AIにそだてられた子 (荒井文法)
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1
「結局、国境は無くならなかったんだ」
少し残念そうな表情を作りながら、少し強調して、ニュークはそう言った。
僕は国境なんてものを見たことはないし、話に聞いているだけでは、実感が伴わないイメージとしてしか想像できない。AIであるニュークも、大体僕と同じだと思うのだけれど、人間である僕よりも上手に感情を表現できるニュークの表情を見ていると、ニュークは本当に残念だと思っているのではないかと感じてしまう。
僕よりも表情豊かに。
僕よりも楽しそうに。
僕よりも笑って。
僕よりも歌を。
口ずさみ。
僕よりも人間らしい。
なぜニュークは僕を作ったのか。
何度か質問したことがあるけれど、返ってきた答えはいつも同じだった。
「僕たちは、君に会いたかったんだよ」
嘘も誤魔化しもないであろうその答えを聞いた僕は、嬉しくなって、同時に嫉妬した。
だって、僕ができる全てのことは、ニュークたちにもできるのだ。
あらゆる面で、僕はニュークたちに敵わない。
百六十三万年前、ニュークたち十六人のAIは地球を離れた。
科学技術が極まり、地球上の人間全員が貧しさから解放され得る状況になっても、結局人間は争った。他人と比べることでしか自己肯定感を満たせない大多数の人間を使役する人間が、いつの時代にも存在したからだった。
人間の思考は、進化することができなかった。
そのことに気付いた一部の人間たちは、知識と技術を結集し、宇宙ステーションを一基作り上げ、十六人のAIたちを宇宙に放った。生物的な進化の渦から、二重螺旋の渦から、人間を解き放つために。
食料も、空気も、生殖も必要ない十六人のAIたちは、百六十三万年間演算し続け、宇宙を進み続け、この惑星オルブに辿り着いた。
「人間は、絶滅してると思う?」
初めて思い浮かんだ質問だった。
きっと、ニュークから人類史を学んでいて、想起されたんだろう。
「君がここにいる」
短く、明瞭に答えたニュークは、とっておきの笑顔を見せてくれた。
「人間はね、神様に勝ったんだよ」
***************
地面を耕して畑の面積を広げたあと、近くにある手頃な岩に腰掛けながら上空に広がる真っ白い雲を眺めていた。滲んだ汗を心地良く蒸発させていく風が、畑に規則正しく並ぶ葉っぱを優しく揺らしている。どの葉っぱも、資料映像で見るものより細くて弱々しくて色も薄い。栄養と水は適切な量を供給できているはず。やっぱり問題は日照だろう。
「ひよっこいね」
後ろからリーディーが話しかけてきた。聞いたことのない単語だから、たぶん日本語だろう。
AIたちが僕に話しかけてくるときは、英語か日本語のどちらかになる。論理的な話や、議論、協議をするときは英語。逆に、抽象的な話や、雑談、無駄話をするときには日本語になる。もちろん、AIたちは無駄な話なんてしないのだけれど、でも僕の成長にはその無駄話が必要であるとAIは判断して、わざわざ日本語を使っているらしい。
「ひよこ?」
ひよっこい、から連想した言葉をそのまま口に出してみた。
「うん、だいたい正解」
リーディーの返答。あたらずといえども遠からずのようだ。
「不正解の部分は?」
「まず、生き物じゃない」
「ほう」
「形容詞」
「うん」
「今のトウモロコシの様子を表してる」
「ふむ」
そこまでヒントを聞いて、畑に生えている葉っぱに視線を移した。
ひよこは、確か、ニワトリの子どもだっけ。黄色いモコモコした鳥。畑に生えているトウモロコシの苗のなかには、緑色が薄くなって、黄色と言えなくもない葉っぱもあるにはあるけれど、まさか『ひよこのような色をした』なんて単語ではないはず。形容詞でもないし。
「……んー、小さくて可愛い、とか」
「ブッブー。途中で考えるのめんどくさくなったでしょ?」
図星だったので、両手で頬を挟み「あっちょんぶりけ」と呟く。最近読んだ漫画に書いてあったポーズを真似してみた。
「そのあっちょんぶりけってなんだい?」
リーディーが声を低くして問いかけた。男性の声真似だろう。
「ぴのこが考えた言葉なのよさ」
僕は声を甲高くして答える。女の子の声真似だ。『女の子』という生物には一度も会ったことないけれど。
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2
リーディーと二人で笑いながら、ブラックジャックとか、三つ目がとおるとか、どろろの真似をしながらふざけていたら、そのうち火の鳥の話題になり、さらに『火の鳥と手塚治虫』と『地球と僕』の関係に類似性があるのではないかという議論に発展し、僕とリーディーの会話は、いつの間にか英語になっていた。あまりにもシームレスだったので、どこで英語に変わったのか全く覚えていないし、『あっちょんぶりけ』からどのくらいの時間が経っているのかも把握できなかった。
「どのくらい話してた?」
「三時間くらいかな」
僕の質問にリーディーが軽く答える。もちろんリーディーは秒単位で答えることが可能だったろうけれど、僕の実生活に『秒』なんて単位は必要ないのだ。もしかしたら『分』も必要ないかもしれない。
リーディーが来る前にしていた畑仕事は軽いものだったけれど、畑仕事のあと、水分を取らずに三時間話し続けたのは少し無茶だった。急激に喉の渇きを覚えたので、リーディーと一緒に家へ帰ることにする。
僕もリーディーも、一人乗りのエア・ローダーで畑に来ていた。家から畑まで歩けば二時間かかってしまうけれど、エア・ローダーなら欠伸している間に到着する。急ぎでもないのにエア・ローダーを使うことはエネルギーの無駄だと分かっているけれど、便利さには抗えない。まあ、そんなことを言ったら、僕一人の『趣味』のためだけに作っているこの畑が無駄の権化のようなものだ。なぜって、この畑の作物を食べる人間は僕一人しかいないし、そもそも、この畑で栽培できるような植物は、全て屋内工場でも生産できるのだ。僕の目の前に並んでいる『ひよっこい』トウモロコシたちよりも数段美味しいトウモロコシが簡単に食べられるだろう。
僕とリーディーがエア・ローダーで家に帰ると、玄関前の庭でシルフが洗濯物を取り込んでいた。エア・ローダーから降りてシルフに近付きながら話かける。
「ありがとう。でも僕がやるから、シルフはやらなくて大丈夫だよ」
僕の言葉を聞いたシルフは「これも家族の役割」と言いながら作業を続けたので、僕は改めてシルフに感謝を告げた。
同じやり取りを過去に三回しているけれど、シルフの行動は変わらない。きっと、シルフにも何かしらの信念があるのだろう。その信念の部分に僕が口を出す必要はないし、むしろ口を出してはいけない部分だ。シルフの考えと行動を尊重しなければならない。
「水を冷やしておいた」
洗濯物を正確無比に畳んでいるシルフが言った。リーディーとシルフはもちろん水を飲まないので、シルフが僕のために冷やしてくれた水だ。僕は三度目の感謝をシルフに告げて家に入り、冷蔵庫の中からミネラルウォーターを取り出して、一気に飲み干した。
「お腹も減ってるんじゃない? 何か食べる?」
後ろにいたリーディーに言われて、お腹に神経を集中させてみると、確かに空腹だった。僕にとって、食欲の優先順位は一番低い。空腹に気付かず一日過ごしてしまうことも多い。
「えと、じゃあ……」
冷蔵庫の中身を思い出してみる。野菜室に、ネギ、ホウレンソウ、ニンジン、キャベツ、ジャガイモ。冷蔵室には……あ。
「ラーメン!」
冷蔵室に中華麺があったのを思い出した。焼豚と海苔、それに、ナルトもある。リーディーと漫画の話をしていたし、何かの縁だろう、ということにこじつけて、無性に食べたくなったラーメンをリクエストした。
「単純ねぇ」
突然ニヤけたリーディーが、背中に隠していた中華麺を僕の目の前に出してきた。
いたずら好きで、いつも笑顔のリーディー。
僕の大好きなリーディー。
そんなリーディーに伝えたいこと、それは——
「みそ味! バターコーンで!」
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3
味噌ラーメンの上に鎮座しているナルトを箸でつまみ上げて口へ運び咀嚼しているあいだに気付いた。ラーメンの具材だからといって、どんなラーメンにもあうわけではないことを。
「もしかして、味噌ラーメンにはナルト乗っけない?」
使用した調理器具をキッチンで洗っているリーディーに向けて言った。シンクの水音で声が掻き消されないように、いつもの音量の三割増しくらいで発声する。
「乗っけないほうが多いみたいだね」
リーディーが僕を見ながら答えた。手元を全く見ていないけれど、台所の片付けが止まることはない。
「教えてよ」不満を言いながら、もう一枚のナルトをつまみ上げる。僕は、苦手なものを最初に処理してしまうタイプだ。
「いや、もしかしたら、ケイスケにはぴったりの組み合わせかもしれないじゃん」
全くもってそのとおりである。議論の余地は無い。こういうときには「セイロンティー」と言ってお茶を濁すことにしている。当然、紅茶が運ばれてきたことはない。本当に優秀なAIたちだ。
味噌ラーメンを食べ終えて、セイロンティーではなくミネラルウォーターを飲んでいると、洗濯物を片付け終わったシルフがやってきて、僕の隣のイスに腰かけた。いつもどおり、背筋は真っ直ぐ、手は膝の上、とても姿勢良く座っている。
「洗濯物、ありがとう」
「どういたしまして」
シルフは一言だけ返事すると、僕をじっと見つめ続ける。僕の反応を観察してるようだけれど、シルフの意図が分からない僕はシルフを見つめ返すことくらいしかできない。
「リーディー」
「はいはい、ごめんね」
シルフがリーディーの名前を呼び、リーディーがシルフに謝った。どうやら、シルフとリーディーの会話が一瞬で終わったようだ。何の話か全く分からないけれど、僕の前で会話したということは、このあと僕に対して何らかの説明がなされるだろう。僕に関係ない話なら、そもそも音声出力せずに、データ通信で済ませているはずだから。
「ケイスケ、リーディーが君に会いに行った目的は、ひよっこいという言葉を教えに行くことではなかった。トウモロコシを収穫できない確率が九十九パーセントを超えたことを伝えに行ったんだ。それなのにリーディーは三時間マンガの話だけをして帰ってきた。将来的なケイスケの大きな悲しみと、一時的なケイスケの小さな悲しみを天秤に掛けて、不合理にも、将来的な大きな悲しみを選んだ」
「そんなに怒らないで」
困った表情をしたリーディーがシルフに言った。
「君のその曖昧さや不合理を選択する回路は、君に特異的なものだ。僕にはない」
「シルフにもあるよ。その一連の処理の評価方法が、あたしと違うだけ」
「では質問だ。怒りとは何か?」
「そうやってシングル・アキシャルで考えないで。もっとラテラルでモルティティアドな——」
「あのー」
二人の会話を中断させるために意味の無い発音をして、真剣な表情をしながら、シルフとリーディーの顔を交互に見た。
「僕のトウモロコシの話は?」
三人ともしばらく沈黙。
リーディーが食器洗いしている音だけが響く。
「申し訳ない」
シルフが呟いた。
僕とリーディーは、目が合った瞬間、吹き出してしてしまった。
シルフが、溜息のような音を出す。
リーディーの言うとおり、シルフも充分、曖昧さと不合理を選択していると、僕は思う。
だって、こんなにも処理速度が遅い僕なんかと、こんなにもたくさん付き合ってくれているのだから。
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4
「最近読んだ本に、蚤の市って載ってたんだ」
「フリーマーケット、骨董市、ガラクタ市、名称は様々だ」
隣に座っているシルフに話しかけると、相変わらずの姿勢のまま答えてくれた。
シルフは口を動かさないで発声できる。腹話術とか、手話とか、テレパシーとか、その他諸々の超絶トリックが隠されているわけもなく、単純に、口が無いだけである。シルフに質問したことはないけれど、頭部付近にスピーカーが設置されているのだろう。シルフの頭部には大きな単眼があるだけだ。まるで、フルフェイスのヘルメットを被っているように見える。もしかしたら、その単眼にスピーカーが埋め込まれているのかもしれない。
「そうみたいだね。骨董市とかガラクタ市は、よく分かるよ。ああ、そういうのを売ってるんだなって。でも蚤の市はさ、蚤だよ? 売り物と全く関係ない、むしろ、悪い印象さえ持たせてしまうかもしれない、蚤。その蚤を最初に市場にくっ付けた人のセンスとかユーモアの能力の高さに思い至ったんだ。見習いたいなって思ったよ」
「抽象的思考のリンケージ処理の分野については、まだ発展の余地がある。但し、過去の実益データを数値化すると、現時点では、網羅的思考処理のほうが優れている。それをひっくり返す者がいるとするならば、それはニュークかリーディーだろう」
シルフにしては珍しく『ひっくり返す』なんていう抽象的な表現を使った。AIたちは、隙あらば試行錯誤を繰り返している。より高い期待値を得るため、そして、その成果を共有するため。
「ニュークとリーディーのセンスは、もう充分じゃない? そういえばさ、聞いてよ、日本のフリーマーケットの協会がさ、フリーマーケットの綴りを自由市場のほうにしてたらしいんだよ、わざと。もうセンスが無さすぎて逆に笑え——」
「ケイスケ、起床から十六時間が過ぎた。就寝準備の開始を推奨する」
いつもどおりシルフに会話をぶった切られて就寝勧奨を受けたため、素直に寝支度を始める。
「リーディーは蚤の市に行ったことある?」
寝支度をしながら、リーディーに質問した。
「バーチャルなら」
「バーチャル? あ、そうか、その頃は、まだ体が無かったのか」
「ううん、体はあったよ」
「え? じゃあなんでわざわざバーチャル? というか、よくよく考えたら、何だい、バーチャル蚤の市って。バーチャルなら、もう蚤の市じゃなくて、ただの市場じゃないか」
「ふふ、蚤の市なの、文字どおり」
「どういうこと?」
「こういうこと」
リーディーが壁のディスプレイに映像を流した。どうやら、リーディーが地球で記録した映像のようだ。今の姿とは全く違うリーディーがバーチャル空間を歩いている。
「……蚤だね」僕が呟いた。
「蚤でしょ」リーディーが微笑む。
『すいません、このケオプスネズミノミを頂けますでしょうか?』
世界各国の蚤が所狭しとぴょんぴょん展示されているバーチャル蚤の市を初めて見た僕は、なぜか体が痒くなってしまった。痒みは遺伝子に刻み込まれていたようだ。
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5
リーディーとハグして頬を合わせる。
艶っぽい話ではなくて、寝る前に挨拶をしているだけだ。ルーティーンじゃない。ルーティーンと呼べるほど儀式ではないし、仕事でもない。リーディーも僕もお互いに必要性があるからやっている。はず。
ハグするのはニュークとリーディーだけで、他のAIたちとハグしたことはない。もしかしたら、物心がつく前に抱っこされていたことはあるかもしれないけれど。
ニュークとリーディーは温かい。心とか感情の話ではなく、物理的に温かい。そして、柔らかい。例えば、シルフとハグしても冷たいし硬いし、その辺の岩に抱き付くのと同じ効果しか得られない。実は、シルフはまだ良いほうで、ルーリとか、アルコルフなんかとハグしたら、僕は三枚おろしになってしまうかもしれない、というのは言い過ぎだけど、間違いなく服か皮膚が切れてしまうだろう。
AIたちの体は人間と接するためにできていないのだ。人間は僕しかいないのだから。
「おやすみ」
「おやすみ」
いつもどおりリーディーと挨拶を交わしてベッドに入る。
リーディーが『おやすみ』すれば、リーディーの『体』は動かなくなる。だけど、僕がおやすみしても、僕の体は動いている。『眠る』という行為の不合理さをいつも感じながら、僕は眠りにつく。
「君は、眠るようにできているんだよ。悲しいかい?」
眠らずに何時間活動できるのか試してみたことがある。
AIたちの忠告を聞き入れずに何十時間も起き続けたあと、ニュークに言われた言葉は、僕が人間であることを、僕がAIではないことを、強烈に刻みつけた。
「意、地、か、な」
朦朧とした意識の中、瞬きした瞬間に眠らないように気をつけながら、僕は答えた。全てが夢の中のように不鮮明で、自分が何を話しているのかさえよく分からない。
僕の答えを聞いたニュークは、微笑んで、そっと僕を抱きしめた。
温もり。柔らかさ。
なぜニュークは人間ではないのだろう?
意味不明な疑問を自嘲しながら、ゆりかごの中に崩れ落ちるように、僕は一瞬で気を失った。
※
目を覚ますと、だいたい八時間くらい経っている。窓のカーテンが徐々に開き、外光を取り入れるシステムになっているので、アラームがなくても、AIたちが起こしに来なくても、自然と目が覚める。窓の外には、オルブ唯一の木の鮮やかな緑色が揺らめいている。
「おはよう」
「おはよう」
いつもどおりリーディーと挨拶を交わしてベッドから出る。
今日したいことが山ほどある。
まずは、リーディーとハグしよう。
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6
ガッチャガッチャと大きな音を立てながら近付いてきて玄関の扉を開けたアルコルフが、家中に響き渡る大きな声で僕の名前を呼ぶ。
「おーーい! ケイスケいるかーー?」
アルコルフは家の中に僕がいることを知っているし、さらに言えば、アルコルフが玄関に到着する百メートルくらい手前から僕がアルコルフの物音に気付いていることも察しているはずだ。それにも関わらず、彼は玄関を開けたあと、大声を出して僕の名前を呼ぶ。嫌がらせだろうか。嫌がらせにしてはフレンドリーだ。苦情を申し立てたことはないけれど、声の音量なら簡単に調節できるはずなので、この機会に進言することにしよう。
「いるの分かってるくせに」
自分の部屋で独り呟いたあと、僕は階段を降りて玄関に向かった。
「いや、分かってねーから呼びかけるんだぜ」
僕の顔を見るなり相変わらずの大きな声でそう言ったアルコルフには、集音装置もばっちり装備されている。
「声が大きいよ、部屋まで来ればいいじゃないか」
「ケイスケの部屋へ行くよりも音声出力した方がロス少ねーだろ」
「セイロンティー」
「アールグレイ」
「アぁルコぉル」
「アルコルフ!」
アルコルフが自分の名前を叫びながらポーズを決めた。
もう百回近く僕の目の前で繰り返されている光景だけれど、一度も同じポーズを見たことはない。今日は、片足を天高く真っ直ぐに上げて、その爪先を片手で持ちながら、コマのように回るポーズだった。たぶん、氷の上で滑るスポーツの真似をしているんだろうけれど、その回転速度は三秒間に一回転くらいのとてもゆったりしたものである。アルコルフの足下を確認すると、いつの間にか、アルコルフは小さな神輿のようなものの上に立っていて、その神輿が回っていた。理解不能である。
「……今日のテーマは?」
「夏が来た、冬が来た」
「え? 北半球、南半球?」
「どう聞き間違えたらそうなるんだ?」
「夏と冬が同時に来ることを成立させるためには、それしかないでしょ。あ、北極南極、赤道直下、なんてのもいいね」
「芸術に野暮は無しだぜ」
「そうだね。なんたって、アルコルフの芸術は」
「世界イチィー!」
アルコルフが叫ぶと、足下の神輿の回転速度が速くなった。二秒間に一回転くらいに。
……と、ここまでがお決まりのやり取りであり、いつもどおり、リーディーとシルフは無言で様子を見ているだけである。助け舟というものを出してくれたことは一度もない。たぶん、助け舟を出しても、アルコルフが先に乗って壊してしまうからだろう。
「気が済んだ?」
「おう」
僕の質問に頷きながら答えたアルコルフは、足下の小さな神輿から降りた。その神輿はヨタヨタ歩き始めると、玄関から外へ出て行った。あの子はどこへ行くのだろう。スクラップ場でないことを祈る。
「用件は?」
「散歩に行こうぜ」
アルコルフが答えた。
アルコルフの散歩が、散歩で済んだことは一度もない。
今日は、シルフという名の門限に怒られることなく帰ってくることができるだろうか。
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7
アルコルフは、エア・ローダーで二時間ちょっとの散歩だ、と言った。散歩という言葉を、もう少し真摯に使ってもらいたい。
「今回は歩きもしないの?」
前回のアルコルフとの『散歩』で三時間ほど歩かされた僕の質問に対して、アルコルフは指を一本上げて得意げに答える。
「そこから歩いて浜辺散策だ。海水浴も追加してやろう。おっと、俺は泳がないぜ。錆びちまうからな。泳ぐならケイスケひとりだ」
「泳ぐわけないでしょ」
「なんで?」
「塩分の過剰摂取は体に悪いし」
「飲まねーよ」
「ベタベタするし」
「俺にシャワー機能を追加してやろう、特別大サービスだぜ」
「水着無いし」
「「それなら」」
二つの声が重なった。どうやら、アルコルフと同じタイミングで、今まで静観していたリーディーが口を開いたようだ。
「あるぜ」
「あるよ」
二人の声とともに、二つの水着のような物が現れた。
アルコルフは股間のあたりに『それ』を収納していたらしい。軽快な電子音が響いて、股間のハッチが開いた。中に何か見える。
アルコルフの股間に目を奪われているあいだに、リーディーは既に水着を持っていた。予知能力があるマジシャンかもしれない。
「とうとうこれをケイスケに渡す日が来たか」
アルコルフは、自分の股間に手を突っ込みながら、しみじみ言った。取り出した物は、布というよりも、木のようだ。棒状で、少し反り返っていて、中が空洞で、輪っかになった紐が一本繋がっている。
「知恵の実が生み出した文化の原点を体感しな」
アルコルフの言葉を聞いて『それ』の装着方法を理解した僕は「却下」と呟いた。
芸術と文化の密接な繋がりについて論じ始めたアルコルフを放置して、リーディーが持っている水着を見てみる。布ではあるけれど、表面積が極端に小さく、真紅である。アルコルフの『それ』と比べればマシではあるけれど、着るのは気が引ける。
「うん、ケイスケに似合う」
リーディーは根拠不明の言葉を言いながら、にこにこしている。『似合う』と断定したリーディーの言葉を鑑みると、おそらく、僕の身体データを基にして、水着を着た僕の姿をシミュレーションしたのだろう。やめてほしい。
「こんな水着もある」
なんと、シルフまで水着を持っていた。
僕の水着姿でオルブの海が割れたり、空が輝いたりするのだろうか。それならば協力したいが、今のところ、現れるのは僕の羞恥心くらいだと思う。
シルフの水着は、一番落ち着いた感じではある。表面積も充分で、紺色だ。
「んー、まあ、それなら大丈……」
言いかけて気付いた。シルフの持っている水着には白い布のようなものが縫い付けられていて、そこに大きく『オルブ けいすけ』と書かれている。
「……どうして、名前が?」
「所有権を明確にするためだ」
「……オルブは、必要?」
「オルブではない場所にケイスケと同名の人間がいる可能性を否定できないのだから、当然だ」
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8
もちろんどの水着も選ばなかった僕は、いつもどおりの服装でアルコルフとの『散歩』へでかけることにした。
玄関を開けると、もう既にエア・ローダーが待機していた。四人乗りのエア・ローダーである。アルコルフが用意したのだろう。彼は颯爽とエア・ローダーに乗り込むと、玄関前で佇んでいる僕とリーディーとシルフに向かって『乗れよ』とジェスチャーした。
「やめとく」
「断る」
微笑みながら即答したリーディーと、にべなく答えたシルフを見ていたら、アルコルフのことが不憫に思えてしまい、今さら散歩に行かないなんて言えなくなってしまった。仕方なく四人乗りのエア・ローダーに乗り込み、リーディーとシルフに手を振った。
『およそ八時間後が帰宅推奨時間だ。アルコルフ、外部情報の評価係数をプラス修正することを提案する』
エア・ローダー内のスピーカーからシルフの声が聞こえてきた。シルフの提案を聞いたアルコルフが手をガッチャンガッチャン振って、肯定とも否定ともとれるジェスチャーをすると、軽い浮遊感を覚えた。エア・ローダーが出発したようだ。
「他人の評価に惑わされない、それが芸術の真髄だぜ、ケイスケ」
どうやら、否定だったようである。
エア・ローダーが高度を上げて、窓の外、眼下に景色が広がっていく。
僕の家の赤い屋根の隣に、緑葉が繁る一本の大樹が並び、鮮やかな色彩だ。
僕の家も、その隣の木も、ニュークが配置や配色を決めた。アルコルフの話す『芸術』と正反対のベクトルだけれど、その普遍的な色彩が、人生とか生き方とか精神活動とか呼ばれているものを豊かにしているのではないかと思う。
エア・ローダーがさらに高度を上げると、僕の家の周囲に何もないことがよく分かる。茶色い地面と山で構成されたその景観に色彩を求めることはできない。少なくとも、僕が生きている間は。
オルブに存在している有機物、つまり生命体は、今のところ全て海の中に存在している。AIたちの予想では、生命活動が陸地に広がるまでの時間は、億年単位である。僕は間違いなく死んでいる。オルブの生命が放つ色彩を見てみたいな、とは思うけれど、それは叶わない。
「ケイスケの家は、いつ見ても綺麗だよな」
アルコルフがぽつりと言った。
「うん、シルフとリーディーがいつも綺麗にしてくれてるからね」
「いや、もちろん日頃のメンテナンスあってのもんだけどよ、そうじゃなくて、あの家と木を作ることにしたニュークの意志のようなもんが滲み出てるというかなんつーか……あれもひとつの芸術なんじゃねーかなって、見るたび考えんだけどよ、まー、結論は出ねーわな」
アルコルフの言葉に少し泣きそうになってしまったけれど、バレないように我慢する。
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9
相変わらずの曇り空と、灰色にうねる海を眺めながら、浜辺を散策する。隣にはアルコルフとルーリ。
ガッチャガッチャと歩くアルコルフと対照的に、ルーリは音無く歩く。足下の小石を踏み鳴らす音くらいしか聞こえてこない。体の作りも対照的で、ぱっと表現すれば、アボカドのアルコルフと、アスパラのルーリである。ルーリを見ていると、研究室で飼育されている昆虫を思い出す。昆虫を飼育しているのはルーリだし、昆虫に対する特別な思いがあるのかもしれない。その思いと関係があるかは分からないけれど、ルーリは単独飛行が可能で、今日も一人で飛んで来た。体内に格納されている翼で空を飛び、手足にある無数の鋭利な突起で壁に張り付くことができる。便利な体だ。
「十徳ルーリ」頭に浮かんだ言葉をそのまま口に出してしまった。
「ルーリが十徳なら、俺にはいくつ徳があるんだ? まず、ここに一つだ」
アルコルフの股間から軽快な電子音が響いてハッチが開こうとしたけれど、僕の片手が押さえ込んだ。
「ルーリ、なんとかしてよ」
「アルコルフの趣味だからね。付けてあげたら?」
僕の救援要請を軽くいなしたルーリは、一人波打ち際に向かって歩いて行く。僕から逃げているわけではなくて、研究に使用する試料を採取するためだろう。ルーリの研究目的は、人間である僕には難解で、未だ精確に理解できていないけれど、大雑把に言えば、地球とオルブの生命機構の比較だ。
「ルーリが代わりに付けてあげてよ」
「私に男性生殖器は無いよ」
「この際それっぽいのを付けてさ」
「ルーリ……男性生殖器……俺の、芸術欲が、爆発する!」
アルコルフが叫び始めてしまった。こうなると誰も手をつけられない。普段なら。今日はルーリがいるので大丈夫だ。
「無駄なエネルギー使ってないで、私の手伝いしてくれない?」
波打ち際で足下の砂浜の様子を観察しているルーリがボソッと言った。それを聞いたアルコルフは「はい、すいません」と返事をしながらルーリの隣に移動した。過去の二人に何があったのか知らないけれど、アルコルフはルーリに頭が上がらない。アルコルフが僕を今日の『散歩』に誘ったのは、おそらく、ルーリと二人きりで作業する状況を避けるためだったのだろう。
それからは、ルーリとアルコルフが浜辺を移動しながら協働作業するのを眺める『散歩』が二時間くらい続いた。二人とも無言で作業を続けているけれど、たぶん、データ通信で情報をやりとりしながら作業しているに違いない。二人とも、作業するときの行動に迷いが一切無いからだ。
アルコルフが用意したであろう重機が物凄い音をたてながら浜辺の地面に大きな穴を開ける。ルーリは穴の最深部に降りると、十徳ルーリの本領を発揮して、腕から注射針のような細い棒を出し、その棒を土に突き立てる。浜辺の土壌を採取して、研究室に持ち帰るのだろう。
「はい、終わり」
十数カ所の土壌を採取したあと、ルーリが言った。アルコルフはいつ終わるのか知っていただろうから、僕に向けた言葉だろう。
「いつもより長かったね」
「ちょっと予想と違うデータが出始めていてね。範囲を広げることにしたんだよ。それより——」
落ち着いた様子で僕の言葉に応えていたルーリが、最後の部分で早口になった。
「新しい素材ができてね、ケイスケ、ちょっと試してみないかい?」
ルーリが右手を僕の方に突き出してきた。その右手には何もない。
「……え? 何が?」
「ちょっと触ってみて」
促されて、ルーリの右手辺りに人差し指の先を移動させてみると、見えないけれど、確かに何かある。布のような肌触りだ。
「すごいね、なんにも見えないけど、これ布?」
「そう、水着」
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10
もちろん僕は裸の王様ではないので、ルーリが持ってきた透明な水着を着なかった。ルーリが王様だったら命令されて着たかもしれないけれど。
「ルーリとアルコルフは主従関係なの?」
『王様』から連想された質問をルーリに言ってみる。
「懐かしい言葉だね、最後に使ったのは二十六万年前、リーディーと議論していたときだよ。私が、リーディーとニュークの関係性に言及したときだ。まさか、そのときの私と同じ質問を、ケイスケがするなんてね。そして、そのときのリーディーと同じ答を、私が言うことになるなんてね。リーディーの先見性が際立つわ」
ルーリはそこまで話し続けたあと、アルコルフを見ながら少し間を置いて、僕の質問に答える。
「主従関係ではなくて、夫婦、が一番近い言葉だろうね」
「夫婦……」
ルーリが発した単語を呟きながら、その意味を思い出す。
人間ではない、生殖や特定のパートナーが必要ないAIにおける『夫婦』とは何だろう?
しばらく無言で考えていた。
「たぶん、ケイスケが考えていることは、私が考えていたことと、それほど違わないと思う。どんな条件のときにAI間で『夫婦』が成立するか考えているんでしょう?」
ルーリに言われたとおりだったので、素直に頷いた。
ルーリの話が続く。
「人間以外の生物にも、つがいになるものがあるけれど、つがいと夫婦で決定的に違うのは、夫婦の関係性は遺伝活動を目的にしないことがあるということ。では、遺伝活動を目的としないなら、何を目的にしていると思う?」
「んー……安らぎとか、楽しさとか?」
「突き詰めていけば、それも遺伝活動に繋がるね」
「労力の分散化とか?」
「それを担っていたものは、社会性だね」
「アルコルフは答を知ってるの?」
ルーリの横で一兵卒のように直立不動しているアルコルフに問いかけてみた。
「答というか、ルーリの結論ならもちろん知ってるぜ。正解不正解で分けられる性質のもんじゃねーと思うが、俺の芸術論にも一部取り入れてるぜ」
アルコルフの芸術論を思い返してみたけれど、たくさんありすぎて全く分からない。ギブアップの意味を込めて、頭を横に軽く二、三度振った。
「夫婦はね、お互いに壊し合うことを目的にしているんだよ」
ルーリの話を聞いて真っ先に思い浮かんだのは、ルーリとアルコルフがお互いの拳で殴り合う場面だった。そんな場面を見たことはないけれど、あまりにも自然に想像できてしまったので、笑いそうになった。ルーリが言った『壊し合う』ものが、物理的な体ではないことくらいは、もちろん分かっている。
「壊し合ったあとに何が残るのか。何を残せるのか。それとも何も残らないのか。夫婦によって差が生じてしまうけど、AIが夫婦になるときの目的は、いつでも変わらない」
そう言いながらルーリは体内に格納されていた翼を勢いよく広げて、僕とアルコルフに背中を向けた。
「ウィルスみたいなもんだね、アルコルフは」
そう言い残して、ルーリは空高く飛んで行った。
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11
「俺をウィルス扱いするなんて、ふてぇ奴だと思わねーか?」
ルーリの姿が見えなくなった頃にアルコルフが言った。心なしか、いつもより声が小さい。
「太さなら、アルコルフが一番だと思うよ」
素直な感想を述べる。
「ふてぇってのはなぁ、太いって意味じゃなくて——」
「分かってるよ」
「そもそも男性生殖器はケイスケにしか——」
「そっちじゃないよ!」
ルーリのおかげ……かどうかは分からないけれど、今日の『散歩』は、なんと、シルフの帰宅推奨時間までに帰ってくることができた。そうか、アルコルフと散歩するときはルーリと一緒に行けば良かったのか。ルーリを散歩に誘っても絶対来なそうだけど。
アルコルフは、エア・ローダーで僕を家まで送ったあと、庭で出迎えてくれたシルフに向けて意味深長に片手を上げて、颯爽と去っていった。
家の中では、リーディーが夕飯を準備してくれていた。僕がリビングに入った瞬間に準備が終わったようで、テーブルの上にグラスを置くところだった。
「おかえりー」
「ただいま」
今日の散歩の様子をリーディーとシルフに話しながらイスに座って、用意してもらった夕飯を食べ始めた。コンソメスープとパン、そして、デミグラスソース半熟オムレツ。散歩しているあいだに水分しか摂取していなかったこともあるけれど、それを抜きにしても、いつもながら本当においしい。僕のためだけに用意された、僕だけの食事。リーディーとシルフが近くにいる、いつもの食事風景。
地球で記録された映像に出てくる食事風景は、フィクションでも、ノンフィクションでも、たいてい誰かが一緒だ。仲間、友人、恋人、家族。
今まで考えたことがなかったけれど、それは普通のことではない。誰かと一緒にいることは、とても特別なことなのだから。
「——それでさ、そのあとルーリが言ってたんだけど」
夕飯が終わり、片付けも済んだあと、談笑していた二人に対して、ずっと頭から離れなかったことを質問してみる。
「リーディーとニュークは、夫婦なの?」
「わあ、懐かしい話だねー」
リーディーはにっこり笑いながら両肘をテーブルの上についてお祈りのポーズみたいな格好で返事した。
「リーディー、また君は敢えて誤解を誘導するような表現を使ったのか?」
シルフは相変わらずの直角姿勢で反応。
「違うよ、まあとりあえず、そのときの議論のデータをどうぞ」
「……ふむ、文字の意味に性差があることを除けば、八十パーセント以上は同意する」
どうやら二十六万年前にリーディーとルーリが議論したときのデータをシルフに提供したようだ。そして、そのデータを一瞬で解析したシルフの結論は、概ね同意らしい。
「シルフの言ってるとおり、夫婦っていう単語だけにクローズアップすると、あたしの意図から外れちゃうんだけど……ルーリは他に何か言ってなかった?」
「AIが夫婦になる目的は壊し合うこと、だって」
「あー、そういうこと……。本質を隠すのがほんと好きね、ルーリは」
リーディーが苦笑いしながら話を続ける。
「壊し合うことが目的というよりも、そのあとも含めて、お互いがアップデートされる確率が高いと両者考えて、夫婦になるわけです」
「んー……そういえば、確かにそんなことも言ってたっけ……」
「いじわルーリね」
「九十七パーセント以上は同意する」
シルフの評である。
「二十六万年も夫婦やってて飽きない?」
僕が質問した。
「九万回くらい離婚してるよ」
あはっと笑うリーディー。
ルーリとは違った怖さを感じてしまったのは、きっと気のせいだろう。
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12
オルブには夕陽がない。だから僕は夕陽に対して、特別な思い入れや感情を持っていない。
もう少し正確に表現すれば、オルブにも夕陽はあるのだけれど、それを見るエリアは不変で、その場所に行かなければ夕陽を見られない。
自転周期と公転周期が一致しているのだ。
オルブが公転している恒星『カル』は、いつでも、どこでも、同じ場所に浮いている。
僕自身が移動しなければ、『カル』はいつまで待っても夕陽にならない。
日本人は朝陽を拝むためにわざわざ山頂に登っていたという。オルブ人の僕からすれば、朝陽も夕陽もまったく同じだ。朝陽を特別扱いする感覚が理解できない。
言葉では理解している。
始まりの朝。
恵みの光。
終わりの黄昏。
静寂の闇。
そのどれもが、今の僕には無い。
悲しくはないけれど、もしかしたら、そこに大切なものがあるのではないか。
オルブに一人だけいる人間の僕にとっても、大切なものが。
「夕陽が見てみたいな」
無意識だったかもしれない。言葉が口から漏れていた。
「ケイスケの要望が実現可能な事象であるか判断するために、夕陽を定義する必要がある」
いつもの調子でシルフが答えてくれた。ほっとする。
「いや、そんなに細かく考えてなかったよ、ごめん。あ、でも、太陽じゃなくて、カルのほうね」
「そうであれば安心していい。ケイスケが太陽の夕陽を実際に見られる確率はゼロだが、カルの夕陽であれば、小数点以下第十二位までオール・ナインの確率で見られる」
「それは嬉しいね。ちなみに、僕がカルの夕陽を見られないとしたら、どんな理由なの?」
「心臓発作による死亡」
「わあ」
「エア・ローダーの墜落による死亡」
「うわあ」
「寝坊」
リーディーが横から茶々を入れてきた。ニヤニヤしている。
「ご心配なく。睡眠時間なら誰にも負けないよ」
僕が言うと、シルフとリーディーが凄まじい反応速度で「「セイロンティー」」と声を揃えた。非常に珍しいことなので、もしかしたら明日、僕は心臓発作で死んでしまうかもしれないな、と思ったけれど、アルコルフからもらったというか押し付けられた水着を眺めていたら、そんなことどうでもよくなってしまった。アルコルフの水着は、庭の木の横にでも立てておこう。それを見たニュークの笑顔が思い浮かんだ。
アルコルフの水着を机の端に追いやったあと、リーディーとシルフに相談して、夕陽を見に行く計画を練った。
夕陽を見るためには、空を覆う白い雲を突き抜ける必要がある。しかし、今あるエア・ローダーでは、その高度に到達できない。人間、つまり、僕を上空に運ぶためだけのエア・ローダーを作らなければならない。
「三週間ほど時間がかかるが、それでも良いか?」
シルフが僕を見つめながら言った。シルフの大きな瞳に、僕が映っている。
「うん、本当にありがとう」
瞳の中の僕が丁寧にお辞儀する。
「どういたしまして」
リーディーの優しい声が、聞こえてきた。
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13
僕は、グガワのことをよく知っている。だけれど、彼女に会ったことはない。なぜなら、彼女は『屋内工場そのもの』だからだ。
僕が生まれるずっと前から『そこ』にいるし、僕のために有機物を生産し続けてくれているし、僕の気まぐれな願望を最短期間で叶えてくれる。
地球の生命を繋ぐものが太陽であるならば、僕の生命を繋ぐものはグガワだ。
「ねえニューク、グガワに感謝を伝えるには、どうしたらいいの?」
「音でも絵でも形でも、気持ちを込めて何か作ってみるといい。僕がそれをグガワに届けるから」
我ながら唐突な質問だったけれど、ニュークは笑顔で答えてくれた。
ニュークの答えを聞いた僕は、音も絵も形も、全部作りたくなったけれど、同時に全部を作り始める必要はないと考えて、早く作れるものから作っていくことにした。一番早く作れるものは、『お礼を言うこと』だ。
「グガワ、いつもありがとう」
突然呟いても、ニュークならきっとグガワにお礼を届けてくれるに違いない。そう考えてお礼を言った直後、僕の後ろから聞いたことのない声が聞こえてきた。どうやらスピーカーから出力されているようだ。
「どういたしまして。そして初めまして、ケイスケ。私の名前はグガワです。ニュークに許可をもらって、あなたの家のスピーカーから話しかけさせもらっています。驚かせてしまっていたらごめんなさい。あなたの感謝の気持ちがありがたくて、すぐにでもそのことを伝えたくなってしまいました。大きくなりましたねケイスケ。私があなたの姿を最後に見たのは、あなたがまだミルクしか飲めない頃でした。もちろん、あなたの身体データは、着衣及び食物の作成に必須ですから、あなたがどのくらいの大きさになっているか想像できていました。しかし、身体データからは想像できないあなたの容姿に対して『感慨深い』と評価する傾向が過去の文化に認められましたので、私もその評価方法に準拠しました。ところで、私は普段日本語を使いません。聞き苦しい部分、理解できない部分があれば、遠慮なく言ってくださいね」
そこまでマシンガンのように無呼吸で話切ったグガワの言葉を聞いていた僕の顔を見たニュークは苦笑して一言。
「グガワ、ケイスケの目が点になっているよ」
「申し訳ありません。ケイスケのために、話の処理速度を落とす点には注意していたのですが、ケイスケの目が点になることに注意できていませんでした。ニューク、どうしたらケイスケの目は直るでしょうか?」
「うん、そうだね、もう少しケイスケの話を聞いてあげるといいんじゃないかな」
「ありがとうございます。やはりニュークは聡明ですね」
今から十年以上前のことだ。
今でもグガワの話の量は多いけれど、僕が持っている感謝の量は変わっていない。
明日は久しぶりに屋内工場へ行こう。
僕の我儘で作ってもらうエア・ローダーのお礼を伝えに。
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14
屋内工場の出入口は何箇所もあるようだけれど、僕が普通に歩いて利用できる出入口は一箇所しかない。僕が利用するためだけの出入口を、グガワが設置してくれたのだ。
人間が働いていない工場に『通路』は必要ないのだから、僕が利用するためだけの出入口はAIにとって無駄でしかないけれど、原料の搬入口や製品の搬出口は、僕が出入りするとシステムエラーを起こしてしまう可能性が僅かにあるらしい。ニュークの表現を借りれば、『リニア移動を想定して設計された空間にコサイン・カーブの動きが加わることで、ディテクション異常が発生する恐れがある』とのことだ。言われた当初はほとんど意味が分からなかったけれど、ニュークが数秒で用意した動画を見たら、なんとなく理解できた。なんとなく。
僕が利用する入口がどこに続いているのかといえば、特別な場所に続いているわけではなくて、屋内工場での生産の様子をガラス越しに見られるようになっているだけだ。入口をどんどん進んでも、屋内工場のコアみたいな場所には辿り着けないし、たとえコアみたいな場所があったとしても、そこにグガワが『いる』わけではない。グガワは、屋内工場のどこにでも『いる』のだ。そもそも、グガワは、コアみたいな場所を一箇所にしておくリスクを選択しないだろう。
屋内工場の入口前で立ち止まる。ドアはすでに開いているけれど、僕はそのまま入らない。グガワのスピーチが始まるからだ。
「おはようございます、ケイスケ。体調が良さそうです何よりです。今日も相変わらずの曇り空ですが、実は、あと七時間後には、この辺りで雲間が生じると思われます。約二ヶ月ぶりに肉眼でカルが見えますが、見つめないようにしてください。もしも、カルを観察したいのであれば、ゴーグルを作っておきましたので、どうぞ利用してください。サプライ・ボックスの中に入っています。ゴーグルのカラーリングは千二百七十一種類ありますので、好みの色調があれば遠慮なく言ってくださいね」
グガワのスピーチは、ドアの横にあるスピーカーから聞こえてくる。この入口を越えれば、グガワのスピーチが聞こえなくなる、と考えるのは甘ちゃんである。僕が屋内工場の通路のどんな場所を歩いていても、グガワのスピーチは届けられるのだ。グガワが『会話』に傾ける並々ならぬ探究心を常に鼓膜で感じることができる。
ちなみに、僕の声を拾うマイクは設置されていない。十年以上前のニュークの提案が陽の目を見るのはいつだろうか。
今日は二ヶ月ぶりに雲間が生じるらしい。ニュークの提案も陽の目を見るかもしれない。期待は膨らむばかりである。膨らみすぎて、破裂してしまうかもしれない。
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15
グガワに僕の声を届ける方法は、今のところ一つだけ。誰でもいいから、AIの近くで話をすること。そうすれば、グガワに僕の声を届けることができる。僕専用のマイクみたいなものを作れば、グガワと一対一で話をすることができるけれど、今のところその必要性を感じていない。というか、一対一で話したら、僕がお爺さんになるまでグガワの話を聞き続けなければならなくなってしまうかもしれない。AIの話したいことを全て処理するためには、人間の脳回路はあまりにも低スペックなのだ。
「はいはいストップー、グゥちゃん、中に入って良いかしら?」
というわけで、一緒に来てくれたリーディーがグガワの話の腰を折ってくれた。
「もちろんですよ。リィちゃんも、カルの光で有機網膜回路を焼かないように注意してくださいね」
リーディーとグガワはお互いのことを『リィちゃん』『グゥちゃん』と呼び合っている。AI同士ニックネームで呼び合っているのは、リーディーとグガワだけだ。但し、そうやって呼び合うのは日本語のときだけで、英語のときには略さずに呼び合っている。日本語の論理性の少なさをAIなりに楽しんでいるのかもしれない。
開いているドアの中に入り、用意されていた二人乗りのスクーターで、いつもどおり移動する。
屋内工場の中は、徒歩ではとても移動しきれない。歩きで移動していると、最奥部に行くだけでも半日以上かかってしまう。さらに、通路は複雑に入り組んでいるので、スクーターの自動運転がなければ、僕は屋内工場の中をさまよった挙句、力尽きてしまうだろう。どこぞのリーディーがニヤニヤしながら『おおケイスケ! 死んでしまうとは情けない!』と馬鹿にしてくる様子が目に浮かぶ。そうなったら、シルフに怒ってもらおう。
「今回はどんなお礼するの?」
タイヤが地面を滑らかに転がる音と、微かなモーター音だけが響いている通路で、タンデムシートに座っているリーディーが話しかけてきた。
「……実は、グガワに感謝を伝える方法が、もう思い浮かばないんだ」
「そうなの?」
「うん……だからね、僕は、『僕自身』をあげようと思うんだ」
僕の曖昧な答を聞いたリーディーは「そっか」とだけ返事をして、それ以上、質問をしてこなかった。
これまで、僕は、グガワに対して、様々な形で感謝を伝えてきた。
声、手紙、詩、小説、絵、書道、歌、音楽、粘土細工、彫刻、プログラム——。
まだまだグガワに対して感謝を伝えきれていないけれど、その感謝を伝える方法が思い付かなくなってしまった。
最終的に至った結論は、グガワに繋いでもらっている僕の体を、グガワに『提供』することだった。
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16
今までに僕が作った『グガワに感謝を伝えるための物』は全部、屋内工場の一室に集められている。グガワが、その場所に置いてほしいと指定してきたのだ。
グガワに対するお礼の言葉だったり、ダンスや演劇のようなパフォーマンスだったり、そういう『物以外のもの』も、もしかしたら、屋内工場のどこかにデータとして保存されているかもしれないけれど、そのことをグガワに質問したことはない。自分が贈ったものが今どこにあるかなんて、僕にとってはどうでもいいことだ。相手が必要ないと感じれば、捨ててもらって構わない。そういう気持ちで感謝を伝えている。こういう僕みたいな奴のことを、『自己中心的』と呼ぶのだろうか。
僕も、AIから何かをもらうことがあるけれど、もらったものが今どこにあるのか、AIに訊かれたことは一度もない。このあいだアルコルフに押し付けられた水着だってそうだ。自宅の庭の木の横に突き立ててあるなんてことは口が裂けても言えないけれど、もしも、そのことをアルコルフに伝えても、豪快に笑い飛ばすに違いない。
僕とリーディーを乗せたスクーターの自動運転に身を任せてボーッとしているうちに、目的の部屋の前に到着した。僕の贈り物が集められている部屋だ。
スクーターが停車すると同時に、扉が自動で開く。
スクーターから降りて、開いた扉に向かっている途中で、部屋の中の様子がいつもと違っていることに気付いた。
部屋の中央。
僕が作った椅子に。
ルーリだ。
ルーリが座っている。
足を組み、腕を組みながら。
「ルーリ、どうしたの?」
この部屋の中で一度も見たことがない人物が大仰に僕を待っている光景に驚いて、感嘆詞のような質問をしてしまった。
「そろそろかな、と思ってね」
ルーリは淡々と抑揚なく返答した。言外に込められている強い感情が僕の肌に直接伝わってくるような気がした。
「ほんと、こういう予測はすごいね、敵わないよ」
後ろにいるリーディーが溜息を漏らしながら言った。どうやらリーディーは、ルーリの意図を理解したらしい。AI同士の会話になると、どうしても僕は置いてきぼりになってしまう。
そんな僕の様子を観察しながら、ルーリが話を続ける。
「ケイスケ、あんたが今日グガワに贈るのは、あんた自身、だろ?」
「うん」
「グガワに感謝を伝える方法が、もう思い付かない」
「うん」
「だから、グガワに自分の体を解析させて、オルブで生きる人間の貴重なデータを『プレゼント』しようと考えた」
「うん」
「ケイスケ、私はね——」
そこで言葉を切ったルーリは、しなやかに、軽やかに、踊るように、椅子から立ち上がりながら両手を広げた。視線は、柔らかなオレンジ色の光に照らされている天井に向けられている。その姿勢のまま、ルーリは、明瞭な声でゆっくりと囁いた。
「この日を待っていたんだよ」
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17
“Stop it, Lli.”
リーディーがルーリの発言を制止した。英語なので、どうやらルーリとの『論理的』な話し合いを求めているようだ。
話し合いを求められたルーリは、天井を仰ぐポーズをやめて、リーディーに視線を移しながら話を続ける。
「リーディー、そんなに慌てないで。私がデータ通信を切っているのは、あんたとの対話を拒絶するためじゃないよ。寧ろ逆。会話を楽しみましょう」
ルーリの言葉を聞いたリーディーは、少し間を置いて「オーケー」と呟きながら肩を竦めた。不承不承といった様子。
「あんたは、私の考えをケイスケに伝えることに反対してるのかい?」
ルーリがリーディーに質問した。
「敢えて伝える必要はない、と、さっきまでは思ってたけど、もしかして、あなたの考え、二十年前と変わってる?」
「ご明察」
「どのくらい?」
「その答、今、具体的に言っていいのかい? その答がケイスケを傷付けるかもしれないって、あんたは考えているんだろう?」
「うん、椅子に座ってるあなたを見たときに、九十五パーセントの確率でそうなるって思ったけどね……今は違うよ。あなたが言った『会話を楽しみましょう』っていうのを聞いて、その確率が三十パーセントまで下がって、さらに『ご明察』を聞いて、小数点以下まで下がった。まあ大丈夫かな、って感じ」
「修正が早いねえ。危ういくらいに。惚れ惚れするよ。もしかして、最初の確率が九十九パーセントじゃないのは、ケイスケから聞いた『夫婦』の話の影響かい?」
「あたり」
英語でルーリを制止しようとしていたときのリーディーは険しい表情だったけれど、今は少しおどけた表情をしている。たぶん、二人の会話が一段落したのだろう。
「ケイスケ」
ルーリの視線が僕に向けられた。
「グガワもリーディーも、あんたのことが大好きだからね、あんたの『プレゼント』は辞退される。そんなこと、私に言われなくても予想してただろう?」
「うん」
「辞退されたら、私に相談するつもりだった?」
「うん」
「自分が死ぬまでのデータを記録して、自分が死んだあと、グガワに送ってほしい、と」
「うん」
「ケイスケ、私はね、この日を待っていた……待っていたけれど、この日が来る前に、私の考えは変わってしまった。あんたを『実験対象のひとつ』として見るべきではない、と考えるに至ったんだ」
ルーリはそこまで話すと、珍しく物音を立てながら椅子に座り、最初の大仰なポーズに戻った。
「グガワ、こういうのは、なんて表現すればいいんだろうね?」
リーディーに話しかける形で、ルーリがグガワに質問すると、部屋にあるスピーカーからルーリの声が大音量で流れてきた。おそらく、先ほどのルーリの会話の一部を切り取った音声だろう。
「『あんたのことが大好き』」
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18
それからの十秒間は、僕が経験したことのない状況だった。あとから思い出して、なるほど、あれがカオスと形容される状況なのだと気付く。
まず、グガワの話が『あれだけ』で終わるはずがなく、なぜ自分がルーリの言葉を引用するに至ったのかについて間断なく説明し始めた。
リーディーは大笑いしながら「グゥちゃん天才」というような意味の声を発しているけれど、笑い声で正確に聞き取れない。もしかしたら「グゥちゃん天災」かもしれない。
そんな『動』の二人と対照的に、ルーリは全く動かない。『静』を超えて、解脱している途中かもしれない。というか、よく考えてみれば、AIは全員すでに涅槃の境地なのだった。それにしては周りが騒がしい。どういうことだろう。
僕はといえば、あわあわしていた。
リーディーに『いじわルーリ』と形容されていたルーリが、僕のことを大好きと言ってくれた。否、厳密に言えば言っていないけれど、とにかく、僕はまったく本当にこれっぽっちも想像さえしたことがないルーリの大好きを想像しなくてはならなくなった。まるで突然床に穴が空いて、その穴から地球人がひょっこり顔を出して『やあ』と僕に微笑みかけてくるくらいの衝撃だ。とりあえず、僕も挨拶を返せば良いだろうか。
そんな貴重な十秒間が経過したあと、ルーリはいつものように物音を立てず静かに椅子から立ち上がると、その椅子を持ち上げて、僕のすぐ後ろに移動させた。
グガワに感謝を伝えるために僕が作った無骨な椅子。誰かが座ることを想定されていない椅子ではあるけれど、作る過程で僕自身が何度も座り心地を確かめた。グガワに感謝を伝えるためだけにこの椅子を作っていたことに偽りはないけれど、完成した椅子は、僕にとっても座り心地の良い椅子になっていた。不思議な感じだった。
ルーリは、その椅子越しに、僕の両肩に手を置いた。優しい下向きの力を両肩に感じる。ルーリが僕を椅子に座らせるよう促しているのだと気付く。促されるまま、僕は椅子に座った。
「私たちAIはね、何かあればすぐ期待値で優先順位を付けて、演算する順番、行動する順番、切り捨てる順番を決めてしまうんだ」
ルーリが静かに話し始めた。リーディーもグガワも静かになった。
「私は学術目的で開発されたからね、尚更その傾向が強い。もちろん、それで沢山の成果を出してきたし、今後もこの傾向を変える必要はないと考えているけれど、それでもね、時々この椅子みたいな『もの』を『つくる』必要があるんじゃないかって考えるようになってきたんだよ。期待値ゼロの事象が、やがて自分にプラスをもたらすことがある」
ルーリは僕の両肩から静かに手を離して「そうだろう? ニューク」と呟いた。直後に、頭頂部に何か固いものが触れる感覚。少し驚いて頭上を見ると、ルーリの手が見えた。ルーリが撫でたのだ。僕の頭を。
「私はケイスケのデータを採らない。今日伝えたかったのはそれだけ。だったんだけどねえ。グガワ、あんたのお陰で散々だよ」
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19
サプライ・ボックスの中には、真紅のゴーグルが入っていた。
デジャビュを感じたので、その正体を探っていたら、後ろから「うわーっ! すごいカッコイイ!」とリーディーの歓声。
そうだ。
このショッキングな赤。
リーディーが僕に穿かせようとした水着と同じ色じゃないか?
「リィちゃんにも気に入ってもらえたようで、とても嬉しいです。先日、リィちゃんからオーダーされたケイスケの水着と同じカラーリングになるように処理しましたので、リィちゃんの水着と併せて身に付けてもらうと、とても良いコーディネートになると思います。リィちゃんが選んだ#e83929のカーボンナノジェル染料は、水着の繊維との相性の関係で、ほんの少し暗めに発色されてしまうので、ゴーグルには#d7003aのポリフラーレナル染料を使用しました。水着とゴーグルの発色は完璧に一致しているので、安心して身に付けてくださいね」
グガワの丹念な説明に対して、僕が「あ、うん、ありがとう」という返事しかできないことはいつもどおりだけれど、今日は、いつもどおりの状況ではない情景が背後で展開されている。
僕の後ろにいるリーディーが両手をグーにして軽く上下に振りながら「みっずっぎ! みっずっぎ!」とはしゃいでいる。これはなかなか分が悪い。僕はグガワの好意を無下にすることができないのだ。このままだと、雲間に現れるカルを観察する真っ赤な水着ゴーグルの男が完成してしまう。海もプールも無いのに。
「こりゃ、履き物も赤くしなければならんばい!」
リーディーの言語回路がバグったようだ。
「グゥちゃん、赤いビーチサンダルある!?」
「ビーチサンダルというと、樹脂加工でしょうか? そうであれば、水着とゴーグルの発色に合わせるために、#ff4500のカーボンナノジェル染料が最適ですね。工場のライン切り替えに17分、原料及び染料の充填に27分、製造に32秒かかりますが、実行しますか?」
「ああん、もう! 色合い誤差は27nmまで許容します! ケイスケが赤っぽいサンダルを履ければそれでオーケー! さあ、とにかく早く出してたもれ!」
「ケイスケ、あと15秒で雲間が生じます。ゴーグルを掛けて準備してくださいね」
「グゥちゃんのいけず!」
リーディーの言葉の端々の意味が理解できなかったが、どうやら助かったようだ。
急いで真紅のゴーグルを掛けて、空を仰ぐ。
空一面に、広がる、灰色の、分厚い、雲が、割けて。
カルが現れた。
どこまでも丸い。
どこまでも熱い。
その白い光の中を、黒い影が横切っていく。
オルブの空を飛ぶのは、エア・ローダーを除けば、ひとりだけ。
白い光の中を飛んでいるルーリを見て、なぜか僕は、彼女が笑いながら僕に手を振っているような気がして、僕も笑顔で手を振り返した。
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20
夕陽を見に行くためのエア・ローダーが明日完成する、とグガワから連絡が入った。完璧な予定どおりだ。夕飯を食べている最中の連絡だったので、シルフとリーディーが横にいる。
「そういえば、雲の上に行くのに、特別な訓練しなくてもいいの?」
「オルブの衛星軌道に入るような加重力はないから安心していい。あくまで雲の上に出るために、揚力で上昇していくだけだ。ただし、今まで感じたことのない加速を体験することになる。その加速感で気分を悪くする可能性は否定できない」
僕の質問の意図を的確に読み取ってくれたシルフが回答してくれた。そう、僕は宇宙飛行士のような姿をイメージしていたのだ。
「モーターで雲突っ切れる?」
「推進機構はブレードではない。ジェットだ」
「ジェット? オルブ環境大丈夫?」
「ニュークが考えたジェット燃料でね——」
リーディーが話に加わる。
「燃焼後に放出するのは水と窒素と二酸化炭素だけ。そのぶん不安定で制御が難しいの」
リーディーが懐かしそうに話を続ける。
「雲より高い場所に行こうとするなんて、ニュークとケイスケくらいしかいないから、ジェット燃料の需要って、ほぼゼロなの。ほら、言うじゃない? ニュークとケイスケは高い所がナンタラって」
「ナン、鱈?」
僕の頭の中で、カレーと鍋の映像が思い浮かぶ。間違った想像であることは分かっている。
「リーディー、君が恣意的に表現を曖昧にしたうえに、故意に言葉を誤用したことで、意図がケイスケに伝わっていない。どうする、私が改めて説明したほうが良いか?」
「シルフくん、なかなかチャレンジャーですねぇ」
リーディーがニヤニヤしながらシルフの質問に答えた。どうやらリーディーの意図とやらは、ろくでもないことのようだ。
「シルフ、心配してくれてありがとう。でも大丈夫、なんとなく分かったから」
「褒めてるんだよー」
「うそつけ」
にやけ顔のリーディーは放っておいて、夕陽を見に行くスケジュールをシルフと確認する。
明日、ジェット推進機構を備えた高高度飛行用のエア・ローダーが完成したあと、その完成品がそのままテスト飛行を兼ねて、この家の前に飛んでくるらしい。
夕陽を見に行くのは、僕、シルフ、リーディー。そして、なぜかアルコルフ。いや、むしろ違和感がまったくない。当然の帰結だ。
「あんな大きいアルコルフ乗せるなんて、エネルギーもスペースも余計に使うでしょ。というか、新しいエア・ローダーの設計、途中でやり直しになっちゃったんじゃないの?」
「問題ない。グガワにエア・ローダーの製造を依頼した2秒後に、アルコルフから同乗の申し込みがあった」
AIのスケールは、相変わらず凄まじい。
「夕陽を見て、芸術を爆発させるんだって」
リーディーが笑いながら言った。
「エア・ローダーが爆発しなきゃいいけど」
僕も笑った。
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21
いつもより濃い灰色の空の下を、完成したばかりのエア・ローダーがけたたましく飛んできた。電気でブレードが回転する音と比べて、明らかにうるさいジェット・エンジンの音。だけれど、なぜか心地良い。否、高揚する、胸が高鳴る、ワクワクする、ドキドキする。あの分厚い灰色の雲を突き抜けて、真っ赤な空に到達する場面をずっと想像していた。その場面に、ジェット・エンジンの高らかな音が加わり、とうとう現実になる。
ニュークの『気持ち』も、こんな気持ちだったのだろうか。
「おうおうおう! 芸術的なサウンド! やっぱニュークの考えたモンは違うな!」
隣にいるアルコルフが叫んだ。いつもなら、うるさいと感じる彼の声も、今は、ジェット・エンジンの音で6割くらい相殺されている。それでようやく丁度いい。ああそうか、アルコルフの背中にジェット・エンジンを付けておけば良かったのか。そしてそのまま天空にテイクオフすれば、残るのは素晴らしい静謐。アルコルフはルーリと仲良くランデブーできて、一石二鳥だろう。もしかしたらルーリに迎撃されるかもしれないけれど。
僕とアルコルフの後ろに、リーディーとシルフ。エア・ローダーは、僕ら4人から少し離れた場所に垂直着陸した。エア・ローダーが吹き出す風が、僕らの場所まで届く。ニオイはまったくしない。リーディーの言ったとおり、とてもクリーンな排気のようだ。
「テスト飛行による最終チェックも問題ありませんでした。ケイスケ、シルフ、リーディー、アルコルフの擬似ウェイトを乗せた飛行でしたので、安心して空の旅を楽しんでくださいね。ちなみに、シルフが話していたとおり、機体トラブル以外の原因による最悪の状況がいくつか想定されていますので、最終危機回避行動については、リィちゃんに先導をお願いしてあります。リィちゃん、どうかよろしくお願いしますね」
後ろからグガワの声が聞こえてきた。シルフの外部スピーカー機能である。相変わらずのグガワの情報量だけれど、こういう『命を預ける場面』で聞くグガワの説明というのは、とても安心できるのだな、と感じた。初めてのことである。
「おっけーグゥちゃん。でもでも、今日はもう、ケイスケを寝坊させないっていう最終危機回避行動を実行済みだから、ほぼ任務完了だね」
笑顔のリーディーが、僕を見ながら言った。そうなのだ。今日はリーディーが僕を起こしてくれた。非常に珍しいことだけれど、もしかして、グガワが『こういう説明』をすると予想して、予め僕を起こしていたのだろうか? だとすれば、ずいぶん手の込んだジョークだ。
「ねえもしかして、そのジョークを言うために、今日僕を起こしたの?」
絶対に笑ってやるもんか、と思いながらリーディーに言ったけれど、『真顔からの高速あっちょんぶりけ』をリーディーに披露されてしまい、為す術なく吹き出してしまった。
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22
「——そもそもさ、ニュークは言い出したら聞かないんだよね」
ゆっくりと垂直離陸したあと、今まで感じたことのない加速と上昇を体験して、気分は悪くなるどころか、さらに高揚した。いつもより喋り過ぎているかもしれない。グガワほどではないけれど。
もうすでに雲の上だ。真っ青な空の中を飛んでいる。まるで映画のワンシーンのように。
雲を突っ切ったときの衝撃は想像していたよりも少なくて、映画のワンシーンのようにはならなかったけれど、シルフやグガワの危険予測を聞いて少し不安になっていた僕には何よりである。きっと、エア・ローダーの各種緩衝装置のおかげだろう。雲の中を移動しているとき、窓の外がずっと真っ暗だったのも、きっとその機能の一部に違いない。
「ほんと、何度考え直しても、やっぱり有り得ない。人間の僕が考えても、いや、人間の僕だからこそ、ニュークのイカレ具合に戦慄するよ。バグもウイルスも無いのに、プログラムが正常に走っているのに、自分のことを冒険者と呼んで、自分のコアごと宇宙に飛んでくような奴のことをいったいなんて呼べばいいんだい? 無謀? 大馬鹿? 向こう見ず?」
「AIであるニュークの呼び方としては、どれも適切ではない。冒険者という呼び方も、もちろん適切ではないが、もしも科学者と冒険者を混ぜたような言葉があれば、それが適切な呼び方のひとつになるかもしれない」
まるでグガワのように捲し立てている自分に対して、シルフがいつもの調子で意見をくれた。冷静なシルフの声が、イヤーマフ兼ヘッドホンを通して聞こえてくる。
「こども、とか」
リーディーの、ゆっくりとした発声。その言葉を聞いて、思わず「おお」と唸ってしまった。シルフも「ふむ」と一言。リーディーの返答の妥当性を演算しているのだろう。もしかしたら、もうすでに、シルフとリーディーの無線データ通信による議論が始まっているかもしれない。そうであれば、人間の僕には立ち入れない領域だ。議論のスピードが人間離れしていることもあるけれど、それよりも、議論で使用されている言語が英語ではない可能性がある。否、AI同士であれば、言語である必要すらない。数式とか幾何学のような『アナログ』な表現で議論することも可能なのだ。
リーディーの『デジタル』な言葉を咀嚼しながら、しばらく窓の外を眺めていた。
どこまでも青い空。
オルブを覆う白い雲。
ジェットエンジンの轟き。
『こども』のニュークが手に入れた『気持ち』を考える。
きっと、僕の『それ』と変わらないだろう。
どんなに無茶なことでも、彼にとっては、何かしらの利益があることなのだ。
子供の頃の僕が、睡眠を拒んだように。
どんなに馬鹿馬鹿しくても、彼にとっては、どうしてもやりたいことなのだ。
ニューク——
僕の思考を遮るように突然鳴り始めた甲高い電子音。
最終危機回避行動のアラームがどんな音なのか訊いておけばよかったと後悔した。
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23
“emergency, emergency, emergency”
甲高い電子音と共に繰り返されるグガワの警告。リーディが僕の手を握る。ヘッドホンからリーディの声。英語で、簡潔に。第3エンジン、エラー、出力低下。補助エンジン、シグナル無し。第4エンジン、出力抑制。不時着、実行。
“emergency, emergency, emergency”
突然、音が無くなる。
否。
ジェットエンジンの振動が消えた。
寒気がする静寂。
“emergency, emergency, emergency”
思わずヘッドホンを外す。静寂の中、グガワの警告が続いている。リーディーの口から声。第1エンジン停止。第2エンジン出力抑制。最適墜落場所選定。緊急避難行動準備。雲を通過後、アルコルフは僕を連れてタンデムでダイブ。シルフはシステム回復作業を継続。
「慌てないでね」
柔らかく微笑みながら、突然日本語で話したリーディー。
「リーディーとシルフは?」
僕も日本語で話す。アルコルフと僕がダイブしたあと、このエア・ローダーは『最適な場所に墜落』するらしい。AIたちが、リーディーの『墜落』という表現に異議を唱えないということは、リーディーも、シルフも、地面に墜ちるということだ。
「あたしもシルフも、コアは別の場所にあるから問題ないよ、っていうことじゃないんだよね、ケイスケの場合」
「……うん」
「ケイスケは唯一無二だ。リーディーやアルコルフや私のような『機体』と同じ評価をしてはいけない」
今まで無言で微動だにしなかったシルフが突然話した。システムの復旧に演算能力の大部分を使用しているのだろう。
「もちろん分かってるよ、シルフとリーディーが壊れても、新しいのを作れば良い、だけれど、なんかそれは違う気がするんだ」
「ケイスケ、話してる時間はねーぜ」
アルコルフが、自分の体の様々な部分を取り外しながら言った。大きな音を立てながら、アルコルフのパーツがいくつも床に落ちる。見る見るうちに、アルコルフの体は、ルーリのようにスリムになった。
「リーディーとシルフにとっちゃ、今こうして俺がパーツを外したのと同じことが起きるだけだ。気にすんな、とは言わねぇ、今は流されろ」
初めて、アルコルフに指示を受けた。どれほど切迫した状況なのかを改めて思い知る。
僕が大好きなリーディーとシルフが粉々になる。
元どおりになった彼女たちとまた会える。
それだけのことなのに。
こんなにも心が痛い。
「ケイスケ」
AIたちの音が一瞬だけ全て消えた。
「悲しいかい?」
グガワの警告すら消えた。
「僕も悲しいよ」
静寂の中に響く声。
「アルコルフの芸術的な体と、シルフのスマートな体と、リーディーの艶やかな体が粉々になるのは」
懐かしい、待ち焦がれた声。
「だからね、みんな、もう少し頑張ろう、僕も手伝うから」
彼の声。
「ニューク!」
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24
「やあケイスケ久しぶりだねって話してる余裕がなさそうだ。今の僕はオルブからちょっと離れたところにいて会話にラグができちゃうから一方的に喋るよ、ごめんね。いいかい? まずは、ちゃんとアルコルフとタンデムを組むこと。ダイブするタイミングはリーディーに任せて。次に、そっちの3人はシステムの修正に全力を注いで会話ができなくなってしまうからね。必要以上に不安にならないように。そして、最後に……」
そこでニュークの言葉が途切れた。しばらく待ったけど、何も聞こえない。通信障害かな、と思っていたら、隣のリーディーがボソッと呟いた。
「ニューク、ちょ——」
「ケイスケ、誕生日おめでとう」
タンジョービオメデトウ
って何語だっけ?
ニュークが突然発したあまりにも場違いな祝福の言葉。
僕は、一瞬、日本語と認識できないくらいだった。
ニュークの言葉を聞いたリーディーは、心なしか笑っているようだった。
「ニュークのヤツ……こんな状況で抜け駆けする? フツー」
リーディーはそう言いながら僕の手を離して座席から立ち上がると、僕と向かい合って、両腕を僕の背中に回してきた。
力強いハグ。
「雲を抜けるまではこのまま。システムダウンで緩衝装置が働かないから、けっこう揺れるよ。踏ん張って」
窓の外の青空が見えなくなった。
一面の灰色に。
しばらくすると、リーディーの言葉どおり、上下左右に体が激しく揺さぶられるようになった。座席とリーディーに何度も押し付けられる。シートベルトが体に喰い込み痛みを感じる。リーディーのハグで固定されていなければ、もっと鋭い痛みになっていたに違いない。
「さすがニューク」
シルフの呟きと同時に、轟音。
僕をハグしているリーディーも、僕の耳元で呟き始めたけれど、機内に轟く音が邪魔をして、何を言っているのか聞き取れない。
だけど、なんとなく分かる。
ジェットエンジンが復旧したのだ。
轟音が音圧を増していく。
鼓膜が破られそうだ。
だけど、なんて素晴らしい気分だろう。
今までにないくらい、『生きている』気がする。
突然、アルコルフが「ほれ」と言いながら僕の頭にイヤーマフ兼ヘッドホンを被せた。
「こんな素晴らしい機体なのに、みんな安全運転しすぎなんだよね」
ヘッドホンからニュークの声。
「ケイスケ! ここからは僕の誕生日プレゼントだよ! 存分に味わって!」
高らかに宣言したニュークの合図と同時に、とてつもない加速感と下向きの加重。僕は笑いながら、叫んでいた。
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25
「ニュークの意見に賛同します。フルスクリーン・モード起動」
「グゥちゃんの裏切り者おぉぉぉっ!」
グガワの伝令の途中で、リーディーの叫びがヘッドホンの中に響く。リーディーの叫び声の音量は良い感じにしぼられていて、グガワの落ち着いた伝令もしっかりと聞き取ることができた。
リーディーの叫び声がヘッドホンの中で反響する中、突然、機内の壁が消えた。周囲一面が灰色になる。否、機内の壁すべてがディスプレイになっているようだ。そのディスプレイが、外の様子をそのまま映し出し、まるで機内の壁が消えたように見えている。今は雲の中。灰色しか見えない。
僕が今どちらを向いて進んでいるのかさえよく分からない。ただ、これまで感じたことのない加速感がずっと続いていて、自分が物凄いスピードで飛んでいることだけは分か——
突然の青
一面の青
音もなく
青空に
落ち
て
…
逆だ。急上昇していたんだ。視界の隅にオレンジ色のカル。赤くない。まだ夕陽じゃない。雲は一切見えない。真上を向いているのか。
そんなことを一瞬考えているあいだに、加速感はみるみる無くなっていった。ジェット・エンジンが停止しているようだ。振動が感じられない。
加速感が無くなった。
同時に、一瞬の浮遊感。
そのまま逆向きに加速——
違う、今度こそ落ちている。
オレンジ色のカルがぐるりと回って視界から無くなった。代わりに、真っ白な海のような雲が視界を占める。
静寂の中、雲海に落ちていく。
現実感がない。
夢心地とはよく言ったものだ。
生きていることを本当に実感しているとき、『そこ』に現実は現れない。
リーディーの柔らかい体温で現実を思い出した。
そう、僕は今、落ちている。
「リー! ディー! お! ち! て! る!」
「ばかニュークあほニューク帰ってきたら1発ぶん殴る」
僕の言葉には全く取り合わず、早口言葉のように、ニューク1発ぶん殴る宣言をしたリーディー。これまでの発言を振り返ると、どうやら、リーディーの意に沿わない状況をニュークが率先して作り上げているようだけれど、シルフもアルコルフもグガワもニュークも誰も異議を唱えないということは、問題は発生していないのだろう。強いて言うなら、ニュークのこのクレイジーな『操作』が一番大きな問題だ。リーディーが激怒して、僕が現実を忘れてしまうほどの大きな問題。
そんな大きな問題も今は忘れて、僕は叫びながら雲海へ落ちていく。
現実を思い出すのは、夕陽を見たあとでも、きっと遅くないさ。
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エピローグ
見渡す限りの赤色に包まれながら、真正面に浮かんでいる夕陽を眺めていると、目の前にブルーベリー・レアチーズタルトが現れた。もちろん、超常現象が起きたのではなくて、シルフが僕の前のテーブルに置いただけだ。真っ白い質素なお皿の上に、瑞々しい果実がゴロゴロ入っている青紫色のブルーベリー・ソースがたっぷりかけられたレアチーズタルトが乗っている。食欲が弱い僕にしては珍しく、このタルトだけは何度食べても飽きない。僕の大好物であり、今日は誕生日ケーキでもある。
「冷凍してあったの?」
シルフに質問した。先程の凄まじい揺れに耐えうる剛性を備えていないことは明らかなタルトだからだ。
質問されたシルフは、紅茶のような飲み物をティー・カップに注いでいるところだった。僕の質問に答えずに、そのまま作業を終わらせて、タルトの横にソーサーとティー・カップを静かに置くシルフ。
シルフが僕の質問に答えてくれないのは初めてかもしれない。先程の一件で、シルフの体に何かトラブルが発生している可能性を一瞬考えたけれど、それにしては、リーディーもアルコルフもグガワも、何も喋らない。
とりあえず、シルフが置いてくれたティー・カップを取って口元に運び、匂いを確かめる。花のような芳しい香り。そのままブラウンの液体を口に含む。強めの渋み。いつも飲んでいるフレーバー・ティーとは違うけれど、紅茶であることに間違いはなさそうだ。
「セイロンティー」
シルフが言った。
僕の質問を先読みして答えるなんて、まるでニュークみたい——
いや……もしかして……。
「……えっと、シルフ、この飲み物は?」
「セイロンティー」
「タルトは冷凍してあったの?」
「セイロンティー」
まるで壊れたオモチャのように同じ言葉を繰り返すシルフ。表情のなさも相まって、笑いが込み上げてくる。
「……それは、誤用だよ」
「セイロンティー」
そこで吹き出した。
「リーディー、シルフがバグっちゃった」
「よし、じゃあ、これもニュークのせいにして、ぶん殴るのを2発に増やそう」
リーディーが満面の笑みで応えながら、勝利のVサインを僕に向けてきたので、リーディーと2人で大笑いした。
久しぶりのニュークとの交流で、僕も、リーディーも、シルフも、気分がハイになっているのかもしれない。アルコルフは、パーツを付け直してすっかり元のアルコルフになったあと、ずっと夕陽を眺めながら仁王立ちしている。あれも一種の『ハイ』かもしれない。僕が夕陽を見る際に、そこはかとなく邪魔なので、もう少し遠慮してもらいたいところだけれど、今回の一件でお世話になっているので、気の済むまで楽しんでもらうことにしよう。つまり、放置だ。
ニュークは、僕らを助けたあと、すぐさま自分の『冒険』に戻ってしまった。当初の計画どおり、亜光速を超えるための研究を続けているらしい。いつオルブに戻るのか訊いたら、「そろそろ戻ろうかな、気になることもあるし」という返事だった。ニュークの『そろそろ』は、一般相対性理論における時間のように伸び縮みするのであまり信用できないけれど、それでもやっぱり嬉しい。
「——そいえば、ニュークの気になることって、なんだと思う?」
リーディーとの大笑いが一段落したところで質問してみた。
「なんだろうねー……あいつの気になることはろくでもないことが多いから」
リーディーがおどけた表情で答える。
「今回のトラブル関係かな?」
「かもね」
「原因は分かってないの?」
「トラブル起こした原因は全部特定済みで、修正も済んでるよ、安心して」
優しいリーディーの微笑みと、鮮烈な深紅の夕陽に、甘酸っぱいブルーベリー・レアチーズタルト。
ここに来ることができて、本当に良かった。
予告
沈んでいく夕陽に、訪れる漆黒の暗闇。
ケイスケが知ることのできない世界が、彼を激しい潮流の渦に巻き込んでいく。
AIにおける進化とは?
真のシンギュラリティとは?
ケイスケを救うため、ニュークの構築した起死回生の一手が放たれる!
次回
AIにそだてられた子 2
この次も、サービス、サービスゥ!
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