巨獣大作戦 (F-35)
しおりを挟む

大日本皇国の歴史①

昭和19年(西暦1944年)初頭、圧倒的な物量で迫るアメリカ合衆国軍とイギリス連邦軍を前にし、大日本帝国の敗北は目前かと思われた。だが日本軍は急ピッチで戦線整理を進め、中部太平洋諸島と南西諸島及び台湾、満蒙周辺と北支(中支の一部も含む)、仏印周辺を拠点とした防衛戦略を打ち出した。

絶対国防圏であるマリアナ諸島を巡る戦いには敗れたが、パラオ諸島や小笠原諸島、南西諸島の戦いでは持久戦に持ち込むことに成功。これに加えて、かねてより進めてきた核開発も成功を収め、1944年末から1945年初頭にかけて準核兵器とも呼ぶべき特殊爆弾を完成させた。

さらには調査の結果、従属国であった満州国に莫大な油田があることも判明し、これらを交渉のカードとして日本は連合国との和平交渉に臨むことが出来た。

 

連合国との講和後もフィンランド及び北イタリア政府と連合国間の完全講和も仲介するなど、連合国側に協力的な態度を取った。これらの功績を評価され、日本は連合国による占領統治を逃れられることが出来た。だがその代わりに以下の条件を飲まなければならなかった。

 

①「英米型の民主主義的な憲法への改正」

 

②「天皇の存在を英国式の立憲君主とすること」

 

③「国軍及び治安機関の縮小近代化し、英米型の組織に変えること」

 

④「今後、連合国と協力して戦争責任者や戦争犯罪人を処罰する」

 

さらには日本軍が日清・日露の戦いや支那事変で確立した満州国及び内蒙古の権利も日本の手から離れてアメリカ側に移譲された。

 

大日本帝国は国名を日本国に改め、国家改造と同時進行で戦後のレールを走ることとになった。日本国民の多くはやっと平和が訪れると喜んだが、第二次世界大戦終結もその兆しは見られず、今度はアメリカとソ連が列強に成り代わって新たな世界秩序を構築するようになっていた。

その結果、世界は資本主義陣営と社会主義陣営に二分され各国は米ソのイデオロギーをかけた泥沼の戦いに巻き込まれていった。

 

隣の満州国でも新たな動きが見られた。国府政府の在洛ぶりを嘆いた英米は、当初の方針を転換して日本の手で整備された満州国に着目し、この地を新たな反共の防波堤と位置付けた。日本だけでなく米英からの協力を得て、満州国は第二次国共内戦の波を乗り越え、東トルキスタンや内蒙古、北支、山東省、浙江省、江蘇省の一部を編入することにも成功した。

その甲斐もあって、同国は日本と並ぶアジアの大国としての地位を確立し、昭和24年(西暦1949年)には国名を満州帝国と改めた。また外交に関しても隣国の韓国ほどでは無いが、日本とは距離を置いた英米重視の外交を展開するようになった。

 

ところが第二次日ソ戦争(第一次は終戦から数カ月後に勃発)と朝鮮戦争の勃発は、日満の関係を改善させる転機となった。大陸から追われて台湾の一部に政府を確立していた国府も両国に協力し、東アジア反共連合軍は西側諸国と共に中ソと北朝鮮から成る連合軍を迎え撃った。また同時期の東南アジアでも変化の波が生じており、北ベトナムのホー・チ・ミン政府やインドネシアのスカルノ政府が欧米からの独立戦争を戦っていた。

 

そして、東南アジア地域の要所である旧仏印の戦いはアメリカやイギリス、オーストラリア、ニュージーランド、国府といった西側諸国の目を引くことになった。当初、彼らは朝鮮半島と同様に軍事介入を画策したが、出来たのは限定的な陸海空各軍の展開と軍事支援のみであった。いくら彼らが強かろうとも、ソ連との全面戦争の危険性を孕む中で、これ以上火種を増やすことは得策では無かった。そこで最近まで同地に展開していた日本軍の存在が目に留まり米英豪の圧力で日本国はインドシナ半島における兵力増強を余儀なくされた。

第二次国共戦争や第二次日ソ戦争に引き続き、日本軍は再び西側諸国の代理人として戦争を戦うことになり、人的・物的負担は減るどころか増えるばかりであった。米英仏豪は日本弱体化の野望を忘れ去り、今や如何に日本を利用するかに重点を置くようになった。

 

北ベトナムを占拠していた解放勢力は、戦直後から巧みなプロパガンダ戦を展開し、大東亜共栄圏の実現を信じて戦った多くの日本軍将兵の心を掴んだ。これにより、彼らのスローガンに惹かれた将兵の脱走が相次ぎ、インドネシアやビルマと同様、現地の解放軍に参加する者が続出した。そのため、当初から日本軍将兵の士気は低く、多くは欧米諸国の手駒となって戦うことに疑問を感じるようになっていた。

そして、1940年代末に起こった現地人将兵の蜂起に触発され、遂には日本軍将兵の反乱事件も勃発した。彼らの多くはインドネシア独立戦争下の反乱事件の時と同様、欧米人将兵に牙を向けたため、仏印の都市部では大規模な市街戦が展開された。

この一報を受けた日本政府は、東南アジア地域における戦争協力策の見直しを迫られ、1952年頃までにラオスとカンボジアを除く地域から撤退した。また東アジアの戦いも収束へと向かい、アジア地域は東西冷戦の最前線として両陣営が対峙する状況が続くことになる。

 

この時代は東西冷戦の幕引きとなり、以降も世界各地で東西代理戦争が繰り広げられるが、同時に新生日本にとっても大きな転機となった。この戦争を通じて日本の立場を理解した改革派の軍人、政治家、ナショナリスト、知識人に加え、旧仏印やインドネシアから帰還した残留将兵達は欧米諸国の属国と化した祖国の現状に強い危機感を抱き、もはや世界的な運動となっていたアメリカやソ連、西欧、中共に左右されない国造りを志すようになった。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む




評価する
※目安 0:10の真逆 5:普通 10:(このサイトで)これ以上素晴らしい作品とは出会えない。
※評価値0,10についてはそれぞれ11個以上は投票できません。
評価する前に
評価する際のガイドライン
に違反していないか確認して下さい。