣に座るとすぐに頭を預けて眠り込んでしまうのである。

以前は食卓の椅子に座ったままゆらゆらと頭を振り動かしていたから、だったら寝室に行ったら?、とベッドまで連れて行くと当たり前のようにアスナを抱き込んでくるので「これはダメっ」と色んな意味でキリトの腕から逃れてリビングに戻ってきてみると出現してのがこの長椅子だった。

アスナもキリトほどではないが日中でもなんとなく眠気にまとわりつかれているので、昼食後にベッドに入ってキリトの腕の中に収まってしまうと自分も完全に熟睡しかねないのだ。万が一寝過ごして、キリトが一人で暮らしていた時のようにユージオが起こしにやって来たら、と思うと二人で仲良く一つのベッドで眠っているのを絶対に知られたくないのはキリトも同じらしく、それ以降、夜の時間まではリビングの長椅子で過ごすことになっている。

『夜空の魔法使い』の時間が終わって家のベッドでアスナを抱きしめて眠り、魔法力がそこそこ回復した所で起きてアスナの作ってくれた料理を食べる。それからまたアスナにもたれかかったまま空が自分の時間になるまで微睡むというアスナづくしが日常となってしまっているキリトだが、逆を言えばアスナも同様なのだ。

それが証拠に長椅子で身体を斜めにしているキリトの黒髪の上には栗色の髪が重なっていて、二人は手を繋いだまま互いに支え合うようにして『影濃天』を意識しつつ夜まで眠りの時を過ごしているのである。

 

 

 

 

 

そして『影濃天』の日……この大事な日に限って、と言うべきか、この日を迎えるまでに魔法力の行使がひどすぎて回復が十分に追いつかなかったせいなのか、長椅子に座っていたアスナは水中からゆっくり丁寧に引き上げられるような穏やかな覚醒ではなく、無理矢理引っ張り上げられたような感覚にビクッと肩を揺らし、同時に窓の外の色に気づいて顔を強張らせた。

 

「キリトくんっ、起きてっ」

 

ただならぬ大声にいつもなら一番最初にうにゃうにゃと口から動く『夜空の魔法使い』が、何も言わずにパチッと目を開く。

 

「やばっ」

 

既に外は夜を待ちくたびれたような暗い赤一色に染まっていて、きっと気の弱い『茜空の魔法使い』は半泣きになっていることだろう。

 

「ごめんねっ、私もすっかり寝入っちゃってたっ」

 

素早く長椅子から立ち上がったキリトは黒い指ぬきグローブをひったくるように掴んだが、背中に掛けられた罪悪感で一杯の声にその勢いを一旦殺して振り向き、アスナの顔を見てから、ふっ、と笑いその頭を撫でた。

 

「気にしなくていいよ」

「…うん」

 

そう言われても落ち込んだ気持ちはそう簡単に浮上しないが、今は少しでも早くキリトの身支度を調えなくては、とアスナも急いでキリトの黒いコートを手に取り彼の背に回る。コートを羽織らせてもらいながらキリトは背後のアスナに殊更真剣な顔を向けた。

 

「わかってると思うけど、今夜は『影濃天』だから。絶対にこの家から出るなよ」

 

普段の時もキリトにしては珍しいと思えるほどしつこくアスナに夜空の時間の外出を禁じているのだが、今夜は特に、という事らしい。素直に頷いたアスナが戸口までキリトを見送る。

 

「キリトくんも気をつけてね」

「ああ、行ってくる」

「行ってらっしゃい」

 

送り出すために振ろうと持ち上げたアスナの片手を見つめる濃黒の瞳の奥にある躊躇いは何を意味しているのか、ドキンッと跳ねた心臓に驚いている間に、キリトは伸ばした自分の手で重ねるように軽く触れながらもう一度「行ってくる」と今度は笑顔で告げれば互いの気持ちを交感するようにキラキラとアスナの魔法力が二人の手を包み込んでいた。




お読みいただき、有り難うございました。
やっと『影濃天』の日になりました。


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