あの日村に来た怪物がめちゃくちゃ強かった (とやる)
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ベル・クラネルと正義の女神

 質素な木製の家のこじんまりとした物置。

 小窓から射し込む夜空に瞬く星々の光で薄っすらと淡く滲むような優しい光に包まれながら、僕は膝を抱えていた。

 

「おじいちゃん……ぅ、うぅ」

 

 額を膝に押しつけるように俯き震える身体。

 戦慄く喉からは嗚咽が漏れ続け、そう広くない空間に木霊していた。

 

 おじいちゃんが死んだ。

 

 今日、突然村に現れた怪物に殺されて。

 怪物を一目見て気絶していた僕は全部が終わったあとにそう聞かされた。

 親と呼べる存在がいない僕にとって、おじいちゃんはたったひとりの家族だった。

 

 遺体も見つからず、ただおじいちゃんが居なくなったという現実だけが僕を埋めていく。

 悲しくて、心細くて、寒くて。もう、豪快な笑顔も、優しい瞳も、乱暴に大きな手で頭を撫でてくれる人もいない。涙は止めどなく溢れて、僕はずっと此処に閉じこもるようにして泣いていた。

 

 そんな時だった。

 

「家族を失ったという子どもは貴方ね」

 

「だ、だれっ!?」

 

 豪快な音と軋みをあげて開かれる木製のドア。

 悲しみに閉ざされた僕の心を表すように鍵のかけられたそこに咄嗟に顔を向ければ、蹴りを放ったような体勢の女性がひとり。

 

 美しい女性だった。

 妙齢の年頃に見えるその容姿は恐ろしいほどに整っていて、星明かりに照らされ神々しささえ纏っている。薄っすらと星の光の滲む胡桃色の髪は頭の後ろで束ねられ、肩から胸元へと垂れていた。瞳の色は星海を彷彿とさせる深い藍色だ。

 しかし、どこか気品さえ感じられるその容姿とは裏腹に身に纏っている服は何処にでもいる村娘のように質素なものだった。

 

「──なるほど。これは放って置けないわね」

 

 ぽつり、と口に含むような呟き。

 村の人ではない、見た事も無い女性が突然現れた事に恐怖と驚きで軽いパニックになっていた僕に近づいたその人は、目を合わせるようにしゃがみ込み、そっと頭に手を重ねた。

 

「家族が居なくなって悲しいでしょう。怪物に襲われた村の被害は甚大で他の大人たちも貴方に気をかける余裕もなく、またそんな大人たちを慮ってこうしてひとりで泣くのは辛かったでしょう。──よく、頑張りました」

 

 優しく頭を引き寄せて抱き寄せられる。

 閉じ込められた腕の中が暖かくて。慈しむように撫でられる手の感触が、全く違うはずなのに、どこかおじいちゃんのそれと似てるような気がして。

 

「──ぅ、うぅぁ、おじいちゃん……! おじいちゃん……っ!」

 

 込み上がってくる情動と湧き上がる想いのまま、僕は声をあげて泣いた。

 見ず知らずの赤の他人のその人に縋り付くように、いつまでも泣き続けた。

 女性はずっと、そんな僕を優しく包み込むように抱擁してくれていた。

 

 それが僕──ベル・クラネルとアストレア様の出会いだった。

 

 

 ☆☆☆

 

 

 結論から言ってしまえば、僕はアストレア様と共に旅をする事になった。

 村を襲った怪物の被害は甚大で、身寄りのない子どもである僕を抱える余裕は何処にもなかったからだ。

 

 長い距離を歩いた。馬車に乗り、山を越え、河を渡った。

 途中、アストレア様は比較的余裕のある村に僕のことを預けようとしたけど、僕はそれを全力で拒否した。

 恥ずかしい話ではあるけど、その時の僕はアストレア様の事をどこか母親のように思っていたからだ。

 家族ともう一度離れ離れになるのは、どうしても嫌だったから。耐えられないと、そう思ったから。

 アストレア様は困ったような顔をしたけど、仕方ないわね、と破顔するように微笑んで僕がついて行くことを許してくれて。

 胸に今にも走り出したいような、想いの限り叫びたいような、とても言葉では言い表せない温かな感情が湧き上がったことを覚えている。

 

「アストレア様はどうして旅をしてるんですか?」

 

 ある時、こんな事を聞いた事がある。

 蒼白く輝く月明かりの下、焚き火の前に座っていたアストレア様は虚をつかれたようにびくんと震えた。

 

「……色々と、あったのよ。本当に、色んなことが」

 

 夜空を見上げ懐かしむように、そして、どこか痛みと悔恨を滲ませた声音で。

 その姿があまりにも悲しそうで、痛ましくて、僕はそれ以上聞くことが出来なくて黙り込む。

 

 そんな僕に、アストレア様はひとつの問いを投げかけた。

 

「ベル。貴方は正義ってなんだと思う?」

 

 気安く、何気ない日常の会話のように。

 でも、声音とは裏腹に真剣そのものな瞳が、これが真面目な問いだという事を表している。

 

 正義。

 定義は曖昧で、きっと明確な正解なんてない。

 でも、僕は正義を知っている。

 だから僕は、気負う事なく、朝になったら東から日が昇るのと同じくらい当たり前のことをを話すように言った。

 

「苦しいって藻搔いていて、でもどうしようもなくて、助けて欲しくて。そうやって、泣いている人に大丈夫って手を差し伸べられるような。そんなとても温かな優しさ──それが正義だと思います」

 

「────」

 

 あの日、アストレア様が僕にそうしてくれたように。

 旅の途中、行く先々でアストレア様がそうしたように。

 困っている人がいれば声を掛けて、一緒に悩み、考え、一生懸命になって。

 泣いている人がいればそっと側に寄り添い、悲しみを理解し、分かち合う。

 その姿を僕は正しいと思った。

 きっと、アストレア様こそが正義の体現者なのだと、そう思ったのだ。

 

「──ありがとう、ベル」

 

 一度眦を拭って、悲痛さの滲んだ微かに震えた声で。アストレア様は僕を見つめた。

 そして、何か失礼な事を言ったのかとおろおろする僕に向かって間をおかず。

 

「でもね、ベル。私の正義にベルが倣う必要はないわ。よく考えて、よく経験をして……そして、ベルの正義を見つけなさい」

 

 橙の炎に彩られる美しい相貌には、様々な感情が秘められているような気がした。

 その言葉の意味はよく分からなかったけど。

 なんだか認められたような、より心の距離が縮まったような気がして、嬉しくなった僕は破顔して元気よく返事をした事を覚えている。

 

 

 ☆☆☆

 

 

 正義についての問いをしたあの日から、アストレア様は自身の過去を断片ながら話してくれるようになった。

 

 昔、オラリオにいた事。

 ファミリアを作っていた事。

 かつての家族の事。

 

 僕は特に、アストレア様の口から語られる冒険者のお話が好きだった。

 勇敢で、誠実で、強い。

 おじいちゃんに読み聞かされ、寝るのも惜しんで読みふけった冒険譚。その英雄たちのようで。

 

 憧れの火が再び心に灯ったのが分かった。

 

 旅を始めてから一年ほど経った時、僕はアストレア様にオラリオには行かないのか、と聞いた。

 この一年で様々な村や町を見てまわったけど、世界の中心と言われるオラリオには近づくことさえなかったから。

 

「そう、ね……あれから、もう五年も経つのね……」

 

 長い逡巡。

 躊躇うような臆病さと罪悪感、その両方が感じられる迷い。

 たっぷりと悩んだあと、アストレア様は意を決したように宣言した。

 

「ベル、オラリオに行こうと思うわ」

 

 決めてしまえばあとは早いもの。

 長旅にも慣れ、なにより一年前のあの日から【神の恩恵】を刻んでいるこの身体はちょっとやそっとではビクともしない。

 初めて会った日にアストレア様が直ぐに【神の恩恵】を刻もうとした理由は分からないけれど、僕にとってはメリットしかないし家族の証のように思えてとても嬉しいのに変わりはない。

 

 自分のステイタスは見た事ないけど。

 武術の心得があるというアストレア様に旅の合間にちょくちょく稽古をつけてもらっていたので、少しずつ成長しているわとはアストレア様の談。

 どうにも、最初から僕が冒険者に憧れていた事はお見通しいだったらしい。

 

 稽古の最中、こんな会話もした。

 

「ベル、貴方必殺技とかは作らないのかしら」

 

「必殺技ですか?」

 

「そう、必殺技よ。冒険者はみんな必殺技を持っているの。あの子もよく『炎華ッ!』ってやってたもの」

 

「かっ、カッコいい……!」

 

「でも、ベルにはスキルと魔法がないから……そうね、今から作りましょう」

 

 そうして試行錯誤の末できた必殺技が力一杯の横薙ぎ。

 アストレア様から頂いた木刀を思いっきり振り絞って、斧を木の幹に打ち込むように振るう必殺技。

 なんでこれが必殺技になったかっていうと、村での暮らしで斧を使って木を切り倒す事には慣れていて、それが一番様になっていたから。

 

「それが今のベルの一番強力な攻撃だわ。名前は……そうね、『紫電木こりスラッシュ』なんてどうかしら」

 

 アストレア様の感性は少し独特だった。

 

 そうして旅を続け、僕たちはオラリオの門を潜る。

 僕の冒険者としての未来が幕を上げた。

 

 

 

 ☆☆☆

 

 

 

「では、神様! 行ってきます!」

 

「行ってらっしゃい、ベル。気をつけるのよ」

 

 朝の陽射し眩しいオラリオ。

 ぎゅうぎゅうと詰め込むように並ぶ質素な宿のひとつから出てきた少年が、女神に見送られて走っていく。

 処女雪のように真っ白な髪を風になびかせ、ルベライトの瞳は期待に大きく開かれている。

 腰には女神の贈った木刀が一振り。戦い方もある程度は仕込んだ。下層の素材で作られたソレは少年の身を守る心強い相棒となってくれるだろう。

 

「……ごめんね。帰って来たわ、リュー」

 

 少年の後ろ姿が見えなくなり、空を仰いだ女神はぽつりと言葉を漏らす。

 ただひとり残った自身の眷属である少女へ。かつて、額を床に擦り付けオラリオの外へ逃げて欲しいと懇願した彼女を想い。

 風の噂で彼女が何をしたか知っている。きっと、彼女は自身と会いたがらないだろう事を女神は分かっていた。

 同時に、彼女に会う事を恐れる自分の心も。

 

 悲しいという言葉では表せないほどの悲痛で、痛哭で、残酷な過去があった。

 あの時、彼女を止められなかった自分に──手を差し伸べられなかった自分が、どうして彼女と会えようか。

 

 でも。

 

 こんな自分にも正義があるのだと言ってくれた少年がいた。

 少年は知りようもない事で、全くの偶然だっただろう。

 それでも、在りし日の過去。微雨に濡れる彼女に手を差し伸べた自分を、正義だったと少年は言ってくれたのだ。

 

 なら、過去に出来なかった事を、いま。

 彼女が悔やみ、嘆き、泣いているかもしれないのなら……その手を取ろう。大丈夫、と手を伸ばそう。

 そうして、いっぱい……いっぱい、話をしよう。

 

 そう、決めたのだから。

 

「……ベルの【魔法】はいつ話そうかしらね」

 

 それはそうと、女神の頭を悩ませる事がひとつ。

 いつかは話さねばならない。だが、いつ話すか。

 恐らくはあのクソ迷惑な大神の干渉によるものだろうが、見ただけで分かるLv.1の冒険者には過ぎた力。

 何よりも厄介なのは、恐らく【神の恩恵】を得た今でも【魔法】に身体が耐えられない可能性がある事だ。ともすれば生身でも使えたかもしれないこの魔法を知らずにベルが使ってしまった場合どうなるかなど女神は考えたくもなかった。

 

「……上層なら大丈夫よね」

 

 うん、と自分を納得させて女神は宿に戻っていく。

 

 女神は忘れていた。

 

 かつての自身のファミリアは才溢れる精鋭が集まったファミリアだったからこそ、上層で苦戦という苦戦をしなかったという事を。

 

 女神は知らなかった。

 

 ベル・クラネルという少年は、大きなうねりとも言うべき運命に巻き込まれる星のもとに生まれた──言ってしまえば、トラブルメーカーだという事を。

 

 ずれた歯車の歪みは最初は小さく、やがて大きな乖離となる。

 これは、正義の剣と翼を背負った少年の歩む道の、ほんの小さな物語。

 

 

 ベル・クラネル

 

 魔法

 

【アーティファクト・ケラウノス・レプカ】

 

 ・雷属性付与魔法

 ・爆散鍵『雷華』




現時点での原作との変更点。
→タイトル。
→ベルくんに魔法追加。
→ベルくんがアストレア様と契約。
→『正義』


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リリ編
ベル・クラネルと迷宮都市


 

 心は弾み足取りは軽やかに。

 今まで巡ってきた街とは比較にならないほど発展した都市を、ともすればスキップしてしまいそうなほど上機嫌に駆けていく。

 

『──男ならハーレム目指さなきゃな!』

 

 幼い僕へ頻りにそう言い聞かせていた祖父の清々しい笑みを、今でも鮮明に覚えている。

 物心ついた時から祖父が読み聞かせてくれた英雄譚。その最高にカッコいい英雄のようになりたい。彼等のように、情熱的な異性との出会い……『男の浪漫』、ダンジョンに出会いを──そんな想いは今も変わらずこの胸にある。

 でも、原初に抱いた想いは時が経ち、ひとつの契機によって少し変わった。

 

 あの日、深い深い海の底に沈むような喪失感に溺れていた僕を救ってくれたのは、物語に出てくる英雄ではなくひとりの女神様だった。

 

 英雄になりたい。でも、それと同じくらい神様が僕にしてくれたように優しくありたい。──正義を心に持つ人でありたい。

 神様の言う僕の正義はまだ分からないけど、神様の行いが尊いものだって事は僕にも分かる。

 だから、僕は神様のような人物になりたいのだ。

 

「ここがバベル、かあ」

 

 背中をそらすほどに空を見上げても先端が見えない白い塔。

 遠目にも見えていたけど、近くでみるとその迫力と存在感に改めて見入ってしまう。

 

 オラリオで冒険者となりダンジョンに潜り生計を立てるためには、バベルの中にあるギルドと呼ばれる施設で冒険者登録を行う必要がある──らしい。

 以前オラリオでファミリアを作っていたという神様が一連の手続きの流れを事前に教えてくれていた。

 

 ……正直、気になることも多い。

 例えば、そのファミリアの人たちは今どこにいるのか、とか。

 でも、かつてのファミリアの事を僕に話す神様の顔はどこか痛ましくて、踏み込んだ質問をする事は躊躇われた。

 

 オラリオに向かう事が決まった時、神様は数ヶ月、もしかしたら数年の長い滞在になるかもしれないと言った。

 どうしても会いたい人がいるから、と。

 その人を探す事を僕も手伝おうとしたけど、神様にその間の生活費を稼いできてねとお願いをされてしまった。

 

 でも、おかしな話だ。

 冒険者というのは確かに莫大な富を得ることができるけど、それは一部の冒険者の話。

 新米冒険者は今日の飯を稼ぐのでいっぱいいっぱいだ、なんて話は珍しくない。

 なのに神様は冒険者となる事を笑って許してくれた。

 冒険者に憧れていた僕を気遣ってくれたのだろう。流石に、それが分からないほど僕は鈍くはない。

 

 なら、僕にできる事はいっぱい怪物を倒しお金を稼ぐ事だ。

 もともと神様と僕は必要最低限の路銀を持って旅を続け、行く先ざきでバイトなどをしてヴァリスを頂いてきた、といった現状なのでどのみちオラリオでお金を稼ぐ事は必須なのだから。

 

「ベル・クラネルさん、此方へどうぞ」

「あ、はい!」

 

 名前を呼ばれ、顔を上げる。

 新米冒険者にはギルドからのアドバイザーを希望する事が出来る。

 神様曰く、アドバイザーの方の話をよく聞いた方が良いという事だったので希望する事にした。

 どうやら、長命のエルフは博識な方が多いし、と内心盛大に言い訳しつつ記入した事前の要望通り僕のアドバイザーをしてくれる方はエルフの女性らしい。

 

 案内された個別面談室という場所でどのようなサポートを希望するか話していく。

 取り敢えず受けられるサポート全般をお願いしたけど、対面に座った薄い紫の長髪が印象的な美しいエルフの女性──ソフィさんは淡白で事務的な反応を返すだけだった。

 

「では、最後に所属ファミリアの確認を」

「えっ、受付で登録申請書に……」

「はい。ですが……所属を偽る方もたまにいますので。念のためです」

「えっと、神様……【アストレア・ファミリア】所属で──」

「──ですから、その証明になるものを」

 

 じっと僕を見つめるソフィさんの瞳はつまらなそうに、いっそ無感動に固定されていた。

 

 どうしよう。

 僕は困り果ててしまった。

 

 証明? ファミリアの所属の証明ってどうすればいいの!? 

 これが証明です! なんて一目でわかる印籠なんて持ってないし、神様はこんな事があるなんて言ってなかった。

 そもそも、僕は神様からひとつ言い含められている事がある。

 

『ベル、いい? これからオラリオで暮らすにあたってひとつ気をつけなきゃいけない事があるわ。私の名前を無闇に出してはいけない。……だから、私のこともアストレアと呼ばないこと』

 

 理由は教えてくれなかったけど、とにかく人目につきたくないという神様の方針なのか。

 僕はアストレア様の事を神様と呼ぶようになったし、当然そんな指針で動いているので所属を明確にする物──つまりは一目で神様の関係者だなんて分かるものを持っているわけがない。

 

「──やっぱりそんなわけない、か」

 

 あたふたとする僕を冷めた目で見ていたソフィさんは、口に含むようにそう言って、用は済んだとばかりに立ち上がった。

 

「あっ、ちょっと、待ってくださいっ」

「いえ、もう結構です。何処でその名前を聞いたかは知りませんが、所属ファミリアを偽る事はオラリオでは罪になります。──初犯で、年端もいかぬ少年という事で特別に今回に限り見逃してあげますが、次は無いですから」

 

 そう言って、ソフィさんは本当に出て行ってしまう。

 このままでは冒険者になれないかもしれないっ! 

 焦った僕は必死に頭を回す。

 証明、証明……そうだ、そう言えば僕の背中に『神の恩恵』を刻むときに、神様はエンブレムの事を話していた。

 正義の剣と翼が私のファミリアのエンブレムなのだと。

 これなら証明になるかもしれない。そこに思考が追いついたとき、僕は咄嗟に叫んでいた。

 

「待ってください、ソフィさん! 脱ぎ……ます、服を脱ぎますから……! だから、行かないでくださいっ!」

「貴方何を言ってるんですか!?」

 

 顔が熱い。頭から湯気が出そうだ。

 恥ずかしくて喉がつっかえて、思いのほか大きな声が出た。

 個人面談室のドアを開けてほぼ身体が出ていたソフィさんがぎょっとして叫び返す。

 その後ろから、赤い長髪を揺らす狼人の美女が引き気味な顔でぽん、とソフィさんの肩に手を置いた。

 

「誰にも靡かないと思ってたらソフィ、あんたそんな趣味だったのね。やめときな、犯罪だよ?」

「貴女も何を言っているのローズ!?」

 

 俄かに騒然となる周辺。

 ざわざわと大きくなる声に耐えかねたのか、ぷるぷると震えたソフィさんは「ああっ、もう!! 変な勘違いはしないでくださいっ!!」と勢いよくバタンッ! とドアを閉めた。

 

 ソファーに腰を沈めたソフィさんは一度大きく深呼吸して落ち着きを取り戻す。

 後には、自分が何を言ったか、そして今から大人の女性、それもエルフの美人さんの目の前で服を脱がなければならない事に気がついて羞恥で全身真っ赤になり肩を小さくして俯く僕と。

 

「では、クラネル氏。──早く脱いでください」

 

 やっぱりちょっと怒ってるのか凄みのある微笑みを携えたソフィさんだけが残った。

 

 

 

 ☆☆☆

 

 

 

 あれから、無事に僕が【アストレア・ファミリア】の構成員である事は証明された。

 服を脱ぎ曝け出された僕の背中に何かの液体を垂らしてエンブレムの確認したソフィさんは「まさか本当に……」と驚いていたようだったけど、あれは何だったんだろう。

 

 何はともあれ、この日から冒険者登録を済ませた僕の冒険者としての生活が始まった。

 

 ダンジョンに潜り、怪物を倒し、魔石を換金して、拠点にしている宿屋へ。

 当初は神様もバイトをしてお金を稼ぐつもりだったらしいけど、ダンジョンで思いの外動けた僕の稼ぎは必要最低限の暮らしをするなら何とかなるほどにあった。

 神様から貰った木刀が予想外に凄い獲物だった事が大きいだろう。

 なので、バイトをしようとする神様を説得してどうしても会いたいという人を探す事に専念してもらった。その方が僕も嬉しいからと。

 

 神様は遅くても夕方には帰ってくるから、僕もそのぐらいに切り上げて二人で今日はこんなことがあったって会話しながら、質素な夕食を食べる。

 旅をしていた時の延長線上にある行為には変わりないけど、なんでかな、帰る場所が出来たからか、母と息子ってこんな感じなのかなってぼんやりと思った。

 

 そうやって、三日が過ぎた。

 

 順風満帆だったと思う。

 神様の人探しの方は手がかりも掴めていないみたいだったけど、僕の迷宮探索の方は順調すぎるくらいに上手くいっていた。

 一番成長している【ステイタス】が既にFになっているのも大きいだろうけど、神様との訓練も僕の血肉となって戦う力となっている。

 今日もたくさんの怪物相手に大立ち回りだ。

 

 何となく、良い風が吹いているように思った。

 全てが上手くいくような。僕たちの所へ最高のハッピーエンドを運んできてくれるような。

 心を焦がれた英雄になれるような、憧れた正義の女神のようになれるみたいな、根拠もなしに何となくそんな気がしていた。

 

 その日も、夕陽が沈む黄昏時に僕は探索を切り上げ帰路についていた。

 赤焼けた夕陽を背負い、長く伸びる壁を追いかけるように歩く。

 

 僕は上機嫌だった。

 今日、ダンジョンで怪物に囲まれていた冒険者の加勢をして、怪物を全部倒した後に『ありがとうな、助かった』とお礼を言われたのだ。

 あの時は必死で助けなきゃ、以外の事を考えられなかったけど、純粋な好意の言葉というのはいつだって嬉しい。

 そして、分不相応で少し不謹慎かもしれないけど、自分が物語の英雄に一歩近づけたような気がして。神様のように正義に恥じない行動ができたような気がして、嬉しかったのだ。

 

 胸がぽかぽかとするような温かな気持ちで、そんな事を考えていた──その時。

 

「くそっ、待て!! この盗人がッ!!!」

 

 鼓膜を劈く男の怒声。

 バッと勢いよく振り返れば、怒りの形相を浮かべた男と、ボロ切れのようなフードで顔を隠した小さな子どもが僕の方に走ってきていた。

 子どもの手には、自身で扱うには大き過ぎる剣……ちょうどあの男が使えば丁度いいようなソレが抱えられていた。

 

 悩むような難しい状況ではない。

 恐らくは、あの男の人が子どもに剣を盗られたのだろう。

 

 盗みはダメだな、と思った。

 人の物を盗ることは悪い事だなんて、そんなの子どもだって知っている。

 それを見過ごすのは、正義じゃないなと、思った。

 

「──どけ!! ──っ!?」

 

 ──だから僕は、突き飛ばすように突進してきた子どもを抱きとめた。

 

 盗った剣をきちんと相手に返して、ちゃんと謝って。

 それが正しい行いだと思ったから。

 だから、これは僕にとって至極自然な行動だった。

 

 どん、と軽い衝撃。

 同時に、微かな粘つくような水音。

 聞き覚えのあるそれにえ? と一瞬思考が止まった。

 その瞬間、息を切らした──よく見れば大怪我をしているのか血塗れの──男が追いつき。

 

「よくやった坊主!! ──こンの、クソガキがっ!!!」

「──え?」

 

 襟首を掴むようにして僕から子どもを奪い取った男は、そのまま子どもを思いっきりぶん殴る。

 

 ゴツン、と耳障りな音が、耳にへばりつくように……やけに重く響いた。





原作との変更点。
→オラリオへの到着が少し遅れ、上からの仕事でエイナが手一杯になった&居なくなったはずのアストレアの眷属を名乗る少年が来たので怪しいとベテランのソフィが担当。
→この時点でウォーシャドウも倒せるベルくんが迷宮で活発に動く。

次話。
→ベル・クラネルと盗人の小人族。


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ベル・クラネルと盗人の小人族

 状況に頭が追いつかない。

 まるで現実感の伴わない対岸の火事の出来事を眺めるように、放心したベルはソレを見ていた。

 だってソレは、ベルの常識では──ベルの知っている正義ではあり得ない光景だったから。

 

 細い首を鷲掴みにされて持ち上げられ宙ぶらりんになる子ども。

 次の瞬間には拳が飛んでくると理解できるほどの怒りの感情を発露させた血濡れの男と振りかぶられた対の腕。

 

 そして、想像通りに。予定調和のように男の拳が子どもに突き刺さった。

 

 グシャリ、と耳に残る嫌な音がした。

 遅れて、ゴツン、と頭から地面に叩きつけられた子どもが重い衝突音を発する。

 外れたフード。そこから覗く顔は人間の子どもにしては垢抜けすぎていて、恐らくは小人族(パルゥム)の女の子なのだろう。

 身綺麗にすれば整っているだろう顔立ちも、今は薄汚れ灼熱の痛みに絶叫をあげる顔は酷く歪み、額が裂けたのか見る見るうちに広がる自身の血溜まりに沈んでいる。

 

 ここで、ようやくベルの思考が現実に追いついた。

 

「──やめろ!!」

 

 腰に吊っていた木刀を抜き放ち、少女の頭を踏み潰す勢いで振り下ろした男の足を受け止める。

 

(重ッ──!)

 

 痺れるような手応え。

 一瞬押し込まれそうになるが、男に肉薄する抉りこむような踏み込みがそれ以上後退する事を許さない。

 少女にとって致命打になるであろう踏み付けは、少女の頭のほんの数セルチ上で阻まれた。

 

「おい、どういうつもりだ坊主。怪我したくなかったら邪魔をするな」

「それはこっちのセリフです。──いったい、どういうつもりですか」

「どうもこうもあるか。こうでもしなきゃ腹の虫が収まらねえ」

 

 怒りの形相で吐き捨てる男。

 少女が取り落とした剣を拾い、鋭く空を斬る所作からは確かな経験と実力を見て取ることが出来る。

 先達の冒険者。その男が、ベルを忌々しげに睨む。

 

「2度は言わねえぞ、退け」

「嫌だ。何があったか詳しくはわからない。でも、貴方がこれからしようとする事を僕は見過ごせない」

 

 男の怒りようは尋常ではない。

 だが、今もなお苦悶の声を上げ蹲る少女の前からベルが退けば、この男はきっと更に荒ぶる感情のままに暴力を用いる。

 それを理解してこの場を離れるのは──正義ではない。

 

「この子は確かに貴方の剣を盗んだのかもしれない。でも、だからといってこの子を傷つける理由にはならない」

「いい度胸だ坊主。正義ヅラしてえ年頃なのかもしれんが……現実を教えてやる!」

 

 既に怒りで思考が短絡的になっていた男がベルに向けて剣を振り下ろす。

 ベルはそれを真正面から木刀で受け止めた。

 

(ぐっ──!)

 

 腕から身体に駆け抜ける衝撃はやはり重い。

 だが、それ以上に容赦なく人を剣で斬ろうとする事の出来る精神性と、躊躇いなく頭という急所を狙ってきたという二つの事実がベルの心にのし掛かる。

 

 ここは往来。日も暮れる時間のため少ないが人の目が無いわけではない。

 如何にギルドが冒険者が起こす騒ぎに多少は目を瞑る傾向があるとはいえ、流石に殺人を放置する治安維持組織は存在しない。

 それは男も理解しているはずだ。だからこそ、ベルは男の態度を脅しの意味合いが強いと踏んでいた。

 さらに、人の目があるということはギルドに報告が入るという事でもあり、この場に留まり続けるのなら遅かれ少なかれギルドから仲裁が入るだろう。

 

 だが、男から発せられるのは猛々しい殺意。

 ベルは気付くべきだったのだ。

 男が後の事を考えることの出来る精神状態だったのなら、初めから少女に暴行をする事がなかった事を。

 

 暴力によって怒りを発散しようとする男に躊躇の二文字はない。

 男の猛攻にベルは守勢に回らざるを得なかった。

 単純にベルと男の【ステイタス】に開きがあるというのもこのワンサイドゲームの原因のひとつだが、その主要因はベルに根付く正義の文字。

 自身の命が逼迫する状況でさえ、ベルは人を傷つける事を良しとしなかった。

 アストレアは──アストレアの正義はそれをしないからだ。

 

「──げほっ、ぅ、ぐぅ……、あぁっ!」

 

 此処にいるギルドに見つかれば不味い人物は男だけはない。

 少女もまたギルドの厄介になるのは避けたい後ろ暗い背景がある。

 攻撃を悉く捌くベルに業を煮やす男に気付かれないよう、少女は移動を開始した。

 

 絶叫をあげる痛覚に苦悶の声が漏れ、殴られた頭は重く視界は霞みがかったようにボヤけている。

 ただこの場にいては不味いという認識だけが少女を突き動かす。

 幸いなことに最早目障りなベル以外眼中にない男は気がつく事がなく、少女は薄暗い裏路地に辿り着く。

 

 少女にとって今日は厄日だった。

 数週間前からサポーターを務め、当たり前のように行われる少女の尊厳を踏み躙る男のパーティーの待遇に媚びるような笑顔で耐え続け、ようやく、今日その男たちを罠に嵌める日だったというのに。

 怪物を誘き寄せるまでは良かった。だが何故か想定より怪物が集まらなかったのが大問題だった。

 結局、怪物の包囲網を抜けた男がこうして少女を追いかけてきてしまった。

 

 逃走の邪魔をしたあの白い髪の少年さえいなければ、と少女は内心で唾を吐く。

 匂いでわかる。あの少年のように、過酷で非常な醜い現実の闇を知らず光の中を生きてきたような人間が少女は大嫌いだった。

 

 自分を庇ったのもどうせ自己満足の薄ら寒い正義感。

 ズクリと痛んだ気がした心を無視してそのまま死んでしまえと内心吐き捨てた少女は、近くで聞こえる剣戟の音を背中にこの場を離れようと、痛む身体に無理を通し足を前に出す──その時。

 

「──よお、アーデ。こんな所で奇遇だな」

(──本当に、今日は厄日です)

 

 醜悪な笑みで顔を歪ませた男たちが、暗がりから滲み出るように少女の前に現れた。

 

「随分な身なりだな。おお、痛そうで痛そうで俺ぁ心が痛いね」

 

 嘘だ。

 少女の姿を見て下卑た目を細める獣人の男──カヌゥ。

 この男に少女を慮る心などカケラもない事を少女は知っている。よく、知っている。

 その証拠に、男たちはニヤニヤと笑うだけでポーションを取り出すことも、心配に駆け寄って治療する素振りすらない。

 

「ドジ踏んだのか? ああ、いや、答えなくていい。興味はないから、なあ!」

「がはっ──!」

 

 無造作に振るわれた拳が少女の顔面に突き刺さる。

 腕を上げ庇う事すら許されなかった少女は焼き直しのようにうつ伏せに倒れ地に額を擦り付けた。

 止まっていなかった血が土に滲む。

 

「ちっ、これだけしか持ってねえのか!」

 

 少女のバックパックを奪って中身を除いたカヌゥが舌打ちをする。

 倒れ臥す少々を苛立ちのままつま先で蹴り上げるが、もう少女には痛みに声をあげる力さえ残ってはいなかった。

 くぐもった呻き声が喉の奥から掠れるばかり。

 

「ルーキーの中では注目株のパーティーから盗むんならもっと期待できると思ったんだが……やっぱりお前は役立たずの小人族だな」

 

 少女の背に勢いよく腰を下ろし嘲笑と嘲りを隠そうともしないカヌゥに少女は何も言い返す事が出来ない。

 そんな体力は何処にも残っていないし、また言い返した所でより苛烈な暴力となって己に返ってくることを少女は実体験として知っていた。

 

 圧倒的弱者。強者に搾取される存在。

 そのような存在として生きてきた少女にとって、ある意味これは日常茶飯事とも言えた。言えてしまった。

 だからこそ、カヌゥには一粒の良心の呵責すらなく、また少女には抵抗の意思が一滴すらなかった。

 

 少女は冒険者が嫌いだ。憎んでいると言ってもいい。

 少女は冒険者が許せない。

 粗雑で、乱暴で、力で力のない者を虐げる冒険者が大嫌いだ。

 勿論、そうではない冒険者もいるだろう。でも、少女が関わってきた冒険者にはひとりとしていなかった。

 

 だが、少女が出会っていないだけで"そうではない"冒険者だってこの世界にはいる。

 

「その子から離れろ!!!」

 

 突き刺さる怒声。

 驚きにカヌゥたちが振り向いた先では、半身を血濡れにしたベルがその相貌を憤怒で染め上げていた。

 

「あん? んだこのガキは──あぁっ!?」

「早く、このポーションを……!」

 

 倒れ臥す少女に駆け寄ったベルは、立ち上がる素振りすら見せないカヌゥを突き飛ばしポーチから取り出したポーションを少女の口元へ。

 こくりと差し出されるままに少女がポーションを口に含んだ事を確認し、ほっと胸を撫で下ろした。

 遠目から見ても危険な状態だったのだ。だが、ひとまずはこれで最悪は回避できただろう。

 

「てめえ、何しやがる!!」

「お前たちこそ何をしてる!!!」

 

 ベルに突き飛ばされたカヌゥが唾を飛ばして立ち上がる。

 それ以上の剣幕でベルは叫んだ。

 

「あの人も、お前たちも!! 女の子にこんな怪我を……!! お前たちには、お前たちには正義がないのか!?」

 

 少女の額が割れるほどに殴る。

 あり得ない。

 少女の頭を踏みつけにする。

 あり得ない。

 少女を剣で斬ろうとする。

 あり得ない! 

 大怪我をしている少女に治療すらせずその背に伸し掛かる。

 あり得ない!! 

 

 あり得ない、あり得ない、あり得ない!!! 

 例え最初の発端が少女が剣を盗んだ事に起因していたとしても。

 それは、ベルの知っている正義では許されない事だ。起こってはいけない事だ。

 

 だが、現実はどうだ? 

 少女は血に濡れ、男たちはそれを見て薄ら寒い笑みを浮かべている。

 正義など何処にもなかった。

 

「正義……? は、はははははっ! こりゃあ傑作だ! まだそんな事言う奴がオラリオにいたのか!」

「何がおかしいッ!!」

 

 ベルの叫びに男たちは嘲笑うような笑い声を応えとした。

 心の底から馬鹿にするように。

 腹の底からおかしいとでも言うように。

 怒鳴り声を上げたベルに、さらに男たちの笑い声が大きくなる。

 

 ベルはそれが我慢ならなかった。

 まるで正義を軽んじるように……いや、事実正義などそこらのゴミと一緒だと言わんばかりの男たちのその態度が許せなかった。

 それはまるで、正義を司るアストレアの事を貶しているように感じられたから。

 

 だから、頭の血管が切れたベルが耳障りな笑い声をいつまでも響かせる男たちを黙らせようと一歩を踏み出した──その時だった。

 

「──随分と青臭い小僧がいたもんだな」

 

 ぬるり、と。

 ベルには、その男が突然現れたように見えた。

 

「お、団長ぉ、来たんすか」

 

 カヌゥに団長と呼ばれた二十代前半に見える男──ザニスは三日月を描く唇のままベルを見つめる。

 

(──この人、強い)

 

 サッと冷水を浴びさせられたように冷静になるベル。

 我を忘れかける怒りを沈静化させたのは目の前の男の存在感だ。

 ベルが逆立ちしても敵わない。そう確信させるだけのプレッシャーをザニスは放っている。

 

 目の前のザニスが何者かはベルには分からない。

 ただ、カヌゥたちを止めに来たのではない事だけは分かった。

 唇を舌で湿らせたベルが緊張で乾いた喉を震わせる。

 

「……こんな事は許されない。ギルドも事態を知れば黙ってないぞ」

「なんだ、小僧、ギルドに駆け込むつもりか?」

「ひとりの少女に大人の男が寄ってたかって……! これは過ちだ。お前たちに正義はないッ!」

「いや、俺にも正義はある」

「ふざけ──」

 

 るな、とベルは最後まで言い切る事が出来なかった。

 閃く男の右手。

 視認不可避の速度で迫る銀の閃光。

 

(紫電木こりスラッシュ──ッ!!)

 

 咄嗟に反応できたのは半分以上運によるモノだった。

 何度も何度もアストレアと練習した必殺技。その反復により身体に染み込んだ必殺技の動作を、危機に直面したベルを守るために本能が勝手に呼び起こしただけだ。

 互いに衝突する軌跡を描く剣と木刀。

 勝敗は一瞬だった。

 

「ご、がっ!!?」

「過去にオラリオには正義を掲げた奴らがいた」

 

 拮抗すらできず吹き飛ぶベル。

 ノーバウンドで壁に叩きつけられたベルの背中を特大の衝撃が叩き、破壊された体内を視覚的に知らせるように血が噴き出す。

 

「奴らが正義足り得たのは何故か。正しかったから? 市民の支持を得たから? 実質ギルド公認だったから? 違うんだよ、小僧」

 

 どさりと壁に血の跡を付けながらずり落ちたベルなど意にも介さずザニスは朗々と語る。

 芝居がかったように両手を広げ、懐かしむような表情に忌々しげな感情を覗かせていた。

 

「奴らが正義だったのは強かったからだ。奴らの正義に賛同しないどの連中よりも奴らは強かった。だから、正義足り得た。……でもな、そんな奴らも結局は全員死んでお終いだ。いいか、小僧、つまりだ。──弱者は正義を語れない」

 

 ──だからこの場では俺が正義だ。

 

 言外にそう語ったザニスに反論する術はベルにはない。

 心は違うと叫んでいる。それは正義ではないと断じている。

 だが、身体が付いてこなかった。

 灼熱の痛みに焼かれるベルの身体はピクリとも動かない。

 

「いくぞ」

 

 そうして、もう興味はないとばかりに。

 地べたに這い蹲るベルから一切の関心をなくしたザニスはカヌゥに向かってリリを顎で指し示す。

 指示を理解したカヌゥが乱雑にリリを担ぎ、ぞろぞろとその場を離れていく。

 

「ま……て……!」

 

 血に浸された声は弱く掠れ消えるように弱々しい。

 伸ばされた手は力なくパタリと地面に落ちる。

 

「──お前なんかいなければよかったのに」

 

 そんなベルを、憎悪に濡れた瞳で少女は睨みつけていた。




原作との変更点。
→全体的にリリがハードモード。
→この時点で【ソーマ・ファミリア】と遭遇。

追記。
→ベルとリリの口調がブレてるのはそれだけ頭に血が上ってるからです。

次話。
→ベル・クラネルと女神の正義。


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ベル・クラネルと女神の正義

 正義。

 焼け付くような身体の痛みよりもなお痛烈に頭を貫いたのは、その二文字だった。

 

 人の物を盗むのは良くないことだ。それには思い出があるかもしれない、大切なものかもしれない。そうじゃなくても、誰かの物を盗むのが悪い事だなんて子どもでも知っている。

 だから、僕はあの女の子を止めた。女の子が男の人の剣を盗んだって一目で分かったから。

 

 僕にとってそれは正義だった。正しくない事を正す。剣を奪られて困っている男の人に助けの手を差し出す。

 正義の行動だと疑いもしなかった。

 

 でも。

 

 潰れる女の子の貌。

 暴力でもってケジメを取らせようと猛る男。

 成すすべもなく、抵抗する事すら出来ず。

 女の子が一方的に蹂躙されるような結果を作った僕の行動は、本当に正義だったのか。

 

 なら、あそこで剣を盗んだ女の子を見逃せば良かったのか。

 男は見るからに重症だった。僕と剣戟を繰り広げて直ぐに限界が来てその場を離れたのだから、きっと僕が邪魔をしなければ女の子は逃げ切れたのだろう。

 でも、盗んだと分かっている女の子を見逃す事は正義なのか。

 

 分からない。分からない分からない分からない分からない。

 正義とは何か。僕は、どうすればよかったのか。

 ──アストレア様なら、どうしたのか。

 

『──弱者は正義を語れない』

 

「違……う……!」

 

 爪が皮膚に食い込むほどに拳に力が篭る。

 羽虫のように僕を叩き潰した男が言い放った言葉。

 シンプルな力の摂理。弱いモノは強いモノに従うしかないのだという力の理論。

 それだけは違うと。それは絶対に正義ではないと心が叫ぶ。

 

 もし、それが本当なら。本当なら……正義とは、ただの道具に成り下がってしまう。

 ただ力だけがあるものが、自分の都合の良いように正義を語れてしまう。

 

 でも、同時に頭の奥の隅の方で納得しかけている僕もいた。

 だって、僕は……僕よりもずっと強かったあの男に手も足も出ずに負け。

 何も出来ないままに女の子を連れて行かれてしまったのだから。

 

 死んでもおかしくないような怪我をした女の子に治療もせず、ぞんざいに、路傍のごみグズのような扱いが出来る男たちだ。

 連れて行かれた先でもっと過酷な目に女の子が合っていてもなんらおかしくはない。

 僕が正義を掲げるのなら。僕は、それを何としてでも止めなければいけなかったのに。

 

 現実はどうだ。

 僕はこうして無様に地べたに這い蹲り。力こそが正義だと語った男を容易く行かせてしまった。

 

 仮に僕に正義があったとしても。

 正義を成せない僕に……力のない正義にいったい何の意味があるのだろうか。

 

 正義とは何か。正しさは何処にあるのか。

 苦しみ、泣いている人に救いの手を差し出す。かつて僕が救われたアストレア様の正義。確かに僕はそれを正義だと感じたのに、僕にはその真似事さえも出来ない。

 

 なら、僕の中には正義など……カケラもないのでは、ないだろうか。

 

「……ぐ、ぅ」

 

 残っていた最後の一本のポーション。

 僅かばかり体力を回復した僕はずりずりと壁に寄りかかるように立ち上がり、一歩を踏み出す。

 

 連れて行かれた女の子。きっと辛く、悲しく、苦しい事が起きる。

 あんな大怪我を負って、自分を人とも思わない、自分より遥かに力のある男たちと一緒にいて女の子が無事なわけがない。

 

「助け、なきゃ……」

 

 僕の中に正義はないのかもしれない。

 でも、悲劇が起きると分かっていてそれを見過ごす事はできない。

 人として。男として。ここで女の子を見捨てる事はできない。

 見なかった事にして、全部なかった事にして。そうして……アストレア様に会えるわけがない。

 

 身体が痛い。出血が多い。きっと、骨だって折れている。

 でも、ここで立ち上がらなければ、僕は空っぽになってしまう。

 

『ベル、男なら女の尻を追いかけろ。男なら女子のために突っ走れ。見栄を張れ。前を向け』

 

 例え、僕に正義がないとしても。

 僕は男だ。男は、女の子を守るものなんだって教わった。

 なら、女の子のために精一杯足掻いてみせろ。

 

『──お前なんかいなければよかったのに』

 

 例えその女の子に嫌われていたとしても。憎悪に濡れた瞳に僕が映っていたとしても。

 知ったからには、突っ走ってみせろ。

 目の前の悲劇から目を背けるな。

 

 アストレア様のような正義がこの胸になくても。僕は男だから。

 だから。

 男なら女の子を助け出してみせろ! 

 

 猛る感情を身体を動かす動力へと変換して、悲鳴をあげる身体へ鞭を打ち一歩ずつ確実に前へ。

 でも、そこで、考えてしまった。

 そういえば。今、女の子を助けに行こうとしている僕は。

 

 ……ああ、そうだった。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 脚が止まる。

 そう、思ってしまうとダメだった。

 一度鎌首を擡げた疑問は、瀬戸際で保っていた心の柱を容赦なく切り崩す。

 湧き上がっていた想いはすり抜けて、開いた掌には赤い血の跡しか残っていない。

 

 なんて事はない。

 ああ、そうだ。僕は。

 結局、正義を担う事も女の子を助ける事も出来なかったじゃないか。

 むしろ、余計な事をしてあの女の子を辛苦の谷に突き落としてしまったのではないか。

 

 歯が震えた。

 そんな事を感じてる場合じゃないのに、みじめな気分が込み上げてくる。

 身体の中心から熱が引く感覚。突きつけられた現実はあまりにも重い。

 涙が溢れる。志し、憧れた正義の英雄。その情景が折れてしまいそうだった。

 

 周囲の喧騒が何処か遠くに聞こえていた。

 立ち尽くす身体はピクリとも動こうとせず、身体を壊すダメージを負っても手を離さなかった木刀がカランと音を立てて転がった。

 

 もう、限界だった。

 正義を信じて行った行動は、より弱い立場の者を殴りつける結果になり。

 誰かを助けるためにした行動は、誰かを見捨てる行動になった。

 

 その事実は、僕を打ちのめすには十分すぎるほどだった。

 

 どさり、と地面に着く膝。

 地面に叩きつけた拳に鈍痛が弾けた。

 漏れ出る嗚咽は何に対してか。僕の無力さを嗤っているのか。分不相応の願いを抱いた事に対する失笑か。

 出口のない暗闇に放り出されたような。僕というアイデンティティが崩れ去ってしまいそうになっていた、そんな時。

 

「──ベル……? ベルッ!?」

 

 今、一番会いたくて……最も会いたくなかった神の声が聞こえた。

 

「その怪我は……!? ベル、返事をしなさい、ベル!!」

 

 手荷物を放り出し、自分の服が血で汚れる事も構わずに僕を抱き起こした神様。

 その様子に心の底から心配しているのが伝わって。でも、それは僕と神様が初めて出会ったあの日と同じようで、苦しかった。

 

 こうして僕はまた、神様から手を差し伸べられている。

 

 何も変わっちゃいない。

 神様のように正義の人でありたい。そう胸に抱いた日から、何も。

 むしろ、僕がそう思ってしまったばかりに、ひとりの女の子を地獄に突き落としたかもしれないのだから、なおたちが悪い。

 

 だから、気がつけば僕は口を開いていた。

 

「──神様……正義は、何処にあるんですか」

 

 

 

 ☆☆☆

 

 

 

 神様に支えられるようにして拠点としている安アパートへ戻った。

 ポーションを使ったといえど、大きな傷はそう容易くは塞がらない。アパートに備蓄していた僅かな医療品で治療をされた僕は、硬い木のベッドに腰掛けていた。

 

 何があったのか。そう、一言だけ問う神様に僕は感情を爆発させた。

 それはある種の懺悔でもあったのかもしれない。

 

 喚くような僕の話を黙って聞いていた神様は、一度大きく息を吸って凛とした声で。

 

「ベル。……貴方は私の事を正義だと言ったわね。困っている人に、ひとりで苦しんでいる人に大丈夫と、手を差し伸べられる事が正義だと」

「そう、です……だから、僕も神様のようにしようと思って、でも、できなくて……!」

「旅の途中。そしてベルに。私は確かに、ベルの言うような行いをしたわ。でもね、ベル。私はこうも言ったはずよ。ベルが私の正義に倣う必要はないと」

「でも……! 僕はそれを正義だと……!!」

「よく聞きなさい、ベル。私が手を差し伸ばすのはそれがひとつの正しい正義だと思っているからじゃない。──()()()()()()()()()()()()()()

 

 その言葉は力強く、そして遣る瀬無さが滲んでいた。

 初めて聞いた神様の声音に虚を衝かれる僕に言い聞かせるように、神様は言葉を紡いでいく。

 

「力こそが正義。それは確かにひとつの真理だわ。力なき正義に意味はない。悪意は常に力で持って台頭するのだから。……力ある悪意に対して、私は無力よ。私には力がないもの」

 

 一瞬、何かを悔やむように神様が俯く。

 でも、僕はそれに気遣う余裕はなくて。

 

「……っ、じゃあ……! あの女の子を傷付けた奴らが正義だと!! 神様はそう言うんですか!?」

 

 そんなはずはないと分かっているのに、僕はそう叫ばざるを得なかった。

 力で全てが決まってしまうのなら……それは、あまりにも残酷な世界じゃないか。

 そう燻る僕の暗雲を晴らすように、神様は真正面からそれを否定した。

 

「正義は心にあり、人の正義はぶつかり合うもの。それぞれの理想が違うのだから、理想とする正義が違うのも当たり前なのよ。でも……己より力のないものを一方的に甚振る事は正義ではない」

 

 強まる語調。

 真摯に僕を見つめる神様の瞳には確固たる信念があった。

 吸い込まれそうな藍色の瞳には正義の火があった。

 そして、神様の白い手が優しく僕の手を握り。

 

「私は力ある悪意には何もできない。でもね──」

 

 ──ベルは違うでしょう? 

 

 そう言って、微笑む。

 

「難しく考えすぎだわ。もっとシンプルでいいのよ。正義を司る神アストレアが保証します。──ベル・クラネルに正義の心はある。だって、ベルはとっても良い子だもの。あとは、ベルがどうしたいかだけ。……ベルは、どうしたいの?」

 

 僕はどうしたいか。

 頭を過ぎったのは、女の子の表情。

 寂しそうだった。何にも期待していないような目は暗く、全てを諦めているようだった。

 僕には想像も出来ないような何かに……きっと、あの女の子には重過ぎるぐらいの辛く苦しい何かに、押し潰されそうだった。

 

 分かる。だって、それは僕と同じだから。

 お爺ちゃんが居なくなったときの孤独と同じだったから。

 

 なら。

 

「僕は……あの子を助けたいです」

 

 口に出したその言葉はすうっと心に染み込んでいく。

 定まった心の柱が魂に芯を通す。

 そうか。僕は、あの子を助けたかったんだ。

 

「その少女が盗人でも?」

「それでも、あの子はきっと泣いているから。それに、神様もそうやって泣いている僕を助けてくれたから……僕は、あの子の味方でいたいです」

「なら決まりね」

 

 安心したようにほっと息をつく神様。

 笑いかける神様に僕も同じように笑い返した。

 

 神様には出来なくても。冒険者である僕には出来ることがある。

 あの女の子を助けたい。それは、独善的でひどく傲慢な……僕の正義だ。

 結局根っこのところは変わらないのかもしれない。それでも、僕は僕の正義を張り続ける。虚勢でもなんでも良い。これが正義だと、僕は声高に叫び続ける。

 

 そうだ。女の子が泣いているのを良しとする正義は、僕は要らない。

 

「神様……行ってきます」

 

 事は一刻を争うかもしれない。だから、僕は直ぐにあの子を探すために腰を浮かせ──。

 

「行ってらっしゃい、と言いたいところだけど、ダメよベル。怪我もあるし、今言っても焼き直しになるだけだわ」

 

 だから、とそこで一区切りし。

 

「必殺技の特訓をするわよ」

 

 

 

 ☆☆☆

 

 

 

 あれから一週間が立った。

 急を要する事があるとはいえ、先立つものが無いことには動くことすらできない。

 生きるためにお腹を満たすのも、恐らくまた剣を交えることになる予感に準備を進めるのにもお金は必要だからだ。

 

 午前中は迷宮でヴァリスを稼ぎ、昼から女の子を探す。

 オラリオは広い。なんの情報もなしにひとりの人物を探すのは想像を絶するほどに困難を極めた。

 来る日も来る日も見つからず、日が暮れ始めると捜索を切り上げ深夜まで神様と訓練をする生活。

 

 正直にいえばきつい。でも、僕は諦めなかった。

 絶対にあの女の子を救い出すと決めていたのもあるけど……なんとなく、何処かで出会えるような気がしていたから。

 

 そうして、八日目の朝。

 迷宮に入る僕を呼び止める声があった。

 

「お兄さん、お兄さん。白い髪のお兄さん」

 

 クリーム色のローブに包まれた小さな少女の姿。

 金色の髪のエルフの少女は、僕の顔をまっすぐ見つめて、馬鹿みたいに可愛くころころと笑いながら言った。

 

「初めまして、お兄さん。突然ですが、サポーターなんか探していたりしていませんか?」




正直難産だった。

原作進行具合
→【ロキ・ファミリア】遠征中。


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ベル・クラネルとリリルカ・アーデ

 少女は憎んでいた。

 

 唾棄するような自己満足で己の邪魔をした少年を。

 

 少女は覚えていた。

 

 少年の木刀がLv.2のザニスの鋼鉄製の剣を受け止めたことを。

 

 少女は呪っていた。

 

 弱者は弱者でしかあれない、この残酷な世界を。

 

「それじゃあ、また明日!」

 

「……はい、また明日」

 

 ダンジョンから帰還し、換金もそこそこに走っていってしまうベルを、エルフの少女は冷めた目で見つめている。

 冷めた目でその背中をみながら、心の中で嗤っていた。

 

 少女がベルとサポーター契約をしてから六日経っていた。

 ベルは、ダンジョン探索を午前中で切り上げ、午後はいつも急いで何処かに行っている。

 少女も馬鹿ではない。

 ベルが誰かを探していて、その探し人が自分なのだということはすぐに分かった。

 もちろん、その理由も。

 

「虫唾が走る」

 

 全てを知って、少女は唾を吐いた。

 自分を探している? 

 助けるために? 

 なんで? 

 小さな女の子が酷い扱いをされていたから? 

 良心が傷んだから? 

 

 ──全部、お前のせいだろう。

 

 少女にとってベルのそれは身の毛がよだつほどの悪意だった。

 世界の残酷さを、闇の醜さを知らぬ光の側の住人が、上から目線で『お前を助けてやろう』と言うような、腹わたが煮え繰り返るような傲慢さと変わらなかった。

 飢餓を知らぬ人間が、その日食べる物ものない乞食に、気まぐれに食べかけのパンを投げて寄越すのような、そんな行為だった。

 

(私は、お前に助けて貰わなければならないほど可哀想なやつなんかじゃない)

 

 何より、少女の心はそれを認めることを激しく拒んだ。

 

 人としての尊厳をかなぐり捨てたような環境で生き、人の善意も、優しさも……もう何も少女は信じられなくなっていた。

 

 何が悪かったのか。何が少女をここまで追い詰めたのか。

 

 一言で言えば、生まれが悪かった。

 加えて、運も悪かった。

 

 本当にそれだけだ。

 それだけで表せてしまうことが、少女の生涯の救いのなさを物語っていた。

 

 だから。

 少女は……リリルカ・アーデは、自分とは正反対の人生を歩んできたように見えるベルが心底嫌いで。

 

 心の何処かで、羨んでいた。

 

「また明日……ですか」

 

 ベルから渡された巾着袋を持ち上げる。

 じゃらりと硬化の音が鳴るそれは、キチンと報酬の半分が収められている。

 分け前の一割も貰えれば御の字、報酬が支払われないことすら珍しくないサポーター業。

 キチンと半分を分け合っているという時点で、ベルの人間性が如実に現れている。

 もっとも、これは半分ではなく、リリが少しちょろまかしているので実際はリリが六割、ベルが四割だったりするのだが。

 ベルはその事に気が付いてもいない。

 

 本当に、底抜けのお人好しで……だからこそ、やっぱり、そういう人間であることを許されてきたベルの人生が、そう在れるベルがリリは嫌いなのだ。

 

「【響く十二時のお告げ】」

 

 人気のない路地裏に入り、誰も見ていないことを確認してからリリは【魔法】の解呪式を唱えた。

 

 金色の髪は燻んだ亜麻色に。

 髪だけじゃない。瞳の色も、細長かったエルフ耳も、その全てが変化する。

 

 後には、金髪のエルフの少女など何処にもいなかったように小人族の少女が立っていた。

 

 これが少女の【魔法】。

 その名も【シンダー・エラ】。

 

 それは変身魔法。

 自分ではない誰かになれる魔法。

 どんな魔法が発現するかは発現者の性質によって決められる。

 自分ではない誰かになりたいという想いが、この魔法をリリに与えた。

 魔法が発現するほど強烈にリリは今の自分を否定してまでなりたい誰かがいた。

 けれども、【シンダー・エラ】で変身するためには具体的なイメージが必要不可欠であり、だからこそリリはその誰かに慣れたことは一度もない。

 

 生きるための盗みや夢のための悪事には使えても。

 本当に変身したかったものには一度もなれない、そんな魔法だった。

 

 リリはベルが嫌いだ。

 報復と憎しみを持ってベルの木刀を奪って売っ払ってやろうと考え、実行するぐらいにはベルのことが嫌いだ。

 

 しかし。

 

 リリが本当に嫌いなのは、光に焦がれるくせに闇から抜け出せない、闇に浸かって染まり切ってしまった、リリルカ・アーデという一人の小人族だった。

 

 

 

 ☆☆☆

 

 

 

 捜索は難航していた。

 

「くそっ!」

 

 日が過ぎるたびにベルは焦る。

 少女が人間的な扱いをされていないことを知っているから、ベルは焦る。

 当の少女はとっくの昔にベルに接近しているのだが、それを知る由もないベルは連日ヘトヘトになるまでオラリオ中を探し回っていた。

 

 けれども見つからない。

 オラリオは世界有数の大都市なだけあり、その人口密度はそれこそ世界一を争う勢いだ。

 その中から容姿の情報だけで人を探すことが困難なのは言うまでもないし、しかも、ベルは知らないがその少女は最悪なことに容姿を変化させる【魔法】を持っている。

 見つかるわけがなかった。

 

 しかし、何度空振りに終わろうとベルは諦めない。

 それが今、ベルの心の中にある正義だったから。

 

 一人で悲しんでいる誰かに手を伸ばす。

 

 それが、アストレアに導かれたベルの正義だったから。

 

 サポーター契約を申し込まれたのは予想外だったが、都合は良かった。

 その日を生きるためのヴァリスをダンジョンでより効率よく稼げるようになったからだ。

 

 午前中はダンジョンに潜り、午後から日が暮れるまで少女を探し、日が暮れるとアストレアとの特訓が始まる。

 

「もっと強く踏み込んでッ!」

 

「はいッ!」

 

 基本的に戦闘能力がない神様と、もはや戦闘が生業ともいえる冒険者。

 教える側と教えられる側が奇妙な事になっているこの関係はしかし、この二人の場合に限って上手くハマる。

 アストレアには武術の知識があり、ベルには全くないからだ。

 

 それはまるで水を吸うスポンジ。

 飛躍的にベルは強くなっていき、新たな必殺技も"技"と呼べるレベルに昇華されていく。

 

 旅をしながらとは言え、一年間の基礎訓練という下積みがここに来て一気に実を結んでいた。

 

「いいですかベル。己より強い生き物とは戦わない。これは自然界では当たり前の生存戦略です。ですが、人には意思がある。信念がある。そして、正義がある。絶対に避けられない格上との戦いをする時が、冒険者には必ず来る。その時、己を守り、誰かを守り、そして助けることのできる力を知恵と技術と呼びます。私は必殺技としてそれをベルに身につけて欲しいの」

 

 まさか、こんなに早くくるとは思わなかったけどね。

 そう語るアストレアの特訓はかなりスパルタだった。本人の気質が垣間見える。

 

 ベルは一切の弱音を吐くことなく特訓に打ち込んだ。

 

 仮想敵は己をボロ雑巾のように打ち負かした男。

 力量差すら感じ取れない、そのレベルの高みへ至っているあの男に、負けないために。

 

「神様。正義を貫くために、誰かを傷つけることは……正義と呼べるのでしょうか」

 

 ベルは一度、そんなことをアストレアに訊いた。

 力による解決をベルが忌避するからこその、優しい問いだった。

 アストレアは思慮するように目を閉じ、未だ世界を知らぬベルにも理解できるよう、噛み砕いた正義の女神としての理を優しく語った。

 

「ベル。貴方のそういう優しいところが、私は好きよ。ベルはとっても良い子。でもね、ベル。誰かに傷をつけるものが力なら、誰かを守るのもまた力。ナイフで人を斬ることがあれば、ナイフで人を守ることもできる。そしてね、ベル。前にも一度言ったけど、力ある悪意に抗うためには力ある正義がどうしても求められる。そこで結論にしてしまえば待っているのは相互理解を拒んだ偽善よ。でも、今悪意を持って傷付けんとするナイフから守るためには、誰かがナイフを持たないといけないの。……誰かが、立ち上がらなければならないの。……私は、ベルはナイフの扱いを間違えない、そう思ってるわ」

 

 表情に刺した影を振り払うようにアストレアはそう言った。

 

 納得はしなかった。

 けれど、理解はした。

 

 力を力で解決する事をベルは正義と呼ばなかったが、今悲しんでいる誰かに手を伸ばすためには力が必要な事を理解した。

 故に、もはやベルに迷いはない。

 

 悲しんでいる少女に手を伸ばしたいという正義の心を持って、必ず立ちはだかるあの男を独善のもとに打ち負かす。

 

 なぜなら。

 

(僕が、そうしたいからだ)

 

 ベルの魂に芯が通っていく。

 ベルの中に、ベルだけの正義が、ベルの掲げる正義が輪郭を帯び始めた。

 

「……ベル。絶対に使うなと厳命します。でも、もし、必死に抗って、それでも打つ手がなくなるほどの危機に陥ったときには──」

 

 心配性なアストレアは、このとき一つのミスを犯した。

 

「──おまじないを、教えましょう」

 

 時が流れる。

 闇を歩む少女はベルを陥れようと計画してきた作戦を実行に移そうと考え。

 光を歩む少年は少女を助けんと誰かを助けるための力を身につけていく。

 

 境遇と立場の違いから滑稽なほどにすれ違っている二人の軌跡が交わったのは、サポーター契約から九日が経ったときだった。

 

 その日、二人はダンジョン九階層に潜ってきていた。

 リリの「ここで稼げば、一日で三日分の稼ぎになるかもしれない」という言葉が決め手だった。

 ベルは少女を見つけられない事を焦っていたから。リリは、そんなベルの焦燥をほぼ完璧に把握していた。

 

 リリの悪意がベルを襲わんと牙を剥く。

 自分の心をずっと刺し続ける痛みは、もう当たり前過ぎて、リリはわからなくなっていた。

 

 そして。

 

「ちっ、最近ほとんど稼げてねえ! くそっ、これじゃ神酒が……!」

 

「……あ、そういえば、アーデのやつを最近見ねえな。いつもならバベルの前で汚え格好で恥知らずの乞食紛いをやってるんだが……もしかしていいカモでも見つけたか?」

 

「へえ、それなら、アーデのやつ、ここ最近は随分と稼いでるようだな」

 

 本物の悪意が、ベルとリリにその牙を定めていた。




原作進行具合。
→【ロキ・ファミリア】遠征から帰還中。


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ベル・クラネルと悪の少女

 物心ついて初めて教えられたことは物乞いの仕方だった。

 

 親からの愛情も、大人から子どもへの無条件の親愛も無く、ただお金を稼ぐ方法を与えられた。

 三歳の少女がボロ切れ同然の服を着て、優しい人の同情を引けるように身体を汚し、お金をくださいと細い声で鳴く日々。

 時には日の出から闇夜に月が浮かぶまでそうしていることもあったが、小人族という自分の種族の特徴も相待って、少女の両手に同情の金貨と見下した視線が落ちる事は少なくなかった。

 

 そうして得た金銭を産みの親に全て渡し、また大通りの隅でゴミと変わらない格好で物乞いを始める。

 

 辛くはなかった。少女の中にはそれを辛いと思う情緒は育まれていなかった。

 ただ、馬車に轢かれでもしたのか、道の隅でゴミ屑のように死んでいる小動物を見て「ああ、自分もあんな風に死ぬのだろう」という感慨だけがあった。

 

 路上と本拠地を往復して。数年経って両親が死んでからは野良犬のようにゴミを漁り、残飯を食らって生きていた。

 他の生き方をすれば良い? 

 不可能だ。少女には、この生き方しかなかった。この生き方しか教えられなかったのだから。

 

 神酒に酔い、狂ったように神酒を求めるファミリアには、幼い少女を助けようと思う者など一人もいなかった。

 

「……おなか、すいた」

 

 ただ。

 現状を苦しいと思う心はなくても。

 空腹を辛いと感じる生態機能はあった。

 その日、ゴミを漁っても残飯にありつけなかった少女は、腹の呻きに従って彷徨っていた。

 物乞いで得た金など、既に同じファミリアの人間に奪われている。力のない、後ろ盾もない少女は何もしなくても金を運んできてくれる存在だったから。

 

 お腹を締め付ける食べ物の匂いに釣られて迷い出たのは、オラリオのメインストリート。

 ギルドの介入を嫌った両親には教えられなかった、少女が初めて来る場所。

 

 そこには幸せが溢れていた。

 

 人々の顔には活気と笑顔が満ち溢れていて、誰も彼もが楽しそうだった。

 吹き抜けのお店の中では見たこともない美味しそうな食べ物──少女は残飯と固いパンしか知らない──が沢山並んでいて、男の人も女の人も幸せそうに食べている。

 

 そして、少女の目の前を。

 

「おとーさん、おとーさん! 肩車して!」

 

「よーし、いいぞー! それーっ!」

 

「あらあら、気を付けてくださいね」

 

 男と、女と、ちょうど少女ぐらいの年齢の女の子が、笑顔で通り過ぎる。

 

「……ぁ」

 

 それを見て少女は知った。

 幸せというものを少女は知った。

 幸福な人生というものを少女は見てしまった。

 

 土に汚れ、ボロ切れの服を纏い、孤独に残飯を漁って飢えを凌ぐ自分と。

 綺麗な身なりで、上等な服を着て、家族で笑顔を浮かべる女の子。

 

 比較してしまうと、もうダメだった。

 現状は苦しいのだと。自分は惨めなのだと自覚してしまった少女の心は、目の前に無数にある幸せのかたち、その全てが心を突き刺す劔のように見えた。

 

 それでも、少女は自分が幸せになる方法を知らなくて。

 ただ幸せになりたかったという想いだけが募っていって。

 少女は、日陰を生きていくしかなかった。

 

 ゴミを漁るゴミのような人生を生きる少女に契機が訪れたのは、少女が六歳の誕生日を迎えた直後のことだった。

 

「今後、【ソーマ・ファミリア】は更なる拡張を目指す。今のオラリオは時期も時期だ、新たな入団者も迎え、この時代の荒波を乗り越えてゆこう。……そして、これが我々に期待するソーマ様から振る舞われた神酒だ」

 

 新たに【ソーマ・ファミリア】の団長となったザニスは、そう言って団員達に神酒を振る舞った。

 その酒は主神ソーマからザニスがくすねてきたもので、決してソーマが団員達に与えたものではなかったが。

 趣味である酒造りに没頭する資金源を得るためにファミリアを興したソーマには、神酒に酔う子ども達に失望していることも相まって、たとえ知っていたとしても関与する意味のない茶番だった。

 

 そうして、両親がファミリアの構成員だったため生まれたときから【ソーマ・ファミリア】の団員であった少女は、神酒を飲んだ。

 

 幸せだった。

 全身に多幸感が広がるその心地良さは、人生で一度も感じたことのないものだった。

 生まれて初めて味わう『幸せ』の虜になった。

 

 また、あの幸せを享受したいと少女が渇望することはごく自然な欲求だった。

 

 金を求めた。

 ザニスの体制下では、神酒を飲むためには金が必要だった。

 少女は物乞いをやめ、同じファミリアの団員たちの真似をするようにダンジョンに潜る。

 

 少女は冒険者になり、そして直ぐにサポーターとなった。

 少女には、冒険者として生きていく才能がなかった。

 少女に力はなく、少女は弱者だった。

 

 サポーターになってまでダンジョンに潜ったのは。

 尊厳を踏みつけられてまでダンジョンに潜りつづけたのは。

 それでも、物乞いをするよりは稼げたから。

 

 ゴミのように扱われながらゴミを拾い、ゴミを食べて飢えを凌ぐ少女が求めたものはたった一つ。

 

「あのお酒を、もう一度──」

 

 少女は、ただ、幸せになりたかったのだ。

 

 しかし、現実は何処までも少女に残酷で。

 サポーターの境遇も相まってろくにお金を貯められない日々。

 他者に踏みつけられるだけの毎日。

 涙が頬を濡らさない日は一日だってなかった。

 誰かの悪意を一身に受ける日常に少女の心は擦り切れていった。

 

 疲れ切ってしまった少女が逃避を選ぶのも、またごく自然な行動だったと言えよう。

 

 逃げた先に見つけたのは、老夫婦が営んでいる花屋で。

 老夫婦は優しく、多くを語らない少女を、それでも暖かく迎え入れてくれた。

 いくらでもここにいて良いと優しく頭を撫でてくれた。

 少女は初めて、人の温かさに触れた。

 

 花屋での日々はただ温かさだけがあった。

 渇望した幸せがそこにはあった。

 

「もう、お酒もいらない。これだけがあったらそれでいい」

 

 心の底からそう思えるほど、少女は幸せを感じていた。

 

 そして、その幸せは呆気な崩れ去った。

 

 少女を見つけた同じファミリアの団員が老夫婦の花屋を見つけ、店をめちゃくちゃに荒らし、金品を奪っていったのだ。

 

「お前さえいなければ──ッ!!」

 

 柔らかな微笑みを向けてくれていた老夫婦のその言葉を、怒りと憎しみの篭ったその表情を、少女は生涯忘れることはないだろう。

 

 ファミリアからは逃げられないのだと、少女が悟った瞬間だった。

 

 そして、またゴミのような毎日が戻ってくる。

 

 少女は弱者だ。強者から搾取される存在だ。

 殴られ、蹴られ、辱められ、嗤いものにされ、ゴミと変わらない格好で転がされる存在だ。

 ファミリアからの制裁を免れるための金品を集めても奪われ、団員や冒険者の気が立っていればストレス発散に殴られ。

 そんな環境にいた少女の心は荒んでいき、やがて一つの結論に辿り着く。

 

「……なんで、自分だけが奪われるんだろう」

 

 今まで多くのものを奪われてきた少女は、今まで多くのものを奪われてきたのだから、自分も奪っていいのだと考えるようになった。

 

 そうして、少女は盗みに手を染めるようになる。

 

 ゴミのような人生を生きていた少女は、こうしてゴミに落ちていった。

 

 少女は悪くない? 

 そんなバカな話はないだろう。例えどんな背景があろうと、少女の盗みは冒険者を対象にした盗み。

 そこに冒険者はクズしかいないという少女の経験から裏打ちされた確信と、盗む相手にクズを選ぶ少女に残された最後の良心があろうと、冒険者から装備を盗むのはその冒険者にとって死に直結する。

 少女の悪意によって死んだ冒険者はゼロではない。

 

 例えその冒険者がどうしようもないゴミ屑で、少女に目を覆うような暴行を加えていたのだとしても。

 この世界に法がある限り、人は……とくに、正義を掲げる者ならば言わなければならない。

 

 どんなにそいつがクズだったとしても、死ななければならないようなことはしていないと。

 

 故に、少女は確固たる悪であり、正義の敵だった。

 

 ……ただ。

 悪の道に片足どころか両足を踏み入れてしまった少女が求めているものは、最初から最後まで、たった一つ。

 

 少女は、幸せに、なりたかったのだ。

 もう、諦めてしまっているけれど。

 

 

 

 ☆☆☆

 

 

 

 だからこそ、リリはベルの手を取ろうだなんてハナから考えていなかった。

 

 頭にあるのはどうやってベルから奪ってやろうかという思考のみ。

 ただ、自分の邪魔をする目の前の偽善者が……自分と違って幸せな人生を歩んできたのであろうベルが憎かった。

 

(お前も絶望すればいい)

 

 裏切られ続け、誰も信じられなくなった自分のように。

 

(お前も泣き叫んで世界を呪えばいい)

 

 涙を流さない日などなかった、自分のように。

 

(そして、お前も染まってしまえ)

 

 終いには、クズと唾棄した冒険者と同じことをしてしまっている、自分のように。

 

 油断すれば湧き上がってくる罪悪感を蹴り飛ばして、リリはベルをダンジョン九階層まで連れてくることに成功した。

 

 呆気なかったように思う。

 ベルはリリを見つけられないことを焦っていて、ベルの目的を知っていたリリはベルの焦燥が手に取るように分かったから。

 もっと稼げる方法がある……と、囁いてやれば直ぐに乗って来た。

 

 それがベルからリリへの信頼である事に、リリは気付いていた。

 気付いた上で、踏みにじってやろうと嗤った。

 この残酷な世界のルールを自分が教えてやろうと、そう思っていた。

 

「この先が十階層……」

 

「ええ。出てくるモンスターはかなり強くなりますが……ベル様なら大丈夫だと思います」

 

 嘘ではない。

 リリはベルから感じ取った匂いからオラリオに来て日が浅いと確信していたが、ベルの動きには鍛錬の跡が如実に現れていた。

 多くの冒険者を見てきたリリには、それが指導者のもと鍛えてきた証だと分かる。

 

 業物の木刀に、鍛えてくれる指導者。そして、それを無駄にしないベルの才能。

 それは全部、リリの心をささくれ立たせる。

 リリは一個たりとも持っていないものだから。

 

(恐らく【ステイタス】自体はリリより高いんでしょうね。そうじゃないとあの動きの説明がつかない。ザニス様の攻撃を受けて意識があったところを見るに、Lev.1でも中位ぐらいの【ステイタス】を持っているはず。それに、武術の心得とあの分不相応な木刀……間違いなく、十階層でも通用するはず)

 

 リリの瞳がベルの腰に吊られた木刀を射抜く。

 リリの狙いはベルがアストレアから譲り受けた木刀だった。

 業物だと見抜いたその審美眼に誤りはなく、事実その木刀は深層ですら通用するポテンシャルを秘めている、正しくベルには過ぎた獲物である事に間違いはない。

 

 間違ってもLev.1の冒険者が持てる代物ではなく、ならばそれは他者から与えられたものであるとリリは的確に判断した。

 

(この頭に花が咲いたお人好しに盗みは不可能。……なら、これは貰ったと考えるのが自然)

 

 業物をLev.1の冒険者に持たせるのだ。

 そこには大きな意味が付随してくる。

 よっぽどベルが大切だったのか、それともまた何か別の理由があったのか。

 どちらにせよ、その木刀になんの想いも篭っていないなんてことはないだろう。

 

(大切なものを無様に奪われて……お前も現実を見ればいい。授業料代わりにその木刀はリリが有効活用します。どうせ、お前には過ぎたものですし)

 

 そうして、ベルとリリは十階層に足を踏み入れた。

 

 そこは薄霧が掛かった広い空間だった。

 二十メル先を見通すことが難しいような白いもやが立ち込める。

 初の十階層で慎重に足を進めていたベルの眼前で、不意に地面が盛り上がった。

 ダンジョンがモンスターを産む、その予兆。

 

「リリ、下がってッ!」

 

「はいっ!」

 

 木刀を構えるベル。

 リリを守るように一歩踏み出し、現れたモンスターを睨み付ける。

 

 産まれたモンスターの名は『オーク』。

 十階層から出現するようになる大型級のモンスター。

 ベルの頭身をゆうに越すその巨躯から繰り出される攻撃力は語るまでもない。

 まともに食らえば、いかに冒険者といえど重傷は免れないだろう。

 

 本能のままに目の前の人間を叩き潰そうとしたオークが豪腕を振り下ろす。

 

「紫電木こりスラッシュ!!」

 

 それより遥かにベルの攻撃は速かった。

 

 剣閃一撃。

 鋭い踏み込みとともに閃いた木刀が横薙ぎに空気を切り裂く。

 オークの分厚い皮膚を容易く斬り、肉の鎧に覆われた骨を断ち切った。

 

「え、あれ?」

 

 モンスターの灰を頭から被りながら、想像より遥かに軽い手応えにベルがきょとんと己の掌と木刀を見つめていた。

 

「すごいっ! 凄いですよベル様!」

 

「あ、ありがとうリリ。ここまであっさり倒せるとは思ってなかったんだけど……」

 

 思ってたより強くなってたのかな、とアストレアとの特訓を思い返すベル。

 頭の後ろに手を当てながら、魔石の回収のためにベルを褒めながら近づいてきたリリに微笑みを向けて。

 

「──あ、え」

 

 ベルの腹部を灼熱が襲った。

 

「え……?」

 

 どぷり、と。

 命の水が腹から零れ落ちる。

 

「なん、で……」

 

 それはどうしてお腹から血が出てるのか、なのか。

 答えは簡単だ。見れば分かる。

 お腹に短剣が突き刺さってるからだ。

 

 何故か? 

 それも簡単だ。

 リリが、ベルを刺したからだ。

 

 自分に無防備な笑みを向けるベルの腹を、ずぐりと。

 

「なんで、ですか。そうですね……リリがベル様の事を嫌いだから、ですかね」

 

「どう、して……!」

 

「どうして? ベル様がそれを言うんですか? リリはベル様のせいでお腹を刺されるよりもよっぽど酷い怪我をいっぱいしたのに? ……ってああ、変身したままじゃ分かりませんでしたね。……【響く十二時のお告げ】」

 

 唱えられる解呪式。

 金髪のエルフが姿が溶けるように消えていく。

 ベルが目を見開いた。

 

「君、は……、あの時の……!」

 

「ええ、そうですよ。ベル様が探していた、ベル様のせいで頭の骨を割られ、おまけに男たちのサンドバッグになった盗人の小人族です」

 

 リリの口元が酷薄に歪む。

 

「予想より強かったので刺さるか不安でしたけど……耐久のステイタスはそこまで高くないようで良かったです。……どうですか? 助けてやろうと上から目線で見ていた弱者に欺かれた気分は!」

 

「ぐっ、う……!」

 

「イライラする偽善を振りかざして! その日を生きるために精一杯のリリの邪魔をして! 挙句にリリを助けてやろう!? ふざけるな! お前は何様だ!」

 

「違う……! 僕は……!」

 

「どうせお前もリリを笑っていたんでしょう!? 荷物持ちでしかないサポーターを……! 薄汚いだけの小人族を助けて何になるというんです! そうやって手を差し伸ばすフリをして、リリが手を取るのを今かと今かと待ち構えていたんでしょう!? だって、冒険者は、冒険者は……! 冒険者はクズしかいないッ!!」

 

「が、あぁ……!?」

 

 癇癪を起こした子どものように叫ぶリリがベルの手を踏みつける。

 離すまいと握られていた手から木刀がこぼれ落ちた。

 リリが木刀を拾う。

 

「まっ、て、その木刀は……!!」

 

「……大切なもの、ですか? 知りませんよそんなこと。リリにとってこれは高く売れるかもしれない商品。それ以上でもそれ以下でもありません」

 

「神、様から頂いた、いつか返さなくちゃいけない、大切な……!!」

 

「だから知りませんよそんなこと。……あまり喋るとお腹の傷が開くのでお勧めはしません。毒を塗ってあるので今はろくに動けないでしょうし、血を流しすぎると地上まで戻れなくなりますよ」

 

 ベルの腹部からはドクドクと血が流れ続けている。

 ベルのポーチを漁ったリリがポーションを一本取り出し、雑にベルにぶちまけた。

 そもそもがそんなに大きくない刺し傷であるため、傷は直ぐに閉じる。

 だが、刃に塗り込まれた毒が治癒するにはしばらくの時間がかかるだろう。

 毒の種類は神経毒。

 耐毒アビリディを持たないLev.1の冒険者にとっては、致命的ともいえる毒だ。

 

 本当に、笑えるぐらい単純な事だった。

 リリは別に、何か特別な準備をしていた訳ではない。強いて言えば毒の用意ぐらい。

 他の冒険者ならもっと入念に準備をしただろう。だが、ベルに限ってはその必要がなかった。

 

「何故か分かりますか? ……それは、ベル様が人並み以上に馬鹿で……人並みの幸せな人生を送っていたからです」

 

 冒険者として日が浅いということは、冒険者の闇の部分に触れていない、つまりはスレていないということ。

 そして、ベルの善性を心の底から嫌悪しながら、信用した。

 

「出逢って直ぐの私に心を開きすぎですよベル様。だからこうやって……悪い小人族に、騙される」

 

 だから、薄汚い乞食のサポーターに噛みつかれるのだ。

 

 何がいけなかったのだろうか。

 どこでボタンを掛け違えたのだろうか。

 理由はある。要因はある。

 それは、ベルの中に正義が根付いていたからだ。

 

 例えば、ここでは無い何処かでは。

『女の子だから』という理由だけで、汚わらしいサポーターを助けるような、そんなお人好しもいただろう。

 それだけだったなら、少女もここまで突き抜けるようなやり方はしなかった。少女の心の中のカケラが、少女を責め続ける良心と罪悪感がそれを許さなかった。

 だが、ベルは、明確に正義の言葉を口にした。

 正義の観点から甚振られる少女を見捨てることはできないと示した。

 

 少女は思った。

 

 ああ、こいつは私の敵だ、と。

 

 だって、そこにどんな理由があろうとも。

 少女は悪の道を進んでしまっていたから。

 少女は、正義にとっての悪だった。

 

 それだけの話。

 

 故に、二人の道が交わることは決して無い。

 リリが悪であり、ベルが正義である限りは。

 決して無い。

 

 リリはベルの直ぐ側にある枯れ木に泥団子のようなものをくくり付ける。

 団子を吊っている紐は意図的に削られていて、今にも千切れてしまいそうだった。

 

「これはモンスターをおびき寄せる道具です。この紐が切れて地面に落ちると、玉が割れて臭いが拡散。モンスターが寄ってきます。紐が千切れるのと毒の効果時間はほぼ一緒ですから……運が良かったら助かるんじゃないですか? ベル様はお強いですし」

 

 それは、ベルがリリを追って来れないようにするための仕掛けだった。

 間接的にはともかく。直接的に人を殺すことが出来ない、中途半端なリリの臆病さの現れだった。

 

 これなら、モンスターがベルを殺したと自分に言い訳できる。

 実質リリが殺したようなものだと分かっていても。

 これなら、自分の心を誤魔化して、リリは実行できた。

 

 十階層を選んだのは。

 あまりに浅い階層だと、流石にベルが追い付いてきそうだったから。

 十階層ほどのモンスターがベルの足止めには必要だとリリは判断していた。

 

「待って……! リリ、リリ……!」

 

「待ちませんよ。さっき毒の効果時間のこと言いましたが、個人差はありますし。ここにいればベル様にリリは何をされるかわかりません」

 

「話を、聞いて、くれ……! 僕は、リリが悲しんでいるように、見えた、から……!!」

 

「そりゃあ悲しいですよ。悲しいに決まってるじゃないですか。頭蓋骨割られて、鼻も折れて、おまけに体の骨を何本も折れるぐらい殴られて悲しくない訳じゃないですか」

 

「違う……! そうだけど、そうじゃ、なくて……!」

 

「違う? 何が? ベル様にリリの何が分かるんですか? 幸せな人生を歩んできたベル様に!! リリの! 何が分かるっていうんですか!!」

 

「リリ! 話を、聞いて……!」

 

「助けてくれるなら助けてほしいですよリリも!! でも誰も助けてくれない! 助けてくれなかった! だからこうなってるんですよ!! 冒険者がリリをこうしたんです!! リリだって幸せになりたかった! なりたかったですよ!! ……でも、もう、仕方ないじゃないですか。だって、リリは……」

 

 ぎゅっと噛み締めるように唇を惹き結んで。

 リリはその先を口にしなかった。

 

「……その短剣は差し上げます。この木刀の代わりに。運が良ければ生きて帰還できるでしょうけど……二度と会うことはない事を願います。ーーさようなら、ベル様」

 

 それだけ言って、リリはベルに背中を向けた。

 小さな背中がどんどん見えなくなっていく。

 

「リリ、待って、リリ、リリ! リリ──ッ!!」

 

 毒で動けないベルの叫びが悲痛に響いていた。




原作との変更点。
→ベルくんが明確に正義のスタンスを取ることにより、リリの敵意が膨れ上がる。
→アストレア様との特訓の成果によりベルくんに技術の跡が見え隠れし、リリの警戒心と自分にないものを全て持ってるベルくんへの嫉妬カウンターが跳ね上がる。
→ベルくんはリリを探すことに焦っていたので、原作と違い圧倒的なコミュニケーション不足。

次話。
→ベル・クラネルと【ソーマ・ファミリア】


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ベル・クラネルと【ソーマ・ファミリア】

 一心不乱に駆ける。

 ゴミのような感覚を研ぎ澄まし、ゴミのような脚力で地面を蹴り上げ、ゴミのような手でベルの大切な木刀を掴んで、リリは懸命に走っていた。

 

 限界層は八階層。

 リリがモンスターと一戦交えることは、そのまま死を意味する危険な階層だ。

 だから、戦わないように、見つからないように、一刻も早く危険から脱しようとリリは走る。

 

 広大な面積を保有する地下迷宮だが、冒険者たちの弛まない探索により上層のマップは凄まじい精度を誇る。

 何度も、何度も、この上層で大っ嫌いな冒険者たちを罠に嵌めてきたのだ。

 リリの頭の中にはダンジョン上層のマップが空で書けるほど鮮明に刻み込まれていた。

 どこを通れば比較的安全か分かる。迷うことはない。

 こうやって逃げることは、得意なのだから。

 

「はぁ……っ! はぁ……っ!」

 

 休まぬ全力疾走に痛む胸を片手で抑えて、それでも一度も立ち止まらずに。

 後ろ髪を引かれるような罪悪感から逃げるように、リリは走り続ける。

 

「この木刀を売れば……っ! はぁ、はぁ……、もしかしたら、もしかしたら……っ!!」

 

 人としての尊厳すらないようなファミリアから抜けたいと、そうリリが考えたことは数えきれない。

 ファミリアからの脱退を望むリリに団長であるザニスは『金を用意しろ』と言った。

 お金があればファミリアを抜けられる。

 リリがお金を集める理由がそれである。

 

 もっとも。

 リリはサポーターだ。蔑視の対象で、いくらでも代えが効く消耗品で、ただの道具だ。

 その扱いは、人としての尊厳を踏みにじるようなものだ。

 ……リリが盗みに手を染めなければ、ベルの木刀を売ればもしかしたら……と、リリが考えるまでお金を貯めることはできなかっただろう。

 ゴミらしくゴミのような生きる少女が、何も持っていない自分をリセットして生まれ変わりたいと何度も考えていた少女が、諦めながらも幸せになれるかもしれない最後の手段に縋り付いて生き続けることは、なかっただろう。

 

 脱退という希望がリリを生かした。

 そして、その希望がリリを悪の道へ引き摺り落とした。

 

 全ては、幸せになりたかったから。

 

 壁に埋め込まれたような階段を駆け上がる。

 ここを登ってしまえば七階層。そして、七階層さえ抜ければ後はリリのステイタスでもどうにでもなる。生き延びることができる。

 最後の難所に挑むリリが足に力を入れ直し、気合とともに広大なルームに足を踏み入れた、その直後だった。

 ぬらりと影から男が姿を表す。

 そして、次の瞬間リリの腹には男の膝が深く突き刺さっていた。

 

「がっ──あぁっ!!?」

 

 リリの小さい体が冗談みたいに吹き飛んで、一回、二回と地面をバウンドして滑っていく。

 男は、地面に皮膚を削られながら止まったリリの髪を鷲掴みにして持ち上げた。

 視線がかち合う。

 男は、リリも良く知る人物だった。

 

「いづぁ、う、うぁああ……、カ、カヌゥ様……?」

 

「ああ、そうだぜ。俺だ、アーデ」

 

 カヌゥの口元がいやらしく歪む。

 その目には嗜虐の色が浮かんでいた。

 足が地面から離れ宙ぶらりんになったリリの足がバタバタと滑稽に空気を漕ぐ。

 腹を襲う灼熱の痛みに呼吸が阻害される。内臓を痛めたのかもしれない。

 乱雑に掴まれた髪の毛だけで自重を支えていて、頭皮が剥がれてしまいそうな痛みがあった。

 

 痛みに攪拌される頭の中で、どうしてここにカヌゥがいるのかと思考を回すが、すぐにやめた。

 そんなものを知ったところで意味がないからだ。

 これから起きることを、リリは何度も経験して知っている。

 リリの瞳が、暗く、醜く、澱んでいく。

 

「おか、ね、お金を払います……」

 

「けっ、話が早くて助かるぜ、アーデ。だからお前はいい」

 

 神酒に魅入られた【ソーマ・ファミリア】の団員は、同じファミリアの者どうしですら金を奪い合う。

 金がなければ、神酒を飲めないからだ。

 小さく、弱く、力もなく、才能もなく、後ろ盾もない、いつも独りなリリは、彼らにとっていい金蔓でしかなかった。

 何もしなくても金を運んできてくれる存在。自分はその金を奪えばいい。しかも、そいつはファミリアから逃げられないときた。

 こんなに都合のいいものは、そうそうないだろう。

 リリはカヌゥのお気に入りであり、だからこそ、これは良くある出来事だった。

 

 いつものように。

 弱いサポーターが強い冒険者に奪われる。

 それだけのこと。

 

 リリにできるのは、出来るだけ傷付かないように全てを言われるままに差し出すことだけだ。

 

 カヌゥがリリが羽織っていたクリーム色のローブを引き裂く。

 背負っていたバックパックの肩紐が引きちぎれ、ずり落ちる。

 簡素でボロ切れ同然の薄い布の服しか纏っていないリリを地面に放り投げて、カヌゥはリリの所持品を漁り始めた。

 

「アァ? こんだけか? しけてやがんなぁ! っくそが」

 

「ヴっぁああっ!? づぅ……! あぁ……!」

 

 満足のいく成果ではなかったのか、苛立たしげにカヌゥはリリの腹部を蹴り上げる。

 その瞳には、危うげな狂気が潜んでいることをリリは良く知っている。

 ここが地上だったなら、リリにも自衛の手段が少しはあった。

 だが、ここはダンジョン。法の目が届かない、法以外の秩序が支配する弱肉強食の非常な世界。

 少しでも相手の機嫌を損なえば。その時点で、リリは殺されてしまうかもしれない。

 リリには、脂汗を浮かべながら激痛に耐え忍ぶことしか選択肢がない。

 

「おい、テメェら! 殆ど金持ってねえぞこいつ!!」

 

「あ? そんなはずは……」

 

 カヌゥの後ろから二人、よくカヌゥとつるみリリから奪っていく男たちが現れる。

 男たちはカヌゥと同じようにリリの所持品を漁り、落胆を隠しもせずに声を荒げた。

 

「本当に持ってねえ! どうなってんだ!」

 

「俺が知るかよ! くそっ、アーデ! おい! なんで金持ってねえんだ! 俺は見たぞ! お前があの白髪のガキから結構な金を受け取っていたのを!」

 

「ふぎっ!?」

 

 男の一人がリリの頭を踏みつける。

 鼻がへし折れ、激痛とともに溢れ出した血が呼吸を阻害し、血生臭い息苦しさが肺を満たした。

 

 ──見られていた? 

 ──ベル様とダンジョンに潜っていたときのことを? 

 ──なら、なんでその時に奪いに来ずに今更? 

 ──そもそも、どうして今日このタイミングでカヌゥ様たちがここに? 

 ──なんで、自分はこんな目に合わなければいけないの? 

 

 激痛に明滅する視界の中そんな疑問が湧き上がって、しかし答えが出る前に消えていく。

 リリには、己に暴力を振るう冒険者たちをゴミ屑だと唾棄する感情はあっても、それに立ち向かう意思がなかった。

 なぜなら、立ち向かったところで、どうにもならないことを知っているからだ。

 いたずらに怪我を増やし、痛い思いをするだけなのを知っているから。

 

 カヌゥたちがこのタイミングで動いたのは理由がある。

 一番の原因は、リリが狙ったのがベルだったことだ。

 

 リリと組んでからのベルは午前中でダンジョンから切り上げ、午後からは都市中をリリの捜索のために駆けずり回っていた。

 

 つまり、午前中の時間だけでダンジョンでモンスターを倒し必要なヴァリスを稼ぎ、なおかつ帰還する余裕があったことを意味する。

 恐ろしいまでのスピード探索。それもオラリオに来てからまだ日も浅いと誰が見てもわかる少年が、役立たずのサポーターとのツーマンセルで、だ。

 目立たないわけがなかった。

 

 その少年に才能があり、そして強さがあることは誰が見ても分かった。

 そして、少年を一度見ているカヌゥたちは、その少年が正義を口にした少年である事にすぐに気付いた。

 

 冒険者は基本的にステイタスが全てと言ってもいい。

 冒険者としての年月や積み重ねた努力、その全てをゴミのように蹴散らすのがステイタスの差。

 たとえ到達階層が浅かろうと。

 カヌゥたちはベルの動きを見て、知って、自分に当てはめて、冷静に戦いは避けた方が賢明だという判断を下した。

 自分たちにも同じことは出来るかもしれない。だが、連日それを平気な顔で続けるのは無理だと。

 もしかしたら、あの白髪のガキは自分たちよりも強いかもしれない、と。

 

 だから、このタイミング。

 いつものように、リリが冒険者を裏切って金品を盗んできたところを、ごそっと頂く。

 そのタイミングをカヌゥたちはずっと待っていたというわけだ。

 

 だが、リリが既にヴァリスを宝石に換金して貸金庫に預けているためカヌゥたちの目論見は不発に終わる。

 そして、その分リリが腹いせに傷付くのだ。

 

「おい、カヌゥ。アーデが持ってたこの木刀どうするよ」

 

「あぁ? 木刀だぁ? あのガキが使ってた武器か……まあ、多少の金にはなるだろうが、木刀売ったって端金だろうが。捨てとけそんなもん」

 

「だろうな。そらよっと!」

 

 投げやりなカヌゥの声に同意して、男が木刀を放り投げる。

 激痛に呻き声を上げながらお腹を守るように丸まっていたリリは、しめた、と内心で喝采を上げた。

 

 これで大損は免れた。

 カヌゥたちが立ち去った後にあの木刀を拾って帰ればいい。

 よしんば見つかったとしても、みっともなく媚び諂い、情けない笑みを貼り付けて少しだけのお金でも欲しいと頭を地につければ、この馬鹿な冒険者たちはゲラゲラと蔑みながら見逃すだろう。

 

 そして、結果的に大損をこいた馬鹿たちをリリが嗤うのだ。

 

「なあ、アーデ。お前、隠してる金があるだろ。こんだけなはずがない。出せよ」

 

 蹲み込んだカヌゥがリリの髪の毛を掴んで頭を無理やり上げさせる。

 鼻血で口元まで血に汚れた凄惨な顔をしたリリが、息も絶え絶えに口を開く。

 

「リリの、寝床の、一つにまとめて……」

 

「何処だ?」

 

「北の、区画の……」

 

 問題ない。

 多少金を奪われたって構わない。

 だって、大部分は既に宝石にして貸し金庫に隠してあるから。

 それとこの木刀を売ったヴァリスを合わせたら、それで脱退のためのお金が貯まるかもしれないのだ。

 

(だから、それぐらいくれてやります。だから、もう、このまま行って──!)

 

 しかし、そんなリリの願いは予想外の形で裏切られる事になる。

 

「──いや。まだ隠してる金があるだろう? アーデ」

 

「──あ、え、え……? なんで……」

 

 暗がりから響く男の声。

 コツコツと靴音を響かせながら現れたその男は、やはり、リリもよく知る人物だった。

 

「ザニス……様……?」

 

 男の名はザニス。

 リリの所属する【ソーマ・ファミリア】の団長であり、そして、ある意味ではリリを間接的に悪へと引き入れた人物でもあった。

 

「オラリオの東区画にある、ノームの貸出金庫……そこに、あるだろう? なあ、アーデ」

 

「──っ」

 

 表情に出しかけて、リリは必死でそれを押し留めた。

 湧き上がる疑問の全てを飲み込んで、シラを切り通す覚悟を決める。

 だって、そのお金は。

 そのお金は、夢のための──。

 

「……何のことだか、リリには分かりません」

 

「……なるほどなあ。じゃあ、これは何だ?」

 

「あぐっ!?」

 

「おわっ、ちょ、危ないじゃないですかい、団長ぉ」

 

 無造作に跳ね上げられたザニスの爪先がリリの顎を弾く。

 乾いた音が響き、リリの顎の骨にヒビが入った。

 リリの顎を弾くと同時にリリの首にかけられていた紐を切ったザニスが、その紐に繋がれていたものを拾って、痛みに悶絶するリリの目の前にぶら下げる。

 

「肌身離さず大切に隠していたようだな。だが……俺が、気付かないとでも思ったのか?」

 

 それは、貸金庫の鍵。

 リリの夢を叶えるための、リリの全てが収められている金庫の鍵。

 

「保管庫? あの小さい箱にゃ大金は入らねえぜ」

 

「ノームの宝石だ。こいつはコツコツとヴァリスを宝石に換金して、貯めてたんだよ。なあ、そうだろう? アーデ」

 

「ノームの宝石……なるほどなぁ」

 

 ノームが保有する宝石や鉱石は貴重であり、確かな価値と信用がある。

 それは、売れば確実な金になるということを意味する。

 

 だが、今はそれはどうでもいい。

 リリにとってはどうでもいい。

 問題は、なんで、それを、ザニスが知っているのかというただ一点。

 

 怒りに染め上げられた頭と、憤怒が吹き荒れる瞳でザニスを睨みつけるリリ。

 その裂帛の敵意を受け止めて、酷薄にザニスは笑った。

 

「知りたいか? なぜ俺が知っていたか。なに、そう難しいことじゃないさ。だって──お前には、金が必要だったもんなあ?」

 

「────────」

 

 ……リリは、頭が悪いわけではない。

 確かに、リリが生まれ持って与えられた才能というカードは残酷なまでに弱かった。

 だが、リリはそれを知恵と知略で補い、盗みという技術に活かして今日まで生きてきた。

 リリは、頭が悪いわけではない。

 だから、気付いた。気付いてしまった。

 

「ザニ、ス……」

 

 声帯が震える。

 許容量を超えた怒りのマグマが行き場を探して口から漏れたようだった。

 

【ソーマ・ファミリア】の団員は金を求める。

 神酒をもう一度飲むために、犯罪すら躊躇わず犯すほどに金を求めるようになる。

 全ては、あの幸福をもう一度欲するために。

 

「ザニ、ス……!!」

 

 体が震える。

 生まれて初めて感じるほどの大きな殺意と憎しみが爆発する、その前触れのようだった。

 

 リリルカ・アーデは金を求める。

 酒の魔に取り憑かれたファミリアから抜けるために、犯罪すら躊躇わず犯すほどに金を求めた。

 全ては、幸せになりたかったから。

 

「ザニス……ッ!!」

 

【ソーマ・ファミリア】の中で神酒を求め無い数奇な者はリリだけだと誰もが知っている。

【ソーマ・ファミリア】の中でリリが神酒を求め無いにも関わらず金を集めている理由を、ザニスだけが知っている。

 

 だって。

 

 ファミリアを抜けたければ金を持ってこいと言ったのは、ザニスなのだから。

 

「ザニスゥゥゥゥゥゥゥゥッ!!!!!!!」

 

「ああ、その顔だ! 俺はその顔が見たかったんだよ、アーデ!」

 

 体を焼き尽くすような怒りに突き動かされたリリが、意味がないと理性がしてこなかった行動を取らせザニスに殴りかかる。

 だが、あっさりとリリの体は地面に叩きつけられた。

 背中をザニスに踏みつけられながら、それでも怒りに燃え上がったリリは叫ぶ。

 

「ずっと……! ずっとリリで遊んでいたな!? 金を持ってくれば脱退させてやると嘯いて……!! そうやってリリを騙していたな!!?」

 

「騙していたなんて人聞きが悪いな、アーデ。ちゃんと金を持ってきたら脱退させてやるつもりだったよ。……もってくれば、だが」

 

「お前が!! お前が、邪魔をしたんだろう!!! 最初からずっと! こうするつもりだった!!」

 

「おいおい、何を言ってるんだ、アーデ。……おい、カヌゥ。話は聞いていたな。金を持ってくれば、神酒を振る舞ってやる」

 

「……ああ、そういうことですかい。じゃあ、これはありがたくもらって行きますよ」

 

 カヌゥが鍵を拾う。

 ザニスはそれを止めることなく、ただ愉しそうに口を歪めていた。

 

「待て! 待って、そのお金はリリの! リリの夢の……! リリが幸せになるための……!!」

 

「あぁ? 知らねえよ。だったら取り返すか? 無理だろ? だからこれは俺の金だ。……ま、そういうことだアーデ。また一から頑張れよってことだ」

 

「返せ! 返せ……っ!!! それはリリのお金だ!! リリが、リリが集めた、リリの……!! 返せ──ッ!!!!」

 

 ギャハハハハ、と。

 カヌゥたちは機嫌良くげびた笑いを響かせて離れていく。

 

 後には、背を踏みつけられるリリと、踏みつけるザニスだけが残った。

 

「ザニス……! ザニス! ザニス!!!」

 

「おお、怖いな。でもよ、アーデ。お前が奪われたんだから仕方ねぇだろ?」

 

「ふざけるな!! お前がリリの、邪魔をしたんだろう!!! お前がリリのお金を奪ったんだろう!!!」

 

「おいおい、だから、何を言ってるんだアーデ?」

 

 ザニスは、ゆっくりと腰を落とし、激昂し己を睨みつけるリリの瞳を見据えて。

 

「俺が、いつ、お前から金を奪ったんだ?」

 

 残酷に、笑った。

 

 ポロリ、と。

 リリの瞳から堪えきれなかった涙が溢れる。

 

(畜生……っ!!)

 

 ファミリアを抜けたいと嘆願するリリに、金を集めて持ってくれば抜けさせてやると言った。

 金を集めては奪われるリリを見ても、傍観するだけで助けることすらしなかった。

 そして、そんな境遇で、盗みをしてまで必死にリリがお金を貯めた頃合いを見計らって、他人を使いそれを強奪に来た。

 

(畜生ォ……!!!)

 

 最初からそうするつもりだったのだ。

 リリを本当に脱退させるつもりがなかったわけではなく。

 ただ、たった一つの希望にしがみ付いて生き足掻くリリを奈落の底に叩き落としてやりたかっただけ。

 

 吐き気を催すような邪悪がそこにいた。

 

 でも。

 リリは立ち向かえ無い。

 レベルが違うから。

 リリは弱いから。

 戦ったところでゴミのように転がされるだけだから。

 だってほら、実際にこうやって踏みつけられている。

 

「あ、ああああ、ああああああああああっ!!! ザニスッ! ザニスッ!! ザニスゥ……ッ!!!」

 

「ははははははっ! いいぞ、いいぞアーデ! それでこそ長い目で見てきた甲斐がある!」

 

 両目から涙を溢れさせ、怒りのままに叫ぶことしかリリにはできない。

 それになんの意味もなく、ただザニスを喜ばせるだけと知りながらも、リリはそれをせずにはいられなかった。

 

 他に、どうしろというのだ。

 

 縋っていた希望はその希望を与えた張本人に踏みにじられ。

 希望があったからこそ生きることが出来ていた少女に、他にどうしろというのだ。

 またお金を貯めればいいのか。

 尊厳を踏みにじられながら、犯罪に手を染めながら、悪の道を進みながら、またお金を貯めればいいのだろうか。

 そうして、同じように奪われればいいのだろうか。

 

 これ以上、リリに何をしろと言うのだろうか。

 

「まあ、俺も鬼じゃない。なあ、アーデ。お前、幸せになりたかったんだろう?」

 

 ことり、と。リリの目の前に小瓶が置かれた。

 その中にある液体をリリは覚えている。忘れられるわけがない。

 

 神酒。

 

【ソーマ・ファミリア】を、リリの人生を狂わせたそれが、リリの眼前にあった。

 

「特別に飲ませてやる。……幸せに、なりたいんだろう?」

 

「あ、ああ……」

 

 その味を舌が覚えている。

 その多幸感を全身が覚えている。

 これを飲めば幸せになれると、命が覚えている。

 

 あれほどまでに苛烈に湧き上がっていた怒りが最初からなかったみたいになりを潜めた。

 呼吸が止まった。

 喉が干上がる。

 汗も止まらない。

 

 ただ目の前に瓶を置かれただけだと言うのに、リリの命がそれを求めていた。

 

 リリは、最初から最後まで、たった一つのことを求めていた。

 

 ただ、幸せになりたかったのだ。

 

 いつかみた、あの少女のように。

 当たり前の幸せが欲しかったのだ。

 

(これを飲めば、リリも幸せに……)

 

 なれる、とそう思って。

 小瓶を片手で握り締め。

 

「……どういうつもりだ?」

 

 小瓶を地面に叩きつけた。

 

 割れた小瓶から神酒が地面にぶちまけられる。

 今すぐに地面を舐めてでも味わいたくなるような強烈な飢餓感から必死に抗って、リリはザニスを燃え上がるような憤怒で睨め付ける。

 

 飲めば抗えないと本能で悟った。

 飲めばこの怒りを忘れしまうと理性が悟った。

 故に、リリは神酒を飲むことを拒否した。

 

 リリに神酒を飲ませたかったザニスが測り間違えたのはただ一点。

 今、この瞬間、リリは、ザニスを殺してもいいと思うほどに憎んでいた。

 

 かつてないほどの憎しみと怒りが、神酒の魅惑を凌駕した。

 

「……そうか。お前はそれを選ぶんだなアーデ」

 

 ふっと。

 愉しそうに笑っていたザニスの表情が冷める。

 リリには知る由もないことだが。

 ザニスがリリに執着を見せていたのは、リリが神酒の魅惑から脱し、神酒を求めずファミリアの脱退を願ったことに起因する。

 言ってしまえば、ザニスはリリにもう一度神酒を求めさせて、嗤ってやりたかったのだ。

 

 なればこそ。

 全てを奪い、希望をへし折り、絶望の底に叩き込んで、神酒に縋り付くしかないような状況においても。

 神酒を頑なに拒絶した時点で、ザニスのリリへの興味は死に絶えた。

 

 死に絶えたから、こうなるのもまた必然だっただろう。

 

「え──?」

 

 ぶん、と乱雑に投げられたリリの小さな体が宙を舞う。

 世界が回る。クルクルと回る。

 ぐしゃりと、受け身も取れずに地面に叩きつけらたリリの横には、モゾモゾと動く何重にも重ねられた布袋があった。

 

「あ、え──?」

 

 ザニスが布袋を斬る。

 裂かれた布袋のなかには、頭と上半身の一部だけをを残して、傷痕を焼いて無理やり塞いで、もう数分も生きられないような状態にされた【キラーアント】がいた。

 

 これは余談ではあるが。

 ベルと真正面からやりあって勝てない可能性があると踏んだカヌゥたちは、いくつかの保険を用意した。

 一つ目がリリがベルを裏切るタイミングを待つこと。

 二つ目が人数を増やすこと。

 そして、三つ目がこれ。

 これは当初は危険も伴う事からカヌゥたちもやりたくはなかった保険だが、何故か付いてきたザニスの存在が最も安全な策へと昇華させた。

 

【キラーアント】は瀕死の状態に陥ると特別なフェロモンを発散する。それは、仲間を呼び寄せる特別な救難信号だ。

 つまるところ、生殺しにされた【キラーアント】は、【キラーアント】を大量に誘き寄せる誘引剤として機能する。

 モゾモゾと動いている布袋の数は全部で三つ。

 

 リリの顔が一瞬で蒼白に染まった。

 

「どうしてって顔してるな。そう難しい事じゃない、簡単だろう? 同じファミリアの団長相手に殺意むき出しのままお前を生かして返せば、俺はおちおち眠れもしない」

 

 Lev.2のザニスがサポーターであるリリを殺すことは難しくない。それこそ瞬きの間に終わってしまうだろう。

 でも、その瞬間を第三者に見られたら? 

 実際に殺すところを見られなくても、剣で斬られた死傷を持つリリの遺体がモンスターに喰われる前に見つかって、ギルドに報告されたら? 

 モンスターに食わせるためにリリの遺体を運んでいるところを見られたら? 

 

 その全てのリスクを排除するのがこれだ。

【キラーアント】? 好きなだけ集まればいい。

 役立たずのサポーターは殺せても、いくら集まったところで上級冒険者のザニスには問題にもならない。

 

「非力なサポーターは哀れにも【キラー・アント】の群れに食い殺されてしまいましたとさ。ダンジョンではよくある悲劇だ。団長として団員の死は悲しいが、なんせよくあることだ。仕方なかったと割り切ろう」

 

 心にもないことを、と言い返すことも出来なかった。

 リリの目の前から三匹の【キラー・アント】が姿を現したからだ。

 生存本能の叫びに従って後ずさるリリの背中を、ザニスが蹴っ飛ばす。

 苦悶の声を絞り上げながら地面を転がったリリは、【キラーアント】の目の前で止まった。

 

 前門の【キラーアント】。後門のザニス。

 

 どちらも勝てない。リリでは勝てない。

 詰みだった。

 

(……終わり、か)

 

 呆気ないほどに、リリはそれを受け入れた。

 

(悔しいな……)

 

 沸騰するような怒りはある。

 あるが、拳を握ることはしなかった。

 それは無駄なことだと、取り戻しつつある理性が訴えていたから。

 

(なんで……リリは、こんなリリだったんだろう……。神様は、どうしてリリをこんなふうにしたんだろう……)

 

 走馬灯のように振り返る人生にはろくな記憶がない。

 唯一幸せだった花屋での記憶も、最後は憎しみと怨嗟の声によって塗り潰されている。

 

 何が悪かったかと言えば、リリは生まれが悪かった。

 そして、運も悪かった。

 

 リリが求めてやまなかった幸せは、リリが生まれた時点でリリから取り上げられていた。

 

(幸せになりたかったなあ……)

 

 ろくな人生ではなかった。

 でも、リリもろくな人間ではなかった。

 どちらが先か、ということではなく。

 事実としてリリは悪だったのだから、その分の跳ねっ返りが最初の方に来ていて、こうして今採算の時を迎えているのかもしれないとリリは思った。

 例え、最初から当たり前の幸せがあればこうはならなかったとしても。

 今のリリはもう、悪に手を染めてしまっているのだから。

 

 もし、リリが本当に幸せになりたかったのなら。

 

(悪いことは、しなければよかった……)

 

 そうすれば、こんな笑える、あまりにもあんまりな因果応報はなかったのだろうか。

 考える意味もないことだが、どうしても考えてしまう。

 それは、こいつもクズなのだと自分に言い聞かせるようにして盗みを働いたあの少年に、リリが罪悪感を感じていたからだろうか。

 

(ああ、そういえば)

 

 あの少年は、正義を口にしていた。

 

 なんともまあ青臭い。

 こんな残酷な世界で正義などなんの役にも立たないと言うのに。

 かつてそうやって正義を口にしていたとあるファミリアは、悪意に嵌められ無惨な最期を遂げたというのに。

 

 

『僕は……! 君が、悲しんでいるように見えたから……!!』

 

 

 だから、なんだと言うのだろう。

 だから、助けるとでも言うのだろうか。

 馬鹿じゃないのかと思う。

 例え少年が本当に正義の味方だったとしても、リリを助ける事はできないというのに。

 だって、正義の味方は、正義の味方しかしないからだ。

 リリは悪だ。正義の敵だ。

 正義に助けられる側ではなく、正義に倒される側の人間だ。

 だからこそ、リリはあの少年を過剰なまでに敵視した。

 

 ああ、でも。

 

 それでも。

 それでも、こんな悪者でも、愚図で無能で役立たずのサポーターでも。

 ……悪の道を進んでしまった、リリでも。

 

 その手を、伸ばしてくれるのなら。

 リリと、一緒にいてくれるというのなら。

 

「助けて──」

 

 ぽろりと口から転がった言葉は、かつてのリリが口にして、裏切られ続け、いつしか考えることすらなくなった言葉。

 誰も自分に手を伸ばさないのだと。自分にそんな資格はないのだと諦めてしまった言葉。

 

 誰からも必要とされず、誰も必要と出来ず、誰からも頼られず、誰も頼ることが出来なかった。

 磨耗した心のなかにずっと孤独と寂しさを抱えていたリリが、漏らしたその言葉の本当の意味は。

 

 リリが最初に見た幸せの形は、家族の姿。

 リリがこれさえあればいいと思った幸せの形は、老夫婦との記憶。

 

 リリは、寂しかった。

 誰かと一緒にいたかった。

 ずっと、一緒にいてくれる人を、自分に手を伸ばしてくれる人を探していた。

 

 それは捨てた願いであり、諦めた情景であり、求めてやまなかった幸せだ。

 死の間際になって、リリはもう一度それを求めた。

 もう死ぬのだから、悪者の自分でも、求めるぐらいはいいだろうという諦念と後悔を滲ませながら。

 

 リリは、それを口にした。

 

 

 

 

 

「助けて──ベル様」

 

 

 

 

 

 悲しんでいる誰かに手を伸ばす。

 そんな正義を胸に宿した少年は、伸ばされた手を決して離さない。

 

「リリィィィィィィィィィィィィィィィッ!!!」

 

 ザニスの後方から爆速で飛び込んできた白い影がキラーアントの群れを引き裂く。

 慣れない短剣を、しかし体に叩き込まれた武術の心得で器用に閃かせキラーアントの急所を一撃で抉り取っていく。

 三匹のキラーアントを瞬殺した少年が、へたり込み、目を開くリリの頭に優しく手を置いて、微笑む。

 

「助けるよ。──当たり前だッ!」

 

 そして、振り向く。

 

「……よぉ。久しぶりだな、ガキ。で、何しにきたんだ?」

 

「リリを助けに。僕が、僕の正義がリリに手を伸ばしたいと思ったから」

 

「ははっ、まだそんな事を言っていたのか! 少しは学習したらどうだ? 教えてやっただろう? 弱者に正義は語れないと!」

 

「だからどうした。立ち向かう相手で変わる正義なんかない」

 

「……口の減らないガキだな。いいさ、お前もここで仲良くモンスターの餌にしてやる!」

 

「絶対に! そんな事はさせないっ!!」

 

 リリを庇うように立つその後ろ姿に、リリは何故か涙を堪えることができなかった。

 凍えていたリリの心の奥の奥で熱が生まれ、ぎゅうぎゅうと胸を締め付ける。

 

 腹には血の跡。

 構える武器は二束三文の短剣で、立ち向かう相手は格上の上級冒険者。

 おまけにこのフロアには続々とキラーアントが集まってくるだろう。

 

 だが。

 

 例えどんなに絶望的な状況であろうと、誰かを守るために強大な相手に立ち向かうその勇気を。

 

 人は、正義と呼ぶ。

 

 守るのは正義を叫ぶベル。

 守られるのは悪の、リリ。

 立ち塞がる邪悪はザニス。

 

 ベルがこれから正義を掲げていくために。

 アストレアに見た正義の種火が燃え上がっていくために。

 

 正義のありかを決める戦いが幕を上げた。




原作で何故カヌゥたちはリリの金庫を知っていたのか。そこから色々膨らませたのがこの二次創作です。

次回はリリが去ってからのベルから。
相手は格上。しかも木刀はなく、毒の影響もある。
最悪なことにどんどん湧き出るキラーアントからリリを守りながらの戦い。
ベルくんに勝機はあるのか。
勝機があるとすれば、それはザニスすら予想だにしえない異常事態でしかあり得ない。

次話。
→ベル・クラネルとーーーー。


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ベル・クラネルと英雄の正義

 ベルがリリの元に辿り着く、その少し前。

 リリによって腹を刺されたベルは、体を苛む毒に苦しんでいた。

 

 動こうとしても動けない。

 体内に侵入した毒が神経を痺れさせ、筋肉の動きを阻害する。

 手足に力は入らず、辛うじて塞がりつつある腹の傷を抑えて、陸に打ち上げられた死にかけの魚のようにピクピクと痙攣するのみ。

 更に裂傷と毒による痛みすらあるのだから、ベルが感じている苦痛は相応のものだ。

 

 だが、何よりもベルを痛めつけていたのは、そんな外的要因による苦悶ではなく。

 

「リリ……っ」

 

 木刀を奪って行った、リリのことだった。

 

 知らなかった。

 リリがあの盗人の小人族だったことを、ベルは知らなかった。思いもしなかった。

 無理もないだろう。だって、ベルが知っているリリは"盗人の小人族"ではなく"サポーターのエルフ"だったのだから。

 気付けというほうが無理というものだ。

 

 リリを探す時間を確保するため、ダンジョン探索の効率化を図ってサポーター契約を持ちかけてきたエルフの少女と契約した。

 実際探索の効率は上がったし、その分よりリリの捜索に時間を当てられるようになった。

 それがとんだ笑い話もあったものだ。ベルが必死に探していた少女は、最初からずっとベルの近くにいたのだから。

 

 男なら女の子を守れと言う祖父に感化された。

 悲しんでいる誰かに手を差し伸べるアストレアの正義に心を打たれた。

 そして、女の子が泣いていることを良しとする正義はいらないとベルは思った。

 

 悲しんでいるように見えたリリに。寂しそうだったリリに。その瞳の奥に孤独を覗かせていたリリに。

 ベルは、かつて自分がアストレアにそうしてもらったように、手を伸ばしたいと思った。

 

 その結果がこれ。

 

 ベルは裏切られ、大切な木刀を奪われて、無様に転がっている。

 

 リリにとってベルは悪の敵だったから。

 

 未だ未成熟な小さな正義を根本からへし折るには、十分過ぎるほどの出来事だった。

 

 だが、ベルは諦めなかった。

 

「はや、く……っ! 動け……っ!!」

 

 ベルはリリのことを何にも知らない。

 リリの境遇を、過去を、罪を知らない。

 ベルにとってリリは、強者に尊厳を踏みにじられている小人族で、成り行きで契約したサポーターで、自分から木刀を奪って行った女の子でしかない。

 

 でも。

 ベルは、リリの願いを知っている。

 

 

『リリだって幸せになりたかった! なりたかったですよ!!』

 

 

 その声が耳から離れてくれない。

 ギリギリまで注がれたコップの水が決壊するように零れ落ちたその言葉が、ベルの耳から離れてくれない。

 

 

『……でも、もう、仕方ないじゃないですか。だって、リリは……』

 

 

 その顔がベルの瞳に焼き付いている。

 諦めたように遥か遠くにあるものを寂しげに見つめるその顔が、ベルの瞳に焼き付いている。

 

 リリの奥底で疼いていた孤独が、ベルの心に訴えかけている。

 

 リリは盗人だ。悪だ。正義が倒すべき存在だ。

 だが、ベルはそう言う者全てに真正面からこう言ってやる。

 

 それがどうした、と。

 

 善人だけを助けるから正義なのか? 悪人を切り捨てるから正義なのか? 

 悪人を助けた正義は、正義ではなくなってしまうのか? 

 

 もし、仮にそうだったとしても。

 今、ここで。

 

「泣いている女の子を切り捨てる正義なんてない!!」

 

 例え裏切られたとのだとしても。

 お前が差し出す手なんていらないと突っぱねられようとも。

 ベルがそうしたいと思ったから。そうするべきだとベルの正義が叫んでいたから。

 

 だから、ベルは拳を握る。

 

 相手の方が強い? 

 それがどうした。

 

 一度負けた相手? 

 それがどうした。

 

 お前が憎いと言われたのに? 

 でも、あの子は泣いていた。

 心の中でずっと泣いていた。

 

 それはひどく独善的な正義の意思だった。

 助けたいと、力になりたいと思った人のために何処までも駆けていくような、自分勝手な正義の種火だった。

 例えそれがどのような人物でも。例え悪人だったとしても。

 自分が助けたいから助けるという、正義の『現実』を殴り飛ばすような、いっそ虚構ですらある『理想』の正義。

 

 自分が助けたいもの全てを助ける。

 かつて、正義の旗に集った英傑たちを纏め上げた少女は、その正義をこう呼んだ。

 

『英雄』の正義。

 

 ベル・クラネルは英雄の頂へ踏み出す。

 ベルの中の何かが、ベルの魂に呼応するように産声を上げた。

 

 同時に、リリが枯れ木にくくり付けていた紐が千切れる。

 地面で弾けた玉から拡散するのはモンスターを誘き寄せる香り。

 ベルの視界の端に、匂いに釣られて寄ってきた【オーク】が見える。

 

 体はまだ動かない。

 

「くそっ……! 早く、早く……っ!!」

 

 見える範囲にオークがどんどん集まってくるのが分かる。

 その中の一匹のオークがベルを見つけ雄叫びを上げた。

 倒れ臥すベルは正しく罠にかかった兎。

 ダンジョンの意思により神と人に敵意を持って生まれるモンスターがベルを見逃すはずがない。

 

 体はまだ動かない。

 

「動け、動けっ! 僕はここで死ねない! リリの涙を拭ってあげたい、リリを助けたいんだ! 動け、動け……!!」

 

 オークが邁進する。

 地面を蹴り上げ土煙を上げながら雪崩のようにベルへ襲いくる。

 拳を握る。

 腕は上がらない。

 立ち上がれない。

 

 体はまだ動かない。

 

「僕はリリのことを何も知らない……! だから! これからちゃんと知っていく! ちゃんと話して、ちゃんと理解して、リリを知っていく! あの子を寂しいままには絶対にさせない!! 僕がそうしてもらったように、今度は僕がそうしたいから!!」

 

 オークがその豪腕を振り上げる。

 人の頭ほどの岩なら容易く粉々になるパワーを秘めた拳が、突撃してきた勢いをそのままにベルに振り下ろされる。

 

「助けたいから助けるんだ! 裏切られたからなんだ! 悪だからどうかなんて知らない!! 僕は! リリを助けたいッ!! ──それが僕の正義だ!!!」

 

 拳が迫る。

 体はまだ動かない。

 瞬きの瞬間にベルは死ぬ。

 ベルは諦めなかった。

 必死に体を動かそうとして。

 リリのもとへ駆けて行こうとしていた。

 リリを一人にしないために。その寂しさを一人で抱えさせないために。

 

 絶対に死ぬもんかと、最後までベルは足掻いていた。

 

 そして、ベルの体の奥底から。

 

 紫電が、弾けた。

 

 

 

 

 

『よく言った! それでこそだ!』

 

『そうだ、ベル。男なら──』

 

『──死んでも女を守ってみせろ!!』

 

 

 

 

 

 激音を響かせて激突したオークの拳が土煙を舞い上げる。

 Lev.1の冒険者では、奇跡的に生きていたとしても致命傷は免れない、それほどの一撃。

 地面が割れていた。オークの拳の形に抉れていた。

 しかし、そこにベルの姿はなかった。

 

「──今、のは……?」

 

 倒れ伏していたベルは、二本の足で大地に立ち、オークの遥か前方で何が起こったか分からないと言った様子で自分の体を見ていた。

 

 オーク達が一斉に押し寄せる。

 取り逃したベルを仕留めんと、続々と集まってきたオークが一斉にベルを押し潰しにかかった。

 迎え撃つベルは短剣一本。

 手に馴染んだ木刀はなく、己を刺した短剣を武器にオークの群れに挑む。

 

「邪魔を、するなあああああああっ!!!」

 

 何故動けたのかは分からない。未だ残る毒の気怠さを気合で捻じ伏せて、四方八方から迫るオークの攻撃を避ける、避ける、避ける。

 しゃがみ、跳び、走り、くぐみ、ひたすら前に進み続ける。

 

 急ぐ理由がある。

 このままリリに追いつけずに木刀を売られるのは困るし、なにより、リリがそれをしてしまうと、何かが終わってしまう気がしていた。リリの中の何かが崩れてなくなってしまう、そんな気がした。

 それに、何故か妙な胸騒ぎもする。

 何が良くないことが起こっているような、そんな根拠のない確信があった。

 

「そこをどけぇぇぇえっ!!!」

 

 しかし、あまりにもオークの数が多い。

 本来の木刀があればまだしも、ろくに刃が通らないばかりか無理して斬ろうとすると壊れてしまいそうなこの短剣ではいくらなんでも限界がある。

 ベルがこの大立ち回りを演じられているのは、一重にアストレアが叩き込んだ武の足運びによって成せる奇跡だった。

 アストレアとの旅の一年がなければベルはここで死んでいただろう。

 

「ぐっ!」

 

 オークの攻撃がベルの胴を掠めていく。

 多勢に無勢。

 体調も万全ではなく、装備すら貧弱。

 あまりにも劣勢だ。

 だが、こんなところで躓いているわけにはいかない。

 なぜなら、ベルがいつか剣を交えなければならないあの男は、このオークよりも遥かに高みへ至っているから。

 こんなところで苦戦するようではあの男に勝てない。

 

 ベルの相貌が獰猛に歪む。

 多少の傷を負っても無理やり突っ切る覚悟を決めた。

 腹を括る。

 今、ここで、この先に行かなければ全てが終わるという本能の叫びに従って、ベルが地面を蹴り上げた、その時。

 

「うわ、なんだこれ!?」

 

「オークか!? なんだこの大群!」

 

「おい、あれ! 見ろ! 誰か襲われてる!」

 

「マジかよ! 誰だ……って、あん時の少年じゃねえか!!」

 

「知ってるやつか!?」

 

「前話したやつだよ! ──ダンジョンで、俺を助けてくれた少年だ!」

 

 因果応報という言葉がある。

 ベルがリリに初めて出会ったその日、ベルはダンジョンで怪物に囲まれていた冒険者を助けていた。

 

 小人族の少女は、悪いことをしたのだから自分はこんな風になったのだろうと、死の間際になって思った。

 なら、正義に憧れて善いことをし続けていたベルに応報する因果とは、どのようなものだろうか。

 

 その答えがここにある。

 

「仲間助けてもらってんだ! 冒険者の流儀に則り加勢するぜ坊主!」

 

「すまねえみんな! おい、少年!! 待ってろ、今行くからな!」

 

 九階層から降りてきた冒険者のパーティーがオークの群れと激突する。

 リーダーであろう男の力量は高く、オークの数が一匹、また一匹と灰へ変わっていく。

 ベルの胸の中に、泣きたくなるような熱が込み上げた。

 

「って、よく見たら丸腰じゃねえか!? おい少年、あん時の木刀どうした!?」

 

「壊されたのか!? やべぇ、さっさと逃げろ坊主! ここは俺たちに任せとけ!」

 

「いや逃げても不味いだろ武器ないんだぞ!? くそっ、気合い入れろ! 仲間の命の恩人をみすみす死なせるかよ!」

 

「──武器はあります! すみません、ここは任せます! ……ありがとうっ!!」

 

「おおよ! 武器はあるんだな!? なら危ねえからさっさといけ! 死ぬんじゃねえぞ少年!」

 

「俺たちも余裕ねえからなあ! ってかなんでこんなオークいるんだよ!!」

 

「逆に考えろ! ──今日はこれで大儲けだ!」

 

「ひゃっふぅ! いいね! 今夜はご馳走だ!」

 

 冒険者達とオークに背を向けてベルは今度こそ全力で走り始めた。

 冒険者たちの鼓舞の声とオークの雄叫びを背に受け止めてベルはひた走る。

 速く、速く、もっと速く。

 階段を飛ぶように駆け上がり、九階層を風のように走り過ぎ、八階層をあっという間に駆け抜けた。

 そして、七階層に足を踏み入れて直ぐに、その姿を見つけた。

 

 キラーアントに今にも食い殺されそうな小さな少女の姿。

 涙を流しながら、拭きれない孤独と寂しさを痛々しいほどにその顔に刻み込み、身体中痛めつけられたのか血と青痣だらけの少女が、もう堪えきれないと、蓋をし続けていた想いを溢す。

 

「助けて──ベル様」

 

 悲しんでいる誰かに手を伸ばす。

 ベルは、伸ばされたその手を絶対に離さない。

 

「リリィィィィィィィィィィィィィィィッ!!!」

 

 それはまるで大地を駆ける稲妻のようだった。

 不意を突かれたザニスが反応できないほどの速度で飛び込んだ白い影が、リリを喰い殺す寸前だったキラーアントの命を一瞬で狩りとった。

 

 なんで。

 どうして。

 

 信じられないと、何が起こったか分からないと呆然と自分を見るリリの頭を、ベルは優しく撫でる。

 

「助けるよ。──当たり前だッ!!」

 

 それがベルの正義。

 善でもなく、悪でもなく。

 ベルが助けたいと思った全てを助ける、絵に描いたような理想の正義。

 

 ベルがリリを助けたいと思ったから。

 

 ベル・クラネルと英雄の正義の種火が燃え上がっていた。

 

 

 

 ☆☆☆

 

 

 

 対峙するベルとザニス。

 構えるのは短剣と長剣。

 衝突するLev.1とlev.2。

 掲げるのは正義と邪悪。

 

 キラーアントの大群が集まりつつある広いルームの中央で睨み合う両者。

 先に動いたのは──ベル。

 

「リリッ! あの壁際にっ!!」

 

 逃げるのは不可能だと判断した。

 肌で感じるモンスターの気配が尋常ではない。十階層のオークを軽く上回る数がこのルームに集いつつある。

 逃す気などまるでないように剣を抜くザニスの相手をしつつ、キラーアントからリリを守る事がベルに課せられた正義の楔。

 ベルはリリを守りやすいポジション、つまりモンスターに囲まれない壁際に移動させようとした。

 

「まあ、そう来るだろうな!」

 

「ぐ、うぅ……!!」

 

 移動はさせないとザニスがリリに斬りかかる。

 必死にその間に割って入ったベルがザニスの長剣を短剣で受け止め、その瞬間手首を返して剣を流した。

 短剣の刀身を滑った長剣がベルの左肩を浅く削って空を切り裂く。

 

(受け止めたら短剣ごと斬られていた……!!)

 

 一瞬の攻防で自信の立たされた逆境を理解したベルの頬を冷や汗が伝う。

 

「……へえ。少しは出来る様になってるみたいだな!」

 

 剣劇は一撃では終わらない。

 Lev.2のステイタスから繰り出される豪剣がベルに襲いかかる。

 

「はははははははは! そらそらそらそらっ!! どうした! 反撃もできねえのか!!」

 

「くっ、そ……!!」

 

 視認困難な速度でめちゃくちゃに振り回される致命の剣閃。

 それは技と呼べるような研ぎ澄まされた一撃ではなかったが、ステイタス差が必殺の一撃へと変貌させる。

 ベルは全身を斬り刻まれながら、なんとか致命傷を避ける事で精一杯だった。

 

「おい、どこにいくつもりだアーデ!」

 

「ぅあっ!」

 

「やめろ! リリに手を出すなぁ!!」

 

 しかも、ザニスにはその合間にリリを殺そうとする余裕まである。

 ザニスの蹴った石が銃弾のようにかっ飛び、リリの頬を切り裂いて闇へ突き刺さる。

 闇の奥で虫の苦悶の鳴き声が聞こえた。

 数秒後、闇からまろび出たキラーアント、その数五匹。

 

 リリの喉から干上がった悲鳴が絞り出された。

 

「逃げてッ!! リリ!」

 

「逃すわけないだろっ!!」

 

 キラーアントから離れベルが指した壁際へ走り出したリリをザニスが追う。

 Lev.2の脚力では一秒もかからないその距離をザニスが殺し、長剣を振り上げた。

 

「やめろおおおおおおおおっ!!」

 

「ぐっ!? この、ガキが!!」

 

 間一髪。

 突進したベルが体当たりのように体ごとザニスにぶち当てた。

 全力疾走の勢いを殺さぬ突貫に流石のザニスも体の軸がブレる。

 返す刀で叩き込まれた肘鉄がベルの横腹に突き刺さり、ぐしゃりと乾いた音がルームを貫く。

 ベルの口から鮮血が飛び散った。

 

 凄まじい勢いで地面に叩きつけれてその衝撃で跳ね上がったベルを、ザニスの回し蹴りが吹き飛ばす。

 壁際に走っていたリリを追い越し、ベルはノーバウンドで壁に激突した。

 そのまま、壁に鮮血を擦り付けながら地に落ちる。

 

「べ、ル……様……?」

 

 ベルの下に作られる血溜まりを見て、瞳と声を震わせながらリリが呆然と呟いた。

 

 たった一分。

 たった一分だ。

 たった一分で、ベルは戦闘不能に追い込まれた。

 

「はっ! 多少は動けたようだが、Lev.1のガキが俺に敵うはずがないだろ」

 

 これがLev.2。

 これが上級冒険者。

 これが壁を一つ超えた冒険者の力だ。

 

 冒険者の強さとは基本的にステイタスの強さだ。

 重ねた年月、積み重ねた努力。その全てをゴミのように蹴散らすのがステイタスの差。

 同じレベルでもそうなのだ。レベルが違えば話にもならない。

 だからオラリオでは『レベルが一つ違う相手には勝てない』と、さも共通認識のように言われているのだ。

 これは、誰でも知ってる当たり前の話。

 

「だから言っただろう。弱者に正義を語る資格はないとな」

 

 自身に飛び掛かるキラーアントを、まるでゴミを手で払うように一刀両断するザニスが一歩、また一歩とベルへ近づく。

 不意に、その足が止まった。

 

「ぶ──はははははははははっ! おい、なんだそれは!? どういう心変わりだ!? なあ、アーデ!」

 

 ザニスの前に立ちはだかったリリが、ベルの前で両手を広げていた。

 まるで、これ以上は進ませないとでも言うように。

 

 リリは何も答えない。

 必ず来る衝撃の準備をするように体に力を込め、必ず訪れる死を恐れるようにぎゅっと目を瞑り、されど震える足は一歩たりとも動かない。

 

 絶対にこの場所を動かないと、その姿が何よりも雄弁に物語っていた。

 

(……心変わり、なんでしょうか)

 

 リリ自身にも、なんで自分がこんな事をしているのか正確には分からない。

 冒険者を庇う? 今まで冒険者にずっと酷い目に合わされてきたのに? 

 過去のリリが今のリリを見れば、気が狂ったのかと唾を吐くだろう。

 

 ただ、一つだけ言える事があるとすれば。

 

 リリは嬉しかったのだ。

 嬉しかった。ベルが来てくれことが、嬉しかった。

 大切な木刀を奪ったのに。毒を使って死ぬかもしれない目にあったのに。

 自分みたいな悪人を助けるために……独りにしないために来てくれたことが、嬉しかった。

 そのために一度完膚なきまでに負けた相手に、使い慣れない武器を使ってまで挑んでくれたことが、嬉しかった。

 

 それが欺瞞や偽善では出来ない行為だと、人の悪意を一身に受けてきたリリは知っている。

 

 誰も助けてくれないと思っていた。誰にも助けられる価値なんかないと思っていた。

 ずっと独りだと思っていた。独りで当たり前だと思っていた。

 そんな自分の頭を優しく撫でて、微笑んでくれたことが、心の底から、嬉しかったのだ。

 

 そんなベルが、自分なんかより先に死んでしまうのは許せなかった。

 

 リリには強大な敵に立ち向かう勇気はない。

 それは正義の資質だから。悪であるリリにはないものだ。

 でも、守るために死ぬことは悪のリリにもできるから。

 

(ごめんなさい。助けてくれたのにごめんなさい。こんなリリを独りにしないでくれたのにごめんなさい。でも、せめて。ベル様を先に死なせることだけはしません)

 

 それが、愚図で無能な役立たずのサポーターに出来る、最初で最後の恩返しだった。

 

「……つまらねえ。そんなに死にたいならモンスターに喰われてさっさと死んじまえ」

 

 なんの反応もせずただ硬く目を閉じるだけのリリに直ぐに興味を失ったザニスが手を止める。

 意図的に作った隙を突くように飛び出したキラーアントをひらりと交わし、そのままキラーアントは目の前の獲物、リリに飛びつく。

 強靭な顎がギロチンのようにばっくりと開かれた。

 

「──っ!!」

 

 迫る死の気配。

 目を閉じているリリには状況はよく分からなかったが、死の間際に鋭敏になった感覚が今度こそ死ぬと告げていた。

 死ぬのは怖い。嫌だ。だって、やっと自分を独りにしないでくれる人を見つけたのだ。

 でも。

 すぐにその人が死んでしまうのだとしても……。例え、一回きりの肉盾としてだったとしても……。

 

(守って、死ねるのなら。こんなリリの人生にも、きっと意味はあったんです)

 

 死に怯えながら、死を受け入れて、リリは死の痛みを覚悟した。

 

「──────……?」

 

 だが、いつまで経ってもその痛みはこない。

 恐る恐る目を開ければ、血に濡れた背中がいつの間にか目の前にあった。

 

「男なら……」

 

 ごぼり、と。

 血を吐きながらベルは短剣を構える。

 

「例え死んでも……」

 

 満身創痍。

 真っ白な髪は鮮血で汚れ、短剣を振るうその姿はあまりにも弱々しい。

 

「女を、守れ──!!」

 

 だが、その深紅の瞳はカケラも諦めてなどいなかった。

 

 ベル達を襲うキラーアントが灰へ変わる。

 背中で剣戟を聞いたザニスが、幽霊でも見たかのような表情で振り返っていた。

 

「なんで生きてんだ……? いや、なんで動けて……動けるはずがないっ!」

 

 ザニスに傷はほとんどなく、ベルは誰が見ても重体と断ずる血塗れ。

 それは両者の間にある力の差を明確に証明する。

 

 勝てるわけがない。

 誰もがそう思うだろう。

 ザニスは最初からずっとそう考えていた。確信していたと言ってもいい。

 リリですら、勝つことを諦めていたのだから。

 

 だが、ベルは一度も勝てないと考えたことはなく。

 正義の灯火は未だ燦然と燃え上がっている。

 

 ベルが一歩踏み出す。

 それだけだというのに、ザニスは無意識のうちに一歩下がった。

 

「ぁぁぁぁあああああああああっ!!!」

 

 それは獣の咆哮だった。

 千切れかける意識を無理やり手繰り寄せて、立ち上がるために命のカケラを咀嚼して心を燃やす。

 

 ザニスが気圧される。

 Lev.2にまで登り詰めたザニスが、たった一人のLev.1の冒険者の気迫に後ずさっていた。

 

「勝たないと……」

 

 昏く、儚い呟き。

 誰もが息を呑む。ザニスも、リリも、大群になりつつあるキラーアントでさえ、動けないでいた。

 

 傷がない場所を探す方が難しい体で、今にも消えてしまいそうな命の炎と、永遠に消えることなく燃え上がる正義の篝火をその胸に。

 死相を相貌に貼り付けたベルは、それでもなお『未来』を見据えてザニスを睨む。

 

「絶対に死なせない……っ!」

 

 だから、絶対に勝つ。

 血を滴らせながら、三度ベルは武器を構えた。

 

「……何やってんだ、俺はッ!」

 

 ベルに、格下如きに気圧されていたことに気付いたザニスが苛立たしげに舌を鳴らす。

 それを振り払うように、ザニスはLev.2の脚力を持って踏み込んだ。

 

 Lev.2の冒険者の全力駆動。風圧すら発生させるほどの高速移動。

 今度こそ必殺の威力を秘めた片手剣がベルへと振り下ろされる。

 ベルの脳裏を過ぎったのは、かつての戦い。

 

 一度目の戦いは人気のない路地裏。

 ザニスの剣を受け止めた木刀ごと吹き飛ばされ、為す術もなく倒された。

 二度目の戦いはダンジョン。

 使い慣れない短剣で食らいつき、されど短い時間を稼いだだけでボロ雑巾のように転がされた。

 

 なら、これは三度目の戦い。

 ザニスにベルを殺す意思がある以上、これが最後の戦いになるだろう。

 

 迫りくる片手剣を見据えながら、ベルは──。

 

 

『……ベル。絶対に使うなと厳命します。でも、もし、必死に抗って、それでも打つ手がなくなるほどの危機に陥ったときには──』

 

 

 ──すみません、と心の中で呟いて。

 

「【アーティファクト・ケラウノス・レプカ】」

 

 アストレアから教えられた"おまじない"を、口にした。

 

 

 

 

 

 雷の柱が屹立する。

 

 

 

 

 

「な──んだこれは!?」

 

「きゃぁ──っ!?」

 

 それはまるで雷が落ちてきたようだった。

 物理的な破壊力すら生じさせる膨大な魔力の余波。

 それだけでザニスが吹き飛ばされた。

 

「ベル……様……?」

 

 リリは見た。

 雷の落ちたその中心で、まるで雷を纏うように立っているベルを。

 

「──は?」

 

 ザニスは見た。

 雷を纏ったベルが、力を込めるように屈んだのを。

 

 直後、雷鳴を轟かせながらベルはザニスの目の前に"現れた"。

 

「死に損ないが──!! どうなってるんだ!? あぁ!?」

 

 しかし、ザニスとてLve.2の冒険者。

 そこに磨き抜かれた技はなく、高ステイタスのゴリ押しによる戦いであっても、高いステイタスに裏打ちされた地力がある。

 大地を疾る雷のように一瞬で現れたベルにザニスは見事反応して見せた。

 雷を『付与』した短剣が悲鳴のような炸裂音を掻き鳴らし、ザニスの振るう片手剣とぶつかり合う。

 断末魔のような高音と共に短剣が折れた。

 

「──づ、あああああぁ!?」

 

 そして、ベルの攻撃を受け止めたザニスを後追いの電撃が襲う。

 体を焼く雷撃に堪らず地面を転がるザニス。

 ザニスの体から溢れた雷の余波だけで近くにいたキラーアントの半身が消しとんだ。

 

 あまりの光景にリリが瞠目する。

 Lev.1の冒険者に許されていい代物では到底なかった。

 こんな【魔法】は見たことがない。

 いや、【魔法】なのか? 

 目の前のこれは本当に【魔法】なのか? 

 数多くの冒険者を見てきたリリの直感が、これは【魔法】とは似て非なるものだと叫んでいた。

 

「ふざけんじゃねえ! なんだこれは!? なんだよこれはぁ!!? ぐ、がああああああっ!!」

 

 ベルが動くたびに雷が落ちたかのような轟音が空気を叩く。

 雷鳴を轟かせるベルが、折れた短剣を鈍器のように使用してザニスを殴っていた。

 必死にその速さに喰らいつくザニスが片手剣でそれを受け止めるが、受け止めるたびに追撃の雷撃が体を焼く。

 雷に焼かれながら、それでも倒れる気配のないタフネスは流石のものだ。

 

 二人の攻防の余波だけでキラーアントが消し飛んでいく。

 やがて、二人を囲うようにキラーアントが動きを止めた。まるで、これ以上近づけないかのように。

 

 攻撃を裁くことに必死なザニスは気付かない。

 モンスターは気付くわけがない。

 だから、リリだけがそれに気がついた。

 

「……この、臭い、は……!?」

 

 鼻を刺すような刺激臭。

 リリはそれを知っていた。

 

 人の肉が焼ける臭いだ。

 

 ザニスか? 

 違う。確かにザニスは雷に焼かれていたが、それは今はまだ皮膚を焼く程度で収まっている。

 なら、この臭いは誰から? 

 考えるまでもない。

 ベルからだ。

 ベルは、己の体を雷で焼きながら戦っていた。

 

「──────ぁ」

 

 自分のダメージを顧みない戦い方をする者はいない。

 人には意思があるからだ。痛みを忌避する生体反応があるからだ。

 ならば、それを無視できているということは、意識が正常な状態にないことを意味する。

 

 事実、ベルは半ば意識を飛ばしていた。

 意識を飛ばしながら、戦っていた。

 勝たないと死ぬから。

 倒さないと死んでしまうから。

 ベルが? 

 もちろん、ベルもだ。だが、そうではない。そうではないのだ。

 意識を飛ばしてまで守るほど自分の命が大事なら、そもそも首を突っ込まなければよかったのだから。

 だから、ベルがそこまでして守りたかったものは。

 

「リリ、を──っ!」

 

 思わず口を手で覆う。

 リリの瞳からまだ残っていたのか、雫が零れ落ちた。

 

 戦いは苛烈する。

 ベルから溢れ出す雷はベルの体を焼いていたが、皮肉なことにそれが止血の役割を果たしていた。

 故に、まだ動ける。

 

 だが、このまま動けばそう遠くないうちにベルの命は尽きるだろう。

 過ぎたる力はいつだって使用者を自滅させる。

 

 なんとかしなければならない。

 リリがやらなければならない。

 

 ベルを死なせたくないのなら。

 リリが、ベルを止めなければならない。

 

(どうやって? どうやれば止まるんですか? 声をかければ? ダメだ、それじゃあベル様には届かない。何か物理的な衝撃を与えないと……でもどうやって? あれに近づくんですか? 無理です! リリなんかより遥かに早い──リリでは目で追うのもやっとの世界なんですよ!? 出来るわけがない! でもやらないとこのままじゃベル様がでも仮に近づいたとしてもリリだとあの雷に阻まれて触ることもできないどうすればどうすればこのままじゃでもリリには出来ないでもベル様がどうすればどうすればどうすればいいかどうすれば──!!)

 

 リリは、強大な力を持つ相手に立ち向かえない。

 リリが弱いから? 

 それもある。だが、ベルはザニスより明確に弱かったが、怯むことなく立ち向かった。

 二人の違いは勇気の違い。

 そして、立場の違いだ。

 

 格上の相手に挑むのはいつだって正義の資質を持つ者。

 古今東西、あらゆる強大な悪に立ち向かう者として正義は語り継がれてきた。

 リリは悪だ。だから立ち向かえない。

 リリには資質がない。だから動けない。

 

 リリには、何もできない。

 

(──でも! でもっ!! このままじゃ、ベル様が──っ!!!)

 

 いつものリリなら、諦めていた。

 いつものように諦めていた。

 卑屈になって、配られた才能というカードが弱かったせいだと、諦めてしまっていた。

 だけど。

 そんなリリでも、ベルを諦めることは出来なかったから。

 

(どうすればどうすればリリに出来ることリリがしなければいけないこと────ぁ、あれ、は)

 

 どんな時でも諦めない。

 ベルから燃え移った正義の炎の燻りが、リリにそれを見つけさせた。

 

 

 

『おい、カヌゥ。アーデが持ってたこの木刀どうするよ』

 

『あぁ? 木刀だぁ? あのガキが使ってた武器か……まあ、多少の金にはなるだろうが、木刀売ったって端金だろうが。捨てとけそんなもん』

 

『だろうな。そらよっと!』

 

 

 

 それは、リリが奪ったベルの木刀。

 カヌゥたちが価値がないと判断して捨てた、ベルの武器。

 キラーアントの大群に飲み込まれ見えなくなっていたそれは、巻き添えを嫌ったキラーアントがベルから離れたことによってその姿を見せていた。

 

(──あれなら、届くかもしれないっ!!)

 

 木刀の場所はキラーアントのすぐ目の前。

 拾いに行けば死ぬかもしれない。

 目の前にのこのこやってきた獲物を逃すほどキラーアントも馬鹿ではない。

 恐怖はあった。だけど、リリはその一歩を踏み出すことを躊躇わなかった。

 

 格上に挑むその勇気を。

 人は、正義と呼ぶ。

 

「ぁぁぁぁぁぁぁぁあああああっ!!!」

 

 叫ぶ。

 ベルのように。

 己を奮い立たせ、リリは走った。

 

 キラーアントが突っ込んでくる獲物に容赦なく四本の鉤爪を薙ぐ。

 貧弱な小人族のサポーターなど紙切れのように引き裂いてしまう致死の攻撃。

 

「リリだって──リリだってぇぇぇぇえええっ!!!」

 

 リリは、あえて飛び込んだ。

 キラーアントの胴体の下にリリが潜り込むのと、鉤爪がリリのいた空間を引き裂くのは同時。

 逃げ遅れた髪の毛が宙を舞う。

 勢いよく地面を転がりながら、リリは堅く木刀を掴んだ。

 

「あああああああああああああああああっ!!!!!!」

 

 そのまま木刀を真上に突き刺す。

 リリの非力な力……だが、業物である木刀はキラーアントの胴体を確かに貫いた。

 運良く魔石を砕いたのか、キラーアントが灰へ変わる。

 行き着く間も無く、リリはごろごろと転がりながらキラーアントの群れから離脱した。

 木刀を絶対に離すまいと抱きしめながら。

 

 見に纏うはボロ切れ同然の布の服。

 鼻が折れた顔は見るも無残で、泣きはらした目元と合わせて酷いことになっている。

 殴られ、蹴られ続けた体は青痣だらけで、動くだけで痛いし、骨だって折れている。

 

 油断したら転がりでそうな弱音を蹴っ飛ばして、リリは立ち上がった。

 

 木刀を構える。

 ベルがそうしていたように、見様見真似で。

 心を落ち着けるように深呼吸を一つして。

 

(きっと、ベル様なら──っ!!)

 

 リリは、ベルに向かって駆け出した。

 

 ベルとザニスの剣戟を目で追うことはできない。

 でも、場所はわかる。

 ベルのその雷の轟が場所を教えてくれる。

 

 怯える体の尻を蹴り上げ。

 震え上がる心を怒鳴りつけて。

 すくむ意思を勇気で捻じ伏せ。

 

「ベル様──」

 

 木刀を振りかぶる。

 リリに気が付いたベルが迎撃しようとして、不自然にその動きが止まった。

 

(ああ、やっぱり──)

 

 その瞬間をリリは見逃さなかった。

 

「目を、覚まして──ッ!!!」

 

 リリの振るった木刀が雷を突き破ってベルの胴を打ち据え、ぶっ飛ばした。

 




雷神の贈り物はダンまち名物チートに分類されるものですが、ばかすこ使われても困るのでとんでもない制約が付いてます。

次回ラストバトル。そろそろ決着が見えてきました。
あと、誤字報告いつもありがとうございます。助かってます。

次話。
→ベル・クラネルとザニス


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ベル・クラネルとザニス 

 僕はずっと一人で泣いていた。

 

 恐ろしい怪物を見て気絶してしまった僕が目を覚ましたときには、もう全てが終わってしまった後で。

 血は繋がっていなかったけど、たった一人の大切な家族だった大好きなお爺ちゃんは居なくなっていた。

 

 村はあちこちがめちゃくちゃで。

 地面がひっくり返ったみたいに目に映るものの殆どが壊れてしまっていて、村がそんな状態だったから、家族を亡くした僕を気にする余裕は誰にもなかった。

 運良く壊れてなかった物置に閉じこもったのは、世界から自分の居場所がなくなったように感じたから。

 生きていることを喜び合う家族の姿が、その時の僕には身を引き裂くように辛かった。

 

 孤独だった。

 独りぼっちだった。

 涙は次から次から溢れてきて、『男が泣くな』って言いながらもぎこちなく頭を撫でてくれていたお爺ちゃんももういない。

 これからどうすればいいのかも分からない。

 胸の真ん中に空いた悲しみの穴はとても深くて、際限なく落ちていくようだった。

 お爺ちゃんのいない世界から逃げるように、辛い現実から心を守るように。

 僕は一人で孤独の渦に閉じこもろうとしていた。

 

 そんな僕を連れ出してくれた神様がいた。

 

『家族を失ったという子どもは貴方ね』

 

 伸ばされた手がどれほど嬉しかったか覚えてる。

 抱きしめられた温かさを覚えてる。

 ずっと側にいてくれたその優しさに、僕がどれほど救われたか。

 

 そのとき僕は思ったんだ。

 

 僕と同じように、独りで悲しんでいる誰かがいたのなら。

 他に何ができてなくても……この手を伸ばし、一緒にいてあげたいって。

 

 きっとそれが僕の原点。

 僕が信ずる正義の形。

 

 神様の中に見た、とても優しい正義の在りどころ。

 僕もそう在りたいと強く想った。

 

 だから、さ。

 

 立て。

 立てよ。

 立てッ! ベル・クラネル! 

 

 お前は誓ったはずだ。

 あの子を助けると決めたはずだ。

 独りで泣いているあの子に手を伸ばすと正義を叫んだはずだ。

 

 お前が諦めればあの子は死ぬぞ。

 お前が折れればあの子は死ぬぞ。

 助けるんだろう? 

 泣いて欲しくないんだろう? 

 寂しそうなあの子の側にいてやりたいんだろう? 

 

 だったら立て。

 立って戦え。

 相手が強いならお前も強くなれ。

 今勝てないのなら一秒後の未来で勝てるようになれ。

 

 お前が助けたいと思う全てを助けたいのなら! 

 今、ここで! 

 全てを助けられるような英雄になって見せろ! 

 

 立ち上がれッ! ベル・クラネル!! 

 

 弱い自分を叩きのめせ。弱音を吐く心は蹴っ飛ばせ。

 自分を奮い起こして。強い英雄みたいな男になって。

 

 リリを守れ、ベル・クラネル。

 僕は。

 あの子を、助けたい。

 

 

 

 

 

 ☆☆☆

 

 

 

 

 

 完全に意識を失ったのは一秒。

 一秒で意識を取り戻したベルが眼前に納めたのは、鍵爪を自分に振り下ろすキラーアント。

 無我夢中で横に転がって回避して右腕で地面を押し付けて跳ね起きる。

 

「あぐっ……、ああああああっ!!」

 

 その動作だけで視界に火花が散った。

 神経が焼きつくような痛みが体の動きを阻害する。

 それを意志の力で強引にねじ伏せて、握り締めていた刀身の折れた短剣をキラーアントに突き刺した。

 

 絶叫のような断末魔を挙げてキラーアントが沈黙する。

 すぐさまバックステップで距離を取るベルは、最大音量で警鐘を鳴らす本能に導かれるままに横っ飛びに飛び込んだ。

 

「んのっ、ガキがあああああああっ!!! 舐めてんじゃねえッ!!!」

 

 半月の軌跡を描く片手剣が超高速で振るわれる。

 間一髪それを避けたベルの背後からその隙を狙うように突進したキラーアントを、片足を軸に駒のように回転した回し蹴りで蹴り飛ばし、ベルはザニスを見据えた。

 

「ハァ……! ハァ……! 調子に乗るんじゃないぞ……! ハァ……Lv.1の分際で……!!」

 

 焼け焦げたような装備を身にまとい、乱れた髪の隙間からベルを憎悪の視線が貫いている。

 最初、ザニスにはどこか遊んでいるような雰囲気があった。

 折の中に入れた小動物を一方的に殺す時のような、自分が絶対的な強者だと認識した者が持つ嗜虐的な殺意があった。

 それがもはや欠けらもない。

 今のザニスが滾らせるのは憤怒の殺意。

 頭に血が上った人が衝動的に人を殺すような、感情の爆発による殺意だ。

 叩きつけられる殺意、その純度が最初とは比べ物にならない。

 痺れでもしているのかその動きには何処か陰りが見られ、息を荒げるその姿から常に保持していた余裕は消え失せていた。

 

「……」

 

 一瞬。

 一瞬、ベルは状況の把握に時間を要した。

 

 何が起こったか分からなかった。気が付けば無敵に思えたザニスが身体中に傷を作り血を流していた。

 見るからに満身創痍。

 何かがあったことは明白。だが、何があったか分からない。

 

「っ! リリっ!?」

 

 記憶の空白に気付いたベルがザニスから視線を切ってまで必死にリリを探す。

 ベルの後方、ベルの血溜まりがある壁際。そこに不完全燃焼を起こしたゴミのように燻った白煙を上げる小さな女の子がいた。

 見つけたリリは、うつ伏せに倒れたままピクリとも動かない。

 

「リリッ!!!」

 

 体を苛む苦痛も忘れて、ベルは飛ぶようにリリの元へ走った。

 

「リリッ! リリッ! 返事をして……! リリッ!」

 

 抱き上げた小さな体はボロボロだった。

 肌が見える箇所はところどころ焦げたように黒ずんでいて、特に腕は酷かった。

 元の白い肌が一切見えぬほどに、その腕は破壊され尽くしていた。

 目を閉じた血塗れの顔に生気はなく、生きているのか死んでいるかさえ表情からは分からない。

 弱々しい、今にも途切れてしまいそうな呼吸をしていなければ、ベルはリリが死んでしまったと絶望していただろう。

 

 リリが生きていた事に安堵しかけて、その手に堅く握りめられた木刀を見つけて、心臓が止まるかのような衝撃を受けた。

 

 それは間違いなくベルの木刀で、リリがベルから奪っていった木刀で、ベルがリリを見つけたときには、もう何処かに行ってしまっていた木刀だった。

 リリの小さい体、それもバックパックを引き裂かれていたリリが隠し持てるようなものではない。

 ベルは木刀の行方に思考を回す余裕がなかったが、それでもリリもザニスも木刀を持っていなかった時点で、木刀で戦うという選択肢を捨てていた。

 あるかないかも分からない武器を頼りに戦えるほど生易しい相手ではなかったから。

 

 だが、木刀はあったのだ。

 このフロアの何処かにあったのだ。

 それが今、リリの手の中に握られている。

 

「この中から見つけてきてくれたんだ……」

 

 周囲はキラーアントの大群。

 地面に転がっていただろう木刀を見つけることは容易ではなかっただろうし、それをリリが取りに行くのも正しく命懸けのものだった。

 ベルは不自然な記憶の空白でそれを見ることはなかったが、現状からの推察でそれを知った。

 知って、感謝した。

 

「ありがとう。……少し、休んでて。終わらせてくるから」

 

 木刀を握る。

 絶対に離すまいと握り締められたリリの手は無意識でも木刀を離すことはなかったが、ベルがもう片方の手でリリの手を優しく握ると、ふっと力が抜けた。

 

『信じてます、ベル様』

 

 そう、言われた気がした。

 

 そっとリリを地面に寝かせて立ち上がる。

 裏拳を叩き込むように背を向けたまま木刀を振るった。

 二人を殺そうと飛びかかってきていたキラーアント二匹が真っ二つになり纏めて灰へと姿を変える。

 薄暗い迷宮の光を反射し雪のようにはらはらと舞う灰を浴びながら、ベルはザニスへと木刀の切っ先を向けた。

 

「訳わかんねえ雷はお終いか? ハァ……ぶちのめしてもぶちのめしても……ハァ……何度お前は立ち上がってくる! えぇ!?」

 

 自分に襲いかかってくるキラーアントを無造作に両断しながらザニスが叫ぶ。

 

 心をへし折ったはずの路地裏での戦い。

 殺したはずのダンジョンでの戦い。

 

 二度の地獄を得てなお立ち向かってくるベルに、ザニスは言い知れぬ不気味なものを感じていた。

 

「そこの役立たずが何かしてくれか!? 命を懸ける理由があるか!? ないはずだ! そこで転がってる小人族は愚図で無能でなんの役にも立たないサポーターで、金欲しさに盗みを行うクズだからだ! 同じファミリアの仲間ですら助ける価値もねえ! 生きる資格もねえ! それを……! 何度そんな奴のために殺されりゃ気が済むんだ!?」

 

「僕がリリの味方をしたいと思ったからだ」

 

「その価値がッ! ねえって言ってるんだよ!!」

 

「助けられる価値のない人なんていない! 悲しんだままでいい人なんていない!! お前たちが……! 同じファミリアなのに……! 家族なのに……! お前たちがリリを虐めるから、あの子は独りで泣くしかなかったんだろ!!!」

 

 ベルの脳裏にリリの涙が蘇る。

 

「世界がもう少しリリに優しかったら……ファミリアがほんの少しでもリリに優しかったら……! 誰かがリリに優しくしてあげられてたら……!! あの子はもっと……!! 笑って生きられたはずだ!!!」

 

 叫んで、駆ける。

 木刀を握りしめ、二度も自分を叩きのめした相手へベルは真正面から突っ込んだ。

 

「はっ! 威勢だけはいいが! それでお前に何ができる! この世界は弱者が強者に奪われ続けるように出来てるんだよガキ!!」

 

 馬鹿正直に真正面から突撃してくるベルにザニスの片手剣が袈裟懸けに振り下ろされる。

 迎え撃つ態勢のベルは走りながら体の横に地面と平行に木刀を構える紫電木こりスラッシュの予備動作。

 

 それはいつかの焼き直し。

 ベルの攻撃がザニスの攻撃に一方的に押し負けて決着となった、あの路地裏の再現。

 

(馬鹿がッ!)

 

 ザニスが勝利を確信して笑う。

 

 だが、ベルは紫電木こりスラッシュを放たなかった。

 

「っ!?」

 

 加速。

 全速力からの死力を絞り尽くしたもう一歩。

 それがザニスのタイミングを狂わせ、片手剣がベルが走り去ったゼロコンマ一秒後の空間を切り裂く。

 ザニスの背後で地面を踏み砕いて急制動をかけたベルが、その反動を利用して跳び上がった。

 大上段に振りかぶられた木刀。

 攻撃を振るった直後のザニスは反応できない。

 

 冒険者の力とはほぼステイタスで決まる。

 重ねた年月、積み重ねた努力。ステイタス差はその全てをゴミのように踏みにじる。

 

 だが。

 

 己よりも強い相手に食いさがり、一瞬の隙に相手の急所へ牙を突き立てるために必要なのは、重ねた年月であり、積み重ねた努力だ。

 

 高いステイタスでゴリ押す戦いを長年続けていたザニス。

 毎日の鍛錬を欠かさなかったベル。

 

 冒険からずっと離れ、他人を使い金を稼ぐ方法ばかり模索していたザニス。

 格上との連戦、圧倒的な敗北を得てもっと強くなりたいと技を磨き続けていたベル。

 

 共に満身創痍の今、その両者の違いが表出する。

 

 

『必殺技の特訓よ、ベル』

 

 

 アストレアとの特訓の日々が、強くなるために木刀を振るった時間が、リリを助けるために汗を流し続けたあの夜が、今、ベルに格上に突き立てる牙を与えた。

 

「霹靂薪割りクラッシュ!!」

 

 勝つために編み出したベルの新必殺技が、渾身の力を込め振り下ろされた木刀がザニスの左肩を直撃した。

 

「が、あああああああっ!?」

 

 斬るのではなく潰すための一撃。

 斧で薪を叩き割るように、破壊力だけを求めた大上段からの一撃がザニスの軽鎧を砕き、その衝撃は骨にまで伝う。

 瞬きよりも短い刹那にスパークした雷光が、明確に引き出した雷神の贈物の残滓がベルの意識外で必殺技の破壊力を上げていた。

 ザニスの左肩にヒビが入る。脳を貫くような痛みが、雷撃で肌を焼かれるのとは別の、久しく忘れていた体の内側を壊される痛みがザニスの動きを一瞬止めた。

 

「おおおおおおおおおおおおおおっ!!!」

 

 その隙を、ベルは逃さない。

 

「しまッ──ッ!!」

 

 放たれるは力一杯の横薙ぎに振るわれる一撃。

 紫電木こりスラッシュ。

 雪辱は晴らすぞ、と言わんばかりに。

 半円を描く木刀がザニスの胴に叩き込まれた。

 

「ぐゥッ!!!」

 

 ザニスが吹き飛ぶ。

 剣の腹を盾に使われ斬られこそしなかったが、威力を殺しきれずにザニスはキラーアントの大群に頭から突っ込んだ。

 巻き込まれ何匹か灰になるキラーアント。わざわざ飛び込んできた獲物を絶命させようと近くにいた生き残りが四方八方から鉤爪で襲う。

 

「舐めるなァ!!!」

 

 その全てをザニスは蹴散らした。

 めちゃくちゃに振るわれる片手剣が次々とキラーアントを斬り刻んでいく。

 ザニスには目もくれず、両者が離れたことにより意識のないリリを狙い始めたキラーアントの迎撃に移っていたベルを目掛けてLv.2の脚力で邁進する。

 最後の剣戟が始まった。

 

「クソが! クソクソクソクソクソッ!!! 俺を誰だと思ってやがる!! カスの分際で……!! この俺が……ッ!!」

 

「だからどうした! お前がリリを泣かせる事に変わりはないッ!!!」

 

 無事な右腕で高いステイタスに任せて振り回すザニスの片手剣を、磨いた技でもってベルが受け流していく。

 アストレアの木刀は例え真正面から受けたとしてもビクともしない。

 

「目障りなんだよ!! お前の言動が! 正義が!! この世界を知らないガキが自信満々に理想を語ってやがるッ!! 何度現実を教えてやっても歯向かってきやがる!! 諦めろよ! 鬱陶しいんだよッ!!」

 

「絶対に諦めない!! リリが泣いている限りッ!! 僕は何度だって立ち上がり続ける!! 何度だってお前に挑み続けるッ!! そう決めたんだ!!」

 

 ザニスの振るう片手剣の嵐を掻い潜るベルが下から掬うように跳ね上げた木刀がザニスの剣の持ち手を弾く。

 未だ体に残り続ける痺れにより落ちていた握力が決定的に緩み、ザニスが片手剣を取りこぼした。

 

「それが目障りだっで言ってるんだよォ!!!」

 

「ぐ、ううっ!!!」

 

 折れた左肩を無理やり動かしたザニスの左拳がベルの腹に突き刺さる。

 火傷により止血されていた傷が一斉に開き、命の水が溢れ出す。

 白く染まりかけた意識の隅で倒れ伏してたリリを見て、奥歯を噛み砕くほど噛み締めたベルは負けるもんかと踏み込んだ。

 

「何か奇跡が起きてお前が勝ったとしても!! 周りはキラーアントの大群だ!! 意識のないアーデを連れて地上まで戻れるか!? 無理だろうがッ!! 勝っても負けてもお前らは死ぬんだよッ!! 自分の武器奪った盗人のために死ぬのか!? お前の言う正義は罪人のために無駄死にする事だってんなら飛んだ笑い話もあったもんだなァ!!!」

 

「違うッ!! 僕がここでお前に勝たないとリリがお前に殺される!! 正義なき悪意に殺されてしまう!! だから戦うんだッ!!! だから絶対に勝たないといけないんだッ!!!」

 

 ベルの振るう木刀を頭を守るように肘を曲げた両腕を前にし体を丸めた防御姿勢で耐え凌ぐザニス。

 片手剣を落としたのはいいが、インファイトの間合いに踏み込ませてしまった時点で窮屈な態勢で木刀を振るわなければならず、威力が乗り切らない。

 その状態でも果敢に攻め込み続けるベルの技量は高かったが、ザニスはそれを耐久値にモノを言わせて強引に突破する。

 

「だから……!! それが無理だって言ってんだよッ!!! お前はLv.1で! 俺はLv.2だ!! 世の中どうにもならない事なんて腐るほどあるッ! 残酷な世界の現実を知るほどに夢も見れなくなるッ!! 正義なんて言葉も口に出来なくなる!! 何度でも言ってやる!! 弱者にッ! 俺に負けるお前にッ!! 正義は語れないッ!!!」

 

 被弾覚悟の踏み込み。

 木刀を叩き込まれようが必ず殴るという絶殺の意志を込められた踏み込みが大きく振りかぶられた右拳を運ぶ。

 今すぐ死んでもおかしくないような状態で命を削りながら戦っていたベルがそれを食らえば、間違いなく死ぬという致命の一撃。

 Lv.2の力、耐久、敏捷、器用、その全てのステイタスを前面に押し出した、ステイタス差があるからこそ必殺たり得る一撃をザニスは勝負を決める一撃として選んだ。

 

 選んでしまった。

 

「この世界がどれほど残酷でッ!」

 

 臆する事なくベルは前へ踏み込んだ。

 一歩も下がらない。

 狂気にすら見える勇気を持って。

 跳ぶ。

 

「お前がどれだけ強くてもッ!!」

 

 当たれば致死のザニスの拳がベルの頬を掠めていく。

 頬が裂ける。

 拳とすれ違うように跳んだベルの体が宙に浮き、その一撃に全てを賭けていたザニスの体が勢いで前のめりになる。

 

「僕はお前を超えて行く!! この正義を叫び続けるッ!!!」

 

 狙うは砕いた軽鎧の隙間に見えるザニスの首元。

 宙にあるベルの体は地面と平行。

 体の横に木刀を構えた。

 

「紫電──」

 

 空中で放つのは勝負を決める必殺技。

 鍛錬し続けた、磨き抜いた努力に裏打ちされた格上に突き立てるベルの牙。

 

「──木こりスラッシュ!!」

 

 閃いた木刀が寸分の狂いなくザニスの首筋に叩き込まれた。

 

 そして、その一撃をもって。

 正義の在りどころを決める戦いが、終わった。

 

 

 

 

 

 ☆☆☆

 

 

 

 

 

 終わった、と。

 倒れて動かないザニスを見て思った瞬間、それを待っていたかのように今までの"ツケ"がベルを襲った。

 

「……あ」

 

 口から血が垂れる。

 なんか痛いな、と思ってお腹にあてた左手は赤黒い血に染まっていた。

 意識が落ちそうなほどの倦怠感。

 いや、そんな生優しいものではない。

 

 死が、ベルの足元にまで這い寄ってきていた。

 

 だが、ベルに倒れることは許されない。

 木刀を地面に突き刺して体を支え、ふらふらと今にも倒れそうになりながら、待ち侘びたと一斉に押し寄せたキラーアントを相手にベルは木刀を構えた。

 

「死なせない……」

 

 木刀を振るう。

 

「生きて帰るんだ……」

 

 木刀を振るう。

 

「リリを……独りにさせない……」

 

 血を吐きながら。

 腹から鮮血を飛び散らせながら。

 火傷で引きつる皮膚を引きちぎりながら。

 リリを襲うキラーアントを斬り捨て。

 ザニスを引き裂こうとするキラーアントを潰し。

 自分を狙うキラーアントを致命傷以外無視して、ベルは木刀を振るう。

 

 視界に見えるキラーアントの数はもはやバカらしくなるほどだった。

 ベルとザニスの戦いの巻き添えを嫌って散発的にしか襲って来なかったキラーアントがその本来の生態を見せていた。

 数による圧殺。

 広範囲攻撃手段や圧倒的なステイタス差のないベルにこの数を、しかも意識のない二人を守りながら戦うのは物理的に不可能だった。

 万全で、なおかつ一人なら生き延びることはできた。

 だが、今のベルでは……何をどうやっても、数十秒先の死にしか、『未来』が繋がっていなかった。

 

 最初から、この結末は約束されていたものだった。

 

 ザニスに負ければザニスに殺され。

 ザニスに勝てばこうやってキラーアントに殺される。

 これは、そういう道しか用意されていない、絶望の袋小路だったのだ。

 

 いくらベルが正義を叫ぼうと。

 いくらベルが死力を搾り尽くしてザニスを打倒しようと。

 それをモンスターが慮ってくれる訳がないのだから。

 

 残酷なことを言えば。

 これはベルの正義を示す戦いであり、弱いベルがどう死ぬかを決める戦いでもあった。

 

 ベルはザニスを倒した。

 己の正義を、信念を、『これだけは譲れない』という魂の芯を貫き通した。

 そして、誰も守れずに死ぬ。

 ベルが守れたのは己の正義だけで、己の正義しか守れない。

 そして、己の正義も守れない結末を迎える。

 

 "弱い"とはこういうことだ。

 これが"弱い"ということだ。

 弱ければ悪というわけではなく。弱ければ正義を名乗れないというわけでもなく。

 弱ければ、ただ残酷な世界に潰されて消えていく運命が待っている。

 

 "正義"と"力"は切っても切り離せない。

 ベルが掲げた『英雄』の正義。

 これには、ただ一つだけの絶対的な条件がある。

 

 ベル・クラネルが最強であること。

 

 助けたいと思うもの全てを助けたいのなら、何よりも、誰よりも強く在らねばならないのが道理。

 頂を目指し始めた兎には遥か遠く。

 だから、弱い兎はここで死ぬ運命にあった。

 

 ベルはまだ諦めていなくても。

 ベルはまだリリと笑い合う『未来』を必死に手繰り寄せようとしていても。

 

『それ』だけで奇跡が起きるのなら、この世界はもっと希望に満ちていた。

 

 だからこれは、最後の最後まで諦めなかったベルが掴み寄せた必然だった。

 

「……?」

 

 キラーアントの群れの動きが止まる。

 もう喋ることすら出来ない血みどろのベルが一瞬の疑問と、刹那の好機を見てキラーアントを四匹叩き切ったのと。

 それが現れたのは同時だった。

 

 冗談みたいに吹き飛ばされるキラーアント。

 一箇所に集めた何十個ものピンポン球を纏めて蹴り飛ばすような、そんな非常識な虐殺がベルの目の前で起こっていた。

 

「……」

 

 茫然とベルはそれを見ていた。

 

 まるで何かから逃げるように必死に激走し、そのついで……いや、歯牙にも掛けないで、ただ走るだけでキラーアントを轢き殺していく赤黒い巨体。

 蜘蛛の子を散らすようにキラーアントが迷宮に散らばっていく。

 生物としての"格"が違うと一瞬で分かった。

 ベルの人生の中で最強の相手だったザニスよりもなおその生物が放つ存在感は凄まじかった。

 

 そのモンスターの名はミノタウロス。

 中層以降に出現するLv.2に分類されるモンスター。

 ザニスを超えるポテンシャルを秘めている、今のベルでは奇跡を何重に重ね掛けしても勝てない圧倒的強者だった。

 

 ミノタウロスが爆走してくる。

 やけに後ろを気にしていてベルには気付いていないようだったが、その走行ルートはベルと重なる位置関係だった。

 ベルの近くにはリリとザニスがいた。二人を守るように戦っていたのだから当たり前だった。

 二人を連れて逃げるのはもう無理だった。

 このままじゃ二人が死ぬとベルは思った。

 死なせない、とベルは思った。

 何をやっても死ぬと確信した。

 走馬灯がアストレアとの記憶を引っ張り出した。

 

「……【アーティファクト・ケラ──」

 

 だから、教えられた通り、それを唱えようとした。

 唱えようとして、喉を迫り上がった血を吐き出した。

 冗談みたいな量の血を吐き出していた。

 身体中の血がなくなったんじゃないかと思った。

 ベルに気が付いたミノタウロスが邪魔だと言わんばかりにタックルの姿勢を取ったのが見えた。

 ベルは木刀を体の横に構えた。

 

 ベルが紫電木こりスラッシュを放つのとミノタウロスの胸から剣が生えたのは全くの同時だった。

 

「あの……大丈夫、ですか?」

 

 ミノタウロスが灰に消える。

 変わって現れたのは、女神と見紛うような、蒼い装備に身を包んだ、金目金髪の女剣士。

 

(なんで女神様がダンジョンにいるんだろう……)

 

 もう既に意識が朦朧としていたベルは、女剣士を見てそんな事を思って。

 

「あ、ちょっと……あれ……?」

 

 もう、大丈夫。

 何故か心の底からそう思えて、絶大な安心感に包まれながら、命懸けで繋ぎ止めていた意識を手放した。

 

 

 

 ☆☆☆

 

 

 

 何となく胸騒ぎがした。

 それだけの理由で、この日アストレアはバベルの前でベルの帰りを待っていた。

 杞憂だったならそれで良し。

 何事もないのが一番だと、どうか杞憂であってくれと願いながら、アストレアはベルを待っていた。

 

「どけェ雑魚どもッ!!」

 

 普段と代わり映えしないバベルの中に、荒々しい、しかし焦りも見られる男の声が響く。

 弾かれたようにその声の方向、ダンジョンの入り口に続く地下への階段の方に顔を向けたアストレアの目に映ったのは、大人の男と小人族の少女を抱えた狼人、そして死んだようにピクリとも動かない、全身血に濡れたベルをお姫様抱っこした金髪の女剣士だった。

 

「ベル……? ベ、ル……ベルッ!!」

 

 それを見た瞬間、アストレアの頭の中からあらゆる思考が吹っ飛んだ。

 出来るだけ自分の存在は隠しておいた方がいいということすら忘れて、目深にかぶったフードが外れそうな勢いでアストレアは走り出した。

 治療院に走っていく男たちをアストレアも我を忘れて追いかける。

 

「シル……そろそろ戻らねばミア母さんに怒られてしまう……」

 

「まだ大丈夫よリュー。ほら、もうすぐ怪物祭があるでしょ? 出店の出店リストをギルドが纏めてるはずだから、それに目を通しておきたいの」

 

「……私の記憶が正しければ、その日シルは店番のはずでは……」

 

「何とかする!」

 

「シル……」

 

 おつかいの帰りなのか、大量の食材を抱えた給餌服を着た女性と、必死に走るアストレアがすれ違う。

 

「……? どうしたのリュー。急に勢いよく振り向いたりして」

 

「……いや、何でもありません。気のせいでしょう」

 

「ふーん、変なリュー。……なんか今日、ギルドが少し騒がしいような……」

 

「……やはり早く帰りましょう。本当に怒られてしまう」

 

 感じた懐かしさを気のせいだと断じて、女性は友人と歩き出した。

 二人の行き先は正反対。未だその道は交わらず。

 

 女神の手がかつての眷属にもう一度伸ばされる日は、今はまだ。

 




ザニスにも冒険があった。それはそのステイタスが証明している。

次話。
→ベル・クラネルと盗人だった小人族。


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ベル・クラネルと盗人だった小人族

 ベルは清潔なベッドの上で目を覚ました。

 泥のような倦怠感に浸っている頭が一人の少女の姿を浮かび上げた瞬間、弾かれたように起き上がろうとする。

 が、激痛で起き上がれない。

 ベルの体と……命へのダメージは深刻なレベルにまで蓄積されていた。

 あれからどうなって、リリは無事なのか、女神様にお礼を言わないと、それにここは何処だろう、と最後の記憶を引っ張り出して現状の把握に努め始めたところで、ベルは痛む首を無理やり動かして周りを見る。

 

 そこは白を基調とした空間だった。

 白い天井に、白い床に、白いベットに、白い扉。

 ベルの右手側にある窓の白いカーテンは柔らかに風に揺れて、ゆらゆらと優しい陽だまり揺らがせている。

 

 見たことのない場所だった。

 当然、来たこともない。

 目が覚めたら知らない天井があった、なんてちょっとしたホラー体験である。

 しかし、体の感触からどうやら治療をされていることは理解できた。

 治療をされているということは、体が回復の過程に向かっているということだ。

 少しでも回復できているのなら、その前に死にかけの状態で動いていたのだから動けないはずがない。

 リリの無事を確かめないと、とベルは気合と根性で立ち上がろうとした。

 

「クラネルさん、目を覚ましたか──何をやってるんですかああああああああああああああっ!!?」

 

 立ち上がるなと涙が出そうな激痛で訴えてくる体を意志でねじ伏せて起き上がりかけたとき、ガラッと扉を開く音と共に少女の高い絶叫が響く。

 

「重傷者は大人しくする!! そうしないと治るものも治りませんっ!!」

 

 可愛らしい顔立ちに修羅の形相を浮かべた少女が、抑えつけるような勢いでベルをベッドに再度寝かせた。

 その手に労るような優しさがあって、その顔に動いたらベッドに縛りつけるという断固たる意志があった。

 勢いに呑まれかけたベルが一旦思考停止してされるがままに。

 キチンと安静に横にされた後で、リリの無事を確かめないと、とまた動こうとしたベルを優しく抑えつけながら、少女は呆れたようなため息と、好ましいものを見るような目で言った。

 

「小人族の少女も、ヒューマンの男性も無事ですよ。怪我も全て治しました。……貴方が一番危なかったんですよ。改めまして、おはようございます、クラネルさん。随分と知りたいようですし……このまま動こうとされても困りますので、差し支えなければ私からお話ししましょう。貴方が眠っていた三日間の話を」

 

 そうして、アミッドと名乗った少女の口からベルはザニスとの死闘からの、自分が眠っていた三日間を知る。

 

 事の発端、ベルが【ソーマ・ファミリア】の一部と衝突したのは、リリを残虐に痛め付けるカヌゥたちを目撃した事だ。

 ベルの中の正義がそれを見なかったことにする事を許さなかった。だからベルはリリを助けたいという一念のみで、己の限界すら超えて【ソーマ・ファミリア】の団長、Lv.2の冒険者であるザニスを打ち倒すという偉業を成し遂げた。

 

 一連の出来事を簡単にまとめるとこうなる。

 ベルは死力を尽くしたし、身体的にも精神的にも何度も叩きのめされ、その度に正義の炎を燃え上がらせ不屈の精神で乗り越えてきた。ベルが諦めていれば、恐らくリリはもうこの世にいることはなかっただろう。

 だが、これはあまりにも杜撰な過程を辿ったと言わざるを得ないものであった。

 

 ベルが見落としていたのは、潜在的なリリの敵の数だ。

 

 ベルはサポーターという存在がどのように扱われているか詳しくは知らない。

 リリを探してオラリオ中を駆けずり回っているときに、どうやらサポーターというのは冒険者たちに明確に蔑まれているという認識はあったが、その程度だ。

 つまり、ベルはザニスやカヌゥたちを何とかすればリリの不幸が終わると考えていた。

 

 大間違いだ。

 

 リリは盗人だ。盗みによってファミリアを脱退するための大金を稼いできた。

 リリが盗みによって得たお金の総額と、リリを恨む者たちの数は比例する。

 リリはリリの行いの結果として、このオラリオに少なくない敵を作っていた。

 

 さらに、リリにとって【ソーマ・ファミリア】の構成員は全て敵である。

 ザニスとカヌゥたちだけではないのだ。

 仮にザニスとカヌゥたちが暴力を用いてリリからヴァリスを奪うことをやめても、また別の誰かが同じことをするだけだろう。

 ベルは【ソーマ・ファミリア】を知らなかった。『神酒』を知らなかった。

 リリを本当の意味で救い出すには、ベルが挑むべき相手はザニスではなく【ソーマ・ファミリア】そのものだった。

 

 この点において、ベルは決定的に間違ってしまっていた。

 

 そして、そんな子どもの間違いを大人たちが正した。

 

【ソーマ・ファミリア】は神酒に取り憑かれ、神酒を飲むために手段を選ばずに金を集めるファミリアである。

 手段を選ばずに、だ。

【ソーマ・ファミリア】の団員たちの行き過ぎた行動は明確にオラリオの治安を乱していた。

 そんな存在を、オラリオの治安維持を担うギルドが無視したままにしておくはずがなかった。

 ギルドの【ソーマ・ファミリア】の担当職員は神酒により情報の改竄や真実が明るみに出ないように手を回していたが、【ソーマ・ファミリア】の団員たちの悪質な行為はもうすでにそれだけで抑えられる段階ではなくなっていたから。

 

 ギルドの一部の職員……胸に正義を秘める者たちは【ソーマ・ファミリア】を一斉検挙する機会をずっと窺っていた。

 

 そんな折に降って湧いた七階層のキラーアント大量発生、【ソーマ・ファミリア】の構成員である人によるリンチの痕がある少女と、死にかけの少年と体の傷からその少年に倒されたと見られる【ソーマ・ファミリア】の団長という情報。

 事情を聞きにきたギルド職員に当事者である少女が全てをぶちまけ、こうして証拠と裏どりが瞬く間に集まり、【ソーマ・ファミリア】一斉検挙の機会が巡ってくることになる。

 

 そうやって。

【ソーマ・ファミリア】という酒に魅入られた者たちによる悪意は一先ずの終わりをみた。

 ベルの知らないところで、ベルが知りようもない"大人たちの戦い"によって終わった。

 

 ただ倒せば終わるわけではない。

【ソーマ・ファミリア】はそういう悪意で、リリを助けるということ以外何一つ考えてなかった世界を知らないベルの後始末を、陰ながらずっと戦っていた大人たちの正義が終わらせた。

 

「……と、こんな感じです。何か質問はありますか?」

 

 説明を終えて問いかけるアミッドに、ベルは答えることが出来なかった。

 ベルの頭の中では自己嫌悪が渦を巻いている。

 

 甘かった。

 あまりにも甘かった。

 キチンと考えているようで、ベルは目の前のこと以外何も考えられていなかった。

 正義が悪いやつをやっつけたら全てが解決してハッピーエンド。そんなものはお伽話の中にしかない。

 ベルに出来たのは死ぬ運命にあったリリの命を拾い上げることだけだった。

 

「……何を思い悩んでいるのかは分かりませんが。貴方は確かに二つの命を守りきりました。私に繋げました。それはとても素晴らしいことだと私は思います」

 

 だが、アミッドはそれこそを肯定する。

 全ては命があるからこそ。

 ベルは本当の意味でリリを救うことこそ出来なかったが、リリの命を守ることは出来たのだ。

 それはベルが諦めなかったからこそ掴んだ『未来』だった。

 

 絶対安静ですよ、と念押しをしてアミッドは病室を後にする。

 入れ替わるように病室にアストレアが姿を見せた。

 

「ベル……っ!!」

 

 目を覚ましたベルを見たアストレアは目を見開いて手に持っていた見舞品を落とし、優しく、しかし力の籠もった包容をした。

 

「ごめんね……ベル……ありがとう……戻ってきてくれて……ありがとう……っ!」

 

 頬を伝う雫はなかったけど。

 ベルには、アストレアが泣いているように見えた。

 凛としたアストレアの常ならざる姿に驚いて、何とかしなければいけないと慌てて、ふつふつと湧き上がるアストレアにこんな想いをさせたという罪悪感。

 やがて体を離したアストレアはいつも通りの凛とした雰囲気を纏っていたが、ベルは直感的にそれを取り繕っていると感じた。

 何かに触発されて鮮明に顔を覗かせた悲しい記憶を呑み下したような、そんな気がした。

 

「目覚める前のことはもう聞いたの? ……なら、私が話すこともあまりないわね。……怒る? どうして? ……ベル。確かにベルはあの少女を本当の意味で救い出すことは出来なかった。考えなければいけない事はもっといっぱいあって、他に手段もあったでしょう。でも、思い出して。ベルは悲しんでいるあの子を一人にさせたくないからその手を伸ばしたはずよ。そして、伸ばされた手を掴んで離さなかった。胸を張りなさい。ベルは──己の正義を成し遂げたのだから」

 

 それに、とアストレアは続ける。

 

「子どもに至らないところがあれば、それを埋めるのが親である私の役目。ベルに出来ることがあれば、私に出来ることもある。……あとは全部、任せなさい。お疲れ様、ベル。……頑張ったね」

 

 優しく頭を撫でられて、ベルは泣きそうになった。

 じんわりと熱くなった目頭をゴシゴシと擦って、ベルは男の子の意地でそれを流さなかった。

 動かした体の痛みでまた目頭が熱くなって、今度は上を向いて耐えるベルを、アストレアは温かな微笑みを浮かべて見守っていた。

 

 一息ついて落ちつきを取り戻したベルは、気になって仕方がなかったことをアストレアに尋ねる。

 無事なのはアミッドの口から聞いていたが、どうしても早く会いたかった。

 会って、話がしたかった。

 これからいっぱい時間をかけて、お互いのことを知っていくのだと決めていたから。彼女のことを知りたかったから。

 彼女のそばにいてあげたかったから。

 

 アストレアは一瞬口を噤んで、けれど正義を宿した瞳でベルを真摯に見つめ、言った。

 

「あの小人族の少女は──」

 

 それを聞いた瞬間、アストレアの制止を振り切りベルは病室を飛び出した。

 

 

 

 

 

 ☆☆☆

 

 

 

 

 

 突き抜けるような青空の下を何台もの荷車が通っていく。

 明後日に控えた怪物祭の……祭りの空気を感じさせる街は弾むような特有の高揚感がある。

 誰も彼もが活気に満ち溢れ、『未来』に向けて笑顔で歩いていた。

 

 そんなオラリオの様子を、リリは外壁の上からぼうっと見つめていた。

 

「……ま、そうなりますよね」

 

 呟かれた言葉に特に意味はない。

 特に意味はない独り言だった。

 

「牢行きですか……。これでリリも名実ともに悪人になっちゃいましたね」

 

 懲役刑。

 それが、リリの償う罪の重さだった。

 

 ダンジョンから治療院に運ばれたリリは、アミッドの回復魔法により程なくして意識を取り戻す。

 リリを運んだ冒険者たちから現場の状況を伝え聞いたギルドは、その冒険者たちへの信頼もあり即座にこれを準異常事態と判断。

 目を覚ましたリリに詳しい話を聞きにきたギルド職員に、リリは洗いざらい全てをぶちまけた。

 

 全てをだ。

 

【ソーマ・ファミリア】の実態を。

 ザニスの悪事を。

 構成員たちの犯罪紛いの集金活動を。

 そして、己の罪を。

 

 リリには自分のことは隠して伝えるという選択肢もあった。

 あったが、リリはそれを選ばなかった。

 リリは罪を償うことを選んだ。

 

 リリは冒険者をクズだと思っている。

 彼女の人生がそれを確信する根拠を与えている。

 リリは冒険者が大っ嫌いだし、サポーターの自分からあらゆるものを踏みにじり奪っていった冒険者たちには悪感情しかない。

 

 そんな奴らに対して罪を償う? 

 冗談ではない。

 過去のリリなら中指を突き立ててクソくらえだと吐き捨てるだろう。

 

 なら、それをしなかったということは、リリの中で明確な変化が生まれたということ。

 

「……」

 

 自分の手をじっと見つめる。

 その手には拭きれない罪の感触がこびり付いている。

 今まで散々盗みをやってきた薄汚い小さな手。その中でも、ダンジョンの十階層でベルを刺した、人の肉に刃物が突き刺さるあの感触が、ずっとリリの手に残っていた。

 

 途方もない罪悪感がリリの胸を締め付ける。

 なんて事をしてしまったんだと、心臓が潰れてしまいそうな自己嫌悪。

 ベルはきっと『気にしないで』と笑って流すだろう。でも、だからこそリリは自分で自分を許せなかった。

 それだけじゃない。

 リリを想い手を伸ばし続けたベルに、リリは目を覆うような行いをし続けていた。

 罪を重ね続けていた。

 

「……こういう死にたいって気持ちもあるんですね」

 

 残酷な世界に打ちのめされ、消えてしまいたいと思い続けていたリリは、自らの行いを恥じるという視点に初めて立った。

 

 謝りたいと思う自分がいる。

 謝って許される事ではないと思う自分がいる。

 ベルなら許してくれると期待する自分がいる。

 そう考える事を嫌悪するリリがいた。

 

 正義とは何だろうか。悪とは何だろうか。

 どちらも多様な概念を含む。絶対的に正しくこうだと説明できる者など、世界に一人としていないだろう。

 正義の女神であるアストレアの語る正義でさえ、それは『アストレアの正義』でしかない。

 個人によって正義の意味も、悪の意味も変わる。

 ならば、『リリルカ・アーデの悪』とは一体なんだろうか。

 

 それは、ずっと最初から。

 リリの胸の中の罪悪感が、ずっとずっと、リリに訴えかけていた。

 

 冒険者はクズである。リリはそう確信している。

 冒険者は自分から全てを奪っていた憎い存在である。だから自分も奪っていいのだとリリは思い込んだ。

 

 そんな道理はないことをリリは分かっていて、ずっと見て見ぬふりをしていた。

 

 奪われたから奪ってもいい。

 それがまかり通るなら、この世から正義は消え失せるだろう。

 そこにあるのは、誰もが盗まれた被害者であり、盗む加害者である世界だ。

 だから世界にはそれを咎める法があり、己を律する道徳がある。

 悪を正す正義があるのだ。

 

 リリルカ・アーデは盗人である。

 リリルカ・アーデは罪を犯した。

 リリルカ・アーデは悪人なのだ。

 

 そこにどんな事情があろうと。どれほど悲しい理由があろうと。例えそれが仕方なかったのだとしても。

 罪は、償わなければならない。

 世界はそういう風に出来ている。

 

 リリという悪をベルという正義が助け出し、そして法という正義が裁くのだ。

 

「ん〜〜、はー、ふぅ」

 

 青い空を見上げて、ぎゅっと目を瞑ってリリは大きく伸びをした。

 心は重いが、体は軽い。先の激戦によるダメージはすっかり完治していた。

 その顔は晴れやかとは言い難くとも、以前の擦れた下を向いていた陰りはない。

 リリは己の結末に納得している。

 納得して、『過去』ではなく『未来』を見ていた。

 

「罪を償って……盗人の小人族ではなくなって……いつか、ただの小人族として生きられる日が来たら……」

 

 想い描く未来予想図には、少年の隣を歩く自分と、そんな自分に微笑みかける少年がいる。

 そんな未来に焦がれている。正義なんて重過ぎる事を小さな背中に背負っている、不器用で真っ直ぐな優しい少年の力になりたいと思う自分がいる。

 自分に何が出来るかはまだ分からないけど。それでも、そのために命すら懸けられると自然と思った。

 なぜなら、少年は過去に縛られ悪の鎖に雁字搦めになっていた自分の手を引いて未来を見せてくれたのだから。

 

 悪と正義は相容れない。

 悪である少女と、正義である少年の道は決して同じ方向を向くことはない。

 

 けれど、悪人のリリではなく、ただのリリになれる日が来たら。

 正義の少年の隣を歩く事だって出来るかもしれない。

 

「心残りはありますけど」

 

 それは謝れないこと。

 リリのした事をベルに謝れないこと。

 ベルの主神だと名乗る神物に地に頭を擦り付ける勢いで懺悔をしていたが、やはり本人に言わないことには心の重りは外れなかった。

 でも、この心の重りが自分を責める罪の証のような気がして。

 これも罰なのだと受け入れる自分もいた。

 

「アーデさん。そろそろ……」

 

「……はい、分かりました。すみません、我が儘を聞いて頂いて」

 

「いえ、そんな……私の方こそ、力になれず申し訳なく……こんな事しか、出来なくて……」

 

「そんな事ないです。リリにはこれで十分なんです。最後にオラリオを一望したい……そんなリリの望みを無理してまで叶えて頂いて、本当に感謝しています」

 

 顔中に申し訳なさが張り付いているギルド職員に、リリは心底感謝していると告げるように笑顔を浮かべた。

 

 今日、リリは【ソーマ・ファミリア】のホームを訪れていた。

 ファミリアの実態が白日の元に晒され、実質解体に近い処分を下されていた【ソーマ・ファミリア】はがらんとしていて、酒造りを制限された主神ソーマは魂の抜けたような顔でぼうっとしていたが、ギルドからの要請もありリリの退団を認めた。

 今、リリの背中にあるステイタスは改宗待ち状態にある。

 その付き添い……もとい、罪人であるリリを自由に動き回らせることは出来ないため、監視として同行したのが、この歳若いハーフエルフのギルド職員だった。

 そして、このギルド職員はリリに事情を聞きに行ったその人でもある。

 

 リリにそんな意図はなかったが、リリの話を聞きこのギルド職員はだいぶリリに肩を入れ込んでいた。

 こんな結末はあんまりだと、なんとかリリの罪を軽く出来ないかと、この三日ろくに眠らずにずっと戦っていた。

 しかし、結末を変えることはできず、それがギルド職員の心を締め付けていた。

 今、リリが拘束具を何もつけてないのは、ギルド職員からリリへの『この人は逃げない』という信用と、申し訳なさからくる罪滅ぼしだった。

 

 これ以上時間を誤魔化すのは難しい、と。

 先導するギルド職員に続いて、リリは歩き出す。

 もう一度この街を一望するのは、ずっと先の事になるだろう。

 網膜に焼き付けるように……あの少年がきっとこれからも正義を叫びながら守っていくのだろう街を瞼に浮かべて、心の中でエールを送りながらリリは歩き出した。

 

「──待っ、て!! リリぃ──ッ!!」

 

 そんなリリを、呼び止める声があった。

 

 弾かれたように振り返る。

 薄い入院している病人が着るような服を、転けたのかあちこちに土をつけ、玉のような汗を肌に浮かべながら荒い息を繰り返す白い髪の少年が立っていた。

 

「……ベル、様……?」

 

 意図せず口から転がり出たような呟き。

 目が覚めたのか。

 体は大丈夫なのか。

 顔を見れて嬉しい。

 動いてるのは心配だ。

 どうして此処が分かったのか。

 お礼を言わなければ。

 謝らなければ。

 合わせる顔がない。

 他にも、色々な想いが混ざり合った呟きだった。

 

「はな、しは、きいた、よ。リリ、僕は、僕は、こんなつもり、で、リリを……、リリ、ごめ──」

 

「──それは言わないでください、ベル様」

 

 此処までの全力疾走で喉をやられたのか、それとも意識が戻った直後でうまく動いてないのか、ベルの言葉は途切れ途切れで、声もガラガラだった。

 必死に何かを伝えようとしていたベルの言葉を、それだけは言わせないとリリは遮る。

 時間との兼ね合いもあり少し焦りを見せたギルド職員にもう少しだけ、とアイコンタクトを送り、それを受け入れてくれたことに深く感謝を込めた頷きを返して、リリは口を開く。

 

「……自分の事を話す機会なんてありませんでしたから。たぶん、ベル様はリリの事を纏めて全部知って混乱しているんだと思います。だから、最初に謝罪を。騙してごめんなさい。言わなくてごめんなさい。……ベル様を傷つけて、ごめんなさい。……許してください、なんて口が裂けても言えませんけど。それでも……ごめんなさい、ベル様」

 

 謝れないことが罰になる。

 そう考えていたのに真っ先に謝ってしまった自分を恥じて、そして、心の何処かで謝れてよかったと思った。

 それだけ、リリは自分のした事を悔いていた。

 

「リリは罪を犯しました。それはもう、いっぱい、いーっぱいです。きっとベル様が想像しているよりリリは悪いやつなんです。……だから、謝らないでください、ベル様。これはベル様がリリに手を伸ばしたからではなく……リリが、リリ自身がいつか向き合わないといけなかった、リリだけの罪。ベル様にだって譲りません」

 

 そう言われてしまうと、もうベルは何も言えなくなってしまう。

 虚を疲れたように詰まったベルを見て、ああ、やっぱりなあ、とリリは苦笑した。

 ベルは正義の側に立つ人間だ。それはもう、間違いなく。

 だが、非情に成りきれるかと言われれば違う。

 何故なら、非情な正義とは機械的に悪を切り捨てる正義だから。

 ギルドの掲げる正義がこれに近いだろう。

 ベルの見出した正義とギルドの正義、どちらがより正しいか……という話ではなく。

 ベルは……優しいこの少年は、自分が投獄される事を納得することは難しいだろうと、リリは確信していた。

 リリの過去を知る前はともかく。リリの過去を知った今となっては。

 

 それはリリがベルの正義を正しく理解していなかった土台の上に積み上がった推理ではあったが、結論において相違はない。

 二人の間にコミュニケーションは足りなかったが、リリ"が"ベルを見ていた時間だけは相応にある。

 虐げられていた過去によって分厚く覆われた冒険者というベールを取っ払った今、すれ違いはあれどリリ"は"ベルという人間をおおよそ正しく把握していた。

 

「ベル様は言いましたね。あの路地裏で『お前たちに正義はない』と。その通りです。あの場に正義がある人物はベル様以外に一人もいなかったんです。だから、あの場で知らんぷりをしても……ましてや、あんなにボロボロになってまで……リリに裏切られてまで、リリを助けようとする事なんて、する必要もなかった」

 

「そんな──っ!」

 

「そんな事あるです」

 

 ベルの否定に被せるようにリリは言い切った。

 

 例えばの話。

 片方の線路に善人。もう片方の線路に悪人。

 二つの線路の分岐点目掛けて一台のトロッコが迫っていて、その線路を切り替えるスイッチを……どちらを殺すか選べるスイッチを持っているとする。

 この場合、いったいどれだけの人が善人を殺す方にスイッチを切り替えるだろうか。

 冒険者から……リリにとっての悪人にしか盗みをしなかったリリは、ある意味では悪人の方へスイッチを切り替え続けていたともいえる。

 ならばこそ、リリは悪人に助ける価値はないと言い切れる。

 何故なら、それは罪悪感に押し潰されそうになりながらも『ここだけは間違えない』と選び続けたリリの選択だったから。

 

「ベル様はリリを助けてくれました。……本当に嬉しかった。こんなリリに手を伸ばしてくれる人が……一緒にいてくれそうな人がいた。でも、それはリリが善人だったからじゃない。リリを見つけたのがベル様だったから。リリには、誰かが懸命になってくれる資格がない」

 

 トロッコになぞるのなら、ベルは善人を轢き殺す方へスイッチを切り替えた。

 だって、そこに善人など誰もいなかったのだから。

 だから、結果的に自分は助かったのだとリリは思う。

 

「でも」

 

 そこで、リリは言葉を切った。

 一度大きく息を吸った。ばくばくする心臓の鼓動を聞くように目を閉じた。

 何度も迷って、自分にその資格があるのかと思いつめて、それでも捨てきれなかった未来を見つめた。

 緊張でカラカラになる喉から無理やり声を絞り出すようにして、震える声でリリは言った。

 

「冷たい絶望の底にいたリリの手を引いて、暖かな場所まで連れてきてくれました。ずっと寂しかったリリに、優しさをくれました。幸せになりたくて幸せを諦めていたリリに、大丈夫って手を伸ばしてくれました。──幸せを、くれました」

 

 一筋の涙がリリの頬を伝う。

 

「リリは、ベル様と一緒にいたいです。盗人で、サポーターだけど……それでも、リリはベル様と一緒にいたいです。今度はリリが……リリが、ベル様の力になりたいです」

 

 声が震える。

 リリの手を握り締めようと動き出したベルを、ギルド職員が止めた。

 

「だから……だから、リリが罪を償って……盗人の小人族じゃなくて、盗人だった小人族になったら……リリが、リリを許せるようになったら……また、リリと……、こんなリリでも、一緒にいてくれますか……?」

 

 涙に濡れた声音は消え入りそうな小ささで。

 今まで自分がしてきた事、そして自分がベルにした事。

 その全てをリリがちゃんと正面から見据えた、その時に。

 

 貴方の隣にいたい。

 

 願いこそすれ、そんな都合のいい事が許されるはずがないとと思っていた未来をリリは言った。

 

「もちろん。また一緒に、冒険しよう、リリ」

 

 ガラガラの声で、頬に土をつけた顔を破顔させて、ベルは言った。

 

 リリの胸がきゅうっと締まる。

 込み上がっていた涙が、堰を切ったように溢れ出ようとする。

 とっさに俯いてそれを隠しても、次々と地面にそれは落ちていってしまう。

 しゃくり上げそうになる喉を必死で堪えていると、心地よい温かさがリリを包み込んだ。

 ベルが、リリを優しく抱きしめていた。

 

「僕は、世間知らず、みたいで……知らないことも、いっぱいあるんだ。それに……、リリと一緒に、冒険してたとき……すごく、助かってた。サポーターって、すごいって思ってたんだ。あのときは、リリを探してたから……、ちゃんと、言えなかったけど。だから……至らない僕を、リリに助けてほしいよ。リリは、無価値なんかじゃない。僕にとっても……きっと、他の誰かにとっても。リリには、笑っていてほしい」

 

 それがトドメだった。

 リリは声を上げて泣いた。

 わんわん泣いた。

 ベルの胸に顔を埋めて、縋り付くように泣いた。

 邪魔者扱いされ続け、無価値の烙印を押され続け、誰からも必要とされずに虐げられていた少女を、必要として、一緒にいてほしいと言ってくれる少年の温かさが、少女の凍った心を甘く溶かしていった。

 

 もうこれ以上は限界だと申し訳なさそうに言うギルド職員に連れられてリリが去っていく。

 その背中にベルは叫んだ。

 

「ずっと──! ずっと、待ってるから──っ!!」

 

 リリは振り向かない。

 でも、その背中が『また、いつか』と言っているような気がした。

 だって、あの時とは違って『さようなら』とは誰も言わなかったのだから。

 

 

 

 

 

 ☆☆☆

 

 

 

 

 

 数日が過ぎ、オラリオは怪物祭の待った只中だった。

 テイムによるショーが行われている闘技場では、割れんばかりの大歓声が沸き起こっている。

 

 ストリートを埋め尽くすように立ち並ぶ出店で買い食いをしながら、ベルは怪物祭を楽しんでいた。

 

「んぐっ。すごい賑わいだ……」

 

 アストレアとの旅で訪れた街でもお祭りはあったが、此処までの賑わいは経験にない。

 やっぱり都会ってすごいなー、なんて田舎者らしさ全開でぶらぶら歩くベルは、病み上がりで万全ではないことを懸念されてアストレアに人が密集している闘技場には近付かないように、と言い含められていたので、そろそろ帰ろうかとアストレアへのお土産を物色しながら歩いていた。

 そして、人混みに紛れて歩く二人の人影がベルの横を通り過ぎる。

 

「待って、ちょっと待っておくれよ! ボクを置いて行かないでくれー!」

 

「今が稼ぎ時なんですからじゃんじゃん行きますよ! まだ目標金額の半分なんですから!」

 

「が、がめつい!! 前々から思ってたけど君ちょっと守銭奴の毛があるよね!?」

 

「お金は大切なんです。分かりますか?」

 

「万感の想いが篭ってるね……。い、嫌だぞ! ボクはお金に縛られる生き方はしたくない!」

 

「ぐうたらし過ぎて友神のファミリアから蹴り出された一文無しが何言ってるんですか!! きっちり稼いでもらいますからね! というわけで今度はメイド服で売り子をお願いします」

 

「いーやーだー! ボクはマスコットじゃないぞ──!」

 

「頭を撫でやすいって好評でしたよ」

 

「君も似たような身長じゃないか!?」

 

 はっとしてベルは振り返る。

 しかし、沢山の人の姿や声に紛れて、頭に思い浮かべた人物を見つけることは叶わなかった。

 

「──よ、少年!」

 

「──あ、お久しぶりです!」

 

「上層にミノタウロスなんてイレギュラーを乗り越えてお互いよく生きてたもんだ! 心配したぜ」

 

「その節は本当にありがとうございましたっ! あの、本当にどうお礼すればいいのか……!」

 

「ははは、慌てるな慌てるな。こっちもリーダーのやつが死にかけて大変だったが、結果的に全員生き残って【ロキ・ファミリア】からたんまり謝礼も貰ったからな。聞けば少年も大変だったみてぇじゃねえか。ところで、あっちの通りで俺の仲間たちが飲んでるんだが……少年もどうだ?」

 

「えっ!? いや、お礼をするのは僕の方で……!!」

 

「はっはっは! 下の毛も生えてねえようなガキがんな細えこと気にすんなよ! 頑張った子どもを労ってやりてえのは大人の性だ、諦めろ。どうしてもってんなら、酒でも一杯奢ってくれや」

 

「──はいっ! 分かりました!!」

 

 ベルに声をかけた男と共にベルは歩きだす。

 がやがやと賑わうお祭りの空気はそれだけで胸を弾ませるものだが……何故か、今ベルの心を弾ませるのは、それだけじゃない気がした。

 小さな小人族の少女がこの空の下のどこかで懸命に頑張っているような。

 そんな気がしたのだ。

 

 

 

 

 

 ☆☆☆

 

 

 

 

 

「ところでアーデ君。その……本当にボクのファミリアに入ってよかったのかい?」

 

「それを言うなら、本当にリリをファミリアに入れても良かったのかと聞きたいぐらいですよ、ヘスティア様」

 

「君の事情は聞いてるからね。同情するつもりはないし、なら後は君がどういう子どもかだけ。……でもだからこそ、ほら、ボクってあれじゃないか」

 

「一文無し。ついでに借金あり」

 

「グサっと言うなあ!?」

 

「丁度いいじゃないですか。リリも賠償金で借金あるようなものですし……お互い一文無しの神様と眷属。ぴったりです」

 

「……賠償金だけで済むように掛け合ってくれた神がいたんだろう? ボクはそいつを知らないけど……そいつのところに行った方が、君にとっても良かったんじゃないかって思ってさ」

 

「……最初は、それも考えてたんですけど。リリもその神様の名前を知らなかったですし……それに」

 

「それに?」

 

「あの時、神様は一人で困ってたみたいでしたから。だから思わず声をかけてしまいました。それだけです」

 

「むむむ? 変な理由だなぁ……」

 

「ですね。リリも変な理由だなーって思います。……でも、嫌じゃないんです。リリは、こんなリリが嫌いじゃありません」

 

「……ボクも、そんなアーデ君のこと、結構好きだぜ」

 

「ありがとうございます。じゃあもうちょっと稼いでいきましょう。次は給仕服です」

 

「それとこれとは別だー! というかそのコスプレどっから持ってくるんだ!? 無駄にレパートリー広いよね!?」

 

「昔のツテで少々。さ、稼いで稼いで稼ぎますよ! 生活費とお互いの借金もあるんです! そして──」

 

 

「胸を張って、優しくてお人好しで危なっかしいあの人に、もう一度会いに行くんですから!」




リリ編完。

あとがき。
リリの拒絶は負の感情から来るものだと思っています。
冒険者が憎いという感情から、差し出される手を拒絶する。
では、正の感情から来る拒絶はどのようなものでしょうか。
貴方が心配だから。貴方が大切だから。貴方に傷付いて欲しくないから。だから差し出される手を拒絶する。
そういう登場人物がダンまちにはいます。

これは独り言ですが、狐につままれるという慣用句もある様に。古来から、狐は"悪い"動物として扱われてきたらしいですね。


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春姫編
ベル・クラネルと新しい力


 夢の中で、僕はお爺ちゃんと向き合っていた。

 お爺ちゃんが居なくなってから一年ぐらい経ってるからか、酷く懐かしい気持ちを覚えた。

 

『ベル。儂はもうちっと乳が大きい子がええと思う』

 

 夢の中のお爺ちゃんはやっぱりお爺ちゃんだった。

 

『無論、乳が小さい女子がダメと言っとるわけじゃない。だがなあ、ベルは包容力のあるお姉さん系から攻めるべきだと思っとる』

 

 この人は何を言ってるんだろう。

 

『分かるぞ? ハーレムを目指す男たるもの、行き着く先は選り取り見取り。それは最早雄の存在理由だ。しかし最初は慎重になれ。最初は肝心だ。それにのう……あの子は嫉妬深そうだぞ。儂の勘がヘラに手を出したときと同じ反応をしとる』

 

 いかにハジメテに所謂お姉さん系が良いかを力説するお爺ちゃんに、曖昧な笑みしか返すことができない。

 そりゃ、僕だって大人の女性に惹かれる気持ちはあるけど、僕みたいな子どもっぽい男は相手にされないだろうし。

 

『何を弱気になっとる。御伽噺の英雄のようになるんじゃなかったか』

 

 ああ、お爺ちゃん。

 それ、少しだけ変わったんだ。

 

 御伽噺の英雄のようになりたかった。

 誰もが讃えてくれるあの人たちのようになりたかった。

 

 でもね。

 今は、僕は泣いている誰かの涙を拭ってあげられる人になりたい。

 悲しんでいる誰かに手を差し伸べられる人になりたい。

 それが、神様に憧れた僕の正義なんだ。

 ……どう、かな。なりたい自分、見つけたよ。

 

『良い顔をするようになったな、ベル』

 

 お爺ちゃんは、くしゃくしゃな皺をつくって満面の笑みを浮かべた。

 

『行き先に苦難はあるだろう。絶望に膝を折るときもあるだろう。だが、儂はいつまでも見守っている。いつまでもお前のことを思っている』

 

 ゴツゴツとした大きな手が乱暴に、けれど慈しむように僕の頭に乗せられる。

 

『儂の言うことは変わらん。男なら女の尻を追いかけろ。男なら女子のために突っ走れ。見栄を張れ。前を向け。惚れた女子達のためなら、英雄だろうが、悲しんでいる誰かの味方だろうが、何にでもなれる。何でもできる』

 

 お爺ちゃんはそこで言葉を切って、屈んで僕と目を合わせて。

 いつも見ていた、豪快な笑顔で。

 

『何せ、お前は儂の自慢の孫だからな』

 

 

 

 

 

 ☆☆☆

 

 

 

 

 

 朝の空気は透き通っているように思う。

 昼よりひんやりとした空気は余計なモノが含まれていないような気がして、どこか軽い。

 朝には爽やかとか、気持ちのいいとか、そういう枕詞が付いているのは多分多くの人がそう感じるからなのだろう。

 

 ダンジョン七階層の死闘から一週間が過ぎた。

 体調も良くなった僕は、神様と一緒に商人すらベッドの中にいるような早朝に人気のない空き地へと来ていた。

 

「ベル」

 

「はい」

 

 木刀を握った神様に促されて、自分の内面へ潜っていくように目を瞑る。

 深く、深く意識を沈み込ませて、"それ"を見つけようと探す。

 けれど見つからない。

 まるで水中で手を振り回しているように実態のないモノがこぼれ落ちて行くようだ。

 

「神様……」

 

「……分かったわ。"おまじない"を唱えてみて」

 

「はい」

 

 一度深く息を吸う。

 ばくばくと早鐘を打つ心臓を鎮めて、僕は"おまじない"を唱えた。

 

「【アーティファクト・ケラウノス・レプカ】」

 

 そして、何も起こらなかった。

 

「……これは」

 

 皺のよった眉間を片手で抑える神様は頭痛に苛まれているようだった。

 

 僕が意識を失っている間に、神様はリリと話す時間があったらしい。

 そこで、神様は僕が"おまじない"を唱えた事、唱えた後どうなったかを知ったという。

 ザニスさんとの戦いの最中に突然自覚した記憶の空白、それがまさか"おまじない"によるものだと聞かされた僕は恐怖を抱いた。

 意識を失ってでも戦うことのできる"おまじない"。それは、無差別に破壊を行う力の装置と何ら変わりない。兵器と言ってもいい。

 流石にそんなものを詳細も分からずに放置はできないので、こうして神様と検証していたんだけど……。

 

「何も……起こらないですね?」

 

「私は直接見た訳ではないけれど……リリルカから聞いた話と、私の勘を合わせればこの空き地が吹き飛んでもおかしくはないのよ」

 

「そんなに危ないやつなんですか!?」

 

「逆よ、ベル。むしろ……あまりにも弱過ぎる。まあ、それは今関係ないから置いておくけど……発動すら出来ないとはね……」

 

 思案顔をする神様。でも、その実もう答えは出ているようなものだった。

 僕のステイタスに刻まれている【魔法】……神様曰く、おまじない。

 こうやって直接試す前に、神様が立てた幾つかの仮説をあらかじめ聞いていた。

 その中には、発動すらしないパターンもある。

 

「神様、これは"格上と戦うときしか使えない"って事ですか?」

 

 その中でも神様が可能性が高いと見ていたのは、"格上と戦う時のみ使用可能"の条件付き魔法というものだった。

 

 基本的に詠唱を唱えれば発動できる魔法よりも、一定条件下でのみ使用可能なものはスキルの印象がある。

 けれど、魔法にもそういうのが全くないわけではないらしい。

 僕の魔法は珍しい"そういうの"だったというわけだ。

 

「でも、なんかちょっとほっとしました。神様はもしかしたら"おまじない"を唱える必要すらないかもしれないって言ってましたけど、意識を失うものが意識外のタイミングで発動するのはかなり怖かったです」

 

 普通に戦っている最中に、強制的にそれが発動すると思うと肝が冷える思いだ。

 Lv.2のザニスさんを追い詰めた凄い【魔法】ではあるらしいけど、強力な魔法を手に入れて嬉しい、よりは不発弾を抱えた気分だったし。

 でも、ダンジョン探索の性質上格上と戦うことは稀だし、もし格上と戦うことになったとしても、ザニスさんとの戦いの時も僕が"おまじない"を唱えて初めて発動したところを見るに、強制発動はそう心配しなくてもいいだろう。

 それなら、使わないという対策ができる。

 というか、僕、その魔法の詳細よく知らないんだよね。雷を付与する魔法とは聞いてるんだけど……どんな感じなんだろう? 

 

「……」

 

 肩の荷物を下ろしたような気持ちの僕とは裏腹に、神様は難しい顔をして考え込んでいた。

 

「どうしたんですか?」

 

「……いえ、何でもないの。さ、ベル。丁度いいし、鍛錬して行きましょうか。【スキル】、試してみたいでしょ?」

 

「え、いいんですか!?」

 

「ええ。だってベル、ずっとソワソワしてるもの。あ、でも素振りだけよ?」

 

「はいっ!」

 

 ニコリと綺麗な笑みを浮かべる神様から木刀を受け取れば、現金な僕はすっかりスキルの検証に夢中になってしまう。

 今朝神様にステイタスを更新してもらったときから、試したくて試したくて仕方がなかったんだ。

 

 木刀をしっかりと握り締め、スタンスは肩幅に、半身になった体の横に地面と平行になるように木刀を構え、膝を落とし込む。

 地面を踏み砕かんばかりの踏み込みと同時に、砲声と共に引き絞った木刀を閃かせた。

 

「紫電木こりスラッシュ!!」

 

 刹那、紫電が弾ける。

 空気を切り裂く木刀の斬撃痕に追従するように木刀に帯電した紫色の雷がスパーク。

 遅れて、絶叫のような炸裂音が重なるように鳴り響いた。

 

 ビリビリと空気が震え、次第にその震えは小さくなり治っていく。

 元の朝の静けさが戻ってくる頃になって、僕は木刀を振り切った態勢から首だけで振り返って神様を見た。

 

「……見ましたか?」

 

「見てたわよ」

 

「……その」

 

「カッコよかったわよ、ベル」

 

「〜〜っ!!」

 

 ぐぐぐっ! と、胸の奥底から強烈な歓喜が込み上がった。

 なにこれ。

 なにこれ! 

 

 ──カッコいい!! 

 

 なんか僕、ちょっと絵本の中の英雄みたいだっかもしれない! 

 いや僕なんかが彼らみたいだなんて烏滸がましいかもしれないけど! 

 

 以前ほどの強い憧憬ではなくなったけれど、僕も男の子だし……英雄に憧れる気持ちはある。

 何より、カッコいいものにはどうしても心が躍ってしまう。

 試し振りした僕のスキルは、僕目線ではとてもカッコいいものに見えて……神様にもそう見えていたらしい。

 言いようのない嬉しさがあった。

 

「嬉しいのは分かるけどちゃんとスキルの効果も確認しないとよ、ベル」

 

「はいっ!」

 

 浮かれる僕は神様に促されて素振りを開始。

 僕がもう一度紫電木こりスラッシュを放つと、やはり雷が木刀に帯電した。

 

 事前に神様に教えてもらっていた通り効果は単純で、技名を叫ぶと威力が上がる。

 威力上昇補正がどういった形で現れるのか分からなかったけど、こうして雷が目に見える形で出てきてるので、まず間違いなくそれが威力上昇補正だろう。

 超限定的な雷属性を付与するスキル……になるのかな? 

 でも、それって【スキル】というよりは【魔法】な気がするんだけど……神様が【スキル】って言ってたし、そもそも僕は冒険者のスキルがどんなものかもよく知らないので、多分珍しいスキルとかそんなのだろう。

 

「あ、神様」

 

「どうしたの?」

 

「そういえばこのスキルの名前って何なんですか?」

 

「あー……【英雄想起(ディファインボルト)】とかかしら?」

 

「なんで疑問形なんですか……?」

 

「気のせいよ」

 

 その後もぶんぶん木刀を振ってはゴロゴロ音を出してた僕だけど、やがて重くのしかかるような倦怠感を自覚して体の動きを止めた。

 例えるなら、とても眠い中水に沈むような、そんな感じだ。

 軽く素振りをした……というには語弊がでるぐらいには浮かれてたけど、今更素振りだけで尽きるはずのない体力が底を見せ、息は荒く乱している。

 胸に片手を当てて呼吸を落ち着ける僕に、顎に手を添えた神様が分析するように言った。

 

「精神力を消費してるみたいね」

 

「精神力?」

 

「【魔法】や一部の【スキル】を使うのに必要なエネルギーのこと。ベルのスキルは使う度に精神力を消費するからとても疲れるのよ」

 

「じゃあ、あまり連発はできないですね」

 

 体の怠さはかなりのものだ。もしかしたら、少し前にもらった毒に並ぶかもしれない。

 戦闘の最中にこれは確かなハンデとなって僕を襲うだろう。

 

「かなりの数素振りしてやっとってところみたいだし、普通に使って大丈夫だと思うわよ。ただ、無条件ではなく精神力を消費していて、精神力が底に近付くとそういう体の状態になる事は覚えておきなさい。……バッドコンディションでの戦い方の知識が役に立つこともあるでしょう」

 

 そう言って、神様はとても素敵な笑顔を浮かべた。

 

「だから、今からいつもの鍛錬をしていきましょうか。良い機会だし、精神力消費による疲労状態での体の動かし方をみっちりと仕込みましょう」

 

 ひっ、と僕の喉が干上がったのは言うまでもなく。

 その日の鍛錬は昼を過ぎても続き、僕がダンジョン探索を諦めたぐらいにはキツかった。

 

 

 

 

 

 ☆☆☆

 

 

 

 

 

「おい聞いたか、あの話!」

 

「あん? なんの話だよ」

 

 たくさんの料理と酒が並べられているいくつものテーブルの一つで、酔っているのか対面に座る相手に話しかけるには少々大きな声を出していた。

 ここはとある飲食店の一つ。

 活気のあるその場所では席が埋まるほどの冒険者が飯と酒を喰らいにきており、給仕服を着た少女たちが忙しなく動き回っていた。

 料理に舌鼓を打っていた男が問い返すと、男は待ってましたとばかりに意気揚々と喋りだす。

 

「【ソーマ・ファミリア】をぶっ潰したっていうLv.1の話だよ! 今オラリオはこの話題で持ちきりだ!」

 

「ああ、それか? それなら聞いたが眉唾だろう? あそこは上級冒険者もいるんだ、それに何より喧嘩売ったら喧嘩相手殺してもおかしくねえ連中だぞ。Lv.1にどうこうできるわけがねえ」

 

「だが実際【ソーマ・ファミリア】はもう殆ど活動してねえ。ギルドからのペナルティと団員の半分以上しょっぴかれたのが原因だが……【ソーマ・ファミリア】をそこまで追い詰めた奴がいるんだよ!」

 

「まあ四方八方から煙たがられてるような連中だからな。どこで怨み買ってても可笑しくはねえけど……でもなんでそれがLv.1になるんだよ。どう考えても無理だろ」

 

「それがよ、【ソーマ・ファミリア】の団長がぶっ倒されてるのを見たやつがちらほらいるんだよ。何でもダンジョンでぶっ倒れてたところを拾われて治療院に叩き込まれたんだと。その時、一緒に治療院に叩き込まれたのが……ほら、あれだ。あのマラソン兎」

 

「ああ、あのダンジョンで走りまくってた子どもか……。いや……ん? 【ソーマ・ファミリア】の団長ってLv.2だよな? 兎だけじゃなくてそいつも一緒にだと?」

 

「しかも実際にそれを見た連中の話だと二人の怪我はどう考えても対人の怪我だったみたいでな、まあ兎の方が裂傷で血塗れだったからなんだが……戦闘があったのは間違いない。そして、何故か二人とも気絶してるときた。状況的に相討ちになったんじゃねえかってことだ」

 

「普通に【ソーマ・ファミリア】を恨んでるやつが兎もついでに潰しただけじゃねえか?」

 

「違うんだよ。ギルドにひっ捕らえられた【ソーマ・ファミリア】の奴が、「なんで団長があのガキに負けてるんだよ」って喚いてたからな。二人の対立は確定だ」

 

「へぇ……まあ、ちょっと気になるな」

 

「だろ!?」

 

「でもまあ、なら兎は何をしたかったんだろうな。流石にタイマンして勝ったってのは信じられねえけど、【ソーマ・ファミリア】の団長と事を構えてまで何が欲しかったのか……神酒か?」

 

「さあ? 流石にそこまでは分かんねえわ。あー、でも推測は出来るな。兎に助けられたって奴が言ってたんだよ。あんなに大真面目に『正義』なんて口にするヤツ初めて見たって」

 

 ピク、と。

 男たちのテーブルの近くで料理を運んでいたウエイトレスの特徴的な細長い耳が微かに震えた。

 

「困ってる人に力を貸すのは当たり前の正義なんだってよ。だからまあ、【ソーマ・ファミリア】に困ってた誰かのために立ち向かったんじゃねえか?」

 

「はははっ! それだけの理由でLv.1がLv.2にか? 自殺じゃねえか。流石にそりゃねえよ」

 

「俺は遠目にしか兎を見た事ねえけど、あれは普通にそういう事やりそうなぐらい、なんていうか純真さが見てるだけで伝わってくる感じなんだよな……」

 

「髭面から少年が純真なんて言葉出てくるのきもいな」

 

「うるせえ」

 

 ガハハハハ! と汚い笑い声を響かせる男たちの会話に耳を澄ませていたウエイトレスに、同じ給仕服を着た少女が切羽詰まった声で呼びかける。

 

「リュー!? 何してるのー! 助けて! 私これ以上お皿もてない!」

 

「あっ。すみませんシル、今行きます」

 

 聞き耳をやめ、大量のお皿を抱えてふらついてる同僚の元へ若干早足になりながら向かう。

 

「そういや、その兎ってなんて名前なんだ?」

 

「ああ? あー、そうだな……確か……ベル・クラネルだったか?」

 

 その間際、常人より遥かに優れた彼女の聴覚はこんな会話を捉えていた。

 

 

 

 

 

 ☆☆☆

 

 

 

 

 

 そして、時を同じくして。

 オラリオの一角にある享楽の渦巻くその場所のとある一室にて、女神は笑う。

 

「春姫……お前の役目は分かっているな」

 

「はい」

 

 月の光を写し取ったかのような金色の髪に翠の瞳、そして髪の色と同じ毛並みの尾。

 長い獣の耳を持つ美しい少女は、女神の対面で鎮痛に視線を下げたまま小さな声で頷いた。

 

「次期に()()()()()()()()()()()()()()()()。そうしたら……この『鳥羽の石』と融合させ『殺生石』を作る。眷属に邪魔をされ一度、一年前にあのクソ忌々しい怪物に邪魔をされ二度『殺生石』を失ったが、今度こそは成功させる。絶対にだ」

 

 腹立たしい記憶を振り返る女神の顔に怒りが浮かぶが、それでもなお女神の美貌は僅かにも損なわれることはない。

 約一年前、その製造法から入手が困難な玉藻の石を入手した女神がそれを秘密裏に運び加工するためにいくつもの国と都市を時には逆走すらして運んでいた。

 それが破壊された。

 都市外に現れた常識外れに強い怪物に襲われた運び屋は全滅。玉藻の石も砕け散った。

 玉藻の石は鳥羽の石と合わさり殺生石となる事はなく、女神は二度も己の計画を頓挫させられ大いに荒れた。

 

 もうこれ以上は待てない。

 二度に渡る邪魔をされた女神は、これまでのように慎重を期すのではなく玉藻の石を入手すれば即自身のファミリアに運び込み確保しようとした。

 

 何故なら、もうファミリアに運び込んだ『それ』が壊されることはないから。

 それを壊さないと命を失うと理解しているはずの、目の前の少女にすらだ。

 

「私が救ったその命、私のために尽くせ」

 

「心得ております」

 

 女神は笑う。絶世の美貌を歪ませ頰を吊り上げる。

 ようやくだ。ようやく、悲願を果たせるのだ。

 天に座すかの女神を地に叩き落とす、その悲願を。

 

 来客があるからと女神の神室から退室した少女は、おもむろに空を見上げた。

 夜天に黄金の穴を開けるような月は端の部分が少し欠けていて──もうじき、満月が訪れるだろう。

 月の光に濡れる少女の全身が小さく震えた。

 コクリと小さく動いた喉が飲み込んだのは唾液か、それとも別の何かか。

 呑み下した何かの残滓を吐き出すように小さな吐息を溢した少女は、くるりと背を向けて歩きだす。

 

 快楽にふける男女の声を聞きながら向かう先は少女に割り当てられた一室。

 少女の自室というプライベートルームではなく、娼婦が客を取りまぐわうためのプライベートルーム。

 

 布団を敷き、着物を着て、正座をして男を待つ少女の目の前の襖がスッと開く。

 獣欲を滾らせた瞳に舐め回すような視線を貼り付け己を見つめる男に、三つ指を付いて少女は頭を下げた。

 

「お待ちしておりました、旦那様。今宵、夜伽をさせて頂きます、春姫と申します」

 

 男の手が少女に伸びる。

 それに抵抗もせず、嫌がる素振りすら見せず、ただ空虚な笑みを少女は浮かべた。

 少女の豊満な肉体に夢中の男がそれに気付くことはない。

 

 夜が、はじまる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 少年が抱いた『英雄』の正義。

 それにはただ一つだけの絶対的な条件がある。

 

 小人族の少女との一件を得て己の歩む道を見定めた少年に世界は、この残酷な世界は突きつける。

 

 さあ。

 

 救ってみろ、英雄。




原作との変更点。
→輸送中の『玉藻の石』がめちゃくちゃ強かった怪物に壊されておりイシュタル様荒れる。
→痺れを切らしたイシュタル様が最速で運び込んで保管しようとしたため、殺生石になっていない鳥羽の石がある。

一言。
→春姫編、始まります。


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ベル・クラネルと夜の街

 午前と午後。

 一日を二十四時間で区切る場合、ちょうど半分の十二時間の切れ目をそう分ける。

 オラリオの街が活発なのは午後だ。

 朝から迷宮探索に向かう勤勉な冒険者も、太陽が天辺あたりにまで来てからベッドから抜け出す怠惰な冒険者も、日が沈み夜になればダンジョンから帰ってくる。

 旨い飯を食べ、酒を飲み、今日も生き残ったことを祝うのだ。

 

 冒険者という存在が街の特色として強く出るオラリオは、午後がもっとも活動的な都市である。

 

 そんなわけで、御多分に漏れず朝から迷宮探索に勤しみ、夜になって地上へと帰還した冒険者のベルは腹の呻きに従ってぶらぶらと歩いていた。

 いつもならそのまま宿に直帰しアストレアと共に夕飯を食べるのだが、今朝アストレアには今日は宿に帰らない可能性が高いと言伝をもらっている。

 念のため宿に戻るもアストレアの姿はなかったため、外食をしようと決めたベルは今夜の食事所を吟味していた。

 

 オラリオに辿り着いてから約三週間と少し。

 リリの一件と清貧生活が合わさり、ベルがオラリオに所狭しと並ぶお店へ足を踏み入れたことは極端に少ない。

 せいぜいがポーション類を販売しているところぐらいだろうか。

 リリを探してオラリオを走り回っていた時はそれどころではなかったため気にもならなかったが、こうして落ち着いてくると立ち並ぶ店々に興味も湧いてくる。

 

 急激に実力を伸ばしたベルは到達階層だけなら既に十階層を超えており、ソロでの時間当たりの稼ぎもそれに見合った額になっていた。もともとが質素倹約を是とする辺鄙な村の出であるベルだ、その物欲の希薄さも幸いして懐は十分に暖かい。

 美味しいところを見つけて神様と一緒に食べに来よう、そんな気持ちでベルはきょろきょろと首を振り回しながら歩いていて……そんなぴょこぴょこと耳を揺らすような白い兎の姿は、少々目立っていた。

 

 ベルを見てヒソヒソと交わされる会話は喧騒に溶けベルには届かない。

『Lv.1がLv.2を倒したかもしれない』、それがどれほど噂になっているか知る由もない少年は、呑気に香ばしい肉の焼ける匂いに腹を鳴らしていた。

 耳に届かなければ、話しかけなければ、それはもはやないのと一緒である。

 しかし、直接声を掛けられれば。

 

「ねえ、そこの白い髪のボク?」

 

 背中から聞こえた人物の特徴を指した声に『あ、僕のことかな』と思ったベルはくるりと振り返る。

 

「君がベル・クラネルね?」

 

 そこには、目を輝かせた三柱の女神様たちがいた。

 基本的に暇を持て余す神たちは"珍しいもの"に対する好奇心が半端ないのである。

 そして次の瞬間、ベルはガバッと女神に担がれた。

 

「ゲット────!!」

 

「この子が噂の子どもか……あれ? 結構可愛くない?」

 

「やーん! 私好みかもー!」

 

「む、むぶぅうっ!?」

 

 横抱きに抱えられたベルの頭を別の女神が甘い声を出しながら胸元に抱き寄せる。

 ベルの顔を至福の感触が覆った。

 頭は沸騰した。

 

(な、ななななっ! 何事っ!?)

 

 突然の出来事にベルはパニック寸前である。

 女神の綺麗な手がベルの頭を優しく撫でるたびに意識が飛びそうになる。

 体の奥底、魂とも呼べる部分に一瞬電流が流れたような衝撃が駆け抜け、頭の片隅で鳴り響く『いけぇ──! ベルぅ! そこじゃ! 鷲掴みじゃあッ!!』という声をガン無視して、女神たちを傷つけないように慎重に、けれど遮二無二藻搔いたベルはぷはっと女神の抱擁を抜け出し抱えられた体を引っこ抜いた。

 

「なっ、なっ、なぁ……っ!?」

 

「えっ可愛い」

 

「真っ赤になっちゃって……白兎が赤兎に……推せる」

 

「あれぇ……?」

 

 顔を真っ赤に灼熱させ口をぱくぱくさせるベルを見てきゃっきゃっする女神の中、一神だけ首を捻る女神がいた。

 それに目敏く気付いた女神が眉を潜める。

 

「む。もしかして『魅了』しようとした!? それは無しって言ったじゃん!」

 

「あまりにも好みで、つい」

 

「ざけんなー! それやっちゃ私が楽しめないでしょうがー!」

 

「うるせー! こちとら希薄だけど別側面で美神としての性質もあるんじゃー!」

 

「もう、二人ともそんな事で喧嘩して……さ、ボク? 私とあっちに行きましょう?」

 

「「お前は抜け駆けしてんじゃねえ!」」

 

「待って! 待ってください!! 何がどうなって……あっ、喧嘩はやめてください!?」

 

 片腕を抱き寄せようとする女神を躱し、整った美貌を愉快に歪めて殴り合う気配すら見せ始めた女神たちの仲裁に四苦八苦するベル。

 ベルの人生で最も接した経験が長い女性といえばアストレアなのだが、アストレアはベルにとって母親のようなもので……つまるところベルは対女性に対する経験値が乏しかった。

 それは敬う対象である女神に対しても同じことが言える。

 喧嘩を止めないといけないけれど、どうすればいいのか分からない。

 

 暫しの逡巡を得てとにかく喧嘩を辞めてもらおうと、ベルが恐れ多くも女神二柱の手を取って動きを止めようとした、ちょうどその瞬間。

 

「ははは。その辺にしておいてくれないかい? いたいけな兎が困ってる」

 

 軽快な声と共にニュッと腕が伸びる。

 橙黄色の髪を揺らしながら二神の女神の間に割って入った旅人のような格好をした男神は、演劇の役者のような気障ったらしい笑みで。

 

「そう怒ってはせっかくの美貌をほんの少しでも損なってしまう。美しい女性は美しく居てくれた方が世界にとっても、オレたちにとっても有益だ。なあ、そうだろうベル君?」

 

 髪色と同じ、切れ長の橙黄色の瞳がじっとベルを見つめた。

 全てを見透かすような瞳……神の瞳に見つめられたベルは動けない。動くな、と、物理的に押さえつけられているかのようなプレッシャーが一瞬ベルを制す。

 その間に、突然現れた男神に女神たちは非難の声を浴びせていた。

 

「邪魔しないでくれるヘルメス。その帽子の羽根もぐぞ」

 

「そもそもこの子のこと教えたのあんたじゃない」

 

「黙れナンパ師。薄汚いお前と純真なこの子を一緒にするな」

 

「辛辣だなあ!?」

 

 けんもほろろといった様子の女神たちに出鼻を挫かれたようにガクッと膝を突く男神。

 が、直ぐに持ち直し爽やかでいてどこか軽薄な笑みを貼り付けた。

 

「まあオレのことはいいとしてだ。ベル君も困ってるみたいだし……ここはオレに免じて引いてくれると嬉しい」

 

「はあ……? だからそもそもあんたが」

 

「まあまあ。もちろんタダでとは言わないさ。こんなにも美しい女神たちを手ぶらで返してしまうとオレの沽券に関わる。そうだな……何か一つ、オレのファミリアが望みのものを運ぼう。オラリオではなかなか手に入らない貴重なものでも確かに用意して届けるぜ?」

 

 片目を瞑って見せる男神に女神たちは暫し考えたあと、まあそっちの方がいいか! と意見が一致したようだ。

 ベルという突然現れた"物珍しさ"に対する好奇心と、前々から欲しかったけれど都市外でしか手に入らないものに対する"個人的な欲"で後者が勝ったとも言う。

 これが例えば『万年処女神にできた初彼氏』だとか『世界最速記録を樹立』だとか、明確な美味しいネタとなっていれば話は別だったが、所詮ベルは噂の域を出ない。

 

 お前約束忘れんなよ、と念押しして去っていく女神たちを手を振って見送った男神に、ベルはガバッと頭を下げた。

 

「あの! ありがとうございました!」

 

「ははは、顔を上げてくれベル君。大したことはしてないさ。オレの知り合いが君に迷惑をかけていたみたいだからね。謝りたいのはむしろこっちの方さ」

 

「い、いえ! そんな事は!?」

 

「まあ気にしないでくれよ。そっちの方がオレも嬉しい……といっても、ベル君は気にするだろう。だからそうだな……ベル君がオレに感謝してるって言うなら、オレについて来てくれないかい? いや何、これから行こうと思ってた場所は少しばかり特殊でね、オレも一人じゃ心細かったのさ。ベル君はオレにお礼が出来て、これから行く場所でオレはベル君にお詫びが出来る。双方に取って悪い話じゃないだろう?」

 

「そういう事なら……分かりました。神様のことを護衛させていただきます!」

 

「はは、そう畏まらなくてもいいよ。っと、名乗るが遅れたがオレの名前はヘルメス。気軽にヘルメスって呼んでくれてもいいぜ?」

 

「さ、流石にそれは恐れ多いです……」

 

「まあ徐々にでいいさ。……これから長い付き合いになる事を、オレは望んでるからね。さ、そうと決まれば早速行こう! 夜は短いぜベル君!」

 

 片手を上げて軽快に歩き始めたヘルメスの後を追うようにベルも歩き出す。

 弾むようで、どこか煙に巻くようでもあったヘルメスとの会話の中で尋ねるタイミングを逸し、まあいいやと頭の中で一つの疑問を転がして。

 

(──僕って、何処かで名前言ったっけ?)

 

 

 

 

 

 ☆☆☆

 

 

 

 

 

 オラリオは眠らない。

 夜は人が活動を止める時間ではなく、繁華街からは今も途絶える事なく喧騒が響いている。

 賑わう広大な都市、そのとある一角。

 並んだ建物の間から、様々な快楽が混ざり合う嬌声が漏れていた。

 男と女の声である。作り物の……あるいは本物の愛を交わし享楽を貪り合う二つの影絵が寝台の上で絡み合い、外からでも何をしているのかおおよそ察することができた。

 ありとあらゆる雄の獣欲を金へと変える無数の娼館。

 怪しげであり淫靡でもあるその空間には、艶かしい看板が連なるように並び、露出の激しいドレスで着飾る蠱惑的な女性たちが多く歩いている。

 

『夜の街』。

 オラリオのどの区画やメインストリートとも一線を画す世界にベルは来ていた。

 

「……!? ……っ!!? …………ッッッ!!?!?!?」

 

 その入り口で、ベルは呼吸を忘れる勢いで真っ赤に燃え上がった顔を掌で覆っていた。

 

「おいおいベル君、前を見ないと危ないぜ?」

 

「へっ! へ、ヘルメス様ぁ!? こ、ここここ! ここっ、ここっ!!?」

 

「やっぱり『歓楽街』は初めてか。まあこれも経験だベル君。何より……君も男なら楽しまないと彼女たちに失礼ってものだ。見ろベル君! 美しい女性たちが惜しげもなく肌を晒しているぞ! これを見ずして何が男か!」

 

「ぼ、僕は! そのっ、えっと! だから、あれで!!?」

 

 情けない悲鳴を上げてぎゅっと硬く目を閉じるベルの耳元に口を寄せるヘルメス。

 

「──興味はあるんだろう? 指の隙間空いてるぜ」

 

「ぅぁ!!?!?!!!?」

 

「いやいい! いいんだベル君! それが当たり前というものさ! だってオレたちは男なのだから!!」

 

 高らかに宣言するヘルメスの主張に周囲の男たちがウンウンと頷く。

 注目されている事を視線で感じ取ったベルが恐る恐る目を開けるともう胸とか大事なところとかの最低限しか隠れてない『一味違う、攻めてみたビキニ』みたいなほぼ紐の服を着たアマゾネスが視界に入り、バチィン! と音がするぐらい勢いよく両手を顔に叩きつけた。

 

(し、刺激が強すぎる!!!)

 

 酸欠のときのようにクラクラする頭。

 ベルが訪れるには色んな意味で早すぎる街だった。

 

 とある理由から種族のごった煮状態──まあ冒険者(おとこ)を楽しませるためだが──である歓楽街は、様々な世界の様式の建物がエリアで区切るように広がっており、異国情緒で溢れている。

 娼婦達が男を誘惑するための刺激的な格好で彷徨いていることも含め、ここはベルにとって正しく別世界。

 紙に滴下された水滴のようにベルに心細さが広がり、思わず心の中でアストレアを思い浮かべた。

 

『ベルはエロかったのね』

 

 ベルは膝を折った。

 母親にエロ本が見つかったときのような気持ちだった。

 

「す、すみません! 僕はこれで……!」

 

 その光景が、匂いが、雰囲気が、とにかく歓楽街の全てがベルにとって毒にも等しい。

 空気に当てられたベルは熱っぽくなる頭を振って、一秒でも早くこの場から離れようとした。

 が、そうは問屋は卸さない。

 

「おっと待つんだベル君」

 

 ぐわしっとヘルメスの手が力強くベルの腕を掴む。

 

「手を離してくださいヘルメス様ぁ!?」

 

「いやいや。オレは確かに言ったぜ? 一緒に来て欲しいと。そしてそこでお詫びをさせて欲しいと。ベル君は自分の中で貸し借りを精算させたら相手はどうでもいいって言うのかい?」

 

「で、でも流石にこれは……!? 別のこととか……!!」

 

「今度はオレの番だ。さあ行こう! 大丈夫すぐに慣れる! というより、ベル君も女を知っていた方がいいと思うよ。何事も経験さ。……君の主神は、こういう事に口を出してくるタイプでもないしね」

 

「え、それはどういう……」

 

 独り言のように呟かれた言葉に疑問を覚えたベルが問い返すが、それは最後まで続かなかった。

 

「さっきから初々しいね……ぼーく? ここは初めて?」

 

「へあっ!?」

 

 耳元から聞こえた声に体を大きく跳ねさせたベルが高速で振り向く。

 そこには、色欲の虜になったように婉然と微笑むエルフの女性がいた。

 深い切れ目が入った白のドレスに、今にもこぼれ落ちてしまいそうな大きな胸。種族の傾向として無闇に肌を晒すことに拒否感を覚えるエルフの性質に真っ向から殴り合うかのような、エルフの娼婦。

 ベルぐらいの歳の人間の男の子にありがちな、『綺麗でカッコ良くて美しくおまけに清楚なエルフの女性像』という概念にビシッと亀裂が入った。

 オラリオに来たばかりなのと、ベルの知っているエルフがソフィという一応エルフらしいエルフだったという一因もあり、エルフという種族に夢を見ていたベルにはかなりのカルチャーショックだった。

 

 どこ見ればいいのかすら分からない恥ずかしさと少年の夢の崩壊のダブルパンチ。

 赤くなった顔を見られないため、周りの光景を見ないためというよりは、頭の中から抜け出ていきそうな何かから自分を守るために両手で顔を押さえて放心するベル。

 そんなベルの背中を押してぐんぐんヘルメスは進んで行った。

 寄ってくる娼婦を卒なくかわしていく。

 

「はいはいごめんよ、また今度頼むよ。今日はもう遊ぶ場所は決めてあるんだ」

 

「待ってください! 本当に待ってください!? ヘルメス様ぁ!!?」

 

「いい加減覚悟を決めるんだベル君。あ、ヴァリスは心配しなくてもいい。お詫びなんだ、もちろんオレの奢りさ」

 

「そういう問題じゃなくてぇ!!」

 

 ベルは今にも逃げたかった。

 恥ずかしくて頭がどうにかなりそうだった。

 しかし、自分の中の借りを精算したら相手はどうでもいいのか、というヘルメスの言葉がベルの足を縫い付けていた。

 平たく言えば善良な少年は自分にお詫びをしてくれようとしている神様の好意を無碍に出来なかったし、それをしてしまったとき神様がどれだけ傷付くのだろうと考えるととてもじゃないが逃げることは出来ない。

 なので仕切りに代替え案を訴えているのだが。

 

「僕は今とてもお腹が空いています!! ヘルメス様が知ってる美味しいお店に行きたいです!! すごく行きたいです!!!」

 

「これから行くところで女の子と食べるといい。いやあ、ベル君はそういうプレイが好きなのかい?」

 

「ちがっ!? あ、服! 冒険用のインナーが全部ダメになってて! 安くて丈夫なのが欲しいなって思ってて!! ヘルメス様がそういうお店を知ってらっしゃるのなら、それを教えて頂ければとても嬉しいです!!」

 

「うん、確かにぼろぼろの服を着た女の子は男を燃え上がらせるものがあるね。分かってるじゃないか」

 

「何でそうなるんですかぁ!? くっ、あ、あの! この前神様に心配を掛けさせてしまったので何か神様にごめんなさいとありがとうの贈り物をしたいんですけど僕そういうの詳しくなくて!! ヘルメス様はお詳しそうですし、僕はそっちを見て回る方がいいです!」

 

「うん? 女の子にプレゼントがしたいのかい? ふふ……ませてるじゃないかベル君。なら、これを君に贈ろう」

 

「ちょっ!?」

 

 ちゃらり、と。

 ヘルメスが懐から取り出したのは、夜天に浮かぶ月を思わせる濡れ羽色の石をくり抜き銀紐を通した簡素なネックレス。

 身を飾る装飾品というよりは御守りに近い趣を感じる。

 ぽんと半ば強引に握らされたベルがそのネックレスを月にかざすと、月の光を吸い込むように石が淡い光を滲ませた。

 

「以前オレのファミリアが運んだ物でね、綺麗だろう? 月嘆石(ルナティック・ライト)と言ってオラリオには出回ってないものだ」

 

 帽子の唾を片手で抑えヘルメスは月を見上げる。

 

「今よりもうんと昔だ。大きな光のない時代、月の光を浴びて輝く石を『月の石(ムーンストーン)』と下界の子供たちは呼んでいた。それは暗闇を照らし、前へと進むための道標になっていた。だから『月の石』は『旅人の石』と言われることもあってね、オレとも馴染みが深い」

 

「旅人の石……」

 

 光のない時代。

 月の光を反射して輝く『月の石』は、旅人たちに己の進む道を教えてくれる篝火のような役割があった。

 それは闇を進む勇気を与えてくれただろう。

 

「ああ。まあ、それは後々そう呼ばれるようになっただけでね、その本質は別のところにある。月は女性性の象徴とされているんだ。ほら、月を司る神様は女神が多いだろう? 『月の石』には女性を助けてくれる力が備わっていると考えられた。だから『月の石』は『愛を伝える石』とも言われるんだ。英雄譚では女性と恋の成就、家庭は切っても切り離せないだろう?」

 

 自分にとっても身近な英雄譚になぞられ、ベルは首肯する。

 女性が主体の英雄譚もなくはないが、確かに多くの英雄譚で女性は英雄に恋をし、英雄の帰る場所として描かれていた。

 

「他には……月には自分の中の眠っている力を引き出す力があるとも考えられていてね。月を見たから、から始まる何らかの異常はそれこそ枚挙にいとまがない。総括すれば、『月の石』には進むべき道に迷ったとき、迷いを取り去り正しい道へと、光ある場所へと導いてくれる、そんな願いが込められているのさ」

 

 贈り物のチョイスとしては悪い石じゃないぜ。

 そう締め括り、すっとヘルメスはベルの掌へと視線を落とした。

 

「まあこれだけだと少々無骨が過ぎるから……そうだな、石自体は大きめだからどこかで加工してもらうといい。銀細工が得意な冒険者だって捜せばいるし、なんならオレが飛びっきり腕のいいのを紹介しよう」

 

 石に魅入られるようにほけっとしていたベルはそこでハッとした。

 

「これをお礼として頂くのは構いませんか!?」

 

「ああ、構わないよ」

 

(やった!!)

 

 ベルは内心で歓喜した。

 素敵な石を頂いた、という気持ちが三割ぐらいあって、これでこの場から離れられる理由ができたという喜びが七割ぐらいあった。

 

「じゃあ、僕はこれぐぅぇっ!?」

 

「おいおい、そんなつれないこと言わないでくれよ。ほら、もう着いたんだから」

 

 月嘆石をポケットにしまい回れ右。

 が、襟首を掴まれキュッと締まった喉に苦悶の声を漏らしながら、ヘルメスが背中越しに指で指す建物に目を向ける。

 

 いつの間にか風景が代わり砂漠地域の文化圏の色が色濃く表れている中で最も巨大な娼館──というよりは、もはや宮殿。

 王宮を彷彿とさせる威容に、とにかく豪華な金に輝く外装が人目を引く。

 正面の大扉にはヴェールを被り顔の上半分を隠す裸体の女性……娼婦が刻まれたファミリアのエンブレムがあった。

 

「た、他派閥のホーム……?」

 

 え? これから他派閥のホームに踏み入るつもりなの? 僕が? とベルが目と口をあんぐり開けてヘルメスを見ると、ヘルメスはニヤリと片頬を上げてグッと親指を立てた。

 

「それどういう意味なんですか!?」

 

 ベルは泣きたくなった。

 目的地らしい娼館は目と鼻の先で、しかも他派閥のホームっぽい。

 中へ入ったらもう逃げられなくなるとベルは直感したし、不用意に他所のファミリアのホームに入って余計な揉め事を起こすのも不本意だった。

 前者の理由八割後者の理由二割の全会一致で、逃走の決断をベルは下した。

 

「ごめんなさいヘルメス様!! でもやっぱり僕は無理です!! お詫びはこの石で十分過ぎるほどです!!」

 

 一応両者貸し借りは精算したと、ベルが納得できる要因があった事もその決断を後押ししていた。

 が、その決断は少しだけ遅かった。

 

「──わぶぅ!?」

 

「──おっと」

 

 ヘルメスが反応できないよう、Lv.1の冒険者としてベルが持つ敏捷をフルに使って駆け出すための一歩を踏み込み、走り出したその瞬間柔らかな何かにぶつかった。

 頭の上から聞こえてきた驚いたような声に、自分の後ろを歩いていた人とぶつかったのだと直感する。

 冒険者が全力で走り『神の恩恵』を持たない一般人と衝突すればどうなるか。一瞬で駆け巡った思考にベルが青ざめ、しかしその想像は直ぐに霧散するとになる。

 

「へえ……中々そそる顔をしているじゃないか」

 

 ぐっと、慌てて離そうとした体に手を回され、抱き寄せられたからだ。

 

 褐色の肌をした女性だった。

 ベルが歓楽街で目にした女性の例に漏れずその女性も娼婦なのか、露出の激しい紫紺で統一された薄い衣装を身に纏っている。

 アマゾネスの娼婦だ。

 

「すっ、すみません!? あ、あの、あああ、あの!?」

 

 呂律が回らない。

 鼻と鼻が擦れ合いそうなほど近い距離に、今日ベルが見た中でも一際美麗な美貌がある。

 色香の漂う引き締まった体に触れている部分に神経が集中しそうで、ベルは必死で意識を逸らして、出来るだけ顔を見ないように全力で顔を逸らしながら必死に離れようとする。

 

(──う、動けない!?)

 

 しかし、どれだけ力を込めてもベルの体は微動だにしない。

 細腕のどこにそんな力があるのか、冒険者であるベルを真正面から押さえ込む。

 

(まさかこの人も冒険者──!?)

 

 それも、恐らく自分よりレベルが高い。

 どうしていいか分からず、とにかく離れようと藻搔くベルに助け舟を出すようにヘルメスが声を上げた。

 

「やあ、すまないが離してあげてくれないかい? ベル君には刺激が強過ぎるみたいだ」

 

「アマゾネスから男を取ろうってかい? ん……あんたは……今日も来たのか。随分と好色な男神様だね?」

 

「ははは、オレも男だからね。目の前に美味しそうな果実を出されてお預けをされたんじゃ気になって眠れやしない」

 

「イシュタル様の神室に一直線に向かった男神様が何を言ってるのやら。今日は不在だよ、残念だったね」

 

「それはタイミングが悪い。じゃあ仕方ないから今日は諦めるとするか……」

 

 戯けるように肩を竦めて見せたヘルメスは、そこでチラリとベルを見た。

 

(た、助けてヘルメス様──っ!!)

 

 懇願するようにぱちぱちと瞬きを繰り返す懸命なアイコンタクト。

 分かっているさ、とでも言うようにヘルメスは片目を瞑り。

 

「君が今捕まえているのは娼館が初めての少年でね、優しく相手をしてやってくれると嬉しい」

 

 これはその分のヴァリスさ、とアマゾネスに渡されるじゃらりと音の鳴る巾着袋。

 

「ヘ、ヘルメス様ぁぁぁぁぁああっ!!?」

 

 ベルはあらんかぎりに吠えた。

 

「あばよベル君! 存分に楽しんでくれたまえ! 次は男として一皮むけた君と会えることを期待しているよ!」

 

「待って!? 待ってください!? 置いていかないでぇぇえっ!?」

 

「暴れんじゃないよ。今日は不作でろくな男が捕まらなくて暇してたから丁度いい。金は貰ったんだ、心配しなくても天国を見せてやるさ」

 

「すみません! すみません!! あの、あの!? 離してください!?」

 

「私を求めたのはそっちだろう? もうあんたは私の一晩を買ったんだ、往生際が悪いよ。さ、来な!」

 

 娼婦に腕を掴まれ連行されるベル。

 開け放たれている大扉から中へ連れていかれ、はるか上階にまで続く吹き抜けの構造の各階には、客と思われる男性と腕を組みどこかに案内をする娼婦の姿。

 漂ってくる香りは淫靡な甘さを孕み、耳を澄ませば女の鼓膜を溶かすような嬌声が聞こえてくるような、ベルにとっての異世界。

 

「ああ、そうだ。私の名前はアイシャ。それじゃあ……素敵な夜にしようじゃないか」

 

(──あ、食べられる)

 

 妖艶に笑うアイシャを見て、ベルは腹を空かせた獅子の前で震える兎の姿を幻視した。

 

 

 

 

 

 ☆☆☆

 

 

 

 

 

 兎が獅子に食べられようとしている、まさにその時。

 歓楽街の入り口を背にする男神は。

 

「舞台には引き上げた。君が"器"に足るかどうかをオレに見せてくれ、ベル君」

 

 ニヤついた顔に収まるその瞳には見定めるような冷たい色が宿っていた。




原作との変更点。
→ヘルメス様がベル君を知る経緯
→ヘルメス様の動き
→アイシャ

原作より引用。アマゾネスに捕まりそうになったベル君の心中。
→夢も希望も、憧憬が木っ端微塵に砕け、再起不能に陥る。憧憬の原動力を失い、もう『成長』出来なくなる。確信が、ある。ベル・クラネルはーーベル・クラネルで居られなくなる!

作者の見解。
→【憧憬一途】って懸想が続くかぎり効果が持続するのに一回セッ○スしたら効果が消えるの?それってもうアイズに懸想してないってことだから……純情少年は致した相手を好きになるのでは?あっ(察し)※拡大解釈。

次話。
→……。


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ベル・クラネルと重なる姿

アストレア様のCVが気になり過ぎる。




 

 高価だと一目で分かる装飾品。一体何ヴァリスするのか想像するのも恐ろしいそれらが並ぶ回廊を歩くのはなんだか落ち着かないが、それ以上に心を乱すのは蜂蜜のように甘く耳を蕩かす女の声だ。

 ここは"そういうことをする場所"なのだから何もおかしくはない。おかしくはないのだが、ウブな少年には毒にも等しい刺激物だった。

 カッと顔に熱が集まり、出来ることなら目を塞ぐように耳の感覚を閉じてしまいたかったが、ヒューマンの体はそうもいかない。

 かといって、この声が聞こえないところまで逃げることも叶わなかった。

 

「一番奥の部屋だが一つ空いてるってよ。運がいいね、待ち時間はナシだ」

 

 隠すところは隠してるんだから文句ないだろ、と言わんばかりの大胆な布面積。アマゾネスの悍婦アイシャによってガシッと掴まれた右手。

 巨大な岩に挟まれてるんじゃないかと錯覚するほどの圧倒的な安定感を女性らしい丸みを帯びた痩身からひしひしと感じる。つまり全力で腕を引っ張ってもびくともしない。ずるずるずる。ベルは引き摺られていた。

 

「すみませんすみませんすみませんっ!? あの、本当に勘弁してくださいっ!! この腕を離してぇ!? 僕っ、本当にそんなつもりなくて! えっと、その、だから!?」

 

 力で敵わないのだからもう嘆願するしかない。

 生娘のようや悲鳴を上げるベルをじろじろと他のアマゾネスや男性客が見るが、そろそろベルにはそれらを気にする余裕すら失われていた。

 腹を空かせた獅子の目の前に放り投げられた兎に周りが見えるものか。

 

「見りゃ分かるが女は初めてだろ?」

 

 ニッとアイシャが笑う。

 

「心配しなくても忘れられない夜になるさ」

 

 ベルは卒倒しかけた。

 

 アイシャの仕草の一つ一つが淫靡なエロスを感じさせるというのも理由の一つだが、それ以上に剥き出しの性欲というやつがベルには少しキツかった。

 女の子に夢を見ているお年頃。同年代の異性との関わりが極端に少なく、さらには一番付き合いの長い異性が神格者であるアストレア。アストレアがそういう女神だったから、ベルは今まで異性に夢を見ることが出来ていたのだ。

 祖父が祖父だけにコウノトリがキャベツ畑から赤ちゃんを運んでくるなんて信じているほど子どもではないが、男と女の獣のような性欲での繋がり合いを受け入れられるほど大人でもなかった。

 

 流石に今から何をするのかぐらいベルにだって分かる。

 でもそれは本当に好きな人になった人とお互いの気持ちが通じ合って愛し合ったその先にあるもっと神聖な行為のはずでだからそれがえっと。

 今それを経験してしまうと憧れとか夢とか心とか、とにかく今のベルの中の大事な男の子の部分がガラガラと崩れてしまいそうで、ベルは心の底からこの場から逃げたかった。

 

「時にアンタ」

 

 嘆願の言葉を吐き続けるベルを見下ろして一言。

 

「腹が減ってるときに食ってくれと目の前に出された肉を我慢できるか?」

 

 がるる。捕食者は逃すつもりなど毛頭なかった。

 

「アマゾネスは"そういう種族"だ。気に入った男はみーんな食っちまうのさ。そこに相手の意思は関係ない。そうやって私たちは繁栄してきた。本能なんだよ。アンタは強い雄じゃないが、妙に唆られる」

 

 ねっとりとした視線が全身を舐め回したようで、ベルの喉がひっと干上がった。

 腕の力は一瞬たりとも緩まない。

 ベルの脳裏に美味しく戴かれて廃人となった自分の姿が一瞬過ぎって、慌ててそれを振り払う。

 

「それともなんだ、私じゃ不満ってのかい?」

 

 そういう訳ではない。ぶんぶんぶん。取れるんじゃないかってぐらい首を振る。

 控えめに言ってアイシャは整った容姿をしているし、大人びた雰囲気は歳上のお姉さんといった感じで魅力的に映る。

 しかしそれはそれ、これはこれである。

 

『据え膳食わぬは男の恥じゃぞ?』

 

 うるさいちょっと黙ってて。ふっと湧いた祖父の幻影に全力パンチ。

 

「私と重なるのが不服な訳じゃないんだろう。全く期待していない訳でもなさそうだ。初めてに不安を感じる必要もないさね。これまで何人も男を食ってきてるんだ、趣味じゃないが……アンタがそれを望むってんなら、とびっきり優しくしてやってもいい」

 

「そ、そういうことではなくっ! 僕はこういうのは好きになった人と、その!」

 

「私を好きにさせてやるさ」

 

「違くてぇ!?」

 

 ずるずるずる。やっぱり腕は振り解けない。

 ここまで来ると半ば狂乱に近い状態にあるベルの頭でも、流石に"レベルが違う"ことを確信する。

 それも一つなんて次元の話ではない。アイシャから感じる強者の空気は、ザニスが霞むほどの濃度がある。

 恐らく二つ以上のレベル差。単純な腕力ではそれこそ赤子と大人のような格差が存在する、生物としてのスケールの違い。

 体に染み付いた技術が腕力以外での脱出方法を無意識のうちに試してはいるが、全く通用しない。純粋な暴力は技術を踏みにじるが、顔色一つ変えず最小限の動きと力でそれらを封殺しているアイシャからは技術と力の両方が見え隠れしている。

 結論。もう何度も確認していることだけど、逃げるの無理。

 

 それでも諦めずに懇願し続けるベルは流石の精神力だったが、女に引き摺られながらのそれは客観的に見てわりと結構だいぶ情けなかった。

 本人は必死なのでそんなこと気にする余裕は吹っ飛んでいるけれど。

 

 だから、ベルは気付かない。

 気に入った相手を問答無用で襲うと言っているアマゾネスが、ベルの不安を取り除くような言葉をかけていることを。

 まるで、泣き叫ぶ人を無理やり犯すことを嫌がるかのように。

 まるで、自分より弱い人を強制的に甚振ることを忌避するかのように。

 アマゾネスの本能とそれを根底から歪めてしまった何かの片鱗を、ベルは見逃した。

 

「だ、誰かー!」

 

 もう独力ではどうしようもなく、遂にベルは第三者に助けを求めた。

 ぐっ。

 冒険者であろう男の腰に手を回して歩いていたアマゾネスの一人が、健闘を祈るようにサムズアップ。

 誰も助けてはくれなかった。

 ベルは泣きそうになった。

 

 しかし、ベルの祈りが通じたのか救いの手は差し伸べられることになる。

 

「アイシャ様……?」

 

 狐人の少女だった。

 きらやかな金の長髪に、同じ毛並みの耳と尻尾。澄んだ泉を思わせる翠の瞳がきょとんと宙ぶらりんになっている。

 そしてなによりその格好。何の変哲もない……というには些か上等過ぎるが、一般的に着物と言われれば一番に頭に浮かぶようなオーソドックスな紅の着物を身に纏っている。

 つまり布面積が娼館の中の女性で一番多かった。

 布面積が一番多かった。

 大事なことなので復唱した。

 

 ほぼ全裸のアマゾネスが徘徊する娼館の中で、顔と手しか肌色が見えない狐人の少女が、ベルには冗談抜きで天の使いのように見えた。

 清楚補正にブーストされちゃったのだ。

 右を見ても左を見ても肌色のこの世界で、この少女だけが救いのようにさえ思えた。

 

 足を止めたアイシャが少女に向き直る。

 

「春姫……」

 

「あ、あの! 助けぶへぇ!?」

 

「あの……アイシャ様。そんなに顔に胸を押し付けてはその殿方が窒息死してしまいます……」

 

「冒険者なんだ、これぐらいじゃ死なないよ。それより……今日は客は入ってないはずだろう。また手伝いか、春姫」

 

「はい。春姫が出来ることはこれぐらいですから」

 

 ふわりと笑って、春姫と呼ばれた少女は両手に抱えた沢山のシーツを軽く持ち上げてみる。

 娼館なので当然ながら毎日のシーツ消費量は半端ではなく、それに伴って洗濯にかかる労力も並大抵ではない。

【イシュタル・ファミリア】はファミリアの規模が大きいこともあり、新人などの下級構成員にそれらを任せることもあれば、業者と契約して効率化している面もある。

 しかし、アイシャは手伝っているのか、と言った。

 どうやら春姫という少女は普段洗濯という雑務をしなくても良い立場なのだろう。

 

「やらなくてもいいって言ってるだろう。そんなことよりも、お前にはもっと……」

 

「いえ……これが春姫のやりたい事なのです。春姫はこうしていたいのです、アイシャ様」

 

「……そうかい。じゃあ、好きにしな。……最期までやりたい事をやればいいさ」

 

「はい。ありがとうございます」

 

 脅威の胸囲から脱出するためもがもがと踠いていたベルの動きが止まる。

 力尽きた訳ではない。感じ取ったからだ。

 

「(今、一瞬この人から助けてって声が聞こえた気がする)」

 

 超至近距離でアイシャに触れていたベルには、何かを呑み下したようなアイシャの一瞬の微細な震えが伝わった。

 

「ところで、その……」

 

 春姫がちらりとベルに視線を向ける。

 

「ああ、こいつかい? 私の今日のお相手さ。どうだい、可愛らしい顔をしているだろう」

 

 ぐりん。両頬を片手で挟まれてベルの首が春姫の方へ回転。

 さっと見えた一筋の光明。うまく喋れないので、ぱちぱちぱちと必死のアイコンタクトを併用してみる。

 

「たふへへ」

 

 届けこの思い。もう貴方しか縋れる人がいない。みこーん。何かに気付いたように春姫の耳と尻尾がぴーんと伸びた。

 

「シーツのお取り替えはお任せください!」

 

「まっへ!?」

 

 違うそうじゃない。コトが終わった後じゃなくてコトが始まるのを何とかしたいんです。

 再チャレンジ。もう後がない。ばちばちばちばち。人生で最速最多のアイコンタクトだった。

 みこーん。ふわふわした狐耳がぴーんと伸びる。そして、さっと美しい顔に朱が差した。

 

「あの、アイシャ様……?」

 

 おずおずと、春姫は隠れるように喉を震わせる。着物の袖で口元も隠したりなんかして。

 とても恥ずかしそうだった。

 

「その……宜しければ、その、えっと、は、春姫が其方の殿方のお相手を努めたく御座います……?」

 

「ふぃはっ!?」

 

 違うそうでもない。自分はチェンジを訴えていた訳ではないのだ。

 それに、そんなに恥ずかしそうにされると凄まじく申し訳ない気持ちが湧き出てくるし、気恥ずかしい。

 お互いに羞恥で顔を真っ赤にしているベルと春姫を交互に見て、アマゾネスの悍婦はケラケラと笑う。

 二人の空気が娼館に似つかわしくない、どこか健全な甘酸っぱさだったから。

 

「春姫、アマゾネスから男を奪おうってのかい。お前も大胆になったねえ」

 

「そ、そういう意図では……!?」

 

「じゃあどういう意図だってのさ。……まあ、そうさね。アマゾネスから男を奪うなら血が流れるのが必定だよ。でも……私が惚れた雄ってわけでもない。それに、他ならない春姫の頼み事だ。いいよ、持ってきな。アンタもそれでいいだろう?」

 

「へ?」

「え?」

 

 ぽーん、と。

 ベルも、春姫でさえ拍子抜けするほど簡単にアイシャはベルを手放した。

 アマゾネスの気質から考えればあり得ないほどに、あっさりと。

 

 ぐいっと押し出されてたたらを踏んだベルが春姫の側へ。

 当の春姫はぽかーんと小さく口を開けて呆けていたかと思えば、悲しげに目を伏せた。

 

「金は貰ってんだ。しっかり"おもてなし"をしてやるんだよ」

 

「……はい。申し訳ありません……アイシャ様」

 

「……言っただろう。やりたい事をやればいい。……それぐらいしか、私には……」

 

 最後の言葉は消え入るような小ささで、誰かに聞かせるというよりは自分を責めるような言葉の響きだった。

 

 二人はそれなりに深い関係性なのだろう。それは見ていて分かった。お互いのこともたぶん、結構知ってるんだと思う。

 だけど、アイシャと春姫の間には壁があるような気がした。

 バツの悪い顔で二人のやりとりを見ていたベルはそう思った。

 そして、普通に過ごしていたのなら直ぐに無くなりそうな低い壁だとも思った。

 

 さてさて。

 何をやっても抜け出せそうに無かったアイシャの拘束が外れ、現在ベルはフリーである。

 ちらりと春姫を見る。沢山のシーツで両腕が塞がっているし、佇まいから戦う者の気配を感じない。多分捕まらずに逃げられるだろう。

 アイシャを見る。下唇を噛んでいるのか、口元に少しシワが寄っていた。距離は数メルほど。走って逃げてもすぐに捕まる距離だった。

 

 けれど、アイシャはくるりと背中を見せて歩き出した。

 状況だけを見れば、アイシャはヘルメスからヴァリスを対価にベルの夜の相手を務めようとしていただけである。そこにベルの自由意志が介在していなかったという点に目を瞑れば、ベルは成立した売買契約にゴネまくるモンスタークレーマーだった。もちろんベルにはベルの言い分があるのだが、このままアイシャを行かせてしまうのは筋が通っていない気がしたのだ。

 

「あの、アイシャ……さん!」

 

 だから、ベルは咄嗟に声をかけていた。

 

 無言で、首だけでアイシャが振り向く。

 切れ長の目がすっと細まり、息を飲むような美しい横顔にドキリと心臓が跳ねた。

 

「色々とすみませんでした……!」

 

 ガバッと頭を下げる。

 アイシャはぷっと吹き出すと、ケラケラと笑った。

 

「アンタ、律儀なやつだね」

 

 ベルの経緯から何まで、おおよそ察しはついていた。

 自由奔放な神様に子供たちが振り回される。オラリオじゃ何処にでもある光景。

 なら何故ベルを放さなかったのかと言えば、それはもうアマゾネスだから以外の理由はない。

 そういう種族なのだから。

 

「ま、安くない金出してるんだ。買った夜の時間分は楽しんできな。心配しなくても私は消える。部屋の中には誰も入りやしないさ」

 

 それが暗に"部屋の中でのこと"に関与しないと言っているのだと分かった。

 つまり、"娼館で当たり前にやること"をやるもやらないもベル次第だということ。

 急な心変わりだとは思ったが、ありがとういう感謝の気持ちを込めてもう一度頭を下げた。

 

 その時だった。

 

「──この気配ッ! おい! さっさと隠れな!!」

 

「うぁ!」

「みこっ!?」

 

 顔色を変えたアイシャが一瞬でベルと春姫の首根っこを掴み、近くにあったリネン室に放り込み扉を閉める。

 反応できない速度と抵抗出来ない力だった。

 胸から床に落ちたベルの背中に同じく放り投げられた春姫が飛び込んできて「す、すみません!?」ぐえっと潰れたカエルのような声を出すベル。

 一体何事かと振り向けば、

 

「ゲゲゲゲ。男の臭いがするなァ〜。それも青い男の臭いだ。ゲゲゲゲッ」

 

 扉一枚隔てた向こう側から、カエルのようなしゃがれた声が聞こえた。

 

「(──お、悪寒ッ!!)」

 

 ぞくり。背中に氷柱を差し込まれたような冷たい感覚。

 全く理由は分からないが生存本能が"死ぬぞ! 逃げろ! 早く!! "と叫んでいた。しかも過去最大急の。

 兎を狙ったハンターが弓に矢をつがえ、発射の瞬間を今か今かと待ち構えられているような、そんな気分。

 この扉の向こうには、トテツモナク危険なナニカがいる。

 直ぐ近くには見るからに戦えなさそうな春姫。あいたたた、とお尻をさすっている。どうやら外の気配には気付いていないようだ。

 半ば無意識にベルは直ぐにでも春姫を連れて逃げ出せるように、細く柔らかい手を握る。

 

「ぁ……」

 

 春姫の頬に朱が差した。

 

「その……ここで、致すのでございますか?」

 

 何か盛大な勘違いが巻き起こっていた。

 

「い、いくら娼婦といえど、春姫は恥ずかしゅう御座います……。しかし、殿方が卑しきこの身体を求めておられるのなら……えいっ」

 

 着物の胸元に手をかけたかと思えば、ぐいっと左右に引っ張る。眩しいぐらいの白い肌と、こぼれ落ちそうなほど豊かな双丘がベルの視界に飛び込んできた。

 ぷるんっと揺れた。揺れた。ベルの知能指数が一瞬著しく下がり、戻る。謎の重力で引きつけられる視線を必死に背けながら、真っ赤になって小声で叫ぶ。

 

「わあああああっ!? 何してるんですか!? 何してるんですか!?」

 

「……? 春姫の体を求めておられるのではないのですか? あんなに熱い視線で春姫のことを見つめてらっしゃられたのに……」

 

「違いますよ!? 僕は貴方に助けを求めてたんです!」

 

「殿方の激しい獣欲を、どうかこの春姫を使ってお鎮めくださいませ」

 

「そういう"助けて"じゃないんですってばぁ!? なんでそうなるの!? 娼館だからか!」

 

「しないのでございますか? は、春姫の方からご奉仕しろ、ということでございましょうか。まだまだ至らぬ身ではありますが、心を込めておもてなしをさせて頂きます……! ……えっと、お召し物をしっ、失礼します!」

 

「待ってください!? 僕の服に手をかけないで!?」

 

 ぴょこぴょこと耳と尻尾を揺らし、顔に熱を集めながら抵抗する男の服を脱がそうとする半脱ぎの春姫。

 恥ずかしくて仕方ないはずなのに、いやに積極的だった。エロ狐だ。

 

 がしっと春姫の両手を掴む。

 

「(震えてる?)」

 

 一瞬そこに疑問を覚えたが、はだけた着物を纏う春姫は凄まじく煽情的で目の毒だった。自分を律しながらベルは必死に自分にそういうつもりはなく、アイシャから助けてもらうために偶然通りがかった春姫を頼ったことを伝えた。

 伝わるかどうか少し不安だったが、春姫はベルの意図を理解したようで、そうでございましたか、と頷いた。

 

「先程は失礼しました……」

 

 しゅんと肩を落とした春姫が着物を直す。

 しゅるしゅるという衣擦れの音が変な想像を掻き立てて、それを無理やり意識から追い出した。見ないように背中を向けるのも忘れない。

 

「その……だから、僕は貴方に助けられたんです。ありがとうございました」

 

「私などがお力になれたのならそれに勝る喜びはありません。えっと……」

 

「あ……、そういえば自己紹介がまだでしたね。僕はベル・クラネルです」

 

「では、ベル様と。私は春姫と申します」

 

「ベル様、か……」

 

「お気に召さなかったでしょうか……申し訳ありませんっ」

 

「あ……いえ、そういうわけじゃないんです! 気にしないでください」

 

「よろしいのですか……?」

 

「はい。春姫さんの好きに呼んでください」

 

 積んであるシーツに背を預け、二人は隣り合って座る。

 

「時間が来たら春姫が抜け道までご案内致します。きっと、ベル様は娼婦の方々が少ない道の方が良いでしょう」

 

「え、いいんですか!?」

 

「構いません。それに……春姫のおかげで助かったと言ってくださるベル様のために、もう少しだけ張り切りたくなったのです」

 

「何から何まで本当にありがとうございます……!」

 

 歓楽街に足を踏み入れてからベルは感情の入れ物が壊れそうなぐらいいっぱいいっぱいだった。

 エロい娼婦。ぶつけられる"ガチ"の性欲。自分を娼館に放り投げてトンズラした神様。

 そんな中で、唯一春姫だけがベルを助けてくれた。

 感極まりそうだった。

 

「このお礼はいつか必ずします! 何か僕が力になれる事があれば何でも言ってくださいね!」

 

「……いいえ。お気になさらないでください。ベル様のそのお気持ちだけで春姫は十分に満たされております」

 

「えっ、そういうわけには……」

 

 ぐむむ。渋るベルはヘルメス様もこういう気持ちだったのかな、と思った。

 なるほど、確かにこれは居心地が悪い。受けた恩は返したくなるものなのだ。それがベルという少年の善性だった。

 そこで、ふと思い出す。そういえば、ヘルメス様から贈り物にでもすればいいと何か貰ったような。

 

 ポケットの中をまさぐると、冷たい感触が指先に触れた。摘んで引き抜く。銀紐を通した月嘆石が青白く滲んでいた。

 

「……っ」

 

 隣で息を飲む気配。

 首を向ければ、春姫は食い入るように月嘆石を見つめていた。

 欲しいのかな? とベルは思った。綺麗な石だし、宝石とまではいかないけれど、例えばイヤリングとか、簪とかに加工すればそれなりに映えるものとなるだろう。

 神様から頂いたものではある。が、誰かに贈るといいと貰ったものなのだから、手放すことに特に躊躇いはない。

 

「この石が気になりますか?」

 

「……ぁ、いえ、そのようなことは」

 

「大丈夫ですよ、これは頂き物ではあるんですけど、贈り物にしなさいって貰ったものでもあるんです。だから、良かったら春姫さんに差し上げます」

 

 もちろんこのままだとちょっと無骨だから、何かに加工してからにしようと思います、とベルは付け足した。

 春姫のきらやかな金の長髪を見て、簪なんて似合いそうだな、なんて思う。

 

「……」

 

 春姫は下唇を噛んで俯いた。一瞬後には、ふわりと微笑みを口元に刻んでいた。

 

「……また、春姫に会いに来てくださるのですか?」

 

「あ、そうなりますね。……えっと、ダメだったらまた別の……」

 

「いえ……いえ。ダメでは……御座いません。ただ……」

 

「ただ?」

 

 ぐっと、春姫は唾を飲み込んだ。

 

「……春姫はファミリアの方針で歓楽街から離れられません。ですから、春姫と会うには……また、春姫の夜を買っていただかなければなりません。それは申し訳なく御座います」

 

「……だ、大丈夫です! 僕、こう見えても冒険者だから!」

 

 ヘルメスがアイシャに渡したヴァリスを記憶から掘り返してちょっと青ざめそうになったが見栄を張った。男の子だもの。

 新人冒険者ではあるが急成長により到達階層が伸びていることもあり、現実問題もう一度春姫との一夜を買うこと自体はそう難しいことではなかった。ベルの心情を無視すれば、だが。

 

「だから、またこうやってお話ししましょう。オラリオに来るまでは旅をしてたから外の世界の話も、ダンジョンの話題もありますから、退屈させないように頑張ります!」

 

「ベル様は旅をなされていたのですね。外の世界……それは、春姫も聞きとう御座います」

 

 春姫は、とても儚く、微笑んだ。

 

「……ベル様のお気持ち、大変嬉しゅう御座います。ベル様が春姫の夜をもう一度買ってくれる日を待っております。そして……もし、春姫を買う事が出来なかったのなら。どうか、春姫のことは忘れてください。それが春姫の心からの望みで御座います」

 

 その微笑みに息が詰まった。

 何故か胸が締め付けられるようだった。

 後半の言葉の意味は分からなかったが、何かとても暗く重いモノが伸し掛かっているような気がした。

 

 どういうことですか、と訊こうとした。

 悲しんでいる誰かを見過ごす事を少年の正義は激しく拒絶したから。

 

 だが、ベルが口を開くその前に。

 

「おい! アイシャぁ!! ふざけんじゃないよぉ〜〜!!!」

 

 壁の向こうからの怒号がベルの言葉をかき消す。

 びくっと肩を跳ねさせるベルと春姫。

 今まで意識して無視していたアイシャとしゃがれたカエル声の言い争いの雰囲気が変わる。

 経験した事のない威圧感を壁の向こうに感じた。

 

「ふざけるも何もお前の勘違いだって親切に教えてやってんだよクソヒキガエル」

 

「そうやって独り占めしようたってそうはいかないよぉ〜〜! アタイの勘がここに居るって言ってんだ、さっさと隠した男を出しな!」

 

「遂にそっちの感覚もイカれたか? ちょうどいいからそのまま一生ホームから出てくるな同族の面汚し」

 

「アイシャ〜〜、今日は久々に随分と舐めた口を聞いてくれるじゃないか、えぇ?」

 

「……っ、私はいつも通りだよ。目が腐ってんのかい? ああ、腐ってなかったらその汚え面で外歩けないね、私が間違ってたよ」

 

「言うじゃないか、アイシャ……!!」

 

 空気が変わる。

 

 腹の底に響くような怒りの声音。

 耳が拾うだけで震え上がりそうになる。歯を食いしばって耐えるベルの横で、カタカタと春姫が震えていた。

 

「春姫さん……!?」

 

「いけません……いけません、アイシャ様……!」

 

 掠れるような声で春姫が悲鳴のように喘ぐ。

 次の瞬間、リネン室から飛び出して行きそうになった春姫の手を咄嗟に掴む。今までからは信じられないような鋭い目付きで睨む春姫。だが、行かせるわけにはいかなかった。

 今、あの扉の向こうではベルが経験したこともないほどの濃密な"暴力の気配"があった。

 

 ベルが想像すら出来ないほどの強者が出す戦いの臭い。

 それがぶつかり合い、吐き気を覚えるほどの圧力となって空間を軋ませている。

 そう、ぶつかり合い……。

 

 空気が変わる。

 

「アイシャ。一度しか言わない。吐きな」

 

「……ぁ、ぐ、こ、ことっ、ぁ……!」

 

「ゲゲゲゲッ、どうしたアイシャ〜〜、そんなに震えてちゃ聞こえやしないよぉ〜〜。アタイは男を何処に隠したか聞いてるんだ、なぁ?」

 

「お、お前、に……教える……ことは……!」

 

「そんなに馬鹿だったか? ゲゲゲゲッ、また痛めつけられたいようだねえ!! 意識が飛ぶまで叩き潰して、意識が戻るまですり潰して、イシュタル様の神室まで運んでやろうか? こんな風にねぇ!」

 

 何か弾力のあるものを殴ったような音が波打つように響いた。

 

「ぁ、ぐ、うっ……おぇぇぇえっ!!」

 

「きったないねぇ……同族の面汚しはお前だよアイシャ! お前ほど醜く弱いアマゾネスをアタイは知らないねぇ! なあ、アイシャ。そんな弱いお前一人だけじゃ心細いだろうから……優しいアタイは、お前が面倒を見てるブスどもを何匹か一緒に壊してやるよ。嬉しいだろう?」

 

「や、めろ……約束が、違……う……」

 

「約束ぅ? アタイに反抗したのはお前だろうアイシャ。殺生石を壊した一回目。癇癪を起こしたイシュタル様に甚振られた二回目。二度のお仕置きでまだ歯向かう気概が残ってたお前が悪い」

 

「な、違う……! フリュネ、やめろ! 私は……もう……! 私にはもう……!!」

 

 カチカチと歯を震わせながら、嗚咽の混じった声だった。

 

 これは誰の声なのだろうとベルは思った。

 思い返してみる。ああ、近い声質の人がいた。

 アイシャさんだ。あの人の声は、あんな感じだった。あんな風に、弱々しくて、悲痛で、震えていて……。

 

「(違うだろ)」

 

 爪が砕けそうなほどベルは拳を握りしめていた。

 

「なあ、アイシャ。吐きたくなるまで殴ってやるよ」

 

 事情はわからない。話は全く見えてこない。

 けれど、今この場において"何が悪なのか"だけはこれ以上ないほどに分かったから。

 

 迷いはなかった。

 

 もう限界だと、声を張り上げ、ベルを引き摺ってでも進もうとしていた春姫を制して、ベルの脚は動き出していた。

 

 扉を蹴り破る勢いで開けた。

 視界に入ったのは、吐瀉物の水溜りに沈むアイシャと、そのアイシャの顔を潰すように拳を振り下ろそうとしているニメルを越えようかという巨体のアマゾネス。

 

「──」

 

 バチリ、と頭の奥で雷が疾る感覚があった。

 瞬間的に燃え上がった感情が猛り、ベルの正義が叫ぶ。

 

 今、ここで。

 あの人を傷つける悪を見過ごしてはならないと。

 

「やめろッッッ!!!」

 

 アイシャを助けなければというベルの心に呼応して、ベルの中から雷が溢れ出す。

 ()()()()()()()()()()()がベルの身体能力を爆発的に高め、限界を超えた高速移動を可能にした。

 

 拳が床を穿つ──直前で静止した。

 爆発したかのような強い風圧が周囲を席巻。

 場を飾っていた調度品が木葉のように吹き飛んだ。

 それがおさまった後、巨体のアマゾネスはジロリと右前方に視線を向ける。

 

 そこには、片膝を突きアイシャを抱き抱えたベルがいた。

 

「──お、お前……」

 

「はっ、はっ、はっ、はっ、はっ」

 

 アイシャが信じられない物を見た、とでも言うように目を見開く。

 すぐに、何故出てきたと怒りの感情が表出するが、ベルにはアイシャに気を裂く余裕すらなかった。

 

 短く浅い呼吸。

 朝、目が覚めた瞬間に全力疾走を行ったかのような突然の全開駆動に体が付いていっていない。

 叩き起こされた神経が悲鳴を上げていた。

 

 だが、それが理由ではない。

 

「はっ、はっ、はっ、はっ、はっ」

 

 引きつりそうになる喉を必死で動かし、止まりそうになる呼吸を全てを懸けて継続する。

 そうしなければ、今すぐにでも生きることを諦めてしまいそうなほどの重圧が、プレッシャーが、ベルの全身に突き刺さっていた。

 

「──なんだ、やっぱり男がいたじゃないか。ゲゲゲゲッ」

 

 のそり、と巨体が持ち上がる。

 その動作は巨体故にどこか遅かったが、ベルは知っている。

 

「(今、この人、僕の動きを完璧に捉えていた──!)」

 

 拳は当たらなかったのではない。当てなかったのだ。

 例えばそれは、象が突然足元に飛び込んできた兎を踏み潰さないようにする事に似ていた。

 それも、全力で踏み潰されにくる兎相手に。

 余程の反射神経があるか、または両者の間に隔絶した"差"がなければ不可能だ。

 

 この場合は、全てが当てはまる。

 

「白い髪にあどけない顔立ち。ゲゲゲゲッ、あたいの好みの男じゃないか。えぇ?」

 

 舐めるような視線がベルの体を這う。

 カエルのように平たい両眼が細まり、ニタニタと大きな口が三日月を刻む。

 青紫の舌がやけにゆっくりと唇を舐めた。

 その全ての所作からアマゾネスの滾る性欲が溢れていて、普段のベルなら情けない悲鳴を上げてもおかしくはない状況。

 

 だが。

 

「──っ、はっ、ッ!!」

 

 干上がる喉。

 呼吸が上手く出来ない。

 今すぐにでも吐いてしまう緊張感。

 肌で感じる脅威が尋常ではない。ベルにはそのアマゾネスが理解を超える化け物にさえ見えていた。

 それは、命の危機に瀕した生物が出す危険信号。

 ベルの全身全霊が"今すぐコイツから離れろ"と叫んでいた。

 

「──っ」

 

 だが、腕に抱えているアイシャの震えがベルの足を止めた。

 このままベルが逃げてしまえば、その後アイシャがどうなるかなど考えるまでもない。

 

 それに。

 姿格好や種族からして目の前のアマゾネスはアイシャと同じ【イシュタル・ファミリア】の構成員で間違いはない。

 同じファミリアの中で、一方的に嗤う者と涙を流す者がいる。

 それが、ベルの記憶を刺激して魂を強烈に揺さぶった。

 

 悲しんでいる誰かに手を伸ばす。

 己の中の正義を持って、怯え震える自分を必死で噛み殺しベルは立ち上がった。

 

「やめろ……! 馬鹿なことを考えるな! 逃げ……っ!?」

 

「──同じファミリアの家族じゃないのか」

 

 横に寝かせたアイシャがベルの足首を掴もうとして雷に弾かれる。

 巨体のアマゾネスと対峙するだけに全神経を集中させられているベルはそれに気づかない。

 春姫が泣きそうな顔でアイシャを抱き上げる。

 巨体のアマゾネスは口角を釣り上げた。

 

「へえ、向かってくるんだねえ。お前にはどうでもいいことだろう。それとも……そこのブス女に惚れでもしたか? 見る目がないねえ」

 

「……他派閥の揉め事には首を突っ込むべきではないのはその通りです。でも、僕は貴方のしたことを、これからする事を見て見ぬ振りはできない」

 

「……生意気な口は身を滅ぼすよぉ〜。ゲゲゲッ、天国を見せてやるつもりだったが、キツい方がお好みかあ?」

 

「僕は貴方の行いを見過ごせない」

 

「だったらどうするんだい? はいそうですかとアタイが言うとでも?」

 

 はぐらかしもしないその受け答えは、ベルが決意をするのに十分過ぎた。

 

「──ゲゲゲゲッ! おいどうしたあ? 一丁前に構えて……まさか、アタイとやるつもりかい? しかもそのブス女を守るために? ゲゲゲゲッ!!」

 

「アイシャさんをこれ以上傷つけさせはしない!」

 

「言ったはずだよ。生意気な口は身を滅ぼすと!」

 

 発せられた怒気を浴びただけでベルの足が竦んだ。

 反射的に逃げ出さなかったのは、みっともなく震えた体が咄嗟に動かなかったからだ。

 

 頭では分かっている。

 ここは他派閥のホームで、しかも都市有力派閥【イシュタル・ファミリア】だ。

 

 聡明な人物ならまず関わらない。

 普通の人なら見て見ぬ振りをする。

 馬鹿でも触らぬ神に祟りなしと首を突っ込まないだろう。

 

 オラリオに来て日が浅いベルでも、他派閥と事を構えることが……さらに他派閥のホームでそこの構成員相手に戦うことがどれだけ不味いことか、【ソーマ・ファミリア】との一件の後ソフィに教えられたので知っている。

 

 でも、それでも。

 

 血を流し倒れているアイシャの姿が、重なった。

 同じファミリアの家族にゴミ同然の扱いを受けていた小人族の少女に、重なったから。

 

 ベル・クラネルの正義はここで退く事を決して許さない。

 

「【アーティファクト・ケラウノス・レプカ】ァァァ!!!」

 

 躊躇いはなかった。

 意識的に作られたおまじないのトリガーが引かれ雷が顕現。

 白雷が轟き、纏わり付くようにベルの体を疾り、空気が悲鳴を上げる。

 男と女が性を貪り合う娼館に開戦の雷鳴が鳴り響いた。

 

「(──意識は、ある!!)」

 

 リスクを無視して呼び覚ました"おまじない"。

 それがなければ詰むと直感した。

 それがなければ死ぬと確信した。

 これは、まずこの賭けに勝たなければ席に着けない、そういう勝負だった。

 

「(まずはこの人をアイシャさんから引き離さないとッ!!)」

 

 全身を焼く雷と神経を直接貫かれているような痛みに奥歯を噛み砕きながらベルは、巨体のアマゾネスに突進し──。

 

「やめろフリュネッッッ!!!」

「いけませんベル様ッッ!!!」

 

 パン、と。

 水っぽい何かが弾ける音が響いた。

 

「──────」

 

 水風船というものがある。

 薄いゴムの皮の中には空気と水があって、張り詰められたゴムの皮は適度な弾力を兼ね備えている。

 強い衝撃を与えると高い破裂音とともに弾け、中の水を周囲にばら撒いてしまうものだ。

 

 水風船なら飛散するのは水だけだが、これが人間ならどうだろうか。

 皮膚という皮の中には血液や筋肉、臓器や骨などあらゆるものが詰まっている。

 強い衝撃を水風船に加えると、水風船は弾けてしまう。

 では、とてつも無く強い衝撃を受けた人体は、どうなるのだろうか? 

 

 まずすぐ近くでガラスが粉砕する音が響いた。

 一瞬遅れて、バケツをひっくり返したような血液の雨が床に落ちる音がした。

 

「あぁ?」

 

 フリュネが怪訝な顔で己の掌を見つめている。

 その手は真っ赤に染まっていた。

 

「──ぁ」

 

 腰が抜けたように春姫が崩れ落ちる。

 その目は、粉砕された窓と人間の体の中の血液を余さずぶちまけたような惨状の通路を、ゆっくりゆっくり、行き来していた。

 

「──」

 

 言葉もなくアイシャは立ち竦んでいた。

 目で捕らえきらず何が起こったのか頭が追いついていない春姫とは違い、アイシャは全て見えていた。

 

 フリュネの平手がベルの体に触れた瞬間、白い兎の体が弾け、赤黒い肉の塊となって吹き飛んだのを。

 

「……見るな、春姫」

 

 せめて、狐人の少女の目を手で覆うことが。

 アイシャに出来る、たった一つ残された事だった。

 

「……よりにもよって春姫の目の前で死にやがった。恨むぞ、ベル・クラネル。……だから、やめておけと言ったんだ。私にはお前が死ぬ価値すらなかったのに」

 

 満月まで、残り十一日。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 いつの間にか月の光は消え、暗い暗い夜を、厚い雲が覆っていた。

 誰からも忘れられた寂れた通路には、一切の光が届かず、誰のものとも分からないゴミの山が積まれていて。

 そこに、空から闖入者が現れた。

 

 ボゴン! とゴミ山に激突したそれはピクリとも動かない。

 赤黒い肉の塊のような物体だ。微動だにしないからか、生物であるかどうかさえわからない。

 かと思えば、よく見ると不規則に痙攣を繰り返しているようで、恐らく何かの生物ではあるのだろう。

 逆に言えば、それが生物だと判別できる要素は、不規則に抹消部分がぴくぴくと痙攣するその動きだけだ。

 

「──ぅ、ぁ」

 

 ずるずる、と。

 赤黒い塊は、立ち上がることも出来ないまま、冷たい地面の上を這うように動き出した。

 ゆっくりと、緩慢に。

 その方向には、隠微な光が溢れる遊郭があった。

 

「た……す……ける、……だ……」

 

 マッチの火のような拭けば飛ぶ掠れ声。

 立ち上がることさえ出来ず、全身を使って、芋虫のように地を這って進んでいる。

 剥き出しの石畳は氷のように冷たく、赤黒い塊が這ったあとには真っ赤な血が擦り付けられていた。

 

「ぼ……く……が、たす……け……、…………」

 

 緩慢な歩みが、止まる。

 力尽きたようにぴたりと動きが止まり、ぐじゅりと溢れた血が広がっていく。

 その様子はまるで、奇跡的に形を保っていた体が崩れていくようだった。

 

 暗い、暗い夜の中。

 光溢れる遊郭とは真逆の、されど隣り合わせるように存在するダイダロス通り。

 光届かぬ闇の中で一人、少年は死にゆく。

 

「やっべえ、早く戻んねえとみんなに心配かけちまう」

 

 ぽうっ、と。

 遠くに、小さく淡い、しかし確かな光が見えた。

 それは、子供が早足で歩いているような速さで、徐々に近くなっていく。

 

「でも、今年は学区がオラリオに帰ってくるって分かっただけでも朗報だ。学区で学んで、母さんたちを楽にしてやりたい。……冒険者には多分なれねえしな。今日聞いた、噂の冒険者みたいには……」

 

 徐々に、徐々に、光が近づいてくる。

 

「ってか、こんなに遅くなったし、もしかしてみんな俺のこと探してるか? ……早く戻んないと!」

 

 光が近づくスピードが少し上がった。

 そして、気付く。

 

「……ん? なんだこのゴミ。……うわぁ!? こ、こここ、これっ、人間!? 人間が死んでる!?」

 

 蝋燭のような火に照らされた死体が突然足元に現れて、思わず子どもは悲鳴を上げた。

 甲高い声がダイダロス通りに木霊する。

 

「その声……ライぃっ! そんなところにいたの!! 今何時だと思ってるのー!」

 

「げえっ!? シル姉ちゃんの声だ! そっか今日シル姉ちゃんが来る日だ……。……やっぱみんな探してたんだな……ってそんな場合じゃない! シル姉ちゃぁああん!! ヤバい! 死体があるー!」

 

「えっ、死体ですか!?」

 

 慌ただしい声とともに魔石の灯りを持った少女が現れ、子どもを庇うように前に立つ。

 さっと周囲を警戒し、素早く周囲に明かりを向け危険を探す。

 ひとまず誰も居ないことが分かり、ほっと肩を撫で下ろした。

 

「大丈夫、みたいですね……。もう、ライ。こんな夜遅くまで出歩いたらだめって、マリアさんにも言われてるでしょう」

 

「ごめん、ごめんだけどここで説教は勘弁してよシル姉ちゃん!?」

 

「あっすみません。……この方には悪いですが、今はこの場を離れましょう。……ごめんなさい。明日、弔いだけはしますから」

 

 一先ずの安全を確認したとはいえ、死体がここにある以上、何か物騒なことがあったのは間違いない。

 速やかにこの場を離れようとした──瞬間、少女の目はあるものを捉えた。

 ぴたりと、少女の足が止まる。

 

「シル姉ちゃん?」

 

「ちょっと待って」

 

 少女が明かりを向けた先が照らされる。

 それは、赤黒い塊を照らし、次にそのすぐ横に向けられた。

 そこにあったのは、一本の木の棒だった。

 いや、それは、木の棒を加工した、

 

「──これ、リューの木刀……?」

 

 見間違えるはずもない。

 少女、シルが見たのは、自身の同僚が使う武器と瓜二つの木刀。

 それが、転がっていた。




弱さは罪ではない。だが、弱さは己の咎になる。
正義や正しさで誰かが救われるのなら、この世界はもっと優しかった。
折れた剣。もがれた翼。
少女の目には、その姿が誰かと重なって見えた。

次話。
→ベル・クラネルとシルという少女


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