生徒会長は砕けない (雨魂)
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第一章/弱虫ダイヤモンド
玩具の宝石


 

 

 Monologue/

 

 

 

 

 あなたは、この世で最も硬い宝石の壊し方を知っていますか? 

 

 

 それは、叩くことではありません。高い所から落とすことでもありません。足で踏みつけたりすることでも、ナイフで斬りつけることでもありません。

 

 そんなことではその宝石はビクともしません。むしろ傷つけようとすればするほど、宝石は硬度を増して自分を守ろうとするでしょう。

 

 転んで足をすりむいて、泣きたいのに強がって泣かない子供みたいに。壊そうとすれば壊さないで、と。傷つけようとすれば傷つけないで、と。

 

 本当は砕いてほしいと願っているのに、力を使って砕こうとすればするほど、宝石はその硬度を上げてしまうのです。

 

 中にあるものに触れたい。みんなそう願うのに、美しすぎて、硬すぎて、宝石は誰にも触れられないように、本当の自分を殻に隠してしまうんです。

 

 じゃあ、どうすればいいのかって? 

 

 知りたいのなら、○が教えてあげます。

 

 でも、その前にこの話を聞いてくれませんか? 

 

 少し長いかもしれないけれど、ここにすべての答えが在りますから。

 

 

 

 これは、何もできない○が創造した、数十万文字の言葉の羅列。

 

 大切な()()()のために綴った物語。

 

 ◯は、旅立つあなたのためにこの文を紡ぎました。あなたが旅の途中で退屈しないように重ねたプロットの完成形。それが、この拙い小説です。

 

 だから、どうか読んでみてください。飽きてしまったらいつでも本を閉じてもかまいません。

 

 この物語は絶対に傷つかないダイヤモンドのように、永遠にここに在り続けます。

 

 

 

「これは、あなたに贈る(はなむけ)の物語」

 

 

 

 壊れない宝石を諦めずに砕こうとする少年と、素直になれない生徒会長の、一途な恋の物語。

 

 

 

 Monologue/end

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 The story begins/

 

 

 

 

 まただ。また僕はあの夢を視ている。

 

 

「──────」

 

 

 六畳ほどの広さの部屋。生地の厚いカーテンが閉め切られているため、昼であるはずなのに光は差していない。床とカーテンの隙間から入る淡い日光が、暗い室内にかろうじて明かりを灯している。

 

 恐らく、季節は夏だった。ジメジメとした不快な感覚が狭い部屋の中に漂い続けている。空間に手を伸ばせば、握れないはずの空気が手に掴めそうなくらいに重苦しい。

 

 耳を澄ませば蝉時雨と微かな潮騒が聞こえてくる。それで、この部屋が海の近くにあることだけはわかった。

 

 そして、部屋の隅に置かれた二十六インチほどのテレビが常に点きっ放しになっている。今は昼間のワイドショーが画面には映し出されており、よくわからない政治家が僕たちには関係ないことをつらつらとカメラに向かって語っている。時おり出演者の誰かが笑い声を上げて、それを聞いて何がそんなに面白いのか、と苛立った。

 

 そんな場所に、僕はいた。

 

 いや、正確に言うと僕と一人の()()()は、そのいるだけで吐き気がする溝屑のような部屋の中に閉じ込められていた。

 

 どれくらいの間、そうしているのかはわからない。でもそこにある状況を見る限り、一日や二日ではないことは容易に想像することができた。

 

 僕らはその部屋の隅で、恐怖に震えながら小さな手を握り合い、身を寄せている。

 

 お互いの手には、プラスチックで出来た小さな宝石が握られている。よく子供が玩具として与えられるような、透明なダイヤモンドを模した塊。

 

 片手では女の子の手を握り、もう片方の手でそのプラスチックの宝石を握り締めている。

 

 なぜ、そんなものを持っているのかはわからない。答えを導き出すきっかけすら掴めなかった。

 

 

 

『──────それでは、次のニュースです』

 

 

 

 しばらくして、テレビがニュース番組を映し出す。僕らは何も言わずに画面に目を向けた。

 

 そこに映る男性キャスターが手に持った原稿に目を落とし、その内容を読み上げ始める。

 

 

 

『■日前から静岡県沼津市に住む少年と少女の行方がわからなくなっている事件について、静岡県警は誘拐事件であることを発表し、本日も二人の捜索にあたっています』

 

 

 

 淡々と読まれる文章。それを聞いて、隣に座る少女は僕の手を強く握り締めた。

 

 小さい手は絶えず震えている。怖いのだろう。当たり前だ。小学校低学年くらいの少年少女がこんな所に閉じ込められて、恐怖を覚えない訳がない。

 

 僕はその手を握り、反対の手で玩具の宝石を握り締めながらテレビに目を向けた。

 

 

 

『行方不明になっている八歳の男の子の名前は、国木田夕陽(くにきだゆうひ)くん。同じく八歳の女の子、黒■■イ■ちゃん。二人は■日前に沼津市内で行われた夏祭りの会場を最後に行方がわからなくなっており、何者かに誘拐された可能性が高いとして警察は犯人と二人の行方を追っています』

 

 

 

 男性ニュースキャスターはそこまで言って、手に持った原稿を前の机の上に置いた。

 

 そして、何の未練もないように次のニュースを読み上げ始める。水族館に新しいアザラシが生まれたとか、本当にどうでもいい話題だった。

 

 少なくとも、ここにいる僕らにとってはまったく関係のない内容だった。

 

 今のニュースで事件として取り上げられていた、二人の少年少女にとっては。

 

 

 

「………………」

 

「………………っ」

 

 

 

 隣で、少女が泣き出す。

 

 嗚咽混じりに帰りたいです、と悲痛な泣き声を暗い六畳間に響かせていた。

 

 幼い自分はその子をあやすように、綺麗な黒い髪を撫でてあげた。

 

 何故、自分とその少女がこんな状況に置かれているのかもわからないまま夢は流れていく。

 

 この夢に何の意味があるのかも、どうしてこんな夢を見るのかも僕には理解できない。

 

 それもそのはずだ。

 

 僕には、この記憶が無いのだから。

 

 僕は時々、この映像を夢で見る。

 

 それは色んなパターンで夢の中に現れる。これはそのシーンのひとつ。

 

 あまりにもリアルで、残酷すぎる光景。思わず目を逸らしたくなるような幻。

 

 そもそも、これに意味があるのかすらわからない。何ひとつ身に覚えも無いのだから、そう思ってしまうのも仕方ないことなんだと思う。

 

 けれど、僕が現実で見たことがあるものが、この夢の中にひとつだけあった。

 

 

 

「─────っ」

 

 

 

 部屋の外から、誰かの足音が聞こえてくる。

 

 その瞬間、僕と女の子の身体は電気を当てられたかのようにビクリ、と反応した。

 

 そして震えが大きくなる。今度は少女だけではなく、僕も同じように怯えていた。

 

 ガタガタと揺れる身体。恐怖を共有するように身を寄せ合う僕とその女の子。

 

 互いの手とプラスチックの宝石を、痛みを感じるほどの力で握り締めている。

 

 テレビの音声が遠く聞こえる。耳に入ってくるのは、数人の男の声。

 

 足音が近づいてくる。それは間違いなく、この部屋に向かってくるのを感覚として理解した。

 

 

 

「だ、誰かきますわ」

 

 

 

 隣にいる少女が泣きながらそう言う。

 

 カチカチと歯と歯が当たる音がする。それはその女の子ではなく、僕が鳴らしているものだった。

 

 これから何が起きるのか。それを、この夢の中にいる二人は知っている。だからこそ、ここまで恐怖を感じているのだろう。

 

 扉の外から男たちの笑い声が聞こえてくる。それはこんな湿気た部屋によく似合う、下衆な笑い声の重なりだった。

 

 さらに足音が近づいてくる。隣にいる少女がパニックになるように高い泣き声を上げた。

 

 そうなってしまえばあの屑たちの思うつぼだ、とそこにいる僕は気づいていた。あいつらは僕たちが焦り、泣き喚く姿を見て楽しむ生き物。

 

 そもそも、奴らは人間じゃない。

 

 そこにいる僕は、そう思っていた。

 

 

 

「大丈夫」

 

 

 

 近寄ってくる恐怖に耐えながら、そこにいる僕は隣にいる少女の手を握る。

 

 左手には、玩具の宝石。それが砕けてしまいそうになるくらい、強く握り締めていた。

 

 扉の前で男たちの声が止まる。すぐそばに僕たちをさらった奴らがいる。

 

 それがわかっているのに、怖がらない子供がどこにいる。殺されるかもしれない状況にいるのに、泣かない子供がこの世界のどこにいる。

 

 それでも、僕は泣かなかった。

 

 泣いてしまえば隣にいるこの子がもっと泣いてしまう。もっと、怖がってしまう。

 

 夢の僕は、その子を守ろうとしていた。誰かも知らないのに、彼女の名前すらわからないのに。

 

 自分たちを誘拐した大人から女の子を守ろうと、涙を流さずに必死になっていたんだ。

 

 ちっぽけな手では何も守れないのはわかっている。それでも、その子だけは傷つけない、と僕は心の中で叫び続けていた。

 

 

 

「ゆう、ひくん…………」

 

「■■■…………」

 

 

 少女が僕の名前を呼び、僕も少女の名前を呼んだ。

 

 暗闇の中で僕らは見つめ合った。それぞれの存在がそこにあることを教え合うように。

 

 ドアの鍵が開く音が、部屋の中に響く。

 

 怖くないことを伝えるために、僕はその女の子に向かって笑ってみせる。

 

 

 

 

「大丈夫。大丈夫だよ─────」

 

 

 

 

 そして、扉は開かれた。

 

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 

 

 

「─────ユウくん」

 

「………………っ」

 

 

 

 誰かに身体を揺さぶられている。瞼に明るい光が当てられて、僕は徐に目を開いた。

 

 視線の先にはいつもとは違う色の天井があった。木々が組み合わされて出来た天井。

 

 息を吸って感じるのは、お線香のようなやさしい香りと畳のあの独特な匂い。

 

 僕はこのい草の香りが好きだった。暑い日には少しだけむわっとして、雨が降る日には重くなる。わかりやすく表現すると、夏休みに訪れるときに嗅ぐおばあちゃんの家の匂い。

 

 夏休みでもないのにどうしてこの香りがあるのか、寝ぼけた思考で思い出してみる。

 

 でも、頭が思い出す前に、隣に座っている存在が答えを教えてくれた。

 

 

 

「やっと起きたずら。おはよう、ユウくん」

 

「…………あれ?」

 

 

 

 僕の顔を覗きこんでくる茶髪の女の子。垂れ目に小さな体躯。そして、あの特徴的な口癖。

 

 どうしてこの子が僕の部屋にいるんだろう、と思い出そうとしたとき、自分がここにいる意味を思い出した。

 

 

 

「えへへ。ユウくん、寝ぼけてる?」

 

「あ、あぁ。ごめん、寝過ごしたかな」

 

 

 

 寝ぼけた頭で言葉を探し、布団に寝転がったまま、枕元に正座しているその子に言う。

 

 すると彼女は首を横に振り、綿のようにやわらかい笑顔を僕にくれた。

 

 

 

「ううん。今日が楽しみすぎて早く起こしちゃったずら」

 

「今日……?」

 

 

 

 そう言われて何があったかを思い出す。今度はちゃんと自分で思い出せた。

 

 そうだ。今日は高校の入学式。だからこんなに朝早くから張り切って僕を起こしにきたのか。

 

 ……まぁ、僕にとっては新しい学年が始まる日なんだけど、思い出すと猛烈に不安になってしまうのであまり考えないようにしよう。

 

 

 僕が寝ていたのは縁側の傍にある和室。外からは可愛い鳥の囀りが入り込んでくる。

 

 まだ荷物がまとめきれてなくて殺風景な空間。これからの一年間、ここが僕の部屋になると言われたのが昨日の夕方の出来事。

 

 春の朝。温かな空気が流れている和室の中。

 

 そこに僕と僕の従妹である飴色の女の子はいた。

 

 

 

「今日からユウくんとおんなじ学校に通うって考えたら、いてもたってもいられなくなったずら」

 

 

 

 へへへ、と嬉しそうに笑う飴色の従妹。その言葉を証明するかのように、彼女の服装が真新しい制服だったことに気づく。

 

 身を起こした後、大きなあくびをして寝ぼけていた意識を覚醒させた。

 

 春眠暁を覚えず、っていう諺は本当にあるものらしい。いつもは早起きの僕も、今日に限ってはゆっくりとした朝だった。

 

 春は好きだ。けど、今年の春だけはちょっといつもとは違って心から好きにはなれない。なぜかは今日、これから学校に行けばわかると思う。

 

 目尻に浮かんだ涙を寝間着の袖で拭い、隣に正座する女の子に向かって口を開いた。

 

 

 

「おはよう、花丸」

 

「ずら。おはよう、ユウくん」

 

 

 

 寝起きの僕に暖かい微笑みをくれる花丸。ふわふわした雲みたいな彼女の雰囲気を感じていると、穏やかな気持ちで話ができる。

 

 早朝に発生する霧が晴れていくように、段々と意識がハッキリとしてきた。そうなるにつれて、今日がどれだけ大事な日だったかを思い出す。

 

 さっきまで見ていた夢の内容をいつの間にか忘れている。何かを見ていたということだけは覚えているのに、具体的に何を見ていたのかは覚えていない。まぁ、そもそも夢なんてそんなものだろう。

 

 

 

「起こしてくれてありがとね。久しぶりにここで眠ったから、気持ちよくて寝過ごしちゃうところだった」

 

「うん。ユウくん、よく寝てたずら」

 

「そっか。あと、その制服すごく似合ってるよ」

 

 

 

 布団の上にあぐらをかき、ほのぼのと花丸と会話をする。まだ急ぐような時間でもない。少しくらいゆっくりしたって誰も文句は言わない。

 

 僕がそう言うと、花丸は身に纏っている高校の制服に目線を下げ、それから嬉しそうにくしゃっと顔を綻ばせる。

 

 

 

「ふふ、ありがとう」

 

「今日から花丸が後輩になるんだ。なんか変な感じするね」

 

「そうだね。マルはうれしいよ?」

 

「うん、僕もうれしい」

 

 

 

 花丸に笑顔を返す。しかし、良いことばかりではないのがこの世界の不条理。

 

 

 

「そういえばユウくんも新しい制服なんだよね?」

 

「…………そうだったね」

 

 

 

 あまり思い出したくないことを言われ、小さなため息を吐きながら件の新しい制服が掛けられた部屋の壁に目を向ける。

 

 まだ皺がひとつもない真新しい藍色のブレザー。デザインは今どきの制服にしては凝っていて、たしかに素敵だとは思う。

 

 問題はそれを着なくてはいけない理由にある。僕は花丸とは違って今日から高校生になるわけじゃない。今日から高校三年生になる十七歳。

 

 なのになぜ、あの新しい制服を着て学校に行かなくてはいけないのか。

 

 

 

「ユウくんもすごく似合いそうずら」

 

「そうかな。そうだったらいいけど」

 

「でも、大変だね。今日から新しい学校になっちゃうなんて」

 

「ああ、それはあんまり言わないでくれると助かる。ちょっと憂鬱になるから」

 

 

 

 花丸に鋭い言葉をグサリと言われ、僕は寝癖のついたままの頭を両手で抱えた。

 

 つまりはそういうこと。僕は今日から新しい高校に通わなくてはいけないのだ。思い出すとさらに沈みそうなので今は考えないことにする。

 

 障子の向こう側から鶯の音痴な鳴き声が聞こえてくる。まだ綺麗に鳴く練習中なのかな、と馬鹿みたいなことを頭を抱えたまま思っていた。

 

 ここは、花丸の実家のお寺。そこにある一室を昨日から貸してもらっている。僕の家はここではない。実家はこの田舎街から少し離れた所にある。

 

 通う学校が変わり、遠くから登校するのが大変になるということで、春からこのお寺に住まわせてもらうことになったのは僕としても都合がよかった。

 

 けど、そもそも学校が変わることになった原因が酷すぎて、その幸運も今では薄れてしまっている。思い出したらまた深いため息が出た。

 

 二つ違いの従妹の花丸と同じ高校に通えるのは来世になると思っていたのに、まさかこの人生で経験することになるとは一ミリも思いもしなかった。

 

 気分がジェットコースター並みに高速で下降している僕を眺めながら、花丸は笑う。

 

 

 

「大丈夫ずら。何かあったらおらも力になるから」

 

「こら、おらって言わないの」

 

「あ……えへへ、ごめん」

 

「花丸は今日から女子高生なんだから、言葉遣いも気をつけなさい」

 

「ユウくんは厳しいずら」

 

「心配だから言ってるの」

 

 

 

 自分のことを変な一人称で呼ぶ花丸の額にやさしくデコピンをする。

 

 この子の口癖は昔から変わらない。訛っているのは別にいいけれど、こんなに可愛らしい女の子が自分を"おら"なんて呼んじゃいけないだろう。初めて聞いた人は間違いなく驚くに違いない。

 

 両手でおでこを押さえる花丸だが、反省してる感じはない。おそらくこの子はまた自分のことを"おら"って呼ぶ。賭けてもいい。小さい頃から何十回言い聞かせてもダメだったから、どうせ今回も聞く耳なんて持ってない。

 

 そんな飴色の従妹を横目に、両手を合わせて背伸びをする。それから布団から立ち上がり、畳の上に正座をしてる花丸の頭をそっと撫でた。

 

 

 

「じゃあ、学校に行く準備をしようか。気は乗らないけど」

 

「ずらっ。ならマルはお母さんと一緒に朝ご飯の準備をしてるね」

 

「うん。よろしくね」

 

「ユウくんと一緒に学校に行くの、楽しみずら~」

 

 

 

 そう言って、花丸も立ち上がる。僕も平均的な身長より少し低いけど、この子はもっと小さい。

 

 昔から部屋の中で本を読んでばかりだった飴色の従妹。そんな花丸が高校生になるだなんて、なんだか不思議な感じがした。ついでに同じ高校に通うことになるとは微塵も思ってなかった。

 

 

 

「すぐに着替えていくから待ってて」

 

「うん。あ、そうだユウくん」

 

「ん? どうしたの?」

 

 

 

 部屋を出て行こうとした花丸が襖に手を当てたまま、こちらを振り返ってくる。

 

 表情は、少しだけ硬い。いつもは柔らかい彼女の雰囲気が、きゅっとひとつに固まっている。

 

 どうしてそんな顔をして僕を見つめてくるのかわからない。

 

 そう考えたとき、花丸はその小さな唇を開き、言葉を零した。

 

 

 

「涙の痕、ちゃんと洗ってね」

 

「え……」

 

「ユウくん。眠っている間、ずっと泣いてたから」

 

 

 

 そう言われ、右手で自分の顔に触れた。

 

 自分では何があるのか、わからない。それでも彼女は言った。僕の顔に涙の痕がある、と。

 

 それは、あの夢の所為。夢の中で、僕は悲しい光景を目の当たりにしていたんだろう。

 

 さっき、花丸は僕がよく寝ていたと言った。あれは嘘だ。それがなんとなくわかった。

 

 だって、僕も嘘を吐いたから。本当は気持ちよくて目が覚めなかったわけじゃない。

 

 あのつらい夢が終わらなかっただけ。

 

 嘘の理由はただ、それだけだった。

 

 

 

「……うん。わかったよ」

 

「それじゃあ、美味しい朝ご飯を作って待ってるね」

 

 

 

 そう言って、花丸は襖を開けて僕が貸し与えてもらった和室から出て行く。

 

 途端、深い静けさが部屋に漂った。

 

 耳を澄ませば春の朝の音が聞こえてくる。それなのに、ここには何もないと感じた。

 

 具体的にどんな夢を見ていたのか。思い出そうとしても何も浮かび上がることはない。

 

 わかるのは、僕はあの暗い部屋の中にいる映像を見ていた、ということ。

 

 そこで、何かを守ろうとしていたこと。

 

 

 

「………………」

 

 

 

 部屋の片隅に置かれた低い机。その上に置かれた()()()()を手に取り、顔の前に持ってきた。

 

 

 プラスチックの透明な宝石がついたネックレス。

 

 

 僕はいつも、夢の中でこの玩具の宝石を握り締めていた。そして現実でも、そのプラスチックのダイヤモンドがついたネックレスを大切にしている。

 

 これが、夢と現実で唯一共通するもの。

 

 いつから持っているのかはよく思い出せない。でも多分、あの夢を見始めた頃からは持っていたはずだ。

 

 そうじゃなければ、こんなものは捨てていた。高校三年生にもなってこんな玩具をいつも持っているだなんて、おかしな人に見られても仕方ない。

 

 それでも、僕はこのプラスチックの宝石を大切に持ち続けていた。宝物として、お守りとして、ずっと近くに置いていた。

 

 それにどんな意味があるのかはわからない。本当は何の意味もなくて、ただ偶然、夢の中でもこの宝石の玩具を見るだけなのかもしれない。

 

 けれど、僕にはそう思えなかった。だから、この玩具の宝石を捨てないでいた。

 

 

 ダイヤを模したその玩具のネックレス。

 

 

 それを見つめながら、僕は呟く。

 

 

 

「…………あの子は、誰なんだろう」

 

 

 

 プラスチックのダイヤモンドは、僕の問いかけに答えてはくれなかった。

 

 襖の隙間から入り込む春の光だけを、ただいつものように鈍く反射させていた。

 

 

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 

 I held a jewel in my fingers(宝石を握りしめながら)

 

 And went to sleep.(僕は眠ったんだ。)

 

 The day was warm, and winds were prosy; (その日は暖かく 風も穏やかだった)

 

 I said: "'T will keep." (僕は言った"離さないよ"と)

 

 

 I woke and chid my honest fingers,(目が覚めると愚直な指を叱った)

 

 The gem was gone;(宝石が無くなっていたから)

 

 And now an amethyst remembrance(今の僕にあるのは)

 

 

 Is all I own.(宝石のような思い出だけ)

 

 

 

 ────I held a jewel in my fingers

 

 

 

 

 

 

 

 ──────生徒会長は砕けない──────

 

 




次話/浦の星学院高校


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浦の星学院高校

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 春うらら。冬を越え、暖かさを思い出した太陽は頭上から小春日和の柔和な日光を注いでくれる。

 

 初めて通る海沿いの通学路には桜の木が等間隔に生えており、可憐な薄紅色を僕らに見せていた。 

 

 歩きながら桜を見上げる。それから時折、右手に広がる透き通った駿河湾にも目を向けた。

 

 反対側を見れば緑の山々が広がっており、本当に自然が多い街だな、と改めて思った。

 

 アスファルトに落ちた花びらを踏まないように注意しながら、僕と花丸は通学路を東へと進む。

 

 

 

「うれしそうだね、花丸」

 

「えへへ、本当にうれしいずら~」

 

 

 

 隣にいる背の小さい飴色の女の子。僕のふたつ歳下の従妹である彼女は、ニコニコと暖かい春のような笑顔を浮かべながら歩いている。

 

 この子は今日から高校生。たしかに、それを考えればうれしくなる気持ちもよくわかる。新生活に心が躍る、という表現が綺麗に当てはまるだろう。

 

 春はよく出会いと別れの季節と言われる。別れが先に来て、それから出会いが訪れる。そこで感情が動かされるのは当然のこと。だからこそ、未来に対して希望を持つその感情を()()()()と形容したくなるのだろう。

 

 まぁ、中にはよくない別れや出会いもあるのだろうけれど、それを数えて行くより楽しい未来を数えて行った方が良いに決まってる。

 

 だから僕もこの新しい制服を身に纏い、新たな通学路を歩きながらこれから自分が体験するであろう未来に想いを馳せ、心を躍らせようとした。

 

 しかし、残念ながらその踊りは上手くいかなかった。僕の冷めた心は花丸の無邪気な心のように、華麗なステップを踏むことが出来なかったようだ。

 

 

 

「ユウくんと一緒に学校に行くなんて、夢みたいずら」

 

「そうだねぇ。僕もそう思うよ」

 

 

 

 花丸は生まれた時からこの内浦に住んでいて、小学校も中学校もこの街の学校だった。

 

 対する僕は少し離れた街に実家があり、そこにあった小学校と中学校に通い、高校も同じだった。ついこの間までは。

 

 紆余曲折あり、こうして新しい学校に通うことになっている。それを改めて自覚すると、現在進行形で嫌な夢でも見ているような気分がした。

 

 本当に勘弁してほしいけれど、既に決まってしまったものはどうやっても変えようがない。いち生徒である僕には学校長に物申す権限も、その勇気すらも兼ね備えられてはいない。

 

 昨日の夜、高校の友達から『諦めるのも強い人間の選択だ』と意味ありげなメールが届き、『諦めるの語源って知ってる? 物事がどうしようもなくなる理由を明らかにして、納得して止めることを諦めるって言うんだって』と僕は即座に返信した。

 

 とりあえずは嫌な感情を残して諦めるのではなく、開き直って諦めろ、ということを言いたかったのだけれど、その友達には意味の半分も届いていないことがそれ以降のやりとりの中で気づかされたのだった。

 

 つまり、今の僕は開き直ってすべてを諦めている状態。これから訪れる未来がどんなに酷いものでも、受け入れる準備だけは出来ている。

 

 

 

「ふふ、楽しみずら~」

 

「そういえば高校には花丸の友達もいるの?」

 

「うん。地元の高校だからいっぱいいるよ?」

 

「それならよかったね」

 

「ユウくんもいるんだよね?」

 

「……まぁ、いないことはないけど。僕らの場合は、その」

 

 

 

 そんなことを花丸と話しながら歩いていると、近くのバス停に一台のバスが停まった。

 

 そこから数人の生徒が降りてくる。そのほとんどが女子生徒。

 

 それから時間を置いて、僕と同じ制服を着た一人の男子生徒がバスから降りてきた。

 

 

 

「あ」

 

「? ユウくん?」

 

 

 見覚えのある後ろ姿。しかし、何かを気にして歩いているのか、足取りが重く見える。

 

 僕は少し駆け足でその男子生徒に近づく。花丸も遅れて後をついてきた。

 

 明るめの茶髪に、すらりと細い体躯。それはどう見ても僕の友達である男子だった。

 

 すぐそばまで近づいているのに、彼は僕の存在に気づかない。よく見るといつもは良いはずの姿勢が、今日は若干猫背になっていた。

 

 手が届くくらいの距離まで近づいたとき、その男子生徒に後ろから声をかける。

 

 

 

 

 

「─────信吾」

 

 

 

 

 

「うおっ!? ……んだよ、夕陽か。あんまりビックリさせんなって」

 

「別にビックリさせてないし。信吾が気づかないのが悪いんだよ」

 

「しょうがねぇだろ。俺は既に満身創痍なんだよ」

 

「? どうして?」

 

「バスん中が殺気で満ち溢れてた」

 

「ああ、なるほど」

 

 

 

 彼の言葉に納得する。それはきつい。もし僕がその立場なら泣いていたかもしれない。

 

 自分より少し背の高いその友達の横に立って話をする。花丸は僕の後ろに立っていた。

 

 

 

「はぁ……マジしんどい」

 

「がんばろうよ。まだ始まってすらいないんだよ?」

 

「そうだけどさ。朝っぱらから知らねぇ女子たちに理不尽に嫌われるとか、どんな仕打ちだっつーの。俺にそんな残念な性癖はねぇよ」

 

「僕にだってないよ、そんなの。昨日も言ったでしょ。諦めるのも時には必要なんだって」

 

「そうは言ってもよぉ…………って」

 

「ずらっ」

 

「ずら?」

 

 

 

 信吾が花丸の存在に気づいた。僕の後ろに隠れていたから気になったのだろう。

 

 さっそく花丸の口癖に疑問符を浮かべる信吾。振り返ると花丸は首を傾げて彼のことを見上げていた。

 

 

 

「夕陽。その子は?」

 

「ああ。この子がこの間言ってた僕の従妹だよ。ほら、花丸」

 

 

 

 自己紹介するように促すと、彼女は信吾に向かってぺこりと頭を下げる。

 

 

 

「国木田花丸です。えっと、今日から高校一年生で、ユウくんはマルの従兄さんです」

 

「あー、君が花丸ちゃんね。うん、話は夕陽から聞いてたよ」

 

 

 

 花丸から自己紹介をされた信吾は、僕の話を思い出すようにうんうんと頷いていた。

 

 僕が今年から彼女の家に下宿するということも彼には伝えている。別に隠すようなことでもないし、打ち明けていても問題はない。

 

 信吾は少し見た目がチャラついているところはあるけれど、中身は真面目で良い奴なので、花丸にも紹介しておいていいと思った。

 

 

 

「ユウくんの、お友達ですか?」

 

「そう。俺は橘信吾(たちばなしんご)。よろしくね、花丸ちゃん」

 

「ずら。よろしくお願いします」

 

 

 

 そんな風に挨拶をし合う二人。花丸が人見知りしないかと心配だったけど、どうやらそれは杞憂だったみたいだ。

 

 信吾は高校からの友達。本が好き、という共通点があって仲良くなったのが馴れ初めだった気がする。信吾の好きな作家の本を図書室で僕が読んでいたら食いついてきて、そこから二時間弱、あの作家について話し合ったのを薄っすらと覚えている。

 

 色白で端正な顔立ちをしていて、少し背の高い女の子のような容姿をしている。それを言うと信吾は怒る。すごく怒る。文化祭の女装コンテストで断トツの一位を取ってしまい、屋上から身投げしそうになったのをクラスメイト全員で彼を止めたのは数か月前のこと。あのときの信吾は本気だったな、と今さらになって思う。

 

 近くに咲いていた桜を見上げて、ひとつ深呼吸をする。春と潮の香りが胸の中で混ざり合い、これから新たな生活が始まることを自覚させられた。

 

 

 

「じゃあ行こうか。時間もあんまりないし」

 

「そうだな。あー、憂鬱だ」

 

「信吾さんもユウくんとおんなじこと言ってるずら」

 

「しゃーないよ花丸ちゃん。あーあ、女子のみんなが花丸ちゃんみたいにやさしければいいんだけどなぁ」

 

 

 

 そんなことを話しながら、僕らはまた海岸通りの通学路を歩きはじめる。海の方から吹いてきた春の風が僕たちの髪を揺らし、地面に落ちている桜の花びらをどこかへ運んで行った。

 

 信吾の言ってることの意味がわからないのか、花丸は『ずら?』と頭の上にクエスチョンマークを浮かべている。無理はない。でも僕には彼の気持ちが痛いほどわかる。

 

 花丸からすれば()()()()()に今日から入学する感覚だから、違和感とかはほとんど皆無だろう。周りの異性には知らない生徒もいるだろうけど、それはみんな一緒。普通に高校へ入学するのと何ら変わりはない。

 

 けれど、僕と信吾は違う。僕たちは既に高校三年生。なのに新しい高校に通わなくてはいけない。百歩譲って学校が変わるのは良いとしよう。

 

 問題はそこからだ。僕らが懸念しているのは学校が変わることでも新しい制服を着ることでもない。それは。

 

 

 

「─────うわ、やっぱり男子がいる」

 

「ほんとだ。なんかこっち見てるよ」

 

「どうして今さら共学にならなくちゃいけないんだろうね」

 

「そうそう。どうせなら沼津の女子高と統合すればよかったのに」

 

「なんで男子校なんかと一緒にしたりしたんだろ。マジ意味わかんない」

 

「あの茶髪の女の子、かわいそう。もうあの二人に声かけられちゃったのかな」

 

 

「「………………」」

 

「ずら?」

 

 

 

 女子生徒たちの刺々しい会話が聞こえてくる。向けられる視線が痛い。痛すぎる。

 

 女子生徒たちは僕たちが歩く道の左右に分かれ、ひそひそ話をしながら男子生徒である僕と信吾のことを見てくる。否、威圧してくる。

 

 そんな中を僕たち三人は歩いていく。居心地が悪いなんてもんじゃない。たとえるならば、女の子たちが着替え中の女子更衣室の中を通り抜けていくような感じ。やったことはないけど、多分そんな感覚に近い。すごく居づらい。あと、なんで僕らが花丸をナンパしたみたいに思われているんだろう。

 

 完全なる異分子として僕と信吾は見られている。それがこれでもか、というほどに周りの女子たちが放つ雰囲気から伝わってくる。

 

 

 

「なぁ、夕陽」

 

「どうしたの、信吾」

 

「猛烈に帰りたいんだけど、帰っちゃってもいいか」

 

「ダメだよ。信吾だけ逃げるなんて許さない」

 

「そうは言ってもこんな中で普通の高校生活を送れる自信が微塵もないんだがそれは?」

 

「それは僕も同じだよ。信吾が逃げたらクラスのみんなで追いかけるからね」

 

「ちっ、わかったよ。はぁ…………なんでよりによって女子高なんかと統合なんてしちまったんだ、うちの高校」

 

 

 

 歩きながら信吾が項垂れる。その気持ちは自分のことのように理解できる。僕だってほんとは今すぐ逃げ出したい。

 

 女子生徒たちの視線を浴びながら、僕らは新しい高校に続く坂道を上っていく。またどこかで音痴なウグイスが鳴いていた。それはなんだか、気を落としている僕たちを慰めてくれているような気がした。

 

 

 

 

 僕と信吾が少し前まで通っていた高校は、生徒数が少ない田舎の男子校だった。

 

 そして今年度から内浦にある女子高と共学になるのが決まったのは、去年の十月。

 

 僕らが聞かされた理由は、向こうの高校の入学希望者が定数に至らず、学校を存続させることが難しくなってしまった、ということ。

 

 さらにうちの学校長がそこの学校の理事長と知り合いかなんかだったらしく、どうせならうちの男子校と掛け合わせて共学にしてしまえばいい、みたいにラフな感じで決めたという風の噂もどこからともなく聞こえてきた。

 

 火のない所に煙は立たぬ、なんてことわざがあるように多分それもまったく的外れな噂ではないことが僕たち男子生徒もわかっていた。正直、勘弁してほしい。クラスメイト全員で反乱を起こすために学校長室にゲリラ攻撃を仕掛けようとして、結局未遂に終わったのは思い出さなくてもいい記憶。最終的には学校長の車の下に爆竹を一ダースほど置いて爆発させただけで終わった。あとでバレて全員こてんぱんに怒られたけど。

 

 そんなことがあり、今に至っている。女子高と統合すると言われてテンションが上がっていた奴もいたが、大半の生徒は気分がガタ落ちしていた。僕と信吾は後者の二人。

 

 理由は考えなくてもわかるだろう。女子生徒だけで高校生活を送っていたところに()()()男たちが急に放り込まれたら、警戒されるに決まってる。

 

 今の僕らに当てられている女子たちの痛い視線が、その想像が間違いではなかったということを教えてくれている。たしかに信吾の言う通り、こんな中では男子に安寧など訪れない。

 

 それがわかっていたから、僕たち男子は気を落していた。“みんな仲良く!”と先生に言われて素直にはーい!、と答えていた小学生の頃とはわけが違う。

 

 僕たちは高校三年生。あと数年すれば成人として大人と言われる部類の人間になる。言ってみれば、片足どころか身体の半分以上を大人の世界に突っ込んでいる状態が今の僕らだ。

 

 そんな風に、ほとんどが大人になりかけてしまっている僕らが今さら知らない異性たちと心を打ち解け合うなんて、そこにどれだけ高度なテクニックを求められるのか学校長は多分知らない。

 

 しかも相手は女子高の生徒。こっちが仲良くしたいと思っていても、向こうが拒絶してくるのは火を見るよりも明らか。それを想像して落胆しない奴はきっとよほどの楽天家か、ただのおバカさんしかいない。

 

 

 

 

「元気を出すずら、二人とも」

 

「うう、花丸ちゃんめっちゃいい子。俺も一年生になってもいい?」

 

「へへ、良いわけないずら」

 

 

 

 どうしよう、信吾が泣きそうだ。今の状態でかわいい後輩に笑顔で否定されたらたしかに心が痛くなりそう。

 

 そんな話しながら、僕たちは学校に続く坂道を上がって行く。

 

 春風に吹かれた桜の花びらが追い抜いていった。それを見つめながらなおも進む。

 

 今日から通う新しい学校。周りが蜜柑畑に囲われ、海を見下ろす高台に建てられた、古くからの歴史が続いていた元女子高。

 

 

 

 名前は─────浦の星学院高校。

 

 

 

 




次話/生徒会長


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生徒会長

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

「じゃあ、僕らは三階みたいだからここで」

 

「ずらっ。ユウくんと信吾さんもがんばってね」

 

「ばいばい花丸ちゃん。今度教室に行くからね~」

 

 

 

 そんな風に一年生の教室に向かう花丸と分かれ、僕と信吾は初めて入る校舎の階段を上がって行く。

 

 昇降口に張られたクラス分け表を見ると、僕と信吾は同じクラスだった。二クラスしかないので二分の一の確率だったが見事に当たってくれた。二人で死ぬほど安堵したのは数分前のこと。

 

 徐々に教室に近づくにつれて足が重くなってくる気がする。横を歩く信吾も同じようにいつもの半分くらいのスピードで階段を上がっていた。

 

 学校に女子の存在がある。それだけでとんでもない違和感を感じる。それは女子生徒たちも思っていることだろう。多分、僕たち男子よりも強い違和感を感じているに違いない。

 

 

 

「……夕陽」

 

「なに、信吾」

 

「俺たち、高校卒業できんのかな」

 

「やめてよ。僕まで不安になっちゃうでしょ」

 

 

 

 二人で階段を上がっていると途中で信吾がそんなことを言い出した。正直、ほんとに今はそういうネガティブな言葉は聞きたくない。

 

 だって、冗談抜きで不安なんだ。同じ空間に女子がいること。そして、その女子たちに嫌われてしまうんじゃないかということ。

 

 これまでみたいに誰の目も気にせず、やりたいように過ごしてきたあの楽しい高校生活はもうどこにもない。そう考えると前の男子校が恋しくなった。ホームシックになってしまう子供みたいに。

 

 まだ教室まで辿り着いていないというのに、僕たちは女子生徒たちから熱い洗礼を浴びせられた。視線を向ければ怖がられ、歩いているだけで白い目で見られる。存在だけでみんなから嫌われる一匹狼になった気分だった。

 

 二人でため息を吐きながら階段を上がって行く。ここまで来てしまったら後戻りはできない。

 

 それに、教室には僕らの仲間が待っている。彼らを残して逃げたら僕たちは間違いなく報復を受けるだろう。それを考えると、何がなんでも行かなくちゃいけないと思わされた。

 

 教室がある三階に着き、人の少ないリノリウムの廊下を歩く。その間もすれ違う女子生徒から奇異なものを見るような視線を向けられた。たった数十メートルの距離が、なぜか異常に長く感じる。

 

 それから僕たちはある教室の前で立ち止まった。三年一組と書かれた室名札。ここが、僕たちが一年間過ごすことになる新しい教室になる。

 

 

 

「…………」

 

「…………」

 

 

 

 閉め切られたスライドドアの前で立ち尽くす僕と信吾。面接会場に入る前みたいな緊張感がそこにはあった。今まで生きてきて、学校の廊下がこんなに静かに感じたことなんて今までなかったと思う。外で鳴いている鳥の声が聞こえるくらい、僕たちが立つ廊下はシンとしていた。生徒はこのフロアにもたくさんいるはずなのに。

 

 はっきり言って、不安しかない。このドアの向こうには同じ高校生活を送る女子生徒たちがいるのだろう。それを考えると、冷や汗的なものが全身の汗腺から出てくる感じがした。

 

 信吾が深呼吸をする。僕もそれに倣って大きく息を吸った。今まで通っていた高校とは違う匂いがする校舎。これからはこの香りに慣れなければいけないんだ、と誰かに言われた気がした。

 

 

 

「行くか」

 

「行こう」

 

 

 

 二人で顔を合わせて頷き合う。気分はこれから戦地に赴く兵士そのもの。武器はないけど、そこに飛び込む勇気と無謀さだけはある。今はそれだけを信じて逝こう。間違えた、行こう。

 

 意を決して信吾がドアの取手に触れる。そうして間もなく、その扉は開かれた。

 

 

 

 

「─────」

 

 

 

 一斉に注がれるは教室にいるクラスメイトの視線。それは女子生徒だけではなく、我が男子たちのものも混ざっている。

 

 言葉で表現するとひとつは()()。そしてもうひとつは助けを乞う死にかけの子犬のような眼差し。前者が女子生徒で、後者が男子生徒のものであるのは言うまでもない。男子たちの視線はとにかく気持ち悪かった。

 

 先に信吾が教室に入り、後に続いてドアを閉めてから僕も中に入る。教室の中は異様な静けさが漂っていた。耳を澄ませば女子生徒のひそひそ話が聞こえてくる。その内容まではわからない。だが容易に想像することはできる。

 

 男子たちは廊下側の後ろの方で一カ所に団子のように固まっていた。そして女子生徒たちは窓際に集まり、軒並み鋭い視線をこちらに向けている。

 

 僕と信吾はとりあえずその団子になっている男子たちの方へ足を向けた。ここは一先ず、仲間と合流するのが最優先事項だろう。

 

 机と机の間を縫って男子たちが固まっているところへと向かう。すると、泣きそうになっている男子の集団が僕らのことを温かい目で迎えてくれた。うん、オブラートに包んでもキモい。

 

 

 

「おっす」

 

「おはよう、みんな」

 

 

 

 僕と信吾が挨拶すると、小声で返してくる男子たち。いつもは朝からバカみたいにはしゃいでる奴らが、今は猫に怯える野ネズミのようになっている。気持ちはよくわかるので何も言えないのだけれど。

 

 

「で、なにしてんの、お前ら」

 

「み、見りゃわかんだろ。何だよこの教室の空気」

 

「さっきからずっとこんな感じなんだよ。頼むからどうにかしてくれよ、信吾」

 

 

 信吾が男子たちに声をかけると、すぐさま助けを求められる。前の学校でもクラスの中心的な存在だった信吾は、リーダーの役割をいつも担ってくれていた。

 

 だから彼らが信吾に助けを乞う意味もわかる。信吾ならあのカリスマ性を活かしてすんなり女子たちと打ち解けられるんじゃないか、と僕でさえも思っていた。

 

 しかし、現実はそんなに甘くない。

 

 

「はぁ? んなもん、どうしようもねぇだろ」

 

「というと?」

 

「……ぶっちゃけ俺も怖いんだよ」

 

「「「「「ダメだぁ」」」」」

 

 

 信吾の言葉に男子たちが全員落胆する。ですよね、と心の中で呟きながら僕は机の上に学生鞄を置いた。

 

 ここにいる男子たちは女性と関わったことのない奴らばかり。中高一貫の男子校だったのだから仕方ないのかもしれない。僕もその内の一人なので彼らに文句を言うことはできないのだけれど。

 

 他校の彼女ができた信吾にクラスメイト全員の妬みがぶつけられるくらいの純粋さ。そんなピュアな僕らにいきなり女子と仲良くなれ、というのはあまりにも酷すぎる案件だろう。

 

 女の子に慣れているはずの信吾でもこの始末だ。こちら側には誰一人として勇者になれる素質がある男子がいない。こんな状態でどうやって打ち解け合えばいいんだ。僕には全然わからない。

 

 そうやって早速、僕と信吾も烏合の衆に参加することになってしまった。相も変わらず女子生徒たちからは厳しい視線が飛ばされてくる。聞こえてくるのは絶え間ないひそひそ話の声。僕らはその精神攻撃を受け続けていたのだった。そろそろ数人がノイローゼになって倒れてしまいそう。早くどうにかしないと。

 

 懸念していたことがまったくと言っていいほどそのまま現実になって表れている。嫌な想像は鮮明に浮かんでいたんだけど、残念ながらその対処法については欠片ほども出てこなかった。だからこそ今、こんな状況になってしまっているのはみんな理解してると思う。

 

 

 

「ど、どうすりゃいいんだ」

 

「いっそのこと、いつものノリでいけばいいんじゃないか?」

 

「そ、そうだな。向こうだって女子高だったわけだし、共学のノリなんてわかんないだろ」

 

「よし、岡本。とりあえずお前の強烈な一発ギャグでこの重苦しい空気を吹っ飛ばせ」

 

「わかった。とっておきのやつをお見舞いしてやるぜ」

 

「「「「「頼んだぞ」」」」」

 

 

 

 そんな感じで男子たちがひとつの作戦を練り、早速動き出そうとしていた。それはなんというか、僕たちらしいすごく頭の悪い作戦だった。

 

 けれど、ギャグ担当の岡本がブレザーを脱ぎ出したところで信吾が待ったをかける。

 

 

「いや、やめとけ。今はまだそいつを使うときじゃない」

 

「どうしてだ、信吾。ここで空気を変えてみるのは最善じゃないか」

 

「考えてもみろ。この空気でギャグが滑ったらまず岡本が死ぬ。言っちゃ悪いが、間違いなく即死だ。こいつが死んだらそれ以上の手は打てないし、ますます俺たちの印象が悪くなってしまう」

 

「「「「「な、なるほど」」」」」

 

「まずは少し待とう。相手の動きを見るのも作戦のひとつだ」

 

 

 信吾の言葉に男子たちは頷く。彼の言う通り、ギャグが奇跡的に滑って岡本が卒倒するイメージが容易に出来た。危なかったね。統合初日の授業が始まる前に保健室送りとか、笑い話にもならない。確実に僕らの黒歴史として記憶に刻まれたことだろう。

 

 信吾の指示の通り、僕たちはしばらく大人しくしていることにした。HRまではあと十分ほど時間が残されている。その間に何かしらのアクションがあるのか、それとも睨み合ったまま戦いが終わりを迎えるのかはまだわからない。

 

 

 そうしてしばし、冷戦状態が続く。僕たちは余計な動きを見せず石像のように固まっていた。だが空気は重いままで女子生徒たちの鋭い視線は当てられ続けている。キツい、すごくキツい。数人の男子は今にも倒れそうな顔をしていた。

 

 こんな水の中で息を止めるような状況がいつまで続くんだ、と思い僕まで息苦しさを感じ始めたとき、女子たちがいる窓際の方向からある二つの声が聞こえてくる。

 

 

 

 

「ほら行こ? 果南。そんなに恥ずかしがらなくてもイイじゃない」

 

「別に恥ずかしがってないし。なんか空気が重くて行きづらかっただけ」

 

「フフ、そうね。でも大丈夫よ。きっとすぐにライトな空気になるわ」

 

「鞠莉は相変わらずだね。誰にでも振り撒けるそのフレンドリーさは尊敬するよ」

 

 

 

「…………………」

 

 

 

 男子たちの視線が集まる。僕は背を向けていたからわからないけれど、今の声を聞いた感じだと二人の女子がこちらに近づいてきているようだった。

 

 

 

「お、おいどうすんだよ、こっちに来んぞ」

 

「落ち着け。大丈夫だ、向こうから歩み寄ってきているということは、少なくとも俺たちに害はない」

 

「でも、誰が行く?俺、母ちゃん以外の女と喋るのなんて三年ぶりくらいだから百パーどもるぞ」

 

「俺も。まず会話になる気がしない。言葉を忘れてしまいそうだ」

 

 

 

 数人の男子がそう言うと、大半が便乗して『俺も』と、自信満々に言い始めた。うん。どうでもいいけど、全然自信を持つところじゃないよね。 

 

 だが、それを聞いた信吾はわかっていた、というように一度大きく頷いた。

 

 

 

「任せろ、こういう時のために俺と夕陽がいる」

 

「え? 僕?」

 

 

 

 なぜか信吾が僕と肩を組んでくる。どうして僕がこういう時のためにいる、なんて言うんだろう。別に女の子に慣れてるわけでもないのに。

 

 

 

「実はな、夕陽には超かわいい従妹がいるんだ。あのレベルの女子と普通に会話を交わせるなら絶対にいける」

 

「そ、そうなのか。頼んだぞ、夕陽。で、どこに住んでるんだその子は」

 

「さすがだぜ。よし、あとで詳しくその話を聞かせろ、夕陽」

 

 

 信吾が花丸の存在をカミングアウトした瞬間、男子たちから一斉に殺意を向けられた。どうしよう。頼られてるんだかそうじゃないんだか、よくわからなくなってきた。

 

 信吾の言う通りだけど、頼りになるかどうかまではわからない。そもそも花丸は親戚だから話せて当然だと思うんだけど、その辺はどうなんだろう。

 

 男子たちの妬みと信頼がミックスされた視線を浴びながら、僕はその女子たちが近づいてくるのを待った。出来るだけその存在を意識してないようなフリをして。

 

 

 

「ハロー、エブリバディ。ご機嫌はいかがかしら~?」

 

 

 

 最初に聞こえてきたのは、そんな英語と日本語が混じった奇妙な挨拶だった。

 

 それを聞いて、女子たちに背を向けていた僕と信吾は同時に後ろを振り返る。

 

 

 

「「………………」」

 

「あ、その、初めまして」

 

 

 

 僕たちの後ろに立っていたのは、金髪のハーフっぽい顔をした背の高い女の子と青い髪をポニーテールにした同じく背の高い女の子。

 

 彼女たちと会話をする命を受けた僕と信吾。だが振り返った途端、同時にフリーズしてしまった。理由は多分、お互い一緒だと思う。

 

 僕が想像していたのは普通の女子生徒だった。別にこの二人が普通じゃないわけではないのだが、少しだけ普通じゃない。

 

 面倒くさい言い方をしなければ、二人とも予想以上にかわいかったということ。

 

 その容姿に驚き、一瞬動きを止めてしまったが、さすがは信吾。すぐさま気を取り直して閉ざしていた口を開いた。

 

 

 

「は、初めまして。えっと」

 

「私は、松浦果南(まつうらかなん)。よろしくね」

 

「私は小原鞠莉(おはらまり)よ。気軽にマリーって呼んでほしいの~」

 

 

 

 信吾が返事を返すと、そんな風に自己紹介をされる。青い髪の女の子は松浦果南と言って、ハーフっぽい金髪の女の子は小原鞠莉と名乗った。

 

 話しかけてくれたことはうれしい。けれど如何せん、レベルが高すぎるような気がするのは僕の気のせいだろうか。それとも女子と話す機会がなさすぎて、僕の目が無意識に補正をかけているだけなのだろうか。

 

 いやいや、それはない。誰に訊いたってこの二人はかわいい女の子、という部類にカテゴライズされるだろう。こんな綺麗な女の子を前にして、男子校育ちの僕が何も思わないはずがなかった。

 

 こういう時は、そうだ。まず落ち着こう。大丈夫。かわいい従妹と話している時と同じ感覚で話せばいいんだ。相手はアイドルでも芸能人でも何でもない。これから同じ教室で一年間を過ごすクラスメイトの女子。気を負うことは何ひとつない、はずだ。

 

 

 

「ああ、よろしく。俺は橘信吾」

 

「えっと、僕は国木田夕陽。その、よろしくお願いします」

 

「うんうん、シンゴとユーヒね~。よろしくデース」

 

 

 

 金髪の女の子、もとい小原さんが僕と信吾の名前を復唱する。自分の名前を女の子に呼ばれることなど滅多にないので、それだけで心臓が高鳴ったのを自覚した。

 

 なんとなく落ち着いた感じで振る舞っているが、内心はとんでもなく緊張している。隣にいる信吾も同じだろう。いくら女の子に慣れていると言っても、このレベルの女の子にまでは手を出したことはないはずだ。僕よりは百倍マシだろうけど。

 

 

 

「今日からよろしくね。いろいろ大変だろうけどさ」

 

「うん。こっちこそ、よろしくな。えっと、松浦さん?」

 

「果南、でいいよ。私も信吾くんと夕陽くんって呼ぶから」

 

 

 

 青い髪の女の子、松浦さんにそう言われて信吾の動きが停止するのがわかった。横をチラ見すると、彼はめずらしく顔を赤らめてその青い髪の女の子を眺めている。ああ、そっか。

 

 多分、信吾はこの女の子に見惚れている。長い付き合いだからわかる、信吾はたしかにこんな感じの女の子がタイプなはずだ。

 

 すらっとしたスレンダーな体躯に、見た感じスポーツが好きそうな感じがする髪型。おっとりした目つきとどこか大人っぽい雰囲気。松浦果南といった女の子は、まさしく信吾の好みにピッタリな女の子だった。

 

 思考停止してる信吾に助け舟を出すために、勇気を出して今度は僕が返事をする。

 

 

 

「わかった。じゃあ、果南さんでいいかな?」

 

「うん、いいよ。呼び捨ての方が気楽でいいけどさ」

 

「…………なら、俺は果南でいい?」

 

 

 

 僕に続いて信吾が果南さんの名前を呼ぶ。緊張してるのが痛いくらい伝わってきた。

 

 信吾の言葉に青い髪の女の子はこくり、と頷いて爽やかな笑顔を浮かべた。

 

 

 

「もちろん。あんまり硬くならずに仲良くしようよ」

 

「果南の言う通りデース。もっと気楽になっていいのよ~?」

 

 

 

 二人の女の子が僕たちに向かってそう言ってくる。ということは、彼女たちも僕らが緊張しているのがわかっていたんだろう。

 

 女子生徒には敵しかいないと思っていたけど、中にはそんな風に言ってくれる女の子もいるらしい。少しだけ心が軽くなるような気がした。大半はまだ敵視しているみたいだが。

 

 誰とも打ち解けられないよりは数倍マシ。いや、二人でも話しかけてくれる女の子がいただけで、僕たちは間違いなく救われた。

 

 

 

「そうだな。できるだけ努力してみるよ。な?」

 

「うん。みんな最初は緊張すると思うけどね」

 

 

 

 信吾に言われ、便乗するように僕は二人に向かってそう言った。

 

 

 

「それは私たちも一緒だよ。今は男の子を見てちょっと緊張しちゃってるだけなんだ」

 

「そうそう。日本のガールたちはみんなシャイだからね~」

 

「そう言ってくれると助かる。時間がかかるかもしれないけど、打ち解けられるように俺たちもがんばるよ」

 

 

 

 信吾がそう言って微笑む。その顔を見て、果南さんの顔が少しだけ赤くなったのを僕の目は見逃さなかった。

 

 話せたのはまだこの二人だけ。でも、この子たちが女の子たちの中心的な人物だったのならば、打ち解けるのも不可能ではないと思えた。

 

 目を女子生徒の方へ向けると、大半の生徒は鞠莉さんと果南さんと話す僕らの方をジッと見つめていた。何を思っているのかは想像できないが、先ほどの感じていた凄まじい圧力は明らかに弱まっている。

 

 いける。これならば大丈夫だ、と心の中で思った。かた結びの紐を解いていくように、ゆっくりでも男女が馴染めて行けるのなら、想像していたような未来はきっと訪れない。

 

 

 

「グレーイトッ。じゃあ後ろのボーイたちもよろしくね?」

 

「…………あれ。みんなどうしちゃったの?」

 

 

 

 鞠莉さんはそう言ってから、ウィンクをひとつ固まっている男子たちへと送った。

 

 途端に背後から聞こえたのは何かが崩れ落ちる音。何事かと思い振り返ると、数名の男子が今のウィンクをまともに食らって深いダメージを負っていた。わかる。今のは女の子に慣れてない僕たち男子には刺激が強すぎた。直視していたら僕も気絶していたことだろう。危ない危ない。

 

 だが、ここまではいい流れだった。これ以上ないくらい話がうまく進んでいる。

 

 見るからに女子たちのリーダー的存在なのは恐らくこの二人。彼女たちと仲良くなれたのならば、打ち解け合うのも時間の問題だと思った。

 

 

 

 今の僕は、たしかにそう信じていた。

 

 

 

「それじゃあ、改めてこれからよろしくね」

 

「ああ。っと、そういえば女子たちはこれで全員なのか?」

 

 

 

 信吾が女子生徒の方を見てから果南さんに訊ねる。それを聞いた彼女は後ろを振り返り、クラスメイトの数を数えているようだった。

 

 

 

「えーっとね…………あ、まだ一人いないや」

 

「そうね。フフ、あの子がこんなに遅いだなんて、よっぽど嫌だったのかもねぇ」

 

「?」

 

 

 

 鞠莉さんの言葉に違和感を抱く。余程嫌だった。その言葉は何を意味しているのだろう。

 

 そうしているとHRの予鈴が鳴った。一人足りないというが、その生徒はまだ現れない。

 

 どんな人なのだろう、と姿を想像しながら予鈴が鳴り終わるのを待った。

 

 

 そして、スピーカーから音が消えたのとほぼ同時に、前のドアがスライドする。

 

 

 僕は教室にいる誰よりも早く、その方向に目を向けた。気になっていたから、という理由もある。けれどそれ以上に、興味がそそられる何かがあった。

 

どうしてそこまで最後の一人が気になったのか。

 

 自分自身に問い掛けても、答えなど見つかりはしなかった。

 

 

 

 

 

「………………」

 

「──────」

 

 

 

 

 そして僕は、最後に教室へ入ってきた女子生徒を見て息をすることを忘れた。

 

 その子は僕らの方を一瞥し、鋭い視線をぶつけてくる。それは今日見てきた女子生徒たちが見せていた視線の中で最もエッジの効いたものだった。

 

 教室に一番最後に入ってきたのは、おそろしいほど美しい黒髪をした女の子。

 

 目つきは獲物を狙う鷹のように鋭く、明らかに僕たち男子を敵視している。本当にわかりやすい敵意を、その黒髪の女の子は僕らに向けていた。

 

 しかし、僕が気になったのはそこじゃない。その子がどれだけ男子に圧力をぶつけてこようが、そんなことはどうでもよかった。

 

 僕は、あの女の子を知らない。見たこともないし、名前だってわからない。

 

 

 なのに、知っている気がした。

 

 

 たしかに知っていると、心の中にいる()()が大声で叫んでいた。

 

 

 

「あらあら、やっぱりツンツンしちゃってるデース」

 

「しょうがないよ。最後まで今日を嫌がってたのがあの子だったんだし」

 

 

 

 入ってきた女の子を眺めながら、鞠莉さんと果南さんがそんなことを言う。

 

 それを聞きながら、僕はその黒髪の女の子を目で追った。

 

 見つめれば見つめるほど、不思議な感覚が全身を取り囲んだ。

 

 まるで白昼夢を見ているかのように、意識がすべてあの女の子に吸い取られていく。

 

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

 僕にあるのはそれだけの、理屈では理解することが出来ない不透明すぎる感覚。

 

 

 

「うわ。すげぇ性格きつそうだな、あの子」

 

「………………」

 

「夕陽? どうかしたのか?」

 

 

 

 信吾が肩を軽く叩いてくる。それでも僕はあの女の子から目を離さなかった。

 

 無意識のうちに、右のポケットに入っているあの玩具の宝石を握り締めていた。

 

 あの子とこの偽物のネックレスが関係があるのかどうかはわからない。

 

 だけど、今はどうしてもこの玩具の宝石を強く握り締めていたかった。

 

 

 

 

「…………っ」

 

「ちょ、おい夕陽っ!?」

 

 

 

 ふらり、と足が勝手にその女の子が座る席の方へと動き出した。

 

 信吾が僕の名前を呼び、それから男子たちが騒めき出すのが耳に入ってきた。

 

 どうしちまったんだ、とか。ゆ、夕陽がおかしくなった、とか。なんでよりによって一番ヤバそうなところに行くんだよ、とか。

 

 そんな、どうでもいい言ノ葉たちが耳にはちゃんと届いていた。

 

 

 その女の子が座る席までの数メートル。美しい漆黒に目を奪われ続ける。

 

 作り物の人形のような容姿と佇まい。あまりにも強い魅力を放つその姿に見惚れた。

 

 お前はあの子と話さなくてはならない、と心が命令を出し続けている。

 

 そんな第六感に従うため、花の蜜に集まる蝶々のように、僕は彼女の席へと誘われた。

 

 

 周りの景色が無くなる。目には、艶やかな黒色だけが映っている。

 

 

 

「………………あ、あのっ」

 

 

 

 席の前に立ち、声をかける。

 

 普段は出せない勇気を、僕は使った。緊張してしまって少しだけ声が上ずった。

 

 学生鞄の中に入っている教科書類を整理していたその子は僕の声に気づき、気怠そうな感じで徐に視線を上げる。

 

 

 

「気安く話しかけないでいただけますか。(わたくし)はあなた方と馴れ合う気はな─────」

 

 

 

 そして、鋭い視線が僕の両眼を捉えた。

 

 そこで、刻が止まった気がした。

 

 僕とこの子との間に流れる以外の秒針が、すべて止まったような感覚に囚われた。

 

 息を止め、それから少しの間、綺麗な白い肌と翡翠色の瞳に目を奪われる。

 

 会ったことがないのに会ったことがある。これがただの既視感なのか、本当に見たことがあるのか、自分でも曖昧だった。

 

 

 数秒間、僕たちは見つめ合う。その間、聞こえているはずの周りの音が何も聞こえなかった。

 

 正常な意識を徐々に取り戻しつつあったとき、僕は閉じていた口を開く。

 

 

 自身の名前を、この子に教えるために。

 

 

 

「僕は、国木田夕陽」

 

 

 

 その名前を聞いても、黒い髪の女の子は表情を変えなかった。

 

 

 そこにあるのは、目の前にいる男を()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、という顔つきだけ。

 

 僕もきっと同じような表情をしている。そしてこの女の子と同じことを思っているに違いない、となぜか思った。

 

 僕は待った。その黒髪の女の子が口を開くのを、何も言わずに待ち続けた。

 

 それから数秒後。おおよそ時計の一番長い秒針が九つほど小さな音を鳴らした時、血色の良い唇が開かれた。

 

 

 

「…………私は、黒澤(くろさわ)ダイヤ」

 

 

 

 聞き覚えのない名前を聞いて、ポケットの中にある玩具の宝石を握り締める。

 

 何ひとつ思い出せないのに、心の中で彼女の名前を何度も反芻した。

 

 そうしていれば、思い出せる気がしたから。

 

 

 ───硬い宝石に包まれた記憶を、僕は叩き続ける。

 

 

 そうして叩き続けていれば、その宝石が砕けてくれることを信じていたんだ。

 

 

 それが砕けないのは、最初からわかっていたのに。

 

 

 

 

 

 

 

「この学校の、生徒会長ですわ」

 

 

 

 

 

 

 






次話/小春日和の憂鬱


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小春日和の憂鬱

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 

 新たな校舎での高校生活が始まり、三日が経った水曜日。

 

 よく晴れた昼下がり。春の暖かな日差しと海から吹きつける風が心地いい。そんな場所に僕はいた。

 

 気分がよければ少し昼寝でもしたくなるような小春日和。しかし残念ながら、今はそんなことをする気にはまったくなれなかった。

 

 この生活が始まった直後は上手くいくことを期待していたが、現実はやっぱりそんなに甘くない。淡い希望は厳しい現実に簡単に打ち砕かれる、ということをこの三日間で思い知らされた。

 

 今日も朝から憂鬱で学校に行くのを億劫だと感じてしまい、ボーっとしてたら従妹にもれなく花丸ちょっぷ☆を食らった。それがまた可愛くて逆に癒されてしまったのは僕だけの秘密。

 

 いつまでこんな日々が続くのか。それを想像すると本当に絶望したくなる。新学期が始まってまだ三日だというのに、既に僕たち男子の精神は最終ラウンド前のボクサー並みにボコボコなのであった。

 

 これからこの生活を過ごしていけばもっと慣れていくのだろうか。そんな風に思うけど、そう簡単に物事が進むとはこのネガティブな思考回路では思い描くことさえできない。

 

 

 

「「はぁ………………」」

 

 

 

 屋上に座りながら、同時に深いため息を吐く僕と信吾。僕たちの息は春風に乗って桜の花びらとともにどこか遠くへと運ばれていった。どうせならこの憂鬱な気分も一緒に飛んでいけばいいのに。

 

 お昼ご飯を食べながらこの三日間の反省会をしよう、ということで屋上に来たのはいいけど、出てくるのは反省ではなくのっぺりとしたため息だけ。

 

 個人的にここまでの生活の中で良いと思えることは何ひとつなかった。逆に悪かったところを挙げろ、と言われたらそれはもう溢れんばかりに出てくる。両手じゃどうやっても抱えきれないくらいに。

 

 とにかく、男女の間にある溝は予想以上に深い。最初に話しかけてくれたあの二人以外の女子とはまだ挨拶すら交わしたことがない。

 

 ……あの生徒会長とも、あれきり一言も口をきいていない。あの時は夢中になって話しかけてしまったけど、冷静になって考えると僕はとんでもなく大胆なことをしていたことに気づき、帰ってからお寺の境内で仏さまに向かって手を合わせながら大粒の涙を流していたのだった。そのあと花丸に見つかって「ユウくんが悪霊に取り憑かれたずらっ!」と、心配されました。

 

 端正な顔立ちと類稀なカリスマ性を持つ信吾でさえも女子生徒から避けられているくらいだ、僕のような普通の男では話すら訊いてくれやしないだろう。勇気がなくて話をかけたこともないけど。

 

 僕の膝の上には曲げわっぱに入っている和食のお弁当が置かれている。これは花丸がわざわざ僕のために早起きして作ってくれたもの。味も美味しいし、あの子が頑張って作ってくれたものだから食べなきゃいけないのはわかるんだけど、どうにも箸がすすまない。

 

 

 

「どうすりゃいいんだ」

 

「信吾にわかんないことを僕に訊かれてもね」

 

「だって、全然わかんねぇんだよぉ。どうにかしてくれよ夕陽ぃ」

 

 

 

 そう言って頭を抱える信吾。なんでも卒なくこなすタイプの彼がこうしているのを久しぶりに見た気がする。前に見たのは苦手な数学で赤点を取りまくって危なく留年しそうになっていた時のこと。部活や人間関係や普段の生活は完璧なのに、勉強だけはしないのが彼の悪いところ。できないのではなく、ただ単にしないだけ。

 

 

 

「うーん。まず、あの席替えはいらなかったかもね」

 

「う……それは言うなよ。マジでごめんって」

 

「別に恨んでるわけじゃないよ。ただ、他の男子たちからしたら勘弁してほしかっただろうね」

 

「だから謝っただろぉ? あんまり俺をいじめないでくれよ」

 

 

 

 そう言って信吾は渋柿を食べたような顔をする。まぁ、あのときはあんな風になるとは思いもしなかったから、誰も文句は言えないのだろうけど。

 

 

 

 

 

 

 ───新学期が始まってすぐのLHRで、信吾は担任に向かって席替えを提案した。

 

 理由は男女の確執を取りたい、というもの。たしかに最初の席の並びは廊下側の半分が男子。窓際の半分が女子と、明らかに男女の壁を象徴しているような並び方だった。

 

 それは恐らく教師方の配慮だったと思うのだけれど、信吾は思い切ってそれをぶっ壊すことにしたらしい。その提案に僕たち男子は全員便乗。

 

 女子たちからはやけに冷たい視線で見られたが、担任も信吾の言い分に納得し、すぐさま席替えを開始。

 

 方法はくじ引きとべたな感じ。さすがに男子校時代のような全力の野球拳では決められなかった。あの時は酷かった。一言で言えば地獄絵図、二度と思い出したくない。何がうれしくて教室で男子たちの全裸を見なくてはいけないのだろう。それは忘れよう。

 

 早速くじ引きで決まった席に男女は移動し、隣の生徒と顔合わせをした。ここで打ち解け合えるのだろう、と信吾も僕も男子たち全員も思っていた。

 

 しかし、そんなスーパーのタイムセール並みに安い予想は一瞬で打ち砕かれることになる。

 

 つまるところ、隣が男子になった女子たちはさらに異常な圧力をかけてくるようになったのだ。

 

 それにより男子たちは最初より委縮してしまい、溝がさらに深まってしまうという最悪な結末に。

 

 そして、両方の怒りは席替えを提案した信吾に向かった。その所為で信吾は女子からの評価が激減したと果南さんから聞き、男子たちからはレスリング部の連中にタックルを食らわせられ、それからなぜか髪をツインテールにされて写メを撮られていた。あの写真がどこへ流れたのかは知らない。泣きっ面に蜂というのはああいうことを言うんだな、と信吾を見ながら思った。

 

 

 ちなみに僕の席は偶然というか幸運というか、あの生徒会長の隣。

 

 それだけは少し、信吾に感謝したかった。

 

 

 

「でも、他にも反省すべきことはあるよね」

 

「まぁな。あのビンタの件とかは特に」

 

「あれは百パーセント信吾が悪いから反省しなさい」

 

「き、厳しい。今日の夕陽さん、すげぇ厳しいっす」

 

 

 

 ふざけた感じでそういう信吾。だが、僕はあの事件を起こした彼を許しはしない。

 

 

 花丸が作ってくれた甘い玉子焼きを食べながら、昨日の体育の時間を思い出す─────

 

 

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 二日目から早速通常の授業が始まり、その五時限目には体育があった。

 

 担当の教師から体育着に着替えてグラウンドに集まれ、という指示を受け、とりあえず僕たちは着替えようとした。

 

 

 しかし、ここで問題が発生。

 

 

 

「俺たち、どこで着替えりゃいいの?」

 

「たしかに。ここで着替えたらモロ見えだよな」

 

 

 

 着替えるスペースが無いことに気づき、途方に暮れる男子たち。今までは周りに男子しかいなかったから気にしたことなんてなかった。こんな些細なことで問題が発生するとは誰も思わない。

 

 そうしてまごついていると、教室で着替えようとする女子生徒たちの無言の圧力が炸裂。それでもどうしようもないのでマゴマゴし続けていた時、ついに僕の隣の席に座る生徒会長が立ち上がり、彼女は無言で指をある方向に指した。

 

 僕たちは一斉にその方向へ目を向ける。

 

 

 

「………………ベランダ?」

 

 

 

 こくりと頷く無表情の生徒会長。むしろ彼女はそこしか許さないくらいの雰囲気を醸し出していた。

 

 信吾を越えるカリスマ性を持つあの生徒会長に文句を言える者は、男女ともにこのクラスにはいないらしい。

 

 

 

「……マジかよ」

 

 

 

 そういった経緯を経て、僕たち男子はやむなくベランダに追い出され、まだ肌寒い春の空気を感じながら体育着に着替えたのであった。

 

 もちろんカーテンは閉め切られ、中の様子は見ることが出来なかった。男子が全員ベランダに出た時点でなぜか鍵まで閉められたのは完全に嫌がらせとしか言えない。女子たちが着替え終わった後にちゃんと開けてもらったけど。

 

 

「くっそ。どんだけスパルタなんだよあの生徒会長っ」

 

「俺たちのことゴミだとでも思ってんじゃねぇのか。扱いがもはや下僕以下だぞ」

 

「ちっ、あの女さえいなけりゃ女子たちと仲良くなれたかもしんないのによ」

 

「ちょっと可愛いからって良い気になってんなよってんだ」

 

 

 着替えている間、男子たちはブツブツとあの生徒会長の悪態を吐いていた。たしかに、あの子が放つ威圧感のせいで他の女子たちも便乗して、さらに圧力を強めている感じは否めなかった。

 

 果南さんと鞠莉さんは別として、女子生徒たちは皆、生徒会長がしようとすることに合わせているのが見ていてわかった。それくらい彼女が慕われているということなのだろうけど、正直僕たち男子からすれば迷惑としか言いようがない。

 

 

 それからすぐにあの子のあだ名が決まった。

 

 それは、“硬度120%の生徒会長”というもの。

 

 

 ダイヤという名前と、あまりにも硬い性格を掛けて付けられたそのあだ名。さすがにハマりすぎていて僕も少し感心してしまった。

 

 陰口は許されたものではないとは思うけど、悪影響ばかりを与えてくる彼女の肩を持つわけにはいかなかった。そんなものはただのエゴになってしまうから。

 

 

 

「どうして、僕たちのことを目の敵にしてるんだろう」

 

「男が嫌いなんじゃねぇの。それか調子に乗ってるだけだろ」

 

「……ほんとにそれだけなのかな」

 

「んだよ夕陽。そんなにあの生徒会長が気になんのか?」

 

「べ、別にそんなんじゃないよ」

 

「他の女子なら別にいいけど、あの女はやめとけよ。絶対損するぜ」

 

「そう、かな」

 

「ああ。ほら、行こうぜ。授業遅れんぞ」

 

「う、うん」

 

 

 

 男子の一人にそう促され、僕もみんなの後についていった。

 

 心の中では、あの生徒会長のことを考えながら。

 

 あの子のことをもう少し知りたいと、願いながら。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ───それから授業終え、僕たちは教室へと戻る。

 

 体育は男女別だったので、女子生徒の目を気にせずに授業を行った。けど、相変わらず男子たちの間に流れる雰囲気は重いままだった。

 

 重たい足を動かしながら教室に続く階段を上る。いつもはうるさいはずのクラスメイトたちの空気が沈んでいる。

 

 あの信吾でさえも疲れ切った顔をしていた。新しい高校生活が始まってまだ二日目だというのに、男子全員が疲弊している。僕も例外ではない。

 

 

 

「はぁ……一日が長い」

 

「だな。こんなのがあと一年も続くのか」

 

「マジで無理。絶対不登校になるって」

 

 

 

 そんな明るくない話題が、男子たちの間には広がっている。何とかならないか、と頭では思うけれど僕の考えなんかじゃ誰も納得してくれないと思い、すぐに考えるのを止めた。

 

 僕たち男子が解決しなくてはいけない問題は言うまでもなく、女子たちとの確執を取り除くこと。それが出来なければこの一年間は本当に酷いものになってしまう。

 

 それをどうにかしようと誰もが考えている。けれど、何をしたって男子を警戒する女子たちは心を開くどころか、心の姿すら見せてくれない。

 

 こんなことになってしまった原因は、僕らには無い。僕らが少し前まで通っていた男子校と、この浦の星女学院。そのお偉いさんたちが決めたことを、今さらどうこう言うことはできない。

 

 

 

「…………どうにかならないかな」

 

 

 

 僕は呟く。共学生活は始まったばかりだけど、こんな重い荷物を背負いながら生きるような日々がいつまでも続くなんて、考えたくもない。

 

 当然のように期待はする。もし、男女の壁がなくなったら、そこには前よりも楽しい学校生活が待っているんじゃないかって。

 

 僕らのように女子と一緒に授業を受けたりすることがなかった男子たちからすれば、そんな毎日は夢のような時間だろう。でも現実は想像のように上手くいかない。それも全員わかってる。

 

 そうだったとしても、願わずにはいられないだろう。

 

 

 

「辛気くせぇ顔ばっかしてんじゃねぇよ、お前ら」

 

 

 

 先頭を歩いてる信吾が振り向き、肩を落としている男子たちに言う。そういう彼にも、いつもの覇気は感じられなかった。

 

 

 

「信吾。そうは言ってもよぉ」

 

「うだうだ考えても仕方ねぇだろ。とにかく今はこの現状を受け入れようぜ。話はそこからだ。どうにもなんないことを俺らみたいなバカな頭でいくら考えたって、良い解決策なんて浮かぶわけがねぇんだから」

 

 

 信吾が落ち込んでいる男子たちに向かってそう言う。多分だけど、彼は僕らのことを励まそうとしてる。自分も解決策がわかってないのに、男子たちの気持ちがこれ以上下がらないように無理やり前向きな言葉を言ってるんだろう。

 

 その思いが伝わったのか、男子たちは頷き、少しだけ明るい表情に変わった。

 

 

 

「そうだな。考え過ぎても良いことなんてないな」

 

「ああ。信吾の言う通り、今はとりあえずこの感じを受け入れるか」

 

 

 

 そんな言葉が数人の口から零れ落ちる。それを聞いて信吾は安心するように微笑み、また廊下を歩き出した。

 

 全員が後ろ向きな状況だからこそ、彼は自分だけでも前を向こうとしてる。それは男子たちの意思をひとつにするため。少しでも良い方向に向かわせるために、信吾はいつもそういう役を担ってくれた。

 

 だから信吾は強いんだ。その頼りがいのある背中を眺めながら思う。改めて僕も彼のようになりたいと思った。

 

 

 だが、その尊敬の念が一瞬にして崩れ去ることになるとは、誰も思っていなかった。

 

 

 

「さぁ、気を取り直して行こ─────」

 

 

 

 先頭を歩いていた信吾がそう言いながら、何気ない感じで教室に開けて入って行く。

 

 

 ───ああ、僕は知っている。未曾有の出来事というは誰も想像できないからこそ、回避できない運命であることを。

 

 

 

「きゃあああああっ!!!」

 

「へぶんっ!」

 

 

 

 直後、バチーンという凄まじい音とともに信吾が空中で切りもみしながら廊下に吹っ飛んでくる。

 

 

 

「「「「……………………?」」」」

 

 

 

 何が起こったのかわからず、後ろを歩いていた男子たちはリノリウムの上に転がる信吾の亡骸を茫然と眺めた。

 

 突然のことすぎて状況が飲み込めず僕たちは途方に暮れた。なぜ、教室に入って行ったはずの信吾が切りもみ回転して射出されてきたのか。

 

 よく見ると彼の顔面には真っ赤な手形の紅葉が描かれていた。

 

 一番解せなかったのは瀕死の状態だというのに、信吾がめちゃくちゃ満足そうな顔をしていること。

 

 

 

「ほんと最低っ!」

 

「「「「え」」」」」

 

 

 

 果南さんの声と同時に、勢いよく閉められる教室のドア。閉め切られた扉の向こうからは女子たちの罵声が聞こえてくるような気がする。

 

 そこで思い出した。今は、体育の授業が終わった業間。当然、女子たちは教室で体育着から制服に着替えている。

 

 そこに一人で入って行き、廊下にぶっ飛ばされてきた男。顔面の紅葉。果南さんの最低という言葉。

 

 そして、倒れているのに満足気な信吾。

 

 

 

「…………あ、青のレース」

 

「………………」

 

 

 

 謎の言葉を残して信吾は意識を失う。

 

 その言葉で、僕たちは状況を完全に理解した。

 

 

 ───信吾が、女子たちが着替え中の教室に入っていったということを。

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

「だ、だからあれは不可抗力だったんだよ」

 

「そうだったとしても、僕は信吾を許さない」

 

 

 

 一人だけ女子の着替えを覗いておいて、今さら何を言い訳しているのか。花丸特製の唐揚げを咀嚼しながら、パックに入った苺ミルクを飲んでいる信吾を睨みつける。

 

 だって、女子の着替えを見たんだよ? しかも一人だけ。それをズルいと言わずなんと言えばいいんだ。

 

 言うまでもなく、僕らは高校三年生。発育が遅い子がいたとしても、大抵の女子は既に女性の身体つきになっているはず。

 

 それを一人だけ見るなど不届き千万。ついこの前まで男子校に通っていた僕たちに、そんな甘いイベントなど発生するわけがない。

 

 偶然とはいえ、女の子の園に入り込んだ信吾は男子たちの中で裏切り者として見られている。僕だって男だ。うらやましいと思わない方が難しい。

 

 後から話を聞くと、教室に入った先に立っていたのは下着姿の果南さんだったという。それであの子に躊躇ないビンタを食らい、信吾は回転しながら廊下に吹っ飛んできたらしい。

 

 彼が気絶する前に呟いた謎の言葉が、果南さんが身に付けていた下着のことだということに気づいた男子はすぐさま制裁を開始。男子トイレに連れ込み、演劇部の奴が持っていた女装セットを着せられて写真を撮られ、それをSNSに上げるぞと脅されていた。土下座をして許しを得ようとしていた信吾(女装)を見るのは気分がよかった。

 

 すごくどうでもいいことだけれど、信吾が悪さをすると男子たちは彼を無理やり女装をさせるという恒例行事がある。もともと信吾の見た目が女の子みたいなので、その破壊力は抜群。男子たちからのウケはいい。

 

 

 

「でも、あの子も許してくれたからいいじゃん」

 

「それはいいけど、あれのせいでまた女子たちから嫌われちゃったんだよ?」

 

「う…………それは悪かったよ」

 

「あれからあの生徒会長からも生ごみを見るみたいな目で見られるし」

 

 

 

 あれは本当にキツい。信吾が女子の着替え中の教室に突撃して行ったあの事件から、さらに女子生徒の風当たりが強くなったのは自明の理。

 

 そして、生徒会長にあっては既に僕たちを人間として見ていない。あの子から放たれる威圧感だけで僕らは仕留められてしまいそうになる。

 

 ちなみに、全力のビンタ受けた信吾は後から果南さんに謝られていた。下着姿を見られて焦ってしまい、咄嗟に言葉より先に手が出てしまったらしい。それを聞いてあの子には下手なことはしないでいよう、と決めた僕と信吾なのであった。

 

 

 

 ペットボトルに入ったお茶をひとくち飲み、晴れ渡っている春の空を見上げる。屋上には僕と信吾以外の人影はない。

 

 温かな陽だまりの中にいるのに、話題はこれっぽっちも温かくない。季節はもう春だというのに、僕らの気分にはまだ桜の花びらどころか蕾すら出来ていない。

 

 

 

「そ、それを言うなら夕陽だってやらかしたじゃねぇか」

 

 

 言われっぱなしは趣味じゃない、というように信吾が睨みながらそう言ってきた。

 

 付け合わせのたくわんをポリポリと齧りながら、僕は目を逸らす。

 

 

 

「え? なんのこと?」

 

「忘れたとは言わせねぇぞ。さっきの授業のとき───」

 

 

 

 そうして信吾は僕がやってしまった事件のことを語り始める。

 

 忘れることはできない。そう。あれは、今日の二時限目にあった英語の授業中のこと。

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 静かな教室。そこに響くのは担当教師が黒板にチョークで文字を描く音だけ。私語をする生徒は一人もいない。

 

 それだけならいい言葉に聞こえるかもしれないが、静かな理由は周りに話をする生徒がいないから、というだけのこと。

 

 信吾が提案した席替えのお陰で男女の席が程よくバラバラになってしまい、話がしたくても話せない状況なのだった。

 

 特に僕の場合、隣に座る生徒会長のせいで呼吸をすることさえも憚られている。軽い力で首を閉められているような息苦しさが常に感じられる。それは言うまでもなく、隣にいる生徒会長が放つ威圧感のせいだった。

 

 この子に特別な感情を抱いてしまう僕だけど、気軽に話をすることなどできるわけがない。話しかけても無視されるか睨まれて威圧されるかのどちらかだろう。そんな想像しかできない。

 

 話したいとは思う。はっきりと言われたわけではないが、この子は明らかに僕たち男子を毛嫌いしている。でも、その理由が知りたかった。

 

 黒板に書かれた内容をノートに書いていく。そうしながら時折、隣をちらりと盗み見る。見た目も雰囲気も中身も真面目な生徒会長は、真剣な表情で教師の言葉を聞いていた。

 

 艶がよく綺麗な黒髪。意識していないと思わず見惚れてしまいそうになる、その横顔。

 

 なぜ自分が彼女に惹かれてしまうのか。その意味はまだわかってない。いつか答えを出せるのかどうかも、今はまだ濁った雨水のように不透明なまま。

 

 わかるのは、この黒澤ダイヤという女の子を見ていると心臓が高鳴ってしまうこと。

 

 出会ったばかりで彼女のことを何も知らないというのに、この生徒会長に惹かれてしまう。

 

 生徒会長が髪を耳にかける。そんな何気ない仕草にドクン、と心臓が大きく鼓動し、僕は目を逸らしてポケットに入れた玩具の宝石を握り締めた。

 

 

 

「あ。悪い、夕陽。消しゴム取ってくれ」

 

 

 

 そうして授業が進む中、斜め後ろの男子が僕にそう言ってくる。

 

 床を見ると、机の斜め前に小さな消しゴムがひとつ転がっていた。

 

 

 

「うん。待ってて」

 

 

 

 ペンを置いてからそう言って静かに席を立ち、その消しゴムを取りに行く。

 

 そのとき、色んなことを考えていたからか、僕は大事なことを忘れていた。

 

 いや、忘れていたというより、気づいていなかった。

 

 消しゴムを取るためにしゃがみ込む。右手でそれを取り、自然に視線を上げた。

 

 

 

「──────っ」

 

「………………あ」

 

 

 

 

 そして、顔を上げて僕の目に入ってきたのは、すらりとした綺麗な白い二本の足。

 

 椅子に座っているため、スカートが少しだけはだけているように見えてしまうこの角度。 

 

 必然、見えてしまうその見えてはいけない太ももの向こう側にある一枚の布。

 

 

 それを見た途端、我を忘れてしまった。どうすればいいのかわからず視線をさらに上げた。

 

 

 

 そして思った。───僕の共学生活は、ここで終わりを迎えるのだ、と。

 

 

 消しゴムが落ちていたのは生徒会長の席の前。それを拾って視線を上げたところにあったのは彼女の足とその他諸々。

 

 目を逸らした先にあったのは、新緑色の両眼と真っ赤な顔。生徒会長は両手でスカートを押さえながら僕を睨みつけていた

 

 やってしまった、と思ったときにはもう遅い。見てしまったものを返すことはできない。忘れろと言われてもそう簡単に忘れることが出来ないのがこの世界の理。

 

 自分が何をやらかしたのかを自覚した時点で諦めた。人生には諦めるときも必要だ、と僕が好きな小説家が書いた小説に書いてあったから。

 

 

 

「ご、ごめんっ!」

 

「──────っ!」

 

 

 

 その言葉を、生徒会長の下着を見てしまった僕は信じることにしたのだった。

 

 

 




次話/宝石を砕く方法


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宝石を砕く方法

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 

「…………しょうがないじゃん。見えちゃったんだもん」

 

「完全に俺と同じこと言ってるの気づいてるか、夕陽」

 

 

 

 完食したお弁当を風呂敷に包みながら言う。信吾は目を細めて僕の顔を凝視してくる。言いたいことはわかる。でもあれは本当に不可抗力だった。

 

 

 

「果南さんに許された信吾の方がマシだよ。僕なんて話すら聞いてもらえなかったんだよ?」

 

「ああ。もはや夕陽のこと殺すんじゃないかってくらい怒ってたもんな、あの生徒会長」

 

 

 

 すぐに謝ったけど、時は既に遅かった。見られてはいけないものを見られた生徒会長は、耳まで赤くなって僕を罵倒してきた。内容はもう思い出したくもない。とにかく酷い言葉の雨を三分くらいの間、傘をさすこともできずに受け続けていたのだった。しかも教室のど真ん中で。

 

 当然、一瞬で心はずぶ濡れになった。未だにそれは乾いていない。春の太陽に当てていれば乾くと信じて屋上に来たのに、如何せんそれは濡れてしまった綿の素材並みに乾きづらかった。何の話だ。

 

 果南さんと鞠莉さんがあの生徒会長を止めてくれなかったら、僕の硝子の心は今ごろ粉々に砕け散っていたことだろう。何とかヒビが入るくらいで終わってくれたからよかった。結局壊れかけてるのはご愛敬として受け取ってほしい。

 

 授業が終わってから消しゴムを落とした男子が土下座をして謝ってきたけど、僕は彼を許した。悪いのは彼じゃない。一番悪かったのは僕の運。

 

 それから僕は男子たちに囲まれた。心配されるのかな、と思ったら「ど、どんな種類だったんだよ。別に興味ねぇけど」とか「とりあえず色は教えてくれ。別に興味ねぇけど」とか、思春期の中学生みたいな質問攻めに遭った。

 

 君たちは僕よりも生徒会長のパンツの色の方が大事なのか、と心の底から叫びたかった。ちなみに黒でした。

 

 

 

 それが、僕がやらかした事件。百二十パーセントあの生徒会長には嫌われてしまった。生徒会長だけでなく、他の女子生徒が僕を見る目も変わってることだろう。なんてことだ。共学生活っていうのはこんなに難しいのか。

 

 僕と信吾はもう一度深いため息を吐く。こうして落胆するのは何度目だろう。まだ始まって三日しか経っていないのに、一年分くらいのため息を吐いたような気がする。

 

 上手く立ち回ろうとすればするほど空回りしてしまう。それは僕らが器用じゃないからなのだろう。理由はわかってる。そもそも器用だったら最初からこんなことにはなってない。

 

 女の子に慣れてるはずの信吾でさえも匙を投げかけてる今の状態。彼が手に負えない状況を、勇気も力もない僕に変えられるわけがない。

 

 

 

「どうすりゃいいんだろうな」

 

「何かきっかけがあればいいんだろうけど、そんなのも見つからないよね」

 

 

 

 信吾は両手をコンクリートの上について、空を仰ぎながらそう言う。僕も彼に倣ってそうしてみるけど、美しく晴れ渡った春の空からは答えなど降ってくる気配すらなかった。

 

 この共学を決めた学園長を恨んでも何も変わりはしない。この学校にいる男子たちが全員ボイコットしたって統合が撤回になることはないだろう。

 

 じゃあどうすればいいのか。答えは決まってる。僕たちがどうにかするしかない。でもその具体的な方法が何ひとつわからない。

 

 

 

「高校最後の一年なのに、これじゃあ黒歴史にしかならねぇよ」

 

「……かもね」

 

「最後くらいみんなで良い思い出を作りてぇって思ってたんだけどな」

 

 

 

 寂しそうな声のトーンで信吾が空に向かってそう言葉を吐き出す。彼の悲壮感は、やけに流れが遅い雲と一緒に運ばれていけばいいと思った。

 

 それは僕だって同じだ。高校生活最後の年。それを良い思い出にしたいと思わない方がおかしい。

 

 だって、こんな風にみんなで同じ制服を着て、同じ教室で授業を受けて、楽しいことで笑って、なんでもない毎日を過ごせるのはこれが最後なんだ。

 

 それは本当に月並みなことかもしれない。今さら自分に言い聞かせなくても心のどこかではわかってる。けど、そう思わずにはいられなかった。

 

 過ぎ去ってしまえば、もう一度高校生活を過ごすことはできない。

 

 なぜか? 答えはひとつしかない。僕らは常に成長していくからだ。

 

 適当に過ごしていたって、どれだけ充実していたって、時間は前にしか進まない。後に戻ることなどどれだけ願ってもすることはできない。

 

 僕らがこれから何十年生きるのかは知らない。でも、この高校三年間だけはたった一回しか来ないことだけは知ってる。

 

 だからこそ、最後は良い三年間だったと思って卒業していきたい。その最後が、最初に入った高校とは違う学校だったとしても。

 

 後悔はしたくない。この思いは僕だけのものではないはずだ。僕たちのクラスの男子だけじゃない。他のクラスの生徒だって、きっと、僕らを忌み嫌ってる女子生徒だって心の隅では思ってるはずなんだ。だって、そうじゃなきゃおかしい。

 

 二度と来ない時間を、なぜ惜しまない? たった一回だからこそ、大切にしなきゃいけないのに。

 

 この考え方は、間違っているのか?

 

 

 

「あーぁ。こんな風になるなら、最初から共学の高校に通っとけばよかったな」

 

「そう言わないでよ。そしたら信吾と僕は友達になれなかったでしょ?」

 

「まぁ、そうか。じゃあ夕陽も俺も、クラスの奴らも全員、違う学校に入学しとけばよかったのに」

 

 

 

 信吾の言葉に、胸が痛くなる。そうなってしまうほど彼の思いがわかってしまった。

 

 小さな男子校だったから僕らの学年はクラス替えなんてなかった。だから、僕たちは一年生のときから全員が兄弟みたいに仲が良かった。

 

 時々誰かと誰かが殴り合いの喧嘩をしても、他の誰かがそれを茶化して次の日には何もなかったようにその二人は話すようになってる。そんなことは何度もあった。

 

 色んなバカなことをみんなでして、笑い合ってたあの日々が遠く霞む。それを思い出すと涙が出そうになる。

 

 どんなに駄々を捏ねてもあの時間は戻ってこないのだ、と隣にいる親友の制服と新しい校舎の屋上の景色を見て思い知らされた。

 

 

 

「…………でも」

 

「夕陽?」

 

「諦めたくない。このまま終わるなんて、嫌だ」

 

 

 

 花丸が渡してくれたお弁当の包みを見つめながら、僕は言う。

 

 どうすればいいのかはわからない。それでも、このまま終わるのは嫌だった。

 

 女子たちが僕たちを嫌うのはわかる。自分たちのパーソナルな部分に知らない男たちが入ってきたら拒否反応を起こすのは当然のことだと思うから。

 

 逆に僕らの高校に女子たちが入ってきても、僕たちは同じような反応をしたかもしれない。

 

 だけど、こんな風に息苦しくてつまらない生活を一年間も過ごすだなんて、考えたくもない。

 

 何も変わらないまま、つらいまま終わってしまうのが、僕は何よりも怖い。

 

 

 

「そっか。夕陽はそう思うんだな」

 

「うん。信吾は?」

 

「ばーか。俺も同じに決まってんだろ。俺は夕陽の親友だぞ」

 

 

 

 そう言って信吾はいつものように人懐っこい笑顔を浮かべる。その言葉が何よりも嬉しかった。

 

 

 

「そうだったね。ごめん」

 

「謝りなさんな。それよりも、これからどうするべきかを考えようぜ」

 

 

 

 

 信吾は僕の左肩を叩きながら言ってくる。それで、思考回路もようやく目が覚めた。

 

 そうだ。悪いことを想像するのはいくらでもできる。それと同じやり方で、良いイメージを思い描くことだってできるはず。

 

 僕たちの思いが女子たちに伝えることができれば、間違いなくわかってくれる。今はその伝え方を考えよう。できるだけ、前向きに。

 

 

 

「あれ? 信吾くんと夕陽くんだ」

 

「オーウ。シンゴ、ユーヒ。シャイニ~っ」

 

 

 

 そんな時、屋上の入り口の方から声が聞こえてくる。

 

 視線を向けると、青い髪の女の子と金髪の女の子が並んで僕たちの方へと歩いてくるのが見えた。

 

 その姿を視認した瞬間、信吾の態度があからさまに変わる感じがした。まぁ、あんなことがあったから仕方ないと言えば仕方ないのだけど。

 

 

 

「こんにちは。果南さん、鞠莉さん」

 

「や、二人とも。お昼ご飯、ここで食べてたんだね」

 

「うん。今日はよく晴れてたから」

 

「教室にいなかったからどこに行っちゃったんだろーって、果南がしつこくてねー?」

 

「べ、別にしつこくないし。ちょっと気になっただけだよ」

 

 

 

 僕が挨拶すると二人の女子は気軽に話してくれる。この二人だけは男子たちから距離を取ってる女子たちとは違う。それは僕たちにとってはすごくありがたいことだった。

 

 しかし、果南さんの気になったという言葉はどういう意味なんだろう。

 

 

 

「そうだったんだ。でも、どうして気になったの?」

 

「ンフ? ユーヒ、それを訊いちゃうのね。キュートなフェイスして結構Sなのデース」

 

「?」

 

 

 

 僕が問うと、鞠莉さんはそんなよくわからないことを言ってくる。

 

 考えながら僕は隣に座る信吾の方に顔を向けた。

 

 それで、ちょっとだけ意味がわかった気がした。

 

 

 

「…………」

 

「…………」

 

 

 

 信吾と果南さんが目を合わせない。それはお互いを意識してるから、ということが傍から見てるとよくわかった。二人ともほんのりと顔が赤い。

 

 なるほど。昨日あんなことがあったから気まずいんだ。たしかに、こうなってしまうのも仕方ない。

 

 でも、二人が意識してるのはそれだけじゃない気がするのは僕も多分、鞠莉さんも気づいてる。今はあまり触れないでいてあげよう。見守るのも親友の役目ってモノだし。

 

 

 

「ま、そんなラブリーな話は置いておいて」

 

 

 

 ラブリーって。鞠莉さんもよくわからない表現をするんだ。その言葉を聞いた信吾の顔がさらに赤くなった気がする。こんなに恥ずかしがってる信吾を初めて見たかもしれない。

 

 

 

「やっぱり、上手くいかないわね」

 

「ああ、うん。ちょうど僕らもその話をしてたところだったんだ」

 

 

 

 鞠莉さんはきっと、男女の確執のことを言ってるんだろう。それを読み取り、僕は返事を返した。

 

 

 

「うーん。私と鞠莉の考えではもうちょっと上手くいくと思ったんだけどなぁ」

 

「私たちのクラスのガールズはシャイだからね~。せっかくボーイズの前にいるんだから、もっとシャイニーすればいいのに~」

 

 

 

 シャイだけにー、とギャグを言ってケラケラ笑う鞠莉さん。それから果南さんにデコピンをもらって「ホワーイ?」と言いながら両手でおでこを押さえていた。ちょっと可愛いと思ってしまった。

 

 

 

「俺たちも同じこと考えてたよ。まさかこんなに重苦しくなるとは思いもしなかった」

 

「そうだね。僕らもどうにかしたいって思ってるんだけど」

 

「そう簡単にはいかないんでしょ?」

 

「……うん。それで悩んでたんだ」

 

 

 

 僕のセリフが途中で果南さんに奪われる。この二人は僕らの悩みを理解してくれてるってことか。ありがたいのだけど、それだけではどうにもならないのが悲しい。

 

 この三日間を過ごした感じで、果南さんと鞠莉さんがクラスでは中心的ポジションにいることは理解した。そんな二人を味方につけているのはたしかに心強いのだが、如何せん、それを越える影響力を持つ人物がもう一人いるせいで女子たちは僕たちに心を開いてくれない。

 

 あの子(生徒会長)がいる限り、女子たちとは仲良くすることはできないんじゃないか、と思ってしまう。

 

 

 

「でも、中には男子と仲良くしたいって思う子もいるんだよ?」

 

「そうなの?」

 

「ええ。みんながみんなボーイズを嫌ってるわけじゃないわ。私たちだって、最後のスクールライフを楽しく過ごしたいと思ってるからね」

 

 

 

 果南さんと鞠莉さんの言葉はちょっと意外だった。けど、なんとなく感づいてはいた。

 

 女子生徒の中にも、僕らと仲良くなりたい子がいる。それでも口に出せないのは、やっぱり。

 

 

 

「それはうれしい。けど……」

 

「わかってる。ダイヤのことでしょ?」

 

 

 

 果南さんの言葉に頷く。それから言葉を続けた。

 

 

 

「うん。あの子が僕らを嫌う限り、打ち解けるのは難しいんじゃないかって思うんだ」

 

「そーねぇ。ダイヤは一番ハードな女の子だから~」

 

「やっぱり、あの生徒会長って男が嫌いなの?」

 

 

 

 信吾が二人に問いを投げる。直接的な言葉だけど、たしかにそれを知らなきゃ前に進めない。

 

 

 

「うーん。嫌いっていうか……なんて言うんだろうね、鞠莉」

 

「アー、そうねぇ。あの子は最後まで頑張っていたからしょうがないのよ」

 

 

 

 二人の言葉に、僕と信吾は首を傾げる。

 

 

 

「最後まで頑張ってた?」

 

「そう。あの子はこの学校が統合することに最後まで反対してたのよ」

 

「生徒会長っていう立場もあったし、何よりこの学校の歴史が変わる年の生徒たちのリーダーでしょ? ダイヤはプライドが高いから、最後までそうなりたくなかったんだよ」

 

 

 

 鞠莉さんと果南さんは、僕たちにそんなことを教えてくれる。

 

 それを聞いて、少しだけあの子の気持ちがわかった気がした。でも結局、それはわかった()()()()()()。本当の思いなんて僕らにわかるはずない。

 

 だから、僕はイメージをした。少しでも、あの子の気持ちが理解できるように。

 

 

 

「…………」

 

 

 

 でも、上手く思い描くことができなかった。あまりにも壮大すぎる想像ばかりが頭の中に形を帯びてしまい、僕の想像力ではそれを綺麗に並べることができないまま霧散した。

 

 わかったのは、つらいという気持ちだけ。抗ってもどうしようもないことが無情にも自分の目の前で実現してしまう。

 

 それを思うと、少しだけ胸が痛んだ。

 

 

 

「なるほどねぇ。たしかに、それはキツいかもな」

 

「もともと男子が嫌いっていうのはあるかもしれないけど、一番の理由はそっちなんだよ」

 

「当たる相手がいないから仕方なくボーイズに当たっちゃってるのよ、きっと。間違いなくあの子は最後まで折れないわ。ダイヤモンドみたいに硬いからね、心まで」

 

 

 

 二人の言葉を聞いて、納得できる部分とできない部分が心の中に生まれた。

 

 僕らの高校と統合したくなくて、あの子が何かを頑張っていたのは理解した。それが実現してしまって、落ち込むのもわかる。

 

 けれど、それとこれとは別問題だろう。決まってしまったことをいつまでも引きずって、それが嫌で理不尽な怒りを僕たち男子にぶつけている。

 

 それでクラスの雰囲気を悪くしてる。仲良くなりたいと思う女子たちの意思も受け入れずに、その影響力を使って他の女子たちを守ろうとしてる。

 

 そんなの、現実を受け入れようとしない子供のわがままと同じじゃないか。

 

 

 

「そう、なんだ」

 

「意外とガキなんだな、あの生徒会長も」

 

 

 

 オブラートに隠さず、信吾がそう言う。彼も僕と同じようなことを思っていたらしい。

 

 でも、その言葉を聞いた途端、果南さんが悲しい顔をして信吾を見つめた。

 

 

 

「それは言わないであげて。ダイヤは、本当に頑張ったんだよ。私たちが()()()()()()で卒業できるようにって。その気持ちを、少しでもわかってあげてよ」

 

「お、おう…………その、ごめん」

 

「わかってくれたらいいよ。───とにかく、私たちの中には仲良くやりたいって思ってる子がいることをわかってて」

 

「そうそう。もし、何かきっかけがあればダイヤ以外のガールズたちはフレンドリーになってくれるかもしれないから~」

 

 

 

 果南さんと鞠莉さんがそう言ってくる。僕は彼女たちの言葉に頷いてみせた。

 

 けど、もしもそうなったとしても、僕は納得することはできない。

 

 あの子だけが仲間外れなんて、そんなのおかしいと思うから。

 

 

 

「そう言ってくれるだけでちょっとは救われるよ。ありがとう、果南、マリー」

 

 

 

 信吾がそう感謝を言ってくれる。鞠莉さんは口笛を吹き、果南さんは少し頬を赤く染めていた。

 

 そろそろ昼休みも終わる。戻りたくはないけど、あの重苦しい空気が広がる教室に帰らなくては。

 

 そう思い腰を上げようとしたとき、ふとあることが気になった。

 

 

 

「果南さん」

 

「うん? どうしたの、夕陽くん」

 

「生徒会長って、いつもどこでお昼ご飯を食べてるの?」

 

 

 

 昨日も今日も、昼休みになった途端いつの間にか隣の席から姿を消していたことを思い出す。

 

 別にあの子がどこで何をしようが彼女の勝手なのだろうけど、気になっている女の子がどんな風に昼休みを過ごしているのかを知りたかった。

 

 その問いかけに、果南さんは少し考えたような表情を浮かべてから答えてくれる。

 

 

 

「多分、生徒会室じゃないかな」

 

「生徒会室?」

 

「うん。いつもは私たちと一緒だけど、三年になってから誘っても来なくなっちゃった」

 

「あの子は頑固だから、誰かと仲良くしてるのも見られたくないのよ。気にしすぎなんだから、まったくもう」

 

 

 

 鞠莉さんが腕組みしながらそう言う。それから、あの生徒会長が誰もいない生徒会室でお弁当を食べているところを想像した。

 

 その光景が絶対に間違いだということだけが、胸の中で渦巻いていた。

 

 どうにかしなきゃと思わずにはいられなかった。

 

 

 

「まーた夕陽はあの生徒会長のことが気になってんのか?」

 

「……別に、そんなんじゃない」

 

「俺にわかんない夕陽の嘘があると思ってんのか? 嘘だって丸わかりだっての」

 

 

 

 バシッと背中を平手で叩かれる。本当にその通りだと思った。今さら信吾に嘘を吐いたところで見破られるのはわかりきっていることだった。

 

 でも、僕は嘘を吐きたかった。あの子に惹かれていることを誰にも気づかれたくなかったから。まぁ、初日であんな大胆な挨拶をしておいて弁明できないのもわかってるけど。

 

 一度、春の青空を見上げる。海から吹いた風に屋上にある四人の髪がふわりと揺れた。

 

 

 

「じゃ、戻ろうか」

 

「そーね。あ、そういえば」

 

 

 

 果南さんと鞠莉さんが教室に戻ろうと踵を返す。だけど、すぐに鞠莉さんが何かを思い出したかのようにこちらを振り返った。

 

 

 

「どうかした?」

 

「ユーヒ、これからビッグなイベントがあるの知ってた?」

 

「イベント?」

 

 

 

 鞠莉さんにそう言われて思い返すが、この学校の行事など頭になかったことだけは思い出せた。つまり、何も知らないということ。

 

 

 

「ああ、そうだったね。それがあったか」

 

「何があるんだ?」

 

 

 果南さんも同じように頷き、彼女に信吾が問い掛ける。そうすると果南さんが僕と信吾の顔を見て口を開いた。

 

 

 

「四月の終わりにね、一泊二日の林間学校があるんだよ」

 

「いつもはサマーにするんだけど、今年は統合があったから時期を早めて行うことにしたみたいなの~」

 

 

 

 二人にそう言われ、僕と信吾は顔を見合わせた。多分、同じことを考えている、と思った。

 

 僕らは何かきっかけが欲しかった。男女の確執を取り除くためのきっかけが。

 

 思いもしないところで良いイベントがあることを聞き、少しだけ期待を抱いてしまった。

 

 

 

「…………そうか。そりゃ楽しみだ。な、夕陽」

 

「うん。そうだね、信吾」

 

 

 

 そう言い合って微笑む。それを見てる青い髪の女の子と金髪の女の子も、同じように笑ってくれた。

 

 それがターニングポイントとなることを切に願う。そして、心の中で決意した。

 

 

 その林間学校で女子生徒を見返してやる、と。

 

 

 一人残らず、何が何でも。絶対に僕らを認めないあの生徒会長も含めて。

 

 男子と女子の間に出来ている壁の素材が、たとえ世界一硬いダイヤモンドであったとしても。

 

 

 

「───やってやろう」

 

 

 

 僕らは、その壁を木っ端みじんに砕いてみせる。

 

 

 





次話/夕日に照るダイヤ


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夕日に照るダイヤ

 

 

 

 ◇

 

 

 

 僕は夕日が好きだ。自分の名前が夕陽だから、という理由もあるけど、単純に綺麗だから心が自然に惹かれてしまうだけ。

 

 誰にだってそういうものがあると思う。深い理由はなくとも好きだと思ってしまうもの。例を挙げると、僕の親友は雨が大好きらしい。それはちょっと特殊かもしれないけど。

 

 西の山に沈もうとしている橙色の球体を見つめながら、一人で校門へ続く学校の敷地内を歩く。

 

 信吾は今日から部活が始まると言っていたので、しばらく帰りは一緒に帰れないらしい。そもそも学校が変わって僕が花丸の家に居候することになったから、バス通学の信吾とは学校近くのバス停までしか帰れないのだけど。

 

 校舎敷地内に咲いている桜と、それを淡く照らし出す夕焼け。海の方から吹いてくる潮風が、僕の足元にあった薄紅色の葉をどこかへ運んで行く。それを見ながらこの憂鬱も一緒に飛んでいけばいいのに、と心の隅で思ってしまった。

 

 

 

「…………」

 

 

 

 校庭の方から、部活動をしている女子生徒の声が聞こえてくる。それは何気ない日常的なことなのに、中高と男子校に通っていた僕からするとあまり聞き慣れない音声だった。

 

 これから慣れていくのかな、と思ってみたりする。でもこの日常の音を聞くことができるのは、どれだけ長くてもあと一年。慣れた頃には、僕はこの学校からいなくなっていることだろう。

 

 一年、か。それがどれだけ長いものなのか、今の状況にいるとわからなくなる。

 

 学校というものに通い始めて今年で十二年。一年の長さがどれくらいなのか感覚的に知っているはずなのに、今はその当たり前の感覚を見失ってしまっていた。

 

 楽しければ短く感じ、つらいものであれば長く感じてしまうのが人間の心理だと、どこかの学者が言っていたのを思い出す。

 

 今がどちらかと誰かに問われれば、答えたくはないが僕は迷わず後者を選んでしまうだろう。

 

 いつか、短いと思える時が来るのかどうかはわからない。でも、そうなるように努力したいという気持ちがあるのは間違いない。

 

 充実した一年だった、と言えるように頑張らなくちゃ。不安になりそうな心に言い聞かせた。

 

 足元に伸びる影を見つめる。そこにあるのは自分の影なのに、明らかに元気がないのがわかってしまった。しっかりしろ、僕の影。

 

 

 

「おーい、ユウくーん」

 

「?」

 

 

 

 そんなことを考えているとき、名前を呼ばれる。

 

 顔を上げて確認すると、校門の脇で誰かが僕の方に向かって手を振っているのが見えた。

 

 見覚えのある茶色い髪と小さな身体。そして、その隣にはもう一人の影があった。

 

 ゆっくりと校門へと近づいて行った。すると、徐々にもうひとつの姿が鮮明になってくる。

 

 

 

「あれ…………」

 

 

 

 だが、そこにいた人の顔が見える距離まで近づいた時、その影は花丸の小さな背中に隠れてしまった。

 

 明らかに僕を警戒したみたいな動き方だった。でも完全に隠れているというわけでもなく、花丸の肩越しからこちらをジッと見つめている。

 

 制服に付いた黄色のリボンは一年生の証。ということは、身を隠してるあの赤いツインテールの子も新入生ってことなのかな。

 

 

 

「や、花丸。待っててくれたの?」

 

「うん。もうちょっとすればユウくんも来るかなーって、思って待ってたずら」

 

 

 

 夕焼けみたいに温かい微笑みを浮かべながら、うれしいことを言ってくれる飴色の従妹。誰もいなかったら頭を撫でてしまっていたかもしれない。

 

 しかし、今は人目がある。というより、その従妹の後ろにもう一人の女の子が隠れている。花丸が小さすぎて隠れきれてないけど。

 

 

 

「そっか、ありがとね。…………えっと、それで」

 

「ずら? ああ。さっきまで大丈夫って言ってたのに、怖くて隠れちゃったずら」

 

「………………っ」

 

 

 

 あはは、と花丸は笑ってる。けど後ろにいる女の子は僕に全貌を見せてくれない。

 

 自慢じゃないが、僕の容姿は誰かに恐れられるほど怖くないと自負している。むしろその逆だと思うんだけど、なんでこの子は警戒してるんだろう。花丸の細い肩の向こうに見える赤い髪を見つめながら、疑問に思う。

 

 僕の方から挨拶してみればいいのかな、と思いつき、歩み寄ろうとしたとき花丸が口を開いた。

 

 

 

「ほら、ルビィちゃん。この人がマルの従兄のユウくんだよ?」

 

「………………ぅゅ」

 

「怖くないから大丈夫だよ。ユウくんはとってもやさしいから。それはマルが保証するずら」

 

 

 

 花丸が諭すように言うと赤いツインテールがゆっくりと動き、新緑の目がこちらを見つめてきた。

 

 小動物的な小さな女の子。身長は多分、花丸と同じくらい。ここまでの人見知りもめずらしいな、と思いながら僕はもう一歩彼女たちに近づいた。

 

 

 

「こんにちは」

 

「っ…………」

 

「僕は、国木田夕陽。花丸の従兄でこの学校の三年生だよ。君の名前は、なんて言うのかな」

 

 

 

 できるだけやさしい口調と声音で自己紹介する。花丸の友達なら、僕も仲良くならなきゃいけない。

 

 僕の声を聞いた赤い髪の女の子はまだ怖がっている感じだったけど、おずおずと花丸の後ろから姿を現してくれた。

 

 緊張してるのが見ているだけでわかる。小さな体躯が縮こまってさらに小さくなってしまっていた。

 

 その女の子は上目遣いで潤んだ瞳を向けてくる。茜色に染まる頬はそれ以上に真っ赤になっていた。

 

 

 

「こ、こんにちわ。く、くろ……」

 

「くろ?」

 

「黒澤、ルビィです」

 

 

 

 赤い髪の女の子は消え入りそうな声で名前を教えてくれた。静かな春の校門じゃなかったら聞こえなかったかもしれない。でも、ちゃんと聞こえた。

 

 その女の子は、素直にかわいい容姿をしていた。花丸と並んでいるとまるで絵に描いたような美少女二人組に見えてしまう。

 

 けど、彼女───ルビィちゃんの顔が少しだけ誰かに似ているように見えたのは気のせいだろうか。

 

 頭に真っ先に思い浮かんだのは、なぜかあの生徒会長。全然似てない。恐ろしいほど美しい日本人形のようなあの子と、縫いぐるみみたいにかわいいこの子はむしろ正反対だろう。

 

 なのに、どこか面影があるような気がする。

 

 

 

「って、黒澤?」

 

 

 

 僕が言葉に出すと、赤い髪の女の子が頷く。そういえば生徒会長の名字も黒澤だった。それに何より、この子は自分の名前をルビィと言った。

 

 ルビィ、ダイヤ。連想されるのは当然宝石。そこまでわかって予想が外れるだなんてことはまず起きないだろう、と僕は思ってしまった。

 

 その予感を形にするために訊ねる。

 

 

 

「もしかしなくても、生徒会長の妹さん?」

 

「は、はい」

 

 

 

 なんと。あの生徒会長にこんな可愛い妹がいたなんて。明日男子たちに教えてやらなければ。

 

 いや、でも少し待とう。こんなおいしい話をばら撒いたらあの生徒会長の弱みを握るためによからぬことを考える奴が出てきてもおかしくない。この一年生が僕らの男子に誘拐されるような事件が起こってしまったら、それこそ一貫の終わりだ。そこまで酷いことはしないだろうけどさ。

 

 生徒会長の妹。それを踏まえてもう一度、目の前に立つ一年生のことを眺める。

 

 僕より頭二つ分くらい低い身長に、真紅のツインテール。新緑の瞳はたしかにお姉さんと同じ色をしている。でもその小さな身体から放たれる空気は姉とは真逆。姉妹なのにここまで違うものなのか、と困惑してしまうレベルだった。

 

 僕らが立っている校門付近に春のやわらかい風が吹き、ルビィちゃんのツインテールが揺れた。潤んだ目はまだ僕のことを警戒しているように見える。

 

 僕の中では花丸の友達というよりも、生徒会長の妹という見方しか出来ず、下手なことをすればまた大変なことになってしまうという後ろ向きな考えしか浮かばなかった。でも大丈夫。いくら理不尽なあの生徒会長でも妹と友達になることくらいは許してくれる、だろう。そう信じたい。

 

 

 

「ルビィちゃんは中学校からの友達ずら」

 

「そうなんだ。よろしくね、ルビィちゃん」

 

「ぴぎっ……よ、よろしくお願いします」

 

 

 

 ぺこりと頭を下げてくるルビィちゃん。礼儀正しくていい子だな、と思ってみたりする。やっぱり家でそういう厳しい躾を受けているのだろうか。

 

 一度茜色の空を見上げてから、二人に言う。

 

 

 

「じゃあ、帰ろうか」

 

「ずら。行こ、ルビィちゃん」

 

「あ。待って花丸ちゃん」

 

 

 

 そうして僕らは校門を出て、学校の前にある長い坂を下り始める。視線を遠くに向けると、夕焼けに照らされて橙色に色彩を変えた海。その向こう側には富士山のシルエットが見えた。

 

 息を吸うと春の甘い匂いがした。潮の香りが混ざったやさしい春の匂い。これが僕は好きだった。

 

 春は最も穏やかな季節。そう思ってしまうのは僕だけじゃないはず。出会いがあり、そこから始まる日々に希望を抱くのがこの季節。

 

 けど、今年訪れた春は残念ながらいつものように穏やかではなかった。それを悔やむことはできるが、そうしているだけでは何も始まらない。

 

 桜の木を見上げながらここ数日の出来事を思い返し、誰にも気づかれないようにため息を吐いた。

 

 僕らの頭上を旋回する一羽の海鳥が『気にするな』と、声をかけてくれているようだった。

 

 

 

「今日はどうだった、花丸」

 

「ずら。今日はホームルームで委員会を決めたずら。ね、ルビィちゃん」

 

「う、うん。そうだったね」

 

 

 

 こうして一日の出来事を話し合うのが僕らのお決まり。花丸は楽しいとか、新しい友達が出来たとか、いつも良い出来事の話をしてくれる。

 

 しかし、僕から提供できるのは本当に些細な出来事しかない。親友が女子の下着を見て殴られたとか、落ちた消しゴムを拾おうとして生徒会長のパンツを見てしまいクラスメイト全員見てる中で罵倒されたとか、かわいい従妹には絶対に報告できない事案である。ついでにその隣にいる生徒会長の妹さんにも口が裂けても言えない。

 

 花丸とルビィちゃんは仲良しそうに話をしている。その姿を見ているだけで僕は安心した。僕の高校生活は最悪だが、花丸が過ごす生活が楽しいならそれでいい。

 

 

 

「花丸はやっぱり図書委員になったのかな?」

 

「ずら。えへへ、ユウくんにはお見通しだね」

 

「もちろん。何年花丸の従兄をやってると思ってるの」

 

「十五年と一カ月ずら」

 

「正解。よく出来ました」

 

 

 

 そんな会話をしながら坂道を下る。いつの間にか大きくなってしまった読書好きな従妹が、高校の制服を着て僕の隣を歩いている。

 

 花丸は昔から本の虫だったから、そうなることは容易に想像が出来た。彼女は食べるのも好きだから三度の飯より本が好き、とまでは行かないけど、とにかく本を読むのが好きな女の子。

 

 僕が花丸の家に預けられるときも、花丸が僕の家に預けられるときも、いつも二人で部屋の中で本を読んだ。僕もあまり外で遊ぶ子供ではなかったから、とにかく彼女とは気が合った。

 

 マルちゃんとユウくんは手がかからないね、とお互いの親戚によく言われていた。僕らはそれでよかった。本があれば一日中でも退屈せずに過ごすことができたんだ。

 

 花丸は日本文学を好んで読むけど、僕はどっちかというと海外文学の方が好き。いつの間にか好きなジャンルが別々になってしまっていたけど、今でも昔のような雰囲気で過ごせる自信はある。

 

 僕の記憶にいる花丸はいつも本を読んでいる。だから、こうして同じ学校に通い、一緒に下校していることが少しだけ不思議だった。

 

 

 

「仲良し、なんだね」

 

「ずら?」

 

 

 

 僕らのことを眺めながら赤い髪の女の子が、そう言ってくる。それがすぐに僕と花丸のことを言っていることに気づき、僕たちは笑った。

 

 そう言われて嬉しくないわけがない。だって、それは事実だと思っているから。

 

 坂道に春風が吹く。桜の花びらがひらり、と僕たちと逆方向に飛んで行った。

 

 

 

「ありがと、ルビィちゃん」

 

「ぴぎっ……い、いえ」

 

「ルビィちゃんはお姉さんとは仲良しなのかな?」

 

 

 

 何気なく僕は彼女に訊いた。生徒会長が家ではどんな生活をしているのか、かなり興味があった。

 

 でも、ルビィちゃんの答えは予想とは違った。

 

 

 

「……ルビィは、あんまり」

 

「? あまりお姉さんと話したりしないの?」

 

 

 

 ルビィちゃんは頷く。それから小さな口を開いて、か細い声を零した。

 

 

 

「統合が決まってからお姉ちゃん、家でも無口になっちゃって。ルビィが話そうとしても、全然話を聞いてくれないんです」

 

「…………」

 

「前までは違いました。大好きなことでいろんな話をしてたのに、今は」

 

 

 

 悲しそうな顔をしてルビィちゃんは口を閉ざす。

 

 仲良さそうにしていた僕と花丸を見て彼女が何を思ったのか、少しだけわかってしまって申し訳ない気持ちになった。

 

 そうしている時、あることを思い出す。誰に訊いていいかわからず、疑問のまま心に潜めていたもの。

 

 あの子の妹である彼女なら、知ってるんじゃないかと思った。

 

 だから、僕は訊ねる。

 

 

 

「ねぇ、ルビィちゃん」

 

「はい?」

 

「ダイヤさんが生徒会長のままだった理由って、知ってるかな」

 

「………………」

 

 

 

 僕の質問に、少しだけ考えるような素振りを見せるルビィちゃん。

 

 アスファルトに視線を落とし、何かを見つめている。彼女の目に映るものが何なのか、僕にはまだ想像することもできなかった。

 

 僕らは坂を下り続ける。夕日が僕らの影をくっきりとした輪郭のまま、地面に伸ばしてくれていた。

 

 

 

「……そういう話はお姉ちゃん、何も話してくれませんでした」

 

「そっか」

 

「でも、噂は知ってます」

 

「噂?」

 

「ずら?」

 

 

 

 ルビィちゃんの言葉に僕と花丸は反応する。ということは、花丸もルビィちゃんが言った噂とやらは知らないらしい。

 

 僕らの問いかけに彼女は頷く。

 

 

 

「る、ルビィも聞いた話なので本当かどうかは、わからないですけど」

 

「それでもいいよ。知ってるなら、教えてほしい」

 

 

 

 僕がそういうと、ルビィちゃんは数秒の間を空けてから口を開いた。

 

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 

 

「生徒会長─────ダイヤお姉ちゃんはこの浦の星が統合することに、最後まで反対していました。でも、結局それは失敗しました」

 

 

 

 そこまでは僕も知ってる。さっき、果南さんと鞠莉さんが教えてくれた事と同じ内容だったから。

 

 相槌を打たないまま、次の声を僕は待った。

 

 

 

「でも、諦められなかったお姉ちゃんは両校の学校長に条件を出したみたいなんです」

 

「条件?」

 

「はい。統合には納得する。だからせめて、ふたつの条件だけは呑んでくれませんかって」

 

 

 

 その話は初耳だった。でも、答えを聞く前になんとなく薄っすらとイメージすることができた。

 

 

 

「ひとつは、()()()()()()()()()()使()()()()()()っていうこと。それで、もうひとつが」

 

 

「…………()()()()()()()()()()()()()()()()()()、ってこと?」

 

 

 

 ルビィちゃんが答えを言う前に、僕は言った。

 

 その通りだというように、赤い髪が頷く。

 

 

 

「それで、学校側はその条件を呑んでくれて、お姉ちゃんは生徒会長のままになったみたいなんです」

 

 

 

 素朴な疑問の謎が解ける。かた結びの紐がゆっくりと解けるように、心の中で答えが形になった。

 

 おかしいとは思っていた。二つの高校が統合するのであれば、どちらの学校にも生徒会長がいるのは当たり前のこと。必然的に僕らが通っていた男子校にも生徒会長がいたはずだ。誰だったのか全然覚えていないが。

 

 それが統合し、浦の星女学院の生徒会長であったあの子がその任を引き継いだ。真意はわからない。でも、想像するのは簡単だった。

 

 あの子は、生徒会長という立場を使って何かをしようとしている。

 

 その何かとは恐らく、男子が不利になるようなこと。それ以上はわからない。でもそうなんじゃないか、と今のクラスの状況を鑑みてそう思った。

 

 

 

「そうだったんだ」

 

「はい。でも、その話が本当なのか嘘なのかはルビィもわかりません」

 

 

 

 ルビィちゃんはそう言った。でも、僕はその話が正しいことだと思った。あの生徒会長が学校長に食ってかかるイメージが鮮明に思い描ける。

 

 よくよく考えてみれば、校舎が浦の星であることもおかしい話だった。利便性を考えれば、ここよりも僕らが通っていた男子校の方が駅も近かったし、通学もしやすかった。なのに、統合した先の学び舎は内浦にある浦の星女学院の校舎が使われた。

 

 生徒会長の意見にどれだけの影響力があったのかは知らない。でも、今ルビィちゃんが言った言葉は実際に現実になっている。

 

 裏を返せば、それほど強くあの子がこの統合に反対したということになる。その条件を呑ませるほどの何かを、あの生徒会長はしたというのか。

 

 そしてなぜ、そこまで統合に反対したのか。それが僕には解せない。どれだけイメージしても、その答えだけは思い描くことができなかった。

 

 茜さす空を見上げる。渡り鳥の群れが美しいオレンジ色の夕日に向かって編隊を組んで飛んで行く。

 

 先頭を飛ぶ鳥が行き先を決め、それに後ろの鳥達はついていく。それを眺めていると、まるでどこかにある光景を見つめている気分になった。

 

 

 

「─────ルビィ」

 

「え?」

 

 

 

 坂を下り切った時、後ろから不意に誰かの声が聞こえてきた。

 

 僕らはすぐに振り返る。そこには見覚えのある女子生徒の姿があった。

 

 ちょうど今、話の中心にいたその子がこちらを見つめて立っている。

 

 

 

「お姉、ちゃん」

 

「………………」

 

 

 

 左肩に学生鞄を掛けた生徒会長は、何も言わずに僕たちの方へと近づいてくる。

 

 威圧感はクラスにいるときよりは和らいでいるが、その凛とした佇まいから何も感じ取れないわけではない。

 

 僕という男子生徒の存在を認識して、その敵意を向けているのがよくわかった。

 

 

 

「何をしていましたの?」

 

「……あ、えっと、その」

 

 

 

 生徒会長の質問に言葉を出せないルビィちゃん。怒られていると思っているのかどうかはわからない。でも、たしかにその雰囲気で今の言葉を訊かれたら怒っているように見えても仕方ないと思った。

 

 その雰囲気を感じ取ったのか、花丸がルビィちゃんを庇うように間に立った。生徒会長は自分の妹の前に現れた彼女のことを見つめて首を傾げる。

 

 

 

「ルビィちゃんは、マルたちと帰っていただけです」

 

「? あなたは、たしか」

 

「ルビィちゃんの友達の、国木田花丸です」

 

 

 

 面識があったような口ぶりで二人は話す。花丸はルビィちゃんを怒ろうとしていた生徒会長をジッと睨みつけていた。

 

 だが、生徒会長はそんな視線をものともしないというように静かな目で見つめ返している。

 

 汀がすぐそばにある。穏やかな潮騒が、静かな春の通学路に流れている。

 

 海鳥の鳴き声が聞こえた。それとほぼ同時に、沈黙を破るハッキリとした声が耳に届く。

 

 

 

「そう。あなたが国木田さんですのね。話はいつも、ルビィから聞いていましたわ」

 

「…………」

 

「妹と大変仲良くしてくださっているようで、感謝いたしますわ。ありがとうございます」

 

「ずら?」

 

「え?」

 

 

 突然やわらかくなる生徒会長の口調と空気。それに花丸と僕は同じような反応を見せてしまう。

 

 笑ってはいないが纏う雰囲気が緩んでいるのがわかる。それを見て、驚かずにはいられなかった。

 

 あの硬い生徒会長がこんな風に喋ることができたのか、と。

 

 

 

「あまり賢くない妹ですが、これからも仲良くしてくださいね」

 

「ずら。あ、じゃなかった……はい」

 

「では御機嫌よう。ルビィ、行きますわよ」

 

「え。う、うん」

 

 

 

 そう言って、生徒会長はルビィちゃんを連れて歩いていこうとする。

 

 それはまるで、クラスメイトである僕のことに気づいていないような立ち去り方だった。

 

 ルビィちゃんは僕の方に頭を下げて、先を歩いて行った姉の背中を追いかけていく。

 

 それを何もせずに見送るのは簡単だった。でも、今の僕にはその容易なことができなかった。

 

 声をかけずには、いられなかったんだ。

 

 

 

「待って」

 

 

 

 自分に似合わない少し大きめの声を出す。それに気づいたのか、生徒会長の足は止まった。

 

 背後から吹いてきた海風に、目線の先にある美しい黒髪が揺れる。僕は口を閉ざして、足を止めた相手の背中を見つめ続けた。

 

 

 

「なんですの」

 

 

 

 ぶっきらぼうな声音。先ほど花丸にかけた声色とは違う。明らかに僕という男に対して送る()の声だと、頭の中で認識した。

 

 でも関係ない。僕としては完全に無視をされてもおかしくないと思っていた。それでも、生徒会長は立ち止まってくれた。

 

 このチャンスを、無駄にすることはできない。

 

 

 

「…………君にはやっぱり、僕らと打ち解け合う気はないの?」

 

「………………」

 

 

 

 返事はない。けど、聞こえてないわけがない。間違いなく彼女は僕の言葉を聞いている。

 

 僕は続ける。訊かなくてはいけないことが山ほどある。知らなくてはいけないことが数え切れないほどあるから。

 

 あの息苦しさを作り出す生徒会長を、どうにかして見返さなくてはならない。そのために、ここで僕が訊かなくてはならないと思った。

 

 

 

「僕たちは、この一年間を無駄にしたくないと思ってる。だから、どうにかして女の子たちと普通に話せる関係性を作らなくちゃいけない」

 

 

 

 こんな拙い言葉で伝わるかどうかはわからない。でも、言わなくちゃいけない。

 

 

 

「君個人がその考えに否定するのはかまわない。だけど、そうしようと頑張ってる僕らの邪魔をしないでほしい」

 

「私は邪魔などしていませんが」

 

「してるよ。もしかしたら君は無自覚かもしれない。でも、間違いなくしてることだけはわかる」

 

 

 

 初めての反論に、少し踏み込んだことを言ってしまう。けれどこれは間違いじゃない。

 

 本当のことを言わずに、誰かの心に思いを伝えることなどできるわけがない。

 

 

 

「……あなたがそう思うのなら、そうなのでしょう」

 

「なら」

 

「ですが、私は認めません。あなた方がそれを嫌がるというのなら、今の私が自分の行動を改めることは絶対にしませんわ」

 

 

 

 だけど、返ってきた言葉はそんな哀しいものだった。僕の思いを真っ向から否定する言葉。そして、それを絶対に曲げないという意思が含まれた視線。

 

 半身になって生徒会長は僕の顔を見つめてくる。綺麗すぎる両眼と圧倒的な攻撃力を持つ威圧感。

 

 気を抜けば、それにやられて心が折れてしまいそうだった。それでも僕は足を踏ん張って、その恐怖を覚えてしまうほどに美しい瞳を見つめ返した。

 

 

 

「それは、どうして?」

 

「あなたに言う筋合いはありません」

 

「あるよ。そうやって逃げないでほしい」

 

 

 

 僕の挑発的な言葉に、生徒会長の威圧感と視線がさらに強くなる。目を逸らしたくなる。だけど僕はその両眼に目を向け続けた。

 

 

 

「ユウ、くん」

 

「お姉ちゃん」

 

 

 

 僕らの会話を傍から見つめている花丸とルビィちゃんの心配そうな声音が聞こえる。

 

 心配をかけてしまって申し訳ないと思う。でも、ここで引き下がったら男が廃る。僕だって男なんだ。いくら男らしくないと言われても、そのプライドを投げ捨ててはいけない場面がある。

 

 それが、今なんだ。

 

 

 

「…………あなたに、私の何がわかるというのですか」

 

「え…………?」

 

「何も知らない人間が、私の生き方を踏みにじらないでください」

 

 

 

 生徒会長はそこまで言って、僕に背を向ける。

 

 僕には、その言葉の意味がわからなかった。

 

 彼女が何を思って、今のセリフを言ったのか。何の為に、そんな意味が曖昧な言葉を放ったのか。

 

 そして一番解せなかったのは、生徒会長の表情だった。

 

 振り返る直前に見せたあの悲し気な顔は、いったい何を物語っていたのだろう。

 

 

 

「あなた方が何を思おうが、私には関係ありません。女子生徒たちと仲良くなりたいのならば、好きにすればいいですわ」

 

「……………………」

 

「それでも、私は認めません。私たちの世界に入り込んできたあなた方を、

 

 ()()認めることだけはしてはならないのです」

 

 

 

 静かな声が潮騒に交じって耳まで届いた。

 

 その微妙なニュアンスの言葉で、彼女は僕に何を伝えようとしている。

 

 考えてもわからない。そこまで頭がよくない僕には、その真意を見つけ出すことができなかった。

 

 

 

「どうして」

 

 

 

 かろうじて口から出てきたのは、そんな四文字。

 

 なぜ彼女がそんな言葉を吐かなくてはいけないのか。どうして一人の生徒である女の子が、そこまでの憎しみを持たなくてはならない。

 

 昼休みにあの二人の女子生徒から聞いた言葉を踏まえて考えてみる。

 

 この学校を最後まで守ろうとした。

 

 それでも守ることができなかった。

 

 その先頭にいた生徒会長。もし、誰かが彼女を恨むとしたら。

 

 その時に、彼女が背負わなくてはいけない罪と罰は、なんだ?

 

 

 

「許せないからです」

 

「…………何を?」

 

 

 

 やさしい夕日が、僕らの影をアスファルトに落とす。乗客を何人かを乗せた市民バスが、僕らを後ろから追い抜いて行った。

 

 人気(ひとけ)のない通学路。そこにあるのは四人の影と、春が描く橙色の沈黙。

 

 船の汽笛が海の方から聞こえる。そんな、何でもないありきたりな小春日和の夕暮れのこと。

 

 

 生徒会長が歩きはじめる。今度はもう、僕はその背中を止めることはしなかった。

 

 否、止められなかった。何も知らない僕に、彼女を引き留める権利など最初から在りはしなかった。

 

 代わりにポケットに入った玩具の宝石を握り締めた。

 

 

 

 そんなことをしても、何もわかりやしないというのに。

 

 

 

「─────()()()()()

 

 

 

 そんな言葉だけが、茜色に染まる通学路に残された。

 

 それ以上、僕が知りたい答えはどこにも見つけられなかった。

 

 一枚の桜の花びらが宙を舞う。それは、ちょうど僕の目の前に。

 

 けれど手を伸ばしても、それを掴むことはできなかった。

 

 風に吹かれて桜はどこかに運ばれていく。

 

 

 

 行き先は、誰にもわからなかった。

 

 

 

 





次話/林間学校


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林間学校

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 暗い部屋の中。また誰かのことを守ろうと必死になっていた。

 

 今日は映像がいつものように鮮明に見えない。ところどころにノイズが走り、音声もハッキリと聞き取れなかった。

 

 わかるのは、自分が誰かの前に立ってその子のことを守ろうとしていること。

 

 ノイズの切れ間から除くのは、刃渡り十五センチほどのナイフの切っ先。暗い部屋だというのに、それは鈍い銀の光を放っていた。

 

 時折聞こえてくる男たちの笑い声。そして、背後からは女の子の泣き声のようなもの。

 

 完全にはわからない。

 

 でも、なんとなく理解はできた。

 

 そこにいる僕と誰かは、ナイフを突きつけられている。理由は知らない。知りたくもない。

 

 僕にはこの映像が夢であることだけを願うことしか許されなかった。

 

 それくらいしか、できなかったんだ。

 

 夢の中の僕は手に何かを握っている。

 

 多分それは、あのプラスチックの宝石。ダイヤモンドを模した玩具の宝石。

 

 僕は、現実でもそれを持っている。夢の中の自分が持っているものを、目が覚めても握りしめることができる。

 

 その意味は何ひとつ、わからないというのに。

 

 

 

「ゆうひ、くん」

 

 

 

 誰かに名前を呼ばれる。幼い少女の声音。何かに怯えるその声は震えていた。

 

 夢の中にいる僕は突きつけられるナイフを見つめながら、()()の名前を呼んだ。

 

 自分も怖がっているのに、なんでもないというように。

 

 その女の子の名前を、たしかに呼んだんだ。

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

「………………」

 

 

 

 嗅ぎ慣れたい草の匂いに包まれる和室の六畳間。障子の外から入り込む、鳥の囀りと穏やかな潮騒。そして、春の柔らかい日差し。

 

 上半身だけをゆっくりと起き上がらせ、ぼんやりと部屋の東側にある襖を見つめた。綺麗な水芭蕉が描かれた襖。小さな隙間から、朝日がそっと畳の上に線を描くように伸びていた。

 

 それから壁に備えられた古い掛け時計に目を向ける。時刻は六時十一分。寝坊したわけではない。でも、自分がいつもより十一分寝過ごしていることに、寝ぼけた頭でも気づくことができた。

 

 僕は目覚まし時計を使わない。携帯のアラームも設定しない。そんなことをしなくても、この身体は自動的に目覚めたい時間に起きてくれる。それは数少ない長所のひとつ。ただ、その能力が効力を失くす時がある。

 

 それは、あの不思議な夢を見たとき。あの夢を見たときだけは、僕の身体は自動的には目覚めてくれない。夢が覚めるまで眠り続けてしまう。

 

 それはちょうど、あの夢が僕に何かを訴えかけているかのように。

 

 ───思い出せ、と誰かが命令してくるみたいに。

 

 

 枕元に置かれたあのネックレス。プラスチックの宝石が付いた、玩具の首飾り。

 

 それを手に取り、布団の上に座ったまましばらくの間、その宝石を見つめた。何の価値もない。誰も欲しがらない。持っている意味さえないガラクタ。

 

 なのに、僕はこの玩具の宝石を宝持ち続けている。肌身離さず。常に近くに置いている。

 

 理由は自分でもわからない。そもそも理由があるのかすらわかりはしない。

 

 ただ、あの夢を見る限り手離してはいけないことだけは知っていた。夢の自分が握りしめているそれは捨てちゃいけない、と誰かに言われている。

 

 あの夢の答えを知るまで、僕はこの玩具の宝石を持っていなくてはならない。

 

 今は、それくらいしか出せる答えがなかった。

 

 

 

「…………そうだ」

 

 

 

 時間が経つにつれて、霧が晴れていくようにクリアになる思考回路。

 

 それで、今日が何の日だったのかを思い出した。

 

 目線を部屋の隅に移す。貸し与えてもらっている和室の端に置かれているのは、昨晩時間をかけて準備した荷物。

 

 林間学校のために用意した準備物の数々が、畳の上で持っていかれるのを待っていた。

 

 今日は僕らにとって大切な日。早く起きて忘れ物がないか最終チェックをして早めに学校へと出発しなくてはならない。

 

 だというのに、おかしな夢を見たせいで身体は上手く動いてはくれなかった。動かそうとするのに、脳から命令を伝達する速度がいつもの半分以下くらいになってしまっている。

 

 

 

「………………」

 

 

 

 重い身体をなんとか布団の上から起き上がらせる。立ち上がると、少しだけ眩暈がした。

 

 くらり。意識が揺れ、斜め前に右足を踏み出し、倒れないように畳の上で足を踏ん張る。

 

 気持ち悪い。なんとなく、車酔いをしたときのような感じが全身を包み込んでいる。

 

 おでこに左手を持っていき、熱がないかを確認する。問題はない。ただ寝汗のせいで前髪が湿っている以外に、異常は感じられなかった。

 

 たぶん一過性のものだろうと思い、ひとつ深呼吸をした。鼻腔を通り抜けていく畳のい草の香りと、どこかから入り込むお線香の匂い。少しだけ具合の悪さが治まる感じがした。

 

 こんなことをしてる場合じゃない。早く準備をして学校へ行かないと。

 

 吸った気持ちの良い空気を吐き切ってから、気を取り直して準備をしようと姿見の前に立った。

 

 

 ───そこでまた、僕は動きを止める。

 

 

 意味がわからなかった。なぜここまで自分が無意識に変化しているのかが理解できなかった。

 

 鏡に映る自分は、いつも通りの国木田夕陽。何も変わりはしない、自分自身。

 

 だというのに、決定的に違うものがひとつだけあった。

 

 そんな自分の顔を眺めながら、右手の掌にある玩具の宝石を強く握り締めた。

 

 そして、鏡に映る自分に問いかける。 

 

 

 

「なんで、泣いてるんだよ」

 

 

 

 返ってくる答えなど、あるはずもないのに。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「お前ら、準備はいいか」

 

 

 

 信吾の言葉に、男子たち全員が頷く。準備は完了し、あとはもう決戦へと挑むのみだという雰囲気が痛いほど伝わってくる。

 

 バスに揺られ約二時間半。用意されたバスは当然男女別。その時点で完全に確執があるのは見え見えなのだが、今日の僕らからすれば都合がよかった。

 

 理由はひとつ。女子がいないバスの車内で作戦の最終チェックが行えたから。

 

 花丸からいただいたありがたいアドバイスを土台に置き、どうすれば僕らが頑張っているように見えるかを考えながら作り出したこの作戦。

 

 様々なシミュレーションを積み重ね、昨日の夕方ようやく完成した。正直考え過ぎて頭がおかしくなる一歩手前だった。ほとんどの男子たちは作戦がまとまった時点で精根尽き果てていた。まだ何も始まってないというのに。

 

 

 

「信吾。そろそろ着くみたいだよ」

 

 

 

 僕は窓の外を見ながら彼に向かってそう言った。信吾は頷き、座席に座る男子たちの顔を見渡す。

 

 

 

「言うまでもなく、これから俺たちの戦争が始まる。おそらく机の上で考えたイメージの数倍は厳しい戦いになるだろう」

 

 

 

 信吾の言葉に口を出す者はいない。全員そんなことはもうわかっている、というような表情でリーダーである彼のことを見つめていた。

 

 

 

「それが怖い奴はここで降りていい。心が折れてもいいという覚悟がある奴だけついて来い。いいな?」

 

 

 

 男子たち全員が頷く。それは降りる人間がいないことを証明する動きに他ならない。

 

 それを見た信吾は安心するように微笑みを浮かべた。人懐っこく、そして自信を持ったいつも通りの彼の表情。

 

 やれることは全部やったと思っている。あとはそれを全部ぶつけるだけ。

 

 バスが駐車場に停まり、空気が抜けるような音とともに前方にある扉が開いた。

 

 

 それを確認した信吾が出口の方へと振り返る。僕らはその頼りがいのある背中を見つめた。

 

 

 

「──────行くぞ。林間学校(聖戦)の始まりだ」

 

 

 

 信吾の言葉に、男子たちの威勢の良い声がバスの車内に響き渡る。

 

 僕もポケットの中に入れていた玩具の宝石を握り締めて、気持ちのスイッチを入れた。

 

 

 

「…………大丈夫」

 

 

 

 必ず、あの生徒会長を見返してみせる。

 

 そして、この一年間を素敵な時間にするために、僕らは戦わなくてはならない。

 

 それを自分に言い聞かせてから、宝石から手を離した。

 

 女子たち全員のことを見返すための戦いが満を持して、始まりを迎える。

 

 

 

 ────バスから降りてから早速、僕らは担任の教師からこの林間学校の説明を受けた。

 

 まずはここから必要最低限の荷物を持って山を登り、幾つかのチェックポイントを経由しながら山頂へと向かうということ。

 

 そこからまた山を下り、中腹にある宿泊施設に行き、夜ご飯を全員で作るという平凡なもの。何も特別なことはない。

 

 女子たちの方をチラ見すると、既にやる気のない感じの表情をしている生徒が何人か見受けられた。そこまでは予想通り。

 

 しかし、対する僕ら男子は燃えていた。数人の男からは滾るオーラが発生しまくっている。ちょっとは落ち着けと言いたいが、気持ちはわからなくもないので声はかけないでおく。

 

 

 担任の説明が終わり、次に生徒会長の挨拶があった。

 

 相変わらず真面目な口調と整った内容を凛とした声で紡いでいる。僕は彼女の姿をジッと見つめていたが、当然生徒会長はそんなことに気づくわけもなく、その挨拶を終えた。

 

 

 

「変わらねぇな、あの子は」

 

「…………そうだね」

 

 

 

 隣にいる信吾が小さな声でそう言ってくる。たしかにその通りだった。あの子はどこにいようとフラットなまま。雰囲気も、言葉遣いも、顔の表情も、教室にいるときと何も変わりはしない。

 

 

 

「夕陽。昨日言ったこと、覚えてるな」

 

「覚えてるよ」

 

「なら良い。あんまり深く関わんじゃねぇぞ」

 

 

 

 信吾にそう言われ、僕は頷いた。昨日言われたこととは、“あの生徒会長は放っておけ”という内容。

 

 彼の言いたいことはわかった。いくら僕らが頑張っても、あの子は最後まで男子を認めようとはしない。ならば最初から放っておけば無駄な体力を使わずに済む、と信吾は言いたかったのだろう。

 

 どうしてそれを僕だけに言ってきたのか。それは、僕があの子に惹かれていることを信吾が気づいているからだ。

 

 でも、彼の言葉に従う気はない。肯定しているように見せたが、あれは嘘だ。

 

 僕は、誰に何を言われようとあの生徒会長を見返してみせる。そのためにここに来たんだから。

 

 それに、訊きたいこともあった。数日前の帰り道。あの子が吐いた言葉の意味。

 

()()()()()()()()()という言葉の意味を、僕は知りたかった。

 

 

 

 生徒会長の挨拶が終わり、それからグループに分かれる。

 

 五人一組のグループ。僕らのクラスは男女合わせて三十五人。計七組に分かれて山頂を目指すことになる。

 

 事前に決定していた生徒同士集まって、ここから自由にスタートしていいという。

 

 やはり、乗り気でない女子たちの足取りは重い。さらに男子と同じ班になるということもあり、積極的に行動する生徒はパッと見て誰もいなかった。

 

 

 

 

 しかし、これは僕らの思惑通り。

 

 

 

 

「────よし。じゃあ行きますかっ」

 

「重い荷物は俺たちに任せな。あ、その飯盒とかはこいつが持つからいいよ」

 

「この山のポイントはバッチリ知ってるから大丈夫。この間三回くらい登ってきたから」

 

「疲れたらすぐに言ってくれ。休憩しながらでも全然間に合うからさ」

 

「虫刺されが心配? そんなこともあろうかと、虫退治グッズは完璧だよ。スズメ蜂が現れようがまったく心配ない」

 

「はい。これ熊避けの鈴。冬眠から覚めたばっかだけど襲われるかもしんないから一応持ってて。ああ、ばったり出会ったら俺たちが何とかするから安心してくれ」

 

 

 

 

 ─────男子たちがナチュラルに班の女子たちへ声をかけ始める。それに対して女子たちが驚いているのが、客観的に見て判断できた。

 

 ここで頼りがいのある行動や言動を確実に決めてスタートしていくこと。それが第一の作戦。コードネーム・H(始まりが一番大事だよ作戦の略)。名前を考えたのはネーミングセンスゼロの信吾。

 

 教室にいるときのように、女の子たちが固まっているところでは声をかけにくい。他の生徒の目もあるし、尚且つあの生徒会長が見ているだけで女子たちは男子と喋らない、ということが経験則から理解していた。

 

 だが、このように拓けた空間ではそれが通用しない。他の生徒の視線はあるものの、全員が男子から一斉に声をかけられているこの状況を作り出せば、反応せずにはいられない。

 

 僕らの思惑通り、女子生徒たちは男子たちの積極性に少々驚きながらも頷きを見せたり、口を開いて話をしたりしていた。よく見ると笑顔を浮かべている子もいる。

 

 上出来だ、と心の中で思った。始まりの段階でこの空気を作り出せたのならば、あとは最後まで山を登り切るのみ。

 

 

 

「いい感じだな」

 

「そうだね。僕らも続こう」

 

 

 

 僕と同じ班である信吾が他のグループの状況を見て、そう言った。僕らも他の男子に負けてはいられない。

 

 そう思いながら、僕と信吾は自分たちの班員である他の三人組のところに近づいて行った。

 

 

 

「あ、来た来た」

 

「オーウ、またこの二人はペアなのね~。ほんとに仲良しデース」

 

 

 

 僕らが近づくと、その存在にすぐ気づいてくれる果南さんと鞠莉さん。

 

 果南さんは青色のマウンテンパーカーに、ほとんど同じ色をしたバックパック。白っぽいロングタイツと紫色のハーフパンツを穿いている。それから灰色のトレッキングシューズ。まさにこれから山に登る、といった感じの服装だった。点数を上げるなら百点以外付けられないだろう。スレンダーで運動が好きそうな彼女によく似合っている。果南さんは山より海の方が似合うとは思うけど。

 

 鞠莉さんは果南さんと比べると少しラフな感じ。首掛け紐が付いた藍色のソフトハットを被り、黒のロングTシャツの上に赤い半袖のダウンジャケット。黒のハーフパンツにボーダー柄のレギンス、それから茶色のトレッキングシューズ。普段ゴージャスな雰囲気の鞠莉さんだけど、この格好をしていると普通の一般的な女の子に見える。大きな帽子のお陰で金髪も隠れているし。僕としては今の鞠莉さんの方が良いと思った。

 

 

 

「よう、お二人さん」

 

「今日はよろしくね」

 

 

 

 普段から会話ができるこの二人。僕たちと組んでくれると言われたときはほっとした。他の女子だったらこんなに気軽に話したりはできないから。

 

 

 

「うん。こっちこそよろしく」

 

「シンゴとユーヒがいるなら安心デース。特に~、果南とシンゴは最高のペアだからね~」

 

「「なっ!?」」

 

「フフ、二人とも赤くなっちゃって。ほんっとキュートなんだから~」

 

 

 

 鞠莉さんが信吾と果南さんをからかうように言うと、同じように顔を赤くする二人。たしかに。その言葉には僕も同感だった。この林間学校で二人の距離が縮まることを影ながら応援していこうと思う。

 

 照れた果南さんが鞠莉さんの頬っぺたを両手でぐにぐにと引っ張ってる。そんな微笑ましい光景を眺めているとき、僕はあることに気づく。

 

 

 

「あ」

 

「? どした、夕陽」

 

 

 

 僕らの班はまだ四人しか集まっていない。三十五人で七グループを作るのだから余りは出ないはず。

 

 もちろん、あと一人のことは忘れてはいなかった。よりによってここに入ってくるとは思いもしなかったけれど。

 

 

 

「……………………」

 

 

 

 大きな黒いバッグを背負いながら、生徒会長は僕らの近くに立っていた。

 

 赤い薄手のシャツに、白のインナー。黒っぽいスカートにスポーツ用のロングスパッツを穿き、足元には赤いローカットのシューズ。そこまで高い山でもないことがわかっているのか、他の二人と比べると明らかに薄手の出で立ちだった。

 

 僕が彼女の方へ視線を向けると、他の三人も生徒会長の存在に気づいたように視線を向けた。

 

 黙って見つめていると、生徒会長はいつも通りの鋭い目で僕らのことを見つめ返してくる。

 

 

 

「何をしていますの。早く行きますわよ」

 

 

 

 それだけ言って振り返り、山の方へ歩いていく。

 

 残された僕ら四人は全員で顔を見合わせた。

 

 

 

「まったく、ここに来てもダイヤはツンツンしてるデース」

 

「そう、だね。仕方なく私たちの班に誘ったけど、大丈夫かなダイヤ」

 

「まぁ、大丈夫だろ。あの子以上にしっかりしてる子なんていないんだし」

 

 

 

 僕以外の三人は、彼女の後ろ姿を見ながらそんな言葉を言う。

 

 信吾の言う通りだ。この林間学校を無事に終える。それだけを考えれば、あの子なら何の問題もなく終わらせることができるに違いない。

 

 けれど、それでは僕らの目標は達成できない。男子たちに向けられた女の子たち全員の認識を変えるには、必然的に僕らはあの生徒会長まで見返さなくてはならない。

 

 信吾は無理はするな、と言ってきた。あの子は何を言っても僕らを見返すことはないから、放っておけとも言った。

 

 言いたいことはわかる。でも、それに従うわけにはいかない。誰もあの子に近づかなくとも、僕だけは彼女に手を差し伸べる。

 

 それが今日、僕に与えられた使命だと自分で決めた。それだけは最後まで貫かなくてはならない。

 

 

 

「…………さぁ、僕らも行こう」

 

 

 

 生徒会長の後を追うように四人は歩き出す。

 

 僕の目は未だ、数十メートル先の美しい黒髪だけを捉えていた。

 

 

 




次話/ダイヤさんと夕陽くん


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ダイヤさんと夕陽くん

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

「へぇ、そんな作戦を立ててたんだね。全然わかんなかった」

 

「わからないようにしてたからな。逆に知られてたら困る」

 

「でも、意外だわ。ユーヒたちったら意外と賢かったのデース」

 

「賢いというか、無い頭から知恵を絞り出した感じだったけどね」

 

 

 

 僕らはそんな話をしながら山中を歩く。周囲には背の高い木々が立ち並び、頭上を見上げれば無数の木漏れ日が差していた。

 

 耳を澄まさなくとも聞こえてくる鳥の囀り。それから時々、吹く風が木を揺らしてさわさわと穏やかな音を奏でている。

 

 ここ数日はずっと内浦にいたから海の音ばかりを聞いていたけど、たまにはこう言った森の空気を感じるのも悪くない。

 

 信吾は山の方が良いというけれど、それは彼が海が嫌いだからだろう。海が嫌いなんて、めずらしい人もいるもんだ、と僕は思った。

 

 

 

「それで、作戦は上手く行きそうなの?」

 

 

 

 信吾の隣を歩く果南さんが僕らに訊ねてくる。彼女が言ってるのはあの計画のことだろう。

 

 

 

「まぁ五分五分ってところだな。初動がある程度上手く行ったから、そこからはいい感じに流れてくれると思う」

 

「へ~。シンゴは顔に似合わずそういうのがわかるのねぇ」

 

「そんなに意外かよ。ていうかマリー。なんだその顔に似合わないって」

 

「シンゴとユーヒはオトコノコなのにキュートな顔をしてるから~」

 

「全然理由になってないし……」

 

「あはは、たしかに」

 

 

 

 鞠莉さんの言葉に僕と信吾は少なからずもダメージを負う。果南さんは鞠莉さんの言葉を聞いてケラケラと笑っていた。まぁ多分褒められてるのだろうからいいけどさ。

 

 信吾の言う通り、この作戦は今のところ順調に進んでいると僕は思っている。最初にいいイメージを作り出すことには成功した。このハイキングが終わるまでに女子生徒たちとの距離をできるだけ縮めることができれば、もう打ち解けたと言っても過言ではないだろう。

 

 実際、僕らは難しく考え過ぎていた。女子たちだって僕らと同じ高校生。別に特別な存在ではない。統合することになり、慣れない雰囲気に向こうが戸惑っているのを、完全に敵意だと勘違いしていた。多少の憎悪はあったとしても、話を聞いてくれないほど酷いものでもない。

 

 男子校出身である僕らには、それを見極める目が備えられていなかった。けれど、それも慣れてくれば話は別。緊張感に慣れてしまえば話すのなんて簡単なこと。下手なことさえ言わなければ、コミュニケーションなんていとも容易く取れてしまえる。僕らはそんな単純なことを知らないだけだった。

 

 

 

「けど、そんなに現実は甘くないわよ?」

 

 

 

 鞠莉さんはそう言って視線を少し前に向ける。そこにあるのは僕らの十メートル前方を歩く生徒会長の背中。歩き始めて二十分ほど経っているが彼女は一度も僕らの方を振り向かなかった。まるで一人で登山をしているように僕の目には映ってしまった。

 

 声をかけようにもそんなことは許さない、と彼女の背中は語っている。もちろん、僕はあの子とも一緒に並んで歩きたい。でも、それを言っても多分あの硬い生徒会長は頭を縦には振らないだろう。

 

 

 

「そうだね。ダイヤは最後まであんな感じだろうし」

 

「あの子は後回しにするよ。俺らの目的はクラスの雰囲気をよくすることだけなんだし」

 

「………………」

 

「だよな、夕陽」

 

 

 

 信吾が僕の方を向いて訊ねてくる。おそらくだけど、信吾は僕がその意見に反対していることに気づいている。だから声をかけてきたんだろう。

 

 ここで頷いてしまえばまた嘘を吐くことになる。本当は違う。僕は、あの生徒会長も含めてクラス全体の空気を変えたいと思っている。信吾は無視しろというけれど、そんなことはできるわけがない。

 

 あの子に惹かれている僕が、彼女だけを置いてけぼりになどするはずがない。

 

 

 

「あれ? どうしたのダイヤ」

 

 

 

 僕が信吾の言葉に否定を投げようとしたとき、果南さんがそんな声を出した。

 

 前に視線を向けると、すぐ目の前には僕らの前を歩いていたはずの生徒会長の姿があった。

 

 何かあったのかと思い、彼女が見つめている方向に僕らも目線を送る。するとそこには。

 

 

 

「…………チェックポイント、其の一」

 

「ヤマメを五匹捕まえろ?」

 

 

 

 なんだコレ。まったくもって意味がわからないんだが、それは僕だけなのだろうか。違うよな。むしろこれだけで理解できる人がいるのだろうか。

 

 生徒会長が見ている方向にあったのは、一本の大木。その幹に張られた一枚の張り紙。そこには意味不明な言葉と大きな矢印が書かれていた。

 

 矢印が指している方向を見ると、整備された遊歩道から反れた道の向こう側に細い小道があった。耳を澄ませると川のせせらぎが聞こえてくる。

 

 

 

「まさか、そこの川で魚でも獲れってのか?」

 

「いやいや。そんなことあるわけ」

 

「でも待って。ちょっとここ見て」

 

 

 

 僕と信吾がそう言っていると、果南さんが大木に張られた張り紙の下の方を指さす。

 

 

 

「“次のチェックポイントでヤマメを五匹持ってこなかった班は次には進めません”、って書いてありマース」

 

 

 

 鞠莉さんがその文字を読み上げる。内容は理解できたが、余計に意味がわからなくなった。

 

 

 

「マジかよ……」

 

「マジみたいだね……」

 

 

 

 レクリエーション的な考えで先生か誰かが考えた試みなのか。意図はわかるが、なぜにヤマメなんだろう。普通こういうのはチェックポイントにある何かを集めて行く、とかじゃないんだろうか。

 

 僕らが張り紙を眺めながら立ち尽くしていると、唐突に五人の中の一人が動き出す。

 

 

 

「ここで油を売っていても何も始まりませんわ。行きますわよ」

 

「あ、待ってよダイヤ~」

 

「ふふ、いいね。私、こういうの好き」

 

 

 

 そう言って生徒会長は女子二人組を川の方へと連れて行く。意外とノリノリの果南さんは完全にこの状況を楽しんでいる。

 

 僕と信吾は彼女たちの後ろ姿を眺め、互いの顔を見つめてから頷き合った。

 

 

 

「とりあえず、行ってみるか」

 

「そうだね」

 

 

 

 そんな風に言い合って、三人の後を追った。

 

 

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 

 

 先ほどの指令が貼ってある大木があった所からは、緩やかな坂道が続いていた。それを百メートルほど下っていくと、予想通りそこには幅三十メートルほどの一本の川が流れていた。

 

 川の水は透明に澄んでいて、周囲にある新緑も見ていて気持ちいいものがあった。上流の方へ視線を移すと大きな滝が流れているのが見える。普段は海ばかり見ているから、こういう小川の景色を眺めるのも悪くない。

 

 周囲を見渡すと、他のグループたちが既にあの唐突なミッションに取り掛かっていた。これは全部の班が乗り越えなければならない試練らしい。

 

 

 

「どうやって捕まえればいいんでしょうかー? フィッシング?」

 

「向こうに釣り竿みたいなのがあるよ。行ってみよ?」

 

 

 

 果南さんが指差す方向にはたしかに何本かの釣り竿が立てられるスタンドのようなものが置かれていた。ふむ、あれを使ってヤマメを釣り上げるのか。

 

 

 

「ん? なんか銛もあるけど、これで取ってもいいのか?」

 

「そうみたいだね」

 

「俺はまず無理だけどな」

 

「え? どうして? 一緒に入ろうよ信吾くん」

 

「ちょっと待って。なんで靴を脱いでんの果南」

 

「そこに水があるからだよ」

 

「なんかちょっと名言っぽく言うのやめろ」

 

 

 

 気づけば靴を脱ぎ、戦闘態勢に入っている果南さん。彼女は釣り道具ではなく銛を活用してヤマメを捉えようとしているらしい。海が似合うだけではなく、水全般が好きなんだなこの子。

 

 

 

「ほら、信吾くんも行こう?」

 

「いや、俺は釣りでいいんだけど」

 

「いいからいいから。そんなに遠慮してたら魚が逃げちゃうよっ」

 

「え? ちょ、待っ、果南──夕陽、助け」

 

 

 

 信吾がテンション上がりまくりの果南さんに連れて行かれた。ご愁傷さま。どうでもいいけど信吾は水が大嫌い。泳ぐどころか水に入るのもままならないというのに、どうなってしまうんだろう。まぁ、果南さんは泳ぎが得意らしいし、万が一溺れても何とかなるだろう。頑張れ信吾。

 

 

 

「あら、シンゴが果南に連れて行かれちゃった。もう、こういう時だけ大胆になっちゃうんだからあの子は」

 

「仕方ない。僕らは釣りで頑張ってみよう」

 

「イエースっ。レッツフィッシングデース!」

 

 

 

 鞠莉さんはいつも通りのテンション。時間はまだあるし、のんびり自然を感じながら釣りをするのも悪くない。

 

 川辺に置かれていた釣り竿には既に仕掛けが作られており、すぐに釣りを始められるようになっていた。フライで釣るのが基本みたいだが、よく見ると餌も置いてあったので釣果が悪ければそっちを使うのもありだろう。

 

 渓流釣りは家族でキャンプに行った時にやったことがある。あの時の感覚はまだ忘れていないので、女の子組に教えながら進めて行こう。

 

 

 

「…………」

 

「はい、コレ。やり方はわかるかな?」

 

 

 

 仕掛けを確認する僕のことを黙って見つめていた生徒会長に、一本の釣り竿を手渡す。

 

 問いかけに反応はない。返されるのは冷たい視線。でも、それを無視して次の声をかけることにした。

 

 

 

「川の流れがあるでしょ? それに逆らわないようにこの毛バリを流してあげるんだ。そうすると魚がハリを虫だと思って食べてくるから、そしたらこのリールを巻いてね」

 

「………………」

 

「とりあえずやってみよう。僕と同じようにやってみて」

 

 

 

 簡単な説明を生徒会長にして、僕は竿を持って川に近づく。

 

 無視されるのはまだいい。語気を強めて何かを言われるより百倍マシだ。無視されようが僕はその無視を無視して話しかけてやる。

 

 そんなことを思いながら。僕は狙ったポイントに仕掛けをキャストする。

 

 

 

「よっ、と」

 

「オーウ。ユーヒ、エクセレントっ」

 

「ふふ、これをやるのは初めてじゃないからね。鞠莉さんもやってみて」

 

「オーケイ。内浦の海で果南とダイヤと鍛えたフィッシングスキルを見せてあげるわっ」

 

 

 

 そんなことを言いながら、鞠莉さんもえいっとかわいらしい掛け声を共に仕掛けをキャストした。

 

 ふわりと放物線を描きながら川の真ん中あたりに落ちる毛バリ。僕の予想よりも数倍上手だった。

 

 

 

「おー、鞠莉さん上手だね」

 

「フフ、これでも内浦で育ってきたからね。あそこに住む人たちは暇さえあれば堤防に集まるから~」

 

「ああ。休みの日の朝とか数え切れないほど釣り人がいるよね、なぜか」

 

 

 

 花丸の家に居候をするようになってから、何度もその光景を見た。話を聞くと、内浦の堤防はアジやらハゼやらがよく釣れるので有名らしかった。そこが地元の彼女たちも釣りのやり方は知っているというわけだな。内浦、すごい。

 

 そんな感じで、僕らは川辺に仕掛けを浮かべる。途端に辺りが静かになり、穏やかな川の音と上流の方から届く滝の音が耳を通り抜けた。

 

 ハリの方を見つめながらもチラリと下流の方に目線を移すと、信吾と果南さんが二人で銛を持って何やらやっているのが見える。川に入ってる果南さんが陸でビビッている信吾のことを引っ張って無理やり川に入れようとしてる。あ、信吾が川に入った。遠目でもわかる腰の引け具合が見ていて面白かった。頑張れ、信吾。

 

 

 

「オウ?」

 

「お。鞠莉さん当たったね」

 

 

 

 そうしていると、鞠莉さんの仕掛けに一匹の魚が食いついた。慣れた手つきで彼女はリールを巻き、かかった魚を陸の方へと引いてくる。

 

 

 

「イエーイっ。一匹目、ゲットデース!」

 

 

 

 そして糸を持って釣った魚を掲げる鞠莉さん。無邪気で輝かしいその笑顔を見ていると、こっちまで楽しくなってくる。

 

 僕は自分が持っていた竿を置き、釣り道具が置いてあった場所からバケツを持ってくる。

 

 

 

「鞠莉さん。魚取ってあげるよ」

 

「センキュー、ユーヒ。この調子でいっぱいゲットしまショーウ!」

 

 

 

 鞠莉さんが釣った魚をハリから取ってバケツの中に入れる。二十センチほどのヤマメが一匹、狭いバケツの中で元気よく泳いでいた。

 

 この感じで釣り進めて行けばすぐに五匹を越えるかな、と思いながら僕は視線を上げた。

 

 

 

「………………」

 

「あ」

 

 

 

 すると、こっちを見ていた生徒会長と目が合った。彼女は仕掛けを川に投げ入れていない。先ほど僕が竿を渡したままの状態で立ちつくしていた。

 

 やり方がわからないのか、とも思ったけど鞠莉さんが言ってた感じから、釣りが初心者というわけでもないのだろう。

 

 なら一緒にやればいいのに、と思いながら彼女の方へと近づく。鞠莉さんは意気揚々と『シャイニーッ!』なんて言いながら、二匹目を釣り上げるために仕掛けを川に向かって投げていた。

 

 

 

「えっと。生徒会長は、やらないの?」

 

「…………」

 

 

 

 答えはない。そう言えば僕はこの子のことをなんて呼べばいいんだろう。今さらになって迷ってしまった。なのでいつも男子たちが呼んでいるように生徒会長、と固有名詞で呼んだ。

 

 

 

「一緒にやってみようよ。意外と楽しいよ?」

 

 

 

 そう言っても彼女は僕に鋭い視線を向けるだけ。参ったな、と思いながら頭をかいていた時、ある声が静かな川辺の空気を通って僕の耳に届いた。

 

 

 

「…………ダイヤ」

 

「え?」

 

「私は、黒澤ダイヤですわ」

 

 

 

 なんて、わかり切った自己紹介をされる。顔を見つめるといつものあの威圧感が少しだけ緩んでいる気がした。いや、今の彼女にはそんなものほとんどないと言ってもいい。

 

 彼女が何を求めてそんなことを言ってきたのか、僕にはわからなかった。でも、ちょっとだけ頭を悩ませてみたらすぐに答えが出た。

 

 

 

「あ。ご、ごめん」

 

「…………」

 

 

 

 彼女の思惑に気づき、すぐに謝罪する。

 

 そうか。この子は多分、生徒会長と呼ばれるのが嫌なんだ。いくら僕らを避けていようとも、名前で呼ばれないのは気分がいいものじゃない。

 

 でも、なんて呼べばいいんだろう。生徒会長がだめなら、黒澤さん? 呼び捨てで呼ぶなんてできないから、それが一番いいのかもしれない。

 

 

 

「じゃあ。黒澤、さん」

 

 

 

 たどたどしく名字を呼んでみる。それでも答えはない。返ってくるのはやっぱり冷たい視線だけ。うう、ならどうすればいいんだろう。

 

 そんなことを考えている時、僕の目の前に立つ黒髪の女の子は小さく口を開いた。

 

 

 

「……私には、妹がいます」

 

「へ?」

 

「あなたも知っているのでしょう? だから、名字で呼ばれると混乱してしまうのです」

 

 

 

 突然の言葉に理解が追いつかなかった。だが、処理速度が遅くなった思考回路はゆっくりとその言葉の意味を僕にわからせてくれる。

 

 彼女にルビィちゃんという妹がいるのは、この間花丸に紹介されて知っていた。それから彼女は今、その妹と一緒になる名字だと混乱してしまうと口にした。ということは、彼女が僕に求めている呼び名はひとつしかなくなる。

 

 でもどうしよう。僕が本当にその名前で彼女を呼んでしまっていいのだろうか。

 

 こんなことで怖気づく自分が嫌になる。けど、この子がそう呼ばれることを望んでいるのならば、それに従わない理由はない。

 

 少しだけ間を置く。僕は目を逸らしながら、すぐそばを流れる川のせせらぎを聞いた。

 

 心臓が強く脈打つのがわかる。緊張感を感じてしまい、口の中が渇いてくる。

 

 このままでは時間を無駄にしてしまう。みんなのためにも、早くなんとかしないと。

 

 臆病風が吹く前に、口に出してしまう方がいい。

 

 そう思い、僕は意を決して口を開いた。

 

 

 

「な、なら……ダイヤ、さん?」

 

 

 

 そう言ってみせると、彼女はこくりと頷いた。それが肯定の意であるのは明白だった。

 

 生徒会長改め、ダイヤさん。ようやく僕の中での彼女の呼び方が決まった。それはいいんだけど、なんだろう、すごく照れくさい。

 

 果南さんだって鞠莉さんだって名前で呼んでいるのに、この子を名前で呼ぼうとするとなぜか緊張してしまう。

 

 心臓が強く且つ早く鼓動している。顔も赤くなっていることだろう。それをなるべくダイヤさんに悟られないよう、顔を少しだけ俯かせていた。

 

 しかし次の瞬間、その状態に追い打ちをかけるような現実が僕に襲い掛かる。

 

 

 

「夕陽、さん」

 

「──────え?」

 

「? あなたの名前は夕陽、というのではないのですか?」

 

 

 

 右手に釣り竿を持って僕の前に立っている生徒会長。もとい、ダイヤさんが首を傾げながら不思議そうな顔をしてそう訊ねてくる。

 

 突然のことに頭がついていかない。頭だけじゃない。呼吸の仕方すら、身体が忘れてしまったような感覚に囚われる。

 

 彼女の言葉を聞いたとき、頭の中は真っ白になってしまった。名前を呼ばれただけなのに、僕の心は震えてしまうほど全身に喜びの感情を溢れさせた。

 

 理由はわからない。でも、すごく嬉しい。ここ最近で一番嬉しく思えた瞬間が、今の一瞬だった。

 

 

 

「そ、そうだよ」

 

「あなたが私を名前で呼ぶのなら、私があなたのことを名字で呼ぶのは不公平でしょう。ですから、私も夕陽さんと呼んで差し上げますわ」

 

 

 

 事務的な喋り方でダイヤさんは言ってくる。仕方なくそう呼んでやる、と上から言われているというのに、どうしようもなく喜びを感じていた。まさか、僕にはそっちの気があったのだろうか。

 

 嬉しさのあまり、咄嗟に言葉を返すことができなかった。僕にできたのは黙って頭を何度も頷かせることだけ。それだけが今の僕に許された行動だ、と脳が命令してくる気がした。

 

 心臓が止まりそうなほど、強い拍動を短時間で何度も繰り返す。うっかり止まってしまったりしたら大変だな、なんて馬鹿なことを思いながら彼女の美しい黒髪を見つめていた。

 

 気づかれないように深呼吸をする。肺に溜まる自然の新鮮な空気。気持ちがいい。滝があるからマイナスイオンなんかも発生してるのかもしれない。

 

 

 

「………………その」

 

「勘違いしないでください。これは、いざというときに名前を呼べなくなったら困るので、念のため確認しておくだけのこと」

 

 

 

 ダイヤさんはいつも通りの凛とした顔で僕に言ってくる。いや、なんとなくそうなんじゃないかと思ってたから別にショックは受けないけど。

 

 しかしそんな事務的な決め事であっても、僕の心は既に満たされてしまっていた。

 

 この子に、名前を呼んでもらえる。そして、僕も彼女の名前を呼べる。

 

 どうしてたったそれだけのことなのに、すべてが満たされた気分になってしまうんだろう。

 

 僕には、その理由が何ひとつわからなかった。

 

 

 

「それは、わかってるよ。でも、うれしい」

 

 

 

 本当の気持ちを打ち明ける。微笑みながらそう言うと、それを聞いたダイヤさんはつり上がった目を少しだけ丸くして僕のことを見つめてきた。

 

 よくわからない、と彼女の顔に書いてある。それでいい、と思った。この感情が伝わらなくてもいい。ただ、今の僕が喜びを感じてくれていることがちょっとだけでも伝わればいい。

 

 

 

「…………変な方ですね、あなたは」

 

「生まれて初めて言われたよ」

 

「では、なおさら変な人です。こんなことで、うれしいと思うなど」

 

 

 

 たしかに彼女の言う通りだ。こんな些細なことで喜ぶなんて、どうかしてる。

 

 でもいいんだ。事務的でも何でもいい。少しでもこの子と距離を詰めることができたのなら、それ以上に喜ばしいことは僕の中には存在しない。

 

 僕は今、そんなことを思ってしまっていた。

 

 

 

「フィーッシュッ! ユーヒ! 二匹目がかかったデースッ」

 

 

 

 そうしていると、釣りを続けていた鞠莉さんが大きな声でそう言ってくる。視線を向けるとたしかに先ほどと同じように川の水面に小さい魚が跳ねているのが見えた。

 

 

 

「今行くよー。頑張って釣り上げてね」

 

 

 

 鞠莉さんにそんな声をかけてから踵を返し、彼女の方へと向かおうとした。

 

 だけど、進めなかった。

 

 進めなくなる、何かが僕の耳を通り抜けた。

 

 

 

 

 

「─────()()()()

 

 

 

 

 

 唐突に。本当に唐突に、ダイヤさんが僕の名前を呼んでくる。

 

 でも、さっきとは何かが違った。何が違うのか、僕にはわからなかった。

 

 わかったのは、()()()()()()()()()()()()()()()()ということだけ。

 

 なぜかはわからない。けどたしかにそう思った。

 

 

 

「ダイヤ、さん?」

 

 

 

 違う呼び方で呼び止められ、僕はすぐに彼女の名前を呼んだ。

 

 ダイヤさんは自分が言った言葉が理解出来ないというような顔をしている。

 

 そして、今の言葉を訂正するように一度、大きな咳払いをした。

 

 

 

「い、今のは間違いですわ」

 

「…………」

 

「変な目で見つめないでください。さぁ、鞠莉さんが待っていますわよ。早く行きなさい」

 

 

 

 ほんのりと頬を染めて、目線を逸らしながらそう言ってくるダイヤさん。

 

 彼女と出会って初めて、その表情の色が変化するのを見た。

 

 そして、素直に可愛いと思った。いつもは厳格な顔をしているところしか見たことがない。だからこそ、そんな微妙な顔色の変化も魅力的に見える。そんな気がしたんだ。

 

 

 

「よろしくね、ダイヤさん」

 

「うるさいですわ。早く行きなさい」

 

 

 

 怒られてしまった。調子に乗りすぎただろうか。

 

 そんなことを思いながら、僕は彼女に背を向けて鞠莉さんの方へと向かう。

 

 歩きながら、ダイヤさんの呼び間違いを思い出す。

 

 

 

()()()()

 

 

 

 その呼び方に、懐かしさを感じた。

 

 僕たちは、まだ出会ったばかりだというのに。

 

 僕はずっと、その名前で呼ばれ続けていたような感じがしたんだ。

 

 黒澤ダイヤという、生徒会長である女の子に。

 

 

 

 

 

 

 

 





次話/硬度120%


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硬度120%

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

「よし。これで五匹だね」

 

「イエースっ。これで次に進めマース!」

 

 

 

 バケツの中に入っているヤマメを三人で眺める。魚の活性がよかったのか、意外とすんなり釣れてくれた。

 

 僕が一匹に鞠莉さんとダイヤさんが二匹ずつ。さすがは海の近くで育った女の子たち。釣りにはだいぶ慣れているらしかった。わざわざ僕が教えなくてもよかったかもしれない。

 

 

 

「それじゃあ、次のチェックポイントに向かおうか…………って」

 

「ンフ? 果南たちも終わったみたいね」

 

 

 

 そう言って立ち上がると、遠くの方から銛でヤマメを捉えようとしていた二人組が歩いてくる。だが一人の男の方は見た感じ満身創痍。ふらふらと蛇行しながら砂利道を歩いていた。

 

 

 

「お疲れさま。釣果はどんな感じ?」

 

「うん。なんとか五匹釣り上げたよ。で、そっちはどうだったの」

 

「あはは。信吾くんがあんなに水嫌いだとは思わなかったよ」

 

「…………いっそのこと川に流してくれ」

 

 

 

 訊ねると果南さんは笑い、隣にいる信吾は絶望的な表情でそんなことを言い始めた。わかる。釣りをしながら時々二人の方をチラチラ見てたけど、あっちもなかなかハードなやり取りを繰り広げてたから。果南さんは笑って誤魔化してるけど、結局一匹も取れなかったらしい。むしろ川の中を逃げ惑う信吾のことを銛で捉えようとしてたからな、この子。

 

 

 

「じゃあ、コレを持って次に行こうか」

 

「そーね。ネクストポイントへ行きまショーウっ」

 

 

 

 鞠莉さんがそう言って、僕らは川辺から次のポイントへ移動する準備をする。バケツの中には五匹のヤマメが入っている。これを持って山道を登るのは少し疲れるかもしれないが、信吾と二人で交換しながら行けば大丈夫だろう。

 

 そんなことを考えながら、僕は水の入ったバケツを持って立ち上がる。意外と自分の荷物も嵩張っているので、これは結構きつそうだ。でも、女の子たちの前で弱音を吐いてる場合じゃない。

 

 

 

「よっ、と」

 

「大丈夫か、夕陽。重いなら俺が持ってやるぞ」

 

「大丈夫大丈夫。これくらいどうってことないよ」

 

「なら、他の荷物は私たちに持たせて?」

 

 

 

 信吾の言葉に返事をすると、果南さんは僕のリュックを持ってくれた。それもそれなりに重いはずなんだけど、彼女は顔色ひとつ変えずに肩に掛けていた。もしかしたら果南さん、僕より力が強いんじゃないだろうか。いや、間違いなく強い。

 

 

 

「ありがとう、果南さん」

 

「いいっていいって。疲れたらすぐ信吾くんに渡すから。ね? 信吾くん」

 

「はいはい。そうですねー」

 

 

 

 なんだか二人のやり取りが自然になってる気がするのは、僕だけの違和感じゃないはずだ。この二人が仲良くなってくれるのは嬉しい。友達として応援しよう。

 

 

 

「それじゃあ行くわよーっ」

 

 

 

 鞠莉さんの元気な声におー、と僕らは反応し、彼女の後ろをついていく。

 

 さっきは強がってしまったけどバケツは正直、かなり重い。これを持って山道を歩くのは想像以上に過酷だ。

 

 でも、僕が持っていかなきゃ他の四人の迷惑になってしまう。頑張らないと。

 

 そう思って歩き出そうとしたとき、誰かの視線を感じた。

 

 

 

「………………」

 

「? どうしたの、ダイヤさん。早く行こ?」

 

 

 

 他の三人が先に行っているのに、彼女だけは残って僕の顔をジッと見ていた。

 

 どうかしたのか、と思い声をかけたけど、鋭い視線を向けてくるだけで返事をくれない。けど彼女がこうしているというのは、何かがあったからに違いない。

 

 カワセミが鳴く声が聞こえてくる。綺麗な声だ、とダイヤさんの目を見ながら思った。彼女にも今の鳴き声が聞こえていただろうか、なんてことも同時に頭の中に浮かんでくる。

 

 そうしているとダイヤさんは一歩、僕の方へ近づいてくる。

 

 

 

「その荷物、貸しなさい」

 

「え? でも」

 

「重たいのでしょう? あなただけに負担をかけるわけにはいきませんわ。だから早く貸しなさい」

 

 

 

 僕が肩に下げているトートバックに彼女は指差す。そこまでこれは重いものでもないけれど、持っているのはたしかに邪魔だった。

 

 予想外だったのは、ダイヤさんがそう言ってくれたことだった。僕が苦しもうが関係ないと、いの一番に思いそうな彼女がそんなことに気を向けてくれる。

 

 それが驚きであり、尚且つ理解出来ないことでもあった。

 

 

 

「いいの?」

 

「あなたは何を気にしているのです。私がいいと言っているのだからいいのですわ」

 

 

 

 そう言って、肩からトートバックを奪っていくダイヤさん。

 

 僕は彼女の顔を眺めながら茫然と立ち尽くしてしまった。

 

 

 

「…………」

 

「な、なんですの。人の顔をじろじろと見て」

 

「ああ、ごめん。その、ダイヤさんって意外と優しいんだって思って」

 

 

 

 こんな些細なこと、本当は気にすることでもないのかもしれない。でも僕には特別なことに思える。

 

 そう言うと、ダイヤさんはわざと視線を逸らすように急いで踵を返した。

 

 黒髪が掛かる耳が、少しだけ赤い気がした。

 

 

 

「…………行きますわよ」

 

「うん」

 

 

 

 僕らは三人の背中を追うように歩き出す。

 

 照れ隠しが下手なのも、素直に可愛いと思った。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 僕らはまた緩やかな山道を進む。その道中、僕たちが通っていた男子校で何があったのか、とか。彼女たちが通っていた浦の星女学院ではどんなことをしていたのか、とか。そんな、他愛のない話をしながら。

 

 横に並ぶのは四人。もう一人はその斜め後ろを黙ってついてきている。僕は時折彼女の方に視線を向けたけれど、黒い髪の女の子は左手に広がる樹木の並びにばかり気を取られているらしく、目を合わせてくれなかった。

 

 本当は彼女も会話の中に入ってほしかった。そして、もっと話をしたかった。

 

 でも、そうすることをあの子が拒むのならば、それ以上何も言えない。

 

 この林間学校が終わるまで、まだ時間がある。その中で彼女との距離を縮めることができればいい。ゆっくりでもいいんだ。雨の後、遅い足取りのカタツムリが数メートル先に出来た水たまりに向かうときみたいに。

 

 そんなことを思いながら、山道の中にある遊歩道を進んだ。目を右に向けると高い谷がそこにはあり、左に目を向ければ少し遠くに沢が流れている場所を歩いていた。水が流れる音、鳥の鳴き声、たまに聞こえる何かの動物の鳴き声。

 

 美しい春の新緑の中、僕らはいた。海が近くにある街に住む僕らにはあまり馴染みのない風景が目の前にある。森も海も元を辿れば同じ自然というカテゴリにある。何ひとつ同じモノなんてないというのに。

 

 夜の森には潮騒のような音が響く。僕が好きな小説に、こんなフレーズがあった。それがフィクションなのかどうかは知らない。けれど、本当ならば聞いてみたいと思った。

 

 森なのに、どうして海の音が聞こえてくるのか。文章では伝わり切らないその感覚、想像できない部分を実際に現実で耳にしてみたい。夜になったらこっそり抜け出して森の中に入ってみようかな。

 

 そんなことを思いながら、背の高い木々に囲われた細い道を進む。周囲に街灯はない。夜になればこの辺りは何も見えなくなってしまうだろう。

 

 

 

「ん?」

 

「なんだろ、あれ」

 

 

 

 そうしてしばらく歩いていると、道の真ん中に不自然な一枚の看板を見つけた。また何か変なことが書いてあるんじゃないだろうな、と訝しみながら近づく。恐らくみんな僕と同じようなことを思っているに違いない。

 

 近づいてその看板に書いている文字を読むために、僕らは顔を寄せ合った。

 

 

 

「なになに~?」

 

「チェックポイント其の弐」

 

「…………捕まえたヤマメを全員で食べろ?」

 

 

 

 信吾がそこに書かれている文字を言葉にした。一斉にみんなの視線が僕が持つバケツに向かう。その中には元気に泳いでいる五匹のヤマメ。

 

 深く考えないでもいい。今度のミッションはその通り、このヤマメを班のみんなで食べること。その意図はまったくもってわからないけれど。

 

 

 

「食べるって言ったって、このまま食べるわけにもいかないよね」

 

「待って果南。他にも何か書いてあるデース」

 

 

 

 鞠莉さんが看板の下の方を指さす。そこにはたしかに矢印と文字が書かれている。

 

 

 

「この先に調理器具があります、だって」

 

「そうみたいだな。とりあえず行ってみようぜ」

 

 

 

 僕が読み上げると、信吾がみんなに向かってそう言ってくれる。誰がこんなことをやろうとしたのかは知らないけれど、コレをしなければ先に進めないというのならやるしかないのだろう。

 

 看板に描かれている矢印の方向へ進むと遊歩道が狭まり、それから低い階段があった。

 

 そこを越えた先。辺りを見渡すとそこには。

 

 

 

「…………広場、だね」

 

 

 

 森の中に大きく拓けた広場があった。ジャングルジムや滑り台などの遊具や小さな丘。木で造られたベンチ。端の方には狭い東屋も建っている。

 

 まさしく林間学校を行う用に作られた公共施設。ここはその中にある子供の遊び場なんだろう。小学生の頃はこんな所でよく遊んだな、なんてことを思い出してしまうような場所だった。

 

 目を辺りに向けると、既に数班の生徒が各々の場所を陣取り、何か作業をしている。彼ら彼女らもあの看板に書いてあったとおり、捕まえたヤマメを食べるためにここへやって来たらしい。

 

 

 

「あっちの方に先生方がいるね」

 

「あそこでこいつらを調理するってわけか」

 

 

 

 広場のほぼ中心にある平屋建ての木造の建物。信吾の言った通り、あの場所で取ってきた魚を調理する、という想像は容易に出来た。

 

 

 

「じゃあどうする? みんなでクッキングするのかしら~?」

 

「いや、待って。ちょっと他の班を見てみて」

 

 

 

 僕がそう言うと、他の四人は広場に散り散りになっている他の班の生徒へと視線を向ける。

 

 男子たちは何かに必死になっている。中には騒いでいる奴も見受けられた。何をやってるんだあの男たちは。

 

 地面に置かれた器具に集中しているように見えた。あれは、もしかしなくても。

 

 

 

「まさか」

 

「火起こしも自分たちでやれってこと、みたいだね」

 

 

 

 果南さんが周りの生徒たちがやっていることを眺めて、そう言った。

 

 間違いない。あれはテレビとかでよく見る火起こし道具。板に木の棒を擦りつけて摩擦で火を点けるやつ。

 

 あれで着火させてヤマメを焼けというのか。なんてスパルタ。でもちょっと面白そう。

 

 

 

「なら、火を起こす人とヤマメを焼く準備する人に分けようか」

 

「そうだな。じゃ、火を点けるのは体力いるから俺と夕陽に任せてくれ」

 

「イエースっ。では私たちはフィッシュたちの調理をするデースっ!」

 

 

 

 果南さんの提案に乗り、僕らは役割を分担する。男子が火を起こし、女子が魚を調理する。これ以上ないくらい良い分担だろう。

 

 

 

「じゃあ、僕は先に場所を取っておくよ。信吾、これを持っていってあげて」

 

「おう。すぐ戻ってくるから待ってな」

 

「魚は私に任せて。綺麗に捌いてくるよ」

 

「マジか。すげえな内浦女子」

 

「果南は海の申し子だからね~。ではレッツゴーっ」

 

 

 

 持っていたバケツを信吾に渡し、調理場に向かう彼女らを見送る。さすがは海の近くで生まれただけあるな、と僕も思う。普通の女の子なら生の魚を捌くとか引くのが当然だろうに。

 

 さて、あっちは果南さんたちに任せて僕は場所を取りに行こう。トートバッグにレジャーシートを入れていたから、それを使って準備しておこうかな。

 

 そう思ったとき、自分の肩にトートバッグが掛かっていないことに気づいた。

 

 どこに行った、と思う前に、その存在が目の前にあるのを見つける。

 

 

 

「…………」

 

「あ…………」

 

 

 

 僕のトートバッグを肩に下げたダイヤさんが、こちらを見つめて立っていた。

 

 

 

「ごめん、ダイヤさん。バッグ持たせちゃって」

 

「いえ。お気になさらず」

 

 

 

 彼女はそう返事を返してくれる。けど、バッグまでは返してくれなかった。

 

 手を伸ばすのに、ダイヤさんはいつも通りの表情を向けてくる。その意図がわからず、少しだけ困惑してしまった。

 

 

 

「あの、ダイヤさん?」

 

「なんですの?」

 

「そのバッグ、返してもらえると助かるんだけど」

 

 

 

 そう言うとダイヤさんは首を傾げて、少しだけ背の高い僕の顔を見上げてきた。頭の上にクエスチョンマークが浮かんでいるように見えたのは気のせいだろう。新緑の両眼が僕を見つめていることを自覚したら、少しだけ心臓の拍動が強さを増した。

 

 

 

「私が持ちますわ」

 

「? どうして?」

 

「あなたに言う必要はありません」

 

 

 

 そう言って、彼女は僕に背を向けて何処かへ向かっていく。

 

 あの子が考えていることがわからない。だから想像した。

 

 するとひとつだけ、思い当たることがあった。

 

 

 

「ダイヤさん」

 

「どうしかしましたか」

 

「大丈夫だよ。僕は疲れてないから」

 

 

 

 魚が入ったバケツを持っていたから疲れている。彼女はそう思っていたのかもしれない。

 

 でも、彼女がそんなことを思ってくれる意味は、まだ理解出来ないままだった。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 それから僕と信吾は魚を焼く火を点けるため、二人で縄文式火起こし器と格闘することになった。

 

 やってみるとこれが想像以上に難しいことを思い知らされた。二人で協力して何度もトライするが、なかなか火は点いてくれない。

 

 鞠莉さんと果南さんはヤマメの調理に行ったまま戻ってこない。丘の上には僕と信吾、そしてつまらない顔をしたダイヤさんが木のベンチに腰掛けて綺麗な黒髪を指先で弄りながら、僕らが火を点けるのを待っていた。

 

 

 

「くっそ! んだよこれ、全然点かねぇじゃねぇかっ」

 

「怒らないでよ。惜しいところまで行ってるんだから、もうちょっと頑張ろうよ信吾」

 

 

 

 なかなか点いてくれない火種に苛立った信吾が棒を芝生に叩きつける。気持ちはわからなくもない。ギリギリのところまで行くのに消えてしまう、というサイクルをさっきから何度も繰り返している。

 

 摩擦で点いた火種を麻で出来た綿の上に置き、そこに息を吹きかけると火は点いてくれるという。だが、実際はそんなに簡単なものではなかったことを、僕と信吾はこの十数分で思い知らされていた。

 

 

 

「もうやだ。誰かライター持ってねぇのかよ」

 

「持っててもそれで点けたら意味ないじゃん」

 

「そうは言ってもよぉ」

 

 

 

 信吾の気持ちが切れ始めているのがわかった。一度こうなってしまったら彼は使い物にならなくなってしまう。長いこと友達をやってるとよくわかる。

 

 信吾は火を点ける木の棒を指先でクルクルと回している。僕はため息を吐いて、彼からその棒を奪った。

 

 

 

「はぁ。なら僕がやるから信吾は休んでていいよ」

 

「任せた。あー、なんで俺たちがこんなめんどくせぇことしなくちゃいけねぇんだ」

 

「しょうがないよ。この火を点けなくちゃ魚を食べられないんだから」

 

「いっそ生で食えばいいんじゃね?」

 

「僕らの班だけが全員食中毒になるのは勘弁してほしいけどね」

 

 

 

 僕は穴の開いた木の板に棒を擦りつけながらそう言う。白い煙は上がるのに如何せん、火が点いてくれない。

 

 信吾は僕の隣で綺麗な青空を見上げながらブツブツ文句を言っている。その声に耳を貸さず、火を起こすために目の前の縄文式火起こし器に集中する。

 

 両手に棒を挟み、手を洗うときの要領できりもみさせる。これを火が点くまでエンドレスで続け、木くずに着火したらすぐさま綿にそれを乗せて引火させる、というのがこの縄文式火起こしのやり方らしい。信吾が先生からもらってきたプリントにはそんな説明が書かれていた。

 

 

 

「…………点かない」

 

 

 

 しかし、そうは簡単にいかないのが世の中の常。こんなことを日常的にやっていた縄文人を勝手にリスペクトしてしまった。

 

 それから数分間、諦めずにやってみるがやっぱり火は点いてくれない。隣で飽きている信吾の気持ちが痛いほどわかった。僕も投げ出したい。

 

 

 

「どうすりゃいいんだー」

 

「僕に訊かないでよ」

 

 

 

 信吾が空に向かって言いながら、芝生の上にぱたりと倒れ込む。それを横目に僕は諦めず手を動かした。

 

 何とかならないかな、と思いながら切れかけた集中力を保ったまま棒を板に擦りつける。でも、また上手く行かない。何度目かわからないため息を吐く。

 

 そんなとき、近くで僕らを傍観していた女の子の声が耳を通り抜ける。

 

 

 

「まだ点きませんの?」

 

「あ、うん。もうちょっと待ってね、ダイヤさん。すぐに点けるから」

 

「そう言ってから何分も過ぎてしまっているではありませんか」

 

「ごめん。退屈させちゃったかな」

 

 

 

 椅子に座りながら僕らのことを見てくるダイヤさん。表情は明らかに退屈そう。でも、それなら鞠莉さんと果南さんの方に手伝いに行けばよかったのに。

 

 

 

「ええ。あなた方が手こずっている光景を見ているのは少しだけ滑稽で楽しかったですが、それも飽きました」

 

「鬼かあんたは」

 

 

 

 芝生に寝そべっていた信吾が上半身を起こし、そんなツッコミを入れる。この二人が話しているのは初めて見る気がする。

 

 

 

「あれほど自信満々にやり始めたのにも関わらず、結局投げ出してしまっている。やはり、男子というのはその程度なのですね」

 

「…………なんだと?」

 

 

 

 ダイヤさんの挑発的な言葉に信吾が低い声で反応する。マズい。この先に何が起こるのかを、鮮明に想像してしまった。

 

 

 

「その通りでしょう? 現にあなたは投げ出して、夕陽さんにすべてを任せているではありませんか」

 

「それとこれとは別だ。俺のことをバカにすんのはいい。けど他の男子は関係ねぇだろ」

 

「信吾」

 

「では、あなた以外の男子は違うのですか? それなら謝りますわ。使えない、などと少しでも思ってしまったのは私の思い違いだったのですわね」

 

「ダイヤさん」

 

「ちっ。ただ見てただけのくせに好き勝手言いやがって。だいたい、最初からあんたがいなけりゃ俺たちは────」

 

「信吾っ!」

 

 

 

 静かな山の広場に、僕の声が響き渡る。近くにいた班の生徒の視線も感じる。

 

 思わず、大きな声を出してしまった。言ってしまってから僕は自分の過ちに気づいた。

 

 

 

「…………」

 

「…………」

 

「ご、ごめん。つい」

 

 

 

 二人が喧嘩になりそうな雰囲気だったから、と言えるはずの言葉がなぜか喉の奥から出て行かなかった。

 

 何をやってるんだ僕は。こんなことで声を荒げるだなんて、本当にらしくない。二人が口論する姿を見たくなかったから止めた。ひとくちでそう説明するのは容易だろう。けど、今のは少しだけ違った。

 

 僕は、信吾とダイヤさん、この二人のどちらのために大きな声を出したのか。自分自身に問いかけても、心は返事をすることなくただ徒に鼓動し続けている。何も言わず、全身に血液を送る作業だけを繰り返していた。火を点けるために同じことをやり続けていた僕らみたいに。

 

 

 

「夕陽」

 

「……信吾の言いたいことはわかる。けど、止めてよ」

 

「でも、俺たちは」

 

「今、僕らは五人で一緒に行動しなくちゃいけないんだ。その空気を乱すのは信吾であろうとも許さない」

 

 

 

 信吾の目を見つめながら言った。彼は僕がめずらしく鋭い視線を送っていることに驚きを見せている。それでよかった。この言葉の意味がわかってくれるのなら、大きな声を出したことに理由もつく。

 

 僕が求めるのは平穏な空気。当然、誰もがそう望んでいる。何が面白くて不穏な雰囲気の中、この林間学校を過ごさなくてはいけないのだろう。そんなことになるくらいなら、最初からあの計画など立てなければよかったと思ってしまうに違いない。

 

 誰かが空気を乱すなら、それを止めなくてはいけない。たとえそれが、心を惹かれている女の子であったとしても。

 

 

 

「信吾だけじゃない。ダイヤさんもだよ」

 

「………………」

 

「手こずってしまってるのは謝るよ。でも、あれは言い過ぎだと思う。僕らだって、みんなの空気がよくなるように頑張ってるんだ。その気持ちを踏みにじるのは、少し違うんじゃないかな」

 

 

 

 勇気を出して、言わなければいけないことを言った。こんなことを言わなくても、真面目で頭の良い彼女はきっと理解している。それを知った上で彼女は信吾にあんな言葉を吐いたのだと思うから。

 

 だからこそ、ここは正論を言わなくてはいけないと思った。正しさを知った人が僕らを傷つける言葉を吐くのなら、その正しさを再認識させなければならない。

 

 それがただの戯言になってしまったとしても、言わなければならない言葉だった。

 

 みんなの幸せを願うのならば、そうしないわけにはいかなかったんだ。

 

 

 

「………………」

 

 

 

 僕の言葉を聞いたダイヤさんは冷たい視線を向けてくる。彼女に見つめられているだけで、体温が下がる気がする。それでも僕は目を離さなかった。離してしまえば、さっきの言葉が全部湯葉のように薄い説得力のないものになってしまう気がしたから。

 

 広場の一部に、深い沈黙が流れる。遠くの方にある高い山の方から吹き落ちてくる春風に、目線の先にある黒髪がふわりと揺れた。頭上から降り注ぐ透明な太陽の光は彼女の髪に眩しいほどの艶を与え、その姿を恐ろしいほど美しく見せている。

 

 沈黙に切れ味のいいナイフでそっと切れ込みを入れるように、ダイヤさんは血色が良く薄い唇を開き、僕らに言葉を放つ。

 

 

 

「……あなたにそう言われるとは思いませんでした。私も少しだけ、あなたに対する認識を変えなくてはいけないようですわね」

 

「………………?」

 

 

 

 それだけ言ってダイヤさんは目を逸らし、また退屈そうな表情で晴れた空を見上げた。

 

 彼女が言った言葉の意味を頭の中で反芻する。けれど、答えは浮かばない。たしかに落とされた言葉なのに、水面にはさざ波ひとつ立ちはしなかった。

 

 

 

「おい、夕陽」

 

 

 

 信吾が僕の肩を叩き、小声で名前を呼んでくる。それから声を隠すように僕らはダイヤさんから背を向けた。

 

 

 

「どうしたの、信吾」

 

「どうしたの、じゃねぇよ。お前、いつの間にあの子のこと名前で呼ぶようになってんだ」

 

「ああ。さっきそうしてくれって、あの子に言われたからだよ」

 

「んだよそれ。別にあの生徒会長とは打ち解けなくてもいいって最初に言ったろ」

 

 

 

 肩を組むような姿勢で信吾にそう言われる。もちろん僕も覚えている。けれど、従うとは言っていなかった。

 

 

 

「言われたけど仲良くなれるなら、それでいいでしょ?」

 

「よくねぇよ。なんでいちいちあの子の肩を持ってんだよお前は」

 

 

 

 信吾に至近距離で睨まれる。けど、その質問には答えられない。だって僕自身も理由をわかっていないから。

 

 彼の言うこともわかる。ダイヤさんは明らかに男子を敵対視しているし、これから先も打ち解け合う気もないのが雰囲気で伝わってくる。そんな女の子と仲良くなろうとしても時間の無駄だ、と信吾は言っている。 

 

 けど、彼女は僕と話をしてくれた。僕が持っているバッグを持ってくれた。だからわかった。ダイヤさんは男子と喋れないわけでも、優しくできないわけでもない。

 

 ただ──────それは、ただ。

 

 

 

「…………かわいそう、でしょ?」

 

「は?」

 

「一人だけ仲間外れなんて、かわいそうでしょ」

 

 

 

 だから、あの子に声をかけるんだ。

 

 何を言われても、その硬い宝石を砕くために、何度でも声をかけ続けてみせる。

 

 

 

 あの夕方に、僕はそう決めたから。

 

 

 

「…………夕陽」

 

「僕が言いたいのはそれだけだよ。さぁ、信吾」

 

 

 

 そこまで言ったとき、二つの影が僕らの方へと近づいてくるのが視界の隅に映った。

 

 口を閉ざし、彼女たちが僕らのいる場所に来るのを待つ。

 

 さっきまで小さな煙が上がっていたはずの火起こし器からはもう、何も出ていなかった。

 

 

 

 




次話/生徒会長の微笑み


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生徒会長の微笑み

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 それから僕たちは魚を捌いていた果南さんと鞠莉さんと合流し、四人で協力して何とか火を点けることに成功した。

 

 火が点いた後はみんなで手分けをして枯れ葉なんかを集めてきてそこに火を移し、綺麗に捌かれたヤマメを焼いて食べた。なぜかお茶のセットを持ってきていた鞠莉さんに紅茶をもらい、ヤマメの塩焼きとダージリンの紅茶を合わせていただく、という何とも奇妙な経験をした。

 

 比較的標高の高い場所で、雲のない晴天を見上げながら僕らは山登りの疲れを癒した。山にいるだけで心身共に癒される気がするのはなんでだろう。

 

 僕らが話をしながら休憩している間、ダイヤさんはほとんど口を開くことはなかった。果南さんと鞠莉さんに話しかけられて一言二言返事をすることはあっても、僕らの会話に入ってくることは一度もなかった。

 

 そんな彼女を気にしながらも、話しかけるまでには至らなかった。本当は話したかったさ。でも、そうされることを望んでいないのは彼女が纏う空気を見ればすぐにわかった。だから声をかけなかった。

 

 しばらく休憩をしてから、僕らはまた山頂に向かって歩き出した。二つ目のチェックポイントであった広場から山頂は思っていたよりも近く、五人で山頂まで登り切り、それから写真撮影をしたり、山びこを聞いたり、他にも色々なことをして僕らは宿泊所へ向けて再度出発し、今に至っている。

 

 

 

「─────晩ごはんはカレーライスみたいデースッ!」

 

「あはは。鞠莉のテンションは下がらないね」

 

「あったりまえでしょー? だってこーんなグッドなロケーションの中にいるのよ~?」

 

 

 

 学校指定の体育着に着替えた鞠莉さんと果南さんが、僕らの近くでそんな話をしていた。時刻は現在午後四時半前。辺りが木々に囲われているこの場所には既に夕暮れが訪れている。空を見上げれば、橙色の中を数匹の鴉が飛んでいるのが見えた。

 

 全部の班が山登りを終えて、宿泊所の玄関前に集合している。鞠莉さんが言っていたように、これから野外調理場でカレーを作って食べるらしい。

 

 僕の目で見る限り、クラスの女子たちは学校にいるときより雰囲気が柔らかくなっていた。それは僕らの計画通りで、吉兆であると言えよう。

 

 だが、その代償が払われるのは世界の理。

 

 

 

「「「「…………」」」」

 

「だ、大丈夫かお前ら。全員目が死んでんぞ」

 

「もう完全にやり切ったって感じだね」

 

 

 

 僕と信吾の前には男子たちの亡骸(生きてはいる)。ほとんどの男たちの目がさっき食べたヤマメと同じ色をしている。

 

 理由もよくわかる。普段話さない女子生徒と会話して、尚且つ彼女たちの下僕のようにフォローにまわっていたのを、遠巻きながら見ていたから。

 

 ある男子は転んでしまった女子をおぶって山頂まで駆け上がっていたり、はたまたとある男子は川に流された女子の帽子を取るために服を着たまま川を泳いでいたりしてた。他にも目を疑うような無茶ぶりをしてる奴がいて、笑おうにも笑えない場面が多々あった。

 

 全員が男子校出身であることも考慮すると、この数時間は地獄にも等しい時間だったに違いない。いや、楽しんでくれていたとは思うけど、疲労感は間違いなく感じている。

 

 僕も疲れた。こんなに長い時間、同級生の女の子と話をすることも今までなかったし、気を遣うのも神経の薄皮を削られるようで、体力よりも精神が疲労している。

 

 でもそのおかげで男子たちは自分の班の女子たちと打ち解けることができたようだった。それは僕らが立てた計画通りだったから、素直に安心した。女子生徒が持っていた男子生徒への認識もこれで少なからずは良くなったものだと、自分なりに思ってみたりする。

 

 

 ……一人だけを除いて。

 

 

 

「シンゴー、ユーヒぃ」

 

 

 

 名前が呼ばれ僕と信吾は同時に同じ方向を向いた。少し離れた所で鞠莉さんが手を振っている。彼女の隣には果南さんがこっちを見て立っていた。

 

 僕らは顔を見合わせてから、彼女たちの方へと近づいて行く。山登りで疲労した足は歩くと少し重く感じた。

 

 

 

「どうかした、鞠莉さん」

 

「ンフ? なんかね、果南がシンゴがいなくて寂しいって言うから~」

 

「なっ!? ちょっと鞠莉っ! 変なこと言わないで!」

 

「え~? マリーはホントのことを言っただけなのに~」

 

「………………」

 

 

 

 鞠莉さんに用件を訊いた途端、こんな会話が始まった。果南さん、顔が赤い。むしろ鞠莉さんのセリフに拍車をかけているようにしか見えないんだけど、その辺はどうなんでしょうか。

 

 隣に立っている信吾も目を細めて彼女たちのことを見つめてる。耳がちょっと赤い。たぶん照れてる。鞠莉さんの言うことは僕もわかる。この二人は本当にお似合いだと思うから。

 

 

 

「あはは。で、本当の要件は何かな」

 

「イェースッ。そろそろクッキングを始めようかと思って~」

 

 

 

 そう言うことか。たしかに時間的にもそろそろ始めなくてはいけない頃だろう。いつまでも暗い森の中にいたらカレーの匂いに誘われて熊なんかが出てくるかもしれないし。

 

 そうしていると、調理場の方からダイヤさんが現れた。そして彼女は宿泊所の玄関の前に立ち、持っていた拡声器を口に当てる。僕らは黙ってその姿を見つめていた。

 

 

 

『それではこれから夕食づくりを始めますわ。材料、料理器具などの準備は既に終わっています。十八時ちょうどに食べ始められるよう、手分けして調理に当たってください』

 

 

 

 宿泊所前にある駐車場で休んでいた生徒たち全員に向かってダイヤさんは言う。簡潔で必要最低限の言葉。無駄なものが嫌いそうな彼女らしいな、と思った。

 

 生徒会長の言葉を聞いて、生徒たちは駐車場から調理場へと移動し始める。

 

 

 

「じゃ、私たちも行こっか」

 

「そうだな」

 

 

 

 僕たち四人もその流れに乗って歩き出す。そんな中でも、僕は生徒会長へ視線を向けていた。

 

 ダイヤさんは、仲良さそうに話をしながら移動している生徒たちを見つめている。そこには男女の垣根はもう、ほとんど見受けられない。

 

 彼女がそれを望んでいたのかどうかは知らない。けれど、僕たちが望んでいる光景はそこにあった。

 

 願わずにはいられなかった。あの子も、この中で一緒に話をできたらいいのに、と。

 

 

 

「…………」

 

「…………ぁ」

 

 

 

 そんなことを歩きながら考えていた時、あるものが目に映り、思わず足を止めた。

 

 今のは見間違いか? いや、違う。今はっきり見た。明らかな変化が、この目には映っていた。そして記憶にも鮮明に残っている。

 

 

 

「? 夕陽、どうかしたか」

 

 

 

 足を止めたことに気づいた信吾が、振り返ってそう問いかけてくる。その声が聞こえなくなってしまうくらい、夢中になってしまっていた。

 

 

 

「…………ううん。何でもない」

 

 

 

 小さな嘘を吐いて、ようやく目線を外した。それからはもう、彼女の方を向かなかった。

 

 僕が見たものは多分、ここにいる男子生徒は誰も見たことがない。

 

 どうしてあの子はそうしていたのかはわからない。わからないけれど、僕は満たされてしまった。

 

 

 

 生徒会長は、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。 

 

 

 

 僕の目が春の幻に囚われていなければ。見ている景色が白昼夢でないのなら。

 

 

 

 ダイヤさんはたしかに、笑っていた。

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 

 

「ではみんなでカレーを作るデースッ!」

 

 

 

 お玉を掲げた鞠莉さんがそう言うとおーっ、という声が上がる。やはりというかなんというか、男子のテンションは低い。ほぼ全員が死んだ目をしながら満身創痍の状態で調理器具を空へと掲げていた。大丈夫だろうか。包丁で手を切ったりしないでね。

 

 ご飯も飯盒で炊かなくてはいけないらしく、時間と人数を考えるとなかなか大変な作業になりそうだった。

 

 分担は決まっていないけれど、料理ができない僕は必然的に飯盒の方へまわるしかなさそう。

 

 

 

「んじゃ、とりあえず班で分かれてやってみるか」

 

「そうだね。じゃあ信吾はどっちに行く?」

 

「ん~、俺は材料でも切ってくるよ。味付けは女子たちに任せる」

 

「なら私も信吾くんと同じでいいかな」

 

 

 

 訊ねると、信吾と果南さんはそう言ってくれた。僕もこの二人が一緒の方が安心できる。

 

 

 

「そっか。なら鞠莉さん、は…………」

 

「めちゃくちゃハイテンションで男子たちに絡みに行ってるな」

 

「あの子は勝手に何かしらやるから放っておいていいよ」

 

 

 

 声をかけようとしたら鞠莉さんの姿はなかった。視線を移すと、疲れ切って動かない男子たちを奮い立たせに? 行ってくれたらしい。鍋の裏をお玉で叩いてカンカンと音を鳴らしてる。あの子はお母さんか何かなのか。いずれにせよ、果南さんの言う通り彼女なら自分から動いてくれそうなので、改めて役割を決める必要もないだろう。

 

 

 

「夕陽はどうするんだ?」

 

「僕はお米を炊いてくるよ。悪いけど、料理はできないから」

 

「え? そうなんだ。夕陽くん料理が得意そう顔してるのに」

 

「はは、それってどんな顔?」

 

 

 

 果南さんにそう言われ、笑って誤魔化した。料理はやらないわけじゃない。ただ、できないだけ。

 

 

 

「そうだったな。なんだっけ、包丁恐怖症?」

 

「先端恐怖症、だよ。包丁恐怖症でも間違ってはないけどさ」

 

 

 

 信吾に向かって言う。料理ができない理由は、いま言った通り。それ以上も以下もない。

 

 

 

「先端恐怖症?」

 

 

 

 果南さんが首を傾げて僕の顔を見つめてくる。あまり馴染みのない言葉だから、知らないのも仕方ないのかもしれない。

 

 

 

「そう。先が尖ってるものを見るのがダメなんだ」

 

 

 

 理由は僕も知らない。幼い頃から先が尖っているものを見たり、突きつけられたりすると自然に過呼吸になってしまい、具合が悪くなってしまう。

 

 特に包丁がダメだった。他のものならば触ったりするくらいには問題ないのだけれど、包丁やナイフだけは近くで見るのも触ることもできなかった。原因は今でもわかってない。小さい頃精神病院にかかったこともあったけど、結局詳しい理由は判明しなかった。

 

 ひとつ、医者に言われたのは『過去のトラウマが大きな原因になりやすい』ということ。先天性で先端恐怖症になることはごく稀で、何か過去に先端にまつわる恐怖を感じたりした記憶が原因となりやすいらしい。この恐怖症について知っているのは、それくらいだ。

 

 

 

「へー、そう言うのがあるんだ」

 

「うん。自分でもなんで怖いかよくわかってないんだけどさ」

 

 

 

 頷く果南さんに言う。僕は自分が先端恐怖症になってしまったわけを知らない。記憶の中にもそんな思い出はひとつとしてない。あるのは小さい頃から包丁を見るのが極端に嫌いだったという記憶だけ。それ以外は、何も覚えていない。

 

 

 

「…………あれ? そう言えば、ダイヤも」

 

「かなーんッ! ジャガイモの剥き方教えて~」

 

 

 

 と、果南さんが何かを言おうとしたとき、鞠莉さんが彼女の後ろから突然ぬっと現れた。そしてなぜか背後から果南さんの胸を触り始めた。どうしてかは知らない。知らないが、それは僕たち男子からすればすごく下半身に厳しい光景だった。

 

 隣にいた信吾の顔がとんでもないことになってる。無理もない。気になってる女の子の胸が揉みしだかれてる光景を目の当たりにしたら、色々思うこともあるだろう。

 

 

 

「ちょ、ちょっと、鞠莉っ! やめてよっ、こんな所で」

 

「ンフー? じゃあお風呂でなら続きをしてもいーのかしら~?」

 

「い、いいわけないでしょっ」

 

 

 

 そんなやり取りをしてる二人を見て、男子たちはヒートアップ。『うぉおおお!』とか夕暮れの森に向かって雄たけびを上げてる奴もいた。あの、さっきまで死んでませんでしたか、あなたたち。夜の入浴時間は気をつけよう。あのバカな男たちは間違いなく女風呂を覗きに行こうとするだろうから。

 

 果南さんと鞠莉さんのお陰で男子たちは復活した。この歳になって欲望の強さを理解した。本当に男ってバカだと思う。

 

 とりあえず、先端恐怖症の話は水に流れたようだった。僕としてもそれでよかった。変なことであまり気を遣わせたくはなかったから。

 

 気を取り直して、ご飯を炊く準備をする。班ごとに飯盒が二つと釜土が一つ貸してもらえるらしい。でも、人数に対してカレーの材料がかなり多いように見えたのは気のせいだろうか。

 

 

 

「じゃあ、そっちは任せたよ」

 

「おう。美味い飯を炊いて来い」

 

「よろしくね、夕陽くん」

 

 

 

 信吾と果南さんにそう言って、自分の班の飯盒を取りに行く。釜土にも火を点けなくちゃいけないから、少し急がないと。

 

 飯盒を二つ持って、調理場から離れた釜土の方へ向かう。等間隔に横並びになっている釜土。左から順に使用する班分けがされている。

 

 その数を数えながら、僕は自分の班の場所へと近づく。すると。

 

 

 

「………………」

 

「あれ。ダイヤさん」

 

 

 

 僕が使おうとしていた釜土の前には既に先客がいた。いや、同じ班なのだから先客という表現はおかしいかもしれないけど。

 

 そういえばさっき拡声器を使って生徒たちに声をかけていたときから彼女の姿は見ていなかった。てっきりダイヤさんも調理組に混ざっているのかと思ったんだが、それは違ったようだ。

 

 

 

「ダイヤさんは、あっちに行かないの?」

 

「…………私がこちらにいては、いけませんか?」

 

「そんなことないけどさ。ダイヤさん、料理とか上手そうだから」

 

 

 

 勝手な先入観を口にしてしまう。けど、本当に思ったからそう言った。

 

 するとダイヤさんは首を横に振る。淡い夕日の色に染まった綺麗な黒髪がふわりと揺れた。

 

 

 

「いえ。私は、別に」

 

「そうなんだ。じゃあ、僕と一緒にご飯を炊いてくれる?」

 

 

 

 そう言うと、ダイヤさんは頷いてくれた。でも目線は相変わらず冷たい。さっき見たあの笑顔は、やっぱり見間違いだったのだろうか。

 

 

 

「あなただけでは時間がかかります。特別に手伝って差し上げますわ」

 

「ありがとう。やっぱり優しいんだね、ダイヤさん」

 

「べ、別に優しくなんてありませんわ。変なことを言わないでください」

 

 

 

 褒めてあげたのに、彼女は腕を組んでぷいっとそっぽを向く。怒らせちゃったかな、と思いながらも完全に拒絶されたわけではないことに安心した。

 

 

 

「思ったことを言っただけなのに」

 

「それが変なことだと言っているのです」

 

「厳しいね、ダイヤさんは」

 

「ですから…………」

 

 

 

 微笑みながら言うと、ダイヤさんはため息を吐いた。ちょっと呆れてるような顔。そんな顔もするんだ、と当たり前のことが特別に思えてしまった。

 

 少しずつでも、そう言う当たり前の表情を見せてほしい。怒った顔や不機嫌そうな顔ではなく、女の子としてのダイヤさんの表情がもっと見たかった。

 

 願わくば、さっき見たあの笑顔を僕に見せてくれたらそれ以上に嬉しいことなんてない。まぁ、それは今後の課題として取っておこう。

 

 徐々に闇に包まれていく森の方から、柔らかな春風が吹いてくる。熱を帯びた心が少しだけ落ち着いていく気がした。

 

 

 

「なんだか、あなたと話をしていると調子が狂いますわ」

 

「それはごめん。話さない方がいい?」

 

「そうではありません。ただ…………」

 

 

 

 そこまで言って、ダイヤさんは口を閉ざした。目線を斜め下に下げて、何かを言おうか言うまいか悩んでいるように見える。

 

 次の言葉を黙って待った。待つのは嫌いじゃない。待たされるのも嫌いじゃない。それが、心を惹かれる相手ならなおさらのこと。

 

 森の方から、名前の知らない鳥の鳴き声が聞こえてくる。周りには他の生徒がいるのに、その声が気にならないくらい綺麗な鳴き方だった。

 

 他の生徒の存在よりも、目の前に立つ一人の女の子に意識は向かっていた。まるで、彼女のことしか見ることができなくなる魔法の眼鏡をかけたような、不思議な感覚がそこにはある。

 

 もちろんそんなことはない。でも、たしかに僕は黒澤ダイヤという女の子に夢中になってしまっていた。

 

 なぜか無性にあの玩具の宝石を握り締めたくなった。今はネックレスとして首に掛かっているからできないけれど。

 

 

 

「なんでもありません」

 

「えー。教えてくれてもいいのに」

 

「あなたに言う筋合いはありませんわ」

 

「じゃあもっと仲良くなったら教えてくれる?」

 

「……あまり変なことを言うと怒りますわよ」

 

「残念。怒られないように注意しなくちゃ」

 

 

 

 いつも怒ってるじゃん、と心の中で言った。ダイヤさんは目を細めて僕のことを見てくる。

 

 彼女が言おうとした言葉は少し気になったけれど、言いたくないのならそれでいい。彼女の言葉の通り、僕らにはそんな筋合いはないのだから。

 

 正直、こうして彼女と話ができるだけでよかった。内容はなんだっていい。僕の言葉に反応してくれる。声を聞かせてくれる。それだけでよかった。

 

 こんなことを信吾に言ったら多分、怒られちゃうな。それとも変な奴だ、と笑われるだろうか。僕としては別にどっちだっていい。

 

 ただ単純に、この子と話ができるのならそれでいい。

 

 

 

「ほら、無駄な話をしている暇はありません。早くやりますわよ」

 

「はーい」

 

()()は伸ばさない」

 

「はいはい」

 

()()は一回」

 

「はい」

 

「よろしい」

 

 

 

 なんだかとても楽しい世界にいる気がした。幸せな場所、と表現してもいいかもしれない。こんな気持ちになるのは久しぶりだった。

 

 まったくあなたはルビィですの、とため息交じりに言いながらダイヤさんは釜土に火を点ける準備をし始める。

 

 そんな姿を見て、やっぱり自分が彼女に惹かれていることを自覚した。

 

 

 

「お母さんみたいだね、ダイヤさん」

 

「………………っ」

 

 

 

 その後、火が点いた炭を投げつけられそうになったのは多分、忘れていい思い出。

 

 

 

 





次話/裸の宝石


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裸の宝石

 

 

 

 ◇

 

 

 

 暮れなずむ森の中。頭上を仰ぐと、橙色よりも濃い藍色の方が空を占める面積を増やしていた。東の空には一番星。あと一時間もしないうちに、二つの色彩が織りなすあのコントラストもすべて夜の闇に包まれるのだろう。

 

 ここは森の中。必然的に街明りなどは少ない。だから夜空は綺麗なんだろうな、と予想していた。

 

 春の星座はあまり有名ではないけれど、それでも美しい星が見られるのなら嬉しい。早く夜にならないかな。

 

 

 

「完成しましたーっ!!!」

 

 

 

 釜土の前でボーっと空を見上げながらそんなことを考えていると、調理場の方から鞠莉さんの声が聞こえてきた。どうでもいいけどあの子の声はよく響く。森で遭難しても安心だろうな。

 

 鞠莉さんの声に遅れて男子たちの野太い声も聞こえてきた。どうした。ていうか大丈夫かな。あの無駄に屈強な男たちが料理をしている姿がどうしても想像できない。女の子たちに迷惑をかけてなければいいけど。

 

 

 

「あっちはできたみたいだね」

 

「こちらも間もなく炊き上がりますわ。お待ちなさい」

 

 

 

 そう言うと、ストップウォッチを手に持ったダイヤさんが返事をくれる。だいたいでもいいんだろうけど、彼女はそんな適当なことは許さないらしい。美味しく炊ける工程、時間なんかをきっちりやらなきゃ気が済まないみたいだ。見た目どおりで少し安心した。これで意外とアバウトだったらむしろそっちの方がビックリしてた。

 

 僕らの視線の先には、炭の上にぶら下げられている二つの飯盒。火を消さないように絶え間なく竹筒で息を吹く作業はかなり疲れた。火が近いから熱いし、火の粉が飛んできたりもするしでさっきまでずっと汗だくだった。早くお風呂に入りたい。

 

 森の方からは虫の声が聞こえてくる。もう春とはいえ、この時間に吹く風は少し肌寒く感じた。釜土の火が近くにあってよかったかも。

 

 

 

「ありがとね、ダイヤさん」

 

「何がですの」

 

 

 

 飯盒を見つめるダイヤさんに僕は言う。彼女は視線を動かさないまま、ぶっきらぼうな感じで答えてくれた。

 

 

 

「一緒にご飯を炊く手伝いをしてくれて。僕一人じゃ、遅くなっちゃっただろうから」

 

「まだそんなことを言っていますの。さっきも言ったでしょう。あなた一人では遅れてしまう、と。他意はありませんわ」

 

 

 

 僕の言葉に彼女はそう答える。そこに他意はない。たしかにその通りなんだろう。僕がこの作業以外に目的を持つとしても、彼女がそれを持つことはない。

 

 

 

「けど、本当にそう思ったんだよ」

 

「……あなたがそう思うなら、勝手にしてください」

 

「うん。じゃあ、勝手にする。ありがとう」

 

 

 

 彼女の言葉に負けないように、同じ言葉を言う。変な男だと思われても仕方ない。だって自分でもそう思うから。でもこの言葉は言わなくちゃいけなかった。 

 

 

 

「変な人」

 

「褒め言葉として受け取っておくよ」

 

「余計に変な人に見えますわよ。…………って」

 

「? どうかした、ダイヤさん」

 

 

 

 視線を飯盒の方から僕の方へ向けてくるダイヤさん。だが僕の顔を見たとき、彼女は急に言葉を止めた。何かあったのだろうか。

 

 

 

「…………」

 

「…………?」

 

 

 

 深碧の両眼がじーっと僕の顔を見つめてくる。あんまり見つめられるもんだから、少し照れてしまった。段々と顔が熱くなってくるのがわかる。何か用があるのなら早く言ってほしい。このままだと僕の顔面も熱されてるお米のように柔らかくなってしまうかもしれない。何の話だ。

 

 

 

「夕陽さん」

 

「は、はい」

 

「顔に炭が付いていますよ」

 

「え?」

 

 

 

 しばらくの沈黙を置いて、ダイヤさんはそう言った。あまりにも真剣な表情すぎて、もっと大事なことだと思ってた。そんなことですか。ちょっとだけ拍子抜けしてしまった。

 

 

 

「ああ、ごめんっ」

 

 

 

 ジャージの袖で頬をごしごしと擦る。これで取れるだろうと思ったけど、その考えは甘かったようだ。少し考えてみればすぐにわかったことなのに、見つめられていたせいで頭がいつも通りに働いてくれなかった。

 

 

 

「ああもう、そんなことをしたら余計に汚くなりますでしょう」

 

「あれ、取れてなかった?」

 

「あなたはドジなのですか? それともただのバカなのですか?」

 

「わからないけど、多分どっちもだよ」

 

「はぁ、妹を見ているようですわ。…………ちょっと待っていなさい」

 

「?」

 

 

 

 ダイヤさんはそう言って、近くに置いてある自分のバッグの方に歩いて行った。僕はそれ以上自分の顔には触らずに、彼女の後ろ姿を見つめていた。妹を見ているようですわ、って呆れられてるんだよな、きっと。ルビィちゃんも厳しいお姉ちゃんにいつも怒られてるのかな。簡単にその姿が想像できた。

 

 そんなことを考えているとき、ダイヤさんが戻ってくる。彼女の手には白いタオルが握られている。

 

 

 

「そのままじっとしていなさい」

 

「え? ちょ、ダイヤさん?」

 

「ほら動かない」

 

「…………はい」

 

 

 

 戻ってきたダイヤさんは持ってきたタオルで僕の頬を拭き始めた。顔はすごく不機嫌そう。というより、手のかかる子供を世話する母親みたいな顔をしてる。

 

 動くなと言われ、成す術もなくなってしまう。近くにはダイヤさんの綺麗な顔がある。彼女の手で顔を触られている。やめよう。意識すると余計に大変なことになる。ここは動かない銅像になりきってしまうのが吉と見た。心臓は絶え間なく暴れ回っているけれど。

 

 僕の顔に付いた炭を彼女は拭ってくれている。しかし、同級生の女の子にこんなことをされるのはどう考えても恥ずかしい。こう思うのは僕だけだろうか。いや、違う。普通ならする方も何か思うところがあるはずだ。

 

 とは思うんだけど多分、ダイヤさんは何も思ってない。何も考えていないのではなく、僕に対する思いがあってこんなことをしているわけではないのが、やけに荒っぽい手つきから伝わってきた。それはちょうど彼女がさっき言った通り、自分の妹にする行為のように感じてしまった。

 

 

 

「…………」

 

 

 

 無心になれ、と自分に言い聞かせる。けどそれが何よりも難しいのはわかっていた。何かを考えるより、考えないようにする方が難しい。

 

 しかも、僕の顔を拭いているのは気になってしまっている女の子。それで動揺しない方がどうかと思う。たとえお釈迦様が乗り移ったとしても余計なことを考えてしまうだろう、なんて、馬鹿なことを考えた。

 

 でもよくわからない。僕は彼女にどう思われているのだろうか。どうも思わない相手に、こんなことをするかな。そもそも、この子は男嫌いだったはずなのに、どうしてこんなことをしてくれるのだろう。さっき、信吾にはあんなキツいことを言っていたのに、なぜ。

 

 わからないことが多すぎる。色んなことが思考回路の中をぐるぐると回り、正常な考えが浮かばなくなってしまった。

 

 ただ僕は立ち尽くしたまま、ダイヤさんに炭で汚れた頬を拭いてもらっている。今の僕が認識できるのは、たったそれだけだった。

 

 

 

「まったく。気をつけなさい」

 

 

 

 それから数十秒ほどでダイヤさんは僕の前から離れて行った。呆れるような視線とため息。思わず数秒間、見惚れてしまった。

 

 自分が何をしているのか、どこにいるのか一瞬わからなくなった。それくらい頭が混乱してしまっている。

 

 彼女が僕に気をかけてくれるのは、何か意味があるからなのか。それとも、ただ単に目の前にいる男の顔が汚れているのを見て、自分が拭かなくてはならないと思ったからなのか。いや、そんな理由で彼女が男子である僕の顔を拭いてくれるとは考えにくい。

 

 考えれば考えるほどわからなくなっていく。そもそも、この子は男が嫌いなんじゃないのか。だから、あれほど露骨に距離を置いていたんじゃないのか。なのにどうして、僕とだけはこうして話をしてくれるのだろう。気にかけてくれるのだろう。

 

 この答えを知っている人が何処かにいるのなら、教えてほしい。それは叶わぬ願いなのは知っている。けれど、そう思ってしまうくらい知りたかった。

 

 ダイヤさんが何を思い、僕と接してくれているのかを。

 

 

 

「「「「……………………」」」」

 

「─────はっ!?」

 

 

 

 背中に無数の視線を感じ、僕は咄嗟に後ろを振り向く。その方向には調理場がある。あまりに突然の出来事に、頭が少しパニックを起こしていたようだ。まったく周囲に意識が向かなかった。

 

 振り向いた先には数人の男子生徒。日が暮れ始めているため顔の表情は見えにくいが、全員同じ表情をしていることだけはわかった。

 

 その顔色は一言で表現するのなら、驚愕に染まっている。マズい、と思ってももう取り返しはつかない。なぜか? 

 

 

 

 ─────あの男たちは、僕がダイヤさんに顔を拭かれていた光景を見ていたから。

 

 

 

「ゆ、夕陽が生徒会長と、イチャイチャしてる……だと?」

 

「あの硬度120%の生徒会長が、男子たちの中で最も高い女子力を持つ夕陽と至近距離で見つめ合っていた…………?!」

 

「どんだけ好感度を上げようと思っても近づくことすらできず、絶対攻略不可能であると思われていたあの生徒会長を夕陽が落とした? な、なんてことだ…………」

 

「………………」

 

 

 

 震える指で僕を差しながら、茫然とした感じでそんな言葉を零す男子たち。一人は紙皿を地面に落としていた。うん、全員一発ずつ殴ってもいいかな。今なら法的にも許される気がするのは、どう考えても気のせいじゃない。

 

 辺りに静寂が落ちる。聞こえるはずの音や声が聞こえてこない気がした。理由はもちろん、焦っているからに決まっているだろう。

 

 み、見られてしまった。色々と予想外が重なりすぎて対処法が欠片も浮かんでこない。なんであいつらはよりによってこんなタイミングで現れたんだ。数人の男子に殺意が湧いた。やり場のない羞恥心を僕が勝手に転換しているだけなんだけど。

 

 

 

「ち、ちがっ」

 

「誰か、信吾を呼んで来いっ! これは二度とないチャンスだと教えてやれ!」

 

「わかった!」

 

 

 

 何のチャンスだ。僕からしたらピンチでしかない。勘違いするのもほどほどにしてくれ。

 

 一人の男子が調理場の方に駆けていく。本当に信吾を呼んでくるつもりだろう。何をする気なのか明確には知らないが、だいたいは予想がついた。

 

 男子たちはこの機会を掴んでダイヤさんと仲良くなろうとしてる。いつも一人だった生徒会長とも、距離を縮めようとしてくれている。

 

 けど、その方法がわからないから信吾に助けを求めた。長い付き合いだからわかる。ダイヤさんのために、クラスのためにそうしようと頑張ってくれてるんだ。

 

 なら、僕もそれに乗ろうと思った。彼女と男子たちが仲良くなるのは少しだけ寂しい気がするけど、一人でいるのを見てるのより百倍マシだから。

 

 そう考えて、ダイヤさんの方へ振り返った。そして、また言葉を失った。

 

 

 

「………………」

 

「………………」

 

 

 

 彼女は、冷たい視線を僕らに向けている。そこにはもう、さっき僕に向けてくれていた温かみが感じられるあの目はどこにも見られなかった。

 

 ダイヤさんは、()()()()()()()()()()に戻ってしまっていた。

 

 冷ややかで刺々しく、温度など感じられない強い意志を宿した瞳。誰も自分の領域には近寄らせない、と何も言わずに語る雰囲気。

 

 何が引き金になって放たれたのかは知らない。それを知っているのは彼女自身だけ。

 

 言葉にしない感情を姿だけで見破れるほど、僕の目はよくはない。たとえ、あの夕日がこの山を今よりも明るく照らしていたとしても、彼女が何を考えているかなど見えやしない。

 

 

 

「…………やはり」

 

「ダイヤ、さん?」

 

 

 

 彼女は僕たちに背を向ける。細やかな声を聞き逃さないよう、耳を澄ませていた。

 

 何かの鳴き声が聞こえた。森の生き物の、何かの声が。

 

 

 

 

 

「私には、無理なのですわ」

 

 

 

 

 

 そして、そんな悲痛に染まる声も耳に届いた。

 

 遠ざかる背中に声をかけることは、できなかった。

 

 

 

 





次話/強がりの意味


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強がりの意味

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 夕食を食べ終わったあと、僕と信吾は宿泊所のロビーにあるソファに座りながら話をしていた。

 

 内容はダイヤさんのこと。一人では答えを出せなかったため、信吾に話を聞いてもらった。

 

 玄関の外は闇に包まれている。明かりはひとつとしてない。街灯がない山の中なのだから当然なんだろうけど。

 

 

 

「ふーん。生徒会長の考えてること、ねぇ」

 

「うん。考えてたらもっとわからなくなったんだ」

 

 

 

 夕食を食べてるときも、お風呂に入ってるときも、それがずっと頭から離れなかった。

 

 この林間学校で男子と女子の垣根はほとんど取れた、と僕は確信していた。男子たちの努力のお陰で、女子たちも学校にいるときより雰囲気が軽くなっている。

 

 これは僕たちが立てた計画通り。それは良い。けれど、最後に残ったのはやはりあの生徒会長。あの子だけは男子に心を開こうとしてくれない。

 

 僕は話が出来たけれど、あの一件からダイヤさんは声をかけても返事をしてくれなかった。みんなで夕食を食べている時も、一人で離れた所にいた。

 

 そんな姿を見て、余計にわからなくなってしまった。あの子は本当はどうしたいのか。何が気に食わないのか。男子を気に入らなそうにしているのに、どうして僕とは話をしてくれたのか。

 

 

 

「たしかにあの子、夕陽だけを気に入ってるみたいなところはあったよな」

 

「…………自惚れるわけじゃないけど、言ってることはわかるよ」

 

 

 

 信吾の言う通りだ。僕はなぜかあの子と話が出来た。他の男子とは一言も口をきかず、信吾にはあんな酷い言葉をかけていたあの子が、僕とは話をしてくれる。

 

 思い当たる節はない。そんなものがあったのなら、すぐに答えを出せただろう。何もないからこそ、僕は混乱してしまっているんだ。

 

 その答えを知りたかった。男子たちを忌み嫌っていること。なのに僕とは話をしてくれることの答えを。

 

 

 

「まぁ、よくわかんねぇけどさ」

 

「そう言わないでよ。友達でしょ」

 

「ああ。んでもわかんねぇもんはわかんねぇよ」

 

 

 

 信吾はそう言って、傍らに置いていたペットボトルに入った水を飲む。仕方ない、と思った。

 

 だって、本当にその通りだ。僕らはあの子のことを何も知らない。そんな状態で考えていることがわかる方がおかしいというものだ。

 

 小さく息を吐いた。足元にあるカーペットに、細やかなため息は吸い取られていく。

 

 

 

「そっか」

 

「けどさ」

 

 

 

 水を飲んだ信吾は、前に向けていた視線を横に座る僕の方へ向けてくる。訝しむように、僕は彼の綺麗な緋色の目を見つめ返した。

 

 

 

「多分、好きなんじゃねぇの?」

 

「え?」

 

 

 

 急な言葉に素っ頓狂な声が出た。それは、どういう意味だろう。信吾の思っていることが伝わってこなかった。

 

 

 

「だから、夕陽のことが好きなんじゃねぇのかって」

 

「…………誰が?」

 

「生徒会長に決まってんだろ。他に誰がいんだよ」

 

 

 

 信吾がなんかすごいことを言ってる。何を根拠にそんな訳の分からない話が出てくるんだ。

 

 彼の言葉を聞いた途端、思考が数秒間停止する。システムに何らかの異常が発生したように、考えを巡らしていた回路に何も流れなくなる。

 

 僕のことが好き? あのダイヤさんが? どんな考え方をすればそんな答えに辿り着くのだろう。あまりに突飛な言葉を聞いて、考えていたことがさらにわからなくなってしまった。

 

 

 

「いやいやいやいやいやいや」

 

 

 

 僕は首を横に振って信吾の言葉を否定する。どう考えてもそんなことはあり得ない。

 

 

 

「だって夕陽にだけ話してくれるとか、明らかに夕陽のことを特別視してんじゃん」

 

「で、でも」

 

「好きじゃねぇ男にそんなことしねぇって、絶対。それくらいわかんだろ」

 

 

 

 信吾の言ってることはわかる。けど、あの子に限ってそんなことはないと心は訴えてくる。

 

 だって、あの生徒会長だよ? あんなに綺麗で可愛くて、それに生徒からも信頼は厚い。尚且つ男子を異常に毛嫌いしてる。

 

 そんな子が僕のことを特別視する理由。それを信吾は好きだから、という仮説を出した。ある意味ではその説も間違いではないのかもしれない。でも僕にはそうは思えない。

 

 顔が勝手に熱くなる。わかりやすく照れてしまう自分が嫌だった。

 

 

 

「…………けど、好きってことはないと思う」

 

「相変わらず謙虚だな夕陽は。謙虚っつーか、自意識がねぇっつーか」

 

 

 

 そう言って、信吾は僕の頭を軽く叩いてくる。そんなことを言われても、自分の中で信じられないことはどうやっても信じることはできない。

 

 

 

「だって、根拠がないでしょ」

 

 

 

 叩かれた頭に触れながら、弁明する。数人の男子生徒がロビーを全力で駆け抜けて行った。騒がしい奴らだ。うるさくしたら生徒会長に怒られちゃうよ。

 

 

 

「根拠?」

 

「あの子が僕を好きになる根拠がない。出会ってまだ一カ月も経ってないし、話をしたのだって数えられるくらいしかない」

 

 

 

 首を傾げる信吾に言った。そして言葉を続ける。

 

 

 

「僕はあの子のことを知らないし、あの子も僕のことを知らない。それで好きになるっていうのは、おかしいでしょ?」

 

 

 

 そこまで言って、口を閉ざす。他にも理由はたくさんある。けどそれを全部言っても意味なんてないと思ったから、ここで止めた。

 

 僕は視線を下に落とし、紅色の絨毯を見つめた。隣に座る信吾も口を開かずに何かを考えているようだった。

 

 あの子は、僕のことなど好きだなんて思っていない。それだけは揺るがない事実。世界が百八十度反転したとしても、その事実だけは動かないだろう。

 

 それからしばらくの間、沈黙がロビーに落ちる。風の無い春の静かな夜には、葉が擦り合う音すら聞こえてこないようだった。

 

 

 

「…………なら、夕陽」

 

「ん?」

 

 

 

 信吾が名前を呼んでくる。顔を彼の方へ向けた。

 

 信吾は、真剣な表情で僕を見つめてくる。だから、僕も彼の目から視線を逸らさなかった。

 

 

 

「お前はどう思ってんだよ、あの生徒会長のこと」

 

「え…………」

 

「気になってんじゃねぇのか? だから、俺に話をしてきたんだろ?」

 

 

 

 またさっきと同じように唐突な言葉を聞いて、僕は何も言えなくなる。

 

 あの子をどう思ってるか? その問いが何の意味を持つのかを考えたら、すぐに答えは出た。

 

 数秒間、僕は何も言わなかった。問われたなら答えなくちゃいけないのはわかってるのに、言葉を出すことができなかったんだ。

 

 

 

「………………」

 

「誰にも言わねぇから安心しろ。俺はそんなひでぇ奴じゃねぇのは知ってんだろ」

 

 

 

 僕は頷く。信吾はそんなことをする奴じゃない。友達の中で一番信用できるのが彼だ。

 

 だったら、言わなくちゃいけない。本当に信吾を信頼しているのなら、言えないなんてことはないのだから。

 

 息を吸って、それから小さな声で言う。隣にいる信吾にだけ聞こえるくらいの音量で。

 

 

 

「…………そうだよ」

 

 

 

 僕は、ダイヤさんに惹かれている。これだけは嘘は吐けない。誤魔化すことはできない。

 

 あまりにも純粋すぎる想いだから違う色を混ぜることは、どうやってもできなかった。

 

 僕の言葉を聞いた信吾はやっぱりな、というように頭を縦に動かした。

 

 

 

「そんなら、なんで夕陽は生徒会長が気になってんだ?」

 

 

 

 その問いに、数秒の間を空けてから僕は答える。考えなくても答えはすぐに出る。

 

 あの子を見てから今まで常に抱き続けた違和感。それを素直に言葉にするだけでいい。

 

 

 

「わからない」

 

「わからない?」

 

「うん。わからない。でも、あの子を見た時から目が離せなくなったんだ」

 

 

 

 その理由すら、わからないのだけれど。

 

 綺麗だから。それもある。あの子を一目見て、美しいと思わない人は多分いない。それだけはみんな一緒だ。

 

 けれど、僕の中にある感覚は()()()()()()()()()()。一目惚れとも違う。そんな簡単な言葉では表現できない複雑な感情。

 

 僕が知っている言葉を組み合わせて一番近い表現をするのなら、そう。

 

 

 

 ───長いあいだ探していたものを見つけたときのような感覚、とでも言えばいいのか。

 

 

 

「…………ふーん」

 

「変かもしれないけど、本当なんだ。自分でも、よくわかってない」

 

 

 

 信吾は僕の言葉を聞いて、ソファの背もたれに体重を預ける。そしてその姿勢のまま、無機質な天井を見上げていた。

 

 僕も彼に倣って同じように目線を上に上げる。コンクリートでできた灰色の天井だけが、僕らのことを見下ろしていた。

 

 自分でもわかっていないことが他者にわかるはずない。そんなことを思って、誰にも気づかれないくらい小さいため息を吐いた時、信吾は口を開いた。

 

 

 

「わかんねぇけど、気になってる」

 

「…………うん」

 

 

 

 僕が答えた直後に、信吾は言葉を続けた。

 

 

 

「同じこと思ってんじゃねぇの、あの子も」

 

 

 

 思わず納得してしまうような、あまりにも真っ直ぐすぎる正論を。

 

 

 

「………………」

 

「俺はそう思うけどな。詳しいことは知らねぇけどさ」

 

 

 

 信吾はそう言ってから大きな欠伸をした。これ以上のことは言う気がない。そんな言葉も含まれているような気がしたのは、気のせいじゃない。

 

 同じことを思っている。ダイヤさんが、僕と同じことを考えている。

 

 なぜ、信吾がそう言ったのか。どうして、僕は彼の言葉に納得してしまったのか。

 

 少し頭を悩ませたらわかった。だって、その答えは僕も最初から気づいていた。

 

 初めて教室でダイヤさんを見たとき、僕は思った。あの子を知っていると。名前も、顔も知らなかったのに。

 

 そして声をかけたとき、彼女は僕と同じような表情をしていた。だから思った。

 

 彼女も僕のことを知っている、と。お互いのことを何ひとつ知らないというのに。

 

 

 

 

 

「あれ? 信吾くんと夕陽くん」

 

「ん?」

 

 

 

 聞き慣れた声が聞こえ、ソファに座っていた僕と信吾は同時にその方向へ目を向ける。

 

 例のように、そこには体育着姿の果南さんと鞠莉さんが立っていた。僕と信吾も人のことは言えないけれど、彼女たちは常に一緒にいる。

 

 僕たちを見つけた二人はこちらに近づいてくる。お風呂に入った後なのか、鞠莉さんの髪が下ろされてる。それを見て少しだけドキッとしてしまった。

 

 

 

「グッドイブニーングッ。何を話してたのかしら~?」

 

「や、二人とも」

 

 

 

 僕は二人に声をかける。彼女たちも特に用があった訳じゃないのはなんとなくわかった。

 

 

 

「また悩み事?」

 

「ん。まぁ、いろいろとな」

 

 

 

 果南さんの言葉に、信吾がそう返事をする。あの子と仲が良いこの二人にさっきの内容を話されたら流石に困るので、少し安心した。

 

 悩み事と言えば悩み事。しかしそれは、このあいだ彼女たちに聞いてもらったような大きな悩みではない。ほとんど僕個人の問題なので、これ以上二人を巻き込むのも嫌だった。

 

 

 

「何かあるなら言ってほしいデース」

 

「せっかくの林間学校なんだしさ、言いづらいことも言っちゃってよ」

 

「そうそう、シンゴの好きな女の子のタイプとか~」

 

 

 

 あ、鞠莉さんが果南さんに背負い投げされた。『ホワーイッ!?』とか言いながらやわらかい絨毯の上に鞠莉さんは転がった。果南さんの顔が赤い。わかりやすいなあの子。信吾の顔もちょっと赤くなってた。そんな二人を見て良いな、と思わずにはいられなかった。

 

 

 

「も、もうっ。私が聞きたいのはそういうことじゃなくて」

 

「果南は照れ屋なんだから~。ユーヒもそう思うでしょー?」

 

「ちょっとだけね」

 

「ふふっ。夕陽くんも、投げられたい?」

 

「今日は遠慮しておくよ」

 

 

 

 鞠莉さんの言葉に正直に答えたら果南さんが指の関節を鳴らして殺気を出しながら近づいてきた。笑顔だけど、すごく怖いです。

 

 そんなことは今は置いておくとして。

 

 

 

「で、ユーヒと信吾は何を話していたのかしら?」

 

 

 

 僕が言おうとしたとき、ちょうど立ち上がった鞠莉さんがそう訊いてくる。

 

 少し悩んで、言おうかどうか迷う。さっきの話は話せないけど、彼女たちに聞きたいこともあったから。

 

 でも、これを打ち明けたら彼女たちは困ってしまうかもしれない。そう思うと、どうしていいかわからなくなった。

 

 

 

「夕陽。耳を貸せ」

 

「え? 信吾───」

 

 

 

 突然、信吾が耳元である言葉を吐いてくる。僕は彼の声を黙って聞いた。

 

 信吾の顔が離れていく。一度頷いてから、口を開いた。

 

 

 

「ねぇ、鞠莉さん」

 

「ンフ?」

 

「その、よかったらダイヤさんのことを教えてほしいんだけど」

 

 

 

 遠回しにせず、率直に訊いた。そうしなければ伝わらない気がした。

 

 信吾が言い聞かせてきたのは、気になっていることを彼女たちに訊けということ。

 

 バックアップはするから大丈夫だ、と背中を押される感じで言ってしまったけど、本当に大丈夫なのだろうか。

 

 知りたいことの少しでもわかればいい。ちょっとずつでも真意に近づいて行ければいい、そう思った。

 

 僕の質問を訊いて、鞠莉さんと果南さんは顔を見合わせる。それから二人は僕のことを見つめてきた。

 

 

 

「ダイヤのこと?」

 

「ああ。夕陽はあの子のことがもっと知りたいんだとよ」

 

 

 

 信吾がフォローを入れてくれる。たしかに急にそんな質問をされても困るか。

 

 僕は彼に言葉に頷き、それが肯定の意であることを示す。すると鞠莉さんは腕組みを、果南さんは顎先に指を当てて何かを考え始めた。

 

 僕らは彼女たちとダイヤさんが幼なじみであることを知っている。だから、この二人なら知ってることがたくさんあると思った。

 

 

 

「…………もしかして」

 

 

 

 何かをひらめいたような顔をする鞠莉さん。そして、果南さんは僕の顔を見つめて、首を傾げながら訊ねてくる。

 

 

 

「夕陽くん。ダイヤのこと、好きなの?」

 

 

 

 ─────さっき、僕の親友が言った言葉とほとんど同じ問い掛けを。

 

 

 

「─────」

 

「ほらな?」

 

 

 

 顔が熱くなるのがわかる。なんだって今日はこんなことばっかりなんだろう。

 

 数分前に信吾が言った通りのことを果南さんに言われた。どうしてわかってしまうのか。全然ここに関係ない女の子の話を急に出したら、そう思うのは当たり前だろうか? 

 

 自分で自分の首を絞めるっていうのはこういう時のことを言うらしい。何をやってるんだ僕は。

 

 ん? そもそも訊いてみろって言ったのは信吾じゃないか? まさか、僕は信吾に嵌められたのか? あり得る。っていうか多分そうだ。

 

 嘘でしょ。

 

 

 

「オーウ。ユーヒがダイヤを、ねぇ」

 

「ちょっと意外かも。夕陽くんはもう少し可愛い女の子が好きなんだと思ってた」

 

 

 

 そんな感想を二人に言われる。けど果南さんのコメントはよくわからなかった。僕からしたらあの子はとんでもなく可愛いんだけど、その場合どうすればいいんでしょうか。

 

 

 

「ちが」

 

「っと。そんなわけで、夕陽はあの子のことがよく知りたいんだとよ。協力してくれ」

 

 

 

 訂正しようとしたら信吾が僕の言葉に声を被せてきた。しかも内容はまったくのデタラメ。何を考えてるんだ。このままじゃ勘違いされたままになってしまうじゃないか。いや、間違いではないんだけど、流石に仲の良いこの二人にそう思われるのは恥ずかしすぎる。

 

 信吾に向かって言葉を吐こうとしたとき、彼は僕の方を見て口に手を当ててきた。それは、何も言うなというサイン。ということは、何か考えがあって信吾は彼女たちにそう言ったのだろう。それなら別にいいけど、あとでちゃんとフォローしてくれるよね。大丈夫だよね? 

 

 信吾の言葉を聞いた果南さんと鞠莉さんは二人ともなるほど、という顔をして頭を縦に頷かせた。優しい彼女たちのことだ。このことはダイヤさん本人には言わないだろう、多分だけど。僕はそう信じている。

 

 

 

「オーケィ。ユーヒのサポートをすればいいってわけね?」

 

「そういうことなら任せてよ」

 

「心強い。な、夕陽」

 

「………………」

 

 

 

 僕は何も言わずに頷いた。なんだか話が段々ずれて行ってる気がするけど、ここは信吾の思惑に乗ってみよう。僕が想像しているよりも遠い所に行けるかもしれないし。

 

 果南さんと鞠莉さんは僕らが座っていたソファの前にあるブロック型の椅子に座り、僕と信吾に向かい合ってくる。

 

 表情は真剣そのもの。間違いなく彼女たちは僕がダイヤさんに恋をしていると思っている。それは完全に的外れじゃないけど、ちょっとだけずれてる。

 

 女の子にこんな話を聞いてもらうなんて、生まれて初めてだ。感想を言うと、とんでもなく恥ずかしい。今すぐ逃げ出して自分の部屋に戻りたい。

 

 

 

「それで、ユーヒはダイヤの何を知りたいのかしら?」

 

「それだ。夕陽」

 

 

 

 信吾が僕の顔を見つめてくる。彼の顔には“お前が訊け”と書いてある。そうか。信吾は僕に協力してくれているんだな。僕だけだと深くまで訊ねることができなかったから、わざとあんなことを言わせたんだ。でも、もう少しやり方があったんじゃないかと言いたい。あとで怒ってやろう。

 

 ダイヤさんについて知りたいこと。改めて考えてみると、ありすぎて困るくらいだった。それをすべて訊くことはできないのはわかってる。

 

 なので出来るだけ厳選した質問をしよう、と心の中で決めた。ひとつくらいなら許されてもいいと思ったから。

 

 

 

「じゃ、じゃあ」

 

 

 

 三人の目線が僕に注がれる。なんでこんな恥ずかしいことをしてるんだろう。

 

 そんなことを言っても話は始まらない。なら、とりあえず言葉にしてみればいいんじゃないか。

 

 そう自分に言い聞かせて、一番訊きたいことを口にする。

 

 

 

「…………ダイヤさんって、昔からあんな感じだったの?」

 

 

 

 心臓の音がうるさい。たったこれだけの質問をするのにとんでもない量の勇気を使った気がする。本人がいる訳でもないというのに、ここまで緊張するだなんて思わなかった。

 

 僕が知りたいのは、ダイヤさんの過去。彼女のことを知るのであれば、そこから踏み込んで行かなくてはならないと思ったから。

 

 小さい頃からあの子を知っている果南さんと鞠莉さんなら、きっと答えてくれるはず。

 

 

 

「ダイヤの、昔ねぇ」

 

「うーん。ずっとあんな感じだったと思うけど」

 

「マジかよ。すごすぎんだろあの生徒会長」

 

 

 

 果南さんの言葉に信吾が驚いてる。たしかに、十七年間もあのままっていうのは人間の成長的にあり得る話なんだろうか。

 

 

 

「私はもうちょっと可愛かったと思うけど~」

 

「可愛かった?」

 

「イエース。ダイヤ、昔はすごい怖がりだったのよ~?」

 

「ああ、そうだったね。暗いところとか苦手だったし。あと人見知りだった」

 

 

 

 鞠莉さんと果南さんは昔を思い出すようにうんうん、と頭を頷かせながら語ってくれる。怖がりだったというのは少し意外かもしれない。

 

 

 

「そうだったんだ」

 

「昔っから真面目な子だったからねぇ」

 

「でも今よりは間違いなく優しかったよ。今は、あれだけど」

 

 

 

 果南さんが後を濁すように、語尾を弱めながらそう言った。

 

 昔は優しかった。けれど、今は違う。僕が知りたいことの根底にあるのはそこだった。

 

 

 

「……どうして変わったのかは、わかる?」

 

 

 

 そう問いかけると、鞠莉さんは少し真面目な顔をして答えてくれる。

 

 

 

「もちろんよ。この前も言った通り、学校が統合になることが決まってショックを受けたから、ダイヤはああなった」

 

「私たちにも話してくれないから、本当の理由はわからないんだけどね」

 

 

 

 二人の言葉を聞いて、やっぱりそうなんだと思い知らされる。

 

 彼女が男子たちに心を開いてくれないのは、統合が理由にある。それは今さらどうこう出来る問題ではない。僕らがどれだけ頑張っても、一度決まってしまったものは変えることなんて出来ない。

 

 なら、どうしようもないのだろうか。あの子はどれだけ距離を縮めようとしても、僕らが()()()()である限り、心を開いてはくれないのだろうか。

 

 

 

「まぁ、気持ちはわからなくもないな」

 

「………………」

 

 

 

 信吾はそう言うけれど、僕は諦めきれない。せっかくこの林間学校で男女の垣根を取ることができたのに、あの子がだけが置いてけぼりになるだなんて、おかしいと思う。

 

 どうにかしなくちゃ。でも、どうにかしたいのにどうにもできない。そのジレンマだけが心の中に渦巻いている。何かいい方法はないだろうか。

 

 

 

「ホントは、私たちも知りたいのよ。ダイヤが何を考えているのか、知らなきゃいけないのはわかってるの」

 

「良くも悪くも、ダイヤはうちの学校の生徒会長だからね。あの子が抱えるものは私たちには、どうやっても伝わらないんだよ」

 

 

 

 ロビーに沈黙が漂う。結局、本当にわかりたいことはわからないまま。あの子以外、あの子が抱える悩みは誰も知らないという結論にしか至らない。仲の良い彼女たちでさえも知らない答え。それを彼女を知らない僕が導き出すのは、不可能だ。

 

 

 

「けど……」

 

 

 

 六つの目が僕を捉える。三人に聞こえるよう、想いを言葉に乗せて吐き出した。

 

 

 

「諦められない。それでも僕は、知りたいと思う」

 

「夕陽」

 

「クラスメイトが悩みを抱えていることを知りながら、見向きもしないなんて、そんなの間違ってる」

 

 

 

 苦しんでいる女の子が目の前にいて、その子に手を伸ばさない人間にはなりたくない。

 

 痛みに耐えながら歩いている彼女を、助けたいと思わないわけにはいかないんだ。

 

 

 

「だから、どうにかする」

 

「どうにかって?」

 

「一度話してみようと思う。少し強引かもしれないけど、しつこく訊けば答えてくれるかもしれない」

 

 

 

 自分でも似合わないことを言っているのは重々承知だ。でも、それくらいしなくちゃあの子を助けることはできない。

 

 僕の言葉を聞いた果南さんと鞠莉さんは驚いた顔を見合わせた。それから、笑顔を浮かべてこちらを見つめてくる。

 

 

 

「ふふ、驚いたわ。まさかユーヒがそこまでダイヤにぞっこんだったなんて」

 

「私もビックリした。なんか、応援したくなっちゃった」

 

 

 

 二人に言葉を聞いて、少しだけ照れくさくなる。信吾はなぜか大きな声で笑って、僕の背中を嬉しそうに叩いてくる。痛い。

 

 

 

「ははっ、よく言ったぜ夕陽。それでこそお前だ」

 

「痛いよ信吾」

 

 

 

 信吾は思う存分僕の背中を叩いたり頭をぐしゃぐしゃと荒っぽく撫でたりしてから、勢いよくソファから立ち上がった。

 

 

 

「っし、なら早速行動だ」

 

「え?」

 

「そーね。鉄はホットなうちに打てって言うし~」

 

「待っててね、夕陽くん。今ダイヤを呼んでくるから」

 

 

 

 信吾の言葉に、鞠莉さんと果南さんが反応して動き始める。いや、たしかにそう言ったけど想像してたのとはなんか違う。

 

 誰も今すぐ行動に移すなんて言ってないよ。

 

 

 

「ちょ、ちょっと待って」

 

「待たねぇよ。このチャンスを逃したら次はねぇ」

 

 

 

 部屋に戻ろうとする女の子二人を止めようとしたが、逆に信吾に止められた。

 

 

 

「ダイヤはどこにいるかしら~?」

 

「さっきお風呂に入ってたから多分部屋だと思うよ。…………って、あれ」

 

 

 

 僕が信吾に捕まってると、鞠莉さんと果南さんはそんなことを言ってから言葉を止める。二人ともある方向を向いている。僕と信吾も彼女たちと同じ方向を向いた。

 

 

 

「………………」

 

「………………」

 

 

 

 話の主役だった生徒会長が廊下の向こうから歩いてくる。なんてタイミング。これはチャンスと見るべきか否か。僕からしたらピンチでしかないが。

 

 彼女の目線は玄関の方へ向いている。どうやらその前にあるロビーに立つ僕らの存在には気づいていないようだった。

 

 生徒の見回りでもしているのだろうか。それならば僕らも何か言われてしまうのか。

 

 そう思っていたが、彼女は真っ直ぐに宿泊所の玄関へと向かっていく。僕らは黙ってその姿を見つめていた。

 

 

 

「あ、出て行っちゃった」

 

「どこ行ったんだろ。こんな時間なのに」

 

 

 

 ダイヤさんは一人で宿泊所から出て行った。手には懐中電灯が握られていた。

 

 いずれにせよ、これで彼女たちがダイヤさんをここに呼んでくることはなくなった。

 

 

 

「…………よし。これだ」

 

 

 

 だが、僕の親友はまた何かアイデアをひらめいたらしい。頭の回転が以上に早いのも信吾のスキルだけど、今は余計なものに思えてくる。

 

 

 

「今度はどうしたの信吾」

 

「夕陽。お前の携帯、電波通じてるか?」

 

「携帯?」

 

 

 

 そんなことを言われて、ポケットに入っている携帯を取り出した。ディスプレイの斜め左上には三つの棒が表示されている。つまり普通に通じている。でも、なんでこんな時に携帯の電波なんて気になったんだろう。

 

 

 

「大丈夫だけど」

 

「そうか。なら──────」

 

 

 

 それから信吾は僕にあることを言った。

 

 そうして、僕は背中を押されて玄関へと向かう。

 

 

 

 行き先は、外へ出て行った生徒会長のもとへ。

 

 

 

 





次話/リスと赤い巾着袋


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リスと赤い巾着袋

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 

 夜の闇が包む春の森。街灯などはなく、頼りになるのは宿泊所の淡い光だけ。

 

 山の奥から風が吹き、さわさわと木々の葉が擦れ合う音がする。耳を澄ますと、名前の知らない虫の鳴き声なんかも聞こえてきた。

 

 そんな暗闇の中を、足元に注意しながら歩く。手にはスマートフォン。カメラのライトを照らした状態を保ったまま、それを明りにして進んで行く。

 

 

 

「…………どこ行ったんだろう」

 

 

 

 探すのは先程宿泊所から出て行った生徒会長の姿。あの子がなぜこんな時間に外へ出て行くのか。僕には見当もつかなかった。

 

 しかし親友に後を追え、と言われたからにはそれに従う他なかった。訳をちゃんと聞いて納得してしまったのだから、仕方ないのだけれど。

 

 肌寒い風が吹き、上着を持ってくればよかったと少し後悔した。春になったとはいえ、ここは山の中。普通の気温でないことは明らかであるのに、外に出るまでにそこまでの思考は回すことができなかった。

 

 周囲には人気の無い。こんな中を一人で出て行くだなんて、女の子でなくとも危険だ。獰猛な野生の動物なんかに出くわしたらひとたまりもない。

 

 一応熊避けの鈴は持っているけど、遭遇してしまったら大変なことになる。でも、そのときはそのときだ。全力で逃げて、捕まったら諦めよう。

 

 なんて、情けないことを考えながら宿泊所の周りを歩く。外に出たらあの子も懐中電灯を持っていたから、その明かりを見つければいい。

 

 辺りを見渡しながら光を探す。スマートフォンから伸びる明りは、そこまで遠くまで照らしてはくれない。足元に何があるかを見ることができる程度だ。

 

 数少ない取り柄である目の良さを使って、暗闇の中から人影を見つめようとする。しばらく夜の中にいたからか、少しだけ目が暗い所に慣れてくれた。

 

 でも見つかるものはない。まさか山の中へ入っていったのだろうか。懐中電灯があると言っても、そんな細い明かりだけで足場の悪い山の中に入っていくのは自殺行為と表現しても過言ではない。

 

 頭の良いあの子がそれを自覚しないわけがない。でも、万が一そうだったとしたら、僕も山の中へ入らなくてはいけないのだろうか。

 

 

 

「あ」

 

 

 

 そんなことを思っている時、先ほど使った調理場の方にひとつの明かりを見つけた。まだ距離はあるため姿は見えないけれど、懐中電灯の光が足元に向けられているのだけはわかった。

 

 その明かりの方へと近づいて行く。そうして距離が十五メートルほどになったとき、僕が持つスマートフォンの光は綺麗な黒髪を照らしてくれた。

 

 でも彼女は僕の存在に気づいていない。足元に目線を落としながらきょろきょろと何かを探しているように見えた。多分、それは間違いじゃない。ダイヤさんは何かを探しにきたのだ、と彼女の姿を見て理解した。

 

 息を吸って、彼女の方へ近づきながら名前を呼んだ。

 

 

 

 

「ダイヤさん」

 

「───ぴぎっ!?」

 

「ぴぎ?」

 

 

 

 声をかけた直後、ダイヤさんはその場で身体を浮かせてよくわからない高い声を上げた。

 

 彼女はすぐに僕の方を振り返り、懐中電灯の光を当ててくる。眩しい。暗闇に慣れてしまった目にはきつい明かりで、少しだけ痛みを感じた。

 

 

 

「だ、誰ですのっ?」

 

「あ、僕だよ。夕陽だよ」

 

「え…………?」

 

 

 

 顔に懐中電灯の光に当てられたまま答える。するとダイヤさんは明りを再び足元に落として数メートル前にいる僕の顔を見つめてきた。

 

 数秒の()。闇の向こうにはジャージ姿の女子生徒が立っている。彼女の目はこちらへと向けられていて、声もないままじーっと見つめられた。

 

 

 

「夕陽、さん?」

 

「うん。こんな所で奇遇だね」

 

 

 

 なんて、偶然会ったかのように言ったが当然そんなことはない。彼女を追いかけてきたことを悟られたくなくて、咄嗟に嘘を吐いてしまった。

 

 

 

「はぁ……驚かせないでください」

 

「ご、ごめん。ビックリさせたつもりはないんだけど」

 

 

 

 この暗闇で急に声をかけられた誰でも驚くよね、と思いながらダイヤさんに頭を下げる。

 

 

 

「こんな所で何をしていますの、あなたは」

 

 

 

 そんなことをダイヤさんに問われる。それを聞きたいのは僕の方だった。けど、先に問われたのならば順番として僕から答えなくてはいけない。

 

 でも、少し悩んだ。ここで素直に答えていいものかどうか。誤魔化すこともできるけれど、それをしていいのかを含めて考えた。

 

 ダイヤさんは呆れたような顔をしてこちらへと近づいてくる。

 

 

 

「えっと」

 

 

 

 彼女は目の前で立ち止まった。訝しみの目線が僕の両眼へ注がれる。

 

 暗闇に隠れる深碧の瞳。その目を見つめていたら誤魔化しはきかない、と思い知らされた。それに、ここで何を言っても結局は嘘になることは明白だった。

 

 なら、やっぱり僕が選ばなくてはならないのはひとつしかなかった。

 

 

 

「…………ダイヤさんが出て行くのを見たから」

 

 

 

 小さな声で訳を話す。彼女が外に行って僕が追いかける筋合いがないのはわかっている。

 

 僕の言葉を聞いて不思議そうに首を傾げるダイヤさん。夜の深い闇に隠れているというのに、彼女の黒髪は恐ろしいほどの美しさを放っていた。

 

 

 

「私が?」

 

「うん」

 

 

 

 わからないのも当然だ。ダイヤさんが出て行くのを見たから、僕はついてきた。これ以上の説明はできない。

 

 本当の理由は、まだ口に出すことはできない。

 

 

 

「……よくわかりませんが、何をしにきたのです?」

 

「それは僕からも訊きたい。ダイヤさんは何をしてるの?」

 

 

 

 今度は質問に答えず質問を返す。すると彼女は口を噤み、僕の目を見つめてくる。

 

 生き物の鳴き声が聞こえた。それは森の中から。僕にはその声が生き物ではなく、森自身が鳴いているみたいに感じた。まるで夜の森の近くにいる僕らを、そこから遠ざけるかように。

 

 

 

「…………」

 

 

 

 ダイヤさんは答えない。ただ僕に目を向けるだけ。僕も彼女の目を見つめるだけ。

 

 こんな夜更けの誰もいない場所で、こんな美しい女の子と見つめ合っている。

 

 ただその言葉だけを切り取ると、それはあまりにも綺麗すぎる神秘的な表現に思えた。もし僕が小説家なら、この瞬間を文字にして誰かに読んでもらいたいと思うほどに()()だと感じる時間だった。

 

 

 

「ダイヤさん?」

 

「………………ですわ」

 

「え?」

 

 

 

 細やかな声で彼女は何かを言った。僕が問い掛けるのと同時に目線を左斜め下に下げながら、こうしている自分を恥じるような表情を浮かべて。

 

 こんなに静かな空間で、手を伸ばせば届くくらいの距離で聞こえなかった。もしかしたら彼女は言葉を放ってなかったんじゃないかと疑いをかけてしまうほど、小さな声だった。

 

 訊き返すと、ダイヤさんは視線をもう一度こちらに向けた。そして、今度の声は夜の静寂を切り裂きながら僕の耳へと届いてくれた。

 

 

 

「大切なものを、落としてしまったのですわ」

 

 

 

 彼女の目にはいつもの鋭さがない。不安げで、何かを後悔している顔と表現すれば正しい。

 

 

 

「大切なもの?」

 

「はい」

 

 

 

 復唱に頷きながら答えてくれる。それを見てから、僕は再度質問を投げた。

 

 

 

「それは、どんなものなの?」

 

「……あなたに教えるようなものでもないですわ」

 

 

 

 ダイヤさんはそう言ったけれど、聞いてしまったのなら仕方ない。こんな時間に一人で探しに来なければいけないものなら、本当に大切なのだろうから。

 

 しかも、それをしているのは黒澤ダイヤという誰よりも真面目な生徒会長。どれだけ彼女がその落とし物を大切にしているのかは、そこから想像できる。

 

 

 

「教えてよ。僕も探すの手伝うから」

 

「え?」

 

「どんなものかわからなかったら、探せないでしょ? だから、教えてほしい」

 

 

 

 考える間もなくそう答えた。するとダイヤさんは目を丸くしてこちらを見てくる。そんな表情もできるんだな、と思いながら僕も彼女を見つめ返した。

 

 浅い沈黙。僕と一人の女の子の間に流れる静寂は、森の方から吹いてきた夜風が何処かへ運んで行く。もしかしたらそのまま森の動物たちと一緒に眠りに就くのかもしれないな、なんて、気の利かない童話作家が考えそうな妄想を頭の中で浮かべた。

 

 

 

「赤の、巾着袋」

 

「どれくらいの大きさ?」

 

「ちょうど手のひらに乗るくらいの大きさですわ」

 

 

 

 ダイヤさんは言いながら手のひらを差し出して、探し物のサイズを教えてくれる。それは思ったよりも小さなものらしかった。

 

 赤の巾着袋。頭の中で反芻し、すぐにインプットする。大きくないものだから、視界が暗闇に包まれる今、それを探し出すのは難しいかもしれない。でも、そうは言っていられない。

 

 彼女が大切に想うものなら、僕が探し出すのを手伝わない理由はない。

 

 

 

「わかった。探してみよう」

 

「この辺りで落としたのは間違いないのです。すぐに見つけられると思ったのですが」

 

 

 

 そう言って、彼女は手に持った懐中電灯を足元に向けた。地面には背の低い雑草が生えており、小さいものが隠れてしまうのもわかった。この中で一人で見つけるのは相当困難だろう。

 

 

 

「二人なら見つかるよ、きっと」

 

「……申し訳ありません」

 

「いいよ。僕も気まぐれでついてきただけだから」

 

「あなたがそう言うのなら、手伝っていただきますわ」

 

「そうしてほしい。僕もそうしたいから」

 

 

 

 笑顔を浮かべながら素直な気持ちを打ち明けると、ダイヤさんは僕から目を背けるように後ろを振り返った。

 

 照れているのかな、と彼女の美しい黒髪を見つめながら思った。邪なものを排除したストレートな言葉に、ダイヤさんは弱いということに気づいた。

 

 

 

「……では、お願いしますわ」

 

「了解。あ、何かあったらこの鈴を鳴らしてよ」

 

 

 

 そう言って僕はダイヤさんに持っていた熊避けの鈴を渡す。気休めくらいにしかならないだろうけど、持っていないよりは心強いだろうから。

 

 ダイヤさんは僕から鈴を受け取って、それをポケットに入れた。

 

 

 

「必要ないとは思いますが、一応受け取っておきますわ」

 

「うん。だから、あんまり遠くまではいかないでね」

 

「わかっています。夕陽さんも…………」

 

「ん?」

 

「ゆ、夕陽さんも、気をつけてください」

 

 

 

 僕に背を向けたまま、ダイヤさんはそう言った。少しだけ、心臓が拍動を強くしたのを自覚した。

 

 

 

「うん。心配してくれてありがと」

 

「…………」

 

「やっぱり、ダイヤさんは優しいね」

 

 

 

 僕の言葉に、それ以上の返事は返ってこなかった。

 

 ただ、森の奥から何かの鳴き声が、細やかに聞こえるだけだった。

 

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 

 それからしばらく、夜ご飯を作った調理場周辺を二人で手分けして赤い巾着袋を探した。でも、探しているものは見つからない。ライト機能を使い続けているからか、右手に持つスマートフォンが熱を帯びていた。

 

 

 

「…………ない」

 

 

 

 一人で呟く。今日一日、姿勢を低くすることが多かったからか、腰が悲鳴を上げ始めていた。普段運動をしないのも理由に挙げられるかもしれない。信吾のように毎日バカみたいに走ってる人はこんな山を登ったくらいじゃ疲れたりしないんだろうな、と暗闇を歩きながら思ってみたりする。

 

 一緒に探してはいるが、ダイヤさんとは言葉を交わしていない。そんな雰囲気でもなかったし、何より彼女は本当に落とし物をしてしまったことに後悔の念を抱いているようだったから。

 

 あの子がそこまでして探すものって、どんなものなんだろう。もしかして、大切な人からもらったものなのかもしれない。大切なものって自分でも言っていたし、その線である確率は高い。

 

 じゃあ、大切な人って誰かな、と考えて真っ先に浮かんできたのは僕以外の男の人の存在だった。あんなに綺麗な女の子にそう言う存在がいないのもおかしい。僕がそうであったように、あの子に惹かれてしまう人はきっとそこら中にいる。多分、十人に訊いたら十人が綺麗、と答えるその美貌。そんな女の子を、世界が放っておくわけがない。

 

 

 

「…………何を考えてるんだ、僕は」

 

 

 

 ダイヤさんに言われた赤い巾着袋を探しながら、変なことを考えてしまった。あの子に彼氏がいようがいなかろうが僕には関係ない。……なくはないか。いたら落ち込むし、いなかったら少しテンションが上がるかもしれない。

 

 いずれにせよ、あの子が大切に想うものは大切な人からもらったものだという仮説は正しいと思う。そうじゃなかったらここまでして探しに来たりしないだろう。

 

 あの子にそこまで想われる人って、どんな人なのかな。きっと何の取り得もない僕なんかと違って素敵な人に違いない。それを思ったら心が凹んだ。勝手に考えて勝手に落ち込むこの性格は早くどうにかしたい。このまま大人になったら苦労をするのは、目に見えるようにわかる。

 

 

 

「………………」

 

 

 

 考え事をしながら、ダイヤさんの大切なものを探した。近くに彼女がいるのは足音や息遣いでわかる。周囲は森に囲まれ、人気もないし明かりもない。

 

 こんな所で気になっている女の子と二人でいるという状況が、幸せな時間に思えた。誰かに言ったら気持ち悪がられるかもしれないけど、心はそう感じている。

 

 十七年生きてきたけど、こんな気持ちになるのは初めてだった。誰かを好きになる、ということを知らないわけじゃない。けれど、あの子を想っている時はなぜか今までのあの感情が嘘だったんじゃないかと思えてくる。

 

 それくらい、僕はダイヤさんに惹かれてしまっているということなのか。答えはまだ知らない。いつか知るときが来ればいいな、と思いながら目線を足元の雑草の中へと向けた。

 

 山の夜の風は冷たい。季節や暦には春が訪れていてもまだ冬がどこかに隠れているような空気がそこら中に流れている。

 

 息を吸えばひんやりとした新鮮な空気が肺に満たされ、吐くと白い靄が夜の暗闇に舞い上がり、すぐに消えて行った。

 

 耳を澄ませると鳥の声のような音が聞こえた。多分、梟の鳴き声だろう。日常生活ではあまり聞く機会のないものだから、こういうのも悪くないと思える。

 

 そんなときだった。

 

 

 

「───え?」

 

 

 

 何処からともなく、海の音が聞こえた。一瞬、自分が何処にいるのかを見失った。

 

 地面に向けていた視線を上げ、周囲に立ち並ぶ背の高い山の木々に目を向ける。それで自分が山にいることを再確認した。

 

 僕は今、山にいる。それは自問しなくても明らかなこと。世界中の誰に訊いたって僕が山の中にいると答えてくれる。それくらい明白なこと。

 

 なのに、僕は()()()を聞いた。海の近くに住んでいるからわかる。天気が悪い時、波が高い時、海は特有の唸り声のような音を僕らに聞かせてくれる。

 

 その音がたしかに聞こえた。なぜかはわからない。でも僕の両耳はその音を拾い上げた。山の中で海など何処にもないというのに、同じ音を聞いたんだ。

 

 そうか、と思う。このあいだ読んだ小説の中に、同じことが書いてあった。山の中では海と同じ音が響くときがある。山に住んでいる人は海に訪れたときそれを訝しみ、逆に海の近くに住んでいる人は山に来たときに海の音が聞こえることをおかしく思う、と。

 

 これが、あの小説に書いてあった音なのか。あまりにも似すぎていて、一人で笑ってしまった。全然違う場所なのに、どうしてあんな音が鳴るんだろう、と不思議に思ったりもした。

 

 全ては繋がっている。この言葉が急に頭の中に浮かび上がった。誰の言葉かは忘れた。“人生で起こる出来事は全て繋がっているのだ”という言葉だけが、頭の中を堂々巡りしていた。

 

 

 

「………………あれ?」

 

 

 

 そんなことを思っていたら、いつの間にか自分が一人になっていることに気づいた。近くにいたはずのダイヤさんがいなくなっている。辺りを見渡しても、あるはずの懐中電灯の光が見えなかった。

 

 僕が立っている場所はさっきからほとんど変わっていない。森の音に気を取られて、探し物をすることを少しの間止めていたのだから当然だ。けれど、あの音に気を取られすぎてダイヤさんの存在を見失ってしまった。

 

 どこにいるんだ、とスマートフォンのライトを地面ではなく周囲三百六十度に向けてみる。でも、あの子の姿は見つけられない。それどころか気配すらもなくなっていた。

 

 あるのは夜の静寂。暗闇に包まれた山の中には、僕が向ける光だけが存在していた。

 

 途端に胸騒ぎがした。こんなことを思うのは不謹慎かもしれない。それでも、思わずにはいられなかった。

 

 

 

「ダイヤさん?」

 

 

 

 少し大きな声で彼女の名前を呼ぶ。返事はない。代わりに森の方から冷たい風が吹いて、僕の前髪を揺らしていった。

 

 どこに行ったのだろう。さっきまですぐそこにいたはずなのに、最初から誰もいなかったかのように周囲の雰囲気は僕のことを見つめている。

 

 なぜお前はここにいるんだ? と暗闇は問い掛けてくる。決まっている。一人の女の子が失くしたものを探すためだ。僕は心の中でそう答えた。

 

 なら、その子はどこにいる? その問い掛けには、どうしても答えることができなかった。

 

 

 

「ダイヤさんっ」

 

 

 

 もっと大きな声で名前を呼ぶ。やはり、返ってくる声はない。物音も、足音も、気配さえも春の夜に隠れてしまっていた。

 

 時間が経つにつれて胸騒ぎが大きくなってくる。まさか、一人であの森の中へと入って行ったんじゃないだろうな。

 

 それはマズい。この宿泊施設周辺ならまだしも、この暗さであの山の中へ女の子一人が入っていくなど、どう考えても危険すぎる。

 

 なんで目を離してしまったんだ、と責める必要のない自分を責めた。探し物を見つけようとしていたのに、本当に見失ってはいけないものを見失ってしまった。

 

 早足で初めに探していた場所まで戻る。そこから周囲を見渡すけれど、そこにはやはり誰もいない。首筋に一筋の汗が流れるのがわかった。

 

 

 

「どこだ」

 

 

 

 胸騒ぎが止まらない。これで彼女が森の中で迷子になってしまったのなら、僕一人で手に負える問題ではなくなる。先生を呼んで、それからその他の関係する大人たちにも迷惑をかけてしまう。

 

 思考はそんなことばかりを浮かび上がらせる。そうなる前に見つけなくては、と逸る心に言い聞かせて、また別の場所に向けて走り出した。

 

 

 

「ダイヤさ───」

 

 

 

 そうしてもう一度名前を呼ぼうとしたとき、視界の隅にあるものが映った。

 

 一匹のリス。体長約十センチほどの影が、僕の前を通り抜けていった。

 

 駆け出していた足を止めてその方向へと目を向ける。なぜその小動物が気になったのか。生まれて初めて見る野生のリスだから気になった。それもある。けれど、そのリスに他の何かを感じた。“全ては繋がっている”。この言葉が、頭の中に深く刻み込まれていた。

 

 

 

「…………」

 

 

 

 駆け足でリスが走り抜けて行った方向へと向かう。そこは、先ほど僕とダイヤさんが二人で飯盒を炊いた釜土の付近。

 

 雑草が一部分だけ剥げている。そこに、明らかに不自然なものがひとつ落ちていた。

 

 

 

「…………これ」

 

 

 

 ライトでそこに落ちているものを照らす。手のひらに乗る程度の巾着袋、とあの子は僕に向かってそう言った。まさにその言葉と同じものが地面の上に置いてあった。

 

 しゃがんで巾着袋を拾い上げる。赤い布地に色とりどりの小さな花模様、口を止める紐。間違いない。これがダイヤさんが言っていたものだ。

 

 さっきここで一緒にご飯を炊いている時に落としてしまったのか。本当に小さいものだから、落としても気づかないのは仕方ないと思った。

 

 握り締めてみると、中には何か硬いものが入っているのがわかった。何かはわからない。でも、ダイヤさんが大事にしているのは巾着袋ではなく、この中に入っているものということだけは理解出来た。

 

 中を開けて見てもいいだろうか、と思う。あの子がそこまで大切にするものを見てみたいと思わない方が難しかった。巾着袋は紐を緩めればすぐに開く。そうすれば中身を確認することができる。

 

 立ち尽くしながら数秒間悩んだ。勝手に見てしまっても、あの子は怒らないか。そもそも誰も見ていないのだから、見ても罪には問われないんじゃないか。

 

 

 

「…………っ」

 

 

 

 唾を飲んで、その巾着袋を開けることに決めた。もし、見てはいけないものが入っていたとしたら素直に謝ろう。いや、見なかったことにしよう。そうすればあの子は疑問には思わないはずだから。

 

 閉まっている口を両手で持って、巾着袋を開こうとした。

 

 そして、その中に入っているものを見る。

 

 

 

「──────!」

 

 

 

 はずだった。

 

 





次話/黒澤ダイヤは許せない


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黒澤ダイヤは許せない

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 夜の静寂を切り裂くような高い声が響いた。方向は森の方から。僕の聞き間違いじゃなければ、女の子の声だった。

 

 こんな夜の森に聞こえる女の子の声。見失ってしまったあの子。そこから連想されるものはひとつしかない。

 

 今のは、ダイヤさんの声だ。

 

 

 

「ッ!」

 

 

 

 開こうとしていた巾着袋を握り締めて、その方向へと走り出す。聞こえた声はそこまで遠くなかった。おそらくこの場所から数十メートルしか離れていない。

 

 転ばないように足元をライトでしっかりと照らしながら森の方へと近づいた。木々の隙間から強い風が吹く。こっちへ来るな、と森が訴えてくるような風。それでも行かないわけにはいかない。ここで幽霊や熊が出てきたとしても足は止めない。

 

 

 

「ダイヤさんッ!」

 

 

 

 走りながら今までで一番大きな声で彼女の名前を呼んだ。この静けさの中なら絶対に届く。そんな確信があった。

 

 それでも彼女からの返事はない。闇に包まれた周囲に目を凝らしても、あの綺麗な黒髪は見つけることができない。

 

 あの子に何かがあったら、何をして責任を取ればいい。僕には何もない。あの子を知らない僕なんかには、何もすることなんて出来やしない。

 

 だから、無事でいてほしい。今はそう願うことしか出来なかったんだ。

 

 

 

()()()!」

 

 

 

 無我夢中で発した声には、不自然さがあった。でも、なぜか僕はこの名前の方が呼び慣れているような気がした。

 

 あの子のことなど、数日前までは知らなかったというのに。

 

 

 

 ─────リン。

 

 

 

 と、僕の声に呼応するかのようにひとつの鈴の音が聞こえてくる。

 

 音源はすぐ傍。森の入り口になっている大きな大木の下。そこから、鈴の音が聞こえてきた。そこに咄嗟にライトを向ける。

 

 そして、探していた女の子を見つけた。

 

 

 

「……………………」

 

「…………ダイヤ、さん」

 

 

 

 必死に走って大きな声を出したからか、少しだけ息が上がってしまっていた。僕が持つスマートフォンのライトに照らされているのは、間違いなくダイヤさんだった。

 

 ただ、大木に背中を預けて右足首を押さえている。ジャージは少しだけ砂で汚れていた。

 

 手には僕が渡した熊避けの鈴。まさかあれを使うなんて彼女も思っていなかっただろう。

 

 

 

「大丈夫?」

 

「……はい。木の根元に躓いて、少し足を捻ってしまっただけですわ」

 

 

 

 ダイヤさんは若干顔を歪めながらそう言った。足元には明かりが消えた懐中電灯が転がっている。

 

 

 

「もしかして」

 

「…………急に電池が切れてしまって、焦ってしまったのです」

 

 

 

 彼女は僕から目を逸らしながらそう言った。それは思った通りだった。明かりがあればこんな根っこには躓かない。

 

 ダイヤさんの目尻に小さな涙のような粒が煌めいている。それは痛みによるものなのか何なのかは、僕には知る由もない。

 

 でも、あの強い生徒会長が弱さを見せている。なぜか今はそれを見ていると安心出来た。

 

 

 

「もう、勝手に遠くに行くからだよ」

 

「…………ご飯を炊いている時。あなたと別れてから、ここで休んでいたのですわ。だから、ここにあるのではないかと思い、つい」

 

「なら一言声をかけてくれればよかったのに」

 

 

 

 ため息混じりにそう言いながら、彼女の前にしゃがみ込んだ。ダイヤさんは申し訳なさそうに目線を逸らす。

 

 

 

「ごめんなさい」

 

「無事だったから、いいよ。ダイヤさんが熊にでも襲われたのかって、心配しちゃった」

 

 

 

 微笑みながらそう言った。素直に謝ってくれるのなら許す他ない。いつもは強がってばっかりなのに、こういう時は素直になるんだな。

 

 

 

「………………」

 

「でも、気にしないから安心して。探してたものも、見つけたし」

 

「え…………?」

 

「釜土の近くに落ちてたよ。見つけやすくてよかった」

 

 

 

 そう言って、ダイヤさんにあの巾着袋を渡す。彼女は心底驚いたような顔をして手にある大切なものと僕の顔を交互に見つめていた。

 

 

 

「……どうして」

 

「リスがね、見つけてくれたんだ。こっちにあるよーって、僕に教えてくれた」

 

 

 

 そんな冗談を言う。本当にリスが走り去った方向にあったのだから、あながち間違いではないかもしれないけど。

 

 

 

「夕陽、さん」

 

「見つかったなら、早く戻ろう。本当に熊が出てくるかもしれないからね」

 

 

 

 僕は立ち上がりながらそう言う。ダイヤさんも同じように立ち上がろうとするが、顔を痛みに歪ませてまた座り込んでしまった。

 

 

 

「足が痛むの?」

 

「……ええ。でも、大丈夫ですわ」

 

 

 

 ダイヤさんは木を掴みながら立ち上がろうとする。けれど明らかに捻ったと言う右足には力が入っていなかった。

 

 強がりな彼女らしいなと思うけど、これは見逃せない。怪我をした女の子に無理をして歩かせるなど、僕の性格が許せるわけがない。

 

 

 

「ダイヤさん」

 

「え? 何を」

 

「おんぶしてあげる。恥ずかしいとかは言わないでね」

 

 

 

 しゃがみながら彼女に背を向ける。歩けないのなら、こうするしかない。肩を貸すのもありだけど、宿泊所まではそれなりの距離がある。

 

 だから、方法はこれしか考えられない。

 

 

 

「…………」

 

「大丈夫。誰にも言わないから」

 

 

 

 プライドが高いこの子は多分、他人に知られることを嫌うだろうと思った。自分の弱さを誰かに見られたくない。そう思うのは当たり前。普段が強ければ強いほど、その気持ちは大きくなる。

 

 彼女ほど完璧な女の子はいない。だからこそ、安心させるためには僕が誰にも言わないことをここで約束するのが肝要だった。

 

 

 

「ですが」

 

「なら、ここで朝までいる? 悪いけど僕は熊の餌になるつもりはないよ」

 

「…………あなたは、卑怯です」

 

「なんとでもいいなよ。ダイヤさんが頼ってくれないなら、僕は一人で部屋に戻るよ」

 

 

 

 少しだけ彼女を挑発するような言葉を吐く。反論される、と確信した。そして何が何でも一人で帰ると言い張るものだと僕は思っていた。

 

 でも、違った。僕は今まで、彼女が強い女の子だという認識しか持っていなかった。どんなことでも一人でこなし、一人で何かを成し遂げ、一人で何もかもを完結させる。

 

 そうするのが黒澤ダイヤという女の子。そう思っていたのに。

 

 

 

「…………待って」

 

 

 

 僕が立ち上がろうとしたとき、ジャージの腰の裾を引かれた。それからすぐに後ろを振り返る。

 

 そして、僕は彼女に対する認識をここで改めた。否、改めざるを得なかったんだ。

 

 

 

「一人にしないで、ください」

 

「………………」

 

「あなたを頼ります。だから」

 

 

 

 ダイヤさんは僕のジャージの裾を強く握り締めながらそう言った。暗闇に紛れて顔は見えない。ただ彼女がそこにいることだけがわかる。

 

 

 

「…………私を置いて、行かないでください」

 

 

 

 それから背中に体温を感じた。それ以上何かを言うことは、僕にはできなかった。

 

 心臓の鼓動が夜の闇に響くような気がした。僕が聞こえているということは、すぐ後ろにいる彼女にもそれは伝わっているだろう。

 

 自分の意思でこの鼓動を止ませることができるのなら、今すぐいつも通りに戻したかった。

 

 でも、それは背中に感じる体温が許してくれない。僕を頼ってくれた生徒会長の温かさは、どうにも心臓の高鳴りを加速させた。

 

 

 

「ダイヤさん」

 

「何も言わないでください。ただ、私はあなたを頼ります」

 

 

 

 それだけでいいでしょう、と僕の背中に体重を預けながら彼女は言った。そう言われて、頷かないわけにはいかなかった。

 

 近くで梟が鳴いている。それは僕らに早く部屋へ戻れ、と言ってくれているように聞こえた。その声を聞いてようやく僕の意識は正常に稼働を始めた。

 

 

 

「よっ、と」

 

「………………」

 

 

 

 少し膝を曲げて、後ろにいる女の子の身体を背負う。想像よりも軽くて内心驚いてしまったが、失礼になりそうなので口には出さないでおいた。

 

 そう。これは仕方のないこと。歩けないダイヤさんを宿泊所までおんぶしていく。たったそれだけ。僕は自分に向かってそう言い聞かせた。

 

 だというのに、過去に例にないほど緊張してしまっていた。同い年の女の子をおぶっているから? それもある。

 

 本当の理由は、その相手がダイヤさんだったから。この子だからこそ、足が震えてしまいそうになるくらいに緊張してしまっていたんだ。

 

 

 

「これでいい?」

 

「……はい。よろしくお願いします」

 

 

 

 背負うダイヤさんの声がすぐ耳元に聞こえ、また心臓が高鳴った。あまり意識してしまえば動揺していることが彼女にも知られてしまう。できるだけ無心でいるよう、自分に言い聞かせた。

 

 

 

「ちゃんと、掴まっててね」

 

「わかっていますわ。ですが、その…………」

 

「? 何かあった?」

 

 

 

 僕がそう言うとダイヤさんは何かを言おうとしたのに言葉を濁す。気になってしまい、足を進めることができなかった。

 

 胸の前に組まれる手には、あの赤い巾着袋が握られている。暗闇に慣れてしまったからか、もうライトは必要なかった。

 

 ─────でも、僕の携帯のディスプレイはまだ光を放っていた。

 

 

 

「重くは、ありませんか?」

 

 

 

 ダイヤさんはポツリ、とそう言葉を零した。彼女がそんな些細なことを気にするとは思わず、また思考回路が熱を持ち始めた。

 

 当然この子だって女の子なんだからそういうことを気にするのだろう。けれど、その言葉は僕の意識を朦朧とさせるくらいの破壊力を持っていた。気を抜いたら全身に力が入らなくなってしまいそうだった。

 

 

 

「ぜ、全然重くないよ」

 

「…………本当に?」

 

「うん。むしろ軽くてビックリした」

 

 

 

 しどろもどろになりかけながら僕は彼女の質問に答える。勢い余って本音を口に出してしまったが、今はそういう他なかったので許してほしい。

 

 

 

「お世辞でも、安心しました」

 

「お世辞じゃないってば」

 

「あなたは建前を使うのが上手そうな顔をしていますので」

 

「じゃあ、重いって言ってほしかった?」

 

「言ったら降りていましたわ。それで、朝までここにいました」

 

「それじゃあダイヤさんが熊の餌になっちゃうね」

 

「そうならなくてよかったと言っているのです」

 

「大丈夫。重かったとしても頑張っておんぶしてあげたと思うから」

 

「…………ありがとうございます」

 

「どういたしまして」

 

 

 

 そんなことを言い合って、僕は足を前に踏み出した。誰もいない暗闇の中。一人の女の子を背負いながら、宿泊所へと向かって歩き出す。

 

 歩きながら空を見上げる。そこには先ほどまで気にならなかった満天の星空が広がっていた。明りの少ない山の中だからこそ見ることができる美しい星々。思わず息を飲んでしまうほどに、それは綺麗な夜空だった。

 

 

 

「……ダイヤさん」

 

「なんですか」

 

 

 

 転ばないように気をつけながら、僕はゆっくりとした足取りで進んで行く。足を踏み出す度に、ダイヤさんが持っている熊避けの鈴がちりん、と小さな音を鳴らしていた。

 

 

 

「変なこと、訊いてもいい?」

 

 

 

 この空間だからこそ、僕は勇気を出せた。誰かがいる状況ならこんなことは言い出せない。二人きりで、おんぶをしているから顔も見合えない。明りもない山の中だから、僕はこの言葉を言える。

 

 

 

「…………あまり変な質問には答えませんわよ」

 

「じゃあ、とにかく聞いてから答えるかどうか決めてほしい」

 

 

 

 僕がそう言うと背中にいる彼女が頷くのがわかった。もう一度、ちりんと鈴が鳴った。

 

 

 

「あなたが変な方だということは、知っています。だからお好きにどうぞ」

 

「わかった。じゃあ、言わせてもらうね」

 

 

 

 そう言って、数秒の間を空けてから僕は再度口を開く。一番訊きたかったこと。誰も知らない彼女の心の中に秘めた想い。

 

 前より少しだけ距離が近い今なら、答えてくれると僕は信じていた。

 

 心も、身体の距離も近い今ならば。

 

 

 

「……ダイヤさんは、本当に僕らと仲良くなりたくないの?」

 

「………………」

 

 

 

 そんな素朴な質問を僕は暗闇の中に零した。背中にいる女の子はまだ何も答えてくれない。だから、言葉を続けた。

 

 

 

「僕には、君がそんなことを思う女の子には見えない。失礼かもしれないけど、僕はそう思ってる」

 

「それは、なぜです」

 

 

 

 背中から耳に声が届く。少しだけ時間をかけてから、僕は答えた。

 

 

 

「だって、ダイヤさんは僕と話をしてくれた。今日一日、一緒にいてくれたでしょ?」

 

「……それは」

 

「他意を持たない、なんて出来なかった。だから思ったんだ」

 

 

 

 僕は考えていた仮説を抽斗の中から取り出す。言っていいかどうか本当に迷った。 

 

 でも、言わなくちゃ前には進めない。彼女が言ってくれないのなら、僕が言ってそれが本当か嘘かを確かめればいい。

 

 たとえ、彼女に嫌われることになってしまっても、僕は訊かなくちゃいけないと思った。

 

 自分のため、クラスメイトのため。

 

 そして、黒澤ダイヤという女の子のために。

 

 

 

「─────君はただ、()()()()()だけなんじゃないかって」

 

 

 

 暗闇の中に、そんな言葉が落ちる。それからすぐに沈黙が流れた。何も聞こえない。そもそも何もなかった辺りには純粋な静寂だけが漂っているだけだった。

 

 耳を澄ませていたら、頭上に広がる星たちの鳴き声が聞こえてくるんじゃないかと思うくらいに。それくらい、静かな夜が僕らを包み込んでいたんだ。

 

 

 

「………………」

 

「間違いだったら、謝るよ。でも僕はそう思ってしまった」

 

 

 

 ダイヤさんは僕らと仲良くしたくないわけじゃない。本当は仲良くしたいのに、何かが足枷になってそれができていないと思った。

 

 その何かが、()()()であると僕は考えた。何が彼女に強がりを与えているかまでは知らない。でも、それだけはなんとなくわかった。

 

 

 

「何故、そう思ったのです」

 

「さっきも言った通りだよ。君は、誰よりも周りが見えてる。クラスメイトが何を望んでいるのかを知ってる。なのに、意図的に僕らの邪魔をしているのはおかしい」

 

 

 

 だから、と言って続ける。

 

 

 

「ダイヤさんは()()()、僕らのことを嫌っているんじゃないかって」

 

 

 

 ─────僕は、そう思ったんだ。

 

 

 

 この仮説が間違っているのは明白だった。でも、すべてが的外れではないのはわかっていた。

 

 ダイヤさんはやさしくて、まじめで、頭がいい。そんな彼女がクラスメイト全体の意思を知らないはずがない。

 

 男子も女子も同じ。本当はみんな仲良くやりたいと願っている。統合が決まって、男子が異分子として女子たちの中に入ることになったのは、しょうがないことだった。

 

 けど、それがずっと続くなんておかしい。同じ空間で一年間という長い時間を一緒に過ごすのならば、お互いに心を許さないなんて絶対にあり得ないこと。

 

 だから、この林間学校で男女の間にあった壁を取り除くことに僕らは成功した。それは、僕らが頑張ったからじゃない。

 

 女子生徒たちも同じように、男子生徒たちと仲良くなりたかったんだ。

 

 それが上手く口に出せなかったから、教室が今まで息苦しい空間になってしまっていただけのこと。何も難しいことはない。

 

 

 

 なのに。

 

 

 

「ダイヤさんは、わざと僕らと距離を置こうとしてた」

 

「…………それは」

 

「でも、僕とは話をしてくれた。それは、君に話をかけた存在が僕だけだったから。違う?」

 

 

 

 男子から距離を取ろうとしていた彼女は、もちろん自分から話をかけにいくことはなかった。だから、僕らの目には男子を嫌っているように見えた。

 

 でもダイヤさんは僕と話をしてくれた。その理由は、ひとつしかない。

 

 

 

 彼女に話しかけた人間が、僕だけだったからだ。

 

 

 

 もちろんすべて、僕の仮説なんだけど。

 

 

 

「なんでそんなことをしていたのかはわからない。それを僕は知りたい」

 

 

 

 何故、彼女がわざと男子を嫌ったふりをしていたのか。どうして、仲良くやりたいと思うクラスメイトから離れて、一人になろうとしていたのか。

 

 誰もこの子を気にかけようとはしない。けどそれはおかしい。みんなで仲良くやろうとしているのに、一人だけ仲間外れだなんてそれが正しいはずがない。

 

 

 

「………………」

 

 

 

 ダイヤさんは答えない。彼女を背負う僕にはどんな表情をしているのかもわからない。

 

 わかるのは、彼女が手に握る赤い巾着袋が強く握られたことくらいだった。

 

 

 

 彼女が答えてくれるまで待つ。答えてくれないのなら、時間を置いてまた訊ねよう。

 

 僕は諦めない。ダイヤさんが本音を言ってくれるまで、問いを投げ続けてみせる。しつこいとか言われても構いはしない。

 

 何もない僕にあるのは、その根性。それだけは誰にも負けはしない。

 

 絶対に壊れない宝石だったとしても、壊れることを信じて叩き続けるんだ。

 

 その中にある本当の姿を見つめるため。

 

 ただ、それだけのために。

 

 

 

「………………から、ですわ」

 

「え?」

 

 

 

 静かな暗闇の中を歩いている時、ダイヤさんは何かを言った。おぶっていても聞こえない声。僕はすぐさま訊き返した。

 

 するとまた、声が静寂に放たれる。

 

 

 

「許せないから、ですわ」

 

 

 

 今度は聞こえた。でも、理解することはできない。

 

 

 

「許せない?」

 

 

 

 それは、一体誰を。そう考えたとき、あのときの記憶を思い出した。

 

 統合して数日が経った日。花丸の友達であるルビィちゃんと初めて会ったあの夕暮れ。

 

 あの時、ダイヤさんは言ったんだ。

 

 

 

「自分自身を、許せないのです」

 

 

 

 そんな、理解できない意味が含まれた言葉を。

 

 

 

「…………自分を、許せない?」

 

 

 

 復唱するとダイヤさんは言葉を続けた。彼女が持つ熊避けの鈴がひとつ、綺麗な音を鳴らした。

 

 

 

 

 

 






次話/弱虫ダイヤモンド


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弱虫ダイヤモンド

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

「─────私は、あの学校を守れなかった」

 

 

 

 そんな言葉から、彼女の独白は始まった。僕はただその声だけに耳を傾ける。

 

 

 

「あなた方の高校と統合することに反対する、と生徒会長である私は言いました。そして、全校生徒が私を応援してくれた。私はあの学校を女子高のままで存続させるために様々な活動を行い、数え切れない方々に苦労をかけました」

 

「………………」

 

「誰もが私に期待していた。全校生徒が()()()()()()を守れると、全校生徒が信じてくれたのです」

 

 

 

 ダイヤさんはひとつ呼吸を置いて言葉を続けた。

 

 

 

「なのに、結局は守れなかった。何が足りなかったのかは誰も教えてはくれませんでした。私にわかったのは、浦の星女学院が廃校になり、あなた方の男子校と共学になるということだけ」

 

 

 

 芯が通った声音が少しずつ小さくなっていく。それでも僕は彼女の言葉を聞いていた。

 

 これが生徒会長の本音であることが、わかっていたから。

 

 

 

「必ずこの学校を守る、そう約束したのに私はその約束を破った。そんな生徒会長を、誰が許してくれると言うのですか?」

 

「…………ダイヤ、さん」

 

「女子生徒たちは私を恨んでいる。いや、それだけではありません。私がしたことは、()()()()()()()()()()()()()()()()()()。そんな私を」

 

 

 

 ダイヤさんが、肩を強く握り締めてくる。痛みを感じる。でも僕は何も言わなかった。

 

 彼女が感じている痛みを思えば、こんな痛みは痒くも何ともなかった。

 

 

 

「…………そんな()()()()を、誰が許してくれるというのです」

 

 

 

 そう言って、ダイヤさんは独白を結んだ。

 

 何かが混じった声。それが何なのかは僕は知らない。

 

 わかっていても、わかってはいけないと思った。

 

 

 

「…………そっか」

 

 

 

 ようやくわかった。彼女が僕らを嫌っていた理由。なぜ、わざと僕らを突き放していたのか。どうして一人で在ろうとしたのか。

 

 そのすべてが今、繋がった。

 

 

 

 ─────浦の星女学院の生徒会長。黒澤ダイヤという女の子は統合の話が出たとき、全校生徒に約束をした。

 

 それが、浦の星女学院を守るというもの。その約束をもとに彼女はいろんな人を巻き込んで行動をし続けた。

 

 生徒の代表として学校を何とか女子高のまま存続させるために頑張って、苦労を積み重ねた。

 

 約束を果たす為に、その役目を全うしようとした。

 

 でも、結局はダメだった。彼女の約束は果たされることなく、無情にも浦の星女学院は僕らが通っていた男子校と統合し、浦の星学院高校と名前を変え、男女共学校となった。

 

 生徒たちとの約束を守れなかった生徒会長は、自分を全校生徒の裏切り者だと思い込んだ。

 

 だから、自分がみんなに恨まれていると思い、一人になることを選んだ。僕たち男子とわざと距離を置き、一人になることでせめてもの罪滅ぼしをしようとしていたのだろう。

 

 それが、黒澤ダイヤという生徒会長の選んだ選択。あまりにも悲しすぎる、寂しい選択。

 

 

 

「私は許されてはいけないのです。だから、共学になった後も生徒会長という十字架を背負ったのです」

 

「みんなの、裏切り者になるために?」

 

「そうしなければ償えないのです。生徒の期待を裏切った私に、普通の学校生活を送ることはもう」

 

 

 

 許されないのですわ、とダイヤさんは言った。そんな、許されてはいけないことを本当に語っている。

 

 なんだよ、それ。ふざけるのもいい加減にしろ。

 

 

 

「…………ダイヤさん」

 

「はい?」

 

「ふざけないでよ」

 

「え?」

 

 

 

 僕は、彼女を背負ったまま言った。怒っていることを隠さず、いや、彼女にその事実をわからせるように、わざと語気を強めながら。

 

 だって、そんなことを許せると思うのか。いいや、ちがう。許していい訳がない。

 

 ダイヤさんを許さないなんて、僕は絶対に許さない。

 

 

 

「そんなことで、一人になろうとしてたの」

 

「…………夕陽さん?」

 

「なんで、君が裏切り者なんかにならなくちゃいけないの。誰よりも頑張ったダイヤさんが、どうして誰かに恨まれなくちゃいけないの」

 

 

 

 僕は前を向いたまま、背中にいる女の子に言葉をぶつける。

 

 心が熱を持っている。この子がこの子自身を恨むことを許してはならない、と叫び続けている。

 

 

 

「絶対におかしいよ。君は、誰にも恨まれてなんかない。果南さんも鞠莉さんも言ってた。“あの子は誰よりもこの学校を守ろうとしてた”って。だから、ダイヤさんのことをわかってあげてって」

 

「………………」

 

「そう言ってくれる人が、ダイヤさんを恨むはずないでしょ? 僕らは君がどんなことをしたのかは知らない。でも、すぐ傍で見てた人たちがダイヤさんの頑張りに気づかないはずない。それでダメだったとしても、誰も恨んだりしない」

 

 

 

 僕が語るのはただの正論。ありきたりすぎる月並みな言葉の繋がり。

 

 でも、そんな単純なことを彼女は知らないんだ。だったら、僕が教えてあげなくちゃいけない。

 

 

 

「なんで、そんな簡単なこともわからないの。おかしいよ」

 

 

 

 僕はそう言って唇を噛んだ。強く噛みすぎて血の味が薄っすらと口の中に広がった。

 

 悔しくて、悲しくて、どうしようもなかった。

 

 こんなことすらわからない寂しい女の子が僕の背中にいることが、堪らなく悔しかった。

 

 

 

「…………あなたに、何がわかるのです」

 

「わからないよ。でも、君が間違ってることだけはわかる」

 

「私は間違ってなどいません」

 

「間違ってるよ。君は強がりの塊だ。本当の自分を殻の中に隠して自分を殺すのが上手いだけの、弱虫だ」

 

 

 

 挑発的な言葉を聞いたダイヤさんの歯ぎしりが聞こえた。怒ったのだろう。当たり前だ。僕のような男に自分をバカにされて、怒らない人はいない。

 

 

 

「違います。私は、弱くなんてない」

 

「弱いよ。多分、僕よりも弱い。強がってるだけで、自分が恨まれていると思い込んで、勝手に一人になろうとする人を、弱いと言わずになんて言えばいい」

 

「だから、あなたに何がわか─────」

 

「わかってるから言ってるんだよ」

 

 

 

 立ち止まり、ダイヤさんの言葉を遮りながら言った。

 

 静寂が僕らの周りに姿を現す。音とという音が目に見えない空気に吸い取られていっているようだった。

 

 もし、この言葉を数分前に聞いていたら、僕は彼女をおぶったりしなかった。なんで、そんな悲しいことを思うんだろう。

 

 何ひとつ悪くないのに、どうして自分が悪いと言い切れるのだろう。

 

 

 

「ようやくわかった。君は、ただ硬いだけの宝石だ」

 

「…………なにを」

 

 

 

 

 

 

 

「強がりで自分を隠して、嫌われるのが怖くて自分からは外に出られない。

 

 

 

 誰かに砕かれることを待っているだけの───()()()()()()()

 

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 自分の何処からこんな言葉が出てくるのか不思議だった。惹かれている相手を傷つけるような言葉を、僕が思いつける訳がない。

 

 なのに、頭の中にはそんな言葉が勝手に浮かび上がった。だから、何も迷うことなく口にできた。

 

 だって、本当にその通りの言葉すぎたから、迷う必要さえなかったんだ。

 

 

 

「──────」

 

 

 

 ダイヤさんが息を飲むのがわかった。言ってしまってから、彼女を傷つけてしまっていることに気づいた。

 

 でも、後悔はない。これで彼女が僕の思いを知ってくれるのなら、それでよかった。

 

 嫌われるのは嫌だけど、それ以上に、彼女に嘘を言うのは嫌だったんだ。

 

 

 

「僕が言いたのは、それだけ。後は」

 

 

 

 そうして歩き出す。あと数十メートルで宿泊所まで辿り着く。

 

 そして、宿泊所の玄関には数人の影が在った。

 

 ─────僕のスマートフォンのディスプレイも、まだ光を放っていた。

 

 

 

「………………あ」

 

「大事な友達に、たくさん怒られてきて」

 

 

 

 僕がそう言うと、背中にいるダイヤさんも気づいたようだ。気づかれないようにするのは難しかったけれど、どうにかばれずに済んだ。

 

 玄関の方から二つの影が僕らの方へ走ってくる。それを見て、足を止めた。

 

 これからダイヤさんはあの二人にこっぴどく叱られる。それがわかったけど、止める気はさらさらなかった。

 

 

 

「ダイヤッ!」

 

「果南さん、鞠莉さん?」

 

 

 

 僕の前で、彼女たちは足を止める。

 

 足をくじいたダイヤさんには申し訳ないけど、ここでおんぶは終わり。膝を曲げて彼女が足を痛まないように、ゆっくり身体を下ろしてあげた。

 

 すると、果南さんが怒った顔をしてダイヤさんに近づいて行く。僕は少し離れて、彼女たちが何を言うのかを見守ることにした。

 

 

 

「───ダイヤのバカッ!」

 

「え…………」

 

 

 

 果南さんはそう言って、ダイヤさんの細い体躯を抱きしめた。ダイヤさんは何が何だかわかっていないような顔で、青い髪の女の子に強いハグをされている。

 

 

 

「何を言ってるのよ、ダイヤ」

 

「鞠莉、さん?」

 

「なんで、私たちがダイヤを恨んでいるの? そんなの、絶対にあり得ないわ」

 

 

 

 果南さんにハグをされたまま、近づいてくる鞠莉さんにそう言われるダイヤさん。

 

 彼女にはまだ状況が理解できていないようだ。それはもちろんそのはず。

 

 

 

「何を、言っていますの」

 

「私たちは、ダイヤに感謝してるのよ。あの学校を失くさないように誰よりも頑張ってくれたダイヤに、みんなありがとうって言いたいの」

 

「鞠莉の言う通りだよ。私も、ダイヤにありがとうって言いたかった。でも、ダイヤが気にしてるって思ったから、言えなかったんだよ」

 

 

 

 鞠莉さんと果南さんが、一人の女の子に向かって思いを語る。ハグをされている生徒会長である女の子は、まだ言葉の意味が理解できていないようだった。

 

 

 

「誰もダイヤを恨んでなんてない。だから、ダイヤはもっと素直になっていいの」

 

「私も鞠莉も、学校のみんなも。夕陽くんも信吾くんも、クラスの男の子たち全員。ダイヤも一緒に、新しい学校で最高の思い出を作りたいんだよ」

 

「………………果南、さん」

 

「たしかに前とは変わっちゃったけど、それでも私たちは一緒にいる。高校を卒業するまで、それからも、ずっと一緒にいたいって思ってるんだよ」

 

 

 

 果南さんの思いが言葉になって形になる。それから、鞠莉さんも二人の身体を包み込むように両手を広げた。

 

 

 

「だからね、ダイヤ」

 

「鞠莉さん」

 

「これからは、男の子たちのことも認めてあげてほしいの。新しいクラスメイトとして、新しい思い出を作るために、ダイヤが心を開いてあげて?」

 

 

 

 僕が一番言ってほしい言葉を鞠莉さんが言ってくれた。少しだけホッとした。言えなかったらどうしようってずっと思ってたから、よかった。

 

 そうしている時、ひとつの足音が聞こえてくる。僕はその方向へと目を向けた。

 

 

 

「ま、そういうことさ、生徒会長さん」

 

「信吾」

 

「俺らはたしかに異分子かもしんねぇ。けど、異分子は異分子なりに居場所を見つけてぇって思ってんだ」

 

「………………」

 

「高校生活最後の一年。泣いても笑ってもこれが最後だ。だったら最後にふさわしい一年にしてぇんだよ。最っ高に楽しかったって、笑って終われるように、俺たち男子も頑張ろうって思ってんだ」

 

 

 

 信吾は手に持ったスマートフォンの画面をダイヤさんの方へ向ける。それを見て彼女は大きく目を見開き、今の状況にどこか納得しているような顔をした。

 

 

 

 信吾がダイヤさんに見せたスマートフォンのディスプレイ。そこには───()()()()()()が表示されていた。

 

 

 

 そして、通話の相手の名前は──────

 

 

 

 

 

「まさか」

 

「そういうことだよ、ダイヤさん」

 

 

 

 僕はポケットに入れたディスプレイが光ったままのスマートフォンを取り出し、信吾に倣うように画面をダイヤさんに向けた。

 

 それから、外に出る前に信吾とした会話を思い出す。

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

『夕陽。お前の携帯、ここでも電話できるか?』

 

『うん。多分できると思うよ』

 

『ならちょうどいい。俺と電話を繋いだまま、生徒会長と話をして来い』

 

『え?』

 

『俺らはここで話の内容を聞いてるから、お前が生徒会長の本音を訊きだして来いって言ってんだ』

 

『頼んだよ、夕陽くん』

 

『ユーヒに期待してるデースッ!』

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

「さっきの会話を、聞いていたのですか?」

 

 

 

 ダイヤさん以外の四人が頭を頷かせる。それが肯定の意であることは明白だった。

 

 

 

「ダイヤは私たちが訊いても話してくれないだろうからね」

 

「こうするしかなかったのデース。ユーヒとのお話を聞いちゃったけど、許してほしいの~」

 

 

 

 果南さんはダイヤさんの身体を離しながらそう言い、鞠莉さんは可愛らしいウィンクを飛ばして、いつも通りの感じで言った。

 

 ダイヤさんが僕の方へと視線を向けてくる。怒ってるよな。それはそうだ。あんな会話を勝手に誰かに聞かせていたら、怒られても仕方ない。

 

 だけどこうするしかなかった。僕が彼女たちに説明するより、実際にダイヤさんの声で聞いてもらう方が説得力があるのはたしかなんだから。

 

 

 

「ごめん。ダイヤさん」

 

「…………」

 

「どうしても、二人には聞いてほしかったんだ。だから」

 

 

 

 素直に謝って、頭を下げる。でも正直、果南さんと鞠莉さんが訊いても話してくれなかったことを僕に話してくれるとは思わなかった。

 

 それにどんな理由があるのかはまだわからない。けど、ダイヤさんが思っていることを聞けただけで今は良しとしよう。

 

 

 

「ダイヤ。夕陽くんを怒らないであげて」

 

「そうよ。ユーヒは、ダイヤのことを思って手伝ってあげたんだから」

 

 

 

 僕が頭を下げたままでいると、二人がそう言ってくれる。けど、こんなことをして怒らないなんて、それはあり得ないことだと思う。

 

 

 

「…………」

 

「…………」

 

 

 

 ひとつの足音が近づいてくる。少し、片方の足を引きずっているような音。それが聞こえても、僕はまだ頭を下げたままでいた。

 

 

 

「夕陽さん」

 

 

 

 名前を呼ばれる。それで、ようやく頭を上げた。

 

 目の前に立っていたのはやっぱりあの子。綺麗な黒髪の、背の高い女の子。

 

 そして、宝石のように美しい。僕らの学校の生徒会長。

 

 

 

「ダイヤさん」

 

「あなたは、よくわかりません」

 

「え?」

 

 

 

 彼女は僕の顔を見上げながら、そう言った。

 

 

 

「なぜ、あなたに話してしまったのか。自分でもよくわからないのです」

 

「…………」

 

「ただ、私はあなたに話したかった。誰にも言えなかったことを、あなたなら聞いてくれると思ったのです」

 

 

 

 ダイヤさんは不思議そうな表情を変えることなく、僕に告げる。

 

 僕にもわからない、その感覚。どうして彼女がそう思ってくれたのか。僕には話をしてくれたのか。考えても、答えは春の夜に溶けていくだけだった。

 

 

 

「手伝ってくださり、ありがとうございました」

 

「あ……」

 

 

 

 ダイヤさんはあの巾着袋を僕の方に見せてくる。探していた彼女の大切なもの。それを大事そうに、手のひらの上に乗せていた。

 

 何が入っているのか、訊くのを忘れていた。でも、今は知らなくていいと思った。

 

 これから約一年、時間はある。彼女のことを知るには長すぎる時間。その間にあの中に入っている大切なものの正体を知ることができれば、それでいい。

 

 

 

「あなたが見つけてくれなければ、失くしてしまっていたかもしれません」

 

「いや、それは」

 

「…………許せないこともありますが、今日のところは見逃してあげます」

 

 

 

 そう言って、彼女は赤い巾着袋をジャージのポケットに仕舞った。

 

 そして、もう一度僕の顔を見つめてくる。深碧の美しい両眼が、目の前に立つ男のことを映していた。

 

 数秒の沈黙。今度は、僕の方から口を開いた。どうしても、言いたいことがあったから。

 

 

 

「ダイヤさん」

 

「はい?」

 

「話してくれて、ありがとう」

 

 

 

 言いたいのはそれだけ。知りたいことを知ることができた。そして、彼女の想いが少しでも理解できた。

 

 今はそれだけで満足だった。それをありがとう、という言葉で表現したんだ。

 

 できる限りの、笑顔を添えて。

 

 

 

「…………やっぱり、あなたは変な人です」

 

「ごめん」

 

「ですが」

 

 

 

 ダイヤさんが一歩、僕の方へ近づく。

 

 何気ない瞬間だった。けれど、その時間がただの一瞬だとは思えなかった。

 

 

 

「あなたは、やさしい人です。─────まるで、()()のように」

 

 

 

 そこに、あまりにも美しすぎる笑顔があったから。

 

 

 

「─────」

 

 

 

 僕は、息をすることを忘れた。ダイヤさんが無邪気に笑った顔を見て、完全に心を彼女に奪われてしまっていた。

 

 心だけじゃない。意識も、感覚も、身体の自由さえも、目の前にある宝石みたいな微笑みに全て取り込まれていく。

 

 胸が締め付けられる。誰かに心臓を鷲掴みにされている。

 

 痛くはない。感覚的な痛みは感じない。その代わり、よくわからない何かが心の中に芽生える気がした。

 

 温かく、やわらかい。くすぐったいようで、気持ちがいい。

 

 そんな、抱いたことのない()()が胸の中にひとつだけ芽を出していたんだ。

 

 

 

「さっきの言葉の、仕返しです」

 

「ああ。あれは」

 

「あのような言葉は生まれて初めて言われました。ですから、これはお返しですわ」

 

 

 

 僕が先ほど彼女に向かって言った言葉。これは、その仕返し。

 

 でもそれにしては甘すぎる気がした。僕は彼女を傷つける言葉を言ったのに、それじゃあ釣り合いが合わないじゃないか。

 

 だから、僕も言った。与えられたものが平等になるように。今までの全てが、釣り合うように。

 

 

 

「やさしいんだね、ダイヤさんは」

 

 

 

 彼女の美しい笑顔に負けないくらいの笑顔を作って、僕は言った。

 

 

 

「…………別に、あなたにやさしくしたつもりはありませんわ」

 

 

 

 そう言って、ダイヤさんはそっぽを向く。薄暗闇の中でもわかる。彼女の頬が赤く染まっている。

 

 それを見て、わかった。

 

 

 

 僕は多分、この子に恋をしている。

 

 

 

 理由はまだわからない。でも、たしかにそう思った。もっと彼女のことを知りたい。僕のことも知ってほしい。

 

 胸の中に芽生えたこの感情に名前をつけるのなら、今は恋と呼んでみたい。

 

 

 

 ポケットの中に入れた、玩具の宝石を握り締めた。

 

 

 

 それはなんだか少しだけ、いつもよりやわらかいような気がした。

 

 

 

 





次話/生徒会長は少し柔らかい


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生徒会長は少し柔らかい

 

 

 

 ◇

 

 

 

 翌朝は気持ちの良い天気だった。それはまるでこの心情を投影しているような青空。澄み切っていて濁りが消えた、高い春の快晴。

 

 山中の朝の空気はひんやりとしていて、吐く息が少しだけ白くなる。呼吸をすると透き通った酸素が肺の中に満ちていく。僕の胸の中には、空気よりも大切なものが既に満ち溢れている。

 

 小さな鳥の群れが東の空を目指して飛んで行くのを見つめていた。昨日までなら、あの鳥達に僕の憂鬱を運んで行ってほしいと願っていたのに、今はそんなことは思わなかった。

 

 

 

「………………」

 

 

 

 林間学校の荷物を持ちながらバスが来るまでの間、駐車場で僕らは待ちぼうけをしていた。

 

 目線を空から下げるとクラスの男女が仲良さそうに話をしている。それが何を意味するのか、僕は知っている。

 

 男女の間にあった硬い壁が無くなっている。僕らと彼女らを隔てていた境界線は今は見る影もなく消え去っていた。

 

 この林間学校がターニングポイントになることは予測していた。だから、これは僕らの予想通り。柔らかくなった空気の中で、僕は安心するように息を吐いた。

 

 

 

「─────ほら、乗ってよダイヤ。まだ足痛むんでしょ?」

 

「いや、それはそうですが」

 

「別にいいでしょ、おんぶをされてるのを見られるくらい。それともまた夕陽くんがいいの?」

 

「だ、誰もそんなこと言ってないでしょう?」

 

「なら早くしてよ。早くしないと、ダイヤだけ置いて行っちゃうからね」

 

 

 

 宿泊所の玄関でダイヤさんと果南さんが何やらもめている。二人の声が聞こえて振り返ると、おんぶをするしないで言い合いになってるらしい。

 

 昨日の夜。ダイヤさんは足を挫いてしまった。あの時は僕がおぶって来たけど、今度は果南さんがダイヤさんをおんぶしてあげようとしている。

 

 だがダイヤさんは果南さんの申し出を断っているようだった。理由はなんとなくわかる。多分、男子たちの前で弱さを見せたくないのだろう。この期に及んで強がりを振り回している姿は、彼女らしいと思ってしまった。

 

 

 

「でも、その……」

 

「ああもうめんどくさいっ」

 

「きゃあっ!?」

 

 

 

 痺れを切らした果南さんが無理矢理ダイヤさんを担ぎ上げた。隣でその姿を眺めている鞠莉さんはケラケラと面白そうに笑っていた。

 

 あの三人が仲良くしている光景を、僕は初めて見た。でも、これが本当の在るべき形なんだと思う。幼馴染である三人は、あんな風にしているのが普通だったのだろうから。

 

 果南さんにおぶられているダイヤさんは顔を真っ赤にしている。何故かその姿を見た男子生徒たちがヒートアップしていた。あれか。不屈の生徒会長が弱さを見せているのがそんなに嬉しいのか。まぁ、気持ちはわからなくもない。僕も頼られた時は嬉しかったし。

 

 

 

「…………生徒会長がデレてる」

 

「何言ってるの、信吾」

 

「いや、すげぇめずらしいもん見てる気がしてな」

 

 

 

 隣に立っていた信吾が突然変なことを言い出す。信吾も驚いてるんだ。僕からしたらそれもちょっとビックリだけど。

 

 昨夜の一件で、信吾もダイヤさんに対する認識を改めてくれたらしい。あの子が理不尽に男子を嫌っていた理由がただの強がりだったことを知って、意外と可愛いところがあるんだな、と笑っていたくらいだった。

 

 

 

「ふふ。たしかにそうかもね」

 

「うーむ。なんかちょっと可愛く見えてきたぞ」

 

「………………」

 

「いでででっ。足を踏むな足をっ」

 

 

 

 信吾がまたおかしな戯言を言い始めた。なんかムカついたので足の甲を踏んでみる。

 

 いや、だって信吾があの子を好きになったら僕が勝てる余地なんてない。そもそもあの子が僕に興味なんてあるのかもわからないし。

 

 

 

「なんでキレてんだよ、夕陽」

 

「ふん、信吾なんて知らない」

 

 

 

 そっぽを向くようにダイヤさん達の方を見つめると、信吾はああ、と納得するような声を出す。

 

 

 

「悪い悪い。別にそう言う意味で言ったわけじゃねぇよ」

 

「…………ほんとに?」

 

「夕陽があの生徒会長にぞっこんなのは最初っからだもんな。安心しろ、俺の狙いは別だから」

 

 

 

 そんなことを言って人懐っこい笑顔を浮かべる信吾。途端に顔が赤くなる感じがする。くそ、なんか一杯食わされた感じがして悔しい。

 

 ん? なんかしれっと信吾が重要な事を言ったような気がするんだけど、気の所為だろうか? 

 

 

 

「信吾、それって」

 

「ま、それについては今度ゆっくり話そうぜ」

 

 

 

 ぽん、と頭に手を置かれてぐしぐしと髪を撫でられる。信吾は都合が悪くなるといつもこうやって僕の話を誤魔化そうとする。

 

 でも、信吾から今みたいな言葉を聞けるとは思わなかった。もしかしたら彼も誰かに恋をしているのかもしれない。

 

 相手は……まぁ、だいたい予想はついてるんだけど、今は言わないでいてあげよう。まだ時間はたっぷりある。信吾の恋がこの一年で実を結んでくれたら僕も嬉しい。

 

 

 

「うん。楽しみにしてる」

 

「そうしてくれ。おーい、かなーん、マリーっ」

 

 

 

 それから信吾が玄関の方にいる二人の名前を呼んで手を振る。気になってる女の子によくそこまで気軽に話しかけられるな、と思う。信吾のこういうところは見習わなくちゃならない。

 

 僕らに気づいた果南さんはダイヤさんのことをおぶったまま、こちらに歩いてくる。果南さんの背中に綺麗な黒髪が恥ずかしそうに隠れていた。全然隠れ切れてないけど。

 

 些細なことだけど、僕は彼女の照れ隠しがどうにもお気に入りらしい。思わずグッと来てしまった。

 

 

 

「お待たせ。ダイヤがなかなかおんぶさせてくれなくて遅れちゃった」

 

「ダイヤはほーんと照れ屋さんなんだから。たまにはちょっとくらいキュートなガールらしさを出してもイーじゃない」

 

「………………っ」

 

 

 

 二人にそう言われているダイヤさんは黙って果南さんの背中に顔を埋めている。だが露わになった耳がこれでもかというくらい赤い。失礼だが、今までとのギャップがありすぎてちょっとニヤけてしまった。

 

 

 

「そうか、朝っぱらからお疲れさん」

 

「二人も大変なんだね」

 

 

 

 そんな風に信吾と僕は二人に労いの言葉をかける。しかし、僕の言葉を聞いた途端、顔を隠していたダイヤさんが少し顔を上げてギロッとこちらを見つめてきた。だけどいつもの威圧感はそこにはない。睨みつけられているのに、何気ない微笑みを浮かべることができるくらいの心の余裕が僕にはあった。

 

 

 

「ふふ、特に夕陽くんに見られるのは嫌だったみたいだよ?」

 

「なっ!? 果南さん!」

 

「嘘を吐いても良いことないわよ、ダーイヤ?」

 

 

 

 なんて、果南さんと鞠莉さんが嫌な笑顔を浮かべながら僕らに言ってくる。そ、それは、一体どういうことなのだろう。

 

 

 

「ふーん。昨日は夕陽におぶられてたのにな」

 

「橘信吾さん。貴方には言いたいことがあるので、学校に戻ったらすぐに生徒会室に来なさい」

 

「え。なんで俺だけっ?」

 

 

 

 ダイヤさんが生ゴミを見るような目つきで信吾を見下している。ヤバい。あの顔は本気だ。硬度が120%を越えてる。信吾は生徒会室で彼女に何をされるのだろうか。ちょっと興味が湧いてきてしまった。

 

 でも、信吾のことも嫌いじゃなさそうなのは見ていて安心した。昨日のこともあったし、二人が話をしているのを見れてよかったと思える。

 

 

 

「………………」

 

「ま、これ以上は言わないであげる。あんまりいじめるとダイヤが可哀想だからね」

 

「昨日の夜、部屋でしたガールズトークをユーヒに聞かせてあげたいデース」

 

 

 

 落ち着け僕……っ! 惑わされたら負けだ。ここで気になってる感じを少しでも出したら僕は自分の価値を自ら下げてしまうことになるだろう。男は如何なる時もどっしりと構えていなくてはならない。頼りないポーカーフェイススキルをここぞとばかりに活用しよう。

 

 

 

「夕陽。顔真っ赤だぞ」

 

「う、うるさいっ」

 

「ぐほっ」

 

 

 

 なんか無性に腹が立ったので信吾に向かって花丸直伝・夕陽ちょっぷ☆を食らわせた。予想外の攻撃に舌を噛んだみたい。だが僕は謝らない。少しは反省しろというものだ。

 

 恥ずかしくてダイヤさんの方を見ることが出来ない。いや、彼女たちが何を話してようが知ったことではないんだけどさ。誰も僕の事を話していたとは言ってないし。そんな感じのニュアンスを聞かされただけで何を焦っているのだろうか、僕は。

 

 

 

「でも、話せてよかったね。本当に」

 

 

 

 果南さんが誰かに向かってそんな言葉を零す。多分それは、彼女の背中にいる一人の女の子に向けて放たれた言葉。

 

 それには同感だった。偶然とはいえ、ダイヤさんの本音を聞けて本当によかったと思える。

 

 何故、彼女が僕に話してくれたのかは、まだ玉虫色のままだけれど。

 

 

 

「そーね。これでやっとダイヤも柔らかくなるかしら」

 

「………………」

 

 

 

 鞠莉さんがそう言うと、ダイヤさんはまた果南さんの背中に顔を埋めた。どんな表情をしているのか、想像しても上手くイメージできなかった。

 

 ただ願うのは、彼女が僕らに心を開いてくれること。閉ざされた心の壁を、ダイヤさん自身が壊してくれること。

 

 僕に出来るのは彼女の心の壁にヒビを入れることだけ。それを壊す権利は僕にはない。

 

 最後は、彼女が自分で砕いてくれることを、信じるしかなかった。

 

 

 

「あ、バス来ちゃったね」

 

「続きは学校に戻ってから話そうぜ。な、生徒会長?」

 

「五月蠅いですわ」

 

「辛辣ぅ!?」

 

 

 

 フレンドリーに話をしに行った信吾がダイヤさんに一瞬で打ち返されていた。残念だったね。なんかダイヤさんが言った“うるさい”の難しい漢字が頭に浮かんだんだけど、これはきっと気の所為だと思う。

 

 そんな彼女たちのことを眺めながら、地面に置いていた自分の荷物を持った。

 

 これからもっと、彼女を知ることが出来ますように。

 

 そんな祈りを、春の快晴に捧げて他の男子たちが待つ方へと歩き出す。

 

 

 

「果南さん」

 

「ん? どうしたの、ダイヤ」

 

 

 

 背後でそんな声が聞こえたけど、それ以降の言葉は耳に入らなかった。

 

 

 

「よう、夕陽」

 

「なんか嬉しそうな顔してんな。良いことでもあったか?」

 

 

 

 近づいて行くと、男子たちが笑顔で迎えてくれる。ああ、そうだ。僕にとって、このクラスメイトが心から大切に思えるもの。彼らがいなければ、僕は勇気を出すことが出来なかった。

 

 このクラスを守りたいから。そして、新しいこの共学生活をできるだけより良いものにしたいと願ったから、僕は踏み出す勇気を持てたんだ。

 

 

 

「うん、そうかもね」

 

 

 

 そう言って微笑む。すると全員がまたあの男臭い笑い顔を見せてくれた。僕なんかよりも嬉しそうな顔をして、みんなは笑っていた。

 

 この林間学校で果たしたかったことは、すべて果たせた。女子生徒との距離を近づけて、その確執を取り除くことが出来た。

 

 あの計画が実ってよかったと心から思う。やっとスタートラインに立てた、という実感が僕には確かに在った。

 

 春の空を仰ぎ、息を吸った。なんだか、昨日ここに来たときに吸った空気よりも澄んでいる感じがした。

 

 

 

 吸った息を吐いてもう一歩、男子たちの方へと近づこうとした時。

 

 

 

 

 

「─────あの」

 

 

 

 

 

 聞き覚えのある声が、背後から聞こえた。

 

 

 

「?」

 

 

 

 疑問符を浮かべながら、後ろを振り返る。そこには果南さんと彼女におぶられた生徒会長がいた。

 

 女子たちが乗る筈のバスは向こうに停まっているのに、どうしてこんな所にいるんだろう。恐らく、近くにいる男子たちは全員がそう思って彼女たちのことを見つめていた。

 

 果南さんは口元を緩ませながら目線を僕らから外していた。その顔は、自分は何も言うことはないというような表情。

 

 背中にいる女の子に頼まれてやむなく来てやった、みたいな顔だった。

 

 

 

「………………」

 

 

 

 果南さんにおぶられているダイヤさんは、僕たち男子の顔を黙って見渡す。彼女がそうしている最中、誰も言葉を発することはなかった。

 

 いつもとは明らかに違う雰囲気を纏う生徒会長を、何も言わずに見つめていた。

 

 

 

「その…………」

 

「ダイヤ、さん?」

 

 

 

 生徒会長は何かを言おうとしているのに、言いづらそうに口を開けたり締めたりを繰り返す。

 

 頬は若干、朱に染まっている。あと、チラチラと僕の方を見てくるのは何故なのだろう。何かやましいことでもしてしまっただろうか。身に覚えはないが、もしあったのなら全力で謝ろう。

 

 そんなことを思っていると、意を決したようにダイヤさんは男子に向かって口を開いた。

 

 

 

「あなた方のお陰で、この林間学校が良いものとなりました。感謝いたします」

 

 

 

 小さな声で、目線を真横に向けながら彼女は言った。僕は耳を疑った。でも、たしかにダイヤさんは口にした。

 

 忌み嫌っていた僕らに、感謝の言葉をくれたんだ。

 

 理由はわからない。わかるのは、あれだけ男子を避けていた生徒会長が、自ら僕らに歩み寄ってくれていることだけ。

 

 

 

「あの課題を全員がクリアしてもらえたのは、少しだけ嬉しかったですわ」

 

「え?」

 

 

 

 ダイヤさんは続けてそんなことを言った。あの課題? 頭を悩ませる。それは、なんのことを指しているのか。

 

 少し考えてみたら、すぐに答えは見つかった。全員が課題をクリアした。そして、彼女が嬉しかったという意味。

 

 訝しむような視線を向ける。すると生徒会長を背負う果南さんが微笑みを浮かべた。

 

 それから、果南さんはおぶっているダイヤさんに見つからないように、声を出さずに唇の動きだけで僕らに何かを伝えてきた。

 

 

 

『あれは、ダイヤの仕業』と、果南さんは口の動きだけで僕らに言った。

 

 

 

「それって…………」

 

「昨日のミッションを考えたの、生徒会長だったのか?」

 

 

 

 僕の言葉を横取りして、信吾がダイヤさんに訊ねる。

 

 信吾が言ったのは、昨日のハイキングの最中に時折出てきたよくわからない張り紙のこと。ヤマメを獲ったり、それを班のみんなで食べたりしたあの課題のことを言っているのだろう。

 

 数秒の間を置いて、黒髪がこくりと頷く。それが肯定の意であることは、誰が見ても明白だった。

 

 

 

「へへ。結局ばらしちゃったね、ダイヤ」

 

 

 

 果南さんがそう言って笑う。おぶられているダイヤさんは居心地が悪そうに目線を逸らしている。

 

 素直に意外だった。なんであんな奇想天外な課題をこの子が出したのか。

 

 少し考えたら今度はその思惑がわかった。もしかしなくても、ダイヤさんは。

 

 

 

「はは。結局、生徒会長も俺らと仲良くしたかったんじゃん」

 

「橘信吾さん。陸上部の部費を大幅に削ることが今決まったのですが、よろしいですわね?」

 

「すんませんした。いや、マジでそれは勘弁してください」

 

 

 

 信吾が周りの目を憚らずに土下座した。惚れ惚れするくらい美しい土下座だった。それを見つめる果南さんが微妙に悲し気な顔をしているのは面白かった。

 

 でも本当に、信吾の言った通りだと思う。ダイヤさんは多分、この林間学校で男女が仲良くするのを期待していたんだろう。

 

 だから、あのカレーを作り始める前に彼女は誰にも見られないように笑顔を浮かべていたんだ。クラスの男女が仲良さそうに話しているのを見て笑っていた理由が、ようやくわかった。

 

 誰にも知られないようにあんな課題を作って、ダイヤさんは男子と女子の垣根がなくなるように手助けをしてくれていた。

 

 それを思うと、なんだか胸が熱くなる感じがした。

 

 

 

「…………そうか」

 

 

 

 誰にも聞かれないように、そう呟く。正直、嬉しくて何を言っていいかわからないくらいだった。

 

 そして、ダイヤさんの不器用さに笑ってしまいそうになった。本当に、この子は強がりで不器用な女の子なんだと、改めて思い知らされる。

 

 

 

「だから、その」

 

 

 

 ダイヤさんはまた男子たちの方へと目線を向けてくる。それから唇を尖らせながら、ポツリと言葉を零す。

 

 思わずニヤケてしまうような、彼女には似合わない素直な台詞を。

 

 

 

「…………あなたたちを少しだけ、認めて差し上げますわ」

 

 

 

「「「「………………」」」」

 

 

 

「特別、ですわよ」

 

 

 

 そんな、遠回しすぎる言葉。そう言ったダイヤさんは頬を赤く染めてぷいっとそっぽを向く。

 

 それから僕たち男子は全員顔を見合わせた。思っていることは多分みんな同じ。

 

 あの硬度120%の生徒会長に認められた。それが、嬉しくない訳がない。

 

 生徒会長である一人の女の子は僕らに見向きもせず、男子は彼女に下僕以下の扱いしかされなかった。

 

 なのに今、彼女は僕らを認めると言った。これを嬉しいと言わず、なんと言えばいい。

 

 

 

 数秒の空白。そして、僕らは笑顔を浮かべて春の空に向かって声を放つ。

 

 

 

「「「「よっしゃぁあああああああああああああッ!!!」」」」

 

 

 

 そんな、男らしい雄たけびの重なりを気持ちの良い快晴に響かせた。

 

 

 

「か、勘違いしないでくださいっ。別にあなたたちの全てを許した訳ではな」

 

 

 

「生徒会長がデレたぞぉおおおおおおおおおおおおおお!!!」

 

「120%だった硬度が100%を切ってるぅううううううううう!!!」

 

 

 

 馬鹿なことを叫びながら、男子たちは駐車場を頭の悪い犬のように駆け回り始める。ダイヤさんの言葉はもう彼らには聞こえていないようだった。

 

 僕も本当はあの中に混ざりたかった。それくらい、今の言葉は貴重なものだったから。

 

 思わず顔が綻んでしまう。隣にいる信吾と目が合い、同時に笑い合った。

 

 これでよかったんだ。積み重ねた努力が無駄にならなくてよかった、と心の底から安堵した。

 

 

 

「さ、私たちは戻ろうか」

 

「ちょっ、待ってください果南さん。私はまだ」

 

「いいからいいから~。あんまりしつこいと夕陽くんに嫌われちゃうぞ?」

 

「だからあの人は関係ないと─────!」

 

 

 

 そんな話をしながら、ダイヤさんを背負った果南さんが女子たちが待つバスの方へと戻って行く。背中にいる生徒会長はぽかぽかと果南さんの肩を叩いていた。

 

 その二人の姿を見送り、僕は男子たちがはしゃいでいる方へと歩き出そうとした。

 

 

 

 ──────リン。

 

 

 

「え…………?」

 

「ん? どうかしたか、夕陽」

 

 

 

 

 

 聞こえる筈のない音が聞こえ、僕は動かしたばかりの足を止めた。

 

 辺りを見渡す。でも、そんな音が聞こえてくるようなものは何もなかった。

 

 聞こえたのは、美しい鈴の音。それは生まれて初めて聞いた、綺麗な旋律だった。

 

 なんで今、その音が聞こえたのかは知らない。誰が鳴らしたのかもわからない。

 

 だから、今のはきっと気の所為だった。それか、昨日の夜に聞いた熊避けの鈴の音がまだ耳の中に残っていたのかもしれない。

 

 

 

「…………いや、なんでもないよ」

 

 

 

 僕は信吾にそう言って、男子たちの方へと歩き出す。

 

 

 

 ポケットに入れたあの玩具のダイヤを握りながら。

 

 

 

 なんだか、硬いはずのそれが今はいつもより柔らかく感じた。

 

 

 

 

 

 そんなこと、あるはずもないのに。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 生徒会長は砕けない 

 

 第一章 終

 






次話/初夏に吹く透明な風


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第二章/青春ダイヤモンド
初夏に吹く透明な風


 

 

 

 

 

 Monologue/

 

 

 

 

 

 

 むかしむかしあるところに、宝石の名前を持つ一人のお姫さまが居ました。

 

 お姫さまはその名の通り美しく、可憐で、たくさんの人々から愛される存在でした。

 

 誰よりも綺麗である事。そして、穢れのない生き方をする事。

 

 それが、お姫さまに与えられた使命でした。

 

 お姫さまは使命に背く事なく生き、宝石のように硬い意志を持って穏やかな毎日を過ごしていました。

 

 

 

 ですがある時、お姫さまが住む城に一人の魔女が訪れます。

 

 誰にも解く事が出来ない呪いをかける事で有名な悪い魔女。

 

 その魔女は宝石の名前を持つお姫さまを追い詰め、言いました。

 

 

 「誰よりも美しく硬いお前は、宝石そのものだ」と。

 

 

 そして、お姫さまは魔女にある魔法をかけられてしまいます。

 

 かかったものは全身を透明な宝石で覆われ、深い眠りに就いてしまう魔法。

 

 

 

 「この魔法を解く事は出来ない。もし、砕く事が出来たなら、その者は本当の勇者であろう」

 

 

 

 最後にそう言い残し、魔女は笑いながら姿を消しました。

 

 残されたのは美しい宝石に全身を包まれてしまったお姫さま。

 

 どんなに硬い何かで叩いても、その宝石は割れません。

 

 どんなに声をかけても、宝石の中で眠るお姫さまは目を覚ましません。

 

 従者はすぐに国に住む力自慢達を探し、城に連れて来ました。

 

 そして、ある条件をその者達に言いました。

 

 

 

 「この宝石を砕く事が出来たのなら、その者にはお姫さまと結婚する権利を与える」と。

 

 

 

 誰よりも美しい美貌を持つお姫さまと結婚できる権利。

 

 その条件よりも甘い条件はこの国に住む男性には存在しません。

 

 男達は躍起になり、お姫さまを包む宝石を壊そうとしました。

 

 ですが、どれだけやっても宝石には傷一つ付きません。

 

 お姫さまはいつまでも、その中で眠ったままでした。

 

 行くら叩いても砕けない魔法の宝石。

 

 男達はすぐに「こんなものを壊せるわけがない」と言って、全員が匙を投げました。

 

 

 

 

 そんな時、偶然国に訪れた一人の旅人が城にやってきました。

 

 その青年は身体も小さく、どう見ても屈強な男達と比べてひ弱な見かけをしていました。

 

 そこに居る誰もが期待せずに旅人の青年を見守ります。

 

 ですが、彼はいとも容易くお姫さまを包み込んでいた宝石を砕き壊しました。

 

 城にいた誰もが目を見張り、その青年を見つめました。

 

 方法は誰にも分かりません。でも本当に簡単に、青年は誰にも壊せなかった宝石を砕いたのです。

 

 魔女が言ったのは、この宝石を壊せる者が本当の勇者である、という言葉。

 

 宝石を砕いた名も知らぬ旅人の青年はお姫さまと結婚する権利を得て、魔女の言う通りの勇者になりました。

 

 それからすぐに魔法をかけられていたお姫さまは目を覚まし、旅人の青年は美しいお姫さまに言いました。

 

 

 

 「僕に砕けないものはありません」

 

 

 

 その言葉を聞いたお姫さまは旅人に言います。

 

 

 

 「そのようですわね。ありがとう、名前も知らない勇者さま」

 

 

 

 青年は首を振り、また言います。

 

 

 

 「いや。やはりひとつだけ、砕けないものがありました」

 

 

 

 お姫さまは首を傾げます。青年は言葉を続けました。

 

 

 

 「それは、貴女の心です。貴女の心だけは砕けませんでした」

 

 

 

 そう言って、旅人の青年は城を後にしようとしました。

 

 ですが、お姫さまは彼を呼び止めます。

 

 そして、こう言いました。

 

 

 

 「いいえ。それはもう、砕けていますわ」、と。

 

 

 

 それから二人は恋人になり、やがて月日が流れて結婚し、その平和な国で幸せに暮らしましたとさ。

 

 

 めでたしめでたし。

 

 

 

 

 ─────たまには、こんなおとぎ話を読んでもいいですよね。

 

 

 

 

 短いお話だから、あなたも聞いてくれると思いました。○はこのおとぎ話が大好きなんです。

 

 優しい青年と宝石に包まれたお姫さまのお話。青年がどうやってあの魔法を解いたのかは、○にも分かりません。あなたには分かりますか? 知っていたら、ぜひ教えてください。

 

 ああ、そうですね。ちょっと休みすぎたかもしれません。そろそろあの物語の続きを読みましょう。

 

 これから読むのは○の大切な人と大好きな人のお話。その第二章です。

 

 今度は少しだけ、優しい物語。あなたが気に入ってくれたら○は嬉しいです。

 

 疲れてしまったらすぐに言ってください。また少し休んでから続きを読みましょう。

 

 時間がかかっても最後まで読んでほしいから。だから、○はいつでもここで待っています。

 

 準備はいいですか? じゃあ、始めましょう。

 

 

「これは、小さな祈りの物語」

 

 

 ようやく硬い心を開いた一人の生徒会長と、彼女に寄り添い続ける優しい少年の、一夏の物語。

 

 

 

 

 

 

 Monologue/end

 

 

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 

 

 

 季節は過ぎ、時は春から夏へと変わり始めた頃の事。いつもと変わらない時間に起床し、同じ朝の流れで一日をスタートした。

 

 まだ暦は六月。だというのに気温は高く、空気も何処か湿り気を帯びているように感じる今日この頃。普段はもっぱらインドアなので暑いのと湿気が多いこの気候は大嫌い。信吾のように外で生きる事しか出来ない人間には一生かかっても追いつけないと思う。

 

 今日は初夏の晴れ間が高い空から覗いていた。梅雨時期とあって日照時間も比較的少ない中、こんな風に気持ちよく晴れてくれると心も晴れるというもの。雨が降ると何故かテンションが上がる親友の事は気にしないでもいいか。どうせ今日も学校で会うし。

 

 

 

「花丸。境内の掃除は終わった?」

 

「ずらっ。今日もしっかりピカピカにしてきたずら」

 

「そっか。きっと仏さまも喜んでると思うよ。良い事が起きるかもね」

 

「えへへ。そうならいいずら~」

 

 

 

 朝の日課であるお寺の掃除を終え、茶の間に入ってきた制服姿の花丸と話をする。ちなみに僕の今日の担当は門の前の清掃だった。予定よりも数分早く掃除を切り上げて、それから朝ご飯の準備を始め、今に至る。

 

 下宿させてもらっている身だからこそ、家事の手伝いは積極的にしなくてはならない。もともとこういう掃除とか洗濯みたいな作業は嫌いじゃないからよかった。それを親戚に言うと『夕陽にはお坊さんの血が流れているからだよ』と月並みな理由を毎回説明される。間違いではないのだろうけど、それだけの理由でいいのかとツッコミを入れたくもなる。

 

 

 

「朝ご飯の準備、もう少しで終わるからね」

 

「うん、ありがと。おお、今日の朝は美味しそうな鮭ずらね」

 

 

 

 お腹を空かせた花丸の目がキラキラと輝いてる。身体が小さい割によく食べるのが彼女の生態。多分、僕の1.5倍くらいは食べる。結構本気で。僕が小食だからという事を加味しても花丸は大食だ。大好きな読書も三度の飯を越える事はない、と彼女は昔から胸を張って豪語していた。

 

 それなのに、高校一年生離れしたそのスタイルを保っているのはちょっと反則なんじゃないだろうか、と常々思う。たまに薄着の寝間着姿を見ると一気に眠気が覚めるのは僕だけの秘密。もしかしたら食べた栄養がある部分にしか行ってないのでは、と従兄として不安になったりならなかったり。いや、花丸も立派な女の子になったんだなと安心する時もあるよ、ちゃんと。特に胸を───静まれ、僕の煩悩。お寺で邪な事を考えてはいけない。仏さまから恐ろしい天罰を受けるかもしれないから自重しなくては。

 

 

 

「手を洗ってきたら一緒に食べようか」

 

「ずら。待っててね、ユウくん」

 

 

 

 パタパタと台所に向かう花丸の背中を眺めてから、朝ご飯の準備を再開する。

 

 最近、心が穏やかなのは自分にとっても良い兆候だと思っている。その理由もちゃんとわかってるから、別段不思議ではない。二カ月前まではあれほど億劫だった通学が、今では何の足枷もなく普通に出来ている。それはきっと、僕自身が変わったからではない。周りにある環境が感覚に適応してくれたから、自然な気持ちでいられるだけ。

 

 湯気が立つ赤味噌のお味噌汁を茶の間に運びながら、そんな事を思う。今日も良い日になればいい、そう思うと少しだけ心が躍る感じがした。踊り方を忘れていた筈の僕の心は、ようやく正しい動き方を思い出してくれた。不器用ながらも踊る心は、まだ見ぬ今日の一日にたしかな期待を抱いてくれている。

 

 

 

「ユウくんお待たせ~」

 

「うん。なら早く食べよう」

 

「ずら。準備ありがとね」

 

「ふふ、どういたしまして」

 

 

 

 そうやって、僕と花丸は食卓を挟んで向かい合って座る。穏やかな初夏の空気が流れる茶の間は、居るだけで落ち着く感じがする。いや、このお寺全体にそんな空気が流れていると言っても過言ではない。ここにある全てのものは僕の心を落ち着かせてくれる。もちろん、向かいに座る飴色の従妹も然り。僕も早くその一員になりたい。なんて、おかしな事を思ったりした。

 

 それから手を合わせ、二人でいただきますをしてから朝ご飯を食べ始める。自慢じゃないが僕も花丸も早起きが得意。まだ急ぐような時間ではないので、ゆっくりとした朝の穏やかなひと時を味わっていこう。

 

 箸を進めながら、向かいに座る飴色の従妹をぼんやりと眺める。そうしていると彼女も僕の方を見てきた。どうかしたのかな、と訊ねようとした時、僕よりも先に花丸が口を開いた。

 

 

 

「ユウくん、最近楽しそうずら」

 

「え? そうかな」

 

「ずら。マルは笑ってるユウくんの方が好きずら」

 

 

 

 頬っぺたに白いお米の粒を付けた花丸が笑顔で言ってくる。そんな姿を見て少し癒されながら、僕は自分の顔に手を触れてみた。

 

 変わってるところなんて自分ではわからない。でも、いつも一緒に居るこの子がそう言ってくれるのなら、本当に楽しそうにしているんだろう。

 

 

 

「それなら、よかったよ」

 

「やっと新しい学校にも慣れたずら?」

 

「うん。そうかも知れないね」

 

 

 

 そう言ってから白菜の漬物を口に入れる。それを咀嚼して、花丸が言ってくれた言葉と一緒に飲み込んだ。

 

 花丸の言う通り、僕はようやくあの学校に慣れた。学校だけではない、共に学校生活を送るクラスメイト。そしてこの内浦という街にも慣れてきた気がする。

 

 環境に適応すれば心に余裕が生まれるのは自明の理。僕だけではなく、僕らのクラスに居る男子生徒全員も同じような感覚になっていると確信していた。

 

 僕達男子は女子生徒達と打ち解けることに成功した。特に林間学校が終わった後から、その傾向が顕著に見受けられた。あれから僕らはようやく、あの耐え難い息苦しさから解放されたのだった。

 

 でも、気持ちが落ち着いているのはそれだけが原因じゃない。もっと大きな何かを成し遂げたからこそ、僕は今、自然に笑えている。

 

 

 

「よかったずら。四月の頃のユウくんは、ちょっぴり元気がないように見えたから」

 

「ああ、それは間違いじゃないよ。ほんとに元気は出なかったし」

 

「でも、今はいつものユウくんずら。元気なユウくんを見てるとマルも嬉しいずら」

 

 

 

 なんて、僕の方が嬉しくなるコメントをくれる花丸。口には出さないでいてくれたけど、心の中では心配してくれていた優しい従妹に感謝したくなった。

 

 

 

「ありがと、花丸」

 

「えへへ。どういたしまして、ずら」

 

 

 

 帰りに松月のみかんどら焼きを買って来なきゃ、と頭の片隅にメモをする。嬉しい事を言われると嬉しい事を返したくなる性分なので、今回もしっかり返さなくちゃ。

 

 今は本当に楽しい毎日を送れている。たしかに、統合が決まる前に過ごしていた男子校生活も恋しくなる時はあるけれど、近くに女の子の存在があるこの生活も悪くないと思える。一度慣れてしまえばなんて事ない生活だった。四月の頃の僕は多分、同い年の女の子に勝手な幻想を押し付けていただけだったのだろう。

 

 女の子は自分とは違う生き物。中高と男子校に居たからか、そんな固定概念を押し付けてしまっていた。でもそんな事はなかった。あの学校に居る女の子達は、みんな僕らと変わらない普通の高校生。何もおかしなところはない。最近になって、ようやくそんな簡単な事に気づけたのだった。

 

 

 

「ユウくん、好きな人は出来たずら?」

 

「ぶふっ───!?」

 

 

 

 しれっと花丸がとんでもない事を訊いてきた。啜っていた味噌汁を盛大に吹いてしまい、ついでに気管の中にも入り込んでしまって咳が止まらない。急にどうしたんだ。一体何処からそんな話題が出てきたのだろう。

 

 気管支の中を探検し始めた味噌汁を咳で呼び戻す。何度か繰り返していたらすんなりと帰って来てくれた。君達が行く場所はそっちじゃない。黙って食道の方へ行ってくれ。

 

 花丸は僕の焦り具合を見ても『ずら?』と首を傾げるだけ。なんでそんなに平然としていられるのだろう。一人で焦っている僕がバカみたいだ。

 

 

 

「な、何を言い出すの、花丸」

 

「ユウくんは優しいから、女の子に人気があると思ったずら」

 

 

 

 なるほど。だが何故いきなりそんな話が出てくる。もしかして、花丸に彼氏が出来たのか? 誰だそんな輩は。もし、そんな奴が居るのなら僕が直々に一年生の教室まで赴いて個人面談をしてやる。そして納得するまで帰さない。この子の彼氏になる男は信吾のような奴しか認めないぞ。

 

 

 

「いやいや。だからってそんな話にはならないでしょ」

 

「でも、最近学校でユウくんを見かけると、いつも綺麗な女の人と居るずら」

 

「………………」

 

「だから、あの中の誰かが好きなのかなーって思ったずら」

 

 

 

 花丸は微笑みながらそう言ってくる。理由はそれか。何故このタイミングでそれを持ち出したのかは謎のままだが、とりあえず今は置いておこう。

 

 いつも一緒に居る綺麗な女の人。そう言われて思い浮かべるのはあの三人。正確には信吾も含まれる。信吾も顔だけは美少女だけど、それは一旦置いておこう。

 

 花丸の言う通り、最近はあの三人と信吾、そして僕。この五人でいる事が多い気がする。林間学校の班が同じだった事もあり、あれからは大体そのグループで行動しているのは僕だって自覚はしてる。

 

 だが、その中の誰かが好きという話にはつながらないと思う。それは、僕がおかしいのだろうか。恋愛に疎い僕にはそんな事すら考えられなかった。

 

 

 

「ち、ちがうよ。そんなんじゃない」

 

「そうずらか。残念ずら」

 

「なら、花丸は居るの? 好きな人」

 

「うん。居るよ?」

 

 

 

 ─────手に持っていた箸が、食卓の上に落ちる。一瞬、自分が今ここで何をしているかを本気で見失ってしまった。

 

 何、だと。仕返しをするつもりで冗談で訊いたのに、まさかそんな答えが返ってくるとは一ミリも予想してなかった。いったい何処のどいつだ、花丸の貞操を乱そうとする奴は。今日にでもレスリング部の連中を連れて一年の教室に向かうべきだろうか。でも、信吾みたいな超美少年とかだったら困るな。平凡な僕の話なんて聞いてくれないかもしれない。悲しい。

 

 

 

「………………っ」

 

「? ユウくん、どうして泣いてるずら?」

 

「ああ、いや。気にしないでいいよ」

 

 

 

 自分の愛する娘が嫁に行ってしまう感覚、って言うのはこんな感じなんだろうか。つらい。すごくつらい。あまりのショックの大きさに、三日三晩部屋に閉じ籠れる無駄な自信が噴水のように湧き出てきた。

 

 花丸に気づかれないように涙を流していると向かいからえへへ、といつもの笑い声が聞こえてくる。

 

 

 

「まぁ、うそずら」

 

 

 

 安堵の息を吐く。それはもう、身体中にある酸素が全て抜けて行ったと言っても過言ではないくらい、大きな息だった。花丸はいつの間に僕を不安に貶める高度なテクニックを手に入れたのだろうか。うっかり内浦の海に身投げする計画を企てるところだった。

 

 

 

「そ、そうなんだ。もう、ビックリさせないでよ」

 

「ふふ、ごめんね。ユウくんを見てたら冗談を言いたくなったずら」

 

 

 

 そう言って顔を綻ばせる花丸。たしかに、高校生ともなればこの子の魅力に気づかない方が難しい。本当の彼氏が出来るのも時間の問題、か。悲しいけど従兄としてちゃんと応援してあげなくては。花丸だっていつまでも子供じゃないんだし、恋人が居たってなんらおかしくない年頃なんだから。…………ろくな輩だったらただじゃ置かないけどな。おっと、つい本音が心の中で漏れ出してしまった。気を付けよう。

 

 

 ほのぼのと、そんな話をしながら二人で朝食を食べる何気ない朝。何の変哲もない一日が始まる事が決まっているだけの、穏やかな時間。

 

 たしか今日は、放課後に体育祭の話し合いをするって言ってたな。言うまでもなく、統合してから初めて行う体育祭。どんなものになるのかは僕には想像できない。信吾と果南さんは体育祭の話が出た時点でだいぶ興奮していた。鞠莉さんに『鼻息がベリーハードッ!』と言わしめるくらいテンションが上がってた。あの二人は運動が好きなので、仕方ないと言えば仕方ないのだろうけど。

 

 

 

「ずら?」

 

「あれ、誰だろう。こんな朝早くから」

 

 

 

 そうして朝ご飯を食べていると突然インターホンが鳴り、花丸と二人で目を合わせて首を傾げる。月曜日の朝早くから来客とはなかなかめずらしい。この家には今は僕らしかいない。となれば僕らが出るしかないのか。

 

 

 

「マルが出てくるね」

 

「うん。ごめんね、花丸」

 

「いいずら。変な人だったらすぐにユウくんを呼ぶから」

 

 

 

 箸を置き、立ち上がる花丸。家人である彼女が出るのは当然だが、少しだけ申し訳ない。

 

 茶の間を出て行こうとする花丸を眺めている時、僕はある重要な事を思い出した。

 

 

 

「あ、花丸」

 

「ずら?」

 

「頬っぺたにご飯粒ついてるよ」

 

 

 

 危ない危ない。人様の前でそんな顔を見せたら、花丸が恥をかいてしまう。そしてそれを見た誰かは僕のように癒されてしまうかもしれない。それなら止める必要もなかったんじゃないかと思ったけど、一応指摘しておいた。

 

 花丸は顔に付いたご飯粒を取り、それをどうするか数秒間悩み、最終的にパクッと食べてから玄関に向かって行った。あそこで食べなかったら花丸じゃない。ちょっと安心してしまったくらいだった。

 

 茶の間に一人になり、小さな孤独感を感じながら残った朝食を食べる事にする。

 

 

 

「…………体育祭、か」

 

 

 

 今までは周りに男子しか居なかったから、僕の中での体育祭のイメージは決まってしまっている。とにかく男臭く、ただうるさくて女々しさの()の字もないイベント。言い方を変えると男祭り。それが僕にとっての体育祭。別に運動が得意な訳じゃないので楽しみだと思った事もない。クラスのみんなで騒ぐのは好きだから、嫌いという訳でもないけれど。

 

 今年はそこに女の子が入ってくる。でも、なんでだろう。全然想像が出来ない。あの男祭りに女の子という美しいエッセンスが加えられるイメージがどうしても出来ない。自分の想像力の無さに呆れてしまう。いや、これは多分男子校で過ごした五年間の記憶が、あの中に女子を入れるという現実を拒絶しているだけ。頼むから現実を受け入れてくれ、僕の想像力。僕はもう男子校の生徒じゃないんだ。

 

 

 

「でも」

 

 

 

 きっと楽しいんだろうな、とは思う。恐らくだけど、あの頭の悪い猿のような男達は女子の目があればさらに燃える。女の子が見ているからこそ、本気になる奴も出てくるに違いない。やばい。イメージしてたら野生の雄の動物が雌に強さをアピールするために、他の雄と戦う姿を鮮明に思い描いてしまった。ああ、何となくわかってきたぞ。自慢じゃないが僕の予想は結構当たる。女の子が入っても騒がしい体育祭になるのは決定事項という事か。まぁ、華やかになるのは良いと思う。

 

 

 

『おーい。ユウくーん』

 

「ん?」

 

 

 

 そんな事を考えていると、茶の間の外から花丸の声が聞こえてくる。どうしたんだろう。まさか、本当に変な人がやって来たんじゃないだろうな。ここはお寺なのでそんな心配もないんだろうけど、万が一という事もある。念のため身構えて向かう事にしよう。

 

 箸を置いて座っていた座布団から立ち上がり、玄関へと向かう。長い廊下の突き当たりを右に曲がった所に玄関はある。そこら中に漂うお線香の香りに気を取られながら廊下を進んだ。

 

 誰が来たのかな、と思いながら突き当りを右に曲がる。

 

 

 

 ────そしてそこで、僕の身体と思考回路は同時に機能を停止した。

 

 

 

「あ、やっと来たずら。待ってたよユウくん」

 

「………………」

 

「………………」

 

 

 

 どういう事だ、これは。まさか、僕は幻覚でも見ているのだろうか。もしくは目がまだ覚めていないとか。ちょっと頬を抓ってみよう。

 

 

 

「…………痛い」

 

「ずら?」

 

 

 

 夢じゃない。ならばこれは現実。だが夢よりも性質(たち)が悪く感じるのは気の所為だろうか。

 

 目線の先。具体的に言うと玄関先に、ここに居る筈のない人が立っている。何度瞬きをしても、その人はそこから居なくならない。

 

 

 

 浦の星学院の()()()()は、むすっとした顔をして僕の方を見つめている。

 

 

 

「…………おはようございます」

 

「お、おはようダイヤさん」

 

 

 

 意外にも向こうから挨拶をされ、ようやく我に返る。しかし、なんだってこんな日のこんなタイミングでこの子がここにやってくるのだろう。あまりに突飛な現実に頭がついて行かない。あ、寝癖とかついてないかな。ついてたら恥ずかしい。他の誰かに見られるのは構わないけど、この子に見られるのはちょっと憚られる。

 

 花丸はニコニコして僕の事を見ている。ちょうどさっき好きな人とかの話をしていたからか、なんだか少し居心地が悪い。背中がむず痒くなるのを自覚する。

 

 

 

「どうしたの? 何か用でもあった?」

 

「いえ。朝にこちらの方へ用があったので、何となく寄ってみただけですわ」

 

 

 

 僕が訊ねるとダイヤさんはそう答える。いつも通り淡泊な返答。だけどあからさまに目を逸らしているのは何故だ。言葉は交わしたのにまだ一度も目を合わせてない。何かやましい事でもあったのだろうか。

 

 

 

「ふーん。でも、なんだって急に」

 

「た、ただの気まぐれですわ。変な詮索はしないでください」

 

「約束もしてないのに」

 

「ですから…………」

 

 

 

 頬を少しだけ赤らめながら、ようやくダイヤさんは僕の目を見てくれた。うん、今日もいつも通りで安心した。用があって近くに来たからと言って、このお寺に寄る意味はまだちょっとわからないけど。

 

 

 

「何か用があった訳じゃないんだよね?」

 

「先ほどからそう言っているでしょう」

 

 

 

 ギロッと睨まれる。けど今ではその視線も大して怖くはない。顔が赤いから、余計にやわらかく見えてしまうのは仕方ないだろう。

 

 

 

「ごめんごめん。じゃあ、一緒に学校行こうよ。すぐに準備するから。ね、花丸」

 

「ずらっ。マルも一緒に良いですか? ダイヤさん」

 

 

 

 僕らがそう言うと、ダイヤさんは仕方ありませんわね、というような顔でこくりと頷いてくれた。自分からここに来ておいてちょっと偉そうなのも彼女らしいな、と思ったりする。

 

 彼女が本当に気まぐれでここに寄ったのだとしても、嬉しく思える。せっかくだから三人で学校に行くのも悪くない。

 

 あれ? でも何か足りないような気がする。

 

 

 

「ダイヤさん。ルビィちゃんは居ないずら?」

 

「あの子は今日も寝坊ですわ。(わたくし)も朝が早かったので起こさずに出てきました」

 

「ずら~。ルビィちゃ~ん」

 

 

 

 そういう事か。僕が感じていた違和感は花丸の方が強く感じ取っていたらしい。悲しい表情をする彼女を慰めてあげたくなった。

 

 昨夜は一緒に行くと言っていたのに、とため息を吐くダイヤさん。という事は昨日からここに来るのは決まっていたらしい。それなら連絡をくれればよかったのに。今ではお互いの連絡先だってわかってるんだから。

 

 

 

「なら少し待ってて。すぐに準備するから」

 

「ずら。上がって待っててください」

 

「いえ、私は外で待っていますわ。気を遣わせるのも申し訳ないので」

 

 

 

 なんて、真面目な事を言い出す生徒会長。らしいと言えばらしいから、別に不思議ではない。

 

 初夏の風がダイヤさんの髪を揺らす。梅雨の晴れ間から降り注ぐ太陽の光が、彼女の綺麗な黒髪をいつも以上に艶やかに魅せていた。

 

 

 

「気にしなくてもいいのに」

 

「いいから早く準備なさい。遅刻しますわよ」

 

「ふふ、まだ七時前だよ」

 

「……う、うるさいですわ。ほら、早く行きなさい」

 

 

 

 そう言ってまた睨まれてしまった。でも、今のダイヤさんには硬さは見られない。いや、周りの女の子と比べれば相当硬いけど、出会ったばかりの頃と比べたら硬度は下がってくれてる。クラスの男子の真似をするなら多分40%くらい。120%だった頃と比較すればかなり柔らかくなっている。それが素直に嬉しかった。

 

 僕と花丸は顔を見合わせて笑い合う。それから急いで登校する支度をした。ダイヤさんが退屈しないように、出来るだけ早く。

 

 今日はどんな日になるだろう。そんな事を考え、思いを馳せる。

 

 そして、初夏の爽やかな空気を吸い込みながら、僕は制服のポケットに入っている玩具の宝石をそっと握り締めた。

 

 

 

 

 

 

 

 ─────第二章 青春ダイヤモンド─────

 

 





次話/普遍の宝石


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普遍の宝石

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 駿河湾から吹きつける海風が、海岸通りを歩く僕らの髪を揺らす。海辺に漂う潮の香りも今ではもう当たり前のものになってしまった。

 

 潮の匂いの隙間を縫うように、右隣から芳しい花のような香りが届く。隣を歩くのは僕よりも少しだけ背の小さい生徒会長。今は初夏だというのに、金木犀のような香りがしたのはきっと気の所為じゃない。

 

 一週間前くらいにブレザーから夏服へと変わり、また新しいデザインの制服を纏う事になった。妙に格好良いデザインなのは、僕らとしても喜ばしい。この制服で沼津駅前とかに遊びへ行くと、他校の友達からよく羨ましがられた。

 

 女子高と統合になったのは悲しい現実だが、悪い事ばかりではないのも事実。特に女子生徒の制服は抜群に可愛い。口に出したら確実に弄られるので、これは心の中で仕舞っておく事にする。セーラー服っていいよね。

 

 今日は気持ちの良い梅雨晴れ。例年であれば元気がない筈の太陽は、ここ数日の気晴らしをするかのように燦燦と輝いている。それに温度が付与されるのは自明の理。湿度が高い六月の空気に高温がプラスされ、不快指数がそれなりに高い事が何となくわかった。僕は湿気と暑いのが嫌いなので、それを尚更はっきり感じ取れる。

 

 前を向けば数十メートル先の景色が歪んで見える。ああ、今年初の陽炎を見てしまった、と少しだけ気を落とす。天気予報のお姉さんは今年の夏も暑くなると言っていたし、どうやら暑いのが苦手な僕に安寧はしばらく訪れないらしい。そう言えば、そろそろ気の早い蝉が鳴く頃だ。海も山もある内浦の蝉はやけにパワフルでうるさいイメージしかない。騒がしいのも得意じゃないので、出来れば今年は落ち着いた夏にしてほしいと切に願う。

 

 

 

「そう言えば、そろそろ体育祭の時期だよね」

 

 

 

 隣を歩くダイヤさんと花丸に僕は言う。三人とも特にお喋りな訳でもないので会話も少ない。僕らは凄くまったりした雰囲気で登校していた。前ならダイヤさんの威圧感に負けて口を出せない、みたいな事は多々あったけど、今はもうそんな事は自然と思わなくなっていた。

 

 

 

「そうですわね。実行委員も既に準備を始めていますわ」

 

「高校の体育祭、マルも楽しみずら~」

 

 

 

 事務的なダイヤさんとほんわかした感想をくれる花丸。どちらもいつも通りで安心する。そんな事を考えながら口を開く。

 

 

 

「浦の星の体育祭って、どんな感じなの?」

 

「どんな感じ、とは?」

 

 

 

 学生鞄を左肩に掛けているダイヤさんはこちらを見て首を傾げる。鞄の肩掛け紐を両手で持つ花丸も、興味深そうな視線を彼女に送っていた。

 

 

 

「変わった雰囲気とか、何か浦の星名物の種目とかあるのかなって」

 

 

 

 訊ねるとダイヤさんは視線を前に向けて何かを考えていた。多分、これまでの体育祭を思い出しているのだろう。綺麗な横顔を見ながらそう予測した。

 

 気を抜くと見惚れてしまいそうになる美しい黒髪が海風に揺られるのを見つめていると、彼女はまた僕の方を向いて答えてくれる。

 

 

 

「別に変ったところはありませんわ。他校のものと比べても普通だと思います」

 

「そっか。でも、今年は今までとは違うよね。当然」

 

「そうだね。なんと言っても今年は男の人がいるずら」

 

 

 

 ダイヤさんの返答に僕が答えると、花丸が横からリアクションをくれる。花丸は一年生だから去年との違いは分かってないのにそう言うって事は、恐らく僕らが感じてる違和感みたいなものを想像してくれてるんだろう。想像力が豊かな従妹を唐突に愛でたくなってしまった。ここでやったらお硬い生徒会長に何をされるかわからないので自重しておこう。

 

 

 

「それは、私も気にしていましたわ。どうなるのかはまだ予想がつきません」

 

「僕も同じだよ。女の子がいる体育祭なんて初めてだし」

 

 

 

 僕ら男子がそう思ってるならば、彼女達も同じだろう。僕のように中高と男子校じゃない人なら久しぶり、みたいな感覚かもしれないが、青春の酸いも甘いも理解したこの歳になって初めてを経験するだなんて思ってもみなかった。

 

 もちろん、楽しみじゃないと言えば嘘になる。同い年の女の子と接する機会など年に数回しかなかった僕にとっては、共学校の体育祭といったら超ビッグイベントだ。それを楽しみに思わない方が難しい。

 

 ダイヤさんはどう思ってるんだろう。彼女も僕とほとんど同じ境遇なので気になったりはする。でもダイヤさん、汗臭いのとか男同士のぶつかり合いとかを異常に嫌いそうな感じがするな。あくまでも感じ、だけど。上半身裸で走り回ってる男を生ごみを見るような目で見つめる硬度120%状態の生徒会長を想像した。果南さんとか鞠莉さんはノリが良いから盛り上がってくれそう。他の女子達も勢いに乗せれば大丈夫だろう。やっぱり問題はダイヤさんか。

 

 

 

「でも、楽しそうずら」

 

「そうかな。それならいいけど」

 

「ずらっ。マルは運動が苦手だから、楽しそうにしてるみんなを見てるのが楽しいずら」

 

 

 

 花丸は微笑みながらそう言ってくれる。ダイヤさんもそんな彼女の事を見て、ほんの少しだけ口角を上げているよう見えた。

 

 人気も車通りも少ない県道を東に進みながら、僕らは話をしていた。堤防の上に並んで羽根休みをしている数匹の海鳥が、通学路を歩く僕らの事を興味深そうに見つめている。

 

 そうして長浜城跡地前を抜け、緩やかな坂を下る。左手には蜜柑の直売所。今年の夏も美味しい夏蜜柑が取れるのかな、と期待してみたり。

 

 

 

「どうせなら、楽しい体育祭にしたいよね」

 

「………………」

 

「ね、ダイヤさん」

 

 

 

 ダイヤさんの方を見て言ったのに、彼女は気づかない振りをする。硬度は下がっても素直じゃないのは変わらない。それもこの子の魅力だと思うから、文句は言わないでおく。そんな風に思える僕はどうやら相当やられているらしい。最近信吾にそう言われる事が増えた。自分ではわからないけど、そう見えるのなら仕方ない。

 

 僕の言葉に、ダイヤさんは答えづらそうな表情を浮かべてる。今までの彼女なら否定してくるのが常だった。でも、今は違う。心を開いてくれた今は、僕らに本当の気持ちを教えてくれる。

 

 

 

「…………私は、別に」

 

 

 

 僕と花丸から視線を逸らすようにして、彼女は言った。それは否定の言葉。彼女を知らなかった四月の僕なら、その言葉だけで気分を落ち込ませていた事だろう。だが、今はそうならない。

 

 

 

「そっか」

 

「ですが」

 

 

 

 僕が言葉を返すと、ダイヤさんは続ける。それから逸らしていた顔をこちらに向けてくれた。

 

 そこにあるのは、一言で言えば照れくさそうな表情。紅潮した頬と少しだけ尖らせた唇。素直じゃない彼女の魅力は、ここに詰まっている事を僕はもう知っている。

 

 

 

「あ、あなた達がそう思うのなら、私も協力してあげますわ」

 

「「………………」」

 

「特別、ですわよ」

 

 

 

 そう言って、またぷいっと顔を背けるダイヤさん。今度は美しい黒髪から覗く耳が赤くなっている。その姿を見て、いつものように心臓が握り締められるような感覚に陥ってしまう。

 

 これは最近気づいたのだけど、僕は彼女の強がりや照れ隠しを見るとどうにも心臓にダメージを受けてしまう。そのうちうっかり止まったりしたら大変だ。でも仕方ない。こればかりは意思の力ではどうにもならないので諦めよう。

 

 僕と花丸は顔を見合わせて、笑う。ダイヤさんが素直じゃないのはいつもの事。それをこの数か月で花丸も理解していた。だから僕らは笑う。

 

 

 

「ありがとう、ダイヤさん」

 

「ダイヤさんが手伝ってくれるなら、きっと楽しい体育祭になるずら」

 

 

 

 そんな言葉を、僕らは天邪鬼な生徒会長に向かって言う。するとダイヤさんはふん、と僕らの顔を見て言葉を返してくれた。

 

 何処か誇らしげなその顔は、本当に彼女らしいと思った。

 

 

 

「当り前でしょう。私を誰だと思っていますの?」

 

 

 

 浦の星学院第一期生、生徒会長。

 

 

 

 それが、僕の知ってる黒澤ダイヤという女の子の肩書き。

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 それから色んな話をしながら歩き、気づけば学校前の傾斜が急な坂道を僕らは歩いていた。学校が始まったばかりの頃は体力がない僕と花丸は途中で休まないとこの坂を上り切れなかった。僕は数日で慣れたけど、花丸は今でも時々止まらないといけない。調子が良い日は上り切れるが大抵は途中で一休みをするのがお決まり。どうでもいいが、休んでいる時に果南さんと出会うと花丸を背負って校門まで連れて行ってくれる。それだけの事をやった後に『朝の運動にはちょうどいいね』と爽やかな笑顔を浮かべながら言い切れるあの子は、本当に凄いと思う。あの信吾が驚愕するほどの体力の持ち主だからな。あの子を見てると、運動音痴の自分が情けなくなるときがあるのは言うまでもない。

 

 夏蜜柑畑が周りに広がる坂道を三人で歩く。家を出るのは早かったが、今日はバスを使わないで歩いて来たから登校時間が早い訳ではない。坂には生徒の姿がちらほらと見える。統合して全校生徒が増えはしたが、それでも多いと言えるほどでもない。それでも女子生徒の姿がある事自体、僕らにとってはめずらしい光景なんだけれど。

 

 

 

「あ、そうだユウくん」

 

「うん? どうしたの花丸」

 

 

 

 額に汗を滲ませた花丸が、坂道の途中で立ち止まって名前を呼んでくる。今日はこの辺で一休みする頃かな、と思いながら彼女の方を向いた。ダイヤさんも僕の横で立ち止まってくれる。

 

 花丸は持っていた学生鞄を開けて、その中から何かを取り出す。訝しみながら何が出てくるのかを待っていると、飴色の従妹はいつも通りの緑色の風呂敷を取り出して、それを僕の方へと差し出してくる。

 

 

 

「えへへ。今日も早起きしてお弁当作ったずら」

 

「ああ。いつもありがとね」

 

「………………っ!?」

 

 

 

 そのお弁当が入った風呂敷を受け取る。僕も早起きなのは自負しているけど、花丸はもっと早起き。お日様よりも早く起きるのが彼女のルーティンらしい。お寺に下宿させてもらう事になって一番驚いたのはそれだった。今からの時期は相当早くお日様も起きるだろうけど、きっと花丸はその宣言通りにするだろう。

 

 そんな花丸は、早起きして僕にお弁当を作ってくれる時がある。頻度は割と多い。たまには僕も作ってあげなくては、と思うけど僕は料理が出来ないし、ついでに彼女よりも早起きをする自信はどう考えても持てない。

 

 

 

「どういたしまして、ずら」

 

「無理しなくてもいいからね。自分で準備も出来るからさ」

 

「……………………」

 

「ううん、それこそ気にしなくていいずら。マルは好きでやってる事だから」

 

「そっか。ならしばらくは花丸に甘えちゃおうかな」

 

「……………………っ!」

 

 

 

 そんな嬉しい事を言ってくれる花丸の頭を撫でてあげる。えへへ、と無邪気に笑う飴色の従妹。こんなに出来た従妹を持てて幸せだな、と思ってみたりする。

 

 坂道に優しい潮風が吹き、花丸の茶色の髪を揺らした。お線香と甘いお菓子が合わさったみたいな不思議な香りが鼻をくすぐる。なら今日もありがたくお弁当をいただこうかな。そんな事を思いながら花丸の髪から手を離した。

 

 ─────そこで、僕は自分がしてしまった過ちに気づく。

 

 

 

「はっ!?」

 

「ずら?」

 

「……………………」

 

 

 

 僕の近くに立っていたダイヤさん。彼女の視線が完全に凍っている。季節は初夏だというのに、そこには温度が感じられなかった。絶対零度の深碧は僕を捉えている。それは目だけで息の根を止めるのではないか、と本気で思ってしまうくらい威力を含めた視線だった。いや、彼女がそんな目で僕を見てくる理由はよく理解してる。

 

 やってしまった。今のは完全に無意識だった。他の生徒の目がある所で花丸の頭を撫でてしまった事も問題だ。それ以上に問題なのは…………言うまでもない。

 

 

 

「あ、あの。ダイヤ、さん?」

 

「………………」

 

「ずら」

 

 

 

 名前を呼ぶが、返事はない。目線の先にあるのは無表情で睨みを利かせてくる生徒会長。マズい。彼女の硬度が段々上がってるのが感覚的に分かってしまった。そしてその恐ろしい空気にやられた花丸は『ずら』しか言わなくなってしまった。どうしよう。

 

 登校してくる生徒達は追い抜きざまに僕らに訝しみの視線を送りながら坂道を上がって行く。たしかに、朝から生徒会長が怖い顔をして立ち尽くしていたら気にもなるだろう。僕も第三者の立場なら気になっていたと思う。でも今の僕は第三者ではない。もっといけない立場にいるのはちゃんと自覚してる。

 

 

 

「えーっと。その、ごめん」

 

「………………」

 

「ずら」

 

 

 

 何をすればいいのかわからなかったのでとりあえず謝ってみた。しかし、ダイヤさんの様子は変わらない。もっと言えば花丸もそのままだ。こういう場合はどうすればいいんだろう。誰か助けてくれ。

 

 そんな事を考えていると、固まっていた生徒会長がようやく動き出す。僕と花丸は二人でビクッと身体を浮かしてあからさまな反応をしまった。こうなる気持ちは分かってほしい。美人な人が怒ると本当に怖いんだ。

 

 

 

「夕陽さん」

 

「は、はいっ」

 

「花丸さん」

 

「ずらっ」

 

 

 

 ダイヤさんは僕らの名前を呼んでくる。僕らは二人で一緒に綺麗な気をつけをする。隣のクラスの生徒が何やってるんだ、という目をしながら坂を上って行った。

 

 数秒の沈黙。駿河湾に浮かんでいる一隻の船が鳴らす汽笛が聞こえてくる。そんな音を聞きながら、ダイヤさんの声が聞こえてくるのを待った。

 

 怒られるかな。でも、この子はどんな理由で怒るんだろう。普通に考えれば公衆の面前でそういう事をするな、って事だよね。でも、それならそうと言えばいいのに。素直に言わないって事は、何か違う理由でもあるのだろうか。考えるだけ無駄なのは分かるけど、そう思わずにはいられなかった。

 

 

 

「…………あなた達は、随分仲がよろしいですのね」

 

「え?」

 

「ずら?」

 

「な、何でもありませんわ。ほら、いつまでも休んでないで行きますわよ」

 

 

 

 それだけ言い残し、彼女は一人で坂を上って行く。僕と花丸は顔を見合わせて、同時に首を斜めに傾げた。

 

 怒られなかったのが意外だった。それもある。けど、気になったのはダイヤさんの言葉。

 

 彼女は結局、何が言いたかったのだろう。女心がわからない僕には、あの子が考えている事は何も理解出来なかった。

 

 そうして、僕らもまた坂道を上り始める。

 

 目線の先にある綺麗な黒髪だけを、この目は捉えていた。

 

 

 

 

 

 





次話/楽園


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楽園

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

「じゃあまたね、花丸」

 

「今朝は急にお邪魔してしまって申し訳ありませんでした。花丸さん」

 

 

 

 一年生の教室がある二階に上がったところで、花丸は僕とダイヤさんの方を振り返る。いつもニコニコしている彼女だが、今日は一段と嬉しそうに見えた。

 

 

 

「ずら。ダイヤさんとユウくんと一緒に学校に行けて、マルは楽しかったです」

 

 

 

 なんて、嬉しい事を言ってくれる花丸。横に立つダイヤさんの横顔を盗み見ると、彼女は少し変な顔をしていた。変な顔では語弊があるな。もうちょっと具体的に形容するとダイヤさんは顔を歪めてニヤケそうになってる表情を必死に堪えていた。可愛い後輩にそんな事を言われて嬉しかったんだろう。こういう時くらい素直に笑えばいいのに。相変わらず頑固だな。あ、目が合った。

 

 

 

「…………なんですの」

 

「ううん、何でもないよ。ただ、ダイヤさんは面白いなーって思って」

 

「馬鹿にされているように聞こえるのですが、気の所為でしょうか」

 

「そんな事ないよ。僕がダイヤさんをバカにするわけない」

 

 

 

 ちょっとだけ嘘を吐いてみる。勘が鋭いダイヤさんは僕の思惑などすぐに分かってしまうのだろう。彼女はジトっとした目線を向けてくる。怖い怖い。

 

 そういう天邪鬼なところがあるからこそ、ダイヤさんなんだと思う。硬度が下がった今だからそんな前向きに捉える事が出来る。幸せだな、と思わずにはいられない。

 

 

 

「ありがとうございました。今度はマルも一緒にお昼ご飯を食べたいずら」

 

「だってさ、ダイヤさん」

 

「なぜ私に訊くのです」

 

「うーん。なんとなく?」

 

 

 

 答えは決まってる。その質問はダイヤさんに答えてほしいからだ。口には出せないけど。

 

 

 

「だめ、ですか? ダイヤさん」

 

「──────っ」

 

 

 

 花丸の上目遣いと首を傾げる仕草。とんでもない破壊力を持つそれを見て、ダイヤさんはたじろいでいた。無理もない。僕がダイヤさんの立場なら即答してる。そんな表情でお願いされたらどんな事でも了承してしまいそうだ。

 

 いつものように凛として冷静さを保っているように見えるが、それは勘違い。ダイヤさんの顔が徐々に赤くなって行くのが見て分かる。ポーカーフェイスが苦手なところも見ていて面白、もとい、魅力的だと思う。

 

 それから数秒の間を置いてダイヤさんは根負けするように小さく息を吐き、その血色の良い唇を開いた。

 

 

 

「…………いいですわ」

 

「ホントですか? えへへ、やったずら」

 

「よかったね、花丸」

 

「うんっ。じゃあ今度ルビィちゃんを連れて三年生の教室に行くずら」

 

 

 

 ダイヤさんにお許しをもらった花丸はそう言って微笑む。ダイヤさんは赤くなった顔を横に背けていた。年下に弱いんだな、この子。可愛い妹がいるからだろうか?いずれにせよ、また新しい彼女を知った。しっかり覚えていよう。

 

 

 

「楽しみに待ってるよ。それじゃあね、花丸」

 

「ずらっ。ダイヤさんも、ありがとうございました」

 

「……いえ。お気になさらず」

 

 

 

 そう言って、僕と花丸は顔を見合わせて笑った。そうして花丸は踵を返し、自分のクラスへと向かって行く。その姿を見送ってから教室へ向かう事にした。

 

 

 

「じゃ、僕らも行こうか」

 

「…………」

 

 

 

 ダイヤさんはこくりと頷く。それから僕らは階段を上り始めた。今日は良い日になる。根拠はない、でも、そんな確信が僕の中にあった。

 

 僕の見ている世界は四月に出会ったばかりの頃とは変わっていないように見える。でも、間違いなく変わっている。

 

 それはきっと、隣を歩くこの生徒会長のお陰。彼女自身に自覚はなくとも、僕はそう思っている。ダイヤさんの知らない一面を知れば知るほど僕の目に映る世界は新しくなって行く。そんな感覚があった。まるで目隠ししている薄い壁を一枚ずつ砕いて行く作業のように。その作業が心から楽しいと思えた。いつかその全て砕いて、彼女の全てを知る事が出来たらいい。

 

 

 

「ねぇ、ダイヤさん」

 

「なんですの」

 

 

 

 階段を上りながら隣を歩くダイヤさんに声をかける。少しだけ不機嫌そうな声音。まぁ、反応してくれただけ良しとしよう。

 

 

 

「今日はどうしてうちに来たの?」

 

 

 

 さっきは出来なかった率直な質問を投げかける。あのままうやむやにしてもよかったけど、こうして二人で居る時なら本当の理由を答えてくれないかな、とちょっとだけ期待してみたりする。だからそう訊ねた。

 

 ダイヤさんは口を閉ざしたまま足を動かす。僕は何も言わずに彼女の言葉を待った。理由がないのなら、それでいい。ただ、答えをくれるのなら嬉しい。

 

 

 

「先ほども言ったでしょう。そちらの方に用があった、と」

 

 

 

 でも、ダイヤさんはそう言った。玄関で聞いた言葉と同じ答え。頑なな彼女がこれでも返答を変えないのであれば、本当にそうだったのだろう。これ以上は訊かない。しつこい男は嫌われる、と信吾が言ってたから。

 

 

 

「そっか。でも、嬉しかった」

 

「……………………」

 

「ビックリしたけどね。ありがとう、ダイヤさん」

 

 

 

 素直な気持ちを言葉にする。それから横に視線を向ける。ダイヤさんはふん、と顔を僕から逸らす。少しだけ、頬が赤い気がした。

 

 

 

「あなたに感謝される謂れはありませんわ」

 

「そうだね。あ、じゃあ今度は僕が迎えに行くね」

 

「え?」

 

 

 

 そう言うとダイヤさんはこちらへ顔を向けてくる。驚いたような表情。それを見て、僕は微笑んだ。

 

 

 

「ダイヤさんの家にさ、花丸と行くから」

 

「ぁ…………」

 

「そしたら今度はルビィちゃんも一緒に、学校に行こうよ」

 

 

 

 そんな、果たせるかどうかわからない約束を言った。彼女が拒むのなら僕はそれが出来ない。でも、そうする事が出来たらいいな、とは思う。

 

 僕はダイヤさんや花丸のように魅力のある人間じゃない。そんな僕がこんな事を言うのは少し、違うのかもしれない。だからこれはダメ元。もし、受け入れてくれるのなら嬉しい。

 

 

 

「…………か、勝手にしなさい」

 

 

 

 隣から聞こえてきた答えは、そんなもの。肯定でも否定でもない、曖昧な返事。でもどちらかと言えば肯定の意に近い。

 

 それは、ダイヤさんの言葉ではなく、彼女の赤い頬が僕に教えてくれた。

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 

 

 三階に到着し、リノリウムの廊下を歩いて教室へと向かう。ダイヤさんはすれ違う隣のクラスの女子に挨拶をされ、それに返事をしながら歩いていた。流石は生徒会長。生徒からの支持の厚さがこういったところでも垣間見える。それを誇らないのもダイヤさんらしい。

 

 そんな事を考えながら教室の前に着き、僕はスライドドアを横に滑らせた。

 

 

 

「おはよー…………って」

 

「? おはようございます」

 

「お。夕陽、生徒会長おはよう。今日も仲良いな」

 

 

 

 挨拶をして教室に入るが、中ではよくわからない事が行われていて早速疑問符を頭に浮かべてしまった。隣にいるダイヤさんも首を傾げている。

 

 近くにいた男子に変な挨拶を返されたが流しておこう。僕の意識はそんな事よりも教卓の上で行われている()()に向けられてしまっていた。

 

 

 

「何やってるの?」

 

「ん? 見ての通り、腕相撲大会だ」

 

 

 

 その男子からしれっとそう言われるが、まだ腑に落ちない。ああ、たしかに僕の目線の先で行われてるのは腕相撲だ。だがなんで朝っぱらからそんな事をしてるのだろう。

 

 

 

「──────レディースエーンドジェントルメーンッ。準備はいいかしら~?」

 

 

 

 机の上に乗り、箒をマイク代わりにしてそんなパフォーマンスを魅せるのはクラスの中心人物でもある小原鞠莉さん。彼女の煽りに乗せられるようにクラスメイト達が反応する。男子も女子も関係ない。全員がノリノリで声を上げていた。しかし、なんだこの盛り上がりは。いつからここは格闘技場になったのだろうか。隣に立つダイヤさんが鞠莉さんを見ながら唖然としている。無理もない。

 

 

 

「何これ」

 

「よう夕陽、生徒会長。遅かったじゃん」

 

 

 

 目の前で行われている戦い?を見つめていると信吾が教室に入ってきた僕らに気づき、声をかけてくる。すごく楽しそうな顔をしてる。どうでもいいが、祭りとか騒がしいイベントを好む信吾は当然こんな雰囲気のものも好き。

 

 

 

「おはようございます、橘さん」

 

「おはよう、信吾。で、これは何」

 

 

 

 挨拶を返してから教卓の方を指差す。信吾はそちらを一瞥してからまた僕らと向き合った。

 

 

 

「ふっ、これはな夕陽」

 

「うん」

 

「購買のパン全員分を賭けた、男と女の仁義無き戦いだ」

 

 

 

 何を言ってるんだろう、この男。初夏の空気に当てられて頭が茹だってしまったのだろうか。ダイヤさんが信吾の事をヤバい目つきで見てる。硬度が100%を越え始めた。どうしよう。

 

 グッとサムズアップを決めながらドヤ顔で説明されたけど、まったく趣旨が読めない。一体どんな事からこの状況に発展したんだろう。

 

 

 

「もうちょっと詳しくよろしく」

 

「ああ。なんか果南が『男子ってホントに力強いの?』とか言い出したから、レスリング部の連中が腕相撲を挑んだら全員ボロ負けしてな。ハンデありだけど」

 

「それで?」

 

「そんで、女子に勝てなきゃ男が泣くと考えた俺達は果南に本気の勝負を挑んだわけだ。五戦やって一回も勝てなきゃ男子全員で女子全員にパンを奢る事になる」

 

 

 

 この盛り上がりはそれが理由か。如何にも頭の弱い僕らの男子達が考えそうな話だ。そこに僕も含まれているのは言うまでもない。負けたら僕の財布からもお金が抜き取られて行くのだろう。頼むから勘弁してくれ。そんな事を考えていると隣からダイヤさんのため息が聞こえてくる。

 

 見るとたしかに、腕を回して意気揚々と勝負に挑もうとしている男子と腕組みをして薄い笑みを浮かべて立っている青い髪の女の子──松浦果南さんが居た。彼女に負けたであろう数人の男子は教室の隅で並んで体育座りをしてる。あんな大きい身体をして負けるとか、果南さんが強いのかそれとも彼らの筋肉が見掛け倒しなのか。まぁどちらにせよあまり興味はない。

 

 

 

「ではでは4ラウンド目を始めるデースッ! いっくわよ~」

 

「ふふっ。今回も手加減しないからね?」

 

 

 

 マイクパフォーマンスをする鞠莉さんの声に乗るクラスメイト。果南さんは余裕な顔をして腕相撲をする準備をしていた。対するは野球部の男子。普通に考えれば男子が勝つのだろうけど、そうやらそのハンデとやらがえげつないみたいだ。

 

 教卓に肘をついて向かい合う二人。本来ならば互いの手と手を握り合ってやるものだが、今行われている腕相撲は違うらしい。

 

 男子は果南さんの手首を掴み、もう片方の手は何も握らずに背中の方に回している。対する果南さんは片方の手をしっかり教卓の角を握っていた。なるほど。あれなら相当なハンデがつくのも頷ける。あれでは男子の方は力が入らないし、手首を握っている事で倒すのにさらに強い力が必要になるのは明白だった。むしろあれで勝てと言う方が酷じゃないだろうか。可哀想に。とりあえず頑張れ、我が男子達。どうせなら派手に負けてほしいものである。

 

 

 

「それでは~……レディー、ゴーッ!!!」

 

 

 

 鞠莉さんの掛け声とともに始まる腕相撲。どうでもいいが戦う二人を応援する男女の声がうるさい。気づくとダイヤさんは一人で自分の机に座って教科書類の整理をしていた。こちらに興味はないらしい。あ、でもちょっと見てる。意外と気になるのかな。

 

 

 

「ファイトよかなーんッ」

 

「頑張れ、果南っ」

 

「任せな、さいっ!」

 

 

 

 つらそうな顔をしながらも善戦する野球部の男子。でも果南さんは涼しい顔をしてる。どちらが有利かは火を見るよりも明らかだ。

 

 そうして開始から十秒くらいで勝負は決した。当然、勝者は果南さん。彼女が男子を負かした瞬間、女子生徒達から高い声が上がり男子生徒達からは落胆のため息が漏れた。

 

 果南さんは腰に手を当ててふふん、と勝ち誇った表情を浮かべながら笑っている。負けた野球部の男子は例の如く教室の隅へと追いやられていた。ドンマイ。この悲しみを間もなく始まる最後の夏の大会にぶつけて。

 

 

 

「ちっ、また果南の勝ちかよ」

 

「みたいだね。次は誰が行くの?」

 

 

 

 信吾が苛立ちの声を上げる。いやでも、どさくさに紛れて果南さんの応援してなかった? あれは僕の幻聴だったのだろうか。謎だ。

 

 鞠莉さんの声を聞く限りでは既に四回戦が終わっているようだった。では次で最後という事になる。これで負けたら僕達男子はもれなく女子達全員に購買のパンを奢ってやらなくてはならなくなるらしい。いつも速攻で売り切れるあのパンを全員分、か。買いに行くまでもまた騒がしい事になりそうだ。授業が終わった瞬間、足の速い信吾が教室を飛び出して行く姿が容易にイメージできる。ていうか間違いなくそうなる。

 

 これ以上後がない男子達は次に誰をぶつけるか悩んでいるようだった。パッと見た感じ、運動部の連中は全員既に体育座りをしている。他にいるのは僕のように部活をやっていなかったり文化部に所属してる男子だけ。これでは相手にもならない。僕が行けと言われても絶対行かない。瞬殺される未来しか見えない。

 

 

 

「ふふ。男子達の力はこんなものかなん?」

 

「くそ、舐められたまま終わってたまるかよ」

 

「そうだな。ここで一発俺達の本気を見せつけてやる」

 

「満を持して俺達のエースを送ってやろうぜ」

 

 

 

 果南さんの挑発にわかりやすく乗る男子達。けど、エースとは誰の事だろう。他に残ってる運動部なんて─────

 

 

 

「あ、信吾」

 

「は?」

 

 

 

 居た。たしかに、僕の隣に立ってるこの男こそエースにふさわしい。ていうかなんで今まで出て行かなかったんだろう。信吾ならいの一番に挑みそうなものなのに。

 

 

 

「さぁ行け、信吾っ!」

 

「俺達の力を見せつけてやろうぜ!」

 

 

 

 男子達の視線が一斉に信吾へと向けられる。いつもなら自信満々に出て行く信吾だが、今日は様子がおかしい。何故か一歩後ろに下がってこの場から逃げようとしていた。どうしたんだろう。気分でも悪いのだろうか。

 

 

 

「い、いや。俺はいいって、他の誰かやれよ。ほら、夕陽とか」

 

「何言ってんだよ。夕陽じゃ松浦には勝てないだろ」

 

「夕陽の腕がへし折られる光景でも見たいのか、お前は」

 

「いいから早く行けよ。あいつに勝てんのは信吾しかいない」

 

 

 

 などと口々に言葉を紡ぐ我が男子達。うーん、すごい言われよう。どうやらみんなは僕の事を心配してくれているらしい。彼らには果南さんと対戦したら僕の腕が折れる未来が見えているみたいだ。素直に怖いのでここは黙って信吾に譲ろう。

 

 男子の言葉を聞いて信吾は苦虫を噛み潰したような顔をする。こういう楽しい事にはめっぽう強い信吾。でもやりたくなさそうな顔をしているのは何故だ。

 

 

 

「次は信吾くんだってよ、果南」

 

「ふふっ、信吾くんだからって手加減しちゃだめだからね?」

 

 

 

 女子達の方からはそんな声が聞こえてくる。目を向けると果南さんもちょっと戸惑ってる感じの表情を浮かべていた。鞠莉さんはまだ机の上に乗って『シャイニーッ!』とか何とか言ってる。ラウンドガールがよく似合うな、あの子。そんな才能が有りそうだと思ってしまうのは僕だけだろうか。

 

 男子達の説得は続く。それでも信吾は出て行かない。そんな姿を見て、僕は何となく彼が出て行く事を拒んでいる理由がわかってきた。よし、なら。

 

 ハイテンションでクラスメイト達を盛り上げている鞠莉さんの方へ近づき、声をかける。

 

 

 

「ねぇ、鞠莉さん」

 

「ンフ? どーしたのユーヒ?」

 

「ちょっとお願いがあるんだけど─────」

 

 

 

 そうして僕はある提案を鞠莉さんに伝える。どうやら彼女もその思惑に乗ってくれるらしい。太陽のような笑顔と可愛らしいウィンクを一つ貰えた。それを見てうっかり心臓が止まりそうになったのは秘密にしておこう。

 

 

 

「オーケイッ! ではネクストファイトはルールを変更して行いマース!」

 

 

 

 僕の言葉を聞いた鞠莉さんは良く通る高い声でそんな言葉を言い始める。何事か、とクラスメイトの視線は机の上に立つ鞠莉さんの方へ向けられた。それを見て彼女はニヤリと笑みを浮かべ、先ほど僕が言った言葉をここに居る全員へと周知してくれる。

 

 

 

「次の勝負はシンケンショーブで行きマースッ!」

 

「真剣勝負?」

 

「イエースッ! 果南に与えられたハンデをなくして本気のファイトを行ってもらうのよ。簡単でしょ? フフッ」

 

 

 

 果南さんの質問に鞠莉さんはそう答える。最後に妖艶な微笑みを浮かべたのは感情が思わず漏れてしまった感じに見えた。無理もない。僕も楽しみだからその気持ちがよく分かる。

 

 僕が提案したのは鞠莉さんが言った通り、最後の勝負はハンデ無しの真剣勝負にしてほしい、という事。理由は簡単。信吾がやらざるを得ない状況に追い込むため。そして、もうひとつ。僕と鞠莉さんが思ってる理由はたぶん同じ。

 

 鞠莉さんの言葉を聞いてまたクラスメイト達は盛り上がる。最終戦にふさわしいルール変更だ、とみんな思っているんだろう。信吾の方へ視線を向けると、彼は余計な事をした僕を睨みつけていた。仕方ないじゃん。だってこうしないと奥手な信吾はいつまで経っても前に出てこないから。

 

 

 

「よし、これなら勝てるぞ信吾!」

 

「え? ちょ、お前ら待っ」

 

「いいから行ってこーいっ!」

 

 

 

 男子達に背中を押され、強制的に教卓の前に出て来させられた信吾。彼の前には相手である果南さんが最後の勝負をする準備をしていた。

 

 

 

「…………」

 

「…………」

 

 

 

 他のクラスメイト達に煽られて彼らは向かい合う。何故か二人ともほんのりと顔が赤い。見てるこっちもちょっと緊張してしまう。

 

 そうしていると信吾は何かを決意するように一度大きく深呼吸をした。どうやらようやくやる気になってくれたらしい。

 

 

 

「…………やるぞ、果南」

 

「う、うん」

 

 

 

 そう言い合って二人は教卓の上に肘を乗せる。それを見てクラスメイト達のボルテージはさらに上がった。応援する声が教室内に木霊する。後ろの方の席に座ってるダイヤさんを一瞥すると文庫本を開きながらもこっちをジッと見てた。やっぱり気になってる。そんなに見たいのならこっちに来たらいいのに。

 

 

 

「ではではラストファイトを行いマースッ! フフ、二人とも準備はイーかしら~?」

 

 

 

 ラウンドガールを努める鞠莉さんが信吾と果南さんに問い掛ける。すると二人は同時に頷き、互いの手を握り合った。それを見て心の中でガッツポーズを決めたのは多分僕だけ。いいぞ、信吾。頑張れ、色んな意味で。

 

 そうして準備は出来る。一瞬だけ騒がしい教室が静かになる。クラスメイト達の視線は教卓を挟み合って手を握る茶髪の男と青い髪の女の子へと向けられている。

 

 それから数秒の間を置いて、鞠莉さんが大きく息を吸った。そして。

 

 

 

「行くわよ~? ラストファイト…………レディー、ゴーッ!!!」

 

 

 

 最後の戦いの火蓋が落とされる。ハンデ無しの真剣勝負。まぁ、正直言えば行くら力自慢の女の子だからと言って運動部の男子には勝てる訳がない。それは最初から分かっていた。

 

 だが、僕がした予想はそうではない。信吾が勝つ予想なんて一ミリもしていなかった。何故か? それは始まった最後の腕相撲の内容を見ていればすぐに理解できる。

 

 普通なら一瞬で勝負はつく。信吾は運動が得意だし力がない訳でもない。それなら流石の果南さんでも敵わない。けれど、今回の勝負は違った。

 

 信吾があれほど果南さんと戦うのを拒んだのにはちゃんとした理由がある。それは、あまりにも単純で淡い理由だった。

 

 

 

「………………」

 

「………………」

 

「「「「「………………え?」」」」」

 

「オーウ。ファンタスティック」

 

 

 

 勝負が始まったというのに、二人は動かない。信吾と果南さんは互いの手を繋いだまま魔法にかけられたように固まっている。それは力が拮抗している訳ではない。何処からどう見ても二人の腕には力が入っていなかった。それをクラスメイト達は訝しみながら見つめている。けどすぐに分かる。あの二人の顔を見れば、一瞬で全ての理由が理解出来る事だろう。

 

 手と手を繋ぎ、向かい合っている信吾と果南さん。その二人の顔は───ビックリするほど真っ赤に染まっていた。恐らく林檎やポストが驚くほどの赤。見ているこっちが照れてしまうくらい、二人ともこの状況を恥ずかしがっている。

 

 そう、信吾が戦うのを拒んだのは勝てないのが怖いからじゃない。単純に果南さんと手を握り合うのが恥ずかしかったからだろう。しかし果南さんまで赤くなるとは僕も思わなかった。それだけはちょっと予想外。でも想像よりも面白くなってきたのでちょっと嬉しい。

 

 

 

「頑張れ、信吾」

 

 

 

 沈黙の中、僕がそう言うと二人の純情さに気づいたクラスメイト達はヒートアップ。男女ともに大興奮している。

 

 二人が良い感じの関係にいる事はこの数か月でクラスの全員が気づいていた。なのに未だ一線を越えてくれない信吾と果南さん。美男美女同士で誰がどう見てもお似合いな二人。彼らが現在進行形で友達のままでいる理由は、こういうところにある。要約すると二人とも初心なのだ。それも思わず笑ってしまうくらいに。

 

 

 

「フゥッ! 作戦成功ね、ユーヒッ」

 

「そうだね。ふふ、どっちが勝つかな」

 

 

 

 鞠莉さんとそんな事を言い合い、未だに動かない信吾と果南さんを眺める。周囲の煽りを受けてさらに赤くなる二人。もう付き合っちゃえばいいのに。

 

 ダイヤさんの方に視線を向けると彼女も少し口角を上げながら信吾達を見ていた。あ、目が合った。すごい睨まれてるけど、まぁいいや。

 

 クラスメイト達に応援される信吾と果南さん。手を繋いだだけで固まってしまうなんて純粋にもほどがあるだろう。見ている分には面白いからいいけど、恐らく二人は必死だ。

 

 男女の垣根がなくなり、こんなに多くのバックアップを受けてるのにまだ前に進まない僕の親友。いい加減勇気を出して欲しいものである。親友として残念だよ。

 

 まぁ、二人が意識し合ってるのを見ているのは楽しいけどね。

 

 

 

「ち、ちがっ──────」

 

 

 

 クラスメイト達の煽りに何とか弁明しようとする信吾。だが、その言葉は吐かれる事はなかった。

 

 

 

「───っ! ちがーうっ!」

 

「ぎゃああああああっ!!!」

 

 

 

 真っ赤な顔をした果南さんが信吾の腕を教卓の上に叩きつけた。容赦なく、本気で。一瞬、信吾の腕が変な方向に曲がっているように見えたのは気の所為だと思っておこう。

 

 そうして最後の戦いが終わる。だけど、クラスメイト達の意識はそんなところには行ってない。どうやら勝敗なんてどうでもよかったみたいだ。

 

 

 

 ───男女の笑い声に包まれる教室。数か月前までは顔も名前も知らなかった僕らはこうして打ち解け合う事が出来た。初めの頃の息苦しさは何処にも見受けられない。いや、あの息苦しさがあったからこそ、今の空気が生まれているのかもしれない。

 

 高く飛ぶためにはしっかりと助走を取らなくてはならない。僕らにとって、あのつらかった日々は、きっとそんなものなんだろう。

 

 僕らはちゃんとそのハードルを越える事が出来た。そして、今の雰囲気を手に入れた。それは何にも代え難い大切なモノ。 

 

 二つの学校が統合し、つらい日々を越えてようやく分かり合えた。このクラスで過ごす一年が最高のものであればいい。僕の願いはそれだけ。

 

 ああ、少し嘘を吐いた。願いはもう一つある。

 

 

 

「………………ふふ」

 

 

 

 離れた所で僕らを見て微笑みを浮かべる生徒会長。あの子ともっと仲良くなる事。それが、僕が願う事。

 

 制服の中に入れたプラスチックの宝石を握り締める。今日は少し、硬く感じる。

 

 でも、あの頃と比べたらそれはずいぶんと柔らかくなっている気がした。

 

 開け放たれた教室の窓から入り込む、内浦に吹く初夏の風。

 

 季節はもう夏だというのに、青い春の空気はまだ、僕らの事を包み込んでくれている。

 

 

 





次話/あなたと走りたいのです


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あなたと走りたいのです

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 HR前に行われた腕相撲大会を経てからいつものように授業が始まり、僕らは何事もなくそれを消費。最後の戦いで果南さんに負けた信吾は、男子達から女装するか購買で女子生徒全員分のパンを買ってくるか、という選択を迫られていた。

 

 しかし頑なにどちらも嫌だ、と言い張った信吾。そんな言い分を頭の悪い男子達が聞くわけもなく、結局ウィッグを付けられ髪をポニーテールにされたまま泣きながら購買までパンを買いに行っていた。

 

 そんなダブルパンチを食らう彼の姿を悲しい表情で見ていた果南さんは、信吾が買ったパンを持つ手伝いに。そうして同じ髪型の男女が教室に戻ってきた瞬間、またクラスメイトのボルテージが上がったのは言うまでもない。

 

 女子達に『信吾くん可愛いね』と言われて三つ目のパンチをもらっていた信吾はしばらく一人で涙を流していたのであった。僕は鞠莉さんと一緒にちゃんと慰めたよ? ダイヤさんは似合いますわね、とか言って傷口に塩を塗ってたけど。

 

 

 

「───よーし、みんな揃ったな」

 

 

 

 そんなこんなで時は放課後。掃除を終えていつもなら生徒は部活に言ったり帰宅したりする時刻だが、今日はクラスメイト全員が教室に残っていた。

 

 教卓の上に立つのは信吾とダイヤさん、そして僕。みんなが揃ったのを確認して、信吾は教卓に手を置いてそう切り出した。

 

 

 

「では、体育祭の打ち合わせを始めますわ。夕陽さん、書記はお願いします」

 

「うん。任せて」

 

 

 

 今日は朝にダイヤさんが言っていた通り、クラスメイト全員を交えた体育祭の話し合いをする。仕切るのは男子のリーダーである信吾とクラス委員長と生徒会長を掛け持つダイヤさん。この二人が主導で話を進める事に異議のある人間はこのクラスには存在しない。むしろこの彼らがやらなければ誰がやるんだ、と言うまである。まぁやらなかったらやらなかったで果南さんと鞠莉さん辺りは率先してやりそうだけど、それは一旦置いておこう。

 

 クラスメイト全員の顔を見渡してから、前に立つ信吾は口を開く。

 

 

 

「言うまでもなく、次の体育祭はここに居る全員にとって人生最後の体育祭だ。これが終わったら次に体育祭をすんのは来世になる。言ってみりゃこれが最後のチャンスって訳だ」

 

 

 

 なんて、何とも信吾らしい言葉をみんなは黙って聞く。男子達は最初から慣れてたけど、最近は女の子達もちゃんと聞いてくれるようになった。初めの頃は全員の頭の上にクエスチョンマークが見えたからね。独特な感性を持つ彼の考えは分かるようでわからない時があるから難しいのだろう。僕は全部分かるけど。

 

 

 

「また来世でみんなと会えるかも分かんねぇし、とりあえず今回は全員で優勝を目指そうぜ」

 

 

 

 そう言って明るい笑みを浮かべる信吾。その表情に釣られるようにクラスメイト達は全員穏やかな顔になる。そんな顔を見られるのは僕も嬉しかった。横に立つダイヤさんの方を向くと彼女も満更ではないような表情をしていた。笑いたいなら素直に笑えばいいのに、と思ってみたりする。ダイヤさんはみんなが見ている所ではほとんど笑わない。まだ硬度が下がっている最中、という事で納得しておこう。

 

 

 

「フフッ。本気でやる、という事でオーケイかしら、シンゴ」

 

「ああ、そういう事だ。鞠莉の言う通り、やるからには本気でやる。終わった後に最高の体育祭だったって思うにはそれが絶対条件になる。勝ち負け以前に、全員が楽しめる体育祭にしたいってのが俺と夕陽の考えだ」

 

 

 

 そう言って信吾はこちらを見てくる。僕は一度頷いてみせた。この間、二人で帰ってる時に話したのはそんな内容だった。最後だからこそ、華々しく終わりたい。統合したばかりの僕らにとっては始まりであり、同時に終わりでもある体育祭。それを惜しまない訳にはいかない。それが、僕らの考えだった。

 

 この考えに否定的な意見を持つ人は居ないと確信している。中には冷めた生徒もいるかもしれないけど、絶対的な否定は出来ない筈。だって、この考えは間違ってはいない。正しいかどうかはわからないけれど、少なくとも的外れな方針でない事だけは胸を張って言える。

 

 

 

「泣いても笑っても、面白くてもつまんなくても、これで最後だ。だったら楽しかったって思える体育祭にしよう。それでいいよな?」

 

 

 

 信吾の言葉にクラスメイト全員が頷く。その光景を見て、彼はまたふっと笑った。

 

 本当に月並みな事かもしれない。今さら口に出すものでもないのかもしれない。けど、こうやって言葉にしなくては伝わらない。全員の思い出に残る体育祭にしたいと願うのならば、ここでクラスの気持ちをバインドさせる事が一番最初に行わなければならない事だった。一見必要と思われない微かな影響が何れ大きな何かに繋がる事を、僕らは知ってる。

 

 

 

「よし、なら俺達の目標はこれで行こう。名付けて───」

 

「「「「「名付けて?」」」」」

 

「“最後はみんなで華々しくフィナーレを飾ろうぜ大作戦”だっ」

 

 

 

 あ、クラスのみんなが落胆した。無理もない。ここまですごく良い感じでみんなの心を纏めていたリーダーが急に訳のわからない事を言い出したらそうなるのも頷ける。もう信吾には作戦の名前を付けさせるのを止めようよ。これは実際高一の頃から思ってる。二年をかけても信吾のネーミングセンスだけは磨かれなかった。恐らく彼は後で女装させられる事だろう。

 

 どうしたんだ、というような顔つきで肩を落としているクラスメイト達の事を見つめる信吾。むしろ君がどうしたんだ、とみんな言いたいと思うよ。果南さんと鞠莉さんはケラケラ笑ってる。ダイヤさんにあっては汚物を見るような目つきで信吾を見つめてる。気持ちは分かるけど、無自覚な信吾があまりにも可哀想なので止めてあげてほしい。

 

 そんな感じで方針は決まった。僕はダイヤさんに任された書記という職責を全うするため、信吾が考えたセンスゼロの作戦名を一応黒板に書き出す。書き終わり、後ろを振り返った先にあったクラスメイト達の「は?」みたいな顔つきはしばらく忘れられないと思う。

 

 

 

「言いたい事はそれだけですか、橘さん」

 

「おいおい。なんでそんな冷たいの生徒会長」

 

「いえ、お気になさらず」

 

「嫌な笑顔だな。俺が何をした」

 

 

 

 気づかない方が幸せだよ、と信吾に向かって心の中で呟く。僕はむしろダイヤさんが怒らなかった事に安堵したくらいだった。あの笑顔は確実に信吾を馬鹿にしてるものだ。自分の短所を知らない方が幸福でいられるのなら、親友としてその手助けをしてあげなくてはいけない。僕に出来るのは何も言わないであげる事くらいだった。頑張れ、信吾。僕は応援してる。

 

 

 

「それで、今年の体育祭はどんな感じでやるの?」

 

 

 

 椅子に座りながら頭の後ろで両手を組んでいる果南さんが問いを投げてくる。ダイヤさんが手元の書類に目を落とす。どうやらその質問には僕らの生徒会長が答えるみたいだった。

 

 

 

「今年の体育祭は、クラス単位でチームが分けられるようです」

 

「クラス単位?」

 

「ええ。統合で男子生徒が増えた事により、クラスが各学年に二つ出来ました。なのでその六チームで争い、優勝を決める、という内容になるそうです」

 

 

 

 ダイヤさんが簡潔にルールを説明してくれる。なるほど。クラス対抗で戦うって事になるのか。

 

 

 

「種目は男女で分かれるの?」

 

「いえ、全てが分かれるわけではないようですわ。せっかく共学校になったのだから男女の交友を深める為に、と混合で行われる種目も何種類かあるようです」

 

 

 

 果南さんの質問に答えるダイヤさん。ちょっと嫌そうな顔をしてるのは最早テンプレートなので無視しておこう。普通に会話できるようになっても、彼女は根本的に男子が苦手らしい。

 

 ダイヤさんの言葉を聞いて少し教室がざわつく。僕としても男女混合の種目があるのは少し意外だった。ダイヤさんが言った通り、男女の交友を深めるという目的があるのなら話は分かる。けれど、中高と男子校で過ごしてきた事でよくない固定概念が住み着いてしまっている僕の頭では、どうしてもその光景を描く事が出来なかった。

 

 

 

「でもいいじゃない、楽しそうで。マリーは賛成よ?」

 

「私もいいと思うけどね。あんまりくっついたりするのは、ちょっとあれだけど」

 

 

 

 鞠莉さんと果南さんはそう言ってくれる。果南さんにあっては後半少しお茶を濁す感じだったけれど、肯定してくれるのならそれはそれでいい。そう言いながら果南さんの視線が信吾に行っていたのを僕は見逃さなかった。もしそんな種目があるのなら確実に二人をペアにしてみせる。鞠莉さんに協力を仰ごう。彼女なら手伝ってくれる筈だ。それはいいとして。

 

 果南さんと鞠莉さんの言葉を聞いて、他の女子達もすんなりと納得してくれた。前までなら確実に嫌な顔をされていたけど、今は全員が話を分かってくれるのですごくありがたい。

 

 対する男子達の目は既に燃えていた。二年間も一緒に居ると考えている事が瞬時に理解できる。どうせ女の子達に良いところを見せてやろう、とか思ってるんだろう。分かりにくいよりはいいけど、分かりやすすぎるのもどうかとは思う。

 

 

 

「あと、優勝したクラスには学校から景品が送られるようですわ」

 

「景品? 何それ」

 

「さぁ、私にもわかりません。ここには何が送られるのかは書いていませんの」

 

 

 

 信吾の質問に首を傾げながら答えるダイヤさん。景品、か。たしかにそう言うモノがあった方が燃えるけど、具体的に何が送られてくるのかを示されないのはどうなんだろう。モチベーションが微妙に上がらない気がする。

 

 

 

「まぁいいや。どっちにしろ、やるからには勝たなくちゃ面白くねぇしな」

 

 

 

 信吾はそう言って、パシンと左の手のひらに右拳をぶつける。彼の言う通り、勝負をするからには勝った方が面白いのは言葉にしなくても理解出来る。運動部に所属していない僕ですら分かるのだから、スポーツが得意な人達はもっと腑に落ちるだろう。

 

 

 

「でも今年は大丈夫じゃないかしら~? 多分勝てると思いマース」

 

「なんでそう思うの? 鞠莉さん」

 

 

 

 ラフな感じで言ってくる鞠莉さんに、僕は問い掛ける。いくら彼女でも理由のない言葉は吐かないだろうから、その言葉の意味がちょっとだけ気になってしまった。他のクラスメイトもよく分からない、というような表情を浮かべて鞠莉さんの方へ視線を向けている。

 

 

 

「だって、このクラスには沢山スポーツマンが居るし~。それに」

 

「「「「「それに?」」」」」

 

「シンゴと果南が居るからきっと大丈夫デース」

 

「「「「「なるほど」」」」」

 

「ちょっと待てお前ら」

 

 

 

 鞠莉さんの言葉にクラスメイト全員が頭を頷かせる。僕ですら頷いてしまったくらいだった。信吾は何か言いたそうだけど、無視してもいいだろう。

 

 

 

「ああ、たしかに。信吾は生まれてから一度も徒競走で負けた事がないんだもんね」

 

「夕陽、お前まで言うか」

 

「だって事実でしょ?」

 

「まぁ、そうだけどさ」

 

 

 

 僕がそう言うと信吾はすぐに折れる。実際にそうなのだから嘘を吐いても仕方ないという事だろう。信吾をまだよく知らない女子達は驚いたような顔つきで彼の事を見つめていた。

 

 僕が言うのもなんだけど、信吾は信じられないほど足が速い。陸上で県内でも三本の指に入るくらいの実力者。そんな信吾は生まれてから一度も学校の徒競走で一位以外を取った事がないそうだ。僕は高校生になってから知り合ったけど、前の学校でも他の生徒に圧倒的な差をつけてゴールしてどよめきが上がるのを二年連続で見ている。今年もあれが見られるのか、と思うと少し楽しみになったりする。

 

 

 

「だから勝てると思いマース」

 

「いや、ちょっと待って」

 

 

 

 鞠莉さんの楽観的な言葉に待ったが入る。視線を向けると果南さんが何やら真面目な顔をして椅子から立ち上がっていた。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 席を立った果南さんの方にクラスメイト全員の視線が向けられる。教卓の前に立つ僕も、ダイヤさんや信吾も例外ではない。突然立ち上がった果南さんは難しい表情を浮かべながら顎に自分の指を当てて悩むような姿勢を取っていた。

 

 

 

「どうしたんだ、果南」

 

「うん。少し思うところがあってね」

 

 

 

 信吾が訊ねると果南さんはそう答える。思うところ、というと今の鞠莉さんの発言に対する事だろうか。そんな想像をしながら果南さんがその心を語ってくれるのを待つ。

 

 

 

「何か問題でもあるのですか?」

 

「いや、鞠莉の言ってる事は分かる。たしかにこのクラスにはたくさん運動部が居るし、他のクラスにも引けは取らない」

 

「ならどうして?」

 

 

 

 ダイヤさんの質問に果南さんはそう答える。でも、彼女の顔は晴れない。それを訝しんだ鞠莉さんがまた問いを投げた。

 

 果南さんは少しの間、考えるような素振りをする。そうして言いづらそうな顔をして血色の良い唇を開いた。

 

 

 

「でもね、二年生のクラスにもっと凄い二人組が居るんだよ。多分、あそこのクラスとはかなり良い勝負になると思う」

 

「二年生…………あぁ、もしかしてガールズの事ね?」

 

「そう。あの二人は体育祭とかにめっぽう強いから、あんまり楽して勝てるとは思わない方がいいかな」

 

 

 

 果南さんは僕らにそんな事を教えてくれる。なるほど。他のクラスに凄い生徒が居るって事か。でも、あの果南さんがそう言うくらいだ。その二人組は相当凄い体力を持ってるんだろう。鞠莉さんはガールズって言ってたから、恐らく女の子達なのか。どんな女の子なんだろう。ちょっと気になってしまった。

 

 

 

「ふーん。そんな子達が居るのか」

 

「男子だけなら分からないけど、女子だけの競技とか男女混合の種目はかなり接戦になるかもって事だけ覚えててよ。ごめんね、急に変な事言っちゃって」

 

 

 

 お茶目な感じでに手を合わせて微笑み、席に座る果南さん。ちょっと可愛いと思ってしまったのはしょうがないと思う。それを見た信吾は何故か心臓の辺りを押さえていた。大丈夫だろうか。うっかり心臓が止まったりしてAEDが必要な事態にならなければいいが。

 

 果南さんが言いたかったのは結局、そう簡単には勝てないという事。たしかに、最初から楽観的に行き過ぎてしまったら足元を掬われるのは目に見えている。ならば今のうちに対策を考えていた方がいい、と言う事をみんなに周知したかったのだろう。その考えを踏まえ、誰がどの競技に出場するのかを決定すればいい。

 

 

 

「分かりましたわ。では、ここからどの種目に誰が出るのかを決めて行きましょう。夕陽さん、これを」

 

「うん? ああ、分かったよ」

 

 

 

 そう言ったダイヤさんから種目が書かれたA4のレジュメを渡される。これを黒板に書いてほしいという事か。

 

 

 

「種目はどんな感じなの?」

 

「午前中に玉入れや綱引き、借り物競争などの男女混合の種目が行われます。午後からは男女別の種目になり、それからクラス対抗リレーと…………」

 

「? どした、生徒会長」

 

 

 

 信吾の質問に答えて行くダイヤさんの言葉が止まる。黒板に文字を映しながら聞いていたけど、手を止めて後ろを一瞥する。ダイヤさんは首を傾げながら手に持った書類を見つめていた。

 

 

 

「何故か分かりませんが、最後はリレーではなく男子の騎馬戦が行われるようです」

 

「「「「「ああ」」」」」

 

 

 

 ダイヤさんの言葉に男子全員が頷く。僕ですらも頭を縦に振った。彼女が訝しんでいるのも分かる。普通の学校なら最後の種目はリレーで終わるのが当たり前。けど僕らの男子校は違った。どうやら体育祭実行委員の誰かが僕らの男子校名物をこの浦の星学院の体育祭に輸入する事を決めたらしい。誰だ、そんな事をしたのは。ていうかあんなものを女子達の前で見せていいのだろうか。始まる前から猛烈に心配になってしまった。

 

 

 

「どういう事デースか?」

 

「ああ。知りたいのか、鞠莉」

 

「イエース。興味がありマース」

 

 

 

 興味津々の鞠莉さん。他の女子達も知りた気な顔をしている。仕方ない、というように信吾は息を吐いた。

 

 

 

「俺らの男子校の体育祭には、()()()()って言う名物競技があってな。まぁ普通に騎馬戦なんだが、内容がとにかくとんでもない」

 

「って言うと?」

 

「…………ここで言うようなもんでもないから、本番まで楽しみにしてくれると助かる」

 

 

 

 果南さんの問い掛けに信吾は曖昧に答える。その考えには僕も賛成だ。あれを説明するとなるとかなり骨が折れる事だろう。百聞は一見に如かずって言うし、どんなものなのかは本番でチェックしてもらうのがいいと僕も思った。今年もあれをやると考えただけでため息が出そうになる。ああ、今回は身体の何処に傷が出来るんだろう。止めよう、あんまり考えると体育祭の日に雨が降る事を無意識に願ってしまいそうになる。

 

 

 

「へぇ、信吾くんがそう言うならそうする」

 

「マリーもみんなも楽しみにしてマースッ」

 

 

 

 なんて、果南さんと鞠莉さんはそう言ってくれる。他の女子達も期待してる感じの面持ちだった。しかし男子達の顔は明るくない。信吾にあっては目線を窓の外に広がる青い海の方へと向けていた。去年は信吾の肩が外れかけたんだっけ。因みに僕は鼻血が出た。

 

 そんな感じで話し合いは進む。しばらくして僕はレジュメに書いてある種目を全て黒板に写し終わった。前の席に座ってる女子から『夕陽くんの字綺麗だね~』と言われてちょっと嬉しくなったりした。けれど、その女子と話している最中、なんかダイヤさんの視線が当たっているような気がしたけど、あれはなんだったのだろう。

 

 

 

「───それでは、皆さんで出場する種目を決めましょう」

 

「そうだな。んでも、どうやって決める?」

 

「とりあえず出たい種目に手を上げて行く感じでいいんじゃない?」

 

「果南の考えに賛成デース! フッフ~、今年は何に出ましょうか~」

 

 

 

 そうしてようやく種目決めに入った。クラスメイト達はどの種目に出るか近くの生徒と話し合っている。僕も例外ではないし、今のうちに考えておこう。

 

 

 

「夕陽は何にする?」

 

「僕? うーん。走ったりするのは得意じゃないし、玉入れとかでいいかな」

 

「えー。それじゃあつまんねぇだろ。もっと面白い競技をやろうぜ~」

 

 

 

 信吾にそう言われるが、僕からは何とも言えない。ていうか勝とうとするなら僕みたいなあんまり運動が得意じゃない奴をそう言う地味な競技に置く方がいいんじゃないかと思うんだけど、それはちがうのだろうか。

 

 

 

「はいはい。そうですね」

 

「悲しい。夕陽に流された」

 

 

 

 そう言って泣き真似をする信吾。面倒なので置いておこう。目線を横にずらすと、信吾の隣に立つダイヤさんは手元のレジュメに目線を落としていた。彼女は何に出ようとしてるのか気になってしまったので、僕は声をかける。

 

 

 

「ダイヤさんはどうするの?」

 

「? 私ですか?」

 

「うん。何に出るのかなーって思って」

 

 

 

 何でも卒なくこなすダイヤさん。見た事はないが恐らく運動も得意なんじゃないか、と思っていた。スレンダーな身体つきをしているし、すらりとした足は僕より長そう。ちょっと悲しくなってくるレベル。どうやったら身長が伸びるんだろう。今はそんな事はどうでもいいか。

 

 

 

「はは。生徒会長は男女混合種目でいいんじゃねぇの?」

 

「…………何を思ってそう言うのでしょうか、橘さん」

 

「だって、そしたら夕陽と一緒に組めるじゃん」

 

「ちょ、信吾っ?!」

 

 

 

 何やら信吾が変な事を言い始めた。急に何を言い出すのだろう、この男は。自分の命が惜しくないのか。どう考えても自分で自分の首を締めに行っているようにしか思えないこの言動。何でそう言う事を言うの。信吾が亡骸になるのはもう見たくないよ、僕。

 

 

 

「………………」

 

 

 

 ほら、言わんこっちゃない。ダイヤさんの綺麗な黒髪が逆立ち始めた。背中には修羅が見える(気がする)。彼女の硬度が上がった事に気づいたクラスメイト達は何事か、とこちらに目線を向けていた。

 

 

 

「橘さん」

 

「ん?」

 

「あなたは運動が得意なようなので、全種目に出場してくださいね。もちろん、女子生徒だけの種目も」

 

 

 

 怖い笑顔を浮かべながらダイヤさんは信吾のそう告げる。彼女が持っていたレジュメが強く握り締められていたのを、僕は見逃さなかった。

 

 

 

「いやいや。流石にそれはダメだろ…………ってお前ら。なんで全員親指を立ててやがる」

 

「「「「「いいね! それ賛成っ!」」」」」

 

「ぶっ飛ばすぞ」

 

 

 

 しかし、クラスメイト達はダイヤさんの意見に賛成。男子達は既に信吾用の女装セットを準備していた。なるほど。あれで変装して女子の種目にも出てこいという訳か。僕の個人的な予想だけど、多分ばれない。信吾の女装を見破る事が出来るのは恐らく、信吾を知ってる僕達だけ。

 

 ダイヤさんの提案により、信吾は強制的に全種目に出場する事が決定した。女子生徒達もキラキラとした視線を彼に送っていた。最近気づいたのだが、どうやら女子達も信吾の女装を見るのを心待ちにしているらしい。そして果南さんは特にその傾向が見られる。いつか信吾の本気を見せてやりたいものだ。でも、それは文化祭まで取っておこう。あれは本当に凄い。驚かない人間は居ないんじゃないかってくらい。

 

 

 

 ───そんな感じで、話し合いは続いて行く。男女の交友を深めるためと言いながらも、一緒に何かをしたりすると考えるとちょっと緊張してしまう。

 

 でも、最後の体育祭なんだからそんなのもありかもしれない。記憶に残るものにしたいのなら、拒むのも違う気がするから。

 

 

 

「………………」

 

「ん? どうかした、ダイヤさん」

 

「え? あ、いえ。な、何でもありませんわっ。何でも」

 

 

 

 そうして誰がどの種目に出るのかを書記である僕が黒板に書き纏めていると、ダイヤさんが僕を見つめていた事に気づいた。声をかけたけど、何故か目を逸らされてしまう。どうかしたのかな。

 

 そう思っている時、ふと彼女が持つレジュメの内容が目に映る。そこには、“二人三脚リレー”という文字が見えた気がした。

 

 どうしてダイヤさんが僕とそのレジュメを見ていたのかは分からない。分からないけど、僕はそれを見て自分が出る種目の一つを決めた。

 

 

 

「お。夕陽、二人三脚出んのか」

 

「まぁね。まだ出る人、少ないみたいだから」

 

 

 

 僕は自分で黒板に書いた二人三脚リレーの出場者の部分に自分の名前を記す。信吾には小さな嘘を吐いた。この種目に出る事を決めたのは、それが理由じゃない。

 

 

 

「………………」

 

 

 

 黒板に自分の名前を書き、目線を前に戻す。クラスメイト達はまだどの競技に出るか近くの友達とざっくばらんに相談をしている。

 

 彼ら彼女らの視線は黒板の方には向いていない。それを見て、ダイヤさんは何も言わずに白のチョークを持った。

 

 僕だけがその姿を見つめる。彼女が何を書くのか気になってしまったから。

 

 そうして、ダイヤさんはある場所に自分の名前を書く。彼女の白い頬が少しだけ桃色に染まっている気がしたのは多分、見間違いだろう。でも、黒板に書かれた文字は見間違いじゃない。

 

 

 

 ダイヤさんは二人三脚リレーの出場者が書かれている場所に何かを書いた。僕はそれに気づかない振りをして、彼女が書いたものを見つめる。

 

 

 

 

 

 そこには───国木田夕陽の名前の横に黒澤ダイヤ、という文字が記されていた。

 

 

 

 

 

 少しだけ幸せな気分になったのは、僕だけの内緒にしておこう。

 

 





次話/体育祭と青い春


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体育祭と青い春

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 そうしてあっと言う間に時は流れ、体育祭当日を迎えた。

 

 暦がまだ梅雨である事には変わりはないが、空は僕らの想いを受け入れたように晴れ渡ってくれている。

 

 天気予報のお姉さんは、一日雨が降らない代わりに気温が真夏並みに上がります、と可愛らしい笑顔を浮かべながら言っていた。あのお姉さんは意外と腹黒いのだろうか、とちょっと疑いを持ってしまう僕。まだ午前中であるというのに、真夏に近い空気が浦の星学院のグラウンドには流れている。茹だってしまいそうな天候だった。まだ何も始まっていないというのに。

 

 

 

「あー、やばい。私、早く動きたいんだけど」

 

「焦んなよ果南。これから嫌ってほど動いてもらうから、今はジッとしとけ」

 

「む。そう言う信吾くんだってそわそわしてるじゃん」

 

「そわそわじゃねぇ。俺はいつでも動けるようにストレッチしてんの」

 

「ふふ。そう言うのをそわそわって言うんだよ」

 

「…………たしかに。そうとも言うかもしれん」

 

 

 

 今は開会式が行われている最中。僕らはお揃いのオリジナルTシャツを着て、炎天下の中で律儀に整列してる。いや、若干二名程の男女は始まるのを待ち切れずにそわそわしてるけど。どんだけ動きたいんだ、あの二人。本当に似た者同士だな、と改めて思ってしまった。

 

 式台の上では生徒会長であるダイヤさんが注意事項やら、この体育祭に向けた意気込みなんかをマイクに向かって語っていた。

 

 生徒達は誰も興味を持っていない感じで彼女の話を聞いてる。僕も生徒会長があの子じゃなかったらそうしてた。でも、ダイヤさんだからこそ聞いていなきゃ、という気持ちになる。グラウンドに立つ生徒の中で一番真面目に彼女の話を聞いてるのは僕だ、という意味のない自信を持っていた。どうでもいい事かもしれないけど、ダイヤさんが僕らのクラスで作ったTシャツを着ている姿を見て、少しだけ嬉しい気持ちになったり。

 

 

 

 この間の放課後にクラス全員で体育祭に向けた話し合いをしてから今日を迎えるまで、同じようなミーティングを僕らは何度も開いた。趣旨はもちろん、優勝するには何をどうすればいいのか、というもの。かなり綿密な話し合いを繰り返し行い、僕達は今日を迎えている。

 

 信吾はこういう催し物に燃える性格をしているので、僕らも彼の熱意に負けて色んな作戦を立てるのに協力した。そこに果南さんと鞠莉さんが便乗してきたのは言うまでもない。

 

 あの子達も基本的にアウトドアな女の子なので、他の女子達を引っ張ってくれた。競技の練習まで付き合わされたのは、流石に勘弁してほしかったけれど。なんなの、借り物競争の練習って。あんなの生まれて初めてやったよ。そしてこれからの人生でも絶対に役に立つ事はないよ。

 

 そんな感じで、これで勝てなかったら悲しくなるレベルの準備をしてきた。あそこまでの熱量で体育祭の練習をしたのに、あっさり負けたらちょっと凹む。多分率先して僕らの前に立ってくれた信吾や果南さんはもっと悲しむだろう。そうならないように頑張らなくちゃ。

 

 

 

『───それでは皆さん、優勝目指して頑張りましょう』

 

 

 

 そんな事を考えていると、いつの間にかダイヤさんの話が終わっていた。しまった。途中から考える事に夢中で話に意識が行ってなかった。後で何を話したか訊かれたら答えられないかもしれない。怒られたら素直に謝ろう。

 

 

 

「よし。生徒会長の無駄に長い話が終わったぞ」

 

「そうみたいだね。あ、ねぇ信吾くん」

 

「どした、果南」

 

「私と勝負しない?」

 

「あ? 勝負?」

 

「うん。どっちが多く点数を稼げるかで」

 

「まぁ、いいけど。なら果南が勝ったら何をするんだ?」

 

「うーん。それは後で決めておくね。信吾くんが勝ったらどうする?」

 

「そうだな…………じゃあ」

 

 

 

 信吾と果南さんがそんな話をしているのを、僕は後ろで聞いていた。信吾が果南さんに耳打ちしている。何を言ってるんだろう。ちょっと気になってみたりする。

 

 

 

「え…………?」

 

「や、約束だからな。破ったら怒るから」

 

 

 

 そうして信吾の顔が果南さんの顔から離れて行く。後ろからなのでよく見えないけど、二人とも耳が赤い気がする。どんな約束をしたのかな。後で信吾に訊いてみよう。

 

 

 

「…………分かった。じゃあ、私も」

 

 

 

 そうして今度は果南さんが少し背伸びをして信吾に耳打ちをしていた。耳を澄ましてかろうじて聞こえたワードは『海』。それ以外は分からない。

 

 分かるのは耳打ちをし合った二人が、お互いの顔を見つめている事だけだった。

 

 

 

「──────ああ。絶対負けないからな」

 

「望むところだよ。信吾くんには負けないもん」

 

 

 

 二人はそう言って、笑い合っていた。

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 ようやく待ちに待った体育祭が始まり、生徒達は今日のために準備してきたものを全て自分が出る競技へと捧げている。

 

 これまでは自分のクラスの事だけで精一杯だったので他のクラスの現状なんかを見る事は出来なかったが、こうして学校全体の行事を眺めてみると何処の学年でも男女は上手くやれているみたいだった。

 

 一番酷い溝があったのは僕らのクラスだというのは自負している。自慢する程の事でもないけど、あのクラスを一つにした事は褒められても良い事実だと思う。その話は大事だが、今は置いておこう。

 

 

 

 開会式を終えてスタートした浦の星学院体育祭。統合して初めての体育祭ともあり、どのクラスも気合いの入り方が違うように見えた。というのも、僕は始まる前までは女子が入る事で華やかな雰囲気で行われると予想していた。しかし、数種目が終わった現状を客観視してみると、どうやらその認識が間違いであった事に痛いほど気づかされた。

 

 

 

「「「「「────いっけえええええっ!!!」」」」」

 

「ほら、そこ遅れてるよ! そんなんじゃ後ろから抜かされちゃうぞ!?」

 

「うぉおおおおおおおおおおおおおお! 男子の力を思い知れぇえええええええええっ!!!」

 

「………………」

 

 

 

 僕が男子校で見てきたものと全く変わらない体育祭の光景が目の前に広がっている。いや、むしろ女子達の目線がある事で男達はいつも以上にヒートアップし、自分達が声をかける事で男子のテンションが上がる事に気づいた女の子達は彼らを鼓舞するように、張り裂けんばかりの大きな声で応援してくれていた。

 

 グラウンドには野太い怒声と甲高い声が混じり、響き渡っていた。共学の体育祭、凄い。気温も高い事もさる事ながら、それに負けないくらいの熱量が浦の星学院の校庭には流れている。

 

 

 

「よっしゃあっ! これで二つ目の一位だぞ野郎どもっ!」

 

「イエースッ! このままトップでぶっちぎりまショーウッ!」

 

「「「「「おおおおおおおおおおおおおッ!!!!!」」」」」

 

 

 

 一番初めに行われた玉入れとついさっき終わった綱引きで、僕らのクラスは一位を獲った。

 

 種目から帰ってきた信吾と鞠莉さんが肩を組みながら、テントで他の生徒を応援しているクラスメイト達の気持ちを一つに纏め上げている。本当にどうでもいいが、もう既に数人の男子は上を着てない。ここは無法地帯なのだろうか。セクハラで捕まっても知らないからね?

 

 女子達もそれに対して何も言わない事から、全員がいつもとは違うテンションだという事が理解出来る。むしろ女の子達より僕の方がこの空気について行けてない。茹だりそうな内浦の熱にも負けてしまってる。くそ、女の子に負けてたまるか。ここから少しずつ気分を高めて行こう。

 

 そんな事を考えながら、テントに入ってきた信吾に冷えたスポーツドリンクを手渡す。

 

 

 

「お疲れ、信吾」

 

「おお、ありがとう夕陽。助かる」

 

 

 

 少し疲れたのかブルーシートに座る信吾。Tシャツや首筋は汗で濡れていた。流石はスポーツマン。こういうイベントではいつも以上に輝いて見える。

 

 

 

「あんまり最初から飛ばし過ぎて倒れないでよ?」

 

「心配すんな。これでも最後までやり切れるように調整してんだから」

 

 

 

 僕が渡したスポーツドリンクを飲み、そう答える信吾。ずっと彼の事を見ていたけどそうは見えない。最初からクライマックスみたいな勢いでグラウンドを走り回る姿を見ただけで、我を忘れているんだろうなと確信したくらいだった。どうせ信吾の事だから最後までやり通すだろうけど。

 

 

 

「順位も良い感じだね。今は多分、僕らのクラスが一位だと思うよ」

 

「おー、そうか。へへっ、あんだけ練習すりゃ嫌でも勝てるってもんだな」

 

「ふふ、そうだね。こんなに準備に時間をかけた体育祭なんて初めてだよ」

 

 

 

 僕はクラスのマネージャー的な役割を担っている為、どのクラスがどの種目で何位になったのかを記録している。まだ計算はしていないけれど、僕らのクラスはほとんどの種目で上位に入っている。先ほど鞠莉さんが言っていたように、恐らく今はトップを走っている筈だ。このまま最後まで順位を守れば必然的に優勝が見えてくる。

 

 だが、全ての競技で一位を獲れている訳ではない。一クラスだけ僕らのすぐ後ろに付けている。何かの種目で最下位になってしまったらすぐに抜かされてしまう位置に、そのクラスはいた。

 

 

 

「うわ、やべぇなあの二年生」

 

「そうだね。完全に独走してる」

 

 

 

 グラウンドで行われているのは女子生徒限定のパン食い競争。パッと見ただけでも、明らかに他の女子と動きが違う女子生徒が二人いる。

 

 

 

「もしかして、あれが果南が言ってた子達か?」

 

「かもね。あの二年生のクラスが今、ギリギリで二位だよ」

 

 

 

 明るい橙色の髪と亜麻色の髪をした活発そうな二年生の女の子。登下校の最中で何度か見かけた事はあるが、あんなに運動神経が良い女の子達だとは思わなかった。

 

 見ている限り、女子生徒だけの競技ではあの二人と果南さんがほとんど上位を持って行ってる。果南さんには敵わないかもしれないけど、あの二人は僕らにとって相当な強敵になる事は見ているだけで分かった。

 

 

 

 

 

「─────曜ちゃんっ! そこのパンは千歌が先に取るよ!」

 

「ヨーソローッ! 任せたよ千歌ちゃんっ」

 

「よっ! ようひゃんっ、ふいてひて!」

 

「あはは。食べてる最中じゃ何言ってるか分かんないよ~」

 

「「………………」」

 

 

 

 

 

 僕らのクラステントの向かい置かれた物干し竿にぶら下がっているパンを高速で取って走り抜けて行く二年生二人組。後続には十メートル以上の差をつけていて、どうみても既に勝負は決まっている。なんだあの子達は。体育祭をする為に生まれてきたとでもいうのだろうか。あんなスムーズに口でパンを取る人間を僕は見た事がない。

 

 そうして予想通り、パン食い競争はあの二年生二人が並んでゴールする。あの子達は同じクラスだから、一位と二位のポイントを持っていかれる。因みにパン食い競争には果南さんは出ていない。あの子が居ればあるいは、というところだったが、相手は二人居るので果南さん一人では勝てなかったのも事実。

 

 

 

「マズいな。これじゃあの二年生コンビにやられちまう」

 

「あそこのクラスも運動部多いみたいだし、下手すると負けちゃうかもね」

 

 

 

 ゴール付近で喜んでる橙色と亜麻色の女の子二人。果南さんが言っていた事もあり、おおよその予想はしていたが想像以上に厄介な存在だった。これでは僕らの頑張りが水の泡になってしまう。そうならないように頑張らなくては。

 

 パン食い競争が終わり、次の種目がアナウンスされる。

 

 

 

「あ、そろそろ行かなきゃ」

 

「ん。次は借り物競争か。頑張れよ、夕陽」

 

 

 

 今までほとんどテントの中で休んでいた僕にも、遂に出番が回って来てしまった。と言っても借り物競争なので、そこまでの体力が必要とされる競技でもない。

 

 如何に早くお題のものを見つけ出して、それをゴールまで持って行く借り物競争。何かを観察したり、頭を使ったりする方が得意な僕にはこういう種目の方が合ってると思う。

 

 

 

「うん。出来るだけ早くゴールできるよう努力するよ」

 

「あれ? そういや、果南と鞠莉は? あいつらも借り物競争出るんだったよな」

 

 

 

 信吾はそう言って辺りを見渡す。僕の記憶が正しければ信吾の言う通り、あの二人も借り物競争に出る予定だった。さっきから姿を見ていない気がするけど、どこ行ったんだろう。

 

 そうしてテントから二人の姿を探していると、遠くからでも目立つ青とブロンドの髪が目に留まった。

 

 

 

「あ、居た」

 

「…………何やってんだ、あいつら」

 

 

 

 果南さんと鞠莉さんは借り物競争の準備を手伝っている。でもなんでだろう。準備は体育祭実行委員が全部やってくれるのに、それに入っていないあの子達が手伝う理由はない筈。

 

 二人はお題が置いてあるであろうテーブルを運んでいた。そしてそこに置かれたお札を見ながら何かを話している。作戦会議でもしているのだろうか。それなら別に文句を言う必要はないけど、何処か様子がおかしいように見える。まぁいいか。

 

 

 

「とりあえず、行ってくるよ」

 

「おう。頑張ってこいよ、夕陽」

 

 

 

 信吾に声をかけられ、靴を履いてテントから出て行く。借り物競争の招集場所に向かう途中、さっきのパン食い競争で一位と二位になった二年生二人とすれ違った。

 

 

 

「また一位だったね、曜ちゃんっ」

 

「うんっ。果南ちゃんのクラスに負けないように頑張ろ、千歌ちゃん」

 

「了解なのだーっ」

 

 

 

 明るい声で話しながら、僕とは反対方向へと歩いて行く橙色の髪をした女の子と亜麻色の髪をした女の子。

 

 随分可愛い見た目をしてるんだな、と少しだけビックリする。あの子達に追い抜かれた分を取り返さなきゃ。一位になる自信はないけど、出来るだけ上位で入れるように頑張ろう。

 

 

 

「…………あれ?」

 

 

 

 グラウンドを歩いていると、先ほどからある人の姿を見ていないような気がした。気の所為かな。

 

 そんな事を考える前に、借り物競争で良い順位を取れるように努めなくては。でも、ちょっとくらい考えても良いよね。

 

 

 

 ダイヤさん、どこに行ったんだろう。

 

 

 

 





次話/借り物は生徒会長


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借り物は生徒会長

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

『それでは借り物競争を行います。出場する生徒の皆さんはスタート位置についてください』

 

 

 

 そんなアナウンスが流れ、僕はスタートラインの前に立つ。徒競走のように一瞬で決まる競技でもない為、そこまでの緊張感はない。自分がどんなお題を引くのか、という不安はあるけれどそれを気にしていてもしょうがないのであまり考えない事にする。

 

 今日もちゃんとお寺の掃除をしてきたから大丈夫。花丸には今朝『ユウくんにはお釈迦様の御加護がついてるから大丈夫ずら』と言われたので多分問題ない。きっと良いお題が当たる事だろう。そう信じていよう。

 

 そう言えば『“苦しい”って思った時は心の中で五回、()()()って言い聞かせるずら。そしたらきっと、仏様がユウくんを守ってくれるずらっ』なんて、彼女らしいおまじないみたいなものも教えてもらった。そんな時が来るかはわからないけれど、もし苦しくなったらやってみよう。お寺の娘が言うんだから、きっと仏様が守ってくれる筈だ。

 

 

 

「夕陽くん、準備はいい?」

 

「うん。大丈夫だよ」

 

「フフッ、ユーヒの勇気と目の良さに期待してマース」

 

「そうだね。ちゃんと連れてくるんだよ、夕陽くん」

 

「? 分かったよ」

 

 

 

 隣に並んでる果南さんと鞠莉さんに声をかけられた。でもなんでだろう。二人とも良い笑顔を浮かべてる。嬉しい事でもあったのだろうか。いや、でもちょっと嫌な微笑みにも見えなくもない。あれは多分、何か企んでいる顔だ。知ってるとは思うけど僕は味方だよ? 変な事しないでね。

 

 僕らがスタートラインに立つと、クラステントの方からうるさい声が聞こえてくる。応援というよりもはや罵声に近い。応援されるのはいいけど、少しは自重してくれ。大衆の面前で自分の名前を呼ばれてると段々恥ずかしくなってくる。

 

 

 

「ユウくーんっ、頑張るずらーっ!」

 

 

 

 騒々しい声の間を通って聞こえてくる花丸の声。顔を向けると、両手でメガホンを作って一生懸命声を出している一年生が居た。隣には赤い髪の女の子、花丸の友達であるルビィちゃんの姿も見えた。あの応援は素直に嬉しい。よし、花丸の応援を無駄にしないように頑張らなくちゃ。

 

 ふぅ、と一度息を吐いてスタート位置で走り出す姿勢を取る。十メートルほど前には長机があり、そこにお題が書かれた札が置いてある。それを見て学校内のどこかからお題に出されたものを持ってグラウンドを半周し、ゴールする借り物競争。

 

 事前練習では如何に早く離れた所からお題であるものを見つけ出すか、という謎の特訓をした。もともと目が良い僕は他の人達よりは早く見つけ出せたけど、これは練習するしないの競技でもない気が最初からしていた。あの特訓の成果が出るかどうかは不明だが、とりあえず努力してみようとは思う。

 

 

 

『借り物競争を開始します。位置について』

 

 

 

 スターターの声が聞こえ、姿勢を低くして走り出す準備をする。出来るだけ簡単なお題が当たりますように、と心の中で願いながら号砲が鳴るのを待った。

 

 騒がしかった校庭が少し静かになる。それから数秒の間を置いて、始まりを合図する声が聞こえてきた。

 

 

 

『よーい』

 

 

 

 ────パン、と雷管の音がグラウンドに鳴り響き、借り物競争がスタートする。途端に横一線に並んだ生徒達が一斉に走り出し、お題が書かれたお札を取りに行く。中には全力で走り出している生徒もいたが、僕はゆっくり長机に近づいた。

 

 

 

「果南はどれにする?」

 

「うーん。私は、これでいいかな」

 

「じゃあマリーはこれにしマース」

 

 

 

 先についていた果南さんと鞠莉さんがお題が書かれた札を取っていた。ここで悩む時間ももったいないので、僕も彼女達の前にあるお札の中から適当に選んで取る事にする。そう思って手を伸ばしたのだが。

 

 

 

「あ、夕陽くんはこれがいいと思うよ」

 

「え? なんで分かるの?」

 

「ロックオーン! マリーもユーヒはそのお札が良いと思いマースッ!」

 

 

 

 何故か二人にそう言われる。なんで彼女達はそんな事を僕に言うのだろう。よく意味がわからない。

 

 

 

「いいからいいから。それを取ってみれば分かるよ」

 

「イエースッ! 迷ってる時間はないわ、ユーヒ。急いで探しに行きまショーウ!」

 

「…………? まぁ、いいけどさ」

 

 

 

 思惑は知らないが、彼女達がそう言うのなら従う事にする。お札は机の上に伏せられていて見えないし、結局どれを選んでも同じなのだから別に悩む必要もない。

 

 そう思いながら、果南さんと鞠莉さんに指定されたお札を取る。それから裏返し、書かれているお題を読んだ。

 

 

 

 そして、全身の筋肉と頭の思考回路が活動する事を停止した。

 

 

 

 理由は一つしかない。持っているお札に書かれている内容が、どう考えてもおかしいものだったからだ。

 

 

 

「………………」

 

「私は“訛ってる人”だってさ」

 

「マリーは“動く赤いもの”デース。フフ、ユーヒは?」

 

 

 

 ニヤケ顔を隠せていない鞠莉さんに訊ねられる。果南さんも目を逸らして笑っていた。

 

 この二人、僕がこのお題を引くように仕組んだな。少しでも信頼してしまった僕がバカだった。でもそれを嘆いている暇はない。早く答えて探しに行かなきゃ。

 

 

 

 

 

「…………“生徒会長”」

 

 

 

 

 

 それが、取ったお札に書かれていた文字。本当に勘弁してくれ。どうやってこのお題を見つけたのかは知らないが、明らかに彼女達が仕組んだのは分かってる。後で本気で文句を言ってやるから覚悟していてほしい。

 

 

 

「ぷふ、っ」

 

「果南さん、早く探しに行こう。あと、どうせ笑うならもっと盛大に笑って欲しいんだけど」

 

 

 

 笑いを堪えていた果南さんが堪え切れずに吹き出していた。僕が何をしたって言うんだ。これが終わったら信吾に泣きつこう。そして果南さんに信吾の恥ずかしい事をたくさん教えてやる。後悔しても知らないんだからな。

 

 

 

「では行きまショーウ! あ、そうだユーヒ」

 

「どうしたの、鞠莉さん」

 

「ダイヤは生徒会室に居るわよ。マリーが言いたいのはそれだけ、チャオ~ッ」

 

 

 

 そんな事を言って、自分のお題を探しに行く鞠莉さん。

 

 果南さんも笑いながら鞠莉さんの後ろをついて行っていた。だが一度僕の方を振り返って、ぺろっと可愛く舌を出し、それから走り去って行く。

 

 長机の前に残される僕。他の人達もお目当ての物を探しに行っている。ここでいつまでも油を売っている訳にはいかない。本当に恥ずかしいけれど、理不尽を受け入れて腹を括る事しか僕には選択肢が残されていなかった。

 

 

 

「ああもうっ、どうにでもなれ」

 

 

 

 そう言って僕は走り出す。目的地は生徒会室。探し物は、生徒会長。

 

 後ろからは、クラスメイトの大きな声が聞こえていた。

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 喧騒の中を抜け、下駄箱で急いで靴を脱ぎ、人気の無い校舎内へ入る。下駄箱にはもうひとつ誰かの運動靴があったけれど、それを気にしている暇は無い。

 

 上位に入るには一秒も無駄に出来ない。他の人達のお題がどんなものか知らないが、今はそれを考えてる場合でもないのでとにかく走る事にだけ集中しよう。

 

 上履きも履かず廊下を駆け抜ける。生徒会室は二階にある。鞠莉さんの情報では僕のお題である“生徒会長”はそこに居るらしい。

 

 あそこまで用意周到なあの子が言った事だ。間違っているはずはないと信じてリノリウムの上を駆けた。

 

 階段を上り、誰も居ない廊下を走り抜ける。頭の中でどのルートを通れば最短で生徒会室につけるかをイメージしながら進んだ。

 

 

 

「はぁ……っ」

 

 

 

 何だってこんなに遠くまで来なくちゃいけないんだよ、と悪態を心の中で吐く。でも、それを言っても結果は変わらない。良い順位を取らなくては僕らのクラスはまた差を広げられてしまう。だから甘えてはならない。文句を言うのは一位を獲った後にしよう。

 

 そんな事を考えながら、生徒会室に繋がる廊下の最後の角を曲がる。そうして生徒会室の前に着き、ノックもしないまま扉を勢いよく開けた。

 

 

 

「ダイヤさんっ!」

 

「─────ぴぎっ?!」

 

 

 

 扉を開いた音と僕の声に驚くダイヤさん。彼女は生徒会室の中、一人で体育祭が行われている校庭の方を眺めていた。手には双眼鏡のようなものが握られている。

 

 ここで彼女が何をしていたのかは知らない。でもそれを訊くのは後だ。とにかく今はダイヤさんを連れて行かなければ。ここで時間を取られてしまえばいつまで経ってもゴールできないままになってしまう。

 

 荒い呼吸を繰り返しながら、ダイヤさんに近づく。僕が連れていかなくてはならない生徒会長は、この学校にこの子しか存在しない。

 

 

 

「ゆ、夕陽、さん…………?」

 

「説明は後でするから、とりあえず、ついてきて?」

 

「えっ、その、夕陽さん────」

 

 

 

 たじろぐダイヤさんの手を取り、走り出す。強引に連れ出す事になってしまったのは申し訳ないけど、今は一刻を争う。文句は後で行くらでも聞いてあげるから、とにかく急ごう。

 

 ダイヤさんの手を引いて生徒会室を出て、元来た道を戻る。僕のスピードの合わせて彼女は走ってくれている。

 

『ど、何処へ行くのですか』とか『……手』とか、ダイヤさんは後ろで色々言っているけど、気にしてる場合じゃない。こんな風に強引にしなきゃこの子は来てくれなそうだから、これくらいでちょうどいいのかもしれない。

 

 階段を下り、下駄箱へと向かう。握ってるこの手を離したら負ける、と自分に言い聞かせながら、胸の奥底からこみ上げてくる恥ずかしさを忘れる事にした。

 

 

 

「よっ、と」

 

「あ……く、靴っ」

 

 

 

 下駄箱に脱ぎっぱなしにしてきた靴を履く。一度立ち止まり、彼女は下駄箱に置いてあった運動靴を急いで履いてくれた。あの靴はダイヤさんのだったのか。その偶然に少しだけ感謝する。

 

 手を引いたまま昇降口を出て、僕らは一直線にグラウンドへ向かった。校舎からグラウンドまでは百メートルも離れてない。一人で走るのならば長さは感じないだろうけれど、ダイヤさんを連れているこの状況だと校庭までの距離が異様に遠くに感じてしまった。

 

 

 

「行くよ、ダイヤさんっ」

 

「え? あ、ちょっ」

 

「せー、のっ」

 

 

 

 息を切らしながらアスファルトを進み、グラウンドへ繋がる短い階段を二人で飛び降りる。

 

 土の上に着地して一度後ろを振り返り、ダイヤさんがまだついてこれるかを確認した。

 

 

 

「大丈夫?」

 

「は、はい」

 

「じゃあ、行こう」

 

 

 

 茫然と僕の顔を見るダイヤさんに笑い掛け、また走り出した。残りは後、五十メートル程。急いでゴールまで走り切らなくちゃ。

 

 ダイヤさんの息遣いが聞こえる。彼女の手の感触が左手にある。成り行き上仕方ないけれど、こうして二人で走っている事に、恥ずかしさと少しの喜びを感じてしまっていた。

 

 ダイヤさんはゴールした後、やっぱり怒るかな。それはしょうがない。彼女が生徒会室の窓から校庭を見て何を思っていたのかは知らないけれど、無理やり連れ出されて何も感じない筈はない。でも、許してくれるなら嬉しい。この恥ずかしさを忘れちゃうくらい。

 

 僕達はテントとテントの間をすり抜け、全校生徒が居るトラックの中へと入った。

 

 ─────途端、地鳴りのような音が聞こえてくる。一瞬、それが何の音なのかわからなかった。それが聞こえても僕らは走る事を止めずにカラーコーンの間を通り、百メートル先にあるゴールを目指す。

 

 

 

「…………」

 

「…………夕陽、さん」

 

 

 

 走りながら名前を呼ばれる。でも振り返らない。彼女が僕に対して言いたい事があるのは分かってる。でも、今はゴールするのが先だ。

 

 そうしてダイヤさんの手を引きながら走っていると、聞こえてきたあの地鳴りの正体が徐々に分かってきた。

 

 

 

「行けぇっ! 夕陽、生徒会長!!!」

 

「そのままゴールに突っ込めっ!!!」

 

「まだ誰もゴールしてねぇぞ! いけるいけるっ!」

 

 

 

 僕らのクラスのテント前を通った時、そんな声が聞こえてくる。それで、ようやくわかった。

 

 あの地鳴りは、生徒達の声。どよめきに応援の声が重なり、それを一斉に向けられた僕らの耳にはただの音にしか聞こえなかったんだ。

 

 その大声を聞きながら、僕らは残りの数十メートルを走る。手にはダイヤさんの手の感触。耳には彼女がついてきている足音が、たしかに聞こえている。

 

 なんでこんな事になったのかは知らないけど、今は置いておこう。最後まで走り切った後に、ちゃんと訳を聞いてあげよう。

 

 前方に白いゴールテープが見えた。あれを切ればこの借り物競争は終わる。僕らが何位なのかは知らないけど、何も考えずにあそこに飛び込もう。

 

 そして、僕らはゴールする。その後に聞こえたのは、さっき耳にした地鳴りと同じような声の重なりだった。

 

 

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

「はぁ、はぁ、っ…………ご、ごめんダイヤさん」

 

 

 

 走り終え、膝に手をついて息を正しながらダイヤさんに謝罪する。彼女も何が何だかわからないような表情を浮かべて、肩で息をしている。無理もない。何の説明もなくいきなり連れ出されたら誰だって困惑する。

 

 

 

「なんですの、これは」

 

「えっと、簡単に説明するとね」

 

 

 

 そう言って僕はポケットに入ったあの札を取り出し、それをダイヤさんに見せる。そこに書かれている文字を読み、ダイヤさんはああ、と納得するような声を出した。

 

 

 

「そういう事でしたの」

 

「そう。迷ってる暇もなかったから、つい」

 

 

 

 ダイヤさんは膝から手を離し、僕の方に近づいてくる。怒られる。直感的にそう思い、少しだけ身構えた。

 

 

 

「……夕陽さん」

 

「ごめんっ」

 

 

 

 名前を呼ばれ、何かを言われる前に頭を下げた。借り物競争なのだから、こうしなければゴールする事が出来なかった。でも、自分がどれだけ大胆な事をしたのか今になって気づいた。

 

 だから、何も言わずに謝る事にする。これで何かを言われるようならどうしようもない。素直に諦めよう。

 

 頭を下げながら、聞こえてくる音に耳を澄ます。『ぴぎぃいいいいいいっ!』、『ずらぁあああああああっ!』という聞き覚えのある声が多分聞こえたのは気のせいだろう。

 

 頭を下げたまま、ダイヤさんの声を待った。次に聞こえてのは、呆れが混ざったような小さなため息。

 

 

 

「顔を上げてください、夕陽さん」

 

「え…………」

 

 

 

 そう言われ、俯けていた顔を徐に上げる。そして、目に入ってきたのは予想外な表情だった。

 

 

 

「あなたが謝る必要はありませんわ。そういう事なら、仕方ありません」

 

「ダイヤ、さん?」

 

「それに、見るところ私達は一位のようです」

 

 

 

 ダイヤさんはそう言って、辺りを見渡す。たしかにゴール付近には他の誰も立っていない。もっと視野を広げると、至る所で何かを一生懸命探している生徒達の姿が見えた。

 

 視界の隅で飴色の従妹が青い髪の女の子にハグされ、赤い髪の一年生がブロンド髪の女の子におんぶされているのが映った気がしたけど、今は無視しよう。

 

 ゴールしているのは、僕だけ。

 

 それはつまり、そういう事。

 

 

 

「あなたのためになったのなら、私はそれでいいですわ。おめでとうございます」

 

 

 

 ダイヤさんは小さな微笑みと祝福をくれた。それ以上の何かを求める事は、僕には出来なかった。

 

 それからお題を見つけた生徒達が続々とゴールしてくる。訛っている人(花丸)を見つけた果南さんと動く赤いもの(ルビィちゃん)を捕まえた鞠莉さんも、それなりに上位でフィニッシュしていた。

 

 

 

 借り物競争を終えた時点で、僕らのクラスはまた一位に躍り出る。

 

 

 

 だけどまだ、体育祭は始まったばかり。

 

 

 





次話/いつか見た、あの夏の二人。


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いつか見た、あの夏の二人。

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 それから体育祭は休む間もなく続く。借り物競争の次は仮装レースなるものが行われていた。うちのクラスからは信吾と果南さんが出場し、結果的には一位と二位でゴールしたが、信吾が精神に深いショックを負うアクシデントが発生。

 

 理由はまぁ、仕方ない事だった。出るまで仮装レースの意味が詳しくわかっていなかった信吾。彼に渡された仮装のお題は“女子高生”。ついでに果南さんに与えられたのは“男子高生”。      

 

 信吾は涙を流しながら女子用の制服を着て、対する果南さんは意気揚々と男子の制服を身に纏い、二人並んで二百メートルトラックを全力で走り抜けていた。

 

 その間、グラウンドに男女の(歓喜の?)悲鳴が響き渡ったは言うまでもない。あそこまで女装と男装が似合う二人もめずらしい。素直に僕も感動してしまった。

 

 あの二人に走る事で勝てる者がいる訳もなく、信吾と果南さんはほぼ同時にゴール。だが信吾はゴールテープを切った後、屋上へと直行。恐らく羞恥心に耐え切れず、女装したまま屋上から身投げするつもりだったのだろう。そうするのを予測していた我がクラスのレスリング部の連中が屋上で待ち構えていてくれたので事なきを得た。

 

『頼むから殺してくれぇえええええ!』という信吾の絶叫が屋上から聞こえたのは気のせいと言う事にしておく。

 

 そうして女装を全校生徒に見られた信吾はついさっきまで絶望に打ちひしがれていた。そこにダイヤさんの『もしかしてあなたは女性なのですか?』という追い打ちをかけられていた信吾。泣きっ面に蜂どころかミサイルをぶち込まれていた。果南さんと鞠莉さんに慰められてすぐ復活したけど。

 

 

 

「─────次の競技は二人三脚リレーデースッ! エブリバディ、張り切ってシャイニーしまショーウッ!!!」

 

 

 

 借り物競争を終え、少しの休憩を挟んでまた僕が出場する種目がやって来た。これにはダイヤさんと果南さん、あと信吾も出るらしい。

 

 テントの前でハイテンションな声で出場するクラスメイトに声をかける鞠莉さん。彼女の事を見てると嫌でも元気になる。これから疲れた時には鞠莉さんを眺める事にしよう。

 

 

 

「男女の垣根をブレイクした今なら絶対に勝てるわっ! さぁ、マリーが考えたこの走順でトゥギャザーしてくるデース!」

 

 

 

 何やら鞠莉さんが紙を取り出した。どうやらこの競技については彼女が走順を考えたみたいだ。信吾ばかりに仕事を押し付けて可哀想だから、と引き受けていた記憶を薄っすら覚えている。

 

 まぁ鞠莉さんだって僕らのクラスの一員だ。勝てる采配をしてくれなければおかしい。そう思いながら僕は鞠莉さんが掲げる紙を見つめる。

 

 

 

「は?」

 

「え?」

 

「ちょっ」

 

「…………」

 

 

 

 そうして、僕らは同時に絶句する。理由は言うまでもない。鞠莉さんが持ってる紙に書かれたパートナーの名前がどう見てもおかしい。

 

 茫然とそれを見つめる僕らに気づく鞠莉さんは不敵に笑っている。この子、分かっててこの走順を作ったな。早速頭が痛くなってきた。

 

 なんで、僕とダイヤさんが一緒に走る事になってるんだろう。

 

 

 

「ちょ、ちょっと鞠莉っ。こんなの聞いてないよ!」

 

「ンフ? だってこの前、果南言ってたじゃない。“私についてこれる人じゃないと遅くなっちゃうよね”って」

 

「言ったけど…………その、信吾くんと一緒にしてなんて、言ってないし」

 

 

 

 抗議をする果南さんだが、事前に自ら墓穴を掘ってしまっていたらしく、鞠莉さんに一瞬で論破されてしまっていた。顔が真っ赤になっている。隣に立つ信吾も同じように頬を紅潮させていた。分かりやすいな、あの二人。

 

 果南さんは足が速い。彼女についてこれるパートナーはそうそう居ない。だから圧倒的な走力を誇る信吾と組ませるのは理に適っているとは思う。けど間違いなく鞠莉さんはそんな事を考えてこの走順を作っていない。そんなものは後付けの理由でしかない。彼女は信吾と果南さんが一緒に走るのを見たいがために二人を組ませたんだ。僕としてもそれはちょっとありがたいけれど、僕のパートナーまで微妙におかしい気がするのはどうしてだろう。

 

 

 

「僕も訊いていいかな、鞠莉さん」

 

「ユーヒに関しては最初から固定されてました~」

 

「…………それは、どうして?」

 

「だって、ダイヤはユーヒ以外の男の子と走るわけないからねぇ」

 

 

 

 僕は頭を抱える。なんだってこの子はこんなにストレートなのだろうか。近くに本人が居なければ話はまだ分かるけど、僕の隣には張本人であるダイヤさんが立ってるんだよ? この状況でそんな事を言われたらどうしていいか分からなくなってしまうじゃないか。

 

 チラッと横目でダイヤさんの方を見る。だが予想外にも彼女はいつも通りの表情で鞠莉さんが持つ走順表を見つめていた。怒ってる訳でもなく、照れている訳でもない。鞠莉さんの言った言葉がその通りだ、というような顔つき。何故そんなに落ち着いているのかは僕にはわからない。分かったところで彼女が思う真意まで辿り着ける筈がないのは考えなくても理解出来た。

 

 

 

「マリーが考えたこの采配は完璧デース! だからごちゃごちゃ言わず走ってきなサーイっ!」

 

 

 

 ハイテンションな鞠莉さんがそう言い、僕らは顔を見合わせる。どうやらここは鞠莉さんの言う通りにするしかないらしい。全く持って不満、でもないけれど、いつまでも文句を言っていたら始まるものも始まらない。ただ、単純に緊張する。女の子と一緒に走るから、という理由もある。もし、隣が果南さんだったとしても僕は緊張していた事だろう。

 

 でも、僕が組むのはダイヤさん。だからこそ、異常なまでに心臓が高鳴ってしまっている。まだ何も始まってないというのに、既に走り終えたくらいの心拍数が僕の胸郭の中では刻まれていた。落ち着け、僕。こんな状態でダイヤさんと走ったら緊張してるのが彼女にも伝わってしまう。それでは上手くない。ここは男らしく、どっしり構えておくのがベストだ。……大丈夫かな。変な所に汗とかかいてないよね。

 

 

 

「ああ、もうこうなったら仕方ねぇ。絶対俺達で一位を獲るぞ。いいか野郎どもっ!」

 

 

 

 半ばやけくそになった信吾が顔を赤らめたまま、二人三脚リレーに出るクラスメイト達に発破をかける。男女ともに威勢の良い返事が返ってきた。焦ってるのは僕らだけか。そうだな。今は誰と走るかとかじゃなく、クラスの勝利の事だけを考えて臨もう。

 

 この流れを作った鞠莉さんはご満悦な笑顔を浮かべて僕らの事を見つめている。くそ、なんだってあの子は僕らの関係性とか距離感をかき回すのがあんなに上手いんだ。さっきの借り物競争での一軒も然り、体育祭が終わったら絶対文句を言ってやる。

 

 今はとにかくやれる事をやろう。僕らのところでブレーキをかけてしまわないように。周りじゃなく、自分の事だけに集中しよう。

 

 隣を走るダイヤさんと息を合わせる事だけに、今は意識を向けておく。

 

 

 

「…………なんですの?」

 

「あ、いや、その」

 

 

 

 ダイヤさんの事を見ていたら唐突に目が合ってしまった。少しだけ、たじろいでしまう。だがここで惑わされては話にならない。頼りないポーカーフェイスを使ってダイヤさんをちょっとでも安心させないと。

 

 

 

「よろしくね、ダイヤさん」

 

 

 

 そう思って、彼女に微笑んだ。そうして僕の言葉を聞いたダイヤさんは頷いてくれる。

 

 笑っている訳じゃない。怒っている訳でもない。ただ、いつもと同じ凛とした表情を浮かべながら、生徒会長は返事をくれた。

 

 

 

「こ、こちらこそ。よろしくお願いいたします」

 

 

 

 少しだけ頬が赤かったのは多分、夏の暑さのせいだと思う。

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 side/信吾

 

 

 

 

 

 午前の競技が終わり、いつもより長い昼休みを挟んですぐに午後の競技が始まった。

 

 太陽は青空の一番高い所から燦燦の日光を降り落としてくる。休み時間中に携帯で天候を確認したら、気温は三十度に近くなってるらしい。内浦は昼過ぎに一番暑くなるとこの前、果南と一緒に帰ってる時教えてもらった。今が今日で最も気温が上がってる時間だと、汗が滑る肌で感じ取った。

 

 駿河湾から届く柔らかな潮風を受ける。時折吹くこの風だけが、校庭に居る俺達の体温を下げてくれた。

 

 人は海風を操る事は出来ないが、透明な一筋の風になる事は出来る。何を意味の分からない事を考えてるのかって? なら、今からそれを証明してみせようか。

 

 

 

「あっちいな、くそ」

 

 

 

 テントの外で青空を見上げながら呟く。それから少しだけ緩まった赤色の鉢巻きを結び直した。

 

 今は女子生徒限定の種目である大縄跳びが行われている。トラックの中で女子生徒達が喜びの声を上げたり、失敗して甲高い声を出したりしていた。

 

 それをテントの中で遠巻きに眺める男子生徒達。何だろう。凄く股間に厳しい。ついこの間まで男子校の生徒だった男達にとって、あの大縄跳びという競技はとんでもなく魅力的な種目なのではないか、と思ってしまった。だって、Tシャツ一枚着ただけの女の子が揃って飛んでるんだぜ? 揺れるもんに目が釘付けになっちまうのも仕方ない。見るとクラスの数人は既に鼻血を出していた。

 

 

 

「…………やっぱ、すげぇな」

 

 

 

 誰にも気づかれないようにストレッチをしながら、一人の女の子の事を見つめる。青い髪のポニーテールを揺らして、笑顔でジャンプしてるクラスメイトの女の子。何が凄いって、そんなもん一つしかない。あれは本当に凄い。徐々に語彙力が欠落して行くほど、大きなものが揺れている。

 

 統合したばかりの頃。女子達の着替え中にうっかり入り込んでしまった事件があった。俺が果南にぶん殴られたやつ。あの時に見た素晴らしいスタイルは、今でも鮮明に思い出せる。

 

 あんな高校生離れしたプロポーションを持ってる事も然り。最大の問題は、それを気にせず大縄跳びをしている事。あれはヤバい。今の果南は男を無自覚に殺す兵器に成り果てている。生徒会長に恋してる夕陽でも果南に視線を持って行かれてた。男ってマジで単純。でも男で良かったと思える。馬鹿だな、俺。

 

 そんな感じで、次の競技に出る準備をしながら女子生徒達の大縄跳びを眺めた。この次は俺が一番心待ちにしていた種目、クラス対抗リレーが行われる。むしろこれが俺のメイン競技といえる。ここで目立たなかったら一体何処で目立つんだ、と言うくらい大事な種目。

 

 

 

「夕陽」

 

「ん? どうしたの、信吾」

 

 

 

 隣に立っている親友に声を掛ける。色白で背が小さくて、綺麗な髪をしてる童顔の男。目もクリッとしてて、顔が小さい。なんでか分からないけど、降り落ちて消えて行くだけの粉雪みたいな儚い雰囲気を醸し出してる。

 

 控え目な性格が顔に出ていて、何処に居たって目立とうとしないし、実際に目立たない。でも、傍に居てくれると何かと助かるし、何故か心地良くなる()()()()()()奴。それが国木田夕陽っていう男。

 

 俺も他人の事は言えないけど、夕陽だって女っぽいと初めて会った時から思ってる。なのにクラスの男共がフィーチャーしてくるのは俺の容姿だけ。いつか夕陽も女装してみりゃいいのに。それはいいとして。

 

 

 

「今の順位ってどんな感じ?」

 

「あ、うん。ちょっと待ってね」

 

 

 

 夕陽はそう言って手元にある図板に目を落とす。クラスのマネージャーをしてくれてる夕陽は、現状俺達のクラスがどの位置に付けているかを知っている。

 

 いつも一歩引いた目で周りを見ている夕陽。何かを分析させたりすると、たまに誰にも思いつかない答えを導き出してくれる時がある。こいつにはそう言う細かな作業が合ってるのを俺は知ってる。だから、夕陽にクラスのマネジメントを頼んだ。誰よりも目が良くて頭がきれるこいつなら、土壇場でとんでもない事をやってくれるんじゃないか、と信頼を込めながら。

 

 

 

「えっとね。今は僕らのクラスが二位だよ」

 

「やっぱそうか。一位とはどんくらい離れてる?」

 

「今やってる大縄跳びの結果次第でまた変わるけど、これくらいかな」

 

 

 

 夕陽は俺の方に持ってる図板を差し出してくる。そこに挟んである一枚の計算表。こんなのいつの間に作ったんだ、と思いながら、書かれている内容を目にした。

 

 

 

「…………結構離されてんな」

 

 

 

 俺達のクラスは現在一位の二年二組に思った以上の差を付けられていた。下手をするとこのまま順位が変動せずに最後まで行ってしまう可能性もある。それは不味い。何とかして追いつかねぇと。

 

 

 

「でも、絶対に追いつけない訳じゃないよ」

 

「そうなのか?」

 

「うん。この大縄跳びでまた点差が開いたとしても、次のリレーで一位になって最後の騎馬戦を勝てば、優勝できる」

 

 

 

 夕陽は俺の顔を見上げながらそう言ってくる。見つめていると吸い込まれそうになる琥珀色の瞳。真剣な目が、そこにはあった。

 

 思い出に残る体育祭にする為に優勝したい。これは俺が勝手に決めた事なのに、ここまで本気になってくれている奴が居る事が素直に嬉しかった。少しだけ胸が熱くなる。でも、今はそれを思う状況じゃない。勝った後に好きなだけ感謝してやろう。

 

 

 

「そうか。なら、まだ大丈夫だな」

 

 

 

 夕陽に図板を返し、足のストレッチを再開する。そんな俺の事を黙って見つめてくる夕陽。また心配してくれてんのかな。心配性のこいつらしい。けど、俺は大丈夫。

 

 次の種目で勝って、最後の騎馬戦も勝利すれば俺達のクラスは優勝できる。それを思えば、嫌でも気合いが入ってくれた。

 

 ……それに、果南とした約束もある。今のところ、俺と彼女で稼いだ点数はほぼ同点。さっきの二人三脚リレーでは緊張し過ぎて足が合わずにずっこけて、全校生徒の笑いを誘ってしまった。あれはしょうがないと受け入れよう。果南と組ませられるなんて思ってなかったんだよ。組み合わせを考えた鞠莉を恨もう。夕陽と生徒会長はバッチリ合ってたけどな。

 

 だが、二人三脚を除けば俺と果南が出た競技は全てて上位を取っている。それでも二位である所以は、二人の二年生にあった。あの子達はどうやら果南の幼馴染らしい。蜜柑色っぽい髪の女の子の方とは、他人同士とは思えない何かがある気がしていたが、今は置いておく。

 

 クラスの女子達の大縄跳びが終わる。喜んでいる姿を見る限り、それなりに多い回数飛ぶ事が出来たらしい。縄を回してた鞠莉が『シャイニーッ!』と耳に残る高い声を校庭に響かせていた。

 

 

 

「ねぇ、信吾」

 

「あ? どうした」

 

 

 

 屈伸をしていると夕陽が話しかけてくる。顔を向けると、幼い容姿の親友は俺の方を見つめていた。何となく、何かが気になっているような表情、とでもいいか。とにかくそんな感じで夕陽はこちらに視線を向けている。

 

 

 

「開会式の時、果南さんと何を話してたの?」

 

「………………」

 

 

 

 白糸みたいに細く、綺麗な声でそう問われる。渡された糸をしっかりと受け取ったのに、俺はすぐに結び目を作ってやる事が出来なかった。

 

 開会式の時に果南と話していた事。どうやらあの会話を夕陽は聞いてはいないが見てはいたらしい。内容を聞かれてなくてよかった、と心の中で安堵する。

 

 あれは、誰にも言えない。たとえそれが、腹を割って何事でも話せる親友であったとしても。

 

 あの約束だけは、叶えるまでは誰にも言うつもりはなかった。いや、言える訳がなかったんだ。

 

 

 

 

 

 ──────

 

 ─────

 

 ────

 

 ───

 

 ──

 

 ─

 

 

 

 

 

 

 

「ねぇ、信吾くん。私と勝負しない?」

 

 

 

 

 

 開会式の時。ちょうど、生徒会長の話が終わった頃、果南はそう言ってきた。

 

 勝負、というのだから、それがこれから始まる体育祭に絡めたものであるのは馬鹿な俺でも判断できる。彼女は運動が得意みたいだし、勝負事にも燃える性格をしているのはこの数カ月間の付き合いで理解していた。

 

 

 

「あ? 勝負?」

 

「うん。どっちが多く点数を稼げるかで」

 

 

 

 問いを投げると青い髪の女の子は俺の顔を見上げながら答えてくれる。美しい瑠璃色の瞳。そこに自分が映っているのを見て、気恥ずかしくなり徐に視線を逸らした。何やってんだ、俺。

 

 果南が言った勝負というのは、出場する競技でどれだけ点数を取れるか、というもの。この体育祭は点数の累計で勝敗を決める事は、この間のミーティングで生徒会長が説明していた。言うまでもなく、上位に入れば多く点数がクラスに入り、下位であれば少ない点しか貰えない。

 

 点数を稼ぐ為、運動が得意な果南と俺はほとんどの競技に出場する予定でいる。それだけでも大変なのに、彼女はさらに負荷を付加するらしい。決してダジャレではないので、この表現は出来れば気にしないでほしい。

 

 

 

「まぁ、いいけど。なら果南が勝ったら何をするんだ?」

 

 

 

 勝負と言うのだから、勝った方には負けた方から何か良いものが与えられる。そう考えるのが当然の思考だろう。何も賭けない勝負事ほどつまらないものもこの世には存在しない。競い合いには甘い蜜を用意するのがモチベーションを上げる一番手っ取り早い方法だ、と何かの本に書いてあった気がする。

 

 果南は数秒間、悩むような表情になる。俺はその綺麗な顔を見つめた。授業中とか、暇があればこの子の横顔を見つめてしまうこの癖は多分、卒業するまで治らない。時偶目が合うと誰にも気づかれないように手を振ってくれる。それがまた可愛くて眠気が覚めてしまい、居眠りが出来なくなったりする。最近授業中に眠らなくなったのはこの子のお陰なのかもしれない。

 

 

 

「うーん。それは後で決めておくね。信吾くんが勝ったらどうする?」

 

 

 

 彼女はそんな風に言ってくる。自分で言っておいて思いつかないのかよ、と心の中でツッコミながら何をしようかな、と考える。

 

 果南に勝ったら何をするか。ほんの少しでもやましい事を考えてしまった自分をぶん殴ってやりたい。条件は何も無いみたいだし、自由にアイデアを出してもいいのかな。

 

 そう考え出した時、以前から温めていたひとつの願いがぷかり、と水面に浮かんでくる。小さな湖から出てきた“願い”は眩い光を放ち、これを選べ、と強く主張してくる。

 

 でも、これを言うのはまだ早い。言いたくない訳ではない。ただ、この願いを口にしてしまえば、俺は今居るこの場所から前に進まなくてはいけなくなる。

 

 果南は首を傾げながら俺の顔を見つめてくる。今さら自覚する必要もない。俺は、この子に惹かれている。そんな俺が願う事なんて、本当に限られたものだけだろう。

 

 言えば前に進めるし、言わなければ立ち止まったままになる。そのどちらが言い、と自分に問い掛けて返されるのは、やっぱり予想していた通りの答えだった。

 

 

 

「そうだな…………じゃあ」

 

 

 

 近くに居るクラスメイトに聞かれないように、果南の耳に顔を近づけて耳打ちをする。鮮やかな青い髪が目の前に現れ、ドクンと心臓が勝手に高鳴り出した。

 

 悩まなくていい。だって、これはただの条件。俺が彼女に勝った時にして貰うご褒美とでも言えばいい。勝たなければしてもらえないし、この願いも無かった事になる。

 

 

 

 でも、もし。

 

 

 

「俺が勝ったら」

 

 

 

 もし、果南が俺の淡い願いを聞いてくれると約束してくれるのなら。

 

 

 

 俺は、この体育祭を命懸けで勝ちに行く事を誓う。

 

 

 

「今度、デートしてくれ」

 

「え…………?」

 

 

 

 それだけを言って、果南の可愛らしい耳から顔を離す。顔が熱くなってくるのが自分で分かる。でも、この状況でそれを隠す事は出来ない。口を閉ざしたまま、茫然とこちらを見つめてくる瑠璃色の両眼を見つめ返した。

 

 俺が願うのは、果南とデートする事。夕陽や鞠莉、生徒会長を交えて遊んだ事はあるけど、二人きりで会った事は出会ってから一度もない。部活が忙しいからとか、みんなと仲良くなりたいからとか、いつも理由を付けて二人になる事を避けていた。理由は照れくさいから。これを口にした瞬間、淘汰される未来しか浮かばない為、絶対に言わないと決めていた。

 

 でも、今なら言える気がした。彼女が俺と勝負する事を望んでくれたのなら、こんな約束をしてもいいんじゃないかと思った。だから。

 

 

 

「や、約束だからな。破ったら怒るから」

 

 

 

 なんて、羞恥心を隠す為におかしな事を言ってしまう。そんな事、一ミリも思ってないのに。

 

 俺が果南を怒る権利などある訳がない。むしろバカなお願いをした俺の方が怒られるべきだろう。いや、この場合怒られるというより嫌われると言った方が正しいか。何れにせよ、言ってしまったものは取り返せないので諦める事にする。

 

 果南は口を小さく開けたまま固まってる。言葉の意味がわからなかったのだろうか。それなら困る。もう一度言う勇気なんてこれっぽっちも残ってない。

 

 緊張し過ぎて、周りの音がやけに遠く聞こえた。聞こえるのは自分の心臓が拍動する音だけ。すぐ傍に果南は居るのに、彼女の方を向く事が出来ない。

 

 断られるかな。俺とデートするだなんて、引き受けてくれる人の方が少ないだろう。それに、相手はこの子だ。彼女は同級生の男子のみならず、下級生の男子からも人気がある事を知ってる。スタイルは抜群だし、性格も良いし、この学校で一番可愛い容姿をしてる。少なくとも、俺にとっては。

 

 俺なんかには釣り合わない女の子。それが松浦果南。そんな彼女が、あんな馬鹿げた約束してくれるとは到底思えなかった。

 

 

 

 駿河湾から吹きつける初夏の風が校庭に流れ込み、隣にある青いポニーテールをふわりと揺らしていた。風は果南の髪の香りを何処かへと運んで行く。この胸にある不安も一緒に運んで行ってくれないかな、とあり得はしない事を考えた。

 

 

 

「………………」

 

 

 

 果南はまだ俺の顔を見つめている。息苦しさが徐々に増してくる。この場から逃げたい衝動に駆られた。それか、今のは嘘だ、と茶化してしまいたくもなった。

 

 割と本気で冗談だった、と誤魔化そうか悩んでいる時、青い髪が一度こくりと頷く。それを見て、ようやく彼女の顔を見つめる事が出来た。

 

 

 

「わ、分かった。じゃあ、私も」

 

 

 

 普段は雪のように白い肌をほんのりと桃色に染めながら、果南はこちらに近づいて背伸びをする。何をするのか、と思ったら彼女も俺と同じように耳打ちをしたいらしい。

 

 何を言われるのか緊張しながら、右耳を傾ける。そうして、耳元で聞こえる囁き。その声を聞くだけで、体温が二度くらい上がった気がした。

 

 

 

「私が勝ったら、一緒に海に行こ?」

 

「………………」

 

 

 

 最初に聞こえたのは、そんな囁き。唐突に頭が真っ白になる。何かを言わなきゃ、と思考回路が動き出す前に、次の言葉が耳を通り抜けた。

 

 

 

 

 

「あと、もし優勝したら……その時も、デートしてあげる」

 

 

 

 

 

 そう言って、果南は離れて行く。それから俺の顔を見上げてえへへ、と微笑んでくれた。

 

 耳を疑う、っていうのはこういう時の事に使うのか。あまりに予想外の言葉すぎて、頭がついてきてくれない。ただ、()()()という感情だけが、俺自身を追い越していく。俺は、誰よりも足が速いのに、自分の感情に取り残されてしまった。

 

 透明な風に乗って先に行った心には、どうやっても追いつけない。なら、俺は風に成ろう。風に成って、約束を果たそう。

 

 先走った自分の感情に追いつく為に。絶対に、この体育祭で優勝する為に。

 

 

 

「…………望むところだ」

 

 

 

 強がった返事を返し、俺も笑ってみせる。果南も顔を綻ばせてくれる。

 

 それは爽やかで美しい。まるで、内浦に広がる海みたいな笑顔だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

「別に、何でもねぇよ」

 

「えー。誤魔化さないでよ。少しくらい教えてくれてもいいでしょ?」

 

 

 

 そう言うと、夕陽は残念そうな顔をしながら食い下がってくる。いくら親友でも、あの話の内容は教えられん。言ったら間違いなく俺のメンタルがいかれる。体育祭の最中にそうなるのは上手くない。

 

 果南との約束があるから、この体育祭は絶対に優勝しなくてはならない。最高の思い出にする為に、っていう始まりの目標ももちろん忘れてはいないけど、素直な俺の心は果南とデートをする為に優勝したい、なんて思いしか持ってなかった。

 

 俺がこの戦いに本気になる理由はそれくらい。口には出せないけど、そんな約束を叶える為に、命懸けで優勝を目指す。

 

 

 

『次はクラス対抗リレーを行います。出場する生徒は本部テント前に集合してください』

 

 

 

「始まるな。んじゃ、行ってくる」

 

「あー。もう、こういう時だけ運が良いんだから、信吾は」

 

「こういう時だけってなんだよ。まぁ、あんまり良いわけでもねぇけどさ」

 

 

 

 そう。俺は別に運が良いわけじゃない。だから、自分の力でどうにかしてやる。今までだって、そうやって来た。

 

 どんだけ点差を付けられても関係ない。絶対に優勝して、願いを叶えてみせる。

 

 

 

「後で聞くからね?」

 

「ああ、いつか教えてやるよ」

 

「いつかって、いつさ」

 

 

 

 夕陽がそう訊ねてくる。少しだけ考えてから答えた。

 

 

 

「…………そうだな。海開きが終わった後になら、教えてやってもいい」

 

「え?」

 

 

 

 それだけ言って、俺は招集場所に向かう。夕陽はそれ以上何も言って来なかった。言葉の意味が分からないのなら、それでいい。ただ、間違いなく海開きが終わった後になら言える。

 

 この体育祭に優勝して、果南とした約束を果たせば、そんな未来を見る事が出来るだろうから。その時までは内緒にしておく事にしよう。

 

 

 

 

 

 

 

 ─────そうして、クラス対抗リレーでは校庭全体にどよめきを起こしてやった。

 

 

 

 

 

 

 

 俺は文字通り、一瞬の風に成った。

 

 

 

 

 

 内浦に吹く、透明な一筋の旋風に。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 クラス対抗リレー 第一位 三年一組

 

 

 

 

 

 

 

 Side story / out

 

 

 

 

 

 

 

 





次話/激突! 沼津の陣


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激突!沼津の陣

 

 

 ◇

 

 

 

 そうして滞りなく体育祭は進み、残すは最後の種目だけとなった。先ほど行われたクラス対抗リレーでは果南さんと信吾の活躍により僕らのクラスが最後に大逆転勝利を治め、順位をさらに一位へと近づけている。

 

 現在の順位は二位。だが限りなく一位に近い二位だと僕は分析した。優勝するのに必要な絶対条件は、最後の競技で一位を獲る事。僕らが次の種目で一位になれば現在トップにいる二年生のクラスにも確実に勝てる。理由はひとつ。最後の競技である騎馬戦の配点はかなり大きいからだ。ここで勝てば一気に首位に立つ事が出来るが、逆に負けると大きく順位を下げる事になる。

 

 しかし、今までの種目の戦績を計算すると優勝する可能性があるのはほぼ二クラスに絞られている。それが僕らのクラスと、あのとんでもない女の子二人組が居る二年生のクラス。実質この二つの一騎打ちという事になる。

 

 

 

 

 

「─────野郎ども、準備はいいか」

 

 

 

 

 

 グラウンドから離れた校舎の裏で僕らはスタンバイしている。他の色の男子も、校庭にいる女子生徒達に見えないように身を隠しているらしい。それもそのはず。こんな格好で出て行ったら確実に悲鳴が上がる。いや、数分後には僕らは間違いなくその悲鳴を聞く事になるのだろうけど。

 

 クラス対抗リレーを終えたばかりの信吾が男子達の前に立ち、全員の顔を見渡す。顔はいつも通りだが僕の目には少しだけ疲弊しているように見える。恐らくこれは間違いじゃない。今の信吾は疲れている。ほとんどの競技に出場して点数を稼いでくれたのは僕らのクラスでは信吾と果南さん。彼らが居なければ僕達は今の順位に付けていない。結果的におんぶに抱っこの状態になってしまっているけれど、最後の競技だけは全員で戦わなくてはならないので、その感謝は終わった後に伝える事にする。

 

 

 

「泣いても笑っても次の競技で終わりだ。夕陽の計算だと俺達は今、二位につけてるらしい。ここで負けたら優勝は出来ないと思え」

 

 

 

 信吾の言葉に、僕らは頷く。全員が本気の顔をしている。理由など言葉にしなくていい。これから僕らは文字通り戦争に行く。一歩でも間違えれば大怪我をしてしまう。だけど痛みを厭わなければ勝利する事が出来ないのが次の競技。身体に出来る痣の一つや二つは屁でもない。せめて腕の骨が折れなければいい、と思えるレベルの戦いに僕らは挑まなくてはならない。

 

 

 

「夕陽。ルールを最終確認で説明してくれ」

 

「うん。わかったよ」

 

 

 

 信吾にそう言われ、僕はダイヤさんからもらった騎馬戦のルールが書かれた紙を読み上げる事にする。三年生の男子達は全員この競技を二年間経験してきているので今さら言う必要もないけれど、一年生の男子はまだ経験していないので詳しくは知らない。だから信吾は一応説明しておく事にしたらしい。

 

 数十人の男子達の視線が僕に集まる。みんな顔が本気だ。特に三年、僕らのクラスの男子達の中に笑っている人は一人も居ない。全力のぶつかり合いに挑む為、各々集中力を高めていると言ったところか。

 

 

 

「じゃあ説明するね」

 

 

 

 そんな前置きを置き、裏庭に集まった男子達に向かって最後の競技のルールや注意事項を話す事にする。

 

 

 

「まず、今回の騎馬戦は赤と白の二組に分かれて行うみたい。一組が赤、二組が白。一学年には二クラスずつだからちょうど半分に分かれるね。ここに居る人達は一組だから赤組になる」

 

 

 

 僕の言葉に耳を傾けてくれている男子達。それを見て、説明を続ける。

 

 

 

「一騎の人数は四人以上。騎馬の数は自分達で決めていいみたいだよ。ルールは騎手の鉢巻きを取るか騎手を地面に落とす事。それで制限時間内に大将騎を倒すか、残った騎馬が多い方が勝ち。勝った方の色のクラスだけが点数を総取り出来るんだって」

 

 

 

 大まかなルールはそれだけ。実際、ここに居る全員は既に把握している。いつもと違うのは女子達の目がある、くらいか。それがどう作用するかは僕にはまだ見当もつかない。

 

 

 

「サンキュ、夕陽」

 

「どういたしまして」

 

 

 

 信吾にお礼を言われ、僕は数歩後ろに下がる。それから赤組大将である彼はもう一度、数十人の男子達の前に立った。

 

 

 

「夕陽が言った通り、俺らが男子校でやって来た騎馬戦が今年も行われる。統合したとかは関係ねぇらしい。そこにいる一年は知らねぇだろうが、うちの騎馬戦はマジで危ねぇ。大小あるが、怪我は間違いなくするもんだと思って挑んでくれ」

 

 

 

 信吾がそう言うと一年生の男子達からざわめきが起こる。無理もない。経験してきた三年生がそんな事を言っていたら怖くなるのも当然だ。でも、信吾が言った言葉は嘘じゃない。下手をすれば大怪我をしかねないこの戦い。冗談じゃないからこそ、真実を伝えなくてはならないと判断したんだろう。

 

 

 

「度胸がねぇ奴は下がってろ──と言いたいところだが、そんな事をしてちゃ勝てねぇのが現実だ。授業でも何回か練習もしてきただろうが、今回は俺の作戦に従ってもらう」

 

 

 

 そう言って信吾は僕に目配せをする。そうして僕は信吾が考えた作戦が書かれている大弾幕を広げた。

 

 

 

 そして、前にいる男子達は僕が持っている大弾幕に書かれている作戦名を読み上げる。

 

 

 

 それは。

 

 

 

「「「「「“一騎当千! 一・二年生は大将を守りながら三年生は特攻して行くよ大作戦”?」」」」」

 

 

 

「どうだ。最高に分かりやすい作戦だろう」

 

 

 

 あ、信吾が僕らのクラスの男子に連れて行かれた。どうせまた女装でもさせられてるんだろう。特に僕らの定例行事を知らない一年生は全員茫然としてる。そりゃ自分達の大将が戦う前に女装させられている姿を見たら困惑するのも当然と言えば当然か。いや、でもこんな馬鹿みたいな作戦名を見せられたらそうされる事に納得する生徒もいるかもしれない。

 

 

 

 閑話休題。

 

 

 

「うっ、ぐすっ。おま、お前らっ、こんな時にまでやる必要ねぇだろぅ? お前らは俺をなんだと思ってんだ」

 

「「「「「(おんな)男」」」」」

 

「全員しばき倒すぞ」

 

 

 

 アイドルみたいな制服を身に纏い、パーマがかかったウィッグを付けて男子達の前で泣いている信吾。一・二年生にもそのクオリティを見せつけようとしたのか、いつにも増して女装のレベルが高い。下級生達は開いた口が塞がらない、と言った顔で女装させられている自分達の大将を見つめている。むしろ女の子よりも可愛い、と呼び声高いうちの信吾だからね。多分、また何かをやらかせばあの格好で騎馬戦に出させられるに違いない。それはいいとして。

 

 

 

「信吾、時間はあんまりないから早めにした方がいいかも」

 

「お、おう。そうだな。こんな所で油を売ってる場合じゃねぇか」

 

 

 

 僕がそう言うと自らウィッグやら制服を脱ぎ出す信吾。シャツやスカートを脱いでいる時、下級生の男子数人が頬を赤く染めながら食い入るように信吾の身体を見つめていた。恐らく、信吾が本当に男だという事を信じられていないんだろう。しょうがない。気持ちはよく分かる。全然知らない人が女装してる信吾の着替えを見たら、普通に女の子が着替えているように見える筈だから。

 

 

 

「んじゃ、気を取り直して説明する。っていうか説明も何も、完全にこのタイトル通りの作戦なんだけどな」

 

「一・二年生が大将騎を守りながら、俺ら三年が敵大将に突っ込んで行くって感じか?」

 

 

 

 信吾の言葉に三年の男子が要約した返答を返す。それを聞いて信吾はこくりと頷いた。

 

 

 

「そういう事。結局は大将を守りながら相手の大将を倒せば俺らの勝ちなんだ。だったら守りに重きを置きながら、攻める奴はとことん攻めるこの作戦が多分一番手っ取り早い」

 

「他の騎馬は狙わなくてもいいの?」

 

「ああ。こっちからは狙わなくてもいい。攻めてくる騎馬だけを一・二年に守らせて、三年は向こうの大将を守ってる騎馬だけをぶっ潰しに行く。シンプルだけど、これが理に適ってると思う」

 

 

 

 信吾が簡潔に作戦を纏めてくれる。なるほど。たしかに分かりやすくていいかもしれない。よくこんな作戦を思いつくな、と常々思う。これでテストの点数は絶望的に悪いとか未だに信じられないよ。頭が柔らかく、回転も異常に早い信吾に改めて尊敬の念を抱いてしまった。

 

 裏庭に揃った赤組の男子達は信吾が考えた作戦に納得してくれたみたいだ。その様子を見て、彼は嬉しそうに笑った。

 

 

 

「よし。んじゃ、準備しようぜ。三年にとっては人生最後の騎馬戦だ。一片の悔いも残さねぇように、全部出し切ろう」

 

 

 

 信吾の言葉に僕らのクラスの男子達が反応し、雄たけびを上げる。もちろん僕も声を出した。泣いても笑ってもこれで最後。なら、ここでやり切らない道理は無い。

 

 クラスの勝利のために、最高の思い出を作るために。そして、あの子に少しでも良いところを見せるために、僕は戦う事にする。本気になる理由はそれだけで十分だ。

 

 

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ─────何処からともなく太鼓の音色が聞こえてくる。その音を聞きながら入場口を通り、僕らは並んでグラウンドへと歩いて行く。

 

 入場してくる男子達の姿を目にした女子生徒達の甲高い声音が、騎手である僕の耳を通り抜けた。理由は分かる。僕達男子の姿を見て悲鳴を上げない方が驚きだ。

 

 僕らの格好は上半身裸で腰に()()()を巻いただけのスタイル。これが、僕らが以前通っていた男子校で行われる騎馬戦───通称・沼津の陣で伝統の格好だった。まさか統合してからもこの格好になるとは数日前まで微塵も思ってなかったが、これがルールなのだから仕方ない。どんだけ女子達の悲鳴を聞こうが、この伝統だけは破ってならないらしい。

 

 

 

「あ、一番前にシンゴが居マースっ! ファイトよシンゴーっ!」

 

「え、夕陽くんの肌、白くて綺麗。細いし、女の子みたい」

 

「信吾くんって筋肉質なんだね。ちょっとカッコいいかも」

 

「顔はかわいいのにね~」

 

「「………………」」

 

 

 

 僕らのクラステント前を通るとそんな声が聞こえてきた。意外にも僕らのクラスの女子達は男子達の身体に興味津々。でもなんだろう。ハッキリ言って、めちゃくちゃ恥ずかしい。気づいてない振りをしているがあからさまに顔が赤くなるのが自分で分かった。くそ、こんな事なら少しくらい身体を鍛えておけばよかった。なんだよ女の子みたいな身体って。全然褒め言葉じゃないよ。あと、僕の前を行く大将の信吾はクラスの女子達の方を向いて睨みを利かせていた。女の子達の言い分は分かる。あんな可愛い顔をしてるのに身体はしっかり絞れてるのが信吾のギャップだから。

 

 

 

「信吾くん、頑張ってっ!」

 

 

 

 そうしてテントの前を通り抜ける前、果南さんから応援を受けていた信吾。これまで反応を見せなかった彼も果南さんの応援だけは別らしい。顔を彼女の方へ向け、頷きだけで返事を返していた。

 

 僕が乗る騎馬も信吾の騎馬の後ろを進む。そこから僕はあの子の事を探した。

 

 

 

「…………ぁ」

 

 

 

 そして、すぐにその姿を見つけた。腕組みをしながらテントの支柱に背中を預けて立っている。

 

 視線は、僕の方を向いているように見える。何か応援でもくれるのかな、と思いながら見つめてみたけど、あの子が自分からそんな事をしてくれる訳もない。

 

 そもそも半裸の男子達の軍勢を見つめていてくれている事だけでも僕は少し驚きだった。こんな姿を見たら男子が嫌いなダイヤさんはすぐに何処かへ行ってしまうと思っていたから。

 

 ダイヤさんがあそこで見ていてくれるなら、と思うと無意識に気合いが入った。絶対に良いところ見せてやる。

 

 なんて事を考えながら彼女の方から目線を外そうとした時、ダイヤさんの口が小さく動くのが見えた。

 

 

 

「………………」

 

 

 

 自慢じゃないけれど、僕は目が良い。だからダイヤさんが今、何と言ったのかを唇の動きだけで判断できた。耳には音声として届かなかったけれど、ちゃんと伝わった。

 

 微笑んで魅せると、ダイヤさんはちょっとだけ驚いたような顔を浮かべてから、ぷいっとそっぽを向いた。多分、この位置にいる僕がその言葉を見切れると思わなかったんだろう。残念だね、僕の目がもう少し悪かったら分からなかっただろうに。

 

 ダイヤさんは『頑張って』と言ってくれた。それは本当に小さな声だったのだろう。口の動きだけでそれを見破ったから、言葉にしたかどうかも怪しい。

 

 でも、それが届いたのだから彼女の想いも僕には伝わっている。あの子が応援してくれるのなら、やるしかない。気合いの入り方が変わった。僕は体重が軽いだけで騎手に選ばれたけれど、それだけじゃないところを見せてやる。

 

 

 

「ありがとう」

 

 

 

 応援をくれた生徒会長に、届かない言葉を僕は返す。届かないと思った返事。それは、伝わらなくてもいいと思って言ったただの自己満足の言葉だった。

 

 なのに、こちらを見ながらダイヤさんは一度こくりと頷いてくれた。

 

どうやらあの子も、僕と同じくらい目が良いらしい。

 

 

 





次話/激突!沼津の陣Ⅱ


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激突!沼津の陣Ⅱ

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 両組の入場が終わり、赤と白の鉢巻きを巻いた男達はグラウンドの真ん中にそれぞれ整列し、睨み合う。

 

 向こうの大将は僕らが男子校時代の体育祭で敵騎をたんどくで五騎以上倒した事がある強者。僕と信吾も向こうの大将は彼になるのでは、と予想していたがそれは見事に的中した。レスリング部の部長で当然がたいも良く、腕なんかは僕の二倍くらいある。さらに彼が乗る騎馬は全員が重量系のメンバー。どちらかと言うと機動力を活かそうとしているこちらからすれば相性が悪いか。だがそれは一対一になった時の話。こちらの特攻作戦で数をぶつければ倒れない事はない。

 

 問題は、向こうがどんな作戦を仕掛けてくるか。それによって動きが変わる事は十分あり得る。全てが作戦通りに動くとは思うな、と信吾は先ほどの作戦会議の時、口酸っぱく僕らに告げていた。そして、時には作戦から外れて臨機に行動してもいい、と。それを決めるのは高い目線から戦場を俯瞰できる騎手。つまり、僕の役割。体力では敵わないのなら、僕には戦場を見つめる目と何かを考える頭しかない。それを今から存分に使ってやろうと思う。

 

 

 

 

 

「─────あいやしばらくっ! ヤァヤァヤァヤァ! 遠からん者は音にも聞け、近くば寄って目にも見よっ。我は赤組大将・橘信吾なりっ! 行くぞ我が赤軍、敵白組は目前に在り! 我らは赤に染まる雨。傘もささぬ白の軍団を一人残らず紅色に染め上げてみせようっ!」

 

 

 

 

 

 今はお決まりである両組の口上が行われている最中。これも僕らが通っていた男子校では伝統だったもの。その年の大将によって口上は変わるからそれを聞くのは毎年の楽しみだったりする。今年の僕らの大将は信吾。彼が威勢よく言葉を放つ姿を見て、素直に格好いいと思ってしまった。

 

 でも、実はあれを考えたのは信吾じゃない。数日前の休日。口上を考えられないから助けてくれ、と電話が来て僕はとりあえず下宿させてもらってるお寺に彼を呼んだ。

 

僕もそこまでこういう事に詳しくない為、二人で難儀しながら悶々と考えていたが、そんな時思わぬ助っ人が登場。国語と日本史にめっぽう強い僕の従妹、花丸。僕らは完全に彼女の存在を忘れてしまっていた。

 

そこから花丸も交えて一晩かけて三人で今の口上を決めたという経緯があった。前半の決まり文句は武士が果し合いをする時に言うものらしい。花丸がそういう事に詳しくて本当によかった。後半にあっては信吾と僕がない頭を振り絞って考えたもの。信吾が好きな雨を入れて仕上げた力作だった。

 

 そうして白組の口上が終わり、信吾を乗せた騎馬は一度後ろに立つ僕らの方を向く。今度は大将が僕ら騎馬隊に向かって激励をする。これも伝統の流れ。

 

 

 

「いいか。お前ら、よく聞け。勝つか負けるかじゃねぇ。この戦いに必ず勝つと、俺達は決めた。行くぞ野郎どもっ!!!」

 

「「「「「うぉおおおおおおおおおおッ!!!!!!」」」」」

 

 

 

 信吾がそう叫び、拳を空に掲げる。同じように僕ら騎馬隊も全員叫び声を上げて気合いを見せつける。白組の方からも同じような雄たけびが聞こえてくる。気合はほぼ互角。なら、それが本当かどうかを戦う事で証明するだけ。

 

 

 

「…………大丈夫」

 

 

 

 ハーフパンツの中に潜ませた玩具の宝石が付いたネックレスを握り締める。何かを願う時、このプラスチックの宝石を握り締めるのは僕の癖。どうかこの戦いに勝って、優勝できますように、と。今はただそれだけを祈る。

 

 両軍の口上と激励が終わり、僕らはそれぞれの配置に着く。僕が乗る騎馬は特攻隊であるため、中央線のすぐ傍に位置している。真正面には白組の騎馬が居る。間違いなく、始まってすぐに僕らはあの騎馬と激突する事だろう。そこで負けないよう、下にいる男子達を信じるしかない。僕に課せられた使命は地面に落ちない事。そして、あわよくば敵騎手の鉢巻きを奪い取る事。それを自分に言い聞かせ、一度深呼吸をした。

 

 女子生徒達の声援が絶え間なく聞こえてくる。彼女達も当然、この騎馬戦を見るのは初めてに違いない。統合して初めての体育祭。まさかそこでこんなに男臭い競技をする事になるとは思いもしなかったけれど、女の子に()を見せるのであればこの戦いはちょうどいい。男らしい本気のぶつかり合いを見せつけてやろう。

 

 

 

「夕陽、頼んだぜ」

 

「相変わらず軽いな夕陽は。衝撃で吹っ飛ばされんじゃねぇぞ」

 

「生徒会長に良いとこ見せてやれよ? 俺らも協力してやっからさ」

 

 

 

 なんて、僕を乗せる男子達が口々にそんな事を言ってくる。始まる直前だっていうのに、随分と呑気だな。でも、心配してくれてるのはありがたい。彼らのためにも、騎手である僕が頑張らなくちゃ。

 

 

 

「うん、任せて。頼りにしてるからね」

 

 

 

 そう言うと、彼らは軒並み男臭い笑顔を返してくれる。それから全員真面目な顔に戻り、前方に立つ敵騎馬隊を睨みつけていた。

 

 僕が出来るのは彼らを信じる事。彼らが信じてくれるのなら、僕はそれ以上に彼らを信じる。信吾がさっき言った通り、信じると決めたなら最後まで信じ抜くだけ。

 

 

 

『ただいまから最終種目、騎馬戦・沼津の陣を開始します』

 

 

 

 太鼓の音と共にそんなアナウンスが流れる。それにより、グラウンドに響き渡る応援は最高潮に。僕は最後にもう一度玩具の宝石を握り締めて。スタートする準備をした。

 

 そうして太鼓の音が止み、同時に応援も静まる。遠くで気の早い蝉が鳴いている声が聞こえてきた。今日は暑いからな。まだ暦は六月だというのに、夏と勘違いして生まれてきた蝉が何処かに居るらしい。

 

 ああ、それくらいでちょうどいい。どうせ短い命なのだから誰よりも先に生まれ、そして誰よりも早く死んで行くくらいの方が幸せなんじゃないか。僕も今からそんな格好良い生き方をしてやる。つまり何が言いたいかと言うと、初っ端から全力でぶち当たって行くという事。後先考える必要など皆無。逃げて生き残るよりは本気でぶつかって潔く負けて行く方が性に合ってる。僕は色んな人から女っぽい性格をしていると言われるけれど、自分では全然そんな事は思わない。

 

 だって、僕が憧れるのは誰よりも男らしい生き方をしている親友だ。彼の背中に追いつくまで、僕は逃げないと決めた。誰よりも男らしくあると決めた。

 

 だから、この戦いでも立ち向かうと決めたんだ。いつか、信吾みたいに格好良い男になれるように。

 

 

 

 ─────パン、という号砲が校庭に響き渡る。その直後、一斉に動き出す騎馬の群れ。

 

 

 

「行くぞおらぁあああああああああッ!!!」

 

 

 

 始まりの合図を聞いた男達の威勢の良い叫び声が静寂を切り裂く。全騎馬隊が全力で相手の騎馬に向かってぶつかりに行く。

 

 僕が乗る騎馬も予想通り、目の前に居た敵騎馬隊と衝突する。当然、大きな衝撃が上に乗る僕にも伝わってくる。だが、騎馬は互いに倒れない。恐らく力が拮抗しているのだろう。勢いをつけた初動で倒せないのなら、敵を負かす方法は必然的に変わってくる。

 

 

 

「夕陽っ!」

 

「任せてっ!」

 

 

 

 早速、敵騎手と腕を掴み合う。この勝負は先程ルール説明で確認した通り、相手の騎馬を倒し、騎手を地面に付ける事。それか騎手の鉢巻きを奪う事が勝利条件になる。倒せないのならば相手の鉢巻きを奪えばいい。

 

 相手の騎手は二年生。恐らく、僕と同じように体重が軽いから選ばれたのだろう。運動部に所属していない僕が言うのもなんだが、見るからに運動をしていなそうな男子。よかった。これで相手が力が強かったら今の時点で負けていた。どうやら花丸の言う通り、今日の僕には仏様の御加護がついているらしい。

 

 

 

「くっ」

 

「よっ、と」

 

 

 

 僕の額に向かって徒に手を伸ばしてくる敵騎手の二年生。それを後ろに身体を逸らして避ける。危ない危ない。

 

 騎手が前方に体重をかけた事により前に重心がかかる相手の騎馬。対する僕らの騎馬はしっかりと地に足を付けてバランスを取っている。チャンスだと思い、すかさず自分が乗る騎馬に指示を飛ばす。

 

 

 

「いったん後ろに下がって!」

 

「おうっ!」

 

 

 

 前にバランスを崩している相手の騎馬から離れる。するとさらに重心が前にずれるのが見えた。しめた。

 

 

 

「そのまま前に転んでっ」

 

「え────うわぁあああああっ!」

 

 

 

 尚も僕の鉢巻きに向かって手を伸ばしてくる騎手の腕を掴み、その腕を自分の方へ勢いよく引き寄せる。下の騎馬の重心が前にかかっている今、上にいる騎手を前に引っ張ればさらに崩れて行くのは自明の理。

 

 騎手がこれ以上前に行けないというほど引っ張られた敵の騎馬はバランスを取れなくなり、あえなく前方へと崩れ落ちた。その余波に巻き込まれないように、僕が乗る騎馬は瞬時に位置を変えてくれる。

 

 

 

「ナイス夕陽っ!」

 

「ふふっ、そっちもね」

 

 

 

 まずは一騎。なかなか幸先の良いスタートだった。僕らの前にはしばらく敵騎馬隊は見えない。移動する合間に、急いで戦場を俯瞰する。

 

 相手は騎馬戦のテンプレートのような動きをしている。数隊が大将の前に残り、他の騎馬は遊撃的にこちらの陣地へと突っ込んでくる。いや、そうじゃない。僕らは他の騎馬を無視して敵大将だけを狙っているが、相手の騎馬隊は近づいてくる騎馬だけにとにかくぶつかりに行っている。必然、僕らのように一度騎馬を倒せば容易に大将に近づく事が出来るという欠陥を抱えた作戦だった。

 

 

 

「このまま大将の方に行こう!」

 

「了解っ! なんかあったらすぐに指示をくれっ!」

 

 

 

 がら空きになった前方を駆け抜ける僕が乗った騎馬。僕らの作戦では圧倒的に特攻する騎馬の方が少なく、大将である信吾の騎馬を守る隊の方が多い。だからこそ、僕ら三年生の騎馬は他の騎馬を無視して攻める事が出来る。

 

 

 

「やべぇぞ、一つ抜けた!」

 

「誰か戻って大将を守りに行けっ!」

 

 

 

 僕らの騎馬が一番最初に敵騎馬を倒し、大将に近づいているのに気づいた敵の騎馬隊。だがそれでは間に合わない。攻めに行っていた騎馬が戻るのにより時間がかかるのは火を見るよりも明らか。その前に僕らは敵大将に近づく事が出来る。

 

 

 

「行くぞ夕陽。しっかり掴まってろよっ!」

 

「うんっ!」

 

「「「「おらぁあああああああああっ!!!」」」」

 

 

 

 助走を付けて僕らの騎馬が相手の大将を守る騎馬に突っ込んで行く。迎撃するために待ち構えていたのだろうけれど、スピードを付けたこちらの騎馬に勝てる訳がない。案の定、大将を護衛していた一騎の騎馬は僕らの騎馬に倒された。良い感じだ。このまま大将に近づければ勝負は早々に決まる。

 

 

 

「よっしゃあっ! これで二騎目っ」

 

「待って、横っ!」

 

 

 

 二騎目の騎馬を倒して少しだけ緊張感が抜けた僕を乗せる男子四人。それを見計らうように、横から突撃してくる敵の騎馬。

 

 大きな衝撃が襲い掛かる。だが倒れるまでではない。気づくのが遅れたけれど、僕らの騎馬は何とか踏ん張ってくれた。早い段階で気づいていたから衝撃に耐える事が出来た。でも今のはちょっと危なかったよ。

 

 

 

「ふんっ!」

 

「く、っ!」

 

 

 

 僕らの騎馬に横から突撃してきた敵騎馬は、恐らく大将の最後の砦なのだろう。今までの騎馬とは明らかに動きと重量感が違う。騎手である男子も野球部に所属する三年生の男子。これはかなりの強敵だ。倒れないように気を付けよう。あとはこの鉢巻きを守ればいい。僕が相手の鉢巻きを奪い取るのはまず無理だ。力が違すぎる。ならば最初から諦めて守りに徹するのも一つの勝負の方法。

 

 

 

「おら、寄越しやがれ夕陽っ」

 

「やだよっ!」

 

 

 

 僕の腕を強引に掴んでくる野球部の男子。くそ、やっぱり力が強い。これじゃあ鉢巻きを奪われるのも時間の問題だ。僕から攻めなければ少し時間を稼げるけれど、それもいつまで保つか分からない。

 

 僕を乗せる騎馬の男子達も敵騎馬隊を押し倒そうと必死になってくれている。だが徐々に押されているのが上に乗っていて分かった。マズい。これではバランスを崩して後ろに倒れてしまう。こうなってしまっては姿勢も悪くなる。同じ体勢で鉢巻きを守るだけでは間に合わない。

 

 

 

「うぉらあああああっ!」 

 

「くっそがぁあああっ!」

 

「っ!」

 

 

 

 相手の力に押され僕らの騎馬は後ろに仰け反る。それを上から押しつぶそうとしてくる敵騎馬隊。騎手の男子も僕の上から体重をかけてくる。このままじゃ倒れる。なら、どうすればいい。

 

 頭を使え。僕に出来るのはそれだけだ。力の無い僕に出来るのは誰よりも戦場を明確に把握して、頭を使って敵の動きを予測する事。

 

 

 

「───あ」

 

 

 

 鉢巻きを守りながら目線の片隅にある光景が映った。そして、頭の中で一つの作戦が閃く。この状況を打破できる一本の手綱は、この手の中にある。

 

 頼む、間に合ってくれ。

 

 

 

「立ち上がるよっ! 転ばないでねっ」

 

「な、夕陽?!」

 

 

 

 姿勢が仰け反った状態のまま、僕は騎馬の上に立つ。乗るのではなく、()()()。バランスを取れる状態から不安定な姿勢に自らを持って行く。この姿勢で押されたらまず僕はすぐにでも地面へと落とされる事だろう。だけど今はそんな事を考えている場合じゃない。一か八か。この騎馬を守るにはこうするしかなかった。

 

 

 

「ははっ、どうした夕陽。最後の足掻きかよっ」

 

「そうかもねっ」

 

 

 

 上から騎手の男子に体重をかけられていたが、騎馬の上に立つ事により状態をフラットに戻す事が出来る。しかし、相手の騎手はしっかりと騎馬の上に乗っている。僕は両足で男子達の肩に乗っているだけ。どちらの方がバランスを取れているかは考えなくても分かる。

 

 それを見て相手の騎馬はさらに押しを強めてくる。恐らく僕らの騎馬自体を倒すのではなく、上に乗ってる僕を振り落とす事に目的を変えたのだろう。

 

 だけど、それは僕の術中だ。残念だね。たしかにそうする方が確実に勝てるかもしれない。

 

 

 

 でも、そんな時間をかける事をしてたら、()()()()()()()()()()()()()()? 。

 

 

 

「夕陽ぃいいいいいっ!!!」

 

「助太刀に来たぞぉおおおおおおおっ!」

 

「おわぁあああっ!?」

 

 

 

 味方の騎馬が、僕らと掴み合っていた敵騎馬に高速で体当たりする。相手は完全に周りの状況が見えてなかった。けど僕には彼らがこちらに助けに来ているのが見えていた。だから僕はわざと立ち上がったりして倒れるまでの時間を稼いでいたという訳。間に合ってよかった。死ぬほど安堵してしまったのは僕だけの秘密。

 

 死角から僕らの味方の騎馬に突撃されて崩れ落ちて行く護衛の敵騎馬隊。運よく、助太刀に来てくれたのは足が速い陸上部の連中が集まってる騎馬隊。そうじゃなかったら多分、間に合わなかった。仏様の御加護、凄い。帰ったら花丸と一緒にちゃんとお供え物をしないと。

 

 

 

「ありがとう! 信じてたよっ!」

 

「へへっ! いいって事よっ」

 

「よく耐えたな夕陽、さすがだぜっ」

 

 

 

 助けに来てくれた騎馬隊に感謝をする。これで最後の砦を倒した。残るは敵大将が乗る騎馬隊のみ。しかもこちらには二騎、騎馬が居る。二対一ならどんなに相手が強くても負ける事はない。

 

 

 

 ─────だがしかし、僕はここで酷い勘違いをしていた事に気づく。ああ、そうだ。気づくのが遅すぎた。

 

 

 

 どうして、相手の大将は自分を守らせる騎馬隊をここまで少なくしていたのだろう。その理由を考えていなかった。明らかに初めから護衛の騎馬隊が少ないのはパッと見ただけでも理解出来たのに、僕はそれに対して何の疑問も抱かなかった。

 

 

 

 僕らは作戦通り特攻し、早い段階で敵大将の最後の守りを突破した。それが、敵大将の思惑通りだとは、考えてもみなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「…………あれ」

 

「おい、ちょっと待て」

 

「どういう事だ、これ」

 

 

 敵大将が乗る騎馬隊に挑む前に、僕らの騎馬隊と味方の騎馬隊は何かがおかしい事に気づいた。

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 何故だ。なんでこんな所にこんな数の敵騎馬隊が居る? 解せない。一体いつから、僕らは囲まれていたんだ。 

 

 

 

「残念だな、夕陽」

 

「え…………」

 

「これが俺達白組の“井の中の蛙”作戦だ」

 

 

 

 白組の大将が、嫌な笑みを作りながら僕に向かってそう言ってくる。井の中の蛙。それは井の中では威張っている蛙でも大きな海の存在は知らない、という意味の諺。

 

 その諺を今の自分自身に当てはめる。ああ、たしかにそうだ。今の僕らはその諺の通りになってしまっている。

 

 多数の騎馬隊に囲まれて完全に成す術がない僕らの騎馬。なるほど。ようやく分かってきた。

 

 たぶん、僕らの作戦は最初から白組の大将に読まれていた。だから僕らはあんなにも簡単に大将まで接近できたのだろう。僕ら三年生の騎馬隊が特攻する事を分かっていた白組の大将は、わざと自信を守らせる騎馬を少なくしていた。それで、僕らが接近したところを見計らって先に進ませていた騎馬を自分の陣地の方へと呼び戻した。手当たり次第に赤組の騎馬にぶつりかりに行っていたのも、あれはフェイクだったのか。

 

 

 

「…………嘘でしょ」

 

「信吾なら多分そう考えてくると思ったからな。先にお前ら三年を潰しておけば後の一・二年はどうにでもなる。だから俺は最初にお前らをここに誘き寄せたんだよ」

 

 

 

 白組の大将である彼も信吾と長年の付き合いだから考えてる事がわかったのか。流石は騎馬戦の勇者と呼ばれただけはある。

 

 これでは僕らは何も太刀打ちできない。ここまでの数の騎馬に囲まれてしまったら手出しできる方がおかしいってもんだ。

 

 

 

「あぁ、これはちょっと予想外だったね」

 

「だろ? んじゃ、早めに潰れておけ」

 

 

 

 白組の大将が右手を上げる。それが僕らの騎馬を囲ってる騎馬隊を動かす合図だと、何となく予測した。

 

 その手が下がれば僕らは一騎に潰される。それはすでに決まっている未来。

 

 

 

 

 

「…………でもね」

 

「ん?」

 

「いつ、信吾の考えが当たってるって言った?」

 

「は? 夕陽、お前何言って」

 

 

 

 僕は微笑みながら敵大将を見つめる。彼も言葉の意味がわかってないのだろう。それもそうだ。だって、彼は僕らの騎馬隊しか見ていないから。いや、それかその奥に立つ自分達の隊しか見えていないから。

 

 

 

「たしかに、君達は大海を知っていて、僕らは小さい井戸の中しか見えてなかったと思う。でもね」

 

 

 

 僕は白組の大将を見つめながらその言葉を放つ。これは最後の命乞いでも、負け犬の遠吠えでもない。

 

 彼よりももっと壮大な世界を見つめる、井の中の蛙だからこそ考えられたもう一つの作戦。

 

 

 

「ふふっ。あの信吾が、いつまでも同じ考えを持っている男だと思った?」

 

「………………まさか」

 

「僕らの大将をあんまり軽く見ない方がいいよ。共学になってからまた強くなったから」

 

 

 

 そう言って後ろを振り向く。その目線の先には、我らが大将が居るのはここに立つ誰もが知っている事。

 

 でも、僕が言っているのは()()()()。誰も方向の話をしている訳じゃない。

 

 

 

 

 

 

 

「ね、信吾」

 

 

 

「あったりめぇだろっ! この俺を、誰だと思ってやがるっ!」

 

 

 

 

 

 

 

 そんなの、統合先の女の子に恋をしたのに、未だに燻ってる僕らのリーダーに決まってるじゃん。

 

 





次話/激突!沼津の陣Ⅲ


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激突!沼津の陣Ⅲ

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

「なにっ!?」

 

「あんまり俺を舐めてんじゃねぇぞこの野郎っ!!! 行くぞてめぇら!」

 

「「「「「うぉおおおおおおおおおおおおおおっ!!!」」」」」

 

 

 

 突然、近くから聞こえてくる我が赤組大将・信吾の声。そして、彼を守っていた筈の一・二年生の全騎馬隊。彼らは僕らの騎馬を囲っていた白組の騎馬隊の後ろから突撃してくる。これには白組の大将も愕然としていた。無理もない。この短時間で五十メートル以上離れていた距離を詰められたら誰だって驚く。

 

 なら何故、信吾を守っていた一・二年生の軍団が瞬く間に僕らの助けに来れたのか。

 

 信吾は()()()()()()()()()()()()()()()。数十分前、裏庭に赤組の男子を集めて作戦を教えていた時の事を思い出す。

 

 

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 

 

『じゃあ最後までこの作戦を貫くんだな?』

 

『いや、そのつもりはねぇ。これは単なるフェイクだ』

 

『というと?』

 

『多分、白組の大将は俺の作戦を読んでくる。あいつとは長い付き合いだからよく分かる。だから、敢えてこの作戦を読まれたフリをするんだよ』

 

『つまり、どういう事だ?』

 

『一・二年生を固定して俺の騎馬を守らせておきながら、三年は大将に向かって特攻する。そしたら恐らく、白組の奴らはまず全員で三年の騎馬を潰しにかかってくる。それを先読みして、()()()()()()()()()()()()()()一・二年生の騎馬を奴らの後ろから突撃させる。もちろん、俺も含めて一斉攻撃だ。間違いなく、ここまではあいつでも読めない』

 

『裏の裏をかくって事?』

 

『そういう事だ、夕陽。だから三年の奴らはとにかく相手陣地で生き残る事だけを考えてくれ。奴らの標的が特攻した三年に向いたら、俺達がすぐに助けに行ってやる』

 

『…………なるほど。で、この作戦名は?』

 

『よくぞ訊いてくれた。そう、この作戦の名前は─────』

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

「名付けて“大海を知る蛙も、宇宙までは知らない大作戦”だっ!!!」

 

「「「「「「だっさ」」」」」

 

「うるせぇ! お前らもとっとと動きやがれっつーのっ!」

 

 

 

 またセンス0の作戦名を付ける信吾。あそこまでネーミングセンスが無い人もめずらしいと思う。いや、意味は分かるんだよ。井の中の蛙である僕らを倒そうとする大海を知った蛙。それよりも大きな世界を知ってる蛙である信吾達が井の中に居る僕らを助けにくるっていう、何とも信吾が考えそうな超大胆で奇抜な作戦。それを信吾はさっきの訳わかんない作戦名で表したらしい。一・二年生は全員頭にクエスチョンマークを浮かべながらとりあえずこっちに向かって突っ込んできている。意味が分かってないのにやらされたんだろうな、可哀想に。

 

 赤組の突然の奇襲に驚く白組の騎馬隊。それはそうだ。あんなに離れた所にいた相手が気づいたら後ろから突撃してくる、なんて、誰も思わないだろう。助走を付けて死角からぶつかって行く一・二年生の騎馬隊。僕らを囲っていた白組の騎馬隊を次々と倒して行く。白組大将も指示を飛ばす暇もないらしい。なら。

 

 

 

「行くよ、みんなっ!」

 

「おう!」

 

 

 

 立ち止まっていた僕らの騎馬隊は再度、白組大将の騎馬に向かって突撃する。こちらは二騎で相手も二騎。他の騎馬隊が応戦してくるまでに大将を倒してみせる。

 

 

 

「くそっ、こうなったらガチンコで勝負だっ。行くぞ!」

 

 

 

 白組大将もこの状況がかなりマズい事に気づいたのだろう。自らの騎馬を動かし、接近する僕らの方へと突っ込んでくる。迎撃では勝てないと踏んだのか。流石は歴戦の勇者、動き出しも段違いに早い。

 

 

 

「おらぁあああああああああっ!」

 

「ふんっ!」

 

 

 

 そうして僕が乗る騎馬隊が白組大将の騎馬とぶつかり合う。出来るだけ倒れないようにする為か、向こうは五人が大将を支えている。対する僕らの騎馬は四人。たった一人の違いかもしれないけれど、この騎馬戦ではそれがかなり大きな差になってしまう。

 

 

 

「頑張って!」

 

「分かってるっ!」

 

「夕陽も絶対落ちんじゃねぇぞっ!」

 

 

 

 僕を持ってくれている男子達は残された体力をここで使い果たそうとしてる。凄い。数的不利な状態なのに、力は拮抗していた。となれば僕の役割は限られる。今言われた通り、振り落とされない事。そして、絶対に鉢巻きを取られない事。

 

 

 

「ふ、っ」

 

「ははっ、さすがは信吾だな。俺もちょっとあいつを舐めてたぜ」

 

「そうでしょ。僕もビックリな作戦だったからね」

 

「でも、騎馬戦は作戦だけじゃ勝てない。最後は力が強い方が勝つってのを教えてやるよ」

 

「─────っ」

 

 

 

 白組の大将が僕の腕を掴んでくる。痛い。なんて握力をしてるんだ。丸太のような腕で僕の小枝みたいな腕をガッチリ握り締めてくる。そうだよね。普通に考えてみれば分かる。彼が言った通り、騎馬戦は作戦だけじゃ勝てない。行くら良い作戦を考えたって、地力で負けていたら話にもならない。 

 

 運動なんて年に数えられるくらいしかしない僕に、レスリング部で毎日鍛えている彼が負ける筈がない。そんなの考えなくても分かる。そこまで甘くはないのは分かってるよ。

 

 でも、ただで終わってたまるか。僕がすんなり負けてしまったら、ここまで頑張ってくれた騎馬のみんなに見せる顔が無くなる。それはダメだ。それでは今までの頑張りが水の泡になってしまう。

 

 

 

「どうした夕陽っ! 学年一の読書家の力はそんなもんかよっ」

 

「っ。生憎、身体を鍛えた事なんて一度もないからね」

 

 

 

 白組の大将は掴んだ僕の腕を自分の方へと引き寄せてくる。それにより、下の騎馬のバランスも崩れてしまう。マズい、これじゃあ保たない。

 

 ここでレスリング部の部長である白組大将に純粋な力勝負を挑んでも一瞬で勝負は決まってしまう。僕に出来るのは耐える事だけ。でも、体力で勝てない相手にいつまでも守りが通用する訳がない。どうすればいい。どうすれば、僕はこの勝負に勝てる。

 

 全身全霊をかけて落とされないように耐えながら、そんな事を思っている時、聞き慣れた女の子の声が僕の耳を通り抜ける。

 

 

 

 

 

「─────ユウくんっ!」

 

「…………花、丸?」

 

「今朝の()()を思い出すずらっ!」

 

 

 

 

 

 穏やかな彼女にしてはめずらしい大声。だから、この喧騒の中でもハッキリと聞こえたのかもしれない。彼女の姿を見る余裕はない。でも、声だけはたしかに聞こえた。

 

()()を思い出す? なんの事だろう。そう自分自身に問い掛けた時、今朝花丸としたあの会話を思い出した。

 

 

 

『苦しいと思った時は心の中で五回、()()()って言い聞かせるずら。そしたらきっと、仏様がユウくんを守ってくれるずら』

 

 

 

 そうだ。あの子は僕にそう言ってくれた。多分、今聞こえた彼女の声もあの言葉を思い出せ、という意味のものだったんだろう。

 

 苦しいと思ったら心の中で大丈夫を五回唱える。そうすれば仏様が僕を守ってくれる。僕には似合わない神頼みか。でも、お寺に居候させてもらって、毎朝掃除も欠かさない生活に慣れた今なら僕にもその御利益があってもいいんじゃないかな。

 

 だから、今は花丸の言葉を信じてみよう。

 

 

 

 ───大丈夫。

 

 

 

「やべぇっ! 崩れる!」

 

「耐えてくれ夕陽っ!」

 

 

 

 体勢が前に移動して、それによって騎馬の重心も前に崩れて行く。このままだと数秒もかからずにこの身体は地面へと落ちて行くだろう。それでも。

 

 

 

 ───大丈夫。

 

 

 

「ここで倒れやがれ夕陽っ!」

 

「…………ああ゛っ!」

 

 

 

 さらに力を強めて僕の腕を引っ張ってくる白組の大将。僕の力では抗う事すらできない。それでも。

 

 

 

 ───大丈夫。

 

 

 

「夕陽っ!」

 

「危ねぇっ!」

 

 

 

 騎馬のバランスが完全に崩れる。僕の姿勢も前方へ落ちかけてしまう。それでも必死に僕の身体が地面へと落ちないように足を掴んでくれている騎馬の男子達。自分達もきついというのに、僕の事を支えてくれている。

 

 

 

 ───大丈夫。

 

 

 

「これで終わりだっ! 落ちろ夕陽!」

 

 

 

 前に出た身体を振り落そうとしてくる白組の大将。それが最後の決め手だった。敢えなく、僕は騎馬の上から落ちて行く。これではもう、どうしようもない。強がって挑んだ僕がバカだった。勝てる筈もないのは自分が一番わかってたのに。何をしてるんだろう、僕は。あの子に『頑張って』と、応援されたというのに、何を。

 

 

 

「………………ははっ」

 

 

 

 そうだ。あの子が見てる前で情けなく地面に落ちる、なんて、そんなの格好悪すぎる。まぁ、それはそれで力のない僕らしい結末かもしれないけど、笑われたりするのはちょっと嫌だな。

 

 あれだけ練習をして、話し合って、勝とうと決めた体育祭。それがここで終わるのは嫌だ。僕はそんな最後を受け入れない。諦められるわけがない。

 

 

 

 だから。

 

 

 

「───大丈夫」

 

「───夕陽っ!!!」

 

 

 

 

 

 ああ。やっぱり、あの子のおまじないは当たっていたみたいだ。どうやら仏様は、僕の事を守ってくれたらしい。

 

 

 

 信じてたよ、信吾。

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 

 

 僕が乗る騎馬が崩れかけた瞬間、横から白組大将の騎馬に突撃してくる赤組の騎馬隊。それはもう、相当なスピードを保ったまま衝突していた。

 

 

 

「なっ!?」

 

「し、信吾っ!?」

 

 

 

 倒れそうになる僕らの騎馬を助けてくれたのは大将である信吾が乗る騎馬隊。陸上部のメンバーを集めた超高速移動が出来る圧倒的な機動力を持つ信吾の騎馬。それが勢いを殺さぬまま敵大将騎馬隊に突っ込んで来た。

 

 相手の騎馬隊は崩れない。でも、その間に崩れかけた僕らの騎馬隊はバランスを取り直す事が出来た。もちろん、僕も落ちる寸前のところで元の状態に戻った。本当に危なかった。一瞬身体が逆さになったよ。足を掴まれてなかったら呆気なく落ちてたと思う。

 

 

 

「遅かったね、大将」

 

「ばーか。ヒーローは遅れてやってくるもんだって相場が決まってんだろ」

 

「ふふ、そうだね。でも絶対来てくれるって信じてたよ」

 

「はっ、あったりまえだろ。相棒のピンチに駆けつけない奴なんて男の片隅にもおけねぇ」

 

「さすがだね、信吾は。女の子みたいな顔してるのに」

 

「後で覚えてろよ、夕陽。生徒会長にお前が意外とむっつりだって事をバラしてやる」

 

 

 

 それはヤバい。信吾がダイヤさんに近づかないように見張ってなくては。あれだよ、純粋キャラを作ってる訳でもないけど、僕だってそういう事に興味がない訳じゃないからね。でも流石にそれをダイヤさんにバラされるのは僕のメンタル的に厳しいものがある。果南さんや鞠莉さんにバラされたら確実に馬鹿にされる。そんな未来が鮮明に思い浮かべる事が出来た。今はそんな事を考えてる場合じゃないか。

 

 信吾が乗る騎馬隊が応援に駆け付けてくれたお陰で有利になる僕らの騎馬。さっきの奇襲で一・二年生が他の騎馬を押し留めてくれているから白組の応援が来る事もない。

 

 これで二対一。一気に僕らが優勢になった。行くら白組の大将が強くても数には勝てない、筈だ。

 

 

 

「信吾、お前」

 

「よう、気分はどうだよ大将。同点で大将戦をやるのもめんどくせぇから直々にやってきてやったぜ」

 

 

 

 両軍の大将が掴み合いながらそんな話をしてる。その間に、僕が乗る騎馬隊も完全にバランスを修正できた。

 

 

 

「行こう、これで最後だよ」

 

「ああ。早くぶっ潰してやろうぜ」

 

 

 

 明らかに疲弊している騎馬隊の男子四人の僕は声をかける。無理をさせるのは憚れる。でも、ここで畳み掛けなければいつまで経っても戦いは終わらない。

 

 

 

「シンゴッ! ファイトデースッ!!!」

 

「信吾くんっ、頑張って!」

 

 

 

 周りの声が聞こえるまでの余裕が出来た。クラスの女子達が僕達に向かって大きな声を張ってくれている。いや、違うな。両軍の大将がぶつかり合っているこの状況を見て、応援の熱がさらに増したのだろう。傍から見てもこれがクライマックスだと見ている女子達も理解したらしい。これでどちらかの大将が負ければ勝負は決する。

 

 だが、相手の大将は純粋に強い。いくら信吾が僕よりも体力があっても、あの大将には敵わないだろう。

 

 

 

「はは! 去年より威勢が良い割に力は全然変わってねぇな信吾っ!」

 

「言ってろっ! ぜってぇ倒してやる」

 

 

 

 二人の大将が互いの腕を掴み合っている。勝負は倒されるか鉢巻きを奪われるかで決まる。迂闊に攻めれば鉢巻きを取られてしまうし、逆に守りに入ってしまえば徒に時間がかかって他の応援が来てしまう。信吾は恐らくそれを見極めている。

 

 ならば、僕らが出来るのは彼の補助。一対一で勝てないのなら僕らが協力すればいい。

 

 

 

「ふんっ!」

 

「っ、こんのっ、邪魔しやがって!」

 

「ごめんね。でも、さっきのお返しだよっ」

 

 

 

 僕らの騎馬隊が白組の大将が乗る騎馬隊にぶち当たる。それによりグラつく向こうの騎馬。圧倒的に数では僕らの方が有利。どれだけ騎手が強くても騎馬が保たないのなら意味などない。

 

 それでも向こうの騎馬隊はなんとか踏ん張ってくる。だが、信吾が白組大将の両腕を掴んでいる今がチャンス。この間に僕が手を伸ばして敵大将の鉢巻きを奪えばいい。

 

 

 

「夕陽、頼むっ!」

 

「分かってるっ!」

 

「く、っ」

 

 

 

 掴み合ってる二人の横から僕は腕を伸ばす。でも、白組大将は身体を仰け反らせて僕の手を避ける。くそ、ギリギリ届かない。あと少しなのに。

 

 そうして前に身体をせり出して敵大将の鉢巻きを奪おうとしている時、目線の端に映ってはいけないものが映った。

 

 

 

「あ───信吾っ!」

 

「え? おわっ!?」

 

 

 

 近くにいた白組の騎馬が、赤組の騎馬隊を倒して援軍に来る。さっき僕らの騎馬を助けてくれた三年生の騎馬隊が負けたのか。

 

 これで形成は二対二になる。有利だった筈なのに、また振出しに戻ってしまった。いや、応援が来るのを予測していなかった分、今は僕らの方が不利かもしれない。

 

 今の衝突により信吾は掴んでいた白組大将の腕を離してしまった。さらに体勢を崩し、今度は信吾が騎馬から落ちそうになっている。

 

 

 

「信吾っ!」

 

「やっべ」

 

 

 

 それを見た僕らの騎馬は白組大将を狙おうとする。でも、それを阻むように応援に来た白組の騎馬隊がその間に割り込んできた。マズい、これは本当に危ない。

 

 白組大将がニヤリと笑うのが見えた。でも、僕の位置からでは彼の身体に届かない。信吾を守る事も出来ない。間にもう一つの隊があるのだから当たり前だ。どうやっても向こう側には行けない。もし僕らの騎馬が目の前にいる一隊を倒しても、どちらにせよ間に合わない。

 

 

 

 

 

「………………」

 

 

 

 

 

 でも、僕には一つだけできる事がある。一か八かの賭け。これが失敗すれば確実に僕らは負ける。けど、今はそれを考えてる暇はない。

 

 本当にやるのか? ああ、やるしかない。ここでこれをやらずに終わったら僕は間違いなく後悔する。だから、僕はやる。倒れかけている親友を信じて、この手を伸ばす。

 

 

 

 ───違う、()()()()

 

 

 

「はっ、じゃあな信吾。これで終わりだ」

 

「しまっ───」

 

 

 

 トン、と敵大将が信吾の両肩を後ろに押す。必然、後方へと下がる信吾の身体。崩れる赤組大将の騎馬隊。それを押し込む敵の騎馬隊。それで、勝負は決する。

 

 筈だった。

 

 

 

「夕陽? お前、何やって」

 

「ごめん。ちょっと無茶してくるね。しっかり支えてて」

 

 

 

 先ほどと同じ要領で、支えてくれている男子達の肩に立つ。目の前にはもう一騎の敵の騎馬。その向こう側に、倒すべき白組の大将は居る。

 

 どうやっても手は届かない。どれだけ腕が長くても届く距離じゃない。なら、どうすれば届くのか。答えは一つしかない。そう。

 

 

 

 飛び越えればいいんだよ。

 

 

 

「──────うぁあああああっ!!!」

 

「は?」

 

「え?」

 

 

 

 支えてくれていた男子の肩から踏み切ってして、僕は間にいる敵の騎馬隊を飛び越える。

 

 これは最後の最後でしか使えない捨て身の技。信吾が去年、これで相手の鉢巻きを奪っているのを僕は見ていた。結局そのまま地面に落ちて左肩を亜脱臼して保健室送りになってたけどね。

 

 それを真似してみる事にした。この土壇場で出来るのはこの技しかない。絶対怪我するけど、それを怖がっていたら僕らは負ける。痛いのは嫌だけど、信吾があれだけ頑張っているのを見たら僕がやらない訳にはいかない。…………腕が折れるのってどんな感じなんだろう。

 

 

 

「ゆ、夕陽っ!?」

 

「嘘だろっ!?」

 

「残念だけど、嘘じゃないよ」

 

 

 

 自分の騎馬隊から白組大将の騎馬隊に乗り移る。なんて、そんな芸当は運動神経が絶望的に悪い僕に出来る訳がない。身体能力が高く、身軽な信吾でも成功しなかった大技を僕なんかが見様見真似でやって成功する訳ない。そんなの最初から分かってた。

 

 でも、この身体をぶつけて相手の体勢を崩す事は出来る。信吾風に作戦名を立てるなら、そうだな“神風特攻隊作戦”とでも言おうか。ああ、自分で思うのもなんだけど信吾のネーミングよりはよっぽど良いような気がする。

 

 

 

「ぐ、っ!」

 

「ぐほっ!?」

 

 

 

 体当たりを食らった白組大将は僕と一緒に地面へと落ちて行く。それで終わればよかったんだろうけど、如何せん、そう上手く行かないのがこの世の常。

 

 

 

「────っ!!!」

 

「あ…………」

 

 

 

 白組大将は僕の捨て身技を食らっても尚、自分の騎馬の上に留まっていた。もう少し僕の体重が重かったら一緒に倒れたのかもしれない。今はそんな事を悔やんでも仕方ないか。

 

 宙に浮かぶ僕に見えたのは、そこまで。この身体は無情にも校庭の上に落ちて行く。僕の名前を呼ぶ数人の声が聞こえた気がしたけど、誰の声なのかはわからなかった。

 

 

 

「痛、っ────」

 

 

 

 そうして僕の身体は地面に打ちつけられる。受け身なんて取れなかった。ガツンと後頭部を強く打ったのか、一瞬視界が砂嵐のようになって何も見えなくなる。けど、かろうじて意識は手放さなかった。

 

 痛い。それなりに高い所から勢いをつけて落ちたんだから当たり前か。幸い、腕や足が変な方向に曲がってたりはしてないみたい。でも、立ち上がる事は出来なかった。

 

 地面に寝そべったまま、頭上で続けられている騎馬戦を見つめる。負けたかな、と思いながら朦朧とする意識で見ていたけれど、どうやら僕の馬鹿みたいな捨て身技にも意味はあったみたいだ。

 

 

 

「「「「「おらぁあああああああああああっ!!!」」」」」

 

「………………」

 

 

 

 僕の特攻(物理)で白組大将の騎馬隊がバランスを崩している間に、信吾が乗る騎馬隊が形勢逆転していた。見えたのは、白組大将の騎馬隊が押しつぶされる光景。

 

 

 

 

 

 ──────そして聞こえてくる、勝負が決した合図であるホイッスルと太鼓の音色。あとは、男女の劈くような絶叫、くらいか。

 

 

 

 どちらにせよ、うるさいな。頭が痛いので少し静かにしてほしかった。

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 視線の向こう側に広がる青空を眺める。イルカみたいな形をした雲がゆったりと何処かの方角に向かって流れて行く。綺麗な空だ。でも、季節はまだ梅雨。明日はまた雨が降るだろう。今は晴れてるんだから、この初夏の空を見上げる事にしよう。

 

 そんな馬鹿な事を考えてると、誰かが近づいてくる気配を感じた。その気配がする方に目線を移す。

 

 

 

「…………気分はどうだよ、相棒」

 

「うん。はっきり言って、最悪」

 

「俺らが勝ったのに?」

 

「こんな痛い勝ち方なんて、誰も求めちゃいないよ」

 

「それもそうだな」

 

 

 

 校庭に寝そべる僕の顔を覗きこんでくる赤組の大将。どうでもいいけど、彼は僕の親友だ。同時に、尊敬してる人でもある。

 

 そんな彼を最後に助ける事が出来てよかった。僕があんな事をしなくても、信吾はどうにかしたかもしれない。でも、何もしないよりはマシだった。こんな無茶をした記憶はきっと、黒歴史となって僕の中に残り続けるだろうから。

 

 

 

「信吾」

 

「なんだよ夕陽」

 

「さっきの、ちょっとカッコよかったかな?」

 

「うーん。何とも言えん。俺にはバカやってるようにしか見えなかった」

 

「もうちょっとオブラートに包んでよ。親友でしょ?」

 

「親友だからこそ率直な感想を言ってやってんじゃねぇか」

 

 

 

 変な質問をすると信吾はそんな返事をしてくる。たしかにそうかもしれない。ここでお世辞を言われても後で傷つくだけだし、本音をもらえてよかったかも。でも、カッコよくなかったか。結構頑張ったんだけどな。

 

 

 

「褒められると思う?」

 

「ああ。それは間違いないから安心しろ。あれが無かったら多分、負けてたからな」

 

「それならいいや」

 

「でもダイヤには絶対怒られるぞ」

 

「それはちょっと聞きたくなかったな…………」

 

 

 

 信吾に恐ろしい事を言われて自分の行動を深く後悔した。まぁ、やらない後悔よりはやった後悔の方がマシって言うし。今はそれを言い聞かせて自分を許してあげよう。

 

 

 

「何はともあれ、お疲れさん」

 

「ん、ありがと」

 

「どうする。このままここでしばらく寝るか?」

 

「いや、それは恥ずかしいから運んでおいて」

 

「って事は寝るんだな」

 

「うん。ちょっと疲れたよ、信吾」

 

「俺はパトラッシュじゃねぇぞ。死ぬ気はねぇからな」

 

「知ってるよ。大丈夫、天使は降りてこないからさ。多分」

 

「はは。なら、ゆっくり寝ろよ。後でみんなで運んどくから」

 

「お願いだよ? こんな所に置いてけぼりにしないでね」

 

「ああ。ちゃんと保健室のベッドまで送り届けてやる。だから、今はゆっくり休め」 

 

 

 

 頭の上にしゃがみ込む信吾に頭をポンポンと叩かれる。少し冗談を混ぜたけど、本気で眠くなってきた。身体は動きそうにないし、後はクラスの男子達にこの身柄は任せよう。屈強な男達が多いからな。きっと僕の小さな身体なんてバーベルよりも軽く持ち上げてくれる事だろう。

 

 

 

「じゃあ、少し休むよ」

 

「あいよ。また後でな」

 

 

 

 その会話を最後に、瞼を閉じる。降り注ぐ日差しが強い。でも、すぐに僕の意識は何処かに落ちて行った。

 

 夢と現実の境界線。そこから眠りの世界に足を踏み入れる瞬間。

 

 

 

「────夕陽さんっ」

 

 

 

 そんな誰かの声が、聞こえた気がした。

 

 

 

 

 

 激突! 騎馬戦・沼津の陣編/終

 

 

 

 

 

 





次話/これはよくある水無月の話


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これはよくある水無月の話

 

 

 

 ◇

 

 

 太鼓の音色が聞こえてくる。他には沢山の人がごった返した街、数え切れない雑踏の音。そんなものが耳に入ってくる。

 

 いつもは暗い夜の街並みが、その日だけは橙色の温かい光に包まれる。人々が着ている服も普段とは異なり、浴衣を召している人も見かけた。

 

 

 

「………………」

 

 

 

 そんな街の中で、空を見上げる。数十分前に夕日が落ちて夜がやって来た時間帯の事。藍色の空にはやけにくっきりとした真珠星(スピカ)が浮かんでいた。

 

 交通規制をしている警察のホイッスルの音と声が聞こえてくる。あと数分もすればあの橋が通行禁止になり、やがて夜空に大輪の花が咲く。それを僕は知っている。

 

 これは、沼津の夏祭りの記憶。でも、いつのものかはわからないし、僕が体験した記憶かどうかも曖昧だ。ただ分かるのは、これが毎年訪れている祭りの光景だという事。

 

 何故僕はこんな景色を見ているのだろう。自問自答しても答えは返ってこない。聞こえてくるのは祭りのBGMと人々が通り過ぎて行く雑踏、屋台の店主の威勢の良い声。

 

 そんな中で自分の手に目を落とす。そして少しだけ違和感を感じた。いつも見ている自分の手よりも小さく見える。いや、見えているだけじゃなくて本当に小さいのだろう。 

 

 その手にはあの玩具の宝石が握られていた。もう片方の手は、誰かの手を握り締めていた。

 

 

 

「────夕陽くん」

 

 

 

 誰かに名前を呼ばれる。それは多分、僕の手を握ってる人。背丈は僕とほとんど変わらない、一人の女の子。

 

 騒がしい祭りの中で僕とその女の子は二人で手を繋ぎ、何処かへ向かって歩いている。背が高い大人達の足元をすり抜けながら、目的地があるような足取りで。

 

 それが何処であるのかはわからない。それもそうだ。僕にはこの記憶はないのだから。

 

 これは定期的に見る夢の一部始終。今回は狭く薄暗い部屋ではなく、外の景色が夢には流れているようだった。

 

 

 

「こちらですわ」 

 

 

 

 夢の中の僕は、一人の少女に手を引かれて何処かへ向かって歩いて行く。僕は抵抗もせずに彼女が進む方向へとついて行った。

 

 ────気づけば僕とその少女は何処かにある建物の屋上に立っていた。

 

 吹きつけるのは夏の夜風。それに乗って祭りの喧騒が聞こえてくる気がした。どうやら僕と一人の少女はこの場所に向かって歩いていたらしい。

 

 僕らは屋上にあるフェンスの前に立っている。下を見下ろせば、ついさっきまで歩いていた橙色に染まる界隈が見えた。少しだけ目線を上の方へと移動させると、川辺にステージのような何かが置かれていた。

 

 それが何であるのかを僕は知っている。そして、これから何が起こるのかも。

 

 

 

「■■■?」

 

 

 

 隣に立つ少女の名前を呼ぶ。その子は首を傾げながら、こちらを向いた。

 

 

 

「どうしたんですの」

 

 

 

 そう言われて、僕は何かを言ったんだと思う。自分が見ている夢なのに、自分が何を言っているのか分からない。そんな奇妙な感覚が僕にはあった。

 

 夢の中の僕は左手に握る玩具の宝石を強く握り締めた。それから、右手で少女の手を同じように強く握る。

 

 その瞬間、川辺から光の線が夜空に向かって伸びた。少しの間を置き、大きな音とともに漆黒の中に黄色の花が咲く。

 

 そんな光景を、夢の中で見つめていた。鮮やかな花火が咲き乱れる、美しい夜の夢を。

 

 

 

「…………」

 

 

 

 二人の少年少女は屋上に立ち尽くしたまま、その花火を見つめる。

 

 絶え間なく綺麗な閃光が瞬き続ける。最高のロケーションで僕らは輝きを目に映した。

 

 白い打ち上げ花火が開いた時、隣に立つ少女の方を向く。

 

 まるで艶やかな黒髪が、光の花色に染まっているようだった。季節外れの金木犀の香りが鼻をくすぐった。

 

 花火の音に紛れて、リンという鈴の音が聞こえた気がした。

 

 

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 目を開ける。視線の先にあるのは白い天井。夢の中で見ていた夜空に打ち上がる花火は何処にもない。少しの間待ってみても、純白の天井に光の花が描かれる事はなかった。

 

 ぼんやりとした頭で何故、自分がこんな所に寝ているのかを思い返す。僕がいる部屋の中は、窓の外から届く夕日の色に染まっていた。その色を見て、今が夕暮れ時である事を理解した。

 

 ベッドに寝そべったまま、一度深呼吸をする。鼻孔に入り込む消毒液の香り、そして、夢の中で嗅いだあの金木犀のような匂いがした。

 

 

 

「………………」

 

「気づきましたか。夕陽さん」

 

 

 

 声が聞こえ、顔を動かす。声はちょうど寝そべっている僕の横から聞こえてきた。

 

 そして目に映る声の主。そこに彼女が居た事は少し意外だったけれど、そこに居てくれたのが彼女でよかったと思った。どうしてかわからないけれど今、一番会いたかった人だったから。

 

 

 

「ダイヤ、さん」

 

「はい。おはようございます」

 

 

 

 ベットの脇に置かれたパイプ椅子に座りながらこちらを見つめてくる黒い髪の女の子の名前を呼ぶ。世界で一番硬い宝石と同じ名前。彼女にふさわしい、美しい石の名称を。

 

 寝起きの思考回路はまだ本調子じゃない。何をすべきかが上手く浮かんでこない。僕はベッドに寝そべった状態で、ダイヤさんの綺麗な深碧の両眼を眺めた。彼女は何も言わず、僕の顔を見つめ返してくれる。

 

 ここは保健室。僕はそこにあるベッドの上で寝ていたらしい。秒針が時を刻むにつれて、どうして自分がここに居るのかを思い出してきた。

 

 

 

「い、っ」

 

「まだ動いてはいけませんわ。もう少し安静にしていなさい」

 

 

 

 身体を起こそうとしたら全身の節々に痛みを感じた。無理もない。あんな風に騎馬から落ちて全身を地面に打ち付けたんだ。むしろ保健室に寝かしつけられる程度の怪我で済んだ事に感謝しなくてはいけないくらい。仏様の御加護はどうやらまだ効力を弱めなかったらしい。明日からも真面目にお寺の掃除をしなくちゃな。

 

 頭には包帯が巻かれてる。他にされてる処置は服の上からじゃわからない。でも、本当に動けないほどの痛みではない。少し慣れてくれば歩いて帰れるくらいには回復する事だろう。隣に座る厳しい生徒会長が許してくれるかどうかは、微妙なところだけど。

 

 

 

「…………どうして、ここに?」

 

「鞠莉さんと果南さんに、あなたが起きるまで傍に居るよう言われたのですわ」

 

 

 

 またあの二人が絡んでるのか。どうせそんな事だと思ったよ。ダイヤさんが自分からそんな事をしてくれる訳ないし。

 

 

 

「そうだったんだ」

 

「他にやる事もなかったので、()()()()ここに居たのです」

 

 

 

 仕方なく、の語気を強めてダイヤさんはそう言った。そんなにあからさまに言われると他意があるように聞こえちゃうのは、この子には分からないのかな。まぁ、それがダイヤさんだからと言えばそれまでの話なんだろうけどさ。

 

 

 

「そっか。ありがとね、ダイヤさん」

 

「…………あ、あなたに感謝をされる謂れはありませんわ。むしろ」

 

「うん?」

 

 

 

 僕がそう言うと、ダイヤさんは目線を斜め下に向けながら小さな声で何かを言った。よく聞こえなかったのでもう一度訊き返す。

 

 するとダイヤさんは視線を僕の方へと向けてくる。いつもは鋭い彼女の目。でも、この夕焼けに染まる保健室の中では何処か柔らかく見えた。

 

 

 

「あなたの活躍のお陰で、私達のクラスは優勝できたのです。だから感謝をするのは私の方だ、と言いたかったのですわ」

 

「あ………………」

 

「ただ、無茶をした事は反省なさい。もし大怪我をしていたら、どうしたというのですか」

 

 

 

 ダイヤさんは僕の顔を見つめながらそう言ってくれた。今の彼女のセリフ、全てが僕の心に突き刺さったのはきっと、勘違いじゃない。

 

 ダイヤさんにめずらしく感謝をされて、またいつものように怒られた。特別とありきたり。その二つの言葉を聞けて、今はどうにも嬉しい感情で胸がいっぱいになってしまう。

 

 何を言うべきか、彼女の瞳を見つめながら考えた。余計な事を言う必要はない。だから、率直な感情を言葉に乗せる事にした。

 

 

 

「ダイヤさん」

 

「はい」

 

「ありがとう。それと、ごめんなさい」

 

 

 

 ただ、それだけ。上手い言葉が浮かばなかったから、そんな月並みなセリフになってしまった。でも、これくらいシンプルじゃないと思ってる事は伝わらない。だから、これでいい。

 

 僕が起きるまでここに居てくれた事、褒めてくれた事に感謝を込めて“ありがとう”という言葉を言う。そしてもう一つの“ごめんなさい”は、自分の身体を顧みずに無茶をした事、気を遣わせてしまった事に対して言ったもの。

 

 ダイヤさんが僕を心配してくれる、なんて事は思わない。そこまで自惚れられるほど良い男じゃないのは僕だって自覚してる。だから、今言うべき事はそれだけ。その言葉に込める想いも、それくらい。

 

 

 

「…………」

 

「…………」

 

 

 

 そうしてしばらく、黄昏に染まる保健室に静寂が漂う。寝起きで動きが亀のように遅かった思考回路も、ようやくいつも通りに活動を開始してくれた。

 

 今更だけど、今はダイヤさんと二人きりなんだよね。別にそれで何か起きるとかは期待してない───いや、ちょっと嘘、少しはしてる。仕方ない。こんな状況に綺麗な女の子と一緒に居れば誰だって何かを期待する。それは僕だって例外じゃない。

 

 痛む上半身を起こして、夕日が浮かぶ窓の外へ視線を向ける。つい数時間前まで沢山の生徒で賑わっていた校庭。今では実行委員の片づけに追われている。その光景を見て、少しだけ悲壮感に襲われた。

 

 あんなに白熱して楽しかった時間が終わってしまう。クラスのみんなで遅くまで教室に残って作戦を練って、練習をして、ようやく迎えた今日という一日。男子高生だった僕らにとって、共学校で行った最初で最後の体育祭。それが、終わりを迎える。

 

意識をしなければ、ただそれだけの事なのかもしれない。でも、体育祭の話し合いをする前、信吾はみんなの前で言っていた。これは僕らの人生で最後の体育祭だ、と。だからこそ本気で楽しもう、と。そんなスローガンを掲げて臨んだイベントだった。

 

 言ってみれば、これが僕らのクラスが初めて一丸となった催物。四月に行われた林間学校は、まだ男女が一つにはなれていなかった。けれど今日は違った。数か月前まで顔も名前も知らなかった男女が、力を合わせて一つの事を成し遂げようとしていた。その光景は奇跡に近いものだった、と今になって思う。あれほど息苦しかった空間は今では何処にも見受けられない。それが、どうしても嬉しく感じてしまう。

 

 本当にありきたりな事かもしれない。でも、クラスメイト達の気持ちが一つになって何かを成し遂げようとしていた。あの光景を言葉にするなら、僕は“青春”を選びたい。男子校では体験できなかった空気や喜び。それをこの歳になって、初めて知る事が出来た。正直に言ってしまえば、この感情はとても清々しい。共学校に通ってる人からすれば何でもない事なのかもしれない。けど、僕にとっては特別な時間だった。爽やかな青春の一瞬を感じられる、何にも代え難い空間だった。

 

 それが終わって行くのを、()()()と思わない訳には、いかなかったんだ。

 

 

 

「あの」

 

「なんですの」

 

 

 

 視線を橙色に染まる窓の外から、隣に座る生徒会長に向ける。ダイヤさんは首を傾げながら僕の事を見ていた。厳しい表情でも、柔らかい顔でもない。いつも通り、黒澤ダイヤという生徒会長が浮かべる凛とした表情。

 

 夕焼けに染まる艶やかな黒髪を見つめながら、彼女に問う。体育祭の最中、ずっと思っていた事。これを訊かなきゃスッキリして終われない気がした。

 

 

 

「ダイヤさんは、楽しかった?」

 

 

 

 敢えて主語を抜いて、問い掛ける。この状況で僕が言っている事が分からない筈ない。ましてや問いを投げたのは、誰よりも頭が良い生徒会長だ。彼女なら僕の考えている事なんてすぐに読み取ってくれると思った。

 

 ダイヤさんはこちらを黙って見つめてくる。その美しい両眼にはたしかに僕が映っている。このまま彼女の中に吸い込まれてしまうんじゃないか、と思ってしまうくらい、その目は鮮やかな魅力を放っていた。

 

 

 

「…………質問の意味は、分かりかねますが」

 

「うん」

 

「楽しくなかった、といえば嘘になります」

 

 

 

 目線の先にある血色の良い唇が開き、紡がれた言の葉はそんな天邪鬼な答え。何となく予想はしてたけど、本当にそんな感想をもらえるとは思わなった。

 

 楽しくなかったと言えば嘘になる。それは複雑に考えなくとも、楽しかったと同義の言葉になるんじゃないのか。どうしてこの子は遠回しにしか感情を表現できないのだろう。もっと素直になれば、誰とでも打ち解け合えるのにな。そう思わずにはいられない。

 

 

 

「ふふっ」

 

「な、なぜ笑うのですか」

 

 

 

 思わず吹き出すと、ダイヤさんは目を細めて見つめてくる。僕は込み上げてくる感情を抑えないまま、言葉を吐き出した。

 

 

 

「ああ、ごめん。なんだか、ダイヤさんらしいな、って思ってさ」

 

「……褒められているように聞こえないのは、私の耳がおかしいからなのでしょうか」

 

「褒めてるよ。ダイヤさんはちょっと考え過ぎだね」

 

「…………あなたに言われると、嘘でも信じてしまいそうになりますわ」

 

「嘘じゃないって。僕はそんな酷い人じゃないよ」

 

「建前は上手い癖に、よく言いますわね」

 

「それはしょうがない。そう言う性分だからね」

 

 

 

 そんな話をして、細やかに笑い合う。彼女の微笑みを見ているだけで、何にも代えられない幸せを感じてしまう。安い性格をしてるな、と言われてしまえば反論できない。でも本当に、ダイヤさんが笑っているところを見ていると、どんなに嬉しい事よりも大きな喜びを感じてしまうんだ。

 

 改めて思う。僕は、この子に恋をしてしまっているんだ、と。どうしようもなく、この子に引き寄せられてしまっているのだ、と。

 

 この()、という感情は日々育まれている。それは僕も自覚してる。人を好きになった事がない訳じゃない。でも、今までの経験が嘘に思えてしまうくらい、僕の心はこの生徒会長に奪われてしまっていた。

 

 何もできない僕に、彼女を好きになる権利なんてないのは分かってる。今は高嶺の花を愛でるだけの恋。どんなに頑張って手を伸ばしても、僕はその花には触れられない。たとえ近くに辿り着いたとしても、その花は硬い宝石で覆われてしまっている。それを砕くのは、僕では出来ない。

 

 だから、今はしばらく見つめていようと思う。少し遠くから、美しい宝石に包まれた可憐な花を眺める。それくらいの権利は、弱い僕にだってある筈だから。

 

 でもいつか、その花を手にしてみたい。誰かに奪われる前に、一番最初に、宝石の中にある花びらに触れてみたいと願う。今はまだ無理だ。けれど、時間をかければあるいは手が届くかもしれない。

 

 それくらいの人間になれるよう、もっと努力をしよう。玩具ではなく、本物の宝石を召していても、似合う男になれるように。

 

 

 

「あ、ダイヤ」

 

「ぴぎっ」

 

 

 

 思い出してそう言うと、何故かダイヤさんが反応していた。驚いた顔で僕を見つめてくるダイヤさん。ああ、そういう事か。今のは完全にうっかりしてた。別にダイヤさんの名前を呼んだ訳じゃない。突然呼び捨てで呼ばれたら誰だって驚くよね。

 

 

 

「ご、ごめん。今のはダイヤさんのことじゃなくて」

 

「…………それなら、いいですが」

 

 

 

 じゃあなんでそんな事を言ったんですの、と彼女の顔に書いてある。話すと長くなりそうだし、見せるのが一番手っ取り早いかな。

 

 そう思ってハーフパンツポケットに手を入れる。でも、そこには僕が手に取ろうとしていたものが入っていなかった。騎馬戦が始まる前まではちゃんと入っていたのに、どこに行ったんだろう。あんまり動きすぎて校庭の何処かに落としてしまったのかもしれない。

 

 それなら拾いに行かなきゃ、と思って動き出そうとした時、自分の首に探していたものが掛かっていた事に気がついた。

 

 

 

「あった」

 

「?」

 

 

 

 僕が寝てる隙に、誰かが首に掛けていてくれたのかな。信吾辺りだろうか。それなら後で感謝しなくちゃ。

 

 ダイヤさんは意味がわからない僕の行動を見て訝しんでいる。いつもと違う表情を見ればそれはすぐに分かった。

 

 彼女にその説明するために、首に掛かったものを外す。それからダイヤさんの方へ、玩具の宝石が付いたネックレスを差し出した。

 

 

 

「…………これは」

 

「うん、僕の宝物なんだ。といっても、本物の宝石じゃないけどね」

 

 

 

 肌身離さず持っている玩具の透明な宝石。それをダイヤさんに見せて、さっきの言葉が彼女の名前を読んだ訳ではない事を伝える。 

 

 ダイヤさんは僕の手の平に乗っているプラスチックの宝石を茫然と見つめていた。感想もなければ、反応すらない。どうかしたのかな。もしかしたらこんなものを宝物という僕の思考回路が理解出来ないのかもしれない。それだったらちょっと悲しい。カミングアウトしなければよかった、と思ってしまうくらい。

 

 でも、そうではないのは彼女の表情を見れば明白だった。ダイヤさんは少しだけ、驚いている。切れ長の目を大きく開き、僕の手に乗った玩具のダイヤを見つめている。

 

 それは何故か───()()()()()()()()()()()()()()と、言いたそうな表情にも見える気がした。真意までは分からない。ただ単純に、めずらしいものを宝物にしてる事に驚いているのかもしれないし、他意があるのかもしれない。それ以上は、僕には想像できなかった。

 

 

 

「…………宝、物」

 

「はは、変だよね。でも大切なものなんだ。捨てちゃダメだって、誰かに言われてるみたいでさ」

 

 

 

 夢の話までは口にしない。そこまで言う筋合いも僕らにはないから。いつか言う時が来るのかどうかもわからない。でも、その時まで隠しておく事にしよう。

 

 そう思い、玩具の宝石を握り締めてポケットに仕舞った。それから立ち上がるために、ベッドの縁に腰掛ける。

 

 

 

「じゃあ、そろそろ帰ろう。あんまり長く居ると閉じ込められちゃうかもしれないし」

 

「………………」

 

「ダイヤさん?」

 

 

 

 面白くもない冗談に彼女は反応してくれなかった。ダイヤさんは先程と変わらない表情で、僕の事を見つめてくる。どうしてそんな顔をしているのか、僕には知る由もなかった。

 

 夕暮れの保健室。遠くの方から生徒の声が聞こえてくるだけの静寂が僕らを包んでいるこの空間。一時間もすればあの夕日は海に落ち、内浦を夜に変えるのだろう。春を終えたばかりの六月の夜空を見上げれば、そこには青白色をした初夏の星達が輝いて見えるに違いない。

 

 

 

「…………あなたは、もしかして」

 

 

 

 ポツリ、とダイヤさんは僕の事を見つめながらそう言った。何も言わず、彼女の言葉の続きを待った。

 

 けれど、ダイヤさんは頭を左右に振って一度息を吐く。思い違いをしていたかのようなその仕草を、僕は黙って眺めていた。

 

 

 

「いえ、なんでもありませんわ」

 

「? そっか」

 

 

 

 彼女がそう言うのなら、問い質す理由もない。知りたいけれどダイヤさんが言いたくないというのなら、しつこく訊く事は出来ないから。

 

 そうして彼女はパイプ椅子から立ち上がる。僕もそれに倣って痛む身体に鞭を打ち、ベッドの縁から腰を上げた。

 

 

 

「大丈夫ですか?」

 

「何とかね。ダメだったら、肩を貸してくれると嬉しい」

 

「それくらいはいたしますわ。でも帰りは自力で帰ってくださいね」

 

「えー。送ってくれたらもっと嬉しいのに」

 

「私はそこまで甘くはありませんわ。自業自得なのですから、最後までちゃんと責任を持ちなさい」

 

「厳しいね、ダイヤさんは」

 

「当然です。私を誰だと思っているのですか?」

 

 

 

 彼女は薄い微笑みを口元に浮かべながらそう問うてくる。返答に迷う必要なんてない。答えは一つしかないのだから。

 

 黄昏がダイヤさんの白い肌を鮮やかに染め上げている。ほんの少し、薄化粧をしているかのような錯覚に陥ったのはきっと、夕暮れの所為だと思っておこう。

 

 ポケットに入れた玩具の宝石を握り締める。それは今日もちょっとだけ、柔らかいような気がした。

 

 

 

「……生徒のみんなから慕われる、厳しいけど優しい生徒会長、かな」

 

 

 

 僕がそう言うと、ダイヤさんは照れくさそうに笑ってくれた。それから目逸らし、少し頬を膨らませてから、彼女は言い返してくる。

 

 

 

「…………別に、あなたに褒められても、嬉しくありませんわ」

 

 

 

 ───口元にある、ホクロのところを指先で掻きながら。

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

「あれ、ダイヤさん帰らないの?」

 

 

 

 保健室を出て下駄箱の方へと向かうと思っていたのに、ダイヤさんは何故か階段の方へと足を向けていた。訝しみ、彼女の背中に問い掛ける。

 

 

 

「あなたが起きたら教室に連れてくるよう言われていたのですわ」

 

「? そうなんだ」

 

「ですからあなたも来てください」

 

 

 

 ダイヤさんは僕の方を振り返り、そう言ってきた。誰に頼まれたのかは知らないけど、彼女がそう言うのならついて行かない訳にはいかない。

 

 先に階段を上り出したダイヤさんの背中を追った。体育祭が終わって実行委員以外の生徒は校舎には残っていないように見える。なのに誰かは教室に居るらしい。誰だろう。もしかしたら信吾が心配して残ってくれてるのかな。それならあり得るけど、なんでダイヤさんまで一緒に行くんだろう。

 

 先に行くダイヤさんの姿勢の良い後ろ姿を見つめながら、色んな事を考える。まぁとりあえず教室に入ってみれば答えが分かるか。

 

 静かな校舎の階段を三階まで上り、特に会話もせずに誰も居ない廊下を教室に向かって僕らは歩いた。白色のリノリウムの上に伸びるダイヤさんの影は、やけに輪郭がハッキリしているように見える。

 

 教室の前に辿り着き、ダイヤさんは足を止めた。それに倣い、僕も彼女の数メートル手前で立ち止まる。

 

 

 

「入らないの?」

 

「…………あなたが開けてください」

 

「どうして?」

 

「なんとなく、ですわ。いいから早く開けなさい」

 

「まぁ、いいけど」

 

 

 

 よくわからない事をダイヤさんに言われ、教室のドアの前に立つ。なんだってそんな事を頼むのだろう。違和感しか感じないが、今は気にしていても仕方ないか。

 

 ドアの取手に手を掛け、ゆっくりとそれを右にスライドさせる。何もおかしくはない。自然な感じで教室の中へ足を踏み入れた。

 

 ─────途端。パン、と何かが弾けるような音が教室の中に響き渡った。そして、沢山のリボンと紙吹雪ようなものが僕の方へと飛んでくる。

 

 

 

「え」

 

「「「「優勝おめでとおおおおおおうっ!!!」」」」」

 

 

 

 次に聞こえてきたのはクラスメイト達のそんな声。なるほど、今の音の正体はクラッカーだったらしい。いや、それはいいとして、なんだこの状況は。

 

 教室の中に居たのは僕の予想とは異なっていた。見渡す限り、何故かクラスメイト全員が教室の中に残っている。何をやっているんだろうこの人達。

 

 前の黒板にチョークで書かれているのは“三年一組総合優勝!”という大きな文字。そして四面ある壁には文化祭の時に付けるような装飾が施されていた。しかし、僕にはこのクラスメイト達の意図が全く読めない。

 

 

 

「…………何これ」

 

「せっかくの祝勝会だぁっ! 今日は夜まではっちゃけようぜぇえええっ!!」

 

「「「「「うぉおおおおおおおおおおおおおおっ!!!」」」」」

 

 

 

 教室のど真ん中に置かれた机の上に立ち、紙コップを天井に掲げる信吾とその周りで便乗してるクラスメイト。男子達だけではなく、女子達もそのノリについて行ってる。

 

 パッと見ただけでこの状況に名前を付けるなら、そうだな、騒がしいパーティとでも言えばいいだろうか。でも、なんだってこんな時にこんな場所でこんな事が行われているんでしょうか。

 

 

 

「あ、ダイヤと夕陽くんお帰り」

 

「ユーヒ、グッモーニーングッ。ダイヤもお帰りなさいデース!」

 

 

 

 僕らが教室に入ってきた事に気づいた果南さんと鞠莉さんが声をかけてくれる。二人も楽しそうな顔をしている。とりあえず、彼女達に訳を訊いてみようか。

 

 

 

「果南さん」

 

「ん? どうしたの夕陽くん?」

 

「これはどういう状況なの」

 

 

 

 教室の真ん中でテンションが上がった男達が着ていたTシャツを脱ぎ捨て、コーラを勢いよく信吾の頭にかけている。それを周りで煽る女子生徒達。それを指差しながら果南さんに訊ねた。

 

 

 

「ああ、これはね」

 

「優勝の景品が“祝勝会セット”だったのデースッ! 副賞で夜まで教室に居ていい権利も貰いました~っ!」

 

 

 

 果南さんの言葉を遮って鞠莉さんが答えてくれた。何となくわかってたけど、やっぱりそういう事だったのか。並べられた机の上にはお菓子やらジュースやらが大量に置いてある。この盛り上がりはその所為らしい。

 

 総合優勝したクラスには祝勝会をする権利が与えられる。これも僕らの男子校にあった伝統の景品。騎馬戦に続いてそんなものまでこの浦の星に輸入してきたのか。教室に入る前、ダイヤさんの血圧が低そうだった理由がちょっとわかった。

 

 

 

「そういう事ね」

 

「だからユーヒもダイヤも盛り上がりまショーウッ!」

 

「そうだね。二人は特に頑張ってくれたし、今日くらいは羽目を外そ!」

 

「はむっ!?」

 

 

 

 果南さんがダイヤさんの口にチョコレートを詰め込む。突然の事で避け切れなかったダイヤさんは驚いた表情でそれを咥えていた。ちょっと可愛い。

 

 

 

「お、夕陽と生徒会長が帰ってきたぞ!」

 

「今日のMVPの登場だッ! ほら、こっちに来い夕陽!」

 

「え、ちょ、ちょっと待ってっ」

 

「「「「「待たねぇよっ」」」」」

 

 

 

 僕らが教室に入ってきた事に気づいた男子達。何故か彼らに詰め寄られ、僕は数人に神輿のように担がれて教室の真ん中に持って行かれる。

 

 

 

「よ、夕陽。気分はどうだ」

 

「これで良いって言える方がおかしいと思うよ」

 

 

 

 ゴーグルをした半裸の信吾にそう言われ、返事を返す。コーラを頭の上からかけられても怒ってない姿を見ていると、信吾もこの意味不明なノリに乗っているらしかった。

 

 

 

「ははっ、そんなの関係ねぇっ! 今日は騒ぐって決めたんだ。お前ら、やっちまえ!」

 

「「「「了解、大将っ!!!」」」」

 

「え? 何やって───」

 

 

 

 信吾の命令により僕が来ているTシャツを剥ぎ取って行く男達。それから間もなく僕の頭の上からもコーラの泡がかけられた。

 

 

 

「わぷっ!? ちょっと何するのさっ!」

 

「今日のヒーローは夕陽だっ! 全員、夕陽に最高のもてなしを食らわせてやれっ!」

 

「何言ってんの信吾っ!?」

 

「「「「行くぜ夕陽ぃいいいいいいいいいいいっ!!!」」」」

 

 

 

 ────そんな風に、クラスメイト達から盛大なおもてなし?を受けた僕。まぁ、満更でもなかったって言うのが本音。いつだって建前ばかりを並べてしまう僕は、嫌がってる振りばかりしてしまう。でも、僕の事を知っている彼らはそんな事を気にしないでコーラをぶちまけてくる。

 

 ああ、こんな風にクラスメイト全員ではしゃげるのは本当に嬉しい事だ。男女の垣根などもう何処にも存在しない。四月の僕らが夢見ていた光景が、今ここにはある。

 

 男女の壁を失くし、最高の青春を送る事。それが、僕らが求めていた願いの形。一番欲しかった時間を僕らは過ごす事が出来ている。それを幸せだと思わない訳にはいかなかった。

 

 数か月前まで、異様な静けさだけが漂っていたこの教室。今はそこに絶え間ない笑い声が響いている。

 

 この光景に名前を付けるのならば、僕はやっぱり“青春”を選ぶ。それがたとえ自己満足だったとしても構いはしない。だって、この喜びを感じている僕は、たしかにそう思うのだから。

 

 

 

 祝勝会は続いて行く。笑い声に包まれる教室の明かりは、夜が訪れても数時間消えなかったらしい。

 

 

 

 季節はもう少しで夏になる。でも今は、僕らの事を包み込むこの()()()が、もう少しだけ長く続いてくれますように。

 

 

 

 そう願い、僕はポケットに入れた玩具の宝石を握り締めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ───これはそんな、忘れられない体育祭が行われたよくある水無月の話。

 

 

 

 

 

 体育祭と青い春編 END

 

 

 

 





次話/テスト勉強は恋のため?


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テスト勉強は恋のため?

 

 

 

 ◇

 

 

 夏休み前のとある休日。窓の向こう側に広がる青空には大きな入道雲が浮いている。目線を下げると、空とほとんど同じ色をした内浦の海が太陽の光を反射させていた。

 

 図書室の開いた窓から吹き寄せる潮風には、もう涼しさは感じられない。気づけば暦は七月になり、この内浦にも本格的な夏が訪れようとしている今日この頃。今年の夏も暑くなる、と美人なお天気キャスターのお姉さんが心底嬉しそうに言っていた。最近、僕の中ではあのお姉さんは腹黒いキャラであると、勝手な位置づけをしてしまっている。

 

 それはどうでもいいとして、僕らは夏休みを数週間後に控えた学生である事を今は思い出そう。長期休暇の前にある事、といえば大体の学生は()()を思い浮かべる事だろう。()()が好きな学生なんて、間違いなくこの世界には存在しない。世界中の若者に忌み嫌われる存在である()()。面倒くさい事を言わなければ、期末テストだ。

 

 今日はその勉強のために休日であるというのにも関わらず、僕は浦の星学院に登校している。もちろん、僕のアイデアではない。勉強が苦手な親友に呼ばれて仕方なく来てやっただけ。本当なら涼しいお寺の和室で花丸と一緒に勉強する予定だったのに。後でアイスでも奢ってもらわなくては割に合わない休日登校だった。

 

 頭を休ませるために、また外に広がる初夏の景色に目を映す。そう言えば、ダイヤさんは何をしてるんだろう。あの子は頭も良いし、僕とは違って家から出ないで真面目に勉強してるのかもな。僕も成績は悪い訳じゃないけど、多分ダイヤさんには及ばない。美人で真面目で頭も良くて、それで生徒達の上に立つ生徒会長まで引き受けてるだなんて、何処まで完璧を求めれば気が済むんだろう、とちょっと文句を言いたくなってくる。そんな女の子を好きになってしまった自分にも少なからず苛立ちを覚えてしまった。

 

 ボーっと外の世界を見つめながら、ダイヤさんの事を考える。最近こうしてぼんやりと考え事をしていると、あの子の事を考えてしまう事が多くなってきた。何をしてるのかな、とか。家だとどんな風に過ごしてるんだろう、とか。そんなありきたりな事ばかり。……ときどき変な想像をする時もある。そりゃ僕だって男に生を受けた人間だからね。ちょっとだけだよ、ちょっとだけ。

 

 

 

「──────だと、思うんだけど、夕陽はどう思う?」

 

「え? あ、ごめん。ちょっとボーっとしてた」

 

 

 

 なんて事を考えている時、向かいの椅子に座った信吾が僕に何かを訊ねてくる。完全に彼の声が聞こえてなかった。少し反省しよう。

 

 意識を考え事から目の前に居る親友へと向ける。僕が話を聞いてなかった事に気づいた信吾は呆れるように一つ、ため息を吐いた。

 

 

 

「まーた考え事かよ、夕陽」

 

「またって何。たまたま聞いてなかったんだよ、たまたま」

 

「どうせ生徒会長の事でも考えてたんだろ」

 

「…………なんで分かるのさ」

 

「夕陽が考えてる事くらいお見通しだっつーの」

 

 

 

 持っているペンをクルクルと回しながら信吾はジトっとした目を僕に向けてくる。いや、説明になってるようでなってない。そんなにわかりやすいのだろうか、僕。自分では分からないけど、信吾がそういうのならそうなのかもしれない。これからは誰かと居る時はあんまり考え事をしないように気を付けよう。

 

 

 

「はぁ。まぁいいけど」

 

「それで、どう思う?」

 

「? 何の事?」

 

「だから、総体が終わったら告るって話」

 

「…………誰が誰に?」

 

()()()()()に、決まってんだろ。誰の話してると思ってんだ」

 

 

 

 信吾がさらっとそんな事を言う。そっか。部活が終わったら、信吾が果南さんに告白する───

 

 

 

「って、ええええええええっ!?」

 

「……んだよ。そんなに意外か」

 

 

 

 あまりの驚きに座っていた椅子から転げ落ちそうになってしまった。ていうかなんで信吾はそんなに冷静なんだろう。あ、やっぱり違った。顔が赤い。落ち着いているように見せてるだけだ。心の中ではとんでもなく照れているに違いない。

 

 

 

「ど、どうして?」

 

「どうしても何も、好きになったからに決まってんだろ。他に理由がいんのか?」

 

「でも信吾、これまで僕らが何をやっても動かなかったでしょ? 何かきっかけでもあったの?」

 

 

 

 信吾が果南さんに惚れているのは僕らのクラスでは全員が知っていた事。逆に果南さんが信吾に想いを寄せているのも周知の事実だった。

 

 けど、二人はそれが分かっていても恋人同士になるような動きは見せなかった。いつも一緒に居るのに何処か二人きりで何かをする、という事を避けているようにも見えてしまっていた。それを見てクラスメイト達は何かある毎に果南さんと信吾をくっつけようとしていた。それなのにも関わらず、今になるまで二人は仲の良い友達同士、みたいな距離感で留まってしまっている。

 

 そんな信吾が果南さんに告白する、と自分から口にした。そこに何かきっかけがあった、と疑いをかけない訳にはいかない。

 

 

 

「…………誰にも言うなよ」

 

「うん。言わないよ」

 

 

 

 信吾は顔を赤く染めながら、言いづらそうにしてる。言わずもがな僕は口が堅いと自負している。信吾が隠そうとしている事を他人に言えるほどの性格の悪さも、残念ながら持ち合わせていない。それを知ってくれている彼は僕に話してくれるだろう、という自信があった。

 

 数秒の沈黙。言い淀んでる親友の姿を見ているとこっちまでドキドキしてくる。少しだけ緊張しながら、信吾が口を開くのを待った。

 

 

 

「…………昨日、二人でデートした」

 

「………………」

 

 

 

 信吾はそんな言葉をボソッと口にする。なんだろう。背筋がむず痒くなってきた。そしてニヤケ顔が止まらない。

 

 

 

「それで?」

 

「そんで、余計に好きになった。きっかけはそんくらいだ。な、なんか文句あっか?」

 

 

 

 もう駄目だ。何だか凄く純粋な恋愛物語を間近で見せつけられている気分。何を惚気てるのだろうか、この男。部活が終わったらとか言わずに今すぐ告白してくれ。頼むから。

 

 そんな事を言える訳もなく、僕は何かを考える振りをして顔を信吾から背け、自然とニヤケてしまう顔を隠す。どうしよう。他人の恋路に口を出すつもりはないが、一番仲が良い親友がこんな甘い恋愛をしていると知ったら何もせずにはいられない。端的に言うと、熱烈な応援をしたくなってしまう。余計なお世話かもしれない。でも、背中を押したくなった。

 

 

 

「そ、そっか。頑張ったんだね、信吾」

 

「ああ。死ぬほど頑張ったと自分でも思う」

 

 

 

 信吾は窓の外に顔を向けて遠い目をしてる。デートの内容がどんなものだったのか死ぬほど気になり訊ねようとしたけど、僕はその衝動をグッと堪えた。多分それを聞いたら全身のむず痒さに耐え切れずこの図書室内を走り回ってしまう事だろう。

 

 でも、信吾が遂に前に進むのか。それを思うと少しだけ羨ましくも思えてくる。だって、ここまで成功するのが決まってる恋もめずらしい。むしろ断られたら信吾よりも僕の方がショックを受けてしまいそう。例えるなら、そうだな、何処に投げても間違いなくストライクを取れるボウリングみたいな感じ。なんだよそれ。ゲームバランスおかしいでしょ。いい加減にして。

 

 僕の前に座る親友は誰がどう見たって美男子。僕もあまり他人の事は言えないけど、かなり幼い顔をしているから一歩間違うと女の子にも見えてしまう信吾の容姿。すらりと痩せていて身長もそこまで大きくないから、なおさら見間違得られやすいのが信吾の特徴。定期的に男子達に女装をさせられるのはその所為だ。でも、信吾の良さはそこじゃない。

 

 僕が思うのもなんだけど、信吾の魅力は見た目ではなく内面の方にある。カリスマ性があって、誰にだって優しくて頼りになるし、外見に反して男らしいところもある。上手くは言えないけど、信吾の性格は凄く、()()()()()()。恐らくだけど果南さんも彼のそんなところに惚れたのだと僕は思う。

 

 信吾には言えないが僕は一度、果南さんと鞠莉さん(そして何故かダイヤさん)にこっそり屋上に呼ばれて、信吾の事について話をした事がある。それはもちろん、果南さんが信吾についてもっと知りたいという願いから僕が協力したもの。ガールズトークに混ざるのは十八年の人生でも初めての経験だった。正直言うと、めちゃくちゃ楽しかった。

 

 今思うと、あれは信吾とデートをする前の事前確認的なものだったんじゃないか。信吾には悪いけど、彼の好きなものなんかを色々暴露してしまった。話しぶりからデートは成功したらしいので、果南さんは僕の話を聞いて上手くやってくれたのだろう。

 

 

 

「手作りお弁当にきんぴらごぼう入ってなかった?」

 

「な、なんでそれを?」

 

 

 

 ビンゴ。流石は果南さん。何だか僕の方まで嬉しくなった。気になるけどこれ以上訊くと疑われてしまいそうなので自重しておこう。あと多分、彼らは水族館に行った筈だ。楽しいデートになったみたいで何よりだよ。

 

 

 

「それで、信吾」

 

「どした夕陽」

 

「告白はいつするのさ。大会終わったらすぐ? 次の日とか? むしろその日?」

 

「……なんでお前がそんなに焦ってんだよ」

 

 

 

 しまった。嬉しすぎて僕のテンションも無意識に上がってしまっていたらしい。落ち着くんだ、夕陽。いつもの感じで居るよう努めよう。

 

 

 

「ごめん。つい先走っちゃった」

 

「まぁいいけどよ。そんで、告白する日、だったっけ?」

 

「うん」

 

 

 

 信吾はそう言って恥ずかしそうに目線を逸らす。僕も彼が向いている方向へと視線を移した。

 

 そこには壁掛けのカレンダーが貼ってある。聞いた話では総体の陸上競技は早い日程で行われる為、七月中には終わるらしい。信吾はこの間、専門の100mで東海ブロック三位という結果を残してインターハイに出場する事になっている。当然その結果も凄いんだけど、信吾より足が速い人間が居る事の方が僕としては驚きだった。それはいいとして。

 

 

 

「だいたい、目星はついてる」

 

「え? いつ?」

 

 

 

 信吾はカレンダーを見つめながらそう言った。その言葉を聞いて僕はまたもや鼻息荒く食いついてしまう。もういいや。反応してしまう自分を許してあげよう。

 

 七月中にある何か、といえば夏休みがある。もう少し深く思い出してみると、一つだけ告白する日に相応しい日があった。もしかして。

 

 

 

「…………月末の花火大会だよ」

 

「あ」

 

 

 

 そうだ。それがあった。たしかに、あの日以上に告白する日としてピッタリなイベントはない。信吾は既にそこへ標準を合わせていたらしい。

 

 七月最後の週末。毎年恒例の沼津花火大会が市内で行われる。沼津が地元である僕は行かなかった年なんて生まれてから一度もない。地元民であればそれくらい身近なイベントだった。

 

 花火大会で告白する。ありきたりかもしれないけど、それよりもベストなタイミングなんて存在しないのは火を見るよりも明らか。僕としては今すぐにでも告白してほしいのだが、信吾がそこを選ぶというのなら納得しておく事にしよう。でも。

 

 

 

「これで満足か?」

 

「いや、もう一つだけ」

 

「またかよ。いい加減にしろっての」

 

 

 

 ため息を吐く信吾。初めは信吾が僕に話を振ってきたんじゃん、と心の中で呟きながら訊ねたい事を言葉にする。

 

 

 

「花火大会には果南さんを誘ったの?」

 

「……………………」

 

 

 

 信吾は答えない。あからさまに苦虫を噛み潰したような顔をしてる。これはダウトだな。本気の恋愛になると急に怖気づく、強いんだか弱いんだかわからない僕の親友は、痛いところを突かれるといつもこんな顔をする。意気地がない信吾を見て、ちょっとだけため息を吐きたくなった。

 

 

 

「まだ誘ってないんでしょ」

 

「なんでそう言い切れる」

 

「だって、信吾はこういう時、まばたきが早くなるから」

 

「なっ────」

 

 

 

 やっぱり図星だったらしい。何年も一緒に居れば些細な変化も見破れるようになる。僕がそう言うと信吾はまたバツの悪そうな表情を浮かべた。

 

 

 

「そうなんでしょ?」

 

「…………そうだよ」

 

「なら最初からそう言ってくれればよかったのに」

 

「いや、だってよ」

 

 

 

 本気になればなるほど奥手になる僕の親友の取り扱いは少々面倒くさい。あらかた、きっかけを掴めずに誘えず仕舞いになってると言ったところかな。信吾は都合が悪くなると何かにつけて言い訳をする癖があるので今回もそんな事だと思っていた。恐らくだけど、テスト勉強とか総体を理由に逃げようとしてる。なら、そんな彼にダメージを与える言葉を、特別に言ってあげる事にしよう。

 

 

 

「そんなに先延ばしにしてると、他の男の人が果南さんを誘っちゃうかもよ?」

 

「──────!」

 

「果南さん、他のクラスの人からも人気だし、連絡先を訊かれてるのも見た事あるし」

 

「………………ぅ」

 

「それに優しいから、先に誘われたら断れないかも」

 

「だーっ! ああもうわーったよ! 誘えばいいんだろ誘えばっ!」

 

 

 

 やっぱり釣れた。思ったよりも掛かるのが早くて少し安心したよ。信吾にはこのアプローチが一番効果があるのを知っててよかった。今度果南さんにも教えてあげよう。

 

 信吾は顔を赤くして僕の事を睨んでくる。赤くなるとさらに女の子っぽくなるのを信吾は多分自覚してない。でも面白いのでこのままでいいや。

 

 

 

「ふふ。それで、どんな風に誘うの?」

 

「ぅ…………そ、それは、その、あれだよ」

 

 

 

 僕が問い掛けると信吾はたじろぎ、何かを考え始めた。果南さんの事になるとヘタレな彼の行動力は中二病を拗らせた中学生よりも低くなる。それもわかってるから、今回も手伝ってあげなくちゃ。

 

 どうやって手助けしよう、と考えている時、ふと目の前の机に広がっている教科書やノートが目に入った。そうだ。僕らは期末テストを目前に控えている。これを使わない手はない。信吾は頭は悪くないのに、授業中に居眠りしたり、そもそも勉強をしないままテストに挑んでくるので結果は大抵散々なものになる。

 

 そろそろ大学受験勉強のシーズンだし、彼がどんな進路を選ぶかは決まってないみたいだけどテスト勉強くらいは真剣にしてほしいというのが僕の本音。

 

 なので、今回はこのテストを条件に出してみる事にする。

 

 

 

「信吾」

 

「ん?」

 

「誘う方法、思いつかないなら僕が手伝ってあげるよ」

 

「ほんとかっ?」

 

 

 

 ガタっと音を立てて座っている椅子から前のめりになってくる信吾。僕は右手を前に出して逸る彼を静める。

 

 

 

「うん。でも、それにはちょっとした条件を付ける」

 

「条件?」

 

 

 

 信吾は首を斜めに傾げた。それから、僕は机の上に乗った教科書類を指差して、思いついた条件を口にする。

 

 

 

「今度の期末テストで全教科六十点以上取ったら、鞠莉さんにも声をかけて協力してあげる」

 

「え゛」

 

「あと、親戚のお店が祭りの協賛をしてて、毎年桟敷席のチケット貰えるんだ。それも二枚貰えるよう頼んであげるよ」

 

 

 

 自分でも素晴らしい交換条件だと思う。こんな好条件は恋をしてる親友にしか出せない。応援してるからこそ、心を鬼にしなくてはならない時もある。それが今だ。

 

 信吾は口を開けたまま機能を停止してた。どうしたのだろう。そんなに僕が言った言葉が信じられないのか。それともテストで六十点以上を取る自信がないのか。うん、明らかに後者だと思う。

 

 

 

「だからほら、勉強するよ。これで赤点とか取ったら絶対手伝ってあげないからね」

 

「…………マジか」

 

「マジだよ。それとも、止めておく?」

 

 

 

 敢えて挑発的な言葉を選び、信吾に向けて放つ。これもまた、信吾の特性。彼の事をよく知ってる僕だから言える、信吾の心を動かす言葉。

 

 

 

「────ちっ、しょうがねぇからやってやるよっ」

 

 

 

 信吾はこう言うと燃えるんだ。分かりやすい性格をしてる親友を今は応援してあげる事にしよう。

 

 果南さんのためにも、信吾にはこの条件をクリアしてもらわなくちゃいけない。自分で提示しておいてあれだけど、達成できるよう僕も手助けしてあげなきゃな。

 

 

 

「さすがは信吾だね」

 

「あ、やっぱり五十点にしない?」

 

「それはダメ」

 

 

 

 何処まで往生際が悪いんだこの男は。いつもは尊敬できるのにたまにこうなるのが信吾の悪いところ。

 

 いい加減お喋りを止めて勉強に戻ろうと、ため息を吐いてからペンを握った時、図書室の扉が開かれる音がした。

 

 

 

「あれ、信吾くんと夕陽くん」

 

「「え?」」

 

 

 

 聞き覚えのある声が聞こえ、顔を向ける。

 

 そこには青い髪の女の子と黒い髪の生徒会長が立っていた。

 

 

 どうやら今日も何か起きそうな予感がする。

 

 

 

 





次話/生徒会長の夢


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生徒会長の夢

 

 

 

 

 ◇

 

 

 窓から図書室へ入り込む夏風が僕の髪を揺らす。瞼の上に掛かった長い前髪の向こう側に見えるのは、制服姿のダイヤさんと果南さん。今日は日曜日で学校は休みのはず。なのにどうして彼女達はここに居るのだろう。そう考えた時、恐らく二人も僕と同じ事を考えていると驚いた表情を見て悟った。

 

 向かいに座る信吾は、扉の前に立つ二人を茫然とした表情で見つめている。さっきまで会話の中心に居た人。それ以上に、恋をしている女の子が予想外に目の前に現れたら動揺もする。それを言ったら僕も然りなんだけど、それはまた別の話。

 

 

 

「どうしたの、二人とも。日曜日なのに」

 

 

 

 最初に口を開いたのは果南さんだった。水色のトートバッグを肩に掛けた彼女は信吾ではなく、僕の顔を見つめながらこちらに近づいてくる。何故、果南さんは僕の方に視線を向けてくるのか。これは僕の予想だけど、彼女は信吾の事を気にしている。先ほど信吾は昨日、果南さんとデートをしたと言っていた。話しぶりからどうやら上手く行ったようだし、近づきすぎた距離感と照れくささが彼女の視線を信吾の方ではなく、自然と僕の方へと向けているのだろう。それを察し、僕は信吾の代わりに応える事にする。

 

 

 

「ああ、うん。信吾に頼まれてね、ちょっと勉強を教えてたんだ」

 

 

 

 そんなありきたりな返答。途中からテスト勉強よりも恋の話で盛り上がってしまっていたけれど、休日の図書室で男二人がそんな話をしていた、なんて事は同級生の女の子には口が裂けても言えない。

 

 

 

「そうなんだ。じゃあ、私達と同じだね」

 

「同じ?」

 

「うん。ちょうど私もダイヤと勉強しようと思ってたんだ」

 

 

 

 果南さんはそう言って、後ろから歩いてくるダイヤさんの方を振り返る。黒い手提げ袋を持った生徒会長は少し呆れ顔。なんとなくだけど、信吾に勉強を誘われた時、僕もあんな顔をしていた気がする。

 

 

 

「果南さん。私はあなたと勉強を()()()()のではなく、あなたに勉強を()()()()()のです。勘違いしないように」

 

「あはは。そうだったね、ごめんごめん」

 

 

 

 なるほど、そういう事か。どうやら彼女達がここに来た理由も僕らとまったく同じらしかった。失礼なので口にはしないけど、果南さんは信吾と同じように授業中に寝てる事が多い。果南さんの成績は『あの子は海に住むマーメイドだから、人間の勉強は出来ないのデース』と鞠莉さんに言わしめるくらいの実力らしい。信吾が無心で陸を駆ける虎なら、果南さんは優雅に海を泳ぐ人魚というところか。何のイメージかは知らないが、どちらも勉強をせずに自分の好きな事ばっかりしてる事を表現できていれば嬉しい。それはいいとして。

 

 

 

「なら僕らと同じだね、信吾」

 

「…………」

 

 

 

 信吾は答えない。照れているのか、恥ずかしがっているのか。それともその両方なのかは知らないけど、返事をせず目線をよくわからない所に向けて居る感じから、彼がこの状況に戸惑いを隠せていないのは明らかだった。

 

 図書室には僕と信吾、ダイヤさんと果南さんの四人が居る。そして二組がここに居る理由は図らずとも同じ。信吾は果南さんに想いを伝える為にテスト勉強に力を入れなくてはならず、果南さんもダイヤさんに勉強を教わりに来た。

 

 さすれば選ぶべき選択肢は一つだけ。

 

 

 

「ダイヤさん、果南さん」

 

「なんですの?」

 

「どうしたの?」

 

「よかったら、僕らと一緒に勉強しない? ほら、それぞれ得意な教科とかもあるだろうし。その方が効率いいかな、って思ったんだけど」

 

 

 

 自分で言ってて思う。そんなの出鱈目だ。いや、全てが不本意な訳ではない。でも本当の理由は別にある。

 

 今の言葉で何かを悟った信吾はこちらへ視線を向けてくる。そんな目をされたって、こんなに良い状況が訪れたなら利用しない理由はない。信吾だって、果南さんが隣にいたら気合いも入る事だろうし。

 

 ……それに、僕もダイヤさんと居られるのは嬉しいから。この理由だけは絶対に口にしないようにしよう。

 

 

 

「い、一緒に?」

 

「うん。ダメかな」

 

 

 

 僕の提案を聞いて果南さんはあからさまな動揺を見せる。彼女の目線を見ると、その先には僕の向かいに座る信吾が居た。どうやら彼女もかなり信吾の存在が気になっているみたいだ。

 

 

 

「私は構いませんわ。もっとも、私には苦手な教科などありませんが」

 

「ホント? じゃあ、手伝ってくれると嬉しいな」

 

 

 

 ダイヤさんは僕のアイデアに了承してくれた。一度目が合って、何故かちょっと睨まれた。どうしたんだろう。そして僕が何をした。

 

 

 

「夕陽、お前な」

 

「ダイヤさんはそう言ってるけど、果南さんは?」

 

 

 

 信吾から声をかけられるけど、無視して果南さんに問い掛ける。ここで彼の言葉に耳を傾ける必要はない。意見を聞いてしまえばまた上手く逃げられそうな気がするので、今回は僕のやりたいようにやらせてもらう事にする。

 

 果南さんは僕の方を見て何かを考えていた。そして一度信吾の方を一瞥し、何かを決心したような面持ちで口を開く。

 

 

 

「…………信吾くんがいいなら、いい」

 

 

 

 おっと。これは意外な展開になってきた。予想外の返答に思わず吹き出しそうになった。どうしよう。顔が勝手にニヤケてしまう。君達、悪い事は言わないから今すぐ付き合ってくれ。

 

 果南さんの言葉を聞いて信吾の顔が一瞬、驚愕に染まったのを僕は見逃さなかった。そして二人は同じように頬を赤く染める。こんな所で何を惚気ているのだろう。状況がよくわかっていないダイヤさんの頭の上にはクエスチョンマークが浮いてた。

 

 

 

「だってよ、信吾」

 

 

 

 嫌味っぽくならないよう注意しながら、自然な感じで僕は問い掛ける。彼は数秒間悩むような顔をして、果南さんの顔を見つめていた。そして彼女も信吾の事を見返している。

 

 校庭の方で一匹の蝉が鳴き始めた。その声が聞こえたのとほとんど同時に、図書室内に流れていた静寂をそっと掻き消すように信吾は声を放つ。

 

 

 

「…………俺も」

 

「え?」

 

「俺も、果南がいいなら、いい」

 

 

 

 そんな回答を聞けた段階で僕は満足してしまいそうになった。だがこれは始まりに過ぎない。ここから二人の距離がさらに縮まる事を期待して、勉強を始める事にしよう。

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それから僕らは四人で一カ所に集まり、期末テストに向けた勉強を進める。僕とダイヤさんが指導係で、信吾と果南さんが分からない箇所を協力して教えて行く。面白い事に、信吾と果南さんの実力はほとんど同じ。むしろ教えてるこっちがビックリしてしまうほど。本当に似た者同士なんだな、と心の中で思いながら即席教師の役目を果たしていった。

 

 果南さんの話によると、ダイヤさんは三年間で一度も学年一位の座を譲った事がないという。僕と信吾が称賛すると『と、当然ですわ』といつも通りの反応をいただいた。何となくそんな気はしていたけど、まさか実際にそんな人が存在するのか、と驚きを隠せなかったのが本音。自慢ではないが、僕も前の学校ではそれなりに上位には入っていた。でも首位の座から下りた事がない女の子の隣で、それくらいの成績しか持ってないのに胸を張れるはずもない。どこまで完璧なんだろう、この生徒会長は。

 

 テストに出そうな部分を抽出し、信吾と果南さんに教えて行く。僕はどちらかというと暗記系の方が得意なので、それくらいしか教えられない。対してダイヤさんは先程の言葉の通り抜け目のないオールラウンダー。彼女が放つ言葉の全てが僕と違って的確で効率が良い。

 

 数学は特に素晴らしかった。常に『数学、何それ美味しいの?』状態である信吾でさえもダイヤさんの教えによりそれなりの問題には答えられるようになっていた。単純に頭が良いだけでなく、他人に教えるのも上手だとかそれはどう考えても反則じゃないだろうか。果南さんが勉強を教わるのを頼むのも頷ける。正直、僕でさえも教えてほし行くらいだった。

 

 そんな感じで約二時間半。ほとんど休みなしで三教科ほどのテスト範囲を終わらせた。普段勉強しないであろう信吾と果南さんの頭からは湯気が出ているようにも見える。今は二人とも机に突っ伏して働かせ過ぎた脳を休めていた。

 

 

 

「────ふぅ。では少し休憩しましょう」

 

 

 

 図書室の壁に掛かっている時計に目を向けてダイヤさんはそう言う。向かいに座る二人の教え子とは裏腹に彼女はぴんぴんしてる。これくらい何でもないんだろうな、本当に。

 

 僕も開いていた日本史の教科書を閉じて一息吐く。集中していると時間が過ぎるのはあっと言う間。僕はこの感覚が好き。何かに夢中になっている時が一番充実した時間を過ごせている気がして、それを終わった後に振り返ると何とも言えない感覚になる。それが勉強であっても、趣味の読書であっても変わらない。今日も多分、帰った後に良い一日だった、と思えるに違いない。

 

 

 

「お疲れさま、二人とも。これで帰ってからまた勉強すれば良い点が取れると思うよ、きっと。ね、ダイヤさん」

 

「当然ですわ。誰が教えたと思っているのですか?」

 

 

 

 僕とダイヤさんは向かいに並んで頭を休ませている二人に声をかける。すると彼らは徐に顔だけを机から上げて、疲弊した目で僕らの事を見つめてくる。

 

 

 

「「…………鬼」」

 

 

 

 そして、そんな感想を一言。いつも使ってない頭を精一杯使った二人は完全に疲れ切っている。勉強するくらいなら外で走ってたり海で泳いでたりする方が充実した時間を過ごせるこの二人に今の数時間は、かなり酷なものだったんじゃないかと思う。でも仕方ない。信吾は全教科で六十点以上取らなきゃ僕に協力を仰げないし、果南さんも次に赤点を取ると夏休み中外出禁止令をもらうとの事だったので、どうしても二人には真剣になってもらう必要があったから。

 

 でも中途半端に自分の力で勉強するより、こうして頭の良いダイヤさんに教えられながら進める方が効率が良く、効果が高いのは目に見えて分かる。恐らく信吾も果南さんもそれは自覚しているだろう。なのに僕らを鬼呼ばわりしてきたのはきっと、単純に勉強するのが苦しかったから。

 

 

 

「はは、ごめん。でも本当に結果は良くなると思うよ」

 

「あー、もう勉強なんてしたくねぇ。なんでこんなもんがこの世にあんだよ」

 

「私もそう思うー。海で泳いでた方が楽しいよ絶対」

 

 

 

 そう言うと、そんな答えが返ってくる。高校三年生にもなってこんな事を言う人がいるのもめずらしい。学生なんだから勉強をするのは当たり前。たしかに二人の言い分は分からなくもないけど、しなくてはならないと決まっているのだから、それは文句を言いながらでもやらなくてはいけない事だろう。

 

 やりたい事だけやって生きて行く、なんて、そんな事が出来るのは一握り。それが出来ない僕らは律儀にやれる事をやって成長して行くしかない。それが学生で言う()()という存在。部活だけではいけないし、遊んでいるだけでもいけない。

 

 やりたい事のために、やらなければならない事をやる。それが正しい、と僕が尊敬する人は口癖のように言っていた。だから僕はその人の言葉を信じる。

 

 

 

「またそんな事ばかり言って。あなた達も進路は既に決まっているのでしょう?」

 

「俺は陸上で大学に行くっ! 受験勉強なんて絶対したくない……」

 

 

 

 ダイヤさんの言葉に信吾が頭の悪い返事を返す。ダイヤさんは項垂れる信吾の事をゴキブリを見るような目で見つめていた。気持ちは分かるけど、可哀想だからやめてあげて。そして多分、その男は本気でそうなると思うから。

 

 

 

「推薦が来たとしても、進学をするのなら勉強は必須ですわ。つべこべ言わずにやりなさい」

 

「うぅ、生徒会長厳しい。夕陽、助けて」

 

「ダイヤさんの言ってる事は正しいから、今回は遠慮しとくよ」

 

 

 

 信吾が泣き始めた。正論をぶつけられてぐうの音も出ないと言ったところか。隣に座る果南さんが空笑いを浮かべてる。

 

 あれ、でもみんなの進路ってどうなってるんだろう。仲良くなってからも、そう言う事を話した事はなかった気がする。信吾が何個かの大学から陸上で推薦が来てる事くらいしか知らない。せっかくの機会だ。そんな話をするのも悪くない。

 

 

 

「そう言えばみんな、進路って決まってるの?」

 

 

 

 僕が言うと三人は揃って頷く。それもそうだよね。高校三年生の今の時期に決まってない人の方がめずらしいかも知れない。

 

 

 

「私は実家の家業を継ぐかな。進学して勉強したい事もないし」

 

「そうなんだ。でも、果南さんらしいね」

 

「ふふ、ありがと。夕陽くんはどうするの?」

 

 

 

 質問に答えてくれた果南さんに問いを投げ返される。僕は考える間もなく、自分の決めている進路を口にする。

 

 

 

「僕は普通に大学進学かな。少し、勉強したい事もあるから」

 

「そっか。何を勉強したいの?」

 

「夕陽は、翻訳家になりたいんだよ。いっつも難しい本ばっか読んでんだぜ?」

 

 

 

 僕が言う前に信吾が答えてしまった。間違いじゃないから別にいいけど、ちょっとだけ恥ずかしい。でも、自分でカミングアウトするよりはマシかもしれない。

 

 信吾の言葉を聞いて果南さんは驚いた顔をしていた。たしかに、僕が目標を口にすると大抵の人はそんな反応をする。あまり馴染みない職業だし、イメージも湧き難いだろうから仕方ないのかもしれない。

 

 

 

「へぇ~。そう言えば、たまに教室でも本を読んでるよね、夕陽くん」

 

「うん。昔から本が好きだったから。いつかそう言う仕事が出来たらな、って思うんだ」

 

「文字が全部英語の本とかも読めるんだよ、夕陽は。俺には一生かかったって無理」

 

 

 

 信吾はそう言って渋い顔をする。でも、それはそこまで誇るような事でもない。最初は難しかったけど、慣れてしまえば意外とすんなり読めてしまうものだった。

 

 好きこそものの上手なれ、って言う諺の通り。偶然、海外の小説が好きだったからそれを日本語訳ではなく原文のまま読んでみたいと思って始めた事だった。本を読むのは小さい頃から大好きだったから、それがちょっと派生しただけの事。

 

 

 

「凄いね、夕陽くん。じゃあ英語が得意なんだ?」

 

「いや、そうでもないよ。単語の意味が分かったり、文を読めるだけで喋ったりするのは多分みんなと変わらないと思う」

 

「それがすげぇんだって。普通はそんなの出来ねぇっつーの。生徒会長もそう思わね?」

 

 

 

 信吾はダイヤさんに問い掛ける。そう言えばこの会話が始まってから一言も彼女は口を開いていなかった。

 

 隣に座る生徒会長の方に視線を向ける。すると意外にも彼女は僕の方へ真剣な眼差しを向けていた。目が合って、少しだけ心臓が高鳴ったのを自覚する。

 

 

 

「翻訳家、ですか」

 

 

 

 ダイヤさんはポツリ、と僕がなりたいものの名前を口にした。瞳はまだこちらを見つめている。距離が近いため、どうにも居心地が悪い。でも、あからさまに逸らしてしまえば失礼だし、ここは恥ずかしさを堪えながら見つめ返しておこう。

 

 羞恥心に耐えながら深碧の瞳を見つめる。そこには僕の顔がちゃんと映っている。あまりに綺麗すぎる色彩。見つめ続けていたらそこに吸い込まれてしまいそうになる程に深く、鮮やかな色をしていた。

 

 彼女は僕の夢を聞いて、何を思ったのだろう。少しだけ興味が湧いた。それをもし知る事が出来るのなら、聞いてみたいとも思う。

 

 

 

「その」

 

「……似合っていると、思います」

 

「え…………」

 

 

 

 遠回しに訊いてみようと思い口を開きかけた瞬間、ダイヤさんは僕の声に言葉を被せるようにそう言ってくれた。

 

 突然の返事だったから、間の抜けた声が喉の奥から漏れてしまった。恐らく今、僕は驚いた表情をしている。それを見たダイヤさんはようやく目線を逸らしてくれた。薄っすらと地面に積もった初雪のように白い肌が、ほんのりと赤みを帯びている。

 

 

 

「ふふ、そうだね。夕陽くんに似合ってるよ」

 

「だな。いつか夕陽が翻訳した本を読んでみたいよ、俺も」

 

 

 

 ダイヤさんの感想に答えたのは僕ではなく、向かいに座る果南さんと信吾だった。二人ともちょっと変な微笑みを浮かべてる。ダイヤさんの言葉が意外だったのは僕だけじゃなかったらしい。何だかさらに恥ずかしくなってしまい、頬が赤くなってくる気がした。くそ、してやられた。

 

 まさかそんな事を言われるなんて思わなかった。ちょうどさっきやった現代文の範囲に出てきた言葉で表現するなら青天の霹靂、とでも言えばいいか。これはまさにそんな状況。突然の雨と雷鳴に驚いた僕の心は傘もささぬまま、照れくささという雨に打たれている。

 

 

 

「あ、ありがとう」

 

「いえ」

 

 

 

 気にしすぎていてもダメな気がして、月並みな感謝の言葉を口にする。目線は深碧には合わせられない。目が合ってしまえば今度こそ彼女の中に取り込まれてしまいそうな気がして、わざと自分の目に窓の外に広がる美しい駿河湾の青を捉えさせた。

 

 

 

「そういや、生徒会長の進路はどんなの?」

 

 

 

 そうして心拍が秒針が一秒を刻むのと同じくらいまで速度をした時、信吾がダイヤさんに問い掛ける。僕もそれを知りたかった。知ってどうする事も出来ないけど、知らない事がある方が耐えられない気がする。だから。

 

 内浦の海からそっと吹きつける夏風と数秒の静寂が図書室に流れる。次に僕がダイヤさんの方へ視線を向けた時、彼女はこちらを見つめながら血色の良い艶やかな唇を開いた。

 

 

 

「私は────」

 

 





次話/デートの誘いは甘くない


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デートの誘いは甘くない

 

 

 

 ◇

 

 

 

 時刻は午後四時を少し過ぎた頃。テスト勉強をし過ぎて頭がパンパンになってしまった信吾と果南さんはついさっき、唐突に『走ってくる!』と意味不明な事を言い出し、図書室から飛び出して行った。まぁ午後のほとんどの時間を使ってかなり詰め込んだから、じっと座って勉強するのが苦手なあの二人ならああなってしまうのも頷ける。どうしても我慢できなかったんだろう。英語の単語をノートに書いている最中、ふと窓の外に視線を移してみると人気の無い校庭のトラックを制服姿のままで走り回る二人の男女が居た。耳を澄ますと蝉時雨の向こう側から信吾達の笑い声も聞こえてくる。楽しそうで何より。でもそのまま帰ったりしないでね。ちゃんと図書室に帰ってくるんだよ。

 

 

 

「ふぅ…………」

 

 

 

 英語の試験範囲の二周目をやり終え、一度シャープペンを置いて息を吐く。信吾と果南さんに教えながらも自分の勉強を進めていたから少し肩が凝ってる。でもこれくらいやっておけばそれなりに良い点数は取れそう。統合して初めての期末試験だし、悪い点数を取るのは女子達の印象的にもちょっと憚れるところ。運動が苦手だからこそ、頭くらいは良く見せておきたいっていうのが本音。

 

 隣ではダイヤさんが真面目な顔をして僕と同じ英語の勉強をしている。僕よりも頭の良い彼女には勉強を教える事などできない。むしろ教わりたいくらいだった。信吾と果南さんが居たから仕方なく指導側にまわっていたけれど、もし二人きりだったのなら僕もダイヤさんに分からない問題を訊いたりしてみたかった。

 

 

 

「あ」

 

「?」

 

 

 

 そんな事を考えている時、まさに今がそんな状況である事に気づいた。あの二人はしばらく帰ってこないだろうから、少しの間だけはこの空間に二人きりで居られる。閃いた時に出した声にダイヤさんが反応し、首を傾げながらこちらを見てくる。ダイヤモンドではなく、エメラルドのような色彩をした両眼と目が合って、心臓の鼓動がほんの少し早まった。

 

 

 

「何か用ですか?」

 

「い、いや何でもないよ」

 

「それならいいですが」

 

 

 

 ダイヤさんは走らせていたペンを止めて問い掛けてくる。二人きりであるこの状況にドキドキしてました、なんて事は口が裂けても言えない。ダイヤさんは気にしてないみたいだし、意識してるのは僕だけ。何だか自分が間抜けに思えてきた。

 

 心の中だけでため息を吐いてから、もう一度青いシャープペンを取る。休んでいたらもっと気にしてしまうので、あの二人が帰ってくるまでもうちょっと勉強に励む事にしよう。

 

 そんな事を思ってテスト勉強を再開しようとした時、目線の端にある違和感が映った。めずらしいな。この子がこんな間違いをするだなんて。

 

 

 

「ダイヤさん」

 

「はい?」

 

「その単語のスペル、ちょっと違うかも」

 

「え?」

 

 

 

 ダイヤさんが英文を書いていたノートを指差す。余計なお世話かもしれないけど、ここは確実にテストに出る、と英語の先生が言っていたから間違ったまま覚えておく訳にもいかない。よく見ると彼女はその英単語を一つではなく、全て間違えたまま書いてしまっていた。

 

 

 

「この“stationary”って言う単語なんだけど」

 

「? ええ」

 

 

 

 ダイヤさんの方に身体を寄せながら言うと、彼女も僕の方へ座っている椅子を動かしてきた。金木犀のような甘い花の香りが鼻孔をくすぐって、また勝手に心臓が高鳴ってしまう。だが落ち着こう。今は彼女に教えなきゃいけない事があるんだから、そっちに集中しなくちゃ。

 

 

 

「この単語のスペルは本当は“stationery”。文房具、っていう意味で普通に発音すると“ステーショナリー”って読むよね。けどスペルは“a”じゃなくて“e”が正解。これだとちょっと意味合いが変わった単語になっちゃうね」

 

「…………あ」

 

「ごめん、たまたま目に入っちゃったからさ。余計なお世話だったかな?」

 

 

 

 素直に謝るとダイヤさんは首を横に振ってくれた。よかった。それなら僕がここに居た意味もあったのかな。自惚れかもしれないけど、そう思っていよう。

 

 さっきより近くなった距離。それを意識しながらも、宝石のように艶やかで美しい黒髪を見つめていた。

 

 

 

「……ありがとう、ございます」

 

 

 

 血色の良い真紅の唇を開き、彼女はそう言った。指摘されたのが恥ずかしかったのかどうかは分からない。でも何故か目線は合わせてくれず、机の上に置いてある英語の教科書へ注がれていた。そんな仕草や横顔も、素直に可愛いと思ってしまうのはもうどうしようもない。

 

 

 

「ううん。ダイヤさんの力になれたのなら、よかったよ」

 

「…………」

 

 

 

 そう言うと、ようやくダイヤさんは僕の方を向いてくれた。切れ長の大きな目がたしかに僕を捉えている。僕の目にも彼女が映っているだろうか、なんて、意味のない事を考えた。

 

 そうして僕らは数秒間見つめ合う。胸壁を絶え間なく叩く心音がうるさい。でも、今はこの音もダイヤさんに届かない。だって、窓の外から届く初夏の音はもっと騒がしいから。いつも恨んでいる忙しない蝉の鳴き声に少しだけ感謝をしたくなった。

 

 ダイヤさんと見つめ合ったまま、時は先へと流れて行く。でも、この図書室の中だけは時間の流れが遅くなっているように感じた。もしこの部屋の中に時を刻む砂時計があったとして、砂の落ちて行くスピードは外の世界とは違ってくるような。

 

 そんな、不可思議な感覚に陥っていた。それを彼女も感じているのかどうかは知らない。ただ僕はたしかに、そんなよくわからない()()を感じてしまっていたんだ。

 

 

 

「あ、あの…………ダイヤ、さん?」

 

「…………っ。な、なんですの?」

 

 

 

 このまま見つめ合っていたら心臓が大変な事になってしまうと思い、この空気を紛らわす為にダイヤさんの名前を呼んだ。話したかった何かがあった訳じゃない。今のは本当に意味のない言葉だった。でも、名前を呼んだままにする事は出来ない。何か話をつなげなければ。

 

 ダイヤさんに気づかれないよう、制服のポケットの中に入れたプラスチックの宝石を握り締めながら何を言うか頭を巡らせる。彼女は雑談は好まない。僕も必要じゃない会話をするのは苦手。なら、意味のあるものにしなければ、と思考回路はそんな結論を勝手に出す。

 

 そうして、ある一つのアイデアが頭に浮かぶ。先ほどダイヤさんと果南さんが来る前に信吾としていた話の内容。それがふっと、脳裏の水面にぷかぷかと浮かび始めた。

 

 それを使わない手はない、と思い咄嗟に閃いた言葉を口にする。

 

 

 

 

 

「その、よかったらなんだけどさ」

 

「はい」

 

「テストで僕と勝負をしない?」

 

「? 勝負、ですか?」

 

「うん、勝負。と言っても、僕じゃダイヤさんには敵わないから、一教科だけで」

 

「………………」

 

「ダメ、かな?」

 

 

 

 

 

 人差し指を上げてそう言う。彼女達が来る前、僕は信吾に言った。全教科で六十点以上を取れば果南さんを花火大会に誘う手助けをする、と。自分で出したその条件を僕自身にも当てはめてみた。正当な理由で、ダイヤさんが僕のお願いを聞いてくれる訳がない。なら、こうして勝負をすればあるいは彼女は僕の願いを受け入れてくれるかもしれない。そう思ったから。

 

 ダイヤさんは可愛らしい口を少し開けて見つめてくる。僕も何も言わないまま彼女の事を見つめ返した。何処からか海猫が鳴く声が聞こえてくる。それはどうしてか、誰も居ない休日の学校で勉強をしている僕らに何か声をかけてくれているみたいに聞こえた。

 

 また数秒の沈黙を挟み、ダイヤさんは口を開く。

 

 

 

「いいですわ」

 

「ほんと?」

 

「ええ。あなたがそう言うなら、私が受けて立たない訳にはいきませんわ。もっとも、私が負ける事は万が一にもあり得ませんが」

 

 

 

 ダイヤさんは腕組みをしながらそう言ってくれる。その返事は何とも、プライドが高い彼女らしい。思わず笑ってしまうくらい。

 

 

 

「よかった。なら、条件は平等に決めようよ」

 

「平等とは具体的に?」

 

「うーん。じゃあ」

 

 

 

 僕はまた頭を巡らせ、ある事を思いつく。こうすればきっと、彼女も受け入れてくれると思った。

 

 

 

「僕が勝敗の景品を決めるから、ダイヤさんが勝負する教科を決める。これでどうかな?」

 

「景、品…………なるほど。それなら良いですわ」

 

「ありがとう。なら、景品は────」

 

 

 

 そこまで言って、またある事を閃く。今日は沢山の閃きがある日だ。たまにはこういう日があってもいい。いつもは休ませている思考回路の調子が良いみたいだ。それはいいとして。

 

 とんでもない景品を思いついてしまった。これを口にしていいのかどうかも怪しい。でも、言いたい。まだ勝てるかどうかも分からないのに、口にする前から体温が上がってしまう気がした。

 

 

 

「? 夕陽さん?」

 

「………………」

 

 

 

 言いあぐねている事に気がついたのか、ダイヤさんが顔を覗き込んでくる。それにより心拍が早まったのはもう言うまでもない。

 

 言ってしまっていいのだろうか。自分に問い掛ける。意思は自分がやりたい事を選べ、と強く伝えてくる。信吾がいつも言っている、やりたい事をやれ、という言葉が全身に流れる感じがした。

 

 この心の導きに従うのならば、言わなければいけないのは一つだけ。聞いてくれるかどうかは分からない。でも、言葉にしなければ何も始まらない。

 

 願いを形にする一歩目の方法は頭の中で考える事。そして、二歩目は言葉にする事。さすれば既に一歩目を踏み出している僕がしなければならない行動は。

 

 

 

「怒らないで、聞いてくれる?」

 

「……何故そのような前置きを置くのかは分かりかねますが、いいでしょう」

 

 

 

 そう言うと、ダイヤさんはなんとか了承してくれた。怖い事の前には保険を掛けておくのが僕の生き様。格好悪いと言われようが構いはしない。だって信吾みたいに大抵の事は何も考えずに突っ走って成功する程の力を僕は持っていない。だからいいじゃないか。臆病者には、こうする事しか出来ないんだ。

 

 だけど、今は勇気を出そう。僕のような臆病者はまず、戦いを挑む事から始めなくてはならない。そうしなければ、勝負をする事すら出来ない。

 

 

 

「もし、僕がダイヤさんに勝ったら」

 

 

 

 少しだけ声が震える。緊張して背中に冷や汗が流れるのが分かった。ポケットの中に入れた玩具の宝石を握る手にもじっとりとした汗をかいている。

 

 ダイヤさんは僕の顔を見つめ続けている。恥ずかしいけれど、彼女が見てくれるのなら目を逸らす事は出来ない。そう自分に言い聞かせ、ダイヤさんの整った顔を見つめ返した。

 

 そして、僕は言う。信吾と話をして思いついた、ある一つのアイデア。突飛で理解出来ないかもしれない。けど、僕が一番強く祈る願い。

 

 

 

 それは。

 

 

 

 

 

「────僕と、デートしてください」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 

 

 

 

()()()()()。読んでいる小説にそんな比喩が出てくる度、それをいつも嘘くさいと思っていた。理由はひとつ。実際に空気が凍るはずがないから。たとえ絶対零度の環境下に居たって、そこに漂う空気中の酸素や二酸化炭素なんかは凍る事はない。

 

 なのに、人は場が静まったりするときにそんな言葉でそこにある雰囲気を形容したがる。恐らくその比喩を一番最初に使った人は誰かの発言により、そこにある温度が下がった()()()()から、それを大袈裟に空気が凍る、なんていう表現を思いついたのだと思う。

 

 僕はその比喩が嫌いだ。でも、今はどうしてもその表現を使いたくなってしまった。だってこの状況を現す言葉がそれ以外に選べなかった。暦は夏だというのに何故、ここまで体温が下がらなくてはならないのか。それは言わずもがな、僕が言った発言の所為。

 

 

 

「………………」

 

「………………」

 

 

 

 冷たく重苦しい空気が人気の無い図書室に漂う。いや、空気は既に凍ってしまっているから今吸っているのは空気以外の何かになる。それとも僕は呼吸をしていないのか。それなら何れ苦しさで悶える事になるかもしれない。それはそうなった時に考えればいいか。何を考えているのだろう、僕は。

 

 言ってしまった。口にした後にそんな事を思うのはおかしい。とにかく今の僕は数秒前の自分自身を酷く恨んでしまっていた。なんでお前はあんな事を言ってしまったんだ。思うだけならまだ取り返しはきくが、言ってしまって誰かの耳にその言葉が届いていたらもう取り返す事はどうやっても出来やしないというのに。

 

 心の中で後悔をしながら、隣に座る綺麗な女の子の顔を見つめる。彼女が何を思っているのかはどうやっても想像できない。そんな余裕は僕には一ミリも残されていなかった。

 

 

 

「…………で、デート?」

 

「…………う、うん」

 

 

 

 茫然と口を開けたまま固まっていたダイヤさんがポツリとそう呟くのが聞こえ、辛うじて頷き肯定の返事を返す。頭の良い彼女ならば言葉の意味は分かるはずだ。真意までは間違いなく伝わっていないだろうけれど。

 

 僕が言ったのは、つまりそういう事。思い返す必要性も皆無。ダイヤさんとテストで勝負をして、勝ったら彼女とデートをしてもらう条件を提示した。ただそれだけ。……どうしよう。猛烈に恥ずかしい。やっぱり思い返すんじゃなかった。穴があったら入りたい。

 

 

 

「それは、その…………どういう」

 

 

 

 ダイヤさんが綺麗な顎に手を当てながら目を逸らし、そう訊ねてくる。色んなニュアンスを含ませた質問に聞こえなくもないその言葉。でも僕はそれを、どんな理由でそのような条件を提示したのか、という問い掛けであると判断した。

 

 

 

「…………ダイヤさんと、デートをしたい、から」

 

「──────っ」

 

 

 

 言ってしまったのならもうどうにでもなってしまえ、と思って想いをカミングアウトする。それ以外の理由なんてない。むしろ考える事なんて出来やしない。単純にダイヤさんとデートがしたいからそう言っただけ。文句があるなら聞いてあげよう。そして全部聞いた後に図書室のベランダからこの身を投げ捨ててしまおう。

 

 背中に小さな虫が入り込み、肌の上を蠢いている時のような感覚が僕を襲う。むず痒くてどうしようもない。それを自分の力だけでは取り除く事も出来ない。だからその虫が疲れ果てて動きを止めるまで待つ事にした。

 

 船の汽笛が聞こえてくる。夏の音だけが響く図書室の中。爽やかな初夏の空気はどうにも息苦しく感じてしまう。それはきっと空気の所為ではなく、僕の呼吸の仕方が悪いから。息をするのもままならないくらい、僕は緊張してしまっていた。

 

 ダイヤさんからの返事はない。顔を見る事も出来ないのでどんな表情をしているのかも分からない。彼女が今何処を見ているのか、何を思っているのかも知り得ない。こんな状況で、僕が取れる最善の行動は何か。考えたら答えはすぐに出た。待つ暇は無いと思い、思い切って口を開く。

 

 

 

「「あ、あのっ」」

 

 

 

 ────完全に同じタイミングで、僕とダイヤさんは互いに声を掛け合う。僕も彼女の方を向いていたから必然的に目が合った。しかし、恥ずかし過ぎて瞬時に反対の方向を向く。

 

 何をやってるのだろう。日ごろから運はそれなりに良いと自負しているけど、今日はその力が働いてくれていない。なんでこのタイミングで声を掛けてしまったんだろう。顔が熱い。もうこの場から居なくなってしまいたい。

 

 でも、そうするという事は僕が言ったさっきの言葉を帳消しにしてしまう事になる。それはいけない。せっかく勇気を出して言った言葉を自分自身から無かった事にする事は出来ない。

 

 また同じような静寂が図書室を包み込む。これ以上この雰囲気の中に居たら窒息死してしまいそうだ。早くどうにかしないと。

 

 さっきのは偶々声が重なってしまっただけ。流石に二度目はないだろう。そう信じてダイヤさんの方を向かないまま、声を出す。

 

 

 

「…………あの、ダイヤさん」

 

「…………なんですの」

 

 

 

 ほとんど背を向けている状態で名前を呼び、返ってきたのはいつもより小さなトーンの声音。怒っているかと思ったけど、そんな感じではなさそうだ。少しだけ安心しながら次の言葉を放つ事にする。

 

 

 

「ダメ、かな?」

 

 

 

 主語を抜いて問い掛ける。少し待つが返事はない。それを確認して、続ける。

 

 

 

「嫌だったら、いいよ。今の話はなかった事にするから」

 

「…………」

 

「変な事言って、ごめんね。勉強し過ぎて、ちょっと頭が茹だってたのかも」

 

 

 

 返答がないまま一人で話を進める。断られたのならそれでいい。そもそもさっきのはダメ元で言ってみた言葉だった。僕のお願いをダイヤさんが聞いてくれる筈がない。もしダメだというのなら潔く諦めよう。

 

 そう思って、逸らしていた顔を徐にダイヤさんの方へ向ける。意識しないように、自然に。

 

 そんな時、ある言葉が耳を通り抜けた。

 

 

 

「…………よろしい、ですわ」

 

「え?」

 

 

 

 思わず素っ頓狂な声が出る。もともと声は高い方だけど、今のはそんなの関係ない。完全に裏返ってしまっていた。でも、そんな事を気にしている余裕なんて僕には無かった。

 

 今、ダイヤさんはなんて言った? 自分自身に問い掛ける。たった数秒前の言葉を忘れられるほど、記憶力が衰えた覚えはない。だから僕の頭の中にあるこの記憶は正しいのだろう。いや、でも、本当に? 

 

 訝しむようにダイヤさんの顔を見る。ようやく彼女の表情をこの目に映す事が出来た。ダイヤさんは僕の顔を見て、気に食わなそうに頬を膨らませる。それはまるで、子供がむつける時の表情のように見えた。

 

 

 

「その勝負を、受けると言っているのですわ」

 

「…………いいの?」

 

「あ、あなたが変な方だというのは既に承知しております。なので、特別に受けて差し上げますわ」

 

 

 

 ダイヤさんは目だけを逸らしながらそう言った。だけど、僕は冷静にその言葉を聞く事が出来なかった。

 

 彼女は、僕が出した条件を呑んでくれた、という事でいいんだろうか。喜びとか緊張とかその他諸々の感情が入り混じってしまい、通常の判断が出来なくなってしまっている。

 

 分かるのは、目線の先にいるダイヤさんの頬が少しだけ紅潮している事。

 

 本当に、それくらい。

 

 

 

「ふふっ」

 

「な、なぜ笑うのですか?」

 

「あ、ごめんごめん。つい、うっかり」

 

 

 

 落ち着いてからもう一度考えてみたら、嬉しすぎて笑ってしまった。いや、嬉しかったからというよりも、ダイヤさんの事を見ていたら笑いたくなった。理由は僕にもわからない。

 

 

 

「ふんっ。勝負を挑んだだけで、浮かれないでください」

 

「ああ、うん。そうだね」

 

「この私が負ける筈など、万が一もあり得ませんので」

 

 

 

 ダイヤさんは腕組みをしながらそう言う。たしかに、彼女の言う通りだ。僕は条件を出して、彼女の受け入れてもらっただけ。ダイヤさんに勝つ事が出来なければ、僕のお願いは文字通り絵に描いた餅になってしまう。

 

 だけど、今はそれでよかった。僕のお願いの一端を彼女が聞いてくれただけでも満たされてしまう。これを誰かに言ったら多分笑われる。幸福の度合いが低すぎる、なんて、バカにされるかもしれない。

 

 例えば、他の人が植えた花の種はもう綺麗な花を咲かせているのに、僕が撒いた種はまだ芽だけしか顔を出していない。でも、僕はそれだけで幸せを感じられる。心から嬉しいと思える。

 

 他人の芝が青く見えるのは当然の事。誰かが咲かせた花が美しく見えるのも仕方ない事。それでも、僕自身が撒いた種が小さな目を出してくれた幸せは、僕自身にしか感じ取れない。だからそれでいい。

 

 きっと、その花の種は、世界で一番綺麗な花を咲かせてくれる。そう信じていれば、もっと幸せになれる気がするから。

 

 

 

「あ、じゃあ今度はダイヤさんの番だね」

 

「? 私の?」

 

「うん。もし僕が勝ったら何をするかを決めたから、ダイヤさんが勝った時は何をするか決めて? 僕が出来る事は、何でもするからさ」

 

 

 

 ダイヤさんが勝った場合、何をするか。それを僕が決めるのもおかしな気がしたので、そう言った。

 

 僕の言葉を聞いたダイヤさんは口を閉ざし、何かを考えるような表情をする。そうしてすぐに口を開いた。

 

 

 

「私は、いいですわ」

 

「え? 何も無くていいの?」

 

「あなたにお願いしたい事も、特にありませんので。…………その代わり」

 

「?」

 

 

 

 ダイヤさんはそこまで言って、机の上に視線を移す。そこに置かれているのはさっきまで二人で勉強していた英語の教科書やノート類。

 

 それに、何の意味があるのだろうと考えながら彼女の綺麗な横顔を見つめる。ダイヤさんが何を考えているのかを想像しても、ちっぽけな僕の思考回路なんかでは、そのひとかけらさえも思い描く事は出来なかった。ただ、僕の目には美しい黒髪を指先で弄るダイヤさんの姿だけが映っていた。

 

 

 

「競う教科、ですが」

 

 

 

 その言葉を聞いて、僕は先程自分が言った事を思い出す。僕が勝った時の条件は僕が決めるから、勝負する教科はダイヤさんが決めていいと言った。恐らく、ダイヤさんは教科を選んでくれるのだろう。彼女は苦手な教科はないと言った。実際に今まで一度も学年一位の座を譲らなかったという事実からも、その自信が嘘ではない事は明白だった。

 

 そんなダイヤさんが選ぶのは、どんな教科なのだろう。出来れば、()()教科が良いな。それなら僕にも勝てる可能性はある。

 

 僕が一番得意な教科。ダイヤさんにも教える事が出来る、唯一の分野。

 

 彼女にはそれを選ぶ理由はないけれど、僕はそうなってくれる事を心の中で願っていた。

 

 

 

「─────英語にしましょう」

 

「………………あれ?」

 

 

 

 ダイヤさんがそう言った理由は、僕には分からない。その言葉を聞いて、ポケットに入ったおもちゃの宝石を意味もなく握り締める。

 

 それがいつもより柔らかい気がした理由は、もっと理解出来なかった。

 

 

 

 

 

 

 

 





次話/生徒会長はわざとスペルを間違える


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生徒会長はわざとスペルを間違える

 

 

 ◇

 

 

 

 ─────それから時は経ち、僕らは全教科のテストを終えた。あの日曜日に図書室で勉強してから、僕はこれまで例に無いくらい集中してテスト勉強に励んだ気がする。まぁ、あくまでも気がするだけ。

 

 特に英語の勉強だけは異常に捗った。家にいる時は何をするにしても英語の教科書を離さずにいた程に。『ユウくんが英語の神様に取り憑かれたずらっ』と花丸に言わしめるくらいには極端な勉強法をしてしまっていた。

 

 そんな感じで臨んだ共学して初めての期末テスト。手応えは十分。あれだけやってロクな点数しか取れなかったらショックで立ち直れない。あの日から信吾も真面目に勉強をしていたみたいだったので安心した。甘い条件を設ければ何事も真剣にやるのは彼の性格ともいえるだろう。テストが終わった後、信吾の魂が半分くらい抜けていたから相当頑張ったんだと思う。すぐにハイテンションな鞠莉さんが絡みに行って、抜けかけていた魂は強制的に戻されてたけど。

 

 

 

「よっしゃあっ! 英語も六十点越えたぞおらぁあああああああ!」

 

「ワーオッ、シンゴの鼻息がベリーハードデースッ!」

 

 

 

 英語のテストが返却され、僕が出した条件をクリアした信吾が机の上に立って答案用紙を天井に掲げている。信吾の事をまだよく知らない女子達は彼のテンションが上がってる意味がわかってないような顔をしてる。対して信吾を二年間見てきた男子達は全員驚愕してる。あの信吾が全教科で六十点以上取るなんて、真夏に雪が降る事くらいあり得ない事だろうから。

 

 

 

「果南さんはどうだった?」

 

「ん? 私も今回はだいぶ良い感じだったよ。勉強に付き合ってくれてありがとね、夕陽くん」

 

「うん。どういたしまして」

 

 

 

 クラスメイト達が騒いでいる中、僕が問い掛けると果南さんは爽やかな笑顔を浮かべて答えてくれる。よかった。信吾が僕の条件をクリアしても果南さんがダメだったら元も子もなかったから、素直に安心する。彼女はもう少ししたら、教室の中心で騒いでいるあの男にデートに誘われる事だろう。

 

 

 

「夕陽くんは? ……って、何それっ」

 

「あ、あはは。自分でもちょっとビックリした」

 

 

 

 僕の答案用紙を見た果南さんが驚いていた。その反応はとても嬉しい。僕自身もテストを返されて点数を見た瞬間、それは自分のものじゃないのではないか、と疑いをかけたくらいだったから。

 

 でも、何度見てもそこには僕の名前が書いてある。その横に赤いペンで書かれた点数も、英語担当の先生が書いた“excellent”という文字も、たしかに僕のものだった。

 

 

 

「ちょっと鞠莉、こっち来てっ」

 

「ンフ? どうしたの果南~」

 

「夕陽くんが凄いんだよ。ダイヤ以外にこんな点数取る人初めて見たかも」

 

「それは言いすぎじゃないかな?」

 

 

 

 驚いた果南さんが鞠莉さんの事を手招きして呼ぶ。照れくさいけど、これは自分でも誇っていい気がしたので素直に受け止めよう。平均点よりだいぶ上だったし、ていうか、一問しか間違ってないんだし。

 

 

 

「98点、だってよ?」

 

「オーウ…………ユーヒ、ファンタスティックデスネー」

 

 

 

 イタリア系アメリカ人のお父さんを持つハーフの鞠莉さんもビックリしてる。今年の春まで海外に居たという彼女ですらこの反応を見せてくる、という事はそれなりに難しい問題だったのかもしれない。

 

 僕としては繰り返しやり過ぎて、最終的に試験範囲を暗記してしまっていたので、難しかったかどうかもイマイチ判断できない。一問だけ試験範囲から逸れた場所から出た問題の所為で大半の生徒はそこを間違っていたみたい。担当の教師に文句を言っていた生徒も居た。それは僕も例外ではない。間違えたのはその一問だけ。別に百点満点を取りに行った訳でもないので抗議もしない。この点数を取れた事自体、奇跡に近いのだからこれ以上を求める必要もないだろう。

 

 

 

「たまたまだよ。他の教科はいつも通りだし」

 

「でも、これならダイヤに勝てるんじゃないかな。ね、鞠莉」

 

「そうねぇ。あの子、英語だけはちょっとだけ苦手だったから~」

 

「え? そうなの?」

 

「あれ、夕陽くん知らなかったんだ。まぁ、苦手って言っても本当にちょっとだけなんだけどね」

 

 

 

 果南さんと鞠莉さんにそう言われ、少し疑問に思う。ならどうして、ダイヤさんは僕と競う教科に英語を選んだのだろう。得意でないのなら他の教科を選べばよかったのに。しかも、彼女は僕が英語が得意だという事を知っていた筈だ。なのに、敢えてダイヤさんは英語を選択した。

 

 その真意は、彼女しか知り得ない。

 

 

 

「…………」

 

 

 

 ダイヤさんの点数はどうだったんだろう。無性にそれが気になってしまうのも仕方ない。彼女は今ちょうど席を立ち、テストを取りに行っている最中。僕はうるさい教室の中で彼女の一挙手一投足だけに目を向けていた。

 

 果南さんと鞠莉さんが信吾に呼ばれ、僕の席の近くから離れて行く。そうして、ダイヤさんは自分の席に戻ってきた。

 

 

 

「ダイヤさん」

 

「……はい?」

 

「その、どうだった?」

 

 

 

 席に座ったダイヤさんに訊ねる。ここでがっついて訊いてしまったら何だか自分の価値を下げる気がしたので、取り繕わずにいつも通りの感じで訊ねてみる。

 

 ダイヤさんは自分の答案用紙を両手で持ち、僕の顔と答案の表側を交互に見つめてくる。目は細く、眉間には少しだけ皺が寄っている。どうしたんだろう。何かあったのかな。

 

 訊ねる前に僕が教えればいいのか。そう思い、自分の答案をダイヤさんに見せようとした。

 

 

 

「ダイヤどうだったーっ?」

 

「あ─────」

 

 

 

 そんな時、ダイヤさんの後ろから現れた鞠莉さん。鞠莉さんのスキンシップはいつも唐突。今回はダイヤさんの背後からハグをしていた。うらやまし───何でもない。

 

 突然の事で驚いたのか、ダイヤさんは持っていた自分の答案用紙を床に落とす。一枚の紙は表を向いて僕の足元に落ちた。そうしてそれを拾おうとした時、図らずもその点数と彼女が間違えた箇所を見てしまった。

 

 

 

「え…………?」

 

「か、返しなさいっ」

 

 

 

 それを拾うと、すぐにダイヤさんは僕の手から答案用紙を奪って行った。彼女の顔に目を向ける。顔が赤い。めずらしく、ダイヤさんが焦っているのを見た。何故いつでも冷静な彼女がそこまでの反応を見せたのか。それは、僕がダイヤさんの答案を見てしまったから。でも、解せない事が一つだけあった。

 

 

 

「…………どうして?」

 

「………………」

 

「ンフ?」

 

 

 

 問い掛けてもダイヤさんは答えてくれない。目線を僕から逸らしたまま固まっている。そんな彼女を後ろからハグする鞠莉さんも、頭の上に疑問符を浮かべていた。

 

 ダイヤさんの点数は()()()だった。点数の横には僕の答案と同じく“excellent”の文字が書かれていたのが見えた。この時点で僕が彼女に勝ったのは考えなくても分かる。けれど、僕には何故、彼女がそんな点数を取ったのかが理解出来なかった。

 

 ダイヤさんが間違えていたのは、僕と同じ問題。ほとんどの生徒が外れていた箇所を彼女も誤っていた。ただ、もう一問の間違いだけは、どう考えてもおかしい。

 

 ──────ダイヤさんは“stationery”という単語を“stationary”と書いていた。そして、洩れなく減点されていた。

 

 あの日。僕が偶然見つけた間違いを、このテストでも同じように間違えていた。彼女があの教えを忘れる筈がない、そう思うのは自惚れなのだろうか。頭の良い彼女がこんなケアレスミスをするだなんて、僕にはどうにも信じる事が出来なかった。

 

 そこに、何かの思惑があるんじゃないか、と思わずにはいられなかった。

 

 

 

「…………私の負け、ですわね」

 

 

 

 ダイヤさんは僕が持つ答案用紙を見つめながら、ポツリとそう零す。騒がしい教室の中でも、その声はちゃんと僕に届いた。

 

 言うまでもなく僕はダイヤさんに勝ち、ダイヤさんは僕に負けた。この間の日曜日、図書室でした約束はこれで果たされる事になる。

 

 僕が勝ったら、ダイヤさんとデートをする。どうやら、僕は久しぶりに凄い事をやってのけてしまったらしい。

 

 

 

「や、約束は約束です。仕方ありませんので、付き合って差し上げますわ」

 

「あ、えっと」

 

「私は、そんな事、本当はしたくはありませんが」

 

 

 

 ダイヤさんはそう言って、顎のホクロの所を指先で掻く。

 

 

 

 それから、その仕草を見た鞠莉さんが、微笑みながら口を開いた。

 

 

 

「フフッ。何の事かは知りませんが、ダイヤ、嘘を吐いてマース」

 

「「え?」」

 

 

 

 そして、僕らは声を重ね合わせた。

 

 

 

 

 

 





次話/国木田花丸は寂しくなる


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国木田花丸は寂しくなる

 

 

 

 

 

『─────七月二十八日、お昼のニュースです。本日も日本列島は高気圧に恵まれ、一日中夏晴れが続くでしょう。気温も高くなるため、熱中症には十分お気を付けください』

 

 

 

 夏休みが始まって数日が経った日の事。いつも通りの時間に目覚め、花丸と一緒にお寺の掃除をしたり花壇の花に水をあげたりしてから、朝ご飯を食べる。これは四月にこのお寺に居候する事になってから一切ブレていない習慣。長期の休みに入っても、このルーティンだけは変わらなかった。

 

 変わったところと言えば、掃除をしている時にランニングしている果南さんと会う事くらい。今日も同じ時間に会って挨拶と軽い会話をした。でも、彼女の様子は何処か浮かれているよう見えたのは僕の気のせいだったのか。いや、多分その通りだ。理由はもう少しすれば分かると思う。

 

 お寺は静かで、無駄なものは何もない。居るだけで心が穏やかになり、邪な事を考えなくなる。今までは夏休みや冬休みにしかここで過ごさなかったのに、気づけば環境が逆になってしまっていた。それはやっぱり、学校の統合が根本の理由になるんだけど今はそれでもいいな、と思える。

 

 僕にはやりたい事がある。それが出来るのなら、他に何もなくとも構わない。いや、むしろ何も無い方がいい。余計なモノが目に入る方が耐えられないから。

 

 だから、このお寺の環境は素晴らしく僕に合っていた。これは、居候させてもらうようになってから気づけた事。外に出ても街は静かだし、海は綺麗で見ているだけで自然と和んでしまう。蝉の声だけはうるさいけど、これが内浦の夏だと割り切れば問題ない。住んでいる人達も温かいし、統合してから出来た友達もみんな優しい人ばかり。

 

 いつしか僕は、この街が好きになっていた。四月の頃はあれほど嫌だった統合も、今ではして良かったと思える。時の流れが相対的に早く感じてしまうのはきっと、内浦に居る事で僕の心が充実を強く感じてくれているからなんだと思う。

 

 そんな理由で、僕は夏休み期間中もこの街にいる事を選んだ。一応高校三年生で受験を控えている身でもあるし、やりたい事と並行して勉強も進めて行かなくてはならない。このお寺で小さな修行をしながら今年の夏は過ごしていこうと思う。

 

 

 

「ご馳走さまでした」

 

「ずら。今日はマルがお皿を洗うから、ユウくんは台所まで持ってきて?」

 

「分かった。よろしくね、花丸」

 

「うんっ。それが終わったら出掛ける準備をするずら~」

 

 

 

 二人で作ったお昼ご飯を一緒に食べ終わり、茶色のエプロンを付けた花丸はそう言ってから台所へ歩いて行く。いつにも増して意気揚々としているのは気のせいじゃない。彼女も果南さんと同じで、今日を心待ちにしていたんだろう。ウキウキしている花丸の小さな後ろ姿を見つめながら少しだけ笑ってしまった。

 

 今日は沼津市内で花火大会が行われる日。この辺りに住んでいる人はだいたいこの祭りを楽しみにしている。それは僕らも例外ではない。毎年の事だけど、年に一度のこの花火大会は沼津市民にとってかなりビッグなイベント。それを楽しみに思わない訳にはいかなかった。

 

 食べ終わった食器をお盆に乗せながら、少し未来に訪れるであろう未来に思いを馳せる。そして、思わずニヤケてしまった。自重しよう。花丸に今の顔を見られたら絶対引かれる。でも、それくらい今年の花火大会は楽しみだった。茶の間に流れているラジオの音を聞き、その理由を思い出す。

 

 

 

「…………今日も、暑くなるのかな」

 

「? ユウくん、何か言ったずら?」

 

 

 

 片づけをしながら呟くと台所に居る花丸が僕に声を掛けてきた。聞こえちゃったか。まぁ、別に恥ずかしい事でもないし、気にしないでおこう。

 

 

 

「いや、何でもないよ」

 

 

 

 微笑みながらそう言って見せると、花丸も顔を綻ばせながら僕の事を見つめてくれた。そうしてまた、お互い手を動かし始める。どうやら僕の心も、花丸や果南さんと同じくらい浮かれてしまっているみたいだ。だってしょうがない。僕は本当に今日を楽しみにしていたんだから。

 

 ─────僕は夏休みが始まる前の期末テストで、ダイヤさんにある勝負を挑んだ。英語のテストで僕が勝ったらダイヤさんとデートをする、という約束をして挑んだその勝負。結果的に僅差で勝利をおさめ、僕は約束通りダイヤさんとデートをする権利を得た。

 

 未だにダイヤさんがあの問題を間違えていた意味は分かってないけど、勝った事には変わりない。僕は勇気を出して今日の花火大会に彼女を誘い、ダイヤさんも仕方ないですわね、と言いながらも約束を守ってくれた。約束をした日の帰り道、一人でスキップをしながら鼻歌を歌っていたら、同じく下校途中であったであろう臙脂の髪色をした二年生の女の子に偶然その姿を見られ、そこに何とも言えない空気が生まれたのは思い出さなくてもいい記憶。あの女の子には悪い事をしてしまった。名前は知らないけど、今度会ったら一応謝っておこう。

 

 生まれてこの方、女の子とデートなどした事のない僕からすれば、今日という日は何よりも大事な一日。あの図書室で勉強をしていた時、勇気を出してよかったと深く思う。そして自分自身を褒めてやりたい。花丸に頼んで明日は赤飯でも炊いてもらおうか。いや、やっぱり止めておこう。恥ずかしくて精神が削れてしまう。

 

 

 

「はい。洗い物、これで全部だよ」

 

「ありがとうずら、ユウくん」

 

「じゃあ僕は洗い終わった食器を拭くね」

 

「よろしくずら~」

 

 

 

 食卓にあった食器を台所に運び、花丸が洗い物をしている流しに置く。どうでもいいけど花丸は食器を洗う時、大量の洗剤を使う癖がある。訳を訊いてみると『泡がいっぱいある方が早く綺麗に出来るずらっ』という事らしい。僕にはイマイチ彼女が持つ感性が理解出来ないが、花丸が良いならそれでいいと思う。流しから溢れるくらいの泡を出してる時は流石に止めたけどね。

 

 そんな事を思い出しながら、花丸が洗った食器を拭いて棚に並べて行く。嬉しそうな顔をしている従妹の横顔を時折見つめたりして、ほのぼのとした時間を過ごして行く。この時間が僕は好き。穏やかな夏の日の昼。夏は暑くて嫌いな季節だけど、ここに居る時だけは何故かそう思わない。不思議な感覚だった。

 

 

 

「嬉しそうだね、花丸」

 

「嬉しそうじゃなくて、本当に嬉しいずら」

 

 

 

 えへへ、と笑いながらそう言う花丸。跳ねた泡が彼女の鼻の上に付いていたけど、見ていて和むのでそのままにしてあげる事にする。

 

 花火大会には花丸も僕らと一緒に行く。花丸だけじゃなく、ダイヤさんの妹であるルビィちゃんも。それにも少し情けない理由がある。

 

 ダイヤさんを誘ったところまでは良かった。でも、いきなり二人きりでデートなんかしたりしたら僕の心が悲鳴を上げてしまうのはわかり切っている事。照れくさくて話せない、なんて状況に陥ったらせっかく来てくれたダイヤさんに申し訳ない。という事で、お互いの従妹と妹を連れて行く事にして、そんな悲しい未来の可能性を失くした次第である。

 

 

 

「よかった。僕も楽しみだよ」

 

「ずら。あ、そう言えばユウくん」

 

「うん?」

 

「信吾さんは一緒じゃないずら?」

 

「ああ。信吾は別の人と行くみたい」

 

「そうずらか。残念ずら」

 

 

 

 花丸は洗い物をしながら僕にそう言った。四月から信吾とも仲良くなった彼女はかなり彼に懐いていたから、今日も一緒に行けるものだと思っていたのかもしれない。

 

信吾は優しくて年下の面倒見も良いから、花丸もお兄さんっぽい性格をした彼に甘えたがる。信吾がお寺に来る度、花丸のテンションが上がるのは僕としても見ていて微笑ましい。……それにジェラシーを感じないと言えば嘘になるけど。

 

 信吾と果南さんは二人で花火大会に行くみたいだった。僕が出した条件をクリアした信吾は僕と鞠莉さんの協力のもと、果南さんを花火大会に誘う事に無事成功。約束通り、レアな桟敷席のチケットも二枚渡しておいた。『ユーヒ、ナイスアシストデースッ』と鞠莉さんに褒められてちょっとだけ嬉しかった。

 

 そういえば今日、信吾は果南さんに告白するのか。なんだろう。当事者じゃないのに、自分の事のように緊張するこの感覚は。

 

 

 

「…………恋人、か」

 

「ずら?」

 

 

 

 もし、というか、ほとんどの確率で信吾の告白は成功するだろうけど、そうなった場合の関係性ってどうなるんだろう。単純に考えれば、あの二人は恋人同士になって、今よりもっと深い仲になる。そうなってくれるのは僕としても嬉しい。

 

 でも、そうなったら信吾と果南さんは今までみたいに、僕らと一緒に居てくれなくなるのかな。一緒にお昼ご飯を食べたり、遊んだり、帰ったりする事が出来なくなる。それは仕方ない事なのかもしれない。誰かと誰かが恋人同士になるって事は、多分、今までの関係性が変わるのと同義。それを思うと、少しだけ寂しくなる。あの二人が今まで通りにしてくれるというのならそれでいいのだろうけど、完全に同じという訳にはいかないだろう。

 

 

 

「ねぇ花丸」

 

「ずら? どうしたのユウくん」

 

「もし、本当にもしだよ。僕に恋人が出来たりしたら、どう思う?」

 

 

 

 そんな意味のない質問を、自分の従妹に問い掛ける。答えなんてなくてもいい。これはただの雑談。親友が自分から離れて行くように、彼女の近くにいる僕が花丸から離れて行くのを想像したら、どう思うのか。それを聞いてみたかった。

 

 

 

「恋、人?」

 

「うん。たとえばの話だけど」

 

 

 

 花丸は洗い物をする手を止めて、こちらを見つめてくる。潤んだ琥珀色の瞳にはたしかに僕の姿が映っていた。

 

 数秒の静けさが台所に流れる。食卓の方で流れているラジオの小さな音だけが聞こえてきた。

 

 自分で言ってから、そのたとえが自分自身でなくてもいい事に気づいた。花丸にとっての大切な人をたとえて話せばよかったのに、どうして僕は自分に恋人が出来たら、なんて言ってしまったのだろう。少しだけ後悔。でも、言ってしまったものは取り返せないので、潔く諦める事にする。

 

 

 

「…………うーん。難しいずら」

 

「ああ、ごめんね。急に変な事訊いちゃって」

 

 

 

 そうして花丸は眉毛を困ったように曲げてそう言った。しょうがないか。そんな事を想像するだなんて、幾らこの子でも難しいに決まってる。

 

 僕は諦めて、また濡れた食器を布巾で拭き始める。そんな時、隣に立っている背の小さな飴色の従妹が小さな声を出した。

 

 

 

「でも」

 

「? 花丸?」

 

「ユウくんに恋人が出来たら、マルは嬉しいずら。でも」

 

 

 

 花丸は無垢な微笑みを浮かべながら、そう言ってくれる。そんなあるかどうかもわからない例え話に、答えをくれた。

 

 そうして彼女は言葉を続ける。穏やかな夏の日に、春の木漏れ日のような笑顔を浮かべて。

 

 

 

 

 

「きっと、ちょっとだけ寂しくなっちゃうと思うずら。えへへ」

 

 

 

 

 

 そんな、僕が感じていたものと同じ感情を含ませた言葉を、ポツリと零した。

 

 





次話/リトルデーモン・キス


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リトルデーモン・キス

 

 

 

 ◇

 

 

 

 お昼ご飯の後片付けを終え、僕と花丸は出かける準備を始めた。花火大会は夜からだけど、その前に立ち寄らなければならない所がある。僕としてはそこに足を踏み入れるのも、祭りに行く事と同じくらい緊張する。だから準備は抜かりなくしていこう。身支度だけではなく、心の方もしっかりと。

 

 

 

「…………浴衣、か」

 

 

 

 貸し与えらえている自室の中。姿見の前に立って、そう呟く。今は黒いスキニーパンツに半袖の白いシャツを着ているけど、この格好で花火大会に行く訳ではない。これから花丸と一緒にある家に行って浴衣を貸してもらう事になっている。僕としては私服の方がいいのだけれど、()()()が祭りに行くときは浴衣を着なければならない、と言うのだから従わない訳にはいかなかった。そもそも僕が誘ったんだし、それくらいの要望には応えなくちゃいけない。

 

 鏡に映るのは、いつも通りの自分。一昨日、知り合いが父親の働いている沼津の美容室に行って似合いそうな髪型を選んでもらい、その通りに切ってもらった。普段から特にお洒落に気を遣っている訳じゃないけど、あの子と花火大会に行くのだからちゃんとした出で立ちで居なければならない、と自分勝手に思ってしまった。

 

 

 

「似合ってる、のかな?」

 

 

 

 たしかに、いつもとは違う雰囲気の髪型。短くて活発な印象を持たれるより、少し長めでインドアな感じの髪型の方が似合うと自分では思う。でも、今回はちょっと夏らしく短めに切ってもらった。なんかちょっと、大人になろうと背伸びしてる中学生みたいにも見える。本当は信吾の事をバカに出来ないくらい童顔だし、似合ってるかどうかは自分では判断できない。まぁ、今は夏休みだし冷やかしてくるクラスメイト達とも会わないから良いか。祭りのどこかで会う確率はとんでもなく高いけど、それは一先ず置いておこう。

 

 

 

「よし」

 

 

 

 とりあえず身支度はオーケー。これ以上着飾ったら逆にダサく見えてしまいそうなので、普段通りの感じで行く事にする。花丸の支度は、まだ終わらないか。女の子には色々あるし、準備に時間がかかるのは良く知っている。茶の間でテレビでも見て気長に待つ事にしよう。

 

 そう思い、姿見の前から離れ、襖を開けて茶の間へ向けて縁側を歩き出そうとした。

 

 

 

「あ、そうだ」

 

 

 

 そうして数歩目であるものを忘れた事に気づき、部屋に戻る。あれは、どんな時でもこの身から離さず持っているよう決めてる忘れちゃいけないもの。危ない危ない。

 

 机の上に置いてある、玩具の宝石が付いたネックレス。首掛け紐の部分を持ち、顔の前にプラスチックのダイヤを持ってくる。それは、いつものように部屋に入り込んでくる光を鈍く反射させていた。

 

 

 

「…………」

 

 

 

 それを首に掛け、着ているシャツの中に入れる。あまりちゃらちゃらした装飾品は似合わないと自負している。でも、こんな玩具の宝石なら身に付けていても多分、誰も気にしない。それどころか逆の意味で笑われそう。それならそれでいいさ。僕にとってはこの玩具の宝石が何よりも大切なんだから。誰かに何を言われようとも手離す事はない。

 

 服の上から胸の所にぶら下がっている玩具のダイヤに触れる。その感触はやっぱり、今日も硬く感じる。そう言えば、時々握り締めると柔らかく感じたりするあれは、一体何なのだろう。どう考えても僕の気の所為なのだろうけど、少しだけ気になったりする。

 

 忘れ物を取り、気を取り直して自室から出る。短い縁側を歩いている最中、ぶら下がっている風鈴が駿河湾の方向から吹いてくる夏風に吹かれてちりん、と透明な音を鳴らしていた。どうやら今日も暑くなるみたいだ。一日中晴れるというから、夜も予定通りに花火が打ち上がる事だろう。

 

 そんな事を思いながら縁側を通り抜け、茶の間へと足を踏み入れる。思った通り、花丸の姿はない。あと少しはかかるだろうな。焦らせないように静かにここでのんびりしておく事にする。

 

 

 

「よっ」

 

 

 

 座布団に座り、リモコンのボタンを押してテレビの電源を入れる。休日の午後に流れている番組は過去のドラマの再放送や旅番組やらで特に面白味もない。何となくニュースが見たい気分だったので、番組表から県内版のニュース番組を選んでそれを画面に映す。

 

 食卓の上に肘を置き、顎を手に乗せるスタイルでボーっとテレビを眺める。画面には水族館に新しいペンギンがやって来たとか、何処かのお年寄りが詐欺にあったので注意してくださいとか、ありきたりな内容ばかりが流れていた。

 

 瞳にはテレビの映像を映しながら、頭の中では今日これからの事を考える。退屈だと思われないように面白い話でも準備していこうかな、と思うけど話下手な僕にはそんな芸当は出来っこないので諦める。じゃあ何をしてあの子を楽しませればいいだろう。でも、それを考えたらキリがない。

 

 同い年の女の子と花火大会に行くなんて、十七年の人生でも初めての経験。そんな僕に出来る事なんて、本当に限られたものでしかないのは考えなくても分かる。むしろ無理に何かをやろうとして失敗するのは目に見えている。それは上手くない。ダイヤさんの前で格好悪いところは見せられない。

 

 

 

「…………うーん」

 

 

 

 テレビを眺めながらぼんやりと頭を悩ませる。この数か月で距離を縮めようと色々してみたけど、分かった事なんてほんの一握り。偶然、僕が好きな作者の本が好きだったのは素直に嬉しかった。あとは厳格な雰囲気に似合わずプリンが好物という事。それを鞠莉さんから聞いた時、ギャップに心を打たれてうっかり気絶しそうになったのは良い思い出。どうやら僕はダイヤさんのそう言うところにグッときてしまう性質をしているらしい。本音を言うと、もっとそう言った意外な一面が見てみたい。

 

 あの子を昔から知っている果南さんや鞠莉さんから聞かされるエピソードはとても新鮮で、いつも僕の心に深いダメージを与えてくる。それを二人が僕と信吾に話している時にダイヤさんが現れたりすると、顔を赤くして怒る姿も可愛いくて逆に癒されてしまったりする。

 

 四月から今までであの子に近づく努力は自分なりにはして来た。でも、一定の距離感は詰められないままでいる。一応連絡先は知ってるけど、メールや電話も必要最低限のやり取りしかしないから、ほとんどした事も無いに近い。

 

 

 

「そうだ」

 

 

 

 こうして一人で頭を悩ませている暇があるなら、信吾にでも電話をかけてどうすればいいのか訊いてみればいいじゃないか。いや、でも今の彼はそれどころじゃないかもしれない。告白を間近に控えているのだからいつもみたいなノリでは行かない筈だ。やっぱり止めておこう。

 

 なら、他に誰が居るかな。朝の掃除中にランニング中の果南さんに会ったけど、あの子もかなり浮かれている感じだったから、恐らく僕の話なんて届かないに違いない。信吾と果南さんはもうそっとしておいてあげよう。僕としても邪魔をするのは憚られる。

 

 ポケットに入れたスマートフォンを取り出し、連絡先を開く。もともと友達が多い訳でもないし、中高と男子校で過ごしてきた身なので、入っているのはほとんどが男子の連絡先。その中にある女の子の連絡先は仲の良い三人と花丸、この四人だけ。

 

 

 

「あ」

 

 

 

 そうして連絡先のフォルダを眺めている時、あ行の最後にとある一人のクラスメイトの名前を見つけた。忘れていた訳じゃなかったけど、何故か頭に浮かんでこなかった。

 

 鞠莉さんなら、僕の話を聞いてくれるかもしれない。ダイヤさんをよく知ってる彼女なら、あるいは。

 

 そう思って鞠莉さんの携帯の電話番号を開く。現在の時刻は十三時半を少し過ぎたくらい。この時間なら流石に起きてる、よね。淡島ホテルの御令嬢の生活は、一般人である僕には想像すら出来ない。朝昼晩お風呂に入るくらいお風呂好き、という事くらいしか知らない。……鞠莉さんのお風呂か。なんかとんでもなくゴージャスな姿をイメージしてしまう。お湯の上にバラとか浮かんでそう。あの子は果南さんと同じくらいスタイルも凄いし、きっと───やめよう。お寺で友達のバスタイムシーンを思い描くだなんて、仏様に知られたらきっと酷い天罰が下ってしまう。

 

 最近覚えた般若心経のワンフレーズを心の中で唱えて浮かび上がってきた煩悩を消し去る。何れは歌詞を見ないでもフルコーラスで唱えられるようになりたい。何の話だ。

 

 とりあえず悩んでいても仕方ないし、今さら迷惑になるかどうかを考える間柄でもない。出なかったら出なかったでいい。ダメ元で電話をしてみる事にしよう。

 

 思い切って鞠莉さんの携帯に繋がる電話番号をタッチし、スマートフォンの通話部分を耳に当てる。すぐに鳴るコール音。それが数回繰り返され、出ないかな、と諦めようとした時にちょうど音が鳴り止んだ。

 

 

 

『───ハロー、ユーヒ。ユーヒから電話なんてめずらしいデスネー』

 

「あ、おはよう、鞠莉さん」

 

『で、どうしたの? サマーバケーションが始まってマリーのシャイニーな声が聞けなくて寂しかったの~?』

 

 

 

 そんな感じで鞠莉さんは電話に出てくれた。電話越しでも変わらない彼女のテンション。そう言えばたしかに、一週間くらい会ってなかったな。最後に見たのは淡島の周りを馬に乗って走り回ってた姿だった気がする。それは良いとして。

 

 

 

「ふふ。そうかもね。ちょっとだけ寂しかったかも」

 

『アー、またそうやってユーヒはジャパニーズ・タテマエを使うんだから~。マリーにはお見通しデース』

 

 

 

 いつも通りの癖でそう言ってみせると、鞠莉さんにはすぐに見抜かれてしまった。頬を膨らませてる彼女の顔が容易に想像できる。でもしょうがない。建前ばかりを使ってしまうのは僕の悪い癖。でも性格上、割り切るしかないと思っている。

 

 

 

「ごめんごめん。そう言うつもりじゃなかったんだけどね」

 

『もういいわ。いつかユーヒの本音をいっぱい聞いちゃうんだから。…………それで、今日はどーしたの?』

 

 

 

 鞠莉さんは少しの間を空けてから、そう問い掛けてくる。本題は何か、という事を知りたいのだろう。事前連絡も無しで急に電話がかかってきたりしたら、何があったのか疑わない訳はない。

 

 頭の中で言うべき事を整理して、口を開く。鞠莉さんがあまり気を遣わずに済むよう、心掛けながら、慎重に。

 

 

 

「えっと。実は、ダイヤさんの事で相談したい事があって」

 

『ンフ? ダイヤのコト?』

 

「そう。今日の花火大会、僕がダイヤさんと一緒に行く事は、鞠莉さんも知ってるよね」

 

『イエース。それがどうかしたのデースカ?』

 

 

 

 僕は事前に、鞠莉さんにも今日の事を教えていた。別に隠すような事でもなかったから。

 

 少しだけ考える時間を置き、もう一度口を開く。恥ずかしいけれど、電話でならば言える気がした。

 

 

 

「……少し長くなるけど、いいかな?」

 

『オーケーよ。ユーヒとダイヤの話なら、マリーはちゃんと聞いてあげマース』

 

 

 

 そんな前置きに、鞠莉さんはすぐ了承してくれた。彼女が優しい女の子でよかった、と改めて思う。鞠莉さんには申し訳ないけど、少しだけ僕のつまらない話に乗ってもらう事にしよう。

 

 

 

「その、ダイヤさんと花火大会に行くのはいいんだけど、楽しんでもらえるかがちょっと不安なんだ」

 

『楽しんでもらえるか?』

 

「うん。僕は話も上手くないし、ダイヤさん、退屈しちゃったりしないかなって思って」

 

 

 

 抱えている自分の不安を言葉にする。そうするだけでも楽になれる、と何かの本に書いてあったのを今になって思い出した。あの本の内容が正しいのなら、この会話にも意味ができるかもしれない。

 

 

 

『フフ、ユーヒは相変わらず心配症デース』

 

「……事実だから何も言えないんだけどさ」

 

『ダイジョーブよ。ダイヤはそんな事思わないから』

 

「本当に?」

 

『オフコースッ。ダイヤの事を誰よりも知ってるマリーが言うんだから、間違いありません』

 

 

 

 僕の言葉に鞠莉さんはそんな返事を返してくれる。声しか聞いていないのに、いつものキュートなウィンクが見えた気がした。

 

 

 

「でも、退屈な時間よりは楽しい方がいいよね」

 

『それは当たり前デース。せっかくのフェスティバルなんだから、楽しくなきゃいけまセーン』

 

「だよね」

 

 

 

 その返答に小さくため息を吐く。恐らくそれも通話越しに届いていたのだろう。鞠莉さんの声がすぐ聞こえてくる。

 

 

 

『バット。それで諦めちゃダメよ、ユーヒ』

 

「けど、どうすればいいんだろう」

 

『それはマリーにも分かりません。ただ』

 

「ただ?」

 

 

 

 鞠莉さんはそこでひと呼吸、間を置いてからまた喋り出す。

 

 

 

『ユーヒの中に誰かを楽しませたい、っていう気持ちがあれば、きっとそれは伝わるわ』

 

「………………」

 

『方法はいっぱいあるけど、ユーヒはユーヒらしくダイヤと接するのが一番デース』

 

 

 

 耳に入ってきたのは、そんな心強いメッセージ。弱ってる僕の背中を押してくれる、力を持った言葉だった。

 

 誰かを楽しませたいという気持ち。それはもちろん、僕の中にある。それには気づいていなかった。でも。

 

 

 

「……具体的な方法じゃ、ないんだね」

 

『そんなのは人によって違うから。マリーは騒がしいのが好きだけど、他の誰かは落ち着いたクールな雰囲気がライクかもしれないでしょ? それと同じデース』

 

「つまり?」

 

『その人に合った楽しみ方がある、って事。だから難しい事は考えても仕方ありまセーン。ユーヒが今考えるべき事は、()()()()()()()()()()って事だけでいーの』

 

「あ…………」

 

『ムーブメントではなく、ハートの問題よ。フフ、ちょっとシンゴみたいだったでしょ〜?』

 

 

 

 鞠莉さんはそう言ってクスクスと笑う。たしかに、少し信吾が言う言葉に似ている気がした。彼女も信吾が考えそうな事をわかってきたのかもしれない。そして、その言葉が僕に響くのも無意識に理解しているんじゃないかと思った。

 

 僕が考えるべき事は、具体的な行動ではなく、ダイヤさんを楽しませたいかどうかという事。それだけでいい、と鞠莉さんは言ってくれた。

 

 たしかに彼女が言ってる事は分かる。人が()()()と思う基準なんてバラバラだ。幼い頃からダイヤさんを知っている鞠莉さんですら、ダイヤさんを満足させる方法なんて知らないんだろう。

 

 だからこそ、彼女は難しい事は考えるな、と言った。そんな事を幾ら考えたって分からないから、とにかく相手を楽しませたい、と思っていればいい、と。

 

 

 

『それだけ忘れなければ、きっと楽しめると思うわ』

 

「そう、かな」

 

『イエス。ダイヤは優しいから、ユーヒの想いを受け入れてくれる筈よ』

 

 

 

 優し気な声音で、鞠莉さんは語り掛けてくれる。今はその言葉の全てが心臓に突き刺さった。そして、しっかりと背中を後押ししてくれている。上手く行くかどうかは分からないけど、この想いがダイヤさんに届くように彼女を“楽しませる”という気持ちだけは強く持っておこう。

 

 ダメ元で電話をかけてみてよかった。相談相手に鞠莉さんを選んで正解だった、と心底思う。

 

 

 

「……ありがとう、鞠莉さん」

 

『ノープロブレム。ユーヒの力になれたのなら、これくらいゾーサもありません』

 

「今度、お礼をさせてね。あ、鞠莉さんが悩んでる時に僕が悩みを聞いてあげるよ」

 

『フフ、ユーヒは優しいのね』

 

「鞠莉さんほどじゃないよ」

 

 

 

 そんな事を言い合って、僕達は笑う。統合して初めて友達になったのがこの子でよかった。もし、僕らの性別が同じだったとしても、鞠莉さんとなら仲の良い友達になれたと思う。

 

 何かが違っていたら、僕がこの子の事を好きになった可能性も、あったかもしれない。

 

 

 

『じゃあ楽しんできてね。……あ、そうだ』

 

「うん? どうしたの?」

 

 

 

 鞠莉さんは何かを思い出したような声を出した。それから数秒の沈黙を挟み、また声が聞こえてくる。

 

 

 

『ユーヒ。体育祭の騎馬戦が終わった後、校庭にネックレスを落としてたでしょ?』

 

「え? なんで、それを」

 

『実は、アレを拾って首掛けてあげたのはマリーでした~。それでね』

 

 

 

 鞠莉さんにそう言われ、体育祭の時の事を思い出す。たしかに、ポケットの中に入れていた玩具の宝石は保健室のベッドの上で目覚めた時、僕の首に掛かっていた。あれを拾ってくれたのが、鞠莉さんだったなんて初耳だった。

 

 それから次の瞬間、僕は耳を疑う。

 

 

 

『あの時、寝てるユーヒの顔があんまり可愛かったから、私───おでこにキスしちゃった。フフッ』

 

「は…………?」

 

『ジョークよ、ジョーク。それじゃあね、ユーヒ。チャオ~ッ』

 

 

 

 そんな風に唐突に、電話は切られた。

 

 なんで今、鞠莉さんはそんな冗談を言ったのだろう。僕には彼女の思惑が一切理解出来なかった。

 

 通話が切れたスマートフォンを耳に当てながら、空いている方の手でおでこを触った。

 

 茶の間にはニュース番組の音声と、外から聞こえてくる蝉時雨だけが流れている。スマートフォンの通話部分からはもう、あの明るい声は聞こえてこない。

 

 でも僕は通話をする姿勢のまま、口を開く。

 

 

 

 

 

「…………ホントなら、真に受けちゃうからね」

 

 

 

 

 

 そんな、建前ではない───僕自身の()()を。

 

 

 

 返ってくる声など、あるはずもないのに。

 

 

 

 

 

 




次話/ダイヤさんは褒められたい


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ダイヤさんは褒められたい

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

「ユウくん、お待たせずら」

 

「準備はもういいの?」

 

「ずらっ。いつでも出発できるずら~」

 

 

 

 鞠莉さんとの電話が終わった後、ぼんやりテレビを眺めていると、出かける準備が終わった花丸が茶の間に入ってくる。

 

 頭にはリボンの付いたカチューシャ。白の前結びシャツに若草色のロングスカート。柔らかい雰囲気と飴色の髪色も合わさり、何だかおとぎ話や童話に出てくる村娘みたいな格好にも見える。良い意味で素朴な感じが出ていて、花丸に良く似合っていた。この格好で祭りに行ってもいいのにな、とも思うけど数時間後には彼女も違う服装になっている事だろう。

 

 

 

「そっか。じゃあ、早速行こう」

 

「ずらっ。ルビィちゃんもダイヤさんも、マル達を待ってるみたいだよ」

 

「それなら、なおさら急がなくちゃね」

 

「うん。忘れ物もないずら」

 

 

 

 そんな事を言い合い、座布団から立ち上がる。それからテレビを消すためにリモコンを手に取った。

 

 

 

「…………ん?」

 

「ずら?」

 

 

 

 でも、僕はすぐにテレビを消さなかった。画面に気になるニュースが映っていたから。花丸も興味を引かれたのか、僕の隣に並んでテレビの方向を向いている。

 

 

 

『───昨夜、沼津市内のショッピングセンターで八歳の男の子が何者かに誘拐される事件が起きました。男の子は母親と二人で買い物に訪れ、母親が目を離した隙に行方が分からなくなったという事です。現場のショッピングセンターの駐車場に設置されていた防犯カメラには、怪しげな車と数人の男が映っており、県警は先月から連続で起きている誘拐事件と同一グループの犯行とみて、犯人と誘拐された男の子の行方を追っています。本日は沼津市花火大会という事もあり、今年は警察官の人数を増員し、厳重な警備にあたると県警は発表しました。男の子の服装は────』

 

 

 

「「………………」」

 

 

 

 僕と花丸は黙ってそのニュースを見つめる。画面には見覚えのあるショッピングセンターの光景が映し出されていた。

 

 何故かは分からない。分からないけれど、僕はこのニュースに強く心を惹かれてしまった。身近で起こった事件だから、という事もある。でも、どうしてか他人事には感じられなかった。

 

 ニュースキャスターが言っていたように、先月も沼津では子供が何者かに誘拐されている事件が起きている。そして、その子はまだ見つかっていないという。

 

()()()()。僕は昔からこの単語を聞くと、何故か無意識に身体が震える。その震えを抑える為に、玩具の宝石を強く握り締めたくなる。理由は分からない。ただ、子供が誘拐される事件だけは自分の事のように、恐怖を感じてしまう。

 

 誘拐事件のニュースは終わり、また違う話題が画面には映し出されていた。僕はその画面を黙って見つめたまま、細かい身体の震えを抑える為に、胸にぶら下げた玩具の宝石を左手で握り締めた。ドクン、と心臓が強く鼓動し、心拍を早める。部屋の壁に掛けられている時計の秒針が一秒を刻むうちに、心臓は約二回、拍動していた。

 

 

 

「また、誘拐事件ずら」

 

「…………そう、だね」

 

「物騒だね。ちょっと怖いずら」

 

 

 

 隣に立つ花丸はテレビの画面を見つめて、そんな言葉を零す。彼女も僕と同じ事を思っている。でも、僕と花丸が感じている恐怖は恐らく少しだけベクトルが異なっている。何が違うのかは上手く説明できないけど、とにかく別物だという事は分かる。

 

 胸にある玩具のダイヤを握り締めたまま、あの夢を思い出す。幼い自分が何処かに監禁されている夢。暗い部屋の中で、一人の女の子と震えているあの幻。知らない男達が下劣な笑い顔を浮かべながら、僕とその女の子に銀色の切っ先を向けてくる、あのグロテスクな映像を。

 

 

 

「…………っ」

 

 

 

 急に頭痛がして、片方の手で頭を抑えた。テレビの映像が乱れるみたいに、ほんの少しだけ視界がブレる。軽い眩暈がして、倒れないよう畳の上に置く足に力を入れた。

 

 

 

「ユウくん?」

 

「っ、ああ。どうしたの、花丸」

 

 

 

 僕の異常に気がついたのか、花丸は顔を見上げてくる。彼女に心配をかける訳にはいかない。そう思い、痛む頭を抑えたまま笑顔を作ってみる。

 

 でも、上手く笑えなかった。どうしてかは分からない。作り笑いを浮かべたかったのに、顔の筋肉は思うように動いてくれなかった。

 

 花丸の琥珀色の瞳に、僕が映っている。飴色の従妹は、僕の表情を茫然と見つめながら、小さな唇を開いた。

 

 それは、悲しんでいる理由が分からない人の事を見つめる時の目に、よく似ていた。訝しむような、訳が分からないというような、困惑した顔。なんで花丸がそんな顔をしているのか、僕にはわからない。

 

 

 

「───どうして、泣いてるの?」

 

「え…………?」

 

 

 

 花丸がそう言ったと同時に、目尻から一滴の涙が頬を伝って顎先から畳の上に向かって落ちて行ったのが、自分で分かった。涙が出た理由は、何も分からないというのに。

 

 そうして、涙が畳の上に音もなく落ちたと同時くらいのタイミングで、何処からともなくリンという鈴の音が聞こえた。

 

 

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 それから僕と花丸は家を出て、ある場所に向かった。海岸通りには陽炎が揺らめき、数百メートル先の景色が蜃気楼のフィルターがかかってぼやけて見えた。予報通り、今日の静岡県は猛暑日になるらしい。普段から外で運動をしない僕と花丸からすれば、こんな天候はただの地獄でしかない。聞こえてくるのは穏やかな潮騒と忙しない蝉時雨。前者は良いとしても、後者はもう少し自重してほしい。

 

 お寺から数キロ離れた所が僕らが目指していた目的地。暑さがなければ二十分程歩けば辿り着ける場所なのに、今日はほとんど倍くらいの時間がかかってしまった。数百メートル歩き、日陰で一休みして歩き出し、またすぐに休む。このサイクルを五回くらい繰り返してやっと僕らは目指していた場所に辿り着いた。頼むからいい加減にしてくれ、夏。これ以上、僕と花丸を苦しめないでほしい。

 

 

 

「はぁ、やっと着いたずら~」

 

「……そうだね。ちょっと疲れた」

 

 

 

 僕らはある家の門の前で立ち止まり、そんな会話を交わす。僕と花丸の体力ではここまで来るのも一苦労。歩いただけなのに既に沢山の汗をかいてしまった。前髪が額に張り付いて鬱陶しい。花丸の顔も少しだけ赤くなっていた。でも、とりあえず何とか着いたので良しとしよう。

 

 

 

「じゃあ、呼んでみようか」

 

「ずらっ」

 

 

 

 人の家の前でいつまでも休んでいる訳もいかないので、ひとまずインターホンを鳴らしてみる。普段ならその一動作だけで緊張していたのだろうけど、今の僕にはそんな事を気にしている余裕もなかった。

 

 門の脇に付いてあるチャイムを鳴らし、反応を待つ。僕と花丸は黙ったまま、近くで鳴いている油蝉の声を聞いていた。蝉の鳴き声を聞いているだけで体感温度が上がるこの現象は何なのだろうか。蝉に詳しい人がいたら教えてほしいくらいだ。

 

 そんなどうでも良い事を考えていると、趣ある大きな門がゆっくりと開かれた。そうして、中の方から見知った女の子が姿を現す。

 

 

 

「ルビィちゃん。こんにちは、ずら」

 

「あ。こんにちは、花丸ちゃん。…………ゆ、夕陽先輩もこんにちは」

 

「うん、こんにちはルビィちゃん。今日はよろしくね」

 

 

 

 門の向こう側から出迎えてくれたのは、花丸の友達である黒澤ルビィちゃん。

 

赤い髪を高い位置で二つ結んでいる女の子らしい髪型に、薄いピンク色のワンピース。可愛らしい人形のような見た目は何度見ても、あの生徒会長の妹とは思えない。

 

非常にどうでもいいが、クラスの男子達はルビィちゃんがダイヤさんの妹だという事をを知った時、全員腰を抜かすほどビックリしてた。『な、何があったらこんな真逆の妹が生まれるんだ!?』と超失礼な事を口にした信吾は、後々ダイヤさんに土下座させられていた。でも信吾の気持ちは分かる。僕も花丸に紹介された時、同じ事を思ったから。

 

 

 

「うゅ……よ、よろしくお願いします」

 

「ダイヤさんも中に居るのかな?」

 

「はい。浴衣の準備をして待ってます」

 

 

 

 ぺこりと頭を下げてくるルビィちゃん。礼儀正しいのはお姉さんと同じ。まだ僕に心を開いてない感じは否めないけど、話せない訳はないので良しとしよう。

 

 

 

「浴衣着るの楽しみずら~」

 

「えへへ、そうだね。今年は新しい浴衣買ってもらったんだぁ」

 

 

 

 花丸とルビィちゃんは仲良さそうにそんな話をしている。とても微笑ましい。この二人の会話を見ているだけで何だか心が浄化される気がする。不思議な感覚だ。

 

 二人の女の子の事を眺めながら馬鹿な事を思っていると、門の向こう側からもう一人の人影が現れる。

 

 

 

「ほらルビィ。お客様は早く家に通すよう言ったでしょう?」

 

「あ、お姉ちゃん」

 

「こんなに暑いのですから、お客様をいつまでも外で待たせてはいけませんわ」

 

「は、はい。ごめんなさい」

 

「分かっているのなら気を付けなさい。……夕陽さん、花丸さん。御機嫌よう」

 

 

 

 そんな風にルビィちゃんを叱りながら現れたのは我らの生徒会長、ダイヤさん。彼女はどうやら自分の妹にも厳しさは緩めないらしい。予想通りと言えば予想通りなんだけど。

 

 

 

「こんにちは、ダイヤさん」

 

「こんにちはずら、ダイヤさん」

 

 

 

 僕らは二人で挨拶をする。ここは黒澤家の自宅だというのに、ダイヤさんの雰囲気はいつもと変わらない。威厳ある空気が漂ったこの家に、彼女の凛とした佇まいはとても似合って見えた。

 

 

 

「暑い中、わざわざ来ていただき感謝いたします」

 

「いや、僕らの方こそ誘ってくれてありがとう」

 

「ずら。浴衣を借してもらえるなんて、マルはとっても嬉しいです」

 

 

 

 僕らがそう言ってみせると、ダイヤさんはふっと薄い笑みを浮かべた。あまり見ない表情を目にして、少しだけ心拍が強さを増す。

 

 

 

「そう言ってもらえると助かります。では、中へどうぞ」

 

「行こ、花丸ちゃん」

 

「ずらっ」

 

 

 

 ダイヤさんはそう言って踵を返し、玄関の方へと歩いて行く。僕らも彼女の後を追うように足を踏み出した。

 

 見慣れないダイヤさんの私服姿。それを見ているだけでも何故か優越感に浸れる。今日の花火大会でもっと距離が縮まればいいな、と心の中で思う。

 

 鞠莉さんが言っていたように、ダイヤさんを楽しませるという気持ちだけは持っておこう。浮かれないよう、気を付けながら。

 

 

 

「───それではルビィ。花丸さんを案内して差し上げなさい」

 

 

 

 家に上がらせてもらってすぐ、ダイヤさんがルビィちゃんに向かってそう言った。広い玄関と家の中。外観も大きかったけれど、内装は予想していたよりもずっと綺麗で立派だった。

 

 

 

「はい。花丸ちゃん、こっち」

 

「ずら。それじゃあまた後でね、ユウくん」

 

「うん。花丸とルビィちゃんの浴衣、楽しみにしてるよ」

 

 

 

 どうやら花丸とルビィちゃんは僕とは別の部屋に行くらしい。僕がそう言うと、二人は同時に顔を綻ばせてくれた。あの可愛らしい二人は綺麗な浴衣もきっと似合う事だろう。今のは建前じゃない。彼女たちの浴衣姿を見るは本当に楽しみだった。

 

 年下二人組は廊下の角を曲がって行った。僕とダイヤさんは玄関の前に立ち止まったままでいる。息を吸うとあの金木犀の香りがした。

 

 

 

「僕らはどこに行くの?」

 

「二階の部屋ですわ。お父様に頼んで、男性用の浴衣も用意していただきましたので」

 

「そうなんだ。何だか悪いね、誘ったのは僕だったのに」

 

「あなたが気にする必要はありませんわ。そもそも、私がテストで負けたのが発端なのですから」

 

「そうだったね。でも、どうして浴衣なの?」

 

「黒澤家には昔から、お祭りには浴衣を着て行かねばならない風習があるのですわ。不本意とはいえ、一緒に行くあなたが浴衣を着ていないのは私も……その、申し訳ない、というか」

 

 

 

 浴衣を着て行かなくてはいけない理由を問い掛けると、ダイヤさんはそんな答えをくれた。申し訳なく思う理由はよくわからいけど、気に掛けてくれている事だけはわかった。

 

 

 

「そっか。でも嬉しいよ。浴衣を着る機会なんて、あんまりあるものじゃないから」

 

「ぁ…………」

 

「あと、ダイヤさんの着物姿を見るのも、楽しみだし」

 

 

 

 頬を指先で掻きながらそんな照れくさい言葉を言ってみる。横目でダイヤさんの方を見てみると、彼女は一度大きく目を開いて驚くような表情を浮かべたが、すぐにムッとした顔で僕の事を見つめ返してくる。

 

 

 

「…………また、そんな建前」

 

「建前じゃないってば」

 

「ふん。あなたの言う事は信じませんわ」

 

「じゃあ、どうすれば信じてくれる?」

 

 

 

 そう言うとダイヤさんは口を閉ざして少し、何かを考えるような顔をする。それから何かを思いついた表情に変わり、目線を斜め下に逸らしながら血色の良い唇をそっと開いた。

 

 

 

「…………たら、ですわ」

 

「? ごめん、聞こえなかった」

 

「……っ、だから」

 

 

 

 ダイヤさんの声は小さすぎて聞き取る事が出来なかった。訊き返すと彼女は白い筈の頬をほんのりと桃色に染め、少しだけ背の高い僕の顔を見上げながらもう一度口を開く。

 

 

 

「私が着る浴衣を見て、褒めてくれたら、信じますわ」

 

「………………」

 

 

 

 思わず、言葉を失う。今の言葉にはあまりに強い破壊力が込められていたのを、彼女は多分知らない。反則です。いい加減にしてください。

 

 ダイヤさんが浴衣を着ているのを見て、褒めたら僕の言葉を信じてくれる。建前ばかり言う僕の言葉は、それくらいじゃないと信じられないらしい。

 

 でも、今の言葉は素直にグッときた。普段から建前を言う癖があって良かった、と自分の短所に感謝してしまうくらいに。

 

 

 

「分かった。じゃあ、必ず褒めるよ」

 

「……それでは、また建前に聞こえてしまうでしょう」

 

「なら、素直に感想を言うよ。それならいいでしょ?」

 

 

 

 ダイヤさんはこくりと頷く。そしてまたいつもの鋭い視線を僕に向けてきた。

 

 

 

「ふんっ……見てなさい。必ずあなたの本音を引き出してみせますわ」

 

「うん。期待してる」

 

 

 

 そう言って、ダイヤさんは先に歩いて行く。僕も彼女の背中を見て廊下を歩き出した。ていうか、ダイヤさんの浴衣を見て建前を言う自信なんてない。必ず褒める、という言葉の方が本音だったのに、彼女はそれに気づいてくれなかった。でも、それならそれでいい。

 

 歩き出す前に、黒い髪の間から覗いた綺麗な形の耳が赤くなっているのを、僕は見逃さなかった。

 

 

 

「…………楽しみだよ、本当に」

 

「? 何か言いましたか?」

 

「いや、なんでもないよ」

 

 

 

 今のはきっと、本音の言葉だったと思う。

 

 

 

 





次話/生徒会長の選び方


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生徒会長の選び方

 

 

 

 ◇

 

 

 そうして僕は二階の部屋に通される。十二畳ほどの木張りの床の居室で、置いてある物も少ない。失礼だと思うから口にはしないけど、簡単に言えばとても殺風景な部屋だった。

 

 その真ん中に衣装掛けが置いてあり、色とりどりの浴衣が数着掛けられている。ダイヤさんは衣装掛けの方へ近づいてこちらを振り返った。

 

 

 

「それでは、ここにあるものから選んでください。サイズの方はおおよそ合っているかと思いますので、気にしなくても結構ですわ」

 

「あ、うん。分かった」

 

 

 

 ダイヤさんにそう言われ、僕も浴衣の方へ近づく。近づいて見るとそれらはどれも綺麗で、この中から一つを選ぶのはなかなか骨が折れそうだった。

 

 浴衣の良し悪しなんては分からないし、正直どれを選んでも同じだと思った。似合うか似合わないかもパッと見ただけでは判断できない。どうしようかな。

 

 

 

「…………うーん」

 

 

 

 ダイヤさんは悩む僕の横で、同じように浴衣を見つめている。これは僕が着るものだけど、彼女に訊いてみるのもありかな。何を言われるかは想像できないけど、ダイヤさんの意見をもらってもいいと思ったので思い切って訊ねてみる事にする。

 

 

 

「ねぇ、ダイヤさん」

 

「なんですの」

 

「ダイヤさんは、どれがいいと思う?」

 

 

 

 そう言うと、彼女は僕を見つめてくる。顔にはどうしてそんな事を私に訊くのです、と書いてある。分かりやすいな、ほんと。

 

 

 

「どうしてそんな事を私に訊くのです」

 

「やっぱりね」

 

「は?」

 

「あ、ごめん。つい」

 

 

 

 咳払いをして自分の発言を誤魔化す。あまりに予想通りの言葉過ぎて、思わず心の声が外に出てしまった。反省しよう。

 

 

 

「気に入ったものがないのですか?」

 

「ああいや、そういう訳じゃないよ。むしろその逆。どれも良くて選べないんだ」

 

「意外と優柔不断なのですね、あなたは」

 

「知らなかった?」

 

「はい。あまり深く考えずに物事を選びそうな方だとばかり思っていました」

 

「はは。そういう時もあるけどね」

 

 

 

 ダイヤさんは僕に向かってそんな事を言ってくる。本当は別。考え過ぎて選べない性格だと自負してる。生憎、信吾みたいに感覚で即断即決してしまえるほどの勇気は持ち合わせていない。他人が思ってる事と自分の評価は違う。心にそう言い聞かせて、また浴衣の方へと向き合った。

 

 

 

「ダイヤさんはさ、そういう時どうやって選ぶ?」

 

「そういう時、とは?」

 

「こんな風に素敵な物がたくさん目の前にあって、その中から一つを選べって言われた時だよ」

 

「それを聞いてどうなるのです?」

 

「うーん。分からない。けど、参考として教えてくれたら嬉しい」

 

 

 

 僕がそう言ってみせると、ダイヤさんは綺麗な顎に手を乗せて何かを考え始める。分かってる。そんなのはそれぞれの感覚でしかない。直感で選ぶ人もいれば、考え抜いて選ぶ人もいる。もしかしたら、占いなんかを信じて今日はこれが幸運のパーソンだから選ぶ、という理由もありかもしれない。

 

 僕はどちらかと言えば、運命的なものを信じる。これは昔からの性格。たとえば胸に掛かっているこの玩具の宝石も然り。この宝石を大切にしているのは、よく見る夢の中に同じものが出てくるから。たったそれだけの理由で、僕はこのプラスチックの宝石を肌身離さず持ち歩いている。

 

 だから、今回もそんな選び方をしてみようと思った。運命を感じた人。その人が選ぶ選択の方法を貸してもらう。それが、今の自分に一番合ってると思ったから。

 

 

 

「そう、ですわね」

 

 

 

 ダイヤさんは浴衣を眺めながら、そう呟く。彼女の横顔を見つめながら、答えが聞こえるのを待った。

 

 少しの沈黙が殺風景な十二畳間に漂う。海が近いからか、耳を澄ませると蝉時雨の向こう側から潮騒の音色が聞こえてくる気がした。そんな夏の音に耳を傾けながら、ダイヤさんの声を待つ。そうして数秒が経った時、美しい黒髪の生徒会長は口を開いた。

 

 

 

「……私は、自分が選びたいものを選びます」

 

「自分が選びたいもの?」

 

「はい。当たり前かもしれませんが、改めて振り返ってみれば今までもそうして物事を選んで来ました」

 

 

 

 ダイヤさんは僕の顔を見つめながら、そう言ってくる。彼女が言った言葉の意味を頭の中でよく考えてみる。

 

 自分が選びたいものを選ぶ。たしかに、それはとても月並みな言葉だ。でも、ダイヤさんは何か根拠があってそう口にした。何となく、そう感じ取れた。

 

 

 

「それは、どういう」

 

「“自分に何が似合うか”ではなく、“似合わなくてもこれがいい”、と思ったものを選ぶという意味ですわ」

 

 

 

 その言葉を聞いてようやく腑に落ちる。喉元に引っかかっていた魚の骨がスッと取れて行くみたいに、ダイヤさんの言葉は心の中に落ちた。

 

 誰しも何かを選ぶ時、自分に一番見合うものを選択したがる。それは人として当たり前の考え方。誰かによく見られたいから、自分に一番合うものが欲しくなる。これ以上に普遍的な選択の方法はこの世に存在しないだろう。例えるのなら、美容室で自分に似合いそうな髪型を美容師に頼むことも同じ。とりあえず似合うものを選択しておけば間違いはない。この考え方は多分、人間として本能的に持っているものなんだと思う。

 

 でも、ダイヤさんはそうではないと言った。自分に合うかどうかは関係ない。自分が選びたいものを選ぶ。それが、彼女の選び方だと言った。

 

 

 

「もし、そうやって選んだ服が誰かに“似合わない”って言われたら?」

 

「そんな言葉には耳を貸さなければいいのです。自分自身が選んだものなのだから、それでいい。だって、仕方ないでしょう? ()()()()()()()()()()()()()()()()()()のですから、誰かにどうこう言われても、その雑音に耳を傾ける必要はありませんわ」

 

 

 

 ダイヤさんは曇りのない眼を僕に向けながら、そう言い切った。思わず、それが真理だと勘違いしてしまうくらい、説得力のある言葉だった。

 

 きっと、その選択の方法は正しい。でも、見方を代えれば間違ってもいる。どちらとも取れる考え方。ただ、それを中途半端ではなく、最後まで信じられる事が出来たのなら、正しい選択だと言えるのだろう。

 

 自分の意思でこれがいい、と選んだもの。それが誰かに馬鹿にされたとする。そこでその選択が“間違いだ”と自分で思った時点でそれは不正解になってしまう。

 

 でも、誰かに何を言われてもその選択が“正しい”と思う事が出来れば、例えそれが正解でなかったのだとしても、不正解ではなくなる。ダイヤさんはきっと、そんな事を言いたかったんだろう。

 

 

 

「すごい強引な選択だね」

 

「それは私を馬鹿にしているのですか?」

 

「ううん、違うよ。褒めてるに決まってる。僕には、そんな選び方は思いつかなかったから」

 

 

 

 これは建前じゃない、心からの本音だ。それが伝わるように、僕はダイヤさんの深碧の両眼を強く見つめ続けた。

 

 

 

「あ、あなたに褒められても、嬉しくありませんわ。建前を言うのが上手い癖に」

 

「建前じゃなく、本当に思ってるよ。答えてくれてありがとう」

 

 

 

 そう言って、微笑んでみせる。ダイヤさんは少しだけ頬を赤く染めながら僕の事を見ていた。

 

 さて、ダイヤさんが選択の方法を教えてくれたのなら、そろそろ浴衣を選ばなくてはいけない。

 

 運命を感じたものを選ぶ。そして、運命を感じた彼女が選びたいものを選ぶというのなら、僕もその選び方を真似させてもらおう。

 

 

 

「じゃあ、これで良いかな」

 

「こちらですか」

 

「うん。空みたいで綺麗だから、これがいい」

 

 

 

 僕が選んだのは薄い青色の浴衣。空を思わせるような鮮やかな色。肩の所に一匹の燕が描かれており、この中では一番綺麗だと()は思った。他の人がどう思うかは、分からない。でも、僕はこれを選ぼうと思う。似合うかどうかは置いておいて、選びたいものを選ぶ。

 

 

 

「それでは一度合わせてみてください」

 

「うん。あ、今着てる服は脱がなくちゃいけないよね」

 

「当り前でしょう。どんな格好になるつもりですか」

 

「あー、なら、その…………」

 

 

 

 分かってはいたけど一応訊いてみた。ダイヤさんは首を傾げて僕の事を見てくる。本当に分かってないのだろうか、この子。普段は誰よりも頭が切れるのに、ごく稀にこんな天然を見せてくるから性質が悪い。

 

 思っているだけでは伝わらないので説明する事にする。言葉にする前に察してくれたらありがたかったのにな。

 

 

 

「ダイヤさんが見てると服、脱げないんだけど」

 

「…………あ」

 

 

 

 そう言うまで本当に気づかなかった、というような顔をしてダイヤさんは目を大きく開けた。そうして徐々に顔が赤くなって行く。こういう時に見せる純粋さは可愛い。いつもこんな風に柔らかければいいのにな、と素直に思う。

 

 

 

「ダイヤさんが良いなら僕も良いけど」

 

「だ、ダメに決まっているでしょうっ」

 

「じゃあ、そっちを向いててもらうと助かるな」

 

「…………私が出て行きますわ。ええ、出て行けばいいのでしょう」

 

「なんで怒ってるのさ」

 

「あなたには関係ありませんわっ」

 

 

 

 なんて、よくわからない言葉を残してダイヤさんは階段を下りて行く。と思ったら足を止めてこちらを振り返ってきた。

 

 

 

「ダイヤさん?」

 

「…………帯以外を着たら、声を掛けなさい。着付けは私がして差し上げますから」

 

 

 

 そんな事を言って来るダイヤさん。頬はまだ赤い。そんな表情も魅力的だな、と思う。いつでもそんな顔をしていればいいのに。

 

 

 

「はーい」

 

()()は伸ばさない。何度言えば分かるのです」

 

 

 

 またいつものやり取り。でも僕はこれが嫌いじゃない。むしろ好きだ。同い年の女の子に母親から注意されるような言葉を言われるのが好きだとか、誰かに言ったら間違いなく引かれちゃうだろうな。

 

 

 

「分かったよ。すぐに呼ぶから、少し待ってて」

 

「まったく……あなたと居ると、調子が狂いますわ」

 

「ふふ。僕はダイヤさんと居ると楽しいよ?」

 

「う、うるさいですわ。そんな建前を言う暇があったら早く着替えなさい」

 

「ダイヤさんが居ると着替えられないんだけど?」

 

「今から出て行きますわっ」

 

 

 

 ダイヤさんはそう言い残し、階段を下って行く。建前じゃないのに建前だと思われるのは仕方ない。普段の行いが悪いからなのだと受け入れよう。

 

 僕はダイヤさんと居ると楽しい。それは本心だ。あの子と話せている時間は僕にとって何よりも楽しい時間。そう思えるのは、きっと。

 

 

 

「…………さてと」

 

 

 

 気を取り直して、着替える事にしよう。僕が一番良いと思った綺麗な浴衣。ダイヤさんが選んでくれたと言っても過言ではない、鮮やかな青色の浴衣を。

 

 似合うかどうかではなく、一番選びたいものを選ぶ。僕はこの考え方が気に入った。これから何かで迷った時にはダイヤさんの言葉を思い出す事にしよう。いつもは運命的なものしか選べないけど、それなら僕でも何とか一つを選べると思うから。

 

 

 

「ん?」

 

 

 

 そんな事を考えながら浴衣を開く。恐らく、これは新品の浴衣なのだろう。襟裏にタグが付いている。そこには一枚の紙も一緒にぶら下がっていた。

 

 気になってしまい、その紙に書かれている文字を読む。

 

 

 

「…………ふふ」

 

 

 

 そして、思わず笑ってしまった。どうやら、僕がこの浴衣を選ぶのは必然だったみたいだ。

 

 紙に書いてあったのは、浴衣の柄の意味。そんなものがあったなんて初めて知ったけど、素敵な意味の浴衣だな、と思った。

 

 

 

 

 

 燕柄の浴衣の意味は──────“恋を運ぶ”。

 

 

 

 

 

 どうか、僕の所にも恋が運ばれて来ますように。

 

 

 

 そう思いながら、僕は青色の浴衣に袖を通した。

 

 

 

 

 

 





次話/宝石だって着飾りたい


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宝石だって着飾りたい

 

 

 

 ◇

 

 

 

 それから浴衣に着替え、ダイヤさんに着付けをしてもらった。浴衣なんて小さな頃にしか着た事がなかったから、こんな風に誰かに着付けをされるのなんてほとんど初めての感覚だった。しかも、それをしてくれるのは僕が思いを寄せている女性。特に帯を巻かれている最中は気が気でなかった。ダイヤさんの存在が近くに感じて、彼女に身体のどこかを触られている。僕の心拍が早くなる理由としてはそれだけで十分すぎる。お陰で変な汗をかいてしまった。部屋の中には冷房が効いていたというのに。

 

 

 

「………………」

 

 

 

 ダイヤさんに着付けをしてもらい、僕はしばらくの間、先ほどの部屋で休ませてもらっていた。今度はダイヤさんがルビィちゃんに着付けをしてもらう、という事だったのでその間は一人で待ちぼうけに勤しむ事に。ダイヤさんの家にいる、という事を考えたら何故か悶々としてしまったのは仕方ない。

 

 それから花丸から電話が来て『玄関の外で待っててほしいずら』と言われ、彼女の言う通りにして今に至る。

 

 時刻は十六時を少し過ぎた頃。まだ空は明るい。上空を仰ぐと、数匹の海鳥が青の中で円を描くようにクルクルと飛び回っていた。気持ちよさそうだな、と思ってみたりする。僕にも羽根があったらこの内浦の海の上を飛んでみたい。

 

 なんておかしな事を考えながら、夏の日差しの下で三人の女の子達が玄関から出てくるのを待つ。待っていてほしい、と言われたのはいいが、少々時間がかかり過ぎではないか。いや、いつもならいくらでも待つんだけど、この炎天下の中だとどうにも心が焦ってしまうらしい。具体的に言うと茹だってしまいそう。これから花火大会に行くって言うのに、これでは体力が徒に削られてしまう。

 

 

 

「まだ、かな」

 

 

 

 額に浮かぶ汗を拭い、そう呟く。浴衣は思ったよりも風を通しやすく、生地も薄いため涼しい。だが外気温がその効力を完全に上回ってしまっている。まぁ、夜になれば暑さは落ち着くだろうし、それまで我慢しよう。駅前に着いたらすぐに飲み物を買わなければ。

 

 忘れてたけど、まだあの三人の浴衣を見てないんだよな。ダイヤさんに着付けをしてもらったから、彼女にだけは浴衣姿を見られたけど、僕はまだ彼女の浴衣を見ていない。因みに感想を訊いたら『に、似合ってますわ』と言われたので良しとしておく。ダイヤさんに褒められたのなら、それ以上のコメントはもらえない。自信を持って駅前通りを歩く事にしよう。

 

 しかし、ダイヤさんの浴衣、か。なんだろう。考えるだけでも倒れそうになってくる。これは夏の暑さにやられたマジックだと思っておけばいいのだろうか。

 

 ダイヤさんだけではない。花丸とルビィちゃんも浴衣を着ている。よくよく考えたら、そんなの両手に花どころの話じゃなくなる。あの美少女三人と並んで歩く、とか、どう考えても僕に御し切れる案件じゃないよね。でも、ダイヤさんなら知らない男の人にナンパされても、僕が入る余地もなく撃退するだろうけどさ。花丸とルビィちゃんが声を掛けられても大丈夫だろう。ダイヤさんに任せるのは気が引けるけど、僕よりも彼女の方が強そうなのは自分でも分かる。それを思うとため息が出そうになった。ていうか出た。

 

 あまり考え過ぎても仕方ない。鞠莉さんが言ってくれた通り、みんなで楽しむ事だけを考えよう。 

 

 

 

『─────ルビィちゃん、マルはこの下駄を履けばいいずら?』

 

『うん。ルビィはこっちのを履くね』

 

『わぁ、ダイヤさんの下駄も赤くて綺麗ずら~』

 

『ありがとうございます、花丸さん。これは私のお気に入りの下駄なのですわ』

 

『浴衣も似合ってるし、美人だし。ダイヤさんは本当に綺麗ずら。ね、ルビィちゃん』

 

『そうだね。えへへ、ルビィも浴衣を着てるお姉ちゃんが一番綺麗に見えると思うよ』

 

『ほ、褒めても何も出ませんわよ。ほら、早くなさい。バスに乗り遅れてしまいますわ』

 

「………………」

 

 

 

 そんな声が、閉め切られた玄関の向こう側から聞こえてくる。途端、温度が絶対零度まで下がったように固まる身体と思考回路。夏の暑さはまだ茹だるほどの猛威を奮っているのに。

 

 ようやく彼女達の花火大会に行く用意が終わったのだろう。冷静に考えればそれだけの話。でも、僕はそんなにクールな感じで現実を受け入れられるほど出来た人間でもない。つまるところ、緊張してしまっている。あの子達の浴衣姿を見るのが、楽しみを通り越して恐ろしく感じてしまう。

 

 落ち着こう。焦っても良い事はない。むしろここで取り乱してしまえば自分の価値を下げる事になる。それはいけない。僕に出来るのはいつも通りの自分で居る事。大丈夫。お寺で覚えた悟りの極意を今ここで披露してみせよう。

 

 

 

「あ、ユウくん。お待たせずらっ」

 

「うん。大丈夫だよ花ま─────」

 

 

 

 そして、後ろを振り返った瞬間、僕の世界は時を止めた。いや、強制的に止められたと言った方がこの場合正しいかもしれない。呼吸の仕方どころか、心臓の動かし方まで忘れてしまいそうになった。

 

 玄関の方を向き、目に入ってきたのは予想通り、浴衣姿の三人。だが、予想していた未来の数十倍強い衝撃を心臓に受けてしまった。夏の暑さとのダブルパンチで思わず卒倒してしまうところだった。

 

 

 

「ごめんなさい夕陽先輩。お姉ちゃんの着付けするのに時間かかっちゃったんです。ルビィ、まだへたっぴだから」

 

「え、あ、いや、大丈夫だよ、ルビィちゃん」

 

「ルビィちゃんはマルの着物もこんなに綺麗に着付けしてくれたずら。全然へたっぴなんかじゃないずら」

 

「そう、かな。そうだったらルビィも嬉しいな」

 

「ね、ユウくん? とっても綺麗だよね、この浴衣」

 

 

 

 ルビィちゃんの言葉に自動操縦的な感じで何とか返事を返した。だが、花丸の言葉を聞いた途端、もう一度言葉を失ってしまった。何処へ行った僕の語彙力。

 

 花丸は身に纏っている浴衣を見せるように、両手の袖をきゅっと握り締めて両腕を上げる。仕草といい、いつもと違う雰囲気といい。彼女が放ってきたとてつもない魅力に、僕の中にある様々なシステムが異常をきたしてしまったのは仕方ないと言えよう。悟りの極意? そんなのお寺の境内に忘れてきた。

 

 花丸が着ているのは全体が黄色の生地に、所々に色とりどりの水玉模様と赤い金魚が泳いでいるデザインの浴衣。白と水色の帯をお腹に巻いており、小さな身体には似合わない大きな胸が普段よりも強調されてしまっている。茶色の髪もいつもとは違う感じで結ってあり、よく見ると顔にも薄っすらと化粧を施していた。

 

 改めて自分の従妹には世の中の男性を無意識に殺める力があるのではないか、と強く思う。それと同時に、この可愛い従妹を人が沢山集まる花火大会に連れて行くのが不安になってしまった。大丈夫かな。もし僕がこの子を知らない立場の人間だったなら、勇気を振り絞って話しかけてるかもしれない。弱虫な僕の心でさえそう思うくらいだ。遊びに慣れてる人ならすぐに声をかけてくるに違いない。この子は今、男性を魅了する兵器と成り果ててしまっていた。気を付けよう、本当に。

 

 

 

「う、うん。そうだね、綺麗だよ、花丸」

 

「ずらっ。えへへ、ユウくんに褒められたずら~」

 

「良かったね、花丸ちゃん」

 

「うんっ。ユウくん、ルビィちゃんの浴衣もとっても可愛いから見てほしいずら」

 

「あっ、は、花丸ちゃんっ?」

 

「………………」

 

 

 

 花丸の浴衣を月並みな言葉で褒めた直後、上機嫌な花丸に背中を押されたルビィちゃんが僕の前に立った。

 

 

 

「ぅ、ぅゅ…………」

 

 

 

 花丸と同じくらい背の小さいルビィちゃんは、僕の顔を上目遣いで見つめてくる。そのあざとい表情にやられ、若干眩暈がした。どうやら彼女も花丸と同等の破壊力を持っているようだ。直視すると心臓が大変な事になりそう。そして唐突に父性本能的な何かが働き、思わず頭を撫でてしまいそうになった。静まれ、僕の右手。牢獄の中で冷たいご飯を食べるのはまだ早い。

 

 ルビィちゃんはいつもツインテールにしている赤い髪を二つのお団子にしていた。左のこめかみの辺りには花の髪飾り。浴衣は薄紅色の下地に幾つかの撫子が咲いているもの。帯は真紅で、華やかな彼女の見た目にとても似合っている。高校生にしては幼い容姿をしているルビィちゃんだけど、浴衣を身に纏うと何処か大人っぽく見えたりした。それは何となく、彼女のお姉さんの雰囲気に似ている気がした。

 

 

 

「ルビィちゃんも似合ってるよ。素敵な浴衣だね」

 

「ぴぎっ…………あ、ありがとう、ございます」

 

 

 

 そう言うと、ルビィちゃんは胸の前で両手を組んで恥ずかしそうな表情を浮かべながら返事をくれた。彼女の隣で花丸も嬉しそうに笑っている。

 

 さて、年下二人組の浴衣を見て拙いながらも感想を言えた訳だが、如何せん安心している暇はない。この心拍数の上昇は多分、最後の一人の浴衣姿を見たのが原因。彼女の浴衣を見て自分からコメントを言う、なんて、どうやったって出来る筈なかった。

 

 

 

「………………」

 

「………………」

 

「ずら?」

 

「うゆ?」

 

 

 

 あからさまにダイヤさんから目を逸らしていると、それに気づいたであろう花丸とルビィちゃんが不思議そうな声を出した。ダイヤさんはまだ、僕から離れた場所に立っている。今はそれでよかった。近づかれたりしたら、僕もちょっと困る。嫌な訳じゃないけれど。

 

 そうして無言の時間を過ごしている時、飴色の従妹と赤い髪の女の子は何かを閃いたような仕草をした。それから二人は玄関の前に立っている黒い髪の女の子の方へ向かう。

 

 

 

「ダイヤさん。こっちに来てほしいずら」

 

「お姉ちゃん。頑張ルビィ、だよ」

 

「え? あ、あの、二人とも何を」

 

「「いいからいいから」」

 

 

 

 年下二人組に背中を押されるように、ダイヤさんは僕の方へ歩いてくる。そして、彼女と向かい合った。逸らしていた筈の視線を上げた時、ちょうどダイヤさんも僕の顔を見ていたのか、うっかり目が合ってしまい、もう一度わざとらしく目を逸らす。彼女も同じように僕と反対の方向に顔を向けていた。

 

 花丸とルビィちゃんの計らいでここまで距離を近づける事が出来た。でも、上手く感情を言葉に出す事が出来ない。言葉の代わりに、胸壁を叩く心音だけが絶え間なく響いている。僕らを包むこの騒がしい蝉時雨がなかったら、ダイヤさんに聞こえてしまっているんじゃないか、と思うくらい、強く。

 

 このまま黙っていたら、ダイヤさんが困ってしまう。彼女が僕の言葉を待っている訳ないけど、男である僕が何も言わないのは、彼女の中にある女性としてのプライドを貶してしまう事になる。それは上手くない。なら、ダイヤさんが待っていなくても、僕の方から言葉をかけなければならない。

 

 それに、彼女は僕の浴衣を似合っている、と言ってくれた。それが建前ではないのは分かってる。だから、僕も建前ではない事を本音の言葉に乗せて伝えようと思う。

 

 

 

「…………そ、その」

 

「…………はい」

 

 

 

 でも、言おうとしている言葉が喉の奥からなかなか出てこない。そこに何かフィルターのようなものがかかっているみたいに、言える筈の言葉が声になってくれなかった。

 

 向かいに立っているダイヤさんに気づかれないように、息を吐く。憂いを含ませた()()は、すぐに夏の空気の中へと溶けて行った。

 

 気にしていても仕方ない。恥ずかしがっている意味もない。なら、言いたい事を言うしか僕には選びようがない。浴衣を選ぶ時にダイヤさんが言ってくれたように、僕は選びたいものを選ぶ。

 

 

 

「凄く、綺麗だね」

 

「………………っ」

 

 

 

 斜め下にある庭の花壇の方へ視線を向けながら、そう言った。建前ばかりを言うのが得意な僕なんかじゃ、気の利いた言葉なんて言えない。だから、短くてもいいから心のど真ん中で思う本音を声にした。

 

 でも、ダイヤさんは何も言わない。彼女が何を思うのかは想像も出来ない。一つだけ分かるのは、僕がまた建前を使っていると疑っているのではないか、という事。

 

 それを本音だと信じてもらうには、どうすればいい。そう自分に問いかけた時、何処からともなく零れ落ちてきた一滴の答えの雫は、心の水面に小さなさざ波を立てた。その潮騒にそっと耳を澄まし、僕は自分の意思に従う。

 

 

「これで、信じてくれる?」

 

 

 

 そして、ようやくダイヤさんの事を直視する事が出来た。

 

 白い頬に薄化粧をして、血色の良い唇には赤い口紅が塗られているのが分かった。艶やかな黒髪は後ろで結われ、小さな赤い球が先に付いた簪で留めている。

 

 白地に藍色と薄紫の朝顔が全体に咲き乱れている模様の浴衣。紫と臙脂色の線が入った帯が細い身体を巻いている。少しだけ広く開いた胸元には小さな宝石の欠片が付いた首飾り。足には赤い下駄を履いている。

 

 ダイヤさんが召しているもの全てが彼女のために作られたのではないか、という錯覚に陥った。他の誰かがこの装飾を見つけても、ここまで完全な形にはならない。下手な言葉で形容するのなら、今のダイヤさんは全てが完成された()()だった。ああ、まるで誰かに身に付けられる事が決まって生まれてきた、美しいダイヤモンドのように。

 

 それくらい似合っていたし、異常なほどの魅力を放っていた。離れた所から今の彼女を見たら、もしかしたらあまりにも精巧に作られた作り物の人形と勘違いしてしまったかもしれない。少なくとも、僕の目にはそう見えた。

 

 

 

「…………」

 

 

 

 そう言ってみせると、ダイヤさんは化粧を施した顔を薄っすらと桃色に染めながら視線を落とす。僕に褒められたところで嬉しくもなんともないのだろう。それは分かってる。でも、言えてよかった。このまま胸の中に想いを閉じ込めたまま一緒に花火大会に行くのは、何だか居心地悪い気がしたから。

 

 

 

「良かったね、お姉ちゃん」

 

「ずらっ。遅くなった甲斐があったずら」

 

「? どういう事?」

 

 

 

 花丸の言葉に少しだけ違和感を覚え、訊ねる。遅くなった甲斐、とはどういう意味なのか。

 

 するとダイヤさんは二人の方を向き、少しだけ焦ったような表情を浮かべる。

 

 

 

「そ、それは…………」

 

「お姉ちゃん、ルビィが最初に着付けした時“これでは夕陽さんの本音を訊き出せませんわ”って言って、結局何回もやり直したんです」

 

「だから、ユウくんに褒められて良かったねって」

 

「ぁ………………」

 

 

 

 その言葉を聞いて、何を言っていいかまた分からなくなる。ダイヤさんは僕から目を逸らしながら、居心地悪そうに黒い髪を指で弄っていた。

 

 そうだ。この家に来た時、僕はダイヤさんに言った。もし、ダイヤさんの着物を褒めたら、今日を楽しみにしていた事を本音である事を認めてくれる、と。

 

 それは建前であってはならない。僕の本心から出る言葉を、彼女は求めていた。だから、本音を言わせる為にダイヤさんはルビィちゃんの着付けを何度もやり直させた。

 

 その事実を知っただけで、満たされてしまう気がした。それは()()()()、ではないのは分かっているのに。

 

 

 

「べ、別に、あなたのためではありませんわ。勘違いしないように」

 

 

 

 それは分かってる。でも、今は少しだけ満足してみてもいいよね。

 

 心の中でそう呟き、僕は胸に掛かった玩具の宝石を握り締めた。

 

 

 

 





次話/夏祭り


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夏祭り

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 バスに揺られ内浦から沼津駅前へとやって来た僕たち四人。駅前大通りは既に祭りに訪れた沢山の人々で賑わっていた。この光景も毎年見ているものなのに、今年はどこか違うように見えてしまう。それは景色自体が変わったのではなく、見ている“僕自身”が変わってしまっているからなのだと思う。

 

 この世に存在する物は常に変化している。そんな言葉をいつか読んだ本で知った。それは、一見変わっていないように見えるものでも実は変わっていっているという意味の言葉。人や動物が年を取って行く事と同じで、動かない物質であっても時間が経つにつれて等しく変化する。

 

 その本にはこう書いてあったと記憶してる。あのグランドキャニオンでさえも、始まりは雨で出来た細やかな水路であった、と。その小さな水路が何百、何千年と時を重ね、今では見た人を魅了するような雄大な谷に成り果てた。グランドキャニオンを実際に見た事はないけれど、あの谷の始まりは本当に小さな水路だったらしい。

 

 本当は何も変わってはいないのに、いつもとは異なる祭りの景色を眺めながら、人混みの中を歩いた。隣には、僕の見ている世界を変えてくれた女の子が居る。その存在を常に意識して、前を歩く飴色と真紅の少女の後ろ姿を見つめた。

 

 

 

「ルビィちゃん、今度はリンゴ飴を食べるずらっ」

 

「あはは、花丸ちゃんはホントに食べるのが好きだね」

 

「お祭りの醍醐味は食べる事にあるずら。だからルビィちゃんも沢山美味しいものを食べるずら~」

 

 

 

 そんな事を言いながら、リンゴ飴が売られている屋台の方に向かう花丸とルビィちゃん。さっきたこ焼きと焼きそば、チョコバナナを二本(ルビィちゃんが食べ切れずにいたもの)ほど食べていた気がするんだけど、まだ食べたりないのか、あの子は。小さい身体の何処に食べたものが行っているのだろう。僕の従妹の身体は本当に不思議ずら。

 

 

 

「あまり離れないようにしなさい、二人とも。はぐれてしまったら大変でしょう」

 

「あ、はい。ごめんなさいずらダイヤさん」

 

「分かればいいのですわ。気を付けて歩きなさい」

 

 

 

 足を早めようとする花丸とルビィちゃんに声を掛けるダイヤさん。人混みの中でも彼女の声はハッキリと聞こえる。芯がある、と言えばいいのだろうか。凛とした声音は少し離れていても聞き取る事が出来るに違いない。

 

 足を止めた二人に、後ろを歩いていた僕とダイヤさんは追いつく。ダイヤさんは微笑を顔に浮かべながら、花丸とルビィちゃんの事を見つめていた。

 

 

 

「ダイヤさん。マル達のお母さんみたいずら」

 

「え、そ、そうでしょうか」

 

「うんっ。お姉ちゃんが居てくれたらルビィ達も安心だもん」

 

 

 

 突然、年下の後輩と妹にそう言われて目を丸くするダイヤさん。たしかに、お姉さんって言うよりもお母さんみたいな雰囲気なのは僕も同感だ。同い年の女の子に何を失礼な事を思っているのだろうか、僕は。

 

 

 

「じゃあ、お父さんはユウくんずらね」

 

「───ぶはっ!?」

 

 

 

 花丸の意味不明な言葉を聞いて、歩きながら飲んでいたラムネを少し吹き出してしまった。それは霧状になって屋台が立ち並ぶ界隈の空気の中に消えて行く。突然何を言い出すのだろうか、この可愛い従妹さん。

 

 

 

「そうだね。夕陽先輩とお姉ちゃん、とってもお似合いです」

 

「る、ルビィちゃんまで」

 

 

 

 そうして更なる追い打ちをかけてくる赤い髪の女の子。無邪気な笑顔でそんな事を言われたら何も言い返せない。むしろ愛でたくなってしまう。肩車くらいならしてやっても大丈夫かな。いや、ダイヤさんに何を言われるかわからないので自重しておこう。

 

 二人にそう言われて何を言っていいか分からなくなる。心拍だけが徒に強さと速度を増して行く。隣にいるダイヤさんの方を見る事は出来ない。彼女がどんな顔をしているか、少しだけ気になった。

 

 

 

「お母さん、お父さん……」

 

「………………」

 

「でしたら随分、可愛らしい父親ですわね」

 

 

 

 なんて、意外にも花丸とルビィちゃんのノリに乗るダイヤさん。顔を向けると薄っすらと微笑みながら僕の事を見ていた。でも。

 

 

 

「それって褒め言葉なのかな?」

 

「受け取り方はお任せいたしますわ」

 

「じゃあ褒めてないよね。多分貶してるよね」

 

「失礼な。そこまで酷いことは言っていないでしょう」

 

 

 

 訊ねるとダイヤさんはそんな風に返事を返してくる。いや、あれは間違いなく僕をバカにしてる顔だ。何となく分かる。しかもなんだ、可愛らしい父親って。どう考えても褒められてないよ。

 

 持っていた団扇で口元を隠し、クスクスと笑うダイヤさん。彼女が笑ってるところを見るだけで満たされてしまうこの安い心は無条件に許しを与える、と判決を下してくれた。まぁ良いや。ダイヤさんが笑ってくれるなら、それでいい。

 

 でも、言われっぱなしは癪に障る。貶されたのなら、少しくらい言い返してもいいよね。

 

 

 

「…………こんなに素敵な奥さんと可愛い娘が居たら、大変だよ」

 

「ずら?」

 

「うゆ?」

 

「……っ」

 

 

 

 彼女達にそう言って、僕は仕返しをする。それが仕返しになるのかどうかは分からないけど、思った事を言った。今のは半分本音で半分建前。この言葉をどう受け取るのかは、僕も彼女達に任せる事にする。

 

 花丸とルビィちゃんは僕の言葉を聞いて、頭の上に疑問符を浮かべながらお互いの顔を見つめ合っていた。けど時間をかけて咀嚼して理解してくれたのか、嬉しそうに微笑みながら僕の顔を見上げてくる。

 

 

 

「へへ。ユウくんに可愛いって言われたずら」

 

「うゆ。でも、ちょっと恥ずかしい」

 

 

 

 純粋な彼女達は建前を混ぜた言葉を良い方向で受け取ってくれたらしい。仕返しした筈なのに喜ばせてしまった。

 

 花丸とルビィちゃんは前向きに僕の言葉を受け入れてくれた。でも、僕の隣に立つ黒髪の女の子は目を細めてこちらを見つめている。

 

 

 

「…………また、そんな思ってもない事を言う」

 

 

 

 ダイヤさんの言葉には、何も言わなかった。違う、言えなかったんだ。

 

 だってしょうがない。本音を言ったらきっと、僕は全てを伝えてしまいそうになるから。それを言うのはまだ早い。だから今は、建前で我慢しよう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それから僕らは屋台が並ぶ大通りを歩き、狩野川の上に掛かる永代橋の欄干に寄りかかって花火が始まるまでの時間を潰した。

 

 空は夕暮れ色に染まり、大半が藍色に包まれ始めている時間帯。十九時過ぎから花火は打ち上がるらしい。その前には桟敷席へと移動しなくちゃならない。

 

 橋の上には沢山の人達が行き来している。視線を下げると川辺にも花火を待つ人々が座っているのが見えた。あの川辺は毎年、良い場所を取る為に早い時間から場所取りをしている人が居るので有名だ。

 

 ふとマンションやビルが立ち並ぶ駅の方向を見ると、建物の屋上やベランダにも人影が見える。昔、あそこから花火を見ている人を羨ましいと思っていた時期があった。人混みを避けて花火を楽しめるのは狩野川付近に住んでいる人の特権。

 

 僕も幼い頃、一度だけ何処かのビルの屋上で花火を見た事がある。でも、それがいつだったのか、何処にある建物だったのかはもう覚えていない。どうして自分がそんな所で花火を見たのかさえも記憶には無い。特に気になる事でもないけど、この花火大会に来る度に僕はその事を思い出す。

 

 

 

「ふ~。お腹いっぱいずら」

 

「ルビィもだよぉ。もうしばらく動けない」

 

 

 

 橋の欄干にだらっと背を預けながらそう言う花丸とルビィちゃん。僕の従妹の食欲はようやく落ち着いてくれたらしい。それに付き合っていたルビィちゃんも結構な量の食べ物を食べてくれていた。よく頑張ったね、と称賛したい。何ならおんぶしてあげたい。ダメかな。少しでもさせてくれたらかき氷を買ってあげるのに。ダイヤさんに怒られそうなので止めよう。

 

 履き慣れない下駄で歩いたからか、指と指の間が擦れてしまい、少しだけ痛みを感じる。でもダイヤさんやルビィちゃんは平気そうだ。恐らく普段から履き慣れているんだろうな、と思ってみたり。

 

 

 

「これからどうしようか。まだ花火までは時間あるけど」

 

「そうですわね。ここでジッとしているのも面白くありませんわ」

 

 

 

 僕がそう言うと、ダイヤさんは金魚が二匹泳いでいるデザインの団扇で自分を扇ぎながら反応をくれる。彼女の白い肌の上には一筋の汗が流れているのが見えた。それを見て、何故か色っぽいと思ってしまったのは頭が夏の暑さにやられている所為だと思っておこう。

 

 それと、ダイヤさんが団扇を扇ぐ度に僕の方へ花のような良い香りが飛んでくるのも心臓に良くない。彼女は無意識かもしれないけど、僕としてはちょっと勘弁してほしい事案だった。全然嫌ではないよ。むしろずっとそうしててほしいくらい。僕の心臓が保ってくれるなら、の話だけど。

 

 

 

「? どうかしましたか?」

 

「い、いや、何でもない、です」

 

 

 

 視線に気づいたダイヤさんが首を傾げてそう言ってくる。何気ないその仕草にも、いつも以上の破壊力が込められていて、また心臓が高鳴ったのを自覚した。

 

 このままここで花火までの時間を潰すのも、たしかにもったいない。さっきは屋台の食べ物を食べてばかりだったから、今度は何かをしてみるのも悪くないかも。

 

 僕がそう思っている時、ちょうど花丸が何かを閃いたような顔をして口を開いた。

 

 

 

「マル、金魚すくいがやりたいずら」

 

「……なんでそんなに気合い入ってるの、花丸」

 

「ずら。毎年やってるのに、どうしても一匹しか取れないのには何か理由があるとずっと思ってたずら」

 

「ああ、そういう」

 

「だから今年こそは二匹、いや、五匹くらい捕まえてお寺の水槽に居る金魚さん達に新しい友達を増やしてあげるずら」

 

 

 

 花丸は真剣な顔でそんな事を言ってくる。たしかに、お寺の玄関にある水槽には数匹の金魚が居る。毎年夏休みに泊まりに行くと何故か一匹ずつ増えて居たあの現象には、そんな理由があったらしい。育て方が上手いのか、三匹くらいはこぶし大くらいの大きさになってるけどね。

 

 

 

「あ、ルビィもやりたいっ。いい? お姉ちゃん」

 

「……家の水槽にも、また金魚を増やすつもりですか」

 

 

 

 ルビィちゃんから訊ねられたダイヤさんも、遠い目をしながらそんな言葉をポツリと零していた。なるほど、同じ境遇か。金魚を持ったルビィちゃんが夏祭りから帰って来て、玄関で迎えたダイヤさんが『またですの?』と呆れ顔を浮かべている光景を鮮明にイメージしてしまった。そう言えば彼女の家の玄関にも金魚の入った水槽があった気がしないでもない。

 

 

 

「ダメ? お姉ちゃん」

 

「…………っ」

 

 

 

 潤んだ瞳+上目遣い+妹=世界の理。

 

 という謎の方程式が僕の頭の中に浮かび上がった。なんだあれは。妹からあんな風にねだられて断れる訳がない。僕なら考える間もなくいいよ、と即答してる。むしろ断れる人が居るのなら会ってみたい。やるなルビィちゃん。あれが長年ダイヤさんの妹をして培ってきた妹力、というやつなのだろうか。後で僕にも言ってくれないかな。

 

 

 

「はぁ……良いですわ。その代わり、世話は今まで通りにしなさい」

 

「やったぁっ。お姉ちゃん大好きっ」

 

「お、お止めなさい。こんな人前で、はしたないですわよ」

 

 

 

 了承を得たルビィちゃんがダイヤさんの腕にひしっと抱きつく。その光景を見て、僕はうっかり欄干から川へと落ちてしまいそうになった。危ない危ない。自分がああいう姉妹のやり取りに弱い事を、僕はいま生まれて初めて知った。同時に思ったのは僕も妹が欲しい、という事。それを言ったら花丸に怒られてしまいそうなので、胸の中だけで留めておく事にしよう。

 

 

 

「…………」

 

「ユウくん。どうしてそんなに嬉しそうな顔してダイヤさんとルビィちゃんを見てるずら?」

 

「はっ?!」

 

 

 

 どうやら無意識に変な表情をしてしまっていたらしい。花丸が目を細めて僕の事を見ていた。花丸に妙な性癖がある事を知られては大変な事になってしまう。気を付けなくては。誤魔化すように咳払いをして、尊さ全開の黒澤姉妹から目を逸らす。

 

 

 

「何でもないよ。さぁ、金魚すくいに行ってみよう」

 

 

 

 そう言って、逃げるように歩き出す。これ以上尊い姉妹を見ていたらダメな一面が出てしまいそうな気がした。

 

 歩きながら熱くなってしまった体温を外へ逃がすために、襟元をはためかせながら屋台が並ぶ方向へ歩く。

 

 そうしていると、誰かに浴衣の腰の部分を引かれているのが分かった。なんだろう、と思い、振り向く。そこには、面白くなさそうな顔をした飴色の従妹が居た。

 

 

 

「待って。ユウお兄ちゃん」

 

「え…………?」

 

 

 

 懐かしい呼び名で、花丸は僕の事を呼んでくる。まだ僕らが小学生くらいだった頃、彼女は僕の事をそう呼んでいたと記憶している。でも、なんだってこんな時にそんな呼び名を思い出したのだろう。

 

 訝しみながら飴色の従妹をの事を見つめていると、彼女はニコッと明るい笑顔を浮かべて僕の顔を見上げてきた。

 

 

 

「何だか、昔みたいに呼んでみたくなったずら。えへへ」

 

 

 

 その理由は不透明だけど、僕も呼ばれて嬉しかった。思わず顔を綻ばせてしまうくらいに。

 

 照れくさくて、なんて言っていいか分からなかった。だから、僕は代わりに行動を選んだ。

 

 飴色の綺麗な髪に手を置いて、優しく撫でる事。

 

 妹ではない彼女に出来るのは、これくらい。でも、それでいいと思った。そうすると花丸はまた、嬉しそうに笑った。

 

 それはまるで、秋の空に浮かぶ、優し気な羊雲のように。

 

 





次話/偽物のダイヤモンド


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偽物のダイヤモンド

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

「──────今年は大漁ずらっ」

 

「ふふ、よかったね、花丸ちゃん」

 

「ずらっ。今年は沢山獲れると思ってたずら~」

 

 

 

 先ほどの話の通り、僕らは花火が上がるまでの時間潰しに金魚すくいをやった。こうして花丸と一緒に金魚すくいをやったのは多分、小学生振りくらいかもしれない。あの頃の彼女は一匹も獲れずに悔しがっていた記憶がある。

 

 今年は三匹、獲る事が出来たらしい。花丸は浴衣の袖を少しだけ濡らしながら、金魚が入った透明な袋を持って嬉しそうに歩いている。彼女の隣を行くルビィちゃんも二匹獲れたみたいだった。

 

 因みにダイヤさんは四匹獲っていたけど要りませんわ、と言って水の中に戻していた。それを見たルビィちゃんが泣きそうになっていたのは、見ていて何とも言えない気持ちになってしまった。いたたまれない。

 

 代わりに僕が掬った分をルビィちゃんのお椀に入れてあげたら大変喜ばれたので良しとしよう。お詫びにおんぶさせてもらっていいか頼みそうになったけど、ギリギリのところで堪える事に成功。欲望のままに口走っていたら今ごろダイヤさんに説教を受けていたかもしれない。自分の理性に感謝するしかない。よし、後でダイヤさんにバレないようにおんぶさせてもらおう。あわよくば抱っこしてもいいかな。

 

 

 

「あ─────っ」

 

「おっ、と。大丈夫? ルビィちゃん」

 

 

 

 僅かに段差になっていたタイルに足を引っ掻けて転びそうになったルビィちゃんの腕を咄嗟に掴んだ。こうして人混みの中に居ると足元を見る余裕もないから、ただでさえ歩きづらい下駄では尚更注意しなくてはならない。前を見ていて良かった。

 

 

 

「あ、ありがとうございます、夕陽さん」

 

「気にしなくていいよ。気を付けて歩いてね」

 

 

 

 そう言うとルビィちゃんは素直にこくりと頷く。それから踵を返してまた僕の前を歩き出した。

 

 花火が上がるまであと三十分ほど残されている。屋台が立ち並ぶ界隈には先ほどよりも多くの人がごった返している時間帯。空を見上げれば橙色はほとんど藍色に侵食され、もうすぐ夜がやってくる事を伝えてくれていた。

 

 早めに桟敷席に向かって待つ、と先ほどダイヤさんが提案し、僕らは彼女の考えに従う事にした。こうして人混みの中を歩いているだけでも疲れは溜まってしまう。バスから降りてからはずっと立ちっぱなしだったから、少しだけ足が怠い。

 

 楽しそうに歩く花丸とルビィちゃんの後ろ姿を見つめながら、御成橋と永代橋の間に設けられている桟敷席エリアに向かっている時、隣から小さな声が聞こえてくる。

 

 

 

「…………あなたは、優しいのですね」

 

「え?」

 

 

 

 ポツリ、とそんな言葉が祭りの喧騒の間をすり抜けて僕の耳に届いた。意外な言葉だったから、小さくてもやけにハッキリと聞こえてしまったのかもしれない。

 

 歩きながら右隣に居るダイヤさんの方へ顔を向ける。彼女は深碧の両眼で、こちらを見つめていた。

 

 

 

「あなたはどうして、そのように振る舞えるのですか?」

 

 

 

 ダイヤさんは不思議そうな表情をして僕を見上げていた。それ以外に含まれている感情はない事を、いつも通りの凛とした佇まいを見て判断する。でも、どうして彼女がそんな事を訊いてきたのかは理解出来ないまま。

 

 

 

「そのようにって?」

 

 

 

 訊ね返すとダイヤさんは少しだけ何かを考えるような仕草をして、口を開く。僕は彼女の声にそっと耳を傾けた。

 

 

 

「あなたは、その、誰にでも優しいでしょう。クラスメイトにも、そうでない人にも、後輩にも、花丸さんにも…………私にも」

 

「……そう、かな」

 

「なのに、愛想を振り撒いている訳でもない。それを、なんと言えばいいのでしょうか」

 

 

 

 そこまで言って、ダイヤさんは口を閉ざして言葉を考えている。僕はその綺麗な横顔を見つめて歩いた。しばらくすると彼女はああ、と形容する言葉を見つけた、というように顔をこちらに向けてくる。

 

 

 

「あなたの優しさは、自然なのですわ」

 

 

 

 ダイヤさんは不思議そうな顔を浮かべたまま、そう語る。でも、僕には何と返していいのかまだ言葉が浮かばない。だからそれが浮かび上がってくるまで、待つ事にした。

 

 

 

「自然?」

 

「はい。私は、それがずっと不思議でした。誰にも媚びず、等しい優しさを誰かに振る舞える。それは、普通の人では出来ない事です。だから、気になったのですわ」

 

 

 

 ダイヤさんはそう言って質問の理由を結ぶ。僕は彼女が言ってくれた言葉を咀嚼し、胸の中で何度か反芻する。

 

 ダイヤさんが言ってくれた事。それは、僕が誰にでも優しい訳を教えてくれ、というもの。でも、急にそんな事を言われたって自分では分からない。僕は常にこうして僕で生きて来た訳だし、改めて理由を説明してくれと言われて、すぐに答えられるような正しい答えを準備している訳でもない。

 

 視線を前にある人混みに向けて、考えてみる。自分で自分を優しい、なんて思った事はない。“自分は優しい”と自惚れながら思って振り撒く優しさなんて、そんなものは優しさではない。ただのエゴだ。他人に押し付けるだけの、自己満足でしかない。

 

 思うのは、そういうものを振り撒く人間にはなりたくない、という事。優しい人だと思われたい。そう願う気持ちはたしかにある。でも、それを思いながら与える優しさには、本当の意味での優しさは存在しない。

 

 

 

「…………難しい」

 

 

 

 人が溢れる歩道を歩きながら、そう呟く。言葉に出来そうで出来ないこの感じがもどかしい。分かりやすく彼女にそれを伝えるにはどんな言葉がいいのか、考えながら少しずつ答える事にする。

 

 

 

「多分、僕は自分を殺すのが上手いんだと思う」

 

「自分を、殺す?」

 

 

 

 ダイヤさんの言葉に一度頷き、言葉を続ける。

 

 

 

「僕には、人に良く思われたいって言う感情があんまりない。いや、ない訳じゃないんだけど、それを上手く表に出す事が出来ないんだ」

 

「どうしてです?」

 

「僕は、自分から()()()()()を語るのが嫌いだから。そうしなきゃ、自分の良さを他者にアピール出来ないのも分かってる。でも、僕はそうしたくない。たしかに、僕の中には“誰かに良く思われたい”って言う気持ちはある。だけど、そんな人にはなりたくない。だから、常に自分の感情を殺してる。はは、なんだか、誰かに作られた感情のないロボットみたいだね」

 

 

 

 自分で言っていて、思わず笑ってしまった。でも、本当にそうだ。自分ではよくわからないけど、もし誰かの視点から国木田夕陽という人間を見る事が出来たのなら、確実にそう思ったはず。

 

 ダイヤさんは口紅を塗った綺麗な唇をほんの少し開けながら、僕の事を見つめている。伝わらないならそれでいい。ここまで言葉に出来ただけでも、上出来だと思っておこう。

 

 

 

「…………感情のない、ロボット」

 

「だから、思ってもない事を言っちゃう癖があるのかもね。よく建前を言うのは多分、それが理由」

 

 

 

 その人が求めて良そうな言葉を自動的に声に出す。言ってみれば、白雪姫に出てくる魔法の鏡と同じだ。訊ねられれば思ってもない事を言葉にして、誰かを喜ばせる。

 

 でもそしたら、本当の自分()は、何処に居るんだろう。

 

 

 

「それでいいのですか、あなたは」

 

「いいんだよ。それが自分らしさだって、受け入れてるから」

 

「でも、それでは─────」

 

 

 

「ねぇ、ユウくん、ダイヤさん」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ダイヤさんが何かを言おうとした時、僕らの前を歩いていた花丸が名前を呼んでくる。それを聞いて彼女は口を閉ざし、少しだけ悲しそうな表情を浮かべたまま花丸の方へと顔を向けた。

 

 

 

「どうしたの、花丸」

 

「これを見てほしいずら」

 

「ん?」

 

 

 

 そう言って立ち止まっている花丸はある屋台を指差していた。僕とダイヤさんは同時に彼女の指差す方向へ顔を向けた。

 

 

 

「「宝石、すくい?」」

 

「ずらっ」

 

 

 

 僕らの前にある屋台に書かれていたのはそんな言葉。でも、どうして花丸はこんな屋台に惹かれたのだろうか。

 

 そう思いながら、屋台の中にあるものを見た。

 

 そして、少しだけ言葉を失う。

 

 

 

「あ…………」

 

「やってみてもいいかな、ユウくん」

 

 

 

 花丸にそう言われ、僕は何も考えずに頷いた。彼女の言葉以上に、この屋台の中にあるものに、興味を引かれてしまっていたから。

 

 

 

 

 

「…………玩具の、宝石」

 

 

 

 

 

 宝石すくい、と題された屋台の遊び。それは先ほどやった金魚すくいの掬うものが金魚ではなく、ただ玩具の宝石になっただけのもの。

 

 水の上に浮かんでいるのは色とりどりのプラスチックの宝石。ちょうど、僕が胸に掛けているものと同じような形をしているおもちゃ。そんなものを欲しがるのは、小さな子供だけ。現に屋台の中に居るのは僕たちよりも何歳も年下の子供たちばかりだった。

 

 花丸とルビィちゃんはそんな事も気にせず、屋台のおじさんにお金を払い、網をもらう。そうして浴衣の袖を捲り、真剣な表情で目の前に浮かぶ宝石を見つめていた。

 

 

 

「………………」

 

 

 

 僕とダイヤさんはその屋台の前に立ち、宝石を取ろうとしている二人の女の子を眺めた。

 

 そんな時、ふとあの夢を思い出す。何故、こんなタイミングだったのかは知らない。それは突然思い浮かぶデジャヴのように、僕の頭の中に映像を流す。やけに鮮明で、残酷なあの夢の一部。

 

 いつ見たものなのか分からない。けど、たしかに僕はこんな光景によく似た夢を見た事がある。

 

 

 

「そうだ」

 

「?」

 

 

 

 あの夢の中で、幼い僕も誰かと一緒にこの宝石すくいをやっていた。それはちょうど、ここと同じ、夏祭りの会場にある屋台の中で。

 

 そこでこの胸に掛かっている宝石を取って、誰かと分け合った。そこまでは覚えてる。でもそれ以降の映像は、深い霧がかかっているようになり、上手く思い出せない。

 

 どうしてこのタイミングでフラッシュバックしたのか。答えは決まってる。僕が見ているこの光景が、あの夢と同じような景色だったからだ。

 

 

 

「────っ」

 

 

 

 夢の内容を思い出そうとしている時、突然頭が痛み出した。まるで脳が思い出そうとする事を拒んでいるかのように思えたのは、恐らくタイミングの所為。

 

 

 

「見て見てユウくん。いっぱい取れたずら」

 

「動かないから金魚さんより簡単だったよ、お姉ちゃんっ」

 

 

 

 気づくと僕の前には二人の少女が立っていた。手のひらの上に綺麗な玩具の宝石を並べて、僕とダイヤさんに見せてくれている。

 

 宝石は近くにある明るいライトを反射させ、それぞれの色が持つ煌びやかな光を魅せていた。

 

 それを見つめている時、花丸が一つの透明な宝石を細い指で摘まんだ。

 

 

 

「これでユウくんとお揃いずらね」

 

「ああ」

 

 

 

 そういう事か。彼女は僕が大切にしているあの宝石の事を知っている。でも何故、肌身離さず持っているのかまでは打ち明けてはいない。彼女は僕が持っているものと似ていたから、この屋台に興味を惹かれたのだろう。

 

 自分の浴衣の中に手を入れ、玩具の宝石が付いているネックレスを取り出した。長い間持っているからか、花丸の手にある宝石より白っぽくなっている。

 

 

 

「…………これ」

 

「はい。ルビィは赤いので、お姉ちゃんはこれ」

 

 

 

 僕の隣ではルビィちゃんがダイヤさんにダイヤモンドの形をした透明な宝石を手渡していた。ダイヤさんはその玩具の宝石を手のひらに乗せて、口を閉ざしたままジッと見つめている。何か思うところがあるのだろうか。彼女の事をまだよく知らない僕には、何も知る由はない。

 

 

 

「ありがとう、花丸」

 

「マルもユウくんみたいに大切にするずら」

 

 

 

 そう言って、花丸は玩具の宝石をポケットに仕舞う。僕も彼女に倣って、まだ真新しい透明なプラスチックのダイヤを浴衣のポケットに入れた。

 

 それから気づかれないように、その宝石を握り締めてみる。

 

 それは何故か、いつもより何倍も硬く感じた。

 

 

 

 

 





次話/終わりの始まり


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終わりのはじまり

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 狩野川の畔数百メートルほどの区間。ホテルとマンションの間にある細い路地を抜けた先に、花火大会の桟敷席は設けられている。場所によっては真正面から花火が上がるところが見える為、この祭りの桟敷席のチケットは毎年競争率が高いので有名。

 

 因みに僕は親戚に花火大会の協賛をしている人が居るので、毎年裏ルート的な感じでそれを入手する事が出来る。抽選に落ちた人には申し訳ない、という気持ちもあるけど、それを気にしていては何も始まらない。今年もありがたく良い席で花火を鑑賞させてもらう事にしよう。

 

 

 

「ユウくん、マル達の席はどっちずら?」

 

「えっと……ここから少し御成橋寄りの方みたいだね」

 

「ほらルビィ。あまり遅いと置いて行きますわよ」

 

「あ、待ってお姉ちゃん」

 

 

 

 受付でチケットを渡し、僕らは桟敷席エリアに入った。打ち上げ予定時間まで十五分を切っている事から、既に沢山の人達が細かく区分けされた石段に腰を下ろしている。

 

 手に持ったチケットに書いてある“は─五十二”という記号と数字を探し、歩く。隣には黄色の浴衣を身に纏った花丸が居て、その少し後ろに黒澤姉妹がついてきていた。

 

 席を探しながら、ぼんやりとここまでの祭りを振り返る。冷静に考えて、僕みたいな男がこんなに素敵な女の子を連れて歩いている、なんて、夢にも等しい事実だという事に今さらながら気づいてしまった。

 

 黒澤家を出てくる前に予想した未来は概ね当たっていた。歩く兵器と化した花丸とルビィちゃんはすれ違う人々の視線を釘づけにしていたし、永代橋で休んでいた時にはカメラを胸にぶら下げた外国人男性に写真を求められていた。たしかに、あの外人さんの気持ちはよく分かる。この二人の可愛さはワールドワイド。ジャパニーズ・ユカタを着てる美少女を思わず写真に収めたくなってしまったのだろう。あんまり広めないでほしいけど、母国の友達とかには見せてやってほしい。さすれば彼女達は日本の素晴らしさを世界に発信するひとかけらに成り得るだろうから。

 

 ……因みに、ダイヤさんはソロで写真を撮られていた。というより、多分あの外人男性は二人ではなく、彼女を撮る為に話しかけて来たのだと思う。英語で声をかけられたけど、喋ってる事はだいたい聞き取れた。日頃から洋書を読み漁っている賜物だとしみじみ思う。それはいいとして。

 

 あの男性は“そこに居る綺麗な女性を撮らせてくれないか?”とダイヤさんを見て言っていた。外国人の目から見ても、いや、浴衣に馴染みがない人だからこそ、彼女の美しさは際立って見えたのだと思う。

 

 夕焼け色に染まる橋の欄干に寄りかかっている、朝顔柄の浴衣を着た綺麗な女性。あの外国人男性には、まるで日本を旅するガイドブックに載っているような、()を象徴する雅やかな姿に見えたのだろう。少し話を聞いてみたら、すぐにそれが分かった。何枚かの写真を撮った後、満足気な笑顔を浮かべながら彼は去って行った。

 

 

 

 そんな出来事を経て、両手に花どころか花畑を抱えている状態である事に痛いほど気づかされた。変な人に声を掛けられたりしないか、常に神経を尖らせていなければなかったので正直ちょっと疲れている。早めに座って休みたいところだった。

 

 

 

「っと、ここだ」

 

 

 

 傍に“は”と書かれた白い看板が立っている階段を下り、四マス空いたスペースを見つける。階段の端の方だったので人の前を通る必要がなくてよかった。手刀を切りながら前を失礼するのは昔から苦手。この細かすぎて伝わらない気持ちを分かってくれる人が居る事を願ってる。

 

 

 

「ずら~。ようやく座れたずら」

 

「下駄で歩くのは疲れるからね。ルビィもちょっと足の指が痛いや」

 

 

 

 四マスの一番奥に花丸、その隣にルビィちゃんが座る。そうなると次はダイヤさんで、必然的に僕が彼女の隣になる。

 

 

 

「………………」

 

「? どうしたのです?」

 

「あ──な、何でもない」

 

 

 

 先に腰掛けたダイヤさんの顔を立ったまま見つめていると、それに気づいた彼女は訝しむように声を掛けて来た。

 

 ダイヤさんの隣に座れるのは嬉しい。けど、何だか落ち着かない気持ちになりそう。だって、こんなに綺麗な女の子が隣に居たらもはや花火云々の話じゃなくなる。しかも僕はその子に想いを寄せている。気にしなければいいのは分かってるけど、そう上手くは行かない。どうやらこれから一時間ほど、僕の心拍は速度と強さを増してしまうらしい。うっかり止まったりしない事を切に願う。

 

 

 

「変な夕陽さんですわね」

 

「いつも通りって言われるよりはマシかな」

 

「私からすればあなたはいつも変な方ですわ」

 

「何となく、言われると思ったよ」

 

 

 

 そんな軽口を交わしながら、ダイヤさんの隣に座る。ふわり。またあの金木犀の香りが鼻をくすぐった。打ち上げ時刻の前だって言うのに、胸壁の中では花火が上がった時みたいな心音が絶え間なく鳴り響いている。早く上がり始めないかな。この音がダイヤさんに聞こえたりしたら恥ずかしい。

 

 花丸とルビィちゃんは二人で仲良く話をしている。その中にはいる訳もいかず、口を閉ざしたまま対岸に設置されている花火の打ち上げ台を見つめた。

 

 祭りの音が聞こえてくる。誰かの威勢の良い声や、取り締まりをしているお巡りさんのホイッスル。太鼓や鈴の音色。幼い頃から何度も訪れたこの花火大会。なのに、今年は例年とは異なる感覚が心の中にあった。

 

 口を閉ざしたまま閉鎖されている御成橋の方へと視線を向け、それから藍色に包まれた十九時前の空を眺めた。三分の一が欠けている月の横。そこに一番星が浮かんでいるのが見えた。今日も夏の大三角形が見えないかな、と今の状況に全く関係のない事を思ってみたりする。

 

 

 

「………………」

 

「………………」

 

 

 

 少し、気まずい。さっきも隣合って歩いていたのに、こうして人混みのない場所で一緒に居ると変にダイヤさんを意識してしまう。彼女はどうも思っていないのだろうけど、意識せずには居られなかった。

 

 理由は沢山ある。ありすぎて思い浮かべるのも大変だ。改めて、彼女とここに来られた事に対して奇跡を感じずにはいられない。そう思った。

 

 テスト前の日曜日。図書室で信吾と勉強をしている時にダイヤさんと果南さんが訪れた日。あの時に、一世一代の勇気を出していなかったらここに居る事が出来なかった。それだけじゃない。英語のテストでダイヤさんに勝つ、という条件をクリアするために死に物狂いで勉強した時間も、無くてはならないものだった。

 

 これまで()()のために頑張る、っていう事はしてこなかったつもりでいる。目指すものがあって、鼻息荒く努力をする事は小さい頃から自分には似合わないと思っていたし、僕には出来ない、と頑張っている人の事を見て、いつも諦観していた。

 

 そう言う人達のようになりたくない訳じゃなかった。出来る事ならなってみたかったけれど、如何せん、人には合うものと合わないものが存在する。残念ながら自分にはそういう生き方は合わなかった。だから、いつも一歩引いた目で努力をしている人の事を見つめていた。努力とは言えない、無意味な砂を積み重ねながら。

 

 でも、今回は違った。ダイヤさんとデートをするために、勇気を出して勝負を持ち掛け、寝る間も惜しんで勉強をした。

 

 これが“何かのために努力する”という事。それが、ほんの少しだけ理解出来たかもしれない。何と言うか、とても清々しい気持ちになれた。

 

 目標なんてなくても、何かをする事は出来る。でも、それはきっと努力とは呼べない。目指すものがない状態で何かを頑張る、なんて、目隠しをしたまま暗闇の中を当てもなく歩く事と同義。そんな意味のない事をしても、手に入るものはたかが知れている。

 

 対して、目標に向かって努力をするという事は何かに例える必要もない。本当にそのまま。暗闇の先にある光を目指して歩いて行く。目を開けて、ただ一つのものに手を伸ばす。当然、掴めるものは自分が欲しいもの。もしそれに手が届かなかったとしても、得られるものは沢山ある。だから、大人達は夢や目標を持て、と口酸っぱく言うんだ。それを持っていて悪い事は何もないから。夢を追いかける過程で数え切れない苦しみや挫折を経験するかもしれないけど、それはまた別問題。プロセスは問題ではない。一番大切なのは、何を目指すかどうか。

 

 それが、目標を持つ努力と持たない努力の差。まだ玉虫色な哲学だけれど、僕はそう思う。これからどんな生き方を選ぶのかは決めていない。でも、好きな人の為になら大抵の事は頑張れる、とあの数日間で僕は知った。

 

 またいつか、ダイヤさんのために努力をする機会があるのなら、その時はこれまで以上に頑張ってみよう。目の前にある現実を受け入れた時、素直にそう思えた。

 

 

 

「…………あ」

 

「?」

 

 

 

 ダイヤさんの存在を意識しながら花火が打ち上がるのを待っている時、斜め下の方に見覚えのある二人組の姿を見つけた。見間違いじゃない。あれは、間違いなくそうだ。

 

 僕らが座っている場所から左斜め下の方へ階段を下って行く茶髪の男と青い髪の女の子。それは、何処からどう見ても友達である二人だった。僕らの存在には気づいていない。彼に桟敷席のチケットを渡したのは僕だが、席までは確認していなかった。まさかこんなに近い所で出くわすなんて、思ってもみなかった。

 

 目線の先に居るのは、信吾と果南さん。二人は約束通り、この花火大会に訪れていたみたいだ。そこまではいい。気になったのは彼らの距離感だった。

 

 二人は、仲良さそうに笑っている。そして、お互いの手を繋いで歩いていた。それが、僕の見間違いでなければ。

 

 僕がある方向を見つめている事に気づいたダイヤさん。彼女も信吾達が歩いている方へ顔を向ける。そうして、間もなく二人の存在に気づいたらしい。

 

 

 

「果南、さん……?」

 

「うん。信吾も居るね」

 

 

 

 ポツリ、とダイヤさんが零した言葉に反応してみせる。彼女は綺麗な唇を少し開けて、彼らから目を離さないでいた。ダイヤさんは二人がここに来る事を知らなかったのかな。信吾と果南さんが近しい距離に居る事は分かってはいただろうけど、そう言う話にはいつも入って来なかった。

 

 そんな二人は自分達の席に座り、姿が見えなくなる。それでも、ダイヤさんは信吾達が居る方を見つめていた。

 

 

 

「…………」

 

「手、繋いでたね。二人」

 

 

 

 小さな声でそう言ってみる。あの二人がそうしているのを見て、素直に嬉しく思った。信吾は言っていた。この花火大会で果南さんに告白する、と。それが成就したのかどうか、それともまだしていないのか。でも、今の光景を見たら結果は訊かなくても分かる。自分の親友と統合先で出来た初めての女の子の友達が、ようやく前に進んでくれる。思わずジン、と胸が反応するくらい喜ばしい事だった。

 

 ダイヤさんはこちらを見てくる。夜が辺りを包み込んでいる所為で顔色は分からない。けど、表情は読み取れた。

 

 彼女は、照れたような顔を浮かべている。

 

 

 

「……夕陽さん」

 

「どうしたの、ダイヤさん」

 

「あの、先ほどの二人は、その」

 

「うん」

 

 

 

 僕の名前を呼んで来たダイヤさんは、ぼそぼそとした声でそう言ってくる。かなり近い距離に居るので何とか聞き取る事が出来た。

 

 そうして、彼女はまたあの二人が居る方向を一瞥し、言った。

 

 

 

「こ、恋人同士、なのでしょうか」

 

 

 

 なんて、ダイヤさんにはあまり似合わない言葉を。そのたどたどしい台詞を聞いて反射的に吹き出してしまいそうになった。危ない。今笑っていたら確実に嫌われてた。ニヤケてしまいそうになる顔をダイヤさんとは逆の方に向けて、お腹の中から込み上げてくる笑いが治まるのを待った。

 

 そう言えば、ダイヤさんと出会ってからこういう話を彼女がしているのを一度も見た事がなかった。クラスのみんなが果南さんと信吾を応援しているのを見ていても、ダイヤさんは知らんぷりをしていたし、僕が鞠莉さんとそう言う話をしていても聞く耳を持っていなかった。

 

 興味が無いのかな、と思っていたけどこの反応を見る限りそういう訳でもないらしい。それもそうか。いつも一緒に居るあの二人が手を繋ぎながら仲良さそうに歩いていたら、流石の生徒会長でも反応せずには居られなかったのだろう。信吾はともかくとして、果南さんはダイヤさんにとって幼馴染という存在。驚く理由もよく分かる。

 

 考え事をしながら笑いが治まるのを待ち、落ち着いたところでまた顔をダイヤさんの方へ戻した。彼女はまだ、果南さんと信吾が居る方を見つめている。

 

 

 

「まだそうなってはいないみたいだよ」

 

「まだ、とは?」

 

「今日告白するんだってさ。あの様子だと、大丈夫だろうけどね」

 

 

 

 見てしまったものは仕方ない。それに隠していてもしょうがないので、ダイヤさんには教える事にした。これでダメだったら土下座して信吾に謝ろう。そんな事は、万が一もないとは思うけど。

 

 

 

「告、白…………」

 

「そう、告白。信吾、果南さんの事ずっと好きだったみたいだからね」

 

 

 

 果南さんも信吾の事が好きなのは僕も知ってるけど、それを言うと果南さんに申し訳ない気がしたので言わないでおく。信吾は気にしないでもいい。付き合い長いし、多分気にしないでいてくれる。

 

 そう言うとダイヤさんは自分の長い髪を指先で弄り始めた。今が夜じゃなかったら、と思わずにはいられない。どうしてもダイヤさんの顔色が見たかった。明らかに恥ずかしさを見せているこの表情。それを見て、さらに心臓が高鳴るのを自覚した。

 

 

 

「そう、だったのですか」

 

 

 

 ダイヤさんは信吾と果南さんが居る方向を見つめながら、そう呟く。彼女の綺麗な横顔を見つめていたら、どうしても言いたい事が出てきてしまい、僕は我慢しきれずに口を開いた。

 

 

 

「ダイヤさん、気になるんだね。そういう事」

 

「…………っ」

 

「少し意外かも。あ、別に変って言う訳じゃないよ」

 

「…………なら、どうして?」

 

「ダイヤさん、あんまりそういう事に興味ないのかな、って思ってたから」

 

 

 

 少し失礼にあたるかもしれないけど、思っていた事を言葉にした。それを聞いて、ダイヤさんは再度こちらへ顔を向けてくる。僕も彼女から目を逸らさず、薄い化粧を施した綺麗な顔を見つめ返した。

 

 ダイヤさんは恋愛には興味が無い。それが、僕の認識だった。僕自身が彼女に恋していたとしても、彼女がこの想いに答えてくれる事はない。そう思っていたから、勇気を出してこの夏祭りにダイヤさんを誘ったんだ。

 

 でも、その認識はズレていた。僕が見ていたパラダイムは、本質とは異なる方向を向いていたらしい。それに気づく事が出来たのは、ダイヤさんの言葉を聞いてからだった。

 

 

 

「…………すか」

 

「え?」

 

「ですから」

 

 

 

 ダイヤさんは目線を斜め下に下げながら、何かを口にした。でも、聞こえなかった。小さすぎる声は花火大会の空気に溶けて、沼津の夜とひとつになって消えた。

 

 訊ね返すと、彼女は視線を上げた。夜の闇に紛れる深碧の両眼。そこには間違いなく、僕が映っている。そして階段の上にある投光器の光が位置を変え、ちょうど僕らの方を照らした時、ようやく隠れていたダイヤさんの顔色を見る事が出来た。それは予想通り、可愛らしい桃色をしていた。

 

 

 

 

 

「…………興味があったら、おかしいですか?」

 

 

 

 

 

 ドクン、と一際大きな心臓の鼓動が聞こえた。それが自分の心音である事に気づけたのは、ダイヤさんの言葉を耳が受け入れてから数秒が経った後の事だった。

 

 言葉を失くす、というのはこういう時に使う言葉らしい。隣に座る美しい少女のたった一言の台詞を耳にしただけで、僕の機能は活動を停止してしまった。

 

 何か言いたい事があるのに、それがどうしても口に出せない。何かを言わなくてはならないのに、言うべき事が纏まらない。矛盾した意味のないジレンマが頭の中に渦を巻いている。どうすればその渦が消えてくれるのかは、今の僕には何一つ分からなかった。

 

 分かるのは、ダイヤさんが言った言葉の意味だけ。僕が抱いていた認識とかけ離れた、新しい事実。

 

 

 

「あれ、この焼きそば、箸が入ってないずらね」

 

「あ、本当だ。お店の人、入れ忘れちゃったのかな」

 

 

 

 ダイヤさんへ返す言葉を考えている時、そんな声が聞こえてくる。今までも耳に入っていた筈の二人の声。なのに、今さらになってそれは僕の耳に届いた。

 

 今の会話を誤魔化すように、僕は花丸とルビィちゃんの方へと顔を向ける。ダイヤさんも同じように、隣に座る妹に視線を移動していた。

 

 

 

「待っていなさい。私が貰ってきますわ」

 

「え? いいの、お姉ちゃん」

 

「そうずら。もうすぐ花火、始まっちゃいます」

 

「いいのです。すぐに戻ってきますから」

 

 

 

 そう言って、ダイヤさんは立ち上がる。花丸が食べようとしていた焼きそばに割り箸が入っていなかったから、彼女はそれを取ってきてあげると言った。でも、僕にはそうは見えなかった。

 

 花火が打ち上がるまで、あと十分を切っている。けれど、ダイヤさんが言った通り、すぐに戻ってくれば間に合わない時間ではない。場所を見失わなければ時間をかけずに戻って来れる。

 

 ダイヤさんは僕の前を通って階段を上って行く。その姿を見送ろうと思った。でも、この身体は自動的に立ち上がる事を選んだ。彼女の背中を追う事を、選択してくれた。

 

 

 

「ユウくん?」

 

「僕も飲み物買ってくる。二人はここで待ってて」

 

 

 

 そう言い残し、僕はダイヤさんを追いかけようとした。その前に、ある重要な事を思い出しもう一度花丸とルビィちゃんの方を振り返る。

 

 

 

「何かあったらすぐに連絡してね。絶対だよ」

 

 

 

 二つの頷きを確認して、また階段を上り出した。ダイヤさんはゆっくりと、屋台がある大通りの方へと歩いて行く。

 

 彼女の姿を見失わないように、綺麗な朝顔が咲いた浴衣を目に映し続けていた。

 

 

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 

 

 打ち上げ時刻が迫っているからか、大通りは先ほどと比べると人が少なく見える。神輿や踊りなどは終了したらしく、道路には人がまばらに歩いているだけ。

 

 一番近くにあったたこ焼きの屋台で割り箸を貰い、店主に頭を下げてから僕らは踵を返した。

 

 『お姉ちゃん、えらいべっぴんさんやねっ!』と恐らく関西出身であろう若い女性の店主から声を掛けられ、何とも言えない表情を浮かべていたダイヤさん。そう言われた彼女は誇る訳でも謙遜する訳でもなく、ただ小さく頭を頷かせただけ。それを見てらしい、と思えるのはきっと、彼女の事を前よりも少しだけ知っているから。

 

 『おおきに~』なんて飄々とした背中に声を受けながら、僕らは桟敷席に戻る。今からなら花火が打ち上がる前に戻る事が出来る筈。

 

 そう考えて足を路地の方へと向けた。でも、僕らに会話はない。黙ったまま、夏祭りのBGMが流れる界隈を進む。

 

 

 

「…………」

 

 

 

 ダイヤさんの左斜め後ろを歩きながら、彼女の姿を見つめる。姿勢の良い歩き方で、凛とした雰囲気が嫌でも感じ取れる。遠くから彼女の事を眺めていても、その空気は感じられる事だろう。

 

 彼女を知らなかった四月の頃は、この雰囲気をみんなが恐れていた。完璧すぎる生徒会長として、誰もが一歩引いた目でダイヤさんを見ていた。

 

 実際に彼女は人が出来ないような事を卒なくこなし、それが当たり前のように過ごしている。誰かに媚びる事もせず、そうなるのが当然だ、と一種の諦観のようなものを抱きながら何かをする。

 

 だから、彼女はみんなから少し離れた所に居る。それは現実的な距離の話ではない(離れた所でみんなの話を聞いている、という事はあるけど)。心と心の距離の話。

 

 見た目も綺麗で、頭も良く、誰からも慕われる生徒会長。そんな彼女は、“普通の女の子”と見られる事はなかった。何故そう言い切れるのかは、誰かではなく、僕自身がそう思うから。あまり大声では言えないけど、暇があればダイヤさんの事を見ている僕が思うのだから、他の誰かはもっと彼女を特別視している。それは良い意味でも、悪い意味でも。

 

 手が届かない高嶺の花。どんなに力を込めても壊れない宝石。ダイヤさんはそんな風に、見られている。僕もそう言う目で彼女を見ていた。

 

 でも、さっき、その認識に少しだけズレが生じた。今まで、ダイヤさんは恋愛に興味を持たない、と勝手な先入観を押し付けていた。

 

 男の人が嫌いで、話せるようになっても、いつも異性から距離を置こうとしていた。自分から関わろうとはせず、教室で騒いだりする男子の事を蔑んだ目で見ている事も屡々ある。

 

 そんな彼女が、恋愛に興味を持っている。その事実を知って、新たな感情が生まれたのを自覚した。

 

 もしかしたら、僕にも手が届くんじゃないか。何かが噛み合えば遠すぎると思っていた花に、触れられる時が来るんじゃないかって。そう思ったんだ。

 

 

 

「ねぇ、ダイヤさん」

 

「なんですの」

 

 

 

 少し前を歩くダイヤさんの名前を呼び、立ち止まる。それに気づいた彼女も足を止め、こちらを振り返ってきた。

 

 言いたい事は沢山ある。でも、この気持ちを言葉で形容してしまえば今まで通りの関係では居られなくなってしまう。それはいけない。いくらこの関係性より先に進みたい、と願っていたとしても、今それを壊すのはナンセンスだ。何事にも良いタイミングというものが存在する。今はその時じゃない。

 

 なら、僕が言うべき事は何なのか。今のダイヤさんに言いたい言葉。この胸に溜まった感情を少しでも外に排出するとしたなら、何を選べばいい。

 

 自身にそう問いかけた時、答えは浮かんで来た。想いを伝えるのは、まだ早い。それが生み出すものは何も無い。好き、という感情に溺れてしまったら、僕はもうこの場所には戻れなくなってしまう。

 

 だったら、この気持ちは胸の中に留めておく。その代わりに、今は言いたい事を言おう。

 

 照れくさくなって、これから上がる打ち上げ花火と一緒に、この言葉を消してしまわないように。

 

 

 

「ありがとね」

 

「……何がです?」

 

「今日、一緒に来てくれて」

 

 

 

 それだけが、彼女に伝えるべき言葉。それ以外の感情はまだ、胸の中に残しておく。

 

 ダイヤさんは首を少し傾げながらこちらを見つめてくる。可愛らしいその仕草にときめきを感じてしまうのは、どうしようもない。

 

 

 

「僕のお願いを聞いてくれて、ありがとう」

 

「そんな事を気にしていたのですか、あなたは」

 

「だって、本当に来れるなんて思ってなかったから」

 

「私は約束を破りませんわ。あのテストであなたに負けたのですから、お願いを聞くのは当然の事でしょう」

 

 

 

 ダイヤさんはそれが当たり前ではないのか、という表情を浮かべながらそう言ってくる。それは分かってる。

 

 

 

「それでも、だよ。僕は今日、ダイヤさんとここに来れたのが本当に嬉しい。だから」

 

 

 

 だから、僕は感謝をする。条件を出したのはたしかに僕だけど、そのお願いを受け入れてくれた彼女に、どうしてもそう言いたかった。

 

 ダイヤさんは不思議そうな顔をしてる。いや、あれは多分、少し驚いている。

 

 

 

「…………変な人」

 

「また言われちゃったね」

 

「だってそうでしょう。あなたが提示してきた条件に従っただけの私に、感謝をするだなんて」

 

「そうだよね。ごめん」

 

 

 

 素直に頭を下げるとダイヤさんは困ったような表情をした。

 

 

 

「あ、謝る必要はありませんわ」

 

「でも、ダイヤさんを困らせちゃったから」

 

「私が言いたいのは、その……」

 

 

 

 そこまで言ってダイヤさんは口を閉ざす。何かを言うべきか言うまいかを考えているのか、視線を下げながら固まっている。

 

 数秒の沈黙。近くからは祭りの音と雑踏が聞こえてくる大通りの歩道。夜が訪れたからか、日中の暑さが感じられない。ずっと聞いていた蝉時雨も、気づけば何処かに消えていた。

 

 目の前に立つ、朝顔の浴衣を着た綺麗な生徒会長を見つめている時、一つの声が耳を通り抜けた。

 

 

 

「…………私も、同じです」

 

「? 同じ?」

 

 

 

 小さな声に訊ね返すと、ダイヤさんはこくりと頷いた。そして、逸らしていた目線をこちらに向けてくる。

 

 そうして僕はまた、自分が的外れな幻想を抱いていた事を思い知らされた。  

 

 

 

「私も、あなたとここに来る事が出来て、よかったと言っているのです」

 

「え…………」

 

「文句があるなら、今のうちに言いなさい。特別に聞いてあげますわ」

 

 

 

 ダイヤさんはむすっとした顔でそう言ってくる。でも、僕は首を横に振った。当たり前だ。文句なんてある訳がない。

 

 だって、ダイヤさんがそんな事を言ってくれた。僕とここに来れてよかった、とたしかに言った。僕と同じ、という言葉の意味がようやく腑に落ち、同時に別の感情が胸の中に生まれる。

 

 

 

「建前、じゃないよね」

 

「私を怒らせたいのですか、あなたは」

 

 

 

 既に怒っているような目を向けられる。そう言うなら、今のは本音だったのだろう。でも、僕にはわからない。

 

 どうして、ダイヤさんがそう思ってくれるのか。何故、僕にそんな嬉しい言葉をかけてくれたのか。

 

 考えても分からない。なら、考えるのを止めよう。答えようのない問題に時間をかけるのは馬鹿がやる事だ。

 

 だから、今は素直に彼女の気持ちを受け入れよう。そこに、どんな深い理由があったのだとしても。

 

 

 

「ダイヤさん」

 

「どうしました」

 

「ダイヤさんは、僕に何かしてほしい事ない?」

 

 

 

 突然の質問。脈絡がないのは自覚してるさ。でも、今はそれが聞きたかった。

 

 僕は嬉しい事を言われると同じくらいの言葉を返したくなる。それは昔からの性格。嬉しい事をくれた人にも、同じものを感じてほしい。逆に悲しい事があったなら、その悲しみを半分分けてほしい。自分でも都合が良い性格をしてるのは分かってる。だけど、これだけは変えられなかった。そしてこれからも変えるつもりはない。

 

 ダイヤさんは少しの間、黙って僕の顔を見つめてくる。質問の意味が分かってないのか、腑に落ちてないのか。いずれにせよ、僕には待つ事しか出来なかった。

 

 

 

「…………してほしい事、ですか」

 

「うん。僕に出来る事なら、何でもいいよ」

 

 

 

 それからまたしばらくの沈黙。花火が打ち上がるまでの時間は迫っているけど、今はダイヤさんの言葉を聞くのが先決だと思った。

 

 この機会を逃してしまえば、次はない。そんな確信が僕の中にあった。だから、僕は待つ。

 

 急ぎ足で花火が見える所まで移動する人達が、僕らの事を追い抜いて行く。そんな中で立ち尽くしたまま、深碧の瞳と見つめ合った。

 

 

 

「私は、別に」

 

「何も無いの?」

 

「思いつかないのです。どうしてもというのなら、あなたが決めてください」

 

 

 

 結局そんな風に返される。ダイヤさんが僕にしてほしい事なのに、それを僕が決めるのはどう考えてもおかしい。

 

 でも、何も言わないよりは言った方がマシだ。だから、僕は自分で考えてみる。ダイヤさんが求めるものではなく、彼女に対して僕がしたい事。

 

 そんな事を頭に浮かべた時、ある一つのアイデアが閃いた。あり得ない事かも知れないけど、僕はこう言いたくなった。

 

 

 

「なら、約束するよ」

 

「約束?」

 

「うん、約束。僕にお願いしたい事が何もないってダイヤさんが言うなら、約束する」

 

「それは、どんな?」

 

 

 

 そう訊ねられ、用意した言葉を口にする。

 

 ────今日、家を出る前に見たニュース。そこに映っていたのは、子供の誘拐事件。ダイヤさんに何をする事が出来るかを考えた瞬間から、何故かあの映像が離れなかった。

 

 どうしてかは分からないけれど、それを考えていたらこんな約束をしたくなった。万が一もあり得ないかもしれないけど、僕は約束したい。

 

 

 

「もし、ダイヤさんが危ない目に遭ったら、僕が助けに行く」

 

「危ない目、とは具体的には?」

 

「そうだなぁ。たとえば、ダイヤさんが悪い人に誘拐されちゃったりしたら、僕が助けに行くよ」

 

「………………」

 

「そんな約束をさせて欲しい。いいかな?」

 

 

 

 僕の言葉を聞いて、ダイヤさんは不思議そうな表情を浮かべた。それから血色の良い唇を開く。

 

 

 

「どうしてそんな約束をするのです?」

 

「うーん。なんとなく、かな。はは、ごめんね。変な事言っちゃって」

 

 

 

 今のは本当になんとなくだった。自分が言った言葉なのに、自分の意思で言った言葉じゃないような。いや、口にしたのは紛れもなく僕なんだけど、何というか、少し変な感覚が胸の中にあった。

 

 この感じを言葉にするなら、そうだな。まるで違う誰かが、僕にそう言えと命令しているような感覚。そんなの絶対にあり得ない。自分でもそう分かっているのに、そんな感じがしてならなかった。何なんだろう、この感覚は。

 

 

 

「話半分に聞いておきますわ」

 

「そうしてよ。あ、一応指切りでもする?」

 

 

 

 そう言って、僕は右手の小指を立ててダイヤさんの方へと差し出す。彼女は僕の指を見て、ふん、と鼻を鳴らしてから自身の手を上げた。

 

 

 

「……まったく。変な人ですね、あなたは」

 

「変な人の約束を聞いてくれるダイヤさんは、優しいんだね」

 

「こんなの優しさではありませんわ。勘違いしないでください」

 

「はいはい」

 

()()は一回。何度言ったら分かるのです、あなたは」

 

 

 

 指切りしながらそんな事を言い合って、僕らは笑う。幸せすぎて、どうしようもない。好きな人とこうして些細な事で笑い合えているこの時間が、いつまでも続いてほしいと思った。

 

 ────でも、それは続かない。幸せには波がある、と僕が好きな本には書いてあった。幸福は一本の線ではなく、浮き沈みを繰り返す波。上に上がってしまえば、後は下がるしかない。人生とはその繰り返しで成り立っている、と本には記されていた。

 

 ダイヤさんと指切りをしながら、反対の手で胸にぶら下げている玩具の宝石を握り締めようとした。これはいつも通りの癖。無機質な玩具のダイヤが変化を見せる事などあり得はしない。

 

 

 なのに。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「………………あれ?」

 

 

 

 

 

 なのに、玩具の宝石はいつもとは違っていた。形や硬度は恐らく同じ。でも、()()が決定的に違う。

 

 

 

 

 

「え………………?」

 

 

 

 

 

 ダイヤさんも僕と小指を繋いだまま、訝しむような声を出していた。それは僕が持っている宝石に対して零した言葉ではない。

 

 彼女は、自分の浴衣のポケットに目線を下げながら、困惑した表情を浮かべていた。

 

 僕らは指切りをした状態のまま、互いに身体を固まらせた。僕は自身が感じている違和感の所為で、ダイヤさんはダイヤさんが感じている違和感の所為で。

 

 何が起こっているのか、分からない。でも、何かが起こっている事だけはたしかだった。

 

 

 

 ────西の方角に目を向けて────

 

 

 

「「?」」

 

 

 

 誰かの声が聞こえ、咄嗟にその通りの方向へと目を向けた。気づけばダイヤさんも同じ方向を向いていた。なら、今の声は二人とも聞こえたという事になる。けど、そんな声を僕らにかけてくる人なんて、周囲には居ない。なら、今の声はなんだ。どうして、声が聞こえて来た。

 

 まさか、と思う。いや、そんな事は絶対にあり得ない。()()が声を放つなんて、どう考えてもおかしい。だって、()() は無機質なプラスチックの塊。声を出す機能が付いている訳がない。

 

 

 

「何、これ……」

 

 

 

 僕は浴衣の胸元に入れていた宝石を取り出す。形状や硬さはいつもと何ら変わりない、玩具の宝石が付いたネックレス。なのに、今は何かが違った。

 

 

 

 玩具の宝石は、()()()()()()()()()。それは、何かが反射している光ではない。そんな光は僕らの周りには何処にもない。

 

 

 

 明らかに、宝石自体が輝いている。それだけは、どれだけ瞬きを繰り返しても変わらなかった。どんなに見つめても、宝石は淡い輝きを放ち続けていた。

 

 

 

 

 

「何、ですの」

 

 

 

 

 

 ダイヤさんも、浴衣のポケットから何かを取り出す。それはいつか見た、小さな赤い巾着袋。林間学校の時、僕とダイヤさんで探したあの袋を彼女は手の上に乗せていた。

 

 そして、それも僕の宝石と同じ。袋の中で、小さな光が灯っている。ダイヤさんはそれを茫然と見つめていた。

 

 僕らは西の方角へ身体を向けたまま、立ち尽くす。目線の先には共に光る()()があった。

 

 夢の中で見る、あの宝石。それが現実で光を放っている。そこに、どんな意味がある。

 

 

 

 ────少し先の廃墟になったマンションの前────

 

 

 

「「え?」」

 

 

 

 また誰かの声が聞こえ、僕とダイヤさんは声を揃える。それから視線を上げて、声の通りに歩道の先を見つめた。

 

 そこには、ある影が見えた。

 

 

 

 ────あの人を追って────

 

 

 

 声が聞こえる。幼い子供の声。そんな子供は周囲に居ない。なのに、声は聞こえてくる。

 

 それはちょうど、胸に下げている玩具の宝石の所から。

 

 僕らの目線の先に居たのは、一人の男性と一人の子供。その二人は、仲良さそうに手を繋ぎながら、花火を観に行こうとする人々の流れに反して西の方角へ歩いて行く。

 

 それは別におかしくない光景。だけど、僕の目には明らかな異常として映った。

 

 

 

 ────あの子は、誘拐されてる────

 

 

 

 もう一度、そんな声が聞こえた。あり得てはならない現実なのに、僕はこの目に映る光景を信じた。そして、何処からともなく聞こえてくる声の内容も、信じてしまった。

 

 なんだ、何なんだ。考えてもわからない。でも、たしかに目線の先に居るあの小さな子供は、手を繋いでいる男に連れ去られている。それだけは分かる。

 

 なら、それを知っている僕が出来る事は、なんだ?

 

 

 

 ────あの子を、助けてあげて────

 

 

 

 

 

「────待てっ!」

 

「────待ちなさいっ!」

 

 

 

 

 

 男と子供は、僕と()()()()()の声に振り向く。そして、僕らは同時に走り出した。

 

 どうして声が重なったのかは、今の僕には知る由もなかった。

 

 

 

 

 





次話/夢の中の君は、花火と共に消える。


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夢の中の君は、花火とともに消える。

 

 

 

 

 第二章・最終話/夢の中の君は、花火とともに消える。

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 下駄では上手く走れない為、裸足になってアスファルトの上を駆け出す。浴衣で機動性も皆無。でも、今はそれを言い訳にしている場合じゃない。

 

 隣に立っていたダイヤさんも素足で走っていた。なぜ彼女まで同じタイミングで走り出したのかは分からないけれど、それは後で気にしよう。

 

 目線の先に居たのは白いシャツを着た男と、まだ小学生になる前くらいの男の子。僕らが大きな声を出したと同時に二人はこちらを振り向き、男は子供の手を引いて傍にあった建物の中に入って行った。

 

 間違いない。あれは誘拐だ。僕らの声に反応し、犯人が逃げて行く姿を見て確信した。どうしてその疑いをかけられたのかは分からない。考えるのは後だ。今はとにかく、あの子供を助けなければ。

 

 足の裏に細かい石が食い込んでくるのが走りながら分かる。でも、止まっている暇は無い。僕の怪我よりも、誘拐された少年の方が今は大事だ。

 

 

 

「夕陽さん、こちらですわっ!」 

 

「っ! 分かったっ」

 

 

 

 犯人が逃げ込んだ建物にダイヤさんが先に入り、僕を誘導してくれる。内部は暗く、明かりはない。非常灯の薄緑色の光と外から入り込んでくる頼りない明かりだけが、埃が溜まっている床の上を淡く照らしている。

 

 なんで明かりが点いてないんだ、と訝しんだ時、目の前に“KEEP OUT”と書かれたテープが現れ、ここが廃居のマンションである事を悟った。

 

 そうだ。僕はここを知ってる。沼津に住んでいる若者達にお化けマンション、と呼ばれている場所。今の時期、肝試しで使われたりしているのを聞いた事がある。実際に幽霊を見た人もいるという噂があるのでも有名だった。ここにはよく、子供の幽霊が出る、とクラスの誰かが言っていた気がする。

 

 

 

「エレベーター……っ」

 

「これで先に行ったのか」

 

 

 

 使われていないマンションだというのに、エレベーターは生きているらしい。閉まっている扉の上に描かれた数字のライトが、時間を追うごとに上がって行く。犯人はどうやらこれで上に逃げたらしい。

 

 

 

「止まった?」

 

「最上階に行く訳ではなさそうですわね」

 

 

 

 数字のライトは最上階から五階ほど手前で止まった。数秒の間を置いて、エレベーターは僕らが居る一階へと下がってくる。その時間がもどかしい。でも、階段なんて使ったら絶対に追いつけない。浴衣を着た状態で身軽な動きが出来るほど運動神経は良くない。

 

 

 

「くそ……」

 

「まだ来ないのですか」

 

 

 

 あのダイヤさんがめずらしく焦っていた。エレベーターの上矢印が書かれたボタンを連打している。その姿を見て、自分に落ちつけ、と言い聞かせた。ここで二人とも冷静さを欠いてしまったら元も子もない。ダイヤさんがいつも通りでないのなら、僕だけはいつも通りで居なくては。

 

 三十秒ほどの時間を置いて、エレベーターは一回に到着する。扉が開いた瞬間に僕らは中に入り、先ほど数字のライトが止まった階のボタンを押す。

 

 

 

「…………」

 

「…………」

 

 

 

 静かな音を鳴らして、エレベーターは上がって行く。胸に目線を下げると、まだ宝石は淡い光を放っていた。見ると、ダイヤさんが握り締める赤い巾着袋からも同じような光が出ている。

 

 この宝石に何が起こっているのかは、まだ知り得ない。でもとにかく、今はあの犯人から子供を助け出すのが最優先だ。

 

 数秒後、僕らを上階に運んでくれたエレベーターは止まり、扉が開く。出た先は、外に面している通路だった。今は誰も住んでいないであろう部屋の扉が等間隔で並んでいる。

 

 

 

「この何処かに隠れてるのか?」

 

「あり得ます。探しましょう、夕陽さん」

 

 

 

 ダイヤさんの言葉に頷いてみせる。それからまた駆け出し、部屋の扉が開いていないか一つ一つ確認して行く。だが予想通り、どの扉も鍵がかかっていて開く様子は無い。

 

 もし、犯人が何処かの部屋に隠れて、鍵を閉めていたとしたら? それではどうやっても見つけ出す事は不可能だろう。そうだったとしても、見つけ出さなくてはならない。あの男の子の命が危険な状態にあるのなら、一刻の猶予も許されてはいない。

 

 

 

「ダメだ、全部の部屋に鍵がかかってる」

 

「そう、ですわね。もしかしたらこの階に止まった振りをして、私達が来る間に別の階に移動している可能性もありますわ」

 

 

 

 一番端の部屋も開かない事を確認し、僕らは息を荒く繰り返しながらそう言い合う。ダイヤさんの考えも十分あり得る。むしろ今はその線が濃厚なんじゃないか、と思い始めて来た。

 

 犯人は僕らがエレベーターを使って追いかけてくるのを予測してこの階に止まり、階段を使って上か下に逃げた。この状況であれば、下に逃げたと考えるのが妥当だろう。

 

 それなら急いでエレベーターで下に戻り、下ってくる犯人を待ち構えるか? いや、ダメだ。それももしかしたら犯人の思うつぼかもしれない。誘拐を働くような輩だ。そう言った頭が切れる人間である、という事を前提に考えた方がいいだろう。

 

 ならどうする。エレベーターを使わずに階段で降りて犯人を追うか。でも、僕とダイヤさんは浴衣を着ているから普段通りには動けない。向こうも子供を連れている、という事を考えれば逃げるスピードは同じか僕らより速いくらい。もしおんぶなんかをしていたらもっと速くなる。

 

 

 

「……っ、どうしよう」

 

 

 

 考えが上手く纏まらず、やるべき事を即決できない。苛立ちを覚え、汗が滴っている前髪を握り締めた。ここで警察を呼んでも、説明している間に犯人は逃げてしまう。だからそれは後だ。この状況で僕らがやるべきなのは、自分達の手であの子供を助ける事。

 

 

 

「どうすれば」

 

 

 

 ダイヤさんは焦るような表情を浮かべながらそう言った。頭の良い彼女でさえも、ここから何をするのが最善であるのかを決めあぐねている。

 

 徒に考えている時間は残されていない。一秒が刻まれる毎に、あの男の子は誘拐犯に何かをされてしまっているかもしれない。

 

 

 

「────っ」

 

 

 

 最悪の状況を思い描いてしまい、頭を横に振ってそのイメージを霧散させた。そんな事はさせるもんか。絶対に、助けてやる。

 

 

 

 ────上に向かって────

 

 

 

「「っ!?」」

 

 

 

 そんな時また、あの声が聞こえる。何処からともなく届く声。僕だけではなく、ダイヤさんにも聞こえている。彼女の反応を見て、それを理解した。

 

 どんなカラクリかは知らない。けれど、この声に従え、と心は訴え続けてくる。正しいか正しくないのかも不明瞭だけど、信じられるものが何も無いのなら、今はとにかくこの声を信じてみよう。

 

 

 

「行こう、ダイヤさん」

 

「はい」

 

 

 

 間もなく、僕らは走り出す。玩具の宝石が付いたネックレスはまだ、光を灯している。

 

 エレベーターの前を通り、先ほどまでいたのとは反対の一番端に外部階段はあった。ここを昇って行けば、犯人は居る。追いつけるかどうかは分からない。でも、行かなくちゃ。

 

 ダイヤさんの前を僕は走る。もともと体力はないから、こんな風に階段を走ったりするのは苦手だ。それを言い訳にする訳にもいかない。もし、ここに信吾が居たら容易く追いつけたかもしれないけれど、それを悔やんでもどうにもならない。今はあるものでどうにかするしかないんだ。

 

 息を切らしながら、僕は階段を上り続ける。でも、犯人の姿を捉える事は出来ない。その形跡すらも、何処にも見当たらない。

 

 走りながら、階段を上る選択が本当に正しかったのかどうか自信を持てなくなった。これで的外れだったら取り返しの付かない事になる。そう考えたら、階段を上る速度が少しだけ速くなった。

 

 

 

「っ! 待ってください、夕陽さん!」

 

「っと、ダイヤさん?」

 

 

 

 そうして三階ほど階段を駆け上がった時、後ろを走るダイヤさんがそう言ってくる。僕は足を止め、後ろを振り返った。

 

 

 

「…………それは?」

 

「恐らく、先ほどの男の子が持っていた、綿あめの綿ですわ」

 

 

 

 階段の途中に落ちていたのは、白い綿あめの欠片。それを拾い、ダイヤさんは見つめている。そうか。たしかに、あの子は空いている手に綿菓子を握っていた。これは多分、犯人と子供がここを通った時に落としたもの。なら、この選択は間違ってはいない事になる。この上に、犯人と子供は居る。

 

 僕らは顔を見合わせ、一度頷き合ってからまた階段を上る。先ほどの声が示した“上”という指示が、どこまでの範囲を指すかはまだ分からない。けれど、止まっていては追いつけない。分からなくても走るのが正しい、と自分に言い聞かせた。

 

 上階に上がる毎に、吹きつける風が強くなる。流れる汗が頬を伝って、顎先からコンクリートに向かって落ちて行く。浴衣の中は汗だくだ。ダイヤさんに借りたものなのに、申し訳ない。そんな意味のない事を考えながら、疲労が蓄積し続ける足を動かし続けた。

 

 

 

「…………行き止まり?」

 

「違います。こちらですわ」

 

 

 

 しばらくして、目の前にあったはずの階段が途切れる。だが、ダイヤさんはすぐに横に続く通路を見つけていた。

 

 先ほどから、ダイヤさんがやけにこのマンションの構造に詳しい気がする。何か理由があるのだろうか。後で覚えていたら訊いてみよう。

 

 短い通路の先に、また低い階段が一つ。その上に、鉄で出来た一枚の扉があった。

 

 

 

「…………」

 

「…………」

 

 

 

 僕らはその前に立ち、肩で息をしながら扉を見つめる。よく見ると、扉の下には一本の割り箸が落ちていた。あれが何を指すのか、頭が良い訳でもない僕でも判断する事が出来た。

 

 この向こうに、子供を誘拐した犯人が居る。そう考えると、少しだけ手が震えた。僕はきっと、怖がっているんだ。得体の知れないものと対峙する時のように、罪を犯す人間と関わる事を恐れている。

 

 家を出る前に花丸と見たニュースを思い出す。数日前、沼津のショッピングセンターで一人の子供が何者かに誘拐されたという事件。ニュースキャスターは今日の花火大会でも誘拐事件が起こる可能性がある為、厳重な警備を行っている、と語っていた。

 

 僕らが見つけたあの男が、ニュースで取り上げられていた犯人と同一人物であるかはまだ分からない。だが、この同時期に同じような誘拐が繰り返されている。その観点からすれば同じである可能性は低くない。それと、ニュースでは単独犯ではなく、グループによる犯行であるとも言っていた。なら、さっきの男はグループの内の一人なのだろうか。

 

 考えようとすれば、色んな事が頭に浮かんでくる。でも、それは全て僕が考えた仮説でしかない。その仮説が本当かどうか。この扉を開ければ、分かるのかもしれない。

 

 

 

「……ダイヤさん、準備はいい?」

 

「ええ。夕陽さんこそ、大丈夫ですか?」

 

 

 

 隣に立つダイヤさんにそう言うと、そんな返事を返される。正直、大丈夫じゃない。こんな怖い事、本当はやりたくない。犯人が何を持っているかもわからないし、もしかしたら、ダイヤさんまで傷つけられてしまうかもしれないのに、それを怖いと思わない筈がなかった。

 

 けど、それではあの子供は救えない。僕が怖気づいてダイヤさん一人を行かせて、彼女が何かをされたら僕はさっきした約束を破ってしまう事になる。

 

 ダイヤさんが危ない時には僕が助けに行く。指切りまでしたその約束は、絶対に破ってはならない。

 

 

 

「行こう」

 

 

 

 自分とダイヤさんにそう言い聞かせて、僕は足を扉の方へと踏み出す。ダイヤさんは少し後ろをついてきていた。

 

 真鍮のドアノブを握り、それを捻る。ぎぃ、と鉄と鉄が触れ合うような音がして、やけに重く感じた扉は開かれた。

 

 僕らは屋上に足を踏み入れる。海の方から届く夜風が、汗に濡れる前髪を揺らした。扉が後ろで閉まる音がした。

 

 

 

 

「…………」

 

 

 

 

 屋上への入り口は僕らが入ってきた扉だけ。そこからは屋上の全方が確認出来る。辺りを見渡しても、犯人らしき人間は居ない。

 

 一番最初に目に飛び込んできた、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()以外は、何も変ったところなんて見受けられなかった。

 

 どうしてあの子供しかいないのか。あの子を攫った男は、何処へ行ったんだ。僕に分かるのは、先ほどまで誘拐されていた男の子が何が起きているのかわからないというような顔で、僕らの方を見つめているという事だけ。

 

 分からない事が多すぎる。でも、あの男の子の近くに誘拐犯は居ない。見る限り変ったところは見られないし、どうやらあの子は無事だったらしい。

 

 僕よりも先に、ダイヤさんが男の子の方へと近づいて行く。それを見て、僕も彼女の後を追った。

 

 

 

「大丈夫ですか? ケガはありませんか?」

 

 

 

 男の子は頷く。こんな状況に居るのに泣かないのは彼が強いからなんだろうか。それとも、よく分からない状況をと飲み込めず、泣く事も出来ないのだろうか。いずれにせよ、元気そうでよかった。

 

 

 

「お父さんかお母さんは一緒に来てるの?」

 

「うん。でも、ママがいなくなっちゃった」

 

「はぐれちゃったのかな?」

 

 

 

 僕の言葉に頭を縦に振る男の子。どうやら母親が目を離した隙に迷子になってしまったようだ。あの人混みの中なら、この子のように迷子になってしまう子供が居てもおかしくはない。

 

 それを狙って、あの男はこの子を誘拐しようとしたんだろう。

 

 

 

「そっか。なら、早くお母さんの所に行こうね」

 

「お姉さんとお兄さんがちゃんと連れて行ってあげますから、大丈夫ですわ」

 

 

 

 少年の前に僕とダイヤさんはしゃがみ込み、彼の頭を撫でてあげた。するとその男の子は手に持っていた何かを、僕らの方に差し出してくる。

 

 

 

「?」

 

「これは、なんですの?」

 

 

 

 男の子の手に握られていたのは、一枚の紙。メモ用紙を千切ったような小さなもの。

 

 どうしてこんなものを僕らに差し出してくるのか。その訳を訊こうとした時、少年は口を開いた。

 

 

 

「綿あめを買ってくれたおじさんがね、ここにくるお兄ちゃんとお姉ちゃんにこれを渡しなさいって」

 

「………………え?」

 

 

 

 わたあめを買ってくれたおじさん。それが、この子を攫った犯人である事は明白だった。でも、その犯人が僕らに何かを渡すよう、男の子に頼んだ? 

 

 なんだよ、それ。一体、あの誘拐犯は何を企んでる。この紙を見れば、それが分かるのか? 

 

 訝しみながら僕は少年から小さな紙を受け取る。すると隣に居るダイヤさんも顔を近づけて来た。それから、そこに書いてある文章を二人で見つめる。

 

 

 

 ────そして、僕らは同時に息を呑んだ。

 

 

 

「…………なんだ、これ」

 

「なんですの、これは」

 

 

 

 そこに書かれていた文章を読んだ瞬間、全身に鳥肌が立つのを自覚した。それだけじゃない。何故か、震えが止まらない。今は夏で気温も高いのに、震えを抑える事がどうしても出来なかった。

 

 気味が悪すぎる。なんだ、何なんだ、これは。なんで、あの男がこんな事を書く必要がある。どうして、僕らにこんなものを見せなくてはならない。

 

 

 

「「────っ」」

 

 

 

 そう考えた時、突然頭が痛み出した。何かに締め付けられるような痛み。ギリギリ、と音が鳴りそうなくらい強い頭痛だった。

 

 隣を見ると、ダイヤさんも顔をしかめて頭を押さえている。彼女も頭が痛むのだろうか。でも、それはなんで。

 

 意味が分からない。分からなすぎる。どう考えても、あり得ない現実ばかりが僕の目の前にはある。

 

 これは夢ではない。それは分かってるのに、これが夢である事を願い続けた。

 

 

 

 夏祭りの夜。花火が上がる直前の事。夢であるのなら、早く覚めてほしかった。

 

 でも、痛みは消えない。そして、僕の手に握られる一枚の紙に書かれている文字も、消えてはくれなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 “キミたちのことはおぼえてるよ

 

 

 

 大きくなったね、ゆうひくん、だいやちゃん”

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ダイヤ、さん」

 

「夕陽、さん」

 

 

 

 僕らは名前を呼び合う。それから彼女の顔を見つめた時、身に覚えのない記憶を僕は思い出した。

 

 

 

 ───夏の夜風が吹きつける屋上。

 

 ───そこから花火を見上げている自分。

 

 ───隣には、綺麗な黒髪をした女の子。

 

 ───遠くから聞こえてくる、祭りの音。

 

 ───手に握られた、玩具の宝石。

 

 

 

 

 

「まさか、君は」

 

「もしかして、あなたは」

 

 

 

 その続きを言った瞬間、近くで光の花が咲いた。眩い光と大きな音。僕らの言葉は、打ち上げ花火に掻き消された。

 

 それでも、僕らは見つめ合う。美しい宝石のような女の子。可憐で、誰よりも綺麗に在ろうとする、一人の生徒会長。

 

 

 彼女の容姿は、夢に出てくる女の子に似ている。

 

 今さらになって、そんな事に気づいた。

 

 

 打ち上がり始めた花火の音が、僕らが居る屋上に響く。距離が地上よりも近いからか、余計にうるさく聞こえた。

 

 色とりどりの花火の色が、ダイヤさんの白い肌に色を付ける。そうして、彼女の事をいつも以上に麗しく照らして魅せていた。

 

 

 

「…………」

 

「…………」

 

 

 

 ダイヤさんは口を閉ざしたまま、手に握っていた赤い巾着袋を僕に見せてくる。 

 

 それからその袋の紐を緩め、中に入っているものを手のひらの上に乗せた。

 

 そしてまた、僕は言葉を失った。

 

 林間学校の夜。二人で探した小さな巾着袋。それに何が入っているのかは、僕は知らなかった。訊ねる事もしなかった。

 

 あの時に訊いていれば、何かが変わったのだろうか。それは分からない。色んな事が起き過ぎてしまった今は、何も考える事などできやしなかった。

 

 

 

 

 

 赤い巾着袋の中身は、僕が持っているものと全く同じ形をした───────玩具の宝石だった。

 

 

 

 

 

「……あなたも同じものを持っているのですね。()()()()

 

 

 

 

 

 花火の音の間を縫って、その声は届いた。もう一度、強い夜風が吹いて、持っていた紙切れが何処かへ飛んで行く。

 

 

 

 僕らは、花火が打ち上がる方向に目を向けた。いつか、こんな場所で花火を見た事があるのを、何故か今になって思い出した。

 

 

 

 それは夢の中だけの記憶である筈だった。でも、たしかに僕は幼い頃、ここと同じような場所で誰かと一緒に花火を見上げていたんだ。

 

 

 

 誰かは思い出せない。思い出せるのは、僕の隣に居る女の子によく似た少女であった事。

 

 

 

 ─────その女の子も、僕と同じ玩具のダイヤモンドを握り締めていた事。

 

 

 

 

 

「………………ダイヤ」

 

 

 

 

 

 夢の中で僕はその子を、そう呼んでいた気がする事。

 

 

 

 宝石の名前をした綺麗な黒髪の女の子。その女の子と僕は、ここと同じ場所で花火を見つめていた。

 

 

 

 胸にぶら下げている玩具の宝石を握り締める。それはまだ、淡い光を放ち続けている。

 

 

 

 

 

 

 

 そして、花火の音が一瞬止んだ時────リン、という鈴の音が聞こえた気がした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 生徒会長は砕けない 

 

 第二章・青春ダイヤモンド 終

 




次話/終焉


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最終章/黄昏ダイヤモンド
終焉


 

 

 

 Monologue/

 

 

 

 

 終わりに始まりなんてない。だって()()はもう、終わっているのだから。

 

 

 ただ、そう言い切ってしまうのは吝かではありません。終わりに始まりを作らなければ、この物語は進められないからです。

 

 

 だから、○は終わりを始めます。これから、この世に存在してはならないものを作ります。

 

 

 この物語の最後を描く為に。

 

 

 これは、哀しい物語。○が描くのは、都合の良いハッピーエンドが訪れるお伽噺(フェアリーテイル)ではありません。

 

 恐らく、最後の物語はこれまでで一番の長さになります。これまでよりもずっと暗い深淵の中に入り込んで行く事へとなります。

 

 耳を塞ぎたくなるかもしれません。思わず○の前から居なくなってしまいたくなるかもしれません。

 

 それでも、あなたはこの物語を聞いてくれますか? 

 

 

 

 ……。……。……。……。……。

 

 

 

 分かりました。

 

 

 それでは、終わりを始めましょう。

 

 

 

 

 

「これは、終焉の物語」

 

 

 

 

 

 自分がどんなに大きな運命を背負っていたのかに気づいても、進み続ける事を選んだ少年と。

 

 

 

 強がりで素直になれないまま、大切な誰かを哀しませた一人の生徒会長。

 

 

 

 二人が織りなす、儚い恋の物語。

 

 

 

 

 

 

 Monologue/end

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 夏が過ぎたある日の午後。数週間前まで漂っていた炎天下の面影は、右を向いても左を向いても見つける事は出来ない。他の仲間達よりも少しばかり遅く生まれた蝉は、来たるべき七日目を迎える日まで、その鳴き声で生きた証を残そうと必死になって木々にしがみついている。その短い生に何の意味があるのか。聞こえてくる忙しない蝉時雨に問い掛けたところで返ってくるものなど、駿河湾沖から吹き付ける爽やかな長月の風くらいしかない。

 

 白露を過ぎ、通学路には朝露が見られるようになった。永い間、酷い暑さに溺れたこの身体は、そんな些細な違いでも涼しさを感じ取ってくれる。

 

 陽が高くなった正午から午後の時間は、相変わらず八月を思い出す茹だるような熱が内浦に訪れるけれど、それも数時間で過ぎ去る。夏休みが過ぎ去って行く事を惜しみながら『帰りたくない』と駄々を捏ねる小学生みたいに、いつまでも時間にしがみついていた真夏の熱気は、季節が秋へと移り変わるにつれて段々と力を弱めていた。

 

 今年の夏はよく夕立が降った。統合先の学校で知り合った青い髪の女の子に言わせると、この街は山がすぐ傍にあるからスコールが降りやすいらしい。乾いた内浦を癒すように降る雨。お寺の自室で勉強をしながら、軒先から滴る透明な()()を眺めるのは良い気分転換になってよかった。

 

 ただ、雨を見ていると厭な事を思い出す。何故かは知らない。理由は自分では分からないのに、灰色の空から降り落ちる雨滴を見つめていると、あの子の事を思い出してしまう。そして気づくと、あの玩具の宝石を強く握り締めている。

 

 高校三年生の夏休みはそんな風に、暑さと雨に気を取られながら過ごして終わった。自分自身には進歩はなく、また、後退する事もなかったと自覚している。……本音を言うと、自信を持ってそう言うのは難しい。どうしてか。胸にぶら下げた宝石に問い掛ける。そこから返ってくるのは無言という名の答え。代わりに答えるのはその宝石に寄り添う僕自身の心。はっきり言えば、動けなかったというのが正しい。

 

 夏休みにあった、沼津の夏祭り。

 

 あの日から前にも後ろにも進んでいない。独りで答えを得る事など、真実に繋がるヒントすら持たない僕には出来る筈がなかった。

 

 船は港を出たのにも拘らず、一向に沖へと向かう事はなく海の上に留まり続ける。帆の張り方さえ知らない。舵の取り方さえも分からない。そもそも、目的地が無いのだからその場で揺蕩う事しか許されない。タダ波に揺られ、海鳥達が羽根休みをする以外に存在意義などない一隻の船。

 

 まるで今の自分はそんなもののようで、考えれば考えるほど錨は海の底へと沈んで行く気がした。そこに居続けたら何れ、底に錨がついてしまうかもしれない。それが例え、水深二千五百メートルある駿河湾の海底であったとしても。

 

 そうやって意味のない事ばかりに思いを巡らせながら夏を越え、今に至っている。校庭の脇にはついこの間、美しい花を咲かせた彼岸花。近くに咲き乱れる鮮やかなその紅色に目を奪われた。彼岸花の花言葉はたしか、あまり良い意味ではなかった筈。

 

 いつの日か、そういった雑学を沢山知っている飴色の従妹に教えられた事がある。ひとつは、哀しい記憶。もうひとつは────

 

 

 

 

 

「何を言っていますの、貴方は」

 

 

 

 

 

 諦め、なんていう切なすぎる意味の花言葉だった気がする。

 

 

 

 

 

(わたくし)の事が好き? 御冗談を言わないでください」

 

 

 

 

 

 由来は、花と葉は共に成長しないから。どれだけ強く望んでも、彼岸花の花は先に開き、葉は遅れて育っていく運命にある。

 

 

 

 

 

「貴方のような人間が、私と釣り合うと思っているのですか? 何もない貴方と、この私が」

 

 

 

 

 

 悲しいけれど、あの赤い花にはそんな意味がある。一緒に生きようとしても美しい花びらには追いつけない。

 

 

 

 

 

「目障りなので、消えていただけないでしょうか。興味のない人間に自己満足をぶつけられる私の身にもなってください」

 

 

 

 

 

 言葉は心を切り裂く。鋭利すぎる、いや、あまりにも硬度の高い宝石で出来た剣が無防備な心に傷をつけ、そこから真紅の血を流す。

 

 

 

 ああ。その色はちょうど、足元に咲いている鮮やかな彼岸花のように、赤く、紅く、朱く。

 

 

 

 

 

「もう二度と、このような意味のない無駄な時間を過ごさせないでください。それと、もう金輪際話し掛けてこないでいただけると助かりますわ」

 

 

 

 

 

 その声が放たれた直後、二つあった影のうち、ひとつが踵を返して何処かへ向かって駆けて行く。一滴の水が宙を舞い、音もなく土の上に落ちた。

 

 やがて足音は消え、美しい生徒会長だけがそこには残っていた。

 

 彼女は立ち尽くしたまま晴れ渡る空を仰ぎ、ポツリと小さな言葉を零す。

 

 

 

 

 

「…………何故、私なのですか」

 

 

 

 

 

 返される言葉はない。近くで一匹の油蝉が鳴き始めたと同時に、生徒会長は顔を下げ、先程の影が去って行った方向とは逆に歩き出す。

 

 その背中は少しだけ寂し気で、何かを物語るような雰囲気を漂わせていた。彼女の姿を見送るだけのこの目では、それが何なのかを見つけ出す事はとうとう出来なかった。

 

 校舎の裏には影はない。初めから何もなかったかのように、透き通る夏の午後の悲哀に満ちた空気だけが、そこには滞留していた。

 

 傍らに咲く彼岸花は何も言わず、去って行った人間を憐れむだけ。それから数秒後に『私の所為ではないわ』と花の声が聞こえた気がした。

 

 君の花言葉は、諦めだというのに。

 

 

 

 

 

「……おー、なかなか派手にやってくれたな、生徒会長さん」

 

 

 

 

 

 隣から拍手と飄々とした声が聞こえてくる。倉庫の影に隠れていた親友は、今はここに居ない生徒会長へ向けてそんな事を言った。

 

 

 

「…………」

 

 

 

 彼に倣うようにしゃがんでいた足を立たせ、校舎の裏に姿を現す。先ほどまであった人影はもう何処にも見当たらない。あの二人が関係のない僕らに気づいている訳もなかった。それもそうだ。

 

 ─────僕と信吾は、ダイヤさんが男子に告白されているところを盗み見ていたのだから。

 

 

 

「いやいや。なんとなく予想はしてたけど、あそこまでぶっ飛んだ振り方をするかね、普通。あいつ、明日から学校来なくなんじゃねぇの」

 

「そうかもね」

 

「他人の告白を見んのも初めてだったってのに、それ以上にやべぇもんを見た気がする。なんか夢に出てきそう」

 

 

 

 信吾は渋い顔でそう言って、恐ろしいというように身体を両手で抱く。気持ちは分かる。僕も今日の夢にさっきの光景が出てきそうな感じがした。

 

 

 

「んでも、やっぱ人気あるんだな生徒会長。これで何人目だっけ?」

 

「たしか、四人目だったと思うよ」

 

「うげ。もう四人も犠牲者出てんのかよ。このままだと卒業までに何人の男子がやられんだろうな」

 

 

 

 そう答えると親友は驚きの表情を浮かべた。

 

 四人、その人数が何なのか。答えはひとつ。生徒会長に告白をして振られた男子の数。昨日まで三人だったものがつい先ほど四人に増えた。僕と信吾はその瞬間を隠れて見ていたという次第であった。

 

 

 

「後で慰めに行かなきゃね」

 

「そうだな。“生徒会長に振られた奴は一週間学校を休む”なんて、嘘くせぇ噂がマジだったのも超ビックリだぜ」

 

 

 

 学校が統合してからおおよそ半年。この時期になると、男子校育ちだった男子生徒もほとんどの女子生徒と分け隔てなくコミュニケーションを取る事が出来るようになっていた。あれだけ統合を嫌がっていた男達が今ではすっかり共学校の生徒になってしまっている。それは僕や信吾も然り。

 

 男女がストレスフリーで学校生活を送る。そんな環境に慣れてくれば()()()()()を考える生徒が出てくるのは自明の理。面倒くさい言い方をしなければ、恋人同士になる男女が出てくるという事だ。

 

 人を好きになる。これに関してはまったくもって不満はない。むしろ人として当たり前の事だと思う。実際に僕自身も想いを寄せる人が居るから、それを肯定しなければ全てが嘘になってしまう。

 

 人が人に恋をして、友達から恋人へと関係性を変える。それは大変喜ばしい事。体育祭の時に感じたあの空気を青春と呼ぶのなら、学生同士の恋愛だってそれに含まれると思う。

 

 けど問題は、そのステップアップの過程で問題が生じる可能性もあるという事。つまり、先程のように告白をした人間が相手に断られたりする事もあるという意味。

 

 普段どれだけ仲が良かったとしても、他人の心なんて見えるものじゃない。片方が想いを寄せていても、もう片方はそうではないのかもしれない。射的で玉が必ず的に当たるとは限らないように、告白が成功しない事も十分あり得る。数分前の光景が良い例だろう。

 

 

 

「…………」

 

 

 

 僕にとっては、少し衝撃が強い出来事だったかもしれない。普通、こういう時は思考回路が雁字搦めになってしまい、考えるべき事が浮かばなくなる。それが普遍的な身体の反応だ。

 

 でも、今は違った。やけに冷静に現状を受け止めている自分が居る。何故だろう。問い掛けても心は黙ったまま、ダイヤさんの辛辣な言葉を何度もリフレインするだけだった。

 

 ダイヤさんに告白していたのは、隣のクラスの男子生徒。もちろん、僕と信吾とは一年生の時から友達である同級生。

 

 

 

 ─────放課後、文化祭の準備をしていた時の事。裏庭で信吾と二人で小道具の作成をしていた時、ダイヤさんがその男子生徒に声を掛けられていたところを見かけた。気にはなったけど、そんな事にまで口を挟む権利なんて僕にはない。そう思って作業を続けようとしたのに、興味を示した信吾は二人をこっそり追跡すると言い出した。

 

 彼一人に行かせる訳にもいかず、多少厭な振りをしながらダイヤさんと男子生徒の後を追った。そして、あの告白の一部始終を僕らは目にした。

 

 ダイヤさんが男子の事を嫌っているのは周知の事実。統合したての四月の頃よりはだいぶマシになったと言っても、まだ鋭く角は立ってしまっている。クラスメイトの男子の言葉を借りるなら、男子に対しては常に硬度が高い状態。時折柔らかくなるときはあるものの、大抵はお硬い生徒会長として振る舞っているのが常だった。

 

 そんなダイヤさんは、男子に告白をされると異常なまでに硬度を引き上げるという噂が、最近になってクラスに流れ始めた。振られた人間は傷心を理由に学校を休むようになる、という話も金魚のふんのようについてまわった。

 

 一人目は隣のクラスの男子。二人目と三人目は二年生。そして、四人目が先ほどの男子。最初の三人は誰一人例外なく、告白の後に学校を休んだらしい。四人目の彼もそうなるのかもしれないが、今は置いておこう。

 

 せめてもの救いは、僕らのクラスメイトの男子がまだ誰もチャレンジしていない事。いや、硬度120%の頃の生徒会長をよく知っている生徒なら恐らく皆、足を踏み留めた筈だ。だってその噂がただの噂ではなく、本当にあり得る事なのではないか、と思うだろうから。事実、僕も多分ダイヤさんはそうするって、心の隅で思ってしまっていたから。

 

 案の定、噂は噂ではなかった。それを、この目と耳でしっかりと確認した。そして認識した頭は同時にある事をイメージしたんだ。

 

 

 

 もし、告白した男子生徒が僕自身だったら、どうなったんだろう、って。

 

 

 

「ゆーひっ」

 

「うわっ、なにさ信吾」

 

 

 

 突然、信吾が頭を荒々しい手つきで撫でてくる。話の都合が悪くなったりする時、彼はよくこうしてくるけど、今はそういうときじゃない。どうしたんだろう。

 

 

 

「大丈夫だよ、お前なら」

 

「……何の話?」

 

「バーカ、皆まで言わせんなっつーの。夕陽が考えてる事を、俺が分かんない訳ねぇだろ」

 

 

 

 意味深な言葉に返事を返すと、今度は指で額を小突かれた。痛い。痛いけど、お陰で少し目が覚めた気がする。

 

 恐らく信吾は本当に僕が考えている事を理解している。だから“大丈夫”なんて言葉をかけてくれたんだ。

 

 ダイヤさんに想いを寄せる僕の気持ちを読みとって、これ以上考えが深いところに墜ちて行かないよう、器用にサルベージしてくれた。

 

 そういうところは本当に信吾らしいと思う。果南さんが好きになってしまう理由もよく分かる。底抜けに優しい親友を持った事に、改めて感謝した。

 

 

 

「……ごめん」

 

「謝んなよ。らしくもねぇ」

 

「でも」

 

「いいから、夕陽は夕陽がやるべき事を考えろよ。決めるんだろ? 今度の文化祭で」

 

 

 

 信吾の言葉に一度頷いてみせる。それは前から決めていた事。先ほどの光景を見たくらいで、その決心を校舎裏に置いて行く訳にはいかない。

 

 

 

「んなら、自信持って行けよ。大丈夫だよ、夕陽なら」

 

「そう、かな」

 

「ああ。これで失敗したら全部俺の所為にすりゃいい」

 

「ふふ、本当にいいの?」

 

「いいぜ。だからそうならねぇように、今はやるべき事をやってくれ」

 

 

 

 信吾はそう言って先に校舎の方へと歩いて行く。その後ろ姿をちょっとの間眺めながら、不安になった自分の心を叱咤した。

 

 信吾の言う通りだ。今はやるべき事だけを考えてやる。それを成さなければ、出来る事も出来ないままになる。今やるべき事は、数日後にある文化祭を最高のものにする事。一生の忘れられない思い出にする事。

 

 

 

 そして、その日に、僕は。

 

 

 

「ほら、早く行くぞ夕陽」

 

 

 

 先に行った信吾がこちらを振り返ってそう言ってくる。それで我に返り、校舎裏から教室へ向かう為に足を一歩踏み出した。

 

 

 

 ────リン。

 

 

 

「…………」

 

 

 

 背後から鈴の音が聞こえ、動かし始めた足を止めて振り返る。

 

 そこには何もない。九月のまだ暑い日差しが創り出した校舎の影に、蝉が鳴く数本の針葉樹。その根もとに咲く鮮麗な紅色をした彼岸花。

 

 何かが、言葉ではない音で大切な事を伝えようとしている。それが分かったから、答える事にする。

 

 

 

「……諦めないよ、僕は」

 

 

 

 その言葉を吐いた途端、蝉の鳴き声がピタリとやんだ。

 

 

 

 まるで、鳴り響いていた交響曲が指揮者の合図で一斉に音を止める時みたいに。

 

 

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 

 

 それから、文化祭に向けた作業を再開する。信吾はまた裏庭での小道具の制作に取り掛かっていた。向こうは人手が足りていたようなので、僕は教室に戻ってきた。

 

 教室はいつもの通り騒がしい。机を後ろに下げて出来た広いスペースの真ん中でプロレスのような何かが行われている。どうして準備の段階であるのにも拘らず上半身裸の男子が数人いるのだろうか。まったくもって意味が分からない。

 

 そしてそれを当然のように受け入れている女子達もどうしたんだ。体育祭が終わった辺りから、男子達の突飛な行動にも女子達は焦りを見せなくなってしまった。四月の頃のあの冷たい目線を注いでやってもいいんだよ? あれをやれば奴らはすぐに黙るだろうから。

 

 鞠莉さんが例の如く『シャイニーッ!』とか言いながらハイテンションでレフリーをしている。どうでもいいけど、あの子はああいう役割が凄く似合うし鞠莉さん自身も好きみたい。

 

 

 

「お帰り、夕陽くん。あっちは手伝わなくていいの?」

 

「ああ、うん。人手は沢山いるみたいだったから、こっちを手伝いに来たんだ」

 

 

 

 教室に入ると男子達のプロレス(笑)を苦笑いで眺めていた果南さんが気づいて声をかけてくれた。いや、最早手伝うどころかあそこに乱入させられそうで嫌になってきたんだけど。文化祭の準備はどうしました? こんな余興をやる予定はない筈だよ。

 

 

 

「そっか。あ、えっと……」

 

「信吾は向こうを手伝ってたよ。呼んでくる?」

 

「い、いいよ別に。何かあったら私が行くから」

 

 

 

 僕が一人で教室に来たのを見て、果南さんはとある男子の姿を探していた。言葉にしなくても何となく分かったのでそう言ってみせると、顔を少し赤く染めながらそんな返事をくれる。普段はボーイッシュな彼女だが、僕の親友の事になると途端に乙女になってしまう。彼らの初心(うぶ)なやり取りを見てニヤケるのが、最近のマイブームとなりつつある。

 

 

 

「それならいいけど。……そうだ、果南さん」

 

「うん?」

 

「ダイヤさん、どこに行ったか分かる?」

 

 

 

 教室には彼女の姿は見えない。裏庭に居なかったので、校舎裏から教室に戻ってきたと思っていたのに。

 

 

 

「ダイヤ? あっちに居たんじゃないの?」

 

「さっきまで居たんだけど、その、途中でどこかに行っちゃったから」

 

 

 

 あの告白の件は誤魔化して果南さんに説明する。あれは誰にも言ってはならない。墓場まで持って行くと信吾と決めた。

 

 

 

「そうだったんだ。こっちには来てないよ。何か用でもあったの?」

 

「いや、そういう訳じゃないよ」

 

 

 

 ならどうしてダイヤさんの事を気にしたんだ、と言ってしまってから気づく。そんな事を言ったら信吾の事を気にしていた果南さんと同じじゃないか。

 

 予想通り、果南さんは得意げに笑いながら僕の顔を見つめてくる。先ほどの仕返しをする、と言ったところか。僕がダイヤさんに惹かれている事を知っている彼女は、たまに信吾と同じような感じでからかってくる時がある。

 

 

 

「夕陽くん。やっぱりダイヤの事、気になるんだね」

 

「…………」

 

 

 

 やっぱりって何だろう。さも当然の事のように言ってるけど、果南さん的には定型的な出来事なのだろうか。僕には彼女の思惑が分からない。

 

 

 

「図星でしょ。えへへ、夕陽くんは可愛いなぁ」

 

「果南さん。あんまり意地悪するとこの写真あげないよ」

 

「ごめん。もうしないからちょうだい」

 

 

 

 右手をこちらへ差し出しながら、綺麗な青い髪を下げてくる果南さん。教室で作業しているクラスメイトの数人が何事か、という目で僕らの方を見ている。無理もない。

 

 僕の手にはスマートフォン。そのディスプレイに映っているのは、信吾がピンク色のナース服を着させられている写真。ついこの間、男子達の定例会(信吾の女装作業)で撮った一枚だ。

 

 最近、というか結構前から果南さんは信吾の女装を見るのが好きだったようで、こうして隠し撮りした写真をこっそりあげたりしている。それをあげる代わりにダイヤさんの昔話を聞かせてもらうとか、他にも色々取り引きも出来たりするので僕としては願ったり叶ったり。信吾にばれたら間違いなく怒られるだろうけど、それは気にしないようにしよう。

 

 あまりに潔い謝罪だったので無条件に果南さんを許し、その写真を彼女の携帯へ送信した。果南さんは画面を食い入るように見つめている。顔が真剣だ。恐らく今の彼女は自分の世界に入ってしまっているので、あまり邪魔をしないようにしてあげよう。

 

 

 

 そんな事をしていると、教室の後ろの扉から探していた女の子が入ってくる。

 

 

 

「…………」

 

 

 

 ダイヤさんはいつもと変わらない凛とした表情と佇まいでこちらに近づいてくる。先ほどの恐ろしく鋭利だった一面は、もう影も見受けられない。

 

 ならば、気にしていないのか。それはない。あれは気にしていないように振る舞っているんだ。そうじゃなかったらおかしい。人の心はこんな短時間に感情の裏面を表に返す事は出来ない筈だから。

 

 それが分かるのなら触れないでいてあげればいいのに、僕の足は勝手に彼女の方へと近づいて行く。特に言いたい言葉がある訳でもない。

 

 

 

 ただ、ダイヤさんと話をしたかった。

 

 

 今の僕が思うのは、それだけだった。

 

 

 

「ダイヤさん」

 

「夕陽さん。どうかしましたか?」

 

 

 

 声を掛けると、僕よりもほんの少し背の低い彼女は顔を見上げてくる。

 

 美しい宝石のような深碧の両眼。そこにはたしかに僕が映っている。それを自覚しただけで、何かが満たされるような気がした。

 

 あんな光景を見た後に、何を言えばいいのか。あまり気の利いた事を言ってしまえばあの場に僕が居た事が彼女に知られてしまう。それはいけない。

 

 なら、何を言おう。そう考えた時、すぐに答えは浮かんで来た。

 

 どうして彼女に声を掛けたのか。それは、ダイヤさんに僕を見ていてほしいから。他の誰かではなく、()()()()()()()()()()()()という気持ちの表れだった。

 

 そう思ってしまったから大した意味もなく声を掛けた。だから言うべき事は最初からなかったんだ。

 

 

 

「ううん。なんでもない」

 

 

 

 そんな風に誤魔化して、顔を綻ばせてみせる。ダイヤさんは呆れたような笑みを浮かべて血色の良い唇を開いた。

 

 

 

「変な夕陽さんですわね」

 

 

 

 僕らの間にある常套句。意味のない会話にありきたりな言葉。

 

 いつまでも、こうして彼女と話が出来る時間が続けばいいのに。

 

 そう願っても、季節や時間は止まってはくれない。ずっと同じではいられない。

 

 八月が過ぎ、九月が来て鮮やかな紅色の彼岸花が咲くように、全ては変わっていく。それと同じでこの心にあるダイヤさんに対する感情も、心の中に留めておく事は出来ない。

 

 蕾のままでいる一輪の徒花に、いつかは許しを与える時が来る。咲いてもいいのだと、自分自身に言い聞かせる瞬間が必ずやってくる。

 

 だからその日まで、この時間を大切に握りしめていよう。

 

 たとえ、花が咲く前に枯れてしまったのだとしても、蕾だった頃の思い出を残していられるように。

 

 

 

 開いた窓から教室に風がそよりと流れ込む。目の前に立つダイヤさんの艶やかな黒髪が揺れる。

 

 

 

 それを見て胸が苦しくなり、首に掛けた玩具の宝石に手を伸ばそうとした。

 

 

 

 でも、何にも触れる事無く、その手を下げた。

 

 

 

 僕はもう、()()()()()()()()()()()

 

 

 

 硬いのか柔らかいのか分からない玩具の宝石(ダイヤ)は、僕の胸に寄り添ったまま、永い眠りについているようだった。

 

 

 

 

 

 多分、それは眠りながらいつかの夢を見ている。

 

 

 

 

 

 誰かと寄り添いながら、同じ宝石を握り締めていた────あの日々の夢を。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ────最終章 黄昏ダイヤモンド────

 

 





次話/文化祭のミーティング、ですわ


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文化祭のミーティング、ですわ。

 

 

 ◇

 

 

 

 夏休みが明けて、学校生活のサイクルに身体と頭が慣れ始めたある日の事。六月にあった体育祭の時と同じように、クラスメイト全員でミーティングをすると信吾が言い出した。九月の中旬にある文化祭についてみんなで話し合いたいとの事。イベント事には異常に熱くなる信吾の性格を分かってきたクラスメイト達は、今回もその提案に乗ってくれた。

 

 長い時間を同じ箱の中で過ごして来たからか、クラスの団結はさらに固いものになった。あの灼熱のように熱かった体育祭で優勝してから、この三年一組は完全に纏まった感じがする。この感覚を持っているのは恐らく僕だけではないだろう。

 

 いつも通りに授業をこなし、時は放課後。クラスメイト全員は自分の机の椅子に座りながら話し合いが始まるのを待っている。ほとんどの部活動が最後の大会を終えた為、大抵の生徒はすぐに家に帰るのが最近の流れになっていたので、こうして放課後に残っているのは何だか久しぶりな気がした。

 

 

 

「────よし。全員揃ったな」

 

 

 

 毎度恒例の台詞から始まる話し合い。僕たち男子は飽きるほど聞いているけれど、女子生徒達も段々慣れて来たみたい。

 

 

 

「それでは、話し合いを始めますわ。書記は──」

 

「僕がやるから任せてよ」 

 

「では、夕陽さん。お願いいたしますわ」

 

 

 

 例の通りに教壇にはまとめ役の信吾とクラス委員長のダイヤさん、そして書記である僕が立っている。この役割も定着してきたようで何となく嬉しい。書記なんて誰がやっても同じだろうけど、敢えて僕を選んでくれるのなら喜んで引き受ける。字が上手いと褒められるのも嫌な気はしないし。

 

 クラスメイトが全員いる事を確認してから、信吾は口を開く。

 

 

 

「今日は文化祭についてのミーティングだ。ま、今回は体育祭の時みたいに勝ち負けがある訳でもねぇし、ざっくばらんにみんなで何をやるかを決めようぜ」

 

「本日はクラスの出し物を二種類決めますわ。何でも良いのでアイデアを挙げてください」

 

 

 

 信吾とダイヤさんが概要を簡単に説明する。するとすぐにクラスメイトの手が上がった。

 

 

 

「ダイヤー、質問がありマース」

 

「鞠莉さん。どうぞ」

 

 

 

 手を上げたのは鞠莉さん。何やら気になる事があるらしい。というか僕も気になってる事がある。見るとクラスメイト全員、魚の小骨が喉に引っかかったような顔をしているので同じ事を考えていると思った。

 

 

 

「どうして今年は出し物が二つなの? いつもはひとつだったでしょ?」

 

「ああ、たしかに。そこんところどうなの、生徒会長」

 

 

 

 鞠莉さんの疑問はやっぱり僕が感じていたものと同じ。クラスメイト達も頭を頷かせているところから抱えている疑問はみんな一緒だったみたいだ。

 

 普通ならクラスでの出し物はひとつ。ああ、でも僕らが居た男子校の文化祭は少し違っていた。普通に教室でするアトラクションや喫茶店はもちろんの事、もうひとつ例外的な出し物が存在した事を思い出した。まさか。

 

 

 

「私も何故かは分かりませんが、今年は普通の出し物の他に、ステージの出し物を各クラスで挙げるよう実行委員から言われましたの」

 

「「「「ああ」」」」」

 

 

 

 ダイヤさんの訝しむような言葉に男子達が全員納得の頷きをみせる。そんな光景を見た女子達は首を斜めに傾げている。どうやら予感は的中したようだ。またもや僕らの男子校にあったシステムを輸入してきた輩が居るらしい。今回は騎馬戦みたいに危険なものでもないけど、それなりに面倒なもの。

 

 

 

「どういう事?」

 

 

 

 椅子に座って腕組みをしている果南さんが訊ねてくる。それを聞いた信吾が小さなため息をついてから説明を始める。

 

 

 

「簡単に言うと、劇でもバンドでも芸でも何でもいいから、クラス毎で何かしらの出し物をするんだよ。そんで、一番盛り上がったクラスには景品が貰える」

 

「シンゴ、どうしてそんなに悲しい顔をしてるのデース?」

 

「ああ。ちょっと去年の記憶を思い出してな。あんまり気にしないでくれ」

 

 

 

 簡潔に内容をまとめた信吾が窓の外に視線を向けていた。分かる。去年のあれはなかなか厳しいものがあった。軽音楽をやっているクラスメイトの男子が奇抜なハードロック・ビジュアル系バンドで攻めようとか言い出し、それに混ぜられた信吾は大変な目に遭っていたから。ステージの上でボーカルとして歌を歌いながらシャンプーをする人間(信吾)を生まれて初めて見た。人は多分、ああいうものを黒歴史と呼ぶのだろう。あの時の写真は信吾のお願いで全て灰にした。一枚だけこっそり持っているけど、あれはいつか果南さんにあげる事にしよう。

 

 

 

「そういう事でしたの」

 

「そうそう。なら、まずは教室でやる出し物を決めようぜ」

 

 

 

 気を取り直した信吾はクラスメイト達にそう投げかける。すると近くの席の生徒同士で話をし始めて教室は少し騒がしくなる。

 

 そんな光景を教壇の上から眺めながら、僕も何をしたいか考えた。

 

 言わずもがな、高校での文化祭はこれが最後。それを良い思い出で終わらせる為に何を選ぶか。どうせならありきたりなものではなくて、ちゃんと記憶に残るようなものがいい。

 

 いつか大人になった時にふと思い出して、あの時は楽しかった、と心から思えるような時間を創り上げたい。そうしたいと願えるのは、この教室で過ごす日々が本当に楽しいものだから。

 

 いつまでもみんなで一緒に笑っていたい。男子校時代も楽しかったけれど、僕は今が一番良いと感じている。最初から創られてあった関係性ではなく、ゼロから創り上げたこのクラスの雰囲気。それを大切に思わない訳にはいかない。このクラスメイト達と最高の思い出を創り上げる為なら、どんな事でも出来る気がした。

 

 このまま卒業する事が出来たらそれは本当に喜ばしい事。……でも、このままでは居られないのもちゃんと分かっている。前に進まなくてはならない。今、手のひらにある何かを自らの手で砕き、新しいものを創り出さなくてはならない。

 

 もしそうなった時、僕は僕のままでいられるのだろうか。このクラスも、素敵な状態のままで残っていてくれるのだろうか。

 

 

 

「夕陽さん?」

 

「っ。どうしたの、ダイヤさん」

 

 

 

 ぼんやりと考え事をしていると、隣に立っていたダイヤさんが不思議そうな表情を浮かべながら顔を覗き込んできた。あまり人がいる時に考え事をしないと前に決めたのに、うっかりそれを破ってしまった。反省しよう。

 

 

 

「いえ、何やらぼーっとしているように見えましたので、声を掛けただけですわ」

 

「ごめんごめん。何をやろうかなー、って考えてたらぼんやりしちゃってた」

 

「しっかりしてくださいね。これが最後の文化祭なのですから」

 

 

 

 ダイヤさんにそう言われ、一度頷いてみせる。そうだ。これが最後の文化祭。今はそれを成し遂げる事だけを考えよう。後の事は終わってから考える事にする。

 

 

 

 本当にそれでいいのかは、僕にはまだ分からない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「────で、何個か候補が挙がった訳なんだが」

 

 

 

 教卓の前に立つ信吾が黒板の方を振り向き、僕がチョークで書いた文字を見つめる。三十分ほどの間でやりたいものをみんなに挙げてもらい、そこから多数決をして最終的に二択まで絞られた。

 

 没になった出し物の中には、定番の飲食系やお客さん体験型のアトラクションなんかがあった。アクアリウムとかプラネタリウムとか、なかなかセンスの良いものも飛び出して来たけど、難しいという事でダメになった。本音を言うと、どうやってやるのか少し見てみたかった。あと、新日本プロレスショーとか挙げたの誰。誰の徳になるんでしょうかそんなもの。やったらやったでコアなファンが出来そうな気がするのは僕だけだろうか。

 

 そうして人気が出そうな二つが残った。僕としてはどちらも楽しそうで良いと思う。

 

 若干一名、死ぬほど嫌そうな顔をしている男が居るけれど。

 

 

 

「……“お化け屋敷”と“男装&女装喫茶”。とりあえず二つ目のアイデアを出した奴、表に出ろ」

 

 

 

 候補を読み上げた信吾は眉間に皺を寄せながら、クラスメイト達の方を向く。何故か男女のほとんどがキラキラした目で信吾の事を見つめていた。ああ、もうこれ決まったも同然じゃないの。むしろお化け屋敷は信吾が逃げ道を作る為に残した感じも否めない。

 

 

 

「では、この二つのどちらをしたいか最後に多数決を取りますわ。お化け屋敷が良い方、挙手をお願いいたします」

 

「おい、ちょっと待てお前ら」

 

 

 

 ダイヤさんの声に上がる手は一本。教卓の前に立つ、僕の親友の腕だけが天井に向けられている。

 

 

 

「次に、男装&女装喫茶が良い方」

 

「「「「「はーいっ!」」」」」

 

「頼むから冗談だと言ってくれ……っ!」

 

 

 

 信吾を除いた全員の腕が上がる。ダイヤさんまでも手を上げていたのは少し驚きだったけど、何となく人気が出そうな出し物なので納得してくれたのかもしれない。その原因になってくれているのは、教卓に突っ伏して涙を流す橘信吾くん。恐らく彼が女装をしてメイドをやれば、この教室は沢山のお客さんで埋め尽くされる事だろう。女子にも男装が似合う果南さんが居るし、これ以上ない選択だと思う。

 

 

 

「全会一致のようですので、教室での出し物は男装&女装喫茶に決定いたしますわ」

 

「「「「「賛成っ!」」」」」

 

 

 

 生徒会長の言葉にクラスメイト達は揃って明るい声を返す。一人だけ手を上げてなかった男は居たけど、ダイヤさんは無視する事にしたみたいだ。頑張ってね信吾。この教室に来るお客さんはみんな信吾目当てで来るだろうから、休む暇なんてないと思うよ。

 

 一つ目の出し物はすんなりと決まってくれた。続いてステージの出し物を決める事にしよう。

 

 

 

「…………いや、ちょっと待ってくれ」

 

 

 

 だが、往生際の悪い男が待ったをかける。もういい加減諦めればいいのに。絶対に覆らない事は確定してるんだからさ。

 

 

 

「橘さん。何か言いたい事でもあるのですか?」

 

「あるよ、つーか大ありだ。お化け屋敷がダメな理由を誰か教えてくれ」

 

 

 

 ダイヤさんが問い掛けると、信吾はそんな事を言い出した。言葉を聞いたクラスメイト達は全員『はぁ?』みたいな顔をしてる。気持ちは分かるけど、あんまり虐めないであげて。

 

 

 

「シンゴ、往生際が悪いデース。ジェントルマンらしくしてくだサーイ」

 

「何とでも言え。これ以上新たな黒歴史を作る訳にはいかないんだっ」

 

「もう、シンゴったら我がままなんだから~。果南、お願い」

 

「え、私?」

 

 

 

 歯切れの悪い信吾に痺れを切らした鞠莉さんは、何故か果南さんにバトンタッチした。反応からして、果南さんも何をすればいいのかイマイチ分かってないようだった。だが。

 

 

 

「イエースッ。こういう時はガールフレンドである果南から言ってあげた方が効果があるに決まってマース! みんなもそう思うでしょーッ!?」

 

「「「「「イエースッ!!!!!」」」」」

 

 

 

 鞠莉さんのハイテンションな問い掛けを聞いて、威勢の良い声とともに拳を突き上げるクラスメイト一同。この一体感は見ていて非常に気持ちが良い。特に信吾と果南さんが絡むとこのクラスは異常な一体感をみせる事に最近気づいた。

 

 夏休みが明け、二人が付き合い始めた事は間もなくクラスに知れ渡った。ばらしたのは他でもない鞠莉さんなんだけど、特に悪びれる様子もなくいつも通り『シャイニーッ!☀』とか言ってた。

 

 前々から応援していたクラスメイト達は信吾と果南さんを温かく祝福。恥ずかしそうに真っ赤な顔をしてお互いを気にし合う二人を見て、数人の男女が心臓を押さえながら倒れたあの事件はもう忘れよう。夏休み明けの学校初日は、初っ端からそんなハートウォーミングな出来事から始まった。

 

 恋人同士になったからといって、二人の距離感はあまり変わった感じはしない。普通に話をしているのを見ているとむしろこっちの方がドキドキしたりニヤケてしまう。どうでもいいけど、信吾と果南さんが絡んだ時の尊さは異常。二人とも純粋(ピュア)な心の持ち主なので、客観的に眺めていると邪気のある精神が浄化される感じがする。

 

 クラスメイト達もみんな二人を優しい目で見守っていた。たまに尊さに耐え切れず倒れる生徒が居るのは問題だけど、それはまた別の話。ここまで周りに愛されるカップルも居ないと常々思う。

 

 そんな二人を見て、素直にうらやましいと思った。嫉妬をする訳じゃないけれど、幸せそうな二人を見ていると、僕もそうなってみたいって思わずには居られなかったんだ。

 

 

 

「…………」

 

 

 

 果南さんが黙って席を立つ。クラスメイト達の目線が彼女の鮮やかな青い髪に注がれる。信吾を説得する何かを言おうとしているのか。でも頬がほんのり赤いのはどうしてだろう。

 

 果南さんは少しの間、何かを悩むような顔をしてから、教卓の前に立つ信吾の事を見つめた。そうして彼女はこちらへと歩いてくる。その姿を見て、信吾は口を閉ざして真剣な表情を浮かべていた。

 

 教室がシン、と静まり返る。廊下からは生徒の話し声、窓の外からは鳴く蝉の声が聞こえて来た。

 

 

 

「果南……?」

 

 

 

 静寂の中、信吾が口を開く。机と机の間を通って、教壇までやって来た果南さん。顔を俯けている為、彼女の表情は読み取れない。

 

 どんな方法で信吾を説得するのだろう、と多少の期待を込めながら彼女の横顔を見つめる。ダイヤさんは綺麗な黒髪を指先で弄りながら青い髪の女の子の事を眺めていた。

 

 この教室の中だけが世界から切り離されたのではないか、という錯覚に陥る。そうなってしまうほどに、美しい静寂(しじま)が此処にはあった。呼吸音すら聞こえない。耳を澄ませば誰かの心音が聞こえてくるんじゃないか、と思ってしまうほどに静かな空間。誰一人として言葉を発する者は居ない。

 

 

 

「…………やだ」

 

「え?」

 

 

 

 壁に掛けられた時計が刻む秒針の音が九つほど鳴った時、青い髪の女の子は遂に口を開いた。だが全ては聞き取る事が出来なかった。

 

 そして、果南さんは顔を上げて可愛らしい唇を開き、目の前に立つ恋人へと言葉を放つ。

 

 

 

「お、お化け屋敷……やだ」

 

「…………」

 

 

 

 静けさの中に、そんな短い言葉が零される。否、言葉だけではない。僕の目の中に入ってきたのは、顔を恥ずかしそうに朱色に染めながら上目遣いで信吾を見つめる果南さん。いや、ちょっと待ってほしい。なんだ、あれは。いつもは大人っぽい雰囲気を醸し出しているあの果南さんが、あんな子供のようなあざとい表情をしている……だと?

 

 あまりの破壊力に自分の目と耳を疑ってしまった。ああいうのを巷ではギャップ萌えというのだろうか。うん、あれはダメだ。僕でさえもうっかり卒倒しそうになってしまった。正面から直視していたら間違いなく倒れていた自信がある。表情を見ていない筈の男子数人も、机の上に突っ伏しながら胸の辺りを掻き毟っていた。無理もない。

 

 その威力を込めた言葉と表情を、真正面から至近距離で食らった男一名。彼は間違いなく倒れて保健室送りになる、と思っていたのだが。

 

 

 

「────く、っ」

 

 

 

 信吾は顔を真っ赤にしながらもなんとか耐えていた。めずらしいこともあるもんだ。多分だけど、果南さんのおねだりの破壊力よりも女装する嫌さ加減の方が僅かに上回ったのだろう。しかし、確実にダメージは与えられている。あと一押しで彼は倒れる筈だ。

 

 そう思っていると、後ろの方の席から追撃が飛んでくる。

 

 

 

「果南は昔っから暗い所やお化けがダメなのデース。すぐに『こわい~』ってハグしてくるんだから~。ね、ダイヤ」

 

「そうでしたわね。恐らくルビィよりも怖がりですわ」

 

「──────もう無理だ」

 

「「「「「信吾おおおおおおおッ!!!」」」」」

 

 

 

 信吾が鼻血を流しながら倒れた。大体予想通りの流れなので、全然不思議じゃない。

 

 果南さんは倒れた信吾を見ながら苦笑いをしている。全てではないだろうけど、少し信吾をからかったのが彼女の表情を見て分かった。仲が良くて僕も安心するよ。

 

 ダイヤさんは足元に転がる信吾を生ごみを見つめるような目で見下げてる。可哀想だけど、まぁ良いや。

 

 そんなやり取りを経て一つ目の出し物が“男装&女装喫茶”に決まった。どうなるのかはまだ分からないけど、それなりに楽しそうなので期待して準備をする事にしよう。

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

「────よし。気を取り直していこう」

 

 

 教卓の上に両手を乗せて信吾が真面目な顔をして改めてそう言った。しかし、両方の鼻穴にはティッシュが詰まっているので威厳も何もあったもんじゃない。信吾へと向けられるクラスメイト達の目がどことなく冷たいのは気のせいじゃないだろう。

 

 

 

「次は、ステージでの出し物ですわね。どうしますか?」

 

「うーん。これについてはジャンルの幅が広いからなぁ」

 

 

 

 ダイヤさんの言葉に、信吾が腕組みをしながら答える。

 

 

 

「全員でやる必要もないんだよね、たしか」

 

「ええ。渡されたプリントには各クラスでひとつの出し物をやればいい、としか書いてありませんので、人数制限はないようですわ」

 

 

 

 そう言うと、ダイヤさんが概要が記されているプリントに目を落としながら答えてくれた。信吾が嘆いたように、この出し物については毎年頭を悩ませるのがお馴染みのパターンだった。この歳になって学芸会のような劇をしたりするのもいまいちモチベーションが上がらないし、脚本を考えたり小道具を用意するのも時間がかかる。かと言って数人でお笑いライブなんかをするのも迫力に欠ける。

 

 前の男子校では純粋なクオリティの高さよりも、如何に奇抜な出し物をするかで勝敗が決まっていた気がする。だから記憶に残っているのは男達が法律的にヤバくなるギリギリのラインで様々な芸を披露する姿。

 

 あれを文字にしてしまうと、この作品のタグに新しい赤文字を増やす事になるので止めておく。いったい何を考えてるんだろう、僕は。

 

 

 

「ならとりあえず、教室でやる出し物を担当する奴らとステージの出し物に出る奴らで分かれるか」

 

「そうですわね。偏りが出てもいけませんので、それは良いと案だと思いますわ。皆さんはどうでしょうか」

 

 

 

 ダイヤさんが問い掛けると、クラスメイト達はみんな頭を縦に振った。

 

 

 

「じゃあそんな感じで行こうぜ。そんで、問題は何をやるかだよな」

 

 

 

 信吾がそう言うけど、教室の出し物とは違って積極的な意見は飛んでこない。

 

 何か無いかな、と思いながら隣に立つダイヤさんの顔を見る。すると何故か目が合ってあからさまに逸らされた。何かいけないことでもしてしまっただろうか。

 

 クラスメイト達は話し合いをしたり、黙って腕組みをしたりしながらアイデアを考えてくれている。時々これがいいんじゃないか、という言葉も飛んでくるようになったけど、どれもしっくりこない。

 

 せっかくだから全員の記憶に残るものがいい。それはもちろん良い意味で。男子校時代のあんな黒歴史に残るような出し物は誰も期待していない。

 

 そう考えている時、一人のクラスメイトの手が上がった。

 

 

 

「ダイヤーっ。ベリーグッドなアイデアを思いついちゃいましたーっ!」

 

「鞠莉さん? それはなんですの?」

 

 

 

 鞠莉さんが大きな声でダイヤさんにそう言う。他の生徒達も彼女の声が気になったようで、喋る事を止めて鞠莉さんへと顔を向けていた。

 

 金髪の女の子は立ち上がり、太陽のような笑顔を浮かべて教壇の方を見つめている。何か相当良い案を思いついたみたいだ。何となく鞠莉さんの表情(ドヤ顔)を見ていたらそれが伝わって来た。

 

 

 

「それはね~……」

 

「「「「「それは?」」」」」

 

 

 

 鞠莉さんは少しの()()を作り、また輝くスマイルを浮かべて口を開いた。

 

 

 

「────スクールアイドルデースッ!!!」

 

「「「「「いいね!!!」」」」」

 

 

 

 彼女の高い声に、めずらしく女子生徒達だけが反応をみせる。僕を含めた男子生徒達は首を傾げて鞠莉さんの事を見つめた。

 

 その言葉を聞いた途端、ダイヤさんが小さく『ぴぎっ』と言ったのが聞こえた気がしたけど、気のせいかな。

 

 

 

「スクールアイドル?」

 

「イエースッ。正真正銘、あのスクールアイドルを()()やるのデースッ!」

 

 

 

 鞠莉さんの言葉に疑問を投げた信吾。だが、その返事を聞いて新たな謎が生まれる。

 

 

 

「“また”ってどういう──」

 

「あああああっ! 待って待って言わないで鞠莉っ!」

 

 

 

 信吾が再度訊ねようとした時、果南さんがダッシュで鞠莉さんの席まで近づいて彼女の口を手で塞いだ。見ると顔がこれでもかというほどの赤くなっている。どういう事だろうか。

 

 ジタバタしている鞠莉さんを押さえつける果南さんの事を眺めながら、訳を知っていそうなダイヤさんの方に目を向けた。

 

 そして、僕はまた赤いものを見つけた。

 

 

 

「…………っ」

 

「だ、ダイヤ、さん?」

 

 

 

 僕の隣に立つ生徒会長も、顔を紅潮させて鞠莉さんの事を睨みつけていた。ちょうど果南さんと同じくらいの色の濃さ。でも今ある問題はそこではなく、どうしてダイヤさんまで顔を赤に染めているのかという事。

 

 女子達は全員訳を知っていそうな表情をして、三人の事を見つめている。見当もつかない僕達男子は首を傾げる事しか出来ない。一体どういう事なんだろう。

 

 

 

「終わりっ、今日の話し合いはここまでにしよ、信吾くんっ!」

 

「……なんでそんなに焦ってんの、果南」

 

「いいから! 言う事聞いてくれないと一緒に帰ってあげないからねっ!?」

 

「よし、解散。みんな気を付けて帰れよ」

 

「ちょっと待ってよ信吾……」

 

 

 

 強制的に話し合いを終わらせようとしてくる果南さん。そして彼女の意見を鵜呑みにする信吾。しかし、それはいただけない。どんだけ果南さんに甘いんだよ、君は。果南さんが皆まで言う前に食い気味で解散宣言をしていたくらいだった。そんな親友の姿を見て、思わずため息を吐いてしまった。

 

 だが男子も女子も、ここで話を終わらせる事には反対のようだった。誰一人として席を立つ者はいない。それはそうだ。こんな中途半端な感じで終わらせたら気になって夜も眠れない。このままダイヤさんがおかしな反応をみせている意味が分からなかったら、本当に眠れなくなってしまいそう。

 

 そう思って隣に立つ生徒会長へ訊ねてみようとした時、僕よりも先にダイヤさんは口を開いた。

 

 

 

「か、果南さんの言う通り、本日はここまでにします。各々、次の話し合いまで案を考えておく事。以上ですわ」

 

「あ…………」

 

 

 

 生徒会長はそう言ってから頭を下げ、鞄を持って足早に教室から出て行く。クラスメイト達は全員口を閉ざして、ダイヤさんが出て行った前のドアへと視線を向けていた。

 

 あの子が終わらせると言ったのだから、それに従わない訳にはいかない。クラスメイト達は様々な感情を表情に浮かべながらも、諦めるように席を立ち出した。

 

 そんな中で、僕はさっきまで隣に居たダイヤさんの顔を思い出していた。どうしてあの子はあんな風に恥ずかしがっていたのか。

 

 分からないけれど、問い掛ける本人が居ないのだから仕方がない。気にはなるけど、それはまた明日以降の楽しみとして取っておく事にしよう。

 

 

 

「帰るか」

 

「そうだね」

 

 

 

 そうして、文化祭に向けたミーティングは終わったのだった。

 

 





次話/Aqours


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Aqours

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

「「アクア?」」

 

「イエース。それが、私達のグループの名前だったのデース」

 

 

 

 秋の高い空には一匹の鳥が気持ちよさそうに旋回している。この頃、最高気温が三十度を越える日が少なくなり、内浦には夏の香りがしなくなってきた。背が低かった彼岸花も成長してきたようで、通学路や学校の敷地内に鮮やかな色を添えていた。この街には何となく青が似合うけれど、そこで見る紅色もなかかな風情があって悪くない。長浜城跡地に上ると青い海を見下ろしながら咲く綺麗な彼岸花を見る事が出来るのでおすすめ。下校途中、花丸と寄り道をした時に見つけたあの景色は本当に素敵だった。今度信吾にも教えてあげよう。

 

 時は良く晴れた昼休みの事。僕らは屋上に集まり、昼ご飯を食べていた。僕と信吾、果南さんと鞠莉さん。本当はダイヤさんも居る筈だけど、今日は生徒会の仕事で遅れてくるらしい。

 

 鞠莉さんは何やら話があるようだったので、僕は花丸特製のお弁当を箸でつつきながら、その話とやらを聞いていたのだった。

 

 

 

「つまり、」

 

「浦の星でスクールアイドルをやってた、って事でいいの?」

 

 

 

 鞠莉さんと果南さんは頷く。果南さんにあっては顔を両手で覆いながら。鞠莉さんが話している最中、彼女は終始そうやって顔を隠していた。内容を知ったらそうなってしまう気持ちも納得出来たけれど。

 

 

 

「私と果南とダイヤ。三人で一年生の時少しだけやってたの。ね、果南」

 

 

 

 鞠莉さんの言葉に顔を隠したまま、うんうんと頭を縦に振る果南さん。たしかに意外だったけど、そんなに恥ずかしいのだろうか。当時の彼女達を知らないから何とも言えない。

 

 信吾は驚いた表情をして、向かいに座る果南さんの事を見つめている。あの話し合いの時に隠そうとしていた話題がそんなものだとは思わなかった、と顔に書いてある気がする。

 

 

 

「スクール、アイドル……」

 

 

 

 僕は、それが何なのかをよく知っている。というか、今どきの学生なら知らない人の方が少ないだろう。普通の人達よりはそれについて詳しい自信があるけれど、今は置いておこう。

 

 スクールアイドル。ここ四、五年で女子高生の間で爆発的に流行り出したモノ。アイドルといってもテレビに出てる芸能人がやるものではなく、普通の高校生で結成されたいわばローカルアイドル的な存在。年に二回、“ラブライブ”と呼ばれる大会が開かれ、全国大会は東京の秋葉ドームを会場にして行われるほど認知度が高い。

 

 全国的に見ると絶対数も多く、普通の部活として練習しているグループもある。だから、この浦の星にスクールアイドルがあった事も別に不思議という訳でもない。違和感があったのは、それをやっていたというメンバーの方だ。

 

 見た目が華やかで運動が得意な鞠莉さんや果南さんがスクールアイドルをやっていたのは頷ける。だが如何せん、もう一人のメンバーに問題がありすぎる気がする。失礼かもしれないけど、どうやっても想像が出来ない。

 

 

 

 ────あのダイヤさんが、スクールアイドルをやっていた?

 

 

 

「でも、色々あってすぐにやめちゃったの」

 

「? 色々って?」

 

「ンフ? それを訊いちゃうユーヒはやっぱりSデース」

 

 

 

 鞠莉さんの言葉に違和感を覚え、訊ねてみるとそんな事を言われる。そこまでおかしな質問だっただろうか。

 

 

 

「どうしてやめたんだ?」

 

「あーもう、シンゴまで。……そんなに、聞きたい?」

 

「鞠莉」

 

 

 

 便乗した信吾も訊ねると鞠莉さんは軽い調子で肩をすくめ、少しだけ間を空けてからそう言ってきた。だけど、隣に座る果南さんは顔を覆っていた手を下ろし、真面目な顔をして鞠莉さんの事を見つめている。

 

 何か言いにくいことでもあるのだろうか。それなら無理に聞く訳にはいかないけれど、やっぱり気になる。

 

 

 

「いいのよ果南。終わっちゃった事はもうどうにもならないでしょ?」

 

「でも」

 

「マリーが気にしないというのだからいいのデース。シンゴやユーヒも気になってるみたいだし、教えなかったらかわいそうじゃない」

 

「「?」」

 

 

 

 鞠莉さんの事を止めようとする果南さん。それでも僕らに秘めていた事を話そうとする鞠莉さん。そんな二人の事を眺めながら僕と信吾は首を傾げた。

 

 それから一言二言言い合ってから、果南さんが仕方ない、というように息を吐く。そんな仕草を見て鞠莉さんは微笑み、もう一度こちらへ顔を向けて来た。

 

 

 

「スクールアイドルは、私が留学しちゃう時にやめちゃったの」

 

 

 

 鞠莉さんの言葉は、そんなものから始まった。

 

 

 

「最初は街興しの一環としてスタートしたモノだったけど、やってみると結構楽しくてね。学校のみんなも街の人達も応援してくれたし、ラブライブを本気で目指してた時もあったわ」

 

 

 

 いつも高くてよく響く声がほんの少しだけトーンを落としている。目は笑っているけど、何処か寂しげな表情にも見えた。鞠莉さんが過去の悲しみというファインダーを通して()、目の前に立つ僕らの事を見つめているのが、何となく伝わってくる。

 

 

 

「でも、楽しい事はいつまでも続かないのデース。ちょっと人気が出てきた時がピークで、それからすぐに私達は解散したの」

 

 

 

 鞠莉さんの言葉を聞いて腑に落ちた。それなりに有名なスクールアイドルなら知っているはずだった。他の誰かよりも詳しい事は自負しているから間違いない。けど、“アクア”というグループ名は目にした事もないし聞いた事もない。

 

 

 

「それでマリーは三年生になるまでイタリアに留学。浦の星が統合するタイミングでパパが帰れっていうから、仕方なく帰ってきたのよ」

 

「どうして、統合のタイミングで鞠莉さんは帰って来なくちゃいけなかったの?」

 

「この学校の理事長をしてくれ、って頼まれたからよ。結局、そのお願いは断ったけどね」

 

 

 

 僕の質問に鞠莉さんはそう答え、お道化るように舌を出した。彼女の隣に座る果南さんも思いありげな顔で屋上の床を見つめている。

 

 鞠莉さんの素性はたしかに今まで聞いた事がなかった。彼女達がスクールアイドルをしていたのも意外だったけれど、鞠莉さん個人にそんな過去があったなんて全然知らなかった。

 

 

 

「理事長?」

 

「イエス。あと一年統合が遅れていたらやっていたけど、この新しいスクールではやる気にはなれなかったのデース」

 

「それは、どうして」

 

 

 

 僕の問いかけを聞いて、鞠莉さんは少しの間口を閉ざして何かを考えていた。

 

 海の方から吹いてくる潮風にブロンドの髪が揺れ、爽やかなラベンダーのような香りがした。それと同時に、干していた真っ白なシーツを取り込んだ時の柔らかなあの感じを連想した。

 

 鞠莉さんは晴れ渡る九月の空を仰ぐ。つられて視線を上げると、山の方から広範囲に広がるうろこ雲が屋上に座る僕達の事を見下ろしていた。細かく分かれた雲の一つひとつが、誰かの憂いを投影しているみたいだ、と空を見上げて思った。早くうろこを削ぎ落として、その中にある綺麗な青が見えてくれればいいのに。

 

 

 

「だって、意味がないもの。マリーが居ない間にダイヤが浦の星を守ろうと必死になっていたのは知ってたわ。それでも、この統合は免れなかった。学校を守るためならともかく、それ以外の理由で理事長になるだなんて、私には荷が重すぎマース」

 

 

 

 鞠莉さんは目線を下ろしてそう言った。その表情にはもう、雲はかかっていないように見えた。少なくとも、この内浦に冷たい雨を降らせるような厚い雲は。美しい快晴ではないのは分かっているけれど。

 

 

 

「………………」

 

「ユーヒや信吾にはあんまり関係ないかもしれないけど、それがスクールアイドルをやめた原因。…………でも」

 

 

 

 鞠莉さんはその理由を語り終える。ただ、意味ありげな最後に接続詞を残した。それを聞いていた僕らはまだ彼女の声に耳を傾け続けた。

 

 数秒の静寂が屋上に漂う。蝉の鳴き声は今では遠く感じる。ついこの前まですぐ傍に感じていた騒がしい夏の音は穏やかな秋の訪れを感じているのか、ボリュームを少しだけ弱めていた。そのイメージが何故か、目の前に座っている明るい友達の姿と重なる。どうやら秋という季節は、いつも太陽のように輝いている少女をも落ち着かせてしまうらしい。

 

 可愛らしい唇が開き、言葉を紡ぐ。

 

 

 

「もし、パパがあと少し……あとほんのちょっとだけ待ってくれたのなら、

 

 

 

 ────もう一度果南とダイヤと一緒に、スクールアイドルをやりたかったデース」

 

 

 

 てへぺろ、と鞠莉さんは微笑みながら話を結んだ。いつも通りの眩しい笑顔がそこにはあった。

 

 もし、そんな世界があるのなら僕も見てみたいと思った。そこには一体、どんな輝かしい物語があったのだろう。

 

 ああ。それはきっと、あの太陽よりもキラキラと光輝く夢物語に違いない。

 

 もし、そんなストーリーの結末を知っている人が居たのなら教えてほしい。

 

 

 

 それは、どんな色をした物語だったのかを。

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

「────そういう訳で、マリーは文化祭でスクールアイドルをやりたいのデースッ!」

 

 

 

 屋上に流れていたシリアスな雰囲気を遥か彼方に吹き飛ばすように、いつものハイテンションな声で鞠莉さんがそう言った。果南さんは呆れ顔を浮かべている。今では二人の想いが分かるから何ともコメントがし難い。ただ、僕個人の考えを彼女達に押し付けるのならば、やってほしいというのが本音。多分、信吾も同じ事を思っている。

 

 

 

「いいんじゃね? 俺は賛成」

 

「僕も、ちょっと見てみたいかな」

 

 

 

 予想通り、信吾はパック入りの苺ミルクのストローを咥えながら鞠莉さんの言葉に答える。もちろん僕も便乗させてもらった。こんなに楽しそうな事をやってくれるのだというのなら賛成せざるを得ない。

 

 ……ダイヤさんがスクールアイドルをやっている姿を、一目でいいから見てみたい。これが心のど真ん中にある欲求だった。たしかに鞠莉さんと果南さんが歌って踊る姿を見るのも楽しみだけど、一番に思うのはそれ。

 

 だって、あのダイヤさんがアイドルだよ? 未だにクラスの男子達から硬度120%の生徒会長と恐れられるあの子が、可愛い衣装を着てステージの上で歌って踊るんだよ? それを見たいと思う人間がクラスに、いや、この学校に居ない訳がない。あ、やばい。想像してたらなんか眩暈がして来た。この場にダイヤさんが居なくてよかったと心から思った。本人を目の前にしてたら倒れていた自信がある。

 

 

 

「もう、二人まで……」

 

「ほら、シンゴもユーヒもそう言ってるわよ果南~。最後なんだからちょっとくらい頑張ってみてもイーじゃないっ」

 

「私は恥ずかしいのっ。前みたいに女の子しか居ないんならともかく、今は男の子達が居るんだよ? 鞠莉はそれでもいいの?」

 

「オフコースッ! むしろマリーのキュートでギルティな魅力でボーイズ達を全員ダウンさせてあげるわっ」

 

 

 

 果南さんの言葉に胸を張って自信満々に答える鞠莉さん。ああ、彼女の言う通り、鞠莉さんがスクールアイドルの姿をしていつもみたいに小悪魔的なウィンクなんかをしたら、それを見たほとんどの男子達がダウンすると思う。鞠莉さんの言葉を聞いて何かを想像してしまったのか、信吾は目を瞑って腕組みをしながら渋い顔で瞑想している。彼の頭の中にどんな映像が流れているのか非常に気になるけど、それは置いておこう。

 

 

 

「はぁ……鞠莉は相変わらず無鉄砲なんだから、もう」

 

「そういう果南は相変わらず頑固おやじデースッ」

 

 

 

 言い合う二人はむー、としかめっ面で見つめ合っている。よくよく考えたらメンバーが一人、足りない気がする。この二人だけで話を進めていいのだろうか。ダイヤさんに後で怒られたりしないよね? 大丈夫だよね?

 

 そんな事を考えていると鞠莉さんが何かを思いついたような顔をする。それからにやり、と不敵な笑みを浮かべて制服のポケットの中から紫色のスマートフォンを取り出した。

 

 

 

「フフ、じゃあ果南。この画像をシンゴとユーヒに見せて、二人に『どうしてもやってほしい』って言わせる事が出来たらスクールアイドルをやるって約束して?」

 

「…………約束の意味は分からないけど、どんな写真を見せる気?」

 

「それは二人に見せてからの秘密デースッ。シンゴ、ユーヒ。準備はいいかしら~?」

 

「「……?」」

 

 

 

 新幹線並みのスピードで話を前に進ませる鞠莉さんの言葉に、思考が追いついてこない。彼女はいつもこんな感じだから仕方ないと言えば仕方ないんだけど、今回はとりあえず見せられる写真を見ればいいのか? 頷いてみせると、鞠莉さんは輝く笑顔を浮かべて携帯のディスプレイを僕と信吾の方に見せてきた。

 

 

 

「ではレッツ・ショーターイムッ!」

 

 

 

 よく分からないけれど、僕と信吾は顔と近づけて鞠莉さんのスマートフォンに映る写真を見つめる。

 

 

 

 ────そして、世界は時を止めた。

 

 

 

 いや、違う。この場合、強制的にフリーズさせられたと表現する方が正しい。あまりにも強烈な画像データを目が捉えてしまい、それを像として認識する脳の機能が一時的にバグを起こしてしまった。普段通りに目から伝わる景色を自動的に記憶に変換するシステムが完全にダウンしてしまっている。警報音(心音)がさっきから鳴り止まない。あわよくばこの心臓と共に身体にある全ての機能が止まってしまう気がした。

 

 僕の目に映るモノ。それは、鞠莉さん、果南さん、ダイヤさんの三人が映っている写真。それだけならよかった。何も問題はなかった筈だった。

 

 だが、これはなんだ。目に映る一枚の画像にどれだけの破壊力が詰まっているのか、計り知れない。それがもし数値として現す事が出来たのなら、本当にとんでもない値になっている事だろう。

 

 

 

「…………」

 

「信吾。鼻血出てる、鼻血」

 

「はっ!?」

 

 

 

 ふと隣を見たら親友の鼻から真紅の血が垂れていた。気持ちは痛いほどわかる。むしろ僕も出てこないか心配になったくらいだから。軽い眩暈はまだ継続してるけど。

 

 鞠莉さんが僕らに見せてくれたのは、三人の女の子が可愛らしい衣装を着てそれぞれポーズを決めている写真。面倒な表現をしなければ、鞠莉さんと果南さんとダイヤさんがスクールアイドルをしている時の写真だった。強すぎる衝撃(インパクト)を視覚を通して与えられ、少しの間頭が混乱してしまっていたようだ。いや、本当に凄い。何というか、素敵な夢が正夢になった時のような感覚が全身を襲った。

 

 

 

「どーかしら? とってもキュートだと思わない?」

 

 

 

 鞠莉さんの言葉に、僕と信吾は頭をぶんぶんと縦に振る。首を横に振る動作を身体が忘れてしまったみたいに。心から素晴らしいと思う。そして同時にダイヤさんが本当にスクールアイドルをしていた事実を知る事が出来て、それだけで満足してしまいそうになった。お寺に帰ったらこの世界に生を受けた事を感謝しながら仏様に手を合わせなければ。今は心の中だけで済ませる事にしよう。──合掌。この時代に生まれてよかった。

 

 

 

「ちょっと鞠莉! なんでそれまだ持ってるのっ! 前に消してって言ったでしょ!?」

 

「え~? だってもったいないじゃない。こんなにキュートな写真を消すだなんて」

 

「そういう問題じゃないでしょっ!? なんで見せちゃったの~……」

 

 

 

 果南さんがまた両手で顔を覆う。それと同時に、信吾の鼻に詰めたばかりのポケットティッシュの塊が鼻血と一緒にすぽーんと出てきた。そろそろ血を流し過ぎて信吾が倒れそう。段々心配になってきた。今の果南さんは危険だ。信吾を殺害し得る生物になり果ててしまっている。……ダイヤさんがこの場にいたら、あるいは僕も同じ状態になっていたかもしれない。

 

 

 

「で、感想はどうかしら?」

 

 

 

 ポケットにスマートフォンを仕舞った鞠莉さんが訊ねてくる。それは先程の約束の通り、彼女達にスクールアイドルをしてほしいかという事。そんなの、言うまでもない。あんな姿をする三人の写真を見せられて、否定の言葉を言える方がおかしい。なんとしても、文化祭のステージで彼女達がスクールアイドルをしている姿を見たい。信吾なら土下座までしかねないレベルの案件だ。

 

 言いたい事がありすぎて何を言うべきか分からなくなる。どれを選んでも正解だし、言いたい事の方向性は一緒だから悩む必要なんてないのかもしれないけれど、咄嗟に声を出す事が出来なかった。

 

 鞠莉さんに見せてもらったあの素晴らしい写真を思い返し、一度小さく息を吐く。それから言いたい事を選んで口にする事を決めた。

 

 

 

「…………見たいです」

 

「ノウ、聞こえないわユーヒ。ワンモアプリーズ?」

 

 

 

 勇気を出して言葉にしたのに、ニヤニヤしている鞠莉さんにそう言われる。あれは僕をからかってる顔だ。間違いない。夏祭りの日にした電話といい、最近鞠莉さんはこんな風に僕をからかってくるようになった。あのキスの一件はなかった事にしてるけど、時が来たら問い質す準備だけは出来てる。いつか絶対仕返ししてやるんだからな。

 

 

 

「三人のスクールアイドルが、見たいです」

 

「フフ、グッジョブデース。ユーヒはそう言ってるわよ、果南」

 

 

 

 頭を下げながらハッキリとお願いする。男としてのプライド? そんなの下駄箱に置いてきたよ。

 

 そう言ってみせると鞠莉さんは満足そうに息を吐き、顔を手で覆っている果南さんはジトッとした目だけを僕に向けてくる。文句を言うならなんとでも言ってほしい。この想いは僕だけのものではない。クラスの男子達に見たいか見たくないかを訊ねたら、確実に全員が『見たい』と声を大にして答えるだろうから。

 

 

 

「…………やだ」

 

「もう、果南はいつまで経っても頑固おやじデース。シンゴ、出番よ」

 

 

 

 僕のお願いを聞いても果南さんは首を横に振った。ちょっと残念。でも、僕の隣には彼女にとって大切な人である男が居る。最後は彼に望みを託すしかない。

 

 

 

「…………」

 

 

 

 鼻にティッシュを詰め直した信吾は、顔を隠している果南さんの事を静かに見つめる。いつになく真剣な顔。彼が本気になった時だけに見せる表情が、そこにはあった。

 

 信吾は一度咳払いをする。それからまた向かいに座る果南さんに目を向けた。

 

 

 

「果南」

 

 

 

 凛とした声で名前を呼ぶ。すると顔を隠していた青い髪の女の子はその手を下げて、自身の名を呼んだ青年に視線を向けた。

 

 二人は黙って数秒間見つめ合う。校庭の方から男子達の騒ぐ声が聞こえてきた。

 

 そして、信吾は果南さんの目を見つめたまま閉じていた唇を開く。

 

 

 

「俺も果南が歌ってるところ、見たい」

 

「────────ッ!」

 

 

 

 頬を若干朱に染めながら、照れくさそうに信吾はそう言った。彼のおねだりを聞いた果南さんは潤んだ瞳を大きく見開いて、口をアワアワさせ始める。信吾が真面目な顔をして先ほどの言葉を紡いだ瞬間きゅん、という聞き慣れない音が近くから聞こえた気がした。そしてニヤケ顔が止まらない。どうしてくれるんだ君達。

 

 鞠莉さんも純粋な彼らのやり取りを見ながらほっこりしてる。この二人の惚気はいつまで続くんだろう。こっちまでドキドキしちゃうんだよ。いい加減にして。

 

 信吾の言葉を聞いた果南さんは両手を頬にあてながら恥ずかしそうに顔を背けた。それから数秒の間を置いて、何かを決心するように息を吐いてからまた信吾の方へ目を向けた。

 

 

 

「…………わ、笑わない?」

 

「?」

 

「私がスクールアイドルしても、信吾くんは笑わない?」

 

 

 

 そんな風に果南さんは彼に問う。声が震えていた。目はもう泣きそうなくらいに潤んでしまっている。心底不安げな表情を浮かべながら、彼女は信吾の事を見つめた。

 

 そんな姿を見ながら信吾はいつもの人懐っこい笑顔を作り、答えた。

 

 

 

「笑うわけないだろ。ちゃんと見てるよ、果南の事」

 

 

 

 その言葉で、果南さんが何処かに落ちたのを第六感で感じ取った。ああ、多分そこは恋の中。目には見えないその場所に彼女は落ちて行った。どうやらさっき聞こえた音の正体は恋に落ちた音だったらしい。

 

 

 

「フフ、これで決まりね」

 

 

 

 そうして、文化祭で披露する二つ目の出し物が決まったのだった。でも。

 

 

 

 ……ダイヤさんに許可を取ってないけど、大丈夫かな? 

 

 

 

 

 

 

 

 





次話/また明日


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また明日

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 放課後の静かな廊下を歩く。今日も文化祭の準備に追われ、日が暮れる直前まで残る事になってしまった。他のクラスメイト達はバスがあるからと先に下校した。帰れなくなるのは大変なので文句はないけど、ちょっとだけ寂しく思ってしまう。

 

 体育祭に引き続き、僕は信吾からクラスのマネージャーを命じられ、ほとんど強制的に準備の段取りを決めさせられた。力仕事が出来ない分、こういう裏方の仕事は得意だけど、色んな人から雑用を押し付けられたりもするので結局てんやわんやになってしまった。来週はもっと上手くこなせるように努力してみよう。

 

 窓の外から夕日の光が差し込み、白いリノリウムの床を橙色に染めている。細い窓枠の影が等間隔で伸びており、それを上靴で踏まないように歩いた。

 

 最近日が暮れるのが早くなってきた。それと同時に終バスの時間も早まるのはこの学校のお決まりらしい。部活をしている生徒は練習時間の確保に頭を悩ませるのですわ、とこの間ダイヤさんが言っていた。

 

 あと数週間もすれば十月が訪れ、完全に夏の面影がこの街からもなくなる。秋が来て新緑を赤に変え、やがて冬の色に内浦は染められるのだろう。静岡にはあまり雪は降らないけれど、それでも冬の訪れは寒さや景色の変化により感じられる。それを思うと時間が過ぎ去るのは本当にあっという間。

 

 多分この学校で過ごす時間も、最後を迎えてから『ああ、もう終わりなのか』と思うに違いない。過ごしている最中に時間の流れのスピードなんて明確に感じられるものではない。未来を思えば長く感じ、過去を思えば早かったと感じてしまう。時間の流れなんて、最初からそんな風に出来てる。

 

 適当に生きようが真面目に生きようが、時間は等しく進んで行く。その日々が楽しくてもつまらなくても同じ。時間というのはこの世界に生きる誰しもに与えられた数少ない平等なもの。

 

 それを大事にするかおざなりにするかは、それぞれの生き方次第。生き急ぐつもりはないけれど、せめて一瞬一瞬を大切にして行きたいとは思ってる。終わった時にこれでよかった、と思うためには良い瞬間を積み重ねるしかない。充実感で過ぎる時を忘れてしまうような日々が送れたらいい、と今は思ってる。

 

 

 

「あ、っ」

 

「? ……あ」

 

 

 

 夕暮れの廊下を黄昏ながら一人で歩いていると、とある教室から一人の女子生徒が出てくる。こんなタイミングで出くわすとは思っていなかったので咄嗟に変な声を出してしまった。

 

 僕の声に気づいた女の子はこちらに顔を向けてくる。見ると彼女も少し驚いた表情をしていた。それを見て、ちょっとだけ安心した。

 

 そう言えば途中でクラスの手伝いから抜けて生徒会の仕事をしてくる、と言っていたのを思い出す。こんな時間まで残ってるだなんて、彼女の硬度、いや、真面目さは常にぶれないらしい。

 

 そんな事を考えながら、閉ざしていた口を開く。

 

 

 

「お疲れさま。ダイヤさん」

 

「夕陽さん。ご機嫌よう、ですわ」

 

 

 

 そんな軽い言葉を交わし合う。こうして気を負わず話が出来るようになったのは、いつからだっただろう。思い返しても分岐点になったタイミングなど思い出せる訳もない。恐らくそれは突然変わったりするモノではなく、緩やかに変化していくモノなんだと思う。通学路に咲いているあの彼岸花のように、時間をかけてゆっくり成長していく。昨日の帰り道は咲いてなかった花が朝になったら咲いていたりする。きっと、それと同じ。

 

 

 

「仕事は終わったの?」

 

「ええ、先ほど終わりました。教室の方はどうでしたの?」

 

「こっちは順調だよ。騒がしいけど、何とか進められてる」

 

「そうでしたの。それは何よりですわ」

 

 

 

 穏やかな会話を夕日の光が差す人気の無い廊下で交わす。窓の外からカナカナ、とひぐらしの鳴く声が聞こえてきた。

 

 

 

「ダイヤさんは今日は歩いて帰るの?」

 

「はい。そのつもりでしたわ」

 

「そっか。じゃあ、一緒に帰ってもいいかな」

 

 

 

 そう言うと、淡い橙色の光を反射させる艶の良い黒髪がこくりと頷く。

 

 

 

「構いませんわ」

 

「ありがとう。それじゃ、帰ろうか」

 

「はい」

 

 

 

 肩に掛けていた学生鞄を掛け直し、僕は先に廊下を歩き出す。すぐにダイヤさんもついてきてくれた。

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 茜色に染まる坂道を二人で歩く。高い丘の上からは水色から橙色に色彩を変えた駿河湾が見下ろせる。目線を真正面に向けると、ちょうど同じくらいの高さに二つの山が聳えていた。

 

 海の上には数隻の船が規則正しい間隔で停留している。それはまるで、几帳面な誰かが一つひとつ丁寧に並べた模型みたいにも見えた。

 

 西の空の低い位置に夕日は浮かんでおり、東の空は既に藍色が夕暮れを侵食してる。細い三日月の下には名前の知らない一番星が瞬いていた。あの藍色はあと数十分もすればこの内浦を包み込み、鈴虫の鳴き声と潮騒が響くだけの静かな秋の夜を訪れさせるのだろう。

 

 歩く坂道の横にある広大な畑は毎年美味しい蜜柑が取れる蜜柑畑だと、夏休み中に偶然仲良くなった蜜柑色の髪をした二年生の女の子に教えてもらった。常時鞠莉さん並みのハイテンションをキープしてくる後輩なので話をしていて飽きない。悪く言うと凄く疲れる女の子。果南さんと幼馴染らしく、淡島に行った時に知り合った。実家は有名な旅館を経営しているらしい。

 

 緑色の木々の枝には小さな実が成っているのが見えた。収穫時期になると授業の一環で蜜柑狩りが出来るらしいので、味を確かめるのはそれまで楽しみにしておこう。

 

 

 

「そうだ、ダイヤさん」

 

「なんですの?」

 

 

 

 ここまで特に会話らしい会話もなく歩いていたが、言いたかった事を思い出して口を開いた。

 

 

 

「文化祭の出し物でスクールアイドルをするって話は、もう聞いた?」

 

「えっ?」

 

 

 

 軽い気持ちでそう訊ねると、左隣を歩いていたダイヤさんはその場に立ち止まった。後ろを振り向いて確認する。彼女は大きな目を丸くして、少し先を歩いた僕の事を見下ろしている。鳩が豆鉄砲を食らった顔っていうのはああいう顔の事を言うんじゃないか、と思った。

 

 

 

「ダイヤさん?」

 

「な、なんの話ですの、それは」

 

「だから、文化祭の出し物で鞠莉さん、果南さん、それとダイヤさんの三人でスクールアイドルをするっていう話。昔、やってたんでしょ?」

 

 

 

 そう言うと、ダイヤさんの白い頬がみるみるうちに赤く染まって行く。いや、もしかしたら背後に浮かんでいる夕日が光の濃度を上げただけかもしれない。

 

 海鳥の高い鳴き声が聞こえた。それと同時に、海側から吹いてきた爽やかな潮風が目線の先にある美しい黒髪を揺らす。風はそのまま、坂の上にある学校の方へと駆け上がって行った。

 

 固まってしまった彼女の姿を見つめていると、ダイヤさんの深碧の両眼は突然睨むような目つきに代わり、こちらへ早足で近づいてくる。

 

 

 

「その話を誰から聞きましたのっ?」

 

「え? 鞠莉さんから、だけど」

 

「あの人は…………ッ!?」

 

 

 

 ぐいっと詰め寄られ、気迫に負けて正直にそう答えた。どうでもいいけど顔が近い。身長はダイヤさんより僕の方が少しだけ高いが、坂道の下り側に立っていたので今は見下ろされる形になっている。美人な女の人に見つめられると蛇に睨まれた蛙のように固まってしまう、なんて話はどうやら本当だったようだ。そんな状況に陥っている僕が確信したんだから間違いない。

 

 ダイヤさんは顔をしかめながら、何故か僕の事を睨みつけてくる。何かやってはいけない事でもしただろうか。ていうか、この距離感で長時間見つめられると非常にマズい。具体的に言えば、驚いた心臓が緊張しすぎて拍動をうっかり止めてしまいかねない。

 

 

 

「だ、ダイヤさん。なんでそんなに怒ってるの?」

 

「これが怒らずにいられると思いますの!?」

 

 

 

 訊ねたら僕まで怒られた。酷いとばっちりだ。明日のお昼、鞠莉さんに彼女が嫌いなキムチを進呈しよう。それもとびっきり酸っぱいやつ。

 

 

 

「あ、もしかしてまだ言われてなかった、とか?」

 

 

 

 黒髪がこくりと頷く。そういう事だったらしい。てっきり鞠莉さんと果南さんは今日の昼休みが終わってから、ダイヤさんに文化祭でスクールアイドルをする事を伝えたと思っていたんだけど、それは違ったみたいだ。よくよく考えたら、ダイヤさんがいつも通りだった事も少しおかしい。最も強く反発しそうな彼女は、その話を聞いた時点で怒っていた筈だろうし。それはちょうど今みたいに。

 

 怒るダイヤさんの気持ちも分からなくない。そんな大事な話を勝手に進ませていたら誰だって怒る。もしかしたら鞠莉さんは何か思惑があって、ダイヤさんには打ち明けていなかったのかもしれない。もしそうだったら余計な事をしてしまっただろうか。鞠莉さんにとっても、ダイヤさんにとっても。

 

 

 

「そうだったんだね。ごめん、早とちりしちゃった」

 

「……別に、あなたが謝る必要はありませんわ」

 

 

 

 謝るとダイヤさんは眉間にしわを寄せたまま、僕の近くから離れて行く。後ろ髪を引かれるような名残惜しさが、心の中で小さな花を咲かせた。

 

 

 

「うん。なら、ダイヤさんはやるの?」

 

「何をですの」

 

「いや、スクールアイドルだけど」

 

「はぁっ!?」

 

 

 

 また詰め寄られた。ダイヤさんの鼻息がかかりそう。心の中に咲いた名前のない花は突然のリアクションに驚いて花びらを散らしてしまったらしい。つまり、ちょっとだけ嬉しかった。

 

 どうやらこの感じを見る限り、ダイヤさんは文化祭でスクールアイドルをする事に反対しているみたいだ。果南さんですら頭を縦に頷くまでかなりの時間を要したというのに、硬度が宝石みたいに高いこの生徒会長が了承するまで、一体どれくらいの時間がかかるんだろう。あまりにも果てしないこと過ぎて想像すら出来なかった。

 

 

 

「やっぱり嫌なんだ」

 

「と、当然でしょうっ。なぜ私がスクールアイドルなど…………」

 

 

 

 予想通りの言葉を放ち、ぶつぶつと小さな声で文句を並べるダイヤさん。そもそも、彼女が二年前にスクールアイドルをしていたこと自体信じられない話だというのに、今さら(しかも男子達が見ている前で)やってくれるとは到底思えない。

 

 僕個人の意見とすれば見てみたいというのが本音。それは単純に、ダイヤさん達が歌って踊る姿を見てみたいから、なんていう月並みな理由もたしかにある。

 

 

 

 だが、それ以上に見てみたい訳が僕にはある。一番の理由は、恥ずかしくて口には出せないけれど。

 

 

 

「でも、見てみたいな」

 

「? 何をです」

 

「ダイヤさんが、歌って踊ってるところ」

 

「───っ!?」

 

 

 

 微笑みながらそう言ってみせると、ダイヤさんは一瞬驚いた表情をして僕の方から顔を背けた。蜜柑畑を見つめながら、右手の人差し指で顎のホクロの所をそっと掻いている。

 

 このお願いが断られる事は分かっている。彼女が僕の我がままを聞き入れてくれる訳がない。だから今のはダメ元で言った言葉。万一、偶然何かが噛み合って生徒会長の頭が縦に振られる事があれば嬉しい。そんなあり得もしない事を思いながら言っただけの、ただの自己満足だった。

 

 

 

「……なぜ、あなたに見せなければなりませんの」

 

「そうだよね。ごめん」

 

 

 

 謝るとダイヤさんはまた僕の方を向いてくれる。その夕日に照らされた顔は、ほんのりと橙色の薄化粧を施しているように見えた。まるでこの内浦を包む黄昏が、一人の生徒会長をさらに美しく魅せているような錯覚を覚えた。

 

 

 

「…………」

 

 

 

 ダイヤさんは口を閉ざしたままこちらを見つめてくる。その綺麗な瞳には、頼りない平凡な一人の男が映っている。

 

 もし、ここに立っているのがテレビの中で輝いている俳優や、誰もが憧れるビッグスターだったのなら、彼女は頷いてくれただろうか。渋ったりせず、素直に我がままを許してくれただろうか。

 

 ああ、きっと了承してくれた筈だ。僕が僕じゃなく、もっと素敵な人間だったらダイヤさんはこの想いを受け入れてくれたに違いない。

 

 でも、彼女の前に立つのは何処にでもいるような男子高校生。何の取り得もない。誰かを満足させたり、幸せにする事など出来ない男。

 

 そんな僕に出来るのは、ただ想う事。ただ、願う事。砕けない宝石を諦めずに砕こうとする事。

 

 多分、それくらいだった。

 

 

 

「帰ろうか。今の話は無かった事にしてよ」

 

 

 

 いつまでもここに立っていたら何れ夜が来てしまう。そこに彼女を居させる訳にはいかない。

 

 そう言って後ろを振り返ろうとした。

 

 

 

「…………夕陽さん」

 

「? どうしたの?」

 

 

 

 呼び止められるような小さい声に、疑問符を投げる。踵を返す途中だった身体を半身にさせたまま、彼女の事を見上げた。

 

 ダイヤさんは目線を僕から逸らし、左肩に掛けた鞄の紐を手できゅっと握り締めて、反対の手の指先で長い髪を弄んでいる。

 

 そんな姿を見つめていると、近くの草むらからひぐらしの鳴き声が聞こえてきた。夕暮れを告げる静かなバラードにそっと耳を傾けながら、どうしてそんなに居心地が悪そうな顔をしてるんだろうと訝しんだ時、目線の先にある血色の良い小さな唇が開かれる。

 

 

 

「どうしても、見たいですか?」

 

 

 

 茜色に染まる坂道に零されたのは、そんなささやき。場所がここじゃなかったら他の物音に遮られて消えてしまっていたかもしれない、と思ってしまうほどに小さな声だった。

 

 

 

「もちろん。ダイヤさんが良いっていうなら、見たいに決まってるよ」

 

 

 

 嬉しすぎて泣いちゃうくらい、なんて声にしなくてもいい言葉を咄嗟に飲み込んだ。言ったらダイヤさんが引いてしまう。まぁ、またいつものように『変な人』と言われるのがオチなんだろうけど。

 

 どうしてそんな言葉を問い掛けてきたのか。彼女の思惑は何ひとつ読み取れない。多分、あの夕日が海に還ってしまったらもっと見えなくなってしまうだろう。

 

 ダイヤさんは僕から目を逸らしたまま、数秒間何かを考えるような顔で固まっている。対する僕は何も考えず、彼女のこめかみに付いた白い髪飾りを見つめていた。

 

 

 

「えっと……」

 

 

 

 慣れている筈の沈黙がめずらしくむず痒く感じ、口を閉ざしているダイヤさんに向かって声をかけようとした。

 

 だが声を出した瞬間、その先に続く言葉を遮るかのようなタイミングで生徒会長はこちらを向き、閉ざしていた可愛らしい唇を開いた。

 

 

 

「いい、ですわ」

 

「え…………?」

 

「っ、ですから」

 

 

 

 夢幻みたいな台詞が耳を通り抜けた瞬間、僕の口は勝手に声を出した。意思も理性も関係ない。熱いやかんに触れた時、思わず手を引っ込める時と同じ。身体は反射的にそんな反応をみせた。

 

 

 

「スクールアイドルをやってもいいと、言っているのですわ」

 

「…………いいの? 本当に?」

 

 

 

 訊ねるとまた口を閉ざすダイヤさん。だが、今度はすぐに返事をくれる。

 

 

 

「ただし、条件があります」

 

「? それは、どんな?」

 

 

 

 真面目な顔をしてそう言って来た彼女に、再度問い掛ける。今ならどんなに突飛なお願いをされても、即座に了承してしまいそうな気がした。だって、ダイヤさんがスクールアイドルをしてくれるって言うんだよ? そんな甘い蜜を見せられたら、罠だと思っていても飛びついてしまうのが男の(さが)というやつだろう。

 

 ダイヤさんは何故か少しばかり緊張した面持ち。一度ふぅ、と息を吐き、何かを決心するような表情をしながら僕と向き合ってくれた。

 

 そして。

 

 

 

 

「…………あ、明日、買い物に付き合いなさい」

 

「…………ん?」

 

 

 

 

 聞き間違いだろうか。それともまた幻聴が聞こえたのか。いや、違う。今のは僕の前に立っている女の子が口にした言葉。それを目と耳でちゃんと確かめた。でも、内容が予想の百八十度反対のベクトルを向いていたので、瞬時に信じる事が出来なかったんだ。

 

 自分でもそれを自覚しているのか、ダイヤさんは僕の顔を見つめてもう一度唇を開いた。

 

 

 

「何も言わずに明日、私の買い物に付き合いなさい。それが条件ですわ」

 

 

 

 オーケー。今の一言でさっきの言葉が聞き間違いじゃない事を確信した。というか。

 

 

 

「本当にそんな事でいいの?」

 

 

 

 ダイヤさんは目線を斜め下に向けながら頷く。どうやら本気らしい。でも、どうして買い物なんだろう。あのダイヤさんがスクールアイドルをしてくれる、と約束をするほどの条件が買い物? それは、そこまで大事な事なのか。それとも何か違う思惑があるのだろうか。今はよく分からない。

 

 

 

「どうしても、あなたが必要なのですわ」

 

「─────」

 

「だから、お願いします」

 

 

 

 しかも逆にお願いされる始末。これで余計に分からなくなった。誰よりもプライドが高いダイヤさんが僕にお願いしてきた。これはどう考えてもワケ有りに違いない。

 

 もしそうだったとしても、ここで僕が彼女のお願いを聞くと言えばダイヤさんはスクールアイドルをしてくれる。なら、今は迷う必要なんてないだろう。

 

 明日は土曜日。特に用事も入ってない。あるとしたら花丸といつものようにお寺の掃除をするくらいだ。だから大丈夫。

 

 

 

「いいよ。それでダイヤさんがスクールアイドルをしてくれるっていうなら、喜んで」

 

「…………絶対ですわよ? 来なかったら許しませんからね」

 

「なら、這ってでも行くよ。明日大きな地震が起きても、台風が来たって行く」

 

 

 

 そんな事で、ダイヤさんが文化祭でスクールアイドルをする姿を見られるのなら。逆立ちしながらついて来いと言われても構わない。本気になるには十分すぎる条件だった。

 

 

 

「相変わらず変な人ですわね、あなたは」

 

「なんとでもいいなよ。ダイヤさんも、直前になってやらないとか言うのはダメだからね」

 

「…………べ、別にあなたの為にやる訳ではありませんが、条件を呑んでくれると言うのなら特別にして差し上げます」

 

 

 

 ダイヤさんはふん、と鼻を鳴らし、ホクロの所を掻きながらそう言ってくれた。嘘を吐かない彼女がそう言ったのだから本当に約束してくれるらしい。

 

 九月の黄昏は坂道を温かく照らす。僕の心も、あの夕日がくれるぬくもりと同じくらいの熱を帯びていた。

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

「それじゃあね、ダイヤさん」

 

 

 

 それから日が落ちる前に坂道を下り終え、夕日が西の山に隠れる直前に僕らはいつも別れる観光案内所の前に辿り着いた。

 

 明日の会う場所と時間を決めて、それからはほとんど何も話さずにここまで歩いてきた。ときどき横目でダイヤさんの顔を見たけど、彼女は終始不機嫌そうな表情をしながら帰り道を歩いていた。でも、それについては何も思わない。そう決めてここまで歩いてきた。

 

 近くにある街灯が光を灯す。何処からか夕餉の香りが漂ってくる。耳に届く、穏やかな波の音と防波堤の上に並んで座っている海鳥の鳴き声。そして、少しだけ気の早い鈴虫がその美しい鈴のような音を鳴らしている。

 

 

 

「絶対に遅れないでくださいね。むしろ私よりも早く着いて待っていてください」

 

「はいはい。今日のダイヤさんは心配性だね」

 

「……()()は一回ですわ。何度言えば分かりますの、あなたは」

 

 

 

 何度やったか分からないやり取りをして、ダイヤさんは自分の家の方へと歩いて行く。

 

 その凛とした背中を見送りながら願う。明日も晴れてくれますように、と。約束通り、彼女と会えるように、今日のような空を見せてください。

 

 そんな風に心の中でお天道様に向かってお願いをしてから、お寺への帰り道を歩き出した。

 

 

 

「夕陽さん」

 

「うん?」

 

「また明日、ですわ」

 

 

 

 そう言って、ダイヤさんは控え目に右手を振ってくれた。

 

 

 

 




次話/生徒会長はラブライバー


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生徒会長はラブライバー

 

 

 ◇

 

 

 

 翌日。朝早くから出掛ける準備をして、一人バスに揺られて到着したのは沼津駅前。週末の昼時であるからか、いつもより人気は多く見える。

 

 花丸にはダイヤさんと買い物に行くとは言わずに、文化祭の買い出しに行く、と適当な言い訳を付けて家を出てきた。何となく、ダイヤさんは今日の事を誰にも知られたくないと思っているように見えたから。別段、花丸も気にしていなそうだったのでよかった。お菓子でも買って帰る事にしよう。

 

 昨日の帰り道に指定された待ち合わせ場所に辿り着く。沼津市民がよく待ち合わせ場所として使う、蒸気機関車像の前。そこには待ち人を待つ人達が数人立っていた。僕もその人達に混ざるように、バーベルのような形をした像から少し離れた所に立ってダイヤさんを待つ事にする。

 

 昨日の別れ際、早く着いて待っていろと言われたので、僕はあの子の言う通りにしている。ダイヤさんが僕と買い物に行く事をこだわっていた理由は、未だに分からない。

 

 家に帰ってから仏壇にお線香をあげる時も、晩ご飯の支度をする時も、お風呂に入っている時も、テレビを見ながら花丸の肩を叩いている時も、寝る前に本を読んでいる時も、ひたすら自分なりに理由を考えてみたけど、結局浮かんでくるものは何ひとつなかった。謂わば当てはめるべき数式を知らないまま、難解な問題を解こうとしていたような感じ。そんなのどう考えたって解ける訳がない。でも、考えずにはいられなかったんだ。

 

 

 

「……うーん」

 

 

 

 駅前ロータリーに流れる忙しない光景をぼんやりと眺めながら、周囲の誰にも聞こえないように唸ってみる。 

 

 まず、どうしてダイヤさんはスクールアイドルをやる事を約束してくれたのか。それほどに今日の買い物が重要だったという事は何となく分かる。けど、まさかあのダイヤさんが条件付きでも了承してくれた事に違和感を感じざるを得ない。何か裏があるのでは、と思ってしまう。

 

 普段のダイヤさんなら、スクールアイドルのような学生の間で流行しているモノは簡単に受け入れない筈。昨日の帰りに僕がその話を出した時も、あの子は恥ずかしそうにしていた。なのに、最後は案外ライトな感じで約束してくれた。

 

 そもそも、過去にスクールアイドルをしていたという事実も俄かには信じる事が出来ない。仲の良い鞠莉さんと果南さんに引っ張られてやり始めた、という想像は容易につくけれど、それにしてもダイヤさんがスクールアイドルを続ける姿がどうしてもイメージできない。鞠莉さんが聞かせてくれた昨日の話からして、彼女達は少なくともそれなりの期間スクールアイドルをしていたみたいだし、必然その間はダイヤさんもアイドルをしていた事になる。まったく思い浮かべる事は出来ないけれど。

 

 あのダイヤさんがスクールアイドルを、した理由。

 

 

 

「あ」

 

 

 

 それを考えていた時、ふとひとつの仮説が頭の中にある湖の水面に浮かんで来た。

 

 浦の星女学院には以前から統合になる、という話があった。その噂を知っていた一年生の鞠莉さん達三人は、浦の星の知名度を上げる為に活動を始めた。鞠莉さんは街興しの一環としてやった、と言っていたし、その線はあながち間違いではないだろう。

 

 スクールアイドルで人気を出して、統合を防ごうとする。ああ、それは僕が大好きなスクールアイドルグループがしようとした事と同じ。東京のある高校に一年間だけあった、かの有名なあの九人組のグループ。

 

 彼女達の真似をして()()()()()()()()()スクールアイドルをしていたのなら、ダイヤさんがアイドル活動をしていた事にも頷ける。僕らの高校と統合になるまいと本気で活動していたというあの子なら、浦の星女学院の知名度を上げる為に無理矢理にでもスクールアイドルをしていた可能性も無くはない。それならばダイヤさんが学校でアイドルをしていた理由も出来る。

 

 ただ解せないのは、ダイヤさんが文化祭の出し物でスクールアイドルをする事に条件付きでも了承してくれた事だ。学校を救う為ならまだしも、文化祭のステージで歌って踊る事に、生徒達を盛り上げる以外の意味なんてない。そんな意味のない事を、あのダイヤさんがするだろうか。どんな条件をもってしても即座に断りそうなものなのに、あの子はそれを受け入れた。今日、僕が買い物に付き合うという本当に些細な条件だけで。

 

 考えれば考えるほど分からなくなっていく。今日、あの子の買い物に付き合えばその理由が分かるのだろうか。あの硬度120%の生徒会長が、それほどの事をすると約束してくれた条件。

 

 ……なんだろう。今さらになって不安になってきた。甘い約束に苦い条件が付きまとうのはこの世界の理。想像を越えるような酷い事に巻き込まれたりするんじゃないよな。大丈夫だよね。

 

 そんな事をひたすら頭の中で考え続ける。答えの分からない未来に悶々としながらその時が来るのを待っている時、一台のバスがロータリーに入ってくる。

 

 

 

「…………」

 

 

 

 そうしてバス停の前でバスは止まり、数十秒の間を置いて動き出す。そうして僕の目は、そのバスに乗っていたであろう一人の女の子の姿を捉えた。

 

 五十メートル程離れた場所に立つ女の子はきょろきょろと辺りを見渡し、それから蒸気機関車像の前にいる僕の存在に気づいたような素振りをした。右手を上げてみせると、彼女はつかつかとこちらに歩み寄ってくる。

 

 

 

「おはよう、ダイヤさん」

 

「ご機嫌ようですわ、夕陽さん」

 

 

 

 薄手の白い長袖のケーブルニットに、藍色地に純白の花が所々に咲いたデザインのスカート。それから茶色のハイヒールを履いていて、秋の始まりらしい爽やかな服装を彼女はしていた。だが、いつもとは明らかに異なるファッションがあったので、そこだけは気になった。

 

 

 

「今日は眼鏡、してるんだね」

 

「う、うるさいですわ。人のファッションにとやかく言わないでください」

 

 

 

 そんなつもりで言った訳じゃないけど、ダイヤさんは僕の言葉を違う意味で受け取ってしまったらしい。少しだけ怒らせてしまった。

 

 ダイヤさんはいつもしていない赤いフレームの眼鏡を掛けていた。ファッションという言葉からして、あれは多分伊達メガネなんだろう。

 

 ああ、分かってる。顔では平静を保っているが、心の中は大変な事になっているのはとっくに自覚してる。あれは反則だ。似合いすぎだろう。もういい加減にして。というか、僕は気づかないうちにそう言った属性を持っていたのだろうか。それならマズい。ずっと眼鏡をしていてください、と頭を下げてお願いしてしまいかねない。自重しよう。

 

 ダイヤさんが普段と違うものを召している姿を見るだけで、僕の心臓は拍動の強さと速度を増してしまう。誤魔化そうと思ったけど、これはどうにも抑え切れない。

 

 

 

「に、似合ってるよ。すごく」

 

「───っ」

 

 

 

 どうしていいか分からない状態で、口から零れ落ちてきたのはそんな短いセンテンス。それ以外の感想を言う事なんて、今の僕には出来なかった。いつも使っている建前を言えなかった。それくらい、あの赤いフレームの眼鏡はダイヤさんを魅力的に見せてくれていた。

 

 ダイヤさんは眼鏡の真ん中にある繋ぎ目部分を左手の中指でそっと押し上げ、僕から目を逸らす。『そんな建前を言わないでください』という常套句が飛んでこない。なら、さっきの言葉は本音だった事を分かってもらえたみたいだ。

 

 理由は何となく分かる。顔が焼けるように熱いから。きっと、僕が情けなく顔を紅潮させている姿を見て、ダイヤさんは先程の言葉を信じてくれたんだろう。今すぐこの場から逃げ出したいくらい恥ずかしいけど、本音が伝わってくれてよかったとも思えた。

 

 

 

「あ、あなたに褒められても嬉しくありませんわ」

 

「そう、だよね。ごめん」

 

 

 

 ふん、と鼻を鳴らして彼女はそっぽを向く。頬が少しばかり赤く染まっているように見えたのは、恐らく気のせいだろう。

 

 ホクロの所を掻きながら居心地悪そうにしてるダイヤさん。僕もかなり居づらいけど、それをいつまでも気にしていたら日が暮れてしまう。見慣れない私服姿に目を取られてしまって、頭が混乱してしまっていたんだ。そう思っておこう。

 

 

 

「それで、今日はどこに行くの?」

 

 

 

 気を取り直して問い掛ける。心臓はまだ高鳴っているし、服の中には変な汗をかいてしまっていた。そのうち慣れると思うので、今はその反応を無視する事にする。

 

 

 

「…………」

 

「ダイヤさん?」

 

 

 

 質問に答えが返ってこない。どうしてだろう。訝しみながら、目の前に立つ黒い髪の女の子の顔を見つめる。

 

 ダイヤさんは口を閉ざして僕の事をジッと見つめていた。何かを言いあぐねているのか、右手で左肘の辺りを握ってそわそわとしているようにも見える。

 

 聞こえてくるのは、車のクラクションと快速列車が通り抜けて行く音。それと駅前を歩く老若男女の雑踏くらい。

 

 そうして数秒の間を置いて、ダイヤさんはようやく口を開く。

 

 

 

「……約束ですわ」

 

「え?」

 

「何も言わずに、付いてきなさい」

 

 

 

 ダイヤさんはそれだけを言い残し、先に歩いて行く。僕は彼女の言葉に反応できず、少しの間その場に立ち尽くした。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 駅前の外堀通りを南に向かって歩くダイヤさんの後ろをついて行く。当然のように僕らの間に会話はない。特に雰囲気が悪い訳でもないし、ダイヤさんが不機嫌な訳でもない。

 

 いや、むしろ心なしかダイヤさんの後ろ姿はいつもよりウキウキしているようにも見える。なぜだろう。気になる。でも何も言わずについて来いって言われたし、問い掛けるのも憚れた。目的地に着けば、その理由もわかるのだろうか。

 

 ガード下の南にある交差点で歩道を反対側に渡り、左斜めに折れる。この先を進むと目立った建物も無くなってくる。あるのは古びた見た目の背の低いビルや老舗の飲食店。なのに、ダイヤさんは淡々と歩道を南に進んで行く。

 

 

 

「あれ……?」

 

 

 

 そうして、建ち並ぶビルの前に人の列を見つけた。どうしてこんな所に行列が、と思った時、その場所に関係する出来事があった事を思い出す。

 

 けど、違うよな。あのダイヤさんが、()()を目的にここに来る訳ない。僕は既にネットで手に入れているけど、たしかにそれ以外の方法で手に入れるのなら、ここか先ほど前を通り抜けたお店くらいしか無くなる。いや、でも、まさかな。

 

 そう思いながらその行列の横を通り抜けようとしたのに、ダイヤさんは何故か列の一番後ろに並び出した。

 

 

 

「…………」

 

「…………???」

 

 

 

 ちょっと待ってくれ。これはどういう事だろう。予想外過ぎて、思考回路が目の前に現れた状況を正確に読み取ってくれない。一体どんな目的で彼女はこの行列に並んだんだ。まったく持って意味が分からない。

 

 ここは、今年の冬にオープンしたアニメやゲームのグッズを専門的に揃えるお店。近年人気があるスクールアイドルのグッズなんかも数多く取り揃えてあり、沼津に在住の僕を含めた()()()()の人間ならこの場所を知らない人は居ない。

 

 そこまではいい。問題は何故、ダイヤさんがその店の前に出来た行列に並んでいるか、という事だ。いや、普通に考えれば今日発売のあれを買いに来たんだ、と思えばいいのだろうけど、如何せんそこに並ぶ一人の女の子の所為で脳が通常の思考判断をしてくれない。

 

 だって、あのダイヤさんだよ? 学校では男子生徒に硬度120%の生徒会長と恐れられ、自他ともに認める真面目で完璧な優等生のあのダイヤさん()、だよ? 

 

 どう考えても信じられない。どうして彼女がここにくる必要がある。そう考えた時、今までさんざん考えていたテーマのピースがカチン、と音を立てて嵌る感じがした。

 

 

 

「…………まさか」

 

 

 

 ダイヤさんは僕に、何も言わずについて来いと言った。そして、彼女は普段掛けない眼鏡をしている。それがもし、ここに並ぶ為の変装の一種だというのなら、この仮説はさらに答えへと近づく。

 

 そして、二十人ほどの行列の先に建てられている看板には─────

 

 

 

 

 

 “本日発売! 第二回ラブライブ! 完全収録版 Blu-ray & DVD(高画質版4K対応)

 

 ドキュメンタリー『μ´sが歩んだキセキの物語』も収録! 

 

 ※人気商品の為、一名様限定商品となります。”

 

 

 

 

 

 オーケー。そういう事か。理由までは分からないが目的は理解した。どうやらダイヤさんは今日発売のあのライブDVDを買いに来たらしい。うん、冷静に考えても意味が分からない。どうしてダイヤさんがあれを買いに来てるんだろう。あまりにも突飛な現実に自分が夢でも見ているのか、という気分になってきた。

 

 看板の下に書かれている文字のお陰で、僕がここに必要だった意味も分かってしまった。真意までは見えないが、恐らくあれを二つ手に入れる為に僕が居なくてはならないという事だろう。

 

 

 

「ねぇ、ダイヤさ───」

 

「黙りなさい。店を出るまでに余計な口を利いたら、承知しませんわ」

 

「は、はい」

 

 

 

 後ろから声をかけようとしたら、食い気味でそう返された。しかも物凄い迫力で。彼女は前を見ているから表情までは読み取れないというのに、とにかく凄まじい雰囲気を醸し出しているのが分かる。思わず怯んでしまったくらい。

 

 僕達の後ろには開店を待つ人達が続々と並んでくる。ここで列の外に出たらダイヤさんは恐らく僕の事を本気で許さないだろう。なんとなく、そんな殺気のようなものが出てるように見えた。

 

 綺麗な黒髪がかかるダイヤさんの小振りな耳は、これでもかというくらい真っ赤に染まっていた。

 

 彼女の顔を前から見たらそれはそれでまた怒られるような気がしたので、今は我慢する事にした。

 

 

 

 

 

 ───そうして開店時間が訪れ、ダイヤさんはお目当てであったあのライブDVDを手に入れていた。並んでいる時も商品を手渡される時も(予約してたのでお金は払わなかった)、僕らは本当に一言も喋らなかった。訂正、喋れなかった。ダイヤさんは無言を貫いていたし、彼女が出す雰囲気に負けて言葉を放つ事など、僕には許されなかったから。

 

 一限の商品を二つ手に入れる為に、僕は今日、ここへ連れて来られたらしい。何となく腑に落ちる部分はあるが、何故ついてくるのが僕だったのか。真意のほどは分からない。

 

 先に店を出て行ったダイヤさん。彼女は店の前に立って僕が出てくるのを待っていてくれた。顔は赤く、何故かこちらを細い目で睨みつけてくる。“ゲーマーズ沼津店”と書かれた白いビニール袋を両手で持ち、もじもじと身体を細かく揺らしていた。恥ずかしそうにするダイヤさんを見た瞬間、心臓が痛み出したけど何とか抑える事に成功。危なかった。うっかり倒れてしまうところだった。

 

 訊きたい事が最早両手では収まらないくらいあったので、とりあえず場所を変更する。

 

 ひとまず近くにあった名前はヤバそうだが中身は全然ヤバくない喫茶店に入り、店員さんに窓際の席に案内されて、僕らは椅子に腰掛けた。

 

 

 

「───もう喋ってもいいよね?」

 

 

 

 そうして今に至る。向かいの席に座るダイヤさんはこくりと頷いてくれた。むすっとした表情で目線は机の上に注がれている。頬はまだほんのりと赤く、照れているのか怒っているのかよく分からないような顔をしていた。

 

 お冷を貰い、注文は後にすると言ったら、若い女性の店員さんはすぐに頭を下げて『ごゆっくり』と言い残し、厨房の方へと下がって行った。美しい音を鳴らす鹿威しみたいに綺麗な礼だった。

 

 僕が受け取った分のDVDはまだダイヤさんに渡していない。今からする質問に答えてくれなかったら、これを人質? にして尋問する予定でいる。答えなかったら僕のものにさせてもらおう。部屋には既にひとつあるけど、それはまた別の話。

 

 

 

「それで、これはどういう事なのかな」

 

 

 

 ライブDVDが入ったビニール袋を机の上に置き、それを指差しながら訊ねる。赤いフレームの眼鏡を掛けたダイヤさんは未だ僕に目を合わせない。そっぽを向きながら、机の上に置かれた()()を横目で見つめている。

 

 

 

「…………」

 

「怒らないから、教えて? ダイヤさんが誰にも言わないでって言うなら、僕は誰にも言わないから」

 

 

 

 答えないダイヤさんに諭すように言った。これくらい低姿勢で行かなかったらいつまでも話してくれない気がした。

 

 ダイヤさんは言いづらそうに可愛らしい唇を尖らせる。怒られていじける小さな子供みたいな仕草にときめきを感じてしまったが、それは置いておこう。

 

 

 

「…………から、ですわ」

 

「え?」

 

 

 

 少しの間を置いてから、何かを囁くダイヤさん。だが、その声はすぐ傍に居る僕の耳まで届かず、静かな店内に流れるジャズミュージックに掻き消された。

 

 ダイヤさんは一度息を吐き、話す事を決心するような顔つきで僕の方を向いてくれる。それはどこか、諦観にも似た表情にも見える気がした。

 

 

 

「……どうしても、欲しかったから、ですわ」

 

「…………これを?」

 

 

 

 黒い髪がこくりと頷く。なるほど。次、行ってみよう。

 

 

 

「どうして、これが欲しかったの?」

 

「……好きだからですわ」

 

「スクールアイドルが? それともμ´sが?」

 

「どちらも、ですわ」

 

 

 

 なんと。衝撃の事実が今、ダイヤさんの口から語られた。ここでショックを受けてしまうのも簡単だが、それでは話が前に進まない。ニヤケてしまいそうになる顔を頼りないポーカーフェイススキルで誤魔化す事にしよう。

 

 

 

「なんで、僕が必要だったのかな」

 

「……一昨日、妹のルビィが熱を出してしまったのです。一緒に来る筈だったのに」

 

「じゃあ、これはルビィちゃんの分なの?」

 

 

 

 ダイヤさんは首を横に振る。それからまた、答えを話し出す。

 

 

 

「ひとつは観賞用。もうひとつは保存用ですわ」

 

 

 

 ああ、分かった。この子はどうやら本当にスクールアイドルが大好きらしい。これは巷で言う“ガチ勢”というやつだ。僕の中では同じ物を二つ以上買う人は、大抵その称号が付けられると決まっている。まさかダイヤさんがそのガチ勢に含まれる人だったなんて、出会ってから今日まで一ミリも想像した事すらなかった。

 

 

 

「だから二つ買う為に、僕が必要だったんだね」

 

「…………はい」

 

 

 

 ダイヤさんはシュンと肩を縮めながら俯いて答えてくれた。大体のピースが嵌って、ようやく本当に見たかった絵柄を見る事が出来た。……予想していた絵柄とは、だいぶかけ離れていたけれど。

 

 

 

「でも、どうしてあのお店だったの? ネットとかでも買えた筈だよね」

 

「そ、それは、その……」

 

 

 

 残った解せない部分を訊ねると、ダイヤさんは途端に答えにくそうな表情をした。

 

 このDVDが世間で人気な事は僕もよく知っている。恐らく、今日買う事が出来なかったら再販まで数カ月待たなくてはならなくなる。そしたらオークションなんかで高値で取引されるのは目に見えている未来。ただ、ネットを使えば数週間前から予約が出来た筈。僕だって確実に手に入れる為にそうした。

 

 なのに、ダイヤさんは敢えて後日に回せない店頭受け取りを選んだ。そこには、どんな理由があるのだろう。

 

 そう思いながら向かいに座る生徒会長さんを見つめていると、彼女は徐に自分が持っている分のビニール袋の中から何かを取り出した。

 

 そして、それを広げて僕に見せてくれる。心底、恥ずかしそうな顔をしながら。

 

 

 

「それは?」

 

「あの店で買うと付いてくる、限定タペストリーですわ」

 

「…………続けて?」

 

「μ´sの小泉花陽さんとエリーチカさま───で、ではなく、絢瀬絵里さんのタペストリー……ですわ」

 

 

 

 ダイヤさんの説明を聞いて、窓の外へと視線を向けながら何も言わずに頭を頷かせる。前を向いてしまったら最後だ。絶対に吹き出してしまう自信がある。

 

 窓に映っている自分の顔がめちゃくちゃ引き攣っていた。これはもうしょうがないだろう。ここでニヤけるなと言われたら流石の僕でも怒る。むしろ耐えている事を誰かに褒めてほしいくらいだった。

 

 そうか。ダイヤさんはあの店で買うと付いてくる限定のグッズをゲットする為に、どうしてもライブDVDを手に入れる必要があったらしい。ヤバい。腹筋が壊れそうだ。誰か助けてっ! 

 

 

 

「そ、そっか」

 

「………………」

 

 

 

 ダイヤさんが持っているタペストリーに映った小泉花陽ちゃんがよく言う常套句を心の中で叫びながら、かろうじてそう答えた。

 

 これで全てのピースが揃った。彼女がこの場所に僕を連れてきた事、そしてスクールアイドルをしてほしいというお願いを聞いてくれた事の答えがようやく分かった。

 

 ダイヤさんはスクールアイドルが好き。だから、僕が文化祭でスクールアイドルをしてほしいと言わなくとも、彼女は最初からやる気があったのだろう。そうじゃなかったら、こんな安い条件で約束してくれる訳がない。

 

 というかそもそも。

 

 

 

「だったら、隠さずに最初からそう言ってくれればよかったのに」

 

「え…………?」

 

 

 

 そう言うと、ダイヤさんは目を丸くしてこちらを見つめてくる。なんとなく、いつもの硬度よりだいぶ下がっている気がした。

 

 硬度50%くらいのダイヤさんに向かって、僕は言いたい事を言う。

 

 

 

「そういう事だったら、約束なんてしなくても僕は来てあげたよ、って」

 

「…………どうして?」

 

 

 

 ダイヤさんは少しだけ潤ませた瞳で僕を見つめてくる。いつもより弱々しい彼女も新鮮だな、と思いながらその返事をする。

 

 そうだ。そういう事なら約束をしなくても、僕はここに来ただろう。それは、どうしてもあのライブDVDを欲しがった彼女の気持ちが痛いほど分かるから。

 

 

 

 そして、一番の理由は。

 

 

 

「僕も大好きなんだ、μ´s」

 

「っ!」

 

「多分、ダイヤさんに負けないくらいね」

 

 

 

 そんな風にカミングアウトする。別に今まで隠していた訳じゃないけど、打ち明ける意味もないと思ったから言わなかっただけ。知名度があると言ってもひけらかすような趣味でもないし、よく思われない事の方が多いから。

 

 

 ───そう、僕はスクールアイドルが好き。ダイヤさんに言ったように、大抵の人には負けないくらい詳しいと自負している。知っているのは信吾くらい。これは花丸も知らない。流石に貸し与えてもらったお寺の部屋にスクールアイドルのポスターやら雑誌の切り抜きは貼れないので、居候をしている間は我慢をしている。仏様が見たら驚いて腰を抜かしちゃうだろうから。

 

 実家の部屋は正直、誰にも見せられないくらい凄いと自分でも思う。本当に理解してくれる人じゃないと入れる事は出来ない。一度信吾に入ってもらったらドン引きされた記憶がある。

 

 周囲に好きだと言う人が居ないので話すら出来ない。一カ月に一回のペースで行っているライブも、本当は誰かと行ってみたい。そんな友達が一人くらい居てもいいな、と思うけど、俄かな人とでは話が合わないので今まで披瀝する事はなかった。

 

 だから、ダイヤさんが本当にスクールアイドルが好きな人だった事を知って嬉しかった。彼女がどれくらいの実力を持っているかは知らないけれど、保存用のDVDまで購入するくらいだ。少なくとも、今まで出会って来た人達の中ではそれなりに詳しそうな部類にカテゴライズされるかもしれない。

 

 

 

「…………また、そんな建前を」

 

「建前じゃないって。僕は本当にスクールアイドルが好きなんだよ」

 

 

 

 僕のカミングアウトを聞いたダイヤさんは一瞬驚いたような顔をしたけど、すぐに不機嫌そうな表情に変わった。恐らく、彼女と話を合わせる為に建前を言ったのだと勘違いしたのだろう。けど残念ながら、今のは建前でも嘘でも冗談でもない。それを分かってもらうには、どうすればいいかな。

 

 そんな事を考えながらお冷を一口飲んだ時、ダイヤさんは僕の事を鋭い目で見つめながら口を開く。

 

 

 

「なら、証拠を見せなさい」

 

「証拠?」

 

「そうですわ。貴方がそこまでμ´sが好きだと言うなら、今から私が出すクイズに答えてみなさい」

 

 

 

 ダイヤさんは真面目な顔をしてそう言ってくる。なるほど、そういう事なら話は早い。彼女が出す質問に答えられたのなら、僕がスクールアイドルが好きな事を認めてくれるだろう。逆に答えられなかったら、ダイヤさんは間違いなく僕を認めてくれない。

 

 もっとも、間違える気などさらさらないけれど。

 

 

 

「いいよ。何だって答えてあげるから」

 

「言いましたね。後悔しても知りませんわよ?」

 

 

 

 余程自信があるのか、ダイヤさんは強気だ。先ほどまで下がっていた硬度がいつもの硬さを取り戻してきている。

 

 彼女のラブライブ愛がどの程度のレベルにあるか。また、僕とどれくらいの差があるのか。

 

 腕試しと行こうじゃないか。

 

 

 

 





次話/オタクは好きな事の話になると面倒くさい


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オタクは好きな事の話題になると面倒くさい

 

 ◇

 

 

 

 

 

 

 

「───第一問。μ´sのメンバーがグループに参加した順番を正しく答えなさい。前後していても間違いとしますわ」

 

 

 

 ひとまず店員さんにアイスコーヒーを二つ頼んだ後、早速ダイヤさんは僕にそんな問題を出してきた。

 

 彼女の顔は、出会ったばかりの頃と変わりないように見える。つまり、目の前に座る僕を完全に敵として認識していた。あれは僕に負けを認めさせ、自らの前に屈服させようとしている目だ。人間は強さという武器を使って、他者を跪かせる事を好む動物。言ってみれば、今のダイヤさんは人間が持つ本能に従っている。

 

 だが同時に、人は力で屈服させようとしてくる他者に抗おうとする本能も兼ね備えている。迎え撃つ僕は、その本能に従ってやろうじゃないか。

 

 第一問目の問題を聞いて、即座に頭の中にある抽斗の中から答えを探し出し、それを言葉に換えてアウトプットする。

 

 

 

「リーダーの高坂穂乃果さん。次に南ことりさん、園田海未さん。それから一年生の小泉花陽さん。星空凛さんと西木野真姫さんは同時。三年生の矢澤にこちゃん、絢瀬絵里さん、最後に東條希さん、だよ」

 

「…………正解です。ふん、このくらい一般常識の範疇ですわ。むしろ知らない方がおかしいと思いなさい」

 

 

 

 さらっと答えてみせると、ダイヤさんは腕組みをしながらそう言ってくる。たしかに、スクールアイドル好きの人間からすればこんなもの初歩中の初歩だ。恐らくダイヤさんは僕の実力を測る為に、わざと簡単な質問をして来たのだろう。そうじゃなかったら期待外れも良いところだ。

 

 

 

「さぁ、次はどんな問題?」

 

「第二問。高坂穂乃果さんの実家である和菓子屋の名前は?」

 

「穂むら」

 

「……次、南ことりさんが隠れてしていたバイトは? そしてバイト時の名前も答えなさい」

 

「秋葉原のメイド喫茶。伝説のメイド、ミナリンスキーだね」

 

「正解、ですわ」

 

 

 

 第二問、第三問と続けて正解する。こんなもの朝飯前だ。何十、いや、何百回μ´sに関する雑誌やドキュメンタリーを見たと思ってる。このくらいの質問ならば、条件反射で答えられるくらいだ。問題が耳を通り抜けた瞬間にもう答えが口から出てくる。つい要らない情報まで語ってしまいそうになるくらい。

 

 ダイヤさんは僕の顔をジトっとした目つきで見つめてくる。ここまで考える間もなく即答しているところから、それなりの実力は持っていると思い始めたのか。

 

 

 

「レベルを上げますわ、第四問。μ´sがラブライブ二次予選、あの伝説とも言われるライブで歌った曲は?」

 

「? Snow halation」

 

 

 

 ダイヤさんの言葉とクイズの矛盾に疑問が浮かぶ。そんなもの、μ´sやスクールアイドルを知らない人でも理解してる一般常識だ。むしろあのライブシーンを見た事がない日本人はこの島に存在する訳がない。これは少しばかり誇張した表現かもしれないが、それくらい有名な話なんだ。

 

 なのに、彼女はこの問題でレベルを上げると前置きした。その思惑はなんだ? 一体何を考えている。

 

 そう訝しみながら向かいの席に座るダイヤさんの顔を見つめていると、彼女はニヤリと口の端を釣り上げた。それはまるで、愚かな人を騙す頭の良い詐欺師のような表情だった。

 

 それからすぐに、唇は開かれる。

 

 

 

「ですが、彼女達があの楽曲を作った時、一人ずつ言葉を出し合って歌詞を考えたと言われています。歌詞中にある言葉から誰がどのワードを選んだか、答えなさい」

 

「っ!」

 

 

 

 そういう事か。最初の質問はフェイクだった訳だな。流石の僕でも質問を聞いて、すんなり答えられるほどの難易度では無くなってきた。

 

 だが、必ず答えてみせる。

 

 

 

「ふふ。どうしました? 早く答えなさい」

 

「…………」

 

 

 

 ダイヤさんは机の上に左肘を置いて綺麗な顎を手に乗せ、得意げな顔で僕の事を見つめてくる。間違いない。あれは、僕がここで降参すると思っている表情だ。今までの緩やかだと思わせておいた難易度を急激に上げる事によって、精神的な揺さぶりをかけてきたと思われる。

 

 どうやら、ここまではダイヤさんの思惑通りに進んでいるらしい。そんな質問やクイズの策略を即座に考えられるという事は、彼女は僕が思っていたよりもずっと実力を持っている事になる。さらに、この問題に答えられたとしてもここからどこまで深い質問をしてくるのか、と不安に陥らせる事によって回答者の考えを纏めさせにくくしてる。やるな、ダイヤさん。完全にクイズ慣れしている者のやり方だ。

 

 しかし、僕だって伊達にスクールアイドル好きを自負している訳じゃない。恥ずかしくて公言する事は出来ていないけれど、約四年間、一人でただひたすらに掻き集めてきた知識の量だけは誰にも負けない。負けてはならない。

 

 記憶の奥に置かれたボックスを開け、そこに入っているであろう答えを探す。そして、そこに忘れかけていた記憶の欠片を見つけた。

 

 ああ、これなら大丈夫。どうやら、かろうじて残ってくれていたみたいだ。

 

 

 

「……穂乃果さん『想い』、花陽さん『メロディ』、海未さん『予感』、凛さん『不思議』、真姫さん『未来』、ことりさん『ときめき』、にこちゃん『空』、絵里さん『気持ち』、希さん……『好き』。で、合ってる?」

 

 

 

 頭の中で間違いがないかを審査しながら、ひとつずつ言葉にしていった。これで不正解なら、潔く負けを認めざるを得ない。でも、これで正しい筈だ。過去の僕が覚えていてくれた知識を今、僕は信じる。

 

 殊勝な顔をしていたダイヤさんは、僕の答えを聞いて顔色を変えていた。

 

『どうして答えられるのです』と、綺麗な顔に書いてある気がする。

 

 

 

「…………正解ですわ」

 

 

 

 彼女の言葉を聞き、机の下で拳を握りしめる。手の平は緊張の所為か少々汗ばんでいた。危なげない感じだったけど、何とか正解できたので良しとしよう。

 

 今レベルの問題なら、以前秋葉原で開催していたスクールアイドルのクイズ大会で、最後に数問出てきた覚えがある。ちなみに僕は、その第二回大会で優勝している。

 

 第一回大会の優勝、準優勝者は地方から来た姉妹二人組だった、とやけにハイテンションな解説のお姉さんが熱く語っていた気がするけど、今は忘れよう。

 

 

 

「どう? これで僕がにわかなファンじゃないのは分かってくれた?」

 

 

 

 今度はこちらが有利に立つ。足元を掬う、っていうのはこんな時に使える言葉らしい。僕はダイヤさんの足元を掬い、間違いなく彼女の認識を改める事に成功した。

 

 だが、この程度で硬度120%を誇る生徒会長は納得してくれない。それは彼女の表情を見ていればよく分かった。何処からどう見たって負けず嫌いな性格をしていそうなダイヤさんが、これくらいで敗北を認める訳がないのは火を見るよりも明らかだった。

 

 

 

「ま、まだですわ。まだ、あなたを認める訳にはいきません」

 

「じゃあ、どうしたら認めてくれるの?」

 

「…………最後の問題を答えたら、特別に認めてあげましょう。最も、この問題はルビィや私でさえも分からない問題です。それをあなたが答えることが出来たら、認めざるを得ません」

 

 

 

 彼女は真面目な顔をしてそう言ってくる。ファンである人でも分からない問題を果たしてクイズと言えるのかは微妙なところだけど、まあいい。とりあえず聞いてみる事にしよう。

 

 

 

「いいよ。もしかしたら、答えられるかもしれないからね」

 

「では、参りますわ」

 

 

 

 赤いフレームの眼鏡を掛けたダイヤさんは、深碧の瞳をジッと僕の方へ向けてくる。どんな問題が来るのか。その小さな沈黙の中で少しばかりの緊張を覚えた。

 

 

 

「───μ´sが秋葉ドームで最後のライブをする前、数日アメリカに滞在した事は、夕陽さんもご存知ですね?」

 

「うん。Angelic AngelのPVを撮ったんだよね?」

 

「そうですわ。ですがそのアメリカで、リーダーの高坂穂乃果さんは()()()()()に出会ったと言います」

 

「…………」

 

「その日本人とは誰だったのか。答えられますか?」

 

 

 

 ダイヤさんの言葉を聞いて、腑に落ちる。その話は僕も知っていた。ただ、話を知っているだけ。

 

 高坂穂乃果さんはアメリカで電車を乗り間違え、メンバーを離れ離れになってしまった。その時に偶然、駅の前で歌っている一人のシンガーソングライターの女性と出会った、という話。

 

 今でこそμ´sの歴史は伝説として様々なメディアで取り上げられているが、その話だけはどの雑誌やドキュメンタリーにも記録されていなかった。さらに、穂乃果さん以外のメンバーもその女性を知らないとまで語っていたのを見たことがある。

 

 だが、僕はその正体を知っている。たぶんこれは相当なラブライバーでも答えられない。だからこれ以上の難易度の問題はあり得ない。ダイヤさんがそのレベルを求めているのならば、僕も彼女が欲している答えを述べられる領域まで自らを昇華させるべきだろう。

 

 頭を回せ。同時に、思考を纏めろ。余計なことは考えるな。結婚式当日に指輪を失くした新郎のように、必死にその答えを頭のどこかから探し出せ。

 

 数十秒の沈黙を置き、目線の先にいる生徒会長の顔を見た。

 

 

 

「それは────」

 

 

 

 そして、僕はその質問に答える。

 

 それを聞いて、ようやくダイヤさんは僕を認めてくれたようだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 

 

 スクールアイドル・クイズ大会が終わり、そのヤバそうでヤバくないお店で有名なナポリタンを食べてから僕らは外へと出た。

 

 特にやる事も目的地もないけれど、何となく駅前をぶらぶらしてみる事になって今に至っている。いや、帰ろうと言えば帰ったのだろうけど、ダイヤさんの様子がいつもと異なっていたので単に言い出せなかっただけ。

 

 

 

「ああ、良いよね。あの第二回の予選でμ´sが着てた衣装。何だか儚い妖精みたいで」

 

「そうですわ。そしてあの予選に出る前、衣装担当の南ことりさん、作詞担当の園田海未さん、作曲担当の西木野真姫さんがスランプに陥っていたのはご存知でしょう? 西木野真姫さんの別荘がある山間部で行った合宿にてそれを乗り越え、μ´sはあの名曲“ユメノトビラ”を作り上げたのですわ。……嗚呼、なんて感動的な物語なのでしょう。思い返すだけで胸が熱くなりますわ」

 

 

 

 ダイヤさんは僕の隣を歩きながら、μ´sの歴史を熱く語っている。知識量も凄いが、その狂気とも言える熱狂度合いには僕も驚かされるものがあった。まさかあの生徒会長がここまでスクールアイドルを愛していたとは、僕らのクラスの男子はもちろん、全学年の男子達は一人たりとも知らない事実だろう。

 

 先ほどのクイズを終えてダイヤさんは、自分がラブライバーであることは誰にも教えるな、と釘を刺して来たので絶対に言わないと約束した。口が堅いのは僕の数少ない長所とも言える。ただ、何も条件を付けずに了承してしまったらもったいない。なので一応、再確認の意味も込めて誰にも言わない代わりに、文化祭でスクールアイドルをしてくれるようお願いした。

 

 ダイヤさんは『し、仕方ないですわね』と言いながら僕のお願いを受け入れてくれた。それは恐らく、僕が自分と同類の人間である事を理解して、ほんの少しだけ心を開いてくれたからだと思っている。都合の良い考え方かもしれないが、勝手に思っておくくらいはかまわないだろう。

 

 正直言うと、僕も嬉しい。だって好きな女の子が、偶然自分と同じ趣味をしていた事を知ったんだよ? しかも全くにわかなどではなく、自身と肩を並べるほどの知識量と愛を持っていた。その衝撃の事実を知って、嬉しいと思わない訳がない。

 

 隣を歩きながら、楽しそうにμ´sの素晴らしさを語っているダイヤさん。こんな顔の彼女は初めて見た気がする。学校が統合になってからこの半年間で、ダイヤさんの笑顔は数え切れないほど見て来た。けど、こんな風に自分の好きなものの話題を心底嬉しそうに喋るダイヤさんを、僕は一度も見た事がない。むしろこんなに長い時間、何かの物事に必要のない話をした事もなかった。

 

 だからこそ新鮮だった。知らなかった一面を知る事が出来て(しかもその一面は僕とほとんど同じ色をしていた)、彼女と大好きな事で話を合わせる事が出来て、本当に心の底から嬉しかった。スクールアイドルを好きでいてよかった、とダイヤさんの横顔を見ながら心の中で思い、感謝をする。

 

 

 

「ダイヤさんは、μ´sの中だと絵里さんが好きなの?」

 

「愚問ですわ。スクールアイドルをやりながら生徒会長を務めていた。世界一クールなあのお方を好きにならない理由が、私のどこにあるというのです?」

 

 

 

 信号待ちをしながら、ふとさっきの店で話していた時に感じた違和感を訊ねると、隣からそんな答えが返ってきた。そして何故かちょっと怒ってる。そんな事は言葉にしなくとも察しろ、と言いたげな表情だった。

 

 まぁ、たしかにμ´sの中で言えば断トツで絢瀬絵里さんがダイヤさんには合っている。綺麗で真面目で頭も良く、生徒達からも信頼されている。実は暗いところが怖いとか、たまに抜けているところがあるという裏話も他メンバーのインタビューに書いてあった。それはそれでギャップがあっていい。そういった部分も人気が出る要因になっているのだろう、と昔から分析していた。それはいいとして。

 

 

 

「じゃあ、ダイヤさんは絵里さんに憧れて生徒会長になったんだ」

 

「…………そ、そうですわ」

 

 

 

 僕の言葉に、バツが悪そうな表情で答えてくれるダイヤさん。なんとなく予想はしていたけど、実際に彼女の口から肯定の言葉を聞いたら思わずニヤケてしまいそうになった。咄嗟に顔を彼女が立つ側とは反対の方向へ向ける。

 

 

 

「やっぱりそうだったんだね」

 

「な、なんですのその顔は。文句があるなら言ってみなさい」

 

 

 

 気にしていない感じで言ったのに、ダイヤさんは僕の顔つきに不満があるみたいだった。いつも通りの表情を繕っていたけど、どうやら彼女にはそう見えなかったらしい。

 

 

 

「いや、文句はないよ。ダイヤさんらしいな、って思ってただけ」

 

「……少々小馬鹿にされている感じも否めませんが、まあいいでしょう。特別に許して差し上げます」

 

「ふふ、ありがとう。ダイヤさんは優しいね」

 

「こんなものは優しさの内に入りませんわ。勘違いしないように」

 

 

 

 赤いフレームの眼鏡を掛けたダイヤさんはそう言ってふん、と顔を背ける。でも、声のトーンがいつもより明るくて嬉しそうだったので、怒っている訳ではなさそうだった。

 

 お互いの大好きな事についてここまで話が出来るのなら、もっと前から打ち明けていればよかったと思ってしまった。そうすれば僕はダイヤさんの事を今よりもよく知る事が出来ただろうし、反対に僕の事をダイヤさんに知ってもらえる事が出来たかもしれないのに。

 

 それを惜しい、とは思うけれど、見方を変えれば今日知る事が出来てよかったとも思える。このまま何も知らずに卒業してしまったら、僕はもっと大きな後悔をしていたと思うから。

 

 信号が青に変わり、僕らは歩き出す。東の方角から吹いてきた風が隣を歩くダイヤさんの黒髪を揺らして、沼津駅前の何処かへと消えて行く。金木犀の香りがした。あの花が咲くにはまだ時期は早いというのに。

 

 

 

「お願いしまーす」

 

「あ、どうも」

 

「ありがとうございましたー」

 

 

 

 信号を渡った先に立っていたティッシュ配りのお姉さんにポケットティッシュを渡され、思わず受け取ってしまった。後で使える時が来るかもしれないのでありがたく貰っておこう。

 

 

 

「それで、あなたは誰が好きですの」

 

「え?」

 

「μ´sのメンバーの中で、誰が一番好きなのかを訊いているのですわ」

 

 

 

 お姉さんから渡されたポケットティッシュをパーカーのポケットに入れた時、ダイヤさんにそう言われる。脈絡がない訳じゃないけど、唐突な質問だったので一瞬なんの事を訊かれているのか分からなかった。

 

 眼鏡を掛けたダイヤさんは横目で僕の方を見てくる。ハイヒールを履いているからか、彼女の目線がいつもより高い。ちょうど同じくらいの高さになっていた。それを自覚しただけで、何故か心拍の速度が普段より早まる気がした。

 

 μ´sの中で誰が一番好きか。言わずもがな、僕には嫌いなメンバーなんて一人として存在しない。けど、贔屓してしまう人は当然のように居る。いわゆる、推しメンというやつだ。

 

 ダイヤさんは先ほど、絢瀬絵里さんを推していると言った。自分と同じグループが好きな人間が目の前にいたら、()()を訊きたくなる気持ちも分かる。

 

 話し相手の推しメンを訊く事により、話題の方向性は変わってくる。お互いが好きなメンバー同士の関わり方はこうだった、とか、こんなエピソードがあった、とかさらに一歩踏み込んだ細部の話まで出来るようになったりする。もしかしたら自分が知らない知識も得られる場合だってある。

 

 ……稀に、同じメンバーを推していたりすると謎の闘争心みたいなものが沸いてしまい、どちらがそのメンバーを愛しているか、という不毛な戦いに発展する事もあるので一概に愛をひけらかすのもよくはない。

 

 だから僕はこういう場合、”訊かれたら答える“というスタンスを取っている。ダイヤさんのように、先に推しを教えてくれた方がなお嬉しい。万が一推しが同じだったりしたら、確実に相手よりも上だと思わせる為に何かしらの勝負を挑んでしまうから。こういった自分の好きな話になってしまうと、熱くなりすぎる性格をしている自分が少々情けなく思う時がある。これも趣味を容易く公言できない要因にもなっていると常々感じている。

 

 ダイヤさんは眼鏡の向こう側にある深碧の瞳で、ジッと僕の顔を見つめてくる。そう言えばさっきのクイズを答える時、さらっとヒントを与えていたけどダイヤさんは気づいてなかったのかな。一人だけちゃん付けで呼んでいたから分かると思ったんだけど。

 

 

 

「僕は、にこちゃんが好きだよ」

 

「……にこさん。意外ですわね」

 

「そうかな?」

 

「ええ。あなたはどちらかというと、大人の雰囲気が漂っていて包容力のある希さんのような方を好むものだと思っていました」

 

「ああ」

 

 

 

 ダイヤさんにそう言われ、少しだけ納得する。

 

 別にコンプレックスでも無いけれど、僕は普通の高校三年生よりも幼く見られる。多分そういう見た目から、年下に甘えさせてくれる感じの希さんが好きそうだ、と彼女は言ったのだろう。

 

 残念ながらその認識は異なっている。もちろん希さんが嫌いな訳じゃない。ただ、一番ににこちゃんを推してしまう大きな理由が、僕にはあるのだ。

 

 

 

「では何故、にこさんが好きなのです?」

 

「…………」

 

「? 夕陽さん?」

 

 

 

 こういう話題になったら、当然のように理由を語らなくてはならない時が来るとは思っていた。ダイヤさんが絵里さんを好きになった理由を教えてくれたのと同じで、僕にも矢澤にこちゃんを好きになった理由がある。

 

 けど、それを彼女に言うのはほんの少しだけ躊躇われた。何故か。答えは簡単。にこちゃんとダイヤさんに共通するものがあるからだ。

 

 僕がダイヤさんを好きになってしまった理由のひとつに()()があるから、大変言いづらい。気にしなければいいのだろうけど、僕はそういうどうでもいい事を結構気にしてしまう。

 

 

 

「えっと、ね」

 

 

 

 隣を歩くダイヤさんの方に目線を向ける。彼女は首を傾げて不思議そうな顔をして、答えを言い淀む僕の顔を見ていた。

 

 それから、ダイヤさんの綺麗な()()に目を奪われる。絹のように細く、太陽の光を煌びやかに反射させる艶やかな漆黒。まるで作り物のように美しいその髪は、出会ってから今日まで何度も僕の心臓の鼓動を加速させた。

 

 そう。僕が矢澤にこちゃんを好きになった理由と、ダイヤさんに惹かれ続けてしまう共通の理由は、そこにある。

 

 

 

「綺麗な黒髪、だから…………かな」

 

「ぇ…………」

 

「も、もちろんそれだけじゃないよ? ああいう髪型も、小悪魔っぽい性格も好きだし、意地っ張りで強がりなところとかも可愛くていいな、って思うし…………あ」

 

 

 

 一番の理由をカミングアウトしてから、思わず焦ってしまった。よく分からない事を早口に並べて、最後には言わなくてもいい事を言った。

 

 完全に墓穴を掘ってしまった。一体何をやっているんだろう、僕は。これでは僕が好きになる女の子はそんな髪色をしていて、強がりな性格をしている女の子だとダイヤさんに教えている事と同じじゃないか。ああもう、穴があったら入りたい。今なら自分で掘った墓穴にも入ってしまえそうだ。

 

 

 

「…………」

 

「…………」

 

 

 

 思わず歩道の真ん中で立ち止まり、空を仰ぐ振りをする。ダイヤさんも数歩前で歩くのを止め、黙って僕の方を見ていた。でも表情までは見れない。このタイミングで見てしまったら何か違った思惑があるんじゃないか、と彼女が察してしまうかもしれない。

 

 気まずい空気が駅前大通りに流れる。顔が熱い。普通に考えたら恥ずかしがらなくてもいい場面なのに、何を勝手に照れているのか。でも少しくらいは許してほしい。

 

 だって、今のは。

 

 

 

「だから、僕はにこちゃんが好きなんだ」

 

 

 

 遠回しに、ダイヤさんも好きだっていう事と同義になってしまう言葉だったから。

 

 

 

「そう、なのですか」

 

「うん。そういうことだよ」

 

 

 

 そう言ってから、僕は歩き出す。その前に、ダイヤさんの事をさり気なく一瞥した。

 

 ダイヤさんは何処か居心地悪そうに、指先で髪の毛先を弄っていた。

 

 どうしようもなく美しくて思わず見惚れてしまう───その長い黒髪を。

 

 

 





次話/生徒会長、ツインテールになります


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生徒会長、ツインテールになります

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

「あれ。このお店」

 

「どうかしましたか、夕陽さん」

 

 

 

 そうしてダイヤさんと二人、目的地も定めないまま沼津駅周辺を練り歩いていると、見慣れないある一軒の店を見つけた。

 

 小洒落た雰囲気のレンガ造りの外観に、カエルのマークが描かれた看板が入り口の上部に掲げられている。〝雑貨屋 ゐろは”というのがこの店の名前らしい。統合してからは駅前に来る事は少なくなったが、もともとこの辺りには詳しいので、何処にどんなお店があるのかは大体把握している。けど、この雑貨屋には見覚えがなかった。なら恐らく、ここは四月以降に出来た店なのだろう。外から見た感じ、窓やなんとなく新しいような感じがするし。

 

 店の前には鉄で作られたであろう一台の自転車が置かれており、入り口である臙脂色の扉の左横には大きな窓があった。そこから店内を覗くと、机の上に幾科学的な模様のお皿や珈琲カップが綺麗に並べられているのが見えた。きっとこの店の店主は几帳面なのだろう、と意味のない想像してみる。

 

 行ったことはないけど、ヨーロッパの街の何処かにこんな店があっても違和感はなさそう。それが第一印象だった。駅前の片隅に佇んでいて、良い感じの雰囲気を出している割には大袈裟なアピールはしていない。売り出し方を工夫すれば人気が出そうな店なのに、そんな様子は見られない。

 

 ああ。それはまさに僕の感覚にピッタリ合う感じの雑貨屋だった。誰にだってそういう風に思ってしまう何かはあるだろう。初めて見たり触れたりするものなのに、何故か強く心が惹かれてしまうもの。それは物であったり人だったり、誰かにとっては場所だったりもする。ちょうど今の僕のように。

 

 

 

「ちょっと良い雰囲気だね、ここ」

 

「雑貨屋、ですか」

 

「うん。少し入ってみない?」

 

 

 

 未だに赤いフレームの眼鏡を掛けているダイヤさんに提案すると、彼女はすぐに頷いてくれた。

 

 

 

「特に行きたい場所もありませんので、よろしいですわ」

 

「そっか。じゃあ入ってみよう」

 

 

 

 ダイヤさんはそう言ってくれたので、早速やけに派手な色をした扉を開けて店内に足を踏み入れる。からん。喫茶店に入る時によく聞くような、小さな鐘の音が鳴った。

 

 アロマオイルなんかも置いてあるのか、店の中は少々強めな香水みたいな香りが漂っていた。ただ、気分を害するほどではない。慣れてしまえば心地良くも感じられそうな良い匂いだった。

 

 木張りの床は予想通り真新しく艶やかで、ハイヒールを履いたダイヤさんが歩く度にコツコツと乾いた綺麗な音を鳴らした。天井に目を向けるとライト付きのシーリングファンが回っている。冷房も効いている為、しばらく外を歩いたこの身体を少なからず癒してくれた。

 

 入り口から見て正面の奥にはカウンターが見え、その手前には背の高いラックが四つほど並べられている。外から眺められた窓の前にはやはり奇抜な模様をした皿やコップが置かれていた。左奥の壁には様々な動物の置物が置かれ、それと美しい海が描かれた絵画が存在感を放ちながら掛けられている。十メートル四方ほどの広さで、あまり広いとは言えないが品ぞろえはかなり良さそうだった。雑貨屋なのだから当たり前といえば当たり前か。

 

 あまり明るくない店内には、その雰囲気に合う落ち着いたピアノミュージックが流れている。やっぱり、良い店だ。入ってみて確信した。ここは僕の感覚に合っている、と。

 

 

 

「このような店が沼津にあったのですか、全然知りませんでしたわ」

 

「僕も知らなかったよ。結構好きだな、こういう所」

 

「ええ。たまにはこういった店に入ってみるのも、悪くありませんわね」

 

 

 

 そう言いながら、棚に置かれているペンギンの人形を指先でつんつん触るダイヤさん。

 

 それから二人で店内を歩いてまわる。緑色のエプロンを付けた四十代くらいの女性がカウンターに座っているだけで、僕達以外の客は居ない。

 

 店員であるその女性は一言『いらっしゃいませ』と言った後は穏やかな笑顔を浮かべたまま、僕とダイヤさんの事を眺めていた。

 

 少しだけ不思議な空気が漂うこの雑貨店の店員をしている女性は、何故かお伽噺に出てくる優しい魔女を思わせた。多分、村の端の森の奥に建っている木造の小屋に住んでいて、時々村に現れて住民達に良い魔法をかけてくれる類の魔女だ。

 

 

 

「あ」

 

「?」

 

 

 

 とある棚の前を通り過ぎようとした時、ダイヤさんがふと声を出して足を止めた。気になって彼女が見ているモノへと視線を向けると、そこに綺麗な髪飾りが何個か置かれていた。

 

 ダイヤさんはその色とりどりの髪飾りや髪留めを興味深そうに見つめている。どうしてそれを気に留めたのか気になり、彼女の横顔に声を掛けた。

 

 

 

「綺麗だね、その髪飾り」

 

「そう、ですわね」

 

 

 

 するとそんな返事が返ってくる。ダイヤさんは割と集中してその髪飾りに目を向けていた。

 

 彼女の両こめかみ辺りにはいつも、『> <』みたいな形をした白い髪飾りが付いている。それはダイヤさんのトレードマーク的な存在。最近は付けているのが当たり前に思えていたので、特に気にしていなかった。僕もその髪飾りを眺めながら、浮かんだ問いを投げる。

 

 

 

「ダイヤさんは髪を結んだりしないの?」

 

「結んだり、ですか?」

 

「うん。そう言えばダイヤさんが髪を結んでるところ、あんまり見た事ないなーって思って」

 

 

 

 ふと、そんな事を口にしてみた。綺麗な黒髪を下ろしているのが彼女のイメージだから、別に不満があったりする訳じゃない。

 

 ただ、髪を結んでいるダイヤさんを見たいという感情がないと言えば嘘になる。ハッキリ言ってしまえば物凄く見たいです。

 

 女性のどこが気になるか、と訊かれたら僕は真っ先に()と答える。そんな個人の性癖みたいなものは、むやみやたらに口にするものでもないので誰にも言った事はないけれど。

 

 先ほど歩きながらダイヤさんと話をした通り、僕は様々な髪色の中でも黒が一番好き。普遍的な日本人らしい好みだ、と言われても反論できない。だって本当にその通りだから。そう言った日本的な和、を象徴するようなものには昔から弱い。浴衣とか和服を見る度にこの国に生まれてよかった、と思うのは口に出来ない秘密。

 

 髪型にはあまりこだわりはないけれど、強いて言うならμ´sの矢澤にこちゃんのようなツインテールは女の子らしくて可愛いと思う。

 

 その話はいいとして。

 

 

 

「夏祭りの時は結んでいたでしょう」

 

「そうだったね。でも、他の髪型は見た事ないかも」

 

「見たいのですか?」

 

「ま、まあね。見たくなくはないかな」

 

 

 

 なんて、自分でも何を言ってるのかよく分からない事を口にしてしまった。焦った思考回路からストン、と落ちてきたその言葉。冷静な振りをしてるけど、内心はかなり緊張してる。

 

 ダイヤさんは赤色のシュシュを二つ、手に取って眺めていた。それが欲しいのだろうか。彼女が何を思っているのかは知らない。思い悩むような綺麗な横顔を僕は黙って見つめる。

 

 

 

「し、仕方ありませんわね。特別に───」

 

「あ、ごめん電話だ」

 

「………………」

 

 

 

 ダイヤさんが僕に向かって何かを言おうとした瞬間、ジーンズのポケットに入れていた携帯が鳴る。取り出して見ると、ディスプレイには〝花丸”の二文字が表示されていた。

 

 ダイヤさんには申し訳ないけど、あの子からの電話を無視する訳にもいかない。出掛ける前、『今日は家で本を読んでるずら』と言っていたので、変な事に巻き込まれたとかじゃないのは分かってる。でも、どうしたんだろう。

 

 

 

「少し待ってて。すぐに戻るから」

 

 

 

 静かな店内、しかもダイヤさんの前で電話をするのは憚られたので、そう言ってから一旦店の外に出る事にした。

 

 彼女は少しばかり不機嫌そうな表情を浮かべながら、僕の言葉に黙って頷いてくれる。それを見て、雑貨店から外に出た。

 

 ダイヤさんは尚も、二つの赤いシュシュを握り締めていた。

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 数分後。花丸との電話を終え、また店内へと戻る。話の内容は『お母さんの帰りが遅くなるみたいだから、今日はマルが夜ご飯を作るずらっ。楽しみにしててね☆』というもの。声から張り切っていた気持ちが伝わってきたので、今夜の晩ご飯には期待しながら帰る事にしよう。ついでにデザートになるお土産を買っていかなきゃ。花丸が喜びそうな和菓子が良いかな。

 

 大体の帰宅時間を伝えてから電話を切り、待たせてしまっていたダイヤさんの元へと急いで戻る。あの子の機嫌を損ねていませんように、と心の中で願いながら。

 

 恐らくさっきと同じ場所に居るだろうと目星を付け、あの髪飾りが置かれていた棚の方へと向かう。

 

 ……僕はこの時。数秒後の未来に何が訪れるか知らなかった。いや、知らなくて当然だった。

 

 自分の所為で訪れる未来を想像する事は出来ても、それ以外の理由で訪れる先の未来はイメージする事は出来ない。時間通りに来ると分かっている電車に乗る事は出来ても、来る予定のない快速電車には乗る事は出来ない。信号が青になったら歩道を渡れる保証はあるが、信号を無視して突っ込んでくる車は避けられない。それと同じ。

 

 よく分からない表現を並べてしまったけど、とにかく自らに訪れる未来は容易に知る事は出来ない、という事を知ってもらえればいい。

 

 そう、未来は分からないのだ。自分の力でどうにかなると決定している事以外は、誰にも見る事が出来ない。タイムリープでもしない限り、()()はどうやっても避ける事は出来ない。だからこそ、人は驚くのだ。来る事が分かっている未来が現実になったって、誰も驚きはしない。時刻表に書いてある通りに電車が来て、驚愕する人が居ないように(何処かには居るかもしれないが)。

 

 

 

「お待たせ、ダイヤさ」

 

「あ…………」

 

 

 

 ──そこで、僕が見ている世界は時を止めた。水晶体を通して目に映った現実が、この空間に流れる全ての時間を停止させたんだ。

 

 息が出来ず、瞬きをする事も許されない。身体の動かし方を忘れた脳はもはや使い物にならない。勝手に動いている心臓でさえも、このまま拍動の仕方を忘れて止まってしまう気がした。

 

 目に映るのは、いつも通りのダイヤさん。僕が通う、浦の星学院高校の生徒会長。そこまではいい。おかしいところなど、ひとつとしてない。

 

 だが、今の彼女は何かが違っていた。それは、変装用の眼鏡を掛けている事じゃない。たしかに今日の彼女はそれを掛けていたけど、僕の目線の先に立つダイヤさんはあの眼鏡を外していた。

 

 なら、何が違うのか。服装か、はたまた、他に身に付けている何かなのか。

 

 いや、違う。どれもそのままだ。数分前に見ていたダイヤさんは、数分前と同じ服を着て変わらない場所に立っている。

 

 じゃあ、どこが先ほどと異なっているのか。一時的に働く事を止めた思考回路は、時間をかけてようやく目の前にある現実を受け入れてくれた。

 

 

 

 ダイヤさんは髪型をツインテールにしていた。

 

 

 

「ぐ…………っ!!!???」

 

「あ、ちがっ! こ、これはそのっ」

 

 

 

 現実を受け入れた瞬間に痛み出した心臓を両手で押さえ、その場に跪く。顔全体に血液が溜まってくるのが感覚的に分かる。いつ鼻血が出てもおかしくない状態。

 

 さっき手に持っていた二つの赤いシュシュで、両側頭部の髪を結んでいるダイヤさん。それはちょうど、僕が好きな矢澤にこちゃんのような髪型だった。髪色も相まっているからか、あの形をほとんど完璧にトレースしている。

 

 だが、全く持って意味が分からない。あれか、もしかしてこの子は間接的に僕の息の根を止めようとでもしているのだろうか。それなら話は分かる。その理由までは理解できないが。あ、やばい。やっぱり鼻血が出てきた。

 

 ダイヤさんの髪型がツインテールになっている。そこまではいい。たまたま世界の均衡が崩れてしまったとでも思っておけば、何とか許せる話だ。

 

 しかし、問題はもうひとつ。僕としてはそっちの方が心臓にダメージを与える要因だったと思っている。

 

 ダイヤさん(ツインテールver)は何を思ったのか、棚の近くに置かれてあった鏡の前で両手の親指、人差し指、小指を上げた形を作り、あのポーズを決めていた。そうだ。それは矢澤にこの代名詞でもある、あのポーズ。

 

 つまるところ、にっこにっこにー、のあれだ。

 

 

 

「ちょ、ちょっと待って……」

 

「み、見ないでくださいっ!」

 

 

 

 あまりに唐突なカウンターを受け、ダウン寸前の状態で待ったをかける。そしたら顔を真っ赤に染めた生徒会長(ツインテールver)に超理不尽な事を言われた。いや、そんな風に見るなと言われて見ない人間はこの世界に居ないと思うよ。

 

 一目見ただけで、うっかり天に召されてしまいそうになるほどの破壊力を持ったダイヤさん。あれはやばい。人並みに語彙力があるのは自負してるけど、あれはどう表現してもやばいにしかならない。本当にあれは危険だ。見ているだけで何故か怒りが沸いてくるほどに可愛い。もういい加減にして。

 

 普段が普段なだけに、あの髪型とポーズはギャップがあり過ぎた。この気持ちをどのように形容していいのかが本当に分からない。

 

 僕に出来るのは鼻から垂れ続ける血をティッシュで抑える事だけ。さっき駅前を歩いている時、バイトのお姉さんに貰ったポケットティッシュが意外な場面で役立った。人を無視出来ない自分の性格に、今は心から感謝をしたい。

 

 鼻にティッシュを詰め込み、一度大きく深呼吸をする。落ち着け、僕。どんな時でも冷静さは失ってはいけない。いや、こう言った場面だからこそ落ち着いていなければいけないんだ。

 

 心の中で般若心経を唱えながら、顔を赤くしてるツインテールのダイヤさんと向き合う。その怒っているようで恥ずかしさを隠しているような表情も、僕にとってはグッと来てしまう事を彼女は知らないんだろう。ああいった無自覚な()()()()ほど、性質(たち)の悪いものはない。

 

 

 

「ダイヤ、さん」

 

「っ」

 

 

 

 名前を呼びながら一歩、彼女の方へと近づく。するとダイヤさんは急にオロオロと目線を縦横無尽に動かし始めた。こんなに焦ってるダイヤさんを久しぶりに見た気がする。今の黒澤ダイヤ、という女の子は何をしても僕の心臓にダメージを与えてくる。それはまるで、どこを持っても棘が刺さる綺麗なバラみたいに思えた。

 

 何を言うか迷い、自問自答を繰り返す。けど、言葉はやっぱり上手く浮かばない。僕の好みに合いすぎて、可愛いとかそう言った次元の存在以上の何かに成り果てたダイヤさんは、顔を逸らしながらも横目でこちらを見ていた。

 

 もう一度深呼吸をして、彼女の前に立った。ダイヤさんはもしかしたら、僕が電話をしている間に気まぐれでそんな髪型をしていたのかもしれない。

 

 そうだったとしても、嬉しかった。数分前の僕が見たい、と思っていた姿をダイヤさんはしてくれている。それを見て、嬉しいという感情以外を抱く事は出来なかった。

 

 なら、その感情に従えばいい。夏祭りの日、ダイヤさんは僕に教えてくれた。正しいものや合っているものではなく、選びたいものを選ぶ、と。

 

 だから、僕も心の導きに従って言いたい言葉を選ぼうと思った。それがきっと、この場面では正しい言葉なんだと信じて。

 

 

 

「可愛いね、その髪型」

 

「──────!」

 

「それに……シュシュも似合ってるよ、とっても」

 

 

 

 選んだのは、ありきたりな感想。心や頭の中を駆け巡っている様々な想いをひとつの言葉に集約すれば、結局はそんな台詞になってしまう。どんなに数多くの場所を経由したって、最終的にはそこへ行き着くしかなかった。

 

 

 

「…………べ、別にあなたのためにしたわけではありませんわ。これは、その、このシュシュが私に似合いそうでしたので試しに付けてみただけです。か、勘違いしないようにっ」

 

「あ…………」

 

「ほら、いつまでもこんな場所に居ても面白くありませんわ。早く行きますわよ」

 

 

 

 ダイヤさんは結んでいた髪を解き、早口にそんな言葉を並べてから店の出口へと向かって行ってしまった。

 

 怒らせてしまっただろうか、と少しだけ反省する。でも、あれ以上の言葉は選べなかったし、どんなに繕っても僕なんかじゃダイヤさんを満足させる事は出来なかったに違いない。

 

 

 

「………………」

 

 

 

 小さなため息を吐き、棚の上に置かれた赤いシュシュを見つめる。

 

 ダイヤさんはこれが自分に似合いそうだから試しに付けた、と言っていた。それなら、少なくともこのシュシュは気に入っていたという事になる。

 

 少しの間悩み、思い切ってその二つのシュシュを手に取った。それからそれを持って、カウンターまで歩いて行く。

 

 

 

「これ、ください」

 

 

 

 レジの向こうに座っていた店員の女性にそう声を掛ける。店員は浮かべた笑顔を崩さないまま、ゆっくりとした動作でレジを打ってその値段を言ってくれた。細くてトーンの高い、廃校になった学校の音楽室にあるグランドピアノみたいな声だった。

 

 財布を取り出して代金を支払い、店員がシュシュを袋に入れてくれるのを待つ。随分とのんびりした動き。僕のおばあちゃんがお茶を淹れてくれる速度よりも遅いかもしれない。

 

 それから商品が入った緑色の紙袋をカウンター越しに渡される。会釈をしてからそれを受け取り、踵を返そうとした。

 

 

 

「プレゼント、ですか?」

 

「えっ。ええ、まぁ。そんな感じです」

 

 

 

 その直前、店員の女性が声をかけてくる。確実に僕へと向けられた言葉だったので、無視をする事なんて出来なかった。僕は昔からそういう性格をしているから。

 

 優しい魔女のような雰囲気を纏ったその店員は、微笑みながら僕の目を見つめてくる。何だか吸い込まれてしまいそうになる、大きな黒目をしていた。

 

 

 

「それは、すぐに渡すのですか」

 

「いえ。すぐには渡しません」

 

「なら、少しばかりアドバイスを差し上げます。参考程度に聞いてください」

 

「?」

 

 

 

 質問に答えると、その女性はよく分からない事を言い出した。首を傾げながら、店員が続ける言葉に耳を澄ませる。

 

 それから数秒の間を置いて、魔女みたいな店員は薄い口紅が塗られた唇を開いて、言った。

 

 

 

「そのプレゼントを渡す時間に、気をつけてください。時間はあなたの味方にもなる事もあれば、敵になる事もあります」

 

「…………」

 

「ぜひ、時間を味方につけてください。ありがとうございました。気が向いたら、またどうぞ」

 

 

 

 店員は笑顔のままそれだけを言って、後はもう何も話す事はないというように口を閉ざしていた。

 

 僕は、その言葉を胸の中で二回ほど反芻してから踵を返し、ダイヤさんの後を追った。

 

 

 

 





次話/夕方夕焼け夕陽くん


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夕方夕焼け夕陽くん

 

 ◇

 

 

 

 それから先に店を出たダイヤさんに追いつき、一応さっきの謝罪をしておいた。機嫌を損ねてしまったと思っていたけど、案外すんなりといつも通りの硬度まで下がってくれた。そこだけは少し予想外。もしかしたらダイヤさんは最初からそこまで気にしてなかったのかもしれない。

 

 何はともあれ、普段と同じ雰囲気で会話が出来るようになったのでよしとする。気にし過ぎても疲れて大変だし、あの出来事は白昼夢のようなものだと思う事にした。それにしても良い夢を見たな、うん。

 

 不思議な雰囲気の雑貨店を出た後はダイヤさんにお願いして駅の北口にあるデパートに行き、花丸へのお土産を買った。ダイヤさんも風邪をひいて寝込んでしまっている妹のルビィちゃんに、好物のスイートポテトを買っていた。優しいんだね、と言うと『たまには甘やかしてもいいでしょう。今日は特別ですわ』と返された。さらに『……ルビィにあまり多くのスイートポテトを与えてしまうと、あの子にはおかしな霊が取り憑きますの』とか訳の分からない事も呟いていた。スイートポテトを食べさせ過ぎると霊が取り憑く? 一体どういう事だろう。帰ったら花丸に訊いてみよう。ルビィちゃんと仲の良いあの子なら、あるいは知ってるかもしれない。

 

 そうしてまたしばらくウィンドウショッピングをして、特にやる事もなくなったので僕らは内浦に帰る事にした。本当はもっと色々な遊びにダイヤさんを連れ回したかったけれど、今日はそんな目的で駅前に来た訳ではないので止めておいた。

 

 何となくこれ以上を求めるのは違う気もしたし、僕らはまだそんな事をするほどの仲ではないのは自覚してるから。もちろん、いつかはダイヤさんと二人でちゃんとしたデートがしてみたい。夏祭りも結局は花丸とルビィちゃんが付いてきたので、あれをデートと呼ぶのは少し誇張が過ぎる感じがする。

 

 

 

 ……それに、あんなよく分からない出来事に巻き込まれてしまった事もあったから、尚更そう思えない。正直に言うと、あの花火大会は僕の中ではあまり思い出したくない思い出になってしまっている。

 

 楽しかった筈の花火大会は、最終的に忘れてしまいたい記憶として残る事になった。何故かは、あの時に起きた出来事を思い出せば痛いほど理解出来る。

 

 やめよう。ダイヤさんと一緒に居る時、あれは思い出してはいけない。そして、口にしてもならない。あの日、家に帰った後、布団の中でそう決めた筈だ。

 

 

 

「…………」

 

「…………」

 

 

 

 バスに揺られて僕らは沼津駅前から内浦へと帰ってきた。それからダイヤさんは家の最寄りにあるバス停から二つほど前で降りたい、と言った。彼女がそうする事を選んだ意味はよく分からなかったけど、僕には断る理由もなかったのでダイヤさんの言葉に従った。

 

 僕らは今、小さな砂浜を二人で歩いている。あの蜜柑色の髪をした明るい二年生の実家、十千万旅館の前にある浜辺。ダイヤさんは黙ってそこへと足を向けたので、僕は理由も聞かずにその後を追った。

 

 後ろ手を組み、足元を見ながら波打ち際をゆっくりとしたスピードで歩くダイヤさん。彼女の凛とした背筋と、海に沈み行く夕日の光に当てられた艶やかな黒髪を眺めながら、数メートルの距離を空けて後をついて行く。

 

 非常にどうでもいいが、彼女の荷物は全て僕が持っている。理由は……悲しくなるので思い出さないでいいや。好きな女の子と一日買い物をした代償だと思っておけばいい。そう思えば多少、持っている荷物の重さを忘れられる気がした。

 

 静かな潮騒とひぐらしの声が九月の汀に響く。夏の暑さを忘れかけ始めた駿河湾から吹いてくる黄昏時の潮風は、ほんのりと秋の涼しさを纏っている感じがした。

 

 でも、海の水は今の時期が一番温かいらしい。海水の温度は、気温が変わってから一カ月遅れて変化するという。なので九月の海水の温度は実際、八月の海の温度なんだ。海の温度はそんな風に変わっていく。詳しい理由はよく分からないけど。この間、そんな話を果南さんから聞いた。

 

 果汁百パーセントのオレンジジュースのような色をした海を眺めながら、人気の無い砂浜を歩く。頭上から海猫の可愛らしい鳴き声がひとつ聞こえた。ふと視線を上げると、紅く染まった空の中を一匹の海猫が気持ちよさそうに泳いでいた。

 

 空を泳ぐ、なんて表現は少しばかりクサい気もする。けれど、本物の海が傍にある場所から空を仰ぐと何となく、そんな風に見えてしまう。不思議な感覚だった。

 

 

 

「ねぇ、ダイヤさん」

 

「なんですの?」

 

 

 

 前を歩く綺麗な背中に声を掛けると彼女は立ち止まり、こちらを振り返る。それから首を傾げて僕の顔を見つめてきた。

 

 夕焼け色に染まるダイヤさんの顔は、いつも以上に美しく見えてしまった。まるで、夕日が彼女の顔に化粧を施しているようだった。

 

 心臓を高まらせながらも平静を装う。海の方を見る振りをして、前に立つ雅やかな生徒会長から目を逸らした。

 

 

 

「どうして、手前でバスを降りたの?」

 

 

 

 そう問いかけるとダイヤさんは納得するようにああ、と小さく声を出した。横目でどんな顔をしているのか確認する。彼女は、僕と同じ海の方向へと目線を向けていた。

 

 

 

「別に、深い理由はありませんわ。少しだけ歩いて帰りたかっただけです」

 

「……そっか」

 

「それに、私は夕暮れ時の内浦が好きなのです」

 

「どうして?」

 

 

 

 僕の疑問に少しだけ考えるような素振りをして、ダイヤさんは再び口を開く。

 

 

 

「それは、私にもよく分かりませんの。気づいた頃には、こんな景色を気に入っていました」

 

「その感覚はなんとなく、分かる気がするよ」

 

 

 

 ダイヤさんの言葉に共感を覚え、思わず頭を数回頷かせた。

 

 人にはそれぞれ、そういうものが存在する。理由は分からないのに、何故か気に入ってしまうもの。誰かが口を揃えて嫌いだ、と言うのに自分だけは好きになってしまうもの。

 

 

 

「では夕陽さんは、どんなものが好きなのですか?」

 

「月並みだけど、僕も夕日は好きだよ」

 

「? ………………あ、あぁ。そういう事ですか」

 

 

 

 僕の答えにダイヤさんは間を置いてから反応してくれた。何となく分かる。彼女は今、僕が自分の事を好きだと言ったのだと勘違いしていた。ちょっと酷い。別にいいけどさ。

 

 

 

「その理由は、言わなくても分かるでしょ?」

 

「はい。あなたは、夕日を好きになるために生まれてきたような名前をしていますからね」

 

 

 

 口に手を当てて、クスクスと上品に笑いながらそう言ってくるダイヤさん。何だか名前を小馬鹿にされた気がした。悪い気はしないけど、ちょっとだけ不服だ。

 

 ダイヤさんにそう言われたのなら、僕も言い返せる。僕と同じ、この世界に存在する何かの固有名詞が名前に付く彼女になら、言い返す事が出来た。

 

 

 

「じゃあ、ダイヤさんはダイヤモンドが好きなの?」

 

「む。それは、どういう意味でしょうか」

 

「だって、ダイヤさんはダイヤモンドを好きになるために生まれてきた、みたいな名前をしてるからね」

 

 

 

 と、先ほど言われた事の内容だけを変えて言い返す。ダイヤさんは頬を少し膨らませて、目を細めながら僕の事を睨んでいた。でも、凄く怒ってる訳じゃなさそうなので安心する。

 

 

 

「ふん。私は別に、ダイヤモンドが好きな訳ではありませんわ」

 

「ふふ、そうなんだ。僕とは違うんだね」

 

()()のダイヤなど、私は持っていませんので」

 

「あ……」

 

 

 

 ダイヤさんはそっぽを向きながらそう言う。でも、その言葉には少しだけ違和感があった。僕がそれに気づいたとほぼ同時に、ダイヤさんもハッとした表情になったのを目は見逃さなかった。

 

 

 

「い、いえ。なんでもありませんわ。今のは、忘れてください」

 

 

 

 ダイヤさんは訂正するようにそう言う。でも、彼女の言葉を聞いてしまった僕の思考回路は、そのお願いを簡単に受け入れてくれなかった。

 

 ダイヤさんは、本物のダイヤは持っていない。なら、逆説的に言えば偽物のダイヤは持っているという事になる。

 

()()()()()()。それが何なのか、今は知っている。けど、言葉には出さない。理由はひとつ。僕は、あの日の事を忘れると決めたから。 ダイヤさんが、僕が持っているものと同じ玩具の宝石(ダイヤ)を持っている事は口にはしない。その意味が分かる時が来るまで、何も知らなかったように日々を過ごして行く。それが出来なければ、僕らは以前と同じようには関わる事が出来くなってしまう。

 

 夏祭りの夜。廃墟のマンションの屋上で口にした事以外は、互いに何も語らなかった。そう、言ってみれば僕らは真実を知る事から〝逃げた“のだ。

 

 それを知ってしまえば、僕達は確実に今までとは違う関係になる。どんな関係性になってしまうのかは想像もしたくない。

 

 もしかしたら近づくのかもしれないし、もしかしたらもう二度と口を利かなくなってしまうかもしれない。

 

 そうならない為に、僕とダイヤさんは逃げた。それが正しいのか間違っているのかは、分からないけれど。

 

 つまり、今の僕らの関係性は、本物ではない。玩具の宝石のように簡単に作れてしまう、どうしようもない────偽物なんだ。

 

 

 

「…………」

 

 

 

 波打ち際に、沈黙が落ちる。その静寂(しじま)に流れるのは、秋を近くに感じた汀が奏でる素朴な音。それと、近くの県道を車が通り抜けていく音。本当に、それくらい。

 

 いつまでもこうしていたら、夜になってしまう。それはいけない。花丸も心配するだろうし、早く帰らなくちゃ。

 

 

 

「夕陽さ」

 

「近くまで送るよ。暗くなっちゃうから、早く帰ろう」

 

「…………」

 

 

 

 ダイヤさんは何かを言おうとしたけど、それをわざと遮って言った。これ以上、()()()に関する話題は語りたくない。ダイヤさんがどう思っているのかは知らないけれど、とにかく僕は嫌なんだ。

 

 他の誰かなら、きっともっと早い段階で話をしていたかもしれない。お互いが感じている違和感や知っている事、どうして記憶の中に過去の黒澤ダイヤという女の子が居るのか。何故、幼い頃の夢の中に彼女が出てくるのか。

 

 本当は話さなくてはならない事なのかもしれない。でも、僕は話さない。話したくない。

 

 僕らの間に何が起こってるのかは知らない。確実に何かが起こってるのは、痛いほど自覚してる。ただ、それを話してしまえば、僕らは恐らく()()に近づく。そうなれば今までの関係性が崩れる。いや、違う。

 

 僕は、ダイヤさんが好き。この事実だけはどんな事が起きようとも変わらない。たとえあと一時間でこの世が終わったとしても、僕は彼女を好きで居続けるだろう。

 

 僕は今、ダイヤさんに対してそれくらい大きな恋をしている。だからこそ、正しい段階を踏んで彼女にこの想いを伝えたい。余計な事は考えたくないんだ。

 

 

 

 ────純粋に、()()()()()()()()()黒澤ダイヤという生徒会長の事が好きだから、この感情を彼女に伝えるまでは何も知りたくなかった。

 

 

 

()()()に関する話をしたくない理由は、それだけ。

 

 

 

 

 

「ゆうひ…………」

 

「え?」

 

 

 

 突然、名前を呼ばれた。でも、ダイヤさんは僕の事を見ていない。海の向こうに沈もうとしている橙色の球体の方を向いている。それに、僕の名前を呼ぶ時のイントネーションとは少しだけ異なっていた。

 

 ダイヤさんは口を閉ざしたまま、夕日を見つめている。彼女がどういう気持ちでそれを眺めているのか。何を思って、何を感じているのか。

 

 もし、それが分かったら、ダイヤさんの事をどう思ってしまうんだろう。そんな事は当然、分からない。けど、思う事はある。

 

 彼女の全てを知ってしまったら、僕は本当の意味でダイヤさんの事を愛せるのかな、と。

 

 

 

「夕日を見ていると、思い出してしまうのです」

 

 

 

 ダイヤさんは夕陽()ではなく、夕日に向かってそう言った。主語がない、センテンスとしては大きな欠落を抱えた言葉。けれど、そこに含まれる何かがあるのはよく伝わってきた。多分、主語が入っていた場合の言葉よりも、強く。

 

 ここで僕が彼女に投げるべき言葉は『何を?』という疑問。それを訊ねれば、ダイヤさんはきっと答えを教えてくれる筈だ。

 

 でも、僕はそうしない。そうする事を選ばない。何故か? 答えは簡単だ。

 

 

 

「…………そっか」

 

 

 

 僕は、誰よりも臆病者だから。

 

 

 

「………………」

 

 

 

 ダイヤさんは僕の言葉を聞いて、一瞬驚いたような表情を浮かべてこちらに目を向けてくる。だがそれも、すぐ不機嫌そうな顔に変わった。

 

 それは何となく『どうして訊いてくれないのです』と言いたげな表情にも見えた。

 

 

 

「本当に、貴方は変わっています」

 

「そうかな」

 

「十七年の中で出会った男性の中で、一番変わっているのが貴方ですわ」

 

「それは言いすぎじゃないかな?」

 

 

 

 いくらなんでもそれは大袈裟だろう。……冗談だよね? 本当だったら自分を嫌いになっちゃうよ? 

 

 ダイヤさんはため息を吐いて、僕の方へと近づいてくる。近くに押し寄せる穏やかな波が、ダイヤさんのため息を受けとめて何処かへと連れて行ってくれた。

 

 

 

「いつもいつも。私の事を戸惑らせ、困らせる」

 

「…………」

 

「それに、建前ばかりを言って本音をなかなか言わない……罪な人」

 

 

 

 ダイヤさんは呆れたような顔でそう言いながら、砂の上を歩いてくる。

 

 彼女が何を言いたいのか分からず、首を傾げる。

 

 それからダイヤさんは僕の前に立ち、ほとんど変わらない目線の高さで目を見つめて来た。距離として一メートルもない。この潮騒がなければ、高鳴る心音がダイヤさんに届いてしまいそうなくらいの距離。

 

 緊張で息が詰まり、何かを言うために口を開こうとした。でも、ダイヤさんは僕の唇の前に人差し指を立てて、言葉を言わせてくれなかった。

 

 

 

 その代わりに、微笑みながら。

 

 

 

「本当に────ぶっぶー、ですわ」

 

 

 

 そんな言葉を、囁くように言った。

 

 





次話/ご機嫌いかがかなん?


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ご機嫌いかがかなん?

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

「………………」

 

 

 

 朝、起きる。覚醒したばかりの頭は重く、まだ意識の三分の一くらいが夢の中に残っているような感じがした。

 

 布団の上に寝そべったまま、木造の高い天井を見上げる。襖の方から伸びる一本の光の線が天井には描かれ、それを見て今日も天気が晴れだという事を悟った。

 

 何だか、またおかしな夢を見た気がする。でも、今日はどんな内容だったのか一切記憶に残ってない。思い出そうとしても、()()()()が思考の邪魔をしてくる。

 

 その()()()()の所為で、夢の内容どころか他の事さえも考える事が出来なかった。それはまるで、どんな衝撃を与えても壊れないダイヤモンドで出来た壁のようだった。それも、並大抵の高さや幅広さじゃない。どうやっても、その向こう側に行く事は許されなかった。

 

 

 

「…………ダイヤ、さん」

 

 

 

 その名前を呟き、仰向けの身体を翻して枕に顔を埋める。それから段々胸が苦しくなってきて、枕の中で声にならないうめき声を上げた。朝っぱらから一体何をやっているんだろう、僕は。

 

 記憶が正しければ昨日の夜、寝る前もこんな事を一時間くらいやっていた気がする。むしろ昨夜の方が酷かったかもしれない。しかも運悪く、トイレに起きた花丸にこの意味不明なうめき声を聞かれてしまうという過ちを犯してしまった。花丸は『ユウくんに悪い霊が取り憑いたずらっ!』と、かなり取り乱しながらこの部屋に突入してきた。

 

 可愛い従妹に心配させてしまったのは完全に僕の責任。だけど、年頃の男の部屋には無断で入らない方がいいよ、と花丸に一応教えてあげた。本当に危ないからね、うん。まだ純粋な従妹には教育上よろしくない場面に遭遇させてしまう事も、無きにしも非ずだし。言っても花丸は『ずら?』とよく分かってなさそうな顔で首を傾げていたけど。それはいいとして。

 

 

 

「~~~~っ」

 

 

 

 足を上下にばたつかせながら、僕は枕に顔を埋め続ける。もちろん、うめき声も継続しながら。

 

 部屋の前を花丸が通りかかったら、また心配して入ってくるかもしれない。いや、でも大丈夫だ。今日は日曜日。恐らくあの子は今ごろ、日課の掃除をしてるか境内へお参りに行ってる事だろう。本来であれば僕もすぐに起きて彼女の手伝いをしなければならないのだけど、今日はどうにもそれが出来ない。理由は今の状況を俯瞰すれば、容易に理解出来る筈だ。

 

 瞼の裏には、ダイヤさんの優し気に笑った顔が剥がれないポスターみたいに張り付いてる。訂正、それだけじゃない。昨日見てしまったツインテールのダイヤさんとか、喜怒哀楽いろんな表情をするあの子の顔がずーっと目の前に浮かんでいる。

 

 耳には幻聴のようにあの子の声が聞こえ続けるし、ふとした時に香るあの金木犀のような彼女の髪の匂いも、まさに今ここにあるんじゃないかってくらいハッキリと思い出せてしまう。

 

 そして、その全てを思い出す度に胸が苦しくなる。それをどうにか吐き出すため、死にかけの蝉みたいに身体をばたつかせてうめき声を上げるが、またすぐに新しいダイヤさんの姿とか声が頭の中に描かれる。もうやだ。どうすればいいんだよ。

 

 

 

「はぁ………………」

 

 

 

 そうしてしばらく、布団の中でバタバタと暴れていたら体力が尽きてしまい、身体が動かなくなる。だが、数分すればまたこの身体は自動的に動き出す事だろう。今の僕は、延々とそれを繰り返すだけの生物に成り果ててしまっている。

 

 仰向けになって、無機質な天井を茫然と見上げる。数分前に起きたばかりだというのに、心臓は百メートル走を全力で駆け抜けた時のように、早い鼓動を胸の中で打ち続けていた。

 

 襖の外から聞こえてくる鳥の可愛い鳴き声に耳を澄ます。大きな深呼吸をして、畳が発するい草の香りとともに部屋の中に漂う朝の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。

 

 そうしてようやく、少しだけ冷静になる事が出来た。朝から無駄な体力を使ってしまったが、落ち着きを取り戻すために必要な行動だったと思えば、何とか自分を許せる気がした。

 

 

 

「…………」

 

 

 

 昨日の夕方。ダイヤさんを家まで送ってからというもの、僕はひたすらあの子の事を考え続けてしまっていた。

 

 帰り道も、お寺に着いても、花丸の手作りカレーを食べていても、何をしている時も、ダイヤさんの事が頭から離れて行かなかった。

 

 もう、これは病気だ。黒澤ダイヤ、という一人の女の子が僕の脳に癒着してしまってる。どうやっても切り剥がせない。そして、それは徐々に僕の身体全体を侵食しかけているような気がする。

 

 こんな病気の事をなんというのか。ああ、好きな小説に今の自分に似合いそうな言葉が載っていたのを思い出す。それが正しいのかどうかは知らないけど、多分間違っても居ない筈。

 

 ─────そう、これは恐らく恋の病というやつだ。それ以外の言葉でこの感覚を表現する事は出来ない。しっくりくる単語はその三文字しか考えられなかった。

 

 こんな風になるまで深い病状に陥った事のは、これが生まれて初めてだった。恋人なんて出来た事もなければ、ここまで他人を好きになった事もないから。

 

 

 

「……どうすればいいんだろ」

 

 

 

 布団の上に寝そべったまま、右手の甲を額に当ててそう呟く。そんな声に返ってくる音など、静かなこのお寺には存在しなかった。あるのは心臓の拍動音くらい。

 

 くよくよ悩む自分が嫌いになりそうになる。誰かには良いから早く告白しろ、なんて強い言葉をかけられるかもしれない。そう言われたら、そう簡単じゃないんだよ、と深いため息とともに返してやりたいと思う。

 

 

 

「あー……」

 

 

 

 考えれば考えるほど、足が泥沼に嵌って行く感じがする。抜け出そうにも抜け出せない場所まで遂に来てしまったんだ、と強く思わされた。

 

 こうして部屋の中で同じような事を考えていたって、答えは見つからない。いいや。答えなんて考えるまでもなく、もう見えてる。

 

 僕がこれからしなくてはならない事。それはもう、ずっと前から決まっていた。でも、怖いからそれを直視しようとはしなかっただけ。

 

 

 

 この泥沼から抜け出すには、ダイヤさんに告白する方法しか残っていない。

 

 

 

 そうする事しか、僕には選べないんだ。

 

 

 

 その勇気を出す事が一番難しいのは、痛いほど分かっているけれど。

 

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 

「はぁ…………」

 

 

 

 お寺の前を竹ぼうきで掃きながら、小さなため息を零す。それは傍に置かれた打ち水用の桶の中へと、音もなく沈んで行った。

 

 夏も終わる時期だし、そろそろあの桶も片づけなくちゃいけない。いつまでも置いていたら何れ冬が来て、溜まった雨水が全て凍りついてしまうかもしれない。まるで、今の僕の心の中みたいに。

 

 何とか布団の中から這い出る事に成功し、顔を洗ってから境内の雑巾がけをしていた花丸と挨拶を交わして、いつも通りお寺の掃除を始めた。今日の分担は門の前の清掃。室内じゃなくてよかったかもしれない。

 

 こうして太陽の柔和な光に当てられていると、蟠った心がほんの少しだけ浄化されて行く気がした。他の表現をするならば、心の中に蔓延る恋のウィルスを除菌しているような気分。そんな事だけではその強力な菌は死滅してくれないが、ともかく部屋の中で変なうめき声を上げているよりは百倍マシだという事。

 

 

 

「あ、夕陽くんだ。おーい、夕陽くーん」

 

「…………」

 

 

 

 特に汚れてもいないお寺の前を掃除しているけれど、頭の中は未だにダイヤさんの事でいっぱい。部屋の中で考えていた事とほとんど同じニュアンスの思考が、延々と脳内で繰り返されている。

 

 

 

「あれ? 聞こえてない? おーい。夕陽くんってば」

 

「はぁ……」

 

 

 

 今日は一日予定が入っていない。花丸は午前中からルビィちゃんと他のクラスメイトと沼津へ遊びに行く、と言っていた。という事は一日中、部屋の中でこんな答えの出ない思考をひたすら繰り返す事になるのかもしれない。それを思うと自然にため息が出た。

 

 

 

「もう、夕陽くーん? もしもーし?」

 

 

 

 それは僕としても嫌だ。なら、どうすればいいだろうか。

 

 自分の心に従うならば、今すぐダイヤさんに会いに行きたいというのが本音。何をする訳でもなく、ただあの子と一緒に居たいと思う。彼女の存在が近くに感じられるだけで構わない。

 

 でも、それは許されないだろう。約束もしていないし、ダイヤさんにだって私的な用事があるのだから。

 

 

 

「……次に呼んでも反応しなかったら本気でハグするからね? ダイヤに怒られても知らないからね?」

 

 

 

 正直、こんな日曜日なんて要らないと思ってしまう自分が居る。ダイヤさんと会えない休日など、この世から無くなってしまえばいい、と僕の心は本気で思っていた。

 

 あの子の声が聞きたい。あの子の綺麗な黒髪をこの目に映していたい。そう思えば思うほど、胸が苦しくなってくる。会いたいという感情で脳が埋め尽くされてしまう。

 

 

 

「あぁ……」

 

「ダメだね、これは。よーし行くよー? 覚悟しててね」

 

 

 

 竹ぼうきの柄に額を付けて項垂れながら、小さく声を零す。

 

 

 

 その直後、何かが僕に襲い掛かって来る殺気を第六感で感じ取った。

 

 

 

「─────えーいっ!!!」

 

「うわぁっ!?」

 

 

 

 持っていた竹ぼうきを離して、咄嗟に身を後ろに翻す。それにより、その攻撃?を何とか躱す事に成功。だが次の瞬間、何かが折れる鈍い音がお寺の前に響き渡る。

 

 僕の事を両腕で羽交い絞め(ハグ)しようとしてきた人物は、この身体の代わりに、僕が持っていた竹ぼうきを抱き締めていた。そして、その竹ぼうきの柄を真っ二つに折り曲げている。

 

 いやいや、ちょっと待ってくれ。何だこの状況は。

 

 

 

「あらら、夕陽くんの代わりにほうきが折れちゃった」

 

「……何さらっと怖いこと言ってるの、果南さん」

 

「むー。何回も声をかけてるのに気づかない夕陽くんが悪いんだからね?」

 

 

 

 折れた竹ぼうきを持ちながら拗ねるような顔をして居るのは、僕のクラスメイトである松浦果南さん。

 

 僕の代わりにほうきが折れたとか、なんかめちゃくちゃ意味深な言葉を言っていたけど、それが冗談である事を切に願う。

 

 以前、鞠莉さんが『果南のハグはヒューマンを潰しマースっ』と訳の分からない事を語っていたが、もしかしたらあれは本当の話なのかもしれない。信吾は大丈夫だろうか。今の威力のハグを食らったら多分本気で折れると思うよ。いわゆる、骨的なものが何本か。

 

 

 

「声をかけてた?」

 

「そうだよ。何回も名前呼んでたのに全然反応してくれないんだもん。無視されてるのかと思っちゃった」

 

 

 

 頬を膨らませてそう言ってくる果南さん。普段大人っぽい彼女がこう言った子供っぽい表情をすると、たしかに魅力的に見える。

 

 信吾が前に『二人きりになった時の果南はヤバいぞ……』と真顔で嘆いていた意味が、ほんの少しだけ理解出来たかもしれない。その話は置いておいて。

 

 

 

「ごめん。本当に気づかなかった」

 

「まぁいいけどさ。何か考えごとでもしてたの?」

 

「えっ」

 

「あ、やっぱりそうなんだ。なになに? もしかしてダイヤの事だったりする?」

 

 

 

 しめしめという表情を浮かべながら、果南さんは僕の顔を覗き込んでくる。そうじゃない、と一言で誤魔化せばいいものを、正直すぎるこの性格はそんな簡単な事さえも許してはくれなかった。

 

 

 

「…………」

 

「えへへ。夕陽くん、顔真っ赤だよ」

 

 

 

 首を横に振って否定している事を視覚的に伝えたが、どうやらこの顔色が果南さんの言葉を肯定してしまっていたらしい。こういう事にとことん不器用な自分に嫌気がさす。いつもは建前ばかりを人に言ってしまうのに、自分の事になると些細な嘘さえも吐けなくなる。損な性格をしているな、と心の中で大きなため息を吐いた。

 

 夕陽くんは可愛いなぁ、と最近よく果南さんが僕に向けて言う常套句を聞きながら、言うべき事を探す。ていうかなんだ可愛いって。そろそろ僕も怒るぞ。

 

 

 

「……そうだよ」

 

「うむ。信吾くんと違って素直で大変よろしい」

 

 

 

 それはどういう事だ。信吾が素直じゃないとか、出会ってから一度も思った事はない。もしかしたら彼にも恋人にしか見せない一面もあるのかもしれない。

 

 

 

「さいですか」

 

「それで、夕陽くんはダイヤの事で何を悩んでたの?」

 

「………………」

 

「偶然会ったんだからさ、少し聞かせてよ。もしかしたら力になれるかもしれないし」

 

 

 

 腰に手を当てながらそう言ってくる果南さん。彼女の青い前髪から、一滴の汗がアスファルトに向かって落ちて行った。

 

 果南さんが僕の力になってくれる、と手を差し伸べてくれている。対する僕は、一人では答えを出せない問題に直面している。

 

 それを考えれば、彼女の言葉に何と答えればいいのかは明白だった。悩む必要もない。ちょうど誰かに話しを聞いてもらいたかったところだったし、僕にとってのデメリットなどひとつとして思い浮かばない。

 

 

 

「誰にも、言わない?」

 

「もちろん。絶対言わないよ」

 

 

 

 果南さんは優しく微笑みながら、そう言ってくれた。性格が良い彼女の事だ。今の言葉に嘘はないんだろう。

 

 なら、果南さんを信じてみてもいいのかもしれない。統合して初めて出来た友達として、彼女が僕の話を聞いてくれる事を願う。

 

 あわよくば、踏み出す勇気を果南さんがくれる事を、心の隅で祈っておこう。

 

 

 

「─────実は、」

 

 





次話/だいぶいい感じ。


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だいぶいい感じ。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 お寺の門の前にある石段に腰掛けながら、胸の中に蟠った感情を言葉にして隣に座る果南さんへ悩みを伝える。

 

 際どい言葉はやんわりと流し、エッジの効いた話題は分かりやすいように角を削ってから口にした。自分でも分かるほどの拙い説明だけれど、果南さんは終始真剣な顔をして僕の言葉を聞いてくれた。

 

 

 

「なるほどね。それで、夕陽くんは悩んでたんだ」

 

 

 

 一通り話し終えると果南さんは両手を石段について、頭上に広がる青空を仰ぎながらそう言った。僕も倣うように天を見上げる。夏の名残を感じさせる入道雲が悠然と浮かぶ南の空。この憂いが雲と一緒に流れて何処かの街で雨を降らせればいい、と在る筈もない事を想像した。

 

 目を閉じて、息を吸い込む。澄んだ朝の空気と爽やかな海のような甘い香り。それが隣に座る果南さんの匂いだと分かった時、少しだけドキッとしてしまった。

 

 

 

「うん。やらなきゃいけない事は分かってるんだけど、どうにも勇気が出なくてさ」

 

 

 

 足元に視線を下げ、情けない事を口にする。石段の上で一匹の蟻が彷徨っていた。それはまるで、何処に行けばいいのか分かってるのに進めない、何処かの誰かさんように。

 

 

 

「でも、夕陽くんはダイヤが好きなんでしょ?」

 

「…………そう、だけど」

 

 

 

 ド直球な質問が隣から飛んでくる。北の大地で活躍する有名なプロ野球選手並みのストレート。あまりに速すぎるボールに対応できず、僕はバットを振る事すら出来なかった。何の話だ。

 

 

 

「なら、大丈夫じゃない?」

 

「ごめん。何を持ってそんな自信が出てくるのか全然分かんないんだけど」

 

 

 

 果南さんは平然な顔をしてそんな事を言い出した。一体どのへんが大丈夫なのだろうか。

 

 隣に座る青い髪の女の子は口元に手を当てながらんー、と何かを考えるような声を出す。それからすぐに僕の方へと顔を向けてきた。

 

 

 

「なんとなく、かな。えへへ」

 

「僕を馬鹿にしてるのかな?」

 

 

 

 舌を出して笑う果南さん。そんな事を言ってしまう自分を、今は許してあげたい。だって、どう考えてもそうとしか思えなかった。そしてそれはあながち間違いじゃないだろう。これ以上いじわるすると、もう信吾のお宝写真(女装)をあげないからね。

 

 

 

「ごめんごめん。そういうつもりじゃなくてさ」

 

「じゃあどういうつもりだったの?」

 

 

 

 抑えようと思ったけど、無理だった。まぁ、彼女にも思惑はあるのだろうし、一応聞いておく事にした次第である。これでまた投げやりな理由だったら怒ってやろう。それから明日、学校で信吾に泣きついてやる。

 

 散歩しているおばあさんが、亀のようなスピードでお寺の前を歩いていく。笑顔で挨拶をされたので、僕らは揃って会釈を返した。それからおばあさんは幸せそうな表情を浮かべて、東の方へと変わらずにゆったりとした足取りで歩いて行った。今日も内浦は平和。この穏やかさは癖になる。

 

 

 

「だって、ダイヤも夕陽くんの事、気になってるみたいだし」

 

「え゛……?」

 

 

 

 果南さんが零した言葉に、自分でもイマイチ何処から出したか分からない変な声が出てきた。急に何を言い出すんだろう、この子は。

 

 

 

「だから大丈夫かなー、って何となく思ったの」

 

「ちょ、ちょっと待って。冗談は止めてよ」

 

「うん? 冗談じゃないよ?」

 

 

 

 そう言うと、果南さんは目を丸くして首を傾げながら返してくる。『なんで分からないのかなん?』とでも言いたげな顔をしていた。分かるわけないでしょ。いい加減にして。

 

 

 

「ダイヤさんが、気になってる……?」

 

「そうだよ。夕陽くんと話をしてる時のダイヤはいつも嬉しそうだから。あんなダイヤ、今まで見た事ないもん」

 

「………………」

 

「だからきっと、ダイヤも夕陽くんの事が気になってるんだよ。自分でも意識してなさそうだけどね、あの子は」

 

 

 

 なんて、爽やかな微笑に可愛らしい声を乗せて果南さんは言い切った。その話が嘘ではない、と彼女の目は強く訴えかけてくる。

 

 けれど、僕の臆病な心は彼女の言葉が真実であると思ってくれなかった。どうしても否定してしまう。事実を自動的に拒絶してしまう。どれだけ頑張っていても、嫌いな人の事は絶対に認められない、あの最悪な反応のように。

 

 

 

「そんな事───」

 

「無い、って言いたいんでしょ? 夕陽くんは」

 

「っ」

 

「ふふ。そうだ、って顔してるね。どうして男の子って分かりやすいんだろう」

 

 

 

 否定しようとしたのに、果南さんはその言葉を待っていた、というように僕の声に言葉を重ねてきた。

 

 果南さんはさっきの言葉を僕が否定する事を読んでいた。つまり、彼女に心を見透かされていたのか。というか、そんなに分かりやすいのか、僕。その辺は自分じゃ全然わからない。

 

 

 

「…………」

 

 

 

 黙って何を言うべきか考える。でも、浮かんでくるものはどれも果南さんの言葉を否定しようとするだけの、弱気な台詞。

 

 もしここで自信を持ってそうか、と彼女の言葉を前向きに受け入れる事が出来たのなら、それはどれだけ簡単な話だっただろう。

 

 僕が僕自身に自信を持てる人だったのなら、こんな風に思い悩んで友達に話を聞いてもらったりする事もなかったに違いない。

 

 如何せん、ここに居る夕陽という人間は、そんな自信などひとつとして持つ事が出来ない弱い男。何をしても、何を聞いても、()()を信じる事がどうしても出来ない、ただの弱虫。

 

 ダイヤさんと恋人同士になりたいのに、前に足を踏み出す事すら出来ない。あの子の事をよく知っている友達に背中を押されても、結局は『まだ無理だ』と勝手に結末を決めつけて、元居た場所に戻ろうとする。

 

 どうしてだろう。どうして、僕はここまで自分自身に自信を持つ事が出来ないんだろう。

 

 どうして、自分を否定してばかりなのだろう。そんな事をしても、前に進めないのに。進むどころか、後退してしまう一方なのに。

 

 それも全部、分かってるのに。

 

 

 

「あ、そうだ。夕陽くん」

 

「どうしたの?」

 

「ちょっと運動する格好になって来てよ。私はここで待ってるからさ」

 

「? 運動?」

 

 

 

 果南さんは良い事を思いついたというように、突然そんな事を言い出す。当然意味が分からず、首を傾げて訝しみの視線を彼女に向けた。

 

 

 

「そうそう。良いからとりあえず着替えてきてよ。特別に、私が良い事教えてあげるから」

 

「……まぁ、良いけど」

 

「やった。じゃあ待ってるね」

 

 

 

 そう言って、嬉しそうに微笑む果南さん。どうしてそんな事をしなければならないのか理解出来ないけれど、黙っていても仕方ないので彼女の言う通りにする。

 

 良い事、とは一体何の事なんだろう。

 

 なんて事を想像しながら、僕は立ち上がった。

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 それから果南さんの言葉に従い、急いで運動をする格好に着替えてお寺の門へと向かった。

 

 果南さんのように運動をする習慣などない為、普段はこんな格好をする事は滅多にない。どうしてこんな格好に着替えるよう果南さんは言ってきたのか。着替えながらそれを考えてみたけれど、思い当たる節はひとつとしてない。

 

 だがその答えは、門の前に戻ったらすぐに分かった。というより、強制的に理解させられた。

 

 真意のほどは、未だに分からないままだけれど。

 

 

 

「─────ほら夕陽くん、また遅れてるよっ。もう少しだから頑張って?」

 

「はぁ、っ……はぁっ。もう、ダメ……」

 

「諦めちゃダメだよーっ。男の子でしょ? もっとしっかりするっ」

 

「そ、そんな事……言われたって」

 

 

 

 燦燦と日光を内浦に注ぐ太陽の下。アスファルトを蹴りながら海岸通りの県道を東へと進む。

 

 全身は頭のてっぺんから足の爪先まで汗だくで、荒くなった呼吸は一向に治まる事を知らない。心臓はとんでもない早さで拍動を繰り返し、肺はこれでもかというほど酸素を求めて空気を吸おうと躍起になっている。口の中は鉄の味の飴を舐めているような感じがして、さっきから脇腹に酷い鈍痛を感じている。

 

 なんでこんな事になっているのか。数十分、この状態のままでいるのにイマイチ理解出来ていないのが現状だ。

 

 先を行く青い髪の女の子は、後ろをついて行く僕の方を振り返って呆れ顔を浮かべ、ため息を吐いている。

 

 どうしてこんな事をしなくちゃいけないんだよ、と心の中で嘆きを零す。文句を言おうにも、苦しくて言葉を吐く事が出来なかった。もうやだ。いっそこのまま海に落ちてしまいたい。

 

 

 

「止まっちゃダメーっ! こんなんじゃダイヤに嫌われちゃうよ!?」

 

「はぁっ、ちょ、ちょっとだけ……休ませて」

 

「さっきもそう言って休んだでしょっ。我慢してればすぐにきつくなくなるから大丈夫!」

 

「ああああぁ……」

 

 

 

 果南さんに手首を掴まれ、引きずられるように前に進む。我慢してれば大丈夫って、それは一体どういう理屈なんだろう。人間の身体の仕組み的にそうなっているんだろうか。それともただの根性論なのか。疲弊したこの頭では、そんな事すら考えられない。

 

 

 

 僕らは今、海岸沿いの歩道を()()()()()。何故かは知らないけど、とにかく僕は果南さんに無理やり引っ張られながら、両足を交互に前へと出し続けていた。いわば惰性というやつだ。なんでこんな事になってるんだろう。

 

 

 

 果南さんに運動出来る格好に着替えるように言われ、その通りにしてお寺の門の前に戻った。そこまではよかった。

 

 だが、彼女は何を思ったのか突然何処かへ向けて走り出し、僕も強制的にその後をついて行かされ、今に至っている。

 

 

 

「夕陽くんの根性、私に見せてよっ。ほら、自分の足で走る!」

 

「無理なものは……無理です……」

 

 

 

 運動など体育の授業でしかしない僕が、長い距離など走れる訳がない。数百メートル進んだ時点で今のように、果南さんは走りながら色んな前向きな言葉を僕にかけてくれるようになった。

 

 しかし、どんなにそんな言葉を言われても、身体が気持ちに追いついて来ない。出来る事なら果南さんのように息ひとつ切らさず走ってみたいけど、出来ないものは出来ないのが世界の理。

 

 手札にないカードを出せない事と同じだな、と果南さんに手を引かれながら思った。むしろ走れる人の心を知りたい。それを知るのは多分、来世以降になると思うけど。

 

 

 

「頑張ったら良い事あるよ! 夕陽くんなら出来るってっ! 自分を信じるんだよ、自分を!!」

 

「………………っ」

 

 

 

 果南さんに声を掛けられ続けるが、段々それに対して返事を返せなくなってきた。視界に霧がかかり始め、意識が朦朧としてくる。あ、ヤバい無理。吐きそう。

 

 頼むから、誰か助けてくれ。

 

 

 

 

 

 ─────そうして、果南さんに腕を掴まれたまま引きずられるように走り続け、ようやく目的地であった場所へ到着する。

 

 しかし、僕にはそれを喜ぶ体力すら残されていなかった。情けなく地面の上に寝そべりながら、限界まで減った体力を取り戻していく。もはや自分が何をしているのかも分からなくなっていた。

 

 

 

「ふぅ、やっと着いた。お疲れさま、夕陽くん」

 

「………………」

 

 

 

 倒れている僕の前にしゃがみ込んで声をかけてくれる果南さん。しかし、言葉を返す事は出来なかった。出来たのは頭をなんとか頷かせる事だけ。

 

 一切息を切らすことなく、水色のリストバンドで額にかいた汗を拭う彼女の姿を見て、この子は自分とは違う生物なのではないか、と本気で思い始めた。どうして疲れてないの。イミワカンナイ。

 

 

 

「ごめんね、急に付き合わせちゃって。疲れちゃった?」

 

「……むしろこの状態を見て、疲れてないって思う方が変だと思うよ」

 

「あはは、そうかも。でも頑張ったね。やっぱり夕陽くんは根性があるよ。えらいえらい」

 

 

 

 そう言いながら、果南さんは倒れる僕の頭を優しく撫でてくる。いつも信吾がやってる事を真似してるんだろうか。

 

 いずれにせよ、悪い気分にはならないので手を振り払ったりはしない。というか疲れすぎてそんな事すら出来なかった。

 

 目を閉じて、体力が回復してくれるのを待つ事にする。海の方から吹いてきた穏やかな風が周りを囲む雑木林の枝を揺らし、さわさわと小さな音を立てていた。

 

 

 

 どうして果南さんは僕をランニングに付き合わせたのか。息を正しながら考えてみる。でも、上手い答えが浮かんでこない。あるのは走った事による疲労感と、ほんの少しの達成感。本当に、それくらい。

 

 果南さんは良い事を教えてあげるから、と走る前に言っていた。走り終わった今なら、彼女はそれを教えてくれるのだろうか。

 

 

 

「…………はぁ」

 

 

 

 瞼を開けて、空を見上げる。背の高い木々が立ち並んでおり、細い無数の木漏れ日が地面に寝そべる僕の事を照らしてくれていた。

 

 ここは、学校近くにある小さな神社。たしか、名前は弁天島、とか言っただろうか。果南さんはどうやらここを目指して走っていたらしい。

 

 赤い鳥居を潜り、細い階段を上った先にある小さな祠の前。そこに、僕と果南さんは居た。

 

 あるのは知っていたが、ここに来るのは初めてだった。なかなか神秘的な場所だな、と思いながら頭上から落ちてくる木漏れ日を見つめる。

 

 

 

「落ち着いた?」

 

「うん。おかげさまでね」

 

 

 

 それからようやく呼吸と心拍数が元に戻り、上体を起こす事が出来るようになるまで回復した。それでも疲労感は抜けないし、身体中は汗まみれのまま。

 

 だけど何だか、走る前より頭の中がスッキリした感じがする。散らかっていた部屋を整理し終わった時のような。あまり感じた事がない、不思議な感覚だった。

 

 

 

「ねぇ、夕陽くん?」

 

「どうしたの、果南さん」

 

「さっき考えてた事、まだ悩んでる?」

 

 

 

 隣にしゃがみ込んだ果南さんに、そう問われる。ちょうど今、その事を考えていたから少し驚いた。同時に、またさっきのように考えている事を見透かされているんじゃないか、と思ってしまった。

 

 果南さんはやっぱり、僕が感じている事が分かるのだろうか。でも、それは何故? 訝しみながら頭を横に振った。

 

 

 

「いや、今は何も」

 

「何も?」

 

「自分でもよく分からないけど、考えが整理されてるっていうか。なんとなく、そんな感じがするんだ」

 

 

 

 今の感覚を拙いながらも言葉にしてみる。すると果南さんはその言葉を待っていた、というように嬉しそうに笑った。

 

 

 

「そっか。それならよかったよ」

 

「? よかったって?」

 

「私はそうなってほしいから、夕陽くんに走ってもらったんだ」

 

 

 

 そう言われるけど、まだよく理解出来ない。首を傾げていると果南さんは言葉を続けた。

 

 

 

「色々悩んでる時に汗をかくとね、なんでか分からないけど自然と考えがまとまるんだよ。ちょうど、今の夕陽くんみたいに」

 

「………………」

 

「悩んでる時とか考え事をする時には、走るのが一番だと私は思ってる。ジッとしてても気持ち悪いだけだからね」

 

 

 

 果南さんは微笑みながら、そう言ってくれた。彼女の頬を伝う汗の粒が、綺麗な顎先から地面へと音もなく落ちて行くのを黙って見つめた。

 

 悩んでいる時には走るのが一番。それは、言葉だけで言われても多分伝わらない。こうやって実際に走って、外の空気を吸って、汗をかいてみないと絶対に分からない感覚。

 

 今までそんな事は知らなかった。だって、そんな目的の為に走った事なんて生まれてから一度もない。

 

 走るなんて、疲れるし汗をかくし、ただ単純につらい事のようなイメージを持っていた。いや、走り終わった今でもそう思う。

 

 走る事はつらい事。得られるメリットなんて一切ない。果南さんのように毎日走る人の気持ちが全然分からない。そう思っていたのに。

 

 

 

「走ると、考えがまとまる……」

 

「そう。まとまるだけじゃなく、なんとなく前向きな気持ちにもなれるんだよ」

 

「それは、どうしてなの?」

 

「うーん。難しい事はよく分からないけど…………多分、走ってる最中は前を向いてるから、じゃないかな?」

 

 

 

 腕組みをしながら、そんな答えをくれる果南さん。いつも走ってるこの子でも分からないのか。なら、走るっていう行為にはどんな意味があるんだろう。それが知りたい、と少しだけ思ってしまう自分が居た。運動は大嫌いな筈なのに。

 

 

 

「そうなんだ」

 

「うん。だから、私は走るんだよ。あわしまマリンパークからこの弁天島、往復約七キロ。時間にするとだいたい四十分くらい。それを毎日休まず走るのが、私の日課」

 

「…………凄いね」

 

「全然凄くないよ。だって、走るとこんなに気持ちが良くなるんだよ? 良い事があっても嫌な事があっても、走ってる四十分間だけはそれを考えずに済むし、走り終わったら自然と気持ちが整理されてる。走るだけでこーんなに良い事が沢山ある。それを思えば、毎日走るなんて本当に簡単な事なんだよ」

 

 

 

 果南さんの鮮やかな青い髪が風に揺れる。数秒間、その色に目を奪われてしまった。

 

 彼女が走る意味。それは、考えをまとめるため。色んな気持ちを整理するためだと言った。

 

 僕はずっと、ただ単に走る事が好きだから、体力をつけたいから走ってるものだとばかり思っていた。

 

 

 

「ははっ」

 

 

 

 やっぱり、この子は凄い。思わず笑ってしまうくらい。

 

 あの信吾が果南さんに心底惚れてしまった理由がよく分かる。それは、彼女の見た目だけの話じゃない。性格も、見ている世界も、考え方も、習慣も素晴らしい。

 

 何も出来ない弱虫な僕とは比べ物にならないほど、果南さんは()()()だった。彼女なら、あの信吾と付き合っていて当然だ。文句など言える訳がない。

 

 果南さんが信吾を選んでくれてよかった。信吾が果南さんを選んでくれてよかった、と心の底から思った。

 

 

 

「悩んでる夕陽くんにもそうなってほしかったんだ。分かってくれた?」

 

「うん。よく分かったよ」

 

「じゃあ帰りも走って帰れるよね?」

 

「それは勘弁してほしいな…………」

 

 

 

 果南さんにそう言われるが、それとこれとは話が別だ。走る事の素晴らしさは理解出来たけれど、また走りたいとは誰も言ってない。

 

 

 

「えへへ、冗談だよ。これ以上夕陽くんをいじめたらダイヤに怒られちゃうからね」

 

「その言葉の意味はよく分からないけど、助かるよ」

 

「でも、本当にもう、大丈夫だよね?」

 

 

 

 果南さんは立ち上がりながら、そう訊いてくる。それはきっと、さっきみたいに考え過ぎて自己嫌悪に陥る事はないか、と果南さんは言っているのだろう。

 

 ああ。それは自信を持って言える。落ち着いたらまたダイヤさんの事を考えてしまうかもしれないけど、先ほどのように弱い自分自身を否定する事は出来ない。

 

 弱音を吐きながら、時には立ち止まりながらでも最後まで走り抜いた自分になら、ほんの少しだけ誇りを持つ事が出来るかもしれない。

 

 

 

「……うん。もう、大丈夫だよ」

 

 

 

 全てを受け入れる事は出来なくても、自分自身の弱さなら許せる気がした。

 

 そうして、前を向く。高い崖の上にある、美しい宝石に触れる為に。

 

 いつか、その宝石をこの手で砕く為に。

 

 

 

 





次話/文化祭の出し物=メイド喫茶の方程式は崩れない


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文化祭の出し物=メイド喫茶の方程式は崩れない

 

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 時は過ぎ、僕らは遂に待ち侘びた文化祭当日を迎えた。

 

 これまでの一週間、本当に死ぬ思いで準備を重ねてきた。もはや勉強の為ではなく、文化祭の準備をする為に登校している感覚。働くっていうのはきっとこんな事を言うんだな、と社会という世界を知らないのに、何かを悟ってしまうほどの勢いで仕事をした。

 

 まず、教室で行う男装&女装喫茶の準備。さらに、ステージ出し物で行うダイヤさん達のスクールアイドルの準備も同時進行で進めた。

 

 沼津で一緒に買い物をした休日。あの時の約束通り、ダイヤさんは鞠莉さんの提案を受け入れてスクールアイドルをやる事を了承してくれた。その旨を鞠莉さんがクラスメイト達に説明すると、男子達は全員顎が外れるほどの衝撃を受けていた。そして何を思ったのか、数人がその話を聞いた時点で倒れた。

 

 そうしてダイヤさん、鞠莉さん、果南さんの三人は過去に作った曲と衣装をブラッシュアップする作業に取り掛かっていた。本番まで見ないでほしい、と言われたので僕達はそのお願いを了承。

 

 僕としても、本番のステージで新鮮な状態で三人のスクールアイドル姿を見たかったのでちょうどいい。そう言った話を踏まえて、彼女達は完全に僕らとは離れて準備をしていたのだった。

 

 

 

 ……これは非常にどうでもいい話だが、三人は一年生の時に作った衣装を作り直す前に、それを試しに着てみたらしい。

 

 だが、ここで問題が発生。ダイヤさんはすんなり着る事が出来たのだが、果南さんと鞠莉さんは着る事が出来なかったという。その理由は───言うまでもないだろう。二人の素晴らしいプロポーションは、二年間で劇的な成長を見せていたらしい。

 

 このエピソードを鞠莉さんから聞いた信吾は例のように鼻血を出して倒れ、顔を真っ赤にした果南さんに怒られていた。そういう事なら仕方ない、うん。たしかに二人とも制服の上からでも大きいからね。どこが、とは言わないけれど。

 

 その話を聞いている最中、ダイヤさんの事を見ていたら凄く睨まれた。なんでだろう。僕は何も言ってなかったのに。

 

 

 

 そう言った数々の出来事を経て、僕らは今日という日を迎えている。大抵の高校の文化祭は二日にわたって行われるが、浦の星の文化祭は一日だけ。

 

 朝早くから一般のお客さんが続々と校舎の中に入って来ていて、生徒数が少ないこの学校ではあまり見られない光景がそこにはあった。

 

 内浦の住民はこの文化祭を毎年楽しみにしているらしく、生徒だけではなく外部の人達も屋台を開いたりするみたいだった。言ってみれば、学校と地域とが連携した内浦の祭りとも取れるこの文化祭。会場が高校の校舎を使っているだけで、その認識でも恐らく間違いではないだろう。小さな街だからこそ出来る、生徒と住人との密着したつながり。ここは本当に良い街だと改めて思い知らされる。

 

 僕らのクラスが出店する喫茶店も、朝一からフル稼働する事になった。男装&女装喫茶、というインパクトのある出し物の所為か、パンフレットを見て試しに足を運んで来るお客さんが先程から後を絶たない。

 

 まだお昼前であるにもかかわらず、二十分待ちの行列が教室の外には出来ているらしい。

 

 らしいというのは、それを確認する暇もないという事。開店から二時間ほどが経過しているが、僕は未だに一度も休みを取っていない。息を吐く間もなくお客に呼ばれ、挨拶やら接客をし続けている。

 

 何故、そんな事になっているのかというと。

 

 

 

「いらっしゃいませ、お嬢さま。こちらへどうぞ」

 

 

 

 僕は今、喫茶店のメイドをしているから。

 

 いや、正確にはさせられていると言った方がいいだろう。クラスメイトの女子達が作ってくれた特注のメイド服に身を包み、教室にやって来るお客さんにこれでもか、というほど愛想を振り撒いている。凄く嫌な訳じゃないけど、やっぱり恥ずかしさは否めない。

 

 クラス全体の話し合いで店員役を決める話が出た時、真っ先に候補に挙がったのはもちろん我らが男子達の女装エース・橘信吾と、彼の彼女でありながらこれまた男装が似合いそうな松浦果南さん。

 

 この二人には絶対にメイドとウェイトレスをやらせる事が二秒で決定。誰一人として文句を言う人は居なかった。信吾は嫌がっていたけど、そんな反論を僕らのクラスメイト達が聞く訳もなく、強制的に選出された。果南さんもステージの出し物が始まるまではいいよ、という事で了承してくれた。

 

 それからクラスメイト達が多数決で選んだのは、何故か僕とダイヤさん。背も高くて美人なダイヤさんが男装をするのは分かる。でも、どうして僕が選ばれたのかは働いている今でも分からない。断るのも嫌だったので引き受けたけど。

 

 一応、クラスメイト達に理由を訊いてみたら『俺、ずっと前から夕陽の女装も見てみたかったんだ』とか『夕陽ならあるいは、信吾を越えられる可能性がある』とか『ひ弱な後輩メイドの夕陽くんと、厳しい先輩ウェイトレスのダイヤ。二人の禁断の関係…………んんっ///』とか全く持って理解出来ない(というかしたくない)意見が男女から挙がってきた。何だよ、僕とダイヤさんの禁断の関係って。そんなものを見て何が楽しいのさ。

 

 そんなこんなでほぼ強制的にメイド服を着させられ、僕らは教室に設けた即席の喫茶店で今もなお、忙しなく働いているのだった。

 

 

 

「─────あ、夕陽先輩っ」

 

「こんにちは、千歌さん」

 

「夕陽先輩かわい~っ、すっごく似合ってます! だよねだよね曜ちゃん、梨子ちゃんっ」

 

「うんっ。とっても似合ってるでありますっ。特に、この制服がなんとも……」

 

「────────」

 

 

 

 教室に入ってきた二年生の女子生徒三人組を席に案内する。蜜柑色の髪をした明るい女の子は、夏休みに果南さんに紹介されて知り合った高海千歌さん。彼女の隣に居る亜麻色の髪をした女の子も果南さんの幼馴染である、渡辺曜さん。そして三人目は、よく帰り道で見かける臙脂色の髪をした綺麗な女の子。名前は知らないけど、何度か見た事はある。

 

 似合う、と言われて悪い気はしない。けど可愛いと言われるのは男として少々屈辱的だ。そもそも、そういった方向性の喫茶店なので仕方ないと言えば仕方ないか。

 

 ……しかし、臙脂色の髪をした二年生の女の子がさっきからずっと真剣な顔をして僕の事を見てくるんだけど、どうかしたのかな。何か悪い事でもしてしまっただろうか。

 

 

 

「梨子ちゃん? どうしたの、そんな怖い顔して」

 

 

 

 席に座った千歌さんも彼女の様子がおかしい事に気づいたのか、僕の代わりに声をかけてくれた。どうやらこの子の名前は梨子ちゃん、というらしい。

 

 その梨子ちゃんと呼ばれた二年生の女の子は、僕の足先から顔までを琥珀色の瞳で隅々舐めるように見つめてきた。そして。

 

 

 

「…………か」

 

「か?」

 

「────かわいい、です。私、先輩のファンになりました」

 

 

 

 と、頬を赤らめながらそんな言葉を口にして、キラキラした視線を僕にくれたのだった。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 それからしばらくメイドの仕事に勤しんでいると、また顔なじみのお客さんが教室に入って来る。

 

 彼女達のエスコートを引き受け、早足で彼女達の方へ向かう。その途中、もう一人の店員がこちらに来ているのが視線の端に映った。

 

 

 

「いらっしゃいませ、お嬢さま」

 

「わぁ、ユウくんとっても可愛いずら~」

 

「うゆっ。あ、お姉ちゃんっ」

 

「二人とも。いらっしゃいませ、ですわ」

 

 

 

 入ってきたのは従妹の花丸と、彼女の友達でありダイヤさんの妹であるルビィちゃん。彼女達が来たのを見て、ウェイトレス姿のダイヤさんもエスコートに来てくれたらしい。

 

 僕らのクラスで男装&女装喫茶をやるのは、以前から花丸に伝えていた。今日もお寺を出てくる前、『何が何でもユウくんの可愛い姿を見に行くずらっ』と鼻息荒く語っていたので、いつ来るのかと楽しみに待っていた。

 

 でも、そんなに似合うのかな、このメイド服。自分ではよく分からない。僕なんかより信吾の方が百倍可愛いと思うけど。

 

 現在、信吾と果南さんは休憩中。後で花丸とルビィちゃんに信吾の超破壊力があるメイド姿を見てもらおう。間違いなく驚くに違いない。

 

 どうでもいいかもしれないが、既に信吾目当てで何度も訪れている生徒や一般客が数人出来ていた。さっきの梨子ちゃんと呼ばれた二年生も、余程この喫茶店を気に入ってくれたのか、二回ほど並び直して入って来てる。

 

 

 

「ダイヤさんも綺麗ずら~」

 

「ふふ。ありがとうございます、花丸さん」

 

「ゆ、夕陽先輩、凄いです。本当に女の子みたいですっ」

 

「ルビィちゃん。それは、僕を褒めてるのかな?」

 

 

 

 若干興奮した面持ちで言ってくるルビィちゃんにそう訊ねると、彼女は黙ってうんうん、と頭を頷かせてくれる。この出し物的には嬉しいけど、男としてのプライドを考えると素直に喜べない。信吾は女装される時、いつもこんな感情を抱いているのだろうか。

 

 

 

「そうですわね。本当に女性のようですわ」

 

「ダイヤさん。姉妹そろって僕をいじめないでくれる?」

 

「失敬な。私は本当の事を言っているだけですわ」

 

 

 

 ダイヤさんも妹の言葉に便乗して、そんな事を言ってくる。ルビィちゃんの言葉は本音の褒め言葉だったのは伝わったけど、ダイヤさんのは僕をからかっているものだと第六感で感じ取った。顔も笑ってるし。くそ、言い返したいけど上手い言葉がこんな時に出てこない。

 

 

 

「まぁいいけどさ。じゃあ、案内します」

 

「お嬢さま二名様、ご来店ですわ」

 

「「「「「いらっしゃいませ、お嬢さま」」」」」

 

「ずら~。マル達、お嬢さまになっちゃったずら」

 

「ぴぎっ。でも、ちょっと恥ずかしいかも」

 

 

 

 ダイヤさんがそう言うと、教室で接客している他のクラスメイトが声を揃えてそんな言葉を二人にかけてくれる。このみんなで声を合わせて挨拶をするシステムを決めたのは鞠莉さん。淡島ホテルのお嬢さまには本物のメイドが付いているらしいので、その辺りにはかなり厳しかった。

 

 なんで発声練習とか接客のシミュレーション訓練を数十時間にわたってしなければならなかったのか。お陰でこのクラスの喫茶店は超ハイクオリティな出し物に成り果ててしまっていた。体育祭に続き文化祭でも優勝しちゃったらどうするの。

 

 

 

「ではお嬢さま、こちらにお座りください」

 

「ずら」

 

「うゆ」

 

 

 

 窓際のテーブルに二人を案内し、ダイヤさんは花丸が座る椅子を引き、僕はルビィちゃんが座る椅子を引いて彼女達を座らせてあげた。洗練された僕らの接客能力に、花丸とルビィちゃんはご満悦な顔をしている。二人が楽しんでくれているようで何より。最後まで満足してもらえるように努めよう。

 

 

 

「こちらがメニューとなりますわ」

 

 

 

 ダイヤさんがラミネートされたメニュー表を二人に手渡す。飴色と朱色の女の子は一分ほどそのメニュー表と睨めっこして、僕らの方に顔を向けてくる。

 

 

 

「じゃあマルは、特製どら焼きとみかんジュースで」

 

「どら焼きと、みかんジュースがおひとつ」

 

「じゃあ、ルビィもみかんジュースと~……スイートポテトを十個っ!」

 

「ダメですわ」

 

「ぴぎぃっ!?」

 

 

 

 ウェイトレスからお客様に注文拒否が入った?! しかし、頼んだのがダイヤさんの妹であるルビィちゃんだったので、何やら訳があるらしい。

 

 

 

「スイートポテトはダメずらか?」

 

「だ、ダメなの、お姉ちゃん?」

 

 

 

 ここでルビィちゃんの必殺技・涙目の上目遣いがダイヤさんに炸裂。だが、ウェイトレス姿の生徒会長(お姉ちゃん)は妹のあざといおねだりをものともしない、というように平然とした姿勢を取っていた。一体何があったのだろう。

 

 

 

「ルビィお嬢さま」

 

「は、はい」

 

「私は昔からあなたに『人前でスイートポテトを食べていけない』と言い続けてきましたわ。その約束を守れないなら」

 

「……なら?」

 

「罰を与えるしか、ありませんわね」

 

「ぴぎっ」

 

 

 

 ダイヤさんはそう言って、ポケットの中からワサビのチューブのようなものをチラつかせた。その途端、ルビィちゃんの表情が急激に青ざめていく。何だろう、この姉妹のやり取り。どうやら我がままを言う妹を黙らせる魔法をお姉ちゃんは知っているらしかった。ルビィちゃんは厳しい飼い主に怯える小型犬みたいにぶるぶる震えている。水を差すようで悪いけど、今は文化祭の最中だからね? 彼女はお客様ですよ? そこのところ分かってますか、生徒会長。

 

 

 

「……じゃ、じゃあ、ホットケーキにする」

 

「かしこまりましたわ。少々お待ちくださいませ」

 

 

 

 ダイヤさんは二人に頭を下げて、ベランダで働いているクラスメイトのもとへ伝票を渡しに行く。彼女の毅然とした態度はどんな時でも、どんな人と話す時でも変わらないらしい。それがダイヤさんらしいと言えば、らしいとも言えるのだけれど。

 

 ダイヤさんの事を見送って、お姉さんに叱られたルビィちゃんを優しく慰めている花丸の事を眺めている時、教室の後ろの扉から一人のメイドがこちらへ来るのが見えた。

 

 

 

「お疲れ、信吾」

 

「よ。休憩、終わったぜ……って、花丸ちゃんと生徒会長の妹ちゃんじゃん」

 

「あ、信吾さ───」

 

「うゆ──────」

 

 

 

 そうして信吾に声をかけ、花丸とルビィちゃんが彼の方へと顔を向けた瞬間、二人の動きが同時に止まった。理由はよく分かる。今の信吾を見たら大半の人は言葉を失うと思うから。現に店内に居るお客さんの目線が軒並み、こちらに歩いてくる一人のメイドに向けられていた。

 

 

 

「ん? どうした、二人とも。なんか変なとこでもある?」

 

「…………すごいずら」

 

「…………すごいです」

 

「?」

 

 

 

 花丸とルビィちゃんは信吾の姿を見て、声を揃えてそう言った。だが、言われた本人は何が何だかわかっていないような顔をしてる。ていうか何で分からないんだろう。信吾は鏡を見ていないのだろうか。今の自分を見たら、みんなが驚く理由も一瞬で分かるだろうに。

 

 メイド姿の信吾は、とにかくヤバかった。思わず語彙力が欠落してしまうほどにヤバい。

 

 簡単に言うと、何処からどう見ても女の子にしか見えない。しかもただの女の子ではなく、超・美少女。

 

 髪には緩いウェーブがかかったロングヘアのウィッグが被せられ、その上に白いカチューシャが載せられている。白雪のような色をした頬に薄っすらと化粧を施し、もともと大きな緋色の目には長い付けまつげを装着。血色の良い唇にも、主張が強すぎない程度に抑えた色の口紅が塗られた。

 

 白を基調としたフリルのついたメイド服と黒のミニスカートが細身の体躯に纏わされ、陸上で鍛えて引き締まった脚には丈の長いニーソックス。そこに出現した絶対領域を見た時には僕もうっかりドキッとしてしまった。

 

 清楚でありながら、決して派手では無い。舞踏会に行く事を夢見ながらお城で一生懸命に働くシンデレラのように健気なその姿は、見ていると思わず男心の性感帯をくすぐられてしまう。

 

 たぶん彼は女の子として生まれ落ちる直前に、神様の手違いか何かでうっかり性別を男にされてしまったのだろう。だって、今の信吾を見たらそうとしか思えない。大袈裟ではなく、本気で。

 

 今の信吾は、僕達男子が一年生の頃から積み上げてきた努力の結晶そのもの。女子達は今の信吾を見て唖然とし、果南さんだけは心臓を押さえて倒れかけていた。

 

 それから女子達は信吾の事を取り囲み、彼の全身を隅々まで観察していた。『何なの。なんでこんなに可愛いの。マジ意味分かんないんだけど』と、数人の女子が信吾に向かってジェラシーを感じている光景は見ていて面白かった。

 

 何百回と信吾の事を女装させてきた男達は、信吾のメイド姿を見て涙を流していた。よかったね。僕も努力が報われる事を知って少しだけ感動したよ。ほんの少しだけね。

 

 

 

「ふふ。二人は信吾の格好が素敵だ、って言ってるんだよ」

 

「ん、そういう事か。はぁ……早く脱ぎてぇんだけどな。ていうか脱いじゃダメか?」

 

「だ、ダメずら信吾さんっ! 破廉恥ずら!」 

 

「ダメですっ! そ、そんな事をしたらお姉ちゃんに叱られちゃいます!」

 

「…………なんで君らが必死になってんの」

 

 

 

 信吾がメイド服の胸元を伸ばしながらそう言うと、二人のお嬢さまは顔を真っ赤にして止めてきた。たしかに、もし今ここで信吾がメイド服を脱ぎ出したりしたら、一気にこの教室はカオスになる。ここに居る男性全員と果南さんが倒れる未来までは想像できた。何も知らない人が見たら、美少女が生着替えしている光景にしか見えないだろう。

 

 それくらい、今の信吾には破壊力がある。ほら、ビックリしたお客さん達がスマホで写真を隠し撮りしてるよ。信吾は気づいてないけれど。

 

 

 

「すいません」

 

「あ、はーい。ただいま参りまーす」

 

 

 

 そうしていると近くのお客さんが手を上げた。それを見た信吾はすぐに接客に向かう。スカートをひらりと翻して。

 

 

 

「す、すごいずら。信吾さんって本当に男の人ずら?」

 

「うん。残念だけど、あれでも男なんだよ。あと、それだけは言わないであげてね。ショックで倒れちゃうと思うから」

 

 

 

 居なくなった信吾の後ろ姿を見つめながら、花丸は驚いた表情のままそう言った。ルビィちゃんにあっては可愛らしい口を小さく開けて放心状態になってる。恐らく二人とも生まれて初めて見る両性類の人間(信吾)に、戸惑いを隠せないのだろう。僕も初見だったらそうなっていたに違いない。

 

 

 

「でも、あんなに可愛いと──」

 

 

 

 ルビィちゃんがそんな事を呟いた瞬間、信吾の声が教室内に響き渡った。

 

 何事か、と三人で視線を声の方に向ける。何やら一人の客と信吾がもめているようだった。教室だけではなく、ベランダで作業しているクラスメイト達も窓を開けて中の様子をうかがっている。

 

 接客業にああいうクレーマーはつきものらしいけど、まさかこの文化祭でもそんな輩が現れるとは。一体何をやってるんだか。

 

 

 

 

 

 

 

「こ、困りますお嬢さまっ、スカートを引っ張らないでくださいっ。お嬢さまっ、お嬢さま!?」

 

「嘘よっ! こんなに可愛いメイドが男な訳ないじゃないっ! このヨハネが絶対に確かめてやるんだからっ」

 

「やめてっ、お嬢さま、本当にやめ────やめろっつってんだろこのお団子女っ! その頭に付いた毛玉を引きちぎられてぇのか!? ああん!?」

 

 

 

 あ、信吾がキレちゃった。どういう経緯かは知らないけど、どうやら一年生の女の子が信吾(メイドver)ともめているらしい。最初の方はなんとか接客態度を忘れずに対応していた信吾だが、余程しつこかったのか我を忘れるように怒ってしまってる。

 

 仕方ない。ここでの問題はクラス全体の問題だ。ここはひとまず、信吾を助ける事にしよう。

 

 

 

「あ、善子ちゃんずら」

 

「友達なの? 花丸」

 

「ずら。マルとルビィちゃんのクラスメイトずら」

 

「あわわ、ど、どうしよう。上級生に失礼な事しちゃってるよ、善子ちゃん」

 

 

 

 信吾ともめている一年生を見て、花丸とルビィちゃんはそう言った。それなら騒ぎが落ち着いたら二人に引き取ってもらえばいいかな。

 

 とにかく、今はクレーム対応に尽力しよう。

 

 

 

「フフッ、そこまでムキになるって事はやっぱり女なのね。良いわ、真実を明かしてくれたら特別にこのヨハネさまのリトルデーモン(メイド)として雇ってあげる」

 

「何言ってんだお前っ。だからスカートをめくるなっつーの!」

 

 

 

 頭にお団子を付けた一年生の女の子は、信吾のスカートをひたすらめくろうとしている。なるほど。あれをめくって信吾が男なのか女なのかを確かめようとしてるらしい。

 

 

 

 信吾の性別と掛けまして、スピードくじと説く。

 

 その心は。

 

 どちらも、めくってみなければ分からないでしょう。

 

 

 

 なんて、その光景を見ていたら死ぬほどくだらない謎かけを思いついてしまった。自重しよう。やっぱり僕にはそう言った才能はないらしい。

 

 不毛なやり取りを繰り広げるメイド姿の信吾と、お団子髪の一年生。ため息を吐いて仲裁に入ろうとした時、僕よりも先に一人のウェイトレスが現れた。

 

 

 

「失礼しました、お嬢さま」

 

「あ……果南」

 

「彼は正真正銘の男性です。このように可愛らしい見た目をしていても、男性なんです」

 

 

 

 二人の仲裁に入って来たのは、ウェイトレス姿の果南さん。

 

 しかし、彼女が言ったストレートな言葉により信吾が深いダメージを受けていた。ドンマイ、信吾。これであのお客さんを納得させれると思って諦めて。

 

 

 

「……本当に男なの?」

 

「残念ですが本当です、お嬢さま」

 

「ん? なんか、あんたも可愛いわね。ちょっとずらまるに似てる」

 

 

 

 果南さんにそう言われても不服そうな表情を浮かべる一年生に、追い打ちをかけるように僕もそう言った。するとその女の子は僕の顔を見て変な事を言い出す。ずらまるって、もしかして花丸の事か? たしかに従兄妹同士なんだから少しは似ているかもしれないけど、まさか初対面の人に言われるとは思わなかった。

 

 

 

「この人がマルの従兄のユウくんずら、善子ちゃん」

 

「うゆ。善子ちゃん、あんまり迷惑をかけちゃダメだよ?」

 

「善子言うなっ! なんだ、あんたたちも居たのね」

 

「ルビィちゃんの言う通りずら。ここはおとなしく、のんびりお茶をする喫茶店ずらよ?」

 

 

 

 いつの間にか僕の横に居た花丸とルビィちゃんが、その女の子に優しくそう言う。善子ちゃんというのか、この子。今度花丸にどんな女の子なのかを教えてもらおう。

 

 

 

「むー、仕方ないわね。今日のところは見逃してあげるわ。でも今度会ったら絶対に確かめてやるんだからね」

 

「…………お、お許しいただき、大変ありがとうございます、お嬢さま」

 

 

 

 信吾は引き攣った笑顔を浮かべながらそう答えていた。果南さんが居てくれてよかった。彼女が居なかったら信吾はまた怒っていたかもしれないから。

 

 そんな感じで、クレーム騒ぎは収拾する。まさか信吾の可愛さで軽い問題に発展するだなんて予想もしなかった。

 

 

 

 それから後々、心に深い傷を負った信吾は果南さんに優しく慰められていた。凛とした男装姿の果南さんが、可愛らしいメルヘンなメイド姿の信吾を諭している光景を見て、数人のクラスメイトが立ちくらみを発症。たしかに、あれはかなり尊い姿だったと僕も思う。

 

 

 

 クラスの出し物はそんな風に、色々と小さな問題を重ねながらも大盛況のまま続いて行ったとさ。

 

 

 

 文化祭はまだ、始まったばかり。

 

 

 




次話/未熟DREAMER


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未熟DREAMER

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

「ダイヤさん。ちょっといいかな」

 

 

 

 正午が過ぎ、ちょうど喫茶店の客足が落ち着いて来た頃。ダイヤさん、果南さん、鞠莉さんはステージ出し物の準備をする為に仕事を一旦抜け出す事になった。

 

 教室に居ない生徒達は、既にステージ出し物を行う準備に取り掛かっているらしい。彼女達三人はパフォーマーとして、その他の生徒達は裏方としてステージで最高の出し物が出来るように努めている。大がかりな準備は昨日までに終わっているから、今日は改めて何かをする訳でもない。なので僕は一人の観客として、彼女達のスクールアイドルのライブを楽しむつもりでいる。

 

 教室を出て行こうとするダイヤさんに声をかけ、呼び止める。彼女は足を止めて、こちらを振り返ってくれた。果南さんと鞠莉さんはそれに気づかず、廊下を進んで行く。

 

 

 

「どうしました? 夕陽さん」

 

「頑張ってね、スクールアイドル。楽しみにしてるから」

 

 

 

 建前ではなく、本音の言葉で今から裏庭のステージで歌う彼女に声をかけた。僕の応援なんかを聞いても嬉しくないだろうけど、何か言っておきたかったから。言わずにはいられなかったから、しょうがない。

 

 そう言うと、ダイヤさんはふん、と一度鼻を鳴らして得意げな表情を浮かべる。

 

 

 

「もちろんですわ。必ずあなたを驚かせてみせますから、見ていなさい」

 

「期待してる。もし間違えちゃっても笑わないから、安心して」

 

「間違える筈がありません。私を誰だと思っていますの?」

 

 

 

 ダイヤさんは腰に手を当てて、絶対の自信があるというように笑いながら言ってくれた。

 

 ああ。きっと彼女は間違えたりしない。何事も卒なくこなしてしまう僕らの生徒会長は、人前で歌って踊る事すらも完璧に成し遂げるだろう。そんな予感を、たしかに感じていた。

 

 

 

「みんながうらやむ僕らの生徒会長、だよ」

 

 

 

 そう言うと、ダイヤさんは右手の指で顎にあるホクロの所を掻きながらそっぽを向いてしまった。それを見て怒らせたかな、と思ったけど、どうやら違ったみたい。

 

 

 

「あなたに褒められても、嬉しくありませんから」

 

「ふふ。じゃあ、かしこい・かわいい・ダイヤさん、って言ってほしかった?」

 

「かわっ…………後で覚えてらっしゃい。私をからかった事、後悔させて差し上げますわ」

 

 

 

 ダイヤさんがめちゃくちゃ喜びそうなネタを言ったのに、どうやら本気で怒らせてしまったようだ。背後に修羅が見える。使い時を間違えたか。反省しよう。

 

 

 

「そういうつもりで言ったわけじゃないのに」

 

「それなら尚更ぶっぶー、ですわ。本当に、こんな時まであなたと言う人は」

 

 

 

 ぶつぶつと何かを呟き、渋い顔をして腕組みをするダイヤさん。彼女の横顔がほんの少しだけ赤く見えたのは、多分目の錯覚か何かだろう。

 

 こんな風に軽口を叩けるようになった事を、今は嬉しく思える。半年前は話どころか近づく事すら出来なかったのに。

 

 それを思うと、()がずっと続けばいい、と心のどこかで考えてしまう。これ以上でも、以下でもなくていい。この関係性が続いてくれたら、それ以上に嬉しい事はない、と。

 

 ……でも、ずっとこのままではいられない。変わらない事は後退していく事と同義。前に進まなければ、僕らはこうして何気ない立ち話をする事も出来なくなる。

 

 いつかは卒業し、皆それぞれの道を進んで行く。そうなれば、僕という人間は黒澤ダイヤという生徒会長の記憶の中に、〝少しだけ話が出来た男子生徒“なんてくらいの思い出でしか残らないのかもしれない。もしかしたら、そんな事すら彼女は覚えていてくれない可能性だってある。

 

 それは、どうにも悲しい。そんな未来は、想像もしたくもない。

 

 そうならない為には、前に進まなくてはいけない。いつまでもぬるま湯に浸かっていたら、気づいた時にはそこから出られなくなってしまう。そしてもう二度と、取り返しがつかなくなってしまうのだろう。

 

 居心地が良い場所に居たい、とそう思うのはたしかに普遍的な考え方だ。気持ちが良い場所に居たいと思わない人の方が変わってる。

 

 でも、それではダメなんだ。そうしていたら、ずっと握り締めていた大切なものを取りこぼしても気づけなくなる。そうなってしまってからでは遅すぎる。

 

 

 

 だから、僕は前に進む。踏み出せなかった一歩目を、がむしゃらに前に出す。怖くても、つらくても、苦しくても。

 

 その道の先にある未来が希望ではなく、絶望であったとしても。

 

 

 

「ダイヤさん」

 

「なんですの」

 

 

 

 もう一度、彼女の名前を呼ぶ。ダイヤさんを呼び止めたのは、本当は頑張れが言いたかった訳じゃない。

 

 僕はただ、自分の為に呼び止めたんだ。

 

 

 

「後夜祭の時に……少しだけ、時間をもらえませんか?」

 

「? 後夜祭、ですか」

 

「うん。ちょっとだけでいいんだけど、ダメかな?」

 

 

 

 平静を装って言っているけど、本当は違う。頭には白い靄のようなものがかかり、指先は震えて、心臓がうるさいほどに高鳴っている。今にも倒れてしまえそうだった。それくらい単純に、緊張してしまっていたんだ。

 

 ダイヤさんは首を傾げながら、僕の顔を見上げてくる。不思議そうな顔。彼女は恐らく、いつものように僕が変な事をする為にそう言っているのだと思っている。本当は、そんな甘い事ではないというのに。

 

 返事を聞く前に逃げ出してしまいそうになる自分を説得し、どうにかこの場所に留める。今日は何を握る訳でもなく、ただ(から)の右手を強く握り締めた。

 

 それくらいしか、僕には出来なかったんだ。

 

 

 

「よく分かりませんが、よろしいですわ」

 

「本当に?」

 

「ええ。後夜祭の生徒会長挨拶が終わりましたら、特にやる事もありませんので」

 

 

 

 ダイヤさんは、僕のお願いにそう答えてくれる。たったその言葉を聞いただけで安心してしまい、膝から廊下の床の上に崩れ落ちてしまいそうになった。

 

 両足に力を入れて何とか踏みとどまり、また言うべき言葉を口にする。

 

 

 

「よかった。じゃあ、後夜祭が始まって三十分くらいしたら教室に来てくれる?」

 

「はいはい。分かりましたわ」

 

()()、は一回、だよ。ダイヤさん」

 

「……う、うるさいですわ。私の真似をしないでください」

 

 

 

 顔を赤くして顔を背けるダイヤさん。それを見て、さっきと同じ事を思った。

 

 やっぱり、この時が続いてくれればいい。何も変わらないまま。ずっとこうしていられるなら、それで構わない。

 

 

 

 ───本当に? 

 

 

 

 いや、違うよ。このままなんて望まない。望む筈がない。

 

 僕は、()()()()()が欲しい。

 

 玩具ではない。本当の硬度を持ち、真の輝きを放つ───世界で一番美しい宝石(ダイヤ)が。

 

 

 

「なら、よろしくね。あとで信吾を連れて中庭に行くから」

 

「分かりましたわ。楽しみにしていなさい」

 

 

 

 それだけを言い残して、ダイヤさんは踵を返して廊下を歩いて行く。二十メートル程先には果南さんと鞠莉さんがこちらを見て立っていた。どうやら僕に呼び止められたダイヤさんの事を待ってくれていたようだった。

 

 ……なんだか二人とも変な笑顔を僕の方に向けてる気がする。いや、そんな風に見えただけかもしれない。考え過ぎだな。気にしないでおこう。

 

 

 

「…………さて」

 

 

 

 これでダイヤさんを呼び出す事には成功した。あとは言うべき事を言うだけ。

 

 その前に、彼女が歌うところをしっかりと目に焼き付ける。今やるべき事は、それくらいだ。

 

 

 

 客が少なくなった教室の中に戻り、見つけるべき人の姿を探した。そうして、その人はすぐに見つかる。

 

 

 

「信吾。そろそろ中庭に行く準備しようよ」

 

「ん? ああ、そうだったな。着替えて準備するか」

 

 

 

 もはや正装と化しているメイド服を身に纏う信吾に声を掛ける。彼は退屈そうに椅子に座りながら、持っていた銀のお盆を指の上に乗せて、それを器用にくるくると回していた。

 

 僕がそう言うと、信吾は教室の掛け時計を一瞥してから立ち上がる。もう既に他のクラスの出し物は始まっているから、それが終わるまで客はほとんど来ない。なので僕らが抜けても、ここは何とかやっていける事だろう。

 

 

 

「じゃあ、僕らは抜けるからこっちはよろしくね」

 

「おう。俺らもサボりながら見てるから、気にしないで行ってこい」

 

 

 

 クラスメイトの男子にそう断わりを入れて、僕と信吾はメイド服から制服に着替えるため教室から出て行く。

 

 凄くどうでもいいけど、廊下を歩いているとすれ違うほとんどの生徒達が驚きの表情で僕らの事を見てくる。驚かない人は恐らく、僕らの教室の喫茶店に来店した人だけだろう。そんな目で見られるのも、この数時間でだいぶ慣れてしまった。全く持って慣れるメリットが見出せないのは、僕の気のせいじゃない筈だ。

 

 

 

「夕陽」

 

「何、信吾」

 

「覚悟は決まったか?」

 

 

 

 更衣室を目指して廊下を歩いていると、隣を歩く信吾は僕にそう言ってきた。

 

 

 

「…………」

 

 

 

 主語がない言葉。でも、意味はよく分かる。むしろ()()が無いからこそ、より際立って意味が伝わってくる気がした。

 

 数秒間の間を置いて、僕は彼の質問に答える。

 

 

 

「うん。決まってるよ」

 

 

 

 ただ一言。それだけ言えば、僕が考えている事を理解してくれている信吾は、言葉の意味を汲み取ってくれる。そう信じて口にした言葉だった。

 

 文化祭が行われている校舎の中は、いつもとは違った景色に見える。装飾も然り、そこら中の教室から流れている音楽も然り。人の出入りも多く、静けさもない。明らかにいつもと同じ感覚をそこに抱く事はとうとう出来なかった。

 

 

 

「……そっか」

 

 

 

 彼はそれだけを言って口を閉ざす。

 

 

 

 信吾は更衣室に着くまでの間、何も言って来る事はなかった。

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 浦の星学院の校舎には広い中庭がある。昼休みには生徒達が集まってご飯を食べたり、放課後は部活動の生徒がたまに使っているのを見かける、いわば生徒達のたまり場。広さはだいたい五十メートル四方ほどで、校舎、体育館、渡り廊下が中庭を囲んでいる。校舎の屋上から俯瞰すると()のような形の中にある広場。定期的に業者が入っているのか、地面の芝は常に青く、いつも規則正しい長さに生え整えられている。四月にこの学校に来たばかりの頃は、中庭に綺麗な桜が咲いていたのを思い出す。男女の確執だけはもう二度と思い出したくないが。

 

 各クラスの出し物は、その中庭に特設ステージを設けてやるみたいだった。てっきり体育館を使うものだと思っていたけど、こうしてよく晴れているのなら屋外でやるのも悪くないだろう。

 

 僕と信吾はメイド服から制服に着替えて中庭へと向かった。既に沢山の生徒と一般の客達が集まっており、そこに居る人達は現在行われている二年生のクラスのステージを見つめている。

 

 

 

「わーはっはっはっ! 我こそはみかん星からやってきた侵略者、その名もみかん星人・千歌っちなのだーっ! この内浦に居る人間達を、みんなみかんに変えて食べてしまうぞーっ、がおー!」

 

「きゃ、きゃーっ!? 誰か助けてーっ!!!」

 

『内浦がみかん星人に侵略されてしまうその時。そこに、ある一人の救世主が現れました』

 

「───待てーいっ!」

 

「む? だ、誰だ貴様はっ?」

 

「私は、この内浦を守る正義の味方──人呼んで、航海戦士ヨーソローだッ! 千歌ちゃ……じゃなかった、みかん星人! この内浦を、あなたの好きにはさせない! あなたのそのみかん、私が収穫してやろうじゃないか!」

 

「な、なんだとーうっ!?」

 

「…………」

 

 

 

 何だろう、あれは。見た感じ恐らく演劇だと思うんだけど、一体どんな世界観の舞台なんだ。人をみかんに変えて食べるみかん星人が内浦を侵略に来る、という導入の時点で空いた口が塞がらない。みかん星人を倒すのではなく、収穫をする意味もイマイチよく分からない。

 

 しかもステージにいる三人は、さっきクラスの喫茶店に来たあの二年生の女の子達。正義の味方の曜さんは純白のセーラー服で、一般人役の梨子さんは村娘のような儚げな恰好。そして敵役であろう千歌さんにあっては、なぜか全身がみかんの着ぐるみ? みたいなものを着てる。この世界のどこを探せばあんな奇抜な着ぐるみが手に入るのだろう。謎だ。

 

 

 

「行くぞっ、みかん星人! とうっ!」

 

「はっ!」

 

「な、なにー!?」

 

「ふふふ~。そんな攻撃で私のみかんが収穫できるとでも思ったかっ。それぃっ」

 

「う、うわ~っ!」

 

「よ、ヨーソローっ!」

 

 

 

 あ、ヨーソローがやられた。僕の聞き間違いでなければ千歌さん、倒される事を遠回しにみかんを収穫する、って自分で言っちゃってた。そういった世界観である事を受け入れよう。他人の作品にとやかく文句を言う権利はない。

 

 

 

「わっはっはっ、それではまず貴様をみかんにして食べてやる~」

 

「くっ、ダメ、力が足りないっ」

 

「頑張って、ヨーソロー!」

 

「……そうだ。私は、こんなところでみかんにされてはいけない。みんなを守らなきゃ。その為には」

 

『正義の味方・ヨーソローは、みかん星人に立ち向かう為に立ち上がりました。ですが、みかん星人のみかんを収穫する為の力、ヨーソローパワーが足りません。ヨーソローパワーを集めるには、皆さんの声が必要です』

 

「みんなーっ! 私に、力をちょうだいっ! みんなのヨーソローを大きな声で聞かせてっ」

 

 

 

 両手を広げて、中庭全体に響き渡るような声を元気いっぱいに出す曜さん。あの子もかなりノリノリだ。見ているとなんだかこっちまで元気になって来る。

 

 

 

『それでは皆さん。ヨーソローが全速前進、と言ったら大きな声で、ヨーソロー! と言ってください』

 

「みんなーっ、準備はいい~? じゃあいっくよー! 全速前進───」

 

「「「「「ヨーソローッ!!!」」」」

 

「よーし、オッケーだよっ! みんなの声のお陰で、ヨーソローパワー全開でありますっ!」

 

 

 

 曜さんはそう言って、声をくれた観客に綺麗な敬礼と輝く笑顔を向ける。前列の方に目を向けてみると、一般の子連れのお客さん達が多いみたいだった。子供達に人気が出るのもこれは頷ける。恐らく僕らのクラスメイトであろう男子達の野太い声が聞こえた気がしたのは、ただの幻聴だと思っておこう。

 

 曜さんとは知り合ってまだ間もないけど、演技に()が垣間見えるのは彼女のスタイルみたいなものなのだろうか。

 

 あの元気はつらつな感じは見ている方も気持ちが良い。観客が彼女を応援したくなる気持ちがよく理解出来た。

 

 

 

「行くぞっ、みかん星人! 私たちの勇気の力を思い知れーっ!」

 

「う、うわーっ!? やーらーれーたーっ、じゃなくて、収穫されてしまったーっ」

 

 

 

 ヨーソローの攻撃により、みかん星人はステージ上で倒れた。もとい、収穫されてしまった。女子生徒数人が寝転がった千歌さんをステージ袖に運んで行く。その全員が苦笑いを浮かべていたのを、僕の目は見逃さなかった。

 

 非常にどうでもいいが、※みかんはスタッフが後で美味しくいただきました。とか書いてあるボードを持った生徒がステージ脇に立っていた。この演劇の脚本をした生徒は精神が少々病んでいたりしないだろうか。少しだけ心配になってしまった。

 

 

 

『ヨーソローの活躍により、みかん星人は収穫されました』

 

「…………みんな、ありがとう。これで内浦の平和は守られたよ」

 

「ありがとう、ヨーソロー。また内浦がピンチになった時、助けに来てね」

 

 

 

 両手の指を組んでお祈りをするようなポーズをしながら、一般人役の梨子さんがヨーソローにそう言う。

 

 

 

「もちろんっ。この内浦の平和を守る為、ヨーソローはいつだってみんなを見守っているよ! ピンチになった時は、あの合言葉で私を呼んでね!」

 

『それでは皆さん。最後にもう一度、ヨーソローに大きな声を聞かせてくださーい!』

 

 

 

「全速全進───ヨーソローッ! からの~?」

 

 

 

 ナレーションの声と曜さんの合図に合わせて、もう一度あの合言葉が観客達から上がる。

 

 

 

 そして、最後に曜さんは右手を額に付けて。

 

 

 

 

 

「敬礼っ! えへへっ」

 

 

 

 

 

 太陽のようなあの笑顔を、ステージの上で輝かせていたのだった。

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 そうしてステージ出し物は続き、お待ちかね僕らのクラスの出番となった。誰の計らいかは知らないが、僕達のクラスは順番が大トリになっているらしい。恐らく、というか確実にとんでもない盛り上がりをみせる事は、出し物のアイデアを出した時から確定していた未来。

 

 最後のステージの準備が行われている最中(さなか)、気づけば先程よりも多くの観客が中庭に詰め寄せている。校舎の窓からも沢山の人達が、僕らのクラスの出し物が始まるのを待っていた。

 

 ここまで注目されるのも、別段不思議という訳でもない。配られるパンフレットには、今年の文化祭のメインイベントとして三年一組の出し物が描かれていたから。

 

 校内でも美少女トリオとしてよく知られているあの三人が、スクールアイドルをやる。それを考えれば、生徒達が気になってしまう事にも頷けた。

 

 

 

「…………」

 

 

 

 僕と信吾は、この中庭に溢れ返りそうなくらい入っている観客達の最前列に立っていた。目の前には数分後にあの子達が出てくるであろう特設ステージがある。

 

 僕自身、以前からスクールアイドルが好きだという理由もあり、これまで数々のグループのライブには足を運んでいたが、開場前にここまで緊張するのは久しぶりな感覚だった。こんな感覚を抱いたのは中学生の頃に、アキバドームでμ´sのラストライブを見た時以来かもしれない。

 

 統合してから出来た友達がスクールアイドルをする。この事実が心拍数を上げる要因になっているのは間違いなかった。しかもその中の一人は、僕が現在進行形で恋をしている人。そんなの緊張するに決まってる。

 

 

 

「ふぅ」

 

 

 

 誰にも気づかれないように小さな息を吐く。()()は、中庭に詰め寄せる観客達が発するざわつきの中へと溶けて行った。

 

 今はとにかく落ち着くよう自分へ言い聞かせよう。一人の観客として彼女達のステージを楽しむ。さっき、ダイヤさんと約束したじゃないか。特別な感情は要らない。ありのままの自分で、この場所から三人のステージを見つめる事にする。

 

 

 

 そうして、逸る心を宥めながら次の出し物が始まるのを待つ。

 

 

 

 すると突然、ステージに設置されているスピーカーから流れていたBGMの音量が上がり出した。

 

 

 

 途端、中庭に地鳴りのような声援が響き渡る。耳を劈く声援。そして、大音量のSEに合わせながら大きな手拍子が何処からともなく始まった。

 

 

 

「──────っ」

 

 

 

 心臓が揺れる、この感じ。あのμ´sのラストライブが始まる瞬間にも、同じ()()を感じていたのを唐突に思い出した。

 

 無意識に手が震えて頭がボーっとする。数秒前の自分もたしかにこの場所に立っていたのは理解してる。なのに、最初から夢の中に居たかのような奇妙な感覚が、頭から足の先までを取り囲んでくる。

 

 中庭が揺れる。揺れる。揺れる。揺れる。まるで、局所的な地震が起きたみたいに。流れ続けるアップテンポなSEは、尚もその揺れを助長させ続けた。

 

 冷静になるだなんて、無理だ。こんな中でいつも通りの自分を保つ事など出来る訳がない。

 

 落ち着いて楽しむ? 僕は何を生ぬるい事を考えていたんだろう。過去の自分が愚かだったと、痛いほど思い知らされた。

 

 ものの数十秒で別世界と化した中庭。先ほどまでの静かな空気など、晴れ渡った九月の空へとすぐに消えて行った。

 

 

 

 

 

「───レディースエーンドジェントルメーンッ! アー・ユーレディ!?」

 

 

 

 

 

 SEが終わった瞬間、今度は聞き覚えのある甲高い声が中庭全体に響き渡る。声を聞いた観客は呼応するように、さらに大きな歓声を上げた。咄嗟にステージへと目を向ける。

 

 そして、袖の方から一人の女の子が現れた。その姿を見たと同時に、僕は瞬きと呼吸の仕方を忘れる。情けない話かもしれないが、本気で。

 

 そんな簡単な事を、数メートル先に立っている一人のスクールアイドルに忘れさせられてしまったんだ。

 

 

 

「シャイニーッ!!! 待たせたわね、エブリワーンッ!」

 

 

 

 胸元に紫色のリボンが付いた白い半袖のセーラー服を模したようなミニスカートの衣装に、すらりと長い足を包み込む純白のハイソックス。最初にステージに現れたのは、鞠莉さんだった。

 

 もともとのスタイルや容姿が日本人離れしている彼女の姿は、ステージの上ではあまりにも輝きすぎて見えた。思わず、目を細めてしまいそうになるほどに。ちょっと待ってよ。似合いすぎでしょ。

 

 鞠莉さんは声援をくれる観客に手を振りながらステージの上を一往復して、中央の位置で立ち止まる。

 

 

 

「フフッ 」

 

 

 

 そして、最前列に居る僕と信吾に気づいた鞠莉さんは嬉しそうな笑顔を浮かべながら、キュートなウィンクを僕らにくれた。

 

 それを見た瞬間、突発的なめまいに襲われる。いや、今のあれはどう考えても反則だろう。キュートというより、もはやギルティだった。隣に立つ信吾を横目で見たら、唖然とした顔で鞠莉さんの事を見つめてた。ヤバい。これは想像以上にヤバいぞ。これから長時間あのステージを見続ける自信がなくなってきた。倒れないように正気を保とう、全力で。

 

 

 

「それじゃあ二人目のメンバーの登場よっ。果南、カモーンッ!」

 

 

 

 青空を突き抜けるような鞠莉さんの声が響き、観客はまた声援のボリュームを上げた。 名前が呼ばれた瞬間に上がった歓声には、女子生徒の声が多く聞こえた。

 

 浦の星学院内の話に限っていうと、鞠莉さんは男子に人気がある。自他ともに認めるお嬢さまだし、見た目もゴージャスながら可愛さを兼ね備えているからその話は頷ける。

 

 だが、次に出てくるであろう果南さんは違う。あの子は男子のみならず、女子生徒にも絶大な人気がある。特に年下からの好意が熱いという噂を最近耳にした。

 

 男女ともに人気な果南さん。そんな彼女のハートを撃ち抜いた僕の隣に居る男は、付き合い始めた頃は各学年の男女から妬み恨みを向けられていたが、彼の事を知るとみんなすぐに納得して文句を言う者は一週間くらいで居なくなった。信吾なら仕方ない、とみんな思ったんだろう。親友である僕ですらそう思うから本当に仕方ない。そんな話は忘れよう。

 

 

 

 鞠莉さんが名前を呼んでから数秒が経ったが、果南さんはまだ出てこない。

 

 何かアクシデントでもあったのかな、と思ったと同時に鞠莉さんが出てきた方向とは逆側から、もう一人のメンバーがステージに上がってきた。

 

 

 

「………………ッ」

 

 

 

 ───途端、鼓膜が破れそうになるくらいの声の重なりが轟く。けど、そんな事すら気にならないほど、意識はステージ上に立つ二人目のスクールアイドルの女の子へと向けられていた。

 

 

 

「ぐ、っ……!?」

 

 

 

 信吾が顔面を手で抑えながらその場に跪く。無理もない。僕ですら見た瞬間に倒れそうになったから、彼の気持ちがよく分かる。

 

 黄色い歓声とともに現れたのは、鞠莉さんと同じ白の衣装を身に纏った果南さん。胸には緑色の大きなリボンが付いていて、彼女のトレードマークであるポニーテールも同じ緑のリボンで結われていた。

 

 普段はどちらかというとボーイッシュな雰囲気を醸し出している果南さんだが、今は違う。見方を代えてしまえば、まったくの別人にも見えてしまった。

 

 果南さんはあまりこういった人前に立ったりする事が苦手なのか、顔を真っ赤に染めながら俯き加減でステージ中央に居る鞠莉さんの隣まで歩いてきた。

 

 信吾がダウンしたのは恐らく、どう見ても恥ずかしがっているあの表情をモロに見てしまったからだろう。最前列に居るとよく顔が見える。

 

『可愛い』とか『素敵』とかいう歓声を聞いた果南さんはどうしていいのか分からないのか、中庭に集まった観衆を見ながらオロオロしていた。簡単に言うと、完全に照れてしまっていた。

 

 最前列に居る僕らを見つけた果南さんは『たすけて』みたいな弱々しい涙目を向けてくる。それにより信吾はさらに深いダメージを負っていた。

 

 いつも頼もしい分、ギャップがあるあの表情の破壊力は半端じゃない。あれは卑怯だろう。なんだよあれ。僕も倒れていいですか? 

 

 

 

「最後のメンバーは、浦の星学院の生徒会長。みんなが知ってるあの子デースっ! ダイヤ、シャイニーッ!!!」

 

 

 

 そうして、鞠莉さんが最後のメンバーを呼ぶ。

 

 ああ、分かってる。鞠莉さんと果南さんのスクールアイドル姿を見るのは、たしかに楽しみだったさ。

 

 けれど、僕が待ち侘びていたのは二人じゃなかった。失礼だから口には出せないけれど、本音を言わなければならないのなら、そう答えるしかない。

 

 僕が心の底から見たかったのは、次に出てくる女の子の姿。文化祭でスクールアイドルをやるという話が出てから、いや、ダイヤさんがスクールアイドルが好きだとカミングアウトしてくれたあの日から今日まで、ずっと見たいと願っていた。どこにいる時も何をしてる時も、頭の中にその姿を思い描いていた。そう言ってもまったく誇張ではない。

 

 僕は本当に楽しみにしていた。数秒後にその姿を見る事が出来る今、思わず手が震えてしまうくらいに。

 

 

 

 そして、生徒会長は現れる。ステージの正面から真っ直ぐに、二人のメンバーのもとへとゆっくりと歩いてきた。

 

 

 

「………………」

 

 

 

 生徒会長が姿を現した瞬間、中庭にあった喧騒が一瞬だけ止んだ。八月の騒がしい蝉時雨が、何処かのタイミングで一斉に音を止めるか時みたいに。

 

 僕の目に映っているのはたしかに、あの()()()()()。真面目を絵に描いたようにいつだって凛としていて、誰もが認める理想的な生徒会長。

 

 だけど、今の彼女はいつもの彼女ではない。それはもちろん、良い意味で。いや、あるいは僕にとって悪い意味にもなり得る。

 

 それほどダイヤさんは美しかった。それ以外の言葉では、到底表現しきれなかった。

 

 

 

「浦の星学院の皆さん。楽しむ準備は出来ていますの?」

 

 

 

 ダイヤさんの煽り言葉に呼応する観客。あの厳格な生徒会長が大勢の人の前でスクールアイドルをしている。しかも堂々と、自信に満ち溢れた表情を浮かべながら。

 

 セーラー服を模した藍色のワンピース。他の二人が着ているものとは色だけが異なっているダイヤさんの衣装。胸元には赤いリボン、いつも付けているあの白い髪留めが、今は赤になっていた。

 

 驚くほど白い手足を九月の晴天の下に晒している。ダイヤさんがあまりにも綺麗すぎて、今の彼女を見ている観客全員にほんの少しだけ嫉妬心を覚えてしまった。

 

 今のダイヤさんを誰にも見てほしくない。スクールアイドルの姿をしている彼女を見ていると、そんな訳の分からない感情が止め方を忘れた噴水のように溢れてくる。

 

 そんな事を考えながらステージ上を見つめていると、ダイヤさんは僕の視線に気づいたのか、得意げな顔をこちらに一瞬だけ向けてきた。

 

『どうですの?』と自らの雅やかさを誇るような表情。ああ、認めるよ。今のダイヤさんは僕にとって、この世界中の誰よりも綺麗で可愛い。どれだけ美しい宝石でも、あの子の輝きには絶対に勝てない。

 

 

 

「私達Aqoursは二年振りに帰ってきたのデースッ! みんな、ただいま」

 

「「「「「お帰りーっ!!!」」」」」

 

「フフ。こうしてまたこの三人でスクールアイドルとしてステージに立てる事が、私は本当に嬉しいの。だから今日は、あの時に戻ったみたいに歌うわよ?」

 

 

 

 鞠莉さんがそう言うと主に女子生徒達から大きな声が上がった。恐らく男子生徒達は彼女が言っている言葉の意味が分かっていない。

 

 彼女達は、二年前に諦めたスクールアイドルをこの文化祭の為に再結成して歌おうとしている。過去に何があったのかは、僕も詳しくは知らない。

 

 でも、あの鞠莉さんがMCをしながら泣きそうになっている表情を見て、僕の隣に立っている女子生徒がタオルで目を覆っているのを見て、彼女達がスクールアイドルとして過ごした日々がどれだけ掛け替えのないものだったのかは、強く理解する事が出来た。

 

 なら、その日々の素晴らしさをステージ上のパフォーマンスで見せてもらう事にしよう。それを見せるために、彼女達は()()に立っているのだろうから。

 

 

 

「二年前のあの日。本当は歌うはずだったこの歌を今日、この新しい浦の星学院のみんなの前で」

 

 

 

 ダイヤさんは一歩前に出て、口にする。

 

 

 

「未熟だったあの頃。歌えなかったこの歌を、応援してくれていた内浦のみんなのために」

 

 

 

 果南さんは前を向いて、言った。

 

 

 

「まだ未完成な私達だけど、心を込めて一生懸命歌います。…………だから、聴いてください」

 

 

 

 鞠莉さんは浮かべていた涙を拭いて、そう言葉にした。

 

 

 

 

 

 

 

 三人は顔を見合わせて微笑み、一度頷き合って僕達観客が居る中庭に顔を向ける。

 

 

 

 そして、声を揃えて言う。

 

 

 

 彼女達が積み重ねてきた日々と努力の結晶。

 

 

 

 

 

 その証明である───歌の名前を。

 






次話/真実は最後まで聞かなきゃ分からない


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真実は最後まで聞かなきゃ分からない

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 文化祭が終わり、数時間の片付けと準備を挟んだ後、後夜祭が始まった。

 

 既に日は沈み、辺りは既に闇に包まれている。

 

 頭上に目を向ける。日中は晴れ渡っていた空が、いつの間にか厚い雲に覆われていた。今朝は急いでいたから天気予報を見る暇がなかった。もしかしたらこれから雨が降るのかもしれない。

 

 校庭の真ん中に組まれた大きなキャンプファイヤー。生徒達はその周りで、文化祭で残った余り物の食べ物や飲み物を口にしながら友達と話したり、流れる音楽に合わせて踊ったりしてる。ちなみに踊っているのは僕らのクラスの男子。正直恥ずかしいので早々に止めてほしい。そう願う限りだった。

 

 こんな風に全校生徒が揃って夜の学校に居るなんて、普段の学校生活では経験できない特別な時間。みんな嬉しそうな顔をして、この後夜祭を楽しんでいる。

 

 

 

 僕は、キャンプファイヤーから少し離れた所にある鉄棒に背中を預けながら、そんな光景を眺めていた。黄昏ている訳じゃない。騒がしいクラスメイト達の中に入りたくない訳じゃない。

 

 ただ、今は何となく、一人になりたかっただけ。

 

 

 

「…………」

 

 

 

 海の方から吹いてくる冷たい潮風が、近くにある針葉樹の葉と僕の前髪を揺らした。九月も中旬。これから吹く風はもっと冷たさを帯びてくる事だろう。

 

 そんな事を考えながら、深呼吸をひとつ。()()は誰にも聞かれないまま、騒がしい校庭の空気へ溶けて行った。

 

 

 

 

 

 ───第一回目となる浦の星学院の文化祭は、大盛況のまま幕を閉じた。

 

 これが僕の高校生活の中で一番盛り上がった文化祭だったと、今なら確信できる。六月の体育祭も楽しかったけれど、今回は一味違った面白さがあった。

 

 女子生徒がいる文化祭。男子校時代も一般参加として他校の女子生徒が来てくれたりしたけど、それとはまた異なる。

 

 あの時は女の子達の目線を集めるのに精一杯で、自分達の楽しさを追及してなかった。あれはあれで今は良い思い出になっているけど。

 

 クラスの出し物も、ステージの出し物も然り。共学生活に慣れた今では、そのどちらにも純粋な()()()を感じた。

 

 女の子に見てもらいたいとか、そう言った邪な思いはなく、浦の星学院の一生徒として楽しむ事が出来た文化祭。

 

 

 

 ダイヤさん達のスクールアイドルのライブも、本当に素晴らしいステージだった。三年間続けていたらもしかしたらラブライブにも出場する事ができたんじゃないか、と本気で思ってしまうほどに。スクールアイドルが好きな僕の目から見てもそう思ってしまうくらい、三人とも良いパフォーマンスをしていた。

 

 でも結局、出し物の優勝はあの独特な世界観の演劇を見せた二年生のクラスに持って行かれた。それに関してはかなり不服だったけれど、盛り上がりでは確実に僕らのクラスの方が上だったので素直に結果を受け入れる事が出来ている。

 

 

 

 本当に、良い文化祭だった。今日一日を思い返せば思い返すほど、そう思える。

 

 その最後に残した一世一代の勝負を良い形で終えることが出来れば、もっと良い思い出として残ってくれるに違いない。

 

 

 

「……そろそろ、かな」

 

 

 

 ポケットに入れていたスマートフォンを取り出し、現在の時刻を確認する。

 

 約束した時間よりまだ少しばかり早い。けど、待たせるよりは待つ方がいい。

 

 ……それに、いつまでもここに居たら誰かが僕を気にしてしまうかもしれないし。

 

 今からする事は、誰にも悟られないようにする。ずっと前からそう決めていた。

 

 

 

 誰にも気づかれないように、校庭の端から校舎へと移動する。こうして夜の闇に紛れていれば、誰も気にならないだろう。

 

 

 

「夕陽」

 

 

 

 そう思った矢先、誰かが僕の名前を呼んで来た。

 

 

 

「…………信吾?」

 

 

 

 声の方に顔を向けると、そこには僕の親友が一人で立っていた。

 

 顔は暗くてよく見えない。でも、いつものようにおちゃらけている感じではないのは、その雰囲気で理解した。恐らく彼は、真面目な顔をして僕の事を見つめている。

 

 

 

「どこに行くんだ?」

 

「ちょっと、野暮用に」

 

 

 

 信吾の質問に曖昧な答えを返す。僕が今から何をしに行くか、彼は間違いなく理解してる。だから改めて言葉にする必要性なんてない。

 

 大切な親友だとしても、今はそっとしていてほしかった。無責任な応援など要らない。勇気付けてくれるいつもの前向きな言葉も必要ない。

 

 僕が欲しいのは、ただの無関心。それが意識しないものでも、意識的なものであったとしても、どちらでも構わない。

 

 とにかく、僕の行動に気づかないフリをしてくれるのなら、それでよかった。

 

 

 

「……そうか」

 

 

 

 信吾は小さく言葉を零す。僕の返しを聞いて、これ以上何も話す事はない事を感じ取ってくれたのか、それとも何か違う思惑があるのか。いずれにせよ、追及してこないならそれでいい。

 

 

 

「じゃあ、少し抜けるね」

 

 

 

 そう言って、踵を返そうとした。

 

 だけど、次に聞こえた親友の言葉の所為で、再び足の動きは停止する。

 

 

 

「夕陽には、最後まで話を聞かない癖がある」

 

「……え?」

 

 

 

 半身になって信吾の方を向く。彼が言ったのは、応援でも勇気付けの言葉でもなかった。だから、妙に気になってしまった。

 

 

 

「お前は頭が良いから、他人が話してる途中でも内容を全部理解できちまう」

 

「…………」

 

「でもな、世の中には()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。それを忘れんな」

 

 

 

 信吾はそれだけ言って、クラスメイト達が居るキャンプファイヤーの方へと戻って行った。

 

 僕はその場に立ち尽くしたまま、彼の背中が遠くなっていくのをただ見つめていた。

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 下駄箱で靴を履き替え、恐ろしいほどの静けさが漂う校舎の中へと足を踏み入れる。

 

 以前の僕であれば、夜の学校に入る事に恐怖心を抱いていたはず。でも、今はそこまで気にならない。それはきっと、お寺で過ごしたこの半年間でもっと深い静寂に慣れてしまったから。

 

 電気のない真夜中の境内に入ったあの時と比べたら、こんなの昼間の学校と同じだ。それは少し言い過ぎかもしれないけど。

 

 

 

 電気を点ける事無く、人気の無い階段を上り、三階にある三年一組の教室へと向かう。暗い階段には僕の足音だけが小さく響いていた。

 

 そうしてすぐに三階に到着し、暗闇に包まれるリノリウムの廊下を歩いて行く。

 

 まだ時間はあるから、多分あの子は教室に居ないだろう。出来るだけ早く着いて、心の準備をしながら待つ事にしよう。

 

 

 

「───ずら?」

 

「うわぁっ!?」

 

 

 

 そんな事を考えながら廊下を歩いていると、空き教室から誰かが急に顔を出して来る。

 

 完全に誰も居ないものだと思い込んでいたから、信じられないほどオーバーなリアクションを取ってしまった。

 

 しかも聞き覚えのある口癖と声だった気がするんだけど、一体どういう事だろう。

 

 

 

「あれ、ユウくん。こんな所でどうしたずら?」

 

「…………は、花丸?」

 

 

 

 情けなく床に尻餅をついた状態で、空き教室から出てきた人の影を見つめる。

 

 暗くてよく見えないけど、おっとりとした声と小さな身体のシルエットは明らかに僕の従妹である花丸のものだった。

 

 でも、なんでこの子がこんな場所に? 彼女の質問をそっくりそのまま返してあげたい。

 

 廊下を歩いていたのが僕だとすぐに分かっていた事から、彼女からは僕の姿が見えているらしい。花丸はゆっくりこちらへと近づいてくる。その間に、埃を手で払いながら立ち上がった。

 

 

 

「大丈夫? 痛くなかった?」

 

「う、うん。大丈夫だよ……でも」

 

「ずら?」

 

 

 

 ようやく暗闇に目が慣れてきて、目の前に居る花丸の表情が見えるようになる。彼女は不思議そうな顔をして僕の顔を見上げていた。恐らく、僕も同じような顔をしていると思う。

 

 花丸の質問に答える前で悪いけど、こちらからも問いを投げる事にする。驚きすぎた心を落ち着かせるには、そうする方法しか思い浮かばなかった。

 

 

 

「花丸は、何をしていたの?」

 

 

 

 僕が訊ねると、花丸は自分が出てきた空き教室の扉の方を一瞥する。

 

 教室内には電気は点いておらず、そこで彼女が一人で何かをしていたとは思えない。

 

 しかも、そこは使われていない部屋。主に男子生徒達が体育の時に着替えたりする時に使われるだけの、用途のない空き教室だった。

 

 

 

「マルは…………」

 

 

 

 花丸はそこまで言って、また口を閉ざした。

 

 闇に紛れて見えづらい彼女の表情。どうにか目を凝らして確認する。そして。

 

 

 

「……?」

 

 

 

 彼女の顔を見て、僕は訝った。

 

 何故かは知らない。でも花丸は、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 真顔でもないし、無表情とも違う。やっぱり言葉で現すのならば、感情のない表情と形容する他ない。

 

 そんな彼女を見て、ほんの少しだけ恐怖心を覚える。そこに居るのは、たしかに自分の従妹である女の子である筈なのに。

 

 

 

 目の前に立つ花丸はいつもの花丸ではなく、全くの別人のようにこの目に映っていた。

 

 

 

「秘密ずら」

 

「どうして?」

 

「これを言っちゃうと、マルは本当の嘘つきになっちゃうから」

 

 

 

 ごめんね、と花丸は謝って来る。そんな必要、彼女にはこれっぽっちもない。

 

 だというのに、何故? 

 

 

 

 花丸の答えもよく分からなかった。答えを秘密にしたい気持ちは、何となく分かる。でも、その理由の意味が分からない。

 

 

 

『これを言っちゃうと、マルは本当の嘘つきになっちゃうから』

 

 

 

 それは一体、どういう意味を含めた言葉なんだ? 

 

 

 

「…………」

 

「ユウくんは、何をしに行くの?」

 

 

 

 また花丸が問い掛けてくる。今度は、さっきの問いとは少しニュアンスが異なった質問。それに対しても違和感を覚える。

 

 どうして、彼女は僕がこれから何かを()()()()事を知っているのだろう。

 

 

 

「えっと。ちょっと、教室に忘れ物をしちゃって」

 

 

 

 そんなありきたりな言葉で誤魔化す。この子に本当の答えを教えるなんて、僕に出来る訳がなかった。彼女が僕に本当の答えを応えなかったのと同じように。

 

 そう言うと、花丸は何故か悲しそうな顔をした。僕が嘘を吐いた事に気づいたのか? 違う。もしそれが分かったとしても、彼女なら笑って誤魔化してくれる筈だ。

 

 なのに、どうしてそんな顔をするのか。考えて考えて、水面に浮かび上がってきた答えを掬い上げる。

 

 

 

「…………そうずらか」

 

 

 

 ───花丸は、これから僕が何をするのか理解している。

 

 

 

 そんなあり得ない考えが、たしかに脳の中に浮かび上がってきた。

 

 意味を確かめる為に、僕はまた花丸に訊ねようとした。

 

 その瞬間、廊下の窓の外に()()が現れたのを僕は視界の隅で捉えた。 

 

 

 

「───ッ」

 

 

 

 咄嗟に顔を窓の方へ向ける。

 

 でも、そこには何もない。ただ純粋な漆黒だけが、綺麗な窓ガラスに映り込んでいる。

 

 なら、今見えたのはなんだったんだ? 僕には、人間のような形の()()が居た気がした。

 

 いや、あれは明らかに人だった。ここは三階だというのになぜ、そんなものが窓の外に立っていなくてはならない? 

 

 分からない。分からない事が多すぎる。あまりにも突飛な出来事がこの夜に包まれた校舎の中で起きていて、まるで自分が夢の中にでもいるような感覚に囚われていた。

 

 全身に鳥肌が立つのを自覚する。無意識に手足が震え出した。

 

 もし、さっき見えたものが幽霊だったのなら、僕はそれを信じなくてはいけないのか? 

 

 だって、そう考えるしか理由が付かない。三階の足場のない窓の外に、人は立っている事など出来ないのだから。

 

 

 

「ねぇ、ユウくん」

 

 

 

()()が映った窓ガラスの方を見つめていると、花丸が僕の名前を呼んでくる。

 

 視線を前に向ける。そこにはやっぱり、悲し気な表情を浮かべた飴色の従妹が立っていた。

 

 

 

「何?」

 

「仏教には、こんな言葉があるずら」

 

 

 

 花丸はそう言って、僕が見ていた窓ガラスの方へと顔を向ける。

 

 闇に包まれる廊下。その途中に立つ少女の綺麗な横顔を、黙って見つめた。

 

 

 

「目で見えるもの、耳で聞いたものだけが真実ではない。本当の答えは、目では見えない時もある」

 

「…………」

 

「マルが言いたいのは、それだけずら」

 

 

 

 そんな小さな言葉が、誰も居ない廊下の上に落とされる。

 

 言葉の意味は理解出来ても、彼女がどんな気持ちで、何を僕に伝えようとしているのかまでは分からなかった。

 

 花丸はそれだけを言い残し、僕の前から去って行く。

 

 そんな彼女を引き留める事など、僕には出来る訳がなかった。

 

 

 

 遠ざかって行く花丸の後ろ姿を見つめる。すると彼女は一度足を止めて、こちらを振り向かないまま、小さな声で言った。

 

 

 

「ユウくん」

 

「うん?」

 

「行ってらっしゃい」

 

 




次話/君が好き。


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君が好き。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 誰も居ない夜の教室の窓を開ける。入り込んでくるのは駿河湾から届く涼風。

 

()()は、ひとつにまとめられた肌色のカーテンをふわりと揺らし、伽藍洞の教室に漂う何処か哀愁を帯びる空気の中に擬態した。

 

 

 

「…………」

 

 

 

 数時間前まであれほど騒がしかった部屋が、今は世界から切り離された空間のように感じられる。

 

 ならば、その中に居る僕はこの世界ではない()()()()に存在しているのだろうか。

 

 此処ではない、誰にも知られる事はない。秘密の御伽の国(シークレット・ワンダーランド)、とでも表現すればいいか。

 

 安い妄想ばかりが思考回路を駆け巡る。まるで、売れない小説家が僕の頭の中で散文を書き散らしているみたいな感覚。

 

 考えるべき事は沢山あるのに、それを見つける事が出来ない。

 

 

 

 窓の外に広がる夜空が厚い雲に覆われているのと同じで、僕の脳内にも濃い霧が発生している。その所為で、見つけるべきものを探し当てる事が出来なかった。

 

 多分、いずれ雨が降る。そうしたら晴れるまでさらに長い時間がかかるだろう。雨が上がるまでの間、この世界から切り離された空間に居る事は許されない。

 

 だから、雨が降る前に答えを出す。答えを出さなければ、すぐにこの世界から弾き出されて冷たい雨に濡れてしまうだろうから。

 

 傘を持たない僕はきっと、すぐに風邪を引く。そうしたらしばらくの間、()()()()に来る事が出来なくなってしまう。

 

 そうならない為に、正しい答えを導き出す。複雑に絡み合った糸と糸を解く術を、今から見つけ出してみせる。

 

 

 

 校庭ではまだ後夜祭が続いている。この教室に電気が点いている事を、あそこに居る誰かは気づくだろうか。例え気づいたとしても、誰も気に留めやしないだろう。そう思っておこう。

 

 窓に映る自分自身と向かい合う。そこに居るのは、僕という何処にでもいる平凡な一人の男子生徒。特に秀でたものも、自慢出来るような事もない、普遍的な高校三年生の男子。

 

 そんな男が、今から一世一代の勝負をする。その結果次第で、明日からの生活が確実に一変するのは自覚している。今日と同じ明日を過ごす事は出来なくなる。どんな方向に向かおうとも、必ず。

 

 

 

 それが分かるのなら、最初から勝負を挑まなければいいじゃないか。そうすれば明日も明後日も、今日と同じ毎日を過ごす事が出来るんだぞ? 

 

 窓ガラスに映る自分自身に、そう訴える。でも、窓辺に立つ平凡な男はすぐ首を横に振った。

 

 

 

「嫌だ」

 

 

 

 右手の指でガラスに触れて、呟く。逃げようとする自分の弱い心を言葉で否定する。

 

 ここで何も成さずに逃げれば、たしかに明日も同じ日々を送る事が出来るだろう。()()()()()()なりに幸せだ。

 

 でも、()()では欲しいものは手に入らない。偽物ではない本物を手にするには、どれだけ怖くても手を伸ばさなくてはならない。

 

 傷つく事を恐れたら、その宝石を掴む事は出来ない。美しい薔薇を花瓶に挿すには、必ず鋭い棘に触れなくてはいけない。

 

 例えばそれで真紅の血が指先から流れたとしても、薔薇は花瓶の中で色鮮やかな色彩を魅せてくれる。

 

 傷つく代償を払わなければ、綺麗な薔薇を自分のものにする事は出来ないという話。今の状況は、そんな例え話がよく似合う。

 

 

 

 本物の宝石を手にする為に、()()を包む殻をこの手で砕く。

 

 破片は身体の何処かに突き刺さるかも知れないし、殻ではなくこの手が砕ける可能性だってある。

 

 もしそうなったとして、その時の僕は何を選ぶのか。壊れない事が分かっていても諦めずに叩き続けるのか。

 

 それとも───

 

 

 

「──────っ」

 

 

 

 嫌な想像が脳裏に浮かび、左右に頭を振って描かれかけた像を霧散させる。

 

 やめよう。今は後ろ向きな事を考える時じゃない。そんなのは自分の首を締める事と同義。後に苦しむかもしれない自分を事前に苦しませる意味など、何処を探しても見当たらない。

 

 一度、大きく息を吐いた。胸の中にある蟠りが、空気とともに吐き出される。当然、吐き出した空気の姿や色を見る事は出来ないが、もし見えたとしたならそれは炭化した物のように黒ずんだ色をしていたに違いない。嫌なものは大抵そういった色をしてる。

 

 

 

 後ろ向きになりそうな心を自制させる事で、なんとか平常を保つ。だが、あまりにも前向き過ぎてもいけない。極端になれば、脆い心はすぐに逃げる事を選んでしまうだろうから。

 

 一本の綱を渡るイメージ。どちらかに傾けばバランスは取れなくなる。ちょうどいい位置に重心を置く事で、身体はグラつく事なく歩く事が出来る。それと同じ。

 

 

 

 そう心に言い聞かせて、もう一度窓ガラスに映る自分と向き合う。

 

 

 

 その瞬間、背後にある教室の扉がスライドした。

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

「お待たせしました、夕陽さん」

 

「…………」

 

「生徒会の雑務を終わらせるのに、少々時間がかかってしまいましたの」

 

 

 

 

 

 教室に入ってきたのは予想していた通り、一人の女生徒。

 

 この学校の生徒会長である、黒澤ダイヤという女の子。

 

 

 

 窓の方に向けていた身体を、彼女の方へと向ける。いつも通りの制服姿。特に変わっているところはない。

 

 なのに、ダイヤさんの姿を目に映した瞬間、僕の身体は魔法をかけられたように動かなくなった。

 

 

 

「? 夕陽さん、どうかしましたの?」

 

「───え? あぁ、いや、なんでもないよ」

 

「なら、何か考え事でもしていらしたのですか? まぁ、あなたらしいと言えばらしいですが」

 

 

 

 顔に呆れたような笑みを浮かべて、ダイヤさんは窓辺へと近づいてくる。

 

 僕はその場に立ち尽くしたまま、彼女が近くに来るのを待っていた。

 

 

 

「僕らしい?」

 

「ええ。あなたはいつも何かを考えているでしょう? 顔を見ればすぐに判りますわ」

 

 

 

 ダイヤさんにそう言われ、少しだけ背中がむず痒くなる。

 

 僕はよく考え事をする。これは自分でも分かっている。小さな事から大きな事まで、自分の中で自分なりの答えを出すためにひたすら考える癖。

 

 それをダイヤさんは顔を見れば判る、と言った。僕が考え事をしている表情をすぐに見破れる、と。

 

 そう言われて、照れくささと喜ばしさの両方を感じた。だってそれは、ダイヤさんが僕の事を少しでも見てくれているという事実に他ならないから。

 

 

 

「それで、話とはなんですの? このように改まって」

 

「あ……えっ、と」

 

 

 

 頃合いを見て僕の方から話し出そうと思っていたのに、先にダイヤさんから訊ねられてしまった。それもそうか。こんな場所に呼び出されたら誰だって気になる。それが普通だ。

 

 話し出すタイミングをずらされて、弛緩していた全身が急に固まるのを自覚した。けど、話せない訳ではない。()()ちゃんと冷静で居られてる。

 

 ダイヤさんは近くの机の上に左手をついて、数メートル離れた僕の事を見つめてくる。

 

 でも、僕は彼女の顔を見返す事が出来ない。今はどうしても、それだけが出来なかった。

 

 

 

「夕陽さん?」

 

 

 

 質問に答えられないまま、数秒の沈黙が静かな教室に流れた。

 

 ダイヤさんはそんな僕を訝ったのか、首を斜めに傾げながらこちらへ視線を送って来る。

 

 言わなくてはいけないのは理解してる。でも、こんな時になって言葉が出てこない。

 

 思考回路は正常に働いてるのに、言葉を口にするシステムもいつもと変わらないのに───想いを言葉にする勇気だけが、枯渇してしまっていた。

 

 

 

 この時のために何度もシミュレーションを繰り返した。

 

 朝起きた時、学校に行く支度をしてる最中、授業中、休み時間、放課後の掃除中、帰り道、夜ご飯を食べてる時、勉強をしてる時、お風呂に入ってる時、布団の中、多分……夢の中でも。

 

 自分でも呆れてしまうくらい、何度も同じ瞬間を頭の中で思い描いた。

 

 何を言えばいいのか。どうすればこの想いが伝わるのか。足りない頭で考えて考えて、考え尽くしてようやく昨日の夜、どうすればいいのかを決めた。

 

 

 

 なのに、肝心の言葉が出てこない。言わなくてはいけないのは分かってる。誰よりも僕が理解してる。けど、どうしても、僕自身の中にある弱虫がイメージを現実にする事を拒んでいた。

 

 この言葉を言わなければ先には進めない。それを知っていても、たった一匹の弱虫が僕の邪魔をする。

 

()()は弱い筈なのに、この場から逃げようとする力だけはどんな力よりも強力だった。

 

 積み重ねた時間、想像、感情、想い。大きくなりすぎた全てが僕の足を前に進ませようとしているのにもかかわらず、弱虫はそれ以上の力で僕を()()へと引きずり込もうとしてくる。

 

 

 

「…………」

 

 

 

 手が震える。朝に霧がかかるように頭の中が白くなってくる。段々と両足の感覚が無くなってきた。

 

 制服のポケットに入った玩具の宝石を握り締めたかった。でも、あれはもう握らないと決めた。

 

 本物の宝石を手に入れるまで、あの偽物に頼る事はしないと決めたんだ。

 

 

 

 だから、僕は一人で進んでみせる。あの宝石がなくても弱虫に打ち勝てる事を、ここで証明する。

 

 

 

 ダイヤさんは黙って僕の顔を見つめてくる。僕も彼女の事を見つめ返した。

 

 宝石のように美しい容姿。生き方。佇まい。

 

 僕は彼女の全てが、好きだった。何も無い僕に、彼女を好きになる資格や権利なんてないのに。

 

 まだ弱く、ちっぽけな僕には綺麗な宝石は似合わない。そんな僕が()()を身に付けるという事は、サイズの大きな服を着て外を歩く事と同じ。

 

 大人になろうとして、精一杯背伸びをしている子供。傍から見たらそんな風に見えるのかもしれない。

 

 だから、僕には玩具の宝石が似合った。まだ子供のままの僕には本物ではなく、プラスチックで出来た偽物の宝石がお似合いだった。

 

 

 

 それでも僕は、本物の宝石(ダイヤ)が欲しかった。

 

 

 

「ダイヤさん」

 

「はい?」

 

 

 

 名前を呼ぶだけで、相当な勇気を使った。もうそんな間柄じゃないのは自覚してるのに。

 

 弱虫はまだ、僕の邪魔をしてくる。前に進もうとする足を元居た場所に戻そうとしてくる。

 

 けれど関係ない。僕は宝石に手を伸ばす。

 

 必ず、この手で宝石を覆い隠す殻を砕いてみせる。

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

「ダイヤさんには、守りたいものってある?」

 

 

 

 始まりには、そんな言葉を使った。

 

 

 

 本当に突然の質問。脈絡も筋道もあったものじゃない。突飛な問い掛け過ぎて、言葉の意味すら理解出来ないだろう。

 

 それでも、僕はこの話をする。誰に何を言われても、笑われたとしても、言葉にしなくてはならない。拙かろうが、支離滅裂だろうが、今はどうでもいい。

 

 ただ、最後の言葉につなげられるのなら、それでいい。

 

 

 

「守りたい、もの?」

 

「うん。何かを失う事になっても、これだけは絶対に握り締めていたいって思えるもの」

 

「それを訊いてどうなるのです?」

 

「分からない。でも、教えてほしい」

 

 

 

 そう言うと、ダイヤさんは口を閉ざして何かを考え始める。

 

 目線は斜め下。僕の目ではなく、恐らく無機質な白い床の上を見つめている。

 

 

 

「…………」

 

 

 

 夜の静寂(しじま)が教室内に漂う。誰も居ない三階のフロアには物音などありはしない。あるとすれば、僕の胸壁の中で鳴り響いている世話しない心音くらいだった。

 

 待つのは嫌いじゃない。待たされるのも気にしない。僕はいつだって、そんな受動的な生き方をして来たから。迎えに行く事は出来ないけど、待つ事には苦しみを厭わなかった。

 

 待たせている人が好きな人なら尚更だ。たとえ答えを待っている間に朝が来たとしても、僕はこの場所で待ち続けてみせる。

 

 

 

「それは、ひとつだけでいいのですか?」

 

「構わないよ。大事なのは数じゃないと思うから」

 

「それならば、沢山ありますわ。この手に余るほどあります。小さいものから大きなものまで。それが普通ではないのですか?」

 

 

 

 ダイヤさんはそんな答えをくれた。彼女の言葉を聞いて、一度頷いてみせる。

 

 

 

「そうだね。ダイヤさんの言う通り、それは当然の事だと思う」

 

「なら」

 

 

 

 どうしてそんな事を訊ねたのか、と彼女の深碧の両眼は語っている。

 

 ここまでは予想通り。ダイヤさんが答えてくれたのなら、今度は僕が口を開いて良い順番だ。

 

 

 

「僕には、守りたいものがなかったんだよ」

 

「…………?」

 

 

 

 次は、こんな言葉を言う。ダイヤさんはよく分からないというように、目を少し開いて僕の事を見つめてきた。

 

 

 

「誰にだって、守りたいものはある。それが普通だよね。でも、僕にはそれがなかった。持っていて当たり前のものを、僕は敢えて()()()()()()

 

「……どうしてです?」

 

「僕には、()()を守る力がないから」

 

 

 

 彼女の質問に答えて、すぐに続ける。

 

 

 

「守りたいもの、大切なものを持てば、()()を守らなきゃいけない使命が出来る。これは自分にとって大切なものだって思ったら、同時に()()使命が与えられる。逆に言ってみれば、その使命が与えられないものは、自分にとって大切なものじゃないって事になる」

 

「…………」

 

「ダイヤさんなら分かるでしょ? 大切なものを持つって事には、常に失うリスクが伴う。今日守りたいって思ったものが、明日には壊れてしまうかもしれない。大切な人が交通事故に遭って亡くなってしまうかもしれない。そうなれば、今度は大切なものを失った悲しみが襲ってくる」

 

 

 

 ダイヤさんは黙って僕の言葉を聞いていた。頭の良い彼女なら僕が言ってる事を理解してくれる。いや、もしかしたらそれ以上の事を考えてくれるかもしれない。

 

 

 

「何かを大切だと想った量が大きければ大きいほど、失った時の悲しみは膨れ上がって自分に返ってくる。……僕は、それが怖かった」

 

「…………だから」

 

「そう。僕は弱いから、何かを守ったりする事は出来ない。そういうものを作ってしまえば、すぐにそれを失って悲しみに飲み込まれる。そうなるのが嫌で、ずっと逃げながら生きていた。本当は大切なものが欲しいのに、自分の気持ちに嘘を吐いて、ずっと上辺だけを繕いながら今までやってきた。でもね」

 

 

 

 ここまでの導入を言えた。なら、あとは本題に入る。勇気を振り絞って、言いたい事を言うしかない。

 

 一番言わなくてはいけない言葉を、()()()彼女に伝える為に。

 

 

 

「そんな僕にも、今年になって初めて心の底から守りたいって想う人が出来たんだ」

 

 

 

 踏み出せなかった一歩目を踏み出しながら、そう言った。

 

 ダイヤさんは僕の顔を見つめたまま、その場に立ち尽くしている。

 

 

 

「その人の為になら、傷ついてもいいって思った。どんなに痛くても、つらくても。その人が笑ってくれるなら、幸せでいられるって思えたんだ」

 

 

 

 心臓が破裂しそうなほど拍動を繰り返す。情けなく声や指が震える。

 

 何故か涙が出そうになる。それでも、歯を食いしばって堪えた。

 

 そして、目の前に立つ美しい女の子を目に映した。

 

 

 

「僕には、その人を守る資格も力もない。けど、絶対に守り続けたいっていう想いだけは、この世界中にいる誰よりも強く持ってる。その人を守る為なら、たぶん死ぬ事以外はなんだって出来る」

 

「…………どうして?」

 

 

 

 ダイヤさんの目の前に立つ。彼女はほんの少しだけ背の高い僕の目を見上げながら、そう訊ねてきた。

 

 質問に答えるのは、この世界のルール。その秩序を守る為に、彼女の問いに答える。

 

 

 

「僕は、その人の事が好きだから」

 

「────────」

 

「誰かに奪われそうになっても、どんな場所に居ても、何があっても、守り続けるって決めた。……だから」

 

 

 

 右手を強く握り締める。偽物の宝石は握らず、本物の宝石を握る余地を──この手に与える為に。

 

 

 

 言うんだ、今ここで。ずっと言えなかったたった二文字の言葉を、世界で一番愛する人に伝えるんだ。

 

 

 

 ここから全てを変える。今のままではいられないように、僕はこの居心地の良いぬるま湯から出て行く。

 

 

 

 

 

 引き留めようとしてくる弱虫を踏み殺して、美しい宝石へ手を伸ばす。

 

 

 

 

 

「ダイヤさん」

 

「はい」

 

「今日で、友達はおしまいにしよう」

 

「…………え?」

 

 

 

 

 

 ダイヤさんは目を丸くして、僕を見つめてくる。大丈夫。言葉の脈絡は合ってる。

 

 僕は、この言葉を言う為だけにここに居る。それだけは忘れない。忘れる訳がない。

 

 もう、いいよね。ここまで言えたんだから、あとは言いたい事を言おう。

 

 僕らの間にある()()という繋がりを砕いて、先に進む。この手順はきっと、間違いじゃない。

 

 

 

「僕は、ダイヤさんを特別な存在として見ていたい。ダイヤさんにも、僕を特別な存在として見ていてほしい」

 

「………………何故、ですの?」

 

 

 

 準備は出来た。今までの長い自分勝手な独白は、ただの助走だ。次の言葉を放つ為の、単なる前置きに過ぎない。

 

 長かった。本当に、途方に暮れるような時間を重ねてきた。

 

 遠回りして、道を間違えて、転んで、足を擦りむいて、それでも立ち上がってここまで来た。

 

 不器用でも、弱虫でも、諦めなかった自分を今は許してあげよう。

 

 

 

 そして、その弱さを受け入れて進んで行こうと思う。

 

 

 

 この世で一番硬い───生徒会長(ダイヤ)の殻を砕く為に。

 

 

 

 

 

「僕は、ダイヤさんの事が好きだから」

 

 

 

 

 

 震える声で、そう告げる。見開かれる綺麗な瞳。

 

 

 

 そこにはたしかに、僕の姿が映っていた。

 

 

 

 

 

「僕と付き合ってください。

 

 

 

 ──────大好きだよ、ダイヤさん」

 

 

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 Monologue/

 

 

 

 

 

 

 

 

 哀しい物語はできるだけ見たくない。それはきっと、人間が持つ普遍的な感情だと〇は思います。

 

 

 

 けれど、哀しい物語はこの世界に数多も存在する。見た後に気分が悪くなるのが分かっているのに、人はあえてそのストーリーへと手を伸ばすんです。

 

 

 

 では、なぜそんな事をするのでしょうか。一見無意味に思える行為なのに、どうして人は自ら哀しみを感じようとするのでしょうか。

 

 

 

 答えは簡単。喜怒哀楽の三番目を感じるためです。

 

 

 

 人は常に感情を動かされている。時に喜びを感じる事もあれば、怒りを覚える時もある。そして哀しみを受け入れ、いずれ楽しさを探し始めます。

 

 

 

 物語というのは、その感情を手っ取り早く感じるためのツールに過ぎません。本来、どこかに行って感じなければならない感情のムーブメントを、部屋の中で容易く手に入れることができる。

 

 

 

 小説やテレビドラマ、ゲーム、映画。他にもたくさんあるでしょう。そのような媒体を見たり読んだりする事で、人間は簡単に喜怒哀楽を手に入れることができるんです。

 

 

 

 だからこそ、哀しい物語がこの世に存在するんです。誰かがどこかでそれを見て、日常では得られない深いカタルシスを感じるために。

 

 

 

 じゃあ、この物語は何を感じさせるためにあるのか? 

 

 

 

 嘘は吐きません。この話を作ったのは〇だから、正直に答えます。

 

 

 

 あなたの希望に沿えなかったらごめんなさい。

 

 

 

 この物語は、

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 あなたに哀しみを与えます。

 

 

 

 

 

 

 

 Monologue/end

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 

 

 ダイヤさんは口を小さく開けて、僕の顔に視線を向けてくる。僕も彼女の顔を黙って眺めた。

 

 深い静寂が教室を包む。あまりにも静かすぎて、この世界中には僕と目の前に立つ黒髪の女の子しか居ないんじゃないかと思った。

 

 けど、そんな事はない。窓の外を見ればキャンプファイヤーの周りに全校生徒の姿を見る事が出来る。この世界にはちゃんと、僕ら以外の誰かが生きている。

 

 

 

 僕はダイヤさんに言った。長い時間を費やして考えた、不器用な告白とその言葉を。

 

 あんな拙い告白で本当に想いが届くのか、僕には分からない。僕があずかり知る事ではない。

 

 だって()()は、ダイヤさんが判断する事。僕に出来るのは、本気の感情を言葉に込める事。ただそれだけだった。

 

 

 

 この前読んだ本に書いてあった一文がふと、頭の中に浮かんでくる。

 

 馬を水辺に連れて行く事は出来る。だが、馬に水を飲ませる事は出来ない。

 

 

 

「…………夕陽、さん?」

 

「僕が言いたかったのは、それだけだよ」

 

 

 

 茫然とした表情でダイヤさんは名前を呼んで来た。よく分かっていない表情にも見えなくもない。

 

 なら、もう一度言えばいいのか? 良いだろう。彼女が分からない、伝わらないっていうなら僕は何度だって言う。

 

 僕は、ダイヤさんの事が好き。狂おしいほどに愛しい。この気持ちだけは世界中の誰よりも、多分、ルビィちゃんや彼女の家族よりも大きい。

 

 僕の中にある他の何かに対する好きという感情を総動員しても、ダイヤさんを好きだという想いには勝てない。

 

 

 

 ダイヤさんの笑った顔が好き。怒った顔、困った顔、恥ずかしがっている顔、何かを考えている顔も、人前ではあまり見せない、喜んだ顔も。

 

 全てを愛せると思った。彼女になら、この青春の全てを賭けてもいいと思った。

 

 

 

 統合初日。この教室に、一人の生徒会長が入って来た時からずっと、僕は彼女の事を見てきた。

 

 たしかに始まりはつらいものだった。統合したての頃はダイヤさんは僕達男子を忌み嫌い、そんな彼女を真似するように他の女子生徒も男子との壁を作って対立した。

 

 けど、あの林間学校を越えて、僕らは分かり合う事が出来た。ダイヤさんも少しずつ、硬い宝石の中に隠した心を見せてくれるようになった。

 

 体育祭やテスト勉強。夏休みを越えて、今日の文化祭を笑って終わらせる事が出来た。

 

 四月の頃の息苦しい空気はもう何処にもない。ただただ嫌だったこの教室での時間も、いつしか終わってほしくない掛け替えのない日々へと変化していた。

 

 その中に居る一人の生徒会長に恋をして、僕は今まで彼女の事を見つめ続けた。

 

 手が届かない高嶺の花。いや、砕く事のできない美しい宝石を遠くから眺める事しか出来なかった。

 

 でも、半年という時間の中で僕は彼女の事を知った。まだ知らない事の方が多いけれど、これからもっと多くの事を知って行きたいと思ってる。それを受け入れる準備も出来てる。

 

 

 

「………………」

 

 

 

 本当は、僕らが初対面ではない事も今ではなんとなく気づいている。ダイヤさんも間違いなく、それを理解してる筈だ。

 

 ─────あの夏まつりの夜。誘拐された男の子を見つけたマンションの屋上。あそこで思い出した記憶。

 

 あれは、夢の映像ではなかった。本当にこの僕自身が見た景色だった。

 

 

 

 けれど、今はそんな事はどうだっていい。僕らの過去に何があろうとも、僕は()()()()()()()が好き。

 

 

 

 だから。

 

 

 

「─────」

 

 

 

 ダイヤさんは俯き、その表情を隠す。

 

 そうして時は過ぎて行く。耳を澄ますと微かに聞こえてくる、時計が秒針を刻む音。生徒達の声。

 

 僕はダイヤさんの綺麗な黒髪を見つめながら、彼女が答えをくれるのを待った。

 

 もう口を開く事なく、次に聞こえる声だけに耳を傾けた。

 

 

 

「…………ふふ、っ」

 

 

 

 そして、教室に流れる静寂に音の波紋を作ったのは、ダイヤさんの笑い声だった。

 

 ダイヤさんは俯いたまま笑う。嗤う。哂う。彼女が声を出して笑っているところをあまり見た事がないので、戸惑った。

 

 

 

 違う。そうじゃない。

 

 

 

「ダイヤ、さん?」

 

 

 

 名前を呼んでも、彼女は身体を震わせて笑っていた。それはまるで、哀れで滑稽な乞食を眺める意地の悪い女王のような笑い方だった。

 

 しばらくの間、僕はそんなダイヤさんの事をただ傍観する。

 

 何故、こんな時に笑うのか。どうして、彼女は笑っているのか。

 

 その意味は、何なのか。何も分からないから、黙って見つめる事しか出来なかったんだ。

 

 

 

「……夕陽さん」

 

「何?」

 

 

 

 そうしてダイヤさんは笑い声のまま、僕の名前を呼んでくる。目の前に立つ僕の顔を、笑顔のまま見つめてくる。 

 

 でも、彼女の表情を見た瞬間、何かがおかしい事に気づいた。俯いていたから、全貌が見えなかったんだ。

 

 

 

 

 

 ダイヤさんは、たしかに笑っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 ─────なのに、()()()()()()()()()()()()()()

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「あなたは、何を言っているのですか?」

 

 




次話/カタルシス


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カタルシス

 

 

 

 ◇ 

 

 

 

「え…………?」

 

 

 

 耳を疑う。今、ダイヤさんが何を言ったか頭が正しく理解してくれなかった。いや、そうじゃない。脳が理解する事を無意識に拒んだ。

 

 次に、目を疑った。目の前に立つ一人の女の子は、温度のない瞳で僕の事を見つめていた。

 

 それは、半年前に見た()()目つき。男子生徒達を忌み嫌う時の目を、ダイヤさんはしていた。

 

 

 

「冗談は止めてください。幾らあなたでも、許せない事はありますわ」

 

「ち、ちがっ」

 

「もし今の言葉が本気だというのなら、私は尚更あなたを軽蔑します」

 

 

 

 否定しようとするのにダイヤさんは早口で言葉を重ね、それ以上を言わせてくれない。

 

 彼女が放つその事務的な喋り方には、感情がなかった。まるで、こういう時にはそう答える定型文のようなものがプログラミングされた、ロボットのような声音だった。

 

 

 

「ダイヤさ」

 

「結局は、あなたも他の男子と同じですのね。私をずっと、そんな目で見てきたのですか。……ほんの少しでもあなただけは違うと思っていた、私の過ちですわね」

 

 

 

 その言葉を聞いた瞬間、僕の中にある()()に大きな亀裂が入った感じがした。

 

 ───過ごして来た時間。

 

 ───積み重ねた思い出。

 

 ───繋いで来た関係性。

 

 全てが、音を立てて崩れ去って行く。たった数秒前まで咲いていた筈の美しい花が、目に見えるスピードで枯れて行く。

 

 僕には、それを止める事は出来ない。その全てが最悪の状態に変化するのを、ただ傍観している事しか出来なかった。

 

 

 

「……違う」

 

「何が違うのです。気色の悪い言葉を並べて、最後の最後には私の事が好き? 笑わせないでください。あなた如きが私と釣り合うとでも、本気で思っているのですか?」

 

 

 

 ダイヤさんは今、僕の事を完全に敵として見ている。僕は彼女が放つあの圧倒的な威圧感を全身で感じていた。だから、それが分かった。

 

 何かを言わなくてはいけない。さっき言った言葉が真実だという事を伝えなくちゃいけない。

 

 でも、それが伝わったとして何になる? ダイヤさんは、僕を拒絶しているのに。

 

 

 

 この想いを───突き放そうとしているのに。

 

 

 

「ほ、本気なんだよ。僕は……ダイヤさんの事が」

 

「本気? ならば余計に気持ちが悪いですわ。そのちっぽけな頭で考えてみてください。無責任で自分勝手で個人的な感情をぶつけられる、私の気持ちを」

 

 

 

 息が詰まる。呼吸が出来ない。気道に何かが詰まったみたいに突然、言葉や空気が吐き出せなくなった。

 

 頭の中に真っ白いペンキがぶちまけられたように、思考が白く染まる。ダイヤさんが口にする拒絶のまくしたてを聞く度に、思考回路が活動を停止していく。

 

 どうすればいいのか分からない。何をすれば、この最悪な状況から出られるんだ。

 

 嘘だったと言えばいいのか? それでも、一度壊れてしまったものはもう戻す事は出来ない。

 

 本当に好きだと叫び続ければいいのか? 僕を許さないという彼女にそんな事を言っても、拒絶反応を助長するだけ。

 

 前にも進めない。後ろにも戻れない。今まで精一杯歩いてきた道が闇に呑まれ、前にあった筈の幸せな未来も、いつの間にか断崖絶壁に変わっていた。

 

 

 

「…………っ」

 

「私はあなたを信頼していました。あなたは他の男子とは違うと信じていた。なのに」

 

 

 

 ダイヤさんは静かにそう語り、呆れるようなため息を吐く。それを聞いた途端、何故か目に涙が浮かんで来た。

 

 こんな所で泣きたくない。ダイヤさんの前で情けなく涙を流す事なんて、出来る訳ない。

 

 なのにどうして、涙が出てくるんだ。なんで、堪えきれないんだ。なぜ、僕はこんなに弱いんだ。

 

 

 

 全身全霊をかけて積み上げてきた積み木が、あとひとつのところで崩れる。

 

 無意味な残骸となって、僕の足元に散らばっている。

 

 

 

「一体、なんなのです。なんなのですか、あなたは。私の記憶に入り込んで、訳の分からない夢にまで毎回毎回出てきて」

 

「……ダイヤ、さん」

 

「いつも誰かの顔色を窺って、建前ばかりを使って、自分を殺してまで他人に優しくする。そんな感情のないただ機械のようなあなたが、私を守る? ふざけるのも大概にしなさい」

 

「ダイヤさん」

 

「あなたのような人間に守られるほど、私は弱くありませんわ。何を自惚れているのです。気色悪い」

 

「ダイヤさんっ」

 

「……まぁ、いいでしょう。それでも、あなたが私を─────」

 

「ダイヤさんっ!!!」

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

「ぇ…………」

 

 

 

 僕は出せる限りの声で、彼女の名前を叫んだ。

 

 それと同時に、右手で近くにあった机の上を本気で殴った。

 

 

 

 そうしなければ、ダイヤさんの鋭い言葉の奔流は止まる事はないと思ったから。

 

 叫んだ所為で喉が痛い。加減なしに机を殴った所為で手の甲の皮膚は破れ、血がにじんでる。もしかしたら骨が折れたかもしれない。

 

 けど、今はそれ以上に、心が痛い。

 

 流れる血は何れ止まる。骨が折れても時間が経てば修復する。

 

 

 

 でも心はもう、元通りにはならないかもしれないくらいに──傷んでいた。

 

 

 

「もう、やめてよ……」

 

 

 

 これ以上は、聞きたくない。聞いてしまったら取り返しのつかない所まで行ってしまう。心が折れて、二度と立ち直れなくなってしまう。

 

 だから、傷は最小限に。出来るだけ浅い方がいい。そうすれば、回復する余地も出来るかもしれない。

 

 ……具体的に、どれくらいの時間がかかるかは、まだ分からないけれど。

 

 

 

「ダイヤさんの気持ちは、よく分かった。僕の事が嫌いだって言うなら、ちゃんと受け止める」

 

「ゆ、夕陽、さん?」

 

「ごめんね。自分勝手に好きだなんて言って、ダイヤさんに……嫌な思いをさせちゃって」

 

 

 

 涙が止まらない。止めたいのに、どうしても涙は目から溢れてきてしまう。

 

 さっき自分が言った言葉の通りだ。ダイヤさんの事が狂おしいほど好きだった気持ちが、今度は痛みになって返って来る。

 

 それは想像以上に痛い。痛すぎて、耐えられない。

 

 こんな風になるんなら、最初から好きになんてならなきゃよかった。そもそも、彼女と出会わなければよかった。

 

 

 

 どうして僕は、今さらになって後悔してるんだろう。何が悔しくて、泣いてるんだろう。

 

 分からない。今はもう、何も分からない。

 

 

 

「もう、好きなんて言わない。ダイヤさんが僕に消えてほしいって言うなら、そうする」

 

 

 

 目から流れて行く涙を拭わずに、そう告げる。雫は頬を伝って、音もなく教室の床に落ちて行った。

 

 目の前に立つ女の子は何も言わず、僕の事を見つめていた。

 

 

 

 僕が、()()()()()生徒会長はもう、何も言って来なかった。

 

 

 

「ごめん、ダイヤさん。本当に……ごめんなさい、っ」

 

「ぁ──────」

 

 

 

 そう言って、僕はダイヤさんの前から逃げ出した。情けなく涙を流しながら、泣き顔を隠さないまま、この地獄のように思える教室から、逃げ出した。

 

 教室のドアをスライドさせ、夜の闇に包まれた廊下に飛び出す。

 

 

 

「……ユー、ヒ?」

 

 

 

 ドアを開けた先には、何故か鞠莉さんが居た。でも、今はそんな事はどうでもよかった。そこに花丸や信吾が居たとしても、僕は立ち止まらなかっただろう。

 

 鞠莉さんに気づいていないフリをして、明かりのない廊下を駆け出す。光に慣れてしまった目では、いつもの校舎が随分と違った場所に見えた。

 

 違う。それは、夜だからじゃない。僕の目が、見ている世界の色を変えてしまっただけ。

 

 

 

 涙を流したまま階段を駆け下り、下駄箱で靴を履き替えて昇降口を出て行く。

 

 校舎から出た瞬間、空から冷たい水の粒が落ちて来た。雨だった。夜空を覆い隠していた厚い雲は遂に、この街に雨を降らせたらしい。

 

 傘をさす意味なんてない。今はもう、こんな雨から自分を守っても、どうにもならなかったから。

 

 既に心はずぶ濡れになっている。なのにどうして、傘などささなければならない。

 

 校舎から校門に続くアスファルトの道が雨に濡れて行く。途端にあの雨の匂いが、鼻をくすぐった。

 

 それは、やけに嫌な香りだった。いつかこの匂いを嗅いだ時、最悪な記憶を思い返してしまいそうで。

 

 

 

「夕陽ッ!」

 

 

 

 校庭の方から名前を呼ばれる。声だけで誰が僕の事を呼んだのか、すぐに分かった。

 

 でも、足は止めない。雨の中をこの足は進み続ける。帰るべきお寺に向かって。

 

 いいや、そうじゃない。帰る場所など、今の僕には在りはしなかった。なら。

 

 

 

 帰るべき場所を失くした僕は、一体どこへ向かって走っているのだろう? 

 

 

 

「はぁ、……っ」

 

 

 

 後夜祭をしている校庭の前を通り、校門を抜け、浦の星学院に続く坂道を転がるように駆け下りる。

 

 体力はない筈のに、疲れが気にならない。息も苦しくない。ただ、心が苦しい。心臓の苦しみが強すぎて、身体が感じる他のつらさなど、蚊に刺された痒み程度にしか思えなかった。

 

 雨に濡れる蜜柑畑。その間にある勾配が急な坂道を抜け、突き当りを右に折れる。

 

 五十メートル程の間隔で建ち並ぶ街灯の下を駆け抜け、長井崎トンネル前の信号を左に曲がった。

 

 降り出した雨は強さを増し、音を立てながら歩道のすぐ左側にある海の水面を叩いていた。

 

 いつも聞こえる穏やかな潮騒は忙しない雨音に掻き消え、夜の内浦は雨に濡れていた。

 

 

 

 夏の暑さを忘れ欠けた、冷たい九月の時雨に。

 

 

 

「あっ──────」

 

 

 

 長浜城跡地の前に続く、緩やかな坂道の途中。足がもつれてしまい、何でもない場所で転んでしまった。

 

 咄嗟に歩道の横にあった雑草の中へと倒れる。そしてようやく、走り続けた身体が疲れと苦しみを感じ始めた。

 

 近くには一本の街灯がある。それは、哀れな僕という登場人物に光を当てる、悲劇のスポットライトのように思えた。

 

 

 

「…………っ」

 

 

 

 雨が身体を濡らす。雑草の中で四つん這いになった状態で、嗚咽と荒い呼吸を繰り返す。吐き気がする。でも、何も吐き出す事は出来ない。

 

 ただ涙だけが、徒に目から零れ落ちて行く。地面に落ちた()()は、空から落ちてくる透明な雨滴と同化してその姿を消した。

 

 

 

 嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。

 

 嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。

 

 嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。

 

 嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。

 

 嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。

 

 

 

 頭の中に同じ文字が延々と羅列される。間違えてパソコンのキーボードのキーを押たままにした時のように、画面上を覆い尽くしてもなお、脳内に入力され続けた。

 

 

 

「…………嫌だ」

 

 

 

 脳の中だけでは収まり切らなかった言葉が、今度は口から零れて行く。

 

 その言葉には、雑草のすぐ傍に咲いていた美しい彼岸花だけが、耳を傾けてくれていた。

 

 

 

 

 

 貴方はこれから、永遠に()()()()()を思い出すわ。

 

 

 

 ───どうして? 

 

 

 

 だって、それが私の花言葉だもの。ここで私を目にしてしまった貴方は、あの子の事を絶対に忘れられないの。

 

 

 

 

 

 聞こえない筈の幻聴が聞こえてくる。聞きたくない。そんな残酷な事は、今は耳にしたくない。

 

 なのに()()は、耳を塞いでも頭の中に流れ込んでくる。両手を側頭部に強く押し当てても、少女のような声で僕に語り掛けてくる。

 

 それはまるで、どんなに厚い壁でも通り抜けてくる害悪な放射線のように。

 

 

 

 

 

 ───それは嫌だ。

 

 

 

 なら、私のもうひとつの花言葉を忘れないで。貴方はその通りの人間よ。誰よりも()()()()()は、私にそっくり。

 

 

 

 

 

「止めてよ、っ」

 

 

 

 語り掛けてくる誰かに向かってそう言う。すると語り手は最初から何処にも居なかったかのように、その言葉を隠した。

 

 雨に濡れた綺麗な彼岸花だけが、こちらを向いて咲き乱れていた。

 

 

 

 もう、何も考えられない。大切なものを失ってしまった今、何をするべきかも分からなかった。

 

 涙は流れ続ける。雨も降り続ける。心も身体も疲弊してしまったこの状態で、一体何が出来る。

 

 雑草の中に顔を伏せ、声を出して泣いた。母親が目の前から居なくなって泣く赤ん坊みたいに、今は泣く事しか出来なかった。

 

 そうする事しか、僕には許されなかったんだ。

 

 

 

 そうやって雑草の中で泣いている時、ポケットの中に居れていた携帯が震える。

 

 長い間無視しても、バイブレーションは止まらない。そのしつこさに苛立ちを感じ、携帯を取り出して着信を拒否してやろうと思った。

 

 

 

「………………」

 

 

 

 ポケットから携帯を取り出した瞬間、電話は切れた。だが、携帯と一緒に今僕が一番見たくないものを取り出してしまった。

 

 手にはスマートフォン。そして───玩具の宝石が握られていた。

 

()()は、何も言わずに僕の手の中で眠っている。

 

 

 

 色や形を変えず『お前は変わっても、自分だけは変わらない』と言いながら、静かに佇んでいた。

 

 

 

「───ああ゛ッ!!!」

 

 

 

 気分が悪くなり、意味もなくその宝石を地面に叩きつける。玩具の宝石は雑草の上を一度跳ねて、あの彼岸花の前で止まった。

 

 そこで何も言わず、降り続ける雨に濡れていた。僕も同じようにしばらくの間、その雨に打たれながら、涙を流し続けていた。

 

 

 

 

 

 宝石(ダイヤ)は、どんなに力を込めても壊れなかった。僕の弱い力では壊す事は出来なかった。

 

 

 

 

 

 やっぱりあの宝石は、砕けない。

 

 

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 Interlude

 

 

 

 

 

「どうして、あんな事を言ったの?」

 

 

 

 静まり返った教室の中。金色の髪をした女生徒は、数メートル離れた窓辺に立つ黒髪の女生徒に向かってそう言った。

 

 

 

「…………」

 

 

 

 問われた女生徒は答えない。数十秒前に男子生徒が出て行った教室の扉を、ただ黙って見つめている。その扉はもう開かれる事なく、向こう側にある廊下の暗闇と明かりのついたこの教室を隔てるためだけに、哀し気に存在していた。

 

 開いている窓から夜風が入り込む。匂いが先程と違う。雨が降り出したから。その事を、教室の中に居る二人の女生徒は知らない。

 

 

 

「Silly。本当に、あなたはお馬鹿さん。長い付き合いの私や果南なら分かっても、あの子が()()を分かるわけないでしょ?」

 

 

 

 金色の髪をした女生徒が静かに語る。大きな目は細められ、黒髪の女生徒を睨みつけているようにも見えた。

 

 

 

「だから、あなたはいつまでもダイヤモンドなのよ。子供の頃から、何にも変わってない」

 

 

 

 そんな小さな蔑みを含んだ言葉を聞いても、生徒会長である女生徒は何も言わなかった。ただその言葉が事実であるのを認めるように、俯いて手を握り締めていた。

 

 

 その手の中には、赤い巾着袋が握り締められていた。

 

 

 

「いいわ。なら、私が確かめて来てあげる」

 

 

 

 金髪の女生徒は挑戦的な口調で言った。彼女の言葉を訝しむように、黒髪の女生徒は弱々しく視線を上げる。

 

 

 

「あの子が本気で、あなたの事を愛していたかどうか。あなたが吐いた言葉を信じてしまったあの子が、それでも諦めないかどうか」

 

 

 

 

 

 金色の女生徒は後ろを振り返り、顔を合わせないまま生徒会長に告げる。

 

 

 

 

 

「もし、それでユーヒがマリーのものになっても────返してあげないんだから」

 

 

 

 

 

 それだけを言って、金色の髪をした女生徒は教室から出て行く。

 

 

 

 ひとり取り残された黒髪の女生徒は、何も言わずにまだその場に立ち尽くしていた。

 

 

 

 教室には降り出した雨の音だけが、静かに響いていた。

 

 

 

 

 

 

 

 Interlude/end

 

 





次話/いたい


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いたい

 

 

 ◇

 

 

 あれから、目に映るもの全てが灰色に見えた。

 

 

 朝、目が覚める。でも、目線の先にあるのは木造の天井ではない。何度深呼吸しても、あのい草の香りは何処からもしてこない。

 

 襖の向こうから聞こえていた筈の鳥の囀りや船の汽笛。どれだけ長い時間耳を澄ましても、その音達が耳に入ってくることはなかった。

 

 

 

 四月から学校が変わり、住まわせてもらっていた内浦のお寺。

 

 今、僕が居るのはあの場所ではない。僕は数日前から、住み慣れた実家に戻っていた。

 

 理由は文化祭が終わった後、酷い風邪を引いてしまったから。それと、右手の甲の骨にヒビが入ってしまっていたから。その療養のために、一時的に実家へと帰省していた。

 

 これは本当の話。あの日、長時間雨に打たれてしまったからなのか、翌日に四十度を越える熱が出て沼津の病院へ行く事になった。診断名は、よく覚えていない。たしか数日もすれば治るような事を、温厚そうな病院の先生が言っていた気がする。

 

 診察の時、僕の右手の甲が異常に腫れている事に気づかれ、風邪の診療に続いてレントゲンまで撮らされた。結果、右中指の骨に小さなヒビが入っていたらしい。

 

 こんな事が同時に起こるなんて災難だね、と付き添ってくれた母親に言われたけど、正直僕としてはどうでもよかった。

 

 そうして少しの間、学校を休む事になった。

 

 花丸や彼女の家族に心配させる事は出来ない、という理由で実家に帰る事になり、今に至っている。

 

 

 

 本当に僕を蝕んでいる病気は、病院の先生でも見つける事が出来なかったみたいだった。

 

 僕が実家に帰った()()の理由も、誰も見つけてはくれなかった。

 

 

 

「………………」

 

 

 

 自室のベッドの上に寝そべったまま、無機質な白い天井を見上げる。

 

 何も考えが浮かんでこない。当たり前だ。僕はこの数日間、考える事を放棄していたのだから。

 

 考えようとすればすぐにあの時の映像が頭の中に流れ出す。それも異常なほど鮮明に、事細かに。自分が何を考えていたのかすら思い出せてしまう。

 

 まるで、もう一人の自分がその記憶の中で同じ事を体験しているかのような感覚だった。例外なくそのもう一人の自分は今の僕と同じく傷つき、最後には逃げる事を選ぶ。映像が何度流れても、自分は違う行動を取る事は絶対になかった。あの時こうすればよかったとか、まだ言わなければよかったとか、そんな後悔すら思考の水面には浮かんでこない。

 

 

 

 カーテンの隙間から朝日が差し込んでいる。遠くから電車の遠鳴りが聞こえた。

 

 今日は木曜日。本来ならいつも通りに学校へと行かなくてはならない平日の朝。

 

 なのに、僕はそうしない。いつまでも一人でベッドの上に転がったまま、何も描かれる事のない真っ白い天井を見つめ続けるだけ。

 

 風邪が治らないと両親に言って、今日も学校を休む。僕が選ぶのは、その選択肢。そもそも選択肢はひとつしかなかった。だから、僕がそれを選ぶのは決定事項だった。

 

 

 

 今では熱も下がり、怪我をした指も何とか動かせる状態にはなった。

 

 けれど、学校には行けない。行かなくてはならないのは自分でも分かってるのに、両足はあの坂道を登る事を拒んでいた。

 

 風邪薬と痛み止めを飲んでいたら、数日で咳や熱は治まり、右手の痛みも気にならなくなった。 

 

 でも、心の痛みと苦しみだけは消えてくれない。むしろ時間が経てば経つほど痛みは増し、苦しみは身体を侵食してくる。

 

 こういう時にはどんな薬が効くのか、知っている誰かが居るのなら訊いてみたかった。どうすればこの病は僕の身体から消えてくれるのか。誰でもいいから、教えてほしかった。

 

 

 

「……また、か」

 

 

 

 枕元に置いていたスマートフォン。それを取って、寝転がった状態でディスプレイを見つめる。

 

 そこには数件のメールが入っていた。送り主は、花丸と数人のクラスメイト。あの子と彼らは心配してくれているのか、毎日メールや電話をくれる。

 

 僕が休み始めたのは文化祭の振替休日の翌日。だから今日休むと三日間、学校に行かない事になる。

 

 この三日間、仲の良い友達から沢山の連絡が来た。だけど、連絡をくれたみんなは僕が休んでいる本当の理由を知らないようだった。

 

 最初は触れてこないだけなのかと思ったけれど全員、僕が風邪を理由にして休んでいるのだと思い込んでいた。変わらない様子を繕って電話やメールでやり取りしていると、何となくそれが分かった。

 

 ……恐らくだけど、僕が休んでいる訳を確実に知っている信吾や果南さん、鞠莉さんが気を利かせてクラスメイト達にはその理由を言わないでいてくれているのだろう。今は三人の気遣いがありがたかった。その証拠に、三人からは一度も連絡が来ていない。気を遣わせてしまっているのは申し訳ない。でも、この心が回復するにはまだ少し時間がかかりそうだった。

 

 ()()()に関しては、今は誰とも話をしたくない。誰かが手を差し伸べてくれても、僕はその手を振り払うだろう。

 

 強がっている訳じゃない。ただ、それを口にしたらあの時の全てが現実だった、と事実を受け入れてしまいそうで、怖い。

 

 僕がまだ完全に壊れていないのは、あの日の事を受け入れていないから。飲み込む事をギリギリのところで止めている状態。それが今の僕だった。

 

 ショックは受けた。心に大きなヒビが入ってしまうほどの衝撃を受けていた。でも、それはまだ砕けていない。砕ける寸前で何とか原型を留めていた。

 

 修復が上手く行けば、あるいはまた学校に行く事が出来るかもしれない。どれくらいの時間がかかるかは、見当もつかないけれど。

 

 

 

「──────」

 

 

 

 クラスメイト達からのメールを眺めていると、逃げている自分が情けなく思えてきて、また涙が溢れてきた。

 

 どうして、僕はこんなに弱いのだろう。何故、自分が哀れに思えてしまうんだろう。

 

 分からない。分からない。分からない。

 

 分かるのは、もし僕が精神的に強ければこんな事にはなっていなかったという事。

 

 告白をすれば、断られる可能性もある事は自分でも理解していた。なのに、断られた未来を生きる自分は、その現実を受け入れ切れていない。

 

 立ち向かわなければならない現実から目を背けて、カーテンが閉め切られた六部屋の中で情けなく涙を流す。

 

 そんな人間を弱いと言わずなんと言えばいい? 

 

 僕は、本当に弱虫だ。

 

 あの時、あの子が言った通りだった。

 

 

 

『あなた如きが私と釣り合うとでも、本気で思っているのですか?』

 

 

 

 何を勘違いしていたんだろう。その通り過ぎて、ぐうの音も出ない。

 

 僕は本当に、自分自身があの子に釣り合うとでも思っていたのか? 

 

 

 

『いつも誰かの顔色を窺って、建前ばかりを使って、自分を殺してまで他人に優しくする。そんな感情のないただ機械のようなあなたが、私を守る? ふざけるのも大概にしなさい』

 

 

 

 あれはきっと、あの子が抱いていた本音だった。あの子は僕をそういう人間として見ていたんだ。

 

 思い返せば返すほど、僕という人間の在り方を上手に形容していた。あまりにも的確に性格のコンプレックスを撃ち抜かれて、何も反論できなかった。

 

 

 

『あなたのような人間に守られるほど、私は弱くありませんわ。何を自惚れているのです。気色悪い』

 

 

 

 あの子は僕の言葉に怒りを覚えていた。それもそうだろう。

 

 僕が言ったのは、あの子が僕よりも弱いから守る、というニュアンスを含んだ言葉。

 

 たしかに、僕のような人間に守られるほどあの子は弱くない。そんな場面を何度も見てきた筈だったのに、僕は守ると言ってしまった。そんな筋合いもないというのに。

 

 

 

「…………でも」

 

 

 

 あの言葉に嘘はなかった。僕は本気で、あの子の事を守りたかった。

 

 だから、あの台詞を言った事に対しては後悔はしていない。あれは心の底からの本音だったから。

 

 出来る事なら守ってみたかった。僕がもっと強ければ、それが出来た筈だった。

 

 けど、そうする事は許されない。守ろうとした人に拒絶された僕に、あの子を守る権利はない。

 

 

 

 幸せだった過去に戻る事も、続く筈だった日常に居る事も、僕には何ひとつ許されなかった。

 

 僕は、変わろうとして勇気を出した。そうする事を僕は選んだんだ。そうして、今の僕は居場所を変えている。

 

 それは残念ながら、悪い居場所の方に。美しい宝石が見えない、奈落の底に。

 

 変わる事を望んだのだから、それを受け入れなくてはいけないのはよく分かってる。

 

 

 

 だけど。

 

 

 

 今はもう、あの宝石は何処かに行った。気づいた時にはもう、この手には無かった。

 

 それは必然。居場所を変える事を選んだのだから、あの場所に帰る事は許されない。

 

 あの宝石を握り締める事は、出来ない。

 

 代わりに涙を流したまま、僕は空虚な部屋の空気を右手で掴んだ。

 

 

 

 だけど。

 

 

 

()()()

 

 

 

 やっぱりまだ、いたかった。

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 目を覚ますと、掛け時計の針は夕方を指していた。ついさっきまで朝だったのに、気づけば夜が訪れようとしている。

 

 今日も何もせず、一日を無駄に過ごした。否、無駄な事ならばまだよかったかもしれない。

 

 ただひたすらにあの時の記憶を思い返し、涙を流して、泣き疲れて眠る。目を覚ましたらまた同じ事をする。

 

 このサイクルを何度も繰り返し、気づけば一日が終わる。得るものは、深い無力感と欠落感。

 

 ()()は、時間が経てば経つほど心の表面を抉り、大きなクレーターを作る。今では無数の穴が僕の心には空いている状態だった。

 

 僕は、この意味のない日々で停滞するのではなく、明らかに後退していた。状態を保つのならばまだ許せたのに、日を重ねる毎にこの心身は傷を負って行く。

 

 言ってみれば、最悪の循環の中に僕は取り込まれていた。RPGのゲームなんかで猛毒の呪いをかけられて、何もしていないのに体力が削られて行くような感じ。解毒方法は知らない。病気の回復方法をよく知っている病院の先生でさえ、この呪いに気づけなかったのだから知らなくて当然だ。

 

 お腹が空いた。そう言えば昨日の夜から何も食べていない。腹は減るのに何故か食欲が出なかった。

 

 仕事に行く前の母親に、リビングに作り置きがあるから食べなさい、と部屋の外から言われていたような気がする。布団にくるまって声を殺して泣いていたから、その辺りの記憶は少し曖昧だった。

 

 

 

「…………」

 

 

 

 このまま自分が衰弱して行くのを待つのも悪くない、なんて、頭の中では本気で思う。でも、人間としての本能はそうする事を許してくれなかった。

 

 一日中寝そべっていたベッドからようやく立ち上がり、部屋の外へ出る。短い廊下を通って、誰も居ないリビングに足を踏み入れた。

 

 僕の実家は、沼津駅から数キロ離れた所にあるマンションの一室。兄妹も居ないし、仕事人間の両親も、ほとんどこの家には居ない。

 

 だいたい一人で生きていたから、孤独には慣れているつもりでいた。伽藍とした実家の広いリビングも、何年も見続けてきた景色だった。今さら一人が怖いとか、そんな半端な十八年間を過ごして来た訳じゃない。

 

 なのに、今は強い孤独感に襲われていた。

 

 

 

「…………つらいな」

 

 

 

 自分が弱くなっていく事を自覚するのが、想像以上につらい。自分を強いと思った事は一度もないけれど、今よりも弱くなっていくのは恐ろしすぎる変化だった。

 

 ため息を吐いてから、テーブルの上に載っているご飯を食べる事にする。目玉焼きとミニトマトが添えられたレタスサラダ、それと夏蜜柑がひとつ。

 

 随分と遅い朝食だった。でも、食べなかったら両親を心配させてしまう。()()生きているのだから、無理をしてでも食べなければ。

 

 そう思って、ラップがかけられた白い皿を持ち、電子レンジが置いてある台所へ向かう。

 

 その時、不意に家のインターホンが鳴らされた。

 

 

 

「───」

 

 

 

 足を止めて、その場に立ち尽くす。この時間に来る人。両親の仕事関係の人、ではないな。休みの日にはよく家に来るけれど、今日は何も無い平日。両親の忙しさを知っている人ならば、このタイミングで家に訪れる事はない。なら、他の誰かか。

 

 誰だろう。もしかしたら、新聞の勧誘とかセールスとか、居留守をきめていい人かもしれない。

 

 無視をしようと決めた時、部屋着のポケットに入れていた携帯が震える。その直後に、またインターホンが鳴らされた。

 

 嫌な予感がする。電話が来るのとインターホンが鳴るタイミングが合いすぎている。こんなの、不審に思わない方がおかしい。

 

 訝って携帯を取り出し、ディスプレイを見つめる。そこには。

 

 

 

『松浦果南』

 

 

 

 という四文字が表示されていた。

 

 

 

「…………」

 

 

 

 どうやら、この家の外には果南さんが居るようだ。いや、彼女だけじゃない。果南さんは僕の実家の場所を知らない筈。

 

 なら、この家を知っているもう一人が間違いなく居る。それが誰かなのかを理解出来ないほど、僕は馬鹿ではない。

 

 

 

 電話には出ず、リビングの隅にあるインターホンカメラの前に歩いて行く。それを使えば、誰が家の前に居るのか見る事が出来る。

 

 顔を合わせずに、会話だって出来る。

 

 

 

「やっぱり」

 

 

 

 ボタンを操作し、外部の映像を表示させる。

 

 するとそこには予想通り、浦の星学院の制服を着た二人の男女が居た。音声は聞こえないが、彼らは何かを話している。

 

 とうとう家に来てしまった。心のどこかでは、いつかは来ると思っていたけれど。

 

 連絡をくれなかった信吾と果南さん。彼らは携帯の電波を使わず、僕の口から何があったのかを聞こうとしていた。長い付き合いだからか、信吾がそうする事は何となく分かっていた。

 

 でも、今はまだ顔を合わせたくない。心の整理がついていないこの状態で会ってしまったら、余計に二人を心配させてしまう。

 

 やつれてしまった無気力な自分を誰にも見せたくない。本当は会って話がしたいけど、それは今の僕には到底出来ない所業だった。

 

 だから僕は、やらなければいけない事をやる。選ばなければいけない選択をする。

 

 

 

「…………信吾」

 

『夕陽。やっぱこっちに居たんだな』

 

『ごめんね夕陽くん。連絡もしないで来ちゃって』

 

 

 

 通話ボタンを押し、家の前に居る人の名前を呼ぶ。僕の声に気づいた信吾と果南さんはインターホンの前でそう言った。

 

 

 

「どうしたの。何か用でもあった?」

 

 

 

 どうして彼らがここに来たのか分かっているのに、とぼけた事を言う。この期に及んで誤魔化そうとする自分が居た事を、今更になって気づいた。

 

 

 

『クラスのみんな夕陽くんの事心配してるから、私達で様子を見に行こうって話になったの』

 

『全員で出し合った金で色々買ってきたから、良かったら開けてくれ』

 

 

 

 僕の問いに二人はそう答えてくる。その言葉を聞いて、また心が痛んだ。

 

 

 

「…………」

 

『夕陽。俺達も話したい事があるんだ』

 

『そうなんだよ。あんまり長くは居ないからさ、少しだけ話そ?』

 

 

 

 優しい声音で信吾と果南さんは語り掛けてくる。そんな言葉を耳にした途端、また涙が溢れてきた。

 

 大切な友達に気を遣わせてしまっている。二人はこんな僕の事を気に掛けてくれる。

 

 そうさせている全ての原因は、僕の弱さにある。それが情けなくて、どうしようもなくて、自然と涙が出てしまった。

 

 

 

 

 

 本当は話をしたい。

 

 この胸の蟠りを友達に聞いてほしい。

 

 でも言える筈ないだろう。優しい二人に、こんな身勝手な話を聞かせる訳にはいかない。これ以上心配させたくない。悲しい顔をさせたくない。

 

 そんな事をしてしまえば、僕はまた自分を責めてしまう。誰かを傷つけてしまう。傷つけてしまった誰かを見て、次は僕自身を傷つけてしまう。

 

 それはダメだ。きっと一番やってはいけない事だ。大切な友達に迷惑をかける事だけは、絶対にしてはならない。

 

 

 

 傷つくのは、僕だけで十分だ。

 

 

 

「…………ごめん」

 

 

 

 だから、彼らの優しさを突き放す事を選ぶ。クラスメイトの気遣いさえも、自分勝手に踏みにじる。

 

 

 

『夕、陽?』

 

『だ、大丈夫だよ夕陽くん。私達には本当に気を遣わなくていいから。ね?』

 

 

 

 二人が面を食らう姿をモニター越しに見る。僕が謝って来るなどとは思いもしなかった、という表情を画面の向こうの二人は浮かべていた。

 

 それでも、僕は彼らに会うべきではない。

 

 

 

「ごめん信吾、果南さん。今はもう少しだけ………………一人にさせてよ」

 

 

 

 必死に涙声を隠して、そう言った。僕が泣いている事を二人が悟ったのかどうかは知らない。でも、モニターからは声は聞こえてこなかった。

 

 

 

『そんなに悩んでたのか、お前』

 

「…………」

 

 

 

 数秒の沈黙を置いて、信吾の呟きが微かに届いた。それは、僕がここまで悩んでいる事を知らなかったというような声だった。

 

 

 

『一人で抱え込まないで。私達は、夕陽くんの味方だよ? それに、ダイヤも本当は───』

 

 

 

 果南さんがそこまで言った時、二人の声が聞こえないようにプレストークボタンを押した。

 

 これ以上、彼らの声を聞きたくなかった。聞いてしまったら僕は確実に、二人に甘えてしまう。正しい答えを自分自身で見い出せなくなってしまう。

 

 答えは分からない。ヒントすらも浮かばない。でも、僕は答えを導き出さなくてはならない。

 

 

 

 それは誰かの力ではなく──自分自身の力で。

 

 

 

「悪いけど、帰ってよ。風邪が治ったら、学校には行くから」

 

 

 

 そう言って、通話の終了ボタンを押す。これで家の前に居る二人と会話をする事は出来なくなった。

 

 それから数回インターホンが鳴った。でも全て無視した。耳を塞いで、聞こえないフリをした。

 

 

 

 数分後、耳から手を離すと、もうインターホンは聞こえなかった。モニターで家の外を確認しても、そこには誰も居なかった。

 

 僕の事を気にしてくれる優しい友達は、この自分勝手な拒絶を受け入れて帰ってしまった。

 

 

 

 本当は話さなくてはいけないのに、僕は伸ばされた手を強引に振り払った。

 

 

 

「…………なに、やってるんだろ」

 

 

 

 モニターの前で立ち尽くしたまま、そう言った。自分の感情が矛盾し過ぎていて、何をしたいのかが分からない。

 

 何をすればいいのかも、どうすればこの地獄のようなラビリンスから抜けられるのかも、全く持って理解出来なかった。

 

 

 

「助けてよ」

 

 

 

 プレストークボタンを押して、インターホンの向こうに僕は言う。でも、返される声はない。当たり前だ。家の前はもう、誰も居ないんだから。

 

 それでも、助けてほしかった。答えを教えてほしかった。何をすれば立ち直れるのか、誰でもいいから僕に言ってほしかった。

 

 

 

 目に映るものは、全て灰色。今の一件でまた色は濃さを増した。まるで、絵の具が少なくなったパレットに新しい灰色の絵の具をつぎ足したみたいに。

 

 その場に跪き、声を出して泣いた。瞳から止めどなく涙が落ちて行く。止めようとしても、蛇口が壊れた水道のように涙は流れ続けた。

 

 しばらくして涙は床の上に溜まり、小さな水たまりが出来た。

 

 

 

 その透明な筈の涙すらも、今は灰色に見える。

 




次話/小原鞠莉は奪いに来る


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小原鞠莉は奪いに来る

 

 

 

 ◇

 

 

 

 土曜日。僕は遂に、一週間連続で学校を休んだ。

 

 もう欠席する事に抵抗を抱かなくなった。この部屋の中に居る事が当たり前になり、クラスメイト達から来る電話やメールにも真実のように嘘を吐けるようになっていた。

 

 大丈夫だよと嘯き、本当に休んでいる理由を話さないまま電話を切る。それに対して誰ひとり、訝しむ人は居なかった。みんな僕の言葉()に納得して『早く元気になれよ』と声をかけてくれた。

 

 嘘を吐きすぎて、心は少しも痛まなかった。傷ついた心はもう痛みに慣れ過ぎてしまっていたんだ。

 

 

 

「……雨か」

 

 

 

 カーテン越しに雨音が聞こえてくる。風も強いのか、雨粒がパチパチと音を立てて窓に当たっている。最近テレビを見ていないから分からなかったけれど、もしかしたら台風が近づいていたりするのかもしれない。

 

 今はそんな事はどうでもいい。この部屋の中に居れば、雨が降っても風が吹いても何のデメリットにもならない。僕としてはむしろ平日に台風が上陸してほしかった。そうすれば学校は休校になり、休む連絡を入れてもらわなくても欠席できるから。

 

 ベッドから降りてカーテンを開け、窓の外を見つめる。マンションの高い階数にあるこの部屋。ここからならば数キロ先にある海が見える。

 

 だけど今日は蜃気楼がかかったみたいに、街には濃い靄がかかっていた。目に見えるもの全ては今でも灰色に染まっているが、通常の視界だったとしてもこの景色は灰色に見えた事だろう。

 

 部屋の窓辺に立ち尽くし、雨に濡れる沼津の街並みを見つめる。遠くの方からは雷の鳴る音が聞こえてきた。雨風の音は徐々に強さを増していく。本当に台風が来ているのかもしれない。

 

 こんな日にまで外出をする両親には感服する。今日は仕事ではなく、二人は月曜日まで旅行へ行くと言っていた。僕も誘われたけど、外に出る気には到底なれなかったので身体が怠いと言って断った。

 

 こう天気が悪ければ、来客もないだろう。長期間休んでいる僕を心配して訪れるクラスメイトも居ない。信吾や果南さんも、今日は流石に来られない。それを思うと、雨が降っている事にほんの少しだけ感謝をしたくなった。

 

 

 

 ぼんやりと雨を見つめたまま、時間が流れる。

 

 小さな雨滴が無数に付いた窓。そこに今は何故か、どうしようもない美しさを感じた。

 

 

 

「?」

 

 

 

 そうして雨を眺めている時、机の上に置いていた携帯電話が突然震え出した。

 

 またクラスメイトの誰かだろうか。それならまた、あの常套句で話を流せばいい。降り続ける雨のように、誰かの心配は水に流してしまおう。

 

 そんな馬鹿げた事を考えながら携帯を取り、画面を見つめる。

 

 

 

「ぁ…………」

 

 

 

 そして、思考が止まった。その電話が予想もしていない人からのものだったから。

 

 数秒間、携帯を持ったまま立ち尽くし、取るべきか取らないべきかを自問自答する。

 

 このまま無視したら、申し訳ない。他のクラスメイトの電話は取っているのだから、彼女の電話だけを無視する訳にはいかなかった。

 

 一度息を吐いて、通話ボタンを押す。それから携帯を耳へと持ってきた。

 

 

 

「……もしもし」

 

『ハロー、ユーヒ。調子はどうかしら~?』

 

 

 

 聞こえてきたのは、ちょうど一週間振りに聞く太陽のような明るい声。彼女の声はいつも通りに晴れ渡っていた。外には雨が降っているというのに。

 

 彼女の言葉に何を返すか少しだけ悩み、間を空けてから僕は答えた。

 

 

 

「うん、もう大丈夫だよ」

 

『グレイト。それならよかったわ。ユーヒの顔を見られなくって、マリーは寂しかったんだから~』

 

「ごめんね。僕も鞠莉さんと会えなくて寂しかったよ」

 

『フフッ、いつものタテマエを使うって事は、本当に大丈夫みたいね』

 

「建前じゃないってば。鞠莉さんは気にし過ぎだね」

 

 

 

()()を繕い、いつも通りの軽い会話をする。鞠莉さんも他のクラスメイトと同じように、僕の言葉を真実だと思い込んでくれていた。これなら、本当は大丈夫じゃない事をどうにか誤魔化せる。

 

 

 

 そう、思っていたのに。

 

 

 

『ユーヒ』

 

「うん?」

 

『もう大丈夫なら、私と会えるわよね?』

 

「え?」

 

 

 

 鞠莉さんは意味深な言葉を言った。意味が分からず訊き返そうとした瞬間、窓の外で光が瞬いた。

 

 

 

「─────」

 

 

 

 外が光った数秒後に、轟音が部屋の中へと入って来る。考えなくても分かる。何処かに雷が落ちたんだ。でも、僕が気になったのはそこじゃない。

 

 雷が落ちた音は()()()()()()()()()()()。タイムラグはなく、ほとんど同じタイミング。しかもかなり大きな音で。

 

 どうして携帯から雷の音が聞こえてくるのか。鞠莉さんの家はここから十キロ以上離れた内浦にある淡島ホテル。そこから僕の携帯に電話をかけてきていたのなら、今の音が聞こえてくる訳がない。聞こえたとしても、それは僕が聞いた音よりも小さく、遅れて聞こえる筈。なのに、雷の音は同じタイミングで電話の向こうからたしかに聞こえてきた。

 

 さらに、携帯を当てている左耳に耳を澄ますと、雨と風の音が電話の向こう側から聞こえてくる。

 

 

 

 彼女は一体、どこから電話をかけているんだ? 

 

 

 

「…………鞠莉、さん?」

 

『ヘビーな雷だったわね、今の。夕陽も聞こえたでしょ?』

 

 

 

 その言葉にまた訝しむ。やっぱり、今の雷を鞠莉さんは聞いていたらしい。

 

 という事は、彼女はこのマンションの近くに居る事になる。それは何故? 

 

 

 

「どうして?」

 

『ユーヒのトゥルーハウスって結構良いところなのね。ちょっと驚いちゃいました~』

 

 

 

 そんな、飄々とした声が聞こえてくる。それで確信した。

 

 ───鞠莉さんは、この家の近くに居る。

 

 

 

「まさか」

 

『そのまさかデース。インターホンのモニターを見てみなさい?』

 

 

 

 鞠莉さんの言葉を聞いてから部屋を出て、リビングにあるインターホンモニターの前に駆け足で移動し、ディスプレイに扉の前の映像を表示させる。

 

 するとそこには。

 

 

 

「……何やってるの、鞠莉さん」

 

『グッモーニン、ユーヒ。気になったから来ちゃったのデース』

 

 

 

 鞠莉さんは通話中の携帯電話を耳に付けたまま、インターホンに付いたカメラに向かって笑いながら手を振っている。

 

 ハッキリとは見えないが、髪や服が雨に濡れていた。マンションの部屋の外であっても、この強風なら雨は屋内にも入ってくるから当然だ。

 

 なのに鞠莉さんは扉の前に立っている。傘もささず、普段着のまま。

 

 本当に何をしているんだ、この子は。

 

 

 

「なんで来たのさ。しかも、こんな日に」

 

『マリーにだって予定はあるのよ。今日しか来れなかったんだから、仕方ないじゃない』

 

「……悪いけど、まだ風邪が治ってないから、また今度に」

 

『嘘を吐いちゃダメよ、ユーヒ。さっきは大丈夫、って言ったでしょ?』

 

「………………」

 

 

 

 嘘を吐いて追い返そうとしたけど、鞠莉さんは僕の言葉をしっかり覚えていた。これは、こんな雨の日に誰も見舞いには来ないと思っていた僕の過ち。完全に自分で墓穴を掘ってしまっていた。

 

 

 

『ユーヒ、そろそろ開けてくれない? 私、寒くなってきちゃった』

 

「っ」

 

『少しだけでいいから。どうしても、ユーヒに言わなくちゃいけない事があるの』

 

 

 

 鞠莉さんは声のトーンを落として懇願するように言ってくる。そのあざとい表情と声音に騙されて、即座に頷いてしまいそうになった。

 

 何とか理性でそうする事を堪える。ここでその手に乗ったら彼女の術中に嵌ってしまう。今は会うべきではない。まだ気持ちの整理がついていないこの状態で話をしたら、僕は何を言うか自分でも分からないのだから。

 

 もし、鞠莉さんを傷つけるような事でも言ったら、僕はまた自分を嫌いになる。鞠莉さんに嫌われた自分を、もっと嫌いになってしまう。だから、どうにかして諦めてもらわなければ。

 

 

 

「ごめん鞠莉さん。今はまだ、そっとしておいてほしいんだよ」

 

『……やっぱり、そう言うと思ったわ。ユーヒはキュートな顔をしてるのに、頑固おやじデース』

 

 

 

 鞠莉さんはそう言って、穿いているスカートのポケットに手を入れて何かを取り出した。

 

 そして、その何かを彼女はインターホンのカメラの前に差し出してくる。

 

()()を見て、僕の思考回路は一時的に活動を止めた。否、強制的に止められてしまった。

 

 鞠莉さんが指先で紐の部分を持ち、カメラの前でぶら下げている───あの宝石の所為で。

 

 

 

「……なんで、それ」

 

『帰り道に落ちてたわ。体育祭の時に見てたから、すぐにユーヒのものだって分かったの』

 

 

 

 鞠莉さんはカメラの前で、玩具の宝石が付いたネックレスを振り子のように振る。

 

 モニター越しでも分かる。あれは、間違いなく僕が持っていたプラスチックの宝石だった。

 

 文化祭の日。後夜祭を抜け出して帰っている途中で苛立ち、彼岸花の前に投げ捨てたあの玩具の宝石。それを鞠莉さんは拾って、届けに来てくれた。

 

 でもそんな偶然、本当にあり得るのか? 

 

 

 

「い、要らない。そんなの、もう見たくないんだよ」

 

『ふーん。なら、内浦の海に落としてもいいのかしら? 果南が海に潜っても見つけられない所に、マリーが棄ててきてあげる』

 

「…………それは」

 

『本当は嫌なんでしょ? なら開けてちょうだい、ユーヒ。話をさせてくれたら返してあげるから』

 

 

 

 鞠莉さんはそんな条件を出して、中に入れるよう頼んでくる。

 

 分かってる。あれは失くしてはいけないもの。本当は、学校へ行く時に拾おうと思っていた。

 

 あの宝石は僕にとって、命の次に大切な宝物。絶対に失ってはならない、持ち続けなくてはいけないものだった。

 

 ここで鞠莉さんを追い返してしまえば、彼女はあの宝石を棄ててしまう。それはダメだ。

 

 

 

 自分で投げ捨てたものでも、あれだけは──失くしてはならない。

 

 

 

「…………少しだけ」

 

『ユーヒ?』

 

「少しだけだったら、いいよ」

 

 

 

 家の前に居る鞠莉さんに向かって、そう言った。

 

 その言葉を聞いて、彼女はインターホンカメラの前で嬉しそうに笑っていた。

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

「綺麗なハウスね。ユーヒが住んでいる家らしいわ」

 

 

 

 条件を付けて鞠莉さんを家の中へと招き入れ、リビングにあるテーブルの椅子に座ってもらった。

 

 文化祭からちょうど一週間。こうしてクラスメイトの誰かと顔を合わせるのは彼女が初めて。そこまで長い時間ではなかったというのに、前に会ったのは遠い昔のような感じがした。

 

 傘を持っていなかった鞠莉さんは予想通り、雨に濡れてしまっていた。僕の体調は元通りに戻っているけど、この家に来た所為で彼女に風邪を引かれたりしたら心が痛む。仕方なくバスタオルを貸して、お茶を淹れて、部屋の空調を出来る限り温かくしてあげた。

 

 彼女は招かざるお客さん。本来ならそこまでしてあげる筋合いはないが、この僕にそんな性格の悪い所業が出来る訳がない。

 

 どんな理由であれ、家にやってきたクラスメイトの女の子を持て成さない、なんて事は無理に等しいので、早々に諦める事にした。

 

 

 

 鞠莉さんは濡れた綺麗なブロンドの髪をバスタオルで拭きながら、家の内装を見つめている。嗅ぎ慣れないラベンダーのような心地良い香りが、リビングには漂っていた。

 

 そんな風に見られたら、いつもならくすぐったい気持ちになっただろう。でも、今はそうならない。

 

 僕の実家の評価なんてどうでもいい。玩具の宝石を返してもらい、彼女がここに来た意味さえ知る事が出来ればそれでよかった。

 

 

 

「………………」

 

「ユーヒがあんまり変わってなくて良かったわ。ゾンビみたいになってたりしてるんじゃないかって、心配してたんだから」

 

 

 

 テーブルの向かい側に座る僕に、鞠莉さんはそう言ってくる。

 

 自分としてはまさにそんな感じになってる気がするんだけど、客観的に見るとそうは見えないらしい。それもそれで、何となく複雑だった。

 

 ここまで深く悩み、心を病み、部屋の中に塞ぎ込んでいても、人はそう簡単には変われない事を鞠莉さんの言葉で思い知らされた。

 

 

 

 返事をせずに黙っていると、鞠莉さんは顔に明るい笑顔を浮かべて向かいに座る僕を見つめてくる。

 

 相変わらず太陽みたいな微笑みだった。外の天気は、酷い荒れ模様だというのに。

 

 

 

「クラスのみんなも心配してたのよ。ユーヒはいつ帰ってくるのか、って」

 

「……鞠莉さん」

 

「来週も来なかったらクラスメイト全員で押し掛けてやるー、ってボーイズ達は作戦を立てていたわ。果南も私もそのアイデアに賛成しちゃったけどね」

 

「鞠莉さん」

 

 

 

 出来るだけ低い声で、彼女の名前を二度呼ぶ。すると鞠莉さんは僕の気持ちを悟ったのか浮かべていた笑顔を消し、仕方ないわね、というように肩をすくめた。

 

 聞きたいのはそんな話じゃない。瑣末な会話が出来るほど、この心は現実を受け入れていない。

 

 今は必要ある話だけをしたかった。それ以外の話題を口にする事は、出来なかった。

 

 

 

 窓に雨粒が当たる音が聞こえる。その雨音を聞きながら目線を手元にあるマグカップに落とし、口を開いた。

 

 

 

「そんな話をしに来たんじゃないでしょ。早く本題を言ってよ」

 

 

 

 そう言うと、鞠莉さんは小さな息を吐く。それから真剣な眼差しをこちらへと向けてきた。

 

 さっきのは束の間の晴れ間だっだようだ。雲に隠れるよう願ったのは、僕自身だったけれど。

 

 

 

「もう、ユーヒはせっかちさんなんだから」

 

「回りくどい話は聞きたくないんだ。だから早めに話してくれると嬉しい」

 

 

 

 事務的な言葉で返事をする。それを聞いた鞠莉さんは、僕が淹れた紅茶をひとくち飲んでから息を吐き、ポツリと言葉を零す。

 

 

 

「…………見た目が変わってなくても、やっぱり中身はチェンジしちゃってマース」

 

 

 

 それは、僕に向けられた言葉ではない。彼女が口にしたのは、ただの独り言だった。だから何とも思わない。

 

 そんな小さな嘘を、心の中で吐いた。

 

 

 

「私も回りくどい話は嫌いだから、単刀直入に言うわ。ユーヒがこの質問に答えてくれたらね」

 

 

 

 鞠莉さんは真面目な顔で見つめてくる。美しいその瞳を見つめ続けたら、いつか彼女の中に吸い込まれてしまうのではないかと思った。

 

 

 

「質問って?」

 

「イエス。正直な気持ちで答えてちょうだい」

 

 

 

 そんな前置きを置いて、鞠莉さんは再び口を開く。僕は黙って彼女の声に耳を傾けた。

 

 

 

「ユーヒは私の事、どう思ってる?」

 

「…………え?」

 

 

 

 意図の分からない突飛な質問に、思わず声が出てしまった。鞠莉さんは真剣な目を向けてくる。綺麗な瞳は、答える事だけを要求して来ていた。

 

 

 

「だから、私の事よ。ユーヒがマリーをどう思ってるのか聞かせて」

 

「鞠莉さんの、事?」

 

「そう。早く答えて。考える時間は要らない筈よ」

 

 

 

 そう言われても、瞬時に出せる答えなど準備している訳がない。でも、鞠莉さんは答えを急いでくる。恐らく、僕が建前を使う事を警戒しているのだろう。考える時間がなければ建前を言う事は出来ない。幾ら取り繕うのが得意であっても、時間をかけずに思ってもない事を口する事は不可能だ。

 

 鞠莉さんに見つめられながら、高速で思考回路を回転させる。だが、良い言葉はなかなか浮かんでこない。この一週間、良くない事を考え過ぎた所為か頭の巡りが最悪だった。長い雨に打たれた無数の歯車は錆び、以前と同じ動きをしてくれない。それでも無理やり回してようやく、脳は言わなくてはならない言葉を僕にくれた。

 

 こんな答えでいいのかどうかは分からない。そもそも質問の意味すら不明瞭なのだから、鞠莉さんが欲しい言葉を言うのは絶対に無理な事だった。

 

 なので浮かんで来た正直な答えを口にする。建前というオブラートで言の葉を包むような真似はしない。着飾らない想いをありのまま声にした。

 

 

 

「友達、だよ」

 

 

 

 それ以上の答えを言う事など、僕には出来ない。だって他に答えようがなかった。

 

 そこに『大切な』とか『かけがえのない』とか、ありふれた装飾を付ける事は出来たけれど、敢えてそうする事はしなかった。

 

 鞠莉さんが本音を望んでいるのであれば、それに応えない道理はない。そうする事で彼女が話をしてくれるのならば、僕は素直に従う。

 

 

 

「……友達」

 

「うん」

 

「なら、私の事は……好き?」

 

 

 

 ひとつ目の質問に答えると、鞠莉さんはまた次の問いを投げてくる。そしてそれは、最初の問い掛けよりも数倍難題なものだった。

 

 鞠莉さんは少しだけ顔を伏せ、上目遣い気味でこちらを見つめてくる。頬がほんのりと赤く染まっているように見えなくもなかった。

 

 先程の質問といい、今回の質問といい、彼女が何を考えているのか全く読めない。

 

 たとえば鞠莉さんの頭の中を見る事が出来たとしても、僕なんかではその思考の意味を理解出来ないような気がした。

 

 鞠莉さんの事が好きかどうか。それは、どんなニュアンスで答えればいいのだろう。

 

 好きにも色々種類があるのは、今どきの小学生でも理解出来る。家族が好きという事と、恋人が好きという事は別物。同じ()()であっても、その人に向ける感情の色彩は異なってくる。

 

 英語で表現するのなら、ライクとラブの違いだ。前者は物なんかを()()場合によく使われる。対する後者は、他者を()()()意味で使われる。

 

 物を愛するとは言わないように(言う場合もあるかもしれないけど)、他者を好むとはあまり言わない。些細な形容の異なりだけれど、そこには大きな違いがあるのは明らかだ。

 

 

 

 鞠莉さんはライクとラブ。どちらの意味で問い掛けているのだろう。

 

 僕の中にある二つの答えは、同じではない。どちらの答えを言えばいいのか分からなかった。だからこそ、頭を悩ませてしまった。

 

 

 

「…………」

 

「教えて、ユーヒ。答えてくれたら、私がここに来た意味を教えてあげるから」

 

 

 

 物憂げな表情を浮かべる鞠莉さん。その綺麗な顔を見て、心臓が鼓動を強くした。

 

 でも、今の反応が前向きなものだとは、どうしても思う事が出来なかった。

 

 問われたのなら仕方ない。鞠莉さんの考えている事が分からないなら、自分で答えを選ぶしかない。もしそれが間違いでも、答えないよりはマシだ。

 

 

 

 だから、僕はこう答える。

 

 

 

「す、好きだよ」

 

「………………」

 

「もちろん、友達として」

 

 

 

 これは建前ではない、純度百パーセントの本音。そう答える以外、正解が思い浮かばなかった。

 

 僕は鞠莉さんの事が好きだ。それは、一人の友達として。信吾や果南さん、他のクラスメイト達だって同じ。

 

 僕にとって()()()以外に向ける好きは、全て“ライク”。当然、鞠莉さんも例外じゃなかった。

 

 生憎、他の感情は持ち合わせていない。何を言えば彼女が満足してくれるのかは分からないけれど、こう答えるしか本音を語る事は出来なかった。

 

 

 

 僕の言葉を聞いて、鞠莉さんは少しだけ驚いたような顔をしてからまた微笑みを浮かべた。

 

 だけど、その笑顔はさっきのものとは違う。いつもの笑みとも何処か異なっている。

 

 

 

 なんとなく、鞠莉さんが僕にいじわるをする前の表情に、よく似ている気がした。

 

 

 

「ユーヒは私の事を、そう思っているのね」

 

「そう、だよ」

 

 

 

 鞠莉さんは席を立ち、向かい側に座る僕の方へと近づいてくる。

 

 彼女の一挙手一投足を眺めながら、何をするのかと茫然と思った。

 

 

 

「じゃあ、今度は私がユーヒの事をどう思ってるのか、私に訊いてみて?」

 

「? 僕がそれを鞠莉さんに訊くの?」

 

「イエス。そしたらこれを返してあげる」

 

 

 

 鞠莉さんは椅子に座る僕の前に立ち、スカートのポケットからあのネックレスを取り出す。

 

 そう言われて言わない訳にはいかない。彼女が何を成そうとしているのかは未だに見当がつかないけれど、訊ねるだけで宝石を返してもらえるのなら、僕はそれでよかった。

 

 

 

 僕は頷き、彼女に問う。

 

 

 

「鞠莉さんは僕の事、どう思ってるの?」

 

 

 

 言われた通りの言葉を素直に言った。何も考えず、何もイメージせず、何も求めないまま、その問いを口にした。

 

 薄い笑顔を浮かべる鞠莉さんはネックレスの紐を広げ、約束通り、それを僕に返してくれる。どうやら首に掛けてくれるらしい。でも、どうしてそんな事をするんだろう。

 

 少しだけ訝しみながら、鞠莉さんが僕の首にネックレスを掛けてくれるのを待つ。

 

 

 

「……フフ、そーね。ユーヒは私の事、フレンドとして好きって言ってくれた」

 

「? うん」

 

 

 

 そう言いながら、鞠莉さんは僕の首にネックレスの紐を掛けてくる。

 

 

 

 それで、約束は果たされた筈だった。

 

 

 

()()()

 

 

 

 鞠莉さんは言葉を続けた。

 

 それから僕の耳元に顔を近づけてくる。

 

 妖艶な香りが鼻を(くすぐ)り、緊張で息が詰まった。

 

 

 

 何をするのか、と訊ねようとした時、どう考えてもおかしな言葉が右耳のすぐ傍から聞こえてくる。

 

 

 到底信じる事が出来ない。簡単には信じていけない───小悪魔のささやきが。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「私はユーヒの事、好きよ」

 

「………………え?」

 

「友達じゃなく、一人の男の子として」

 

 






次話/甘いだけのチョコレートは〇〇〇〇〇〇


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甘いだけのチョコレートは好きじゃない

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 思考が停止する。自分が今、何処で何をしていたのかを一瞬にして見失った。まるで、ずっと歩いてきた道が目の前で突然無くなった時みたいに。

 

 ドクン、と心臓が音を立てて鼓動している。全身の筋肉と思考回路は動かないというのに、心臓だけはうるさいほどその拍動を繰り返していた。

 

 今、何を言われたんだ? 冗談ではなく、本当に分からなくなった。何かを言われた事はたしかだ。なのに、その内容がどうしても思い出せない。

 

 

 

「鞠莉、さん?」

 

「私は、ユーヒの事が好き」

 

 

 

 また耳元でささやかれる。彼女の吐息が耳をくすぐり、今度は反射的に身体が反応してしまった。

 

 同じ言葉を言われた。だけど、脳はそれを理解しようとしてくれない。ただ鞠莉さんがささやいた言葉だけが山びこのように頭の中で反響していた。

 

 指先が痺れ、震える。瞼は瞬きの仕方を忘れて、眼球の表面を徒に乾かした。呼吸はどうやってしているのか分からない。

 

 人間として生理的に行える筈の運動が、何ひとつ行われていない気がした。今ここに生きている感覚さえも、夕方なのか夜なのかよく判別がつかない宵のうちみたいに、曖昧だった。

 

 何かを言わなくてはいけないのは分かっている。でも、何を言えばいい。あまりに突然の告白にどう答えればいいのかなんて、僕に分かる筈がない。

 

 

 

 そうだ。なら、からかわないで、と言えばいい。鞠莉さんはきっと、いつものように意地悪をしているんだ。そうに違いない。

 

 こんな時にからかってくる意味は、何ひとつ分からないけれど。

 

 

 窓の外でまた雷が鳴っていた。ガラスを叩く雨音がリビングに小さく響いている。

 

 

 

「や、やめてよ鞠莉さ───」

 

「嘘じゃないわ。私は本気で言ってるのよ」

 

「………………っ」

 

「ユーヒがダイヤの事を好きなように、私もユーヒの事がずっと好きだったの」

 

「どう、して?」

 

 

 

 かろうじて出した声に鞠莉さんは答えてくれる。彼女の顔はまだ、僕の耳元にある。

 

 その耳にささやくように鞠莉さんは理由を語り出した。なんだか、誰にも知られてはいけない世界の秘密を教えられているみたいだった。

 

 

 

「春に出会ったばかりの頃から気になってはいたわ。好きになったきっかけは、林間学校の時よ。誰にでも優しくて、いつもキュートなスマイルをするあなたの事を、あれから私はずっと見ていたの」

 

「…………」

 

「ユーヒはダイヤの事ばっかり見ていたから、気づいてなかったでしょうけどね」

 

 

 

 鞠莉さんはそう言って、最後にクスリと笑った。

 

 信じられない筈の言葉なのに、()()を素直に受け入れる自分が居る。彼女の告白が冗談ではない、と僕の中に居る誰かが強く訴えかけてくる。

 

 どれだけ否定しようとも、目を背けようとしても───今の言葉は間違いなく真実だ、と全身の感覚質(クオリア)全てが叫んでいた。それは、感じようとも感じられない、第六感さえも。

 

 

 

「……なんで、僕なの?」

 

 

 

 かろうじて零れ落ちた言葉はそんなもの。純粋に分からなかった。どうして、鞠莉さんが僕の事を好きにならなければならないのか。何故、僕なんかの事を選んでくれたのか。

 

 

 

「……誰かを好きになるのに、理由がいるの?」

 

 

 

 次に聞こえてきたささやきはあまりに鋭利で、脆い心に容易く突き刺さった。それはもう、簡単には抜けないほど深く、深く、深く。

 

 その通り過ぎて、何も言い返せなかった。鞠莉さんが言った言葉はまさに、一週間前の僕自身が思っていた事と同じだった。

 

 人を好きになる事に、理由はいらない。自分でもなんでこんなにあの人の事を好きになったのか説明できないくらい愛おしくなって、胸が苦しくて、どうしようもなくなってしまう。

 

 その感覚が痛いほど理解出来る。だから、鞠莉さんの言葉が疑いのフィルターを通さずに直接、心へと刺さったんだ。

 

 僕が感じていたあの感覚を、鞠莉さんも感じている。それは紛れもなく、ここに居る国木田夕陽という人間に対して。

 

 

 

「それでも信じられないなら、今から証明してあげる」

 

「……? どうやって?」

 

「それはね」

 

 

 

 鞠莉さんはそう言って、耳元から離れて行く。

 

 訝しみながら彼女の表情を見上げる。

 

 頬をほんのりと紅潮させている鞠莉さんは、椅子に座る僕の前に立って。

 

 

 

「…………キス、してあげる」

 

 

 

 意地悪そうに微笑みながら、そう言った。

 

 

 

「─────」

 

 

 

 少しの恥じらいと、いじらしさを含ませた言葉。それは口に入れた瞬間にとろけてしまうチョコレートのように、甘党の僕の心を誘惑した。 

 

 ダメなのに、その甘味に溺れてしまいたいと思ってしまう。何も考えず、今ここで彼女の言葉を受け入れてしまえば、僕はすぐにでも楽になれる。

 

 そんな罪深いささやきが、頭の中をぐるぐると駆け巡っていた。

 

 頷けば、鞠莉さんはこの日々から僕を抜け出させてくれる。()()()に拒絶されてもなお想い続ける灰色の日常から、元の世界へと連れ出してくれる。

 

 ただ彼女の言葉を受け入れればいい。それだけで、僕はここじゃない何処かへと行ける。

 

 苦しみのない、涙を流す事もない、幸せな甘い場所に。そんな世界に、堕ちて行ける。

 

 だったら、悩む必要はない。僕の気持ちを突き放した()()()の事なんて忘れて、自分自身の欲望と僕の事を好きだと言ってくれる目の前の女の子に甘えてしまえばいい。

 

 そうすれば全てが終わる。

 

 そして、違う何かが始まる。

 

 手にする事が出来ない宝石(ダイヤ)を想い続けるのがこんなにつらいのなら、そんな宝石の事など───もう、忘れてしまえばいい。

 

 

 

「私と付き合ってくれたら、ダイヤよりもいっぱい良い事してあげる」

 

「…………鞠莉、さん」

 

「高校を卒業したら、パパにお願いして一緒に海外の大学に進学しましょ? あなたの翻訳家になりたいって夢も、私が全部──叶えてあげるから」

 

 

 

 聞こえてくる言葉は、全てが魅力的だった。断る理由なんて、どう考えたって見つからない。

 

 今まで長い時間を彼女とも過ごして来たから分かる。今の言葉に嘘はない。鞠莉さんはきっと、その通りに話を進めてくれる筈だ。

 

 鞠莉さんと恋人になれば、僕が知らない世界を彼女が教えてくれる。僕が叶えたい理想や夢も、全てこの手で掴む事が出来る。

 

 彼女の告白を受け入れるだけで、何もかもが手に入る。欲しいものも、希望も、幸せも、全部。

 

 この灰色の世界から抜け出すだけじゃない。鞠莉さんに甘えれば、僕は新しい世界に足を踏み入れる事が出来るんだ。

 

 

 

 ……でも。

 

 

 

 渡されたチョコレートを口に入れるだけでいい。()()を口の中で溶かして、その甘味に溺れてしまえばいい。

 

 そうするだけで、全てが叶う。一生、温かい空間で幸せを感じながら、甘いチョコレートを食べ続ける事が出来る。

 

 

 

 ……でも。

 

 

 

 鞠莉さんを女の子として好きになって、僕を愛してくれる彼女を愛する。ただ、それだけでいい。

 

 それは、どれだけ簡単な事なのだろう。どれだけ、理想的な恋なんだろう。

 

 

 

 ……でも。

 

 

 

 未来を想像する。ここで鞠莉さんを受け入れた後の未来。彼女とキスをした後に広がる将来。

 

 ああ。鮮明に思い浮かべなくても分かる。その未来は、どんな道に進もうとも幸せでしかない。きっと何があっても、幸せ以外の道は訪れないだろう。

 

 

 

 ……でも。

 

 

 

「ユーヒ」

 

「鞠莉さん」

 

 

 

 彼女は、僕の肩に両手を置く。そして、目を閉じて顔を近づけてくる。

 

 鞠莉さんの艶めかしい唇が僕の唇に触れる。その瞬間、僕らは恋人になれる。この灰色の世界から飛び出し、広がる未来を共に生きていける。

 

 僕は幸せになれる。こんな湿気た場所ではなく、光輝く大きな場所に行けるんだ。

 

 何も出来ないサナギから蝶になれる。弱い僕でも、美しい世界を羽ばたく事が出来る。

 

 

 

 それでも、僕は。

 

 

 

 

 

「──────ッ!」

 

「え…………?」

 

 

 

 

 

 こんな甘いだけのチョコレートは、食べたくない。

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 僕は鞠莉さんの腕を払い、彼女の肩を弱い力で後ろに突き飛ばした。

 

 鞠莉さんは驚いた顔をしてよろけ、フローリングの床の上にへたり込む。

 

 彼女は茫然とした表情を浮かべて、椅子から立ち上がった僕の顔を見上げていた。

 

 

 

「………………ごめん、鞠莉さん」

 

「ユー、ヒ?」

 

「僕は、君を受け入れられない。もちろん、鞠莉さんの事は好きだよ。けど、君を女性として愛する事は…………僕には出来ない」

 

 

 

 荒くなった呼吸を抑えながら、床に尻餅をついたような姿勢で僕を見る鞠莉さんにそう告げる。

 

 

 

「ど、どうして。そこまでやってあげるって言ってるのに、なんで」

 

「分かってる。でも、僕が欲しいのはそんなものじゃないんだ」

 

 

 

 彼女の言葉に首を横に振って、両手の拳を強く握り締めた。

 

 

 

「鞠莉さんが僕の事が本当に好きだ、って事はよく分かった。その気持ちは凄く嬉しいよ。僕にはもったいないくらい」

 

「ならっ」

 

「でもね、僕はやっぱり、()()()の事が好きなんだよ。馬鹿な事を言ってるのは自分でも分かってる。けど、その想いだけは変わらない」

 

「……あの子が、ユーヒの事を嫌いだったとしても?」

 

 

 

 鞠莉さんの言葉に頷く。そして、言葉を続けた。

 

 

 

「そうだよ。それでも僕は、あの子の事が好き。誰に何を言われても、好きで居続ける」

 

「また拒絶されるかもしれないのよ? ユーヒの想いは、一生あの子に届かないかもしれない。それでもいいの?」

 

 

 

 また頷く。徐々に視界がぼやけてくる。あの子の笑顔を思い出した瞬間、頭の奥から熱い水が溢れてきて目頭が熱くなった。

 

 

 

「それでも、だよ。届かないならそれで構わない。この気持ちが突き放され続けても諦めない。たとえ誰かに奪われたとしても、僕はあの子を想う」

 

「…………どうして、そこまで」

 

「分からないよ。自分でも分からない。あの子が僕の事をこれっぽちも好きじゃないって事は理解してるし、これからその気持ちが変わらないのも分かってる」

 

 

 

 想いを言葉にしている最中、涙が溢れてくる。どうしても堪える事が出来ず、温もりがある雫は頬を伝い、音もなくリビングの床に落ちて行った。

 

 

 

「でもね。それでも……僕は」

 

 

 

 甘いだけのチョコレートを食べずに棄て、届かないのが分かってる宝石へと手を伸ばす。

 

 たとえ届いたとしても、あの宝石は壊れない。僕の力では砕く事は出来ない。どれだけ頑張っても、本当の中身に触れる事は不可能だ。

 

 そうだったとしても、僕はあの宝石の中に触れる事を願う。他の魅力的な何かがもっと幸せな世界に誘おうとも、僕はその手を払い、宝石に手を伸ばし続ける。

 

 

 

 だって、僕は。

 

 

 

 

「────ダイヤさんの事が、大好きだから」

 

 

 

 

 泣いたまま無理やり笑顔を作って、そう言ってみせた。

 

 理由は、ただそれだけ。それ以外でも以上でも以下でもない。

 

 僕はダイヤさんの事が好き。だから他の物事はどうでもよかった。

 

 未来が幸せじゃなくても、灰色の日々が続く事になろうとも、この気持ちだけは変わらない。

 

 これからどうすればいいのかはまだ分からない。答えは見えないけど、この想いは形を変えず、心の中に居続ける事だけは分かる。

 

 

 

「ユーヒ……」

 

「ごめんね、鞠莉さん。僕が言える理由は、それだけだよ」

 

 

 

 そんな事を言っても、つらいのは変わらない。いくらここで口にしたって、あの子の心には僕の言葉は届かない。

 

 好きになれば好きなるほど、苦しくなっていく。だったもう、全てを忘れてしまいたかった。

 

 ダイヤさんの事が好きな事も、あの告白が拒絶された事も、出会った事も、何もかも。

 

 でも、都合よく忘れるなんて出来ない。今は、あの子の事を好きで居続ける自分を受け入れるしか、自我を保ち続ける方法がなかった。

 

 それ以外をする事は、僕には許されなかった。

 

 

 

 だから甘いチョコレートも、食べてはいけなかった。

 

 

 

「……そう。そこまで言われたら、私も諦めるしかないわね」

 

「ぁ……」

 

「ユーヒがそんなにダイヤの事を好きだったなんて、知らなかったわ。ショーシン中の今なら、成功すると思ったんだけど」

 

 

 

 鞠莉さんは立ち上がり、いつもの笑顔を浮かべながらそう言う。

 

 彼女の想いを踏みにじった僕に、何かを言う事は出来ない。なので口は開かなかった。

 

 言ってしまえば、無意識に鞠莉さんを傷つけてしまう気がしたから。

 

 

 

「その」

 

「帰るわ。ずっと言いたかった事も言えたし、私は満足デース」

 

 

 

 それでも何かを言わなければいけないと思い、口を開いた時に鞠莉さんは明るい声でそう言った。

 

 それから彼女はポケットから紫色のスマートフォンを取り出し、指で画面を操作する。

 

 

 

「─────これでいいのよね」

 

「……?」

 

「だから、私の言った通りだったでしょ?」

 

 

 

 鞠莉さんは携帯を握り締めたまま、よく分からない言葉を吐いた。

 

 誰に向けた言葉かは知らない。少なくとも、僕に向けられた言葉ではなかったのはたしかだった。

 

 鞠莉さんはまた携帯の画面をタッチして、呆れるように息を吐いてからもう一度口を開いた。

 

 

 

「じゃあ、迎えを呼ぶわ。家に入れてくれてありがとね、ユーヒ」

 

 

 

 あんな事があったというのに、鞠莉さんは僕に向かって可愛いウィンクをしてくれる。

 

 心を傷つけた相手にそんな事をする彼女の気持ちを読み取る事は、どうやっても出来なかった。

 

 

 

「────あ」

 

「どうしたの、鞠莉さん」

 

 

 

 鞠莉さんがスマートフォンの画面を見つめながら小さく声を上げる。彼女が持つ携帯からは、アラームのような音が繰り返し鳴っていた。

 

 気になって声を掛けると、鞠莉さんは困った感じの笑顔を浮かべて僕の方を見てくる。

 

 そうして、よく分からない事を言った。

 

 

 

 

「ソーリー、ユーヒの携帯を貸してくれる?」

 

「え?」

 

使()()()()()、携帯の充電が切れちゃったみたい」

 

 

 

 

 てへぺろ、と舌を出して鞠莉さんは笑う。

 

 紫色の携帯からはまだ、充電が切れた事を知らせるアラーム音が鳴り響いていた。

 

 






次話/国木田花丸は答えを教える


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国木田花丸は答えを教える

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 

『────るびぃーっ。どこへいきましたのー?』

 

『────はなまるーっ。どこー?』

 

『あっ』

 

『ご、ごめんね。大丈夫?』

 

『…………大丈夫、ですわ』

 

『立てる? はい』

 

『っ! ひ、一人で立てますわ! ───きゃ!?』

 

『あぁ、ほら。無理するからだよ』

 

『う~。もう、なんですの』

 

『転んだときに、下駄のひもが切れちゃったみたいだね』

 

『ぁ……。ど、どうしましょう。これじゃあ歩けませんわ』

 

『ぼくに貸して? 直してあげるから』

 

『い、いいですわ。ぶつかったのはわたくしも、わるかったので』

 

『じゃあ、おあいこ』

 

『おあいこ?』

 

『ぼくもはなま──従妹のことを探してて、よく前を見てなかったから。だからおあいこ、だよ?』

 

『……でしたら、しかたありませんわね』

 

『うん。少しまってて?』

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

『……なおった、のですか?』

 

『もともと付いてたのは付けられないけど、これで歩けると思うよ。はいてみて?』

 

『はい…………あ』

 

『大丈夫そう?』

 

『はい。平気なようですわ』

 

『なら、よかった。それじゃあね』

 

『あっ、お、おまちなさい!』

 

『うん? どうかした?」』

 

『そ、その……あの……』

 

『?』

 

『ありがとう、ございました』

 

『ふふ。どういたしまして』

 

『そういえばあなた、従妹を探してると言いましたね』

 

『そうだけど、それが?』

 

『その、わたくしも妹を探している途中でしたの。だ、だから』

 

『だから?』

 

『わたくしと一緒に、探してくれませんか? わたくしも、あなたの従妹を探しますので』

 

『……うーん。おかあさんにすぐ戻るって言っちゃったから』

 

『そう、ですか』

 

『でも、ちょっとだけなら、いいよ』

 

『ほんとうに?』

 

『うん。ぼくもひとりで探すの、ちょっとこわいから』

 

『ふふ  あなたはこわがりさんですの?』

 

『ち、ちがうよ。それならきみだって』

 

『わ、わたくしは、こわくなんてありませんわっ。おとなもぜんぜんこわくありませんっ』

 

『えへへ。つよがらなくていいのに』

 

『つよがりではありません!』

 

『はいはい。わかったよ』

 

『む。()()、は一回ですわ。そんな風にいうと、おかあさまにしかられてしまいますわよ?』

 

『ぼくのおかあさん、そんなことでおこらないよ?』

 

『ならもっとぶっぶー、ですわ。まったくもう』

 

『よくわからないけど、ごめんなさい』

 

『わかればいいのですわ。……それで、あなた。お名まえは?』

 

『? ぼくの名まえ?』

 

『はい。()()()というのもへんですわ。教えなさい』

 

『ぼくは、ゆうひだよ』

 

『ゆー、ひ?』

 

『そう。オレンジ色のおひさまと同じ、ゆうひ』

 

『ゆうひ、くん』

 

『うん。じゃあ、きみの名まえは?』

 

『…………ひみつ、ですわ』

 

『えー。ぼくは教えたのに』

 

『あ、あとで教えてさし上げますわ。ほら、はやくいきましょう、ゆうひくん』

 

『あ、まってよ────』

 

 

 

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「うん。大丈夫、ちゃんと食べてるよ。熱も上がってないし、手も動くようになってきたから」

 

 

 

 鞠莉さんが実家に来た日の翌日。父親と一緒に旅行に行っている母親からの電話で、僕は目覚めた。

 

 内容はちゃんとご飯を食べているのか、とか、風邪がぶり返していないか、とか、知らない人が家に来てないか、とか、そういうもの。

 

 言わずもがな、僕は既に高校三年生。そんな小学生が心配されるような事を言われても、逆に対応に困ってしまう。

 

 

 

「はいはい。知らない人が来たら家の扉を開けなければいいんでしょ。もう子供じゃないんだから、心配しないで」

 

 

 

 昔から母親は口うるさく、知らない人には気を付けなさいと言う。外出先は当然ながら、家の中にいる時も然り。

 

『夕陽は誰にでもついて行っちゃうんだから』と身に覚えもない事を言われる意味も、未だに分かっていない。

 

 母親が何故、そこまで知らない人について行く事を気にするのかは知らない。幼いころから言われ続けた今では、すっかりその言葉に慣れてしまっていた。

 

 いつから言われるようになったのかは、よく覚えてなかった。気がついたら母親は、知らない人に気を付ける事を何度も口にするようになっていた。

 

 その心配は度が過ぎると思う時がたまにある。まるで、僕が過去に誘拐でもされたみたいに母親は口うるさく注意してくる。

 

 

 

「明日からまたお寺の方に戻るから。台風も過ぎたから学校も普通に始まるみたい。うん、じゃあ気を付けて帰って来てね」

 

 

 

 そう言って、一方的にこちらから電話を切った。あまり長話をすると、また口うるさい母親の小言を聞かなくてはならなそうだったのでいた仕方ない。

 

 朝からいつもの注意を聞く事が出来るほど、僕の精神状態は元通りにはなっていないのだから。

 

 

 

「………………」

 

 

 

 ベッドの縁に座りながら通話が切れた携帯を数秒間見つめ、それから上体を後ろに倒した。

 

 そのまま動かずに、無機質な白い天井を見上げる。いつにもなく、頭は疲労しているように感じた。理由は様々あるが、一番の理由は明後日から行かなくてはならない学校の所為。

 

 明日の月曜日は秋分の日。二週続けて三連休が来る今年の九月の暦。猶予が一日延びたのはいいが、心はまだ現実を受け入れ切れていない。

 

 明日にはお寺に戻り、明後日には学校に登校する。そんな何気ない事に、僕は大きなストレスを感じてしまっていた。

 

 学校に行けばクラスメイト達から心配され、言い訳をする為に嘘を吐かなくてはならない。それはまだいい。今さら嘘を吐く事に心を痛めるほど、精神は普段通りではないのだから。

 

 

 

 ならなぜ、学校へ行く事にストレスを感じてしまうのか。答えは深く考えなくても分かる。

 

 学校に行けば、嫌でも()()()と顔を合わせる事になる。

 

 それだけが、僕に強いストレスを与えていたのだった。

 

 

 

「はぁ」

 

 

 

 天井を見上げながら、息を吐く。意味のないため息は自室の空気に音もなく擬態した。

 

 

 

 長い間会わずにいれば時間が全てを解決してくれると思った。でも、この世界はそんなに都合よく出来ている訳ではないらしい。

 

 頭の中にはまだあの時の記憶が鮮明に残っている。それは気づけばトラウマになり、あの子と会う事を無意識的に躊躇わせた。

 

 気にしなければいいのかもしれない。そうすれば、きっと信吾や果南さんは気を遣って今まで通りの関係性を繕ってくれるだろう。

 

 でも、それは結局作られた関係性。紛れもない偽物。机の上に置いてある玩具の宝石のように、何処から見ても本物ではない。

 

 そんなものはただの欺瞞だ。どう繕っても、前と同じという訳にはいかない。恐らく僕らは、自分自身を使ってたどたどしい人形劇を繰り広げてしまう。それを欺瞞と言わず、何と言えばいい。

 

 

 

 そんな作られた関係性など要らない。だが、それを拒否したのなら次はどうすればいい? 

 

 あからさまにあの子と距離を取り、気まずいまま同じ教室で長い時間を過ごすせばいいのか。

 

 いや、それはどう考えても無理だ。あまりにも酷すぎる。二日目辺りで心が折れてしまうだろう。

 

 なら、他に方法はあるか? そんな事を延々と考えて、既に一週間以上が過ぎている。何もしなければ、また思考が堂々巡りをするだけ。

 

 何をすればいいのかも分からない。こんな状態で、本当に明後日には学校へ行けるのだろうか。

 

 

 

「ん?」

 

 

 

 ベッドの上に寝転がったままそんな事を考えていると、家のインターホンが鳴った。

 

 また誰かが家に来たらしい。昨日は鞠莉さんが来て、整理されていない頭の中をさらに掻き回された。今日はそんな事にならないよう願おう。

 

 知らない人が来たら無視をする。部屋を出てインターホンのモニターの前に行くまで、母親から言われた言葉が脳裏に浮かんでいた。

 

 

 

 表示のボタンを押し、家の前に居る誰かの姿を映す。

 

 

 

「あれ」

 

 

 

 だが、そこには誰も映らなかった。この家のインターホンのカメラは割と広範囲を映してくれる筈なのに。

 

 悪戯かと思いディスプレイの表示を切ろうとした。その前に、本当は誰かが居るのかもしれないので念のため声をかける事にする。

 

 

 

「どちらさまですか?」

 

『────ずら?』

 

「うわぁっ!」

 

 

 

 声を掛けた瞬間、カメラの下側からぬっ、と人の顔が現れた。というか近すぎて誰だか分からない。誰も居ないものだと思っていたから驚いてしまった。

 

 ん? ずら? 

 

 

 

「は、花丸?」

 

『おおっ。この声はもしかしなくてもユウくんずら。マルの事が見えてるずら?』

 

「え、うん。見えてるけど」

 

『未来ずら~。えへへっ、ユウくーん』

 

 

 

 と、インターホンの前で手を振っている? 花丸。どうでもいいけど、さっきから近すぎて顔が見えない。可愛らしい鼻が画面にどアップで映っていた。

 

 ほとんど声だけで誰かを見極めてしまった。僕の従妹の口癖は分かりやすくて助かる。

 

 

 

「どうしたの? 何か用でもあった?」

 

『うん。ユウくんのお見舞いに来たずら』

 

 

 

 遅くなっちゃったけどね、と申し訳なさそうに笑う花丸。正直、全然気にしてなかった。花丸にだって予定はあるんだし、彼女が謝る必要なんてない。

 

 家に来てくれたクラスメイト達はこの場で追い払うのが常だったけれど、花丸の場合はそうはいかない。どんな理由があろうとも、親戚である彼女だけは追い払う訳にはいかない。

 

 いずれにせよ明日にはお寺に帰るのだから、今日顔を合わせたって何も変わりはしないだろう。

 

 

 

「そっか。待ってて、今鍵を開けるから」

 

『ずらっ。待ってるね』

 

 

 

 そう言って通話ボタンから手を離し、玄関へと向かう。

 

 その途中、リンという音が聞こえた。

 

 花丸が間違えてまたインターホンを押してしまったのかもしれない。

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

「ユウくんのお家に入るの、久しぶりずら~」

 

 

 

 リビングに足を踏み入れた花丸は嬉しそうな表情を浮かべて、家の内装を懐かしそうに見つめていた。

 

 たしかに彼女がこの家に来たのは、まだ僕が中学生の頃だった気がする。僕が彼女の家であるお寺に行く事はあっても、花丸がこの家に来る事はあまりなかった。

 

 

 

「そこに座ってて。お茶を淹れてくるから」

 

「うん。ありがとね、ユウくん」

 

「どういたしまして」

 

 

 

 花丸にそう言って、台所へと向かう。手には花丸がお見舞いの品としてくれた物が入ったビニール袋。中身はこの辺りの人ならみんな知っているであろう、あのスティックタイプのパンだ。『風邪をひいた時はのっぽパンを食べると治るずらっ』と、本当かどうか分からない迷信を教えられた。今度風邪をひいたら大量ののっぽパンを食べる事にしよう。

 

 そんな事を考えながら急須にお茶の葉を入れ、お湯を注ぐ。ふわりと湯気が上がり、緑茶の良い香りが鼻をくすぐった。

 

 お盆に湯呑みとお茶が入った急須、お茶請けのお菓子を乗せて、リビングに戻る。花丸は食卓の椅子に行儀よく座って僕の事を待っていた。

 

 

 

「お待たせ。緑茶で良かったよね?」

 

「ずらっ。マルはお茶が大好きずら」

 

 

 

 確認するまでもないけど、今日の花丸はお客様なので一応訊いておいた。もし、コーヒーや紅茶の方が良かったと言われたなら、明日は沼津に雪が降るかもしれない。

 

 花丸の向かいに座り、お客様用の湯呑みへお茶を注ぐ。飴色の従妹はぼんやりとした顔で僕の動きを見つめていた。

 

 

 

「はいどうぞ」

 

「ありがとう、ユウくん」

 

 

 

 湯呑みを花丸の前に置くと、彼女は嬉しそうに微笑んでくれた。季節は過ぎたけれど、夏に咲く向日葵のような笑顔だった。

 

 花丸と同じ空間で過ごす、この穏やかな空気。ここはあのお寺ではないというのに、同じものをたしかに感じられた。

 

 あれはあのお寺が発生させているのではなく、向かいに座る飴色の小さな女の子が醸し出すもの。そんな些細な事を、今更になって気づいた。

 

 

 

「…………」

 

「…………」

 

 

 

 リビングに音がなくなる。かといってこの空間に居る事が息苦しく感じる事はない。むしろ心地良い。温かい毛布に優しく包まれるみたいで、疲れ切った心身が徐々に癒えて行く。

 

 この一週間。荒み切った心は一度もこんな安らぎに触れる事はなかった。だからこそ、何にも代えがたい居心地の良さを感じられるのかもしれない。

 

 

 

 花丸は湯呑みに口をつけ、ひとくち飲んでからそれを机の上に置く。それから向かいに居る僕の顔をジッと見つめてきた。

 

 大きな琥珀色の瞳には、弱ってしまった一人の男が映っている。

 

 

 

「ユウくん」

 

「うん?」

 

「もう、大丈夫?」

 

 

 

 小さな声が、リビングに零される。主語がない問い。でも瞬時に意味が理解できてしまう、不思議な感覚。

 

 花丸は僕のお見舞いに来たと言った。だから、僕の体調を気にしているに違いない。大切な彼女にちょっとでも心配させてしまっていた事実が、またほんの少しだけ傷ついたツン、と心に沁みた。

 

 答えに悩む必要はない。心配させてしまっているのなら、平気な事を伝えればいい。ただそれだけで彼女は安心してくれる。

 

 ……本当は、全然大丈夫ではない。けど、それを花丸には言えない。

 

 だから僕は、大事な従妹にまで嘘を吐く。

 

 

 

 両手で湯呑みを優しく握り、視線を落とす。湯気が出る薄緑色の液体の水面に、一本の茶柱が立っていた。

 

 

 

「……うん、大丈夫。心配させてごめんね」

 

 

 

 傷つく本当の自分を殺し、偽りの自分に嘘を吐かせる。それが人としてやってはならない罪なのは、よく分かっているのに。

 

 

 

「ユウ、くん」

 

「風邪も怪我も治ったから、学校にも行けるよ。またお寺にお世話になるからよろしくね、花丸」

 

 

 

 そう言って、偽物()は笑う。自分がどうやってこの顔に笑みを浮かべているのか、その原理が本当に分からなかった。

 

 でも、これで良い。本音を口にして大切な花丸を心配させるくらいなら、嘘を吐く方が百倍マシだった。

 

 

 まだ全然大丈夫じゃないのに治ったと偽り、心配する従妹を安心させる自分なら、今は許せる気がしたんだ。

 

 

 

「…………ユウくん」

 

「なんか学校に行くの、凄く久しぶりな気がする。花丸と一緒に学校に行くのも、楽しみだよ。それに───」

 

 

 

「─────ユウくんっ!!!」

 

 

「…………ぇ?」

 

 

 

 嘘を吐く僕の名前を、花丸は大声で呼んだ。こんなに近くに居るのだから、そんな声を出す必要なんてない。静かなこのリビングなら、どんなに小さな声でも聞き取れる。

 

 

 

 いや、今考えるべき事はそれじゃない。

 

 

 

 問題は()()()()が、叫びのような声を上げた事だった。

 

 

 

「…………どうして、嘘を吐くずら」

 

「花、丸?」

 

「なんで、マルには話してくれないの? ユウくんにとってのマルは、そんなに役立たずなの?」

 

 

 

 向かいに座る花丸は顔を俯かせ、前髪で表情を隠している。悔しそうに唇を噛み締めている事だけは、ここからでも見る事が出来た。でも。

 

 

 

 彼女の気持ちだけは、どうやっても見つめる事が出来なかった。

 

 

 

「ち、違うよ。そんな事な」

 

「なら、なんで嘘を吐くずら。今のユウくんはいつものユウくんじゃない。マルが、それを分からないはずないでしょ?」

 

 

 

 花丸の言葉を聞いて、声が出せなくなる。彼女の言葉は僕の首筋を両手で絞めつけてきた。

 

 自分自身がどれだけ愚かだったのかを思い知らされ、同時に嘘を吐いた自分を恨んだ。

 

 花丸の言う通りだった。なぜ僕は、花丸が他の誰かと同じように安易な嘘を見破れないと勘違いしていたのだろう。

 

 誰よりも長い時間を共にした彼女が、僕の嘘を見抜けないはずはない。僕という人間がどんな性格をしているのか、どんな人生を送ってきたのかをほとんど正確に知っている彼女を騙す事など、出来る訳がなかった。なのに。

 

 

 

「嘘を吐かないで、ユウくん。つらいならつらいって言ってほしいずら」

 

「………………っ」

 

「マルは、マルだけはちゃんと聞いてあげるから。だから……」

 

 

 

 花丸は目を潤ませて悲しそうな表情を浮かべ、僕を見つめてくる。

 

 でも、何も言えなかった。言いたくないのではない。ただ、大切な彼女にそんな顔をさせている自分自身がどうしても許せなかった。

 

 彼女に()()を言って、何になる? この心に蔓延るどす黒い蟠りを言葉に換えたとして、そんなものを聞いた花丸が何をしてくれるって言うんだ。

 

 そこに意味はない。いや、むしろ彼女の心にも余計な傷をつけてしまう。それはいけない。それだけは、やってはならない。

 

 

 

 この痛みを抱えるのは、僕だけで十分だ。

 

 

 

「…………ごめん」

 

「ユウくん」

 

「ごめんね、花丸。僕は、本当に大丈夫だから」

 

 

 

 僕はまた、最低な嘘を吐く。彼女の優しさを振り払い、最後まで嘘を吐き通す。花丸だけではなく、自分の心すらも騙すために。

 

 

 

 でも、身体の反応は違った。頭では嘘だと分かっているのに、自然と目がぼやけて行く。涙が溢れ、()()はまた頬を伝って下に零れ落ちて行く。

 

 もう何度流したか分からない涙。その水は、どれだけ流しても枯れる事はない。無限に湧き出る井戸のように、頬を徒に濡らした。

 

 

 

 それ以上は、何も言えなかった。目の前に居る存在がどんなに大切な人だったとしても、この想いは口には出せない。

 

 

 

「お茶、淹れかえてくるね」

 

「ぁ…………」

 

 

 

 僕はお盆とまだお茶が半分以上入っている急須を持ち、逃げるように席を立った。

 

 泣き顔を花丸に見せたくなかった。大丈夫だと言った心は、弱さを見せる事を嫌がった。

 

 そんな一枚の紙みたいに薄いプライドが、大切な人を傷つけているのも分かっている。それでも、涙を見せる事だけは出来なかった。

 

 

 

 台所に逃げ込み、まだ注ぎ足す必要のない急須にお湯を入れる為、水の入ったやかんを沸かす。

 

 そうしてコンロの前に立ち、ぼーっと水がお湯に変わっていくのを待つ。だけど、何も考えずにはいられなかった。頭の中にはあの時の記憶がまた鮮明に浮かび上がってくる。

 

 

 

「─────ッ」

 

 

 

 左手で前髪を強く握り締め、声を殺して泣く。そうしている自分を俯瞰して、ようやく分かった。

 

 

 

 僕の心はもう壊れている。直しようがないほど、木っ端みじんに砕け散っていた。

 

 どうしようもない。散らばった部品を掻き集めて精巧に作り直しても、絶対に元通りにはならない。

 

 粉々になってしまった心を直す方法を僕は知らない。こんな状態で前と同じように誰かと接するだなんて、出来る訳がなかった。

 

 学校に行っても、()()()を目にした時点で僕はまた壊れてしまう。今までの僕ではない偽物として生きたとしても、それもすぐに崩壊する。

 

 だから僕はもう、あの場所には戻れない。()()()が居る世界には、二度と足を踏み入れる事は許されない。

 

 

 

 ならどうしろって言うんだ。学校に行けなかったら、退学する道しか残されていない。その道を選んだら僕の夢は一生叶わなくなる。

 

 でも、そうしなければ僕の心はまた潰れる。()()()》の隣で何も無かったように生きて行くなど、出来る筈ない。

 

 だったら逃げる事を選ぶしかない。情けなく逃げて、逃げて、逃げて。何も成し遂げられない絶望の人生を歩んで行く以外の道を選ぶのは、どうやっても不可能だった。

 

 

 

 頭の中で色々な鎖が雁字搦めになり、本当に大事な事が考えられなくなる。

 

 何をしたいのかも、何が大切だったのかも、目がぼやけてしまって見えなくなった。

 

 もう、ここまでだ。壊れた僕に残された選択肢は多くない。無理をして学校に行き、つらい思いをしなければならないのなら、そうならない事を望む。

 

 学校にも行かず、翻訳家になる夢さえも放棄したこの短い人生に、もはや意味などない。

 

 

 

 ああ、そうだ。なら、ここで終わらせればいい。

 

 今日もこの世界のどこかではそうやって、自分の人生を終わらせる人が何百人も居る。

 

 人生に悩み、苦しみ、耐え切れなくなってプラットホームから線路に飛び込む人間が数え切れないほどいるんだろう。

 

 その人にとっては壮絶な人生だったのに、誰かにとっては電車が遅れるだけの厄介な存在でしかない。ニュースには『現在、電車が遅れています』、と短く流れて終わり。

 

 悲しい。あまりにも悲しすぎる。でも、それくらいでちょうどいいのかもしれない。

 

 

 

 誰かを幸せにする事もなく、存在するだけで誰かを悲しませる。

 

 

 

 そんな価値のない人間は、この世に居ない方がいい。

 

 

 

「………………」

 

 

 

 台所の抽斗を引く。様々な調理道具の中に、刃渡り十五センチほどのナイフがあるのを見つけた。

 

 それを黙って見つめる。だけど、手を伸ばす事はどうしても出来ない。

 

 

 

 ────あの夢の記憶が、僕の邪魔をする。

 

 

 

 暗い部屋の中で、包丁を突き付けられる夢。その映像が頭の中にチラつき、決心を鈍らせた。

 

 幼い頃から抱えていた先端恐怖症という原因不明のトラウマ。その所為で、ナイフを握る事が出来なかった。僕には。

 

 

 

 この命を終わらせる事すら、許されなかった。

 

 

 

 

 

「────ユウくん」

 

 

 

 

 

 背中に柔らかな感触を感じる。背後から回された細い腕が、僕の身体を強く抱き締めていた。

 

 それは強い力なのに優しくて、僕の壊れた心の破片をそっと包み込んでくれるように思えた。

 

 

 

「────っ」

 

「無理をしないで。これ以上、自分を責めないであげて」

 

 

 

 僕の身体を包む誰かは、そう言ってくれる。だけどそれは無理だ。首を横に振って、出来ない事を主張する。

 

 

 

「マルは傍に居るよ。ユウくんが一人になっても、マルはずっとユウくんの味方ずら」

 

 

 

 目から大粒の涙が零れて行く。コンロの上では、沸騰したやかんが甲高い音を鳴らしていた。

 

 

 

「ダメだよ、花丸。僕にはもう、そんな事をされる資格なんてない」

 

「……ユウくん」

 

「どうすればっ、どうすればいいのか…………分からないんだよ」

 

 

 

 悩んでも、悩んでも。その答えは見つからなかった。どれだけ涙を流しても、どれだけ過去を悔やんでも。

 

 だからもう、終わらせるしか方法が見つからない。このつらい日々は時間をかけても無くならない。だったら、自分自身で全てを強制的に終了させてしまえばいい。そうすれば悩まなくて済む。

 

 

 

 あんなに最低な事を僕に言った()()()を、これ以上愛さなくて済む。

 

 

 

「誰かを好きになるのがこんなに苦しいものなら、好きにならなければよかった」

 

 

 

 嫌いにならなければならないのに、好きで居続ける自分が許せない。

 

 

 

「こんなにつらくなるのなら…………出会わなければよかった」

 

 

 

 運命の悪戯で引き寄せられてしまった自分自身が、憎くて仕方なかった。

 

 

 

 統合も、浦の星学院で過ごして来た時間も、全てが理不尽に思えた。

 

 あれさえなければ僕は()()()に出会う事はなかった。夢の中でよく見る女の子として、それだけで終わって行く筈だった。

 

 なのに、僕は出会ってしまった。同じ玩具の宝石を持つ、夢の中に出てくる女の子によく似た一人の生徒会長と。

 

 そして、僕はその子に恋をした。でも、その恋は花びらが開く前に枯れ落ちた。

 

 

 

 どれだけ運命を恨んでも、自分を憎んでも、現実は変わらない。これ以上その苦しみに耐える事は出来ない。

 

 だから、僕は。

 

 

 

「なら、忘れるずら」

 

 

 

 花丸は突然、よく分からない事を言い出した。それからまた彼女は続ける。

 

 

 

 

 

「全部忘れて、いつかまた大事な事だけを────思い出せばいいずら」

 

「…………花、丸?」

 

「その方法を、これからマルが教えてあげる」

 

 

 

 

 

 それから、彼女は静かに語り出した。

 

 

 

 内浦に古くから語り継がれる、その伝説。

 

 

 

()()()の祠に祀られた一本の神楽鈴をめぐる────不思議なお伽噺を。

 

 

 

 

 

 

 

 





次話/そして、黒澤ダイヤは奪われた

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そして、黒澤ダイヤは奪われた

 

 

 

 

 

 弁天島の伝説/

 

 

 

 

 

 

 むかしむかし。内浦の港の近くに、仲の良い二人の男の子と女の子が住んでいました。

 

 その二人はいつも一緒に居て、海や山で日が暮れるまで遊んでいました。

 

 月日が流れるにつれて二人は大きくなり、ある時、お互いの事を好きだという事に気がつきます。

 

 そうして間もなく、二人は恋人同士になりました。

 

 ですがある時、(はな)と呼ばれる女の子は見てはいけないところを偶然、目にしてしまいます。

 

 それは、恋人の喜助(きすけ)が知らない女の子と一緒に遊んでいる姿でした。

 

 最初は見て見ぬフリをしていた花ですが、徐々に喜助は花と遊ぶよりも長い時間、知らない女の子と遊ぶようになってしまいました。

 

 当然、そんな姿を見せられる花は喜助とその知らない女の子に嫉妬の念を抱いてしまいます。

 

 

 

 時は流れ、遂に花は沼津の街で、喜助とその女の子が手を繋いで歩いているところを見てしまいます。

 

 花は勇気を出して喜助本人に問い詰めますが、喜助は上手く話をはぐらかしてしまい、花は途方に暮れてしまいます。

 

 

 そんな時、花は弁天島の麓に住む祖母からある言い伝えを聞きました。

 

 

 その言い伝えとは、弁天島の頂上にある祠の中には一本の神楽鈴が祀られており、その鈴を握って()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、という奇妙な話でした。

 

 

 浮気をする喜助に痺れを切らした花は、なんでもいいから喜助に自分以外の女に手を出した事を後悔してほしいと思い、軽い気持ちで弁天島の祠に訪れました。

 

 普段は鍵で施錠されている祠は何故かその日だけは開いていて、不思議に思いながらも、花は祠の中に入ります。

 

 祠の中には花の祖母が言った通り、一本の美しい神楽鈴が置かれていました。

 

 言い伝えを話半分に聞いていた花ですが、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()と思い、喜助の事を思いながら鈴を鳴らしてしまいます。

 

 リンリン、リンリン。

 

 ですが、何も起こりません。やっぱり祖母の話は冗談だったんだ、と花はため息を吐いてから、鈴を置いて祠を後にしました。

 

 

 その翌日、花は喜助の元に訪れました。

 

 そこには既にあの知らない女の子が居て、喜助と仲良さそうに遊んでいました。

 

 我慢の限界に達した花はとうとう二人の前に現れ、喜助とその女の子に詰め寄ります。

 

 こうすれば喜助も後悔する、と花は信じていました。

 

 

 そこで、花は喜助の様子がおかしい事に気づきます。

 

 喜助は突然現れた花の事を、明らかに知らない人を見る目で見ていました。

 

 花から喜助を奪った女の子が、喜助にこの子は誰かと訊ねても、彼は()()()()()()()()()と首を横に振るだけ。

 

 冗談は止めて、と花は言いますが喜助は本当に花の事を覚えていませんでした。

 

 あんなに仲が良かった恋人の事を、喜助は一夜にして忘れてしまっていたのです。

 

 そこでようやく花は昨日、弁天島の祠で鈴を鳴らした事を思い出します。

 

 

 ─────そう。

 

 

 祖母の話は冗談ではなく、本当に起きる言い伝えだったのです。

 

 花の事を忘れてしまった喜助はもう彼女に気を遣う事もなく、すぐに知らないあの女の子と恋人になり、内浦から違う街へと出て行ってしまいました。

 

 そして、自分の所為で喜助に忘れられてしまった悲しみに溺れた花は、涙を流しながらもう一度、弁天島の祠へと向かいます。

 

 祠の中にある鈴を握り締め、今度は自分が喜助を忘れるように願い、花は鈴を振りました。

 

 リンリン、リンリン。

 

 すると、どうでしょう。その鈴の音を聞いた花は、やはり綺麗さっぱり喜助の事を忘れているではありませんか。

 

 そうして、仲が良かった二人はお互いの事を忘れ、別々の人生を歩んで行きました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それから十年が経ったある日。二人は突然、自分に大切な人が居たという事を思い出します。

 

 二人は既に大人になり、この街ではない別々の村で暮らしていました。

 

 内浦に住んでいた子供の頃、二人には確かに大切な人が居ました。

 

 それを大人になってから花と喜助は思い出してしまったのです。

 

 名前も、顔も、声もちゃんと覚えてる。なのに、どうして忘れていたのか分からない。

 

 二人は途方に暮れます。

 

 何故、あんなに大切だった人の事を忘れてしまっていたのだろう、と。

 

 それから二人は住んでいた村を出てお互いの事を探し始めます。

 

 子供の頃住んでいた内浦に訪れて、花と喜助は幼い頃の記憶を頼りに大切だったお互いを長い間探し続けました。

 

 そして、最後に二人は弁天島で十年振りに再会しました。

 

 

 それから記憶を取り戻した花と喜助は、二人で幸せに暮らしましたとさ。

 

 

 

 

 

 

 

 ───めでたし、めでたし。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 

 

 

 曇天の下。学校の坂の下にある停留所でバスを降り、人気の無い静かな海岸通りを歩いた。

 

 目的地は、海の側にある小さな山。この内浦でもパワースポットとして有名な場所。

 

 その祠の中に置かれているという()()()に触れる為、僕は一週間ぶりに内浦へ訪れていた。

 

 

 

「………………」

 

 

 

 お見舞いに来てくれた花丸が帰った後、少しの時間を置いてから一人で家を出てバスに乗り、今に至る。

 

 内浦に来れば地元に住んでいるクラスメイトに出くわす可能性もあったけれど、ここに来るまで誰とも顔を合わせる事はなかった。自分のそういったどうでもいい運の良さに感謝をしたい。

 

 まだ雨は降っていないが、頭上に広がる空は鉛色。天気予報によると午後からは雨が降るらしい。

 

 家を出る時、傘は持たなかった。何故か持つ気になれなかった。

 

 だから雨が降る前に、目的を果たして帰ろう。

 

 津波避難場所と書かれた緑色のプレートが壁に貼ってある民家と数隻の小型船舶が停留している海縁の間を通り抜け、小さな山の方へと向かう。相変わらず、周囲に人は居ない。朝はこの辺りに釣り人が沢山いる光景をよく見るけれど、午後にさしかかる時間帯の今はその姿も見えなかった。

 

 けど、それでよかった。もし誰かに見つかったら、目的を達成する事は出来なかっただろうから。

 

 

 土が剥き出しになった舗装されていない細い道をさらに進むと、赤い鳥居と傾斜が急で段の幅が妙に狭い階段が見えてくる。

 

 僕は鳥居の前で足を止め、上に続く階段の先を見つめた。

 

 

 

「弁天島の、鈴」

 

 

 

 この小さな山の頂上に、その鈴がある。飴色の従妹はそう教えてくれた。

 

 

 

 誰かの事を思って鈴を振れば、誰かは自分の事を忘れる。そして誰かを忘れたいと願い、鈴を振ればその誰かの事を忘れる事が出来る。

 

 そんな力を持つ鈴が、この弁天島に祀られているという。

 

 

 

 普通に考えれば信じられない話だった。昔から内浦に語り継がれる、ただの悲しい伝説。花丸が話してくれたのは、それだけの物語の筈だった。

 

 でも、彼女は真剣に語ってくれた。()()が、実際に起こるものだと僕に伝えるように。語り継がれるだけのおとぎ話では無いというように。

 

 その物語に出てくる鈴を振れば、僕は()()()の事を忘れる事が出来る。僕が願えば、()()()にも僕の事を忘れさせる事が出来る。

 

 なんて都合の良い話だろう。そんな鈴を振るだけでつらい出来事の全て忘れる事が出来るのなら、もっと早く知りたかった。そうすればここまで悩む事もなかった。

 

 もう神頼みでも伝説でも何でもいい。()()()の事を忘れて、このつらい日々を抜け出せるのならばそれでよかった。

 

 

 

「…………」

 

 

 

 一度息を吐き、鳥居を潜って階段を上り始める。頭上を覆い隠す背の高い雑木林の所為で日の光が届かないのか、階段には所々に小さな水たまりがあり湿っていた。

 

 階段の両脇には数え切れないほどの彼岸花が咲いている。ちょうど今がこの花の見頃なのだろう。緑色の茎の背が伸び、朱色の細い花びらが美しく咲き乱れていた。

 

 綺麗な赤い花達に見送られながら、弁天島の階段を上る。厚い雲に太陽が隠れているからか、段を上るにつれて辺りは徐々に暗くなっていく感じがした。

 

 

 

 階段の途中。僕の腰丈ほどの大きさの祠があった。庇の下に“鷲小”と黒文字で書かれたシールが貼ってある祠。花丸は頂上にある祠だと言っていたから、恐らく鈴が置かれているのはここではない。

 

 僕は足を止めてその祠を見つめた。正確に言うと、小さな祠の横に咲いている白い彼岸花を眺めていた。

 

 

 

 辺りに咲いているのは全て朱色。その中に在った一輪の白い彼岸花。

 

 

 

 赤という本来の色を忘れたかのような穢れのない白色の花に、何故か心を惹かれた。

 

 今から大切な誰かの事を忘れてようとしている自分自身とその白い花を、重ねて見てしまったのかもしれない。

 

 

 

「それで、幸せ?」

 

 

 

 白い彼岸花は答えない。花は何も言わず、赤色の花達から少し離れた場所で寂しげに咲いているだけだった。

 

 答えは貰えなかったので、その答えを得る為にまた階段を上り始めた。

 

 

 

 ゆっくりとした足取りで階段を上り進め、すぐに頂上へ辿り着く。

 

 前々から話には聞いていたけれど、実際に訪れた事はなかった場所。もう少し広い所を想像していたが実際はそこまで広くはない。むしろその空間を狭いと感じてしまった。

 

 階段の終わりから続く平たい石板を歩き、その先にある祠へと近づいて足を止めた。

 

 祠自体も大きくはない。恐らく屋根を含めても三メートルには届かないくらいの高さに、横幅はおよそ二メートルほど。

 

 庇には()()()とそこに等間隔でぶら下げられた四枚の紙垂。その下には真新しい賽銭箱。祠の外観がかなり古いので、やけに色艶の良い賽銭箱だけは浮いて見えた。

 

 賽銭箱の両脇には二本の柱があり、左側の柱の後ろには何故か太鼓がぶら下げられている。何かのタイミングで叩く為なのか、太鼓の下には一本の鉢もあった。

 

 

 

「…………ここに」

 

 

 

 花丸が言っていた、誰かの事を忘れさせる力を持つ鈴が置かれている。内浦に語り継がれる、伝説の鈴が。

 

 しばらく祠の前で立ち尽くし、目線の先にある扉を見つめた。

 

 あの向こうに、一本の鈴が祀られている。誰かの事を思い、それを振れば自分は誰かの事を忘れる事が出来る。

 

 ああ、分かってる。花丸の話が、現実では絶対にあり得ないおとぎ話である可能性が高い事も十分理解してる。いや、むしろあり得る可能性の方が低いだろう。

 

 でも、僕はあの子の話を信じたい。壊れてしまった今の精神状態では、そんな神頼みに頼る事くらいしか、この現状を打破する方法が見つからなかったんだ。

 

 だから僕はここに来た。無意味なら無意味でも構わない。このつらい日々を終わらせられる可能性が一パーセントでもあるのなら、今はそれを信じたい。

 

 あのつらい記憶を忘れられるのならもう、自分がどうなったってよかった。

 

 

 

「鍵、かかってるのかな」

 

 

 

 周囲に誰も居ない事を確認して、祠の扉へと近づく。取手のところには錆びて茶色に変色した南京錠が掛かっていた。だが、どう見ても耐久性はないように見える。無理やり引っ張ってしまえば、すぐにでも壊せるだろう。

 

 普段臆病でそんな事は絶対にしない自分自身が、何の罪悪感もなくそう考えている事に気づき、ほんの少しだけ驚いた。でも、それを気にしている場合じゃない。後で誰かに怒られるのならそれでいい。今はもっと大事な事があるのだから。

 

 そう思い、南京錠が掛けられた扉に手をかける。そして力を込めて横に引こうとした時、カチリと何かが外れる音がした。

 

 

 

「?」

 

 

 

 聞こえた音に訝しみ、南京錠に触れる。すると掛かっていた筈の扉の鍵はいとも容易く外れた。まるで、最初から掛かっていなかったみたいに。

 

 どうしてこんなに簡単に鍵が外れたのか疑問に思ってしまったけれど、いずれにせよ扉が開くのならばそれでいい。

 

 鍵が外れた建てつけの悪い扉を横にスライドさせ、祠の中へと足を踏み入れる。

 

 

 

「……どこだろう」

 

 

 

 光が届かない内部は暗く、当然照明なんかある訳ない。盲目的に探していては時間がかかり過ぎる。誰かに見つかる前に鈴を見つけて、それを早く振らなきゃ。

 

 仕方なく携帯のライトで中を照らす。一通り中に光を当ててみると、奥の方にそれらしき長方形の箱を見つけた。

 

 携帯のライトを光らせたまま、僕はその箱に近づく。

 

 

 

「これ、かな」

 

 

 

 他にそれらしいものがないので、開けて確かめる事にする。

 

 左手に携帯を持ち、箱の蓋に右手を伸ばす。木製の古い箱。蓋には緑色のカビや埃が被っていた。

 

 如何にも禍々しい雰囲気を放っているが、怯んでいる場合じゃない。勇気を出して開けてみればいい。そして、中に入っているという鈴を振ればいい。

 

 そうすれば、僕は()()()の事を忘れる事が出来るのだから。

 

 

 

「…………ぁ」

 

 

 

 おそるおそる箱の蓋を開け、中にライトを照らしてみる。

 

 箱の中には、紫色の布が敷かれていた。それは多分、ここに入るものを劣化から守る為だろう。

 

 だけど、それ以外には何もない。箱の中には、僕が求めていた鈴は入っていなかった。

 

 

 

 大体予想はしていたけれど実際に無いのが分かった途端、気分が沈んでしまった。深いため息を吐き、もう一度蓋を閉めた。

 

 やっぱり、花丸の話は誰かの作り話だったんだ。そんなの、考えなくても分かる。誰かの事を願って振るだけでその誰かを忘れられる鈴なんて、この世にある訳がない。

 

 僕は一体何をやってるんだろう。そんな作り話を信じてしまった自分がより哀れに思えた。花丸は悪くない。悪いのは信じてしまった僕の方だ。

 

 箱の蓋を閉め、また息を吐いてから祠を出ようとした。その時、左手に持っていたスマートフォンが突然振動する。

 

 

 

 迷信を信じてしまった自分に苛立っていたからか、その電話に対して少々腹を立ててしまった。

 

 誰かは知らないけど、こんな時に電話を寄越さないでほしかった。

 

 

 

「…………え?」

 

 

 

 苛立ちながら、僕はディスプレイを見る。

 

 だが、そこにはあり得ない人の名前が表示されていた。

 

 電話をかけて来る筈ない人。言ってみればこの世界で一番、僕の携帯へ電話をかけて来ない人とも言える。

 

 なのに、スマートフォンは着信を知らせる為に振動し、ディスプレイには五文字の人の名前が表示されていた。何度瞬きをしても、その文字は変わらない。早く取れと言わんばかりに携帯は僕の手の中で振動し続けている。

 

 

 

『黒澤ダイヤ』

 

 

 

 画面には、そんな名前が映し出されている。僕にはその意味が何ひとつ分からない。

 

 なぜ今更、あの子が僕に電話をかけてこなければならないのか。僕をあんな風に拒絶したあの子が、何を話したいと思うのか。

 

 

 

「なんだ」

 

 

 

 嫌な予感がする。これは間違いなく良い知らせではない。なぜか、そんな予感があった。

 

 電話を取るべきか否か。暗い祠の中で自問自答する。ここで電話に出れば、その理由が分かる。彼女が僕に電話をして来た意味を知る事が出来る。

 

 でも、身体が感じている嫌な予感の所為で電話に出る事が出来ない。あの子と話がしたくない訳じゃない。それ以外の理由で、電話を取る事が出来なかった。

 

 無視してしまおう。そうすれば、何も無かった事になる。もし何かが起こっているのだとしても、この電話を取らなければ僕自身がそれを知る事はないのだから。

 

 そう思い、震える携帯をポケットの中に入れようとした。

 

 

 

 ────電話に出て────

 

 

 

「────」

 

 

 

 その瞬間、何処からともなく声が聞こえてくる。周囲に人は居る筈もないのに。

 

 

 

 この声を僕は聞いた事がある。それは、あの夏まつりの日。誘拐されている男の子とその犯人を見つけた時、この幼い男の子の声をたしかに聞いた。

 

 まさかと思い、ポケットに入れていた玩具の宝石を取り出す。

 

 

 

「やっぱり」

 

 

 

 玩具の宝石は、あの時と同じように淡い光を放っていた。光る筈のないモノが、何かを伝えるように白い光を灯している。

 

 この宝石の反応が何を示すのかは知らない。けど、夏祭りの時は誘拐されている男の子を助ける為に手助けをしてくれた。

 

 なら今回も、この玩具の宝石は僕に何かを教えてくれようとしているのか? 

 

 電話に出ろ、と誰かは言った。何が起こっているのか何一つわからないけれど、今は誰かの言う通りにする。それが一番正しい、と心は叫んでいた。

 

 

 

「……もしもし?」

 

 

 

 携帯を耳に付け、小さな声でそう言う。だが、何も聞こえてこない。通話はたしかにタッチした。なのに、聞こえるものはない。静寂だけが、電話の向こう側には存在している。

 

 あの子がいたずら電話などする訳がない。だからこそ、さっきから感じていた嫌な予感がさらに強くなる気がした。

 

 

 

「ねぇ」

 

 

 

 反応はない。僕の声が聞こえているのかいないのかも分からない。わざと無視をしているのか、それとも違う何かがあるのか。

 

 ここで電話を切ってはいけない。心ではなく、右手にある玩具の宝石がそう訴えてくる。僕はそれに従い、弁天島の祠の中であの子の声を待ち続けた。

 

 それから数十秒の沈黙が流れる。電話の向こうからも、僕の周囲にも音は無い。でも、たしかにまだ、電話は繋がっている。

 

 そうだ。ならば、名前を呼ぶべきだ。そうすれば、あの子は僕の声に言葉を返してくれるかもしれない。

 

 やってみよう。名前を呼ぶ事に抵抗を覚えてしまうのは、仕方ない反応だと受け入れる。口にしたくなくても、今はあの子の名前を呼ばなくてはならない。

 

 大きく息を吸う。祠の中に溜まっている、埃の匂いがした。

 

 そして腹を括り、僕はその名前を口にする。

 

 

 

「ダイヤさ──」

 

 

 

『触らないでッ!!!』

 

 

 

 筈、だった。

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

「………………っ、?」

 

 

 

 名前を呼ぼうとした瞬間、電話の向こうから誰かのヒステリックな叫びが聞こえてきた。

 

 今のは、あの子の声だ。間違いない。それを僕が分からない筈がない。電話をかけてきているのはあの子なのだから当然だ。

 

 解せないのは、その声が少し遠くから聞こえてきた事。携帯を耳に付けているのならもっと近くに聞こえた筈。でも今の声は違った。

 

 まるで、()()()()()()()()()()()()()()()()()()使()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。それに、叫びの内容も奇妙だった。

 

 

 

 触らないで。

 

 

 

 どうして、あの子がそんな言葉を叫ばなくてはならない。

 

 電話を取る前から感じていた嫌な予感が、徐々に確信へと変わっていく感じがする。まだ正確に何が起こっているのかは分からないけれど、何かが起こっている事だけは分かった。

 

 

 

「ダイヤさんっ!? どうしたのっ?」

 

 

 

 出来るだけ大きな声で彼女の名前を呼ぶ。彼女が電話口から離れているのなら、これくらいの声じゃないと聞こえないと判断したから。

 

 返事はない。だけど何かが動くような音は聞こえてくる。さらに耳を澄ますと、誰かの息遣いと微かな笑い声が聞こえた。

 

 それがやけに不気味で、肌に鳥肌が立つのを自覚した。でも、電話を切る訳にはいかない。あの子に何かが起こっているのなら、電波が繋がっているこの電話だけは絶対に切ってはならない。

 

 聞こえてないのなら何度だって呼べばいい。そう思い、また彼女の名前を口にしようとした。

 

 

 

 

 

『───夕陽くん、かい?』

 

 

 

 

 

 その直前、知らない男の声が耳に入って来る。声音は低く、穏やかな口調。聞いている誰かを安心させるような、芯のあるハッキリとした声だった。

 

 その声は今、僕の名前を呼んだ。僕は、こんな声の男を知らない。なのになぜ、ダイヤさんの携帯から来た電話から男の声が聞こえてこなければならない。

 

 恐怖を感じ、僕は右手にある玩具の宝石を強く握り締めた。それから、勇気を出して口を開く。

 

 

 

「だ、誰……ですか?」

 

 

 

 怖くて声が震える。神経を研ぎ澄ませていなければ持っている携帯すらも地面に落としてしまいそうだった。

 

 そんな僕の恐怖を電話口の男は感じ取ったのか、男は小さな声で笑った。それは心底愉快そうな、低い笑い声だった。

 

 

 

『おっと、失礼。久しぶりに君の声を聞いて、少しばかり嬉しくなってしまってね』

 

「………………」

 

『先日会った時は話が出来なかったからね。いやしかし、あの小さかった夕陽くんが今では立派な青年になっていたのを見て、私も驚いたよ』

 

 

 

 男は淡々と訳の分からない事を語る。それは、僕の事を昔から知っているかのような話し方だった。

 

 この声の主を記憶の中から探す。声の感じからして四十代から五十代くらいの男だ。そんな男と知り合いになった覚えはないし、そんな男と会った記憶もない。

 

 だが、男の言葉のある部分に引っ掛かりを覚えた。

 

 

 

「……先日、会った時?」

 

 

 

 その言葉を聞いて、僕はあの光景を思い出した。

 

 廃墟になったマンションの屋上。誘拐された子供がくれた一枚の紙切れ。そこに書いてあった、奇妙な言葉。

 

 

 

『そう。ちょうど十年振りだったね。まさかあんなタイミングで私の事を見つけるだなんて、君は随分と運が良いらしい。いや、むしろ私達の運命がそうさせたと言った方が正しいかもしれないね』

 

「何を言って」

 

『それに、君はダイヤちゃんとも再会していた。それが一番の驚きだったよ。まさか()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。いやはや、運命の巡り合わせとはどうにも皮肉なものだ』

 

 

 

 男は僕の疑問に答えず、ただ言葉を並べ続ける。

 

 

 

『だけどね、夕陽くん。非常に残念だよ。同じ人間を二度()()()()事は私のポリシーには反するけれど、見られてしまったからには仕方ない。私も分かりやすい見た目をしているし、警察に捕まるのは怖いからね。

 

 

 

 君達にはまた───お互いの事を忘れてもらうよ』

 

 

 

 

 

 

 

 そして、今の言葉を聞いた瞬間、生まれたから一度も感じた事のない頭痛が僕を襲った。

 

 

 

「───ぐ、ッ!?」

 

 

 

 なんとか携帯を耳に付けたまま、その場にしゃがみ込む。何故、こんな頭痛が現れるのかは分からない。そんな原因など、一つもない筈なのに。

 

 男の言葉を聞いた直後だった。まるでその言葉がトリガーになっていたかのようなタイミングだった。

 

 

 

 ()()

 

 

 

 このワードが、僕にこの頭痛を与えている。どうして、そんな意味の分からない言葉を聞いただけで酷い頭痛に襲われなくてはならない。

 

 分からない。でも何故か、僕はあの夢の映像を鮮明に思い出していた。

 

 

 

 ───暗い部屋の中。

 

 ───黒髪の女の子が隣に居る。

 

 ───手には玩具の宝石。

 

 ───男達の下衆な笑い声。

 

 ───突きつけられた包丁。

 

 ───顔に傷のある男。

 

 ───リン、という美しい鈴の音を。

 

 

 

「…………まさか」

 

『おや? どうやらその様子だと、君はあの伝説の事を知っているみたいだね』

 

 

 

 男の興味深そうな声が痛みの向こう側から聞こえてくる。僕は頭を抑えながら、その声を聞いた。

 

 

 

『なら、続きは直接会って話そうか。君はもう分かっているかもしれないが、私は今、ダイヤちゃんと一緒に居るんだよ』

 

「───ッ」

 

『真実が気になるだろう? だったら私の言う事を聞きなさい。そうしてくれたら、君が気になっている事の全てを教えてあげよう』

 

 

 

 男は尚も語る。頭痛は治まらない。今生きている場所が現実なのか夢なのか分からなくなってくる。

 

 

 

 でも、この痛みはたしかに本物だった。

 

 

 

『今すぐあの場所に来るんだ、夕陽くん。もちろん、君一人で。警察なんかに連絡したら問答無用で私は、ダイヤちゃんに鈴を振らせる。

 

 

 

 そうしたらまた、君達はお互いの事を───忘れてしまう事になるよ』

 

 

 

 

 

 低い笑い声。その時、男の声の向こう側から、もうひとつの声が聞こえてきた。

 

 

 

 

 

『夕陽さんッ!? 夕陽さんと電話をしているのですか!?』

 

「ダイヤ、さん」

 

『来てはいけませんッ! お願い───お願いですっ。あの人だけは関わらせないでッ!!!』

 

 

 

 その声が聞こえた途端、唐突に電話は切れた。短い不通音が流れ、通話は完全に終了した。

 

 

 

「………………」

 

 

 

 意味不明な電話が切れても、頭痛は治まらない。時間が経つにつれて、それは痛みを増していく感じがした。

 

 どうなってる? 分からない。何をすればいい? それも分からない。

 

 たった数分のやり取りが終わっただけで、僕の全身を取り巻く感覚が全て変化している。数分前まで抱えていた悩みも、苦しみも、今は全てどうでもよくなっていた。

 

 認識出来るのは、ダイヤさんが危ない目に遭っている事。そして、僕自身にも何かが起き始めている事。その二つだけ。

 

 暗い祠の中にしゃがみ込み、右手に握る玩具の宝石を見つめる。()()はまだ、淡い光を放っていた。

 

 立ち止まっている僕に早く動け、と命令してくるような気がした。

 

 

 

「ダイヤ、さん」

 

 

 

 宝石(ダイヤ)に向かって、あの子の名前をささやいた。返事はない。玩具の宝石は何も言わず、ただ白い光を放つだけ。

 

 酷い頭痛に耐えながら時が徒に過ぎて行く中、左手に持った携帯が祠の暗闇で光り、もう一度震え出した。

 

 ディスプレイを確認する。そこにはまた見覚えのある名前が表示されていた。

 

 

 

 今度は悩む間もなく通話ボタンをタッチし、徐に携帯を左耳へと持ってくる。

 

 

 

「……信吾?」

 

『夕陽っ! 今どこにいる!?』

 

 

 

 明らかに取り乱した親友の声。それは頭の中に響き、頭痛を助長させた。

 

 僕は顔をしかめながら口を開く。こんな時に何の用だって言うんだ。

 

 

 

「内浦に居るよ。何かあったの?」

 

『何かあったの、じゃねぇよ! とにかく一大事だからお前も協力してくれっ!』

 

「? だから、何があったの?」

 

 

 

 主語を述べる前に自分勝手に騒ぐ信吾。冷静な信吾がここまで我を忘れているのはめずらしい。

 

 落ち着いた声で訊ねると信吾は近くに居るであろう誰かに何かを言ってから、もう一度僕に向かって声をくれた。

 

 

 

『…………今、果南と鞠莉と協力してクラスメイト全員に手伝ってもらうように連絡してる。だから、お前も協力しろ。いいな?』

 

 

 

 信吾は自分が焦っている事を気づいたのか、大きな深呼吸をしてからそう言ってくる。だけど相変わらず僕の言葉を無視した言葉。多分彼の耳には僕の言葉がハッキリ届いていない。

 

 信吾の言っている事は分からない。けれど、何か良くない事が起こっているのなら手伝わない訳にはいかない。

 

 断る事を許さないという意思を込めた彼の声に、僕は頷いた。

 

 

 

「分かった」

 

『ならよく聞け。俺もさっき聞いた事だから、詳しい事は知らねぇ。でも、間違いはないらしい』

 

 

 

 信吾は声のトーンを落として、深刻そうにその内容を口にする。

 

 

 

 僕は弁天島の祠の中で、その声を聞いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『生徒会長が───誘拐された』

 

 

 

 

 

 





-9


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国木田夕陽は思い出す

 

 

 

 ◇

 

 

 灰色の空からは小雨が降り落ちてくる。周囲の人々に目を向けると、傘をさして歩く人もいればそうでない人もいる。とりわけ僕は後者だった。

 

 粒にならない雨滴が、沼津駅前の大通りを駆ける僕の顔に弱々しく体当たりをしてくる。走っている所為で全身には汗もかいているおり、雨の影響はあまり気にならない。

 

 濡れたアスファルトの上を蹴り、前へと足を進ませる。呼吸は荒く、既に肩で息を繰り返していた。もともと体力が無い事に、何度目か分からない恨みを少しだけ覚える。

 

 先日、果南さんは言っていた。走れば考えがまとまる、と。だから私は毎日走るのだ、と。

 

 

 

「……分からないな」

 

 

 

 疎らにいる人を避けて走りながら、そう呟く。誰にも聞こえないその声は、小雨が降りしきる駅前大通りの湿った空気と混ざり合って、すぐに消えた。

 

 あの時はほんの少しだけ果南さんの言葉が分かった気がした。でも、やっぱり僕には分からない。

 

 走っていても、答えは見つからない。本当に見つけたいものはどれだけ汗をかいても、目から水を零しても、見つかる事はなかった。

 

 だけど、彼女の話が嘘ではないと信じる。走り続けていればいつか欲しい答えが見つかり、欲しいものが手に入ると。

 

 だから、今は走り続ける。見つけ出すべき、()()()の姿を探しながら。

 

 

 

「──────ぐ、っ」

 

 

 

 数十分前。弁天島の祠の中で突如として発症した原因不明の頭痛は、未だ治まらない。むしろ時間が経つにつれて痛みは強さを増し、前に進もうとする僕の足を止めようとしてくる。

 

 痛みを堪えながら両足を交互に踏み出す。苦しい、止まりたい、つらい。様々なネガティブな感情が痛む頭の中を駆け巡る。

 

 それでも足を止める事はない。止められない理由が僕にはあるから。()()()()()()が、弱い僕をほんの少しだけタフにしてくれている。

 

 

 

 僕は内浦からバスでこの沼津駅前まで戻り、ある場所を目指して走っている。

 

 弁天島の祠の中で取った()()()からの電話。だが、話す相手は違っていた。電話の相手は、名前も知らない男だった。

 

 男は言った。僕一人であの場所に来い、と。まるで僕が最初からそこが何処であるかを理解しているかのように。

 

 事実、僕はその場所を特定している。電話で話をしている最中に、男が何処に居るのかを無意識のうちに第六感で感じ取った。

 

 

 

 右手に握るこの玩具の宝石が、()()()だと僕に訴えてきたんだ。

 

 

 

 

 

 ──────

 ─────

 ────

 ───

 ──

 ─

 

 

 

 

 

「…………誘、拐?」

 

『ああ。さっき花丸ちゃんから急に電話がかかってきた。十千万旅館の前にある浜辺にいた生徒会長が知らない男達に話し掛けられて、それから車に無理やり乗せられてた、って』

 

 

 

 電話口の信吾が深刻な声で状況を説明してくれる。彼はたまに冗談は言うけれど、こんな真剣な声で嘘を吐けるほど嘘が上手くないし、そんなに暇な男でもない。だから、この話は真実だと自分に言い聞かせた。信吾は話を続ける。

 

 

 

『生徒会長も必死に逃げようとしてたから、遠目からでもすぐにヤバいって思ったらしい。助けようとしたけど、周りには誰も居なかったから無理だったって花丸ちゃんは言ってた」

 

 

 

 喋りながら苛立つような声を出す信吾。彼は正義感が強いから、何も出来ないこの状況に少なからず苛立ちを感じてしまっているのかもしれない。

 

 弁天島の祠の中で信吾と電話をしながら、僕は話の内容に若干の違和感を覚えた。

 

 

 

「花丸が?」

 

 

 

 数時間前まで僕の実家に居た飴色の従妹。あの子だけが、その現場を見ていたというのか。ダイヤさんが何者かに連れ去られる光景を花丸()()が見て、それを信吾へ伝えた? 従兄である、僕に伝えずに。

 

 ならどうして、あの子は僕に連絡をしてこないんだ。自惚れる訳じゃない。自意識過剰な訳でもない。ただ普通に考えて、そんな現場を目にした花丸が一番最初に連絡してくるべきなのは、紛れもない僕である筈。だというのに、彼女は信吾へと電話をした。

 

 

 

 その意味は、なんだ? 

 

 

 

『そうだよ。あと、生徒会長を連れて行ったシルバーの車は沼津方面に向かったらしい。それと、さっきから何回も生徒会長に電話してんのに全然出ねぇ。分かるのはそれだけ。だから暇してるクラスメイト達に手当たり次第に電話して、生徒会長を探すのに協力してもらってんだよ』

 

「…………警察には、もう言ったの?」

 

 

 

 僕が問うと、信吾は一瞬の間を置いて返事を返してくれる。

 

 

 

『いや、まだだ。鞠莉に相談したら少し待てって言われた』

 

「どうして」

 

『……あんまり言いたくねぇけど、現場を見たのは花丸ちゃんだけで、他に目撃者は居ない。そんな薄い情報、ぶっちゃけ()かもしんない話を鵜呑みにして話だけをデカくするのはナンセンスだって、鞠莉は判断したんだとよ』

 

 

 

 花丸ちゃんが嘘を吐く訳ねぇけどな、と信吾は言った。僕の言葉に、彼は言いづらそうに答えてくれた。

 

 信吾の言っている事も、鞠莉さんが言った言葉も理解出来る。あの花丸がそんな突飛な嘘を吐く筈はない。

 

 けど、一歩間違えればすぐに公になってしまうような話をたった一人の証言だけで頭ごなしに真実だと決めつけるのにも無理がある。だから、花丸の言葉を疑った鞠莉さんの気持ちもよく分かった。

 

 

 

「そうだったんだ」

 

『もしそれが見間違いだったら、生徒会長にも学校にも迷惑がかかるだろ。そういう事を考えて、警察に通報するのはまだ保留にしてる。……でも』

 

「……でも?」

 

 

 

 信吾は数秒の間を空けて、僕の言葉に答えを返す。

 

 

 

『今日の夕方までに生徒会長が見つからなかったら、すぐ警察に電話するんだと。警察だけじゃなく、浦の星を裏で取り仕切ってる鞠莉の親父にも連絡入れて、捜査を手伝ってもらうらしい』

 

「………………」

 

『そうなりゃ、しばらく学校は休みになる。そんで、誘拐が本当であれ嘘であれ、鞠莉はイタリアに戻って事件の経緯を説明しなきゃ行けなくなるんだとよ。……ああ、もうめんどくせぇなっ。なんでこんな訳分かんねぇ事になってんだよ畜生っ」

 

 

 

 電話の向こう側で信吾が苛立ちを露わにする。無理もない。話の内容を聞いていれば、彼が僕に電話をかけてくるまでにどれくらい複雑な話をされたのか、想像するのは容易かった。

 

 

 

 状況は理解した。ダイヤさんが何者かに連れ去られた現場を花丸が目撃し、彼女はそれをまず信吾に伝えた。

 

 その情報を又聞きした鞠莉さんは花丸の言葉に疑いを持ち、警察に連絡するのはまだ早いと判断。クラスメイト達に協力を仰ぎ、ダイヤさんを見つける為に奔走してもらっている。

 

 もし、夕方までにダイヤさんと連絡を取れず、且つ彼女を見つける事が出来なければ即座に警察へと通報し、同時にイタリアに居る鞠莉さんのお父さんにも電話を入れる。

 

 そうなれば、話は嫌でも公に流れる事になる。この事件が真実であっても虚実であっても学校は休みになり、鞠莉さんは事件の内容を説明する為に一時的にイタリアへ帰らなくてはならなくなるらしい。

 

 

 

 ダイヤさんが何者かに連れ去られた現場を花丸が見たのは、今からどれくらい前の事なのか。それを知る由はない。だけど、誰かがそんなプランを立てられるくらいの時間は経っているみたいだ。

 

 

 

 ……多分、現段階で答えの一番近くに居るのは僕。信吾の話しぶりからして、犯人から直接電話がかかって来たのは僕だけ。

 

 だから、あの子を助けるか助けないかはほとんど僕の手にかかっている。様々な事が短時間で起こり過ぎて、頭がついて行かない。分からない事だらけだ。でも。

 

 僕がこの件に協力しなければ、最悪の事態になってしまう事だけは分かった。

 

 

 

「…………分かった。僕も協力する」

 

『今の夕陽に頼むのは気が引けたけど、そんな事を言ってる場合でもねぇんだわ。頼む。協力してくれ』

 

 

 

 相槌を打ち、電話を切った。犯人から直接電話がかかってきた事は、最後まで話さなかった。

 

 この事件は僕が終わらせなくてはならない。さっきからずっと、手に握った玩具の宝石がそう言い聞かせて来る気がした。

 

 

 

 

 

 ─

 ──

 ───

 ────

 ─────

 

 

 

 

 

「はぁ、っ」

 

 駅前通りを西に走る。目的地は決まっているから、迷いはない。あの電話を受けた時点で、ダイヤさんが何処に居るのかは分かっていた。

 

 だけど、僕は敢えて誰にもその情報を流していない。それが、犯人であろう男との約束だったから。そうしなければ、真実を知る事が出来ないから。

 

 これからたった一人で危険な場所に飛び込んで行く事になるのは重々承知している。だけど、今はその恐怖を受け入れなければならない。

 

 誘拐されたダイヤさんを救うには、未知のものに立ち向かわなくてはならない。怖くても、進むしかないんだ。

 

 

 

 小雨の中を走りながら玩具の宝石を握り締める。()()はまだ、淡い光を放ち続けている。

 

 これが何なのかも僕は知らない。どうしてダイヤさんが同じものを持っていたのかも、なぜ彼女が大事に持ち続けていたのかも。

 

 分からない事ばかりだ、本当に。けれど、今からあの場所に行けば真相を知る事が出来る。それはさっきから直感で感じ取っていた。

 

 

 

 全ての謎が明らかになる。あの夢の事も、弁天島の鈴も、玩具の宝石の事も、全部。

 

 

 

 ───リン。───リン。───リン。

 

 

 

 何処からともなく、鈴の音が聞こえてくる。それは鳴り止まない耳鳴りのみたいに鳴り続けている。

 

 だけど、周囲の人には聞こえていない。どういう訳かは知らないが、この音は僕だけが聞いている。

 

 それはなぜか“大切な事を思い出せ”、と必死に訴えかけてくるような音にも聞こえた。

 

 

 でも、何を? 僕は何を思い出せばいい? 

 

 何も忘れている事なんてない。分からない事は沢山あっても、特定の何かを忘れている事はない。

 

 そうだ。僕は忘れてなんかいない。だから、花丸が言った伝説は信じない。

 

 

 

「…………けど」

 

 

 

 もし。もし、あの話が真実だったのなら。

 

 僕は、本当に大切な何かを──忘れてしまっているのだろうか? 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 しばらくして、僕は目的の場所の前に到着した。先ほど携帯に電話を寄越した男が提示した場所。明確には示されなかったが、身体の中にある第六感は()()()と強く言い聞かせてきた。

 

 立ち止まり、荒くなった呼吸をゆっくりと鎮めて行く。降り続ける弱い雨と流れる汗が混ざり合い、服の中は濡れ、不快な感覚が全身を取り巻いていた。

 

 

 

「………………」

 

 

 

 高いマンションを見上げる。既に廃墟になり、住人は一人も居ない高層住宅。沼津に住む学生によくお化けマンションと呼ばれる、この場所。

 

 ここにはよく子供の霊が出るという噂がある。その話は、オカルト系統の話に全く興味を持たない僕の耳にも届いていた。それくらい有名な話だった。

 

 およそ二か月前。ダイヤさんと一緒に来た花火大会で誘拐されている男の子を見つけ、僕はこのマンションの屋上に上った。

 

 そして、誘拐された男の子が犯人に渡されたというメモを見た瞬間、不可思議な白昼夢を見た。

 

 昔。このマンションの屋上で、()()()よく似た黒髪の女の子と花火を見た事。その女の子の事を、僕は『ダイヤ』と呼んでいた事。

 

 僕の中にはそんな記憶は一切ない。だから、あれは幻なのだと思っていた。そう信じて、今日まで生きていた。その認識は今も、そしてこれからも変わらない筈だった。

 

 けれど、その認識が変わりそうになる()()が、僕の知らない場所で蠢いている。それはたしかに、僕とダイヤさんを一本の糸で繋げていた。

 

 果たしてそれが何なのか。このマンションの屋上へ行けば、知る事が出来るかもしれない。

 

 

 

 一度深呼吸をして、意識を()に向ける。これから起こる事は、全て現実。それを受け入れなくてはならない。

 

 大丈夫。大丈夫。大丈夫。大丈夫。大丈夫。

 

 いつか、飴色の従妹が教えてくれたおまじないを心の中で唱える。怖くなった時には心の中で大丈夫を五回唱える事。そうすれば、仏様が僕の事を守ってくれるという。

 

 普通に考えてみれば、根拠のない迷信だった。だけど、今は花丸の言葉を信じる。お寺に生まれたあの子の言葉は正しい。きっと、僕の事を守ってくれる。

 

 

 

「行こう」

 

 

 

 自分に言い聞かせるように、そう呟く。周囲に車通りがない事を確認して、僕はその廃れたマンションの中へと足を踏み入れた。

 

 閉まっている自動ドアを自分の手で横にスライドさせ、明かりの無いエントランスへと入る。花火大会の時と同じで内部は埃っぽく、不気味な雰囲気を漂わせていた。

 

 

 

「まだ、動いてるか」

 

 

 

 この間もそうだった。マンション自体に人は住んでいないのに、エレベーターだけは普通に生きている。何故なのかは知らない。けど、今は都合が良い。二十階以上あるこのマンションの屋上へ階段で歩いて向かうのは、かなり気が引けた。

 

 この瞬間も、ダイヤさんは知らない男達に捕まっている。そいつらに何かをされている、という事は考えなかった。それをほんの少しでも考えてしまえば、心はまた壊れてしまいそうだったから。

 

 冷静に、落ち着いて。ただ言われた通りにすればいい。そうすれば僕はダイヤさんを救い出す事が出来る。約束通り、彼女を守る事が出来る。

 

 

 

 上矢印のボタンを押し、最上階に止まっていたエレベーターが一階のエントランスに向かって降りてくる。

 

 階数を示す光がひとつずつ下がってくるのを黙って眺める。ジッと見つめていると、降りてくるまでの時間がやけに長く感じた。

 

 例えば電子レンジで何かを温める時もそう。普段意識しないものに意識を向けると、たったの数十秒が果てしなく長い時間に感じる事がある。多分、あれと同じ。

 

 チン、という音が鳴りエレベーターの扉が開く。僕は左足からその中へと入り、最上階のボタンを押した。

 

 

 

「────」

 

 

 

 すぐに扉が閉まり、僕を乗せた箱は最上階へと向かっていく。内臓が少し浮くような、あの独特な浮遊感。痛み続ける頭にとっては、そんなちょっとした刺激ですら痛みに変わった。

 

 

 

 その痛みを感じる度に、僕はあの夢の映像を思い出していた。

 

 

 

 

 

 エレベーターが一階上がる。───夢の中で、幼い僕は花火大会に来ていた。

 

 エレベーターが一階上がる。───花火大会の途中。一緒に来ていた従妹を見失った。

 

 エレベーターが一階上がる。───従妹を探している途中。同い年くらいの女の子に出会った。

 

 エレベーターが一階上がる。───女の子は迷子になった妹を探していると言った。

 

 エレベーターが一階上がる。───二人で一緒に探している時、ひとつの露店を見つけた。

 

 エレベーターが一階上がる。───宝石すくいの露店。僕らはそこで玩具の宝石を掬った。

 

 エレベーターが一階上がる。───女の子は言った。わたくしの名前も■■■ですの。

 

 エレベーターが一階上がる。───また女の子は言った。花火の時間が迫っている、と。

 

 エレベーターが一階上がる。───僕らはマンションの屋上で花火を見上げた。

 

 エレベーターが一階上がる。───その最中。顔に傷のある一人の男が現れた。

 

 エレベーターが一階上がる。───男は言った。()()()()()()()()、と。

 

 エレベーターが一階上がる。───気づくと僕らは、狭い部屋の中に閉じ込められていた。

 

 

 

 

 

「………………ぁ」

 

 

 

 

 

 エレベーターが最上階に着いた。───リン、という鈴の音を聞いた。

 

 

 

 エレベーターの扉が開く。

 

 

 

 僕は、大切な何かを忘れたような気がした。

 

 

 

 




次話/真実

-8


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真実

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 屋上に繋がる扉を開き、そこに足を踏み入れる。

 

 数分前まで降っていた雨は止み、曇天の空だけが頭上には広がっていた。周囲には遮蔽物がないのに風は無く、形容し難い静けさだけがマンションの屋上には漂っている。

 

 

 

「…………」

 

 

 

 目線の先には、数人の男が居る。その男達の傍に一人の女の子が跪いていた。彼女は両手を後ろで縛られているらしく、遠目から見ても明らかに自由を奪われている。俯き、長い黒髪が顔にかかって表情が見えない。ただ、まだ無事な事だけは見て取れた。その姿に、ほんの少しだけ安堵する。

 

 彼女を誘拐したあの男達に向ける怒りだけは、決して治まらないけれど。

 

 

 

「こんにちは、夕陽くん。こうして会うのは二度目かな?」

 

 

 

 扉が閉まった音が屋上に鳴り響き、男達の視線が僕の方へと向けられる。そして、離れた所に立っていた黒いスーツ姿の男がこちらに歩み寄りながら話をかけてきた。

 

 間違いない。落ち着いた低い声、右頬にある大きな傷。こいつが花火大会の時に見た誘拐犯で、先程僕に電話をかけてきた男だ。

 

 ……今なら分かる。僕は、この男を知っている。夢の中で何度も会っていた。夢の中に居る幼い僕と黒い髪の女の子は、この男に誘拐されたんだ。

 

 

 

 顔に傷のある男は不敵な笑みを浮かべながら近づいてくる。年齢は若く見えるが、恐らく四十代くらいだろう。黒い髪をオールバックにしており、身長は高く痩せている。顔に切り傷がなければ、何処にでもいる優しそうな男性に見えなくもない。

 

 だけど、僕の目にはそうは見えなかった。あの男は、何かがおかしい。普通じゃない。上手く言葉で表現できないが、狂った何かを内に秘めている。サイコパスと呼ばれる人間がこの世にはいると聞いた事がある。外見上は普通なのに、中身は残虐的な事件を起こすような狂った人間。多分、あの男は()()だ。僕の中にある感覚が警鐘を鳴らし続けている。あの男と関わってはいけない。早く逃げろ、と心は叫び続けてくる。

 

 それでも、僕は逃げない。絶対に逃げてはならない。

 

 

 

「本当に大きくなったね。君も、そこに居るダイヤちゃんも。十年前はあんなに小さかった子供が、今では立派な青年になっている。いやいや、時の流れとは素晴らしいものだね」

 

「…………っ」

 

「そんなに睨まないでくれよ、夕陽くん。今は久しぶりの再会を楽しもうじゃないか」

 

 

 

 男は僕と距離を取って立ち止まり、両手を少し広げながらそう言った。

 

 楽しむ? 何をバカな事を言っているんだ、この男は。この状況で僕が何を楽しめばいい。

 

 後ろに居る数人の男達は薄い笑みを浮かべて僕を見ている。吐き気がする。頭が痛い。ここに居る男達が同じ人間であると思う事が、どうやっても出来なかった。

 

 

 

「……夕陽、さん」

 

 

 

 気づけば俯いていたダイヤさんが顔を上げてこちらを見ている。驚いた表情。でもそれは、僕がここに居る事に驚いている訳じゃない。

 

『どうしてきたのです』とでも言いたそうな顔を、彼女はしていた。

 

 

 

「あ、あの子を離せ」

 

「うん? ああ、ダイヤちゃんの事かい。そうだね。君はあの子のためにここに来たんだから、気になっても仕方ないか」

 

 

 

 僕がそう言うと、男は彼女の事を忘れていたかのような顔をしてそう語る。

 

 なんでそんなにあの子に興味がなさそうなんだ? 僕にはその意味が分からなかった。ダイヤさんを誘拐した男がダイヤさんにあまり興味を示していない。

 

 それは、何故? 

 

 

 

「そう焦らないでもいい。すぐに解放してあげるから」

 

「なら」

 

「もっとも、君が私の条件を呑んでくれたら、だけどね」

 

 

 

 そう言って、男はさらに僕の方へと近づいてくる。

 

 僕は一歩後ずさりをしたが、その下げた足をすぐ様に前に戻した。逃げてはならない。何があっても、彼女を救い出す。

 

 

 

「条件?」

 

「そう。条件だよ」

 

 

 

 僕の問いかけを男は繰り返す。そして続ける。

 

 

 

「さっき話したように、君とダイヤちゃんは私の事を知っている。それは、あの花火大会の時に子供を誘拐する私の事を見たから、ではない。この言葉の意味が分かるかな?」

 

 

 

 僕は首を横に振る。分からない。

 

 この男は、何を言っているんだ? 

 

 

 

「なら、私の話をよく聞くんだ。これから言う言葉は全て真実。君が信じようが信じまいが、これは本当にあった事。あそこに居るダイヤちゃんにさっき話したら、すぐに真実だと受け入れてくれたよ。いや、受け入れざるを得なかったんだ。おそらくあまりにも辻褄が合いすぎて、思わず納得してしまったんだろうね。

 

 

 

 君はどうかな、夕陽くん」

 

 

 

 男はニヤリと笑い、僕の顔を見つめてくる。僕は何も言わず、顔に傷のある男の目を見つめ返した。

 

 認める。この男は、僕が知らない事を知っている。僕の事だけではなく、ダイヤさんの秘密さえも知っている。

 

 それがどんなものであれ、僕はこの話を聞かなくてはならない。そうしなければ男達に捕まっているダイヤさんを救い出す事は出来ない。

 

 約束したんだ。必ず守る、って。だったらどんなに聞きたくない話でも今は聞いてやる。

 

 それが、僕の心に傷跡を残すような話だったとしても。

 

 

 

「分かった。あの子を離してくれるなら、聞く」

 

「物分かりが良くて助かるよ。昔と変わらず、君達はお利口さんだね」

 

 

 

 黒いスーツ姿の男はそう言って、僕の周りを歩き出す。後ろ手を組み、心底楽しそうな表情を浮かべながら。

 

 

 

「なら、始めようか。君が長年にわたって抱え続けた疑問の答えを、今から私が教えてあげよう」

 

 

 

 男は歩きながらそう言ってから、ある話を語り出した。

 

 

 

 長い永い、真実の話を。

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 

 

「───私は、超能力者なんだ」

 

 

 

 男の独白は、そんな言葉から始まった。音のないマンションの屋上で、僕はその落ち着いた低い声に耳を澄ませる。

 

 

 

「超能力と言っても、テレビに出てくるマジシャンのようにマジックを使う訳じゃない。透視能力がある訳でもないし、離れた所にある何かを浮かせたりする事は出来ない」

 

 

 

 男は僕の周囲をゆっくりとした歩調で歩きながら、そう語る。

 

 

 

「私が出来るのは、誰かの心を操る事。メンタリスト、という言葉を聞いた事があるかい?」

 

 

 

 僕は頷く。一度本で読んだことがあった。

 

 鋭い観察眼で他人の心を読み、それを自由に操る事が出来る人間。なんとなくしか覚えていないが、たしかそんな人の事をメンタリストと呼ぶ筈だ。

 

 

 

「私は、そのメンタリストに近い。私には、私の目を見た者の心を操る力がある。対象は一度に二人まで。大人となると一人しか無理だが、子供の場合は二人まで操る事が出来るんだ」

 

「…………?」

 

「これは嘘ではない。真実なんだ。君も、それが本当の事だと薄々は分かっているんじゃないかい? 恐らく()()()に、私は何度も何度も出てきた筈だからね」

 

 

 

 男は小さく笑い、静かな声で続ける。

 

 

 

「私はこの力を使って沢山の子供を誘拐してきた。子供は心が純粋だから操りやすいんだ。この力に気づいた時は分からなかったけれど、誰かを操り、自分のものにする感覚というのは本当に素晴らしい。楽しいんだよ。この気持ちが君には分かるかい?」

 

 

 

 男の狂った言葉にすぐさま首を振る。落ち着いていた吐き気がぶり返して来た。

 

 

 

「どうして、そんな事を」

 

「…………ふふ。どうして、か。なら逆に質問しよう。夕陽くん、君には何か楽しいと思う事はあるかい? 理由は分からない。でも、これだけは楽しいと思ってしまう事」

 

 

 

 男は質問を投げてくる。でも、僕は答えなかった。数秒間の沈黙がマンションの屋上に流れ、僕が答えない事を男は静寂で感じ取ったらしい。

 

 

 

「人間は様々な事を楽しむ生き物だ。遊びやゲーム、読書、映画鑑賞、音楽を聴く事、スポーツ。他にも楽める事は数え切れないほどある。そして、何を好むのかは人それぞれだ。夕陽くん、君は音楽を聴くのが好きかい?」

 

 

 

 僕は頷く。それを見て、すぐに男は話を再開する。

 

 

 

「ならば、どうして音楽を聴くのが好きなのか説明できるかな?」

 

「?」

 

 

 

 その質問を聞いて、考えたくもないのに脳は自動的に答えを探し出す。

 

 音楽を聴くのが好きな理由。それは様々ある。落ち込んでいる時には元気な歌を聴きたくなるし、落ち着きたい時にはバラードを聴く。人によって理由は異なるけれど、普通に考えればそんなものになるだろう。

 

 だが、男の答えは違った。

 

 

 

「いや、出来ない筈だ。この問題の答えは説明できない、というのが正解なんだよ」

 

「…………」

 

「音楽を聴いていると心が落ち着く、気分が良くなる。こんなものは全部、後づけの理由だ。君は音楽を聴く時にいちいちそんな事を考えるかい? 好きな本を読む時に、楽しみたいから本を読むんだと毎回毎回思うかい? いいや。違う筈だ」

 

 

 

 男は一度咳払いをする。それからまた声が聞こえる。

 

 

 

「人は、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。楽しむ事を考える時、答えは必ずそこに行き着く。人間は理由がなくても何かを楽しめる動物なんだ。誰かが身体を動かすのが理由もなく好きだというように、誰かが映画を見るのが好きな理由を説明できないように。

 

 

 ───私は、子供を誘拐するのが大好きなんだよ。理由は、自分でも分からないけどね」

 

 

 

 

 

 そう、男は笑いながら言った。その言葉を聞いた瞬間、全身に鳥肌が立つのを自覚した。

 

 

 

「…………、っ」

 

「この超能力を使って子供を誘拐し、狭い部屋の中で怯える顔を眺める。すると心が躍るんだ。泣き顔を見る度に、叫び声を聞く度に、何にも代え難い快感を覚えるんだ。だから、私は子供を誘拐する。でも、そこに罪の意識は無くはない。私だって人間だから心が痛んだりもする。

 

 けどね、夕陽くん。それは気にするだけ無駄なんだよ。だって、人はみんな同じ事をするだろう。昆虫採集をする事が趣味な人は、虫が好きだと言いながら捕まえた虫を狭いカゴの中に入れて観察し、最後には平気で虫達の命を殺める。肉を食べる事も同じ。牛や豚を殺し、それを食べるのは当たり前だと思って人は生きている。そこに罪の意識は無い。否、それを感じようと思えば感じる事は出来る。けれど、意味が無いんだ。いくら虫を殺しても、牛や豚の肉を食べても、人はまた同じ事をし続ける。

 

 だから、何かを楽しむ事で生み出される負の感情に対して、罪の意識を感じる事に意味は無い。()()は、楽しむ為に必要な代償なんだ。人は皆、そんなものを無意識に受け入れながら生きている。そう、仕方ないんだ。僕が楽しさや喜びを感じるには、子供を誘拐するという()()が必要なんだ。これはただ、それだけの話なんだよ」

 

 

 

 男は淡々とその言葉を吐いた。本当に何の罪も感じていないというように、普通の人間には大抵理解出来ない正しさを語っている。その悍ましい事実に、猛烈な吐き気と眩暈を催した。

 

 

 

「──────」

 

 

 

 スプラッター映画を見た時のように、何とも言えない気持ち悪さが全身を包み込む。

 

 目の前に居る人間が、本当に自分と同じ生物だと思えない。子供を誘拐する事に喜びを覚え、さらに何の罪の意識も持たないだと? 

 

 どうやっても、どう考えても理解出来ない。出来る筈がない。この男は狂っている。身体を構成している細胞の一つひとつが普通の人間とは違う。全てがおかしい。そう。

 

 

 

 こいつは、人間の形をしただけの───悪魔だ。

 

 

 

「私はもっと子供を攫いたい。だから、()()君やダイヤちゃんのような大人には興味が無いんだ。純粋さを失くしてしまった人間には魅力が無いからね」

 

「…………なら、どうしてあの子を攫った」

 

 

 

 男の言葉に疑問を抱き、すぐさま問い掛ける。子供を誘拐する事にしか興味が無いのなら、どうしてあの子を攫ったんだ。

 

 スーツ姿の男はため息を吐き、僕の前で足を止める。そうして数秒の時間を置いてから口を開いた。

 

 

 

「君が気になるのはそこだと思っていたよ。今言ったように、私は大人を誘拐する事に興味はない。でも、君とダイヤちゃんだけは別だ」

 

「? …………どうして」

 

「あの夏まつりの夜。君達は、子供を誘拐する私の事を見てしまったからだよ。それに、君とダイヤちゃんは、()()()()()()()()()。私を知っている人間に顔を見られたら、誤魔化しはきかない。君達が警察に通報すれば私達は間違いなく捕まる事になる。それはいけない。私はまだ捕まる訳にはいかないんだ。

 

 もっと楽しむために、もっともっと子供を誘拐するためには、君達のどちらかを攫うしかなかった。そして、もう一度全てを忘れてもらわなければならない。警察に捕まる前に、その芽を摘み取らなくてはならない。

 

 だから、私は一人だったダイヤちゃんを誘拐した」

 

 

 

 男はそこまで言って、スーツのジャケットのボタンを外し、隠していた何かを取り出す。

 

 そして、()()を僕に見せるように掲げる。初めて見る筈の()()を目にした瞬間、身体の中に電気が奔った。

 

 僕はあれをどこかで目にした事がある。分からないのに分かる。

 

 

 

 あれは、あの場所に祀られていた筈のもの。

 

 なのに、どうしてあれをあの男が持っている。なぜ、僕が見つけられなかったものを奴が持っている。

 

 意味が分からない。だってあれは、誰かの作り話のはず。現実に起こる筈ない。語り継がれるだけの、おとぎ話。

 

 

 

 考えて考えて、ようやく思考の辻褄が合い始める。

 

 

 

 ───花丸が教えてくれた、お互いの全てを忘れる内浦の伝説。

 

 ───箱の中に入っていなかった、伝説の鈴。

 

 ───何故か記憶にある、男の顔とダイヤさんの面影。

 

 ───ずっと夢だと思っていた、幼い自分が誘拐されているあの映像。

 

 

 

「まさか」

 

「そう。そのまさかだよ、夕陽くん。君とダイヤちゃんがこの十年間、ずっと夢だと思っていたあの記憶は全て()()なんだ。まさかあの記憶を思い出す前に、君達がまた再会するとは思わなかったけどね」

 

 

 

 男は笑いながら、その言葉を語る。僕は男の声を聞きながら、あるものに目を奪われ続けていた。

 

 

 

「運命とはあまりにも皮肉だ。私が超能力を使って忘れさせてあげたお互いに再会し、また忘れる事になるだなんて」

 

「………………嘘だ」

 

「嘘じゃない。現実を見るんだ、夕陽くん。()()()()()()()()()()()()()。君がどれだけ抗っても、過去は消えない。でも、この鈴を使えば忘れる事は出来る」

 

 

 

 ───リン、と男は持っている美しい鈴を鳴らす。

 

 僕が見つけられなかった、弁天島の祠に祀られている鈴を、あの男は持っていた。

 

 

 

「私はさっき、誘拐する事に罪の意識をほんの少しだけ感じると言ったね。あれは本当だ。私は、誘拐した子供を殺す事はない。そこまでは残虐にはなれないんだ。だから、楽しませてくれたお礼として、超能力をかけてこの鈴を振ってもらい()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。それから解放してあげるんだ。そうすれば怖かった記憶は残らない。思い出したとしても、大抵の子供達はそれを夢だと勘違いして生きて行く。ちょうど、君達と同じように」

 

 

 

 信じたくない真実のパズルのピースが次々と嵌って行く。

 

 

 

 誰かに誘拐された夢。

 

 初めて見た時、ダイヤさんに見覚えがあった事。

 

 先端恐怖症になった意味。

 

 夢の中に、玩具の宝石が出てきた理由。

 

 

 

 それは────

 

 

 

 

 

 

 

「君達は、全てを忘れていたんだ。過去に出会っていた事も、私に誘拐された事も。私の超能力と全てを忘れさせる力を持つ、弁天島の鈴のお陰でね」

 

 

 

 

 

 

 

 顔に傷のある男はそう言って、また鈴を鳴らした。

 

 

 

 何度も何度も聞いたあの鈴の音が、マンションの屋上に響き渡った。

 

 

 

 

 

 





次話/世界で一番怖い事

-7


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世界で一番怖い事

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

「…………」

 

「それが、君達が忘れていた真実だ。これで私がダイヤちゃんを誘拐し、君をここに呼んだ意味は分かっただろう」

 

 

 

 黒いスーツ姿の男はそう言ってくる。僕は、男の言葉に何も言えなかった。何かを考える事すら、今は出来なかった。

 

 男が言ったのは、僕とダイヤさんが過去に出会っていたという事実。それから、過去に僕らを誘拐した事。そして、僕らを解放する前に僕らの心を操り、誰かの記憶を失くす力がある弁天島の鈴を振らせた。

 

 僕が長い間見ていた夢や握り締めている玩具の宝石。ダイヤさんに惹かれてしまった事。その全ての謎に辻褄が合ってしまう。どの角度、側面から見ても男の話には抜け落ちている部分は無い。僕が抱えていた疑問や秘密を完璧に説明していた。男の話に、疑問を呈する事は出来なかった。そんな余地すらなかったんだ。

 

 ただひとつだけ、引っ掛かりを覚えた点がある。

 

 

 

「ダイヤさんも、同じ夢を見ていた……?」

 

 

 

 男の話が正しいのなら、僕と一緒に誘拐された女の子──ダイヤさんも同じタイミングで弁天島の鈴を振っている筈。

 

 だとしたら彼女も僕と同じように、あの夢を見ていたのだろうか。

 

 学校が統合になった初日。僕の顔を見た時、彼女も僕と同じで()()()()()()()()()()()()()()()()を覚えたのだろうか。

 

 

 

「そうだよ。君達が再会してからどんな関わり方をしていたのかは知らない。でもその口ぶりからすると、君達はあの夢を見ていた事を一度も話した事はなかったんだね」

 

「…………」

 

「そうだろう? ダイヤちゃん。君は夢でよく見る男の子の面影と、夕陽くんを重ねていた筈だ。だけど、それを認めなかった。だから夕陽くんには話さなかった。君は十年前からプライドが高い女の子だったからね。私もメンタリストの端くれだから、それくらいは簡単に読み取れる」

 

 

 

 男は後方を振り返り、離れた所に跪いているダイヤさんに向かってそう言った。彼女は目を逸らし、何も言わずに唇を噛みしめている。

 

 その表情を見て悟った。男が言った言葉は事実だ。ダイヤさんは僕と同じ夢を見て、僕と同じような感覚を抱いていた。

 

 思い返してみると、たしかにそう言った()()()のようなものをたまにダイヤさんは見せていた気がする。

 

 

 

『夕陽くん』

 

 

 

 夢の中の女の子は、僕の事をそう呼んでいた。林間学校の時、初めて名前を呼び合った際にもダイヤさんは一度僕の事を『夕陽くん』と呼んだ。あの時は言い間違えただけだと思っていたけれど、実際にはそうではなかったのか。

 

 花火大会の時もそうだ。このマンションの屋上で男の子を助けた時、ダイヤさんは赤い巾着袋に入った玩具の宝石を見せながら僕の名前を“くん”付けで呼んだんだ。

 

 

 

「……そうだ」

 

 

 

 後夜祭の最中。僕が彼女を教室に呼び出して告白をし、それを拒絶した時にダイヤさんは言っていた。

 

 

 

『私の記憶に入り込んで、訳の分からない夢にまで毎回毎回出てきて』

 

 

 

 あの時は冷静になれなくて言葉の意味を深く考えていなかった。今考えるとそれは男が言ったように、彼女も僕と同じ夢を見ていたという事を認めている言葉に他ならない。

 

 ダイヤさんは男の言葉を否定しない。だとしたら、やっぱり。

 

 

 

「因果なものだ。何度も言うけれど、私はまさかこうして君達と再会できるとは思っていなかったんだよ。何が私と君達を引き寄せたのかは知らない。でも、運命はやはり厳しい」

 

 

 

 男は鉛色の空を見上げてそう語り、また僕の方へと近づいてくる。今度は視線が完全に僕を捉えている。あれは、僕に何かをする目だ。身体の中にある本能がそう察知してくれた。

 

 

 

「あの夏まつりの時に私と出会わなければ、君達はあの記憶を永遠に夢だと思い込んだまま、何も知らないで生きて行く事が出来たのに。今度は忘れる事無く、新しい思い出を作る事が出来たというのに」

 

「……何を」

 

「運命は君達二人に二回目の罰を与えるようだ。嗚呼、それはあまりにも悲しい結末だ。でも仕方がない。私もまだ、警察に捕まる訳にはいかないんだよ。だから」

 

「ッ!? 夕陽さんッ!!!」

 

「────────ッ!?」

 

 

 

 近づいてくる男から後ずさりをして距離を取っている時、突然背後から誰かに羽交い絞めにされる。

 

 振り払おうとして身体を捩るが、僕を捕まえている男はかなりの大男らしい。全く身体の自由が利かない。空いている踵で背後の男の足を蹴っても、痛くも痒くもないというように動じなかった。

 

 前方から近づいてくる男に気を取られてしまい、他に仲間が居る事に気づけなかった。普通なら気配くらいは感じ取る事が出来たというのに。

 

 

 

「くそ、ッ!」

 

「ハハハッ! 無駄だよ夕陽くん。君達はある事をするまでこの屋上から逃げられない。万が一逃げようとしても、このマンションの中には私の仲間が数人いる。予防策として残しておいたのさ」

 

 

 

 身体を暴れさせても強い力で抑え込まれる。これ以上動けば掴まれている腕が折れそうだ。

 

 でも関係ない。腕が折れても、足が折れても構わない。僕がどうなろうが今はどうでもいい。事実がどうとか。過去がどうとかも考えない。

 

 

 

 僕はあの子を救うためにここへ来た。だから、考えるのはそれだけでいい。

 

 僕らの身に何が起こっていようが、未来がどうなろうが知ったこっちゃない。

 

 

 

 僕は、守らなくちゃいけないんだ。

 

 

 

「……なせ」

 

「? 何か言ったかい、夕陽くん」

 

「あの子を離せって言ったんだ、ッ」

 

 

 

 僕にある唯一の使命。それは、ダイヤさんを守る事。

 

 花火大会の夜。僕らはそんな約束をした。ダイヤさんが危ない時、僕が助けに行く、と。

 

 この約束だけは絶対に破ってはいけない。破る訳にはいかないんだ。

 

 

 

 僕の言葉を聞いた男は一瞬驚くような表情を浮かべ、それからすぐに呆れるような顔をした。

 

 

 

「相変わらずだね、夕陽くん。君はつまらない。私が見たいのはそんな顔じゃないんだよ」

 

「うるさいっ! 早く言う通りにしろっ!!」

 

「小さい頃の君もそうだった。怖がっているダイヤちゃんを安心させるために、君は私達が何をしても泣かなかった。これまで数え切れない子供を誘拐してきたけれど、あそこまで頑なな子供は君しか居なかった。だから、私は君達の事をよく覚えていたんだよ。……でも」

 

「─────ッ」

 

「夕陽さんッ!」

 

 

 

 そこまで言った男は、鈴を持っていない左手を腰ポケットの方へ回し、何かを取り出した。

 

 そして、それを羽交い絞めにされて動けない僕へと突きつけてくる。()()を見て、逃げようと暴れていた僕の身体は自動的に停止した。

 

 

 

 男は───小さなナイフを僕に突きつけていた。

 

 

 

「ふふ、やっぱり今でも君は()()が苦手なんだね。準備していてよかったよ。何にも動じなかった君にも苦手なものはあった。それが、ナイフや包丁だった」

 

 

 

 男は僕の変わり様を見て予想通りだというように笑う。その顔に苛立ちを覚えたけれど、どうしても目の前に突きつけられたナイフに意識を向けてしまい、身体を動かす事が出来なかった。

 

 

 

 先端恐怖症。それは、僕が幼い頃から抱え続けてきた原因不明の恐怖症。尖ったものを見たり触ったりすると身体が震え、吐き気がするようになる。それがナイフや包丁だとさらに症状は増した。

 

 いつ自分が尖ったものを怖がるようになったのかは分からなかった。でも、男が言った言葉で理解した。

 

 僕は、この男に包丁を突き付けられた所為でこの恐怖症を発症した。間違いない。

 

 

 

 この男の所為で、僕は先端恐怖症になったんだ。

 

 

 

「や、やめろっ」

 

「君は唯一、包丁を突きつけられる事だけには反応を見せた。私はよく覚えているよ。君達はお揃いの宝石を握り締めて、部屋の隅で私達の事を睨みつけていた」

 

 

 

 男はナイフを突きつけながら近づいてくる。見てはいけないのにどうしても見てしまう。そして、トラウマは()()()()()()を思い出させて来る。

 

 身体は震え、口からは嗚咽が出る。吐き気がする。泣きたくなんてないのに、目からは自然と涙が溢れてくる。

 

 

 

「やめろッ!!!」

 

「そうだ。その顔だよ、夕陽くん。私が見たいのはそういう顔だ。思考の全てが恐怖に染まり、人間に兼ね備えられた怖れに対する感情が壊れた噴水のように溢れ出てくるその状態。それを見るのが…………私の幸せなんだよ」

 

 

 

 顔に傷のある男はナイフを突きつけたまま目の前で立ち止まり、僕が見せる反応を心底楽しいというような顔で眺めていた。

 

 狂ってる。狂ってる。狂ってる。この男は全てが狂っている。こいつは人間じゃない。この世に存在してはいけない。あの時の僕も、そう思っていた筈だ。

 

 こんな男の所為で、僕らの人生は少なからずも狂わされた。僕らだけじゃない。もっと多くの子供達が、この男に人生を狂わされている。

 

 

 

 それを、許せる筈がない───! 

 

 

 

「……………………」

 

「おや? どうしたんだい、夕陽くん。ほら、顔を上げるんだ。君が大嫌いなナイフがここにあるんだよ?」

 

「うるさい、黙れ」

 

 

 

 僕は恐怖の感情を抑え、何とかナイフから意識を逸らす事に成功する。

 

 顔を俯け、屋上の地面だけを見つめる。そうすれば何ともない。ナイフさえ見なければ、心を動かされる事はない。

 

 この男が見たいのは僕が恐怖を感じている表情や反応。なら、それを見せなければいい。そうすれば、この男の思い通りにはならない。

 

 僕はあの頃とは違う。十年前の自分が出来なかった感情の抑制をする事が出来る、大人なんだ。

 

 

 

 そうして僕が反応しない事に呆れたのか、男は深いため息を吐く。

 

 

 

「やはりつまらないな、君は。本当につまらない。今でも君は孤独で、内気な少年のままだ。あの頃と何も変わっていない」

 

「…………」

 

「なら、君の言う通りにしてあげよう。もう一度確認するよ夕陽くん。君は、ダイヤちゃんを解放してあげたいのだろう?」

 

 

 

 男の言葉に頷く。そうだ。あの子を離してくれさえすれば、その後の事はどうでもいい。僕を煮るなり焼くなりするなら彼女を解放した後にしろ。

 

 

 

「分かった。じゃあ、これからあの子を離してあげよう」

 

「え?」

 

「もっとも───」

 

 

 

 男の言葉が信じられず声を上げた時、後頭部の髪を掴まれて俯けていた顔を強制的に上げられる。

 

 そして、男は僕の顎先にナイフの切っ先を付けて、言った。

 

 

 

「─────」

 

「私の言う通りにしてくれたら、だけどね」

 

 

 

 その状態のまま、男は言葉を続ける。

 

 

 

「私が君達をここに連れてきたのは他でもない。私の力を使って、この鈴を君達のどちらかに鳴らしてもらうためだ。まだ警察が動いていないのは知っている。だから、君達がまだあの時の事を警察に流していないのは分かっていた。だけど、その可能性が少しでもあると私は自由に子供を誘拐する事ができない」

 

「なに、を」

 

「ここまで言えば分かるだろう。私はまだ捕まる訳にはいかない。だから、君達にはもう一度私の事を忘れてもらう必要がある。誰かの事を願い、この鈴を振ればその誰かに関する全ての記憶を忘れる事が出来る。君なら理解出来る筈だ。だって、君は過去にもダイヤちゃんの事を忘れているのだから」

 

 

 

 男がリン、と鈴を鳴らす。そうか。この男は最初からそのためにダイヤさんを誘拐した。

 

 夏祭りの時、僕らは同時にこの男の事を見た。男は僕らがその情報をいつか警察に流すのを恐れて、ダイヤさんを見つけて攫った。そして、何故か僕までここに呼び出した。

 

 花丸の話が正しければ、弁天島の鈴は自分にも効果がある。誰かの事を思いながら振ればその誰かは自分の事を忘れ、自分自身がその人の事を忘れたいと願って鈴を振れば、鈴を振った本人も誰かの事を忘れる事が出来る。

 

 この男が人の心を操る能力を使えるのであれば、ここに連れてくるのはどちらか一人でよかった筈。一人に二回鈴を振らせれば、お互いはお互いの事を忘れる事が出来た筈だ。

 

 なのに、どうして僕まで呼び出した。

 

 その意味はなんだ。

 

 

 

「なら、なんで僕をここに呼んだ」 

 

 

 

 その疑問を羽交い絞めにされた状態で問う。すると男はナイフを突きつけたまま、顔に笑みを浮かべた。

 

 

 

「その質問は愚問だね。私は、どんな時でも楽しむ事を忘れない。ダイヤちゃん一人に鈴を振らせて終わりではつまらないだろう? だから、鈴を振ってもらうのは夕陽くんが良いと思ったんだよ」

 

 

 

 顔に傷のある男は、僕の問いかけにそう答えた。意味が分からない。だが、男はすぐに言葉を続けた。

 

 

 

「夕陽くん。この世で死ぬ事よりも怖い事って何だと思う?」

 

「…………?」

 

「分からないのなら教えてあげよう。それはね」

 

 

 

 黒いスーツを着た男は僕に顔を近づけてくる。

 

 

 

 そして、その鮮やかな赤い目を僕に見せてきた。

 

 

 

 

 

「───()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 

 

「─────ッ!」

 

 

 

 危険を感じ、咄嗟に目を閉じた。その男の目を見てはいけないと、誰かが僕に向かって叫んできた。

 

 男は先ほど、目を見た誰かの心を操れると言った。その言葉は恐らく真実だ。男はその力を使って子供を誘拐し、解放する前に弁天島の鈴を使って誘拐されている時の記憶を強制的に削除(フォーマット)する。そうすれば子供の記憶の中には奴の記憶は無くなり、警察に特徴を掴まれずに済む。こいつはそれを何度も繰り返してきた。そして、僕とダイヤさんは過去にその対象になっていた。

 

 男は僕の心を操り、手に持った鈴を強制的に振らせようとしてきたんだ。それは避けなくてはならない。男の言う通りにして鈴を振って、いくらダイヤさんを守る事が出来たとしても彼女の事を忘れてしまうのはダメだ。だから僕は目を瞑った。

 

 それだけは、絶対に避けなくてはならない。

 

 

 

「目を開けるんだ、夕陽くん。そうしなければ私は君を操れない。君だってここからダイヤちゃんを逃がしてあげたいんだろう? なら、早く目を開けるんだ」

 

「嫌だ」

 

「そうかい。なら、これでもダメかな?」

 

「う、っ!?」

 

「ゆ、夕陽さんッ!」

 

 

 

 男はナイフで僕の右頬を横一線に軽くなぞった。見えていないけれど感触でそれが分かる。すぐに血液が肌の上をなぞり、垂れて行くのを感じた。

 

 ダイヤさんからもその光景が見えていたのか、彼女の叫び声が聞こえた。さっきから何度か名前を呼ばれていたけれど、そういえばこうしてあの子の声を聞くのも久しぶりだった。

 

 会っていないのは一週間くらいなのに、永いあいだ聞いていなかった気がした。それは多分、十年振りに彼女の姿を見た時みたいに。

 

 あの子の声を聞けただけで今は嬉しさを感じてしまう。こんな状況なのに、それだけはどうしようもなかった。

 

 

 

「痛いだろう? ナイフで切られるとこんな痛みを感じるんだよ。知らなかったかい?」

 

「…………ッ」

 

「さぁ、目を開けるんだ。同じ痛みを感じたくないだろう。目を開けて私の目を見るだけでいい。そうすれば、君がどれだけ抗っても全て忘れられる」

 

 

 

 男はそう言ってくる。だけど、僕は目を開けない。開けてしまえばダイヤさんを忘れてしまう。彼女にも僕の存在を忘れられてしまう。

 

 それを思えばこんな痛みなど痒くもない。絶対に開けてたまるか。その目を見てたまるか。死んでもこの目だけは、開かない。

 

 

 

「い、嫌だっ」

 

「……そうかい。私も手荒な事をするのは好きではないから、あまり傷つけるような事はしたくないんだけどね」

 

「なんとでも言え。僕は絶対にお前の目を見ない。鈴は振らない」

 

「はぁ……なら、仕方がないね。君の心は宝石のように硬いのは理解したよ。君にどれだけ傷を与えても、君の心は砕けないだろう。けど……」

 

「───やめてっ、触らないで!」

 

「!?」

 

「あの子に手を出せば、流石の君でも折れてくれる筈だ」

 

 

 

 男の声の向こう側から、ダイヤさんの声が聞こえてくる。それで悟った。この男は、あの子に手を出そうとしている。

 

 彼女の周りには数人の男が居た。この男は離れた所に居る男達に何かサインを出したのだろう。そして、動けないダイヤさんを襲わせようとしている。

 

 それは、ダメだ。僕が傷つくのはいい。僕が血を流すの構わない。それでも。

 

 

 

 ダイヤさんが傷つく事だけは、あってはならない。

 

 

 

「やめろッ! 僕がここに居るならあの子は関係ないだろ!? あの子には、ダイヤさんには手を出すなッ!!!」 

 

「関係ない? 違うよ夕陽くん。それは誤解だ。私は最初からこうなると思ってあの子を自由にしなかった。彼女を人質にすれば、君はどんな事でも聞いてくれると思ったからね」

 

「──────っ」

 

「早く目を開けるんだ夕陽くん。さもなければ、あそこに居る男達はこの場であの子を犯す。問答無用でね。私は彼らにそう指示をしている。あの子の身体が知らない男達に犯される光景を、彼女の悲痛な喘ぎ声を─────

 

 

 

 君は目を瞑ったまま、黙って聞いているのかい?」

 

 

 

 

 

 

 

 男は僕の耳元でそう呟く。その言葉を聞いて、ハンマーで頭を殴られたような感覚に襲われた。

 

 ダイヤさんの身体が知らない男達に触られる。それを想像しただけで全身に鳥肌が立つのを自覚した。

 

 だが、それは想像だけで終わるものではない。現在進行形で、彼女の身体はあの男達に貪られそうになっている。僕が目を閉じている所為で、ダイヤさんが傷つきそうになっている。

 

 

 

「やめて! 離して、ッ」

 

 

 

 また、ダイヤさんの声が聞こえてくる。今度は涙が混じった叫び声だった。

 

 彼女は僕の所為で傷つこうとしている。知らない男達の手で、犯されそうになっている。

 

 

 

 なのに、僕は。

 

 

 

「どうしたんだい? 早く開けなさい。ほら、男達があの子の服を脱がそうとしているよ?」

 

「ッ!」

 

「このまま黙って目を瞑っているかい? それとも、私の目を見て全てを忘れるかい? さぁ、選ぶんだ夕陽くん」

 

 

 

 男は僕の肩を揺らしてくる。答えを焦らせて来る。

 

 嫌だ。ダイヤさんが誰かに傷つけられるなんて、想像したくもない。

 

 嫌だ。ダイヤさんの事を忘れるなんて、ダイヤさんに僕の事を忘れられるだなんて、考えたくもない。

 

 

 

 分かってる。僕はさっき、花丸の話を聞いて弁天島の鈴を鳴らしに行った。ダイヤさんを忘れる為に、つらい日々を終わらせる為に、全ての記憶を失くしてくれるという鈴に力を借りに行った。

 

 あれは、花丸の話が本当かどうかまだ信じていなかったから。本当に弁天島の鈴にそんな力があるのか知らなかったから、自暴自棄になってしまっていただけ。

 

 

 

 でも今は違う。ダイヤさんを忘れたくない。ダイヤさんに僕の事を忘れてほしくない。

 

 あんなに酷い事を言われたのに、もう二度と同じ関係性には戻れないのに。

 

 

 

 それでも僕は、あの子を忘れたくない。

 

 

 

「ダイヤ、さんッ」

 

 

 

 だけど、僕があの鈴を振らなければ彼女は傷ついてしまう。心に一生消えない傷を残してしまう。

 

 僕の所為で、ダイヤさんはその傷を死ぬまで抱えていかなければならない。僕の所為で、ダイヤさんは怖い思いをしなければならない。

 

 

 

 二つの悲しみを天秤にかけた。

 

 

 

 ああ、それなら答えはすぐに出る。僕は。

 

 

 

「夕陽、さんッ!」

 

 

 

 

 

 それでも─────僕は。

 

 

 

 

 

 

 

「その子から離れろッ!!!」

 

「………………?」

 

 

 

「…………これから目を開ける。

 

 

 

 だから、その子には手を出すな」

 

 

 

 

 

 

 

 ダイヤさんを守る事を選ぶ。

 

 

 

 たとえ、全ての記憶を忘れる事になっても。

 

 

 

 




次話/ラストメッセージ

-6


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ラストメッセージ

 

 

 ◇

 

 

「ゆう、ひ、さん」

 

 

 

 ダイヤさんの声が少し離れた場所から聞こえてくる。その声を聞いた途端、両目から温かい水が溢れ出してきた。瞼を閉じたまま、僕は黙って涙を流した。

 

 こんな選択しか出来ない自分が恨めしいのではない。これであの子を助けられるから、嬉しくて涙を流している訳でもない。

 

 ただ、僕は運命が憎かった。何故、ここまで苦しまなければならないのか。どうして、何もしていないのに耐え難い痛みを味わなくてはならないのか。それはきっと、運命の所為。

 

 こんな理不尽を、どうやって自分の責任にすればいい。どちらを選んでも苦しむ事になる選択を、何を持って自分の所為に変えればいい。

 

 分からない。僕には何も分からない。それをただ受け入れるしかないのなら、この世界はどれだけ不平等なんだろう。

 

 抗おうとしても、そもそも抗いようがない。自分も、誰かや物さえも恨めない。だから僕には、形のない運命なんて幻想に憎しみを覚える事しか出来なかった。

 

 それでも僕は、その残酷な運命を受け入れてしまった自分を───許す事が出来なかった。

 

 

 

「ふふ、そうかい。やっぱり君はあの子が大切なんだね」

 

「…………ッ」

 

「あの子との記憶を失くしても、あの子に自分を忘れられようとも、君はあの子を守るのか。ああ、夕陽くん。君はあの頃と何も変わらない。十年前も君はそうやって、ダイヤちゃんを守る代わりに鈴を振る事を受け入れた。まるで、あの時の記憶を見ているようだよ」

 

 

 

 目を瞑ったまま、男の声を聞く。そうだ。今なら思い出せる。あの時も、僕は守る為に鈴を振った。

 

 ダイヤさんを悲しませないように、あの怖い記憶を忘れさせてあげたんだ。もちろん、僕と過ごした記憶も一緒に。

 

 

 

 これは、十年前の再現。傷つこうとするダイヤさんを守る為に、僕は彼女に関する全ての記憶を消す。同時に、彼女自身にある僕という存在の記憶も消す事になる。それが、僕に出来る最善の選択だったから。

 

 

 

 でも、その前に。

 

 

 

「…………少しだけ」

 

「? なんだい、夕陽くん」

 

「最後に少しだけ、あの子と話をさせてほしい。それが、目を開ける条件だ」

 

 

 

 忘れる前に、言っておかなくちゃならない事がある。お互いに関する事を忘れてしまえば、その記憶すら残らない。それでも、僕は言っておきたかった。

 

 彼女にもう一度、言わなくちゃいけない事があったんだ。

 

 

 

「……そうかい。君がそうしたいのなら、好きにすればいい。私もそこまで鬼じゃないからね」

 

 

 

 僕の願いに男は了承した。その言葉を聞き、目を開けないで俯けていた顔を上げる。羽交い絞めにされた身体は少しも動かない。だから、ここからあの子に声を届かせる。

 

 

 

 最愛のあの子に、最後の言葉を伝える為に。

 

 

 

「…………」

 

 

 

 マンションの屋上に静寂が流れる。目を瞑ったまま、海の方から吹いてくる優しい風を感じた。九月の海風はナイフで切られた頬を撫ぜ、何処かに向かって飛んで行く。この胸の中にある憎しみや恨み、憂いを一緒に運んで行ってほしかった。僕も風の一部になり、自由になりたかった。

 

 けれど、それは許されない。これから僕は、罪を持たない罪人になる。そして、その罪のない罪を償わなくてはならない。ダイヤさんを守る為に、彼女の全てを忘れなければならない。その罪の罰を、受け入れなくてはならない。

 

 

 

 最後に何を言うか。必死に言葉を探した。でも、言いたい事はひとつしかなかった。

 

 忘れる前に、僕らがお互いの事を忘れてもこの世界に残るものを、残していたかった。だから。

 

 

 

「ごめんね、ダイヤさん」

 

 

 

 僕は、そんな言葉から最後の会話を始めた。

 

 

 

「どう、して」

 

「僕は、僕の所為でダイヤさんが傷つくのを見たくない。だったら、忘れる事を選ぶよ」

 

「ちがいますっ。どうしてあなたはここに来たのです! あなたにはそうする筋合いはない。あのようにあなたを突き放した私を、なぜ助けに来たのですっ」

 

 

 

 ダイヤさんは離れた場所に居る僕に、そう言ってくる。

 

 ああ、まったくだ。どうして僕は、あんな酷い事を言った女の子を助けになんて来たんだろう。

 

 僕の想いを踏みにじり、心を木っ端みじんに壊した罪な女の子をなぜ、助けなければならないんだろう。 

 

 その最悪な子のために深く傷つき、数え切れないほどの涙を流した。自分だけじゃなく、大切な友達も傷つけた。死ぬ事さえ考えた。

 

 なのに、僕はそんな女の子の事を守ろうとしている。あの子と過ごした大切な思い出の全てを失くしてまで、彼女を守ると決めた。

 

 それは、どうして? 答えはひとつしかない。

 

 

 

 花火大会の時、僕はあの子に言った。

 

 後夜祭が行われている時も、同じ事を言ったんだ。

 

 

 

 

「……約束したでしょ、()()()()()()って」

 

 

 

 

 それが、どんな状況でも。どんなに理不尽な運命の奔流の中であっても。

 

 僕は、ダイヤさんを守るって決めた。

 

 

 

「─────」

 

「ダイヤさんを守る為なら、なんだってする。ダイヤさんが生きる為にここで僕が死ななくてはならないのなら、僕は喜んで死を選ぶ。それが死ぬ事じゃなくてダイヤさんの記憶を失くすだけで済むのなら、僕は何も怖くないよ」

 

 

 

 彼女に見えているか分からない。それでも、僕は目を瞑ったまま笑顔を浮かべた。

 

 だけど、涙は止まらない。切られた右頬の傷口に、温かい水がやけに沁みた。

 

 

 

「……嫌」

 

「ごめん。ちょっとだけ嘘吐いた。やっぱり、ダイヤさんを忘れるのは怖い。ダイヤさんに僕の事を忘れられるのも、本当は怖くて仕方ない」

 

 

 

 思ってもいない強がりを言ってしまった事を訂正する。彼女を安心させるように、笑いながら。

 

 僕が彼女の事を大切に思っていようとも、彼女自身が僕の事を大切に思っている事はない。だからきっと、ダイヤさんは僕の事を忘れてもいいと思っている。

 

 あの時、あんな風に僕を突き放したんだ。本当は今も、顔すら見たくないのかもしれない。なら、彼女の記憶の中に居る僕が消える事は、むしろダイヤさんにとって都合の良い話。それで自分が傷つけられないで済むのなら、そんなに良い話は無いと思っているだろう。

 

 

 

 だってダイヤさんは、僕の事なんて大嫌いな筈だから。

 

 

 

 そう、思っていたのに。

 

 

 

「ならば忘れないでくださいっ!」

 

「…………え?」

 

 

 

 ダイヤさんは、僕に向かってそう叫んだ。だけど、僕にはその言葉の意味が分からなかった。

 

 

 

「……私は、あなたに忘れてほしくないのです。あなたの事を、忘れたくないのです」

 

「………………」

 

「分かっています。私は矛盾した事を言っている。自ら突き放しておいて、それでも忘れたくない、忘れられたくないなど都合が良いにも程があります。ですが、それにはちゃんとした訳があるのです」

 

 

 

 目を閉じたまま、少し離れた場所で紡がれる言葉を耳にする。ダイヤさんは独白を続け、僕は何も言わずに聞き慣れた彼女の声に耳を澄ませた。

 

 僕は、彼女の本当の想いを知った。あの時分からなかった彼女の気持ちや感情を、今さらになって理解してしまったんだ。

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 第六十四話/ラストメッセージ

 

 

 

 

 

 

 

「…………あなたに告白をされた時、本当は嬉しかったのです。あなたが言ってくれた言葉の全てが嬉しかった。思わず、涙が出てしまいそうになる程に」

 

 

 

 彼女は静かに語る。静寂が辺りを包むマンションの屋上に、細く綺麗な声が音色のように響いていた。

 

 

 

「でも、私のプライドがあなたの言葉を受け入れる事を許さなかったのです。男はみんな同じ。男はいつも、穢れた目で私の事を見てくる。そんな、長年にわたって積み重ねた強迫観念が、私の本当の気持ちを押し潰したのですわ」

 

「…………ダイヤ、さん」

 

「その考えが間違っていた事は四月の時点で気づいていました。あなた方は悪い人達ではない。私が抱いていた男性の認識はたしかに変わっていた。もっと良い関係を築けると思っていたのです。……なのに」

 

 

 

 ダイヤさんはそこで一度言葉を止める。彼女が俯いて悔しそうに唇を噛み締めている光景が脳裏に浮かぶ。

 

 彼女が何を考えているのかは、まだ分からない。想像してみても思い浮かぶイメージは淡く、泡になってすぐに消えた。

 

 

 

「…………なのに、私は何も変わっていなかった。あなたに告白をされた時、今までの自分が今の自分を殺して、咄嗟に考えていた事と反対の言葉を言ってしまった。本当は、あなたの気持ちを最後に受け入れるつもりでした。でも、気づいた時にはもう、あなたは私の目の前から居なくなっていた。本当に言いたかった事を言う前に私は、あなたの心を砕いてしまっていたのです」

 

 

 

 彼女の言葉が紡がれる度に、抱えていた全ての悩みの紐が解けて行く感じがした。同時に、また涙が溢れ始めた。

 

 僕は嫌だった。今はそんな話、聞きたくなかった。だって、聞いてしまえば。

 

 

 

「あなたに謝りたくて、でも、どうやって謝るべきが分からなくてずっと途方に暮れていました。今さら何を言っても、酷い事を言った私の事など、あなたはもう嫌いになってしまったと思っていた。なのに、あなたはこうして私を助けに来てくれた。…………だというのに、私はっ」

 

 

 

 ダイヤさんの声に、涙が混じる。目を瞑っているのに、声音でそれが判断できた。

 

 あのダイヤさんが泣いている。その顔を僕の頭で想像する事は、不可能だった。

 

 いつも強くて、意地っ張りで、どんな時でも凛としている生徒会長。そんな女の子が、誰かのために涙を流していた。

 

 その誰かは───紛れもない、僕だった。

 

 

 

 

 

「私は、臆病者です。林間学校の時、あなたが言った通りです。私は、強がりの塊。ただの硬いだけの、ダイヤモンドなのですわ」

 

 

 

 

 彼女は尚も語る。誰よりも強く在ろうとしていた彼女が初めて、自分を責めている。

 

 そんな事ないと言ってあげたかった。でも、僕にはそんな資格すらなかった。

 

 今の僕に出来るのは、目を閉じたまま情けなく涙を流す事だけ。それしか、僕には出来なかった。

 

 

 

「それでも私は、答えを受け入れました。誰にどう言われようと、この気持ちだけは変わらない。強がりで隠した想いを、時間をかけて許す事が出来たのです」

 

「ダイヤさん」

 

 

「私は───あなたの事が、大好きです。この世界に居る誰よりも、あなたが私を好きだと言うよりもずっと、ずっと」

 

 

 

 涙混じりの声で、彼女はあの時の答えを僕にくれた。

 

 あの時、僕が逃げなければ聞いていた筈の返事を、ようやくダイヤさんはくれたんだ。

 

 

 

 

「私は、夕陽さんの事を愛しています。だから、忘れたくない。私を忘れないでください。

 

 

 

 

 

 お願いだから…………忘れないで」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 

 

 ダイヤさんの弱い声が耳に入った瞬間、決めた筈の決心が鈍った。

 

 彼女を傷つけないために、僕は目を開けて男の目を見て心を操られ、弁天島の鈴を振る筈だった。それで彼女の全てを忘れて、彼女も僕の事を忘れて、全てが終わる筈だった。

 

 なのに。

 

 

 

「ハハハハハハハハハハッ!!! いいねいいねいいねぇッ! 素晴らしい、素晴らしいよ夕陽くん、ダイヤちゃん! 私が見たかったのは君達のそんな姿だっ」

 

「──────ッ」

 

「大切な人の事を忘れる、忘れられるその苦しみを想像し、死よりも恐ろしい恐怖を覚えて泣き喚く醜い姿。そうだよ、それこそが人間の最も美しい部分だ! 嗚呼、まさかこんな所でそんな光景が見られるだなんて……、最高だよ」

 

 

 

 男が大声で狂ったように笑っている。目を開けられないのでどんな風に笑っているのかは分からないが、想像するのは容易かった。

 

 この男に、本気の殺意を覚えた。もしこれから自分が死ぬ運命にあったのなら、僕は確実にこの男を殺してから死んでいただろう。

 

 

 

「やっぱり君達と再会したのは運命だったんだ。そうでなければ説明がつかない。この運命は私の味方をしてくれている」

 

「…………黙れ」

 

「さぁ、舞台は整ったよ夕陽くん。早くその目を開けてくれ。君のお望みどおり、大好きなあの子の記憶を失くしてあげよう」

 

「黙れッ!!!」

 

 

 

 心底楽しそうに声を吐き出す男に向かって、僕は叫んだ。たった三文字の言葉で、喉が掠れてしまうほどの勢いで。 

 

 屋上に居る他の男達も声を上げて笑っている。僕らの会話を聞いて、まるで喜劇でも見ているかのように。

 

 そんな声を聞いて、また強い苛立ちと憎しみを感じた。それでも、力の強い男に羽交い絞めにされている状態では何もできない。それがもどかしくて、どうしようもなかった。もしも自由になれたのなら、今すぐにでもダイヤさんを助けに男達へ立ち向かっていただろう。絶対に負けるのも分かっていても、確実にそうしていた。

 

 

 

 苛立ちで沸騰しかかった感情を抑える。時間が流れ、さっきと同じような静寂がマンションの屋上を包み込んだ。

 

 一度大きく深呼吸をする。内浦で嗅いでいたあの潮風の香りが、ほんの少しだけ感じられた。今はあの香りがどうにも愛おしく感じてしまった。

 

 

 

「………………」

 

「………………ダイヤさん」

 

 

 

 僕は、彼女の名前を呼ぶ。好きだと言ってくれた、最愛の人。この世で一番硬い宝石と同じ、その女の子の名前を。

 

 ダイヤさんは、僕に忘れてほしくないと言った。でもそれは違う。彼女がここであの男達に傷つけられる事だけは、あってはならない。

 

 鈍ってしまった決心もそれを思えばまた固まった。僕だって、忘れたくない。忘れられたくない。けど仕方ないんだ。

 

 世界で一番大好きな女の子を守るには、その子の事を忘れるしか、方法が無いんだから。

 

 

 

「ごめんね。それと、ありがとう」

 

「夕陽さんッ」

 

「僕の事を好きになってくれて、ありがとう。今まで一緒に居てくれて、ありがとう。……また出会ってくれて、ありがとう」

 

 

 

 これからどうなるのかは知らない。彼女を忘れた後に、今までと同じようになれるのかは分からない。

 

 でも、今のダイヤさんとはさよならをする。この半年で、沢山の思い出を作り、一緒に過ごして来た大好きな人とお別れをする。

 

 だから、これは寂しい事じゃない。また一からやり直せばいい。そして、ゼロを一にすればいい。

 

 僕は、気づかない間にそれを成し遂げていた。彼女が僕の事を好きだったなんて、本当にこれっぽっちも知らなかった。

 

 だけど、今はそれが幸せ。絶対に手が届かないと思っていた女の子の心を、少しでも動かす事が出来た。壊れる事がない宝石にヒビを入れる事は出来た。

 

 その事実だけで、僕は十分だ。

 

 

 

「嫌です! 忘れたくないっ、忘れないでっ!」

 

「…………ごめん。それでも、僕は約束を守るよ」

 

「どうしてです!」

 

「だって、僕はダイヤさんの事が大好きだから。君を守る為に、僕は君を忘れる」

 

 

 

 言いたい事は、全部言えた。聞けるとは思わなかった彼女の想いも最後に聞く事が出来た。これ以上はもう、求められない。

 

 リン、という美しい鈴の音がすぐ傍から聞こえてくる。その音はなぜか、僕に振られるのを待っているような音に聞こえた。

 

 

 

「覚悟は決まったようだね」

 

 

 

 男が僕に近づいてくるのを足音で感じる。それから男は、僕の目の前に立った。

 

 

 

「これで君達は初対面に戻る。三度目の出会いをする前の気分はどうかな?」

 

「………………」

 

「これから君達は、お互いの記憶の中から消える。それは死ぬ事と同義だ。分かるかい? いや、それはもしかすると死ぬよりも怖い事かもしれない。死んだ人の記憶は生きている人たちに残る。けれど、お互いを忘れてしまったら君達は赤の他人になる。まぁ、十年という期間限定の死だがね」

 

 

 

 男はそこで言葉を区切り、また続ける。

 

 

 

「さぁ、いつでも構わないよ夕陽くん。君の決心がついたら、その目を開けるといい」

 

 

 

 これで、終わりの準備は整った。

 

 目を開ければ、男に操られて僕は勝手に弁天島の鈴を振る。そして、あの子の記憶を忘れる。あの子も、僕の記憶を忘れる。これは、ただそれだけの話。

 

 目を開ける前に今までの思い出を思い返そうとしたけれど、やっぱり止めた。なんとなく、怖くなってしまいそうだったから。

 

 今でも十分怖い。だけど、これ以上怖気づく訳にはいかなかった。あの子を守る為に、今だけはタフでいなければならない。そう自分に言い聞かせた。

 

 

 

「夕陽さん! 目を開けないでッ!」

 

「ほら、目を開けなさい夕陽くん。そうすれば、あの子が傷つかなくて済むんだよ」

 

「私は傷ついてもいいのです! だから、忘れないでくださいっ」 

 

 

 

 ダイヤさんと男の声が耳を通り抜ける。それでも、僕はこうする事を選んだんだ。

 

 だから、この決断だけは最後まで貫き通す。

 

 

 

 僕にあるのは、何かを守り続ける一途さだけだから。

 

 

 

 

 

「夕陽くん」

 

「夕陽さん!」

 

 

 

 

 

 男とダイヤさんが名前を呼んでくる。

 

 そして、その声に反応するように。

 

 

 

「─────────」

 

 

 

 

 右手の中にある玩具の宝石を強く握り締めながら、僕は閉じ続けていた目を開けた。

 

 その瞬間、眩い光が視界の全てを包み込んだ。

 

 




次話/生徒会長は砕けない

‐5


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生徒会長は砕けない

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

「──────っ」

 

『ねぇ、目を開けてよ』

 

 

 

 何処からともなく、声が聞こえてくる。幼い男の子の声。何故か聞き覚えがある、その声音。

 

 突然光に包まれ、咄嗟に目を閉じた。そして数秒後に少年の声が耳を通り抜ける。

 

 僕は聞こえた言葉の通りに、閉じていた瞼をそっと開いた。

 

 

 

「…………」

 

『久しぶりだね。と言っても、僕はずっと君の側に居たから懐かしい気はしないけど』

 

 

 

 目を開けた先に立っていたのは、まだ背の小さい一人の男の子。飴色の髪は長く、思わず女の子と見間違ってしまいそうになるくらい中性的な顔をしていた。

 

 辺りは白く、何も見えない。どれだけ目を凝らしても純粋な白い世界が続いているだけの空間。

 

 そんな中に、僕とその少年だけが向かい合って立っていた。五メートルほど離れた所に彼は立ち、琥珀色の両眼で僕の事をジッと見つめている。

 

 ここは、何処だろう。僕は今まであのマンションの屋上に居たというのに。

 

 

 

「君は、誰?」

 

『僕は、君をずっと見守ってきた()()だよ。ちょうど十年間。この日のために寄り添い続けた、君の宝物』

 

 

 

 男の子は幼い声でそんな言葉を語る。すらすらと、見た目には似合わない大人びた喋り方だった。

 

 

 

「宝物?」

 

『そう。君が長い間、何があっても手離さなかったひとつの()()。身に覚えがないとは言わないよね」

 

 

 

 少年はそこまで言って、小さな手に握り締めていた()()を僕に見せてくる。

 

 それを見て、彼の正体を察する事が出来た。

 

 

 

「それは……」

 

『僕はこの中に眠り続けていた。君が大切な人を忘れたあの日から、ずっとここで眠っていたんだよ」

 

 

 

 男の子が持っていたのは─────玩具の宝石。

 

 僕が長い間、宝物として寄り添い続けたあの宝石を彼は手のひらに乗せていた。

 

 

 

「眠っていた?」

 

『うん。十年前、君は大人達を怖がるあの子にずっと言い聞かせていたよね。『大丈夫。この宝石を握り締めていれば、必ず僕らの事を守ってくれる』って』

 

 

 

「…………」

 

『もちろん、そんなのは嘘だ。プラスチックで出来たただの玩具の宝石にそんな力はない。それでも、君はあの子を安心させる為にこの宝石を握り締めていた。

 

 そして十年間、お守りとして常に自分の傍に置いていた』

 

 

 

 男の子の言葉に、記憶が蘇る。そうだ。僕はあの狭い薄汚れた部屋の中で、プラスチックで出来た玩具の宝石とあの子の手を握り締めていた。この宝石があれば僕らは大丈夫だと、隣に居る黒い髪の女の子を安心させる為に言い聞かせていたんだ。

 

 白い空間に立つ男の子は言葉を続ける。

 

 

 

『全ての記憶を忘れ、離れ離れになった君達が出会うのは必然だった。同じ宝石を大事に守り続けた君達が、十年後に引き寄せられるのはあの日から決まっていた運命だったんだ』

 

「運、命」

 

『そうだよ。君はあの子を見た時に思った筈だ。()()()()()()()()()()()、ってね。当然だよ。だって、あの弁天島の鈴は頭の中にある記憶を忘れさせる事は出来ても、心の中にある記憶までは奪えない。頭ではなく君の心が、あの子を覚えていたんだ』

 

 

 

 男の子は玩具の宝石を乗せた手をこちらに差し出しながら、静かにそう語る。目は一時も離れない。まるで鏡と向かい合っているようだった。鏡の中の自分が、僕の事を見つめ返してくるみたいに。

 

 

 

『そして、あの子も君と同じ事を思っていた。あの赤い巾着袋の中に玩具の宝石を入れて、どんな時も離さなかった。失くしても、必死に探してまた見つけていた』

 

 

 

 林間学校の夜の出来事を思い出す。あの時、彼女は一人で赤い巾着袋を探しに外へ出た。僕は彼女を追い、一緒に()()を探した。

 

 あの子は言っていた。あれは、大切なものだと。それは僕と同じだった。僕らは同じものを同じように、大切な宝物として持ち続けていた。

 

 

 

『君達は意味も分からずこの宝石を持っていたのかもしれない。でも、ちゃんと意味はあった。このただの玩具の宝石が君達を引き寄せ、再会させたんだよ』

 

「…………あれが」

 

『けど、そんなのは単なる運命。後付けの能力でしかない。この宝石が持つ力は、それだけじゃない。その瞬間のために、君達はこの宝石を持っていたんだ』

 

 

 

 男の子はそう言って、僕の方へと近づいてくる。徐々に近づいてくるにつれ、彼が誰かに似ている事に気がついた。

 

 いや、ちがう。僕は彼の正体に最初から気づいていた。

 

 そして少年は目の前で立ち止まり、手を差し出してきた。それから彼は手の中にあった玩具の宝石が付いたペンダントを僕の右手に乗せた。

 

 

 

「その瞬間のため?」

 

『そう。現実の君が陥っている状況の事だよ。大切なあの子を失いそうになっている、その瞬間。僕は、この時のために眠り続けていた』

 

 

 

 男の子はそう言って笑顔を浮かべる。その笑顔にはやっぱり、誰かの面影があるような気がした。

 

 

 

『それは─────君とあの子を守る事。君が十年前に言っていたように、その宝石を握り締めていれば、僕が必ず君達を守る』

 

 

 

 男の子がそう言った時、白い世界が崩れていく。空間がひび割れ、壊れていく。そして、僕を元居た世界へと戻させる。

 

 少年はそれでも笑っていた。僕も、彼に向かって精一杯の笑顔を浮かべた。

 

 

 

 きっと二人とも、そっくりな笑顔だったに違いない。

 

 

 

 

 

「…………僕を見守り続けてくれて、ありがとう」

 

『僕の方こそ、強い大人になってくれてありがとう。またあの子を好きなってくれて、ありがとう』

 

「これからも、()を持ち続けてもいいかな」

 

 

 

 僕のお願いに、彼は首を横に振った。それからまた口を開く。

 

 

 

『いや。それは無理だよ』

 

「どうして?」

 

『だって、この世界にあるものはいつかすべて壊れる。世界で一番硬い宝石も、叩き続ければ必ず砕けるんだ』

 

 

 

 男の子は残念そうに、それでも笑いながらそう言った。

 

 たしかにそうだと思った。この世にあるものはすべて壊れる。どんなに硬くて丈夫なものでも、必ず朽ち果てる時が来る。

 

 それでも、ただひとつだけ。たったひとつだけ、絶対に砕けないものを僕は知っている。

 

 

 

「そっか」

 

『でも、壊れる事は悲しい事じゃない。一度壊れたのなら、また作り直せばいい。誰よりも一途な大人になってくれた君にならきっと、それが出来ると信じてる』

 

「……そうだね」

 

『だから、今はここでさよならしよう。いつか、君が新しい未来を作り直した時に、また会おうよ』

 

 

 

 世界が崩れていく。白が灰色に染まって行く。

 

 そんな世界の中で、少年は笑っていた。

 

 彼の姿を見て、大人になった僕も笑ってみせた。

 

 

 

 

 

「うん。必ず作り直してみせるよ」

 

『信じてるよ─────夕陽』

 

 

 

 

 

 夕陽()は、最後にそう言って消えて行った。

 

 

 

 そして、僕は元の世界へと墜ちて行った。

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 

「───さぁ、まずはダイヤちゃんに君の事を忘れさせるんだ。あの子の事を思って、ただこの鈴を振ればいい。それだけであの子は君の全てを忘れる」

 

 

 

 目を開けた先には、赤い両眼があった。その目を見た瞬間、思考が誰かに乗っ取られる感じがする。自分ではない誰かが、身体の操縦席に乗っている。

 

 

 

「─────」

 

「そうだ。えらいね、夕陽くん。そのまま手に握った鈴を鳴らしてみなさい。そうすればあの子を守る事が出来るんだよ」

 

「やめてっ! 忘れたくないっ、あなたを忘れたくありませんっ」

 

「ほら、私の言う通りにするんだ。そうしなければあの子は男達に汚される。大好きな女の子が目の前でそうなる姿を見たくはないだろう?」

 

 

 

 男の声が頭の中に木霊する。従いたくないのに、身体はその通りに動いて行く。まるで身体が遠隔操作されているような感覚だった。

 

 これが、この男の力。この力を使ってこいつは沢山の子供を誘拐し、怖い思いをさせてきた。ただ自分が楽しむ為だけに、罪のない子供達を傷つけた。そして僕も、ダイヤさんも。

 

 そんな奴の言いなりになって、僕は大切な女の子に自分の記憶を失くさせようとしている。いつの間にか握らされていたこの弁天島の鈴を振れば、あの子は僕の全てを忘れる。

 

 

 

 統合先の高校で出会った事。

 

 男女の確執で何度もぶつかり合った事。

 

 林間学校で分かり合えた事。

 

 一緒に学校に行った事。

 

 授業中、何気ない横顔に心をときめかせた事。

 

 初めて笑顔を見た時の事。

 

 帰る時、偶然を装って彼女を待っていた事。

 

 体育祭で彼女の手を引いて走った事。

 

 保健室で僕が起きるのを待ってくれていた事。

 

 期末テストでデートをかけて勝負をした事。

 

 僕が勝って、一緒に花火大会に行った事。

 

 二人で好きな事を語り合った事。

 

 告白して、酷い事を言われた事。

 

 それでも、好きだと言ってくれた事。

 

 

 

 僕らはこれから、その全てを忘れる。

 

 

 

 不機嫌な顔も、悩んでいる顔も、怒った顔も、悲しんでいる顔も、喜んでいる顔も、嬉しそうな顔も、笑った顔も、全部。全部。全部。

 

 積み重ねてきた時間。思い出。その他の何もかも。全てがゼロに戻ってしまう。そんな理不尽を、僕らは受け入れなくてはいけない。

 

 

 

「…………」

 

『夕陽さん、っ」

 

 

 

 少し離れた場所で、大切な人が泣いている。こんな僕のために、彼女は涙を流している。泣かしているのは紛れもない、僕自身だった。

 

 でもどうしようもなかった。こうなってしまう事が運命だと受け入れるしかない。そんな風に諦観しなければ、息を吸う事すらままならなかった。

 

 

 

 それでも。

 

 

 

「そう、これから君は“ダイヤちゃんの事を思ってその鈴を振る”。他には何も考える必要はない。そうすれば、全てが君の思った通りになる」

 

 

 

 男の声が耳に入る。僕の左腕は、勝手に空へと掲げられる。手には一本の美しい神楽鈴。それを振ってしまえば、彼女は僕の記憶の全てを消去する。

 

 ダイヤさんの声が聞こえる。僕にそうさせないように何かを叫んでいる。忘れないで。忘れたくない。嫌だ。そんな言葉を。

 

 僕にはもう、どうしようもない。心を操られてしまっている僕には抗いようがなかった。

 

 

 

 それでも。

 

 

 

「いいんだよ、夕陽くん。その左腕を下げるんだ。私の言う事に従うだけでいい。君には、それが出来る筈だ」

 

 

 

 男の声が聞こえた途端、鈴を握り締めた僕の左腕は意思もなく動き出す。

 

 これからダイヤさんに自分の記憶を忘れさせる為に、鈴は音を鳴らす。

 

 

 

 それでも。

 

 

 

「                ッ!」

 

 

 

 

 

 誰かの叫び声がマンションの屋上に響き渡る。

 

 そして、僕はダイヤさんの事を思いながら、弁天島の鈴を振った。

 

 

 

 ──────リン。

 

 

 

 透明な水のように美しい音が、小さな波紋となって辺りに広がって行く。

 

 これが弁天島の鈴の音。でも、それはあまりにも綺麗過ぎた。思っていたよりもずっと、美しい音色だった。

 

 どこまでも響いて行きそうなほど高く、ここに居る誰もがその音を聞いた。

 

 僕も、顔に傷のある男も、囚われた女の子も。

 

 

 

 その音は誰かの記憶を失くす力を持つ。願った誰かの記憶を全て、忘れさせてしまう。

 

 僕は一人の女の子の事を願って、鈴を振った。男に心を操られて、鈴を振ってしまったんだ。

 

 

 

 

 それでも、あの子は()()()()()()

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 第六十五話/生徒会長は砕けない

 

 

 

 

 

「ッ? な、なんだ!?」

 

 

 

 鈴が鳴り響いた瞬間、僕の右手にある()()が大きな光を放った。

 

 突然の事でスーツ姿の男は顔に驚きの表情を浮かべている。無理もない。

 

 だってこの男は、僕にこんな切り札があるだなんて、一ミリも思っていなかっただろうから。

 

 

 

「─────ああ」

 

 

 

 そう言う事か。さっきの白昼夢で見た少年の言葉の意味がようやく分かった。

 

 玩具の宝石を持ち続けていた意味は、この時のためにある。それは本当に言葉通りの意味。

 

 僕の右手に握られた宝石は最初から、()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

 

「………………?」

 

「ダイヤさん。僕の事が分かる?」

 

 

 

 輝き出した宝石の光に驚いた男の目線が外れ、操られていた身体が自由になる。

 

 顔を彼女の方へ向けると、ダイヤさんは涙を流したまま茫然とした表情でこちらを見つめていた。

 

 まだ、僕の事が分かるというように。

 

 

 

「夕陽、さん」

 

「うん。そうだよ、僕は夕陽だ。覚えていてくれて、ありがとう」

 

「ど、どうして……?」

 

 

 

 ダイヤさんは明らかに困惑している。無理もない。僕は今、確実にこの弁天島の鈴を振った。なのに、彼女は僕の事を覚えている。何ひとつ、変ったところなど見られなかった。

 

 

 

「な、何故だ!? 何故忘れていないッ! 私の力は完璧だった。なのに何故!?」

 

「残念だったね」

 

「くそっ! もう一度だっ。夕陽くん、ダイヤちゃんの事を思ってその鈴を振りなさいっ!」

 

 

 

 ─────リン、とまたマンションの屋上に綺麗な鈴の音が鳴り響く。

 

 それでも、ダイヤさんの様子は何も変わらない。ただ茫然と目の前にある光景を彼女は見つめ続けている。

 

 

 

「夕陽さん?」

 

「ふふっ」

 

「どうしてだッ! 何故忘れない!? この鈴の力も、私の力も完璧な筈っ。だというのに、どうしてあの子は君の事を忘れないッ!!!」

 

 

 

 訳が分からないように僕の名前を呼ぶダイヤさん。その言葉を聞いて男は苛立ったのか、頭を抱えながら醜い叫び声を上げていた。

 

 周囲に居る男達も驚きの表情を浮かべている。恐らく、何度もこの男がこうやって子供の心を操り、記憶を失くさせる姿を見てきたのだろう。

 

 それでも僕らは忘れていない。この鈴の音は、今はただの音に成り果てている。

 

 

 

「無駄だよ。その力は、今の僕らには効かない。何度やっても同じ。僕らは、絶対に忘れない」

 

「くそっ! くそっ!! くそっ!!! 一体何をしたんだ!?」

 

「あなたの言う事はきっと真実だ。その超能力も、鈴の力もたしかにある力なんだろう。でも、それは僕らには効かない。僕らにとってこの鈴は、ただの鈴でしかない」

 

 

 

 僕がそう言うと男はまたヒステリックな声を上げる。思うようにいかないのが悔しいんだろう。

 

 だけど、そんな事をしたって僕らはお互いの事を忘れる事は無い。

 

 ────この宝石が傍にある限り、僕らは永遠に守り続けられる。

 

 

 

 男達に囲まれているダイヤさんの手にも、僕と同じ光が見えた。彼女もあの玩具の宝石を握り締めていたに違いない。僕はずっと、そう信じていた。

 

 そうだ。僕らがこの宝石を持ち続けていれば、何が起きても宝石が僕達の事を守ってくれる。

 

 いや、そうじゃない。この宝石が僕らの手にあれば、この世界にたったひとつだけ絶対に壊れないものが存在する事になる。何があっても壊れる事はない、絶対的な存在が。

 

 それは。

 

 

 

「あの子は忘れない。僕の心が粉々に折れても、僕らのつながりが木っ端みじんに壊れても。この世にある全ての物質が壊れたとしても、たったひとつだけ砕けないものがある」

 

「それは、なんだ!?」

 

 

 

 男は僕に向かって叫んでくる。僕は彼の苛立ちを許し、少しだけ笑う。分かってる。こんなの論理として成立しない。けれど、()()は壊れない。

 

 

 

 そう、それが僕が知っている中で、この世で最も硬度が高いもの。

 

 この世界にある何もかもが壊れるとしても、その何かは形を変えずに残っている。

 

 この世で最も硬い宝石(ダイヤ)は、何をしても砕ける事はない。いくら叩いても、どれだけ高い所から落としても、傷ひとつ付く事はない。

 

 その宝石(ダイヤ)は何よりも美しく、何よりも綺麗で在り続ける。

 

 

 

「それは、ダイヤさんの()。彼女の心だけは、何があっても壊れない。砕ける事は無い」

 

「────────」

 

「だって」

 

 

 

 世界で一番硬い宝石と同じ名前をした、たった一人の女の子。  

 

 誰よりも真面目で、常に誰かの模範で在ろうとしていた強い女の子。

 

 その心は折れず、いつだって美しい存在でいた意思の硬い女の子。

 

 僕が全てをかけて守ろうとした女の子。

 

 

 

 僕が砕けたとしても、誰かが砕けたとしても、彼女は砕ける事は無い。

 

 

 

 これは僕らの学校の誰もが知っていた事。浦の星学院に通う生徒なら、確実に知っている法則。

 

 何かが壊れても、生徒達の頂点に立つ役職を与えられたたった一人の女の子だけは絶対にそのままで在り続ける。

 

 

 その訳を一言で説明するなら、この言葉を使う。

 

 

 こう言えばきっと、浦の星学院に通っている生徒なら納得してくれるだろう。僕はそう信じてる。

 

 一度しか言わないから聞いていてほしい。

 

 この場に居る人全員にではなく、たった一人の()()()()に向かって僕は言う。

 

 

 ダイヤさんの心が絶対に砕けない事を一言で言い表すのなら、僕はこう形容する。

 

 それはきっと、こんな形になる。

 

 

 

 

 

 

「僕らの生徒会長は─────砕けない」

 

 

 

 

 

 

 そんな、誰が聞いてもおかしいと思う言葉に。

 

 

 

 

 

 




次話/一人じゃない

‐4


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一人じゃない

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

「夕陽を離せおらぁあああああああああッ!!!」

 

「ぐは、ッ!?」

 

「─────ッ!?」

 

 

 

 突然、誰かの声がマンションの屋上に響きわたり、羽交い絞めにされていた身体が自由になる。

 

 振り返ると、僕の身体を捕まえていた体格の良い男が屋上の地面に頭を押さえながら倒れていた。

 

 そして、そのすぐ傍には見覚えのある男子数人が鼻息を荒くして立っていた。

 

 

 

「助けに来たぜっ、夕陽、生徒会長っ!」

 

「俺達が来たからにはもう大丈夫だっ。ここに居る奴ら全員、ぎったんぎったんにしてやるからよ」

 

「来たのは俺らだけじゃねぇぞ。ほら」

 

 

 

 私服姿のレスリング部の男子が扉の方を指差す。その方向を見つめると、そこには。

 

 

 

「………………どうして」

 

 

 

「どうして、じゃねぇよ。お前らがピンチの時に俺達が助けに来ない訳ねぇだろ」

 

「オフコースッ! シンゴの言う通りデースッ」

 

「や、やっぱり誘拐されてたんだ、ダイヤ。でも、無事みたいだね。……はぁ、良かった」

 

 

 

 扉の前には、僕らのクラスメイト達が全員立っていた。

 

 男子も女子も、一人残らずそこには並んでいる。その先頭には、僕の親友が笑顔を浮かべて立っていた。彼の両隣には鞠莉さんと果南さんが居る。

 

 みんな、ダイヤさんのために集まってくれたのか。今日は日曜日だっていうのに、全員彼女を探していてくれたのか。誰一人として欠けている人は居ない。本当にクラスメイト全員がそこに居た。

 

 

 

「みんな」

 

「よく言った、夕陽。詳しい事はよく分かんねぇけど、お前が言った通りだ」

 

「イエス。私達のダイヤは絶対に砕けません」

 

「誰よりも硬い生徒会長だからね、あの子は」

 

 

 

 みんなの視線がダイヤさんの方へ向く。男達に囲まれた一人の生徒会長は驚いた表情で彼らの事を見ていた。

 

 ダイヤさんの周りに立つ男達も意味が分からないというような顔をしている。僕の近くに立つ黒いスーツ姿の男も、顔を驚愕の色に染めていた。

 

 

 

「バカなッ、このマンションには他にも私の仲間が大勢居た筈だ!」

 

「ん? ああ、なんかやけに威勢だけ良い男達なら全員ぶっ飛ばして来たぞ」

 

「誘拐犯ってくらいだから、もっと強い奴らを想像してたんだけどな。蓋開けてみりゃ全員雑魚だった」

 

「どうせ自分達より弱い女や子供しか攫ってねぇんだろ。んな奴らに毎日死ぬほど鍛えてる俺らが負ける筈ねぇだろ」

 

 

 

 屈強な男達の言葉に、顔に傷のある男の顔色が青ざめていくのが目で見てわかった。

 

 この男が心を操られるのは最大でも二人。だが、ここにはもっと多くの人間が居る。いくら超能力が使えても、その絶対数には敵わない。

 

 起死回生。そんな言葉がこの状況には似合う。

 

 これでようやく、あの子を救い出せる。

 

 

 

「…………嘘だ」

 

「嘘じゃないよ。これは、ダイヤさんが積み重ねた信頼の証明。それを見誤った、あなたの誤算だ」

 

「うるさいっ! 子供が大人に向かって好き勝手に物事を語るなっ!!」

 

「────ッ」

 

「夕陽さんッ!」

 

 

 

 顔に傷のある男は、先ほど持っていた小さなナイフを僕に向かって振りかざしてくる。顔は本気だ。こいつは間違いなく、僕の事を刺そうとしている。

 

 だけど、大丈夫。僕はもう、刃先が尖っているものに怯む事はない。()()()()()では、僕の身体は傷つかない事を知っているから。

 

 

 

「夕陽に触んじゃねぇッ!!!」

 

「───ぐほ、ッ!?」

 

 

 

 僕に襲い掛かって来る男にレスリング部の男子が全力のタックルをかまし、男は簡単に数メートル吹き飛んだ。しかしそれだけで終わる筈もなく、男子達は男に追撃を食らわせていた。

 

 必然的に男が握っていたナイフは屋上の端へと転がり、彼らが刺される危険性も無くなった。頬を切られ、散々苦しまされたお礼だ。少しくらい痛い目に遭ってもらわなくては僕の心も収まりがつかないのでちょうどいい。

 

 

 

「…………ぐ、っ」

 

「あなたの言う通りだ。僕はまだ子供。一人では何もできない、弱虫だ。でもね」

 

 

 

 レスリング部の男子達にやられ、屋上のコンクリートの上に情けなく腹ばいになっている男。

 

 僕は彼の前に歩いて行き、そう語る。男は鼻血に染まった顔を悔しそうに歪めていた。

 

 

 

「さっき、あなたはこう言った。僕は孤独だって」

 

「…………っ」

 

「残念だけど、それは違う。僕は弱虫で何も出来なくても、一人じゃない。僕には仲間が居る。苦しみに耐えて、死に物狂いで作り上げた───新しい仲間達が居る」

 

 

 

 僕の後ろに立つ、三十六人のクラスメイト。

 

 たしかに始まりは上手く分かり合えず、つらい思いもした。それでも、僕らは分かり合えた。あの教室で長い時間を過ごし、様々な困難や喜びを越えて、作られる筈がなかった信頼を築いた。かけがえのない、新しい絆を作り上げたんだ。

 

 その答えがここにある。これが僕が探し求めていた、青春の答えだ。

 

 

 

「残念だったな、犯人さんよ」

 

「ッ」

 

「でもまだ警察には連絡してねぇ。選ぶなら今の内だ。一度しか訊かねぇからちゃんと聞いとけ」

 

 

 

 信吾が倒れている男に歩み寄っていく。顔はいつも通りだけど、雰囲気が全然違った。

 

 長い付き合いだから分かる。信吾は、本気で怒っている。こんな彼の姿は一度も見た事がなかった。それくらい、信吾はダイヤさんを攫ったあの男達に怒りを覚えているようだった。

 

 

 

「どうする? ここで諦めてお巡りさんの御用になるか、それとも俺達とやり合ってこっから逃げるか。

 

 

 ────好きに選べよ、クソ野郎」

 

 

 

 男の前にしゃがみ込み、その髪を掴んで顔を引き上げて信吾はそう言った。そのあまりの迫力に、思わず鳥肌が立つ。でも大丈夫かな。格好いいけど、果南さんがちょっと不安げな表情で信吾の事見てるよ? やり過ぎて嫌われたりしないでね。

 

 

 

「わ、私はっ、まだ捕まる訳にはいかないっ! お前らのような社会を知らない子供達に、好きにされてたまるかっ」

 

「…………そうか。なら、仕方ねぇよなッ!」

 

 

 

 ────耳を塞ぎたくなる音がマンションの屋上に響き渡る。近くに居たから尚更それがよく聞こえてしまった。

 

 見ると鞠莉さんが後ろから果南さんの両目を隠していた。ナイス、鞠莉さん。

 

 今のは完全に見ちゃいけない光景だった。僕も目を逸らしていればよかった、と少しだけ後悔する。人の歯ってあんな簡単に折れるものなんだ。

 

 

 

「行くぞお前らッ! こいつら全員締めあげて警察に突き出してやれ!」

 

「「「「「うぉおおおおおおッ!!!!!」」」」

 

 

 

 信吾の一撃が合図になるように、ダイヤさんを取り囲んでいた男達と僕らの男子生徒達が同時に走り出し、殴り合いを開始する。しかし、数が圧倒的に僕らのクラスメイトの方が多いので勝敗は見なくても分かった。レスリング部の男子が言っていたように、相手は子供を誘拐するのだけが取り柄の男達。たとえ一対一でも負ける事はまずないだろう。

 

 屋上の中心で殴り合い(クラスの男子達が明らかに一方的)が行われており、ダイヤさんの近くには誰も居なくなる。僕はこの時を待ち続けていた。

 

 

 

「ユーヒッ!」

 

「夕陽くんッ!」

 

 

 

 扉の方で戦いを見守っている女子達から名前を呼ばれる。彼女達が何を言わんとしているのか、それだけで理解した。

 

 僕は頷き、駆け出す。殴り合いのフィールドの中をすり抜け、一人自由を奪われ続けている生徒会長のもとへと走った。

 

 彼女はまだこの状況を受け入れ切れてないのか、近づいている僕の事を茫然と眺めている。だが、そんな事どうでもいい。とにかくダイヤさんをこの場所から救う事が出来れば、僕の仕事は終わりだ。

 

 

 

「ダイヤさんッ」

 

「夕陽、さん……」

 

「待ってて、すぐに解いてあげるから」

 

 

 

 背中に回された両手首には細いロープが巻かれていた。それは見かけによらず案外簡単に解け、ようやく彼女の両手は自由になった。

 

 そしてやはり、ダイヤさんはその手に赤い巾着袋を握り締めていた。それを見て少しだけ嬉しくなり、僕は笑った。

 

 

 

「走れる?」

 

 

 

 その問いにダイヤさんはこくりと頷く。それを確認して、彼女の右手を握り締めた。

 

 

 

「じゃあ、行こう。下までついて行ってあげるから」

 

 

 

 そう言って、僕は駆け出す。ダイヤさんはすぐ後ろをついて来ていた。

 

 とにかく、このマンションから抜け出せば僕らは自由になれる。今はそれだけを考えろ。

 

 

 

「頼んだよ、信吾」

 

「ああ、任せとけ。俺と果南の日曜日を潰した恨みをこいつらにぶつけてやる」

 

 

 

 すれ違いざまに信吾へ声を掛けるとそんな言葉が返ってきた。なるほど。彼が異常に怒っていたのにはそう言った理由もあるらしい。ダイヤさんを探す事になった所為で果南さんとの一日が無くなってしまったのか。残念だ。文字通り、やり過ぎない程度にここに居る誘拐犯達を懲らしめてほしい。

 

 ここは信吾に任せておけば大丈夫。信吾なら全て上手くやってくれるだろう。ダイヤさんを安全な場所まで連れて行った後、すぐに戻って来よう。

 

 

 

「ダイヤッ! 大丈夫!?」

 

 

 

 殴り合っている男達をすり抜けて、扉の所までダイヤさんを連れてくる。

 

 そこに立っていた女子達は心配そうにダイヤさんの事を見つめている。だけど彼女は平気だというように一度頷いてみせた。真意のほどは分からないけれど、とりあえずは大丈夫そうだった。

 

 ダイヤさんの反応を見て女子達はみんな安心したような息を吐く。それは心配もするだろう。女の子一人があんな男達に攫われたら何をされるのか分からないのだから。

 

 

 

「ユーヒ」

 

「……鞠莉さん」

 

 

 

 名前を呼ばれて顔を向けると、鞠莉さんが近くにいた。昨日の件もあり、本当は少し気まずい。

 

 けれど、彼女は何も気にしていないような表情を浮かべている。いつも通りの鞠莉さんがそこには立っていた。そんな彼女を見て、気にしているのはもしかしたら僕だけなのかもしれないと思った。

 

 だから、僕もいつも通りで居る事を自分に言い聞かせた。そして、大切な人の手と玩具の宝石を同時に握り締めた。

 

 

 

「ダイヤの事、よろしくね」

 

 

 

 そう言って、鞠莉さんは笑ってくれる。その言葉の意味がどんなものだったのかは知り得ない。それは、二つの意味を持っていたから。

 

 けれど、僕は迷わず頷いた。彼女の言葉がどちらかの意味を含んだものであったのだとしてもきっと、そうしていただろう。

 

 

 

「ここは私達に任せて、夕陽くん」

 

「果南さん」

 

「だから、また明後日から学校に来るんだよ? 絶対だからね」

 

 

 

 鞠莉さんの隣に立つ果南さんが心配そうな顔をしてそう言ってくれる。そう言えば、果南さんとは実家に来てくれた時に無理やり追い返した後から、一度も連絡を取っていなかった。申し訳ない。

 

 だからせめて、彼女のお願いにだけは頷いておこうと思った。それが嘘にならない事を祈りながら、希望を込めて僕は頷いた。

 

 

 

「……うん、分かったよ。それと、あの時はごめん」

 

「ううん、もう気にしてないよ。ダイヤのために頑張ってくれたから、許してあげる」

 

 

 

 果南さんも笑顔をくれた。そんな彼女達の温かい優しさを感じて、目の奥から込み上げてくるものがあった。

 

 それでも、今は泣かない。これ以上、女の子に泣かされてたまるか。僕は男なんだから、こんな時くらい男らしくしていないと。

 

 

 

「ありがとう。じゃあ、行くね」

 

 

 

 そう言ってから、僕はダイヤさんの手を引いて屋上を後にする。女子達からは様々な言葉をもらった。

 

 その思いを今は受け入れて、次に学校に行った時にはちゃんとその感謝をしなきゃ。

 

 そう思いながら、僕は屋上につながる重い扉を閉めた。

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

「ここまで来れば、大丈夫だね」

 

「………………」

 

 

 

 それから僕らは廃墟のマンションを出て、駅の方へと向かって走った。人通りが多いこの場所まで来れば、たとえ追手が来ても大丈夫だろう。

 

 手はずっとつないだまま。すぐに話してもよかったのだけれど、なんとなく今は離したくなかった。

 

 ダイヤさんはさっきから何も言わない。ずっと黙ったままでいる。彼女がどんな表情をしているのかすら、確認しなかった。気になりはしたが、見る気にはなれなかった。

 

 

 

 近くにバス停を見つけ、そこにある時刻表を確認する。あと数分で内浦まで向かうバスが来る。それに彼女を乗せれば、全ては終わる。

 

 そうしたらすぐにあのマンションへ戻らなければ。みんなの手伝いをしなくてはならない。僕だけが逃げる訳にはいかないから。

 

 バスを待ちながら、頭上を仰ぐ。空はまだ灰色。でも、さっきよりは色を薄めている。きっともう、雨は降らないだろう。今は、それでよかった。

 

 

 

「…………」

 

「…………」

 

 

 

 手を握り締めたまま、僕らはバス停で立ち尽くす。そこに会話はなく、ただ目の前の道路を通り過ぎて行く車の音だけが聞こえている。

 

 どうしても気になって、横目でダイヤさんの事を一瞥する。すると予想通り、彼女は顔を俯けてその表情を隠していた。どんな顔をしているのかは想像できない。でも少なくとも、明るい表情をしていない事だけは分かる。当たり前だ。あんな事があって、すぐに笑える方がおかしいのだから。

 

 

 

 ────それから数分後。バス停に一台のバスが停まった。音が鳴り、乗車口が開く。そこに彼女が乗ってくれれば、全部終わる。

 

 

 

「バス、来たよダイヤさん」

 

「………………」

 

「これに乗れば内浦まで帰れるから。ここからなら、一人でも大丈夫だよね?」

 

 

 

 握り締めていた手を離して、彼女にそう言う。でも、ダイヤさんは俯いたまま動かない。動き方を忘れたロボットのようにジッと立ち尽くしている。

 

 でも、ここでいつまでもこうしていてはいられない。僕らはまだ、そこまでの関係性を取り戻していないから。

 

 だから僕に出来るのはここまで。これから彼女がどうするのかはもう、彼女自身に任せる他ない。

 

 

 

「じゃあ、僕はまたあそこに戻るから。何かあったらすぐに連絡して」

 

 

 

 そう言って、僕はバス停から去ろうとした。ダイヤさんの前から居なくなろうとした。

 

 それを彼女は許してくれる。

 

 そう、思っていたのに。

 

 

 

「…………待って」

 

「…………え?」

 

 

 

 走り出そうとした僕の服を、誰かが掴んだ。

 

 振り返ると、ダイヤさんが俯いたまま僕の服を握り締めていた。そこからはどこにも行かせない、と言わんばかりの強さで。

 

 

 

「一人に、しないでください」

 

「…………っ」

 

「お願いだから、私の傍に居てください」

 

 

 

 か細い声で、彼女はそう言った。予想もしない言葉に僕はどうする事も出来ず、困惑したままその場に立ち尽くした。

 

 バスはまだ停まっている。無理矢理にでも彼女をそこに乗せるべきか否か。自問自答した結果、そうする事は出来ないと判断した。

 

 僕はまだ内浦には帰れない。それでもダイヤさんは傍に居てほしいと言ってくる。

 

 なら、この沼津でどうにかするしかない。僕が帰れる場所は、この街にひとつだけある。

 

 今の彼女をそこに連れて行くのは気が引けるけれど、そうするしかダイヤさんのお願いに応える事は出来ない。

 

 だから、頼りない勇気を振り絞って言った。

 

 

 

「……え、えっと、その。ダイヤ、さん?」

 

「…………」

 

「もしよかったら、なんだけどさ」

 

 

 

 そこまで言って、心拍数が異常に上昇している事に気づいた。手には汗が滲み、背中にひやりとした何かが当てられた感じがした。

 

 これは仕方のない事。選ぶものがそれしかないから選ぶだけ。他意はない、と思いたい。意味の分からない事を考えている自分を許してあげたい。

 

 だって。

 

 

 

「僕の家に、来る?」

 

 

 

 好きな女の子を実家に誘うだなんて、どんな状況であっても緊張するものだから。

 

 僕の言葉に、彼女は何も言わずに一度頷いた。

 

 停まっていたバスは音を鳴らして乗車口の扉を閉め、誰も乗せないまま走り去って行った。

 

 






次話/最終章・最終話

‐3


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黄昏色の口づけ

 

 

 

 

 最終章・最終話/黄昏色の口づけ

 

 

 

 

 掛け時計の秒針が刻まれる静かな音だけが、リビングに響いている。その他の音は無い。あるとすれば、その秒針が一秒を刻むスピードよりも早く鼓動する僕の心臓の音だけ。それ以外の音はどうやら、九月の夕暮れ時の淡い空気の中に沁み込んで行っているようだった。雨上がりの音は湿り気を帯びているからか、空気というスポンジの中に沁み込みやすいのかもしれない。

 

 なんて、訳の分からない妄想を絶えずしていないと、この状況には到底耐える事が出来なかった。とんでもない速度で変わって行く展開に、心がついて行けていなかった。今の時間と自分の置かれた現在地。そこより数マイルほど後方に、僕の意識と心は置いてけぼりにされている。

 

 つまり、この状況は僕が想像していたものではなかったという事。正直な感想を言えば、死ぬほど嬉しい。けれど同時に、死ぬほど緊張もしていた。

 

 あのダイヤさんが、僕の右手を握り締めながら隣に座っているのだから。

 

 

 

「………………」

 

「………………」

 

 

 

 数十分前。駅前のバス停で別れる筈だった僕らはバスではなくタクシーに乗り込み、二人でこの家まで帰ってきた。帰ってきたなんて表現は少しおかしいかもしれない。ここは僕の家であるから、ダイヤさんからすれば訪れた、と形容する方が正しい。そんな話はどうでもよくて。

 

 先ほどダイヤさんは一人にしないで、と言った。僕に向かって、傍に居てください、と。

 

 ダイヤさんは多分、僕に言いたい事があるんだろう。何か話があるから、ああして僕を引き留めた。そう考える以外、僕には出来なかった。

 

 でも、彼女はさっきから一切口を開かない。顔を俯けて、自分の足元だけを見つめている。

 

 ついでに彼女は、この家に着いても僕の手を離してくれなかった。ぎゅっと強く握り締めたまま、黙って僕の方に身体を寄せていた。お茶でも淹れて持て成そうとしたけれど、無理にその手を離す訳もいかず、僕は仕方なくリビングのソファにダイヤさんと隣合って座る事を選択。そしてそのまま時は流れ、今に至っている。

 

 

 

「………………」

 

「………………っ」

 

 

 

 ダイヤさんの手の感触。触れ合った肩と肩から伝わる体温。恐らく彼女のものであろう、ほんのりとした金木犀のような甘い香り。その全てが心臓を高鳴らせた。隣に寄り添う彼女の存在自体、僕の心を酷く緊張させていた。それは受け取り方次第ではもう、ほとんど罪深く思えるくらいに。

 

 とにかくこの数十分間は、そうやって時が過ぎていくのをただ傍観していた。ダイヤさんは何も言わず、僕も黙ってその場に在り続けた。

 

 

 

「ねぇ、ダイヤさん」

 

 

 

 ずっと黙り続けているわけにもいかず、僕は窓の方に顔を向けたまま、彼女の名前を呼んだ。同時に、両手の宝石(ダイヤ)をそっと握り締めた。

 

 ダイヤさんは何も答えない。その代わりに、右手が優しく握り返される。それが恥ずかしくて、嬉しくて。どうしようもない感情が心と頭の中で渦を巻いていたけれど、なんとか口を開く事が出来た。

 

 

 

「さっき、言ってくれた事なんだけど」

 

 

 

 声が震えそうになる。今すぐ逃げ出してしまいたい衝動が全身に流れる。

 

 ダイヤさんは口を閉ざしたまま、首を斜めに傾げる。その姿を横目で見て、僕はまた言葉を吐く。

 

 

 

「あ、あれが本当かどうか。聞き間違いじゃなかったかどうかまだ不安だから、訊くね?」

 

 

 

 左手で握り締める玩具の宝石を強く握り締めて、覚悟を決める。

 

 マンションの屋上で、僕があの男に操られる前にダイヤさんが言ってくれた言葉。あれが本当の言葉だったのか。それとも何か違う思惑があってそう言ったのか。  

 

 尻込みしてしまいそうになる弱い心に、一度喝を入れる。大丈夫。今なら言える。

 

 誰も居ない教室で告白をして、雨に打たれながら情けなく家に帰ったあの時のようにはならない。

 

 

 

「僕の事、好きって言ってくれたよね」

 

「………………」

 

「あれは、嘘じゃない?」

 

 

 

 それが今、一番知りたい事。

 

 僕はそれさえ知る事が出来れば、他に何も要らない。僕らの過去も、あの誘拐の事も、弁天島の鈴も、何もかも、どうでもいいと思えてしまう。

 

 再びリビングに静寂が訪れる。それはとても穏やかで、心地良い静けさ。

 

 このまま時間が止まるのなら、僕はそれで構わなかった。このまま二人で()()になれるのなら、僕はそうなってくれる事を願い続けるだろう。

 

 でも、それは叶わぬ事。どれだけ探しても、この世界には永遠は存在しない。どれだけ大切な時間も、呆気なく過ぎ去ってしまうのがこの世の理。

 

 世界を一週間で創り上げた()()は、この世界に永遠を許さなかった。だって、()()があれば幸せや哀しみにも永遠が生まれてしまう。

 

 もし永遠の幸せがあるのなら、空には太陽が燦燦と浮かび続け、夜には美しい月と星が瞬き続ける。

 

 もし永遠の哀しみがあるのなら、冷たい雨は降り続け、灰色の世界は永久にその彩色を変えないままで居続けるだろう。

 

 それではいけないんだ。絶対の幸福や不幸がこの世界に存在しないのと同じように、永遠に続く幸せや哀しみはこの世に在ってはならない。

 

 だから、僕達はその全部を受け入れて生きて行く。喜びも悲しみも、つらい事や楽しい事だって、全ての人に必ず訪れるものだと受け入れて生きて行かなければならない。

 

 永遠に続く幸せも、永遠に続く不幸せもこの世には存在しない。たとえ今、絶望の状況にあったのだとしても、いつか必ず報われる時が来る。

 

 それが、どれだけ深い灰色の世界だとしても。

 

 

 

「………………」

 

 

 

 ダイヤさんは僕の問いかけにこくりと頷いてくれた。少しだけ恥ずかしそうに、でもはっきりと。

 

 彼女の反応を見て、傷ついた心が癒えて行くような感じがした。傷つけられた相手に傷を癒されるだなんて少し変な気もしたけれど、今は気にしない。

 

 ただ、あのダイヤさんが僕の事を好きだと言ってくれた。今はそれだけでよかった。その事実さえあれば、他の物事なんて本当にどうでもよかった。

 

 

 

「…………ありがとう、ダイヤさん」

 

 

 

 そう言ってから、僕は言葉を続ける。彼女のお陰で、言うべき事をようやく思い出す事が出来た。

 

 僕は両手の宝石(ダイヤ)を握り締めながら言葉を紡ぐ。

 

 

 

「十年前に僕らが出会っていた事はなんとなく、気づいてた。統合初日にダイヤさんを見た時から、ずっとそうなんじゃないかって思ってた」

 

 

 

 長い間、夢だと信じていたあの記憶を頭に浮かべながら、僕は語る。

 

 

 

「十年前の僕も、出会ったばかりの君の事が好きだった。多分、あれは一目惚れだった。十年前の夏祭りの時、僕は迷子になった花丸を探して、ダイヤさんはルビィちゃんを探して。そんな時に、僕らは出会ったんだよね」

 

 

 

 何度も見た夢の記憶を辿り、それを口にする。僕が知っているという事は、彼女も間違いなく覚えている。覚えていてくれている。

 

 

 

「二人で屋台をまわりながら、あの子達を探した。その最中に、僕らは宝石すくいの屋台でこの玩具の宝石を取ったんだ」

 

 

 

 左手にあるプラスチックで出来た玩具の宝石を彼女に見せながら、そう言った。彼女も右手に握った赤い巾着袋を僕に見せてくる。

 

 

 

「それから、あの屋上のマンションに上がって花火を見た。その時に、僕らは誘拐された。あの、顔に傷のある男に心を操られて」

 

 

 

 先ほど会った男の顔を思い出して、また殺意が沸いてくる。だけど、あの男はもう警察に捕まっているはずだ。僕らのクラスメイト達がそうしてくれていると信じている。

 

 

 

「そうして僕らは長い間、狭い部屋の中に幽閉された。具体的にどれくらいの期間だったかは、思い出せない。ダイヤさんは分かる?」

 

 

 

 僕の問いかけに、ダイヤさんは首を横に振った。彼女も分からないという事なんだろう。それは仕方ない。悪いのは、僕らではないのだから。

 

 

 

「とにかく長い時間、僕らはあの狭い部屋の中に閉じ込められた。そして、あの男達に弄ばれた。それからあの男は弁天島の鈴を持ってきて、僕らにそれを振らせて、誘拐された記憶を失くさせた。───同時に、僕からダイヤさんの記憶を奪った。ダイヤさんは、僕の記憶を失くした」

 

 

 

 言葉にしてみると本当に信じられない話だった。でも、今はそれを信じるしかない。確実に辻褄が合うのは、この考え方しかありえなかったから。

 

 

 

「僕らはお互いの事を忘れたまま十年が経って、今年の四月に再会した。それからまた、僕はダイヤさんの事を好きになった。今思うと、僕がダイヤさんに恋をするのは仕方ない事だったのかもね」

 

 

 

 ダイヤさんは強く手を握り締めてきた。顔を見ると、少しだけ頬が赤く染まっている。そんな表情が愛おしくて、僕も彼女の手を握り返した。

 

 

 

「それが、今までの答えなんだね。色々あったけど、答えが分かってよかった」

 

 

 

 ダイヤさんは何も言わない。だけど、僕は言いたい事を言おうと思う。彼女が何も言わないのなら、僕は伝えたい事を口にしたい。

 

 それがダイヤさんの選び方だと、いつの日か教えてくれたから。

 

 

 

「僕らの出会いは必然だった。恋をするのも、仕方のない事だった。でもね、ダイヤさん」

 

「………………?」

 

 

 

 ずっと伝えたかった事を僕は言う。一度は伝えたけれど、その言葉は届かなかった。

 

 なら、僕は届くまで言い続けてみせる。たとえそれが受け入れられなくとも、伝え続けてやる。

 

 だって、僕は。

 

 

 

「偶然とか、過去に何があったとかは関係ない。僕はやっぱり、ダイヤさんの事が好きだよ。誰にどう言われようとも、どんなに君に拒まれても」

 

 

 

 それが、僕の全てだから。

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

「───────っ」

 

「え…………」

 

 

 

 

 

 何度目か分からない告白をした時、隣に座っていたダイヤさんが僕の首に両腕を回してきた。必然、触れ合う身体と身体。彼女の全身が僕の身体に押し付けられている。

 

 突然の出来事過ぎて何が起こったのかが分からず、ぼんやりとした頭で今の状況を把握しようとした。でも、感じ取れるのはダイヤさんの柔らかい身体の感触と彼女の体温。そして、金木犀の良い香り。その匂いがダイヤさんの髪の香りだと気づいた瞬間、心臓がドクン、と大きく拍動した。

 

 バランスを崩し、押し倒されたような状態になる。でも僕は左手をソファの上につき、上体を倒さないようにした。そこでようやく、自分が何をされているのかに気づく。

 

 僕は、ダイヤさんに抱き締められていた。何故かは分からない。でも、たしかにダイヤさんは僕の首の後ろに腕を回し、顔を僕の肩の上に乗せている。

 

 抱きしめる力は強く、突き放す事など出来る訳がない。今までダイヤさんの手を握り締めていた右手と今もなお玩具の宝石を握る左手は、ただソファの上に乗っているだけ。

 

 数秒間、時が止まる。ダイヤさんの身体の感触とか、顔の近くにある綺麗な黒髪の良い匂いの所為で、意識が朦朧となりそうだった。

 

 急にどうしたのか。それを訊ねようと口を開こうとした時、()()()がすぐ近くから聞こえた。

 

 

 

「っ……ふ、っ……っ」

 

「ダイ、ヤさん……?」

 

 

 

 ダイヤさんは、声を殺して泣いていた。僕の身体に抱きつきながら身体を細かく震わせて、静かに泣いている。

 

 どうして彼女が泣いているのか分からず、抱き締められた状態で困惑してしまう。何をすればいいのか分からなくなってしまう。正しい答えを探すために思考回路をフル回転させようとしても、それは既に使い様が無くなってしまっていた。

 

 あのダイヤさんが僕の前でこんな風に弱さを見せるのは、初めてだった。彼女は何度も鼻をすすり、身体を細かく震わせながら泣き続けている。泣き顔を見るのは申し訳なくて、僕には出来なかった。

 

 そうやって、ダイヤさんに抱き締められた状態で時は過ぎて行く。何を言っていいかは全く持って分からず、途方に暮れたまま秒針は何度も時計の中を回転していた。

 

 そろそろ本気でマズいと思い、ダイヤさんに声をかけようとした時、耳元から声が聞こえた。それは、涙が混じったあまり聞き慣れない声音だった。

 

 

 

「…………ごめん、なさいっ」

 

「…………ダイヤさん」

 

「私、は……あなたに、言ってはならない事を言いました。強がって、本当は大切なあなたを理不尽に傷つけてしまった。なのに」

 

 

 

 ダイヤさんは泣きながらそんな言葉を僕に向かって言ってくる。その声を聞いていると、十年前のダイヤさんの姿を嫌でも思い出してしまった。

 

 

 

「なのに、あなたは私を好きだと言ってくれる。こんな私の事を、まだ…………愛してくれる」

 

「……うん」

 

「私だって、あなたの事が好きです、っ。誰よりも大好きなんですっ。都合の良い事を言っているのは、分かっています。だけど、この気持ちは()()なんですっ」

 

 

 

 そう言って、ダイヤさんは僕を抱きしめる力をさらに強める。僕も左手にある宝石を握り締めた。プラスチックで出来た、()()の宝石を。

 

 

 

「分かってください、信じてください。あなたが信じてくれないのなら、私はなんだってします。ここであなたに服を脱げ、と言われるならそうします。私の身体に触れたいのなら、好きにすればいい。それで私の言葉が嘘ではないと分かってくれるなら、私はそれで構いません。……だから」

 

 

 

 ダイヤさんはそこで言葉を切り、大きく深呼吸をする。そして、自身の願いを口にした。

 

 僕に聞いてほしい、ただひとつの願いを。

 

 

 

「あなたを愛する気持ちを、信じてくださいっ」

 

 

 

 そう言って、彼女は声を出して泣いた。僕の耳元で子どものように、声を隠さず泣いていた。

 

 この子は、そんな事を気にしていたんだ。自惚れる訳じゃない。ただ、真実として僕は思う。

 

 ダイヤさんは僕の事が好きだと言ってくれた。それでも一度はああやって、僕の告白を突き放した。でも、あれは強がりの所為だと彼女は言った。今まで積み上げてきたプライドが許さず、機械的に僕の事を罵ったのだ、と。

 

 最後には受け入れるつもりだったのに、僕は彼女の鋭い言葉に耐えられず、最後の言葉を聞く前にその場から逃げ出した。そうして、僕らは今日まで会えないままで居た。

 

 ダイヤさんはきっと、本当の気持ちを僕が受け入れてくれないものだと思っている。あんな風に突き放したのだから、そんな想いを僕が容易く信じないと思っている。

 

 けど、それは彼女自身の単なる先入観。僕が彼女の強がりに気づけなかったように、彼女もまた僕という人間を勘違いしている。

 

 

 

「ダイヤさん」

 

「ぇ…………」

 

 

 

 僕は、彼女の身体をそっと抱き返した。緊張はするけど、今はそれもあまり気にならなかった。

 

 大好きな人に好きと言ってもらえて、伝えたい事を伝えることが出来て、空っぽだった心の泉はもう満たされてしまっていたんだ。

 

 だから、僕も彼女が言った()()の気持ちを信じる。偽物ではない宝石(ダイヤ)を抱きしめながら。

 

 

 

「そんな事はしなくていいよ。言葉だけで、ちゃんと伝わってるから」

 

「…………」

 

「ダイヤさんがそう言ってくれるなら、僕は君の言葉を信じる。もし、それが信じられないなら、信じさせる何かをするよ」

 

 

 

 ダイヤさんを優しく抱きしめて、そう言う。嘘ではない純朴な気持ちだけを言葉に乗せて。

 

 信じる事を信じられない。そんな事は普通ならあり得ないのかもしれない。でも、僕には建前を言う癖がある。僕の事を知っている彼女なら、今の言葉を建前として受け取ってしまう可能性があった。

 

 

 

「…………建前、ではありませんか?」

 

「…………ふふ、っ」

 

「な、なぜ笑うのです? 私は真剣に訊いているというのに」

 

 

 

 僕の思った通り過ぎて、こんな時だって言うのに思わず笑いが零れてしまった。こういう時、妙に分かりやすいところも僕は大好きだった。

 

 

 

「ごめんごめん。なんとなく、予想通りだったからさ」

 

「……ふん。なら、建前ではない事を証明してください」

 

「証明?」

 

「そうですわ。さっきあなたが言った通りです。あなたが私の言葉を信じている事を、信じさせてください」

 

 

 

 謝るとダイヤさんは少し不機嫌そうな声で言ってくる。顔は見えないけれど、多分ちょっと拗ねているような表情をしているに違いない。

 

 彼女がそれを望むのなら、僕は彼女の思いに答えてあげなくてはならない。僕の言葉が本音だという事をダイヤさんに証明するために、何かをしなければならない。

 

 言葉だけではなんとでも言える。けど、実際に行動に移すのは難しい。だからこそ、言葉よりも行動の方が伝わりやすい。だったら今は安い言葉なんかじゃなく、行動を選択しよう。

 

 好きという感情を伝える為に、最も簡単な行動。

 

 それを、僕は知っている。

 

 

 

「分かった。じゃあ、後悔しないでね」

 

「? 分かりましたわ」

 

 

 

 そんな確認作業を経て、僕は行動に移す。ダイヤさんが後悔しないと約束してくれたのなら、その言葉を信じるしかない。どう考えても後悔させてしまう未来しか想像できないけど、彼女がそれを望んだのだから、僕はそれに従うのみ。

 

 

 

「なら、証明するね」

 

 

 

 そう言って僕はまず、抱き締めていたダイヤさんの両肩に触れ、密着していた身体を離す。近すぎて見えなかった彼女の泣き顔が露わになり、ダイヤさんは居心地悪そうに目線を逸らした。不謹慎かもしれないけど、普段強くて硬いダイヤさんの泣き顔は、素直に可愛いと思った。ずっと泣いていればいいのに、と思ってしまうくらいに。

 

 肩に両手を置いたまま、至近距離で彼女の顔を見つめる。泣いた所為で赤くなっている瞳。紅潮した頬と、その上に流れる涙の線。可愛らしい口元のホクロに、麗しい赤い唇。

 

 近くで見れば見るほど、それは美しかった。本当に、本物の宝石みたいに思えた。

 

 そして思った。その全てを自分のものにしたい。誰かのものではなく、自分だけのものにしたい。彼女の何もかも、この手で奪ってしまいたい、と。

 

 これから僕は、彼女を好きだという事を証明する。そのために、まずは()()()()を奪う。

 

 

 

「ダイヤさん」

 

「なんですの───ん、っ?」

 

 

 

 目を逸らしているダイヤさんの名前を呼び、その目がこちらを向いた瞬間、僕は彼女の無防備な唇にそっとキスをした。

 

 自分でも大胆な事をしているのは理解してる。この状況じゃなかったら、こんな事は絶対に出来ていなかった。でも仕方ない。

 

 ダイヤさんがそうされる事を遠回しに望んだのだから、その気持ちに応えなければならなかった。

 

 

 

「…………っ」

 

「…………ん」

 

 

 

 しばらくのあいだ、僕達は唇を重ね合う。ダイヤさんは突き放してくるかと思ったけれど、そんなことはしてこなかった。身体を動かさず、黙って僕の唇を受け入れてくれている。

 

 ふと、初めてのキスは甘酸っぱい味がする、と何かの小説に書いてあったのを思い出した。

 

 でも、あれは少しだけ嘘だ。キスの味は甘いけど酸っぱくはない。砂糖の塊を蜂蜜に付けて、その上にチョコレートをコーティングしたお菓子のように。一口食べただけでも胸やけがしてしまうくらい甘く、でも離しがたい、不思議な味だった。

 

 そうして息が続かなくなり、僕は唇を離した。少しだけ息が上がっている。ダイヤさんもとろんとした目をして、荒い息を何度も繰り返していた。

 

 

 

「……ゆ、夕陽、さん? 今のは」

 

「……うん。だから、建前じゃない事の証明」

 

 

 

 自分で言っていて、死ぬほど恥ずかしくなってしまった。顔が一気に赤くなるのを自覚する。今までの威勢はどこに行ったんだろう。自分でも見失ってしまうほど、数秒前の僕はおかしなテンションをしていた気がする。

 

 やってしまった。でも後悔はない。こうする事でダイヤさんが僕の気持ちが本音だと分かってくれるのなら、それでよかった。

 

 

 

「これで、信じてくれる?」

 

 

 

 僕は彼女に確認する。さっきの言葉が建前じゃない事をダイヤさんの言う通り、行動で証明してみせた。こうすれば彼女も分かってくれるだろう、と信じていたんだ。

 

 でも、ダイヤさんは首を横に振った。そして、潤んだ瞳を僕の方へと向けてくる。その大きな深碧の両眼にはたしかに僕が映っていた。

 

 

 

 ─────窓の方から橙色の光が入って来る。灰色の空から顔を出した夕日が、このリビングの中を照らしてくれている。

 

 ダイヤさんの赤くなった顔が夕日に染まっている。彼女の目にも、僕の顔が茜色に照らされているのが見えているのだろうか。

 

 

 

「…………わ、私は先ほど、知らない男達に傷つけられそうになりました」

 

「………………?」

 

「あの恐怖は、これくらいでは消えませんわ。だ、だから、その」

 

 

 

 夕日に照らされたダイヤさんは言いづらそうに、小さな声でそう言ってくる。

 

 そして数秒の沈黙を挟み、彼女は僕の目を見て、言った。

 

 黄昏色に染まるその顔は、今まで見てきたどんなに美しいものよりも綺麗に見えた。

 

 

 

「もっと、してください。そうしなければ、伝わりません」

 

「…………」

 

「そ、それと、私のことを好きと言ってから、してください。あなたの声で……聞かせてください」

 

 

 

 ダイヤさんはそう言って目を閉じ、艶めかしい唇を僕の方に差し出してくる。まるでそうされる事を、自分から望むように。

 

 彼女がお願いしてくるのなら、僕が断る理由は無い。それでダイヤさんが信じてくれるのなら、僕はいくらでも伝え続ける。

 

 いくらでも、奪い続ける。

 

 

 

「大好きだよ、ダイヤさん」

 

 

 

 彼女のお望み通り、耳元でそう囁いてからもう一度キスをする。

 

 今度は永く、深く。何度も何度も僕らは唇を離し、そして、触れ合わせる。このまま二人で温められたチョコレートのように溶けてしまっても、今なら許せる気がした。ダイヤさんと一緒になれるのならそれでもいい、と本気で思ってしまうくらい、あまりにも幸せすぎる時間だった。

 

 

 

「…………ふ、ぁ……」

 

 

 

 ダイヤさんが何かを言おうとしても、僕はそれを許さない。深く呼吸をさせる事すら許さなかった。苦しくなってもお互いの口の中にある酸素を唇から共有し、口内の渇きは二人の唾液で潤した。

 

 静かな黄昏が漂う部屋の中に、淫靡な小さな水音と二つの息遣いだけが響く。苦しそうな喘ぎ声が耳を通り抜ける度に、それは僕の色欲をいじらしく擽った。そうして煽動させられた僕の熱情は、飢えた獣のように彼女の柔らかな唇をさらに貪り続ける。

 

 

 

「……ゆう、ひ……さん……っ」

 

 

 

 ダイヤさんはそんな僕を受け容れてくれる。それだけじゃない。彼女は時に僕をリードするように、両肩を掴みながら唇を強く押し付けてきた。

 

 僕が彼女を愛している事を証明するためにキスをしているのに、これではどっちのためにしているのか分からなくなった。それでも、この感情が共有できているのなら、これでいいのかもしれない。

 

 

 

「……だい、すき……です」

 

 

 

 窓の外から注ぐ橙色の光に照らされながら、僕らは互いを求め合うように熱い接吻を繰り返す。

 

 その途中、僕とダイヤさんは互いの手を握った。その手の間には、同じ二つの玩具の宝石がある。

 

 それを、二人で強く握り締めた。もう二度と離れないように、とそんな淡い願いを込めて。

 

 

 それから一度、唇を離し、向かい合う。 

 

 そして、僕は言った。

 

 

 

「僕はもう、ダイヤさんを誰にも奪われたくない」

 

「…………はい」

 

「ずっと、守り続ける。この宝石みたいに、一時も離さず、大事に守り続けるよ。だから」

 

 

 

 誰にも渡さない。この美しい宝石(ダイヤ)だけは、誰にも奪われないように守り続ける。

 

 その為にはまず、僕自身がこの手に宝石(ダイヤ)を手に入れなければならない。

 

 この手の中で握り締め続ける為に。誰にも奪われないよう、守り続ける為に。

 

 

 

「これから僕は、君のすべてを奪う」

 

 

 

 世界で一番硬くて美しい宝石(ダイヤ)を、奪い去る。

 

 黒澤ダイヤという女の子のすべてを、僕が奪う。

 

 そうする事で、この先、どんな苦難や困難に見舞われる運命にあったとしても。

 

 

 玩具ではない、()()の宝石を守り続けてみせる。

 

 

 

 

 

「はい…………構いませんわ、あなたになら」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 

 Last Monologue/

 

 

 

 

 

 

 あなたは、この世で最も硬い宝石の壊し方を知っていますか? 

 

 

 それは、叩くことではありません。高い所から落とすことでもありません。足で踏みつけたりすることでも、ナイフで斬りつけることでもありません。

 

 

 答えはこの物語で語られました。少し長くなってしまったけれど、○が描いたお話を最後まで聞いてくれたあなたに、心からの感謝を送ります。

 

 その宝石は、どんなに強い力を込めても壊れる事はありません。必死になって殻をこじ開けようとしても、中にあるものには絶対に触れられない。

 

 だからこそ、彼は守り続ける事を選んだのです。その人生を賭して守ると誓ったのです。

 

 永遠に砕ける事がない不変のダイヤモンド。その中に隠れているものに触れられなくてもいい。それでも絶対に守り続ける。どんな事があってもそれだけは誰にも渡さないように、と。

 

 力強く叩くのではなく、優しくそっと包み込み、一途に寄り添い続ける事。

 

 それが、この世で最も硬い宝石を壊す唯一の方法だったのです。それが、この物語の答えです。

 

 哀しくても、つらくても。何が起こっても、世界で一番美しい宝石(ダイヤ)に寄り添い、守り続ける。

 

 

 

「これは、たったそれだけの物語」

 

 

 

 この世界に無限に存在するストーリーのひとつ。

 

 誰かにとってはただのガラクタでしかない。それでも大切にしていてほしい、素朴な宝物。

 

 無数に散らばった本物の宝石の中に隠された、玩具の宝石のように。

 

 心の中で淡い輝きを放ち、永遠に姿形を変えずそこに在り続ける。

 

 

 

 

 これは○、ではなく

 

 

 

 

 

 

 

 

 

()()が描いた、一途な恋の物語─────

 

 

 

 

 

 

 

 

 ずら。えへへっ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 Last Monologue/END

 

 





‐2


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Epilogue/
それでも生徒会長はホクロを掻く


 

 

 

 

 Epilogue/

 

 

 

 

 

「───夕陽が帰ってきたぞおおおおっ!!!」

 

「は、はは。ただいま、みんな」

 

「「「「「お帰りいいいいいいっ!!!」」」」」

 

 

 良く晴れた水曜日の朝。教室のドアを開けた瞬間に轟くクラスメイト達の絶叫。心のどこかではなんとなく予想はしていた反応だったけれど、まさか本当に起こるとは思ってなかった。

 

 本来ならば学校は火曜日から始まる筈だったのに、あの誘拐事件のお陰で休みが一日多くなった。といっても、僕らのクラス以外は普通通りの授業が行われていたようなので、僕達のクラスは実質的に全員が停学を食らったという事になる。鞠莉さんがお父さんに様々な言い訳をしてくれて、停学は一日だけという結果になったらしい。巷で騒がれていた誘拐グループを全員捕まえた、というお手柄だったとはいえ、少々やり過ぎたみたい。

 

 もちろん警察に事情聴取はされた。でも、あの内容を鮮明に語る訳にもいかなかったので、偶然あのマンションが奴らのアジトだと知り、襲い掛かって来たところを迎え撃った、という事にしている。

 

 あながち間違いではないし、大きな嘘も吐いてはいない。結局、あれは正当防衛の範囲内で片づけられた。犯人グループが捕まったというニュースで、僕らの名前が出る事はなかったけれど。

 

 

 久しぶりに僕の顔を見たクラスメイト達は何処かの国のカーニバルさながらに、各々のやり方で喜び的なものを爆発させてくれていた。何人かの男子は何故か制服を脱いでいる。訳が分からない。そして、それに対して反応を見せない女子達にも深い疑問を抱く。男子校のノリに順応し過ぎじゃないだろうか。彼女達の正気が段々心配になってきた。

 

 そんな感じで、一週間以上ぶりに入る教室はとにかくうるさかった。まぁ、あれだけ休んでおいて何も反応されないよりは幾分マシか。一応歓迎されてるみたいだし、そう前向きに捉えておこう。

 

 

 

「おはよう、夕陽くん」

 

「よう、夕陽。その顔の傷、なかなかイケてんな」

 

 

 

 他のクラスメイト達が騒がしい中、果南さんと信吾がそんな風に挨拶をくれた。

 

 二人ともいつも通りの表情をしている。あんな酷い事をした僕に、変わらず声をかけてくれた。

 

 その優しさが嬉しくて、心に熱が帯びるのを自覚する。でも大丈夫。僕はもう、泣いたりしない。

 

 見えている世界は灰色ではなく、ハッキリとした色彩をしているのだから。

 

 

 

「おはよう、二人とも」

 

 

 

 僕は二人に向かって笑顔を浮かべてみせた。繕った偽物ではなく、本心から湧き出る本物の笑顔を。

 

 謝らなければならないのは分かってる。でも、今はそれを言う場面じゃない。

 

 今は、僕がちゃんと元気になった事を伝えなくてはならない。少しでも心配かけてしまった分、前と変わらない姿を見せなくてはならないと思った。

 

 果南さんと信吾はお互いの顔を見つめ合って、同時に微笑んだ。それからその笑顔を、揃って僕の方へと向けてくれた。

 

 

 

「ふふっ、よかった。いつも通りの夕陽くんだ」

 

「そうだな。よく頑張ったな、夕陽」

 

「うわ、っ。もう、やめてよ信吾」

 

 

 

 信吾は嬉しそうに僕の頭をぐしゃぐしゃと撫でまわしてくる。嬉しくない訳じゃないけど、ちょっと鬱陶しい。僕は犬じゃないぞ。

 

 

 

「ははっ、いいじゃん少しくらい。俺は夕陽の事、大好きなんだからよ」

 

「その気持ちは嬉しいけど、隣を見てもそう言えるかな?」

 

「あ? そんなもん当たり前─────」

 

「信吾くん。あとでお仕置き(ハグ)、するからね」

 

「すいませんした。いや、マジでごめんなさい」

 

 

 

 僕に大好きとか言った信吾は果南さんに向かって深々と頭を下げていた。それはそれは、ここに居る誰が見ても美しいと口を揃えてしまうくらい綺麗な礼だった。頬を膨らませた果南さんは腕組みをして、信吾の事を睨みつけている。窓から入り込む海風が、彼女の鮮やかな青い髪を揺らしていた。

 

 というかなんなのお仕置き(ハグ)って。ルビを振らないと分からない意味深な表現はやめて。ハグってお仕置きになるんだ。生まれて初めて知ったよ。

 

 相変わらずの惚気っぷりを見せてくる二人。君達が幸せそうで何より。これからもずっと仲良しで居てください。

 

 そんな事を考えていると、次は()()()が耳に入って来る。

 

 

 

「ユーヒッ、グッモーニーングッ!」

 

 

 

 太陽のように明るい、あの子の声が。

 

 

 

「……おはよう、鞠莉さん」

 

「うんっ、お帰りなさい。みんなユーヒの帰りをずっと待ってたんだから~」

 

 

 

 変わらないハイテンションで接してくる鞠莉さん。でも、彼女が何かを繕っているように見えたのは多分、気の所為じゃない。

 

 僕の頭に浮かんでくるのは、あの日の記憶。鞠莉さんが実家に来て、話をしたあの時の事。

 

 彼女に会うのは少しだけ緊張していた。けれど、鞠莉さんはそんな事を気にしていないように振る舞ってくれている。もしかしたら、気に掛けているのは僕だけなのかもしれない。

 

 

 

「ごめんね、心配かけちゃって」

 

 

 

 色んな思いを込めて謝ると、鞠莉さんは首を横に振った。綺麗なブロンドの髪が左右に揺れる。ほんの少し、あのラベンダーの香りがした。

 

 

 

「謝らなくていいわ。ユーヒが元気になってくれたなら、マリーはそれで満足デース」

 

「…………鞠莉さん」

 

「でもね」

 

 

 

 鞠莉さんは本当に気にしていない。というような笑顔を僕にくれる。それから近くに歩み寄って来て、耳元に顔を近づけてきた。

 

 そして、彼女は言った。

 

 あの時と同じ、小悪魔のような囁きを。

 

 

 

「やっぱり、あの時の言葉は嘘じゃないわ」

 

「え──────」

 

「卒業するまで諦めないから。ダイヤには負けまセーン」

 

 

 

 そう言って、鞠莉さんは僕の耳から顔を離す。見ると、彼女の頬は桃色に染まっていた。その色が今の言葉が嘘ではない事を、僕に強く訴えてきた。 

 

 あの時の僕と何も変わっていなかったら、ここで頭が真っ白になって何も返せなかっただろう。

 

 でも、今は違う。僕はあれから少しだけ変わった。ほんのちょっとだけ強くなった。

 

 だから、小悪魔の罪な声には負けない。

 

 

 

「そっか。けど、あの子はきっと砕けないよ」

 

 

 

 僕が好きになった生徒会長は、誰よりも硬い。どんなに叩いても壊れる事はない。そんな事、鞠莉さんは僕よりも理解している筈。なのに。

 

 それでも、彼女は笑う。

 

 

 

「それは知ってマース。でも、諦めません。ユーヒの応援はするけどね?」

 

 

 

 てへぺろ、とお道化るように舌を出して鞠莉さんは言った。あの子も頑固だが、彼女も相当頑固な事を今さらになって知った。

 

 僕には彼女達に見合う魅力は無いけれど、そんな風に言われるのは男として嬉しくない訳がない。

 

 …………鞠莉さんが諦めなくても、僕が他の人を好きになる事は絶対に無いけれど。

 

 

 

「よし、今日の放課後は夕陽の快気祝いでもしようぜっ。いいよな?」

 

 

 

 信吾がそう言うと、クラスメイト達が全員賛成してくれる。なんだってこのクラスのみんなはそういう宴みたいなものが好きなんだろう。僕も嫌いじゃないからいいけどさ。

 

 そうやってクラスメイト達が放課後に何をするとか、誰が買い出しに行くとかを話し合っている中、教室の後ろの扉が開く。

 

 誰も彼女が入ってきた事には気づいていない。でも、僕だけは気づいている。

 

 騒がしい教室に入ってきた女の子の事をぼんやり見つめていると、僕の視線に気づいた誰かが彼女の名前を呼んだ。

 

 

 

「夕陽の次は生徒会長のお出ましだぁッ!」

 

「「「「「ちわっす、生徒会長ッ!!!」」」」」

 

 

 

 男子達は彼女に向かって礼をして、独特な挨拶をかける。ここはいつからそっち系の教室になったのだろうか。極道映画の光景そのものだった。

 

 でも、彼らはそうやって無理にでも彼女に明るく接しようとしているのかもしれない。誰よりも怖い思いをしたのはあの子だという事は、ここに居る全員が知っている。

 

 だからこそいつも通りに。迷惑をかけたなんて思わせないように振る舞っている。その不器用な優しさは、四月まで男子校の生徒だった彼ららしい、と深く思った。

 

 

 

「………………ご機嫌よう、ですわ」

 

 

 

 その挨拶に、生徒会長は小さな声で応える。ぶっきらぼうで、どこか恥ずかしそうな挨拶。

 

 男子達から顔を逸らした彼女の視線が、僕の視線と交わる。なんとなく照れくさくて目を逸らしてしまいそうになったけれど、何とか僕は彼女の目を見つめたまま笑顔を浮かべてみせた。

 

 すると彼女は驚くように一瞬目を丸くする。でもすぐにムッとした表情になり、自分の席に腰を下ろしてしまった。残念。どうやら今日のあの子はいつもより少しだけ、硬度が高いようだ。

 

 けど、こうして学校に来てくれた。そして、僕もここに居る。

 

 あれだけ苦しみ、学校になんて行けるわけないと思っていたのに、僕はこの場所に居るんだ。

 

 それを思うと、今この瞬間が奇跡のように感じられた。色んな事はあったけれど、自分がここに居る意味を思い出したら、その全てを許せる気がした。

 

 

 

「「ダーイヤ?」」

 

「ッ!? か、果南さん、鞠莉さん。一体なんですの?」

 

 

 

 気づくと近くに居た果南さんと鞠莉さんが居なくなっていた。顔をあの子の方へ向けると、二人は机に座る彼女の前で何かをしようとしている。

 

 

 

「なんですの、じゃないよ。ほら、こっちに来て」

 

「イエース。ダイヤにはみんなに言わなきゃいけない事があるんだから」

 

「ちょ、ちょっと二人とも、っ」

 

 

 

 二人は座っていたあの子を連れて、教室の前方へと歩いてくる。僕らは三人の一挙手一投足を黙って眺めていた。

 

 そうして果南さんと鞠莉さんは彼女を黒板の前に連れてくる。僕らの生徒会長はクラスメイト達の前に立ち、居心地悪そうに目線を斜め下に向けていた。それでも、僕らは彼女の事を見つめた。

 

 数秒の沈黙が教室に流れる。でも、空気は重くない。HR前の穏やかな静寂がここには漂っていた。

 

 

 

「さ。ちゃんと言うんだよ、ダイヤ」

 

「そうデース。言いたい事がある時くらい素直になりなさい」

 

「………………っ」

 

 

 

 隣に立つ果南さんと鞠莉さんが声を掛ける。すると彼女は横目でチラリと、正面に立つ僕らの方へ視線を向けてきた。それは明らかに何かを言いたげな表情だった。

 

 だから、僕らは待った。彼女が僕らに何を言いたいのか。それを、きちんと理解する為に。

 

 教室の掛け時計の秒針が四分の一ほど回転した時、目を逸らしていた生徒会長は顔を上げる。

 

 そして、僕らに向かって言葉を放った。

 

 

 

「…………あ」

 

「「「「「あ?」」」」」

 

 

「ありがとう、ございました」

 

 

 

 頬を朱色に染めながら恥ずかしそうに、ダイヤさんはそう言った。彼女のその言葉を聞いた瞬間、全身に温かい何かが流れるような感じがした。恐らくこれを感じているのは僕だけではない。ダイヤさんの言葉を聞いたここに居る全員が同じものを感じていると思った。

 

 

 

「あなた達が居なければ、私は無事では居られませんでした。だ、だから、その……」

 

 

 

 ダイヤさんの小さな言葉に僕らは耳を澄ませる。彼女は心底恥ずかしそうな表情を浮かべながら、目線を横にずらしながら、言った。

 

 

 

「私は、あなた達と同じクラスになれて、よかったです」

 

「「「「「………………」」」」」

 

「で、ですが、統合した事が良かったとは言っていませんわ。そこは勘違いしないように」

 

 

 

 言い終わってからふん、と鼻を鳴らしたダイヤさん。しかし、それが本音の言葉であったとしても、僕らの心を動かすには十分すぎる力を持った言葉だった。どうしよう、ニヤケ顔が止まらない。

 

 隣を見ると、信吾も手を顔に当てて歪んでしまった顔を隠していた。クラスメイト達も同じように、ニヤケた顔を見せないよう必死に隠している。

 

 数秒間声を出さず、その衝動に耐えようとしたけれどもう限界だった。クラスメイト達も多分、同じ事を思っている。

 

 プルプルと全員が小刻みに身体を震わせながら、照れた顔をしている生徒会長の事を見つめていた。

 

 誰かが息を吸ったのを皮切りに、全員が深く息を吸い込んだ。そして。

 

 

 

「「「「「よっしゃぁああああっ!!!」」」」」

 

 

 

 

 

 大きな雄たけびを教室に響き渡らせたのだった。

 

 

 

「う、うるさいですわっ。何を喜んでいるので───」

 

「生徒会長が久しぶりにデレてるぅううううっ!」

 

「硬度が五十%くらいに落ちてるぞぉおおおっ!」

 

 

 

 という、男子達の変わらないリアクションと。

 

 

 

「あのダイヤが男子達に素を見せてるですってぇええええっ!?」

 

「奇跡が起こりましたわぁあああああああっ!」

 

「しゃぁああああいにぃいいいいいいっ!!!」

 

 

 

 という、女子達の驚愕のリアクションが入り混じっていた。最後に聞こえたのは恐らく鞠莉さんの絶叫だろう。全然意味分かんないけど。

 

 ダイヤさんの予想外の言葉を聞いて、一気にボルテージが上がる教室。無理もない。だって、僕も素直に嬉しかった。

 

 あんな事件が起きて、クラスメイト全員がダイヤさんの為に駆け付けて、彼女を助けた。

 

 それが出来たのも、あの統合があったから。統合という偶然が僕らをここに引き合わせた。たったひとつの出来事の波紋が広がり、最終的に奇跡を引き起こした。

 

 何もかもに意味があった。どんな小さな出来事が欠けていても、僕達は今こうしていられなかった。

 

 バタフライエフェクト。この言葉の意味が、ようやく分かった気がする。

 

 この世に無駄なものなんて何も無い。全ては繋がっている。そう思えた瞬間、世界が少しだけ綺麗に見えた。

 

 透き通るあの内浦の海のように、僕らが生きるこの場所はとても素敵な世界なんだって。

 

 今だけは、そう思える事が出来たんだ。

 

 

 

 

 

「もうっ、やっぱり私は統合なんてしたくありませんでしたわっ!」

 

 

 

 

 

 顔を赤く染めた生徒会長はそう言って、ホクロの所を指で掻いていた。

 

 

 






次話/The Answer

-1


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The Answer

 

 

 

 ◇

 

 

 

 夕焼け色に染まる海岸通り。県道に人通りはなく、嗅ぎ慣れた潮の香りと何処かの民家から流れてくる夕餉の香りが漂っていた。

 

 歩道のすぐ傍にある波消しブロックに波が当たり、穏やかな潮騒が奏でられる。頭上には一匹の海鳥が羽根を広げ、高い鳴き声を上げながら橙色の空の中を気持ち良さそうに泳いでいた。

 

 ついこの間まで聞こえていたひぐらしのバラードも、気づけば無くなってしまっている。どれだけ耳を澄ませても、周囲から聞こえるのは九月の終わりに流れる静かな海辺の音だけ。それ以外は本当に何も聞こえてこなかった。

 

 裏山にある蜜柑畑には沢山の蜜柑が実り、いつも緑色の木々達をオレンジ色に染めていた。その光景を眺めていると、なんとなく夜空に浮かぶ星を連想させた。緑の木が夜空で、生っている蜜柑が星。それなら随分美味しそうな星だな、とおかしな事を思ったりした。広い銀河の中を探してみれば、甘酸っぱい星も見つかるかもしれない。

 

 

 

「………………」

 

「………………」

 

 

 

 学校からの帰り道。先ほど僕の快気祝いと称した打ち上げが終バスの時間とともに終わり、僕はいつも通り徒歩で帰る事にした。

 

 一人で帰るつもりだったのに、僕の隣には一人の女生徒が歩いている。何故かは知らないが、校門を出た所で彼女は誰かを待っていた。そして、声を掛ける間もなく隣にピタリとついてきた。それから学校前の坂を下り、県道に出て、今に至っている。

 

 夕暮れの内浦を並んで歩く。会話は校門から一度も交わしていない。話したい事が無い訳じゃないけど、この間の事を思うと気まずくて気軽に話す事が出来なかった。

 

 彼女が僕と一緒に帰る事を望んでくれていたのなら、それは素直にうれしい。そこに会話が無くても、心が満たされるような感覚があった。けど、いつまでも無言のままで居るのは少し息苦しい。

 

 

 

「あの……ダイヤ、さん?」

 

 

 

 だから、僕は勇気を出した。隣を歩く女の子の名前を呼ぶ。ただそれだけの事だったのに、心臓は鼓動を強め、拍動する速度を増した。

 

 海の方から優しい風が吹いてくる。ふわり。すぐ近くから金木犀の良い香りがした。

 

 夕焼け色に染まった潮風はその香りを何処かへ運んで行く。行き先は多分、本物の金木犀が咲く十月の方へ。これから訪れる、秋の季節に。

 

 

 

「なんですの」

 

 

 

 ダイヤさんは少しの間を置いて、口を開いてくれた。でも。

 

 

 

「どうして怒ってるの?」

 

「お、怒ってなどいませんわっ」

 

 

 

 不機嫌そうな顔をしているダイヤさんにそう訊ねると、さらに不機嫌そうな表情で返された。どう見ても怒ってるのに怒ってないと言うのは彼女の癖なのだろうか。

 

 何かしてしまっただろうか、と考える。ダイヤさんを怒らせるような事。何個か心当たりがある事にはあるけれど、彼女はどの出来事を気にしているのか。その原因を特定する事は難しい。

 

 

 

「よく分からないけど、ごめん」

 

「べ、別に謝らなくてもいいですが」

 

 

 

 理由も不明瞭なまま謝ると、ダイヤさんは僕の方ではなく海の方へ顔を背けてしまった。艶やかな黒髪が掛かっている可愛らしい耳が赤に染まっているように見えたのはきっと、夕暮れの所為だろう。

 

 

 

「なら、どうして怒ってるのか教えて?」

 

「………………っ」

 

「ダイヤさん?」

 

 

 

 そう訊ねると、彼女は身体をピクリと反応させた。微かに『ぴぎっ』という声が聞こえた気がしたけれど、それは気の所為という事にしておこう。

 

 夕暮れの海岸通りに静けさが流れる。温かな色をした夕日が時間をかけて海に向かって落ちて行く時間帯。この穏やかな静寂(しじま)の中で、僕らは同じ方向に向かって歩いていた。

 

 一台のバスが僕らの事を追い抜いて行き、遊びから帰る数人の小学生がすれ違って行く。そんな、何処にでもあるありきたりな日常の風景。面白くもなんともない、普遍的な時間。

 

 それも、隣にこの子が居れば特別に思えるような気がした。彼女が隣に居るこの時だけは月並みではない。ただ流れて行く時間の奔流に、ほんの少しだけ抗いたくなる。

 

 もうちょっとだけこの子と一緒に居る夕暮れが続いてくれますように、と心の中で呟く。僕はその願いを、山に隠れて行こうとする夕日に祈った。

 

 

 

「………………ですわ」

 

「うん?」

 

 

 

 ダイヤさんが何かを囁く。でも、よく聞き取れなかった。すぐに訊き返すと、彼女は背けていた顔を徐にこちらへ向けてくれた。

 

 橙色の光に染まる彼女の顔は、何故かほんのりと紅潮していた。まるで、あの夕焼けに赤い化粧を施されているかようにも見える。そんないつもより美しい表情を見て心臓が高鳴ったのはもう、どうしようもなかった。

 

 

 

「は、恥ずかしいのですわ」

 

「……何が?」

 

「あなたと、顔を合わせるのが、です」

 

 

 

 ダイヤさんは小さな声でそう言った。今度はちゃんと聞こえた。だけど、言葉の意味までは理解出来ない。ならどうして、彼女は僕と一緒に帰っているんだろう。ダイヤさんの言っている事と行動は、たまに逆になったりするから本音を見分けるのが大変。それも全部、彼女の中に存在する強がりという気持ちの変換機の所為。その強がりの所為で僕の心は一度へし折られたから、ダイヤさんの性質は誰よりもよく理解しているつもり。考えている事までは分からないけれど。

 

 

 

「どうして?」

 

 

 

 今度はムッとした表情で睨みつけられた。なぜ分からないのです、と彼女の顔は語っている。

 

 

 

「なぜ分からないのです」

 

 

 

 やっぱり。考えている事が顔に出ている時は分かりやすくていい。

 

 笑いそうになるのを堪えて、僕は口を開いた。

 

 

 

「だって、本当に分からないから」

 

「…………」

 

「言ってくれたら分かるかもしれないから、教えて?」

 

 

 

 そう言うと、ダイヤさんの顔はまた赤くなった。目で分かるくらいの変わり様。彼女がここまで照れているのを見るのは、あの時以来。

 

 ん? あの時? 

 

 

 

「…………あ、()()()()をして、まだ白を切るつもりですの?」

 

「あ…………」

 

 

 

 ダイヤさんにそう言われて、ようやく彼女の言葉の意味を理解した。途端に僕の顔にも熱が帯びてくる。分からなかった自分が恥ずかしすぎて、思わずダイヤさんから顔を背けてしまった。

 

 そうか。考えてみれば僕らはあの日以来、一度も会っていなかった。なのにどうして僕は平気な顔で彼女と接する事が出来たんだろう。

 

 忘れていた訳じゃない。でも、考えないようにしてたから意識はしていなかった。ダイヤさんが気にしている事までは、考えもしなかった。

 

 何をやってるんだろう、僕は。彼女に()()()()をしておいて、どうして平然としていられたんだ。

 

 熱くなってくる顔をダイヤさんから背けたまま、僕は立ち止まる。彼女も僕の近くで止まり、こちらを見つめているようだった。やばいどうしよう。恥ずかしくて顔が見られない。本来ならばこの場で土下座をする勢いで謝らなくてはいけないような事を、僕は彼女に対してやってしまっていた。とぼけていた自分が嫌いになりそうだ。

 

 

 

「ご、ごめんダイヤさんっ。あの時は、その」

 

「──────ッ」

 

 

 

 今度はちゃんと彼女の言い分を理解して謝罪する。ダイヤさんも僕が彼女の言葉を理解した事に気づいたらしく、両手の拳をキュッと握り締めながらこちらを睨み、身体を強張らせていた。

 

 どうやらあの時の事は闇に葬り去るのが得策らしい。それは僕にとっても、ダイヤさんにとっても。あとどれくらい彼女と会えるのかは分からないけれど、少なくともその間は消えない黒歴史としてあの出来事は残り続けるだろう。

 

 でも仕方ない。僕だって男なんだから。

 

 

 

「……本当にごめん。あの時は、どうかしてた」

 

 

 

 鞄を持たない右手で頭を掻きながら、また謝る。男の僕が女の子であるダイヤさんに謝罪するのは当然の事。いくら彼女の方から僕を求めて来ていたのだとしても僕は反省し、謝らなければならなかった。

 

 そろそろ土下座をするべきかと本気で思い始めた時、ひとつの天邪鬼な声が聞こえてくる。

 

 

 

「べ、別にいいですわ。今度同じ事をしたら、本気で怒りますからね」

 

「………………分かったよ」

 

「っ!? そ、そんな捨てられた子犬のような目をしないでくださいっ」

 

 

 

 深い悲しみに打ちひしがれていたら、ダイヤさんにそう言われた。どうやら今の僕はそんな目をしているらしい。そうなるのも致し方ないと自分を許してあげよう。だって、そんな事を約束させられたら本気で悲しくてどうにかなってしまいそうだ。

 

 僕は小さなため息を吐き、ダイヤさんはこほんと咳払いをして、お互いの顔を見つめ合う。

 

 

 

「…………」

 

「…………」

 

 

 

 ダイヤさんの顔は、これ以上ないくらい赤に染まっている。夕焼けの所為には出来ないほど濃い色彩だった。そして恐らく、僕の顔も彼女と同じような色をしていると思った。

 

 見つめ合ったまま、時が流れる。近くの防波堤の上にとまる海猫の可愛い声が聞こえた。なんとなく、黙って見つめ合う僕らに何をしているのか、と訊ねているような鳴き声に聞こえた。

 

 

 

「…………嘘、ですわ」

 

「え?」

 

「な、なんでもありませんわっ」

 

 

 

 そう言って、ダイヤさんは先に歩いて行ってしまう。彼女は何か大事な事を言ったような気がしたけれど、今は気にせずその背中を追った。

 

 そしてまた隣り合って、人気(ひとけ)の無い帰り道を歩いた。さっきよりもほんの少しだけ、彼女が僕の近くを歩いているような気がした。

 

 

 

「……ねぇ、ダイヤさん」

 

「どうしました、夕陽さん」

 

「ダイヤさんは高校を卒業したら、どうするの?」

 

 

 

 隣を歩く生徒会長に、僕は訊ねる。テスト勉強をしている時に一度進路の話はしたけれど、そう言えば彼女が具体的にどんな道へ行くのかは聞いていなかった。

 

 僕の問いにダイヤさんは少しだけ考えるような間を空けて、血色の良い唇をそっと開いた。

 

 

 

「私は、東京の大学に進学する予定ですわ」

 

「東京の?」

 

「はい。夕陽さんは?」

 

 

 

 今度はダイヤさんから訊ねられ、僕は自分が決めている進路を口にする。

 

 

 

「僕は、関西の大学に行くよ」

 

「…………」

 

「プロの翻訳家になる為にね。それが、昔からの夢だったから」

 

 

 

 抱き続けた夢を叶える為に、卒業した後この沼津から出て行く。それはずっと前から決めていた事。

 

 ダイヤさんが東京の大学に行く事を知っても、この夢だけは捨てられない。僕にとって、何よりも大切な事だから。

 

 ダイヤさんは黙ったまま隣を歩く僕の方へ視線を向けてくる。彼女が何を思っているのかは知らないけれど、感じている事は同じだと思った。

 

 だから、僕は彼女に()()を渡す。

 

 ずっと渡せなかったプレゼント。長い間タイミングを探して、ようやくその時が来た。

 

 あの時、雑貨店の店員が言った言葉を思い出す。

 

『時間は味方にもなり、敵にもなる。だから渡すタイミングに気を付けなさい』、と言う言葉。

 

 今がその時だと、僕は信じる。

 

 

 

 

 

「卒業したら、会えなくなっちゃうね」

 

「…………そう、ですわね」

 

「でもね、ダイヤさん」

 

 

 

 僕は立ち止まり、制服のポケットに入ったものを取り出す。ダイヤさんは突然立ち止まった僕の方を振り返り、小さく首を斜めに傾げていた。

 

 そして、僕はそのプレゼントを彼女の方へと差し出す。その瞬間、ダイヤさんの目が少しだけ見開いたのを僕は見逃さなかった。

 

 

 

「…………これ」

 

「うん。ずっと、渡そうと思ってたんだけどね」

 

「でも、どうして?」

 

「ダイヤさん、これを気に入ってたみたいだったから。それと、もう一度あの髪型を見たかったから」

 

 

 

 彼女が僕のお願いを聞いてくれて、髪をツインテールにしてくれたあの日。あの時の彼女が忘れられなくて、どうしてもまたあの髪型が見たかった。

 

 だから僕はあの時、このシュシュを買ったんだ。

 

 

 

「けど、今はひとつだけ」

 

「?」

 

 

 

 そう言って、僕は彼女にシュシュをひとつだけ渡した。もうひとつはまたポケットの中に仕舞った。彼女は、僕の言っている事が分からないというような顔をしている。

 

 今は、それでいい。でもいつか、分かってくれると信じてる。その時が来たら、もうひとつのシュシュを渡そう。そのいつかは。

 

 

 

「高校を卒業して、大学も卒業したら、僕はダイヤさんの所に行く」

 

「え…………?」

 

「その時、もうひとつを渡すよ。必ず。だから」

 

 

 

 だから。

 

 

 

「ずっと、持っていてほしい。ずっと、忘れないでいてほしい」

 

 

 

 今はひとつだけを彼女に渡す。いつか、このもうひとつをダイヤさんに渡すために。

 

 

 

「ダメ、かな?」

 

 

 

 僕がそう言うと、ダイヤさんはシュシュを大事そうに両手で握り締めて、首を横に振ってくれた。

 

 そして深碧の目を僕の方へ向けて、綺麗な微笑みを浮かべてくれた。

 

 

 

「…………ダメな訳、ないでしょう。ばか夕陽」

 

 

 

 そう言った彼女の目には、ほんの少しだけ涙が浮かんでいるように見えた。

 

 その言葉以上に欲しいものは無かった。嬉しくて、僕も涙が出そうだった。

 

 

 

「ありがとう───ダイヤ」

 

 

 

 馬鹿と言われた仕返しをする為に、彼女の名前をそう呼んでみせる。

 

 でも、お硬い生徒会長はその呼び方がお気に召さなかったようだった。

 

 

 

「ふんっ。私の恋人になったからって、あまり調子に乗らないでください」

 

「はは、呼び捨てはダメだった?」

 

「だ、誰もダメとは言っていないでしょう?」

 

「じゃあ、ダイヤって呼んでいいんだよね?」

 

「……特別に良いですわ。でも、その代わり」

 

「その代わり?」

 

「私も…………()()()()、って、呼びますから」

 

 

 

 彼女は恥ずかしそうにそう言って、僕から目を逸らした。

 

 その懐かしい呼ばれ方に喜びを感じてしまい、思わず顔から笑みがこぼれる。

 

 本当に彼女は変わらない。まるで永遠にそう在り続ける、ダイヤモンドのように。

 

 

 

「分かった。ならよろしくね、ダイヤ」

 

「なっ、で、ですからあまり調子に乗らないでくださいと言っているでしょうっ? あなたは何回言えば分かりますの!?」

 

「はいはい。分かった分かった」

 

「──────ッ!」

 

 

 

 顔を赤くする反応が面白くて、つい笑ってしまう。それから彼女の説教をいつも通りに流した。

 

 それが気に食わなかったのか、彼女は怒った顔をして僕の方へと早足で近づいてくる。

 

 彼女は僕の目の前で、少しだけ背伸びをした。

 

 

 

「んむ、っ?」

 

「ん────」

 

 

 

 そして、その唇を僕の唇に当ててきた。ぶっきらぼうで、何処か怒っているような。

 

 なんとなく彼女らしい、と思ってしまうキスだった。

 

 

 

「…………どうして?」

 

「…………前に言ったでしょう。次に()()を言ったら今度は罰を与えます、と」

 

 

 

 唇が離れ、訊ねるとそんな答えが帰ってきた。

 

 ()()とは、僕の反応を面白く思わない彼女が訂正を求めてくる、あのやり取りの事。

 

 たしかに思い返すと彼女はそんな事を言っていた。でも、その罰がこんなものだとは言っていなかった。こんなの、罰じゃなくてむしろご褒美だ。

 

 抗議したいのに、頭が真っ白になって何も言えなかった。そんな状態で立ち尽くした僕に、彼女は声をかけてくる。

 

 怒っている顔ではなく、呆れたような微笑みを浮かべて。

 

 

 

「あなた本当に───ぶっぶー、ですわ」

 

 

 

 そんな言葉を優し気な声に乗せて、僕に言った。

 

 

 

「………………」

 

「さぁ、帰りますわよ」

 

 

 

 そう言って彼女は踵を返し、先に海岸通りの歩道を歩いて行く。僕はその場に立ち尽くしたまま、離れて行く背中を見つめていた。

 

 人にするなとか言っておきながら自分からしてくるなんて、そんなの反則だろう。いい加減にして。

 

 そんな事を思いながら、僕はポケットの中に入っている玩具の宝石を強く握り締めた。

 

 

 

「あ」

 

 

 

 すると、いつもとは違う感触が手に伝わってくる。普段なら形を変えず、ただ握り締められるだけの玩具の宝石。

 

 でも今は、僕が握り締めた時、パキンという小さな音がした。

 

 ポケットに入れた手を咄嗟に引き抜き、広げる。

 

 そこには。

 

 

 

「…………はは、っ」

 

 

 

 ()()()()()()()()()()()が、手のひらの上に散らばっていた。

 

 

 

「何をしていますの? 行きますわよ、夕陽くん」

 

 

 

 声が聞こえて前を向くと、一人の生徒会長が離れた場所で僕の事を見つめていた。

 

 

 

「うん。いま行くよ、ダイヤ」

 

 

 

 彼女の言葉にそう答え、前に向かって歩き出す。

 

 愛する人が待つ、夕日に染まる帰り道を。

 

 それから、砕けた宝石(ダイヤ)を優しく握り締めた。

 

 

 それがこれ以上壊れないように。いつかまた、新しく作り直せるように。

 

 今度は偽物ではなく、本物の宝石を守り続けると誰かに誓いながら。

 

 

 ───そっと、そっと。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 

 

 The Answer/

 

 

 

 

 

 春の匂いがする。

 

 開け放たれた窓から入り込んでくる、柔らかな空気。冷たい冬を越えて、ようやく暖かさを思い出した季節が吹かせる春の風です。

 

 今はもう何も無くなってしまった図書室。ここに在るべき数多の本の香りは、季節の移ろいとともに誰かが奪い去ってしまった。

 

 でも、哀しくはありません。ここで読んだ数百もの物語は、ずっと心の中に残り続けているから。

 

 その物語たちがくれた喜びや悲しみ、寂しさや楽しさ。それらに触れる事ができたから、この数十万文字のストーリーは生まれたんです。

 

 いつか食べたものが今の自分を作っているみたいに、幾多の物語を読み重ねたおかげで〇はこんなにたくさんの文章が書けるようになりました。

 

 そして、やっと完成する事ができました。

 

 今日というもう二度と訪れない特別な日に、どうにか間に合う事ができました。最後は徹夜で書いたから、少し眠くなってしまいました。慣れない事はするものじゃありませんね。えへへ。

 

 

 

「──さん?」

 

 

 

 そうして何も無い図書室の受付に座ってうたた寝をしていると、誰かがドアをスライドして中に入って来ました。その声を聞いて、眠りに落ちかけていた意識は優しくサルベージされます。

 

 

 

「ああ、ここにいたのですね」

 

 

 

 顔を上げると、その人は優し気に微笑みながらこちらに歩み寄ってきます。手には卒業証書が入った筒。もう袖を通す事は無いであろう制服の胸元には、桜のバッジが付けられています。

 

 

 

「何かを書いていたのですか?」

 

 

 

 その人は〇の前にある原稿用紙を見て、そう訊ねてきました。〇は頷き、それからそのぶ厚い原稿用紙の束を持って立ち上がります。

 

 そして、それをこの学校の生徒会長だった彼女に差し出しました。

 

 

 

「これは、なんですの?」

 

 

 

 今日のために書いた小説です、と〇は答えます。卒業してしまう三人の先輩のために書いた、三つの物語。これは、その中のひとつの物語。

 

 

 

「私が読んでもよろしいのですか?」

 

 

 

 もちろん。これは、あなたにだけ読んでほしい。

 

 〇たちの前から旅立ってしまうあなたが、長い旅の途中で退屈しないように書いた小説だから。

 

 何も渡せない〇が一生懸命書き連ねた拙い小説。それが、この物語の正体。

 

 

 

「題名は、何ですの?」

 

 

 

 そう言われて〇はハッとします。そう言えばまだ題名を付けていませんでした。それを考えている最中に寝落ちしていた事を今さら思い出しました。

 

 〇はその場に立ったまま考えます。目の前に立つ、この小説のテーマになった人を見つめながら。誰よりも硬く、そして誰よりも美しい、真面目でしっかり者の生徒会長さん。

 

 その人を見つめていると、ある言葉が頭に浮かび上がります。少しおかしなタイトルかもしれないけれど、この人なら許してくれると思いました。

 

 もう一度その原稿を受け取り、〇は空白だった一ページ目の最初の行に文字を記します。

 

 たった九文字の言葉。きっと世界中で彼女のためにしか書けなかった、この作品の題名を。

 

 〇はまたその人と向き合い、原稿用紙を差し出します。そして、こう言いました。

 

 

 

「この作品の題名は」

 

 

 

 ──春の匂いがする。

 

 ここは、()浦の星女学院。

 

 大切な思い出がたくさんあるこの場所。

 

 そこを舞台にして描いた、ひとつの恋愛譚。

 

 旅立つあなたへ送る、(はなむけ)の物語。

 

 

 

 それが、

 

 

 

 

 

 

 

「生徒会長は砕けない、ずら。

 

 

 卒業おめでとう、ダイヤちゃんっ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 生徒会長は砕けない

 

 終

 



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