かつサンド、半分あげる。【完結】 (イーベル)
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四月:召喚

 普段だったら絶対に買わないかつサンドを買った。ボリュームがあって、満足感はある。けれど、サンドイッチ系統は値段が財布に優しくない。月々の小遣いが食費と練習試合の為の交通費で消えてしまう身故、この損失は手痛いのだ。

 しかし、今回は弁当箱を忘れてしまったのだから仕方がない。ただでさえ部活動はしんどい。加えて空腹のままというのは死活問題だ。だからこの出費は必要経費だと考えることにして割り切る事にした。

 教室に戻るのもめんどうだった。だから、購買の目の前にあるベンチに腰を掛ける。簡単にビニールテープで止められていた封をきった。

 ため息を付いて空を流れる雲を見る。今日は本当についていない。気分的にはどん底だ。こんなんで高校最後の一年間をやっていけるのだろうか。不安でたまらなくなる。

 そんな事を考えていると僕の視線に何かが覆いかぶさって来た。光を遮る丸みのある物体から細長い束が伸びているのを見て、それが頭だと理解した。でも肝心の表情が見えなかった。

 

「そんな顔してカツサンド食べてて楽しい?」

 

 若干不機嫌そうに俺にそう問いかける声は自分のものよりも高くて、どこか聞き覚えのあるものだ。視線を空から地上に戻してその主を正面から見る。

 女性にしては短めの黒髪。体から極限まで無駄を削り取ったかの様な体つき。この特徴が当てはまる奴はこの学校に二人といない。クラスメイトの勝呂七海(すぐろななみ)だ。

 特長的な吊り目が憎らし気に僕を見ている気がした。なんか悪いことしたかな。

 でもよかった。取りあえず知っている奴で。知らない奴だったらどうしようかと思った。

 

「楽しそうに見えるんだったら見る目がないよ。というか、カツサンド食べてて楽しくなる奴なんかいるのかよ」

「そうかな? カツサンド、あがるじゃん」

「勝呂はカツサンド食べると楽しくなっちゃうのか。そうか、そうか」

「そんな生暖かい目で私を見ないで。ムカつく。そんなんだから友達が少ないんだよ」

「友達の数は関係ないだろ。だいたいそういう数の自慢する奴はろくでも無いだろ。LINEの友達が何人で、Twitterのフォロワーが何千人で、俺はグローバルな人脈を築いている~みたいなの」

「そういう事じゃないんだけどな……」

 

 含みのある呟きの後「隣、いい?」と勝呂は問いかける。僕は特に断る理由もなかったから頷いた。

 

「で、何の用?」

「用があるわけでもないんだけど、なんか気になって」

「ふーん。つまんなそうな顔してカツサンド食ってる奴の何が気になるんだか、興味あるね」

 

 勝呂はストローをコーヒー牛乳に突っ込んで、一口飲む。それから言いづらそうに口を開いた。

 

「……私の幸せを奪っていった奴がつまらなそうにしてるのが気に食わなかっただけ」

「急にバトル漫画に出てくる復讐者的な台詞を吐くなよ。俺が勝呂から何を取ったっていうんだ」

「ん」

 

 勝呂は俺の手に握られているカツサンドを指差した。

 

「好きなのか? カツサンド」

「好き。三六五日中、三三〇日食べても飽きないぐらいには」

「それほぼ毎日って言っちゃダメなの?」

 

 牛乳パックの容量表示かよ。数字のケタが大きくても量変わんないからな。

 

「今日は購買に行くのが遅れて、目の前でキミが最後の一個を取っていったの」

「逆恨みじゃねぇか。寝たのが悪いだろ」

「……そうだけど、私が買うはずだったものは幸せに食べられて欲しいの!」

「面白い思想だな。新興宗教でも立ち上げたら何人か釣れそうだ」

「キミはいちいち神経を逆撫でしなきゃ気が済まない訳?」

 

 勝呂は眉間にシワを寄せる。相当苛立っているのがメンタリストではない俺でも分かった。

 あまり話さない奴にこんなに絡んでくるほど彼女はカツサンドが好きなのだと理解した上で手の平の上に乗る二切れ目を見る。

 惰性で買った奴に食べられるか。その日ずっと楽しみにしてた奴に食べられるのか。どちらがより多くの幸せを生み出すのか。何となく考えてみる。天秤にかけるまでもない。結果は分かり切ってる。

 気まぐれで彼女に残り半分のカツサンドを差し出した。

 

「そんなに好きなら半分くれてやるよ」

「嘘、ありがと! あ、返してって言っても返さないからね」

「あげたものを返せなんて言うほど意地汚くない」

 

 勝呂は俺の手からカツサンドが入ったビニール袋をかっさらうと、半分だけ出して頬張った。

 結構豪快にかぶりつくんだな。偏見だけど、女の子ってもっとリスみたいにちまちま食べると思ってた。でもこれはこれでかわいいかもしれない。あっという間に食べ終えて、ぺろりと唇をピンクの舌がなぞった。

 

「ごちそう様っと。半分の値段でいい?」

「別に要らねえよ。そんなつもりでやった訳じゃない」

「そう?」

 

 勝呂はポケットに添えていた手を元に戻す。それから僕の眼をじっと見た。一メートル未満の距離感は世界の彩度を上げていく。黒に見えていた彼女の瞳がこの距離だとほんのりと茶色がかっていることに気が付いた。僕の眼もこんな風に綺麗なのだろうか。

 沈黙の中、そんなことを考えていると、彼女がそれを破った。

 

「涼川君、思っていたよりもずっといい人だね」

「かつサンド一切れやっただけでその判定は甘すぎじゃないか。お前の信頼安すぎだろ」

「それだけかつサンドは偉大なのです。あの初代総理大臣伊藤博文も、天皇陛下にかつサンドをささげた事からその座に収まったという……」

「適当な事を言って勝手に歴史を書き換えるな。それに当時かつサンドなんてないだろ」

「意外と博識だね」

「博識って、お前なぁ……。こんなの考えてみれば分かるだろ。考えなくても授業聞いてれば」

「裏切者め」

「裏切者?」

「我ら運動部にとって授業時間は睡眠時間。その約束を忘れたとは……」

「当たり前みたいに言うな。朝は早いけど、その分睡眠時間を取っていれば気にならないだろ。それにノートの貸し借りって面倒だから」

「あ、分かった。そんなこと言ってノート借りる友達がいないだけでしょ?」

 

 だから、友達はいる。ただ、夢に旅立っている奴が多いだけなのだ。奴らはこういう時本当に役に立たない。

 

「勝呂、キミは何かにつけて友達いない奴扱いをするのは何なんなの」

「だって涼川君クラスだと誰とも話さないじゃない」

「ああ、成程ね」

 

 勝呂が抱く僕のイメージの理由に納得がいく。

 確かに僕はクラスの奴とあまり話さない。去年頃からクラスが文系と理系の二種類に分かれている。僕の所属する野球部の大半は文系で、理系の数人の内、僕だけが孤島に取り残されたかのように一人だった。

 朝は部活に、放課後も部活に、休みの日だって部活に時間を割く。だから、部活以外の人間とは接点がどうしても作れずにいた。

 

「確かにあんまり話してないけど、それだけが友人関係の全てじゃないだろ。そんなこと言ったら勝呂だって、クラスの奴とあんまり話してないだろ」

「だって男子が大半じゃない。それに友達は別のクラスになっちゃったし……」

「僕と似たようなものじゃないか。さっきの理屈で言うなら勝呂にだって友達がいないことになる」

 

 そう言うと勝呂はまた眉間にシワを寄せる。お前、琴線に触れられた時の表情一種類しかないのかよ。分かりやすすぎるだろ。

 突っ込む前にその表情は解けて、なよなよと申し訳なさそうな物に変わった。

 

「そっか、じゃあ私は失礼な思い込みをしていたかもしれないね」

「本当だよ。やっとわかってくれたか」

「……寂しそうに見えたのは涼川君だけじゃなかったんだね」

「違う。そっちじゃない。勝呂お前、わざとやってるだろう。寂しそうに見えたって方を訂正しろよ。自分を犠牲にしてまで僕にダメージを与えようとするな」

 

 いやまあ、客観的にみるとどっちもどっちかもしれないけどさ。

 

「寂しいもの同士仲良くしようよ」

「遠慮させてくれ。友達いない人間扱いを受け続けるのはごめんだ」

「しないよ」

「さっきまでのあの扱いを受けて、信じろって言う方が無茶じゃないか?」

「だから、そんなこと言うから友達がいないんだ……って、ああ、やっちゃった」

 

 自分の口から洩れてしまった言葉に目を丸くする彼女はわざとらしく口を開いた手で隠す。「ほら見ろ」と僕は追撃を加えた。

 

「……ごめん。でも、もうこんな事をするのはやめるって約束するから」

「変に取り繕わなくてもいいのに。この数分で勝呂がどんな奴か分かったし。クラスにしゃべるやつもいないから、猫を被んなくてもいい」

「猫は被ってない。そういうの疲れちゃうから。だからさっき言ったことも本当のことだよ。って、信じてないな~」

「ばれたか。だって勝呂が言ってんこと全部ふわふわしてるから。頭の中マシュマロ詰まってたりしてるって言われないか?」

 

 根拠が根拠として成立していないのだ。もしそれで人を信用できるなら、そいつはそんなあやふやな事を信じることができる天才だろう。

 

「むー、ひどいこと言うな……。流石にそこまで甘ったるい思考はしてないよ。それに詰まっているんだったらカツが良いな」

 

 衣で揚げられているのか……。サクサクの食感とサクサク動くメモリ的なイメージをかけてるつもりなのだろうか。仮にそうだったとしても分かり辛い例えだ。まあ、そこまで考えていないかもしれないけれど。

 

「でもほら、もし、涼川君が私と仲良くできたとするじゃない?」

「できるかな?」

「現実にできるかどうかはともかく、できると仮定するの」

「……まあいいけど、できたとしてどうするんだよ」

 

 僕は問いかける。勝呂は自分で買って来たであろう紙パックの豆乳に口をつけて、それから僕を見た。

 

「できたら、それはもう友達がいるってことじゃない。だからそんな扱いはしないって話」

「……勝呂はそういうちょっと恥ずかしい台詞を淡々と言えるんだな」

「そんなに恥ずかしいかな?」

「僕だったら間違いなく照れくさくなる」

 

 でも、よくよく考えてみれば彼女はふわふわとした曖昧な言葉で隠そうしていた。それを話させたのは自分なのだと気が付いて、彼女と同じく水滴がついた紙パックを掴み、一口飲んだ。

 

「でさ、このお礼はいつすればいい?」

「脈絡が無いな。なんのお礼だよ」

「お金は受け取ってくれないんでしょ。そうしたらかつサンドの恩返しはどうしようかなって」

「鶴の恩返しみたいにいうな。お前はかつサンドの精かよ」

「悪くないね。称号として受け取っとく」

「受け取るのか……。喜ばしい称号でもないだろうに。お前の感性は独特過ぎて僕には理解できないな」

 

 ちょっとため息を付いて、彼女の問いについて考える。別に恩を売りたくてカツサンドをあげた訳ではない。勝呂風に言うなら、自分より幸せそうに食べて貰えただけで十分なのだ。

 だから、僕は適当に放り出す様に答える。

 

「別に要らないよ」

「えー、それだと私が涼川君に(たか)ったみたいじゃない」

「違うのか」

「……違わないけど、変えたいの。そういうのはフェアじゃないでしょ?」

 

 勝呂は首を傾げつつ唇に触れる。どうにも納得がいっていない様子だった。

 

「じゃあこうしよう。いつか、僕が滅茶苦茶腹減ったとき、同じようにかつサンドを半分くれよ」

「それだけでいいの?」

「いいよ。だってフェアがいいんだろ。恩なんて定量化が面倒なんだから、この方がいい」

「そう。ならいいけど」

 

 勝呂が再びくわえたストローが音を立て、それを合図に紙パックを丁寧に折りたたんでいく。小さくなったそれを空の袋に押し込んで、彼女は立つ。

 

「じゃあいつか、涼川君がお腹空いたとき、かつサンド、半分あげることにするよ」

「ああ、楽しみに待ってる」

 

 僕の言葉を聞き遂げると、そっと微笑み返してから背中を向けた。僕はコーヒー牛乳が飲み終わるまで何となく彼女を眺めていた。午後の練習はいつもより空腹になるのが早かった。



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五月:遭遇

 ゴールデンだか、ブラックだかよく分からない連休を過ごしていた。割と激しめな運動部に当たる我ら野球部に世間一般的な休みはない。代わりに練習時間と試合が配布される。

 本日、連休の最終日でもそれは例外ではない。毎年恒例となっている県外遠征に出向き、練習試合をこなした。その帰り、貸し切りのバスを殆ど寝て過ごして、終着点でミーティング。バスの運転手さんに一同で礼をして、その場で解散となった。

 

「スズ、お前この後暇? 夜遅いし、腹減ったし、飯でも行こうかって話になっているんだけど」

 

 チームメイトの内の一人。坊主頭の北乃が僕に問いかける。ああ、これだと分からないか。このチームにおいて選手は例外なく坊主頭だった。言い直そう。キャッチャーの北乃だ。試合中はレガースを付けていて分かりやすい。……試合中は。

 明るく、チームの空気の調整役。彼の気遣いによって、人付き合いが得意ではない僕でもこのチームに馴染めている。

 そんな彼からの誘いだが、僕は断るつもりでいた。今の心身でチームメイトと一緒にいたくはなかった。

 まあ彼は、そんな所を含めて僕を誘っているのだと思う。僕の抱いているものを、わだかまりを仲間と共有することで緩和させてあげたい。そう考えているのだろう。

 でも、僕の気持ちを言葉で明かした所で、完璧に理解できるのは僕自身だけだ。緩和することはあっても、解決することは絶対に無い。これは僕自身がしっかりと考えて、答えを出すべきだ。そう考えていた。

 

「悪い、せっかくだけど今日は帰るわ。疲れたし、早く寝たいし。夕飯がかつカレーらしい。食い逃したら後悔しそうだから」

 

 嘘だ。カツカレーかどうかは分からない。だが、昨夜の残りのカレーがリメイクされる可能性は高かった。

 そんな細かい情報はともかく、彼らには嘘が効果バツグンだったようで「なら仕方ない」と手を振ってこの場から去っていく。僕も手を振って別れる。駅の近くの駐輪場に止めていた自転車を回収し、自分の家へと最短ルートで向かっていく。

 その途中、コンビニが目に入った。すでに真っ暗になった帰り道。不自然に真っ白に輝くその建物は僕の欲望を掻き立ててくる。

 水筒も尽きて、寝起きでカラカラになった喉。そう言ったコンディションも手伝って、結果、誘蛾灯に釣られる羽虫の様にふらふらと入店を決めていた。

 自転車を停めて、自動ドアをくぐる。最奥の冷蔵庫に向かおうとした時だ。「いらっしゃいませ」と気の抜けた挨拶。レジの前に立っている店員と目が合ってしまう。

 

「涼川君じゃん。やっほー、久しぶり。どうしたの? こんな所で」

「勝呂? 僕は部活帰りだけど……お前こそ、こんな所で何してんだよ」

「バイトだよ、バイト。制服見れば分からない?」

「それは分かるけどさ、部活はどうしたんだよ」

「んー……サボり?」

「疑問形になるな」

 

 バイトしてるってことは計画的なんだから、そこに疑問を持っちゃダメだろうに。

 

「お前、部活も終盤だろ。そんなんでいいのかよ」

「私が全力なのは部活じゃなくて人生にだからいいの」

「……お前がいいならいいんだけどさ」

 

 本人がいいと言っているのだから俺はそれ以上言う事ができない。彼女には彼女なりの事情がある。

 

「あ、涼川君さ。コンビニに来たってことはお腹空いてる? カツサンド奢ろうか?」

「勝呂、お前は何かにつけてかつサンドだな。それしか食べ物を知らないんじゃないかと心配になる」

「もー、馬鹿にして。それ以外の食べ物も知ってるよ。ただ、まだ約束を果たしてなかったって思い出しただけ」

「ああ、そうだったっけ」

 

 僕も思い出す。彼女との、かつサンドを半分貰う約束。それが果たされることのないまま既に一ヵ月が過ぎていた。でも、今日もそれが果たされることはない。

 

「それで、どうかな? かつサンド食べない?」

「いや、今日は飲み物を買いに来ただけなんだ。だからまた次の機会に」

「そっか、残念」

 

「飲み物取って来るよ」と言って最奥の冷蔵庫に向かう。立ち並ぶ飲み物から、一本引き抜いて彼女のいるレジに通して会計を済ます。「レシートはご利用ですか」とわざとらしく聞かれて、僕も「いらないです」と丁寧に返す。違和感丸出しの会話に笑い合った。

 

「涼川君は家この辺なの?」

「まあね」

「そっか、私もなんだ。ね、良かったらさ。一緒に帰らない? バイト、もうすぐ終わるから」

 

 勝呂の誘い。それに頷くか少し、迷う。今の自分の精神状態で、このわだかまりを抱えたままで、人と接するのは不安だったからだ。

 でもチームメイトの彼らと違って、彼女はその根本を知らない。だからきっと突っ込まれることはない。彼女とは普段通りに話ができるはずだ。そうなれば少なくとも帰り道では自分と向き合わなくてもいい。そう思った。

 

「いいよ。帰ろうか。外で待っていればいい?」

「うん。じゃ、ちょっと待ってて」

 

 頷いてその場から離れ、店から出る。勝ったばかりのビタミン炭酸を一口飲んだ。冷えた液体が喉を通り抜ける感覚が気持ち良かった。

 それから何となく自転車に跨って、軽くペダルを漕ぐこと数分。彼女がコンビニの裏手からこちらに向かって来た。

 服装が制服から制服に……いや、そうなんだけど分かりづらいな。訂正しよう。コンビニの制服から学校の制服に着替えていた。さっきまでの違和感が補正されて、何となく落ち着いてくる。

 

「お待たせ。行こっ」

 

 彼女の声が跳ねる。何が楽しいのか僕には分からなかったけれど、その声は落ち込んだ自分にもその熱を分けてくれた。

 帰宅している途中。河川敷に差し掛かったあたりで先を歩く彼女は振り返って僕を見る。

 

「ねね。ちょっと寄り道してもいいかな?」

「寄り道って、この辺りなんもないぞ」

「お店に行くわけじゃなくて、そこの土手に行くだけ。普段は心細くて、通り過ぎちゃうんだけど、今日は涼川君がいるじゃない?」

 

 この辺りは人通りが少なく、それに応じて街灯が少なかった。彼女が普段この場所に近寄らないのは賢明だと言える。でもそんな場所で何をしたいのか僕には分からなかった。

 でも、断る理由もない。悩んだ末「……まあいいけど」と返事をした。彼女は短く「ありがと」言った。

 ちょっとした坂。自転車を押して登る。土手の頂点にたどり着くと、さっきまでは遮られていた風が半袖のワイシャツを突き抜けて肌を撫でた。月に照らされる山々。まばらな住宅の光と川の向こう側にある高速道路のオレンジの光。自然に囲まれつつ、人の営みを感じるこの風景を知ってはいたけれど、こうしてまじまじと見ることはなかった気がする。

 

「好きなんだ、ここ」

 

 一足先にたどり着いていた彼女は呟く。

 

「へぇ、勝呂はよく来るの?」

「ううん、最近はあんまり。昔は、お父さんとよく来たんだけどね」

「そっか」

 

 平坦な場所に自転車を停める。スタンドを止めるカツンという音がやけに響いた。さっき買った飲み物を手に取って彼女と並んだ。

 

「ちょっと座ろ。今日ずっと立ちっぱで、疲れちゃってさ」

「いいよ。僕も丁度疲れてたんだ。でも制服汚れないか? 僕は気にしないけど女子はそういうの気にするだろ」

「レジ袋下に敷けば大丈夫。さっき貰って来たから、涼川君もどう?」

「じゃあ貰おうかな」

 

 勝呂からレジ袋を受け取る。僕のは新品で、彼女のは使用済み。その開いた袋から彼女はかつサンドを取り出して、下に敷いた。

 

「またかつサンド……。太らないの?」

「やっぱ涼川君デリカシー無いね。そういうのどうかと思うよ。ま、私は食べた分動いてるから大丈夫だけど」

「そうかな。具体的な数字が出た訳でもないのにそう断言できるのは──」

「そういうのいいから! 私がそうだといえばそうなのっ!」

「絶対王政のエリザベス女王もびっくりする一言だね」

 

 からかってやると勝呂はほっぺを膨らまして、一つ目のかつサンドを頬張った。もっとゆっくり食べればいいのに。

 手持ち無沙汰にペットボトルを開けて、さっきよりも弱々しくなった開封音を聞いた。口に含むと炭酸が弱くなってきているのが実感できる。砂糖水二歩手前と言った感じだった。

 それがここ最近の自分と重なって、見ていたくなくて、逃げ差す様に一気に飲み干す。

 

「ね、やっぱりかつサンド食べない?」

「なんだ。僕が言ったことやっぱり気にしてる? 冗談だから真に受けなくてもいいよ」

「ううん。そうじゃなくて。なんか、元気ないように見えたから」

「そんな風に見える?」

「見える。意識がここじゃなくて、もっと遠くにあるような気がする。良かったら話してみてよ。話すと気分が楽になる事もある。……らしいよ」

「らしいって、酷く曖昧だな」

「しょうがないじゃん。私そこまで自信過剰になれないもん」

「そうかな」

 

 普段は結構根拠のない事を押し通している気がするんだけど。そんな意味合いがこもっていることを察したのか、彼女の目線がきつくなっていた。

 

「で、話すの? 話さないの?」

 

 二択を迫られる。

 これとは遅かれ早かれ向き合わなくてはいけない。自分だけで消化できるかどうかも分からない。相談にいい思い出も無かった。

 でも彼女曰く楽になる可能性があるのなら、それ相応のリスクは背負わなければならないのだろうとも思った。

 結果「じゃあちょっとだけ」と前置きをして、彼女に抱えていたものを話すことに決めた。

 

「最近、どうしたらいいのか、よく分からなくなっちゃってさ」

「それは、部活の事?」

「そう。言ってないのによく分かったね」

「だって涼川君が悩むってそれぐらいでしょ。勉強も苦にしてないし、友達が少ないのも気にしてないんだから、残りは部活しかないじゃん」

 

 指折りながら彼女はそう言う。さっきは断言しなかった彼女がそう言ったことで、彼女の中の自分は構成要素が三つしか無くて、随分とシンプルなんだなと思った。

 

「それで、部活の何が分からなくなっちゃったの?」

「まあ、いろいろ。いっぱいあるんだ」

「そうなんだ。例えば、どんなこと?」

 

 それから僕は勝呂にゆっくりと話す。自分のごちゃ混ぜになっている中身を整理する意味を込めて。

 故障明けからいまいち戻らないコントロール。加えて勝負勘。よくできた後輩と、エースナンバーを奪われる危機。他にも野球をやった事のない人間にとって、半分も理解できるかも分からない話をした。

 本当はもっと分かりやすく話せたのだろうけれど、僕にはそんな余裕が無くて、後日、それを恥じることになる。

 だけれど、彼女はそれに文句を言うことも、茶々を入れることもなく、ただ静かに耳を傾けていた。

 

「勝呂は、『もっと頑張れ』とか言わないんだな」

「ん? どうして?」

「こういう相談に乗ってくれる奴の第一声って、だいたいそんな感じだろ」

 

 これは自分の苦い経験談。相談をすると十中八九、大抵の奴からそう返って来ていた。聞きたくはなかったけれど、言われなかったら言われなかったで、調子が狂ってしまう。

 加えて陸上部で一年から第一線で活躍している彼女はこんな悩みとは無縁で、そんな風に返してくるだろうと想定していたのもあったと思う。

 そんなイメージを首を振って壊して、彼女は言う。

 

「だって、涼川君はもう頑張ってるでしょ。頑張ってるのに、『頑張れ』って言われるのは結構、辛いじゃない」

 

 勝呂は眼を伏せる。目線はかすりもしない。彼女がどんな表情をしているのか分からなかったけれど、その言葉は自分の中にすっと、運動後のスポーツドリンクみたいに染み込んでいった気がする。

 それが心地よくて、返事をつい忘れてしまっていた。

 

「…………何か言ってよ」

「ああ、ごめん。つい、な」

「何がつい、なのさ! 私なんかおかしなこと言った?」

 

 含みのある言葉にいつもの勝気な表情で噛みついてくる。当然、素直に自分の気持ちを言える訳もなかった。

 

「『頑張ってる』なんて一言も言った覚えはないんだけどなぁ……って」

「なっ……、もう! 私の気遣いを返せ!」

 

 手を伸ばして軽く肩を小突かれる。

 

「痛ってぇな。また故障したらどうするんだよ」

「しないよ、このバカ!」

 

 ぽかぽかと繰り出される拳から逃げるように、立ち上がって彼女から距離を取った。彼女がそれを追いかけて、馬鹿みたいに走った後、呼吸が乱れたままで笑う。

 息苦しかった。でも、明日はいつもより頑張れる気がした。



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六月:雨

 6月18日

 

 今日は久々に雨が降った。室内での練習がいつもより早く切り上げられた。

 今年は俗にいう空梅雨というやつで、例年に比べて雨が少なかった。世間一般的には野菜が値上がりしそうだとか、ダムが干上がるだとか、そういったネガティブなことがニュースで述べられていたけれど、高校球児的には喜ばしい。外で練習できる時間が長い方が実戦経験をより多く詰めるからだ。だから余計に水を差すような雨が鬱陶しくてたまらなかった。

 自分が停滞している時間。

 こうしている間にも自分が何者かに突き放されている気がしてしまう。

 それを少しでも誤魔化したくて、帰る前にグローブとタオルを持ってトレーニング室へ行った。そこで僕は鏡の前に立ち、自分の投球フォームを一つずつ確かめるように身体を動かしていく。

 身体を誘導する左手のグローブの動き。

 左足が踏み込まれた勢いを利用して捻られる胴体。

 利き手が振り下ろされ、握っていたタオルがその動きを追従して音を鳴らした。

 その全てを研ぎ澄ました目と耳で感じて、今日の自分が今まで通りの自分であることを確認した。その度に不安に駆られる気持ちが少しずつ収まっていく。

 気が済むまでそれを繰り返して、湿った空気をめいいっぱい吸って、吐いた。

 

「もう入ってもいい?」

 

 タイミングを見計らっていたかのような台詞が後ろから聞こえて振り返る。ここ最近聞き慣れた声。その持ち主が予想通りであったことが分かった。

 長袖長ズボンのジャージを着た彼女は赤色のメディシンボールを持っている。足元にも何個か転がっていた。きっと部活で使った物を片付けに来たのだろう。

 

「許可を取る必要なんてないよ。ここは共有スペースで、生徒であれば誰だって入れるんだから」

「集中しているみたいだったし、邪魔をしたくなかったの。私の気遣いを察してよ」

「察してって自分で言っちゃう辺り勝呂らしいな」

 

 頬を伝う汗をタオルで拭って、風呂上がりの時みたいに首にかけた。

 

「待たせちゃったみたいだし、片付け手伝うよ。元の場所に戻せばいいんだろ?」

「そうそう。でも良いの?」

「いいよ。僕もそろそろ帰る所だったし。まあ、僕の気遣いを黙って受け取っておいてよ」

「ん、ありがと」

 

 部屋の隅に置いてある専用のラックに並べていく。ボーリング場みたいにボールが並んでいるのを見て、そういえば久しくやっていないな、なんて思った。

 

「勝呂はこの後バイト?」

「バイトだったらこの時間まで残ってないよ。今日はフリーだったからもっと練習できると思ってたんだけどね」

「ま、こんな雨じゃね」

「そうそう。よりによって今日に限って降らなくてもいいのに」

 

 まったく、と不満げに息を吐いた。彼女が僕と似たような気持ちであったことが意外だった。この前、コンビニで会ったときはサボると公言していたというのに。部活にやる気が無かった訳ではないらしい。

 

「ね、良かったら一緒に帰らない?」

「僕は良いけど、ちょっと待たせるよ。まだユニフォームのまんまだし」

 

 自分が着ているアンダーシャツの首元をパタパタと動かす。雨に打たれていないはずなのにぐっしょりと濡れているのが気持ち悪かった。

 

「こんな時間だし、それぐらいは変わらないって」

「なら良いけど」

「じゃあ決まりだね。着替え終わったら下駄箱の前に来て。そこで待ってるからさ」

 

 彼女が手を振りながらこの場を去った。

 部室で身支度を終えて、今更ながら汗臭くないかなとか考えつつ、僕は彼女の待つ下駄箱に足を運ぶ。

 外側から入ると、壁に寄りかかる彼女が目に移る。早速声をかけようと思ったのだけれど、僕はそれを止めた。もう一人彼女のそばにいることに気が付いたからだ。

 ポニーテールですっきりとまとめられた髪。小麦色の肌。それらから勝呂と同様に運動部であることが察せられた。どうしようか迷っていると、そいつと目が合った。

 

「ほら、彼氏来たよ」

「ん? ああ、待ってたよ。涼川君」

「順応するな。彼氏じゃねぇよ」

 

 軽く勝呂の脳天をチョップすると、わざとらしく痛がって見せる。

 

「止めてよ、頭蓋骨陥没しちゃうじゃん」

「僕にそんな殺傷能力は秘められていない。大げさなんだよ」

「涼川君ノリわる~い。そんなんじゃこれから困るよ~」

「今までも困ってないからこれからも困んないよ」

 

 たぶん。根拠のなく断言する。

 

「真面目な話、二人はホントに付き合ってないの?」

 

 ポニテガールが問いかける。僕たちは互いに目を合わせた。

 

 僕と勝呂は最近よく話す。休み時間や放課後に会えばスルーすることはない。でも、それで付き合っているかと言われると、答えはNoである。

 そんなことで交際判定されては勝呂もたまったものではないだろう。

 

「んなこと――」

「あるんです!」

「ないよ!」

 

 僕の気遣いを蹴り飛ばす様に彼女が答える。お前は楽〇カードマンかよ。

 

「ハハハハ、面白いなぁ~。息ぴったしじゃん。私が邪魔するのもあれだし、先帰るね」

「ん。また明日ね~」

「いや納得したみたいに去らないで――うぐっ」

 

 無防備だった脇腹に突きが直撃し、電波が乱れたラジオみたいに声が飛ぶ。その間にポニテガールは少し離れた所にいた。

 

「何すんだよ。このままじゃ変な誤解をだな……」

「涼川君は私とそういう風に誤解されるのが嫌なの?」

「いや、それは……」

 

 彼女とそうなったときのことを考える。

 嫌ではない。彼女のような活発で、周囲に笑顔を振りまくようなタイプは好ましくある。理想と言ってしまっても――……理想と言ってしまってもいい!? 待て待て待て。今までそんな風に勝呂を見た事なんてなかっただろ。落ち着けよ。台詞に浮かれるな。

 

「フフッ、面白い顔をするね。照れるとそんな感じなんだ」

 

 勝呂はじろじろとまだ安定していない表情をしている僕を覗き込む。それが嫌で、顔をそらした。

 

「ったく、止めてくれよ。僕だって自分のそんな顔を見た事無いのに」

「見たかったの? 聞いていれば写真でも撮っておいたのに」

「ああ、いや。別に見たかったわけじゃないんだ。ただ、そんな表情を引き出す勝呂の目的がよく分からなかっただけだ」

「知りたいの?」

「知らないままでいるより、知っていたいよ」

 

 偽らざる本心だった。理由のない物は怖い。只より高い物はないというように、理由のない好意や悪意には警戒心を抱いてしまう。

 彼女の行動には悪意は含まれていないようだけれど、それを無条件で受け入れることができない。結局のところ僕はどうしようもなく怖がりなのだ。

 自分の言葉が空気を振るわせて、それから少し間が開いて、再び雨音だけが鼓膜に届くようになる。表情のコントロールが戻って来たのを感じて、再び彼女を見た。目が合う。

 

「好きなの」

 

 短く告げた。はっきりとした声だった。雨音の波紋にかき消されることは無かった。

 それ故に強く自分の心を乱される。自分の脳を直接つかまれて、揺らされているみたいだった。僕は口をパクパクと動かして、言葉にならない声を出してる。

 それを見かねたのか、彼女は助け舟を出した。

 

「正確に言えば、走ってる涼川君が好きなの」

 

 彼女はそう言って訂正する。それを受けて僕は深く、本当に深く長々とため息を付いた。

期待をしていた訳じゃない。でもさ、もっと言い方ってものがあるだろ。

 

「やっぱりいい顔するね。教室でもそれぐらい表情見せればいいのに」

「確信犯かよ。年頃の男を弄ぶな」

「ゴメンって」

 

 手を合わせる勝呂をわざとスルーして傘をさして下駄箱を後にした。後ろから彼女の足跡が聞こえる。彼女の藍色の傘が僕のビニール傘越しに見えた。

 

「拗ねないでよ。かつサンド奢ってあげるから」

「それはまた今度の約束だろ。勝呂と違って一つも二つも僕はかつサンドを食べない」

「私だって一食に食べるのは一つだよ。じゃ、グレードアップしよ。購買のかつサンドから私の手作りかつサンド。現役JK手作りかつサンドとか、もはやブランドじゃない?」

「なんか、如何(いかが)わしいブランドだな……」

 

 仕事に疲れたサラリーマンの最後の癒し感ある。地獄かよ。

 

「でも、涼川君が走ってるところが好きだって言うのは、かつに誓って本当」

「そこでもかつなのか……。でも、どうせなら投げている所が良かったな。俺、ピッチャーだし」

「ハハハ、だろうね。でも私、投げてるところのスゴさがよく分かんないからさ」

 

 そうに違いない。僕は分かりやすく160km/hの速球を投げられる訳でもないし、プロに注目を浴びるほど勝っている訳ではない。

 でも、それは走る方だって同じはずなんだけどな。

 

「なんで僕が走ってるところが好きなの?」

「綺麗なんだよね。足の動きも、幅も、腕の振り方も私の考える理想なの。あ、あと面構えも好き」

「面構えは走るのに関係ないだろ」

「あるよ。自信に満ち溢れている顔してる奴がレースで勝つんだから」

 

 それは状況によって変わって来るんじゃないかとか思ったけれど、専門の彼女が言うんだからそうなのかもしれない。

 

「野球じゃなくて長距離走をやってたら、いい結果出したと思うよ」

「そこは長距離走でもって言ってくれよ」

「おっと、口が滑った」

「…………」

 

 まあ、野球でいまいちなのは事実だけどさ。

 

「涼川君さ、今からでも陸上やったりしない?」

「今更やったってしょうがないだろ。それに、野球が好きなんだからしゃーないよ」

「そっか、残念。振られちゃった」

「そういう弄り方をするの、いい加減にしろよ」

 

 もう流石に慣れて来たし、ちょっとムカつく。

 

「ごめん。ちょっと面白くなっちゃったからつい、ね」

「どこがどう面白んだか、僕にはさっぱり理解できないよ」

 

 僕がそう言うと彼女は「んー」と考えるようにうめく。いや別に説明しろとは言ってないんだけど。

 

「そういう面白さって、共有できないものだろ。僕が野球から感じている楽しさを勝呂は知る事ができないように、僕は勝呂が感じている面白さを理解することができない」

「でも、知ってもらえたら嬉しいでしょ」

「それは、そうだろうけど……人間はそんな簡単にできていないよ」

 

 人間は意思の疎通に適していない。言葉一つでさえまともに正確な意味合いで伝わっているかどうか怪しいのだ。今の言葉だって、例外じゃない。

 でも、彼女は僕の言葉を噛み締めるように聞いていた。雨音が僕たちの隙間を埋めている。点滅する信号の前で彼女は足を止めて、僕もそれに習った。

 横並びの彼女と目が合う。

 

「……そうだね。気持ちを伝えるのって簡単じゃない。でも、簡単じゃないからやるの。完全に理解することはできなくても、心の距離を詰めることはできるでしょ」

 

 心の距離。それが縮まる事が何を意味するのか、僕には中途半端にしか理解できなかった。

 でも、彼女の声色が、真剣な表情が、その言葉の重みを伝えてくる。きっと、彼女にとっては支えになるような大切な言葉なのだ。そう、かってに思う。

 だから、それを踏みにじるような真似をすることはできなかった。

 

「ああ。そうだと、いいな」

「うん。そうなるよ。続けていれば、きっと」

 

 彼女は笑いかける。自分の周りの世界はそうなって来た。これから僕の周りもそうなっていく。そう信じているかのようだった。

 知っていないのは怖い。知られるのはもっと怖い。だから僕は人に歩み寄らない。それが一番の安全策だと知っているからだ。

 心の距離を縮める行為をしてこなかった僕は、傷つかない無敵の人間でいられた。

 でもそのままでいいのか。そんな疑問が頭の中に浮かぶ。彼女にとって重要なことが自分にとって重要でないとは限らない。逆もまた然りだけれど、一度試してみよう、なんて考えるほどに彼女は僕の信頼を勝ち得ていた。

 信号が青になる。彼女が先に歩き出す。「あのさ」と声をかける。彼女が振り返った。

 

「何?」

「良かったら、試合、見に来てくれないかな」

「どうしたの急に」

「いや、少し実験をしようと思って」

「試合を見ることがどんな結果に繋がるの?」

「残念ながら分からない。分からないから実験するんだ」

「だろうね。でも、涼川君は私の事を絶対に誘わないと思ってた」

「僕のイメージに合わないのは認めるよ。誘ったのは勝呂が初めてだ」

「へぇ、それは光栄だね。いいよ。涼川君のはじめて、私が貰ってあげる」

 

 ちょっと官能的に言うな。わざとなのかそうじゃないのか分かんねぇから注意できないっての。信号を渡り終えて彼女は再び口を開く。

 

「で、日程は?」

「ああ、ちょっと待って」

 

 僕はポケットのスマホに保存してあった大会スケジュールを表示して、彼女に見せる。彼女はしばらく眺めた。

 

「んー。三回戦からなら行けるかな」

「三回戦? どうして」

「私も大会なの。日程が被っちゃったからしょうがないでしょ」

「それは、まあそうだけど……」

 

 自分のことを優先するのが当然だ。こればっかりはしょうがない。

 

「なに? 残念そうな声を出して。三回戦ってそんなに高いハードル?」

「それなりに。二回勝たなきゃいけないし」

「じゃあ、頑張らないと。頑張って、涼川君。私を三回戦に連れて行ってー! なんてね」

 

 前を歩く彼女は笑う。その台詞はなんか締まらないなと思いつつ僕もそれを追う。負けられない理由が一つ増えて、晴れの日がより待ち遠しくなった。



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七月:半分

9回ウラ 1対0

 

 三回戦。一四〇球にも及ぶ投球の果てにたどり着いたスコア。

 俗にいう強豪校に対し、考えていた理想の試合運びができている。全てのボールが思い通りに行く。変化球のキレもいい。今日の僕は最高に調子が良かった。

 それでも毎回ヒットを打たれているあたりに格の違いを感じてしまう。けれど、最終的に勝てればそれでいい。

 心臓が高ぶっている。

 振り返って野手陣に声をかけた。地面からは陽炎が立ち上っている。ここを抑えれば勝ち。そんな状況から生じるプレッシャーを沈めたかった。

 

 バッターの名前がコールされる。打順は三番。際どいコースを攻め、最後は変化球を打たせてセカンドゴロ。一つ目のアウトを奪った。

 

「ワンナウト!」

 

 人差し指を立てて声を上げた。周りの奴も同じ言葉を繰り返す。味方側のスタンドも盛り上がっていた。

 続く四番。今日当たっているバッター。一発出れば同点。次の五番はこれまで抑え込めている事を考えればボール気味勝負して、最悪歩かせてもいい。焦って手を出して打ち取れれば儲けものだ。

 北乃とサインを交換。一球目は外に外れるスライダー。こちらの思惑と噛み合っている。続く二球三球とボール玉で勝負。

 そして、四番バッターは一球も振ることなく一塁へと駆けていく。そう簡単には勝負を決めさせてもらえないようだ。

 帽子を外して顔の汗を拭う。

 これでワンナウト、ランナー一塁。続くバッターは五番。

 理想は内野ゴロでのゲッツー*1。タイミングを崩して変化球を打ち損じる展開がいい。

 初球、インコースへのストレート。

 金属音がして白球は鋭く空中を飛ぶ。

 

「ファール!」

 

 塁審が両手を上げる。三塁線を越えて左へ切れていた。審判から次のボールを受け取ってプレートに足をかける。

 

 息を吐き、再びサイン交換。ストレート。コースはインハイ。それに頷いて、肩越しに一塁ランナーを見る。足を上げ、腕を振りぬく。

 渾身の真っすぐはバットの真上を通過してキャッチャーミットに吸い込まれた。審判の右手が上がる。

 

 これでカウントはワンボール・ツーストライク。追い込んだ。これでバッターは難しいボールを見逃せないはずだ。

 サインはボール気味に外れるスライダー。遊び球はいらない。ここで決める。

 

 ボールをグローブの中で持ち、握りを変えた。この暑い日差し、体力が限界に近付いているのが分かる。それでも足を上げると体は自然に覚えている動きをしてくれた。リリースの瞬間、ボールの片側をひっかく様に力を入れる。コースは外角。要求通りのボールが行っている。こちらの思い描く理想のボールだ。思わず勝利を確信する。

 

 だが、それをあざ笑うかのように快音が響く。

 

 確かに打者のタイミングは崩れていた。打ち取れると思っていた。だが、それでも芯で捉え、振りぬいている。

 ライト方向に目をやった。下がっている外野が途中で足を止めるのが見える。ボールが、フェンスを越えた所で大きくバウンドした。歓声が球場を埋め尽くしていた。

 

 僕の最後の夏が、終わった。

 

  ▼

 

 試合が終わった後でも、その事を実感することができずにいた。

 整列して、一塁スタンドに礼をしたときでも、チーム全員でのミーティングでもそうだった。後輩に向かって何を言ったのかも覚えていない。

 他の奴らが涙を流していた。

 

「お前のせいじゃない」

 

 肩を組んで、そう声をかけてくれるチームメイトたち。それをどこか客観的に眺めている自分がいる。

 温度差に嫌気がさす。そんな言葉が欲しかった訳じゃない。あと少しで届きかけた。僕がこの学校の夏を終わらせたのだ。なのに……。

 

 解散した後も僕はただ一人、夕日に染まる球場に留まる。

 さっきまで自分がいたマウンド。もう一度足を踏み入れる筈だった場所。もう本当の意味であの場所に足を踏み入れることができない。

 土の匂いも、熱気も、中指と人差し指にかかる縫い目の感触も、二度の勝利による興奮も覚えている。あの最後の一投でさえ、明確に脳内で再生できる。

 

 この大会中、この二週間は、自分がこの二年半で築き上げて来た物、その全てが凝縮されたような日々だった。

 僕は自分だけでなく、彼らの分まで失わせてしまった。そうならない様に努めて来たというのに、最悪の結果を招いてしまった。

 なら、自分の積み上げて来た物には何の意味があったというのだろうか。そんな思考の沼にはまって抜け出せないでいる。

 

「まだ引き上げないの? みんな、帰っちゃったよ」

 

 思考を中断させる声がした。夕焼けに染まる彼女がこちらに歩いてくる。

 

「…………勝呂」

「そっとしておくことも考えたんだけど、ごめん。やっぱり、放っておけなくて」

 

 隣に勝呂が断りなく座る。正直今は一人でいたかった。けれど、追い返す気力もなく、誘った手前、拒絶することも躊躇われた。それ故に彼女の存在を許容する。

 互いに沈んでいく太陽に目をやるだけの時間が流れていた。きっと、僕も彼女も何を話していいのかよく分からなくなっている。

 息苦しい空気から何かを見計らったかのように、彼女が沈黙を破った。

 

「ねぇ、お腹空かない?」

「言うに事欠いてそれかよ」

「いいじゃない。別に。それで、どうなの?」

「空いてるといえば、空いてるよ。試合前に食べたきりだし」

「それは良かった」

 

 彼女は肩にかけていたエナメルバックから一つの包みを取り出して僕に手渡した。それを解いて中身を出す。

 タッパーに敷き詰められた四切れのかつサンド。コンビニで買う物よりも不格好だった。そのうちの一つを取り出す。

 

「食べてよ。約束してたでしょ」

「……律儀だな。まだ覚えてたのか」

「受けた恩は必ず返せと、母から厳しく言われてまして」

「そっか。でもこれじゃ貰い過ぎだろ」

「全部あげるって言った覚えはないよ。半分、半分だけあげる」

「そうだったな」

 

 タッパーを差し出した。彼女も一つ手に取る。

 

「いただきます」

「はい。召し上がれ」

 

 一口。噛みしめた。噛み締め続けた。それでもうまく喉を通らなかった。呼吸も上手くできない。鼻をすすりながら、何とか一口目を飲み込む。味はよく分からなかった。

 視界が滲んで、かつサンドを握る手に力が入った。

 背中が丸まって、肩が震える。

 

「大丈夫?」

「……だい、じょうぶだよ。からしの塊に当たっただけ」

 

 自分でもかっこ悪い見栄の張り方だと思った。でも自分の姿を誤魔化す一言が欲しかった。それぐらい今の僕は精神的に追い詰められている。

 

「あと、ちょっとだったんだ」

「そうだね」

 

 誤魔化したかった感情が溢れて言葉になる。隠したかったはずなのに、それを打ち明けてしまっている。僕の行動は矛盾していた。気が付いているのに、まだ歯止めをかけられない。

 

「勝てる試合だったはずなんだ」

「かも、しれないね」

 

 話を合わせてくれた言葉。それに頷く。

あそこでもっといいボールを投げられていれば僕たちの夏は終わらなかった。それを強く自分の中に刻み付けるために心の中で反復する。

 去年、怪我をしてなければ。

 もっと練習ができていれば。

 後悔が、さらなる後悔を呼ぶ。

 でも、見せない様に歯を食いしばる。矛盾した行動をここで食い止めたかった。

 

「悔しいよね。……涼川君はずっと、頑張ってたから」

 

 彼女の手が頭に触れる。坊主頭が自分とは違う体温を的確に伝えてきた。

 

「練習終ってから、学校の周りを走ってた。この間の雨の日だってトレーニング室に残ってた。私、見てたから。知ってるよ」

 

 指折りをしながら彼女は自分の見て来たことを言ってみせる。

 今日の試合といい、勝呂には嫌な所を見られている。それがたまらなく嫌だった。

 

「……でも、頑張ったからって勝てる訳じゃない。正しくない努力は裏切る。負けた僕は努力をしていても、きっと正しくは無かったんだ。無駄な、努力だったんだよ」

「そうは思わないけどな」

 

 その価値観を彼女が否定する。

 

「見えないだけで、きっとどこかで努力は報われている。世の中に無駄な事なんて一つもないんだから」 

 

 一メートル未満の距離感。いつか見た茶色の瞳が夕日で赤みを帯びている。真っすぐ僕を見つめるそれがあまりにも綺麗で、僕は目をそらせない。

 また頭を撫でられる。ぞわぞわと自分の神経を直接触られているかのような感覚した。

 彼女がそうする度、自分が形を保てなくなる気がする。

 

 やめて欲しい。

 

 そう口にすることができない。感情的な僕が、理性的な僕を留めている。中途半端でどうしたらいいのかよく分からなかった。

 そんな僕の背中を押す様に彼女は話す。

 

「今日ぐらい、自分を認めてあげてよ」

 

 自分をせき止めていた何かが崩れた。こらえていた声が漏れる。

 勝呂の一言。それで嫌いだった欠点だらけの自分が、認めて貰えた気がしたのだ。気が緩んでいる。何も隠せていない、弱い自分を晒してしまう。

 彼女は拒むことなくただ、僕の頭を撫で続けていた。

 どれだけの時間が経ったのか分からない。ようやく高ぶった感情が収まる。彼女に貰ったポケットティッシュで鼻をかんで、じっとりと湿っていた瞼を右手で拭った。

 

「……ありがとう。なんか、スッキリした」

「それは良かった」

「悪いな。いろいろ、格好(かっこ)悪い所見せちゃって」

「そう? 格好(かっこ)良い所をいっぱい見たから印象薄いや」

 

 あっけらかんと彼女は僕の精神をかき乱す言葉を言って見せた。面喰らったけれど、ここ最近彼女にそう言う事を言われ続けたからか、すぐ精神を立て直す。

 

「そうやってすぐ人をからかうのどうかと思うよ」

「はぁ……まあいいや。それよりさ、私特性、手作りのかつサンドの味どう? 前々から自分で作ってたんだけど、人にあげるのは初めてでさ」

「そうだな……」

 

 改めてまだ自分の手に握られていたかつサンドを頬張った。

 唇に当たるふんわりとした感覚。歯がキャベツの層を越え、ザクザクと音を立てながら衣を裂いた。整列していたそれらが口の中でばらけてソース味に纏められる。

 市販品とはひと味違うそれは、空腹の僕に大きな満足感を与えてくれた。

 

「旨いよ。すげー旨い」

 

 僕はそう呟く。彼女は安心したみたいに微笑んだ。

 夏が終わる。いつか僕はこの時食べたかつサンドの味を忘れてしまうのだろう。

 でもまた、セミが鳴いて、高校野球の速報が流れ始めたら、夕焼けに染まるスタンドで、彼女と並んで食べたかつサンドを思い出すんだろうなと、なんとなく思った。

 

『かつサンド、半分あげる。』 完

*1
ダブルプレー。二つのアウトを同時に取ること




最後まで読んで頂き、ありがとうございます。
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長ったらしいあとがきは活動報告に書きます。


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