ウタカタノ花 (薬來ままど)
しおりを挟む

オリジナルキャラクター一覧(追記・ネタバレあり)

作品のオリジナルキャラクターの紹介。ネタバレがありますので、閲覧注意。


名前:大海原汐

 

読み:わだのはら うしお

 

年齢:序章時14歳→修行開始時15歳→最終選別時16歳(ただしこれらは全て推定である。理由は下述)

 

身長:序章時158cm→最終選別時161cm

 

出身地:西日本の漁村

 

呼吸:海の呼吸

 

好物:イカの塩辛

 

備考

西日本のとある漁村で暮らす少女。幼い頃に浜辺に捨てられていたところを、養父である大海原玄海に拾われ海と共に育つ。

病弱だった体を鍛えるために始めた呼吸法より、驚異的な身体能力と肺機能を手に入れ、それを生かして漁を手伝ったり海賊やならず者などを追い払ったりしている。

嫌なことがあると水に潜る癖がある。

とても珍しい青い色の髪をしており、一部では海の女神の生まれ変わりとも言われている。

体格が良いため、よく男子に間違われる。本人はこのことを大変不服に思っており、悩みの種でもある。

好きな異性のタイプは荒波を拳で砕くような人。褌の似合う人。

相手の目を見てその人の人柄を見抜くことができる。人間と鬼の判別も可能。面や被り物で隠していると、それが行えないため困惑する。

戦闘では呼吸法による型の他、声を使った独自の戦法をとる。

港町に薬を買いに行っている間に村が鬼に襲撃される。親友が奪われ、養父も鬼と化すが、ある鬼殺剣士のおかげで命が助かる。

その後は玄海の日輪刀を用いて、鬼となった彼を海の呼吸で打ち倒した。

その後は玄海の遺言に従い、鱗滝の下で炭治郎と出会い兄妹弟子の関係になる。

基本的に善逸には容赦がない。

嫌いなものは蜚蠊、甘いもの、喧しくて優柔不断な奴。

 

その正体は「ワダツミの子」と呼ばれる特殊な声を持った人間。全員が青い髪を持った女性であり、呼吸とは異なる妙技『ウタカタ』を扱える。

また、力を悪用されるのを防ぐために人の目を欺く特性が無意識に備わっており、男と間違われるのはその名残。

かつては汐以外にもワダツミの子は複数存在したらしいが、記録がほとんど残っていないため詳細は不明。

 

海の呼吸

壱ノ型:潮飛沫

弐ノ型:波の綾

参ノ型:磯鴫突き

肆ノ型:勇魚昇り

肆ノ型・改:勇魚下り

伍ノ型:水泡包

陸ノ型:狂瀾怒濤

漆ノ型:鮫牙

捌ノ型:漁火

 

ウタカタ

壱ノ旋律:活力歌

弐ノ旋律:睡眠歌

参ノ旋律:束縛歌(転調:繋縛歌)

肆ノ旋律:幻惑歌

伍ノ旋律:爆砕歌(転調:爆塵歌)

陸ノ旋律:重圧歌

漆ノ旋律:誘引歌

 

日輪刀の色は普段は紺青色だが、角度を変えるたびに色が変わる非常に珍しいものである。

 

イメージイラスト

 

【挿絵表示】

 

 

 

名前:大海原玄海

 

読み:わだのはら げんかい

 

年齢:不詳

 

呼吸:海の呼吸

 

好物:酒、このわた、きれいな姉ちゃん

 

備考

孤児だった汐を拾って育てた養父であり、彼女の育手でもある。鱗滝とは昔からの知り合い。

週6で遊郭に通っていたことがあるほど筋金入りの女好き。今住んでいる村では若い女がいないため、かなり残念がっている。

人間性に難があるものの、実力は本物であり、汐と6時間以上組み手をしていても全く息が切れないほどの強靭な体を持っている。

現在はある奇病にかかっており、日の光にあたることができない。そのため、汐の修業を見ることができるのは、悪天候時か夜間に限られる。

病を治す薬を汐に頼んでいたその日、鬼の襲撃を受ける。その後、汐の前で突如鬼化し、ある鬼殺剣士と交戦。

その後は海の呼吸が開花した汐に討ち取られ、満足しながらその生涯を閉じた。

生前、鬼狩りだったころはかなりの問題児であり、鱗滝を振り回していた。

 

吉原にも足繁く通っており、【海旦那】と呼ばれる伝説の客となって語り継がれている。しかし決して身請けはせず、絶望する女たちにあきらめず胸を張って前を向いて生きるように諭していた。

 

名前:尾上絹

 

読み:おのうえ きぬ

 

年齢:序章時12歳

 

備考

汐と同じ村に暮らす少女。村一番の美人と名高く、他の村から早くも求婚が来るほど。

汐とは姉妹のように仲が良く、無茶をする汐をいつも心配している。

村の伝統的な祭りの要である『ワダツミの子』に選ばれる。

村が襲撃され、鬼によって連れ去られる。その後、村はずれで血まみれの彼女の着物が発見され死亡と判断された。

母は絹が幼いころに亡くなっており、父親も漁に出て一人になるときが多かった。そのため似たような境遇である汐と意気投合していた。

 

名前:鉄火場焔

 

読み:てっかば ほむら

 

年齢:25歳

 

備考

汐の日輪刀を打った鍛冶師。南部風鈴をぶら下げた傘を被り、ひょっとこの面をつけている。

丁寧な口調で話す、とても礼儀正しい青年。

しかし同じく鍛冶師である鋼鐵塚とは仲が悪く、彼がやらかすと木槌で頭を叩く。

本来の性格は、かなりの泣き虫。

彼の師匠は汐の養父玄海の担当の鍛冶師だったが、玄海が亡くなった数ヶ月後に逝去している。

 

 

実は女性であり、生まれて間もないころに捨てられ、紆余曲折あって鉄火場仁鉄の養女となった。

鋼鐵塚とは幼馴染であり、好敵手であり、そして片思いの相手である。

 

料理は苦手で、昔鋼鐵塚に料理を振舞った結果殺しかけたことがある。

 

 

 

名前:ソラノタユウ

 

性別:雌

 

備考

汐の鎹鴉。間延びした声でしゃべるのが特徴。そののんびりした性格からウオノタユウ(マンボウの別称)をもじって名付けられた。

 

 

名前:菊松右衛門

 

備考

汐が任務で立ち寄った町で人形職人をしていた隻腕の老人。通称【菊屋のおやじ】。孫を鬼にさらわれ気がふれていたが、汐の隊服を見て正気を取り戻し汐に孫の奪還を依頼する。

実は孫が鬼であったことに最初から気づいており、汐に孫を【救って】もらった後は静かにその生涯を閉じた。

彼の亡骸は汐の手によって、町の寺に葬られた。

 

名前:右衛門の孫娘

 

備考

本名不明。祖父である右衛門をとても慕っており、彼の人形を作っている姿が大好きだった。鬼に両親を殺された後、自身も行方不明になる。

実は彼女こそが鬼の正体であり、両親を殺し祖父の腕を奪った張本人。自分だけの人形を作ろうと、汐の青い髪に目を付けた。

 

 

名前:"うみ"

 

備考:汐の夢の中に出てきた、汐の前のワダツミの子。名前を含むすべての記憶を失っており、行き倒れていたところをある夫婦に拾われ、本当の名前を思い出すまでの間に仮の名前を付けられた。

ワダツミの子らしく、歌声はとても美しいらしい。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

特別編
遊郭編放送記念特別編~東雲の空を君と仰ぐ~


汐がときと屋に潜入してから迎えた、初めての朝の出来事。


空が白みだし、夜明けの気配が近づく中。宇髄は一人、静まり返る街を見下ろしていた。

 

この町で一番高い場所。そこからは広い吉原の町が一望できる最高の場所である。

 

(もうすぐ夜が明ける・・・。今日も異常なし・・・か)

 

宇髄は僅かに目を伏せた後、ふと気になり顔を動かした。

 

「ん?」

 

思わず声を上げた宇髄の視線の先には、屋根の上にぽつんと佇む一つの人影があった。

 

濃い紺色の短い髪を風になびかせ、そこに立っていたのは。

 

(あれは、大海原――、騒音娘か?)

 

定期連絡の時間にはだいぶ早く、周りに炭治郎達の姿はない。不審に思った宇髄は、そっと音もなく近寄った。

 

「よォ。早いな」

 

背後から声を掛ければ、汐は小さく肩を震わせながら振り返った。

 

「びっくりした・・・。あんた達と会話するだけで寿命が縮まりそうだわ」

 

驚きつつも憎まれ口をたたく汐に、宇髄は困ったような表情を浮かべた。

 

「こんな時間にどうした?定期連絡には早すぎる時間だろ」

「自然に目が覚めちゃうのよ。海で暮らしていた時は、もう仕事を始める時間だから」

 

汐はそう言って、白みだす空を少し寂しそうに見つめた。

 

「で、あんたこそ何の用?今日の仕事は終わったの?」

「まあな。今日も今日とて、収穫なしだ」

 

宇髄の言葉に、汐は小さく「そう・・・」とだけ返した。

 

「で、首尾はどうなんだ?」

「そうね。あたしがみんなの目を引いているうちは、炭治郎に動いてもらっているわ。誰かさんのお陰であたしの評判上々だし」

 

汐は皮肉を込めてそう言うが、ふと視線を落とし顔を空へとむけた。

その仕草に宇髄が怪訝そうな表情を浮かべると、汐はぽつりと話し出した。

 

「おやっさんが言っていた事、本当だったんだなって思って。あの人が見てきた景色を、あたしが今見ているんだなって」

 

汐の言葉に、宇髄は微かに目を見開いた。

 

「おやっさんは現役だったころ、ほぼ毎日遊郭に通っていたそうなの。そのためいつも金欠気味で、あちこちから借金してたって」

「成程。お前が妙に遊郭の事情に詳しかったのは、そのせいか」

「普通年端も行かない女に、こんなこと平気で教える?頭の中は本当に女の事ばっかりだったんだから」

 

そう言って呆れたように言う汐だが、その姿はどこか寂しげに見えた。

 

「でも、おやっさんは困っている人や悲しんでる人を放っておけない人だから、もしかしたら誰かを救うためにここに来てたのかもしれない。人間としては底辺だけど、そういうところはしっかりしてたから」

 

汐は宇髄を見上げながら、静かな声で言った。

 

「もし、ここに居る鬼をとっちめることができたら、あたしはおやっさんに親孝行できるかな?って言っても、おやっさんはもう死んじゃってるから、親孝行にしては遅すぎるけどね」

 

汐が自嘲気味に笑うと、宇髄は呆れたように溜息をついた。

 

「さあな。お前の事情なんざ知らねぇし、地味に興味もねえ。だが、少なくとも、孝行できる親がいるってのは、悪いことじゃねえだろうさ」

 

そう言う宇髄の"目"に、微かな悲しみが宿ったことに汐は気づけなかった。

 

「あんたって、何だかおやっさんに似てるかも」

「はあ?どこがだよ」

「馬鹿で派手好きで、自意識過剰で、すぐにムキになるところ」

「てめぇ・・・、いい度胸だなぁ騒音娘」

 

宇髄が思い切り顔をしかめて言い返すと、汐はくすくすとおかしそうに笑った。

 

「ふふふ、馬鹿ね。冗談よ」

 

そう言って笑う汐の顔を、登り始めた日の光が照らす。

その姿が艶やかで、宇髄は思わず目を見開いた。

 

んだよ。そんな表情(かお)もできるんじゃねえか

「え?」

「何でもねぇよ。そんなことより、お前はさっさと店に戻れ。朝になってもやることはあるんだからな」

 

抜かるなよ。と最後に促すと、宇髄は音もなく姿を消した。

 

「あんたに言われなくても」

 

汐はそう呟くと、両手で頬を叩いて気合を入れるのだった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

序章:嵐の前の静けさ


むかしむかし、あるところに。

美しい海の女神がおりました。

名を『ワダツミヒメ』と言い、彼女が治める海には命があふれ、人々は日々その恩寵に感謝しておりました。

 

ある日のこと。ワダツミヒメは、浜辺で一人の若者を見かけました。その人ははるか遠い天上の世界を治める神でした。

その立派な出で立ちに、彼女はすっかり心を奪われてしまいました。

 

それからというものの、ワダツミヒメは来る日も来る日も、彼のことばかり考えていました。

名はなんというのだろう。どこに住んでいるのだろう。好きなものはなんだろう。

 

しかし、募るばかりの思いとは裏腹に、彼女は彼に声をかけることができませんでした。

 

それから長い年月が経ちましたが、ワダツミヒメは彼を忘れることができませんでした。

それならばせめて、彼のために何か贈り物でもしたいと思いました。

 

ワダツミヒメは、それから彼に何を贈るか三日三晩悩みました。そしてついに、贈り物を決めました。

 

それは、海の底に咲いているという『泡沫の花』という幻の花でした。

しかし、それは幻というだけありなかなか見つけることができません。

それでも、ワダツミヒメは彼に会いたい一心で必死に探し続けました。

 

それからさらに年月がたち。ワダツミヒメはついに花を見つけることができました。

彼女はすぐさま花を摘むと、彼の元へと急ぎました。

 

もうすぐ会える。彼に会える。ワダツミヒメの心は喜びでいっぱいになりました。

 

しかし、その願いはかなうことはありませんでした。

なぜなら、彼にはすでに心に決めた相手がいたのです。

その瞬間、彼女の心は深い深い闇に包まれ、それに呼応するように、穏やかだった海は荒れ狂い、村や人々を次々に飲み込んでいきました。

 

それを見かねた神々は、ある人間に海を鎮める歌を教えました。

それを行うと、海は元の穏やかを取り戻しました。

その後、ワダツミヒメが治めていた海のそばの村では、想いを伝えることができなかったワダツミヒメを想い鎮める祭りがおこなわれました。

そしてワダツミヒメを鎮める歌を披露する者を『ワダツミの子』と呼ぶようになりました。

 

 


 

 

飛び込んだ瞬間に生じる泡の壁が晴れると、そこには地上とは全く違う世界があった。

色とりどりの魚や様々な形の海藻が入り乱れ、白と橙が交じり合う光が帯となり降り注いでいる。

 

そんな海中を影が横切る。それは魚ではなく、一人の人間だった。

海の底を髣髴させるような深い青色の髪を靡かせて、優雅に揺蕩うその姿はは、まるでおとぎ話に出てくる人魚のようであった。

 

名は大海原汐(わだのはら うしお)。近くの漁村に、養父と共に暮らしている。

体つきがよく、見た目は男子のようだが、れっきとした女子である。

彼女の朝は早く、日が昇り切る前に起きて日課の海中散歩を楽しむ。そしてそのついでに、朝餉のおかずになるものを取ってくる。

こんな生活を始めて、もう何年になるだろう。それほど長い間、汐は海と共に暮らしてきた。

 

幼い頃浜辺に打ち捨てられていた彼女は、たまたま通りかかった彼に拾われた。しかし体が非常に弱く、医者の話では数年生きられるかわからないほどであった。

そんな中、養父は彼女に『特別な呼吸法』を教えた。それは病弱だった体を強くし、日常生活は勿論、海を縦横無尽に泳ぎ回れるほどになった。

 

だが、その呼吸法がもたらしたのはそれだけではなかった。

 

それは、非常に高い身体能力と、常人をはるかに超える肺機能の強さであった。そのため、一度潜れば数十分は息継ぎをしなくても活動できるのだ。

その特技のおかげで、村人たちの生活は以前よりもはるかに豊かになったといっても過言ではない。

 

その日は、運が良かったのか朝餉十分すぎるほどの獲物が取れた。それからほかの漁師の罠がきちんとされているか確認をした後、汐は村へと戻った。

裾を縛って余分な海水を落としていると、漁の準備をしていた漁師たちが汐の姿を見つけて寄ってくる。

 

「汐じゃないか!またいつもの海中散歩か?おお、今日はずいぶんたくさんとれたな。」

「うん。今日は特に海が穏やかだったから、濁りも少ないし大漁だったよ。あ、そうだ。よかったら少し持っていかない?」

「いいのかい?助かるよ。これで母ちゃんにどやされずに済むってもんだ」

「お前さんはもう少し汐を見習うべきだと思うぜ?」

 

漁師たちの他愛ない会話を聞きながら、汐はにっこりとほほ笑んだ。

 

「ところでおじさん。絹がいないけど、祭の歌の練習?」

「ああ。もうすぐ祭りが近いからな。今年はワダツミの子に選ばれたから、えらく張り切ってるよ」

 

そういう彼の顔は、うれしさを隠しきれないのか綻んでいた。

 

この村には昔から海の女神ワダツミヒメを鎮める祭りがある。その際に行われる歌を披露する巫女をワダツミの子という。

今年は庄吉の娘絹が、その役に選ばれたのだ。

 

「しかし俺は今年は汐が選ばれると思ったんだがなあ。何せ、青い髪の娘は珍しいから」

「無理に決まってるよ!だって絹姉ちゃんのほうが美人だもん!汐姉ちゃんは男っぽいし!」

「そうだね。って、今男って言ったやつ誰だ!?出てこいコラ!!」

 

村の子供たちがはやし立て、それを真に受けた汐は真っ赤になって子供を追い回す。それを巧みに避ける子供たち。

騒がしくも楽しげな鬼ごっこを人々はほほえましく眺めている。

 

だが、それは突然発せられた大声によって終わりを迎えた。

 

「た、たた、大変だ!誰か来てくれ!」

声のした方に皆が振り返ると、そこには頭から血を流した男が、おぼつかない足取りでこちらへやってきているところだった。

すぐさま汐は男に駆け寄り、倒れこむ男を受け止める。それから村人たちが集まり、男の介抱を始めた。

 

「どうした!?何があった!?」

庄吉が声を上げると、男は震える声で「入り江に、海賊が・・・」と答えた。

 

「なんだって!?」

 

ただならぬ言葉に、村人たちの間にたちまち動揺が広がる。

騒ぎ出す村人を制止し、汐は口を開いた。

 

「入り江って、あの鯨岩の?」

「そ、そうだ。あそこの、し、仕掛けを回収しようと、したら、と、突然襲われて・・・」

それだけを言うと、男はそのまま気を失ってしまった。

 

「おい、この村から近い場所だぞ。まずいんじゃないか?」

「まずいなんてもんじゃない。奴らの狙いは、この村の略奪だよ。近況を見越して寄ってきたってことだね」

 

祭りが近いこの状況で、それは絶対にあってはならない。そのようなことになれば祭りの準備をしてきた者たちや、ワダツミの子に選ばれた絹の努力がすべて水泡に帰してしまう。

 

汐はしばらく考えた後、立ち上がって静かに口を開いた。

 

「・・・話をつけてくる」

 

この言葉に、一部の村人の顔色は一瞬で変わった。

 

「無茶だ!相手は海賊だぞ!?話し合いに応じるはずがない!」

「心配しなくても大丈夫。腕には多少自信はあるし、それに、あたし一人で行くわけじゃない。みんなにも手伝ってもらうから」

 

そういって汐は、後ろにいた屈強な漁師たちを一瞥する。彼女の視線を受けると、みな力強く笑った。

 

汐は女子供たちに家から出ないように言いつけると、自分は単身で海賊たちの元へ向かった。

力のありそうな大人たちは、海賊を拘束できるような物を持ち、汐の指示に従う。

 

「いい?もしもの時はあたしが連中をおとなしくさせるから、みんなはその隙をついて捕まえて。絶対に殺しちゃだめだよ」

 

それだけを告げると、汐は意を決して海賊たちの元へ足を進めた。

 

入り江には布と木で作られた簡素な小屋があった。おそらく、海賊たちが作った根城だろう。

汐は臆することなく根城へ向かう。

 

「ん?なんだぁおめえは?」

見張りの男が汐に気づき、目つきを鋭くさせながら近づいてきた。だが、相手が子供だと、嘲るような視線に変わる。

「ここはお前みたい餓鬼が来るようなところじゃねえ。怪我したくなきゃさっさと・・・」

「ぐだぐだ言うのは性に合わないから単刀直入に言うけど、あんたら今すぐここから出て行って」

 

言葉を遮り、汐は男へと言い放つ。その声と瞳に、迷いや恐れは一切なかった。

男の顔がみるみる歪み、こめかみがぴくぴくと脈打つ。

 

――ああ、なんて醜い、汚い目なんだろう・・・

 

「てめえ、今なんて言った?餓鬼が大人になめた口きいてんじゃねえぞ?」

「おとなしく出て行ってくれれば警察には言わない。でもそうじゃない場合は・・・わかるよね?」

男の顔が更にひどくゆがみ、皮膚はみるみる赤くなる。全身が震え、今にも沸騰しそうだ。

 

「て、てめぇ・・・。一度ならぬ二度まで・・・それ以上言ったらこっちも只じゃ・・・」

「いいからさっさとここから出て行けって言ってんだよ。言っている意味わかんないの愚図」

「こ、この餓鬼ィィィイイ!!!」

 

男が言い終わる前に、汐の低い声が小さく響く。その言葉についに切れた男が、奇声を上げながら殴りかかってきた。

 

だが、それよりも速く、汐の拳が男の鳩尾に食い込んでいた。

唾を吐き出しながら吹き飛ぶ男。すると、異変を察知したのか仲間の男たちが、ぞろぞろと汐の前に姿を表した。

 

皆武器を持ち下卑た表情を浮かべている。その目は、ギラギラと欲を孕んでいて、汐の胸を悪くさせた。

 

――駄目だ。汚すぎて吐き気がする

 

汐は小さく舌打ちをすると、まず短刀で切りかかってきた男の手を思い切り蹴りあげた。

怯んだ男にそのまま再び鳩尾に入れた後、今度は背後から掴み掛ってきた男の手をつかみ、捻りながら放り投げる。

その斜線上にいた仲間ごと、男は無様に倒れこんだ。

 

「こ、この餓鬼強ぇぞ!くそっ、あれを使え!」

 

主犯格と思われる男が仲間に指示を出す。すると仲間の一人が岩陰に隠してあった何かを持ち出してきた。

 

そこには、血走った目で唸り声を上げる4匹の野犬が入った檻があった。

 

汐は目を見開き、距離を取る。その間に仲間は檻を開けると、野犬たちは唸り声をあげて汐に狙いを定めた。

 

(あの様子じゃ何日も食べ物にありつけていないみたい・・・なんてことをするんだ・・・!)

 

汐はこみ上げる怒りを抑えるように、唇をかんで野犬たちを見据えた。野犬たちはもう我慢が出来ないといわんばかりに、汐に襲いかかってきた。

 

人間とは異なり、動物は動きが読みづらい。攻撃を当てようにも、重心も姿勢も人間とは全く違う。

そうこうしているうちに、野犬の一匹の爪が汐の服をかすめた。

 

「っ・・!」

服が裂けただけで怪我はしなかったものの、このままではらちが明かない。かといって加勢に来た村人たちが乱入すれば、混乱に生じて海賊たちを逃がしてしまうかもしれない。

 

――仕方ない。

 

汐は背後で待機している村人たちに合図を送り、自分は野犬たちから距離を取る。そして大きく息を吸うと――

 

そのまま、大声と共に野犬に向かって()()()()た。

 

凄まじい衝撃波が起こり、海賊たちは顔をしかめて耳をふさぐ。その攻撃をまともに受けた野犬たちは、成す術もなくその場から一目散に逃げ出した。

呆然とする海賊たちの前に、汐は静かに歩み出る。

 

「さて、あたしの頼み、おとなしく聞いてくれる気になったかな?」

汐が一歩近づく度に、海賊たちは肩をびくりと震わせる。

すると、

「こ、こんな奴に・・・」

「ん?」

声のした方に視線を向けると、主犯格らしき男が肩を戦慄かせてこちらを睨んでいた。

 

「こんな、こんな・・・!小僧なんかにいぃーーー!!!」

 

その刹那、男は隠し持っていた短刀を汐に向かって突き出してきた。が、

 

「お前、今なんて言った?」

 

汐の小さく、低い声が口から洩れる。そして、男の攻撃を紙一重でかわすと、その胸ぐらをつかんだ。

 

「あたしの名前は大海原汐!正真正銘、だァーーーッ!!!」

 

彼女の高らかな叫び声と、男の断末魔。そして、骨が砕けるような音が海と空に響いた。

 

切り札がなくなった海賊たちは、そのままおとなしく投降した。そのまま村人たちに拘束され、別の村人が通報した警察によって彼らの身柄は引き渡された。

ついでに、逃げた野犬は村一番の強面の奥方が連れて帰り、厳しいしつけの末売られたとかそうでないとか。

 

 

 

 

 

 

 

*   *   *   *   *

 

 

 

 

ひと仕事を終えた汐は、軽い疲労感を覚えながらも家路についていた。

みんなを守ることができてよかった。身体を鍛えておいて本当に良かったと、心から思う。

 

「汐ちゃん!!」

 

そんな汐を声が呼び止めた。足を止めると、一人の少女が転がるように走ってくる。

色白で真っ黒な髪を一つに結わえた、とてもかわいらしい少女だ。

 

「絹!」少女、絹の姿を見て、汐の表情が瞬時に和らぐ。

 

「あれ?練習は終わったから家に帰ったって聞いたんだけど・・・」

「さっきお父さんから汐ちゃんが海賊と戦ったって聞いて、いてもたってもいられなかったの!怪我なんかしてたらと思うと、私心配で・・・」

「そんなの全然平気だって。本当に絹は心配性だなぁ」

「もうっ、本当に心配したんだから。汐ちゃんはいつもいつも無茶ばかりするから、心臓がいくつあっても足りないわよ」

 

そういって膨れる絹を、汐はやさしく頭をなでる。

 

「ごめんね、心配させて。だけど、あたしはうれしいんだ。絹や村のみんなを守ることができて、こうして笑ってくれるのが、何よりもね」

「それなら私たちだって同じよ。私も、汐ちゃんが笑ってくれるのが何よりもうれしいもの」

「絹・・・」

 

涙でぬれた瞳を、汐はじっと見つめる。黒曜石のような美しい瞳が、汐の心を落ち着かせた。

 

「じゃあ、あたしが笑顔になれるように絹には頑張ってもらわないとね。今度の祭りの歌、楽しみにしてる」

「うん!私頑張るわ。村のみんなのためにも、大好きな汐ちゃんのためにもね!」

 

そう言って見合わせた二人の顔には、心からの笑顔が浮かんでいた。

 

「そろそろ帰るよ。絹も早く帰って休んだ方がいいよ。祭りが近いのに風邪なんかひいたら洒落にならないからさ」

「そうね、そうする。汐ちゃんも早く帰って玄海おじさんに顔を見せてあげないと。きっと待ってるわ」

 

2人は互いに手を振ると、それぞれの帰り路につく。日は、もう高く昇っていた。

 

汐の家は、海岸から離れた岩陰に隠れたところにある。窓には板が打ち付けられており、出入り口は玄関のみである。

汐はそのまま外にある水だめで獲物を洗うと、細心の注意を払いながら扉を開けた。

 

「ただいまー。おやっさん、今帰ったよ」

 

それからさっと家の中に入り、扉を閉める。それから棚にあるろうそくに灯をともすと、薄明かりに照らされて部屋の中が見える。

台所と食卓と棚、それから寝床があるだけの殺風景な部屋だ。その寝床の一つに寝そべっていた影が、ゆっくりと体を起こした。

 

白髪交じりの髪の毛に、厳つい顔。見た目だけで言ってしまえば、目があった子供か確実に泣き出すような風貌をしている。

 

彼の名は大海原玄海(わだのはら げんかい)。幼い汐を拾い育ててくれた恩師で、汐の名付け親でもある。

昔は名のある剣士だったらしいが、今は『奇病』に侵されその任を退いている。

 

「おー、帰ったか。ずいぶん遅かったなァ。俺ァ待ちくたびれたぜ」

「ごめんごめん、村の外に海賊がいたっていうからちょっとばかし『話し合って』たの。今朝ごはん作るから、ちょっと待ってて」

 

汐はそう言うと、今日とってきた獲物と蓄えで朝餉を作る。採りたての新鮮な魚介類の磯の香りが家じゅうに漂った。

2人で食事に舌鼓を打っていると、玄海はじっと見つめてから深くため息をついた。

 

「汐、おめぇよ。俺ァ喧嘩するために『呼吸法』を教えたわけじゃねえんだぞ。元気なのは悪いことじゃねェが、村の連中を心配させるような真似だけはするな」

 

「それは、わかってる」汐は箸を置くと、玄海を見つめた。

 

「でもあたし、みんなが悲しい目をするのが嫌なの。誰かが傷つくと、皆すごく悲しい目をする。それが苦しくて苦しくて溜まらない。だから、守りたい。あたしの呼吸法は、そのためにあるんだと思いたいんだよ」

 

汐はしっかりと彼を見据えて言った。玄海はしばらく彼女の顔を見つめていたが、やがて満足するように息を吐いた。

 

「ったく、子供ってのはいつの間にか成長してやがるなァ。この間まではこーんなちいこいガキだったのに、一丁前な口きくようになりやがってよ・・・」

「あたしだっていつまでも子供じゃないんだよ。バカにしないでよね」

 

言いたいことを言いながらも、二人には笑顔が浮かんでいる。二人の和気あいあいとした食事はしばらく続いた。

 

「さて、と」食事を終えた玄海は、片づけをする汐の背中を見ながら口を開いた。

 

「夜になったら呼吸法と型の復習だ。それまでの間、いつもの課題をこなすこと。いいな?飽きたからって海に潜って怠けるんじゃねえぞ。お前は昔から、溜まるとすぐに海に潜るからな」

「わかってるよ!まったく、昼間は動けないのに口だけはよく動くんだから・・・」

「全部聞こえてんぞ。それとも、課題を2倍に増やすかァ?」

「・・・すみませんでした」

 

この男は冗談に聞こえない冗談を言うから質が悪い。もっとも、課題を増やすというのは、冗談ではないかもしれない。いや、きっとそうではないだろう。

冷や汗をかきつつ、汐はうなずくしかなかった。

 

――大海原玄海が侵されている奇病。それは『日の光にあたる事ができなくなる』という物である。少しでも日の光にあたってしまうと、皮膚が焼けるように痛むのだ。

彼がいつ、この病にかかったのかは定かではない。だが、どんな名医に見せても治療法はおろか、原因すらわからなかったのだ。

そしてその病が進行したせいなのかは定かではないが、彼は生もの以外を口にできなくなっていた。

 

しかし彼は全く悲観することはなかった。昼間は家で過ごし、夜になれば外に出て村人たちと交流したり汐に稽古をつけたりもする。曇りや雨の日など、日の光が差さないときは昼間でも動けるため、外出したりもできる。

村人たちも少し変わっているが、悪い人間ではないと認識していた。

 

「ああ、そうだ。汐。お前に一つ話しておきたいことがある」

 

そう言って玄海は、棚にしまっていた封書を一枚取り出した。

 

「実は俺の病の進行を抑える薬を作っているやつが見つかった」

「え!?それ、本当なの!?」

 

突然のことに、汐は驚きのあまり目を見開いた。玄海は続ける。

 

「ああ。この村の先に港町があるのはわかってるな?そこで待ち合わせをしたんだが、急用で来られなくなったとぬかしやがった」」

「じゃああたしがその薬をもらってくればいいんだね?」

 

汐の言葉に、玄海は深くうなずく。

 

「じゃあ、今から行った方がいいんじゃ・・・」

「いや、それは駄目だ。今から行ったんじゃあ、帰りが夜になっちまう。夜には鬼が出るんだ。だから絶対に夜は村から出るんじゃねえ」

 

そう言う玄海の顔つきは、冗談など言えるようなものではない真剣そのものであった。

 

――夜には鬼が出る。だから夜に村の外には絶対に出るな。

汐が小さい頃からずっと聞かされていた言葉だった。

彼女はその言葉を半信半疑で聞いていた。

だから、気づくことができなかった。

――大丈夫だよ、おやっさん。鬼なんていないんだから・・・

 

そう思っていたことを後悔する日がこようとは・・・




オリジナルキャラクター補足
大海原汐(わだのはら うしお)
主人公。海に長い間潜れるほどの肺機能の持ち主。大声を上げて相手をひるませることができる。
水の呼吸の派生、海の呼吸の使い手だが、いまだにどういう呼吸なのか本人もよくわかっていない。

大海原玄海(わだのはら げんかい)
汐の育ての親。若い頃は名のある剣士だったらしい。女と酒が好きだが、最近はいい女との出会いがないのでへこんでいる。
見た目だけなら子供が瞬時に泣き出すレベル。

庄吉&絹
村に住む漁師の親子。娘は村一番の美少女で、彼女を目当てに他の村から人がやってくることもある。
大海原親子とは仲が良く、特に汐と絹は姉妹といっても過言ではないほど仲が良い。


これを生かせるように頑張りたいと思います


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



汐は朝餉の後、玄海が動ける時間帯になるまで基礎訓練をすることにした。

準備運動をした後、まずは砂浜の上を走りこむ。動きづらい砂の上で動くことで、足に負荷をかけ筋力と体力を鍛える訓練だ。

始めは1時間走れば動けなくなった汐も、今や5時間程走っても平気になった。

 

走り始めてから数分後、ふとどこからか歌が聞こえる。花のような少女の歌声だ。それは、もうじき行われる祭りで歌う歌であった。

 

(絹、頑張って練習しているんだなぁ・・・、よし、あたしも負けてられないな!)

絹の歌声を聴いた汐は、気分を改め更に足を動かす。

すると

 

「汐兄ちゃーーん!!」と、どこからか子供の声がする。

汐が足を止めて振り返ると、砂浜で遊んでいる二人の少年の姿が目に入った。

2人とも、汐の近所に住む子供だった。

「誰が兄ちゃんだ!姉ちゃんだろ!?いい加減にしないと、海に投げ落とすからね!」

「ちょっとした冗談だよ~!むきになるなよ~」

「まあいいけど。で、どうしたのあんたたち、こんなところで」

 

汐が訪ねると、二人は鯨岩の入り江に宝探しに行こうと言い出した。

あの入り江の底には、とてつもない宝物が眠っているらしく、それを探し当てたいのだそうだ。

しかし宝は海の底にあるらしく、まだ潜るのが拙い二人はそれが不可能なため汐に確かめてほしいとのことだった。

 

「宝物ねぇ。その話は知ってるけど、あたしには無理だよ」

「え?なんでさ!姉ちゃんすごく長く潜れるじゃないか!」

「あそこはとんでもなく深いんだ。あたしも一回潜ってみたけど、深すぎて息が続かなかった。だから無理。潜るなら深海魚にでもなるしかないね」

 

汐の言葉に、二人は残念そうに舌打ちをした。

 

「つまんねぇの。じゃあ、あれやってよ!いつものあれ?」

「あれ?あれって何?」

「ほら、姉ちゃんが時々やってるみんなの声真似!前のお祭りで前座にやったあれ!」

 

声真似、と言われて汐はああとうなずいた。それは、彼女が時々子供たちや大人相手に披露する声帯模写だった。

汐をはじめとし、この村の者はみんな耳がいい。それは自然と共に生きている彼らにとっては必須だからだ。しかし汐は耳がいいだけではなく、一度聞いた声をほぼ完ぺきに模写できるのだ。

 

「仕方ないなぁ。一回だけだよ?」汐はしぶしぶうなずくと、喉に手を当てて小さく発生しながら調整する。

そして

 

「『お~ぃ、汐。今日もいい天気だなぁ~』」汐の口から出てきた声は、庄吉の声だった。

とたん、子供たちの目がぱっと輝く。それを見ると、汐の心が弾んだ。

「『もう、汐ちゃんはいつも無茶ばかりするんだから』」今度は娘の絹の声がする。さらに盛り上がる子供たちに、汐は特大の物をぶつけた。

「『やっぱり男の心を潤すのは、きれいな姉ちゃんだぜ』」なんと汐の口から出てきたのは、彼女の養父玄海の声だった。

 

これには子供たちも大盛り上がり。汐の着物をつかんでもっとやってとせがむ始末だ。

だが、今汐は限界に言われた基礎訓練の途中だ。これ以上油を売るわけにはいかない。

 

「ごめん、今日はここまで。今おやっさんに言われた特訓の最中なんだ」

汐がそういうと、二人は再び残念そうな顔をする。そんな彼らの頭を、汐はやさしくなでた。

 

「そんな顔しないの。みんなを守るための特訓なんだから。あたしはもっと強くなって、みんなを守るから。だから、ね」

「うん、わかった。特訓頑張ってね、姉ちゃん」

 

子供たちはそう言って走り去る汐に向かって手を振る。そんな彼らに、汐は走りながら手を振りかえすのであった。

 

走り込みを終え、筋力を上げる運動をしていると、気が付けば太陽はもう空の真上に上がっていた。皆、昼餉の準備をするため、各々の家に戻る。

汐も特訓を切り上げて、昼餉を用意するため家に戻る。

今日の献立は、調味料に付けた魚の漬け。汐は海鮮丼に、玄海は刺身にした。

 

2人が料理に舌鼓を打っていると、汐は何を思ったのか玄海に問いかけた。

 

「ねえおやっさん。朝言ってたおやっさんの薬を作ったのって、どんな人?」

いきなり問いかけられたにもかかわらず、玄海は箸を止めずに口を開いた。

「どんなって・・・そりゃあ別嬪な姉ちゃんに決まってんだろ。俺はどんなに優秀な医者だろうが、別嬪な姉ちゃん以外からは施しは受けねえ。これが俺の絶対的な鉄則だ」

「・・・聞いたあたしがバカだったよ」そう言って汐は、止めていた左手を動かした。

 

「お前、いつもそうやって俺の話を聞き流すけどよ。姉ちゃんはいいぞ!綺麗だしいい匂いだし、あの形成は見事なもんだ。いやぁ、神様はいいものをこの世に生み出してくれた!感無量だ」

「・・・そう言って何人もの女に逃げられた挙句、結局今現在まで独り身なんでしょ」汐のあきれ果てたため息が小さく響いた。

 

この後も汐は玄海にいくつか薬について聞いてみたのだが、相も変わらずな答えが返ってくるだけだったので、そのうち彼女は問いかけるのをやめた。

 

やがて日が沈み、あたりが暗くなりだしてきたころ。ようやく玄海が家の外に出てきた。

額に赤い鉢巻を締め、気合を入れた彼の怒号が響く。

 

「そうじゃねえ!もっと腹に力を込めろ!違う!何度言ったらわかるんだ!!へその下に岩を受けるような感覚でやりやがれ!」

玄海の指導は過酷を通り越してもはや地獄だった。少しでも教えと違うと、鼓膜が破れそうな程の音量で罵声が飛ぶ。

始めのころは恐ろしさのあまり泣きじゃくったり失禁したりもしたが、今はその声すらも彼女の糧になっていく。

 

今汐が行っているのは『呼吸法』と『型』の指導だ。病弱だった汐を健康にした呼吸法は、本来は戦うための呼吸法だそうだ。

呼吸法にはいくつかの型があり、その方は流派によって違う。汐が習っているのは『海の呼吸法』と呼ばれる物で、なんと玄海が自ら生み出したものだった。

 

しかし彼曰く、この呼吸法は『未完成』であり、そのため型が5つまでしかない。それでも、呼吸法を扱うにはその5つの型を習得するほかなかった。

 

「よし!今度は俺との組手だ。今日は10発当てられたら夕飯にする」

「10!?いつもは5なのに、なんで今日は多いの!?」

「無駄口たたいている暇があったらさっさと動きやがれ。できねえと、いつまでも飯抜きだからな!!」

 

その後は玄海相手に時間無制限の組手地獄が待っていた。彼の言うとおり、決定打を10発当てないと終わらない。

しかも、昼間動けない鬱憤が溜まっているせいか、玄海の一撃は毎度本当に容赦がない。その中で10発も当てるというのは、常人にはほぼ不可能だ。

 

だが、こんな理不尽な要求も、長い間時間を共有してきた汐にとっては決して不可能ではない。

その日は3時間はかかったものの、彼が満足する決定打を10発見事に打ち込んで見せた。それが成功したとき、玄海は心から嬉しそうに笑った。

 

無事に稽古が成功した汐は、ようやく夕餉にありつけた。だが、それをつまんでいた時、玄海はふと思いつめたように口を開いた。

 

「なあ、汐。人間ってのはいつまで生きられるかわからねえ。ついさっきまで元気だったやつも、次の日にはポックリ逝っちまうことだってある」

「どうしたの?急にそんなこと言い出すなんて」

まるで遺言のようなその言葉に、汐は左手に持っていた箸を止めた。

「俺だってもう年だ。いつまでもお前の面倒を見ていられるわけじゃねえ。もし、もしもだ。俺に何かあったときは『鱗滝左近次』という男を訪ねろ」

「うろこ、だき・・・?」

聞いたことのない名前に、汐は怪訝そうに首をかしげた。

 

「俺の昔の、知り合いだ。いつも天狗の面をつけた偏屈野郎だが、決して悪い奴じゃねえ。必ず、お前を助けてくれるだろう。だから・・・」

「やめてよ!食事中にそんな話するの。それに、そんな事言われたって困る。だってやっと薬が手に入るってときに、そんな死ぬみたいなこと言われたら・・・」

 

そう叫んで汐は玄海から目をそらす。その目が冗談を言っているものではないとわかってしまうからだ。

しかし玄海は汐の言葉に首を横に振った。

 

「汐。生きるってことは覚悟と選択の連続だ。もしも、万が一って言葉は決して『ありえない』ってことじゃねえ。それだけは忘れるな」

 

その言葉を最後に、二人の食卓は気まずいもののまま終わってしまった。

玄海の言葉が胸に引っかかったまま、汐は翌日を迎えてしまうのであった。

 

その日の曇りの朝、汐は玄海が用意した着物に着替え、出かける準備をしていた。外出用の着物の上に玄海が用意してくれた浮世絵の波のような文様が描かれた羽織をまとう。

そして、薬代の他に紫色の小さな巾着を渡された。

 

「これは鬼除けの藤の花のにおい袋だ。鬼ってのは藤の花が苦手でな。此奴を持っていれば、普通の鬼は寄ってこねえ。お前は鬼なんていないなんて思っているかもしれねえが、奴らはそういうやつを常に付け狙ってる。つべこべ言わずに持っていろ」

と、半ば強引に押し付けられた。

 

「んじゃ、行って来い。わかっていると思うが、夜までには必ず帰ってこい」

 

こうして玄海に見送られ、汐は港町に向かうことになった。

 

港町は汐の住む村からかなり離れたところにあり、徒歩で行けばかなりの時間を要してしまう。

しかし玄海はその距離を歩くことを命じた。これは一日の大半を水中で過ごす汐が、陸に慣れるための訓練でもあった。

 

水の中と違い、陸では体が重く感じる。それは、水中にある浮力が陸の上ではないからだ。それでも、人間は陸の生き物である故、この環境にも慣れなくてはならない。それが、玄海の狙いだった。

 

町に着くと、汐はやっとついたといわんばかりに背筋を伸ばす。今日ほど水の中にいなかった時間が長いことはなかった。

 

どんよりとした曇り空だというのに、町はたくさんの人々であふれており、あちこちから物を売る元気な声が響く。そして何かを焼く香ばしい香りや、磯の香りも交じって汐の鼻先をくすぐった。

 

(今まであまり来たことはなかったけど、港町ってこんなに人がいっぱいいるんだ・・・!)

あまり村の外に出たことがなかった汐は、全く違う世界に少し戸惑いながらも胸を弾ませた。

 

だが、今日は遊びに来たのではない。玄海の病を治す薬を手に入れなければならないのだ。

 

しかし汐は相手がどのような人物なのか全く知らない。玄海に何度も聞いたが、『別嬪の姉ちゃん』としか返ってこなかったのだ。

 

(一応待ち合わせ場所を記した紙はもらってきたけれど・・・これ、どう見ても路地裏・・・だよね)

 

汐の持っている紙には、かなり大雑把な地図が描かれていたが、その目印へ延びる道がどう見ても大通りのものではなかった。

奇病を治す薬、などというものが正規の医者の処方するものではないことは汐も薄々感じていたが、やはりもう少し詳細を聞いておくべきだったのかと少し後悔した。

 

やがて汐は地図に記された場所へ着く。そこには人影はなく、町の喧騒がうそのように小さく聞こえた。

 

(本当にここ、だよね。あたし騙されてないよね?もしそうだったとしたら、絶対に許さないからね)

そんなことを考え、両手拳を強く握る。

 

すると突如、足元で猫の鳴く声が聞こえた。

 

汐が視線を移すと、そこには一匹の三毛猫が汐を見上げていた。

(猫・・・?)

よく見ると背中には袋のようなものを背負っており、首の下には不思議な文様が描かれた紙が貼り付けてあった。

 

「もしかしてあんたが薬を持ってきてくれたの?」汐が話しかけると、猫はそうだというように尻尾を立てた。

にわかには信じがたかったが、猫は汐を見あげたまま動こうとしなかった為、信じることにした。

袋をそっと開けると、そこにはてのひらに収まるくらいの小瓶が一つ入っていた。中には、濃い紫色の液体が入っている。

 

(これが・・・おやっさんの病気を治す薬・・・なんだか、怖いな)

 

想像していたものよりも禍々しい色をした液体に、汐は少し寒気を感じた。だが、これを渡せば玄海はきっと治る。日がさす道を歩ける。

 

「ありがとう。お金はここに入れればいいんだね」汐は預かってきた薬代を猫の袋の中に入れた。

すると猫はそのままくるりと背を向け、あっという間に姿を消した。

 

その姿を汐はしばらく呆然と見守っていたが、目的は済んだので路地裏から外に出た。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



夜になるまではまだ少し時間があるが、空模様が少し怪しくなってきたため汐は村へ帰ることにした。

空はどんどん暗さを増し、今にも雨が落ちてきそうだ。村までは距離があるが、走っていけば降り出す前には何とか帰れるかもしれない。

 

汐は薬瓶が割れないように細心の注意を払いながら、村への帰り路を急ぐ。すると、突如近くの草むらが不自然に揺れた。

 

思わず足を止める汐。すると、草むらがひときわ大きく揺れ何かが飛び出してきた。そして、その飛び出してきたものを見て、汐は息をのんだ。

 

てっきり犬猫の類かと思っていたが、そこにいたものはそれとは全く違っていた。血走った目、体中に浮き出た血管。そして、頭には二本の角。

 

――鬼だ

汐はすぐに分かった。目が人間の物とは全く違う。今まで汚い目は何度か見てきたが、そんな生易しいものじゃない。

 

鬼は汐を見つけると目を見開きにやりと笑った。口からは鋭い牙と真っ赤な舌が見え、おびただしい量のよだれがあふれている。

 

――逃げなくては!

 

でも、自分には玄海がくれた鬼除けの守りがある。それならば鬼は襲ってこない筈だ。

しかしそんな期待は、鬼が躊躇なく汐に向かってきたことで打ち砕かれた。

 

鬼除けの匂い袋はその名の通り匂いで鬼を寄せ付けない。だが、それは天候がいいときのみに限られる。

雨が降ってしまえばその匂いは流れてしまい、その効果はなくなるのだ。

 

鬼が爪を汐に向かって振り下ろす。だが、汐は持ち前の身体能力でそれを回避した。

鬼はそれが気に食わなかったのか、奇声を上げながら爪を振り回す。

 

(何なのよ・・・!こっちは急いで帰りたいんだから、あんたみたいなのにかまっている場合じゃないのよ!!)

 

そのまま汐はくるりと背を向け、村へ向かって全速力で走る。鬼も追いかけてくるが、鍛えられた汐の足には追いつくことができなかった。

 

何とか鬼を撒きつつ、汐は走る。村へ戻ればきっと大丈夫。村に戻ればみんなが待っている。村に、戻れば・・・・

 

 

でも、村に戻った汐を待っていたものは、彼女の心を打ち砕く程の悪夢だった。

 

家はあちこちが壊され、赤黒い何かがべっとりとこびりついている。そしてあちこちから上がる火の手、煙、、むせ返るほどの血の匂い。

 

そして汐の足元には、小さな子供たちの体がバラバラに転がっていた。

 

「――!!!!」

 

汐は悲鳴を上げた、が、声が出なかった。周りを見回すと、あちこちに村人だった物が転がっている。

 

そして、海辺の絹の家があった場所には・・・

 

「庄吉おじさん!!!」

 

全身を真っ赤に染めた、庄吉の体があおむけに横たわっていた。

 

「・・ぅ・・・」

 

「おじさん!」

 

まだ生きている!汐はあわてて駆け寄り何とか傷の手当てをしようと試みた。

だが、流れ出ている血の量からもう手遅れだということがわかる。それでも汐はわずかな望みをかけて必死に止血をした。

 

「おじさんしっかりして!どうしたの!?何があったの!?」

庄吉が何かを告げようと口を開くと、真っ赤な鮮血が勢いよく飛び出し汐の顔に飛沫がかかった。

 

「ば・・・ば・・・け・・・もの・・・・が、むらを・・・・おそ・・・って・・・・きぬ・・・が・・・あい・・・つが・・・」

「化物!?化物って・・・絹は・・・絹はどこに・・・!?」

しかし庄吉はそれ以上は何も告げることができなかった。目が、光を失い濁っていく。

 

ああ、これは、この目は。命の喪失、――死だ。

 

「おじさん・・・!」

汐の視界がぐにゃりと歪む。いつも笑顔で村人と接してくれた彼は、もう二度と笑うことはない。その現実に、汐の心が追いつかないのだ。

 

「そうだ絹。絹を捜さなきゃ。あ、でも、まずはおやっさんを・・・でも・・・!」

 

どうする。玄海ならこの状況を詳しく知っているかもしれない。だが、絹の無事も確かめたい。汐は迷った。どちらを先に捜すべきか・・・

 

と、迷っていた汐の耳に、どこからか金切り声が聞こえた。

 

「この声は・・・絹!!」

 

間違いない。絹の悲鳴だ。汐はすぐさま悲鳴の聞こえた方へと走り出す。

 

「誰か・・・誰か助けて!!」

 

そこには、先ほど見た異形とはまた別の奴らが、絹を抱えてどこかへ連れ去ろうとしていた。

 

「絹!!」

 

汐が叫ぶと、絹は目を見開き涙を流しながら叫んだ。

 

「汐ちゃん!助けて!助けてぇ!!」

「絹!!」

 

だが、絹を助けようと近づくと、死角から何かが襲い掛かってきた。汐が間一髪でかわすと、そこにはまた別の鬼が汐に向かって狙いを定めている。

 

「邪魔だ!退け!!」

 

先ほどまでは恐怖の対象だった鬼だったが、今は絹を助けなければという思いが怒りへと変わっていた。汐は襲いかかった鬼の一撃をかわし、渾身の蹴りをその鳩尾に叩き込んだ。

 

人間相手には加減していたが、今の汐には加減という言葉がない。受ければ間違いなく肋骨は折れ内臓に損傷が残るだろう。

しかし、それは相手が人間だったらの話だ。目の前にいるのは、鬼だ。

鬼は汐の蹴りに殆どひるまず、逆に汐の足をつかんで砂浜にたたきつけた。

 

衝撃と鈍い痛み。口の中を切ったのか、鉄の味が広がる。

鬼はこれを好機とみなし、その鋭い爪を汐に向かって振り上げた。

 

「なんで・・・なんで効かないの・・・くそっ!!」

 

振り下ろされる爪が、いやにゆっくりに見える。このまま自分は死ぬのか?そんなの、そんなのは・・・

 

「汐!!!」

 

思わず目をつぶった汐の耳に、聞きなれた怒声が響いた。そして次の瞬間。

鬼の頭が宙に浮き、その傍らには刀を振りぬいたままの玄海が立っていた。

 

「無事か!?汐!」

「お・・・おやっさん!!」汐は鬼から飛びのき、玄海にしがみつく。安心のあまり、目からは涙がこぼれた。

 

「あ、そうだ!絹が!!絹!」

 

汐が辺りを見回すと、そこには今しがた切った鬼が崩れていくのがあるだけで、絹の姿はどこにもなかった。

 

「おやっさん!絹が・・・絹があいつらに連れて行かれた!絹を助けなきゃ・・・」

「落ち着け。鬼はお前じゃ殺せない。あいつらは不死身だ。殺すには日光かこの刀で頸を斬るよりほかはない」

「じゃあ早く行こう!今ならまだ間に合うよ!ねえ、おやっさん!」

 

だが、汐が言い終わる前に、再び鬼たちが集まりだした。二人をぐるりと取り囲み、奇妙な声を上げている。

 

「汐。お前は俺から離れるんじゃねえ。決して、戦おうとは考えるな。奴らは、お前が今まで相手をしてきた連中とはわけが違うんだ」

 

それだけを言うと、玄海は襲い来る鬼たちを次々に刀で切裂いていった。

 

その荒々しい風貌とは裏腹の、無駄のない動きに汐は目を奪われそうになる。そして今まで見たことがないほど、強く険しい目。

 

「汐!!」

 

突如玄海の声が響いた。汐の後方から鬼がこちらへ向かってくる。

 

「!!」

 

汐は鬼の攻撃を間髪で避けるが、その時汐の袂から薬の瓶が飛び出し、鬼にぶつかって砕けた。そして、その中身が鬼にかかった瞬間。

 

「ギャアアアアアアアアアアアアア!!!」

 

鬼が凄まじい悲鳴を上げながらのた打ち回る。そしてその体は、どろどろに溶けていきやがて動かなくなった。

 

「何・・・これ・・・」

 

汐は今目の前で起こったことが信じられなかった。玄海を治すはずの薬が、鬼を溶かし絶命させた。

鬼がこのような状態になるなら・・・人間が服用したら?

 

「汐・・・」

 

呆然とする汐の背中に、玄海は声をかけた。汐はしばらく黙っていたが、やがて口を開いた。

 

「嘘、だったの?おやっさんを治す薬ができたっていう話」

「汐、違う。聞いてくれ」

「何が違うの?だって、こんな奴らが死ぬようなものが人間に害がないわけないでしょ?これじゃ薬じゃなくて、毒じゃない」

「汐、落ち着け。俺は」

「あたしに嘘ついてたの?嘘ついて、あたしに、毒薬買わせようとしたの!?」

 

手を差し伸べる玄海の手を、汐は振り向きざまに振り払った。

 

「ふざけるな!鬼のことだって今のことだって、なんであたしに何も言わなかったんだ!」

「それは、お前を守る・・・」

「守る?綺麗事を言うな!!勝手に託して自分は毒でさっさと退場!?本当はあたしが嫌になったんでしょ?物覚えも悪いし、血も繋がってないし、もう飽きたんでしょ!?家族ごっこに」

「違う!俺は、お前のことを・・・!」

「うるさい!もう二度と、あたしの前で父親面するな!!!」

 

そこまで叫んだろき、汐はあわてて口をふさいだ。が、汐の声は鋭い刃となり、玄海の心を裂いていく。

玄海の瞳がこの上なく激しく揺れる。と、その時だった。

 

「!?ぐっ・・・!!」

 

突然玄海が胸を抑え、苦しそうに呻きながら倒れこむ。その様子を怪訝に思った汐が近づくと。

 

「く・・るな!!」

 

くぐもった声と共に、汐の体は後方へ吹き飛ばされた。

 

砂煙をあげ転がる汐。何とか起き上がると、右腕に鋭い痛みが走る。視線を向けると、二の腕あたりが大きく切裂かれ血があふれだしていた。

 

だが、汐の目はそれよりも目の前の『モノ』にくぎ付けになった。そこにあった、いたのは・・・

 

全身に血管を浮き上がらせ、鋭い爪を持ち、目を真っ赤に血走らせた玄海によく似たものが、そこにいた。

 

「おや・・・っさん・・・?」

 

何が起こっているのかわからず、汐が小さく名を呼ぶと、それはすぐさま汐の元へと躍りかかった。

 

反射的に体を回転させてそれをかわすが、それは何度も汐のいるところを狙ってくる。

 

「おやっさん!?どうしたの!?あたしだよ!汐だよ!わからないの!?」

 

だが、それは汐の声が聞こえないのか攻撃の手を緩めない。出血しているせいか、めまいがする。おそらくもうあまり体力も残っていない。

 

このまま殺されてしまうのか。そう感じ始めた瞬間。

 

2人の間に一陣の風が吹いた。

 

その瞬間、それの両腕が吹き飛ぶ。そして汐が次に目にしたものは、右半分が無地・左半分が亀甲柄の羽織を着た青年の背中だった。

 

(誰・・・?)いきなり現れた闖入者に、汐は驚きを隠せない。彼の手には一本の刀が握られている。

 

「下がっていろ」青年はそれだけを言うと、刀を目の前の相手に向かって構えた。

 

「待って!あれは違う!あれはあたしの育ての親なの!手荒なことしないで」

 

青年は振り返って汐を見る。整った顔立ちの青年は少し顔をしかめると、淡々と言葉を紡いだ。

 

「あれはもはや、お前の知っている親ではない。あれはもう人ではなく、鬼だ。俺の仕事は鬼を斬ることだ。だから当然、お前の親の首をはねる」

 

「待ってよ!おやっさんはまだ誰も殺してない!たった今、たった今そうなっただけ!だから・・・」

 

青年は小さくため息をつくと、汐の言葉を待たずに切りかかった。だが、切ったはずの腕が再生し、その一撃を防ぎ反撃する。

青年はその動きを読もうとあちこちに動く。そんな様子を、汐は涙で歪んだ視界の中眺めていた。

 

「やめて・・・やめてよ・・・おやっさんを殺さないで・・・。おやっさんも、やめてよ。お願いだから・・・」

 

汐の小さな悲鳴が、風に乗って消えていく。どうしてこうなってしまったんだろう。何が間違っていたんだろう。

 

(あたしがひどいことを言ったから?あたしが、おやっさんを信じることができなかったから?)

 

――あたしが、弱かったから・・・?

 

その時、ひときわ大きい音が響いて顔を上げると、先ほどの青年が吹き飛ばされてたたきつけられているのが見えた。

 

「やめて!やめておやっさん!もうこれ以上、誰かを傷つけないで!おやっさんいってたじゃない!この世で最もしちゃいけないことは、徒に人を傷つけることだって・・・それを、あんたが自らそむいてどうするんだ!!」

 

青年は小さく呻いたもののすぐに体制を立て直す。だが、それよりも相手が速く動き再び彼は砂煙の中に消えた。

その衝撃のせいか、汐の足元に何かが転がる。それは、先ほど玄海が使っていた刀だった。

 

濃い青い色の刀身に、『悪鬼滅殺』と書かれた刀。それを見た瞬間、汐の体が震えた。

 

――それを取れば、もうお前は戻れない。

 

誰かの声が頭に響く。自分のようで自分ではない、淡々とした声だ。

 

――だが、このままではお前も、あの男も、無様に死ぬだけだ。あいつを『救い』たければ、その刀を取るといい。

 

救う。その言葉が何を意味するのか、汐はその瞬間理解した。そしてそれに呼応するように体がすっと冷えていく。

頭の中の余計なものがすべて消えて行った。涙も止まった。そして、汐は目の前の光景を見据えた。

 

(あたしが、やらなきゃいけない。もうこれ以上、あの人を苦しめるわけにはいかない!)

 

汐は刀を握りしめてゆっくりと近づいた。すると、砂煙の中から青年が飛び出し、汐に気が付いて叫んだ。

 

「何をしている、下がれ!此奴は鬼になったとは言え『元・柱』だ!お前がかなう相手ではない!!」

 

だが、汐はその問いには答えず、淡々と言葉を紡いだ。

 

「ここはあたしがやる。どいて」

「何を言っている?お前がかなう相手では」

「いいから退け!!」

 

青年の言葉を遮り、汐の怒声が響く。その目を見た青年は、思わず息をのみ目を見開いた。

そして砂煙の中から現れた相手に、汐は刀を構える。

 

「行くよ、おやっさん。今、楽にしてあげる・・・!」

 

そして汐は勢いよく砂を蹴り、鬼に切りかかった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



汐の姿を見て青年、冨岡義勇は目を見開いた。鋭く前を見据えるその瞳には、恐れも迷いもない覚悟が見て取れた。

つい先ほどまで泣き叫んでいた者とはまるで別人の風貌に、義勇は思わず動きを止める。

 

鬼はそんな汐に狙いを定め、その強靭な腕を振り上げた。

 

かなり昔に退いたとはいえ、大海原玄海は元・柱。しかも鬼になったことで身体能力は大幅に上がり、そして弱点である頸も巧みに守っている。

先ほどの義勇の攻撃でかなり消耗しているとはいえ、そんな相手に現・柱である義勇が苦戦した相手に、ただの村人である汐がかなうはずがない。

それは火を見るよりも明らかだった。

 

だが、それは汐が普通の人間だったらの話だ。汐はその攻撃を紙一重でかわし、切りかかる。

 

驚いたのは、その動きがまるで初めて刀を持った者のそれではないことだ。受け止められるものは刀で受け流し、それが不可能の場合は体をひねってかわし、その刃は確実に弱点である頸を狙っていた。

 

あたりに刀と爪がぶつかる音と、砂を蹴る音。そして、息遣いが響く。

だが、所詮は素人と鬼。どちらが優勢に立つのは目に見えていた。

 

ほぼ無傷な鬼と、負傷している汐。彼女の顔は青ざめ、息も乱れている。これ以上の戦闘続行は危険だ。

義勇はそう判断し、刀を構えようとしたが。

 

「手を出すな!これはあたしと、おやっさんの問題だ!」

 

汐の鋭い声に、義勇はその手を止める。なぜかはわからないが、汐の声には力があった。

ただ大きいだけではない。その声には、とてつもない何かが宿っているようだった。

 

やがて汐は鬼から距離を取り、刀を構える。そして、大きく息を吸った。

 

口から洩れるのは、地鳴りのような大きな音。その音を聞いて、義勇は目を見開いた。

 

「まさか、これは・・・!」

 

全集中・海の呼吸――

 

鬼はそれを阻止しようと、咆哮を上げて汐に向かう。だが、それよりも早く、汐は足を曲げ前を見据えた。

 

――壱ノ型 潮飛沫(しおしぶき)!!

 

その瞬間、汐は砂を強く蹴り瞬時に鬼の間合いに入る。それから目にもとまらぬ速さで、鬼の頸を切り裂いた。

 

小さくうめき声をあげながら、崩れ落ちる鬼。その背後に汐が転がるように着地する。

 

(やった・・・のか?)義勇がその光景に目を離せないでいると

 

「おやっさん!!!」

 

汐があわてて振り向き、首だけになった彼の頭を取り上げた。

 

「うし・・・お・・・」

 

彼の口から言葉が漏れる。汐の両目から、とめどなく涙があふれ出した。

 

「おやっさん!ごめん、ごめんなさい!あたし、あたしおやっさんにひどいことを・・・」

「いいんだ。俺がうそをついていたことは事実だ・・・だが、まさかお前がここまでやるとは・・・な。強くなった・・・本当に」

 

身体は既に灰となり、ほとんどなくなっている。そして彼の頸も、灰になりつつある。

 

「泣くな、汐。胸を張れ。前を見ろ。そして、最後まで足掻け。生きるってのはそういうもんだ。そして、お前にもしも、仲間が出来たら大切にしろ。そうすりゃ、必ず答えてくれる」

 

「おや・・・っさ・・・ん・・・」

 

「ありがと、よ。最期にお前の顔が見られて、俺ァ幸せもんだ。この世で最も、別嬪の顔が見られて・・・よ・・・」

 

その言葉を最後に、彼、玄海の頸は灰となり風に乗って昇って行った。残されたのは、彼が身に着けていた赤い鉢巻。

 

「ううぅ・・・・!ぐうっ・・・うぐっ・・・!!」

 

汐はそれを握りしめ声を殺して泣いた。悔しさと、悲しさの入り混じった小さな慟哭も、降りしきる雨と風に流されて消えて行った。

 

 

 

 

 

*   *   *   *   *

 

 

 

それから遅れて到着した鬼殺隊員により、村の検証と村人の葬儀が行われた。

村に入り込んでいた鬼たちは全員討伐されたが、確認された生存者は汐だけであった。

絹はそのあと、村の外れで彼女のものと思われる着物が、おびただしい血液のついた状態で発見されたため、死亡と判断された。

 

そして、生き残った汐は、義勇の手当てを受け休んでいた。

眠っている汐を眺めながら、義勇は先ほど鬼殺隊員が見つけた書物を読んでいた。

それは、玄海がもしもの時のためにと残しておいた書状だった。

 

驚くことに、玄海はこのような事態を予測していたかのように、自分に何かあったとき。汐が生き残ったときにはどうすればいいかということが事細かく記されてあったのだ。

 

(しかし、また先生の元へ人を送ることになるとはな)

これが運命なのか因縁なのか。義勇は自嘲気味に小さくため息をついた。

 

それはまだ半年近く前の事。とある山で家族が鬼に惨殺される事件が起きた。そして、その家族の一人が鬼と化し、それを守ろうとする少年と出会い、義勇は彼をかつての師であった鱗滝の元へと推薦した。

 

しばらくすると、汐は意識を取り戻し、義勇から眠っていた間のことを聞かされた。

始めは少し動揺したが、そのあとは俯き何かを考えているようだった。

 

(村を滅ぼされ、育ての親は鬼化し、そして自らの手でその引導を渡した)

 

普通の人間なら発狂してもおかしくない。そんな極限状態の汐を、このままいかせてよいのだろうか。そんな迷いが義勇の中に生まれ始めたころ。

 

汐が突如口を開いた。

 

「ねえ、教えて。鬼ってなんなの?おやっさんは、何が原因でああなったの?」

 

その言葉は驚くほど静かで落ち着いたものであり、義勇は驚きはしたものの自分の知っていることを話した。

 

鬼というものは、ある鬼の血が体に入り込んだことで生まれる。おそらく玄海もその時に血が混入したのだろうと、義勇は語った。

だが、玄海が日の下に出ることができなくなったのは最近ではない。それなのに鬼としての習性が今の今まで出なかったことは、その法則に矛盾する。

 

しかし、汐にとってはそのようなことはもはやどうでもよかった。気になったのは、鬼を増やす何かがいる、という話だ。

 

「そいつが、おやっさんを鬼にさせ、村のみんなを殺した原因なんだね」そういう汐の目は、恐ろしいほど鋭く、深い色を宿していた。

怒り、憎しみ。否、そのようなものがすべて生易しく感じるほどの、殺意。絶対に許せないという確かな殺意。

 

 

「そいつを倒すには、どうすればいい?あたしは、これからどうすればいいの?」

 

こんな目をする人間を、義勇は数えるほどしか見たことがなかった。だが、同時にゆるぎない決意も、汐から感じる。

 

この決意が、身体を動かし、生きる糧になる。

 

義勇は小さく息をつくと、汐にこれからのことを簡潔に伝えた。

 

「まずは狭霧山という山の麓に行け。先生―、鱗滝左近次という老人はそこに住んでいる。お前の師から言伝は行っているだろうが、もしもそうでない場合は冨岡義勇に言われてきたことを伝えろ」

 

義勇はそれから汐に狭霧山の場所を伝えると、他の隊士と共にすぐに引き上げた。

 

 

あのようなことがあったにもかかわらず、海はいつものように優しい潮騒の音を奏でている。

 

村はなくなり、多くの人命が失われたこの場所を、鎮めるように奏でている。

 

そんな村のあった場所を、静かに眺める人影があった。

 

海の底を髣髴させるような深い青色の髪を風になびかせ、それに寄り添うように赤い鉢巻が靡いている。

 

名は大海原汐(わだのはら うしお)。近くの漁村に、養父と共に暮らしていた少女だ。

だが今は、故郷も養父も亡くした、身寄りのない少女だ。

 

しかし彼女の目には確かな決意が宿っていた。おやっさんや村人の敵を討つため。無力だった自分に別れを告げるため。彼女はこの地を離れる。

 

「おやっさん、絹、庄吉おじさん、みんな・・・」

 

辛い思いをさせてごめんね。必ず、みんなの無念は晴らすから・・・

 

「行ってきます」

 

小さく紡がれた言葉は、波の音にかき消されて消えていく。しかし、汐の立っていた場所に残った足跡が、その旅立ちを静かに物語っていた。

 

 

 

 

 

序章:完




ようやく序章が終わりましたが、まだ誤字脱字があるかもしれません
その時は遠慮なく指摘してくださいね
さて、ようやく主人公である汐が鬼殺の道を歩き出しましたが、果たして彼女は、鬼殺隊になれるのでしょうか


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

幕間
青髪


一方その頃・・・


そこは、一部の者しか知らないどこかの場所のある屋敷。淡く内部を照らすのは、雲に隠れたおぼろ月。

「報告は以上で御座います」

月明かりと影を両肩にまといながら、青年冨岡義勇は落ち着いた口調でそう告げた。

 

「・・・そうか」

漆黒の髪を風に揺らし、鬼殺隊当主産屋敷耀哉は短く答えた。

義勇が報告した内容とは、つい先日の事。とある漁村で起こった鬼による襲撃事件。そしてその村に住む元・海柱、大海原玄海の鬼化、その弟子による討伐の事である。

 

「悲しいことだ。元とはいえ、柱から鬼が出てしまった・・・」

耀哉は悲しげな表情を浮かべた。表情が見えずとも、義勇もその感情を感じ取り目を伏せる。その脳裏に浮かんだのは、汐ともう一人のある少年だった。

2人とも鬼に大切なものを奪われている。そして、自分も・・・

 

「ところで義勇。彼を討ち倒した弟子『大海原汐』は、どんな子だったかな?」

不意に話を振られ、義勇は大きく肩を震わせる。このような厳かな場所で物思いにふけるなど、あってはならないことなのに。

だが義勇はすぐに冷静さを取り戻し、淡々と答えた。

 

「齢は14~5ほどの少年で御座います。大海原玄海と同じく、海の呼吸を用いておりました」

義勇の脳裏に、つい先日会ったばかりの汐の姿がよみがえる。

 

まだ刀を握ったばかりだというのに、粗削りながらも独自の呼吸を使いこなしていたこと。そして、年相応にはとても思えない、あの鋭い目と声。

柱である自分をああも圧倒できるものなのか。それとも、年相応に見えるだけで、実はかなりの手練れであったのか。だが、今の義勇に、それを確かめるすべはない。

 

「そしてとても珍しい、青い髪をしておりました」

そう告げると、今度は耀哉の肩が小さく跳ねた。

 

「青い髪・・・?青い髪と言ったのか」

「お館様?」

「そうか、青髪の者が・・・。ありがとう。もう下がっても良いよ」

それだけを呟くと、彼は義勇に穏やかな声で下がるように告げた。義勇は怪訝そうな表情をしたものの、その理由を尋ねることもせずに腰を上げた。

 

「ああ、そうだ。一つだけ言わせてほしい」

「なんでしょうか?」

「義勇。君が真直ぐで忠実な性格をしているのは心得ている。だが、流石に性別を間違えるのはどうかと思うよ」

彼のその声色には、優しさと困惑が入り時交じっていた。

義勇は再び怪訝な顔をしたものの、これ以上は何も尋ねずに部屋を後にする。

 

 

義勇が彼の言葉の意味を理解するのは、この少し後の事だった・・・




コソコソ噂話
富岡義勇はマジで汐を男だと思ってました。というよりも、この物語では、男性陣の9割はなぜか汐を男だと勘違いしています。
それに反して、女性陣は殆どが所見で女と見抜いていますが、この差はなんなんでしょうね


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

邂逅まで

灰色の雲が空を覆い、僅かながら雨の匂いがする。

空を見上げながら天狗の面をかぶった男、鱗滝は小さく息をついた。

 

山の方を見れば、時折鳥が山肌から飛び立っていくのが見える。おそらく、最近迎えた弟子が修行をこなしているのだろう。

自分と同じく鼻が利く彼ならば、もうすぐ雨がやってくることに気づき戻ってくるかもしれない。

 

彼を迎える準備をするために小屋に戻ろうとすると、自分に向かって一羽の鳥が、ふらつきながら飛んでくるのが見えた。

その鳥を見て、鱗滝の目が面の下で見開かれる。それは足に手紙をつけた【鎹鴉】である。だが、彼が驚いたのはそこではない。

 

(何故・・・何故奴の鎹鴉がここにいる・・・?)

彼が驚いたことは、その鎹鴉の存在だった。

 

鱗滝はあわてた様子で鎹鴉から手紙を受け取る。すると、鎹鴉はそのままぐったりと彼の膝に頭を垂れ、そのまま動かなくなってしまった。

 

彼にあてられた手紙には、このようなことが書いてあった。

 

拝啓:鱗滝左近次へ

よう、生きているか?相も変わらず珍妙な面を被って偏屈かましてるのか?それとも、俺がくたばったと思って悲しんで・・・は、いねぇだろうな。

だが、お前がこの手紙を読んでいるころには、俺は本当にくたばっていると思う。人間としてくたばるか、鬼としてくたばるかはわからなんがな。

手紙なんざ柄じゃねえから簡潔に告げる。もし、もしも俺がくたばったらお前の所に俺のガキを送る。どうか面倒を見てやってくれ。

バカで単純で要領が悪いが、俺ができることのすべてを叩き込んである。もしかしたら、鬼殺の剣士になるなんてほざくかもしれねえ。

けれど、俺にとってあいつは全てだった。柱の名を棄てても、あいつだけはきちんと育ててやりたかった。

身勝手な頼みで悪いが、俺の最期のわがままをどうか聞いてやってくれ。今まで本当にすまなかった。

敬具:大海原玄海

 

追伸:もしお前の所にもガキがいたのなら、ぜひとも仲良くさせてやってくれ。

 

手紙の書き方からして破たんしたものだったが、それには彼の不器用な思いが豪快な字で刻まれていた。

それに目を滑らせていた鱗滝の手が細かく震える。面の下の表情は伺えないが、何とも言えない気持ちが彼のすべてを包んでいた。

 

「鱗滝さん!ただ今戻りました」

その時、玄関先で少年の声が響いた。赤みがかった髪と瞳。耳には日輪を模したような耳飾り。そして額に傷のある少年は、鱗滝の姿を見てはっと息をのむ。

 

「鱗滝さん、どうしたんですか!?なんだか、すごく悲しい匂いがします・・・」

鱗滝は少年を一瞥すると、手紙を丁寧に畳んで懐にしまった。そして、動かなくなった鎹烏をそっと優しく抱えた。

 

「炭治郎。此奴を埋葬してやれ。それから――、近いうちもう一人を迎えることになりそうだ」

「え?迎えるって、誰をですか?それに、この鴉は・・・」

「儂の、古い知り合いの鴉だ。そしてそいつの弟子が、ここに来るやもしれん」

そういう鱗滝の声は、微かだが震えていた。炭治郎と呼ばれた少年は、これ以上何も聞くことができずに彼を見上げていた。

 

 

――二人が出会いを果たすまで、あと幾日・・・

 




こそこそ噂話
玄海は手紙を書くのが苦手です。文字は殆ど暗号のようになって読めません。
そして時折拝啓と敬具を間違えて、鱗滝さんによくあきれられていました


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

一章:慈しみと殺意の間


狭霧山とはいずこに


夜の帳もすっかり降りた頃、月明かりの照らす道を何かが凄まじい速度で通り過ぎていく。

何か、というのは、その風貌がとても人間のモノとは思えなかったからだ。

鬼。この世に潜む、人を喰う異形のモノ。日の光を浴びると塵となってしまうため、行動は夜間か悪天候時に限られる。

その鬼は、酷く焦った様子で何処かへと向かっていた。4つある眼はいずれも血走り、口から覗いた舌からは唾液は一滴も零れ落ちていない。

 

「くそっ、あのガキどこへ行きやがった・・・!」

体中から汗を噴出させながら、鬼はあたりを何度も見回す。月明かりが照らす夜道には、人はおろか獣の気配すらもない。

それでも鬼は()()を捜していた。もたもたしていては間に合わない。一刻も早く見つけなければとさらに焦る。

 

「くそっ・・・。久しぶりの人肉かと思ったのに、なんで、なんで俺がこんな目に・・・・!」

鬼が絞り出すような声でつぶやいたその時、不意に背後で草を踏む音が聞こえた。

鬼がそちらに視線を移す。鋭い爪を前に出し牙をむく。

 

だが、次に声が聞こえたのはその背後。

 

全集中・海の呼吸

壱ノ型 潮飛沫(しおしぶき)!!

 

鬼が振り返ったその時には、既にその頸は遥か上空へと舞っていた。その顔には驚愕が張り付き、そしてその視線の先には自分の頸を斬った者。

 

鬼である自分をも戦慄させる殺意をまとった、一人の青髪の少女、大海原汐がそこにいた。

 

やがて鬼の体がすべて塵と消えた頃、汐は空を見上げた。もう何度見上げたかわからない夜の空。

あの忌まわしい日からもうじきひと月。養父の知人である鱗滝左近次がいる狭霧山を目指して、汐は人伝いに歩き続けていた。

富岡義勇という鬼殺剣士からおおよその場所は聞いていたものの、その場所というのが汐の住んでいた村からは恐ろしいほどの距離があった。

手元に残った僅かな金もすでに底をついてしまい、もう歩くしか方法がなかった。

 

しかも、夜間や悪天候時には鬼の襲撃を受け、日の出ている間は体を休めようにも、あの日の光景が悪夢となって甦りほとんど眠ることもできなかった。

 

それでも、汐の体を突き動かすのは、鬼に対しての殺意と不甲斐ない自分自身への怒りと憎しみ。

いつしかその風貌は、人を脅かすはずの鬼さえも、恐怖させるものと成り果てていた。

 

夜が明け、太陽がその姿を現せば、陽光に弱い鬼は姿を見せることはない。だが、眠れば悪夢につかまる。汐は重くなった身体を必死に動かし先へ進む。

 

だが、やはり体には限界が来ていたのだろう。不意に視界がぐらりと傾き、視界が暗転した。

 

 

 

 

*   *   *   *   *

 

 

 

あちこちから上がる火の手、煙、むせ返るほどの血の匂い。

赤く染まった故郷だった場所に、汐は一人で立っていた。

 

(皆はどこ!?みんなを捜さないと・・・!)

 

皆を捜して走り出そうとする汐の足を、誰かがつかんだ。

振り返って足元を見ると、そこには――

 

――どうして、どうして助けてくれなかったのおおおおお!!!??

 

全身から血を吹き出しながらこちらを睨む、絹の姿だった。

悲鳴を上げようにも声が出ない。振り払おうにも、絹のようなモノの力は凄まじく、つかまれた足首がみしみしと音を立てる。

すると、それに引き寄せられるかのように何かが自分の周りに集まりだした。

それは、皆絹と同じように全身を真っ赤に染めた、村人だったものたちだった。

ある者は腕がひしゃげ、ある者は顔の半分がない。そして、その後ろから歩いてきたのは――

 

――汐、汐・・・なんで、なんで俺を殺したんだ・・・

鬼化した体とその頸を小脇に抱えた、養父の姿だった。

恨みを込めた瞳で、汐を見つめてくる。

 

――お前なら、お前ならわかってくれると思っていたのに・・・なんで、なんで俺を

 

 

殺したああああああああああああああ!!!!

 

 

「あああああああああ!!!!」

 

悲鳴を上げて飛び起きると、目の前の光景が目に入ってきた。

見知らぬ場所、見知らぬ風景。少なくとも汐の焼かれている村ではない。もう、何度も繰り返したはずなのに、いまだに慣れることはない。

だが、その時は一つだけいつもと違っていた。

汐の目の前に、赤い天狗の面をつけた男が一人立っていたのだ。

 

「わああ!!!」

思わず悲鳴を上げて立ち上がろうとするが、足元がふらつき座り込んでしまう。そんな彼女に、天狗の男はあきれたようにため息をついた。

 

「そのような状態で動けるものか。お前の体のことは、お前自身で管理しなければならない。そんなこともわからんのか」

そういって男は懐から、筍の皮に包まれたおにぎりと竹筒の水筒を差し出した。それが目に入った瞬間、汐の腹の虫が盛大に鳴いた。

「食べなさい」

その言葉を聞くな否や、汐は引っ手繰るようにおにぎりを受け取り口に入れた。塩だけの質素なものだったが、それでも汐にとっては何よりもありがたいごちそうだった。

大きめのおにぎりを全て平らげ、水を飲み干すと、汐の心にもようやく余裕が出てきた。そして、目の前の男を見てはっと思い出す。

 

「天狗のお面・・・。もしかしてあなたが、鱗滝さん・・・?」

「如何にも。儂が鱗滝左近次だ。大海原玄海の弟子はお前で間違いないな?」

その言葉に汐はうなずき、自分の名を名乗った。すると鱗滝は、汐の右腰に差してある刀に目を付けた。

そこから微かに漂う鬼の匂いに、彼は小さく唸る。

「儂はお前の父親からお前を預かるように言われている。だが、鬼殺の剣士になりたいというのなら一つ問う。汐。お前は何故鬼殺の剣士を目指す?」

鱗滝の問いかけに、汐は迷いなく答えた。

 

「みんなの敵を取る。おやっさんを鬼に変え、みんなを傷つけ苦しめた連中を、あたしは絶対に許さない。何があっても、必ずその報いを受けさせてやる」

そんな汐を面越しに見ていた鱗滝は、彼女の匂いを感じ僅かに眉をひそめた。

 

(ああ、この子は駄目だ。殺意が強すぎて、周りはおろか自分自身すら滅ぼしかねない。彼とは真逆の、破滅の匂いがする。玄海、義勇。この子には・・・)

 

だが、それでも汐の迷いのない瞳に、鱗滝の心は動いた。何よりも、玄海との約束もある。そして小さく「儂に着いて来い」というと、汐を待たずに歩き出した。

否、それは歩くというよりはもはや走るといっても過言ではなかった。しかもその速さは壮年の者とはとても思えない。

しかしそれでも汐はついていった。自分の師、玄海の地獄のような特訓に比べたらなんてことはない。実際に二人の距離は二尺(60cm)ほどしか離れていない。

 

(やはり、玄海の弟子というのは偽りではなかったか)

さっきまで倒れていたばかりの人間とは思えない身体能力に、鱗滝は心の奥で納得していた。

 

やがて鱗滝は自分が住んでいる小屋の前まで汐を連れてきた。そして荷物を置くと、今度は山に登ると言い出した。

(え?今から山に登るの?あたし、生まれてこの方山登りなんてしたことないんだけど)

苦虫をかみつぶしたような顔をする汐をしり目に、鱗滝はどんどん山へと入っていく。悪路に足を取られながらも、汐は必死にその背中に食らいつく。

そして山の中腹に差し掛かった時、彼は振り返りこう告げた。

 

「ここから麓の山まで下りて来い。時間は問わない」

それだけを告げると、彼の姿は煙のように消えてしまった。

残された汐は、呆然と彼が消えた方角を見つめていた。

 

(え、下りるって、今から?あたし、生まれてから山登りも山下りもしたことなんかないんだってば)

いくら体を鍛えているとはいえ、海で長い間育った汐にとっては山など未知の中の未知だ。そんな中何も知らない素人を置き去りにするなど、何を考えているのかわからない。

不幸中の幸いだったのが、その日がひどく快晴で霧がほとんど出ていなかった。これならば視界は悪くないし、何とかなるだろう。

 

――山に仕掛けられた罠にかかるまでは。

 

「!!」

 

先を急ごうと一歩踏み出した途端、突然複数の石が飛んできた。あわててかわそうとするも、足がもつれて転んでしまい膝からは血がにじみだした。

痛みに耐えつつ前に進もうとすると、今度は落とし穴が彼女を襲う。間一髪で落ちることは免れたものの、このままではいつまでたってもこの山の牢獄から抜け出せない。

 

(どうする?どうする!?こんな時、こんな時は――)

 

――焦ったら何もかもうまくいくわけがねえ。そんな時は深呼吸をしろ。古典的な手だが、結構効くんだなこれが。

脳裏に玄海の茶化した声が響く。それを思い出した汐は、深く大きく息を吸った。

 

(そうだ。あたしには、呼吸があるじゃないか!そしてここを山だと思っちゃだめだ。あたしが今までいた場所を思い浮かべろ)

汐は目を閉じて意識を集中させる。そして再び大きく息を吸い込む。

 

すると汐の目の前の景色が、緑色の山から青々とした海底へと変化した。薄暗く、泡で視界もいいとは言えず、毒をもった生物や肉食の魚がうろつく、自分の修行場所。

それからというものの、汐は襲い来る罠を、文字通り泳ぐように避けながら進んだ。飛んでくる石や丸太は、自分めがけて襲ってくる魚のように見え、落とし穴は自分を引き込む渦潮に見える。

これならば毎日毎日、死ぬ思いをしながらやってきたことと大差ない。

 

それから幾つ罠を回避したかわからなくなってきたころ。ようやく汐の視界に光が見えた。それはまるで、水面から差し込む光の柱のようだった。

それをめざし汐はひたすら突き進む。そして・・

 

小屋の扉を突き破るほどの勢いで、汐は中へ転がり込んだ。そこには鱗滝が、全てを見透かしたように立っていた。

 

「た、ただいま、もどり、ました」

汐の口からはかすれた声が途切れ途切れにこぼれる。そんな彼女に、鱗滝はやさしい声色でこういった。

 

「お前を認めよう、大海原汐」

その言葉が耳に入った瞬間、汐の視界は再び闇に包まれていくのだった。

 

 

 

 

*   *   *   *   *

 

 

 

「あ、危ない!!」

 

突然ぐらりと傾いた汐の体を、そばにいた少年がとっさに支える。

「大丈夫ですか!?」

あわてた様子で声をかけると、汐の口元からは規則正しい寝息が聞こえた。

 

「儂は食事の支度をする。炭治郎、お前はその子を介抱してやれ」

「は、はい」

炭治郎と呼ばれた少年は返事をすると、ぐったりしたままの汐を布団に寝かせた。

 

「この人が、鱗滝さんの言っていた知り合いの弟子・・・。青い髪の色なんて珍しいな」

炭治郎の目に入ったのは、汐の真っ青な髪の色だった。その色に目を奪われそうになるが、あわてて首を振り本来の目的を思い出す。

 

(少し血の匂いがする。まずは傷の手当てをしないと・・・)

一番目立つひざのけがを、炭治郎は丁寧に手当てをしていく。だが、ここで彼はふと妙なことに気づいた。

(服は少し汚れているけれど、ひざの傷の他は殆ど見当たらない。あの山にはたくさんの罠があったはずなのに、まさか、あの罠を潜り抜けてきたのか?)

 

彼自身も半年ほど前、同じように山の中に置き去りにされ無数の罠をかいくぐりながらもたどり着いた経験があった。その時は殆どの罠にかかり、全身傷だらけで何とか戻ってきたものだった。

だとしたら、目の前の汐は相当な身体能力を持っているだろう。炭治郎は思わず息をのんだ。

 

「と、とにかく次は服を着替えさせないと・・・」

鱗滝が用意してくれた新たな着物に着替えさせようと、炭治郎は袂に手を伸ばす。勝手に服を着替えさせることには多少抵抗があったものの、彼は心の中で謝りながら着物を脱がしていく。

すると、汐の胸元に白い布が幾重にもまかれているのが見えた。はじめは包帯だと思い見逃した傷があったかと焦った炭治郎だったが、よく見るとそれはわずかながら緩んでいる。そしてその隙間からは・・・

 

「!!!」

それを見て炭治郎の体は、一瞬で石のように固まる。そして、

「わああああああ!!!」

今度は顔を真っ赤にしながら、あわてて着物の袂を閉じた。そして眠っている汐の顔を何度も見る。

 

(おっ、女っ・・・女の子!?い、いやいやいや。鱗滝さんからは新たに迎える人がいるといわれたけれど、性別は詳しく聞かなかったけど、まさか、まさか本当に・・・!?)

「炭治郎。何をしている?」

背後から不意に声をかけられ、炭治郎の体が大きく跳ねる。振り返ると、鱗滝が(おそらく)怪訝そうな表情でこちらを見ていた。

だが、耳まで顔を真っ赤に染めた炭治郎と、着替えの途中であろう着衣の乱れた汐を見て、鱗滝は全てを察した。

それから固まったままの炭治郎に自分が着替えさせると告げ、彼には食事の支度を変わるように命じる。あわててその場を後にする炭治郎を見送ってから、鱗滝は眠っている汐に目を向けた。

そして。

 

「あいつめ・・・」

そう小さくつぶやいてから、鱗滝はせっせと汐の着替えを済ませるのだった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



窓越しから洩れる光が、夜が明けたことを知らせる。目元に降り注ぐ光に誘われるように、汐の瞼が小さく震えた。

ゆっくりと目を開くと、ぼやけた視界に映るのは見知らぬ天井。

 

(ここはどこだろう?)

 

そんなことを考えながら起き上がった汐は、ふと、自分の頭が妙にすっきりしていることに気づく。

そう。あれだけ彼女を苦しめていた悪夢を見ていないのだ。

これほどゆっくりと眠れたのは本当に久しぶりだった。

 

汐はゆっくりと体を起こし周りを見回した。木でできた質素な小屋で、生活のための最低限のものしか置いていない。

汐は記憶を探り起こし、意識を失う直前を思い出した。

 

(確かあたし、山を下って帰ってきて、それから鱗滝さんが認めるて言ってたような・・・)

そんなことを考えていると、扉ががたりと音を立てて動いた。

汐が視線を向けると、そこには山菜が入った籠を抱えた。見知らぬ少年が一人立っていた。

 

少年は汐を見るなり目を見開くと、瞬時にうれしそうな表情に変わった。

 

「よかった!目が覚めたんだな」

 

彼は籠を下に置くと、汐のところに駆け寄ってきた。赤みがかかった髪に、額にはやけどのような傷跡。耳には日輪を模したような耳飾り。そして、髪と同じく赤みがかかった目。

その目を見た瞬間、汐の心は大きく震えた。

どこまでも澄み切った、汚れも曇りも一切無い目。それはまるで、汐が一番好きな夕暮れ時の海と似た色をしていた。

 

(なんて・・・なんて綺麗な目なんだろう。ううん、綺麗なんて簡単な言葉じゃ言い表せない・・・。こんな、こんな目をした人がいるなんて)

 

汐が文字通り目を奪われていると、少年は困惑したように眉根を寄せた。

 

「あ、あの。俺の顔に何かついてる?」

 

その声を聞くと、汐ははっと我に返り慌てて彼に謝った。そしてそれと同時に腹の虫が盛大になる。

顔を真っ赤にして布団に潜り込む彼女に、少年は朗らかに笑った。

 

少年は竈門炭治郎と名乗り、半年前からここ鱗滝の下で修行をしていると言った。彼もまた、汐と同じく鬼殺の剣士を目指しているためだ。

汐も名を名乗り、食事の支度をし始めた炭治郎を手伝おうとしたが、寝起きを考慮したのか彼はそれをやんわりと断った。

 

炭治郎は慣れた手つきで食事の支度をする。今日の献立は朝どれの山菜で作った雑炊だ。

生まれてこの方海しか知らなった汐にとって、山菜入りの雑炊は未知の食べ物だ。だが、空腹には勝てず誘われるように雑炊を口に入れる。

その瞬間に広がる芳醇な風味と、かむたびにあふれ出すうま味。そのあまりのおいしさに、汐は夢中で雑炊を味わった。

 

「きちんと食べられてよかった。覚えてる?君、あの日から丸一日眠っていたんだ」

「丸一日!?」

「ああ。鱗滝さんが言うには、極度の寝不足と疲労だって。心配していたけれど、目が覚めて本当に良かった」

 

そういってほほ笑む炭治郎に、汐の心は温かくなる。だが、そんな状態であの山に放り込まれたかと思うと、ひょっとしたら鱗滝というは男は、自分の師よりも鬼なところがあるんじゃないか、と勘繰ってしまった。

 

すると、そんな汐を見透かすように炭治郎が口を開く。

 

「確かに鱗滝さんは厳しいけれど、でも決して間違ったことはしていない。していない、と思う」

しかし、最後のほうは自信がないのか声が小さくなっていく。その目を見るに、彼もまた似たような目にあったのだろうと汐は思った。

 

その時、扉が開いて鱗滝が入ってきた。挨拶をする炭治郎に、汐もつられて挨拶をする。

鱗滝はそんな汐に顔を向けると、着物の着心地を聞いてきた。

そこで初めて、汐は今着ている着物が自分のものではないことに気づく。炭治郎はそんな彼女から、なぜか頬を染めつつ目をそらした。

 

食事を終えた後、汐は鱗滝、炭治郎両名と改めて顔を合わせた。

 

「改めて名乗ろう。儂は鱗滝左近次。そしてこちらが、半年前からここで修行を積んでいる竈門炭治郎だ。もう知っているとは思うが、儂はお前の養父と同じく『育手』だ」

 

育手。それは文字通り剣士を育てる者たちのこと。山ほどの数がいて、それぞれの場所、それぞれのやり方で剣士を育てているのだ。

そして鬼殺の剣士たちが身を置く組織『鬼殺隊』へ入隊するには、『藤襲山』で行われる『最終選別』で生き残らなければならないのだ。

厳しい声色に汐は勿論、炭治郎も身を固くする。

 

「だが、二人が最終選別を受けていいか否かは儂が決める。まずはそこで生き残るための術を、お前たちに叩き込む」

 

それから二人の(地獄のような)修練が始まった。

 

 

 

*   *   *   *   *

 

 

 

まず初めに、山に慣れていない汐のために、鱗滝は山の基礎知識を叩き込む。歩き方から食べられるものの見分け方などのを一から教えた。

あまり頭を使うことがなかった汐に乗って、これは出鼻をくじかれる。だが、それも海の知識を覚えることが楽しかった時を思い出しながら、山の知識も覚えていった。

次に行ったのは、なんと炭治郎との組手である。二人は戸惑った。汐は素人相手に拳を振るっていいのか、炭治郎は女である汐に拳を振るっていいのか。

 

だが、鱗滝からは容赦はするなとお墨付きをいただいた。そしてその結果、汐は炭治郎を完膚なきまでに叩きのめしてしまった。

そんな汐を見て、鱗滝は少しやりすぎかもしれなかったと、僅かながら悔やんだ。

 

そしてその後、汐は鱗滝と炭治郎両名の前で海の呼吸を披露することになった。

以前玄海が言っていたが、海の呼吸というのは玄海自らが生み出した独自の呼吸法で、まだまだ未完成のものだ。それ故鱗滝もどのようなものかはあまりよく把握しておらず、一度見てみたいというのがその意図だ。

 

目の前には刀を振るう鍛錬のために用意された巻き藁がある。それを型を使いすべて切り落とせというのが今回の課題だ。

二人は下がり、その場には汐だけが残る。汐は右わきに指してある刀を抜くと、大きく息を吸った。

 

低い、地鳴りのような音が響き、炭治郎が目を見開く。

 

全集中・海の呼吸

壱ノ型 潮飛沫(しおしぶき)!!

 

汐が目にもとまらぬ速さで巻き藁との距離を詰め、一気に切り裂く。そのまま彼女は方向を変え、再び息を吸った。

 

――弐ノ型 波の綾!!

 

今度は先ほどとは異なり、緩やかな動きで巻き藁の間を泳ぐように動く。そしてそのまま、すれ違いざまに巻き藁を切っていく。

その鮮やかな動きに、炭治郎は縫い付けられたように動けなくなっていた。

 

「なるほど、相分かった」

その時、鱗滝が突如口を開いた。汐はこれから別の型を出そうと身構えていたのだが、急にそれを中断されよろめく。

 

「確かにお前は海の呼吸なるものを扱えるようだ。だが、完全に使いこなせているといえばまったくもってそうではない」

「え!?」

「お前は刀を握ってまだ浅いだろう。太刀筋にかなりの粗さが見える。玄海は、お前に刀を用いた訓練をしなかったのではないか?」

 

その言葉が、汐の心を深く打ち抜いた。まさしくその通りだった。たった短時間でここまで見抜いてしまうとは、やはり彼は只者ではなかった。

汐の沈黙に肯定の意味を感じた鱗滝は、深く深くため息をついた。

 

「あやつめ。肝心なことを省く癖は治っておらんかったようだな。それで苦労をするものがいるとなぜわからんのか」

鱗滝は独り言のようにつぶやくと、これからは炭治郎同様に修行をつけると改めて宣言したのであった。

 

 

*   *   *   *   *

 

その夜。炭治郎が明日の食事の材料を探しに行っている間に、汐は部屋の中を片付けていた。といっても、物は少ないため簡単に箒をかけて終わりなのだが。

ふと、汐はいつもしまってるはずの炭治郎の部屋の扉が少し空いていることに気づいた。好奇心が疼いた汐は、そっとその隙間から中をのぞく。

そこにいたのは、竹の口枷をつけたまま眠る、見知らぬ少女だった。

 

(だ、誰!?)

 

思ってもみなかった邂逅に、汐は思わず声を上げそうになる。ここにいるということは鱗滝か炭治郎の身内なのだろうが、何故口枷などしているのか。なぜ今の今まで眠ったままで起きていないのか。

そのいろいろな疑問が渦巻き、気が付けば汐は少女の顔を覗き込んでいた。と、その瞬間。

汐は少女にただならぬ気配を感じた。そして瞬時に、目の前の少女が人ならざる者だということに気づく。

 

(なんで・・・?なんでここに、こんなところに鬼がいるの!?)

 

鬼。自分の故郷を奪い、一番大切な人を殺させた憎い存在。今までも何度か斬ってきた鬼が、目の前で眠っている。

汐の心がみるみる黒いものに覆われていく。そしてその左腕は、何かを求めるように震えだす。

 

――殺さなくては・・・!

――鬼は、殺さなくては・・・!

頭の中に低い声が響く。そしてその声に突き動かされるように、汐は一歩踏み出した。

 

だが。

 

「何をしている!」

 

背後から鋭い声が飛び、瞬時に汐の左腕をつかむ。反射的に振り返ると、鱗滝が自分の腕をつかんだままこちらを見ていた。

振り返った汐の匂いに、鱗滝はわずかながら戦慄する。

あの日、初めて会った汐からにじみ出る、殺意の匂い。身を滅ぼさんほどのどす黒く、悲しく、痛々しい殺意。

 

「どう、して?」

 

汐の口からは零れるように声が漏れる。なぜこの人は止めるのか。理解ができない。

 

「話していなかったが、この少女は竈門禰豆子。炭治郎の、妹だ」

汐の腕をつかんだまま、鱗滝は話し出した。

 

炭治郎が鬼殺隊を目指す理由。それは鬼となってしまった妹を人に戻すためだということ。

そして今のまままで、禰豆子という少女は人を襲わず眠り続けているということだった。

 

だが、その話を聞いて、汐の心は鎮まるどころかますます殺意が膨れた。

 

――なによ、それ。それじゃあおやっさんは何だったの?

――それができるなら、おやっさんだって人間に戻せたじゃない

――あたしが、おやっさんを斬ることも、こんな思いすることもなかったじゃない

 

――ふざけるんじゃねぇよ

 

一瞬にして膨れ上がった殺意に、さすがの鱗滝も戦慄した。まだ年端もいかぬ少女が、こんな恐ろしい目をする。それはまるで、鬼よりも恐ろしくて――

 

「禰豆子!?鱗滝さん!?」

 

突如背後から聞こえてきた声に、汐はびくりと肩を震わせる。驚愕と焦燥をまとった炭治郎と目が合った。

 

「あ・・・あ・・・」

 

その目を見た瞬間、汐の殺意がみるみるうちに収まっていく。まるで、波が引くように汐の中からどす黒いものが消えていった。

 

(あたしは、あたしはなんてことを考えていたの・・・?炭治郎に、あの人にこんな目をさせるなんて・・・)

「ごめん、なさい。ごめんなさい」

 

そう何度もつぶやきながら、汐はへなへなとその場に座り込んだ。そんな彼女を、炭治郎は呆然と見ていることしかできなかった。

 

 

 

*   *   *   *   *

汐を寝かしつけた後、鱗滝は炭治郎と向き合い話をしていた。その内容は勿論、汐のことだ。

 

「炭治郎。先ほどの汐を見て、どう思った?」

炭治郎はしばらく考えていたあと、言葉を選びながら話し出した。

 

「汐からは、すさまじい程の憎しみと痛みの匂いがしました。特に鬼に対して、激しく憎んでいる。一体彼女に、何があったのですか?」

 

炭治郎からの問いかけに、鱗滝は少し迷ったが息をついて話し出した。

 

「玄海から文が届いたその数日後。お前の時と同じ冨岡義勇からも文が届いた」

「え?冨岡さんからですか?」

「そうだ。奴の文によれば、ある村で鬼による大規模な襲撃があり、村人は全滅。そして奴は、玄海は鬼になった」

 

炭治郎の目が見開かれ、音が聞こえるほどに息をのむ。それはまるで、自分自身が体験した地獄のようだった。

それを見据えながらも、鱗滝はつづけた。

 

「そこに居合わせた義勇が鬼殺を試みたのだが、奴が玄海の頸を斬ることはなかった。頸を切ったのは、ほかでもない。汐だったそうだ」

 

炭治郎は完全に言葉を失い、汐が眠っている布団を思わず見つめる。初めて汐の匂いを感じた時に読み取れた、悲しみと憎しみの匂いの訳が分かった気がした。

村が鬼に襲われ、養父は鬼に。そしてその引導を自らの手で渡し生き残った。そんな重すぎる過去を、自分と同じくらいの年の少女が背負うにはあまりにも辛すぎる。

 

「酷い、酷すぎる。そんなの、そんなのあんまりだ」

 

炭治郎の口からこぼれた言葉が、すべてを物語る。まるで自分のことのように痛みを感じる彼を見て、鱗滝はつづけた。

 

「だから正直なところ、儂はあの娘が鬼殺の剣士に向いているとは思えない。あの強すぎる殺意は、周りだけでなく自らも滅ぼしてしまいかねない。しかしそれでも、汐は選んだ。この道を」

だから一つ、お前に任せたいことがある。と、鱗滝は炭治郎を見ていった。

 

鱗滝の言葉が、炭治郎の耳に入る。そして彼は眠っている汐を見てある一つの思いを感じるのであった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



今回はあまり話は進みません



汐は夢を見ていた。深い深い海の底に、抗うことなく沈んでいく。自分を包み込む水と泡が心地よい。

このままずっとどこまでも落ちてゆけばどうなるのだろう。大好きな海と一つになれるのなら、それも悪くない。

 

だが、突然耳をつんざくような怒声が聞こえてきた。

『何やってやがるんだ、このバカ娘!』

驚きのあまり奇声を上げて体を起こすと、そこには憤怒の形相を顔に張り付けた大海原玄海がそこにいた。

 

おやっさん、と声をかける前に、玄海の声が飛んだ。

 

『お前よォ。いつまでわがまま言ってんだ。手前(てめえ)ばっかりで周りのことなんざ何も見えていねえ。俺ァお前をそんな腑抜けに育てた覚えはねえぞ!!』

反論を一切許さない大声が汐の耳を突き抜け、一気に体中に染み渡る。それにはじかれるように、汐は目を覚ました。

 

あたりは真っ暗で、もう日付は変わっているだろう。外から聞こえる蛙の声だけが、汐にここが現実であることを教える。

 

(すごく怒られたような夢を見た気がする)

 

体から噴き出す汗が、いい夢を見ていなかったことだけを物語る。目もすっかり覚めてしまい眠れそうになかった汐は、足音を立てないようにそっと小屋を出た。

 

今夜は満月。雲一つない空に、大きな月と一面の星空が墨を流したような空に輝いている。かつて暮らしていた村でも、同じような空は何度も見ていた。

けれど、あの時はいつもそばに養父玄海がいた。日の光に当たることができない彼とみることができる唯一の晴れの空だった。

その空の下に、今は汐一人だった。海もなく、玄海も、絹も、村人も、誰一人いない、自分ひとりだけ。

 

(海に、海に帰りたい。寂しい、寂しいよ・・・みんな・・・)

 

目を閉じて心の中で辛い言葉を吐き出してみても、寂しさはますます募るだけだった。こんなに寂しさを感じたのは、玄海が日の光に当たることができないと分かった時以来だった。

 

(そういえば・・・あの時は確か・・・絹が言ってたんだ)

 

 

――私も、お父さんが漁の時はずっと帰ってこないから一人なの。お母さんが死んじゃってから、ずっと

――でもね、寂しくなったら歌を歌うの。そうすると不思議と、寂しい気持ちが消えていくのよ

――だから、汐ちゃんも一緒に歌おう?玄海おじさんが早く元気になるように・・・

 

 

 

汐はそっと目を閉じると、息を吸い込み口を開いた。

 

― そらにとびかう しおしぶき

ゆらりゆれるは なみのあや

いそしぎないて よびかうは

よいのやみよに いさななく

ああうたえ ああふるえ

おもひつつむは みずのあわ ―

 

月に向かって奏でられる、寂しさを孕んだ透き通る歌声が、風に乗って空に消える。潮騒の代わりに聞こえてくるのは、風が揺らす木の葉がこすれる音。

歌い終わり再び静寂が訪れると、汐は小さくため息をついた。

だが、不意に何かの気配を感じて反射的に振り返る。そこにいたのは、目を見開き、頬をわずかに染めた炭治郎が呆然と立っていた。

 

「ご、ごめん。驚かせるつもりはなかったんだ。ただ、君の匂いが外からしてきたから気になって」

頭を掻き困惑の表情を浮かべる炭治郎に、汐はたじろいだ。

「炭治郎・・・。聴いていたの?」

「さっきの歌のこと?とっても綺麗な歌声だったよ」

炭治郎が答えると、汐は言葉を詰まらせる。思わぬ客の出現に、汐の顔はみるみるうちに赤く染まった。

 

火照った頬を隠そうと、汐は炭治郎に背を向ける。そんな彼女の隣に、炭治郎は足を進めた。

 

しばらくの間沈黙が続く。風が二人の間を静かに通り過ぎて行ったころ。

 

「さっきの歌はね。あたしの故郷でよく歌ってたわらべ歌なんだ。今はもうなくなった、あたしの村」

汐の口から、言葉が漏れる。彼女の過去を鱗滝から簡単に聞かされていた炭治郎の胸が、小さく痛んだ。

 

「その目は、もう大まかなことは知っているって感じだね」

「え?」

「あたし、目を見ればその人の大体の人柄や感情がわかるの。特に最近は、鬼と人間の区別も大体わかるようになった」

「・・・ごめん」

「謝らないでよ。あたしもあんたのことを鱗滝さんから少し聞いた。あんたがどうして鬼殺の剣士を目指しているか、も」

 

炭治郎は口を閉ざしたまま汐を見つめる。そんな彼をしり目に、汐はつづけた。

 

「あたしね、鬼もそうだけど何よりも自分が一番憎らしかった。守りたい人たちがいたから鍛えてきたのに、何も守れなかったし、誰も救えなかった。でも、鬼と戦っているときは、すべてを忘れられた。憎んでいる間は、何も考えなくて済んだから」

でもね、とさらに汐は続けた。

 

「ここにきてからそれが本当に正しいのかわからなくなった。そしてあの子、禰豆子をみて、あんたのことを聞いて、どうしようもなく悔しくなった。おやっさん・・・あたしの育ての親は鬼になって倒されたのに、鬼であるあの子がなんで生きているのかって」

 

言葉が紡がれるほどに、汐の声に苦しさが増していく。そんな彼女を見ている炭治郎の胸が、張り裂けそうに痛み出した。

「だけど、あんたの目を見た瞬間、自分がすごく醜くて浅ましくて、おぞましくなった。あんたたちが悪いわけじゃないのに、何をお門違いしているんだって。そうおもったら・・・」

「もういい。もうこれ以上は言わなくてもいい・・・」

 

血を吐くような言葉に耐え切れず、炭治郎は汐の言葉を遮った。あまりにも痛々しく、あまりにも悲しい。これ以上は汐が壊れてしまうような気がしたからだ。

 

「ごめん、こんな話聞かせて。だけど、炭治郎はすごいね。あたしは鬼になったおやっさんを人間に戻そうなんて考えつきもしなかった。鬼は人を襲うから、斬らなきゃいけない、殺さなくてはいけないってずっと思ってた。諦めていた。だけど、あんたは違う。妹を、禰豆子を必ず人間に戻す。その覚悟が、その目にはある」

 

炭治郎の目の中に宿る覚悟を、汐は薄々感じていた。だからこそ、許せなかった。覚悟を持つことができなかった自分を。

 

しかし、炭治郎はそんな汐の言葉に首を横に振った。

 

「俺は汐もすごいと思う。俺は初めて鱗滝さんに会ったとき、もしも禰豆子が人を襲ったらどうするって聞かれたとき、すぐに答えが出せなかった。判断が遅いってすごく怒られた。そうなったら俺は禰豆子を、殺して俺も死ぬ。そんな覚悟が必要なのに、俺はできていなかった。けれど、君は違う。その覚悟が、もうすでにあったんだ。誰でもできることじゃない。だから俺は、君の覚悟を決して否定しない」

 

炭治郎のまっすぐな言葉が、汐の何かを満たしていく。自分をずっと騙し、殺してきた彼女を彼は否定しなかった。

悪夢の中で否定され続けた汐の心が、みるみる浄化されていく。

 

「炭治郎・・・」

震える声で汐が名を呼ぶと、炭治郎は柔らかな声で返事をした。

 

「今からすごくみっともない顔をするから、その間だけは、あたしを見ないでほしい。すごく、すごくみっともないから・・・」

 

うつむいた汐の両目から、ぽろぽろと透明なしずくが零れ落ちる。肩を震わせ始めた彼女の背中に、炭治郎はそっと手を添えた。

その瞬間、背中が何度も大きく上下し、すすり泣く声が大きくなる。そして炭治郎の着物を握りしめ、汐はむせび泣いた。

今までため込んでいた悲しみや憎しみをすべて吐き出すように、汐は泣き続けた。そしてそんな彼女の背中を、炭治郎はさすりづつけたのであった。

 

 

 

*   *   *   *   *

 

時間がたち、落ち着いた汐は涙を拭いて炭治郎を見つめる。

「ごめんね、みっともないところを見せちゃって。だけど、だいぶ落ち着いたみたい。本当にありがとう」

「いいんだ、そんなことは。汐の心が少しでも軽くなったなら、俺もうれしいから」

 

屈託なく笑う炭治郎に、汐は少し困惑した表情を浮かべる。あったばかりだというのに、自分の浅ましい想いをぶちまけてしまった。

しかも嫌な顔一つせずに、そばにいてくれた。これほどまでに優しい人に汐はあったことがなかった。

こんな綺麗な目をする人が守ろうとするものは、いったいどれほどのものなんだろうか。

その時の汐には、まだ知る由もなかった。

 

「さて、もうそろそろ寝ようか。もう夜中だし、明日も早いから」

「そうだね」

二人は顔を見合わせると、小屋に向かって歩き出す。

 

「汐」

扉に手をかけようとする汐を、炭治郎が呼び止める。

振り返ると、彼は右手をこちらに出している。

「俺もまだまだ未熟者だけど、同じ鬼殺の剣士を目指す者同士、頑張ろう」

差し出された右手に、汐も同じく右手を差し出す。

「こちらこそ、不束者ですがどうかよろしく、炭治郎」

「それは何か違う気がするけれど、こちらこそよろしく」

二人の手はしっかりと重なり、互いに強く握る。気が付けば汐の顔には笑顔が浮かび、そして優しい潮の香りが炭治郎の鼻をくすぐった。

 

(ああ、これが汐の、彼女の本当の『匂い』なんだ)

 

そこにはもう、今まで感じたような憎しみと痛みの匂いはなかった。

月だけが、そんな拙い二人を優しく照らしていた。




汐は竃戸炭治郎との絆を手にいれた!


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



あの満月の夜から数日後。あの日を境に狭霧山から聞こえる悲鳴が一つ増えた。

炭治郎に続き汐も本格的に修行を開始したのだ。

最初に受けた山下りの試練も、罠の難度が格段に上がり確実に汐を殺しに来ていた。しかし、汐は昔サメに食われそうになった記憶や、渦潮に巻き込まれて死にかけた記憶をばねにその罠の恐怖に耐えきった。

 

そして刀の扱い方がてんでなっていなかった汐は、炭治郎とともにその基礎をみっちり叩き込まれた。

毎日素振り素振りの毎日で、元から傷が多かった汐の手にさらに傷と豆が増えた。女としては致命的なものだったが、それよりも前に進む意志のほうが強かった。

 

それから、劇的に変わったことが一つある。

 

汐が、時折眠ったままの禰豆子の様子を気にかけるようになったのだ。

炭治郎から禰豆子が半年以上眠ったままだという話を聞いてからのことだった。

 

勿論鬼である以上警戒心や殺意が完全に消えたわけではなく、扉の向こうからこっそりのぞくくらいのものだったが、初めて彼女を目にしたときに比べれば、かなり大きな進歩だ。

その姿に、鱗滝は自分の判断が間違いではなかったと確信した。

 

それから日を重ねるたびに二人の修行は過酷なものになっていったが、二人の心は決して折れることはなく、必死に食らいついていった。

そして、ある日のこと。

 

「お前たちにもう教えることはない」

 

狭霧山にきて汐が半年後、炭治郎が一年後、突然鱗滝は二人にそう伝えた。

意味が分からず呆然と顔を見合わせていると、鱗滝はつづけた。

「あとはお前達次第だ。お前達が儂の教えてきた事を昇華出来たかどうかだ」

 

そういって彼は汐と炭治郎をそれぞれ別の場所へ連れていき、こう言った。

 

「炭治郎はこの岩を斬り、汐はこの滝を割れ。それができたら最終選別に行くのを許可する」

 

炭治郎の前には人の何倍はあるほどの大岩が、汐の前にはその岩と同じくらいの大きさの滝が鎮座していた。

 

「・・・は?」

 

思わぬ課題に、汐は素っ頓狂な声を上げる。

 

(滝を割れって何?滝って割れるもの?刀で?いやいやいや、意味が分かんない。おやっさんも意味わかんないこと言ってたけれど、この人もかなり意味が分からないんだけど・・・)

混乱する頭をよそに、それから鱗滝は二人に何も教えてくれることはなかった。

 

それから二人の更なる戦いが始まった。

 

二人はまずは基礎訓練を繰り返し、時には二人で組手をし、互いの情報交換をしながらもその試練に挑んだ。

しかし半年たっても二人は試練を乗り越えることはできなかった。二人は焦った。どうしようもなく。

そしてある日、

 

「ああああああああああああああああ!!!!!」

 

その焦りがやがて怒りへと変わり、とうとう汐は大爆発を起こした。

 

「滝割なんて人間にできるかボケェ!!意味が分かんねーわよいい加減にしろ!!」

 

汐のよく通る声が山中に響き渡り、驚いた鳥や獣たちがが一斉に逃げ出す。それでもしばらく汐の絶叫は止まらない。

その焦りのせいか前が見えていなかった汐は、足を滑らせ滝つぼの中に落ちてしまった。

 

想像以上に体にかかる水圧と、海水とは違い浮きづらい水。そしてきちんと呼吸ができていなかったためうまく泳ぐことができず苦しげにもがく。

水面からわずかに漏れる光がひどく美しく、そしてひどく残酷に見えた。

まるで今の愚かな自分を嗤っているような、そんな気がした。

 

でも

 

その脳裏にに浮かんだのは、夕暮れの海のような目をした彼の顔。そして

不意に、自分の手を誰かがつかんだ。

 

汐の体はまるで打ち上げられた魚のように軽々と宙を舞い、そして地面にたたきつけられるように落ちた。

飲み込んだ水をせき込みながら吐き出す。鼻から入った水が目の近くに痛みをもたらす。

 

『大丈夫?』

 

そんな汐に声をかける者がいた。炭治郎のものでも、鱗滝のものでもない、少女のような声。

汐がゆっくりと顔を向けると、そこには狐の面を頭につけたかわいらしい少女が汐を心配そうに見つめていた。

あたりを見回しても、人影はその少女以外に見当たらない。だとしたら、今汐を水から引き上げたのはこの少女ということになる。

 

自分よりも小柄な少女がそのような芸当ができるとは思えない。いや、それ以前にこの少女はいったい誰なのだろうか。

 

そんなたくさんの疑問が渦巻く汐を見透かしたように、少女は『真菰』と名乗りにっこり笑った。

 

真菰は不思議な少女だった。汐の呼吸の粗を指摘してくれたり、時折いろいろなことを話してくれた。しかし彼女自身がどこから来たのか、どうして自分にこのようなことをしてくれるのか。それには一切答えてはくれなかった。

ただ、真菰のほかにも錆兎という少年やほかの子供たちもいることを教えてくれた。

 

『私たち、鱗滝さんが大好きなんだ』

というのが、真菰の口癖のようでよく口にしていた。それを聞いた汐は、きっと鱗滝さんの身内なんだろうと、その時は深く考えはしなかった。

 

真菰曰く、汐は呼吸は使えているけれどその力をきちんと引き出せていないとのことだった。どのくらいかというと、なんと半分にも満たないという。

落ち込む汐に、真菰はある提案をしてきた。それは

 

真菰の面を叩き落すことができたら、その方法を教えるということだった。

 

汐はたじろいだ。自分が持っているのは真剣で、彼女は丸腰だ。そんな相手に刀を振るうなんて真似はできなかった。

だけど力は引き出したい。前に進みたい。

その意思が汐の足を動かした。

 

だが、真菰の動きは汐が思っていたものとは全く違っていた。まず動きが速すぎて、面を落とすどころか触れることすらできない。

まるで木霊のように縦横無尽に動き回る彼女に、汐は完全に翻弄されていた。

その日は真菰を追いかけるだけで終わってしまったが、それでも何かをつかめそうな気がして汐の胸にはわずかに希望が見えた。

 

それからの間。汐は真菰を追いかけ続けた。全身がちぎれそうなほどの苦しみの中、ひたすら彼女を追いかけた。

何度も吐き、何度もくじけそうになった。それでも彼女があきらめなかったのは、亡くなった養父と村のみんなを思ったから。

そして、今もどこかで頑張っているであろう彼を思ったからだ。

彼女が来ないときは代わりに錆兎がその役目を務めた。といっても、彼は真菰とは違い、文字通り打ち込んできた。

そして士気が下がっている汐に、ひたすら発破をかけ続けた。

(さすがに男と言われたときは汐も激怒したが)

しかしそれでも、真菰の面を落とすことはできなかった。

 

――半年、経つまでは

 

その日。真菰はいつも以上にうれしそうに笑っていた。ようやく自分が見たかったものが見られたような、そんな顔。

 

「行くよ、真菰。今日こそあんたに勝つ!」

 

汐は大きく息を吸った。低い音が響く。それは、初めて呼吸を使った時とは比べ物にならない程精錬された音になっていた。

 

そして勝負は一瞬で着いた。

 

真菰が動く前に、汐の刀が彼女面を捉え遥か彼方に吹き飛ばしていた。

ぐらりと傾く真菰の体を、汐の右腕がとっさに支える。すると、真菰の目には涙がこぼれそうなほどたまっていた。

それはまるで、愛おしものを見るような、安心したような不思議な笑顔。

 

『頑張ってね、汐。勝って。アイツに・・・炭治郎と一緒に・・・』

真菰の口がその言葉をこぼしたとき、不意に一陣の風が吹いた。そして、気が付けば彼女の姿は消えていた。

そして面を切ったはずの汐の刀は

 

 

――滝を、割っていた。

 

割れた滝は依然と変わらぬ音で汐を迎えている。けれど、その時だけはまるで彼女を祝福してくれているかのようだった。

 

「汐」

声がして振り返ると、こちらに歩いてくる鱗滝と炭治郎の姿が目に入った。炭治郎は割れたたきを見るなり目を見開き、そして汐を二度見する。

かと思いきや、次の瞬間には零れ落ちそうなほどの笑みを浮かべた。

 

炭治郎の目を見て、彼も試練を乗り越えたことを悟った汐は、思わず彼の手を握る。そして喜びを分かち合った。

 

「汐、炭治郎。こちらに来なさい」

鱗滝に呼ばれて二人は彼の前に駆け寄る。

 

「まず一つ断らせてもらおう。お前達を最終選別に行かせるつもりはなかった。もう子供が死ぬのを見たくなかった。お前達にはあの試練を乗り越えることはできないと思っていたのに・・・」

 

――よく、頑張った

――炭治郎、汐。お前たちは、すごい子た・・・

 

その言葉を聞いた瞬間、二人の両目から涙が零れ落ちる。そしてまるで本当の姉弟のように、二人は彼にすがって泣き続けた。

 

「最終選別、二人とも必ず生きて戻れ。儂も禰豆子も、ここで待っている」

 

*   *   *   *   *

 

 

その夜。鱗滝は二人のために特別に豪華な食事を用意してくれた。選別に向けて少しでも体力をつけろと、彼が腕によりをかけて作ったものだ。

その日ばかりは二人とも夢中で箸を動かした。特に汐に至っては、なんと炭治郎よりもお代わりをしたほどだ。

そして汐が寝ようと布団に入った時、ふと、炭治郎が自分を呼ぶ声がした。

 

「汐、少し話がしたいんだ。いいかな?」

いつもと違う彼の声色に、少し不安を感じながらも汐はそれに応じる。

二人が外に出ると、月は雲に隠れたまま光を放っていた。あの日、汐が本音を炭治郎にぶつけた夜と、少しだけ似ていた。

 

炭治郎の隣に、汐は足を運ぶ。すると、炭治郎は急に汐に向かって頭を下げた。

 

「ごめん、汐」

「・・・はい?」

そしていきなり謝罪され、彼女は困惑する。そんな彼女にかまうことなく、炭治郎はつづけた。

「禰豆子のこと、ずっと気にかけてくれたんだろ?ずっとお礼を言わなくちゃいけないと思ってたのに、修行のことで頭がいっぱいで、気づいたらこんなに時間がたってて・・・」

「なんだそんなこと。別にいいよ、気にしてないし。むしろ、謝るのはあたしのほうだよ。あんたには、本当にみっともないところを見せちゃったし」

そういって二人は顔を見合わせ、からからと笑う。二人の笑い声が、どこかで鳴いているフクロウの声と重なる。

 

「ううん、違うか。謝罪じゃなくてお礼だね。汐。禰豆子を気遣ってくれてありがとう」

「それはこっちのセリフ。あたしこそ、あたしを見失わせないでくれて、ありがとう」

そして二人はまた笑いあった。

 

「あ、そうだ。汐。前に君が歌っていた歌、もう一度聴かせてくれないか?」

「え?今から?」

「うん。あの歌、本当に本当に綺麗だったから。俺、もう一度聴きたいんだ」

 

曇りのない目で悲願され、汐は少し考えたがしぶしぶうなずいた。そして月に向かって、その口を開く。

 

― そらにとびかう みずしぶき

ゆらりゆれるは なみのあや

いそしぎないて よびかうは

よいのやみよに いさななく

ああうたえ ああふるえ

おもひつつむは みずのあわ ―

 

あの日には今は亡き者たちへ向けられた寂しさを孕んだ歌が、今は炭治郎をはじめ森のどこかにいる彼らに向かって歌われる。その歌は切なさのほかにも、僅かな希望を宿したものになっていた。

そんな歌を、炭治郎は目を閉じて耳を傾ける。心に染み渡る、優しい彼女の歌声。そして彼女の優しい匂い。

 

そんな二人の背中を、鱗滝はそっと見つめていた。

そしていよいよ最終選別の日。来ていた羽織は、汚れてやぶれてしまったため、炭治郎と汐は鱗滝から羽織を借りて身にまとった。

空を思わせるような水色に、雲の文様が描かれたものだ。

炭治郎は鱗滝に借りた日輪刀を左腰に差し、汐はこの時のために鱗滝が手入れをしておいた玄海の刀を右腰に差した。

おそろいの羽織に左右対称に差された刀。こうして並ぶと、まるで本当の家族のように見えた。

 

そして鱗滝は、二人にあるものを差し出した。

 

炭治郎には左上に日輪の文様が彫られた狐の面。そして汐には、右上に波の文様が彫られた狐の面であった。

 

鱗滝が言うのは、これは『厄除の面』といい災いから身を守ってくれる呪い(まじな)がかけられているそうだ。心なしか、二人に似ている気がする。

その面を二人は刀と同じく左右対称につけた。

 

禰豆子に挨拶をしに行った炭治郎を待っている間、汐は空を見上げた。雲一つない真っ青な空。これから自分の人生をかけた日の空としては、これ以上は申し分ない。

 

(おやっさん、絹、庄吉おじさん、みんな・・・あたし、頑張るよ。必ず炭治郎と一緒に生き残って、みんなの無念を必ず晴らすからね)

 

そして戻ってきた炭治郎とともに、鱗滝に頭を下げる。

 

「「いってきます、鱗滝さん」」

 

二つの声が綺麗に重なり、そして互いにうなずくと二人は目的地へ向かって走り出す。

が、突如二人は足を止め鱗滝を振り返った。

 

「あ、そうだ。鱗滝さん!錆兎と真菰によろしく!!」

「あ、あたしも!二人には改めてお礼を言いに行くからって伝えて!」

 

その言葉を聞いた瞬間、鱗滝の体が強張る。そのことに二人は気づかないまま、走り去っていった。

 

「炭治郎、汐。何故、お前たちが・・・」

 

――()()()あの子たちの名前を、知っている・・・?




おまけCS
汐「やっと乗り越えられたー!まさか滝を斬れなんて無茶ぶりをされるとは思わなかった。」
炭「俺も岩を斬れって言われたときはどうなることかと思ったけれど、何とか達成できてよかった。錆兎と真菰には感謝しないとな」
汐「それなんだけど、錆兎って奴。真菰が来られないときに相手してもらったけど、あたしのこと男男って連呼するの!」
炭「ええ!?錆兎がそんなことを言ったのか!?」
汐「腹が立ったから一発入れたとき、耳元で大声で言ってやったのよ。『あたしは正真正銘女だ』って。そうしたら・・・」
炭「そ、そうしたら・・・?」
汐「一瞬固まった後、『女でもだ!』ってほぼやけくそになってた。それはそれでなんか腹立つ」
炭(・・・結局どうしてほしかったんだろうか)


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

二章:二つの刃


下弦の三日月が輝く夜。

最終選別が行われる場所というのは、『藤襲山』。そこは名前の通り、藤の花が一年中狂い咲く不思議な山である。

実際に二人が山にたどり着いたときには、その名にふさわしく一面が紫色で染まっていた。

その光景は美しいはずなのに、あまりにも美しすぎて逆に恐ろしい。と、汐は感じていた。

 

階段を上り山の中腹にたどり着くと、すでに参加者と思われる者たちが集まっていた。

参加者たちの年齢性別はみなバラバラで、不思議な笑みを浮かべた少女、両頬を腫らした黄色い髪の少年、目つきの鋭い特徴的な髪形の少年など個性的な面々が目立った。

 

皆、それぞれの意思と覚悟を目に宿しており、汐の体は小さく震えた。

けれど

(あたしたちだって生半可な覚悟でここに来たわけじゃない。必ず勝って生き残る。そして、必ず悲願を果たす!)

汐の心の中で決意の炎が燃える。そして額の赤い鉢巻を強く締めなおした。

 

「皆様、今宵は最終選別にお集まりくださってありがとうございます」

 

声がしたほうへ顔を向けると、二人の幼い少女がゆったりとした動きでお辞儀をしていた。

一人は黒髪でもう一人は銀髪の、同じ藤の花の髪飾りをつけた顔立ちがよく似た少女たちだ。

 

「この藤襲山には鬼殺の剣士様達が生け捕りにしてきた鬼が閉じ込めてあり、外に出ることは出来ません」

「山の麓から中腹にかけて鬼共の嫌う藤の花が一年中、狂い咲いているからでございます。

「しかしこの先から藤の花は咲いておりませんから、鬼共がおります」

()()()()()()()()()()()。それが最終選別の合格の条件でございます」

 

「「では、いってらっしゃいませ」」

 

その声を合図に、汐と炭治郎はその一歩を踏み出した・・・

 

 

 

*   *   *   *   *

 

生き残ることを優先するため、二人はまず決まり事を作った。

夜は鬼の時間。そのためにはまず最も早く朝日が当たる場所、この山の一番東側を目指す。日が昇れば鬼は活動ができなくなるうえ、体力を回復させることもできる。

だが、一番の鉄則。それは

 

――二人で常に行動すること。

二人で必ず、生き残るために

 

二人は足並みをそろえながら、東を目指す。まずはこの夜を乗り切らなければどうにもならない。

 

だが、数里程進んだ後、炭治郎が鬼の匂いを感知し二人は足を止めた。

二人は背中を合わせ刀に手をかける。気配は近づいているものの、その位置が定まらない。

 

(どこからくる・・・?前か、後ろか、左、右?それとも・・・・)

汐は警戒心を最大限まで高め、目を皿にしてあたりを見回す。すると

 

「汐!上だ!!」

 

炭治郎が鋭く叫ぶ。その刹那、頭上から壱一匹の鬼が二人めがけてとびかかってきた。

二人はとっさにその場を飛びのき、その攻撃を回避する。土煙がもうもうと上がる中、その位置を凝視していると

 

「炭治郎!後ろ!!」

 

今度は汐が叫ぶ。炭治郎の背後から、隙をついてもう二匹の鬼が彼の顔面に爪を突き立てようとしていた。

炭治郎はとっさに刀を抜き、その攻撃を受け流す。すると、先ほどの鬼が追い打ちをかけようと迫ってくる。

 

「させるか!!」

 

汐はその間に滑り込むように入ると、そのまま刀を鞘から一気に抜きはらった。だが、その刃は鬼の胸元を切り払ったものの、弱点の頸には届かなかった。

 

「炭治郎、平気!?」

「ああ、汐のおかげで助かったよ。ありがとう」

二人は微かに笑った後、再び刀を構える。すると

 

「テメエエ!横取りしようとしてんじゃねえ!!」

「アア!?テメエが向こうへ行け!!あいつら二人とも俺が食う!!」

「いや貴様が失せろ!!両方とも俺の獲物だ!」

「いい加減にしろ!どちらも俺が食うにきまってる!!」

 

四匹の鬼が、二人をめぐって争いを始めた。その様子を眺めながら、二人は鋭く目を細める。

 

(いきなり複数、しかも四匹。これまで何匹か鬼は倒してきたけれど、複数との戦闘は初めてだわ。きつい、かもしれない)

心臓が早鐘のように脈打ち、口の中は乾いてくる。ここで死んでしまえば、今までの努力が水の泡だ。

 

だが

 

(それは一人だったら、の話。今のあたしは一人じゃない。炭治郎がそばにいる)

 

自分と同じく緊張している炭治郎の目を、汐は見つめる。視線を感じた彼がこちらに顔を向けると、汐は小さくうなずいた。

 

「だったら、やることは一つだろうが。殺った方が先に食う!俺は青い髪の奴を食う!!」

「なら俺は傷のあるほうだ!!」

「ふざけるな!青髪の奴は俺のだ!」

「どちらも俺が食う!!」

 

――久方ぶりの人肉だ!!!

 

鬼たちはもう我慢の限界というように、二人に向かってその爪を振り上げた。

 

全集中・海の呼吸――

全集中・水の呼吸――

 

その一撃をかわし、汐と炭治郎は深く息を吸った。

 

――弐ノ型 波の綾!!

――肆ノ型 打ち潮!!

 

交差しながら放たれる二対の流れる波のような斬撃が、襲ってきた四匹の鬼の頸を綺麗に斬り落とす。

八等分にされた鬼は宙を舞い、地面に吸い込まれるように落ちていった。

 

(今まで何度も鬼は斬ったけど、こんなに体が動いたのは初めて。やっぱり、鍛錬は無駄じゃなかったんだ・・・)

胸にこみあげてくる何かを抑えるように、汐はぎゅっと袂を握った。

 

やがて鬼の体は灰のようになって消えていく。日輪刀で頸を斬った鬼は骨も残らず消滅する。

汐にとっては見覚えのある光景だが、炭治郎はそうでなかったらしく呆然とその様子を見ている。そしてそっと手を合わせる彼を見て、汐の肩が小さくはねた。

 

(この人は・・・どこまで優しいんだろう。自分も鬼に酷い目にあわされてるはずなのに・・・)

だが、だからこそあの美しい目をすることができるのだろうと、汐はわかっていた。慈しみと悲しみを宿した目。自分とは対をなす、彼の心。

 

「汐、大丈夫か?けがはしていないか?」

鬼への祈りを終えた炭治郎が汐の下に駆け寄る。汐は首を横に振ると、息をついた。

 

「まさかいきなり襲われるとはね。けれど、あたしたちは確実に力をつけてる。けれど油断はできない。もしも、万が一って言葉は決して『ありえない』ってことじゃないから」

「そうだな。それにこの山にどれくらいの鬼がいるかもわからない。気を付けよう」

二人がそう言って息をついたその瞬間。

 

汐の体にを痺れるような気配が、炭治郎の鼻を強烈な匂いが絡みついた。

 

(な、なに!?この刺すような気配!?)

汐が炭治郎の顔を見ると、彼も顔をゆがませながら鼻をつまんでいる。汐が声をかけようとすると、遠くから耳をつんざくような悲鳴が聞こえてきた。

 

「なんで大型の異形がいるんだよ!聞いてないこんなの!!」

どうやら他の参加者が鬼に追われているようだが、その形相が尋常じゃない程の恐怖に歪んでいる。二人はその様子をうかがおうと木の陰からそっと覗いた。その時

 

「「!?」」

 

瞬時に二人の顔に緊張が走る。炭治郎はすぐに木の陰に隠れたが、汐の体は一瞬強張り動けなくなった。そんな彼女の腕を炭治郎は慌てて引き、自分の腕の中に隠した。

 

ずりずりと重いものを引きずるような音がだんだんと近づいてくる。それに伴い、汐と炭治郎の心臓も早鐘のように打つ。

月にかかっていた雲が晴れると、その音の主の全貌が露になった。

 

いくつもの手が複雑に絡み合ったような姿をした、かなりの大きさの鬼だ。頸があると思われる位置には手が巻き付いており、その目は血走り金色の瞳が絶えずぎょろぎょろと動いている。そのあまりの醜悪さに汐は吐き気を覚え、無意識に炭治郎の着物を握りしめた。

片腕につかまれていたのは参加者と思われる血まみれの人間。

鬼はそれを二人の目の前で大口を開けてむさぼる。すると鬼の体がミシミシと音を立てて大きくなった。

 

鬼は二人には気づかずに通り過ぎようとする。先ほど逃げた参加者を追っていたためだ。

そして鬼は腕の一本をゴムの様に伸ばし、先を走る参加者の足をつかんだ。

 

悲鳴を上げて鬼のほうに引き寄せられていく参加者。このままでは間違いなく食べられてしまうだろう。

そんな彼を炭治郎は見捨てることができなかった。そのまま汐が止める間もなく鬼に向かって技を放った。

 

「炭治郎!?」

 

汐は思わず叫んだ。炭治郎の刃は参加者をつかんでいた腕を見事に斬り落としたが、自分の存在が鬼にばれてしまった。

鬼の目が炭治郎を捉える。そして奴は口を腕の中に隠したまま、意地悪く笑った。

 

「また来たな。俺のかわいい()が」

 

「「また?」」

 

鬼の言葉の意味が分からず、二人は同じ言葉を繰り返す。鬼はそれに気づかぬまま炭治郎に向かって声をかけた。

 

「狐小僧。今は、()()何年だ?」

「今は、大正時代だ」

炭治郎は一瞬困惑したが、鬼の問いに素直に答えた。

鬼は「たいしょう?」と小さくつぶやき、目をわずかに動かしたその刹那。

 

アァアアア年号がァ!!年号が変わっている!!

 

突如体中の腕という腕をきしませながら、鬼が叫んだ。足を踏み鳴らし、あちこちを掻きむしり、血飛沫を飛ばしてわめき続ける。

その異様な光景に、炭治郎たちは呆然と鬼を見つめるしかなかった。

 

「まただ!!まただぁ!!俺がこんなところに閉じ込められている間に!アァアアァ許さん、許さんんん!!あいつらめ、あいつらめぇ!あいつらめぇえ!!あいつらめええ!!」

 

その鬼は何度も何度も誰かの名前を恨めしそうに叫ぶ。あいつら誰のことだというと、鬼は興奮したまま二人の名を告げた。

 

「鱗滝ともう一人、大海原(わだのはら)というやつだァ!!」

 

その名を聞いた瞬間、炭治郎と汐に戦慄が走る。鱗滝は勿論だが、新たに出たもう一人の名。彼女の養父、大海原(わだのはら)玄海のことだろう。

炭治郎がなぜ二人の名を知っていると問うと、幾分か落ち着きを取り戻したのか鬼は少し声を落として言った。

 

「知っているさァ。俺を捕まえたのはその二人だからなァ。忘れもしない四十七年前。あいつらがまだ鬼狩りをしていたころだ。江戸時代、慶応の頃だった」

「鬼狩り・・・江戸時代!?」

二人が元鬼殺の剣士だったことを知らなかった炭治郎は小さくつぶやく。だが、それを鋭い声が突如遮った。

後ろの参加者が震える声で叫ぶ。

 

「嘘だ!!そんなに長く生きている鬼はここにはいないはずだ!ここには、人を二、三人食った鬼しか入れていないんだ!!選別で斬られるのと、鬼は共食いをするからそれで・・・」

「でも俺はずっと生き残っている。藤の花の牢獄で、五十人は喰ったなぁ、ガキ共を」

 

五十人!!炭治郎と汐の脳裏に、旅立つ前に鱗滝に言われた言葉がよみがえる。

 

――二人とも、覚えておけ。基本的に鬼の強さは人を食った数だ。肉体を変化させ、怪しき術を使う者も出てくる

 

(ならこいつは、相当力の強い鬼!今のあたしたちで勝てるの・・・!?)

 

汐は唇をかみしめる。手が、体が震える。それは炭治郎も同じようで、刀の切っ先がわずかに震えていた。

そんな二人を嘲笑うかのように、鬼は醜い指を折り曲げながら何かを数えだした。

 

「十二、十三・・・お前で十四だ」

その指が炭治郎の顔を指さす。意味が分からず困惑する彼に、鬼はこの上ない程の醜悪な笑みを浮かべた。

 

「俺が喰った鱗滝の弟子の数だよ。大海原(わだのはら)はそのあと行方知れずになったが、鱗滝はその後弟子を何人か取り続けた。だから俺は決めたんだ。アイツの弟子は皆殺してやる、って」

汐はその目に再び不快感を覚えたが、鬼の言葉が気になった。奴は今()()()()()といった。どういうことだ?

しかし、汐の疑問を知ってか知らずか、鬼はうれしそうに語りだした。

 

「特に印象に残っているのは、二人だな。あの二人。珍しい毛色のガキだった。一番強かった。宍色の髪をしてた。口に傷がある」

その言葉に炭治郎の背中が大きくはねる。鬼はつづけた。

 

「もう一人は花柄の着物で女のガキだった。小さいし力もなかったがすばしっこかった」

今度は汐の背中がはねた。二人とも、彼らにこれでもかというくらいに覚えがあったからだ。

 

その二人の特徴が、錆兎と真菰に完全に一致していた。

 

(嘘だ・・・!真菰が、錆兎が、こいつに喰われていた・・・!?既に、死んでいた・・・!?でも、でも。あたしは確かに真菰とも錆兎とも会った。炭治郎だってそう・・・)

 

「目印なんだよ、その狐の面がなァ。鱗滝が彫った面の木目を、俺は覚えてる。アイツが付けてた天狗の面と同じ彫り方。『厄除の面』とか言ったか?それをつけているせいでみんな喰われた。みんな俺の腹の中だ。鱗滝が殺したようなものだ」

 

――やめて、やめて。これ以上、その先を言わないで

 

「これを言ったとき女のガキは泣いて怒ったな。フフフッ、そのあとすぐ動きがガタガタになったからな。手足を引き千切ってそれから・・・」

 

鬼がその先を続ける前に、炭治郎が動いた。襲い来る無数の腕を斬りながら進む。一見善戦しているように見えるが、その呼吸は乱れている。前しか見えていない。

その隙をついて死角から別の腕が、炭治郎の左わき腹に食い込む。そのまま彼は吹き飛ばされ、大木に背中を激しく打ち付けた。

面が粉々に砕け、炭治郎の傷跡の部分から血が流れだす。そのまま彼は気を失った。

 

いつの間にか参加者は消え、そこには炭次郎と鬼だけが残された。鬼がじりじりと炭治郎ににじり寄る。

 

「フヒヒヒ、また鱗滝の弟子が一人死んだ。奴め、また自分の弟子が帰ってこなくてどんな顔をするだろうな。絶望するか、悲しむか・・・ヒヒヒ、見たかったなあ・・・」

 

鬼は心底うれしいといった様子で腕を伸ばさんと力を込めた。

このままでは炭治郎が死んでしまう!汐の脳裏に、失った人たちの顔が浮かんだ。

 

――やめろ、やめろ!これ以上あたしから、大事なものを奪うな!!

 

鬼が腕を伸ばすほんの少し前に、汐の体が動いた。そして、伸ばされた腕は土煙を上げ、木をなぎ倒す。

 

「ああ?」

鬼が怪訝な声を上げる。土煙が収まった場所にいたのは、炭治郎を抱えたままこちらを睨みつける、青い髪に赤い鉢巻をなびかせ、狐の面をつけた少女がいた。

 

「またいたのか。鱗滝の弟子が・・・ん?」

 

鬼の目が汐の赤い鉢巻に止まる。その色と形に鬼は見覚えがあった。それは、鱗滝とともに自分を捕らえた憎き鬼狩り。

 

「思い出した、思い出したぞ!それは、それは大海原(わだのはら)の鉢巻き!!まさか、まさか大海原(わだのはら)に弟子がいたのか!?奴は生きていたのか!?」

 

鬼は一通り声を荒げた後、今度は嬉しそうにその両目を細めた。

 

「だがこれで、奴にまで復讐できる!奴の弟子を殺すことができる!!ああ今夜はなんていい夜なんだ!!これほどまでにうれしい夜は初めてだああああ!!」

 

鬼の声が高らかに響き渡る。その声は空気を震わせ、汐の肌を粟立たせる。だがそれよりも、炭治郎の身の安全が最優先だ。

汐は持ってきていた布を炭治郎の傷口に当て止血を試みた。

 

「炭治郎、炭治郎!目を覚まして!こんなところで死ぬ気か!あんたが死んだら、禰豆子はどうする!?あんたの、たった一人の家族でしょ!!?」

 

家族。汐にはもういない、固い絆で結ばれた家族。でも炭治郎はそうじゃない。だからこそ、死なせるわけにはいかない。

だが、炭治郎を抱えたまま鬼と戦うのはあまりにも無謀すぎる。現に刀を抜くことすらままならない。

鬼はそんな二人に嘲るような笑い声をあげながら、その腕を伸ばす。舞う土煙。炭治郎を抱えながら必死に逃げる汐。

 

すると、汐の願いが通じたのか、それともほかの何かが働いたのか。

 

炭治郎の両目が力強く開いた。

そして今度は汐を抱えたまま、横に飛んで鬼の攻撃をかわす。

 

「炭治郎!!」

汐はうれしさのあまり声を上げる。炭治郎も汐の姿を見て「来てくれたんだな」と、うれしそうに笑った。

炭治郎は汐からもらった布で傷を拭い、刀を構えなおす。汐も、彼と同じように鬼に向かって刀を抜いた。

 

反撃の刃は、ついに抜かれた。




こそこそ噂話
鱗滝さんは、遊郭に通いつめていた玄海をよく連れ戻しに来ていました。柱合会議をよく忘れるからです。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



そのころ、狭霧山では

 

『ここにいたのか、真菰』

 

名前を呼ばれて真菰はゆっくりと振り返る。そこには、宍色の髪に狐の面をかぶった少年、錆兎が静かにたたずんでいた。

真菰はその姿を一瞥すると、再び顔を前に向ける。

そこには真っ二つに割れたまま水を落とし続ける滝があった。あの日、汐が試練で割ったものだ。

 

『ねえ、錆兎。二人は、汐と炭治郎はアイツに勝てるかな?』

 

真菰の声は滝の音にかき消されることなく錆兎の耳に届く。錆兎はしばらく黙り込んだ後、小さくつぶやいた。

 

『わからない。努力はいくらしてもし足りないんだ。それはお前もわかっているだろう』

『うん・・・でも・・・』

真菰は歯切れの悪い言葉を紡ぐ。それは自分もわかっている、けれど納得できていない。そんな様子さえ感じた。

その理由が推測できた錆兎は、そっと彼女の隣に立った。

 

『信じたいんだろう?あいつを』

『・・・うん』

 

真菰は小さくうなずいた。そしてもう一度、割れた滝を見つめる。その前で必死に刀を振る汐の姿を思い出して。

 

『・・・勝って、汐。信じてるから・・・』

 

真菰の声は、風に乗って空へと流れていった。

 


 

(さて、どうしようか)

 

刀を構えたまま、汐は目の前の敵を見据えた。鬼は早く二人を殺したくてうずうずするように、無数の手を動かしている。

先ほどの炭治郎との戦いを見る限り、あの腕はいくら斬ってもすぐに再生する。それどころか、さらに数を増やされてしまえばこちらが圧倒的に不利になる。

 

考える間もなく、鬼は二人に向かって腕を伸ばしてきた。二人はすぐさま飛びのき、その攻撃をかわす。

炭治郎は先ほどの攻撃で負傷しており、動きが鈍くなっている。このまま消耗戦に持ち込まれれば彼が危ない。

 

鬼が巻き上げた土煙に紛れ、汐は炭治郎の腕を引き木の中に身を隠した。土煙が収まれば、当然二人の姿はどこにもない。

 

「どこだ!?どこにかくれた!?あいつらああああ!!!」

 

二人の姿を見失った鬼は、奇声を上げながら腕を振り回して周りの木々をなぎ倒す。見つかるまではそう時間はかからないだろう。

その間に、奴の対処法を考えなければ。

 

「炭治郎」

汐は炭治郎の止血をしながら声をかけた。炭治郎の目が汐を静かに映す。

 

「アイツの腕は斬ってもすぐに増えるし、手数が増えたらこっちが危ない。だから一気にアイツの頸を斬り落とす必要がある。そこで」

 

――あたしが、アイツの注意を引き付ける。だから、止めはあんたに任せたい。

 

「だめだ!それは許さない!そんなことをしたら君が集中的に狙われるんだぞ!それなら俺が・・・」

 

その言葉を聞いて炭治郎は激しく反対した。

鬼の強さは、炭治郎も身をもって知っていた。だからこそ、賛同するわけにはいかなかった。

 

しかし汐も引かなかった。何か言いたげな炭治郎の口を、汐は親指と人差し指と中指でつまんで黙らせる。

 

「あんたは怪我しているでしょうが。自分自身の体のことが分からない程、あんたも馬鹿じゃないでしょ。別にあんたに逃げろって言ってるわけじゃない。隙をついて、アイツの頸に技をぶちかましてほしいのよ」

 

そういって汐は笑う。しかし彼女から漂う匂いは、不安と恐怖のものだった。それでも必死で抗っている。

 

「だから、お願い。あたしを信じて、任せて」

 

そんな匂いを漂わせても、汐の声には迷いはなかった。その声を聞いた瞬間、炭治郎の心に熱いものが沸き上がった。

――この人は本気だ。本気で、奴に勝つつもりだと。

 

「・・・わかった、君を信じる。だけど、絶対に無茶はするな」

「もちろん。あんたも、しくじったら許さないよ!」

 

そういって汐は右拳を炭治郎の前に突き出す。炭治郎もまた拳を突き出し、それをそっと合わせた。

 

 

*   *   *   *   *

 

 

「どこだ!?どこへ行ったガキども!!鱗滝!大海原(わだのはら)!殺す、殺す!殺す!!」

 

激高している鬼は、あたりかまわず腕を振り回し土煙の帯を上げ続ける。そしてひときわ大きく振り回そうとしたその時。

 

――鬼さんこちら、手の鳴るほうへ

 

透き通るような声があたりに響き渡る。鬼は思わず手を止め、声が聞こえてきたほうに体を向ける。

そこには、刀を持ちあどけない笑みをこちらに向けている汐の姿があった。この場には似つかわしくない表情に、鬼は怪訝そうに目を細める。

 

「どうしたの?あたしを殺したいんでしょ?やってみたら?できるものなら」

そう言って汐は挑発的な視線を鬼に向ける。鬼の体がぶるぶると震えだし目もぎょろぎょろとせわしなく動く。

 

「つべこべ言わずにかかって来いよ。耳まで腐ってんのか下衆野郎」

 

しびれを切らした汐は、吐き捨てるように言った。その声は地を這うようなものだった。その瞬間、

 

「アアアアアアアアアアアアアアアアア!!!!」

 

鬼が咆哮を上げながら、その無数の手を汐に向かって打ち付けてきた。雨の様に降り注ぐ腕が、地面をえぐりその破片を飛ばす。

 

だが、汐はその動きがすべて見えるかのように、攻撃をすべてかわしていた。左右からの攻撃は身をひるがえし、上からの攻撃は地面をすべるように。

その動きはまるで舞を舞っているようにも見えた。

 

(くそう、ちょこまかと動きやがって・・・)

なかなか攻撃が当たらない汐に、鬼はいらいらと頭を振った。だが、こいつは一つ思い違いをしていると鬼は考えた。

(俺の腕が地上に出ているものだけだと思っているな。それは大間違いだ)

 

鬼の別の腕が、地面を進み汐の背後に迫っていた。それを匂いで探知した炭治郎は思わず叫ぶ。

 

「汐、後ろだ!!」

 

汐ははっとした表情をしたあと、すぐに振り返り腕をよける。だが、よけきれなかったのかその一本が顔をかすめ面を吹き飛ばす。

面はそのままどこかへと飛んで行ってしまった。そしてこのせいで炭治郎の居場所が鬼にばれてしまった。

 

(何やってんのよアイツ!これじゃあ隙をつけないじゃない!)

 

鬼は二人の作戦の意図を知り、にやりと笑った。

 

(なるほど、二手に分かれて俺の頸を斬ろうとしていたのか。だが残念だったな。まずは怪我をしている小僧からだ!!)

 

鬼が腕を炭治郎のほうへ伸ばす。炭治郎も迎え撃とうとしているが、刀を構えなおす時間が足りない。

 

「終わりだ小僧!!」

 

鬼が高らかに叫ぶ。炭治郎の顔が悔しげにゆがんだ、その時だった。

 

『どこを見てるの!?こっちだよ!!』

 

その場にいないはずの別の声が響き、鬼と炭治郎の肩がはねる。今聞こえてきた声に、二人は聞き覚えがあった。それは

 

(今の声は、まさか、まさか!?)

 

そんなはずはない、と鬼は目を向けた。今の声は覚えていた。かつて自分に挑み、自分に敗れ喰われたはずの少女の声。

 

――まごうことなき、真菰の声だった。

 

そんなはずはなかった。真菰は確かに自分が殺して食った。それは確かだ。それなのに何故、奴の声がする。

だがいくら探しても声の主はどこにもいない。いるのは赤い鉢巻をした、青髪の少女だけ。

 

――まさか

 

鬼は目を見開き、汐の顔を凝視する。その顔には、してやったりと言いたげな悪戯じみた笑みが張り付いていた。

汐が真菰の声を模写し、鬼の隙をついたのだ。

鬼の腕が頭上から降ってくるが、汐は大きく息を吸った。

 

全集中・海の呼吸

肆ノ型 勇魚(いさな)昇り!!

 

強烈な下段構えの斬撃が、瞬時に腕を吹き飛ばす。その威力に伸ばされた腕が硬直し、彼女に足場を作る。

 

これに完全に動揺した鬼は、炭治郎の存在を失念した。そして彼もまた、後ろから鬼の背中に飛び乗った。

 

全集中・海の呼吸――

全集中・水の呼吸――

 

二つの呼吸音が前後から迫る。すでに鬼の頸は二人の間合いに入っていた。だが鬼は必死に腕に力を籠め頸を守る。

 

(大丈夫だ。俺の頸は硬い。あの宍色のガキでさえ斬れなかった。首を斬り損ねたところで、二人とも握りつぶしてやる・・・!)

 

――(ゆい)ノ型

――水面飛沫(みなもしぶき)!!!

 

二つの刃が鬼の頸を綺麗に穿つ。その斬撃の名残が、いくつもの水しぶきの様に鬼の前に降り注いだ。

 

鬼はその光景に覚えがあった。かつて自分を追い詰め捕らえた憎き鬼狩り。その二人の姿が、目の前の二人に綺麗に重なる。

逆巻く風のような音と、地の底から響いてくるような音。

 

「鱗滝!大海原(わだのはら)!」

 

そして気が付けば、二つの刃は鬼の頸を穿ち落としてた。

 

鬼の頸が地面に転がり、体は灰になり崩れていく。鬼は悔し気に目を動かした。目をそらしたかった。最期に見るのが鬼狩りの顔だなんて・・・

 

だが、鬼が見たのは自分に悲しくも優しい目を向ける炭治郎の姿だった。

 

炭治郎は崩れつつある鬼の体にそっと近づく。そしてそっと、その手を握り祈るように額に押し付けた。

 

――神様。どうか、この人が今度生まれてくるときは、鬼になんてなりませんように

 

汐は何かを言おうと口を開いたが、言葉が出てこなかった。炭治郎の目があまりにも悲しかったからだ。

鬼はそんな彼を見て、大粒の涙を流しながら静かに消えていった。

 

(炭治郎は、鬼にも【人】って言葉を使うのか。今しがた自分たちを殺そうとし、錆兎や真菰を殺した敵なのに・・・。この人の目に、鬼はどう映っているのだろう)

 

今にも泣きだしそうな表情の炭治郎の背中に、汐はそっと触れた。そんな顔を、目を、これ以上彼にさせたくはなかった。

 

「あんたが気に病む必要はない。ここで倒さなかったら、また多くの犠牲者が出てた。あんたは何も悪くない。悪く、ないんだ」

 

だから、そんな顔をしないでよ。そんな目をしないでよ。汐は祈るような思いで彼の目を見据えた。

 

「汐・・・」

 

炭治郎は悲しそうな顔をする汐の手を優しく握った。そして少し悲しみを残した笑顔を彼女に向ける。

 

そして次に思い浮かべたのは、錆兎と真菰の顔だった。

彼らは皆きちんと還ることができただろうか。鱗滝のところへ。

そして炭治郎も、死んだらきっと鱗滝と禰豆子のところへ還っただろうと思った。

 

でも、それはできなかった。今の自分のそばには汐がいる。それでは鱗滝の約束は果たせない。

 

やがて空が白みだし、夜が明けたことを告げた。地獄のような夜が、ようやく終わりを告げたのだ。

 

その後、汐は炭治郎の頭のけがの手当てをした後、滋養のある木の実や山菜を使って簡単な食事を作った。

この間に二人は少しでも体力を回復させなくてはならない。

生き残らなければならないのだ。なんとしても。

 

それからというものの。炭治郎は鬼と遭遇しては、鬼を人間に戻す方法を聞き出そうとした。

しかし鬼たちは彼の思いなど露知らず、おのれの本能を満たそうと襲い掛かってくるやつばかりだ。

 

そんな彼らに刃を振るい続ける炭治郎があまりにも悲しくて、汐の心はずっと痛み続けていた。

 

こんなにやさしい人が、鬼を屠る剣士になる。それはすべて、彼の妹禰豆子のため。

その理不尽さが、彼女の心を突き刺していった。

 

そしていよいよ、最後の日の夜が明けようとしていた。




こそこそ噂話
汐の技の波の綾とは、さざ波を織物に見立てた言葉。
勇魚とは鯨の古い呼び方です


アンケートのご協力ありがとうございました。参考にさせていただきました


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



七日目の早朝。二人は満身創痍になりながらも、ようやく藤の花が咲き乱れる始まりの場所へたどり着いた。

そこには既に他の参加者たちが集まっていたが、その数に汐と炭治郎は驚いた。

 

(たったの、五人?)

そう。その場にいたのは汐たちを含めて五人しかいなかった。あの夜に炭治郎が命がけで助けた参加者も、その姿がなかった。

落ち込む炭治郎の背中を、汐は叩く。少しでも、彼に悲しい目をさせたくなかったからだ。

 

汐達以外に生き残った参加者は、蝶と戯れる同じく蝶の髪飾りをした少女。(驚くことに、傷も汚れも一切なかった)

不吉な言葉を呟きながら震える、黄色い髪の少年。目つきが鋭く、特徴的な髪形をした少年だった。

 

「おかえりなさいませ」

「おめでとうございます、ご無事で何よりです」

 

最初の夜に選別試験の説明をした二人の少女がどこからか現れた。

正直なところ無事とは言い難いが、今はそのような軽口を叩く余裕などなかった。

 

「で?俺はこれからどうすりゃいい?刀は?」

ただ、特徴的な髪型の少年はそう二人に問いかけた。

 

しかし二人の少女はそれには答えず、読めない表情のまま淡々と話し出した。

 

「まずは隊服を支給させて戴きます。体の寸法を測り、その後は階級を刻ませていただきます」

「階級は十段階ございます。甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸。今現在皆様は、一番下の癸でございます」

 

少女たちが告げた階級に、汐は聞き覚えがあった。確か、暦を表す【十干】と呼ばれるものだったっけ?

 

「刀は?」

先ほどの少年が語気を強めて尋ねる。さっきからうるさいなと汐はわずかに顔をしかめた。

 

「本日中に玉鋼を選んでいただき、刀が出来上がるまで十日から十五日となります」

 

少年は自分の目論見が外れたのか、いらいらとした様子で頭を振る。

 

「更に、今からは【鎹鴉】をつけさせていただきます」

 

銀髪の少女が両手を打ち鳴らすと、空から鴉が舞い降りそれぞれの肩や腕に止まる。

一人だけ、黄色の髪の少年だけはなぜか雀だったが。

 

「鎹鴉は、主に連絡用の鴉でございます」

 

汐の腕に止まった鴉は、間延びした声でゆったりと鳴いた。

 

その時、

 

「ふざけんじゃねえ!!」

突如怒声が響き、鴉の切羽詰まった鳴き声が響く。何事かと思い振り返ると、先ほどの少年が鴉を乱暴に振り払い銀髪の少女に詰め寄る。

そして少女の顔を殴りつけ、髪を乱暴につかんだ。

 

「どうでもいいんだよ!鴉なんて!刀だよ刀!今すぐ刀をよこせ!鬼殺隊の刀、【色変わりの刀】!!」

(ちょっ、アイツ何やってんの!?)

汐が驚いている間に炭治郎がすぐさま駆け寄り、髪をつかんだままの少年の腕を乱暴につかんだ。

 

「この子から手を離せ!放さないなら折る!」

「ああ?なんだテメェは?やってみろよ!」

 

少年は炭治郎に視線を向けると、乱暴に言い放った。

炭治郎は何も言わず、小さく息を吸う。その後、炭治郎がつかんでいた腕からミシリという嫌な音が聞こえた。

 

「ぐっ……!?」

少年は小さくうめいて少女から手を放す。腕を抑えている様子から、炭治郎は本当に腕を折ったようだ。

 

「大丈夫!?」

汐は直ぐに少女に駆け寄り、傷の具合を見る。殴られたときに口を切ったらしく血がこぼれている。汐は残っていた綺麗な布で少女の口元をぬぐった。

少女は呆然と汐を見ていたが、布を当てる手を静かに抑え「御心配には及びません」と、小さく答えた。

 

「お話は済みましたか?」

黒髪の少女が淡々と問いかける。まるで先ほどの出来事などなかったかのような振る舞いに、汐は違和感を覚えた。

 

黒髪の少女は用意してあった台にかけられていた紫の布を取る。そこにはさまざまな大きさ、色、形の石のようなものが並べられている。

 

「ではあちらから、刀を作る玉鋼を選んでくださいませ。鬼を滅殺し、己の身を守る刀の鋼はご自身で選ぶのです」

 

汐は他の者と同じく台の前に立ち、ずらりと並ぶ玉鋼を見つめた。

正直、どのようにして選べばいいのかわからない。玉鋼自体を彼女は初めて見るし、その基準など全くわからない。

汐の隣にいた先ほどの少年も、困惑したように呟き、炭治郎も目に迷いを浮かべている。

 

ただ、汐は先ほどから妙な感覚を覚えていた。玉鋼のほうから何かが聞こえる。

それは音のようでも声のようでもあり、一番近い言葉を選ぶなら【歌】のようなものが聞こえた。

(もしかして、あたしを呼んでいるの?)そんな感覚さえ、汐は感じた。

 

汐が動くと同時に、炭治郎も動く。二人は並んだまま、おのれが感じた玉鋼に手を伸ばした。

 

*   *   *   *   *

 

 

 

「炭治郎~、生きてる?」

「な、なんとか・・・」

その後、参加者たは隊服を受け取るとそれぞれの帰路に就いた。七日間の生存競争を生き残った二人の疲労はすさまじく、特に炭治郎は支えがなければまともに歩けない状態だった。そんな彼の肩を、汐は担いで必死に前に進む。

 

そんな中、突然炭治郎が口を開いた。

 

「なあ、汐。俺、ちゃんと前に進めてるかな?」

「いきなりどうしたの?」

「鬼を人に戻す方法、ちゃんと聞けなかった。どの鬼もまともに話を聞けなかった。このまま、禰豆子を助ける方法が見つからなかったらどうしよう・・・」

 

珍しく弱音を吐く炭治郎に、汐は小さくため息をついた。

 

「疲れてるといろいろ悪いことばっかり考えるのよ。今はさっさと帰って鱗滝さんに元気な顔を見せる。それからおいしいものを食べてゆっくり寝る。あんたがするべきことはそれ。そのあとゆっくり考えればいいじゃない」

「でも・・・」

「そりゃあ、あんたの気持ちもわかるけど、あんたが駄目になることを禰豆子が望むわけないでしょ。あの子のことを本当に思うなら、まず自分を大事にしないと。まあ、あたしが言えた義理じゃあないけどさ。あたしもさんざん無理して周りに迷惑をかけたしね」

 

そう言って汐は自嘲気味に笑う。炭治郎は呆然と汐の横顔を見つめた。夕日に照らされた彼女の横顔、そして彼女から香る優しい潮の匂い。

思わず涙がこぼれそうになった彼は、それに耐えるように目をつぶった。

 

結局鱗滝の小屋へ戻ってきたのは日が暮れた後だった。ついたとたん、疲労が一気に襲い頭がぼんやりとしてくる。

すると、突然小屋の扉がガタガタと揺れたかと思うと、すさまじい音を立てて扉が吹き飛んだ。

唖然としている二人の前に現れたのは

 

――眠っていたはずの禰豆子だった。

 

「ね・・・ね・・・ず・・・こ?」

炭治郎の口がゆっくりと動き、体が震えだす。固まったまま動かない彼の背中を、汐は思い切り叩いた。

悲鳴を上げて顔をこわばらせる炭治郎に、汐は朗らかに笑って言い放つ。

 

「ほら、何ぼーっとしてんのよ。早くいけバカタレ」

 

炭治郎はそのまま禰豆子のなを呼びながら掛けていく。途中で足がもつれて転んでしまったが、そんな彼に禰豆子は駆け寄りその体を抱きしめた。

 

炭治郎の目から大粒の涙があふれだし、禰豆子をぎゅっと抱き返す。声を上げて泣く彼を見て、汐の目にも涙が浮かんだ。

 

(よかったね、炭治郎。本当に、よかった・・・)

 

なんとなく近寄りがたい雰囲気だったため、汐はその光景を少し離れた場所で見ていた。すると、禰豆子がこちらの気配に気づいたのか汐のほうに顔を向けた。

 

初めて視線がぶつかり、汐の体がわずかに強張った。やはり彼女の目は、人間のもとは異なっていた。

禰豆子の薄桃色の瞳が、汐を静かに映す。まるで探るような視線に汐の体が小さく震えたが、そのまま彼女は笑顔を浮かべた。

 

「初めまして、禰豆子。あたしの名前は汐。大海原汐っていうの。あんたの兄ちゃんの、その・・・友達よ」

禰豆子はそのままゆっくりと汐に近づく。後ろから炭治郎が禰豆子を呼ぶが、禰豆子は構わず汐のそばに寄った。

 

(大丈夫、大丈夫。この子は違う。この子は、禰豆子は、ほかの鬼とは違う。だって、こんなにも・・・)

禰豆子はしばらく汐の顔を見ていたが、やがてその両手を静かに伸ばし

 

――汐の両頬を包むようにそっと触れた。

その手が驚くほど温かくて、そしてその目が兄同様とても美しくて、汐の両目から涙があふれだした。

こんな目をする鬼を、見たことがあっただろうか。こんな優しい子を、こんな目をする子を、自分は殺そうとしたのか。

いろいろな感情がせめぎあい、汐は思わず禰豆子の手を握りしめた。

 

「ごめん、ごめんなさい!あたし、あたしあんたになんてことを・・・!あんたの事、何も知らないくせに酷いことをしようとした!!ごめんなさい!ごめんなさい!!禰豆子!!!」

 

泣き叫ぶ汐の頭を、禰豆子は優しくなでた。まるで小さな子をあやすようなその仕草に、汐の鳴き声がさらに大きくなる。

炭治郎もたまらなくなり二人のそばに駆け寄ると、禰豆子と汐を抱きしめ彼も泣いた。

そして、その様子に気づいた鱗滝も駆け寄り、三人を抱きしめる。

 

「よく、よく生きて戻った!二人とも・・・!!」

 

面越しに彼の目からも涙があふれだす。そのまま四人は抱き合ったまましばらく泣き続けた。

 

その夜更け、鱗滝は寝室の扉をそっと開け、その光景に面越しに笑みを浮かべる。

 

そこには禰豆子を中心に、左側に炭治郎が、右側に汐が川の字の様に並んで眠っている。二人ともそれぞれ禰豆子の手を握っていた。

 

鬼を憎み、その殺意におぼれそうになった汐が、鬼である禰豆子を心から受け入れたことに、鱗滝はうれしさを隠しきれない。それもこれも、炭治郎と禰豆子の存在が大きいだろう。

 

「玄海・・・看ているか?」

 

鱗滝は扉を閉め、窓越しから見える月を見上げた。

 

「今日お前の娘が、鬼殺の剣士になったぞ・・・」

 

鱗滝の脳裏に、あの日のことがよみがえる。昔、彼らが鬼狩りをしていたあの日のことだ。

 

――なあ、左近次。もしも俺たちにガキができたらよォ、ぜひとも会わせてやりてえな。いい刺激にもなるだろう。男女ならなおさらな

――いきなり何を言っているんだお前は

――いいじゃねえか、これぐらい。そしてその成長を俺たちで見届けるんだ。お前と俺の、二人でさ

 

 

 

「言い出した約束を自分から破り先に逝きおって・・・馬鹿者が・・・!」

 

鱗滝の小さな精いっぱいの罵声が、静かな夜に少しだけ響いた。




おまけCS
汐「お、終わった・・・。死ぬかと思ったわ」
炭「本当だな。特にあの大きな鬼。アイツと出会ったときは本当に危なかった」
汐「まったくよ。あんた、いきなり飛び出ていくんだもの。心臓が口からまろび出るところだったわ」
炭「心配させてごめん。でも、あの作戦はすごかったな!まさか真菰の声で隙を作るなんて」
汐「声帯模写はあたしの特技の一つなの。真菰の声は何度も聞いていたから覚えてた。まさかこんな形で役に立つなんてね」
炭「他にはどんな人の声が出せるんだ?」
汐「覚えた声ならほぼ全員出来るよ。例えば『進め!男に生まれたならば!!』」
炭「おお!錆兎だ!」
汐「『炭治郎!判断が遅い!!』」
炭「今度は鱗滝さん!?」
汐「『俺は、禰豆子を人間に戻すためなら何だってできる!』」
炭「えええ!?俺まで!?本当にすごいんだな汐は」
汐「褒めたってなにも出ないわよ。あ、それより今思い出したんだけど、錆兎の奴。あたしを男だと勘違いしたこと謝ってない!今度会ったら絶対に一発殴ってやる!」
炭「まだ根に持ってたのか!?」


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



 

 

 


 

試験から十五日ほどたった後。

雲一つない晴天の下、汐は洗濯物を物干しにかけ一息ついたところだった。

道の向こうから、二人の人物がこちらに向かって歩いてきていた。

 

一人は江戸風鈴を下げた編み笠をかぶったひまわりのような羽織を纏った者。もう一人は南部風鈴を下げ、金盞花の羽織を纏った隣の者よりも背が低い者。

二人ともひょっとこの面をつけ、その背中には、大きなものを背負っている。

 

「炭治郎!炭治郎!!来たよ!あたしたちの刀!!」

 

汐が大声で呼ぶと、炭治郎はすぐさま外に出てくる。

 

「俺は鋼鐵塚という者だ。竈門炭治郎の刀を打ち持参した」

江戸風鈴の男は名を名乗り、炭治郎の前で足を止めた。

 

「お初にお目にかかります、皆様。自分は鉄火場(ほむら)と申します。大海原(わだのはら)汐殿の刀を打ち馳せ参じました」

南部風鈴の男も名を名乗り、汐の前で足を止める。

 

「あ、どうも。大海原(わだのはら)汐です」

汐が名乗ると、鉄火場は深々と頭を下げる。それから汐が中に通そうとすると、隣では鋼鐵塚が座り込み刀の説明を始めてしまう。

困惑する二人に、鉄火場は小さくため息をついていった。

 

「申し訳ない。あれは人の話を全く聞かぬ唐変木なのです。しかし、こう人さまの家の前で座り込まれてはたまりませぬので」

そう言ったかと思うと、鉄火場は袂から小さな木槌を取り出すと、鋼鐵塚の頭を思い切り叩いた。

 

目の前で起きたとんでもない光景に、二人は目を点にしたまま固まる。これには流石の鋼鐵塚も話をやめ、頭を押さえて鉄火場を睨みつけた。

 

「おい貴様。人が話しているときに頭をたたくとはどういう了見だ?」

「どうもこうもありません。人さまの家の前でみっともなく座り込んで駄弁を弄する不届き物よりは、幾分かましかと」

怒りの声を上げる鋼鐵塚に対して、棘のある言葉を返す鉄火場。一触即発の事態が起こる寸前、その助け舟を出したのは鱗滝だった。

 

「相も変わらず仲が悪いことだ」

 

鱗滝の姿を認識した鉄火場は深々と頭を下げる。そして、鋼鐵塚の無礼を心からわびたのであった。

 

それから二人は小屋の中に通され、一通りの説明を受けた。

日輪刀。それは太陽に一番近い山でとれた【猩々緋砂鉄】と【猩々緋鉱石】でできた日の光を吸収する鉄でできたもの。

それを刀に打つのが鉄火場と鋼鐵塚の仕事だという。

 

すると、鋼鐵塚が突然炭治郎を見て驚いたように言った。

 

「お前【赫灼(かくしゃく)の子】じゃねえか。こりゃあ縁起がいいなあ」

「いや、俺は炭十郎と葵枝の息子です」

「そういう意味じゃないでしょ、流れで」

 

見当違いの答えを返す炭治郎に、汐はすかさず突っ込む。

 

「赫灼の子というのは、赤みがかかった髪と目の色をした子供のことです。火の仕事をしている家にこのような子が生まれると、とても縁起がいいと言われているのですよ」

鋼鐵塚に変わって鉄火場がそう説明する。炭治郎はそれを知らなかったらしく、自分の髪をつまんでみていた。

 

「じゃあ、青い髪のあたしは何の子なの?」

ついでに汐も聞いてみると、鉄火場も鋼鐵塚も首を横に振った。

 

「申し訳ありません。自分にはわかりかねます」

「そもそも青い髪の人間なんて聞いたことねえよ」

鋼鐵塚は興味がないといったように言い放ち、再び鉄火場が木槌でたたく。このままではらちが明かないため、鱗滝は刀を見せるよう催促した。

 

二人の鍛冶師は二人にそれぞれの刀を手渡す。日輪刀は別名【色変わりの刀】ともいわれ、持ち主によって刀身の色が変わるという。

 

「さあさあ、刀を抜いてみな」

 

鋼鐵塚に促され、二人はゆっくりと鞘から刀を抜く。

すると、炭治郎の刀がみるみるうちに黒く染まっていった。

 

「おおっ!」

 

炭治郎が驚きの声を上げ、それを見た鋼鐵塚と鱗滝も目をみはった。

 

「くろっ!?」

「黒いな」

 

二人の話によると、このように漆黒の日輪刀はあまりみないらしく、当てが外れた鋼鐵塚は激しく取り乱していた。

しかも炭治郎が年齢を聞くと、齢三十七だという。年齢にそぐわない大人げない行動をとる彼に、鉄火場は容赦なく木槌を振るった。

 

「貴様・・・いい加減にしろよ。俺の頭を何度も何度もたたきやがって・・・何か恨みでもあるのか?」

「貴方の行動がいちいち幼稚すぎるのです。そのようなことだから、嫁が来ないのですよ」

 

鉄火場の容赦ない言葉に、鋼鐵塚はますます頭から湯気を噴き出した。

 

一方、汐の日輪刀は

 

「これは・・・」

 

汐の刀は美しい紺青色へと変化していた。その風体に、鉄火場は満足そうにうなずく。

だが、汐が少し刀を動かした瞬間、全員が思わず息をのんだ。

 

紺青色の刀が、淡い青へと変化したからだ。

更に傾けると、今度は鮮やかな翠玉色。そして別方向に傾ければ薄い水色と次々に色が変化していった。

 

「なんという・・・」

皆言葉なく、色とりどりに変化する刀にくぎ付けになる。先ほどまで取り乱して炭治郎に技をかけていた鋼鐵塚も、思わず動きを止めそれを見つめていた。

 

「あの、これってどういう・・・?こんなことってあるものなの?」

 

汐の言葉に、炭治郎を除く全員が首を横に振った。

 

「普通日輪刀は一度色が変われば永久的にその色に固定される。決して後から変わることはない。だが、これは・・・」

 

「失礼いたします」

鉄火場は汐から刀を受け取ると、傾けながらしげしげと見つめた。

 

「角度を変えるたびに色が変わっているように見えます。まるで、波打つ海のような・・・」

 

鉄火場はうっとりと色が変わり続ける刀に魅入る。が、本来の目的を思い出し小さく咳払いをした。

 

「刀に問題はなさそうなので、このままお使いいただけます。しかし、このようなことは前代未聞。この先どのようなことが起こるのか、自分にはわかりません。大変失礼化とは思いますが、興味深い事例なのでこちらで少々調べさせていただきますね」

 

そう言って彼は鞘に納めてから汐に刀を返す。そして鱗滝のほうを見た。

 

「しかし驚きました。大海原(わだのはら)という名を聞いた時からもしやとおもいましたが、彼女は玄海殿の・・・」

「ああ、娘だ。そして弟子でもある」

「そうでしたか・・・。なんというか、運命のようなものを感じますね」

 

鱗滝の言葉を聞き、鉄火場は納得したようにうなずく。話が見えず困惑する汐に、鱗滝は口を開いた。

 

「玄海の刀を打ったのは、こやつの師の【鉄火場仁鉄】だ。奴は刀をよく破損しては仁鉄にどやされていたな。それで、奴は息災か?」

 

その言葉を聞くと、鉄火場は首を横に振り「師匠は1年ほど前に亡くなりました」とだけ答えた。

その場が水を打ったように静かになる。鱗滝はそれを聞き「そうか・・・」と答えた。

 

「玄海殿がお亡くなりになられたことは存じております。そのせいでしょうか。師匠も後を追うように突然逝ってしまわれたのです。自分に全てを叩き込んでから」

ですから、と。鉄火場は汐のほうに顔を向けていった。

 

「玄海殿のご息女であり弟子である貴女に刀を打てたことを、自分は誇りに思います。どうか、どうかその刀を、大事にしてやってくださいませ」

 

そう言って鉄火場は汐に深々と頭を下げた。汐も「大切に使いますね」と答え頭を下げた。

と、その時だった。

 

「カァ!カァ!竈門炭治郎ォ!北西ノ町ヘ向カエ!!」

炭治郎の鎹鴉がけたたましく鳴き、炭治郎に怒鳴りつけた。

 

「カァ~カァ~。オ仕事デスヨォ~。大海原(わだのはら)汐。貴女ハ南東ノ町へ行ッテクダサイネェ~」

一方汐の鎹鴉は、間延びした声で羽をはばたかせる。

 

「どうやら二人の初任務のようだな。だが、方向が違うということは」

「別の場所での任務ってことね」

「じゃあしばらくお別れってことか・・・」

今までずっと共に戦ってきた炭治郎とのしばしの別れ。わかってはいたものの、いざその時が来ると汐は少し寂しさを感じた。

しかも、これから行うのは文字通り、命を懸けた危険な仕事。一歩間違えれば死んでしまってもおかしくない。

 

ならば

 

「あ、ねえ。あたし一つやってみたいことがあるんだけど」

 

汐の突然の提案に、炭治郎をはじめ皆が何事かと首を傾げた。

 

「せっかく刀も届いたことだし、一度やってみたいと思ってね。炭治郎は知ってる?金打(きんちょう)って」

 

金打(きんちょう)、という言葉を聞いて炭治郎を除いた三人の方がはねる。

 

「ほう。お前、ずいぶん渋いことを知っているのだな」

「あの、金打(きんちょう)というのは?」

「約束を守るために、刀の刃と刃を打ち合わせることだよ。絶対に破れない誓いの証だって、昔おやっさんが言ってた」

 

約束、誓い。汐の言葉を聞いて、炭治郎の顔が引きしまる。自分たちがこれから行うことの意味を、改めて理解したからだ。

 

「ならばすぐに隊服に着替えろ。それから行えばいい」

 

 

二人はすぐさま隊服にそでを通した。真っ黒な布地に、背中には【滅】の文字が刻まれたもの。

きちんと採寸されていたためか、服は寸分の狂いもなく二人の体を包む。

 

この隊服は特別な繊維でできており、通気性がよくそれでいて濡れにくく燃えにくい。そして弱い鬼の爪や牙程度では引き裂くこともできない程の強度を持っている。

二人はその隊服の上から、それぞれの羽織を身にまとった。

炭治郎は緑と黒の市松模様。そして汐は、濃い青色に浮世絵の波のような文様が描かれたものだ。

 

更に、炭治郎と禰豆子の為に、鱗滝が贈り物をくれた。昼間、日の下に出ることができない禰豆子を背負うために作られた箱だ。

これは【霧雲杉】という、非常に軽くて硬い木でできており、さらに【岩漆】という特殊な塗料を塗ってあるため強度も上がっている。

二人がいつも共にいられるようにと、彼の心づかいの証だ。

 

そして二人は向き合い、互いの刀を抜くと、その刃をそっと合わせた。

澄んだ金属音が、刃を合わせたところから小さく響く。その音を聞き、二人は互いの目をじっと見据えた。

 

(必ず生きて、また会おう!)

 

二人の固い誓いは、今この瞬間確かに立たれたのであった。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

幕間その弐
幻の柱


刀が到着する十五日間の間の出来事


汐と炭治郎が選別試験から帰還した三日後の夜。

 

「ねえ、鱗滝さんに聞きたいことがあるんだけど」

 

夕餉を終え一息ついたころ、汐は唐突に鱗滝に尋ねた。彼が何事かと怪訝そうに尋ねると、汐は真剣な表情で口を開いた。

 

「鱗滝さんは昔おやっさんと一緒に鬼狩りをしていたんだよね?昔のおやっさんってどんな人だったの?」

 

汐の問いかけに鱗滝は少し迷ったように首を傾げた。だが、意を決したように彼女の顔を見る。

 

「そうだな。お前には話しておくべきだな」

 

そう言って鱗滝は座り直し、汐に向き合った。

その時、入浴を終えた炭治郎が小屋へ戻って来た。そして向き合っている二人を見て、慌てた様子で寄ってくる。

 

何事かと尋ねれば、汐が養父玄海のことを聞きたいと言ったので話すところだと鱗滝は答えた。

正直なところ、炭治郎も少しばかり興味があった。

鱗滝の友人でありともに戦った、汐の養父大海原玄海。一体どんな人物なんだろうか、と。

 

「炭治郎も聞きたい?おやっさんのこと」

「え?まあ、興味はあるけど、俺も聞いていいのか?」

「むしろなんでそんな質問が出るのよ。いいに決まってるじゃない。無関係なわけじゃないんだし」

 

汐に促され、炭治郎は彼女の隣に座る。鱗滝は二人を一瞥した後、静かに口を開いた。

 

「大海原玄海。奴を一言で言ってしまえば――」

 

 

 

――とんでもない男だ

 

 

いきなりそんなことを言い出す彼に、二人の目が点になる。思い出があふれだしてきたのか、鱗滝の口から流れるように言葉が飛び出す。

 

「週の殆どを遊郭通いに費やし、大事な会議には遅刻。上官には無礼な態度。酔って日輪刀を売ろうとしたこともあった!さらにひと月分の給金をあっという間に使い切り、飯代すらなく儂から何度金を集ったことか・・・!」

 

思い出すだけで腹立たしいというかのように、鱗滝の拳が震える。炭治郎も彼から怒りとあきれの匂いを感じ取り、それが真実であることを悟る。

 

炭治郎の中で自分が想像していた大海原玄海の像が、木端微塵に砕け散る。自分がこうなのだから、当事者である汐はどんな気持ちだろう。

そんな思いで隣の彼女に目を向けると、その体はわなわなと震え、拳を固く握りしめていた。

 

「そんな・・・そんな・・・おやっさん・・・」

 

無理もないだろう。自分が敬愛していた師が、そんなろくでもない男だったと聞いて、動揺しないはずがない。と、炭治郎は思っていた。

汐の次の言葉を聞くまでは

 

「そのころからクズだったのかよ!!!あの好色ジジィ!!」

 

汐の大声に、炭治郎はびくりと体全体を震わせる。震えていたのは動揺していたからではなく、ただ怒っていただけだ。

 

「口を開けば女の話ばかり!村人にどれだけ借金してたかわかりゃしないし!あたしが今までどれだけ苦労したか!!若いころは名のある剣士だったって聞いて、しかもすごい鬼狩りだったって聞いて期待してたのに!!結局何にも変わってねーじゃねーかァァ!!!」

「お、落ち着け汐!殺意!殺意引っ込めて!!」

 

あまりの怒りに暴れだす汐を、炭治郎は必死に押さえつける。瞬時に混沌と化した空気を一掃するように、鱗滝は大きく咳払いをした。

 

「確かに、奴の人間性には大きな難がある。だが、その実力は本物だった。現に、奴は鬼殺隊の中でも最高位である【柱】の役職についていたからな」

「「柱??」」

 

鱗滝の話だと、鬼殺隊には階級があり、その中でも一番高い称号が柱と呼ばれているとのこと。かつて鱗滝もその地位につき、玄海とともに多くの鬼を狩ったといった。

 

その話を聞いているうちに、汐の中で一つの疑問が沸き上がる。それは、最終選別で戦った鬼が口にしていた【大海原が行方知れずになった】という話だ。

 

「ねえ鱗滝さん。あたし、試験中に鬼から聞いたんだけど。おやっさんが行方不明になったってどういうこと?」

 

この問いかけに、鱗滝の肩が小さくはねるのを汐は見逃さなかった。鱗滝は、確実にそのことを知っている。

 

「・・・実は、奴が、玄海が柱であった期間は、僅かひと月だったのだ」

「え?たったのひと月?」

「ああ。あの日、儂と奴で試験用の鬼を捕らえていた時のこと。玄海に勅命、緊急の任務が入り奴はそのまま向かった。儂が生きている玄海と会ったのは、それが最後だった」

 

鱗滝は顔を少しばかり伏せた。それはまるで、あの日のことを後悔しているようだった。

 

「その後はしばらく音信不通だったのだが、ある日。奴の鎹鴉から手紙が届いた。そこにはこう書いてあった」

 

――左近次。俺は柱を降りる。いや、鬼殺の剣士をやめる。俺の守るべきものは、そこでじゃ守れねえ

 

「手紙にはそれだけが記されており、それ以降奴の足取りは全く分からなかった。それから次に奴の手紙が届いたのは・・・」

「俺がこの狭霧山にきて半年たった、あの日ですね」

 

炭治郎の言葉に、鱗滝は深くうなずいた。

 

「儂はあの日のことをずっと悔やんでいた。何故、あの時奴を無理にでも引き止めなかったのか。もしそうならば。奴はまだ柱として儂とともにいたのかもしれん、と。だが、時を巻いて戻す術はない。すべてはもう、終わってしまったことだ」

 

「終わりじゃない」

 

そんな鱗滝の言葉を、汐が鋭く遮る。

 

「勝手に終わらせてもらっちゃ困るわ。あたしはまだ、おやっさんの無念を晴らしてないし、おやっさんはもともと自分勝手なところがある人よ。鱗滝さんが悪いんじゃない。だから、そんなことを言わないで。きっとおやっさんだって、そんなことを鱗滝さんに言って欲しくなんてないはずよ」

 

汐は凛とした表情で鱗滝を見据える。鋭く、そして澄んだ目が彼を射抜き昔の記憶をよみがえらせる。

 

――勝手に終わらせるんじゃねえよ、左近次。お前が悪いんじゃねえ。二度とそんなふざけたことを言うんじゃねえぞ。

 

 

(お前も、玄海と同じことを言うのだな。さすがは、奴の娘だけのことはある)

 

その表情が彼としっかり重なり、面の下で鱗滝は満足そうに笑みを浮かべた。

そうだ、終わりなどではない。奴の遺志はしっかりと目の前の少女に受け継がれている。

炭治郎に然り、汐に然り、禰豆子に然り。彼らにはきっと成し遂げられる力がある。

 

そう、信じていたかった。

 

夜が更け、汐は布団の中で考えた。鱗滝に聞いたことが、どうも引っかかっていた。

 

(おやっさんは守るものの為に鬼殺隊を止めた。しかも、柱っていう一番上の地位までも捨てて。じゃあ、あたしを海で拾ったときは、おやっさんはすでに鬼殺隊を止めていたってこと?)

 

鱗滝に聞いて謎が解けると思ったのだが、それは新たな謎を増やしたに過ぎなかった。

けれど、同時に彼が今と全く変わっていなかったことに、驚きとうれしさ。そして呆れを感じた。

 

「まったく、昔っから人に迷惑かけてたんじゃない。何が仲間は大切にしろ、よ」

 

でも。おやっさんに出会わなかったらきっと今の自分はいなかっただろう。そして、新しい仲間達と出会うこともなかっただろう。

 

(おやっさん。看てる?あたし・・・)

 

 

仲間が、出来たよ・・・

 

心の中でそう呟きながら、汐は眠りにつくのだった。

 

 

 

*   *   *   *   *

 

その夜。鱗滝は夢を見ていた。

 

『左近次。てめー、汐に全部ばらしやがったな』

 

玄海が眉間に皺を思い切り寄せながら、鱗滝を睨み付けている。あの日、別れたばかりの姿で、彼はいつもの通り悪態をついた。

 

『余計な事をべらべらと喋りやがって。先に逝っちまった俺への当て付けか?ったく、いい性格してやがるぜ』

 

玄海は頭をかきながら困ったように眉を寄せる。そして鱗滝に向かって、試すような口ぶりで告げた。

 

『ここまで俺のことをボロクソに言いやがった責任を取ってもらうぜ左近次。理不尽?ふざけんじゃねえよ、当然だろうがボケ』

 

そう言って玄海は、この上ないくらい意地の悪い笑みを浮かべたかと思うと、急に真面目な声色でつづけた。

 

『汐を、アイツを頼む。やかましくて強がってはいるが、いろんなものをため込んじまう癖がある。何も悪くないのに手前(てめえ)が悪いと思い込んじまうところがある。知らず知らずのうちに自分を傷つけちまうんだ。そんなどうしようもないバカ娘だが、困っている奴を放っておけないお人よしだ。そんなやつを、俺は置いてきちまった。今更こんなことを頼める義理じゃあねえが、もう俺にはお前しかいねえんだ。頼むな、(ダチ)公』

 

それだけを言うと、玄海の姿はみるみるうちに霧の中へと消えて行ってしまった。

 

「玄海!!」

 

鱗滝は思わず叫び、布団から飛び起きた。汗が寝間着を濡らし、息も激しくなっている。

気が付けば朝陽がちょうど顔を出し始めているところだった。

鱗滝はそっと汐が眠っている部屋を覗く。彼女は規則正しい寝息を立て、あどけない顔で眠っていた。

 

その様子を見て、鱗滝は小さくつぶやく。

 

「安心しろ、玄海。お前の娘は強い。そして、とてもやさしい子だ。必ず、必ず責任を持って面倒を見よう」

 

だから、見守ってやってくれ。

 

零れた一筋の雫を隠すように、彼は天狗の面をつけるのであった。




おまけCS
鱗「汐。そろそろ昼飯だ。準備を頼む」
汐「うん、わかったよ!おやっさん」
鱗「!」
汐「え?あ、ああ!ごめんなさい!あたしったらつい・・・」
鱗「汐。お前は奴を、玄海をそう呼んでいたのか」
汐「うん、そうだよ」
鱗「・・・もし、もしもお前がいいなら、儂のこともそう呼んでも構わんぞ」
汐「・・・ありがとう、鱗滝さん。でもね、あたしにとっておやっさんって呼べるのは世界で一人だけなんだ。だから、ごめんね」
鱗「いや、儂のほうこそ愚問だったな、すまん」
汐「ううん、いいの。鱗滝さんの気持ちはとってもうれしいから。あ!じゃあ、おじいちゃん・・・っていうのは・・・どう?」
鱗「いや、さすがにそれは遠慮したい」
汐「そっかぁ、そうだよね。ごめんなさい」
鱗(別に悪いわけではないが、なんとなくこそばゆいのでな。すまん、汐)


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

星空の音楽会

刀が到着する十五日間の間の出来事


汐と炭治郎が無事に帰還し、禰豆子も目覚めてから七日後。

 

「あれ?禰豆子がいない・・・」

夜の帳が降り、月明かりだけが照らす夜。炭治郎は寝床に禰豆子の姿がないことに気が付いた。

それと同時に外から聞こえてくる、透き通るような歌声。

「この声は、汐だな。もしかして、また二人で一緒にいるのか?」

炭治郎はそのまま外に出て、歌声が聞こえるほうへ歩みを進めた。

そこには、岩に座って歌を披露する汐と、それに合わせて小刻みに体を揺らす禰豆子の姿があった。

 

あの日から二人はすっかり仲良しになり、夜になればこうして二人でいることが増えた。

特に彼女の歌を禰豆子はとても気に入ったらしく、歌をせがむようになったくらいだ。

 

ひとしきり歌い終えると、汐は炭治郎の姿に気づく。彼もまた禰豆子を挟むように隣に座ると、一面の星空を見つめた。

 

「禰豆子、すっかり汐の歌が好きになったみたいだな」

「そうみたい。もう何回歌ったか忘れちゃったわよ」

汐はそういってゆったりとほほ笑んだ。

 

「その歌。確か汐が村でよく歌っていたわらべ歌だったか?」

「よく覚えてるね。そうだよ。元々は【ワダツミヒメ】を鎮めるための歌が変化した、なんて言われているけど」

「ワダツミヒメ?」

 

炭治郎が首をかしげると、汐は昔のことを思い出すように遠い目をした。

 

「あたしの村に代々伝わるおとぎ話。海を守る女神のお話だよ」

 

そう言って汐は、おもむろに語りだした。

 

――むかしむかし、あるところに。

美しい海の女神がおりました。

名を『ワダツミヒメ』と言い、彼女が治める海には命があふれ、人々は日々その恩寵に感謝しておりました。

 

ある日のこと。ワダツミヒメは、浜辺で一人の若者を見かけました。その人ははるか遠い天上の世界を治める神でした。

その立派な出で立ちに、彼女はすっかり心を奪われてしまいました。

 

それからというものの、ワダツミヒメは来る日も来る日も、彼のことばかり考えていました。

名はなんというのだろう。どこに住んでいるのだろう。好きなものはなんだろう。

 

しかし、募るばかりの思いとは裏腹に、彼女は彼に声をかけることができませんでした。

 

それから長い年月が経ちましたが、ワダツミヒメは彼を忘れることができませんでした。

それならばせめて、彼のために何か贈り物でもしたいと思いました。

 

ワダツミヒメは、それから彼に何を贈るか三日三晩悩みました。そしてついに、贈り物を決めました。

 

それは、海の底に咲いているという『泡沫の花』という幻の花でした。

しかし、それは幻というだけありなかなか見つけることができません。

それでも、ワダツミヒメは彼に会いたい一心で必死に探し続けました。

 

それからさらに年月がたち。ワダツミヒメはついに花を見つけることができました。

彼女はすぐさま花を摘むと、彼の元へと急ぎました。

 

もうすぐ会える。彼に会える。ワダツミヒメの心は喜びでいっぱいになりました。

 

しかし、その願いはかなうことはありませんでした。

なぜなら、彼にはすでに心に決めた相手がいたのです。

その瞬間、彼女の心は深い深い闇に包まれ、それに呼応するように、穏やかだった海は荒れ狂い、村や人々を次々に飲み込んでいきました。

 

それを見かねた神々は、ある人間に海を鎮める歌を教えました。

それを行うと、海は元の穏やかを取り戻しました。

その後、ワダツミヒメが治めていた海のそばの村では、想いを伝えることができなかったワダツミヒメを想い鎮める祭りがおこなわれました。

そしてワダツミヒメを鎮める歌を披露する者を『ワダツミの子』と呼ぶようになりました――

 

語り終わった汐を、炭治郎と禰豆子は黙ったまま見つめていた。

 

「これが、あたしの村に伝わるおとぎ話。ワダツミヒメの悲しい恋の物語、だなんていわれてるけど。あたしから見たら、無駄なことしてただ一人で勝手に舞い上がって周りの人間巻き込んだはた迷惑な神様にしか思えないわ」

そう言って汐は空を見上げた。いつもと変わらない、空にちりばめられた星が、優しく空を照りあかす。

 

「俺はそうは思わないな」

 

禰豆子の頭をなでながら、炭治郎はそういった。

 

「確かに多くの人を巻き込んでしまったのは事実だけど、それでも彼女はたくさんの人に慕われていたんじゃないかな。本当にはた迷惑な神様だったら、彼女を祀ったりなんかしないと思うんだ」

 

それに、と炭治郎はつづけた。

 

「俺はワダツミヒメのしたことは無駄だとは思わない。大切な誰かの為に困難に立ち向かうっていうのは、決して誰でもできることじゃない。結果は残念なことになってしまったけれど、そのおかげで生まれたものだってある。無駄なことなんてないと思うんだ」

 

そう語る炭治郎の目は、どこまでも澄んでいて星空や月明かりよりも汐の心を惹きつけた。

彼の言葉はいつもいつも、汐の知らない感情を呼び起こす。

 

「汐の話を聞いていて思い出したけど、俺の家にも代々伝わるものはあるよ。この耳飾りと、【ヒノカミ神楽】っていう舞だ」

「ヒノカミ神楽?」

「厄払いの神楽と、それを行う呼吸法。新年の始まりに雪の中で一晩中舞って、無病息災を祈るものなんだ」

 

一晩中と聞いて汐は驚いた表情で炭治郎を見つめる。それを見て、炭治郎は小さく笑った。

「俺の父さんは体が弱かったんだけど、この神楽を踊るときは本当にすごかったんだ。まるで本当に神様みたいで、今でも覚えてる」

「体が弱いのに一晩中舞えるの?」

「ああ。動いても疲れない呼吸法があるって教わった。結局俺が舞う前にみんないなくなってしまったから、その機会はなくなってしまったけれど」

 

そういう炭治郎の目が悲しみで曇る。汐も少しだけ聞いていた、彼の忌まわしい過去。

そんな思いを払しょくするように、汐は明るい声で言った。

 

「あたしも炭治郎の神楽、見てみたかったな。きっと素敵なんだろうな。炭治郎の舞う神楽。だってあんたのような素敵な目をした人が踊るものだもん。きっと素敵に決まって――」

そこまで言った後、汐は慌てて口を閉じる。自分が今ものすごく恥ずかしいことを言ってしまった気がしたからだ。

 

そんな中、禰豆子が急に炭治郎の羽織をつかんだ。どうやら何かを訴えているらしいが、口枷をつけている彼女は言葉を発せないため意図が分からない。

しかし炭治郎はそうではないらしく、困ったような表情を浮かべた。

 

「禰豆子、なんて言ってるの?」

「俺にも歌を歌って欲しいって。汐みたいに」

「へぇ~、炭治郎の歌か。ちょっと興味あるかも。何か歌ってよ」

 

炭治郎は少し迷いを目に浮かべたが、禰豆子と汐は期待を込めたまなざしで見つめてくる。

その二人の熱意に負けた彼は、おずおずと口を開いた。

 

その口から出てきたのは、お世辞にも歌とは言えない程に随分とへたくそなものだった。しかも心なしか、彼の顔も音程と同じように歪んでいる気がする。

その歌のようなものはしばらく続き、やがて唐突に終わりを迎える。呆然と聞いていた汐だったが、

 

「ブフッ!!」

 

思い切り噴き出すと、火が付いたように笑い出した。

 

「あははははは!!なにそれ、おっかしい!いっひひひひひ!!」

 

腹を抱えて笑い出す汐に、兄妹は呆然と彼女を見つめる。それをしり目に、汐は涙まで流しながら笑い転げた。

やがてひとしきり笑った後、我に返った汐は炭治郎に謝った。

 

「ごめん。笑ったりして。だけど、炭治郎の、ププッ、歌が、ククッ、あまりにも、その、個性的だった、ウヒヒ、だったから・・・」

 

どうやらまだ余韻が残っているのか、ところどころ笑いを挟みながら汐は言葉を紡ぐ。

普通の人間ならばここで怒るか困るかだろうが、炭治郎は違った。

 

「よかった、汐が笑ってくれて。俺、汐がそんな風に笑った顔を見たのは初めてだったからすごくうれしい」

 

炭治郎の言葉に、汐の頬がわずかに赤く染まる。彼の口から出てくる言葉は、時折ものすごい破壊力を持つからたまったものじゃない。

 

「・・・あんた、そういうことを平気で言うの、ちょっとまずいよ」

「え?俺、汐の気を悪くすることを言ったのか!?」

「そうじゃなくて・・・、あーもう!!いいわよ!この話はおしまい!!」

 

顔を赤くしながら、汐は岩を降りて小屋に向かう。残された二人は首をかしげたが、やがて汐を追って小屋の中へと戻っていった。

 

三人の星空の音楽会は、こうして幕を閉じたのだった。




おまけCS
汐「『こんこん 小山の子兎は なぜにお耳が 長(なご)うござる~』」
炭「あれ?汐もその子守唄知ってるのか?」
汐「も、ってことは、炭治郎も知ってるの?」
炭「ああ。俺の母ちゃんがよく歌ってくれた子守唄なんだ」
汐「へぇ~、そうなんだ」
炭「禰豆子もこの歌が好きだったから、歌ってあげたら喜ぶよ。汐は歌が上手だから余計にさ」
汐「・・・・」
炭「汐?どうしたんだ?」
汐「え?な、何でもないよ」
炭「そうか?体調が悪いなら、無理はするなよ」
汐「大丈夫だよ、ありがとう」
汐(なんであたし、この歌を知っているんだろう・・・?炭治郎が知ってるんだから、村の歌、じゃないよね・・・?)


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

三章:鬼と人と
壱(再投稿)


暗く広い部屋の中に、布がこすれるような音が小さく響く。

部屋の真ん中では一つの影が、何やら一心不乱に手を動かしている。

その影が手にしているのは、さび付いた一本の縫い針。そしてその針の穴には、血のように真っ赤な糸が通されている。

 

影はそのまま機械の様に手を動かし続ける。何度も、何度も、針を突き刺す。

突き刺すたびに、ぷつりという小さい音が何度も何度も響く。そしてそのたびに滴り落ちる、赤黒い雫――

 

――にんぎょうにんぎょうつくりましょう

あたまをつけておててをつけて

あんよもふたつつけましょう

きれいなきものもきせましょう

きれいなきれいなおにんぎょう

わたしだけのおにんぎょう

 


 

 

「行先ハァ~、南東ノ町デスヨ~。南東ノ町デス~」

鎹鴉は間延びした声で、汐の周りをゆったりと飛びながら告げる。これから鬼を退治しに行くという危険な任務を告げる鳥のはずなのに、とてもそうは見えない。

軽い脱力感を感じながら、汐は歩みを進めていた。

 

(まるでウオノタユウ(マンボウ)みたいだわ・・・)と、ぼんやり思っていたがふと、汐の頭にある疑問が浮かんだ。

 

「ねえあんた。あんたって名前はあるの?あんたのこと、あたしはなんて呼んだらいいの?」

汐が問いかけると、鴉はゆったりと答えた。

 

「名前ハマダアリマセン~。モシモヨロシケレバ~、貴女ガ付ケテクダサイマシ~」

「え?そうなの?うーん、そうねぇ・・・」

 

汐はしばらく首をひねっていたが、やがて何かをひらめいたように手を打ち鳴らした。

 

「じゃあ、【ソラノタユウ】はどう?あんたのしゃべり方ってなんとなくウオノタユウ(マンボウ)っていう魚を思わせるの。でもあんたは空を飛ぶからソラノタユウ。どう?」

すると鴉は「構イマセンヨォ~」とまんざらでもない風に答えた。

 

「じゃあ今からあんたの名前は【ソラノタユウ】ね。よろしく」

汐がそういうと、鴉、ソラノタユウは汐の肩に乗りゆったりと鳴いた。

 

その瞬間、背後で何かが崩れるようなものすごい音が響いた。

驚いて振り返ると、馬車が止まっており積んでいたと思われる荷物が崩れてしまっていた。

荷車の持ち主と思われる男は、頭を抱えてうろたえている。

汐はすぐさま男に駆け寄った。

 

「大丈夫!?けがはない!?」

「あ、ああ。俺は大丈夫だ。けど、積んでいた荷物が崩れちまった・・・」

汐が周りを見回すと、数はそれほど多くはないものの、結構な大きさがある。おそらく積み方を誤ったため、振動で崩れてしまったのだろう。

 

「まいったなぁ。この先の町まで運ばなきゃならねえのに、一人で積みなおしてたら日が暮れちまう・・・」

男は困ったようにぶつぶつと呟く。そんな彼に、汐は間髪入れずに口を開いた。

 

「あたしが積みなおすのを手伝うよ!」

「ええ!?」

男は驚いて汐の顔をまじまじと見つめた。

 

「無茶だ。荷物は多くはないがかなりの重さがある。お前さんみたいな子供に運べるわけがない」

「大丈夫。こう見えてもあたし、力持ちなのよ。いいから黙って任せて」

 

そう言って汐は散らばった荷物の一つの前に立つ。試しにつかんでみると、なるほど、結構な重さだ。

普通の少女だったらどんなに力を込めても持ち上げることすら不可能だろう。しかし、汐は普通の少女ではない。

鬼と戦う力を持つ、鬼殺の剣士だ。

 

――全集中――

 

汐は息を強く吸い、意識を集中させる。そして荷物に手をかけると、一気に引き上げた。

決して軽くなかった荷物が、地面から浮き上がる。そのあり得ない光景に、男は呆然と汐を見つめていた。

そのまま汐は荷物を次々に持ち上げ、荷台に綺麗に乗せる。それから男と一緒に縄できちんと固定した。

 

「こりゃあ驚いた。あんた、本当に力持ちなんだなぁ。おかげで助かったよありがとう」

「いいのよ別に。それよりあたし、これから南東にある町に行きたいんだけれど、あとどれくらいで着く?」

汐が訪ねると、男は驚いた顔で首を横に振った。

 

「ここから町まではかなりの距離があるぞ。歩いてなんかいったら明日になっちまう」

「えー!?そんなに遠いの!?」

思わぬ答えに汐は思わず声を上げてしまう。距離があることは覚悟していたものの、流石に日にちを跨ぐとは思いもしなかったのだ。

困った顔をする汐を見て、男は少し考えた後口を開いた。

 

「お前さんがよければ乗せて行ってやろうか?歩けば一日かかるが、馬車ならその半分で着くからな」

「え?いいの?」

「ああいいとも。ちょうど同じ方向だからな。荷物運びを手伝ってくれた礼さ」

 

男は気前よく親指を立て、真白な歯を見せてにっこりと笑った。

 

馬車の荷台に乗せてもらった汐は、揺れる空を眺めながら目を閉じだ。

旅立つ前に、鱗滝から言われた言葉がよみがえる。

 

それは、目覚めた禰豆子の事についてだった。

 

 

*   *   *   *   *

 

 

 

その夜、鱗滝は二人を呼び出し彼が禰豆子に暗示をかけたことを伝えた。

それは【人間が家族に見え、人を傷つける鬼を敵と認識する】というものだった。

「人間が、家族・・・」

汐は小さくつぶやく。禰豆子が汐になつくのは、自分が彼女の家族のだれかに見えていると分かったからだ。

それはすなわち、汐自身を認識しているというわけではないということだ。

 

「汐・・・」

炭治郎は悲しげな目で汐を見るが、汐は首を横に振った。

 

「大丈夫だよ、炭治郎。嫌われるよりはずっといいよ。そう、ずっとね・・・」

そう言って笑う汐の顔は、心なしか少しひきつっているように見えるのであった。

 

*   *   *   *   *

 

(炭治郎、禰豆子。今頃どうしてるかな・・・)

 

別れてからまだそんなに時間はたっていないはずなのに、目を閉じれば二人の事ばかり思い出してしまう。

二人が強いのはわかっているけれど、もしもどこかで傷ついてしまったらと考えてしまうのだ。

だが、そんな思いを汐は首を大きく振って払拭した。炭治郎とは金打をした仲だ。そう簡単に彼が約束を破るはずがない。

 

今は、任務の事だけを考えよう。

 

そう気合を入れて、汐は鉢巻きを締め直した。

 

それから数刻後。

「お~い、着いたぞ」

男から声をかけられ、汐ははっと目を覚ました。早朝から歩き続けてきたせいか、いつの間にか眠ってしまったらしい。

慌てて荷台から降りると、すでに昼時は過ぎていた。

 

そして彼女の眼前には、目的地の町が広がっていた。

汐が思っていたよりも町は大きく、建物が並び人が行きかっている。

始めてくる場所に、汐の心は小さく踊った。

 

「んじゃあ、俺はこの先の集落まで行くからお別れだ」

「うん、ありがとうおじさん」

「いいっていって。何をするつもりはか知らんが、頑張れよ、兄ちゃん!」

男の言葉に、にこやかに礼を言った汐の顔が固まる。急に固まった汐を、男は怪訝な顔で見つめた。

 

「あのさ、おじさんに一つだけ言っておく。あたし、これでも一応ですから」

青筋を立てながら訂正する汐に、男の顔がさっと青くなる。

 

「す、すまねえ嬢ちゃん!余りにも逞しかったからつい・・・」

「ううん、いいの。いいのよ。もう慣れてるから。うん、慣れてるから・・・」

腹立たしさを必死に隠しながら、汐は笑顔で男と別れた。

 

町に入ると、たれが焼ける匂いが汐の鼻をくすぐった。あたりを見回すと、近くに焼き鳥を焼いている屋台が見える。

それが視界に入った瞬間、汐のおなかの虫が盛大に鳴いた。

 

「・・・まずは腹ごしらえをしよう。腹が減っては鬼退治はできぬっていうしね」

本来の言葉は腹が減っては戦はできぬなのだが、鬼狩りである汐にはその言葉はあながち間違ってはいないのだ。

 

汐は屋台に近寄ると、並んでいる品物を見つめる。鳥皮、ねぎま、つくね、ハツ・・・どれもが皆汐を誘うようにおのれを主張している。

何を食べようか迷っていると、気前のよさそうな店主が声をかけてきた。

 

「らっしゃい。おや?あんたここらじゃ見かけない人だね。旅行者かい?」

「う~ん、まあそんなとこ。探し物をしてここまで来たの」

「へぇ、こんな辺鄙な場所までよく来たもんだ。で、どれにするんだい?」

 

汐はつくねと鳥皮を一本ずつ頼むと、その場で舌鼓を打つ。絶妙に焼かれた鶏肉が、汐の味覚を刺激する。

 

だが、汐の本当の目的は観光ではない。早く鬼の情報を集めなければならないが、鬼殺隊は政府から直接認められていない組織。

当然、鬼の存在も広くは認知されてはいない。もしも直接そのようなことを聞けば、間違いなく変に思われるだろう。

どうしようか、と思ったその矢先だった。

 

――にんぎょうにんぎょうつくりましょう

あたまをつけておててをつけて

あんよもふたつつけましょう

きれいなきものもきせましょう

きれいなきれいなおにんぎょう

あなただけのおにんぎょう

 

どこからか歌のようなものが聞こえ、汐は思わず目を向ける。すると、通りの向こうから一人の老人が歌を口ずさみながらふらふらと歩いてくるのが見えた。

 

白髪だらけの頭に、みすぼらしい着物。そして、右腕があるはずの場所には、袂だけがゆらゆらと揺れている。隻腕の男だった。

男は焦点の定まらないまなざしをあちこちに向けながら、そのまま歩き去っていった。

 

「あれは・・・?」

汐がもっとよく見ようと立ち上がると、店主は渋い顔をしながらそれを制した。

 

「かかわらないほうがいいぜ、旅人さん。ありゃあこの通りの奥に住む【菊屋】のおやじだ」

「菊屋のおやじ?」

 

汐がオウム返しに聞き返すと、店主はそのまま忌々しそうに言った。

 

「昔は腕のいい人形職人だったらしいが、今は見ての通り、頭がいかれちまってるんだ。時々ああやって歌を歌いながら町を徘徊するんだが、おかげで子供たちは怖がって外には出ないし、客も寄り付かなくて商売あがったりだ。あ~あ、はやいとこくたばってくれねえかな・・・」

 

店主がぼそりとそんなことを漏らす。汐は思わず店主の顔を見つめると、その目にははっきりと蔑みの意思が見えた。

それを見た瞬間、汐は一気に食欲をなくしてしまった。が、食べ物を粗末にするわけにもいかず、無理にでも押し込む。

 

「・・・ご馳走様」

 

汐はぶっきらぼうにそういうと、早々とその場所を後にした。あんな店主に焼かれた焼き鳥が気の毒でたまらない。

それよりも、何故だか汐はその男がとても気になった。

 

確かに情緒は安定していないようだったが、汐は見逃さなかった。彼の目の奥に深い悲しみが宿っていることを。

汐は男が歩き去った方角へ足を進める。すると、数里先で男が座り込み歌を歌っている。

 

その声がなんだか悲しくて、汐の胸が締め付けられた。まるで、ここにはいない誰かに聞かせているようで・・・

 

「ねえ、おじいさん。ちょっといい?」

 

汐はためらいもせず男に声をかけた。男はしばらく歌い続けていたが、汐の存在に気づき歌を止めて声をかける。

 

「おや~。今日はいいてんきでおいしいですなあ~。はてさて、儂のまんじゅうはばあさんですじゃ」

男の言うことは支離滅裂で、確かに精神的に参ってしまっているようだ。だが、汐の服装を見た瞬間。男の目がかっと見開かれた。

 

「そ、そ、その隊服・・・、あ、あ、あんたは・・・いや、あなた様は・・・もしや・・・、鬼狩り様でございますか!?」

「え!?」

男の突然の変わりように、流石の汐も驚きのけぞった。だが、それよりも早く男は汐の羽織を強くつかむと、大声で叫んだ。

 

「お願いします鬼狩り様!!孫を、孫娘をどうかお救いください!!私の孫娘が鬼に・・・!!!!」

 

そこまで言うと、突然男の体がぐらりと傾きずるずると地面に倒れこんでしまった。

 

「おじいさん!?ちょっと、しっかりして!!」

 

汐は声をかけながら男を必死で揺さぶるが、彼は何の反応も示さないまま倒れこんだままだ。

汐はすぐさま男を背負うと、そのまま彼の自宅まで走っていった。

 

男の自宅は、一見するととても人間が住めるようなものではない掘立小屋のようなものだった。

中に入ると、部屋の中心には敷きっぱなしで黴の臭いがする布団があり、その周りには人形を作るための道具らしきものがあちこちに散らばっている。

 

汐は男を布団に寝かせると、水瓶に残っていた水をすくう。すると男は小さく瞼を震わせその目を開いた。

 

「大丈夫?あんまり無理しちゃだめよ」

汐はそういってすくった水を男に渡した。男はそれを受け取ると、一気に飲み干した。

 

「・・・いやはや、みっともない姿をお見せしてすみません」

 

男ははっきりとした口調でそう言い、汐に視線を向ける。心なしか、視点もしっかりしているように見える。

 

「これくらいなんでもないわ。ところで、さっき言ってたこと覚えてる?あんた、あたしのことを見て【鬼狩り様】って言ってたけど」

 

汐の言葉に男は肩を大きく震わせる。そして、目を見開き口を開いた。

 

「そうだ。私の孫娘が鬼めに連れ去られてしまったのです!どうか、どうかお救いを・・・」

「落ち着いて。まずは詳しく話してちょうだい。何があったのか」

 

汐に促され、男はぽつりぽつりと語りだした。

 

「私の名は菊松右衛門(うえもん)と申します。この地で息子夫婦と共に人形職を営んでおりました」

男、右衛門(うえもん)は息子夫婦で人形職人をしていたが、孫娘が生まれてからは夫婦とは疎遠気味になってしまっていた。

だが、孫娘だけは毎日のように祖父である彼の元に遊びに来ていたという。

 

「あの子は私の作る人形が大好きだと、毎日のように言っておりました。そして自分もそれを真似て、余った布切れなどで人形を作ることをしていたのです。その時間が、私は何よりも幸せだった」

 

右衛門(うえもん)はそういって、懐かしむかのように目を細める。だが、次の瞬間には、その顔は苦悶に満ちたものに変わった。

 

「だのに!その幸せは突然奪われた!あの、あの鬼のせいで!」

右衛門(うえもん)はそう叫んだあと、激しくせき込みだす。汐は慌てて彼の背中をさすり、落ち着かせる。

 

「その日は珍しく孫娘が来なかったため、私も久しぶりに息子夫婦の家を訪ねたのです。すると、そこには、そこには・・・」

 

おびただしい量の飛び散った血痕と、その血の海に沈む息子夫婦。そして、その中心でうなり声をあげている異形のモノ。その手には、孫娘がいつも大事にしている人形が握られていた。

悲鳴を上げて後ずさる彼に、それは飛びつき彼の腕を食いちぎった。そしてそれはそのまま、どこかへと去っていった。

 

「私はその後、町の者に助けを求めかろうじて生き延びました。しかし、私の話を誰も信じてはくれなかったのです」

「でしょうね。人食い鬼なんて一般的には認知されていないもの。あたしだって、信じられなかったくらいだし」

そのころから彼は精神に異常をきたし始め、記憶もだんだん薄れていったという。そんな中、昔鬼狩りの話を聞いていたことを、汐の隊服を見て思い出したという。

 

「おねがいします、鬼狩り様。どうか、どうか孫娘を救ってください」

縋りつく右衛門(うえもん)を見て、正直汐は迷った。彼の話からすると、孫娘がさらわれたのはもうずいぶんと昔の事であり、普通に考えれば生きている確率は零に近い。

だがそれでも、汐は右衛門(うえもん)の手を振り払うことはできなかった。もしも、もしも()だったならば、きっとこう言うだろう。

 

「・・・わかりました。お孫さんは必ず救います」

 

汐は右衛門(うえもん)の手を握りしめてはっきりとした口調で答えた。その言葉を聞いた彼は、大粒の涙を流して何度も何度も礼を言った。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



鬼にさらわれた元人形職人の右衛門(うえもん)の孫娘を探すため、汐はひとまず手掛かりを探すことにした。

炭治郎の様に鼻が利くわけでもない彼女は、こうして足を使って探すしかないのだ。

とはいえ、町は彼女が思っていたよりも広く全部調べて回るわけにはいかない。

まずは、この町で何か変わったことがないかを聞いてみることにした。

 

「ねえ、ちょっといい?」

 

汐は町の住民にそう声をかける。もちろん、右衛門(うえもん)のことは伏せてだ。

悲しいことだが、彼のことを口にすると皆目に侮蔑を宿すため話してくれる確率が著しく下がってしまうからだ。

 

その結果、興味深い事実が分かった。

 

度々だが人が行方不明になっていることがあること。しかしそのほとんどが身寄りのない者や外部からの人間が多いため、特に事件化されているわけではないということ。

故郷の村や炭治郎たちと過ごしていた汐は、これほどまでに他人に無関心な人間がいることに心底驚いた。

 

(自分と関わりのないことには首を突っ込もうとしない。決して間違いではないけれど、何だか空しいな)

けれど、目の前の事実は決して動かしようがなく、汐もこれ以上干渉するわけにもいかない。

再び汐は捜索を開始した。

 

次に分かったことは、右衛門(うえもん)には、今の自宅のほかに彼専用の作業場と作った人形を一時的に保管している場所があったそうだ。

今はもう使われておらず、廃屋になっているようだが、これはかなり重要な手掛かりになりそうだ。

 

それに、もうじき日が暮れる。夜が来れば、そこからは鬼が活動する時間だ。不謹慎ではあるが、鬼が町に現れてくれれば追跡もしやすい。

 

汐は残してきた右衛門(うえもん)が気になったため、いったん彼の元に戻ることにした。

ついでに食材をいくつか買い込み、彼の為に料理をすることにした。

あの様子だとまともな食事をしていたのかも怪しいからだ。

 

汐が自宅に戻ると、右衛門(うえもん)は寝床にはおらず、散らかった作業場に座り込んでいた。

汐が何事かと覗いてみると、散らばっていた人形の手入れをしているようだった。

 

「これ、全部あんたが作った人形なのね。へえ、よく見てみると人形ってみんな顔が違うのね」

汐はしげしげと人形を見つめる。自分の故郷では見たことのないものばかりで興味がわいたのだ。

 

「一言人形といっても、どれ一つとして同じものはありません。人間と同じです。そして、人形とは読んで字のごとく、人の形をしたもの。その人の魂を映す鏡のようなものだと、私は思っております」

 

彼の言葉を聞きながら、汐はそばにあった人形をとった。どこまでも澄んだ透明な目は、どこかの誰かを彷彿とさせる。

もしも自分を人形に例えるならば、どんな表情をしているだろう。

 

そんなことを考えていると、突如、体中を突き刺すような寒気が彼女を襲った。

 

――この気配は・・・!

 

間違いない。鬼が近くにいる。汐は右衛門(うえもん)に絶対に外に出るなと伝えると、自宅を飛び出した。

 

鬼の気配は自宅からそう離れていない位置にある。どうやらどこかに移動しているようだ。

汐はそのまま足に力を込め、屋根へと飛びあがる。呼吸法により身体能力が大きく上がった彼女にとってこれくらいの芸当はできて当然だ。

 

汐は屋根の上を走りながら気配をたどる。すると、どこからか耳をつんざくような悲鳴が聞こえてきた。

汐がその方向へ向かうと、何かが人を引きずるようにして動いている。気配は、それからしていた。

 

全集中・海の呼吸

肆ノ型・改 勇魚(いさな)下り!!

 

汐は屋根から飛び降りながら、勇魚昇りの勢いを込めて刀を振り落とす。だが、刃はわずかに鬼の頸からそれた。

それでも人質を解放するには十分だったらしく、人は手から離れた。

 

「ここはあたしに任せて、さっさと逃げな!」

 

へたり込む人に汐は一括すると、目の前の敵に刀を構えなおす。だが、月明かりがそれを照らした瞬間、汐は目を見開いた。

 

(何・・・こいつ・・・!?)

 

目の前にいたのは、人よりも二回りほども大きい日本人形に、阿修羅の様に顔が三つついた不気味なものだった。しかし、その顔の部分には目も口も鼻もない。

こいつが、右衛門(うえもん)の孫娘たちを連れ去った鬼なのだろうか。

人形鬼は汐に飛び掛かってくると、左側面の顔が割れ中から刃物が飛び出した。

その一撃を、汐は瞬時に横に飛びのいてかわす。すると人形鬼はくるりと方向を変え、刃物をむき出しにしたまま再び向かってきた。

 

攻撃をかわしつつ、反撃の隙を狙う汐だが、妙なことに気づいた。鬼の気配は確かにする、が、これがあんな遠くまで気配が届く強さとは思えない。

 

(まさか、これは鬼の本体じゃない?)

 

だとしてもこいつを放っておくわけにはいかない。ここで倒さねば、被害が出るのは確実だ。

 

汐はもう一度集中し、息を吸った。まずは動きを止めねばならない。

 

 

全集中・海の呼吸

参ノ型 磯鴫(いそしぎ)突き!!

 

汐の鋭い突きが、人形鬼脳天を貫く。思わぬ反撃を食らったせいか、人形鬼はその動きを止める。そしてそのまま地面に引き倒し、胴体を思い切り踏みつけた。

何かが砕けるような音がして、胴体が砕ける。すぐさま刀を引き抜くと、その頸に刃を振り下ろした。

 

「・・・やっぱり・・・」

 

それはやはり鬼ではなく、中身のないただの人形だった。そしてその中心には、赤い糸が括り付けられたかなり大きな縫い針が一本突き刺さっている。

 

「きっとこれでこの人形を操っていたんだわ。異能の鬼。【血鬼術】という特殊な能力を使う鬼。だとしたら本体はどこに・・・ん?」

汐は気づいた。鬼の気配が人形から消えている。慌ててあたりを見回すと、先ほどの針がするすると動いてどこかへ向かっている。

気配はそこからしているようだ。

 

汐はすぐさま針を追いかけた。これをたどれば、鬼の本体にたどり着けるかもしれない。罠である可能性もあったが、もう道はここしかない。

 

汐が糸をたどるとそこには、古びているがかなりの大きさの建物があった。糸はするすると生き物のように建物の中に入っていった。

扉があったが立て付けが悪いのかなかなか開こうとしない。ここで時間をとるわけにはいかず、汐は思い切って扉を蹴破った。

 

吹き飛ぶ扉を踏みつけながら、汐は中に入る。が、入った瞬間、彼女は思いきり顔をひきつらせた。

 

そこにあったのは、見渡す限りの人形、人形、人形・・・。おびただしい数の人形がぐるりと汐を取り囲んでいた。

彼に自宅で見たときは愛らしいとさえ思った人形が、今や不気味を通り越したおぞましいものに見える。

しかもみな、手や足や首がない未完成のものばかりだ。そしてどれからも、鬼の気配がする。

 

(まさか、まさか。こいつらが全員、鬼の一部・・・!?)

 

ここで襲われたらたまったものじゃない。汐はいったん外に出て体勢を立て直そうと数歩後ずさる。だが、その瞬間。

 

――にんぎょうにんぎょうつくりましょう

あたまをつけておててをつけて

あんよもふたつつけましょう

きれいなきものもきせましょう

きれいなきれいなおにんぎょう

わたしだけのおにんぎょう

 

不意に歌のようなものが聞こえた時、人形たちが一瞬赤く発光したかと思うと。

人形が一斉にまるで波の様に汐に覆いかぶさってきた。

汐は刀を構えるが、それよりも早く人形たちは汐を一瞬で包み込む。悲鳴を上げる間もなく、彼女は人形の波に飲み込まれてしまった。

 

*   *   *   *   *

暗く広い部屋の中に、布がこすれるような音が小さく響く。

部屋の真ん中では一つの影が、何やら一心不乱に手を動かしている。

その影が手にしているのは、さび付いた一本の縫い針。そしてその針の穴には、血のように真っ赤な糸が通されている。

 

影はそのまま機械の様に手を動かし続ける。何度も、何度も、針を突き刺す。

突き刺すたびに、ぷつりという小さい音が何度も何度も響く。そしてそのたびに滴り落ちる、赤黒い雫――

 

――にんぎょうにんぎょうつくりましょう

あたまをつけておててをつけて

あんよもふたつつけましょう

きれいなきものもきせましょう

きれいなきれいなおにんぎょう

きょうはかみをつけましょう

 

部屋の中心で一心不乱に針を動かしながら、歌を口ずさむのは、先ほどの人形の主だろうか。楽しそうに歌を歌いながら、赤い糸を引く。

その時だった。

 

「お楽しみのところ、失礼するわ」

 

扉を開ける音とともに、その場にいないはずのだれかの声が響く。人形の主は背中を震わせながら、動かしていた針を止める。

 

「熱烈な歓迎をありがとう。だけど、あたしをもてなすには少しばかり礼儀が足りなかったようね」

 

声の主、汐はそういって口元に笑みを浮かべた。その体からは、僅かだが殺意が漏れている。

 

「礼儀知らずの悪い子には、お仕置きをしなくちゃね・・・」

 

汐の氷の様に冷たい声が、静かに響いた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



汐は刀を抜いたままゆっくりと鬼に近づく。鬼は手を止めたまま振り返らない。

その落ち着き具合を不気味に思いながらも、汐は切っ先を鬼に向けたまま言った。

 

「あんたがこの町を縄張りにしていた鬼ね。あんたに恨みは・・・いっぱいあるけど。仕事だから斬らせてもらう。でも、その前に聞きたいことがある」

 

汐はいったん言葉を切った後、小さく息を吸いながら言葉を紡いだ。

 

「質問は三つ。まどろっこしいことは嫌いだから単刀直入に言うわね。一つ。この町の菊屋のおやじ、右衛門じいさんの孫娘を知ってる?」

 

鬼は答えない。ただ、持っている縫い針を手でもてあそぶようにしている。

汐は小さくため息をつくと、「二つ目」と言った。

 

「さっきまで歌っていたあの歌。どこで覚えたの?あたしが知る限り、よく似た歌を歌っていたのは一人だけよ」

 

言葉を紡ぐたびに、汐の顔がゆがんでいく。自分がここに来るまでに導きだした答えを、できれば言いたくないように。

 

「じゃあ最後の質問ね。孫娘の事、知らないはず、ないわよね」

汐は今度は質問の語尾を変えた。尋ねる、ではなく、確信を持った口調で。

するとここで初めて、鬼がゆっくりとこちらを振り向いた。その顔を見た瞬間、汐は自分の予想が当たっていたことを知る。

 

孫娘を探す際、汐は彼女の特徴を右衛門から聞いていた。

 

――孫娘は目がとてもきれいで大きく、そして右目下と左ほおに、小さな黒子があるのです。そして、いつも【人形の歌】という歌を歌っていたのですよ・・・

 

振り返った鬼の顔には、聞いていた孫娘と同じ位置に黒子がしっかりとあった。

あの日、孫娘は鬼にさらわれたのではなく。彼女自身が鬼であり、両親を食い殺し祖父の腕を奪った張本人だったのだ。

 

(ああ、やっぱりそうか。あの歌を聞いた時からもしやと思っていたけれど)

 

汐は唇をかみしめ、目の前の鬼を見据えた。鬼はしばらく呆然としていたが、やがてにやりと狂気じみた笑みを浮かべた。

 

「あなたのかみのけ、とってもきれいなあおいいろをしてるのね」

「・・・お褒めにあずかり光栄、とでもいえば満足するの?」

 

汐はわざと皮肉めいた口調で告げると、鬼は笑みを浮かべたまま静かに口を開く。

 

「あなたのかみのけをにんぎょうにつかったら、きっともっとすてきになるわ。だから、おねがい」

 

――あなたのかみのけ、くびごとわたしにちょうだい?

 

「悪いけど、あんたにやるものはびた一文だってないわよ!!」

 

汐がそう叫んだ瞬間、どこからともなく大量の人形が汐に飛び掛かってきた。だが、先ほどと同じような動きをする人形に、汐はもう惑わされはしない。

 

「二度も同じ手を食らうと思ったら大間違いよ!」

汐はそう叫んで、人形に向かって刀を構えると、腰を低く落し大きく息を吸った。

 

全集中・海の呼吸

参ノ型 磯鴫(いそしぎ)突き・乱打!!

 

汐の刀が目にもとまらぬ速さで何度も突きを放つ。その突きから生み出される衝撃波が、周りの人形を吹き飛ばした。

だが、汐は妙な手ごたえを感じた。さっきの人形は人形らしき硬さがあったのだが、今の人形のものはそれではなく、まるで柔らかい肉を突き刺したような感触だった。

その懸念は次の瞬間的中する。汐が貫いた人形がぐにゃりと形を崩し、突如鞭のようにしなり汐の首筋を狙ってきた。

 

汐はすぐさま頭を振ってかわすが、頬に一筋の赤い線が付いた。それからほかの人形たちは形を崩したまま、主である鬼の下へ集まっていく。

その時。汐は奇妙なことに気づいた。目の前にいる鬼なのだが、心なしか体が小さいような気がする。

否、鬼である以上体の大きさを変化させることは可能であった。現に彼女の友人竈門禰豆子が体を小さくしてはこの中に入っているのを見たことがある。

 

だとしても、それをもってしても目の前の鬼は小さかった。奇妙なほど。

 

――その理由は、すぐに明らかになった。

 

形が崩れた人形たちがドロドロに溶けたと思うと、鬼の下半身へと次々に集まっていく。そして鬼がその身をゆらりと起こした。

鬼の下半身には、肉色をした人間の顔がいくつもついていた。皆断末魔の苦悶の表情をした、非常におぞましいものだった。

そのあまりの醜悪さに、汐の前進の肌が粟立つ。

全容を現した鬼の手には、巨大な裁ちばさみが握られている。そして、狂気じみた笑みを浮かべながらその鋏を汐に向かって振り下ろした。

 

汐は寸前で後ろに飛び、その一撃を回避する。だが、間髪入れずに鬼は刃を横なぎに払った。

それを後ろ宙返りでかわすと、次の瞬間。

下半身にあった顔の一部が宙を飛び、人形の形に変わる。そしてその口からは銀色の何かが飛び出してきた。

 

とっさに頭を振ってよけると、それはよく磨かれた縫い針だった。そして瞬きをする間もなく、いつの間にかあたりは再び人形に囲まれていた。

 

(そうか、そうだったのか!こいつの血鬼術は()()()()()()()じゃない。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()なんだ!だから、いくら人形を壊しても、本体が無事な限り人形はいくらでも増える!)

 

しかもどの人形にも人を殺める細工がしてあるらしく、針を吐くもの、腕が剃刀になっているものなど種類がある。

さらに厄介なことに、鬼は弱点である頸すらも切り離して移動することができる。これでは頸を斬ることができない。

 

(どうする?どうする・・・!?)

 

攻略法が分からず困惑する汐に、鬼は容赦ない攻撃を仕掛けてくる。針をよけ、剃刀をよけ、はさみを受け止める。

疲れ知らずの鬼とは違い、呼吸法で強化しているとはいえ汐は人間だ。いずれは疲労で動けなくなる。鬼はそれを狙っているようだ。

 

その狙いが的中したのか、汐の足は非常にももつれてしまい転んでしまう。それを好機と踏まえた鬼がはさみを振り下ろす。

 

しかしギリギリのところで汐はそれを回避するが、おいてあった水瓶に頭から突っ込んでしまった。

派手に音を立てて瓶が割れ、冷たい水が汐の全身を濡らす。水に強い隊服は無事だったが、玄海の形見である鉢巻きが水で濡れてしまった。

心なしか、頭が少し締め付けられる気がする。

 

だが、その刺激のせいだろうか。汐の頭の中にある考えが浮かんだ。バラバラの状態ではいくら攻撃しても頸は斬れない。なら

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

汐は体をひねり、突っ込んできた人形をかわす。そして汐はあるものに狙いを定めた。

それは、鬼が振り回している裁ちばさみだ。だが、それを奪うには人形の猛攻を抜けて近づく必要がある。

 

その方法が一つだけ、彼女にはあった。

 

全集中・海の呼吸

伍ノ型 水泡包(すいほうづつみ)!!

 

汐が動いた瞬間、鬼の目が見開かれた。先ほどまでそこにいたはずの人間の姿が見えない。

慌ててあちらこちらに視線を動かすも、その姿を捕らえることはできない。

否、汐はずっと鬼の前にいた。ただ、鬼の盲点に入る動きをしていたため、姿が見えなくなったように見せていたのだ。

 

そのせいで鬼は汐の接近を許し、汐はその隙をついて裁ちばさみを奪った。

 

鋏を奪われたことに気づいた鬼が、狼狽えながら全ての人形たちを終結させる。その瞬間を、彼女は待っていた。

 

全集中・海の呼吸

肆ノ型 勇魚(いさな)昇り!!

 

汐は鉢巻きを外し裁ちばさみに瞬時に結び付けると、鬼の下側へ滑り込む。そして渾身の力を込めて真上に鋏を突き上げるようにして投げた。

 

血しぶきをあげながら、鋏は鬼の体を脳天まで貫く。それに合わせて汐も上側へ移動し裁ちばさみを受け止めると、今度は下側に向かって投げつける。

 

――肆ノ型・改 勇魚(いさな)下り!!

 

再び下側へ回ったら再び上へと、まるでまつり縫いの様に鬼を縫い付けていく。しかも鉢巻きは切れることなく驚くべき長さまで伸びていく。

汐は思い出していたのだ。玄海の形見の鉢巻きは、水で濡れると伸縮作用を持つ特別製だったことを。

鬼は完全に縫い付けられ、離れた頸が再生力を利用してくっつく。その瞬間を、汐は見逃さなかった。

 

――壱ノ型 潮飛沫(しおしぶき)!!

 

技を出す直前に汐は鉢巻きを引き抜き、くっついた頸が再び離れる前に斬撃を放つ。コンマ数秒の戦いを制したのは

 

 

――汐の斬撃だった。

 

頸が離れると同時に、体の人形たちは灰になって崩れていく。汐は刀についた血を払うと、鬼に向き合った。

鬼は呆然とした表情のまま汐に視線を向けたまま消えていく。

 

(あたしは炭治郎みたいに優しくはないし、鬼に同情なんてしない。ただ、こいつが、()()()()何故鬼にならなければならなかったのか。どうしてこんなことになってしまったのか・・・それを思うと悲しいものね)

 

汐はじっと消えていく鬼の頸を見つめている。すると、彼女の口がゆっくりと開き、たった一言だけ言葉が漏れた。

 

「お・・・じ・・・い・・・ちゃん・・・だい・・・すき・・・」

 

汐は思わず息をのんだ。鬼になったものは人間の記憶をほぼ持たないというが、この娘は消える寸前に思い出したのだ。大好きだった祖父、右衛門のことを。

そして彼女は一筋の涙を流しながら、灰になって消えていった。

残された部屋の中央には、何度も継ぎ接ぎされた着物を身にまとった、とても古い人形が一体だけ鎮座していた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



いきなりこそこそ噂話
作者はパロディ物が大好きで、この作品にもパロディがあるよ。元ネタがどれでいくつあるかわかるかな?


その後汐は残っていた人形を手に右衛門の元へ向かった。依頼を達成することができなかった彼女は、沈痛な面持ちで扉を開けた。

右衛門は寝床に横たわっていた。が、様子がおかしい。よく見ると顔は真っ青で息も荒く一目で危ない状態だと分かる。

 

「おじいさん!!」

汐は叫んですぐに駆け寄った。体中からは汗が吹き出し、目の焦点もあっていない。

しかし彼は汐の姿を認識すると、荒い息のまま口を開いた。

 

「鬼狩り、様・・・孫は・・・孫娘は・・・」

汐は無理にしゃべるな、と言いたくなったが、彼の手に彼女の人形をそっと握らせた。

 

「ごめんなさい。これだけしか、助けられなかったの・・・」

 

汐は半分の真実を告げた。告げることができなかった。孫娘が鬼となり、多くの人間を傷つけていたことを。

せめて、彼の思い出の中の孫娘のまま逝かせてやりたいと思ったからだ。

 

しかし右衛門はにっこりと心の底からうれしそうに笑った。

 

「なにを、おっしゃいますか、鬼狩り様。あなたは救ってくださったじゃありませんか・・・私の孫を、恐ろしいものから・・・」

「!?あんた、まさか・・・!」

 

汐は驚愕に目を見開いた。そして彼の目をまじまじと見つめる。彼は気づいていたのだ。自分の孫が、鬼と化していたことを。

――そして、彼女を()()()くれるものを、ずっと待っていたことを・・・

 

「わたし、は、あの子に、何もしてやれません、でした。あの子を救う、ことも、ずっと、苦しんでいた、ことにも、気づくことができなかった、祖父失格の、男です・・・」

「そんなことはない。そんなことはないわ。耳をかっぽじってってよく聞いて」

 

汐はぎゅっと強く彼の手を握った。そしてしっかりと彼の目を見据えて口を開く。

 

「あんたの孫は、あんたのことをずっと思っていた。そうでなかったら、あの人形を、あんたの作品をああしてずっと持っていたわけがない。それに、あたしちゃんと聞いたのよ。あの子の、最期の言葉を・・・」

 

――おじいちゃん、大好きだよ

汐は彼女の()をそのまま彼に伝えた。不謹慎であることは承知していた。けれど、少しでも彼女の気持ちを彼にそのまま伝えたかったのだ。

 

右衛門は目をこれ以上ない程大きく見開くと、その目からは大粒の涙がこぼれだす。そしてそっと両手を空へを上げながら嗚咽を漏らした。

 

「ありがとう、ありがとう。もうこれで、思い残すことは、ありません。本当に、あり、が、とう・・・」

 

その言葉を最後に、彼の腕はゆっくりと地に向かって落ちていった。どこか遠くで、鴉の鳴く声が聞こえた気がした。

 

 

 

*   *   *   *   *

 

 

 

それから。

汐はたった一人で彼の葬儀を行った。身内が誰もいなかった彼の遺骨は、町の寺に預けることにした。

もちろん、彼女の人形とともに、彼は天へと静かに旅立っていった。

 

空へ上る煙を見つめながら、汐はそっと目を閉じた。冷たい風が、彼女の両頬をそっと撫でていく。

 

――にんぎょうにんぎょうつくりましょう

あたまをつけておててをつけて

あんよもふたつつけましょう

きれいなきものもきせましょう

きれいなきれいなおにんぎょう

あなただけのおにんぎょう

 

透き通る歌声が、風に乗って消えていく。汐の左目からは、一筋の涙がこぼれ地面に黒い染みを作っていた。

 

そして汐の頭の中に、鱗滝と冨岡の言葉がよみがえる。

 

――人を鬼に変えることができる血を持つ鬼は、この世でたった一体のみ。

千年以上も前に、一番初めに鬼となったもの。

 

そして、汐の村を壊し、玄海を鬼に変えたうえ、炭治郎の家族を奪い、禰豆子を鬼に変えた張本人。

 

その名は・・・

 

 

                      ――鬼舞辻 無惨――

 

 

「鬼舞辻、無惨」

 

そいつがこの世のすべての鬼を生み出し、多くの人間の傷つけもてあそび、悲劇を生み出した元凶。

 

「――反吐以下のくそったれ野郎だわ」

 

汐の震える言葉も、風に乗って消えていく。ふつふつと湧き上がる憎しみと殺意は、彼女の体を前へ突き動かす。

 

「神様。どうか、あの二人が今度生まれてきたときは、幸せになりますように・・・」

汐はそっと手を合わせる。この祈りがどうか、彼らの下へ届くように願いながら。

 

「カァ~カァ~。次ノ任務は・・・」

 

しんみりする余裕も与えず、ソラノタユウがゆっくりと鳴く。せめて余韻には浸らせてほしいと思ったが、悲しい想いを抱える暇などない。

汐はもう一度空を見上げると、拳を握りしめて歩き出した。

 

 

 

 

 

*   *   *   *   *

 

 

「そ、そんな・・・私の鏡が・・・ああああ!!!」

 

顔から血を流して狼狽する鬼に、汐は冷酷な眼差しのまま刀を突き付ける。

 

「あんたをぶっ殺す前に聞きたいことがある。正直なところ、あんたみたいな腐った目をいつまでも見ていたくないから単刀直入に言うわね」

 

――鬼舞辻無惨について、知っていることを吐いてもらうわ

 

すると鬼は突然、締め上げられた鶏のような声を上げた。顔は青ざめ、汗は吹き出し、口からは泡を吹いている。

 

「い、い、言えない。言えないのおおおお!あのお方のことは、何があろうと絶対にいいいいい!!!」

 

発狂しながら鬼が爪を汐の目に突き立てようと襲い掛かってきた。汐は冷静にその頸を斬り落とすと、刀を鞘に納め小さく息をついた。

 

(またか・・・どの鬼も、奴のことを聞こうとするとみんな同じ反応をする・・・炭治郎、ごめん)

 

塵になっていく鬼を見つめながら、汐は張り裂けそうな思いで彼に謝罪の言葉を口にした。

今頃彼らはどうしているだろうか。別れてから数日たっている。さすがにこれだけ離れていると、僅かながら寂しさを感じ始めてきた。

 

そんな時だった。

 

「次ノ行先ハァ~。浅草ァ~。東京府浅草デスヨォ~。鬼ガ潜伏シテイルトノ情報デス~」

 

浅草。東京府の中でも都会と呼べるほどの大きな町。そんな場所に鬼が潜んでいる。それを見逃せば大惨事になることは確実だ。

 

「ったく。こっちはほぼ休みなしで仕事しているっていうのに。鬼も少しは空気読みなさいよね」

「カァ~。空気ハ~吸ウモノデハナイデショウカ~」

「そういう意味で言ったんじゃないのよ。あんたって時々変なことを言うのね。でも浅草か。話には聞いていたけど、どんなところか少し楽しみかも」

 

そんな小さな期待を胸に抱きながら、汐は浅草に向けて足を進める。そんな中、汐は大きなくしゃみを一つした。

 

「誰かがあたしの噂でもしてるのかも・・・」

 

だがこの時は

 

 

――運命が大きく動くことを、彼女たちはまだ知る由もなかった




おまけCS
炭「おはよう禰豆子。体の具合はどうだ?」
禰「・・・!」(大丈夫というように首を振る)
炭「そうか。でも無理は絶対にするなよ。兄ちゃんが必ず守ってやるからな」
禰「・・・♪」(うれしそうに笑う)
炭「そういえば、汐は今頃どうしているだろうな。覚えてるだろ?青い髪の歌が上手な女の子」
禰「・・・!」(何度もうなずく)
炭「離れてからずいぶん経つけど。大丈夫かな。怪我をして居たりはしないかな」
禰「・・・・」(ただ黙って炭治郎を見ている)
炭「ご飯はちゃんと食べてるかな。きちんと眠れているかな。風呂にはちゃんと入っているかな。歯をきちんと磨いているかな」
禰「・・・」(困った顔をしている)
炭「顔洗っているかな。誰かを困らせていないかな。風邪をひいたりしていないかな。まずいな、気になりだしたら止まらなくなってきたぞ」
禰「・・・・」(ただ黙って炭治郎を見ている)
炭「と、とにかく。次の行き先は浅草だ。気を引き締めていこう」


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

四章:遭遇


鎹鴉に導かれてやって来た浅草は、完全に別の世界だった。

まず、もう日は完全に落ちているというのに昼間のように明るい。照明の大きさや数が尋常ではないからだ。

次に、どの建物も今まで見てきたものとは比べ物にならない程高い。見上げ続けていれば、間違いなく首を痛くするだろう。

そして、待ちゆく人々の多さ。人が多すぎて一尺先すらもよく見えない。汐が昔赴いた港町でも、これほどの人はいなかっただろう。

他にも路面を走る列車など、汐の故郷では見たこともないものばかり。

 

まるで物語の中に入り込んでしまったような街並みに、汐は驚きつつも心が躍った。

もちろん、遊びに来たわけではないことはわかっている。しかし、今の彼女の表情は、新しいおもちゃを買ってもらった幼い子供の様に目を輝かせているものだった。

 

そのせいだろうか。背後に怪しい気配が忍び寄っていることに、汐は気づくのが遅れた。

軽い衝撃を感じ振り返ると、みすぼらしい男が汐の荷物を手に逃げ去ろうとしているのが見えた。所謂掏りという奴だ。

掏りは意地の悪い笑みを浮かべながら、そのまま立ち去ろうとする。普通の人間ならば追いかけても追いつくことは難しいだろう。

 

()()()()()ならばだが。

 

汐は瞬時に掏りに距離を詰めると、その腕をつかみ捻り上げた。悲鳴を上げてのけ反る掏りを引き倒し、荷物を回収する。

 

「間抜けなお上りさんだと思った?お生憎。次は相手をもっと見たほうがいいわよ」

軽く軽蔑した目を向けると、汐は周りに気を付けるように告げ人ごみの中に紛れた。

 

とはいえ、これほどたくさんの人に囲まれているとまたさっきの様に掏りに遭われちゃかなわない上に、香水や整髪料などの臭いや人の体臭などが混ざり合い汐は軽い人酔いを起こしてしまった。

普通の嗅覚である彼女がこれでは、きっと炭治郎だったら失神してしまうだろう。

そんなことを考えていると、いつの間にか町からは離れ街灯がぽつりぽつりとある場所に出た。人の波から解放された汐は、ほっと息をつく。

大して動いていないはずなのに、汐は疲労感に襲われていた。おそらく慣れない場所で慣れないことをしたため、頭が付いていかなかったのだろう。

 

ふと、前を見ると小さな屋台が見える。目を凝らしてみると、それには【うどん】と書いてある。

それを見た瞬間、汐のおなかの虫が寂しげに鳴いた。なんだか最近、食べ物を売る店を見るたびにおなかがすいているような気がする。

 

汐はふらふらと身体を揺らしながら、屋台にたどり着く。そこでは禿げ頭の店主が一人、煙管をふかしていた。

「あの~すみません」

汐が声をかけると、店主は少し面倒くさそうに顔を上げた。屋台にはいろいろなうどんの種類が書いてあるが、汐は一番先に目のついたうどんの名を告げた。

 

「「山かけうどんください・・・」」

 

――え?

 

自分以外の誰かの声が綺麗に重なり、汐は思わず目を見開く。そして声のしたほうに首を動かすと、そこには・・・

 

頭を青い布で隠しているものの、見覚えのある、澄み切った夕暮れ海のような眼がそこにあった。

相手も汐の顔を見て驚いたように目を見開く。そして、

 

「・・・炭治郎?」

「・・・汐?」

互いが互いの名を呼び合う。その刹那。うれしさのあまり甲高い声を上げながら、二人は小躍りして喜び互いの手を握った。

 

「炭治郎!久しぶりぃ!!元気だった!?」

「汐こそ!まさかこんなところで君に会えるなんて思わなかったよ!」

 

先ほどの疲れは何処へやら、二人はしばらく互いの手を握ったままくるくると回り再会の喜びを味わった。

そして汐の視線は隣にいた禰豆子に向けられる。

 

「禰豆子!久しぶり!あたしのこと覚えてる?」

汐がそう言うと、禰豆子は少しぼんやりした表情で見つめ返した。そんな彼女を汐はぎゅっと強く抱きしめる。

 

「元気だった?ケガしなかった?変な奴に襲われたりしなかった?」

「え?いや、その」

 

弾丸のようにまくしたてる彼女に、炭治郎は困惑する。その彼の反応に、汐はそれらがあったことを瞬時に悟った。

 

「あったのね。禰豆子を傷つけたバカがいたのね!許せない!今すぐぶっ殺してやるわ!場所を教えて!!」

「落ち着け汐!もう俺が片付けたから大丈夫だ!だから殺意!殺意引っ込めて!!」

怒りのあまり刀を抜く汐を、炭治郎は必死で押さえつけたのであった。

 

*   *   *   *   *

 

興奮する汐を落ち着けた後、二人はうどんができるまでこれまでのことを話し合った。

炭治郎が赴いた場所では、16歳になる娘ばかり狙う鬼が出没し、それを炭治郎と禰豆子の二人で撃退したということだった。

汐も、体の一部を人形に変化させる鬼や、鏡を使った罠を張った鬼を退治したことを話した。そしていずれも、鬼舞辻無惨の名を出すと、皆激しくおびえていたことを。

 

「だから奴の事や禰豆子を人間に戻す方法はわからなかった。ごめんね、炭治郎」

「いいや。汐のせいじゃない。むしろ、礼を言わないと。俺たちの為にいろいろ聞いてくれてありがとう」

「そんなたいそうなもんじゃないわ。鬼舞辻にはあたしにも因縁がある。おやっさんを鬼にした奴は、絶対に許さない」

 

そう言って汐は拳を強く握る。わずかながら殺意の匂いがこぼれる彼女に、炭治郎は顔をしかめたがそれは自分も同じだった。

 

そうしているうちに、禰豆子は炭治郎の肩に寄りかかり寝息を立てている。そんな彼女を、炭治郎は心からの慈しみの眼を向ける。

そんな二人を顔をほころばせながら、汐は口を開いた。

 

「禰豆子、よっぽど疲れたのね。確か、ケガをしたら眠って体力を回復させるのよね」

「鱗滝さんはそう言ってたけれど、それはきっと正しい。現に、任務で禰豆子がけがをした時もしばらく眠っていたから」

「ふふ。しばらく寝かせてあげましょ」

 

汐がそう言うと、うどん屋の店主が山かけうどんを二つ汐と炭治郎に手渡した。アツアツの湯気が立ち上るどんぶりだ。

 

「わあ、おいしそう」

 

どんぶりの中には薄茶色の汁の中に浮いたうどんに、雪のように真っ白なとろろがかけられ、さらに月のような黄色い卵がかわいらしく乗っかっていた。

汐と炭治郎はいただきますと小さくつぶやき、まずは汁をすする。ちょうどいい塩梅の味と香りが、二人の味覚と嗅覚をくすぐり、体がふわりと温かくなる。

 

(おいしい!)

汐はその味に満足し、左手の端で麺をすすろうとした瞬間。

 

――炭治郎が突然、ゆっくりと立ち上がった。持っていたどんぶりをそのまま地面に落として。

どんぶりは地面に落ちて砕け、うどんは見るも無残な姿になってしまった。

 

「わ!ちょっと炭治郎!なにやってんの!?」

食べ物を粗末にするなんて!と、汐が顔をしかめて彼を見上げると、その表情を見て汐も目を見開く。

 

炭治郎は目をこれ以上ない程見開き、息は荒く、顔は青ざめ汗が噴き出している。明らかに様子がおかしい。

 

「炭治郎?ねえ、いったいどうしたの?炭治郎ってば!!」

 

汐が羽織を引っ張っても、呼びかけても炭治郎は答えない。それどころか、置いてあった刀を手に取ると、何かに取り憑かれたように町へ向かって走り出していた。

 

「炭治郎!?待って!!」

 

このまま炭治郎を放っておくわけにはいかない。汐はどんぶりをわきに置くと、舟をこいでいる禰豆子をそっと寝かせる。

 

「おじさんごめん!ちょっと禰豆子見てて!!」

 

汐は切羽詰まった声でそう告げると、炭治郎を追って駆け出した。

 

(炭治郎・・・!どこ!?どこにいるの!?)

 

先ほどの彼の様子は明らかに普通ではなかった。それを思い出すと嫌な予感が汐の全身を支配していく。

だが、前にはたくさんの人が立ちはだかり思うように前に進めない。早く炭治郎を見つけなければいけないのに。焦る心とは裏腹に、足は止められてしまう。

 

「炭治郎!!」

人ごみの中で汐は叫ぶ。その声は無情にもかき消されてしまうが、汐は何度も彼の名を呼んだ。その時だった。

 

耳をつんざくような金切り声が、汐の耳を突き刺した。

 

「ひ、悲鳴!?」

 

汐はすぐさま悲鳴が聞こえた方向に顔を向ける。が、その瞬間。汐のすぐ近くで、すさまじい程の恐ろしい気配がした。

 

(な・・・なに・・・これ・・・?)

 

尋常じゃない程の寒気に似た気配に、汐の体が強張る。それを無理やり動かしてその方向を見ると、そこには――

 

病人を思わせるような青白い顔に、血の様に真っ赤な眼をした長身の男が、目を細めながらどこかを見ていた。

 

「!!!!」

 

その眼を見た瞬間。汐の全身に刃を打ち込まれたような感覚が襲う。その男の眼は、おぞましいという言葉すら生ぬるく感じるほどの何かを宿していた。

これまで汐はたくさんの悪党や鬼の眼を見てきたが、この男の眼は今までの奴らが赤子に見えるほど、この世のすべての負の感情を凝縮しきったようなものをしていた。

身体がガタガタと震え、息が荒くなる。彼女の全身の細胞全てが、こいつにかかわってはいけないと警鐘を鳴らす。

 

(なんだ・・・なんだ・・・!こいつはいったい何なんだ・・・!!??)

 

逃げ出したくなる衝動にかられたが、まるで縫い付けられたかのように体が動かない。このままこいつの圧だけで殺されてしまいそうな、そんなことさえも思い始めたとき。

 

「鬼舞辻無惨!!!」

 

何処からか空気を切り裂く声が聞こえた。その瞬間、汐の体がはじかれたように動く。

 

「俺はお前を逃がさない!何処へ行こうと、地獄の果てまで追いかけて必ずお前の頸に刃を振るう!!絶対にお前を許さない!!」

 

それはまごうことなく炭治郎の声。そして目の前にいる男が、汐と炭治郎の幸せを壊した元凶。

 

――鬼舞辻無惨。こいつが・・・こいつがっっっ!!!

 

汐の目にみるみるうちに殺意が宿る。これ以上ない程の黒い感情が渦巻き、先ほどの恐怖を塗りつぶしていく。

その気配に無惨が気づくのと同時に、炭治郎のうめき声が上がった。

 

「炭治郎!!」

 

汐は弾かれた様に背を向けると、炭治郎がいると思わしき方角へ走る。その彼女の海の底のような真っ青な髪を、無惨の目がとらえた。

 

「!!!」

 

彼の顔に戦慄が走る。だが彼は表情を崩さぬまま妻と娘を連れ、人ごみの中へ消えて行った。

 

「あの耳飾りと、青髪の、娘・・・」と、小さくつぶやきながら。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



「ちょっとどいて!通して!!」

 

汐は立ちふさがる人を押しのけながら前に出る。すると、急に人の波が消え開けた場所に出た。

そこには肩から血を流している女性と、何かに馬乗りになっている炭治郎。その下にいたのは口に布を詰められうめいている一人の男。

だが、その眼は完全に正気を失っている。

 

(鬼!!)

 

鬼の気配を感じた汐は、すぐさま刀に手をかける。が、炭治郎はそれを見て声を荒げた。

 

「待ってくれ汐!この人はたった今鬼にされたばかりで誰も殺していないんだ!!刀を収めてくれ!!頼む!!」

 

炭治郎の声に汐の手が止まる。だが、彼は今押さえつけているだけで精いっぱいのようで、いつ鬼に力負けをしてもおかしくはない。

そして周りには大勢の人間がいる。このまま放っておけば、新たな犠牲者が出るかもしれない。

それに、その男はかなり苦しんでいた。その姿が、あの日の彼女の養父、玄海と重なる。

 

――おやっさん・・・!

あの時はこれ以上苦しむ彼を見ていられなくて、自分を殺して刃を振るった。これ以上苦しむくらいなら、いっそのこと楽にしてあげるのも優しさの一つかもしれない。

汐の手が震える。

 

「汐!!」

炭治郎の悲鳴に似た声が耳に入った瞬間、汐は動いた。刀を収め、頭の鉢巻きを外すと、持っていた水をかけた。

 

「そのまま抑えてて!!」

 

それから素早く男に駆け寄ると、目にもとまらぬ速さで両腕を縛り上げた。男は苦しそうに鉢巻きを外そうとするが、水にぬれた鉢巻きの強度になすすべもない。

そんな彼女を見て、炭治郎はほっとした顔をしたが、すぐさまもう一度男を抑える。

「ここは俺に任せて、汐はこの人の奥さんの手当てを頼む!」

「わかったわ!」

 

汐はうなずくと、蹲っている女性の肩の布を、持っていた包帯で縛り上げる。それから昔玄海に教わった出血を止めるツボを強く抑えた。

痛みに顔をゆがませる彼女に、汐は凛とした声で言った。

 

「気をしっかり持って!あんたの旦那は必ず何とかするから!」

汐の声に、女性の表情が少しだけ和らぐ。すると、騒ぎを聞きつけたのか数人の警察官が彼らの前に現れた。

 

警察官たちは炭治郎に離れるように促すが、炭治郎は首を横に振った。自分でなければ()()()を抑えられない、と。

だが警官たちは聞き入れず、無理やり炭治郎を引きはがそうとする。

 

「やめて!その人たちから離れて!」

汐は声を上げ、警官たちの間に入りそれを阻む。汐の真っ青な髪に警官たちは一瞬たじろいだが、汐に食って掛かった。

「なんだ貴様は!邪魔をするな!」

「邪魔なのはあんたたちよ!いいから炭治郎の言う通り拘束具を持ってきなさい!!()()()に望まない罪を犯させないで!!!」

汐の凛とした声があたりに響き渡る。その声は、人ごみの中に紛れていた()()にも聞こえた。

 

業を煮やした一人の警官が、汐に向かって警棒を振り上げる。炭治郎が息をのみ、汐がぎゅっと目をつぶったその時だった。

 

 

――惑血。視覚夢幻の香

 

何処からともなく漂ってきた不思議な香りに、炭治郎が反応する。それと同時に、汐達の前に花を基とした不思議な文様が現れた。

それはまるで反物の様に汐達を包み込み、警官たちから遮断する。

 

「なに・・・これ・・・?」

「汐、俺から離れるな。何かの攻撃かもしれない」

 

汐もわけがわからず困惑すると、炭治郎が鋭く制する。こんな状態で襲撃を受けてはまずい。二人の顔に緊張が走る。

すると誰かが汐達のほうへ近づいてい来る気配がした。

そこには一人の美しい女性と、目つきが鋭い少年がたっていた。

 

「あなた方は、鬼となった者にも【人】という言葉を使ってくださるのですね。そして、助けようとしている。ならば私も、あなた方を手助けしましょう」

 

女性は優しい声色でそう言った。その腕からは血が流れだしているが、その傷は瞬時に消え去った。

汐は眼で、炭治郎は匂いで確信した。二人は鬼だ。だが、鬼の女性の言葉に違和感を感じる。

 

「何故ですか?あなたの匂いは・・・」

 

鬼でしょう?と言いたげな炭治郎の言葉に、鬼の女性はうなずいた。

 

「そう。私は、鬼ですが医者でもあります。そしてあの男――」

 

――鬼舞辻を抹殺したいと思っている。

 

彼女の言葉を聞いて二人は混乱した。鬼である彼女が、鬼舞辻を消したいと思っている?

どういうことなんだと考える間もなく、鬼の女性は炭治郎の下でうめいている男に近寄った。すると不思議なことに、あれほど苦しんでいた男の動きが鈍くなった。

それを見計らってか、鬼の少年が素早く駆け寄り取り押さえる。それから傷を負った彼の妻を見ていった。

 

「あの方の手当ては私がしましょう。預けていただいてもよろしいでしょうか?」

汐と炭治郎は顔を合わせると、同時にうなずいた。医者だといった彼女に預けたほうが確実だ。

 

「どうかお願いします。それから、助けてくださってありがとうございました。俺は竈門炭治郎といいます。そして彼女が」

「自分で名乗るわ。あたしは大海原汐。あたしからも礼を言わせて。本当にありがとう」

 

汐が名を名乗った瞬間。二人の目が見開かれる。だが、汐はそれに気づく前にあることを思い出して声を上げた。

 

「ああーーーっ!!大変!あたし禰豆子を置き去りにしてきちゃった!」

「な、なんだってー!?そりゃ大変だ!急いで戻らないと!すみません二人とも。俺たちは行きます。その人たちをお願いします!!」

 

そう言って汐と炭治郎は踵を返して屋台のところへ戻っていった。そんな二人を鬼の二人は見ていたが、鬼の少年が女性に何か耳打ちをする。

 

「ええ、そうね。もしかしたら彼女はあの方の、大海原玄海さんの娘さんである可能性がある。だとしたら、これが運命というものなのかしら」

 

鬼の女性の悲しげなつぶやきが、少年の鬼の耳に届いた。

 

 

*   *   *   *   *

 

一方そのころ。

【月彦】という人間に成りすましていた鬼、鬼舞辻無惨は仕事があるといい妻子を先に帰す。だがそれは口実で、本当の目的は別にあった。

先ほど自分の名を呼んだ少年。それからそのあとで見かけた青髪の少女。その二人の行き先を聞くためだ。

そんな時、前方から三人にの人間が歩いてくる。そのうち一人は女で、二人は男。そのうちの一人はかなり酔っているのか千鳥足だ。

その男の腕が無惨の体に当たる。男は手を抑えると、無惨を見上げながら口を開いた。

 

「痛っ。なんだてめぇ~」

呂律の回っていない口調で咎めるが、無惨は小さく「すみません」とだけ告げると足早に立ち去ろうとする。その態度が気に喰わなかったのか、男は彼の肩をつかみ声を荒げた。

「おい、待てよ!」

「申し訳ないが、急いでおりますので」

そんな彼に、無惨は再び淡々と答える。男も堪忍袋の緒が切れたのか、無惨に絡み始めた。

 

「おいおい。ずいぶんいい服着てやがるなお前。気にらねえぜ。青白い顔しやがってよ。今にも死にそうだなぁ~」

この言葉が耳に入った瞬間、無惨の目が見開かれる。血のような真っ赤な瞳孔が小刻みに震えだす。そのことに気づくことなく、男はさらに煽りだすが、その刹那。

 

無惨の拳が、男の顔面を砕きつぶした。壁に真紅が飛び散る。

 

「やっちゃん!」

「弟に何しやがる!」

女が金切り声を上げ、男に駆け寄る。もう一人の男が激昂し無惨に詰め寄る。

「あんた!し、死んでるよ・・・!やっちゃんが息してない・・・」

女が怯えた声を上げ、もう一人の男が無惨に殴り掛かろうとする。が、無惨は全く臆することもなく静かにその足を男の腹に叩き込んだ。

一瞬で男の巨体が宙へ舞い上がると、口から大量の血をまき散らす。そしてそのまま地面に叩きつけられ、二度と動かなくなった。

 

腰を抜かし怯え切っている女の下へ、無惨は静かに歩み寄る。そして視線を合わせてしゃがみ込むと、女の目をじっと見つめた。

 

「私の顔色は悪く見えるか。私の顔は()()()か?()()に見えるか?()()()()()()()()ように見えるか?()()()()に見えるか?」

 

――違う違うちがうチガウ。私は限りなく完璧に近い生物だ。

 

無惨の爪が青白く光りとがりだす。その爪を怯えて震える女の額に突き刺した。

 

「私の血を大量に与え続けられるとどうなると思う?人間の体は変貌の速度に耐え切れず、細胞が壊れる」

 

女の体がみるみるうちに青白くなったかと思うと、瞬時にして形が崩れ液状となって溶けだした。そしてそのまま黒煙を上げながら消滅する。

 

屍となった三人を見下ろしながら、無惨は指を鳴らした。すると、どこからともなく二つの影が音もなく舞い降りた。

 

「なんなりとお申し付けを」

左側に立っていた影が言うと、無惨は振り向かないまま淡々と告げた。

 

「耳に花札のような飾りがついた鬼狩りと青髪の娘、二つの頸を持ってこい。娘は声帯ごとだ。いいな」

「御意」

「仰せのままに」

 

二つの影は答えると、再び闇の中に姿を消した。

無惨の瞳が小刻みに震える。彼の忌まわしい記憶が一気によみがえったのだ。

かつて自分を瀕死にまで追い詰めた、耳飾りの剣士。そして彼らを献身的に支え、鬼である自分を惑わした青髪の女。

 

「あの耳飾り・・・青髪の・・・ワダツミの・・・」

 

無惨の憎しみのこもったつぶやきは、誰に聞かれることもなく消えていった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



「禰豆子!」

 

二人が慌てて戻ると、禰豆子は屋台の前で横になりながら寝息を立てていた。二人はほっとして禰豆子を起こさないように隣に座る。

先ほどの騒ぎが嘘のように、あたりは静寂に包まれていた。

 

「・・・ごめん、炭治郎」

 

座ってしばらくした後、汐が突然謝罪の言葉を口にした。炭治郎は怪訝そうな顔で汐を見ると、彼女は目をぎゅっと固くつぶったまま答えた。

 

「あたし、鬼舞辻を見たのに動けなかった。あんなおぞましい眼をした奴は初めてで、体が全く動かなかった。声も出なかった。あの時あたしが動けていれば、奴を捕まえられたかもしれないのに・・・ごめん」

 

汐の拳が震える。恐ろしさと悔しさが入交った匂いが炭治郎の鼻に届く。そんな彼女に、炭治郎は首を横に振った。

 

「いや、俺のほうこそ軽率だった。俺が勝手な行動をしなければあんなことは起こらずに済んだかもしれない。それに、汐に怖い思いまでさせてしまった。俺のほうこそごめん」

 

炭治郎はそう言って汐に頭を下げる。汐も混乱して炭治郎に頭を下げる。二人して頭を下げる不思議な光景だった。

 

「な、なんか、あたしたち謝ってばかりだね」

「そ、そうだな」

なんとなく気まずい雰囲気になってきた頃、禰豆子が小さくうめいて目を開ける。そして目の前の不思議な光景を見て首を傾げた。

 

「あ、禰豆子。おはよう。って、夜におはようっていうのも変か。一人にさせちゃってごめんね」

汐がそう言うと、禰豆子はきょとんとして二人を見つめる。そんな時だった。

 

「お前らあああ!!」

 

いきなりの大声に三人はびくりと体を震わせる。

振り返ると、そこには先程のうどん屋の店主が額に青筋を立てて汐達を睨みつけていた。

その顔を見て二人の顔がさっと青くなる。無理もない。炭治郎はうどんを落としてしまったし、汐はそのまま放置して面が伸び切ってしまい、二人ともうどんを台無しにしてしまったのだ。

店主はがみがみと二人をしかりつける。その迫力に臆した炭治郎が、弁償しますと言った時だった。

 

「俺はな!!俺が言いたいのは金じゃねえんだ!!お前らが俺のうどんを食わねえって心づもりなのが許せねえのさ!!」

それから店主の目が、隣に座っている禰豆子に向けられる。

 

「お前もだ!まずはその竹を外せ!なんだその竹。箸を持て箸を!!」

まるで猪突猛進の獣の様にまくしたてる彼に、禰豆子はわけがわからないと言わんばかりに店主を見つめる。

そんな彼の背後に炭治郎が瞬時に移動し、「うどんをお願いします。二杯で!!」と言った。

 

「いいえ」その言葉を遮るものがいた。ずっと黙っていた汐だ。

彼女は凛とした表情で炭治郎を押しのけると、店主の目を見据えて言った。

「四杯よ」と。

 

その気迫に押された店主が、すぐさま山かけうどんを四杯、二人の前に並べた。そのうどんを、二人は目にもとまらぬ速さで食していく。

寸分の狂いもない程の二人の息があった食いっぷりに、唖然とする店主の前で、うどんは僅か数秒でなくなってしまった。

 

「「ごちそうさまでした!!!」」

綺麗に重なった二人の声に、店主は戸惑いながらも「毎度あり!!」と答えた。心なしか、その表情はやり切ったようなものをしていた。

 

うどんを食べ終えた三人は、屋台を離れ夜道を歩く。すると不意に禰豆子が二人の羽織を引っ張った。

勢いあまってつんのめりそうになるが、寸でのところで踏みとどまる。禰豆子を見ると、警戒した表情で前を見ている。

汐と炭治郎が振り返ると、そこにいたのは。先ほど出会った鋭い目つきをした、鬼の少年だった。

 

「あんたはさっきの・・・」

汐が口を開くと、彼はふんと小さく鼻を鳴らした。

「待っていてくれたんですか?」

「お前らを連れてくるようにと、あの方に言われたんでな」

「俺は匂いをたどれるのに」

「目くらましの術をかけている場所にいるんだ。辿れるものか」

 

当たり前だろう、と言わんばかりに少年は高圧的に言った。その態度に汐は少し顔をしかめる。

「それよりも・・・」

少年は言葉を切ると、人差し指を禰豆子に向かって伸ばした。

 

「鬼じゃないかその女は。しかも、【醜女(しこめ)】だ」

 

少年の言葉に、汐と炭治郎の思考が停止する。今、彼は何と言ったのだろう。

 

(しこめ?しこめって、不細工ってことよね。誰が?)

 

汐と炭治郎は互いに顔を見合わせる。それから数秒後、二人は同時に禰豆子を見た。

 

((禰豆子ぉおおおお!?))

 

醜女(しこめ)のはずないだろう!よく見てみろこの顔立ちを!!町でも評判の美人だったぞ、禰豆子は!!」

 

余りの言い草に激怒した炭治郎が大声でまくしたてる。一方汐は、まるで汚らしいものを見るような眼で少年を見つめた。

 

「あんた・・・眼球腐ってるんじゃないの?それとも、脳みそに蛆虫でも湧いているの?」

 

炭治郎とは対照的に冷静に、しかし心の底から軽蔑しきった言葉を彼に浴びせた。しかし彼は二人の言葉など意にも解せず、淡々と歩き出した。

 

そんな彼に、炭治郎は大声でまくしたてながらも素直についていくのであった。

 

*   *   *   *   *

 

少年に連れられてやってきたのは、何の変哲もない袋小路だった。こんなところに何の用があるのかわからず、汐は首をかしげる。

一方炭治郎は、先ほど彼に禰豆子を醜女(しこめ)呼ばわりされた怒りが収まらず、いまだに騒ぎ続けている。

だが、少年は全く気にする様子もなく、そのまま壁に向かって突き進んだ。すると不思議なことに、彼の体は溶けるように壁に吸い込まれていった。

 

「へ?」

 

汐が思わず素っ頓狂な声を上げると、流石の炭治郎も口を閉ざす。すると少年の頸だけが壁からはみ出し「早く来い」とせかす。

 

汐達は少し困惑しながらも壁に向かって踏み込んでみた。すると、固い壁の感触は全く感じずそのままするりと向こう側に進むことができた。

 

そこにあるものを見て、汐達は息をのんだ。そこには大きな西洋風の建物が静かに鎮座していた。

行き止まりの向こう側に屋敷があったことに驚く二人。少年はそんな二人を促した後、警告するかのように声を荒げた。

 

「俺はお前たちなどどうなっても構わないが、あの方がどうしてもというから連れてきたんだ。くれぐれも、くれぐれも失礼のないようにしろ」

 

殆ど脅迫に近いその言動や行動に、炭治郎は思わずうなずく。その時、汐の視線がふと、壁につけられたものに止まる。

それを認識した瞬間、汐の体が強張った。

 

そこに張り付けられていたのは、目のような文様が描かれた呪符のようなものだ。だが、汐はこの文様に覚えがあった。

それはかつて。養父玄海の薬を買いに行ったとき、薬を運んできた猫がつけていたものと全く同じものであった。

 

「なんで・・・どうしてこの模様がこんなところに・・・?」

困惑する汐に、少年は当然だというように鼻を鳴らす。

 

「お前の父親にあれを送ったのは、ほかでもない。あの方なのだから」

「何よそれ、どういうこと?」

汐が声を上げると、炭治郎は怪訝そうな顔で彼女を見つめる。しかし少年は答えずに屋敷の中へ入っていってしまった。

仕方がないので汐達も屋敷へお邪魔することにした。

 

「ただいま戻りました」

少年が扉を開けると、そこには先程の鬼の女性と、肩を怪我した女性がベッドに横たわっていた。どうやら彼女がここへ運び治療をしてくれていたらしい。

 

「先ほどはお任せしてすみません。奥さんは・・・」

「この方なら大丈夫ですよ。ご主人は気の毒ですが、拘束して地下牢に」

そういう鬼の女性は、酷く悲しげな表情を浮かべていた。そんな彼女の横顔に、炭治郎が声をかける。

 

「人の怪我の手当てをして、辛くはないですか?」

それは鬼である彼女を気遣っての言動であったが、それを制止するかのように少年の拳が炭治郎の胸元に当たる。

 

「鬼の俺たちが血肉の匂いに涎を垂らして耐えながら、人間の治療をしているとでも?」

少年の言葉に炭治郎は失言だったことに気づき、小さな声で謝った。そんな少年を、鬼の女性は静かに諫めた。

 

「名乗っていませんでしたね。私は珠世と申します。その子は愈史郎。仲良くしてやってくださいね」

珠世がそういうと、炭治郎は思わず隣の愈史郎を見るが、彼はまるで番犬の様に目を鋭くさせうなり声をあげていた。

(こりゃ無理ね)と、汐は早々にあきらめた。

 

「先ほどの質問ですが、辛くはないですよ。普通の鬼よりかなり楽かと思います。私は自分の体を随分()()()いますから。鬼舞辻の()()も外しています」

「呪い?」

「体を、弄った?」

 

珠世の言葉の意味が分からず、汐と炭治郎は首をかしげる。珠世は来ていた割烹着を脱ぐと、汐達を別室へと案内した。

 

「ああっ、禰豆子。行儀悪いぞ」

疲れたのか部屋につくなり、禰豆子はごろりと畳に寝転がる。それを窘める炭治郎に、珠世は楽にしてくれて構わないと告げた。

 

「先ほどの続きですが、私たちは人を食らうことなく暮らしていけるようにしました。人の血を少量飲むだけで事足りる」

「血を?それは・・・」

「不快に思われるかもしれませんが、金銭に余裕のない方から輸血と称して血を買っています。もちろん、彼らの体に支障が出ない量です」

 

その言葉を聞いて、汐は納得した。この二人から鬼が見せるあの不快感がしないのはそのせいなのだと。しかし、それでも生きるために人血は必須であることから、やはり彼らが人ならざる者であることがうかがえる。

「愈史郎はもっと少量の血で足ります。この子は私が鬼にしました」

「「え!?」」

二つの声が綺麗に重なる。確か話では、鬼を増やすことができる鬼は鬼舞辻だけだったはずでは、と。

 

「そうですね。鬼舞辻以外は鬼を増やすことができないと言われている。それは概ね正しいです。二百年以上かかって鬼にできたのは、愈史郎ただ一人ですから・・・」

 

珠世の言葉に、炭治郎の体がぶるぶると震える。汐は何事かと炭治郎に顔を向けると

 

「二百年以上かかって鬼にできたのは、愈史郎ただ一人ですから!?珠世さんは何歳ですか!?」

炭治郎が声を上げた瞬間、愈史郎の手刀が炭治郎の喉にさく裂した。

 

「女性に年を聞くな無礼者!!!」

何度か突きを受け炭治郎がせき込む。汐も「今のは炭治郎が悪いよ!」と、彼を厳しく諫めた。

 

「愈史郎。次にその子を殴ったら許しませんよ」

一方珠世も暴力を振るった愈史郎を厳しく諫める。愈史郎はすぐさま姿勢を正すと、心の中で(怒った顔も美しい・・・)と呟いた。

 

「一つ、誤解しないでほしいのですが、私は鬼を増やそうとはしていません。不治の病や怪我を負って、余命いくばくもない人にしかその処置はしません。その際は必ず本人に、鬼となっても生きながらえたいか尋ねてから、します」

 

そんな珠世の眼を、汐はじっと見据える。炭治郎も目を閉じて、匂いをかぎ取る。

彼女の眼は、嘘偽りのないものであり、匂いも清らかなものであった。二人は確信した。この人は信用できる、と。

 

「珠世さん」炭治郎が膝の上で拳を作りながら、少し震える声で尋ねた。

 

「鬼になってしまった人を、人に戻す方法はありますか?」

 

炭治郎の核心をついた質問に、珠世はしばらく言葉を切った。それからそっと口を開く。

 

「鬼を人に戻す方法は――」

 

 

*   *   *   *   *

一方そのころ。別の場所では。

世闇に紛れて、鈴のような音があたりに響き渡る。その闇に浮かび上がるのは、二つの影。

一人は両手に目玉をつけた男の鬼で、目玉を地面に這わせるように動かしている。もう一人は幼い童女のような鬼で、男の鬼に何が見えるか聞いた。

 

「見える、見えるぞ足跡が。これじゃこれじゃ」

 

男の目には、普通の者には見えない何かが見えているようだった。

 

「あちらをぐるりと大回りして、四人になっておる。何か大きな箱も持っておる」

「どうやって殺そうかのぅ。うふふふ、力がみなぎる。今しがたあの御方に血を分けて戴いたからじゃ」

女の鬼は嬉しそうに笑いながら、毬をてんてんと何度もつく。つくたびに、鈴の音があたりに響き渡った。

 

「それはもう、残酷に殺してやろうぞ。あの御方のご命令通り、鬼狩りと青髪の娘の頸を持ってな・・・」

 

二人の残虐な笑みが、月の光に照らされ妖しく光る。脅威は、すぐそばまで迫っていることに、この時は誰一人として気が付いていなかった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



「鬼になってしまった人を、人に戻す方法はありますか?」

 

少し震える声で尋ねた炭治郎を見据えながら、珠世はゆっくりと口を開いた。

 

「鬼を人に戻す方法は――」

 

――あります。

 

珠世の言葉に、炭治郎は弾かれるように詰め寄ろうとする。が、愈史郎がそれを察し、瞬時に炭治郎の手をつかみ床に投げた。

 

「・・・愈史郎」

 

珠世の地を這うような低い声が響き、文字通り鬼の形相で愈史郎を睨みつけている。そんな彼女に愈史郎は殴ったのではなく投げたと言い訳をしたが、一蹴された。

 

「どんな傷にも病にも、必ず薬や治療法があるのです。ただ、今の時点では鬼を人に戻すことはできません。ですが、私たちは必ずその治療法を確立させたいと思っています。その治療薬を作るためには、たくさんの鬼の血を調べる必要がある。そのために炭治郎さん。貴方にお願いしたいことが二つあります」

 

一つ。妹さんの血を調べさせてほしい。

二つ。できるだけ、鬼舞辻の血が濃い鬼からも、血液を採取してきてほしい。

 

「禰豆子さんは今、極めて稀で特殊な状態です。二年間眠り続けたとのお話でしたが、おそらくはその際に体が変化している。通常それほど長い間、人の血肉や獣の肉を口にできなければ、まず間違いなく狂暴化します」

 

珠世は落ち着いた声で丁寧に説明する。そんな彼女の横顔を見つめながら、愈史郎は一人(珠世様は今日も美しい。きっと明日も美しいぞ)と、心の中でつぶやいた。

 

「しかし、驚くことに禰豆子さんにはその症状がない。この奇跡は今後の鍵となるでしょう」

 

(禰豆子・・・)

 

炭治郎は潤んだ瞳で禰豆子を見つめ、そしてそっと手を伸ばす。すると禰豆子は嬉しそうにその手を取ると、ぎゅっと握った。

 

「しかし、もう一つの願いは苛酷なものになる。鬼舞辻の血が濃い鬼とは即ち、鬼舞辻により近い強さを持つ鬼ということです。その鬼から血を()るのは、容易ではありません」

 

――それでもあなたは、この願いを聞いてくださいますか?

 

炭治郎はそっと禰豆子に視線を移す。幸せそうな顔をしている彼女を見ながら、炭治郎は口を開いた。

 

「それ以外に道がなければ、俺はやります。珠世さんがたくさんの鬼の血を調べて薬を作ってくれるなら、そうすれば禰豆子だけじゃなく、もっとたくさんの人が助かりますよね?」

 

そう言って珠世に顔を向けた炭治郎の顔には、屈託のない笑みが浮かんでいる。その表情を見た珠世は小さく息をのんだが、彼につられるように笑みを見せた。

それを見た炭治郎の顔が、瞬時に赤くなる。そんな彼を見た汐は、何だかどうしようもなく腹が立って炭治郎のふくらはぎを思い切り抓った。

 

「いででででででで!!!!」

 

突如襲った強烈な痛みに、炭治郎は悲鳴を上げ涙目になる。何をするんだと顔を向けると、汐は顔を思い切りゆがませたまま炭治郎のほうを見ようともしない。

 

「汐。いったいどうしたんだ?さっきからずっと様子がおかしいぞ?」

 

汐からは何やら不満の匂いが漂う。その意味が分からなくて炭治郎が問いただすと、汐はそれには答えずに珠世を見ていった。

 

「この雰囲気をぶち壊すようで申し訳ないんだけど、あんたに一つ、聞きたいことがあるの」

汐は表情を崩さないまま珠世を見据える。そんな彼女の態度に愈史郎は「珠世様に何て口を利くんだ小娘!」と声を荒げる。

 

珠世は何かを察したように愈史郎を黙らせると、汐に向き合う。そして汐は意を決したように口を開いた。

 

「あたしの父、大海原玄海を知っているわね?そして、あの毒薬を送ったのも、あんたなのね?」

「え!?」

 

汐の言葉に炭治郎は目を見開いた。何故、ここで玄海の名が出てくるのか。そして彼に毒薬を送ったのが、珠世というのはどういうことなのだろうか。

困惑する炭治郎と、疑惑の目を向ける汐。珠世はしばらく黙った後、深くうなずいた。

 

「はい、存じております。そして、彼にあれを送ったのも、この私です」

その言葉を聞いた瞬間、汐の体が震える。体の奥から湧き上がる殺意に耐えようと、汐はぎゅっと唇をかんだ。

 

「教えて。どうやっておやっさんのことを知っていたのか。そして、何故あの毒をおやっさんに薬と称して送ったのか」

 

汐の声は冷静さを装っているが、炭治郎は彼女が必至で感情を抑えていることが分かった。だが、それ以上に彼の頭は混乱していた。人を助け、人を治そうとしている珠世が、汐の養父を殺す毒を送ったという矛盾する事実に、頭が追いついていかないのだ。

 

「わかりました。お話ししましょう。少し、長くなるかもしれませんが」

 

そう言って珠世は語りだした。大海原玄海が、何故彼6月分女たちとかかわりを持つことになったのか。

 

「彼、玄海さんと初めて出会ったのは、およそ16年ほど前です。そのころには既に、彼は鬼にされていました」

 

汐の肩が大きくはねた。その話が確かなら、汐が玄海に出会った頃には既に鬼になっていたことになる。だが、そのころの玄海は日の光に当たることはできなかったものの、人を食らったりするようなことはなかったはずだ。

汐の心を察したのか、珠世は彼女を見据えて口を開く。

 

「しかし、どういうわけか彼にははっきりとした自我があり、しかも食人衝動もかなり抑えられていたのです。今までそのような者にあったことがなかった私は、大変驚きました。私はすぐさま彼を受け入れました」

 

その後、珠世と愈史郎の献身的な処置により、玄海は人血を摂取することで自我を保てるまでになっていたという。本来ならありえないその事実に、当時の彼女たちはたいそう驚いたことだろう。

 

「しかしあの男はとんでもない男だったな。元気になるや否や、あろうことか珠世様を口説こうとした。もちろん、俺がそんなことはさせなかったがな」

鼻の穴を膨らませて語る愈史郎を、珠世は静かに制した。

 

「彼はここを出た後も、定期的に私から血を購入していました。それでも、彼はかなり苦しんでいたはずです。鬼としての本能に。実際に、彼が求める血の量は、年々増え続けていましたから」

 

そして、ある日。玄海からとうとう鬼としての本能に抗うことが難しくなったため、鬼を殺せる毒を送ってほしいという手紙が届いた。

このままでは自分は鬼となり、人を傷つけてしまうだろう。そうなる前に、人としての自我があるままこの世を去りたいと。

 

「ついにこの時が来てしまったのだと、私は察しました。ですが、藤の花の毒は、かなりの苦痛と苦しみを伴うもの。ずっと苦しみぬいた彼を、さらに苦しめるのかと私は悩みました。ですが、彼の思いを無下にもできず、私は・・・」

 

そこまで言って珠世は苦しそうに口を閉じた。その眼には深い後悔の念が浮かんでいる。だが、もうすべて終わったこと。今更そんな眼をしたところで、玄海は帰ってはこない。

だが、珠世の苦しみもわかる。先ほどの人を救い、助けたいという気持ちは本物であることを汐もわかっていた。だからこそ、彼女自身も苦しかったのだ。

 

「ごめんなさい、汐さん」珠世が謝罪の言葉を口にする。愈史郎が焦って「珠世様は何も悪くありません」と慰める。

 

「そう。愈史郎さんの言う通り、あんたは悪くないわ。あんたは医者としてするべきことをした。それはわかってる。でも、あたしはそんなできた人間じゃないから、簡単にははいそうですかって納得はできない。それに、もう終わったことだもの」

「終わった?」

「知らなかった?おやっさんは毒で死んだんじゃないの。あの後鬼になって、あたしが倒した。あたしのせいで、完全に鬼になったから・・・」

「汐の・・・せい?」

 

玄海が完全に鬼になってしまったのは、自分のせい。初めて聞く言葉に、炭治郎は息をのんだ。それは珠世も愈史郎も同じらしく、目を見開いたまま汐を見ていた。

 

「それ、いったいどういうことなんだ?汐のせいで鬼になったって・・・」

炭治郎が訪ねると、汐は自嘲気味な笑みを浮かべ炭治郎を見た。そして、嘲るような口調で話し出す。

 

「薬が毒だってわかった時、あたしおやっさんを罵ったの。二度と父親面するなって。その直後よ。おやっさんが鬼になったのは。だから、あたしのせいでおやっさんは鬼になった。だから本当は、あたしは・・・」

 

汐がそこまで言いかけた瞬間、突然愈史郎が鋭く叫んだ。

 

「伏せろ!!」

 

その言葉を言い終わる前に、突然屋敷の壁が砕け何かが飛んできた。それは汐たちの頭上を縦横無尽に駆け、あたりのものを次々に破壊していく。

明かりが消え、暗闇に包まれた部屋の中で、轟音と共に砂煙がもうもうと立ち上る。

 

(敵襲か!?)

 

炭治郎と汐は禰豆子の頭を抱え、愈史郎は珠世の頭を抱え、それから守ろうとする。

屋敷の砕けた壁の向こう側に、襲撃者の姿が見えた。相手は二人。二人が狂気じみた笑みを浮かべながら立っていた。

 

「キャハハハ!!何処じゃ何処じゃ?耳飾りをつけた鬼狩りと、青髪の娘は何処じゃ?」

女の鬼の楽しげな声が響くと同時に、再び轟音が彼らを襲った。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

五章:襲撃


「キャハハ!矢琶羽のいう通りじゃ。何もなかったところに建物が現れたぞ」

「巧妙に物を隠す血鬼術が使われていたようだな。しかし、鬼狩りと鬼が一緒にいるのはどういうことじゃ?だが、それにしても」

 

矢琶羽と呼ばれた男の鬼が、女の鬼に顔を向ける。

 

「朱紗丸。お前はやることが幼いというか短絡的というか。儂の着物が塵で汚れたぞ」

矢琶羽は着物を払いながら、忌々しそうに朱紗丸と呼んだ女の鬼に顔を向ける。

「うるさいのぅ。私の毬のおかげですぐに見つかったのだからよいだろう。たくさん遊べるしのう!」

 

そう言って朱紗丸は再び毬を屋敷の壁に投げつける。轟音と砂塵を上げて毬は壁を砕くと、再び彼女の手元へ戻った。

 

「ちっ。またしても汚れたぞ」

矢琶羽は顔をしかめ、再び着物を払う。そんな彼を見て朱紗丸は「神経質めが」と小さくつぶやいた。

 

砂塵が収まると、壁に空いた大きな穴から人影が見える。朱紗丸の黄色い目がその姿を見つけると大きくゆがんだ。

 

「キャハハハ!見つけた見つけた」

朱紗丸は楽しそうに笑うと、毬をてんてんと何度もついた。

 

(毬を投げてこれだけいろいろなものをぶっ壊せるなんて・・・なんて威力なの・・・)

炭治郎とともに禰豆子を庇いながら、汐は思わずごくりと唾をのむ。一方愈史郎も、珠世を庇いながら外を睨みつけた。

 

(あの女、鬼舞辻の手下か!)

 

朱紗丸は楽しそうに笑いながら再び毬を投げつける。毬は不規則な動きをしながら縦横無尽に飛び回り、あちこちを破壊する。その速度と破壊力に、皆うかつに動くことができない。

 

毬の一つが愈史郎に向かって飛んできたため、彼は体をひねってよけようとした。だが、毬は空中で一瞬停止すると急に方向を変え愈史郎の頭部を破壊した。

潰れるような嫌な音とともに、血と肉体の一部が飛び散る。

 

「ゆっ・・・」

「愈史郎さん!!」

頭部を失った愈史郎の体が傾き、それを珠世がとっさに受け止める。毬はそれでも勢いを衰えさせずに周りを飛び回る。

 

「くそっ!禰豆子!奥で眠っている女の人を、外の安全なところへ運んでくれ!」

炭治郎が禰豆子にそういうと、珠世は外は危険であるから地下室を使うように促した。禰豆子はうなずくと、毬の合間を縫って治療室へ向かった。

 

炭治郎はそれを見届けると、汐に立てるか尋ねる。汐は二つ返事をすると、彼と共に彼方を構えた。

外では朱紗丸が「一人殺した」と笑いながら言っていた。どうやら、愈史郎が鬼であることに気づいていないようだ。

彼女の眼を見て、汐は戦慄した。鬼舞辻程ではないが、今まで遭遇した鬼のものとは明らかに違う。長い間見ていると吐き気がこみ上げてきた。

それは隣にいた炭治郎も同じだった。肺の中に入ってくる、濃く重い匂い。二人の顔から汗が流れた。

 

「ん?耳に花札ようなの飾りのついた鬼狩りと、青髪の娘は・・・お前等じゃのう?」

 

朱紗丸の言葉に、二人の顔が強張った。

 

(こいつ・・・、あたしと炭治郎を狙ってきたっていうの?じゃあまさか、こいつらは鬼舞辻の命令で・・・)

 

だとしたらここで戦えば、珠世達まで巻き込んでしまう。汐は炭治郎と顔を見合わせると、珠世達のほうを向いていった。

 

「珠世さん。身を隠せる場所まで下がってください!」

「あいつらの狙いはあたしたちよ。あんたたちを危険な目に合わせるわけにはいかないわ」

 

しかし珠世は静かに首を横に振った。

「炭治郎さん、汐さん。私たちのことは気にせず戦ってください。守っていただかなくて結構です」

 

――鬼ですから

 

そう言った珠世の眼が、少し悲しげに揺れたことを汐は見逃さなかった。

 

「それじゃあ、これで終わりじゃあ!」

 

朱紗丸が二つの毬を、汐と炭治郎に向かって投げつける。すさまじい轟音と土煙を上げながら、毬は二人に迫ってきた。

 

(よけたってあの毬は曲がるわ。だったら・・・!)

 

「汐!合わせてくれ!」

汐の考えを読んでいたように炭治郎が叫んだ。彼の考えを瞬時に理解した汐は、体を一歩引き、突きの構えをとる。

 

――全集中・海の呼吸――

――全集中・水の呼吸――

 

――(ゆい)の型

――磯鴫波紋突き・曲!!

 

二人の寸分の狂いもない突きが、毬を貫通し動きを止める。斜めから曲線的につくことで、毬の威力を緩和したのだ。

だが、動きを止めたはずの毬が震え、二人にぶつかった後にまるで生き物のように刀を離れていく。

愈史郎に当たった時も不自然な曲がり方をしていた。特別な回り方をしている様子もない。

 

ならば、考えられることは一つだ。この鬼のほかに、何かをしている奴がいる。

 

「愈史郎。愈史郎」

 

部屋の隅では頭部を失った愈史郎に、珠世が呼びかける。すると、破壊された部分が動き出し、メキメキと音を立てながら骨や筋肉を作っていく。

そのあまりの異様さに、汐と炭治郎は思わず悲鳴を上げた。愈史郎は再生しながらも、珠世に声を荒げた。

 

「珠世様!!俺は言いましたよね?鬼狩りにかかわるのはやめましょうと最初から。俺の目隠しの術も完ぺきではないんです。それは貴女もわかっていますよね?建物や人の気配や匂いは隠せるが、存在自体を消せるわけではない。人数が増えるほど痕跡が残り、鬼舞辻に見つかる確率も上がる」

 

珠世は悲しげな顔をしてうつむいた。まるで、自分のしてきたことを激しく悔いているように。

 

「貴女と二人で過ごす時を邪魔する者が、俺は嫌いだ。大嫌いだ!!許せない!!!」

 

完全に再生した愈史郎の口から、これ以上ない程の怒りの言葉が飛ぶ。彼の眼には、襲撃者たちへの激しい憎悪と怒りが見て取れた。

 

一方、そんな言葉を投げかけられても、朱紗丸は心底楽しそうに笑うと。羽織を脱ぎ捨て袂を開き着物をはだけさせた。

 

「キャハハハ!何か言うておる。面白いのう、面白いのう」

 

――十二鬼月である私に殺されることを、光栄に思うがいい。

 

十二鬼月。聞いたことのない言葉に、汐と炭治郎がその名を口にすると、珠世が背後から答えた。

 

「鬼舞辻直属の配下です」

 

朱紗丸は再び笑うと、体に力を込める。すると胸元が震えたかと思うと、新たな二対の腕が生えてきた。

六本になった腕に、先ほどの毬を持ち身構える。

 

「さあ、遊び続けよう。朝になるまで。命尽きるまで!!」

 

そう言って彼女は毬を投げてきた。数が増えた毬はそのままの威力であちこちを飛び回る。その破壊力は、先ほどの比ではない。

(ここで私の術を使うと、お二人にもかかってしまう。愈史郎も攻撃に転ずるには準備が必要・・・)

 

珠世と愈史郎が動けない中、汐と炭治郎は毬を必死でよけ、よけきれないものは刀ではじく。だが、いくらよけても弾いても、毬は生き物のような動きで二人を襲ってくる。

毬を斬れば威力はぐんと落ちるが、それでも攻撃の意思を弱めることはなく二人の体を穿つ。

 

(鬼の気配はアイツのほかにもう一匹。そいつがこのからくりを起こしてる可能性がある)

 

でも、汐の気配を感じる力は、炭治郎と異なり正確な位置まではわからない。だからこそ、彼の力が必要だ。

 

(きっと炭治郎なら位置も正確にわかっているはず。何とか、彼だけでも外に出すことができれば・・・)

 

しかし汐の願いに反して、毬の速さはどんどん増し、そしてついに、珠世と愈史郎の体を深く抉り取った。

自分たちの身を守ることに精いっぱいで、二人を庇う余裕すらない。

「私たちは治りますから!気にしないで」

 

「おい、間抜けの鬼狩り共。()()を見れば方向が分かるんだよ。矢印をよけろ!」

 

血まみれになった愈史郎が叫ぶが、二人には何を言っているのかよくわからない。見えているのは毬だけだ。

 

「ったく、そんなのも見えんのか。俺の()()を貸してやる。そうしたら毬女の頸くらい斬れるだろう!!」

 

そうって愈史郎は懐から二枚の紙のようなものを取り出すと、二人に向かって投げつけた。紙は二人の額に吸い付くように飛び、ぴったりと張り付くとあの文様が浮かび上がった。

 

その瞬間。汐と炭治郎の目に先ほどは見えなかった赤い矢印が見えた。

毬は矢印に合わせるように飛んでいる。これが、あの不規則な動きの正体だった。

 

「ありがとう、あたしたちも矢印が見えたわ!」

「ならさっさと倒せ!!」

矢印と毬をよけていると、禰豆子が駆け足で戻って来た。炭治郎は彼女に、木の上に鬼がいることを告げる。

「禰豆子、頼む!」

 

禰豆子はうなずくと、すぐさま飛び出し木の上へと向かった。

汐と炭治郎も続くように外に出ると、朱紗丸に向かって刀を構える。

 

「お前の相手は俺たちだ」

「よくもさんざん痛めつけてくれたわね。たっぷり礼をしてやるわ!」

 

朱紗丸の目が炭治郎の耳飾りと汐の青い髪へと移る。

 

「あの御方にお前等の頸を持っていこうぞ。青髪のお前は声帯ごとじゃ!」

 

朱紗丸がまた毬を投げ、赤い矢印がその軌道を不規則に捻じ曲げる。二人は散り、矢印と毬はそれぞれの方向へ追いかける。

地面を転がり、壁を走り、木の間を縫って二人は攻撃をかわす。しかし毬は尽きることなく二人を襲い続けた。

 

(禰豆子、まだか!?)炭治郎はすがるような思いで、木の上に視線を向けた。

 

そのころ、禰豆子は軽やかに木の上を飛び鬼を探していた。早くしなければ兄たちががやられてしまう。少し焦りが見え始めたころ、彼女の目が木の上に座っている矢琶羽を捕らえた。

禰豆子は瞬時に距離を詰めると、矢琶羽が気づくより早く強烈な蹴りを二発叩き込んだ。

すると矢印が消え、毬の動きが単調になった。

 

――海の呼吸――

――水の呼吸――

 

――弐ノ型 波の綾!!

――参ノ型 流流舞!!

 

二つの流れるような斬撃が毬をすべて断ち切ると、炭治郎はそのまま朱紗丸に近づき、6本の腕を斬り落とした。

 

「珠世さん。この二人の鬼は鬼舞辻に近いですか!?」

「おそらく」

「では必ず、この二人から血をとって見せます!!」

 

炭治郎が高々に宣言すると、腕を斬り落とされた朱紗丸は心底おかしそうに笑った。

 

「わし等から血をとるじゃと?何を企んでおるのか知らぬが、あの御方のご機嫌を損なうような真似はさせぬぞ。十二鬼月であるわし等から、血がとれると思うなら取ってみるがいい!」

「気をつけろ。少しも油断するなよ。もし本当にそいつらが十二鬼月なら、まず間違いなくお前たちが今までに倒した奴らより手ごわいぞ!」

「はい、わかりました。気を付けます、少しも油断せず。まず倒・・・今まで・・・はい。頑張ります!!」

炭治郎は少し混乱しているのか、言葉が乱れている。汐はそんな彼の背中を軽くたたき、落ち着くように促した。

 

そんな二人を見て、愈史郎は彼らをおとりにして逃げることを算段したが、珠世の信じられないという顔を見てすぐさま訂正した。

一方。矢琶羽を捕らえた禰豆子は、その足を彼に思い切り叩きつける。が、彼は小さく舌打ちをした後、禰豆子に手の目玉を向ける。

「土ぼこりを立てるな・・・。汚らしい!!」

目玉が閉じると同時に、禰豆子の体が引っ張られるように矢琶羽から離れて飛んでいく。

 

そんなことが起こっているとは知らず、汐と炭治郎は今しがた朱紗丸の腕が瞬時に再生したことに驚いていた。

 

今まで何度か鬼と対峙してきた彼等だが、目の前の鬼の再生速度はそれの比ではない。メキメキと腕から血管を浮き出させながら、朱紗丸がにやりと笑った。

と、その時。どこからともなく禰豆子が飛んできて、二人の頭上に落ちる。二人は受け止めきれずその場に倒れこんだ。そのあとから、矢琶羽がふわりと降りてくる。

 

「さあ、三人まとめて死ね!!」

 

朱紗丸の攻撃を、三人は地面を転がって寸前でかわす。立ち上がる土煙があたりを覆う。心なしか、威力が上がっている気がした。

 

「禰豆子、大丈夫か!?」

禰豆子は兄の言葉に、弱弱しくだがうなずいた。このままでは二人がやられてしまう。汐は唇をかみしめると、そっと立ち上がった。

 

「炭治郎。あんたはあの矢印の奴をお願いできる?あたしは毬の奴をやるわ。どっちにしろ、あたしたちの刀じゃないと、鬼は殺せない。妥当でしょ?」

「確かにそうだ。だけど、一人では無茶だ」

「一人ならね」

汐はそう言って壁際に立つ愈史郎を見据えた。

 

「ねえあんたも戦えるんでしょ?だったら協力して。このままじゃ全員あの世に叩き込まれるのは嫌でしょ!?」

 

汐がそういうと、愈史郎は不快そうに顔をゆがめた。

 

「それだけ大口をたたけるということは、やれるんだな!?」

「女に二言はないわ。必ずこいつを仕留めてやる!仲間痛めつけられて気分悪いし、やるっていうなら受けて立つわ!!」

 

汐の言葉に朱紗丸は大きく体をそらし笑った。それから狂気じみた視線を汐に向ける。

 

「青髪の娘。お前の頸を声帯ごと千切りとってやろうぞ!!」

 

その後ろ姿を禰豆子は見ていた。そして、傷ついた珠世と愈史郎を。彼女の目には、彼らが自分の母と弟に見えていた。

 

戦いは、始まった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



汐は刀を構えながら朱紗丸と対峙する。彼女は相も変わらず笑い声をあげながら、六本の腕に毬を装填させる。

「キャハハハ!さあ、人間ごときの体でいつまでもつかのう!」

 

朱紗丸は笑いながら大きく振りかぶると、汐に向かって毬を投げつけた。矢印の力がないせいか、軌道は単調だ。

だが、その筋力から繰り出される投げは、大砲のごとき破壊力を持つ。現によけた汐の背後の木が、毬が当たっただけで真っ二つに折れたくらいだ。

 

あれが人間の肉体だったら、折れる何処ではない。ひき肉になってしまう。その事実に、汐の顔から汗が流れる。

 

「キャハハハ!どうしたどうした!?お前の威勢とやらはそんなものかえ?」

 

朱紗丸は嘲笑うかのように次々と毬を投げてくる。隙をつこうにも、毬は後から後から生み出され、近づくことすらできない。

(さっさとこいつを仕留めて、炭治郎たちを助けなくちゃいけないのに!)

 

攻めきれないもどかしさと朱紗丸の挑発的な態度に、汐の苛立ちは増すばかりであった。しかも常に動いている自分とは違い、朱紗丸はほとんど動かないまま毬を投げ続けているため体力の消費量も全く違う。

だが、そんな彼女の努力(?)の甲斐もあってか、朱紗丸は背後から迫る愈史郎に気づくことができなかった。

 

彼女が気づいたときには、愈史郎は姿を消したまま近づき、その体に数発の体術を叩き込んだ。思わぬ援軍に、流石の朱紗丸の顔が強張る。

 

「珠世様を傷つけたこと、絶対に許さん!!」

 

愈史郎が朱紗丸を止めてくれたおかげで、汐に攻撃の隙ができた。

 

――全集中・海の呼吸――

――伍ノ型 水泡包(すいほうづつみ)!!

 

相手の盲点へ入る技を使い、汐はすぐさま距離を詰め頸を狙う。しかしその刃は届かなかった。

汐の攻撃に気づいた矢琶羽が、汐に矢印を打ち込んだのだ。

 

汐の体は瞬時に横に飛び、石の壁に叩きつけられる。だが、汐は当たる寸前に呼吸で受け身をとったため大事に至らずに済んだ。

 

(い・・・痛い!これはまるで、おやっさんにぶっ飛ばされて水面に叩きつけられた時と似たような感覚!!)

 

などと微妙な回想をしている汐をしり目に、矢琶羽は朱紗丸に顔を向けていった。

 

「朱紗丸よ。そちらにいるのは【逃れ者】の珠世ではないか。これはいい手土産じゃ」

「そうかえ!!」

 

朱紗丸は倒れている汐に向かって渾身の力で毬を投げつける。痛みで反応が遅れた汐に、逃げるすべはない。

 

(殺られる!)と思った瞬間、誰かが割って入り汐の体を抱えて転がった。

直ぐ脇で毬があたり、石壁が崩れる。瓦礫が降り注ぐ中、汐が目を開けるとそこにいたのは。

 

「禰豆子!?」

 

禰豆子が汐を庇うように前に立ち、朱紗丸を鋭い目で睨みつけている。禰豆子がいなければ、今頃汐はひき肉になっていたことだろう。

「あ、ありがとう禰豆子。助かったわ」

汐が礼を言うと、禰豆子は優しい眼を彼女に向ける。だが、すぐに戦闘態勢に入ると、朱紗丸に向かって走り出した。

 

「面白いのう!面白いのう!」

朱紗丸は笑いながら、今度は地面に毬を当てて軌道を変えながら禰豆子を狙う。禰豆子はその毬を蹴り返そうと足を上げた。が。

 

「蹴ってはだめよ!」

珠世の鋭い声が響く。だが、足を上げた禰豆子は止めることができず、蹴ろうとした足が毬の威力に耐え切れず千切れ飛ぶ。

倒れた隙を狙って朱紗丸が禰豆子を蹴り飛ばすと、禰豆子の体は壊れた建物の中へ吹き飛んでしまった。

 

「禰豆子!!」

 

汐が悲痛な叫び声をあげる。珠世はすぐさま禰豆子を追って建物の中へ戻っていった。

 

「キャハハハ!楽しいのう。楽しいのう。蹴鞠もよい。矢琶羽、頸を五つ持ち帰ればよいかの?」

「違う、三つじゃ。鬼狩りと青髪と逃れ者。残りの二人はいらぬ」

 

矢琶羽の言葉に、対峙していた炭治郎は唇をかむ。一方汐は、そんな言葉などどうでもいいというように低くつぶやいた。

 

「あんた・・・あたしの友達に何してくれてんのよ」

うつむいていた汐が顔を上げる。人間とは思えぬほどの殺意の宿ったその表情に、朱紗丸の表情が強張った。

だが、いくら殺意を宿しても肉体が変化するわけでもない。朱紗丸は再び6本の腕に毬を出現させると、汐に向かって投げつけた。

だが、

 

「しゃらくせえ!!!!」

 

汐の口から恐ろしい程の怒号が飛ぶと同時に、彼女に向かっていたはずの毬が弾かれる。そのあり得ない現象に朱紗丸は勿論愈史郎ですら驚愕した。

そしてその勢いで汐は刀を構えて躍りかかる。

 

「矢琶羽!」

 

朱紗丸が叫ぶと同時に、再び汐に向かって矢印が撃ち込まれようとしていた。だが、汐は寸前でそれをかわし、睨みつける。

 

(くそっ、くそっ!!あいつに近づこうとすると矢印の奴が邪魔をする。あいつ、炭治郎と戦っているくせにこっちまで気を回せるの!?)

その苛立ちが呼吸を乱し、体勢が崩れた瞬間。汐の真横を毬がかすった。かろうじてかわしたものの、汐の右肩から鮮血が噴き出した。

 

「ぐっ!!」

 

鋭い痛みを感じ、肩を抑えて蹲る汐。そんな彼女を朱紗丸は毬をつきながら睨みつける。

 

「喧しい声を出しおって。だが、これで終わりじゃ。その頸、貰い受けるぞ!!」

 

朱紗丸は腕をこれ以上ないくらい盛り上がらせ、体を思い切り引く。そして最大の力を込めて、その毬を汐にはなった。

耳をふさぎたくなるような轟音が、風を切って汐に迫る。何とか身をかわそうとするが、痛みが走り体が強張る。

 

だが、汐の体が砕け散ることはなかった。毬が汐に当たる寸前に禰豆子が割って入り、毬を蹴飛ばしたのだ。

 

「禰豆子!?」

思わぬ闖入者に、汐の声が上ずる。怪我は大丈夫なのかと、聞く前に禰豆子は汐を庇うように前に立った。

そして振り向くと、汐に視線を送る。その眼は、(ここは自分にまかせて)と言っているようだった。

 

その眼を見て汐は自嘲気味に笑う。要するに自分は足手纏いだから、この場を離れろということだろうか。

 

「・・・情けないわね。女に二言はないとか大口叩いておいてこの様だなんて」

汐がそういうと、禰豆子は少し顔をしかめると、別な方向へ視線を向けた。そちらは、炭治郎と矢琶羽が戦っている方角だ。

 

「炭治郎を助けてほしいってこと?」

汐が聞き返すと、禰豆子は表情を緩めてうなずいた。

汐はうなずき返すと、禰豆子の肩に手を当てる。

 

「わかった。あんたを信じるわ、禰豆子。そして必ず、あんたの兄さんを守って見せるわ」

 

汐がそういうと、禰豆子はそのまま朱紗丸へと向き合った。

 

「汐さん!傷の手当てをしますからこちらへ」

 

建物の中で珠世の声がする。汐は後ろ髪をひかれるような思いで、戦場から離脱した。

 

*   *   *   *   *

 

一方。炭治郎は矢琶羽に苦戦を強いられていた。一太刀を浴びせようとすれば矢印の力で太刀筋を変えられてしまい、攻撃することができない。

そして何よりも、手の目玉が気持ち悪い。申し訳ないけれど、気持ち悪い。

 

矢琶羽は笑いながら再び矢印を炭治郎に向けて放つ。放たれた無数の矢は、時間差で炭治郎ととらえようと飛んでくる。

矢印は彼の体に当たるまで消えないし、斬ることもできない。刃がふれた瞬間、矢印の方向へ飛ばされてしまう。

 

どうする?どうする?炭治郎が焦りを見せた、その時だった。

 

「矢琶羽!!」

 

朱紗丸の声が響き、矢琶羽が目玉を呼ばれた方向に向けたその時だった。

呼ばれた方向には彼女はおらず、そこにいたのは死角から刀を構えた汐の姿。

 

「炭治郎!」

汐が叫ぶと同時に炭治郎が走り出し、汐も刃を突き立てようとする。だが、

 

「その程度の小細工が、儂に通用するとでも思ったか」

 

矢琶羽は両手を汐と炭治郎の方向へ向け、目玉を閉じた。

それと同時に、二人の体が別方向へ飛んでいく。汐の体は空中に打ち上げられた後、急速に落ちていく。

 

――肆ノ型・改 勇魚(いさな)下り!!

 

技を出して衝撃を緩和した汐は、すぐに炭治郎の下に駆け寄る。炭治郎も壁に叩きつけられる寸前に打ち潮で衝撃を緩和したのだ。

 

汐の姿を見て炭治郎は驚いた顔をしたが、汐はそのまま彼の隣に立ち刀を構えた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



「汐!?どうしてここに?毬の奴と戦っていたんじゃないのか?」

炭治郎が心配そうな眼で汐を見ながら言うと、彼女は少し自嘲気味に笑いながら言った。

 

「あっちはケガが治った禰豆子が戦ってくれてる。あんたを助けてくれってさ。相も変わらずいい子よね」

そう言った瞬間、遠くで大きな音が響いた。おそらく禰豆子が戦っている音だろう。

 

彼女の言葉に禰豆子が無事であることを知った炭治郎は、少し安心する。だが、漂ってきた血の匂いに肩がはねた。

「汐!お前、怪我をしてるんじゃないか!」

汐の右肩に滲んだ血を見て炭治郎は声を荒げる。が、汐は手当てをしてもらったから問題ないと突っぱねた。

 

「今はあいつをぶっ倒すことだけを考えるのよ。もういい加減に吹っ飛ばされることに飽きてきたしね」

 

そう言って汐は再び刀を構えた。挑発的な口調をするのは彼女なりの炭治郎への激励なのか、将又ただの虚勢なのかはわからない。しかしそれでも、汐が来てくれたことが炭治郎にとっては何よりも心強かった。何故だかはわからないが、彼女の凛とした声を聞いていると不思議と力が湧いてくるような気がするのだ。

 

「なんと下品な言葉遣いをする娘じゃ。汚らわしい」

 

そんな様子を見ていた矢琶羽が言葉を漏らすが、汐の戦い方を見て納得したようにうなずいた。

 

「だが、あの御方が青髪の娘は声帯ごと頸を持ち帰れとおっしゃったことが気になっていたが、納得したぞ。先ほどの様に声を用いたおかしな技を使うためじゃろう。だが、からくりさえわかってしまえば対処は可能じゃ」

彼の言葉に汐は小さく舌を鳴らした。汐の声帯模写はあくまでも奇襲のためのもの。そのからくりがばれてしまった今、もう通用はしないだろう。

それに、矢印の攻撃は多方向に同時に放つことも可能ならしく、二人が挟み撃ちにしても意味がない。

そしてやっぱり、あの目玉が気持ち悪い。

 

矢琶羽が再び矢印を放ってくる。少しでも触れてしまえば吹き飛ばされるうえに斬ることも消すこともできない、なんとも厄介な代物だ。

しかも先ほどの朱紗丸の様に、矢はほぼ無限に生み出されるらしい。何とかして矢印を少しでも減らさなければ・・・

 

矢印をよけながら、汐は記憶を手繰り寄せる。どこかに必ず何らかのほころびがあるはずだ。

(思い出せ、思い出すのよ。今までの奴の行動を、できる限り全て!!)

 

大きく息を吸いながら、脳に全ての血液を送るように、汐は考える。考えるのはあまり得意ではないが、今はそんなことは言っていられない。些細なことでもいい。何か思い出すことができれば・・・

 

(ん?そういえば・・・)

汐が朱紗丸と対峙している際、一つだけ気になることがあった。そういえば、矢琶羽はしきりに着物を叩いていた。木から降りてきたときも、先ほども・・・

 

(こいつ、もしかしてものすごい潔癖症なんじゃ・・・)

 

だとしたら、それをうまく利用できれば隙を作れるかもしれない。そして、炭治郎なら。自分とは違い、水の呼吸には多くの型がある。頭は固い彼だが今の炭治郎なら肩を組み合わせて使うことができるのではないか。

 

「炭治郎!!」

 

矢印をよけつつ、汐は炭治郎を引っ張って走り出した。突然のことに彼は驚いた表情を見せたが、汐から漂ってきたひらめきの匂いに胸がはねた。

汐は走りながら炭治郎の耳に作戦を伝える。作戦といっても大雑把なもので実際にどんな型を使うのかは炭治郎次第だ。

だが、もうこれしか方法はない。炭治郎は表情を硬くしたままうなずいた。

 

「何をしようとも無駄じゃ。この紅潔の矢からは逃れられん!」

 

矢琶羽の攻撃が再び二人を襲う。二人は左右に分かれかく乱するように動くが、矢印はそれを嘲笑うように二人をそれぞれ追っていく。

そしてその一つが汐と炭治郎のそれぞれの利き腕に巻き付いた。

 

「すべて儂の思う方向じゃ。腕がねじ切れるぞ」

彼の言う通り矢印はギリギリと二人の腕を締め付ける。二人の顔が一瞬青ざめたが、そのまま空中で矢印と同じ方向に回転する。

矢印が緩んだところで腕を抜き、ねじ切れることを回避した。

 

(紅潔の矢と同じ方向に回転しながら攻撃をよけたか。猿共め)

 

何とか回避できたものの、二人の体力は限界に近い。特に汐はついさっきまで朱紗丸と戦っていたためその体力の消費量は炭治郎の比ではない。

このまま攻撃されることは、非常にまずい。早く、隙を作らねば。

 

「そろそろ死ね!!」

 

二人のしぶとさにしびれを切らした矢琶羽が矢印をいくつも放つ。汐に向かって放たれた矢が、彼女を穿とうとしたその瞬間だった。

 

――伍ノ型 水泡包(すいほうづつみ)!!

 

汐の姿がその場から消える。突然のことに矢琶羽は一瞬だが狼狽える。だがその一瞬の隙を汐は見逃さなかった。

矢印の間を縫い、間合いに入る。だが、彼女の目的は頸を狙うのではない。現に一瞬の目くらましはすでに相手にはバレている。

汐の足元に大きな矢印が現れ、彼女の体を後方へ押しやろうとする。しかしその一瞬の間に、汐は技を放った。

 

――肆ノ型 勇魚(いさな)昇り!!

 

汐の強烈な斬撃が地面をえぐり、土柱を上げる。土ぼこりが矢琶羽にかかり、彼は悲鳴を上げた。

 

「炭治郎、今よ!!」

 

汐が叫ぶと同時に炭治郎が参ノ型を使い距離を詰め、陸ノ型で矢印を巻き取る。矢印がほぼすべて、彼の刀に巻き取られていく。

凄まじい重さに炭治郎の腕が悲鳴を上げる。だが、突如少しだけ腕が軽くなった。いつの間にか汐がそばにいて、彼の刀を支えている。

 

「「ぐううううう!!!」」

 

二つの声が重なり、巨大な渦が矢琶羽に引き寄せられるように向かっていく。

 

「汐、離れろ!!」炭治郎が叫ぶと同時に汐が離れ、そしてそのままの勢いで炭治郎が刀を振り下ろす。

 

――弐ノ型・改 横水車!!

 

その一撃が矢琶羽を穿つ。血飛沫と共にうめき声をあげながら、矢琶羽の頸が宙に舞った。

そのまま炭治郎の体も地面に叩きつけられる。その様子を、汐は少し離れたところから見ていた。

 

(や、やった!)

 

思わず心の中で拳を握る汐。ついに鬼を倒すことができたのだ。

矢琶羽の頸が地面に落ちた後ごろりと転がる。右目が飛び出したままという異様な姿になりながらも、彼は口を開いた。

 

「おのれ!おのれ!おのれ!!お前たちの頸さえ持ち帰ればあの御方に認めていただけたのに!!許さぬ!許さぬ!許さぬ!!」

 

既に頸は灰になって崩れつつあるのに、矢琶羽の口からは呪詛の言葉が飛び交う。そのしぶとさに汐は思わず顔をしかめた。

 

「汚い土に儂の顔を付けおってええええ!!!お前達も道連れじゃああああ!!!」

 

残っていた矢琶羽の体の手の目が、二人に向かって閉じられる。その瞬間。二人の体に矢印が撃ち込まれた。

しかも一本や二本どころではない。何本もの矢印があらゆる方向に向いている。

 

(しまった!これは・・・相打ちに持ち込む気だ!!)

 

気づいたときには遅く、二人の体はそれぞれの方向に吹き飛ばされた。しかも先ほどの比ではない程の強い力だ。汐の背後には、石壁が迫っている。受け身をとる程度ではとても対処できそうにない。

 

――壱ノ型 潮飛沫(しおしぶき)!!

 

足に力を込めるこの型を使い、体を回転させた後壁を踏むようにして必死に耐える。ミシミシと筋肉が悲鳴を上げ、激痛が走る。

そして間髪入れずに今度は上空へと打ち上げられる。急速に打ち上げられて体に圧がかかる。しかし、こんなものは水圧に比べれば大したことはない。

圧に耐え切った汐を、今度は地面へと落とされる。

 

――肆ノ型・改 勇魚(いさな)下り!!

 

地面を穿ち衝撃を和らげる汐。炭治郎も同じように次々に技を放って衝撃を和らげていた。

 

全身がバラバラになりそうな衝撃と痛みに必死で耐える中、汐の目が崩れつつも呪いの言葉を吐き続ける矢琶羽の頸を捕らえる。それを見た瞬間、汐は切れた。ぷっつりと切れた。

 

「いい加減しつこいんだよクソが!!さっさとくたばれ!!」

 

怒声を上げながら汐は渾身の力を込めて矢琶羽の頸に向かって刀を投げつけた。刀は綺麗な軌跡と共に頸に突き刺さる。

それが決定打になったのか、頸は瞬く間に灰となり消えていった。

それと同時に、矢印が一斉に消滅する。二人はそのまま離れた場所に落ちた。

その瞬間、額に張り付いていた愈史郎の術の札がはがれて消えた。

 

(か、体が重くて力が入らない・・・!)

先程の衝撃で傷口が開いたのか、右肩が燃えるように熱い。袖の中を液体が流れる感覚がした。

だがそれよりも気になるのが炭治郎だ。先ほどかなりの技を放っていたし、いくつか相殺しきれずぶつかっていたようにも見えた。

 

(動け、動け!炭治郎を捜すのよ!!)

 

汐は呼吸を整えると、よろよろと立ち上がる。幸い、骨折はしていないように思える。あたりを見回すと、少し先でせき込んでいる炭治郎の背中が目に入った。

 

「炭治郎!炭治郎、無事!?生きてる!?」

 

汐はすぐさま駆け寄り彼を見る。かなり息は乱れてはいるものの、生きていることに安堵する。

 

「汐・・・無事だったのか・・・。よかった」

相も変わらず自分よりも他人を心配する炭治郎に、汐は思い切り怒鳴りつける。

 

「人の事よりも自分の心配をしなさいよ!」

そしてゆっくりと炭治郎を起こす。容体を聞くと、足と肋骨が折れたかもしれないと告げた。

 

「早く、禰豆子たちを助けに行かないと・・・」

だが、骨が折れた激痛のせいか疲労のせいか、将又両方か。炭治郎は立ち上がることはおろか、刀すら握れないようだった。

 

汐は炭治郎の刀を拾うと、鞘へと戻す。それから彼の右側に回ると怪我をしていない腕で肩を支えた。

 

「ほら、しっかり。行くんでしょ?」

汐は震える足で必死で炭治郎を支える。彼女自身も決して軽くないケガをしているのは明白で、無理をしているのは明らかだった。

 

「だめだ汐。お前だって怪我をしてるだろ!俺のことはいいから早くみんなのところへ」

「うるさい、黙れバカ。怪我をしているのはお互い様よ。それに、今のあたしにはこんなことしかできないから」

 

炭治郎を抱えながら、汐は自分の弱さに怒りを感じていた。あれだけ大口をたたいておきながら、どちらの鬼も倒すことができなかった自分への怒りだ。

それを匂いで感じ取った炭治郎は、そっと彼女の手に触れる。

びくりと汐の体が大きくはねた。

 

「ありがとう、汐」

「え?な、なに?」

「俺、いつも汐に助けてもらってばかりだ。さっきも、汐が作戦を考えてくれなければ危なかったかもしれない。最終選別の時も、さっきのあの人の時も、そして今も。汐がいなければ俺はここに生きていることはできなかったかもしれない。だから、悪いほうに考えないでくれ」

 

心の中を見透かされ、汐は言葉を詰まらせる。どうしてこの人はいつも、自分が欲しい言葉をくれるのだろう。

汐は目頭が熱くなりながらも顔をそらし、そっと言葉を紡いだ。

 

「・・・何言ってんの。あんたさえよければ、いつだって何度だって支えてあげるわよ」

「汐・・・」

「って、変な風にとらえないでよ!あたしはただ、自分よりも人を優先するあんたが心配なだけ。勘違いしないでよねっ!」

 

頬を僅かに染めながら、汐はそう言ってつっけんどんな態度をとるが、彼女が怒っていないことは匂いで察知した炭治郎は思わず笑みを浮かべた。

 

その時だった。

 

「あれ?なんだ?この香り」

「え?あたしには何も匂わないけど・・・」

「この香りは確か・・・珠世さんの術と同じ・・・」

 

炭治郎がつぶやいた瞬間、遠くから怒声が聞こえてきた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



「何を言う貴様!」

声の主は朱紗丸で、彼女の前には禰豆子、愈史郎、珠世が立っている。珠世は一歩前に進むと凛とした声で告げた。

 

「あの男はただの臆病者です。いつも何かにおびえている」

「やめろ!貴様、やめろ!!」

 

朱紗丸は狼狽えながら声を荒げる。そんな彼女の様子を気にすることもなく珠世はつづけた。

「鬼が群れることができない理由を知っていますか?鬼が共食いをする理由を。鬼たちが束になって自分を襲ってくるのを防ぐためです。そのように操作されているのです。貴女方は」

「黙れ、黙れ黙れ黙れーーっ!!あの御方はそんな小物ではない!!」

 

朱紗丸は頭を振りながら激昂し、さらに声を荒げる。その時、愈史郎は気づいた。珠世が術を使っていることに――

 

「あの御方の力はすさまじいのじゃ!だれよりも強い!!鬼舞辻様は――」

 

朱紗丸がそう口にした瞬間、青ざめた顔で慌てて口をふさいだ。

 

珠世が使っているのは【白日の魔香】という血鬼術で、脳の機能を低下させ虚偽や秘密を守ることが不可能となる、いわゆる強力な自白剤のようなものだ。

 

「その名を口にしましたね。呪いが発動する。かわいそうですが、さようなら」

 

珠世が恐ろしい程の低い声で、しかし悲しげな顔でそう告げると、朱紗丸は悲鳴を上げながら逃げ出そうとした。

 

「お許しください、お許しください!!どうか、どうか許してええええ!!!」

 

みるみるうちに朱紗丸の体が黒く染まり、そして激しく苦しみだす。持っていた毬の一つが転がり汐と炭治郎の足元で止まる。二人は、何が起こっているかわからず呆然としていた。

 

すると、朱紗丸の腹部が不自然に盛り上がったかと思うと、その口と腹部から巨大な腕が三本。血しぶきを上げながら生えてきた。

 

「ひっ!」

 

汐が思わず悲鳴を上げる。毒々しい色をした腕は血でぬらぬらと光っている。

その異様すぎる光景に汐と炭治郎は勿論、愈史郎ですら真っ青な顔で呆然としていた。

 

口から生えてきた腕がぐるりと動き、朱紗丸の頭をつかんだかと思うと躊躇なく握りつぶす。骨と肉が砕け散る音と共に、真っ赤な鮮血が飛び散った。

 

「うっ、ぐ・・・ぅぇ!」

 

汐は右手で口を押えて下を向く。込みあがってくる苦くてすっぱいものを必死にこらえようと目を固く閉じる。

バキバキと音を立てながら朱紗丸の体を砕きつぶしていく光景に、炭治郎と愈史郎は呆然とその光景を見つめ、珠世は目をそらし、禰豆子は術が効いているのかふらふらとしていた。

 

やがて周りは血の海となり、あちこちには朱紗丸の体の一部が転がっている。その中には彼女の黄色い目も落ちていた。

バラバラになった体に、珠世はそっと近づいた。その顔には、これ以上ない程の悲しみが宿っていた。

 

「死んでしまったんですか?」

炭治郎がおずおずと尋ねると、珠世は「まもなく死にます」とだけ答えた。これだけの状態になりながらもまだ息絶えていないという事実に、二人は息をのむ。

 

「これが【呪い】です。鬼舞辻の名を口にすると、体内に残留する細胞に肉体が破壊されること。基本的に鬼同士の戦いは不毛です。意味がない。致命傷を与えることができませんから。陽光と、鬼殺の剣士の刀以外は」

 

ただ、鬼舞辻は鬼の細胞が破壊できるようです・・・

 

その言葉を聞いた二人は目を伏せる。あまりにも悲しく、あまりにも理不尽で、胸が引き裂かれそうに痛んだ。

不意に足音がして二人が顔を上げると、愈史郎が駆け寄ってきて二人の口に布を押し付けた。

 

「珠世様の術を吸い込むなよ。人体には害が出る。わかったか!」

二人はそのままこくこくとうなずいた。

 

「炭治郎さん、汐さん。この方は十二鬼月ではありません」

「!?」

 

驚く二人に、珠世は転がっている眼球を指さして言った。

 

「十二鬼月は眼球に数字が刻まれていますが、この方にはない。おそらくもう一方も十二鬼月ではないでしょう。弱すぎる」

「弱すぎる!?」

「あれで!?」

 

二人はさらに驚愕した。あれだけ強かった鬼が弱すぎるという事実に、背筋がうすら寒くなった。

珠世は注射器を取り出すと、朱紗丸の体の一部から採血する。それから薬を使い術を吸わせてしまった禰豆子を診る言った。

 

「頭の悪い鬼もいたものだな。珠代様のお身体を傷つけたんだ。当然の報いだが」

 

愈史郎は吐き捨てるように言うと、二人にじっとしているように告げ珠世の後を追っていった。

その場には汐と炭治郎、そして朱紗丸が残される。

 

「ま・・・り・・」

何処からかか細い声が聞こえてくる。二人が顔を上げると、朱紗丸だったものから聞こえてくるようだ。

 

「ま・・・り・・・ま・・・り・・・」

炭治郎が横を向くと、先ほど転がってきた毬がそのままになっている。彼は何か言いたげに汐を見ると、彼女は小さくため息をつき炭治郎を抱えて歩き出す。

 

「毬だよ」

毬を彼女のそばに置いて炭治郎は優し気な声色でそう言った。すると

 

「あそぼ・・・、あそぼ・・・」

 

消え入りそうなその声は、まるで幼い少女のようだ。たくさん人を食らい、殺めている鬼なのに。

 

やがて夜が明け、日の光が木々の間から漏れ出す。光を浴びた瞬間、朱紗丸の体が焼け灰となって空へ舞う。骨も肉も、血さえも何も残らない。

残ったのは彼女が身に着けていた橙色の着物と、毬だけだった。

 

炭治郎は泣きそうな眼をしながらその光景を見つめている。十二鬼月と煽てられ、欺かれ、そして呪いで殺されるという救いもなく、理不尽極まりない最期。

たくさんの人の命を奪った報いでもあるのか。炭治郎は納得ができないと言った表情でうつむいた。

 

汐はそんな彼をなんとも言えない表情で見つめていた。自分は炭治郎の様に優しくはない。同情なんてしない。けれど、何故この子は鬼にならなければならなかったのか。何故こんな仕打ちをされねばならなかったのか。そう思うと、彼女の胸も痛んだ。

 

ただ、一つだけ確信したことがある。鬼舞辻無惨。奴は自分を慕う部下さえも、用済みとあればごみの様に簡単に捨てる。人でなし、本物の【鬼】であること。

 

「炭治郎。あたしわかったわ。あたし、鬼舞辻のことを反吐以下のくそったれ野郎だって思っていたけど、そんな生易しいものじゃない。あいつは、あいつこそが本物の鬼。世にも卑しい悪鬼外道よ!!絶対に、この世に存在させてはいけない・・・必ず、必ず消してやる。この世から!絶対に!!」

汐は唇をかみしめ、血が出るほど拳をきつく握りしめる。その眼には激しい怒りと憎しみ、そして殺意が宿る。

それは炭治郎も同じだった。奴だけは決して許してはいけない。殺されてしまった大勢の人のためにも、鬼にされてしまった者たちのためにも――

 

「そろそろ行こうか、炭治郎。禰豆子が心配だし」

「ああ、そうだな」

 

二人はボロボロになってしまった屋敷に足を踏み入れる。陽光が入っているため鬼である彼らは地下にでもいるのだろう。

炭治郎が地下室の階段を下りていくと、すっかり元気になった禰豆子が炭治郎に飛びつく。

二人はしばらく抱きしめあったが、禰豆子は炭治郎から離れると元の道を戻っていく。

そして珠世に、炭治郎と同様に抱き着いた。それを見た愈史郎が激昂するが、珠世はそっと静止した。

 

「先ほどから禰豆子さんがこのような状態なのですが、大丈夫でしょうか?」

困惑する珠世に、炭治郎は安心させるように言った。

 

「心配いりません、大丈夫です。多分二人のことを、家族のだれかだと思っているんです」

禰豆子はそばにいた愈史郎の頭をなでようと手を伸ばし、それを本人に阻止されていた。

 

「家族?しかし禰豆子さんのかかっている暗示は、人間が家族に見えるものでは?私たちは鬼ですが・・・」

「でも禰豆子は、お二人を人間だと判断してます。だから守ろうとした」

 

禰豆子は珠世を抱きしめ安心した表情を浮かべている。

 

「俺、禰豆子に暗示がかかっているの嫌だったけれど、本人の意思があるみたいでよかっ・・・」

そこまで言いかけた炭治郎の言葉が不意に途切れた。珠世の薄紫色の瞳から、大粒の涙がこぼれだしたからだ。

それを見た炭治郎は激しく狼狽し、禰豆子に離れるように叫ぶ。が、珠世は禰豆子をぎゅっと抱きしめ、何度も礼を言った。

それを見ていた愈史郎の瞳が、少しだけ揺れた。まるで何かを、思い出すかのように・・・

 

「私たちはこの土地を去ります。鬼舞辻に近づきすぎました。早く身を隠さなければ危険な状況です」

珠世の話では、医者として人と関わると鬼だと気づかれることもある。特に子供や年配者は勘が鋭いとのこと。

 

「炭治郎さん。禰豆子さんは私たちがお預かりしましょうか?」

「「え!?」」

 

炭治郎と愈史郎が同時に声を上げた。

 

「絶対に安全とは言い切れませんが、戦いの場に連れていくよりは、危険が少ないかと」

 

珠世の提案に、背後では愈史郎が心底いやそうな顔で首を振る。炭治郎も、そのほうが禰豆子にとっては安全である可能性が高い。そう思っていると。

 

禰豆子が炭治郎の手をそっと握った。思わず顔を上げると、禰豆子の真剣な目が炭治郎を射抜く。

 

(そうか、そうだよな)

 

炭治郎は一瞬だけ微笑むと、禰豆子の手を握り返す。そして凛とした表情で珠世と向き合った。

 

「珠世さん、お気遣いありがとうございます。でも、俺たちは一緒に行きます。離れ離れにはなりません。もう、二度と」

 

炭治郎の言葉にも表情にも、一切の迷いはなかった。それを見た珠世は納得したようにうなずいた。

 

「で、何で汐はそんなところにいるんだ?」

 

炭治郎が振り返ると、階段の陰に隠れるようにしている汐の姿がそこにあった。

 

「あんたね、こんな空気の中に入れるわけないでしょ?少しは察しなさいよ」

「こんな空気って、どんな空気だよ。それに空気って吸うものじゃないのか?」

「もういいわよ、あんたの天然ボケは。まともに相手すると疲れるし」

 

頭を抱える汐を見て、炭治郎はわけがわからずぽかんとするのであった。

 

 

 

*   *   *   *   *

 

 

 

 

その後、負傷した二人は珠世の手当てを受けるため処置室へとやってきた。特に炭治郎は骨折しているためか、少し手当てが長引いた。

手当てを終えた汐は一人、部屋の隅でぼんやりとしている。先ほどの出来事が、まるで夢のようだった。

 

だが、肩の痛みは本物だし、先ほど握りしめたときにできた傷も本物で現実である確かな証拠だった。

 

そんな彼女の背後から近づいてくる者がいた。汐が気配を感じて振り返ると、そこには顔をしかめながら湯飲みを持つ愈史郎の姿があった。

 

「なんだ、愈史郎さんか」

「なんだとはなんだ小娘。痛み止めの飲み薬を持ってきたんだ。本当はお前なんかどうでもいいが、珠世様が様子を見に行けというから仕方なく来ただけだ」

「あんたに小娘呼ばわりされたくないんだけど」

「小娘を小娘と言って何が悪い。俺は35歳だからお前よりもずっと年上だ」

 

愈史郎がふんぞり返りながらそういうと、汐は思い切り顔をひきつらせながら目を瞬かせた。愈史郎は見た目と年齢差に驚いたのだろうと思ったが、実際には35歳の言動行動とは思えない程の幼稚さに驚いただけだった。(ということは口が裂けても言えなかった)

 

「珠世様が調合してくださった薬だ。ありがたく!飲むがいい」

 

ありがたく、の部分を強調する愈史郎に少し呆れならも、汐は薬を受け取り飲んだ。が、あまりのまずさに思わず顔をしかめる。そんな汐を、愈史郎は少し意地悪そうな顔をしてみていた。

 

「しかし驚いたな。あれほど痛めつけられていたのにもかかわらず、あの鬼狩りと違いお前は骨の一つも折っていないとは」

「まあね。あたしは生まれてこの方、一度も骨折なんてしたことがないのが自慢なの」

「それが自慢になるとは到底思えんが、しかしお前の頑丈さは人間離れているな。お前、本当に人間か?」

「失礼極まりないわね、あんた。っていうか、あんたにはそれ、言われたくないし」

 

ふんと鼻を鳴らしてそっぽを向く汐に、愈史郎は一つため息をついた。

 

「やれやれ。あの男も同じことを言っていたよ。やはり親子とは似るものなんだな。あの男も珠世様に拾われてからわずか数日で完全な自我を取り戻していたんだ。本当に人間かと疑ったよ」

 

その言葉に汐は思わず愈史郎の顔を見る。彼は昔を思い出すように、遠い目をしていった。

 

「喧しい男だった。まともに話せるようになってからは、今まで出会った女の話ばかりしていた。よくもああ女の話ばかりできるものだと思った」

「それは・・・なんかごめん」

「だが、いつもきまって話題に出る女が一人いた。それは奴の娘。つまり、お前だ。大海原汐」

 

突如自分の名を出されて固まる汐にかまわず、愈史郎はつづけた。

 

「夜熱に浮かされているときも、ずっとお前の名ばかり呼んでいた。あれは本当にうっとおしかった。だが、それだけお前のことを気にかけていたんだろう。今となっては知らんが」

 

ところで、と。愈史郎は突然真剣な表情で汐に向き合った。薄紫色の眼が、汐を射抜くように見つめる。

 

「お前に一つ聞く。完全に鬼と化した奴をお前は斬ったと言っていたな。その時、最期の瞬間。あいつはどんな顔をしていた?」

愈史郎の真剣な言葉に、汐は目を見開く。忌まわしく、思い出したくなかった記憶の扉が、不意に開いて思い出がよみがえる。

 

火の手、血の匂い、悲鳴、涙。だが、その中で思い出す、玄海の最期の瞬間。

その時の彼の顔には、彼の表情は――

 

――心の底から幸せそうな、笑顔だった。

 

「・・・笑ってた。おやっさん、最期の瞬間笑ってた。あたしのこと恨んでいてもおかしくないのに。そんな感情、眼には一切なかった」

 

汐が震える声で答えると、愈史郎は視線を少し緩めて言葉を紡いだ。

 

「あいつが鬼となったきっかけは、お前の言葉だったかもしれん。だが少なくとも、お前が思っているようなことを、あいつが思っていたとは俺は思えん。まあ、人間の心の中など、鬼である俺にはわかるはずがないがな」

 

それだけを言うと、愈史郎はすっと立ち上がり珠世の元へ戻っていった。

一人になった汐は、そっと目を閉じた。脳裏に浮かぶ、大好きな養父の笑顔。厳しくも優しい、彼の姿。

 

(あの時、別嬪な姉ちゃん以外から施しは受けないって言ってたけど、本当だったのね。確かに、珠世さんは美人だわ・・・)

 

汐の目から涙が一筋流れ、頬を濡らす。そしてさっきの無残な光景を思い出し、心にある思いが浮かぶ。

 

(あたしのせいでおやっさんは鬼になった。そして彼を斬った。それは変わることがない事実。きっと一生この業を背負っていくだろう。けれど、だからこそ。あたしみたいな思いをする人を、これ以上増やしてはいけない)

 

汐は涙を拭き、目を開いた。そこにはゆるぎない決意が宿っている。そして、大切な仲間である炭治郎と禰豆子を、絶対に悲しませてはいけない。

そう心に誓ったのであった。

 

そしていよいよ、別れの時。

愈史郎は痕跡を消してからこの地を離れると言い、炭治郎たちにさっさと行くように促す。

 

「本当にお世話になりました、珠世さん、愈史郎さん」

「私達こそ、あなた方には助けられました。本当にありがとう。武運長久を祈ります」

 

そう言って珠世はにっこりとほほ笑んだ。そして汐に向き合うと、少し目を伏せる。が、

 

「もうそんな顔をしないで。貴女がいなければ、おやっさんはとっくに鬼になって人を襲っていたかもしれない。そしてあたしは何も知らないまま、のうのうと生きていたかもしれない。ありがとう珠世さん。おやっさんの人間としての誇りと魂を守ってくれて」

汐がそう言った瞬間、珠世の目が見開かれた。今にも泣きだしそうな彼女に、汐はそっと手を握る。

 

「だからこれからも、医者として人を助けてあげてください。そして必ず、鬼を人に戻す薬を作ってください。あたしみたいな人間を増やさないためにも」

「わかりました、約束します。必ず、私たちは治療薬を完成させて見せます」

「どうか、お元気で」

 

汐と炭治郎は二人に頭を下げると、禰豆子を入れる箱を取りに行く。と、その時。

 

「炭治郎」

今まで決して呼ばなかった炭治郎の名前を、愈史郎が初めて呼んだ。

そして

 

「お前の妹は、美人だよ」

そっぽを向いたまま、愈史郎はぶっきらぼうに言葉を紡ぐ。そんな彼に、炭治郎は心の底からうれしそうに笑った。

 

 

 

*   *   *   *   *

 

 

浅草を離れ、二人はあぜ道を歩く。そんな彼らの頭上には、二羽の鎹鴉が飛び回り次の行き先を告げる。

 

「南南東~!次ノ場所ハァ、南南東ォ南南東ォ!!」

「南南東デスヨォ~。次ハ南南東デスゥ~」

喧しく叫ぶのは、炭治郎の鎹鴉の天王寺松右衛門。気の抜けるようにしゃべるのは、汐の鎹鴉のソラノタユウだ。

思った以上に喧しい鴉に、汐は顔をしかめて空を見上げる。

 

「あーもう!うるさいわね!わかってるわよ!いちいち怒鳴りつけないで」

「汐も少し落ち着け。気持ちはわかるが落ち着け、頼むから」

 

鴉に怒鳴りつける汐とそれを制止する炭治郎。だが、そんな二人よりもさらに喧しい声が前方から飛んできた。

 

頼むよおおおおお!!!

 

二人の声をかき消さんばかりの大声に、流石の汐と松右衛門も言葉を失いその方角を見る。

そこには

 

頼む頼む頼む!!!結婚してくれええええ!!!いつ死ぬかわからないんだ俺は!!だから結婚してほしいというわけで、頼む、頼むよおおおお!!!

 

一人の女性に縋りついて泣きわめく、全身黄色の少年の後ろ姿だった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

六章:歪な音色(前編)


「な、なんなんだ・・・いったい・・・」

目の前で繰り広げられている珍妙な寸劇に、二人は思わず足を止める。二人からは結構な距離があるはずなのに、すぐ近くでしゃべっていると錯覚させられるほどの大音量で少年は泣きわめく。

 

そんな彼を見て、汐はぽつりと言葉を漏らした。

「何あれ。通行の邪魔だわ。殴り飛ばす?」

汐は拳を作りながら提案するが、炭治郎は慌てて首を横に振った。

「いや駄目だよ!?悪い鬼ならともかく、人間だよ!?」

「じゃあ蹴り飛ばす?投げ飛ばす?それともへし折る?」

「全部駄目だよ!なんでそんな暴力的な考え方をするんだ!?」

次々と物騒な発言が飛び出す汐に、炭治郎は顔を青くしながら必死で止めた。

「それによく見てみろ。あれは鬼殺隊の隊服だ。隊員同士での諍いはご法度なんだぞ」

「そういえばそうだったわね。忘れてた」

汐の言葉に炭治郎は思わず頭を抱えた。

 

すると、前方から何かが二人に向かって飛んで来る。目を凝らすとそれは一羽の雀で、酷く慌てているようだ。

炭治郎がとっさに手を伸ばすと、雀は手の上に乗り彼に向って何かを訴えるかのようにしきりに鳴いた。

 

「この子はあたしたちの鴉みたいには喋れないのね。残念だけど、あたしには何を言っているのかわからないわ」

困ったように眉尻を下げる汐とは対照的に、炭治郎は雀の言葉が分かるかのように相槌を打っている。そして、目を見開き口からは呆れたような声が漏れた。

 

「わかった、俺が何とかするから」

炭治郎が答えると、雀は嬉しそうに羽を広げてぴょんぴょんと飛び跳ねた。

 

「え?ちょっと炭治郎。あんた、雀の言うことが分かるの?」

「ああ。この子はあいつの鎹雀で、さっきからずっとあの調子だから何とかしてくれって言ってる」

「言ってるって・・・あんたって時々わけがわからなくなるわ・・・」

 

頭を抱える汐をしり目に、炭治郎はすぐさま駆け出すと縋りついたままの少年の襟元をつかんで引きはがした。

 

「何やってるんだ道の真ん中で!その子は嫌がっているだろう!そして雀を困らせるな!!」

 

珍しく声を荒げる炭治郎に、黄色の少年は涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔のままゆっくりと視線を向ける。そして何かを思い出したかのようにはっとした表情をした。

 

「あ、隊服。お前は最終選別の時の・・・」

だが、炭治郎は間髪入れずに彼の言葉を否定した。

 

「お前みたいなやつは知人に存在しない!知らん!!」

ええええ!?会っただろうが!会っただろうが!!お前の問題だよ!記憶力のさ!!

 

少年の大声を聞いて、汐の記憶がよみがえった。最終選別の際、震えながらひたすら不吉な言葉を唱えていた、全身黄色の少年の姿を。

(ああ、そういえばいたな。こんなの)

だがだからと言ってなんだという話なのだが。

 

炭治郎はつかんでいた少年を落とすように話すと、彼と女性の間に立つようにして彼女に向き合った。

 

「さあもう大丈夫です。安心して家に帰ってください」

「はい。ありがとうございます」

 

少年に絡まれていた女性に、炭治郎は優しく声をかける。頭を下げてお礼を言う彼女に、少年の叫び声が再び響いた。

 

おいいーーーっ!!!お前邪魔すんじゃねぇよ!!その子は俺と結婚するんだ!!俺のことが好きなんだから、な゛っ!!!

少年の言葉は続けられることはなく、突如振り下ろされた女性の平手打ちによって遮られた。

女性は叫び声をあげながら何度も何度も少年を殴打する。少年は頭を押さえながら、痛い痛いとうめき声をあげた。

このままではまずいと炭治郎は女性を羽交い絞めにして引きはがす。少年は顔に真っ赤な手形を付けたまま、再び泣き喚いた。

 

「いつ私があなたを好きだと言いましたか!?具合が悪そうに道端でうずくまっていたから声をかけただけでしょう!?」

ええええ!?俺のこと好きだから心配して声をかけてくれたんじゃないのぉお!?

「私には結婚を約束した人がいますので絶対にありえません!それだけ元気なら大丈夫ですねさようなら!!」

 

女性は頭から湯気を噴き出しながら歩いていく。項垂れる少年を見て、汐は(うわぁ、こいつ勘違い男か・・・)と心の中で蔑んだ。

 

「炭治郎。やっぱり殴り飛ばしたほうがよかったんじゃない?」

「それでもよかったんじゃないかと思い始めた自分がなんだかいやだ」

 

今なお立ち去った女性に未練がましく縋りつこうとする少年に、炭治郎は可哀そうなものを見るような表情で見つめた。

 

何だよその顔!?やめろおお!!なんでそんな別の生き物を見るような眼で俺を見てんだ!?お前!責任とれよ!お前のせいで結婚できなかったんだからあああ!!!

 

少年は炭治郎を指さし、大声で叫ぶ。炭治郎はそばに来ていた汐と顔を見合わせると、寸分の狂いもなく同時に塵を見るような蔑み切った眼で彼を見下ろした。

 

お前ら打ち合わせでもしたのか!!!

 

少年は高らかに突っ込むと、涙を溢れさせながら二人を見据えながら言った。

 

いいか!俺はもうすぐ死ぬ。次の任務でだ。俺はものすごく弱いんだぜ!なめるなよ!!

「いや別に舐めてないし威張れることじゃないし」

俺が結婚できるまで、お前らは俺を守れよな!!

「なんでそうなるの!?あんたの脳みそ藻屑でも詰まってるの!?」

 

少年の支離滅裂な言い分に汐が思わず突っ込んでいると、その場の空気を読めていないのか炭治郎が口を開いた。

「俺は竈門炭治郎でこっちが大海原汐だ!」

「何唐突に名前なんて名乗ってんの!?しかもなんでさらっとあたしまで紹介してんの!?あんたの頭も茹で上がった!?」

炭治郎のとぼけた発言に、汐の声も思わず上ずる。そんな炭治郎に少年は「ごめんなさいね!」と叫ぶように謝った。

 

「俺は我妻善逸だよ~!助けてくれよ二人とも~!」

善逸と名乗った少年は、今度は炭治郎の足元に縋りつく。あまりのみっともなさに、汐は段々腹が立ってきた。

 

「助けてくれってなんだ?善逸はなんで剣士になったんだ?なんでそんなに恥をさらすんだ?」

「言い方酷いだろ!」

「いや酷いも何も的確でしょ。っていうか、なんであたしがいちいち突っ込んでんの?」

 

だんだん自分の存在意義が分からなくなってきた汐をしり目に、善逸は再び泣き喚きながら言った。

 

女に騙されて借金したんだよ!!借金を肩代わりしてくれたジジィが育手だったの!!毎日毎日地獄の鍛錬だよ。死んだほうがマシなくらいの!!最終選別で死ねると思ったのにさ。運良く生き残るからいまだに地獄の日々だぜ!!!ああー、怖い怖い怖い怖い!!きっともうすぐ鬼に喰われて死ぬんだ!生きたまま耳から脳髄を吸われてえええ!!!イィヤァアアーーッ!いやぁあああ!!助けてええええ!!!

 

涙を流し、声が枯れそうなほど叫び、体をそらしたりのたうち回ったりと、駄々っ子でもやらないような行動を善逸はとる。

二人はその姿に呆れかえり、どうすればいいか顔を見合わせた。

 

「と、とにかく落ち着かせない?聞いてるこっちも疲れるし」

「そ、そうだな。大丈夫か?」

座り込む善逸に、汐と炭治郎は目線を合わせて同じようにしゃがむ。炭治郎が背中をさすってあげると、善逸は少し落ち着いたようだ。

 

「とりあえず水でも飲んだら?あれだけ叫べば喉も乾くでしょ」

 

汐はそう言って腰につけていた水筒を出すと、口の部分を布で拭いて善逸に渡す。彼は「ありがとう」と言ってから汐の目を覗き込んだ。

 

(うーん。眼を見る限りそんな弱虫クズ野郎には見えないんだけどなあ。こういう奴って案外自分の実力に気づかない子のが多い傾向だけど・・・ん?)

 

善逸の眼を観察していた汐だが、不意に彼がじっと視線を外さないまま自分を見ていることに気が付く。その瞳が数回揺らいだ後善逸は不意に目を伏せ震えだした。

 

「ぜ、善逸?」

 

汐が恐る恐る声をかけると、善逸は汐と炭治郎を交互に見る。そして一瞬黙っていたかと思うと、火が付いたように叫びだした。

 

おまっ、おまっ!!お前ふざけてんじゃねえぞおおお!!

善逸は急に立ち上がると、炭治郎の胸ぐらをつかんで唾を飛ばしながら捲し立てた。

俺の結婚を邪魔しておきながら、お前は女の子と仲良く二人で旅してんじゃねえかあああ!!!

「「えっ!?」」

この○▼※△☆▲で※◎の★●が!!!

 

彼の言葉は途中から何を言っているのかわからなくなっているほど滅茶苦茶になった。が、汐は驚愕を顔に張り付けたまま善逸に尋ねた。

 

「あ、あんた・・・今あたしの事女って言った?あんたあたしが女だってわかるの?」

汐の言葉に善逸は怒りながらも「どこからどう見たって女の子でしょうが!!」と頭から湯気を噴き出しながら答えた。

その言葉に、汐は驚きつつもうれしさがこみ上げる。今まで生きてきて初見で女だと見抜かれたことが炭治郎以外になかったので、思わず涙が出そうになった。

だが、汐は知らなかった。炭治郎が汐を女だと知っていたのは、ある小さな事故であることに。

 

善逸の怒りは収まらないのか、ついには炭治郎を激しく揺さぶる。このままでは善逸が隊律違反になってしまうことを危惧した汐は、そっと彼の胸ぐらをつかんだ。

 

「自分で黙るか物理的に黙るか、今すぐ選んで?」

 

可愛らしい笑みを浮かべる反面、ぞっとするような低い声に善逸はは悲鳴を上げて青ざめる。今度は汐が隊律違反になってしまうことを恐れた炭治郎は、慌てて汐を善逸から引きはがした。

 

傍らでは二羽の鴉と雀が、何やら会話のようなものをしているのであった。

 

それから少し時間がたち、善逸は炭治郎からもらったおにぎりをかじりながら、汐達と共にあぜ道を歩いていた。

 

「鬼が怖いっていう善逸の気持ちもわかるが、雀を困らせたらだめだ」

「え?困ってた?雀?」

 

善逸は意味が分からないと言った様子で炭治郎をみる。そんな彼に、汐が補足するように言った。

 

「炭治郎は雀の言葉が分かるみたいなの。あたしにはさっぱりだけれど」

「はあ!?言葉が分かるって嘘だろ!?なんて言ってたんだよ雀は?」

「いや、『善逸がずっとあんなふうで仕事にも行きたがらないし、女の子に直ぐちょっかい出す上にイビキもうるさくて困ってる』って言ってるぞ?」

 

炭治郎は手の上に乗っている雀を指さし、困ったような声色で伝える。雀もそうだと言わんばかりにちゅんと一声鳴いた。

 

「嘘だろ!?俺をだまそうとしてるだろ!?」

「それはないわ。炭治郎はどうしようもなく嘘がへたくそで、詐欺とかにも平気で引っ掛かりそうなバカなんだから」

「いやそれ褒めてないよな!?というか、汐。お前最近随分と辛辣になってないか!?」

 

三人が声を荒げていると、上空に二羽の鴉が飛び交った。そして、三人に向かって声高らかに叫ぶ。

 

「カァ!!駆ケ足!駆ケ足!炭治郎、汐、善逸!走レ!」

「カァ~カァ~。一緒ニ向カッテ下サイネェ~。三人一緒デスヨォ~!」

ぎゃあああ!!!鴉が喋ってるぅううう!!

鴉の口から出てきた人語に、善逸の体が震えたかと思うと、突如体をそらしながら恐怖の叫び声をあげた。

 

 

 

 

*   *   *   *   *

 

 

 

 

三人は鴉に導かれながら、深い山の中を進む。汐と炭治郎は慣れているのか軽快な足取りで進むが、善逸は腰が引けたまま恐る恐るついてくる。

 

「なあ炭治郎~、汐ちゃん~。俺じゃやっぱり無理だよぉ~。俺がいたって何の役にも立てないしさァ~」

だが汐達はそれには答えず、ひたすら前を進む。汐は鬼の気配を、炭治郎は鬼の匂いを感知しているため二人の顔に緊張が走る。

 

やがて木々が少なくなり、開けた場所にたどり着く。そこには山の中には似つかわしくない一軒の家が建っていた。

 

「こんなところに、家?物好きでも住んでるのかしら?」

汐が見上げながらそういうと、炭治郎は首を横に振りながら答えた。

 

「それはわからないけれど、血の匂いがする。でも、この匂いは・・・今まで嗅いだことのない匂いだ」

「え?何か匂う?それより、何か音がしないか?あとやっぱり、俺たち共同で仕事するのかな?」

 

善逸の言葉に、汐と炭治郎は怪訝そうな顔で彼を見た。汐は気配はぼんやりと感じるものの、音など聞こえない。それは炭治郎も同じだった。

 

「音?音なんて・・・」

汐が顔を動かすと、視界の端に何かを見つけた。目を凝らしてよく見ると、それは二人の子供だった。

 

一人は桃色の着物を着た幼い少女で、もう一人は青い羽織を纏った少女よりも年上そうな少年。二人とも目を見開き、体を震わせた。

 

「炭治郎、あそこ」

 

汐は炭治郎の羽織を引き、子供たちの存在を知らせる。善逸も気づいたようで、炭治郎と同じ方向に視線を向けた。

 

「こ、子供だ」

「どうしたんだろう?こんなところで」

「迷子かもしれないわね。声をかけてみましょ」

 

汐と炭治郎は二人の子供の下へ足を進める。炭治郎がどうしたのかと聞くと、二人は抱き合ったまま体を震わせ怯え切った眼で汐達を見ていた。

 

(かなり怯えている。これじゃあ何があったか聞けそうにないわね。何か、何か二人を落ち着かせる方法はないかしら・・・)

汐がイラついた様子で両手をよじると、炭治郎は子供たちの目線に合わせてしゃがみ込む。そして善逸の雀を手に乗せてあどけない声色で言った。

 

「じゃじゃーん!手乗り雀だ!可愛いだろ?」

手の上の雀はちゅんちゅんとかわいらしい声で鳴きながら小さく飛び跳ねる。その愛らしい姿に、汐の口元が思わず緩んだ。

その空気に子供達の表情がわずかに緩み、そしてへなへなと座り込んだ。

 

(さすが炭治郎。小さい子の相手はお手の物ね。って、あたしはよく小さい子供にからかわれてたからこういうの向いてないかも)と、汐は心の中で考えながら涙目で目をそらした。

 

「何があったか話せるか?」

「あの家はあんたたちの家?」

 

炭治郎と汐が優しく尋ねると、少年が声を詰まらせながら首を横に振った。

 

「ちが、ちがう。こ、ここは・・・」

 

――ば、化け物の、家だ・・・

 

少年の言葉に汐と炭治郎の眼が鋭くなる。化け物というのは、二人が探知している鬼の事だろう。

少年はつづけた。

 

「兄ちゃんが連れていかれた。夜道を歩いていたら、見たことのない大きな化け物が現れて、俺達には目もくれないで兄ちゃんだけ・・・」

「あの家に入ったんだな」

 

炭治郎の言葉に少年は震える声でうなずいた。その恐怖がよみがえってきたのだろう。二人の目にみるみるうちに涙がたまった。

「で、二人で後をつけてきたってことね。まったく、怖いもの知らずというか無茶というか・・・」

「汐。そんな言い方は・・・」

「って言いたいところだけど、えらかったわね。怖かったでしょう?」

 

汐は優しい声色でそういうと、二人の目から涙があふれだす。汐は懐から小さな手ぬぐいを出すと、二人の涙を優しくぬぐった。

(言葉は少しきついけれども本当は心が優しいんだよな、汐は。善逸には容赦ないけど)

そんな彼女の背中を、炭治郎は慈しみを込めた眼で眺める。

 

「兄ちゃんの血の跡をたどったんだ。怪我をしたから・・・」

「怪我。血の跡が付くほどの怪我って、穏やかじゃないわね」

汐が顔をしかめると、二人の顔が再び青ざめる。そんな彼らに、炭治郎は安心させるように言った。

 

「大丈夫だ。俺たちが悪い鬼を倒して兄ちゃんを助ける。なあ、汐?」

「もちろんよ。あたしたちに任せて」

 

汐と炭治郎の力強い言葉に、子供たちの眼に希望の光が宿る。それを見た汐の心に、決意の灯がともった。

 

「・・・なあ炭治郎、汐ちゃん」

善逸に名を呼ばれた二人が振り返ると、彼は青ざめた顔のまま家を見つめている。

 

「この音何なんだ?気持ち悪い音・・・。ずっと聞こえる・・・。鼓か?これ」

「音?」

「さっきから何を言っているの?何も聞こえ・・・」

 

震える声でそう告げる善逸に、怪訝そうな顔をする汐と炭治郎。だが、汐が言葉を紡ごうとした瞬間。

 

家の中からポン、ポン・・・と音が聞こえた。それは善逸の言う通り、鼓の音のようだ。

音は段々と大きくなり、そして打ち鳴らす速度も速くなっていく。まるで、段々とこちらに近づいているように。

 

善逸と子供の顔に脅えが走り、汐と炭治郎の顔に緊張が走る。やがて音がこれ以上ない程速く大きくなった瞬間。

 

家の窓から、赤黒い()()が飛び出してきた。




今回は某大江戸コメディを参考に書きました。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



よく目を凝らしてみると、その赤黒い何かは、血にまみれた()()()()だった。息をのむ彼らの下に、男は空中でぐるりと一回転したあと頭から真っ逆さまに落ちた。

ぐしゃりという嫌な音と共に、地面に真っ赤な血だまりが広がる。

少女が金切り声を上げ、炭治郎は「見るな!」と鋭く叫ぶ。それからすぐさま倒れている彼に駆け寄り助け起こした。

 

「汐、手伝ってくれ!」

 

炭治郎に呼ばれて汐もすぐさま駆け寄り、傷の具合を確認する。だが、どの傷もとても深く一目で致命傷とわかるものだった。

それを悟った炭治郎の顔が悔しげに歪む。すると彼の口から、泡の様にか細い声が漏れた。

 

「出ら・・・、せっ・・・かく・・・」

「喋っちゃ駄目!」

汐が鋭く制止するが、男は必死で言葉を紡ぐ。

「あ・・・ああ・・・出られ・・・たのに、外に・・・出ら・・・れた・・・のに。死・・・ぬ・・・のか?俺・・・死ぬ・・・の・・・か」

涙を流しながら紡がれる言葉には、悲しみと無念が宿っている。炭治郎の眼が一瞬ぎゅっと切なげに揺れると、そっと彼を抱きしめる。

その肩は微かに震えていた。

 

やがて男は炭治郎の腕の中で静かに息を引き取った。何も映さなくなってしまった眼を、炭治郎は悲しげに見つめる。

 

(ああ・・・死んでしまった。痛かっただろう・・・苦しかっただろう・・・)

炭治郎は彼の死を悼むようにぎゅっと目を閉じた。汐も彼につられるように目を伏せる。

そんな二人の背中に、善逸はおずおずと声をかけた。

「炭治郎。その人、ひょっとしてこの子たちの・・・」

だが、善逸が次の言葉を紡ぐ前に、家の中から凄まじいうなり声と鼓の音があたり中に響き渡った。

子供たちは抱き合えって震え、善逸はこれ以上ない程真っ青になり、汐と炭治郎は鋭い視線を家へと向けた。

 

やがてうなり声と音が収まるが、子供たちは震えたまま動かず、善逸は歯をがちがちと鳴らしながら震えている。

 

(助けられなかった・・・)

命が終わってしまった男を見つめながら、炭治郎は悔し気に唇をかむ。

 

(俺たちがもう少し早く来ていれば、助けられたかもしれないのに・・・)

炭治郎の眼が悲しげに揺れた瞬間、腰に強い衝撃が走る。目を向けると、汐の鋭い視線とぶつかった。

 

「あんたのせいじゃない」

汐はそれだけを言って立ち上がると、震えたままの子供たちを見据えた。

 

「この人はあんたたちの兄いちゃん?」

そう尋ねると、少年は震えながらも首を横に振った。

 

「に、兄ちゃんじゃない。兄ちゃんは柿色の着物を着てる」

その言葉を聞き、少なくともこの子たちが絶望することを回避できたことに汐はほんの少しだけ安心する。が、そうなるとこの家には複数の人間が捕まっていることになる。

急がなければ、さらに犠牲者が出ることは確実だろう。

 

「行くわよ、炭治郎」

「ああ」

 

汐の凛とした声に、炭治郎は力強く答える。そしてそっと男を横たえると、二人は手を合わせる。

 

「善逸、行こう!」

炭治郎は善逸のほうを振り返るが、彼は青ざめた顔で首を何度も横に振った。

 

「あんたね。今この状況を打開できるのはあたしたちだけなのよ。この家からは複数の鬼の気配がする。相手の強さが分からない以上、戦力は多いほうに越したことはないわ」

「汐の言う通りだ。今助けられるのは俺たちだけなんだぞ」

二人がそういうも、善逸は涙目になりながら震えているだけで一向に足を動かす気配がない。

 

そんな不甲斐ない彼に、ついに炭治郎の堪忍袋の緒が切れた。

 

「そうか。わかった。行くぞ、汐」

今までとは全く違う低い炭治郎の声に、汐の背筋に冷たいものが走る。今までも何度か彼が怒ったことはあったが、いずれも汐が戦慄するほどのものであった。

現に、炭治郎の顔には般若の如き恐ろしい表情が張り付いている。

 

それを見た善逸は飛び上がると、慌てて歩き出す炭治郎に縋りついた。

 

ヒャーーッ!!何だよォーッ!なんでそんな般若みたいな顔すんだよ!!行くよおお!!

しかし炭治郎はそんな善逸に「無理強いするつもりはない」と、冷たく言い放った。善逸は泣きながら何度も「行くよ!行くからあ!!」と炭治郎の足元で叫んだ。

 

(あの炭治郎をあそこまで怒らせるなんて相当よ・・・)

そんな二人を、汐は気持ち悪いものを見るような眼で見つめていた。

 

「あ、そうだ」

不意に炭治郎が立ち止まり、善逸を振り払うと座り込んだままの子供たちの下へ向かう。そして背中に背負っている箱を子供たちの前に置いた。

 

「もしもの時の為に、この箱を置いていく。もしもという言葉は決して『ありえない』ことじゃないからだ。何かあっても、二人を守ってくれるから」

 

炭治郎の言葉に、汐は聞き覚えがあった。それはかつて、玄海が口癖のように言っていた言葉で、最終選別の時に汐が炭治郎に言った言葉だった。

彼がその言葉を覚えてくれていたことに、汐の胸が熱くなる。そして炭治郎は汐と善逸に視線を向けると、真剣な顔つきで家へと向かった。

 

 

扉を開けると、そこはかなり広い玄関だった。あちこちに水瓶や盥など生活に必要なものが一通りそろっている。

見た目は普通の家と何ら変わりがないが、汐や炭治郎、そして善逸にはそこが普通の家でないことが嫌というほどわかっていた。

しかし人命がかかかっている以上進まないわけにはいかない。

三人分の足音と、一人の粗い息遣いが家の中に響く。炭治郎を先頭に汐、善逸と続く。

 

「炭治郎~、汐ちゃ~ん。守ってくれるよな?二人とも守ってくれるよな?俺を守ってくれるよな?」

先程から紡がれる自分を守ることが前提の善逸の言葉に、汐は苛立ちを抑えながらも前を歩く。すると、不意に炭治郎が立ち止まったので汐は勢いあまって彼の背中に顔をぶつけてしまった。

「ちょっと急に止まらないでよ。痛いじゃない!」

「あ、ごめん汐。善逸に言っておきたいことがあって」

 

炭治郎はそう言って善逸のほうを振り返った。

 

「善逸。ちょっと申し訳ないが、前の戦いで俺は肋と足が折れているし、汐も右肩を斬っている。そして俺たち二人ともまだ完治していない。だから――」

えええーーーッ!?なに折ってんだよ骨!折るんじゃないよ骨!斬るんじゃないよ肩!怪我人二人じゃ俺を守り切れないぜ!!ししし死んじまうぞ!!ヒャッ!どうすんだどうすんだ!?死ぬよこれ!死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ!!ヒャーーーッ!二人共怪我してるなんて酷いあんまりだぞ!死んだよ俺!!九分九厘死んだーッ!!

 

善逸が再び涙と鼻水を垂れ流しながら死ぬ死ぬと連呼し、二人の足元で転がりまわる。それがあまりにも喧しくて、汐の額に青筋が浮かび怒りの匂いが漂う。

このままでは汐が善逸を殴り飛ばしかねないと判断した炭治郎は、慌てて善逸を落ち着かせようと試みた。

 

「善逸、静かにするんだ。お前は大丈夫だ」

気休めはよせよぉおーー!!

しかし善逸は炭治郎の言葉を聞き入れず、激しくのたうち回り暴れだす。

「違うんだ。俺にはわかる。善逸は――、駄目だ!!」

 

突然炭治郎が声を荒げると、善逸は耳をつんざくような悲鳴を上げる。汐が反射的に顔を上げた先には、先ほどの兄妹がこちらへ向かってくるのが見えた。

 

「あんたたち何してるの!?入ってきちゃ駄目よ!!」

汐が鋭く言うと、少年は炭治郎を見ながら震える声で訴えた。

 

「お兄ちゃん、あの箱カリカリ音がして・・・」

「だ、だからって置いてこられたら切ないぞ。あれは俺の命より大切なものなのに・・・」

 

炭治郎が切なげな声でそう言った瞬間。どこからかミシミシときしむ音が聞こえてきた。

少女は小さく悲鳴を上げて炭治郎に飛びつき、善逸はしばらく震えた後大声で悲鳴を上げて体をかがめた。

その反動で尻が炭治郎と少女に当たり、近くにあった部屋に押し込んでしまう。

「あ、ごめん。尻が――」

 

だが、善逸が言い終わる前に鼓の音がどこからか聞こえ、それと同時に炭治郎たちの姿が消えた。

 

「・・・え?」

 

一瞬何が起こったかわからず、汐が素っ頓狂な声を上げる。だが、すぐに理性を取り戻すと部屋に向かって声を上げた。

 

「炭治郎!?炭治郎何処!?」

汐が呼ぶが炭治郎が答えることはなく、その代わりに何度か鼓の音が響き、部屋が次々と変わっていく。

 

「う、嘘・・・だろ・・・?」

 

目の前で起こった光景が信じられず、善逸が絶望した声を上げる。そばにいた少年も青ざめながら汐のそばに寄り添った。

 

(どうなっているの・・・?まさかこれが、鬼の血鬼術・・・!?)

「あんたたち!下手に動いたら危険よ。ここは無理に動かないで・・・」

汐は後ろを振り返ると二人にそう告げた。

 

だが

 

死ぬーーーッ!!死ぬ死ぬ死ぬ死ぬこれは死ぬーっ!!炭治郎と離れちゃったぁあ!!

「てる子!てる子!!」

 

善逸は泣きわめき、少年は青ざめた顔で妹の名前を何度も呼ぶ。その大声に焦った善逸が少年に飛びつき大声を上げないように制止させる。

 

だめだめ大声出したら駄目!大声出して悪い奴らに聞かれたら大変だよ!汐ちゃん、ちょっと外に出よう!!

「あんた人の話聞いてた?無理に動くなって・・・」

汐が口を挟もうとした途端、少年は蔑むような眼で善逸を見下ろしながら言った。

 

「なんで外に?自分だけ助かろうとしてるんですか?死ぬとかずっとそういうこと言って恥ずかしくないんですか?年下に縋りついて情けないと思わないんですか?あなたの腰の刀は何のためにあるんですか?」

 

少年の容赦ない言葉の刃にめった刺しにされた善逸は、何故か口から血を噴き出して倒れた。

そんな彼を見て、汐は(この子将来大物になるわ)と妙な関心を覚えた。

 

違うんだよ!俺じゃ役に立たないし汐ちゃんも怪我をしていて無理はさせたくないから人を、大人の人を呼んで来ようとしてるんだよ!!子供だけでどうにかできることじゃないからこれは!!

 

善逸はそう言いながら少年を引きずるようにして玄関へ向かう。そのあとを慌てて負う汐。だが、善逸が玄関の扉を開けたその先には。

――また別の部屋がそこにあった。

 

善逸の顔が一瞬で青ざめる。そして再び頭を抱えながら「嘘だろ嘘だろ!?」と騒ぎ出す。

「ちょっと善逸。少しは落ち着きなさいって。焦ったって何もいいことなんて・・・」

 

汐は必死で善逸を制止させようとするが、彼は話を全く聞かず慌ててあちこちの扉を開ける。

しかしいくら開けても外へは通じておらず、別の部屋があるだけだ。

 

「こっちは!?」

そう言って障子らしきものを開けた瞬間。彼の体は固まった。部屋の中にすでに客がいたからだ。

 

その相手は体は人間のものだが、頭は猪のものだ。そして大きく息を吸うと、鼻から音を立てて息を吐きだした。

化ケモノだぁあああーーーー!!!!!

 

善逸の大声と同時に猪男がこちらに向かってくる。汐は反射的に刀に手をかけたが、男は汐の頭上を飛び越え壁を蹴り、襖を体当たりで吹き飛ばすと何処へと走り去っていった。

残されたのは呆然と立つ汐と少年。そして頭を抱えて震える善逸だけだった。

 

「・・・はあ」

汐は小さくため息をつく。そして微かに震えている少年の肩にそっと触れた。

びくりと体を震わす彼に、汐は優しげな声で話しかける。

 

「ごめんね、怖い思いをさせて。だけど心配しないで。炭治郎がいるんだもの、きっと大丈夫よ」

「・・・本当に?」

「うん。炭治郎は強くて優しいから、きっとあんたの妹を守ってくれるわ。だから、あんたも自棄になっちゃだめよ」

 

そう言って汐はにっこりとほほ笑んで見せた。その笑顔と声に、少年は少し安心したのかその場に座り込む。

 

「あんた、名前は?」

「しょ、正一です」

「正一ね。いい名前じゃない。あたしは汐。大海原汐っていうの。一応言っておくけど、あたしは女だからね」

 

汐は自分の名を名乗った後、正一に合わせて座り込んだ。女という言葉に正一は驚く。

 

「そ、それじゃああの人は・・・女性である貴女にまで守ってもらおうとしたんですか?」

「え・・・ええ。そうなるわね」

「信じられません。普通は男性が女性を守るものではないんですか?」

「あれは特殊な例よ。基準にしちゃ駄目。そしてああいう男には絶対になっちゃ駄目よ正一」

 

二人の容赦のない言葉に、善逸は再び口から血を流して倒れてしまう。そんな彼をしり目に、汐は真剣な声色で言った。

 

「動くなとは言ったけれど、さっきみたいな妙な奴が徘徊してるんじゃあ動かないのは返って危険かもしれないわね。善逸。いつまで寝てるの善逸!!」

 

汐は倒れたままの善逸を蹴り起こす。悲鳴を上げて飛び起きる彼の肩を抑え、汐は目を見据えながら言った。

 

「あんた、とりあえず深呼吸をしなさい」

「え?え?」

汐の言葉の意図が分からず混乱する善逸に、汐は鋭くいい放つ。

 

「つべこべ言わずにさっさとする!!」

善逸はあわてて彼女の言うとおりに深呼吸をする。何度か繰り返し、善逸が落ち着いたところで汐は言った。

 

「どう?落ち着いた?古典的な方法だけど結構効くのよこれが。さて、まずは炭治郎たちを捜しましょ。鬼の気配はあたしがある程度感知することができるから、あたしが前を歩く。だからあんたは後ろで正一をしっかり守りなさい。それくらいならできるでしょ?」

 

汐の真剣な眼差しと声色に、善逸は目を見開いた。流れていた涙も止まり、自然とうなずいていた。何故だかはわからないが、善逸も正一も汐の声を聞いたとき不思議と恐怖が和らいでいくような気がしたのだ。

そんなことを知る由もない汐は、元気に言って立ち上がった。

 

「じゃあ決まり。時間が惜しいわ、さっさと行くわよ」

「汐ちゃん」

 

立ち上がった汐の後ろから、善逸が声をかける。何事かと振り返ると、善逸は真剣な面持ちで汐の手をそっと握った。

思わぬことに汐の肩がはね胸が音を立てる。しかし彼の口から出てきた言葉に、汐は表情を一変させる。

 

「俺と結婚して一生俺を守ってくれないか?」

「寝言は寝て言え恥さらし」

 

汐のこれ以上ない程の鋭く辛辣な言葉に、正一は頭を抑え善逸は三度口から血を噴き出すのであった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



初めて彼女の声を聞いたとき、善逸は思った。この人は、本当に人間なのだろうかと。
彼女の発する声は独特な波を持っていて、聞いている人の頭や心を動かす。
現に自分を励ましてくれた時の声を聞いていると、今まで感じていた恐怖が消えていくような気がした。勇気が湧いてくるような気がした。

故に、彼は思った。彼女の声は、人のものではない。
かといって鬼でもない。人と鬼を通り越した

――何か、であることを。


それから三人ははぐれてしまった炭治郎たちを捜して、恐ろしい屋敷の中をさまよっていた。

汐を先頭に善逸、正一と続く。善逸は正一の手をしっかり握りながら汐の後ろをついていく。しかし時間が経つに連れ恐怖がよみがえってきたのか段々と善逸の息が荒くなっていく。善逸は全身を震わせているだけではなく、両手両足を同時に出してぎこちなく歩いていた。

しばらくは鬼を警戒して黙っていた汐も、段々と大きくなる善逸の息遣いに苛立ちを覚え始める。そしてその後ろにいる正一はそんな善逸を見て不安そうな顔をしていた。

 

(ああもう!正一の眼が不安でいっぱいになってるじゃない!やっぱり下手に動いたりしないほうがよかったかな・・・?)

汐は自分の判断が間違っていたかもしれないと今更ながらに後悔する。そんな彼女の気持ちなど露知らず、善逸は震えながらも後ろをついてきていた。

だが、

 

「すみません善逸さん」

ヒャーーーッ!!

「わああーーーっ!!!」

 

正一が声をかけた瞬間、善逸が悲鳴を上げて正一に飛びつく。至近距離で大声をあげられた汐もつられて悲鳴を上げでしまい、反射的に善逸の頭を平手でたたいた。

「人の耳元で大声を上げるんじゃないわよ!!心臓が口から飛び出すところだったじゃない!」

 

「そ・・・それは・・・俺の台詞だよ。正一君、合図、合図、合図をしてくれよ。話しかけるなら急に来ないでくれよ。心臓が口からまろび出るところだった・・・」

「すみません」

「もしそうなったらまさしくお前は人殺しだったぞ!!わかるか!?」

目玉を血走らせ涙を流し、震える声で善逸は正一に抗議する。あまりにも見苦しくあまりにも情けない姿に、汐も我慢の限界が来ていた。

 

「ただちょっと・・・汗息震えが酷すぎて・・・」

なんだよォ!俺は精いっぱい頑張ってるだろ!?

「口だけなら何とでもいえるわよ。現に正一が不安になってるから言ってるのよ」

 

汐はへたり込む善逸を蔑んだ眼で見つめながら言い放つ。先ほどの善逸による汚い求婚のせいで腹立たしいのか、彼女の声は刺々しい。

そんな彼女を見て善逸は「汐ちゃんまで~」と情けない声を上げた。

 

でもな、でもな!?あんまり喋ったりとかしてると、鬼とかにホラ、見つかるかもだろ!?だから極力静かにした方がいいって思うの俺は!!

「あんたその言葉、そっくりそのまま打ち返すわよ!!今一番騒いでんのはあ・ん・た・な・の!!わかる!?」

「いえ、汐さんも善逸さんに負けずとも劣らずに騒がしいです・・・」

二人の大声に、正一はおずおずと、しかし鋭く突っ込みを入れる。その言葉に汐は頬をわずかに染めた後咳ばらいを一つした。

その時だった。

 

「っ!!」

身体にまとわりつくような気配を感じ、汐は目を細めた。鬼の気配がする。すぐさま彼女は刀に手をかけ、善逸に正一を守るように命じた。

だが、それよりも早く正一の顔が青ざめる。善逸がゆっくりと振り返るとそこには――

 

軒下から舌をだした、四つ目の鬼がこちらをなめるように見つめていた。

 

「ぐひ、ぐひ、子供だ。舌触りがよさそうだ・・・」

それを見た瞬間、善逸の髪の毛が思い切り逆立ち、目玉はこれ以上ない程飛び出させながら叫んだ。

 

ほら御覧!!出たじゃないでたじゃない!!汐ちゃん助けてえええ!!!

「あんたも鬼殺隊でしょうが!!大丈夫よ!!あんたならできる!!」

いや無理だって!!無理だってええ!!!

善逸は完全に混乱して、泣きわめきながら頭を振る。とても戦える状態ではない。

仕方なく汐は二人の前に立とうと一歩踏み出す。だがその瞬間。

暗闇から何かが飛んできて、汐の眼前を通り抜けた。

その方向を向くと、暗がりの中からもう一体の鬼が姿を現した。人のような姿をしているが単眼で腹に口のようなものがある。

(こっちにも鬼が・・・。気配が混ざり合ってわからなかったっ!!)

まさかの新手の出現に、善逸のほうへの援護ができない。汐はやむを得ず善逸達に向かって叫んだ。

 

「善逸!!正一を連れて逃げ――」

だが、汐が言い終わる前に、善逸の悲鳴が響いた。

ア゛ーーーーーッ(汚い高音)!!!来ないでェ!来ないでくれえ!!やめてえーーーッ!!!

そのまま彼は正一を引っ張って逃げ出す。それを追う舌の長い鬼。汐はそいつを逃がさまいと追いかけるが、口の鬼に阻まれてしまった。

 

(仕方ない。こいつをさっさと始末して善逸の方へ行くわよ!!)

 

汐は刀を抜き、口の鬼へ向けた。紺青色の刀身が、淡い青い色へと変わる。その変化に鬼の目が少し驚いたように動いたが、次の瞬間には腹の口が伸びて汐に襲い掛かってきた。

それを間一髪よけると、口は壁にぶつかったが、その壁の一部をかみちぎりながら本体へと戻っていく。戻った後の壁には、くっきりと食べられたような跡が残っていた。そして再び、口はゴムの様に伸びて汐に襲い掛かってくる。

攻撃をよけつつ、汐は鬼の頸を狙う。本体はほとんど動かず、伸びる口だけが武器のようだ。だが、もしかしたら血鬼術を使う可能性もあるため油断はできない。

自分に向かってきた口を刀で払いつつ、汐は鬼へ少しずつ近づいていく。このまま近づき、飛飛沫で一気に蹴りをつけるつもりだった。

 

が、その瞬間。遠くで善逸の凄まじい悲鳴が聞こえた。彼はともかく一緒にいた正一の方が心配だ。一刻の猶予もない。

ふと、汐の足元に何かが転がってきた。それは汐の顔程の大きさの水瓶で、先ほどの攻撃で空いた穴から転がりだしてきたものだった。

汐はそれを拾い上げると、向かってきた口に無理やりねじ込んだ。

水瓶は直ぐにかみ砕かれるが、動きが一瞬止まる。その隙に汐は刀を振り上げ、口と本体のつながりを断ち切った。

血の飛沫が上がり、鬼の体が震えだす。彼女は瞬時に間合いを詰めると大きく息を吸った。

 

――海の呼吸――

壱ノ型 潮飛沫(しおしぶき)!!

 

そのまま目にもとまらぬ速さで頸を薙ぐと、離れていた口から断末魔の声が漏れる。崩れゆく鬼の体に向かって汐は吐き捨てるように言った。

 

「あんたらのせいでこっちは苛々が頂点に達しそうなのよ」

それだけを言うと、汐は二人を追って先へと向かった。

 

汐が口鬼と戦っていたころ。

善逸と正一は舌の鬼から必死に逃げ回っていた。自分たちは食べてもおいしくないからと嘆願するも、鬼がそれを聞き入れてくれるはずもなく状況は変わらなかった。

鬼が舌を伸ばし、二人に襲い掛かる。間一髪で善逸が正一を抱えて難を逃れるも、舌が当たった水瓶は木っ端みじんに砕け散った。

 

何それ舌速ァ!!水瓶パカッて、ありえないんですけどおお!!

庇った勢いで二人は襖を突き破り、畳のある部屋へ飛び込んだ。正一は立ち上がると、善逸に立つように促す。

しかし善逸の膝は恐怖のあまり震え、まともに立ち上がることすらできなかった。

 

「お、おお俺のことはおいていけ!逃げるんだ!」

自分が完全に足手まといになっていることを承知していた善逸は、正一だけでも逃がそうと試みる。しかし彼はそれを拒否し善逸を引っ張った。

 

(な、なんていい子なんだ!!こんな怯えた【音】になっているのに!!)

善逸は涙と鼻水で汚れ切った顔で正一を見る。顔は青ざめ息は荒く、心音もかなり早くなっている。怯えているのは明らかなのに自分を見捨てようとはしていない。

(俺が何とかしなくちゃ・・・!俺が守ってあげないと可哀そうだろ!!享年が一桁とかあんまりだぞ!)

 

だが善逸の気持ちはそれとは裏腹にしぼんでいく。自分は弱い、過ぎるほど弱い。だから守ってあげられる力がない。けれど守りたい。助けたい。

――何より、汐との約束を守りたい。

先ほど彼女が言った正一を守れという声が響く。あの声を聞いたときにわいてきたわずかな勇気を、善逸は絞り出そうとしていた。

 

だが、追いついた舌鬼はそんな彼を嘲笑い、首を傾ける。

 

「お前の脳髄を耳からじゅるりと啜ってやるぞ」

 

その瞬間。善逸の中で恐怖と責任感が弾けた。彼の体はそのままぐらりと後ろに倒れる。正一が受け止めたせいで頭を打つことはなかったが、その顔からは規則正しい寝息が聞こえてきた。

この状況で眠ってしまった善逸に、正一だけではなく鬼までもが戸惑う。だが、鬼は直ぐに我に返ると舌を二人の方へ伸ばしてきた。

 

殺される!!正一が善逸の名を泣きながら叫んだその瞬間。

 

突然、伸ばされたはずの舌が宙を舞った。鬼が悲鳴を上げ、血の飛沫が静かに舞う。

そして、眠っていたはずの善逸の体は、正一を庇うように前に立っていた。

 

善逸はそのまま体を沈め、刀に手をかける。口からは雨のような煙のような音が漏れ、空気を震わせる。

気配が一変した彼の姿に、鬼の顔が青ざめた。

 

――雷の呼吸――

壱ノ型 霹靂一閃!!

 

その刹那。善逸の姿が消えたかと思うと、金色の閃光が鬼を穿つ。そしてそのあとを追うように、雷のような音が響き渡った。

鬼の頸が宙に舞うときには、すでに彼は刀を納めていた。

その瞬間は、援護に入ろうとした汐も見ていた。

 

閃光と共に発せられた衝撃波に顔を覆う汐。それが収まり恐る恐る目を開けたそこには、刀を納めた善逸の横顔があった。

その顔は紛うことなき、鬼狩りの顔であった。

 

「ぜ、善逸・・・?」

今までとは全く違う彼の姿に、汐は思わず目を奪われる。だが、突然善逸は体を震わせ「んがっ」とおかしな声を上げた。

そして後ろを振り返ると、足元に何かが転がってくる。それが鬼の頸だと認識したとたん。

 

ギャアーーーッ!死んでるぅ!

そのまま飛び上がり、再び涙目になりながら叫びだした。

急に死んでるよ!!なんなの!?もうヤダ!!!

ぎゃあぎゃあと喚き散らす善逸と汐の視線がぶつかる。そして何を勘違いしたのか、彼は汐に飛びつきぎゅっと抱きしめた。

 

汐ちゃあああん!!ありがとおお!!!君は命の恩人だ、女神だ!!やっぱり結婚しよう!!

「寄るな触るな抱き着くなうっとおしい!!!!それにあたしは今来たばかりで鬼なんて斬ってないわよ!!」

「・・・へ?」

 

善逸を引きはがしながら汐が叫ぶと、善逸は素っ頓狂な声を上げる。それから嘘だ嘘だという善逸に、汐は先ほどの出来事を説明した。

が、何を言っても善逸は自分が鬼を倒したことを信用せず、それどこか正一が鬼を倒したと思い込み彼に縋りつく始末だ。

そのあまりの体たらくに呆れかえった二人は、考えるのをやめた。

 

「さて、疲れているところ悪いけれど先へ進みましょう。さっきの騒ぎで鬼に見つかったら大変だもの。善逸もいつまでも正一に引っ付いてないで、行くわよ」

そう言って汐は襖をあけて足を踏み入れる。その姿を見た善逸は慌てて立ち上がると、正一の手をつかんで襖を開ける。

 

だがそこに汐の姿はなかった。

 

「・・・は?」

 

目の前で怒ったことが分からず、善逸の思考が停止する。そしてみるみるうちに顔が青ざめ汗が噴き出し、涙があふれる。

「嘘だ。嘘だ嘘だ嘘だ。君まで、君まで俺を置いて行っちゃうのかよ・・・う゛・じ・お゛ぢゃ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ん゛!!!!!!

 

善逸のこれ以上ない程の汚い高音が、家中に響き渡った。

 

*   *   *   *   *

 

襖を開けた瞬間、再び聞こえてきた鼓の音によって汐は仲間と分断されてしまった。

突如一人になってしまった彼女の心に、じわじわと不安が広がる。が、この家のどこかで頑張っている彼らを思い、汐は自分の頬を打ち奮い立たせた。

 

鬼の襲撃を警戒し、刀を抜き放ちながら前に進む。すると少し先に何かが落ちているのを見つけ、何かと思い近づくと。それは

食い散らかされた人間の死体だった。

 

(ここにも、か)

汐は妙に冷静に、その横たわった人を見た。もう何度も見てきた、人間だったもの。すでに命が終わった人間の抜け殻。

理不尽に奪われてしまった命を目の前にして、彼女はやるせない気持ちになる。彼らの無念を果たすためにも、鬼を何とかしなければならない。

 

その時、近くで鼓を打ち鳴らす音がした。が、自分のいる位置は変わっていないように見える。おそらくだが、部屋の構図が変わる仕組みなのかもしれない。

それに、鬼の気配はしないようだ。

 

汐は気配を殺しながら足を進める。音はどんどん近くなり、ついにその主がいる部屋へとたどり着いた。

 

汐は意を決して襖を開ける。すると、そこにいたのは―――



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



その屋敷の鬼は、焦っていた。自分の縄張りを侵されたから、だけではない。やっと見つけた獲物を横取りされそうになった挙句逃げられたからだ。
おまけに鬼狩りが数人入り込んでいる。これ以上ない程、【彼】は焦っていた。

ただでさえ人を食らえず、【あの方】から数字をはく奪され捨てられてしまった彼。血の力で以前よりも格段に強くなり、十二鬼月として認められた。
そしてこれからも人を食らい、強くなれると信じていた。

――そう、信じていた・・・

だからこそ、彼は捜していた。珍しい血の持ち主、【稀血】の人間を。
それを食らい、また十二鬼月に戻るために・・・

自分を、認めてもらうために・・・


襖の向こうにいたのは、柿色の着物を着た一人の少年だった。その手にはわずかに血の付いた鼓を持っている。

汐と彼の視線がぶつかると、その表情は一瞬で怯えたものとなり鼓に手を伸ばす。

その刹那汐は思い出した。あの二人に聞いた着物の色が目の前の少年と一致することに。

 

「正一、てる子!!」

汐はとっさに二人の名を叫んだ。すると少年はびくりと体を震わせ鼓を叩こうとした手を止め汐を驚いた眼で見つめた。

 

「ど、どうして弟と妹の名前を・・・?」

 

その言葉に汐は心底ほっとして息をついた。先ほど見た死体を思い出し、彼が生きていることに心底安心した。

それから怖がらせないようにゆっくり近づく。

 

「あたしは大海原汐。あんたの弟と妹に頼まれてあんたを助けに来たのよ。鬼――、化け物にさらわれたって聞いてね」

化け物という言葉に少年の顔が青ざめる。それをみた汐は慌てて訂正した。

 

「大丈夫。近くに化け物はいないわ。信じられないかもしれないけれど、あたしは化け物の気配を感じることができるのよ」

汐は少年のそばに近づくと彼の視線に合わせて腰を下ろした。にっこりとほほ笑んで見せると、彼の表情が少しずつ和らいでいく。

 

「あんたの名前、教えてもらってもいい?」

汐が訪ねると少年は小さな声で「清」と名乗った。

 

「清ね。本当に無事でよかった。一人でこんなところに閉じ込められて怖かったでしょう?でももう大丈夫。あたしのほかにも仲間が来ているから、必ず化け物をやっつけて外へ出してあげるからね」

汐の力強い言葉が清の耳から心へ染みこんでいく。その瞬間、彼の両目から涙があふれ出しそのまま汐に縋りついた。

激しく上下する清の背中を優しくさする。それと同時に早く正一とてる子に会わせてあげたいという気持ちが膨れ上がった。

やがて少し時間がたち清が落ち着いてきた頃、汐はそっと彼に尋ねた。

 

「そういえば清。あんたがさっき叩こうとしたその鼓は?」

汐がそばにある鼓を指さすと、清は目を伏せながら徐に話し始めた。

 

「これは、ば、化け物が持っていた鼓なんだ。これを叩くと部屋が変わるから・・・逃げてこれたんだ」

「化け物・・・。つまりこれは鬼の血気術でできた鼓ね。それを奪うなんて、あんたなかなか肝が据わってるじゃない」

汐が笑いながら褒めたその時。清がわずかに顔をしかめた。汐が視線を移動させると、彼の足には血が付いている。

 

汐はここに来る前に正一が血の跡をたどってきたと言っていたことを思い出し、すぐさま傷の手当てを始めた。

 

傷は深くはないものの小さくはない。残念ながら痛み止めの薬は持ち合わせていなかったため、まずは止血を試みる。

その時、汐の背後で微かに物音が聞こえた。

 

清は小さく悲鳴を上げ身を固くする。

 

「大丈夫。あたしの後ろに隠れてて」

汐は刀に手をかけながら、清を庇うように立った。

 

だが、鬼の気配はしない。となれば、もしかしたら・・・

 

「この匂いは・・・、汐の匂いだ!!」

 

汐の耳に聞きなれた声が届いた。それを聞いた彼女はすぐさま刀を下ろし安心させるように清に言う。

 

「大丈夫よ!あの声は、あたしの仲間の――」

 

汐が言い終わる前に襖の扉が開かれる。そこに現れた見知った顔に、汐は思わず声を張り上げた。

 

「炭治郎!!」

「汐!!無事だったか!!」

 

二人はそのまま駆け寄り再会を喜ぶ。そして炭治郎と一緒にいたてる子は、兄の清の姿を見つけると泣きながら飛びついた。

 

「清、紹介するわ。この人はあたしの仲間で兄弟子の・・・」

「竈門炭治郎だ。彼女と一緒に悪い鬼を退治しに来た」

炭治郎は安心させるように言うと、清に傷の具合を見せるように言った。

 

鱗滝からもらった薬を刷り込み、汐が持っていた包帯を丁寧に巻いていく。手当てが終わった後、炭治郎と汐は清に何があったのか尋ねた。

 

清の話を要約すると、鬼に連れ去られた後食われそうになったところを他の鬼が現れ、彼を狙って殺し合いを始めた。

その際に身体から鼓の生えた鬼がほかの鬼にやられた際に鼓を落とし、清がそれを拾って叩いたら部屋が変わったという。

 

その鬼に炭治郎は心当たりがあった。この屋敷の主で、清をさらった張本人だ。

 

「そういえば、あの鬼は【稀血】。そんなことを言っていたな」

 

炭治郎の言葉に清が反応する。彼もその鬼が自分のことをずっとそう呼んでいたことが気になっていたのだ。

すると

 

「カァーァ!!稀血トハ、珍シキ血ノ持チ主デアル!!」

 

何処からか現れた炭治郎の鎹鴉、天王寺松右衛門が声を上げる。いきなりの事に兄妹は勿論汐も小さく悲鳴を上げた。

 

「あ、あんた、どっから湧いて出たのよ」

「失礼ナ小娘!私ヲ虫扱イスルナ。ガキドモハツツキマワスゾ!!」

「よさないか」

 

汐と子供たちに絡みだす彼を炭治郎は静かに諫める。そして珍しき血とは何かと尋ねると、松右衛門は得意げに胸部の羽を震わせながら答えた。

 

「生キ物ノ血ニハ種類系統ガアルノダ馬鹿メ。稀血ノ中デモ、サラニ数少ナイモノ、珍シキ血デアレバアル程鬼ニはソノ稀血一人デ五十人、百人人をヲ喰ッタト同ジクライノ栄養ガアル!!稀血ハ鬼ノ大好物ダ!御馳走ダ!!」

 

彼の説明に清とてる子は抱き合って震え上がる。汐と炭治郎は顔を見合わせると、小さくうなずいた。

 

「炭治郎。そいつの話が確かなら、清をさらった奴はまた必ず狙ってくるわね」

「ああ。だが、この家にはまだ複数の鬼の匂いがする。もしも清が稀血であることを悟られたら、清だけじゃなくてる子も危ない」

 

炭治郎と汐がそう言ったとたん。

汐と炭治郎は、同時に感じた。強力な鬼の気配を――。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

七章:歪な音色(後編)


鬼の気配と匂いは、どんどん近づきつつある。汐と炭治郎は険しい表情のまま襖の向こうを見据えた。

このままでは清とてる子が危ない。炭治郎は意を決して汐に向き合うと、口を開いた。

 

「俺はこの部屋を出てあいつと戦う。汐はここに残って二人を守ってくれないか?」

「はあ!?」

炭治郎の申し出に、汐は声を荒げて炭治郎を睨みつけた。

 

「バカ言ってんじゃないわよ。あんた骨を折ってるのよ?あたしが行って鬼を斬ってくる」

「だめだ。汐だって怪我をしているし、それにあいつは少し複雑な血鬼術を使うんだ。俺は一度あいつの術を見ているから、対処はできる」

「何よそれ。あたしが信用ならないってこと?それとも怪我をしてるあたしは足手まといだっていうの?」

「違う、そういうことじゃない」

 

炭治郎の言葉に、汐は一歩も引かない。二人の間に段々と険悪な空気が生まれだし、子供たちははらはらとその成り行きを見守る。

 

「聞いてくれ、汐。これはお前にしか頼めないことなんだ」

 

炭治郎は汐の両肩に手を置いて言った。真剣な眼が汐の青い眼を静かに映す。

 

「お前が強いのは俺が誰よりも知っている。だからこそ、二人を守ってほしいんだ。今それを頼むことができるのは汐だけだ。頼む」

 

汐の肩に乗せられた手に力がこもり、炭治郎の真剣さと汐への信頼が見て取れる。そんな彼の姿に、汐は小さくため息をついた。

 

「・・・そんな頼み方は狡い。そうまで言われちゃ、頷くしかないじゃない」

炭治郎の手に自分の手を重ねながら、汐は小さく呟く。そして決意を込めて彼を見据えた。

 

「わかった、あんたを信じる。二人は必ずあたしが守って見せるから安心して」

「ありがとう、汐」

「その代わり、必ず生きて戻ってきて。戻ってこなかったら子供たちを連れて・・・なんてのは絶対なし。死ぬんじゃないわよ。死んだらぶっ殺すから!」

「いや、その理屈はおかしいだろ!?」

「とにかく、必ず戻ってきなさいってことよ」

 

そう言って汐は炭治郎に背中を向ける。そんな彼女からは信頼と微かだが不安の匂いがした。

炭治郎は一度眼を閉じたあと、座り込んでいる清とてる子に目線を合わせて座った。

それからてる子の頭に、そっと自分の手を当てる。

 

「落ち着いてよく聞くんだ。てる子。清兄ちゃんは今本当に疲れているから、てる子が助けてやるんだぞ」

それから自分の人差し指を口元に当てながら、教え聞かせるように言った。

 

「俺が部屋を出たら、すぐに鼓を打って移動しろ。もしもその先に鬼がいても、このお姉さんが二人を必ず守ってくれるから、言うことをきちんと聞くんだ。そして鬼を倒したら必ず迎えに来る。清たちの匂いをたどって。戸を開けるときは名前を呼ぶから。もう少しだけ頑張るんだ。できるな?」

炭治郎の優しく諭す声に二人の顔が真剣なものになり、しっかりとうなずく。二人を見た炭治郎は「えらい!」と褒め、そんな彼を見て、汐の胸が小さく音を立てた。

 

「それじゃ行ってくる。汐、任せた」

「任されたわ」

 

二人の視線が交わると同時に、遠くから床のきしむ音が聞こえてくる。そして襖の陰から、鬼が姿を現した。

 

「叩け!!」

 

炭治郎が飛び出すと同時に、清が鼓を打ち鳴らす。音と共に、炭治郎と鬼の姿は何処へと消えていった。

 

(頼んだわよ炭治郎。必ず、必ず生きて戻ってきて・・・!)

 

彼の姿が消えた後、汐は振り返って二人の前に座る。そしていまだ不安が残る彼らを落ち着かせようと話をすることにした。

 

「大丈夫よ。あの鬼は炭治郎が何とかしてるし、正一だって善逸が守ってくれる。あ、善逸はあたしの仲間の一人で、二人ともとっても強いんだから!!」

 

しかしそうはいっても炭治郎はともかく、善逸の醜態を見ていたてる子は、不安でいっぱいな眼を汐に向ける。このままでは二人の心がまた不安で曇ってしまうことを恐れた汐は、咳ばらいを一つすると立ち上がった。

 

「お姉ちゃん・・・?」

 

てる子が不安げに見上げると、汐は息を深く吸い口を開いた。

 

汐の口から、透き通るような美しく、優しい歌声がこぼれだす。それは音が響かないはずの部屋に響き渡り、清とてる子の心を瞬く間にとらえた。

二人とも口を開けたまま、歌を披露する汐にくぎ付けになる。心の中にあった恐怖が、歌が進むごとにみるみる溶けて消えていった。

 

やがて歌が終わると、二人は自然と彼女に拍手を送っていた。その顔には笑顔が浮かび、先ほどの不安はみじんもなかった。

 

「すごいすごーい!お姉ちゃん、お歌がとっても上手なんだね!」

 

てる子が汐の腰に飛びつき、清も手を叩きながら絶賛する。その子供らしい仕草に汐の顔も自然と緩み、二人の頭をなでる。

 

「あたしの友達もこの歌が大好きなの。だから二人に気に入ってもらえてよかった」

 

それから汐は、二人にいろいろな話を話せる範囲で聞かせた。自分の故郷の海の事、ワダツミヒメの物語の事、炭治郎に出会ったこと、知らない町で食べたもののことなどを、鬼のことは極力伏せて。

二人は汐の話にじっと耳を傾けた。特に、二人は海を見たことがなかったらしく、海の話にはたいそう興味を持ったようだ。

 

「ええ!?魚とエビが一緒に暮らしているんですか!?」

「そうよ。エビが巣穴を作って魚が敵が来たことを知らせる役割をするの。見た目も種類も全然違うのに、こうやって一緒に生活している生き物もいるのよ」

 

汐は自分が今まで培ってきた知識を押し目もなく披露する。二人はすっかり汐の話に夢中になり、ここが鬼の住処であることを忘れそうになっていた。

 

「ふう、ちょっと話過ぎたみたいね。休憩休憩。少し水を飲ませてもらうわね。あんたたちもどう?」

 

そう言って汐は、腰に下げていた水筒を取り出し二人に渡す。少しぬるくなってしまっているが、飲めないわけでもない。

水は三人の乾いた喉を潤していく。そんな中、ふと清が水を飲んでいる汐に向かってこんなことを言った。

 

「あの。さっきの人・・・炭治郎さんは汐さんの想い人なんですか?」

「ブフォオッ!!!」

 

清の思わぬ言葉に、汐は水を盛大に噴き出しせき込んだ。床に転がりのたうち回る彼女に、二人は驚き慌てて駆け寄る。

ゼイゼイと息を乱す汐の背中を、二人は必死にさすった。

 

「い、い、いきなり、な、なんてことを言うのあんたは!!危うく死ぬところだったじゃない!!」

顔を真っ赤にしながらせき込む汐に、清は青い顔をして必死に謝った。

 

「あ、あいつとは、炭治郎とはそんな仲じゃないわよ!あいつとはただの兄妹弟子!仲間、友達!!そういうんじゃないのよ!!!」

顔を赤くし、目を剥いてムキになる汐に、二人の目が点になる。そんな彼らを見て汐ははっと我に返ると、赤くなった顔を顔を隠すように背を向けた。

 

(全く最近の子供は随分ませてるわね。炭治郎があたしの、その、お、想い人、だ、なんて・・・。ありえない、ありえないわよ・・・)

 

心臓が早鐘の様に打ちなさられ、顔はいまだに熱を持っている。胸の奥から湧き上がってくる感情を何度か押さえつけようとしたその瞬間。

 

何処からか、まとわりつくような気配を感じた。

 

「清!てる子!!」

 

汐は慌てて二人に駆け寄ると、二人を庇うように立った。

近くに鬼がいる。汐の様子からそれを感じ取った二人の表情が瞬時に固まった。

 

汐はあたりを見回すと、彼らの背後に押し入れらしきものがあるのを発見した。そして二人の耳に口を近づけ静かに告げた。

 

「落ち着いて。後ろに押し入れがあるでしょう?すぐにそこに隠れて。決して開けちゃ駄目よ」

 

汐がそう告げると、二人はすぐさま押し入れの中に隠れる。それを横目で確認した汐は立ち上がり、刀を抜き放った。刀身が鮮やかな翠玉色へと変化する。

その刀の感触を確かめるように、汐は左手で回すように刀を振った。

 

「悪いわね二人とも。ここから先は、15歳以下は閲覧禁止の時間よ」

 

そう言った瞬間、部屋の向こうに鬼が現れた。それも一匹ではなく何匹かいる。

それを見た汐の口元が、ゆるく弧を描いた。

 

「まったく、この家の構造はどうなってんだか。欠陥住宅にもほどがあるわよ此畜生!!!」

 

汐の咆哮と同時に、鬼が一斉に部屋になだれ込む。そして呼吸の低い音と共に、部屋に真紅と翡翠色が舞った。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



斬撃の音と鬼の断末魔が部屋中に響く中、押し入れに隠れた二人は、震えながらも汐の言いつけを守りじっとしていた。
だが、ふとわずかな光を感じた清が顔を上げると、押し入れの戸が少し開いていた。その隙間からは鬼と戦う汐の姿が見えた。

血の雨を体中に浴び、色が変わる刀を振るう彼女は、まるで舞姫の如き動きで鬼を滅していく。それはとても恐ろしく、そしてとても美しかった。
そんな相反する不思議な光景から、清たちは目を離せないでいたのだった。


最初に入ってきた鬼が汐に向かって爪を振り下ろす。だが、汐はそれを紙一重でかわすとすぐさま頸を落とし、後ろから襲い掛かってきた鬼はすぐさま振り返って瞬時に頸を落とした。

稀血である清の血の匂いに当てられてか、鬼は尽きることなく部屋になだれ込んでくる。技を使い、時には体術を使い鬼を葬る汐。しかし鬼の数は彼女が思っていたよりもずっと多い上に右肩の傷が疼くのか、段々と動きが鈍くなって来ていた。

 

(ちょっとちょっと、どれだけの数が入り込んでいるのよこの家は!流石にきつくなってきたわ・・・!)

 

だが、ここで汐が倒れてしまえば清たちが鬼の餌食になってしまう。それだけは絶対に避けねばならない。何よりも、炭治郎との約束を違えるわけにはいかない。

疲労と痛みに耐えながら、汐は前を見据える。目を血走らせ、口からよだれを垂れ流す鬼たちを見て汐の体の奥から沸々と怒りが沸き上がってくる。

 

「その汚い眼をこっちに向けてんじゃねーわよッ!!」

 

汐が怒りに任せて叫んだ瞬間、鬼たちの動きが止まる。ギリギリと四肢を震わせながら、自分たちが動けないことに戸惑っているようだ。

これには汐も驚いたが、なぜか生まれた絶好の好機(チャンス)を逃す術はない。

汐はすぐさま飛び掛かり、刀を振るおうとしたその時だった。

 

「猪突猛進!猪突猛進!!猪突猛進!!!」

 

突如右側の襖が吹き飛び、何かが弾丸の様に突っ込んできて汐が斬ろうとした鬼を吹き飛ばした。埃と畳の繊維が舞い上がり、汐の視界を遮る。

せき込みながらも目を凝らしてみると、そこにいた鬼とは別の存在に汐は目を見張った。

 

「あ、あんたは・・・!」

 

そこにいたのは、先ほど善逸と一緒にいたときに見た頭に猪の皮をかぶった上半身裸の男だった。手にはギザギザに刃こぼれを起こした日輪刀を二本持っている。

下半身は長袴を履いているが、よく見るとそれは汐が履いている隊服と同じものであった。

つまり、彼も鬼殺隊の一人だった。

 

「こんなところにいやがったか鬼共!!屍を晒して俺がより強くなるためより高くいくための踏み台となれェ!!」

 

猪男はそう叫ぶと、笑いながら鬼の群れへ突っ込んでいく。その瞬間、鬼たちの体に動きが戻る。が、猪男の攻撃のほうが早かった。

 

――我流獣の呼吸――

参ノ牙・喰い裂き!!

男の日本の刀が鬼の頸を一瞬で吹き飛ばす。それから背後から襲い掛かってきた鬼も、その荒々しい見た目とは裏腹に柔軟な動きで身をかわす。

その独創的な戦い方に、汐は一瞬目を奪われた。

被り物をかぶっているため本来の眼は汐には見えないが、それでも彼女は確信していた。

 

この男は強い。

 

そんな中、柱の陰に隠れていた蛇の様に細い鬼が、猪男にかみつこうとしていた。彼はすぐさま反応し、迎撃にかかる――。

だが、その足元にも小型の鬼が一匹男の足に食らいつこうとしていた。

 

「危ない!!」

 

汐はすぐさま飛び出し、滑り込むようにして間合いに入り鬼を蹴り上げる。そして飛び上がった鬼の頸をつかむと、その刃を振るった。

それと同時に猪男も蛇のような鬼を葬ったのであった。

 

その鬼たちで最後だったのか、部屋は元の静けさを取り戻す。汐は緊張の糸が切れたのか、その場に座り込んだ。

 

「ふぅ、何とか片付いたみたいね。あんたのお陰で助かったわ。あり――」

 

汐が礼を言おうと顔を向けたその瞬間。猪男が刀を振り上げ、汐に斬りかかってきた。

汐はすぐさま刀を上げてその一撃を受け止める。そして無理やり押し返すと立ち上がって距離をとった。

 

「あ、あんた!いきなり何するのよ!!あたしは鬼じゃない、人間よ!!」

 

だが猪男は聞こえていないのか、汐に再び刃を振り下ろす。ギリギリと鎬の削れる音が響く中、男の口からうれしそうな声が上がった。

 

「アハハハハ!いいねいいね。強者の気配だ!あんな雑魚共なんかよりずっと楽しめそうだぜ!!」

「あんたは鬼殺隊員でしょ!?隊員同士でやりあうのはご法度なのよ!」

 

汐が必死に声を上げるも、興奮している猪男にはまるで効果がない。ただひたすら汐に向かって刀を向け続けている。

刀を受け止めていると、右肩の傷が開いたのか激しく疼いた。

せっかく鬼を倒して一息つけると思った汐は、それを邪魔されたことと理不尽に向けられる刃に堪忍袋の緒が切れた。

 

「いい加減にしろこの馬鹿猪!!」

 

汐の怒号が猪男の耳に入った瞬間。男の動きが止まる。先ほどの鬼と同じように、彼も何故動けないかわからないようだった。

 

「な、なんだ、こりゃ・・・!体が、動かねえ!?」

 

驚愕している猪男の腹部に、汐は蹴りを叩き込む。が、怒りのあまり足元が狂い、腹よりも下の部分にその足を叩き込んでしまった。

気づいたときにはもう遅く、猪男はカエルがつぶれたようなうめき声をあげながら廊下へ吹き飛んだ。

 

「清!叩いて!!」

 

悶絶している男が起き上がる前に、汐は押し入れに隠れていた清に指示を出す。すると、少し遅れて鼓の音が聞こえ猪男の姿は消えた。

再びあたりに静寂が訪れる。今度こそ脅威が完全に去ったのを確認すると、汐は大きく息を吐きながら座り込んだ。

 

鬼の群れと戦い、体は鬼の血で汚れ、そしておかしな男に刃を向けられた汐はだいぶ疲れていた。このままここで眠ってしまいたい。そんなことを考えるほどに。

 

(そういえば、さっきあの変な奴の変なところ蹴っちゃったけど・・・大丈夫よね?)

 

昔いたずらをした村の子供が同じ部分を強打し悶絶していたことを思い出し、汐は少しだけ不安な気持ちになった。しかし理不尽な理由で命を狙われたことに比べれば、きっとかわいいものだろう。

そんなことを考えていると、清とてる子が押し入れから飛び出してきた。

 

「汐さん!大丈夫ですか!?」

 

清が真っ先に汐に駆け寄る。が、汐は自分が鬼の血で汚れていることを考慮し、少し彼から距離をとった。

 

「ああ駄目よ。今のあたしは汚いからあんた達まで汚れちゃうわ。ほら、てる子も怖がっているし」

 

てる子の眼を見て、汐はそう言った。その声が心なしか悲しみを孕んでいることに、二人は気づくことができなかった。

その時。清の持っていた鼓が突然、灰の様になって消えてしまった。驚く二人に、汐は炭治郎が鬼を倒したことに気づきそれを伝えた。

 

(やったのね、炭治郎)

 

安心したのと疲労がたたってか、汐の意識が霞んでいく。目の前が真っ暗になる寸前、誰かが汐の名を読んだ気がした。

 

 

 

*   *   *   *   *

 

 

潮の匂いのする風が吹き、砂浜に生えている草花を揺らす。その遠くに小さな岩があり、そこには小さな黒い影が一つあった。

それが人なのか、それ以外の何かなのか、ここからではわからない。

するとその影に寄り添うように、二つの影が岩に近づいた。それは人のようであり、岩を見上げているようだった。

岩の上の影が動き、二つの影の方を向く。その影は、目を奪われるような青い色をしていた。

 

 

 

*   *   *   *   *

 

 

 

 

「――!――お!しっかりしろ、汐!!」

 

耳元で声を上げられ激しく揺さぶられ、汐ははっと目を覚ました。目の前には自分を心配そうに見つめている炭治郎の顔があった。

 

「よかった。気が付いたんだな」

 

炭治郎の不安げな眼が安心したものに変わる。周りを見回すと、清とてる子も心配そうに汐を見ていた。

 

「あ、あれ?炭治郎?どうしてここに?」

「どうしてって、鬼を倒した後迎えに来るって言っただろ?驚いたよ。部屋に入った瞬間、お前が動かなくなったって清たちが泣きながら言うものだから」

 

炭治郎はそう言って心の底から安心したように言った。

どうやらあの後、汐は少しの間気を失っていたようだった。その間、夢を見たような気がするが思い出せない。

 

「あんたこそ無事だったのね、よかった。あんたの言いつけ通り、二人は無事に守りきったわよ」

汐の声は疲れているせいか、いつもより声に覇気がない。そんな彼女の右腕に、炭治郎の視線が向けられる。すると彼の顔色が瞬時に変わり声を荒げた。

 

「汐、右腕から血が出てる!肩の傷が開いたんじゃないか!すぐに見せて!!」

 

そう叫んで炭治郎は汐の服に手をかける。それに気づいた汐は我に返ると、顔が瞬時に真っ赤になり、

 

「ぎゃあああああ!!!!」

 

ものすごい悲鳴を上げ、炭治郎の顔面に渾身の力を込めた平手打ちを叩き込んだ。小さくうめき声をあげて吹き飛ぶ炭治郎に、清とてる子は目を点にした。

 

「いきなり何すんのよこの馬鹿!!子供が見ている前で何晒してんのよ馬鹿!!!」

「何って・・・けがの手当てをしようとしてただけじゃないか」

「それぐらい自分でできるわよ!!いいからさっさと薬をよこしなさい!!」

 

汐は炭治郎から薬をひったくると、すぐさま隣の部屋に転がり込んだ。いきなり豹変した汐に、炭治郎は頬に手形を残したまま呆然と立ち尽くしていた。

 

汐の手当てが終わった後、炭治郎が清を背負い、汐がてる子を連れていくことになった。汐は血にまみれた自分ではてる子が怖がると思い少し戸惑ったが、彼女の手をてる子が自ら握ったため杞憂に終わった。

鬼の血鬼術が解除されたのか、間取りは普通に戻っていた。もう部屋が変わることも動くこともない。階段を降りて玄関に向かう途中、炭治郎の鼻が反応した。

 

「血の匂いだ」

「え!?まさかまた犠牲者が・・・!?」

二人の顔に瞬時に緊張が走り、足を速める。階段を駆け下りるとそこには吹き飛び破壊された玄関があった。

そしてその奥には――

 

――血に塗れながらも箱を抱えて蹲る善逸と、そんな彼に刀を向け罵倒する猪男の姿があった。




そう言えば鬼滅の鬼って日輪刀で斬れば体は灰になるけど、血はどうなるんだろう。進撃みたいに蒸発するのだろうか。
この作品では血は日光に当てないと蒸発しないという設定になっております。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



「あ、あいつ・・・!生きてたのね」

猪男の姿を見て汐は驚いた顔をする。炭治郎が来る前にひと悶着あり、故意ではないとはいえおかしなところを蹴り飛ばしてしまったため、汐は少し心配していた。

しかし、目の前の光景が目に入ると、その心配は木っ端みじんに吹き飛んだ。

 

「刀を抜いて戦え!この弱味噌が!!」

猪男は刀を善逸に向けたまま大声でまくし立てる。だが、傷ついた善逸は何かを抱えたまま微動だにしない。

よく見ると、彼が抱えているのは禰豆子が入っている箱だった。

 

「炭治郎・・・、俺、守ったよ・・・」

善逸の口から弱ってかすれた声が漏れる。上げたその顔は腫れあがり、目には青あざまでできている。

 

「お前がこれ・・・命より大事なものだって・・・言ってたから・・・」

 

善逸が紡いだその言葉は、屋敷内で炭治郎が言っていた言葉だった。彼は覚えていたのだ。その言葉を。

 

「刀も抜かねえこの愚図が!同じ鬼殺隊なら戦って見せろ!」

 

猪男はそう叫んで善逸を何度も何度も蹴りつける。その度に善逸は苦しげに呻き、真紅の雫が飛び散る。だが、それでも善逸は箱を決して放そうとはしなかった。

 

「もういい。お前毎箱を串刺しにしてやる!!」

 

猪男は刀を逆手に持つと、その切っ先を善逸の背中に向ける。そして今にも突き刺そうとした、その瞬間。

 

「止めろ!!!」

 

炭治郎が瞬時に飛び出し、右拳を猪男の鳩尾に叩き込んだ。凄まじい打撃音がして彼の体は後方に吹き飛ぶ。

善逸の耳にはその瞬間、猪男の骨が折れる音が聞こえた。

 

(骨、折ったァ!)

 

流石の善逸も、これには驚きあきれる。そんな彼の元に汐は駆け付け、傷の具合を見た。

 

鼻からは血がとめどなく溢れ、口も切れている。汐は直ぐに水で布を濡らすと応急処置を開始する。

「汐ちゃん、君も無事だったんだ。よかった」

「人の事より自分の心配をしなさい。まったくどいつもこいつも、どれだけ周りを心配させれば気が済むのよ」

 

善逸の言葉を一掃し、汐は淡々と手当てを進める。時々善逸が痛みで声を上げるが、それを完全に無視しながら彼女は手当てを続けた。

 

一方。猪男を吹き飛ばした炭治郎は、倒れ伏している彼に向かって言い放った。

 

「何故善逸が刀を抜かないか分からないのか!?隊員同士で徒に刀を抜くのはご法度だからだ。それをお前は一方的に痛めつけていて、楽しいのか!?卑劣、極まりない!!」

 

怒りのあまり炭治郎の拳が震え、ギリギリと音が鳴る。その迫力に、汐は思わず息をのんだ。

これほどの怒りを露にする彼を見たのは、久しぶりだったからだ。

 

倒れ伏した猪男は二三度せきこむと、突如かすれた声で笑い出した。その様子に炭治郎は勿論、汐と善逸も怪訝そうな顔をする。

猪男はひとしきり笑うと、倒れたまま顔だけを炭治郎に向けて言った。

 

「そういうことかい、悪かったな。じゃあ――素手でやりあおう!!」

「いや、まったくわかってない感じがする!まず隊員同士でやりあうのが駄目なんだ!素手だからいいとかじゃない!!」

 

炭治郎の言葉もむなしく、猪男はがばりと起き上がると炭治郎に一直線に向かっていった。

猪男の動きはすさまじく、今しがた炭治郎に骨を折られたとは思えなかった。

先程汐が見た時と同じ、柔軟かつ予測不能な動きで炭治郎を圧倒していく。はじめは反撃するつもりがなかった炭治郎も、命の危機を感じたのか猪男に蹴りを入れた。

 

が、男はそれを背をそらしてかわすと、炭治郎の顔面に一撃を入れる。その隙を見逃さず、猪男の更なる追撃が彼を襲った。

 

「あれ、炭治郎もご法度に触れるんじゃないか?骨折ってるし」

「いや、正当防衛ってことでいいんじゃない?よく知らないけど」

 

完全に蚊帳の外になっている二人は、ただその戦いを見守ることしかできなかった。

 

「でもあの猪頭、本当によく動けるわねー。あたし、さっき思いっきりタマ蹴っちゃったのに」

「・・・え゛!?」

ぼそりと呟いた汐の恐ろしいつぶやきは、聴覚に優れている善逸の耳に確実に届いた。どういうことなんだという視線を向けると、汐は淡々と「襲われたから蹴ったら変なところに当たった」とだけ答えた。

その言葉に善逸は戦慄し、無意識にその部分を抑えた。そして先ほど痛めつけられたとはいえ、下手をしたら男として再起不能になる攻撃を食らった猪男に、かすかながら同情するのであった。

 

そんな会話をしていることなど露知らず、炭治郎は猪男の低すぎる攻撃に苦戦していた。どの一撃も炭治郎の臍より下の位置ばかりを重点的に狙ってくるのだ。

汐との度重なる組手の訓練で、炭治郎自身も対人格闘に心得がある。しかし、目の前の相手の戦い方は人のものではない。

まるで、獣と戦っているようだった。

 

(低くねらえ。相手よりも、さらに低く!!)

 

炭治郎の蹴りが猪男の頭に向かう。が、男は地面を這うようにしてそれをかわすと、その姿勢のまま炭治郎の後頭部を踏みつけた。

その人並外れた間接の柔らかさに、炭治郎は驚愕する。

猪男は炭治郎から離れると、自分がいかにすごいか大声でまくし立てた。

そしてそのまま立ったまま背をそらし、そのまま胸部を地面につけた。

 

「うわあ~、あの格好であれをやられると結構気持ち悪いな」

「俺の時も思ったけれど、汐ちゃんって結構手厳しいよね」

「あたしは基本的に馬鹿には容赦しないから」

 

冷静な善逸の突っ込みを、汐はさらに冷たくあしらった。

 

「止めろそういうことするの!骨を痛めている時はやめておけ。悪化するぞ!?」

「いや、気にするところそこじゃないし、そもそも骨折ったの炭治郎だし」

「っていうか何これ。なんであたしたちいちいち突っ込んでるの?」

 

炭治郎の言葉に猪男は臆することもなく、再び炭治郎へと向かってくる。

 

「今この刹那の愉悦に勝るものなし!!」

「将来のこともちゃんと考えろ!!」

このままじゃ埒が明かないと感じた炭治郎は、相手の攻撃を受け流した後その肩を両手でつかんだ。

 

「ちょっと、落ち着けェ!!」

 

そしてそのまま渾身の力を込めた頭突きを、猪男の頭にお見舞いした。

 

それを見た善逸は悲鳴を上げ、汐は「終わったわね、あいつ」と呟き冷めた目で見た。

 

猪男はうめき声をあげて数歩後ずさる。すると、かぶっていた猪の皮がずるりと滑りそのまま地面に落ちた。

その晒された素顔に、全員の視線が集まる。その刹那。

 

「え!?女!?か、顔・・・!?」

 

善逸が髪の毛を逆立てて大声で叫び、汐は呆然とその顔を見ている。

無理もない。猪の皮の下には、少女と見間違うような整った顔があったからだ。

しかも、自分たちとそう年が変わらない少年のように見える。

 

「なんだァ?こら。俺の顔に文句でもあるのか?」

少年はそう言って全員をぐるりと見まわす。頭突きをされたせいか額からは血が流れ出ているものの、それよりも皆は彼の顔にくぎ付けになりあまり気にならなかったようだ。

 

「気持ち悪い奴だな。むきむきしてるのに女の子みたいな顔が乗っかってる」

「あたしよりも顔立ち整ってるじゃない。なんだか複雑」

 

善逸と汐がそういうと、少年はじろりと二人を睨む。善逸は小さく悲鳴を上げると、あろうことかてる子の後ろに隠れた。すっかり呆れ切った汐は、汚物でも見るようなめで善逸を見、清たちもあきれた様子で彼を見ていた。

 

「君の顔に文句はない!こじんまりしていて色白で、いいんじゃないかと思う!!」

「殺すぞてめぇ!かかって来い!!」

炭治郎の言葉が気に障ったのか、少年は激昂し炭治郎に詰め寄った。

 

「だめだ。もうかかっていかない!」

「もう一発頭突いてみろ!」

「もうしない!君はちょっと座れ。大丈夫か!?」

 

まるで漫才のような二人の雰囲気に汐達が呆れ始めたころ、少年は炭治郎を見据え自信に満ち似た声で言った。

 

「おいでこっぱち。俺の名を教えてやる。嘴平伊之助だ。覚えておけ!」

「どういう字を書くんだ?」

「字!?俺は読み書きができねえんだよ!名前はふんどしに書いてあるけどな――」

 

そこまで言いかけた伊之助の動きが止まる。皆が怪訝そうな顔で見ていると、突如彼の眼玉がぐるりと動きそのままあおむけに倒れてしまった。

そしてそのまま白目をむき、口からはごぼごぼと泡を噴き出す。

 

「うわっ!倒れた!死んだ?死んだ?」

「死んでない。多分脳震盪だ。俺が力いっぱい頭突きしたから・・・」

「あれは本来人間にやる技じゃないからねぇ。この程度で済んで、こいつも運がいいのか悪いのか・・・」

 

倒れている伊之助を、汐と炭治郎は冷静に分析する。そんな二人を見て善逸は先ほどとは別の意味で怯えて震えていた。

 

「で、どうするのこいつ。ふん縛って木にでも吊るしておく?」

「脳震盪を起こしているんだから、むやみやたらに動かしちゃだめだ。とりあえず手当てをしよう。みんな手伝ってくれ」

 

炭治郎の言葉に、汐はやれやれと言った様子でため息をつき、善逸も怯えながらも炭治郎の指示に従った。

気絶してしまった伊之助の頭に汐と炭治郎の羽織で枕を作り、善逸の羽織で掛布団を作りそのまま寝かせる。

それから子供たちに協力を要請し、犠牲となってしまった者たちの埋葬を開始した。

子供達には酷な話だが、何分人手が足りないからだ。

 

風がゆったりと吹き、空に浮かぶ雲をゆっくり流していく。

それからしばらくたった後、眠っていた伊之助の目がゆっくりと開いた。それから二度瞬きをした後、突如奇声を上げてばね仕掛けの様に飛び上がった。

 

「勝負勝負ぅ!!」

「寝起きでこれだよ!一番苦手これ!!」

伊之助は叫びながら、たまたま近くにいた善逸を追い回す。だが、彼は突如その足を止めた。

伊之助の目には、埋葬作業を行っている皆の姿が映っていた。

 

「何してんだお前等!?」

指をさしながら叫ぶ彼に、炭治郎が「埋葬だよ」と答えた。

 

「あの屋敷には殺された人が何人かいるの。あんたも運び出すのを手伝いなさいよ」

「生き物の死骸なんか埋めて何の意味がある?やらねえぜ。手伝わねえぜ。そんなことよりそこのでこっぱち!俺と戦え!」

 

伊之助はそういうと、その人差し指を炭治郎に向ける。彼の思いもよらない言葉に、汐と善逸は思わず固まった。

そんな伊之助を見て炭治郎は、憐みの眼を向けていった。

 

「傷が痛むからできないんだな?」

「・・・は?」

 

炭治郎の言葉に、伊之助の顔に青筋が浮かぶ。それに気づいていないのか、炭治郎はさらに畳みかけた。

 

「いやいいんだ。痛みを我慢できる度合いは人それぞれだ。亡くなってる人を屋敷の外まで運んで土を掘って埋葬するのは本当に大変だし、汐と善逸とこの子たちで頑張るから大丈夫だよ」

 

そういう炭治郎の声色はいたって真剣だ。真剣に伊之助を気遣って発言している。しかし彼が手伝わないのは傷が痛むからではないということが、炭治郎は根本的にわかっていないのだ。

その論点からずれた発言に、炭治郎以外の者は思わず口を閉ざした。

 

「伊之助は休んでいるといい。無理言ってすまなかったな」

 

炭治郎のこの言葉がとどめになったのか、言い終わった瞬間。伊之助は「なめるんじゃねえぞ!!」と怒りを露にした。

 

「百人でも二百人でも埋めてやるよ!俺が誰よりも埋めてやるわ!!」

 

そして伊之助はそのまま屋敷の中へ突進していく。炭治郎は心配そうにその背中を見つめていたが、汐は「あれ?ひょっとしてあいつ、意外とちょろいかも?」と小さく呟いた。

それを聞いた善逸の肩が、小さくはねるのにも気づかずに。

 

その後、伊之助のお陰で犠牲者の埋葬は恙なく完了した。手を合わせて冥福を祈る皆をよそに、伊之助はひたすら森の木々に向かって突進していた。

しばらくすると、どこから現れたのか炭治郎の鴉と、汐の鴉が並んで飛んできた。そして汐達に山を下りるように告げる。

人語を話す鴉を初めて見た正一は驚いていたが、清とてる子はもうこれ以上何も考えないようにした。

 

それから山を下りる際、未だに正一が鬼を倒したと勘違いしていた善逸が彼と離れることを非常にごねた。

汐と炭治郎が二人がかりで引きはがすも、善逸は泣きべそをかきながら未練がましい言葉を吐いている。汐の殺意に近い怒りががふつふつと漏れ出していることに気づいた炭治郎が、すぐさま善逸に当て身を入れて気絶させた。

 

そして炭治郎の鴉が清に藤の花の袋を吐き出した。これは昔、汐が昔玄海からもらった袋とよく似たものであった。最も、鴉の胃液と思われる謎の液体に塗れていたため、とてもじゃないが触れるものではなかったが。

 

「皆さん、本当にありがとうございました。家までは自分たちで帰れます」

 

正一とてる子に支えられた清が、深々と頭を下げていった。そんな彼らに炭治郎は手を振り、気を付けるように言う。

 

「汐お姉ちゃん、素敵なお歌を聞かせてくれてありがとう!!さようなら!!」

 

てる子が空いている方の手を大きく何度も横に振るう。そんな彼女に汐はにっこりとほほ笑んで見せた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



「サアツイテコイ。私タチニ!」

「山ヲ下リマスヨ~。シッカリツイテキテクダサイネェ~」

 

二羽の鴉に導かれながら、炭治郎が禰豆子の入った箱を背負い、その後ろを善逸を背負った汐と何故か伊之助が付いてくる。

汐が善逸を背負っているのには訳があった。

 

あの後炭治郎によって気絶させられた善逸を、彼が背負っていくと言い出したのを汐がとめた。

炭治郎が骨折しているうえに血鬼術を使う鬼と戦ったため、疲労困憊してるからだ。

だが、汐に負けず劣らず頑固な炭治郎もそれを拒否し二人はしばらく睨みあったのだが、汐が炭治郎の口を掴み恐ろしい声で脅迫したため仕方なく任せることになったのだ。

 

それから伊之助が何故鬼殺隊士になった経歴も聞くことができた。なんでも山に入ってきた他の鬼殺隊士から刀を奪い、最終選別や鬼の存在について知ったそうだ。

 

正直なところ、刀を奪われた鬼殺隊士が気の毒でならないと、汐と炭治郎はぼんやりと思った。

 

「それにしても、あんたも山育ちなのね。炭治郎もたしか山育ちだったわよね?」

「ああ。俺の家は炭焼きの仕事をしていたからな」

「はあ?こいつと一緒にすんじゃねえよ。俺には親も兄弟もいねえ。他の生き物との力比べだけが唯一の楽しみだ!」

 

そう言って得意げにする伊之助に、炭治郎はなぜか涙目になり「そうかそうか」と答えた。

 

そんな二人を見ながら歩いていた汐だが、不意に胸元に違和感を感じた。

視線を動かすと、ほんの僅かだが背負っている善逸の指が動いている。それを見た汐の眼がすっと冷たいものになると、善逸にしか聞こえないであろう小さな声でぼそりと言った。

 

「それ以上手を動かしたら、お前を男として再起不能にしてやるからな」

 

その瞬間、善逸の体がびくりと跳ねて動かなくなる。伊之助が反応しこちらを見たが、汐は何事もなかったように微笑んだ。

その笑顔に、何故か伊之助の体が小さく震えた。

 

結局山を下りるまで善逸は寝たふりをしていたが、降りたとたんに汐が華麗に善逸を叩き落したためそれからは彼も自分の足で歩きだした。

 

やがて夜も更け、見事な満月がかかったころ。

鴉が4人を導いたところは、扉に藤の花の家紋が刻まれた家だった。

 

「カァー!休息、休息!!負傷ニツキ完治スルマデ休息セヨ!!」

「カァ~、オ休ミデスヨォ~。ユックリ休ンデクダサイネェ~」

 

二羽の鴉がそれぞれの主人に向かってそう告げる。炭治郎と汐は怪我をしたまま鬼と戦ったことを告げるが、二羽ともただ意味深に笑うだけだった。

 

「はい・・・」

 

突如家の扉があき、一人の老女が姿を現した。気配がしなかったことに汐は驚き、善逸は顔を青ざめさせ「お化けだ!」と言う。

伊之助に至ってはずかずかと老女に近づき、その頭を人差し指でつつく始末だ。

 

「鬼狩り様で御座いますね。どうぞこちらへ」

「ありがとうございます。ほら、汐も善逸も固まってないで行くぞ」

 

他の者を諫めながら、炭治郎は老女の後ろをついていき、彼の後に汐、善逸、伊之助と続く。

炭治郎、善逸、伊之助が同じ部屋をあてがわれ、汐はその隣の部屋をあてがわれた。

いずれの部屋にも着替えの浴衣が用意してあり、それに着替えた後はすぐさま食事が出てきた。(最も食事は老女が気を使ってか、汐も男性陣と同じ部屋でとることになったのだが)

 

この対応の早さに善逸はたいそう驚き、あろうことか妖怪呼ばわりまでしたため炭治郎がその頭に一撃を入れた。

 

用意された食事は天ぷら御膳であり、それはそれはおいしそうであったが、伊之助の食べ方はとても汚く、両手でつかみむさぼるというもの。あまりの見苦しさに汐はお膳を伊之助から離し、善逸も箸を使うように苦言するほどだ。

と、突然伊之助が炭治郎のお膳からおかずを奪い取った。呆然とする炭治郎に得意げに笑う伊之助と、呆れ返る善逸と汐。

だが、炭治郎は咎めることもせず、あろうことか他のおかずも食べて言いという始末だった。

 

当てが外れた伊之助は、頭を抱えながら奇声を上げる。その様子を見て、汐は苦々し気に口をはさんだ。

 

「ちょっと炭治郎、あんまり甘やかさないでよ。こういうのは一回許すとつけあがるんだって」

「なんで?俺は別に構わないよ?お腹が空いているんなら仕方がないし。ああ、もしかして汐も食べたかったのか?」

「そういうことを言っているんじゃないのよ。あたしが言いたいのはね、一度でも甘やかしたら取り返しがつかないことになるからやめなさいって言ってるの」

「ええ・・・そうかな?俺は本当に構わないんだけどな」

 

箸を持つ左手を炭治郎に向けながら、汐は真剣な面持ちで諭すように言う。そんな二人を見て善逸は全身をぶるぶると震わせると、

 

夫婦か!!!

 

お膳をひっくり返しそうな勢いでそう叫んだ。いきなりの事に汐と炭治郎は肩を大きく震わせ、何事かと善逸を見る。

 

何なんだお前ら!子供の教育方針を話し合う夫婦か!!俺の前で仲睦まじい姿を見せるんじゃねえよ!!

 

何故か善逸は涙目になりながら二人に詰め寄る。二人はしばらく呆然としていたが、

 

「ちょっ、あんた何言ってんの!?あたしと炭治郎は別に何も――」

「そうだぞ善逸。俺たちは結婚もしていないし子供もいないし、そもそも俺はまだ結婚できる年齢じゃないぞ」

「いや、そういうことを言ってるんじゃねえよ。なんなんだよお前、なんでそんなに論点がずれてんだ」

 

真っ赤になって否定する汐、真面目な顔で否定する炭治郎、そんな彼をおかしなものでも見るような善逸という構図が出来上がり、蚊帳の外になってしまった伊之助はひたすら吠え続けるのであった。

 

その後、老女は医者を呼んでくれた。そして診察の結果、汐以外の三人が肋骨を折る重傷。汐自身も肩の傷が開き傷口から細菌が入り膿んでいた。

 

(思っていたより全員重傷だったわね。こんな状態であたしたち、鬼と戦っていたんだ・・・鬼殺隊の元締めって、案外鬼より怖いのかも)

 

用意された布団に体を横たえながら、汐は一人天井を眺めていた。

今日一日だけでいろいろなことが目まぐるしく過ぎた。善逸と出会い、伊之助と出会い、鬼を沢山斬って子供を救って、救えなかった命もあって――

 

(そういえば、昔おやっさん言ってたな。生きるってことは覚悟と選択の連続だって。そう。生きている間はきっと何かを選んで何かをあきらめることがたくさんある。今回だってそう。清たちの命は救えたけれど、そうじゃなかった命もたくさんあった)

 

全ての命を救えるとは限らない

けれど、それでも助けられる命なら助けたい

自分と同じような思いをする人間を増やしてはいけないのだ。

――彼と同じ、悲しみを孕んだ眼をする人間は

 

目を閉じて脳裏に浮かんだ彼の顔に、汐の頬が熱を持つ。清と善逸に言われた言葉が、汐の胸の中でくすぶった。

 

(な、なにを考えてるのあたし!も、もう寝よう。起きていたら余計なことばかり考えちゃうから・・・)

 

心の中で活を入れながら、汐は目を閉じる。しばらくそうしていると段々と意識がまどろみの中に落ちていく。

 

――善逸の大声にさえぎられるまでは

 

 

 

一方隣の部屋では。

夜になり禰豆子が箱の中から外に出てきて、初めて善逸達に顔を見せた。が、善逸は何を勘違いしたのか炭治郎に対し大声でののしりながら詰め寄った。

 

「いいご身分だな!!汐ちゃんだけじゃ飽き足らず、こんなかわいい女の子まで連れて両手に花で旅をしてたんだな・・・」

「え?善逸、ちょっと待って・・・」

俺の流した血を返せよぉぉぉ!!!俺は!!俺はな!!お前が毎日アハハのウフフで女の子といちゃつくためにがんばったわけじゃない!!そんなことの為に俺は変な猪に殴られ蹴られたのか!?

目を血走らせ涙を流しながら、善逸は炭治郎を指さし激昂する。炭治郎は何を言われているのかわからず、困惑した様子で善逸をなだめようとした。

しかし善逸は聞き入れず、あろうことか刀を抜き放つ始末だった。

 

鬼殺隊はなあ!お遊び気分で入るところじゃねえ!お前のような奴は粛清だよ!即粛清!!鬼殺隊を舐めるんじゃねえ!!

 

善逸がそう叫んで炭治郎に斬りかかろうとした瞬間。

 

うるせェェェェェエエエエエ!!!!

 

ものすごい怒号が響くのと、隣の襖が吹き飛ぶのがほぼ同時だった。すぐ近くにいた善逸が襖ごと吹き飛び、もうもうと畳の繊維が舞い上がる。

炭治郎と禰豆子は何が起こったのか分からず呆然としていると、吹き飛んだ襖の向こうから凄まじい怒りの匂いを感じた。

 

「オイコラ。何勝手に寝てんだよ!!」

 

汐は吹き飛ばされぐったりしている善逸の胸ぐらを乱暴につかみ、そのまま平手と手の甲で何度も何度も殴打した。手が顔に当たるたびにすさまじい音と衝撃波が発生する。そのせいで、

みるみるうちに善逸の顔は腫れあがり鼻血まで噴き出していた。

 

「や、やめるんだ汐!それ以上やったら善逸が死んでしまう!!」

 

炭治郎が慌てて止めに入るが、汐が「オメーは黙ってろボケ」と冷たく言い放ちそのまま目を覚ました善逸の顔を凝視する。

青い髪を振り乱し、善逸を睨みつける彼女は般若を通り越した真蛇に近いものになっていた。そのまま汐は落ちていた善逸の刀を拾って足の間に突き刺す。

その形相と行動にに善逸の顔は瞬時に真っ青になり、ガチガチと歯を鳴らしだした。

 

「お前何やってんの?こんな夜中に騒いで。あたしの睡眠時間を台無しにしやがって。あたしはね、寝る瞬間を邪魔されるのがこの世で4番目に嫌いなのよ。寝付くまで時間がかかるの。わかる?お前のせいであたしは貴重な睡眠時間がどんどん削られてんだよわかるのかこのド畜生ガァーッ!!」

「汐落ち着けぇー!!今はお前が一番騒がしいって!!それに女の子がそんな言葉を使っちゃ駄目だ!!」

「うるせぇえええ!!!あたしの睡眠時間を返しやがえええ!!!」

 

我を忘れて大暴れする汐を炭治郎は(呼吸を用いて)必死で抑えるが、汐の怒声はなかなか収まらず、結局夜明けまでその声は響いたのであった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

幕間その参
男と女の間には血の雨(少しデリケートな描写があります。注意!!)


それは、ある日の夜。

炭治郎が入浴を終えて部屋に戻ると、何故か伊之助がそわそわとしている。襖の隙間から頻りに外を警戒しているようだ。

 

「何してるんだ伊之助?」

炭治郎が声をかけると、伊之助はびくりと大きく肩を震わせ「大声を出すんじゃねえよ!」と小さく鋭い声で言った。

 

「あいつに気づかれたらどうすんだ?」

「あいつ?あいつって誰だ?」

「あいつはあいつだろ!あの、えと、そうだ!わたあめ牛!!」

 

伊之助の口から出てきた奇妙な言葉に、炭治郎は首を傾げた。そんな名前は彼の知人には存在しないからだ。

そういえば、と炭治郎は思考を巡らせた。ここへ来るまで、伊之助は何度も自分の名前を間違えている。だとしたら、名前を間違えているのかもしれない。

 

(わたあめ、わた、あめ、わた・・・わだ・・・)

 

炭治郎が頭の中で言葉を繰り返していると、ある人物の名が浮かんだ。確かに音としては近いが、この間違われ方はあんまりである。

 

「お前、ひょっとして汐のことを言っているのか?」

その人物の名前を出すと、伊之助が再びびくりとする。そんな彼からは、確かに警戒している匂いまでした。

 

「心配ないぞ。汐なら今、禰豆子を風呂に入れてもらっているからしばらくは来ないから」

 

そういうと、伊之助は安心したように息を吐いたが、慌てた様子で頸を横に振る。そして

 

「なんで俺があんな雌におびえなくちゃならねえんだ!!」と、大声でまくし立てた。

 

彼がこのようになってしまったのは、ここへ来たばかりの頃へさかのぼる。

 

 

 

*   *   *   *   *

 

 

「こちらの部屋をお使いくださいませ」

 

老女はそう言って汐達に部屋を案内する。炭治郎、善逸、伊之助は同じ部屋をあてがわれ汐はその隣の部屋をあてがわれた。

汚れた隊服はすぐさま老女が回収し、彼らは用意された浴衣に着替えた(伊之助はかなりごねたが、炭治郎の必死の説得により何とか受け入れた)

 

着替えを終えた後、伊之助は汐だけが別室に通されたことに疑問を抱いた。

 

「なんであいつだけ部屋が別なんだ?」

 

伊之助の問いかけに、炭治郎と善逸は怪訝そうな顔で彼を見た。まさに、「お前は何を言っているんだ」と言いたげな顔で。

 

「なんでって、そんなの当り前だろう?俺たち四人一緒だと布団が敷けないじゃないか」

炭治郎がさも当たり前に答えると、善逸はおかしなものを見るような眼で炭治郎を見た。

 

「いや違うだろ!常識で考えて違うだろ!お前今まで汐ちゃんと一緒にいて何も感じなかったのか?嫁入り前の女の子がむさ苦しい野郎共に囲まれるなんて、うらやま・・・非常識にもほどがある!」

若干邪な本音を漏らしながらも、善逸は必死に男女の相部屋は非常識だと熱弁する。すると、

 

「ねえ、あたし、汐だけど。入ってもいい?」

 

襖の奥から汐の声がした。炭治郎がいいと答えると、襖がすっと空き浴衣に着替えた汐が入ってきた。

 

「あ、やっぱり部屋の構図は一緒なのね、って当たり前か」

汐ははにかんで笑いながらぐるりと部屋を見回す。隊服とは違う彼女の服装に、善逸は目を丸くする。

 

「おお・・・!隊服姿の汐ちゃんもかっこよくて素敵だけど、浴衣姿だとなんか、こうグッとくるものがあるよな」

善逸が中年の親父のようなことを口にすると、炭治郎はきょとんとした顔で彼を見つめた。

 

「グッとくるものってなんだ?なんで善逸はそんな気持ち悪い笑い方をしているんだ?」

「真面目に返されても困るんですけど・・・」

 

善逸は全く予想外の答えが返ってきた炭治郎にめまいを覚え、炭治郎はなんで善逸がそんな顔をするのか本当に理解できていないようだった。

 

だが、伊之助はじっと汐を見据えたまま動かない。どうしたのか問いかけようとしたとき、突然伊之助が嘲るように言った。

 

「なんだお前?なんで雌みてぇに乳が膨れてんだ?」

 

伊之助の言葉に場の空気が瞬時に凍り付く。善逸は勿論、炭治郎もこの発言にはたまらずすさまじい顔で固まった。

が、我に返った二人は慌てて伊之助に詰め寄る。

 

「なんてことを言うんだ伊之助!!謝れ!!今すぐ汐ちゃんに謝れ!!死ぬ気で謝れこの野郎!!!」

「俺も善逸と同意見だ!!今すぐ謝れ!!取り返しがつかないことになる前に!!」

 

二人の嵐のような剣幕にも、伊之助は何を言われているのか分からないと言った様子で二人を見ている。だが、

 

「ちょっとどいて」

 

汐の氷のような声が響き、二人はびくりと震えて思わずよける。汐はそのまますっと伊之助の前に立つと、にっこりと笑って瞬時に彼の背後に回り込んだ。

 

そのあまりの速さに全員が目を剥いたその時。

 

「うるぅあああああああああああああ!!!!」

 

凄まじい奇声を上げながら、汐は伊之助に抱き着くとそのまま反り返り、その頭を畳に叩きつける。現代で言うなら『ジャーマンスープレックス』という格闘技の技だ。

いきなりの事態に炭治郎も善逸も、顔を思い切り引きつらせ動けないでいる。伊之助は頭を振り「てめ何しやがる!」と起き上がって抗議しようとした。

が、汐がその腹を踏んづけ狂気じみた笑顔を向ける。あまりの気迫に伊之助も思わず口を閉じ、汐から目を離せないでいた。

 

「ねえ、炭治郎、善逸」

 

その場には似つかわしくない程の明るい声で、汐は伊之助に笑いかけながら言う。

 

「あたし、今日の夕飯は牡丹鍋がいいなあ。ちょうど目の前に生きのいい獲物がいるし、三人で足りそうな量だし」

「え、え?汐、さん?」

「心配しないで?あたし、もともと解体するのは得意なの。故郷ではよく大きな魚を解体してたし、猪だって解体できるから」

「まずい!止めろ善逸!!今の汐は本気だ!本気で伊之助を解体する気だ!!」

 

炭治郎の言葉に善逸は驚き、慌てて二人を引きはがす。炭治郎が汐を隣の部屋に連れていき、善逸は汐が女性であることを滾々と伊之助に教え込んだのであった。

 

このようなことがあり、伊之助はしばらく汐に警戒心を剥き出しにしていたが、彼の頭は細かいことは忘れるのかしばらくしたらいつもの伊之助に戻っていた。

その様子に炭治郎と善逸はほっとするものの、今後一切、汐の前で粗相をしないことを固く誓った。

そうでなければ、鬼よりも恐ろしい彼女の血の制裁が待っているからである。

 

 

この後、善逸がその制裁を受けることになるのは、また別のお話。

 




おまけSS
炭「はぁ・・・。汐やっと落ち着いてくれたよ」
善「伊之助が明らかに悪いけど、あの時の汐ちゃん、本当に怖かったよな。俺も殴られたし。確か炭治郎と汐ちゃんは兄妹弟子なんだよな?」
炭「ああ。俺と一緒に過ごしてた時も、時々癇癪を起こしたりしたっけ」
善「お前、よく無事だったな」
炭「そういう時はそっとしておけって鱗滝さん、俺たちの育手が言っていたんだ。ん?そういえば・・・」
善「どうした?炭治郎」
炭「汐が決まって癇癪を起す時、なんでかはわからないけど血の匂いがしたような・・・」
善「・・・炭治郎。そのことを汐ちゃんに聞いたりしてないよな?」
炭「え?してないよ。とても聞けるような状態じゃないし・・・」
善「聞くなよ!絶対聞くなよ!!そのことを聞いたらお前・・・この世の全ての地獄をお前は味わうことになる!!」
炭「え?え?え?」
善「いいか!?女の子っていうのは、砂糖と香辛料と素敵なものと秘密でできているんだ!!特に秘密は女の子の服のようなものだから、それを暴こうということは服を引ん剝くのと同じくらい失礼なんだぞ!!」
炭「えええ!?そうだったのか!?女の子って難しいんだな・・・(いつか禰豆子も、秘密を持つようになるのだろうか・・・)」


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

信じぬくこと

善逸をぼこぼこにしてしまった後のお話


「ごめん。本当にごめんなさい」

 

善逸の腫れあがった顔を濡れた手ぬぐいで冷やしながら、汐は心から申し訳ないという気持ちを込めて謝る。

そんな彼女に善逸は震える声で「いいよ、気にしないで」と答えた。

 

「俺の方こそごめん。禰豆子ちゃんが炭治郎の妹だって気が付かないで騒いで、君の睡眠を邪魔したのは本当だし」

 

そう言って善逸も申し訳なさそうに汐に頭を下げた。

 

あの後、善逸に汐は怒りながら禰豆子が炭治郎の実妹だということを滾々と説明し、誤解を解くことができた。しかし、我に返った汐も目の前の顔が二倍以上に腫れてしまった善逸を見て心の底から反省した。

 

「それにしても、あんたの顔ってまじまじと見たけれど、そんな顔をしてるのね」

「へ?」

「思ったよりもかわいい顔してる」

「・・・かわいいって、男に対しては誉め言葉じゃないんだよ、汐ちゃん」

 

善逸が呆れたようにそういうと、汐は本気で驚いた顔をした。それが冗談でもないことは、彼女の【音】が物語っていた。

 

「そうなんだ。あたし、炭治郎以外に年の近い男友達がいなかったから、そういうの結構疎いのよ。あたしの住んでいた村では、大人と小さい子供ばっかりだったから」

「確か、汐ちゃんは炭治郎と兄妹弟子なんだよな。でも、呼吸が違うから気になっていたんだけど」

そういうと、汐の表情が少し曇った。その様子に、善逸は失言したかとたじろいでしまう。

 

「そうだよ。あたしは最初から炭治郎と一緒にいたわけじゃない。あたしの住んでいた村はね、西方の漁村だったの。生活は楽じゃないけど、毎日が楽しかった。あの日までは、ね」

「あの日?」

 

汐の言葉に、善逸は怪訝そうにその顔を見つめる。彼女から聞こえてきた【音】に、小さく息をのみながら。

汐は小さく息をつくと、「長いしあんまりおもしろくない話だけど」と前置きして語り始めた。

 

村人と自分の養父の事。村一番の美人と名高い親友の事。鬼の襲撃に遭い村が消滅し、養父が鬼となったこと。そしてその鬼を自らの手で引導を渡したこと。

鬼と自分への憎しみと殺意で狂いそうになっていた時、炭治郎や禰豆子、鱗滝に出会ったこと。鬼である禰豆子を受け入れることが難しかったこと。そして、自分が救われたこと。

 

話を聞き終えた善逸は、呆然としたまま汐の顔を見つめていた。そんな善逸の表情に気づかないのか、汐はわざとお道化て言った。

 

「あたし、あんたの事すごいと思ってるのよ?あんたは禰豆子が鬼であってもあっさり受け入れたでしょ?あたしは最初は無理だった。禰豆子を殺そうとまで思った。けれど、そんなどうしようもないあたしを炭治郎と禰豆子は受け入れてくれたの。だからあたし、二人のためなら何だってできるって思うの」

 

汐はそう言って窓から空を見上げた。少し欠けた十六夜の月が、汐の青い目に静かに映る。

そんな汐の横顔を見て、善逸はうつむき消え入りそうな声でぽつりと言った。

 

「すごく、なんかないよ。汐ちゃんも知っているだろ?俺、自分のことが一番好きじゃない。鬼を見るとああやって怯えて泣いて逃げて。結局汐ちゃんの事も危ない目に遭わせて」

 

善逸はそう言うと膝の上で手をぎゅっと握った。

 

「言い訳にしか聞こえないかもしれないけど、変わりたいし強くなりたいって思ってる。思ってはいるのに何をやっても全然だめで、雷の呼吸だって実は壱ノ型しか使えなくて・・・」

 

弱弱しく語る善逸に、汐は黙ったまま思考を巡らせた。慰めようにも、うまく言葉を選ばなければ気休めととられてしまうのがおちだからだ。

だが、汐はひとつ気になることを見つけた。善逸が言った、雷の呼吸の事だ。

 

「へ?ちょっとまって。あんた、壱ノ型しか使えないの?」

 

汐が言うと、善逸は体を震わせながら深くうなずいた。

 

「雷の呼吸は六つあるんだけど、俺ができたのは一つだけ。だからすごくなんか――」

「すごくないわけないでしょ!むしろすごいじゃない!それだけで今の今まで生き残ってきたんだから!」

 

汐の思わぬ大声に善逸は驚き、汐の顔を見る。彼の黄色い瞳に汐の顔が映った。

そんな善逸の眼を見て汐は小さくうなると、再び視線を逸らす。

 

「初めてあんたの眼を見たときに思ったけれど、あたしはあんたが弱虫には見えなかった。あ、あたしはね。眼を見ればその人の大体の人柄や感情がわかるの。人と鬼の区別もできるくらいね。だから、あんたが弱いとは思わなかったのよ」

 

だから、と汐はつづける。

 

「きっとあんたに圧倒的に足りないのは【自信】ね。自分はできる、大丈夫だって思う自信。炭治郎は腐るほど持ってるけど、全員があいつみたいな前向きお化けじゃないからね」

 

そう言って汐は悪戯っぽく笑った。その笑顔に、善逸の胸が小さく音を立てる。

 

「まあ自信なんてもらえるもんじゃないし、どうすればつくなんてあたしにもわからない。こういうのってきっときっかけなのよ。あたしが禰豆子を受け入れたように、ね。・・・・あ、そうだ!」

 

汐は突然立ち上がり「いいことを思いついた!」と叫んだ。ころころ変わる彼女の音に、善逸は困惑した表情を浮かべる。

 

「あんた、自分が信じられないならあたしたちを信じればいいんじゃない?伊之助はどうかわかんないけど、少なくともあたしと炭治郎は善逸が強くて優しいことを知ってる。見る限り、あんた人を信じるのは得意そうだしね」

「え・・・?」

「そうだそれがいい!もしも怖くなって自分に自信がなくなったら、自分を信じている人を思い出せばいいのよ。善逸にはいないの?自分を少しでも信じてくれた人」

 

汐の言葉に、善逸の脳裏にある人物が浮かんだ。不甲斐なく、どうしようもない自分を決して見限ったりしなかった人。自分を信じてくれていた人。その人の期待にこたえたいと、心の底から思ったこと。

 

「その顔を見るといるみたいね。あんたにとって何よりも大切な人。だったらその人のことを決して忘れては駄目。そして間違っちゃ駄目よ」

 

あたしみたいに、という言葉は消え入りそうだったが、善逸の耳にははっきりと聞こえた。

 

「なんて、ね。あたしだってたいそうなことを言えるような人間じゃないし、ちょっとした独り言だって思ってちょうだい」

「それは無理だよ。独り言にしちゃ長すぎる」

「言うじゃない」

 

そんなやり取りをしていると、善逸が突然汐の顔をまじまじと見つめた。そしてそっと彼女の手を握る。

 

「汐ちゃん、ありがとう。俺、頑張ってみる。君のことを信じるよ」

「善逸・・・」

「だから・・・。禰豆子ちゃんのことを炭治郎に口利きしてくれないか?」

「今までの空気を返せドサンピン」

 

汐の刀のような辛辣な言葉に、善逸の自信は急速にしぼんでいくのであった。




体調不良のせいか今回は少しグダグダしてます。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

不器用な子守唄

怪我が完治した汐と完治していない伊之助のお話


くぉらああああああ!!!!動くなっつってんだろーが馬鹿猪ィィィ!!!

 

家中に汐の怒声が響き渡るのと同時に聞こえてきたのは、伊之助と汐が走り回る地響きのような音だった。

 

あの日から数日。汐の肩の怪我はすっかり治ったものの、肋骨を骨折している伊之助はまだそうもいかず安静が必要だった。

にもかかわらず、伊之助はじっとしているのが嫌いなのか、部屋を抜け出しては走り回る始末だった。

そんな彼を追いかけまわし連れ戻すのが、いつしか汐の役割になっていた。

 

「うるせえええ!!!俺はじっとしているのは性に合わねえんだ!!早く強い奴と戦いたくてうずうずしてんだよ!」

「だったらまず怪我が治ってからにしなさいよ!悪化したら元も子もないわよ!つべこべ言わずに部屋に戻りなさい!」

 

汐と伊之助の言い争う声が響き渡る。そんな様子を炭治郎と善逸は複雑な表情で見ていた。

 

伊之助の気持ちはわかる。何日もじっとしていては体が鈍ってしまい、いざというときに動けなくなってしまう。それは確かだ。

しかし汐の言っていることは間違ってはいない。医者の話でも、三人は動けるような状態ではなく安静が必要であることは確定していた。

 

だからこそ、二人は汐達の間に入っていくことができなかった。

 

「あーもう、うるせえぞわたあめ牛!なんでそんなに俺に構うんだ!?お前には何の関係もないだろ!?」

「あたしは大海原汐だ!あんたの怪我が心配だからに決まってるでしょ!!仲間の怪我が悪化して喜ぶ奴なんて、頭がおかしい奴だけよ!」

 

汐の言葉が耳に入った瞬間、伊之助は息をのんで動きを止める。ほわほわと、胸の奥から何か温かいものがこみ上げてきたからだ。

急に動きを止めた伊之助に困惑する汐だが、これ幸いと伊之助の手を取り歩くように促す。

自分よりも二回り以上小さいその手に引かれて歩く伊之助は、その感情が理解できないまま汐に引きずられていくのであった。

 

*   *   *   *   *

 

その後、伊之助は何度か部屋を抜け出していたが、その度に汐が見つけ引きずるという光景がよく見られた。

一度汐に酷い目に遭わされているせいか、伊之助は汐に見つからないようにこっそり行動し、そんな自分に腹を立てて怒鳴り見つかるということを繰り返していた。

 

そしてそれが何度か続いた日の夜。

 

「・・・あんたね、いい加減に学習しなさいよ。これで何度目?」

 

目の前に横たわる伊之助を呆れたように見下ろしながら、汐はうんざりしたように言った。伊之助は不貞腐れたようにそっぽを向き、目を合わせようとしない。

 

「医者が言うにはあと少しで完治するって。本当ならとっくに治ってもおかしくないのに、あんたが暴れまわるから治りが遅いのよ?そこんとこ分かってんの?」

「うるせえな」

 

伊之助は汐に背中を向けたまま、ぶっきらぼうに答える。それからそのままの姿勢で伊之助は反対に問いかけた。

 

「そもそもお前には関係ねえだろ。なんでそんなに俺に構うんだ?」

「なんでって・・・そんなの当り前じゃない。あんたが心配だからよ」

「なんでお前が俺のことを心配するんだよ?」

 

伊之助がさらに問いかけると、汐は少しの間言葉を切る。そして言葉を選ぶようにゆっくりと話し出した。

 

「あんたには、酷いことをしちゃったからね。鼓鬼の屋敷でも、ここに来た時にも。その償い、っていうわけじゃないけれど、あんたにずっと謝りたかったのよ」

声の雰囲気が変わったことに伊之助は目を剥くと、思わず汐の方を振り返った。

 

「言い訳に聞こえちゃうかもしれないけれど、あたし怒りが抑えられなくなるとすぐに手が出ちゃうの。もちろん、誰これ構わずはしないわ。あまりにも腹が立った時だけよ」

それもよくないんだけどね、と汐は自嘲気味に笑みを浮かべた。

 

「だから、あんたを傷つけたことをすごく後悔している。本当にごめん」

 

そう言って汐は深々と伊之助に向かって頭を下げた。そんな彼女の姿をみて、伊之助は何かを考えているようだったがふと口を開いた。

 

「お前の言ってること、全然意味が分かんねえ。なんでそんなことをいちいち気にするんだ?お前が何しようがどうしようが、俺には何にも関係ねえことだからな!」

 

伊之助の言葉に、汐は虚を突かれた思いで見つめる。正直、伊之助も何言っているのかがわからなかったのだが、気のせいだろうが汐のことを気遣っているような感じがした。

そんな彼に、汐の心が少しだけ温かくなる。そして「そうね。野暮な事だったわね」とほほ笑みながら言った。

 

「でもだからって、あんたが抜け出していい理由にはならないからね。今日はあんたが寝付くまでここにいるわ」

「はあ!?お前がいちゃ気になってしかたねえ!!さっさと戻れよ!」

「いーや。あんたが寝付くまでここにいる。あ、そうだ。どうせなら子守唄歌ってあげるわよ。炭治郎と禰豆子にも好評な子守唄」

 

汐の思いがけない提案に、伊之助は思わず動きを止める。が、数秒待たずに「子守唄ってなんだ?」という言葉が返ってきた。

子守唄を知らない伊之助に驚きつつも、汐は子守唄の説明をする。

 

「子守唄っていうのは、子供を寝かしつけるときに歌う歌よ。今のあんたは寝たくなくて駄々をこねる子供のようなものだもの。絶対に聴いてもらうから」

 

伊之助はまだ何か言いたげだったが、汐はそれを無視すると目を閉じて口を開いた。

 

優しくあたたかな旋律が汐の口からこぼれだし、伊之助の耳に吸い込まれていく。伊之助の全身が温かなものに包まれ、心の中までほわほわと温かくなっていった。

 

(なんだ・・・?これ?急に、眠く・・・)

 

ふわふわと浮き上がるような不思議な感覚に抗うこともなく、伊之助はそのまま深い眠りに落ちていった。すぐさま寝息を立て始めた彼に、汐はその寝つきの速さに驚く。

 

(今まで寝かしつけた奴の中で、寝つきが一番早いわ。意外とおりこうさんだったりして)

 

そんなことを思うと、汐の口に思わず笑みが浮かぶ。そんな彼女だが、猪の皮の隙間から鼻提灯を膨らましている伊之助を見て少しばかりいたずら心が疼いた。

 

(確かこいつの素顔、結構整ってたのよね。寝顔ってどうなっているんだろう)

 

そのまま歌いながら汐は猪の皮をそっと捲ってみる。すると、その下の彼の整った顔立ちが目に入った。

幸せそうな顔をして眠る伊之助に、思わず汐の顔がほころぶ。こんな綺麗な顔をしているのに何故、猪の皮をかぶって顔を隠しているのか。

疑問はいろいろ残ったのだが、汐は変な散策はせずそのまま皮を戻した。

 

「お休み、伊之助。ありがとうね」

 

汐はそれだけを言うと、そのままそっと自分の部屋へと戻った。

 

 

その後、禰豆子に歌を聞かせる汐の下に、伊之助がちょくちょく来るようになったのは、また別のお話。







目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

知らない気持ち

炭治郎たちの怪我がだいぶ癒えてきた頃の話。


「炭治郎。禰豆子のお風呂、今日はあたしが当番だったわね。ちょうど沸いたみたいだから連れて行ってもいい?」

「ああ、頼むよ。禰豆子は汐と一緒に入るの楽しみにしているみたいだから」

 

炭治郎の言葉に、禰豆子は嬉しそうに目を細める。そして「汐の言うことをきちんと聞くんだぞ」と告げると、禰豆子は頷き汐の手を引いて風呂場へ向かった。

そんな二人の背中を嬉しそうに見ていた炭治郎だったが、ふと部屋を見渡してみると善逸の姿がない。

ついさっきまでここにいたのは確かで、その証拠に善逸の匂いがまだ残っている。それを認識した瞬間、炭治郎の頭にある考えが浮かんだ。

 

(まさか・・・!)

 

炭治郎は駆け出した。このままではみんなが危ない。彼は祈るような思いで風呂場へ足を速める。が、炭治郎の願いもむなしく脱衣所から凄まじい悲鳴が聞こえた。

炭治郎が急いで脱衣所の扉を開けると、そこには簀巻きにされて天井からつるされている善逸と、その前で恐ろしい形相で彼を睨む汐の姿があった。

その光景を見て炭治郎は思わず頭を抱えた。

 

「あ、炭治郎ちょうどよかったわ。このぼんくらの処理をお願いね」

 

汐は抑揚のない声でそう告げると、簀巻き状態の善逸を炭治郎に押し付け脱衣所から追い出した。

やがて意識が戻った善逸は、その後部屋でたっぷりと炭治郎に説教をされるのであった。

 

 

*   *   *   *   *

 

「はーい、頭の石鹸流すよ~。目を閉じててね」

 

汐がそういうと、禰豆子は言われたとおりに両目を閉じる。それを確認した汐は、風呂桶の湯を禰豆子の頭にゆっくりかけてゆく。

泡が流れ落ちるまで何度か繰り返すと、禰豆子は顔をプルプルと横に振る。それはまるで、ずぶぬれになった猫が毛を震わせているようにも見えた。

そんな禰豆子の頭を、汐は手ぬぐいで丁寧にまとめる。それから彼女の手を引いて湯船につかった。

 

「鬼だって体は綺麗にしないとね。どう?禰豆子。熱くない?」

汐が訪ねると、禰豆子は大丈夫だというように首を縦に振った。目の前で湯につかっている禰豆子は口に竹を咥えている以外は、どこにでもいる普通の少女のようだ。

 

(こうやって見ると、禰豆子も普通の女の子みたいに見えるわね。この子が人間じゃないなんて誰が想像できるかしら)

 

気持ちよさそうに湯につかる禰豆子を見て、汐の顔がほころぶ。これとよく似た光景を汐はかつて見たことがあったからだ。

 

それは昔。汐が故郷の村で暮らしていたころ。幼馴染の絹と一緒に風呂に入った時の事だった。

母親を早くに亡くし、父親も漁で数日返らないこともあった幼い絹を汐はよく面倒を見ていた。何度も互いの家に泊ったこともある。

 

けれど、今は村も絹もいない。過去へは決して戻ることができない。ただの思い出でしかないのだ。

 

そんな汐が気になったのか、禰豆子がそっと手を伸ばして汐の頭をなでる。驚いて顔を上げると、彼女は心配そうに汐の顔を覗き込んでいた。

「ああごめんね、ちょっとぼーっとしてたみたい。でも大丈夫よ」

汐は笑ってそう答えると、禰豆子は今度はその手を汐の右肩に置いた。

浅草で鬼の襲撃を受けたときに負った傷。傷自体は癒えたものの、肩には僅かだが跡が残っている。それを禰豆子は、ゆっくりと優しくなでていた。

 

(ああ、なんて優しい眼をするんだろう。やっぱり炭治郎の妹だわ。どこまでも優しくて、綺麗な眼。この眼を、あたしはずっと見ていたい)

 

「ねえ、禰豆子。お兄ちゃんのこと、好き?」

 

汐がそう尋ねると、禰豆子はきょとんとした表情で見つめ返した。その顔を見て、汐は直ぐにそれが愚問だったことを悟る。

 

「ううん、好きに決まってるわよね。野暮なこと聞いてごめんね。さて、そろそろ上がろうか。逆上せたら大変だからね」

 

汐はそう言って禰豆子を連れて湯船を出るのであった。

 

 

*   *   *   *   *

 

夜も更け、皆各々の布団に入ったころ。

いつもならすぐに値付けるはずの汐は、その日に限ってはなかなか眠ることができなかった。

目を閉じながら何度も何度も寝返りを打っても、一向に寝付けない。とうとう汐は掛布団を蹴って跳ねのけると、そのまま起き上がって外に出た。

 

その夜は上弦の半月が掛かっていたが、雲に覆われてぼんやりとしか見えない。そんな空の様子が今の自分の気持ちを表しているようで、汐は苦笑した。

 

縁側に座り、特に何もすることもなくぼんやりと空を見上げる。ぬるい風が汐の頬をゆっくりとなでては通り過ぎていく。

 

「家族、か」

 

不意に自分の口から出てきた言葉に、彼女自身も驚く。禰豆子と風呂に入った時に思い出した故郷のことを引きずっていたことにもだ。

自分には血がつながった家族は誰もいない。玄海とでさえ血のつながりがない家族だった。

そのつながりも、今はもうない。汐にとって家族と呼べる存在はもうこの世のどこにもいないのだ。

 

だから、だろうか。炭治郎と禰豆子の事がこれほど気になるのは。

自分が失ったものを持っている二人。自分には決してもう手に入らない、血のつながった家族。絆。

(ああ、そうか。あたし、二人がうらやましかったんだ。禰豆子を絹と重ねて、自分ができなかったことをやり直そうとしているんだ。家族になった気になっていたんだ)

 

だとしたら馬鹿げている、と汐は思った。禰豆子とは血のつながりは勿論ないし、過ごしてきた時間だって決して長くはない。

それだけで自分は炭治郎や禰豆子と深くつながった気でいたんだと思うと、ちゃんちゃらおかしくって聞けやしない。

 

【仲間】にはなれても【家族】にはなれないのだ。

 

「・・・あたしって、最低だな」

 

今の自分の心に巣くう思いをそう口にすると、不意に背後から声が聞こえた。

 

「何が最低なんだ?」

 

汐は心底驚き、思わずその場から飛びのいた。そんな彼女に、声の主も驚いたように息をのむ。

 

そこには心配そうな眼で汐を見つめる炭治郎の姿があった。

 

「炭治郎!?なんであんたがここに・・・?」

「なんでって、ふと目が覚めたらお前の匂いがしたから気になって・・・」

「人の匂いをあんまりかがないでよ、っていっても、あんたには無理か」

 

汐は少しお道化たように笑ってそう言った。だが、彼女から漂う匂いは、言葉とは裏腹に物悲しいものだった。

 

「で、なんでさっき自分のことを最低だって言ってたんだ?」

「それ、絶対言わなきゃダメな奴?」

「嫌なら言わなくてもいいけれど、汐の場合はため込もうとするから駄目だ」

「思い切り矛盾してるわよ、それ。はあー、あんたにはほんとかなわないわね。隠し事の一つもできやしない」

 

汐は大きくため息をつくと、観念して話し始めた。自分でも驚くくらい、家族の絆に飢えていたこと。そして、炭治郎と禰豆子の事をうらやんでいたこと。

――自分が二人と家族になった気でいたこと。

 

話を聞いた炭治郎は、ぽかんとして汐を見つめた後ぽつりと漏らした。

 

「お前、そんなことで悩んでいたのか?」

この言葉に流石の汐も憤慨し、炭治郎に詰め寄る。すると炭治郎は慌てたように首を横に振った。

 

「ああ違う。汐を馬鹿にしたわけじゃない。ただ、俺はもうとっくに汐のことを家族同然に思っていたから」

「え?」

 

今度は汐がぽかんとして炭治郎を見つめる。すると彼は汐の隣に腰を下ろして静かに話し出した。

 

「確かに俺たちと汐に血のつながりはない。けれど、血のつながりがないからって関係が薄っぺらいなんてことはないと思う。家族も仲間も、強い絆で結ばれていれば同じくらいに尊いんだ」

 

それに、と炭治郎はつづけた。

 

「強い絆で結ばれている者には信頼の匂いがする。家族、恋人、友達、仲間。呼び方はそれぞれだけれど、そのどれもが同じだったんだ。俺も禰豆子も、汐を心から信頼していると思っている。汐は違うのか?」

「それはない。そんなこと絶対にない。あたしは炭治郎と禰豆子には本当に感謝している。どうしようもないあたしを受け入れて支えてくれたあんたたちを、誰よりも信頼している、それは確かよ」

 

そう言い切った汐からは、確かに信頼の匂いがした。それを感じ取った炭治郎は嬉しそうに笑う。

 

「だったら大丈夫だ。その気持ちを絶対に忘れちゃいけない。でも、また信じられなくなっても俺は何度でもいうよ。俺は汐を信じているし、家族同然だと思っている。何があってもそれだけは絶対に否定しない」

 

そう言い切った炭治郎の眼は、これ以上ない程澄み切りどんな美しいものよりも美しかった。それを見た汐は、初めて彼と出会った時のことを思い出す。

 

自分が一番好きな、夕暮れの海に似ている色をした眼。綺麗などという言葉じゃ言い表せない程の眼。

この眼を守りたいと、強く願ったことを、汐は思い出した。

 

――ああ、本当に敵わないなあ。この人はいつもいつも、あたしが欲しい言葉ばかりくれる。いつだってあたしを【人】のままでいさせてくれる。

この人を守りたい。この人の笑顔を守りたい。この人の幸せを願いたい。

 

汐の胸の奥から次々に熱い思いがあふれ出してくる。思わず涙となってあふれ出そうになるのを、彼女はぐっとこらえた。

 

「汐?」

 

急に黙ってしまった彼女が心配になり、炭治郎がおずおずと声をかけると汐は少しおかしそうに笑った。

 

「なんだかあの時のことを思い出しちゃって。ほら、覚えてる?あたしが禰豆子の事で少し参っちゃったときの夜。あの時もあたし、炭治郎にみっともない姿を見せちゃってたなって思って」

 

汐の言葉に炭治郎も思い出したように目を見開く。あの時もこうして二人で夜空を見上げ、互いの気持ちをぶつけあったのだ。

 

(でももうあの時とは違う。あの時と違って、今のあたしには守りたいものがある)

 

汐は決意を確かめるようにぎゅっと浴衣のたもとを握った。この思いを決して忘れることのないように。

 

「炭治郎」

 

汐はすっと立ち上がると、顔を上げる炭治郎の顔をしっかり見据えた。そして、心からの思いを言葉に込める。

 

「ありがとう」

 

その時、優しい風が吹いて汐の青髪を静かに揺らし、雲の隙間から月明かりが彼女を照らす。

揺れる青髪の隙間から洩れる光が、汐を幻想的に包み込みキラキラと輝いた。

 

その美しさに炭治郎の胸が大きく音を立て、思わず息をのむ。そんな彼の変化に気づかず、汐は「お休み。あんたも早く寝なさいよ」と告げると足早に部屋へと戻っていった。

 

残された炭治郎はしばらく呆然としていた。心臓が早鐘の様に打ち鳴らされている。

どうしてそうなったのか分からないまま、炭治郎も部屋へと戻った。

 

その後、目を覚ましていた善逸に「お前、すげぇ音してるぞ」と指摘されることになろうとは知らずに。




ウタカタノ花をご閲覧頂いている皆様へ

いつもウタカタノ花をご閲覧頂き、誠にありがとうございます。
今回、感想欄にて私の「原作死亡キャラクターの生存等の大幅な改変を嫌う」という返信の件にて一部の読者様に誤解を与えてしまった事を深くお詫び申し上げます。

私が嫌うのは、あくまでも「自身の作品の大幅な改変」でして、決して他作品の作者様を否定することはありません。
この度は自身の軽率な返信で、皆様に多大な誤解とご迷惑をお掛けしてしまい、大変申し訳ありませんでした。

このような稚拙な私でございますが、今後このようなことがないように、再発防止にに取り組んでまいります。
これからもウタカタノ花を何卒、よろしくお願いいたします

星三輪


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

八章:蜘蛛の棲む山


日が沈み、夜の帳が降りてきた頃。
頃合いを見計らって禰豆子が箱の中から顔を出すと、彼女の名を呼ぶ声が聞こえた。禰豆子が振り返るとそこには、

「禰豆子ちゃ~ん」

ニタニタとした笑みを浮かべた善逸がゆらゆらと身体を揺らしながら、気色の悪い動きで禰豆子に迫ってきた。
そんな善逸から禰豆子は逃げ、そんな禰豆子を善逸が追いかける。明らかに嫌がっている禰豆子に構わず、善逸が近寄ろうとしたとき。

不意に善逸の視界がぐるりと動き、気が付けば天井と笑顔で青筋を浮かべて見下ろす汐の顔が見えた。

「何してんだ、てめーは」

満面の笑みの彼女の口から洩れる言葉は、地の底から響いてくるように低い声だった。そのわきでは禰豆子を庇うように炭治郎が立っている。
だが、善逸はすぐさま起き上がると汐の両肩に手を置いて言った。

「ごめん、汐ちゃん。君は強くて勇敢でたくましい女の子だということは知っている。けれど、やっぱり女の子は可愛くて可憐で守ってあげたくなるようなほうがいいと思うんだ」
「オイ待てこら。それってどさくさに紛れてあたしが女じゃないって言ってるようなもんだろうが」

このままでは再び汐が爆発してしまうと危惧した炭治郎が、二人を引き離しにかかる。そんな中、伊之助が奇声を上げながら乱入し、炭治郎と汐に頭突きをかましてきた。
そんな伊之助を汐が蹴り飛ばし、それを炭治郎がとめ、そんな炭治郎を頭がお花畑な善逸が追いかける。
そんな奇妙な追いかけっこをする四人を、禰豆子は不思議なものを見るような眼でじっと見つめていた。

そんな中、汐の下に新しい隊服が届いた。浅草での戦いで敗れてしまっていたため、修繕を頼んでいたものだった。
本来なら雑魚鬼の爪や牙では引き裂くことができないものだが、相手が血鬼術を使っていたことと、何よりも汐の隊服に不具合が見つかり強度が下がっていたという事実が重なりこのようなことになっていたということだった。
この事に流石の汐も怒るよりも呆れが勝り、その日は早々に眠ってしまうのであった。

そして翌朝。

「汐。そろそろ朝食だぞ。起きろ」

炭治郎が汐の使っている部屋の前で声をかけるが返事がない。彼は小さくため息をつくと「入るぞ」と言って襖を開ける。
そしてその奥の光景を見て閉口した。

部屋にはいろいろなものが散乱し、布団は乱れその中心で汐が気持ちよさそうに眠っている。
鱗滝のところに彼女が預けられて、まず炭治郎が驚いたのが汐が片付けが苦手であったということだ。
片付けが苦手な女性がこの世にいることにひどく驚いたことを覚えている。

「汐、起きろ!朝だぞ!」
炭治郎が声をかけると、汐は小さくうめきながら目を開ける。そんな彼女に炭治郎は呆れたような顔をして周りを見回した。

「お前なんだよこれ。俺いつも言ってるよな?使ったらきちんと片付けろって」
「うるさいわね~、朝っぱらから説教なんかしないでよ。後からやろうと思ってただけ」
「そのあとからっていうのが駄目なんだ。後回しにすると絶対に忘れるだろ?朝食の前に軽く片づけをしてからにしろ」
「わかってるわよ~。まったく、いくら自分が掃除好きだからってあたしにまで押し付けなくても・・・」

ぶつぶつと文句をたれながら、汐は寝ぐせのついた頭のまま片づけを始める。そんな二人を見て善逸は全身を震わせると・・・

親子か!!!」と、全身全霊で叫んだのだった。


ある日の朝。四人の診察に来ていた医者は彼らを集めてある事実を告げた。それは、四人の怪我が完治したことであった。

その言葉に汐と炭治郎の顔に笑みが浮かび、善逸と伊之助はそんな二人を怪訝そうな顔で見つめた。

 

医者が帰路についた昼下がりの頃。四人の前に汐と炭治郎の鎹鴉が飛んできた。二人がそれぞれの鴉を手に乗せると、二羽はそれぞれ鳴き出した。

 

「カァ~カァ~。緊急ノオ仕事デス~。緊急事態デス~」

「北北東。次ノ場所ハ北北東!四人ハ【那田蜘蛛山】ヘ行ケー!那田蜘蛛山ヘ行ケー!」

 

二羽の鴉はそれだけを告げると、窓の外へ飛び去ってしまった。ソラノタユウが緊急と言っていたと言事を踏まえても、ただ事ではないことは確かだった。

 

四人はすぐさま隊服に着替え(伊之助はズボンのみだったが)、身支度を整える。久しぶりに袖を通した隊服は、心なしか以前よりも体に吸い付く様にぴったりと収まる。

汐は姿見を見ながら髪を整え、そして玄海の形見の鉢巻きをしっかり締め直した。

 

「汐、早く早く」

 

玄関に向かうと既に炭治郎たちが外に出て待っている。汐は慌てて履物を履くと三人の後を追った。

 

「では行きます。お世話になりました」

 

炭治郎は見送りに出てくれた老女に向かって深々と頭を下げる。それに合わせて汐と善逸も頭を下げるが、伊之助は礼もせず三人を見た。

老女も彼らにこたえるように深々と頭を下げる。そして頭を上げると、袂から火打石を取り出した。

 

「では、切り火を・・・」

「あ、ありがとうございます」

 

炭治郎がそういうと、伊之助を除く全員が老女に向かって背を向ける。伊之助は不思議なものを見るように、老女に顔を向けた。

 

老女が火打石を二回打ち鳴らすと、カチカチという音と共に火花が飛び散る。それを見た伊之助は

 

「何すんだババア!!」

 

いきなり大声を上げて老女に殴りかかろうとし、そんな伊之助を炭治郎と汐が抑え、老女の前に善逸が守るように立ちはだかった。

 

「馬鹿じゃないの!?切り火だよ!お清めしてくれてんの!危険な仕事に行くから!!」

 

善逸はそのまま切り火の意味をかいつまんで伊之助に説明する。説明が壊滅的にへたくそな炭治郎と比べて、彼の言い方はとても理にかなっていてわかりやすかった。

 

ようやく伊之助の興奮が収まったころ、老女は四人に向かって優しげな声で語り掛けるように言った。

 

「どのような時でも誇り高く生きてくださいませ」

 

――ご武運を・・・

 

そんな彼女に、汐、炭治郎、善逸は再び頭を下げる。伊之助はまだ理解できないのか不思議そうに三人を見ていた。

 

そして炭治郎を先頭に、汐、善逸、伊之助の順で走り出す。その際、伊之助は何度か老女の方を振り返った。

彼女は四人が見えなくなるまで、ずっと頭を下げて見送るのだった。

 

那田蜘蛛山へ向かう道のりを、四人は軽快な速度で走っていく。そんな中、伊之助が走りながら前の三人に唐突に問いかけた。

 

「誇り高く?ご武運?どういう意味だ?」

そんな伊之助を見て善逸は彼が何も知らないことに、呆れたような顔をする。そんな善逸を見た汐は、お前が言うなとでも言いたげな表情をした。

 

「そうだなぁ。改めて聞かれると難しいな。誇り高く・・・『自分の立場をきちんと理解して、その立場であることが恥ずかしくないように正しく振舞うこと』かな?」

「なんだか余計にややこしくなってない?要するに自分の言動行動にきちんと責任を持てっていうことじゃない?」

「ああ、そういう解釈もあるな。それと、あのおばあさんは俺たちの無事を祈ってくれているんだよ」

 

炭治郎と汐が自分の言葉でそれぞれ説明するが、伊之助はわけがわからないと言った様子でさらに口を開く。

 

「その立場ってなんだ?恥ずかしくないってどういうことだ?責任っていったい何のことだ?」

「それは・・・」

「正しい振舞って具体的にどうするんだ?なんでババアが俺たちの無事を祈るんだよ?何も関係ないババアなのになんでだよ?ババアは立場を理解してねえだろ?」

 

矢継ぎ早に紡ぎ出される伊之助の質問に、炭治郎は口を一文字に結ぶとそのまま急加速した。

 

「あ、逃げた!こら待て炭治郎!あたしに押し付けんな!」

 

そんな彼の背中を汐が足を速めて追いかけ、そんな二人に闘争心に火が付いた伊之助が追いかける。そんな三人を最後尾の善逸が情けない声を上げながら追いかけた。

 

やがて日が落ち、あたりが暗黒と静寂に包まれたころ。

 

「待ってくれ!!」

 

突然善逸が叫び、彼を除いた三人が振り返る。

 

「ちょっと待ってくれないか!?」

 

善逸は真剣な表情で三人を見据え、凛とした声で言い放った。これから始まる大仕事を前に、気合を入れようとしているのだろうか。

と、思いきや次の瞬間にはその表情は見事に情けないものとなり、凛とした声も泣きごとへと変わった。

 

「怖いんだ!目的地が近づいてきて、とても怖い!!」

 

ある意味彼らしさを失っていないことに、汐は少し安堵した。

 

「何座ってんだこいつ?気持ち悪い奴だな」

「お前に言われたくねーよ猪頭!目の前のあの山から何も感じねーのかよ!?」

 

善逸が目の前の山を泣きながら指差し、三人は振り返って山を見上げる。

うっそうと木々が生い茂る山は、夜の闇に包まれているせいか一層不気味に見えた。

 

「しかしこんなところで座り込んでても・・・」

「やっぱ気持ち悪りぃ奴」

「気持ち悪くなんてない、普通だ!!俺は普通で、お前らが異常だ!!」

「あんたの普通をあたしたちに押し付けないでよ」

 

怯える善逸とそうでない者たちの押し問答が少し続いたとき、汐と炭治郎は何かを感じ振り返った。

何か妙な感じがする。汐がそう感じた瞬間、彼女の足は自然と山の方へ向かっていた。それに合わせるように、炭治郎も後を追う。

 

その後ろから伊之助と泣きながら善逸もついてくる。そしてしばらく走ったその先には。

 

人がひとり、地面にばったりと倒れ伏していた。

よく見るとその人は右手に刀を持ち、隊服を着ている。鬼殺隊士だ。

 

彼は汐達の姿を見ると、涙を流しか細い声で「助けて・・・」と言った。

 

「大丈夫!?何があったの!?」

 

汐と炭治郎が隊士に駆け寄り、手を伸ばそうとした瞬間。

キリキリという奇妙な音と共に、彼の体は不自然に浮き上がり山の方へ文字通り引っ張られていく。

消える寸前、彼は引きつった声で「繋がっていた・・・!俺にも・・・!」という言葉を残し、助けを求めながら山に吸い込まれるようにして消えてしまった。

 

常軌を逸脱した光景に、全員が口を開けたまま呆然と彼が消えた山を見つめる。

すると山の方から強烈な匂いと膨大な気配が炭治郎と汐のそれぞれの感覚を刺激した。炭治郎の手が震え、汐は思わず自分の体を抱きしめる。

 

(何・・・?今の気配・・・!一匹や二匹の気配じゃない。とてつもなく大きいのと、それから・・・)

 

無惨と遭遇した時ほどではないが、明らかに今までの雑魚とは違う感じに、汐は体を震わせる。でも、ここで立ち止まるわけにはいかない。

 

「俺は、行く」

汐よりも先に炭治郎が口を開いた。思わず顔を見ると、彼も顔に脂汗を浮かべている。

あの炭治郎ですらこんな眼をしていることに、汐は驚きつつも拳を握った。

 

だが、そんな彼らの前に歩み出る者がいた。伊之助だ。彼は炭治郎と汐を押しのけ、刀に手をかけた。

 

「俺が先に行く。お前らはがくがく震えながら、後ろをついてきな。腹が減るぜ!!」

 

挑発的な言動だが、その声には二人を嘲る様子はない。その背中が頼もしく見えて、汐は思わず笑みを浮かべた。

 

(ただ、言葉少し間違ってるけど)

 

そのことは背後で善逸が小さく突っ込んでいた。そんな彼を放置し、伊之助は山に突入し、汐と炭治郎もそのあとを追った。

 

*   *   *   *   *

 

山の中はとても暗く、山に慣れていない人間は瞬時に迷ってしまうほどうっそうとしていた。

山育ちである炭治郎や伊之助はともかく、二人ほど山に慣れていない汐は必死で二人の背中に食らいつく。

そんな汐の手を、炭治郎がそっととった。びくりと体を震わせると、優しい彼の眼とぶつかる。汐の頬に急激に熱が集まった。

 

「大丈夫か?俺たちから絶対に離れるなよ」

「だ、大丈夫よ!あたしだって鬼殺隊員の端くれ。これくらいなんでもないわ!馬鹿にしないで」

 

気恥ずかしさをごまかすように、汐はつっけんどん言うと手を振り払う。炭治郎は眼を見開いたが、少し安心したように目を細めた。

 

「ん?」

すると先頭を歩いていた伊之助が急に止まって自分の両手を見た。手には透明な糸がいくつも絡みついている。

 

「うげっ、蜘蛛の糸?気持ち悪い~」

汐が眉を八の字に曲げて思い切り顔をしかめる。あたりを見回すと、あちこちに蜘蛛の糸が絡みつき、かすかな月明かりで不気味に光っていた。

 

「蜘蛛の巣だらけじゃねえか!邪魔くせえ!」

伊之助は手についた蜘蛛の巣を乱暴に振り払い悪態をついた。そんな彼の背中に、炭治郎は声をかける。

突然声をかけられた伊之助は、警戒心を剥き出しにして炭治郎を見る。しかし、そんな伊之助の感情とは裏腹に、炭治郎は優し気な声色で言った。

 

「ありがとう。伊之助が一緒に来ると言ってくれて心強かった」

 

伊之助は面くらったように炭治郎の顔を見つめた。炭治郎はつづける。

 

「山の中から来た、捩れたような禍々しい匂いに俺は少し体が竦んだんだ、ありがとう」

「ああ、やっぱり?実はあたしもなのよ。鬼の気配がごちゃごちゃに混ざっててすごく気持ち悪くて、寒気がしたのよ。あんたが先陣を切ってくれたおかげで、あたしも前に進むことができたわ。あたしからも、ありがとうって言わせて」

 

二人はにっこりと笑って伊之助に謝罪の言葉を告げる。伊之助はそんな二人を呆然と見ていたが、心の奥から湧き上がってくるほわほわとした温かいものを感じていた。

 

「伊之助、汐!」

 

炭治郎が鋭く叫んで二人を制止させる。彼の視線の先には、背中に滅の字を入れた一人の隊員の姿があった。

 

彼を驚かせないように三人はそっと近づく。そして、炭治郎が声をかけようと手を伸ばしたその時だった。

 

「!?」

 

彼が息をのんで刀に手をかけ振り返る。だが、三人が隊服を着ていると認識した時、彼の表情が少しだけ和らいだ。

 

「応援に来ました。階級・癸、竈門炭治郎です」

「同じく階級・癸、大海原汐よ。そしてこいつが嘴平伊之助」

 

二人が素性を明かすと、隊士は再び顔を引つらせた。その眼には絶望が浮かんでいる。

 

「なんで【柱】じゃないんだ。癸なんて何人来ても同じだ!意味がない!」

隊士がそう言った瞬間、汐の者でも炭治郎の者でもない拳が彼の顔面を穿つ。

 

「伊之助!」

「あんた何やってんのよ!?あたしだって腹立つけどそんな状況じゃないくらいわかるわよ!」

 

汐と炭治郎が伊之助を窘め、隊士は鼻を抑えて伊之助を睨みつける。

だが、伊之助は興奮しているのか隊士の頭を掴んで大声を上げた。

 

「うるせえ!!意味のあるなしでいったらお前の存在自体意味がねえんだよ。さっさと状況を説明しやがれ弱味噌が」

「伊之助止めなさい。いくらその辺を歩いてそうなパッとしてない顔をしてるからって、この人はたぶんあたしたちより先輩よ」

「いや、お前も今ものすごく失礼なことを言ったよな!?お前も俺の事思い切り馬鹿にしてるよな!?」

 

ひとしきりそう突っ込んだ後、彼は伊之助の手を掴みながら説明した。

 

彼も汐達同様鴉からの指令を受け、彼を含め十人の隊員がこの山に入った。だが、しばらくして隊員たちが突如斬りあいを始めたという。

そして彼も巻き込まれそうになり、命からがらここまで逃げてきたということだった。

 

「隊員同士の斬りあい・・・直前で仲間割れってわけでもなさそうね」

「ああ。考えられるのはたぶん、鬼の・・・」

 

炭治郎がそう言いかけたとき、あたりからキリキリと奇妙な音が聞こえてきた。

汐はこの音に聞き覚えがあった。先ほど、山に引き込まれるようにして消えた隊士が、消える寸前に聞こえてきた音と酷似していた。

そして、そばにいる隊士も、音に聞き覚えがあるのか瞬時に顔が青くなる。

 

「鬼の気配がするわ。みんな気をつけて!」

 

汐の言葉にそれぞれが刀を構える。だが、気配はあちこちに分散されていてどこに潜んでいるかわからない。

 

キリキリという音はこちらに近づく様にどんどん大きくなっていく。そして不意に、彼らの背後で何かが動く気配がした。

 

四人が反射的にその方を向くと、森の奥から一人の隊士がこちらに向かってくる。だが、どうも様子がおかしい。

するとその隊士についてくるかのように、森の奥から次々と他の隊士たちも現れた。全員口から血を流し、目の焦点が合っていない者もいる。

 

そのうちの一人が刀を構え、汐のそばにいる隊士に向かって斬りかかってきた。

 

彼は悲鳴を上げつつもその斬撃をよける。そして他の隊士はそばにいた汐達にもそれぞれに刀を振るった。

 

「ハッハ!こいつらみんな馬鹿だぜ。隊員同士でやりあうのはご法度だって知らねえんだ!」

「いや、どの口がそんなこと言ってんの!?それに動きがどう見たっておかしいわ!何かに操られているのよ!」

 

汐は身をかわしながら伊之助に怒鳴りつけた。彼女の言う通り、彼らの動きは明らかにおかしく、人間ならばありえない動きをしているのだ。

 

「よし、じゃあぶった斬ってやるぜ!」

「駄目だ!まだ生きている人も交じってる!それに仲間の亡骸を傷つけるわけにはいかない!」

「否定ばっかりするんじゃねぇ!!」

 

業を煮やした伊之助が、怒りの頭突きを炭治郎にお見舞いした。

 

「なにやってんのあんたたち!こんな状況で遊んでいる場合じゃないでしょ!?」

 

振り上げられた刀を受け止めながら、汐は頭から湯気を出して叫んだ。このままでは全員の命が危ない。何とかしなければ。

 

その場から動けずにいる汐の背後から、別の隊士が迫る。汐は歯を食いしばると、心の中で謝りながら前の隊士の腹を思い切り蹴った。

そして一瞬生まれた隙を狙って足を払って押し倒す。

それと同時に伊之助が斬りかかってきた隊士を組み伏せた。

 

(!?背中から鬼の気配がする!)

 

汐が目を凝らすとそこには、やっと見えるくらいの糸が何本もつながっていた。汐はすぐさま刃を振るい、その糸を断ち切った。

隊士の体は解放された様に地面に吸い込まれていった。

 

「炭治郎、伊之助、糸よ!糸で操られてる!糸を切って!!」

「わかった!」

 

炭治郎は頷くと、襲い掛かってくる隊士の背中に向かって刀を振った。ぷつりという手ごたえと共に、隊士の体は地面に落ちていく。

 

「お前より先に俺が気づいてたね!」

伊之助は得意げに言うと、跳躍しながら二本の刀を振るい複数の隊士の糸を切り捨てた。

 

ひとまずの脅威は去ったが、彼らを操っている鬼がまだいるため根本的な問題は解決していない。汐は必死に鬼の気配をたどるが、気配が分散していてわからない。

 

「炭治郎、あんたの鼻で鬼の位置はわからないの?」

「もうやってる!けれど、すごい刺激臭がしてわからないんだ」

 

彼にしては珍しく声を荒げ、焦っている様子が分かる。すると突然、汐の近くでかさかさと奇妙な音が聞こえた。

 

音のする方向へ回を向けると、汐の右腕に二匹の白い蜘蛛が這いあがってきていた。

その瞬間、汐の右腕が自分の意思とは関係なく持ち上がった。すぐさま刀で糸を切ると、蜘蛛はそのままどこかへと逃げて行ってしまった。

 

(蜘蛛!こいつらが糸をつないでいたのね!)

汐は隣にいた炭治郎を見ると、彼も同じく蜘蛛に糸を繋がれそうになっていた。そして先ほど糸を切って解放した隊士たちも、再び糸につられ立ち上がっていた。

 

「汐、伊之助!糸を切るだけじゃだめだ!蜘蛛が操り糸をつなぐ。だから・・・!」

そこまで言いかけた炭治郎が再び苦し気に鼻を抑えた。その足元に再び蜘蛛が迫る。

 

「危ない!」

汐はすぐさま駆け寄り、二匹の蜘蛛を踏み潰した。

 

「じゃあ蜘蛛を皆殺しにすればいいんだな!?」

「そんなの無理よ!蜘蛛は小さいし多分何匹もいる。本体を叩かないと意味がない!でも、あたしも炭治郎も今のままじゃそれができないのよ!」

「伊之助。もし君が鬼の位置を正確に探る何らかの力を持っているなら、協力してくれ!」

 

襲い来る隊士たちの攻撃をかわし、炭治郎が必死に口を動かす。

 

「それから、えっと」

「む、村田だ!」

「操られている人は俺と汐と村田さんで何とかする。伊之助は・・・!」

 

炭治郎がそこまで言いかけた瞬間、汐の第六感が凄まじい気配を感じ取った。

反射的に上を向くと、炭治郎もつられて上を見る。そこにあった、否いたのは・・・

 

真白な肌に赤い文様。真白に蜘蛛の巣を彷彿とさせる文様が入った着物をまとった、少年だった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



時は少しさかのぼり。

どこかにある産屋敷邸にもその情報は届いていた。状況を告げた鎹鴉は、酷く疲弊し息を荒げている。
そんな彼(?)の頭を、当主耀哉は優しくなでた。

「よく頑張って戻ったね」
しかしその声は悲しみを宿し、嘆く様に言葉をつづけた。

「私の剣士(こども)達はほとんどやられてしまったのか。そこには十二鬼月がいるのかもしれない。【柱】を行かせなければならない様だ」

――義勇。
――しのぶ。

彼の背後には冨岡義勇ともう一人、不思議な笑みを浮かべや女性が彼の隣に静かに座っていた。

「「御意」」
二人の声が綺麗に重なった後、しのぶがゆっくりと口を開いた。

「人も鬼もみな仲よくすればいいのに。冨岡さんもそう思いません?」
「無理な話だ。鬼が人を食らう限りは」

そんな彼女に、義勇は淡々と答えたのだった。



少年は月明かりを背に宙に浮いているように見えた。否、浮いているように見えたのは、目に見えない程の細い糸の上に乗っているからだった。

その異様な光景に気配を感じるまでもなく、彼が人ならざる者鬼であることが見て取れた。

 

「僕たち家族の静かな暮らしを邪魔するな」

 

少年の鬼は淡々とそう告げ、汐達を冷ややかに見降ろす。その眼を見たとき、汐の体は震えた。

浅草で遭遇した鬼たちの眼も凄まじかったが、目の前の鬼の少年はそれ以上に底が見えない眼をしていた。

 

こいつはただの鬼じゃない。汐は瞬時にそれを察した。

 

だが、炭治郎は彼が言った言葉に違和感を感じた。彼は確かに今、【家族】と言った。ということは、今隊士達を操っている鬼は別にいることになる。

 

「お前等なんてすぐに()()()が殺すから」

 

(母さん?)

 

少年の鬼の言っている意味が分からず、困惑する炭治郎。するとそれを見ていた伊之助が、操られている隊士を踏みつけ飛び上がり、少年の鬼に斬りかかった。

が、その刃は彼には届かず、見事に空振りをする。少年の鬼はそんな伊之助に見向きもせず、糸の上を歩いてどこかへと去っていった。

 

「何のために出てきたんだうっ!」

 

伊之助はそのまま背中から地面に落ちうめき声をあげる。そんな伊之助に向かう隊士を牽制すべく、汐は間に入った。

 

「ちょっとちょっと。どうするのよこれ!?あいつを追った方がいいんじゃない!?」

「違う、あの子はおそらく操り糸の鬼じゃない。だからまず先に・・・!」

「あーあーあ!!」わかったっつうの!鬼の居場所を探れってことだろ!?うるせえデコ太郎が!」

 

伊之助はそういうと、近くにいた汐に向かって声を荒げた。

 

「おいわたあめ牛!俺は今から鬼の居場所を探る。その代わりしばらくは動けねえ。だからそいつらを俺のそばに近づけんじゃねえぞ!」

 

伊之助はそういうと、持っていた二本の刀を地面に突き刺し両手を広げた。

 

――獣の呼吸――

漆ノ型 空間識覚!!!

 

伊之助の最大の特技は、触覚が優れていること。集中することにより僅かな空気の揺らぎすら感知することができる。

しかしその反面、その場から動けなくなり無防備になってしまうため、一人での使用には危険を伴う。

 

そんな彼に向かってくる隊士達を、汐はひたすら牽制し続けた、伊之助が鬼の居場所を探り当てることができると信じて。

 

「・・・見つけた!そこか!!」

 

しばらくした後、伊之助は大声で叫びその方向に視線を向けた。

 

「本当ね!?本当に鬼を見つけたのね!?」

「おお!あっちから強い気配をビンビン感じるぜ!」

伊之助は声高らかに断言する。被り物をしているため眼はわからないが、このような状況で嘘をつくような男ではないことを汐も炭治郎もわかっていた。

 

「そうか!すごいぞ伊之助!」

「悔しいけどやるじゃないあんた。見直したわ」

 

炭治郎と汐がそういうと、伊之助の心の中に再び温かいものがほわほわと湧き上がってきた。

しかしそれを感じる間もなく、操られた隊士の一太刀が伊之助の頬をかすめた。

 

(彼らを何とかしないと先へ進めそうにないわね。嗚呼もう!人間じゃなかったら容赦なくぶちのめせるのに!!)

 

相手が人間、しかも仲間である以上うかつに手が出せず、汐の苛立ちが募りつつある。

それは炭治郎や伊之助も同じで、皆眼に焦りと苦悶が浮かびつつあった。

 

そんな彼らを見て村田は何かを決心したように口を引き結ぶと、襲い掛かってくる隊士の太刀を受け止めた。

 

「村田さん!?」

 

炭治郎が声を上げると、村田はそのままの姿勢で絞り出すように叫んだ。

 

「ここは俺に任せて先に行け!!」

「小便漏らしが何言ってんだ!?」

 

伊之助が返すと村田は顔を真っ赤にしながら「誰が漏らしたこのクソ猪!テメエに話しかけてねえわ黙っとけ!」と叫んだ。

 

「情けない所を見せたが、俺も鬼殺隊の剣士だ!!ここは何とかする!!」

「止めなさいよ!その台詞、これから死ぬ奴の常套句じゃない!」

「縁起でもないことを言うんじゃねえよオカマ野郎!」

「誰がオカマよ!!あたしは正真正銘女だっつーの!!」

 

汐が怒鳴りつけると村田は驚いた表情を見せたが、すぐに真剣な面持ちに変わって言った。

 

「とにかく!糸を切ればいいというのが分かったし、ここで操られている者達は動きも単純だ。蜘蛛にも気を付ける。鬼の近くにはもっと強力に操られている者がいるはず。三人で行ってくれ!!」

 

炭治郎は一瞬だけ迷う様子を見せたが、凛とした声で返事をすると汐と伊之助を連れて駆け出した。

 

「だあーっ!離せコラ!まずはあいつを一発殴ってからだ!だれがクソ猪だ!!」

「同感だわ!あたしをオカマ呼ばわりしやがって!次会ったら性転換させてやる!」

「止めろ二人とも!今はそんな場合じゃないだろう!!」

 

村田に対して憤る二人に、炭治郎は走りながら窘める。伊之助を先頭に、三人は鬼のいる方へを足を進めた。

 

「それより、伊之助。ありがとね?」

「は?いきなりなんだよ?」

「あたしの事、信じて頼ってくれたんでしょ?」

 

汐の言葉に伊之助は先ほどのことを思い出す。自分が型を使う時、汐に敵の牽制を頼んだことを思い出したのだ。

そして思い出すと再びほわほわしたものが込み上がってきて、彼は思わず奇声を上げた。

 

進むたびにたくさんの糸が三人にまとわりつき、動きを微かに制限させる。伊之助は苛立ち、炭治郎は冷静に鬼に近づいていることを分析する。

汐もぼんやりとだが鬼の気配を感じ、表情を引き締めたその時だった。

 

キリキリという例の音が聞こえ、三人は足を止める。暗がりの中からすすり泣く声と共に、糸に繋がれた隊士が現れた。

 

「駄目・・・、こっちに来ないで・・・!」

 

か細い声で隊士がそう嘆願するのは、黒髪を一つにまとめた女性の隊士だ。

彼女の顔は殆ど血の気が無く、右手には他の隊士が突き刺さったままの刀を持ち、左手は同じく血まみれになった隊士の屍を掴んでいる。

 

「階級が上の人を連れてきて!!そうじゃないと、みんな殺してしまう!お願い、お願い!!」

 

女性隊士の目から涙があふれ、引き裂くような声が口から洩れる。炭治郎が一瞬ためらったその時だった。

 

「逃げてェ!!」

「!!」

 

女性隊士の刀が振り上げられ、炭治郎を襲う。その間に汐が間一髪で入り、その一撃を受け止めた。

 

(うっ!何この力・・・!女の、普通の人間の力じゃない!!)

 

汐の刀を穿つ彼女の刀は、その細腕ではありえない程重く強い力で押し込んでくる。汐も渾身の力で刀を押し返し、炭治郎を庇うようにして距離をとった。

 

「操られているから、動きが全然、違うのよ!()()()、こんなに強くなかった!!」

 

ありえない体勢から放たれる斬撃は、三人が思っていたよりもずっと早く不規則な動きで襲い掛かってくる。その無理な動きで彼女の骨が砕ける音が響き、潰れたようなうめき声が上がった。

 

(鬼が無理やり体を動かしているから、骨が折れてもお構いなしだ!酷い・・・!!)

 

炭治郎は手が出せず女性隊士の斬撃をかわし続ける。しかし相手の動きが全く読めない上に、すさまじい力で斬りかかってくるため長くはもたないだろう。

 

「炭治郎、後ろ!!」

 

汐が叫び、炭治郎も視線を向ける。キリキリという音が再び聞こえ、再び操られているものが姿を現した。

それを見て汐はひゅっと喉を鳴らす。そこにいたのは、全身から血を噴き出し、体のあちこちがおかしな方向に曲がった三人の隊士だった。

 

「こ、殺して・・・くれ」

 

一人の隊士が息も絶え絶えに懇願する。彼の右腕からは骨が飛び出し、腕の形をしていない。

それでも糸がお構いなしに持っている刀を振り上げさせようと、無理やり彼の腕を引き上げていた。

 

「手足も、骨、骨が・・・、内臓に、刺さって、いるんだ・・・。動かされると・・・激痛で、耐えられ、ない。どのみち、もう死ぬ・・・だから」

 

――()()()くれ。止めを、刺してくれ

 

その言葉がどういう意味を持つのか、汐は瞬時に理解した。彼女の脳裏に思い浮かぶのは、苦しむ養父玄海と、浅草で鬼にされ苦しむ男性の姿。

汐は無意識に刀を向けようとしたその時だった。

 

「よしわかったァ!」

 

汐より先に伊之助が飛び出し、隊士達に止めを刺そうとする。それを炭治郎が必死な声で静止した。

 

「待ってくれ!何とか助ける方法を・・・!」

「いい加減にして!!この状況で何を甘っちょろいことを言っているの!!」

 

隊士の攻撃を受けながら汐が叫んだ。思わぬ彼女の大声に、炭治郎はびくりと体を震わす。

 

「もたもたしてたらこっちが危ないのよ!!?」

 

汐は炭治郎を怒鳴りつけ、隊士達を見据える。自分の人としての心はなくすかもしれないが、彼らをこのまま苦しませるくらいなら解放してあげたい。

何より、大切な人たちをここで失うわけにはいかない。

 

「あんたがやらないなら、あたしがやる」

 

汐は淡々とした声でそういうと、刀を構えた。みんなを救うのも勿論だが、炭治郎に手を汚させるくらいなら自分がその業を背負おう。

その覚悟を心に宿し、汐は切っ先を隊士に向けた。

 

「伊之助も汐も待ってくれ!!」

 

炭治郎が女性隊士の刀を受けながら叫んだ。これ以上、汐に命を奪う空しさを味わってほしくない。傷つく姿を見たくない。

 

「考える、考えるから!!」

 

炭治郎は必死で考えを巡らせた。技は使いたくない。しかし糸は斬ってもすぐにつながる。動きを止めるにはどうしたら――

 

(そうだ!)

 

炭治郎は刀を納めると、突然相手に背を向けて走り出した。操られている隊士は、炭治郎を追って動き出す。

彼の予想外の行動に汐は面食らったが、彼の眼が真剣そのものだったため何か案を思いついたのだと確信した。

 

炭治郎はしばらく逃げ回っていたが、突如方向を変え女性隊士に突進する。そしてそのまま懐に入り、彼女の腰を抱えると大きく息を吸い込んだ。

 

――全集中――

 

そのまま炭治郎は、女性隊士を渾身の力で真上に放り投げた。その凄まじい力に驚く彼女。そしてそのまま木の枝に糸が引っ掛かり、宙ぶらりんの状態になった。

 

これでは刀を振るうどころか、動くことさえままならない。

 

(なるほど、考えたわね炭治郎!)

 

汐はそれを見て、炭治郎と同じように相手から距離をとると、懐に滑り込み彼と同様に放り投げた。

汐が投げた隊士も、女性隊士と同じように木に引っ掛かり動きが止まった。

 

そんな二人を見て伊之助は

 

「なんじゃああそれええ!!俺もやりてええ!!」

 

まるで楽しいおもちゃを見つけた子供の様にはしゃぐと、炭治郎と汐の様に隊士を放り投げた。

他の二人同様に絡まる隊士を見て、伊之助は小躍りしながら声を上げる。

 

「見たかよ!!お前らにできることは俺にだってできるんだぜ!?」

 

しかし炭治郎と汐は、残っていた隊士の攻撃を抑えることに精いっぱいで、伊之助の快挙は見ていなかった。

謝る二人に憤慨する伊之助。伊之助はそのまま、汐を襲っている隊士を掴むと、再び渾身の力で放り投げた。

 

「がははは!!どうだわたあめ牛!俺様はすごいだろう!?すごいだろう!?」

「ええすごい、すごいから耳元で大声出すのはやめて。それより、炭治郎!残りはその人一人だけ!?」

「ああ!」

 

炭治郎の言葉に伊之助が反応し、汐を押しのけるようにして隊士の方へ向かう。

 

「よし。もう一回やるからお前はちゃんと見とけ!」

「ああ、わかった!それでいい!とにかく乱暴にするな!!」

 

炭治郎の言葉を合図に、伊之助が隊士の方へ走り出したその時だった。

伊之助が届く前に、彼の前にいた隊士の頸が鈍い嫌な音を立てて反対方向へ曲がった。

 

「っ!!」

全員が息をのむ中、吊り上げられていた他の隊士達の頸も、同じように逆方向へ捻じ曲げられた。

 

時間と音が止まったような静止した空間の中。伊之助が声を荒げ、怒りを露にした。

炭治郎は蹲る、屍となってしまった仲間のそばにそっと腰を下ろす。

 

その背中からにじみ出ているのは、息をのむほどの強い怒り。彼のその姿に汐と伊之助の背中に冷たいものが伝った。

 

「・・・行こう」

 

淡々とした声が炭治郎から洩れる。その冷たさに汐は戦慄(わなな)き、伊之助も「そうだな」としかいうことができなかった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



「こっちだ!かなり近づいているぜぇ!」

 

月明かりだけに照らされたうっそうな森の中を、伊之助を先頭に汐と炭治郎は走り続ける。

鬼に近づいているせいか、汐も鬼の気配を感じ始め、炭治郎も風向きが変わって鼻が利くようになってきた。

 

(気配はあと二つ。おそらくそのどちらかが、さっきの胸糞悪い人形劇の主催者!!)

 

森の中に三つの足音と草木のこすれる音だけが響く。それがしばらく続いたその時。

鬼の気配が強くなると同時に、三人の視界に黒い影が映った。

 

「伊之助!」

「俺の方が先に気づいてたぜ!!その頸、ぶった切ってやる!!」

 

伊之助は高らかに叫ぶと、刀を構えなおしていち早く先陣を切った。彼の鈍色の刀が月明かりに照らされてギラリと光る。

だが、伊之助の振り下ろされた刀は鬼の腕によって弾かれた。

 

伊之助は空中で鮮やかに回転すると、汐と炭治郎の間にふわり降り立った。

 

「ちょっ、ちょっとちょっと。嘘でしょ・・・?」

 

目の前の相手を見て、汐の顔が青ざめる。彼女たちの前に立ちはだかった相手は、頭部がなく鎌のような腕を接がれた鬼の屍だった。

 

「こいつ、頸が無ェエエ!!」

 

伊之助が大声で叫ぶと、鬼の屍は腕を振り上げ汐達に向かって振り下ろした。三人はそれぞれ別の方向に飛び、その攻撃をよけると刀を構えなおした。

 

「あいつ急所が無ェぞ!無いものは斬れねえ!!どっ、ハァ!?どうすんだどうすんだ!?」

 

伊之助は混乱しているのか、言葉が支離滅裂になっている。そんな彼を落ち着かせようと、炭治郎は冷静な声色で言った。

 

「袈裟斬りにするんだ」

 

炭治郎は刀を鬼の屍に向かって右斜めに構えながら言った。

 

「右の頸の付け根から左脇下まで斬ってみよう。広範囲だし、かなり硬いとは思うが・・・たぶん――」

 

だが、炭治郎が言い終わる前に伊之助が我先にと飛び出した。慌てて制止するが、その声は届かず彼は鬼に斬りかかる。

が、それより早く鬼の屍の鎌のような腕が伊之助の上半身にいくつかの切り傷を作った。

 

(速い!!が、避けられない程じゃねえ!!)

 

伊之助は鬼の攻撃を避けつつ反撃の隙を伺うが、それに気をとられていたせいで小さな蜘蛛の存在に気づくことが遅れた。

気づいたときには彼の手足は糸に繋がれ、身動きが取れなくなってしまった。

 

その隙を相手は見逃さず、動けなくなった伊之助に向かって腕を振るおうとしていた。

 

(やられる!!)

 

だが、その切っ先が伊之助に届く前に紺青色の光がその間を穿った。汐だ。

汐が間に入りその一撃を受け止めたのだ。

 

「うらあああああああ!!!」

 

汐が咆哮を上げ斬りかかるも、鬼は軽やかな動きで後ろに下がって距離をとった。

 

「ちっ!図体の割に素早いわね。操り人形様様って感じかしら?」

 

汐は吐き捨てるように言うと、伊之助に絡みついていた糸を切断した。

 

「汐!伊之助!大丈夫か!?」

 

炭治郎が心配そうな顔で駆け寄ると、汐は平気と言いたげにうなずいた。

そんな彼らを見て、伊之助の中に温かいのものが急速にこみ上げる。

 

「伊之助!俺たちと一緒に戦おう!一緒に考えよう!この鬼を倒すために力を合わせよう!」

「あたしたちだけじゃ厳しいわ!あんたの力も貸してちょうだい!!」

「てめえらァァ!!これ以上俺をホワホワさせんじゃねえ!!」

 

炭治郎と汐の言葉に、伊之助は我慢ができないと言わんばかりに声を荒げた。

鬼はキリキリという音を立てながら腕を振り上げる。その切っ先は炭治郎に向かっていた。

 

「邪魔だそこ!!」

 

伊之助の声に炭治郎は気づき、とっさに身をかがめて叫んだ。

 

「伊之助!俺を踏め!!」

 

伊之助は炭治郎に背負われている禰豆子が入った箱を踏み、鬼に躍りかかる。鬼も伊之助の頸を穿とうと、両腕を振り上げた。

だが、いつの間にか背後に回っていた汐が刀の峰で糸をからめとり、その動きを抑える。その一瞬の隙をついて、伊之助は両腕を斬り落とした。

 

「伊之助跳べェ!!汐はそのまま離れろ!」

 

炭治郎は頭で体を支えながら叫ぶと、そのままの姿勢のまま大きく息を吸った。

 

――全集中・水の呼吸――

肆ノ型 打ち潮!!

 

炭治郎から放たれた技が、鬼の両足を穿ち体勢を崩させた。

 

「袈裟斬りだ!!」

 

空中に身を投げた伊之助は心の中で舌打ちをした。まるで川の水が流れゆくこと程当たり前に、炭治郎の思う通りに進んでいることに。

 

(こいつは自分が前に出ることではなく、戦いの全体の流れを見ているんだ)

 

そのまま伊之助の二本の刀は、鬼の右肩から左脇下を切り裂く。すると鬼の体は崩れ、灰となって消えていった。

 

(やった!)

 

汐は思わず拳を作り、グッと握りしめる。だが、伊之助は突如炭治郎の方を向くと、刀を投げ捨て走り出した。

 

「伊之助!?」

「お前にできることは、俺にもできるわボケェエエ!!」

 

驚く炭治郎をよそに、伊之助は炭治郎を抱えると思い切り放り投げた。決して軽くはない彼の体が空中へと舞い上がる。

それを見た汐は彼の意図を察知した。彼は炭治郎に空から鬼の位置を探らせようというのだ。

 

その試みは功を奏し、炭治郎の鼻と目が鬼の位置を捕らえた。

岩場に全身が白に包まれた女の鬼が、怯えた顔で炭治郎を見上げている。彼女の両手に繋がれている糸が、人や鬼を操っていた動かぬ証拠だ。

 

炭治郎は息を大きく吸い、壱ノ型を放たんと刀を向けた。だが、突如女の鬼が両手の糸を自ら断ち切り、その頸を彼の前に差し出すような動作をしたのだ。

 

炭治郎はそれを見て目を見開くと、刀をとっさに構えなおした。そして

 

――水の呼吸――

伍ノ型 干天の慈雨

 

炭治郎から放たれた技は、斬られたものに殆ど苦痛を与えない慈悲の剣撃。相手が自ら頸を差し出したときにのみ使う技だ。

 

その証拠に頸を斬られた女の鬼の表情は穏やかで、眠るように目を閉じた。

頸がおち、灰になって崩れていく女の鬼。たくさんの人を傷つけ命を奪った鬼ではあるが、炭治郎が彼女に向ける眼は、とても優しくとても悲しいものだった。

 

透き通るような、優しい眼。

その眼を向けられた彼女の両目から涙があふれ出す。そして消えゆく寸前、彼女はこう言った。

 

「十二鬼月がいるわ。気を付けて・・・!」

「!?」

 

その言葉を聞いて炭治郎は戦慄した。十二鬼月。鬼舞辻直属の配下であり、おそらく彼に近い存在の鬼。

その血液を奪えれば、禰豆子が人間に戻る薬を作る大きな一歩になるかもしれない。

 

「そうだ!伊之助と汐!」

 

炭治郎は慌てて踵を返すと、二人が待つところへ戻った。

そこでは

 

「だぁーかぁーらぁー!俺に触るじゃねえって言ってんだろうが!」

「うるさいわねあんた。いいから黙って止血位させなさいよ!自分の状況もわかんない程馬鹿なわけ!?」

 

汐と伊之助が言い争っている現場に出くわした炭治郎は、軽く頭を抱えた。とりあえず二人が生きていることに安堵したからだ。

 

「あ、炭治郎!無事だったのね!」

汐が伊之助を押しのけ炭治郎に駆け寄ろうとするが、そんな彼女を伊之助がさらに押しのけ彼に詰め寄った。

 

「倒したかよ!」

「ああ、倒した。伊之助、大丈夫か?」

「俺に対して細やかな気づかいするんじゃねえ!いいか、わかったか!お前にできることは俺にもできるんだからな!もう少ししたら俺の頭もお前みたいに硬くなるし、それからな・・・」

「はいはいわかったからとりあえずあんたは黙りなさい。そして黙って手当てを受けなさい」

 

汐はそういって布を取り出し、伊之助の傷に当てる。痛みに呻き、汐を振り払う伊之助。そんな彼を恐ろしい声色で黙らせる汐。

結局伊之助がさんざんごねたため、血を軽くふくくらいしか手当てはさせてもらえなかった。

 

「さて、これからどうする?鬼の気配はまだまだあるし、さっき見た子供の鬼も気になるわ」

汐がそういうと、炭治郎は真剣な面持ちで二人に声をかけた。それは、先ほど女の鬼が言っていた、十二鬼月がいるという話だった。

 

炭治郎の言葉に汐の顔が青ざめ、伊之助は首を傾げた。

 

「本当なのね。本当に、十二鬼月がこの山にいるのね」

「ああ、きっと本当だ。あの人からは嘘の匂いがしなかったから、間違いはないと思う」

「そう。それが事実なら十二鬼月なら、禰豆子を助ける大きな一歩になるはずね」

 

汐がそういうと炭治郎の眼に決意が宿る。それを見て汐の心にも決意がみなぎった。

一方十二鬼月の存在を知らなかった伊之助は、俺にも教えろと声を荒げる。そのうるささに汐は顔をしかめつつも説明した。

 

「とにかく、この山に十二鬼月がいることはわかった。問題はどの匂いがその鬼であるかだ」

「考えていても始まらないわ。先へ進みましょう。こんな蜘蛛だらけの気持ち悪い森、さっさと抜け出したいもの」

 

汐の提案に炭治郎は賛成し、伊之助を連れて森を抜けることにした。

 

その後、汐達道なき道を歩き続ける。炭治郎の鼻と伊之助の感覚がなければ道に迷うことは必然だっただろう。

木々が切れ開けた場所に出たとき、汐はほっと息をついた。目の前には川が流れ、その水面には月が静かに映っていた。

 

だが、そこについたときに炭治郎が鼻を抑えた。風向きが変わり、刺激臭がこちらに流れ込んできたのだ。

その臭いは嗅覚が普通な汐や伊之助も感じたらしく、顔をしかめる。(最も(尤も)伊之助は被り物のせいで表情はわからないのだが)

 

「大丈夫?」

「・・・ああ、なんとか」

「無理しないでよ。あんたに何かあったら、あたしは禰豆子に顔向けできないんだから」

 

汐の言葉は少し乱暴だが、それでも炭治郎を気遣う気持ちがあふれ出ている。そんな彼女を見て炭治郎の心に温かいものがこみ上げてくる。

 

「ありがとう、汐」

「別に。さて、こんな臭いところからはさっさと抜けちゃいましょ。ぼんやりとだけれど鬼の気配もするし」

 

汐はぶっきらぼうに言うと、炭治郎と傷ついた伊之助の前を歩きだした。そんな彼女に、伊之助は「俺の前を歩くんじゃねえよ!」と怒鳴る。

その時だった。

 

何処からか、雷のような音がして汐は思わず上を見上げた。その音は炭治郎にも聞こえたらしく、彼も上を見上げて首をかしげていた。

 

(雷と言えば、善逸はどうしているのかしら。あのまま置いてきちゃったけれど、あいつの性格だから自分から鬼の住処に入るなんてことはないだろうし。あ、でも。煩悩の塊だから、禰豆子を捜して入ってきてるかも)

 

そうだとしたらなんだかなあと、汐は苦笑いを浮かべた。

 

「さっきの音。雷が落ちたみたいな音だ。雷雲の匂いはしないけれど、刺激臭が強くなっていてわからないな」

「知るかそんなこと!俺は先に行くぜ」

 

伊之助はそう言って川に入ろうとするが、炭治郎はそんな彼を呼び止めた。

 

「俺と汐は向こうに行ってみようと思う。だから伊之助は下山するんだ」

「は?」

 

伊之助は言っている意味が分からないと言わんばかりに炭治郎に詰め寄った。

 

「山、下りて」

「はあ!?なんでだよ!死ねよ!!」

「死ねよってあんたが今死にそうなんだけど!?自分の体見てから言いなさいよ」

 

困惑する炭治郎に汐が助け船を出すと、伊之助は声を荒げながら「俺は怪我してねえ!」と言った。

 

一瞬時間が止まったかと思うほどの沈黙の後。

 

「えぇ!?」

「あ、あんた・・・ついに頭までおかしくなったの!?」

 

炭治郎は呆然とし、汐は思わず辛辣な言葉を吐きだした。そんな二人に伊之助はさらに憤慨し、声を荒げた。その時だった。

 

不意に足音が聞こえ、三人が視線を向けると川の向こう岸に白い着物を着た少女が現れた。先ほどの少年と似た風貌をしている。

だが、彼女の気配は紛れもなく鬼の者であった。

 

(鬼!?山全体の鬼の気配のせいでわからなかったっ!)

 

「っしゃああ!!ぶった斬ってやるぜ鬼コラ!」

 

伊之助は高らかに宣言すると、少女の鬼はくるりと踵を返して森の中に逃げ込もうとした。

そのあとを追おうとする伊之助。すると少女の鬼は振り返り、大声で叫んだ。

 

「お父さん!!」

 

その声が届いた瞬間、伊之助の上空に巨大な影が出現した。影はその両腕を振り上げ、伊之助を叩きつぶそうとする。

伊之助は寸前でそれをかわすと、汐と炭治郎のそばに降り立った。

 

上から降りてきた襲撃者は、顔を上げてその全貌を晒す。先ほどの少年の鬼や少女の鬼と同じく真っ白い髪をしている。

しかしその顔は明らかに人間のものではなく、七つの目が付いた顔に鋭い牙をした醜悪なものであった。

 

その迫力に、全員の顔が青ざめ体が硬直する。

 

「オ゛レの家族に゛、近づくな゛!!」

 

巨大な鬼はすさまじい力で伊之助のいた部分を殴りつけた。衝撃波が発生し、川底が砕け水しぶきと瓦礫が舞った。

伊之助はそのまま吹き飛ばされ、その隙を狙って鬼が拳を突き出す。その伊之助を救わんと、炭治郎が動いた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



――水の呼吸――

――弐ノ型 水車!!

 

炭治郎は空中から技を放ち、その刃を巨大な鬼の腕に食い込ませる。だが、その刃は腕に軽くめり込んだだけで止まり、全く動かなかった。

 

(刃が、通らない!!)

 

動きを止められた炭治郎に、鬼のもう一本の腕が迫る。しかしその腕を三本の刃が穿った。

汐と伊之助が刀を食い込ませ、その一撃を阻止した。しかしその腕の硬さは二人がかりでも斬ることはかなわず、鎬がギリギリと音を立てる。

 

(何なのよこいつの腕・・・硬すぎる!)

 

汐が悔し気に顔をゆがませると、鬼は咆哮を上げて三人を思い切り振り払った。汐と炭治郎はそれぞれ、川から出ている岩の上に着地する。

 

(炭治郎が型を使っても斬れないなんて・・・。もしかしてこいつが十二鬼月!?)

 

だとしたら状況が悪すぎる。汐と炭治郎はともかく、伊之助は先ほどの戦いで傷を負っている。とてもじゃないが、まともにやりあって勝てるとは思えなかった。

 

――どうすればいい?

 

考える暇もなく、巨大な鬼は汐と炭治郎に向かって拳を振り上げる。二人はその一撃を寸前でかわし、汐は別の岩へ、炭治郎は岸へと飛びのいた。

 

「オ゛レの家族に゛ィィィ、近づくな゛ァァァァ!!」

 

濁り切ったしかし明らかに殺意のこもった声で、鬼は汐に狙いを定めて再び拳を振り上げる。するとその背後から伊之助が隙をついて斬りかかった。

しかし、鬼はその太い腕で伊之助をいとも簡単に吹き飛ばした。

 

「伊之助ェ!」

 

汐が悲痛な叫び声をあげる。伊之助は水の中から慌てて顔を出し、あまりの痛さに頭を横に振った。

決して軽くはない伊之助の体が、ああも簡単に吹き飛ばされた。それだけ鬼の力が強いということだろう。

 

鬼は伊之助を追って川の中をかけていく。汐はその隙に水の中から上がり二人を追った。

水にぬれたせいで鉢巻きの強度は増している。うまくいけば鬼の動きを止められるかもしれない。

 

汐はそう考えた後、向こう岸でで走る炭治郎と目を合わせ頷きあう。そして炭治郎は川べりに立っていた大木に向かって技を放った。

 

――水の呼吸――

――弐ノ型・改 横水車!!

 

炭治郎が放った斬撃が大木を真っ二つに斬り、支えを失った木は伊之助を追いかける鬼に向かって轟音を立てて倒れこんだ。

水しぶきが霧の様に舞い、あたりを包み込んだ。

 

(今だ!)

 

汐は素早く近づき、鉢巻きを外すともがく鬼を縛り上げた。これならば炭治郎が幾分か頸を斬りやすくなるだろう。

そんな二人を見て、伊之助は感服と悔しさが入り混じった不思議な感情を抱いていた。

 

(汐が鬼を抑えている今なら頸を斬れるはず!最後にして最強の型)

 

「汐!俺が合図をしたらすぐに離れるんだ!」

 

炭治郎はそういうと、刀を構えなおして大きく息を吸った。

 

――水の呼吸――

――拾ノ型!!

 

だが、炭治郎が技を放つ前に鬼が汐の拘束を無理やり引きはがし、丸太を持ち上げたのだ。

汐と炭治郎はとっさに刀の柄でその丸太を受け止めたが、二人の体は勢いを殺しきれず後方へ吹き飛ばされた。

 

「健太郎ーっ!牛女ーっ!!」

 

伊之助が叫ぶと、炭治郎はそれにこたえるように声を張り上げた。

 

「伊之助!俺たちが戻るまで死ぬな!!そいつは十二鬼月だ!死ぬな!!絶対に死ぬな!!」

 

炭治郎の声がどんどん遠ざかっていき、やがて汐と炭治郎の姿は夜の闇に飲まれて消えてしまった。

 

伊之助の姿が見えなくなると、炭治郎は汐の姿を捜す。彼女も、先ほどの攻撃で吹き飛ばされているのを寸前に見たからだ。

目を凝らすと、少し離れた場所を飛ばされる汐の姿を見つけた。慌てて手を伸ばし、彼女の右腕を掴む。

そして二人の体は地面に向かって吸い込まれるように落ちていった

 

「汐、技だ!技を出して衝撃を緩和しろ!!でないと死ぬぞ!!」

「わかった!!」

 

炭治郎は地面に近づく寸前に汐の手を放し、大きく息を吸い刀を強く握った。

汐も彼と同様に、刀を構えなおして大きく息を吸う。

 

――海の呼吸――

肆ノ型・改 勇魚(いさな)下り!!

 

――水の呼吸――

弐ノ型 水車!!

 

二人はほぼ同時に技を放ち、汐はそのまま背中から地面に転がり、炭治郎は勢いあまって木にぶつかったものの何とか生きていた。

 

「炭治郎!無事!?」

「ああ、汐も無事みたいだな。けれど、あの鬼の一撃で随分飛ばされてしまったな」

 

炭治郎は顔をしかめながらあたりを見回し、汐も鬼の気配を感じて警戒しながら同様に見まわす。

 

(伊之助、大丈夫かしら。あんな化け物一人で相手にするには危なすぎるわ)

 

一刻も早く彼の下へ戻らなければならない。汐は炭治郎と顔を見合わせてうなずいた、その時だった。

 

「ギャアアア!!!」

 

何処からか布を引き裂くような悲鳴が聞こえ、二人は思わず振り返る。

 

「いっ、痛い!痛いわ累!!」

 

そのあと間髪入れずに少女の痛みを訴える声が聞こえてきた。

 

「お願いだから、もうやめて・・・!うっ、うううっ・・・!!」

 

嘆願する声に交じってすすり泣くような声も聞こえてくる。考える間もなく炭治郎は、その方向へ向かって歩き出し、汐もそのあとを追った。

 

木の陰からのぞいた二人は思わず息をのむ。そこには顔から血を流してすすり泣く少女の鬼と、その傍らで冷徹な眼で彼女を見下ろす少年の鬼の姿があった。

彼女の顔にはいくつもの切り傷があり、いずれからも血が滴り落ちている。そして累と呼ばれた少年の手には、血の付いたままの糸があやとりをするように指にかかっていた。

 

「何見てるの?見世物じゃないんだけど」

 

呆然と見ていた汐達の視線に気づいたのか、累はこちらに視線を向けさほど興味がないといった口調で言った。

 

「何しているんだ・・・!!君たちは仲間じゃないのか!?」

炭治郎が声を震わせながら問い詰めると、累は「仲間?」と首をかしげながら答えた。

 

「そんな薄っぺらなものと同じにするな。僕たちは家族だ。強い絆で結ばれているんだ」

 

累の言葉に汐は強い違和感を覚えた。家族とはこのように殺伐としたものだっただろうか。傷つけあったりするだろうか、と。

 

「それにこれは僕と姉さんとの問題だよ。余計な口出しするなら、刻むから」

 

累が糸越しに冷たい眼を二人に向ける。汐は思わず蹲る少女の鬼と彼を見比べた。

二人は確かによく似た顔立ちをしている。だが、汐の今まで見てきた家族と呼ばれる存在とは似ても似つかないものだった。

 

「嘘だ。こんなのは家族なんかじゃない」

 

それを強く感じた汐は、思わず口を開いた。汐の鋭い声に、炭治郎は視線を向け累の眼が微かに開かれる。

 

「少なくともあたしが今まで見てきた家族は、こんなんじゃなかった。血のつながりがある家族もそうじゃない家族も、どんな家族もみんな対等でどっちかが上なんてなかった」

 

汐は今まで見てきた家族と呼ばれる存在を思い出しながら言葉を紡ぐ。汐と玄海。彼女の故郷の村人達。庄吉と絹。右衛門と孫娘。そして、炭治郎と禰豆子。

いずれもみな笑顔で、温かく優しい眼をしていた。

 

そして、藤の花の家で炭治郎が言った『家族も仲間も、強い絆で結ばれていれば同じくらいに尊い』という言葉。この言葉が今目の前にいる二人に当てはまるとは到底思えなかったのだ。

 

「あたしが知っている家族は、みんな笑ってた。幸せな眼をしていた。けれど、あんたらは?笑っていない。泣いている。怖がっている。あんたたちの眼からは、幸せなんてかけらも感じない。氷みたいな冷たい感情しか読み取れない。互いを尊重しない関係を家族なんて呼ばないわ!絆の意味をはき違えた、一方的な押し付けよ!!」

 

汐が思わず叫ぶと、炭治郎は頷き真剣な眼差して二人を見つめた。

 

「汐の言う通りだ。強い絆で結ばれている者には信頼の匂いがする。だけどお前達からは、恐怖と憎しみと嫌悪の匂いしかしない!!こんなものを絆とは言わない!!」

 

「「紛い物、偽物だ!!」」

 

汐と炭治郎の言葉が綺麗に重なり、累と累の姉鬼へと突き刺さる。姉鬼は息をのみ、累は大きく目を見開いた。

 

「お前等・・・!」

 

累の眼が怒りに震え、口元がひくひくと痙攣しだす。

そんな時、不意に背後から草が揺れる音がした。

 

「お?ちょうどいいくらいの鬼がいるじゃねえか」

 

汐と炭治郎が視線を向けると、そこには一人の鬼殺隊士が笑いながら近づいてきた。

 

「こんなガキの鬼なら俺でも殺れるぜ」

彼はそう言って刀を累へとむけた。炭治郎が制止しようとするが、彼はそれを遮った。

 

「お前らは引っ込んでろ。俺は安全に出世したいんだよ。出世すりゃあ上から支給される金も多くなるからな。俺の隊は殆ど全滅状態だが、とりあえず俺はそこそこの鬼一匹倒して下山するぜ」

 

彼はそういうと、そのまま背後から累に斬りかかった。

 

「馬鹿っ!!そいつに手を出すんじゃない!!」

 

汐がそう叫んだ瞬間。累が手の指に絡まっていた糸を隊士の方へ伸ばした。その糸は一瞬で隊士の全身を細切れに刻み、ただの肉塊へと変えてしまった。

その残酷な殺し方に、汐と炭治郎は青ざめ言葉を失う。

 

「ねえ、なんて言ったの?」

累は先ほど人を殺めたばかりとは思えない程の静かな口調で汐と炭治郎に問いかけた。

凄まじい殺気を感じ、二人は刀を構え睨みつける。

 

「お前等、今なんて言ったの?」

 

全身が痺れるような殺気に、二人の顔から冷たい汗が流れ落ちた。累の眼からは、二人に対して確かな敵意を感じる。

 

(こいつを相手にするのは、かなり骨が折れそうだわ。だけど、ここで逃げるわけにはいかない!!)

 

汐の眼にも、累と同じように殺意が宿り戦闘態勢に入った。そんな彼女に累は少しも動揺する様子は見せずに、淡々とした声で言った。

 

「お前等、今言ったこともう一度言ってみてよ。誰の何が偽物だって?」

「ああ、何度でも言ってやる!」

「だから、耳の穴かっぽじってよく聞きなさい!」

 

――お前の絆は、偽物だ!!

 

二人の重なった言葉の刃が、累の耳と心を深く抉った。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

九章:絆


二人の声が累を穿ったその時、彼の手から二人に向かって糸が伸ばされた。

 

二人はその糸をかわすが、炭治郎は完全には避けきれず左ほおに小さな傷を作った。

汐が怯む間もなく次の糸が彼女のに向かって伸ばされる。とっさに刀で受け流すが、受け流された糸は、汐の背後の大木をいとも簡単に切断した。

 

(あんな大木を刺身みたいに軽く切断する糸。捕まればあれで全身を切り刻まれておしまいね!!)

 

炭治郎が隙を見て斬りかかるものの、死角から襲い来る糸の結界にうまく間合いに入り込めない。それどころか累は糸をどこまでも伸ばせるのか、距離をとっても生き物の様に襲い来る。

いつの間にか二人の羽織は刻まれ、顔にも複数の切り傷ができていずれからも血が流れていた。

 

累の強さに汐は顔をゆがませ、息を乱す炭治郎を見る。二人掛でも間合いにすら入れないことに、段々と焦りが芽生えてきた。

 

「言っておくけど、お前等は一息では殺さないからね。うんとズタズタにした後で刻んでやる。でも、()()()()()()を取り消せば、一息で殺してあげるよ」

 

累の淡々とした言葉に、汐は鼻で笑う。その態度に、彼の眉根が微かに下がった。

 

「どっちにしろ殺すんじゃない。あんた、言葉の使い方勉強しなおしたほうがいいわよ。それに、あたしは取り消すつもりなんてハナからないわ」

「俺もだ。俺と汐の言ったことは間違っていない!!おかしいのはお前だ!!」

 

――間違っているのは、お前だ!!

 

二人の声が再び響き、累の鼓膜を揺らす。彼は糸を大きく広げると、二人に向かって放った。

 

飛び交う糸の間を二人は走り回り、目を合わせながら連携した動きをとる。

刺激臭も薄まり、炭治郎の鼻は糸の匂いを感知することができ始め、汐も慣れてきたのか糸にまとわりつく鬼の気配を読み取れるようになってきた。

 

「汐。俺が前に出るから、お前は援護を頼む」

「わかった。しくじったら許さないわよ」

 

炭治郎は汐と目を合わせてうなずくと、累に向かって駆け出した。

 

(思ったより頭が回る奴らだ。二人とも恐怖にひるまない。特にあの青髪の奴。前の奴がうまく立ち回れるように動いている)

 

――まあ、関係ないけどね。

 

炭治郎は地面を蹴り大きく跳躍すると、大きく息を吸った。

飛び上がった炭治郎に、累の糸が迫る。

 

――水の呼吸――

壱ノ型 水面斬り!!

 

炭治郎の漆黒の刃が、糸に向かって横なぎに振るわれる。が、その糸は斬れることはなく、反対に炭治郎の刀身を真っ二つに折ってしまった。

 

「えっ?」

 

斬られることのなかった糸は、炭治郎の顔を斜めに切り裂く。そのまま地面に叩きつけられた彼は、ごろごろと地面を転がった。

 

「炭治郎っ!!!」

 

汐はすぐさま踵を返し、炭治郎の下へ駆け寄ろうとする。だが、累の糸はそれを簡単には許さず、汐の青い羽織を切り刻んだ。

 

(そんな・・・炭治郎の刀が折れるなんて・・・!あの糸はさっきの化け物の体よりも硬いっていうの!?)

 

糸を何とか躱しつつ炭治郎の下へ向かう汐。炭治郎は呆然と折れた刀を見つめている。

 

(刀が折れた状態じゃまともに戦うことは難しい。なら、あたしが炭治郎を守らなきゃ!)

 

汐は炭治郎を庇うように前に立つと、累に切っ先を向けた。刀身が濃い紺色へと変化する。

 

「炭治郎立って!次が来る。今は落ち込んでいる場合じゃないわよ!」

 

汐の言葉通りに間髪入れずに累の糸が二人に迫ってきた。地面をえぐりながら襲い来る糸を寸前で躱し間合いを詰めようとするが、糸は素早く生き物のようにしなり二人の接近を許さない。

かんたんには殺さないと言っていたように、糸は加減されているようで急所をなかなか狙ってこない。それでもここまで二人を追い詰めていく累の強さに、汐は悔し気に唇をかんだ。

 

「どう?まださっきの言葉を取り消す気にならないのか?」

 

炭治郎は歯を食いしばりながら累を睨みつけ、汐は吐き捨てるように言い放った。

 

「あんたって結構しつこいのね。何度言われたってあたしたちは自分の言った言葉を覆すつもりなんてさらさらないわよ!」

 

累の眼が汐の方へ動くと、彼は小さく「わかった」と呟いた。そして、

 

「なら、ズタズタになりな」

 

左腕を大きく引くと、汐と炭治郎の眼前にいくつもの糸でできた壁が現れた。二人を覆い尽くさんほどの大きさに、思わず足が止まる。

 

(駄目・・・!よけきれない!)

 

身体に糸が食い込む衝撃に少しでも耐えようと、汐は硬く目をつぶった。

肉が切り裂かれるような音と、液体が飛び散る音が響く。だが、自分の体には痛みもなく、隣にいる炭治郎も姿を保っている。

 

――なら、今飛び散っている血は誰のもの?

 

汐が目を開けるとそこには

 

汐と炭治郎を庇うように立ち、全身を鋼の糸で斬りつけられた禰豆子の姿があった。

 

「「禰豆子ッッ!!!」」

 

二人の叫び声があたりに木霊する。斬られてしまった禰豆子は体勢を崩し、それを炭治郎がとっさに受け止めた。

そしてそのまま彼女の体を抱えて移動する。

 

「禰豆子!禰豆子!!しっかりして禰豆子!!」

「兄ちゃんたちを庇って・・・!ごめんなっ・・・!!」

 

禰豆子を木のそばに座らせ、傷の具合を見る。あちこちが切り刻まれているが、特に手首の傷が深く今にも千切れそうだ。

汐はすぐさま包帯を取り出すと、禰豆子の手に硬く巻き付ける。少しでも早く治るように、二人は必死の思いで祈った。

 

一方。その様子を見ていた姉鬼は、呆然と汐達が消えた方向を見つめていた。

 

(あの子の背負っている箱から別の女の子が・・・でも、気配が鬼だわ。人間が鬼と一緒にいるなんて・・・)

 

そして累に視線を向けると、彼の体が小刻みに震えている。そしてそのまま人差し指を向けて、震える声で言った。

 

「その女・・・お前の・・・・兄妹か?」

「だったらなんだ!!」

 

累の言葉に炭治郎は声を荒げる。汐は包帯をきつく縛り、苦しげに呻く禰豆子の汗をぬぐっていた。

 

「兄妹・・・兄妹・・・。妹は鬼になっているな・・・。それでも一緒にいる・・・」

「る、累?」

「妹は兄を庇った。身を挺して・・・」

 

――本物の‘‘絆’’だ!!欲しい!!!

 

「ちょっ、ちょっと待って!!」

 

累の言葉に姉鬼は思わず前に飛び出して言った。

 

「待ってよお願い!!私が姉さんよ!!姉さんを捨てないで!!」

「黙れ!!」

 

累は糸を姉鬼に向かって飛ばし、彼女の体を斬り飛ばした。

轟音と共に土煙がもうもうと上がり、木が数本倒れていく。

 

「結局お前たちは、自分たちの役割もこなせなかった。いつもどんな時も・・・」

 

頸だけになった姉鬼の体に、累は吐き捨てるようにそう告げる。姉鬼は涙を流しながら累を見上げ、かすれた声で言った。

 

「ま、待って。ちゃんと私は姉さんだったでしょ?挽回させてよ・・・」

「だったら山の中をチョロチョロする奴らを殺してこい。そうしたら()()()()()も許してやる」

 

累は目も合わせないまま姉鬼に冷たく言い放つ。

 

「わ、わかった。殺してくるわ」

 

姉鬼は再生した体で頭部を抱えると、森の中へと消えていった。

 

(こんな、こんな冷たく吐き気がする関係を家族だなんて、笑えもしない)

 

累の冷徹さに、汐の体は怒りとおぞましさに震えた。炭治郎も同じく、険しい表情でそのやり取りを見ていた。

 

そんな時だった。

 

「坊や。話をしよう。出ておいで」

 

先程の冷徹な声とは裏腹に、穏やかな声で累は言った。その豹変振りに汐と炭治郎は、訝し気に彼を見つめる。

 

「僕はね、感動したんだよ。君たちの‘‘絆‘’を見て、体が震えた。この感動を表す言葉はきっとこの世にないと思う」

 

炭治郎は禰豆子を抱きしめ、汐は二人を背中に庇うようにしながら、累の言葉を静かに聞いていた。

 

「でも、君たちは僕に殺されるしかない。悲しいよね、そんなことになったら。だけど、回避する方法が一つだけある」

 

――君の妹を、僕に頂戴。大人しく渡せば、君も、青髪のそいつも命だけは助けてあげる。

 

「・・・は?」

 

汐の口から思わず声が漏れた。今言ったことの意味が全く分からず、理解が追いつかない。

それは炭治郎も同じだったらしく、彼の口からも「何を言っているのか分からない」という言葉が出てきた。

 

「君の妹は僕の妹になってもらう。今日から」

 

更に紡がれた累の言葉に、汐は眩暈がした。

 

(こいつッ・・・頭がイカれてるの?禰豆子があんたの妹になんかなるわけないじゃない)

 

汐が拳を握りしめると、炭治郎はその手に触れ静かに制止させた。そして禰豆子をさらにぎゅっと抱きしめる。

 

「そんなことを承知するはずないだろう!それに禰豆子は物じゃない。自分の想いも意思もあるんだ。お前の妹になんて、なりはしない!!」

「大丈夫だよ。心配いらない。‘‘絆‘’を繋ぐから。僕の方が強いんだ。恐怖の“絆”だよ。逆らうとどうなるか、ちゃんと教える」

 

余りにも身勝手且つ意味不明な言葉に、汐は思わず飛び出しそうになった。が、彼女がてっぺんに来る前に、炭治郎が切れた。

 

「ふざけるのも大概にしろ!!」

 

空気を震わせる大声が、静かな森に響き渡る。

 

「恐怖でがんじがらめに縛り付けることを家族の絆とは言わない!その根本的な心得違いを正さなければ、お前の欲しいものは手に入らないぞ!」

 

炭治郎の言葉が気に障ったのか、累は小さくため息をつくと、苛立ちを隠そうともしない様子で口を開いた。

 

「鬱陶しい。大声出さないでくれる?合わないね、君とは」

(それはこっちの台詞よ。どこまでも性根の腐った奴だわ)

 

汐が殺意のこもった眼で累を睨みつけていると、炭治郎は汐の耳に唇を近づけ「禰豆子を頼む」とだけ告げた。

困惑する汐に禰豆子を預けると、炭治郎は箱を投げ捨て累の前に立ちはだかった。

 

「禰豆子をお前なんかに渡さない!!」

「いいよ別に、殺して()るから」

 

炭治郎の凛とした声とは対照的に、累は淡々と言い放った。そんな彼に臆することもなく、炭治郎はそれより先に頸を斬ると宣言した。

すると累はにやりとした笑みを炭治郎に向けた。

 

「威勢がいいなぁ、できるならやってごらん」

 

――十二鬼月である僕に勝てるならね

 

累はそう言って髪で隠れていた左目を曝け出す。そこには【下伍】という数字が刻み込まれていた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



家族にはそれぞれ役割がある。父には父の役割があり、母には母の役割がある。親は子を守り、兄や姉は下の弟妹を守る。
何があっても。

命を懸けて。


累の曝け出された眼を見て、汐は戦慄した。彼こそが本物の十二鬼月であり、鬼舞辻直属の配下の一人。

それならばさっきの強さは納得できる。だが、それでは尚更刀が破損している炭治郎は圧倒的に不利だ。

 

それをわからない程炭治郎は愚かではない。だが、今の炭治郎には何を言っても無駄だろう。だから今、汐にできることはただ一つ。

 

何があっても、禰豆子を守ることだ。例え、命に代えても。

 

「僕はね、自分の役割を理解していない奴は生きている必要がないと思っている。お前はどうだ?お前の役割はなんだ?」

 

累の問いかけに炭治郎は答えない。しかし累は、さほど気にすることもなく続けた。

 

「お前は僕に妹を渡して消える役だ。それができないなら死ぬしかないよ。勝てないからね」

 

淡々と言葉を紡ぐ累に、汐の拳が震える。そして傍らの禰豆子を固く抱きしめた。

 

(けれどどうする?奴の頸が糸より硬かった場合、炭治郎に勝てる術はない。でも、あたしは信じてる。炭治郎、あんたならきっと・・・)

 

累は沈黙を守る炭治郎の眼を見て、吐き捨てるように言った。

 

「嫌な目つきだね。メラメラと。愚かだな。もしかして――勝つつもりなのかな!?」

 

累が突然右手を大きく引くと、禰豆子の体が急激に引き寄せられた。汐はすぐさま両手で禰豆子の手を掴み、それを阻止する。

だが、相手の引く力の方が強く、ずるずると引き寄せられていく。それでも、汐は決して手を離さない。

 

(離すものか!炭治郎と約束したのよ。何があっても、禰豆子を守ると!!)

 

汐の抵抗に累は苛立たしさを顔に出すと、もう一本の糸を汐の顔めがけて放つ。が、糸が彼女に届く前に禰豆子が自ら手を放し、体が切り刻まれるのを阻止した。

 

「禰豆子ッ!!」

 

禰豆子の体は放物線を描きながら、累の下へ吸い寄せられるように飛んでいく。その体を受け止めると、彼は勝ち誇ったように炭治郎を見た。

 

「さあ、もう()ったよ。自分の役割を理解した?」

 

汐は茂みからすぐに飛び出し、炭治郎もほぼ同時に二人で斬りかかった。そんな二人を見て、累は心底呆れたように言う。

 

「逆らわなければ命だけは助けてやるって言ってるのに」

 

累につかまれている禰豆子は必死にもがくと、自由になった腕で累の顔面を鋭い爪で引っ掻いた。しかし累はひるむことなく、二人に向かって糸を放つ。

その糸を炭治郎は後方回転で避け、汐は体をそらして避ける。が、体勢を立て直した二人の眼には累一人しか映らなかった。

 

(禰豆子がいない!?)

 

先ほどまで累につかまれていたはずの禰豆子の姿がどこにもない。あれほど執着している禰豆子を、自ら開放するとは思えない。

どこだ?禰豆子は何処にいる?

 

その答えは直ぐに明らかになった。二人の頭上から、おびただしい量の真紅の液体が降りかかってきたのだ。

 

視線を頭上に移した二人の顔が、瞬時に青ざめる。そこには、全身を糸で雁字搦めにされ宙づりにされた禰豆子の姿があった。

 

「「禰豆子---ッ!!!!」」

 

汐と炭治郎の叫び声が再び木霊する。禰豆子は全身から血を滴らせながら、苦痛に呻いていた。

 

「うるさいよ。これくらいで死にはしないだろ?鬼なんだから。でもやっぱりきちんと教えないと駄目だね。しばらくは失血させよう」

 

累の動物の調教以下の冷徹極まりない言葉に、汐の体が小刻みに震える。全身の血が怒りのあまり沸騰しそうだった。

 

「それでも従順にならないようなら日の出までこのままにして、少し焙る」

 

その言葉を聞いた瞬間、汐の中で何かが弾けた。それと同時に汐の足は地面を蹴り、累の下へ向かっていた。

 

「禰豆子を放せ!!このクソ虫が!!」

 

炭治郎が慌てて制止するものの、銃弾の様に突っ込む彼女には届かない。累は小さくため息をつくと、両手の糸を汐に向けて放った。

飛んで来る糸をかろうじてよけるが、羽織の一部は切り取られあちこちから血がほとばしる。そして地面をえぐられた衝撃で足がもつれ、倒れこんでしまった。

 

そんな汐に累は静かに近づくと、倒れ伏したままの汐の腹を思い切り蹴り上げた。

 

「ぐっ!!!げえっ!!!」

 

血と共に胃の内容物を吐き出しながら、汐の体が跳ね上がる。その反動を利用し、累は汐の頭を掴むと思い切り投げつけた。

小さなうめき声と共に、地面に転がる汐。どす黒い血を吐き出しながら呻く彼女を、累は汚いものを見るような眼で見つめた、

 

「ねえ、さっきから思ってたんだけれど。君はこいつらの何なの?血がつながった家族じゃないよね?まさか、家族ですらないくせに、僕にあんな大口をたたいたわけ?」

 

汐は答えず、ただ黙って殺意のこもった眼を向ける。そんな彼女に累は小さく舌打ちをすると、静かに歩み寄り髪の毛を掴んで無理やり顔を上げさせた。

その瞬間、汐は日輪刀を累の首筋へと叩きつける。だが、その刃が彼の頸触れた瞬間、刃が粉々に砕け散った。

 

(なんで・・・!?刃が通らない・・・!?)

 

汐が状況を理解する間もなく、横から衝撃が襲う。吹き飛ばされた汐は、地面に付したまま日輪刀を探した。

少し先に刀身は真っ二つに放ったがまだ刃は残っている。痛む腕を叱責しながら、汐は柄に手を伸ばした。

 

だが

 

汐が刀に手が届く前に、その手の甲を累が思い切り踏みつけた。骨が砕ける鈍い音があたりに響く。

 

「ぎぃああああああああああああああああああああ!!!!」

 

汐の口から、耳をつんざくような絶叫が響き渡る。もがきながら必死で足をどかそうとするが、まるで植え付けられたかのように足は動かない。

 

「汐ーーーッッ!!」

 

炭治郎が汐の下に向かおうとするが、累は糸を張り巡らせ、それを阻止する。

痛みのあまりせき込みだす汐を、累は冷たい眼で見降ろした。そして足を放し、再び汐の髪の毛を掴んで無理やり立たせると、ぞっとするような低い声で言った。

 

「邪魔なんだよ、お前。家族の絆すらない、何の役にも立たない塵屑が。塵は大人しく死んでいろ」

 

その言葉に汐の瞳が大きく揺れる。言葉が彼女の心を殴りつけ、滅茶苦茶に引き裂かれていく。

そんな汐の腹に、累は思い切り足を叩き込んだ。体が後方に吹き飛び、土煙を上げて飛んでいく。そのあとを、炭治郎が慌てて追った。

 

「残念だったね。僕の体は僕の操るどんな糸より硬いんだ。糸すら切れないお前達に、頸を斬るなんて到底無理だよ」

 

土煙の上がる方角を見ながら、累は嘲るように言った。

 

「汐!汐!!しっかりしろ汐!!」

 

炭治郎は土煙の中で倒れ伏す汐を抱えながら叫んだ。汐は口から血を吐き、喉に穴が開いたかのようなか細く息をしている。

踏みつけられた左手はどす黒く変色し、体はびくびくと痙攣していた。

 

「ごめん、ごめんな汐・・・。無理させて、こんな目に遭わせて・・・」

 

炭治郎は汐の体を抱きしめ、悔し気に息をつく。汐を止められなかった自分の不甲斐なさを、彼は痛い程感じていた。

 

「ここで休んでいてくれ、汐。あいつは必ず俺が倒す」

 

炭治郎は汐の体をそっと気に寄りかからせると、累の前に立ちはだかった。

 

(落ち着け。感情的になるな。集中しろ。呼吸を整え、最も精度が高い最後の型を繰り出せ!!)

 

一方禰豆子は血を流しすぎたのか、眠るように気を失う。その様子を累は、興味深そうに見ていた。

 

(気を失った?眠ったのか?独特な気配の鬼だな。僕たちとは何か違うような・・・。面白い)

 

炭治郎は眼を見開き、大きく息を吸った。

 

――全集中・水の呼吸――

拾ノ型 生生流転!!

 

回転しながら繰り出される連撃は、回転を増すごとに威力が増す。それはまるで荒れ狂う竜の如き動きで、先ほどまで斬れなかった累の糸が、ついに断ち切られた。

糸が断ち切られたことに、累の眼が見開かれる。

 

(斬れた!斬れた!!このまま距離を詰めていけば勝てる!!)

 

そのまま炭治郎は累の下へ一直線に向かう。そんな彼見ながら、累は焦ることもなく口を開いた。

 

「ねえ。糸の強度はこれが限界だと思っているの?」

 

――血鬼術・刻糸牢――

 

累の血を含んだ真っ赤な糸が、炭治郎を覆い尽くすように広がった。その瞬間、彼は悟った。この糸は斬れない。先ほどまでの糸と匂いがまるで違う。

 

「もういいよ、お前。さよなら」

 

炭治郎は死を覚悟した。絶対に負けるわけにはいかないのに、禰豆子のためにも、汐のためにも、死ぬわけにはいかなかった。

だが、体の動きは急に止めることはできない。そう思った、時だった。

 

突如、炭治郎の羽織が凄まじい力で引っ張られ、彼はその勢いに抗えず後方に吹き飛ぶ。そして入れ替わるようにして糸の壁に立ちはだかったのは

 

――汐だった。

 

「!!」

 

炭治郎の眼が見開かれ、息をのむ。振り向いた彼女の顔は、笑っていた。

 

(ごめんね、炭治郎。悔しいけれど、あいつの言う通りあたしは何の役にも立ってない弱虫。だけど、せめてあんたは、あんただけは・・・)

 

――どうか、生きて

 

血の色をした糸が汐のすぐ眼前に迫る。背後で炭治郎が何か叫んだ気がしたが、もう聞こえない。

 

糸が体に食い込む寸前、汐は不思議なものを見た。自分の周りをふわふわと飛ぶ、無数の虹色の泡だ。

その一つ一つにいろいろなものが映されている。今まで出会った人々や、今は亡き養父や親友の姿もある。

 

(嗚呼。これ、走馬灯って奴かな。やれやれ、こんなものを見るなんて、あたし本当におしまいなんだ)

 

だけど、悔いはない。いや、全くないと言ったら嘘になるが、せめて大切な人を守ることができたのならそれでいい。

 

ふと、汐はその泡の中に覚えのない記憶を見た。それは、涙を流しながら何かを訴えているような、自分と同じ青い髪をした見知らぬ女性。

そしてもう一つは、炭治郎と同じ耳飾りをした、彼とよく似た顔立ちの見知らぬ男性。

 

(誰?)

 

しかし汐が考える間もなく、その走馬灯は低い声によってかき消された。

 

――本当に、お前はそれでいいのか?

 

汐は眼を見開き、その光景を見た。自分の真上に見下ろすように誰かが立っている。

顔は見えないが、4,5歳ほどの幼い子供のような姿をしていた。だが、その人物から発せられた声は、低く落ち着いたものだった。

 

――このままではお前は何の役にも立てず、誰も救えず、ただの肉塊になって無様に死ぬだけだ。本当にそれでいいのか?それがお前の望んだことなのか?

――お前は()()大事なものを守れず死ぬのか?相手に一矢報いることもせず?ただ黙って?

 

(うるさい。そんなの、そんなの嫌に決まってる。このままあいつに吠えづらかかせないまま、死にたくない!)

 

汐は両手に力を込めた。このまま大人しく死んだら、あいつの思う通り。本当に塵屑のまま死ぬだけだ。それだけは、絶対に認めたくない!

 

――ならお前にできることは一つだ。抗え、足掻け!そして

 

――(うた)え、最期まで!!



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



二人の間には、何人たりとも入ることなどできない。

そう、それがたとえ、家族同然の関係であっても。


糸が汐の体に食い込む寸前、一瞬だが空気を斬るような鋭い音がした。その瞬間、汐の周りに爆発的な空気の渦が生じ、累の糸を吹き飛ばした。

 

「なっ!?」

 

これには累も思わず驚きの声が漏れる。そしてその衝撃は波状となってあたり一面を薙ぎ、行き場を失った糸があちこちを刻んで傷跡を残した。

爆発の名残でもうもうと土煙が上がる中、累は呆然と汐達がいた方向を見つめていた。

 

(なんだ・・・?何が起こった?糸を切られた?いや、違う。吹き飛ばされた。とてつもなく大きな力で)

 

爆発物を持っていた様子はなく、刀を振るった様子もない。それ以前に、汐は左手を累に砕かれており、刀を握ることすら不可能のはずだ。

なら、いったいどうやってあの爆発を起こした?

 

土煙が収まり、視界が回復してくると、そこには炭治郎を庇うように立つ汐の姿があった。

爆発の影響か、あちこちが擦り切れ血を流しているものの、彼女の鋭い眼は累を捕らえたまま動かなかった。

 

「炭治郎」

 

汐は後ろにいる炭治郎に声をかける。その声色は、とても穏やかなものだった。

 

「あたし、やっとわかったの。自分のやるべきことが。それを気づかせてくれた、あんた達には本当に感謝しているわ」

「何を、何を言っているんだ?汐」

 

まるで遺言にもとれる言葉を紡ぐ汐に、炭治郎の眼が不安に揺れた。それを見ないようにしながら、汐は右手で折れた刀を握る。

 

「だから、今まで本当にありがとう。あたし、あんたと出会えてよかった。あたし、あんたの事――、最高の相棒だって思ってるから。だから・・・あたしの事を忘れないでね」

 

そして小さく鼻を鳴らし、侮蔑のこもった眼で累を見据えた。

 

「あんた、累って言ったよね?あんたにも感謝してる。自分の役割がようやくわかったのよ」

 

――そう。家族の絆は決して切れない。だから、二人の間には何人たりとも入ってはいけない。だから

 

「邪魔者は消えるわ。但し、邪魔者(おまえ)も一緒にだ!!」

 

その言葉を放った瞬間、汐は前に飛び出した。大きく息を吸い、呼吸を整える。

 

――全集中・海の呼吸――

――伍ノ型 水泡包(すいほうづつみ)!!

 

相手の盲点に入る技を使い、汐は累に近づく。だが、累は呆れた様子で再び赤い糸を放った。

いくら盲点に入ろうが、そのあたり一帯を覆い尽くしてしまえば無駄になる。累の攻撃範囲は自由に変えられる。

 

(所詮虚勢か)

 

糸の壁の中に汐の姿が見える。このままもう一度糸で引き裂き、息の根を止めようと腕を引いたその時だった。

 

汐の口から音が漏れる。だがそれは、海の呼吸特有の低い地鳴りのような音ではなく、弦を弾くような鋭く高い音。

汐は糸の壁の前で止まり、足を地面に叩きつけるようにして構えた。そして、その口を開く。

 

――(うた)え・・・!

 

 

――ウタカタ・伍ノ旋律――

――爆砕歌(ばくさいか)!!!

 

 

【挿絵表示】

 

 

汐の口から放たれた衝撃波が、空気を大きく震わせ爆発を起こす。そのあまりの音に炭治郎は思わず耳をふさぎ、累も顔をしかめた。

声の大砲は糸を瞬時にバラバラに引き裂くと、その勢いのまま累の右半分を吹き飛ばした。

 

糸に交じって累の体の一部が宙に舞う。下伍と書かれた左目が、大きく見開かれる。そしてその勢いのまま、汐は累の傷口に向かって刀を振るった。

 

だが、それよりも早く片方の腕に繋がれた糸が汐を襲う。しかしこれこそが、彼女の狙いだった。

 

(あたしがあえて突っ込んだのは、こいつを仕留めるためじゃない。糸を吹き飛ばし、こいつの体を吹き飛ばすことによって、炭治郎が生生流転のための回転数を稼ぐ道を作るためッ!そして、あたしがこいつの糸を引き受ければ、炭治郎が間合いに入る隙を作れるッ!)

 

汐は相打ちを覚悟で累に突っ込み、道を作ることを選んだ。自分では累に勝つことが不可能なのをわかっていたからだ。

だからこそ、彼女は炭治郎に託すことを選んだ。自分の命と引き換えに。

 

(でも、本当は。こいつはあたしが仕留めたかった。こいつはあたしと似ているから。家族に飢え、浅ましい考えを持っていたあたしと似ているから)

 

――でもね。累。あんたは一つ大きな勘違いをしているわ。

絆なんてものは、奪ったり欲しがったりするものじゃない。いつの間にか繋がれているのよ。知らないうちに。

あたしが、そうだったように。

 

 

*   *   *   *   *

 

 

(駄目だ・・・!このまま汐を行かせてはだめだ!)

 

累に突っ込んでいく汐の背中を見ながら、炭治郎は悔し気に顔をゆがませた。

汐からは強い決意と覚悟の匂いがした。それは、自分の命さえ犠牲にするほどの強すぎる覚悟。このまま自分の命と引き換えに、道を切り開くつもりだということを理解した。

そしてもうひとつ。炭治郎には確信していることがあった。

 

――汐を死なせたら、すべてが終わりだ。

 

炭治郎は必死に考えた。どうすれば汐を救える?どうすれば彼女を守れる?

自分がここまでこれたのは、汐がそばにいてくれたから。彼女の声が、存在がいつも自分を奮い立たせてくれていたのだ。

そんな汐が、自分を犠牲にするなんて間違っている。そんな悲しいことなど、させたくはない。

 

それに自分は、汐に大切なことを伝えていない。

 

(考えろ!考えろ!!考えろ!!!)

 

炭治郎は必死で考えを巡らせる。そんなときだった。

 

――炭治郎。呼吸だ。

 

炭治郎の脳裏に言葉が浮かぶ。それはかつて、幼い自分に呼吸法を教えてくれた、今は亡き父『竈門炭十郎』。

 

――息を整えて、ヒノカミ様になりきるんだ・・・

 

その瞬間、炭治郎の体は汐の方に向かって駆け出していた。大切なものを守る、確かな決意と覚悟を持って。

 

 

*   *   *   *   *

 

 

――ヒノカミ神楽――

――円舞!!

 

炭治郎が汐の後方から飛び出し、彼女に迫る糸を断ち切った。生生流転じゃないことに驚いた汐の横を炭治郎が飛ぶように駆けてゆく。

その眼には燃え盛る炎のような、強い決意と覚悟が宿っていた。

 

(糸が・・・!)

 

累は体が再生しきっていない不完全なままでも、炭治郎に向かって糸を伸ばす。その糸が炭治郎の体を何度か穿つが、彼の足は止まらない。

 

(止まるな、走り続けろ!今止まればヒノカミ神楽の呼吸の反動が来る!そして何より、汐が命を懸けて作ってくれた道が無駄になってしまう!)

 

――だから走れ!!二人を守るんだ!!

 

炭治郎はそのまま累に向かって刀を振るい続ける。その勢いは、まるで燃え盛る炎を身に纏う、舞う神のようだった。

その雄々しい姿を見て、汐の両目から涙がとめどなくあふれ出す。溢れて溢れて、炭治郎の姿が見えなくなるほどだった。

 

炭治郎が累の間合いに入った瞬間、彼の首筋に【隙の糸】が見えた。

 

(見えた!隙の糸!!今ここで倒すんだ!たとえ相打ちになっても!この命に代えても!!)

 

炭治郎の刀が、再生しかかっている累の傷口に迫る。だが、それと同時に、片腕に繋がれていた血の色の糸も炭治郎に迫っていた。

 

 

 

*   *   *   *   *

 

『禰豆子・・・。禰豆子、禰豆子、起きて』

 

深い闇の中で眠る禰豆子に、呼びかける声があった。それはかつて、鬼の襲撃に遭い命を落とした兄妹の母葵枝だった。

彼女は宙づりにされたままの禰豆子に触れながら、静かに言葉を紡いだ。

 

『お兄ちゃんたちを助けるの。()()()()()()()できる。頑張って・・・!』

 

葵枝は涙を流しながら、必死の思いで禰豆子に呼び掛けた。

 

――お願い、禰豆子。二人とも死んでしまうわよ・・・・!

 

 

*   *   *   *   *

 

禰豆子は眼を見開いた。体が熱く、力が漲るのを感じた。

 

――血鬼術――

 

糸に付着した禰豆子の血が、彼女の心の声に応じて発光する。

 

――爆血!!

 

禰豆子が手を握った瞬間、血が大きく燃え上がり炭治郎に迫っていた糸を焼き切った。

その凄まじい炎の壁が、炭治郎と累を両断する。

 

汐はその炎から禰豆子の気配を感じた。禰豆子の強い意志が、炭治郎の命を救ったのだ。

 

(嗚呼、やっぱりあんたたちはすごいわ・・・)

 

汐は流れ出す涙をそのままにしながら思った。これこそが本当の家族の絆。自分にはもう手に入ることのないもの。

けれど、せめて、せめて二人の幸せを遠くから見守ることができるなら。見届けることができるなら。

二人の幸せを、願うことができるなら!!

 

「行けェェェッッ!!炭治郎ォォォッ!!!!!」

 

汐の必死の叫び声が、音の波となって炭治郎の耳に届く。その瞬間、彼の体中のすべての細胞が熱を持ち、奥底から力が漲った。

炭治郎はすぐにわかった。これは、汐の(ちから)なのだと。

 

そしてそのまま炭治郎は刃を累の頸へ食い込ませる。先ほど汐の刃を砕いたことでわかるように、彼の頸は糸よりも硬い。

 

だが、汐の声による力の漲りと、刀に付着した禰豆子の血が爆ぜ、日輪刀が急激に加速した。

 

「俺達の絆は、誰にも引き裂けない!!!」

 

炭治郎の渾身の斬撃が、ついに累の頸を斬り飛ばす。暗い夜空に、白い頸が放物線を描いて綺麗に舞った。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



月明かりの届かない暗がりの森を、一つの影が駆け抜けてゆく。
左右の柄が違う風変わりな羽織と纏った青年だ。
彼の名は冨岡義勇。鬼殺隊最高位の称号『柱』を持つものであり、現在は十二鬼月がいるという情報を元にこの那田蜘蛛山へと潜入している。

先程、自分の身長以上の大型の鬼を討伐しその際に猪の被り物をした妙な少年に絡まれたものの、これ以上無茶をしないようにしっかりと縛り付けてから来た。
あの傷では戦闘は不可能であろうし、この山には既に【隠】たちが到着しているからうまく回収してくれるだろう。

そんな時だった。

遠くで爆発音が聞こえ、地面を微かに揺らした。

(なんだ・・・!?)

義勇は足を止め音の下方向を見る。爆発の影響か、土煙が狼煙のように立ち上っているのが視界に入った。

この山に来ている隊士が爆発物を持っていたのか、将又鬼の血鬼術かは定かではないが、どちらにせよその場所で戦闘が行われていることは確かだ。

――急いだほうがよさそうだ。

義勇は足に力を込めると、疾風のごとく駆け出した。


燃え上がった禰豆子の炎が収まり、飛ばされた累の頸が弧を描いて地面に落ちる。それと同時に、炭治郎も燃え尽きたように倒れこんでしまった。

そして禰豆子も、糸が燃え上がったことにより拘束から解放され、吸い込まれるように地面に落ちていった。

 

「たん・・・っ、うっ、ゲホゲホッ!!」

 

炭治郎の名を呼ぼうと口を開いた瞬間、喉が焼けるような感覚を感じた汐は激しくせき込んだ。それと同時に、全身を激しい痛みが襲う。

先程無我夢中で使った【爆砕歌】を使った反動だろう。

何故自分がこのような力を使えたのかはわからない。ただ、このまま簡単に死んではいけない。二人が幸せに生きる為の礎にならなければという強い想いのせいか。

しかしそのおかげで汐も炭治郎も禰豆子も生きている。この事実だけは動かなかった。

 

(やった・・・のね・・・炭治郎、禰豆子・・・)

 

涙と泥で汚れた顔のまま、汐は目を細める。けれど、炭治郎も禰豆子も傷を負い動くのもやっとなはずだ。

累を倒したとはいえ、他にまだこの山には鬼がいる。早く二人と共にこの場を去らなければ――

 

「・・・!!」

 

汐は呼吸を整え、痛みを緩和しようと試みた。だが、先ほどの爆砕歌の反動が強すぎたせいか、息がうまくできない。

しかしそれでも汐は必死に息をしようとする。早く立って、動いて、二人を守らなければ。そして、残してきた伊之助や善逸を助けに行かなければ・・・

まだ鬼の気配はする。だから早く・・・

 

――え?

 

そこまで感じた汐は思わず息をのんだ。ここに感じる鬼の気配は、大きいのは一つ。それ以外は感じない。だが、この大きい気配は最初にここに来た時に感じたものと同じ。

 

――()()()()()()()()()()()

 

(そんな・・・そんな・・・・嘘よ・・・!だってあいつは・・・あいつは確かに炭治郎が頸を・・・!)

 

だが、汐の嫌な予感は的中してしまった。倒れ伏す炭治郎の背後に、真っ白い着物をきた胴体だけの累が立っている。

汐に吹き飛ばされた部分はすっかり治り、その手には糸がつながれている。その糸の先には、斬ったはずの彼の頸が逆さまになって吊られていた。

 

「僕に勝ったと思ったの?」

 

その場にいた全員を絶望に突き落とすような声が響く。

 

「可哀そうに。哀れな妄想をして幸せだった?わかっていない様だから教えてあげる。僕は自分の糸で頸を切ったんだよ。お前に頸を斬られるより先に」

 

炭治郎は地面を這うようにして先に進む。その先には彼と同じく倒れ伏す禰豆子の姿があった。

そんな炭治郎を累は心底軽蔑しきった眼を向け、吐き捨てるように言った。

 

「もういい。お前ら全員殺してやる。こんなに腹が立ったのは久しぶりだよ。不快だ、本当に不快だ。前に同じくらい腹が立ったけれど、ずっと昔だよ。覚えてないけど」

 

累は歩きながら自分の頭部を元の位置に戻す。斬られた部分が溶けるように重なり、傷口が綺麗に消えた。

 

(まずい、まずいまずい!!早く呼吸を整えなければ、炭治郎と禰豆子が殺される!!)

 

汐は焼けつくような痛みに必死に耐えながら、体を起こす。何とかして奴の注意をそらさなければ、二人の命はない。

 

「そもそもなんでお前は燃えてないのかな?僕と僕の糸だけ燃えたよね?妹の力なのか知らないが、苛々させてくれてありがとう。何の未練もなくお前達を刻めるよ」

 

そう言って糸を引き絞る累の顔には、これ以上ない程の怒りと憎しみが隠すことなく刻まれていた。鬼の気配と合わさり、凄まじい殺意が感じられた。

 

「や・・・やめろ!!!」

 

汐は立ち上がると、大きく息を吸い、累に向かって放った。

 

――ウタカタ・伍ノ旋律――

――爆砕歌(ばくさいか)!!!

 

だが、万全じゃない状態の汐から放たれた声の大砲は、威力がほとんど出ず軽く累の髪と着物を薙いだだけだった。しかし、それでも彼は足を止めるとゆっくりと振り返った。

 

「ああ、そうだった。元はといえば、お前が余計なことをしなければこいつらが妙な力に目覚めることはなかったんだよね」

 

累は思い出したように言うと、くるりと向きを変えて汐に視線を向ける。怒りと殺意に満ちた眼が汐の眼を鋭く穿った。

 

「いいよ、もう。お前をかけら一つ残さない程ズタズタに切り刻んで、思い切り絶望させてからあの兄妹を殺そう。なんでかは知らないけれど、あいつはお前に執心みたいだからね」

 

そう言って累は、血を含んだ真っ赤な糸を両手にあやとりの様にかけた。

 

――血鬼術・殺目籠(あやめかご)――

 

汐の周りにいくつもの糸が出現し、籠のように重なり彼女に迫る。先ほど無理をして撃った爆砕歌の影響で、ほどんと動くこともできずに赤い糸を見つめていた。

 

「やめろーーッ!!!」

 

遠くで炭治郎がかすれた声で叫ぶが、累には届かない。赤い糸はみるみるうちに汐に迫り、彼女の体を少しずつ切っていく。

 

(くそっ、くそっ!くそっ!!こんなところで死ぬわけには・・・もう一回。もう一回爆砕歌を使って・・・)

 

最後の最後まで汐は足掻こうと必死で息を整える。しかし、糸の籠は無情にも汐の全身を切り刻もうとしていた。

痛みを覚悟し、汐が硬く目を閉じたその時。

 

一陣の風が、鋭く吹いた。それと同時に、汐の周りの糸がばらりと落ちる。自分のものでも、炭治郎のものでもないこの風は・・・

 

(誰・・・?)

 

汐が問いかける前に、体がぐらりと傾き頭が地面に落ちそうになる。が、そんな彼女の体を、誰かがとっさに支えた。

 

汐が目を見開くと、そこには左右半分が無地・左半分が亀甲柄の羽織を着た青年、冨岡義勇の姿があった。

 

「あ・・・あんた・・・!」

 

汐がかすれた声で言うと、義勇は汐の背中を支えたまま静かに言った。

 

「俺が来るまで良く堪えた。後は任せろ」

 

その声が汐の心に、絶大な安心感を生み出す。だが、汐は無理やり体を起こすと、苦しげに息をつきながら言った。

 

「あたしの事よりあの二人を・・・炭治郎と禰豆子を・・・お願い・・・。あたしじゃもう・・・守れ・・・ないから・・・」

 

汐の言葉に義勇は微かに目を見開くと、遠くで倒れ伏す二人を見る。それから汐に目を向けると、そのまま彼女の体を木に寄りかからせた。

 

そんな様子を、累は苛立たし睨みつける。その体は怒りのあまり小刻みに震えてさえもいた。

 

「次から次に・・・!!僕の邪魔ばかりする屑共め!!」

 

――血鬼術・刻糸輪転(こくしりんてん)――

 

累の手にいくつもの糸が集まり、輪のようになっていく。風を切る鋭い音が響き、巻き込まれた木の葉が粉々になっていく。

その糸の束を、累は義勇に向かって放った。糸の嵐が、轟音を立てて彼に向かう。

 

 

――全集中・水の呼吸――

――拾壱ノ型 (なぎ)

 

糸の嵐が義勇の間合いに入った瞬間、糸がパラパラと彼の周りを漂った。累をはじめ、皆何が起こったのか理解できなかった。

 

(なんだ?何をした?奴の間合いに入った瞬間、糸がばらけた。一本も届かなかったのか?最硬度の糸を――斬られた?)

 

「そんなはずはない!!もう一度だ!もう一度・・・!」

 

累は再び義勇に向けて術を放とうと手を伸ばす。だが、不意に彼が累の視線から消えた。その刹那。

 

義勇はすれ違いざまに累の頸に刃を滑らせた。ずるりという音と共に、累の頸がずれ、ごろりと落ちる。

 

冨岡義勇が繰り出したのは、拾までしかない水の呼吸の方に加え、彼自身が編み出した拾壱の型。彼の間合いに入った術は実質全て無効化されるのだ。

 

(くそっ!くそっ!!殺す、殺す!殺す!!あの兄妹は必ず・・・殺す!!!)

 

頸が落ちても尚、累は殺意を込めた眼で必死に炭治郎と禰豆子を探す。そしてその視線の先には、禰豆子を守るようにして覆いかぶさる炭治郎の姿があった。

 

それを見た瞬間。累の心に一つの言葉がよみがえった。

 

――累は、何がしたいの?

 

それはかつて、自分が【母】を強要させていた鬼の言葉。その言葉にかつての彼は答えることができなかった。

人間の頃の記憶がなかったから。本物の家族の絆に触れれば、記憶が戻ると思ったからだ。自分の欲しいものが分かると思ったからだ。

 

「禰豆子・・・!」

 

炭治郎が小さく妹の名を呼ぶ。それはそこに確かにある、家族の愛のこもった声。

 

――そうだ。僕は、俺は・・・

 

累の脳裏に二つの人影がよみがえった。

 

 

*   *   *   *   *

 

その少年は生まれつき体が弱かった。走るどころか、歩くことさえ辛い程。彼の両親は彼を治そうとあちこちの医者へかかったが、皆匙を投げてしまっていた。

そんな中、少年の下にある一人の男が現れた。白い西洋風の服を着た、白い肌に血のような赤い目の男。

 

「可哀そうに。私が救ってあげよう」

 

その男の(ちから)によって少年の体は強くなった。しかし、彼の両親は喜ばなかった。強い体を手に入れた代わりに日の光に当たれなくなり、人を食わねばならなくなったからだ。

 

ある日の夜。彼の両親は彼が人を殺し食っている姿を目撃する。そして彼の父親は酷く怒り、母親は泣き崩れた。

少年には意味が分からなかった。何故この二人は、息子である自分に笑いかけてくれないのだろうと。

 

そして彼は思い出した。かつて川でおぼれた子を助けて死んだ親がいたという話。彼は感動した。親の愛、絆。その親は立派に【親の役目】を果たしたからだ。

 

それなのに何故か、少年の父親は彼を殺そうと刃を向けた。母親は泣くばかりで殺されそうになっているわが子を助けようともしない。

 

――偽物だったのだろう。俺達の絆は。本物じゃなかった。

 

少年は父親と母親に手をかけた。二人ともおびただしい量の血を流していて、一目見て助かるとは思えない程の傷だった。

 

だが、彼の母親が小さくうめいて声を漏らす。彼はまだ生きていることに少し驚くが、彼女の言葉が気になり思わず耳を傾けた。

 

――ごめんね、累。丈夫な体に産んであげられなくて、ごめんね・・・

 

その言葉を最後に母親は事切れた。その瞬間少年、累は思い出した。父親が自分に刃を向けた時に発した「一緒に死んでやる」という言葉。

殺されそうになった怒りで理解できなかったが、それは累が人を殺めた罪を一緒に背負って死のうとしてたということに気づいた。

 

そして彼はすべてを理解した。本物の絆を、彼はあの夜自分自身の手で切ってしまっていたことに。

 

「全てはお前を受け入れなかった親が悪いのだ。己の強さを誇れ」

 

その男は累を励ましてくれた。そう思うよりほかなかった。たとえ自分が悪いと分かっていても、自分のしたことに耐えるにはそうするしかなかった。

毎日毎日両親が恋しくてたまらなかった。虚しかった。作り物の家族を作っても、その虚しさが消えることはなかった。

守ってもらいたかった。甘えたかった。本当の家族が、欲しかった・・・

 

 

*   *   *   *   *

 

炭治郎と禰豆子のそばに、累の胴体だけがふらふらと近づく。だがその手は彼等には届かずにその少し前で倒れ伏す。

その累の体から、炭治郎は抱えきれない程のとてつもない悲しみの匂いを感じた。涙が彼の両目からあふれ出すほどの。

 

炭治郎は消えゆく累の背中にそっと手を置いた。陽だまりのような温かい彼の手。それは、頭部だけになった累にも感じていた。

そしてその瞬間霞がかった彼の記憶が一気によみがえった。

 

(僕は、謝りたかったんだ。父さんと母さんに。ごめんなさい、僕が全部悪かった。許してほしいって思ったんだ)

 

「でも、山ほど人を殺した僕は、地獄へ行くよね。父さんと母さんと同じところには行けないよね・・・」

 

累の消えそうな言葉が風に乗って汐の耳に届く。汐は自然と口を開き、静かに言った。

 

「それを許すのはあたし達じゃない。でも、あなたはもうわかっているはず。あなたを許すのが誰であるか」

 

汐の声が累を揺らしたその時。不意に、累の背中に誰かの手が置かれた。振り返るとそこには、彼と似た眼をした男性と、その傍らで微笑みかける女性がいた。

 

「一緒に行くよ、地獄でも。父さんも母さんは累と同じところへ行くよ。ずっと、ずっと一緒だ」

 

「父さん・・・母さん・・・」

 

累の心が【人】へと戻った瞬間、彼の両目から涙があふれ出す。そして彼は二人の胸に飛び込み、大声をあげて泣いた。

 

「全部、全部僕が悪かったよう。ごめんなさい!ごめんなさい!!」

 

累は何度も何度も両親に謝罪の言葉を叫ぶ。そんな彼を二人は硬く抱きしめほほ笑んだ。そして三人は、地獄の業火に包まれるようにして消えていった。

 

それと同時に、累の体も頸も灰になって消える。残されたのは、彼が身に纏っていた白い着物だけ。これで本当に戦いは終わった。

 

(でも、なんでだろう。勝ったはずなのに少しも嬉しくない)

 

残ったのは虚しさと悲しみ。かつて炭治郎が、鬼を斬るたびに悲しそうな顔をしていたことを思い出した。

自分は炭治郎程優しくはないし、汐も炭治郎も禰豆子も、累には散々な目にあわされたため、彼を完全に許すことなどできはしない。

けれど、この胸の中に残るもやもやした気持ちに、汐は名をつけることができなかった。

 

その時だった。

 

「止めてください」

 

炭治郎の声がして顔を向けると、そこには累の着物を踏みつけるようにして立つ義勇の姿があった。

 

「人を食った鬼に情けをかけるな。子供の姿をしていようと関係ない。何十年何百年生きている、醜い化け物だ」

 

義勇の淡々とした声が炭治郎と汐の耳に入る。すると炭治郎は、凛とした眼で義勇を見据えながら言った。

 

「殺された人たちの無念を晴らすため、これ以上被害者を出さないため、勿論俺は容赦なく鬼の頸に刃を振るいます」

 

累の着物を握りしめながら、炭治郎ははっきりと言葉を紡いだ。

 

「だけど、鬼であることに苦しみ自らの行いを悔いている者を踏みつけにはしない」

 

――鬼は人間だったんだから。俺達と同じ人間だったんだから

 

「足を、どけてください。鬼は醜い化け物なんかじゃない。鬼は虚しい生き物だ。悲しい、生き物だ」

 

炭治郎の言葉に、義勇は目を細めた。とても鬼を狩る剣士の言葉ではない。この少年は、あまりにも優しすぎる理解できない行動だった。

 

「あたしからも、お願い。その足を、どけて」

 

義勇が振り返ると、汐がふらふらと彼の下へ近づいてくるのが見えた。声は枯れ果て、目もほとんど見えていない程傷つきながらも、汐は必死に足を動かす。

 

「この竈門炭治郎って奴は、時々どうしようもない程素っ頓狂なことを言うけれど、絶対に自分の言葉を曲げたりは、しないの。どこまでも、頭が固い男なのよ。きっと、あんたは、この人の言っていることを理解できない、かもしれない。けど」

 

――理解できなくても、否定はしないで。竈門炭治郎という人を、否定しないで・・・

 

汐はそのままぐらりと倒れ、か細く息をつく。そんな彼女の名を、炭治郎はかすれた声で呼んだ。

 

その時。義勇の脳裏に二つの記憶がよみがえった。一つは雪降る山で出会った、鬼になった妹を守ろうとした少年。

そしてもう一つは、鬼となった養父を涙ながらに打倒した、青髪の。

 

「お前たちは・・・」

 

義勇が何かを言おうとした瞬間、こちらに向かってくる足音が聞こえた。彼は瞬時に刀を抜いて、その襲撃者を迎撃する。

 

「あら?」

 

襲撃者は空中でくるりと体勢を立て直すと、義勇を見て言った。

それは、蝶を彷彿とさせる羽織を纏い、蝶の髪飾りを付けた小柄な女性。

 

「どうして邪魔をするんです?富岡さん。鬼とは仲良くできないって言ってた癖に何なんでしょうか」

 

――そんなだから、皆に嫌われるんですよ

 

そう言って女性剣士、胡蝶しのぶは刀を構えたまま意味深な笑みを浮かべた。




おまけCS
汐「すごい・・・!あたしたちが全力ひねり出しても勝てなかった相手にあんなにあっさり・・・岡冨さんって強かったのね」
義「・・・冨岡だ」
汐「あれ?でも岡冨さん、第一章で鬼になったおやっさんにボコボコにされてなかったっけ?」
義「冨岡だ。あれは作者の戦闘描写能力が著しく低いだけで、俺はボコボコにされていない」
汐「な、なんかいきなり世界観ぶっ壊すような言葉を言い出したわよ、富岡さん」
義「冨岡だ」
汐「え?あたし今ちゃんと富岡って言ったよね?」
義「字が違う。俺の冨はウ冠ではなくワ冠だ。よくウ冠の方と間違われるが、正しくはワ冠だ。ちなみにこの作者は二章に入ってからもずっと漢字を間違い続けていて、読者の誤字報告によってようやく気が付いたほどだ」
汐(うわあ、この人いろんなことに興味なさそうな面してる割に意外とそういうところ細かいんだ・・・意外ッ。それは繊細!)


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

十章:柱合裁判


時間は少しだけさかのぼり

意識を失っていた善逸は、ふと目を覚ました。すると自分の全身は布状のものでぐるぐる巻きにされており、【治療済み】と書かれた札が貼ってある。
周りを見渡せば、鬼の毒で蜘蛛にされていた人々も彼同様の姿になっていた。

そして目の前では顔を隠した隊服と似たものを着た集団と、白い羽織を纏った少女の剣士がてきぱきと作業をしている。
善逸はその少女に見覚えがあった。最終選別の時にいた少女だ。髪には善逸達を治療していた女性剣士と似た飾りをつけている。

「こちらも蝶屋敷へ?」

顔を隠した男がそういうと、少女は頷く。

「怪我人は皆うちへ。付近の鬼は私が狩るから安心して作業して」

そういうと少女剣士は森の中へと消えていった。

(そういえば昔聞いたことがあった。事後処理部隊【(かくし)】鬼殺隊と鬼が戦った後の始末をする部隊)

彼等は皆、剣技の才に恵まれなかった者たちがほとんどだという。決して鬼殺の剣士だけが、鬼殺隊を支えているわけではなかったのだ。

そんな彼らが、森で縛られた伊之助を見つけるのはもう少し後・・・


「さあ冨岡さん。どいてくださいね」

 

しのぶはそう言って刀を彼らに向ける。刀身が針のように細く尖っているその日輪刀は、どう見ても斬ることには適していない形状をしていた。

しかし彼女の最大の武器は、その刀身からにじみ出る【鬼を殺す毒】であり、頸を斬らずとも鬼を滅することができるのだ。

 

微かな毒の匂いを炭治郎は感じ、かすかに震える。一方汐も、しのぶの眼から感じられる奇妙な感覚に身を震わせた。

 

(何なのこの人。人間なのは確かだけれど、これだけ色んな感情がごちゃ混ぜになった眼なんて見たことない。こんな人本当に要るの?)居るの?

 

しばらく居心地の悪い沈黙が続いた後、義勇が徐に口を開いた。

 

「俺は嫌われてない」

 

その言葉を聞いた瞬間、場が一瞬で凍り付く。炭治郎は何とも言えない顔をし、しのぶも思わず顔を引きつらせる。

 

(ええええええ!!?気にするとこそこォォォォォ!?)

 

場の空気を全く読めない素っ頓狂な発言に、汐は思わず胸の中で突っ込んだ。元々感情が読めなさそうな眼をする男だとは思ったが、まさか空気まで読めないとは思わなかったのだ。

 

「ああそれ、すみません。嫌われている自覚がなかったんですね。余計なことを言ってしまって申し訳ないです」

 

再び場の空気が凍り付き、今度は義勇の顔が引きつった。炭治郎は思わず彼を見上げ、汐は(やめたげてェ!流石にかわいそうだからやめたげてェェェ!!)と再び胸の中で全力で突っ込んだ。

 

「坊や」

 

そんな彼に構うことなく、しのぶは倒れ伏している炭治郎に優しく声をかける。そんな彼女に炭治郎は思わず返事をした。

 

「坊やが庇っているのは鬼ですよ。危ないですから離れてください」

 

しのぶの言葉からするに、鬼というのは禰豆子の事だろう。そして彼女が炭治郎の実妹だということに気づいてはいない様だ。

 

「ち、違います!いや、違わないけど・・・、あの、妹なんです!俺の妹で、それで」

炭治郎は何とか禰豆子の事情を説明しようと、痛みをこらえながら言葉を紡ぐ。

 

「まあ、そうなのですか。可哀そうに・・・では――」

 

一方しのぶは事情を察したらしく気の毒そうに口元に手を当てた。

 

しかし汐は気づいていた。彼女の眼から微かだが確実に殺意が漏れていることに。

 

「苦しまないよう、優しい毒で殺してあげましょうね」

 

その瞬間、汐も炭治郎も悟った。この人には話が通じそうにない。話すだけ無駄だということに。

そんな炭治郎に、義勇は小さな声で尋ねた。

 

「動けるか?」

 

だが炭治郎が答える前に「動けなくても根性で動け。妹を連れて逃げろ」とだけ告げた。

 

「冨岡さん・・・」

 

炭治郎は一瞬汐に目を向けるが、彼女は眼で「あたしはいいからさっさと逃げて」とだけ伝えた。

 

「汐、ごめん。冨岡さんもすみません!」

 

炭治郎は叫ぶように言うと、禰豆子を抱きかかえて走り出した。

 

そんな彼らを見てしのぶは少し面食らった顔をしたが、すぐに表情を笑顔に戻して言った。

 

「これ、隊律違反なのでは?」

 

しのぶの言葉に義勇は答えず、ただ視線を向けるだけ。肌を突き刺すような空気に、汐は息をのんでその光景を見つめていた。

 

しばしの沈黙があたりを支配したその時、先に動いたのはしのぶだった。

しのぶの刀と義勇の刀がぶつかり合い、火花を上げる。体格的には男性である義勇が有利であるが、しのぶは小柄な分かなり素早いようだ。

 

「本気、なんですね。冨岡さん」

 

体勢を立て直しながらしのぶは淡々と言葉を紡ぐ。

 

「まさか【柱】が鬼を庇うなんて」

 

(え?柱?)

 

しのぶの言葉に汐は思わず義勇を見つめた。柱。かつて彼女の養父玄海や鱗滝が付いていた、鬼殺隊最高位の称号。それならば、先ほどの強さも納得できた。

 

義勇は何も答えずただしのぶを見据えている。そんな彼にしのぶは一つため息をつくと、再び笑みを顔に張り付けながら言った。

 

「あなたがその気だろうと、私はここで時間稼ぎに付き合う気はありませんので、では、ごきげんよう」

 

しのぶはそれだけを告げると、目にもとまらぬ速さで駆け抜ける。その速さに流石の義勇も反応が遅れた。

 

(駄目!あの人を禰豆子の所へ行かせるわけにはいかない!!)

 

汐は無意識に息を吸っていた。高い弦をはじくような音がする。

 

「止めて!!!」

 

汐がそう叫んだ瞬間。ピシリという空気が張り詰めるような音と共に、突然しのぶの動きが止まった。

 

「え・・・?」

 

その光景にしのぶをはじめ、汐、義勇ですら目を見開く。

 

「これは・・・いったい・・・どういう・・・ことでしょう?」

 

しのぶはぎりぎりと手足を震わせながら途切れ途切れに言葉を紡ぐ。その顔には先程の笑みは消え、微かだが焦燥が見えている。

 

「あなた・・・ですか・・・?」

 

しのぶの眼が汐を捕らえるが、汐はしのぶを睨みつけるようにしながら低い声で言った。

 

「あの二人を引き裂く者は、誰であろうと許さない。鬼だろうが、人間だろうが・・・」

 

それだけを言うと汐は地面にぱったりと倒れ伏し、意識を失った。

それと同時にしのぶの体が不意に自由になり走り出す。だが、義勇にとってはそのわずかな時間も好機だった。

駆け出したしのぶに、義勇はすぐさまその手を伸ばすのであった。

 

 

*   *   *   *   *

 

 

一方、義勇の手助けでその場を逃げ出した炭治郎と禰豆子は、暗い森の中をひたすら走っていた。

身体がすでに限界を迎えつつある炭治郎は、激しい痛みに涙をこらえながらも、呼吸を使いながら走り続ける。

 

走っている最中に禰豆子が目を覚ますが、炭治郎はそれすら気づかずに走り続けた。

 

(俺は鬼殺隊を抜けなければならなくなるのか?いくら妹とはいえ、鬼を連れてる剣士なんて認められない・・・)

 

――ごめん、汐。お前とも会えなくなるのかもしれない・・・

 

夢中で走っていた炭治郎は、背後から迫るもう一人の追跡者に気づくことができなかった。

追跡者は炭治郎の背中を思い切り蹴り飛ばすと、そのまま反動で前に飛ばされた禰豆子の前に降りたつ。

 

白い羽織を纏った、黒髪の蝶の飾りを付けた少女だ。年齢は炭治郎とさほど変わらないように見える。

 

彼女は刀を抜くと、躊躇なく禰豆子の頸へ刃を振るおうとした。が、炭治郎が羽織を引っ張り寸前でそれを阻止する。

剣士の少女は炭治郎の背中に尻餅をつきその衝撃に炭治郎も呻くが、構わず禰豆子に逃げるよう叫んだ。

 

禰豆子は兄に言われたとおりに森の奥へと足を進める。そんな中、少女は炭治郎の頭にそのかかとを叩き込んだ。

白目をむいて気を失う炭治郎を放置し、彼女は禰豆子を追って走り出す。

 

だが、その刃が禰豆子の頸を穿とうとしたその時、禰豆子は身体を縮ませ幼子の姿になった。

 

(小さく、子供になった)

 

小さくなった禰豆子はそのままとてとてと足音を立てながら走り出す。少女もその後を追い、何度か刀を振るうが禰豆子は小さな体でそれを巧みに躱して言った。

 

(逃げるばかりで少しも攻撃してこない。どうして?)

 

少女は一向に反撃してこない禰豆子に疑念を抱くが、言われたとおりに鬼を斬るだけと考えを固定し禰豆子をひたすら追うのだった。

 

*   *   *   *   *

 

一方そのころ。

 

「冨岡さん。鬼を斬りに行くための私の攻撃は正当ですから、違反にはならないと思いますけど、あなたのこれは隊律違反です」

 

冨岡はしのぶの頭部を脇に抱え締め上げるようにして拘束し、しのぶは腕をその間に差し入れ頸が締まらないようにしていた。

 

「鬼殺の妨害、ですからね。どういうつもりですか?」

 

しのぶはあくまでも温厚な声色で言うが、その顔にはいくつもの青筋が浮かんでおり決して声色と表情が一致しているわけではなかった。

そんな彼女に、義勇は困惑したような顔をし、しのぶもしびれを切らし「何とかおっしゃったらどうですか?」と棘のある言葉を吐いた。

 

「あれは確か、二年前の事――」

「そんなところから長々と説明されても困りますよ。嫌がらせでしょうか?嫌われてると言ってしまった事、根に持ってます?」

 

しのぶの言葉が、義勇の心を大きく抉り取り顔まで思い切り崩れる。その微かな隙をしのぶは見逃さなかった。

足のかかと部分に仕込まれた小刀が、その姿を現したのだ。

しのぶがその小刀を義勇に突き立てようとした、その時。

 

「伝令!!伝令!!カァ!!」

 

何処からか鎹鴉が飛んできて、大声を上げた。その声にしのぶは足を止め、義勇も刀を持った手を止めた。

 

「本部ヨリ伝令アリ!炭治郎・汐・禰豆子三名ヲ拘束!!本部ヘ連レ帰ルベシ!!繰リ返ス!炭治郎・汐及び鬼の禰豆子、三名ヲ拘束シ、本部ヘ連レ帰レ!!」

 

「炭治郎、市松模様ノ羽織ニ額ニ傷アリ!汐、赤イ鉢巻ヲ巻イタ青髪ノ少女!!竹ヲ噛ンダ少女ノ鬼、禰豆子!連レ帰レ!!」

 

二羽の鴉がけたたましく喚き、森中にその伝令を知らせる。義勇としのぶも互いに刀を納めると森を抜けるべく歩き出す。二人の間には、なんとも微妙な空気が漂っていた。

 

一方。伝令を受けた隠達は、森の中でうずくまるようにしている汐の姿を見つけた。

 

「赤い鉢巻に青の髪。間違いない」

 

隠の一人が汐に近寄り、彼女の青髪と鉢巻きを確認する。

 

「少女って言ってたけど、こいつ本当に女か?どう見ても男にしか見えんが・・・」

「それよりこいつの左手。かなり腫れているうえに内出血までしてるぞ。こりゃあ絶対に骨が砕けてるな」

 

もう一人の隠がそう言って汐の手の手当てをしようとした、その瞬間だった。

 

突然、汐の右手が素早く動き、隠の頸を掴んで締め上げたのだ。

 

「ぐっ!!?」

「なっ!?お、おい!!何をしてる!!」

 

もう一人の隠が慌ててその手を離そうと試みるが、汐の手はいくら力を振り絞っても微動だにしなかった。

 

「な、なんだこいつ!?びくともしねえ!?子供の、女の力じゃねえ!?」

 

異変に気付いた他の隠も、慌てて駆け寄り引きはがしにかかるが、4人がかりでも汐の右手の拘束を解くことはできなかった。

 

「ば・・・ばけ・・・・もの・・・・」

 

掴まれている隠が途切れ途切れに言葉を繋いだ時、汐の体がびくりと大きく跳ねた。そして掴んでいた手をそっと離すと、そのままだらりと腕を地面に投げ出した。

 

掴まれていた隠がせき込み息を整えている間、他の隠達は警戒しながらも汐の体を拘束する。荒縄で縛り付けた後金属の拘束具を付けた。

 

他の場所で見つかった炭治郎や禰豆子、そして義勇によって縛り付けられていた伊之助も回収され、皆山を下りて行った。

 

太陽の光が降り注ぎ、長い長い夜が終わったことを静かに告げた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



水の流れる音と鳥のさえずる声が辺りを満たし、藤の花の香りが鼻をかすめる中。

「おい、起きろ・・・。起きるんだ」

暗闇の中から誰かの呼ぶ声がするが、炭治郎は眼を固く閉じたまま動かない。

「起き・・・オイ。オイこら。やいてめえ。やい!!いつまで寝てるんださっさと起きろ!!」

そんな炭治郎に痺れを切らした隠は、思い切り怒鳴りつける。その声で炭治郎ははっと目を覚ました。
両腕を荒縄で縛られたまま、砂利の上に横たわっている。

炭治郎の眼に飛び込んできたのは、色とりどりの羽織や髪色をした、身長も年齢もバラバラな6人の男女だった。
皆横たわる炭治郎を見下ろすようにして立っていた。

「なんだぁ?鬼を連れた鬼殺隊員つうから派手な奴を期待したんだが・・・地味な野郎だなオイ」

6人の中で二番目に背が高く、派手目の化粧をした男が少し残念そうな声色で言うと、一番背の高い男は黙ったまま手にした数珠をかき鳴らした。

「うむ!これからこの少年達の裁判を行うと!なるほど!!」

それに続いて言葉を発したのは、黄色と赤の髪が印象に残る三番目に背が高い男。

(鬼になった妹をずっと庇っていたなんて・・・素敵な兄妹愛!健気だわ~!)

桃色と緑色の髪をした女はうっとりとした表情で炭治郎を眺めながら、頬を淡く染めて、一番若い男はぼんやりと空を見上げていた。

「なんだ・・・このひ・・・」

炭治郎が言葉を紡ごうとしたとき、隠はそれを制止させるように彼の頭を抑えた。

「また口をはさむな馬鹿野郎!だれの前にいると思ってんだ!!柱の前だぞ!!」

(柱!?柱って確か、前に鱗滝さんが言っていた。玄海さんと鱗滝さんが付いていたっていう・・・この人たちが・・・いや、それよりもここは何処なんだ?俺は確か、那田蜘蛛山にいたはずなのに・・・)

困惑する炭治郎の表情を読み取ったのか、柱の一人が歩み出る。それはあの時、禰豆子を討とうとした蝶の羽織を着た女性、胡蝶しのぶだった。

「ここは鬼殺隊の本部です。あなた達はこれから裁判を受けるのですよ」

しのぶは優し気な声色でそう言った。が、炭治郎は彼女の言葉に違和感を感じた。彼女が【達】と言ったということは、裁判を受けるのは自分だけではないとのことだ。
しかしこの場には隊士は炭治郎だけで他には誰も見当たらない。
それを察したしのぶは、少し困ったように眉根を下げていった。

「お察しの通り、裁判を受ける隊士はあなたの他にもう一人います。ですが今、怪我の手当てが少し長引いているみたいで遅れているみたいです。でももう少ししたら・・・」

しのぶがそう言いかけたとき

つべこべ言わずに弁護人を呼べェェェェェ!!!

遠くから耳をつんざくような、聞き覚えのある怒声が聞こえてきた。




「おい!いい加減に起きろよ。そろそろ始まるぞ」

 

頬を軽くたたかれて、汐はゆっくりと目を開けた。太陽の光が目に入り、まぶしさに思わずぎゅっと目を閉じる。

 

「やっと起きたか。何べん呼んでも目を開けないから死んだかと思ったぞ。まあ、死なれたら今は困るんだけどな」

 

汐の眼に入ったのは、黒い布で顔を隠したおそらく男。気が付くと汐は両手を拘束具で固定され、身動きが取れない状態になっていた。

 

「ちょ、ちょっとちょっと、何よこれ!?なんであたし縛られてんの?そしてここ何処?炭治郎と禰豆子は?みんなは?」

「あーもう、うるせえな。質問ならひとつづつにしてくれ。俺の体は一つしかないんだ」

 

隠の男はため息をつくと、汐の質問にひとつづつ応え始めた。

 

「まず、ここは鬼殺隊の本部。お前はこれから裁判を受けるんだ」

「裁判?裁判って悪いことをしたら受けるあの裁判?なんで?」

「お前は隊律違反を犯したからだ。何の違反かは俺も知らん。ただ、ここに呼ばれるってことは相当のことをしたってことだな」

 

隠の言葉を聞いて汐の顔が青ざめる。まさかこの年で前科持ちになってしまうとは、玄海が聞いたら拳骨だけじゃすまなかっただろう。

だが、汐は自分が裁判を受けるようなことをした覚えが浮かんでこず、口を開いた。

 

「それって何かの間違いじゃない?あたし裁判を受けるようなことをした覚えなんてない。きっと冤罪って奴ね!で、あたしの弁護人は何処にいるの?」

「はあっ!?弁護人!?いるわけないだろ!それに冤罪なんてあるわけない!適当なことを言うな!」

「適当抜かしてんのはそっちでしょ!?なんで弁護人がいないのよ!弁護人のいない裁判なんて裁判じゃない!あたしが頭悪いからってバカにしてんじゃあねーわよ!いないなら呼んでよ!こっちは人生かかってんのよ!つべこべ言わずに弁護人を呼べェェェェェ!!!

 

汐の耳をつんざくような怒声に、流石の隠の男もぷっつりと切れた。

 

「だからんなもんいるわけねーって言ってんだろうが!!てめーの顔の両脇についているのは飾り物か!?いいからさっさと行きやがれ!!」

 

そう叫ぶと男は汐の背中を思い切り蹴り飛ばした。うめき声をあげて倒れこむと、砂利が顔に食い込み痛みが走る。

 

「痛っ!あんた、あとで覚えておきなさいよ!!絶対にただじゃすまないから!!」

 

汐は捨て台詞を吐きながら顔を動かすと、そこには数人の色とりどりの男女が立っていて、その前には――

 

「炭治郎ッ!!」

 

汐はすぐさま体を起こすと、脇目も降らずに炭治郎の下にかけていった。

 

「炭治郎!!ああよかった、無事だったのねあんた!!」

 

汐はそのまま炭治郎に駆け寄ると、目に涙をためながら彼を見つめた。炭治郎が生きていた。汐の胸に喜びが沸き上がる。

抱き着きたかったが、両腕を拘束されているためそれが叶わないのがもどかしい。

 

(汐も無事だったんだ、よかった。でも、なんで汐がここに・・・?それに汐につけられている拘束具・・・まさか、裁判を受けるもう一人の隊士って・・・!)

 

安堵を宿した炭治郎の顔が、急速に青ざめる。自分には心当たりが少なからずあるが、汐は自分と禰豆子を助けようと必死に戦ってくれた命の恩人だ。

そんな彼女が、裁判を受けるようなことをしたとは・・・汐の性格上、ないとは言い切れなかった。

 

「おーおー、お熱いのも結構だが、あいにくここは逢引する場所じゃあないんでね。少しばかり慎んでもらおうか」

 

頭上から声が降ってきて、汐と炭治郎は肩を震わせる。見上げると色とりどりの男女たちと目が合った。

その瞬間、汐の体が思わず強張った。彼らの眼は、皆とてつもない力を宿しているように見えた。一目見て、只者じゃないと分かるほど。

 

(もしかして、こいつらが今現在の柱・・・。おやっさんや鱗滝さんが嘗て就いていた、鬼殺隊士最高位の剣士!!)

 

汐は炭治郎を庇うようにして柱たちを睨みつける。そんな汐に、しのぶは穏やかな口調で言った。

 

「裁判を始める前に、二人が犯した罪の説明をさせて「裁判の必要などないだろう!!」

 

大きく、よく通る声がしのぶの言葉を遮った。しのぶが顔を向けると、【炎柱・煉獄杏寿郎】が凛とした佇まいで言い放った。

 

「鬼を庇うなど、明らかな隊律違反!我らのみで対処可能!鬼もろとも斬首する!!」

 

「ならば俺が派手に頸を斬ってやろう。誰よりも派手な血飛沫を見せてやるぜ。もう派手派手だ」

 

煉獄の言葉に【音柱・宇髄天元】は、派手に装飾された額当てを押し上げながら答えた。

 

(えぇぇ・・・、こんなかわいい子達を殺してしまうなんて・・・胸が痛むわ。苦しいわ)

 

【恋柱・甘露寺蜜璃】は微かに頬を染めつつも、悲しげな眼で二人を見つめていた。

 

「ああ・・・なんというみすぼらしい子供達だ。可哀想に。生まれてきたこと自体が可哀想だ」

 

【岩柱・悲鳴嶼行冥】は数珠をかきならし、涙を流しながら言葉を紡いだ。

 

一方【霞柱・時透無一郎】は、二人に興味を示さず(なんだっけあの雲の形、なんていうんだっけ)と、ただぼんやりと空を眺めていた。

 

炭治郎は頭を動かし、禰豆子を捜す。汐がここにいるということは、禰豆子もここに連れてこられているはずだ。しかしいくら探しても、それらしい人影は見つからなかった。

 

「殺してやろう」

「うむ!」

「そうだな。派手にな」

 

悲鳴嶼、煉獄、宇髄の三人は二人を見下ろしながら物騒な言葉を吐く。その言葉が本気であるということは、眼を見れば明らかだ。

汐はさらに眼を鋭くさせ、三人を睨みつけた。

 

(禰豆子、禰豆子何処だ!?善逸!伊之助!村田さん!!)

 

炭治郎は必死に首を動かし、仲間たちの姿を捜す。そんな中、不意にどこからか別の声が聞こえてきた。

 

「そんなことより、冨岡はどうするのかね?」

 

汐と炭治郎は声がした方向に顔を向ける。そこには立派な松の木が植えてあり、その樹上に人影があった。

 

「拘束もしていない様に俺は頭痛がしてくるんだが。胡蝶めの話によると、隊律違反は冨岡も同じだろう。どう処分する。どう責任を取らせる。どんな目に遭わせてやろうか」

 

【蛇柱・伊黒小芭内】は、人差し指を動かしながらネチネチと責め立てた。

 

(伊黒さん、相変わらずネチネチして蛇みたい。しつこくて素敵)

 

そんな彼の姿に、甘露寺は頬を染めながら胸を高鳴らせていた。

 

「何とか言ったらどうなんだ?冨岡」

 

彼の視線の先をたどると、皆から離れた位置に一人だけ立つ義勇の姿がある。そんな彼の背中を見て炭治郎は、自分のせいで義勇まで処分を受けることになったと思い、悔しそうに顔をゆがませた。

そんな炭治郎を励ますように、汐は後ろ手で炭治郎の手を握る。この程度でどうにかなるわけでもないが、彼が悲しい眼をするのは見たくなかった。

 

(冨岡さん。離れたところに独りぼっち。可愛い)

 

【水柱・冨岡義勇】の孤独な姿に、甘露寺はまたもや胸を高鳴らせる。そんな不思議な空気を遮るように【蟲柱・胡蝶しのぶ】が口をはさんだ。

 

「まあいいじゃないですか。大人しくついてきてくれましたし。処罰はあとで考えましょう。それよりも私は、お二人から話を聞きたいですよ」

 

そう言って彼女は、警戒する二人の前に足を進めた。

 

「まずは竈門炭治郎君から。あなたは鬼殺隊員でありながら、鬼を連れて任務にあたっていた。これは隊律違反に当たります。そのことは、お二人ともご存じですよね?」

 

しのぶの言葉に、二人は言葉を発することなく彼女を見上げる。そのことは汐も炭治郎もわかっていた。けれど、鬼が炭治郎の妹であり人を襲わない優しい鬼であることを二人は誰よりも知っていた。だからこそ、違反であっても手放すわけにはいかなかった。

 

「そして大海原汐さん。あなたは間接的とはいえ鬼殺の妨害幇助。そして、拘束の際に抵抗し隠の方に軽傷を負わせた傷害の罪もあります」

「え!?」

 

傷害と聞いて汐は思い切り肩を震わせた。

 

「傷害って何!?あたしそんなことしていない!知らないわよ!!」

 

汐が声を荒げると、しのぶは微かに目を見開いたがすぐに元の表情に戻り、淡々とと答えた。

 

「あなたが知らなくても実際に負傷者は出ていますし、目撃者もいます。あなたが怪我を負わせたのは事実なんですよ」

 

有無を言わせない言葉に、汐は言葉が出ずにうつむいてしまう。そんな汐を炭治郎は信じられないという目で見つめていた。

確かに汐は怒ると手を上げてしまう傾向がある。けれどそれは理不尽に振るわれるものではないし、何よりも、汐からは嘘をついている匂いはしなかった。

しかし同じく、しのぶからも嘘の匂いはしない。その矛盾した事実にめまいを起こしそうになっていた。

 

「さて、竈門炭治郎君。何故、鬼殺隊員でありながら鬼を連れているんですか?」

「聞くまでもねえ」

 

宇髄は吐き捨てるように言いながら、背中の日輪刀に手をかける。それをしのぶは軽く制止してから、炭治郎に話してくれるように促した。

炭治郎は口を開き、禰豆子の事を説明しようとした。が、息を吸った瞬間喉に焼けつくような痛みが生じ、思い切り咳き込む。

 

「炭治郎!・・・ッ!」

 

汐が思わず叫ぶと、叫びすぎたせいか彼女も炭治郎同様に咳き込む。しのぶはそっと二人に近寄ると。、それぞれに瓢箪を差し出した。

 

「水を飲んだ方がいいですね。竈門君は顎を、大海原さんは喉を傷めていますから、ゆっくり飲んで話してください。それぞれに鎮痛薬が入っていますから楽になりますよ」

 

汐は警戒心を込めた眼でしのぶを見つめた。この人はあの山で禰豆子を殺そうとした張本人だ。簡単に信用していいものなのか、わからない。

 

「大丈夫ですよ。自白毒なんて入っていませんから。あなたが私を信用できない気持ちはわかりますが、今は信じていただけると嬉しいです」

 

そういうしのぶの眼は嘘をついて言はいない様だ。だが、簡単に信用しきるわけにもいかない。結局、横で炭治郎が水を飲み始めたため汐も瓢箪に口を付けた。

 

「怪我が治ったわけではないので無理はいけませんよ」

 

炭治郎は一呼吸置いた後、徐に口を開き話し始めた。

 

「鬼は俺の妹です。俺が家を留守にしている間に襲われて、帰ったらみんな死んでいて――。妹は鬼になりました。だけど、人を食ったことはないんです。今までも、これからも、人を傷つけることは絶対にしません」

「くだらない妄言を吐き散らすな。そもそも身内なら庇って当たり前。いうこと全て信用できない、俺は信用しない」

「あああ・・・鬼に取り憑かれているのだ。早くこの哀れな子供を殺して解き放ってあげよう」

 

炭治郎の言葉を、伊黒と悲鳴嶼は真っ向から否定する。そんな二人を汐は鋭い眼で睨みつけた。

 

「聞いてください!俺は妹を、禰豆子を治すために剣士になったんです。禰豆子が鬼になったのは二年以上前のことで、その間禰豆子は人を食ったりしていない!」

「そうよ!あたしも禰豆子とは一年以上一緒にいるけれど、その間人を食ったところなんて見たことない!!」

 

我慢できずに汐も口をはさむと、宇髄は呆れたようにそれを遮った。

 

「話が地味にぐるぐる回っているぞ阿呆共が。人を食ってないことこれからも食わないこと。口先だけでなくド派手に証明して見せろ」

「証明?そんなものあたしが何よりの証拠よ!あたしは禰豆子と一緒に戦ったし、襲われるどころか何度も命を助けられた。それにあたしは二人とは血のつながりのない赤の他人。だから身内でもない!何ならあたしの着物をひん剥いて調べたっていい!噛み傷なんて小さいころに鮫に襲われてできたものだけよ!!それじゃあだめなわけ!?」

 

汐のよく通る声が庭中に響く。皆呆然と汐を見ていたが、汐は眼に怒りを宿しながら柱たちを睨みつけた。

 

「あのぉ~」

 

そんな空気に耐え切れなくなった甘露寺が、おずおずと口を開いた。

 

「でも疑問があるんですけど・・・。()()()がこのことを把握していないとは思えないです。勝手に処分しちゃっていいんでしょうか?」

 

そんな彼女に、煉獄と宇髄と悲鳴嶼は視線を向け、それから汐と炭治郎に視線を戻した。

 

「いらっしゃるまでとりあえず待った方が・・・」

「妹は!妹は俺達と一緒に戦えます!!鬼殺隊として人を守るために戦えるんです!」

「炭治郎の言ったことは全部本当よ!おかしなことは言うけれど、決して嘘はつかない!それはあたしが誰よりも知ってる!だから!!」

 

二人は必死で禰豆子が人を襲わないことを訴える。そんな二人を見て、しのぶが微かに表情を変えたその時だった。

 

「オイオイ。何だか面白ことになってるなァ」

 

その場にいない別な声が聞こえ、汐と炭治郎は視線を動かす。するとそこには、一人の男が立っていた。

 

「鬼を連れた馬鹿隊員てのはそいつかィ?一体全体どういうつもりだァ?」

 

全身に無数の傷があるその男は、鋭いという言葉が生ぬるく感じるほどの常軌を逸脱した目つきをしていた。

 

(うわっ、また変なのが出てきた・・・!)

 

警戒心をそのままに、汐は心の中で悪態をつく。だが、男が手に持っているものを見て思わず息をのんだ。

その男【風柱・不死川実弥】の手には、禰豆子が入っているであろう霧雲杉の箱があった。

 

(不死川さん、また傷が増えて素敵だわ!)

それを見た甘露寺は再び胸をときめかせる。

 

「困ります不死川様!どうか箱を手放し下さいませ!」

 

後ろから慌てた様子の隠が訴えるが、それよりも先にしのぶがすっと立ち上がった。

 

「不死川さん。勝手なことをしないでください」

 

その口調は先ほどまでの穏やかなものではなく、低く淡々としたものだった。そんな彼女を見て甘露寺は(しのぶちゃん怒っているみたい。珍しいわね、かっこいいわ)とまた胸をときめかせていた。

 

「鬼が何だって坊主共ォ。鬼殺隊として人を守るために戦えるゥ?そんなことはなァ――」

 

――ありえねぇんだよ馬鹿がァ!!

 

不死川は素早く刀を抜くと、その刃を箱に躊躇いもなく突き刺した。ぐくもった声と共に、血に塗れた切っ先が箱から飛び出す。

 

「!!」

 

その光景に汐は眼を見開き、炭治郎はすぐさま前に飛び出して叫んだ。

 

「俺の妹を傷つける奴は、柱だろうが何だろうが許さない!!」

「そうかい、よかったなァ」

 

不死川は血の付いた刀を箱から抜くと、そのまま刀を振り血を払った。その飛沫の一つが汐の頬にかかり、赤い線を引く。

 

その瞬間、汐の体がすうっと冷たくなり心臓の音だけが響き渡った。目の前がどんどん赤く染まっていき、心の中がどす黒いもの支配されていく。

 

それは怒りや憎しみよりも深く冷たい、失望感。

 

――ああ、そうか。()()()()()()

 

汐の耳に、何かが砕け散る音が響いた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



視界が真紅に染まる寸前、不思議な光景を見た。

人に似たものが、目の前にうずくまる塊に向かって何かを叫びながら、手に持っている鉄の塊を振り下ろしていた。

 

()()らが何を言っているのかはわからなかったが、きっと耳をふさぎたくなるようなひどい言葉だろうと思った。優しい言葉をかけながら何かを叩くことなど、めったにないだろうから。

 

()()らが鉄の塊を振り下ろすたびに赤いものが飛び散る。そしてうずくまる塊は、何も言葉を発することなくただひたすら理不尽な雨に耐えていた。

 

けれど、彼女にはわかった。その塊の殺意と絶望が、振り下ろされるたびに大きくなっていくことに。

 


 

炭治郎が不死川に飛び掛かろうとしたとき、背後で何かが砕け散る音がした。それと同時に、炭治郎の横を青いものが凄まじい速さで通り過ぎた。

 

拘束具を引き千切った汐が、炭治郎の脇を駆け抜け不死川に飛び掛かったのだ。

炭治郎に気をとられていた彼は汐の存在を失念していたため反応がわずかに遅れた。しかしそれでも刀を汐に向けて降りぬこうとする。

だが、その刃が汐に届く前に不死川の動きが止まった。そのわずかな隙に、汐は右拳を不死川の顔面に渾身の力を込めて叩きつけた。

 

破裂音が高らかに響き、不死川の体がぐらりと傾く。さすがに吹き飛ばされはしなかったが、それでも体勢を立て直すことができず膝をついた。

左頬は赤く腫れ、口からは血が流れだしている。

 

炭治郎は勿論、他の柱も呆然と膝をつく不死川と、拳を振り下ろしたままの汐を眺めていた。ただ、甘露寺だけが(ええええ!?不死川さんが女の子に殴られちゃった!?)と、口を押えて目を見開いていた。

 

「て、テメエ・・・」

 

不死川が立ち上がろうとしたとき、汐の口から凄まじい怒声が響いた。

 

ふざけてんじゃあねーぞォォォ!!!

 

そのあまりの声の大きさに、空気がびりびりと音を立てて震える。

 

さっきから聞いてりゃ勝手なことばかり言いやがって!!柱ってのは人の話もまともに聞くことができないくらい、脳みそ凝り固まった連中ばかりか!!目の前の微かな可能性を信じる度胸もない奴が、柱なんざ偉そうに名乗ってんじゃねぇよ!!いつもそうだ!お前らは自分とは異なる者を決して認めようとしない!!お前らも、()()()()も。自分と異なる存在が、自分が信じてきたものを否定されるのが何よりも恐ろしいからだ!!だから排除しようとする!!傷つけられている者、それに連なる者の痛みを決して理解しようともしない!!そうでなければ、私は!!私はアア!!

 

冷たくなった体に血が急激に上り、眩暈と吐き気がする。だがそれでも、膨れ上がった怒りと憎しみは止まらず、それが絶望と殺意に変わっていく。

 

――嗚呼、もうたくさんだ。もうこれ以上、こんな思いをしたくない・・・

乱れた息が不意にぴたりと止まると、汐はゆっくりと顔を上げた。その顔を見た瞬間。不死川は思わず息をのんだ。

 

汐の眼には光は全く宿っておらず、そこにはただ目の前のものをひたすら殺したいという純粋な殺意だけが宿っていた。

そんな彼女の左目から一筋の涙がこぼれ、それが頬に付着していた禰豆子の血と混ざり赤い雫となり零れ落ちた。

そしてその口角は微かに上がり、心なしか笑っているようにも見えた。

 

――もういい。全部どうでもいい。私の大事なものをこれ以上奪うというのならば・・・・

 

 

 

                                           

 

 

汐の口が再び開いたとき、異変が起きた。刀を持った不死川の腕が震えながら動き出し、自分の頸にその切っ先を押し当てたのだ。

それが彼の意思ではないことは、驚愕の表情から見て取れた。必死で刀を首から離そうとするが、刀はじりじりと頸へ向かっていく。

 

「伊黒!!そいつの口を塞げ!!」

 

異変に気付いた宇髄が声を上げ、木の上にいた伊黒はすぐさま汐の下におり口に布を咥えさせる。しかしそれでも不死川の手は止まらない。

 

だが、その刃が頸へ食い込む前に、炭治郎の声が響いた。

 

「止めろ汐!!それ以上はだめだ!!」

 

炭治郎の声が耳に入った瞬間、汐の体が強張る。それと同時に不死川の刀が手から離れ、砂利の上に転がった。

 

その隙に伊黒は汐の両手を拘束するが、汐はぐったりと頭をたれたまま抵抗はしなかった。

 

(なんだこいつは・・・?拘束具を引き千切ったこともそうだが、先ほど不死川の身に起こったこと。あれは本当に人間の為せる業なのか?こいつは本当に、人間なのか?)

 

ぐったりとしたまま動かない汐を、伊黒はおぞましいものを見るような眼で見据えていた。

一方、不死川は荒い息をしながら汐を睨みつけながら再び刀をとった。

 

「どけェ、伊黒。何をされたのかはわからねえが、ここまでコケにされたのは初めてだァ!!鬼もろともぶっ殺してやる!!」

 

そう叫んで刀を振り上げようとした、その時だった。

 

「「お館様のお成です!!」」

 

最終選別の時に見た少女たちとよく似た顔立ちの二人の少女が声を上げると、奥の襖がゆっくりと開いた。

その奥から彼女たちとよく似た髪形をした一人の男性が歩いてくる。

 

「よく来たね。私のかわいい剣士(こども)達」

 

ゆったりした声で言葉を紡ぐ彼に、汐と炭治郎の視線はくぎ付けになった。顔には不気味な色をした痣とも傷とも見て取れないものが広がっている。

 

彼こそが、鬼殺隊の現当主を務める【産屋敷耀哉】であり、汐と炭治郎をここへ呼んだ張本人だ。

 

耀哉が部屋に入るとお付きの少女たちが襖を閉める。そして二人は彼の手を取りゆっくりと前へと足を進めた。

その仕草から、彼の目は光を見ることができないということが見て取れた。

 

「おはよう、みんな。今日はとてもいい天気だね。空は青いのかな?顔触れが変わらずに半年に一度の“柱合会議”を迎えられたこと、嬉しく思うよ」

 

汐と炭治郎は耀哉からのゆったりとした声に、縫い付けられたかのように動かなくなった。

 

(この人が、鬼殺隊の一番上の、お館様・・・でもあの顔・・・怪我?じゃないわよね。もしかして、病気・・・)

 

汐がそれ以上を考える間もなく、突然頭を誰かにつかまれ引き倒された。いつの間にか両手は縛りなおされ、猿轡もさらにきつく締めあげられていた。

左手に激痛が走り、思わず小さく息をつく。

 

(速い!しかも全然気配が感じられなかった・・・!これが、柱の力・・・)

 

汐が横目で見上げると、すぐそこには伊黒の姿があった。彼が汐の頭を抑えつけていたのだ。

反対側では炭治郎が不死川に押さえつけられ、汐と同じように引き倒されていた。

 

汐は何とか起き上がろうとしたが、周りを見て目を見開いた。柱全員が跪き、頭をたれている。

それだけで、産屋敷耀哉という人間が偉大であるということが汐でも瞬時に理解できた。

 

「お館様におかれましても、御壮健で何よりです。益々の御多幸を切にお祈り申し上げます」

 

炭治郎を押さえつけたまま不死川が声を上げる。先ほどまでの荒々しさはなりを潜め、その口調は凛としていた。

そんな彼に耀哉は礼を言い、甘露寺は少し不服そうに頬を膨らませた。

 

「畏れながら柱合会議前に、この竈門炭治郎なる鬼を連れた隊士について、ご説明いただきたく存じますが、よろしいでしょうか?」

 

不死川の変りように汐と炭治郎は呆然としたまま、微妙な顔で話を聞いていた。

そんな彼らの心中をよそに、話は進んでいく。

 

「そうだね、驚かせてすまなかった。炭治郎と禰豆子の事は、私が容認していた。そして、皆にも認めて欲しいと思っている」

 

(え!?)

 

耀哉の思いがけない言葉に、汐と炭治郎は勿論柱たちも顔色を変えた。さらに、彼は炭治郎だけではなく妹である禰豆子の名前も知っていた。

一体どういうことなのだろうと汐と炭治郎が思ったとき、口を開いたのは悲鳴嶼だった。

 

「嗚呼・・・例えお館様の願いであっても、私は承知しかねる」

「俺も派手に反対する。鬼を連れた鬼殺隊員など、認められない」

 

二人は真っ向から反対するが、甘露寺は「私は全て、お館様の望むまま従います」と、賛成寄りの言葉を発し、時透は「僕はどちらでも・・・すぐに忘れるので」とどちらともいえない反応をした。

しのぶと義勇は口を閉ざしたまま何も語らない。

 

「信用しない、信用しない。そもそも鬼は大嫌いだ」

「心より尊敬するお館様であるが、理解できないお考えだ!全力で反対する!!」

「鬼を滅殺してこその鬼殺隊。竈門・冨岡・大海原三名の処罰を願います」

 

伊黒、煉獄、不死川ははっきりと反対の意思を口にする。しかし耀哉はこの展開を予測していたかのように、そばに立つお付きの少女に声をかけた。

 

「手紙を」

「はい」

 

少女は懐から一枚の手紙を取り出し広げた。

 

「こちらの手紙は、()()である鱗滝 左近次様から頂いたものです。一部、抜粋して読み上げます」

 

“──炭治郎が、鬼の妹と共にあることをどうか御許し下さい”

 

 “禰豆子は強靭な精神力で、人としての理性を保っています”

 

 “飢餓状態であっても、人を喰わず、そのまま二年以上の歳月が経過致しました”

 

 “俄(にわか)には信じ難い状況ですが、紛れもない事実です”

 

 “もしも、禰豆子が人に襲いかかった場合は、竈門炭治郎及び──・・・”

 

 “鱗滝左近次、冨岡義勇、そして大海原汐が腹を斬ってお詫び致します”

 

「!?」

 

手紙を読み終えたとき、炭治郎は眼を見開き思わず汐と義勇を見た。自分ならまだしも、鱗滝、義勇、そして何より汐が自分の業を背負う覚悟があるということに、彼の両目から涙があふれ出した。

 

(炭治郎、黙っててごめんね。あたし、鱗滝さんがあの手紙を書いているところを見ちゃったんだ。でも、本当はあの手紙がなくても、禰豆子を受け入れたあの日からあたしの心は決まっていた。何があっても二人を守る。でも、もしも禰豆子が人を襲ってしまったら、あたしもみんなと運命を共にするって。そう決めていたんだ)

 

しばしの沈黙が流れた後、不死川が静かに口を開いた。

 

「切腹するから何だと言うのか。死にたいなら勝手に死に腐れよ、何の保証にもなりはしません」

「不死川の言う通りです。人を喰い殺せば、取り返しがつかない!!殺された人は、戻らない!」

 

不死川に続いて煉獄の凛とした声が響く。二人の意見は変わらず、禰豆子を認めるつもりは微塵もない様だ。

 

「確かにそうだね」

 

そんな二人を諫める様子もなく、耀哉はゆったりした声色のまま続けた。

 

「人を襲わないと言う保証ができない、証明ができない。ただ、人を襲うと言うこともまた、証明ができない」

 

その言葉に不死川の表情が微かに歪んだ。

 

「禰豆子が二年以上もの間人を喰わずにいるという事実があり、禰豆子のために四人の者の命が懸けられている。これを否定するためには、否定する側もそれ以上のものを差し出さなければならない」

 

不死川は反論する言葉さえもなく、ただ悔しそうに唇を噛み、煉獄も小さくうなる。そしてさらに耀哉はつづけた。

 

「それに、この炭治郎と汐は鬼舞辻と遭遇している」

 

その言葉に、今度は柱全員の表情が驚愕のものへと一変した。

 

「そんなまさか!柱ですら誰も接触したことがないというのに、こいつらが!?」

 

宇髄は甘露寺を突き飛ばし、横たわる二人に向かって声を荒げた。

 

「どんな姿だった!?能力は!?場所は何処だ!?」

「戦ったの?」

 

今まで無関心だった時透さえ、二人に問いを投げかける。

 

「鬼舞辻は何をしていた!?根城を突き止めたのか!?おい、答えろ!!」

 

不死川は炭治郎の髪の毛を掴んで振り回し、伊黒は汐の猿轡を強く引き答えるように促す。だが、炭治郎はともかく口を塞がれている汐は答えようにも答えられない。

そのようなことが分からなくなっているほど、柱たちは混乱していた。

段々と騒ぎが大きくなり、収集が付かなくなりそうになっていた時。耀哉は人差し指を唇に押し当てた。

 

その瞬間、先ほどまでの騒ぎが嘘のように静まり返った。

 

「鬼舞辻はね、二人に向けて追っ手を放ってるんだよ。その理由は、汐はともかく炭治郎の方は単なる口封じかも知れないが、私は初めて鬼舞辻が見せた尻尾を掴んで離したくない。恐らくは禰豆子にも、鬼舞辻にとって()()()()()()が起きているのだと思うんだ。わかってくれるかな?」

 

皆口をつぐんだまま何も答えない。否、答えることができなかった。ただ、一人を除いては。

 

「分かりません、お館様。人間ならば生かしておいてもいいが、鬼は駄目です。これまで俺達鬼殺隊がどれだけの思いで戦い、どれだけの者が犠牲となったか・・・!承知できない!」

 

血が流れだすほど唇をかみしめながら、不死川は震える声で言い放った。そして突然刀を抜き放つと、その刃を自らの左腕に滑らせた。

傷口から鮮血があふれ、白い砂利を赤く染めてゆく。

 

(え?え?なにしてるのなにしてるの?お庭が汚れるじゃない!)

 

その行動に甘露寺も困惑した表情を浮かべる中、不死川は血に塗れた腕を掲げながら言い放った。

 

「お館様・・・!!証明しますよ俺が、鬼という物の醜さを!!」

「実弥・・・」

 

耀哉の次の言葉を待たずに、不死川は箱を踏みつけるとその上に自分の血を垂らし始めた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



「オイ鬼、飯の時間だぞ、喰らいつけ!!」

 

箱の中の禰豆子の鬼の気配が強まり、かなり苦しんでいるのが汐にも伝わってくる。そのあまりのむごさに、汐は怒りのあまり猿轡を思い切りかみしめた。

そのせいか、白い布が微かに赤く染まる。

 

「無理することはねェ。お前の本性を出せばいい。俺がここで叩ききってやる」

(そんなことをしてみなさいよ。そうしたら今度は、全身骨も残さず吹き飛ばしてやるから・・・!)

 

汐の胸の中に再び殺意が沸き上がってくるが、その匂いを感じた炭治郎が眼でそれはだめだと訴える。

あのような恐ろしい感情を、汐に抱かせたくはない。この怒りは、自分だけで十分だ、と。

 

「不死川、日なたでは駄目だ。日陰に行かねば鬼は出てこない」

 

伊黒が淡々と指摘すると、不死川はいったん言葉を切り、口を開いた。

 

「お館様、失礼(つかまつ)る」

 

言うが早いか、不死川は禰豆子の入った箱を持ったまま、眼にもとまらぬ速さで飛び上がり屋敷の中へ上がった。

そして箱を乱暴に投げ捨て、再びその刃を突き刺した。

 

「禰豆子ォ!やめろぉーーーーーっ!!」

 

炭治郎が飛び出そうとするが、伊黒がその背に肘を押し当て押さえつける。もちろん、汐を片手で押さえつけたままだ。

 

息ができず苦しむ炭治郎をみて、汐も必死で拘束から逃れようと身をよじった。だが、先ほどよりもきつく縛り付けられた両腕と猿轡が食い込み、痛みが走る。

 

「出て来い鬼ィィ、お前の大好きな人間の血だァ!!」

 

それから不死川は禰豆子をもう一度刺すと、刀ではこの戸を乱暴にこじ開けた。すると、箱の中から体の大きさを元に戻しつつ禰豆子が立ち上がる。

 

身体は刺されたせいで血に塗れ、苦しそうに息をつく禰豆子。口枷からあふれ出ている涎が、彼女が飢餓状態であることを物語っていた。

 

禰豆子は荒い息を吐きながら、血の滴る不死川の腕を睨みつけている。

 

「どうした鬼ィ。来いよォ。欲しいだろォ?」

 

不死川は挑発的な言葉を発し、禰豆子の理性を崩そうとしている。そんな光景を見ていられなくて汐と炭治郎は必死の抵抗を試みた。

しかし伊黒が肘に力を込め、炭治郎の動きを封じる。苦しげに呻く炭治郎に、汐は何もできないもどかしさと苛立たしさでさらに轡を噛んだ。

 

「伊黒さん、強く抑えすぎです。少し緩めてください」

 

見かねたしのぶが促すも、伊黒は「動こうとするから抑えているだけだが?」と答えるだけでその申し出を却下する。

炭治郎はなんとか拘束を解こうと必死で呼吸を整えようとした。

 

「竈門君。肺を圧迫されてる状態で呼吸を使うと、血管が破裂しますよ」

 

しのぶの言葉に汐は青ざめ、掴まれた手を外そうと必死で身をよじる。

宇髄は「いいな!響き派手で!!よしいけ、破裂しろ!」と高らかに叫び甘露寺を引かせ、悲鳴嶼は涙を流しながら「可哀想に・・・何と弱く哀れな子供。南無阿弥陀仏」と何故か念仏を唱えた。

 

「フゥ、フゥ、フゥ・・・」

 

禰豆子血が流れるほど拳をきつく握りしめ、湧き上がってくる衝動に必死にで耐えながら不死川を睨みつけていた。

一方炭治郎も禰豆子の下へ行かんとうなり声を上げた、その時。炭治郎は荒縄を引き千切り、一瞬拘束が緩んだすきに義勇が伊黒の腕をつかむ。

そのまま炭治郎は伊黒を振り切り、禰豆子の下へ走り出した。

 

「禰豆子!!」

 

「大丈夫!!」

 

炭治郎が叫ぶと同時に、空気を切り裂くような声が響いた。驚いて振り返ると、同じく伊黒の拘束を解いた汐が猿轡を外し炭治郎に視線を向けていた。

 

「大丈夫!!禰豆子なら、大丈夫!!大丈夫、大丈夫!!」

 

汐はまるで呪文のように同じ言葉を繰り返していた。だが、その顔は引きつり、手は震えている。でも、炭治郎は確信した。

汐は禰豆子を信じている。心の底から。けれど、炭治郎は妙な感覚を一瞬覚えた。

 

――昔、誰かにも同じようなことを言われたような・・・

 

一方汐も自分の口から出た言葉に少なからず驚いていた。何の保証も確証もないはずなのに、禰豆子は絶対に誰も傷つけないという確信が胸の中にあったのだ。

そして彼女も、妙な感覚を一瞬だが覚えていた。

 

――誰かにも、同じようなことを言ったような・・・

 

 

二人の言葉は禰豆子の耳に届いていた。禰豆子の中に、在りし日の記憶がよみがえる。

 

雪の中、自分を守ろうとする実の兄、炭治郎。食事の香りが漂う台所に立つ母と、そばに座り自分を慈しみの眼で見る父。

 

――人間はみなお前の家族だ。人間を守れ・・・

 

花が舞い、無邪気に駆けまわる弟と妹たち。自分に手を差し伸べる兄。そして、自分の頬にそっと触れる、誰かの手。

 

――人は、守り、助けるもの。傷つけない。絶対に、傷つけない・・・!

 

禰豆子はしばらく不死川を睨みつけていたが――

 

――その顔を、血まみれの腕からそむけた。

 

「!!」

 

驚いて目を見開く不死川に、安堵の表情を浮かべる汐と炭治郎。禰豆子は顔を背けたまま、目を固く瞑り明確な拒絶を示していた。

 

「・・・どうしたのかな?」

 

耀哉が状況を聞くと、お付きの少女達は「鬼の女の子はそっぽ向きました」「不死川様に三度刺されていましたが、目の前に血塗れの腕を突き出されても、我慢して噛まなかったです」と答えた。

 

「ではこれで、禰豆子が人を襲わないという証明ができたね」

 

耀哉の言葉に不死川は悔しそうに唇をかみ、汐と炭治郎は肩を震わせた。

 

義勇に手を掴まれていた伊黒は、その手を振り払うと何のつもりだと問いただす。しかし義勇はそれに答えず炭治郎と汐の背中を見つめていた。

 

「炭治郎。それでもまだ、禰豆子のことを快く思わない者もいるだろう。証明しなければならない。これから、炭治郎と禰豆子が鬼殺隊で戦えること、役に立てること」

 

不思議な高揚感を感じ炭治郎と汐はそのまま跪き頭を下げる。炭治郎はともかく、汐は今までこのように頭を誰かに下げたことは滅多になかった。

その彼女ですらこのような気持ちにさせる。柱達が心酔する意味が分かった気がした。

 

(何?この感じ。ふわふわする・・・。この人の声の波長が、あたしたちの心を落ち着かせているんだわ・・・)

(声。この人の声で頭がふわふわするのか?でも、これは汐の歌を聴いているときとおなじ・・・)

 

「十二鬼月を倒しておいで。そうしたら皆に認められる、炭治郎の言葉の重みが変わってくる」

 

炭治郎の胸の中に温かいものがこみ上げてくる。彼は一度目をつぶると、決意を込めた眼で耀哉を見つめた。

 

「俺は・・・俺達は、鬼舞辻無惨を倒します!!俺達が必ず!!悲しみの連鎖を断ち切る、刃を振るう!!」

 

炭治郎の迷いのない声は、庭中に響き渡る。そんな彼に耀哉は笑みを浮かべながら「今の炭治郎達には出来ないから、まずは十二鬼月を一人倒そうね」と、幼子に言い聞かせるように言った。

その言葉に炭治郎の全身が瞬時に真っ赤に染まり、何人かの柱達が笑いをこらえた。

 

そんな彼に、汐は顔を上げて高らかに言い放った。

 

「大丈夫です!炭治郎ははっきり言ってお馬鹿なことを沢山言いますけれど、絶対に自分の意思を曲げたりはしないんです。今は無理かもしれないけれど、でも絶対に炭治郎と禰豆子は十二鬼月も、鬼舞辻も倒せるって信じてます!!」

 

汐の言葉に柱達が我慢できずに吹き出す。汐はそんな彼らを睨みつけようとしたが、耀哉がやんわりとそれを制止した。

 

「鬼殺隊の柱たちは当然、抜きん出た才能がある。血を吐くような鍛練で自分を叩き上げて、死線をくぐり、十二鬼月をも倒している。だからこそ、柱は尊敬され、優遇されるんだよ。炭治郎も汐も、口の聞き方には気を付けるように」

 

「は、はい・・・」

「ごめんなさい」

 

二人は赤くなりながら縮こまり、そんな二人を甘露寺は頬を染めながら見ていた。

 

「それから実弥、小芭内。あまり下の子に意地悪しないこと」

 

伊黒と不死川は思い切り不服そうな顔をしながらも頭を下げ、「御意」と答えた。

不死川の傍らでは、ひどい扱いを受けた禰豆子が頭から湯気を出しながら箱に戻っていた。

 

「炭治郎の話はこれで終わり。そして次は、汐。君の番だね」

 

「はひ?」

 

不意に名を呼ばれた汐は、素っ頓狂な声で返事をしてしまう。その間抜けさに甘露寺が思い切り吹き出してしまうが、慌てて顔を抑えた。

 

「君に一つ断っておきたいことがあるんだ。実は、私は君が隊律違反を犯していてもいなくても、ここへ呼ぶつもりでいたんだよ。どうしても君に、青髪の少女に会っておきたくてね」

 

「え?あたし?青髪の少女って、ええ?」

 

わけがわからないと言った様子で汐は耀哉を見つめる。(不死川はそんな汐を屋敷の中から睨みつけていた)

 

すると彼はにっこりとほほ笑んで、心からうれしそうな声で告げた。

 

「待っていたよ、大海原汐。いや、今はこう呼んだ方がいいかな」

 

―――君が来るのを待っていたよ、()()()()()()

 

その季節にしては妙に肌寒い風が、汐の真っ青な髪を静かに揺らしながら通り過ぎていった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

十一章:ワダツミの子


「君が来るのを待っていたよ。青髪の少女、ワダツミの子」

 

耀哉の言葉が風に乗り、不思議な響きを伴い皆の耳に入る。

しばしの沈黙が続いた後、それを破るように不死川が口を開いた。

 

「・・・お館様。大変申し上げにくいのですが、今なんとおっしゃいましたか?」

「ん?青髪の少女、ワダツミの子って言ったつもりだけれど。何かおかしかったかな?」

 

不死川の言葉に耀哉はゆったりした声で返すと、にっこりとほほ笑んで見せた。そんな彼を見て不死川は目を剥き汐を凝視する。

それから再び沈黙が流れた後・・・

 

「女ァ!?」

 

不死川の驚きの声が空気を切り裂きあたりに響いた。しかし驚いたのは不死川だけではなかった。

 

煉獄は「なんと、少年ではなく少女だったとは!よもやよもやだ!!」と叫び、伊黒はなぜか甘露寺と汐を見比べながら目を見開き、義勇に至っては口をあんぐりと開けたまま汐を凝視する始末だ。(時透は特に気にするそぶりもなかった)

 

そんな彼らを、しのぶ、甘露寺、宇髄、悲鳴嶼は信じられないという表情で見ていた。

汐は一部の柱達にまで性別を間違われていたことに身を震わせながら、心の中で思い切り叫んだ。

 

男と女の区別もつかないなら、柱なんてやめちまええええ!!!!

 

再び騒がしくなる柱達を見て、耀哉は耀哉は人差し指を唇に押し当て全員を黙らせるのであった。

 


 

「ワダツミの・・・子」

 

汐はその名前に聞き覚えがあった。今はなき故郷の村で何度も聞いたおとぎ話に出てくる、ワダツミヒメを沈める歌を歌う者。

そしてそれを元に祭りで歌を披露する者をそう呼んでいた。

 

だが、汐がその役に選ばれることはなく、彼女の親友の絹が選ばれた。その祭りも鬼の襲撃により敵わぬものとなってしまいその名を聞くことは永遠にないと思われていた。

 

それが今。鬼殺隊当主産屋敷耀哉の口から出たことに驚きを隠せない。

 

「それって、あたしが昔住んでいた村に伝わるおとぎ話の・・・あたしが?」

 

混乱する汐に、耀哉は少し困ったように眉根を下げた。

 

「その様子だと君は知らなかったみたいだね。簡単に言ってしまうと、人や鬼に影響を与える声を持つ青い髪の女性のこと。ウタヒメ、青の魔女とも呼ばれることもあるみたいだけれど、一番多く呼ばれているのがワダツミの子なんだ。でも、その力はあまり知られていないみたいでね。私も、義勇から君のことを聞くまで思い出せなかったんだ」

 

けれど、と彼はつづけた。

 

「もしも君が本当にワダツミの子なら、君はいくつか【歌】を思い出せているはずだ。その歌をぜひ、私に聴かせてくれないかな?」

 

耀哉の言葉に再びあたりが沈黙に包まれる。それを破ったのは、汐の耳をつんざくような大声。

 

「ええぇーーーッ!!」

 

身体をのけ反らせて驚く汐を、一部の柱達が睨みつける。汐は慌てて口を塞ぐと、困惑したように耀哉を見つめた。

 

「あたしの歌を、お館様に!?え、でも。あたしの歌下手糞だし、お館様みたいなすごい人に聴かせるようなものじゃないし・・・」

 

汐の口からいつもなら絶対にありえない後ろ向きな言葉が出てくるほど、彼の存在は大きく偉大だということが分かる。

だが、その空気を壊すように静かな声が響いた。

 

「畏れ多いことですが、そのご提案は承認いたしかねます」

 

それは先ほどまで汐を抑えていた伊黒の声だった。全員の視線が彼に集中するが、それに意も解せず伊黒はつづけた。

 

「我々は先ほど、この娘の得体のしれない力を目撃致しました。不死川の自由を奪い、あまつさえ奴自身で命を絶たせようとした。もはや人間にできる芸当とは思えませんでした」

 

その言葉を聞き、全員の脳裏にあの光景がよみがえる。宇髄と伊黒の手でその惨劇は回避できたものの、あのようなことが彼に起こらないとは限らない。

皆苦々しい表情で耀哉を見上げると、彼は「そうか」と少し考える動作を見せた。

 

「けれど、私はその光景を見たわけではないから何とも言えないね。それに、私は()()汐の歌をただ聴きたいだけなんだけれど、それもいけないことなのかな?」

「えっ!?」

 

耀哉の思いがけなさすぎる言葉に、流石の伊黒も思わず声を上げた。こうまで言われてしまったら、もはや彼に反論の言葉は残っていなかった。

 

「差し出がましい真似をして申し訳ございません」

 

そう言って伊黒は頭をたれて下がった。

 

「話がそれてしまったね。それで、私の願いを聞いてくれるかな?汐」

 

耀哉の言葉に、汐は激しく狼狽えた。今まで炭治郎達に歌を披露してきた時とはわけが違う。鬼殺隊当主、および最高幹部たちの前で自分の拙い歌を披露していいものか。

それに先ほど伊黒の言っていたように、もしも自分の歌で何か起こってしまったら、炭治郎や禰豆子にまで危害が及ぶかもしれない。

 

そんなことを考えていると、屋敷の中から不死川の怒鳴り声が飛んだ。

 

「お館様直々の勅命を無下にする気か!?つべこべ言わずにさっさとしやがれ!!」

「は、はい!!」

 

汐は思わず肩を大きく震わせ返事をしてしまう。その声を聞いて、耀哉の表情が期待を込めたものに変わった。

 

汐はとっさに傍で座り込んでいる炭治郎を見た。彼は一瞬だけ目を見開いたが、それは直ぐに優し気なものに変わった。

 

――汐なら絶対に大丈夫。

 

その眼には汐に対する確かな信頼が感じられ、それを見た瞬間汐の中から緊張と恐れがみるみるうちに溶けて消えていった。

 

(炭治郎・・・)

 

汐は意を決して立ち上がり、あたりを見回した。そして目に入ったのは、腕から血を流す不死川と傷つき興奮している禰豆子。

そして耀哉、お付きの少女たちを見た後ゆっくりと目を閉じた。

 

今この場で歌うべき歌。傷ついたものを癒す歌。皆に活力を与える歌――

 

 

 

汐が口を開いた瞬間、空気が一変した。透き通るような歌声が、空へ上るようにどんどん高くなってゆく。

と、思った瞬間。声の高さが瞬時に変わり、波のように皆の心をさらっていった。

 

柱達の体に衝撃が走り、鳥肌が立つ。体中から余計なものがそぎ落とされ、魂が浄化されるような旋律。

まるで温かい海に包まれるような不思議な感覚だった。

 

柱だけではなくお付きの少女たちも唖然としながら汐を見つめ、耀哉は目を閉じうっとりとその歌に聞き入っていた。

 

炭治郎は歌を奏でる汐から目が離せなかった。瞬きすら惜しかった。息をすることすら忘れた。

 

今まで彼は何度も汐の歌を聴いてきたが、今奏でられているそれはいつもの歌とは全く違うものだった。

 

背景すら目に入らず、彼の目に映るのは青髪を揺らし美しいという概念すら払拭した歌を奏でる、一人の少女だけ。

否、今彼女を【人】と呼んでいいのか炭治郎にはわからなかった。

 

前に、善逸が汐の声は人のものではないと言っていたことを炭治郎は思い出した。その時は何を言っているのか分からなかったが、今ならばその意味が理解できる。

汐の声は人ではない。かといって鬼でもない。人と鬼を通り越した何か。

 

今目の前の彼女を、人と呼ぶにはあまりにも神々しすぎた。

 

【挿絵表示】

 

「かみ・・・さま」

 

炭治郎の口から思わず零れた言葉は、汐の歌声に乗り溶けてゆく。その時、一瞬だけ炭治郎は不思議なものを見た。

 

青く長い髪を靡かせながら、白金色の月を背にして歌う見知らぬ女性。だが、それは本当に一瞬のことで瞬きをした瞬間、その女性は汐の姿に戻っていた。

 

時間にしては僅か5分ほどだったが、皆には永遠ともいえる程長く感じた。

汐は祈るように手を組んだまま歌を終わらせる。そして目を開けあたりを見回した。

 

皆呆然としたまま汐を凝視し動かない。もしかして気に入らなかったのだろうかと青ざめたその時。

 

空気を一変させる拍手が鳴り響いた。

 

「素晴らしい歌声だったよ、ありがとう」

 

耀哉が目を細めながらおのれの両手を打ち鳴らしている。それに続く様に甘露寺が慌てて手を打ち鳴らし、他の一部の柱も手を打ち鳴らした。

 

湧き上がる拍手に、汐の顔が瞬時に真っ赤に染まり身をよじらせる。そんな彼女を見て炭治郎は微かに愛らしさを感じた。

 

「さて、汐の歌を聞いた感想だけれど、みんなはどう感じたかな?」

 

耀哉はあたりを見回し優しく問いかける。すると甘露寺が興奮したように手を上げた話し出した。

 

「あ、あの!なんだかぶわーって来ました!!ふわーっとしたあとぶわーってきて、体がカーッとなってその後ホワホワってなって・・・!とにかくすごかったです!!」

 

擬音を交えた幼い子供ような感想にみんなは何とも言えない表情になり、伊黒に至っては頭を抱える始末だった。

そんな彼女に耀哉は微笑みかけると、甘露寺の顔が真っ赤に染まった。

 

「それで、君はどうかな?実弥」

 

耀哉は後ろ隣りにいた不死川に声をかけると、彼は肩を震わせ返事をする。そして自分の腕を見て思わず目を見開いた。

 

(血が殆ど止まっていやがる。それに痛みもねえ。あいつの力だっていうのか・・・?)

 

そして禰豆子を見れば、あれほど傷つき興奮してた彼女がすっかり落ち着き、うっとりした表情になっていた。

 

「汐。君の歌、いや、声と言った方がいいかな。君はあらゆる波の高さの声を出すことができ、人や鬼に影響を与えるんだ。鬼舞辻が君を狙った理由はおそらく君がワダツミの子であるからだろう。鬼にも影響を与える声の力を、鬼舞辻が放っておくはずがないからね」

 

その言葉に汐の背筋にうすら寒いものが走る。浅草で襲撃されたとき、矢琶羽と朱紗丸が声帯ごと汐の頸を狙ってきた理由が今わかったからだ。

 

「鬼舞辻は汐の力を恐れている。それはすなわち、我々鬼殺隊にとっては大きな戦力になると言えるだろう。けれど、大きな力は使い方を間違えてしまえば大変なことになってしまう。それはわかるね?」

 

汐は耀哉の顔を見てしっかりとうなずいた。殺意にとらわれ、危うく一人の命を奪うことになってしまいそうになったことを思い出す。

 

「炭治郎と禰豆子と同様、君の力を快く思わないものもいるだろう。君の力はまだまだ未知数、謎が多い。だからこそ彼らと同様、君も証明しなければいけないよ。君が本当に大切な人を守りたいと思うなら、まずは自分自身をしっかり知ること。そして君にとって一番大事なものを決して忘れてはいけないよ」

 

そう言って耀哉は炭治郎と禰豆子を交互に見た。汐もつられるようにして炭治郎を見ると、もう一度耀哉を見つめ口を開いた。

 

「あたしは人を傷つけ貶める鬼を許さない。大切な人をこれ以上失わないためにも、(うた)い続けます。それが、あたしができる精いっぱいだから」

 

汐の決意に満ちた眼が耀哉を見据え、彼は安心したように目を細めた。

 

「さて、これで汐の話も終わり。二人とも下がっていいよ。さて、そろそろ柱合会議を始めようか」




目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

弐(一部閲覧注意描写あり)

耀哉がそういうと、しのぶが徐に右手を上げた。

 

「でしたら、竈門くん達は私の屋敷でお預かりいたしましょう」

 

「「・・・え?」」

 

彼女の言葉に一瞬間が空いた後、汐と炭治郎の声が重なった。それからしのぶは二回手を鳴らして隠を呼ぶと、汐、炭治郎、禰豆子を連れて行くように促した。

禰豆子の下へ行った隠は、禰豆子と目が合った瞬間たじろいだが、禰豆子はきょとんとしたまま隠を見つめていた。

 

「「前失礼しまァす!!」」

 

切り裂くような声と共に二人の隠が耀哉と柱達に一礼すると、瞬時に汐と炭治郎を抱え走り出す。禰豆子の入った箱を背負った隠も、慌てて後を追った。

遠ざかっていく足音を聞きながら、耀哉はゆったりとほほ笑み「では、柱合会議を・・・」と紡いだその時だった。

 

「ちょっと待ってください!!」

 

皆が何事かと顔を向けると、炭治郎が柱にしがみつき抵抗しながら声を張り上げていた。

 

「その傷だらけの人に頭突きさせてもらいたいです、絶対に!!禰豆子を刺したぶんだけ、絶対に!!!!」

「黙れ、黙っとけ!!」

「汐は殴っちゃったけれど、頭突きなら隊律違反にはならないはず・・・」

「黙って!大人しくしなさい!!」

 

不死川に敵意を向ける炭治郎に、必死に炭治郎を引きはがそうとする隠達の不毛な争いが行われる中、汐はぐったりとしたまま隠に負ぶさられていた。

隠がとめるように促すも、彼女は死人のように動かない。

 

なおも騒がしくする炭治郎だが、突如どこからか石が飛んできて炭治郎の顔面を穿った。

その衝撃で炭治郎は地面に転がり落ち、柱達は今石を投げた犯人に顔を向けた。

 

「お館様のお話を遮ったら駄目だよ」

 

今まで特に反応を示さなかった時透が、石をもてあそびつつ炭治郎を睨んだ。

 

「申し訳ございません、お館様」「時透様」

 

隠達はすぐさま耀哉と柱達に土下座して謝罪する。

そんな時透に甘露寺は再び頬を染め、(無一郎君、やっぱり男の子ね、かっこいいわ)と心の中でつぶやいた。

 

「早く下がって」という時透の言葉に、隠達はぐったりした炭治郎を抱えて走り出した。(その時、何故か甘露寺までが下がった)

 

「炭治郎――」

 

炭治郎が連れていかれる寸前、耀哉の口が動いた。

 

――珠世さんによろしく

 

その言葉に炭治郎は耳を疑った。鬼殺隊当主である彼の口から出てきたのは、鬼である珠世の名前。

なぜ彼が珠世の名を知っているのか。炭治郎は混乱しながらも声を上げた。

 

「ちょっと待って!!今、今・・・珠世さんの名前が・・・」

 

だが、炭治郎が言葉を発する前に禰豆子を背負った隠が炭治郎を殴りつけた。

 

「あんたもう喋んないで!!あんたのせいで怒られたでしょうが!!」

「漏らすかと思ったわ!柱すげぇ怖いんだぞ!!!」

「絶対許さないからね!!」

「絶対許さないからな!! 絶対に許さねぇ」

「謝れ!!」

「謝れよ謝れーーーーーっ!!」

 

隠達があまりにも炭治郎を責め立てるので、彼はちいさく「すみません」と謝った。

 

「お前ほんといい加減にしろよな。あいつみたいにおとなしくしろよ」

 

炭治郎は汐を背負った隠をみた。確かに汐は、先ほどまでのことが嘘のようにおとなしくぶら下がっていた。

だが、汐が突然小さな声で何かを訴えた。隠が何事かと耳を傾けると――

 

「ぎ・・・」

「ぎ?」

「ぎ・・・・ぎ・も゛ぢ わ゛る゛い゛・・・」

 

まるでカエルをひゃっぺん潰したような声が漏れ、その顔はまっさをお通り越してどす黒くなっていた。そんな彼女を見て、今度は隠が青ざめる。

 

「さっきの、きんちょうが・・・いまになって・・・もう・・・だめ・・・うぶっ・・・」

「おいやめろ!それだけはやめろ!!頼む、頼むから耐えてくれ!!」

 

しかし隠の必死の願いもむなしく、汐の中の何かが決壊した。

 

ヴォエエエエエーーー!!!

ア゛ッーーーーー!!!!!

 

汐のうめき声と、隠のこの世のものとは思えない程の絶叫があたりに木霊した。

 

*   *   *   *   *

 

「ごめんくださいませー」

 

隠達に連れてこられてやってきたのは、一軒の大きな屋敷だった。ここが、しのぶの屋敷なのだろうか。

しかし呼んでも返事は帰ってこず、屋敷の中はしんと静まり返っている。

 

「全然誰も出てこねえわ」

「庭の方を回ってみましょう。それに、あれをそのままにしても置けないもし」

 

禰豆子を背負った隠が、入り口に立ち尽くす汐を背負った隠を見ていった。彼はふんどし姿で泣きじゃくっている。その背中では魂が抜けたような汐が、かろうじてぶら下がっているような状態だった。

 

「お前、自分で歩けよな」

「すみません。もうほんと、体中痛くて」

「年より臭いこと言わないでよ」

 

炭治郎は負ぶさられながらあたりを見回した。本部もかなりの大きさだったが、この屋敷もそれと負けていない程大きく見える。

すると、炭治郎の下に一匹の蝶が舞い降りてきた。赤と薄青い羽の綺麗な蝶だ。

蝶は炭治郎の周りを一周すると、どこかへ飛び去って行った。

 

(そういえば【蝶屋敷】って言ってたっけ)

 

そんなことをぼんやりと考えていると、隠達が突然足を止めた。視線を向けると、そこには蝶と戯れる一人の少女の姿があった。

 

「あれはえっと、そう。【継子】の方だ。お名前は確か・・・」

「ツグコ?ツグコってなんです・・・」

栗花落(つゆり)カナヲ様だ」

 

その少女に炭治郎は見覚えがあった。最終選別で残っていた合格者の一人だ。だが、昨夜彼女に踏んづけられたことは覚えていない様だ。

 

「継子ってのは柱が育てる隊士だよ。相当才能があって優秀じゃないと選ばれない。女の子なのにすげえよなぁ」

 

炭治郎は呆然と少女、カナヲの姿を見つめている。

汐はもうろうとする意識の中うっすらと目を開けた。そしてカナヲの姿を見た瞬間。何とも言えないような不思議な感覚を覚えた。

 

(なんでだろう・・・。なんとなくだけどこの子、あたしにとって脅威になりそうな気がする・・・)

 

何故そんな風に感じたのか、その時の汐は知る由もなかった。

 

禰豆子を背負った隠がカナヲに駆け寄り、しのぶの言いつけによりここに来たことを告げる。

 

「お屋敷に上がってもよろしいでしょうか?」

 

しかしカナヲはニコニコとほほ笑むだけで一切言葉を発しようとしない。隠が何度か確認しても、彼女は微笑むだけだった。

 

(なんだか心ここにあらずって感じ。まるで人形みたい)

 

汐がぼんやりとそんなことを思っていると、突然背後から別の声が聞こえてきた。

 

「どなたですか!?」

 

いきなりの出来事に、カナヲ以外の全員が飛び上がる。振り返ると、そこには髪を二つに結んだ少女が救急箱を抱えて立っていた。

慌てふためく隠達を見て、少女はすべてを察したらしく屋敷へ促した。

 

「どうぞ、こちらへ」

「ありがとうございます。後、よろしければ洗い場をお貸しいただけないでしょうか?」

 

禰豆子を背負った隠の言葉に、少女はふんどし姿で涙目の隠を一瞥すると、「わかりました」とだけ答え、足早に屋敷へ案内する。

負ぶさられながら、炭治郎は振り返ってカナヲの姿を見つめ、そんな炭治郎を汐はなぜか睨みつけた。

汐から漂う謎の匂いに、その時の彼は気が付くことはなかった。

 

屋敷に入ると、案内してくれた少女は汐の容体があまりよくないことを見抜き、すぐさま別室に案内した。

途中で嘔吐したせいか、脱水症状が出ていたからだ。

 

汐と別れ、炭治郎が病室に入った瞬間。聞き覚えのある汚い高音が響いてきた。

 

五回!?五回飲むの!?一日に!?三か月間飲み続けるのこの薬!?これ飲んだら飯食えないよ!すげえ苦いんだけど!辛いんだけどォー!!

 

涙を流しながら看護師の少女を困らせているのは、見覚えのある黄色の髪の喧しい少年。我妻善逸だった。

 

ていうか、薬飲むだけで俺の腕と足治るわけ?ほんと!?もっかい説明して誰かっ、一回でも飲み損ねたらどうなるの!?

「静かにしてください~」

 

そんな彼を見て二つ結びの少女は呆れた顔をする。その後に続いた炭治郎は、善逸の姿を見て大きく目を見開いた。

 

「善逸・・・!!」

 

善逸が生きていたことに、炭治郎は心の底から安堵する。相も変わらずうるさく騒ぐ彼を、少女は一喝した。

 

「静かになさってください!!説明は何度もしましたでしょう!?いい加減にしないと縛りますからね!!」

 

怒鳴りつけられた善逸は目を剥き、涙目になりながらガタガタと震えている。そんな彼を見て少女はため息をつくと、炭治郎のベッドを整えるべく奥へと足を進めた。

 

「善逸!!」

 

炭治郎が声をかけると、善逸は金切り声を上げて飛び上がる。

 

「大丈夫か!?怪我したのか!?山に入ってきてくれたんだな・・・!!」

 

炭治郎が善逸を最後に見たときは、山に入るのを躊躇して震えていた姿。何故彼が山に入ったのはわからなかったが、それでも危険を冒してまで来てくれ、そして生きていることにうれしさを感じた。

 

「た。炭治郎・・・!!」

 

一方善逸も炭治郎の姿を見た瞬間、炭治郎、ではなく隠に抱き着き頭をうずめた。

 

うわぁぁ、炭治郎聞いてくれよーっ!くさい蜘蛛に刺されるし、毒ですごい痛かったんだよぉー!!さっきからあの女の子にガミガミ怒られるし、最悪だよーっ!

 

そんな善逸を少女はぎろりとにらみ、彼は身体を震わせる。そんな善逸の姿を見て、炭治郎は違和感を感じた。彼の手が異常に小さく見えたからだ。

 

「蜘蛛になりかけたからさ、俺今すっごく手足が短いの」

 

そう言って顔を上げた善逸は、鼻水を隠の服につけたままだった。顔を青ざめて震える隠をしり目に、炭治郎は伊之助と村田の事を尋ねた。

 

「村田って人は知らんけど、伊之助なら隣にいるよ」

 

炭治郎が視線を向けると、善逸の隣に伊之助が横たわっていた。あまりにも静かすぎたため気づくことができなかったのだ。

 

炭治郎はすぐさま伊之助の下に駆け寄り、無事でよかったと伝えた。あの時助けに行くことができず、危険な目に遭わせてしまった後悔と、無事でいた嬉しさが入り交じり、炭治郎の眼から涙があふれ出した。

 

「ごめんな、助けに行けなくて・・・」

 

泣きじゃくる炭治郎に、伊之助は間を置いた後「・・・イイヨ、気ニシナイデ・・・」と答えた。

伊之助から発せられた声は、普段の彼とは思えない程弱弱しく彼果てていた。そのあまりの変わりように、炭治郎は本当に伊之助かと疑う始末だ。

 

「なんか喉潰れているらしいよ。詳しいこと よく分かんないけど、首をこう・・・ガッてやられたらしくて、そんで最後、自分で大声出したのが止めだったみたいで、喉がえらいことに」

「・・・なんで?」

「落ち込んでんのか、すごい丸くなってて、めちゃくちゃ面白いんだよな、ウィッヒヒッ」

 

善逸はそう言って何とも言えないような笑い声をあげ、そんな彼に炭治郎はなぜそんな気色の悪い笑い方をするのかを尋ねた。

善逸は固まり微妙な表情をするが、ある違和感を感じ声を上げた。

 

「それより炭治郎、汐ちゃんはどうしたんだよ?さっきから姿が見えないけれど、お前と一緒にいたんじゃないのか?」

 

善逸が訪ねると、炭治郎の表情が微かに曇る。それをみて善逸の顔が少し青ざめた。

 

「ああ違う。汐は無事だ。脱水症状がひどいみたいで別室にいるよ。でも、何だか様子がおかしかったんだよな。さっきも嗅いだことのない匂いがしたし・・・」

 

目を伏せる炭治郎に、善逸は彼の音が少し変化していることに気づいた。けれどそれが何なのか、その時の彼にはわからなかった。

 

用意されたベッドに横たわりながら、炭治郎は先ほどのことを思い出していた。

 

柱達の前で、青い髪を揺らしながら歌を奏でる汐。それがあまりにも神々しくて、人を通り越した女神に見えた。

その姿が瞼の裏に焼き付いてしまい、目を閉じても汐の事ばかり考えてしまう。

 

ワダツミの子。汐がもつ特殊な声。新しい情報ばかりで炭治郎の頭は混乱寸前だった。

 

自分がこのような状態なのだ。当事者である汐はどうだろう。頭が追いついていっていないのではないか。

 

(汐、大丈夫かな・・・また悩んでいたりしないかな)

 

それと同時に炭治郎は思った。普段は強気でも、繊細なところがあることを、炭治郎は知っていたからだ。

 

(よし!)

 

炭治郎は痛む体を起こしてそっと病室を出た。が、出たところで一人の看護師の少女に見つかってしまう。

 

先程善逸のそばにいた看護師の少女とは別人で、髪を三つ編みににしている少女だ。

 

「あ、駄目ですよ炭治郎さん!戻ってください」

「ご、ごめん。でも、どうしても会いたい人がいるんだ。なんでかはわからないけれど、今会わなくちゃいけない気がするんだ。だから、お願いします!汐の部屋を教えてください!」

 

炭治郎の真剣な声と眼差しが、少女の小さな瞳に静かに映った。

 

*   *   *   *   *

 

一方そのころ――

 

個室を与えられた汐は、処置を受けた後ベッドに横たわりながら先ほどのことを思い出していた。

 

(あたしが、本物のワダツミの子。人や鬼に影響を与える声を持つもの)

 

耀哉は汐の声は鬼殺隊にとって大きな力となると言ったが、もしそうならば炭治郎や禰豆子をあんな危険な目に遭わせることはなかったんじゃないか。

いや、それ以前に、鬼舞辻は自分の力を恐れているとも言った。だとすれば、村が襲われ絹が連れ去られて殺された理由に辻褄が合う。

 

(村が滅んだのは、みんなが殺されたのは、あたしのせい?)

 

考えたくはないのに、次々と恐ろしい考えが浮かんでは汐の心を侵食していく。

 

(あたしがいなければ、みんなは死ぬことはなかった。あたしのせいで、あたしがこんな力を持っていたせいで・・・)

 

仲間もろくに守れず、大勢の人間を殺した。そんな罪悪感が汐の心を締め付け、鈍く痛んだ。

 

(どうしよう・・・!あたし、どうしたらいいの・・・?炭治郎ッ・・・!!)

 

頭の中が真っ白になり息も苦しくなり、無意識に心の中で炭治郎の名を呼んだその時だった。

 

「汐、そこにいるのか?」

 

汐の耳に、今一番会いたい人の声が優しく届いた。




現在の状況

──炭治郎

顔面及び腕・足に切創。
擦過傷・多数。
全身筋肉痛、重ねて肉離れ。
下顎打撲。

──善逸

最も重傷。
右腕右足、蜘蛛化による縮み・痺れ。
左腕の痙攣。

──伊之助

喉頭及び声帯の圧挫傷。

──汐

善逸に次ぐ重傷。
左手骨折・顔面及び腕・足に切創。
擦過傷・多数。声帯の圧挫傷に加え脱水症状有。
 
──禰豆子

寝不足!!


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



「炭治郎!?」

 

今しがた無意識に名を呼んだ相手が扉の向こうにいる。汐は慌てて扉に駆け寄りすぐに開けた。

そこには汐と同じく入院着に着替えた炭治郎が、少し不安を宿した眼でこちらを見ていた。

 

「なんであんたが・・・っていうか、どうしてここが分かったの?」

「このお屋敷で働いている、えっと、確かなほちゃん・・・だったかな。その人に聞いたんだ。汐がここにいるって・・・っ!!」

 

そこまで言った炭治郎の顔が突如苦痛に歪む。汐は慌てて炭治郎を引っ張り、ベッドに座らせた。

 

「ちょっと大丈夫!?あんただって軽くない怪我してるんだから無理してるんじゃないわよ」

「ごめん、ありがとう。でもどうしてもお前に会っておきたかったんだ」

 

炭治郎はそう言って隣に座った汐の眼を見つめた。澄み切った瞳が汐を静かに映す。

 

「うん、やっぱり悩んでいる匂いがする。汐、お前自分のせいで絹さんや村の人たちが殺されたって思っていないか?」

 

心の中を見透かされた言葉に、汐の肩が大きく跳ねる。そんな汐を見て炭治郎は「やっぱりな」と言いたげな顔をした。

 

「・・・村が襲われたのはあたしがワダツミの子で、その力を恐れた鬼舞辻があたしを消すために村を襲った。そして、絹はあたしと間違われて殺された。そう考えてしまえば全部つじつまが合う。考えちゃいけないっていうのはわかっているはずなのに、どうしてもそう思っちゃうの」

 

汐はぎゅっと拳を握り体を震わせた。炭治郎はそんな彼女を黙って見つめる。

 

「それに、あたしがもう少し早く力のことを知っていれば、あんたも禰豆子も傷つけずに済んだかもしれない。お館様にはああも言ったけれど、もしもあたしのせいでまた誰かが死んだり傷ついたりするのがものすごく怖いの!」

 

最後の言葉は殆ど叫ぶような痛々しい声だった。今まで何度か弱音を吐く汐は見てきたが、これほど弱弱しい汐を見るのはあの時、禰豆子を手にかけようとして踏みとどまったあの日以来だった。

 

炭治郎は黙って汐の話を聞いていたが、不意にそっと彼女の手を取った。

 

「汐。少しきついことを言うかもしれないけれど、過ぎた時間はもう戻らない。下を見てしまえばきりがない。失っても、失っても生きていくしかないんだ」

 

そう言って汐を見つめる彼の声は、とても優しくとても悲しいものだった。炭治郎も家族を失い、妹である禰豆子も鬼にされ、絶望の中をさまよった。

だからこそ、彼は同じくたくさんのものを失った汐を放っておけなかった。

 

「だけど、俺はちゃんとわかってる。汐が強いこと。そして、自分の力をきちんと正しく使えることを俺は信じてる。だから、あんまり思いつめないでくれ。何かあったら、俺を頼ってくれ。俺だけじゃない。禰豆子も善逸も伊之助もいるんだ。お前は一人じゃない。それだけは忘れないでほしい」

 

って、ありがちなことばでごめんな、と困ったように笑う炭治郎に、汐は首を横に振った。

 

「ううん、そんなことないわ。あたしにとってあんたの言葉がどれだけありがたいか。さっきも、わけがわからなくなりそうだった時、頭に浮かんだのはあんたの顔だった。あんたがいなかったら、あたしはもうとっくにおかしくなってた。あんたがいてくれから、あたしはあたしでいることができたの。だから、本当にありがとう。あたし、あんたがいてくれて本当に良かった」

 

汐は心の中の声をすべて出しながら炭治郎を見つめた。夕暮れの海のような眼が微かに揺れる。頬が微かに赤みが掛かっているのは、日の光が当たっているせいだろう。

 

汐の表情を見て、炭治郎は安心したように笑った。思いつめた匂いもなりを潜め、彼女の本来の匂いが戻ってくる。

と、思ったのだが、炭治郎の鼻は汐から今までにない匂いを感じた。

 

微かに甘く、若い果実のような不思議な匂い。

 

だが、その匂いが何かを問おうとしたとき、汐が口を押えた。よく見ると彼女の顔色は悪く、汗もかいている。

炭治郎は慌てて汐をベッドに寝かせると、汗を拭き布団をかけた。

 

「ごめんな、お前も酷いけがをしていたのに無理させて」

「それはお互い様でしょ?あんたもこんなところにいないでさっさと病室に戻りなさいよ」

「そうだな。疲れていると悪いことばかり考えてしまうから。今はゆっくり休む。俺達がするべきことはそれで、そのあとのことはゆっくり考える」

 

炭治郎の言葉に汐は目を見開いた。

 

「覚えてるか?最終選別の帰りに、お前が俺に言ってくれたことだよ」

「そんな昔のこと、よく覚えてるわね」

「当り前だろ?その言葉で俺は本当に救われたんだ。大切な言葉を忘れるわけがないだろう」

 

大切な言葉、と言われて汐の目頭が熱くなる。だが、涙を見せるとまた炭治郎が心配するとふんだ汐は、布団にくるまり彼に背を向けた。

 

「ほら。あんたもさっさと戻りなさいよ。早くしないと、あの女の子にどやされるわよ?」

「そうだな。そうするよ。お休み、汐」

 

炭治郎は汐の頭を優しくなでると、ベッドからそっと立ち上がる。が、不意に背中に熱を感じて炭治郎は動きを止めた。

 

「汐?」

 

汐は炭治郎の背中にしがみつく様にして額を押し当てながら、そっと口を開いた。

 

「生きててくれて、よかった」

 

そう告げる彼女の手が微かに震えていることに気づいた炭治郎は、そのままの姿勢で同じく口を開いた。

 

「俺の方こそ、汐が生きていてくれてよかった」

 

そう言って炭治郎はもう一度彼女を寝かせると今度こそ部屋を出ていった。汐は激しく脈打つ胸を抑えながら、熱がこもる頬を枕に押し付けていた。

 

一方、部屋から出た炭治郎も、早鐘のように打ち鳴らされる自分の心臓に戸惑っていた。

 

彼女が少しだけでも元気になれたのはよかったが、今度は自分の方が参りそうで困ったのだ。

その気持ちがなんであるのか、炭治郎には全く分からなかったが、とりあえず今は病室に戻ろう。

 

そう思って一歩踏み出した彼が、あの少女に見つかってどやされるのはもう少し後・・・

 

 

 

*   *   *   *   *

 

一方その頃。

 

日が落ちた産屋敷邸では、彼と柱による柱合会議が行われていた。

行燈の光が揺らめく中、耀哉が口を開く。

 

「皆の報告にあるように、鬼の被害はこれまで以上に増えている。人々の暮らしがかつてなく脅かされつつあるということだね。鬼殺隊員も増やさなければならないが・・・。皆の意見を」

 

その言葉に最初に口を開いたのは、全身に無数の傷跡を付けた風柱、不死川実弥だった。

 

「今回の那田蜘蛛山ではっきりした。隊士の質が信じられない程落ちている。ほとんど使えない。まず育手の目が節穴だ。使える奴か使えない奴かわかりそうなもんだろう」

 

そんな不死川を見て、派手ないでたちの音柱、宇髄天元は思い出したように言った。

 

「昼間のガキどもはなかなか使えそうだがな。特にあの騒音娘!女の身でありながら不死川に一撃入れるとは、大した度胸だ」

 

宇髄がからかうように言うと、不死川は小さく舌打ちをしながら目をそらした。自分よりも下の、しかも女に殴られたという事実が彼の心に微かな傷をつけてしまっていた。

 

そんな雰囲気を変えるがごとく、蟲柱胡蝶しのぶが口をはさむ。

 

「人が増えれば増える程、制御統一は難しくなっていくものです。今は随分、時代も様変わりしていますし」

「愛する者を惨殺され入隊した者、代々鬼狩りをしている優れた血統の者以外に、それらの者たちと並ぶ、もしくはそれ以上の覚悟と気迫で結果を出すことを求めるのは残酷だ」

 

岩柱悲鳴嶼行冥は、涙をこぼしながら呟くように言った。

 

「それにしてもあの少年たちは、入隊後まもなく十二鬼月と遭遇しているとは!引く力が強いように感じる!なかなか相まみえる機会がない我らからしても、うらやましいことだ!」

 

炎柱煉獄杏寿郎は、右手で拳を作りながら心なしか嬉しそうに言った。

 

「そうだね。しかし、これだけ下弦の伍が大きく動いたということは、那田蜘蛛山近辺に無惨はいないのだろうね。浅草もそうだが、隠したいものがあると無惨は騒ぎを起こして巧妙に私達の目を逸らすから。なんとも、もどかしいね」

 

耀哉は顔を伏せていったん言葉を切ると、再び柱達を見回しながら言った。

 

「しかし、鬼共は今ものうのうと人を食い、力をつけ生き永らえている。死んでいった者たちのためにも、我々がやることは一つ。今、ここにいる柱は戦国の時代、【始まりの呼吸の剣士】以来の精鋭達がそろっていると私は思っている。そしてなにより、この時代にワダツミの子が現れた」

 

耀哉の口から出た言葉に、全員の方が微かに跳ねた。

 

「ワダツミの子。大海原汐さんの事ですね。彼女の不思議な力は私も一度体験しましたが、確かにあれは人知を超えたものでした。これが鬼と戦う大きな力になることは確実ですが・・・まずは人としての最低限の教育も必要かと思います」

「だが!あの少女の歌は見事なものだった!!まるで魂を揺さぶられるようだった!ぜひともまた聴いてみたい!!」

「でも、私疑問に思っていたんですけれど、私やしのぶちゃん、宇髄さんや悲鳴嶼さんはあの子が女の子だってわかったのに、どうして不死川さんたちは男の子だって思っていたんですか?」

 

甘露寺の何気ない質問に、汐を男だと思っていた者たちは怪訝そうな顔をした。

 

「うむ!何故かはわからん!だが、女だと分かった後は何故か女にしか見えなくなった!」

「どこからどう見ても男にしか見えなかった。それだけだ」

「・・・・」

 

皆何故汐が男に見えたのかはっきりとは答えられず、なんとも微妙な空気が辺りに流れる。そんな空気を打ち破るように、耀哉の静かな声が響いた。

 

「彼女の存在が我々にとって大きな力になることは確実。しかし、ワダツミの子は始まりの剣士たちのこと以上に謎が多い。青い髪の女性であり、かつて彼らと共に鬼と相まみえ無惨さえ恐れさせたということ以外は、ほとんどわかっていないことが多いんだ。現に、今のワダツミの子である汐自身も、自分の力を理解していなかったからね」

 

そのことは彼らも知らなかったらしく、表情がわずかに変わる。鬼舞辻無惨を追い詰めた始まりの剣士たちと共にあり、恐れさせたその時代のワダツミの子。

そのような戦力があれば、無惨を倒せることも夢ではなくなるかもしれない。

 

「天元」

 

不意に耀哉が宇髄の名を呼び顔を向けた。

 

「君に頼みがある。ワダツミの子と、【大海原家】について調べてきてほしいんだ。別の任務の最中で申し訳ないけれど、引き受けてくれるかな?」

「御意」

 

宇髄はそう言って頭を下げ、そんな彼を見て耀哉は安心した表情を浮かべた。

 

「私の剣士(こども)達。皆の活躍を期待しているよ」

 

その言葉を最後に、柱合会議は幕を閉じた。

 

柱達とお付きの子供たちを下がらせ、耀哉は明かりの消えた部屋で一人月を仰ぎ見ていた。

青みが掛かった光が、彼の病に侵された顔を静かに照らす。

 

「鬼舞辻無惨。なんとしてもお前を倒す。お前は必ず私達が――」

 

その小さな声には、確かな憎しみと殺意がこもっていることに、誰も気づく由はなかった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



抜けるような青空が広がり、心地よい風が木々の枝を揺らして通り過ぎていく。
そんな穏やかな日和の中、産屋敷邸の前にたたずむ一人の男がいた。

彼の名は煉獄杏寿郎。鬼殺隊最高位の柱の一人、炎柱の称号を持つ男だ。
彼は屋敷に向かって一礼をすると、刀を差し直す。そして燃え盛る炎のような羽織をひるがえし、その場を後にしようとしたその時背後から声がかけられた。

「出陣ですか?」

煉獄が振り返ると、そこには蝶を彷彿とさせる羽織を纏った女性、胡蝶しのぶの姿があった。

「胡蝶か。鬼の新しい情報が入ってな。向かわせた隊士がやられたらしい。一般大衆の犠牲も出始めている。放ってはおけまい!」

煉獄の言葉にしのぶは僅かに表情を曇らせる。

「十二鬼月でしょうか」
「おそらくな。上弦かもしれん」
「難しい任務のようですが、煉獄さんが行かれるのであれば心配ありませんね」

しのぶは少し含みのある笑みを浮かべながら言った。そんな彼女に、煉獄は思い出したように言った。

「胡蝶。あの少年たちを預かってどうするつもりだ?継子の枠を増やすとか言っていたが、そういうわけでもあるまい?」
「別にとって食べたりはしませんから大丈夫ですよぅ」
「それはそうだろう!」

しのぶの言葉に煉獄は大声で笑いながらその場を後にする。そんな彼の背中にしのぶは小さく「お気をつけて」と言った。

敷地から出た後、煉獄は空を見上げた。抜けるような青空が広がっておりその青が彼の目に映る。

それを見て何故か頭に浮かんだのは、青髪を揺らしながら美しい歌を奏でる一人の少女。

(あの青髪の少女はどうしているだろう。胡蝶に聞きそびれてしまったな。あの美しい歌を、もう一度聴きたいものだ)

何故彼女のことを思い出しなのかわからないまま、煉獄は一人足を進めるのであった。


それからというもの。汐達は傷を癒すために蝶屋敷にとどまることになった。

だが、その期間は彼らにとって地獄そのものだった。

 

汐は生まれて初めて経験する骨折の痛みに呻き、炭治郎も痛みに耐え、禰豆子はひたすら眠り続け、善逸は相も変わらずうるさく騒ぎ続けその度に二つ結びの少女神崎アオイにどやされ、伊之助は落ち込んだままだった。

 

そして、四人が搬送されてから数日後。

 

イィイイーーーヤアアーーーー!これ以上飲めないよぉ!!

 

アオイから薬を渡された善逸は、涙を流しながら大声で叫んだ。そんな彼に、アオイは呆れかえりながら言う。

 

「毎日毎日同じことを。善逸さんが最も重傷なんです!早く薬飲んでください!」

だって、だってこれ!!ものすごく苦いんだよ!?ものすごく不味いんだよ!?こんなの飲んだら舌がおかしくなるってェ!!

 

まるで幼子のように泣きわめく善逸の口を、不意に誰かがむんずとつかんだ。善逸が目を見開くと、そこには恐ろしい形相で自分を睨む汐の姿があった。

 

「喧しいのよ、毎日毎日。九官鳥かてめーは。つべこべ言わないでさっさと薬を飲みなさいよスカタン!!」

 

そう言って汐は善逸の口を無理やりこじ開けて流し込もうとするが、そばにいた髪を下ろした少女きよが慌てて止める。善逸も汐の恐ろしい音に根負けしてしぶしぶ薬をあおり顔をしかめた。

 

「それより、どうして汐さんがここにいるんですか?あなたは病室が別でしょう?」

「だって一人じゃつまんないし、善逸がうるさくておちおち寝てもいられないんだもの。それより、このギプスって奴はいつになったらとれるの?」

 

汐は固定された左手をアオイに見せながら眉をひそめた。

 

「重いし蒸れて痒いし、利き手だからものすごく不便なんだけど」

「しのぶ様がいいとおっしゃるまでです。少しくらい我慢してください」

 

善逸にイラついているのか、アオイは少し棘のある声色で言った。汐は反論しようと口を開いたが、炭治郎がそれを遮った。

 

「アオイさんの言う通りだぞ汐。骨折っていうのはそれほど大変な怪我なんだ。汐の気持ちもわかるが、わがままを言って困らせてはだめだぞ」

「・・・わかったわよ」

 

汐は不貞腐れたように鼻を鳴らすと、炭治郎と伊之助のベッドの間にある椅子に座った。

 

「炭治郎、禰豆子の様子はどう?」

 

汐は炭治郎のそばに置いてある箱を見て言った。不死川に穴をあけられた箱は、アオイの手によって綺麗に修理され元の姿に戻っていた。

 

「今日はまだ寝てるよ。夜になったら時々起きるけど、基本的には眠ってる。よっぽど傷が深かったんだな」

「そうね。あの白髪オコゼ男!今度会ったら再起不能にしてやるわ!!下半身を!!」

 

拳を作りながら青筋を浮かべる汐に、炭治郎は苦笑いを浮かべた。

汐からはいつもの通り潮の香りがする。が、あの時に感じた若い果実のような甘い匂いはしなかった。

あの匂いは何だったんだろう。と、炭治郎が考える間もなく声がした。

 

「元気そうだな、お前等」

 

汐と炭治郎が顔を向けると、そこには一人の一般隊士が立っていた。

炭治郎はその隊士に見覚えがあった。黒い艶のある髪を揺らしながら笑顔を見せるその男は。

 

「・・・誰だっけ?」

 

汐の言葉に、隊士と炭治郎が思わずずっこける。

 

「村田だよ!村田!!那田蜘蛛山でお前と一緒に戦っただろ!?」

 

忘れられていたことに村田は憤慨し、汐に詰め寄った。汐は視線をしばらく上に向けた後、思い出したように手を打った。

 

「あああの時の!って、ええ!?あんた生きてたの!?これから死ぬ奴の常套句をああも高らかに宣言したくせに!?」

「お前には人の心がないのか冷血娘!」

「誰が冷血娘よ!人の事オカマ呼ばわりしたこと忘れてないんだからね!?」

「今の今まで俺の名前すら忘れていたくせに、そこは覚えてるんだな!?」

 

このままでは汐と村田の不毛すぎる争いがおこることを危惧した炭治郎は、慌てて汐を落ち着かせた。

 

「村田さん、大丈夫だったんですか?それに、その手の怪我は・・・」

「これはただの突き指だよ。もっとも、体が溶ける寸前までいったけどな」

 

そう言って村田は少しひきつった笑みを浮かべた。

 

「ところで、この猪はさっきから静かだけどどうしたんだ?」

「まあ、いろいろあって・・・、そっとしておいてください」

「だってこいつが元気ないなんて、正直気味が悪いよ」

 

炭治郎と村田がそんな会話をしていると、善逸が徐に口を開いた。

 

「炭治郎、汐ちゃん。その人誰?」

 

善逸の言葉に、汐は初めて二人が面識がないことを知った。

 

「那田蜘蛛山で一緒に戦った村田さんだ」

「村田だ。よろしく」

 

村田はそう言って善逸を見たが、彼の手が異様に短いことに気が付いた。

 

「蜘蛛になりかけて、今も腕と足が短いままで・・・」

「だからこの薬が必要なんです!」

 

アオイが追加の薬を善逸の前に差し出しながらそういうと、彼は泣きながら再び叫び出した。

 

だってそれ不味すぎでしょ!?不味いにも程度ってものがあるでしょ!?

「腕が元通りにならなくても知りませんからね!!」

冷たい!その言い方冷たい!!

「あなたは贅沢なんです!この薬を飲んで、お日様を沢山浴びれば後遺症は残らないって言っているんですよ!」

 

アオイの畳みかけるような説教に善逸は耐え切れず、伊之助の眠るベッドを踏みつけて汐に抱き着いた。が、汐は善逸の頭を掴み炭治郎のベッドに押し付けた。

 

「どさくさに紛れて抱き着くな!」

痛い痛い痛い!!頸が折れる頸が折れる!!

「気持ちはわかるけど、怪我人を増やす真似はやめろ!」

 

炭治郎が慌てて汐を引きはがし、善逸は息も絶え絶えにずるりと座り込む。そんな彼らを見て、村田は視線を落としながら言った。

 

「楽しそうでいいなあ・・・」

 

彼から漂う陰鬱な匂いと音に、炭治郎と善逸の顔が青ざめる。村田は俯いたまま、この世の終わりを見てきたような声色で言った。

 

「その那田蜘蛛山の一軒での仔細報告で柱合会議に呼ばれたんだけど・・・地獄だった。怖すぎだよ柱・・・」

「あの連中と顔を合わせたわけね。それは気の毒に」

 

汐はそう言って憐みを含んだ眼で村田を見つめた。

 

「なんか最近の隊士は滅茶苦茶質が落ちてるってピリピリしてて皆。那田蜘蛛山行った時も命令に従わない奴とかいたからさ。その育手が誰かって言及されててさ・・・俺みたいな階級の者にそんなこと言ったってさあ・・・」

 

村田は俯いたまま永遠と愚痴をこぼし続け、流石の汐も突っ込む気が失せて村田を眺めていると。

 

不意に炭治郎と善逸が目を見開いた。(善逸は微かに頬を染めていた)

 

「こんにちは」

 

村田の背後で不意に声がした。そこにいたのは、張り付けたような笑みを浮かべた胡蝶しのぶ。その声を聞いて村田は驚くべき速さで立ち上がった。

 

「柱!胡蝶様!!」

「こんにちは」

「あ、どうも!!さよなら!!」

 

村田は頭を下げると、そそくさと去っていった。

 

しのぶは少し困ったように眉根を下げたが、その視線を汐達の方へ向けた。

 

「どうですか?身体の方は」

「かなり良くなってきてます」

「あたしも、痛みはだいぶ引いたわ。骨折なんて生まれて初めてやったけど、こんなにしんどいのね。次回からは気を付けるわ」

 

そう言って項垂れる汐に、炭治郎は目を剥いて見つめた。いつもなら高圧的な態度をとる彼女が素直に謝っている。

そのことはしのぶも少し驚いたようで、小さく息をのむ音が聞こえた。

 

「そうですか。では、炭治郎君と伊之助君は、そろそろ“機能回復訓練”に入りましょうか?」

「機能回復訓練?」

「はい!!」

 

そう言って笑みを浮かべるしのぶに、汐は何かうすら寒いものを感じるのだった。

 

「あ。そうだ。私は汐さんに用があるんでした。手の骨折の具合を見たいので、こちらに来ていただけませんか?」

 

しのぶに促され、汐は炭治郎達のいる病室を後にする。そして診察室に入ると、しのぶは汐のギプスを外し動かしてみるように言った。

 

「どうですか?痛みますか?」

「ううん、大丈夫みたい。少し強張ったような違和感はあるけれど、痛みはもうないわ」

 

手を何度も握っては開きを繰り返しながら、汐は嬉しそうにそう言った。が、何故かしのぶは表情を少し曇らせながら口を開いた。

 

「正直なところ私は驚いています。普通ならばあれほど骨を砕かれていれば、刀を握るところかまともに動かすことも難しいはず。しかし、これほど短期間でここまで動かせるようになっている。あなたの自然治癒力は常人を超えていると言っても過言ではありません」

「それって褒めてんの?けなしてんの?」

 

汐が疑いと嫌悪の眼でしのぶを見つめると、しのぶは困ったように首を振った。

 

「いいえ。ただ、あなたには他の人にはない力がありますから、私も少しばかり混乱しているのかもしれませんね」

 

そう言って目を伏せるしのぶの眼には、ほんのわずかだが怒りの気配を感じた。それを見た汐は、言葉を失う。

 

「さて、今日でギプスは外しましょう。そしてもう少ししたら、炭治郎君たちと同様機能回復訓練に入りますね」

 

その日はしのぶは一度も汐と目を合わせることはなかった。

 

*   *   *   *   *

 

その夜、汐は夢を見ていた。濃い霧がかかったような真白な空間に、声だけが響く。

 

――・・・ワダツミの子。あらゆるものに影響を及ぼす声を持つ、青髪の少女。なかなかに興味深い話でした。

――話だけを聞くと御伽噺だろう?俺もそう思っていた。こいつに出会うまではな。

――ですが、貴方がその地位を捨ててまで彼女を守りたい理由は、それだけではないでしょう?

――ああ、そうだ。俺にとってこいつはもう単なる小娘じゃねえ。命より大事なもの、家族って奴かな

 

霧の中で聞こえてくる声は、聞き覚えのあるようなそうでないような、不思議な響きを放っていた。

 

――ありがとうよ。いい男だな、お前。道理であんな別嬪を捕まえられるわけだぜ。俺は男なんざ滅多に褒めえねえんだが、お前だけは別のようだ。

――ははは、貴方にそう言っていただけるとは冥利に尽きます。

――そうか。 もしもお前さえよければ、また一杯付き合わねえか?

――それはいい。私も、もっともっとあなたの話が聞きたいと思っていたところです

 

 

霧が深くなり、二つの声が遠ざかっていく。

 

真夜中、汐は唐突に目を覚ました。夢を見ていたのは確かだが、どんな夢だったのか思い出せない。

ただ、汐の眼から流れ落ちる涙が隙間から洩れる月明かりで微かに光った。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

十二章:迷走


それから数日後。
炭治郎と伊之助より少し遅れて汐も訓練に参加することになった。

だが、それは想像を絶するほどの苛酷なものだった。

まず、寝たきりで固まった体を三人娘が【力づくで】ほぐす。
次に反射訓練といい、薬湯が入った湯飲みを相手とかけあう訓練。
最後に全身訓練という鬼ごっこをする。

説明だけなら簡単そうだが、怪我が癒えたばかりの彼らにとってはどれもこれも地獄でしかない。
その証拠に炭治郎と伊之助はげっそりと窶れ、ほぼ毎日参人の病室に遊びに来ていた汐も、訓練開始日から全く来なくなってしまった。

その雰囲気に善逸は怯え、涙を流すのであった。


それからさらに数日後。

汐は陰鬱な表情で一人訓練場で男たちが来るのを待っていた。彼女の他にはアオイ、三人娘、そしてカナヲが彼等の到着を待っていた。

 

やがて扉が開くと、汐以上に陰鬱な表情をした炭治郎と伊之助と、怯えて涙を流す善逸の三人が入ってきた。

 

四人はアオイの前に座ると、彼女は善逸の為に訓練の説明を始めた。

身体をほぐす訓練、湯飲みと薬湯を使った反射訓練、鬼ごっこ形式の全身訓練を口頭で説明した後、伊之助、炭治郎、汐がそれを実際に行いさらに分かりやすく説明する。

 

 

(伊之助は身体を大きく逸らされて涙を流しながら呻き、炭治郎はカナヲに薬湯をかけられずぶ濡れに。汐はカナヲを捕まえよとして足をもつれさせ顔面から転んでしまった)

 

陰鬱な表情で俯く三人をしり目に、善逸は唐突に手を上げた。アオイは何かわからないことがあるのかと尋ねると、善逸はそれを否定し立ち上がった。

そして驚くほど低い声で「来い、野郎共」とだけ言った。

 

困惑する炭治郎と申し出を断る伊之助だが、

 

いいから来いって言ってんだろうがァァァ!!!

 

善逸の怒声が空気を震わせ部屋中に響き渡る。そのあまりの大声にカナヲ以外の全員がびくりと体を震わせた。

 

来いコラァ!!クソ共が!!ゴミ共が!!

 

善逸は炭治郎と伊之助の襟首を掴むと、恐るべき力で二人を引きずりながら去っていった。

残された女性たちは呆然としていたが、汐だけは「嫌な予感しかしないわ」と顔を引き攣らせて言った。

 

その予感は的中し、外から耳をつんざくような善逸の大声が聞こえてきた。

 

善逸は炭治郎と伊之助を引きずり出すと、地面に投げ捨て自分はその前に仁王立ちになって叫んだ。

 

正座しろ正座ァ!!この馬鹿野郎共がァ!!」

「なんダトテメエ・・・」

 

あまりの扱いに憤慨した伊之助が口を開くが、善逸の右拳が伊之助の左頬を穿った。

伊之助はその勢いのまま吹き飛ばされ、建物の壁に叩きつけられる。

 

「伊之助ェ!!」

 

吹き飛ばされてうずくまる伊之助に炭治郎は慌てて駆け寄る。そして善逸に向かって「なんてことをするんだ善逸!伊之助に謝れ!!」と叫んだ。

 

だが、

 

あ゛あ゛!?お前が謝れ!!お前らが詫びれ!!天国にいたのに、地獄にいたような顔してんじゃねぇぇぇぇえ!!女の子と毎日キャッキャキャッキャしてただけのくせに、何をやつれた顔してみせたんだよ!!土下座して謝れよ、切腹しろぉ!!

 

善逸は目を血走らせ、おかしな動きで早口でまくし立てる。しかしあのような大変な訓練を馬鹿にされた上に切腹などどいう物騒な単語が出たからには、炭治郎も黙ってはいられなかった。

 

「なんてことを言うんだ!!」

黙れこの堅物デコ真面目がぁ!!黙って聞けいいかァ!?

 

炭治郎の怒声を遮ると、善逸は炭治郎の髪の毛を鷲掴みにしながら唾を飛ばしてまくし立てた。

 

女の子に触れるんだぞ!体揉んでもらえて!!湯飲みで遊んでる時は手を!!鬼ごっこの時は体触れるだろうがァァァ!!女の子一人につき、おっぱい二つ、お尻二つ、太もも二つついてんだよ!!すれ違えばいい匂いするし、見てるだけでも楽しいじゃろがい!!うきゃあー幸せ!!うぉああ幸せ―!!

 

善逸は飛び上がり、怪我をしていたとは思えない奇妙な舞を披露する。そんな善逸に炭治郎は呆れ果て、伊之助に至っては殴られた腹立たしさを善逸にぶつけるように声を荒げた。

 

「訳わかんねぇコト言ってんじゃネーヨ!!自分より体小さい奴に負けると、心折れるんダヨ!!」

やだ可哀想ッ!!伊之助、女の子と仲良くしたこと無いんだろ!山育ちだもんね、遅れてるはずだわ!あー、可哀想!!

 

しかし善逸は伊之助の言葉を一掃し、有ろうことかさらに挑発までする始末。これには伊之助の堪忍袋の緒は完全に切れてしまった。

 

「はああ゙ーーん!?俺は子供の(メス)踏んだことあるもんね!!」

最低だよそれは!!ヤダヤダヤダ!!それじゃモテないわ!!

「はああ゛ーー!?女ぐらい何人でも持てるわ!!」

 

その会話は訓練場の中にいた女性たちにも筒抜けで、アオイは拳を振るわせながら聞いていた。だが、突如汐がゆらりとした動きで立ち上がった。

 

「汐さん?」

 

汐のただならぬ雰囲気に気づいたすみが、怯えた様子で声をかける。だが、汐はそのまま滑るように扉へ向かうと、振り返らずに淡々と答えた。

 

「あたしが出て行ったら全身全霊で耳を塞いで。そこのカナヲって子もね。そうじゃないと、どうなっても知らないから・・・」

 

それだけを告げると、汐はそのまま訓練場を後にした。

 

一方。善逸は未だに汚い高音をまき散らしながら、意味不明なことを捲し立てていた。だが、あまりにも興奮していたせいか、背後から忍び寄る黒い影に気が付くことができなかった。

 

いいかこのクソ野郎共!!女の子っていうのは・・・へぐっ!!

 

再び捲し立てようとした善逸の動きが突如止まる。真っ赤だった顔が、頸から上へみるみる青く染まっていく。

前にいる炭治郎と伊之助は、その光景に瞬時に青ざめて固まり、善逸も状況を確認しようと剥いたままの目を下へ動かした。

 

そこで見たものは、自分の大事な部分に綺麗に食い込む汐の爪先だった。

 

「ほぉ~~う?」

汐は青ざめて震える善逸の背後から、にっこりと笑いながらさらに足に力を込めた。

 

「ってことはなあに?あたしたちが死ぬような思いでやっていたことが、あんたには天国にみえたんだぁ~?随分と目出度ぇ頭だなあ、この下半身直結男がアア!!!

 

汐はその勢いのまま善逸の下半身を思い切り蹴り上げる。奇妙な悲鳴を上げて善逸の体は飛び上がり、そのまま地面に倒れ伏した。

彼の顔は真っ青になり、蹴られた場所を抑えてびくびくと痙攣している。だが、そんな彼を汐は胸ぐらをつかんで無理やり立たせると、凄まじい速度で前後に揺さぶった。

 

ふざけてんじゃねーぞカス!あたしたちのいる前でよくそんなふざけたことがほざけるなてめーは!!大体乳も尻も太ももも男にだってついてるだろうし、そもそも尻は一つだ馬鹿野郎!!そんなくだらねーこと考えている余裕があるなら、無駄な時間を費やしたあたしたちに謝れ!!わかったかこの童貞拗らせクソ下衆野郎がアア!!

 

汐はそのまま善逸を投げ飛ばすと、腐った生ごみを見るような眼で善逸を見下ろした。それから震えて縮こまっている二人を一瞥すると、ふんと鼻を鳴らして訓練場に戻っていった。

 

炭治郎と伊之助は、倒れ伏したままの善逸をどうしようか迷ったが、その後彼が何事もなく立ち上がったのでそのまま微妙な空気のままで訓練場へと戻った。

 

*   *   *   *   *

 

だが、善逸の女性に対する執着は、汐の想像をはるかに超えていた。

 

あれほどまで罵ったのにもかかわらず、戻って来た善逸は満面の笑みで思わず怖気を感じる程だった。

 

しかも、皆が涙を流すほどの激痛を伴う三人娘の按摩をゆるみ切った笑顔で受けていた。本当に心の底から幸せそうな顔をしていた。

そんな彼を見て伊之助は(あいつやりやがるぜ)と心の中でつぶやいた。

 

一方、善逸の調教が失敗に終わった汐は、もう呆れを通り越し埴輪のような表情で善逸を見つめていた。

 

「あれはもうだめだわ。上級者だもの」

「上級者?なんの?」

「変態」

「ああ・・・」

 

汐の言葉に納得した炭治郎は、顔をゆがませながら善逸を見つめていた。

 

善逸の邪なやる気はとどまることを知らなかった。次の反射訓練では、アオイと対峙したものの、すぐさま湯飲みをとりアオイの顔の前に突き付けた。

ご丁寧に片方の手はアオイの手を握り、「俺は女の子にお茶をぶっかけたりしないぜ」と思い切り気障ったらしく言って見せた。

 

が、先ほどの善逸の女性を敵に回す発言を皆聞いており、アオイは顔を思い切り引き攣らせ三人娘も眉をひそめながら彼を見つめていた。

 

さらに、その後の全身訓練でも調子に乗ってアオイに抱き着いた善逸は、顔を数発殴られて青あざを作っていた。

 

(あたし、こんな馬鹿よりも劣ってたのね・・・)

 

しかしその善逸の痴態をみて、汐の中の何かが燃える。こんな馬鹿以下に思われたくない。負けたくなんかない。

 

そう思ったせいかは定かではないが、汐は反射訓練では海の生活の勘を取り戻したせいもあり、5戦のうち4勝を勝ち取り、全身訓練でも善逸程ではないがアオイの動きを完ぺきに読みなんと全部の勝負で勝ち星をとることができた。

 

二人の奮闘を見た伊之助はやる気を出し、アオイに容赦なく薬湯をかけ、鬼ごっこでは彼女を逆さまに持ち上げて怒鳴られるほどだった。

 

炭治郎だけは負け続けていたものの、一生懸命な汐を見て己を鼓舞し何とか食らいついていた。

 

だが、

 

三人が順調だったのはここまでだった。

 

カナヲには勝てない。誰も彼女の湯飲みを押さえることは出来ないし、捕まえることが出来ない。

何度やっても結果は同じで、全員は薬湯の悪臭を漂わせながらその日の訓練は終了した。

 

「紋逸が来ても、結局俺たちはずぶ濡れで一日を終えたな」

「改名しようかな、もう紋逸にさ・・・」

「同じ時に隊員になったはずなのに、この差はどういうことなんだろう?」

 

覇気のない声で、炭治郎は善逸に尋ねるが、彼は「俺に聞いて何か答えが出ると思っているなら、お前は愚かだぜ」とだけ答えた。

 

「そうね。童貞(ぜんいつ)に聞くだけ無駄よ。あたしだってわからないもの。だけど、あの子の目・・・なんだか気になるのよね」

「目?あー・・・確かにそうかもしれない」

「っていうか汐ちゃん。今ものすごく酷い呼び方してなかった?俺の事すごく不名誉な呼び方しなかった?」

「さあ?とりあえず薬臭くてたまらないから、あたしは一足先に着替えてくるわね」

 

そう言って汐は三人と別れて自室へと戻る。だが、彼女からは薬湯の匂いに交じって悔しさと屈辱の匂いがしていたことを炭治郎は見逃さなかった。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



それから五日間。汐達はカナヲに負け続ける日が続いた。
この中で一番反射神経に優れている善逸でさえもカナヲの髪の毛一本すら触れなかった。
負けることに慣れていない伊之助はもちろん、善逸も早々に心が折れたのかあきらめる体制に入り、ついには訓練場に来なくなってしまった。

「あなたたちだけなの!?信じられない、あの人たち!!」

善逸と伊之助が来ないと知るや、アオイは声を荒げて二人に詰め寄った。そんな彼女に炭治郎は申し訳なさそうに謝り、明日は必ず連れてくるという。

しかしアオイは首を横に振ると、呆れた様子で言った。

「いいえ!あの二人にはもう構う必要ありません。あなたたちも、来たくないなら来なくていいですからね」

アオイの言葉に炭治郎は俯くが、汐は目を剥いてアオイに詰め寄った。

「ちょっと。あの馬鹿二人はともかく、今ここに来ているあたしたちに向かってその言い草はないんじゃないの?」
「止めろ汐。ことを荒げるな」

アオイにつかみかかろうとする汐を、炭治郎が制止する。汐自身も我慢の限界が来ていることを、炭治郎は悟っていた。

そして彼は決心する。二人の分まで頑張って、勝ち方を教えてあげよう。汐と一緒ならきっと大丈夫さ。

そう決心してからさらに十日。結局カナヲには一度も勝てなかった。

汐は悔しさと屈辱に身を潰されそうになったが、それ以上にカナヲに負けたくないという気持ちが勝り彼女を訓練場へ足を運ばせる原動力になっていた。

(うっぎぃいい!!!なんで勝てないのよぉー!)

薬湯の悪臭を漂わせながら自室へ戻った汐は、悔しさのあまり地団太を踏んだ。あれからもう何日たつのか分からない。
いい加減、汐の精神力は限界に近づいていた。

(もうこうなったらいっそのこと、ウタカタを使って動きを止めて・・・)

そこまで考えた汐は慌てて首を横に振った。

(何を考えてるのよ。それじゃイカサマじゃない。命の危機とクズを潰す時以外はイカサマを使うなっておやっさん言ってたじゃないの!)

汐は両手で頬を打ち鳴らし、冷静に考えてみることにした。考えることは苦手だが、このまま黙って負け続けていいはずがない。
そして一つのある考えが浮かんだ。

(あたし、カナヲって子の事何も知らないんだわ。相手に勝つにはまず相手を知らなければいけない。おやっさんよく言ってたっけ)

それから汐は打倒カナヲを目指し、彼女を徹底的に調べることにした。だが、尾行してもあっという間に撒かれてしまうためそれは早々にあきらめた。

そしてたどり着いた方法は、真正面から堂々と聞いてみることだった。


「カナヲ。ちょっと面貸してほしいんだけど」

 

縁側にたたずむカナヲに、汐は声をかけた。カナヲは相変わらず張り付けたような笑みを浮かべて汐を見て首を傾げた。

 

その仕草から汐の言っている言葉の意味が分からなかったのかと思い、汐は言葉を変えてもう一度言ってみることにした。

 

「え、えっと。あんたに聞きたいことがあるから付き合ってほしいんだけど」

 

汐がそういうと、カナヲは徐に隊服のポケットから何かを取り出した。それは、漢字で表と裏と書かれた一枚の銅貨。

カナヲはそれを親指で弾いて放り投げると、手の甲に受け止めた。

 

怪訝そうな顔をする汐の前で、カナヲは手を開いて銅貨を見る。そしてそのまま一言も発することなくその場を立ち去ってしまった。

 

「・・・へ?」

 

一人残された汐は、呆然とカナヲの去った方角を見つめていたが、自分が無視をされたと知ったとたん怒りが込み上がってきた。

 

な、な、な、ぬわんじゃありゃああああああ!!!!何なのよあの態度!これはあれか!?『私の髪の毛にすら触れないような弱者に話すことはない!』ってことか!?くそう、絶対に一泡吹かせてやる!

 

そう意気込んで再び勝負を挑んだものの、やはり完膚なきまでに叩きのめされてしまい、汐は一人縁側に座っていた。

 

(う~ん、一体あの子とあたしたちの何が違うのかしら。年もそんなに変わらない、ましてや同じ最終選別で生き残った同期なのに、なんでこんなに差があるんだろう)

 

汐は目を閉じ、もう一度考えてみる。自分と対戦した時と、炭治郎と対戦した時の様子を思い出してみた。

 

まず、反射速度が汐達とは比べ物にならない程速い。おそらく、汐達が万全でも勝つことは難しいだろう。

 

「・・・おい」

 

次にカナヲの眼から感じる気配が柱に近しい。相当な場数を踏んだ歴戦の剣士のような眼をしていた。

 

「おい。聞いてんのか」

 

そして最後に、汐が初めてカナヲと対戦した時に気になっていたこと。それがやっとわかった。カナヲは目がとんでもなくいいのだ。おそらく、汐達の動きなどゆっくりに見えているだろう。

 

「おいこら、いい加減に気づけ」

 

(だとしたらあたしは・・・)

 

「いい加減に返事くらいしろ!騒音娘」

「だあーっうるさいわね!いったい何なのよっ・・・」

 

耳元で何度も呼ばれた汐は、腹立たしさもあり思わず声を荒げた。だが、目の前に立つ六尺を超えた大男に目が点になる。

 

そこにいたのは柱合裁判時に見た、派手目の化粧をし派手な装飾品を身に着けた柱の一人。宇髄天元がそこに立っていた。

 

汐はしばらく呆然と彼を見ていたが、突然金切り声を上げて叫んだ。

 

不審者ァァァアア!!誰かァァ!来てェェ!!

「うるせえよ。騒音をまき散らすんじゃねえ」

 

宇髄はすぐさま汐の口を塞ぐと、音もなくその場を後にする。そして人気のないところへ連れていくと、彼は汐を解放した。

 

「おい騒音娘。時間がもったいねえから単刀直入に済ませてもらう」

 

宇髄は面倒くさそうにそういうと、突然汐に向かって何かを投げ渡した。慌てて受け取ると、それはつまみのような不可思議な細工がされた首輪のようなものだった。

肌に触れる部分は、伸縮性のある布のようなものでできていた。

 

「何これ?」

「見りゃわかるだろ?首輪だ。こいつを付けると声帯の震えを感知し、ある程度の波になると伸縮して声を強制的に抑える代物だ。お前の力をむやみに垂れ流さないための制御装置のようなもんだ」

「何よそれ。まるで犬じゃないの」

「当り前だ。お前は鬼殺隊の犬なんだよ。あの時の不死川みたいなことを堅気の人間に起こしてみろ。お前は責任をとれるのか?」

 

彼の言葉に汐は息を詰まらせた。炭治郎の声がなければあのまま人一人の命を奪っていたであろうあのことに、表情が引きつった。

 

「まあ、お前がそれを付けるかつけないかは俺は知らん。あくまでも一つの選択肢ってわけだ。それからもう一つ。俺が分かったワダツミの子についての事だ」

 

宇髄はそういうと、真剣な面持ちで汐を見た。その眼に汐は思わず体を震わせる。

 

「お前、よく男に間違われるだろ?お前が不精なのも理由の一つだろうが、ワダツミの子について調べていてわかったことだ。耳をかっぽじってよく聞け」

 

そう言って彼が語りだした内容に、汐は思わず震えた。

 

ワダツミの子。青い髪を持つ女性で、人や鬼に影響を与える声を持つもの。汐以外にもかつてワダツミの子は何人か存在した。

ある時は神として崇められ、ある時は異端として迫害され、またある時は女であるため欲望のはけ口にされ、その力を悪用する者達もいたという。

そのためワダツミの子の本能として人の目から自分の存在を逸らすという特性が備わり、汐が男に間違われるのは、その名残であると語った。

 

「だが、あくまでもそのように見えるだけであって、一部の奴らにはお前が女だってわかる奴らはいる。まあだからと言って今となっては大した意味もないだろうからな。じゃ、あとは勝手にしろよ」

 

それだけを言って宇髄は煙のように消えてしまった。まるで嵐のような彼に頭痛を覚えながらも、有力な情報は得られた。

 

「あたしが男に間違われるのは、ワダツミの子の特性の名残・・・そうまでしなければならないなんて、ワダツミの子っていったい何なのよ・・・」

 

汐は先ほど宇髄にもらった首輪を見つめた。見た目は思ったより質素で、派手好きそうな彼が作ったとは思えない。

けれどこれを付ければあのようなことを起こせずに済む・・・

 

汐は首輪の留め具を外して自分の首に巻き、留め具を付けたその瞬間だった。

 

「っ!?」

 

突然首を強く締め付けられるような圧迫感を感じた。喉が締め付けられ、呼吸ができない。

慌てて外そうにも、布は汐の首に食い込んでしまい指が入らない。

 

(く、苦しいっ!!)

 

汐は苦しみながらもなんとか留め具を外す。首が解放され空気が流れ込み、思い切り咳き込んだ。

 

(な、何よこれ!こんなの付けたらあたし死ぬじゃない!!あいつあたしを殺す気でこんなの渡したの!?)

 

頭にきて首輪を投げ捨てようとしたとき、首輪の裏側に何か紙のようなものが挟まっているのが見えた。

それを取り出してみると、そこにはこんなことが書いてあった。

 

“これを付ける前に全集中・常中を覚えろ。でないと死ぬぞ”

 

それを読んだ瞬間、汐は紙をびりびりに破いて投げ捨て、心の中で思い切り悪態をついた。

 

(そういうことは先に言え!!)

 

悪態をついた汐は深呼吸をして、捨てようとした首輪をしまうと物陰から外へ飛び出した。

 

*   *   *   *   *

 

「あれ?」

 

屋敷に戻った汐は、炭治郎が三人娘たちと何かを話しているのが見えた。何をしているのか声をかけようとしたとき、炭治郎が先に汐に気づいた。

 

「あ、汐。お前どこに行ってたんだ?姿が見えないから心配したぞ?それに、違う人の匂いがするけど誰かいたのか?」

「え、ああ、うん。なんでもない。ちょっとね。それより何を話していたの?」

 

汐がごまかしたことに炭治郎は少し違和感を覚えたが、それより先に口を開いたのはきよだった。

 

「あ、あの。今炭治郎さんにもお話していたんですけれど、汐さんは全集中の呼吸を四六時中やっていますか?」

「全集中を、四六時中?」

「はい。朝も昼も夜も、寝ている間もずっと全集中の呼吸をしていますか?」

「・・・やってないしやったことない。それなんて拷問?」

 

全集中の呼吸は少し使うだけでもかなりきつい。それは二人もいやというほどわかっている。それを四六時中続けるなんて考えもしなかった。

 

「そんなことできるの?」

「はい。それを全集中・常中というのですが、それができるのとできないとでは、天地ほどの差が出るそうです」

 

全集中・常中という言葉に汐は聞き覚えがあった。それは先ほど、首輪についていた紙に書かれていた言葉と同じだった。

 

「それができる方はすでにいらっしゃいます。柱の皆さんやカナヲさんです。お二人とも頑張ってください!」

 

三人はそういうと、頭を下げて走り去っていった。

 

炭治郎と別れて部屋に戻るまで、汐は先ほど教えてもらったことを繰り返し呟いた。

 

「全集中の呼吸を四六時中・・・そんなことができるなんて・・・」

 

――やっぱ柱って変態だわ・・・

 

「誰が変態なんですか?」

 

突如背後から声が聞こえ、汐は悲鳴を上げて飛び上がる。そこにはニコニコと笑みを浮かべるしのぶの姿があった。

 

「あ、し、しのぶさん・・・」

「汐さん。誰が聞いているかわかりませんから、人を貶すような言葉を軽々しく口にしてはいけません。思ったことをすぐ口に出すなとは言いませんが、少しは考えてものを言いましょうね」

 

それだけを言うと、しのぶはその場を去っていった。その得体のしれない雰囲気に、汐は恐怖を感じ、しのぶの前で滅多なことを言うのはやめようと心に誓うのであった。

 

 

*   *   *   *   *

 

翌日。

 

汐と炭治郎は全集中・常中を習得すべく修行に励んだ。今のままではカナヲに勝つことは絶対に不可能だと分かったからだ。

 

だが、

 

「ぜんっぜんできない!!」

「ヴォエエッ」

「おわっ!大丈夫か汐!吐きそうになるまではするなよ」

 

それは思っていたよりもはるかに苛酷で、二人は同時に地面にへたり込んだ。

 

「なんなのよこれ!こんなアホみたいにつらいこと本当にできんの!?人間やめなきゃダメなんじゃないの!?」

「落ち着け汐!気持ちは痛いほどわかる!だけどとにかく落ち着け!」

 

そういう炭治郎も涙目になっており、全く説得力がない。そんな彼を見て汐は自分の不甲斐なさに頭を抱えた。

 

「っていうか、そもそもあたしたち、今まで全集中を長く続けようなんて思ったことないから体が適応していないのかも。海に潜るときも、体が適応するまでいきなり深く潜ったりはしないように」

「それだ!きっと俺達は肺が貧弱だから呼吸がうまくできないんだ。鍛えなおそう汐!そうすればきっとできるようになる!!」

 

炭治郎は澄み切った眼で汐を見つめた。その眼に見つめられると、不思議とやる気がわいてきた。

 

「そうね。このまま負けっぱなしでいたくないもの。その提案、乗ったわ!」

 

汐はそう言って炭治郎と拳を合わせる。そんな二人を三人娘は、優しげな瞳で見つめた。

 

それから炭治郎と汐は、訓練に参加しつつ己を鍛えなおし始めた。

走り込み、息止め、そして二人での組手。やっていることは、かつて二人が修行を積んだあの時以来だ。

 

もちろんすぐに成果が出るわけでもなかったが、二人はあきらめなかった。頑張るしかできない炭治郎と、負けることが大嫌いな汐。

そんな二人をみて、三人娘は微笑みながら顔を見合わせた。

 

「炭治郎さんと汐さん、毎日頑張ってるね」

「うん。二人はとっても仲良しだもんね」

「おにぎり持って行ってあげようよ。あと瓢箪も」

 

三人は顔を見合わせると、必要なものを取りに屋敷へと戻っていくのであった。

 

「炭治郎さん、汐さん!」

 

二人が組手を終えて一息ついていると、三人娘がおにぎりをもってやってくるのが見えた。

 

「お二人ともお疲れ様です」

「そろそろ休憩してはどうでしょうか?」

 

なほとすみがそういうと、二人は顔を見合わせうなずいた。その瞬間二人の腹の虫が同時に鳴き、思わず笑ってしまった。

 

「瓢箪を吹く?」

 

おにぎりを食しながら二人は三人娘の話を黙って聞いていた。二人の前には小さな瓢箪が置いてあり、彼女たちはその説明をしているのだ。

 

「そうです。カナヲさんに稽古をつける時、しのぶ様はよく瓢箪を吹かせていました」

「へえ面白い稽古ね。音が鳴ったりするの?」

 

汐が訪ねると、きよは首を横に振って言った。

 

「いいえ。吹いて瓢箪を破裂させていました」

「へぇーっ・・・」

 

二人は笑いながらおにぎりにかぶりついていたが、その手を思わず止めた。

 

(え?ちょっと待って?この子今なんて言った?破裂、とか言ってた?)

 

思わず白目をむく二人に、きよはうなずく。汐は瓢箪を手に取って軽くたたいてみた。

こんこんという音がし、しかもかなり硬いようだ。

 

「これを?この硬いのを?」

「はい、しかもこの瓢箪は特殊ですから、通常の瓢箪よりも硬いです」

 

驚きのあまり二人の表情が石のように固まった。自分より小さく華奢な少女がそのような芸当ができるとは到底信じられない。

しかし彼女たちの眼は嘘をついているものではなかったため、真実なのだろう。

 

「そして、だんだんと瓢箪を大きくしていくみたいです。今、カナヲさんが破裂させている瓢箪は、この瓢箪です」

 

そう言って彼女たちが持ってきたのは、人間一人とそう変わらない程の巨大な瓢箪。

 

(でかっ!!でかすぎない!?人間一人分くらいあるわよ!?)

 

(頑張ろう!!)

 

まだまだ先は長そうな道のりに、二人は顔を引き攣らせたままうなずきあうのだった。

 

*   *   *   *   *

 

 

「ふぅ、少し遅くなっちゃった」

 

その夜、風呂から上がった汐は炭治郎と共に瞑想を行う約束をしていた。

あの日から十五日後。かなり体力と感覚は戻って来た。後は瞑想して集中力を上げる。全集中の呼吸を長くづつける為に必要なことだ。

それは汐が狭霧山で修行をしたとき、師である鱗滝が言っていた言葉だった。

 

(そういえば、あたしたち刀折っちゃったから鋼鐵塚さんと鉄火場さん、怒ってるんだろうな)

 

汐の脳裏に包丁を持ち殺気を放つ鋼鐵塚と、恐ろしい程の陰気を放っていた鉄火場の姿がよみがえる。

 

(もうあんな思いはしたくないし、負けっぱなしもいや。さて、早く炭治郎の所へ行こう)

 

汐は屋敷の外へでて炭治郎を捜した。確か屋根の上で瞑想をしているって言ってたっけ・・・

 

そう思って上を見上げた汐の目には炭治郎と――

 

彼に寄り添うようにして座る、胡蝶しのぶの姿が映った。




な「炭治郎さんと汐さん、頑張ってるね」
き「うん。二人はとっても仲良しだよね。見ているこっちが幸せになりそう」
す「二人は同じところで修行した兄妹弟子だってきいたよ。一緒にいた時間が長いから、とっても仲良しなんだろうね」
な「うんうん!ねえ、二人がもっと仲良くなれるように応援しようよ」
す「そうだね!二人がずっと仲良しでずっと一緒にいられますようにって」
き「きっと大丈夫だよ!二人の絆はとっても深そうだもの。何があっても、二人ならきっと乗り越えられるよ」

三人「炭治郎さんと汐さんの二人が、ずっと末永く一緒にいられますように・・・」


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



その光景が目に入った瞬間、汐の心臓がかつてない程大きく跳ねあがった。
全身が震えたかと思うと、急に体が冷たくなってきた。

(なんで、しのぶさんが炭治郎と一緒にいるの・・・!?)

汐は気配を殺して風上へと移動した。風下に行けば匂いで炭治郎に気づかれてしまうと思ったからだ。

(何を・・・何を話しているんだろう・・・ここからじゃ聞こえないわ)

汐の位置から二人の会話は聞こえない。けれど心なしか、炭治郎が赤く染まっているように見えた。

それを見た瞬間、汐の胸に鈍い痛みが走った。

(痛っ・・・!)

汐は顔をゆがめて胸を抑えた。しかしそれでも鈍い痛みはずきずきと汐の胸から離れず息も苦しくなる。

(なんでだろ・・・二人が一緒にいるところなんて、見たくない・・・)

とても瞑想などできるような状態ではないと判断した汐は、そのまま背を向け屋敷の中へ戻っていった。

「炭治郎君、頑張ってくださいね。どうか禰豆子さんを守り抜いてね。自分の代わりに君が頑張ってくれると思うと、私は安心する。気持ちが楽になる」
冷たい風がしのぶの髪を揺らし、炭治郎はその姿を黙って見つめた。そんな彼に、しのぶは全集中の呼吸が止まっていると指摘する。

慌てる炭治郎にしのぶは微笑むと、音もなく姿を消した。先ほど吐き出された彼女の本音に少しだけ触れた炭治郎は、改めて頑張ろうと決意する。

(そういえば、汐はどうしたんだろう。一緒に瞑想するって約束したのにな)

炭治郎は汐が来ないことが少し気になったが、待っていればきっと来るだろうと思い瞑想をつづけた。
しかしその夜は、汐が炭治郎の所にに来ることはなかった。


翌朝。

 

「汐、お前昨日の夜はどうしたんだ?ずっと待っていたんだぞ?」

 

訓練場に姿を現した汐に、炭治郎は心配そうに声をかける。すると汐は、少し疲れた顔で炭治郎を見て言った。

 

「急に体調が悪くなっちゃったみたいで。待っていたのにごめんね」

 

ぎこちなく笑う彼女からは嘘の匂いはしなかったが、炭治郎は汐に微かな違和感を感じた。何があったのか聞こうとしたが、アオイが訓練を始めると声を上げたためその時は断念した。

 

だが、その日の汐の動きは機能に比べて明らかに悪かった。それどころか、どこか上の空にも見えた。

 

「どうしたんですか汐さん!昨日より動きが悪くなっているじゃないですか!!」

 

その日はなんとアオイにまで負けてしまい、彼女が思わず声を上げる程だった。

 

「・・・ごめん」

 

汐は反論することもなくアオイに謝罪の言葉を口にする。こんなに静かな汐を見るのが初めてな三人娘は、心配そうに彼女を見つめる。

 

「汐。お前どうしたんだ?今朝から様子がおかしいけど、何かあったのか?」

 

炭治郎がそう言って汐の肩に触れようとした時だった。

 

触んないでよッ!!

 

汐は大声を上げて炭治郎の手を思い切り振り払う。乾いた音が訓練場に響き、カナヲと汐以外の全員が驚いて息をのんだ。

 

「汐・・・!?」

 

炭治郎は驚いた表情で汐を見る。彼女から発せられる苛立ちと敵意の匂いが隠れもせず炭治郎の鼻を刺激し、思わず声が震えた。

 

汐ははっとした表情をすると、そのまま炭治郎を押しのけ訓練場から飛び出してしまった。

 

「汐!!待ってくれ!!」

 

炭治郎は慌ててアオイたちに頭を下げると、汐の後を追って訓練場を後にする。残されたアオイは呆然とし、三人娘はおろおろと二人が去った方向を見つめていた。

 

「汐!待てって!!」

 

炭治郎は走り去る汐を追い、彼女の右腕を掴んで引き留めた。

 

「いったいどうしたんだよ。何があったんだ?」

炭治郎は腕を掴む手に力を込めた。汐は顔をゆがませただけで何も答えない。

 

「それにお前から変な匂いがするんだ。怒っているような悔しがっているような。だから俺、お前が心配で――」

「あんたに心配される筋合いなんてない!放っておいてよ!!」

 

汐は、炭治郎の手を無理やり振り払った。心の中の鈍い痛みが、怒りと苛立ちに変わっていく。

 

「大体匂い匂いっていうけれど、人の匂いを勝手に嗅ぐのってどれだけ失礼かわかってんの?誰にだって知られたくない感情の一つや二つあるのに、あんたってそういうところ無神経よね。今まで黙ってたけど、あんたにそういうところ本当に嫌。匂いで分かるからって、人の心の全てまで分かってると思い込むなんて、ちゃんちゃら可笑しいわよ!」

 

今までにない程の汐の敵意に満ちた言葉に、流石の炭治郎もカチンときたのか顔をしかめて言い返した。

 

「なんだよその言い方は。大体お前こそ人の話も聞かないで一方的に怒鳴りつけて何なんだ!」

 

炭治郎にしては珍しく棘のある言葉が汐に刺さり、彼女は目を剥いたもののすぐに怒りに顔をゆがませた。

 

「はあ!?あたしがいつ一方的に怒鳴りつけたのよ!?自分の憶測だけで適当なことを言わないでよドサンピン!」

「適当なことを言っているのはお前だろ!?前から思っていたけれど、その悪い言葉遣いをいい加減に何とかしろ!聞いていて恥ずかしいんだ!!」

「あー、はいはい!あたしはどうせ恥ずかしい女よ!だから珠世さんやしのぶさんみないな綺麗な女の人にデレデレしてたのね!」

「なんでそこで珠世さんやしのぶさんの名前が出てくるんだよ!?お前本当に意味が分からない!!」

 

二人の言い争う声は屋敷中に響き渡り、様子を見に来た三人娘や何事かとこっそり様子を見に来た善逸は顔を青くさせながらそれを見ていた。

 

「もういい!あんたの顔なんか見たくない!」

「俺もだ!お前がここまでわがままな奴だとは思わなかったよ!」

 

「「フンッ!!!」」

 

二人は互いにそっぽを向くと、炭治郎は訓練場へ、汐は自室へとそれぞれ戻っていく。隠れて様子を見ていた三人娘たちは、青ざめた顔で二人を見つめていた。

 

そして翌日。とうとう汐までが訓練場に来なくなってしまい、アオイは激怒していた。しかも、そのせいか定かではないが炭治郎の動きも機能に比べて明らかに悪くなっていた。

 

そして汐が訓練場に来なくなってから、五日目の朝。

 

「・・・何やってんだ、あたし」

 

誰もいない自室で寝ころびながら、汐はぽつりとつぶやいた。訓練場に行かなくなり、炭治郎と顔を合わせなくなっても、胸の鈍い痛みは消えなかった。

 

「なんでこんなことになっちゃったのよ・・・」

 

胸の内を吐き出してみても、痛みは和らぐことはない。それどころか、自分に対しての強い嫌悪感が募るだけだった。

あれほど激しい喧嘩を、炭治郎とするのは初めてだった汐。謝りたいとは心の中で思うものの、どうしていいかわからず悶々とした日々を送っていた。

 

(そういえば、この屋敷の裏には山があるって聞いたことがあったわね)

 

汐はそのままゆっくり起き上がると、音を立てないようにして窓からそっと外に出た。空は腹立たしい程青く澄み切っており、沈んだ汐の気持ちとはまるで正反対だった。

 

そのまま山へ行くと、いろいろな草花が生い茂り水の音も聞こえる。時々獣の足跡のようなものも見かけ、そこそこ豊かな場所だとうかがえる。

汐が少し歩いていくと、滝があるのが見えた。狭霧山で汐が割った滝よりは小さいが、それでもそこそこの大きさはあるようだ。

 

汐は大きく息を吸うと、滝つぼに向かって思い切り叫んだ。

 

炭治郎の馬鹿ァァァァ!!!ついでにあたしの馬鹿ァァァァ!!!!

 

汐の空気を震わせる大声は、水の落ちる音に溶けて消えていく。一通り叫んで荒くなった呼吸を整えながら、汐は滝つぼをじっと見つめた。

 

そしてそのまま、何のためらいもなく飛び込む。大きなものが水に落ちる音が辺りに響いた。

 

水に潜って上を見上げれば、波紋で歪んだ空が見える。その少し歪な風景を眺めながら、汐はそっと目を閉じた。

 

(わかってる。わかってるのよ。炭治郎は少しも悪くない。あたしが勝手に騒いで、勝手に苛立ってるだけ。あんなことを言うつもりなんてなかった。でも、もう今更どうしようもないわよね)

 

汐の脳裏に、怒りと悲しみを孕んだ眼を自分に向ける炭治郎の姿がよみがえる。自分が悪いことはわかっているのに、どうしても素直になれない自分が嫌で嫌で仕方がなかった。

 

そんな気持ちを冷やしたくて水に潜ってみたものの、やはり炭治郎の顔がちらついて仕方がない。いっそのことこのまま彼を忘れてしまえばいいなと思い始めたその時。

 

不意に、汐の視界に何かが割り込んできた。それは桃色と緑色の不可思議な色で、人のようにも見えた。

その人は汐の姿を見つけるなり、思い切り顔を引き攣らせた後、思わず二度見をしてしまうような程顔を崩して何かを叫び出した。

そしてそのまま、腕を突っ込み汐の手を掴むと思い切り引き上げる。

 

水圧と急激に肺に入ってきた空気に汐がむせていると、背中に衝撃が走った。

 

「大丈夫!?しっかりして!!死んじゃだめよ!!」

 

その人は汐の背中を叩いて水を吐き出させようとしているのだろうが、その力が尋常ではなくこのままではそのせいで肺がつぶれてしまいそうに感じた。

汐はせき込みながらも「大丈夫だから・・・!」と声を上げる。すると声の主は焦ったように飛びのいたので、汐は振り返ってその姿をまじまじと見た。

 

(あれ?この人って・・・)

 

そこにいたのは、桃色と緑の髪を三つ編みに結び、胸の大きく開いた扇情的な隊服を身に纏った一人の女性だった。

汐はこの女性隊士に見覚えがあった。そう、あの時柱合裁判で見かけた柱の一人。

 

――恋柱・甘露寺蜜璃がそこに立っていた。

 

「た、確かあんたは・・・乳柱さん?だっけ?」

 

汐がそういうと、甘露寺は思い切り前方にずっこけた。丈の短い隊服から覗いた、長い靴下をはいた足が無様に曝け出される。

 

「違うわよ!私は甘露寺蜜璃。乳柱じゃなくて恋柱です。ちゃんと覚えてね。って、そうじゃなかった!」

 

甘露寺は慌てたようにそういうと、どこからか手ぬぐい(この時は知らなかったが、西洋の手ぬぐいタオルだった)を出して汐の体を拭き始める。あまりの早業と女性とは思えない力強さに、汐はなすすべもなくされるがままにされていた。

 

「よかった。私あなたに用があって来たのに、しのぶちゃんに聞いて部屋に行ってみたら誰もいないんだもの。それに、あなたがすごく落ち込んでるって聞いていてもたってもいられなくなって捜しに来たら・・・。お願い、せっかく助かった命を粗末にするのはやめて!」

 

甘露寺はそう言って涙目で汐を見つめる。それを見て汐は、甘露寺が自分が入水をしているのだと勘違いしているということに気が付いた。

 

「え!?ち、違うわよ!あたしは何も死にたくてここに来たわけじゃない。あたしはああやって嫌なことがあると水に潜りたくなる癖があるの」

 

汐がそのことを滾々と説明すると、甘露寺の顔がみるみるうちに赤くなっていく。そして自分の勘違いだと気づくと、まるで子供のように大声をあげて泣いた。

 

「よかったああ!!せっかく見つけた私の運命の子なのに、死んじゃったらどうしようって怖くて!でも、でも、本当に良かったああ!!」

 

そう言って泣きじゃくる甘露寺に、今度は汐が手ぬぐいを渡す。甘露寺はそれを受け取ると、謝りながら涙を拭いた。

 

(ん?ちょっと待って?この人今さっき何て言った?)

 

甘露寺を眺めながら、汐は先程彼女が言っていた言葉を思い出していた。確か、運命の子がどうのこうの言っていたような・・・

 

「あ、あの。甘露寺さん、だったっけ?あたしに用があるって言ってたけど、いったい何の用なの?」

 

汐がそう尋ねると、甘露寺は思い出したように顔を上げると、少し頬を染めながら汐に向き合った。

 

「そう。私があなたに会いに来た理由はね。あなたにお誘いをしに来たの」

 

言葉の意味が分からず怪訝な顔をする汐に、甘露寺はにっこりと笑ってそっと口を開いた。

 

――私の継子にならない?大海原汐ちゃん。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



日が落ち夜の帳が降りたころ。目を覚ました禰豆子は、箱から出て兄の帰りを待っていた。
最近はいろいろと忙しいらしく疲れた顔をして帰ってくるのだが、禰豆子が起きていると笑顔で頭をなでてくれるので彼女はいつもそれを楽しみにしていた。
だが、禰豆子が楽しみにしているのはそれだけではない。時々自分に会いに来る姉のように慕う彼女が聞かせてくれる歌も、禰豆子は同じくらいに楽しみにしていた。

しかし、その日に炭治郎が戻って来た時、禰豆子はぎょっとした。彼の雰囲気が尋常じゃない程陰鬱なものになっていたのだ。

禰豆子は困惑した表情で炭治郎の下に駆け寄ると、彼は引きつった笑顔のまま禰豆子の頭をなでた。いつもならうれしいはずのその行動に、禰豆子は違和感を感じた。
炭治郎はベッドに座ると、大きなため息をついて頭を抱えた。禰豆子がそっと膝に手を置くと、炭治郎はぽつりぽつりと語りだした。

「禰豆子・・・。俺、汐と喧嘩しちゃったんだ。汐の様子がなんだか変だと思ったから声を掛けたら、ものすごく怒られて、それで俺もかっとなって言い返したら――。あれから汐も訓練場に来なくなっちゃったんだ」

そこまで言って炭治郎は、もう一度大きなため息をついた。

「なんであんなこと言っちゃったんだろう。冷静に考えてみれば、匂いでわかってもその人の心の全てまでわかるわけじゃない。誰にだって知られたくない心のうちなんてあるに決まってるのに、汐の言う通り俺って無神経だったな」

三度目のため息をつこうとしたとき、禰豆子は炭治郎の腕を掴んで軽く引っ張った。顔を上げると、真剣な表情の彼女と目が合う。

そう言えば昔、下の兄妹たちが喧嘩をしたときよく自分と禰豆子が仲裁に入っていたっけ。と、炭治郎は思い出していた。

――言いたいことはきちんと言わなければいけない。そして、悪いところがあればきちんと謝らなくてはいけない。

「そうだな、そうだよな。まずは汐ときちんと話さないといけないとな。もしかしたらまた喧嘩になるかもしれないけれど、俺の気持ちをきちんと伝えないと」

よし!と、炭治郎は頬を叩いて気合を入れた。その眼は決意に満ち溢れている。

「汐と話をしてみるよ。兄ちゃん、頑張ってみる!」

炭治郎の力強い言葉に、禰豆子は目を細めてうれしそうに微笑むのであった。


「・・・はい?」

 

突然告げられた言葉に汐は言葉を失い、甘露寺をまじまじと見つめた。彼女は花のような満面の笑みを浮かべながら自分を見ている。

 

(え、ちょっと待って?この人今なんて言ったの?ツグコ?ツグコって確か・・・)

 

汐の脳裏に、この屋敷に来たばかりの頃に隠が話していた言葉がよみがえる。確か継子と言うのは柱が育てる弟子の事で相当な才能がなければ選ばれないと聞いた。

 

そんな地位に、目の前の恋柱甘露寺蜜璃は自分を迎えようというのだ。

 

それを理解した瞬間。汐は耳をつんざくような悲鳴を上げた。響き渡る大声に驚いた鳥たちが、一斉に飛び立つ。

 

「継子って、カナヲみたいなやつでしょ!?あたしが!?なんで!?」

 

混乱する汐に、甘露寺は満面の笑みのまま、嬉しそうに答えた。

 

「初めてあなたを見た時、これ以上ない程胸がキュンキュンしたの!大切な人たちを守るためならどんな恐ろしいことにも立ち向かうあなたの姿を見た時、継子にするなら絶対にあなたがいいと思ったから!」

「でもその前に呼吸法とか違うんだけど・・・」

「柱がいいなら呼吸が違ってもいいのよ。現に、しのぶちゃんの継子のカナヲちゃんが使う呼吸は、しのぶちゃんとは違うし」

「え?そうだったの?それは知らなった・・・」

 

じゃなくて!と、声を荒げる汐に、甘露寺は慌てた様子で付け加えた。

 

「もちろん無理強いするつもりはないし、決定権はあなたにあるから。だけど私は本気であなたを継子に迎えたいと思っている。それだけは嘘じゃないから」

 

甘露寺の薄緑色の眼は嘘をついているものではなく、本気で汐を継子に迎えたいと思っているものだった。

汐は迷った。もしも柱である彼女から直々に指導を受ければ、大切な人たちを守り無惨を倒せるかもしれない。

 

けれど、今の状態の自分では貴重な指導も身につくとは思えない。そんな相反する気持ちを吐き出そうと汐が口を開いた時だった。

 

出てきたのは言葉ではなく、空気を震わせるほどの大きなくしゃみだった。

 

「大変!そういえばあなたびしょぬれだったわね。すぐにお屋敷に戻りましょう」

 

甘露寺はそう言って汐を促すが、汐は表情を渋らせたまま動かない。甘露寺は一瞬怪訝な顔をしたが、彼女の意図を察知し小さな声で「こっそり戻りましょうね」とだけ言った。

 

その後二人は人目を避けながらこっそり蝶屋敷に戻り、汐は濡れた服を着替えた。

 

「はい。あったかいお茶よ。しのぶちゃんに淹れてもらったの」

 

甘露寺は着替えを済ませた汐にそっと湯飲みを差し出した。汐はそれを手に取り口をつけながら、甘露寺に礼を言った。

 

「それで、いったい何があったの?私でよければ話を聞くわ」

 

甘露寺の薄緑色の眼が、心配そうに揺れる。あまり面識のない相手に話すことに汐は一瞬ためらったが、おずおずと口を開いた。

 

何度やってもカナヲに勝てないこと。全集中・常中がうまくいかないこと。些細なことで炭治郎と喧嘩をしてしまったことを、汐はどもりながらも語った。

 

「本当はあたしが全部悪いこともわかってる。勝手に苛立って炭治郎に八つ当たりしてただけ。自分がどうしようもない奴だってことはわかっていたはずなのに、ここまで酷いなんて思わなくて・・・」

「うん、うん」

「あんなこと本当は言っちゃいけなかった。炭治郎は何にも悪くないのに、酷いことたくさん言っちゃった・・・!一番傷つけたくない人を、傷つけちゃった・・・!炭治郎に嫌われた・・・!」

 

俯いた汐の膝に雫がおち、黒い染みを次々と作っていく。震えだす背中を甘露寺は優しくさすった。その瞬間、汐は大声を上げて泣き出した。

 

う゛わ゛あ゛あ゛あ゛ん゛!!!ぜっ゛だい゛に゛ぎら゛わ゛れ゛だあ゛あ゛あ!!!

 

泣きじゃくる汐を甘露寺は優しく抱きしめ、泣き止むまで背中をさすり続けた。

 

やがて汐が落ち着いてきた頃、甘露寺はなんとか汐が炭治郎と仲直りができないか考えた。継子の事をなしにしても、このままでは絶対にいけないと思ったからだ。

 

「それで、汐ちゃんは炭治郎君に謝りたい。それは間違いないわね」

「うん。でも、顔を見たらまた言うつもりのないことを言っちゃいそうで、正直怖くて」

 

震える声でそう告げると、甘露寺はパッと表情を明るくさせていった。

 

「だったら顔を合わせないで気持ちを伝えてみましょう」

「え!?そんな方法があるの!?」

「あるわ!面と向かって言えない気持ち、それを伝える方法はね――」

 

 

 

*   *   *   *   *

 

「あの、汐さん。今日の朝食ですが・・・おいておきますね」

 

なほはそう小さく言って朝食の入った膳を汐の部屋の扉の横に置いた。汐が訓練場に姿を現さなくなってからも、三人娘たちは交代で汐に食事を運んでいた。

しかしあれ以来全く手を付けておらず、冷めきった食事を下げる日々が続いたため、なほは悲しい顔でその場を立ち去ろうとしたその時だった。

 

「ごめん、ちょっといい!?」

「きゃあっ!!」

 

いきなり開いた扉になほは大声を上げて尻餅をついてしまい、汐は慌てて駆け寄った。

 

「やだごめん。大丈夫!?」

 

汐はなほの体を起こし、怪我がないか確認する。それから脅かしてしまったことを丁寧に詫びると、あることを尋ねた。

 

「なほ。何か書くものって用意できない?」

「え?書くもの、ですか?」

 

なほがオウム返しに尋ねると、汐は少しばつの悪そうな顔をしていった。

 

「手紙を書きたいの。その、炭治郎に。顔を見たらまた、あることないこと言っちゃいそうだから・・・」

 

甘露寺の提案したのは、言葉では言えない気持ちを手紙に書いて伝えるというもの。

「名付けて、『お手紙大作戦』」という身もふたもない作戦名に汐は面食らったが、手紙で自分の気持ちを伝えるのはいい方法だと思いその案をもらったのだ。

 

汐がそう言うと、なほの顔が一瞬にして明るくなり、「わかりました!!」と力強く言い疾風の如く去って行った。

 

「なるほど、手紙ですか」

 

背後から声がして、汐は思わず飛びのく。そこには満面の笑みで汐を見つめるしのぶの姿があった。

 

「どうやら甘露寺さんとの話はうまくいったようですね」

「え?まさかあの人を呼んだのはしのぶさんだったの?」

 

汐の問いに、しのぶは黙って首を横に振った。

 

「いいえ。汐さんを継子にしたいというのは彼女の意思で、私はただ汐さんが悩んでいるから話してあげるように伝えただけですよ」

 

そう言って笑うしのぶの眼は嘘をついているものではなく、本気で汐のことを気にかけているように見えた。そして心なしか、初めて彼女を見たときのような色んな感情が混ざり合った不気味な眼が、少しだけ和らいでいるように見えた。

 

(やっぱりあたしって馬鹿だなあ・・・。こんな心も綺麗な人に敵うわけないじゃないの。炭治郎がデレデレするのも当然なのに)

 

少し視線を落とす汐に、しのぶは目を見開くと少し困ったような表情を浮かべた。そして、

 

「なほが戻ってきたら、私が手紙の書き方を教えましょうか?」

「え!?しのぶさんが!?」

 

驚く汐に、しのぶは頷き小さな声で「私にも少しばかり責任はありますしね」と呟いた。

その声は汐には聞こえなかったが、しのぶが自分の為に時間を割いてくれることに汐は心から感謝した。

 

そしてその日から、汐は手紙の書き方をしのぶにみっちりと指導を受け、思ったよりも難しかった手紙の書き方に悪戦苦闘する。

しかしそれでも、炭治郎に自分の気持ちを伝えたい。その思いだけが汐の筆を動かした。

 

そしてその日から二日後。

 

「で、出来た!!」

 

手を墨で真っ黒にしながら、汐は書きあげた手紙を高々と上げた。部屋中には墨の匂いが充満し、あちこちには書き損じた手紙が散らばり、何度も推敲したことがうかがえる。

しのぶは書きあげた手紙を読むと、満足そうにうなずいた。

 

「これならば汐さんの伝えたいことが伝わると思いますよ」

 

その言葉が合格を意味することを悟った汐の顔に、満面の笑みが浮かぶ。それを見た時、しのぶは甘露寺が継子に誘った理由が分かった気がした。

 

「さて、あとはこの手紙をどうやって炭治郎君に読ませることですが――」

「それはあたしがちゃんと考える。元はと言えばあたしのせいでああなっちゃったんだから、それぐらいはあたしがするわ」

 

汐が力強くそう言うと、しのぶは「そうですか」と安心したよう返す。すると汐はそんな彼女をじっと見つめ口を開いた。

 

「しのぶさん、ごめんなさい」

「・・・え?」

 

いきなり告げられた謝罪の言葉に、流石のしのぶも面食らう。そんな彼女に、汐はつづけた。

 

「あたし、柱を、しのぶさんを誤解してたみたい。初めて出会ったとき正直なところ、すごく怖い人だって思ってた。色んな感情がごちゃ混ぜになってて、正直鬼よりも怖いって思ってた。でもそうじゃなかった。本当は誰かのことを気遣えるすごく優しい人だってやっと気づけた。そうでなかったらあたしにここまで時間を割いて付き合ってなんかもらえないもの。本当にありがとう。そして本当にごめんなさい!」

 

そう言って深々と頭を下げる汐に、しのぶは目を見開いたまま固まった。あの日敵意と殺意だけを宿した眼で自分を睨みつけてきた彼女とは、まるで別人のようだったからだ。

 

「・・・顔を上げてください。私は、あなたが思っているほど優しくなんかない。私は、姉を鬼に殺されてからずっとその鬼だけではなく全ての鬼を憎み、恨んでいたことに気づいたのです。それをただただ隠していただけに過ぎない」

 

「そんなことない。だってあなたは禰豆子を受け入れてくれた。炭治郎とあたしの事を受け入れて助けてくれた。それにあたしだって似たようなもん。炭治郎と禰豆子に出会うまで、あたしもおやっさんや村の連中を奪った鬼が許せなくて殺したくてたまらなかったから。そんなあたしをこうして受け入れてくれたもの好きなんだもの。だからそんな風に言わないで」

 

汐の声がしのぶの耳を通り、心に響いていく。それがワダツミの子の特性なのか、彼女の本当の人柄なのか。いや、きっと両方だろうとしのぶは思った。

だからこそ汐の周りには自然と人が集まっていくのだろうと理解した。

 

「ありがとう、汐さん。どうかその気持ちを決して忘れないで。誰かを心から思う気持ちは、きっとあなたを大きく成長させると思うから」

 

しのぶはそう言うと、静かに部屋を出て行った。一人になった汐は、炭治郎に手紙を読ませる方法を考え始めた。

 

そして、汐の部屋から出たしのぶは、胸に手を当てて目を閉じた。炭治郎に然り汐に然り、最近の若者は勘が鋭くて困る。

 

けれど、あのような子たちならば、自分の、自分の姉の願いをかなえてくれるのではないか。

そんな微かな望みが、しのぶの胸の中に確かに生まれていたのであった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

十三章:兆し


周りの様子をうかがいながら、汐は炭治郎のいる病室へ向かっていた。手には書きあげた手紙を握り締めながら。

まだ完全に決心できたわけではないが、自分の精一杯の気持ちは手紙に全て綴った。後は炭治郎に伝えるだけだ。

期待と不安を手紙と一緒に抱えながら、汐は病室を覗き込んだ。そこから見えたのは、空になっていた炭治郎のベッド。

安心したようながっかりしたような不思議な感覚を感じながら、汐はもう一度あたりを見回した。もしかしたらすぐに戻ってくるかもしれないと思ったからだ。

これじゃあまるで盗みに入ったコソ泥みたいだなあと自嘲的な笑みを浮かべつつ警戒していると

「炭治郎なら当分戻ってこないよ」

三つのベッドのうちの一つから声がして視線を向けると、善逸が起き上がってこっちを見ていた。耳のいい彼の事だろう。汐がここに来た理由も音で察していたのだ。

「かなり朝早くから訓練に行ったみたい。ここの所尋常じゃないくらい落ち込んでいたみたいだけど、訓練だけは毎日欠かさず行っているんだ。相変わらず真面目な奴だよね」

そうって茶化すように笑う善逸だが、眼には確かな罪悪感が宿っていた。おそらく彼自身も、このままではいけないということを感じてはいるのだろう。

「炭治郎と顔を合わせづらいなら、手紙を枕の下にでも置いておけばいいよ。もし気づかなくても俺が読むように促すから。最も、炭治郎なら匂いでわかりそうなものだけどね」

そう言って笑う善逸を見つめながら、汐はゆっくりと口を開いた。

童貞(ぜんいつ)・・・ありがとう」
「汐ちゃん。お礼を言われるのはいいけど、俺いつまでその呼ばれ方するの?どんだけ君に恨まれているの俺」

謝礼の言葉を口にしつつもあの時の恨みが抜けきっていない汐に、善逸の笑顔が思い切り引き攣る。そんな彼をしり目に、汐は炭治郎のベッドの枕の下にそっと手紙を置くと、部屋から立ち去った。

しばらくして訓練から戻ってきた炭治郎は、敗北した証拠として薬湯の臭いを漂わせながら戻って来た。だが、悪臭に交じって違う匂いが彼の鼻腔をかすめる。

(あれ?この匂いは・・・)

微かだが汐の匂いがすることに気づいた炭治郎の胸が音を立てた。あれからずっと彼女と顔を合わせていないせいか、酷く懐かしいように感じる。

「善逸。汐がここに来てたのか?」

炭治郎が横になっている善逸の背中にそう尋ねると、善逸は背中を向けたまま頷いた。

「お前に見てほしいものがあるってよ。枕の近く探してみろよ」

それっきり善逸は黙り込み、炭治郎は言われた通り枕の周辺を調べてみた。すると枕の下に一通の手紙を見つける。
その手紙からはっきりと汐の匂いを感じた炭治郎は、すぐさま封を開けて中を見る。そしてその手紙を眼にした瞬間、大きく目を見開くとすぐさま部屋を飛び出していった。

(ええええ!?速ッ!!)

その驚くべき行動の速さに善逸は驚愕し、手紙を見た瞬間に変わった炭治郎の音に腹を立てつつも口元に笑みを浮かべた。


「・・・」

 

汐は落ち着かない様子で部家の中を何度も何度も往復していた。手紙を置いてきてからだいぶ時間がたっている。そろそろ炭治郎が手紙を見つけて読んでいるころだ。

 

(大丈夫。大丈夫)

汐は早鐘のように打ち鳴らされる己の心臓に手を当てながら、ゆっくりと息を吐いた。

 

(やるべきことは全部やった。あたしの気持ちは全部手紙に書いたし、しのぶさんにもお墨付きをもらったから、絶対にだいじょ・・・)

 

しかし汐の決意は突然開いた扉の音に全てかき消された。あろうことか炭治郎が扉を開け、部屋に入ってきたのだ。

 

「汐!ちょっといいか?この手紙なんだけど・・・」

 

ぎゃあああああ!!!!急に入ってくんな!!

 

汐は悲鳴を上げ、炭治郎に向かって枕を投げつけた。枕は綺麗に炭治郎の顔面に当たり、小さくうめき声をあげる。

 

「いきなり何すんのよあんた!!びっくりするじゃない!!合図くらいしなさいよ!!」

「ご、ごめん。けど、どうしてもお前に聞きたいことがあって・・・」

「何よ!あたしの言いたいことなら全部手紙に書いたわよ!」

「その手紙なんだけど、文字が滲んでいて殆ど読めないからなんて書いてあるのか聞きたくて来たんだ」

 

炭治郎のこの言葉に、沸騰していた汐の頭が一気に冷める。今、とてつもなく信じられないような言葉が聞こえたような気がしたからだ。

 

「・・・は?」

 

汐は固まったまま炭治郎の顔を凝視し、炭治郎は困ったような様子で手紙を見せる。汐は手紙をひったくると、便せんを見て顔が真っ青になった。

 

それは確かに彼の言う通り、文字が滲んでしまって殆ど手紙の意味をなしていない紙きれだった。

 

ア゛ァアアーーー!(汚すぎる高音)!!!!

 

汐はとてつもなく汚い高音で叫ぶと、炭治郎をすぐさま部屋から追い出し扉を閉めた。そして震える手で手紙だったものを凝視する。

どうやら墨がまだ完全に乾いていないうちに入れただけでなく、無意識に握りしめていたせいで文字が滲んでしまったようだった。

 

(そんなぁ・・・。あたしの今までの苦労は何だったのよ・・・。せっかくしのぶさんに手ほどきを受けたのに・・・これじゃあ何の意味もないじゃない!)

 

汐は紙を握りしめて唇をかみしめた。悔しさと情けなさがあふれて目頭が熱くなってくる。

そんな彼女の背中から、扉越しに炭治郎の声が聞こえた。

 

「なあ、汐」

「何よ!笑いたければ笑いなさいよ。あんたに謝りたくて手紙を書いたけれど、結局肝心なところで失敗するあたしを思い切り笑いなさいよ」

 

汐の口から出てくるのは、棘のある言葉。しかしその中には確かに彼女の本当の気持ちがあった。それに炭治郎はわかっていた。手紙からした汐の匂いには、刺々しい感情など微塵もなかったことを。

 

「笑わないよ。笑うわけがない。俺だってそうだ。俺も汐にずっと謝りたかったのに、いざとなるときちんと話すことができるのか不安だったんだ。だから、汐が来てたってわかった時、嬉しかったんだ」

 

炭治郎は少し自嘲気味に笑ってから言葉を切ると、意を決して告げる。

 

「ごめん、汐。お前の言う通り、俺は無神経だった。匂いでわかっていても人の心の全てをわかるわけじゃない。誰にだって知られたくないことはあるのに、人の心の奥に土足で踏み込むような真似をしてしまった。本当にごめん!」

 

扉越しに聞こえる炭治郎の声に、汐の瞳が大きく揺れる。そして彼女も扉に額を付けながら口を開いた。

 

「あたしの方こそごめん。あんたの話も聞かないで一方的に怒鳴るし、言葉遣いも悪いし。全部あんたの言う通りだった。あたしのせいであんたがどれだけ恥ずかしい思いをしているのか考えることができなくて、本当にごめん!」

 

汐の声が扉越しに炭治郎の耳に届くと、彼は慌てて返事をした。

 

「いや、悪いのは俺だ」

「ううん、あたしよ」

「いいや、俺だ」

「あたしだってば!」

 

扉越しに交わされる不思議な謝罪合戦が少し続いた後、汐と炭治郎は同時に吹き出す。そしてどちらかともなく笑い出した。

何だか本当にくだらないことで悩んでいたような気がして、おかしくてたまらなかったのだ。

 

「汐」

 

やがて落ち着いたころ、炭治郎はそっと扉の向こう側にいる汐に声をかけた。

 

「中に入れてくれないか?きちんと顔を見て話がしたい」

 

炭治郎の声は真剣そのもので、からかう意思など微塵も感じられなかった。汐は一瞬だけ迷ったが、小さくうなずいて扉に手をかけそっと開けた。

 

ほぼ一週間振りに見る彼の顔は、少し疲れているように見えた。そのまま二人はぎこちなくほほ笑むと、並んでベッドに座った。

 

緊張のあまり二人の間に沈黙が流れる。汐も言いたいことはたくさんあったのに、いざこうなると何を話していいかわからなくなり口を閉ざす。

が、意を決して口を開いた時だった。

 

「「あの!」」

 

二つの声が重なり、はっとした表情でそっぽを向く。それから互いに先に話すように促すが、再び堂々巡りになり沈黙が生まれる。

このままじゃ埒が明かずどうしようかと汐が考えていた時だった。

 

「一つ、聞いていいか?」

 

炭治郎が汐に顔を向けたままそう言った。汐も同じく炭治郎に顔を向けて返事をする。

 

「俺、どうしてもわからないことがあったんだ。汐と喧嘩したあの日。あの時汐からすごくその、言いづらい匂いがしたんだ。怒っているような悔しいような。汐の事だからまた何か悩んでいるんじゃないかって思って。それがずっと気になっていたんだ」

 

話してくれないかと言いたげな炭治郎の眼に、汐は根負けして口を開いた。

 

あの夜に汐も炭治郎と瞑想をしようとしてたこと。その時に炭治郎がしのぶと二人で話しているのを見て胸に痛みを感じたこと。

それと似たような感覚を珠世といた時にも感じたこと。

 

汐の話を聞いていて炭治郎はぽかんとした表情で汐を見つめていた。匂いから察するに嘘ではないだろうが、まさかあの時のことを汐が見ていたとは思わなかったのだ。

 

「汐・・・お前・・・」

「馬鹿みたいって思うでしょ?だけどあたしもよくわかんないのよ。ただ、あんたがその、ああいう綺麗な人がいいのかなって思って・・・」

 

俯きながらもそう口にする汐に、炭治郎はある言葉を口にした。

 

「ひょっとして汐もしのぶさんや珠世さんみたいになりたいって思ってたのか?」

「・・・ちょっと違うけど、まあそんなところかも」

 

自嘲的な笑みをこぼす汐に、炭治郎は首を横に振った。

 

「そんなの無理に決まってるじゃないか」

「はあ!?それどういう意味よ!?」

「落ち着け、悪い意味じゃない。だって汐はしのぶさんや珠世さんじゃないから、二人にはなれないし、汐は汐だ。それに・・・」

 

「それに?」

 

炭治郎の言葉に汐は首をかしげながら見つめると、彼は少しだけ頬を染めながら語りだした。

 

「柱合裁判の時、汐がお館様や柱の人たちの前で歌を歌っただろう?あの時の汐を見た時、目が離せなかったんだ。その、あまりにも綺麗すぎて・・・」

 

流石に神様みたいだったとは言えずに口ごもる炭治郎を見て、汐の顔に一気に熱が籠った。

 

「あの二人は確かに綺麗だけれど、汐だって負けないくらい綺麗だったんだ。だからそんな風に考えなくても―――」

「ばっばっ、ばばばばば・・・・!馬鹿あっ!!」

 

炭治郎の言葉を強制的に遮って、汐は左手を思い切り振り上げる。だが、振り下ろしたときに体勢を崩し、体がぐらりと傾いた。

 

「わっ、わわっ!!」

「危ない!!」

 

炭治郎は咄嗟に汐の腕を掴むと思い切り引っ張った。だが、強く引きすぎたせいかそのまま勢いあまって二人は同時にベッドに倒れこんだ。

 

「・・・!!」

 

目を開けると互いの顔が目と鼻の先にあった。吐息がかかりそうなほどの距離に、二人の心臓が跳ね上がる。

汐の青い目には炭治郎が。炭治郎の赤みが掛かった目には汐がそれぞれ映り、聞こえてくるのは己の心臓の音だけ。

 

目を逸らすことができずしばらく見つめあう二人だったが、不意に風が吹いて窓枠が音を立てた。

 

「「はっ!?」」

 

その音に二人は我に返ると、慌てて起き上がり距離をとる。早鐘のように打ち鳴らされる心臓を何度か落ち着かせようと、二人は自分の胸に手を当てた。

 

「そ、そろそろ戻るよ。善逸や伊之助も戻ってくると思うし」

「そ、そうね。それがいいわね、うん」

 

二人は目を合わせないまま立ち上がると、炭治郎はそのまま部屋を出て行こうとした。そんな彼の背中に、汐は声をかける。

 

「あ、あたし、明日から訓練に参加するから」

 

「えっ!?本当に!?」

 

「アオイに怒られるのは正直いやだけど、このまま負けっぱなしなのはもっと嫌だから」

 

汐がそう言うと、炭治郎の表情がみるみるうちに明るくなる。そんな彼に汐はまた明日と声をかけて別れた。

 

「・・・・」

 

炭治郎が去った後、汐は目を閉じて先ほどの事を思い出していた。炭治郎の顔は何度も見てきたはずだったのに、あの時の彼の顔はとても凛々しく男らしく見えた。

 

(炭治郎ってあんな顔してたっけ?あんなに・・・あんなに・・・)

 

それ以上の言葉をつづけることができず、汐の顔は再び真っ赤に染まるのだった。

 

一方炭治郎も先ほどの出来事を思い出し、顔に熱が籠っていた。彼も汐の顔は見慣れていたはずなのに、吐息がかかりそうなほど近くで見た彼女の顔はとても艶やかに見えた。

 

(汐ってあんなに・・・あんなに・・・)

 

汐同様それ以上の言葉をつづけることができず、炭治郎も収まらない鼓動に戸惑いながら自室を目指すのだった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



翌日。
訓練場にやってきた汐は、まず長い間訓練に来ていなかったことをアオイをはじめ皆に謝罪した。アオイはそんな汐の姿を一瞥すると、ぶっきらぼうに「謝る暇があるなら少しでも時間を有効に使ったらどうですか」と答えた。

いつもなら怒り出す汐もその言葉を真摯に受け止め、大人しく訓練を開始する。
その変わりようにアオイは勿論炭治郎も少なからず驚いたが、何にせよまた一緒に訓練を行えることに彼はうれしさをかみしめていた。

だが、汐が戻って来たことを喜んだのは炭治郎だけではなかった。彼らをずっと見てきた三人娘だ。
彼女たちは汐が訓練に来なくなってから明らかに憔悴した炭治郎をずっと見ていた。そして同じく苦しんでいる汐をずっと心配していたからだ。

だからこそ、二人の仲が元通りになったことを三人は心の底から喜んだ。

しかし彼女たちは知らなかった。

二人の距離が、喧嘩をする前よりも近くなっていることに。




「ふぅ・・・」

 

一通り修行を終えた炭治郎は、額から流れる汗をぬぐった。最近は新しいことを始めたせいか、全集中の呼吸を前よりも長く続けられるようになっていた。

その【新しいこと】とは、炭治郎が寝ている間に全集中の呼吸を止めたら、三人娘が布団たたきでぶん殴るという何とも原始的で無茶なものだった。

 

しかしそんな修行でも成果が出ているのか、全集中の呼吸をしたままの訓練もだいぶ体になじんできていた。変わっていく自分の身体驚きつつも嬉しさを感じていた彼の耳に、どこからか聞こえてきた声が届いた。

 

その声を聞いた瞬間、炭治郎の顔に笑みが浮かぶ。それは、洗濯物を干していた三人娘も同じで、声が聞こえてきた裏山の方角を見つめた。

 

声の主は汐。彼女は裏山で全集中の呼吸をしながら発声練習を行うという修行をしていた。汐にとって肺を鍛える一番の修行はそれだった。

だが、それは汐が一人で気づいたわけではなく、あの時来ていた甘露寺から助言されたことを糧に考えたことだった。

 

甘露寺曰く、汐はもう基礎である身体はできていて、あとは効率よく肺を使えるかどうかという段階まで来ているとのこと。

後は汐自身が自分自身の身体をどのように使うことができるか。それが甘露寺が汐に助言したことであり、それを踏まえてたどり着いた修行法がこれだった。

 

全集中の呼吸をしているせいか、裏山から聞こえてくる声はかなり離れた位置にいる炭治郎達にも聞こえてくる。それだけ彼女が頑張っているということだろう。

その事実が炭治郎の心をさらに奮い立たせるという相乗効果を生み出していた。

 

そしてある日の事。

 

訓練場に向かい合って立つのは汐とカナヲの二人。その傍らでは炭治郎と三人娘が固唾をのんで見守っていた。

 

緊迫した雰囲気の中、全身訓練が始まった。

 

「頑張れ!!頑張れ!!」

 

炭治郎と三人娘が応援する中、汐は必死でカナヲを追う。相変わらず彼女の動きは素早く、少しも隙が無い。

しかし汐の動きもそれに負けじと食らいつき、カナヲの動きについていく。そんな汐にカナヲの表情が僅かに変わった。

 

(見える、追える!ついていけている!!)

 

今までは目で追うのもやっとだったカナヲの動きに、汐もついていけている。そしてその手を掴もうと手を伸ばしたときだった。

床に落ちていた汗で足を滑らせ、汐はそのまま顔面から派手に転ぶ。凄まじい音が響き、埃が煙のように上がった。

 

汐を見てカナヲは思わず掴まれそうになった自分の手を見つめる。汐はあおむけに倒れながら、(あと少しだったのに!!)と悔しそうに顔をゆがめた。

 

そんな汐を見て、炭治郎は俄然やる気が出てきた。汐が頑張っている以上、自分も頑張らないわけにはいかない。

そのせいか、次に炭治郎がカナヲに挑むと、やはり汐同様カナヲにしっかりとついていけた。結局彼女を捕まえることはできなかったが、炭治郎も確かな手ごたえを感じた。

 

そして日が落ち、今日の訓練を終えた二人はアオイに挨拶をしてた。するとアオイは何故か顔をしかめてそっぽを向いた。二人は何事かと思い振り返ると、扉からこちらの様子をうかがっている善逸と伊之助と目が合った。二人はそれに気が付くと逃げるように去って行ってしまった。

 

呆れた顔をする汐と心配そうな炭治郎に、アオイは「私は知りませんよ」とだけ言った。

 

翌日。

二人の前には小さな瓢箪が二つあった。かつて話してくれた、カナヲが稽古の時に吹いて破裂させていた強度の高い特製の瓢箪で、三人娘が二人の為に用意してくれたものだった。

 

二人はそれを手にし、目配せをすると大きく息を吸い瓢箪を吹きだした。

 

「頑張れ、頑張れ!頑張れ!!」

 

三人の応援が木霊し、汐と炭治郎は必死で瓢箪を吹き続ける。そして、瓢箪にひびが入ったかと思うと乾いた音を立てて二人の瓢箪が砕けた。

 

「「わ、割れたアアアーーッ!!」」

 

あの硬い瓢箪を割ることができた二人は、手を取り合って喜ぶ。だが、炭治郎は汐の瓢箪を見てぎょっとした。

汐の瓢箪は割れるどころかほとんと粉々で、形を保っている自分の物と比べてもその破損具合は明白だった。

 

(初めて組手をした時もそうだったけれど、やっぱり汐はすごいな。よし、俺ももっと頑張ろう!!)

 

「あとはこの大きい瓢箪だけですね」

 

なほが持ってきた人一人ほどの大きさの瓢箪を見て、二人は顔を合わせてうなずく。明るい笑い声が響くその空間を、善逸と伊之助は焦燥感を顔に出しながら見ていた。

 

翌々日。

 

汐は誰よりも早く訓練場に来て準備運動をしていた。あれほど辛かった訓練も、今は早くしたくて仕方がない。早く全集中・常中を習得したい一心だった。

 

「早いですね」

「あ、しのぶさん。おはようございます!」

 

声がして振り返ると、しのぶが笑みを浮かべながら立っていた。彼女の眼からはやはり微かな怒りの気配はするものの、初めて会った時に比べればだいぶ穏やかになったようにも見えた。

 

「その様子だと炭治郎君とは仲直りができたようですね」

「うん!甘露寺さんとしのぶさんが手伝ってくれたおかげ。本当にありがとう!」

「私は特に何も。ですが、汐さんはもう少し落ち着いて行動をしたほうがいいですね。そうでなければ肝心なところでまた失敗してしまいますよ」

 

ニコニコと笑うしのぶに、汐は手紙作戦が半分失敗したことを悟られていることを悟った。

 

「あ、そうだ。話が変わるんだけれど、あたし、炭治郎達にあたしの、ワダツミの子の事を話そうと思うんだけれど、いい?」

 

ワダツミの子という言葉に、しのぶが微かに反応する。

 

「前に宇髄って人が新しいワダツミの子の情報を教えてくれたんだけれど、そのことを炭治郎にはまだ言っていないし、善逸達に至ってはワダツミの子の事自体話していない。あんまりホイホイ話す内容じゃないのはわかっているけれど、少なくともあたしは、あいつらに隠し事はしたくない」

 

汐のまなざしは真剣そのもので、しのぶは少しばかり考える動作をした。が、小さく息をつくと口を開いた。

 

「そうですね。お館様からは特に口止めをされているわけではありませんし、話してみても大丈夫だと思いますよ。最も、殆どの人が信じられないような話だとは思いますが」

「そうよね。普通人間や鬼に影響を与える声なんて信じられないわよね」

「ですが、彼等ならきっと信じるでしょう。ワダツミの子の話だけではなく――」

 

しのぶがそこまで言いかけた時、訓練場の扉が開いた。振り返った汐はそこにいた顔ぶれに思わず目を見開く。

 

そこにいたのは炭治郎の他、善逸と伊之助が彼の後ろに続いていた。

 

「善逸!伊之助!」

 

汐が思わず名を呼ぶと、二人はびくりと肩を震わせ目を逸らす。が、そばにしのぶの姿を見つけると、人が変わったように背筋を伸ばした。

 

(あーはいはい。二人がいつも通りで安心しましたよっと)

 

汐が心の中で悪態をつくと、しのぶはすっと二人に近づき座らせてから話し出した。

 

「おはようございます。訓練を行う前に、汐さんと炭治郎君が会得しようとしている【全集中・常中】について教えましょう。全集中の呼吸を四六時中やり続けることにより基礎体力が飛躍的に上がります」

 

しのぶの説明に善逸と伊之助は微妙な表情で顔を見合わせた。そんな彼らにしのぶは微笑み、やってみるように促す。

しかし二人にとってもそれはかなりきつかったらしく、数秒後には床に倒れこみ、善逸に至っては「無理ィィィイ!!」と泣きごとを言い出す始末。

 

そんな二人に炭治郎は励ましながらも、何とかコツを教えようとはするが、教え方が壊滅的に下手な彼の説明はもはや人の言語をほとんどなしていなかった。

 

呆れかえる汐と、人外の生き物を見るような表情をする善逸と伊之助。そんな彼らを見かねたのか、しのぶは炭治郎の背後から彼に触れながら近づいた。

顔を微かに赤らめる炭治郎をみて、汐は思いっきり顔を引き攣らせる。そんな汐の音を聞いた善逸の顔が青ざめた。

 

「まあまあ、これは基本の技というか初歩的な技術なので出来て当然ですけれども、会得するには相当な努力が必要ですよね」

 

しのぶはそう言うと、伊之助の下に歩み寄りその肩に手を置いた。

 

「まぁ、()()()()()ですけれども。伊之助君なら簡単かと思っていたのですが、出来ないんですかぁ?()()()()()ですけれど、仕方ないです。できないなら。しょうがない、しょうがない」

 

彼女はそう言って何度も伊之助の肩を叩く。すると伊之助の体がぶるぶると震えだしたかと思うと――

 

「はあ゙ーーん!?できてやるっつーーの、当然に!!舐めるんじゃねぇよ、乳もぎ取るぞコラ!」

 

しのぶは憤慨して声を荒げる伊之助を華麗に躱すと、今度は善逸の手を優しく握りしめながらにっこりと笑顔を浮かべた。

 

「頑張ってください善逸君。()()応援していますよ!」

 

この言葉に善逸の顔が真っ赤に染まったかと思うと――、頭と耳から湯気を噴き出しながらしっかりと返事をした。

 

そんな彼らを眺めながら、汐は(なるほど、あれが魔性の女って奴か)と一人感心していた。しかしそんな汐の背後に、しのぶは音を立てずに回り込むと、

 

「汐さんも頑張ってくださいね。()が見ていますよ」と、小さな声で告げた。

 

その瞬間、汐の頬が赤く染まる。そしてそんな彼女から、炭治郎は以前に感じた若い果実のような不思議な匂いを感じた。

 

「よーし!俺のことを()()に気にかけてくれているしのぶさんのためにも、俺はやるぜ!」

「俺もだぜ!絶対にできて見返してやる!!」

 

どのような形とはいえやる気を出す二人に、汐は声をかけた。そして炭治郎にも話があると告げる。

 

真剣そのものの彼女に、三人の表情が少し強張った。

 

「聞いてほしいの。あんた達に。あたしの、ワダツミの子の事を――」

 

汐の言葉に炭治郎の表情が変わり、善逸と伊之助は怪訝そうな顔で汐を見つめた。汐は一つ深呼吸をすると、ゆっくりと話し始めた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



ワダツミの子。人や鬼に影響を与える声を持つ、青髪の女性。
かつては汐以外にも何人か存在し、その特殊な力故にある時は崇められ、ある時は迫害され、ある時は女故に欲望のはけ口にされ、力を悪用しようとする者たちもいたこと。
そのためワダツミの子の本能は、人の目から自信を逸らす特性を生み出し、自分が男に間違われるのはそのためだと汐は語った。

ワダツミの子の大まかを知っていた炭治郎も、その特性については初めて聞いたため、彼は悲しそうな顔で汐を見つめた。
その話が本当なら、汐の前のワダツミの子たちは今まで相当にひどい目に遭ってきたことになる。そう思うと、彼の心は酷く痛んだ。

一方、ワダツミの子という言葉自体初めて聞いた善逸と伊之助は、その突拍子もない話に呆然と汐を見つめていた。
その眼には驚きと同様が見て取れる。(伊之助は被り物をしているためわからなかったが)

「これがあたしが今知っているワダツミの子の話。信じられないだろうし気味悪いだろうけれど、嘘じゃない。あたしの声の事、あんたたちにも知ってもらいたかったの」

汐は真剣なまなざしで善逸達を見据えた。自分の秘密も、自分の今の気持ちも、すべて口にした。
微かに震える手を握りしめながら、汐は善逸達の反応を待った。

善逸は視線を泳がせ俯く。いきなりこんなことを言われて動揺するのは当然だろうと汐は唇をかみしめた。

だが――

「やっぱり、そうなんじゃないかって思ってた」
「・・・え?」

善逸の思わぬ言葉に、汐は驚いた表情で善逸を見つめた。そんな彼女に、善逸は笑みを浮かべながら口を開く。

「俺、初めて汐ちゃんの声を聞いたときに思ったんだ。この人は本当に【人】なのかって。ああ、変な意味じゃないよ!君の声を聞いていると不思議と怖い気持ちが和らいだり、勇気が出てきた気がしてたんだ。でも、今の話を聞いていて納得したよ」

善逸の言葉に、汐は呆然としながら彼を見つめた。

「確かに人や鬼に影響を及ぼす声なんて普通じゃありえないんだろうけど、俺だって耳がよすぎて気味悪がられたことが何回もあるんだ。だから俺は君の声を気味悪いなんて思わないし、君が正しくその力を使うって信じてる」

「善逸・・・」

ほほ笑む善逸に、汐は恥ずかしいのか目を伏せる。そんな二人をほほえましく見る炭治郎。

しかしそんな空気を壊すような声が、あたりに響いた。

「つまり、なんだ?どういうことなんだ?」

汐の話を理解していなかった伊之助が、善逸に言葉を投げかける。善逸は呆れたように頭を振ると、めんどくさそうに答えた。

「だから。汐ちゃんの声には俺達を元気づけたり、鬼を弱らせる力があるの。そんなことができる女の子をワダツミの子って呼ぶんだよ」
「はあ?なんでそんなことができるんだよ?」

善逸の説明で理解した伊之助が、汐に詰め寄る。そんな彼に汐は「知らないわよ!あたしだって結構後から知ったんだから」と答えた。

すると伊之助は特に驚きもせず「ふーん」とだけ言って立ち上がった。

「おい。ふーんってなんだよ。汐ちゃんが勇気を出して俺達に話してくれたんだぞ。他にいうこととかないわけ?」

善逸が咎めるように言うと、伊之助は不思議そうに首をかしげながら言った。

「他にってなんだよ?別にねぇよ。だってよくわかんねーし、それって何か悪いことなのか?」
「え?」

伊之助の問いかけに汐は思わず声を上げた。彼の言う通り、言われてみればワダツミの子であることを恥じる理由が特に思いつかないのだ。

「別にお前が何者だろうが、俺には関係ねえからな。それよりもさっさとさっきの全集中なんとかを俺は早くやりてえんだよ!」

そう言って伊之助は外に出ようとし、それを慌てて善逸が追いかける。伊之助の言葉は至極単純だったが、汐が無意識のうちに作っていた彼等との壁を壊すには十分なものだった。

「善逸、伊之助」

出て行こうとする二人に声をかけると、二人は怪訝そうな顔で汐を見る。そんな二人に汐はにっこりとほほ笑み

「ありがとう」と、告げた。

その言葉に二人の心臓が跳ね上がり、顔に一気に熱が籠る。善逸は「い、いやいや。俺には禰豆子ちゃんという心に決めた人が・・・」と呟き、伊之助は何故顔が熱くなったのか理解できないでいた。

そんな奇妙な集団を、しのぶはほほえましそうに見つめていたのだった。

こうして二人だけだった基礎訓練に、善逸と伊之助が加わりあたりは一層にぎやかになった。
四人が一生懸命に訓練をしている様子を、カナヲは遠くから不思議そうに眺めていた。

「カナヲも同期なんだから、一緒にどう?」

そんなカナヲにしのぶは微笑みながら声をかけると、カナヲは張り付けたような笑顔を見せながら一礼し、その場を去った。


それから数日後。

山で発声練習をしていた汐の元にソラノタユウが飛んできた。彼女の言葉に汐は驚いたように目を見開くと、すぐさま練習を中断し山を下りた。

 

「炭治郎!伊之助!!もうすぐ打ち直されたあたしたちの刀が届くそうよ!!」

 

扉を突き破るような勢いで、汐は訓練場に転がり込んだ。すると炭治郎と伊之助の表情が瞬時に興奮したものへと変化した。

 

その時、炭治郎の鼻が外からの匂いを探知するように動く。

 

「鋼鐵塚さんと鉄火場さんの匂いだ!」

 

三人はウキウキしながら屋敷の外に出てあたりを見回す。すると遠くの方に三つの人影があることに気づいた。

 

一人は見覚えがないが、あとの二人には見覚えがあった。江戸風鈴を傘にぶら下げた鋼鐵塚と、南部風鈴を傘にぶら下げた鉄火場。

 

「おーい、おーい!!鋼鐵塚さーん!!御無沙汰してまーす!」

 

炭治郎は大きく手を振って鋼鐵塚へ声をかける。すると炭治郎に気づいた鋼鐵塚は、荷物を隣にいたもう一人の刀匠に押し付けると、そのまま一人こちらへと走ってきた。

 

「お元気でした・・・か?」

 

走ってくる彼を見て、炭治郎の声が急速にしぼむ。それもそのはず。鋼鐵塚の手には一本の出刃包丁が握られており、そのまま殺意を込めて炭治郎に突進してきたのだ。

 

炭治郎は慌ててそれを躱し、怯えた様子で鋼鐵塚の名を呼ぶ。その殺気に当てられたのか、汐は勿論伊之助も鳥肌が立った。

 

「は・・はがねづか・・・さん?」

 

炭治郎が震える声で尋ねると、鋼鐵塚の口から地を這うような低く恐ろしい声が聞こえてきた。

 

よくも折ったな、俺の刀を。よくもよくもぉ!!

「すみません!!でも、本当にあの、俺も本当に死にそうだったし、相手も凄く強くて・・・」

 

烈火のごとく怒る鋼鐵塚に、炭治郎は必死で謝り倒すが、彼は炭治郎の話を全て否定し声を荒げた。

 

「違うな、関係あるもんか。お前が悪い!!全部お前のせい!!お前が貧弱だから刀が折れたんだ!そうじゃなきゃ俺の刀が折れるもんか!!」

 

――殺してやるーーーッ!!!

 

そのまま鋼鐵塚は包丁を振り回し、凄まじい速さで炭治郎を追い回す。

そんな二人を、汐は青ざめた表情で見ていた。

 

「あの、鉄火場さん。あれは放っておいていいの?」

 

そう尋ねると、南部風鈴の刀匠、鉄火場焔はその光景を一瞥し口を開いた。

 

「あれは流石に自分でも庇い切れませんし、ああなってしまった鋼鐵塚は放っておくのが一番です。竈門炭治郎殿には気の毒ですが」

 

彼はそう言うと、持っていた大きなものを汐に手渡した。

 

「こちらが打ち直した日輪刀です。どうぞ」

「あ、ありがとう」

 

鋼鐵塚とは異なり、鉄火場の声は落ち着いている。刀を折ってしまった罪悪感を感じていた汐は、少しだけほっとした。

 

だが刀を受け取ろうとした瞬間、鉄火場の体がぶるぶるを振るえた。

 

「折られてしまった。私の打った刀が・・・刀がぁ・・・」

「え?鉄火場さん?ちょっと?」

うわあああああん!!!あぁんまりだーーーァ!!私の刀がァー!!

 

鉄火場はそのまましゃがみ込み、まるで子供のように泣きわめいた。とてもいい年の大人がするような行動ではない。汐はどうしたらいいかわからず呆然としていた。

 

すると、

 

「ほら鉄火場。依頼主の前でそのようなことを言うものじゃない。鋼鐵塚さんもその辺にしたらどうですか?」

 

傍にいた三人目の刀匠が、二人をなだめる言葉をかける。それからゆったりした口調で屋敷に入るように促した。

 

「先ほどは申し訳ない。ですがまぁ、形はどうあれ、鋼鐵塚さんも鉄火場も人一倍刀を愛していらっしゃる。あの二人のような人は刀鍛冶の里でもなかなかいません」

「そうでしょうね」

(こんなのが何人もいたら、命がいくつあっても足りないわよ)

 

未だに怒りが収まらない鋼鐵塚と、まだ鼻を啜る音を立てる鉄火場の二人を見て、汐と炭治郎は何とも言えない表情を浮かべた。

 

その刀匠は鉄穴森(かなもり)と名乗り、伊之助の刀を打ったと告げた。

 

「戦いのお役に立てれば幸いですが・・・」

 

鉄穴森は穏やかな口調で縁側に座る伊之助の背中を見ながら言った。

伊之助の二本の刀は美しい藍鼠色へと変化し、鉄穴森をうならせた。

 

「あぁ綺麗ですね、藍鼠色が鈍く光る。渋い色だ。刀らしいいい色だ」

「よかったな。伊之助の刀は刃こぼれが酷かったから・・・」

 

未だに怒りが収まらない鋼鐵塚にボカボカと叩かれながらも、炭治郎の顔には笑みが浮かんだ。

 

「今度は大事に使わないとね。鉄穴森さんはともかく、怒らせたらやばそうなのが二人いるし」

「こら汐。滅多なことを言うもんじゃない」

 

汐の言葉を炭治郎が窘め、再び震えだす鉄火場を鉄穴森が慌ててなだめた。

 

「握り心地はどうでしょうか?実は私、二刀流の方に刀を作るのが初めてでして・・・」

 

しかし伊之助は鉄穴森の言葉には答えず、すっと立ち上がるとそのまま庭へ歩き出した。

 

「伊之助殿?」

 

怪訝そうに首をかしげる鉄穴森をしり目に、伊之助はしゃがみ込むと落ちていた石を拾っては投げるのを繰り返す。

その行動に彼だけでなく汐達も顔を見合わせ、訝しんだ。

 

やがて伊之助は、ちょうどいい大きさの石を手に取ると――

 

――あろうことかその石を、打たれたばかりの刀の刃に叩きつけた。

 

全員の口から声にならない悲鳴が上がり、あたりは一瞬で騒がしくなる。そんな喧騒をものともせず、伊之助は刃こぼれした刀を満足そうに見つめた。

 

ぶっ殺してやるこの糞餓鬼!!オイゴルァ!!何晒しとんじゃいコラァ!!

 

先ほどまでの紳士的な態度は何処へやら、鉄穴森は激高し伊之助につかみかかろうとする。それを汐と炭治郎が必死で抑えた。

しかし伊之助は構うことなく、二本目の刀にも躊躇いもなく石を穿っていく。

 

テンメェーッ!!もう生かしちゃ置けねえ!!〇×※□★くぁwせdrftgyふじこlp!!!

「すみません!すみません!!」

 

最後の方は殆ど言葉になっておらず、ひたすら伊之助を罵倒し続ける彼を、二人は必死で抑えた。

そして帰り際も「ないわー、あいつないわー!!刀を石で?ないわぁーー!!」と鉄穴森はぼやきながら鋼鐵塚と鉄火場と共に帰っていった。

 

そしてその夜。

しのぶはそっと汐のいる部屋の扉を開けて中を覗き込んだ。すると、眠っている汐の口からは、低い地鳴りのような全集中の呼吸の音が響いている。

それを見ると彼女は満足そうな顔で、そっとその場を後にした。

 

*   *   *   *   *

 

そして翌日。

訓練場では二つのあわただしい足音が響き、汐とカナヲが舞うようにして動いている。汐の口からは全集中の呼吸の音が響き、彼女の体を動かす。

 

(負けたくない、負けたくない!もう絶対に負けたくない!!!)

 

汐の細胞全てが熱を持ち、体中を活性化させ逃げるカナヲに食らいつく。そしてついに――

 

汐の左手が、カナヲの左腕をしっかりとらえた。

 

(や、やったっ!!!)

 

汐の訓練を見ていた炭治郎と三人娘は、その快挙に思わず歓声を上げた。

 

そして次は反射訓練。始まりの合図と共に、二人の両手が動き出す。

 

(うぉおおおお!!!オラオラオラオラオラオラオラオラオラオラァ!!!)

 

二人の両手が凄まじい速さで動き、互いに一歩も譲らない攻防戦だ。

 

「いい勝負です!頑張って!」

「行け―汐!頑張れ、頑張れ!!」

 

三人娘と炭治郎の応援が、汐の耳に届き、さらに身体を早く動かした。

 

(負けない!負けない!!負けない!!!これ以上、あいつの前で無様な姿は見せられない!!!)

 

その気迫が功を奏したのか、汐の左手がとった湯飲みがカナヲの防御を振り切った。そしてそのまま汐はカナヲに湯飲みを向ける。

カナヲは薬湯をかけられることを危惧し、思わず目を閉じようとした。が、汐はカナヲにかけようとした湯飲みを寸前で止めた。

 

薬湯の雫が一滴、カナヲの鼻の頭に零れ落ちる。驚いて目を見開くカナヲに、汐は息を乱しながら視線を向けていた。

 

一瞬の沈黙が辺りを支配した後。

 

「か、勝ったぁアアアア!!!」

 

汐が喜びの声を上げると、三人娘たちは抱き合って喜ぶ。炭治郎は身体を震わせると、歓声を上げながら汐の元に走り寄ってきた。

 

「汐――ッ!!」

 

そしてそのまま汐に飛びつき、固く抱きしめた。ひゅっと汐の喉から息が漏れる。

 

「すごい、すごいぞ汐!カナヲに勝つなんて、やっぱりお前はすごい奴だ!!やったな!!」

 

息が止まりそうなほど強く強く抱きしめられ、汐の血圧と体温が急激に上がる。そんな彼女に気づくことなく、炭治郎はひたすら抱きしめていた。

 

が、汐の様子に気づいたすみが、慌てて炭治郎の名を呼ぶ。

 

「た、炭治郎さん!汐さんが・・・!!」

「え?」

 

炭治郎は腕の力を緩めながら汐を見ると、汐は全身をゆでだこの如く真っ赤にさせながら目を回して気絶していた。

 

「うわぁーっ、汐大丈夫か!?しっかりしろ!!」

 

炭治郎がいくら揺さぶっても、汐はぐったりしたまま動かない。慌てる炭治郎に、きよが汐の部屋まで走り、なほとすみはしのぶを呼びに走っていった。

炭治郎はそのまま汐を横抱きに抱えると、慌てて訓練場を飛び出していった。

 

一人残されたカナヲは呆然と、皆が去った方向を見つめていた。

 

 

*   *   *   *   *

 

その夜。汐は高熱を出してしまい、部屋で寝込んでしまっていた。今までの疲れがカナヲに勝てたことで噴き出したのか。炭治郎に抱きしめられたのが原因か。将又その両方か。汐は赤い顔で額に手ぬぐいを乗せながら眠っていた。

 

そんな中、部屋の扉を軽くたたく音がした。そして音を立てないように炭治郎がそっと入ってくる。

手には水の入った桶と新しい手ぬぐいがあった。

 

「汐、大丈夫か?」

 

炭治郎が声をかけるが、眠っている汐は答えない。彼はそっと彼女の眠るベッドに近寄り、額に乗せられていた手ぬぐいをとり水につけて固く絞る。

それから再び汐の額に乗せると、もう一枚の手ぬぐいで汗を拭いた。

 

眠る汐を見て、炭治郎は昔のことを思い出していた。汐が狭霧山に来て初めての冬。雪を見たことがなかった彼女が子供の様にはしゃいで熱を出してしまったことを思い出したのだ。

 

あの時も今と同じように炭治郎が汐の看病をし、無理がたたってか炭治郎まで倒れてしまい鱗滝に迷惑をかけてしまったことがあった。

 

あの日からどれくらいが経ったのか分からない。けれど、思い出すと酷く懐かしく思える。そして今こうして汐と自分が生きていることが、本当にありがたく思えた。

 

「やったな汐。カナヲに勝つなんて、本当にすごいよ。俺も頑張らないとな」

 

炭治郎はそう呟いて汐の頬にそっと触れた。炭治郎にとっては平熱ほどの体温でも、平熱が低い汐にとっては動けない程の高熱になってしまうことがある。

少し心配そうな顔をする炭治郎。すると、汐は小さくうめくと口を開いた。

 

汐の口から歌が零れだす。おそらく熱に浮かされた寝言のようなものだろうが、炭治郎は夢の中でまで歌う汐に困ったような笑みを浮かべた。

 

(ん?あれ?この歌、いつもと何か違うような・・・)

 

汐が奏でている歌は、何度も歌っていた故郷のわらべ歌で間違いはない。だが、今まで炭治郎が聞いてきた歌詞とは異なっていた。

 

― おおなみこなみ みだれゆく

つきたてらるは さめのきば

いさりびともり うみなれば

わだつみおどり うみはたつ

ああひびけ ああとどけ

おもひつたうは しおのうた ―

 

そう言えば、と炭治郎は汐の歌を聴いて思い出したことがあった。

 

(汐がよく歌っていた歌の歌詞。よく考えてみれば汐の海の呼吸の型の名前と歌詞が似ているような・・・)

 

海の呼吸と海の女神を沈めるわらべ歌。二つが関係しているかは炭治郎にはわからないが、少なくとも無関係ではないことだけは確かだった。

 

(ワダツミの子・・・鬼舞辻無惨が恐れている力・・・。少なくともあいつは汐のことを絶対に狙ってくるだろう)

 

炭治郎は拳をグッと握りしめた。自分の大切な人をこれ以上、失うわけにはいかない。小さな決意の炎が彼の中に宿った。

 

「お休み、汐。俺、もっともっと強くなって禰豆子とお前を必ず守るから。だから――」

 

――これからも俺を見ていてくれ

 

炭治郎の言葉に汐は答えないが、心なしか汐の表情は和らいでいるように見えた。それを見届けた炭治郎は。そっと部屋を後にした。




な「か、勝ったよ!汐さんがカナヲさんに勝った!」
き「やったね!本当に良かった。汐さん毎日毎日、炭治郎さんと一緒にがんばってたもんね」
す「二人が喧嘩をしたときはどうしようと思ったけど、仲直りもできたしいいことづくめだね」
な「あとは炭治郎さんと善逸さんと伊之助さんだね。炭治郎さんはともかく、善逸さんと伊之助さんはどうだろう?」
き「大丈夫じゃないかな。みんなすごく頑張ってたし」
す「そう言えば、時々山の方から歌が聞こえるけれど、あれは汐さんが全集中の呼吸をしながら歌っているんだよね?」
な「そうだって。練習だって言ってるけれど、すごくきれいな歌声だよね」
き「あの歌を聴くと不思議と元気になれるよね。不思議」
す「炭治郎さんも汐さんの歌が大好きだって言ってたし、やっぱり二人はすごくお似合いだと思う。これからもずっと一緒にいてほしいよね」

三人「炭治郎さんと汐さんの二人の未来が、ずっと明るいものでありますように・・・」


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

肆(再投稿)

翌朝。熱がだいぶ下がった汐は、机の上に置いてあるそれを真剣な眼で見つめていた。

それはかつて、宇髄が汐の声を制御するために渡した首輪。

全集中・常駐を習得しなければ危険な代物だが、習得した今の汐ならつけることも可能なはずだった。

正直なところ、汐はこれを付けることに抵抗があった。これを付けてしまえば、自分は犬だと認めてしまうことになる。

しかし、自分の力を完全に制御できるかと言われれば、そうだと言い切る自身もない。現に非常事態とはいえ人の命を奪いかねないことをしてしまったことがある。

自分の矜持を優先するか、人の命を守るか。もう答えは決まっていた。

汐は首輪を手に取り、留め具を外し首にはめた。

すると、首輪はすっと汐の首になじんで殆ど苦しさを感じさせなかった。

そして試しに声を出してみると、特に何の制限もなく出すことができた。おそらく普通に声を出したり歌を歌ったりする分には反応せず、危険な歌を歌う時にだけ反応する代物なのだろう。

(こんなものを作れるなんて、あの宇髄って奴、ただの柱じゃなさそうね)

しかし今の汐にはそれ以上のことはわからないため、考えることはしなかった。

それより早く訓練場にいかなければならない。特に昨日は炭治郎に迷惑をかけてしまっただろうし、感謝もしていない。

汐は首輪をつけたまま、訓練場へ足を運んだ。

「行けェ―ッ!負けるなーっ!!!」

訓練場に響く二つの足音に交じって、汐のよく通る声援が聞こえる。全身訓練に挑む炭治郎が、カナヲ相手に奮闘しているのだ。

(俺の身体は変わった!汐も全集中・常中を身に着けた!早く刀を振りたい!この手で、日輪刀を!!)

炭治郎は縦横無尽に動き回るカナヲをしっかりと目で追い、そしてその手で彼女の左腕をしっかりとつかんだ。

「やったぁー!!」

炭治郎の勝利に、汐は三人娘を抱きしめ飛び上がって喜んだ。

そして続いての反射訓練。炭治郎とカナヲの手が驚くほどの速さで動き、両者一歩も譲らない攻防戦だ。

(うおおお、気を緩めるな! いけるぞおおお!!)

「頑張れ炭治郎!あんたならできる!!絶対に大丈夫!!」

汐の声が響き渡り、炭治郎もそれにこたえるように必死で手を動かす。そして炭治郎がとった湯飲みがカナヲの手を振り切る。

(抜けた!!行けぇーー!!)

炭治郎はそのままカナヲに湯飲みを向ける。が、炭治郎の脳内から小さな理性が語り掛ける。

(この薬湯くさいよ。かけたら可哀想だよ)

「!!」

炭治郎は目を見開くが、腕を止めることはできない。しかしその代わりに、彼はカナヲの頭の上に薬湯の入った湯飲みを乗せた。

固まる炭治郎と呆然とするカナヲ。一瞬の沈黙が辺りを支配したが・・・

「かっ・・・勝ったぁーー!!」
「勝ったのかな?」
「かけるのも置くのも同じだよ」
「やったわね炭治郎!!あんたもすごいじゃない!!」

見事カナヲに勝利を収めた炭治郎は、汐達と手を取り合って喜びの舞を舞う。

「んじゃ次はあたしの番ね!今日も負けないわよ―っ!!」

炭治郎に負けたことが引き金になったのか、汐の前に座るカナヲに笑顔はない。それが彼女が本気であることが見て取れた。

(今までとは違う目つき。カナヲも本気になったみたいね。でも、あたしだって負けない!!)

そして始まる汐とカナヲの訓練は、昨日よりも激しさを増していて炭治郎ですら唖然となるほどだった。そしてなんと、汐は10戦中6回の勝利をおさめ、確実に強くなっていることを実感した。

そんな様子を善逸と伊之助は顔を引き攣らせながら見ていた。
このままじゃ不味いと感じた二人は、以前よりも負荷を増やした修行を開始した。汐、炭治郎の二人がカナヲに勝利を収めたことに焦り、そしてやる気を燃やしたのだ。

(うぉおおおお!!)
(負けねぇええええ!!!)

二人の気合に満ちた声が響き、蝶屋敷はこれ以上ない程騒がしくなる。

そして二人が天賦の才能を持っているせいなのか。汐と炭治郎が何日もかかった全集中・常中を、僅か十日ほどで習得してしまうことになるとはだれも知らなかった。


それは、汐達が全集中・常中を習得する数か月前の事。

 

琵琶の鳴り響く音が耳に響き、下弦の陸ははっとした表情であたりを見回した。上も下もも右も左も部屋や階段で埋め尽くされ、自分が今どこにどうやって立っていることすらわからない不可思議な場所にいた。

 

(なんだ・・・?ここは・・・)

 

下弦の陸が上を見上げると、琵琶を抱えて座る、髪で顔を隠した女の鬼が撥を動かし音を奏でていた。

 

(あの女の血鬼術か?あの女を中心に空間がゆがんでいるようだ)

 

そして再び周りを見回すと、自分以外にも複数の鬼がこの空間に存在していることが確認できた。

 

下弦の壱、下弦の弐、下弦の参、下弦の肆。そして下弦の陸。十二鬼月の()()のみここに集められているようだった。

 

(こんなことは初めてだぞ。下弦の伍は・・・まだ来ていない)

 

わけがわからないという表情できょろきょろとあたりをまた見回していると、再び琵琶の音が響き渡った。

そして気が付けば皆一か所に集められるように移動していた。

 

(移動した!!また血鬼術!!)

 

下弦の壱以外は慌てふためく様に視線を移動させているが、ふと何かの気配を感じた下弦の陸が上を見上げた。

 

そこには、真っ白い顔に真紅の眼。黒を基調とした着物を纏い、金の髪飾りを付けた女が一人、鬼たちを見下ろすように立っていた。

 

(なんだこの女は・・・誰だ?)

 

女は冷徹な眼差しで彼らをしばらく見据えた後、真っ赤な紅を引いたその口を静かに動かした。

 

「頭を垂れて蹲え。平伏せよ」

 

その声が耳に入った瞬間。皆踏みつぶされたかのように一斉に両手をつき、額を床に押し付けた。

顔中から汗が瞬時に吹き出し、床に雫を落としていく。

 

(無惨様だ・・・無惨様の声。わからなかった。姿も気配も依然と違う。凄まじい精度の擬態)

 

「も、申し訳ございません。お姿も気配も異なっていらしたので・・・」

「誰が喋って良いと言った?貴様共のくだらぬ意思で物を言うな。私に聞かれたことのみ答えよ」

 

紅一点の下弦の肆の言葉を、無惨はぴしゃりと跳ねのけ言い放つ。その言葉に全員がガタガタと身を震わせた。

 

「累が殺された。下弦の伍だ。私が問いたいのは一つのみ。『何故下弦の鬼はそれ程まで弱いのか』」

 

口調は静かなものだがその顔には青筋が浮かび、無惨が憤っていることが見て取れた。

 

「十二鬼月に数えられたからと言って終わりではない。そこから始まりだ。より人を喰らい、より強くなり私に役に立つための始まり」

 

無惨は少し目を伏せた後、再び冷徹な声で話し始めた。

 

「ここ百年余り、十二鬼月の上弦は顔ぶれが変わらない。鬼狩りの柱共を葬ってきたのは常に上弦の鬼たちだ。しかし、下弦はどうか?何度入れ替わった?」

 

あまりにも理不尽な問いかけに、下弦の陸は思わず心の中で(そんなことを俺たちに言われても・・・)と呟いた。すると

 

「“そんなことを俺たちに言われても”。なんだ?言ってみろ」

 

先程考えていたことをそのまま言い当てられ、下弦の陸の全身に冷たいものが走る。

 

(思考が・・・読めるのか?まずい・・・)

「何がまずい?言ってみろ」

 

そう言って顔を上げた無惨の顔には、いくつも青筋が浮かんだまさに鬼の形相が張り付いていた。

 

鬼舞辻無惨。彼は己が血を分け与えたものの思考を読み取ることができる。姿が見える距離ならば全ての思考の読み取りが可能であり、離れれば離れる程鮮明には読み取れなくはなるが位置は把握している。そう、()()()()()()()()()のだ。

 

だから禰豆子が産屋敷邸に連行された時点で、通常ならば本拠地は彼に知られていた。しかし、無惨はそれをいま把握できていないのは。

 

禰豆子が珠世同様、彼の呪いを自力で外しているからである。が、それをまだ知らない。

 

「お許しくださいませ、鬼舞辻様!どうか、どうかお慈悲を・・・!!」

 

下弦の陸の身体が、無惨からあふれ出た肉色のおぞましいものに絡めとられ持ち上げられていく。

 

「申し訳ありません!申し訳ありません!!」

 

彼は必死に謝罪の言葉を述べ許しを請う。それは決して建前なのではなく、心の底からの声だった。

 

だが無惨は顔色一つ変えることなくただ黙って見据えている。すると肉片から巨大な口が現れたかと思うと、悲鳴を聞く間もなく下弦の陸をかみ砕いた。

 

おびただしい量の真紅の飛沫が、まるで雨のように下弦の鬼たちに降り注ぐ。やがて肉の怪物は鬼を飲み込むと、下品に大きくおくびをした。

 

(なんでこんなことに?殺されるのか?せっかく十二鬼月になれたのに。なぜだ・・・なぜだ・・・俺はこれからもっと・・・もっと)

 

下弦の参はまとまらない思考の中、必死に考えを巡らせる。

 

「私よりも鬼狩りの方が怖いか」

 

無惨の冷たい声に、下弦の肆が方を大きく震わせたかと思うと、引き攣った声で否定した。

 

「お前はいつも鬼狩りの柱と遭遇した場合、逃亡しようと思っているな」

 

無惨の目が下弦の肆を静かに映すと、彼女は真っ青な顔で涙目になりながら答えた。

 

「いいえ思っていません!!私は貴方様の為に命を懸けて戦います!!」

「お前は私の言うことを否定するのか?」

 

しかし彼女の決意に満ちた声は無惨の冷徹な言葉にかき消され、泣き出す間もなく先ほどの怪物に身体を引き裂かれた。

血を啜る嫌な音を聴きながら、下弦の参は心の中ですべてが終わることを悲観していた。思考は読まれ、肯定しても否定しても殺される。戦って勝てるはずもない。

 

(なら・・・逃げるしかない!!)

 

下弦の参は瞬時にその場から飛び上がり、建物の中を瞬時に駆け出した。そんな彼を眺めながら、下弦の壱は(愚かだなあ)と心の中でつぶやいた。

 

(これだけ離れれば、何とか逃げ切れ・・・)

 

しかし下弦の参が気が付いたときには、その頭は無惨の右手に掴まれていた。頸から下はなく、流れ出る血が畳を赤く汚していく。

 

「もはや十二鬼月は上弦のみでよいと思っている。下弦の鬼は解体する」

 

何が起こっているのか分からず、下弦の参は目を瞬かせた。琵琶の女鬼の能力だろうか?いや、彼が思う限り琵琶の音はしなかった。

そしてなぜか、日光か日輪刀でしか致命傷を与えられないはずの鬼の身体が再生しない。

 

「最期に何か言い残すことは?」

 

下弦の参の頭を無造作に投げ捨てながら、無惨は残っている二人の鬼に問うた。すると下弦の弐が顔を上げると、必死に無惨に訴え始めた。

 

「私はまだお役に立てます!もう少しだけ御猶予を戴けるならば必ずお役に!」

「具体的にどれ程の猶予を?お前はどのように役に立てる?今のお前の力でどれ程のことができる?」

 

無惨が問いかけると、下弦の弐は一瞬だけ言葉を切ると、思いついたように答えた。

 

「血を!!貴方様の血を分けて戴ければ、私は必ず血に順応して見せます。より強力な鬼となり戦います!!」

「何故私がお前の指図で血を与えねばならんのだ。甚だ図々しい。身の程を弁えろ」

 

しかし彼の必死な訴えは、無惨の怒りに満ちた声によって再びかき消された。

 

「違います!違います!!私は、私は――」

「黙れ。何も違わない。私は何も間違えない。全ての決定権は私にある。私の言うことは絶対である。お前に拒否する権利はない。私が正しいと言ったことが正しいのだ。お前は私に指図した。死に値する」

 

そして下弦の弐も、また物を言わぬ屍となった。

 

「最期に言い残すことは?」

 

一人だけ残った鬼に、無惨は先ほどと同じ質問を投げかけた。下弦の壱は顔に血をべっとりと付着させながら、呆然と無惨を見上げている。

 

(こいつも殺される。この方の気分次第ですべて決まる。俺ももう、死ぬ)

 

下弦の参は、薄れていく意識の中そんなことを思っていた。頭が崩れ出し、最期の時が近いことを感じていた。

 

「そうですねぇ・・・」

 

下弦の壱はねっとりとした声でそう言うと、赤く染まった顔を無惨に向けて語りだした。

 

「私は夢見心地で御座います。貴方様直々に手を下していただけるなんて。他の鬼の断末魔を聞けて楽しかった。幸せでした」

 

そう言う下弦の壱の表情は恍惚感に満ち溢れており、心の底から幸せを感じているようだった。その異様さに、下弦の参は思わず目を見開く。

 

「人の不幸や苦しみを見るのが大好きなので、夢に見る程好きなので、私を最後まで残してくださってありがとう」

 

そんな彼を無惨はしばらく見据えていたが、目を細めたかと思うと肉片を針のようにとがらせ下弦の壱の首筋に打ち込んだ。

そこから大量の血が下弦の壱の身体に流れ込んでいくと、彼は苦し気に喘ぎながらのたうち回った。

 

「気に入った。私の血をふんだんに分けてやろう。但しお前は血の量に耐え切れず死ぬかもしれない。だが、順応できたのならば、更なる強さを手に入れるだろう。」

 

――そして私の役に立て。鬼狩りの柱を殺せ。

 

「耳に花札のような飾りを付けた鬼狩りと青髪の娘――ワダツミの子を殺せばもっと血を分けてやる」

 

無惨は自分の耳と髪を指さしながら無惨は下弦の壱にそう命じた。

 

再び琵琶の音が鳴り響くと、無惨の姿は何処へと消えてゆき、下弦の壱もまた別の場所へと戻された。血を与えられた反動ですぐには動けなかったが、彼の頭の中に何かが浮かんでくる。

 

それは、自分に向かって走ってくる耳に花札のような飾りを付けた少年と、青い髪を揺らしながら歌を奏でる少女の二人。

 

「うふ、ふふふ、は、柱と、この子供二人を殺せばもっと血を戴ける・・・夢心地だ・・・!」

 

下弦の壱の声は、闇の中に静かに消えていった。

 

*   *   *   *   *

 

「いやぁ、流石無惨様。なかなかに面白い見世物だったね、ねえ猗窩座(あかざ)殿。」

 

どこかの空間で一人の青年の鬼が愉快気に語ると、猗窩座(あかざ)と呼ばれた男の鬼は不機嫌そうに顔をゆがめていった。

 

「黙れ。近寄るな。そもそも弱い奴に存在する価値はない」

 

それだけを言うと彼はそのままどこかへと去って行った。そんな猗窩座(あかざ)に、青年の鬼は特に気にするそぶりもなくへらへらと笑う。

 

「ありゃ、俺も嫌われたものだね。まあ別にいいけど。それよりも黒死牟(こくしぼう)殿。この前無惨様がおっしゃってた【ワダツミの子】っていったい何なんだい?」

 

青年の鬼は、陰に隠れるようにして佇む鬼に声をかけた。黒死牟と呼ばれた鬼は振り返ることなく口を開いた。

 

「ワダツミの子・・・人や鬼に・・・作用する・・・声を持つ青髪の・・・娘だ。私が嘗ていた時代でも・・・ワダツミの子は存在した」

「へぇ、声に不思議な力を持つ女の子か。面白いね。それはまるで人間じゃなくて鬼に近いと思わないかい?」

「だが・・・奴らは日の下を歩くことができ・・・致命傷を負えば死に至る・・・なんとも脆い存在だ。ずっと昔から・・・また・・・生まれたのか・・・」

 

彼は何かを思い出すかのように目を細めると、そのまま闇の中へ消えていく。その仕草に青年の鬼はほんの少しだけ気にはなったが、すぐにどうでもいいと思ってしまう。

 

「さて、俺はどうしようかな。これからやること、あったっけ?」

 

まるで緊張感のないその風貌は、かえって恐ろしさを助長させる。その彼の目には『上弦・弐』とはっきり刻まれていた。




おまけSC

汐「納得できない。納得できないわ」
炭「どうしたんだ?しかめっ面をして」
汐「だってあたしたちがあんなに苦労して習得した全集中・常中を、あいつらたった十日でできるようになってんのよ?何この不公平感」
炭「仕方ないよ。二人はすごい才能を持ってる。善逸は一年くらい修行をしてあの強さだし、伊之助に至っては育手なしで今まで戦ってきたんだから」
汐「それは、そうなんだけど・・・」
炭「それに、俺は汐が誰よりも頑張っていたことをずっとそばで見てきたから知ってる。だからこそ誰よりも早くカナヲに勝てたんじゃないか。そんな汐を、俺はすごいと思うし尊敬している。だから自信を持ってほしい」
汐「あんたってどうしてそんなこっぱずかしいことを・・・。でも、ありがとう。すごく、嬉しい」
炭「えっ!?あ、ああ。うん。どういたしまして・・・」

二人「「・・・・・」」

善「爆発しろ!!お前等今すぐ爆発しろォォォ!!!


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

幕間その肆
竈門炭治郎の溜息(少しだけ強めの恋愛描写有)


汐と喧嘩をした後の炭治郎視点の物語


汐と喧嘩をした翌日。とうとう訓練場には炭治郎ただ一人だけになってしまい、アオイは激怒し三人娘も心配そうに炭治郎を見つめていた。

その所為か定かではないが、その後訓練ではいつもの半分以下の実力しか出せずアオイをイラつかせてしまい、これ以上の訓練は難しいと判断され部屋に戻されてしまった。

 

あの時の汐の敵意と怒りの匂いと、自分に向ける鋭い視線が目に焼き付いてしまい、それがさらに炭治郎の心を重くさせた。

 

陰鬱な表情で部屋に戻ると、目を覚ましていた禰豆子が炭治郎に駆け寄ってきた。炭治郎は無理やり笑顔を作りながら禰豆子の頭をなでたが、違和感を感じた彼女は不思議そうな表情で彼を見上げた。

炭治郎はそのままベッドに座ると、大きなため息をついて頭を抱えた。そんな彼を心配してか、禰豆子はそっと手を膝の上に置く。

 

「禰豆子・・・」

 

炭治郎はそのまま汐と些細なことで喧嘩をしてしまったことを話し出した。汐の様子が変だったから声を掛けたら怒られ、そのままかっとなって言い返してしまったこと。そして汐も訓練に来なくなってしまったこと。なんであんなことを言ってしまったのかを全て話した。

 

すると禰豆子は、腕を引っ張りながら真剣な表情で炭治郎を見つめた。その姿を見て彼は、昔兄弟たちの喧嘩を仲裁していたことを思い出す。

 

――言いたいことはきちんと言わなければいけない。そして、悪いところがあればきちんと謝らなくてはいけない。

 

「汐と話をしてみるよ。兄ちゃん、頑張ってみる!」

 

炭治郎は決意を込めた表情で立ち上がると、禰豆子は嬉しそうに笑った。そんな彼らの音を秘かに聞いていた善逸は、なんとも言えない表情で自分の胸を抑えた。

 

*   *   *   *   *

 

だが、炭治郎は自分の考えがいかに甘かったことを知ることになった。

 

まず、肝心な汐に全く会えていない。というのも、朝早く汐の部屋に何度か行ってみたのはいいが、いくら声をかけても返事はなく部屋にはいつも鍵がかかっている。

そして何より、ずっと部屋から出ていないのか汐の匂いが全くしないのだ。

 

もしかしたらと思い訓練場に行っても、汐の姿はなく炭治郎は重い心のまま訓練に挑み、そして敗北する日々か続いた。

 

しのぶに相談しようと考えてはみたが、何故かしのぶとも会えず、善逸に相談するも「痴話喧嘩」として片付けられてしまい、炭治郎は悶々とした時間を過ごした。

 

そしてある日の事。

 

炭治郎はいつものようにカナヲに敗北し、薬湯の悪臭を漂わせながら部屋に戻って来た。しかし、悪臭に混ざって違う匂いが炭治郎の鼻をかすめる。

 

(あれ?この匂いは・・・)

 

微かだが汐の匂いを感じ、炭治郎の胸が音を立てる。そして善逸に汐が来ていたのかを確認すると、彼は振り返りもせず「枕の近くを探せ」とだけ告げた。

その言葉の意味が分からず、炭治郎は怪訝な表情をするが言われたとおりに枕のそばを調べてみた。

 

するとそこに、朝はなかったはずの一通の手紙を見つけ手に取る。手紙からははっきりと汐の匂いを感じ、炭治郎はすぐさま封を開け中を見る。

 

だがそこに書かれていたのは、文字が滲み切って殆ど読めない手紙のようなものだった。

 

(な、なんだこれ?文字が滲んで読めないけど・・・汐が書いたのは間違いないよな)

 

しかしその代わりに残る汐の匂いは、刺々しい感情など一切ない、微かな不安と温かな感情。

 

(汐!)

 

炭治郎は手紙を握りしめると、すぐさま部屋を飛び出し汐の部屋に向かった。そんな彼を、善逸は呆れたような少しうれしそうな表情を浮かべ、眼を閉じた。

 

汐に会いたい!会って話がしたい!それだけの思いで炭治郎は汐の元へ急ぎ、その扉を大きく開けた。が、その瞬間。

 

ぎゃあああああ!!!!急に入ってくんな!!

 

耳をつんざくような悲鳴を上げ、汐は枕を炭治郎の顔面に投げつける。その痛みに涙目になりながらも、炭治郎は手紙だったものを汐に見せ何が書いてあるのか尋ねようとした。

ところが汐はそれを見た瞬間、とんでもなく汚い高音で叫ぶと、炭治郎はなすすべもなく部屋から追い出された。

しかしここで引き下がるわけにはいかない。炭治郎は大きく息を吸うと扉の向こうにいる汐に声をかけた。

 

「なあ、汐」

「何よ!笑いたければ笑いなさいよ。あんたに謝りたくて手紙を書いたけれど、結局肝心なところで失敗するあたしを思い切り笑いなさいよ」

 

扉越しから聞こえてきた声に、炭治郎の身体が微かに震える。汐が自分とほぼ同じ気持ちだったことが嬉しかったのだ。

だから炭治郎はそんな彼女に、汐が部屋まで来てくれたことが嬉しかったと告げた。

 

「ごめん、汐。お前の言う通り、俺は無神経だった。匂いでわかっていても人の心の全てをわかるわけじゃない。誰にだって知られたくないことはあるのに、人の心の奥に土足で踏み込むような真似をしてしまった。本当にごめん!」

 

自分の嘘偽り無い気持ちを言葉にして伝えると、しばしの沈黙が辺りを包む。が、それから扉越しに汐の声が聞こえてきた。

 

「あたしの方こそごめん。あんたの話も聞かないで一方的に怒鳴るし、言葉遣いも悪いし。全部あんたの言う通りだった。あたしのせいであんたがどれだけ恥ずかしい思いをしているのか考えることができなくて、本当にごめん!」

 

汐の言葉に炭治郎の心が大きく揺れた。汐の口が悪いのは性格上仕方のないことだし、間違ったことは言っていないことを知っているから、まさか彼女から謝罪の言葉を聞くとは思わず炭治郎は慌てて口を開いた。

 

「いや、悪いのは俺だ」

「ううん、あたしよ」

「いいや、俺だ」

「あたしだってば!」

 

扉越しに交わされる不思議な謝罪合戦が少し続いた後、汐と炭治郎は同時に吹き出す。そしてどちらかともなく笑い出した。

何だか本当にくだらないことで悩んでいたような気がして、おかしくてたまらなかったのだ。

 

「汐。中に入れてくれないか。きちんと顔を見て話がしたい」

 

炭治郎は真剣な声色で扉に向かってそう言うと、少し待ってから扉がゆっくりと開いた。そして数日振りにみた汐の顔は、心なしか疲れているように見えた。

 

そのまま二人でベッドに座ると、汐から不安の匂いがした。炭治郎は息を一つつくと、自分が気になっていたことを思い切って聞いてみた。

 

それは、あの時の汐の奇妙な感情。怒っているような悔しがっているような匂い。無意識に抱え込んでしまう癖がある汐に、炭治郎はまた何か悩んでいるのではないだろうかとずっと気になっていたのだ。

 

すると汐は、ぽつりぽつりと話し出した。あの夜に汐も炭治郎と瞑想をしようとしてたこと。その時に炭治郎がしのぶと二人で話しているのを見て胸に痛みを感じたこと。

それと似たような感覚を珠世といた時にも感じたこと。

 

それを聞いた炭治郎は、呆然と汐を見つめていた。男の炭治郎の眼からしても、あの二人はとても綺麗だと思った。そんな彼女たちが汐はうらやましく、あこがれていたのではないか。それならば、あの時珠世としのぶの名前が汐の口から出てきた理由に納得がいく。

 

それを指摘すると、汐は少し違うがそんなところだと答えた。しかし炭治郎はそれは無理だと思った。

珠世もしのぶも確かに綺麗だ。しかし、二人が同じかと言えばそうではない。二人は全く違う人だし、綺麗の度合いも全く違う。それは汐だって同じだと炭治郎は語った。それに、汐は自分のことを卑下しているように言っているが、彼女の美しい姿を炭治郎は知っていた。

 

「柱合裁判の時、汐がお館様や柱の人たちの前で歌を歌っただろう?あの時の汐を見た時、目が離せなかったんだ。その、あまりにも綺麗すぎて・・・」

 

あの時。青い髪をなびかせながら歌を奏でる彼女に、炭治郎は目も心も釘付けになり、息をすることさえも忘れた。だから、あまり気にしなくてもいいんじゃないか。

 

炭治郎がそう言おうとしたその時だった。

 

「ばっばっ、ばばばばば・・・・!馬鹿あっ!!」

 

汐は顔を真っ赤にしながら炭治郎に向かって手を上げる。それを慌てて躱すと、彼女の身体は体勢を崩し今にもベッドから落ちそうだ。

 

「危ない!!」

 

炭治郎は咄嗟に汐の腕を掴むと思い切り引っ張った。だが、勢いがあまり、二人はそのままベッドに倒れこんだ。

 

「!!」

 

目を開けると、すぐ近くに汐の顔があった。吐息が掛かりそうなほどの近い距離で、炭治郎は初めて汐の顔をまじまじと見た。

 

海の底のような真っ青な美しい髪と、同じくらいに青い目。思ったよりもまつげは長く、唇や頬はよく熟れた果実のように赤かった。

今までずっと見てきたはずの汐の顔は、今まで見たことがない程艶やかで、炭治郎の胸をかき乱した。

 

が、不意に風が吹いて窓枠が音を立て、炭治郎のは我に返る。汐も我に返ったように目を見開くと、二人は慌てて距離をとった。

 

「そ、そろそろ戻るよ。善逸や伊之助も戻ってくると思うし」

「そ、そうね。それがいいわね、うん」

 

二人は目を合わせないまま立ち上がると、炭治郎はそのまま部屋を出て行こうとした。そんな彼の背中に、汐は声をかける。

 

「あ、あたし、明日から訓練に参加するから」

 

「えっ!?本当に!?」

 

「アオイに怒られるのは正直いやだけど、このまま負けっぱなしなのはもっと嫌だから」

 

汐の言葉に、炭治郎の胸の中に喜びが沸き上がってくるのを感じた。ゆるむ口元を隠すように、炭治郎は汐とあいさつを交わすと部屋を後にした。

 

しかし彼の足はその場から動かなかった。先ほどの事を思い出し、顔に一気に熱が籠る。

 

(汐ってあんなに・・・あんなに・・・)

 

思い出しただけで言いようのない衝動に襲われそうになった炭治郎は、収まらない鼓動に戸惑いながらも自室へ戻った。

 

「その音の様子じゃ、汐ちゃんと仲直りはできたんだな」

 

部屋では体を起こした善逸が、言葉とは裏腹な微妙な表情で炭治郎を見ていた。炭治郎はそんな善逸に「ああ」と満面の笑みで返す。

しかし善逸は、何が気に入らないのか変な顔で炭治郎を見据え、彼から感じる匂いに炭治郎は怪訝な顔をした。

 

「善逸?どうしたんだ?なんだか匂いが・・・」

「もう痴話喧嘩はこれっきりにしろよ。うるさくてたまらないんだからな」

 

善逸はそう言って再びごろりとベッドに寝転がり、そのまま寝息を立て始めた。その寝つきの良さに炭治郎は驚きつつも、善逸が心配してくれていたことにうれしくなり、笑みを浮かべるのだった。




アンケートのご協力ありがとうございました。
その結果、炭治郎と善逸の二人に決めさせていただきました。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

我妻善逸の憂鬱

善逸が頑張る汐達を見て少しだけ頑張る話(うるさい善逸はほとんどいません)


善逸は顔をどこかの動物のように思い切りしかめながら、木目調の天井を睨みつけていた。

 

汐と炭治郎がつい先日些細なことで喧嘩をして、そして仲直りをした。これだけならいいのだが、その後の二人の音が明らかに違い、彼をイラつかせた。

しかも二人とも()()()()()()()ことが、さらに善逸の不快感をあおっていた。

 

だが、本当に彼が嫌だと思っているのはそれではない。一番腹立たしいのは、自分自身だ。

 

汐と炭治郎は何やら新しいことを始めたようで、夜中には布団を叩く音と炭治郎の悲鳴が。日中には山の方から歌声が聞こえてくるようになった。

それを見るたび、善逸の胸は痛んだ。不甲斐ない自分と、あっという間に遠ざかってしまいそうな二人との距離。

 

そしてある日。善逸は何を思ったのか重たい足取りで訓練場に向かっていた。もちろん、訓練をするつもりはなかった。けれど何故か二人が気になった彼は、そっと訓練場の扉の隙間から中を覗いた。

 

そこではカナヲ相手に奮闘する汐の姿があった。初めて訓練を受けた時とは別人のような動きに、善逸は目を見開く。

 

「あいつ・・・すげぇ・・・」

 

いつの間にかそばにいた伊之助が、汐の動きを見て思わず声を漏らす。あと一歩のところで転んでしまった汐だったが、その雄姿に善逸の胸が大きく跳ねた。

 

次の炭治郎の番でも、汐同様カナヲについていこうとする姿を見て、善逸は自分の胸を抑えた。俺は何をしているんだ。二人はあんなに頑張っているのに・・・

 

努力することが苦手で、地味にコツコツやることがしんどい善逸。修行時代もなかなか成果が上げられず、師匠や兄弟子に怒られてばかりいた忌まわしい記憶。

けれど、汐と炭治郎はそんな自分を強いと言ってくれた。自信をつかせてくれた。

 

それなのに。自分は今ここで何もせずにいる。本当にそれでいいんだろうか。

 

そんなことを考えていると、不意にアオイと目が合った。アオイはしかめっ面でそっぽを向き、それに気づいた汐と炭治郎とも目が合う。

 

罰が悪くなった善逸と伊之助は、そのまま自室へと戻り、ベッドに四肢を投げ出すように寝転がった。

 

そして翌日。庭先から汐達の声が聞こえた善逸は、気配を殺しながらその様子を見ていた。(何故か伊之助もついてきたが)

 

二人は真剣な表情で瓢箪を握っている。何をするんだろうと思っていると、二人は目配せをした後、大きく息を吸い瓢箪を吹き始めた。

 

「頑張れ、頑張れ!頑張れ!!」

 

三人の応援が木霊し、汐と炭治郎は必死で瓢箪を吹き続ける。そして、瓢箪にひびが入ったかと思うと乾いた音を立てて二人の瓢箪が砕けた。

その様子を見た伊之助の喉から音が漏れたのを、善逸は聞き逃さなかった。

 

「「わ、割れたアアアーーッ!!」」

 

二人は手を取り合って喜び、あたりに幸せな音が響き渡る。明るい笑い声が響くその空間を、善逸と伊之助は焦燥感を顔に出しながら見ていた。

 

さらに翌日。

 

伊之助のイビキが響き渡る中善逸が目を覚ますと、そこに炭治郎の姿はない。まだ夜が明けたばかりだというのに、もう訓練に出ていると思うとすごいと思う反面自分自身が嫌になる。

 

努力することは苦手で、地味にコツコツやるのが一番しんどい善逸は、そんな自分に不甲斐なさをいつも感じていた。

 

すると突然、善逸の鎹雀のチュン太郎(本名うこぎ)が善逸の腕に止まった。善逸は彼に、炭治郎に教えてもらっているけれど全然できないことを漏らす。

彼に雀の言葉はわからないが、心なしか辛辣な言葉をかけられている気がする。

 

善逸は小さくため息をつくと、処方された薬を一気に煽った。舌が痺れるような強烈な苦みとえぐさが善逸の味覚を刺激する。

すると突如、眠っていたはずの伊之助が音もなく立ち上がった。心なしか彼の音に、決意が宿っているように思える。

 

「行くぞ、紋逸」

 

伊之助はそれだけを言うと、足早に部屋を出て行く。善逸もあわててその後を追った。

 

訓練場に行く前に厠から出てきた炭治郎と会い、そのまま訓練場に行くと既に汐が到着していた。彼女は二人の姿を見て嬉しそうに名前を呼ぶ。

その声に善逸は罪悪感を感じたが、そばにいたしのぶの存在を認知すると、途端に背筋が伸びた。

 

「おはようございます。訓練を行う前に、汐さんと炭治郎君が会得しようとしている【全集中・常中】について教えましょう。全集中の呼吸を四六時中やり続けることにより基礎体力が飛躍的に上がります」

 

しのぶの説明に善逸と伊之助は微妙な表情で顔を見合わせた。そんな彼らにしのぶは微笑み、やってみるように促す。

しかしその苛酷さは想像以上であり、善逸は大声で泣きごと言った。

 

そんな二人に炭治郎は励ましながらも、何とかコツを教えようとはするが、教え方が壊滅的に下手な彼の説明はもはや人の言語をほとんどなしていなかった。

 

呆れかえる汐と、人外の生き物を見るような表情をする善逸と伊之助。そんな彼らを見かねたのか、しのぶは炭治郎の背後から彼に触れながら近づいた。

 

顔を微かに赤らめる炭治郎をみて、汐は思いっきり顔を引き攣らせる。その音の恐ろしさに、善逸は思わず顔を青くした。

 

「まあまあ、これは基本の技というか初歩的な技術なので出来て当然ですけれども、会得するには相当な努力が必要ですよね」

 

しのぶはそう言うと、伊之助の下に歩み寄りその肩に手を置いた。

 

「まぁ、()()()()()ですけれども。伊之助君なら簡単かと思っていたのですが、出来ないんですかぁ?()()()()()ですけれど、仕方ないです。できないなら。しょうがない、しょうがない」

 

彼女はそう言って何度も伊之助の肩を叩く。すると伊之助の体がぶるぶると震えだしたかと思うと――

 

「はあ゙ーーん!?できてやるっつーーの、当然に!!舐めるんじゃねぇよ、乳もぎ取るぞコラ!」

 

しのぶは憤慨して声を荒げる伊之助を華麗に躱すと、今度は善逸の手を優しく握りしめながらにっこりと笑顔を浮かべた。

 

「頑張ってください善逸君。()()応援していますよ!」

 

その瞬間、善逸の体温が急激に上がり、顔に熱が籠る。こんな綺麗な人が自分を()()応援してくれている!それだけで彼の心は激しく燃え上がった。

 

「よーし!俺のことを()()に気にかけてくれているしのぶさんのためにも、俺はやるぜ!」

「俺もだぜ!絶対にできて見返してやる!!」

 

理由はともあれ二人はやる気を出し、さっそく練習に取りかかろうとする。すると突然、背後から汐が自分たちを呼び、話があると言った。

 

振り返った時に見た汐の顔は真剣そのもので、それは音にも表れている。善逸は思わず息をのみ、少し上ずった声で返事をした。

 

汐は少しだけ考えるように目を伏せた後、意を決して口を開いた。

 

「聞いてほしいの。あんた達に。あたしの、ワダツミの子の事を――」

 

汐の言葉に炭治郎の表情が変わり、善逸と伊之助は怪訝そうな顔で汐を見つめた。汐は一つ深呼吸をすると、ゆっくりと話し始めた。

 

それはにわかには信じられない話だった。ワダツミの子。独特な波長の声を持ち、人や鬼に影響を与える青髪の女性。

 

かつては汐以外にも何人か存在し、その特殊な力故にある時は崇められ、ある時は迫害され、ある時は女故に欲望のはけ口にされ、力を悪用しようとする者たちもいたこと。

そのためワダツミの子の本能は、人の目から自信を逸らす特性を生み出し、自分が男に間違われるのはそのためだと汐は語った。

 

あまりにも常軌を逸脱した事に、善逸は呆然と汐を見つめた。だが、同時に初めて出会ったときに感じた感覚の正体を、今理解することができた。

 

彼女の声を初めて聴いたとき、この人は本当に人間なのかとすら思った。声を聞いているだけで不思議と心が動き、勇気すら沸いてくる。

自分の思い違いではないかと思ったが、今の話を聞いて納得した。

 

しかし汐の音には恐れと不安が見て取れた。自分の声のことを気味悪いだろうとさえ言った。確かに普通の人から汐を見れば、そう思われてしまうことはあるだろう。

嘗ての自分がそうだったように。

 

だからこそ善逸は首を横に振った。

 

「確かに人や鬼に影響を及ぼす声なんて普通じゃありえないんだろうけど、俺だって耳がよすぎて気味悪がられたことが何回もあるんだ。だから俺は君の声を気味悪いなんて思わないし、君が正しくその力を使うって信じてる」

 

「善逸・・・」

 

ほほ笑む善逸に、汐は恥ずかしいのか目を伏せる。そんな二人をほほえましく見る炭治郎。

伊之助は汐の話が理解できなかったのか善逸に説明を求めたが、簡単に説明をすると「別にお前が何者だろうが、俺には関係ねえからな。それよりもさっさとさっきの全集中なんとかを俺は早くやりてえんだよ!」と返ってきた。

 

あまりの言い草に呆れていると、伊之助はそのまま外に出て行こうとする。どこへ行くんだと言いながら彼を追いかけると、汐が二人を呼び止めた。

 

「ありがとう」

 

汐の心からの言葉と笑顔に、二人の心臓が跳ね上がる。思わずくらりと傾きそうになった善逸だが、自分には禰豆子という心に決めた女の子が居るんだと呟く。

しかしそれでも、少しでも汐の心を軽くすることができたと思うと、嬉しさを感じずにはいられなかった。

 

それから善逸も炭治郎達と修行に参加した。勿論耳から心臓が飛び出しそうなほどつらく、苦しかった。

 

けれどどんどん先へ行く汐と炭治郎に追いつきたいと思う微かな気持ちが、彼を前へと進ませた。

 

そして数日後。善逸と伊之助は汐が遂にカナヲに勝ったという知らせを聞いて青ざめた。さらに翌日には炭治郎が彼女に勝利を収めたところを目撃する。

そして反射訓練では汐とカナヲがほぼ互角に渡り合っているところを目の当たりにして、さらに顔を青くさせた。

 

うぉおおおおおおおお!!!!

 

善逸は必死の思いで塀の上を走り、伊之助も負けないという思いで岩を使った訓練をこなす。

 

そしてその数日後の事。

 

「いけー!!善逸!!頑張れ!!」

 

炭治郎と汐が応援する中、善逸はカナヲとの全身訓練に挑む。アオイが始まりの合図をした瞬間。善逸の身体が目にもとまらぬ速さで動いた。

 

瞬きをする一瞬の間に、善逸の右手はカナヲの手を握っていた。

 

「!!!」

 

善逸は思わず息をのみ、ことを見守っていた汐と炭治郎は歓声を上げた。その後の訓練でも善逸はカナヲに勝利をおさめ、ようやく全集中・常中を習得を習得できたことを感じた。

 

「善逸!!」

 

汗を流す善逸に、汐は笑顔で手ぬぐいを渡す。善逸は礼を言って手ぬぐいを受け取ると、顔の汗を拭いた。

 

「やったじゃない善逸!あんたってやっぱりすごいわ!カナヲをあんなに速く捕まえられるなんて。やればできる男ってあんたのことを言うのね」

「そんな、褒めすぎだよ。君の方がすごいよ。一番早くカナヲちゃんに勝ったんだもの」

 

そう言って目を伏せる善逸の背中を、汐は思い切り叩いた。悲鳴を上げて咳き込む彼に、汐は慌てて背中をさすった。

 

「あの、その。あの時はごめん、善逸」

「え?何のこと?」

「前にあんたのその・・・大事なところを蹴り上げちゃったから・・・謝っておきたくて」

 

顔を伏せてそう言う汐に、善逸は苦笑いを浮かべながら言った。

 

「いいよ、べつに。って言いたいけれど、あそこを蹴るのは本当に勘弁してくれ。君はわからないかもしれないけれど、あそこは男にとっては急所中の急所だからね」

「うん、肝に銘じるわ。だからあんたも、滅多なことを言うもんじゃないわよ」

「あれ?俺謝られてるよね?全然謝られている感じがしないけれど・・・」

 

なんとなく収集が付かなくなりそうだと察した善逸は、話題を変えようと口を開いた。

 

「ねえ汐ちゃん。前に君がワダツミの子の事を思い切って打ち明けてくれたことを覚えてる?汐ちゃんが炭治郎のことで悩む前にも、君からは悩んでいるような音が聞こえたんだ。でもそれが何なのかわからなくて、滅多なことを言って君を幻滅させたくもなかった。だからあの時、君がワダツミの子の事を打ち明けてくれて本当にうれしかったんだ。大事なことを話してくれたことが」

「・・・そうね。あたし信用していたようで心のどこかであんた達を怖がっていたの。炭治郎や禰豆子は受け入れてくれたけど、あんた達に受け入れられなかったらどうしようって。でもそうじゃなかった。むしろ、あんた達を信用できていなかった自分自身が馬鹿に見えたわ。だから、ありがとうね、善逸」

 

汐はそう言ってにっこり笑うと、善逸の顔に熱が籠る。彼女の音はいつもの優しい潮騒のような音になっていた。

 

(ああ、なるほどな。炭治郎が気になるのもわかる気がする)

 

しかしそれを口にしてしまったら、たちまち彼女の音は荒れ狂うだろう。それを危惧した善逸は、言葉を飲み込み笑顔を向けた。

 

汐の音が、笑顔がこれからもここにあるように願いながら――



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

煉獄杏寿郎の驚愕

汐が全集中・常中を習得する少し前の話


「失礼する。胡蝶はいるか?」

 

蟲柱・胡蝶しのぶが構える蝶屋敷に、炎柱・煉獄杏寿郎が顔を出した。しのぶは少し驚いたように目を見開き、どうしたのか問いただす。

 

「傷薬が切れてしまってな。次の任務まで補充をしておきたい」

「それは構いませんが、どこか怪我をされたのなら私が診ましょうか?」

「いや、俺は怪我をしていない。任務中に出会った負傷者の手当てをしていたら薬が底をついてしまったんだ!」

 

困っているようで全く困っていないような笑顔に、しのぶは小さくため息をつくと「承りました」と答えた。

 

「用意しますので少々お待ちください」

「うむ!」

 

煉獄はそう言って用意された椅子に座ろうとした、その時だった。外から声のようなものが聞こえ、煉獄の耳に届く。

 

「ん?外から何か聞こえる様だ」

 

煉獄はそう言って、窓から外へ顔を出した。声のようなものは裏山の方から聞こえてくる。

 

「大海原汐さんですよ。今、全集中・常中を覚えようとしているようで、ああして彼女独自の修行をしているようです」

「あの青い髪の少女か!」

 

煉獄は以前柱合裁判で、輝哉や柱達の前で歌を披露した汐を思い出し目を輝かせた。あの時の身体が浄化されるような不思議な感覚がよみがえる。

 

「気になるならば様子をご覧になってはいかがですか?薬を処方するまで少々時間がかかりそうですので」

「む!いいのか?」

「はい。ですが、あまり彼女を驚かせないようにしてくださいね」

「心得た」

 

煉獄はそう言って屋敷を出ると、まるで誘われるように声が聞こえる裏山へ足を進めた。

何故かはわからないが、彼はあの日からあの光景が忘れられず、ぜひともまたあの歌を聴きたいと思っていた。

 

それが叶うかもしれないと思うと煉獄の心は、子供のように踊った。そうでなくとも、前に進もうとしている後輩を見ると自分自身も鼓舞されるため、決して無駄ではないだろう。

 

少し山を登ったところで煉獄は足を止めた。白い岩場の前で青い髪をなびかせながら声を出している汐の姿を見つけたからだ。

 

煉獄は彼女に声をかけようと一歩踏み出そうとしたとき、突如声が止まった。それと同時に彼の足も止まる。

 

一体どうしたのだろうかと怪訝そうな表情を浮かべた煉獄だったが、汐は目を閉じて大きく息を吸うとゆっくりと口を開いた。

 

その瞬間。世界が揺れたような衝撃が煉獄を穿った。全集中の呼吸をしているせいか、汐の口から出てきた旋律は、以前に披露したものとはまるで違っていた。

 

あの時は魂が浄化されるような不思議な感覚だったが、今の歌声はまるですべての命が目覚め首を立てるような感覚。

 

とても十代半ばの少女の歌唱力ではない。否、人間の為せる業ではないと煉獄は心から思った。

 

(これが、ワダツミの子の歌声・・・)

 

鬼舞辻無惨が怖れる、神の如き歌声を持つ青髪の少女。時代が大きく動くときには必ず現れていたという、謎多き存在。それがワダツミの子。

 

煉獄の身体の奥から何かがこみ上げ、体が熱を持つ。足は縫い付けられたように動かず、瞬きも息をすることも忘れ、ただただ汐の姿だけを見つめていた。

 

歌が佳境と思われる部分にに入った瞬間、煉獄は不思議なものを見た。

 

墨を流したような夜空に浮かぶ、白金色の月。その下には空と同じ色の海が広がり、その中心で岩に座り歌を奏でる、青く長い髪をした女性。

だが、それは本当に一瞬で、瞬きをすればそこは海ではなく山であり、女性の姿も汐に戻っていた。

 

今のはいったいなんだ?と、煉獄が考えようとしたとき、不意に歌が止まった。

 

汐は途中で歌を中断し、苦しそうに息をついた。やはり全集中をしながら歌を歌うのは辛いのか、呼吸が乱れている。

しかし彼女は諦めず、もう一度発生練習を開始する。それから少しずつ、声の高さや息づかいを調節し効率のよい呼吸の仕方を掴もうとしていた。

 

煉獄はそんな汐を見て口元に笑みを浮かべると、そっと音もなくその場を後にした。

あの歌の続きが聴けないのは残念だったが、もしもまた会うことがあればまた聴く機会があるだろう。

 

それに、何故かはわからないが、汐とはもう一度どこかで会えそうな気がする。そんな感覚が彼にはあった。

 

「あれ?今さっき誰かがいたような気がしたけど・・・気のせい、かな?」

 

煉獄が去った後、汐は誰かの気配を感じあたりを見回したが、そこには誰の姿もなく、ただ優しい風が木々を揺らす音が聞こえているだけだった。

 

 

 

 

 

「おかえりなさい、煉獄さん。薬の準備ができていますよ」

 

戻って来た煉獄を、しのぶは笑みを浮かべながら出迎えた。彼女の前には傷薬と、それ以外の薬がいくつかある。

 

「胡蝶。俺は傷薬だけでいいと言ったはずだが、これは?」

「胃薬と酔い止めの薬です。もしもの時の為にと用意させていただきました」

「胃薬はともかく、酔い止めは特に必要はないと思うのだが」

「念のためです。もしもというのは、決してありえないことではありませんから」

 

そう言ってしのぶは薬を袋に詰めると、煉獄に渡した。煉獄は少しばかり眉根を動かしたが、特に咎める言葉もなく満面の笑みで「ありがたい!」とだけ告げ薬を受け取った。

 

「ああそうだ。汐さんの様子はどうでしたか?」

 

しのぶの問いに煉獄は、つい先ほどあったことを嬉しそうに話した。汐が頑張っていること、しっかりと前を向いていること。

そして、彼女の持つ不思議な声の力を今一度体験したこと。

 

「残念ながら歌の全てを聴くことはかなわなかったが、機会があればまた聴きたいものだ」

「煉獄さんはすっかり彼女の歌の虜ですね」

「虜、かどうかはわからん。だが、何故かあの少女の歌は何度でも聞いてみたいと思ってしまう。何故かはわからなんがな!」

 

そう言って煉獄は高らかに笑う。何故それほどまで汐のことが気になるのか、その時の彼は知る由もなかった。

 

そう、誰も知らなかった。この先、彼らがどのような運命をたどるのかを――

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

月夜の宴

全集中・常中を習得した汐達を祝う話


「皆様、全集中・常中の習得おめでとうございます!」

 

三人娘の声を音頭に、少し遅れて洋杯(コップ)を打ち鳴らす音が響いた。ちゃぶ台には様々な料理が所狭しと並べられ、おいしそうな匂いを漂わせている。

 

その夜は、汐達が全員全集中・常中を習得できた祝いの宴が開かれ、乾杯をした瞬間伊之助は被りものを外して料理にむさぼりつく。

それを炭治郎とアオイが諫め、善逸は呆れ、汐は食べようと思っていた料理を取り上げられ伊之助を殴り飛ばしたりと瞬く間に混沌の場所と化した。

 

そんな光景をしのぶはほほえましく見ていたが、その視線を別の方向へ向けた。そこにはみんなから離れた位置で月を見上げるカナヲの姿があった。

 

それを見てしのぶは少しだけ悲しそうな顔をする。そんなしのぶを見て、汐は意を決したように立ち上がった。

 

「汐?」

 

怪訝そうな顔をする炭治郎をしり目に、汐は開いていた洋杯(コップ)をとり飲み物を注ぐと、一人で佇んでいるカナヲの元へ向かった。

 

「はい」

 

汐はそう言ってカナヲに飲み物を差し出す。カナヲは表情を崩さないまま汐の方を向き、飲み物と顔に視線を動かした。

 

「今のうちに確保しておかないと、馬鹿猪に全部持ってかれるわよ」

 

汐の言葉にカナヲは意味が分からないと言ったような表情をしたが、徐に服のポケットから何かを取り出そうとした時だった。

 

「受け取ってあげたら?」

 

背後からしのぶが優し気な声色で声をかけると、カナヲはしのぶに顔を向ける。そして汐の方を向くと飲み物を受け取った。

 

(受け取ってくれた!)

 

今まで話しかけてもほとんど反応しなかったカナヲが、しのぶの助力があったとはいえ反応してくれたことが嬉しかった。

思わず笑みを浮かべる汐に、カナヲはぽかんとした表情で見つめた。

 

その時。部屋の隅に置いてあった炭治郎の箱から、禰豆子がのそのそと出てきた。禰豆子は人がたくさん集まっていることに少し驚いたのか、目を泳がせている。

 

「禰豆子!おはよう!」

 

汐が名前を呼ぶと、禰豆子の目が汐に向けられる。すると禰豆子に気づいた善逸が「禰豆子ちゃ~ん!!」と甘ったるい声を上げながら禰豆子に迫ろうとした。

 

汐は瞬時に動くと、善逸の腕を掴み華麗な背負い投げを決めた。

 

痛い!何するんだよ汐ちゃん!

「うるさい黙れ。禰豆子に近づくなウジ虫」

ウジ虫!?童貞呼ばわりが収まったと思ったら今度は人間ですらない呼び方されんの俺!?あんまりじゃない!?

 

ぎゃあぎゃあと騒ぎ出す善逸をしり目に、汐は禰豆子を連れて炭治郎のそばに近寄った。

兄の姿を見た禰豆子は嬉しそうに寄り添い、それを見た汐を含めた全員の顔がほころんだ。

 

すると禰豆子は、突然汐の服を引っ張り何かを訴えるように見上げた。その表情を見て、汐は瞬時に察する。

禰豆子は汐の歌が聴きたいのだ。

 

「汐。禰豆子が歌を聴きたいみたいなんだ。歌ってくれないか?」

 

炭治郎の頼みに汐は頷いたが、少しだけ考えた。今は夜の帳が降りた時間帯。あまり大きな声を出す歌を歌えば近所迷惑になるだろう。

だが大切な人たちの願いは聞いてあげたい。汐は少しだけ悩んだ後、ある一つの歌を歌うことに決めた。

 

汐は立ち上がり、皆を見回すと息を吸いゆっくりと口を開いた。

 

軽快な旋律と共に柔らかい声が辺りに響く。まるで小さなものが跳ねまわっているような可愛らしい歌に、全員の顔がほころぶ。

禰豆子に至っては歌に合わせて体を揺らし、それを見た善逸が顔を赤らめて見とれ、炭治郎はさりげなく二人の間に入って身体を揺らし、伊之助は食べることを忘れて聞き入っていた。

 

三人娘たちも汐の不思議な歌にうっとりと聞き入り、アオイは勿論カナヲまで無意識に足を揺らしている。これにはしのぶも目を見開き、改めてワダツミの子のすごさをひしひしと感じた。

 

やがて歌が終わると大きな拍手が巻き起こった。汐は少しはにかんだ笑顔で禰豆子のそばに座ると、三人娘たちが押し寄せるように汐のそばに近寄ってきた。

 

「素敵な歌でした!」と、なほが言い、「可愛らしい歌でした!」と、きよが言い、「楽しい気持ちになれました!」とすみが言った。

皆から絶賛されている汐を見て、善逸はふと浮かんだ疑問を口にした。

 

「そう言えば汐ちゃんっていろいろな歌を知ってるけど、どこで覚えてくるの?」

 

善逸の質問に全員がはっとした顔で汐を見た。今まで気が付かなかったが、汐はたくさんの歌を知っているがいったいどこで覚えてきたのか。

彼女が歌う歌は幻想的な響きをしたものが多く、とても誰かに教えてもらったものばかりとは思えない。

 

皆の眼差しに汐は少し困惑した表情を浮かべながら話し出した。

 

「故郷でみんなに教わった歌もあるけれど、最近は生活していてふと思いついた旋律をそのまま歌にしたりしてるのよ」

「え?それって即興で歌を作ってるってことか?」

「まあそうなるわね。現にさっき歌った歌は、裏山の小さな動物たちを見ていて思いついたものだし」

 

さらりと答える汐だが、皆は表情を固まらせたまま彼女を見ている。そして一部の者は(ワダツミの子って凄いな)と謎の感心を抱くのであった。

 

*   *   *   *   *

 

やがて宴もお開きになり、汐は満足げに腕を伸ばしながら歩いていた。あれほど楽しかった時間は久しぶりであり、心はまだ余韻に浸っていた。

特に料理は絶品で、伊之助は食べ過ぎて動けなくなるほどであり、呆れた炭治郎と善逸が引きずるようにして連れて行っていた。

 

「ん?」

 

汐が厨房の前を通ろうとしたとき、中から物音が聞こえた。好奇心に促されて覗くと、大量の食器を一人で洗うアオイの姿があった。

 

一人じゃ大変だろうと声をかけると、アオイはびくりと体を震わせ振り向いた。

 

「ごめん。脅かすつもりはなかったの」

「・・・何の御用ですか?」

 

アオイは相も変わらずきつい口調でそう言うが、汐は特に気にする様子もなく「手伝うわ」とだけ答えた。

 

「いえ、結構です。あなたはもう休んでください」

「こんな沢山の食器、あんた一人に任せてたら明日になっちゃうわよ。いいから手伝わせて」

 

汐は少しだけ悪戯っぽく笑ってから、アオイの制止を聞かず洗い終わった食器を片付け始める。アオイは眉根を寄せながら何か言いたげな表情をしていたが、黙々と作業をする汐にため息をついた。

 

「今日の料理、あんたが腕を振るって作ってくれたのよね。みんなおいしいおいしいって言ってくれてたわ。食べ過ぎて動けなくなった馬鹿もいたけど」

「・・・そうですか」

「それに、今までもあんたには世話になりっぱなしだったし、せめてものお礼がしたかったのよ。もっとも、あたしは医学とかからっきしだからこんなことしかできないけどね」

 

そう言って笑う汐に、アオイは背を向けると絞り出すような声で言った。

 

「お礼など結構です。私はあなたと違い戦うことはできませんから。鬼殺隊員のくせに」

 

先程とは違う雰囲気に、汐は思わず手を止めてアオイを見た。初めてアオイを見た時、隊服を着ていたことから彼女も鬼殺隊員であることはわかっていた。

しかし任務に行く様子もなく、鎹鴉もいないことから不思議に思ったものの、そう言う隊員もいるんだろうとしか汐は思わなかった。

 

「選別でも運良く生き残っただけで、そのあとは恐ろしくて戦いにいけなくなった腰抜けですから、私は」

 

そう言うアオイの声は微かに震えていて、悔しさがにじみ出ているのが感じ取れる。しかし汐はそんな雰囲気を消し飛ばすように声を上げた。

 

「はあ?アオイが腰抜け?どこのどいつよ。そんな戯言ほざいたの。そいつを連れてきなさいよ。あたしがぶっ飛ばしてあげる」

「え?」

「アオイの事何も知らないくせにふざけんじゃねーわよって。まああたしも、ここに来るまで鬼殺隊ってただ鬼を斬るだけが仕事だって思ってたけどね」

 

汐は皿の片づけを再開しながら、少しだけ困ったように笑った。

 

「だけど隠の連中やアオイ、なほ、きよ、すみをみて、こういう形で鬼殺隊にかかわっている人たちがいると知った。あたしたちが矢面に立っている間、あんた達は裏でこうやってみんなを支えてくれていたんだなって、ここに来て初めて知ったのよ」

 

それに、と汐はつづけた。

 

「あんたはここに来てから、あたしたち以上の重症患者をいやというほど見てきたんでしょ?中には治療の甲斐なく命を落とした人もいる。それでも命の終わりから目を逸らさずにいるあんたの精神力を、あたしはすごいと思うわ。戦うだけが鬼殺隊員じゃない。それを教えてくれたのはあんたよ、アオイ」

 

アオイははっとした表情で汐の青い目を見つめた。彼女の眼には驚きと困惑、そして微かな嬉しさが見える。

 

「それに、あんたがどうして鬼殺隊にかかわったのかはわからないけど、きっと並々ならぬ想いがあるんでしょ?その想いを忘れないように、あんたはあんたにしかできないことをすればいいのよ。それだって立派な【戦うこと】だと思うわ」

 

そう言って汐はにっこりと笑うと、次々と食器を片付けていく。そんな汐の背中を、アオイは呆然と見ていた。

汐の言葉がアオイの耳を通り、心の中に染み渡っていく。あの時歌を聴いていた時もそうだったが、汐の声は不思議な響きで自分の脳と心を揺らしていく。

 

その後、アオイが洗った食器を汐は全て片付け終え、後の片づけはアオイに任せることになった。

流石にこれ以上遅くなっては健康に響くとアオイから釘を刺されたからだ。

 

「じゃあお休み。また明日ね」

「・・・ま、待って!」

そう言って手を振り去ろうとする汐を、アオイが呼び止めた。何事かと思い振り返ると、アオイは目を逸らしながらも小さく「ありがとう」とだけ告げた。

 

それを聞いた汐はにっこりと笑い「うん。どういたしまして」と告げるとそのまま部屋へ向かった。

 

 

*   *   *   *   *

 

「あれ?しのぶさん?」

 

部屋に戻ろうとする汐の前から歩いてきたしのぶを見て、汐は足を止めた。しのぶは汐を見て「まだ起きていたんですか」と言いたげな表情をしていた。

 

「アオイの手伝いをしていたら遅くなっちゃって。もう寝ようと思ってたの」

「そうですか。もう夜も遅いですから、夜更かしをしないで早く寝ることをお勧めしますよ」

 

そう言って笑うしのぶに、汐は少しだけ震えた。が、不意に思い出したように彼女は口を開く。

 

「ねえしのぶさん。カナヲってさ。もしかして自分で考えて行動することが苦手なの?」

 

汐の言葉にしのぶは目を見開き、「どうしてそう思いました?」と聞き返した。

 

「今まで見てきたときもそうだったけど、カナヲって誰かに言われてから動いているように見えたし、今日の宴会でもしのぶさんに言われたから飲み物を受け取ったように見えたから。違ってたらいいんだけど」

 

そう言って顔を伏せる汐に、しのぶはため息を一つつくと意を決したように口を開いた。

 

「お察しの通り、カナヲは自分から動くことがほとんどできません。昔、私と姉が初めて出会った時からカナヲは自分で考えて行動することができなかったのです」

 

しのぶはカナヲが自分で行動することができないことを危惧し姉に相談したところ、彼女はカナヲに銅貨を投げて決めることを提案したという。

銅貨と聞いて汐の脳裏に、銅貨をはじいているカナヲの姿がよみがえった。

 

(じゃああの時のあれは、あたしが弱いから話したくないんじゃなくて、あたしと話すか話さないかを決めていたってこと・・・?)

 

だとしたら自分は相当な誤解をしていたことになる。青ざめる汐に、しのぶは優しく声をかけた。

 

「あなたが気にする必要はありませんよ。この事はカナヲに近しい一部の人しか知らないことですから。でも、あなたがカナヲのことを気にかけてくれていたことはうれしく思っています」

「気にかけたっていうか、カナヲのお陰であたし達は新しいことができるようになったから、そのお礼をしたいだけよ。でも、今の調子じゃまだまだ難しそうね」

 

うーんと首をひねる汐に、しのぶは汐の優しさを感じた。口は悪いがとても心の優しい少女だということを、彼女は改めて認識した。

 

「さて、もう夜も遅いですしお休みになってはどうですか?それとも、眠れないなら私の手伝いをしますか?」

「・・・寝ます。おやすみなさい」

 

しのぶからただならぬ気配を感じた汐は、そそくさとその場を後にする。姿が見えなくなったのを確認したしのぶは、窓から見える月を仰ぎ見た。

 

(何故でしょう。カナヲのことを誰かに話したことなど、今までほとんどなかったのに。やはり彼女は只者ではないようですね)

 

自分の変化に戸惑いつつも、しのぶは他に起きている不届き物がいないか見まわるため、その場を静かに去るのだった。

 




汐「はぁ~。禰豆子可愛い。どこぞの金髪馬鹿じゃないけど、可愛すぎて辛い・・・」
し「汐さんは本当に禰豆子さんが大好きなのですね」
汐「あんな可愛い妹がいる炭治郎がうらやましい。あたしもあんな妹が欲しい!むしろ禰豆子の姉になりたい!!」
し「えっと、その方法がないわけでもないですよ?」
汐「えっ、本当!?本当にそんな方法があるの!?あたし禰豆子と血がつながっているわけでもないのよ!?」
し「それがあるんですよ。最もそれは一人ではできないことですが」
汐「???」
し「(ゴニョニョゴニョニョ・・・)」
汐「えっ!?ええーっ!!た、確かにそれならできる、けど・・・。でも、あたしにはまだ早いよ!それに炭治郎にだって選ぶ権利だってあるし・・・」
炭「え?俺がどうしたって?」
汐「な、何でもない!!あんたには関係ないわよ!」
炭「関係ないって今俺の名前呼んでたし」
汐「呼んでないったら!!もーっ、馬鹿ッ!!」
炭「???(あれ、汐からまたあの匂いが・・・)」
し「あらあら、青春真っ盛りですね・・・」


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

???

どこかの誰かたちの話
(コミックス未購入のため、一人称、呼び方、関係性が実際とは異なる可能性があります)


歪んだ空間の中に琵琶の音が響き渡り、ひとりでに動く襖の向こうに彼は姿を消した。

 

そして彼が引き起こした()()を眺めていた参つの影があった。

 

「ヒィィィ!恐ろしい、恐ろしい」

 

かすれた声で震えているのは、小柄な老人のような姿をした鬼で先ほどの()()を見たせいか涙まで流し怯えている。

 

「怖ろしい怖ろしい・・・!あの御方の気分次第で儂も・・・」

 

そんなことを呟きながら震える彼の傍らでは、一つの装飾された壺が置いてありそこから生えているような不気味な鬼が笑いながら姿を現した。

 

「ヒョッヒョッヒョッ・・・いい・・・とてもいい・・・あの御方直々の制裁・・・」

 

目や口が滅茶苦茶についたような不気味な顔で、壺の鬼は恍惚とした表情で()()を眺めていた。

 

「何不細工な顔で怯えてんのよあんた。弱いんだから消されて当然じゃない。それに引き換えアタシ達は強くてすごいからあの御方にこうして気に入られていかされているのよ。ね?()()()()()

 

あちこちが露出した服を纏った女の鬼が、さも当然だと得意げに言うと、彼女の背中から「そうだよなぁぁぁ」と別の男の声が聞こえた。

それを見た二人の鬼は相も変わらずだと言いたげに表情をかえる。すると、その空気を壊すような明るい声が響いた。

 

「やあやあ。みんなここにいたのかい?なかなか面白い見世物だったねぇ」

 

何処からか現れた青年の鬼に、皆は瞬時に表情をゆがめると目を逸らした。青年の鬼は「ありゃ?」と目を丸くするも特に気にするそぶりもなく、近くにいた女の鬼に声をかけた。

 

「やあ堕姫ちゃん。相も変わらず寒そうな格好だねぇ。風邪を引いたりしないかい?」

 

堕姫と呼ばれた女の鬼は、不愉快そうに顔を歪めながら「気安く話しかけないでくれる?」とうんざりしたように言い放つ。

しかし青年の鬼はにこにことした笑みを浮かべながら、あたりをぐるりと見まわした。

 

「あ、そうだそうだ。皆に聴きたいことがあったんだよ。君たち、【ワダツミの子】って知ってるかい?」

 

青年の鬼がそう言うと、鬼たちは首を傾げたりうなずいたりと各々の反応を見せた。

 

「はあ?何それ。聞いたこともない。っていうか、アタシあんたと話すと疲れるから嫌なんだけど」

「怖ろしい怖ろしい・・・ああ・・・怖ろしい」

 

堕姫は興味がないと言いたげにそう言い、老人の鬼は答えることなくただただ震えている。

しかし壺の鬼は何かを思い出したかのように、目の位置にいある口を動かした。

 

「私が昔生まれ育った村で、噂程度だが聞いたことがある。なんでも、声に妙な力を持つ青髪の女だとか」

「ああ、やっぱり黒死牟殿の言っていたのとほとんど同じか。無惨様が妙にご執心なワダツミの子。少しだけ気になって来たかもしれないな」

 

そう言って青年の鬼は楽し気な笑みを浮かべるが、壺の鬼はそれを見て何とも言えない表情を浮かべた。

 

「ところで玉壺(ぎょっこ)。俺が預けておいた例の()()の様子はどうだい?」

 

青年の鬼は目を細めながら訪ねると、玉壺と呼ばれた鬼は一瞬だけ頭をびくりと震わせた。

 

「・・・なかなかのじゃじゃ馬のようで。しかし最近は慣れてきたのか少しばかり従順になって来たかと」

「そうか!それはよかった!何せ俺は人形に関してはからっきしだかね。お前がいてくれて本当に良かったよ」

 

青年の鬼は笑いながらひらひらと手を振るが、その動作に玉壺は身体の奥から不快なものが沸き上がってくるのを感じた。

 

その時。琵琶の音が鳴り響き、青年の鬼の前にいた鬼たちが消える。それを見た彼は特に驚く様子もなく「そろそろか」と小さく呟いた。

 

「ワダツミの子。青い髪の女の子。もしも出会えたらいったいどんな味がするんだろう。あの時喰った蝶の女の子みたいに美味しいといいなあ」

 

ニタリと笑い赤い舌をのぞかせる彼の顔は、紛れもなく人食い鬼のものであった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

十四章:無限列車


「朝デスヨォ~。起キテ下サァ~イ」

まだ日も昇らぬ明け方、汐のそばで鎹鴉のソラノタユウは間延びした声で鳴いた。汐は眠い目をこすりながら何事かと体を起こす。

「【無限列車】ノ被害ガ拡ガッテイルトノコト~。四十名以上ノ消息ガ不明トナッテイマス~。忌々シキ事態ノタメ、現地ノ炎柱、煉獄杏寿郎様ト合流シ、鬼ノ討伐ヲオ願イシマス~」

新たに告げられた任務に、汐は跳ね起き顔を叩いた。数か月ぶりの任務に、気分が高揚するのを感じる。

(あたしはあたしが守りたいものを守るために刀を振るうわ。そして絶対に、人を傷つける鬼を許さない)

決意を新たにし、汐は昇り始めた太陽を見て表情を引き締めるのであった。



「はい。口を開けてゆっくりと声を出してくださいね」

 

しのぶの診察室で汐は言われたとおりに口を開けて声を出す。それを見てからしのぶは小さくうなずいた。

 

「特に問題はなさそうですね。お見送りはできませんが、これからも頑張ってくださいね」

「うん、わかったわ。いろいろ面倒を見てくれてありがとう。精いっぱい頑張るわね!」

 

しのぶの言葉に汐は笑顔で返事をすると、部屋を出ようとした。

 

「あ、汐さん。出かける前にこれをどうぞ」

 

そう言ってしのぶは汐に小さな袋を手渡した。汐は怪訝そうな顔をしながら袋を開けると、そこには粉薬のようなものが入っていた。

 

「喉の薬です。ウタカタを使うあなたに必要になると思いまして」

 

しのぶの言う通り、汐の使うウタカタは喉に多大なる負担をかけるものだ。下手をしたら喉がつぶれてしまうこともないとは言い切れない。

それを危惧した彼女が特別に調合してくれたものだった。

 

「わあ、何から何まで本当にありがとう」

「いいえ、どういたしまして。さあ、任務まであまり時間がありませんよ」

 

しのぶの言葉に汐ははっとした表情をすると慌てて部屋を出た。

 

「さて、さっさと準備をして出発しないと」

 

顔を洗って髪を整えた汐は、着替える為に部屋へ向かっていた。が、前方から足音が聞こえ誰かが来る気配がする。

 

汐はぶつからないように端によけたが、向かってきた者はそれでも汐の体にぶつかった。

 

「いたっ!ちょっとあんた!どこ見て歩いてんの?」

 

汐が抗議の声を上げるが、すれ違った者の背中を見て汐は息をのんだ。

そこにいたのは自分よりも五寸以上も背が高く、がっしりとした体つきの男性で、特徴的な髪形をしていた。

 

(あ、あいつ。もしかして最終選別の時で女の子を殴って炭治郎に腕を折られた奴だわ!?っていうかデカッ!!伊之助よりでかいんじゃない!?)

 

驚くほどの体格に汐が目を見張る中、彼は振り返ることなく角を曲がっていった。

 

無視されたことには腹が立ったが、これ以上遅くなっては時間に間に合わなくなってしまうことを危惧した汐は慌てて部屋へ戻っていった。

 

(あ、そうだ。部屋に行く前にアオイとカナヲに挨拶をしていこう)

 

汐はそう思い、踵を返して廊下を歩く。すると、縁側にたたずんでいるカナヲを見つけた。

 

(あ、カナヲだ。そう言えばあたし、ここに来てからずいぶんカナヲに負けたな。でも、そのおかげで新しいことができるようになったんだから、きちんと礼を言わないと)

 

「カナヲ!」

 

汐は背後からカナヲに声をかける。また無視されてしまうかもしれないとは思ったが、それでも自分の気持ちだけは伝えたかった。

 

ところが、カナヲは何とそのまま大きく肩を震わせ、あろうことか縁側から転げ落ちてしまった。

 

「えっ!?ちょっとちょっと!大丈夫!?」

 

まさかカナヲがこんな状態になるとは思わず、汐は慌ててカナヲを起こした。顔を見ると特に怪我はしていないが、顎が土で汚れている。

だが、汐はカナヲの眼を見て思わず息をのんだ。いつもの人形のように感情が殆ど読めない眼ではなく、微かだが動揺が宿っていた。

 

「カナヲ、あんた・・・」

 

汐が何かを言う前にカナヲは瞬時に汐から距離をとった。その行動に汐は少し悲しい気分になったものの、しのぶから聞かされていたことを思い出しそのまま口を開いた。

 

「カナヲ。ごめんね。あたし、あんたが自分で決めることが苦手なことをしのぶさんにちょっとだけ聞いたの。あんたが何かを決めるとき、銅貨を投げているってことも。どういう理由かははっきりとは知らないけれど、誰にでも苦手なことの一つや二つあるのは仕方ないことだと思う。現にあたしも、苦手なものはたくさんあるしね」

 

だけどね。と、汐はつづけた。

 

「あたし、ちょっと嬉しかったんだ。あんたが嫌な顔をせずに訓練に何度も付き合ってくれたこと。あたしの歌を聴いてくれたこと。指示されたことを守っただけかもしれないけれど、それでもあんたがいろいろ付き合ってくれたのには変わりないわ。だからいつか、あんたが自分の意思で何かをしたいと思ったら、あたし全力で手伝うから」

 

――だから、ありがとうね。そして頑張って!

 

汐は満面の笑みでカナヲに言葉を投げかけると、その言葉はカナヲの耳から心にしみわたっていく。そして、先程炭治郎から言われた言葉が脳裏によみがえった。

 

「じゃ、元気で。もしまた会えたら、今度は勝ち越してやるんだから」

 

そんなことを言いながら背中を向ける汐に、カナヲの胸が大きく音を立てた。そして

 

「あ、あのっ!!」

 

カナヲの口から声が漏れる。汐はびっくりした表情で振り返ると、カナヲの眼には確かな感情が見て取れた。

そして

 

「さようなら」

 

カナヲの口から言葉が飛び出す。それは銅貨を投げて決めたものではなく、初めて聞いた彼女自身の言葉。

汐の表情がみるみる輝くものになり、彼女も「うん!またね!!」と大きく手を振りながら去って行った。

 

「あ、アオイ!」

 

中庭に行くと、アオイは忙しそうに洗濯物を干していたが、汐の姿を見つけると思わず息をのんだ。

 

「な、何か御用ですか?」

いつもと違い、声を詰まらせるアオイに汐は特に気にする様子もなく口を開いた。

 

「あんたにきちんとお礼が言いたくて。あたしたちを支えてくれて本当にありがとう。あんたの思いはあたしたちがしっかりと持っていくから、変なこと気にするんじゃいわよ」

 

汐はそう言って去ろうとするが、アオイが背後から呼び止める。振り返るとアオイは少しだけ目を潤わせながら、「死なないでください」とだけ言った。

その言葉に汐は驚いて目を見開くも、次には笑顔になり「わかったわ!」とだけ答えてその場を後にした。

 

*   *   *   *   *

 

蝶屋敷を出る四人の前には、人一人ほどの大きさの巨大な瓢箪があった。

四人は真剣な面持ちで(伊之助は被り物を外して)瓢箪をとると、大きく息を吸い吹き出した。

 

「頑張れ頑張れ頑張れ!!」

 

三人娘たちが応援する中、四人の瓢箪に亀裂が入ったかと思うと、音を立てて砕け散った。

 

「やったー!!」

 

飛び跳ねながら喜ぶ三人娘たちは、その後おにぎりを差し入れとして汐を除く三人に差し出した。

伊之助はすぐさま手を伸ばすが、それを善逸が阻止する。そして汐には小分けにされた別のおにぎりを差し出した。

 

「ありがとう!あんた達には本当に世話になったわ。元気でね」

「はい!汐さんも、どうか炭治郎さんとこれからもなかよくしてくださいね」

「えぅ!?あ、うん。何とかやってみるわ」

 

思わぬ言葉にたじろぐ汐だが、それを見ていた伊之助が隙を見て汐に出されたおにぎりを掴んだ。

 

「あ、だ、駄目です伊之助さん!それは汐さん専用のおにぎりで・・・」

 

きよが制止するが既に遅く、伊之助はおにぎりを一気に口に押し込んだ。が、次の瞬間。

 

「くぁwせdrftgyふじこlp!!!」

 

伊之助は奇声を上げながら顔を真っ赤にし、苦しそうにのたうち回る。それもそのはず。そのおにぎりは、辛いものが大好きな汐の為に三人娘たちが作った、特製激辛明太子入りのおにぎりだったのだ。

 

「て、てめぇ!なんてもん喰わせ・・・」

 

辛さのあまりうまくしゃべれない伊之助を、汐は冷ややかに見降ろし「自業自得よ」とだけ告げた。その光景を善逸は青ざめながら見、炭治郎は慌てて伊之助に水を飲ませた。

 

「いっぱい鬼を倒してくださいね!皆さん、お達者で!!!」

 

三人娘たちの激励の声が響き、炭治郎と善逸は涙を流し、伊之助は湧き上がってくるほわほわした感情に戸惑い、そんな男どもを汐が尻を叩いて前に進ませる。

しかし汐の目にも涙が光り、別れを惜しんでいることを炭治郎は見逃さなかった。

 

――ありがとう、みんな。行ってきます!!

 

*   *   *   *   *

 

「鴉が言ってたのはこのあたりよね。確か柱の煉獄さんって人がいるんだっけ?」

「そのはずだけど、見当たらないな。あの人かなり特徴的な外見だから、すぐ見つかると思うんだけど」

 

鎹鴉の言っていた炎柱・煉獄杏寿郎を捜しながら、汐達は指定された場所をうろつく。そこは人が行きかう施設のようなところだった。

どのような場所なのかは皆知らされておらず、ここがどのような施設なのかもわからなかった。

 

しかし善逸だけはその場所が何の施設か知っているようなそぶりを見せている。汐がここは何なのか聞こうとした時だった。

 

「おい、おいおい!!」

 

突然伊之助が立ち止まり、声を震わせながら叫ぶ。

 

「なんだあの生き物はーーーっ!!!」

 

伊之助の眼前に広がっていたのは、【無限】と書かれた大きな蒸気機関車だった。

 

その大きさに伊之助は固まり、炭治郎と汐も思わず口を開ける。

 

「こいつはアレだぜ、この土地の主・・・・この土地を統べる者!」

「へ?いや、流石にそれは違うでしょ」

 

伊之助の言葉に汐は冷静に返すと、伊之助は慌てた様子で「声を出すんじゃねえ!」と制止した。

 

「この長さ、威圧感。間違いねぇ。今は眠っているようだが油断するな!!」

 

警戒心を剥き出しにする伊之助に、善逸は呆れた様子でため息をつき、「いや、汽車だよ。知らねぇのかよ?」と答えた。

 

そんな善逸を伊之助は乱暴に制止させると、刀に手をかけ攻め込もうと構えた。が、それを炭治郎が静かに制止させる。

 

流石は炭治郎と言いたげに善逸が顔を向けると、炭治郎は真剣な面持ちで口を開いた。

 

「この土地の守り神かもしれないだろう。それから、急に攻撃するのはよくない」

 

あまりにも真面目におかしなことを言う炭治郎に、善逸はこの上ない程の呆れ切った視線を向けた。

 

「いや、汽車だって言ってるじゃんか。列車。わかる?乗り物なの、人を乗せる・・・この田舎者が」

「つまり、人を乗せて陸の上を走る船のようなものね」

「その例えもどうかと思うけれど、まあこいつらよりはましかな」

 

汐の少しずれた例えに善逸は軽めに突っ込むも、これ以上余計なことを言って汐に殴られてはかなわないと追及はしないことにした。

 

「列車?じゃあ鴉が言ってたのはこれか?」

「無限って書いてあるし、そうじゃない?でも無限っていったいどういう意味なのかしら?」

 

炭治郎と汐が首をひねっていると、突然伊之助が徐に列車から距離をとった。

何事かと思い、目を丸くしていると、伊之助は突如声高らかに「猪突猛進!」と叫び、あろうことか頭から列車に突進した。

 

「ちょっ、何やってんのよあんた!!」

「やめろ恥ずかしい!!」

 

汐と善逸が慌てて伊之助を羽交い絞めにして引きはがすと、騒ぎを聞きつけたのか駅員が警笛を鳴らしながら走ってきた。

彼等は汐達が帯刀しているのをみて、瞬時に顔色を変える。

 

「こ、こいつら刀持ってるぞ!警官だ、警官を呼べ!!」

「やばいっ!!あんたたち、ずらかるわよ!!」

 

汐は炭治郎の手を取り、善逸は伊之助をひっつかんで一目散に逃げだした。

 

人気のないところに身を隠し、落ち着いた善逸は伊之助のせいで散々な目に遭ったことを責め立てた。

それに対して伊之助は、何故警官から逃げ出さなければならないと詰め寄る。

 

「政府公認の組織じゃないからな、俺たち鬼殺隊。堂々と刀持って歩けないんだよ、ホントは。鬼がどうのこうの言っても、却々(なかなか)信じてもらえんし、混乱するだろ」

「一生懸命頑張っているのに」

 

悲しそうな顔をする炭治郎に、汐は「そう言うもんなんでしょ、お偉いさんなんて」と突っぱねるように言った。

 

「それよりどうすんのよ。こんなところでしょっ引かれるのは勘弁だわ」

「とりあえず、刀は背中に隠そう」

 

善逸の提案に汐と炭治郎は頷き、腰から刀を外して背中に隠した。が、伊之助は上半身には何も身に纏っていないため、刀が見事に丸見えだった。

 

「・・・丸見えじゃない」

「服着ろ馬鹿」

 

汐と善逸の容赦ない言葉が伊之助を穿ち、炭治郎は小さくため息をつくと持っていた大きな布で伊之助の体を覆って刀を隠した。

 

「ここに煉獄さんがいないってことは、もう乗り込んでいるんじゃない?」

「その可能性はありかも。よし。俺が切符を買ってくるから、お前らはそこから動くなよ?」

 

善逸は三人にくぎを刺すように言うと、切符を買うために走り去って行った。

 

善逸が戻ってくるまで、汐は伊之助を見張りつつ、思っていたことを口にした。

 

「ねえ、炭治郎。禰豆子を連れてきてよかったの?」

「え?」

「鬼殺隊本部に預けてもらったら、危険な目に遭ったりしなかったんじゃないのって思って」

 

そう言う汐からは、心配している匂いがした。汐が禰豆子のことを本気で心配しているのはわかってた。

けれど炭治郎は首を横に振り、これでいいと言った。

 

「俺たちはもう何があっても離れたりはしない。どこへ行くときも一緒だ」

「・・・そう、だったわね。ごめんね、野暮なこと聞いて」

「いいや、汐は禰豆子のことを思って言ってくれたんだろう?お前が禰豆子を大切に思ってくれている。それだけで俺はうれしいんだ」

 

炭治郎はそう言って汐の手をそっと握ると、小さくありがとうと告げる。その手の温かさに、汐の顔に熱が籠った。

 

その時、汽車が大きな汽笛を鳴らし出発の合図をする。

 

「ちょっと!出発するんじゃない!?善逸は何やってんのよ!?」

「まずい!二人とも列車に飛び乗るんだ!ほら、伊之助!!」

 

炭治郎に促されて汐と伊之助は走り出す。すると、後ろの方からすごい速さで走ってくる善逸の姿が見えた。

 

「炭治郎!汐ちゃん!伊之助!!」

「善逸!!早く!!こっちよ!!」

 

涙目になりながら走ってくる善逸の手を、汐はしっかりとつかみ動き出す列車に引き上げた。

列車は常軌を上げながら、漆黒の夜を切り裂くように進む。その速さに伊之助は興奮し、汐は顔にかかる風の心地よさに目を輝かせた。

 

しかし、この時の四人は知る由もなかった。

 

この列車に、既に大きな脅威が巣食っていることに・・・



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



「うおおおおお!!腹の中だ!!」

車内に入るなり伊之助は興奮が最高潮に達したのか、声を上げて騒ぎ出した。

「主の腹の中だ!!うぉおお!!戦いの始まりだ!!」
「うるせーよ!」

そんな伊之助に善逸が声を荒げながら制止し、そんな善逸を見ながら汐は「普段はあんたがうるさいけどね」と冷ややかに突っ込んだ。

車内には数人の客が降り、眠っている者、会話をしている者、本を読んでいる者など様々だ。

汐達はあたりを見回しながら目的の人物を捜すが、それらしき人の姿は見当たらない。

「柱だっけ?その煉獄さん。ちゃんと顔とかわかるのか?」
「すぐわかると思うわよ?ものすごく特徴的だし」
「そうそう。派手な髪の人だったし、匂いも覚えているから。だいぶ近づいて・・・」

善逸の問いかけに汐と炭治郎が答えた、その時だった。

うまい!

突然耳をつんざくような大きな声が、前方から響いてきた。そのあまりの声の大きさに、善逸は思わず耳を塞ぎ、汐と炭治郎は飛び上がった。

うまい!うまい!うまい!うまい!

汐達は顔を見合わせると、声のする方に足を進めた。
声の主の元にたどり着いた汐達は、目の前の光景に開いた口が塞がらなくなった。

燃え盛るような炎の如き髪の色をした一人の男が、凄まじい勢いで弁当を口に運んでいる。しかも、一口食すたびに「うまい!」という言葉を大声で口にしている。

「あの人が炎柱?」
「うん」
「ただの食いしん坊じゃなくて?」
「・・・うん」

善逸は思わず炭治郎に聞き返すと、炭治郎も唖然としながら返事をした。その間にも煉獄は「うまい!」を連呼しながら弁当を食し続けている。
そんな彼に、炭治郎はおずおずと声をかけた。

「あの・・・すみません」
うまい!
「れ、煉獄さん・・・」

しかし炭治郎の声が聞こえないのか、煉獄は相も変わらず弁当に夢中になっている。

「あ、もうそれは、すごくわかりました」

炭治郎はそう言うが、煉獄の箸は止まらずまた一つ、空の弁当箱が増えていく。しびれを切らした汐は、炭治郎を押しのけると煉獄の前に立った。

「煉獄さん!!ちょっといい!?」

汐も負けじと声を張り上げるが、煉獄は未だにうまいと言いながら次の弁当を開けようとしている。

「煉獄さん!人の話は聞こう!!どこ見てる!?あたしたちの事ちゃんと見てる!?」

耳元で声を張り上げるも、汐の声は煉獄の声にかき消されてしまい聞いていないように見える。その態度にとうとう汐の堪忍袋の緒が切れたのか、大きく息を吸うと耳元に口を寄せ声を張り上げた。

聞けやァァァァ!!この食いしん坊万歳ィィィ!!!

煉獄以上の大声に善逸は勿論、炭治郎と伊之助まで耳を塞いだ。すると煉獄はようやく箸を止め、汐達の方を向いた。

「おお!君たちはあの時の。来ていたのならもっと早く声をかけてくれれば、弁当を分けていたのだが」
「さっきからずっと声をかけてたけど!?もしかして本当に聞こえてなかったのこの人!?」

汐の突っ込みに煉獄は高らかに笑い、炭治郎達は脱力したのか、疲れた顔で項垂れていた。

「それに君は青い髪の少女!確か名前は・・・」
「大海原汐」
「そうだ、大海原少女!よもや三度も君に会えるとは!今日はよき日だ」

煉獄はそう言って喜びの宿った眼で汐を見るが、汐は彼の言葉に違和感を感じた。

「三度目って、あたしたちが会ったのって柱合裁判の時だけじゃなかったっけ?」
「いや、君が胡蝶の屋敷にいた時、俺は用があって赴いたのだが、その時に裏山で歌の練習をしている君を見ているんだ」

煉獄の言葉に、汐は驚きのあまり目を剥いた。

「練習って、見てたって、ええっ!?いつ!?」
「あれはよく晴れた日で、風が心地よい日だった!」
「いやそうじゃなくて!見ていたんなら声をかけてくれればよかったのに」
「そのつもりだったのだが、あまりにも美しかったので声をかけるのを忘れていた」

そう言って煉獄はからからと笑うが、彼が放った言葉に汐の顔に一気に熱が籠った。

「え!?い、今、美しいって・・・」
「ああ!とても美しい歌声だった!」
「・・・なんだ、歌ね・・・」
「そして、その歌を奏でる君もまた、目を奪われるほどに美しかった!!」

一度下げられたと思いきや再び絶賛され、汐の顔は青から赤へと様々な色に変わる。そんな彼女を炭治郎は(忙しそうだな)とぼんやり考えていた。

「だが、残念ながら最後まで聴くことはできなかったが、もしも君にもう一度会えたなら、ぜひ最後まで聴きたいと思っていた!もしも君さえよければ、俺にあの時練習していた歌を最後まで聴かせてくれないか?」
「え?あ、はい。あたしでよければ」

汐は煉獄の勢いに流されて思わず返事をしてしまうと、煉獄は目を輝かせ、心の底からうれしそうに笑った。

「本当か!?なら約束だ!!」

思わぬ約束を交わされて汐は面食らったが、彼が本当に楽しみにしていることは確かであり、何より自分の歌をほめてくれたことに悪い気はしない。

にっこりと笑って小指を自分に向ける煉獄に、汐も微笑んで自分の指をからませた。



その後、乗務員たちが煉獄の食べた大量の弁当箱を片付けている中。

汐は煉獄と向かい合い、炭治郎は煉獄の隣に、善逸と伊之助は通路を挟んだ向かいの席に座った。

 

炭治郎は煉獄に、自分が累との戦いの際に使ったヒノカミ神楽について話し、何か知っていることはあるか尋ねた。

 

「うむ!そう言うことか!」

 

煉獄は炭治郎の話を一通り聞いた後、大きくうなずき、炭治郎は何か心当たりがあるのかと目を輝かせた。

 

「だが知らん!『ヒノカミ神楽』と言う言葉も 初耳だ!君の父がやっていた神楽が戦いに応用出来たのは実にめでたいが、この話はこれで お終いだな!!」

 

勝手に話を終わらせたことに炭治郎は驚き、慌てて口をはさんだ。

 

「えっ!?ちょっともう少し・・・」

「俺の継子になるといい。面倒を見てやろう」

「待ってください。そしてどこ見てるんですか」

「炎の呼吸は歴史が古い!」

 

全くかみ合っていない会話に汐は呆れ、善逸は(変な人だな)と心の中でつぶやき、伊之助は流れていく外の景色に夢中になっていた。

 

「炎と水の剣士は、どの時代でも必ず柱に入っていた。炎、水、風、岩、雷が基本の呼吸だ。他の呼吸は、それらから枝分かれしてできたもの。霞は風から派生している」

 

それから煉獄は炭治郎に刀の色を尋ね、炭治郎が黒であると答えると、煉獄は腕を組みながら「きついな!」と言った。

 

「きついんですかね」

 

「黒刀の剣士が柱になったのを見たことがない!更には、どの系統を極めればいいのかも分からないと聞く!ならば俺の所で鍛えてあげよう。もう安心だ!」

 

機関銃のようにまくしたてる煉獄に、炭治郎は戸惑いながらも(面倒見がいい人だな)と思った。が、その時ふと。刀の話を聞いて思いついたことがあった。

 

(汐の刀は角度を変えると色が変わる不思議なものだったな。黒が出世できない、系統が分からないなら彼女はいったい何なんだろう)

 

「なあ、汐。お前のかた・・・な・・・」

 

炭治郎は前に座る汐に声をかけたが、その声が急速にしぼんでいく。

それもそのはず。目の前に座る汐は、真っ青な顔でぐったりと背もたれに身体を預けていた。

 

「汐!?どうしたんだ!?」

 

そう言えば先ほどから汐が妙に静かだと思っていたが、煉獄の声の大きさと話の興味深さですっかり失念していた。

炭治郎は慌てて汐に駆け寄ると、汐は小さな声で「き・・・もち・・・わるい・・・」とだけ答えた。

 

「お前っ・・・まさか、列車に酔ったのか!?船酔いはしないんじゃなかったのか!?」

「こんな、密封された・・・乗り物は・・・初めてで・・・うっ・・・!」

 

青白い顔でおくびをする汐に、どうしたらいいかわからず狼狽える炭治郎。

 

「むっ、乗り物酔いか。いかんな。溝口少年、窓を開けてもらえるか?」

 

炭治郎が窓を少し開けたのを確認すると、煉獄は羽織の内側から小さな袋を取り出し汐の傍に寄った。

 

「これは胡蝶から処方された酔い止めの丸薬だ。噛んで飲みなさい」

 

煉獄は汐の手に丸薬を握らせると、彼女は直ぐに口に含む。が、あまりいい味ではなかったのか思い切り顔をしかめた。

そんな汐を見て煉獄は再び何かを取り出すと、汐の前に差し出した。

 

「それでも我慢ができなくなったらこれを使うといい」

 

それは袋がいくつも重なったようなもので、おそらくその時が来たら使えということだろう。

汐は小さく礼を言うと袋を受け取り、そのまま再び背もたれに寄りかかった。

 

列車は速度を上げて暗闇の中を突き進む。伊之助はすっかり興奮し、窓を全開にして身を乗り出しながら声を上げた。

 

「うおおおおおお!すげぇ、すげぇ!速ぇぇぇ!!」

「危ない!馬鹿この・・・」

 

そんな伊之助を善逸が慌てて引き戻そうとするが、興奮しきっているせいか善逸を振り払いながら頭を外に出す。

 

「俺外に出て走るから!!どっちが速いか競争する!!」

「馬鹿にも程があるだろ!!」

 

とんでもないこと言いだす伊之助に、善逸は全身全霊で伊之助を引き止める。そんな二人を見て煉獄はいつ鬼が出るかわからないから危険であることを告げた。

 

それを聞いた瞬間、伊之助を除く全員が肩を震わせ、善逸は瞬時に顔を青ざめさせると汚い高音で喚きだした。

 

嘘でしょ!?鬼出るんですか、この汽車!?

「出る!」

出んのかい!!嫌ァーーーーーッ!!鬼の出る所に移動してるんじゃなくてここに出るの、嫌ァーーーーーッ!! 俺、降りる!!

 

涙目になりあたふたする善逸に、煉獄は冷静な声色で状況を説明した。

 

短期間のうちにこの汽車で四十人以上の人が消息を絶ち、数名の隊士を送り込んだが誰一人として帰って来る者はいなかった。

 

「だから、柱である俺が来た!」

はァーーーーーッ、成る程ね、降ります!!

 

煉獄の説明を聞いた善逸は、ますます顔を青くし、ぎゃあぎゃあと喚き続ける。そんな善逸に対して汐は気分の悪さから動くことができずに殴りたい衝動を抑えていた。

 

その時だった。

 

「切符・・・拝見・・・いたします」

 

列車の奥から制服に身を包んだ一人の駅員が、か細い声でそう言いながら歩いてきた。薬のお陰か少しだけ気分が回復した汐が体を起こし、あれは何だと煉獄に尋ねた。

 

「むっ、大海原少女。気が付いたか。あれは車掌さん。切符を確認して切り込みを入れてくれるんだ!」

 

煉獄の言った通り、車掌は喚く善逸や騒ぐ伊之助から切符を受け取ると、専用の機器でぱちぱちと音を立てながら切符を切っていく。

 

だが、彼が切符を切った瞬間。汐は微かだが妙な気配を感じた。

 

(なに・・・今の気配・・・本当に微かだけど・・・鬼のような気配が・・・)

 

「拝見しました・・・」

 

そう言う車掌の顔は病人の様に青白く、とても仕事ができそうな状態ではない。もしかして彼も自分と同じ列車に酔ったのかと思い、汐は声をかけようとした。

 

だが、煉獄はそんな汐の肩にそっと手を置くと「動くな」と小さく告げた。

汐がびくりと震えると、煉獄は刀を手にしてすぐさま立ち上がり、車掌を庇うように立った。

 

「車掌さん、危険だから下がっててくれ!火急のことゆえ、帯刀は不問にして頂きたい」

 

そう告げる彼の眼前には、顔がいくつも連なったような醜悪な姿の鬼が一匹。這うようにしてこちらを見ていた。

 

その異形の姿にあちこちから悲鳴が上がる。しかし煉獄は臆さず、静かに刀を抜きはらった。

 

「その巨躯隠していたのは血鬼術か!!気配も探りづらかった。しかし・・・」

 

――罪なき人に牙を剥こうものならば、この煉獄の赫き炎刀が、お前の骨まで焼き尽くす!!」

 

鬼が口を開き、耳を塞ぎたくなるような雄たけびを上げた。真っ青な顔で動けない炭治郎と善逸。しかし

 

――炎の呼吸――

壱ノ型 不知火

 

 

煉獄の身体が轟音を上げながら動き、瞬時に鬼の頸を斬り飛ばす。鬼は断末魔の叫びをあげることなく、灰となって消え去った。

 

「すげぇや兄貴!見事な剣術だぜ!おいらを弟子にしてくだせぇ!!」

 

そんな煉獄に、炭治郎は大粒の涙を流しながら感激の声を上げる。

 

「いいとも!!立派な剣士にしてやろう」

 

煉獄は嬉しそうな顔で炭治郎に言い、そんな彼らに善逸、伊之助、汐も同じく声を上げる。

 

「おいらも!」

「おいどんも!」

「あたいも!」

 

皆は感動の舞のようなものを踊りながら、ひたすら煉獄をたたえ、そんな彼らを煉獄は心からうれしそうに言った。

 

「うむ!みんなまとめて面倒みてやる!」

「煉獄の兄貴ィ!」

「兄貴ィ!!」

 

煉獄をたたえる声はとどまることを知らず、それに答えるように、彼の高らかな笑い声が列車中に響き渡った。

 

 

――列車は走る。ただひたすらに、多くの乗客を乗せたまま、目的地すらわからずに進む。

 

煉獄と炭治郎は肩を寄せ合い、善逸は伊之助に踏みつけられるように、汐は窓に寄りかかるようにして寝息を立てている。

 

夢か(うつつ)か、わからぬまま。

 

そんな彼らを嘲笑うかのように、全島車両に立つ不気味な影は、口元に歪んだ笑みを浮かべた。

 

「夢を見ながら死ねるなんて、幸せだよね」

 

そう口にする彼の目には、“下壱”と刻まれていた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



「言われた通り、切符を切って眠らせました。どうか早く私も眠らせてください・・・死んだ妻と娘に会わせてください・・・」

汐達が眠ったのを確認すると、車掌は涙を流しながら縋るように言葉を紡ぐ。彼の足元には手の甲に目と口があり、指の部分に夢と書かれた異形の生物がいた。

「お願いします、お願いします・・・」

彼は床に頭をこすりつけ、すすり泣きながら懇願する。すると、異形の口が動き、優し気な声色で言った。

「いいとも、よくやってくれたね。お眠り。家族に会える良い夢を・・・」

その言葉が終わる前に、車掌はびくりと体を震わせるとゆっくりと床に倒れ伏した。そして、異形の後ろには虚ろな目をした5人の男女が控えている。

「あの・・・私たちは・・・」

異形はゆっくりと身体を彼らに向けると、口に笑みのようなものを浮かべながら言った。

「もう少ししたら眠りが深くなる。それまでここで待ってて。勘のいい鬼狩りは、殺気や鬼の気配で目を覚ます時がある。近付いて()()()()()()も、体に触らないよう気を付けること。俺は()()()()()()()()()()()()。準備が整うまで頑張ってね・・・」

――幸せな夢を見るために

「はい・・・」

彼等は虚ろな表情のまま、ゆっくりとうなずく。しかし、その眼にはほんの微かだが、決意のようなものが見て取れた。

「どんな強い鬼狩りだって関係ない。人間の原動力は心だ。精神だ。“精神の核”を破壊すればいいんだよ。そうすれば生きる屍だ。殺すのも簡単」

身体にかかる蒸気の熱にも目もくれず、風を感じながら鬼、下弦の壱は手を虚空に差し出しながら不気味に微笑む。

「人間の心なんてみんな同じ。硝子細工みたいに、脆くて弱いんだから・・・」



潮騒の奏でる心地よい音が、耳に染み入り溶けていく。

鼻をかすめる潮の匂いを感じ、汐は目を見開いた。

 

手には獲物が入った籠を持ち、磯着姿のまま、彼女は海辺に立っていた。

そして汐の前には、小さな家が立ち並んだ村の姿がある。

 

「嘘・・・」

 

汐は思わず声を上げ、村へ向かって足を進める。その足がだんだんと早まっていく中、彼女の青い目が目の前の者を映し思わず足を止めた。

 

そこには、色白で真っ黒な髪を一つに結わえた、とてもかわいらしい一人の少女。

 

――尾上絹が、そこにいた。

 

「絹・・・?」

 

汐が思わず名を呼ぶと絹はゆっくりと振り返り、花のような笑顔で返事をした。

 

「汐ちゃん!今戻ったの?おかえりなさい」

その声を聞いた瞬間、汐の両目にみるみるうちに涙がたまる。そのことに絹は気づかないまま、転がるように近寄ってきた。

 

「わあ、たくさん獲れたのね!やっぱり汐ちゃんはすごいわ!」

 

汐の籠を見て心の底からうれしそうに微笑む。が、汐はそのまま籠を落とすと、ためらうことなく絹を抱きしめた。

 

「ごめん、ごめんね絹!あたし、あたし、あたしのせいで、酷い目に遭わせて、助けてあげられなくて、本当にごめんね!!」

 

絹を抱きしめながら、汐は声を上げて泣きじゃくる。尋常じゃない様子の汐に、絹は慌てた様子で目を白黒させた。

 

「汐ちゃん!?どうしたの?気分でも悪いの?」

絹が尋ねても汐は泣くばかりで答えることができない。その様子に気づいた村の者達も、何事かと二人に近づいてきた。

 

「なんだなんだ、どうした汐。もう14だというのに、子供みたいに泣いて」

「そんなんじゃ玄海のおっさんがまた怒鳴りつけに来るぞ。いつまで泣いてるんだってね」

 

村人の言葉に汐は肩を大きく震わせ顔を上げた。

 

「おやっさん!?おやっさんがここにいるの!?」

「何言ってんだ、当り前だろ?お前の育ての親なんだから。さっき様子を見に行ったけれど、今日は調子がいいのか腹を空かせて待っているようだったよ」

「ですって。早く行ってあげて、汐ちゃん」

 

絹はそう言って散らばった獲物を籠に戻しながら、にっこりと笑った。相も変わらず優しい絹の言葉に、汐は涙を乱暴に拭きながらうなずいた。

 

籠を抱えて、汐は走った。自分が育った家、思い出のたくさん詰まった小さな家。そして、自分を育ててくれた、誰よりも大好きな――

 

「おやっさん!!!」

 

家の扉を突き破るような勢いで、汐は家の中に転がり込んだ。台所と食卓と棚、それから寝床があるだけの殺風景な部屋だった。

そしてその奥にある、簡素な寝床には――

 

「おー、帰ったか。ずいぶん遅かったなァ。俺ァ待ちくたびれたぜ」

 

白髪交じりの髪の毛に、厳つい顔。見た目だけで言ってしまえば、目があった子供か確実に泣き出すような風貌をしている男、大海原玄海がゆっくりと体を起こしてこちらを見ていた。

 

「おや・・・っ・・・さん・・・」

 

その姿を見た瞬間、汐の目から再び滝のように涙があふれ、ぽろぽろと零れて床にシミを作っていく。

そんな汐に玄海は怪訝そうな表情になり、どうしたと声をかけようとしたその時だった。

 

おやっさああああん!!!

 

汐はそのまま玄海の首に飛びつき、強く強く抱きしめた。硬い筋肉質の体に、あの時は嫌だった彼独特の匂いすら、今の汐にはうれしくてたまらないものだった。

 

うわああああ!!!おやっさん!おやっさん!!おやっさん!!!

 

玄海を抱きしめながら泣き叫ぶ汐に、玄海はわけがわからずぽかんとする。が、すぐさま彼女の背中と頭を優しくなでた。

 

「よく帰って来たな、汐。おかえり」

 

その優しい声に、汐の泣き声がさらに大きくなる。何があったのか、どうしたのか。彼は何も聞くことなくただただ、汐の体を抱きしめているのだった。

 

 

 

*   *   *   *   *

 

 

 

動き続ける列車の中で眠る汐の左目からは、一筋の涙がこぼれている。彼女の前で眠る炭治郎は、両目から大粒の涙を流しながら同じように眠っている。

そんな彼らの心中など気にも留めず、五人の男女は汐達に近寄り、異形に指示されたとおりに縄を繋いでいく。

 

「縄で繋ぐのは腕ですか?」

「そう。注意されたこと忘れないで」

 

五人はそれぞれ縄をつないだ相手と同じように自分もつなぎ、そしてそのまま傍の席に座った。

 

汐の左手首に縄をつないだのは、汐とさほど年の変わらない少年。だが、その顔には痛々しい程の傷があり、酷い扱いを受けたことがあるように見えた。

彼はそのまま汐の隣に座り、反対側の手すりに頭を預ける。

 

(確か、大きくゆっくり呼吸するんだったよな。数を数えながら・・・そうすれば眠りに落ちる。いち、にい、さん・・・)

 

少年が数を数えていると、彼からは小さな寝息が零れだす。そして再び、列車内は車輪が線路を走る音だけになった。

 

 

 

*   *   *   *   *

 

 

 

「しっかし驚いたぜ。まさかお前があんなふうに泣くなんてなァ。お前年いくつだよ」

 

ようやく落ち着きを取り戻した汐は、獲ってきたものを調理して食卓に並べた。

いつもと変わらない、玄海と二人きりの食卓。あの時と何も変わらない、幸せな日常。

 

「アハハ、ごめんねおやっさん。何だかあたし、ずっと悪い夢でも見てたみたい」

「はあ?まさか俺が死ぬ夢だとか、そんなことじゃねえよな。俺が死ぬのは別嬪の上と決めて――」

「止めてよ食事中にそんな下品なこと言うの。本当におやっさんは相変わらずなんだから」

 

そう言って汐はけらけらと笑いながら、雲丹の刺身に手を伸ばす。すると、それを見ていた玄海がぽつりと言った。

 

「なあ汐。お前、好きな野郎はいねぇのか?」

「ブフゥーーーーッ!!!」

 

突然かけられた言葉に、汐は思い切り雲丹を噴き出し、その飛沫が食卓に飛び散った。それを見た玄海は「うわっ、汚ねぇなおい!」と顔をしかめながら言った。

 

「い、いきなり何を言い出すのよ!危うく気管に入って死ぬところだったじゃない!」

「いやいやお前もいい歳だ。そろそろ男の一人や二人捕まえてきてもいいんじゃないかって思ってな。それとも、もうめぼしい奴はいるのか?」

「いるわけないでしょ!大体あたし、生まれてから一度もこの村から外に出たことなんて・・・」

 

汐がそう言いかけた瞬間。突如汐の脳裏に何かが浮かんだ。

 

それは、緑と黒の市松模様の羽織を纏った、大きな箱を背負った少年。

 

(あれ?)

 

その少年に見覚えがあるような気がしたが、瞬きをすれば彼の姿は頭の中から消え去った。

 

(今の、誰だろう・・・?この村の人間じゃなかった。でも、なんでかわからないけれど、何かものすごく大切なことを忘れている気がする)

 

「汐?どうした?」

 

突然黙ってしまった汐を、玄海は心配そうな目で見つめている。汐は頭を振って「何でもない」というと、手ぬぐいで散らばった雲丹を拭き出すのだった。

 

(あれが本体か・・・)

 

汐の夢の中に入り込んだ少年は、家の中を覗いてその姿を確認する。

楽しそうに笑いながら父親と食卓を囲む彼女を見て、彼は顔をしかめた。父親からの理不尽な暴力によって消えない傷を心と体に追った彼は、親子という存在そのものを疎ましく思っていた。

 

だからこそ、楽しそうに笑う汐が理解できず、憎々しくてたまらなかった。

 

(くそっ、楽しそうに笑いやがって。俺だって、俺だってもっと・・・)

 

少年は憎しみを振り払うように頭を振ると、本来の目的の為に動いた。それは“夢の端”を見つけること。

 

眠り鬼、魘夢(えんむ)の見せる夢は無限に続いているわけではなく、夢を見ている者を中心に円形に広がっている。

その外側には無意識領域と呼ばれるものがあり、そこには“精神の核”が存在していて、これを破壊されると持ち主は廃人になる。

 

魘夢はこうして心を殺してから、肉体を殺すという方法で多くの人間を葬っていた。

 

(ここか。風景は続いているけれど進めない。見えない壁があるみたいだ)

 

少年は懐から錐のようなものを取り出し振りかぶると、その切っ先を壁へと突き刺した。確かな手ごたえを感じた彼は、そのまま一気に壁を引き裂く。

 

すると、

 

「うわっ!!!」

 

突然流れ込んできたすさまじい量の水が、彼を飲み込み押し流す。口の中に入ってきた水はとても塩辛く、海水であることが分かった。

 

少年は苦しそうにもがこうとするが、ふと違和感を感じて目を開く。そこは確かに水の中のはずなのに、陸にいる時と変わらないような呼吸ができるのだ。

 

(なんだ・・・これ・・・)

 

そんな彼の前を、色とりどりの魚が泳ぎすぎ、様々な色の海藻やサンゴ礁が日の光を浴びて虹色に光る。

眼前に広がる美しい海底に、少年は目を奪われ立ち尽くしていた。

 

(すげぇ。まるで別世界に来たみたいだ。こんな、こんなに綺麗な海なんてみたこと・・・)

 

――ねんねんころり、ねんころり。ころりとおちるはなんのおと――

 

 

少年がその美しい景色に呆然としていると、どこからか歌が聞こえてきた。それは幼い少女のような声で、海の底から聞こえてくるようだ。

彼が誘われるように目を移すと、海底に何かがあるのが見えた。

 

目を凝らしてよく見ると、それは一枚の扉のようだ。だが、その扉に違和感を感じる。

 

それもそのはず。その扉はいくつもの鎖や鍵で厳重に閉ざされたものであり、この風景に全く合っていない外観をしていたからだ。

 

それを見た少年は、自分が何のためにここに来たことを思い出し、その扉に向かって身を進めた。

 

不思議なことに海底には地面と同じように普通に立つことができ、彼は扉と向き合うと錐を持つ手に力を込めた。

 

(この海のどこにも精神の核は見当たらなかった。だとしたら、この扉の先に・・・)

 

しかし目の前の扉は一目でわかるほど、禍々しい気配を放っていた。いくつもの鍵と鎖がこの扉を開けてはいけないことを警告する。

 

(知ったことか。さっさとこいつの精神の核を壊して、俺も幸せな夢を見せてもらうんだ!)

 

少年は決意を胸に抱いて扉に手をかけようとした、その時だった。

 

『お前は誰だ。ここで何をしている?』

 

背後から声をかけられ、少年は大きく肩を震わせた。反射的に振り返るとそこには、日本神話に出てきそうな古風な薄青い着物を身に纏い、布で顔を隠した4,5歳ほどの子供が一人立っていた。




――この時、魘夢は失念していたことが二つあった。

切符を切らずにこの列車に身を置く禰豆子の存在と――
現実世界の汐の片目が、うっすらと開いていることに――


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



「こっちこっち!こっちの桃がおいしいから!!」

一面の桃の木が生い茂る場所を、善逸は禰豆子の手を取り楽しそうに駆けてゆく。彼女の口には枷は無く、その目は光り輝いていた。

「白詰草もたくさん咲いてる。白詰草で花の輪っかを作ってあげるよ禰豆子ちゃん。俺本当にうまいのできるんだ」
「うん。たくさん作ってね」

禰豆子の口から歯切れのよい声が零れ、善逸の耳を優しくくすぐっていく。そんな彼女に頬を染めつつ、善逸はひた走った。

「途中に川があるけれど、浅いし大丈夫だよね?」
「川?」

善逸の言葉に、禰豆子は表情を曇らせながら善逸の手を握り返した。

「善逸さんどうしよう、私泳げないの」

「俺がおんぶしてひとっ飛びですよ川なんて!禰豆子ちゃんのつま先も濡らさないよ。お任せ下さいな!」

善逸は顔を茹蛸の如く真っ赤にしながらも、誇らしげに胸を叩いたその時だった。

――ねんねんころり、ねんころり。ころりとおちるはなんのおと――

「ん?」

何処からか歌のようなものが聴こえてきて、善逸は思わず足を止めた。
しかし、もう一度耳を澄ませてみてもそれらしいものは聴こえない。

(今どこからか歌が聞こえたような・・・それもとてもきれいな女の子の声で!)
「善逸さん?どうしたの?」

禰豆子が怪訝そうに善逸の顔を覗き込むと、善逸は顔を赤く染めながら「何でもないよ」とだけ答えた。

*   *   *   *   *


「探検隊!!探検隊!!俺たち洞窟探検隊!!」

薄暗い洞窟の中を、伊之助は大手を振りながら声高らかに歩く。その後ろには彼の仲間と思しき影が、列をなしてついていく。

「親分親分!!」
「どうした子分その一、その二」

伊之助が振り返ると、そこには炭治郎に似た狸の『ポン治郎』と、善逸に似た鼠の『チュウ逸』が駆け寄ってきて告げた。

「あっちから、この洞窟の主の匂いがしますポンポコ」
「寝息も聞こえてきますぜチュー」

その言葉に伊之助の心は燃え上がり、体の奥から闘争本能が沸き上がってくるのを感じた。

「よし行くぞ勝負だ!!ついて来い、子分その三、その四!!」

伊之助が拳を振り上げながら叫ぶように言うと、禰豆子に似た兎はその場に座り込み、汐に似た狸は何故かポン治郎につかみかかりぽかぽかと頭を叩いている。

「オイ子分その一、その四!!喧嘩すんじゃねえよ!子分三もそんなところに座るな!こっち来い、ホラ!!ツヤツヤのドングリやるからホラ!!」

伊之助がドングリを二人に渡すと、兎禰豆子と狸汐はドングリを受け取ると嬉しそうに笑った。
さていざ洞窟の奥に進もうとしたその時だった。

――ねんねんころり、ねんころり。ころりとおちるはなんのおと――

洞窟の奥から、透き通るような歌声が聞こえてくる。それを聴いた伊之助はびくりと体を震わせ警戒心をあらわにした。
しかし伊之助は、その声をどこかで聞いたことがあるような気がした。しかし、その歌はもう聞こえなくなり、伊之助は気のせいだと思い洞窟の奥に足を進めるのだった。

*   *   *   *   *

煉獄が目を開けると、そこは見慣れた天井と見慣れた部屋。自分が生まれ育った家のある部屋だった。

(ん?俺は何をしに来た?そうだ、父上へ報告だ。柱になったことを・・・)

煉獄は一瞬だけ考えるが、すぐさまその目的を思い出し目の前に横たわる父に声をかけた。
しかし

「柱になったから何だ、くだらん」

その背中から発せられた冷たい言葉が、煉獄の耳と心を穿つ。

「どうでもいい。どうせ、大したものにはなれないんだ。お前も、俺も」

思っていた言葉は帰ってこず、煉獄はそのまま静かに部屋を後にする。すると、彼の進む先に自分によく似た顔立ちの少年が一人、ひょっこりと顔を出した。

「あ・・・兄上」
「千寿郎」
「父上は喜んでくれましたか?僕も、柱になったら、父上に認めてもらえるでしょうか?」

弟、千寿郎がおずおずと口を開くと、煉獄は言葉を詰まらせた。
彼等の父親は昔はああではなかった。鬼殺隊の柱にまで上り詰めた剣士だった。情熱のある男だった。
だが、ある日突然剣士をやめた。本当に突然だった。

――あんなにも熱心に俺たちを育ててくれていた人が、なぜ・・・。

(考えても仕方ないことは考えるな。千寿郎はもっと可哀想だろう。物心つく前に病死した母の記憶はほとんど無く、父はあの状態だ)

煉獄は視線を落とすと、千寿郎の肩にゆっくりと手を置いて真剣な表情で口を開いた。

「正直に言う。父上は喜んでくれなかった!どうでもいいとの事だ・・・」
その言葉に千寿郎は肩を落として俯くが、煉獄はそんな彼を励ますかのように声高らかに告げた。

「しかし、そんなことで俺の情熱は無くならない!心の炎が消えることはない!俺は決して挫けない!そして千寿郎。お前は俺とは違う!お前には兄がいる。兄は弟を信じている」

煉獄の言葉に、千寿郎の目にみるみるうちに涙がたまり、その雫がぽろぽろと零れ落ちる。そんな彼を、煉獄は優しく抱きしめた。

「どんな道を歩んでも、お前は立派な人間になる!燃えるような情熱を胸に。頑張ろう!頑張って生きて行こう!寂しくとも!」

泣きじゃくる弟の背中をさすりながら、煉獄は決意を込めた声色でそう言った時だった。

――ねんねんころり、ねんころり。ころりとおちるはなんのおと――

「ん?」

何処からか幼い少女の歌が聞こえ、煉獄は思わず顔を上げた。母親は随分前に亡くなり、自分たちに姉妹はおらず、女中にしては声が幼すぎた。
そしてなぜか、煉獄はその歌声を酷く愛しく感じた。まるで大切な何かを見落としているかのように――

*   *   *   *   *

炭治郎は一人、雪の降る山の中を歩いていた。見覚えのある景色、見覚えのある道。そして、見覚えのある家。
――そして、見間違うはずのない弟、茂と、妹、花子。

「あ、兄ちゃんおかえり!」
「炭売れた?」

二人は炭治郎とよく似た、透き通った眼を彼に向けて笑いながら言った。炭治郎はすぐさま駆け寄り、そのまま茂と花子を強く強く抱きしめた。

「ごめん、ごめん、ごめんな・・・」

二人を抱きしめ嗚咽を漏らしながら、炭治郎は何度も何度も謝罪の言葉を紡ぎ、二人はわけがわからず呆然と泣きじゃくる兄を見つめる。

「に、兄ちゃんどうしたの?お腹でも痛いの?」
「とにかくうちに帰ろう。みんな待ってるよ」

茂と花子の言葉に、炭治郎は小さく肩を震わせると、顔を上げて二人の顔を見つめた。

(そうだ。家にはみんなが待っているんだ)

炭治郎は涙をぬぐうと、二人に驚かせたことを謝り、二人の手を取った。手のぬくもりに沸き上がる幸せを、彼はしみじみと嚙み締める。

そのせいだろうか。彼の耳には、どこからか聞こえてきた歌声が届くことはなかった・・・

*   *   *   *   *
夜空を切り裂く様に走る列車から、小さな歌声が聞こえる。ねっとりとした含みのある歌声が、風に乗って流れてくる。

――ねんねんころり。こんころり。息も忘れてこんころり――
――鬼が来ようとねんころり。腹の中でもねんころり――


「うふふ、楽しそうだね。幸せそうな夢を見始めたな・・・深い眠りだ。もう、目覚めることは出来ないよ・・・」

そう言ってほほ笑みながら、下弦の壱、【魘夢(えんむ)】は、汐達が深い眠りに入ったことを感じた。
だが、

――ねんねんころり。ねんころり。ころりとおちるはなんのおと――

「ん?」

何処からか別の歌声が聞こえたような気がして、彼は振り返った。しかしそこには墨を流したような闇が広がっているだけだ。

「気のせいかな。今、おかしな歌が聞こえた気がしたんだけれど・・・」

魘夢は少し首をかしげたが、さほど気にする様子もなく再び夜の闇に視線を向けた。きっと気のせいだろう。今頃人間たちは皆夢の中なのだから。

しかし、その時車内で起こっていることを彼は知る由もなかった。

小さく開かれた汐の口から、歌が零れだしていることに。

ねんねんころり ねんころり
ころりとおちるはなんのおと

ひとをいじめるわるいこの
くびがころりとおちるおと


「な、なんだお前は!?」

 

いきなり声をかけられた少年は、顔を引き攣らせて慄く。するとその子供は少年を見据えたまま静かな声で言い放った。

 

『私はここの扉の番をしている者だ。そんなことよりも、お前は何故ここにいる?何をしに来た』

 

子供にしては低く落ち着いた声が少年を鋭く穿った。その顔は見えないものの、不快感と怒りが声色から見て取れた。

 

『そもそもここはお前のようなものが入ってこれる場所ではない。この領域の主でさえ、ここに入ることはかなわない。何かの干渉を受けない限りはな』

 

番人はそう言って少年の持つ錐に視線を移し、布越しに目を細めた。

 

『成程。大方、それを与えた者がお前を唆し、ここへ送り込んだということか。お前にとって願ってもみない条件を突き付けられて』

 

違うか?と言いたげに首をかしげる番人を見て、少年は身体を震わせて叫んだ。

 

「ああそうだ!俺はあの人に幸せな夢を見せてもらうためにここに来たんだ。こいつの精神の核をぶっ壊せば夢を見せてもらうと約束してな!」

 

怒りと苛立ちを孕んだ声が、海底内に静かに響く。まくし立てる少年の言葉を、番人は黙って聞いていた。

 

「妾の子として蔑まれ、父親と名乗る男には毎日殴られ俺の居場所なんかどこにもない!あるのは理不尽な暴力と、悪意に満ちた時間だけだ!」

 

少年の目からはいつの間にか涙があふれだし、頬を伝って流れていく。一度堰を切ってしまった言葉は止まらず、少年は自分の生い立ちを感情のまま訴えた。

 

番人は少年の言葉を黙って聞き、彼が全ての感情を吐き出すのを待ってからゆっくりと口を開いた。

 

『それで。もしも目的を達成でき、幸せな夢とやらを見せてもらえたら、お前はどうする?そんなものは、まやかしに過ぎない。お前がどれほど幸せな夢を見ようが、それは決して存在しない、ただの幻だ』

「五月蠅い黙れ!幸せな夢を見て何が悪い!現実に戻ったって理不尽な暴力と悪意しかないんだ!苦痛しかない現実なんかより、幸せな幻の方がいいに決まっている!」

 

少年は番人の言葉を遮って心の奥から叫んだ。爛々と光る目が穿ち、その決意に番人の身体が微かに震えるが、彼は静かに口を開いた。

 

『そのために、お前には何の所縁もない者を手にかけようというのか』

「え・・・?」

 

番人の言葉に今度は少年の身体が跳ね上がった。爛々と光る目が同様に震えている。

 

『まさか、精神の核を壊すという行為がどのようなことか、わかっていなかったわけではあるまいな?あれを壊せば持ち主の心は死ぬ。心というのは身体よりも厄介な代物でな。身体の傷と違い、心が負った傷は死ぬまで治らないことの方がはるかに多い。心を殺すということは、人を殺める以上に罪深く、そして虚しいものだ』

 

そう言う番人の声は、心なしか悲しみを孕んでいるように聞こえた。

 

『それでもお前は、どうしてもこの扉の先に行きたい。そう言うことか?』

 

番人の言葉に少年は即座に答えることはできなかった。理不尽な暴力に傷つけられていた彼は、その苦しみから逃れることができるなら何でもできると思っていた。

しかし、今しがた自分がしようとしていることの意味を改めて聞かされたことで、その心は揺れ動いた。

 

だが、

 

「・・・ああ」

 

番人の問いかけに、少年は淡々と答えた。その目にはもう、既に光はなかった。

 

『・・・そうか、わかった。お前がそこまで言うなら好きにするといい』

 

番人は少し悲しそうに言葉をつなぐと、扉の前に立ちその左手をそっとかざした。すると取っ手にかけられていた小さな鍵が一つはずれ、溶けるように消えていく。

彼の思わぬ行動に少年は面食らい、呆然とその背中を見つめていた。

 

『どうした?お前の望むとおりにしてやったのだ。覚悟があるなら扉に手をかけるといい』

「ふざけるな!それにこれじゃあ少ししか開かないじゃないか!」

『全ての鍵を開けるかは私が決める。お前がこの中を覗き、()()()()()()に耐えられたのなら、全ての鍵を解除しよう。それともお前はこの扉に何故鍵が必要なのか、考えられないのか?鍵とは何のためにかけられるのか、想像することもできない程、お前の覚悟とはその程度の物なのか?』

 

番人は少年を見据えながら、挑発的な言葉を投げつける。それが少年に突き刺さり、やがて怒りへと変わっていく。

 

「うるさい!やるよ!やってやりゃいいんだろう!?」

 

少年は怒りながら番人を押しのけ、鍵が外れた取っ手に手をかけた。硬く冷たい感触が少年の手を伝わり、体を震わせる。

 

(ここまで来て引き下がれるかよ。もう俺には何もない。失うものも。あれ以上の地獄も。俺にはない!!)

 

少年は小さく息をつくと、取っ手を思い切り引っ張った。重厚な音が響き、ゆっくりと開いていく。

だが、扉に巻き付いたままの太い鎖に阻まれ扉は少し開いたままで止まり、そこには中を覗けるほどの隙間が開いた状態になった。

 

少年はその隙間から中を覗き込んだ。その瞬間、彼は目を見開いた。

 

最初に目についたのは、壁や床全てから生えたように立ち並ぶの血の付いた刃。そしてそこに突き刺さっていたのは、いくつもの肉片のようなものだった。

そしてその間からは、何本もの手が何かを掴むように蠢いている。

呪いの言葉がそこら中から響き渡り、時折聴こえてくるのは、幼い少女の泣き声のようなもの。

そして少年の視線の先には、人の形をしたものがこちらを見つめていて、その手には緑と黒の市松模様の切れ端が――

 

うわあああああああああああああああああああああ!!!!

 

少年は扉の前から弾かれるように離れ、番人はすぐさま扉を閉め鍵をかけた。そして荒い息をつき、顔中から汗を拭き出す少年を見据える。

 

『どうやら、お前には耐えられなかったみたいだな』

 

番人は淡々と少年の背中に言葉を投げかけ、冷たい視線を布越しに浴びせる。少年は息を整えようと胸に手を当てながら、ゆっくりを顔を上げた。

 

「な、な、な、なんなんだよあれ・・・地獄なんてもんじゃない・・・。い、いや。人間の世界じゃない・・・あんなところに精神の核があるのか・・・?あんなところに、行かなきゃならないのか・・・?」

 

その表情は絶望と恐れと絶望に染まり切っており、先ほどの覚悟は完全にそぎ落とされたようだ。だが、番人が放った次の言葉に、彼は戦慄した。

 

『精神の核ならあの中にはないぞ』

「・・・な・・・に・・・?お前・・・騙したのか?」

『騙すとは?そもそも私は、お前に扉の先を見せるとは言ったが、あの中に精神の核があるとは一言も言っていない。お前が勝手に勘違いをしたんだろう』

 

その言葉に再び少年の心に怒りが宿り、手にした錐を番人に向かって振り上げた。

しかし、その切っ先が届く前に、少年の足首に海藻が巻き付きそれを阻止する。何とか拘束から逃れようと身をよじる少年に、番人は悲しげな声で語りだした。

 

『何故あの扉が封じられているかわかったか。あそこ封じられているのは、殺意と・・・記憶だ。ここの主が主でいるべき姿でいるための、枷のようなものだ。そうでなければ彼奴は、とっくに壊れていただろう』

 

その声があまりにも悲しく、今にも泣きだしそうなものに聞こえ、少年の怒りはみるみるうちにしぼんでいった。そして一つだけ、少年にはわかったことがあった。

 

――彼女は、自分と同じだ。いや、自分以上に、誰かに傷つけられ、疎まれ、存在自体を否定されてきた経験がある。

 

『だがそれでも、彼奴は生きることを選んだ。自分から地獄を見る道を選んだ。いばらの道を進むことを選んだ。何故か。彼奴にとって自分以上に大切なものを見つけたからだ』

「自分よりも・・・大切なもの・・・」

 

少年は俯き、その手から錐を離した。水面のような床に錐がおち、固い音を立てる。

 

『お前に彼奴の道を阻む資格はあると思うか?あのような地獄を心の中に抱え、それでも前に進もうとする彼奴の意思を、お前の一時の夢で邪魔をする資格があると思うか?』

「・・・・・」

 

少年はもう何も答えない。自分の中に、これから自分が行おうとしていた事への激しい罪悪感と後悔の念が沸き上がっていく。

周りの美しい海底のような心を持つ少女の中に、封じられていた殺意と憎悪の記憶。そんな相反するモノを抱えて、自分と同じくらいの少女が前に進もうとしている。

それなのに。自分は何をやっているんだ。誰かを傷つけてまで、夢を見せてもらうのがいいと思ったのか。

 

自分がしようとしていることは、あの理不尽なことを行う者達と同じではないか――

 

項垂れる少年を見て、番人は静かに拘束を解いた。解放されても尚、少年は動かない。

 

『・・・残念だが私の力ではお前をどうすることはもうできない。外からの干渉が強すぎる。いろいろと手を打っては見たのだが、後は彼奴自身が目覚める必要がある』

 

番人は独り言のように呟くと、少年の傍に落ちていた錐をそっと拾い袂の中に収めた。もう彼に敵意はないだろうが、念のためということと、もう一つの目的の為に必要だと思ったからだ。

 

『私は少し出る。後は好きに過ごしても構わない。最も、お前にできることなど限られているだろうがな』

 

番人はほんの少しだけ意地悪そうに言うと、そのまま泳ぐように上空へと浮き上がっていた。

少年は顔を上げ、あたりの景色を見つめた。色とりどりの魚が、物珍しそうに彼の周りに集まり口を開閉している。

 

それを見て、少年の顔に微かな笑みが浮かんだ。もうその眼には、先ほどの爛々とした光は宿っていなかった。




「あ、しまった!飲み水がそろそろなくなりそう」

汐は瓶の中を覗き込みながら眉をひそめた。村のはずれに飲み水のための井戸があるのだが、夜になると周辺が真っ暗になってしまうため日の出ているうちに水をくまなければならない。
幸いまだ日は高く、水を汲んで戻っても問題はなさそうだ。

「おやっさん。あたしちょっと水を汲んでくるから大人しく待っててよ」
「なんだよ。それじゃあまるで俺が言うことを聞かねえ餓鬼みてえじゃねえかよ」

口をとがらせて不貞腐れる玄海を見て、汐は苦笑しながら家を出た。手には水くみ用の桶をもって。

村の外れに行くと、少し古いがそれなりの大きさの井戸がある。汐は備え付けの釣瓶を井戸に投げ入れ、水を汲もうとした。ところが、いくら縄を引っ張っても桶が上がってこない。

「おかしいわね。どこかで引っ掛かってんのかしら」

汐はいったん縄から手を離すと、顔をしかめながら井戸を覗き込んだ。その瞬間。

『いつまでこんなまやかしに踊らされている!!さっさと起きろ愚図!!』

鋭い声と共に腕を強く引かれ、汐の体は井戸の中に引きずり込まれた。水音と共に、冷たい水の感触を肌に感じる。

目を開けるとそこには、少し古風な着物を身に纏った、顔に布をかぶった小さな子供が自分をじっと見つめていた。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

十五章:狂気の目覚め


箱の中にいた禰豆子は、外から聞こえてきた不思議な歌を聴いて目を開けた。兄と同じくらいに大好きなその歌を聴きたくて、彼女は箱の扉を押しのけ外へ出た。
だが、禰豆子の身体は勢いあまってころりと毬のように転がり落ちてしまった。

禰豆子はあたりを見回し、歌が聞こえてきた方向を探す。しかしいくら耳を澄ませてももう歌は聴こえず、禰豆子はがっかりしたように眉根を下げた。

ふと視線を移すと、そこには見知らぬ少女の首を掴む見知らぬ男性がおり、禰豆子はわけがわからず目を点にさせた。
更に視線を動かすと、そこには汗をかきながら呻く炭治郎と、同じく苦しそうに呻く汐の姿があった。

禰豆子は初めに炭治郎の羽織をぐいぐいと引っ張ってみたが、炭治郎は喘ぐばかりで反応してくれない。
気を悪くした禰豆子は、今度は汐の羽織を同じように引っ張ってみたが、やはり炭治郎と同じ反応だった。

いつもなら二人とも禰豆子を見れば頭をなでてくれたり、歌を聴かせてくれるのに、今日にいたってはそれがない。
不満に思った禰豆子は、再び炭治郎の羽織を先ほどよりも強く引っ張った。しかし反応は変わらず、ついに堪忍袋の緒が切れた禰豆子は、その頭を思い切り彼の額に打ち付けた。

しかし、禰豆子は炭治郎の頭の固さを失念していたため、その額からは血の雫が流れ落ちた。

禰豆子の両目からは涙があふれ出し、痛いやら腹立たしいやらで彼女は頭を大きく振り、その血の飛沫の一部が汐の手に付着した。
それに気づくこともなく、禰豆子は怒りのあまり自身の血鬼術・爆血を炭治郎に向かってお見舞いした。

炭治郎の身体が炎に包まれ、同時に汐についた血からも発火し、二人は真っ赤な炎に包まれた――


番人の声を聞いた瞬間、汐の脳裏に記憶が一気によみがえった。

自分がいた場所も、何をしていたのかも、大切な仲間たちもすべて――

 

気が付けば汐は真っ暗な空間の中にいた。だが、その空間に汐は覚えがあった。

そして番人の姿にも。

 

「思い出したわ。あんた、あの時あたしに戦えって言った奴ね」

 

那田蜘蛛山で死ぬ寸前まで追い詰められた際、走馬灯を打ち消し汐を死の淵から打ち上げた者。その時に見た姿と声が、汐の目の前にあった。

 

『覚えていてくれたとは光栄だな。もっとも、私はお前に二度と会いたくはなかったが』

「それはこっちの台詞。あんたに会うってことは、あたしまた死にそうな目に遭っているってことだものね」

 

汐が少し皮肉めいたように言うと、番人は少しだけ安心したように笑った。

 

「で、あたしをこんなところに連れてきてどういうつもり?あたしは早く炭治郎の・・・みんなの所に戻らないといけないの。あたしがこんな状態だから、みんなもきっと同じような目に遭っているに決まっているわ!」

『喚くな愚図。今の今まで夢だと気づかなかった奴が何を言う。こんな精巧な幻術を生み出す奴だ。そうやすやすと目覚めさせるはずがないだろう』

 

番人の高圧的な態度に汐は腹を立たせるも、事実であるためぐうの音も出なかった。

 

「・・・だったらどうすれば夢から覚めるの?みんなの所へ戻るにはどうすればいいの?」

『人に聞くな。自分の頭で考えられないのか』

 

言葉をはねのけられ、汐は再び顔を歪ませるも仕方なく思考を巡らせた。

 

(とは言ったものの、あたし考えることって苦手なのよね・・・。第一、こいつが声をかけてくれるまでこれが夢だって気づかなかったわけだし・・・)

 

「夢から覚める・・・頬っぺたでも抓ればいいってわけ?」

 

冗談めいた口調でそう言った瞬間、汐は思わず口を閉じた。否、汐は本当は気づいていたのかもしれなかった。本能で。

 

「まさか、夢から覚める方法って・・・」

 

青ざめる汐に、番人は布越しに口元を大きくゆがませた。それが本当ならば、敵は相当な悪趣味であることになる。

――吐き気がするほど。

 

「だけどどうするの?あたしの手元にはそれらしきものはないし、夢から覚める方法を敵が把握していないとは思えない。まさか、それも自分で探さなきゃいけないの?」

 

勘弁してほしいと思ったその時。突然汐は身体が引っ張られるような感覚を感じた。それに気づいた番人が慌てて手を伸ばすも、その手は僅かに届かない。

 

そして、気が付けば汐は夜の村に戻っていた。

 

(ここは、夢の中。引き戻されたんだわ)

 

目の前には元気に笑う玄海が、汐に稽古をつけようと張り切っている。しかし今自分の目の前にあるものはすべて幻、存在しないただのまやかした。

 

(こんなところでもたもたしてる場合じゃない。早く目を覚まさないと。炭治郎やみんなが危ないのに!!)

 

しかし周りを見渡しても、()()()()()()()()()()()()()()ものは存在せず、ただただ時間だけが過ぎていく。そんな彼女に気づいたのか、玄海の怒鳴り声が響いた。

 

「オイ汐!てめぇ、俺のけいこ中によそ見をするとはいい度胸だなぁ。課題を肆倍に増やすかぁ?」

 

玄海はそう言って汐に近づいたその瞬間、彼女に違和感を感じて目を剥いた。汐の左手に、小さな炎のようなものが見える。

 

「お前・・・その手どうした?」

「手?」

 

汐が視線を移すと、そこには、真っ赤な炎に包まれる己の左手があった。そして炎は瞬く間に燃え上がり、汐の全身を包む。

 

ぎゃああああああああ!!!あぢゃぢゃぢゃぢゃ!!!

 

汐は思わず悲鳴を上げ、顔を思い切り引き攣らせながら暴れまわる。だが、不思議なことに思ったよりは熱くなく、むしろ温かいとすら思ってしまう。

そして、汐はその炎から禰豆子の気配を感じた。

 

(この気配は・・・禰豆子!?まさかこの炎は、あの時と同じ、禰豆子の・・・)

 

那田蜘蛛山で禰豆子が目覚めた、血を媒介にした炎の血鬼術。禰豆子の炎が汐の全身を燃やす中、彼女の身体に変化が起こった。

 

普段着だった着物が隊服へ変わり、その右腰には日輪刀が出現する。禰豆子の炎が、汐を少しずつ現実の世界へ戻しているのだ。

 

「汐!?」

 

急に姿が変わった汐に、玄海は驚きのあまり表情を引き攣らせている。やがて炎が収まり、今の姿になった汐は真剣な表情で玄海を見据えて言った。

 

「ごめんね、おやっさん。あたし、好きなのかはわからないけれど、一緒にいたい奴等ならいるの。馬鹿であほで変な奴らばかりだけど、あたしを受け入れてくれた本当に気のいい連中なの。だかあたし、行かなきゃ。みんなを助けなきゃ。だから・・・ごめん!」

 

汐はそのまま玄海に背を向け、そのまま走り出す。後ろから汐を呼ぶ声が聞こえたが、汐は歯を食いしばり走り続けた。

すると

 

「あっ、汐ちゃん!どこに行くの?」

 

途中で絹に呼び止められ、汐は思わず足を止める。そこには相も変わらず朗らかに笑う絹がいて、その後ろには村人たちの姿がある。

 

「なんだ汐?その変な格好は」

「汐姉ちゃんどこ行くんだ?俺たちと遊んでよ」

 

皆屈託のない笑顔で汐の背中に声をかける。その優しい声に、汐の体が微かに震えだした。

 

(ああ、本当ならみんなこうして、笑っていたんだろうな。あたしもここでみんなと笑って、海に潜って、何も知らずに過ごしていたんだろうな。振り返って、戻りたい。幸せの中にいたい。でも・・・)

 

――だからこそ、戻るわけにはいかない。あたしにはもう、守るべきものが既にある!

 

汐はそのまま止まっていた足を動かし、みんなから離れるように走り出す。

 

「行かないで汐ちゃん!!私を一人にしないで!!」

 

後ろから絹の泣き叫ぶ声が聞こえ、汐の心に突き刺さった。汐の目から涙があふれ出し、頬を濡らしていく。

 

(ありがとう、ごめんね、絹。あんたが、あんたが()()()()()()()()()()()()()も、あたしはあんたが大好きだよ・・・)

 

汐は涙をぬぐうと、そのまま全速力で浜辺を駆け抜けた。すると、先ほどまでには感じなかった鬼の気配が微かだがする。

そして視線の先には、番人の姿があった。

 

『吹っ切れたのか?』

 

番人は少しだけ侮蔑を込めた言葉を汐に投げかける。汐は自嘲的な笑みを浮かべると、番人の目の前に立って言った。

 

「・・・こんなことを頼むのは何だけど、死にきれなかったら介錯をお願い」

『・・・本当にいいんだな?』

「ええ。何せ、ここには()()()()()()()()()んでしょう?」

 

そう言う汐の顔には、これ以上ない程の歪んだ笑みが浮かび、それを見た番人の顔も心なしか歪んでいた。

そして汐は徐に刀を抜くと、その刃を自分の頸に押し当てた。

 

(本当に悪趣味。夢から覚める方法が命を絶つ。自害することなんてね!!)

 

「うおおおおおおおおおおおおおお!!!!」

 

汐はそのまま雄たけびを上げながら、その刃を己の頸に食い込ませた。真っ赤な血飛沫が上がり、みるみるうちに汐の体を染めていく。

そして、汐の意識は真っ暗な闇に沈んだ。

 

 

*   *   *   *   *

 

 

「あああああああああああああ!!!!!」

 

悲鳴に近い声と共に、汐は目を開けた。体中から汗が拭き出し、心臓は早鐘のように打ち鳴らされている。

しかし、眼前に広がる景色は、先ほどまでも村ではなく、列車のようだ。

 

汐はすぐさま、自分の頸に手を当てる。血も傷も一切なく、生きていることを確信する。

 

(やった・・・目が覚めれたわ・・・本当に、吐き気がするほど悪趣味な奴)

 

「うーーー」

 

傍らで小さな声が聞こえて顔を動かすと、汐の大声で驚いたのか、怯えた様子の禰豆子が隠れながらこちらを見ていた。

 

「禰豆子!?」

 

汐が禰豆子の名を呼ぶと、禰豆子は安心したのかぴょんと飛び跳ね汐に抱き着く。額にはもう塞がってい入るものの、血が流れた後があった。

 

「禰豆子ありがとう!あんたのお陰で助かったわ。他に怪我はしていない?変な事されてない?」

 

汐は慌てて禰豆子の身体をまさぐると、禰豆子はくすぐったいのか身体をよじって汐から逃れた。

 

「大丈夫そうね。それより、これはいったいどういう状況なの?」

 

目の前には少女の首を絞めたまま動かない煉獄と、のんきに鼻提灯を出して寝ている善逸と伊之助。そして煉獄の隣には――

 

「炭治郎!炭治郎起きて!!目を覚ますのよ!!あんた達もいつまでも寝腐ってんじゃないわよ!!」

 

汐は炭治郎を起こそうと身体を動かしたとき、ふと自分の手に縄のようなものが結ばれていることに気づいた。

だがそれは途中で焼ききれ、少し焦げ付いた匂いがしていた。

そして、少しだが鬼の気配がする。

 

(もしかして、これが夢のからくり。鬼の血鬼術・・・?だとしたら・・・)

 

汐が考えをまとめようとしたその時だった。

 

「うわああああああああああああ!!!」

 

突然目の前の炭治郎が悲鳴を上げながら体を起こす。その大声に禰豆子だけではなく汐もびっくりしてしまい、思わず炭治郎の頬をひっぱたいた。

 

「いきなり何すんのよ!びっくりするじゃない!」

「痛っ!って、痛みが・・・あれ?汐?」

 

炭治郎は汐の顔を見て驚いた顔をしたが、慌てて自分の頸を手で押さえた。その様子から、炭治郎も夢の中で自決したことが見て取れた。

 

「あんたも、気づいていたのね。この悪趣味極まりない覚醒方法」

「あんたもってことは、汐も・・・。俺たちやっぱり鬼の術にかかっていたんだな」

 

炭治郎はゆっくりと体を起こすと、汐同様自分の手に繋がれた縄を見た。そして彼も、縄から鬼の匂いがすることに気づく。

 

「汐、切符だ!切符を出すんだ!」

「え?切符?」

「いいから早く!」

 

炭治郎に言われるがまま、汐は懐から切符を取り出した。すると、縄と同じく微かだが鬼の気配がした。

 

「なるほど。これも鬼が作った代物で、切った時に眠らされたのね。これだけの気配で、こんな強い血鬼術・・・とんでもない奴だわ。色んな意味で」

 

汐は小さく舌打ちをすると、炭治郎と共に他の者を何とかして起こそうと体を起こした。

 

すると、煉獄たちの手にも同じように縄が繋がれ、その先は見知らぬ者達の手に繋がれていた。

 

「誰よこいつら。それよりこの縄が鬼の血鬼術で出来ていることはわかったわ。だったらこれをぶった切れば・・・」

 

汐はすぐさま刀を抜き、縄に向かって振り上げようとした。だが、炭治郎は何か不穏なものを感じ、慌てて汐を制止させた。

 

「待ってくれ。何だか嫌な予感がするんだ。この縄を断ち切るとよくない気がする」

「じゃあどうするのよ?」

「禰豆子頼む。俺たちのように縄を燃やしてくれ」

 

炭治郎の言葉に禰豆子は小さくうなずくと、爪で自分の手のひらを傷つけその血を縄に付着させた。

瞬く間に縄が燃え上がり、炭化して崩れていく。しかも燃えているのは縄だけで、人や服は一切燃えていなかった。

 

「すごいわ禰豆子。あんたって器用なのね」

 

感心した汐は禰豆子の頭を優しくなでると、禰豆子は嬉しそうに目を細めた。

 

この時の炭治郎の勘は正しかった。日輪刀で縄を断ち切っていた場合、夢の主ではない他の者の意識は永遠に戻ることはなかった。

そのような危険性を魘夢は一切説明をしていなかった。彼にとって人間は使い捨てのものであり、そもそもただの食い物でしかないのだ。

 

「善逸!伊之助!起きろ!!」

「いつまで寝てんのよこのぼんくら共!とっとと起きなさい!!」

 

炭治郎が頬を叩いても、汐が脛を蹴っても、二人は全く目を覚まさない。煉獄ですら、ぐったりしたまま動かない。

 

「駄目だ汐。みんな起きない。煉獄さ・・・」

「炭治郎、危ない!!」

 

炭治郎が煉獄の方へ顔を向けた瞬間、汐の金切り声が響いた。それと同時に、炭治郎の眼前を鋭いものが通り過ぎた。

炭治郎が目を瞬かせると、そこには鬼のような形相で錐を構える少女の姿があった。

 

(なんだ!?鬼に操られているのか!?)

「邪魔しないでよ!あんたたちが来たせいで、夢を見せてもらえないじゃない!」

(こいつ・・・自分の意思で炭治郎に攻撃してきたっていうの!?)

 

汐はすぐさま炭治郎を庇うように立ち、少女と睨みあった。しかし、そこにいたのは彼女だけではなく、伊之助、善逸と繋がっていたものも同じように錐を構えて汐達ににじり寄ってきた。

 

「何してんのよ!あんたらも起きたら加勢しなさいよ!結核だか父親から虐待を受けてただか知らないけど、ちゃんと働かないなら“あの人”に言って夢見せてもらえないようにするからね!」

 

少女の声に、ゆっくりと起き上がったのは涙を流す青年と、呆然とした様子の少年の二人。

 

(まだいたのか。俺と汐と繋がっていた人たちだろうか)

 

炭治郎は二人から、悲しみと後悔の匂いを感じた。二人が夢の中で何を見たのかはわからないが、二人からはもう敵意の匂いは一切なかった。

 

「ふざけるな・・・」

 

だが、汐の口からこぼれた声に、炭治郎の意識はそちらに向いた。

 

「辛い現実から逃げたいのが、幸せな夢の中にいたいのが、お前等だけだと思うな!あたしだって、あたしだって・・・!みんなと一緒にいたかったわよ!!」

 

そう言う汐の口から、弦をはじくような高い音が漏れ出す。炭治郎は慌てて汐を止めようと手を伸ばした。

 

――ウタカタ・参ノ旋律――

――束縛歌(そくばくか)!!!

 

ピシリという音と共に、汐に躍りかかった者達の動きが突如止まる。皆手足を震わせ、驚愕した表情を張り付けていた。

そんな彼らに汐は静かに近づき、手刀を入れ気絶させると、手放した錐を窓の外から投げ捨てた。

 

「ごめんね、手荒な真似をして。だけど、あたし達はここで立ち止まるわけにはいかないの。大事なもの守るために、戦いに行かなくちゃ」

 

そう言って顔を上げた汐の前には炭治郎と、二人と繋がっていた者たちの姿があった。

 

「大丈夫ですか?」

「見苦しいものを見せてごめんね」

 

二人が声をかけると、二人は驚いたように肩を震わせる。先ほど二人の命を狙う同然のことをしたというのに、二人からは敵意は一切感じられなかった。

 

「俺は、大丈夫」

「ありがとう。気を付けて」

 

少年と青年はそう言って力なくほほ笑む。そんな二人を見て汐と炭治郎の胸に、改めて決意の炎が宿った。

 

「行くわよ、炭治郎」

「ああ」

 

二人は頷きあうと、禰豆子を連れて先頭車両へ向かって足を進めた。

 

そんな二人を見て、少年は心から精神の核を壊さなくてよかったと思うのであった。




車両をつなぐ扉を開けた瞬間、まとわりつくような気配と匂いが二人を包んだ。汐は思わず口を、炭治郎は鼻を抑えうつむいた。

(とんでもない気配だわ。こんな中あたしたちは眠ってたのね・・・)
(客車が密閉されてたとはいえ、信じられない。不甲斐ない!)

しかし後悔している時間はない。炭治郎は天井の縁を掴み、遠心力を利用して屋根へと上り、汐も同じようにして後に続いた。

「禰豆子は来るな。危ないから待ってろ」
「みんなを起こしてくれる?あたし達じゃ力不足みたいだから」

二人の言葉に禰豆子は頷くと、客車内へと戻っていった。

鬼の気配は先頭車両からする。二人は互いを支えあいながら、先頭へ向かって足を進める。

そしてついに。二人の目が列車の先で佇む黒い影を捕らえた。

「あれぇ、二人も起きたの?おはよう。まだ寝ててよかったのに」

ねっとりとした声が風に乗り、二人の耳にまとわりつく。振り返ったその顔には、気味の悪い血管がいくつも浮かんでおり、左目には【下壱】と刻まれている。

「二人ともいい夢は見られたのかな?」

魘夢の言葉に怒りに震える炭治郎をしり目に、汐は静かな声で告げた。

「ええとっても。吐き気がするほど素敵な夢を見せてくれてありがとう。たっぷりとお返しをしてあげるわ」

そう言って目を見開く汐には、炭治郎以上の怒りが宿っていた。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



時間は少しだけさかのぼり・・・

魘夢は、送り込んだ者達が誰も精神の核を破壊できていないことに怪訝な表情を浮かべた。
今までも多少てこずったことはあったものの、これほどまで時間がかかったことは今までなかった。
それ程今回の鬼狩りが強いのか、将又選んだものが弱かったのか。しかし彼にとってそんなことはどうでもよかった。

――()()()()()()()()()()()()

魘夢はそう思うと、暗闇に向かって仰ぎ目を閉じた。一人、なかなか面白い心を持つ鬼狩りを見つけたのだ。
二面性のある人間は、これまでの中でもごまんといた。が、その者はそんな生易しいものではなく、文字通り心の中に【怪物】を飼っていた。

鬼である自分を震え、歓喜させるようなおぞましいものを持つ人間。いや、それを人間と呼ぶことすらためらうほどのもの。

(すごいなぁこの子。人間であることがもったいない。これほどまでにすごいものは見たことがないよ。鬼ですら、ここまで立派なものを持った奴を俺は見たことがない。嗚呼この子が絶望し、壊れたらどんなに素晴らしいものが見られるだろう・・・)

今まで人間に興味などなかった彼が、これほどまでに気になる人間を見つけたことに彼自身も驚いていた。
もしも万が一覚醒し、出会うことがあれば、どうしてやろうか。どうやって絶望し、断末魔の悲鳴を上げさせてやろうか。

――どうやって心をずたずたにしてやろうか。

そんなことを考えながら口元を歪ませていると、不意に背後に気配を感じた。

身体を突き刺すような程の怒りと殺気。それを感じた魘夢は、獲物が向こうからやってきた嬉しさを隠す様子もなく、ゆっくりと振り返った。


魘夢は本当は幸せな夢を見せた後に悪夢を見せることが好きだった。人間の歪んだ顔が好きで好きで堪らなく、不幸に打ちひしがれて苦しみ、もがいている者を見るととても心地よかった。

 

しかし彼は用心深く、鬼狩りは回りくどい真似をしても確実に殺すつもりでいた。自身の血を混ぜた洋墨(インク)で作った切符を切らせることで発動する血鬼術。

 

少々面倒だが気づかれにくく、気づかれずに仕留めるにはうってつけだった。

 

しかし、目の前にいる二人は夢だと気づき、短時間で覚醒法も見破った。幸せな夢や都合のいい夢を見たいという欲求はすさまじいというのに。

 

そして魘夢は、もう一つ気づいた。目の前にいる二人の人間。一人は耳に飾りを付けた鬼狩りと、もう一人は青い髪の少女の鬼狩り。

そして、その青い髪の少女こそが、自分が今興味を持った初めての人間だということに。

 

(運がいいなぁ。早速来たんだ、俺のところに。夢みたいだ。二人を殺せばもっと血を戴けるうえに、あの娘の小間物のような悍ましい心を自覚させてあげられる)

 

そんな彼の心中など気づくこともなく、二人は怒りを宿しながら静かに刀を抜いた。

 

「人の心に土足で踏み入るな。俺たちはお前を許さない」

 

炭治郎の言葉に魘夢は口元を歪ませ笑うと、炭治郎には目もくれず隣にいる汐に目を向けた。

 

「初めまして、青い髪のお嬢さん。俺は魘夢。君に会えて本当にうれしいよ」

「あんたみたいな変態糞野郎にうれしいって言われても、あたしはこれっぽっちも嬉しくないわ」

 

汐が吐き捨てるように言うと、魘夢は心外だといわんばかりに大げさに両手を振った。

 

「まあそう言わないでよ。俺はね、君の夢を覗いたとき感動したんだよ。これほどまでに素晴らしく、これほどまでに狂った心を持つ人間に出会ったことがなかったからね」

「汐、聞いちゃだめだ」

 

魘夢のねっとりとした声を遮るように、炭治郎の声が飛ぶ。しかし魘夢はそれでもなお、嬉しそうにつづけた。

 

「君は隠したいと思っているかもしれないけれど、俺には全部お見通しだよ。君は本当は鬼狩りの使命とか、俺の頸とか本当は全部どうでもいいんだ。君が望むのはただ徒に刃を振るい、自分以外のものをひたすら殺したい。いや、自分すらも本当は殺したい。殺したくて殺したくてたまらない。ただ醜く狂う、殺意の塊。それが君の本性だ」

「聞くな汐。耳を貸すな!」

 

魘夢の言葉を炭治郎は必死に遮るが、汐は言葉を発さずただ魘夢の言葉を聞いていた。

 

「そんな素晴らしいものを隠し、封じてまで無理をすることはないんじゃないかな。誰かを殺したい。満たされたい。けれど人間にはそれは許されないこと。君を理解する者はきっと誰もいない。でも俺なら?鬼ならそんな小さなことで苦しむ必要もない。君がしたいことを好きなだけできるんだ。君の満たされない欲望も、鬼になればすべて満たすことができるかもしれないよ。君が望むなら、あの方に口利きしてあげてもいい」

 

にやりと意地の悪い笑みを浮かべる魘夢に対して、汐は俯き何も言わない。炭治郎は必死に汐に鬼の言葉を聞かないよう説得した。

 

(さあ、君のその醜い心をもっと見せてよ。そして仲間に軽蔑され、絶望し苦しみに歪む顔を俺に見せてよ・・・!)

 

魘夢は顔を高揚させ、汐の心が壊れゆく瞬間を今か今かと待っていた。汐からにじみ出る殺意の匂いを感じ、炭治郎の眼が揺れたその時だった。

 

「・・・くっ・・・」

 

――あははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは!!!!!

 

汐は口元を思い切りゆがませたかと思うと、突然高らかに笑いだした。目を見開き、天を仰ぎながら笑う彼女の声は、まごうことなき狂気が宿っていた。

その姿に炭治郎はおろか魘夢まで目を見開き表情を固まらせ、豹変した汐をただ黙って見つめていた。

 

「あはははっ、はははっ、はは。何を言い出すかと思えばそんなこと。あたしの心が醜く狂ってる?人間ですらない?あんたなんかに言われなくても、んなこと、最初からわかってんのよ。鬼を殺したいという思いはずっと消えないし、今この瞬間も、お前を殺したくて殺したくて仕方がない!!頸を斬るだけじゃ生ぬるい。全身ズタズタに掻っ捌いて、薄汚ねぇ臓物ぶちまけてみじめったらしくくたばるお前を眺めたくてたまらない!!」

 

でもね。と、汐は狂気に満ちた表情を抑えるように顔を伏せると、ゆっくりと歯切れのいい声で言った。

 

「こんなどうしようもないあたしでも、仲間だといってくれた連中がいる。あたしに居場所をくれた連中がいる。そいつらはね、あたしが道を踏み外そうとすればきっと殺してでもあたしを止めてくれる。そんな気のいい連中に生きているうちに出会えて、あたしは幸せ者よ。だからこそ、あたしはあんたみたいなみじめな存在になるなんざまっぴらごめんってわけ。わかる?ああ、頭に黴が生えまくった脳味噌じゃわからないか」

 

汐はふんと鼻を鳴らして言い放つと、魘夢の表情が微かに歪んだ。炭治郎は汐がいつもの汐であることに安堵し、同時に彼女の心を揺さぶったことに対して、激しい怒りを魘夢に向けた。

 

「残念。交渉決裂ってことか」

「こっちに全く有益がない話に、交渉もくそもないでしょ。あんたの眼を見てると不愉快すぎて死にそう。悪いけど、さっさと片を付けさせてもらうわ」

 

汐も炭治郎同様刀を構え、その切っ先を魘夢に向ける。二人は視線を合わせると、大きく息を吸った。

 

水の呼吸

拾ノ型 生生流転!!

海の呼吸

弐ノ型 波の綾!!

 

二人はそのまま同時に魘夢に斬りかかろうと、一気に距離を詰めた。すると魘夢は不気味な笑みを崩さぬまま、左手の甲を二人に向けた。

 

血鬼術・強制昏倒催眠の囁き

 

『お眠りィィ・・・』

 

その声が二人の耳に入った瞬間、体がぐらりと傾く。だが、それは一瞬のことで二人はすぐさま顔を上げると、再び足を動かした。

 

(二人とも眠らない)

 

『眠れぇぇ、眠れぇぇ』

 

再び手の甲の口がささやくが、二人の足は止まらない。何度も術を試みても一向に眠る様子がない二人に、魘夢の顔に焦燥が浮かんだ。

 

(効かない、どうしてだ?いや、違う、これは・・・こいつらは何度も術にかかっている。かかった瞬間に、かかったことを認識し、覚醒のための自決をしているのだ。夢の中だったとしても、自決をするということ。自分で自分を殺すと言うことは、相当な胆力がいる。このガキ共は――)

 

「まともじゃない。そう思っているでしょう?」

 

心の中を見透かすような汐の邪悪な声に、魘夢の体が大きく跳ねた。汐はにたりと歪んだ笑みを浮かべ、再び息を吸う。

 

「まともじゃないあたしとつるんでいる連中が、全員まともなわけねぇだろうが!」

 

ウタカタ 参ノ旋律

束縛歌(そくばくか)!!!

 

汐の歌が魘夢を完全に拘束し、血鬼術を放つ手の口も縫い付けられたように動かなくなる。そんな彼に向かうのは、憤怒に満ちた二つの刃。

 

魘夢は二人の心を壊そうと、二人に対して一番辛い悪夢を見せていた。

 

『なんで助けてくれなかったの?』

『俺たちが殺された時、何してたんだよ』

『自分だけ生き残って』

『何のためにお前がいるんだ、役立たず』

『アンタが死ねば良かったのに。よくも、のうのうと生きてられるわね』

 

炭治郎は家族に責められるというもの。そして汐は

 

『不快な匂いだ。お前の本性がよくわかったよ。この性悪』

『君の音は聞いていて不愉快だ。二度と近寄らないでくれ』

『気持ち悪ィ面見せるんじゃねえよ弱味噌が』

 

仲間たちに罵倒されるというもの。しかし、その悪夢自体が、二人の怒りを煽るには十分すぎる効果を得た。

特に汐は、炭治郎の美しい眼を負の感情で濁らせたことに、怒りは頂点を超えた。

 

「あたしの仲間が、炭治郎が、そんなことを言うわけねぇだろうが!よくも、よくも炭治郎に、あんな糞みたいな眼をさせやがったなこの野郎!!」

「言うはずないだろう、そんなことを。俺の家族が!!」

(こいつら・・・!)

 

「俺の家族を」

「あたしの仲間を」

 

「「「侮辱するなァアアアア!!」」

 

二本の刃が魘夢の首を同時に穿ち、列車の動きに合わせて後方へ飛ぶ。が、二人は奇妙な違和感を感じた。

 

(手ごたえが、ない?まさか、これも夢?)

(それともこの鬼は、那田蜘蛛山の彼より弱かった?)

 

「なるほどねぇ・・・あの方が“柱”に加えて“耳飾りの君と青髪の君”を殺せって言った気持ち、凄くよく分かったよ。存在自体がなんかこう、癪に障って来る感じ」

 

ねっとりとした声で話す魘夢の姿を見て、二人は思わず顔を引き攣らせた。斬ったはずの彼の頸から、肉のようなものが生えていた。

 

(死んでない!?確かに首を斬ったのに・・・まさかこいつ・・・こいつ・・・!)

 

「嗚呼素敵だねその顔。そういう顔を見たかったんだよ。うふふふ・・・。頸を斬ったのに、どうして死なないのか教えて欲しいよね?」いいよ、俺は今、気分が高揚してるから、赤ん坊でも分かる単純な事さ、うふふっ」

「まさかもう・・・こいつは本体じゃなくなっている・・・そういうこと?」

 

汐の言葉に、魘夢は「ご名答」と心からうれしそうに笑いながら言った。

 

「頭の形をしているだけで頭じゃない。君達がすやすやと眠ってる間に、俺はこの汽車と“融合”した!」

 

炭治郎は目を見開き、汐は苦々しげに表情を歪ませる二人を嘲笑うかのように魘夢はつづけた。

 

「この列車の全てが俺の血であり、肉であり、骨となった。うふふっ、いいねその顔、分かってきたかな?つまり、この汽車の乗客二百人余りが、俺の体をさらに強化するための餌、そして人質。ねぇ、守りきれる?君達だけで。この汽車の端から端まで、うじゃうじゃとしてる人間たち全てを――」

 

――俺に“おあずけ”させられるかな?

 

「糞がっ!」

 

汐はすぐさま魘夢に斬りかかるが、彼はそのまま沈むようにその場から姿を消した。

 

(どうする・・・どうする!?俺と汐で守るのは四両が限界だ。それ以上の安全は、保障ができない・・・!)

 

「煉獄さん、善逸、伊之助ーーっ!寝てる場合じゃない!!起きてくれ、頼む!!禰豆子ーーッ!!眠ってる人たちを守るんだ!!」

 

炭治郎の切羽詰まった声が辺りに木霊し、闇に吸い込まれていく。しかし、汐の青い目が、あるものを認識し笑みを浮かべた。

 

「絶望するには早いわ炭治郎。どうやら、寝坊助共がやっと起きたようよ」

 

汐が言い終わるのと同時に、遠くから獣のような雄たけびが凄まじい速さでこちらに近づいてきた。

 

「ついて来やがれ子分共!!ウンガアアア!!」

 

──爆裂覚醒

 

「猪突、猛進!!伊之助様のお通りじゃアアア!!」

 

天井を突き破るようにして飛び出してきたのは、猪の皮をかぶった勇ましい鬼狩り、嘴平伊之助だった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



汐と炭治郎が鬼を追って客車を出た数分後。

「うーん、はっ!」

煉獄は目をかっと見開き体を起こした。先ほどまでいた自宅とは異なり、目の前の景色に少しばかり面食らう。
だが、彼は瞬時に先ほどまでの光景が夢であったと理解すると、あたりを見回し今現在の状況を確認した。

すると小さな少女が燃え滓のようなものをもって自分を見上げているのが目に入った。

少女の名は竈門禰豆子。竈門炭治郎の実妹で、悲運にも鬼に変えられてしまった少女。
しかし鬼であるが人を襲わず守ることができる優しき鬼――と、炭治郎と汐は訴えていたが、煉獄は初めそれを信じることができなかった。

鬼は人を喰らい、傷つけるもの。それは絶対に変わらない。そう信じていたからこそ、煉獄は鬼を庇う炭治郎と汐を処分するべきだと思っていた。
しかし二人の心は嘘偽りなく、そして禰豆子自身も人を喰らうことを拒絶した瞬間を煉獄も目撃していたからこそ、少しだけ信じてみようと思う気持ちになったのだ。

禰豆子は心配そうな目で煉獄を見つめていた。そして彼女の持っている燃え滓をよく見ると、切符のようでありそこから微かだが鬼の気配がした。

「君が俺を目覚めさせてくれたのか?」

煉獄が問いかけると、禰豆子はそうだといわんばかりにうなずく。そして煉獄がもう一度あたりを見回すと、人数が少しばかり足りないことに気づいた。

「大海原少女と竈門少年。それから猪頭少年の姿がないな。もしや鬼を見つけたのか」

煉獄が立ち上がった瞬間、異変を感じて振り返った。客室の壁や床から肉のようなものが盛り上がり、乗客たちを取り込もうと蠢きだしていたのだ。

「うたた寝してる間にこんな事態になっていようとは!!よもや、よもやだ!!柱として不甲斐なし!!穴があったら入りたい!!」

煉獄は瞬時に刀をとると、肉片に向かって刀を構えながら砲弾のように突っ込んだ。


「まったく、起きるのが遅いのよこの馬鹿!あんたが寝ている間にこの列車は鬼の一部になっているみたいなの!聞こえてる!?この列車自体がもう鬼なのよ!!」

「安全な場所がもうない!眠っている人たちを守るんだ伊之助!!」

 

汐と炭治郎の声が伊之助の耳に届くと、彼は思わず足を止めた。その間にも、不気味な感覚は絶えずその体を刺激している。

 

「やはりな・・・俺の読み通りだったわけだ。俺が親分として申し分なかったというわけだ!!」

 

伊之助はすでに肉片の巣窟と化している客車へ戻ると、二本の刀を構えながら息を吸った。

 

獣の呼吸

伍ノ牙 狂い裂き!!

 

伊之助はそのまま刀を四方八方に滅茶苦茶に降り抜き、自分ににじり寄ってくる肉片を切り裂き吹き飛ばした。

 

「どいつもこいつも 俺が助けてやるぜ!(すべか)らくひれ伏し、崇め讃えよ、この俺を!!伊之助様が通るぞォォ!!」

 

伊之助は高らかに叫ぶと、本物の猪の如く肉の壁に向かって突っ込んでいく。だが、そんな彼の進路を阻むように巨大な壁が立ちふさがった。

思わず足を止めそうになる伊之助だが、不意に背後から鋭い声が飛んだ。

 

「耳を塞いで!!」

 

伊之助が言われた通り耳(猪の顔の横の部分)を両手でふさいだその瞬間だった。

 

ウタカタ 伍ノ旋律

爆砕歌(ばくさいか)!!!

 

汐の口から衝撃波が発せられ、肉片の壁を瞬時にバラバラに吹き飛ばした。その衝撃で客車が激しく揺れ、伊之助は思わず倒れそうになるが、何とか踏みとどまった。

やがて揺れが収まると、汐を見た伊之助の身体の奥から熱い何かが沸き上がってくるのを感じた。

 

「な、なんだ今の技!すげぇ!!」

 

だが、伊之助が興奮する間にも肉片は休む間もなく自分たちや乗客を取り込もうと蠢く。汐は舌打ちをし、顔を歪ませながら後方車両にいる禰豆子達の方へ顔を向けた。

 

「オイ子分その四!よく聞きやがれ!!」

「誰が子分その四よ!あんたまだ寝ぼけてんの!?」

「いいから黙って聞け!俺はこの場所を守ってやるから、お前はこの先にいる子分共を守れ!親分命令だ!」

 

そう言って得意げに胸を叩く伊之助に若干腹立たしさを感じた汐だが、今はそんなことを言っている場合ではない。汐は頷くと、迫りくる肉片を吹き飛ばし切り裂きながら、後方車両へを向かった。

 

「禰豆子!善逸!煉獄さん!!」

 

扉をけ破って中に入ると、既にそこも同じように肉片があふれ、その中で禰豆子は一人戦っていた。

鋭い爪で引き裂き、強靭な脚力で蹴りつぶしながら、禰豆子は襲い来る肉片から人を守らんと必死に体を動かしていた。

 

「禰豆子!!」

 

汐が叫ぶように名を呼ぶと、禰豆子は安堵した表情で振り返る。だが、その瞬間。禰豆子の左腕に鬼の肉片が絡みついた。

引きはがそうと禰豆子が右腕を振り上げるが、その腕にも肉片が絡みつき、両腕を拘束した。

 

「このっ!!禰豆子を放せ!!」

 

汐が刀を構えて突っ込もうとすると、天井から肉片がぼたりと落ち、汐の首に巻き付いた。

 

(しまっ・・・!)

 

そのまま肉片は汐の首を締め付け、ギリギリと巻き上げていく。それを見た禰豆子が目を見開くが、彼女の両足にも肉片が絡みつき完全に拘束されてしまった。

 

「ヴーーーーッ!!」

 

禰豆子は首を絞められる汐を見て、唸り声をあげた。自身の両腕も締め付けられ痛みが走り、思わず目を閉じたその時だった。

 

雷の呼吸 壱ノ型

霹靂一閃 六連!!!

 

金色の閃光が目にもとまらぬ速さで動き回り、禰豆子と汐を拘束している肉片を弾き飛ばした。

禰豆子は両腕が解放され、汐も頸の周りの肉片が吹き飛び体が自由になった。

 

咳き込みながら目を開けると、そこには目を閉じ刀を構えた善逸が、雨が降るような呼吸音を響かせながら立っていた。

 

「禰豆子ちゃんは俺が守る」

 

その勇ましい姿に禰豆子と汐は呆然と彼を見つめるが、鼻提灯が割れるとフガフガとみっともない呼吸音に変わった。

それを見た禰豆子は目を点にさせ、汐は「肝心なところで決まらないのね」と呆れたように呟いた。

 

(っていうか、あたしは眼中にないのかこの野郎。まあいいけど)

 

思わず蹴り飛ばしたくなったが、何はともあれこれで炭治郎、伊之助、善逸の三人が戦える状態になった。後は煉獄だけだが、姿は見えない。

 

「禰豆子。煉獄さん――あたし達と一緒にいた大人の男の人を知らない?なんかこう、目がギョロっとしたこんな感じの・・・」

 

汐は自分の目を指で押し上げながら禰豆子に尋ねたその瞬間。突然後方車両が激しく揺れた。また鬼が暴れ出したのかと思い身構えると、突然前方の扉が肉片ごと吹き飛び、赤い何かが飛び込んできた。その反動で汐は吹き飛び転んでしまうが、痛がる暇もなく耳をつんざくような大声が汐の耳を穿った。

 

「大海原少女!!無事か!!」

「誰かさんのせいで背中と耳が痛いけどね!」

 

痛みと耳鳴りに腹立たしげに言うと、煉獄は「誰の事かはわからんが無事のようだな!」と大声で言った。

 

「ここに来るまでの間にかなり細かく斬撃を入れてきた。鬼もすぐに再生はできまいが、余裕がない。手短に話す」

 

煉獄は汐を立たせると、迫りくる肉片を切り伏せながら凛とした声で言った。

 

「この列車は八両編成だ。俺が後方五両を守るから、黄色い少年と竈門妹とで、前の三両を守るんだ!」

 

煉獄の言葉に汐は肯定の返事をしようと口を開いたとき、煉獄が来た方から強い鬼の気配を感じた。

ひょっとしたら鬼の本体がそこにいるかもしれない。汐は首を横に振り、煉獄の眼を見て言った。

 

「待って煉獄さん。この先から強い鬼の気配がする。ひょっとしたら鬼の本体はそこにいるのかもしれない」

「なんと!先ほどはそんな気配は感じなかったが・・・、君が言うならそうなのだろう。相わかった。俺は前方にいる竈門少年や猪頭少年にこのことを伝えに行く。すぐに戻るから待っていてくれ!」

 

いうが早いか煉獄はすさまじい速度で車両を貫く様に移動する。そのあまりの速さに汐は呆然とするが、迫ってくる肉片を片付けつつ次の車両へ向かった。

 

何処へ行っても肉片は汐や乗客たちを飲み込もうと迫ってくる。あまりにも芸のない行動に苦笑しつつも、刀を構え息を吸った。

 

海の呼吸 壱ノ型

潮飛沫!!!

 

足に力を込め、身体のばねを利用して飛び上がり、肉片を大きく切り裂く。そして振り返り、今度はウタカタを放たんと呼吸を切り替えた。

だが、肉片の周りには眠っている大勢の人々がいる。爆砕歌では彼ら毎吹き飛ばしてしまいかねないため、汐は顔をしかめつつ大きく息を吸った。

 

ウタカタ 参ノ旋律

束縛歌(そくばくか)!!!

 

空気が張り詰める音と共に肉片の動きが止まる。それを汐は刀で引きはがしつつ、人に肉片が違づかないようにした。

しかし汐の喉には確実に負担がかかっていた。先ほども爆砕歌を放ち、そして束縛歌も三度使っている。いくら全集中・常中を習得してウタカタの使用回数が増えても、限界はあった。

 

喉に痛みを感じ、汐は思わず喉を抑える。その隙を狙って肉片が足元から迫ってきた、その時だった。

 

「なるほど、それが例のワダツミの子の歌か!想像以上にすごい力だ!」

 

後方から轟音のような声が響き、肉片が瞬時に吹き飛んだ。そしてそのまま、煉獄は汐の目の前に立ち顔を覗き込む。

 

「待たせたな、大海原少女!」

「待たせたなって、まだ五分もたってないけど?っていうか近い!!その目ちょっと怖いんだってば!」

「すまない、この目は生まれつきなものでな。それより大丈夫か?喉を痛めたのか?」

 

煉獄は肉片を切り伏せつつ汐にしのぶからもらった薬を使うように促す。汐はすぐさま袂から粉薬を取り出し、一気に煽った。

苦みを覚悟していた汐だが、それに反して薬はすっと鼻に抜けるような清涼感がある味だった。そして喉の痛みが急速に収まっていく。

その即効性に驚きつつも、喉の調子と共に汐の士気も回復した。

 

「もう大丈夫か大海原少女!だが休んでいる暇はないぞ!!」

 

煉獄の言う通り、肉片は先ほどよりもはやい速度で人々を取り囲んでいく。それだけ鬼も本体を探り当てられまいと必死なのだろう。

 

「むっ、あまり状況はよくないな。大海原少女!俺が道を切り開く。君は先に進んで本体を探してくれ!」

「煉獄さんは?」

「俺もすぐに追いかける。だが、これだけは言っておく。決して無理はするな。命の危険を感じたらすぐに逃げろ」

 

煉獄が言い終わると同時に、肉の壁が扉を塞ごうと周りに集まってきた。煉獄はその肉片を切り伏せると、汐をその中に放り込む。

 

「行け!俺もすぐに続く!!」

 

煉獄の怒鳴り声と共に、ミシミシと扉がきしむ音がする。汐はすぐさま立ち上がると、鬼の気配をたどって足を進めた。

 

(あいつは絶対に許さない。あたしだけじゃなく炭治郎の心まで傷つけた。しかるべき報いを受けさせてやる!)

 

鬼の気配が強まるにあたり、微かに湧き上がってくる恐怖を汐は殺意で上書きしつつ先へ進む。そしていよいよ最後尾の扉が見え、その扉に手をかけ開け放った。

 

その瞬間。汐はその扉を開けてしまった事を、激しく後悔することになる。

 

扉の向こうには、その先にいたのは、魘夢の本体などではなかった。

その気配は彼など赤子同然に思えるほどの、恐ろしいなどどいう言葉では言い表せない程のものだった。

 

「・・・ッ!」

 

先ほどまでの殺意を全て上塗りしてしまうほどの恐怖が、汐にまとわりつく。心拍数が急激に上がり、呼吸が乱れ、全身が小刻みに震えだす。

 

「ワダツミの子・・・また鬼狩りに・・・関わって・・・いるのか・・・哀れな・・・娘だ」

 

地を這うような低くおぞましい声が汐の耳に絡みつき、思考を奪っていく。そのせいか、目の前の別な鬼が口にしたワダツミの子の名前を認識することができなかった。

そして微かながら悲しみと侮蔑を含んでいることにも、汐は気づくことはなかった。




おまけSS

汐「まともじゃないあたしとつるんでいる連中が、全員まともなわけねぇだろうが!」
炭「えっ」
善「えっ」
猪「えっ」
禰「むっ」
煉「えっ」


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



汐を奥へ放り込んだ後、煉獄は彼女が戻って来た時の為に退路を確保せんと肉片に向かって構えると、大きく息を吸った。

 

――炎の呼吸 肆ノ型――

盛炎のうねり!!

 

煉獄を中心に、渦巻く炎のような剣技がまとわりつく肉片を一瞬で吹き飛ばし、さらに速く細かい斬撃が壁中に食い込み血の雨を降らした。

その攻撃の重さと多さに、流石の鬼も再生に時間がかかるのか先ほどより肉片の動きがかなり鈍くなっていた。

 

(さて。早く大海原少女と合流せねば!!)

 

煉獄は閉ざされていた扉をあけ放ち、その先へ進もうと足を踏み出したその時だった。

 

悍ましい程の殺気が、刃のように煉獄の身体を突き刺し思わず彼は目を見開いた。夢を見せた鬼ではないことが、瞬時にわかるほどの気配。

柱である自分ですら怖気を感じるその気配の中、汐をこの先に行かせたことに煉獄は心の底から後悔した。

 

(迂闊だった。まさかこの列車内に新たな鬼が居ようとはっ・・・!不甲斐なし!)

 

だが、後悔している時間などない。早く駆け付けねば汐の命が危ないことは明確であり、何より彼女を死なせてしまっては絶対にならないと煉獄の第六感はうるさいくらいの警報を鳴らしていた。

 

(無事でいてくれ・・・、大海原少女!!)

 

煉獄はすぐさま、床を蹴り飛ぶように前に進んだ。彼女は、絶対に死なせてはならない。例え、己の身がどうなろうとも――


 

まるで蛇に睨まれた蛙のように、汐はその場から一歩たりとも動くことができなかった。体中を突き刺すような殺気が、汐の士気と殺意を奪っていく。

 

そんな汐に、鬼は暗がりの中からじっと彼女の姿を頭からつま先まで余すことなく見据えた。

 

「よもや・・・関わるどころか・・・鬼狩りそのものになって・・・いたのか・・・愚かな」

 

淡々と紡がれる言葉の意味は汐には全く分からないが、少なくとも今の自分には目の前の鬼に対抗できる力はない。だが、逃げようにも体は全く動かず、声さえも出ない。

 

(まずい、まずい!こいつは駄目な奴だ。関わっちゃいけない奴だ!逃げないと、早く逃げないと・・・!)

 

汐が無意識に口を開いたその瞬間。目の前が真っ赤に染まり、前を向いていた筈の視線がぐらりと傾く。

 

(・・・・え?)

 

汐の目と耳と身体が認識したのは、天井に飛び散った真紅の雫と、からりと落ちる金属の音。そして、ジワリと広がっていく熱い感覚。

 

(なに・・・?何をされたの・・・?)

 

そのまま汐の体が重力に従い、崩れ落ちていく。そんな様子を、鬼は少しばかり目を見開いたまま見据えていた。

 

「ワダツミの子。力なく・・・弱く・・・哀れな娘よ・・・。いくら鍛えようとも・・・お前は・・・お前達は・・・」

 

そこから先の言葉は汐には聞こえない。ただ、自分の心臓が少しでも生き永らえたいと懇願するように動く音だけが響く。

 

しかし、鬼の気配はそんな彼女の小さな願いですら踏みにじるかのように強くなった。

 

その瞬間。汐は奇妙な感覚を感じた。それは既視感。この鬼の気配に覚えがあるような気がした。

 

勿論、そんなはずはない。このような恐ろしい鬼の気配など、一度であってしまったら二度と思い出したくない程の恐怖の記憶として刻まれるはずだ。

 

しかし、その奇妙な既視感に混ざってもう一つ。汐は奇妙な感覚を感じていた。その気配を感じているうちに、何故だか。胸を締め付けられるような強い悲しみが汐の中に流れ込んできた。

 

まるで光の届かない深海のような、冷たく、暗い、悲しみの感情。

 

「嗚呼・・・・」

 

汐の口から小さく声が漏れ、同時に彼女の両目から涙があふれ出した。それを見た鬼は少しだけ目を細めると、汐に止めを刺そうと一歩踏み出した。

 

――その時だった。

 

「――様・・・」

「!?」

 

汐が無意識につぶやいた()()に、鬼は思わず足を止めた。その目は微かに震え、動揺すら宿っている。

 

それは自分の名ではなかったが、目の前の少女が知るはずのないその名前に、鬼は驚きを隠せなかった。

 

「何故・・・その名を・・・知っている・・・?まさか・・・()()()・・・()()()()・・・?」

 

――。

 

鬼が呟いたのは汐とは異なる誰かの名前。しかしその声は列車の音にかき消され、汐の耳に届くことはなかった。

 

鬼はそのまま、誘われるように汐に近づき、その右手で彼女の顔に触れようとした、その時だった。

 

「っ!」

 

伸ばされた鬼の、指先がぽろりと落ち、そこから赤い雫が零れ落ちる。視線を動かせば、そこには荒い息で刃を構える汐の姿があった。

 

「舐めるんじゃないわよ・・・。例え、例えあんたよりちっぽけで弱くても・・・あたしは・・・私達は・・・お前らなどに憐れんでもらうほど落ちぶれてはいない!!」

 

汐の鋭い声が響き渡り、空気を震わせ鬼の耳に届く。その目には恐怖自体は消え上せてはいないものの、確かな矜持と決意が宿っていた。

 

鬼は汐がまだ動けたことや、何より切断するつもりで斬撃を放ったはずなのに、その腕がまだついていることに驚きと高揚感、そして遺憾に思った。

 

「そうか・・・」

 

鬼は心底残念そうに目を細めると、また一歩歩みを進めたその瞬間。

 

砲弾でも撃ち込まれたような衝撃が走り、車内がこれ以上ない程激しく揺れ、いろいろなものがぶつかって激しい音を立てた。

 

大海原少女!!

 

衝撃と同じくらいの声が響き渡り、汐の全身を激しく穿っていく。その衝撃の中、汐は目の前にいた鬼の気配がいつの間にか消えていることに気が付いた。

 

(あたし・・・助かったの・・・?)

 

汐は強烈なけだるさと寒気を感じた。あの時は気が付かなかったが、自分の周りには血が飛び散り、羽織も血で染まっている。

そのまま重力に任せて倒れそうになった背中を、誰かの手が支えた。

 

「気をしっかり持て、大海原少女!!左肩と右腹部から出血している。だが、傷はそれ程深くはない。集中し、呼吸の精度を上げるんだ」

 

煉獄は汐をゆっくり寝かせると、汐の目をしっかりと見据えながら言った。真剣そのもののその眼に、汐の意識がだんだんとはっきりしてくる。

 

「身体の隅々まで神経を行き渡らせるんだ。切れた血管を探せ。もっと集中しろ」

「・・・っ・・・・」

「集中」

 

煉獄の言葉がすっと染み渡り、同時に汐は目を閉じ歯を食いしばりながらその部分を探し当てる。そして

 

「あああああっ!!!」

 

声を上げながら身体をのけ反らせた後、荒く息をついた。それを確認した煉獄はすぐさま応急処置に入り、しばらくすると感覚がはっきりと戻って来た。

 

「煉獄さ――「すまない」

 

汐の言葉を遮り、煉獄が突然頭を下げた。その行動に汐は面食らい、目を泳がせた。

 

「あの時君を先に行かせるべきではなかった。完全に俺の判断が誤っていた。柱としてこれ以上不甲斐ないことはない。怖い思いをさせてすまなかった」

 

「煉獄さんのせいじゃないわ。あんな奴が紛れこんでいるなんてふつう思わないもの。それに、煉獄さんはちゃんと、あたしを助けてくれたじゃない」

 

汐は小さく息をつきながらそう答えた。

 

そう、煉獄が居なければ汐はあの鬼に全身を細切れにされて無残に殺されていただろう。それを思うと、今自分が生きていることは煉獄があってのお陰なのだ。

 

「助けてくれてありがとう、煉獄さん。だからそんな変な顔しないでよ。何だか気持ち悪いわ」

 

汐がそう言い放つと、煉獄は困ったように笑い汐と共に立ち上がった。

 

「それにしても、さっきあたしに教えてくれた止血方法って、呼吸、よね?あんな芸当もできるなんて自分でも驚きだわ」

「呼吸を極めれば、様々なことができるようになる。何でも出来るわけではないが、昨日の自分より、確実に強い自分になれる」

 

強い自分と聞いて、先ほどの出来事を思い出した。自分がもっと強ければ、あんな奴に後れを取ることはなかっただろうに。

悔し気に表情を歪ませる汐に、煉獄は高らかに言い放った。

 

「だが、焦る必要はない。強くなることももちろん大切だが、何よりも自分の命を軽んじるな。命あっての強さだぞ、大海原少女」

「・・・うん!」

 

汐はしっかりと返事をし、壊れた扉の先を見据えた。煉獄が入れた斬撃のせいで再生力が鈍ってはいるものの、まだ鬼の肉片は動いている。

汐のいたところに鬼の急所はなかった。だとしたら、炭治郎がいるところにあるかもしれない。

 

「煉獄さん、行こう!ここに頸がないなら、きっと炭治郎の所にあるはず」

「ああ。だが君は手負いだ。呼吸で止血したとはいえ、傷が治ったわけではないのだから無理はするな」

「ありがとう。でも大丈夫。炭治郎達が踏ん張っているんだもの。あたしだけへばっているわけにはいかないわ!」

 

汐はそう言って息を整えながら刀を構えた。煉獄は小さくため息をついたが、彼女に宿る確かな決意と矜持。

あの時汐が鬼に対して言い放った言葉も煉獄の耳には届いていた。

 

どんなに強大な敵であろうとも、人としての魂は棄てない、誇り高き少女。

鬼である妹を信じ、前に進もうとする少年。

 

このような強く美しい魂を持った若き者達が、この先の鬼殺隊を支える柱になる。

だからこそ、ここで立ち止まるわけにはいかない。彼らを前に進ませるためにも。

 

「大海原少女」

 

煉獄は汐の名を呼び、静かに横に立った。その横顔を見上げた汐は、燃え盛るような熱く美しい眼に文字通り目を奪われた。

 

「行くぞ!」

「はい!」

 

汐が返事をし、肉片が盛り上がった瞬間。煉獄が先に動き、汐は弦をはじくような高音をならした。

 

――ウタカタ 壱ノ旋律――

――活力歌(かつりょくか)!!!

 

汐の声が煉獄の耳に入った瞬間、全身の細胞に熱が籠り体が軽くなった。同時に汐も、傷の痛みが和らぎ動きを取り戻す。

 

(俺の身体を強化する歌か・・・。不思議な力だ。だが、今はとてもありがたい!!)

 

煉獄の炎のような斬撃と、汐の荒れ狂う波のような斬撃が肉片を引き裂き、粉砕する。それに伴い、鬼もかなり焦っているのか最初とは比べ物にならない程の速度で迫ってくる。

そして、汐が手負いであることを知っているのか、鬼は汐ばかり狙ってくる。しかしそれは、相手の攻撃方法が単調になるということ。

 

煉獄は汐の動きをよく見ながら、彼女に負担がかからないよう動く。それに合わせるように、汐も煉獄の足手まといにならないように動いた。

 

「煉獄さん!」

「ああ。頼むぞ大海原少女!」

 

汐は喉の薬を一気に飲み干すと、煉獄の動きに合わせて大きく息を吸った。

 

――炎の呼吸――

――ウタカタ――

 

――結ノ旋律――

――炎虎爆砕歌!!

 

汐の衝撃波と煉獄の剛腕から生み出される弐つの技が、鬼の肉壁を吹き飛ばし、それは壁を貫きはるか遠くまで届いた。

その光景に汐は思わず口を開け、煉獄すらも目を見開き口を大きく開けて笑った。

 

「これは、凄まじい威力だな!流石の俺もここまでは想定していなかった!」

「あたしもよ。なんか、うん。もう何も考えないようにしよう」

 

あまりの光景に汐は考えることをあきらめ、煉獄も考察をやめて刀を再び構えなおした、その時だった。

 

――ギャアアアアアアアアアア!!!

 

何処からかすさまじい声が上がり、突然列車が激しく揺れ出した。身体が浮き上がるほどの衝撃に汐は必死に座席にしがみつく。

 

(断末魔の声!炭治郎がやったんだわ・・・!でも、こいつ、頸を斬られてのたうち回っているんだ・・・!)

 

列車が大きく脈打ち、ぐらりと傾く中。汐は必死に身を乗り出すと煉獄に耳を塞ぐように言った。

 

――伍ノ旋律――

――爆砕歌(ばくさいか)!!!

 

汐は反対側に向かって爆砕歌を放ち、その衝撃で列車が横転するのを回避させようとした。だが、僅かに勢いが足りず、脱線が回避するには不十分だった。

 

「伏せろ!」

 

煉獄の鋭い声が飛び、汐は言われた通り床に伏せる。その上を煉獄はすさまじい動きで駆け回り、激しい斬撃を入れていく。

そして列車が再び大きく傾く瞬間。煉獄は汐の腕を強く引くと、己の腕の中に閉じ込め頭を強く抑えた。

 

鼓膜が破れそうなほどの轟音が響き渡り、汐は反射的に煉獄の羽織を握りしめ、その衝撃に耐えんと歯を食いしばった。




おまけSCNGシーン(キャラ崩壊注意!)

鬼(ワダツミの子。力なく・・・弱く・・・哀れな娘よ・・・。いくら鍛えようとも・・・お前は・・・お前達は・・・)「肌着は白か」
汐「オイコラ。本音と建前が入れ替わってんぞ」


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

十六章:誇り高き者へ


眠り鬼に引導を渡し、静けさがやってくる・・・


衝撃が収まり、あたりに静けさが戻ってくると、煉獄は汐を抱えたままゆっくりと体を起こした。

 

皮肉なことに、鬼の肉片が衝撃を吸収したせいか、多少の痛みはあるものの、動くことに支障はない。

 

「大海原少女、無事か!?」

 

煉獄は腕の中にいる汐に声をかけるが、彼女からの返事ない。もしや何かあったのかと思い、煉獄はすぐさま首筋に触れて脈を確認した。

気を失っているものの確かな脈動と呼吸音を感じ、彼はほっと胸をなでおろす。そして無理をさせてしまった事を反省した。

 

(俺もまだまだ修練が足りない様だ。一般隊士に、しかも女性にここまで無理をさせるとは。だが、彼女の歌に助けられたことは紛れもない事実だ。ワダツミの子。いや、大海原汐。不思議な少女だ)

 

煉獄はそのまま意識のない汐を座らせると、乗客の無事を確認しに歩き出した。

 

一方。

 

鬼の頸を見事に斬り落とした炭治郎は、伊之助と共に列車の外に放り出されていた。

首を斬る直前に炭治郎は、夢を見たいがために鬼を討伐することを拒絶していた運転手に刺され傷を負っていた。

その傷のせいで満足に動けず、か細い息をつく炭治郎。彼の頭に浮かぶのは、乗客たちの安否と、禰豆子、善逸、煉獄、そして汐の事だった。

 

(きっと無事だ、信じろ・・・そうじゃないと、また汐に・・・叱られるぞ・・・)

 

地面に横たわる炭治郎の傍で、魘夢と思わしく蠢く小さな肉片が、恨めし気に炭治郎を見つめていた。

既にその体は灰になり、崩れつつある。だがそれでも、彼は恨みをこもった眼を動かしていた。

 

(体が崩壊する。再生できない・・・負けたのか?死ぬのか?俺が?馬鹿な・・・馬鹿な!!俺は全力を出せていない!!)

 

魘夢の企みは、汽車と一体化し中の多くの人間を一度に食らうこと。そのために時間をかけ、姿まで捨てたというのに、人間を一人も食らうことができなかった。

 

(アイツだ!!アイツのせいだ!!三百人も人質を取っていたようなものなのに、それでも押された。抑えられた。これが柱の力・・・)

 

魘夢の脳裏に刀を構え、全身から闘気を吹き出させる煉獄の姿が浮かぶ。そして次に浮かぶのは、目を閉じたまま恐ろしい速さで肉片を斬る善逸の姿。

 

(アイツ・・・アイツも速かった。術を解ききれて無かったくせに・・・!!)

 

その後に浮かぶのは、鬼でありながら人を守る口枷をした少女、禰豆子。

 

(しかもあの娘、鬼じゃないか。なんなんだ。鬼狩りに与する鬼なんて、どうして無惨様に殺されないんだ。くそォ、くそォ!!)

 

悔しさのあまり全身を震わせる魘夢の脳裏に、敵である彼らが浮かんでは消えていく。そして次に浮かんだのは、炭治郎と汐の姿。

 

(そもそも、あの耳飾りのガキと青髪のイカれた女に術を破られてからがケチの付け始めだ。特にあの女の声は何なんだ。気持ち悪い。人間じゃない。あいつらが悪い!!あいつらだけでも殺したい何とか・・・!!そうだ、あの猪も。あのガキだけなら殺せたんだ。あの猪が邪魔をした。並外れて勘が鋭い。視線に敏感だった。負けるのか、死ぬのかァ・・・!!ああああ、悪夢だああああ、悪夢だあああ!!)

 

薄れていく意識の中、魘夢は呪詛の言葉を吐き続けた。鬼狩りに狩られるのは、いつも底辺の鬼たちだ。

上弦。ここ百年余り顔触れが変わらず、人を山ほどくらい、柱ですら屠っている。

無惨にあれだけ血を与えられても、魘夢は上弦に及ばなかった。

 

(ああああ、やり直したい、やり直したい。なんというみじめな、悪夢・・・だ・・・)

 

その言葉を最後に、魘夢は完全にこと切れ灰になって消えていった。その呪詛の言葉は誰の耳にも心にも届くことはなかった。

 

*   *   *   *   *

 

乗客たちは傷を負っているものの、誰一人として命を落としたものはいなかった。これも皆が必死で鬼から彼らを守ってくれた賜物だろう。

煉獄はそれを確認すると、汐を抱えたまま壊れた列車から外に出た。

 

月の明かりが辺りを照らしているため、視界は悪くない。煉獄が辺りを見回すと、少し前方に倒れている炭治郎の姿が見えた。

胸が上下していることから、彼が生きていることがうかがえる。煉獄はそのまま炭治郎に近づき、その顔を覗き込んだ。

 

「君も全集中の常中が出来るようだな、感心感心!」

「煉獄さん・・・」

「常中は柱への第一歩だからな!柱までは一万歩あるかもしれないがな!」

「頑張ります・・・」

 

煉獄の顔を認識した炭治郎の眼に光が戻る。だが、彼が抱えている汐の姿を見た瞬間、弾かれるように起き上がろうとした。

しかし腹部の傷の痛みが炭治郎の身体を地面に引き戻す。それでも汐の安否が気になり、痛みをこらえて起きようとした。

 

煉獄はそっと汐を地面に寝かせると、炭治郎を見据えながら言葉を紡いだ。

 

「気を失っているが、彼女は無事だ」

「で、でも、汐から血の匂いが・・・」

「君の方こそ、腹部から出血している。まずは自分のことに集中しろ。もっと集中して呼吸の精度をあげるんだ。彼女と同じように、体の隅々まで神経を行き渡らせろ」

 

破れた血管を探し当てた炭治郎は、歯を食いしばって痛みに耐える。そんな彼に煉獄は人差し指を額に当て、静かに言った。

 

「集中」

 

そのまま炭治郎も汐と同様に血管を圧迫させ止血する。苦しげに息をつく彼を、煉獄はうれしそうに見つめた。

 

「うむ、君も止血できたな。大海原少女にも言ったが、呼吸を極めれば、様々なことができるようになる。何でも出来るわけではないが、昨日の自分より、確実に強い自分になれるんだ。君も、彼女も」

 

煉獄はにっこりと笑い、乗客が全員無事であることを告げる。その言葉に炭治郎の眼が輝きを増し、星空が映った。

 

(汐・・・お前も無事でよかった・・・)

 

炭治郎が安堵の溜息をついたその時

 

凄まじい衝撃と音がすぐ後ろで轟き、あたりに波紋のように広がった。

二人が何事かと思い支線を動かすと、そこから土煙がもうもうと上がっている。

 

そして土煙が晴れたその場所にいたのは。

 

全身に藍色の線状の文様を浮かばれた、筋肉質の青年のような鬼だった。

 

その鬼を見た瞬間、炭治郎の心臓が跳ね上がった。その鬼の両目に刻まれていたのは、『上弦・参』の文字。

 

(上弦の・・・参?どうして、今ここに・・・)

 

炭治郎が考える間もなく、鬼は一直線に炭治郎と気を失っている汐に向かって拳を振り上げた。

 

――炎の呼吸 弐ノ型――

昇り炎天

 

煉獄がすぐさま動き、炭治郎達の間に入ると、鬼に向かって刀を振り上げた。その刃は鬼の左腕を真っ二つに切り裂く。

鬼は目を見開くと、凄まじい速さで距離をとった。その一瞬の出来事に、炭治郎の心臓がうるさい程鳴り響き、全身から冷や汗が吹き出した。

 

煉獄がいなければ、あの一瞬で汐と炭治郎は頭部を砕かれて絶命していただろう。その恐怖がよみがえり、炭治郎は無意識に汐の手を握った。

 

一方鬼は、自分の攻撃を防ぎあまつさえ反撃すらしてきた煉獄を見据えて笑みを浮かべた。先ほど切り裂かれた腕は、張り付く様に閉じられ傷跡すらほとんど残っていなかった。

 

「いい刀だ」

 

鬼は流れ出ていた血を舐めとりながら、不気味な笑みを浮かべて言った。その再生速度と圧迫感、そして鬼気に流石の煉獄もその凄まじさに表情を引き締めた。

 

「なぜ手負いの者から狙うのか。理解できない」

「話の邪魔になるかと思った。俺とお前の」

 

煉獄の言葉に鬼はそう言い放つと、煉獄は眉をひそめて静かに言った。

 

「君と俺が何の話をする? 初対面だが、俺はすでに君のことが嫌いだ」

 

煉獄は明確な拒絶と嫌悪感を隠そうともせず鬼に言い放つが、鬼はそれに臆することもなく淡々と言葉を紡いだ。

 

「そうか。俺も弱い人間が大嫌いだ。弱者を見てると虫酸が走る」

「俺と君とでは物事の価値基準が違うようだ」

 

いつもの煉獄らしからぬ、冷たく淡々とした言葉が鬼を穿つが、鬼は口元に笑みを浮かべて言った。

 

「そうか、では素晴らしい提案をしよう」

 

――お前も鬼にならないか?

 

「ならない」

 

鬼の言葉を煉獄は一蹴し、刀を握る手に力を込めた。しかし鬼は、特に気にする様子もなく言葉を続けた。

 

「見れば解る。お前の強さ・・・柱だな?その闘気、練り上げられている。()()()()()()()()

 

鬼の言葉を聞いていた煉獄は、目を見据えながら静かに名を名乗った。

それを聴いた鬼は嬉しそうに笑うと、その口を再び開いた。

 

「俺は炎柱、煉獄杏寿郎だ」

「俺は猗窩座(あかざ)。杏寿郎、なぜお前が至高の領域に踏み入れないのか教えてやろう。人間だからだ。老いるからだ。死ぬからだ」

 

猗窩座と名乗った鬼は、右手の人差し指を煉獄につきつけながら教え込むように言葉を紡いだ。

 

「鬼になろう、杏寿郎。そうすれば、百年でも二百年でも鍛練し続けられる。強くなれる」

 

二人のやり取りを聴きながら、炭治郎はゆっくりと動き、隣にいる汐を揺さぶった。

 

「汐、汐起きろ!大変だ。鬼だ。今までに出会った中で一番鬼舞辻の匂いが強い。加勢しなければ・・・。頼む、起きてくれ」

 

炭治郎の祈りが通じたのか、汐の瞼が微かに震えだす。その間に炭治郎は己の刀を探そうと視線を動かした。

 

一方煉獄は、そんな猗窩座に対して凛とした声で言い放った。

 

「老いることも死ぬことも、人間という儚い生き物の美しさだ。老いるからこそ、死ぬからこそ、堪らなく愛おしく尊いのだ。強さというものは肉体に対してのみ使う言葉ではない。この二人は弱くない、侮辱するな。何度でも言おう。君と俺とでは価値基準が違う」

 

――俺は如何なる理由があろうとも、鬼にはならない。

 

「そうか」

 

猗窩座は残念そうに、しかし心なしか少しばかり嬉しそうに目を細めると、右腕を突き出し、左腕を引いた構えをとった。

その瞬間、彼の周りに術式のようなものが浮かびだす。

 

――術式展開――

破壊殺・羅針

 

「鬼にならないなら、殺す」

 

猗窩座の鬼の気配が爆発的に跳ねあがり、空気を震わせ纏いながら地面を蹴る。

そんな彼に対し、煉獄も呼吸を整え同じように地面を強く蹴った。

 

――炎の呼吸――

壱ノ型 不知火

 

二つの力がぶつかり合い、空気を震わせるほどの轟音を生み出す。その音を聞いた瞬間、汐の両目が開かれた。

その音は、別な場所で救助活動をしている伊之助の耳にも届いていた――




おまけCS

煉「この二人は弱くない。侮辱するな。特に大海原少女は声だけで鬼を粉砕し、声だけで膝をつかせ、声だけで動きを拘束し、声だけで人を強くさせるんだ」
炭「あながち間違ってないけれど、なんか違う」
猗「いや待て。そいつ女なのか?どう見ても男だろう」
汐(呪ってやる・・・爆発しろ・・・もげろ・・・禿げろ)


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



「はっ!!」

 

目を見開いた汐は、そのまま体を起こそうとした。が、先ほど斬られた肩と腹部に痛みを感じて顔を歪ませた。

 

「汐、大丈夫か?」

 

傍にいた炭治郎が心配そうに顔を覗き込むが、汐は身体を突き刺すような気配を感じて痛みをこらえながら起き上がった。

 

「あたしは平気。それよりも、何?この気配。あの夢を見せる鬼は倒したんじゃなかったの?」

「ああ、あいつは確かに倒した。けれど、別な鬼が襲ってきたんだ。あいつ、上弦の参って書いてあった」

「上弦って・・・そんな、嘘でしょ?なんでそんなやつがこんなところに来るのよ!?」

「俺だってわからないよ!でも今、煉獄さんが戦って――」

 

炭治郎が言葉をつづけようとしたその時、汐の背後で爆発音のようなものが響いた。顔を向ければ煉獄ともう一人。猗窩座という鬼だった。

 

彼は煉獄の技を受け流し、時折受け止めつつそれ以上の力で打ち返してくる。しかし煉獄も負けじと猗窩座の攻撃をいなし、受け止め、返していった。

 

「今まで殺してきた柱たちに、炎はいなかったな。そして、俺の誘いに頷く者もいなかった」

 

そんな激闘にかかわらず、猗窩座はずっと煉獄に語り掛けていた。

 

「何故だろうな?同じく武の道を極める者として理解しかねる。選ばれた者しか鬼にはなれないというのに。素晴らしき才能を持つ者が衰えていく。俺はつらい、耐えられない。死んでくれ杏寿郎、若く強いまま!」

 

――破壊殺・空式――

 

猗窩座はそのまま空中で拳を放つと、その空気が砲弾のように煉獄に向かって飛んでいった。

 

――肆ノ型――

――盛炎のうねり

 

しかし煉獄は自分の周りに剣技を放ち、その空気の砲弾を全て撃ち落とした。その速さと威力に煉獄は目を見開き、そして冷静に分析した。

 

(虚空を拳で打つと攻撃がこちらまで来る。一瞬にも満たない速度。このまま距離を取って戦われると、頸を斬るのは厄介だ)

 

――ならば、近づくまで!!

 

煉獄は瞬時に猗窩座へ距離を詰めると、その刃を彼の頸へと近づけた。しかし猗窩座もそれを阻止せんと拳を連続して振るい、それに合わせるように煉獄も刀を躍らせた。

 

「この素晴らしい反応速度――」

 

煉獄の身体能力の高さに、猗窩座の口角が自然に上がった。心の底からうれしいといった表情だ。

 

「この素晴らしい剣技も、失われていくのだ杏寿郎。悲しくはないのか」

「誰もがそうだ、人間なら!!当然のことだ!」

 

煉獄の声は、離れた場所にいた汐達にも届いていた。しかし、鬼と違い、煉獄は先ほどまで汐と共に戦ってたため体力を消費していることは確かだ。

汐は先ほど同様彼に力を与えようと口を開いたが、息を吸った瞬間焼けるような痛みが喉を襲う。

 

汐の喉は限界に近づいていた。

 

しかしそれでもこのまま黙ってみているわけにはいかない。

 

それは炭治郎も同じで、痛みと疲労に支配された身体を必死で起こそうとした。その時だった。

 

「動くな!!」

 

煉獄の鋭い声が飛び、その剣幕に汐と炭治郎は肩をすくめて動きを止めた。

 

「傷が開いたら致命傷になるぞ!待機命令!!」

 

煉獄はそれだけを言うと、再び猗窩座と向き合いその拳に剣を振るった。

 

「弱者に構うな杏寿郎!!全力を出せ!俺に集中しろ!!」

 

再び爆発音のような連撃の音が響き渡る。そんな中、いつの間にか戻って来た伊之助は、二人の激しすぎる戦いから目を離せないでいた。

彼の全身を、痺れるような闘気と殺気が刺激し、一歩たりとも、指一本動かすことができない。

 

(すげぇ・・・)

 

それ以上の言葉も出てこず、伊之助は刀を抜いたまま呆然と立ち尽くしていた。

 

――炎の呼吸 伍ノ型――

――炎虎!!

 

――破壊殺・乱式――!!!

 

二つの技が衝撃波となってぶつかり合い、爆音の共に土煙を上げた。その衝撃は汐達の方まで届き、飛んできた土に思わず目を閉じる。

 

そして再び目を開けるとそこには――

 

「杏寿郎、死ぬな」

 

息を乱す煉獄の姿と、傷を負いつつも悲しそうな顔で彼を見下ろす猗窩座の姿があった。

煉獄は頭と左目、そして右腹部から血を流しながらまっすぐに前を見据えていた。

 

「煉獄さんッ・・・!!」

 

汐は思わず煉獄の名を呼ぶが、声がかすれて途中で消えてしまう。炭治郎も泣きそうな苦しそうな表情でその背中を見つめていた。

 

伊之助は肌が焼けるような空気を感じ、微かに震えていた。

 

(隙がねぇ、入れねぇ、動きの速さについていけねぇ。あの二人の周囲は異次元だ。間合いに入れば“死”しかないのを肌で感じる。助太刀に入ったところで足手まといでしかないと分かるから動けねぇ)

 

汐はこれほども動くことができないことを恨んだ。自分や乗客を守ってくれた彼を、何故今助けにいけないのか。何故自分はこれほどまでに弱いのか。

 

「生身を削る思いで戦ったとしても、全て無駄なんだよ杏寿郎。お前が俺に喰らわせた素晴らしい斬撃も、既に完治してしまった」

 

彼の言う通り、煉獄が胸につけた傷は、もう跡形もなく消えてしまっていた。

 

「だが、お前はどうだ。潰れた左目、砕けた肋骨、傷ついた内臓。もう取り返しがつかない。鬼であれば瞬きする間に治る。そんなもの鬼ならば掠り傷だ。どう足掻いても、人間では鬼に勝てない」

 

猗窩座の言葉は嘲るようなものではなく、本当に悲しみ、嘆いているように聞こえた。しかし煉獄はそんな彼の言葉を突き放すようにさらに大きく息を吸った。

 

燃え盛るような炎のような呼吸音が、静かな空間に木霊する。

 

 

「俺は俺の責務を全うする!!ここにいるものは、誰も死なせない!!」

 

 

煉獄は声高々に叫ぶと、刀を両手にしっかりと持ち振り上げるようにして構えた。

もう彼の身体は限界に近く、刀を握る手も微かに震えていた。しかし、今ここで自分が倒れてしまえば、乗客は勿論、汐達の命も危ない。

 

だからこそ、次の一手で決着を付けねばならない。

 

(一瞬で、多くの面積を根こそぎえぐり斬る!!)

 

――炎の呼吸 奥義――

 

煉獄はすべての力を刀に乗せるように、しっかりと大地を踏みしめた。その闘気が波状となり猗窩座の全身を震わせる。

 

「素晴らしい闘気だ。それ程の傷を負いながら、その気迫、その精神力、一部の隙もない構え。やはりお前は鬼になれ杏寿郎!俺と永遠に戦い続けよう!」

 

猗窩座はこれ以上ない程の笑みを浮かべると、彼の闘気に答えるように身体を沈ませた。

 

――術式展開――

――破壊殺・滅式

 

――玖ノ型・煉獄!!

 

二つの技がまるで二匹の獣のように牙をむき、互いにぶつかり合う。先ほどまでとは比べ物にならない程の衝撃と土煙が上がり、三人は思わず目を固く閉じた。

 

そして土煙が収まり、静寂が少しずつ戻ってくる。そして三人の目に映ったのは――

 

頭部を抉り取られ、片腕が落とされた猗窩座と、そして。

 

彼の反対側の腕が煉獄の腹部を貫いていた。

 

「あ・・・・」

 

それを見た瞬間、汐の口から声が漏れた。

 

(あれは駄目だ。駄目な奴だ。あのままでは煉獄さんが死んでしまう。鬼を殺さなければ。早く、あいつを殺さなくては・・・!!煉獄さんが・・・!!)

 

汐はその光景を凝視したまま、無意識に口を開いた。その時、彼女の首につけられていた首輪が反応し、汐の首を絞めつけた。

 

しかし彼女はそれに構うことなく、息を吸おうと試みる。息苦しさも何も感じず、頭の中にあるのは目の前の鬼を殺すことだけ。

 

その異変は、汐の無意識領域にも起こっていた。

 

汐の殺意を封じている扉の鍵が一つ、砕けて落ちたのだ。

 

『・・・・』

 

番人はその様子を、真剣な表情で眺めていた。

 

 

*   *   *   *   *

 

 

「!?」

 

異変に気付いた炭治郎が振り返り、汐の姿を見てぎょっとした。

目は血走り、首輪が締め付けられているせいか、いくつもの血管が浮き出していた。

 

「汐!」

 

ただ事じゃないその姿に、炭治郎は小さく叫んだ。その声が、煉獄の耳に届き視線だけを動かした。

 

(殺さなきゃ・・・ころさなきゃ・・・おには・・・ころさナキャ・・・そうでなケレバ・・・ダレカガマタシヌ)

 

汐はそのまま口を開き、空虚を見上げた。音のない呼吸音が静かに響く

 

 

――ウタカタ ×ノ旋律――

――××歌・・・

 

汐が今まさにその()を奏でようとした、その時だった。

 

「止せ!!無茶をするな!!」

 

煉獄の雷のような声が響き、汐の体がびくりと震えた。意識が一気に引き戻され、視界が開く。

そして首輪も汐の首を絞めつけるのをやめると、急激に入ってきた空気に思わず咳き込んだ。

 

「弱者を気遣っている場合か!死ぬ!!死んでしまうぞ杏寿郎。鬼になれ!!鬼になると言え!!お前は選ばれし強き者なのだ!!」

 

猗窩座が叫ぶその言葉には心なしか悲しみと怒りがまじりあっているように聞こえた。しかしそんな中、煉獄の脳裏には別の声が響いていた。

 

――杏寿郎。

 

それは煉獄がまだ幼い頃。病に伏せる彼の母親の言葉だった。

その言葉を皮切りに、煉獄の記憶が一気によみがえった。

 

 

*   *   *   *   *

 

「杏寿郎」

「はい、母上」

 

母の声に、煉獄は凛とした声で返事をした。彼の傍らには、弟である千寿郎があどけない顔で寝息を立てていた。

 

「よく考えるのです、母が今から聞くことを。なぜ自分が人より強く生まれたのか、分かりますか?」

 

母の言葉に煉獄は必死で考えるが、答えが出なかった彼は素直にわからないと答えた。

 

「弱き人を助けるためです。生まれついて人よりも多くの才に恵まれた者は、その力を世のため人のために使わねばなりません。天から賜りし力で、人を傷つけること、私腹を肥やすことは許されません。弱き人を助けることは、強く生まれた者の責務です、責任を持って果たさなければならない使命なのです。決して忘れることなきように」

 

「はい!!」

 

母の優しく凛としたその言葉に、煉獄は力強く返事をした。

そんな彼に彼女はゆっくりを腕を伸ばし、その小さな体を優しく抱きしめた。

 

「私はもう、長く生きられません。強く優しい子の母になれて、幸せでした。あとは・・・頼みます」

 

母の目から涙があふれ出し、煉獄の額にぽろぽろと零れ落ちた。幼い彼にはその涙の意味がその時は理解できなかった。

 

しかし、今は――

 

*   *   *   *   *

 

煉獄は刀を握る手に力を込めた。欠陥が浮き出すほどの凄まじい力に、柄がギリギリと音を立てる。

そしてそのまま彼は、猗窩座の頸めがけて刃を振るった。

 

傷口から真っ赤な鮮血があふれ出し、刃を濡らしていく。煉獄の気迫に、流石の猗窩座も驚愕に目を見開いた。

 

(この男、まだ刃を振るのか!!)

 

煉獄は最後の力を振り絞り、刃を食い込ませ続けた。

 

(母上、俺の方こそ貴女のような人に生んでもらえて光栄だった!)

 

「オオオオオオオオオオオオ!!!!」

 

煉獄の獣のような咆哮が響き渡り、刃がさらに頸へを食い込んだ。それを見て、猗窩座の顔が初めて青ざめた。

 

このままでは危ないと踏んだ猗窩座は、煉獄の頭部を砕こうと再生した片腕を振り上げた。

しかし、煉獄はもう一方の手でそれをしっかりとつかんで阻止する。

 

(止めた!! 信じられない力だ!!急所(みぞおち)に俺の右腕が貫通してるんだぞ!)

 

驚愕をその表情に張り付けていた猗窩座だが、その時視界が急に明るくなり始めた。視線を動かせば、山の間からうっすらと太陽が見え始めていた。

 

(しまった、夜明けが近い!!早く殺してこの場から去らなければ・・・)

 

焦りを感じた猗窩座は何とか振りほどこうとするが、煉獄は腕をしっかりつかんだまま離さない。

既に致命傷を負った人間の出せる力ではなかった。

 

(逃がさない)

 

煉獄のその眼には、柱としての責務と、鬼を屠る執念がはっきりと宿っていた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

参(加筆修正有)

注意!
この回では汐が口汚く相手を罵ります。キャラが好きな方、罵倒に耐えられない方はご注意ください。


煉獄は猗窩座を押さえつけたまま、さらに刀を食い込ませる。猗窩座は、白みだした空を見上げて焦燥を露にした。

 

(夜が明ける!!ここには陽光が差す・・・!!逃げなければ、逃げなければ!!)

 

一方炭治郎は、無理やり体を動かすとそばに落ちていた日輪刀を拾うと二人に向かって一目散に駆けた。

 

(斬らなければ!!鬼の頸を!早く!!)

 

炭治郎は痛みをこらえながら、鬼に向かって刀を振ろうとしたその時だった。

 

オオオオオオオ!!

 

猗窩座は大地を揺るがすような咆哮を上げ、炭治郎は思わず耳を塞いで立ち止まった。猗窩座は何とか煉獄を振りほどこうと、必死で藻掻く。

 

(絶対に放さん。お前の頸を斬り落とすまでは!!)

 

 

オオオオオオオッ

あああああああ!!!

 

「退けええええ!」

 

二つの獣の咆哮が響き、煉獄の刀が猗窩座の頸の半分まで到達する。

 

「伊之助、汐動けーーーーっ!!」

 

その時、炭治郎の声が辺りに木霊し、汐と炭治郎は肩を震わせた。

 

「煉獄さんのために動けーーーーーーーっ!」

 

汐は弾かれた様に立ち上がり、伊之助はそのまま刀を構えたまま二人の方へ弾丸のように突っ込んだ。

 

――獣の呼吸 壱ノ牙――

――穿ち抜き・・・

 

――海の呼吸 壱ノ型――

――潮飛沫・・・

 

伊之助と汐の刀が猗窩座に届く寸前、彼は地面が抉れるほど足を踏み下ろすとそのままはるか上空へ飛びのいた。

自ら両手を引き千切り、頸には煉獄の刀身が食い込んだまま、猗窩座はそのまま踵を返した。

 

崩れ落ちる煉獄の身体を汐が受け止め、その眼前を猗窩座は通り過ぎていく。

 

(早く陽光の影になるところへ・・・!!)

 

しかしそんな猗窩座を逃がすまいと、炭治郎は腕を大きく振りかぶり自らの刀を彼に向かって投げつけた。

 

(手こずった。早く太陽から距離を・・・)

「!!」

 

逃げる猗窩座の背中に炭治郎の刀が命中し、漆黒の刀身が彼の胸を貫いた。

 

――ウタカタ 参ノ旋律――

――束縛歌!!

 

汐も負けじと歌を放ち、猗窩座の身体を拘束するが、彼はそれを無理やり振りほどくとそのまま走り去っていく。

そんな彼の背中に、汐は殺意と憎悪を込めて叫んだ。

 

「クソッタレェエエエ!!!ふざけてんじゃねぇええ!!戻ってきやがれ腑抜け野郎!!!」

 

そしてそれに合わせるように、炭治郎も大声で叫んだ。

 

「逃げるな卑怯者!!逃げるなぁ!!」

 

二人から浴びせられた罵倒に、猗窩座は青筋を立てながら思わず立ち止まりそうになった。

 

(何を言ってるんだあのガキ共は。脳味噌が頭に詰まってないのか?俺は鬼殺隊(おまえら)から逃げてるんじゃない。太陽から逃げてるんだ!それにもう勝負はついてるだろうが!アイツは間も無く力尽きて死ぬ!!)

 

「いつだって鬼殺隊は、お前らに有利な夜の闇の中で戦ってるんだ!!生身の人間がだ!!傷だって簡単に塞がらない!!失った手足が戻ることもない!!逃げるな馬鹿野郎!!馬鹿野郎!!卑怯者!!」

 

いつもの炭治郎なら絶対に口にしない言葉で、彼はひたすら猗窩座を罵った。それを受け、汐も負けじとその背中に罵声を浴びせる。

 

「テメエなんざ煉獄さんの足元にも及ばない!!煉獄さんの強さを踏みにじるな!!侮辱するな臆病者!!」

「お前なんかより、煉獄さんの方がずっと凄いんだ!!強いんだ!!煉獄さんは負けてない!!誰も死なせなかった!!戦い抜いた!!守り抜いた!!お前の負けだ、煉獄さんの勝ちだ!!」

 

炭治郎は両目から大粒の涙を流しながら、声が彼果てるまで叫び続けた。汐も煉獄の羽織を掴みながら、唇が切れる程かみしめる。

 

「だめだ、大海原少女。それ以上は体に障る。それに、女性があのような乱暴な言葉を使うものじゃない。素晴らしい声が台無しだぞ」

 

煉獄は汐に慈しみのこもった視線を汐に向けると、泣きじゃくる炭治郎に顔を向けた。

 

「竈門少年もそんなに叫ぶんじゃない。腹の傷が開く。君も軽傷じゃないんだ。君達が死んでしまったら俺の負けになってしまうぞ」

 

炭治郎は涙にぬれた顔を煉獄に向けると、彼は微笑みながら手招きをした。

 

「こっちにおいで。最後に少し、話をしよう。大海原少女も前に来てくれないか?」

 

最後という言葉を聞いて、汐は肩を震わせた。最後なんて言わないで。そんな言葉聞きたくない。

 

しかし汐の目から見ても、煉獄の傷は致命傷であることは明白だった。おそらく呼吸で止血しても無駄だろう。

そのことを先に理解してしまった事を、汐は心の底から恨んだ。

 

汐と炭治郎は煉獄の前に座り、その顔を見据えた。流れ出す真紅の雫が、煉獄の身体を少しずつ赤に染めていく。

 

「思い出したことがあるんだ。昔の夢を見た時に」

 

そう言って煉獄が語ったことは、煉獄の生家に歴代の炎柱が残した手記があり、彼の父親がそれをよく読んでいたという。

煉獄自身は読まなかったため内容はわからないが、炭治郎の『ヒノカミ神楽』について何かわかるかもしれないと語った。

 

「煉、煉獄さん・・・もういいですから、呼吸で止血してください・・・傷を塞ぐ方法は無いですか?」

 

「無い。俺はもうすぐ死ぬ。喋れるうちに喋ってしまうから聞いてくれ。弟の千寿郎には自分の心のまま、正しい道を進んでほしいと伝えてくれ。父には体を大切にして欲しいと。それから――竈門少年。俺は君の妹を信じる、鬼殺隊の一員として認める」

 

煉獄の言葉に、炭治郎は目を見開き煉獄を見つめた。

 

「汽車の中であの少女が、血を流しながら人間を守るのを見た。命を懸けて鬼と戦い人を守る者は、誰がなんと言おうと鬼殺隊の一員だ」

 

――胸を張って生きろ。

 

「!!」

 

煉獄の言葉に、今度は汐は目を見開いた。それはかつて。自分を育ててくれた養父、玄海の言葉とよく似ていた。

 

「己の弱さや不甲斐なさに、どれだけ打ちのめされようと、心を燃やせ。歯をくいしばって前を向け。君達が足を止めて蹲っても、時間の流れは止まってくれない。共に寄り添って悲しんではくれない」

 

――泣くな、汐。胸を張れ。前を見ろ。そして、最後まで足掻け――

 

煉獄の言葉を、汐は拳を握りながら聞いていた。その姿に、玄海の姿を重ねながら。

 

(嗚呼この人は・・・この人も、同じことを言うんだ。おやっさんと・・・、あたしがこの世で最も誇り高いと思っていた人と、同じことを・・・)

 

「俺が死ぬことは気にするな。柱ならば後輩の盾となるのは当然だ。柱であれば、誰であっても同じことをする。若い芽は摘ませない」

 

煉獄の命が地面をゆっくりと染めていく中、煉獄は涙を流す炭治郎達を一人一人見ながら静かに言った。

 

「竈門少年。猪頭少年。黄色い少年。もっともっと成長しろ。そして今度は君たちが、鬼殺隊を支える柱となるのだ」

 

それから煉獄は汐に視線を向けると、少し悲しそうに眉根を下げた。

 

「それから大海原少女。俺は君に二つ、謝らなければならない。一つは、柱合裁判で君の性別を間違えてしまっていたこと。そして、もう一つ。君との約束を果たせなくなってしまった事。本当に、すまなかった」

「約束・・・?あっ」

 

煉獄の言葉を聞いて、汐はこの列車で彼に初めて会ったときに捲し立てられたことを思い出した。

 

――もしも君さえよければ、俺にあの時練習していた歌を最後まで聴かせてくれないか?――

 

汐はそのまま黙って俯いたかと思えば、そのまま膝を震わせながら立ち上がった。そして煉獄から背を向け少し離れると、振り返る。

その行動に煉獄をはじめ皆が怪訝そうな表情を浮かべる中、汐は大きく息を吸い口を開いた。

 

大地が、空気が揺れたような衝撃が汐から波のように伝わり、体が震えた。汐が奏で始めた歌は、あの時煉獄が少しだけ耳にした、ずっと聞きたかったあの歌だった。

 

それは凱歌にしてはあまりにも悲しく、鎮魂歌にしてはあまりにも荒々しい歌だった。

 

汐の傷は決して軽くはない。まして、ウタカタを乱発したせいで喉はもう限界だった。

しかしそれでも、汐は歌った。煉獄をこのまま、約束を守れない嘘つきには絶対にしたくなかったからだ。

 

暁の光を背にし青い髪を揺らしながら歌う汐の姿から、煉獄は目を離すことができなかった。

その美しく、雄々しい姿から。

 

そして彼の脳裏に、あの時のしのぶの言葉がよみがえる。

 

――煉獄さんはすっかり彼女の歌の虜ですね

 

(嗚呼そうか。あの時は何故、これほどまでに彼女の歌を聴きたいと思ったのか分からなかったが、そう言うことか。俺は、俺が惹かれていたのは、どうやら歌だけではなかったらしい。あの美しく、誇り高き者に、俺は・・・)

 

最後の最後にそんなことに気づくなんて。と、自嘲気味に笑う煉獄の目にあるものが飛び込んできた。

 

それは、歌を奏でる汐の後ろで佇む彼の母親だった。

 

(母上・・・)

 

段々と薄れていく意識の中、煉獄は母へ向かって心の中で問いかけた。

 

(俺はちゃんとやれただろうか。やるべきことを、果たすべきことを、全うできましたか?)

 

すると彼女は、そんな息子の姿を見て優しくほほ笑んだ。

 

『立派にできましたよ』

 

その笑顔を見て煉獄の顔にも笑みが浮かぶ。そして歌を奏でる汐を見て小さく息をついた。

 

(母上。俺は最後の最後に、幸せになってほしい女性ができました。大海原少女、否、汐。どうか、どうか幸せに・・・)

 

そう言って煉獄は目を閉じる。そしてその右目からは、一筋の涙が流れていた。

 

「・・・・」

 

煉獄が()()()と同時に、汐の歌も止まった。あたりには再び静寂が訪れる。

 

そこへ善逸が禰豆子の入った箱を背負いながら駆け付けた。彼も負傷していたのか、頭にうっすらと血の跡があった。

善逸は先ほどの戦いを音で聴いていたためか、何があったかはある程度把握しているようだった。

 

「汽車が脱線する時・・・煉獄さんがいっぱい技を出しててさ、車両の被害を最小限にとどめてくれたんだよな」

「そうだろうな」

「死んじゃうなんて、そんな・・・ほんとに上弦の鬼、来たのか?」

「うん」

 

善逸の言葉に、炭治郎は短く答える。

 

「なんで来んだよ上弦なんか・・・そんな強いの?そんなさぁ」

「・・・うん」

 

膝の上で拳を作り、炭治郎は声を震わせた。

 

「悔しいなぁ。何か一つ出来るようになっても、またすぐ目の前に分厚い壁があるんだ。凄い人は、もっとずっと先の所で戦ってるのに、俺はまだそこに行けない。こんなところで躓いている俺は・・・煉獄さんみたいになれるのかなぁ・・・」

 

俯き涙を流す炭治郎に、善逸の目からも大粒の涙があふれ出し、彼はそれを必死にぬぐった。だが、そんな空気を壊すような大声が辺りに響いた。

 

「弱気なこと言ってんじゃねぇ!」

 

全員が振り返ると、そこには全身を震わせながら伊之助が佇んでいた。

 

「なれるかなれねぇかなんて下らねぇこと言うんじゃねぇ!信じると言われたら、それに応えること以外考えんじゃねぇ!死んだ生き物は土に還るだけなんだよ!べそべそしたって戻ってきやしねぇんだよ!悔しくても泣くんじゃねぇ!」

 

そう叫ぶ伊之助の被り物からは、滝のように涙が流れていた。それを善逸が指摘し、そんな善逸に伊之助は頭突きをかます。

そしてそのまま伊之助は刀を振り回し、叫びながら暴れ出した。まるで、悲しみを振り払うように。

 

事後処理を行う隠達が到着するまで、それはつづけられた。

 

一方汐は、()()()煉獄の前に立ち尽くしながら呟くように言った。

 

「煉獄杏寿郎。貴方こそが人間の誇りだ。人間の魂だ。私は、私達は貴方のような人に会えたことを誇りに思う。決して貴方を忘れない」

 

汐は俯いたまま、固く目をつぶった。両目から涙が滝のようにあふれ出し、頬を伝い流れ落ちていった。

それをぬぐうこともせず、歯を喰い縛り、血が出る程拳を握りながら、汐は絞り出すように泣いた。

 

空は晴れ渡っているというのに、汐の心にはいつまでも雨が降り続いていたのだった。

 


 

煉獄の訃報は、鎹鴉を通して産屋敷と柱達に伝えられた。

驚く者、悲しむ者、信じない者、怒りに震える者など彼らの反応は様々だった。

 

「そうか。二百人の乗客は、一人として死ななかったのか。杏寿郎は頑張ったんだね、凄い子だ」

 

庭先で妻と娘と佇みながら、輝哉は微笑みながら呟くように言った。

 

「寂しくはないよ、私はもう長くは生きられない。近いうちに杏寿郎や皆のいる黄泉の国へ行くだろうから・・・」

 

彼の柔らかな声は、風に乗り蒼穹の彼方へと消えていくのであった。

 

その後、負傷した汐達はすぐさま蝶屋敷へと担ぎ込まれ迅速な治療が行われた。特に汐と炭治郎は、一目でわかる重傷であり絶対安静を余儀なくされていた。

 

それから数日後。頭に包帯を巻いた善逸は、一人廊下を歩きながらあの時のことを思い出していた。

隠達に背負われている間、伊之助は大声で泣きわめき、炭治郎は隠にしがみつきながらすすり泣いていた。だが、汐はまるで壊れてしまった人形のように、泣き声どころか一言もしゃべらず、ピクリとも動かなかった。

 

その後も屋敷に彼女の歌が響くことはなく、雰囲気は重くなる一方だった。

 

向上心の塊である炭治郎が落ち込んでいることも相当だが、善逸が気になったのは汐の“音”だった。

波のような少し不規則で、なおかつ優しい音。それが善逸の感じる汐の音だった。が、その音がびっくりするほど静かで汐がまるで別人にすり替わったような気がして、善逸は少し恐怖を感じていた。

 

無理もなかった。煉獄のような鍛え抜かれた“音”でさえ、上弦の鬼と対峙し命を落とした。特に汐は、他の者にはない特殊な力がありながら何もできなかった無力さに怒りを感じているだろう。

 

人間はそう簡単に切り替えることはできない。どんな人間だろうと、苦しく悲しい時もある。しかし、だからと言ってずっと蹲っているわけにはいかない。

 

炭治郎も汐も、そのことを善逸に教えてくれた。その二人が落ち込んでいるときは、自分が何とかしてあげるべきではないか。

 

善逸はそう思い、(無断で)もらってきたまんじゅうを炭治郎に差し入れしようと彼の病室へ戻って来た。

 

「炭治郎!まんじゅう(無断で)もらってきたから食おうぜ!汐ちゃんも誘ってさ!」

 

だが、善逸の言葉は顔面に走った衝撃により中断された。

 

「炭治郎さんがいませぇん!!」

 

それはのけ反ったきよが善逸の顔面に後頭部を打ち付けたためだった。慌てて振り返れば、おびただしい量の鼻血を拭き出し倒れこむ善逸の姿があった。

 

「あーーっ、善逸さんごめんなさぁい!!」

 

慌てて泣きながら謝罪するきよに、善逸は焦点の全く合っていない目で大丈夫だと答えた。きよはそのまま善逸の鼻血を止めようと布をあてがいながら、炭治郎の姿がないことを訴えた。

 

「炭治郎さん、傷が治ってないのに鍛錬なさってて、しのぶ様もピキピキなさってて・・・!!安静にって言われてるのに!」

 

きよの言葉に善逸は驚き目を見開いた。炭治郎の腹の傷は、思ったよりも深く危険な状態だったはずだ。それなのに動くなんて馬鹿げている。と、思った時だった。

 

「大変大変!!たいへんですぅーー!!」

「今度は何!?」

 

二人の元に現れたのは、きよと同じく顔を真っ青にしたなほだった。彼女は二人の姿を見るなり、矢継ぎ早にまくし立てた。

 

「二人とも汐さんを見ませんでしたか!?さっき着替えを届けようとしたらお部屋にいなくて、どこを捜しても見つからなくて!あの人も肩とお腹の傷が深くて安静にしていないといけないのに!」

「ええっ、汐さんも!?」

 

なほの言葉にきよも善逸も目玉が落ちそうなほど大きく目を見開き、同時に顔を青ざめさせた。

 

「何やってんだよあのお二人さん!馬鹿なの!?本当に馬鹿なの!?」

 

屋敷中に善逸の汚い高音が、高らかに響いた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



作品の都合上、無惨様のお説教は幕間にて別に上げさせていただきます。

暴言、暴力表現注意
設定捏造あり
いつもより少し長めです。


屋敷を抜け出した炭治郎は、痛みをこらえながらある場所へ向かっていた。

それは、煉獄が死ぬ間際に言い残した、生家と炎柱の残した手記の事。それに、煉獄の最期の言葉を家族に伝えるためだ。

 

だが、腹の傷はそんな彼を前に進ませまいと疼き、体力を奪っていく。そして足がもつれ倒れこみそうになった時、不意に体が浮いた。

 

「もう、水臭いわよ。一人で勝手に行くなんて」

 

聞きなれた声が耳に入り顔を上げると、真っ青な色と赤い色が目に入った。そこには汐が微笑みながら、炭治郎の肩を支えていた。

 

「汐!?お前、どうしてここに・・・?絶対安静だって言ったじゃないか」

「その言葉、そっくりそのままあんたにぶち込むわよ。自分の今の状況もわかんない程馬鹿になったわけ?」

 

いつも以上に辛辣な汐に、炭治郎は視線を逸らしうつむいた。そんな彼を見て、汐はため息をつくと炭治郎の身体を引き上げた。

 

「ほら、しっかり。行くんでしょ?煉獄さんの家に。あんたの考えてることなんてお見通しよ。それに、あたしもあんたと一緒にあの人の最期の言葉を聞いた。だからあたしも、行く義務がある。それに、もう一つ野暮用があるのよ」

 

汐の凛とした声に、炭治郎の目が震え胸が熱くなった。炭治郎はそうだといわんばかりに小さくうなずくと、汐の肩を借りて立ち上がった。

 

空には煉獄の鎹鴉がおり、彼の意をくんで道案内をしてくれていた。二人はそれを見失わないように、必死で後を追った。

 

やがて二人の目に大きな家が映り、その前には一人の少年が箒をもって掃き掃除をしていた。

 

その顔を見て汐は直ぐにわかった。その顔があまりにも煉獄によく似ていたからだ。彼が、煉獄の弟、千寿郎だと。

 

「千寿郎、君?」

 

炭治郎が声をかけると、千寿郎ははっとした表情で顔を上げこちらを見た。泣きはらしたような眼が、汐の心を締め付ける。

 

「貴方方は・・・、それに、その隊服は・・・」

 

汐と炭治郎は千寿郎に頭を下げると、すぐに話を切り出した。

 

「煉獄杏寿郎さんの訃報はお聞きでしょうか?俺たちは杏寿郎さんからお父上と千寿朗さんへの言葉を預かりましたので・・・お伝えに参りました」

 

炭治郎の言葉に千寿郎は目を見開くと、その顔から冷たい汗が滴り落ちた。

 

「兄から?兄の事は既に承知しておりますが・・・あの、大丈夫ですか?お二人とも、顔が真っ青ですよ」

「あたしたちのことは大丈夫。それよりも煉獄、杏寿郎さんは・・・」

 

汐がその先を紡ごうとしたその時、空気を引き裂くような声が響いた。

 

「やめろ!!どうせくだらんことを言い残しているんだろう」

 

その声に驚いて視線を向けると、そこには一人の男が玄関に寄りかかるようにして立っていた。

 

煉獄とよく似た顔立ちの中年の男だ。浴衣姿で手には酒瓶。一目で酔っ払っていると分かる風体だった。おそらく彼が、煉獄の言っていた父親、煉獄槇寿郎だろう。

 

「大した才能もないのに、剣士になるからだ!だから、死ぬんだ!くだらない・・・愚かな息子だ、杏寿郎は!」

「・・・は?」

 

槇寿郎の言葉に、汐は思わず声を上げた。今、この男はなんていった?くだらない?愚か?自分の息子に?

 

それは炭治郎も同じで、その表情を歪ませていた。

 

「人間の能力は、生れた時から決まってる。才能のある者は極一部。後は有象無象、何の価値もない塵芥だ!杏寿郎もそうだ。大した才能がなかった!死ぬに決まってるだろう」

 

槇寿郎は酒瓶を煽りながら、悲し気に目を伏せる千寿郎へ声を飛ばした。

 

「千寿郎!葬式は終わったんだ!いつまでもしみったれた顔をするな!」

「ちょっと!!」

 

あまりの言い草に、炭治郎は怒りを眼に宿しながら槇寿郎を睨みつけて言った。

 

「あまりにも酷い言い草だ。そんな風に言うのはやめてください」

「なんだお前は。出て行け、家の敷居をまたぐな・・・」

 

炭治郎の言葉に槇寿郎は視線を千寿郎から炭治郎へと移した。が、彼の目が炭治郎の耳飾りを捕らえた瞬間。目を見開き、持っていた酒瓶を落とした。

粉々に砕け、漏れ出す中身にもお構いなしに、彼は震える指で炭治郎を指さした。

 

「お前・・・そうか、お前・・・“日の呼吸”の使い手だな!そうだろう!!」

 

「「日の呼吸?」」

 

槇寿郎の言葉に、汐と炭治郎は同時に声を重ねた。確か炭治郎が使うのは、水の呼吸とヒノカミ神楽ではなかったのか?

何のことかと聞く前に、槇寿郎は一瞬で炭治郎との距離を詰めそのまま炭治郎を地面に組み敷いた。

 

「ちょっ!何やってんのよあんた!!炭治郎は怪我をしてるのよ!?離しなさいよッ!!」

「父上やめてください!!その人の言っていることは本当です!具合が悪いんですよ!!」

 

汐と千寿郎は必死に槇寿郎を引きはがそうとするが、彼は「うるさい、黙れ!」と叫び千寿郎を殴り飛ばした。

それを見た汐の中で、怒りの炎が燃え上がった。

 

「いい加減にしろやボケェ!!黙って聞いてりゃ、死んだ息子を罵倒するばかりかもう一人の息子まで殴って、それが父親のする事かこの野郎!!恥を知れ!!」

 

汐はそのまま槇寿郎の顔面に左拳を思い切り叩きつけた。だが、彼はそのまま汐の腕を掴むと思い切り壁に叩きつけた。

全身い衝撃が走り、口から血があふれ出る。それを見た炭治郎は、渾身の力で槇寿郎を振りほどき、その拳を叩きつけた。

 

「汐に何をするんだ!!」

 

そのまま座り込んでいる汐を庇うように立ちながら、炭治郎は思い切り怒鳴りつけた。

 

「さっきから一体何なんだあんたは!汐の言う通り、命を落とした我が子を侮辱して!殴って!何がしたいんだ!」

「お前、俺のことを馬鹿にしているだろう」

「わけわかんないことを言ってんじゃねーわよ!!大体炭治郎がいつあんたを馬鹿にしたのよ!?」

 

汐も我慢ができずに怒鳴りつけると、槇寿郎は怒りに顔を歪ませながら炭治郎の耳飾りを指さした。

 

「そいつが“日の呼吸”の使い手だからだ。その耳飾りを俺は知っている。書いてあった!」

 

その怒りはすさまじく、まるで仇を見るかのような眼で彼は炭治郎を睨みつけていた。

 

「“日の呼吸”は、あれは、()()()()()()!!一番初めに生まれた呼吸、最強の御技。そして全ての呼吸は“日の呼吸”の派生。全ての呼吸が“日の呼吸”の後追いに過ぎない。“日の呼吸”の猿真似をし、劣化した呼吸だ!火も水も風も全てが!!」

 

その言葉を聞き、炭治郎は愕然とした表情で槇寿郎を見た。炭治郎の家は代々炭焼きで、それは間違いない。剣士になった者など一人もいなかった。

一方汐も、突如明かされたことに呆然としながら炭治郎を見た。しかし汐は、その“日の呼吸”に何故か聞き覚えがあったような気がした。

 

しかし

 

「“日の呼吸”の使い手だからといって調子に乗るなよ小僧!!」

 

槇寿郎のこの言葉に、ついに汐と炭治郎が爆発した。

 

「これが調子に乗っているように見えるのか!?テメエの目は節穴か耄碌(もうろく)!!炭治郎が、あたし達があの人を救えなくてどれだけ悔しかったと思っているんだ!」

「俺達が自分の弱さにどれだけ打ちのめされてると思ってんだ!」

 

「「この糞爺!!煉獄さんの悪口を言うな!!」」

 

二人は怒りと悔しさに涙を流しながら、槇寿郎に殴りかかった。

 

「危ない!父は元・柱です!!」

 

千寿郎が慌てて制止するも二人は止まらず、槇寿郎の裏拳が炭治郎を殴り飛ばし、殴りかかった汐は頭を掴まれ投げ飛ばされた。

痛みが走り、口が切れても、汐の怒りと悲しみは止まらなかった。

 

(くそっ、くそっ、くそっ!!何がワダツミの子だ!何が大きな戦力になる声だ!!煉獄さんも助けられない、炭治郎にこんな悲しい眼をさせて、こんな思いまでさせて!!こんなことまでさせて!!!)

 

殴られ続ける汐を炭治郎が制止させ、反対に殴られる炭治郎を汐が阻止させつつ、三人の殴り合いはつづけられた。それを千寿郎は止めようと何度も声を上げる。

 

(畜生!畜生!!畜生!!!)

 

「畜生ォォォォォォオオオオ!!!」

 

汐が怒りの咆哮を上げた瞬間、彼女の周りに爆発的な空気の流れが起き、その勢いになすすべもなく、槇寿郎と炭治郎は吹き飛ばされた。

 

「汐!!」

 

顔に傷を負った炭治郎が叫ぶと、槇寿郎は初めて汐が青い髪をしていることに気が付いた。

 

「青い髪・・・お前、まさか・・・!」

 

「うわあああああああああああああ!!!」

 

汐はそのまま拳を振り上げ一直線に殴り掛かる。だが、槇寿郎の拳の方が速く、汐はその一撃を顔面で受け止めた。

吹き飛ばされ意識が遠のいていく中、最後に見たのは炭治郎が回転しながら頭突きをかます瞬間だった。

 

*   *   *   *   *

 

「ん・・・?ここは・・・?」

 

うっすら目を開けると、見覚えのない天井がぼんやりとした視界の中映ってくる。ここは何処だろうと思っていると、人の気配を感じ頭を動かした。

 

「気が付かれましたか。よかった」

 

そこには心配そうに自分を覗き込む千寿郎の姿があった。汐はゆっくりと体を起こすが、走った痛みに顔をしかめる。

 

「動いては駄目です。あなたも深い傷を負っていたんですね。それなのに無茶をさせてしまって・・・」

「いいのよ別に。それより、炭治郎は?」

「別室にいらっしゃいます。手記をご覧になっていますよ。ですが、書物は破れていて何とか読めるところを探している最中ですが・・・」

「そう、あいつも無事なのね。よかったわ。まあ、炭治郎があの程度でどうにかなるとは思わないけど」

 

汐は笑いながらお道化たように言うと、千寿郎は突然、畳に頭をこすりつけた。

 

「申し訳ありません!!気が付かなかったとはいえ、女性に手を上げるなんてなんてことを・・・!!申し訳ありません!!申し訳・・・!!」

 

そう叫びながら土下座をする千寿郎は、かわいそうなほど震えている。そんな彼を見て汐は小さく息をつくと、優しい声色で言った。

 

「顔を上げて。あんたはこれっぽっちも悪くないわ。それに、おやっさん、あたしの父親の拳の方がずっと重くて痛いわよ!こんなの平気平気。それより、あたしも謝らないとね。息子亡くして頭ぐちゃぐちゃになっているときに来るなんて、あたし達も配慮が足りなかったし、それにあんたの親父さんの事をボロクソに言っちゃったし・・・」

 

ごめんなさいね、と千寿郎に言うと彼は顔を上げて首を横に振った。

 

「あ、それより。あの人はどうしたの?覚えてるかぎり、あたしあの人を吹っ飛ばしちゃったんだけど・・・」

「父なら大丈夫です。先ほど炭治郎さんの頭突きを受けて気を失っていましたが、目を覚ましてお酒を買いに出て行ったので」

「あ、そう。あれを受けて動けるなんて、流石元柱ね」

 

人間やめてるんじゃないの?と汐は言いかけたが、ことが面倒になりそうだったのであきらめた。

 

「あなたのことはよく兄から聞かされていました。素晴らしい歌声を持つ、青髪の女性だと。柱合会議から戻って来た兄は、いつもその話ばかりしていました」

「そ、そうだったの。何だか照れるわ」

 

心にこそばゆさを感じ、汐が顔を伏せると、千寿郎は突然頭を下げた。

 

「ありがとうございます、大海原さん。兄の願いをかなえてくれて」

「願い?」

「兄はあなたの歌をずっと聴きたがっていたんです。任務に行く数日前に、素晴らしいものを見たと興奮した様子で話してくれて、もう一度あの歌を聴きたいとずっと言っていたんです」

 

そう言って顔を上げた千寿郎の目には涙がたまっていた。それを見た汐も目頭が熱くなり、思わず胸元を握った。

その時、炭治郎が戻ってきて汐が目が覚めていることに気づき、駆け寄ってきた。炭治郎は無茶をするなと汐を諫め、そんな彼を汐が諫める。

 

そのやり取りを見て、千寿郎は微かにほほ笑んだ。

 

「兄には継子が居ませんでした。本当なら私が継子となり、柱の控えとして実績を積まなければならなかった。でも、私の日輪刀は色が変わりませんでした。ある程度の剣術を身につけないと日輪刀の色は変わらないものですが、どれだけ稽古をつけてもらっても、私は駄目だった。剣士になるのは諦めます」

 

そう言って俯き涙をこぼす千寿郎を、汐と炭治郎は沈痛な面持ちで見ていた。

 

「それ以外の形で人の役に立てることをします。炎柱の継承は断たれ長い歴史に傷がつきますが、兄はきっと許してくれる」

「そうね。煉獄さんならきっと許してくれるわ。最後の最後まで、あんたたち家族を思っていた人だもの」

「正しいと思う道を進んでください。千寿郎さんを悪く言う言う人がいたら、俺が頭突きします」

 

炭治郎の言葉に千寿郎は「それはやめた方がいいです」と若干顔を引き攣らせながら言った。

 

「だったらあたしが吹き飛ばして・・・」

「それはもっとやめた方がいいです。というよりやめてください」

 

先程よりも強めの制止に、汐は思わず口を閉じた。

 

その後、千寿郎は破れていた書物を修復すると炭治郎と約束し、それから煉獄が使っていた刀の鍔を炭治郎に渡した。

炭治郎ははじめ受け取ることを拒んでいたが、千寿郎は炭治郎に持っていてほしいと言ったため、彼はその提案を受け入れた。

 

きっと炭治郎を守ってくれると。

 

蝶屋敷へ戻る道すがら、汐は炭治郎と言葉を交わしていた。

 

「あーあ。戻ったらきっとしのぶさんにぶっ殺されるわね、あたし達」

「それはないだろう。命を預かっている場所だ。精々叱られるくらいだろ」

「あんた頭は正気?あれがどれほど恐ろしいか忘れちゃったわけ?」

 

そう言って顔を引き攣らせる汐だが、ある道に差し掛かると足を止めていった。

 

「炭治郎。先に帰っててくれる?」

「急にどうしたんだ?」

「あたし野暮用があるって言ったわよね。それを済ませてきたいのよ。大丈夫、すぐに戻るから」

 

そう言う汐からは嘘の匂いはしなかったが、炭治郎は何故か汐がどこかへ行ってしまうような気がした。

 

「そんな眼をしないでよ。本当に大丈夫だって。あたしは隠し事はするけれど、嘘は苦手なのよ。ほら、さっさと行った行った」

 

炭治郎を無理やり蝶屋敷への道へ押し出すと、汐は一人曲がり角を曲がっていく。そんな彼女の背中に、炭治郎は声をかけた。

 

「雨の匂いがする。早めに戻ってくるんだぞ!」

 

炭治郎の言葉に、汐は振り返らないまま手を振り返すのだった。

 


 

空が暗くなったと思えば、間髪入れずに雨音が屋根を打つ音が響き渡る。

その屋敷の主、甘露寺蜜璃は雨が降ってきたことに気づいて顔を上げた。

 

「やだ雨だわ。雨戸を閉めないと・・・」

 

そう言って立ち上がった甘露寺だが、その行動は突如かけられた声によって止まった。

 

「恋柱様、こちらにおられましたか」

 

それはこの屋敷で働いている使用人で、少し困ったように眉根を下げていた。

 

「どうしたの?何か困ったことでも?」

「そ、それが、来客のようなのですがどうも様子がおかしくて・・・」

「お客様?今日はそんな予定はなかったはずだけど・・・」

 

甘露寺は怪訝そうな表情を浮かべながら、正門へと足を進め、そしてそこにいたものを見て思わず声を上げた。

 

そこには降りしきる雨の中、地面に頭をこすりつけるようにして蹲る青い髪の少女の姿があった。

 

「あなたは・・・汐ちゃん!?」

 

何故彼女がこんなところにいるのか。いやそれより汐は今蝶屋敷で療養中ではなかったのか。

いろいろと疑問が浮かぶ中、雨音をかき消すような鋭い声が辺りに響いた。

 

「お願いします!!あたしを継子に、弟子にしてください!!!」

 

その言葉に、甘露寺は目を見開き息をのんだ。汐の顔は泥と雨で汚れていたが、それに構うことなく彼女は泥の中で叫び続けた。

 

「今回のことであたしがどれだけちっぽけで無力なのかよくわかった!こんなんじゃ、こんなんじゃ大切な人の命も笑顔も守れない!!もうこれ以上、あの人が傷つくところは見たくない!!だからお願いします!何でもします!!あたしを、あたしを鍛えてください!!強くしてください!!お願いします!!お願いします!!!」

 

雨に打たれ、泥にまみれながらも、汐は頭を垂れたまま叫んだ。声は枯れ果て、流れる涙もそのままに、汐は何度も何度も甘露寺に頼み込んだ。

無礼ともいえる程の高い矜持を持つ汐が、恥も外聞も捨てて地面に頭をこすりつけている。

 

その姿に甘露寺は愕然としながら、汐の言葉を聞いていた。

 

「恋柱様・・・」

 

その様子を甘露寺と見ていた使用人は困惑したように甘露寺を見上げたが、彼女は静かに下がるように言うとすっと汐の前に立った。

 

「あなたの気持ちはよく分かったわ。でも、今のあなたを継子として認めるわけにはいきません」

 

甘露寺の冷静な声に、汐は絶望を宿した眼で彼女を見上げた。しかし甘露寺はすっと持っていた傘を汐の上に差すとにっこりとほほ笑んだ。

 

「まずは身体をしっかり治すこと。基本的なことがしっかりできていない人に、稽古を付けさせるわけにはいかないわ。それができたらあなたを、私の正式な継子として認めます」

 

甘露寺の優しい言葉が汐の耳から染みわたり、止まっていた涙が再びあふれ出した。涙と泥にまみれた顔を、甘露寺は小さな手ぬぐいで優しく拭く。

 

「だからその時は、改めてよろしくね。一緒に強くなりましょう!」

 

汐は我慢できずに甘露寺に縋りつくと、そのまま大声をあげて泣いた。激しくしゃくりあげる背中をなでられているうちに、意識が遠のいていくのだった。

 

その後、気を失った汐は甘露寺によって蝶屋敷へ運び込まれ、目を覚ました汐は、これ以上ない程しのぶにこってりと絞られるのだった。




し「まったく、どいつもこいつもですよ。あなたも炭治郎君も、絶対安静の意味わかっていますか?」
汐「ごめんなさい、本当にごめんなさい」
し「もうこんなことは二度としないでくださいね。あんな怪我で動いたら死にますよ(殺しますよ)
汐「すいません別の病院に入院させてください。幻聴まで聞こえてきました。しのぶさんの声が重なって殺すとか聞こえてきた」
炭「汐。残念ながら幻聴じゃないみたいだ・・・あまり言いたくないが、あきらめろ」
汐「ごめんなさいいいいいい!!!!」


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

幕間その伍
さがしものとわすれもの


無惨様が部下にいろいろと理不尽なことを言う話


どこかにある、どこかの大きな屋敷。その一室では楽しげに笑う声が夜の闇に響いては消えていく。

 

「まあ本当に利発そうな子ですわね」

 

客人らしき女性が笑みを浮かべながらそう言うと、屋敷の主人らしき男は眼鏡越しに目を細めながら口を開いた。

 

「いやぁ、私も子供を授からず落ち込んでいましたが、よいこが来てくれて安心です。血の繋がりは無くとも親子の情は通うもの。私の後はあの子に継がせますよ」

 

男は本当にうれしそうに言葉を紡ぐが、ふとその表情に微かに曇りが差した。

 

「ただ皮膚の病に罹っていまして、昼間は外に出られないのです」

「まあ、可哀想に・・・」

 

その話を聞いた客人の女性は憐みの眼を彼に向けてそう言った。

 

「その特効薬もね、うちの会社で作れたらと思っているんです。一日でも早く」

 

そんな彼女の言葉に、男は希望を込めた言葉を返すのだった。

 

そんな会話が交わされた応接間から少し離れた一室では、一人の少年が書物に目を通していた。

真白な肌に真っ黒な髪。少しだけ赤みが掛かった目が、文字の羅列を追って動いていく。

 

そんな彼の部屋の窓に掛けられた帳が揺れ、冷たい風が少年の頬を穿った。視線を移せば、そこには全身に幾何学模様の痣を浮かばせた青年の鬼、猗窩座の姿があった。

 

「ご報告に参りました、無惨様」

 

猗窩座の言葉に少年、無惨は、瞬時に両目を鋭くさせると地を這うような声で静かに言った。

 

()()()()は見つけたのか?」

「調べましたが確かな情報は無く存在も確認できず――・・・、“青い彼岸花”は見つかりませんでした」

「で?」

 

猗窩座の報告に、無惨は冷たく一瞥すると、彼は頭を下げながら答えた。

 

「無惨様の御期待に応えられるよう、これからも尽力致します。ご命令通り、柱の一人も始末して参りましたので御安心くださいますよう・・・」

「お前は何か思い違いをしているようだな、猗窩座」

 

無惨は猗窩座の言葉を遮ると、人差し指を突き付けながら先ほどよりも冷たい声で言い放った。その瞬間、猗窩座の身体が縛り付けられたように動かなくなった。

 

「たかが柱一人、それを始末したからなんだと言うのか?鬼が人間に勝つのは当然の事だろう」

 

無惨が話を進めるたびに猗窩座の身体が音を立ててきしみ、体中にひびが入りだす。

 

「私の望みは鬼殺隊の殲滅。一人残らず叩き殺して二度と私の前に立たせないこと。複雑なことではないはずだ。それなのに未だ叶わぬ・・・。どういうことなんだ?」

 

怒りのあまり全身に血管を浮かび上がらせながら、無惨は持っていた書物の頁を掻き毟るように破り捨てた。

 

「お前は得意気に柱を殺したと報告するが、あの場にはまだ四人の鬼狩りがいた。しかもそのうちの一人はワダツミの子。なぜ始末して来なかった?わざわざお前を向かわせたのに・・・猗窩座、猗窩座、猗窩座、猗窩座!!」

 

無惨の声が猗窩座に何度も突き刺さり、それを象徴するかのように彼の目や鼻や口からはおびただしい量の血が噴き出した。

 

「お前には失望した」

 

そんな猗窩座を無惨は冷たく一瞥すると、興味を失ったように視線を逸らした。

 

「まさか柱でもない隊士から一撃を受けるとは。上弦の参も堕ちたものだな」

 

その言葉に微動だにしなかった猗窩座の身体がピクリと動いた。そんな彼に無惨は興味を示すことなく「下がれ」とだけ告げた。

 

猗窩座が去ったのを確認すると、無惨はそのまま手を止め目だけを動かして静かに口を開いた。

 

「それで、お前はいったい何をしにあの場所に赴いた?黒死牟」

 

彼の視線の先には、大正時代では珍しい古風な着物を纏った、六つの目を持つ恐ろしい姿をした鬼がいた。

黒死牟と呼ばれた鬼は無惨からの問いかけには答えなかったが、無惨はそれに構うことなく続けた。

 

「私はお前にも青い彼岸花の捜索とワダツミの子の始末を命じたつもりだったが・・・どうやら私はお前を買いかぶりすぎていたようだな。まさかお前が命に背くとは。あのような小娘一人を屠るなど、お前ならば赤子の手をひねる様なものだと思っていたのだが」

「申し訳・・・ございません。邪魔が・・・入りまして・・・」

「邪魔?あの程度の柱など、お前の敵ではないだろう。現に猗窩座如きでさえ始末できたほどだ」

 

無惨は本を手に取りもてあそびながらも、淡々と黒死牟に言葉の棘を刺し続けた。

 

「・・・まさかとは思うが、お前。未だ()()()に未練があるのか?」

 

その言葉に黒死牟の肩がほんのわずかに揺れ、それに気づいた無惨は呆れたように言った。

 

「たかだか数百年ほどの間に、記憶まで置き去りにしてきたのか?そもそも()()()を殺したのは他でもない、お前だろうに。くだらない幻などにいつまでも踊らされるな」

 

無惨はそれだけを言うと、黒死牟にも下がるように言った。彼が去った後、無惨は静かに揺れている帳を眺め、鋭く目を細めた。

 

「どいつもこいつも、役に立たない者達ばかりだ・・・」

 

その言葉は風に乗り、夜の闇へを消えていった。

 


 

無惨の元を離れた黒死牟は、一人世闇の中で佇んでいた。目を閉じ、先ほどの無残の言葉を思い出す。

 

(未練・・・返す言葉もなかった・・・忘れていたと思っていたが・・・私は未だ・・・あの娘を・・・)

 

怒り狂う無惨の顔の中に、微かに見えるのは邂逅した鬼狩りとなったワダツミの子。そして彼女と同じように真っ青な髪をした、記憶の中に残る一人の女性。

 

『――様!』

 

屈託のない笑顔で知らない名を呼ぶその女性の顔を思い出そうとした瞬間、黒死牟の頭に強烈な痛みが走った。そしてそれは波紋のように全身に広がっていく。

そして彼の頭の中に、透き通るような歌声が響き渡る。

 

(嗚呼。お前は死して尚も・・・私を・・・掻き乱し続ける・・・のか・・・。ワダツミの子・・・――。本当に・・・忌々しい・・・)

 

やがて痛みは治まり、黒死牟は月明かりの中を静かに歩きだした。まとわりつく不可思議なものを振り払うように。

 

(そう言えば・・・童磨が以前・・・玉壺に・・・人形を預けたと・・・言っていたが・・・あれは確か・・・)

 

そんなことを考えていた黒死牟だが、ふと我に返り視線を下へと下ろした。いつもなら全く気にならないはずのことに、今日は何故かいろいろと思考が飛散してしまう。

 

その微かな不調に少しばかりと毎度いながらも、黒死牟は静かに闇の中へ消えていくのだった。

 

猗窩座が炭治郎の刀を粉々に破壊し、彼と自分を罵倒したワダツミの子への憎しみを募らせるのは、そのすぐあと。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

合縁奇縁

原作捏造あり


「えええーーーッ!!!」

 

蝶屋敷中が揺れそうなほどの大声で、炭治郎、善逸、伊之助の三人は目を向いて汐に詰め寄った。

 

「継子!?継子ってあれだよな!?カナヲみたいなやつだよな!?すごいじゃないか汐!」

 

興奮して言葉を捲し立てる炭治郎に、汐は初めてその話が出た時の自分と同じ反応なことに共感した。

 

「しかも恋柱って、あのボンキュッボンの人だよね!?そんなすごい人の弟子になるなんてうらやま・・・すごいよ汐ちゃん!!」

 

善逸に至っては着眼点がずれているだけでなく、彼の邪な本能が顔を出している始末だ。

 

「・・・ツグコってなんだ?」

 

一方伊之助は継子の事すら知らず、善逸は継子とは柱が直々に指導し、育てる隊士のことであり、慣れるのは相当な才能の持ち主であることを説明した。

それを聞いた伊之助は、鼻息を荒くしながら汐を見た。

 

「話自体は結構前から出ていたんだけれど、その時はまだ全集中・常中を覚えていない段階だったから保留にしてたの。でも、今回の――、煉獄さんの件で迷っている場合じゃないってわかった。失ってからわかるんじゃ遅すぎる。だから、この話を受け入れることにしたの」

 

そう言って彼らを見据える汐からは、決意の匂いと音と気配がした。それを感じ取った三人の身体が震え、鳥肌が立った。

 

煉獄杏寿郎。元炎柱で、上弦の参との戦いで殉職した誇り高き剣士。彼の死は四人の心に影を落としたが、彼の遺した言葉は四人に新たな決意も抱かせた。

その決意の一つが、汐が柱の継子になるということだった。

 

「そうか。それが汐が出した答えなんだな」

「うん」

「そうか。じゃあ俺たちも負けていられないな。善逸、伊之助!」

 

炭治郎の言葉に伊之助は「おうよ!」と力強く返事をしたが、善逸は少し迷いのある表情を見せた。それを見た汐がどうしたのか尋ねようとした時だった。

 

「あ、汐さん!しのぶ様がお呼びですよ」

 

屋敷の奥からすみが転がるように走ってきて、汐に声をかけた。汐は返事をすると三人に「またあとでね」といってその場を去った。

 

汐の姿が見えなくなった後、善逸は徐に炭治郎の方を向いて口を開いた。

 

「あ~あ。これからは汐ちゃんの歌が聴けなくなるのか。なんだか寂しいな」

「なんでだ?汐の歌なら頼めばいくらでも聴かせてくれるだろ?」

 

何を言っているんだと言いたげな炭治郎に、善逸は目を少し見開いた後大きくため息をついた。

 

「お前さ。これから先汐ちゃんと簡単に会えなくなるっていうのに、寂しくないのか?」

「会えなくなる?どうして?」

「どうしてってお前、本気でわからないのか?継子になるっていうことは、育ててくれる柱と寝食を共にするってことなんだ。だから汐ちゃんはここを出て恋柱の屋敷で暮らすんだよ」

 

善逸がそう説明すると、炭治郎は驚いた顔で彼を見つめた。その反応からするに、汐が蝶屋敷を出ることに本当に気づいてなかった様だ。

 

「汐と・・・毎日会えなくなる・・・」

 

先ほどまでの笑顔が急にしぼんでいく炭治郎に、善逸は自分が失言をしたことを少なからず感じるのだった。


 

その夜は、汐が継子になった祝いと送別会を兼ねた宴が開かれた。前にも祝いの宴は開かれたことがあったが、今回は汐が主役とあってか彼女の好きな海の幸の料理までが並べられた。

 

伊之助は初めて見る料理に興味津々で、汐をほったらかして真っ先に手を付けたため、彼女に吹き飛ばされたりといつもの光景が広がった。

しかし汐はあの時とは明らかに違う、異変を感じていた。心なしか炭治郎の様子がおかしいように見えた。

 

一番喜んでくれていた人のはずなのに、その眼には嬉しさがあまり宿っておらず、寂しさと悲しみが混じっているように見えた。

それが気になり、せっかくの好物の味もろくにわからなくなってしまっていた。

 

炭治郎に話しかけようとしても、伊之助が暴れまり、それをアオイが諫めたりして騒がしかったため、汐はなかなか炭治郎に話しかけることができないでいた。

そして結局、宴の間は一度も炭治郎と話ができないまま終わってしまった。

 

宴が終わり、汐は荷造りが済んだ自分の部屋に戻ると大きなため息をついた。

明日からはここを出て甘露寺邸で暮らすことになる。そのため、炭治郎達と会える時間もあとわずかだった。

 

(炭治郎・・・あの時ずっと上の空だったけれど、あたしが継子になることを本当はうれしくなかったのかな)

 

いいやそんなはずはないと、汐は思った。現に、初めて打ち明けた時彼は本当にうれしそうな眼をしていた。それなのに、先ほどの宴ではそうではなかった。

何かあったのかと気になりだした汐は、意を決して部屋を出て炭治郎の部屋へと向かった。

 

「炭治郎、ちょっといい?」

 

汐は扉を叩いて声をかけ、返事を待った。するとすぐに炭治郎が慌てた様子で扉を開けたため、ほっとしたと同時に少しだけたじろいだ。

 

「汐、どうしたんだ?明日はもう出発だろう?」

「あ、うん。そうなんだけれど・・・、あんたと少し話したくて。駄目?」

 

そう言って炭治郎を見上げれば、彼は少しだけ困ったような顔をしたが小さくうなずいて汐を部屋の中へ通した。

 

「ごめんね、こんな時間に。もう寝るところだった?」

「・・・いいや。何だか今日は眠れなくて。宴の余韻のせいかな」

 

そう言って力なく笑う炭治郎に、汐は彼がこんな嘘をついてることに驚いた。

否、嘘というよりは自分の気持ちに気づいていない。そんな感じだった。

 

「嘘ね。本当は違う。あんた、宴の時あんまり楽しそうじゃなかったもの」

「そんなこと・・・」

「無いわけないわ。何年あんたと一緒にいると思ってるの。それぐらいお見通しよ。何?まさかあたしがここを出るから寂しくなっちゃったとか?」

 

汐はからかうようにそう言ってから、お道化たように炭治郎を見ると、彼はこれ以上ない程の真剣な表情で汐を見つめていた。

その顔に汐の顔からみるみるうちに笑顔が消えていく。

 

「当り前だろう!」

「た、炭治郎・・・?」

「ずっと一緒にいた、毎日会えていた人に会えなくなるんだ。寂しくないわけがない」

 

炭治郎の声色に、汐は声を失ったままその眼を見つめた。一切の曇りも迷いもない、真剣そのものの視線にくぎ付けになる。

それと同時に、炭治郎が自分に会えなくなる寂しさを感じてくれていたことに、少しだけ嬉しさを感じた。

 

「ちょっとちょっと、大げさじゃない?今生の別れってわけじゃあないし、ここから甘露寺さんの屋敷までは近くはないけど遠くは無いし、それに任務でだって会うことはあるし」

 

それにね、と汐はしどろもどろになりながらも続けた。

 

「離れていたってあたしたちの縁は切れるわけじゃないわ。あんた言ってくれたじゃない。那田蜘蛛山で。絆は誰にも引き裂けないって。なら、これぐらいで切れるほど安っぽいものじゃないでしょ?」

 

汐はそう言って炭治郎を見つめると、彼は驚いたように目を見開き、それから安心したように笑った。

 

「そうだな。汐の言う通りだ。俺、少しだけ混乱していたみたいだ。ごめん」

「謝ることじゃないわよ。あんたが悪いんじゃないし。それにあたしも、そうよ。あんたと離れて暮らすことになるって聞いたとき、正直寂しくなった。あんたがいることが当たり前だって思ってたから。だから、あんたもあたしと同じ気持ちだったことが、少しだけ嬉しい」

 

汐は微笑みながら言うと、炭治郎の顔も自然と笑顔になり、彼の目に宿っていた寂しさはなりを潜めていた。

 

「あ、そうだ。手紙を書くわ。あの時は失敗して渡せなかったけれど、今度はきちんと書いて出す。それに、そうね・・・。あんたさえよければ日にちを決めて会わない?稽古をするのもよし、どこかへ行くのもよし。それくらいなら甘露寺さんも許してくれると思うけれど・・・」

「それはいいな。じゃあ俺も手紙を書くよ。毎日」

「・・・あんたなら本当に毎日書きそうね・・・」

 

そんなことを話しながら、二人の夜はゆっくり更けていくのだった。

 

それから汐は名残惜しまれながらも蝶屋敷を後にし、彼女の師範となる甘露寺蜜璃の屋敷へとやってきた。

 

「いらっしゃい、汐ちゃん。ようこそ、私の屋敷へ!」

 

甘露寺は嬉しそうにそう言うと、すぐさま汐に荷物を置き訓練場へを案内した。

 

「改めて、あなたへ稽古をつけることになった恋柱・甘露寺蜜璃です。さて、さっそくで申し訳ないのだけれど、あなたにはまずやってもらいたいことがあります」

 

いきなりの事に汐は驚いたものの、これも強くなるための一歩だということを胸に刻み、甘露寺の次の言葉を待った。

 

「そのやってもらいたいこととは・・・」

「・・・・」

「・・・・お引越しよ!!」

「・・・へ?」

 

甘露寺の思わぬ言葉に、汐の口から素っ頓狂な声が漏れた。それに構わず甘露寺はつづけた。

 

「荷物はもう運び込んであるから、後は住むだけよ。さあ、早速行きましょう!」

「ちょ、ちょっと待って!いや、待ってください!!」

 

しかし汐の制止も聞かず、甘露寺は使用人に後のことを頼むと、半ば汐を引きずるようにして連れ出した。

その強引さに汐は何も言うことができず、ただ黙って彼女に従うのだった。

 


 

「ついたわよ!ここが今日からあなたが住む家。中々素敵でしょう?」

「いや素敵でしょうって、これ、どう見ても豪邸・・・」

 

汐の目の前に広がるのは、甘露寺邸ほどではないがそこそこの大きな屋敷だった。

しかもその場所は、あろうことか蝶屋敷からそれ程離れていないところにあった。

 

汐があんぐりと口を開けていると、甘露寺は意気揚々と説明を始めた。

 

本当は汐が甘露寺邸に住み込んで稽古をつけてもらうのがいいのだが、汐が炭治郎達と離れることをよくないと思った彼女が、汐の為に別邸を用意したということだった。

勿論、当主である産屋敷輝哉の許可もすでにとってあるという。

 

その話の速さに汐は考えることを放棄し、目の前に立つ屋敷を見据えた。が、あることを思い出し、汐は甘露寺に問いかけた。

 

「あのさ、甘露寺さん。実を言うとあたし、片付けがものすごく苦手なの。だからこんな屋敷をもらっても、たぶん綺麗にはできない。炭治郎と一緒にいた時にも、いつも叱られながら掃除してたし・・・」

「それなら大丈夫よ。使用人の人を派遣するし、私も時々ここに泊まって掃除を手伝うわ。あ、なんなら、炭治郎君を呼んで一緒に住んでもらうとか」

「い、いやいやいやいや!!それは駄目!それだけは絶対にダメ!!!」

 

しかし汐がいくら喚こうが、話は引き返せない程に進んでしまっており、結局汐はその屋敷に住むことになった。

 

そして、事情を知った炭治郎達と気まずい再会をすることになるのは、言うまでもなかった。




おまけCS
善「よかったな、炭治郎。これでまた汐ちゃんといつでも会えるぞ」
炭「それはそれで嬉しいんだけれど、心配なことがあるんだ」
善「何が?」
炭「汐は片付けがものすごく苦手なんだ。だからあんな立派な屋敷をすぐ汚してしまうかもしれない。だったら俺が一緒に住んで掃除をしたほうがいいんじゃないかって」
善「・・・」
炭「善逸?」
善「お前等さぁ・・・なんというか・・・はあ、もういいわ」
炭「???」


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

柱だヨ!全員集合?(前編)

張り切りすぎてはっちゃけた甘露寺が、汐を柱に紹介する話


あぎゃあああああああ!!!!!

 

抜けるような快晴の空に、似つかわしくない程の濁った悲鳴が響き渡る。

そこでは【レオタード】という西洋式の運動着に着替えた汐が、甘露寺に両足を思い切り開かれて悶絶していた。

 

彼女が提案したのは、柔軟性を重点的に鍛える訓練。

稽古を付けられる前、汐は甘露寺の前で海の呼吸の型を披露し、それからこれから先の方針を決めることになった。

 

甘露寺曰く、柔軟性を鍛えることは怪我の防止にはもちろんの事、汐の海の呼吸の型をさらに精錬されたものになるという。

その後少しだけ甘露寺の恋の呼吸の型を見せてもらったが、その体の柔らかさから繰り出される超高速の技の連続に、汐は度肝を抜かれた(危うく大切なものを失うところだったのは内緒だ)

 

柔軟の重要性が分かった汐は、意を決してその訓練を受けることにしたのだが、その結果が先ほどの汚すぎる悲鳴に繋がった。

 

「ガンバ!ガンバ!!」

 

甘露寺の柔軟は彼女の怪力による力業のほぐし。全身が引き千切られるような激痛に、汐は絶叫し、そして何度も戻した。

しかし脳裏に浮かぶのは、命を散らした煉獄と、悔しさに涙を流す炭治郎の姿。

煉獄の遺志に応えるため、そして大切な人を守るため、汐は苦しみに耐え続けるのだった。

 

「はい、今日の稽古はおしまい。お疲れ様」

「え?今日のって、まだ午前中だけど、あ、いや、午前中ですよ、師範」

 

汐が困惑した表情で言うと、甘露寺は首を横に振って人差し指を汐の唇に当てた。

 

「稽古が終わった時はなんて呼ぶんだったかしら?」

 

甘露寺の言葉に汐は微かに頬を染めると、おずおずと口を開いた。

 

「みっ、みっ・・・ちゃん・・・」

「はい!よくできました、しおちゃん!」

 

汐の声に、甘露寺は満足そうに笑うと、そっと汐の頭をなでた。

 

甘露寺の継子となった汐に、甘露寺はとある規則を決めた。規則と言っても堅苦しいものではない。

稽古をつけているとき以外は、敬語を使わず友人のように接してほしいということ。そして甘露寺の熱烈な頼みで、互いを愛称で呼び合うということを決めた。

 

今まで愛称で呼ばれることも呼んだこともない汐は困惑したが、呼ぶたびに甘露寺が本当にうれしそうな眼をするので、最近は悪くないなと思い始めてきたところだった。

 

「で、みっちゃん。どうして今日は午前中で稽古を終わらせたの?何か用事?」

 

汐が尋ねると、甘露寺はウキウキした表情で汐に向き直ると、その両手を握って高らかに言い放った。

 

「あなたを柱のみんなにきちんと紹介したいの。だから午後の時間は柱のみんなのお屋敷を回ってご挨拶に行こうと思って」

「へぇ、挨拶に・・・って、柱に!?」

 

思わぬ提案に、汐は思わずのけ反りながら叫んだ。

しのぶや義勇など、知っている柱ならまだしも、そのほかの柱とはほとんど面識がない。ワダツミの子の情報を持ってきた宇髄でさえそれ程親しいわけでもない。

それに汐は、柱合会議で柱の前で堂々と啖呵を切っているため、顔を合わせづらいというのもあった。

 

顔を引き攣らせる汐に構うことなく、甘露寺はウキウキとした様子で準備をはじめ、汐はそれを見ながらため息を一つついた。

 

(みっちゃん、張り切っているわね。まさかとは思うけど、あたしを継子に迎えたことを自慢したいだけだったりして)

 

汐の陰鬱な気持ちとは裏腹に、準備は着実に整っていくのだった。

 


 

最初にやってきたのは冨岡義勇が構える屋敷。汐も彼に命を二度も救われた恩もあり、その礼をしたいということで、一番最初に赴いたのだった。

しかし残念なことに、その日はすでに任務に出かけていて彼と会うことは叶わなかった。

 

仕方がないので二人は、次に面識のある音柱、宇髄天元の下へ行くのだった。

 

「よう騒音娘。甘露寺の継子になったと派手な噂を耳にしたが、本当だったとはな。もてなしてやりてえが、生憎別の任務が入っちまってね。要件なら手短に頼む」

 

そう言う宇髄に汐は「誰が騒音娘よ!」と憤慨し、甘露寺は少しだけ残念そうに眉根を下げ「また伺いますね」とだけ告げた。

 

次に赴いたのは時透邸。汐も話だけは聞いていたが、史上最年少で柱の座についた天才的な剣術の持ち主だという。

しかし汐が最も驚いたのは、刀を握ってわずか二か月で柱になったということだった。

 

(14歳ってあたしよりも年下じゃない。それで柱になるって・・・化け物だわ)

 

汐は苦々し気に顔をしかめながら、甘露寺と共に門をたたく。すると使用人らしき者が出てきて屋敷内へと案内された。

 

中ではその人、時透無一郎がぼうっと空を眺めながら、縁側にたたずんでいた。

 

「こんにちは無一郎君。甘露寺蜜璃よ。そしてこっちが私の継子の、大海原汐ちゃん」

「ど、どうも。大海原汐です」

 

汐が甘露寺につられるようにしてあいさつをすると、彼は視線を向けると、「誰?」とだけ答えた。

 

その態度に汐は違和感を覚えた。柱合裁判があったのはかなり前。汐の事なら忘れてもおかしくはないが、同僚である甘露寺を忘れるのはいかがなものか。

困惑する汐に甘露寺は耳打ちするように答えた。

 

「無一郎君はね、物事を覚えておくことが少しだけ苦手みたいなの。でも悪い子じゃないし、柱としてもすごい子だから仲良くしてあげてね」

 

仲良くといっても向こうはその気は一切なさそうだし、それに彼の眼には自分たちなど映っておらず、何を映しているのかすら汐にはわからなかった。

 

時透邸を出た後に向かったのは、悲鳴嶼邸。柱の中でも一番背が高く、屈強な体格をした悲鳴嶼行冥の構える屋敷だ。

門を潜れば悲鳴嶼自ら出迎えてくれ、甘露寺は嬉しそうにほほ笑んだ。

 

話を聞くに、彼はその屈強な体格に反して猫が好きであり、自らも飼育をしているらしい。同じく猫好きの甘露寺とは話が合い、時たま会ったりするそうだ。

 

「改めて名乗ろう。私は悲鳴嶼行冥、岩柱の役職についている。甘露寺の継子になったという話は聞いていたが、鍛錬は順調か?」

 

あの時とは異なり、悲鳴嶼の口調はとても柔らかく、警戒していた汐の心をほぐしていく。汐が答えると、彼は少しだけ困ったように笑った。

 

「私のことが怖いか?」

「え?」

「このような風体故怖がらせてしまうことは慣れているが、ましてや私は君を言葉だけとはいえ殺そうとした。恐怖を感じても仕方がないと思っている」

 

ほんの少しだけ悲し気に眉根を下げた悲鳴嶼に、汐は慌てて言葉を付け加えた。

 

「ああ、違う。違うのよ悲鳴嶼さん。あたしは何も怖がっているわけじゃなくて、その・・・」

 

汐はバツの悪そうな顔で目を逸らすと、消え入りそうな声でそっと言った。

 

「なんというか・・・その、悲鳴嶼さんの雰囲気が・・・おやっさん、あたしの父親に似てて。ああ違うの!悲鳴嶼さんはおやっさんみたいに不真面目なわけがないし、似ているわけじゃないんだけど・・・あれ、何言ってるんだろうあたし」

 

汐は最後は言葉が見つからず、顔を真っ赤にしてうつむいてしまう。そんな彼女を見て甘露寺は頬を染め、悲鳴嶼は鳩が豆鉄砲を食ったような顔で汐を見つめた。

だが、彼は直ぐに口元に笑みを浮かべると、「父親か、そうか」と何故だか嬉しそうに言葉を紡いだ。

 

「あ、そう言えば。悲鳴嶼さんも継子をとったとうわさで聞きましたけれど、どんな子なんですか?」

 

甘露寺が話題を変えるべく言葉を投げかけると、悲鳴嶼は思い出したように肩を震わせた。

 

「とても実直で優しい子だ。だが、今は任務で出かけていて不在だが、いつか君達にも思っている」

「そうですか!今日会えないのは残念ですけれど、もしかしたらしおちゃ・・・汐ちゃんとも仲良くなれるかもしれませんね」

 

そう言ってほほ笑みあう甘露寺と悲鳴嶼は、まるで我が子を自慢する親のように見えた。そんな二人を見て、汐は悲鳴嶼の継子がどんな子なんだろうと微かな期待を膨らませるのだった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

柱だヨ!全員集合?(後編)

あいさつ回り中の汐が、柱とドンパチやる話
この作品では鏑丸は無毒の蛇となっております


陽がだいぶ傾き、少しばかり風が冷たくなってきた頃。

悲鳴嶼邸を出た二人は、近くにあった甘味処で一休みすることにした。

 

甘露寺は皿が山積みになるほどの三食団子を。甘いものが苦手な汐はところてんを注文した。

 

「さて、後ご挨拶をしていない柱の人は・・・蛇柱の伊黒さんと、風柱の不死川さんの二人ね」

 

「・・・え?」

 

次に向かう所を聞いて、汐の顔が引きつった。

前者の伊黒は柱合裁判で汐を拘束し、痛めつけられた相手。後者は禰豆子を傷つけ、激高した汐が殴り倒し、あまつさえ殺めようとした相手だ。

そんな二人が汐と会えば衝突は避けられないことは確実であり、汐自身も二人は好き好んで会いたい相手ではない。

 

しかし甘露寺は、伊黒はともかく不死川には、殴ってしまった事と殺そうとしてしまった事をきちんと謝らなければならないと汐を諭した。

殴ったことはともかく、殺そうとしたことは簡単に許されるとは思わないが、ぐうの音も出ない正論に、汐は従うしかなかった。

 

「さて、お腹もいっぱいになったことだし、そろそろ行きましょう。早くしないと日が暮れてしまうわ」

 

相も変わらずウキウキとした甘露寺に、汐は陰鬱な気持ちでしたがうのだった。

 


「ここが伊黒さんのお家ね。外では時々あったり、文通もしているけれど、お家に来るのは初めてなの」

「え、そうなの?っていうか文通してるって・・・」

 

心なしか伊黒の話をする甘露寺の眼は、他の柱には無い何かを宿していた。それが何なのかはこの時点の汐にはわからなかった。

 

「こんにちは、伊黒さん。甘露寺です!いらっしゃいますか?」

 

甘露寺が声をかけると、間髪入れずに伊黒が屋敷から出てきた。その速さに驚く汐をしり目に、甘露寺はにこやかな笑顔で言った。

 

「今日は汐ちゃんと柱の皆さんにご挨拶に来たんです。私の大切な継子を、伊黒さんにもきちんと紹介したくて」

 

甘露寺が尋ねてきたことに嬉しさを宿した伊黒の眼が、汐に映った瞬間あからさまに目の色が文字通り変った。

その眼は明らかに疑いと怒りと嫉妬心が宿っていた。

 

「甘露寺の継子になったという話は耳にしていたが、まさかお前とは。何故お前のような者が甘露寺の継子になれた。甘露寺に恥をかかせるような体たらくなら絶対に許さん」

 

相も変わらずネチネチとした物言いに、汐は思わず顔を引き攣らせた。そんな彼女の態度が気に障ったのか、伊黒は更に視線を鋭くさせる。

しかし汐も師匠である甘露寺に恥をかかせないようにと、引き攣る顔を何とか戻そうとしながらも、伊黒に挨拶をしようと手を伸ばした、その時だった。

 

手の甲に小さな衝撃を感じて汐が視線を動かすと、そこには伊黒の相棒の蛇、鏑丸が汐の手の甲に牙を突き立てているのが目に入った。

 

「ぎゃあああああああああああああああああ!!!!!」

 

汐は耳をつんざくような悲鳴を上げ、鏑丸振り落とそうと思い切り手を振った。初めはずっと食いついていた鏑丸だが、何度か振り下ろされる手の衝撃に耐えられず上空に打ち上げれられた。

それを甘露寺が慌てて受け止め、伊黒に返す。

 

「な、な、な、何すんのよこの蛇公!!」

 

噛まれた傷口を抑えながら汐が激昂すると、鏑丸は心なしかしてやったりとした表情で汐を見据えていた。

 

「あったまきた!!三枚に下ろして蒲焼にしてやる!!」

「シャーッ!!」

「シャーッ!!」

 

顔を真っ赤にした汐が日輪刀に手をかけると、鏑丸も怒ったように威嚇の声を上げ、それに合わせるように汐も威嚇の声を上げた。

 

そんな汐を甘露寺は慌てて止め、伊黒は呆れたように汐を見据えていた。

 

「キーッ!!覚えてなさいよ!!あんたに馬鹿にされないくらい、強くなってやるんだから!!」

 

甘露寺に引きずられながら、汐は頭から湯気を出して叫び続けるのだった。

 

そして次は、いよいよ汐にとって鬼門の不死川邸。

先程の伊黒とのやり取りですっかり気分を害した汐は、訪問を頑なに拒んだが、甘露寺に(物理的に)引きずられ、有無を言わさず連れてこられてしまった。

 

「こんにちは、不死川さん。甘露寺です」

甘露寺が声をかけると、一人の使用人が屋敷から進み出てきた。甘露寺が説明すると、不死川は鍛錬場にいるという。

 

逃げ出そうとする汐を捕まえてから、甘露寺は鍛錬場のある場所へ足を進めた。

 

そこではたくさんの巻き藁があり、いずれも真っ二つに斬られ地面に無造作に落ちている。その中心ではひたすらに刀を振るう不死川の姿があった。

 

「不死川さん、こんにちは。甘露寺です」

 

甘露寺がそんな彼に臆することなく声をかけると、不死川は何だといわんばかりに振り返った。だが、その眼が汐を捕らえた瞬間、彼の顔中に青筋が浮かんだ。

するとそれを見た汐の顔も、全ての皮が引っ張り上げられたように引き攣り、たちまち空気が張り詰めた。

 

「甘露寺ィ。なんでそのガキをここに連れてきやがった?」

柱合裁判でのことを思い出したのか、不死川は顔中を痙攣させながら汐を睨みつけ、汐も禰豆子や炭治郎を傷つけられた記憶がよみがえり、殺意のこもった眼で彼を睨みつけた。

 

そんな状況に気づいているのかいないのか、甘露寺は穏やかな表情で言い放った。

 

「私の継子の大海原汐ちゃんを不死川さんに紹介したくて来たんです。もう他の柱の皆さんにはご挨拶が住んでいますので、後は不死川さんだけなので」

「そうかァ。ならさっさと帰れ。そいつを見ていると虫唾が走る」

 

不死川はそれだけを言うと、二人に背を向け刀を振り上げた。汐は思わず吹き飛ばしたくなる衝動を感じたが、甘露寺の手前これ以上諍いを起こすわけにはいかない。

かといってこのまま黙って帰るにも腹立たしい。汐は唇をかみしめると、一歩彼の方へ踏み出した。

 

「不死川、さん」

 

汐は上ずりながらも声をかけるが、不死川はそれに答えることなく刀を振るう。その態度にムッとしながらも、汐は震える頭をゆっくり下げた。

 

「柱合裁判の時、殴ってしまった上に殺そうとしてしまって、すみませんでした」

 

震える声で謝罪の言葉を口にすると、刀を振る不死川の手が止まる。そしてゆっくりと振り返り、汐の青い髪を見据えた。

 

「てめぇ、まさか謝って許されるとでも思っているのか?ごめんで済んだら警察なんざいらねぇんだよ。形だけの謝罪なんざ何の意味もねぇ。俺はお前を許す気も認める気もさらさらねえんだ。消えろ」

 

不死川は冷たく言うと、再び汐に背を向け刀を手に取る。汐は顔を上げると、不死川の背中に向かって言い放った。

 

「わかっている。あたしのしたことが許されないということは。けれど、これだけは言わせてもらうわ。あたしは炭治郎と禰豆子を信じるし、あんたがあたしを認めないというなら、力づくで認めさせてやる。あたしたちが鬼殺隊員として戦えるって、証明して見せる!!」

 

汐の凛とした、無礼極まりない言葉に甘露寺の肩が跳ね、不死川も思わず振り返り汐を見た。彼女の眼には、これ以上ない程の強い決意と矜持、そして微かな野望すら見えている。

まるで獣のようなその眼光に不死川の身体が微かに震えたが、不意に謎の衝動が彼の奥底から湧き上がってきた。

 

「・・・上等だァ」

 

不死川は汐に近づき、冷たい眼で見降ろし、そんな彼に、汐は殺意と意地を込めた眼で睨み返した。

 


 

こうして汐の波乱に満ちたあいさつ回りが終わり、稽古をつけてもらっていた時よりも何倍も疲れた彼女は、家に帰るなりすぐさま布団に倒れこんだ。

 

(あ゛ー、疲れた。今まで生きてきて一番疲れた気がするわ。だけど、柱にああも啖呵を切ったわけだし、炭治郎と禰豆子の為にも、がんばらない・・・と)

 

しかし汐の意識は決意とは裏腹に、その疲労に引きずられるようにして闇の中に沈んでいくのだった。

 

その夜、汐は不思議な夢を見た。深い深い水の中、海の底に引きずられるようにして沈んでいく。

 

自分を包み込む泡は、何故か冷たく、汐の体を突き刺していく。

 

そんな彼女の視線の先には、海の底で静かに咲く、青白く光る一輪の花があった。花びらがいくつも重なった、八重咲の百合に似た花。

周りは水で満たされているというのに、その花は静かに咲いていた。

 

汐はその花に何故か見覚えがあるような気がした。しかし、水の中で咲く花など聞いたことがない。

汐はその花にそっと手を伸ばして触れようとしたその時だった。

花が突然泡のようになり、水に溶けて消えていく。

 

(駄目ッ・・・!逝っちゃ駄目ッ!!)

 

それを見た瞬間、汐の胸に突然悲しい気持ちが沸き上がり、理由もないまま泣き叫んだ――

 

 

「・・・い、おい。おい!いつまで寝ている?」

 

不意に声をかけられ、目を開けるとそこには一人の男が立っていた。

口元を布で覆い、左右の眼の色が違うこの男は――

 

「あふぇ?伊黒・・・さん?」

「間抜けな顔で間抜けな声を出すな。全く、なんでこんなやつが甘露寺の継子になれたんだ」

「いや、そもそもなんであんたがここにいるの?っていうか住居不法侵入じゃないの!?」

 

慌てて起き上がった汐の罵倒に臆することもなく、伊黒は汐を冷たい眼で睨みつけながら言い放った。

 

「俺は鬼は勿論だが、それに媚びを売る奴も、自分の言葉に責任を持たない奴が嫌いだ、大嫌いだ。昨日も言ったが、お前が甘露寺に恥をかかせることは絶対に許さないし、俺はお前を認めない。認めてほしくば、証明して見せろ。お前が甘露寺の継子にふさわしいか、そして、お前のその力が役に立つのか」

「伊黒さん・・・」

「わかったならさっさと着替えろ。愚図は嫌いだ。四〇秒で準備を整えろ」

 

伊黒にどやされ、汐は大慌てで着替え、そして甘露寺邸に赴く。その日を境に、汐の悲鳴が一層大きくなるのだった。




伊「認めない認めない。お前を甘露寺の継子とは絶対に認めない」
汐「あー、もう!しつっこい!!あたしはしつこい奴と優柔不断な奴が大嫌いなのよ!」
伊「俺もお前のような、喧しく下品な女は大嫌いだ。甘露寺を見習え」
汐「さっきから甘露寺甘露寺って、あんたなんなの!?みっちゃんのことが好きなの!?」
伊「!?貴様・・・甘露寺を気安く愛称で呼ぶな」
汐「みっちゃんが呼んでくれって言ったから呼んでるのよ!何なのこの人!めんどくさいにもほどがあるわ!!冨岡さんとは別方向で面倒くさい!!」
伊「おい・・・あんな奴と俺を一緒にするな。罰として訓練場の掃除も追加だ」
汐「横暴だぁああああああ!!!!この変人共!!絶対にあんた達をぎゃふんといわせてやるからなあああ」


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

産屋敷輝哉の頼み事

輝哉に呼ばれた汐と甘露寺の話
・原作捏造あり


産屋敷邸。それは鬼殺隊当主である産屋敷輝哉と、その家族が住まうどこかにある屋敷。

その場所は巧妙に隠されており、隠の案内、もしくは柱でしかたどり着けない。なのでそこに赴けるのは主に柱のみ・・・なのだが。

 

その屋敷に大海原汐は、師範である甘露寺と共に招かれていた。

 

それは汐がいつもの通り、甘露寺の下で修行を積んでいたころ。

いきなり丁寧な口調で話す鎹鴉が、輝哉が汐と甘露寺を屋敷に招きたいと伝えに来たのだ。

 

柱合会議の時期でもないはずのその知らせに、汐は勿論甘露寺もたいそう驚いたのだが、お館様の呼び出しを無下にするわけにもいかず、二人は屋敷へと赴いた。

 

そして、彼が見えるまで待たされた部屋で、汐はこれ以上ない程の緊張感に包まれ身体は可哀そうなくらいに震えていた。

 

「ね、ねえ、しおちゃん。とても緊張する気持ちはわかるけれど、ちょっと落ち着きましょう」

 

怯え切った小動物のように震える汐の手を、甘露寺は優しく握った。しかしそれでも汐の震えは止まらない。

 

「だ、だって、あたしみたいな癸がお館様に会うなんて・・・」

 

いつもの彼女なら絶対にありえない後ろ向きな言葉が出てくることに、甘露寺は改めて輝哉の偉大さを認識するが、汐の言った言葉に小さな違和感を覚えた。

 

「あれ?あなた今、癸って言った?おかしいわね・・・。しおちゃん、ひょっとして階級の示し方を知らないの?」

「示し方?」

 

甘露寺の言葉をオウム返しにすると、甘露寺は徐に自分の右手で拳を作り口を開いた。

 

「階級を示せ」

 

すると甘露寺の右手の甲にゆっくりと【恋】という文字が浮かび上がった。

 

「これは【藤花(とうか)彫り】っていう特殊な技術なの。最終選別が終わった後、手をこちょこちょってされなかった?」

「された、気がするけど。あの時は全身バラバラになりそうな痛みで、それどころじゃなくて・・・」

「そうよね、私も覚えがあるからわかるわ。まあとにかく、今のしおちゃんの階級を見てみましょう」

 

甘露寺の言葉に汐は頷き、左手を握りながら「階級を示せ」と口にした。

すると汐の左手の甲にゆっくりと文字が浮かび上がり、それは【(かのえ)】と書いてあった。

 

「庚ね。下から四番目だけれど、通常の隊士にしては短期間での昇格よ」

「でも柱には程遠いわ。そんなあたしを呼び出すって、あたし何かやらかしたのかな・・・」

 

再び震えだす汐を、何とかなだめようとする甘露寺だったが、不意に襖が開き二人は慌てて姿勢を正した。

 

「お館様の御成です」

 

あの時と同じく二人の少女がそう告げると、襖の奥から輝哉がゆっくりと姿を現した。それに合わせるように、汐と甘露寺は頭を下げた。

 

「よく来たね。私のかわいい剣士(こども)達。ん?部屋が少し揺れているね。地震かな?」

 

輝哉の言葉に甘露寺は慌てて汐の手を握って落ち着かせ、おずおずと顔を上げながら口を開いた。

 

「お館様におかれましても、御壮健で何よりです。益々の御多幸を切にお祈り申し上げます」

 

甘露寺のあいさつの言葉に、輝哉は嬉しそうに「ありがとう、蜜璃」と返せば、彼女の頬は薄い桃色に染まった。

 

「蜜璃の継子になったという話は聞いているよ。鍛錬は順調かな?」

「は、はい!師範にも他の柱の人たちにも、ずいぶん鍛えられてます」

 

汐がそう答えると、彼はそれはよかったとにっこりとほほ笑んだ。

 

「二人とも突然呼んでしまってすまなかったね。特に汐はたいそう驚いたことだろう。今日二人を呼んだのは、私の頼みごとを聞いてもらいたかったんだ」

「お、お館様直々の頼み事!?」

「駄目かな?」

「い、いいえ滅相もない。お館様の御願いならばなんだってします!」

 

汐が声を上ずらせながらそう言うと、輝哉の表情がパッと輝いたような気がした。

 

「そうか、ありがとう。私が汐に頼みたいことと言うのは――」

「・・・」

「汐の歌を、もう一度聴かせてほしいんだ」

「・・・へ?」

 

思ってもいなかった言葉に、汐は勿論甘露寺も豆鉄砲を喰らったような顔で彼を見つめた。

 

「駄目かな?」

「い、いいえ!お館様のためなら百曲でも二百曲でも歌います!」

「それは少し困るかな。私も疲れてしまうし、何よりも汐の喉がもたないだろうしね」

「あ、そ、そうですよね。すみません・・・」

 

緊張のし過ぎなのか素っ頓狂な言葉を紡いでしまう汐に、甘露寺は少しだけ呆れつつもその愛らしさに胸をときめかせていた。

 

「じ、じゃあ、どんな歌にしましょうか?元気の出る歌、心が安らぐ歌、後はえっと・・・」

「いや、私が聴いてみたい歌はもう決めているんだ。いいかな?」

「も、勿論です!何でも言って、じゃなかった。お、お申し付けください」

 

汐は慣れない敬語でそう伝えると、輝哉は期待を込めた表情で汐を見て言った。

 

「君の故郷の村の歌を聴かせてくれないか?」

 

輝哉の優しい声色に、汐は呆然として彼を見つめた。汐の故郷。今は無き、海辺の村。

そこに伝わるのは、今はわらべ歌となったワダツミヒメを沈める歌。ワダツミの子に深く関係のある歌を、彼が聴きたいというのは理にかなっていた。

 

しかし頭が混乱している汐に、それを推測する力はなかった。

 

「あたしの、村の?で、でも。あれは子供の歌だし、お館様が満足するような歌じゃ・・・」

 

その声は段々と小さくなり消えてしまい、汐は期待を込めて自分を見つめてくる輝哉の眼に抗うことは無駄だと瞬時に察した。

 

「わかりました。お館様の為に歌います」

 

汐はそっと立ち上がると、乱れる呼吸を沈めるように深く深呼吸をし、そしてゆっくりとその口を開いた。

 

― そらにとびかう しおしぶき

ゆらりゆれるは なみのあや

いそしぎないて よびかうは

よいのやみよに いさななく

ああうたえ ああふるえ

おもひつつむは みずのあわ ―

 

汐の透き通るような声が部屋中に響き渡り、輝哉は勿論、甘露寺もお付きの少女たちも目を閉じ歌に聞き入る。

しかし歌が終わったはずの汐の口は、そのまま動き次の歌を奏で始めた。

 

― おおなみこなみ みだれゆく

つきたてらるは さめのきば

いさりびともり うみなれば

わだつみおどり うみはたつ

ああひびけ ああとどけ

おもひつたうは しおのうた ―

 

汐は歌いながらも、この歌に続きがあったことに驚いたが、この場所で歌を中断するわけにもいかず最後まで歌い切った。

歌い終わると、間髪入れずに拍手が響き渡った。

 

「素晴らしい歌をありがとう。なるほど、それが君の故郷の歌か」

 

輝哉は嬉しそうな表情でつぶやく様に言ったが、ふと、視線を少しだけ鋭くさせながら口を開いた。

 

「汐。私は何としても鬼舞辻無惨を倒したいと思っている。それは何のためかわかるかな?」

「え?えっと・・・鬼から人を守るため、ですか?」

「うん、それも間違いではないんだ。けれど、私はどうしてもその悲願を達成したい。それはね。私の過去にある」

 

その言葉を紡いだ瞬間、二人の少女たちが驚いたように彼を見て目を見開いた。

 

「汐。私の顔を初めて見たときに驚いただろう?見ての通り、私の身体は重い病に侵されている。しかし、この病は呪いであり、私の一族はこの呪いにより30まで生きられない身体となっているんだ」

「えっ!?」

 

思いがけない言葉に、汐は思わず息をのんで輝哉を見つめ、彼はそんな汐に構うことなく続けた。

 

「そしてこの呪いは千年前からずっと続いている。その呪いを解くには、鬼舞辻無惨を倒すことに心血を注ぐこと。だが、見ての通り千年以上たっていてもその悲願は果たせていない」

 

輝哉はそう言って少し視線を落としたが、すぐに顔を上げにっこりと笑顔を見せながら言った。

 

「でも、私はその悲願がこの時代で果たされると願っている。始まりの呼吸の剣士以来の精鋭である柱、鬼でありながら人を襲わない少女、そして――ワダツミの子。これほどまでに素晴らしいものたちがこの時代に現れたことが、何よりの奇跡だと思っているんだ」

 

輝哉の声が汐の耳から脳を震わせ、心を落ち着かせていく。この人の語る言葉が、汐にさらなる決意を湧き上がらせた。

だが、汐は一つの疑問が生まれそれを思わず口にした。

 

「あの、お館様?一つだけ聞いても、お聞きしてもよろしいですか?」

「構わないよ。何かな?」

「そんな大事なお話を、あたしなんかに話してよかったんですか?」

「うん、本当はあんまりよくないかもしれないね。このことを知っているのはごく一部の者だけだから」

 

輝哉のその言葉に汐は一瞬で固まると、甘露寺は慌てて「このことは決して他言いたしません」と汐の代わりに付け足した。

そんな二人を見て、輝哉は安心させるような声色で言った。

 

「けれど、それほどまでに君には人を惹きつけ、影響を与える力がある。君がワダツミの子であることも勿論だけれど、君自身にもその力があると私は思っている。現に君が現れたことによって変わり始めたことはたくさんある。私のようにね」

 

だからこそ、と彼はつづけた。

 

「私のかわいい剣士(こども)達。君たちの活躍を、心から期待しているよ」

 

その言葉を最後に謁見は終わり、彼は二人に戻るように告げた。

 

「さて、私はこれから少し用事があるから離れるから、しおちゃんは隠の人と一緒に先に帰ってもらえる?」

 

甘露寺はそう言って隠に汐を託すと、自分は別方向へと足を進めていった。

隠は頷くと汐の目を隠し、背負おうとしたその時だった。

 

「ぎ・・・」

「ぎ?」

「ぎ・・・・ぎ・も゛ぢ わ゛る゛い゛・・・」

 

顔を真っ青にしてえずく汐に、隠は同じくらい顔を真っ青にして叫んだ。

 

「おい、おいしっかりしろ!ま、待ってろ、そのまま待ってろ!」

 

隠は慌てて懐から袋がいくつも重なったものを取り出し汐に渡した。その数秒後、汐はその袋に救われ、最悪の事態は免れた。

 

それ以来、汐を運ぶ隠達の懐には、その袋が常備されるようになったとかそうじゃないとか。

 


 

見事なまでの満月がかかったその夜。産屋敷輝哉は、窓の外からその景色をそっと眺めていた。

その目がその光景を映すことはないが、微かな光は彼の中に確かに届いていた。

 

そんな彼の口から柔らかな歌声が零れだす。それは昼間、汐が彼の前で披露したわらべ歌だった。

 

「失礼いたします」

 

そんな彼の元にやってきたのは、彼の妻である産屋敷あまね。真白な肌に同じくらい真っ白な髪色の、とても美しい女性だった。

彼女は歌を奏でる夫を見て少しだけ目を見開くと、そっと飲み物を彼の傍に置いた。

 

「それはあの方の、青髪の少女の歌ですか?」

「ああ、どうも耳に残ってしまってね。知らず知らずのうちに口にしてしまっていたようだ。しかも、それだけじゃない」

 

輝哉は不思議な笑みを浮かべながら、あまねの方を向いた。

 

「いつもなら満月の夜になると発作が起きやすくなるはずなのに、今夜に至ってはそれがない。とても気分が穏やかなんだ。こんな気持ちになったのは何時ぶりだろう」

 

そう言う彼の表情は本当に穏やかで、あまね自身もこれほどまでに穏やかな姿を見るのは久しぶりだった。

 

「彼女の歌のせいかな。ワダツミの子。本当に不思議な少女たちだ。まるで、触れれば消えてしまう泡沫のように・・・」

 

輝哉の少し切なげな声は、風に乗り空へと消えてゆき、そんな彼の背中をあまねはそっと支えるのだった。

 

そしてしばらくの間、産屋敷邸では汐の歌が流行っていたのだが、それを汐が知ることは決してなかった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

紡ぎ歌(栗花落カナヲ編)

汐が何とかカナヲと仲良くしようとする話


その日は、少しだけ雲がかかった晴れた日の事。

 

「こんにちは~。誰かいないの~?」

 

蝶屋敷に響き渡る声の主は、真っ青な髪に赤い鉢巻を巻いた少女、大海原汐。普段は甘露寺の別宅に住み、師範である彼女の下で鍛錬をしている。

今日は甘露寺から頼まれ、しのぶへ渡すものを持って蝶屋敷を訪れたのだ。

 

しかし声をかけても誰も来る様子は無く、汐はそのまま足を進めた。

 

中庭に向かおうとすると、汐の目の前を何かが通り過ぎた。それは日の光を浴びて虹色に輝くシャボン玉。

誰かがいることを悟った汐は、シャボン玉が飛んできた方向へ向かった。

 

そこでは、蟲柱・胡蝶しのぶの継子の少女、栗花落カナヲが縁側に座って空に向かってシャボン玉を吹き出していた。

今までは特に何もせずぼうっとしていることが多いカナヲが、こうして何かをしていることは珍しく、汐は思わず目を見開いた。

 

「おーい、カナヲ!久しぶり!!」

 

汐は大きく手を振りながら、カナヲの名前を呼んだ瞬間。カナヲは肩を大きく震わせると、持っていたシャボン液の入ったコップを落としてしまった。

シャボン液が飛び散り、カナヲの隊服にかかり大きなシミを残す。

 

「やだっごめん!大丈夫!?」

 

汐は慌ててカナヲの元に駆け寄ると、手ぬぐいを取り出しカナヲの隊服を拭こうとした。が、カナヲはそれを拒否するように一歩下がると、慌てた様子で屋敷の中に戻っていった。

 

「・・・・」

 

汐が呆然とカナヲが去った方角を見つめていると、後方から洗濯物の入った籠を持ったきよが歩いてきた。

 

「あ、汐さん。お久しぶりです。いらしていたんですか?」

「久しぶりね、きよ。うちの師範からしのぶさんあてに荷物を届けに来たんだけど、しのぶさんは?」

 

汐の問いかけにきよは、しのぶは今席を外していることを告げた。

 

「そう。時期を間違えちゃったみたいね。それより屋敷が随分静かだけれど、男連中はどうしたの?」

「皆さんそれぞれの任務に出かけています。あの善逸さんも駄々をこねずに仕事に行くようになったんですよ」

「善逸が?いったいどういう風の吹き回しかしら。それとも、ちゃんと成長してるってことかしらね」

 

汐が少し皮肉を込めて言うと、きよは苦笑いを浮かべた。

 

「お荷物の件ですが、私がしのぶ様へ届けておきましょうか?」

「え、いいの?そうしてもらえると助かるわ」

 

汐は荷物をきよに渡し、帰路につこうとしたがふとカナヲのことを思い出して口を開いた。

 

「ねえ、カナヲって最近は何時もあんな感じなの?」

「あんな感じ、とは?」

「さっき縁側でシャボン玉を吹いてたのよ。あたしが声を掛けたら驚かせちゃったみたいで戻っちゃったけど。今まであの子、どこか遠くを見ていることが多かったから少し気になったの」

 

汐の言葉にきよは少しうれしそうな表情で彼女を見ながら言った。

 

「最近、カナヲさんはああしてシャボン玉を吹いたり、お小遣いでみんなのお菓子を買ったり、猫の肉球をぷにぷにしたり、自主的にお手伝いをしたりするようになったんです。以前はそう言ったことがなかったので、みんな驚いているんですよ」

「そうだったの。あたしがいない間に随分様変わりしたのね。って、いけない。もうこんな時間!あたしこれからみっちゃ・・・師範との稽古があるんだった!しのぶさんとみんなによろしくね!」

 

汐はそれだけを言うと、疾風の如く速さで蝶屋敷を後にし、きよはがんばってくださいね!と、汐の背中に声をかけるのだった。


 

その夜。

 

(あ゛~~、疲れた・・・)

 

汐は疲労がたまった身体を、一人で入るには大きすぎる湯船にだらりと垂らしながら心の中でつぶやいた。今日の稽古は甘露寺の他、伊黒の拷問に近い訓練も加わり、体についた傷がお湯に沁みて鈍く痛む。

 

(あの蛇男、絶対に個人的な恨みの感情をあたしに向けてるわ。あたしに向けている眼とみっちゃんに向けている眼が明らかに違うもの。柱って本当に変態ばっかり)

 

そんなことを考えながら、窓からのぞく星空を見つめていた汐だが、不意に昼間のことがよみがえった。

 

それはカナヲの事。きよの話では、以前に比べ自主的に動くことができるようになったということだが、自分が話しかけようとしたときは逃げてしまっていた。

 

眼を見る限り悪い感情は見えなかったが、やはり逃げられてしまったということは汐にとっては悲しかった。

 

(あたし、カナヲに嫌われてるのかな。確かに最初はいい感情は持ってなかったけれど、あたし達が前に進めたのはあの子のお陰なのは確かなのに)

 

「は~あ・・・」

 

汐が大きなため息をきながら背を伸ばそうとした、その時だった。

 

「駄目よ、しおちゃん。溜息を一つつくと、幸せが一つ逃げちゃうんだから」

 

背後から声が下かと思うと、突然後ろから二本の腕が伸びてきて優しく抱きしめられ汐の体が跳ねた。背中に当たる柔らかい感触に思わず震える。

 

甘露寺蜜璃が一糸まとわぬ姿で、汐に抱き着いていた。

 

「え、みっちゃん!?帰ってたの!?っていうか、なんで入って・・・」

「思ったよりも仕事が早く片付いちゃって、家に帰るよりもここの方が近いから、今日は止まって行こうと思ったの」

「だったら入る前に声くらいかけてよ。あ~もう、びっくりして心臓が口からまろび出るところだっ・・・」

 

汐はそう言いかけて、思わず口をつぐんだ。もしかしたら昼間のカナヲも、いきなり声をかけられて驚いてあんな行動をとったのかもしれない思ったからだ。

甘露寺は急に黙ってしまった汐に、どこか体調が悪いのかと尋ねると、汐は慌てて首を横に振った。

そして彼女に、今日の昼間にあったことを話した。

 

「成程ね。しおちゃんの言う通り、カナヲちゃんはいきなり声をかけられてびっくりしただけで、しおちゃんを嫌ったわけじゃないと思うわ。でも、カナヲちゃんの隊服を汚しちゃったのは事実だから、明日謝りに行ってきたほうがいいわね」

「そうする。でも、手ぶらで謝りに行くのも失礼だし、何かカナヲに持っていった方がいいわよね。何がいいかな」

「そう言えば、前にしのぶちゃんのお屋敷に遊びに行った時に、ラムネをおいしそうに飲んでいたのを見たわ」

 

汐が首をひねりながらそう言うと、甘露寺は思い出したように手を叩きながら言った。

 

「ラムネかぁ。確か町に行けば売ってたかな。明日買ってから蝶屋敷に行ってみる。ありがとう、みっちゃん」

 

汐の決心した表情を見て、甘露寺は思わず顔をほころばせるのだった。

 

そして翌日。

汐は午前中の稽古の後、甘露寺に許可をもらい町へと赴きラムネを買った。甘露寺の継子になったとはいえ、彼女は基本的に汐の意思を尊重してくれていた。

その心遣いに感謝し、ついでに彼女の好物の桜餅も買っておいた。

 

空を見ると少し黒い雲が出始めており、雨が降りそうな模様だ。

 

(急いだほうがよさそう)

 

汐はそのまま、足早に蝶屋敷へと向かった。

 

「こんにちは~。カナヲ、いる~?」

 

屋敷に向かって声をかけるが、返事はない。またこの感じかと汐は少しだけ微妙な気持ちになったが、そのまま敷地内に足を進めた。

 

中庭に行くと、たくさんの洗濯物をカナヲが取り込んでいるのが見えた。いつもならアオイや三人娘たちがやっているはずだが、今日にいたってはカナヲがやっており中々に珍しい光景だった。

しかしいくら身体能力が高いとはいえ、たくさんの洗濯物を抱えるカナヲは大変そうに見えた。

 

汐はそんなカナヲに寄り添うようにして近づくと、かかったままの洗濯物を外し始めた。

 

「手伝うわ。あんた一人じゃ大変そうだもの」

 

汐の存在に気づかなかったのか、カナヲは非常におどろた顔で彼女を見つめた。が、前回とは違い今度は逃げることは無くそのまま洗濯物を取り込んだ。

 

そしてようやく仕事がひと段落した後、汐はカナヲに向き合い持ってきたラムネを手渡した。

 

「これ、あげる。それと、昨日は驚かしてごめんなさい」

 

汐はそう言って頭を下げると、カナヲは困ったように目を泳がせた。そして懐から銅貨を取り出そうとして、手を止めた。

 

カナヲの頭の中に、一つの言葉がよみがえる。

 

(心のままに)

 

カナヲは銅貨を取り出そうとした手を引っ込め、汐の手からラムネを受け取った。そして小さく「ありがとう、大丈夫」と答えた。

それを聞いた汐が今度は驚いた表情でカナヲを見つめた。銅貨で決めなかったことと、礼を言われたことに驚くと同時に嬉しさがこみ上げてきた。

 

ところがその時、不意に汐の鼻の頭に雫が一つ落ちてきた。かと思うと、雨粒はたちまち増え瞬く間に激しく振り始めた。

 

「わあ、降ってきた。カナヲ、早く!」

 

汐は思わずカナヲの手を取ると、そのまま屋敷の中へ転がるようにして入った。幸いずぶ濡れは免れたが、この雨では汐の家までは戻れそうにない。

 

「思ったより早く降られちゃったわ。ごめん、少しだけ雨宿りさせてくれる?」

「え、う、うん」

 

カナヲは戸惑いながらうなずくと、汐は「ありがとう」とだけ小さく言って二人で縁側に座った。

 

辺りには雨が降る音だけが響き、カナヲは勿論汐も特に話題が思い浮かばず居心地の悪い沈黙が続く。

時折、炭治郎達はどうしているか尋ねても、曖昧な返事をされるだけだ。

 

(やっぱり嫌われてるのかな、あたし。まあ、気に食わない奴には我慢できなくなるし、それがあたしの短所だってのはわかっているはずなんだけどね)

 

はあと小さくため息をつけば、灰色の空が目に入りさらに気が滅入る。すると、カナヲはそんな汐を見ながらおずおずと声をかけた。

 

「あ、あの」

「え?な、なに?」

 

思いがけない言葉に驚いて顔を向けると、汐は思わず目を見開いた。カナヲが一本のラムネを汐に向かって差し出していたのだ。

思わず志向が停止する汐に、カナヲは緊張を宿した眼を向けながら言った。

 

「前に、みんなで宴をしたときに飲み物をくれたでしょ?その、お返し。何かをされたら返すものだって、アオイが言ってたから・・・」

「カナヲ、あんた・・・」

 

以前のカナヲだったら絶対にありえなかった行動に、汐は驚きつつも嬉しくなり、差し出されたラムネを受け取った。

 

「ありがとう、カナヲ」

 

満面の笑みで返せば、カナヲの瞳が大きく揺れた。それから少しだけ顔を伏せた後、再びおずおずと口を開いた。

 

「あの、もう一つお願いがあるの。その、汐に」

「あたしに?え、っていうか、今名前・・・」

「あの時に歌った歌を、聴きたいの。何故かはわからないけれど、不思議な気持ちになれたから・・・」

 

心なしかカナヲの頬が少し桃色に染まり、もじもじと身体を揺らしている。その仕草に汐の胸の中に温かいものがこみ上げてきた。

 

「いいわよ。ラムネのお礼にいくらでも聴かせてあげる!」

 

汐は二つ返事で答えると、雨空に向かって口を開いた。小さなものが跳ねまわるような可愛らしい歌声が、雨音に交じり響き渡った。

その旋律に合わせるようにカナヲの身体が、足が自然に揺れる。

 

そんな二人の背中を、しのぶと汐のことが気になってついてきた甘露寺の二人が優しく見守り、雨が止むまで小さな音楽会はつづけられたのだった。

 

それ以来、カナヲは汐の良き友人となった。が、汐はまだ知らなかった。

彼女が友人であると共に、恋敵となることに。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

十七章:鬼潜む花街


煉獄の戦死から四ヶ月後
(下ネタ注意)


夜の帳が降り、金色の月あかりが雪化粧を施された山肌を照らす頃。

男は一人、明日のための仕込みをいそいそと行っていたが、ふと、背後に気配を感じて振り返った。

 

『君は・・・。まだ起きていたのか』

 

そこにたたずんでいた人影に、男は作業する手を止めて優しい声色で声をかけた。

 

『もう夜も遅いしみんな眠っている。それに今日は君も頑張ってくれて疲れているだろう。早く寝たほうがいい』

 

しかし人影は男のいうことに耳を貸さず、彼を見上げて口を開いた。

 

『貴方に一つ聞きたいことがある』

『・・・何かな?俺に答えられることならば答えるよ』

 

その小さな体からは似つかわしくない、冷静かつ淡々とした声に、男は特に表情を変えることなく言葉を待った。

 

『家族とはなんだ?』

『・・・それは、簡単で難しい質問だね』

 

男は苦笑いを浮かべながら、小さな人影をそっと見つめた。

 

『私が知っている限りでは、家族とは婚姻関係で結ばれた夫婦、および夫婦と血縁関係のある集団だと聞いている。現に貴方にも伴侶がおり、そして子供もいる。それは家族と呼ぶべきものに値する。だが、私には親と呼ぶべき者も、血縁関係のある者は誰もいない。それは()()()もそうだ。しかし――』

 

小さな人影は、男の傍に足を進めると、小首をかしげながら眉根を寄せた。

 

『あの男は私を【家族】と呼んだ。私とあの男に血縁関係などない。血縁関係のないものを家族とは呼ぶべきではない。なのに、何故私を家族だといったのか、わからないんだ』

 

紡がれる言葉に男は少し考えるように首をかしげると、そっと言葉を紡いだ。

 

『君の言う【家族】は決して間違ってはいない。血の繋がりがある人達を家族と呼ぶのは当然のことだ。けれど、それだけが家族といったらそうじゃない』

『どういうことだ?』

『血の繋がりがあってもなくても、強い絆で結ばれていればそれも一つの【家族】といえるのではないかと俺は思っている。少なくとも俺には、君と彼との間には縁のようなものがあると思っているよ』

 

男の言葉に小さな人影は「縁か」と小さく呟いた。

 

『相いれない存在のはずの私達がこうしていることも、一つの縁だということか』

『少なくとも彼はそう思っているんじゃないかな』

 

男の言葉に小さな人影、青い髪の小さな少女は少しだけ眉をひそめ、困ったように笑った――


 

「あれ?もう朝?」

 

布団の上で目を開けた汐は、高い天井を見つめながら小さく呟いた。任務の疲れがたたってか、いつもよりも寝過ごしてしまったようだ。

 

煉獄の死から四か月。炭治郎達は蝶屋敷を本格的な拠点とし、鍛錬を行いながら合間に入る鴉からの指令に従い鬼を退治しに行っていた。

一方汐も甘露寺や伊黒からの指導を受けながら、同じように任務に赴き鬼を斬りに行っていた。

 

そんな生活が続き、その日の前には単独任務を終えた後、湯あみの後は直ぐに眠りに落ちてしまい、目が覚めたらこんな時間になっていたということだった。

 

(夢を見ていた気がするけど、なにも思い出せないわ。最近よく夢を見るけれど、覚えていないのが多すぎるのよね。疲れているのかしら)

 

幸い今日は甘露寺の計らいで休みをもらっていたため(伊黒にはだいぶ反対されたが)、特に何もすることがなかった汐は、気晴らしに散歩にでも行こうかと屋敷の外に出た。その時だった。

何やら蝶屋敷の方が騒がしく、言い争うような声が聞こえる。その声は汐の屋敷の方まで聞こえてきており、何かあったのは明白だった。

 

汐はすぐさま屋敷に戻ると、隊服に着替えて蝶屋敷へ一目散にかけた。

 

「ちょっとあんたたち!何やってんのよ!」

 

汐が怒鳴り声を上げながら突っ込むと、そこにはアオイとなほを抱えたの音柱・宇髄天元と、二人を連れて行かせまいとしているのかカナヲが二人の手を掴んで踏ん張っているところだった。

 

「う、汐さん!!」

「助けてください!人さらいです!!」

 

二人の言葉に宇髄は「うるせえな!人聞きの悪いことを言うんじゃねぇよ馬鹿ガキ!」と声を荒げた。

 

人さらいという言葉を聞き、汐の眼に怒りが宿り宇髄を睨みつけた。

 

「俺はこれから任務で女の隊員が必要なんだ。お前に用はない、失せろ」

「は?誘拐なんてクソッタレな事やらかそうとしている阿呆を放っておくと思ってんなら、あんたの頭は相当おめでたいのね。いいからとっとと二人を放せや筋肉達磨」

「誰が筋肉達磨だ騒音娘!!俺は柱だぞ!?口の利き方に気を付けろ!!」

「んだとテメー!!!誰が騒音娘だこの野郎!!柱のくせに人の名前すらきちんと覚えられないのかバーカ!!」

 

宇髄は汐にぶつけられた暴言に激昂し、声を荒げたその瞬間。隙を狙ってきよとすみが一斉に彼に飛び掛かった。

 

「と、突撃――!!」

 

きよが宇髄の首に飛びつき、すみが足に縋りついて動きを止め、カナヲはずっと二人の手を離さない。

その隙をついて汐がウタカタを放とうと息を吸ったその時だった。

 

「女の子に何しているんだ!!手を放せ!!」

 

聞き覚えのある声が響いて汐が視線を向けると、そこには任務から帰ったばかりの炭治郎が額に青筋を立てながら声を荒げていた。

しかし彼の視線は、少女たちに群がられている宇髄の奇妙な姿にくぎ付けになる。

 

(いや・・・群がられている?捕まっ・・・どっちだ?)

 

「炭治郎来て!こいつ、アオイたちを攫おうとしている誘拐犯よ!!」

 

汐の言葉に炭治郎は瞬時に動き、地面を蹴り彼に向かって頭を振り上げた。

が、その頭突きは空を切り、炭治郎の上には支えを失ったきよがおち、すみはカナヲに抱えられるようにして地面に落ちた。

 

(いない!?)

 

炭治郎がすぐさま視線を動かすと、宇髄の大柄な体はいつのまにか門の上にあった。

 

「愚か者。俺は“元忍”の宇髄 天元様だぞ。その界隈では派手に名を馳せた男、てめぇの鼻くそみたいな頭突きを喰らうと思うか」

「じゃあ、別方向から一撃はどう?」

 

いつの間にか宇随の背後に回っていた汐が、彼に向かって拳を振り上げていた。その素早さに彼は少しだけ驚いた表情を見せたが、それも軽く躱される。

が、

 

――ウタカタ・参ノ旋律――

――束縛歌(そくばくか)!!!

 

ピシリという音と共に宇髄の身体が強張り、汐はその足の間に向かって蹴りを叩き込もうとした。しかし宇髄は瞬時に汐の拘束を引きはがすと、二人を抱えたまま後ろに大きく下がった。

 

「ちっ!蹴りつぶしてやろうと思ったのに、掠っただけか」

 

下に降りた汐は舌打ちをしながら思い切り皮肉を込めた言葉を放つが、その顔には悔しさが滲んでいた。そんな汐を見て、炭治郎は足の間に何故か冷たいものが押し付けられたような妙な感覚を感じた。

 

「ハッ!詰めが甘いんだよ騒音娘」

 

汐を嘲笑うかのように得意げな表情をする宇髄に、今度はした方向から言葉の刃が飛んできた。

 

「アオイさんたちを放せ、この人さらいめ!!」

「そーよそーよ!!」

「いったいどういうつもりだ!!」

「変態!!変態!!」

 

下から投げつけられるあまりのいいように、流石の宇髄も堪忍袋の緒が切れたのか、炭治郎達に顔を向けると思い切り怒鳴りつけた。

 

「てめーらコラ!!誰に口利いてんだコラ!!俺は上官!!柱だぞ、この野郎!!」

「お前を柱とは認めない!!むん!!」

「むん、じゃねーよ!!お前が認めないから何なんだよ!?こんの下っぱが、脳味噌爆発してんのか!?」

 

炭治郎の無礼な言葉に宇髄は顔中の筋肉を痙攣させながら声を荒げつつけた、そんな彼を見た汐は呆れたように言い放った。

 

「脳味噌爆発してんのはあんただろうが!!いい歳こいた大人が子供相手に大声出してみっともない。柱が聞いて呆れるわ!」

「はっ、何とでも言いやがれ。俺は任務で女の隊員が要るから、コイツら連れていくんだよ!!“継子”じゃねぇ奴は胡蝶の許可とる必要もない!!」

「はあ!?その顔にひっついている目玉は飾りなわけ!?なほは隊員じゃないわ!隊服を着ていないでしょ!?」

 

汐が声を荒げると、宇髄は抱えていたなほをちらりと見ると、いらないといわんばかりに投げ落とした。

その横暴に汐は目を見開き、下に落ちたなほは炭治郎が慌てて受け止めた。

 

「なんてことするんだ!!」

 

眼を剥き出しながら激怒する炭治郎を、宇髄は冷ややかに見降ろしながら淡々と言葉を紡いだ。

 

「とりあえずこいつは任務に連れていく。役に立ちそうもねぇが、こんなのでも一応隊員だしな」

 

その言葉にアオイは青ざめ、眼が恐怖へと染まっていく。そんな彼女を見て汐は一歩踏み出し、思い切り宇髄を睨んだ。

 

「聞き捨てならないわ、今の言葉。さっきまでなほが隊員でなかったことを見抜けなかったくせに、よくもまあそんなことが言えるわね。人の事情にいちいち口を出すんじゃないわよ」

「そうだ!人には人の事情があるんだから、無神経につつき回さないで頂きたい!!アオイさんを返せ!!」

 

汐が冷静言い放ち、炭治郎が声を荒げると、宇髄は嘲るような声色で二人を見据えながら言った。

 

「ぬるい、ぬるいねぇ。このようなザマで地味にグダグダしているから、鬼殺隊は弱くなっていくんだろうな」

 

その言葉に炭治郎は一瞬言葉を詰まらせるが、それを遮るように汐の声が響いた。

 

「だったらあたしがアオイの代わりに行くわ」

「えっ!?」

 

汐の言葉を聞いていた炭治郎は、思わず声を漏らした。

 

「女の隊員が必要なんでしょ?だったらあたしが行ったって何の問題もない筈よね?」

「お前は甘露寺の継子だ。あいつの許可がない限り、お前を連れて行くわけにはいかねぇ」

「その件は心配ないわ。みっちゃん、師範は基本的にあたしの意思を尊重してくれる人よ。あたしがしたいことを無理に止めたりはしないの」

 

汐はふんと鼻を鳴らしながら宇髄を睨みつけ、彼もまた汐の顔を舐めるように見据えた。その時だった。

 

「駄目だ!汐だけ行かせるわけにはいかない!!俺たちもいく!!」

 

いつの間にか宇髄の左側には善逸が。右側にが伊之助が陣取り、囲むような体制をとった。

 

「今帰った所だが、俺は力が有り余ってる!行ってやってもいいぜ!」

「アアア、アオイちゃんを放してもらおうか、たとえアンタが筋肉の化け物でも俺は一歩も ひひひ、引かないぜ」

 

自信に満ちた声で高らかに言う伊之助と、震えて噛みながらもなんとか言葉をつなぐ善逸。炭治郎と汐は黙ったまま静かに宇髄を見据えていた。

そんな彼らに、宇髄は殺気を放ち、空気がびりびりと音を立てるような感覚が皆を襲った。しかし炭治郎は必死で耐え、伊之助は睨み返し、善逸は怯えながらも歯を食いしばり耐え、そして汐はさらに強い殺意で返した。

 

そんな彼らを見て、宇髄は眼を少し細めると、

 

「あっそォ。じゃあ一緒に来ていただこうかね」

 

拍子抜けするほどあっさりとその提案を受け入れた。

その変わり様に炭治郎は不信感を募らせ、汐も感情の読めない眼に困惑した。

 

「ただし俺に逆らうなよ。特にそこの騒音阿呆娘は派手にな」

「阿呆も騒音も余計だ馬鹿が」

 

アオイの臀部を叩きながら得意げに言う宇髄に対し、汐は吐き捨てるように言った。

 

「で、こんな騒ぎまで起こすほど、あんたが行く場所ってどこなのよ?」

 

汐が腕を組みながら睨みつけるように言うと、宇髄はその態度の大きさにこめかみを引き攣らせつつも口を開いた。

 

「日本一色と欲に塗れたド派手な場所――」

 

――()()()()、遊郭だよ

 

宇髄の言葉に炭治郎と伊之助は首を傾げ、善逸は瞬時に顔を赤くし、そして汐は。

 

汚物を見るような眼で宇髄を見つめた。




伊「ゆうかく?ゆうかくってなんだ?」
炭「さあ・・・。初めて聞いたよ。善逸は知ってるのか?」
善「え?いや、ほら、あれだよ。わかんない?あそこ。えっ、わかんない!?」
伊「なんだこいつ。なんで全身猿のケツみてぇに真っ赤なんだ?」
炭「汐は知ってるのか?ゆうかくって」
善「ちょっ、炭治郎!女の子にそんなことを聞いちゃ駄目だって――」
汐「男と女が乳繰り合う場所」
「言い方ァ!間違ってないけどその言い方やめてくんない!?っていうか、女の子がそんなこと言っちゃ駄目だって!!」
宇「ほぉ。どういう場所かは地味に知ってんだな、お前」
汐「週六日で通っていた馬鹿が身内にいたから。っていうか、そんなところにアオイたち連れて行こうとしてたの?不潔!!ケダモノ!!」
伊「獣なら負けねえぜ!」
宇「あーもううるせえガキ共だな。連れてくるんじゃなかったか・・・?」
炭(ちちくりあうって、なんだ?)


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



宇髄から告げられたのは、あることをして吉原遊郭に潜入することだったが・・・


「いいか?俺は神だ!お前らは塵だ!まずはそれをしっかりと頭に叩き込め!!ねじ込め!!」

 

様々な表情を浮かべる汐達に向かって、宇髄は突然指を突き付けながら叫ぶように言った。

 

「俺が犬になれと言ったら犬になり、猿になれと言ったら猿になれ!!猫背で揉み手をしながら、俺への機嫌を常に伺い、全身全霊でへつらうのだ!」

 

――そしてもう一度言う。俺は神だ!!

 

宇髄は不可思議な姿勢をしながら得意げな表情で四人を見下ろし、その四人は呆然と彼を見上げた。

 

(やべぇ奴だ・・・)

 

善逸は顔を青ざめさせながらそんなことを考えてると、汐は善逸の耳元に唇を寄せながら小さな声で言った。

 

「ねえ善逸。いったん蝶屋敷に戻った方がいいんじゃない?任務に行く前から重傷みたいよ。頭が」

「おい聞こえてんぞ。いい加減にしねぇと派手に足腰立たなくすんぞ」

 

汐の無礼な言葉に宇髄は顔を痙攣させながらそう言うと、彼女はびくりと体を震わせて善逸から離れた。

 

そんな空気を払しょくしようとしたのか、将又たまたまなのか。炭治郎は素早く左手を上げると無垢な眼差しを向けながら言った。

 

「具体的には何を司る神ですか?」

 

そんな彼に汐と善逸は変な生き物を見るような眼を向け、善逸は(とんでもねぇ奴だ・・・)と畏れ、汐は(相変わらず真面目なんだか馬鹿なんだか)と呆れた。

 

「いい質問だ。お前には見込みがある」

 

一方炭治郎の質問に気をよくした宇髄は腕を組みながら嬉しそうな表情で高らかに言い放ち、そんな彼に善逸は(アホの質問だよ。見込みなしだろ)と脳内で突っ込んだ。

 

「派手を司る神・・・祭りの神だ」

 

真剣そのものの表情で恥ずかしげもなく言い放つ宇髄に、汐と善逸は呆れかえり、考えることをやめようとした。が、そんな中、今まで黙っていた伊之助が腰に手を当てながら彼同様得意げに言った。

 

「俺は山の王だ。よろしくな、祭りの神」

 

伊之助がそう言った瞬間、空気が一瞬凍り付いて沈黙が辺りを支配した。皆の視線が伊之助に集まる中、真っ先に口を開いたのは宇髄だった。

 

「何言ってんだお前・・・気持ち悪い奴だな」

 

先程の得意げな表情はなりを潜め、真顔で否定の言葉を口にすれば伊之助は憤慨し、善逸と汐は目を剥いた。

 

(いや、アンタと どっこいどっこいだろ!!引くんだ!?)

(同族嫌悪って奴かしら。変な奴と変な奴は相いれないってことね)

 

憤慨する伊之助を軽く煽る宇髄を眺めながら、善逸と汐はそんなことをぼんやりと考えていた。

 

「まあ伊之助はおいておいて。このあたりの遊郭って言ったら吉原辺り?」

「ほぉ~、おぼこっぽく見えて、派手に知っているじゃねえか」

「あたしの養父が聞きたくもないのに何回も話してくれていたからね。おかげさまで名前だけは知っているわよ」

 

ふんと鼻を鳴らす汐だが、炭治郎はそんな彼女からほんの少しだけだが切ない匂いを感じた。

 

「花街までの道のりの途中に藤の家があるから、そこで()()()()()()。ついてこい」

 

いうが早いか宇髄の姿はまるで煙のように消えてしまい、汐達は驚きに目を見開いた。

 

「えっ、消えた!?」

「違うわ、あそこよ!」

 

慌てふためく男たちをしり目に、汐ははるか遠くにいる宇髄の背中を指さした。

 

「はや!!もうあの距離、胡麻粒みたいになっとる!!」

「これが祭りの神の力・・・!」

「いや、あの人は柱の宇髄天元さんだよ」

「んなこと言ってる場合じゃないわよ!もたもたしてたら見失うわ!あたしは先に行くわよ!!」

 

汐はそう言うなり、宇髄の走り去った方角に向かって飛ぶように駆け抜けた。その速さに三人の男たちはあんぐりと口を開けた。

 

「あ、あいつもはええ!!もう見えなくなっちまった!」

「流石汐!柱の継子に選ばれただけはあるな」

「感心している場合じゃないよ!早く二人を追わないと!!」

 

善逸に促され、炭治郎と伊之助は慌てて二人の後を追い蝶屋敷を後にした。


藤の花の家紋の家。汐達も以前に世話になった、かつて鬼殺隊に命を救われたものが構える家。

鬼殺隊ならば無償で手助けをしてくれるのだ。

 

一足先にたどり着いた宇髄は、家の者に偉そうに指図し、家の者もいやな顔一つせずに応じた。

 

客間に通された汐達は、宇髄からおおよその説明を受けた。

 

これから赴く遊郭、【吉原】に鬼が潜伏しているとの情報があり、宇髄は少し前からその調査をしていた。

汐が甘露寺と共に以前に彼の屋敷を訪れた時に出会った時からの任務らしく、少なくとも四か月以上は経っているとと思われた。

 

「――てなわけだ。遊郭に潜入したら、まず俺の嫁を探せ。俺も鬼の情報を探るから」

 

一通り説明をした後、宇髄は額当てを直しながらそう言った。その傍らでは出された菓子に食らいつく伊之助と、それを力づくで制止させようとする汐と、湯飲みを持ったままぽかんとする炭治郎。しかし善逸はその話を聞いた瞬間、身体をわなわなと震わせたかと思うと、

 

「とんでもねぇ話だ!!」と、汚い高音で言い放った。

そんな彼に宇髄は怒りを込めた眼で睨みつけるが、善逸は臆することもなくさらに声を荒げた。

 

「ふざけないでいただきたい!!自分の個人的な嫁探しに部下を使うとは!!」

 

その顔からは何故か涙と鼻水があふれ、汐はその汚らしさに思い切り顔を引き攣らせながら距離をとった。

しかし汐はかつて、師範である甘露寺から柱の大まかな紹介をされたとき、宇髄が既婚者であることをちらりと聞いていた。

だから彼が言うのは、自分の【将来の嫁】を捜すのではなく、自分の【嫁】を捜すという意味なのだろうが、善逸が汚い高音でまくし立てるため汐は朽ちを出せないでいた。

 

「はあ?何勘違いしてやがる――「いいや、言わせてもらおう!」

 

案の定宇髄は訂正しようと声を荒げるが、善逸はそれを遮り唾を飛ばしながら叫ぶように言った。

 

「アンタみたいな奇妙奇天烈な奴はモテないでしょうとも!!だがしかし!!鬼殺隊員である俺たちをアンタ、嫁が欲しいからって――」

「馬ァ鹿かテメェ!!俺の嫁が遊郭に潜入して鬼の情報収集に励んでんだよ!!定期連絡が途絶えたから俺も行くんだっての!」

 

宇髄は善逸の大声を打ち消す程の大声でそう言うと、善逸は言葉を詰まらせ、炭治郎は善逸を落ち着かせようと羽織を掴んで軽く引っ張った。

が、善逸は塵を見るような眼で宇髄を見ながら「そう言う妄想をしてらっしゃるんでしょ?」と蔑むように言い放った。

 

「善逸。残念だけど、この人の言っていることはおそらく本当よ。この人が結婚していることを前に聞いたことがあるから」

「え?本当?」

「ええ。例え見た目が奇天烈でいかにもろくでなしな遊び人に見えたとしても、世の中には理不尽な真実もあるものなのよ」

「お前にあるもんがありゃあ、何のためらいもなく殴り飛ばせるんだがな・・・」

 

汐の毒のある言葉に少し呆れつつも、宇髄は懐から何かを取り出し善逸に向かって投げつけた。

 

「これが鴉経由で届いた手紙だ!」

 

かなり強い力で投げつけられたのと、その膨大な数に善逸はたまらずひっくり返り、汐は飛んできた手紙を何とか受け止めた。

その多さに炭治郎は驚くが、伊之助は相も変わらず菓子を貪り食っていた。

 

「随分と多いですね。かなり長い期間、潜入されてるんですか?」

「これだけあるってことは数日数週じゃないってことでしょ?」

 

炭治郎と汐が手紙を眺めながらそう尋ねると、宇髄は少し首を傾けながらさも当然のように言った。

 

「三人いるからな、嫁」

「・・・はい?」

 

全く予想だにしていなかった宇髄の言葉に、汐は素っ頓狂な声を上げ、炭治郎は固まり、そして善逸に至っては・・・

 

「三人!?嫁・・・さ・・・三!?」

 

目玉が零れ落ちそうなほど目を見開き、唾を思い切り飛ばしながら鼻息荒くまくし立てた。

 

「テメッ・・・テメェ!!なんで嫁三人もいんだよ、ざっけんなよ!!」

 

そんな善逸に遂に堪忍袋の緒が切れたのか、宇髄はその強靭な右腕を容赦なく鳩尾に叩き込んだ。善逸はうめき声をあげて吹き飛び、あたりには静寂が訪れる。

 

「なんか文句あるか?」

 

宇髄の言葉に炭治郎と伊之助は声を失うが、汐は苦虫を噛み潰したような表情で彼を見ながら口を開いた。

 

「え?三人って・・・それって重婚じゃないの?不潔!ケダモノ!!

「よーしお前黙れ。派手に黙れ。二度と喋るな話が進まん」

 

汐の毒舌に反論する気も失せたのか、宇髄は冷徹な声でそう言い、炭治郎はそっぽを向く汐を窘めた。

 

「あの・・・手紙で【来るときは極力目立たぬように】と、何度も念押ししてあるんですが・・・具体的にどうするんですか?」

 

手紙を読んでいた炭治郎が顔を上げながら言うと、宇髄は目を鋭くさせながら静かに答えた。

 

「そりゃまあ変装よ。不本意だが地味にな。お前等には()()()()()()()潜入してもらう」

 

宇髄の話では、彼の三人の妻は女忍者、すなわちくの一であり、彼が考えるに人が多く集まる花街は鬼の絶好の餌場であること。

以前に宇髄が客として赴いたときにはその足取りはつかめず、彼女たちは客よりももっと内側に入ってもらったということだった。

 

(柱であるこいつがつかめないなんて、よっぽどかくれんぼが旨い鬼なのね)

 

その事実に汐は思わず唾を飲み込み、炭治郎も緊張しているのか眼が微かに不安を宿していた。

 

「すでに怪しい店は三つに絞っているから、お前らはそこで俺の嫁を捜して情報を得る」

 

――“ときと屋”の『須磨』、“荻本屋”の『まきを』、“京極屋”の『雛鶴』だ。

 

宇髄は店の名と妻の名を指を立てながら順番につげ、汐と炭治郎はその情報を必死に頭の中に刻みつけた。

だが、

 

「嫁、もう死んでんじゃねぇの?」

 

今まで黙っていた伊之助が鼻をほじりながら言い放つと、炭治郎と汐の顔が瞬時に引き攣った。が、間髪入れずに宇髄の拳が今度は伊之助の鳩尾に綺麗に叩き込まれた。

 

「・・・流石に今のは擁護できない。あたしでもそれはないと思うわ」

 

話すなといわれていた汐が思わずつぶやきを漏らし、炭治郎は考えることをやめたのか悟りを開いたような表情を浮かべていた。


 

──吉原 遊郭。

 

男と女の、見栄と欲、愛情渦巻く夜の街。

 

遊郭・花街は、その名の通り、一つの区画で街を形成している。

 

ここに暮らす遊女達は、貧しさや借金などで売られてきた者が殆どで、たくさんの苦労を背負っているが、その代わり衣食住は確保され、遊女として出世できれば、裕福な家に身請けされることもあった。

 

中でも遊女の最高位である“花魁”は別格であり、美貌・教養・芸事、全てを身につけている特別な女性。

 

位の高い花魁には、簡単に会うことすらできないので、逢瀬を果たすために、男たちは競うように足繁く花街に通うのである。

 

人がひしめき合う街を、四人の子供を連れた男がある場所へ向かって歩いていく。そしてその場所、ときと屋と書かれた店の前で男は子供たちを楼主とそのおかみさんに見せようと立たせた。

 

だが、

 

「いやぁ、こりゃまた・・・不細工な子達だねぇ」

 

二人がおかしなものを見るような眼で見ている四人の子供は、顔中をおしろいで真っ白に塗ったくられ、これでもかというくらいに頬紅、口紅、眉毛をニりつぶされたお世辞にも可愛いとは言えない風貌をしていた。

 

炭治郎基【炭子】、善逸基【善子】、伊之助基【猪子】、汐基【汐子】の四人は、それぞれの店に禿(かむろ)(遊女の卵)として潜入する為、宇髄の手で変装させられたのだ。

男である炭治郎、善逸、伊之助ならまだしも、本物の女である汐はこの扱いに不服を感じており、現に汐も炭治郎達同様すさまじく下手な化粧を施されていた。

しかも、汐の一番の特徴である真っ青な髪は、同じく彼の手によって黒に近い紺色に染められていた。

 

これは青い髪がワダツミの子の証であるため、鬼に直ぐばれてしまうことを危惧してのことだったが、それだけならまだいい。

問題なのは汐も彼らと同じ【女装】をさせられていることだった。

 

宇髄曰く、汐はワダツミの子の特性の名残として男と間違えられやすいため、女性はともかく男性の目からでも女と認識させることが必要だということだった。

だがそれでも、この化粧の仕方はめかしつけることに疎い汐でも、許容することは難しかった。

 

案の定ときと屋の楼主夫妻は、汐達を見て顔をしかめ、雇うことを躊躇している。しかし、妻の方は男を見て頬を染めながら、一人だけならいいと言葉を漏らした。

 

「じゃあ一人頼むわ、悪ィな奥さん」

 

そう言葉を発したのは、銀糸の髪を下ろし、派手な化粧を落とした宇髄天元その人だった。柱の時とは全く異なる男前な風貌に、妻はうっとりとした表情をしながら言った。

 

「じゃあ、左から二番目の子をもらおうかね。素直そうだし」

 

女将の示したのは、炭治郎こと炭子。彼(彼女)は目を輝かせながら「一生懸命働きます!」と答えた。

 

その後、ときと屋をでた宇髄は、炭治郎が二束三文でしか売れないことに文句をつけた。

しかし善逸は宇髄と目を合わせようとせず、大きくため息をついた。

 

「俺、アナタとは口利かないんで・・・」

「女装させたから切れてんのか?なんでも言うこと聞くって言っただろうが」

「言った覚えないわよそんなこと。あんたって本当、息をするように嘘をつくのね」

 

汐も理不尽な扱いに怒っているのか棘のある言葉を返すと、宇髄は小さく舌打ちをしながら答えた。

 

「正直者が馬鹿を見るって言葉を知ってるか?世の中はな、多少の嘘をうまく使える奴ほどうまく生きていけるんだよ」

「たとえそうだとしても、人を騙して生き抜くような腐った生き方はまっぴらごめんだけどね」

 

汐は宇髄を睨みつけるようにして見上げると、心なしか少しだけ彼の眼が悲しみに揺れた気がした。しかし、それを確かめる間もなく伊之助が突然、指をさしながら叫んだ。

 

「オイ!なんかあの辺、人間がウジャコラ集まってんぞ!」

 

その言葉に全員が視線を向けると、遠くから鈴を鳴らすような音が聞こえてきた。

四人は人ごみをかき分けながら目を凝らしてみると、そこには目を奪われるような美しい一人の遊女が、ゆったりとした足運びで歩いてくるのが見えた。

 

「あれは、花魁道中?じゃあ、あの人が遊女の最高位、【花魁】?」

「ああ。あの顔は確か、『ときと屋』の“鯉夏花魁”だ」

 

精錬されたその美しさに、善逸は勿論の事汐ですらその美貌に呆然としていた。




汐「そう言えば気になっていたんだけど。【花魁】と【太夫】ってどう違うの?」
宇「ほぉ、通な質問だな。早い話、花魁ってのは高級遊女に対して付けられる称号で、太夫ってのは主に芸妓の最高位の称号ってことだ」
汐「そうなのね。じゃああの人は花魁だけど太夫とは違うのね」
宇「そもそも太夫自体が江戸時代に消滅しているからな。今現在、最高位の遊女は主に花魁って呼ばれてるんだ」
汐「成程、勉強になったわ」
宇「しかしお前、女の割には妙に詳しいな。さては行ったことでもあるのか?」
汐「馬鹿言わないで。あたしの養父が通い詰めてたって言ったでしょ?その後どんな女にあったかとか延々と聞かされてれば、否でも覚えるわよ」
宇(大海原玄海、だったか。それだけ通っていりゃあ何らかの形で情報が残っているかもしれねぇな・・・)


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



「花魁道中って確か、お気に入りの客を迎えに行く奴・・・だったっけ?」

「ああそうだ。しかし派手だぜ。いくらかかってんだ」

 

汐が宇髄を見上げながら訪ねると、彼は長身を生かして道中を眺めながら呟くように言った。

すると突然善逸が涙を流しながら宇髄の顔面すれすれまで近寄ってきた。

 

「嫁!?もしや嫁ですか!?」

「近い!!」

「あの美女が嫁なの!?あんまりだよ!!三人もいるの皆あんな美女すか!!」」

 

善逸は宇髄の着物を乱暴につかみながら捲し立てると、彼は善逸の顔に【番付】と書かれた紙を叩きつけながら叫んだ。

 

「嫁じゃねえよ!こういう“番付”に名前が載るからわかるんだよ!お前もぼーっとしてねぇでこいつを何とかしろ!」

 

宇髄は尚も掴みかかる善逸を引きはがしながら汐の方を向くが、彼女はじっと花魁道中から視線を放せずにいた。

 

(綺麗な人。ああいうのを本当の美人っていうのね。おやっさんが通い詰めるわけだわ。それにしても、炭治郎がここにいなくてよかった。あんなの見たら絶対に鼻の下伸ばすだろうし・・・あれ?)

 

汐はほっと胸をなでおろすが、その瞬間何故そんな気持ちになったのか急に不安になった。別に炭治郎とは特別な関係でも何でもないのだから、彼が何を考えていようと関係ないはずなのに。

 

そんな汐の微妙な変化に気づいていないのか、伊之助は道中を耳をほじりながら退屈そうに眺めていた。

 

「歩くの遅っ。山の中にいたらすぐ殺されるぜ」

 

だが、そんな伊之助を背後からじっと目を皿のようにして見つめる一人の中老の女性がいた。彼女は伊之助をしばらく見つめていたが、すぐさま宇髄に向き合うとはっきりした声で告げた。

 

「ちょいと旦那。この子うちで引き取らせて貰うよ。いいかい?」

 

いきなり声をかけられ汐達は勿論、宇髄でさえ目を丸くしたが、女性が意味深な笑みを浮かべながら名を名乗ると空気が一変した。

 

「『荻本屋』の遣手・・・アタシの目に狂いはないさ」

「“荻本屋”さん!そりゃありがたい!」

 

そう言って手を合わせる宇髄の眼は、本当にうれしそうに輝き、伊之助は一言も発する間もなく女性に連れられて人ごみの中に消えていった。

 

残された汐と善逸は、呆然と二人の背中を見つめ、そんな二人を宇髄は呆れたように見つめる。

 

(やだ、アタイ達だけ余ってる)

(何なのこれ。なんで野郎二人があっさり売れて、あたしがこいつと残るのよ)

 

不服に顔を歪ませながらも汐は最後の候補、京極屋へ交渉をしてみようと宇髄を促し、二人は重い足取りのまま店へ向かった。

 

しかしそこで待っていたのは・・・

 

「・・・というわけでこいつら好きに使ってください。便所掃除でも何でもいいんで、いっそタダでもいいんでこいつらは」

 

宇髄は汐と善逸の頭をべしべしと叩きながら交渉するが、京極屋が仕方なしに受け入れたのは――善逸一人だった。

理由を聞けば、汐は小生意気そうなうえなんだか近寄りがたい雰囲気を感じる、とのことだった。

 

その残酷すぎる事実を象徴するがごとく、汐の周りを冷たい風が吹き髪を揺らしていく。

 

「ねぇちょっと・・・、コレドウイウコト・・・?」

「いや、これは流石に予想外だわ・・・。本当の女であるお前が売れ残るなんて・・・ブフッ」

「おいこっち向けよ。目を逸らしてんじゃねぇぞこの野郎」

 

怒りのあまり片言になる汐は、ギリギリと音を立てて首を思い切り後ろにそらしながら宇髄をこれでもかというくらい睨みつけた。しかし彼は汐から顔を逸らしたまま、背中を小刻みに揺らしていた。

 

「大体あんたの化粧が下手糞なのがいけないんでしょ!?前にみっちゃんにしてもらったときは、それなりに可愛くできてたのよ!?野郎共は全員潜入出来たってのに、なんであたしだけ置いてけぼりなのよ!!」

「まぁまぁ落ち着け騒音娘。お前が選ばれなかった理由はおそらく、ワダツミの子の人避けのせいもあるんだろう」

 

人避け。ワダツミの子が自分の力を悪用されないように無意識のうちに生み出した特性。普段汐が男と間違われるのはその名残なのだが、どういうわけかそれが強く出ているように感じた。

 

「それにお前にも仕事がないわけじゃない。俺の補佐、基奴隷っていうありがたい仕事が残っている」

「奴隷がありがたい仕事だと思ってんなら、あんたの頭の中は筋肉の他にも花が咲いているのね」

 

汐は思いっきり皮肉を込めてそう言うが、ふと小さく息をつきながら言った。

 

「まあいいわ。あんたには聞きたいことがあったから、この際まとめて聞かせてもらうけれどいいわよね?」

 

汐は視線を鋭くさせると、人差し指を立てながら口を開いた。

 

「まず一つ。あんた、本当はアオイたちを連れていくつもりはなかったんじゃないの?あたしたちを焚きつけてその気にさせてここへ連れてくる気だったんじゃないの?」

「・・・何を言い出すかと思えば、買いかぶりすぎだ」

「だったら何で蝶屋敷であんな派手に騒いだの?炭治郎達はともかく、あたしの住んでいる屋敷は蝶屋敷からさほど離れてもいない。あんたの頭なら、騒ぎを起こせばあたしが出てくるのはわかっていた筈よ」

 

汐が問い詰めるように目を細めると、宇髄はしばらく汐を見つめていたが、目を閉じて「さあな」とだけ答えた。

 

「じゃあもう一つの質問。あんた、あたしの、ワダツミの子のことを嗅ぎまわっていたわよね。あれから新しいことはわかったの?」

 

汐の問いかけに宇髄は少しだけ言葉を切ると、頭をかきながらぽつりと答えた。

 

「なーんも」

「は?」

「だからなーんもわからなかったんだよ。この俺が派手に調べているっていうのに、巧妙に隠されてて一向にわからねえ。よっぽど知られたくないのか、将又埋もれちまっているだけなのか、それすらわからねえんだよ」

 

そう言う宇髄は、心なしか少し苛立っているように見えた。調査がうまくいかないことも勿論だが、やはり連絡の取れない妻達を思っての事だろう。

 

「ただ・・・」と、宇髄は一つだけ言葉を漏らした。

 

「これは俺の憶測にすぎないが、お前の養父の家、【大海原家】もワダツミの子に深くかかわっている可能性がある」

「大海原・・・家?」

 

思ってもいない言葉に汐は目を見開き、宇髄を見上げた。自分の名字は、玄海からもらったものであり、それだけだと思っていた。

しかし汐は玄海が鬼狩りであったことすらしらず、それ以上のことは何も知らなかった。

 

「大海原家・・・おやっさんの過去・・・もしかしたら・・・」

 

汐は宇髄から視線を逸らし、考え込むようにうつむいた、その時だった。

 

「やっと見つけたわよ!!この大ぼら吹き!!」

 

耳をつんざくような大声が汐と宇髄の両耳を穿ち、何事かと振り返れば、そこには先程炭治郎を連れて行ったときと屋の女将が顔を真っ赤にして息を切らして立っていた。

 

「あんた、確かたん・・・炭子を連れて行った・・・」

 

「あんた一体全体どういうことなのよ!!あんな傷物よこして!!あんなんじゃ客なんてつかないわよ!!」

 

鼻息を荒くしながら烈火のごとく怒る女将を見て、汐は炭治郎の額に傷があることを思い出した。だが、この言い草はいくらなんでもあんまりだ。

 

(花街では女は【物】【商品】。おやっさんから聞いてはいたけれど、本当なのね。胸糞悪い)

 

汐が顔をしかめながら女将を見ていると、宇髄は汐を押しのけながら前に立つと、深々と頭を下げた。

 

「悪かった。本当に悪かった。その詫びといっちゃなんだが、こいつを連れて行ってくれねえか?」

 

そう言って宇髄は汐の手を取ると、女将の前に差し出すように立たせた。

 

「こいつの顔には傷一つなく、体もまっさらだ。確かに顔つきは微妙だが、よく働き、話も歌もうまい。勿論金は要らない。だから、ここは俺に免じて許してくれねえか?」

 

そう言って宇髄は整った顔立ちで笑うと、怒りで真っ赤になっていた女将は、今度は別の意味で赤くなっていた。そしてしどろもどろになりながらも「今回だけだよ」とだけ言って、汐の手を引いて歩き出した。

 

店の中では炭子、基炭治郎は額の傷がばれて大目玉を喰らったらしく、店はその話でもちきりだった。

 

しかし炭治郎はその代わりによく働き、たくさんのことを言いつけられてもいやな顔せず、しかも仕事も早く真面目で高評価だった。

 

(さすが炭治郎。家事をさせたら天下一品よね。家事は女の仕事って決めつけず、困っていたら手を差し伸べる。炭治郎と結婚する女はきっと幸せね・・・)

 

そんなことを考えていた汐だが、ふと胸に小さな痛みを感じた。

 

(あれ?あたし何考えてたんだろう。炭治郎はまだ15だし、結婚なんて。っていうか、あいつが結婚しようがしまいが、あたしには何の関係もないことでしょ・・・)

 

「ちょっとあんた!何ぼうっとしてるの。こっちにいらっしゃい!!」

 

女将に促されて、汐は化粧部屋へと連れ込まれた。あの宇髄特製の奇妙な化粧を落とし、素顔を見るためだ。

そこには数人の店の者がいて、準備はすでに整っているようだ。

 

汐は直ぐに座らされ、厚塗りにされた化粧を少しずつ落とされていく。そして段々と素顔が露になり、皆はその顔を覗き込んだ。

 

「こ、これは・・・・!!!」

 

皆は目を見開き、汐はその視線を余すことなく受け入れるしかなかった。

 


 

時間は少しさかのぼり

 

萩本屋に連れていかれた猪子、基伊之助は、厚化粧を落としたその素顔を皆から絶賛されていた。

無理もない。汐達が初めてその素顔を見た時も、少女と見間違うほど整った顔をしていたからだ。

 

「変な風に顔を塗ったくられていたけど、落としたらこうよ!!すごい得したわ。こんな美形な子、安く買えて!!」

 

「仕込むわよォ、仕込むわよォ!京極屋の“蕨姫”や、ときと屋の“鯉夏”よりも売れっ子にするわよォ!」

 

遣手の女性は大喜びし、腕をまくりながら高らかに宣言した。

 

「でも、なんか妙にこの子ガッチリしてない?」

「ふっくらと肉付きが良い子の方がいいでしょ!」

「ふっくらっていうか、ガッチリしてるんだけど・・・」

 

しかし、彼女たちは知らない。猪子が男であることを・・・。

 

一方京極屋に押し付けられる形で入った善子、基善逸は鬼気迫る顔で三味線の稽古に励んでいた。

 

彼の耳がいいことが幸いに、一度聴いた音はすべて覚えてしまうため、三味線でも琴でもなんでも弾けるとのことだ。

 

しかし皆が危惧するのは、彼、基彼女の顔。あの化粧を落とさずそのままでいたため、微妙な顔のままだったのだ。

 

「あの子連れてきたのがもんのすごいいい男だったらしいわよ!遣手婆がポッとなっちゃってさ。一部では()()()の再来、なんて言われてるらしいわよ」

「へぇ!あの伝説の海旦那の!?みたかった!」

 

女たちがそんな話をしていると、一人の遊女が善逸を見ながら小さく笑った。

 

「アタイには分かるよ。あの子はのしあがるね」

「ええ?」

「自分を捨てた男、見返してやろうっていう気概を感じる。そういう子は強いんだよ」

 

彼女の言う通り、善逸は自分をぞんざいに扱った宇髄に対して悔しさに涙を流しながら、心の中で叫んだ。

 

(見返してやるあの男・・・!!アタイ絶対吉原一の花魁になる!!)

 

しかしその野望は、決して叶うことはないのであった。

 

そして一番初めにときと屋に来た炭治郎は、額の傷がばれてしまい雑用係として働いていた。

禰豆子の入った箱は丁寧に隠し、鍵を付け絶対に開かないようにしていた。(これは彼にとっても不服だったが、やむを得なかった)

 

(みんなはちゃんと指定された店に潜入できただろうか。特に汐は、怒ると手が付けられなくなるからお店の人に迷惑をかけていないだろうか)

 

働きながらそんなことを考えていると、ふと化粧部屋の辺りが騒がしくなった。炭治郎は何事かと思い、仕事を片付けた後こっそりと様子を見に行った。

 

そこには何人かの店の者が化粧部屋を覗こうとひしめき合っているようだった。

 

「あ、あなたは確か新しく入った・・・」

「たん・・・炭子です。あの、これはいったい?」

 

炭治郎が首をかしげていると、同じくらいの禿の少女が上気させた顔を彼に向けながら興奮したように言った。

 

「さっき女将さんが新しい子を連れてきたみたいなの。炭子ちゃんもこっそり見てみなよ」

 

少女に促され、炭治郎は人の隙間からこっそりと顔をのぞかせた。その瞬間、彼の鼻に、嗅ぎなれた優しい潮の香りが届く。

 

(この匂いは・・・!!)

 

そしてその目に飛び込んできたものに、炭治郎の身体は石のように固まり、そして意識が遠のいていくのだった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



化粧を落とした汐は、皆の目にはどう映るのか



「平凡だわ」

 

汐の化粧を落とした女将たちは、汐の顔をまじまじと見てからぽつりとつぶやいた。

それを見た他の者達も、うんうんとうなずきながら汐を見て言った。

 

「平凡ね。不細工ってわけでもないけれど、美人ってわけでもない。どこにでもいそうな顔ね」

 

思っていたものとは違いがっかりした眼を向けている彼女たちに、汐の体は怒りで震えるが、決して癇癪を起すなと宇髄にきつく言われていたため、何とか我慢した。

 

(こいつらっ・・・人の事ぼろくそ言いやがって・・・!)

 

何とか平常心を装おうと、頭の中で歌を歌う汐。すると、その様子を見ていた楼主が女将をなだめるように言った。

 

「まあまあ。逆にこういう平凡な顔の子ほど、化粧をすると案外変わるもんだよ。まずは整えてみなさい」

「・・・そうね。諦めるにはまだ早いわね。あれほど手間をかけさせられたんだ。これで何も変わらなかったら絶対に許さないわよぉおおお!!」

 

女将は鼻息を荒くしながら腕をまくると、周りのものに指示を出して早速汐の化粧に取り掛かった。

汐の顔の形や凹凸に合わせ、白粉の濃さや紅の濃さを調節し、いくつかの着物を見繕い、化粧に合わせて何度も試行錯誤を繰り返した。

 

初めは汐に疑惑の目を向けていた女将だったが、化粧が進むごとにその顔つきはみるみる変わり、いつの間にか彼女の眼には微かな期待と変わっていく汐にだろうか、驚きが少しずつ浮かんでいった。

 

そしていつの間にか汐の化粧をするものは少しずつ増え、最後には数十人の者が汐のめかしつけに携わった。

 

そして化粧を始めてから約二時間後。

 

「こ・・・これは・・・!!」

 

化粧を終え、身支度を整えた汐を見て女将たちは勿論周りのものも思わず目を見開いた。

 

そこにいたのは、先ほどまでとは全く別人になった汐基汐子だった。

 

はっきりとした顔立ちに、前を見据える鋭い視線。何事にも動じない泰然自若とした態度。そして年齢にそぐわない程の滲み出る色香。

その凛とした風体に、皆は息をのみ言葉を失った。

 

「と、とんでもない娘だ。昔、派手な出で立ちで名をはせた遊女がいたが、その再来かもしれん」

 

汐を見た楼主は、小刻みに体を震わせながら汐を見つめ、女将は思わぬ原石に目を見張った。

 

(な、何だかみんなすごい眼であたしを見ているわ。あたしそんなに別人になったのかしら)

 

汐はそんなことをぼんやりと考えながらあたりを見回していると、不意に何かが床に叩きつけられるような大きな音がして肩を震わせた。

そして間髪入れずに聞こえてきた言葉に、顔を引き攣らせる。

 

「炭子ちゃん!?大丈夫!?」

 

炭子という名を聞いて立ち上がってみれば、全身を真っ赤にして目を回して倒れている炭治郎の姿が目に入った。

 

「た・・・炭子!?あんた何やってんのよ!?」

 

汐はわき目も触れず炭治郎の元に駆け寄り、思わず声を上げれば、その声を聞いた女将の顔がパッと明るくなった。

 

「なんていい声なの!これは思わぬ掘り出し物が手に入ったわ。もしかしたら鯉夏と同じ、いやそれ以上の花形になるかもしれないわね!」

 

慌てふためく汐の後ろ姿を見て、女将は鼻息を荒くし、汐を徹底的に鍛えると意気込むのだった。


 

(全く。どうしてこうなった)

 

日の当たる空き部屋で眠る炭治郎を見つめながら、汐は小さく息を吐いた。

あの後気を失ってしまった炭治郎を、汐は一緒に育った幼馴染だから介抱すると無理を言って休憩に使っている部屋に運び込み、目を覚ますのを待っていた。

 

(とりあえず何とかうまく潜入できたのはいいけれど、話に聞いていた以上にここは地獄のようね)

 

ここに来るまでの間、汐は何人かの遊女や禿とすれ違ったが、殆どが眼に悲しみを宿しながら無理やり笑顔を作っている者達ばかりだった。

 

――男の天国、女の地獄。かつて通い詰めていた玄海がよく言っていた言葉だが、いざ目の当たりにしてそれが理解できた。

遊郭とは男にとっては夢を見ることができる場所だが、ここで働く女達は莫大な借金を背負っておりそれを返済するために、望まないこともしなければならない。

そんなところに鬼が潜んでいるとなれば、地獄の中の地獄といっても決して大げさではないのだ。

 

汐は眠る炭治郎を見て、結わえた髪の付け根が少し赤くなっているのに気づいた。女将が炭治郎の額に傷があることで憤ったという話を聞いていたせいか、彼がひどい目に遭ったのだとすぐにわかった。

 

「本当に胸糞悪いところだわ」

 

汐が小さくそんなことを呟いたその時。

 

「う・・・」

 

炭治郎の瞼が微かに震えたかと思うと、ゆっくりと目を開け汐の顔を映した。

 

「あ、起きた。全く何やってんのよ」

「あ、れ?お前・・・」

「しっ。誰が聞いてるかわからないんだから、あたしの事は汐子って呼びなさいって。後口調に気を付けて。派手男に言われたでしょ」

「ああそうか。じゃない、そうね。ごめんなさい」

 

炭治郎は慣れない女性言葉で汐に謝るが、汐はそんな炭治郎に微妙な気分になりながら言葉をつづけた。

 

「で、あんたはあんなところでなんでぶっ倒れてたのよ。みんな魂消てたわよ?」

「あ、うん。その、汐、汐子があまりにも綺麗すぎて・・・驚いて」

 

顔を真っ赤にしてうつむく炭治郎に、汐の顔も赤くなり思わず頭をひっぱたいた。

少し落ち着いた後、汐は周りを見回しながら声を潜めて言った。

 

「それで、ここに潜入した感想は?」

「みんな笑ってはいるけれど、凄く悲しい匂いがする」

「そうね。どいつもこいつも悲しい眼をした連中ばかり。まあ遊郭なんて借金返すために馬車馬のようにこき使われる世界だからね」

 

汐が吐き捨てるように言うと、炭治郎は悲しみに満ちた表情で再び俯き、汐はそんな空気を変えるように声を潜めながら言った。

 

「とりあえず確認ね。定期連絡は晴れた日の屋外。あたしたちは緊急時以外は極力接触しない。知りえた情報は隠さず報告。いいわね」

「うん。それと、何かあったらすぐに知らせること。汐は特に癇癪を起さないこと」

「わかってるわよ、五月蠅いわね。あんたもいろいろ気を付けなさいよ」

 

汐はそれだけを言うと、炭治郎に気を付けるように忠告して部屋を出た。

 

(とりあえずは、店の構図の把握と須磨さんの情報を集めることを最優先にしないと。あたしが表立って動けないときは炭治郎、頼むわよ)

 

汐はそのまま女将の元へ足を進めていたのだが、廊下の隅で二人の遊女がひそひそと何かを話しているのが目に入った。

そのまま襖の影に入り、その話に聞き耳を立てる。

 

「やっぱり気味が悪いねぇ。二日前に死んだの、京極屋の楼主の女将さんでしょう?」

「高いところから落ちたらしい。最近は足抜けする連中も多くてどうなっているんだか・・・」

 

足抜けという言葉を、汐は以前玄海から聞いて知っていた。足抜けとは借金を返さず、遊女が遊郭から脱走すること。

見つかれば死よりも辛く屈辱的な制裁が待っている。

うまく逃げ延びた者もいるのだろうが、大概は見つかり制裁を受ける者が殆どだという。

 

(京極屋。確か雛鶴さんがいる店で、善逸がいるところね。転落死に足抜け。穏やかじゃないわね)

 

「足抜けなんて馬鹿なことを。耐え忍べばいつか手を差し伸べる者もいるかもしれないのに」

「そりゃあ夢物語さ。あの伝説の海旦那のような男なんざ、早々現れるもんじゃない」

「だろうね、言ってみただけ。須磨花魁に然り、何を考えているんだか」

 

須磨花魁!その名前を聞いた瞬間、汐の目が鋭くなった。おそらく宇髄の妻の一人、須磨の事だろう。

 

(だけど本名のまま潜入ってどうなの?あ、元忍びだから、(あざな)って奴かしら。ってそうじゃない。何とか須磨さんのことを聞きださないと)

 

だが、汐が出て行こうとしたとき不意に誰かに手を掴まれた。

 

「こら!なかなか戻ってこないと思ったら、こんなところで何をしてるんだい!」

 

先程汐をめかしつけてくれた女の一人が、般若のような顔で汐の腕を掴み、その声に気づいた二人の遊女はそそくさとその場を去って行った。

 

須磨のことを聞きそびれたことに悔しさをかみしめながら、汐は引きずられていくのだった。

 

汐が去った後、炭治郎は先ほどの別人のようになった彼女の姿を思い出しては、早鐘のように打ち鳴らされる心臓に困惑していた。

どうも最近、汐のことを考えると調子がいつもと違うような気がする。

そのせいかは定かではないが、最近汐から漂う匂いが前よりも甘く売れた果実のようないい匂いになっている気がするが、何故そうなのか炭治郎は全く理解できなかった。

 

「炭子ちゃん、炭子ちゃん」

 

部屋の外から声が聞こえ、炭治郎がて襖を開けると、店の者が少し慌てた様子で顔を出した。

 

「休んでいるところ悪いけれど、すぐに手伝ってくれないかい?人手が足りなくて」

「わかりました。すぐに向かいます!」

 

炭治郎は、持ち前の人柄と鬼殺隊として鍛えた力を存分に発揮して仕事をこなしていた。

汐が入ったことにより上機嫌になった女将のせいか、店の雰囲気が先ほどよりも明るい。

 

炭治郎は仕事をこなしつつも、須磨のことを探るため悪いとは思いつつもたくさんの人の話に聞き耳を立てていた。

 

「それにしても、女将の奴。さっきまで茹蛸みたいに顔を真っ赤にして怒っていたかと思いきや、今度は手のひら返して上機嫌。なんでもものすごい化け物じみた子が入ったとか」

「その子の前に買った子を連れてきたのもすごくいい男だったらしいわね。海旦那の再来なんていわれていたくらいの」

「海旦那、ね。昔ほぼ毎日廓に通い詰めては大金を落としていく、伝説の客だったかしら。どこかのお侍さんみたいな風貌だったけれど、派手で豪快で、女を買うためならいくら金を落としても構わないっていう人だっけ」

 

その話を聞いて、炭治郎は思わず足を止めた。須磨の事にはあまり関係のないことの話のはずなのに、なぜか気になったのだ。

 

(そう言えば汐の育ての親の玄海さんは、確か遊郭に通い詰めていたって話を前に聞いたな。もしかしたらここにも来ていたんだろうか)

 

だとしたら汐も喜ぶんじゃないかと思ったが、確信のない話を聞かせて中途半端な期待をさせるのも忍びない。

そんなことを考えていたが、遊女の次の言葉で炭治郎は思わず表情をひきつらせた。

 

「だけど外では素行が悪かったみたいでね。武士の魂の刀を売ろうとしたり、仲間が怒鳴り込んできたりといろいろとあったみたいよ」

「そこまでして通っていたとは。まあ廓で働く女に取っちゃ、絶好の鴨だけれどね」

 

(・・・絶対に玄海さんだ・・・)

 

その言葉を聞き、炭治郎は心の中で海旦那が玄海の事であることを確信した。そしてそんな彼に振り回された鱗滝やかつての仲間。そして娘である汐に、少なからず同情するのだった。

 


 

隊服に身を包んだ宇髄は、屋根の上から店の様子をうかがっていた。

 

(今日も異常なし)

 

店の様子と鬼の気配を気取りながら、宇髄は目を細めて口を引き結んだ。

 

(やっぱり尻尾を出さねぇぜ。嫌な感じはするが、鬼の気配ははっきりしねぇ。まるで煙に巻かれているようだ)

 

元忍びの彼やくのいちである妻たちの捜査網をかいくぐる程の鬼ならば、少なくとも十二鬼月であることは間違いない。

 

(気配の隠し方の巧さ・・・地味さ。もしやここに巣食っている鬼・・・上弦の鬼か?)

 

上弦の鬼。4か月前に煉獄が戦い命を落とした、無惨の血がかなり濃い強さの鬼達。

だとしたら、相当な戦いになることは言うまでもないだろう。

 

(ド派手な“殺り合い”になるかもな)

 

宇髄は目を一層鋭くさせながら、まだ見ぬ敵への警戒心を一層高めた。




補足として

汐の首輪について:汐が生まれつき喉の形が普通の人と違うため、その矯正具であると旨くごまかしたためつけています。
実際一度外したときは、咳き込んでしまい動けなくなるほどでした。

海旦那:ご存じ、玄海の事です。通いつめてはいましたが、身請けはしませんでした(というよりも、彼が金を落としたのは、皆思いを寄せている相手がいる遊女ばかりです)

汐が遊郭に詳しい理由:玄海にいろいろと教えられていました。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

十八章:蠢く脅威


注意:あまり遊郭事情に詳しい方ではないので、実際の遊郭とはありえない表現がございますので、ご了承ください。


炭治郎の働きぶりは、店の中でもかなりの評判になっていた。元々彼が家事全般が得意だったのもあり、その容量の良さと人柄の良さが幸いしての事だった。

今日も彼は、大量の洗濯物を畳み、荷物を運び、掃除もてきぱきとこなす。

 

そんな中、どこからか透き通るような歌声が聴こえてきて、炭治郎は思わず足を止めた。否、足を止めたのは炭治郎だけではなかった。

 

その歌声に店の者の殆どが思わず足を止める程、汐の奏でる歌声は評判になっていた。

しかも、彼女は善逸程ではないが耳がよいため、二回ほど聞けば三味線ならほぼ完ぺきに弾くことができた。(ただ、琴はあまり得意ではなかったのか、指導が何度か入っていたが)

 

思わぬ二人の出現に、楼主と女将はほくほく顔になるのだった。


 

「ふう・・・。まさか遊女の稽古があんなにきついなんて。精神力がなかったら、間違いなく心が折れてるわね」

(だけどこんなところでくじけている場合じゃない。炭治郎だって仕事をこなしながら頑張っているんだもの。あいつの努力を無駄にしないためにも、何とか有力な情報を手に入れないと)

 

みっちりと稽古をこなし、休息時間をもらった間。汐はこっそりと店の中を回り情報を集めようとした。

先輩たちの噂話や、仲良くなった禿たちから何とか須磨の情報を聞き出そうと試みた。

 

「須磨花魁は、やっぱり足抜けしたのかな。もうずっと姿を見てないし」

「でも、あの人はとっても優しい人だったよ。足抜けなんてするかなぁ・・・」

 

だが、あまり込み入った情報は入ってこず、これ以上の情報を得るにはもっと上の人間。同じ花魁の話を聞くしか方法がないように思えた。

 

(かといって鯉夏花魁にはもう二人の禿がいる。花魁につくのは二人って決まっているから、あたしが禿になるのは不可能だし・・・)

 

そんなことを考えていると、忙しそうに走り回る一人の店の者が、汐を見るなり慌てた様子で走り寄ってきた。

 

「ああ、忙しい!そこのあんた!悪いんだけれど、これを鯉夏花魁の部屋まで届けてくれないかい?」

「え。あたしが?」

「あんた意外に誰がいるんだい!こっちは忙しいんだ。早くしておくれ!」

 

汐に強引に荷物を押し付けると、彼女はあわただしくその場を去り、汐は荷物を抱えたまま立ち尽くしていた。

 

(どれだけ人手不足なのよ、この店)

 

汐は呆れつつも、思わぬ形で舞い込んできた好機を逃がすまいとすぐさま鯉夏の部屋に足を進めた。

 

「失礼しまぁす」

 

汐が襖の向こうに声をかけると、少し間を開けて襖が開き中へと通された。

中には既に二人の禿がおり、既にある荷物の整理をしていた。

 

「これ、鯉夏花魁の部屋に届けてくれって言われたの。それで、鯉夏花魁は何処に・・・」

「私に何か御用?」

 

汐がそこまで言いかけた時、奥の襖がそっと開いて鯉夏がゆっくりと顔を出した。

あの時見た美貌が不意に目の前に現れて、汐は思わず面食らう。

 

「嗚呼、届けてくれたのね。ありがとう。あら、あなたは確か、入ったばかりの汐子ちゃんだったかしら」

「あ、はい。でも何で知って・・・」

「店中の噂になっていたもの。私も一度あなたに会ってみたいと思っていたのよ」

 

そう言ってほほ笑む鯉夏に、汐の頬に熱が籠った。だが、汐は彼女の眼に微かな悲しみが宿っているのを見て、少しだけ胸が痛んだ。

 

「私の顔に何かついてる?」

「あ、い、いえ。物騒な噂話が絶えないから、大丈夫かなって思って」

 

汐がしどろもどろにになりながら答えると、鯉夏は少しだけ視線を落としながらぽつりと漏らすように言った。

 

「そうね。最近怖いことが多いからみんな怖がっているの。いなくなってしまった人もいるのは本当だし、そういう人たちはちゃんと逃げきれていればいいんだけれどね。須磨ちゃんも・・・」

「やっぱり須磨花魁がいなくなったっていうのは本当、なんですね」

 

汐がそう言うと、鯉夏は「あなたも須磨ちゃんを捜しているの?」と疑惑の目を向けた。

 

「あなたもって・・・?」

「さっき炭ちゃんも須磨ちゃんのことを聞きに来たのよ。須磨ちゃんは炭ちゃんのお姉さんだったみたいで、足抜けなんてする人じゃないって。でもどうして?」

 

その話を聞いて、汐は炭治郎の仕事の速さに驚きつつも、さらに踏み込もうと拳を握りながら話し始めた。

 

「実はあたしの父親はとんでもない女好きであちこちに女作ってたらしくて、母親が死んだあとあたしは養子に出されたんです。その時もしかしたらあたしには母親違いの姉がいるかもしれないって教えられて。もしかしたら炭子も、あたしの妹かもしれないから、それで・・・」

 

我ながら苦しい嘘かもしれないと思っていたが、全部嘘ではなく時折真実も混ぜながら話した。すると鯉夏は同情を宿した眼で汐を見つめた。

 

「まあそうだったの。大変だったわね」

 

鯉夏はそう言って汐の頭を優しくなでた。その手の温かさと優しさに、汐の胸が締め付けられるように苦しくなった。

 

「須磨ちゃんはとても素直な子だから、足抜けなんてする子じゃないはずなの。でも、日記が見つかって足抜けするって書いてあったらしくてね。今でも信じられない気持ちでいっぱいなのよ」

(なるほど。足抜けしたって思わせれば、突然いなくなってもいろいろとごまかせる。日記なんてよく調べない限りいくらだって捏造できる。しかも今は人手不足で他人なんて構ってられない状況。腹が立つくらい、鬼側にとって絶好の状況だわ・・・)

 

汐はぎりりと奥歯をかみしめ、拳を握った。脳裏に平静を装っているが不甲斐なさと苛立ちの眼をした宇髄の姿が蘇る。

 

そんな表情の汐を見て、鯉夏は優しい声色でつづけた。

 

「『ここは女にとっては辛くて苦しい場所だけれど、生きていれば明日は必ず来る。明けない夜なんてない。前が見えなくて怖いかもしれないけれど、足を止めてはいけない。最後の最後まで顔を上げて胸を張る』」

「え?」

「ずっとずっと昔、ここに来ていたお客様が、みんなに言っていた言葉らしいの。派手な出で立ちで仲間の人から怒られたりもしていたらしいけれど、とても優しくて誇り高い人だったらしいわ。たくさんの人がここから出られる手助けをしてくれた素晴らしい人だって。その人は海旦那って呼ばれていて、今でも伝説になっているそうよ」

 

その話を聞いた瞬間、汐の唇が小刻みに震え、その目からは涙がぽろりと零れ落ちた。それを見た鯉夏は慌てて布を取り出し、汐の涙をふいた。

 

「どうしたの汐子ちゃん。大丈夫?」

「大丈夫。ごめ、ごめんなさい。何だかその人、あたしを育ててくれた人にちょっとだけ似てて・・・。その人もあたしに何があっても絶対にあきらめるなって言ってくれたんです」

 

汐は涙を乱暴にぬぐうと、凛とした顔で鯉夏を見つめた。

 

「あたし諦めない。本当に須磨花魁があたしの姉ちゃんか、必ず確かめる。ついでに炭子も。だから鯉夏花魁も諦めないでね」

 

汐のその言葉に鯉夏は微かに目を見開いたが、優しい顔つきで頷いた。

 

「じゃああたし戻ります。稽古の続きをしなくちゃ」

「嗚呼ちょっと待って」

 

立ち去ろうとする汐の手に、鯉夏は小さな飴玉をこっそりと握らせた。

 

「これは話をしてくれたお礼。みんながいないときにこっそり食べるのよ」

「あ、ありがとう」

「それと、また会いに来てくれる?何故だかわからないけれど、あなたと話しているととても不思議な感じがするの。なんというか、あなたの話をもっともっと聞きたいと思ってしまうから」

 

駄目かしら?と小首をかしげる鯉夏に、汐はぶんぶんと首を横に振った。

 

「あたしでよければいつでも」

 

そう言って汐は飛び切りの笑顔を鯉夏に向け、鯉夏もまたつられるように笑顔になるのだった。

 

鯉夏の部屋を出て、汐は稽古の為に廊下を足早に駆けて行った。

 

(足抜け、偽造された日記。須磨さんはほぼ間違いなく鬼の手に落ちたと考えていいわね。鬼に感づかれたのか、それとも獲物として狙われたかは定かじゃないけれど、どっちにしてもここに鬼の手が伸びてることは間違いない)

 

だけど、と汐は考えを巡らせながら生まれた疑問を考え始めた。

 

(鬼は昼間は活動できないから、日の光が当たらないどこかに潜伏している。現に鬼の気配は本当に微かだけれどするし、鬼がいるのは間違いない。だけど、どうやって出入りしているのかがわからない。もしも外で動きがあれば、派手男から何らかの合図があるはず。だけどそれがないってことは・・・店の中に鬼がいる可能性が――)

 

汐は考えながら足を進めていたが、ある角を曲がった瞬間。

 

「!?」

 

身体に張り付くような奇妙な気配を感じ、汐は思わず振り返った。しかしそこには誰も折らず、廊下だけが伸びている。

 

(何?今の変な感じ。鬼の気配に近かったけれど、一瞬でわからなかった。伊之助だったらもっと敏感に探知できるだろうし、炭治郎や善逸も匂いや音で察知できるでしょうね)

 

汐は皆のような索敵能力がないことに歯がゆさを感じたが、すぐさま頸を振ってその想いを払う。

 

(そんなことを言っている場合じゃないわね。あたしにはできることをしないと。あたしがへまをしたら、店の連中だけじゃなく炭治郎達も危なくなる。正直なところ状況は最悪だけど、信じなきゃ。必ず助けるわ、須磨さん・・・!だかああんたも、諦めるんじゃないわよ)

 

汐は両手で頬を打ち鳴らし、気合を入れると稽古場へ足早に向かった。この後、女将にどやされることになるとは知らずに――

 


 

店に潜入したはじめての夜。汐は他の遊女の手伝いをしながら、鬼の気配を捜した。

夜は鬼が動く時間。もしも何かあれば即座に対応できるよう、神経を研ぎ澄ませて。

 

しかしその日は特に何も起こらず、めかしつけた汐の美貌に惹かれた客がまとわりつき、それを汐が秘密裏に処理したのは誰にも知られなかった。

 

(ふぅ、今日はいろいろと怒りすぎて疲れたわ・・・)

 

雑魚寝部屋へ戻った汐は、皆がそれぞれ寝息を立てている中一人考えていた。

 

(昼間鯉夏さんが言っていた海旦那って、たぶんおやっさんの事よね。伝説になる程なんて、どれだけ通ってたのよ、あの爺)

 

けれど玄海が来たことで借金が減り、町を出やすくなった者達がいることは紛れもないことで、当時の彼女たちにとっては地獄から救ってくれる仏のような存在だったのだろう。

そして彼の言葉は今も尚、ここに残り遊女たちに希望を与えている。

 

(明けない夜はない、か。おやっさんらしいというかそうじゃないというか。でも確かに、どんな夜でも必ず朝は来る。だからあたしも、ここにいる連中も、明日を迎えさせるためには須磨さんたちを見つけて鬼を何とかしないと・・・)

 

汐は首を動かし、どこかで眠っているであろう炭治郎を想いながら目を閉じた。

 

(炭治郎、あたし頑張るから。あんたもシャキッとしなさいよ。それと、少しでも鼻の下伸ばしたら・・・蹴りつぶす・・・からね・・・・)

 

そんな物騒なことを考えつつ、汐の意識は闇の中に沈んでいくのだった。

 

しかし、この時二人は知らなかった。

 

伊之助が未遂とはいえ鬼と遭遇し、善逸の身に危険が迫っていることに――



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



翌日。汐は朝の稽古を終わらせた後、定期連絡の為にこっそりと部屋を抜け出し集合場所へ赴いた。

その場所は店の屋根の上。日の光が直に当たるため鬼は勿論近寄れない上、人目を避けるのにも絶好の場所だ。

 

「ごめん、遅くな「だーかーら!!俺んところに鬼がいんだよ!!」

 

汐の言葉を遮って、伊之助の声が辺りに響いた。何事かと思い顔を出せば、既にそこには炭治郎と伊之助の二人がオリ、伊之助は喚きながら身振り手振りで炭治郎に何かを伝えようとしていた。

 

「うるさいわね、何を騒いでんの?」

 

声を掛けると二人の視線は汐に向けられ、炭治郎は「来たのか」といい、伊之助は「遅せえぞ!」とだけ言った。

 

「伊之助のいる店に鬼がいるって話なんだけれど、なんというか、その・・・」

「だからよ!!こういう奴がいるんだっての!!こういうのが!!」

 

伊之助は両手を大きく振り上げ何かを伝えようとしているのだが、汐と炭治郎には何のことだかさっぱりわからなかった。

 

「いや・・・うん、それは、あの・・・。ちょっと待ってくれ」

「全然わかんないわよ。ちゃんと人間の言葉で喋んなさいよ」

 

困惑する炭治郎と呆れかえる汐に、伊之助は頭から湯気を出しながら再びおかしな動きでまくし立て始めた。

 

「そろそろ宇髄さんと善逸が定期連絡に来ると思うから・・・」

「こうなんだよ、俺にはわかってんだよ」

「だーかーらぁ!!あんたが分かってたってあたしたちが分かんないんだから何の意味もないでしょうが!!」

 

このままでは汐が伊之助につかみかかりかねないと察した炭治郎は、何とかして二人を落ち着けようと声を掛けようとした。

 

だが、

 

「善逸は来ない」

 

不意に背後から声が聞こえ、三人は一斉に首をそちらに動かした。そこにはいつの間にか宇髄が皆に背を向けたまま静かに座っていた。

 

(コイツ・・・やる奴だぜ。音がしねぇ・・・風が揺らぎすらしなかった・・・)

 

伊之助の触覚ですら感じ取れなかったその気配に、宇髄がそれだけ気配を消すことに長けている存在だということが否でも分かった。

 

「あんた、今なんて言ったの?」

「善逸が来ないって、どういうことですか?」

「お前達には悪いことをしたと思っている」

 

汐と炭治郎が問いかけると、宇髄は振り返りもしないままぽつりとつぶやくように言った。

 

「俺は嫁を助けたいが為に、いくつもの判断を間違えた。善逸は行方知れずだ。昨夜から連絡が途絶えている」

 

行方知れずという言葉に、三人の肩が微かに跳ねた。

 

「お前らは花街(ここ)から出ろ。階級が低すぎる。ここにいる鬼が“上弦”だった場合、対処できない。消息を絶った者は死んだと見なす。後は俺一人で動く」

「いいえ宇髄さん、俺たちは・・・!!」

 

炭治郎が何かを言おうと口を開くが、宇髄はそれを遮ってさらに言葉をつづけた。

 

「恥じるな。生きてる奴が勝ちなんだ。機会を見誤るんじゃない」

「待てよオッサ「待ちなさいよ」

 

伊之助の言葉を遮り、汐は静かに宇髄の背中に言葉をぶつけた。

 

「あんたふざけてんの?ここまで首突っ込ませておいてさっさと帰れだなんて。あたしたちがこのままはいそうですかなんて引き下がるとでも思ってんの?」

 

汐の言葉宇髄は肯定も否定もせず、ただ背中を汐に向けたまま動かない。

 

「判断を間違えた?消息を絶った者は死んだとみなす?生きている奴が勝ち?何勝手に決めてんの?何自分で勝手に自己完結してんのよ。何勝手に善逸やあんたの女房を死んだことにしてんのよ!あんたが言っていることってそう言うことじゃない!!」

「止めろ汐!言いすぎだぞ!」

 

炭治郎は汐を慌てて諫めるが、汐の口は止まらない。彼女の鋭い声が宇髄の心に深く突き刺さり、ジワリとした痛みが広がっていく。

 

「善逸がこの程度でくたばるタマか。あいつは呆れるほど本能に忠実な男で恥も晒すけれど、強い男よ。それにあんた言ってたじゃない。自分の女房は優秀なくのいちだって。そんな人たちを亭主であるあんたが信じてやらなくて誰が信じるんだ」

 

汐の言葉は全員の耳に染み渡り、心の中に吸い込まれていく。その時炭治郎は宇髄から、苛立たしさに交じって少しだけ希望を持った匂いを感じた。

 

しかし

 

「なんとでも言いやがれ、小娘が」

 

宇髄はぽつりとそれだけを言うと、煙のように姿を消した。残ったのは彼がいた場所に微かに舞う芥だけだった。

 

しばしの沈黙が辺りを満たし、炭治郎の溜息がその沈黙を破った。

 

「俺たちが一番下の階級だから信用してもらえなかったのかな・・・」

 

炭治郎は悲し気に視線を下に向けて言うが、その言葉に汐と伊之助は違和感を感じた。

 

「あれ?あんたもう階級上がってんじゃないの?」

「え?」

「俺たちの階級“(かのえ)”だぞ。もう上がってる。下から四番目」

 

汐と伊之助の言葉に炭治郎は目を丸くし、伊之助は徐に右手を握ると「階級を示せ!」と口にした。

すると伊之助の手の甲に(かのえ)という文字が浮かび上がった。

 

その仕組みを知らなかった炭治郎は呆然とした表情のまま汐を見て言った。

 

「汐、お前知ってた?」

「あ、うん。みっちゃん、師範に聞いてね。まああの時は疲れ切っててそれどころじゃなかったし、あたしだって言われるまで知らなかったんだからあんまり気にするんじゃないわよ」

 

肩を落とす炭治郎を汐と伊之助が慰める中、汐はふと思いついて自分の左手を見た。

 

「久しぶりにあたしもやってみよう。階級を示せ」

 

汐も伊之助と同じように左手を握りそう口にすれば、彼女の手の甲に文字が浮かび上がった。

しかし浮かんできた文字は(かのえ)ではなく(つちのと)になっていた。

 

「あれ、あたし階級上がってる。なんで?」

「なんでって、お前柱の奴と任務行ったりしてんだろ。そのせいじゃねえか?」

「あーそうか、なるほど。って、伊之助が賢くなってる!?あんたどっか頭打ったんじゃないの!?」

「はあ!?なんだとテメー!今まで俺のことを何だと思ってやがったんだ!?」

 

憤慨する伊之助に汐が「猪突猛進馬鹿」と答えれば、伊之助は頭から湯気を吹き出し「ムキーッ!!」と叫んだ。

 

「伊之助止めろ!汐もいちいち挑発するな!今はそんな場合じゃないだろう!」

 

炭治郎は何とか二人を落ち着かせると、真剣な表情で見まわして言った。

 

「汐。俺は夜になったら、すぐに伊之助のいる“荻本屋”へ行く。伊之助はそれまで待っててくれ」

「はあ?あんた一人で行く気?だったらあたしも」

「お前は店に残っててくれ。いきなりいなくなったら怪しまれるし、伊之助も一人で動くのは危ない」

「おいお前等!何勝手に話進めてんだ!それに俺のトコに鬼がいるって言ってんだから、今から来いっつーの!頭悪ィな、テメーはホントに!」

 

伊之助は炭治郎の頬を引っ張りながら捲し立て、その声の五月蠅さに下にいた者は顔を引き攣らせた。

 

「ひがうよ」

「あーん!?」

 

伊之助は炭治郎の頬から手を放せば、今度はペムペムと音を立てながら炭治郎の頭を叩き始めた。

 

「夜の間、店の外は宇髄さんが見張っていただろう?でも善逸は消えたし、伊之助の店の鬼も今は姿を隠している。イタタ、ちょ・・・ペムペムするのやめてくれ」

 

「止めてやんなさいよ馬鹿猪。炭治郎がこれ以上阿呆になったらどうするのよ」

「汐ちょっと黙っててくれないか。それで俺は、店の中に通路があるんじゃないかと思うんだよ」

 

炭治郎の言葉に伊之助は思わず手を止めて「通路?」と聞き返した。

 

「そうだ。しかも店に出入りしてないということは、鬼は中で働いている者の可能性が高い。鬼が店で働いていたり、巧妙に人間のふりをしていればしているほど、人を殺すのには慎重になる。バレないように」

「そうか・・・。殺人の後始末には手間がかかる。血痕は簡単に消せねぇしな」

「ここは夜の街だ。鬼には都合のいいことも多いが、都合の悪いことも多い。夜は仕事をしなきゃならない。いないと不審に思われる」

 

炭治郎が自分の推理を伊之助に話している中、不満そうな顔をした汐は刺々しく声を掛けた。

 

「話の腰を折るようで悪いんだけれどちょっといい?それとも始終黙ってなくちゃいけない?」

「い、いや。さっきは悪かった。それで、どうしたんだ汐?」

 

汐から殺意に近い匂いを感じた炭治郎は、身の危険を感じつつ声を微かに振るわせながら問いかけた。

 

「炭治郎が言っていた隠し通路っていうのはいい線言っていると思う。だけど、あたしが思うにひょっとしたら鬼は使い魔のようなものを使っているんじゃないかと思うのよ」

「「使い魔?」」

 

炭治郎と伊之助が首をかしげていると、汐は声を潜めながら言った。

 

「前に行った任務で自分の身体の一部を人形に変える鬼と戦ったんだけれど、そいつみたいに自分の力を切り離して自由に動ける使い魔みたいにしていれば、自分が動けなくても人間を殺す、もしくは捕まえることが可能なんじゃないかしら?鬼なんて何でもありな連中だもの。もしもそうなら、萩本屋にいたはずの鬼が、善逸をどうにかすることも不可能じゃない」

「一理あるな。もしも汐の仮説が本当なら、人が通れないような隙間でも簡単にすり抜けられるし目撃される可能性も少ない」

「じゃあ俺が見つけたのは鬼じゃなくてその使い魔かもしれねえってことか?」

 

伊之助の言葉に汐と炭治郎は同時にうなずいた。

 

「でもあくまで仮設。そうじゃないかもしれないから用心に越したことはないわ」

「そうだな」

「それに、あたしには善逸がこのままくたばるとは到底思えない。本能と執着心が服を着て歩いている奴よ?」

「それだと褒めているんだか貶しているんだかわからないけれど、俺もそう思う。それに、宇髄さんの奥さんたちもきっと生きていると思うんだ」

 

二人の言葉に確証はない。だが、少なくとも二人の心には最悪の結末など想像するつもりは微塵もなかった。

 

「俺たちはそのつもりで行動する。善逸も奥さんたちもきっと生きている。だから伊之助にもそのつもりで行動してほしい。そして、二人とも絶対に死なないで欲しい。それでいいか?」

 

炭治郎の言葉に伊之助はしばし言葉を切るが、次の瞬間には自信に満ちた声色で言った。

 

「お前が言ったことは全部な、今、俺が言おうとしたことだぜ!!」

(嘘くさ)

 

そんな彼に汐は少し呆れたように笑うが、ふとあることを思い出して炭治郎を呼んだ。

 

「炭治郎、ちょっといい?」

「ん?どうしたんだ?そんな顔して」

「・・・。あんたに一つ、頼みたいことがあるのよ」

 

汐は神妙な顔つきでそう言うと、炭治郎の耳元に唇を寄せて言った。

言葉を聞いた炭治郎は目を見開き、微かに顔を青くした。

 

「それは、確かなのか?」

「ううん。だけど可能性は高いと思う。あたしの思い過ごしならいいんだけれど、もしも、万が一って言葉は決して『ありえない』ってことじゃないから」

 

汐の言葉に炭治郎は重々しくうなずいた。

 

「わかった。だけど、絶対に無理はするなよ」

「もちろん。あんたこそ、うっかり鬼に遭遇して喰われたりしないでよ」

 

物騒な言葉を吐く彼女に、炭治郎は引きつった顔のまま仕事に戻るのだった。


 

その夜。汐は他の禿に混ざって仕事をこなしていると。一人の店の者が慌てた様子で汐を呼び来た。

「汐子。大変だよ」

「ど、どうしたの?」

 

明らかに普通じゃない眼をしている彼女に、汐は何事かと思い思わず手を止め問いかけた。

 

「鯉夏花魁があんたに会いたがっているんだよ」

「え?鯉夏花魁が!?」

 

普通ならありえない事態に汐の頭は混乱したが、呼ばれている以上従わないわけにはいかない上、緊急事態かもしれない。

 

汐は仕事を他の者に任せると、急いで鯉夏の部屋へと足を進めた。

 

「こんばんわ、鯉夏花魁。汐子です」

 

襖の前でそう告げると、中から「入って頂戴」という鯉夏の声が聞こえた。

 

「失礼します」

 

汐は一言断りながら襖をあけ中へと入れば、そこには鏡を見つめている鯉夏の姿があった。

 

(禿たちがいない。夕食に行ったのかしら)

 

汐が辺りを見回しながらそんなことを考えていると、鯉夏はゆっくりと汐の方を振り返った。

 

「来てくれたのね、ありがとう」

「いえ。それよりあたしに何か用が?」

 

汐が思わず問いかけると、鯉夏は少しだけ困惑した顔をしながら意を決したように口を開いた。

 

「込み入った話で申し訳ないけれど、須磨ちゃんも炭ちゃんも、貴女の本当の姉妹じゃないのよね?ううん、それどころか、炭ちゃんは()()()()()()()()?」

 

その声が耳に入った瞬間、汐は身体に冷たいものが流れていくような感覚を感じた。

 

「え?」

 

鯉夏から告げられた言葉に、汐は思わず声を失った。彼女の眼は少しも揺れておらず自分の言葉に確信を持っているようだ。

 

(何よアイツ・・・バレてるんじゃないのよ・・・!)

 

顔を引き攣らせる汐に、鯉夏は彼女を安心させるような声色で言った。

 

「安心して。このことを他言するつもりはないわ。あなたも彼も、何か事情があるのよね?」

 

鯉夏の言葉に汐は少しばかり警戒したが、その言葉に嘘偽りはないようだ。

 

「いつからあいつ、炭子が男であることに気づいてたの?」

 

汐はいつもの口調に戻りながら鯉夏に尋ねれば、彼女は「初めから」と答えた。

 

「騙すような真似をしてごめんなさい。だけど須磨さんを心配しているのはあたしもあいつも嘘じゃない。詳しくは言えないけれど、いなくなった人たちはあたしたちが必ず助け出すわ。だから、信じて」

 

汐の言葉に鯉夏は驚き、目を見開いた。それはかつて。海旦那と呼ばれた男が帰る間際に残していた、もう一つの言葉。

 

――必ず助けてやる。だから、俺を信じろ

 

「もしかしてあなたは、海旦那様の・・・いえ、やめておきましょう。ありがとう、汐子ちゃん。少し安心できたわ。それと、私があなたを呼んだのはあなたにもう一つ伝えなければならないことがあるの」

 

鯉夏はそう言ってもう一度目を伏せると、嬉しさと寂しさを孕んだ声色で告げた。

 

「私、明日にはこの町を出て行くの」

「え?それって、身請けされたってこと?」

「ええ。こんな私でも奥さんにしてくれる人がいて、今、本当に幸せなの。でも、だからこそ残していく皆のことが心配で堪らなかった・・・嫌な感じがする出来事があっても、私には調べる術すらない。あなたにも炭ちゃんにもいなくなってほしくないのよ」

 

そう言う彼女の眼には悲しみが見え隠れし、せっかくの幸せの眼が曇ってしまっていた。そんな彼女に、汐は凛とした声で言い放った。

 

「あなたは何も心配することはない。あたしはあなたに会って間もないから、あなたがここでどれ程辛い思いをしたのか全部はわからない。けど、だからこそ不幸を味わっている人こそ、幸せになってもらいたい。辛い思いをした分、否それ以上にあなたは幸せになるべきなのよ。だからあなたはここを出ても、あなたの傍にいる人のためにも、その笑顔を決して忘れないで」

 

鯉夏は大きく目を見開いて目の前の少女を見つめた。普通に生きてきた少女には決して出せない程の、渋く重厚な言葉の重み。

それはまるで、辛い思いをしている者をずっとそばで見てきたような。

 

「あなたは強い子ね。その強さはきっと大切な人が傍にいるからね」

 

大切な人、という言葉を聞いて、汐の脳裏に浮かんだのは炭治郎の顔。

その瞬間汐の顔が真っ赤に染まり、鯉夏はくすくすと笑った。

 

「ありがとう、汐子ちゃん。最後にあなたと話せて本当に良かったわ。あなたもどうか、彼を、炭ちゃんを大切に思ってあげてね」

「彼って、ええ!?あたしは、別に・・・」

 

しどろもどろになる汐に鯉夏は満面の笑みを浮かべると、汐に仕事に戻るように促した。

 

そして再び鏡に向かっていると、背後から誰かの気配を感じた。

 

「あら。何か忘れ物・・・?」

 

鯉夏が振り返った瞬間、彼女の意識は深い闇の中に堕ちていくのだった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



吉原の数ある店の中の一つ、京極屋。そこには【蕨姫】という花魁がいた。彼女はときと屋の鯉夏花魁に並ぶほどの花形で、その美しさに多くの人間は魅了され、金品を貢いだ。

しかしこの花魁は、とても美しいが恐ろしい程性悪で、癪に障ると暴力やいじめで当たり散らした。そのため店では怪我人、足抜け、自殺者が後を絶たず、魅了されたものと同じくらい、恐れられていた。

 

実はこの花魁には秘密があった。ある者は幼い頃と中年の頃にそのような花魁達を見たといった。

彼女たちは【姫】という名を好んで使い、気に喰わないことがあると首を傾けて睨みつけてくるという、独特の癖があった。

 

そして京極屋の蕨姫も彼女たちと同じ、その癖があった。

 

それを知った京極屋の楼主の妻は、そのまま高所から落ちて死んだ。正体を現した蕨姫花魁によって。

彼女の正体は、この界隈を餌場とする鬼であり、名を【堕姫(だき)】と言った。その両目には【上弦・陸】と刻まれており、十二鬼月の一人である。

この鬼は他の鬼とは少し異なり、美しい人間のみを貪り食うこだわりがあった。そのため、年老いた者や彼女が醜いと感じた者は喰われず、更に惨い殺され方をする。

善逸は偶然とはいえ正体を知ってしまい、その手によって囚われてしまっていた。

 

そしてその夜。

 

堕姫は音を立てずに鯉夏の部屋に忍び込んだ。目的は一つ。鯉夏花魁を喰うためだ。

 

部屋には、鯉夏の好む香の香りが漂っている。

その香りの強さに堕姫は少しばかり顔をしかめたが、一歩、また一歩と鯉夏の背中に忍び寄った。

 

「何か忘れもの?」

 

背後の気配に気づいた鯉夏が口を開くと、堕姫は舌なめずりをしながら答えた。

 

「そうよ。忘れないうちに喰っておかなきゃ。アンタは今夜までしかいないから、ねえ、鯉夏?」

 

地を這うような恐ろしい声でそう言うと、鯉夏は振り返ることもせず静かに口を開いた。

 

「そう・・・」

 

鯉夏はそれだけを言うと、すっと音もなく立ち上がった。その雰囲気に堕姫は違和感を覚え、思わず一歩後ずさった。

 

「奇遇ね、私もよ。忘れないうちにあなたを――」

 

――ぶっ潰しておこうと思って

 

鯉夏の異様な雰囲気を感じ取り、堕姫は瞬時に腰の帯を鯉夏に向かって振り上げた。が、その瞬間。

爆発的な空気の流れが起き、部屋は轟音と粉塵に包まれた。

 


 

昼間の定期連絡の後、汐は次に鯉夏が鬼に狙われる可能性が高いということを炭治郎に伝えた。店の者や客の話を聞くと、消えた者達は皆花魁やそれに近しい位の者や、特に美しいと名高い者達ばかりであった。

それを踏まえると、今この場で一番近しいのは鯉夏だという結果になった。

 

そして鯉夏を守るために、汐が彼女に成りすまして鬼の隙をつくという、非常に危険な作戦を提案した。

 

勿論、炭治郎は最初は反対した。それは汐が囮になるということを意味し、生存率が著しく低くなるのと同じことだ。

だから最初は炭治郎が囮になり、汐が鯉夏を逃がす提案をしたが、炭治郎では体格的に難しく、何より声帯模写ができる汐の方が適任だと訴えた。

その頑なな決意に炭治郎は渋々折れ、汐に囮を任せることにした。

 

あの後、隊服に着替えた後に鯉夏の部屋にこっそり戻った汐は、振り返った鯉夏を当て身で気絶させると、すぐさま香を焚いて部屋に充満させた。

 

「炭治郎」

 

それから部屋の外で待機させておいた炭治郎を呼び、意識を失った鯉夏を別室に連れて行くように指示した。

 

「あたしはこのまま鯉夏さんに扮してしばらくいるわ。だから後のことは頼むわね」

「・・・わかった。だけど、本当に無茶だけはするな。何かあったらすぐに駆け付けるから、すぐに呼ぶんだぞ」

「ありがとう。さあ、早く鯉夏さんを連れて行って」

 

汐は直ぐに隊服の上から鯉夏の着物を羽織り、用意しておいた鬘をかぶり鏡の前に座り込んだ。そしてその数分後に、背後に鬼の気配を感じるのだった。

 


 

「ここなら大丈夫か」

 

今は使われていない空き部屋に眠っている鯉夏を静かに下ろしながら、隊服に身を包んだ炭治郎は小さく息をついた。

目の前で目を閉じている彼女の顔を見ながら、炭治郎はぎゅっと目を細めた。

 

「う・・・ん・・・」

 

すると横たえた鯉夏の瞼が震え、ゆっくりと開いて炭治郎を映した。

 

「炭、ちゃん?私どうして・・・。それにその恰好は・・・」

「手荒な真似をしてすみません。あなたの身に危険が迫っているとのことで、不本意でしたが守るためにこのような手段を取らせていただきました」

 

炭治郎は深々と頭を下げると、真剣な表情で鯉夏を見据えながら言った。

 

「それと、訳あって女性の姿でしたが、俺は男なんです」

炭治郎がそう言うと、鯉夏は特に驚いた様子も見せず「あ、それは知っていたわ。見ればわかるし、声も女の子にしては低いし、何より汐子ちゃんから聞いていたもの」と答えた。

 

途端に炭治郎の顔が何とも言えない表情になり、一瞬の沈黙の後炭治郎は慌てた様子で口を開いた。

 

「あ、で、でも!汐・・・汐子は俺と違って本当の女の子で・・・!」

「大丈夫、わかっているわ。そう、あの子の本当の名前は汐ちゃんと言うのね」

 

鯉夏は安心したような少しだけ寂しいような不思議な表情で炭治郎を見た。

 

「少し前にあの子と話をしたときに言われたの。何も心配する必要はない。笑顔を忘れないでって。でもそう言った彼女は少しだけ悲しい眼をしていたわ。私にはわからないけれど、あの子もきっととても辛く悲しい思いをしてきたのね」

 

鯉夏の言葉に炭治郎は目を伏せ、残してきた汐のことを想った。

鬼となった育ての親を斬り、特殊な声を持つため鬼に命を狙われる。そんな凄惨な過去と宿命を持つ彼女は、決して何者にも屈せず自分の意思と足で前に進んでいる。

その強さと誇り高き精神に、炭治郎は何度も救われ支えられてきた。

 

「俺は、汐の強さに何度も救われ、支えられてきたんです。何度もくじけそうになった時も、いつも彼女が傍にいて俺を立ち上がらせてくれた。不安で前が見えなくなっても、吹き飛ばして前を見させてくれた。だから今度は俺が彼女を支えると決めたんです」

 

炭治郎の迷いない言葉に、鯉夏はにっこりと笑って彼を見た。

 

「彼女のことがとても大切なのね」

 

すると炭治郎の顔が瞬時に真っ赤になり、視線をあちこちに泳がせた。それを見た鯉夏は、先ほどの汐と同じ仕草をしていることにほほえましさを感じた。

 

「すみません。俺は汐の様子を見に戻ります。ですが、まだ危険が去ったわけではないので、申し訳ないのですがここから出ないでください」

「ええ、わかったわ」

「それと。俺の本当の名は炭治郎。竈門炭治郎と申します」

「炭治郎君、とても素敵な名前ね。炭治郎君、どうか気を付けて――」

 

鯉夏がそう言いかけた瞬間、遠くですさまじい爆発音が聞こえ店が微かに揺れた。

鯉夏は身体を震わせ、炭治郎は汐の嫌な予感が的中したことを悟った。

 

すぐさま汐の元に赴こうと足に力を入れたその時。突如鬼の匂いが炭治郎の鼻を突き刺した。

 

彼は直ぐに刀を抜き、鯉夏を背中に庇うように立つと、匂いがした方向に視線を鋭くさせた。

 

「成程ねぇ、そういうことかい。ずいぶんと舐め腐った真似をしてくれるじゃないか、糞餓鬼が」

 

地を這うような悍ましい声と共に、炭治郎の前に一枚の帯状のものが現れた。

それはグネグネと気味悪くうねり、あちこちに血管のようなものが浮き出しており、目と口のようなものまである。

 

(鬼の匂い!でも、何か違和感がある。まさかこいつが、鬼の使い魔か!?)

 

帯の使い魔は、グネグネとうねりながら炭治郎達の傍ににじり寄ってきており、炭治郎は刀を向けながら背後にいる鯉夏に声を潜めながら告げた。

 

「鯉夏さん。俺が合図をしたら、すぐにこの部屋から逃げてください。こいつは俺がここで食い止めます」

 

炭治郎は吐き気を催すような匂いに耐えながら、使い魔を睨みつけた。そして、使い魔が蛇のように鎌首をもたげ、炭治郎に飛び掛かろうとした瞬間だった。

 

「今だ!!」

 

炭治郎が踏み出すと同時に、鯉夏はすぐさま襖をあけて一目散に外に飛び出した。使い魔はそれを追おうとするが、炭治郎はそれを許さなかった。

 

――水の呼吸・肆ノ型 打ち潮!!

 

炭治郎の斬撃が使い魔の攻撃を払いのけ、その勢いのまま窓枠を吹き飛ばし外へと押し出した。

 

「お前を鯉夏さんの下へ行かせるわけにはいかない。ここで絶対に食い止める!!」

 

「うおおおおおおおおお!!!!!」

 

炭治郎の咆哮が辺りに響き渡ると同時に、凄まじい音が響き渡った。

 

「うおおおおおおおおお!!!!!」

 

一方。上弦の鬼、堕姫を爆砕歌で吹き飛ばした汐は、着物を脱ぎ棄てその頸をとらんと斬りかかった。

だが、堕姫はすぐさま空中で体勢を立て直すと、汐に向かって纏っていた帯を差し向けた。

 

汐は直ぐに刀を正面に戻し、襲い来る帯を凄まじい速さで捌き切り、身をひねって屋根の上に降り立った。

 

「まさか鯉夏に成りすましていたとはね。あの香は匂いを隠すための工作。人間の割には知恵が回るわね」

 

堕姫は嘲るようにそう言うと、自分を睨みつける汐を見て目を細めた。

 

「だけどアンタは柱じゃないわね。力が弱いもの。鬼狩りは何人いるの?一人は黄色い頭の醜いガキでしょう?」

 

堕姫の言葉に、汐は善逸が彼女の手に落ちていることを悟り目を鋭くさせた。

 

「柱は来てるの?アタシは年寄りと不細工は食べないの。柱じゃない奴はいらないのよ」

 

堕姫の眼をみて、汐はその禍々しさと不快感で吐き気がこみ上げてきたが、それを耐えるように刀を握りなおした。

 

(ふっざけんじゃないわよ。何なのよアイツの眼。今まで戦ってきた雑魚なんかとは比べ物にならない程、禍々しい眼をしているわ。みっちゃんと蛇男の訓練を受けていなかったら、一瞬で全身刺身にされていた・・・!こんなやつに後何分もつか・・・。炭治郎・・・!!)

 

堕姫は帯をぐねらせながら汐ににじり寄るが、ふと何かに気づいたように目を微かに開いた。

 

「ん?嗚呼、店の中にも鬼狩りがいたのね。額に傷のある不細工な子。柱じゃなさそうね」

「っ!!」

 

それを聞いた汐の肩が跳ね、同時に使い魔を使うという汐の仮説は正しかったことを理解した。

 

「やっぱり。そうやって使い魔を放って人間を捕まえ喰っていたのね。道理で尻尾を出さないはずだわ」

「アタシはね、そんじょそこらの鬼みたいに誰でもかんでも食べるわけじゃないの。アタシが好むのは美しい者だけ。不細工と年寄りなんて喰えたものじゃない」

 

堕姫は得意気に言った後、帯をくねらせながら汐の顔をまじまじと見ながらねっとりとした声で言った。

 

「よく見ればアンタもなかなかみられる顔をしてるわね。鯉夏には劣るけれど、アンタもなかなかおいしそう。そうね、まずはアンタを三枚に下ろしてからじっくりと味わって食べてあげる」

 

そう言って舌なめずりをする堕姫をみて、汐は目を見開きながら吐き捨てるように言った。

 

「ハッ、冗談はよして?あたしがあんたなんかに簡単に喰われると思ってるの?こんな簡単な偽装工作に騙されるような婆に、誰が喰われてやるもんか」

「・・・は?」

 

汐の言い放った言葉に堕姫は思わず足を止め、静かな口調で言い返した。

 

「お前、今なんて言った?誰が何だって?」

 

その顔にはいくつもの血管が浮き出ており、文字通り鬼の形相で堕姫は汐を睨みつけた。

しかし汐はそんな彼女にひるむことなく、嘲るように言い放った。

 

「100年以上も無駄に生きているから、目も耳も耄碌してるようね。炭治郎が不細工?どこがよこの老眼が。見た目でしか人の価値観を図れないような頭能天気が偉そうに語ってんじゃねえよ。この阿婆擦れ糞婆が!!」

 

汐の暴言が堕姫の耳に突き刺さった瞬間。堕姫はこの世のものとは思えない程の叫び声をあげ、汐に躍りかかってきた。

 

汐はすぐさま一歩引き、弦をはじくような音を鳴らした。

 

――ウタカタ・伍ノ旋律――

――爆砕歌!!!

 

飛び掛かってきた堕姫と帯を一瞬で吹き飛ばすが、帯はすぐさま再生し汐に向かって振り下ろされる。それを汐は感覚を研ぎ澄ませ、踊るようにして攻撃を回避した。

 

(見える。躱せる。戦える!!あの修行は無駄じゃなかった。蛇男のいやらし斬撃に比べたら、こんなの屁でもない!!)

 

「ただでさえ鯉夏を食べられなくて腹が立っているっていうのに、よくもアタシを婆呼ばわりしやがったなクソガキが!アンタを三枚に下ろして食ってやろうと思ったけどやめた。全身を滅茶苦茶に切り刻んで挽肉にしてから喰ってあげる!!」

 

怒り狂った堕姫が帯を振り上げ、汐の真上から一斉に落とすように襲い掛かってきた。

だが、汐はその光景を見て何かを思い出していた。

 

それは、少し前に行った、甘露寺の修行風景。

 

汐は襲い来る帯を見ながら、刀を構え大きく息を吸った。

 

(今ならあの技が使えるかもしれない。みっちゃんと一緒に完成させた、あの技が!!)

 

刀の感触を確かめるようにニ三度握りなおしてから、汐は神経を集中させた。

 

海の呼吸・陸ノ型――!!!

 

汐の口から、低い地鳴りのような大きな音があたり中に響き渡った。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



海の呼吸の新しい型は、堕姫の猛攻を打ち破れるのか


それは、汐が遊郭に潜入する二か月ほど前。

 

汐がいつも通り稽古をしていると、ふと甘露寺が思い出したように口を開いた。

 

「そう言えば、しおちゃんの海の呼吸って伍ノ型までしかないのね。元からなの?」

「うん。海の呼吸はおやっさん、あたしの育手が独自に生み出したものらしいんだけど、未完成の呼吸なんだって。でも、おやっさんは完成させる前に死んじゃったから、実質的に伍以降の型は存在しない」

 

運動後の柔軟体操をしながら、汐はしっかりした口調でそう答えた。

 

「だけどこのままじゃ絶対に駄目。ウタカタはあくまでも補助に使うものだから、鬼に致命傷を与えるには海の呼吸が不可欠だって改めて思った」

 

汐は甘露寺を見上げると、凛とした表情で口を開いた。

 

「みっちゃん、いえ、師範。あたし、どうしたらいいと思う?」

 

汐の真剣な言葉に甘露寺は自分を頼ってくれる嬉しさをかみしめつつ、顎に手を当てて考える動作をした。

 

「そうね。私も海の呼吸は初めて聞いたから、水の呼吸から派生していると思っていたんだけれど、しおちゃんの話を聞く限りそうじゃないみたいだし・・・。あ、そうだ!無いなら自分で作ってしまうのはどう!?」

 

いきなりの提案に汐はぽかんとた表情で甘露寺を見つめた。

 

「私の恋の呼吸も、元々は炎の呼吸を元に自分で作った物なの。だからしおちゃんも自分で自分の型を編み出してみたらどうかしら?」

「どうかしらって、ずいぶん簡単に言ってくれるなあ」

 

相も変わらずぶっ飛んだ物言いに汐は思わず閉口するも、彼女のいうことも一理ある上にこのままではどんづまりなのは確実なため、汐はその提案を受け入れることにした。

 

しかし、その後に待っていたのは地獄だった。

 

伊黒を加えた、柱二人からの猛烈な指導をみっちり受け、徹底的に自分を苛め抜き、何度も折れそうになった汐だが、何度も彼らの姿を思い浮かべ、必死に前に進んだ。

そして、ある日。

 

「うおおおおああああああ!!!!」

 

汐の渾身の斬撃が、練習用の巻き藁を吹き飛ばし破壊した。その光景を汐はぼんやりと見ていたが、間を置いた後甘露寺の方を振り返って叫んだ。

 

「で、できた!できたよみっちゃん!」

 

汐は汗と泥まみれの顔のまま、嬉しそうに笑い、そんな彼女をみた甘露寺も嬉しさのあまり飛び上がって喜んだ。

 

「やったわねしおちゃん!!おめでとう!!これでまた一つ強くなれそうね」

 

そして甘露寺は汐の顔をタオルで拭きながら、優しい声色で言った。

 

「だけどね、しおちゃん。これだけは絶対に忘れないで。本当の強さというものは力だけじゃないと思う。特に女の子が本当に強くなれるのは、大切な人を守りたいという気持ちだから」

 

「うん、わかった。あたし絶対に忘れない。大切な・・・ごぺぱぁああ!!!

 

だが、言葉を紡ごうとした瞬間、汐は顔面の穴という穴からいろいろなものを吹き出しながら断末魔の声を上げて倒れた。

そんな汐を見て甘露寺は、彼女以上に顔面を崩壊させるのであった。

 


 

堕姫の放った帯が、雨のように一斉に汐の頭上から振り下ろされた。だが、汐はその帯を刀で受け止めると大きく息を吸った。

 

地鳴りのような大きな音が響き渡り、その音に堕姫は不快そうに顔をしかめた。

 

(一瞬でも気を緩めるな。無理に力を込めるんじゃない。全身のばねを使って、受け流せ!!)

 

汐はそのまま帯を後方に受け流すと、その勢いのまま堕姫の懐に飛び込む形で突っ込んだ。だが、堕姫も残りの帯を束ねて汐を貫こうと今一度振り上げた。

 

すると汐はそのまま身体を大きくひねり、瓦が砕ける程強く踏みしめた。汐の刀が、濃い藍色へと変化する。

 

海の呼吸 陸ノ型――!!!

 

――狂瀾怒濤(きょうらんどとう)!!!

 

遠心力に加え帯を受け流した時の力と、汐が地獄の柔軟訓練で培った全身のばねが合わさり、荒れ狂う波のような激しい斬撃を生み出した。

斬撃は堕姫の帯をバラバラに吹き飛ばし、その余波は周りの建物を削り取り堕姫を上空へと吹き飛ばした。

 

(なっ、なんて威力・・・!こいつ、こいつ!ただの鬼狩りじゃない。柱じゃないけど、柱に近い・・・!)

 

微かに怯んだ堕姫の隙を見逃さず、汐は剥き出しになった瓦礫を踏みその頸に刃を振りぬいた。だが、刀はぐにゃりとした嫌な感触と共に途中で止まってしまった。

 

「アンタなんかにアタシの頸が斬れるわけないでしょ、この雌豚が!!」

 

その瞬間、汐の鳩尾に堕姫の足が食い込み、汐はそのまま屋根から地面に叩きつけられた。とっさに呼吸で受け身はとったものの、全身に痛みが走り小さくうめいた。

その隙を見逃さず、堕姫は再び帯を伸ばして汐を貫こうとする。汐はすぐさま動き、その攻撃をかわすと、再び大きく息を吸った。

 

 

――ウタカタ・参ノ旋律――

――束縛歌(そくばくか)!!!

 

空気が張り詰める音と共に堕姫の帯が一瞬止まり、汐はそのままもう一度今度は地鳴りのような呼吸音を響かせた。

 

肆ノ型・改――

――勇魚(いさな)下り!!!!

 

ウタカタと海の呼吸を瞬時に切り替え、汐は猛攻撃を堕姫に叩き込む。わずかだが押され始めた堕姫は、帯を叩き落す汐を睨みつけながら思った。

 

()()()()()()()()()()()と。

 

「!?」

 

背後から別の鬼の気配を感じ、汐はすぐさま堕姫から離れ間合いを取った。すると後方から一本の帯のようなものが飛んできて、堕姫の身体の中に吸い込まれるようにして戻っていった。

 

(アイツは、鬼の使い魔!?)

 

汐が再び刀を構えると、堕姫はにやりと嫌な笑いを浮かべながら再び帯を伸ばしてきた。

使い魔が戻ったせいなのか、先ほどよりも帯の速度と強さが上がっているように感じ、汐の顔が引きつった。

それを感じ取ったのか、堕姫は先ほどやられた分をやり返すように容赦なく責め立てた。

 

「さっきまでの威勢はどうしたの!?耄碌してるのはアンタの方だったようねぇ!!」

 

堕姫は耳障りな笑い声をあげながら、四方八方から帯を汐に向けて撃ち込んできた。

 

(くそ・・ったれぇ・・・!一本戻っただけでこの強さ。今は何とかしのげてるけれど、いつまでもつかわかんないわよ・・・!!)

 

煉獄の死からずっと、汐は大切なものを守るために強くなるために厳しい修行に耐えてきた。そしてその間の任務でも多くの鬼を倒してきた。

 

しかし目の前の鬼は上弦。今まで戦ってきたどの鬼よりも強く、鬼舞辻無惨に近しい存在。

柱でもない自分がどこまでもつか。そんなことを考えてきた時だった。

 

――前をみろ。最後まで足掻け

――女の子が本当に強くなれるのは、大切な人を守りたいという気持ちだから

 

誇り高き者達の言葉が汐の胸によみがえり、そして次に浮かんだのは幸せそうな眼で笑う炭治郎の顔。

 

(そうだ。こんなところでくたばってたまるか。あたしは、あたしは、炭治郎と禰豆子が幸せになるところを見届けたいんだ!負けてたまるか!!)

 

汐は渾身の力で帯を押し返し、再び爆砕歌を放とうと息を吸った。だが、その時。

 

――ヒノカミ神楽――

――烈日紅鏡(れつじつこうきょう)!!!

 

汐の周りの帯が、燃え盛る炎のような水平斬りによって真っ二つに斬られ、堕姫は思わぬ闖入者に目を見開きたじろいだ。

否、目を見開いたのは堕姫だけではなく、汐もだった。

 

汐の前には、黒と緑の市松模様の羽織をなびかせた、汐がこの世で最も守りたいその人。

 

竈門炭治郎が立っていた。

 

「炭治郎!!」

 

汐はうれしさと驚きの混じった声で名を呼ぶと、炭治郎は汐の顔を見て申し訳なさそうに眉根を下げた。

 

「遅くなって済まない。急に帯の使い魔が逃げ出したから追ってきたら――。あれが本体。この町に潜んでいた鬼か」

 

炭治郎はごくりと唾をのみながら、目の前に立つ堕姫に向かって刀を構えた。

 

(なんて匂いだ。鼻だけじゃなくて喉も肺も苦しい。こんな奴と、汐はたった一人で戦っていたのか・・・!)

 

汐を見れば、血の匂いはしないものの隊服と羽織が汚れており、周りを見ればあちこちが破壊された跡があり、それだけ二人の戦いが激しかったということが見て取れた。

 

「怪我はないか!?」

「あたしは平気。こんな阿婆擦れ婆なんかにやられてたまるもんですか!まだまだいけるわよ!!」

 

汐は先ほどまでの恐れを払しょくするかのように声を張り上げ、再び刀を構えた。その言葉に嘘はなかった。

炭治郎が傍にいる。大切な人が傍にいる。そのことだけで、汐の士気は嘘のように上がった。

 

こうして二人並んで戦うのは、無限列車の件以来でのことで、あの時は煉獄がいなければ皆死んでいただろう。

 

でも今は違う。汐も炭治郎も強くなっている。もう二度と、あの時のような思いはしたくない。

 

絶対に死なないし死なせない!

 

その様子を見て、堕姫は不愉快そうに顔を思い切りゆがませると吐き捨てるように言った。

 

「何よその眼。ギラギラってして不愉快。どいつもこいつも、目障りなのよ糞虫が!!」

 

激昂した堕姫が先ほどとは比べ物にならない程の量の帯を、二人に向かって四方から振り下ろしてきた。

その一撃をかわすと、汐は口から弦をはじくような高い音を鳴らした。

 

――ウタカタ 壱ノ旋律――

――活力歌(かつりょくか)!!!

 

汐の奏でた歌は、炭治郎の体と心を活性化させ、同時に汐も身体の痛みを和らげた。

そのせいか、体は驚くほど軽く動きがよくなり、炭治郎は思わず目を見開いた。

 

(この感覚は、あの時。那田蜘蛛山で感じた汐の歌!)

 

その瞬間、炭治郎は確信した。この人が、汐がいれば俺は何処までも戦える。

 

二人なら、戦い抜ける!!

 

炭治郎の眼に闘志の炎がともり、同時に汐を痛めつけた堕姫に激しい怒りを感じた。

 

「汐。俺が前に出る。お前は援護を頼む!」

「わかった!でも気を付けて。あの女の頸、わかめみたいに柔らかすぎて普通じゃ斬れないわ」

 

汐の言葉に炭治郎は少し驚いた顔をしたが、何故だかそれはあまり重要には感じなかった。

 

普通に斬れないなら、斬れる方法を考えればいい。

 

堕姫が再び帯を放ち、汐は炭治郎とは別方向に走り出した。堕姫の帯二つに分かれて二人を追う。

 

凄まじい速さで帯が追ってくるが、甘露寺と伊黒の訓練がもたらした汐の身体は、まるで舞姫の如く全ての攻撃をかわしていく。

一方炭治郎も、汐の歌のお陰で身体能力が向上しているせいか、汐同様帯の攻撃をすべて受け流していた。

 

炭治郎の口から、燃え盛る炎のような呼吸音が漏れる。先ほどの汐の呼吸の音とよく似たそれは、堕姫を再び不快な気持ちにさせた。

 

(アイツと同じ嫌な音ね。呼吸音?)

 

顔をしかめた堕姫の眼前に、瞬時に間合いを詰めた炭治郎の漆黒の刀が迫った。

 

――炎舞(えんぶ)!!!

 

振り下ろされた炭治郎の斬撃を、堕姫は紙一重で躱すが、この炎舞は二連撃。一太刀目を躱せてももう一撃浴びせることができる。

 

堕姫は汐に比べて遅いその斬撃に大したことないと高をくくり、帯を炭治郎の頸めがけて下から突き上げた。

 

だが、その瞬間、炭治郎の姿が消え思わず目を見開く。

そして間髪入れずに、汐の歌が響き渡った。

 

――ヒノカミ神楽――

――幻日虹(げんにちこう)

 

――ウタカタ・参ノ旋律――

――束縛歌(そくばくか)!!!

 

堕姫の身体が構拘束されると同時に、炭治郎の姿は堕姫の頭上に現れ、炭治郎の目に彼女から延びる隙の糸が入った。

 

だが、堕姫は汐の拘束を引きはがし、炭治郎を帯で弾き飛ばした。

かろうじて刀で受け止めた炭治郎だが、帯がこすれた瞬間、刃の部分が僅かに砕け刃こぼれを生じさせた。

 

炭治郎はそのまま受け身をとりながら地面に転がるが、ヒノカミ神楽を乱発したせいか息は乱れ、体中に激痛が走った。

 

堕姫は炭治郎に向かって帯を差し向けたが、間合いに入った汐がその攻撃を受け止めた。

 

「どこ見てんだドグサレ!!お前の相手はあたしだ!!」

 

必死に戦う汐を見て、炭治郎は悔しさに顔を歪ませた。水の呼吸は自分の身体に適しておらず、義勇や鱗滝のように使いこなすことはできない。

ヒノカミ神楽なら自分の身体に適しているが、一撃が強い反面、連発ができない。

 

だが、このままでは汐の命が危ない。

 

炭治郎は疲労困憊の身体を叱咤しながら立ち上がると、再び堕姫に斬りかかった。

 

赤と青の斬撃が堕姫の帯を穿ち、時には互いを見ては動きを決め、やがて段々と二人の動きは合わさり向かっていく。

少しずつ高まっていく二人の力を目の当たりにして、堕姫は胸の奥から何かが沸き上がってくるような感覚を感じた。

 

誰かと、二人が重なる――

 

(何なのよこいつら。兄妹ってわけでもないのにこの動き。嗚呼うっとおしい、うっとおしい!!こんな雑魚共じゃなくて柱だったらよかったのに!)

 

そんなことを考えていると、不意にどこからか凄まじい気配を感じ、堕姫は振り返った。

すると遠くから、風を切るような音と共に何かがこちらに向かってくるのが見えた。

 

(あれは・・・帯!?)

 

汐達の目の前で帯は次々と堕姫の身体に吸い込まれるようにして消えてゆく。

 

(帯が身体に入っていってる。いや、戻っているのか?分裂していた分が)

 

「!!」

 

炭治郎がすぐさま動き、堕姫に向かって刀を振った。しかしその切っ先は空を切り、風を切る音だけが虚しく響いた。

 

二人は慌てて首を動かし堕姫を捜すと、屋根の上にその姿を見つけた。

だがどうも様子がおかしい。

 

「やっぱり“柱”ね。柱が来てたのね。良かった。あの方に喜んで戴けるわ・・・」

 

漆黒だった堕姫の髪色は銀色に変わり、背中の帯の数が増えている。

そしてその眼は、匂いは、汐と炭治郎を戦慄させるほど禍々しいものになっていた。

 

(あいつ、柱が来てるって言った。じゃあ、派手男がこっちに?)

 

「おい、何してるんだお前たち!!」

 

不意に声が聴こえてきて汐達が振り返ると、一人の男が頭から湯気を吹き出しながら建物の中から転がり出てきた。

 

見れば他の店からも騒ぎを聞きつけて、幾人かの人が顔を出していた。

 

「人の店の前で揉め事起こすんじゃねぇよ!」

 

その騒ぎを見て、堕姫は不快そうに顔をしかめるとその瞬間鬼の気配が強まった。

 

「駄目だ、下がってください!建物から出るな!!」

 

炭治郎が声を荒げると同時に、堕姫がその帯を大きく振り上げようとした。

 

「止めろォーーーッ!!!!」

 

汐が叫んだ瞬間、堕姫の帯の動きが急激に鈍り、一瞬だけとまった。だが、堕姫はそのまま帯を大きく町全体に振りぬいた。

 

「汐!!」

 

空気を切り裂くような声が響き、汐の身体は地面に叩きつけられるように引き倒された。

その衝撃に汐は思わず顔をしかめ、身体に走った衝撃に歯を食いしばる。

 

それと同時に辺り一帯は堕姫の帯によって切断され、瓦礫が雨の様に降り注いだ。

 

だが、汐の意識はその痛みでも瓦礫でもなく、顔に滴り落ちたモノに急激に吸い寄せられた。

 

「・・・・!!」

 

汐の喉から空気が漏れ、目の前のものに視線が釘付けになった。

 

そこには汐を庇って堕姫の帯に背中を大きく切り裂かれた、炭治郎の姿があった。

 

「炭治郎ーーーーーッ!!!!!」

 

汐の悲痛な叫びが木霊し、それを追うように辺り一帯からも悲鳴とうめき声が上がり、町は阿鼻叫喚の地獄絵と化していた。

 

それを目の当たりにした瞬間、汐の身体が急激に冷たくなり目の前が段々と赤くなっていくのが分かった。

顔に滴り落ちる炭治郎の命の雫だけが、ぞっとするほど温かかった。

 

その時汐の無意識領域では、再び異変が起こっていた。

汐の殺意を封じている扉の鍵の鍵が、一つ、二つ、三つと次々に砕け散った。

 

『・・・駄目だ・・・』

 

それを見た番人は身体をわななかせ、小さく言葉を漏らしたのだった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

十九章:バケモノ


汐達が吉原に潜入していたある日の事の別の場所では。

 

「はぁ・・・」

 

食事をしていた甘露寺は、小さくため息をつきながら箸をおいた。それを見て隣に座っていた伊黒は、慌てた様子で彼女に問いかけた。

 

「どうした甘露寺。具合でも悪いのか?いつもより食が進んでいない様だが・・・」

 

そう言う彼だが甘露寺の前には既に空になった丼が五つほど積み上がっていた。しかし、伊黒はいつもの彼女なら十杯は軽く平らげることを知っているため心配になったのだった。

 

「あ、ごめんなさい伊黒さん。そうじゃないの。その、しおちゃんのことを考えていて」

 

汐の名前が出た瞬間、伊黒の目が微かに見開かれた。

 

「あの子に稽古をつけていてわかったのだけれど、しおちゃんは普通の人よりもずっと我慢強い子なの。痛みに強いって言った方がいいかしら。それは悪いこととは言い切れないのだけれど、我慢しすぎてしまうことが多いから心配で」

 

そう言って目を伏せる甘露寺は、弟子を気遣う師匠の顔つきをしていた。その凛とした姿に伊黒は胸を高鳴らせつつも、悩む彼女を見ていられなくて思わず口を開いた。

 

「心配することはない。あいつは言動も態度もいいとは言い難いが、何者にも媚びず屈しない姿勢は評価に値する。最も、あの下品な言葉遣いは目に余るがな」

 

呆れたように言う伊黒をみて、甘露寺は微かに頬を染めた。そして店の店主にお代わりを頼みながら、汐の無事を強く祈ったのだった。

 

 


 

 

汐の傍で倒れ伏す炭治郎の背からは血があふれ出し、彼の羽織を赤黒く染めていく。しかし炭治郎の口からか細く漏れる小さな息が、彼がまだ生きていることを物語っていた。

そして、二人に怒号を浴びせた男は、左手首の先を斬り落とされそこから大量の血があふれ出していた。

 

周りは瓦礫と化した建物に交じって、体の一部を斬り落とされた人間たちがあちこちに倒れ伏しており、近しい者の泣き叫ぶ声が聞こえてきた。

 

そんな阿鼻叫喚の中、汐はぐったりしている炭治郎の耳元に唇を寄せると小さな声で言った。

 

「炭治郎。あんたは呼吸で止血して。それから後ろのあんた。腕をきつく縛って止血し、即刻この場所を離れろ」

 

それだけを言うと汐は、そのまま背を向け立ち去ろうとする堕姫に向かって口を開いた。

 

「おい・・・。どこへ行くつもりだ。こんなふざけた真似をしておいて」

 

地を這うような低い声に男は背を震わせ、堕姫は怪訝な顔でこちらを振り返った。

 

「はあ?まだ何かあるの?もういいわよ雌豚。醜い人間に生きている価値なんてないんだから。みんな仲良く死に腐れろ」

 

堕姫が吐き捨てるようにそう言って再び背を向けた瞬間、凄まじい殺気を感じて弾かれるように振り返った。

 

先ほどまで汐がいた場所には誰もおらず、いつの間にか堕姫の眼前に藍色の刃が迫っていた。

 

「っ!?」

 

堕姫は慌てて帯を振るうが、その帯は空を切り別の建物を切り裂いた。水回りだったのか水が吹き出し、その水が間合いを取った汐の身体に降り注ぐ。

そしてその水は汐の髪を染めていた偽りの色を洗い流し、本来の真っ青な髪の色を堕姫の目に映した。

 

「青い・・・髪・・・!!」

 

その青が目に入った瞬間、堕姫の脳裏に無惨の言葉が蘇った。

 

『堕姫。お前にある二人の始末を頼みたい。一人は青い髪をした鬼狩りの娘。ワダツミの子と呼ばれるその娘の声は決して聞くな。そしてもう一人は――』

 

「アンタが、アンタがそうだったのね!あの方が言っていた、殺すべき二人のうちの一人!」

 

堕姫の表情がみるみる変わり、その眼には先程までとは比べ物にならない程の殺意があふれ出していた。しかし汐はその眼に一切怯むことなく言葉を紡いだ。

 

「お前に聞きたいことがある。今まで何人の人間を喰ってきた?いくつの命をその薄汚い足で踏みにじってきた?何が楽しくてそうする?」

 

汐の抑揚のない声は堕姫の耳を通り抜け、彼女の記憶を掘り起こす。見知らぬ誰かにそれと似たような事を言われたような気がした。

だが、その奇妙な既視感は直ぐに消え、堕姫は嘲るような口調で言葉を投げつけた。

 

「はあ?何を言い出すかと思えば。いちいち覚えてないわよそんなこと。大体アンタこそ、今まで着殺した着物の枚数を覚えているの?覚えているわけないでしょ?それに、鬼にそんなこと言われたって関係ないわよ。鬼は老いない!食うために金も必要ない!病気にならない、死なない!何も失わない!そして美しく強い鬼は、何をしてもいいのよ」

 

堕姫の言葉を汐は黙って聞いていたが、光の無い眼を彼女に向けながらぽつりとつぶやいた。

 

「可哀想な奴だな」

「・・・は?」

 

汐の思わぬ言葉に、堕姫は再び顔を引き攣らせながら声を漏らした。

 

「誰かを傷つけ、奪うことしか知らない。徒に人を傷つけることでしか自分を誇示できない上に、失う恐怖にいつまでも怯え続ける。救いようのない哀れでちっぽけな存在だ」

 

汐の静かな声が堕姫の鼓膜を震わせた瞬間。今度ははっきりと彼女の脳裏に誰かの姿が映った。

 

『あなたは、可哀想な方ですね。誰かを傷つけることでしか自分を示せず、失くすことをずっと怖がり続けながら生きている。小さくて悲しい存在なのですね』

 

脳裏に浮かんだのは、目の前の少女と同じ色の長い髪を靡かせた見知らぬ女。堕姫にこのような者の記憶はない。それは彼女の中に潜む鬼舞辻無惨の細胞の記憶の一部だった。

 

「その臭い口を今すぐ閉じろ屑。アンタなんかに、アタシの何が分かるっていうのよ!!」

 

血鬼術 “八重帯斬り”

 

激高した堕姫は、身体を震わせると帯を格子状に展開し汐の周りを覆うように広げた。だが、汐は全く怯むことなくその口を開いた。

 

伍ノ旋律――

――爆砕歌!!!

 

 

爆砕歌の衝撃が帯を一瞬だけ吹き飛ばすが、帯は直ぐに再生し汐の身体を滑った。血が霧のように舞い、汐の身体を染めていく。

だが、汐は痛がる様子も見せず、右手を振りその飛沫を堕姫の両目へと叩きつけた。

 

「っ!!」

 

両目を塞がれた一瞬の隙に、汐は右手で堕姫の左腕を掴むと、思い切り引き千切った。

 

「ア゛ア゛ア゛ア゛ーー!!!」

 

堕姫の濁った悲鳴と、筋繊維が千切れる音が響き、僅かに動きが止まる。その一瞬の隙に、汐は残った腕を斬り落とすと刃を堕姫の頸に押し付けた。

しかしやはり頸はぐにゃりとたわみ、斬られるのを防いだ。汐はそんな状況に一切臆すことなく、右手で刀の刃の部分を持ち、ねじり切ろうとした。

 

「調子に乗るな!この売女が!!」

 

堕姫は再生した腕で汐の頭を掴むと、そのまま握りつぶそうと力を込めた。だが、汐は堕姫の胸を蹴り砕くと、引き千切った堕姫の腕を砕いた穴に突き刺し串刺しの状態にした。

そのまま頸を斬り落とそうとするが、帯に阻まれ汐はやむを得ず間合いを取る。堕姫は胸に突き刺さる腕だったものを引き抜き投げ捨てると、再び汐に向かって帯を放った。

 

(何なの、何なのよこいつ!アタシさっき、こいつの体帯で斬ったはずよ。少しだけど手ごたえがあったもの。それにこんな激しい動きなんてしたら身体が裂けるわよ。普通・・・)

 

帯は使い魔たちが戻ったせいか先ほどよりも硬度も早さも増しているはずだった。しかし汐の斬撃はそれを上回る速さで帯を叩き落し、動きも先ほどとは比べ物にならない程上がっていた。

 

(おかしい、おかしい!痛みを感じないの?こいつは本当に人間なの?そもそも、アタシの身体を素手で引き千切るなんて普通出来るわけがない。何なの、何なのこいつは!?)

 

堕姫はたまらず帯で自分の身体を覆い、守りに入ろうと試みた。汐の刀が帯に当たり、金属音が高らかに響く。

 

だが、

 

「!?」

 

帯の隙間から覗く汐の眼に、堕姫の身体が震えあがった。そこにあったのは人間性を完全に捨てた、殺意しか宿っていない漆黒の瞳。

その殺意は堕姫を初めて、【狩られる恐怖】へと誘った。

 

堕姫は直ぐに帯を振るい、汐を後方へ吹き飛ばした。

 

(何よ、今の眼。人間の眼じゃない。初めて、初めて感じた、殺されるって思った・・・!)

 

汐は瓦に思い切り叩きつけられ、その衝撃が骨をきしませ筋肉に悲鳴を上げさせるはずだった。だが、汐の身体は痛みを感じずただの衝撃としか認識しなかった。

 

(あれ?おかしいな。これだけ叩きつけられたっていうのに、全然痛くない。ああそうか。そうだったんだ)

 

舞い散る瓦をぼんやりと眺めながら、汐は振り下ろされる帯を横に動いて回避すると再び立ち上がった。

 

(今まで私が鬼を殺しきれなかったのは、痛みを感じるからだったんだ。痛みは刀を振るう手を鈍らせ、動けなくするから。だったらその痛みを感じなくしてしまえば、消してしまえば、まだまだ鬼を殺せるじゃないか!!)

 

「く・・・くくくくくくくくくくくく・・・・!!!」

 

汐の口から笑い声が漏れ、口を耳まで裂けるかと思うくらいに歪ませると、目の前に立つ鬼を見据えた。その両目と口からはとめどなく血があふれ出し、顔中を彩っていく。

 

そこには人間としての【大海原汐】の姿はなく、そこにいるのは鬼を殺すことだけに存在全てを変貌させた、【何か】だった。

 

それを目の当たりにした堕姫の手先が細かく震え、心なしか息をも荒くなってくる。自分が怯えている?柱でもない人間に、上弦の鬼である自分が?

 

いや、目の前にいるのは人間ではない。人間のような姿をした、バケモノだ。

 

「アンタ、いったい何者なの!?本当に人間なの!?」

 

堕姫が思わず叫ぶように問い詰めると、汐の姿が突如消え気が付けば堕姫に一直線に向かってきていた。

 

「馬鹿の一つ覚えね!!今度こそ切り刻んであげるわ!!」

 

先程よりも帯が増え、汐全体を包み込むように広がってきた。しかし汐はその帯の速度が心なしかものすごく遅く見えた。

 

(随分と遅いな。欠伸が出る程だ)

 

汐は襲い来る帯を次々に弾き飛ばすと、一転に受け流すようにして帯を束ねた。そして鉢巻きを外すと束ねられた帯に突き刺した。

 

汐の鉢巻きにはもう一つ秘密があった。水にぬれれば強い伸縮性を持つものだが、血にぬれれば鋼のように硬質化する。

血で濡れた鉢巻きは、槍のように堕姫の帯を貫き張り付けた。

 

「それで止めたつもり!?弾き飛ばしてやる!!」

 

堕姫が帯を思い切り引くが、鉢巻きは抜けずその隙を狙って汐が眼前に飛び込んできた。汐の刀が緋色にきらめいたかと思うと、次の瞬間に帯はバラバラに切り刻まれていた。

 

その隙を狙って汐は再び刃を堕姫の頸へと滑らせた。

 

(もう痛みを恐れる必要はない。何も痛くなんてない。殺したい!!殺したい!!鬼をもっともっと殺したい!!)

 

汐は刃を振るうことにもはや快感すら感じていた。この鬼を殺し、この世の全ての鬼を一匹も残さず殺し尽くせたらどんなにいいだろうとさえ思っていた。

 

だが、汐の刃が頸に届こうとしたその瞬間だった。

 

「ごぼっ!!!」

 

汐の口から大量のどす黒い血が吹き出し、そのまま重力に従って崩れ落ちた。

 

「がっ、げえっ・・・ぐぐっ・・・!!」

 

そのまま汐は口から血の塊と内容物を次々に吐きだし、堕姫の足元を染めていく。

いくら痛みを遮断できるといっても、汐の身体は人間だった。

 

人間には限界がある。それは体力の限界と命の限界。汐がまだ人間である以上、命の限界を超えることはできなかった。汐の身体は限界をとうに超えていた。それでも動けたのは、異常なほどの痛みに対する耐性と、鬼へ向ける尋常ならざる殺意があってこそ。だがそれだけで永遠に戦い続けることはできなかった。

 

蹲る汐を、堕姫は見下ろしながら吐き捨てるように言った。

 

「醜い、臭い、不愉快。アンタを見ていると本当に苛々する。前もおかしな男がアタシの獲物を根こそぎかっさらっていったことがあったけれど、あの時と同じくらいアンタも不快でたまらない」

 

それから堕姫は汐の髪の毛を乱暴に掴んで引っ張ると、汐の血まみれの顔を汚いものを見るような眼で見ながら言った。

 

「惨めよね、人間っていうのは本当に。どれだけ必死でも、所詮はこの程度だもの。可哀想なのは一体どっちなのかしら?」

 

堕姫が嘲るように言うと、汐は小さく息を整えて堕姫を見据えた後、その顔に血の混じった唾を吐きかけた。

 

赤く粘り気のある液体が堕姫の頬に付着し、赤い線を引いていく。

 

「くたばれ・・・尻軽糞女」

 

汐の口から言葉が零れた瞬間、堕姫は顔を思い切りゆがませ汐の顔を瓦に叩きつけた。

 

「どこまでアタシをおちょくれば気が済むんだ。アンタは手足をもぎ取って内臓を引きずり出して苦しませてからから殺してや――」

 

しかし堕姫の言葉は突如後頭部に走った衝撃により続けられることはなかった。

堕姫はそのままごろごろと屋根の上を吹き飛び、後方へを転がっていった。

 

汐は急激に解放された理由を知ろうと、思い頭を必死で上げた。そこに立っていたのは、

 

汐を庇うように立ち、全身から血管を浮き上がらせて荒く息をつく禰豆子だった。

 

「ね・・・ね・・・ず・・・こ・・・」

 

なんであんたがここに?炭治郎は?聞きたいことは山ほどあったが、汐の意識は深い闇の中に成す術もなく落ちていくのだった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



血を流し倒れ伏す汐を庇うように立ち、禰豆子は唸り声を上げながら堕姫が吹き飛んだ方向を睨みつけていた。

そして彼女の脳裏に浮かぶのは、かつて自分の家族を奪われた断片的な記憶。

堕姫は上弦の鬼。それはすなわち、今まで禰豆子が遭遇したどの鬼よりも無惨の血が濃かった。

 

「よくも・・・、よくもやったわね!!アンタ・・・アンタもなのね。あの方が言っていたのは・・・!」

 

堕姫は頭を再生させながら、先ほど以上に憎悪のこもった眼で禰豆子を睨みつけた。

 

『私の支配から逃れた鬼がいる。珠世と同じように』

 

堕姫の記憶の中で、無惨は彼女の頭を優しくなでながら言葉を紡いだ。

 

『見つけて始末してくれ、お前にしか頼めない。麻の葉紋様の着物に、市松柄の帯の娘だ』

 

目の前にいる鬼の少女禰豆子は、無惨が言っていた対象の特徴と一致していた。

青髪の娘にもう一人の逃れ者。その二人を目の前にして、堕姫は高らかと叫んだ。

 

「ええ勿論、嬲り殺して差し上げます。お望みのままに・・・!!」

 

堕姫が禰豆子に向かって帯を放とうとした瞬間、禰豆子の姿が目の前から消えた。と、思いきや、禰豆子は瞬時に堕姫との距離を詰め、その顔面に向かって足を振り上げていた。

 

(蹴るしか能が無いのか!!)

「雑魚鬼が!!」

 

しかし堕姫は慌てる様子もなく、帯の一本で禰豆子の足を容赦なく斬り落とした。禰豆子が斬り落とされた膝に一瞬視線を向けたその隙に、堕姫のもう一本の帯が禰豆子に迫った。

 

禰豆子は咄嗟に腕で帯を受け止めようとするが、帯は禰豆子の腕ごと胴体を薙ぐとそのまま横方向に吹き飛ばした。

そのせいで、彼女の口枷の紐が片方切れた。

吹き飛ばされた禰豆子の身体は建物にぶつかり、轟音を立てて土ぼこりを巻き起こした。

 

堕姫は静かに屋根上から降りると、瓦礫の中で倒れ伏す禰豆子を侮蔑を込めた眼で見降ろした。

 

「弱いわね、大して人を喰ってない。なんであの方の支配から外れたのかしら?」

 

禰豆子は血を流しながらも瓦礫の中から這い出ようと必死に腕を動かした。

 

「可哀想に。胴体が泣き別れになってるでしょ。動かない方がいいわよ」

 

堕姫は禰豆子に憐れむような言葉を投げかけるが、それは形だけのものでその言葉に気持ちなどは微塵も籠っていなかった。

 

「アンタみたいな半端者じゃ、それだけの傷、すぐには再生できないだろうし」

 

しかし禰豆子はその言葉を聞く気はなく、脂汗を浮かべながらも必死で藻掻いていた。

 

「同じ鬼だもの、もういじめたりしないわ。帯に取り込んで、朝になったら日に当てて殺してあげる。鬼同士の殺し合いなんて時間の無駄だし・・・」

 

堕姫の嘲るような言葉は、禰豆子が立ち上がったことにより途切れ、その姿を見て眼を大きく見開いた。

 

(は?)

 

禰豆子の斬り落とされたはずの足は元通りになっており、そのあり得ない光景に堕姫は息をのんだ。

 

(ちょっと待ってよ、なんなの?足が再生してるんだけど。足どころか・・・なんで立ってるの?さっき体、切断したわよ。手応えがあったもの。切ったのは間違いない)

 

堕姫の言う通り、禰豆子の身体は先ほどの帯で真っ二つに切断したはずなのに、その体は血を流してはいるものの元通りになっていた。

それどころか次の瞬間には、血を滴らせた腕が一瞬で生えるように再生した。

 

その回復速度は、上弦の鬼に匹敵していた。

 

怒りに満ちた禰豆子はかろうじてぶら下がっていた竹の口枷を噛み砕き、身体を元より大きくして堕姫を睨みつけた。

 

いや、それはいつものように身体の大きさを変えただけではなかった。

 

全身に葉のような文様が浮かび、その頭部には一本の大きな角が生え、怒りと憎しみのこもった眼を堕姫に向けた。

その威圧感に、堕姫の身体が微かに震える。

 

(何、この圧迫・・・・、威圧感。急に変わった)

 

禰豆子は唸り声を上げながら堕姫に躍りかかると、再びその頭部に向かって足を振り上げた。

 

(また蹴り・・・!!)

 

豹変した禰豆子に一瞬たじろいだものの、先ほどと変化のない攻撃に堕姫は冷静に帯でその足を斬り落とすと、今度は禰豆子の頸めがけて帯を振るおうとした。

だが、それは背中に突如走った衝撃により中断された。

 

「げぅっ・・・!!」

 

堕姫は絞り出すようなうめき声をあげ、口から血を吹き出した。その背中には切断したはずの禰豆子の足が突き刺さり、地面へと縫い付けられるようにして貫かれていた。

 

(何で切り落とした足が、アタシの背中を貫通してるのよ)

 

混乱する堕姫だが、その答えは一つしかない。斬り落とした禰豆子の足が瞬時に再生し、彼女の身体を貫いたのだ。

 

(一瞬で再生した!?そんな!!だったら、アタシの再生速度を上回ってるじゃない!!)

 

いくら上弦の鬼といえども、瞬時に再生することなどは不可能だ。しかし禰豆子は、その不可能を可能にするほどの潜在能力を秘めていた。

しかしそれは同時に、人間から離れて行くことを意味する。現に、傷つく堕姫を見下ろす禰豆子の顔には、狂気じみた笑みが浮かんでいた。

 

その気配は、倒れ伏していた汐にも届き、尋常じゃない様子に彼女ははっと目を覚ました。

数分間意識を飛ばしていた汐は、口の中に残った血を吐き出しあたりを見回した。

 

(意識飛んでた・・・。あたしが寝ている間に一体何が?それにこの気配・・・。禰豆子・・・なの?)

 

いつもの禰豆子の気配とはかけ離れたものに、汐は嫌な予感を覚え、重い体を叱咤しながら立ち上がった。

 

(禰豆子・・・!どこにいるの・・・!?)

 

汐が辺りを見回すと、下の方で何かがぶつかるような激しい音がした。汐はすぐさま屋根を下りると、音のする方へ駆け出した――。

 

 

*   *   *   *   *

 

 

「どけ!!このガキ!!」

 

激昂した堕姫は、背中の帯をいくつも振り、禰豆子の全身を薙いだ。両腕、両足、そして頸がずるりとずれ血が漏れ出していく。

 

(細かく切断して、帯に取り込んでやる!!)

 

だが、禰豆子を薙ごうとした帯は突如、斬られた手によって阻まれその動きを止めた。これには堕姫の顔が思わず引き攣る。

 

(止めた!?切断した肢体で!?いや、切断できてない。血が固まって・・・)

 

禰豆子の血は、まるで糸のように切断された身体をつなぎ止めていた。そしてその返り血は堕姫の身体にも付着し、次の瞬間には一気に燃え上がった。

 

「ギャアア!!」

 

自分の身体を燃やす炎の熱に、堕姫は悲鳴を上げながらのたうち回った。血のような真っ赤な炎が、堕姫の全身を容赦なく焼いていく。

 

(燃えてる・・・!!返り血が・・・!!火・・・火ィ・・・!!)

 

その時、一瞬だが堕姫の脳裏に真っ黒に焦げた自分の両腕が映った。脳が揺さぶられ、心臓が大きな音を立てて脈打つ。

その間に禰豆子は固まった自分の血ごと、まるで磁石のように身体を引き寄せ付着させた。その傷口は瞬時に塞がり、そのまま堕姫の頭を踏みつけた。

 

一度だけではない。二度、三度、何度も・・・。

いつもの禰豆子なら考えられない程の残虐な行動を、誰も見ている者も止める者もいなかった。

 

そのまま禰豆子は堕姫の身体を思い切り蹴り飛ばし、建物の壁に叩きつけた。堕姫の身体はいくつもの建物を貫通し、遠く遠くへ吹き飛んでいく。

 

やがて禰豆子は堕姫を追って、自分が開けた穴から建物の中へと足を進めた。先ほど痛めつけられたせいか、全身からは汗が吹き出し呼吸も荒くなっていた。

そのまま覚束ない足取りで歩く禰豆子の傍らで、ガタリという大きな音がした。

 

禰豆子が視線を向ければ、そこには頭を抱えて震えている二人の遊女と、腕から血を流して立ち尽くしている遊女の姿があった。

 

「ギャアアアッ!」

 

その流れ出る血を見た瞬間。禰豆子は獣のような咆哮を上げながら、遊女に一直線に躍りかかった。

 

参ノ旋律――

――束縛歌(そくばくか)!!!

 

禰豆子の体の動きが一瞬止まり、その隙に禰豆子の身体に赤い鉢巻が巻き付いた。

 

「禰豆子駄目ーーーッ!!!」

 

そのまま汐は禰豆子の両手を拘束すると、口に鞘のついた刀を噛ませた。

しかし禰豆子は汐の声が聞こえていないのか、何とか拘束を解こうと必死で藻掻く。

 

「駄目よ禰豆子!!それだけは絶対に駄目!!落ち着いて!!」

 

汐は全身全霊で暴れる禰豆子を押さえつけ、そんな二人を遊女たちは呆然と見ていた。

 

「何をしている!!さっさと逃げろ!!」

 

そんな彼女たちに汐は鋭い言葉を投げつけると、必死に禰豆子を抑えた。

 

(なんて力・・・!!気配もいつもの禰豆子じゃない!あたしが、あたしがへまをしたせいで禰豆子をこんな目に・・・。こんな姿を見たら炭治郎、きっと悲しむし、正気に戻ったら禰豆子も傷つく。何とかしないと・・・!)

 

暴れる禰豆子を必死で押さえつけながら、汐は口を開き息を大きく吸った。

 

――ウタカタ・弐ノ旋律――

――睡眠歌(すいみんか)

 

汐の口から透き通るような優しい歌声が漏れ、あたり中に響き渡る。普通の人間や鬼なら、瞬く間に眠ってしまう旋律だ。

だが、その旋律は禰豆子の耳には届かず、ついに汐の鉢巻きが解けてしまった。

 

禰豆子はそのまま、汐の鳩尾に肘を叩き込んだ。

 

「ぐっ・・・!!!」

 

その衝撃と痛みで汐の歌は中断され、禰豆子はさらに激しく暴れ出した。

 

(駄目・・・、ウタカタが効かない。聴いてくれない・・・!)

 

汐は何度も歌を歌ってみるが、禰豆子は一向に眠らず暴れるばかりだ。

 

(あたしじゃダメなんだ・・・!()()のあたしじゃ、禰豆子を抑えきれない。どうしたら・・・どうしたらいいの・・・!?誰か・・・!!)

 

目には涙がたまり、汐の心に絶望がわき始めたその時、彼女の脳裏にある出来事が蘇った。

 

『汐って、助けてってあまり言わないよな』

 

それはいつだったか、汐が久しぶりに蝶屋敷を訪れ炭治郎と談笑していた時の事だった。

 

『何よ藪から棒に』

『今まで汐のことはずっと見てきたけれど、汐は何があっても自分で解決しようとするところがあるから心配なんだ』

 

炭治郎の少し悲しそうな眼が、汐の心に小さく突き刺さった。

 

『だって、みっともないって思っちゃうんだもの。助けを求めるってなんだか自分の弱さを認めちゃうような気がして』

 

汐はそう言って目を伏せると、炭治郎はきょとんとした表情で彼女を見つめていった。

 

『それってそんなに悪いことか?自分一人じゃできないことなんてたくさんある。それにそのせいで汐が傷つくところなんて俺は絶対に見たくはない。俺はそんなに頼りないか?』

『そんなこと・・・ないわよ。あたしはあんたに迷惑を掛けたくないだけ』

『迷惑だなんて思うもんか。俺たちは仲間だろう?助けを求められて迷惑だなんて思う仲間なんて、いるわけがない。だから、もしも汐がどうにもならないことに出くわしたら、迷わず俺を呼んでくれ。俺じゃなくても善逸や伊之助だっているんだ。だから約束してくれ。何かあったら、俺達を頼ってくれると――』

 

*   *   *   *   *

 

(炭治郎・・・!!)

 

汐は苦しむ禰豆子を見て唇をかみしめた。ウタカタも効かず、自分の声も届かない。おそらく禰豆子を抑えられるのはたった一人。

彼女と血を分けた家族である、炭治郎だけだ。

 

「っ!!」

 

汐の頬に、禰豆子の鋭い爪が滑り真っ赤な線を刻み、汐の目から涙があふれ出した。それは痛みのせいではない。禰豆子と炭治郎を想っての涙だった。

 

「・・・助けて・・・!助けて炭治郎!!禰豆子を助けて!!!」

 

汐の悲鳴のような助けを求める声が、あたり中に響き渡った。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



汐の悲痛な叫びは、彼の元へ届くのか


時間は少しだけさかのぼり

 

『兄ちゃん、兄ちゃん助けて。姉ちゃんたちが危ないよ・・・!!』

 

闇の中誰かの声を聞いた気がして、炭治郎ははっと目を覚ました。だが、背中の激痛と貧血で酷い眩暈を起こして膝をつく。

 

(俺は・・・?そうか、あの時汐を庇って鬼に背中をやられて、それから・・・)

 

炭治郎はふらつきながら頭の中周りを見渡すと、汐と禰豆子の姿がない。それどころか二人の血の匂いがどこからか流れてきた。

 

(汐と禰豆子の血の匂い・・・!二人が血を流している・・・!行かなければ・・・、俺の大切な家族が・・・!!)

 

炭治郎は何とか身体を起こし、立ち上がろうとするが足に力が入らなかった。自分の見えない場所で二人の少女が血を流しながら戦っている。

それなのに男である自分が動けない不甲斐なさに、炭治郎の心に焦りが生まれた。

 

だが

 

「無理に動くんじゃないよ!」

 

背後から鋭い声が飛び、倒れそうになる炭治郎を誰かが支えた。視線を動かせば、黒髪に前だけが金色の髪の見知らぬ女性が自分を支えていた。

誰だと聞く前に、彼女の背後から別の悲鳴のような声が上がった。

 

「ヒィッ!!ひ、酷い怪我です!!ど、どうしましょう!?」

「喚くんじゃないよ須磨!さっさと手当てを始めるよ!」

 

女性が口にした名前に、炭治郎は思わず目を見開いた。

 

「須磨・・・?ひょっとして、あなたたちは宇髄さんの・・・」

「はい、妻の須磨です。そしてこっちがまきをさんで・・・」

「のんきに自己紹介なんかしている場合じゃないでしょ!!ああもう!アンタは周りの怪我人の手当てをしな!!」

 

まきをと呼ばれた女性はすぐさま炭治郎の傷の応急手当てをし、須磨はその周辺の怪我人の手当てを始めた。

 

「皆さん、無事だったんですね・・・、よかった・・・」

 

宇髄の妻が生きていたことに安堵する炭治郎に、まきをは手を動かしながら言った。

 

「猪みたいな頭の子が助けてくれたんだ。後、アンタの仲間の金色のへんてこな子も生きているよ」

「伊之助が・・・、それに善逸も・・・。みんな無事でよかった・・・」

「人の事よりあんたは自分の心配をしな!全く、どいつもこいつも・・・」

 

まきをは唇を噛みながら、手早く炭治郎の傷に包帯を巻いていく。

それから彼の前に一粒の丸薬を差し出した。

 

「これを飲みな。痛み止めと造血作用のある薬だよ」

 

まきをが差し出した丸薬からは、すさまじい程の薬の悪臭がしたが、炭治郎は一切ためらうことなく口の中に放り込んだ。

途端に口中に強烈な苦みと渋みが広がり、炭治郎の意識は霧が晴れるように一気に引き戻された。

 

(うわぁぁ、あの薬ってものすごく苦くて渋いんですよね・・・)

涙目になり咳き込む炭治郎を、須磨は複雑な表情で眺めていた。

 

意識が鮮明になった炭治郎は、改めて周りを見渡し顔を歪ませた。建物は無残に崩れ去り、あちこちから血のにおいと血痕が見える。

そして傍らには空っぽになった霧雲杉の箱が落ちていた。

 

(禰豆子、汐・・・。どこだ?どこにいるんだ・・・!?)

 

何とか二人の姿を捜そうと上を向いた、その時だった。

 

――助けて・・・!助けて炭治郎!!禰豆子を助けて!!!

 

「えっ・・・!?」

 

何処からか汐の声が聞こえた気がして、炭治郎は弾かれるように立ち上がった。するとある方向から二人の血の匂いがはっきりと流れてきた。

 

「どうしたんだい?」

 

怪訝そうな顔をするまきをに、炭治郎は険しい表情のまま告げた。

 

「すみませんが俺はもう行きます。助けていただいてありがとうございました」

 

炭治郎はそれだけを言うと、風のようにその場を後にした。あれほどの怪我を追っているのにもかかわらず、あれだけの動きができることにまきをは驚いたが、遠くで泣きごとを言い出す須磨の声を耳にしたときその驚きは怒声に変わっていくのだった。

 


 

一方その頃。暴れ続ける禰豆子を、汐は必死で押さえつけていた。

身体のあちこちは禰豆子の鋭い爪で引っ掻かれて血が滲み、のたうち回ったせいかあちこちに青あざができているうえに、体力も限界に近かった。

 

「禰豆子・・・!お願い・・・だから・・・!」

 

何度も歌を歌ったせいか、汐の声はすでに枯れてかすれてしまっていた。しかしそれでも汐は禰豆子を放さなかった。放すわけにはいかなかった。

例え命に代えても、禰豆子に人を傷つけさせるわけにはいかない。

 

だが、汐の身体は確実に悲鳴を上げ、力もだんだんと弱まりつつあった。そしてついに・・・

 

「あっ!!」

 

禰豆子は身体を大きく捩り、汐の手を無理やり引き剥がすと倒れている人間に躍りかかった。

 

 

「禰豆子ーーッ!!!」

 

汐の叫びも虚しく、今まさに禰豆子の爪が振り下ろされようとしたその時だった。

 

「禰豆子!!!」

 

聞き慣れた声と共に、緑色の羽織が目の前を翻った。

 

「だめだ!!耐えろ!!」

 

炭治郎が暴れる禰豆子に、汐同様鞘のついた刀を噛ませ押さえつけていた。

 

「炭治郎・・・ッ!!」

 

汐は安堵から涙を流すが、すぐさま振り払って叫んだ。

 

「炭治郎、どうしよう!ウタカタが効かないの。何度歌っても禰豆子が眠ってくれないの!あたし、あたし・・・!!」

 

だが汐が訴える間も、禰豆子は激しく暴れ炭治郎を押しつぶすように倒れこんだ。

 

「炭治郎・・・!」

「来るな汐!大丈夫だ!!俺が、俺が必ず何とかするから・・・!!」

 

禰豆子を必死で抑えながら、炭治郎は汐を一瞥して顔を歪ませた。汐の身体はたくさんの傷がつき血を流していた。

周り中あちこちから汐と禰豆子の血の匂いを感じ、二人がそれだけ傷ついたことを表していた。

 

(ごめん・・・ごめんな二人とも。戦わせてしまって・・・!!二人とも痛かっただろう、苦しかっただろう・・・!)

 

「禰豆子、禰豆子!!ごめんな。でも大丈夫だ。兄ちゃんが誰も傷つけさせないから。眠るんだ禰豆子、眠って回復するんだ、禰豆子!!」

 

炭治郎は禰豆子の名を何度も呼び続けた。しかし禰豆子はそれが聞こえていないのか、強く踏み込むと炭治郎ごと天井を突き破っていった。

 

「炭治郎!禰豆子!」

 

汐もあわてて二人の後を追い、穴の開いた天井に向かって飛び込んだ。

 

上の階では突然現れた闖入者に、人々は驚き逃げ惑った。

 

「禰豆・・・子!!眠るんだ!!」

 

先程薬を飲んだとはいえ、傷が治ったわけではないため炭治郎の身体は悲鳴を上げた。しかしそれでも、炭治郎は必死で禰豆子に呼び掛けた。

何度も、何度も。

 

しかし、そんな二人に追い打ちをかけるかのように、部屋の襖が音を立てて吹き飛んだ。追いついた汐が二人を庇うようにして刀を構えると、そこから堕姫の大きな影がぬうっと姿を現した。

 

「よくもまぁ、やってくれたわね。そう、血鬼術も使えるの。鬼だけ燃やす奇妙な血鬼術」

 

堕姫の地を這うような恐ろしい声が汐の耳を穿ち、そして顔の半分と身体の一部が焼け焦げた姿で、堕姫は禰豆子を睨みつけた。

「しかもこれ、なかなか治らないわ。もの凄く癪に障る、もの凄くね」

 

堕姫の顔にはいくつもの青筋が浮かび、激昂しているのが一目でわかった。

 

(まずいわ。周りには逃げ遅れた連中もいるし、炭治郎は禰豆子を抑えるので手一杯。あたしが、あたしがなんとかしないと・・・)

 

「へぇ。中々いい姿になったんじゃないの。流石、吉原に名をはせた花魁は違うわね」

 

汐は思い切り皮肉を込めてそう言い放つが、堕姫は汐にはもう興味はないと言った様子でその視線を合わすことなく禰豆子だけを睨みつけていた。

 

もはや汐の挑発すら、堕姫の耳には届かなかった。

 

堕姫の帯はグネグネとうねり、今まさに建物ごと切り裂こうとしたその時だった。

 

「おい、これ、竈門禰豆子じゃねーか。派手に鬼化が進んでやがる」

 

この場に似つかわしくないような声が響き、汐が思わず振り返るとそこには炭治郎と禰豆子の傍に音もなく近寄った、宇髄の姿があった。

彼は暴れる禰豆子をまじまじと見ながら、呆れたように鼻を鳴らした。

 

「お館様の前で大見栄切ってたくせに、なんだこの体たらくは」

 

いきなり現れたその男から、堕姫はとてつもない気配を感じ、彼が柱であることを見抜いた。

 

「柱ね、そっちから来たの。手間が省けた・・・」

「うるせぇな。お前と話してねーよ、失せろ」

 

だが、堕姫の言葉を宇髄は静かに遮り言い放った。

 

「お前。()()()()()()()()()()。弱すぎなんだよ。俺が探っていたのはお前じゃない」

 

その言葉に堕姫だけではなく、汐も驚いた顔で宇髄を凝視した。が、次の瞬間。

 

堕姫の頸がごろりと落ち、彼女自身の手の中に納まった。

 

「え?」

 

堕姫はそのまま呆然とした表情で、自分の頸を抱えながら座り込んだ。その速さに汐と炭治郎は唖然とした表情で堕姫と宇髄を見比べた。

 

(何が起こったの!?全然見えなかった。っていうか、刀いつ抜いてたのよ!?)

(斬った!!頸が落ちてる!!宇髄さんが斬ったのか!?すごい・・・!!)

 

二人が呆然とする中、禰豆子が再び咆哮を上げながら暴れ出し、炭治郎は慌てて手に力を込めた。

 

「おい、戦いはまだ終わってねぇぞ。妹をどうにかしろ」

 

宇髄は淡々と言葉を紡ぎながら、炭治郎に顔を近づけながら言った。

 

「どうにかって、あたしたちにできることは全部やったのよ!だけど、だけど駄目なのよ!」

「うるせえ、喚くな。ぐずりだすような馬鹿ガキは、戦いの場に要らねぇ。子供には地味に子守唄でも歌ってやれや」

「だからそれはさっきやって――」

 

汐が宇髄に文句を言おうとしたとき、禰豆子はひときわ大きな声を上げるとそのまま炭治郎と共に窓を突き破って外に落ちていった。

 

「炭治郎!」

 

汐は慌てて追おうとするが、宇髄が腕を掴み制止させた。睨みつける汐に、彼はため息を一つつくと首を横に振った。

 

「お前にできることはもう何もねえよ」

 

その言葉が、汐の心に小さな棘となり突き刺さっていった。

 

俯く汐に宇髄は再びため息を吐くと――

 

手を振り上げその手刀を汐の頭に叩きつけた。

 

「いっ・・・たあ・・・!!なにすんのよっ!!」

 

汐は走った衝撃と痛みに呻き、頭を抑えながら宇髄を睨みつけた。

 

「戯け。お前が無茶をしたせいで迷惑する連中がいるのがわかんねえのか?自分ひとりで自己完結してんじゃねえって俺に派手に啖呵を切ったのはお前だろうに、言ってることとやってることが全然違うだろうが阿呆」

 

彼の言葉に、汐は先ほど殺意におぼれそうになり自分の限界を見誤ったことを思い出した。

禰豆子が居なければ、あのまま鬼に全身をズタズタにされていただろう。そして、自分ひとりが突っ走ったせいで禰豆子をあんな目に遭わせてしまった事に、汐は心から悔やんだ。

 

「落ち込んでいる場合じゃねえぞ、癇癪娘。まだ俺たちにはやることがごまんとあるんだ。そんな暇があるならさっさと立て」

「・・・そうね。って、今あんたあたしの事癇癪娘って言った!?騒音より酷いことになってるじゃない!!」

「うるせー、耳元で騒ぐんじゃねえよ。それとも騒音阿呆娘の方がいいか?」

「あんた絶対、いつかぶっ飛ばしてやるからね・・・」

 

青筋を立てながら自分を睨みつける汐に、宇髄の口元が微かに緩んだ。

 

その時だった。

 

「ちょっと待ちなさいよ、どこ行く気!?」

 

宇髄と汐が立ち上がろうとしたとき、頸が落ちたままの堕姫が甲高い声で喚いた。

 

「よくもアタシの頸を斬ったわね、ただじゃおかないから!」

「まぁだ、ギャアギャア言ってんのか。もうお前に用はねぇよ、地味に死にな」

 

そんな堕姫に、宇髄は興味がないように一瞥すると汐に先に行くように促した。

 

「ねえあんた、さっきこいつが上弦の鬼じゃないって言ったのはどういう事?こいつの目にちゃんと数字が刻まれてるじゃない」

「あー、あれはそのままの意味だ。こいつは上弦の陸なんかじゃねえ」

「アタシは上弦の陸よ!!」

 

宇髄の言葉を聞いていたのか、堕姫は金切り声を上げながら言い放った。しかし頸を斬られているせいか、何を言っても負け惜しみにしか聞こえなかった。

 

「だったらなんで頸斬られてんだよ。弱すぎだろ、脳味噌爆発してんのか?」

 

相も変わらず歯に衣着せぬ物言いに、汐も呆れたように宇髄と堕姫を見比べていると、堕姫はさらに声を荒げた。

 

「アタシはまだ、負けてないからね、上弦なんだから!」

「負けてるだろ、一目瞭然に」

「アタシ本当に強いのよ。今はまだ陸だけど、これからもっと強くなって・・・」

「説得力ねー」

 

堕姫の言い訳じみた言葉に、宇髄は冷静に言葉を返していくと、次の瞬間。彼女は突然火のついたように泣き出した。

 

「わーーーーん!!」

 

大粒の涙を流し泣き喚く堕姫に、汐は勿論、宇髄ですらぎょっとした表情で凝視した。

 

「本当にアタシは上弦の陸だもん、本当だもん。数字だって貰ったんだから、アタシ凄いんだから!」

 

まるで子供のように泣きわめく堕姫に、汐は段々と苛立たしさを感じながら睨みつけた、その時だった。

 

汐は苛立たしさの他に、大きな違和感を感じた。落ちたままの頸が、涙を流して叫んでいる。

 

頸が落ちているのに、未だに喚いている。

 

(あれ?そう言えば、なんでこいつ死んでないの?日輪刀で頸を斬ったはずなのに・・・!)

 

汐の感じた違和感は、宇髄も感じたらしく引き攣った表情で堕姫を凝視していた。

そんなこととは露知らず、堕姫は喚きながら何度も畳に拳を打ち付けた。

 

「死ね!!死ね!!みんな死ね!!うわああああっ、頸斬られたぁ、頸斬られちゃったぁ!!お兄ちゃあああん!!」

 

堕姫がそう叫んだ瞬間。堕姫の背中から何かが生えるように這い出してきた。

 

「うぅううん・・・」

 

うめき声のようなかすれた声と共に這い出たそれから、汐は強い別な鬼の気配を感じた。

だが、間髪入れずに宇髄がすぐさま鬼に日輪刀を振るった。しかしその刃は空を切り、あたりには堕姫の帯が小さく待っているだけだ。

 

「!!」

 

汐と宇髄が辺りを見回すと、部屋の隅に移動した鬼は泣きじゃくる堕姫の頸を元に戻しながら頭をなでていた。

 

「泣いたってしょうがねぇからなぁ。頸くらい自分でくっつけろよなぁ。おめぇは本当に頭が足りねぇなぁ」

 

そう言って堕姫をなだめる鬼を、汐は睨みつけながら状況を整理した。

 

(どういう事?あの女は頸を斬ったのに死んでない。それに、後から出てきた鬼は別の気配がする・・・それにさっき、派手男の剣よりも早く動いた。反射速度が馬鹿みたいに速いわ)

 

汐が刀を構えると、お兄ちゃんと呼ばれた鬼はゆっくりと振り返った。その悍ましい眼に、汐の身体が強張る。

 

「俺の妹をいじめたのはお前かぁ~」

 

その尋常ならざる気配に汐はすぐさま口を開いた。だが、その瞬間。

 

「・・・え?」

 

汐の目の前に鬼が迫って来たかと思うと、彼は何処からか取り出した鎌を汐の喉笛に突き刺していた。

そして悲鳴を上げる間もなく、一気に喉ごと汐を切り裂いた。

 

「大海原ーーッ!!!」

 

崩れ落ちる汐の身体に向かって、宇髄の叫び声が部屋中に響き渡った。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



響き渡る調子はずれの歌は、何故かとても愛しくて


一方、禰豆子と共に下に落下した炭治郎は、咳き込みながらも何とか禰豆子をなだめようと考えを巡らせていた。

しかし何度呼び掛けても、禰豆子は炭治郎の声を聞いてくれなかった。

 

(だめだ、俺の声が届かない。全然聞いてくれないよ。どうしよう、母さん・・・)

 

炭治郎の脳裏に母の姿が浮かんだ、その時。先ほどの宇髄の言葉が蘇った。

 

『子守唄でも歌ってやれ』

 

子守唄。かつて母が、自分や兄弟妹たちの為に歌ってくれた歌を炭治郎は思い出した。しかし、汐の歌も聴いてくれなかった禰豆子が、聞いてくれるだろうか。

考えている余裕はなかった。

 

「こんこん・・・小山の、子うさぎは、なぁぜにお耳が長ぅござる・・・」

 

炭治郎の口から、拙い歌声が零れだす。少し調子の外れた、しかしとても優しい歌声だった。

 

「小さいときに、母さまが、長い木の葉を食べたゆえ、そーれでお耳が長うござる・・・」

 

すると、あれほど激しく暴れていた禰豆子の動きがぴたりと止まった。彼女の頬に温かい両手が添えられるような感じがした。

その瞬間、禰豆子の記憶が一気によみがえった。

 

『こんこん小山の子うさぎは、なぁぜにお目々が赤ぅござる。小さい時に母さまが、赤い木の実を食べたゆえ、そーれでお目々が赤ぅござる』

 

それは幼い頃、生まれて間もない弟と共に山菜を取りに行った時の事だった。

 

『お兄ちゃんのお目々が赤いのは、おなかの中にいた時に、お母さんが赤い木の実を食べたから?』

 

母の手を握りながら幼い禰豆子はあどけない笑みで問いかけると、母はにっこりとほほ笑むのだった。

 

「わーーーーん!!」

 

禰豆子の目から涙があふれ出したかと思うと、彼女は子供のように声を上げて泣きだした。

その涙が鬼の力を洗い流すかのように、身体の文様は消えみるみるうちに幼子の姿になった。

 

そしてそのまま、禰豆子は寝息を立て始めた。

 

「寝た・・・母さん、寝たぁ・・・。寝ました、宇髄さん・・・。寝たよ、汐・・・」

 

炭治郎は安堵のあまり腰を抜かしそうになったが、残してきた汐が傷を負っていたことを思い出した。

 

「そうだ、汐・・・。汐の怪我の手当てをしないと・・・」

 

しかし禰豆子を抱えたまま戻るわけにもいかず、炭治郎はどうしたものかと上を見上げた時だった。

 

突然建物が大きく揺れ、壊された窓から何かが飛び出してきた――。

 


 

「大海原ーーッ!!!」

 

宇髄の叫び声があたり中に響き渡る中、男の鬼は眉をひそめた。

鬼は確かに汐の喉を切り裂いていた。だが、その斬った手ごたえがどうもおかしい。今まで何度も行ってきた、人間を斬った手ごたえではなかった。

 

鬼が瞬きをした瞬間、彼は目の前のものをみて大きく目を見開いた。汐を斬ったはずのそれは、中心から大きく切り裂かれた行燈に変わっていた。

 

「なぁにぃぃ?」

 

顔に驚愕を張り付ける鬼の背後で、凛とした声が響いた。

 

――ウタカタ・肆ノ旋律――

――幻惑歌(げんわくか)

 

鬼が振り返ると、汐は初めに遭遇した時と同じ姿で、宇髄の隣に立っていた。いきなり現れた彼女に、鬼は勿論宇髄ですら目を向いた。

 

(おいおい、幻覚まで見せられるのかよ。とんでもねぇ娘だな・・・)

 

そんなことを考えている宇髄の傍で、汐の顔から汗が一筋零れたかと思うと、突然彼女の顔中から汗が噴き出した。

 

「び、びびび、びっくりしたぁ!し、し、し死ぬかとおもももも・・・」

 

余程危なかったのだろうか、汐の涼しい顔は崩れ去り善逸のようなおかしな顔になっていた。そんな様子の汐に宇髄は呆れつつも彼女の無事をとりあえずは喜んだ。

 

一方、思わぬところで攻撃を躱された鬼は、頭を掻き毟りながら首を直角に曲げて汐を睨みつけていた。

 

「青い髪におかしな歌・・・。そうかあぁ、お前が例のワダツミの子って奴かぁああ」

 

地を這うような悍ましい声で身体を揺らしながらそう言う鬼に、汐の身体が震えた。堕姫とは違い、その姿は醜悪で正に幽鬼ともいえるものだった。

 

「お兄ちゃん!!その女よ!アタシの事阿婆擦れ婆だとか尻軽とか悪口言ったの!!殺してよ!!その女絶対に殺してよぉ!!」

 

堕姫は汐を指さしながら泣きわめき、お兄ちゃんと呼ばれた鬼は目を細めて再び汐を睨みつけた。

 

その瞬間。

 

鬼が動くと同時に、宇髄は突然汐の胸ぐらをつかむとそのまま窓の外に放り投げた。

そのまま成す術もなく落ちていく汐が最後に見たのは、鬼と宇髄が切り結ぶ瞬間だった。

 

汐を外に逃がし、すぐさま向かってきた鬼に応戦する宇髄だったが、鬼の持っていた鎌が彼の頭部に大きな傷をつけた。

額当てが破損し、銀糸の髪がばらけそこから血が流れだす。

 

「へぇ、やるなぁあ、攻撃止めたなぁあ。殺す気で斬ったけどなぁぁ。いいなあお前、いいなあ」

 

鬼はゆらゆらと身体を揺らしながら、妬ましそうに宇髄を睨みつけていた。

 

遊郭には客の呼び込みや集金などを行う妓夫(ぎゅう)という役職に就く男が存在する。その男は人間出会った頃、その役職についていた彼は名を持たず、役所名をそのまま付けられ【妓夫太郎(ぎゅうたろう)】と名乗っていた。

 

そして鬼となった今でも、彼はその名を名乗っている。

 

妓夫太郎は顔をぼりぼりと掻き毟りながら、じとりとした目で宇髄を見据えながら言った。

 

「お前いいなぁあ。その顔いいなぁあ。肌もいいなぁ。シミも痣も傷もねぇんだな」

 

宇髄は口を引き結んだまま言葉を発しなかったが、妓夫太郎はそのまま続けた。

 

「肉付きもいいなぁ、俺は太れねぇんだよなぁ。上背もあるなぁ。縦寸が六尺は優に越えてるなぁ。女にも(さぞ)かし持て(はや)されるんだろうなぁあ」

 

妓夫太郎はさらに激しく身体を掻き毟り、血が流れだしても構うことなく恨めしそうに宇髄を睨みつけていた。

「妬ましいなぁ、妬ましいなぁあ、死んでくれねぇかなぁあ。そりゃあもう苦しい死に方でなぁあ、生きたまま生皮剥がれたり、腹を掻っ捌かれたり、それからなぁ・・・」

「お兄ちゃん、コイツだけじゃないのよ、まだいるの!!アタシを灼いた奴らも殺してよ絶対」

 

堕姫は未だに涙を流しながら、必死で兄である妓夫太郎に訴えた。

 

「アタシ一生懸命やってるのに、凄く頑張ってたのよ一人で・・・!!それなのに、皆で邪魔してアタシをいじめたの!!よってたかって いじめたのよォ!!」

「そうだなあ、そうだなあ、そりゃあ許せねぇなぁ。俺の可愛い妹が足りねぇ頭で一生懸命やってるのを、いじめるような奴らは皆殺しだ。取り立てるぜ、俺はなぁ。やられた分は必ず取り立てる」

 

――死ぬ時ぐるぐる巡らせろ。俺の名は妓夫太郎だからなあ!!

 

妓夫太郎はそう叫んで、両手に持っていた鎌を思い切り振り上げた。

 

 

*   *   *   *   *

 

 

一方。

宇髄に投げ飛ばされるようにして逃がされた汐は、地面に叩きつけられる寸前に受け身を取りどうにか大きな怪我は避けられた。

しかしその際に思い切り臀部を打ち付けてしまったのか、鈍い痛みが走った。

 

「汐!!」

 

聞き慣れた声がして振り返ると、そこには禰豆子を抱えて立ち尽くしている炭治郎の姿があった。

 

「炭治郎!!」

 

汐は炭治郎が無事だったことと、禰豆子が元に戻っていることに安堵するが、同時に自分のせいで禰豆子が豹変してしまった事を思い出した。

 

(あたしが軽率なことをしたから、禰豆子があんなふうになってしまった。あたしが周りをもっときちんと見ていれば、こんなことにはならなかったッ・・・!)

 

悔し気に唇をかみしめる汐から後悔とと苦悩の匂いを感じた炭治郎は、そんな汐の頭を優しくなでながらしっかりした声で言った。

 

「お前のせいじゃない」

 

汐は驚いて炭治郎の顔を見つめると、彼は相も変わらず綺麗な眼で汐を優しく見つめていた。彼自身も傷を負い、辛いはずなのに何故このような眼をすることができるのだろう。

 

(そうだ。後悔なんて後でいくらでもできる。今はあいつらのことを炭治郎に伝えないと・・・!)

 

汐は慌てて首を横に振ると、炭治郎に先ほどの出来事を伝える為に口を開いた。

 

「大変よ炭治郎。あの女、頸を斬っても死ななかったの!」

「死ななかった?どういうことだ?」

「わからない。それどころかあいつの背中からもう一匹の鬼が飛び出してきて、二匹になったわ。しかもそいつ、とんでもなく素早くて、ウタカタがなければあたしは・・・」

 

あの時の恐怖が蘇ったのか、汐は身体を震わせた。炭治郎はにわかには信じられなかったが、汐からは嘘のにおいなど微塵もせず、何よりこの状況でくだらない嘘を吐くような人間ではないことを誰よりも理解していた。

 

「と、とにかく!いくら柱とは言え上弦の鬼二匹を相手には厳しいかもしれないわ。あたしたちもなんとか加勢して・・・」

 

汐がそこまで行った時。突然建物の中から轟音を立てて何かが飛び出してきた。

汐と炭治郎が思わず視線を向けると、そこには骨のような持ち手と真っ赤な刃の色をした鎌のようなものだった。

 

(何だあれは、鎌か?)

 

呆然とする炭治郎とは対照的に、汐はその鎌に覚えがあり叫んだ。

 

「あれはもう一匹の鬼がもっていた鎌よ!!」

 

汐が叫んだ時、飛び上がった鎌はすさまじい勢いで回転しながら建物の中に戻っていった。

その時、炭治郎の鼻が微かに宇髄の血のにおいをかぎ取った。

 

(宇髄さんの血の匂い・・・!怪我をしているんだ!加勢しなければ・・・!!)

 

しかし禰豆子を抱えたまま戻るわけにもいかず、汐の手当てもしなければならない炭治郎は焦りを顔に張り付けたまま唇をかんだ。

その時だった。

 

「俺が来たぞコラァ!!御到着じゃボケェ!!頼りにしろ、俺をォォ!!」

 

背後から聞き覚えのある声が響き、汐と炭治郎が振り返るとそこには。

 

猪の皮をかぶった、いつもの格好の伊之助と。女性の格好をしたまま鼻提灯を出しながら走り寄ってくる善逸の姿があった。

 

「善逸!伊之助!!あんた達無事だったのね!?っていうか、善逸。あんた何よその恰好!!」

 

伊之助はともかく、行方知れずだった善逸の姿を見て汐は思わず表情を緩ませた。だが、あまりにもこの状況に似つかわしくない格好に、次の瞬間には顔が引きつった。

 

「二人とも宇髄さんを加勢してくれ!!頼む!!」

「任せて安心しとけコラァ、大暴れしてやるよ、この伊之助様がド派手にな!!」

 

目を光らせて親指を立てる伊之助に、汐は彼が影響を受けやすい性格だということを改めて理解した。

そんな彼に特に突っ込むこともなく、炭治郎は安心したように言った。

 

「すまない、俺は禰豆子を箱に戻してくる!少しの間だけ許してくれ!」

「許す」

「それと汐の怪我の手当てもしてくる。かなり無理をさせてしまったんだ!」

「仕方ねぇな、許してやる!」

「ちょっと!なんであたしだけ上から目線なのよ!!」

 

伊之助の言葉に憤慨する汐の手を引き、炭治郎は禰豆子を抱えたまま先ほどの場所へ向かって走り出した。

 

 

*   *   *   *   *

 

 

その頃。

 

妓夫太郎の繰り出す攻撃に、宇髄は逃げ遅れた一般人を庇いつつ何とかしのいでいる状態だった。

 

「妬ましいなぁあ。お前本当にいい男じゃねぇかよ、なぁあ。あの女と他の人間庇ってなぁあ。格好つけてなぁあ。いいなぁ」

 

そんな彼に、妓夫太郎は身体を掻き毟りながら、恨めしそうに言葉を紡ぐ。

 

「そいつらにとって、お前は命の恩人だよなあ。さぞや好かれて感謝されることだろうなぁあ」

 

そんな妓夫太郎に、宇髄は涼しい顔で答えた。

 

「まぁな、俺は派手で華やかな色男だし当然だろ。女房も三人いるからな」

 

その言葉を聞いた瞬間、妓夫太郎の動きが止まった。かと思いきや、先ほどよりも激しく顔を掻き毟りながら言った。

 

「お前女房が三人もいるのかよ。ふざけるなよなぁ!!なぁぁぁ!!許せねぇなぁぁ!!」

 

それは許容範囲外だったのか、妓夫太郎は激高したように叫ぶと腕を大きく振り上げた。

 

血鬼術――

――飛び血鎌

 

妓夫太郎の腕から血の色をした斬撃が宇髄に向かって放たれ、宇髄は捌こうと日輪刀を構えた。

だが、その数を人を守りながら捌くのは無理があった。

 

なら!!

 

宇髄は咄嗟に刀を振り上げると、床に向かってその刃を叩きつけた。轟音と共に床が吹き飛び、土煙と畳の繊維がもうもうと上がる。

 

そのまま彼は一般人ごと下に降りると、彼等に直ぐに逃げるように言い放った。

 

「逃げろ!!身を隠せ!!」

「はっ、はい」

 

しかし妓夫太郎はそれを許さないと言わんばかりに、血の斬撃を再び放った。

 

「逃がさねぇからなぁ。曲がれ、飛び血鎌」

 

すると妓夫太郎の声に呼応するように、斬撃は急速に曲がると宇髄たちに向かってその刃を振るった。

 

(斬撃自体操れるのか、敵に当たってはじけるまで動く血の斬撃!!)

 

日輪刀でその斬撃を受け流しながら、宇髄は先ほど堕姫を斬った時のことを思い出していた。

 

(あの兄妹、妹の方は頸を斬っても死ななかった。あり得ない事態だ。兄貴の頸を斬れば諸共消滅するのか?兄貴が本体なのか?)

 

しかし今の状況では情報が少なすぎる上に、ここを切り抜けねば命はない。

宇髄は考えるのをやめた。

 

(どの道やるしかねぇ)

 

宇髄は懐から火薬球を取り出し、神経を研ぎ澄ませた。

 

(この音からして上の階の人間は殆ど逃げてる)

 

そしてその火薬球を放り投げ、自分自身も飛び上がりその刃で火薬球を切り裂いた。

 

その瞬間。

 

凄まじい爆発が起こり、建物の一部が吹き飛んだ。伊之助はすぐさまそれを察知し、善逸と共に地面に転がった。

 

煙がもうもうと上がる中、宇髄は口元を歪ませながら吐き捨てるように言った。

 

「・・・まぁ、一筋縄にはいかねぇわな」

 

視線の先には硬質化した堕姫の帯でくるまれたものがあり、その帯が剥がれ落ちたそこには、妓夫太郎の肩に座る堕姫の姿があった。

 

「俺たちは二人で一つだからなあ」

 

そう言って妓夫太郎は、これ以上ない程の醜悪な笑みを浮かべていた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

二十章:役者は揃った
壱(再投稿)


あまりにも誤字脱字が多すぎたため、再投稿いたします。申し訳ございません。


炭治郎は禰豆子を抱えつつ汐の手を引き、先ほどの場所へ戻った。攻撃を受けた際に千切れてしまった肩ひもを結び、眠っている禰豆子の口に壊れてしまった口枷の代わりに縄を噛ませた後箱に戻すと、炭治郎は汐の手当てをしようと服に手をかけようとして踏みとどまった。

 

それは以前に、同じように負傷した汐の手当てをしようと、服に手をかけた時に手ひどい一撃を喰らってしまった事があった。

緊急事態だったとはいえ、年頃の少女の服を剥こうとしたことに変わりはなく、善逸だったら確実にあの世に叩き込まれていただろう。

 

だが、汐はためらう炭治郎の前で隊服の釦を外すと、彼に背を向ける形で服を脱いだ。いつもならありえないことに炭治郎は面食らったが、汐の上半身から流れ出る血を見て息をのんだ。

 

そしてすぐさま、先ほど手当てをしてもらった時と同様に汐の手当てをしていく。その間、汐は一言もしゃべらず、黙って炭治郎の手当てを受けていた。

 

(汐、どうしたんだろう。あの時からずっと様子がおかしい。さっきも後悔と苦悩の匂いがしたし、汐は自分が悪くないのにため込んでしまうところもあるから――)

 

「炭治郎」

 

ふいに名前を呼ばれた炭治郎は、肩を震わせ手当てをしている手を止めた。

 

「ど、どうした汐。痛くしすぎたか?」

 

炭治郎が思わず聞き返すと、汐は振り向くことなくそのまま口を開いた。

 

「あたし、さっき派手男にあたしにできることは何もないって言われたの。そして実際にその通りだと思った。あたしじゃ禰豆子を何とかできなかったし、自分ひとりで突っ走って大勢の人間に迷惑をかけた。正直のところ、今のあたしじゃアイツらの足手纏いなのはわかっている」

 

汐の淡々とした言葉が炭治郎の胸に突き刺さり、彼は大きく顔を歪ませた。そんなことはない。汐のせいなんかじゃない。そんなことを言おうとして口を開いた炭治郎の言葉を、汐が遮るように言った。

 

「けれど、このまま何もせずに尻尾を巻いて逃げ出すのだけは絶対に嫌。あんな連中に屈するなんざ、死んでもごめんだわ!だからお願い、あたしに逃げろなんて言わないで。来るなって言わないで。あたしもあんた達と一緒に、最後まで戦わせて!!」

 

汐は振り返り、炭治郎の目をしっかり見据えて言った。匂いをかがなくてもわかる。その目には確かな決意が宿っていた。

 

炭治郎は何かを言いかけて口を開いたが、それを閉じると汐の目を見据えてうなずいた。

 

「勿論だ。俺の方もまだ動ける。一緒に戦おう、汐!」

 

皆で戦い抜く!最後まで!!

 

二人は頷きあうと、禰豆子に必ず帰ると誓い、戦いの渦中へと戻っていくのだった。

 

 

*   *   *   *   *

 

 

帯の防御を解いた妓夫太郎は、宇髄の顔を舐めるように見据えながら言った。

 

「お前違うなぁ。今まで殺した柱と違う」

 

妓夫太郎の言葉に怪訝な表情を浮かべる宇髄に、彼は地を這うような声色でつづけた。

 

「お前は生まれた時から特別な奴だったんだろうなぁ。選ばれた才能だなぁ。妬ましいなぁ、一刻も早く死んでもらいてぇなぁ」

「・・・才能?ハッ」

 

妓夫太郎の言葉を聞いた宇髄は、鼻を鳴らし、自嘲的な笑みを浮かべながら嘲るように言い放った。

 

「俺に才能なんてもんがあるように見えるか?()()()()()()()()()()()、テメェの人生幸せだな。何百年生きていようが、こんな所に閉じ込もってりゃあ世間知らずのままでも仕方ねぇのか」

 

『100年以上も無駄に生きているから、目も耳も耄碌してるようね』

 

その言葉を聞いて、先ほどの汐の言葉が蘇ったのか堕姫は顔を歪ませ、妓夫太郎は口を閉ざしながら宇髄の言葉を聞いていた。

 

「この国はな広いんだぜ。凄ェ奴らがウヨウヨしてる。得体の知れねぇ奴もいる。刀を握って二月(ふたつき)で柱になるような奴もいる。俺が選ばれてる?ふざけんじゃねぇ」

 

先程の笑みから一変し、宇髄は怒りに満ちた顔で二人を睨みながら鋭く言った。

 

「俺の手の平から、今までどれだけの命が零れたと思ってんだ」

(そう。俺は煉獄のようには出来ねぇ)

 

宇髄の脳裏に、多くの人々の命を救い散っていった煉獄の姿が蘇る。

 

「ぐぬぅう、だったらどう説明する?」

 

妓夫太郎は唸り声のようなものを上げながら、再び身体を掻き毟りだした。

 

「お前がまだ死んでない理由はなんだ?俺の“血鎌”は猛毒があるのに、いつまで経ってもお前は死なねぇじゃねぇかオイ、なあああ!!」

 

しかし宇髄はその事実に怯むことなく冷静に言い返した。

 

「俺は忍びの家系なんだよ。耐性つけてるから、毒は効かねぇ」

「忍びなんて江戸の頃には絶えてるでしょ!嘘つくんじゃないわよ!」

 

堕姫は喚く様に否定するが、その言葉を宇髄はさらに冷静に否定した。

 

(嘘じゃねぇよ。忍は存在する。姉弟は九人いた。十五になるまでで七人死んだ。一族が衰退していく焦りから、親父は取り憑かれたように厳しい訓練を俺たちに強いた。生き残ったのは、俺の二つ下の弟のみ。そして弟は、親父の複写だ)

 

宇髄の脳裏に、感情のないひたすらに無機質な目をした弟の姿が蘇った。

 

(親父と同じ考え、同じ言動、部下は駒、妻は跡継ぎを産むためなら死んでもいい。本人の意志は尊重しない、ひたすら無機質。俺は、あんな人間になりたくない)

 

そんな運命をたどることに嫌気がさした宇髄は、三人の妻と共に逃げるように里を抜けた。そんな中、彼らが出会ったのは鬼殺隊当主である産屋敷輝哉だった。

 

『つらいね天元、君の選んだ道は』

 

花の舞う中、彼は優しい視線を宇髄たちに向けながら、優しい声色で言った。

 

『自分を形成する幼少期に植え込まれた価値観を否定しながら、戦いの場に身を置き続けるのは苦しいことだ。様々な矛盾や葛藤を抱えながら君は、君たちは、それでも前向きに戦ってくれるんだね。人の命を守るために。ありがとう。君は素晴らしい子だ』

 

その言葉を聞いた瞬間、宇髄は自分の選んだ道が正しかったことを確信したのだった。

 

(俺の方こそ感謝したいお館様、貴方には。命は懸けて当然、全てのことはできて当然、矛盾や葛藤を抱える者は、愚かな弱者。ずっとそんな環境でしたから)

 

「ん?んん?んんんん?」

 

宇髄は二人に向かって不敵な笑みを浮かべるが、その様子を見ていた妓夫太郎はにやりと嫌な笑みを浮かべた。

 

「ひひっ、ひひひっ、やっぱり毒効いてるじゃねぇか。じわじわと。効かねぇなんて虚勢張って、みっともねぇなぁあ、ひひっ」

 

妓夫太郎の言う通り、宇髄の顔はは毒々しい紫色にただれ始めていた。しかし宇髄はそれをさほど気にするそぶりも見せず、高らかに言い放った。

 

「いいや全然効いてないね、踊ってやろうか。絶好調で天丼百杯食えるわ、派手にな!!」

 

そう言った瞬間、宇髄は瞬時に二人と距離を詰め日輪刀を振りぬいた。妓夫太郎が鎌を振り上げ、堕姫が帯を伸ばし、宇髄の身体を刻もうとした。

 

だが宇髄は二本の日輪刀で瞬時に堕姫の帯を切り刻み、妓夫太郎の鎌を受け止めると、その強靭な左足で堕姫の腹部を思い切り蹴り上げた。

 

「俺の妹を蹴んじゃねぇよなあ」

「この糞野郎!!」

 

宙に舞う堕姫は帯を、妓夫太郎は鎌で日輪刀を弾くと宇髄に向かって振り上げた。しかし、宇髄と彼らの間には先程の爆薬の玉が浮かび、鎌と帯がそれに触れた瞬間凄まじい爆発が起こった。

 

その熱風に堕姫は悲鳴を上げ、妓夫太郎はその爆発から素早く離れると、至近距離での爆発の割に軽傷な宇髄の日輪刀が頸に伸びていたのに気づいた。

彼はすぐさまその一撃を躱すと、冷静に分析をし始めた。

 

(特殊な火薬玉だなぁ。鬼の体を傷つける威力。斬撃の僅かな摩擦で爆ぜる。気づかねぇで斬っちまって喰らっちまったな。すぐ攻撃喰らうからなぁ、アイツは)

 

だが、攻撃に転じようとした妓夫太郎の頸に、躱したはずの刀身が再び迫っていることに気づいた。

 

(刀身が伸びっ・・・)

 

これには流石の妓夫太郎も顔色を変えた。視線を動かした先には、宇髄が左手の指先だけでもう片方の刀身を持っているのが見えた。

 

(刃先を持ってやがる!!どういう握力してやがる)

 

妓夫太郎は直ぐに左手で刀を弾くが、その頸筋からは一筋の赤い雫が零れ落ちていた。

 

「チッ、()()()は仕留め損なったぜ」

 

宇髄は舌打ちをしながら刀を反動で自分の所に戻した。その傍らでは

 

「うううう!!また頸斬られた!!糞野郎!!糞野郎!!絶対許さない!!」

 

先程宇髄に頸を斬られた堕姫が、喚きながら自身の頭部を抱えていた。

 

「悔しい、悔しい!!なんでアタシばっかり斬られるの!!あああっ、わああ!!」

 

喚き続ける堕姫をしり目に、妓夫太郎は目を細めながら静かに言い放った。

 

「お前、もしかして気づいてるなぁ?」

「何に?」

 

そう言う宇髄は笑みを浮かべるが、その顔からは脂汗が零れ落ち、心なしか顔色も悪くなっているようだった。

 

「・・・気づいた所で意味ねぇけどなぁ。お前は段々死んでいくだろうし、こうしてる間にも、俺たちはじわじわと勝ってるんだよなぁ」

 

妓夫太郎は再び顔中を掻き毟りながら、頭を振った。だが、そんな空気を壊すような、大声が辺りに響き渡った。

 

「それはどうかな!?俺を忘れちゃいけねぇぜ。この伊之助様と、その手下がいるんだぜ!!」

 

爆発が止み、開けられた大穴から刀を高々と掲げる伊之助と、女性の装いで鼻提灯を出している善逸の奇妙な二人組が飛び込んできた。

 

「なんだ、こいつら?」

 

その場に似つかわしくないような闖入者に、流石の妓夫太郎も面食らう。そんな中、宇髄の頭上からパラパラと芥が降り注いだかと思うと、青色と緑色のものが彼の前に降りてきた。

 

それは、互いに羽織をひるがえし、宇髄を庇うように立つ汐と炭治郎の二人だった。

二人の姿を見て、宇髄の目が大きく見開かれた。

 

何故お前らがここにいるんだと言いたげな彼に、汐は静かな声色で告げた。

 

「あんたにはまだまだ聞きたいことがたくさんあるの。だから、こんなところで死なれちゃ困るのよ。それに、あたしはやられっぱなしで黙っていることなんてできない。やられた分は、倍にして返してやるんだから!」

 

そう言って汐は、刀を構えながら鬼達を鋭い目で睨みつけた。

 

外ではまきをと須磨の二人が、町の人々の避難誘導を行っている声が聞こえ、敵が増えたことに腹正しさを感じたのか、妓夫太郎は顔を掻き毟る手の速度を上げた。

 

「下っぱが何人来たところで、幸せな未来なんて待ってねぇからなあ。全員死ぬのに そうやって瞳をきらきらさすなよなあぁ」

 

そう言う妓夫太郎をみて、炭治郎の身体が微かに震えた。

 

(汐の言う通り、鬼が二人になっているうえに帯鬼も死んでいない。どっちも上弦の陸なのか?分裂している?だとしたら・・・)

(本体はこっちの昆布頭の方だわ。目が尋常じゃないくらいやばいもの。だけど、こんなところで引くわけには・・・)

 

汐と炭治郎の手が微かに震えているのは、疲労か、それとも恐れか。しかしそれでも、こんなところで死ぬわけにはいかない。勝たねばならない。

何とか自分自身を鼓舞しようとしたとき、空気を切り裂くような静かな声が響いた。

 

「勝つぜ。俺達鬼殺隊は」

 

頭上から降ってきた力強い声に、炭治郎は勿論汐の手の震えも止まった。だが、それを否定する堕姫の声が響き渡った。

 

「勝てないわよ!頼みの綱の柱が、毒にやられてちゃあね!!」

 

(!?)

(毒!?)

 

汐と炭治郎は思わず振り返り、宇髄の顔を見つめた。しかし、宇髄は心配無用というように再び声を上げた。

 

「余裕で勝つわボケ雑魚がぁ!!毒回ってるくらいの足枷あってトントンなんだよ、人間様を舐めんじゃねぇ!!」

 

その言葉が虚勢であることは汐も炭治郎も見抜いていた。現に彼の顔色は悪く、皮膚も不気味に爛れている。

だが、それでも宇髄はさらに声を張り上げた。

 

「こいつらは三人共、優秀な俺の“継子”だ!逃げねぇ根性がある」

「フハハ、まあな!」

 

その言葉に伊之助は気をよくしたのか、得意げに胸を張った。そしてさらに、宇髄の大きな手が汐の背中をたたいた。

 

「そして何より俺達には天下無双の歌姫、ワダツミの子がついてんだ!!こいつが何を意味するか、お前らにわかるか!?」

 

宇髄の言葉に汐の目頭が熱くなり、鬼達は顔を歪ませながら彼を睨みつけていた。

 

「手足が千切れても喰らいつくぜ!!そして、てめぇらの倒し方は既に俺が看破した」

 

その堂々たる出で立ちは、かつて汐達が見た誇り高き戦士、煉獄杏寿郎の姿と重なった。

 

「同時に頸を斬ることだ!二人同時にな。そうだろ!!そうじゃなけりゃ、それぞれに能力を分散させて、弱い妹を取り込まねぇ理由がねぇ!!ハァーッハッハ、チョロいぜお前ら!!」

 

すると宇髄の笑い声にかぶせるように、伊之助の高笑いが響き渡った。

 

「グワハハハ、なるほどな簡単だぜ。俺たちが勝ったも同然だな!!」

 

あまりにも短絡的な思考をする男二人に、汐は軽く眩暈を起こしそうになった。だが、こういうのは嫌いじゃない。

それどころか先ほどの恐れは消え失せ、体が熱くなってきた気がした。

 

だが、妓夫太郎はそんな汐達を嘲笑うように、口元を大きくゆがめた。

 

「その“簡単なこと”ができねぇで、鬼狩りたちは死んでったからなあ。柱もなあ、俺が十五で妹が七、喰ってるからなあ」

「そうよ、夜が明けるまで生きてた奴はいないわ。長い夜はいつもアタシたちを味方するから。どいつもこいつも死になさいよ!!」

 

堕姫が宇髄の背後から帯を伸ばしてきた。しかしその攻撃は宇髄たちに届く前に、雷鳴のような轟音にさえぎられた。

 

「善逸!!」

 

善逸の攻撃は堕姫を屋根の上へと打ち上げた。

 

「蚯蚓女は俺と寝ぼけ丸に任せろ!!お前等はその蟷螂を倒せ!!わかったな!!」

「わかった、気を付けろ!!」

「死ぬんじゃないわよ!死んだら殺すからね!!」

 

炭治郎と汐の言葉に、伊之助は刀を振り回しながら頷き、善逸と堕姫を追って走り去っていった。

 

「妹はやらせねえよ」

 

妓夫太郎はそう言って、口を耳まで裂けるように歪ませた。それを見て、汐も同じように口元を歪ませながら言い放つ。

 

「こっちこそ、さっきの借りをまとめて返してやるわ。あの糞女にやられた分もね!!」

 

汐の挑発的な言葉に、妓夫太郎は表情を思い切り歪ませるのだった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



死闘、再開


善逸によって打ち上げられた堕姫は、空中で体勢を立て直すと屋根の上に降り立った。そして、目の前に対峙する善逸を見て目を見開く。

 

「お前・・・!!あの時にアタシに楯突いた不細工!!」

 

善逸の顔に堕姫は見覚えがあった。それは、自分が蕨姫花魁に扮していた時、生意気にも自分に歯向かい意見してきた者だった。

その後吹き飛ばし、帯に取り込んだはずのその者が目の前にいることに、彼女は驚きを隠せなかった。

 

「俺は君に言いたいことかある。耳を引っ張って怪我をさせた子に謝れ」

 

善逸は眠ったまま口を開くと、鋭い声で堕姫に言い放ち、堕姫は意味が分からないと言った表情で、善逸を見つめた。

 

「たとえ君が稼いだ金で衣食住与えていたのだとしても、あの子たちは君の所有物じゃない。何をしても許されるわけじゃない」

 

静かな声で話す善逸に、堕姫は不愉快だと言わんばかりに眉根を寄せた。

 

「つまらない説教を垂れるんじゃないわよ。お前みたいな不細工が、アタシと対等に口を利けると思ってるの?」

 

堕姫はふんと鼻を鳴らすと、鎌首を擡げながら嘲るように言い放った。

 

「お前程度の頭じゃ理解できないでしょうけれど、この街じゃ女は商品なのよ。物と同じ。売ったり買ったり壊されたり、持ち主が好きにしていいのよ。不細工は飯を食う資格ないわ。何もできない奴は人間扱いしない」

「自分がされて嫌だったことは、人にしちゃいけない」

 

善逸は静かに首を横に振ると、諭すように言った。だが、彼がそう言った瞬間、突如堕姫の口からは濁った声が響き渡った。

 

「違うなあ、それは」

 

その声は堕姫のものではなく、彼女の兄妓夫太郎の声だった。

 

「人にされて嫌だったこと、苦しかったことを、人にやって返して取り立てる。自分が不幸だった分は、幸せな奴から取り立てねぇと、取り返せねえ。それが俺たちの生き方だからなあ。言いがかりをつけてくる奴は、皆殺してきたんだよなあ」

 

顔を上げた堕姫の額には、先ほどまではなかった【陸】と刻まれた目玉が浮き出ていた。

 

「お前らも同じように、喉笛掻き切ってやるからなああ」

 

妓夫太郎と対峙していた汐達は、その殺気に思わず怖気が走った。今まで出会ってきた鬼など比ではない。風柱でさえ、ここまでの殺気は感じなかった。

 

(すごい殺気だ!!肘から首元まで鳥肌が立つ。宇髄さんはともかく、汐はこんな奴とも戦っていたのか・・・!!)

 

汐も歯を食いしばりながら、滲み出る殺気に耐えていた。

 

(何を弱気になっているんだ!当り前だろ、相手は上弦の陸だぞ!しっかりしろ炭治郎!宇髄さんは毒を喰らってる上に、汐は俺よりも傷が深い。俺が二人を守らないと・・・!!)

 

炭治郎は刀を握る手に力を込めた。斬られた背中が突っ張り痛みが走るが、二人の痛みに比べたらなんてことはない。

一方汐も、唇から血が出る程かみしめながら、目の前の鬼を睨みつけた。

 

(さっきは不意をつかれたけれど、今度は絶対にやらせないわ!やられた分を取り立てるなら、更にこっちが取り立てるまでよ!!)

(あいつが動いた瞬間に、刀を振るんだ。ほんの少しでも、動いた瞬間に・・・!!)

 

炭治郎がそう考えた瞬間、妓夫太郎の姿が消えその鎌は炭治郎、ではなく汐の目の前に迫っていた。突然のことに反応ができない炭治郎は、目で追うだけで精いっぱいだった。

 

「同じ手は喰わねぇ。歌わせる暇なんざ与えねえよ」

 

妓夫太郎の猛毒の鎌が汐の喉笛に突き立てられようとした瞬間、汐は身体を後方に瞬時にそらし、その瞬間宇髄の刃がその鎌を穿ちとめた。

そのまま汐は横に転がり、宇髄は凄まじい速さで妓夫太郎の攻撃を捌いている。

 

「汐!!大丈夫か!?喉は・・・!」

 

炭治郎は倒れている汐に素早く駆け寄ると、狙われた首筋を慌てて確認した。そこには傷一つない、真白な喉笛があるだけだった。

 

「平気よ。二度も同じ手に引っ掛かるもんか」

 

ほっと胸をなでおろす炭治郎だが、同時に咄嗟に動けなかった自分に激しく腹が立った。

 

(何をしてるんだ。足を引っ張っている・・・!!)

 

だが、後悔する暇もなく二人をとてつもない鬼の気配が包んだ。そして上を見上げた瞬間、轟音と共に天井を突き破って無数の堕姫の帯が降りてきた。

それは引幕のように汐達をそれぞれ分断する。

 

(これは、あの女の帯!くそっ、帯が邪魔で前が見えない!!)

 

苛立つ汐の頭上から、堕姫の甲高い笑い声が響き渡った。

 

「アハハハハッ、全部見えるわ、あんたたちの動き。兄さんが起きたからね、これがアタシの本当の力なのよ!!」

 

堕姫は帯を高速で振り回し、善逸と伊之助を翻弄しながら下で戦う汐達の妨害も行っていた。

善逸と伊之助は必死で攻撃を回避するものの、よけきれなかったのか身体にはいくつかの切り傷ができていた。

 

「うるせぇ!!キンキン声で喋るんじゃねぇ!!」

 

堕姫の耳障りな声に、伊之助の憤慨する声が響く。それを聞いていた汐は(全く持ってその通りだわ)と、帯を捌きながら思った。

 

「ギャーギャー、ギャーギャー喧しいんだよ!!盛りの付いた獣かテメーは!!」

 

汐も怒りのあまり荒い口調で叫ぶが、それを嘲笑うかのように妓夫太郎の笑い声が響いた。

 

「クククッ、継子ってのは嘘だなあ。お前らの動きは統制が取れてねぇ。全然だめだなあ」

 

帯に交じって妓夫太郎の血の斬撃が飛び交い、汐達は必死でその二つの攻撃を捌いていた。だが、妓夫太郎の言う通り即席の隊と異なり、二人の動きは寸分の狂いもなく、殆ど隙がなかった。

 

汐達が攻撃を受け流せば受け流す程、建物は悲鳴を上げ、崩壊へと近づいていた。

 

(倒壊する!!瓦礫で周囲が見えない・・・)

 

宇髄は爆薬を取り出し、瓦礫を吹き飛ばすが、その隙を妓夫太郎は見逃さなかった。

 

(速い、本当に蟷螂みたいな奴だ。なんだこの太刀筋は・・・)

 

両手から繰り出される太刀筋の読めない斬撃が、毒で弱った宇髄を容赦なく襲う。そしてそれに加えた彼の血の斬撃が、後方から宇髄に狙いを定めていた。

 

(逃げ道がねぇ)

 

斬撃が宇髄の身体に食い込む寸前、その間に滑り込む者があった。炭治郎が素早く入り込み、その斬撃を受け止めたのだ。

 

(ぐあああ重い!!攻撃が重い!!流せ!!受け流せ!!まともに受けたら、刀が折れる!!)

 

見た目よりも遥かに思い攻撃に、炭治郎は歯を食いしばり必死で耐えた。だが、そんな炭治郎の死角から、堕姫の帯が襲い掛かる。

 

「させるか!!」

 

その帯の間に汐が入りこみ、炭治郎が斬られるのを防ぐと汐は口を開き、高らかに叫んだ。

 

「いつまでへばってんだぼんくら共!!死ぬ気で気張れクソッタリャア!!」

 

――ウタカタ 壱ノ旋律――

――活力歌(かつりょくか)!!!

 

汐の歌が響き渡り、炭治郎と宇髄の身体に熱を持たせ、炭治郎は咄嗟に水の呼吸を用いて斬撃を受け流した。

 

――音の呼吸 伍ノ型――

――鳴弦奏々(めいげんそうそう)!!!

 

宇髄の日輪刀が爆ぜながら回転し、その勢いで身体を前に進ませた。先ほどよりも威力が上がった攻撃に、妓夫太郎は目を見張った。

 

*   *   *   *   *

 

一方、汐の歌は屋根上にいた善逸と伊之助の耳にも届き、彼等にも活力を与えた。

 

「うおおお!なんだこりゃあ!?力が漲ってくるぜェ!!」

 

伊之助は高らかに叫ぶと、二本の刀を構え堕姫に突っ込んでいった。堕姫は一瞬顔を歪ませるも、その場から動かず帯で伊之助の道を遮断する。

 

「アンタはまきをを捕らえた時に邪魔をした奴ね。遠目にしか見ていなかったけれど美しかったわ。アンタは全員殺した後味わって食べてあげる!」

「ハッ!気色悪りぃ蚯蚓に喰われるなんじゃ、冗談じゃねえ!!そのキンキンうるせぇ口、二度と利けなくしてやるぜ!!」

 

汐の歌で士気が上がった伊之助は、声高らかに再び突っ込んでいくのだった。

 

(騒がしい技で押してきた所で意味がねぇんだよなあ)

 

妓夫太郎がにやりと笑った瞬間、宇髄の行く手を帯が阻み、その隙をついて妓夫太郎の攻撃が迫った。

すると、宇髄の横から汐と炭治郎が飛び出し、汐が堕姫と対峙した時のように帯を日輪刀で縫い留めた。

 

(役に立て!!少しでも攻撃を減らせ!!勝利の糸口を見つけろ!!)

(活力歌の効果が切れる前に、こいつらの連携を何とか崩すのよ!!)

 

汐と炭治郎は歯を食いしばりながら、必死で二つの攻撃を受け流していき、そんな二人を見て宇髄は目を剥いた。

 

(アイツら、もうやべぇぞ。動けているのが不思議なくらいだ。竈門は背中の、大海原は全身の傷が相当深い。止血はしてるようだがギリギリだ・・・。俺が毒を喰らっちまったせいで、早くカタを付けなければ全滅だ!!)

 

「アハハハハッ、死ね不細工共!!」

 

堕姫は笑いながら、無数の帯で近づこうとする善逸と伊之助を薙ぎ払う。それに加え、妓夫太郎の血の斬撃が飛び交い、善逸と伊之助は防戦一方だった。

 

「帯に加えて血の刃が飛んでくるぞ、何じゃこれ!!蚯蚓女に全然近づけねぇ!!」

 

特に血の斬撃は猛毒であり、掠っただけでも命に関わるということが、伊之助は文字通り肌で感じていた。

 

「くそォォォ!!特に血の刃はやべぇ!!掠っただけでも死ぬってのをビンビン感じるぜ!しかもさっきまで調子よかったのに、体が重くなってきやがった!!」

 

伊之助は苛立ちを隠しきれず、悪態をつきながら動き回り、善逸も歯を食いしばりながら必死で攻撃をよけ続ける。

 

下でも汐と炭治郎、そして宇髄が必死に鬼の猛攻に食らいついていた。

 

(ふざけてんじゃねーわよ!!ウタカタが切れた上に、新たに歌う暇すらない!炭治郎も派手男も、いい加減にやばいわよ!!)

 

鬼の攻撃も勿論だが、妓夫太郎と堕姫の一番の脅威はその連携だ。統率されたその動きを崩さない限り、汐達に勝利はない。

それはわかっているのだが、猛攻で息が続かず、意識まで飛びそうになっていた。

 

(踏ん張れ、踏ん張るのよ!!何があっても最後まで足掻け!あきらめるな!!)

 

既に手当てされた傷は開き、焼けるような熱さが汐を襲う。しかしそれでも、引くわけにはいかない。ここで死ぬわけには絶対にいかない。

だが、このままでは状況が変わらない。万事休すか、と、誰もが思ったその時だった。

 

屋根の上に気配を感じ、妓夫太郎が顔を上げるとそこには、黒髪を一つに結んだ女性が一人立っていた。

彼女は大量のクナイが装てんされた、銃のような大型の装置を構え、妓夫太郎に向けて放った。

 

黒いクナイの雨が、妓夫太郎に向かって降り注ぐ。

 

(なんだ、クナイか。柱を前にこの数全て捌くのは面倒だなぁ。ちまちまと鬱陶しいぜ。ヒヨコの鬼狩りも四人いるしなあ。まぁ、当たった所でこんなもの・・・)

 

そこまで考えて、妓夫太郎は違和感を感じた。

 

(いや、そんな無意味な攻撃今するか?)

 

日輪刀で頸を斬られない限り、鬼は死ぬことはない。それ外の武器で傷をつけられても、すぐに治癒してしまうためかすり傷にすらならない。

その事は鬼狩りならわかっていることである。だからこそ、妓夫太郎はこの攻撃に何か意図があるということを瞬時に察した。

 

血鬼術――

――跋弧跳粱(ばっこちょうりょう)

 

妓夫太郎は両手の鎌と血の斬撃を自分の周りで振り回し、その遠心力と刃でクナイの雨を防いでいた。

 

(斬撃で天蓋を作ってる!!)

 

攻撃が防がれた事に女性は息をのむが、息をのんだのは彼女だけではなかった。

宇髄が妓夫太郎の隙を狙い、一気に突っ込んできたのだ。

 

(オイオイオイ、何だ何だコイツは。突っ込んで来るぞ。しかも刺さってんじゃねぇか、テメェにもクナイが)

 

妓夫太郎の言う通り、宇髄の身体にも何本ものクナイが突き刺さっていた。しかし宇髄は全く痛がる様子を見せず、ただ目の前の鬼に刃を振るうことだけを見据えているようだった。

 

(そうか、忍だ。剣士じゃない。元々コイツは感覚がまともじゃねぇ)

 

妓夫太郎はすぐに宇髄の頭部に向かって鎌を振るうが、彼は姿勢を瞬時に落とし斬撃を躱すと妓夫太郎の頸ではなく足に向かって刃を振るった。

周りの瓦礫と共に妓夫太郎の両足が切断され、それに意識が向いたとたんに彼の頸に一本のクナイが刺さった。

 

その刹那。

 

参ノ旋律――

――束縛歌(そくばくか)!!!

 

汐の歌が響き、妓夫太郎の全身が硬直した。彼はすぐに振り払おうとしたが、体が言うことを聞かず足も再生していなかったことに気づいた。

 

(足が再生しない上に、暗示も振り払えない。やはり何か塗られていた。このクナイ、おそらく藤の花から抽出されたもの。体が痺れ・・・)

 

妓夫太郎は首筋に刺さるクナイを忌々し気に睨みつけ、舌打ちをしたその瞬間。

 

炭治郎が前に飛び出し、その頸に向かって漆黒の刃を振るった。

 

(やるじゃねぇかよ。短時間で統制がとれ始めた・・・。おもしれぇなぁあ)

 

そんな状況に、妓夫太郎はにやりと気味の悪い笑みを浮かべた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



戦いは苛烈を迎え、戦況は大きく動く・・・


妓夫太郎に向けてクナイを放った女性の名は雛鶴。宇髄の妻の一人で、京極屋に潜入していた。

雛鶴は蕨姫花魁の正体が鬼だということに気づき、鬼側からも警戒されていたため身動きが取れずにいた。

毒を飲み、病に罹ったふりをして京極屋を出たものの、警戒した堕姫に帯の使い魔を渡されてしまっていた。

 

しかし彼女は宇髄によって救出され、吉原を出るように言われていたのだが、その言いつけに背きこの場に立っていた。

 

彼女の使ったクナイには、藤の花から抽出された毒が塗られていた。数字を持たない鬼なら、半日身体を麻痺させることができ、下弦の鬼ですら動きを封じることができた。

しかし、今汐達が対峙しているのは上弦。今までにない事例のため、毒が効く絶対的な保証はなかった。

 

(お願い、効いて。ほんの僅かな間でいいの。そうしたら、誰かが必ず頸を斬れる!!)

 

雛鶴は縋るような思いで、戦う夫とその部下たちを見つめた。

 

汐、炭治郎、宇髄の三つの刀が妓夫太郎の頸に迫り、その刃が届こうとしたその瞬間だった。

妓夫太郎の足が音を立てて生え、それと同時に束縛歌を振り払った。

 

(束縛歌が・・・切れた!!)

(足が再生!!畜生、もう毒を分解しやがった!!)

 

顔を歪ませる宇髄を嘲笑うように、妓夫太郎はにやりと笑みを浮かべた。

 

「いやあ、よく効いたぜ。この毒はなあ」

 

そう言った瞬間、妓夫太郎の力を込めた腕の血管から、血が噴き出した。

 

血鬼術――

――円斬旋回(えんざんせんかい)・飛び血鎌

 

妓夫太郎の両腕から血の斬撃が飛び出し、汐達の行く手を阻んだ。しかもその斬撃は、腕の振りもなしに広範囲で生み出されていた。

 

「退いて!!」

 

青ざめる宇髄の背後から汐が飛び出し、斬撃を受け止めると大きく息を吸った。

 

海の呼吸 陸ノ型――

――狂瀾怒濤!!!

 

汐の荒波のような斬撃が妓夫太郎の血の斬撃を押しとどめるが、回転が掛かった血の斬撃の方が汐の技を上回り、汐の眼前に迫ってきていた。

 

(くそっ!くそっ!!刀が押し返される・・・!!受けきれない!!)

 

汐が顔を歪ませた瞬間、宇髄の大きな体が彼女を突き飛ばし、彼はその前に滑り込んだ。

 

――音の呼吸 肆ノ型――

――響斬無間(きょうざんむかん)!!!

 

宇髄は目の前に斬撃と爆発による巨大な空間を作り出し、広範囲にばらまかれた妓夫太郎の血の刃を全て吹き飛ばした。その爆発により汐と炭治郎は後方に吹き飛ばされ、体の一部を打った。

 

だが、宇髄は妙な違和感を感じた。攻撃は全て防いだが、その刃の先に妓夫太郎の姿はなかったのだ。

 

(消え・・・)

 

宇髄はすぐに頭を動かし、妓夫太郎の姿を捜した。その位置はすぐにわかった。妓夫太郎は屋根の上にいる雛鶴の方へ向かっていた。

 

「雛・・・」

 

すぐさま向かおうとする宇髄の眼前に、堕姫の帯の壁が降りその行く手を塞いだ。

 

「天元様!私に構わず鬼を捜してくださ・・・!」

 

雛鶴が最後まで言葉を発する間もなく、妓夫太郎の骨ばった手が彼女の口を塞いだ。

 

「よくもやってくれたなあ。俺はお前に構うからなああ」

 

彼は雛鶴の口を握りつぶさん勢いで、その濁った眼を彼女に向けながら地を這うような声で言った。

 

「雛鶴ーーーーっ!!!」

 

宇髄は妻の名を叫びながら帯の壁を斬り裂こうとするが、帯は生き物のようにうねり彼をその場から縫い付けるように動けなくさせていた。

 

『天元様』

 

宇髄の脳裏に、かつて彼女が言った言葉が蘇った。

 

『上弦の鬼を倒したら一線から退いて、普通の人間として生きていきましょう。忍びとして育ち、奪ってしまった命がそれで戻るわけではありませんが、やはりどこかできちんとけじめをつけなければ、恥ずかしくて陽の下を生きて行けない。その時四人がそろっていなくても、恨みっこなしです』

 

「やめろーっ!!」

 

宇髄の悲痛な叫び声が当た有に木霊し、その光景は吹き飛ばされた汐の目にも映っていた。

鬼の姿を見た瞬間、汐の中に再びどす黒い殺意がヘドロのように沸き上がった。

 

(糞が、糞が!!糞鬼が!!また息をするように人を殺すのか!!なんで人の絆をたやすく奪うのか!!なんでお前等みたいなやつらが存在しているんだ!!死ね、死ね!!死んでしまえ!!)

 

死ねえええええええーーーーー!!!!

 

汐が心の中で叫んだ瞬間、首輪が汐の首を絞めつけた。だが、それよりも早く、妓夫太郎の身体に異変が起こった。

 

鎌を握った反対の手が震えだしたかと思うと、その刃を自らの頸に突き立てたのだ。

 

「はあ?」

 

これには妓夫太郎はおろか雛鶴も目を見開いた。その手は彼の意思に反し、どんどん己の頸に食い込んでいく。

 

(なんだ?なんだこれは?身体が勝手に動いてやがる・・・!!)

 

妓夫太郎が視線を動かすと、その先には全身の血管を浮き上がらせ、自分を鬼の形相で睨みつける汐の姿があった。

その風体に妓夫太郎の身体が微かに震え、同時に彼の本能が一つの結論をたたき出した。

 

――ワダツミの子は怪物だ。早急に始末しろ。

 

妓夫太郎の攻撃対象が雛鶴から汐に移ったその時、伸ばされた手が水のような斬撃により吹き飛ばされた。再び視線を動かせば、雛鶴がいた場所には炭治郎の姿があった。

かなり無理をしたのだろう。彼の口からはか細い息のような呼吸音と、咳き込む音が零れ落ちていた。

 

思わぬ炭治郎の動きに、妓夫太郎は目を細めた。堕姫に背中を斬られ、先ほどの戦いでも激しく消耗しているはずなのにこれほど動けることに驚いたのだ。

 

(できた・・・できた!!)

 

炭治郎はせき込みながらも、何とか雛鶴を守り抜いたことに安堵した。

 

(呼吸を混ぜるんだ。水の呼吸とヒノカミ神楽と合わせて使う。そうすれば、水の呼吸のみよりも攻撃力は上がり、ヒノカミ神楽よりも長く動ける。今まで鬼達と戦ってきた剣士達は皆そうしてきたはず。自分に合わせた呼吸と剣技に、最も自分の力が発揮できる形に変化させ考え抜いたから、呼吸は分かれて増えていったんだ)

 

水の呼吸、雷の呼吸、獣の呼吸、蟲の呼吸、炎の呼吸、音の呼吸、海の呼吸。

炭治郎が今まで見てきたどの呼吸も、使い手によくなじみ彼らが最も力を発揮できるものだった。自分は水の呼吸に身体が適していないため、義勇のように極めることはできなくても、鱗滝が教えてくれたことを無駄にはしないと固く誓った。

 

妓夫太郎は一瞬だけ迷いを見せたが、攻撃対象を汐から炭治郎に切り替えた。汐の歌が聞こえる前に、炭治郎と雛鶴を始末する。ただそれだけを考えて鎌を振り上げた。

炭治郎は雛鶴を庇いながらその一撃をよけ、二撃目を振り払ったその時だった。

 

「竈門炭治郎、お前に感謝する!!!」

 

宇髄の刀が、背後から妓夫太郎の頸に向かって振りぬかれようとしていた。

 

一方、その様子を伊之助は遠目で認識し、毛皮越しに顔に焦燥を浮かべていた。

 

「だああクソ!!向こうは頸切りそうだぜ!!」

 

妓夫太郎と堕姫を倒すには、二人の頸を同時に斬らなくてはならない。だが、堕姫の頸はまだつながっており、このままでは撃破することは叶わない。

焦る伊之助だが、堕姫の帯は容赦なく彼に襲い掛かった。

 

「チクショオ!合わせて斬らなきゃ倒せねぇのによ!!」

 

堕姫の帯は広範囲に蠢き、柔軟性に優れた伊之助ですら間合いに入ることすらできないでいた。しかも妓夫太郎の支援があるせいか、彼女自身も縦横無尽に動き回り、全く隙を見いだせなかった。

 

「伊之助落ち着け!!」

 

そんな伊之助に、鼻提灯を出しながら戦う善逸の鋭い声が飛んだ。

 

「全く同時に頸を斬る必要はないんだ。二人の鬼の頸が繋がってない状態にすればいい。向こうが頸を斬った後でも、諦めず攻撃に行こう!」

 

鬼を目の前にすれば、泣きわめいて駄々をこねるいつもの善逸とは全く違う姿に、伊之助は一瞬だけ固まった。

 

「お前っ・・・おま・・・お前、なんかすごいいい感じじゃねーか!どうした!?」

 

腹でも壊したんじゃねえか?と言いたくなったが、そんなことを言っている場合じゃないと気づいた伊之助は、堕姫へ向かって足を進めた。

 

*   *   *   *   *

 

宇髄が刀を振るうと同時に、炭治郎も慌てて刀を振り上げた。背中の傷が疼き力が抜けそうになるが気力を振り絞り、刃を振るう。

二本の刃が妓夫太郎の頸に届きそうになった刹那。金属同士がぶつかり合う音が響いた。宇髄と炭治郎が目を見開けば、そこには二対の鎌でそれぞれの斬撃を受け止めた妓夫太郎の姿があった。

 

「お前らが俺の頸を斬るなんて、無理な話なんだよなあ」

 

炭治郎の刀を受け止めていた鎌が肉のように盛り上がり、刃を取り込んだ。炭治郎は慌てて引こうと腕に力を込めるが、半分以上取り込まれてしまった刀は、どれだけ力を込めてもびくともしなかった。

 

「炭治郎!!」

 

後方から汐の叫ぶ声が聞こえ、炭治郎を救おうと宇髄がもう一本の刀を頸に向かって振り上げた。だが、妓夫太郎は頸をぐるりと反対側にねじると、その刃にかみつき動きを止めた。

 

(首を真後ろにぶん回すんじゃねぇよ!バカタレェ!!)

 

刀を封じられた炭治郎と宇髄をみて、妓夫太郎は口元を再び歪ませると腕から再び血が刃のように飛び出した。

 

(またアレか!)

「竈門、踏ん張れ!!」

 

先程見た、腕を回さず斬撃を飛ばす血鬼術が来ると踏んだ宇髄は、そう叫び瓦が砕ける程強く踏み込んだ。

それと同時に雛鶴が炭治郎の身体をしっかりつかみ、宇髄はそのまま妓夫太郎ごと地面に向かって身を投げた。

 

「よけろ、大海原!!」

 

宇髄の声と同時に、汐と炭治郎を斬撃の竜巻が襲った。竜巻は汐のいた場所を正確に抉り、炭治郎のすぐ足の下を削り取るとはるか上空へと飛んでいった。

炭治郎はすぐさま加勢しようとするが、その行く手を再び堕姫の帯が阻み、雛鶴を抱えて攻撃を躱した。

 

「あぶねぇぞおおお!!」

 

すると帯に紛れるように善逸と伊之助が現れ、炭治郎に迫りくる帯を弾き飛ばした。

 

「善逸、伊之助!!」

 

二人が無事であることに炭治郎は安堵したが、傷だらけの身体を見て息をのんだ。だが、その心配を吹き飛ばすかのように伊之助は声を張り上げた。

 

「作戦変更を余儀なくされてるぜ!!蚯蚓女に全っ然近づけねぇ!!蚯蚓女はこっち三人で、蟷螂鬼をオッサンと歌女に頑張ってもらうしかねぇ!!」

 

伊之助は悔しそうに言うと、奥に立つ堕姫を睨みつけながら言った。

 

「鎌の男よりも、まだこちらの方が弱い!まずこっちの頸を斬ろう。炭治郎まだ動けるか!?」

 

炭治郎は顔を歪ませながら、下方で戦っている汐と宇髄をちらりと見た。二人とも負傷しているため心配になるが、二人を信じるよりほかなかった。

 

「動ける!!ただ宇髄さんは敵の毒にやられているし、汐も深い傷を負っているから危険な状態だ。一刻も早く決着をつけなければ・・・」

 

炭治郎が言い終わる前に、彼に向かって帯と血の斬撃が飛んできた。宇髄と汐を相手にしつつ、こちらへの援護も忘れない妓夫太郎の采配に、炭治郎の身体に鳥肌が立った。

それにこのままでは、傍にいる雛鶴の身にまで危険が及ぶ。

 

「私のことは気にしないで!!身を隠すから、勝つことだけ考えて!!」

 

炭治郎の考えを見透かしたように雛鶴が叫び、炭治郎は頷くと堕姫へ視線を向けた。

 

一方、妓夫太郎と対峙する汐は、ウタカタを使う隙もなく苦戦していた。特に血の斬撃は、予備動作もなしに放たれるため、回避が非常に困難だった。

 

「くそがっ・・・地味にしぶてえ奴だ」

 

中々決定打を与えられない上に、毒の浸食で身体の動きが鈍くなってきた宇髄に、妓夫太郎はニタニタと笑いながら鎌を振るった。

 

「ひひひっ、もうほとんど動けねえんじゃねえかあ?良い様だなあ、色男さんよお」

 

妓夫太郎の嘲るような声に、宇髄は一瞬だけ目を細めたがそのまま再び刀を振るった。だが、毒が回って来たせいか足元がふらつき、その一撃は空を切る。

 

(しまっ・・・!!)

 

宇髄の顔が青ざめるがもう遅く、妓夫太郎の鎌が宇髄の脳天に突き立てられようとした、その時だった。

 

「うおおおおおおおおお!!!」

 

獣のような咆哮と共に汐が飛び出し、宇髄の背中を踏みつけ跳躍すると大きく息を吸った。

 

壱ノ型――

――潮飛沫!!!

 

汐の紺青色の刃が煌めき、妓夫太郎の頸を掠めるが、妓夫太郎が再び血の刃を放とうとしたとき、汐はもう一度息を大きく吸った。

 

伍ノ旋律――

――爆砕歌!!!

 

放たれた衝撃波が斬撃ごと妓夫太郎を吹き飛ばし、瓦礫の中へと叩き込んだ。至近距離で爆砕歌を撃った反動で、汐と宇髄の身体も後方へ吹き飛んだ。

 

「テメッ、テメエコラ!!柱である俺を踏み台にするとは、いい度胸だなあ癇癪娘!!」

 

宇髄は身体を起こしながら汐に悪態をつくが、既にその顔には血の気がなく、殆ど気力で動いている状態だった。

そんな宇髄を汐は押しのけ、妓夫太郎が飛ばされた方向を見据えながら言った。

 

「派手男、ううん、宇髄さん。呼吸で少しでも毒の巡りを遅らせて。あいつはあたしが隙を作るから、確実にあいつの頸を斬って」

 

汐は滴り落ちる汗を乱暴にぬぐいながら、鉢巻きを締め直して言った。

 

「舌回す余裕があるなら、アイツのスカした面に一発でも叩き込んでやりなさいよ!!毒回ってるくらいの足かせがちょうどいいんでしょ?それとも何?あの時大見得切ったのはただの虚勢だったの?」

 

そう言う汐だが、彼女自身も限界に近いのか身体のあちこちが震えていた。しかしそれでも、決して鬼に屈することなく前を見据える決意に満ちたその姿に、宇髄は金剛石のような魂の輝きを見た。

 

「フフッ・・・、フハハハハハ!!!ハァーッハッハ!!!」

 

宇髄は突如頭に手を当てながら、大声で笑い出した。いきなりの事に汐は顔を引き攣らせ、何事かと彼を見上げた。

 

「くっくっくっ・・・。この俺にここまではっきりと言いやがる奴はお前が初めてだ。最初に会った時から派手にぶっ飛んだ奴だと思ってはいたが、ここまで馬鹿だとは思わなかったぜ」

「はあ!?」

 

憤慨する汐だが、宇髄はふっと柔らかい笑みを浮かべると汐の頭をぽんぽんと優しくたたいた。

 

「だが、いい女だな、お前。()()()()が気に入った理由が何となく分かった」

 

優しい声色でそう言われ、汐の心臓が跳ね顔に熱が籠った。その初々しい反応に吹き出しそうになるが、瓦礫が崩れる音で二人は同時に首を動かした。

 

「いいぜ癇癪娘。いや、汐。お前の派手にぶっ飛んだ作戦に乗ってやるよ」

 

宇髄がそう言うと同時に、瓦礫を吹き飛ばしながら妓夫太郎が身体を起こした。それからぼりぼりと激しく顔を掻き毟りながら、汐を睨みつけた。

 

「やってくれるじゃねえかあ、ワダツミの子。まさかこの状況をひっくり返せるとおもってんのかあ?」

「思ってるに決まってるじゃない。誰を目の前にしてそんな口を利いているの?上弦?知ったこっちゃねーわよ昆布頭!あんたらの連勝記録更新も今日までよ!!」

 

汐はそう言い放つと、小さく息を吸い口を開いた。小さな声で歌われる活力歌が、彼女の身体を強化する。

だが、汐の次にとった行動を見て妓夫太郎は勿論、宇髄ですら目を剥いた。

 

何と汐は刀を鞘に納め、あろうことか丸腰で妓夫太郎の前に立ちはだかった。

 

「汐・・・!?お前っ、何して・・・」

「ああ?お前舐めてんのかあ?丸腰で鬼の前に立つなんざ、遂に頭がイカれたか?」

 

汐の意図が分からず、妓夫太郎は首を直角に曲げながら睨みつけた。しかし汐は口元を大きくゆがませると、狂気に満ちた笑顔で彼を見据えた。

 

「鬼さんこちら、手のなるほうへ。さあさああたしと一緒に踊りましょうか。狂ったように、死ぬまでね!!」

 

汐の口から歌が響き渡ると同時に、妓夫太郎の両腕から先ほどよりも大きな血の斬撃が放たれた。




おまけCS

宇「ナッ・・・大海原よけろーーー!!!」
汐「絶対言うと思ったそれ!」
妓「あの馬鹿め。どういう技か見切れねえのかああ?」
汐「以外にノリいいなあんた」


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



汐の奇策は通用するのか


丸腰になった汐に向かって、妓夫太郎は血の刃を両腕から放った。その真紅の刃が汐の身体に食い込む寸前。

汐は身体をくたりと曲げ、刃は肌を傷つけることなく掠めて飛んでいった。

 

だが、血の刃は妓夫太郎の意思で太刀筋を変えることができるため、身をかわしてもほとんど意味がない。

その事を汐は知らないのか、宇髄は慌ててそのことを伝えようとした。が、

 

「もう遅えよ」

 

妓夫太郎の言う通り、汐の死角から躱したはずの刃が迫ってきており、彼女の身体を穿とうとした瞬間だった。

 

汐はまるでその動きを読んでいたように、無駄のない動きで躱した。しかもそれだけではなく、四方から飛んで来る刃や堕姫の帯を、全て紙一重で躱していた。

武器も持たず、ひたすら攻撃を躱すその姿は、動きも相まってまるで踊っているようにも見えた。

 

海の底のような真っ青な髪を振り乱し、無数の刃の間を縫うようにして踊り狂う少女に、宇髄は思わず見とれそうになった。

 

だが、すぐに視線を戻し、鬼の目が汐に向いている隙に彼は思い身体を動かした。

 

(なるほどなあ。攻撃をすべて自分に集中させて、柱が動ける隙を作ったか。何ともまあ、浅はかでお粗末な策だ)

 

妓夫太郎は冷めた表情で小さくため息を吐くと、背後で動く宇髄に向かって血の刃を放った。だが、刃は彼の意思に反し、宇髄には向かわず再び汐に向かって飛んでいった。

 

(何!?)

 

確かに宇髄に向かって放ったはずなのに、何度念じても刃は汐の方ばかりに向かって行ってしまう。堕姫を操り帯を向けても、攻撃は全て汐に吸い寄せられるように行ってしまった。

 

(なんだこれは?どうなってやがる?なんであの女にばかり攻撃が行って・・・)

 

そこまで考えた妓夫太郎は、血鎌を操りながら耳を澄ませた。すると、微かだが汐の口から歌が零れている。

その歌声は妓夫太郎の耳を通り、脳に張り付く様にして響き渡っていた。

 

――ウタカタ 漆ノ旋律――

――誘引歌(ゆういんか)

 

汐から奏でられる旋律が、妓夫太郎の脳をかき回し全ての神経伝達を狂わせ、いくら攻撃を放っても全て汐に向かうように仕向けられていた。

その歌を聴いたとき、宇髄は何故ワダツミの子の存在が謎に包まれていたのか、少しだけ理解できた。

 

(人間どころか鬼まで手玉に取るとは、無惨の奴が恐れるのも、存在が隠されてたこともなんとなくわかった気がするぜ)

 

その歌の恐ろしさを感じつつも、宇髄は汐が鬼を惹きつけているうちに、妓夫太郎の頸を取ろうと接近した。

 

「お兄ちゃん後ろ!!柱が来てるわ!!何やってんのよ!!」

 

宇髄の存在を認識した堕姫が叫ぶも、汐の歌に魅了された妓夫太郎には届かない。

 

(本当はあんたなんかに見てもらうなんて、まっぴらごめんだけれど。この状況をひっくり返すためにも、今だけあんたにはあたしだけを見てもらうわ)

 

汐は歌いながら攻撃を躱し続け、その隙に宇髄の刃が妓夫太郎の頸に迫った。

 

「お兄ちゃん!!」

 

堕姫が叫んだ瞬間、彼女の眼前で獣のような咆哮が響いた。

 

「うおおおおお!!!」

 

堕姫が視線を戻せば、伊之助が刀を後ろに持ったまま文字通り猪のように自分に向かって突進してきていた。

 

――獣の呼吸 捌ノ型――

――爆裂猛進!!

 

弾丸のように突っ込んでくる伊之助に、堕姫は彼を囲むように帯を四散させた。

だが、

 

――水の呼吸 参ノ型――

――流流舞い!!

 

――雷の呼吸 壱ノ型――

――霹靂一閃・八連!!

 

炭治郎の多方向に流れるような斬撃と、善逸の雷鳴のような鋭い攻撃が、伊之助の行く手を阻む帯を牽制した。

 

伊之助は咆哮を上げながら帯の森を突き抜け、身体にいくつか傷を負いながらもその刀を堕姫の頸に向かって刀を伸ばした。

 

「今度は決めるぜ!!陸ノ牙――

 

首に伸ばされた日輪刀に、堕姫は一瞬狼狽えるも、その刃がガタガタに刃こぼれしていることを見抜いて小さく鼻を鳴らした。

 

(斬れないわよ、斬れるわけない。こんなガタガタの刃で・・・)

 

しかし伊之助は、瓦が砕ける程強く踏み込むと、二本の刃で堕姫の頸を挟み込んだ。

 

――乱杭咬み!!

 

伊之助は堕姫の頸に当てた歯を一気に引くことで、刃こぼれした刃は鋸の様に彼女の頸を引き切った。

そして、驚愕を張り付ける堕姫の頸を掴むと、そのまま体から離れるようにして跳んだ。

 

「頸、頸、頸!!くっ付けらんねぇように持って遠くへ走るぞ!!」

 

そのまま伊之助は堕姫の頸を持ったまま、全速力で駆け出した。

 

「とりあえず俺は頸持って逃げるからな!!お前らオッサンと歌女に加勢しろ!!」

 

伊之助の高らかな声に、炭治郎と善逸は素早くうなずいた。

 

一方、宇髄の刀が妓夫太郎の頸に迫る中、妓夫太郎は血の刃を真横に放つと、汐との延長線上に立ち、そのまま自分の両耳を斬り落とした。

 

「!?」

 

その行動に驚いた汐は、足元を滑らせ体勢を崩してしまった。それと同時に妓夫太郎は歌から解放され、振り返ると宇髄の左腕に向かって鎌を振りぬいた。

 

その刃は宇髄の左腕を縦に大きくざっくりと斬り裂いた。

 

目を見開く宇髄に、血の刃は容赦なく彼を襲い、背中をいくつも切り刻んだ。

 

「宇髄さん!!!」

 

汐の叫び声が木霊すると同時に、血の刃が弧を描きながらこちらに向かってきていた。

 

伍ノ旋律――

――爆砕歌!!!

 

爆砕歌の衝撃がギリギリで刃を吹き飛ばすも、零距離で放った汐はその反動で、瓦礫の中へ砲弾のように飛ばされてしまった。

 

それを見た妓夫太郎は、すぐさま踵を返し堕姫の頸を持って走る伊之助に音もなく近づいた。

 

そして、その猛毒の刃は伊之助の左胸を容赦なく貫いた。

 

「伊之助ーーーッ!!!」

 

炭治郎の悲鳴が響き渡り、伊之助は真っ赤な鮮血を吹き出しながら力なく倒れ伏した。その隙に妓夫太郎は堕姫の頸を取り返し、身体の元へ戻っていった。

 

(なんでアイツがここに・・・、汐と宇髄さんは・・・!!)

 

炭治郎はすぐに下て戦っていたはずの汐と宇髄の方に顔を向けた。

そこには、全身から夥しい量の血を流してうつ伏せに倒れている宇髄と、同じく全身から血を流して蹲っている汐の姿があった。

 

その悲惨極まりない光景に、炭治郎の体が強張った。

 

「炭治郎、危ない!!」

 

固まってしまった炭治郎の耳に、善逸の鋭い声が突き刺さった。慌てて目を見開けば、眼前には堕姫の帯がすぐそこまで迫っていた。

 

(しまっ・・・)

 

そんな炭治郎を庇うように善逸が前に飛び出し、炭治郎はそのまま屋根の上から成す術もなく落下していった。

 

(ああ、ああ!!みんな、ごめん・・・。禰豆子・・・、汐・・・)

 

自分と一緒に落ちる瓦礫のかけらを最後に見て、炭治郎の意識は闇の中に溶けていった。

 

 

*   *   *   *   *

 

どれくらいの時間が経ったのだろうか。頭に走った衝撃で、汐の意識は闇の中から覚醒した。

重い目蓋を空ければ、そこには自分を見下ろす堕姫の姿があった。

 

すぐさま動こうとするも、全身に鉛を着けられたように身体が重く、殆ど動かせない状態だった。

 

「あら、アンタまだ生きてたの?ゴキブリの生命力って凄いのね」

 

堕姫は思い切り嘲るように言うと、倒れ伏す汐に視線を合わせるようにしゃがみ込んだ。

 

「ねえ、今どんな気持ち?あれだけ大見得切ったくせに、アンタの仲間は全員死んだわよ。あ、あの目だけが綺麗な不細工は、かろうじて生きているみたいね。まあアンタももうじき死ぬだろうし、ここでみじめに苦しんで死ぬのを特別に見届けてあげる」

 

堕姫はそう言って汐の頭に足を乗せると、そのままじわじわと力を込めて踏みつけた。地面に触れた汐の顎が擦り切れ、血がジワリとしみだしてきた。

その痛みと屈辱感に、汐は唇をかみしめながら必死で耐えた。そんな彼女の姿を見て、堕姫は身体を震わせながら大きく笑いだした。

 

「アハハハハハ!!いい気味ね糞女。アンタが今の今まで生きてこれたのは、ただ運がよかったから。アンタみたいな塵屑が鼻を垂らしてのうのうと生きてこれたのは、アタシ達に出遭わなかった、ただそれだけなのよ」

 

堕姫はそう言って汐の髪を掴んで引き倒し、その腹を思い切り踏みつけた。汐の身体が跳ね、口から血が弾けるように飛び出した。

 

咳き込みか細い息をする汐に、堕姫は帯を伸ばしその中に汐の身体を取り込み始めた。

汐の身体は抵抗することもなく、帯の中にゆっくりとうずまっていく。

 

「このままアンタの身体をバラバラにするのは簡単よ。でもそれだけじゃあアタシの気が収まらない。お兄ちゃんがあいつの止めを刺した後、アンタをアタシの気が済むまで嬲ってから殺してあげる」

 

堕姫は身体の半分が帯に取り込まれた汐に向かって捲し立てた。すると、

 

「きひっ、きひっ・・・」

「ん?」

 

汐の口から笑い声が漏れたかと思うと、汐は突然全身を大きく震わせながら笑い出した。

 

「くひひっ、ひひっ、きききっ・・・けけけけけっ・・・・ヒャハハハハハ!!」

 

全身を痙攣させながら奇妙な笑い声を発する汐に、堕姫は苦虫を嚙み潰したような顔をむけ、その光景を堕姫の目を通してみていた妓夫太郎は、汐が遂に壊れたと認識した。

 

「な、なに笑ってんのよ。アンタ、やっぱり頭がおかしいわ」

 

堕姫は気持ち悪いものを見るような目で汐を見つめると、汐は一通り笑った後顔を伏せながら言った。

 

「ありがとう」

「はあ?」

「ぐちゃぐちゃだった頭から血が抜けて、少しだけ落ち着いたみたい」

 

堕姫は、汐の言っている意味が分からないと言った様子で首を傾げた。

 

「運がよかっただけ、ねえ。うん、確かにそうだわ。運がよかったのよ。ただ、それがあたし達だけに当てはまるとは限らないけれどね」

「どういう事?アンタの言っていること、全然わかんないわ」

「でしょうね。アンタはあたしが思っていた以上に脳味噌が足りなかった。あんた達が今まで生きてこられたのは、好き勝手出来ていたのは、幸運だったから。あんた達を殺せる鬼狩りに出遭わなかった。ただ、それだけだったことよ」

 

汐はそう言って顔を上げて堕姫を睨んだ。その目には怯えも絶望も一切ない、曇りのない刃のような決意と確信が宿っていた。

 

「何よその生意気な目。幸運だった?アタシ達が?ふざけるんじゃないわよ!柱は毒で、糞猪はお兄ちゃんが心臓を刺したし、黄色い不細工も瓦礫に潰されたわ。あいつだってお兄ちゃんが心を折ったし、アンタだって身動きすら取れないじゃない!!」

 

堕姫が声を荒げると、汐はふんと鼻を鳴らし、首を傾けて下から睨みつけた。

それは花魁に扮してた自分がよくやっていた、気に入らないことがあると無意識にする癖に酷似していた。

 

「成程、その目はやっぱりただのお飾りだったようね。あんた、人間に紛れて生きてきたくせに、一体今迄人間の何を見ていたの?」

 

――あんた達はわかっていない。鬼殺隊(にんげん)を。竈門炭治郎という男を。

 

汐がそう言った瞬間。どこかで妓夫太郎の小さくうめく声がした。堕姫は肩を震わせ慌てて視線を向けると、そこには妓夫太郎に渾身の力で額を打ち付けている炭治郎の姿があった。

 

よろめく妓夫太郎に、堕姫はすぐに立つように叫んだ。しかし妓夫太郎は立つことができず、その場に崩れ落ちた。

 

よく見れば妓夫太郎の足には一本のクナイが刺さっており、それは炭治郎が雛鶴を守った時。彼女からこっそり手渡されていたものだった。

 

毒が回り倒れ伏す妓夫太郎の頸に、炭治郎は刃を振りかぶって叩きつけた。

 

「ちょっと嘘でしょ!!そんな奴に頸斬られないでよ!!」

 

堕姫が妓夫太郎を救出しようと帯を伸ばしたその瞬間。雷鳴のような轟音がほとばしり、黄色い閃光が帯を穿った。

顔を向ければ全身から血を流した善逸が、舞う瓦礫と共に堕姫の前に姿を現した。

 

(こいつ、あの瓦礫の中から抜けやがった!!)

 

善逸の一撃が汐を捕らえていた帯を斬り裂き、汐はそのまま飛び出すと堕姫の目に向かって何かを投げつけた。

 

「ギャアアア!!」

 

それは堕姫の目に突き刺さると、想像を絶するような痛みを彼女に与えた。それは、炭治郎と雛鶴が使ったのと同じクナイであり、汐も落ちていたクナイをこっそり拾い隠していたのだった。

 

「なんで、なんで、なんでよ!!なんでこんなになっているのに諦めないの!?弱いくせに、人間のくせに、不細工なくせに!これだけ痛めつけられているのに、なんでアンタの心は折れないのよッ!!」

 

堕姫は突き刺さったクナイを抜きながら、汐がいる方向にまくし立てた。汐はそのまま屋根の上に飛び移ると、今度は彼女が堕姫を見下ろしながら言った。

 

「なんでって、そんなもん――」

 

――大事な奴に、惚れた男に、幸せに生きて欲しいからに決まってんだろうが!!!!

 

そのまま汐は屋根から飛び降り、妓夫太郎の頸を捕らえた炭治郎の刀の上から、全身の体重をかけて思い切り踏みつけた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

二十一章:決着
壱(再投稿)


戦いはいよいよ佳境。はたして勝つのはどちらか

(展開に大きな矛盾が見つかったため、誤字脱字含め修正し再投稿させていただきました)


――雷の呼吸 壱ノ型――

 

汐を解放した後の善逸は、そのまま柄に掛けた手に力を込めた。堕姫は善逸に向けて帯を伸ばし、その体を引き裂こうとした。

 

(あんたの技の速度はわかってんのよ!!何度も見てるからね!!)

 

――霹靂一閃

 

(どけ、不細工!!)

 

堕姫の帯が善逸の身体を薙ごうとしたその時だった。

 

神速!!

 

善逸の姿が消え、堕姫が彼を認識した時に、既にその刃は彼女の頸を穿っていた。

その反動で瓦が瞬時に砕け、瓦礫と化して降り注ぐ。

 

その速さと首に亀裂が入ったことで、堕姫は驚愕を顔に張り付け青ざめた。しかも、先ほど汐に投げつけられたクナイの毒のせいで、微かだが動きが鈍っていた。

 

(き、斬られかけてる!!まずい!!こいつがこれ程動けるとは・・・!しかも、さっきのクナイのせいで、身体にうまく力が入らない!!)

 

焦りを見せる堕姫に、善逸は歯を食いしばり全身全霊の力を刀に込めた。

 

(斬れろ、斬れろ、振り抜け!!霹靂の神速は二回しか使えない、足が駄目になる!)

 

善逸の足はすでに無数の傷がつき、血が球となって飛び散っていた。

 

(さっき瓦礫から出るために、一度使ってるから後がない。そしてもう今以外、頸を狙える機会は訪れない!!炭治郎と汐ちゃんがこの千載一遇を作ったんだ!絶対に斬る!!絶対に!!)

 

「「ぬううあああああああああ!!!」」

 

刀を振り下ろす炭治郎と、その上から体重をかけ押し切ろうとする汐の咆哮が重なり響き渡った。

しかしそれ程までしていても、妓夫太郎の頸には刃が食い込みすらしなかった。

 

(クソッタレ!!なんで斬れないのよこいつ!!馬鹿じゃないの!?馬鹿じゃないの!?)

(毒で弱体化しているはずなのに、汐の力を合わせてもまだ力が足りないのか!!)

 

二人が苛立ちを顔に表したその時。妓夫太郎のの両腕から血の刃が飛び出す兆候が表れた。

 

(毒からもう回復した!!巻き込んで斬り裂かれる・・・!!)

「汐、離れろ!!」

 

炭治郎の鋭い声が飛び、汐は舌打ちをしながらその場から飛びのき、それと同時に妓夫太郎の両腕から回転する刃が飛び出した。

 

「炭治郎!!」

 

炭治郎の刀が押し戻され、そのまま体ごと弾き飛ばされた。しかもその隙を突いて、血の刃は汐と炭治郎を容赦なく襲った。

 

(あああ、もう少しだったのに、あともう少しでっ・・・!)

 

「諦めるな馬鹿野郎!!!最後まで足掻けーーッ!!」

 

汐は飛ばされながらも、炭治郎に向かって檄を飛ばしていた。

 

(そうだ、汐の言う通りだ!喰らい付け、最後まで!!)

 

炭治郎の目に光が宿り、飛び交う血の刃を捌き始めた。

 

「このガキ共オオオオ!!!」

 

激昂した妓夫太郎の怒号が響き渡り、毒を分解したせいか技の速度が急激に上がり炭治郎を押し返した。

そしてそのまま、鎌の先端が炭治郎に突き刺さろうとした瞬間。

 

金属同士がぶつかる甲高い音が響き、目を見開けば炭治郎と妓夫太郎の間には宇髄の姿があった。

片腕は斬り裂かれて原形をとどめておらず、彼は口でもう一本の刀を咥えながら、妓夫太郎の刃を受け止めていた。

 

目を見開く妓夫太郎のすぐそばで、刀が爆ぜ轟音と粉塵が巻き上がった。

 

(この男、死んでない!さっきは確かに心臓が・・・。そうか、そうかこいつ!筋肉で無理やり心臓を止めてやがったなあ!そうすりゃあ毒の巡りも一時的に止まる)

 

「【譜面】が完成した!勝ちに行くぞォオ!!」

 

宇髄の声が轟音の余韻に浸る空間に高らかに響いた。

宇髄の言う【譜面】とは、彼独自の戦闘計算式。分析に時間はかかるものの、完成すれば敵の弱点や死角すらもわかる。

 

しかし今の彼は毒が回り、敵の攻撃を捌くので手一杯であり頸を狙うことは不可能だった。

 

それを行えるのは、炭治郎と汐のどちらか。しかし鬼も馬鹿ではない。不可思議な技を扱うワダツミの子である汐を狙う確率は非常に高い。

 

だが、宇髄は信じていた。ワダツミの子としてではなく、汐自身の潜在能力を。そして、竈門炭治郎の底力を。

 

宇髄は放たれた刃を全て弾き飛ばし、更に前へ突き進んだ。すでに片腕は機能していないのにもかかわらず、全く衰えることのない技の精度に妓夫太郎も青ざめた。

 

(コイツ・・・!!片腕が使い物になってねえんだぞ!?ありえねえだろうが!!ふざけんなよなああ!!)

 

妓夫太郎の鎌が宇髄の左目を大きく切り裂き、体勢を大きく崩した。しかし彼はそれでも刀を振り抜くが、切っ先は僅かに届かず妓夫太郎の腕を掠っただけだった。

そんな中、背後からは体勢を立て直した汐が、息を吸いながら向かってきていた。

 

「喚き散らすんじゃねえよ!ワダツミの子!!」

 

妓夫太郎は身体を捻って宇髄を躱すと、振り向きざまに左手を振り払い、汐の刀をいとも簡単に弾き飛ばした。

紺青色の刀が弧を描いて飛んでいくのをしり目に、妓夫太郎は今度は右手で持っていた鎌を汐の顔面に向かって振りぬいた。

 

「汐ーーッ!!」

 

吹き飛ばされながらも炭治郎は、汐の名を叫ぶように呼んだ、その時だった。

 

硬いものがぶつかるような音が響き、妓夫太郎の表情が強張った。

そこには、妓夫太郎の鎌を歯で噛んで受け止めている汐の姿があった。

 

「はああああ!?」

 

妓夫太郎が思わず叫ぶと、汐は鎌を噛み砕き、空いた手を妓夫太郎の目に突き刺すと、そのまま目玉を抉り取った。

 

「ギアアアアアア!!!」

 

妓夫太郎の濁った悲鳴が響き、足元が大きくぐらついた。だが、それでも彼は汐に向かって血の刃を飛ばし、その一つが汐の額を滑り真っ赤な花を咲かせた。

 

「うしっ・・・」

「怯むな、やれえ!!!」

 

思わず声を上げる炭治郎だが、汐の雷のような声に身体を震わせ、彼はそのまま大きく跳躍すると刀を振り上げた。

 

(クソが、クソが!!なめやがってガキ共が!!)

 

しかし妓夫太郎は急速に目を再生させると、残った鎌で炭治郎の顎を貫いた。

 

(お終いだなあお前等。あの女もテメエも、毒で死ぬぜ)

 

妓夫太郎の顔に勝ち誇った笑みが浮かぶが、炭治郎の目はそれでも光を失わなかった。

 

(斬る!!頸を斬る!!諦めない、絶対に斬る!!最後まで足掻く!!)

 

炭治郎はすでにボロボロになっている手で刀を握りなおすと、そのまま刃を妓夫太郎の頸に叩きつけた。

猛毒が体内に回っているはずなのに、その力は全く衰えていなかった。

 

(コイツ、まだ刀を振りやがる!!馬鹿が、先刻だって俺の頸を斬れなかったくせになああ)

(腕だけじゃ駄目だ、全身の力で斬るんだ!頭のてっぺんから爪先まで使え!身体中の痛みは全て忘れろ!喰らいつけ!渾身の一撃じゃ足りない!!その百倍の力を捻り出せ!!)

 

斬りかかってくる炭治郎を見て、妓夫太郎は息をのんだ。炭治郎の額の傷が、炎の様な真っ赤な文様に変化していた。

 

(なんだ?額の痣が・・・)

 

「ガアアアアア!!!」

 

炭治郎の口から獣のような咆哮が上がり、その気迫に押されて妓夫太郎の全身に鳥肌が立った。

これはまずい、離れなければと本能が警告した。

 

だが、炭治郎の顎を突き刺している鎌はいくら力を込めても抜けず、妓夫太郎は汐に噛み砕かれはしたものの、まだ残っているもう一本の鎌を振り上げた、その時だった。

 

突如青色の閃光が迸ったかと思うと、振り上げた妓夫太郎の腕に僅かな衝撃が走った。思わず目を滑らせると、そこには自分の腕にしっかりと鎬を食い込ませる淡い青色の一本の刀があった。

 

「忘れモン、だぜ・・・」

 

遠くには息も絶え絶えの宇髄が、腕を振り下ろしたままの姿勢でこちらを見ているのが目に入った。だが、刀が刺さった程度で鬼である彼の肉体がどうなるということでもない。

しかしそれは、刺さったままであったなら、ということだった。

 

妓夫太郎が気を取られていた僅かな間に、真っ青な影が滑り込んだ。目を凝らせば、そこには頭から血を流し、口からも血を溢れさせていた汐がおり、己の手のひらで刀を押し込んだ。

刀が滑り、妓夫太郎の腕と刀が共に暗闇の中へ吸い込まれていった。

 

(何故だ、何故だ!?猛毒を受けているんだぞ!?このガキも、この女も何故死なない!?)

 

驚く妓夫太郎に、汐はにやりと笑った後、炭治郎の刀を両手で握りしめた。

 

(まだよ、まだ死なないわ。毒が回り切って死ぬまでの僅かな時間に、あたしは、あたし達はお前等を必ず倒す!!)

 

汐の力も加わり、炭治郎の漆黒の刃が妓夫太郎の頸の半分にまで到達した。だがそれでも、妓夫太郎は何とか筋肉を強張らせそれを防ごうとした。

 

(畜生、こんなガキ共に・・・!まずい、斬られるぞオオオ!!)

 

滑りだす刃に妓夫太郎は焦るが、彼にはもう一人、妹の堕姫がいる。彼女の頸がつながっている限り、彼が死ぬことはない。

そうなれば優先するべきは、堕姫の頸の死守だ。

 

「アンタがアタシの頸を斬るより早く、アタシがアンタを細切れにするわ!!」

 

堕姫の帯が持ち上がり、善逸をバラバラに引き裂こうと伸ばしたその瞬間。

バラバラになったのは善逸ではなく、帯の方だった。

 

何が起こったのか分からず堕姫が首を動かすと、そこには息絶えたはずの伊之助が刀を振りかぶって向かってくる姿があった。

 

(何でよ!?コイツ、お兄ちゃんが心臓を刺したのに!?)

 

伊之助の左胸からは血が流れだしているのが見えているため、刺したことは間違いはない。それなのに何故生きているのか、何故動けるのか。混乱する堕姫に、伊之助は濁った声で叫んだ。

 

「俺の体の柔らかさを見くびんじゃね゙ぇ゙!!内臓の位置をズラすなんざお茶の子さい゙さい゙だぜ!!険しい山で育った俺に゙は、毒も効かね゙ぇ゙!!」

 

しかし伊之助の口からは血があふれ、毛皮を真紅に染めていく。それでも彼は二本の刀を善逸とは逆方向から堕姫の頸へと押し当てた。

 

そのまま渾身の力を込めて、ねじ切る腹だ。

 

「「「アアアアアアアア」」」

「ガッ、ア゙ア゙ア゙ア゙ッ」

 

四つの咆哮が町中に響き渡り、それぞれの刃が鬼の頸をすべる。堕姫は焦りながら兄に助けを求め、妓夫太郎もなんとか回避しようと血鬼術を放とうと試みた。

しかし、それよりも速く刃は遂に頸を穿ち――

 

――二つの頸が弧を描いて、同時に空を舞った。

 

斬り落とされた頸はごろごろと地面を毬の様に転がり、何の導きか兄妹が向かい合うようにして止まった。

 

一瞬、時が止まり静寂が訪れる。その静寂を破ったのは、喜びに満ちた甲高い声だった。

 

「斬った!?斬った!!斬った!!キャーーーーッ」

 

その声は、屋根の上から戦況を見ていた宇髄の妻の一人、須磨のものだった。

 

「斬りましたよ雛鶴さん!草葉の影から見てください!!」

 

須磨は涙を流しながら雛鶴に抱き着くが、その言葉は本来死んだ者に対してつかわれるものであるため、健在である雛鶴への言葉としてはふさわしくない。

まきをはそれを指摘しつつ、須磨の頭を平手でたたいた。

 

ところが、雛鶴は奇妙な違和感を感じて目を見開いた。炭治郎と汐は、毒が回っているせいかそのまま動かない。

そんな二人に宇髄が何かを叫んでいるようだが、よく聞こえない。しかしその表情と口の動きが、ただ事じゃないことを物語っていた。

 

「逃げろーーーーーッ!!!!」

 

宇髄が叫ぶと同時に、頸を失った妓夫太郎の身体から、全方向に向かって血の刃が放出された。

それは炭治郎と汐に首を斬られる直前、最後のあがきで放った血鬼術だった。

 

真っ赤な血の刃が嵐となり、その場にいるもの全員に襲い掛かろうとしたとき、炭治郎を押しのける青い影があった。

 

汐がそのまま前に飛び出し、刃の嵐の前に立ちはだかった。

 

何をしているんだ。逃げろ、逃げろ!

 

炭治郎が心の中で叫ぶが、汐の耳には届かない。汐自身も、聞こえるのは自分の心臓の音と、嵐以外は目にも耳にも入らなかった。

 

(どうする、どうする!?あれを喰らえばこの場にいる全員お陀仏だ。爆砕歌じゃ防ぎきれないし、狂瀾怒濤でも無理だ。回転する刃を何とかしなければ・・・。回転、回転・・・。回【転】・・・)

 

その瞬間。襲い来る刃の嵐が急速に遅くなり、細部まではっきりと見えるようになった。それと同時に、汐は顔に焼けるような熱を感じた。

 

――ウタカタ 伍ノ旋律・転調――

 

――爆塵歌(ばくじんか)!!!

 

「あああああああああああああ!!!!!」

 

汐の口から、否全身から放たれた声の竜巻が、刃の嵐を巻き込み砕いていく。その反動はすさまじく、炭治郎、宇髄、善逸、伊之助、そして宇髄の妻たちは、襲い来る衝撃に耐えようと、固く目を瞑った。

 

やがて声の竜巻は全ての刃を砕くと、そのまま風に乗って掻き消えていった。

辺りには今度こそ、本当の静寂が訪れようとしていた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



戦いは遂に決着!しかしその代償は大きく・・・

※一部、原作とは異なる部分があります。


嵐が収まり、静けさが戻ってきた頃。

炭治郎が妓夫太郎と戦っていた時に箱から落ちてしまった禰豆子は、瓦礫の山と化した町の中を家族を捜して彷徨っていた。

辺りを見回しても何の音も聞こえず、禰豆子の胸に不安が沸き上がる。

 

すると、前方でかすかな物音が聞こえ、禰豆子は小さな足を一生懸命に動かしながら駆け寄った。そして、そこで見たものに彼女は目を見開いた。

 

そこには倒れ伏す炭治郎と、生えたように立ったまま動かない汐の姿があった。

だが、突如汐の口と鼻から血が勢いよく吹き出し、そのまま全身が痙攣しだした。

 

「!!」

 

禰豆子は慌てて二人に駆け寄った。見てみれば、二人の身体は紫色に爛れ、あちこちから血を吹き出していた。

このままでは二人の命が危ないということは、火を見るよりも明らかだった。

 

すぐに禰豆子は、二人の身体に両手を押し当て強く念じた。すると二人の身体が真っ赤な炎に包まれ、ごうごうと音を立てて燃えていく。

だが、その時二人の身体に変化が起こった。

毒で爛れた皮膚がみるみるうちに治っていき、炎が収まった時には二人の毒は完全に消えていた。

 

「うーーー」

 

禰豆子は炭治郎の頭を自分の膝に乗せ、ぺちぺちと顔を軽くたたいた。不安げな表情をする禰豆子だが、炭治郎の瞼がゆっくりと開いたことを認識すると、その目は嬉しそうなものへと変わった。

 

「禰豆子・・・」

 

炭治郎はかすれた声で禰豆子の名を呼ぶと、すぐに目を大きく見開いた。

周りは瓦礫に覆われ、町の面影はほとんどなく、その景色に炭治郎は愕然として口を閉じた。

 

「酷い、滅茶苦茶だ。確かあの時、鎌の鬼が大きな血鬼術を放ってその後・・・」

 

(そうだ、汐が・・・、汐が新しいウタカタを放って、鬼の術を相殺して――)

 

「そうだ、汐!汐は何処だ!?」

 

炭治郎は身体を起こすと汐の姿を捜して顔を動かした。するとすぐそばで膝をついている汐の姿を見つけ、重い体を引きずりながら駆け寄った。

 

「汐、汐!!しっかりしろ!!頼む、目を開けてくれ・・・!!」

 

固く目を閉じたままの汐を揺さぶり、炭治郎はすがる思いで何度も名を呼んだ。湧き上がってくる嫌な思いを振り払うように、あふれ出そうな涙をこらえるように、炭治郎は顔を歪ませながら必死で声を張り上げた。

 

すると

 

「う・・・ん・・・」

 

汐の口から小さな声が漏れ、瞼が細かく震えたかと思うと彼女はゆっくりと目を開いた。

髪と同じ色の瞳が炭治郎の姿を映した時、汐はゆっくりと口を動かした。

 

「たん・・・じろ・・・う?」

 

汐が掠れたか細い声で炭治郎の名を呼ぶと、炭治郎の目にみるみる涙がたまり、そして。

 

――汐の身体を強く抱きしめた。

 

「!?」

 

汐が驚き硬直すると、炭治郎は汐の存在を確かめるかのように、強く強く抱きしめた。

 

「よかった・・・っ・・・!お前・・・っ、生きて・・・っ」

 

炭治郎はいろいろな思いや感情が混ざり合い、言葉すらうまく出てこなかった。そんな彼の熱を身体に感じながら、汐は自分が生きていることと炭治郎が生きていることを感じ、両手を背中に回して同じように抱きしめた。

 

(炭治郎・・・生きてた・・・!炭治郎が、生きていた!!)

 

二人は互いの存在を確かめるように深く、深く抱きしめあっていた。すると、

 

「むーーー」

 

いつの間にか禰豆子が二人の間に入り、蚊帳の外にされたことを怒っているのか頬を膨らませていた。

 

「禰豆子・・・、あんたも無事だったのね。よかった・・・!」

 

汐はそう言って禰豆子を抱きしめると、あの時酷い目に遭わせてごめんと謝った。

すると禰豆子は、気にしないでというかのように汐の頭を優しくなでた。

 

「って、そうだ!他の連中は!?」

 

汐の言葉に炭治郎は慌てて周りを見渡し、立ち上がろうとした。だが、炭治郎の身体は重力に従い、膝をついてしまう。

汐も立ち上がろうとしたが、足に力が入らず座り込んでしまった。

 

(あれ?そう言えばあたし達、なんで生きてるの?あの昆布野郎の毒を喰らったはずなのに・・・)

 

汐が困惑していると、瓦礫の中から何かが聞こえ、汐は思わず身を固くした。

 

「たんじろ~~、うしおちゃあ~ん・・・」

「この情けない声は、善逸!?」

 

耳を澄ませてみれば、その間抜けな声は間違いなく善逸の物で、彼が生きていることが見て取れた。

炭治郎もその声が聞こえたのか、汐と同じように顔を向けていたものの、二人とも疲労と傷の痛みで動くことができなかった。

 

そんな二人を見かねて、禰豆子は身体を少し大きくすると右側に炭治郎の腕を、左側に汐の腕を回して担ぐと、善逸がいるであろう方向に走り出した。

鬼であるせいか、二人の人間を担いでも速度を落とさない禰豆子に、汐と炭治郎は目を見張った。

 

「たんじろぉおお~、うしおちゃああん。痛いよぉ~!!」

 

瓦礫の中を見てみれば、全身に血を滲ませながら倒れ伏す善逸の姿があった。

しかし

 

「起きたら身体中痛いよお!俺の両足これ折れてんの何なの!?誰にやられたのコレ、痛いよおお!怖くて見れないぃ!!」

 

その凄惨な見た目とは裏腹に、善逸は涙と鼻水を垂れ流しながらぎゃあぎゃあと喚いていた。

炭治郎は善逸を引っ張り出しながら無事を喜び、善逸は無事じゃないと怒りを込めた声で叫んだ。

 

(とりあえず大丈夫なようね。はぁ、やれやれだわ)

 

呆れる汐に善逸は、泣き叫びながら瓦礫の山を指さした。

 

「俺も可哀想だけど、伊之助がやばいよぉ!心臓の音がどんどん弱くなってるよ~~~っ。あそこにいるよ、あそこ~~っ!!」

 

善逸の指さした方向には、足だけ見えた伊之助の姿があった。汐と炭治郎は禰豆子に抱えられながら、伊之助の元へ駆けつけた。

 

「伊之助――っ!!」

「伊之助、伊之助!!しっかりしなさいよ、この馬鹿!!」

 

炭治郎と汐は伊之助に駆け寄り、大声で名を呼んだ。炭治郎がふれると、かろうじて生きてはいるものの、心音が段々と弱くなっていた。

 

「テメーッ、伊之助この野郎!!こんなところで死ぬんじゃねぇ―ッ!!死んだらぶっ殺すぞゴラア!!」

 

汐は涙を溢れさせながら、伊之助を怒鳴りつけた。炭治郎も目に涙をため、何故自分と汐は毒を受けたのに生きていて、伊之助だけが苦しんでいるのか。どうしたら伊之助を救えるのか必死で考えていた。

 

その時だった。

 

禰豆子は徐に手を伸ばし、伊之助の体に触れた。その瞬間、伊之助の身体が真っ赤な炎に包まれた。

 

「え、えええええ!?ちょっと禰豆子、あんた何してんのーーッ!?こんな時に焼き猪なんて作っている場合じゃないわよ!?」

 

汐が顔面を崩壊させながら突っ込んでいると、伊之助の身体に変化が起こった。毒で酷く爛れていた皮膚が、みるみるうちに治っていったのだ。そして炎が収まると、伊之助は口から血を吐き出しながら

 

「腹減った、なんか食わせろ!!」と、濁った声で言った。

 

「伊之助!!」

「伊之助―ッ!!」

 

汐と炭治郎は伊之助に抱き着き、伊之助は何が起こっているのか分からず混乱し、頭を振った。

 

「な、なんだよお前等。いてっ、くっつくんじゃねぇ!!」

「この馬鹿!!阿呆!!唐変木!!すっとこどっこい!!心配させてんじゃねーわよ!!」

 

汐はそう叫ぶと、伊之助の顔面に拳を一発叩き込んだ。すると伊之助は小さく悲鳴を上げると、びくびくと身体を震わせ動かなくなった。

 

「え、えええ!?ちょっと伊之助!!伊之助ったら!!何また寝てんのよ!!」

「いや、今のは完全に汐ちゃんのせいだよね!?止め刺したの君だよね!?」

 

会話が聞こえていたのか、仰向けになったままの善逸の鋭い突っ込みが飛んできた。

再び気を失った伊之助にあたふたしていると、

 

「いやあああああ!!!!」

 

何処からか女性の金切り声が飛んできて、汐達の耳を激しく穿った。

 

「今度は何!?」

「あっちの方からだ。行ってみよう!」

 

顔をしかめる汐に、炭治郎は禰豆子に運ぶように頼むと、禰豆子は頷き二人を抱えて再び歩き出した。

 

「死なないでぇ!死なないでくださぁぁい、天元様あ~~~~!!!」

 

汐達から少し離れた所で、ぐったりと背中を瓦礫に預けた宇髄の前で、須磨は涙と鼻水を垂れ流しながら泣き叫んだ。

 

「せっかく生き残ったのに!!せっかく勝ったのに!!やだあ、やだあ!!」

 

須磨は宇髄に縋りつきながら泣きわめき、まきをは青ざめ、雛鶴は目に涙をためて俯いていた。

 

「鬼の毒なんてどうしたらいいんですか!解毒剤が効かないよォ!!ひどいです神様、ひどい!!」

 

頭を振り、涙と鼻水を飛ばしながら泣きわめく須磨に、宇髄は自分の死期を悟ったのかゆっくりと口を開いた。

 

「最期に、言い残すことがある・・・。俺は今までの人生「天元様死なせたら、あたしもう神様に手を合わせません!!」

 

宇髄の言葉を遮り、須磨の甲高い声が響き渡った。

 

「絶対に許さないですから!」

「ちょっと黙んなさいよ!天元様が喋ってるでしょうが!!」

 

尚も泣き喚く須磨にしびれを切らしたまきをが、髪を引っ張りながら怒鳴りつけた。

そんな二人に雛鶴は、どちらも静かにするように諫めるが効果がなかった。

 

「口に石詰めてやる、このバカ女!!」

「うわあああ!!まきをさんがいじめるうううう!!!」

 

大口を開けて泣きわめく須磨の口に、まきをは瓦礫を手に一杯握りしめて突っ込んだ。

 

「オ゛エ゛ッ、ホントに石入れたァ!!」

「バカ!!だまれ!!」

「止めなさい!!」

「ギャアアア!!!」

 

妻たちが騒ぎ立てる中、宇髄はひとり、この状況に絶望しながら天を仰いだ。

 

(嘘だろ?何も言い残せず死ぬのか俺。毒で舌も回らなくなってきたんだが、どうしてくれんだ。言い残せる余裕あったのに、マジかよ)

 

いよいよ本当にまずいと思ったその時、宇髄と妻たちの間に滑り込む小さな影があった。視線を移せばそこには小さな姿に戻った禰豆子がおり、挨拶をするかのように右手を上げていた。

 

面識のある宇髄はともかく、面識のない妻たちはいきなり現れた見知らぬ少女に困惑するが、そんなことを構うことなく禰豆子は宇髄の腕にそっと手を乗せた。

 

その瞬間、宇髄の身体が真っ赤な炎に包まれた。

 

「ギャアアアッ!!何するんですか、誰ですかあなた!!」

 

突然のことに須磨は悲鳴を上げ、火だるまと化した夫を見て再び喚きだした。

 

「いくらなんでも早いです火葬が!!まだ死んでないのにもう焼くなんて!!お尻を叩きます、お姉さんは怒りました!!」

 

須磨は禰豆子を引きはがすと、鬼のような形相で禰豆子を叱りつけた。しかし、宇髄はそんな須磨を制止させると、自分の腕を眺めながら、驚いたように言葉を紡いだ。

 

「こりゃ一体、どういうことだ?毒が、消えた・・・」

 

妻達が視線を向けると、毒で爛れていた宇髄の肌はすっかり癒えていた。そんな彼を見て、彼女たちはいっせいに夫に抱き着き涙を流した。

 

「禰豆子の血鬼術が、毒を燃やして飛ばしたんだと思います。俺にもよく分からないのですが・・・」

 

追いついた炭治郎は、宇髄の身体を見ながら安心と心配を宿した目で彼を見つめながら言った。

 

「傷は治らないので、もう動かないでください。御無事で良かったです」

「こんなことあり得るのかよ、混乱するぜ。って、お前も動くなよ。死ぬぞ」

「俺は鬼の頸を探します。確認するまで安心はできない。汐はここで待っててくれ、すぐに戻るから」

 

炭治郎はそう言うと、禰豆子に背負われながら瓦礫の中へ消えていった。

残された汐は小さくため息を吐くと、身体を引きずりながら宇髄の元へ歩いていった。

 

「・・・よぉ。お前も生きていたんだな」

「何とかね。禰豆子のお陰であたしの毒も消えたし、とりあえずは、終わったみたい」

 

そう言って汐は改めて宇髄の身体を見て、顔をしかめた。毒は消えたとはいえ傷は治らず、彼の左腕は手のひらからざっくりと縦に裂かれるように斬られており、腕の形をしていなかった。

 

「あんた、その腕・・・」

「ああ。辛うじて残っちゃいるが、これじゃあもう刀を握んのは無理だな」

「それって、まさか・・・」

「・・・ああ、俺は柱を引退する」

 

宇髄の力ない声に、汐は身体を震わせた。命があるとはいえ、煉獄に続き柱が二人も鬼殺隊からいなくなる。

それは大きな戦力を失うことを意味していた。

 

「・・・そう」

「ほお、意外な反応だな。もっと怒ったり、悲しんだりするかと思ったぜ」

「今更そんなことしたって、あんたが引退を撤回する訳ないでしょ?見栄っ張りで自意識過剰なあんたがそう決めたってことは、よっぽどのことだと思うし」

「オメーの変な物分かりの良さが時々怖ぇよ」

 

宇髄は小さくため息を吐くと、雲が晴れた空を見上げた。腹立たしい程の綺麗な満月が、更地と化した吉原を淡く照らしていく。

 

「・・・戦線からは退くが、ワダツミの子と大海原家の事は、これからも調べていくつもりだ。もしも何か気になることがあったなら、いつでも俺の所へ来い」

「え?」

「柱を引退したからって、この宇髄天元が何もせず隠居なんかするわけねえだろ。そんな地味な事、まっぴらごめんだからな」

 

そう言ってにっかりと笑う宇髄に、汐は困ったように笑うと、彼と向き合い頭を下げた。

 

「音柱・宇髄天元。貴方がいなければ、私たちは今こうして立っていることはなかっただろう。貴方へ私は、感謝と敬意を表する」

「へ?あ、ああ」

 

汐の突然の変わり様に宇髄は面食らうが、汐はそんな彼に構わず、にっこりと笑った。

 

「その代わり、これからは嫁さんをもっともっと大事にしてやんなさいよ。刀は握れなくとも、嫁さんを抱きしめたりすることくらいはできるでしょ?あんたがこれからするべきことはそれよ」

「・・・オメー、実は年齢サバ読んでんじゃねえのか?」

「・・・柱としてだけでなく、男としても再起不能になりたいようね」

 

汐が目を剥いてすごむと、三人の妻たちは髪の毛が逆立つほど驚き、宇髄を守るように抱きしめた。

 

「・・・冗談よ。さて、あたしは炭治郎の様子が気になるから、行ってくるわね」

 

そう言って汐は無理やり足を引きずるようにしてその場を後にした。

 

少し歩くと、どこからか言い争う声が聞こえ、汐はその方向に顔を向けた。

そこには座り込む炭治郎と、騒ぎ立てる二つの鬼の頸があった。




おまけCS
須「え?なんですかこれ。あの青い髪の女の子と天元様って、どういう関係ですか?」
雛「あの子は確か、恋柱様の継子だったはずだけれど・・・」
須「いやいやいや、あれどう見ても上官と部下の会話じゃなかったですよね!?堂々としすぎていませんでした!?」
ま「相変わらずうるさいねあんたは!いちいちそんなことでわめきたてるんじゃないよ!」
須「だって、だってぇ!あの子あたしよりずっと落ち着いているんですよ!?何でですか!?あたしより年下のはずなのに!?」
ま「あんたが頼りないからいけないんでしょうが!あんたなんかより落ち着いた年下の子なんか、この世にごまんといるよ!」
須「うわあああ!!またまきをさんがいじめるぅううう!!」
雛「いい加減にしなさい!今はまず、天元様やみんなが無事だったことを、喜びましょう」
須「そうはいっても・・・。もしもあの子が天元様の新しい妻になったら、どうするんですか?」
宇「いや、それはねえ。あんなちんちくりん女は趣味じゃねえよ」
雛「ちょっと、天元様・・・」
宇「それに、あいつはもう大事なもんを見つけてるさ。なんせ、あんな大声で堂々と惚気やがったんだからな!」
雛(天元様ったら相変わらずね。でも、だからこそ、私達はこの方についていこうって決めたのよね・・・)


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



崩れつつある鬼の兄妹の頸は、互いを罵りあう大げんかをしていた。
それを見た炭治郎は・・・


汐を宇髄たちの元で待たせた後、炭治郎は禰豆子に背負われながら、鬼の血の匂いを辿って瓦礫の中を歩き回っていた。

 

「禰豆子、向こうだ!!鬼の血の匂いがする!」

 

炭治郎が指を差した方向には、小さなちゃぶ台程の大きさの血だまりがあった。

 

(・・・。よし、もう攻撃して来ない)

 

炭治郎は刀を抜き、警戒しながらそっと近づくと、以前愈史郎からもらった採血用の小刀を血だまりに浸した。

 

(上弦の鬼の血を採れた・・・!!)

 

上弦の鬼は無惨の血がかなり濃く、これならば鬼を人間に戻す薬の完成に大きく近づくだろう。炭治郎の気持ちは逸り、心臓は早鐘の様に打ち鳴らされ、手は微かに震えた。

そんな彼の足元で猫の鳴き声がした。視線を向けてみれば、愈史郎の【目】を付けた一匹の三毛猫が、ちょこんとおとなしく座っていた。

炭治郎は小刀を猫に渡すと、猫は一鳴きした後溶けるように姿を消した。

 

辺りを見回せば、凄惨な状況の割に人の気配はなく、炭治郎の鼻にも人の血の匂いはしなかった。

まきをたちが町の住民を避難させてくれていたおかげで、被害は最小限に食い止められていたようだ。

 

その時、炭治郎の鼻が微かな鬼の匂いを捕らえた。まだ生きている。

炭治郎は禰豆子にその場所に連れて行くように頼むと、禰豆子は頷き足を進めた。

 

匂いが強くなるにつれ、遠くから声のようなものが聞こえてきた。耳を澄ませてみれば、それは聞くに堪えない罵詈雑言の嵐だった。

 

「なんで助けてくれなかったの!?」

「俺は柱とワダツミの子を相手にしたんだぞ!?」

「だから何よ!なんでトドメを刺しとかなかったのよ!頭カチ割っとけばよかったのに!!」

「行こうとしてた!!」

「はァ!?」

 

向かい合って転がったままの妓夫太郎と堕姫の頸が、顔中に青筋を立てながら互いを罵りあっていた。

 

「耳に飾りをつけたガキが生きてたから、先に始末しようと思ったんだ!そもそもお前は何もしてなかったんだから、柱とワダツミの子にトドメくらい刺しておけよ!」

「じゃあそう言う風に操作すればよかったじゃない、アタシを!それなのに何もしなかった。油断した!!」

「うるせぇんだよ!仮にも上弦だって名乗るんならなぁ、手負いの下っ端くらい一人で倒せ、馬鹿!!」

 

ぎゃあぎゃあと騒ぎ立てる二人だが、既に頸は少しずつ崩れ始めておりもう永くないことを物語っていた。

大声を出しすぎたせいか、二人は息を切らして互いを睨みつけると、堕姫の両目には涙がみるみるうちにたまった。

 

「・・・アンタみたいな醜い奴が、アタシの兄妹なわけないわ!!」

 

堕姫のこの言葉が、炭治郎の胸を酷く締め付けた。自分が言われたわけでもないのに、息が詰まる程苦しくなる。

 

「きっとアンタなんかとは血も繋がってないわよ。だって全然似てないもの!!この役立たず!!強いことしかいい所が無いのに、何も無いのに!負けたらもう何の価値もないわ。出来損ないの醜い奴よ!!」

 

堕姫の口から銃弾の様に発射される言葉は、妓夫太郎の耳と心を滅茶苦茶に打ち抜き、飛び散った。

 

「ふざけんじゃねぇぞ!!お前一人だったらとっくに死んでる。どれだけ俺に助けられた!?出来損ないはお前だろうが!弱くて何の取り柄も無い、お前みたいな奴を今まで庇ってきたことが、心底悔やまれるぜ」

 

妓夫太郎の刃のような言葉は、堕姫の耳と心を引き裂き、突き刺さっていった。

 

「お前さえいなけりゃ、俺の人生はもっと違ってた。お前さえいなけりゃなあ!!」

 

堕姫の両目からはたまった涙があふれ出し、ぽろぽろと零れ地面に黒い染みを作っていくが、妓夫太郎はそれに構うことなくさらに言葉を浴びせた。

 

「なんで俺がお前の尻拭いばっかりしなきゃならねえんだ!!お前なんか生まれてこなけりゃ良かっ・・・」

 

「・・・嘘だよ」

 

だが、妓夫太郎の罵声はそれ以上続けられることはなかった。炭治郎の陽だまりのような温かい手が、彼の口を優しく塞いだのだ。

 

「本当はそんなこと思ってないよ。全部嘘だよ。仲良くしよう。この世でたった二人の兄妹なんだから」

 

妓夫太郎と堕姫の視線が炭治郎に注がれる中、炭治郎は涙をこらえるようにぎゅっと目を瞑りながら穏やかな声色で言った。

 

「君たちのしたことは誰も許してくれない。殺してきたたくさんの人に恨まれ、憎まれて罵倒される。味方してくれる人なんていない。だからせめて二人だけは、お互いを罵りあったら、駄目だ」

 

炭治郎の優しい声が崩れかかった堕姫の耳に届いた瞬間、慟哭があたり中に響き渡った。

 

「うわあああん!!うるさいんだよォ!!アタシに説教すんじゃないわよ!糞ガキが、向こう行けぇ!どっか行けぇ!!」

 

涙と共に感情が堰を切ったようにあふれ出し、堕姫は心の中のものを全て吐き出すように泣き叫んだ。

 

「悔しいよう、悔しいよう!何とかしてよお兄ちゃあん!!死にたくないよォ、死にたくない!お兄っ・・・!」

 

しかし堕姫が兄を呼ぶ声は最後まで紡がれることなく、塵となって風に乗り流れていった。

 

「梅!!」

 

その時、妓夫太郎の口から知らない名前が飛び出した。その言葉に発した彼自身さえ、驚きで目を見開いていた。

 

(梅?そうだ。思い出した・・・。俺の妹の名前は"梅"だった。"堕姫"じゃねえ、酷い名前だ)

 

それは、妓夫太郎が失っていた人間だったころの記憶。役所名である名前がそのまま付けられた彼とは異なり、妹には本当の名前があった。

だが、その名前の由来はあまりにも酷く、花の名前である梅ではなく、死んだ彼らの母親の病名から名付けられたものだった。

 

彼、のちに妓夫太郎と名乗る少年と梅という少女が生まれたのは、羅生門河岸という遊郭の最下層。

そこでは子供は生きているだけで飯代がかかる、迷惑千万な存在だった。

彼も当然例外ではなく、生まれる前に何度も殺されそうになり、生まれてからも何度も殺されそうになった。

 

しかし彼はそれでも生き延びた。枯れ枝のような弱い体だったが、それでも彼は生きた。生きたかったからだ。

 

(虫けら、ボンクラ、のろまの腑抜けで役立たず。ありとあらゆる暴言を吐かれ、醜い声や容貌を罵られ、汚いと言って石を投げられた)

 

――この世にある罵詈雑言は、すべて俺のために作られたようだった。

 

汚れきり悪臭を放つ彼は、遊郭では蛇蝎の如く忌み嫌われ、それでも彼は虫や鼠を喰い生き延びた。玩具の代わりの遊び道具は、客が忘れていった鎌だった。

 

そんな彼だが、妹の梅が生まれたことで何かが変わり始めていった。

 

梅は美しかった。年端もいかない頃から大人がたじろぐほど、綺麗な顔をしていた。そんな妹のことを、彼は誇らしく思っていた。

 

(その後、俺は自分が喧嘩に強いと気づいて、取り立ての仕事を始めた。誰もが俺を気味悪がって恐れた。気分がよかった。自分の醜さが誇らしくなり、梅のような美しい妹がいることは、俺の劣等感を吹き飛ばしてくれた。これから俺たちの人生は、よい方へ加速して回っていくような気がした)

 

しかし、それは彼が十三になるまでの事だった。

 

梅は遊女として客を取らされることになったのだが、その客の目を簪で突いて潰し、失明させるという事件が起きた。

その報復として、梅は縛り上げられ、生きたまま火あぶりにされるという惨たらしい制裁を受けた。

 

その時、彼は仕事でそこにはおらず、帰ってきたときに彼の目に映ったのは、真っ黒に焦げた妹の形をしたものだった。

 

「梅・・・!梅!!」

 

彼は慌てて駆け寄り、肉が焦げ付く酷い匂いの中で妹を抱き上げた。すると彼女の口からは、か細い泡のような声が漏れた。

 

「わあああああああ!!!」

 

彼は妹を抱きしめ、大粒の涙を溢れさせながら天を仰ぎ、喉が枯れんばかりの声で叫んだ。

 

「やめろやめろやめろ!!俺から取り立てるな!!何も与えなかったくせに、取りたてやがるのか!!許さねえ!!許さねえ!!元に戻せ、俺の妹を!!でなけりゃ神も仏もみんな殺してやる!!」

 

彼の呪詛の言葉が辺りに響き渡ったその時、その背中を白刃が煌めき、彼はそのまま妹と共に倒れこんだ。

視線を動かせば、そこには片目を包帯で巻いた侍風の男と、女将であろう女が立っていた。

 

「こやつで間違いないか?」

「はい、そうでございます」

 

女将は、取り立て先を大怪我させたりと歯止めが効かなくなった彼を疎ましく思い、その厄介払いとして彼に刃を向けさせたのだった。

妹をこのような目に遭わせ、身勝手な理由で自分の命も狙う。そんな二人に彼の怒りと殺意はどんどん膨らみ、そして。

 

彼は落ちていた鎌を掴むと、驚くべき速さと跳躍で女将の喉笛にその刃を突き立てた。

 

「お前、いい着物だなあ」

 

驚愕を張り付け振り返る侍に、彼は地を這うような声で語り掛けた。

 

「清潔で肌艶もいい。たらふく飯を食って、綺麗な布団で寝てんだなあ。生まれた時からそうなんだろう。雨風凌げる家で暮らして、いいなあ、いいなああああ!!」

 

彼の口から零れるのは、呪いに満ちた嫉妬の声。侍は恐ろしさに一瞬だけたじろいだものの、刀を握りなおすと再び斬りかかった。

 

だが、

 

「そんな奴が目玉一個失くしたくらいで、ギャアギャアピーピーと、騒ぐんじゃねえ」

 

侍が刀を振り下ろすよりも早く、彼の鎌は男の顔を真っ二つに斬り裂いていた。

 

動かなくなった男をしり目に、彼は丸焦げになった梅を抱きかかえながら歩き出した。しかし、元々筋肉があまりつかない彼の力では、人一人を抱えて歩くことなどできず、すぐに倒れてしまった。

 

空気は冷え、いつの間にか空からは雪がちらつき、動かない二人を白く染めていった。

 

(誰も助けてくれない。いつもの事だ。いつも通りの俺達の日常。いつだって助けてくれる人間は、いなかった。どうしてだ?"禍福は糾える縄の如し"だろ。いいことも悪いこともかわるがわる来いよ・・・)

 

彼は理不尽な世の中を心の底から恨んだ。縒り合された縄の様に、幸福も不幸も同じだけやってくる。しかし実際はそうではなく、幸せな奴はずっと幸せなままで、不幸な奴はずっと不幸なまま。少なくとも彼らにとって、幸せだと思ったことなどなかった。

 

雪は容赦なく二人に降り積もり、体力と気力を容赦なく奪っていく。このままここで朽ちるのか。そう嘆いていた彼の耳に、場違いな声が届いた。

 

「どうしたどうした、可哀想に」

 

彼が顔を上げれば、そこには頭から血をかぶったような模様の服装に、白橡の色をした頭髪。その目には上弦・陸と刻まれていた男だった。

しかしその男の口には血がべっとりとこびりつき、その両腕には屍となった女が抱えられていた。

 

一目で、男が人間ではないということが分かった。

 

「俺は優しいから放っておけないぜ。その娘、間もなく死ぬだろう」

 

男は一瞬だけ目をぎゅっと細めると、穏やかな声色で言葉を紡いだ。

 

「お前らに血をやるよ、二人共だ。"あの方"に選ばれれば、鬼となれる。命というものは尊いものだ。大事にしなければ」

 

男は二人に血を注ぐと、ぞっとするような笑みを浮かべながら言い放った。

 

「さあ、お前等は鬼となり俺の様に十二鬼月・・・、上弦へと上がってこれるかな?」

 

こうしてのちに上弦の陸となる鬼、妓夫太郎と堕姫が生まれたのだった。

 

(鬼になったことに後悔はねえ。俺は何度生まれ変わっても必ず鬼になる。幸せそうな他人を許さない。必ず奪って取り立てる、妓夫太郎になる)

 

だが、そんな彼でも気がかりなことが一つだけあった。

 

それは、最愛の妹梅の事。もしも、もっといい店にいたらまっとうな花魁に。普通の親元に生まれていたら普通の娘に。良家に生まれていたら上品な娘になっていたのではないかと。

 

(染まりやすい素直な性格のお前だ。俺が育てたためにお前はこうなっただけで、奪われる前に奪え、取り立てろと俺が教えたから、お前は客の目玉を突いた。けど、従順にしていれば何か違う道があったのかもしれない)

 

――俺の唯一の心残りは、お前だったなあ、梅。

 

そんなことを考えていた妓夫太郎は、ふと目を見開いた。周りは真っ暗で、一寸先すら見えない。

 

(なんだあ、ここは。地獄、か?)

 

まあ自分のしたことを考えれば当然だな、と、自嘲気味に笑う彼の背中から、甲高い懐かしい声が響いた。

 

「お兄ちゃああん!!」

 

振り返ればそこには、一人の幼い少女が立っていた。

 

「お前、梅、か?」

 

妓夫太郎がそう尋ねると、少女はそれには答えずに彼に縋りつきながら叫んだ。

 

「嫌だ、ここ嫌い。どこなの?出たいよ、何とかして!」

「お前、その姿・・・」

 

妓夫太郎は言葉を紡ごうとしたが、それをグッと飲み込むと梅に背を向け歩き出した。梅はそっちが出口なのかと尋ねると、妓夫太郎はついてくるなと冷たく突き放した。

 

「なんで?待ってよ、アタシ・・・」

「ついて来んじゃねえ!!」

 

妓夫太郎が怒鳴りつけると、梅はびくりと体を大きく震わせた。そんな彼女をそのままに、妓夫太郎はそのまま歩きだした。

 

「さっきの事怒ったの?謝るから許してよ!」

 

歩きだす兄の背中に、梅は涙を目にいっぱいに溜めながら、唇を震わせて叫んだ。

 

「お兄ちゃんの事醜いなんて思ってないよォ!!悔しかったの、負けて悔しかったの。アタシのせいで負けたって認めたくなかったの。ごめんなさい、うまく立ち回れなくって。アタシがもっとちゃんと役に立ってたら負けなかったのに。いつも足引っ張ってごめんなさい」

 

泣きながら謝罪の言葉を口にする梅に、妓夫太郎は一度だけ足を止めた。だがそれでも彼は、梅を突き放すように冷たく言った。

 

「お前とはもう兄妹でも何でもない。俺はこっちに行くから、お前は反対の方、明るい方へ行け」

 

それだけを言うと妓夫太郎は再び、闇の中へ向かって足を進めた。そんな彼に、梅は唇をかみしめると、そのまま背中に飛び乗った。

 

「おい!!」

「嫌だ、嫌だ!!離れない、絶対に離れないから!!」

 

梅は妓夫太郎の背中に全身の力を込めてしがみつきながら、涙を飛び散らせて叫んだ。

 

「ずっと一緒にいるんだから!!何回生まれ変わっても、アタシはお兄ちゃんの妹になる、絶対に!!アタシを嫌わないで!!叱らないで!!一人にしないで!!置いてったら許さないわよ!!」

 

泣きじゃくる妹を、妓夫太郎は振り落とすことも振り払うこともしなかった。否、出来なかった。そんなこと、出来るはずもなかった。

 

「わあああん!!ずっと一緒にいるんだもん。酷いひどい!!約束したの覚えてないの!?忘れちゃったのォ!!」

 

梅の約束という言葉を聞いたとき、妓夫太郎の脳裏にかつての記憶がよみがえった。

それはまだ、二人が今よりずっと幼かったころ。降りしきる雪の中を、藁にくるまって寒さをしのぎながら、妓夫太郎が梅に行ってくれた言葉だった。

 

『俺たちは二人なら最強だ。寒いのも腹ペコなのも全然へっちゃら。約束する、ずっと一緒だ。絶対離れない。ほら梅、もう何も怖くないだろう?』

 

寒さと空腹で泣く梅を、妓夫太郎はずっと励ましてくれた。何もなくても、兄が傍にいるだけで他には何もいらなかった。

嬉しかった。怖くなんてなかった。その約束が、梅をずっと支えてくれていた。

 

「わあああん!!うわあああん!!」

 

ずっと泣き続ける梅をなだめながら、妓夫太郎はそのまま歩きだした。いつの間にか彼の両目からは数字が消え、歩くたびに彼もまた人に戻っていった。

 

そして二人はそのまま、地獄の業火に飲まれるように消えていった。

 

彼らが炎に飲まれると同時に、鬼の頸も塵となって消え失せた。彼等だったものを、炭治郎と禰豆子の手は優しく包みこんだ。

やがてそれは、月の光に照らされながら、まるで天へと昇るかのように消えていった。

 

「仲直り、出来たかな」

 

炭治郎が呟いた言葉に、禰豆子は力強くうなずいた。それを見て炭治郎も、微かに笑みを浮かべた。

 

そんな彼らの様子を、汐は少し後ろで眺めていた。自分たちをここまで追い詰めた鬼にさえ、あのように手を差し伸べる炭治郎。

その彼の優しさが、汐は時折怖ろしくなった。

 

(どうしてあんたは、そこまで優しいの。自分たちだけじゃない。他のも大勢の人間を傷つけ、殺めた奴らなのに)

 

何故彼らが鬼にならなければならなかったのか。それは汐にはわからないが、ただ一つだけわかったことがあった。

 

(あんた達はある意味幸せよ。あたしなんか、兄妹喧嘩をする相手すらいないのに・・・)

 

「馬鹿よ・・・。本当に、馬鹿なんだから・・・」

 

汐の小さな呟きは、誰にも聞かれることなく夜の闇に消えていった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



戦いが終わり、つかの間の平穏が戻ってくると思いきや・・・


妓夫太郎と堕姫の頸が塵となり消えたのを見届けた炭治郎は、空を仰ぎながら一つ、息をついた。

 

「終わったな・・・、疲れた・・・」

 

そう呟くと、背後から風に乗って汐の匂いが届き、炭治郎は思わず振り返った。

汐は少し悲しそうな顔をしながら、覚束ない足取りで炭治郎と禰豆子の傍へ歩み寄ってきた。

 

「終わったのね、今度こそ」

「ああ、そうみたいだ」

 

汐の言葉に炭治郎が答えると、彼女は炭治郎の姿をまじまじと見てから、呟くように言った。

 

「ボロボロね、あたし達。ときと屋の女将さんが見たら卒倒しそう」

「ああ、でも、生きてるんだ。俺達」

「・・・そうね、生きてるのよね。あんな奴らを相手にして・・・」

 

上弦の鬼。多くの柱を葬った、無惨の血が濃い鬼。そんな奴らと対峙し生き残ったことは、おそらく奇跡に近しいのだろう。

しかしそれでも、彼等は勝った。この勝利はきっと無駄なものにはならない。

 

少なくとも、汐達はそう思った。

 

「さて、あたし達も戻りましょうか。どうせ善逸がまた喚き散らしているだろうし」

「そうだな。帰ろうか、皆の所へ」

 

頷きあう二人を、禰豆子はすぐに抱えると善逸達のいる場所へと戻った。戻ってみれば案の定、善逸は痛い痛いと泣き喚き、目を覚ました伊之助は喚く善逸に力なくうるさいと言い続けていた。

 

炭治郎は汐と共にそんな彼等をそっと抱きしめた。温かな体温は、自分たちが生きている何よりの証になった。

 

汐は炭治郎の胸に顔をうずめながら、規則正しく脈打つ心音を聞いていた。

自分が生きている以上に、彼が生きていることが何よりも嬉しかった。守れたことが嬉しかった。

 

ゆっくりと薄れていく意識の中、汐の脳裏に師範である甘露寺の言葉が蘇る。

 

『女の子が本当に強くなれるのは、大切な人を守りたいという気持ちだから・・・』

 

(ああ、そうか。そうだったんだ。みっちゃんや鯉夏さんに指摘されるずっと前から。そう、初めて出会ってあの目を見た時から、あたしは――)

 

――竈門炭治郎が、好きなんだ。仲間としてだけじゃなく、もっと特別な意味で。

 

だからこそ、彼の幸せを心から願った。心の底から守りたいと思った。

命と誇りと、そして笑顔を。

 

「炭治郎・・・」

 

段々と迫ってくる闇の中、汐は重い口を必死で動かし言葉を紡いだ。

 

「・・・・・す・・・き・・・」

 

その小さな言葉を最後に、彼女の意識は闇の中に吸い込まれていった。

 

一方、別の場所では。

 

「ふぅん、そうか。ふぅん。陸ね。一番下だ、上弦の。陸とはいえ、上弦を倒したわけだ。実にめでたいことだな。陸だがな。褒めてやってもいい」

 

おそらく宇髄達の援護に来たであろう、蛇柱・伊黒小芭内は、傷ついている宇髄に対して、褒めているのか貶しているのか分からない言い方をしていた。

その態度に宇髄は呆れ、三人の妻たちはそれぞれ顔をしかめながら伊黒を睨みつけていた。

 

「いや、お前に褒められても別に・・・」

「そうですよ!」

「随分遅かったですね」

「おっ、おっ、遅いんですよそもそも来るのが!!おっそいの!!」

 

あまりの言い草に抗議する須磨とまきをに、鏑丸は鎌首を擡げ威嚇の声を上げた。

それにたいそう驚き、須磨は宇髄にしがみ付いてしまい、彼はその痛みに悲鳴を上げた。

 

「左腕は使い物にならず、左目も失ってどうするつもりだ?()()()()()の陸との戦いで。復帰までどれだけかかる。その間の穴埋めは、誰がするんだ」

 

相も変わらずネチネチと責め立てる伊黒に、宇髄は静かに首を横に振った。

 

「俺は引退する。流石にもう戦えねぇよ。お館様も許してくださるだろう」

 

宇髄のこの言葉に、伊黒は目を剥くと先ほどよりも棘のある声色で言い放った。

 

「ふざけるなよ、俺は許さない。ただでさえ若手が育たずに死にすぎるから、柱は煉獄が抜けたあと空白のまま。お前程度でもいないよりはマシだ。死ぬまで戦え」

 

しかし宇髄は再度首を横に振ると、口元に笑みを浮かべながらはっきりとした口調で告げた。

 

「いいや若手は育ってるぜ、確実に。お前の大嫌いな若手がな」

 

宇髄の言葉に、伊黒は何かを察したように大きく目を見開き、微かだが瞼を震わせた。

 

「おい、まさか。生き残ったのか?この戦いで――。竈門炭治郎と、大海原汐が・・・」

「ああ。しかも上弦の鬼に止めを刺したのも、あいつらだぜ」

 

凄いだろ?というかのようにすごむ宇髄をしり目に、伊黒はその事実を理解するまで少しの時間を要するのだった。

 

そして、その知らせははるか遠くの鬼殺隊本部。当主である産屋敷輝哉の耳にも届いた。

 

「そうか、倒したか上弦を・・・。よくやった天元!汐!炭治郎!禰豆子!善逸!伊之助!」

 

輝哉は討伐に関わった者全員の名を呼ぶと、激しくせき込み夥しい量の血を吐き出した。

その体に救う病魔は、以前の柱合会議の時に見せた時よりも、明らかに彼の体を蝕んでいた。

 

「輝哉様!!」

 

妻であるあまねは、えずく彼の背中をさすり、使いの鴉たちは血まみれになった畳を見て慌てたように鳴いた。

 

「百年!!百年もの間変わらなかった状況が変わった。あまね!」

「はい!」

「わかるか、これは"兆し"だ。運命が大きく変わり始める。この波紋は広がっていくだろう。周囲を巻き込んで大きく揺らし、やがてはあの男の元へ届く」

 

輝哉は血を手ぬぐいで拭うと、どこか遠くを見るかのように顔を上げた。その目には、この世のどこかにいる男への憎悪が宿っていた。

 

「鬼舞辻無惨。お前は必ず私たちが、私たちの代で倒す。()()()()()()()()()()()()()()()()・・・!!」

 

そこまで言いかけた輝哉は、激しくせき込み先ほどよりも大量の血を吐き出した。それを見たあまねは、すぐさま子供たちを呼び集めると指示を出すのだった。

 

 

 

 

 

*   *   *   *   *

 

抜けるような青空が広がり、穏やかな風は青々と茂った木々を優しく揺らしていく。

そんな中、開けた場所で一人薪を割る斧を振るっている男がいた。

 

少し赤みがかった髪に、同じ色の瞳の男は、ある程度の薪を割るとそれに縄を結び所定の場所に保管した。

そして流れる汗をぬぐい、一息つこうとしたときだった。

 

何処からか、温かく優しい歌声が風に乗って聞こえてきた。彼はふっと優し気な笑みを浮かべると、歌が聞こえてくる方へ足を進めた。

 

その先には一軒の家があり、歌はそこから聞こえてきていた。男が近づくと、家の中では真っ青な髪をした一人の少女が、布団の上で眠る幼い少女に歌を聴かせていた。

幼い少女はすうすうと規則正しい寝息を立てており、それを見た青い髪の少女は優し気に微笑んだ。

 

『綺麗な歌だね。子守唄かな?』

 

男が青い髪の少女に声を掛けると、彼女は小さく肩を震わせ顔を上げた。そして男の姿をみると途端に深々と頭を下げた。

 

『おかえりなさいませ、旦那様』

 

少女がそう言うと、男は困ったように眉根を寄せた。

 

『前も言ったけれど、その旦那様と言うのはやめないか?俺は君を使用人としてここに置いているんじゃないんだ』

 

男の言葉に少女は顔を上げると、凛とした表情で首を横に振った。

 

『いいえ。旦那様と奥様は、行き倒れていた私を助けてくださいました。命の恩人である方に尽くすのは、当然の事です』

 

髪の色と同じ色の真剣な目でそう言い切られ、男は何も言い返すことができず頭を掻いた。

すると、

 

『あら、すみれを寝かしつけてくれたの?ありがとぉ』

 

森の奥から籠一杯の山菜を持ち、背中に赤子を背負った、男の妻らしき女がにこにこと笑みを浮かべながらやってきた。

それを見た少女は先ほどと同じように頭を下げると『おかえりなさいませ、奥様』と同じように言った。

 

『う~ん。やっぱりその"奥様"っていうのは何だか慣れないわねぇ。ねえ、その呼び方じゃなくて、もっと別の呼び方にしてくれない?」

『別の呼び方、とおっしゃいますと?』

『そうねぇ。できれば名前で呼んでくれると嬉しいわぁ』

 

彼女は屈託のない笑顔でそう言うと、少女は迷うように視線を動かした後、小さな声でつぶやくように言った。

 

『すやこ様と、炭吉様・・・』

 

少女の口から出た言葉に二人は顔を見合わせると、炭吉は困ったように笑った。

 

『ううん、まだ少し固いなぁ』

『でもいいじゃない。旦那様、奥様よりはずっとましよぉ!』

 

そんな夫の背中を叩きながら、すやこはカラカラと笑い、彼女につられるように炭吉も少女も笑顔になった。

だが、炭吉はそんな少女を見て、微かに表情を曇らせると意を決したように口を開いた。

 

『まだ、何も思い出せないのかい?』

 

炭吉の言葉に、少女は少し悲しそうに俯くと、深くうなずいた。

 

この少女が彼等と出会ったのは、今から数週間ほど前。

川に洗濯に行こうとしていたすやこが、家から少し離れた場所に倒れている少女を見つけ、慌てて夫を呼び連れて帰った。

 

彼女はあちこちに傷跡があり、栄養失調で死ぬ寸前だった。しかし、二人の献身的な看病の結果、今はこうして彼らと共にこの場所で暮らしていた。

 

だが、少女は名前を含めすべての記憶を失っていた。身分が分かるものも何もなく、体は回復したものの記憶は何一つ戻っていなかった。

 

『申し訳ありません』

『どうして謝るのぉ?あんたは何も悪くないじゃない』

 

哀し気な目で謝る少女に、すやこは首を横に振って言った。

 

 

『例え記憶が戻っても戻らなくても、今こうしてここにいるあんたは、私たちの家族よ。だから、あんたは何も気にしなくていいの』

『すやこの言う通りだ。だから顔を上げて。そんな顔をしていたら、俺達も悲しくなる』

 

二人の言葉に少女は、胸の奥から湧き上がってくる温かいものを感じ、悲しみとは異なる涙が青い瞳からあふれ出した。

そんな彼女の背中を、二人は優しくなでた。

 

『そうだ。この際だからこの子を呼ぶ名前を決めてしまわない?』

『名前?』

『うん。この子が本当の名前を思い出すまでの、仮の名前。いつまでもあんたとか呼ぶのも忍びないでしょう?』

 

すやこの提案に炭吉は、それはいいと言わんばかりに顔を輝かせた。

 

『でも、いきなり名前を付けようといっても、どんな名前にするんだ?』

『そうねぇ。やっぱり一目でその子だってわかる名前がいいわねぇ』

 

二人は少女を見ながら首をひねり、少女はぽかんとした表情のまま二人を見つめていた。

 

『やっぱり青い髪が綺麗だから、それにあやかった名前がいいんじゃないか。あおい、あやめ、りんどう、う~ん・・・』

 

炭吉は腕を組みながら、青を連想させる言葉を次々に口にするが、どれも決定打にはならず表情を曇らせた。

 

『意外と難しいな。君は、何か希望はあるかい?』

 

炭吉が尋ねると、少女は首を横に振り、『お二方が考えてくださるならなんでも』と答えた。

ますます困惑する炭吉だが、すやこはふと、何かを思いついたように声を上げた。

 

『そうだ。"うみ"というのはどう?』

『うみ?』

『うん。私は見たことがないのだけれど、国の外には真っ青な海が広がっているっていうでしょ?この子の髪の色は、その海の色ときっと似ているんじゃないかって』

 

見たことが無いのに何故そう言い切れるのか、炭吉は少し呆れた表情ですやこを見た。だが、"うみ"という名前は響きも悪くないし、何より少女がその名前の候補を聞いた瞬間、僅かに反応したのを炭吉は見逃さなかった。

 

『気に入ったみたいだね。これからは君の事を"うみ"と呼んでもいいかな?』

『はい、構いません。お二方が私に下さった、大切な名前ですから』

 

少女、"うみ"の言葉に、炭吉とすやこは満足げな笑みを浮かべるのだった。

 

*   *   *   *   *

 

 

パタンという音と共に、ツンと鼻につく消毒液の匂い。そんな空気に包まれながら、汐はゆっくりと目を開けた。

ぼやけた視界の中に、見慣れない天井がゆっくりと映る。

 

汐は、ニ三度瞬きをしながら大きく目を開くと、そこは医療器具があちこちに置かれた小さな部屋だった。うまく働かない頭で顔を動かすと、視界の隅で何かが動く気配がした。

 

「汐さん!」

 

それはパタパタと足音を立てると、部屋を飛び出し汐が目を覚ましたことを誰かに告げていた。

すると間髪入れずに部屋の中に別の者がなだれ込むようにして入ってきた。

 

「よかった、気が付いたんですね!」

 

汐の前には、三人娘とアオイが涙目になりながら立っており、嬉しさのあまりか泣き喚いた。

 

「ここ・・・は?」

 

汐が尋ねると、なほは泣きながら「ここは蝶屋敷ですよ」と答えた。

 

「汐さん、吉原の戦いの後二か月近くも意識が戻らなかったんですよ!しかも、眠っている間に二回も心臓が止まって、それで、それで・・・!」

 

アオイは我慢ができなくなったのか、汐の布団に突っ伏して泣き出し、きよとすみも、なほに抱き着きながらまた泣き出した。

 

そんな彼女たちを見て、汐は困ったような顔をして口を開いた。

 

「あの・・・。つかぬことをお聞きしますが・・・」

「はい。・・・え?」

 

いつもの口調じゃない汐に違和感を覚えた彼女たちは、弾かれた様に顔を上げた。だが、次に汐が口にした言葉に、皆は絶句した。

 

「あなた方はいったい誰なのですか?そして私は、誰なんでしょうか?」

 

汐の透き通るような声が四人の耳を通り抜け、あたりにしばしの沈黙をもたらした。

 

そして、数拍置いた後。

 

「「「「えええええええーーーーーっ!!!???」」」」

 

耳をつんざくような四人の声が、屋敷中に響き渡った。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

二十二章:変わり行くもの


時間は少しだけさかのぼり。

 

機能回復訓練を終えた善逸は、流れ出る汗を拭きながら廊下を歩いていた。

彼は、ここに運び込まれて次の日に目を覚ましたものの、両足が折れていたため治るまでにかなりの時間を要した。

やがてその足も治り、元通りに動かすための訓練を行っていた。

 

相も変わらず訓練は厳しかったが、この屋敷の女性たちが自分の為に(というには些か語弊があるが)訓練に付き合ってくれたため、それを糧にして彼は耐えていた。

 

だが、そんな善逸にも気になることはあった。それは、未だに目を覚まさない三人の仲間たちの事だった。

 

善逸はあの時唯一、鬼の猛毒を受けなかったこともあり一番に目を覚ました。しかし、他の三人はそうもいかず、特に伊之助は毒による呼吸の止血が遅れ、汐に至っては二回も心停止を起こしたということだった。

 

あの三人が死ぬわけがないと思いつつも、もしものことが起こったらどうしようという相反する感情が、善逸の胸を締め付けていた。

 

そんな時だった。

 

「「「えええええええーーーーーっ!!!???」」」」

 

何処からか耳をつんざくような叫び声が聞こえ、善逸は思わず耳を塞いだ。だが、それがアオイたちの声であると気づいた彼は、すぐさまその場所へと足を進めた。

 

「ど、どうしたの!?今のすごい声・・・」

 

善逸がドアを開けて中を覗くと、そこには目を覚ましている汐と、青ざめた顔のアオイたちが立っていた。

 

「汐ちゃん!よかった、気が付いたんだねぇ!!」

 

汐の姿を見た善逸は、嬉しさのあまり目頭が熱くなるが、ふと奇妙なことに気づいた。

 

アオイたちの"音"が、どうも喜んでいるそれではなく、目の前の汐も、いつもの"音"でなくなっていた。

 

「あれ?何、この音。それに君、汐ちゃん・・・だよね?」

 

善逸が震える声で尋ねると、汐は首をかしげながら善逸をまじまじと見て言った。

 

「どちら様でしょうか?」

 

その言葉を聞いて、善逸の思考は一瞬止まり、そして

 

「えええええええーーーーーっ!!!???」

 

アオイたちと同様に大声を上げるのだった。

 

 

*   *   *   *   *

 

「・・・では、次の質問です。今は何時代ですか?」

 

しのぶの問いかけに汐はすぐに「大正時代です」と答えた。

 

「はい、結構です。では次に、ここにある絵の中から生き物を選んでください」

 

しのぶに手渡された絵には、兎、筆、車、鳥、本、時計、犬、猫、傘が描いてあり、汐は迷いなく兎、鳥、犬、猫の絵を指さした。

 

「はい、わかりました。ありがとうございます」

 

しのぶはそう言って診療録に何かを書きこむと、心配そうな顔で並んでいる善逸達を見つめた。

 

「これで検査は終了です。その結果――」

 

しのぶが検査結果を告げようとしたその時だった。

 

「いやあああああ!!!」

 

耳をつんざくような声が聞こえ、善逸は思わず耳を塞いだ。そして間髪入れずに、扉を突き破る勢いで緑と桃色の塊が、転がるように入ってきた。

 

聞いたわよしのぶちゃん!!しおちゃんが記憶喪失だなんて、わ、私は信じないわっ!嘘よね、嘘だって言って!こんなの、こんなの、あァァんまりよォォーーッ!!」

 

甘露寺は部屋に入るなり、泣きじゃくりながら汐に縋りついた。突然の闖入者に、汐はどうしたらいいかわからず、困惑した表情で言った。

 

「あの、すみません。この破廉恥な格好の人を何とかしてくれませんか?」

 

そう言う汐に甘露寺は「しおちゃんだわ!この歯に物を着せない言い方はしおちゃんに間違いないわ!」と叫んだ。

 

「甘露寺さん。お気持ちは痛いほどわかりますが、ここは病室ですよ」

 

見かねたしのぶが冷静に諭すと、甘露寺は涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔を向けると、手渡された手ぬぐいで顔を拭いた。

 

「検査の結果、言葉の意味や物の使い方は覚えていますから、汐さんが失っているのは自分を含め、周りの情報の殆どの記憶の様です。つまり、彼女が鬼殺隊員として鬼を滅する仕事をしていた、ということも、今は覚えていないということになります。それが一時的なものなのか、そうでないのかは今はわかりかねますが――」

 

しのぶの話を、甘露寺鼻を啜りながら聞いていたが、次の彼女の言葉に衝撃を受けた。

 

「もしもこのまま汐さんの記憶が戻らなければ、彼女には鬼殺隊を辞めてもらうことになるでしょう」

 

しのぶの言葉に甘露寺は勿論、善逸達も目を見開いた。甘露寺は何かを言いかけたが、汐の顔を見てその口を閉ざした。

 

汐の悲しい過去の事は、大筋だが知っていた。今の汐はその過去を忘れている。もしもこのまま彼女が忌まわしい過去を忘れたまま、新しい人生を生きていくことも、決して悪いことではないのかもしれない。甘露寺はそう思った。

 

一方、それを聞いたカナヲは、驚いた表情で汐を見つめた。光の無い目でどこかを見つめる汐に、かつて自分に何度も挑んできた面影は微塵もなかった。

 

結局その後はまとまった話もできず、甘露寺は腑に落ちないまま任務へ向かった。そして汐は、アオイたちから自分がいる場所は蝶屋敷と言い、鬼殺隊最高位である柱の一人、蟲柱・胡蝶しのぶが構える屋敷であると教えられた。

 

鬼を退治する組織、鬼殺隊。柱、蝶屋敷。どれもが汐には覚えがなく、そして自分自身もここに属していたという話を聞いても、全く思い出すことはできなかった。

 

あまりに多くの情報を与えられると、脳の許容範囲を超えてしまい体調を崩してしまうので、その日はそれ以上の事はできなかった。

 

次の日。汐は運ばれてきた流動食を口にしながら、窓の外を見ていた。鳥はさえずり、温かな陽の光が汐の部屋を柔らかく照らす。

その美しい世界ですら、今の汐には覚えがなかった。

しかしそれでも、汐はアオイや、同期と言われたカナヲと少しずつ話をしながら、自分の置かれている状況を少し実把握していった。

 

この世には鬼という、人を喰う化け物が存在しており、自分は鬼殺隊という組織に属し、仲間と共に鬼を倒していた。そして大きな戦いで負傷し、この場所へ運び込まれて二か月近く意識が戻らなかったという。

 

(私が鬼を倒す力を持っていたなんて、とても信じられない)

 

それを聞いて、汐の身体は震えた。自分がそのような事を成し遂げていたことが、とても信じられなかった。

だが、周りの者たちの反応を見る限り、それは嘘ではないようだった。

 

(でももしそれが本当だとしたら、少なくとも私は誰かの役に立てていたってことなんだ。そうだったら、凄く嬉しいな)

 

自分が誰かの助けになることができた。そう思うだけで、汐の心は少しだけ軽くなるのだった。

 

一方。

 

その日の訓練を終えた善逸は、一人部屋に戻る廊下を歩いていた。善逸は、未だに汐が記憶を失っていることに納得ができず、心の中に靄のようなものを抱えていた。

 

(汐ちゃん、本当に俺たちのこと覚えていないんだ。せっかく意識が戻ったのに、こんなの酷すぎるよ)

 

変ってしまった汐の音を思い出しながら、善逸は悔しそうに表情をゆがめた。

 

ぶっきらぼうで、生意気で、乱暴者で。けれど、決して何者にも屈することなく、前を見て自分の足で立っている少女。

態度も口も悪いが、とても優しく、臆病者の自分を奮い立たせてくれた頼れる存在だった。

 

(炭治郎が目を覚ましたら、きっと悲しむだろうな。だって汐ちゃんは炭治郎の事が・・・)

 

二か月ほど前のあの時。汐が意識を失う寸前、善逸は彼女が発した言葉を聞いていた。

 

たった一言の言葉だったが、その言葉には炭治郎への想いが込められていた。

腹立たしいと思う気持ちすら起きない程の、真っ直ぐな想いだった。

 

(しのぶさんは無理に思い出させない方がいいっていうけれど、汐ちゃんにとって炭治郎への気持ちは原動力だ。このまま思い出せないなんて、あんまりだぞ)

 

善逸は一つ息をつくと、両手で自分の顔をニ三度叩き、意を決したように顔を上げた。

 

(よし!)

 

善逸は意を決したような表情で、自室へと戻っていくのだった。

 

 

*   *   *   *   *

 

 

それから、汐の身体は驚異的な回復力を見せ、目が覚めてから五日後には、ほぼ支えなしで歩けるようになった。

そんな汐に、時折見舞いに来ていた隠達は驚きを通り越して恐れすら抱いていた。

 

だが、体は回復しても汐の記憶は未だ戻らず、しのぶは苦悩の表情を浮かべながらため息をついた。

 

(汐さんには気の毒ですが、記憶が戻る兆候がない以上、そろそろ手続きを考えなくてはいけませんね)

 

勿論、これは最終手段としてできれば使いたくない手だった。しかし、今の汐はとても鬼殺隊員として戦える状態ではない。

今までもやむを得ず戦線を退いたものは、しのぶもいやというほど見てきた。元音柱、宇髄天元ですらそうだった。

 

(だけど、本当にこれは正しいことなの?少なくとも、私たちにとって汐さん、ワダツミの子の力は大きな戦力になる。それが失われるということは、鬼殺隊にとって大きな痛手。でも、それ以上に私は彼女には・・・)

 

しのぶはもやもやとする胸の中を抑えるかのように、ぎゅっと隊服を掴んだ。今までに感じたことのない感情に、戸惑いすら見せていた。

 

(姉さん。私、どうすればいいの?何が彼女にとって正しいことなの?)

 

そんなことを考えていたしのぶだったが、ふいに扉を叩く音がしてはっと顔を上げた。

 

「どちら様?」

 

しのぶがそう声を掛けると、扉の向こうから聞こえるくぐもった声に、彼女は目を見開くのだった。

 

その頃。訓練を午前中で終えた善逸が向かったのは、汐が今使っている病室だった。

 

善逸は一度深く深呼吸をすると、右手の甲で三度扉をたたいた。

 

「汐ちゃん、いる?俺だよ、我妻善逸。君とその、少し話がしたいんだ。いいかな?」

 

すると扉の向こうから、「どうぞ」という汐の声が聞こえた。善逸はそのまま、そっと扉を開けて中に入った。

 

汐はベッドに座ったまま本を読んでいた。それは、三人娘たちから借りた、海の生き物の図鑑だった。

汐が海で育ったことを聞いていた善逸は、それを見て大きく目を見開いた。

 

「汐ちゃん、もしかして何か思い出したの!?」

 

善逸がそう言うと、汐は首を横に振って少し寂しそうな声で答えた。

 

「いいえ。ただ、何故だかわかりませんが、海の生き物を見ているとなんだか落ち着くんです。全く知らないことばかりなんですけどね」

 

困ったように笑う彼女から聞こえてくる音に、善逸の胸は締め付けられた。不安と焦りに満ちた、聞くに堪えない音。

善逸はそんな汐の傍に座ると、真剣な表情で口を開いた。

 

「汐ちゃん。君の記憶が戻るかどうかはわからないけれど、見て欲しい場所があるんだ」

「見て欲しい場所?」

「うん。君の体調がよかったら、の話なんだけれど」

 

無理はしなくていい、と善逸は言ったが、彼の真剣な顔つきを見て、汐の心に少しだけ波が立った。

 

「いいえ、大丈夫です。連れて行ってください、我妻さん」

 

汐の言葉に善逸は頷くと、彼女の手を取って部屋を出た。

すると、汐の為に本を持ってきていたすみと、廊下でばったりとあった。

 

「あ、善逸さん。それに汐さんも。どこに行くのですか?」

「屋敷の裏山に行こうと思っているんだ。あ、勿論、無理はさせないよ。病み上がりの女の子に、山登りをさせるつもりはないんだ。ただ・・・」

 

口ごもる善逸を、汐は怪訝そうな表情で眺め、すみは何かを察したようにうなずいた。

 

「わかりました。しのぶ様やアオイさんには、私から伝えておきます。ですが、汐さんはまだ歩けるようになったばかりですから、くれぐれも無理はさせないでくださいね」

「勿論だよ、ありがとう。じゃあ、行こうか、汐ちゃん」

 

善逸の言葉に汐は頷くと、すみに頭を下げて善逸と共に歩きだした。そんな二人の背中を、すみは祈るような想いで見つめていた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



時間は遡り。

 

汐の事は、アオイたちの心にも影を落としていた。特にアオイは、本来なら自分が行くはずだった任務だったため、自分のせいで汐達があんな目に遭ってしまったと思い込み、責任を感じていた。

 

アオイの手伝いをしながら、カナヲは心配そうな顔をしていた。それはアオイの事も勿論だが、変わり果ててしまった汐を思い出すとカナヲの心は激しく痛んだ。

 

(どうしてこんな気持ちになるんだろう。あの時も、師範が汐に鬼殺隊員をやめてもらうって言った時、胸がものすごく痛くなった。こんな気持ちになるなんて、今まで一度もなかった)

 

カナヲは小さくため息をついて空を見上げた。もやもやした気分とは裏腹に、空は見事に晴れ渡っていた。

 

(私にできることは何だろう。汐がこのまま鬼殺隊を辞めてしまう。そんなの、絶対に嫌だ)

 

カナヲは意を決したように顔を上げると、アオイにちょっと出てくるとだけ告げると、そのまま彼女は走り去っていった。

その突発的な行動に、アオイは目を見開き慌てて彼女の後を追った。

 

「師範!!」

 

カナヲが向かったのは、任務があるとき以外は何時もいる、しのぶの部屋。しのぶはカナヲが血相を変えてやってきたことに驚き、目を見開いた。

 

「カナヲ?そんなに慌ててどうしたの?」

 

しのぶがそう言うと、カナヲは戸惑った表情で視線を泳がせた。今まで彼女がこのような表情をしたことはなく、しのぶの心は少しだけ不安になった。

 

だが、次に彼女の口から出てきた言葉に、しのぶはさらに驚いた。

 

「お願いします、師範!汐の除隊を、もう少しだけ待ってください!せめてあと、あと一週間だけ猶予をください!!」

 

カナヲは叫ぶようにそう言うと、しのぶに向かって頭を下げた。

しのぶは今まで一度たりとも、カナヲがこのような大声を上げたのを見たことはなかった。初めて彼女を迎え、継子としてだけでなく家族として受け入れた時ですら、こんなことは起こったことはなかった。

 

「もしかしたら、何かのきっかけで記憶が戻るかもしれないし、きっと汐は鬼殺隊を辞めることを望んでいません。どうしてそう思ったのは、よくわからないけれど。でも、このまま汐が今まで戦ってきたことを、なかったことにはしたくないんです!」

 

カナヲの言葉に、しのぶは表情を固まらせたまま彼女を凝視していた。感情表現に乏しかった彼女が、こうもはっきりと自分の意見を口にし、直談判までしてくることに、驚きと共にうれしさを感じた。

 

だが、しのぶがそれを感じる前に、今度はアオイが焦りを顔に張り付けながら、しのぶの部屋に転がり込んできた。

 

「しのぶ様!」

 

アオイはそのまましのぶと向き合うと、カナヲ同様に頭を下げながら言った。

 

「私からもお願いします。汐さんの手続きを、もう少しだけ待ってください。汐さんには、私が知らない沢山の事を教えてもらいました。私のいる意味を、彼女は教えてくれました。だから、その・・・。このまま汐さんが鬼殺隊として戦っていたことを、なかったことにしたくないんです!」

 

アオイの口からも、カナヲと同じ言葉が出てきたことに驚きつつも、汐がこのまま鬼殺隊を辞めることを望んでいないものが多いことに嬉しさを感じた。

 

「お願いします、師範!」

「お願いします、しのぶ様!」

 

カナヲとアオイが頭を下げる中、遠くからこちらに向かってくる足音が響き渡った。しかもそれは一人の者ではなかった。

 

「「「しのぶ様!!」」」

 

カナヲとアオイを押しのけるように、なほ、きよ、すみの顔が隙間から現れ、これにはしのぶは勿論、カナヲたちもたいそう驚いた。

 

「私達からもお願いします!汐さんの手続きを待ってください!」

「汐さんは今、頑張って記憶を取り戻そうとしています!」

「このまま汐さんの全てをなかったことにしないでください!」

 

三人娘たちも泣きながら必死で、汐の手続きを待つように訴えた。それを見たカナヲとアオイも、必死でしのぶに訴えた。

 

こうまでされてしまっては、流石に無下にするわけにはいかない。しのぶは目を伏せると、少し間をおいて口を開いた。

 

「わかりました。あと一週間だけ待ちましょう。ですが、それでも記憶が戻らない場合は、汐さんご本人ともきちんと話しをして、これからのことを決定します。いいですね?」

 

しのぶの言葉に、カナヲたちは頷き、猶予をもらえたことを喜んだのだった。

 

*   *   *   *   *

 

「足元に気を付けて。それと、少しでも疲れたらすぐに言ってくれ」

「はい、ありがとうございます」

 

汐を連れ出した善逸は、汐の体調を気遣いながら裏山へ向かっていた。

ここは、かつて彼らがお世話になった時、伊之助の遊び場や汐の修行場となった場所であった。

 

特に汐は、全集中・常中を覚える為に、ここで発声練習を行っていた。そんな思いれのある場所であるならば、汐の記憶が戻る何かのきっかけになるかもしれない。

 

善逸は汐の手を引きながら、ゆっくりと足を進めた。

空は澄み渡り、風は心地よく、出かけるには最適な天気だった。汐はあたりを見回して景色を楽しむが、彼女の"音"は依然として変わらなかった。

 

「ここで君はよく歌の練習をしていたんだよ」

「歌、ですか?」

「うん。君はとっても歌が上手でね。時々俺達や屋敷のみんなにも、歌を聴かせてくれていたんだ」

 

善逸はそう言って、思い出すかのように目を細めた。汐は自分が歌を好きだったという新たな情報を飲み込もうと、目を閉じたその時だった。

 

「っ・・!」

 

途端に頭に軽い痛みが走り、汐は咄嗟に頭を抑えた。それを見た善逸は、慌てて汐に駆け寄った。

 

「汐ちゃん、大丈夫!?やっぱり無理をさせちゃった!?」

「い、いいえ。少し頭が痛くなっただけです。もしかしたら、何か思い出せるかもしれません」

 

汐はそう言って笑みを浮かべるが、顔色が少し悪く、"音"も少しだが乱れていた。

善逸は、そんな汐に向かって首を横に振ると、きっぱりと言った。

 

「いや、駄目だ。無理をして君の体調が悪くなったりしたら、本末転倒だ。戻ろう。焦る必要はないから」

 

善逸はそう言うと、渋る汐の手を引いて屋敷への道を戻った。

 

戻って来た二人は、何やら屋敷内が騒がしくなっていることに気づいた。何かあったことは明白であり、善逸はびくりと体を震わせた。

だが、隣に立つ汐の不安げな顔をみて、意を決して足を進めた。

 

「あ、善逸さん!大変です!!」

 

屋敷に入るなり、なほが慌てた様子で近寄ってきた。だが、彼女から感じた"音"に、善逸は先ほどとは別の意味で肩を震わせた。

 

「伊之助さんが目を覚ましたんです!」

「伊之助が!?いつ!?」

「お二人が裏山へ行ってから間もなくです。今はしのぶ様が検査をしていますが、少なくとも命に別状はなさそうとのことです」

 

なほの言葉に、善逸はうれしさのあまり目を潤ませ、汐はそんな彼を見て不思議そうに首をかしげていた。

 

「あ、伊之助は俺達の仲間だよ。嘴平伊之助。もしかしたら、何か思い出せるかもしれない。行ってみよう」

 

善逸はうれしさのあまり上ずった声でそう言うと、汐の手を引いて走り出してしまい、なほから走らないように、と注意を受けてしまった。

 

「伊之助!」

 

善逸が汐と共に病室へ行くと、既に検査が終わった後なのか中には伊之助以外は誰もいなかった。

 

「ん?お前は、紋逸か!」

 

伊之助は目を覚ましたばかりだというのに、いつもの通りの大声でそう言った。アオイたちから、毒のせいで呼吸による止血が遅れてしまい、一時期本当に危なかったことを聞かされていた善逸は、伊之助の生還を心から喜んだ。

 

一方汐は、伊之助の顔をじっと見つめており、その視線に気づいた伊之助が汐の方を向いた。

 

「なんだお前、って、歌女じゃねえか!畜生!俺が一番最初に目覚めたと思ったのに、先を越されちまったぜ」

「いや、一番最初に起きたのは俺だからね。お前が起きるよりも二か月近く前に起きてるからね」

 

善逸の冷静な突っ込みに、伊之助は憤慨して頭から湯気を出すが、ふと違和感に気づき顔を上げた。

 

「お前、なんか変だぜ。いつもならギャースカすぐに喚くのに、今日にいたっては静かじゃねえか。気味悪いぜ」

「おい、そんな言い方はないだろ?今汐ちゃんはちょっと取り込んでて・・・」

 

だが、善逸が言い終わる前に、汐はそっと伊之助の隣に立つと、その翡翠色の目をじっと見つめた。

 

「あなたは、私を知っているのですか?」

「・・・はぁ?」

 

汐の言葉の意味が分からず、伊之助は顔を少し歪ませるが、汐の今まで聞いたことのない口調に鳥肌が立った。

 

「お前、本当に歌女か?なんだその気持ち悪い喋り方」

「だから、話を聞けよ!今汐ちゃんは少し・・・」

 

善逸が慌てて伊之助を窘めようとしたその時、突然汐の頭に激痛が走った。

 

「いっ、いたい・・・っ!!」

 

汐は思わず頭を抱えてしゃがみ込み、それを見た善逸は慌てて汐の傍に駆け寄った。

 

「汐ちゃん、大丈夫!?しっかり、しっかりするんだ!!」

 

汐の"音"は、これ以上ない程乱れており、顔色も悪く汗が吹き出していた。その尋常じゃない様子に、流石の伊之助も閉口し目を見開いた。

 

「お、おい。そいつ、一体どうしたんだ?」

 

伊之助が思わず尋ねるが、善逸は「後で話す」とだけ言うと、そのまま汐を連れて伊之助の病室を後にした。

残された伊之助は、呆然と二人が去った方向を見つめていた。

 

その後、汐は運よくアオイと会うことができ、善逸は汐を連れ出してしまった事を深く謝罪すると、彼女を部屋へ連れて行ってくれるように頼んだ。

アオイは何か言いたげな顔をしたが、顔色が悪い汐のいる前で騒ぎを起こすわけにもいかず、そのまま汐を連れて病室へと戻った。

 

「いいですか、今日はもう絶対に出歩いたりしないでくださいね」

 

アオイはしっかりと釘を刺すと、目覚めたばかりの伊之助の元へと駆け出していった。そんな彼女の背中を見つめることなく、汐の意識は、深い闇の中へと沈んでいくのだった。

 

*   *   *   *   *

 

それからどれだけの時間が経っただろうか。

暗闇の中、汐はゆっくりを目を開けた。あたりはすでに夜の帳がおち、微かな月明かりだけが窓辺から部屋を照らしていた。

 

(私、ずいぶん眠っていたみたい)

 

汐はゆっくりと体を起こし、そっとベッドを下りた。喉が渇いていたため、備え付けの水を飲むと、ぼんやりとしていた意識が少しはっきりしてきた。

 

(さっきのあの人、嘴平さんって言ったっけ。あの人は私を知っていた。もしかしたら、他にも私を知っている人がいるかもしれない)

 

汐は窓の外を見て、月がかなり高い位置に上っていることに気が付いた。おそらく、今はかなり遅い時間なのだろう。

今病室へ行けば流石に迷惑が掛かると察した汐は、もう一度ベッドに戻り、目を閉じた。

 

しかし、一度目覚めてしまったせいか、なかなか寝付くことができない。仕方なく汐は身体を起こすと、そっと扉を開けて廊下へと出た。

 

明かりがないせいか、夜の屋敷内はとても不気味だった。辛うじて差している月の光だけが、汐の進む道をぼんやりと照らしていた。

その不気味さに汐は臆し、やっぱり部屋へ戻ろうとしたときだった。

 

突然、汐の後方で小さな物音がした。汐は悲鳴を上げそうになる口をとっさに抑え、反射的に振り返った。

 

(何?何かいるの!?)

 

途端に身体が冷たくなり、息は乱れ、心臓は早鐘の様に打ち鳴らされ始めた。すると、その音は段々と汐の方へ近づきつつあった。

 

普通の者なら、すぐに部屋に戻り籠城するのだが、何故か汐は、それよりもその音の正体が気になった。

視線を鋭くし、警戒心を最大にしながら、向かってくる者を迎え撃とうと構えた。

 

そしてついに、暗闇の中から音の正体が姿を現した。

 

「!?」

 

汐は目を大きく見開き、身体を強張らせた。そこにいたのは――

 

「お、女の子?」

 

緑色の竹を咥えた、桃色の瞳をした少女、禰豆子だった。

 

禰豆子は汐の姿を認識すると、表情を緩めて汐に飛びついた。

最近歌を聴かせてくれないどころか、全く会いに来ない汐に、禰豆子はしびれを切らしていた。

 

兄である炭治郎も未だに目覚めず、善逸も前程は来なくなってしまい、禰豆子の寂しさは募る一方だった。

そんな中、いつものように夜の散歩をしていた禰豆子は、思わぬところで汐に出会えたことで嬉しくなり、思わず飛びついた。

 

だが、

 

「ひっ、こ、来ないでっ!」

 

汐は怯えた表情で小さく叫ぶと、飛びついてくる禰豆子を振り払った。その勢いで禰豆子は尻餅をつき、驚いた様子で汐を見上げた。

 

今まで汐がこんなことをしたことはなく、今禰豆子に見せている表情も、見たことのないものだった。その現状を理解するまで、禰豆子は少しばかりの時間を要した。

 

そして、自分が拒絶されたと分かると、禰豆子の両目から大粒の涙があふれ出した。

 

(えっ!?)

 

いきなり泣き出した見知らぬ少女に、汐は思わず息をのんだ。もしや、この少女は自分を知っているのかもしれない。

例えそうじゃなくても、いきなりこのような態度をとられれば、誰だって悲しくなるだろうと、汐ははっとした表情で禰豆子を見つめた。

 

「あ、ご、ごめんなさい。いきなりの事で驚いて・・・」

 

だが、汐が言葉をつづける前に、禰豆子はそのままくるりと背を向けると、廊下の奥へと走り去ってしまった。

 

「ま、待ってください!」

 

汐は思わず叫ぶと、闇の中へ消えていった禰豆子を追った。

 

(何故だろう。あの子の涙を見た瞬間、胸がすごく苦しくなった。きっとあの子は、私を知っている。ううん、それだけじゃない。とっさのこととはいえ、酷いことをしてしまった。謝らないと・・・!)

 

汐は必死で走り去る禰豆子を追った。このまま彼女を見失ってはいけない気がする。

汐の中の何かが、そう告げていた。

 

やがて禰豆子は、開きっぱなしの扉のある一部屋へと飛び込んだ。そして、ベッドの横にある箱の中に入り込み、扉を閉めた。

汐は禰豆子が入った部屋を見つけると、そのまま同じように中へと飛び込んだ。

 

「どこですか?どこに、いるのですか?」

 

汐が辺りを見回すと、ベッドの横に大きめの箱があるのが見えた。そこから微かに音がすることから、禰豆子がそこにいることは間違いなかった。

 

「ごめんなさい。いきなり驚きましたよね?言い訳に聞こえてしまいますが、今、私は記憶をなくしているようで、あなたの事を思い出せないんです。あなたが私を知っていても、私はあなたを覚えていないんです」

 

汐は箱越しに、禰豆子に向かって声を掛けた。それを聞いていた禰豆子は、言葉の意味を理解するべく、箱の中で小さく首をひねった。

 

「でも、私の仲間だという方々が、私の記憶を取り戻そうとしてくれています。私自身も、皆さんの事を思い出したい。勿論、あなたの事も。だからお願い、もう一度顔をよく見せて。今度は、あんなことしないから」

 

汐が必死の思いで訴えると、箱の扉がゆっくりと開いた。そしてその中から、禰豆子が姿を現した。

 

やはり禰豆子の顔に、汐は覚えがなかった。しかし、汐はさざ波の様に心が騒ぐのを感じた。

 

ふと、禰豆子は徐に隣のベッドを見つめた。それにつられるように、汐も顔を動かした。

そしてそこに横わたる人物を見て、汐は大きく目を見開いた。

 

そこには、頭と顎に包帯を巻き、両腕を点滴の細い管に繋がれた、日輪のような耳飾りを付けた少年が眠っていた。

 

その顔を見た瞬間、汐の心はこれ以上ない程騒ぎ出したのだった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



「いい?あなたは意識が戻ったとはいえ、まだ本調子ではないのだから、くれぐれも無茶はしないように」

 

ベッドに横たわる伊之助に、アオイは真剣な表情で釘を刺した。すると伊之助は、文句も言うこともなく俯いたまま口をつぐんでいた。

 

「伊之助さん?」

 

黙り込む伊之助に、アオイは不安になって声を掛けると、伊之助はぽつりとつぶやくように言った。

 

「なあ、あいつが俺達の事を忘れちまってるって、本当なのか?」

 

詳細を善逸から聞いたのだろう。伊之助の言葉に、アオイはそれが汐の事を指していると分かると、悲し気に目を伏せた。

 

「なんでそうなっちまったんだ?あいつ、元に戻んのか?」

 

伊之助の問いに、アオイは小さく「分からない」と言って目を伏せ、伊之助はざわつく胸を抑えるかのように、右手でぎゅっと服を握った。

 

「・・・今、皆が汐さんの記憶を戻すきっかけを探しているわ。そして汐さん自身も、記憶を取り戻そうと頑張ってる。だから、あたしももっとしっかりしないと」

 

それは伊之助にというよりも、自分に言い聞かせているようであり、そんな彼女の背中を伊之助は真剣な面持ちで見ていた。

 

 

*   *   *   *   *

 

翌日。汐は善逸やカナヲと共に、機能回復訓練を受けていた。不思議なことに、記憶はなくても体が覚えているのか、汐はアオイやカナヲ相手に訓練をこなせていた。

善逸達は勿論、当の本人の汐ですら、自分の身体能力に驚きを隠せなかった。

 

全ての訓練を終え、汐が一息ついていると、パタパタと足音をさせながらきよが訓練場に転がり込んできた。

 

「訓練中にすみません。汐さん、しのぶ様がお呼びです」

「胡蝶さんが?なんだろう・・・」

 

きよの言葉に汐は少しばかり不安を感じたが、呼ばれている以上無下にするわけにもいかず、アオイに断りを入れてからしのぶの部屋へ向かった。

 

「胡蝶さん、汐です」

 

汐はしのぶの部屋の扉を叩くと、中から「どうぞ」というしのぶの声が聞こえた。

 

「失礼します」

 

汐はそう言って部屋に入ると、しのぶは汐に傍にあった椅子に座るように促した。

 

「さて、あなたをここへ呼んだのは、これからの方針を話すためです。以前にも少し話したと思いますが、今あなたは、鬼殺隊士としての記憶を失い、とても戦える状態とは言えません。そのため、このまま記憶が戻らない場合は除隊という処置をとらせていただくと」

「・・・はい」

「・・・ですが、あなたの除隊を望まない人たちから、手続きを待ってほしいと直談判を受けまして、あと一週間、待つことにしました」

 

その言葉に汐は目を見開き、しのぶの顔をじっと見つめた。そんな汐を見て、しのぶはさらに続けた。

 

「もしも記憶が戻らなかった場合、除隊はせずに鬼殺隊の補助として働くという道もあります。勿論、それ以外の道も。ですが、決めるのはあくまでもあなた自身です」

 

しのぶの真剣な目に、汐は唾を飲み込みながら頷いた。いずれにしても、一週間後には答えを出さなければならない。

汐は神妙な面持ちで、しのぶの部屋を後にした。

 

汐の除隊を一週間待ってくれたことにも驚きだったが、何よりも自分の除隊を望まないものがいる。

その事実が、汐の心を少しだけ軽くしてくれた。

 

(そうだ。あの時聞きそびれちゃったけれど、昨日の夜に見たあの男の子。確か病室はこっちだっけ)

 

汐の足は、自然とある方向へ向かっていた。それは、昨日の夜に出会った禰豆子を追いかけて出会った、耳飾りを付けた眠ったままの少年。彼の姿を見た時、汐の胸はこれ以上ない程ざわついた。

 

(何故だろう。顔を見た瞬間、この人の事は忘れていてはいけない。思い出さなければいけないという気持ちになった)

 

汐は速くなる鼓動を抑えるように足早にその場所へ向かい、そっと、病室の扉を開けた。

 

窓から差す陽の光が、眠ったままの少年を静かに照らしており、汐は備え付けの椅子に静かに座った。

余程の怪我だったのだろう。頭とあごには包帯が巻かれ、栄養の入った点滴は、規則正しく彼の体内に注がれていた。

 

汐は少年の顔に覚えはなかったが、やはり胸のざわめきは消えず、焦りに似た感情を呼び起こしていた。

ここまで気になるのに何故思い出せないのか。せめて目を覚ましてくれたら、何かわかるかもしれないのに。

 

「あなたはいったい誰なの?」

 

汐がそう呟くように言った瞬間、背後から別の声が聞こえた。

 

「炭治郎の事が気になる?」

 

いきなりの事で驚いた汐は、危うく椅子から転げ落ちそうになった。そこにいたのは、先ほど訓練に付き合ってくれた鬼殺隊士の少女、栗花落カナヲだった。

 

「栗花落さん。炭治郎、とは、この人の名前ですか?」

 

汐が尋ねると、カナヲは少し悲しそうな顔をしながら小さくうなずいた。

 

「うん。竈門炭治郎。あなたと同じ任務に就いていた、あなたの仲間だよ」

 

カナヲはそう言って、汐の隣に座ると眠り続けている炭治郎を見た。善逸、汐、伊之助は目覚めたというのに、彼だけ未だに目が覚めないことに、彼女も心を痛めていた。

 

「あなたは覚えてないかもしれないけれど、私、何かを自分で決めることができなくて、何かを決めるときは銅貨を投げて決めていたの。何もかもがどうでもよかったから。でも、炭治郎は"この世にどうでもいいことなんてない"、"人は心が原動力だから、心はどこまでも強くなれる"って言ってくれた。それから少しずつ、皆と話したり、師範と話したりして、少しずつ自分の意見を言えるようになってきたの」

 

そう言うカナヲの表情はとても穏やかで、心なしか輝いて見えた。汐はそんな彼女をみて、なんとも言えな気持ちになった。

 

「でもね、私が自分の意見を言えるようになったのは炭治郎のお陰だけじゃない。あなたもだよ、汐」

「私も・・・ですか?」

「うん。あなたは私を気遣ってくれたし、素敵な歌を沢山聞かせてくれた。私にとってあなたは、この屋敷以外で初めてできた、友達だったから・・・」

 

カナヲの口から出てきた友達という言葉を聞いて、汐の心は再びざわついた。過去に汐がカナヲに対して言った言葉を、今の汐は覚えていない。

だが、自分を友達と言ってくれた人がここにいて、自分を支えてくれる人々がいる。その事実は過去を忘れても変わらない。

 

カナヲを見て、汐は思った。思い出さなければならない。炭治郎という少年の事も、カナヲという友達の事も。

 

しかし、現実はそう甘くなく、汐の記憶は戻らないまま、日にちだけが過ぎていった。

善逸は嫌がりながらも任務に復帰し、伊之助に至っては無断であちこち動き回り、しのぶとアオイに叱られる毎日だった。

 

そしてとうとう、汐は約束の日の朝を迎えてしまった。

 

朝、自室で目を覚ました汐は、一週間前にしのぶに言われていたことを思い出していた。

 

(今日、私は決めなくてはならない。私がこれから、どうするか)

 

汐の心はもう決まっていた。例え鬼殺隊員として戦えなくても、自分を支えてくれていた人たちの役に立ちたい。

記憶が戻らなかったことは申し訳ないが、自分をここまで気に掛けてくれた人たちの為に、何かできることをしたい。

 

その事をしのぶに伝えようと、汐は意を決して体を起こした。

 

だが、汐はしのぶの部屋へ行く前に、炭治郎の顔がどうしても見たくなった。せめて、彼の事だけは思い出したかったが、もう自分に時間は残されていなかった。

 

汐はそっと炭治郎の眠る病室の扉を開けた。相も変わらず彼は眠り続け、一向に目を覚ます気配はない。

汐はまた炭治郎の傍に座ると、眠る彼の顔を見つめた。

 

(ごめんなさい。あなたの事はどうしても思い出したかった。でも、駄目だった。思い出せなかった。だからせめて、あなたの為にできることを、これからはしますから、どうか、どうか・・・)

 

汐は心の中でつぶやきながら、そっと炭治郎の頬に触れた。陽だまりのような温かさが、汐の少し冷たい手を温めた。

その時だった。

 

「う・・・・」

 

炭治郎の口が僅かに動き、小さく言葉を紡いだ。汐は反射的に立ち上がり、彼の顔を覗き込んだ。

 

その瞬間、汐の頭にこれ以上ない程の激痛が走り、そのまま彼女の意識は深い闇の中に沈んでいくのだった。

 

 

*   *   *   *   *

 

一面を雪が真っ白に染めた、山の中。

太陽の光を反射して幻想的に光るその中を、覚束ない足取りで動く小さな影があった。

 

目を凝らしてみれば、それは1歳ほどの男児で、体格的に似つかわしくない程の大きな籠を抱えながら、ふらふらと歩いていた。

籠の中身はよく見えないが、小さな体には重すぎる程のものが入っているのだろう。

 

すると、男児は籠が重かったのか、足をもつれさせ今にも転びそうになった。それを見た"誰か"は、慌てて駆け寄りその体を支えた。

 

『大丈夫か?』

 

"誰か"が声を掛けると、男児は小さく息を整えながら顔を上げた。小さなその目には、真っ青な髪と目が写った。

 

『ありがとう、あおいおねえちゃん。でもだいじょうぶだよ』

 

男児はそう言って雪の上に立つと、もう一度籠を抱えて歩きだそうとした。

 

『君の体格では、その籠は大きすぎる。大人に任せた方がいいのでは?』

『ううん、いいんだ。とうさんはしごとがいそがしいし、かあさんはうごけないから、おれがちゃんとしないといけないんだ』

 

男児はたどたどしくも、きっぱりとした声色でそう言うと、籠を持って再び歩き出した。その後ろを、青い髪の少女はついていった。

 

『かあさんにあかちゃんがうまれるから、おれ、もうすぐにいちゃんになるんだ。だから、しっかりしないといけないってとうさんからいわれたんだ。おれはちょうなんだから、あとからうまれてくるおとうとやいもうとを、まもらなきゃいけないから』

 

男児はそう言ってにっこりと笑うと、少女不思議そうに首をひねった。

 

『何故君はそこまでできる?君はまだ幼い。幼い子供は親に甘えるものだと、私は教えられた。だが、今の君の話ではそれには当てはまらない。わからない、わからない。どうしてなんだ?』

 

困惑する少女を、男児はそっと見つめ、赤みがかかった瞳が、静かに彼女の姿を映した。

彼女が何かを言おうと口を開いた、その時だった。

 

『――』

 

不意に誰かの声がして、男児は籠を抱えたまま振り返った。そこには、彼とよく似た顔立ちの、耳に飾りをつけた一人の男が立っていた。

 

『とうさん!』

 

男児は嬉しそうにそう言うと、そのま男の元に駆け寄った。彼は、そんな男児の頭を穏やかな表情で優しくなでた。

 

『今のは、君の名前か?』

『うん、そうだよ。おれのなまえは・・・』

 

男児は彼女と向き合うと、太陽のような笑顔で、歯切れのよい声で言った。男と同じ赤い髪が、小さく風で揺れる。

 

 

 

――俺の名前は、炭治郎。竈門炭治郎っていうんだ・・・・

 

 

 

*   *   *   *   *

 

「!!」

 

その名を聞いた瞬間、汐の中に、一気に記憶の波が流れ込んできた。

白黒だった世界が急速に色づき、頭からつま先まで熱いものが駆け巡った。

 

(そうだ。全部、全部思い出した・・・!!この人の名は、彼の名は・・・!!)

 

「炭治郎っ・・・!」

 

汐は、はっきりとした声で炭治郎の名を口にし、慌てて彼を見た。すると、ずっと固く閉じられていたままの炭治郎の両目から、涙の雫が零れ落ちていた。

 

「炭治郎っ・・・!!」

 

汐がもう一度彼の名を呼ぶと、炭治郎の瞼が細かく震え、そしてゆっくりと開いた。

 

炭治郎の赤みがかかった瞳が汐をゆっくりと映し、汐の真っ青な瞳にも、炭治郎の姿が写った。

 

「うし・・・お?」

 

炭治郎の口からかすれた声で汐の名前が紡がれた瞬間、汐の両目から涙があふれ出し、その雫が炭治郎の顔に降り注いだ。

 

「炭治郎っ!炭治郎っ!!うわあああ、あああああ!!!」

 

それから汐は炭治郎を抱きしめ、わき目も降らずに大声をあげて泣いた。いきなり泣き出した汐に炭治郎が困惑していると、泣き声を聞きつけたのかたくさんの足音がこちらに向かってきていた。

 

「炭治郎、汐!」

 

真っ先に入ってきたのはカナヲで、その後ろからアオイと三人娘が続き、彼女たちの目は炭治郎に縋って泣きじゃくる汐の姿が目に入った。

 

「汐、あなたまさか、記憶が・・・!」

 

何度も炭治郎の名を呼びながら泣く汐を見て、カナヲは汐の記憶が戻っていると確信した。そして二か月も昏睡状態だった炭治郎が目覚めていると認識した瞬間、彼女の目にみるみるうちに涙がたまった。

 

それを見たアオイたちも、あふれ出す涙をこらえきれずに、炭治郎と汐に縋って泣き出した。

騒がしくなる病室を、しのぶは遠くから眺め、心なしかその瞳は潤んでいるように見えたのだった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



「大丈夫?もしも少しでも気分が悪くなったら、すぐに教えて」

「ありがとう、カナヲ。今のところは大丈夫だよ」

 

ベッドから体を起こしながら、炭治郎は優しくほほ笑んだ。

 

吉原の戦いから二か月。炭治郎はその日から昏睡状態であったが、昨日やっと目を覚ました。炭治郎が目覚めたことで、蝶屋敷中は喜びの声に包まれた。

 

「ところで、汐はどうしたんだ?」

 

炭治郎が唐突に尋ねると、カナヲは少し困ったような顔で笑いながら言った。

 

「今は部屋で休んでるわ。昨日はいろいろありすぎて、疲れちゃったみたい」

「いろいろ?そう言えば俺が目覚めた時、汐の様子が少しおかしかったみたいだけれど、何があったんだ?」

 

炭治郎の問いに、カナヲは目を伏せながらぽつりぽつりと話し出した。

 

「汐はね、炭治郎より二週間早く目覚めたんだけれど、自分の事を含めて全部の記憶をなくしていたの」

「記憶を!?」

「うん。だから汐が鬼殺隊を辞めてもらうって話も出ていたんだけれど、私は凄く嫌だった。そんなこと、絶対に汐が望むわけないって思ったから。だから、少しだけ待ってほしいって頼んだの」

 

そう言って膝の上で拳を握るカナヲに、炭治郎は口を開けたまま彼女を見つめていた。

 

「それにね。汐は記憶をなくしても、あなたの事はずっと気にかけていたの。機能回復訓練の後、毎日眠っているあなたの所へ通っていたから・・・」

「そう、だったのか。そんなことがあったことを知らずに、俺は・・・」

 

炭治郎はぎゅっと目を閉じ、悔しそうな表情を浮かべ、そんな彼をみてカナヲは首を横に振った。

 

「炭治郎は何も悪くないよ。それに、結果的には汐の記憶も戻ったし、気にすることはないと思う」

「そうか・・・、ありがとう、カナヲ」

 

そう言って満面の笑みを浮かべる炭治郎に、カナヲの胸の中に嬉しさが沸き上がった。

 

「あ、カナヲさん。しのぶ様がお呼びですよ」

「あ、うん、わかった。それじゃあ炭治郎、またね」

 

カナヲは椅子から立ち上がると、炭治郎に背を向けたが、その背中に向かって彼は声を掛けた。

 

「あ、カナヲ。汐を気に掛けてくれてありがとう!」

 

炭治郎のその言葉に、カナヲは今までに感じたことのない、奇妙な感覚を覚えるのだった。

 

*   *   *   *   *

 

琵琶の音が鳴り響き、上弦の参、猗窩座は目を見開いた。そこには、上下左右が部屋や階段で埋め尽くされた、奇妙な異空間があった。

 

その場所の名は【無限城】。鬼の始祖、鬼舞辻無惨が棲む場所であり、【鳴女(なきめ)】と呼ばれる女の鬼が管理する場所だ。

 

その場所に呼ばれた猗窩座は、それがどういうことを意味するのか理解していた。

 

(上弦が鬼狩りに、殺られた)

 

猗窩座が顔を上げると、その中心で鳴女が琵琶を三度、掻き鳴らした。その音に彼が顔をしかめると、どこからか笑い声が聞こえてきた。

 

顔を向ければ、そこには装飾を施された壺が一つ置いてあり、声はその中から聞こえていた。

 

「これはこれは、猗窩座様!いやはや、お元気そうで何より。九十年ぶりで御座いましょうかな?」

 

壺の中から現れたのは、目のある部分に口があり、口のある部分に目があり、体中から手が生えた異形の鬼だった。

その目には【上弦の伍】と刻まれており、名を【玉壺(ぎょっこ)】と言った。

 

「私はもしや、貴方がやられたのではと、心が躍った・・・、ゴホンゴホン!心配で胸が苦しゅう御座いました」

 

そう言う玉壺だが、その顔は笑っており気づかいなどは微塵も感じられなかった。

 

「怖ろしい、怖ろしい。暫く会わぬ内に、玉壺は数も数えられなくなっておる」

 

二人とは別な声が聞こえ、猗窩座が顔を向ければ、そこには手すりにしがみ付き、小刻みに震えている老人の鬼がいた。

 

頭には大きなこぶがあり、その傍らには鬼の象徴ともいえる角が二本生えていた。

目を閉じているため、数字は見えないが、彼も上弦の鬼の一人であり、【上弦の肆】の【半天狗(はんてんぐ)】という鬼だ。

 

「呼ばれたのは百三十年振りじゃ。割り切れぬ不吉な数字・・・、不吉な丁、奇数!!怖ろしい、怖ろしい・・・」

 

半天狗は手すりを固く握りしめながら、ぶるぶると全身を震わせていた。

 

「琵琶女、無惨様はいらっしゃらないのか」

 

そんな彼を無視して、猗窩座は鳴女に尋ねれば、彼女は再び琵琶をかき鳴らすと、淡々とした声で答えた。

 

「まだ御見えではありません」

「なら上弦の壱はどこだ。まさか、やられたわけじゃないだろうな」

 

猗窩座がそう尋ね、鳴女が答えようと口を開いたときだった。

 

「おっとおっと、ちょっと待っておくれよ猗窩座殿!俺の心配はしてくれないのかい?」

 

二人の会話を遮るような、場違いに明るい声が響くと、猗窩座の肩を抱く様に一本の手が乗せられた。

 

「俺は凄く心配したんだぜ!大切な仲間だからな。だぁれも、欠けて欲しくないんだ俺は」

 

そう馴れ馴れしく声を掛けるのは、【上弦の弐】と刻まれた青年の鬼、【童磨(どうま)】だった。

 

「ヒョッ、童磨殿・・・」

 

玉壺はその姿を見て、微かに顔をしかめながらも挨拶をした。すると童磨は、満面の笑みを浮かべながら、彼に手を振り返した。

 

「やァやァ、久しいな玉壺。それは新しい壺かい?綺麗だねぇ。お前がくれた壺、女の生首を生けて飾ってあるよ、俺の部屋に」

 

虫も殺さぬような笑顔で悍ましいことを言う童磨に、玉壺は困惑しながらもまんざらでもなさそうに答えた。

 

「あれは首を生けるものではない・・・。だがそれも、またいい」

「そうだ、今度うちに遊びにおいで!」

 

童磨は、まるで友人を誘うかのような口ぶりで玉壺にそう言うと、彼のすぐそばで猗窩座は不快そうに口を開いた。

 

「どかせ」

「ん?」

「腕をどかせ」

 

だが、猗窩座は童磨の返答を待つことなく、その拳を容赦なく彼の顎に叩き込んだ。

骨が砕ける音が響き、鮮血が吹き出すと、半天狗はその様子を見てか細い悲鳴を上げた。

 

「おおっ」

 

しかし童磨はそれに全く意にも課さず、それどころか嬉しそうな表情で顔を上げた。

その顔はすでに再生しており、微かな傷跡しか残っていなかった。

 

「うーん、いい拳だ!前よりも少し強くなったかな?猗窩座殿」

 

童磨のこの言葉が耳に入った瞬間、猗窩座の顔中に青筋が浮かび上がった。

このままでは争いは避けられない。誰もがそう思った時、鳴女がそっと口を開いた。

 

「上弦の壱様は、最初に御呼びしました。ずっとそこにいらっしゃいますよ」

 

彼女の言葉に猗窩座は肩を震わせ、示された方向に顔を向けた。

そこには、一人鎮座する【上弦の壱】、【黒死牟(こくしぼう)】の姿があった。

 

「私は・・・、ここにいる・・・」

 

黒死牟は振り返りもせず、そのまま静かな声でそう言ったが、次に発した言葉に、全員の体が震えた。

 

「無惨様が・・・、御見えだ・・・」

 

その言葉通り、猗窩座の背後には、上下逆さまになった部屋で一人実験をしている無惨の姿があった。

童磨以外の全員の顔に緊張が走り、半天狗は相も変わらずか細い悲鳴を上げていた。

 

「妓夫太郎が死んだ。上弦の月が欠けた」

 

試験官に落ちる水音を響かせながら、無惨は淡々と言葉を口にした。

 

「誠に御座いますか!それは申し訳ありませぬ!」

 

それに真っ先に反応したのは童磨であり、彼はにやにやとした笑みを浮かべながら謝罪の言葉を口にした。

 

「妓夫太郎は俺が紹介した者故・・・、どのように御詫び致しましょう。目玉をほじくり出しましょうか?それとも・・・」

 

だが、その言葉とは裏腹に、童磨の表情は、まるで新しい玩具を買ってもらった子供のようなものだった。

 

「必要ない、貴様の目玉など。妓夫太郎は負けると思っていた。案の定、堕姫が足手纏いだった」

 

無惨は童磨の言葉をはねのけると、抑揚のない声色でつづけた。

 

「初めから妓夫太郎が戦っていれば、勝っていた。そもそも、毒を喰らわせた後まで戦い続けず・・・いや、もうどうでもいい」

 

無惨は帳面に何かを書き記しながら、吐き捨てるように言った。

 

「くだらぬ。人間の部分を多く残していた者から負けていく。だがもう、それもいい。私はお前達に期待しない」

「またそのように悲しいことをおっしゃいなさる。俺が貴方様の期待に応えなかった時が、あったでしょうか」

 

そんな無惨に臆することなく口をはさむ童磨に、無惨の声が微かに棘を含んだ。

 

「産屋敷一族を未だに葬っていない上、ワダツミの子も未だに喧しく囀り続けている。そして、"青い彼岸花"はどうした?なぜ何百年も見つけられぬ。私は――・・・、貴様らの存在理由が分からなくなってきた」

 

無惨の表情は見えないが、顔中には血管が浮き出しており、激昂していることが分かった。

瞬時に空気が張り詰め、鬼達の身体を震わせた。

 

「ヒイイッ!御許しくださいませ。どうかどうか」

「・・・・」

 

半天狗は震えあがりながら、階段に額をこすりつけ、猗窩座は跪いたまま何も答えない。

 

「返す・・・言葉も・・・ない・・・。産屋敷・・・巧妙に・・・姿を・・・隠している。そして、ワダツミの子・・・。奴の影響を受ける者が・・・あまりにも多すぎる・・・」

「俺は探知探索が苦手だからなあ。如何したものか・・・」

 

黒死牟は淡々と答え、童磨は困ったような表情を浮かべながら呟いた。

 

そんな中、玉壺は無惨の方を向きながら、ひときわ大きな声で叫ぶように言った。

 

「無惨様!!私は違います!貴方様の望みに一歩近づくための、情報を私は掴みました。ほんの今しがた・・・」

 

しかし玉壺の言葉は最後まで紡がれる前に、無惨の声によって遮られた。

 

「私が嫌いなものは、"変化"だ」

 

そう言う無惨の右手には、血の滴る玉壺の頸が乗せられていた。壺に繋がれた体は引き千切られ、おびただしい量の血痕が残されていた。

 

「状況の変化、肉体の変化、感情の変化。凡ゆる変化は、殆どの場合"劣化"だ。衰えなのだ。私が好きなものは、"不変"。完璧な状態で、永遠に変わらないこと」

(無惨様の手が私の頭に!いい・・・、とてもいい・・・)

 

淡々と語りだす無惨の声を聞きながら、玉壺は怯えつつも喜びに似た感情を感じていた。

 

「百十三年振りに上弦を殺されて、私は不快の絶頂だ。まだ確定していない情報を、嬉々として伝えようとするな」

 

無惨は吐き捨てるようにそう言うと、鳴女の琵琶の音が響き、玉壺の頸は逆さまの無惨から垂直に落ちていった。

 

「これからはもっと、死に物狂いでやった方がいい。私は、上弦だからという理由で、お前達を甘やかしすぎたようだ。玉壺」

 

それから無惨は振り返ることなく、再び静かな声で口を開いた。

 

()()()()()()()()、半天狗と共に其処へ向かえ」

 

それだけを告げると、再び琵琶が響き、無惨の姿は現れた襖の奥へと消えていった。

 

「ヒィィ、承知いたしました…!!」

(・・・!!そんな・・・!!私がつかんだ情報なのに・・・、ご無体な。でも、そこがいい・・・)

 

半天狗は怯えながら這いつくばり、玉壺はその扱いを不服に思いながらも、言い知れぬ感情に全身を震わせていた。

 

「玉壺殿!情報とは何のことだ?俺も一緒に行きたい!」

 

それを聞いた童磨は、嬉々としながら玉壺の方へ身を乗り出し、玉壺は言葉を詰まらせた。

 

「教えてくれないか?この通りだ・・・!」

 

だが、童磨の言葉は、突如走った衝撃によってかき消された。彼の背後には猗窩座がおり、その拳で童磨の頭部を薙ぎ払ったのだ。

 

「無惨様がお前に何か命じたか?失せろ」

 

猗窩座はそう冷たく言った瞬間、薙ぎ払った腕がぼとりと畳の上に落ち、傷口からは鮮血があふれ出した。

その光景に半天狗は悲鳴を上げ、猗窩座のすぐ傍で静かな声が響いた。

 

「猗窩座・・・、お前は・・・度が過ぎる・・・」

 

そこにはいつの間にか黒死牟の姿があり、彼が瞬時に猗窩座の腕を斬り飛ばしていた。

気配がなかったことと、刀を抜いたことすら認知できなかったことに、猗窩座は目を大きく見開いた。

 

「良い良い、黒死牟殿。俺は何も気にしない」

 

童磨は頭部を急速に再生させると、明るい声色でそう言った。しかし、黒死牟は振り返りもせず、再び静かに言葉を紡いだ。

 

「お前の為に言っているのではない・・・。序列の乱れ・・・、ひいては従属関係に皹が入ることを、憂いているのだ・・・」

「あー、なるほどね」

 

その言葉に童磨は、納得しつつも少しばかり残念そうに声を落とした。

 

「猗窩座よ・・・。気に喰わぬのならば、入れ替わりの血戦を申し込むことだ・・・」

 

しかしその言葉に反応したのは、猗窩座ではなく、またしても童磨だった。

 

「いやぁ、しかしだよ、黒死牟殿。申し込んだところで、猗窩座殿は我らに勝てまいが、加えて俺に至っては猗窩座殿よりも後で鬼になり、早く出世したのだから、彼も内心穏やかではあるまい!わかってやってくれ」

 

童磨の言葉に、猗窩座は顔に青筋を浮かべながらも、固く口を閉ざしていた。

 

「それに、俺はわざと避けなかったんだよ。ちょっとした戯れさ。こういう風にして仲良くなっていくものだよ。上に立つ者は、下の者にそう目くじら立てず、ゆとりをもって――」

「猗窩座」

 

童磨の言葉を遮るように、黒死牟は鋭い声で言い放った。

 

「私の・・・言いたいことは・・・わかったか」

「わかった」

 

黒死牟の三対の目が猗窩座を鋭く穿ち、猗窩座は静かに答え、鋭い視線を彼に向けながら言い放った。

 

「俺は必ず、お前を殺す」

「そうか・・・、励む・・・ことだ・・・」

 

黒死牟はそれだけを告げると、瞬く間にその姿を消した。

 

「さよなら黒死牟殿。さよなら!」

 

童磨は友人を見送るような口調で言うと、少し困ったような表情で顔を上げた。

 

「何だか俺は会話に入れて貰えなかったような気がするのだが、考えすぎだよな、猗窩座殿」

 

しかし猗窩座は童磨の言葉に答えることなく、軽やかに城の壁を伝い何処へと去って行った。

 

「猗窩座殿!話してる途中なのに」

 

そう言って口を尖らせる童磨の傍らで、玉壺は鳴女に向かって声を掛けた。

 

「私と半天狗を、同じ場所へ飛ばしてくだされ」

「待ってくれ、じゃあ俺も・・・」

 

童磨が言い終わる前に、鳴女は琵琶を二度かき鳴らし、玉壺と半天狗を何処へと転送した。

 

残された童磨は、しばらく呆然としていたが、鳴女に向かって馴れ馴れしく声を掛けた。

 

「おーい、琵琶の君。もしよかったら、この後俺と」

「お断りします」

 

鳴女は童磨の誘いを瞬時に断ると、再び琵琶を鳴らした。すると童磨は、彼の住まいであろう場所にその身を置いていた。

 

「むうう、誰も彼もつれないなァ」

 

童磨は少し残念そうにそうぼやくと、向かいの襖がそっと開いて一人の人間が姿を現した。

 

「教祖様、信者の方がお見えです」

「ああ、本当かい。待たせてすまないね」

 

童磨はそう言うと、傍らにあった帽子を頭に乗せると、笑顔を張り付けながら声を掛けた。

 

「どうぞどうぞ、入って貰っておくれ」

 

 

 

*   *   *   *   *

 

 

その日の夕暮れ。任務から戻った善逸は、疲れた顔で蝶屋敷に戻って来た。

相も変わらず任務を嫌がる彼だったが、それよりも気がかりなことは勿論、汐の事だった。

 

(確か今日が、汐ちゃんが鬼殺隊を辞めるかどうかの約束の日、だったな。結局、俺は彼女の為に、何もできなかった。汐ちゃんの一番大切な気持ちも、取り戻すことができなかった)

 

善逸は悔しさを振り払うように目を閉じると、重い気持ちのまま門をくぐった。その瞬間、中庭の方から懐かしい"音"が聞こえてきた。

 

(え・・・?この"音"って・・・、まさか・・・!!)

 

善逸はそのまま中庭の方へ足を進め、そこにいた者の名前を呼んだ。

 

「汐ちゃん!」

 

善逸の視線の先には、縁側に座って夕日を眺める汐の姿があった。彼女はゆっくりと善逸の方へ顔を向けると、微笑みながら口を開いた。

 

「おかえり、善逸」

 

その声が善逸に届いた瞬間、彼は全てを察し、その両目からは涙があふれ出した。

 

「汐ちゃん・・・!君、記憶が戻ったんだね!!」

 

善逸は嬉しさのあまり泣きじゃくり、そんな彼をみて汐は困ったような表情をした。

 

「ちょっとちょっと、その顔でこっちに来ないでよ。汚いわね」

「ああ、汐ちゃんだ。この心を抉るような毒舌は、間違いなく汐ちゃんだぁ!」

「・・・喧嘩売ってんの?あんた」

 

汐が目を剥いて凄めば、善逸はわんわんと涙と鼻水を飛ばしながら泣きわめいた。

 

「はぁ。全く、あんたは相変わらずね。あ、それはそうと、あたし、もうすぐ任務に復帰出来るみたいなの」

「えっ、そうなの?」

「うん。記憶を取り戻した分、暴れてやるわ!」

 

そう言って拳を握る汐に、善逸は嬉しそうに微笑んだ。

 

「でもその前に、あんたにはちゃんとお礼を言わないとね」

 

汐はそう言って善逸と向き合うと、歯切れのいい声で言った。

 

「ありがとうね、善逸。あたしのために、いろいろしてくれて」

「ううん、俺は何もしていないよ。記憶が戻ったのは、きっと君自身が取り戻したいと頑張ったからだよ」

 

善逸は首を横に振り、優しいまなざしで汐を見た。その目から伝わる気持ちに、汐の心は震えた。

 

「でも、きっかけを作ってくれたのはあんたよ。あんたが裏山に連れて行ってくれなきゃ、記憶を取り戻したいって思わなかったもの。だから、そのことはちゃんとお礼をしたいんだから、黙って受け取っておきなさいよ」

「相変わらず、謝られてるんだかそうじゃないんだか、わかんないなあ」

「あんた、しばらく見ないうちに、言うようになったじゃない」

 

そんなことを話しながら、二人は朗らかに笑った。

 

「だけど、汐ちゃん。これからは、俺とあんまり二人きりにならない方が、いいとおもうよ」

「へ?何でよ」

「なんでって、そりゃあ、いろいろと誤解されるだろうし・・・」

「何よ誤解って。いいからもったいぶらずに言いなさいよ」

 

汐がそう言うと、善逸は観念したように口を開いた。

 

「だから、汐ちゃんは炭治郎の事が好きなんだから、あまり他の男と話したら・・・」

「なっ、なっ、なっ・・・!!」

 

善逸の言葉を聞いた瞬間、汐の顔が瞬時に茹蛸の如く真っ赤になり、頭から湯気が吹き出した。

そして、次の瞬間には

 

「何であんたが知ってんだ、馬鹿ーーーっ!!!」

 

汐の怒号が響き、乾いた音が屋敷中に響き渡ったのだった。

 

 

 

 

*   *   *   *   *

 

ある日の夜更け、人の気配がしない路地裏で蠢く、一つの影があった。

背は小さいが、横幅は背丈よりも大きく、動くたびに水のような音がした。

 

それの足元に落ちていたのは、人間だったものの残骸。そしてそれの口元と両手は、真っ赤な血で濡れていた。

 

「・・・ア゛・・・・」

 

それは濁ったうめき声をあげると、月明かりが差し込む空を見上げて、たどたどしく呟いた。

 

「ハ・・・ナ・・・ガ・・・・、サ・・・ク・・・・、ワダ・・・ツミ・・・・ウタ・・・」

 

その声は宵闇に吸い込まれて、瞬く間に消えていった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

幕間その陸
再会、そして勃発


これは、吉原に向かう前の時間軸の話


人を寄せ付けない山の中を、青い髪を揺らしながら、汐は包みを抱えながら一人歩いていた。

彼女の師範である甘露寺蜜璃から、悲鳴嶼の元へ届けるためのものだった。

 

本来なら甘露寺も共に来る手はずだったのだが、生憎緊急の任務が入ってしまい、やむを得ず汐一人で来ることになってしまった。

 

(前に来た時も思ったけれど、とんでもないところに屋敷を構えてるのね、悲鳴嶼さんって。狭霧山で山登りの基礎を叩き込まれておいてよかった・・・)

 

もしもこの場に善逸がいたなら、きっとタダをこねて苛立ちを感じていただろう。などと考えていると、山の奥に聳え立つ建物が見えてきた。

前に一度、甘露寺に連れて行かれたときも思ったが、その屋敷、悲鳴嶼邸は見上げれば首を痛めてしまいそうなほど、大きかった。

 

「悲鳴嶼さーん、こんにちはー!大海原汐でーす!!」

 

汐は声を張り上げて呼んでみたが、返事はなく木々が風で揺れる音だけが響いた。

 

(えぇ、嘘。ここまで来たのにまさかの留守?ふざけないでほしんだけど)

 

折角汗水たらしてここまで来たというのに、無駄足になるなど冗談じゃない。

汐は顔をしかめながら、もう一度悲鳴嶼を呼ぼうと息を吸った、その時だった。

 

遠くから、風に乗って何やら声のようなものが聞こえてきた。耳を澄ませてよく聞いてみれば、それは経のようだった。

 

(悲鳴嶼さん・・・、の、声じゃないわね。誰だろう?まあいいわ。人がいるんなら、悲鳴嶼さんがいるか聞けるしね)

 

汐は声が聞こえる方角に向かって、その足を進めた。

 

木々に囲まれたけもの道を進むこと数分後、汐の目は、ようやく声の主の姿を捕らえた。

 

非情に体格のいい一人の少年が、念仏を唱えながら、自分よりも何倍も大きな岩を押し動かしていた。

その光景に、汐はその場に縫い付けられたように動けなくなった。

 

(す、すごい・・・!あんな大岩を、道具もなしでたった一人で・・・!)

 

少年はしばらく岩を動かした後、その手を岩から離して一息ついた。それを見た汐は、思わず後ずさったが、その際に足元にあった小枝を踏みつけてしまった。

 

「誰だ!?」

 

乾いた音と同時に、少年は反射的に振り返り、汐はその顔に見覚えがあった。

 

顔に大きな傷があり、特徴的な髪形をした少年は、最終選別の時に生き残った者たちの一人だった。

 

「あっ、お前は・・・!最終選別の時の・・・!」

 

汐の顔に少年も見覚えがあったらしく、彼は大きく目を見開いて凝視した。

 

「あんたは・・・、最終選別の時に、女の子ぶん殴って炭治郎に腕折られた馬鹿!」

 

汐が少年を指さしてそう叫んだ瞬間、彼の顔が瞬時に真っ赤になった。

 

「なんだとテメエ!!」

 

激昂した少年は、汐の前に歯を剥き出しながら詰め寄った。

 

「何よ、本当の事じゃない!それに、あたし覚えてるんだからね!蝶屋敷でぶつかって来たくせに、謝りもしなかったこと!」

「うるせえ、知るかそんなこと!大体、お前のしゃべり方女みてぇで気持ち悪いんだよ!」

「なんですって!?」

 

この言葉に汐も激怒し、少年につかみかかった。ワダツミの子の特性で、男と間違われることはわかっていたのだが、そのことを忘れる程、汐の頭にも血が上っていた。

その行動に少年も怒りを爆発させ、汐の胸元をつかんだ。

 

その刹那、手元に違和感を感じた彼は、そのまま石のように固まった。彼が感じたのは、男ならばあるはずのない、柔らかい感触だった。

 

「・・・・え」

 

急に固まった少年に合わせるように、汐も固まり、そしてそのまま少年の手の位置に目を動かすと――。

 

「どこを・・・触ってんだクソ野郎ーーーっ!!!」

 

そのまま汐は左拳を、思い切り少年の顔にたたきつけ、鈍い音とうめき声が森中に響き渡った。

 

 

*   *   *   *   *

 

それから数分後。

 

「・・・・・」

 

腕を組み、微かに青筋を立てながら見下ろす悲鳴嶼の前で、汐と少年は縮こまっていた。

 

悲鳴嶼の体格の前では、二人はまるで小動物のようにも見えた。

 

「玄弥。感情を表に出すなとは言わないが、むやみやたらに人に絡むことはよせと言ったはずだ」

「はい・・・、すみません」

 

悲鳴嶼は、呆れた様子でそう言うと、玄弥と呼ばれた少年は、反論することなく素直に謝罪の言葉を口にした。

 

「それから、大海原。人を挑発するような事をしてはいけない。ましてや、君は女性なのだから、もう少し慎みある行動をするべきだ」

「・・・ごめんなさい」

 

落ち着いた、しかし威厳のある言葉に、流石の汐も反抗的に離れず、素直にその言葉を受け止めた。

 

「そして二人共。喧嘩をした後にするべきことは、わかるな?」

 

その言葉に二人は顔を見合わせると、互いに向き合って頭を下げた。

 

「悪かったな・・・」

「あたしも、ごめん」

 

二人で謝罪の言葉を口にして顔を上げれば、心なしか玄弥の顔が赤く染まっているように見えた。

 

「玄弥。私は彼女と話をする。お前は修行に戻れ」

「はい」

 

玄弥は短く返事をすると、そのまま汐の目を見ることなく、その場を立ち去った。

 

「このようなことになってしまって、すまなかったな。玄弥には、改めて話をしておくことにしよう。して、わざわざここまで訪ねてきたということは、甘露寺の?」

「あ、うん。みっちゃ・・・、師範がこれを悲鳴嶼さんにって。自分は緊急の任務で行けないから、渡してくれって頼まれたの」

 

汐はそう言って、持ってきた包みを悲鳴嶼の前に差し出した。すると、彼はそれを持ち上げ、感触を確かめるように触ったり、しばし持ち上げたりしたあと、その口元が微かに緩んだ。

 

「御足労、感謝する」

 

その包みが余程嬉しかったのか、彼の声色は心なしか弾んでいるようにも聞こえた。汐はそんな彼に驚きつつも、先ほどの玄弥の事を聞いてみることにした。

 

「ねえ、悲鳴嶼さん。前にあなたが言ってた弟子って、もしかしてあいつのこと?」

「そうだ。名前は不死川玄弥。訳があって正式な継子ではないが、私の弟子だ」

 

悲鳴嶼はそう言って、先ほど玄弥が出て行った方角をそっと見つめた。

 

(ん?不死川?不死川ってなんだか聞き覚えがあるわね・・・)

 

汐が首をひねっていると、悲鳴嶼は少し困ったように言った。

 

「奴はどうも、私以外の人と関わることを好まないようで、客人に対してもあのような態度をとってしまうのだ。不快にさせたのなら申し訳ない」

「ううん、気にしないで。あたしもついかっとなって殴っちゃったわけだし・・・。悲鳴嶼さんがそんなことを言う必要はないわ」

 

あたしの悪い癖ね、と言いながら汐は困ったように笑った。

 

「ところで大海原。この後は何か用事はあるか?」

「用事?今日の分の稽古は終わったから、特に何もないわ」

「そうか。なら、これから行う稽古の見学をしていかないか?勿論、君がよければの話だが」

 

思わぬ誘いに、汐は驚いて悲鳴嶼を見つめた。他の柱の稽古を見ることは、きっとこれからの事に役立つと、以前に甘露寺も言っていた。

その機会が思わぬ形で訪れたことに、汐の心は跳ね上がった。

 

「本当に!?見たいみたい!凄く見たい!!」

 

思わず子供の様にはしゃいだ汐は、慌てて口を両手で塞いだ。その顔が茹蛸の様に真っ赤になっていることに、悲鳴嶼が気づくことはなかった。

 

 

*   *   *   *   *

 

それから数時間後。汐はげっそりとした表情で、山道をとぼとぼと歩いていた。

 

(お、思っていたよりもずっと、いや、遥かにすごかったわ・・・)

 

汐が見学した悲鳴嶼の修行というものは、彼女の想像をはるかに超えていた。

 

汐が見学した稽古は、狭霧山で汐が割った滝の何十倍もの大きさの滝に打たれた後、玄弥の様に、大岩を念仏を唱えながら押し動かし、それから岩が括り付けられた丸太を背負いながら、下から火であぶるというものだった。

 

甘露寺や伊黒の稽古も苛酷だったが、悲鳴嶼の稽古は、それを上回るどころか天を突き抜ける程の苛酷さを示していた。

 

(もうあれ、稽古なんて呼ばないわよ。苦行よ苦行。善逸が見たら、間違いなく精神が死ぬわね)

 

だが、汐が度肝を抜かれたのはその稽古方法だけではなかった。

 

(それに言っちゃ悪いけど、悲鳴嶼さん教え方へったくそ!みっちゃんや炭治郎も教え方下手だけど、悲鳴嶼さんは考えるより感じろ見たいな感じで、具体的なやり方全然教えてくれないんだもの)

 

柱とは言え、皆が皆教え方が旨いわけじゃないことを、汐はこの時改めて痛感した。そして、甘露寺とは異なり、(時々私情をはさむとはいえ)伊黒の教え方が上手かった事を知ることになった。

 

(はぁ、見てるだけなのにどっと疲れたわ。早く帰ってお風呂にでも入ろう)

 

汐は死人のような顔でそのまま山を下りた後、わき目も降らずに自分の屋敷に戻り、そのまま風呂を沸かした後、湯船につかりながら眠ってしまった。

その為、逆上せてしまい、使用人によって助け出されることになってしまうのだった。

 

 

*   *   *   *   *

 

その夜。

 

「玄弥、どうした?先ほどから箸が進んでいない様だが・・・」

 

悲鳴嶼にそう言われて、玄弥ははっとした様子で彼の顔を見つめた。

 

「あ、だ、大丈夫です。なんでもないです」

 

そう言って玄弥は、再び箸を動かすが、その動きはどこかぎこちない。

その気配を感じた悲鳴嶼は、そっと口を開いた。

 

「昼間来た大海原の事が気になるか?」

「!?」

 

その言葉に玄弥は、危うく味噌汁をこぼしそうになってしまった。

 

「あ、すいません。えっと、その。あいつのことは、最終選別の時に顔だけは知っていたんですが、まさか、まさか女、だったなんて」

 

初めて顔を見た時は、炭治郎の陰に隠れてしまい印象は薄かったのだが、その時は珍しい髪をした男としか思っていなかった。

 

それが女だったということと、故意ではなかったとはいえ、女性の胸元を掴んでしまった事に、玄弥は罪悪感と焦りに似た感情を感じていた。

 

「私も人づてで聞いただけなのだが、彼女、大海原汐は、人の目を逸らす特性を持ち、そのせいで性別をよく間違われていたそうだ。私や宇髄など、一部例外はあるようだが、大概はお前の様に男と勘違いする者が多い」

「そう、だったんですか」

 

玄弥は少し上ずった声で返事をすると、何かを考えこむように目を伏せた。その気配を感じ、悲鳴嶼は小さくため息をついた。

 

(ううむ、大海原との接触は玄弥には些か酷だったか・・・?)

 

年頃の少年の複雑な心情を想いつつ、悲鳴嶼は小さく念仏を呟くのだった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

煉獄邸再び

これは、吉原に向かう前の時間軸の話


抜けるような青空の下を、汐は重い足取りである場所へと向かっていた。手には、一枚の紙きれを握りしめて。

 

(まさか、またここへ来ることになるなんてね)

 

その場所が見えてきたとき、汐は複雑な思いを感じた。その場所とは、上弦の鬼と戦い、その命を散らした炎柱・煉獄杏寿郎の生家だった。

 

かつて汐は、炭治郎と共にこの場所へ赴き、煉獄の訃報と遺言を彼の家族に伝えた。その際、二人はひと悶着を起こしてしまい、なんとなく顔を合わせづらかったのだ。

しかし、汐の元に、槇寿郎が汐に会いたいと手紙をよこし、その申し出を無下にするわけにもいかず、汐はこうして赴いたのだった。

 

煉獄邸の前では、既に千寿郎が待っており、汐の姿を見るなり駆け寄ってきた。

 

「大海原さん、お久しぶりです」

「久しぶりね、千寿郎。あんたも元気そうで、何よりだわ」

 

そう言って握手を交わすと、千寿郎は汐に家の中に入るように促した。

 

通された居間では、煉獄の父、槇寿郎が汐を迎えるように静かに座っていた。

あの時会った時とは別人のような風貌に、汐は思わずごくりと唾を飲み込んだ。

 

だが、

 

「すまなかった!!!」

 

槇寿郎は突然、畳に額を打ち付けるように頭を下げた。

 

「あの時は本当にすまなかった!!気が動転していたとはいえ、あろうことか、嫁入り前の女性に手を上げてしまうとは!男として、否、人間としてあるまじきことをした!すまなかった、本当にっ・・・!!」

「父上・・・」

 

汐に土下座をする槇寿郎の身体は、小刻みに震えており、そんな姿を見た汐は慌てた様子で口を開いた。

 

「ちょっとちょっと、顔を上げてよ。顔を殴られるなんて、初めての事じゃないし。それにもう終わったことだもの。あたしは気にしてないわ」

 

汐の言葉に、槇寿郎は顔を上げて汐の顔を見つめた。罪悪感でいっぱいの"目"をみて、汐は静かに首を横に振った。

 

「ほら、大の大人が、息子の前でそんなことをするもんじゃないわよ。それに、あたしの方こそ謝らないと。あの時はあんた達も煉獄、杏寿郎さんの事でいっぱいいっぱいだったし、ほとぼりが冷めるまで来るんじゃなかったんだわ。本当にごめんなさい」

 

汐はそう言って、槇寿郎と千寿郎に向かって深々と頭を下げた。その姿に、今度は二人の方が慌てた様子で口を開いた。

 

「そ、そんな。大海原さんは悪くありません。顔を上げてください」

 

このままでは謝り合戦が続いてしまうと踏んだ二人は、汐をなだめるとちゃぶ台の前に座らせた。

 

「えっと、すぐにお茶を入れてきますね」

 

千寿郎はそう言って、足早に今を出て行き、居間には汐と槇寿郎だけが残された。

 

(えっと・・・、何この空気。凄く気まずいんだけど。何か話さないと・・・。あ、でも、何を話そう)

 

汐は必死でこの重苦しい空気を変えようと、話題を探していた最中に、槇寿郎が突然口を開いた。

 

「大海原君、だったかな。君と竈門君には本当にすまないことをした。二人共、千寿郎の為に泣いてくれたそうだね。しかも、竈門君は千寿郎と手紙のやり取りをしてくれて、おかげであの子も随分元気になった」

「それは、よかったわ」

「言い訳にしか聞こえないが、私は自分の無能さに打ちのめされていた時、畳みかけるように妻、杏寿郎と千寿郎の母親を病気で失った。それからは酒に溺れ、蹲り続けたんだ。とんでもない大馬鹿者だ、私は」

 

槇寿郎の絞り出すような言葉を、汐は黙って聞いていた。

 

「杏寿郎は私などと違い、本当に素晴らしい息子だった。私が教えることを放棄した後でも、炎の呼吸の指南書を読み込んで鍛錬し、柱となった。たった三巻しかない本で。あの子は瑠火の、母親の血が濃いのだろう。彼女もまた、素晴らしい女性だった」

 

槇寿郎は何処か遠くを見るような目で、汐を見つめた。立て続けに妻と息子を亡くした彼の心中は、おそらく口ではとても言い表せないものだろう。

汐の心は、締め付けられるように痛くなった。

 

「それから、杏寿郎はよく君の事を話していた。私は殆ど聞き流してしまっていたが、千寿郎はよく覚えていた。素晴らしい歌声を持つ、青い髪の少女。あの子がああも、誰かの事を頻繁に話すことは、今まであまりなかった」

「そ、そうだったの。前に千寿郎からも聞いていたけれど、やっぱり少し照れるわね」

 

汐はむずがゆさを感じたのか、目を伏せながらそう言った。

そんな汐を見て、槇寿郎は意を決したように口を開いた。

 

「大海原君。無礼を承知で、君に頼みがあるんだ」

「あたしに、頼み?」

 

汐は突然の申し出に面食らうが、槇寿郎の真剣そのものの目に思わず息をのんだ。

 

「君の歌を、聴かせてほしい。君が杏寿郎の為に歌ってくれた歌を、私達にも歌って欲しいんだ」

「えっ・・・?」

 

その頼みごとに、汐は大きく目を見開いた。まさかここで歌をせがまれるとは、思ってもみなかった。

しかし、槇寿郎の"目"には、一切のからかいの意思などなく、真っ直ぐに汐を射抜いていた。

 

その時、お茶を乗せた盆を抱えた千寿郎が、そっと部屋に入ってきたが、ただならぬ雰囲気に、その顔は強張った。

 

「ち、父上?いったいどうしたのですか?」

 

微かに震える声に、汐は慌てて弁解すると、深くうなずいた。

 

「わかった。その申し出、喜んで受け入れるわ。中庭を少し貸してくれる?」

 

汐がそう言うと、槇寿郎は黙ってうなずき、汐はそっと立ち上がるとそのまま中庭へと足を進めた。

 

困惑する表情の千寿郎と、真剣な表情の槇寿郎。その二人の顔を交互に見た後、汐はそっと目を閉じて空を仰ぐようにして口を開いた。

 

大地が、空気が揺れたような衝撃が汐から波のように伝わり、二人の身体を穿った。荒々しくも、美しい旋律に、槇寿郎と千寿郎の全身に鳥肌が立った。

 

(これが、兄上がずっと聴きたかった、大海原さんの歌声・・・)

 

この世にある言葉では言い表せない洗練された歌声。全ての命が首を立てるような曲。

煉獄杏寿郎が、心から惹かれた歌が、二人の心を揺さぶっていた。

 

(なんて、なんて素晴らしい歌だ。いや、素晴らしいなんてものじゃない。もはや、人間の域を超えている。これが、青髪の少女の歌・・・)

 

その時、槇寿郎は汐の姿に、妻と息子の面影を感じた。二人の様に、彼女のまた誇り高き精神を宿していることを、感じ取ったのだ。

 

(ああっ・・・!!)

 

槇寿郎の目から、大粒の涙があふれ出し、来ていた着物を濡らしていった。青髪を揺らし、雄々しく唄を奏でるその少女から、妻と息子と同じ誇り高き精神を感じた。

 

それは千寿郎も同じだった。彼も、父親と同様、大粒の涙を流しながら、汐の歌に聞き入っていた。

 

その姿は、歌を奏でる汐の目にも入っていた。いつの間にか汐自身の目からも涙があふれ出し、頬を濡らしながら歌を奏でていた。

 

(煉獄さん・・・、聞こえる?あなたの為に歌った歌を、今、あなたの大切な家族も一緒に聴いているのよ)

 

汐は天国にいる彼の元へ届く様にと、さらに声を張り上げた。あの時の光景を、決して忘れぬようにと誓いながら。

 

 

*   *   *   *   *

 

「素晴らしい歌だった。本当にありがとう」

 

汐が歌い終わった後、槇寿郎は涙を拭きながら汐に心から礼を言った。千寿郎も、鼻を啜りながら汐に深々と頭を下げた。

 

「いいわよ、お礼なんて。あたしは、あたしにできることをしただけ。煉獄杏寿郎さんに救われた命で、やるべきことをしただけよ」

 

汐も微かに赤くなった目で、そう言って笑い、そんな姿を見た槇寿郎は、汐の心の強さを実感した。

 

「今日の事は、私も千寿郎も一生忘れることはないだろう。君と、君達の未来を、ささやかながら祈らせてもらうよ」

「ありがとう。あたしも、あの人の意思を忘れないように、明日を生きるわ」

「それと、君にこんなことを頼むのも気が引けるが、竈門君にも謝りたいと伝えて――」

「それは駄目。ちゃんとあなた自身の言葉で伝えてよ」

 

槇寿郎の言葉を汐は瞬時に突っぱね、千寿郎は顔を引き攣らせ、槇寿郎は焦ったように「そうだな」と言った。

 

「それじゃあ、あたしはそろそろお暇するわ。あまり遅くなると、みっちゃん、師範が心配するし」

「あ、ああ、そうだな。いきなり呼びつけて本当に悪かった」

「もう、大丈夫だって。あたしはこれっぽっちも迷惑なんてしてないんだから。もしもまた何かあったら、いつでも呼んで?できる限り答えるわ」

 

汐はにっこりと笑ってそう言うと、槇寿郎の胸が大きく音を立てた。そして、杏寿郎が何故ああも汐の事ばかり話すのか、理解できた気がした。

 

「あ、じゃあ僕がお見送りをします」

 

玄関を出ようとする汐の後ろを、千寿郎が付いていった。

 

「大海原さん、今日は本当にありがとうございました」

「あたしも、あんた達が少しでも元気になってくれてよかったわ」

 

汐は自分の今の嘘偽りない心を口にすると、千寿郎の顔に笑みが浮かんだ。

だが、次の瞬間、千寿郎の顔が少しだけ険しくなった。

 

「実は、あの時言いそびれたのですが、大海原さんに伝えておきたいことがありまして」

「伝えておきたいこと?」

「はい。先日、文献の修復をしていた時なのですが、気になる部分を見つけたんです」

 

千寿郎はそう言って、復元された文献の一部を、汐の前に突き出した。

 

「ほら、この部分を見てください」

 

千寿郎が指をさした場所には、少し滲んだ文字で【青い髪】と記されていた。

それを見た瞬間、汐は大きく目を見開いた。

 

「青い髪って、まさか」

「以前、兄上から青い髪の女性、ワダツミの子の事を少しだけ聞かされたので、もしやと思って調べたら――。だから今回、大海原さんを呼んだのは、この事を伝えるためでもあったんです」

「この文献って、確か戦国時代辺りに書かれたものよね。じゃあ、その時にもワダツミの子はいて、その時の鬼殺隊にいたってこと?」

 

思わぬところでワダツミの子の手掛かりが手に入ったものの、それはかえって謎を深めたように思えた。

 

「僕はこれからも、文献を修復します。日の呼吸やヒノカミ神楽の事もそうですが、もしもワダツミの子のことがわかったら、大海原さんにもすぐにお知らせします」

「ありがとう。でも、無理はしないで。あんたが倒れたりなんかしたら、あたしは煉獄さんに顔向けできないわ」

「はい。ありがとうございます」

「それと、あたしの事は汐でいいわ。名字で呼ばれるのは、あんまり慣れてないのよ。いいわね?」

 

汐の言葉に、千寿郎は驚きながらもうなずき、それを見た汐は再び笑顔を見せた。

 

「じゃあね、千寿郎。お父さんによろしく」

「あ、汐さん!」

 

帰ろうとした汐の背後から、千寿郎の呼び止める声がした。

汐が振り返ると、彼は目を泳がせながら言った。

 

「あのっ、もし、もしよければまた来てください。あ、それと、できれば、その。あなたにも手紙を書いても、よろしいですか?」

 

千寿郎は声を震わせながらそう言うと、汐はにっこりと満面の笑みを浮かべながら言った。

 

「いいわよ。すぐに返事できるかどうかはわからないけれど、あたしでよければいつでも」

 

その笑顔に千寿郎の胸が大きく音を立て、顔に熱が籠った。その変化に汐は気づくことなく、そのまま帰路へ着いた。

 

千寿郎は空を見上げて、静かに目を閉じた。脈打つ心臓の音を聴きながら、そっと口を開いた。

 

「兄上・・・、あなたが汐さんの事を、あれほどまでに気にしていた理由が、今わかった気がします。彼女は、素晴らしい女性です」

 

その呟きは風に乗り、はるか遠くまで流れていった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

女心と癇癪玉

炭治郎が目覚めて少し過ぎた後のお話
※下ネタ注意


炭治郎は、今までにない、言い表せない感情を抱いていた。いつも穏やかな彼が、最近は眉間にしわを寄せて、何かを考えこんでいるようだった。

 

(汐、一体どうしたんだろう。あれからずっと、顔を合わせていない)

 

意識が戻ったあの日から、炭治郎は汐と一度も顔を合わせていなかった。炭治郎が動けなかったせいなのもあるのだが、それでも汐は見舞いにすら来なかった。

以前にも喧嘩をして、しばらく口を利かないときもあったが、今回は喧嘩をした覚えなどなく、汐が会いに来ない理由が全く分からなかった。

 

(俺はいったい、どうしたんだ。胸の中がモヤモヤする。今まで、こんなことはなかったはずなのに・・・)

 

炭治郎は、胸の中で渦巻く奇妙な気持ちの正体がわからず、ベッドの上で何度も寝返りを打った。汐が一時的とはいえ、記憶を失っていたと聞かされた時は、心臓を鷲掴みされたような気分になった。

 

汐の中から、自分の存在が一瞬でもなくなってしまっていたということが、酷く恐ろしく感じた。

 

(体力はまだ戻っていないけれど、歩けるくらいには回復した。汐が任務に復帰する前に、何とか会えないかな)

 

「・・・よし!」

 

炭治郎は意を決してベッドから起き上がると、一つ深呼吸をしてから歩きだした。

この時間帯なら、まだ訓練場にいるかもしれない。炭治郎は、微かな望みを抱きながら、足を進めるのだった。

 

 

*   *   *   *   *

 

「「あ」」

 

その日は運がよかったのか、そうでなかったのか。炭治郎が訓練場へ着く前の廊下で、訓練を終えた汐が出てきたところで会うことができた。

ところが、汐は炭治郎の顔を見るなり、慌ててその場から立ち去ろうとした。

 

「ま、待ってくれ!」

 

炭治郎は、すぐさま汐と距離を詰めると、その手を掴んだ。体力が戻っていない彼が、ここまでできたのは火事場の馬鹿力か、それは定かではなかった。

 

「な、なに?」

 

汐は炭治郎から顔を逸らし、どもりながら答えた。いつもの汐ならありえない行動に、炭治郎は驚いた。

いや、驚いたのは行動だけではなく、汐の匂いがはっきりと変わっていた事にもあった。

 

以前のような、優しい潮のような香りではなく、甘く鼻をくすぐるような、果実のような匂い。

その匂いを嗅いでいると、何故か落ち着かないような気がした。

 

「お前、最近どうしたんだ?あれから全く会いに来なくて、禰豆子も寂しがっていたぞ」

 

炭治郎は、自分の口から出てきた言葉に驚いた。禰豆子が寂しがっていたのは、嘘ではない。しかし、本当は自分自身が会いたくてたまらなかったはずなのに、何故か禰豆子の名前が出てきてしまった。

 

汐は僅かに肩を震わせると、観念したように振り返った。だが、その際に汐の前髪が少し捲れた、その瞬間だった。

 

「うわあああああああああああ!!!」

 

突然炭治郎が叫び声をあげ、汐は今度は全身を大きく震わせ、耳を塞いだ。

 

「い、いきなりなんなのよ!びっくりするじゃない!!」

 

汐は顔をしかめて言い返すと、炭治郎は真っ青な顔で汐の額を指さしながら言った。

 

「汐・・・っ、お前っ、その、その傷・・・!」

 

炭治郎が見たものは、汐の額の右上にあった、抉れたような傷跡だった。

それに気づいた汐は、「ああ、これね」と、何でもないように言った。

 

「ひょっとしてあの時、吉原で鎌鬼の攻撃を喰らった時・・・?」

 

炭治郎の脳裏に、血の刃が汐の額を滑る光景が蘇った。

 

「そうみたいね。でも、これくらいなら鉢巻きで隠せるから、何にも問題はないし、別にあんたが気にする事じゃないわ」

 

そう言って笑う汐だが、その笑顔はどこかぎこちなく、炭治郎の胸を締め付けた。

 

(汐が俺に会いに来なかったのは、この傷の事を気にしていたのかもしれない)

 

炭治郎は悔し気に唇をかみしめると、凛とした表情で汐を見据えた。

 

「いいや、気にするよ。俺がもう少しちゃんとしていれば、汐に傷をつけることなんてなかったんだ。吉原で働いたとき、女の子の顔に傷をつけるっていう事が、どれほど惨くて酷いことか、身をもって知ったんだ」

「ちょっと、炭治郎?あんまり深く考えなくっても・・・」

 

何やら妙な空気になってきたことを感じ、汐は慌てて炭治郎を制止させようとした。だが、炭治郎の耳には入らなかった。

 

「お前がそんな傷を負ってしまったのは、俺のせいだ。だから、俺がその責任を取る!」

「・・・・・え?」

 

炭治郎がそう言った瞬間、汐の思考は一瞬停止し、それから。

 

「えええーーーーっ!!??」

 

途端に汐の顔が、これ以上ない程真っ赤になり、頭から湯気まで吹き出した。

 

(ちょっ、ちょっと待ってよ!責任って、ええっ!?だってまだあたしたち、そう言う関係じゃないし、べ、別に嫌じゃないけど・・・、こ、心の準備がまだっ・・・!!)

 

「汐」

 

炭治郎は真剣な声色で名前を呼ぶと、汐の両手を優しく握った。

汐の心臓が跳ね上がり、顔に血が上って眩暈さえ起こした。

 

「は、ははは、はいっ!!」

 

思わず上ずった声で返事をすると、炭治郎はじっと汐の目を見てから、口を開いた。

 

「俺が責任を取って――」

「・・・・・っ!!」

 

「――お前の相手を、見つけてくるから!!!」

 

炭治郎のよく通る大きな声が響き渡った後、汐の思考は再び一時停止した。

そして、

 

「・・・・はあっ!?」

 

あまりにもあんまりな言葉に、汐の高ぶった感情は、一気に急降下した。

 

「大丈夫だ。汐の顔に傷があっても気にしないような人を、きっと捜すから。あ、でも、俺は汐がどんな人が好みか知らないから、参考までに教えてくれると――」

「炭治郎」

 

汐は、一人でまくし立てている炭治郎の背中に向かって、冷ややかな声で呼んだ。

炭治郎が振り返ると、そこには満面の笑みを浮かべている汐がいた。

 

しかし、炭治郎の鼻は感知していた。汐からにじみ出てくる匂いは、先ほどの果実のようなものではなく、怒りに満ちたものだということに。

 

「歯ァ、食いしばれ♪」

 

汐の甘い声が炭治郎の耳を通り抜けた瞬間。

 

重い音が響き渡り、蝶屋敷中が一瞬揺れた。

 

「!?」

 

その揺れは、アオイや三人娘たちも感じ、皆地震でも起こったのかと慌てふためいた。

 

「み、皆さん大丈夫ですか!?今、地震が起こったみたいで・・・!」

 

皆の安否を確認するべく、すみは小走りで廊下の曲がり角を曲がった。そこで見たものは、

 

顔中から涙と鼻水を吹き出し、真っ青を通り越してどす黒い顔で下半身を抑える炭治郎と、顔どころか全身を真っ赤にして、真蛇の形相で廊下を踏み鳴らして歩く、汐の姿だった。

 

この事が原因なのかは定かではないが、炭治郎の回復は大幅に遅れたという。

 

 

*   *   *   *   *

 

「あんの、馬鹿が。ボケが。にぶちんが。唐変木が。許さない、絶対に許さない」

 

目が据わったままの状態で、一心不乱に剣を振る汐の姿を、甘露寺は冷や汗をかきながら眺めていた。

 

(どうしよう。しおちゃんの記憶が戻って、任務に復帰できるくらいに回復したのはいいことだけれど、ここの所ずっとこの調子。悲鳴嶼さんの話では、思春期の子にはよくある事みたいだから放っておけってことだったけれど・・・)

 

だとしても、あのような鬼と人間とも区別がつかないような顔を、汐にさせておくのは絶対にいけないと、甘露寺は意を決して汐に話しかけた。

 

「ね、ねえ、しおちゃん。何があったのかはわからないけれど、いったん休みましょう。まだ怪我が治ったばかりなんだから、無理はいけないわ」

 

甘露寺がそう言うと、汐は振り上げた木刀を下ろし、天井を見上げながらぽつりとつぶやいた。

 

「ねえ、みっちゃん。みっちゃんは恋柱なんて言われてるくらいだから、人を好きになったことなんて何回もあるんでしょ?」

「えっ!?」

 

汐の思わぬ言葉に、甘露寺は飛び上がって驚き、危うく胸が零れ落ちそうになった。

 

「あたし、やっと気づいたんだ。炭治郎の事が好きだって。仲間としてだけじゃなく、もっともっと特別な意味で。でも、いざ炭治郎と顔を合わせると、胸が苦しくなって言葉が出なくなったり、顔もまともに見れなくなったり、挙句の果てにはいつも以上にぶっ飛ばしちゃったり。今まで、こんなことなんかなかったのに」

 

汐は小さくため息を吐くと、甘露寺の方に顔を向けた。

 

「人を好きになるっていうのは、とても素敵なことだって、みっちゃん前に言ってたよね。でも、いざそうなってみると、苦しくて、苛々して、でも、本当はそんなことするつもりなんかなくて、もうわけわかんなくって」

 

そう言って再びため息を吐く汐を、甘露寺はこれ以上ない程愛しく感じ、顔に熱が籠ると同時に胸が激しく高鳴った。

 

しかし、甘露寺はそれを抑えるように目を閉じると、そっと口を開いた。

 

「そうね。人を好きになるということは、とても素敵なことだけれど、その分たくさん悩んだりすることもあるの。でもね、それはとても自然な事なの。その悩みを乗り越えた時、人は成長すると、私は思うわ。そう、鍛錬と同じようにね」

 

そう言って笑う甘露寺に、汐は目を潤ませながらも(鍛錬とはちょっと違うんじゃないかな)と、心の中で突っ込んだ。

 

その時だった。

 

「カァ~カァ~、指令デスヨ~」

 

汐の鎹鴉、ソラノタユウが間延びした声で鳴きながら、汐の肩に止まった。

 

「西ノ方角デ、鬼ノ被害ガ拡ガッテイルトノコト~。恋柱、甘露寺蜜璃様ト共ニ、ソノ場所ヘ向カッテクダサイネェ~」

 

鴉が告げた指令に、汐は顔を引き締め、甘露寺は心なしか嬉しそうな顔で汐を見つめるのだった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

故郷へ(前編)

「しおちゃんが復帰してから、初めての任務ね。だけど、浮かれてちゃ駄目よ。遊びに行くんじゃないんだからね」

「・・・あのさ、みっちゃん。すごくいいことを言っているつもりなんだろうけれど、その顔で言われても、説得力微塵もないからね。そっくりそのまま返すからね」

 

満面の笑みでそう言う甘露寺に、汐はため息をつきながらそう言った。

 

久しぶりの二人での任務であるせいか、甘露寺は危険な仕事に行くとは思えない程、ウキウキとした様子で荷造りをしていた。

気持ちはわからなくもないが、これではあまりにも威厳に欠けると、汐は思った。

 

「それにしても、いつもより荷物が多いわね。そんなに遠いの?」

「ええ。今回は数日掛けて行くくらい遠くだから、いろいろと念入りに準備しないと」

「数日!?相当遠いのね。そんな遠くに柱送るなんて、十二鬼月がいるのか、人手が足りないのか・・・」

 

どちらにしても、今こうしている間にも、鬼は人を襲い好き勝手に狼藉を繰り返しているだろう。

汐の"目"に闘志が宿り、手に力がこもった。

 

やがて荷造りを終えた二人は、甘露寺の屋敷の使用人と、汐の屋敷に派遣されている使用人に事情を話し、派遣先へと向かった。

 

流石に歩いていくのは遠すぎるため、時折乗り物にのりながら、二人は西の地を目指した。(汐は酔い止めの薬を、しっかりと飲んだ)

 

「ねえみっちゃん。あたし達が行くのって、どんなところ?」

 

汐が尋ねると、甘露寺は少し困ったように言った。

 

「西の方角とは聞いているけれど、詳しい場所までは何も」

「そう。相変わらず、大雑把な連絡よね、鎹鴉って」

 

汐は口を尖らせてぼやき、甘露寺も同意するようにうなずいた。

 

「まったく、命かける危険な仕事なんだから、前情報くらいきちんとしてほしいわ!」

「その気持ちはわかるけれど、鬼の調査って本当に大変なのよ。言い方は悪いけれど、何かが起きてからじゃないと動けないことも多いの」

 

そう言う甘露寺の"目"には、微かに悲しみが宿っていた。

 

「ここで考えていても、始まらないわ。とりあえず、この先にある藤の花の家で情報を集めましょう」

「そうね。そうしましょう」

 

二人は互いに顔を見合わせると、同時にうなずいた。

 

そして藤の花の家に近づくにつれ、汐は周りの景色に奇妙な既視感を覚えていた。

 

(あれ?この道、何だか見覚えがあるような・・・)

 

しかし、その既視感の正体がわからないまま、汐達は藤の花の家につくのだった。

 

 

*   *   *   *   *

 

「お待ちしておりました、鬼狩り様」

 

藤の家につくと、すぐに家主らしき男が出迎えてくれた。

そんな彼に、甘露寺は礼を言うと、状況がどうなっているか尋ねた。

 

「鬼が出るというのは、この先の港町の近くで御座います。ここから少し先に、小さな港町があるのですが、最近はその付近に鬼が出てしまい、僅かながら被害が出ている模様です」

 

港町と聞いて、二人の肩が小さく跳ねた。特に汐は、心当たりがあると言わんばかりに、大きく目を見開いていた。

 

「ね、ねえ!その港町の近くに、その、漁村とかってあったりする?」

 

汐がたまらず身を乗り出して尋ねると、家主の男は驚いた顔をしながらも口を開いた。

 

「え、ええっと。話でしか聞いたことはありませんが、大規模な災害があって壊滅してしまった村があったと」

 

男の言葉に、汐の顔色がみるみるうちに変わっていった。それを見て、男は察したのか口を慌てて閉じた。

 

「も、申し訳ありません!私はなんてことを・・・」

「いいえ、あんたは悪くないわ。貴重な話を聞かせてくれて、ありがとう」

 

汐は引きつった笑顔でそう言うと、男は申し訳なさそうな顔をしながら部屋を後にした。

 

「しおちゃん・・・」

 

あまりの事に、流石の甘露寺もかける言葉が見つからず、その背中を見つめることしかできなかった。

 

「成程。鬼の事は極力伏せられているから、災害が起きたってことにしてくれたのね。流石はお館様だわ」

 

そう言う汐の顔は引きつっており、心なしか瞳も揺れていた。

 

「あたし、鬼殺隊士になってから、一度も村には帰っていなかったの。吹っ切れたかと思ったけれど、やっぱりできてなかったみたい。嫌になっちゃうわ。自分がこんなに弱いなんてさ」

 

汐の力ない言葉が響き、甘露寺はたまらなくなり、汐を後ろから抱きしめた。

 

「駄目よ、しおちゃん。そんな風に言うのはやめて。あなたが辛いと、私も辛いの」

 

甘露寺の身体と声は震えていて、それだけで汐を気遣っているのが嫌でも伝わり、汐の胸も苦しくなった。

 

「あなたは強くなっているわ。吉原の件だって、誰一人として犠牲者が出なかったんだもの。だからあんまり、一人で抱えたりしないで」

「みっちゃん・・・」

 

甘露寺の優しさに胸を撃たれる汐だったが、ふと、彼女の呟いた言葉が引っ掛かり、思わず声を上げた。

 

「ちょっと待って。あんた今、犠牲者が一人も出なかったって言った?」

「え、ええ。言ったけれど・・・」

「本当に!?あんなに街がズタボロになって、あちこち血まみれになってたのに!?」

 

汐は驚きのあまり、目を剥きだしながら叫んだ。

汐の記憶では、あの時堕姫と妓夫太郎が暴れに暴れ、町には甚大な被害が出たはずだった。

炭治郎が負傷したあの時にも、倒れ伏している人間を何人か見た気がした。

 

しかし、甘露寺は首を大きく横に振ると言った。

 

「それがね、あれだけ大きな被害が出たにもかかわらず、亡くなった人は一人もいなかったらしいの。かなりの重傷者もいたけれど、今現在も誰かが亡くなったという話は聞かないわ。この知らせを聞いた宇髄さんも、相当びっくりしてたらしいわよ」

 

そう言う甘露寺の言葉に、汐はあの時の事を思い出していた。

 

堕姫が大きく帯を振る寸前、汐が叫んだ時に、僅かだが帯の動きが鈍くなっていた。おそらく、その時に帯の軌道が僅かに逸れたのだろう。

ただ、それでも完全に防ぐことはできず、周りの人間や炭治郎にも、深手を負わせてしまった事は事実だ。

 

汐はぎゅっと唇をかみしめて俯き、甘露寺は慰めるつもりが、逆に嫌なことを思い出させてしまった事を察し、顔を歪ませた。

 

その時だった。

 

「失礼いたします」

 

襖の外から声が漏れ、その後にそっと襖が開いた。そこには、先ほどの男とは別の、男の妻らしき女がいた。

 

「お茶をお持ちいたしました。よろしければどうぞ」

「あ、ありがとうございます。しおちゃん、今は気持ちを切り替えて、お茶を頂きましょう」

 

甘露寺は明るい声でそう言うと、女から茶と茶菓子のせんべいを受け取った。

すると、女の目が汐の真っ青な髪を捕らえ、驚いたように息をのんだ。

 

「まあ、綺麗な青色の髪ですね。まるで、ワダツミヒメ様みたい」

「えっ!?」

 

女の言葉を聞いて、汐は目を剥いて顔を向けた。

 

「ワダツミヒメの話、知ってるの!?」

「はい。このあたりでは、割と有名なお話ですから」

 

女はにっこりと笑って、壁に掛けられた掛け軸を指さした。

 

そこには、海の中から太陽を見つめる、一輪の花を持った女性の姿が描かれていた。

 

「あたしもその話、知ってるわ。ワダツミヒメが天上の神様に恋をして、幻の【泡沫の花】を探して見つけるも、神様には別の相手がいて、悲しみにくれたワダツミヒメは、荒ぶる神になって鎮められたっていう話」

 

汐は故郷の事を思い出したのか、悲しげな声でそう言った。

すると、女は首をかしげながら、徐に口を開いた。

 

「変ですねぇ。私が聞いた、ワダツミヒメ様のお話と違います」

「違う?」

 

今度は汐が首をかしげると、女は頷き、語りだした。

 

「ワダツミヒメ様が泡沫の花を探し出すところは同じなのですが、天上の神様には不治の病を患った妹君がいて、神様は毎日胸を痛めていたそうです。それを知ったワダツミヒメ様は、二人を不憫に思い、泡沫の花に願ったのです」

 

――私の命と引き換えに、あの方の妹様の病を治してくださいませ

 

「その願いは聞き届けられ、妹君の病は治ったのですが、その代償にワダツミヒメ様は命を落とされ、海の泡へと姿を変えました。そして、妹君の回復に疑問を抱いた神様は、紆余曲折あってワダツミヒメ様の存在を知ります。そして、妹君の為に命を落とした彼女を憐れみ、彼女を鎮める歌を歌ったそうです」

 

女の語った物語は、汐の聞いた話とはだいぶ異なっていた。だがそれでも、切なく、悲しい物語であることは変わりない。

 

「そのワダツミヒメ様は、目が覚めるような真っ青な髪の色をしておられたそうです。もしかしてあなたは、ワダツミヒメ様の生まれ変わりやも、しれませんね」

 

女はそう言って、静かに部屋を後にした。

 

汐は茶をすすりながら、先ほどの話を考えていた。

不治の病の妹を持つ、天上の神。まるで炭治郎と禰豆子のようだ。

 

そして、ワダツミヒメは、まるで自分のようだった。

 

ただ一つだけ違うのは、ワダツミヒメは、自分の命を犠牲にして妹を救った。しかし、自分はまだ生きていて、禰豆子は不治の病ではない。

 

(そうだ。あたしは、皆の仇を討ちたいだけじゃなく、あの二人の幸せを守りたいんだ。ワダツミヒメは、自分の命を顧みずに二人を救った。だったらあたしも、命を懸けて守らないと)

 

「みっちゃん」

 

汐は真剣な目で、甘露寺を見据えた。

 

「行こう、鬼を倒しに。あたしや炭治郎達みたいな人達を、これ以上増やしちゃいけない。そのために、あたし達鬼殺隊がいるんだから、あたし達にできることをしなくちゃ」

「しおちゃん・・・」

 

汐が完全に吹っ切れたかどうかは、その時の甘露寺にはわからなかった。

だが、自分を真っ直ぐに見つめるその顔は、まごうことなき鬼狩りの顔であった。

 

 

*   *   *   *   *

 

 

翌日。二人は荷物をそのままに、現場近くにある港町を目指して歩きだした。

街に近づくにつれ、潮の香りが漂い始め、周りの景色が見覚えのあるものに変わってきていた。

 

(やっぱり、あの港町だ。おやっさんの薬を、珠世さんから受け取った時の、あの・・・)

 

そのせいか、汐の顔つきがだんだん険しいものになっていき、それを見た甘露寺は、そっと汐の手を握った。

 

「大丈夫?辛いなら、私に任せてあなたは藤の花の家で休んでいてもいいのよ?」

「ありがとう、みっちゃん。でも、辛いなんて言ってられないわ。ここはあたしの故郷だもの。そこを好き勝手にしている馬鹿どもを、のさばらせてなんか置けない」

 

汐は凛とした声でそう言い、それを聞いた甘露寺の胸が音を立てた。

 

汐達が訪れた港町は、建物などは変わっていないが、人の気配が全くしなかった。

あちこちの建物の窓は塞がれ、道には割れた瓶や腐った食べ物が落ちていた。

聞こえるのは、波が打ち寄せる音だけだ。

 

(信じられない。これがあの港町なの・・・?)

 

汐は呆然と街の様子を眺めていたが、すぐに気持ちを切り替えて、情報を集めることにした。

まずは人を探さねばと、甘露寺と二人で街を歩きだした。

 

汐はあちこちを見回しながら、あの時の出来事を思い出していた。玄海の病が治ると信じて、疑わなかったあの頃を。

だが今は、そんな干渉に浸っている余裕はない。そう自分に言い聞かせながら、汐は足を進めた。

 

「あっ、しおちゃん、みて!」

 

突然甘露寺が声を上げ、ある方向を指さした。そこには、人目を避けるようにして作業をする、漁師のような姿の男が一人いた。

 

「あの人に話を聞いてみましょう!」

 

甘露寺はそう言って、汐を連れて男に近寄った。

 

「あの、すみません!ちょっとお聞きしたいことが・・・」

 

甘露寺が声を掛けると、男は悲鳴を上げて肩を大きく震わせると、そのまま猫の様に蹲った。

 

「きゃっ、ご、ごめんなさい!脅かすつもりはなかったの!」

 

甘露寺が慌ててそう言うと、男は少しだけ顔を上げながら、二人を恐る恐る見上げた。

 

「あ、あんたらは、あの【呪われた村】の化け物じゃないのか?」

「「呪われた村?」」

 

二人が声をそろえて言うと、男は二人をまじまじと見て、ほっと息をついた。

 

「化け物っていうのは鬼の事かしら?だったら心配いらないわ。あいつらは陽の光に弱いから、昼間には絶対に出てこないはずよ」

「先ほどおっしゃっていた【呪われた村】というのは、何ですか?この港町に、一体何が?」

 

甘露寺が優しい声色でそう聞くと、男は矢継ぎ早に話し始めた。

 

「この港町は、漁だけでなく、周りの漁村から売られてくるもので成り立っていたんだ。だけど、化け物のせいで、まともに漁にも出られなくなってしまった。それもこれも、全部あの村のせいだ」

「呪われた村の事、ですか?」

「ああそうだ!何年か前に災害だか何だかで、一つの村が滅んだ。それ以来、このあたりに化け物が出るようになったんだ。あの村が滅んだせいで、こっちにもとばっちりが・・・!」

 

男がそこまで言いかけた瞬間、汐は男の胸ぐらを乱暴に掴み、顔を近づけた。

 

「さっきから黙って聞いてりゃ、呪われただの、村のせいだの好き勝手ばっかり言いやがって!あんたにあの村の何がわかんのよ!!」

 

汐は顔中に青筋を浮かべながら、怖ろしい形相で男に詰め寄った。その顔を見て男は悲鳴を上げ、甘露寺は慌てて汐を男から引き離した。

 

「ごめんなさい!と、とにかく!その村に鬼が出ることはわかりましたので、これから退治しに行きます。だから、安心してください」

 

甘露寺は花のような笑顔でそう答えると、男の顔に微かな安堵が浮かんだ。

 

男が去った後、甘露寺は険しい顔で汐を叱った。

 

「しおちゃん、気持ちはわかるけど、人を怖がらせては駄目。あなただって小さな子供じゃないんだから、いいことと悪いことの区別はつくはずでしょう?」

「それは、わかってる。でも、でも!あたしの故郷をあんなふうに言われたことが、悔しくて、許せなくて・・・!!」

 

汐は、湧き上がってくる黒い感情を抑えようと、ぎゅっと拳を握りしめた。

そんな汐の背中を、甘露寺は優しくなでた。

 

「あなたが故郷を愛する気持ちは本物ね。だからこそ、冷静にならなくちゃ駄目。これ以上鬼達に、あなたの故郷を穢されない為に、自分をしっかり持ちましょう」

 

甘露寺の言葉に、汐は湧き上がってきた黒い感情が、波の様に引いていくのを感じた。そしてしっかりと彼女の目を見据え、頷くのだった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

故郷へ(中編)

陽が落ち始めたころ。

 

港町で話を聞いた汐達は、その現場である村跡地へと向かった。

甘露寺は汐の精神状態を危惧して、何度も声を掛けたが、汐は微笑みながら頷くだけだった。

 

やがて、潮の香りが強くなり、潮騒の音が聞こえてきた頃。

 

「着いた・・・」

 

汐が呟く様に言葉を漏らし、甘露寺は目の前の光景に目を見開いた。

 

そこには、静かに波打つ海と、一面の砂浜が眼前に広がっていた。

建物の影は全くなく、流木すら流れ着いていない、殺風景な場所だった。

 

「ここが、しおちゃんの故郷・・・」

「故郷()()()場所ね」

 

汐は甘露寺の言葉を訂正すると、そのまま砂浜の上を歩きだした。

 

「懐かしいなぁ。確かこの辺には悪戯っ子たちの家があって、おばさんがいつも手を焼いていたっけ。そしてその向かい側には、絹と庄吉おじさんの家があって・・・」

 

汐は砂浜の上を指さしながら、昔のことを思い出しながら言葉を紡いでいた。それを見た甘露寺は、胸が張り裂けるような痛みを感じた。

 

「しおちゃん、あのね・・・「さて。感傷に浸るのはこれくらいにして、鬼の根倉を探しましょ」

 

甘露寺の言葉を遮って、汐は決意に満ちた強い声で言った。その変わり様に、甘露寺は面食らったが、歩きだす汐をを慌てて追った。

 

「それで、鬼の居場所の目星はついているの?」

 

汐の隣を歩きながら、甘露寺は怪訝そうな顔でそう尋ねた。

 

「このあたりで鬼が隠れそうな場所って言ったら、あそこしかない。鯨岩っていう大きな岩がある入江。あそこは結構入り組んでいるし、前にも海賊共が根倉にしていたことがあったから。ほら、あそこに見える大岩がそうよ」

 

汐はそう言って、少し離れた位置にある大きな岩を指さした。

 

「わぁ、本当に大きな岩ね」

 

甘露寺は少しでも雰囲気を明るくしようと声を張り上げ、汐は小さくうなずきながら答えた。

 

「あの岩は遠くからでも目立つから、漁に出た漁師たちの目印にもなっていたの。あたしも随分、あの岩に助けられたわ」

 

汐はそんな話をしながら、鯨岩のある入り江へと足を進めると、やがて二人の前に大きな洞窟が姿を現した。

 

「鬼の気配がする・・・。どうやらここで当たりだったようね」

「ええ、気を付けましょう」

 

汐は目を鋭くさせながら、甘露寺と共に刀の柄に手をかけた。

 

すると、ずるずると重いものを引きずるような音が、洞窟の奥から響いてきた。

 

二人が刀を構えてから数秒後、鬼はその全容を現した。

 

上半身は大人の人間ほどの大きさだが、その身体は鱗に覆われ、耳のある位置にはひれが付いていた。

そして下半身には、人の胴体程のある六本の触手が生えており、そのいずれかにも目のない口があって、鋸のような歯が覗いていた。

 

「きゃあああ!!!」

 

そのあまりにも醜悪な姿に、甘露寺は思わず悲鳴を上げた。汐も、鬼の"目"を見て吐き気を覚えるが、それを打ち消すかのように殺意の炎が胸の中で燃えた。

 

「ほぉ・・・、これはこれは・・・。中々旨そうな女子供が迷い込んできおった」

 

鬼の口が弧を描き、血のような真っ赤な舌が飛び出した。

 

「漁師共の塩辛くて不味い肉に、そろそろ飽きてきたところだ。久々の御馳走、味わって食べるとしよう」

 

鬼はそう言うなり、上半身から光る鱗を二人に向かって飛ばしてきた。

汐は右に、甘露寺が左によけると、鱗は二人がいた場所にあった岩を、真っ二つに斬り裂いた。

 

(あんな固い岩を、パンケーキみたいに斬ってしまったわ!あんなのに当たったら、細切れになっちゃう!!)

 

甘露寺が顔をしかめたその時、鬼の下半身についている大きな口が、あたりの岩を噛み砕きながら迫ってきていた。

 

(きゃー!こっちは目につくものを、何でも食べてしまうのね!目はないけれど!)

 

甘露寺は刀を抜くと、鮮やかな桃色の刀身が姿を現した。しかし、それは通常の刀の形状とは異なっていた。

 

彼女の使う日輪刀は、まるで鞭のように長く、布の様に薄かった。

 

それを初めて見た汐は、目を点にさせ、二度見どころか何度見をしたくらい、奇抜な刀だった。

 

「行くわよ!」

 

甘露寺は大きく息を吸うと、荒れ狂う下半身に向かって突っ込んでいった。

 

――恋の呼吸・壱ノ型――

――初恋のわななき!!

 

甘露寺の一太刀がうねる様に触手を捕らえ、瞬時にバラバラに斬り裂いた。その速さは、元忍びである宇髄をも上回るものだ。

 

鬼はその速さを見て、甘露寺が只者ではないことを察した。だが、斬り裂かれは触手はすぐに再生し、そこに新たな口が現れた。

 

(きゃー、気持ち悪い!!)

 

甘露寺は顔を青ざめさせながら、増えた口に向かって刀を振るっていた、その時だった。

 

――ウタカタ・参ノ旋律――

――束縛歌!!!

 

死角から現れた汐が歌を奏で、鬼の身体を拘束し、そのまま汐は、頸めがけて刀を振り下ろした。

 

だが、

 

「くっ!」

 

汐の刀は、鬼の頸に覆われたフジツボに阻まれてしまい、そのせいか刀が僅かに欠けてしまった。

その隙を突き、鬼は鋭い爪の生えた手を汐に向かって振り下ろそうとした。

 

汐はそれを刀で受け止めるが、勢いまでは殺しきれずに、海に叩き落されてしまった。

 

「しおちゃん!!」

 

甘露寺が悲鳴を上げる中、鬼は再び彼女に向かって鱗を雨のように降らせてきた。

 

――参ノ型――

――恋猫しぐれ!!

 

甘露寺は、まるで猫の様に跳びはねると、降り注ぐ鱗ごと全ての攻撃を斬り裂いた。そしてそのまま、鬼の頸を取ろうと向かったその時だった。

 

下半身の口から真っ赤な炎が飛び出し、甘露寺の進路を阻んだ。

 

(熱い!!)

 

甘露寺が顔面を崩して怯んだ時、時間差で飛んできた一枚の鱗が、その左手を掠めた。

痛みが走り、手の甲からは血がにじみ出した。

 

(この鬼、思ったより強いわ!十二鬼月ではないみたいだけど、たぶんそれに近い・・・。ああでも、それよりもしおちゃん!しおちゃんを捜さないと・・・!でも・・・!!)

 

汐が本調子ではないことには気づいていたが、彼女の頑なな態度に何も言うことができなかったことに、甘露寺は心の底から後悔した。

 

その一瞬の隙を突いて、鬼の下半身が甘露寺に伸ばされようとした、その時だった。

 

――海の呼吸 壱ノ型――

――潮飛沫!!

 

汐が海の中から飛び出し、甘露寺に迫る触手を叩き切ると、再生しかかった触手に向かって、大きく口を開けた。

 

――伍ノ旋律――

――爆砕歌!!!

 

汐が放った衝撃波が触手ごと鬼を押し返し、そのまま鬼は吹き飛び岩壁に叩きつけられた。

 

「みっちゃん、大丈夫!?」

「え、ええ、大丈夫よ!しおちゃんこそ、怪我はない!?」

 

甘露寺の言葉に汐は頷くと、決意が宿った"目"を彼女に向けた。その顔には、もう迷いも恐れも現れていなかった。

 

叩きつけられたことに激昂したのか、鬼は上半身の鱗を震わせ始めた。

おそらく、全ての鱗を二人に向かって放つつもりだ。

 

「みっちゃん」

「は、はい!」

 

汐の凛とした声に、甘露寺は上ずった声で返事をした。

 

「あたしが奴の頸を斬るから、みっちゃんは攻撃を相殺してくれない?おそらく、あの鱗は弾いても戻ってくるだろうから、攻撃事態が斬れるみっちゃんの力が必要になる。あたしの師範だもの、出来るよね?」

「勿論よ!私のかわいい継子のためだもの!なんだってできるわ!!」

 

汐の言葉に甘露寺は、頬を桃色に染めながら鬼を見上げた。その瞬間、鬼は上半身の鱗を二人に向かって全て放った。

 

「行って、しおちゃん!!」

 

甘露寺が叫ぶと同時に、汐は目にもとまらぬ速さで岩場を駆け抜けた。

鬼の触手と鱗が汐を追おうとするが、甘露寺がその前に立ちふさがった。

 

「させないわ!!」

 

――恋の呼吸・伍ノ型――

――揺らめく恋情・乱れ爪

 

甘露寺は身をひるがえしながら、襲い来る攻撃をすべて叩き切り、そのまま刃を鬼の胴体に巻き付けて一気に切り裂いた。

 

「しおちゃん、今よ!!」

 

甘露寺の言葉を合図に、鯨岩に飛び乗った汐は、鬼の頸めがけて刀を振り下ろした。

しかし、鱗に隠れていたフジツボが、再び汐の斬撃を阻んだ。

 

だが、

 

「ああああああああああ!!!」

 

汐が雄たけびを上げると、汐の刀が激しく振動し、その勢いでフジツボごと鬼の頸を斬り落とした。

 

「ギャアアアアア!!!」

 

断末魔を上げながら鬼の身体はのたうち回り、あちこちを破壊し始めた。

その岩の断片と、残った鱗が最後のあがきで二人に向かって降り注いだ。

 

「みっちゃん!!」

「しおちゃん!!呼吸を合わせて!!」

 

汐は身体を捻って着地すると、甘露寺と共に大きく息を吸った。

 

――恋の呼吸――

――海の呼吸――

 

――結ノ型――

――狂乱恋風!!

 

二人の息の合った技が、鬼の攻撃を全て捌き、残った残骸ですら細切れにした。

止めを刺された鬼は、成す術もなく灰となって消えていった。

 

「ふぅ、やったわね、しおちゃん」

 

甘露寺は小さく息をつきながら、汐の背中に向かって声を掛けた。だが、汐は返事をせず、月明かりに照らされる鯨岩を見つめていた。

 

「あの、しおちゃん?」

 

返事をしない汐に、甘露寺は怪訝そうな顔で声を掛けた、その時だった。

 

突然汐の身体がぐらりと傾き、そのまま吸い込まれるように倒れてしまった。

 

「しおちゃん!!」

 

甘露寺は慌てて汐の身体を支えると、そのまま抱えて足早にその場所を後にした。

月明かりが、誰もいなくなった入り江を静かに照らしていた。

 

 

 

 

*   *   *   *   *

 

波が打ち寄せる優しい音が耳をくすぐり、遠くではうみねこの鳴く声がする中。

 

『汐にいちゃーん!』

 

何処からか子供の声が聞こえ、振り返れば二人の少年が汐に向かって手を振っていた。

兄ちゃんと呼ばれたことに憤慨しつつも、汐は何か用かと尋ねた。

 

『なあなあ、鯨岩の入り江に宝探しに行こうぜ』

「宝探し?」

『うん!海の底に、ものすごい宝物があるって、昔じいちゃんに聞いたんだよ!!だから行こうよ、宝探し!』

 

少年達の言葉に、汐は首を横に振った。

 

「宝物ねぇ。その話は知ってるけど、あたしには無理だよ」

『え?なんでさ!姉ちゃんすごく長く潜れるじゃないか!』

「あそこはとんでもなく深いんだ。あたしも一回潜ってみたけど、深すぎて息が続かなかった。だから無理。潜るなら深海魚にでもなるしかないね」

 

汐がそう言うと、少年たちは首を横に振ってこたえた。

 

『大丈夫だよ、今の姉ちゃんなら、きっと潜れるよ』

「えっ?」

『全集中の呼吸が使える今なら、きっとできるよ!』

「あんたたち、なんでその言葉を・・・!!」

 

汐が問いかけようと口を開いたその時、突然大きな波が、瞬く間に汐達を飲み込み、押し流していった。

 

汐はもがきながら、必死で腕を伸ばした。

 

 

*   *   *   *   *

 

「・・・ちゃん、しおちゃん・・・!しおちゃん!!」

 

汐は耳元で名前を呼ばれ、はっと目を覚ました。木目調の天井に、傍らには焦った表情をした甘露寺の姿があった。

 

「よかった、気が付いたのね!酷くうなされていたから、心配したのよ!」

 

甘露寺はそう言って、汐を固く抱きしめた。

彼女の豊満な胸が汐の顔を包み締め付け、汐は息ができず藻掻いた。

 

「あれ、あたし一体どうしてここに?鬼を倒した後から記憶がないんだけど・・・」

「あの後、しおちゃんは突然倒れてしまったのよ。それで私が、藤の花の家まで運んできたの」

 

本当にびっくりしたのよ!と、甘露寺は顔を崩しながら言った。

 

「あの後の始末は、隠の人達がやってくれるから、私達の仕事は終わったのよ」

 

甘露寺は汐を安心させようと、柔らかな声色でそう伝えた。

だが、鬼は退治されても、汐の故郷の村が呪われた村だという噂は、すぐには消えないだろう。

 

汐がそれを思いつつ唇をかみしめた時、ふと、先ほど見ていた夢の事を思い出した。

 

「ねえ、みっちゃん。屋敷に戻る前に、ちょっと行きたい場所があるんだけど」

 

汐の突然の提案に、甘露寺は目を見開いて汐を見つめた。

 

「思い出したことがあるの。あたしがまだ、村にいたころの記憶。お願い、もう一度行って欲しいの。鯨岩の入り江に」

 

汐の真剣そのものの表情に、甘露寺は黙ってうなずくことしかできないのだった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

故郷へ(後編)

朝餉を終えた汐と甘露寺は、港町で必要なものを揃えた後に、今一度鯨岩の入り江と来ていた。

 

汐の手にあるのは海に潜るための磯着と、漁に使うための縄。汐は岩の影で着替えると、縄を自分の身体に固く結びつけ、その先を甘露寺に渡した。

 

「あたしはこれから海に潜って、お宝とやらを探してくる。みっちゃんはこれをどこかに括り付けて、合図したら引っ張ってほしいの」

「それは構わないけれど、本当に大丈夫?昨日の今日だし、海に入る季節にしては冷たいし・・・」

 

甘露寺は心配そうな顔で汐を見れば、汐は首を横に振ってきっぱりと言った。

 

「大丈夫よ。海には慣れてるし、それに、どうしてかは分からないけれど、今じゃないといけない気がするの」

 

勿論、汐の話に確信などはないし、夢という曖昧な物で命を危険に晒しかねない行動をすること自体が無謀であることも、汐自身もわかっていた。

本来なら師範として、汐を止めるべきだった甘露寺だが、汐の真剣な眼差しに動かされ信じる気になった。

 

「しおちゃんが自分で決めたことだから、私は無理に止めたりはしないわ。でも、でもね。これだけは絶対に約束して。必ず無事で戻る事。それが私が柱としてあなたに課す試練です」

 

甘露寺は柱の顔でそう言い、汐も彼女の継子としての顔で頷いた。

 

それから汐は準備体操を念入りにし、耳抜きをすると、そっと海の中に足を入れた。甘露寺の言う通り、今は海に入る季節ではないため水温は低いようだ。

しかしそれでも汐は、ゆっくりと身体を慣らすように海につかると、そのまま大きく息を吸い水の中へと潜った。

 

数年ぶりに潜る故郷の海は、あの頃とほとんど変わっておらず、たくさんの思い出が汐の中に文字通り流れ込んできた。

しかし、汐はその思い出を振り払うように、ゆっくりと海の底へと身を沈めた。

 

海の底に近づくにつれて、段々と水圧が強くなり、視界も狭く暗くなってきた。しかしそれでも汐は、鍛え抜かれた身体能力と、全集中の呼吸がもたらした新たな身体によって、それをものともせずに進んでいった。

 

(あの頃だったら、こんなに長く、深くは潜れなかった。まるでここに来るために、全集中の呼吸を覚えたような気分ね)

 

汐はそんなことを考えながらも、そこを目指して潜り続けていたが、いつまでたっても底が見えず、周りは真夜中のような真っ暗な世界へと変わっていった。

 

(深いとは思っていたけれど、流石に深すぎ・・・!)

 

いくら身体能力が大幅に上がったとはいえ、人間である以上息をしなければ生きることはできない。

しかも視界は闇に閉ざされ、下手をすれば方向が分からなくなってしまう状況だった。

 

(こんなところでくたばるなんて、冗談でも笑えないわ・・・!でも焦るな。焦ったら、状況はさらに悪化する。集中するのよ・・・!全神経を研ぎ澄ませ!)

 

汐はかっと目を見開き、身体に力を込めた瞬間。不思議なことが起こった。

 

汐の眼前に、突然青く光る道のようなものが現れたのだ。

 

それは真っ暗な闇を斬り裂き、ある場所に向かって伸びているようだった。

汐はまるでそれをはじめから知っていたかのように、不思議と疑問に思うことはなかった。

 

汐は誘われるように青い道をたどり、海の底へとさらに潜った。すると、道の先に何かを見つけ更に近づいた。

 

それは、五寸ほどの小さな棒状の物で、フジツボや藻などがびっしりと付着していたが、汐は何故かそれが目的の宝物であるということを理解していた。

 

(さて、戻らないと。でも、一気に浮上しては駄目。肺の中の空気が膨張して破裂する恐れがある)

 

汐は焦りを抑えながら、ゆっくりと少しずつ浮上していった。

 

一方。海上で汐を待つ甘露寺は、落ち着かない様子で岩場をうろうろとしていた。

 

(どうしよう、どうしよう。しおちゃんが潜ってから、もう何十分もたってるわ。いくら全集中の呼吸で身体能力が上がっても、呼吸ができない水の中じゃ、命の危険も高まってしまう・・・。ああ、やっぱり止めればよかった!無理を言っても、力づくでも止めればよかった!!)

 

しかしすでに汐は海の中であり、甘露寺は今にも泣きだしそうな顔で海の中へ伸びている縄を見つめていた、その時だった。

 

縄がぴくぴくと動き、明らかに反応を見せていた。甘露寺は慌てて縄を掴もうとして、はっとしたように目を見開いた。

 

(もしも縄が反応しても、一気に引いたりはしないで。急激に浮上すると、あたしの肺が破裂する可能性があるから。引くときはあたしが合図したらでお願い)

 

汐の言葉を思い出し、甘露寺は焦る気持ちを抑えながらも、縄をそっとつかんだ。汐がいつ合図を出しても、すぐに引き上げることができるように。

 

それから数分後。縄が突然ニ三度、海の中へ沈むようにして動いた。甘露寺はすぐさま縄を掴むと、力を加減しながら引っ張った。

 

やがて海の中から黒い影が現れたかと思うと、水面を貫く様にして汐の青い髪が姿を現した。

 

「しおちゃん!!」

 

甘露寺はすぐさま汐に手を伸ばすと、力を込めて引き上げた。汐は岩場の上に打ち上げられると、何度か咳き込み息をついた。

 

(な、何とか戻ってこられたわ・・・)

 

汐が回らない頭でそう考えていた時、後ろから猛烈な泣き声が聞こえてきた。

 

「うわあああんん!!!しおちゃんの馬鹿ァ!!心配したんだから!!」

「・・・ごめん」

 

甘露寺は汐を抱きしめながら、大声でまくし立て、汐は疲労で動くこともできずぼんやりと身体を預けながら、謝罪の言葉を口にした。

 

やがて甘露寺が落ち着き、汐の疲労もある程度回復してきた頃。

汐は海の底で見つけたものを、甘露寺の前に差し出した。

 

フジツボ塗れのそれに、甘露寺は眉をひそめて怪訝な顔をし、汐は持ってきた小刀でフジツボを削り落としていった。

 

そして全貌が明らかになったそれに、二人はくぎ付けになった。

 

「これって・・・、懐剣?」

 

汐が海の底で見つけてきたのは、五寸ほどの大きさの懐剣だった。だが、海底に落ちていたせいで当然刀身はさび付き、とても使えるような代物ではなかった。

 

「あれだけ苦労したのに、結果が使えない懐剣なんてあんまりじゃないのよぉ!!」

 

汐は怒りのあまり暴れ出し、甘露寺はそれを慌てて抑えた。

 

「落ち着いてしおちゃん。確かに錆びてて使うことはできないかもしれないけれど、これってひょっとしたらかなりの値打ちものかもしれないわよ」

「値打ちもの?」

「ええ。それに、例えそうじゃなくても、しおちゃんの故郷で手に入れたものだもの。しおちゃんにとっては、十分価値のあるもののはずよ」

「何だかうまく丸め込まれているような気がしなくもないけど・・・」

 

汐は少し複雑な気持ちで、錆びついた懐剣を見つめた。確かに甘露寺の言う通り、金銭的な値打ちはないかもしれないが、汐にとって故郷の思い出を忘れないようにするための楔のようなものだと思えば、悪くないのかもしれないと思った。

 

「とはいえ、錆びついたままじゃ何だか見栄えが悪いわ。何とかして綺麗にできないかな?」

「ここまで錆びつていると、普通に研いでも難しいわね。きちんとした場所で研ぐことができればいいんだけど・・・」

 

汐は困ったように首をひねると、突然、甘露寺が何かを思いついたように言った。

 

「そうだわ!もしかしたら、あそこなら研いでもらえるかもしれない」

「あそこ?」

 

甘露寺の言葉に、汐は怪訝な顔で首をひねりながら訪ねた。

 

「しおちゃんは【刀鍛冶の里】って知ってる?」

「刀鍛冶の里?」

 

汐は聞き慣れない言葉にオウム返しで返すと、甘露寺は汐の日輪刀を見ながら言った。

 

「私達の日輪刀は、専属の刀鍛冶さんが打ってくれているのは知ってるわね?その人たちが住んでいる里があるの。でも、その場所は隠されているから、そこへ行くにはお館様の許可が必要なんだけれど、そこへ行けばその懐剣を研いでくれるかもしれないわ」

「そ、そうか。あ、でも。お館様の許可がないといけないような場所にいる連中が、ただの懐剣を研いでくれるとは思わないけど・・・」

「そうかもしれない。でも、そうじゃないかもしれないわ。それに、昨日の戦いでしおちゃんの刀、少し刃こぼれしてたでしょ?」

 

甘露寺の言葉に、汐は昨日の鬼との戦いで刀が刃こぼれしたことを思い出したが、それと同時に、以前に刀を折って専属の鉄火場が大泣きしたことも思い出してしまい、顔を歪ませた。

 

「それと、私の刀もそろそろ手入れをしようかと考えていたところだったの。だから、私がお館様に、しおちゃんも刀鍛冶の里に行ってもいいか申請するから、一度行ってみましょう。あそこには温泉もあるから、疲れをいやすのにも最適な場所よ!」

 

甘露寺はウキウキしながらそう言い放ち、汐は正直甘露寺はその温泉が目当てなのではないかと思ったが、面倒なことになりそうなため黙っておくことにした。

 

 

*   *   *   *   *

 

 

二人が戻ってからすぐの事。汐の屋敷に尋ねてきたものがいた。

それは、【隠】という鬼殺隊の事後処理部隊の者だった。

 

「大海原汐さんですね?初めまして。お館様より許可が出ましたので、私がご案内します」

「はあ、どうも。大海原汐です」

 

きっちりした喋り方の隠に圧倒される汐に、隠は頭を下げると言った。

 

「案内役の事情で名乗ることはできませんが、よろしくお願いします。では、これを」

 

隠はそう言って汐に目隠しと耳栓を手渡した。

 

「里の場所は隠されているため、私があなたを背負っていきます。では、早速行きましょう」

 

汐は言われるがまま目隠しと耳栓をすると、隠の背中にそっと乗った。華奢な見た目とは裏腹に、隠は軽々と汐を背負って歩きだした。

 

汐が屋敷に戻る少し前、甘露寺から里の事は少しだけ聞かされていた。

 

鬼の襲撃を防ぐため、刀鍛冶の里は隠されており、隠の案内なしではたどり着けない。かといって、今汐を背負っている隠も場所は知らず、一定の距離まで運ぶと次の隠へ引き渡され、少しずつ案内されていくのだ。

 

更に、汐と甘露寺は別行動をとっていた。これも勿論、鬼の追跡から逃れるためだ。

 

それ程、鬼殺隊にとって刀鍛冶の里とは重要な生命線の一つであるのだ。

 

どのぐらいの距離を歩き、何人の隠に引き渡されたか分からない頃。

 

「おい、着いたぞ」

 

突然、汐の目隠しが外され、耳栓を抜き取られた。急激に入ってきた光に目をくらませながら、汐は数回瞬きをし、眼前に広がる光景に汐は大きく目を見開いた。

 

そこには、山を切り取ったような岩肌に、いくつかの建物が生えるように立っていた。

 

光景に圧倒されて呆然とする汐に、隠は小さく笑いながら言った。

 

「あんた、すっげえ間抜けな顔してるぜ。まあ、その気持ちはわからなくもないが。あっちの奥を曲がったところが、この里の長の家だから必ず挨拶に行けよ」

「ええ、わかったわ。ありがとうね」

 

汐はにっこりと笑いながら礼を言うと、隠は小さく飛び上がって顔を赤くした。

 

「お、おう。それじゃあな」

 

そう言って隠は慌てた様子で、その場から立ち去っていった。汐はその背中を見ながら、小さく手を振ったその時だった。

 

「しおちゃん!!」

 

背後から声がして、汐が振り返れば、そこには甘露寺が笑いながら駆け寄ってきた。

 

「みっちゃん!もうついてたんだ!」

「ええ、っていっても、私もほんのついさっきついたばかりなの。だからこれから、この里の長の鉄珍様にご挨拶に行くから、しおちゃんも一緒に行きましょう!」

 

余程汐と会えたことが嬉しいのか、甘露寺は汐の手を握って走り出した。はたから見れば姉妹のようにも見える光景に、一部の者たちは心が温かくなったという。

 

だが、二人はまだ知らなかった。

 

再び、大きな運命の流れに翻弄されることを・・・



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

二十三章:刀鍛冶の里


※関西弁苦手なので、ところどころおかしいですが、ご了承ください
※名前の呼び方などは捏造です


「それでは、こちらでお待ちください」

 

ひょっとこの面をつけた者たちに通された部屋で、汐と甘露寺は正座をしながら里長を待っていた。

ここにたどり着くまでの間に、汐は甘露寺から少しだけ里長のことを聞かされていた。

 

里長の名は鉄地河原鉄珍(てっちかわはらてっちん)といい、何とも舌を噛みそうな名だが、この刀鍛冶の里を納める立派な人物だという。

更に、甘露寺としのぶの日輪刀は彼が打ったものだということに、汐は少なからず驚いた。

 

「大変お待たせいたしました」

 

二人のお付きの者に連れられてやってきたのは、長めの口のひょっとこのお面をつけた、汐の半分くらいの身長の小柄な老人だった。

汐はもっと逞しい男を想像していたのだが、それとは似ても似つかわしくない外見に思わず息をのんだ。

 

(い、いや、人は見かけによらないわ。善逸だって普段はあんなにみっともないけれど、いざという時は別人みたいになるし)

 

汐は心の中で首を振りながら、そっと座った里長、鉄珍を見据えた。

 

刹那の沈黙が辺りを満たした時、先に口を開いたのは鉄珍だった。

 

「どうもコンニチワ。ワシ、この里の長の鉄地河原鉄珍、よろぴく」

 

彼の口から飛び出したのは、あまりにも軽い口調の言葉。それに汐は面食らい、思わず息をのんだ。

 

「は、はあ、どうも、大海原汐です・・・」

「お久しぶりです、鉄珍様。本日よりお世話になりますので、どうぞよろしくお願いいたします」

 

汐のぎこちない挨拶に対して、甘露寺は深々と頭を下げ、そんな二人を見て鉄珍は、嬉しそうにうなずいた。

 

「うんうん、可愛い娘が二人、ワシ今、とっても幸せ。やっぱり若い娘と話すのはええもんやな」

 

鉄珍の雰囲気に、汐は玄海と似たような気配を感じて思わず固まった。が、汐は彼の言葉に違和感を感じ、顔を上げた。

 

(あれ?今この人娘が二人って言った?ってことはこの人、あたしを女だって見抜いている。つまり、ワダツミの子の特性が効かない人間なんだわ)

 

汐の特性が効かない人間は多くはなく、そのほとんどが並々ならぬ実力者ばかりであり、汐は思わず身体を震わせた。

 

「そっちの青い子は緊張しているみたいやけど、取って食ったりせえへんから安心したってや。あ、そうや。せっかくやし、かりんとうをあげよう」

 

鉄珍はそう言って、甘露寺と汐の前にかりんとうを差し出した。

甘露寺は顔を輝かせるが、汐は少し顔を引き攣らせてかりんとうを見つめていた。

 

「ん?お嬢ちゃん、ひょっとして甘いもん苦手?」

「え、ええ。まあ」

「さよか。でもな、そのかりんとう、普通のかりんとうとちょっとちゃうんや。甘いもんが嫌いな焔が、唯一食べることができるかりんとうなんやで」

「焔って、鉄火場さんの事?」

 

汐は鉄火場も自分と同じ、甘いものが苦手であることを初めて知り目を見開いた。

鉄珍はお面で隠れているため"目"を見ることはできないが、少なくとも嘘をついているようには思えず、汐は恐る恐るかりんとうに手を伸ばすと、意を決して口に入れた。

 

「あ、あれ?」

 

口の中に入れた瞬間、確かに甘いがとても食べやすく、後に残る味ではなかった。

汐は生まれて初めて、甘いものを美味しいと感じた。

 

「何これ、おいしい!甘いのに食べやすい!」

「し、しおちゃん!はしたないわよ!」

 

汐は思わず大声を上げてしまい、甘露寺に諫められると顔を真っ赤にしてうつむいた。

 

「も、申し訳ございません!私の弟子が失礼なことを・・・!」

「ええよええよ。子供は元気が一番。それな、砂糖やのうて、蜂蜜つこてるの。初めてそれを食べた焔も、おんなじ反応しとってな。かわいい子やったわ~」

 

鉄珍は何かを思い出すかのように遠くを見るような仕草をしたが、お付きの者に促されて二人の方を向いた。

 

「さて、二人の刀は前もって預からせてもろたけど、蜜璃ちゃんはともかく、青い子、汐ちゃんやったかな?焔なんやけど、実は今かなり落ち込んでいて、仕事どころじゃないんよ」

「落ち込んでる?まさか、あたしが刀を壊しちゃったせい?」

 

汐は以前にも刀を破損し、鉄火場にものすごく泣かれたことがあったため、そのせいではないかと思い顔を青ざめさせた。

 

しかし、鉄珍は首を横に振って続けた。

 

「ああ、汐ちゃんのせいちゃうよ。実はここ最近、蛍が行方不明になってな。そのせいで焔も仕事に身が入らんようになってしもた」

「蛍?」

 

聞き覚えのない名前に汐が首をひねると、鉄珍は言った。

 

「鋼鐵塚蛍。汐ちゃんも知っとるやろ?あれの名付け親、ワシなの」

 

思わぬ名前を出されて汐は固まり、新たな情報が増えすぎたせいか少しだけ混乱し始めた。

 

「でも何で鋼鐵塚さんがいなくなって、鉄火場さんが落ち込んでるの?あたしが知る限り、あの二人あんまり仲良しには見えなかったけど」

「あの二人な、小さい時から一緒にいろんなことを競い合ってた幼馴染なんや。蛍はようわからんが、焔は蛍に負けとうないっていつもいつも泣いとったんや。その競争相手がいなくなって、やる気が出なくなったんやろ」

 

鉄珍の口から出た思わぬ言葉に、汐は驚いた表情をした。

 

「さっきの続きやけど、蛍の方はワシ等も探しとるし、焔の方もなんとか説得しとるから堪忍してや。蛍は癇癪を起し、焔はすぐに泣きよる。二人共小さい頃からあんなふうや」

 

そう言う鉄珍は、困ったように溜息をついた。

 

「ううん、違うわ。きっとあたしが刀を折ったり刃こぼれさせたりするのがいけないの・・・」

「いや、違う」

 

――折れるような鈍を作ったあの子が悪いのや

 

鉄珍は汐の言葉を遮り、きっぱりと言い放った。その並々ならぬ気迫に、汐は言葉を飲み込み身体を震わせた。

 

「とにかく、鉄火場の事は我々に任せてください。鋼鐵塚の事も、見つけ次第取り押さえます故」

「あ、ああそう。とりあえず殺さないようにしてね。何だか殺気立ってるように見えるから」

 

鉄珍のお付きの者は、大腕を振ってそう言い、汐は引きつった笑みを浮かべて眺めていた。

 

「説得はつづけるけど、もしも焔が刀を打たない場合、別の者を君の刀鍛冶にする。うちの里の温泉は、身体の傷だけじゃなく心の傷にも効くから、後はワシ等に任せて二人ともゆっくり過ごしてや」

 

鉄珍たちの言葉に、汐と甘露寺は深々と頭を下げ、感謝の言葉を述べた。

 

「では、さっそく宿へとご案内いたします」

 

お付きの者が立ち上がり、汐と甘露寺は彼に連れられ部屋を後にした。

 

 

*   *   *   *   *

 

「うわぁ、凄い景色よしおちゃん!こっちに来て一緒に見ましょうよ!」

 

硫黄の匂いと湯煙に包まれる中、一糸まとわぬ姿の甘露寺は興奮したように遠くを指さした。秋の気配が近いのか、木の葉の紅葉が所々で始まっていた。

 

汐は子供の様にはしゃぐ甘露寺に少し引きつつも、体の芯まで温まる温泉を堪能していた。

 

この温泉は怪我や病気にはもちろん、性格の歪みや思いやりの欠如、将又恋の病にまで効くというから驚きだ。

(最も後者は到底信じがたいものだが)

 

「それにしてもみっちゃん、相変わらず凶悪な物持ってるわねぇ」

 

甘露寺の胸元にぶら下がるそれに目を向けながら、汐は少しだけ呆れたように言えば、甘露寺は顔を赤らめながら慌ててそれを隠した。

 

(いや今更隠されても、隊服から結構見えてるし。あんなものひけらかしてたら、世の中の助平男共はありの様に集ってくるんじゃないかしら)

 

そんなことを考えていた汐だが、ふと、ある疑問が浮かんだため、思い切って聞いてみた。

 

「ねえみっちゃん。みっちゃんはなんで鬼殺隊に入ったの?あんたに弟子入りしてからずいぶん経つけど、その理由をまだ聞いてなかったと思って」

 

汐の唐突な質問に甘露寺は顔を赤らめ、もじもじと恥ずかしそうに身をよじった。その"目"からは恥じらいの感情が見え、汐は大きな違和感を感じた。

 

「そ、そうね。しおちゃんにはきちんと話しておかないといけなかったわね。ああでも、どうしよう!恥ずかしいわ~」

「鬼殺隊に入る恥ずかしい理由って何なの?」

 

汐がたまらず問いただすと、甘露寺は「あんまり言いふらさないでね」というと、先ほどよりも顔を赤くして叫んだ。

 

「私が鬼殺隊に入った理由はね・・・、添い遂げる殿方を見つけるためなの!!

「・・・はい?」

 

甘露寺の思いがけない言葉に、汐の思考は停止した。汐の知る限り、鬼殺隊に入った理由の多くは、凄惨な過去を経験しているためであり、自分自身や炭治郎もそれに当てはまった。

善逸や伊之助の様に、しょうもない理由で入隊した者もいるのだが、甘露寺の動機はそれを凌駕するものだった。

 

「やっぱり自分よりも強い男の人がいいでしょ?守ってほしいもの!しおちゃんも女の子だから、私の気持ちわかるわよね?」

「え?あ、うん。確かに、自分よりも貧弱な奴はちょっと遠慮したいかもね」

 

汐は顔を引き攣らせながらそう言うと、甘露寺は「そうよね~」と嬉しそうに笑った。

しかし汐は心の中で思っていた。

 

(みっちゃんと添い遂げられる強い男って、早々見つからないんじゃないかな。っていうか、みっちゃんの力自体が化け物級だから、悲鳴島さんとかあれぐらいの人じゃなきゃ無理なんじゃないかな)

 

「でもね、本当はそんな人なんていないんじゃないかって、思うこともあったのよ」

「え?」

 

突然声を落とした甘露寺に、汐は驚いて顔を向けた。

 

「しおちゃんは、私の力がすごく強いことは知ってるわよね?でもね、それは鍛えたからだけじゃないの。私の身体はね、普通の人とは違って筋肉の密度が八倍もあるらしいの」

「は、八倍!?」

 

飛び上がる汐をしり目に、甘露寺はさらに続けた。

 

「そのせいかはわからないけど、私ってたくさん食べるでしょ?しおちゃんはもう慣れただろうけど、普通の人が見たらみんなびっくりしちゃうから、この事はお見合いが破断した日から隠さなきゃって思ったの」

「お見合いが破談って、なんで?」

 

甘露寺の話では、桜餅の食べ過ぎで髪の色が変わってしまい、加えて彼女の特異体質のせいで二年前にお見合いが破談になってしまった事があった。

だから彼女は、それをひたすら隠した。神を黒く染め、食べたいものを我慢し、嘘をついて力が弱い振りをしていた。

 

「でもね、そうしているうちに、これが本当に正しいことなのかわからなくなったの。いっぱい食べるのも、力が強いのも、髪の毛も全部私なのに、私は私じゃない振りをするの?って。私が私のまま出来ることや、人の役に立てることもあるんじゃないかな?ありのままの私を好きになってくれる人はいないのかなって」

 

そう言って俯く甘露寺を、汐は呆然と見つめていた。初めて聞かされた、甘露寺蜜璃という人間の過去。

偽りの自分を演じながらも、心のどこかでそれを疑問に思う、矛盾した気持ち。他の者とは少し異なるものの、彼女も彼女なりに苦しんできたことを、汐は今初めて知った。

 

「あ、ごめんね、こんな話聞いてもつまんないわよね。忘れて――「つまんなくなんかない」

 

甘露寺の言葉を遮り、汐はぴしゃりと言い放った。

 

「他人が何を言おうが、関係ないわ。そんなの、そいつらが勝手に嫉妬して勝手に怖がってるだけじゃない。誰のものでもない、みっちゃんだけがもつ才能だもの。そんな奴ら気にしないで、胸張ってふんぞり返ってればいいのよ!」

 

汐は鼻を鳴らしながらそう言い放ち、甘露寺ははっとした様子で言葉を聞いていた。

 

それはかつて、輝哉に言われた言葉と似ているように思えた。

 

『素晴らしい。君は神様から特別に愛された人なんだよ、蜜璃。自分の強さを誇りなさい。君を悪く言う人は皆、君の才能を恐れうらやましがっているだけなんだよ』

 

(似ているわ・・・。私の居場所を与えてくださった人と、似た言葉を・・・)

 

甘露寺の目には涙がたまり、心の底から汐を継子にしてよかったと感じた。

 

「ありがとうしおちゃん。私、あなたと会えて本当に良かったわ!あなたがたくさんの人に愛されている理由も、わかった気がする」

「愛されてる?本当かなあ?少なくともオコゼ野郎と蛇男からは嫌われてると思うけどね」

 

汐は苦々しげにそう言ったが、ふと、あることを思い出して一つ尋ねた。

 

「あ、そうだ。唐突に聞くけどみっちゃん、あいつ、あの蛇男の事はどう思ってるの?」

「蛇男って、もしかして、伊黒さんの事?」

「うん。非番の日にはよく食事に出かけてるって言ってたし、文通もしてるって言ってたから仲がいいんじゃないかと思って」

 

それは何気ない言葉だったが、甘露寺の心を乱すには十分だったらしく、赤らめていた顔がさらに赤くなった。

 

「い、伊黒さんとは、その。靴下をくれたり、一緒に出掛けたりするけど、でも、その・・・」

 

途端に口数が少なくなり、しどろもどろになる彼女に、流石の汐も察した。

 

(あ、こりゃ脈ありだわ。でもあの様子じゃ、あいつがみっちゃんの事を好きだってことには気づいてなさそう。あたしから見れば、あからさますぎて逆に引くのに、恋は盲目ってこういうことを言うのね)

 

師匠と弟子の関係であるにもかかわらず、精神面では完全に逆転する二人を、傾きかけた太陽は優しく照らしているのだった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



一部捏造設定があります


翌朝。いつもより早く目が覚めた汐は、隣で幸せそうな顔をして眠る甘露寺を起こさないように起き上がり、隊服に着替えてそっと宿舎を抜け出した。

朝の散歩ついでに、昨日こっそり教えてもらった鉄火場のいる工房に向かうためだ。

 

基本的に里の中の移動は自由であり、温泉も入り放題だという至れり尽くせりな対応に、汐は少し戸惑いつつも嬉しく思った。

 

(里長さん達は任せてくれって言ってたけれど、やっぱりあたしは鉄火場さんに刀を打ってもらいたい。今までだってあの人の打った刀で戦って来れたんだもの。今更他の人に変えるなんて、あたしはごめんだわ)

 

汐は少し肌寒い秋の空気を感じながら、工房への道を進んだ。

 

この里は刀鍛冶師やその家族の住まう集落があり、殆どの鍛冶師が自分の工房を持ち、そこで皆鬼を倒すための日輪刀を打っているという。

 

鬼殺隊士にとって命を守るとともに、自分自身の魂といっても過言ではない日輪刀。

それを二度も壊してしまった事により、流石の汐も負い目を感じていた。

 

(鋼鐵塚さんが見つかれば鉄火場さんもやる気になるって里長さんは言ってたけど、鋼鐵塚さんを捜すのは無理だろうし、とりあえず鉄火場さんから話だけでも聞けないかな)

 

汐は、あちこちを見回しながら先へと進んだ。

 

あちこちに温泉があるせいなのか、硫黄の匂いが汐の鼻を掠めていき、少しだけ顔をしかめた。

狭霧山でも小さな温泉はあったため、その匂いの存在は知っていた汐だったが、それでもこの匂いはあまり好きになれなかった。

 

(あたしでさえこんな風なんだから、鼻が利く炭治郎はもっときついんじゃないかしら)

 

炭治郎の顔を思い出した瞬間、汐の胸が小さく音を立てた。

 

(そう言えば、あの日以来炭治郎と全然会ってないわ。任務で数日開けてたし、帰ってきてからすぐにここに来ちゃったし。あ、でも!あの時の事は完全にあいつが悪いから、あたしが謝る必要なんてないわよね)

 

炭治郎の汐にとって無神経すぎる発言に容赦ない制裁を加えたことを、汐は無理やり納得させながら歩いていると、教えられた場所へとやってきた。

 

そこには、粗末だがそこそこの大きさのある建物があった。

 

汐はすぐに戸の前に立つと、手の甲で数回叩いた。

 

「こんにちは~。鉄火場さん、いる?」

 

汐はそう声を掛けて少し待つが、戸の向こうからは何の音も声も聞こえなかった。

もう一度声を掛けてみるが結果は同じで、汐はがっくりと肩を落とした。

 

(まあ、そう簡単に会えるわけないとは思ってたけど、あたしって本当にこういう時の間が悪いのよね)

 

汐はため息をついて出直そうとしたとき、どこからか硫黄の匂いが漂い、水音が聞こえてきた。

 

(この辺にも温泉があるみたいね。せっかくだし、ちょっとだけ見て行こうかな)

 

汐はそのまま、光の差す林へ向かって足を進めた。

 

数分歩いた後、ふと人の気配を感じて汐は足を止めた。数十尺先からは温泉があるのか湯煙が上がり、そのそばに見知らぬ人影があった。

 

黒檀のような黒髪に、頬に大きな火傷の跡があった。胸にさらしを巻いていることから、女性であることがうかがえた。

 

(誰かしら、あの人。ここに住んでいるんだから、きっと里の関係者なのは間違いないわね)

 

汐はその女性に鉄火場の事を聞いてみようと、近づこうとしたその時だった。

 

女性は着替えた後、髪を整え傍にあった面を取り、その面を見た瞬間、汐の身体は石のように固まった。彼女が手にした面に見覚えがあったからだ。

 

(え・・・?あのお面、見覚えがある。いや、見覚えってどころじゃない。だってあれは、あのお面は・・・)

 

汐が知る限り、その面をつけた刀鍛冶は一人しかいない。その持ち主の名は、鉄火場焔。

何故その女性が鉄火場の面を持っているということを汐は理解できなかった。

 

汐は見てはいけないものを見てしまった気持ちになり、この場から立ち去ろうとしたその時だった。

 

つくづく運が悪いのか、汐は足元の石に躓き、転びはしなかったものの物音を立ててしまった。

その音は、前にいたその人物の耳にも届いた。

 

「誰だ!?」

 

その人物が発した声は、汐もいやというほど聞き覚えがあった。その声で、汐の目の前で泣かれた記憶が一気によみがえった。

 

「え・・・え?」

 

汐の青い瞳と、彼女の漆黒の瞳がぶつかり、しばしの間時が止まった。

 

「は・・・?う、汐・・・殿?」

 

困惑のあまり上ずった声を上げる鉄火場に、汐は顔を歪ませながら大声で叫んだ。

 

 

「鉄火場さんって女だったのぉぉぉおおおーーーーー!?」

 

そのあまりの大声に、木に止まっていた鳥たちは慌てて飛び立ち、鉄火場は慌てて汐の口を塞いだ。

 

「こ、声が大きいです!!」

 

口を塞がれ更に困惑する汐を、鉄火場は必死でなだめるのだった。

 

 

*   *   *   *   *

 

汐が落ち着きを取り戻した後、鉄火場は自分の工房へと案内した。

 

「粗茶で御座います」

「あ、はい。どうも」

 

二人はぎこちなく挨拶をかわすと、汐はおずおずと口を開いた。

 

「驚いたわ。まさか鉄火場さんが女の人だったなんて。声も男の人にしてはちょっとだけ高いなって思ったけれど・・・」

「私もまさか、汐殿がこの里に来ているとは思ってもみませんでした」

 

二人はそう言ってしばし黙り込み、汐もなんとか雰囲気を変えようと口を開こうとしたときだった。

 

「汐殿はどうしてここへ?」

「え?あ、えっと。鉄火場さんが落ち込んでるって里長さんから聞いて、鉄火場さんが打たない場合は他の人が刀を打つって言われて、でも、あたしは鉄火場さんに刀を打ってほしくて、それで・・・」

 

汐は、まだ衝撃が抜けきってないせいかしどろもどろになりながら答えると、鉄火場は俯きながら答えた。。

 

「ご心配をおかけしてすみません。ですが、残念ながらあなたの期待に応えることは難しいでしょう。今の私は刀鍛冶として失格な人間ですから・・・」

「鋼鐵塚さんがいないから?」

 

汐が鋼鐵塚の名を出すと、鉄火場は驚いたように顔を上げて汐を見た。

 

「長から聞いていましたか。恥ずかしながら、その通りです。自分がどれほど浅はかで稚拙な人間かがわかってしまい、とても鍛冶師としてやっていけるかどうか・・・」

「鋼鐵塚さんとは幼馴染だって聞いたけれど、それと何か関係が?」

 

汐の言葉に、鉄火場は言葉を切って小さくうなずいた。

 

「少し長くなりますが、聞いていただけますか?」

 

そう言って鉄火場は、徐に口を開いた。

 

鉄火場焔がこの里へ来たのは、生まれて間もない頃。生まれつき左半身に麻痺があり、心無い両親によってこの里に捨てられ、それを里長である鉄珍に拾われた。

彼女は普通の赤子よりもよく泣いたが、炎を見せると途端に泣き止んだため、【焔】と名を着けられた。

 

結局麻痺は数か月後に治り、彼女は妻を早くに亡くした鍛冶師、鉄火場仁鉄の養女として引き取られた。

 

それから鉄火場は、人を守るために刀を打つ養父にあこがれを抱き、自分も同じく誰かを守る刀を打つために刀鍛冶の道へと入った。

 

「しかし、その道は想像以上に苛酷な物でした。私の泣き虫な性格が災いし、周りの者は私が泣くせいで作った物はすぐに錆びて使えなくなると、何度も罵声を浴びせました。しかも、鍛冶師は男の仕事だということが根強く、女である私がその道に進むこと自体が異質だったのでしょう。いつしか私は、自分の性別を偽りながら、修行に明け暮れました」

 

鉄火場は驚いて固まる汐を見据えながら、そう言った。

 

「でもそんな状態でうまくいくはずもなく、私はやはり自分には才能など無いのだと諦めを抱き始めていた、その時でした」

 

まだ幼い鉄火場が、修行の厳しさに家の外で涙を流していた時。彼女の前に一人の見知らぬ青年が現れた。

ひょっとこの面をつけた、18歳ほどの青年だった。

 

『うるせえよ、ピーピーと。作業の邪魔をするんじゃねえ』

 

青年はぶっきらぼうにそう言うと、鉄火場が打ったであろう小さな小刀を見て言った。

 

『それ、お前が打ったのか?』

『え?う、うん』

『全然だめだな。厚さも刃紋もバラバラ。てんでなってねえ。いくら俺でも、それぐらいはわかる。まず火加減自体がおかしいんだ』

 

青年は鉄火場の作品を悉く貶すが、鉄火場はあることに気が付いた。

自分の何処が駄目なのか、何が悪いのかを、彼は指摘しているように思えた。

 

実際に彼の言う通りにやってみると、驚くほど品質が向上したのだ。

 

それから鉄火場は彼の所に時々訪れ、自分の打ったものを見せたり、逆に彼が鉄火場の元へ自分の作った物を自慢しに来たりと、はたから見れば奇妙な間柄になっていた。

 

彼の性格は破綻しているものの、刀鍛冶師としての誇りと腕前に、鉄火場はあこがれを抱き、それがいつしか彼に負けたくないと思うようになった。

その結果、鉄火場は刀鍛冶師として成長することができたのだった。

 

その青年の名は、鋼鐵塚蛍と言った。

 

「ですから、今の私があるのはほた・・・鋼鐵塚のお陰なんです。もっとも、あの性格は目に余りますが、奴がいなくなったと聞いたとたん、私の気持ちは嘘のように沈んでいきました。それで気づいたのです。私は、鋼鐵塚がいなければ刀をまともに打つことすらできない、腰抜けだと」

 

鉄火場はそう言って膝の上で握りこぶしを作り、身体を震わせた。汐は何も言うことができず、ただ彼女を見つめるだけだった。

 

「このような刀鍛冶師の風上にも置けない人間が、人を、貴女を守る刀など打てるはずがない。だから、大変申し訳ないのですが・・・」

「ねえ、話の腰を折る様で悪いんだけどさ。鉄火場さんってもしかして、鋼鐵塚さんの事が好きなの?」

 

汐のとんでもない爆弾発言に、鉄火場は飛び上がってひっくり返ってしまった。

 

「は、はあ!?私が、鋼鐵塚を、好き!?そ、そんなことあるわけないじゃないですか!!」

「いや、だって今の話を聞く限り、好きな人がいなくなってやる気が出ませんっていう風にしか感じなかったけど」

「ありえません!だって、だって私はあいつに・・・でも、その、あれ?」

 

鉄火場は必死に否定の言葉を探すが、言葉の代わりに彼女の耳がこれ以上ない程真っ赤になった。

それを見た汐は、図星だと気づくと同時に、彼女もかなり変わり者だということを察知した。

 

「た、例えそうだとしても、そのような世迷言に現を抜かしている時点で、私は刀鍛冶として失格です。職人に私情は必要ない。それすら今の今まで気づかなかった時点でならなかったことなのです。大変申し訳ないのですが、私はもう刀鍛冶として槌を取るわけには・・・」

「・・・ふざけんじゃねーわよ」

 

鉄火場の言葉を遮り、汐はそう言って立ち上がった。

 

「さっきから聞いてりゃ、自分は刀鍛冶師失格だとか、才能がないだとか、そんなことばっかり。あんたが刀鍛冶師失格だって誰が言ったの?里長さんや里の人、鋼鐵塚さんが一言でもそんなこと言ってたの!?全部あんたが勝手に思い込んで、勝手に落ち込んでるだけじゃない。目の前の事も見えない職人なんて、ちゃんちゃらおかしいわ」

 

汐は目を剥きながら、機関銃のように言葉を鉄火場にぶつけた。

 

「あたしは今まで、あんたが打った刀で戦って、今日まで生き残ってこれた。誰が何と言おうと、これだけは事実。だからあたしは、あんた以外に刀を打ってほしくない。同じ女として頑張っているあんたに、刀を打ってもらいたい。あんたが何を思っていようが、あたしには何の関係もないことだから」

 

汐は思いのたけを全て鉄火場にぶつけると、そのまま戸へと向かった。

 

「今日は帰るわ。勝手にお邪魔しちゃってあんなこと言うのもあれだけど、これは嘘偽りない、今のあたしの本当の気持ちよ」

 

汐はそれだけを言うと工房を後にし、残された鉄火場はしばらく呆然としていたが、大きく深呼吸をした。

 

(誰かに言われるまで気づかない、私の一番の悪い癖だ。私はずっと忘れていた。私が刀鍛冶の道を歩むと決めた、本当の決意を)

 

――人を守るための、刀を打ちたい。

 

「すみません、師匠、汐殿、蛍。私は・・・私は・・・」

 

鉄火場はもう一度大きく深呼吸をすると、意を決したように外へと出るのだった。

 

 

*   *   *   *   *

 

鉄火場の工房から帰った後、汐は甘露寺から何処へ行っていたのかと頬を膨らませながら問い詰められた。

汐は鉄火場の事を話そうかと思ったが、むやみやたらに話すべき内容ではないと思ったのと、どっと疲れてしまった事もあり、曖昧な返事をして、だいぶ時間は経っていたが昼餉を食べに向かった。

 

昼餉の後、汐は疲れを癒すために一人露天風呂に浸かっていた。木々に囲まれた、自然に満ちた温泉だ。甘露寺は一緒に入りたがったのだが、里長の使いの者に呼ばれて行ってしまったのだった。

 

(は~あ。勢いであんなこと言っちゃったけど、人の心なんてそう簡単に変わるはずないし、あたし無神経だったな)

 

鉄火場を励ますつもりが逆に叱りつけてしまい、ますます落ち込ませてしまったかもしれないと汐は思った。

 

この数時間でいろいろなことが置きすぎて、汐は混乱する頭を落ち着かせようと曇った空を見上げた。

 

鉄火場焔が女性であったこと。自分と同じ、捨て子で養父に育てられたこと。泣き虫な性格と、色眼鏡で見られて苦しんでいた事。そして、鋼鐵塚との思わぬ関係などを、汐は考えていた。

 

(でも、あたしは鉄火場さん以外に刀を打ってほしくない。何故かはわからないけれど、あの人じゃなきゃ駄目だって思えてしょうがない。これだけは、何があっても絶対に変わらないわ)

 

そう思っていた時、ふと、汐は一つのあることを思い出した。

 

(そう言えば、鉄火場さんの師匠っておやっさんの刀を打った人だったよね。もしかしてあたしが鉄火場さんに刀を打ってもらいたいのって、それもあるのかな?あーっ、どうせならそのことも言っておけばよかった!あたしってつくづく、間が悪いわ)

 

汐は頭を抱えながら、もやもやした行き場のない気持ちをどうしようかと思っていた時、背後で人の気配がした。

 

汐は甘露寺が戻って来たと思い、振り返った瞬間。

 

汐の身体は再び石のように固まった。

 

そこにいたのは、湯煙に赤みがかかった髪を靡かせ、下半身に手ぬぐいを巻いた見覚えのありすぎる少年。

 

――竈門炭治郎だった。

 

「「あ」」

 

二人が同時に間抜けな声を上げる中、禰豆子は一人嬉しそうに汐の元へ飛び込んでくるのだった。




大正コソコソ噂話

鉄火場の風鈴は鋼鐵塚リスペクトではなく、師匠の仁鉄が暇つぶしに作った風鈴がえらく気に入ったためいつもならして持ち歩いていたためです。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



汐が鉄火場と話し込んでいる間に、炭治郎もこの里を訪れていた。

あれから彼の元には日輪刀が届かず、代わりに届いていたのは、恨み辛みが込められた呪いの手紙だった。

 

焦る炭治郎に、蝶屋敷の三人娘たちは、鋼鐵塚と直接話をするために刀鍛冶の里へ行ってみてはどうかと提案した。

 

その里に汐が来ているとは露知らず、里長の鉄珍に挨拶をした後は、曇天の空の下を歩いていた。

 

(ここが刀鍛冶の里。あちこちから温泉の匂いがするなぁ。体力が万全じゃないのも、鼻が利きにくい原因かな)

 

あれからなかなか体力が戻らなかった炭治郎は、鉄珍に里の温泉に好きなだけ入っていいと許可をもらっていた。

しかし、いざ温泉に入ろうとしても、たくさんある上に効能も様々で、どれに入っていいのか決めかねていた。

 

すると、背中に背負った箱の中で、禰豆子が起きたのかカリカリと音がした。

 

「禰豆子、お前も温泉に入りたいのか?」

 

炭治郎が尋ねると、禰豆子はそうだというように先程よりも強く箱を引っ掻いた。

 

(この天気なら禰豆子を外に出しても大丈夫だろう)

 

炭治郎はすぐ傍に温泉を見つけると、禰豆子を箱の中から出し、自身も服を脱いで手ぬぐいを下半身に巻き付けた。

そしていざ、温泉に入ろうとした炭治郎の足が、その場で止まった。

 

彼の視線の先には、真っ青な髪を揺らし、一糸まとわぬ姿で表情を固まらせた、見覚えのありすぎる少女。

 

――大海原汐が、そこにいた。

 

「「あ」」

 

二人は間抜けな声を同時にあげ、禰豆子は嬉しそうに汐の元へと飛び込んだ。

 

炭治郎の顔が真っ青になったその瞬間、彼の脳裏には、これまで歩んできた全ての思い出がガラス細工の様に蘇った。

 

楽しそうに笑う家族、これまで出会ってきた仲間たち、救えた命、救えなかった命の数々が・・・。

 

だが、それは一瞬のうちに掻き消え、炭治郎の頭の中に浮かぶのは、"死"という真っ赤な一文字。

それを悟った瞬間、炭治郎の両目から涙があふれ出した。

 

(禰豆子、善逸、伊之助、皆・・・、ごめん・・・!俺、もうダメかもしれない・・・!)

 

先日、自分のせいとはいえ、いろいろな意味で再起不能にされかかったことは記憶に新しく、それも踏まえて炭治郎は本気で死を覚悟した。

 

首をへし折られる自分、湯が真っ赤に染まった温泉に臀部だけ出して沈む自分、とても見せられる状態ではない姿にされた自分が思い浮かぶが・・・。

 

「っ!!!」

 

汐が小さく悲鳴を上げ、炭治郎に背を向けた瞬間、炭治郎の意識が急激に戻って来た。

 

「うわあああ!!ご、ごめん!!温泉の匂いでわからなくって・・・、って違う!ね、禰豆子!!出よう!今すぐに温泉を出るんだ!!」

 

炭治郎は上ずった声でそう叫ぶと、慌てて禰豆子の手を掴みその場から立ち去ろうとした、その時だった。

 

「待って!!!」

 

汐の鋭い声が聞こえた瞬間、ピシリという空気が張り詰める音と共に、炭治郎の身体が突然動かなくなった。

 

(えっ!?こ、これって、汐の束縛歌!?なんでウタカタが!?)

 

混乱する炭治郎の背後では、思わぬところでウタカタを放ってしまった汐が、彼以上に混乱していた。

 

(やばっ、暴発した!えっと、解除するには相手が強い意志を持っていないといけないから・・・)

 

「た、炭治郎!ウタカタは暗示の一種だから、指先に神経を集中させて、自分の身体が自由になることを強く念じるの!」

 

汐は立ち上がり、炭治郎の背中に声を掛けたが、彼の背中を見て息をのんだ。

 

(指先に、神経を・・・)

 

炭治郎は汐の言う通りに集中し、頭の中で体が動くことを強く思った。すると、固まった身体が急激に動き、危うく顔面を岩の床にぶつけそうになった。

 

「う、動けた。ありがとう汐・・・」

 

炭治郎が振り返って礼を言おうとするが、汐の姿はなく、炭治郎は改めて自分の状況を認識した。

 

「あ、ご、ごめん!今すぐに出るから!禰豆子、行こう!」

「いい!出なくていい!!せっかく来たんだから入っていきなさいよ!」

 

岩陰から飛んで来る言葉の意味を理解するのに、炭治郎はしばしの時間を要した。もしも自分の解釈が正しければ、このままともに湯あみをしてもいいということになる。

 

(い、いやいやいや!それは流石に駄目だろう!うん、これはものすごく駄目な気がする!!)

 

しかし禰豆子は、久しぶりに汐に会えてうれしいのか、それとも温泉が気に入ったのか、湯から出ようとしなかった。

 

「な、何してんのよ!そんなところに突っ立ってないで入れば?禰豆子だって待ってるのよ」

「え?い、いやでも・・・」

「つべこべ言わずに入れって言ってんだろーが!!」

「はい!!!」

 

汐の大声に炭治郎は思わず返事をし、被り湯をした後おずおずと湯に足を付けた。

 

禰豆子が楽しそうに泳ぐ中、岩を挟んで汐と炭治郎は、背中を向けたまま気まずい空気の中佇んでいた。

汐は炭治郎を引き留めてしまった事、炭治郎は汐に殺されるどころか引き止められたことに混乱しつつも、何とかこの空気を変えようと口を開いた。

 

「「あの!」」

 

しかしその声は綺麗に重なり、二人は慌ててそっぽを向いた。それから互いに先に話すように促すが、再び堂々巡りになりまた気まずい空気が流れた。

 

(あれ?なんだか前にもこんなことがあったような・・・)

 

覚えのある光景に、汐ははっとしたように目を見開いた。汐が甘露寺の継子になる前の事、炭治郎と喧嘩をした後にも同じようなことがあったことを思い出した。

 

「ふふっ」

「どうした?」

 

思わず笑みをこぼす汐に、炭治郎は怪訝な顔で岩の方を向いた。

 

「ううん、前にもあんたと喧嘩したときも、こんなことがあったなって思い出して」

「あ、ああ。そう言えばそんなこともあったな」

「あれからずいぶん経つけど、それ以上にいろいろなことがあったわね。煉獄さんの事とか、吉原の事とか」

「そうだな。本当、いろいろあったな」

 

二人はそう言いながら、雲に覆われた空を見上げた。

 

二人はそれからしばらく、離れていた間の事を岩越しに話し合った。汐の方は思わぬ里帰りをしたときに、海の底で懐剣を見つけたこと。刀が刃こぼれしてしまったため、甘露寺と共に直しに来たこと。鉄火場と鋼鐵塚が幼馴染であったこと(さすがに鉄火場が女性であることは伏せた)などを話した。

 

炭治郎の方も、体力がなかなか戻らなかった事。刀が届かず、鋼鐵塚から代わりに恨み辛みが込められた呪いの手紙をもらった事。

鋼鐵塚と直接話をするためにここに来たことなどを話した。

 

そんなことを話していると、汐は先ほどの事を思い出し、おずおずと話し出した。

 

「あの、さっきウタカタを誤爆しちゃったときに見ちゃったんだけど、あんたの背中にあった傷、あの時のよね?」

 

汐の言葉に、炭治郎の肩が小さく跳ねた。

 

汐が炭治郎の背中を見て息をのんだのは、右肩から左下へざっくりと付けられた、痛々しい大きな傷跡を見たからだった。

それは吉原での任務の際、汐を庇って堕姫に背中を斬られたときのものだった。

 

あの時の感覚を、汐は鮮明に思い出していた。冷たくなる身体、息が凍り付くような感覚、ぞっとするほど温かい炭治郎の命の雫。

 

「あたしがへまをしなかったら、あんたにそんな傷をつけることもなかった。ごめん、本当にごめんなさい」

 

汐はこみ上げてくる想いを抑えるように、絞り出すような声で謝った。すると、岩の向こうから炭治郎の声が聞こえてきた。

 

「どうして汐が謝るんだ?お前は何も悪くないし、この傷はお前を守れた証だと俺は思ってる。それに、謝らなければいけないのは俺の方だ」

 

炭治郎の言葉に、今度は汐の肩が跳ねた。

 

「俺、汐の気持ちを考えないで無神経なことをして、お前をまた傷つけた。その事に気づけなくて、善逸に指摘されてやっと気づいたんだ。俺は、俺は本当に大馬鹿者だ。本当にごめん」

 

汐は呆然と炭治郎がいる方向を見つめた。まさか炭治郎から謝罪の言葉を聞くことになるとは思わなかったからだ。

 

(炭治郎・・・)

 

汐は炭治郎の優しさをかみしめつつも、胸が締め付けられた。汐の失態を欠片も責めず、それどころか自分を責めてしまう。

優しい人ほど傷つきやすいと、昔誰かに聞いたことがあったが、これではあまりにもあんまりだ。

 

「あんたが謝ることじゃないわ。ちゃんと話さずに、いきなり手を上げたあたしもいけないのよ。いろいろな人から「それはいけないことだ」って指摘されているのに、ちっとも改善しない。あたしってホントダメ人間だわ」

「そんなことはない。確かにいきなり暴力を振るうのは好ましくないけれど、汐はちゃんと分別もできているし、理不尽に人を殴ったりは絶対にしないことを、俺は知ってる。いきなりできなくても、少しずつ改善していけばいい」

 

炭治郎の言葉が湯煙と共に、汐の耳に優しく届いた。汐はとくとくと脈打つ胸を抑えながら、甘い痺れを感じていた。

 

(炭治郎・・・、あんたって人は、どうしてそんな言葉がすぐに出てくるの。どうしてあたしの欲しい言葉を、あんたはくれるの)

 

こみ上げてくる熱い想いが堰を切ってあふれ出しそうになり、汐は思わず声を上げた。

 

「炭治郎!あ、あたし、あたしね!この際言っちゃうけど、あんたが責任を取ってくれるって言ってくれた時、その、本当は嫌じゃなかった。むしろ、嬉しかった。だってあたし、あんたのことが・・・!」

 

だが、そこまで言いかけた瞬間。突然何かが水の中に落ちるような音が響き渡り、禰豆子が慌てた様子で唸っていた。

 

汐は慌てて岩の奥を覗き込むと、そこには全身を茹蛸の様に真っ赤にして、湯の中にうつ伏せに浮かぶ炭治郎の姿があった。

 

「ええええーーーっ!!??あんた何やってんのーーーッ!?」

 

慌ててひっくり返せば、炭治郎は真っ赤になりながら目を回しており、言葉も呂律が回っていなかった。

 

「何逆上せるまで湯に浸かってんのよ!って、あたしのせいか。禰豆子!あんたの兄ちゃんを引っ張り出すから手伝って!」

 

禰豆子は頷くと、炭治郎の右腕を抱え、汐は手ぬぐいで前を隠しながら、左腕を抱えて立ち上がった。

 

炭治郎を二人で引きずる際、彼が使っていた手ぬぐいが、温泉の縁に引っ掛かって落ちたが、汐はそれを見ない様に視線を上に向けながら、炭治郎を脱衣所まで連れて行った。

 

その後、汐は里の者を呼び、炭治郎の着替えを彼らと禰豆子に任せると、自分は水分と身体を冷やす氷嚢を借りて彼の介抱をするのだった。

 

 

*   *   *   *   *

 

部屋へ向かう道のりを、炭治郎と汐は目を逸らしながら、少し距離を開けて歩いていた。

いろいろなことが起こりすぎて、二人の頭が付いていかないのだ。

 

やがて二人が居心地の悪い沈黙に包まれたまま、部屋のある石畳の階段を上ろうとしたときだった。

 

「しおちゃあああああん!!!」

 

階段の上から聞き覚えのありすぎる声が降ってきて、汐と炭治郎が顔を上げれば、そこには汐曰く【凶悪な物】をこれでもかと揺らしながら駆けてくる、甘露寺蜜璃の姿があった。

 

「あーーっ!!炭治郎君もいる!!炭治郎くーん!!」

 

その姿に炭治郎は一瞬固まるが、慌てて口を開いた。

 

「あっ、気を付けてください!!乳房がこぼれ出そうでっ!!?」

 

だが、炭治郎が言い終わる前に汐の肘が鳩尾にさく裂し、そのまま炭治郎は膝をついて悶絶した。

 

「どうしたのよみっちゃん。そんなに泣き喚いて・・・」

「聞いてぇ、しおちゃん!!私さっき無視されたの―!!挨拶したのに無視されたの―!!」

 

甘露寺は泣きじゃくりながら、手足をバタバタと駄々っ子の様に振り回していた。

 

「ちょっとしっかりしてよ。いい年した大人がみっともないわね。しかもあんた柱でしょ?もう少ししゃきっとしてよ」

「酷い!酷いわしおちゃん!さっきも知らない男の子に無視されて落ち込んでたのに、追い打ちをかけるなんてあんまりよぉー!!」

 

再びバタバタと暴れ出す甘露寺に、汐は呆れつつも何があったのか尋ねた。

 

「さっき見慣れない男の子がいて、声を掛けたら無視されたの!名前を聞いても教えてくれなかったの―!!せっかく温泉に入ろうと思ってたのに、気分が台無し!!うわーん!!」

 

とても鬼殺隊最高の称号を持つ者とは思えない言動や行動に、汐は頭が痛くなったが、それを見ていた炭治郎はある事を言った。

 

「か、甘露寺さん。さっき聞いたのですが、今日の晩御飯は松茸ご飯らしいですよ」

 

すると甘露寺はたちまち泣き止み、"目"に幸せの光がともった。

 

「で、みっちゃんを無視したのはどんな奴だったの?」

 

汐はうんざりしながら聞いてみると、甘露寺は思い出したように口を開いた。

 

「背がすごく高くてね。私より一尺くらい高かったかしら。それと、変わった髪形をしてたわ。頭の側面が刈ってあって、髪の毛がこう、鶏さんみたいになってて」

「に、鶏って、どんな髪型よそれ」

 

甘露寺のたとえに汐が吹き出していると、炭治郎はある事に気づいた。

甘露寺を無視した男ではなく、汐の事だ。

 

「あれ、汐。お前、鉢巻きはどうしたんだ?」

「え?鉢巻き?」

 

炭治郎の言葉に、汐と甘露寺の視線が汐の額に集中すると、そこにはいつもあるはずの赤い鉢巻がなかった。

 

「えっ、えええっーー!う、嘘!!もしかしてあたし、置き忘れてきた!?」

 

あの鉢巻きは、汐の亡き養父玄海の形見であり、汐にとっては命の次の次に大事なものだった。

 

「あたしさっきの温泉を探してくる!!」

「えっ!?お、おい、汐!!」

 

炭治郎の制止も聞かず、汐は大慌てで階段を駆け下りていった。

 

*   *   *   *   *

 

(確か、このあたりだったわよね。ああもう!この里温泉多すぎよ!!もっとわかりやすくしてほしいわ!!)

 

頭の中で悪態をつきながら、汐は先ほどの温泉のある場所へ向かっていた。

いろいろ置きすぎて混乱していたとはいえ、大事なものを忘れてしまった不甲斐なさに、憤りを感じていた。

 

そのせいかは最中ではないが、汐は前から歩いてくる人影に気づかずに、そのまま思い切りぶつかってしまった。

 

「わっ!!」

「っ!!」

 

思いのほか勢いが強く、汐はそのまま尻餅をつき、相手も小さくうめき声を上げた。

 

「いたたたっ、あ、ごめんなさい!急いでいてつい・・・」

 

汐は尻をさすりながら、謝罪の言葉を口にして顔を上げた。

 

「えっ・・・!!」

 

その相手を目にして、汐は思わず息をのんだ。そこにいたのは、六尺ほどの高い身長に、側面が刈られた特徴的な髪形の少年。

 

――不死川玄弥だった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



「あら、玄弥じゃない!」

 

立ち上がった汐は、玄弥の顔を見るなり驚いたように声を上げた。

玄弥も汐の顔を見た途端、瞬時に顔を引き攣らせた。

 

「お、お前。い、いや、あんたは・・・!大海原・・・、さん」

 

玄弥は何故か汐を敬称で呼んだため、汐は思わずずっこけそうになってしまった。

 

「なんで他人行儀なの、汐でいいわよ。同期だし、知らない仲じゃないでしょ?」

「え、いや、だって」

 

玄弥は顔を赤らめながら目を逸らし、汐は怪訝そうな顔で見つめた。だが、自分の本来の目的を思い出すと、途端に顔を青くさせた。

 

「あ、そうだ!あんたこの辺で、赤い鉢巻を見なかった?」

「赤い鉢巻?いや、見てねえけど・・・」

「そう。じゃあこのあたりじゃなかったのかしら。ああもう!こんなことならちゃんと場所を把握しておくんだったわ!!」

 

汐のあまりの慌てように、流石の玄弥も気になったのか尋ねた。

 

「そんなに大事な物なのか?」

「そうよ!あれはあたしの父親の形見なの。だから早く見つけないと!」

 

汐の【父親】という言葉に玄弥は一瞬表情を歪ませたが、小さく舌打ちをするともう一度訪ねた。

 

「本当にここで間違いねぇのか?」

「多分、そうだと思う。この辺の温泉、似たような所ばっかりで区別が難しいから」

「なんだよそれ。それじゃあ探しようがねえだろ」

 

玄弥が呆れたように言うと、汐は驚いたように顔を上げた。

 

「えっ、一緒に探してくれるの?」

「かっ、勘違いすんじゃねえよ!あんたに騒がれると、いろいろ面倒なだけだ」

 

玄弥はぶっきらぼうに言いながら汐から目を逸らし、温泉の奥の方に歩きだした。

そんな彼の思わぬ行動に、汐は呆然としながらも慌てて反対側から探し始めた。

 

汐の鉢巻きを探しながら、玄弥はいつもの自分なら考えられない行動に混乱していた。

自分にはやるべきことがあるため、余計な時間を使っている暇などない。そう思っていたはずなのに、本当に困っているような汐を放っておくことはできなかった。

 

(ん?)

 

温泉の裏側に回った玄弥は、岩の隙間に何かが挟まっていることに気づいた。よく見てみれば、それは鮮やかに目を引く真っ赤な鉢巻だった。

 

「これか!」

 

玄弥はその鉢巻きを岩の間から外すと、大声で汐を呼んだ。

 

「おい、大海原!これじゃねえか!?」

 

汐は玄弥の声を聞きつけると、転がるようにその場所へと走った。そして、彼の手に握られている鉢巻きを見るなり叫んだ。

 

「あったああああーーーー!!!」

 

汐は玄弥の手から鉢巻きをひったくると、抱きしめるようにしてしゃがみ込んだ。

 

「よかった、よかったぁ、あったぁ・・・」

 

余程嬉しかったのか汐の身体は小刻みに震えており、玄弥は少し安心したように表情を緩めたが、瞬時に険しい顔になり汐を怒鳴りつけた。

 

「んな大事なもんだったら忘れんじゃねぇよ!あんたのせいで余計な時間を取っちまったじゃねえか!」

 

玄弥はそう言った瞬間、ハッとして口を押えた。以前、汐と悲鳴嶼邸で再開した時、手ひどい一撃を喰らってしまった事があった。

しかし発してしまった言葉は取り返しがつかず、玄弥は一歩汐から距離を取った。

 

だが、汐は蹲ったまま玄弥の方を向かずに、呟くように言った。

 

「そう、そうよね。大事なものなのに忘れるなんて、注意散漫だったわ」

 

汐はそう言って立ち上がると、玄弥に向かい合って頭を下げた。

 

「ごめんね、あたしのせいで時間を取らせちゃって。それと、一緒に探してくれてありがとう」

 

にっこりと笑って顔を上げる汐に、玄弥は面食らい、同時に心臓が大きく音を立てた。

 

暫くして落ち着きを取り戻した汐は、玄弥の髪形を見て先ほどの事を思い出した。

 

「もしかして、みっちゃん、あたしの師範を無視したのってあんた?」

「は?師範?」

「ほら、緑と桃色の髪を三つ編みにしてて、凶悪な物ぶら下げてる女の人。会ってない?」

 

汐の言葉に、玄弥は先ほどの事を思い出したのか顔が瞬時に真っ赤になり、それに気づくも汐は口を開いた。

 

「やっぱりそうなのね。みっちゃん、あんたに無視されたって言って泣いてたわよ?あんなんでも一応柱だし、無視するのはよくないと思うな」

「ばっ、む、無視したわけじゃねえよ!ただ、その、き、緊張しちまって・・・」

「緊張?あんたが?なんで・・・、あっ!!」

 

真っ赤な玄弥を見て、汐は瞬時に察した。

 

「あー・・・、確かにあの人、結構破廉恥な格好してるからなぁ。それに、結構かわいいし」

 

甘露寺の容姿を思い出し、汐は納得したようにうなずいた。玄弥は、甘露寺のあまりの可憐さに、緊張して喋れなかったのだ。

 

「あー・・・、その、あの人、そんなに泣いてたのか?」

「うん。鼓膜が破れるかとおもったわ。みっちゃんは一度泣き出すと、何かきっかけがないと泣き止まないし」

「そ、そうか。悪いことしちまったな・・・」

 

玄弥はバツの悪そうな顔でつぶやくと、意を決したように汐と向き合った。

 

「あの、その、大海原。その人に伝えてくれねえか?悪かったって・・・」

「は?ふざけんじゃねーよ。男なら自分(てめー)で謝れ」

 

先程の雰囲気をぶち壊すような汐の冷徹な声に、玄弥の表情が強張った。

 

「って、こんなことしてる場合じゃなかった。あたし友達待たせてるんだった!ごめん、あたしもう行くね!」

「はっ!?お、おい!ちょっと待て!」

「鉢巻き探してくれてありがとうね!この御礼はいつか必ずするわ!!じゃあね!!」

 

汐は玄弥に手を振りながら、足早に立ち去っていった。そんな汐の背中を、玄弥は呆然と見つめていた。

そして、自分の意思に反してうるさくなり続ける心臓に、戸惑いを覚えるのだった。

 

 

*   *   *   *   *

 

汐が宿舎に戻ると既に食事は始まっており、甘露寺の周りにはどんぶりの山がいくつもできていた。

それを炭治郎は呆然と眺め、禰豆子はちゃぶ台の下に転がって遊んでいた。

 

「あら、しおちゃん!鉢巻きはあったのね!よかったわ」

 

食べ終わったどんぶりを置きながら、甘露寺は嬉しそうに笑った。

 

「ただいま、みっちゃん。あれ?今日はいつもより少ないんじゃない?」

「そうなの。運動した後はもっとお腹が空くんだけれど、今日はのんびりしていたせいかしら」

「そう。でもあんまり食べ過ぎないでよ。って、みっちゃんにはいらん世話か」

 

そう言って笑う汐と笑い返す甘露寺を見て、炭治郎は二人が本当に仲がいいんだということを知った。

 

だが、炭治郎は、汐から別な匂いがすることを感知した。

 

(あれ?でもこの匂い、どこかで)

 

「汐、誰かと会ってたのか?」

 

炭治郎が尋ねると、汐は思い出したように言った。

 

「そうなの!さっき鉢巻きを探しに行ったら、玄弥と会ったのよ。ほら、不死川玄弥。最終選別の時にいた、女の子殴ってあんたに腕折られた奴」

「ああ、あの時の!ここにいたのか。ん?でも何で、汐が名前を知っているんだ?」

「前に用事で悲鳴嶼さんの所に行った時に会ったのよ。今はあの人の弟子なんだって。あたしの鉢巻きを一緒になって探してくれたのよ。目つきは悪いけど、思ったよりもいい奴みたい」

 

そう言って汐は、鉢巻きを触りながら嬉しそうに笑い、それを見た炭治郎は、胸に奇妙な感覚を感じた。

 

(あれ?なんだ今の・・・?)

 

胸の中に靄がかかったような感覚に、炭治郎は思わず胸元を抑えた。

 

「炭治郎?どうかした?」

「い、いや、何でもない」

 

何故かその気持ちを汐に知られたくないと思った炭治郎は、慌てたように目を逸らした。

 

汐の分の夕餉も用意され、それに箸をつけながら汐は思い出したように言った。

 

「あ、そうだ。みっちゃんを無視したって奴、そいつよ。でも、無視したわけじゃなくて、緊張して喋れなかっただけみたい」

「緊張?どうして?」

「どうしてって、そりゃあ・・・、鏡見て見りゃわかると思うけど」

 

呆れる汐に、甘露寺はきょとんとした表情で見つめていた。

 

「あれ?しおちゃん、さっきその子の名前、不死川って言わなかった?」

「え、言ったけど・・・、って不死川ってもしかして!」

 

汐の頭にある人物の顔が思い浮かび、途端に顔を歪ませた。

 

思い出したのは、風柱の役職に就く男、不死川実弥。かつて禰豆子を傷つけ、汐に殴られ殺められそうになった相手であった。

 

それ以来、汐は彼とは犬猿の仲であり、思い出すことさえも嫌がっていた。

 

「もしかしてあいつ、オコゼ野郎の・・・。言われてみれば、目元がちょっと似ていたかも。でも、あいつと違って、殺意みたいなものは感じなかったけどな」

「多分弟さんだと思う。でも、前に不死川さん、弟なんていないって言ってたのよ。仲悪いのかしら、切ないわね」

 

そういう甘露寺の"目"には、悲しさと切なさが宿り、それを見た炭治郎も切なそうな顔をした。

 

「そうなんですか、どうしてだろう」

「私の家は五人姉弟だけど仲良しだからよくわからなくて、不死川兄弟怖って思ったわ~~」

 

禰豆子をくすぐりながら、甘露寺は朗らかな笑顔で言った。

 

「そう言えば、もう食事の時間は始まってるのに、玄弥の奴来ないわね」

「どうしたんだろうな。もしかして温泉で逆上せてるとか」

「あんたじゃあるまいし」

 

炭治郎に汐がすかさず突っ込み、炭治郎は言葉を詰まらせた。

 

「多分来ないかもしれないわ。里の人が言ってたけれど、全然食事をしないそうなの。何か持ってきてたのかしら?」

「そうなのね。見た目は結構がっしりしてたのに、意外と小食なのかしら?」

 

汐と甘露寺は首をひねるも、答えの見えない疑問に考えることをやめた。

 

「じゃああたしが頃合いを見計らって、何か持って行ってあげようかな」

 

汐が何気なくそう呟いたとき、突然炭治郎が身を乗り出して叫んだ。

 

「いい!それは俺がやるから」

「え?ちょっと、どうしたの炭治郎?そんな"目"をして・・・」

 

炭治郎の"目"には、得も言われぬ感情が宿っていて、汐は思わず息をのんだ。

 

「え?あ、いや、何でもない。汐は食事を始めるのが遅かったんだから、ゆっくり食べていてくれ」

「???」

 

炭治郎の言葉に、汐は怪訝な表情で首を傾げ、甘露寺はその微妙な雰囲気を心配そうな顔で見ていた。

 

 

*   *   *   *   *

 

それから数日後。汐と炭治郎は微妙な雰囲気を漂わせたまま、以前よりは一緒に行動することが少なくなった。

それに甘露寺は心配そうに見守るものの、幸か不幸か彼女の刀の手入れが間もなく終わることを、隠から告げられた。

 

「あら~、もうそろそろ行かなきゃいけないのね」

「あ、そうか。あたしと違って、みっちゃんは手入れだけだったもんね。見送るわ」

「いいのいいの。多分深夜に経つから、しおちゃんは刀ができるまで、のんびり待ってて」

「そうはいっても、みっちゃんが戦いに行くのに、あたしだけ羽を伸ばすわけには・・・」

 

少し残念そうに俯く汐に、甘露寺は両手で汐の頬をつまみながら言った。

 

「もうそんな顔をしないの。せっかく炭治郎君とも会えたんだから、笑っていないと」

「ちょっ、あたしは、その・・・!」

 

炭治郎の名を出しただけでしどろもどろになる汐に、甘露寺はこれ以上ない程愛しさを感じた。

 

「あれ?甘露寺さんと、汐?」

 

後ろから声が聞こえて振り返ると、おにぎりを乗せたお盆を持った炭治郎と、その隣に禰豆子が立っていた。

 

「あ、炭治郎。あのね、みっちゃんの刀の手入れが終わったから、深夜に経つんですって」

「え?そうなんですか。残念だなぁ」

 

炭治郎も汐と同じように眉根を下げ、残念そうな顔をした。そんな二人を見て、甘露寺は少し寂し気に微笑んだ後、そっと口を開いた。

 

「しおちゃん、炭治郎君。よく聞いて。私達は命を懸ける仕事をしているから、また生きて会えるかどうかなんてわからないけれど、がんばりましょう。あなたたちは上弦の鬼と戦って生き残った。これは凄い経験よ。実際に体感して得たものは、これ以上ない程価値がある。五年分、十年分の修行に匹敵する。今の炭治郎君たちは、前よりももっと強くなってる」

 

そう言って甘露寺は、しゃがんで禰豆子の頭を優しくなでた。しかし、その顔は、柱らしい威厳に満ちたものだった。

 

「みっちゃん・・・、あんた本当に柱だったんだね・・・」

「この雰囲気でそんなことを言う!?しおちゃんお願いだから、ちょっとは空気読んで!」

「あー、ごめんごめん。失言だったわね」

 

再び顔を崩しながら怒鳴る甘露寺に、汐は慌てて謝った。

 

「まあともかく、私、甘露寺蜜璃は竈門兄妹を応援してるよ!もちろん、大切なしおちゃんもね」

「ありがとうございます、甘露寺さん。でもまだまだです俺は。宇髄さんに“勝たせてもらった”だけですから。もっともっと頑張ります、鬼舞辻無惨に勝つために!」

「そうね。あの人がいなかったら、あたし達はとっくに死んでたわ。あたしもみっちゃんの弟子として、あいつをぶちのめすためにがんばるわね!」

 

二人の力強い言葉に、甘露寺の胸は激しく音を立てた。

 

「しおちゃんと炭治郎君は長く滞在する許可が出てるのよね?」

「え、はい」

 

何故かもじもじと身体をよじりながら、甘露寺は恥ずかしそうに顔を赤らめながら言うと、炭治郎にこっそりと耳打ちした。

 

「この里には、強くなるための秘密の武器があるらしいの、探してみてね」

 

それから汐の元に移動すると、炭治郎と同じように耳打ちした。

 

「しおちゃん、頑張ってね。炭治郎君ともっともっと仲良くなれる好機よ」

 

固まる汐をしり目に、甘露寺は大きく手を振りながら去って行った。

 

「まったくもう、みっちゃんたら、いきなり何を言い出すのかしら。ねえ炭治郎?」

 

赤くなる顔を隠しながら炭治郎の方を振り向くと、炭治郎はしばらく呆然としていたが、突然お盆を持った両手を上げた。

その瞬間、彼の鼻から鮮血が吹き出した。

 

それを見た禰豆子は、目を大きく見開き、慌てて駆け寄った。

 

「だ、大丈夫だ禰豆子。ちょっと驚いただけだ。決して、変な事を考えたわけじゃなく・・・」

 

炭治郎がそう言った瞬間、背後に凄まじい殺気を感じて思わず姿勢を固くした。

 

恐る恐る振り返ってみれば、全身から殺意を滲みださせながらたたずむ、汐の姿があった。

 

「う、汐・・・、さん?」

 

思わず敬称で呼んでしまうほどのただならぬ気配に、炭治郎は今度こそ自分の命が終わるかもしれないと覚悟した。

しかし汐は、握りしめた拳を突然壁に打ち付けると、にっこりと笑顔を炭治郎に向けて言った。

 

「何?どうしたのそんな顔して。大丈夫よ。むやみやたらに、人を殴ったりはしないから」

 

そういう汐だが、それがかえって炭治郎を怯えさせ、彼は微かに土ぼこりが上がる壁にめり込んだ拳を呆然と見つめていた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

二十四章:記憶の欠片


翌朝。

 

あの日以来鉄火場に会っていなかった汐は、彼女のことが気になり工房へと足を進めていた。

あの時、鉄火場の気も知らずに声を荒げてしまった事を、汐は気にしていた。もしも自分のせいでこれ以上彼女が落ち込んでいたらどうしようと、不安だったのだ。

 

工房に近づいた汐は、目を大きく見開いた。工房の煙突から煙が上がっており、鉄を打つ音が聞こえてきたのだ。

 

(鉄火場さん、やる気出してくれたんだ!)

 

汐は嬉しさに顔をほころばせながら、そっと工房の中を覗き込んだ。

 

そこには床一面に散らばる紙や巻物があり、その奥では一心不乱に槌を振り下ろす鉄火場の姿があった。

 

(これが鉄火場さんの、刀鍛冶師の姿・・・)

 

今まで見てきた彼女とは全く違う雰囲気に、汐は息をのみその場で立ち尽くしていた。

 

しばらくして鉄火場は顔を上げると、炉の火を調節しながら熱した鉄を中に入れ、それからそれをもう一度打ち始めた。

真っ赤な塊が、段々と伸びて刀の形を作っていく様に汐は目を奪われていた。

 

やがて仕事がひと段落したのか、鉄火場が立ち上がると、立ち尽くしたままの汐と目が合った。

 

「汐殿。いらしていたのですか」

 

鉄火場は少しうれしそうな声でそう言うと、汐は慌てて言った。

 

「ご、ごめんなさい。仕事の邪魔しちゃって」

「いいえ、大丈夫ですよ。そろそろ休憩にしようと思っていたところです。ところで汐殿は何故ここに?」

 

鉄火場の問いかけに、汐は彼女のことが心配で様子を見に来たことを話した。

 

「そうでしたか。ご心配をおかけして申し訳ありません。ですが、汐殿のお陰で私も刀を打つ理由を再認識できましたから、貴女には本当に感謝しています」

 

鉄火場はそう言って汐に深々と頭を下げた。

それを見た汐は、何だかひどく照れ臭くなって目を逸らした。

 

「ところで鉄火場さん。この散らばっている巻物や紙はいったい何なの?差し支えなければ教えてほしいんだけど」

 

汐が床に散らばるものを指さすと、鉄火場は小さく笑いながら言った。

 

「これは私の師、鉄火場仁鉄が遺した指南書です。基礎から極意までと、あの人の刀鍛冶師としての全てが記されています。あの日、貴女が帰った後、私はこれを見て一から見直すことにしたのです。今更基礎などど、滑稽にもほどがありますが」

「あら、基本は馬鹿にできないわよ。あたしも全集中・常中を覚えようとしたときも、基礎訓練を重点的にこなしたわ。その結果、いろいろあったけれど習得できたの。だから、あたしは鉄火場さんを滑稽だなんて思わない」

 

汐の凛とした声に、鉄火場ははっとしたように顔を上げた。そこにはからかいの意思など微塵もない、汐の澄んだ目があった。

それを見た鉄火場は、汐の担当になれたことを心からうれしく感じた。

 

「あ、そうだ。鉄火場さんに会ったら聞いてみたいと思っていたんだけど、おやっさんの刀を打ってたのって鉄火場さんのお師匠さんよね?前に鱗滝さんから少し聞いたんだけど、おやっさん、結構な頻度で刀ぶっ壊してたって・・・」

 

汐がそういうと、鉄火場は少し考える動作をした後、困ったように口を開いた。

 

「はい。玄海殿は確かに刀をよく破損しておられました。私が知るだけでも三十二回は壊していたと」

「はぁ!?三十二!?」

「はい。しかもそれだけではなく、日輪刀を売ろうとしてお仲間に酷く叱られたとも聞いています。その知らせを聞いたときの師匠は、鬼よりも恐ろしかった記憶があります」

「どんだけ馬鹿やらかしてたのよ、あの爺。何だかごめんね」

 

汐が苦々しげに言うと、鉄火場はくすくすとおかしそうに笑った。

 

「ですが、玄海殿には私も随分とよくしていただきました。私が女であることも、あの方は存じていたのでしょう。私が初めてあの方と出会った時、私の頭をなでて、『男も女も関係ねえ。お前にはお前にしかできないことがある』と励ましてくださったのです」

「そうだったの。おやっさん、あたしが知らないだけで結構顔が広かったのね」

「ある意味、あの方は有名でしたから。でも、何度刀を壊されても、師匠は決して玄海殿の刀を打つのをやめなかった。それはきっとあの方がとても素晴らしい方であるということを、師匠は知っていたのでしょう。それは貴女を見ても、よくわかります」

 

鉄火場にそう言われ、汐の頬が淡く染まった。が、汐はふとある事を思い出して言った。

 

「あ、そうだ、鉄火場さん。あたし前にこんなものを海の底で見つけたんだけど、ちょっと見てくれない?」

 

汐はそう言って、あの時故郷の海底で見つけた、錆びついた懐剣を取り出した。

 

鉄火場はそれを見るなり、面の下で表情を強張らせた。

 

「これはまた、ずいぶんと錆びついていますね・・・」

「あたしの故郷だった場所で見つけたものなの。大した値打ちものとかじゃないかもしれないけれど、あたしの故郷にあった物だから、あたしにとっては十分に価値のあるものだから・・・」

 

汐は愛おしいものを見るような目で、錆びついた懐剣を見つめていた。そんな彼女を見て、鉄火場は何とかしてやりたいという気持ちになったが、これほど酷く錆びついてしまっては、研ぐのも非常に難しいだろうと思った。

 

(鋼鐵塚なら研げるかもしれないが・・・いや・・・!)

 

「汐殿。この懐剣の研磨、私にやらせていただけないでしょうか?」

「えっ!?そりゃあ、やってくれるならありがたいけど、でも大丈夫?あたしの日輪刀だってまだできていないのに」

「確かに非常に難しくはありますが、不可能ではありません。それに、私に再び槌を振るう決意を抱かせてくださった貴女は、私の恩人とも言っても過言ではありません。そんな貴女の為に、私もできることをしたいのです。どうかお願いします。私に任せてください!」

 

鉄火場の力強い声に、汐も首を横に振ることなどできずに頷いた。すると、鉄火場は嬉しそうに頭を下げた。

 

面で表情は見えないが、きっとその下は笑顔だろうと、汐は心から思った。

 

「あの、その、このような状況で口にするのは心苦しいのですが、汐殿にお願いがあるんです」

「お願い?何?」

「その、まずは汐殿の身体の寸法を測らせてもらいたいのと、その、もう一つは、貴女の歌を聴かせてほしいのです」

 

鉄火場の頼みに、汐は目を見開いた。

 

「風の噂で、汐殿の歌声は天下一品だと伺いました。言い方は悪いですが、このような状況ではないと聴く機会はないと思いまして・・・、あ、汐殿が嫌なら無理にとは言いませんが・・・」

「嫌なわけないじゃない。いいわよ。でも、天下一品はちょっと言いすぎかも」

 

汐ははにかんだ笑みを浮かべると、一つ咳払いをして口を開いた。

 

その口から奏でられた歌は、力強く、そしてどこか儚い、まるで燃え盛る炎のような歌だった。

 

その歌を聴いていた鉄火場は、体中から決意が漲ってくるのを感じたのだった。

 

やがて歌が終わると、鉄火場は割れんばかりの拍手を汐に送った。

 

「素晴らしい歌をありがとうございます。やはり、噂にたがわぬものでした」

「そんな、大げさよ。でも、あたしの歌が誰かの心に響いてくれるってのは、いいものよね」

 

そう言って笑う汐に、鉄火場の心も温かくなった。

 

*   *   *   *   *

 

それから数刻後。鉄火場が再び作業を開始すると言ったため、汐は邪魔をしてはいけないと思い帰路につくことにした。

 

鉄火場がやる気を出してくれたことは勿論、汐が知らなかった玄海の新たな一面も知ることができて、汐の気分は重畳だった。

 

(さて、今日は特にやることもないし、何をしよう。身体も少し鈍って来たし、そろそろ動かしたいところね・・・)

 

汐はそんなことをぼんやりと考えながら歩いていると、突然前方から聞こえてきた怒声に肩を震わせた。

 

「だから何度も言ってるだろ!"あれ"はもう危ないんだ!!」

 

汐は気配を殺してそっと近づくと、前方に二つの人影が見えた。

 

一人はとても小さく子供の様で、背中に【火男】と文字が書かれた陣羽織のようなものを着ていた。そしてその前には、隊服に身を包んだ、汐と同じくらいの身長の少年が立っていた。

 

「あれ?あいつ、確か・・・」

 

その隊服の少年に、汐は見覚えがあった。それは柱合裁判のときと、蜜璃と柱へのあいさつ回りをしたときに出会った少年。

最年少で柱の座についた、神童とも呼ぶべき彼の名は――

 

「霞柱・時透、無一郎・・・」

 

何故彼がここにいるのか、何をしているのか。汐はそれがどうしても気になり、そっと近寄った。

 

「どっか行けよ!!何があっても鍵は渡さない、使い方も絶対教えねえからな!!」

 

無一郎の前で怒鳴り声を上げているのは、十歳ほどのひょっとこの面をつけた少年だった。

彼は余程怒っているのか、頭から湯気を吹き出させる勢いで騒いでいた。

 

(なんだか穏やかじゃないわね。このまま喧嘩になったら目覚めが悪いし、何とかしなくちゃ)

 

汐がそう思って一歩踏み出そうとしたとき、不意に無一郎の右手が動いたかと思うと、そのまま少年の首筋に手刀を叩き込んだ。

 

(!!)

 

息をのむ汐の前で、少年の身体は吸い込まれるように地面に落ちた。しかし無一郎は、そんな彼に気遣う様子もなく、あろうことか胸ぐらをつかんで無理やり引き起こした。

 

「ぐ・・・、うぐっ・・・」

 

少年は苦し気に身体を震わせながらうめき声をあげていた。流石に暴力沙汰を見逃すわけにはいかなかった汐は、飛び出すと無一郎の腕をつかんだ。

 

「ちょっとあんた、何やってんのよ!手を放しなさいよ!!」

 

突然現れた闖入者に、無一郎の視線が少年から汐へ移った。その無機質な"目"を見て、汐の身体は微かに震えた。

 

「声がうるさいな・・・、誰?」

 

この様子を見るに、無一郎は汐の事は覚えていないようだったが、そんなことよりも汐は何とかこの状況を打開しようと、声を張り上げた。

 

「あたしの目の前で胸糞悪いことしないでって言ってんの!いいからさっさと手を放しなさいよ!!」

 

汐はそう叫んで無一郎と少年を引きはがそうとしたが、掴んだその手は華奢な見た目に反してびくともしなかった。

 

(な、なんなのコイツ・・・、炭治郎よりも小さいくせに、びくとも・・・)

 

「君、本当にうるさいな。そっちが手を放しなよ」

 

無一郎はそう言うなり、左肘を汐の鳩尾に容赦なく叩き込んだ。

 

「ぐっ・・・!?」

 

その衝撃で汐は膝をつき、こみ上げてくるものを吐き出しながら、激しくせき込んだ。

 

無一郎はその姿を見て、鬼殺隊員とは思えない程の弱さに息をつくが、先ほどの感触に違和感を感じた。

 

(見た目よりも筋肉が少ないし、皮下脂肪の方が多いみたいだった・・・)

 

「君、もしかして・・・女?」

 

無一郎が汐に尋ねるが、汐は答えず彼を鋭い目で睨みつけた。

 

「こ・・・、こいつっ・・・!!」

 

汐が怒りに満ちた低い声でそう言うと、背後からこちらに向かってくる足音が聞こえてきた。

 

それが誰か確かめる間もなく汐と無一郎の間に滑り込むと、躊躇いもなく無一郎の胸ぐらを乱暴に掴んだ。

 

そこには、緑と黒の市松模様の羽織に、霧雲杉の箱を背負った、汐の想い人――、

 

――竈門炭治郎の姿があった。

 

思わぬ事に汐は息をのみながら、その逞しい背中を見つめると、炭治郎の口から言葉が漏れた。

 

「汐に・・・、何をした?」

 

その声は汐が今まで聞いたことない程低く、怒りで震えていた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



炭治郎の驚くほど低い声は、汐の鼓膜と脳を震わせた。

後ろを向いているため表情は伺えないが、微かに震えている肩はその怒りの強さを物語っていた。

 

炭治郎が怒りを露にすることは滅多にないが、汐はこれまで何度か、その滅多にないことを目の当たりにしていた。

 

「人を、ましてや女の子を殴るなんて、一体どういうつもりなんだ!!」

 

炭治郎は怒りを破裂させるように、大声で無一郎に詰め寄った。その言葉を聞いた汐は、炭治郎が自分を女の子扱いしてくれていることに嬉しさとこそばゆさを感じた。

 

「本当に女だったんだ。男にしか見えなかったよ」

 

無一郎はそんな炭治郎と汐を交互に見ると、さも当たり前だというように言った。

それを聞いた炭治郎は、再び怒りを宿しながら掴んでいた右手に力を込めた。

 

「ねえ、いつまで掴んでるの?邪魔なんだけど」

 

だが、無一郎は小さくため息を吐くと、先ほど汐にしたように肘を炭治郎の鳩尾に叩き込んだ。

 

「炭治郎!!」

「っ・・・!!」

 

汐はすぐさま炭治郎の元に駆け寄った。だが、汐と異なり炭治郎はそのまま踏みとどまり、顔を上げて無一郎を睨みつけた。

 

「へぇ・・・、倒れないんだ」

 

無一郎は少し驚いたように目を見開くが、炭治郎は苦痛に顔を歪ませたまま答えた。

 

「汐に殴られることに比べれば、これくらいなんてこともない」

「は?」

 

その言葉を聞いて、汐は顔を歪ませながら炭治郎を睨みつけた。

 

無一郎は意味が分からないと言った表情で二人を見ていたが、ふと炭治郎の背負っている箱を見て首を傾げた。

 

「ん?その箱、変な感じがする」

 

おかしな二人のせいで先ほどは気にならなかったのだが、その箱からは微かに鬼の気配がするのを無一郎は感じた。

 

「鬼の気配かな?何が入ってるの、それ・・・」

 

無一郎が手を伸ばした瞬間、炭治郎は、「触るな」と鋭く言ってその手を払いのけた。

 

その隙を突き、汐は反対側の手に掴まれていた少年を救出した。

 

「あんた大丈夫?しっかりして!」

 

汐はせき込む少年の背中をさすり、無一郎は彼を取られたことを認識して目を瞬かせた。

 

「は、はなせよ!」

 

だが、少年は汐を突き飛ばすように離れると、震える声でそう言った。

 

「無理に動かないの。あんた膝が震えているわよ?」

「あっちいけー!!」

 

汐を拒絶しながらも、少年は無一郎を睨みつけながら言った。

 

「だ、だっ、誰にも鍵は渡さない。拷問されたって絶対に」

 

既に身体は震え、立っているのもやっとのはずなのに、少年は絞り出すように言った。

 

「"あれ"はもう次で壊れる!!」

「拷問の訓練、受けてるの?」

 

それに対して無一郎は、淡々と言葉を紡いだ。

 

「大人だって耐えられないのに、君は無理だよ。度を越えて頭が悪いみたいだね」

 

無一郎は無機質な"目"を少年に向けながら、さも当たり前と言ったように言った。

 

「壊れるから何?また作ったら?君がそうやってくだらないことをぐだぐだ言ってる間に、何人死ぬと思ってるわけ?」

 

その言葉には情けなど一切ない、純粋且つ冷徹さが滲んでいた。

 

「柱の邪魔をするっていうのはそういうことだよ」

 

汐と炭治郎は目を見開き、表情を固まらせたまま無一郎を見た。

 

「柱の時間と君たちの時間は、全く価値が違う。少し考えればわかるよね?刀鍛冶は戦えない。人の命を救えない。武器を作るしか能がないから」

 

氷のような言葉が少年を穿つが、無一郎はそれに気づくこともなく左手を差し出した。

 

「ほら、鍵」

 

小刻みに震える少年を見て、汐は頑張っている鉄火場を思い出し、かっとなって無一郎に向かって拳を振り上げた。

 

だが、それよりも先に炭治郎の右手が、無一郎の左手をひっぱたいた。

 

これには汐だけでなく、少年も驚いて身を震わせ、無一郎はきょとんとした顔で炭治郎を見つめた。

 

「何してるの?」

「こう・・・何かこう・・・すごく嫌!!」

 

炭治郎は一呼吸入れた後、両手をわきわきと動かしながら声を荒げた。

 

「何だろう、配慮かなあ?配慮が欠けていて、残酷です!!」

「この程度が残酷?君・・・」

「正しいです!!あなたの言っていることは、概ね正しいんだろうけど、間違ってないんだろうけど・・・」

 

無一郎は首を傾げながら炭治郎を見据えると、炭治郎はさらにまくし立てた。

 

「刀鍛冶は重要で大事な仕事です。剣士とは別の、凄い技術を持った人たちだ。だって刀を打ってもらわなかったら俺たち、何もできないですよね?」

 

炭治郎はしっかりと無一郎を見据えながら、拳を握りしめて言った。

それを見た汐も、怒りを抑えながらも冷静に言い返す。

 

「そうね。あんたさっき、刀鍛冶師は戦えないなんてほざいてたけど、土俵は違えど命を守る刀を作るために、あらゆる苦行に血反吐吐きながら戦っているわ。戦ってんのはあたし達だけじゃない。柱だろうがそうじゃなかろうが、関係ないわよ」

 

汐の静かな声に、無一郎の眉根が微かに動いた。

 

「汐の言う通りです。剣士と刀鍛冶は、お互いがお互いを必要としています。戦っているのはどちらも同じです!」

 

二人の心からの主張は、目の前の無一郎だけでなく、背後の木の影に隠れていたある男の耳にも届いていた。

 

「俺たちは、それぞれの場所で日々戦って――「悪いけど」

 

しかし無一郎は、そんな炭治郎の言葉を冷徹に遮ると、淡々と言い放った。

 

「くだらない話につきあってる暇、ないんだよね」

 

そう言うなり、無一郎は炭治郎の首筋に容赦ない手刀を叩き込んだ。

 

「炭治郎!!」

 

ぐらりと傾く炭治郎の身体を、汐は咄嗟に受け止めた。箱がガタリと音を立て、中にいるだろう禰豆子の微かなうめき声が聞こえた。

 

無一郎はそんな二人に目もくれず、震える少年に向かって鍵を出すように強要した。

少年は汐と炭治郎を見ると、渋々と言った様子で鍵を渡した。

 

無一郎は鍵を受け取ると、そのまま何事もなかったかのように背を向けると歩きだした。

 

「一つだけ言っておく」

 

去ろうとする無一郎の背中に、汐は静かな声で言った。

 

「何?いい加減しつこいんだけど・・・」

「刀鍛冶師は鬼と戦う力は無くても、その存在は()()()でも()()でもない。それだけは頭に叩き込んでおいて」

 

汐の言葉に、無一郎は思わず足を止め目を見開いた。思わず振り返って汐の姿を見るが、汐は倒れた炭治郎の介抱に手一杯らしく、無一郎の視線に気づかなかった。

 

(何だ?今の感じ・・・)

 

しかしその違和感は瞬時に消え、無一郎は再び首を傾げるとそのまま何処へと去って行った。

 

「とにかく、炭治郎をこのままにはしておけないわ。あんた、ちょっと手伝って。この水筒に水を汲んできてほしいの」

 

汐の言葉に少年は「わ、わかりました!」といい、水筒を受け取ると走り去っていった。

 

汐は気を失った炭治郎の背中から箱を下ろし、羽織を脱ぐと自分の膝に掛け、炭治郎の頭をその上に乗せた。

 

すると

 

「・・・水ならここにある」

 

背後から別の声が聞こえ、汐は思わず飛び上がりそうになった。

そこには見覚えのあるひょっとこの面をつけた、一人の男が立っていた。

 

「あんた・・・鋼鐵塚さん!?」

「しーっ、こいつが起きちまうだろうが!」

「いや起きて欲しいんだけど・・・、っていうかあんた、今までどこほっつき歩いてたのよ!」

 

汐の問いに鋼鐵塚は答えず、汐から手ぬぐいを奪い取ると、持ってた水筒の水をかけて汐に渡した。

 

汐はそれをそっと、炭治郎の額に乗せると、炭治郎は小さくうめいた。

 

「で、あんたはこんなところで何をやってたの?聞けば炭治郎の刀を打ってないって話じゃない。里長さんも他の連中も、あんたを血眼になって捜してたわよ?」

「・・・・」

「それと、あんまり鉄火場さんを心配させないでよ。あの人、あんたがいなくなったって聞いて、尋常じゃないくらい落ち込んでたのよ?」

「はあ?焔が?なんで・・・」

 

鉄火場の名を出した途端、鋼鐵塚は明らかに動揺したように身体を震わせた。それどころか、鉄火場の下の名前を呼んでいることに気づく様子もなく。

 

すると炭治郎の瞼がぴくぴくと動きだし、起きる兆候を見せ始めていた。

 

「瞼がピクピクしだした!!コイツ起きる!!」

 

鋼鐵塚は早口でそういうと、汐に向かって顔を近づけながら言った。

 

「俺がここにいたことは誰にも言うんじゃねえぞ!じゃあな!!」

 

鋼鐵塚はそれだけを言うと、まるで風のように坂道を下っていった。

汐は呆然とその背中を見つめていたが、炭治郎が小さくうめくと同時に視線を下に向けた。

 

すると炭治郎の目がぱっちりと瞬時に開き、汐の青い目と視線がぶつかった時だった。

 

「あれ・・・汐・・・?俺・・・はっ!!」

 

炭治郎はがばりと身体を急激に起こし、汐は慌てて背中を逸らした。

 

「ちょっと!急に起き上がってこないでよ!あんたの頭は凶器なんだから!!」

「あ、ごめん。いや、それよりもさっき、鋼鐵塚さんがここにいなかったか?」

 

炭治郎はあたりを見回しながらそういうと、汐は顔を引き攣らせながら無言のまま首を横に振った。

 

「そうか、気のせいか・・・」

 

普段なら匂いで人の嘘を見抜く炭治郎だが、今は温泉の匂いのせいかそれに気づくことはできなかった。

 

「あ、そうだ!さっきの柱の人は?それと、あのひょっとこの男の子もいないな」

「柱の奴はさっきあの子が鍵を渡したら、さっさとどこかへ行ったわよ。あの子は水を汲みに行ってる」

 

まあ意味はなかったけどね、と、汐は心の中でつぶやいた。

 

「渡しちゃったのか・・・。渡すしかない感じだったけど・・・いてて」

 

炭治郎は手刀を叩き込まれた場所をさすりながら言った。

 

「大丈夫?さっき当てられたところが痛むのね。ちょっと見せて」

 

汐は炭治郎の手をどかし、少し赤くなったその部分に先ほどの手ぬぐいを当てながら言った。

 

「それにしても、まさかあんたがああやって人を叩くなんてね。あたしが殴ってもよかったのに。あいつの言動には腹が立っていたしね」

 

しかし炭治郎は、そんな汐を見て静かに首を横に振った。

 

「いや、これでよかったよ。汐、言ったじゃないか。「むやみやたらに人を殴ったりはしない」って。叩くっていうのは、相手だけじゃなく、叩いた人も傷つけてしまうから。」

「え?」

「だから俺は、汐に人を殴ってほしくなかった。汐に傷ついて欲しくなかった。そう思ったら、なんでか体が勝手に動いて・・・」

 

炭治郎はそう言って汐から視線を逸らすように顔を向けた。それを聞いた汐は、顔に熱が籠るのを感じた。

 

「炭治郎・・・」

 

汐はそっと炭治郎の羽織の袖をつかみながら、微かに震える声で言った。

 

「あの、その・・・、ありがとう。あたしを止めてくれて。それとさっき、あたしがあいつに殴られたときにその、怒ってくれて、嬉しかった・・・わ」

 

汐は俯きながら言葉を紡ぎ、そっと顔を上げて炭治郎の顔を見た。

 

すると炭治郎は、何故か汐から目を逸らし、そっぽを向いていた。心なしか、その顔と耳が赤く染まっているように見える。

 

(あれ?)

 

その仕草に、汐は違和感を感じた。炭治郎ならいつも通り、にっこりと笑って「気にするな」と言いそうなものだったが、そうじゃなかったことに汐は戸惑いを覚えた。

 

「そ、そうか。よかったよ。汐が無事で・・・」

 

炭治郎は汐と目を合わせないまま、歯切れ悪く言葉を紡いだ。それを見た汐も、何だか妙な気持ちになってきたその時だった。

 

「あの・・・、何してるんですか?あんたら・・・」

 

背後から声が聞こえた瞬間。汐と炭治郎は悲鳴を上げて飛び上がり、汐は慌てて炭治郎から手を放すと、少年に向き合った。

 

「あ、あんた、いつ帰ってきたの?」

「ついさっきですけど・・・、っていうか、俺が水くみに行った意味あったんですか?その人起きてるし」

 

少年は呆れたようにそう言うと、水が入った水筒を静かに揺らした。

 

「まあそれはともかく、さっきはありがとうございました。見ず知らずの俺を庇ってくれて」

「気にしないで。まあ結果的には、あいつに鍵を持ってかれちゃったわけだし、あんまり役になってないわよ」

「俺も・・・」

 

三人はぺこぺこと頭を下げるが、炭治郎はふと思い出したように言った。

 

「それはそうと、結局鍵って言うのは何の鍵だったの?」

「絡繰人形です」

「「絡繰人形?」」

 

汐と炭治郎が同時に聞き返すと、少年はそのまま話し始めた。

 

この里には少年の先祖が作った、百八ものの動きができる絡繰人形があるという話だった。

しかもそれは、人間をはるかに凌駕する力があるため、戦闘訓練に用いられているそうだ。

 

「そうか。彼は訓練の為にそれを・・・」

「はい・・・。だけど、老朽化が進んで壊れそうなんです」

「それをちゃんと説明したのにあれなの?全く、柱ってのは人の話をまともに聞かない奴ばっかりね」

 

顔をしかめて言う汐に、炭治郎は汐も人のことを言えないんじゃないかと思ったが、それを口にして血祭りにあげられても困るので止めておいた。

 

その時だった。

 

遠くから金属がぶつかり合うような、激しい音が聞こえてきた。

 

「何?何の音?」

「さっきの人がもう・・・、こっちです!」

 

少年は汐と炭治郎を連れて茂みの中を移動し、その場所まで案内してくれた。

 

そこで見たものは、無一郎が目にもとまらぬ速さで刀を振る姿だった。

 

汐と炭治郎は目を見開き、思わず身を固くする。

 

だが、二人が釘付けになったのは彼だけではなかった。

 

「あれが・・・、俺の祖先が作った戦闘用絡繰人形――」

 

――縁壱零式です。

 

そこにあったのは、一人の男性の姿をした絡繰人形だった。

顔の半分は破損しているものの、しっかりした造りの胴体に、阿修羅像のような六本の腕。

そしてその耳には、炭治郎の物と酷似した耳飾りをつけていた。

 

「縁壱・・・零式・・・」

 

汐は絡繰人形の名を呟いたとき、奇妙な既視感を感じた。

 

(縁壱・・・、よりいち・・・?なんだろう・・・その名前、聞き覚えがあるような・・・)

 

「・・・よりいち・・・様・・・?」

 

その言葉を最後に、汐を強烈な眩暈と深い悲しみが襲うのだった。




おまけNGシーン

炭「汐はこれでも女の子なんだ!お腹を殴るなんて何を考えてるんだ!?」
汐「オイコラ待て!!これでもってなんだ!?お前は今まであたしの事を何だと思ってたんだァァ!!!」
無(うるさいなこいつら)


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



明けましておめでとうございます。
今年もウタカタノ花をよろしくお願いいたします


人形の顔を見た瞬間、炭治郎は奇妙な既視感を感じた。

 

(見覚えがある・・・、あの顔)

 

炭治郎は人形を凝視したまま、少年に問いかけた。

 

「手が六本あるのは、なんで?」

「父の話によると、あの人形の原型となったのは実在した剣士だったらしいんですけど、腕を六本にしなければその剣士の動きを再現できなかったからだそうです」

 

炭治郎は少年の話を聞きながら、先ほどの既視感の正体を考えていた。

しかしいくら記憶をたどっても、思い出すことはできなかった。

 

「その剣士って誰?どこで何してた人?」

「すみません。俺もあまり詳しくは・・・。戦国の世の話なので」

 

少年の答えに、炭治郎は驚いて目を瞬かせた。

 

「汐、聞いたか?あの人形は戦国の世から存在するらしい・・・」

 

炭治郎は隣にいた汐に顔を向け、ぎょっとした。

汐は青白い顔で頭を抑えながら、荒く息を吐いていた。

 

「汐!?どうしたんだ!?」

 

炭治郎がそう言った瞬間、汐は小さくうめき声をあげながら蹲った。

 

「汐、汐!しっかりしろ!!」

 

尋常ではない様子に、炭治郎は慌てて汐に駆け寄りその両肩を抑えた。

汐の身体は小刻みに震え、すすり泣くような声まで聞こえる。

 

何が起こっているかわからず困惑する炭治郎だが、突然すすり泣きが止まった。

息をのむ炭治郎の前で、汐がゆっくりと顔を上げた。

 

「ご・・・めんな・・・さい・・・」

 

汐の口から泡のような謝罪の言葉が零れたかと思うと、その両手を伸ばし炭治郎の両頬を包み込むように触れた。

 

「へっ!?」

 

汐の思わぬ行動に、炭治郎の顔は瞬時に真っ赤に染まる。そのまま汐の手は頬を滑り、炭治郎の両耳を優しく包み込んだ。

肩を震わせる炭治郎に合わせて、耳飾りが揺れる。

 

だが、目の前の少女の目は虚ろで、炭治郎を映していなかった。

 

「ごめんなさい・・・、ごめんなさい・・・、よりいち・・・さま・・・」

「っ!?」

 

汐の口から出てきた言葉は、普段の汐が口にしないようなものだった。

否、それ以前に汐がこのように炭治郎に触れること自体、ありえないことだった。

 

(何だ、これ・・・。汐から深い悲しみと後悔の匂いがする・・・。いや、今目の前にいるのは本当に汐なのか・・・?)

 

何故だかはわからないが、この瞬間炭治郎は汐がどこかへ行ってしまうようなそんな気がした。

 

「しっかりしろ、汐!!」

 

炭治郎は汐の両手を掴むと、鋭い声で言った。

 

「目を覚ませ!お前は【大海原汐】だろう!!」

 

炭治郎の声が空気を斬り裂き汐の耳に届けば、汐ははっとした表情で身体を震わせた。

 

「あ、あれ?あたし、何を・・・?」

 

汐は何度か瞬きをした後、炭治郎の顔をまじまじと見つめた。

 

「炭治郎・・・?あたし・・・」

 

それと同時に汐の匂いが元に戻り、炭治郎はほっと胸をなでおろした。

 

「あ、そうだ!あの人形!あれを見てたらなんか変な感じになって・・・」

「汐もか!?」

 

炭治郎は汐も似たような感覚を感じていたことに驚き、声を上げた。

 

「そう。あれを見てたら、なんかすごく悲しい気持ちになって・・・、でも変よね。あれってかなり昔に作られたものじゃないの?」

「戦国時代だって言ってたよ。彼の先祖がある剣士を元にして作ったって」

 

炭治郎は先ほどの少年の言っていたことを、汐に簡潔に説明した。

 

「戦国って確か三百年以上前よね。そんな長い間動いてたの?」

「はい。すごい技術なので今の俺たちでも追いつかないんです。だから、壊れてしまったらもう直せない・・・」

 

少年は人形と渡り合う無一郎を眺めながら、悲しそうに言った。

 

「俺の親父が急に死んじゃって、兄弟もいない。俺がちゃんとやらなきゃいけないのに、刀にも絡繰りにも才能がないから・・・」

 

少年は今にも泣きそうに声を震わせ、炭治郎も悲しそうに眉根を寄せた。

 

それから三人は、まるで踊っているかのように刀を振るう無一郎を呆然と見ていた。

 

「あの人、凄いなぁ・・・」

 

少年の口から、ぽろりと言葉が零れた。

 

「俺とそんなに年も違わないのに柱で・・・、才能もあって・・・」

「ソリャア当然ヨ!」

 

突如、斬り裂くような甲高い声が響き渡った。

 

「アノ子ハ"日ノ呼吸"ノ使イ手ノ子孫ダカラネ!」

 

視線を動かせば、炭治郎の足元で一羽の鴉が得意げに嘴を鳴らしていた。

 

「鎹鴉?」

 

汐のでも炭治郎のでもない鎹鴉は、まつげのある目を瞬かせながら言い放った。

 

「アノ子ハ天才ナノヨ!!アンタ達トハ次元ガ違ウノヨ。ホホホホ!!」

 

その口ぶりからするに、無一郎の鎹鴉なのだろう。

そう言って高笑いをする鴉に、汐は何だか腹立たしくなってきた。

 

すると、

 

「ソウデスネェ~。確カニアノ方ハ、素晴ラシイ才能ヲオ持チノ様デス~」

 

いつの間にか汐の肩にソラノタユウが止まり、間延びした声で鳴いた。

 

「ソウデショソウデショ!?」

「デモ~、ソレハ彼スゴイノデアッテ、アナタガ素晴ラシイワケデハアリマセンヨネェ~」

 

タユウのその言葉に、その場の空気が凍り付いた。

 

「ナッ、ナンデスッテェ!?ドウイウ意味ヨ!?」

「ソノママノ意味デスヨ~。ワカリマセンカ~?」

 

タユウの言葉に鴉は憤慨し、甲高い声を上げた。

 

「あ~もう、やめなさい。まあ、ちょっとすっきりしたけど」

 

二匹をなだめつつ本音を漏らす汐に、少年は面の下で苦笑いを浮かべた。

 

「時透君の事かい?」

 

一方炭治郎はその高圧的な態度を咎めることもなく、本当に驚いたように言った。

 

「日の呼吸に"始まりの呼吸"の・・・、あの子はそんなにすごい人なのか・・・、ん?」

 

炭治郎はふと思いついたことを、そのまま口にした。

 

「でも使うの、日の呼吸じゃないんだね」

 

この言葉を聞いた瞬間、鴉は目くじらを立てて炭治郎の頬に喰いついた。

 

「黙ンナサイヨ!!目ン玉ホジクルワヨ!!」

「ア゛ーーーーッ!!」

 

炭治郎の悲鳴が響き渡り、汐は慌てて鴉を引きはがしにかかった。

 

「ハッ!!」

 

炭治郎は痛みのせいか、何かを思い出したように目を見開いた。

 

「思い出した、夢だ!!俺、あの人を夢で見た!!」

「夢・・・?」

 

汐がそういうと、鴉はその嘴を放し嘲るように言った。

 

「ハァァ?馬ッ鹿ジャナイノアンタ。コノ里ニ来タコトアンノ?非現実的スギテ笑エルワ」

 

その態度に汐は苛立ちを抑えられず、顔を歪ませた。

 

「ちょっとあんた!炭治郎が嘘ついてるっていうの!?」

 

汐が詰め寄ると、鴉は更に小ばかにしたように笑った。

 

「ダッテヨク考エテ見ナサイヨ。戦国時代ノ武士ト知リ合イナワケ?一体何歳ヨ?」

 

炭治郎は言い返すこともできず、なんとも言えない表情になった。

 

「なんかごめん。俺、おかしいよね?」

「おかしいわけないでしょ!?あたしだってあの顔見覚えがあるんだもの。あんたがおかしいなら、あたしだって相当おかしいわよ」

 

汐がそういうと、少年が後ろから慌てた様子で口を挟んだ。

 

「それって記憶の遺伝じゃないですか?」

「「記憶の遺伝?」」

 

二人が同時に聞き返すと、少年は頷いて言った。

 

「うちの里ではよく言われることです」

 

――受け継がれていくのは姿形だけではない。生き物は記憶も遺伝する

 

「初めて刀を作るとき、同じ場面を見た記憶があったり、経験してないはずの出来事に覚えがあったり、そういうものを記憶の遺伝と呼びます」

「つまり炭治郎の見た夢って言うのは、炭治郎の先祖か誰かの記憶ってこと?」

 

汐が言うと、少年は大きくうなずき、その背後では無一郎の鴉が「非現実的!」とけたたましく鳴いた。

 

(あれ?じゃああたしの記憶は誰の記憶なんだろう。あたしの先祖?でも、おやっさんとあたしは血がつながってないし、そもそもあたしは捨て子だし・・・)

 

そう言って首をひねる汐の傍で、炭治郎は少年の優しさに涙した。

 

「俺、炭治郎。こっちの彼女は汐。君の名前は?」

「俺は小鉄です」

 

少年、小鉄はそういうと、喚く無一郎の鴉を睨みつけながら言った。

 

「意地の悪い雌鴉なんて、相手にしなくていいですよ」

「ブッ!!」

 

小鉄の身も蓋もない言葉に鴉は顔を歪ませ、汐は我慢できずに吹き出した。

 

その時だった。

 

ひときわ大きな金属音が響き渡り、三人は反射的に顔を動かした。

そこには、大きく刀を振り下ろす無一郎と、鎧が砕けた人形の姿があった。

 

それを見た小鉄は、くるりと背を向け走り去ってしまった。

 

「小鉄君!!」

「炭治郎、追いかけるわよ!」

 

二人はすぐさま、小鉄の後を追いかけた。

 

小鉄が駆け込んだのは、木々が立ち並ぶ林の中。炭治郎は小鉄の匂いを辿って進み、その後ろを汐が追いかけた。

 

「小鉄君!」

 

炭治郎がある一本の木の前で止まり、その顔を上に向けた。

そこには枝に上り、幹にしがみ付いている小鉄の姿があった。

 

「全力で登っているなあ、小鉄君」

「何感心してんのよ!っていうかそこじゃないでしょ!!」

 

汐は炭治郎を押しのけると、木の上にいる小鉄に言葉を投げつけた。

 

「そんなところにいないで降りてきなさいよ。いじけても何の解決にもならないわよ!」

 

汐がそう言っても、小鉄は背を向けるだけで何も言わない。

 

「俺にできることがあれば手伝うよ。人形の事。諦めちゃ駄目だ」

 

炭治郎も負けじと、小鉄に向かって声を掛けた。

 

「聞いてくれ、小鉄君。君には未来がある」

 

炭治郎は真っ直ぐに小鉄の背中を見据えながら、凛とした声で言った。

 

「十年後二十年後の自分のためにも今、頑張らないと。今できないことも、いつかできるようになるから」

「・・・ならないよ」

 

木の上から、小鉄のか細い声が降ってきた。

 

「自分で自分が駄目な奴だってわかるもん。俺の代で・・・、俺のせいで全部終わりだよ・・・」

 

小鉄は面を押し上げ、零れだす涙をぬぐいながらそう言った。だが、顔を上げれば目の前に炭治郎の顔があり、次の瞬間には弾かれた炭治郎の中指が、小鉄の下あごに命中した。

 

「投げやりになってはいけない。自分の事をそんな風に言わないでほしいですわ・・・」

 

炭治郎は小鉄の眼前に右腕だけでぶら下がりながらそう言った。

 

「ちょっと炭治郎。あんた寝すぎて性格変わった?そんな喋り方だったっけ?」

 

背後から声が聞こえて振り返れば、隣の木の枝から逆さまにぶら下がる汐と視線が合った。

 

音もなく接近してきた二人に、小鉄は改めて鬼殺の剣士のすごさを感じた。

 

「自分にできなくても、必ず他の誰かが引き継いでくれる。次に繋ぐための努力をしなきゃならない。君にできなくても、君の子供や孫ならできるかもしれないだろう?」

 

炭治郎の言葉に、小鉄ははっとしたように顔を上げた。

 

「俺は鬼舞辻無惨を倒したいと思ってる。鬼になった妹を助けたいと思っている。けれど、志半ばで死ぬかもしれない」

 

――でも、必ず誰かがやり遂げてくれると信じている。

 

「俺たちが繋いでもらった命で上弦の鬼を倒したように、俺たちが繋いだ命がいつか鬼舞辻無惨を倒してくれるはずだから」

「そうね。それに、あんたが駄目な奴だって誰が言ったの?自分で勝手に思ってるだけじゃない。あたしの専属の鍛冶師だって受け継いできた想いを無駄にしない為に、必死で頑張ってる。だからあんたも死ぬ気で頑張ってみなさいよ。諦めるのはその後でいいじゃない」

 

汐はそう言ってにっこりと笑い、それにつられて炭治郎も笑った。

 

「だから一緒にがんばろう!俺も汐も、諦めないから!」

 

炭治郎はそう言って小鉄の手を固く握った。すると小鉄は、涙をぼろぼろとこぼしながら頷いた。

 

「俺、人形が壊れるの見たくなかったけど、決心つけるよ。戦闘訓練は夜までかかるはずだから、心の準備して見届ける。ちゃんと・・・」

 

小鉄はしっかりとした声でそう言うと、炭治郎と汐は互いに顔を見合わせて笑いあった。

 

 

*   *   *   *   *

 

その後、小鉄を下ろした二人はしばしの間会話をした。

 

「へぇ、小鉄君十歳なんだ」

 

小鉄の年齢を聞いた炭治郎は、少し懐かしむように目を伏せた。

 

「炭治郎?」

「え、ああ。ごめん。俺の弟もそれくらいだったなって思って・・・」

 

そういう炭治郎の"目"には、懐かしさと少しの寂しさが宿っているように見えた。

それを見ていられなくなった汐は、話題を変えようと口を開いた時だった。

 

三人の横を、黒い髪を靡かせながら無一郎が通り過ぎていった。

 

「えっ!?」

 

思わぬことに、汐は目を見開き、炭治郎と小鉄は飛び上がった。

 

「終わったんですか!?」

「終わった・・・、いい修行になったよ」

 

二人がそういうと、無一郎は振り返って淡々と答えた。

 

「誰だっけ・・・。あ、そうか」

 

無一郎は無機質な目でそういうと、片手に持っていたものを三人に見せながら言った。

 

「俺の刀折れちゃったから、この刀貰っていくね」

 

無一郎が言い終わらないうちに、小鉄は今無一郎が来た方向に慌てて走り去っていった。

 

「小鉄!」

「小鉄君!!」

 

汐と炭治郎の声が重なる。

無一郎はそんな小鉄に構うことなく、壊れてしまったであろう自分の刀を炭治郎に投げつけた。

 

「それ処分しといて」

 

あまりにもあまりな行為に、汐は鋭い目で睨みつけた。

だが無一郎はそれに一切臆することなく、そのまま立ち去っていった。

 

無一郎からは悪意の匂いが一切せず、わざとやっているわけではないことは明らかだった。

しかしそれでも、汐と炭治郎は全くと言っていい程納得できなかった。

 

「ねえ、炭治郎。小鉄を追いかけたほうがいいんじゃない?人形の腕取れてたみたいだし・・・」

「そうだな。行こう」

 

二人はすぐさま小鉄が走り去っていた方向に足を速めた。

 

「小鉄!!」

「小鉄君!!」

 

二人は小鉄を探して木々をかき分けながら進んだ。

 

幸い小鉄はすぐに見つかった。だが、その傍らには無残な姿にされた人形が静かに倒れ伏していた。

 

呆然と立ち尽くす小鉄の背中を、汐と炭治郎は沈痛な面持ちで見つめていた。

 

いつの間にか空には暗雲が陰り、零れ落ちてきた雨粒はまるで小鉄の涙のようだった。

 

「小鉄くん」

 

炭治郎はそっと小鉄の背中に手を置きながら言った。

 

「確認しよう。まだ動くかどうか」

「そうね。もしかしたら、動力部までは損傷が及んでないかもしれない」

 

二人の温かな言葉に、小鉄は顔を上げた。二人の顔は真剣そのもので、からかいの意思など微塵もなかった。

 

三人は倒れてしまった人形を起こし、あちこちを見て回った。しかしいくら見回っても、人形は動く気配がない。

 

やっぱり壊れてしまったんだろうと諦めていたその時、汐は人形の腰のあたりに奇妙な突き出しがあるのを見つけた。

 

(何かしら、これ)

 

汐はそのままその突き出しを押し込めた、その時だった。

 

ギリギリという音が聞こえたかと思うと、人形はそのまま首を上げ、五本の腕を横に構えた。

 

それはまるで、自分はまだ戦えるという、人形の声のようだった。

 

「動いた!!動いたわ!」

「やったね小鉄君!よかった!!」

 

二人はまるで子供のように手を取り合い、飛び上がって喜んだ。だが、互いの顔を認識すると、二人は顔を真っ赤にして慌てて離れた。

 

「そうですね、炭治郎さん、汐さん。これで修行して――、あの澄ました顔の糞ガキよりも絶対に強くなってくださいね・・・!!!全力で協力しますので・・・!!!」

 

そう言って振り返った小鉄の言葉は、決意と闘志、そして怒りに満ちていた。

 

それを見た二人の背中に、じっとりと冷たい汗が伝った。

 

「さあ、そうと決まれば早速――「ごめん、ちょっと待ってくれないか?」

 

炭治郎は小鉄の言葉を遮った。

 

「まず汐を部屋に帰したいんだ。いいかな?」

「ちょっと炭治郎?何を言ってるのよ」

 

怪訝な顔をする汐に、炭治郎は顔を見て言った。

 

「さっき具合が悪くなっただろう?今日はもう休んだ方がいい」

「大丈夫だって。あたしは何ともないわ」

「いいや、駄目だ。今も少しだけど顔色がよくない。時透君に叩かれたこともあるし、大事を取った方がいい」

 

炭治郎の透き通った"目"が汐を見据え、汐は観念したように息を吐いた。

 

「わかった、あんたの言う通りにするわ。心配してくれてありがとう」

 

汐は少し頬を染めながら礼を言うと、炭治郎の頬も桃色に染まった。

 

それを見ていた小鉄は、何かを察したように手を顎に当てた。

 

「ははーん。成程ねぇ。そういう事ですか」

「え?な、なにが?」

「お二人はそういう関係ですか。ふーん、へーえ。炭治郎さんもやりますねぇ」

 

小鉄は面の下でにやけながら、二人の周りをくるくると回った。

炭治郎はきょとんとし、汐は俯いたまま身体を震わせた。

 

かとおもうと、次の瞬間には小鉄の身体は宙を舞っていた。

 

「何を言い出すのよ!このクソガキィィィ!!!」

 

怒り狂った汐の絶叫が、林中に木霊するのだった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



あの日から三日後。

汐は鉄火場から刀が打ち終わったと連絡があり、工房を訪れていた。

 

「大変お待たせして申し訳ありません。ようやく完成致しました」

 

汐は完成したばかりの刀を手に取った。心なしか、前よりも吸い付く様に手になじむような気がした。

 

「握り心地と重さはいかがでしょうか?」

「うん、いい感じ。というより、前よりもしっくりくるような気がするわ」

 

汐はその感触に驚きつつも嬉しそうに笑った。

 

刀は相も変わらず、角度を変える度に色とりどりに変化していく。

それを見ていた鉄火場は、徐に口を開いた。

 

「汐殿。以前に私はその刀の色についていろいろ調べてみると申しましたが、覚えていらっしゃいますか?」

「えっと、最初にあたしに刀を持ってきてくれた時だっけ?鱗滝さんの所に」

「はい。あれからいろいろと調べてみたのですが、やはり後から色が変わる刀は過去には存在しなかったそうです。すみません」

 

鉄火場は申し訳なさそうに言った。

 

「別に謝らなくてもいいわ。色が変わるからって、刀が弱くなるわけでもないし。それにあたし、結構気に入ってるのよ?見てて飽きないしね」

 

悪戯っぽく笑って言う汐に、鉄火場はほっと胸をなでおろした。

 

「あ、後。汐殿からお預かりした懐剣ですが、やはり錆付が酷く一筋縄ではいかないようです」

「そう・・・」

「でも私は諦めません。汐殿が私を信じて任せてくださった仕事ですから」

 

鉄火場はやる気を見せてはいるが、汐には心なしか声が疲れているように聞こえた。

 

「頑張るのはいいけれど、刀が完成したばかりなんでしょ?別に急いでるわけじゃないから、無理だけはしないで」

 

汐がそういうと、鉄火場は嬉しそうに笑った(ような気がした)

 

(そう言えば、鋼鐵塚さんの事鉄火場さんに伝えたほうがいいかな?でも鋼鐵塚さん本人は誰にも言うなって言ってたけど・・・)

 

汐が心の中で葛藤していると、不意に鉄火場がくすりと笑った。

汐が首を傾げると、鉄火場は小さく笑いながら言った。

 

「いえ、実は今朝方、私の工房の前に置物が置いてあったんです。それがなんと、私の好物の"唐辛子煎餅"だったんです」

 

鉄火場は余程嬉しかったのか、声を上ずらせながら言った。

 

「私の好物を知っているのは長と、ほた・・・鋼鐵塚だけなんです」

 

その様子を見て汐は、なんだかんだ言って鋼鐵塚も鉄火場を気にしていることがわかり微笑ましくなった。

 

その後鉄火場と別れた汐はある場所へと向かっていた。

 

(炭治郎、どうしてるかな。確かあの人形での戦闘訓練するって言ってたけど)

 

あの後炭治郎は、無一郎への復讐に燃える小鉄から、人形で鍛えて一泡吹かせてやれと焚きつけられていた。

 

(小鉄はともかく、どんな訓練をしているかは気になるわ。確かこっちだった気がするけれど・・・)

 

木々が並ぶ森の中を歩いていると、遠くから何かがぶつかるような音が聞こえてきた。

汐がその方向へ向かうと、開けた場所で両腕をふりあげたまま止まっている人形と、その足元でうつぶせに倒れている炭治郎の姿があった。

 

*   *   *   *   *

 

時間は遡り。

炭治郎は小鉄から、人形で鍛えて何が何でも無一郎に一泡吹かせてやれと焚きつけられていた。

 

小鉄の復讐はともかく、炭治郎は無一郎が自分よりも年下で小柄なのに素晴らしい才能を持っていることに、心から感心していた。

そして負けていられない、強くならなくてはならないと心に誓った。

 

大切な人を守るため。大切な人の想いを繋ぐため。

 

だが、人形との訓練は想像を絶するものだった。

無一郎のせいで腕が一本破損したとはいえ、人形は的確に炭治郎の弱点を突く動きをしてきていた。

 

そもそも、あの人形にはもう一つ秘密があった。

首の後ろの鍵以外でも、手首と指を回す回数によって動きを変えることができるのだ。

 

刀鍛冶が剣士の弱点を突く動きを組んで戦わせる。そうでないと本当に意味のある戦闘訓練にはならないのだ。

 

だが炭治郎が参っていたのは人形の強さだけでなく、小鉄だった。

小鉄は分析力には長けているが、剣術の教えとしては素人中の素人であり、人の限界を知らないためえげつない訓練を強いた。

 

絶食、絶水、絶眠。そのせいで三日後の今日。炭治郎はとうとう意識を失い倒れてしまった。

 

どれくらい意識を飛ばしていたのか。炭治郎がふと目を開けると、目の前に何かが置かれているのが分かった。

 

ぼやける視界の中、目の前のものが一つの水筒であることに気が付いた。

 

「!!」

 

炭治郎はすぐさま水筒を手に取ると、口をつけて一心不乱に中身を飲み干した。

少しぬるくなってしまった水だったが、今の炭治郎にとっては極上の飲み物だった。

 

水を飲んで落ち着いた炭治郎は、その水筒に見覚えがある事に気づいた。そして、匂いも。

 

(これは、汐の水筒!まさか、汐がここに!?)

 

炭治郎の心に嬉しさがこみ上がり、礼を言おうと辺りを見回した。

 

「あれ、汐?どこだ・・・?」

 

周りに汐の姿はなく、炭治郎は汐を捜そうと体を起こしたその時だった。

何処からかうめき声が聞こえ、炭治郎はびくりと肩を震わせた。

 

その時初めて、炭治郎は小鉄の姿がないことに気づいた。

 

炭治郎が恐る恐る顔を向けると、そこには。

 

「うぅうーーー、むぐうううーーーッ!!」

 

全身を縄で雁字搦めに縛られ、口には猿轡を噛まされた小鉄が、木の上から吊り下げられていた。

その下には不自然に木の枝が積み上げられ、その前では静かにたたずむ汐の姿があった。

 

「何をしてるんだァ――――!!!」

 

それを見た炭治郎は、疲れを忘れて思わず叫んだ。

 

その声に気づいたのか、小鉄が泣きながら顔をこちらに向け、汐は笑みを張り付けたままゆっくりと振り返った。

 

「あら炭治郎。起きていて大丈夫?喉は乾いてない?お水もっと持ってこようか?」

 

汐は優し気な口調で言うが、炭治郎の鼻は汐から漏れ出す怒りと殺意の匂いを感じ取っていた。

 

「い、いや、大丈夫だ。って、そうじゃなくて!!なんで小鉄君がそんな状態になっているんだ!?」

 

炭治郎の問いかけに、汐は「ああ」と小さく言うと、小鉄の方に顔を向けた。

 

「このクソガキは調子に乗りすぎていたの。だからあたしが然るべき制裁を下しただけよ」

「いや、いやいやいや!!それは駄目だろう!!いくら何でもやりすぎだ!!」

 

小鉄はうめき声を上げながら、必死で逃れようと全身を強く捩るが、縄が食い込むだけで全く自体は好転しなかった。

そんな小鉄に汐は、積み上げられていた木の枝を一つ手に取ると、小鉄の眼前につきつけた。

 

「ねえ、あんた自分が何したのか分かってんの?人間はね、食事をしなきゃ死ぬの。水を飲まなきゃ死ぬの。眠らなきゃ死ぬんだよ。オメーがやってることは、殺人未遂以外の何物でもねぇんだよ。わかったか?」

 

汐の冷たい言葉に、小鉄はぶるぶると身体を震わせながら何度もうなずいた。そのあまりの凄惨さに、炭治郎は涙目になりながら叫んだ。

 

「俺は大丈夫だから、小鉄君を放してあげて!!殺意引っ込めて!!」

 

炭治郎の悲痛な声と、小鉄の態度に汐の怒りは少し和らぎ、小鉄を解放することにした。

これを見た炭治郎は、絶対に汐を理不尽に怒らせてはいけないと改めて誓うのだった。

 

それから暫くして。

汐は小鉄に炭治郎の食事を持ってくるように命じ、その間炭治郎はしばしの休憩を取った。

 

「来てみればあんたが死にそうな顔でぶっ倒れてるんだもの。本当に死んだかと思って焦ったわ」

「でも汐が来てくれなければ、俺は本当に死んでいたかもしれない。助かったよ、ありがとう」

「いいのよ別に。しかしあのクソガキ、人間の身体を何だと思ってるのかしら。今回の事で理解してくれればいいけど」

 

そう言って小さく息をつく汐に、炭治郎の背中を冷たいものが這った。

 

「それにしても、この人形。あんたをそこまでボコボコにするなんて、よっぽどすごい代物だったのね」

「ああ。戦国時代に作られたなんて、いまだに信じられないよ。最初に訓練をしたときは、全く歯が立たなかった」

 

炭治郎は声を落とすが、その"目"には諦めの意思は感じられない。強くなるための貪欲さがにじみ出ていた。

 

「でも、俺は諦めない。強くならないと。それにさっき、ほんの少しだけど不思議な感覚を感じたんだ」

「不思議な感覚?」

「感覚というか、匂いだな。隙の糸とは違う匂い。でも本当に一瞬過ぎて何の匂いかはわからなかったんだ。でも、もしそれがわかれば強くなれる。そんな気がするんだ」

 

そう言って笑う炭治郎に、汐の胸は甘い音を立てた。彼の誰かの為に戦おうとする意志は、汐の心にも小さな灯をともした。

 

「お、お待たせしましたぁ~・・・」

 

遠くから握り飯と湯のみが乗ったお盆を持った小鉄が、かすれた声で戻って来た。

炭治郎は握り飯にかぶりつき、そのおいしさに涙した。

 

「ところで、炭治郎が休んでいる間にあたしも訓練をしたいんだけど、いい?」

「えっ!?」

「ここの所のんびりしすぎて運動不足気味なのよ。それに、さっき刀を打ってもらったばかりで、試し斬りも兼ねたいの。駄目?」

 

汐は小鉄に満面の笑みを向けながら言うが、小鉄は先ほどの事を思い出したのか身体が震えていた。

 

「ねえ、駄目?」

「は、はい!じゃなくて、いいえ!お好きにどうぞ!!」

 

よっぽど怖ったのか、小鉄は引きつったような声でそう言った。

 

「ありがとう。じゃあ調整をお願いね」

 

汐はそう言って小鉄の準備が整う間、身体を解す体操をすると打たれたばかりの刀を抜きはらった。

美しい群青色の刀が、濃い紺色へと変化した。

 

「お待たせしました、汐さん!準備できましたよ!!」

 

小鉄が調整してくれた人形は、五本の腕を振り上げながら汐の方へ向かってきた。

 

汐は刀を構えると、大きく息を吸った。

 

汐が動くと同時に、人形も動き汐に向かって二本の腕を振り上げた。だが汐はその攻撃を紙一重で躱すと、人形に向かって刀を振り上げた。

人形もそれを予測していたかのように、三本目の腕で汐の一撃を受け止め、死角から四本目の腕が迫ってきていた。

 

「危ない!」

 

炭治郎は思わず叫ぶが、汐はその一撃を身体を大きく逸らして躱した。その身体の柔らかさに、炭治郎と小鉄は目を見開いた。

 

「す、すごい・・・」

 

小鉄の口から思わず声が漏れた。時透程までとはいかないが、汐の動きには無駄がなく、以前よりもはるかに精錬された動きになっていた。

 

(汐、また強くなってる。匂いも前とは違う。流石甘露寺さんの、柱の継子だな・・・)

 

まるで踊っているかのようなその動きに、二人は目を離すことができなかった。

 

一方。戦いの中の汐は、思ったよりも的確に弱点を突く人形に驚いていた。

 

伊黒との訓練に酷似していたが、人間である彼とは異なり、目の前の相手は人形だ。"目"を見ながらの予知動作は通用しない。

 

(まるであのときみたいだわ。鯨岩の入り江に潜った時みたいな、何も見えない手探り状態の時みたい)

 

以前より強くなっているとはいえ、今のままじゃまだまだ足りない。自分も炭治郎と同じ、もっともっと強くなりたい!

 

そんな思いを抱きながら刀を強く握った、その時だった。

 

汐の前に、青く輝く道のようなものが現れたのだ。それは人形の足元をかいくぐるように伸びている。

汐は迷うことなく、その道に沿って足を踏み出した。

 

すると先ほどよりも素早く、正確に人形の隙に入るような動きになり、人形よりも早く間合いに入ることができた。

 

「これでっ、最後だあっ!!」

 

人形が腕を振り下ろすよりも早く、汐の一撃が人形を穿った。大きな衝撃音と共に、人形の身体が大きく傾いた。

 

「や、やった!」

 

炭治郎が思わず声を上げ、小鉄は呆然と二人を見つめていた。

 

汐は息を乱したまま佇んでいたが、ふと我に返ると慌てて小鉄の方を向いた。

 

「も、もしかしてあたし、人形ぶっ壊しちゃった!?炭治郎の訓練まだ済んでないのに!?」

 

小鉄ははっとしたように肩を震わせると、慌てて人形の方へ走り出した。

汐と炭治郎も小鉄に駆け寄り、心配そうに見守った。

 

小鉄はしばらく人形を調べていたが、小さく息をつきながら言った。

 

「大丈夫、みたいです。少し傷はできてますが、動きに支障はありません」

「そ、そうなの。よかったわ。結構深く入っちゃったから、心配してたのよ」

 

汐はほっと胸をなでおろすが、心なしか小鉄は汐から距離を取りながら話しているように見えた。

お面で顔は見えないが、小鉄は明らかに汐に怯えていた。

 

「じゃあ次は俺の番だな」

 

体力が回復した炭治郎は、汐に負けていられないと意を決して刀を構えた。

 

汐が来たせいか、それともしっかり休憩を取ったせいか。炭治郎は先ほどよりも身体が軽くなっていることを感じた。

 

そして先ほど少しだけ感じた、隙の糸とは異なる匂い。今度は先ほどよりもはっきりと感じた。

 

左側頭部から始まり、首、右胸、左わき腹、右腿、左肩・・・

 

(来る!!)

 

炭治郎は目を見開き、人形の一撃を躱すとその刀を人形に向かって叩きつけた。

その一撃は人形を大きく揺らすが、破壊するほどではなかった。

 

「やった、当てたわ!」

 

汐は思わず歓声を上げるが、炭治郎はそのまま倒れたまま動かなくなってしまった。

 

「ちょっ、炭治郎!?大丈夫!?」

 

汐が駆け寄ると、炭治郎は規則正しい寝息を立てていた。

余程疲れていたのだろうか、軽くゆすっても声を掛けても起きそうになかった。

 

「小鉄。悪いけど手伝ってくれる?炭治郎をこのままにしては置けないもの」

「え、でも・・・」

「つべこべ言わずにさっさとしなさい。それとも、もう一回お仕置きされたいの?」

「・・・すみません」

 

小鉄は小さくそういうと、汐と共に炭治郎を部屋へと連れて行った。そしてこれからは、汐も炭治郎と共に(小鉄の監視も兼ねて)訓練につきあうことになった。

 

いつの間にか日は沈み、夜の帳が降りようとしていた。

 

その夜。

美しい十六夜の月がかかる空の下を、何やら怪しげな影が動いていた。

六尺ほどの身の丈に、筋肉流々の身体をした男のようだった。

 

その全身からは闘気が湯気のように立ち上り、空気を震わせていく。

 

男の顔には、ひょっとこの面があった。

 

静かな夜の終わりが、訪れようとしていた。




大正コソコソ噂話

汐が行った小鉄の縛り方は、宇髄さんから教わりました。
二人は時折、スパイみたいな談義をしていたりします。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

番外編
節分ってなあに?


かまぼこ隊とオリキャラが節分を祝う話
(この物語はフィクションです。実際の時代系列には一切関係ありません)



「鬼は外!!福は内!!」

 

高らかに響く声と、豆をまく音が辺りに響き渡り、それから明るい笑い声が聞こえてくる。

 

今日は二月三日の節分ということで、汐達はしのぶの許可をもらい蝶屋敷で豆まきをすることになったのだ。

 

「鬼は外!福は内!!」

 

楽しそうに笑いながら豆をまくみんなを見て、伊之助は怪訝そうな顔でぽつりと言った。

 

「なあ、鬼は外っていうけどよ。鬼ならここにいるじゃねぇの?」

 

そう言って彼は禰豆子を指さすが、その瞬間。すさまじい勢いで汐と善逸が伊之助の眼前に迫った。

 

「お前何考えてんの?自分の言ったことわかって言ってんのか?」

「禰豆子に豆をぶつける?ふざけたこと抜かしてんじゃねーわよ。一遍死んで来い」

「二人とも落ち着けって言いたいけれど、今回ばかりは二人に同感だ」

 

いつもなら二人を諫める炭治郎ですら、額に青筋を浮かべて伊之助を睨んでいた。

そんな中、なほ、きよ、すみが何かをもって汐達の元へやってきた。

 

「汐さん、例のものが届きましたよ」

 

なほはそう言ってきよとすみと共にちゃぶ台の上に何かを置く。それは、海苔で巻かれたとても太い巻き寿司だった。

 

「やった、待ってました!やっぱり節分と言えばこれ、【恵方巻】よね」

 

目を輝かせて言う汐に、炭治郎、善逸、伊之助は怪訝そうな顔で彼女を見つめた。

 

「・・・恵方巻ってなんだ?」

「さあ。俺も初めて知った」

 

節分すら知らなかった伊之助は勿論、炭治郎と善逸も初めて聞く言葉に首を傾げた。

 

「えーっ、あんたたち恵方巻知らないの?太い巻き寿司を作って、恵方っていう福が来る方角を向いて願い事をしながらかじって食べるの。その間に絶対に喋っちゃいけないのよ」

 

汐の説明に三人は感心したように首を振った。

 

「今日のはあたしの友達に協力を頼んで仕入れてもらったの。海の幸なんてここじゃあんまり手に入らないからね」

 

汐はそう言って全員に恵方巻を配ると、しのぶに借りてきた方位表を並べて指さした。

 

「今年の恵方は「西南西」だから、あっちを向いて食べるの。ああ、包丁で切っちゃ駄目よ。福を切るって言って縁起が良くないからね」

「うだうだ言ってねぇで早く食おうぜ」

「おい!せっかく汐ちゃんが説明してくれてるんだぞ。ったく、せっかち猪め」

 

待ちきれない伊之助とあきれる善逸を見て、汐もそれもそうかと言いたげにうなずくと、恵方巻をもって西南西を向いた。

 

「では、いただきます!」

 

全員が一斉に恵方巻にかぶりつく。かんぴょう、キュウリ、厚焼き卵、ウナギ、桜でんぶ、シイタケ煮が入った寿司はとてもおいしかった。

 

汐は恵方巻をかじりながら願いをかける。

 

(どうかあたしの大切な人たちが幸せでいられますように・・・)

 

汐はそう願いながら、隣で寿司をかじる炭治郎を見た。真剣な面持ちで食す彼は、きっと大切な妹禰豆子のことを願っているだろう。

 

(ついでにもうひとつ。炭治郎の願いが叶いますように)

 

願い事をもう一つ追加してから、汐は残りの恵方巻をおいしそうに食べ終えるのであった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

想い想われ波乱万丈(友人リクエスト&冨岡義勇生誕祭もどき作品)

注意書き

※他作品のオリ主さんがいます。
※冨岡さんのキャラと扱いが迷子
※がっつり恋愛要素があります。

オリ主さん説明
楓→海辺暮らしで鬼になった弟を斬った過去を持つ少女。そのため似た境遇の汐とは良き友人。
汐とは正反対の控えめで芯が強い性格。光の呼吸の使い手。
冨岡が気になるようだが・・・



「た、ただいま・・・」

 

任務を終え蝶屋敷に戻った善逸は、疲れ切った声で帰ってきたことを告げた。

 

「禰豆子ちゃ~ん・・・今帰ったよ~」

 

しかし禰豆子への(少し邪な)想いを口にすることは話ずれず、善逸は禰豆子の名を呼びながら玄関口へと向かった。

が、誰かの声がして善逸は足を止める。

 

そこには一組の男女がおり、女の方は善逸もよく知っている同期の少女、大海原汐。

男の方は一度だけだが遠目で見た水柱・冨岡義勇だった。

 

義勇がいること自体驚くことだが、その後彼が口にした言葉に善逸は目玉が飛び出る程驚いた。

 

「もうお前しかいない。俺と付き合ってくれ」

 

その言葉に汐は目を見開き、明らかな驚愕の表情を見せていた。そんな彼女に構うことなく義勇は汐の手を取ると、そのままこちらに向かってくる。

 

善逸は慌てて物陰に隠れると、二人は善逸に気づくことなくそのまま屋敷を出て行った。

残された善逸は真っ青な顔で、炭治郎の名を呼びながら屋敷の中へ飛び込んでいった。

 

*   *   *   *   *

 

「まったく、いきなり連れてこられたかと思ったら・・・」

 

義勇と並んで街を歩きながら、汐はしかめっ面をしながらため息をついた。

 

「楓に贈り物をしたいから選んでほしいって、最初からそう言えばいいのに。いきなりあんなこと言われたらびっくりするわよ」

「俺は最初からそう言ったはずだが?」

「言ってないけど。一字一句丸々言ってないけど?あんたが言ったのは『もうお前しか(頼める者が)いない。俺と(贈り物を選ぶのに)付き合ってくれ』だからね?楓のかの字も言ってないからね?」

 

義勇の言葉に汐は少しいらいらしながら辛辣に返す。元々何を考えているのか分からない眼をする上に、口下手で人との距離感がつかめない彼の性格が、汐は少し苦手だった。

 

が、義勇に命を救われたことがある汐は、彼の頼みも無下にはできず、何より友人の楓の名を出されては放っておくことはできなかった。

 

「で?楓への贈り物は決まってるの?決まってなくても候補ぐらいはあるんでしょ?」

 

汐がそう言うと、義勇は何も答えない。心なしか眉間に皺が少し寄っているように見える。

 

「・・・まさか・・・何も考えてないの?」

 

汐が問い詰めると、義勇は顔をしかめたまま静かにうなずいた。そんな彼を見て汐は思わず頭を抱える。

 

「あんたねぇ・・・柱だし年上だからこんなこと言うのは少し気が引けるけど・・・馬鹿じゃないの?っていうか、馬鹿じゃないの?無計画にもほどがあるわよ!」

「仕方ないだろう。俺は今まで誰かに物を贈ることなどしたことがない」

「だからって普段あれだけ慕われてるくせにお礼の一つもなし。あんたにとって楓は何なわけ?」

 

義勇は捲し立てる汐に何も答えることができず、ただただ彼女から浴びせられる罵声を一身に受けていた。

 

「はぁ・・・もういいわ。とにかく、歩きながら考えましょう。歩いていれば少しはいい案も浮かぶかもしれないわ。でも、冨岡さんもちゃんと考えてよ!?」

「・・・努力する」

 

義勇はそう言って汐から顔を逸らした。相変わらずの態度に汐は苦笑いを浮かべながらも、二人は並んで歩き出した。

 

(とはいえ、楓なら何を上げても喜びそうな気がするけれど、そう言うとこの人、とんでもないものを選びそうな気がするからなぁ)

 

 

どうしたものかと考えながら歩いていると、汐の目にあるものが飛び込んできた。

 

「あ、冨岡さん!」

 

汐は足を止め義勇の着物を引っ張って止めた。何事かと思い目を向けると、そこは装飾品や小物を扱う店だった。

 

「とりあえずここに入ってみない?何がいいかわからないときには基本から攻めてみましょ?」

 

汐はそう言って義勇の手を引っ張り、店の中へ足を進めた。

 

中には日常生活に使う小物や装飾品などの様々なものが所狭しと並んでいた。汐もこういう店に来るのは初めてで、知らない世界に胸が躍った。

 

(でも、あたし自身も贈り物を選ぶことってあんまりないからなぁ・・・。あたしが楓だったらもらってうれしいものは・・・)

 

「大海原。こういうのはどうだ?」

 

汐が小物を選んでいると、背後から義勇の呼ぶ声がした。汐が振り向くと、彼は真剣な表情で持っている。

だがそれは、何かの呪いで使うもののような、お世辞にも女性に贈るものとはいいがたい木彫りの人形だった。

 

「冨岡さん。あのね、いろいろ言いたいことはあるけれど。まずなんでそれを選んだのか教えてもらえる?」

「店に入って一番最初に目についた。中々に愛らしいと思うんだが・・・」

 

義勇の言葉に汐は大きなため息をついた後、鬼のような形相で彼の着物を掴んだ。

 

おのれは馬鹿かアアア!!こんなもん贈られて喜ぶと本気で思ってんのかアホンダラ!!あんた楓をいったい何だと思ってんの!?

 

捲し立てる汐に、義勇は【心外!】と言いたげに表情を歪ませた。

 

心外!じゃねーよ!心外なのはこっちだわ!こんな呪いの人形みたいなもん贈られたら、恨みがあるようにしか思えないわ!!つーかなんでこんな悪趣味な商品が置いてあんのよ!?店の雰囲気に全く合ってないでしょうが!!

 

大声で突っ込んだ汐は、ゼイゼイと息を乱しながら着物から手を放す。そんな汐を見て義勇は困ったように眉根を寄せ「すまない」とだけ答えた。

 

「俺はこうやって誰かと共に街を歩くことも買い物をするのも初めてだから勝手がわからない。だから、お前には苦労を掛けてしまっている」

 

本当に済まなさそうにする義勇に、汐は顔を伏せて「もういいわよ」とだけ答えた。

 

(ん?)

 

ふと目についたものを手に取り、汐は義勇に見せる。それは雫と貝殻をあしらった小さな髪留めだった。

自分と同じ海育ちの楓と、義勇を彷彿とさせる雫の装飾品は、まるで二人の関係を象徴しているようだった。

 

 

「これくらいの髪留めなら任務中に激しく動いても邪魔にはならないだろうし、装飾品も可愛いからいいんじゃない?」

 

汐はそう言って振り返ると、義勇は汐に顔を近づけながらまじまじと髪飾りを見つめた。

 

(こうやって見ると、冨岡さんって男前よね。普通なら町の女の人とか放っておかないと思うけれど・・・この人結構面倒くさいからなあ・・・)

 

そんなことを思っていると義勇と目が合い、汐は慌てて目を逸らす。そんな彼女を彼は怪訝そうな顔で見ていた。

 

「会計をしてくる。お前はここで待っていろ」

「はぁい」

 

汐は少しけだるそうに返事をすると、会計を待つ間店の中を見て回ることにした。すると、店の隅で根付が集まっている場所を見つけた。

 

(あ、これ・・・)

 

その中に埋もれるようにして陳列されていたある根付に、汐は目を奪われた。せっかく買い物に来たのに、何も買わずに店を出ることもない。

幸い、値段も汐の所持金内に収まりそうだ。

 

汐はその根付をとると、義勇とは反対の会計所へ持っていき会計を済ませた。包装を希望するか聞かれると、汐は市松模様に似た包装紙を選んで包んでもらった。

義勇の方は何やら包装の種類が多く、少し悩んでいるようだったが、こういうのは本人が選んだ方がいいだろうと思い汐はそのまま外で待っていた。

 

「すまない、待たせたな。ん?お前も何か買ったのか?」

「うん。何も買わないっていうのもなんだか悪いし、それに・・・あたしも贈りたい人がいるのよ」

 

そう言って汐は包みを見ながら少しだけ頬を染めた。そんな彼女に義勇は口元に笑みを浮かべたが、ふと汐の青い髪に塵が付いているのが見えた。

 

「大海原。そのまま動くな」

「え?な、なに?」

「いいから。そのままじっとしていろ」

 

義勇はそう言って汐の髪に手を伸ばし、汐は驚いて瞳を震わせる。

その時だった。

 

「汐!!」

 

空気を切り裂くような鋭い声と共に、汐の左腕を突如誰かがつかんだ。

何事かと思い反射的に顔を向けると。

 

「お前っ・・・。いったいどういうつもりなんだ!?」

 

顔に青筋を浮かべた炭治郎が、怒りを孕んだ声を汐に投げつけた。

 

「炭治郎!?あんたなんでここに・・・それに、楓まで!?」

 

炭治郎の後ろには、目に涙を浮かべた楓が青ざめた顔でこちらを見ていた。

 

周りにいた人々は、何事かと足を止めて汐達を見ている。しかし、炭治郎はそんな民衆の視線など目もくれず、汐の手を掴んだまま睨みつけた。

 

炭治郎の眼からは怒りが、楓の眼には悲しみと悔しさが宿っている。何故二人がそんな眼をするのか分からず、汐は瞳を揺るがせた。

 

「どういうつもりって、何のこと?」

「とぼけるな!楓を悲しませるなんて、それでも友達なのか!?」

 

炭治郎の怒りはとどまることを知らず、掴んでいる手に力が入る。微かに走る痛みに汐が顔をしかめていると、

 

「・・・もういいよ、炭治郎」

「楓?」

「もういいの。汐ちゃんの手を放してあげて」

 

楓は静かな声でそう言うと、伏せていた顔を上げた。その両目からは涙が頬を伝い、地面に吸い込まれていく。

 

「冨岡さんが選んだ人なら、私が何かを言う権利なんて無いもの。でもありがとう。私を心配してくれて」

「え?ちょっと、楓?」

 

話が全く見えない汐に、楓は涙を流しながら笑顔を向けて言った。

 

「私と友達でいてくれてありがとう。冨岡さんとお幸せに」

 

それだけを言うと、楓は踵を返し人ごみの中へ消えていく。それを見た汐は瞬時に悟った。

 

「冨岡さん!今すぐ楓を追って!!」

「大海原?それはどういう・・・」

「つべこべ言わずにさっさと行く!!駆け足!!」

 

汐の怒声に義勇は大きく肩を震わせると、慌てて楓の後を追った。それを見届けた汐は、今度は炭治郎の腕を掴むとそのまま人気のないところに移動した。

 

*   *   *   *   *

 

「ぶわはははははは!!!」

 

町はずれの公園で炭治郎から話を聞いた汐は、思わず笑い声をあげた。あまりにもおかしすぎて汐は腹を抱えてのたうち回るほどだ。

 

「あたしが、冨岡さんと、想いあってるって・・・ひひひ・・・苦しい・・・!」

「笑い事じゃないだろ!?あんなふうに二人で歩いて買い物をしていたら、逢引をしているなんて思ってしまうじゃないか」

「まああたしも最初に冨岡さんに言われた言葉に、死ぬほど驚いたのは確かだしね」

 

あの後炭治郎は汐と義勇が付き合っていると勘違いして、楓と共に二人を尾行していたことを話した。

最初は何かの間違いだと思ったのだが、汐が義勇の手を引いて店に入ったことや、汐から感じた果実のような甘い匂いのことや、義勇が汐の髪の塵をとろうとしたところが口づけをするように見えてしまい、思わず飛び出してしまったことを言った。

 

それを聞いた汐も、義勇が楓の為に贈り物をしたいということで、一緒に選んでいただけだということを説明した。

 

「そう、だったのか。全部俺の勘違いだったんだ。本当にごめん・・・」

「いいのよ、もう。勘違いさせたあたしも悪いし、あんたにも不快な思いをさせちゃったわね。それに、楓にも」

 

嫌われちゃったかな。と悲しそうに目を伏せる汐に、炭治郎は首を横に振った。

 

「俺も一緒に誤解を解くよ。だから、そんな顔をするな」

「炭治郎。ありがとう。あ、そうだ」

 

汐は思い出したように顔を上げると、先ほど買った包みを炭治郎の前に出した。

 

「楓への贈り物を選んでいたら、その。偶然見つけて。ほ、ほら。あんたにはいろいろ世話になってるし・・・」

きょとんとする炭治郎に、汐はしどろもどろになりながらも言葉をつなぐ。

 

「だ、だから!これあんたにあげる!!」

 

顔を真っ赤にして包みを押し付けると、炭治郎の眼が輝きを増した。

 

「これ、俺に?」

「そう言ってるじゃない!」

「ありがとう、汐。開けてみてもいいか?」

 

汐が頷くと、炭治郎はすぐさま包みを開けると、そこに入っていたものを見て目を丸くした。

 

それは、太陽を見上げる一匹のねずみが形取られた根付だった。

 

「これを見た瞬間、あんたと禰豆子の顔が思い浮かんだの。で、気が付いたら手に取ってた。気に入ってくれるといいんだけど・・・」

「すごくいいな、この根付!まるで俺と禰豆子と汐みたいだ!」

 

嬉しそうに根付を眺める炭治郎の言葉に、汐の肩が大きく跳ねた。

 

「え?あたしも?なんで?」

「だってこのねずみがいる場所、海辺だろ?俺と汐が禰豆子を守っているみたいですごく素敵だ」

 

そう言ってにっこりと笑う炭治郎に、汐の胸はドキドキと音を立てる。この笑顔が見られたことが何よりもうれしく、汐の顔も自然とほころんだ。

 

「あ、そうだ!冨岡さんはどうしただろう。楓とちゃんと仲直りしたかしら」

「大丈夫じゃないか?冨岡さんだし」

「冨岡さんだから心配なのよ!こうしちゃいられない、様子を見に行くわよ!」

 

汐はパッと立ち上がり、炭治郎の手を引いて走り出す。炭治郎は一瞬だけ面食らうが、すぐさま汐の手を握り返して走った。

 

走る二人の顔には、この上ない程の幸せな笑顔が浮かんでいた。

 

*   *   *   *   *

 

その後、誤解が解けた楓は汐に平謝りをし、汐も誤解させてしまったことを深く謝罪した。

そして仲直りの証として、楓は義勇が贈った髪飾りを肌身離さずつけていた。

 

そして、この騒ぎの発端となった善逸は――

 

後日ぼろ雑巾のような姿で発見されたそうな。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

縁、結びし(ホワイトデー特別編)

ホワイトデー特別編
恋愛要素有り


「いたっ!」

 

洗面台の前に立っていた汐は、髪に痛みを感じて小さく悲鳴を上げた。視線を動かせば、小さな櫛が髪に引っ掛かってしまっていた。

顔をしかめながら櫛を外すと、歯の一部が小さく欠けてしまいそこに真っ青な髪が引っ掛かっていた。

 

「あちゃーっ。また壊れたか。やっぱり手ごろな櫛じゃあ駄目か」

 

汐はがっかりした表情で櫛を外すと、かけてしまった櫛をまじまじと見つめた。

 

「あれ?どうしたんですか?」

 

そんな汐の元に、通りかかったきよが怪訝そうな顔をして問いかけた。

 

汐は欠けてしまった櫛をきよに見せながら、困ったように笑いながら言った

 

「あたし、体質のせいかそれとも海暮らしが長かったせいか、髪が傷みやすくて櫛が通りづらいのよ。そのせいで、櫛もすぐに壊れてしまうことも多いの」

 

「そうだったんですね」

 

「別に生活に支障があるわけじゃないからいいんだけど、でも、やっぱり。見た目が綺麗な方が少なくとも悪い印象は与えないわよね」

 

髪を指でつまみ、汐は複雑な表情で姿見を見つめた。今まで身だしなみに無頓着だった彼女が気にするようになったのは、ある人物の影響が強かった。

 

そうでなくてもただでさえ男と間違われるため、せめて見た目だけでも女らしくなりたいと思う気持ちもある。

 

(とはいえ、この櫛はもうだめね。もっといい素材の櫛があればいいんだけれど、結構するからなあ)

 

「あの。その櫛、供養に出しましょうか?」

「え、いいの?」

「はい。任せてください」

「ありがとう。あたし、これから任務だから宜しくね」

 

汐は櫛を丁寧に紙に包むと、きよに渡してその場を後にした。その後ろから炭治郎が角を曲がってくることに気づかないまま。

 

 

*   *   *   *   *

 

 

「ただいまー!あー、疲れた!!」

 

単独任務が終わり汐が蝶屋敷に戻ってくると、玄関に見覚えのある履物があった。炭治郎と禰豆子のものだ。

 

そのまま屋敷に上がり、荷物を下ろしていると奥から炭治郎が姿を現した。

 

「あ、汐。帰ったのか!」

 

汐の姿を見るなり、炭治郎は嬉しそうに駆け寄ってきた。心なしか、彼の目がいつもより輝いているように見える。

 

「あんたも帰ってたのね。それより何だか嬉しそうだけど、何かあったの?」

「汐を待ってたんだよ。お前に渡すものがあって」

 

渡すものと言われ、汐が怪訝そうな表情をすると、炭治郎は徐に懐から小さな包みを取り出した。

 

「なんだろう?開けてみてもいい?」

「ああいいぞ」

 

炭治郎の許しをもらい、汐はすぐさま包みを開けると、そこにあった物を見て目を見開いた。

 

「これって・・・櫛?」

 

そこにあったのは魚が描かれた、一つの櫛だった。

 

「ああ。この前きよちゃんが汐の櫛が壊れてしまったって聞いたから、任務の帰りに買ってきたんだ」

「買ってきたって・・・これ、かなりいい櫛じゃない。結構したんじゃないの?でも、なんで?」

 

驚きのあまりしどろ戻りになる汐に、炭治郎は少し照れ臭そうに言った。

 

「前にお前が俺に根付をくれただろ?そのお礼がまだだったから、それも兼ねてだ。もしかして気に入らなかったのか?」

 

炭治郎の言葉に汐は首を横に振ると、櫛を両手で包むようにして持ちながらほほ笑んだ。

 

「ありがとう。凄く、凄くうれしい!大切に使うわね」

「あ、ああ!」

 

汐の幸せそうな笑みと、心からうれしそうな匂いに炭治郎の胸が音を立て、顔に熱が籠った。そんな彼の眼はいつも以上に輝き汐の心も皺背にさせていた。

 

翌朝。

 

「~~~♪」

 

鼻歌を歌いながら汐は炭治郎からもらった櫛で髪を梳かす。よい品物のせいか、汐の硬めの髪質でも滞りなく歯が通っていた。

 

そのせいかはわからないが、心なしか髪に艶が出たようにも見えた。

 

そんな汐の背中に、しのぶは笑いながら声をかけた。

 

「おはようございます、汐さん」

「あ、しのぶさん。おはよう!」

 

いつも以上に元気な声に、しのぶの表情が自然に緩む。するとその隣から別の人物がひょっこり顔を出した。

 

「おはよう、汐ちゃん」

「あれ、甘露寺さん?来てたの?」

 

思わぬ人物の登場に汐は驚き、甘露寺は任務を済ませ、少しだけ休むために蝶屋敷を訪れたことを言った。

 

「それにしても、汐ちゃんずいぶんうれしそうね。何かいいことでもあったの?」

「うん。櫛を新しくしたら、髪が少しだけよくなった気がするの!」

 

汐はそう言って今使っていた櫛を二人に見せた。魚の文様が描かれた本つげの櫛。二人の目からしてもかなりいいものであることが分かった。

 

「あら素敵な櫛。しかも本つげね。どうしたの、これ?」

「炭治郎があたしにくれたの。あたしが櫛を駄目にしたことを知って、わざわざ買ってきてくれたみたい。あいつって本当に気が利くわよね」

 

そう言って笑う汐だが、しのぶと甘露寺は目を見開くと互いに顔を見合わせた。そして。

 

「きゃあああああああ!!!」

「あらあら、まあまあ」

 

突然甘露寺が頬を染めながら突然甲高い声を上げた。それに汐は思わず肩を震わせ、しのぶはにやけつつも、大声を出す甘露寺を静かに諫めた。

 

「ご、ごめんなさい。でもあまりにもその、可愛らしくて」

 

甘露寺がそう言うと、しのぶもそれに少しばかり同意した後二人は汐に向き合った。

 

「汐さん。男性が女性に櫛を送る意味をご存じですか?」

「意味?知らないけど、なんか意味があるの?」

「ちゃんとあるのよ。とても素敵な意味が。あのね、殿方が女性に櫛を送る意味はね――」

 

 

 

*   *   *   *   *

 

その頃別の場所では。

 

「あれ?炭治郎何かいいことでもあった?」

 

炭治郎からうれしい音がする事を感知した善逸が、怪訝そうな顔で彼を見つめていった。

 

「ああ。この前の任務の帰りに、汐に贈り物を買ったんだ。この間汐にもらったもののお返しができていなかったから」

 

炭治郎の言葉に善逸は顔を歪ませると「へぇ~」とだけ答えた。

 

「でもまさかあそこまで喜んでくれるとは思わなかったよ」

「俺もお前の惚気話を聞かされるとは思わなかったよ」

 

と、善逸はぶっきらぼうに言うが、ふと炭治郎が何を贈ったのかが気になった。

 

良くて天然、悪く言えば鈍感な彼が、女の子を喜ばせる贈り物を贈ったことが気になったのだ。

 

「ところでお前何を汐ちゃんに贈ったんだ?あの子が喜ぶって相当だと思うんだけど・・・」

「ああ、櫛だよ。汐が櫛を欲しがっていたってきよちゃんから聞いて、それで・・・」

 

しかし炭治郎がそれ以上言葉を紡ぐ前に、善逸の拳が炭治郎の左頬を強く穿った。不意のことで受け身が取れず、炭治郎の身体はなすすべもなく吹き飛ばされた。

 

「な、なにをするんだ善逸!!」

 

いきなりの事に流石の炭治郎も憤慨し、体を起こして声を荒げた。だが、

 

「何をするんだはこっちの台詞だ馬鹿野郎!!お前、お前それがどういう意味なのかわかってやってんのかあああ!!」

 

何故か善逸は顔を真っ赤にしながら、唾を飛ばしてまくし立てた。その尋常じゃない様子に炭治郎の怒りは瞬時にしぼみ、恐れに変わる。

 

「ど、どういうことなんだ善逸。なんでそんなに怒っているんだ?」

「どうもこうもあるか!!お前、男が女の子に櫛を贈る意味を知っているのか!?」

「え?何か意味があるのか?」

 

炭治郎が聞き返すと、善逸の怒りはさらに激しくなり「くぁwせdrftgyふじこlp!!」と途中から声にならない声を上げた。

 

「いいかこの鈍感馬鹿野郎!!女の子に男が櫛を贈る意味ってのはなあ!!!」

 

 

 

 

――『求婚』の意味なのよ(なんだよ)――

 

その後、顔を合わせた二人の関係がしばらくぎくしゃくしたことは言うまでもなかった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

一日遅れの祝い唄(炭治郎生誕祭特別編)

竈門炭治郎生誕祭2020、特別編


それは七月十四日の、深夜に起った。

空は上弦の三日月が輝き、虫の歌う声が響く穏やかな夜。

 

だが、それは突然に破られた。

 

「あああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!」

 

何処からか耳をつんざくような悲鳴が聞こえ、心地よく歌っていた虫たちは驚いて飛び去り、眠っていた野良犬は飛び起き大声で吠え出した。

その騒ぎのせいか、蝶屋敷からは別の悲鳴が聞こえ、閑静な屋敷付近はたちまち喧騒に包まれた。

 

やがて夜も明け、新しい一日が始まるというのに、悲鳴の主、大海原汐は死人のような顔で歯を磨いていた。

 

(なんてこと、なんてことなの・・・?あたしったら、あたしったら・・・。この世で最も大切な日を忘れていたなんて・・・ッ!!)

 

鏡に映る悍ましい自分の顔を眺めながら、汐は絶望と後悔に苛まれていた。

 

昨日は、彼女にとって一番大切な人物、竈門炭治郎の誕生日だった。

しかし、恋柱・甘露寺蜜璃の継子である彼女は、いつものように稽古をつけてもらい、いつものように任務に出ていた。

その間、汐に当てての一通の文が届いたのだが、その時は汐の鴉のソラノタユウが体調を崩してしまい、文が汐に届くことはなく、炭治郎の鴉が置いて言った文にも気づくことがなかったんだ。

 

(炭治郎の誕生日の宴の知らせの文に気づいたのが、日付が変わる直前・・・!なんで気づかなかったのよ・・・!)

 

炭治郎の誕生日を祝えない上、贈り物すら買っていないことに、汐は今までにない程の後悔と絶望に包まれた。

それどころか、もういっそのこと消えてなくなりたいとさえも、思ってしまうほどだった。

 

そんな調子で稽古などできるはずもなく、汐は体調が悪いから稽古を休みたいと鴉を通して甘露寺に連絡をした。

すると、送ってからそう経っていないのにも関わらず、甘露寺が汐の屋敷に飛んできた。

 

「ぎゃあああああああああ!!!」

 

甘露寺は、汐の屍のような顔を見て悲鳴を上げた。そのあまりの驚きっぷりに、危うく乳房がこぼれ出そうになったほどだ。

 

「ど、ど、ど、どうしたのしおちゃん!!そ、そのお顔・・・!」

「あ~~~・・・・」

 

もはや顔どころか言葉まで無くしかけている汐に、甘露寺は慌てて駆け寄り何があったか問い詰めた。

すると、汐はぽつりぽつりと、炭治郎の誕生日をうっかり忘れてしまっていたことを話した。

 

「あたし、何やってんだろ。あたしにとって大切な人の生まれた日を忘れるなんて。きっとあたしはもう、あいつの隣に立つ資格なんかないんだ・・・」

いつもなら絶対あり得ない、後ろ向きな言葉が汐の口から零れ、甘露寺はこれはただ事ではないことを察した。

しかし、もう誕生日は過ぎてしまっているため、いくら後悔してももう遅いこともわかっていた。

 

「しおちゃん。厳しいことを言うようだけれど、今更後悔してもどうしようもないわ」

「うん、わかってる。わかってるけど・・・」

「でもね、このまま下を向いたままじゃ、絶対に駄目。あなたが炭治郎君のお誕生日を心からお祝いしたい気持ちはあるんでしょ?」

「それは勿論!だって、炭治郎が生まれた大切な日だもの」

 

汐は顔を上げてそう言うと、甘露寺はにっこりと笑っていった。

 

「その気持ちを炭治郎君にちゃんと伝えないと。一日遅れてしまってはいるけれど、あなたの気持ちが本当ならきっと彼ならわかってくれるわ」

「みっちゃん・・・」

「わかったならすぐ行動しないと!今日のお稽古はお休みにするから、しおちゃんはすぐに炭治郎君の所へ行ってきて!柱命令よ!!」

 

甘露寺の大声に汐は背筋を正すと、そのまま一目散に蝶屋敷に掛けていった。そんな彼女の背中を見て、甘露寺はまるで子供を見守る母親のような、慈しみの目を向けるのだった。

 

*   *   *   *   *

 

「ごめんください、炭治郎いる!?」

 

汐は蝶屋敷に転がるように駆けこむと、そこには洗濯物を干している三人娘の姿があった。

 

「あ、汐さん!おはようございます」

「おはよう。ねえ、炭治郎いる?」

「炭治郎さんならつい先ほど、任務に行かれましたよ」

 

きよの言葉に汐は頭を殴られたような衝撃を受け、その場にへなへなと崩れ落ちてしまった。

そんな様子の汐に、三人娘は慌てて駆け寄ると縁側に座らせた。

 

「いったいどうしたんですか?顔色がものすごく悪いですよ」

「ごめん、心配かけて。ただ、あたしってなんでこうも間が悪いんだろうって」

 

汐は三人に、炭治郎の誕生日をすっぽかしてしまった事を話した。その話を聞いて、彼女たちは何か心当たりがあるかのように目を見開いていった。

 

「だから炭治郎さん、昨日から元気がなかったんだ」

「ずっと玄関の方を見てたのは、そのせいだったんだね」

「今朝も笑っていたけれど、どこかぎこちなかったのはもしかして・・・」

 

三人娘の話を聞いた汐は、ますます頭を抱えた。もしもこのまま、炭治郎と会えなくなってしまったらどうしようという思いまで生まれてきてしまっていた。

 

「と、とにかく。汐さんさえよろしければ炭治郎さんが戻るまで待ちますか?」

「え、いいの?」

「はい。汐さんの御顔を見れば、炭治郎さんきっと喜びますよ!」

 

なほとすみの言葉に、汐は力なくほほ笑むと空を見上げた。

 

「あ、あの。実は先ほどのお話を聞いて一つ提案があるんですが・・・?」

「提案?」

 

汐は怪訝そうな顔でなほをみると、なほは頷き汐の耳元に口を寄せた。

 

「実はですね・・・」

 

 

*   *   *   *   *

 

 

それから時間は過ぎ。

 

「ただいま戻りました」

 

日がだいぶ傾いたころ、炭治郎と禰豆子は単独任務から蝶屋敷へ戻って来ていた。それ程苦戦はしなかったものの、命を懸けた戦いの後の疲労にはどうも慣れなかった。

 

「禰豆子、大丈夫か?今日も助けてくれてありがとうな」

 

炭治郎は箱越しにそう言うと、禰豆子は返事の代わりに箱の内側をカリカリと引っ掻いた。

 

「・・・はあ」

 

だが、その笑顔は口から出た溜息と共に曇った物へと変わってしまった。

 

昨日は、炭治郎の誕生日であり、蝶屋敷の者たちが彼の為に宴を開いてくれた。汐にも鴉を通して連絡したのだが、数々の不運が重なり汐が宴に現れることはなかった。

 

そのせいか、炭治郎は昨日の夜からずっと元気がなかった。

 

(いや、何を落ち込んでいるんだ。汐だって俺と同じ鬼殺隊員。いつ何時任務に駆り出されてもおかしくない。今回はたまたま、俺の誕生日と重なってしまっただけだ)

 

そう自分に言い聞かせて平常心を保とうとするものの、やはり彼女からの祝いの言葉が効けなかったという事実に、彼の心は沈んでしまっていた。

 

(汐、今頃何をしているだろう。無茶をしたりしていないだろうか)

 

ここの所炭治郎は、気が付けば汐の事ばかり考えていた。呼吸は違うものの、同じところで修行をした兄妹弟子。自分が辛いときにいつも支えてくれた、大切な人。

最近は仕事も忙しくてなかなか会えず、そのもどかしさも炭治郎の心をかき乱していた。

 

(会いたいなあ・・・)

 

そんなことを考えながら門を通った瞬間。炭治郎の鼻を、優しい潮の香りが掠めた。

 

(この匂いは・・・、まさか!!)

 

炭治郎はいてもたってもいられず、転がるように屋敷の中へ駆け込んだ。すると、炭治郎の帰宅を待っていたのか、すみが同じく転がるように奥から走ってきた。

 

「あ、炭治郎さん!おかえりなさい」

「ただいま、すみちゃん。あの、もしかして汐がここに来ているのか?」

 

炭治郎が尋ねると、すみはにっこりと笑って裏山の方を指さした。

 

「汐さんが炭治郎さんに話があるそうです。すぐに行ってあげてください」

 

すみがそう言った途端、炭治郎は踵を返すと一目散に裏山へと走っていった。

 

険しい山道をものともせず、炭治郎は一心不乱に走った。前に進むたびに風に乗って流れてくる彼女の香りに、胸を高鳴らせながら。

 

「汐!」

 

炭治郎は息を切らしながら、目の前に立っている少女の名を呼んだ。すると汐は目を大きく見開くと、わき目もふらずに炭治郎の元へ駆け寄ってきた。

 

「炭治郎!!」

「汐!!」

 

二人は互いに名を呼びあいながら駆け寄り、どちらともなく手を握り合った。

 

「炭治郎、ごめん、ごめんなさい!あたし、あたしあんたの大切な日になんてことを・・・!」

 

汐は今にも泣きそうな顔で炭治郎を見つめ、それを見た炭治郎の胸が大きく音を立てた。

 

「何を言っても言い訳にしかならないから余計なことは言わない。でも、とにかくあんたに謝りたかったの。本当にごめんなさい」

「いや、いいんだそんなこと。お前だっていろいろ忙しいんだから仕方ないよ」

 

炭治郎はそう言って、泣きそうな顔の汐の頭を優しくなでた。陽だまりのような温かい手と、夕暮れのような美しい目が汐の心を落ち着かせていった。

 

「ん?なんだかおいしそうな匂いがするけれど、この匂いは・・・」

「ああ、これ。あんたのための贈り物を用意できなかったから、その代わり。っていうものじゃあないんだけれど・・・」

 

汐はもじもじと身体をよじらせながら、後ろ手に隠していた包みを差し出した。そこからは米と微かな梅昆布の匂いが漂い、炭治郎を刺激した。

 

「これは、もしかして梅昆布のおにぎりか?」

「正解!せめてあんたの好物をって思ったんだけれど、この季節じゃタラの芽はないから、あんたの好きな梅昆布のおにぎりを作ったのよ」

 

口に合うといいんだけど、と口ごもる汐に、炭治郎はパッと表情を輝かせて言った。

 

「とんでもない!お前が作ったおにぎりなら、おいしいに決まってる!」

 

炭治郎の嘘偽りない言葉に、汐の心臓が大きく跳ね顔に熱が籠った。

 

二人は近くの岩場に座り、汐は風呂敷を広げて炭治郎におにぎりを一つ手渡した。ホカホカのごはんと梅昆布の香りが、炭治郎の食欲を掻き立てる。

 

「いただきます!」

 

炭治郎は高らかに言うと、真白なおにぎりかぶりついた。そして、

 

「うまい!!」と、太陽のような笑顔で言った。

そんな彼を、汐はこみ上げてくる嬉しさをかみしめるように、口元を緩ませた。そして、自分の分のおにぎりを食しながら、二人の時間はゆっくりと流れていった。

 

やがておにぎりを食べ終えた二人は、星が瞬き始めた空を見上げた。

 

「そう言えば、汐はどうしてここでおにぎりを食べようなんて思ったんだ?」

 

炭治郎がそう尋ねると、汐は少し悪戯っぽく笑いながら口を開いた。

 

「多分あと少しだと思うから、もうちょっと待ってて」

 

汐の言葉に炭治郎は怪訝な表情をするが、その理由はすぐにわかった。

 

二人の前を、金色の光がふわふわと通り過ぎ、やがてそれは瞬く間に増え、二人の周りに広がった。

 

「これは、蛍?へぇ、こんなところにもいるんだ」

「この時期にはよく蛍がいるって、なほが教えてくれたのよ。狭霧山でみて以来だけど、やっぱり綺麗ね」

 

そう言ってほほ笑む汐は、蛍の光に照らされて、幻想的な美しさを醸し出していた。そんな彼女を見て、炭治郎はゆっくりと言葉を紡いだ。

 

 

「俺、汐が宴に来なくてすごく寂しかったんだ。汐は甘露寺さんの継子として毎日頑張っているから仕方ないって思っていたけれど、それでもやっぱり、お前には俺の誕生日を祝って欲しかった」

「炭治郎・・・。本当に、ごめん」

「いや、いいんだ。一日遅れてしまったけれど、汐が俺の誕生日をきちんと覚えていてくれて、それで、こんな素敵な贈り物だってくれたんだ。そして今、わかったんだ。俺にとっては、お前とこうして同じものを見て同じ時間を共有できるってことが、何よりもうれしいんだって」

 

炭治郎はそう言って再び空を見上げた。星の光と蛍の光が混ざり合い、絵にも描けない美しい世界が二人を包む。

 

そんな彼を見つめながら、汐はぽつりと言った。

 

「あたしだってそうよ。あんたとこうして同じ場所で同じ時間を生きて、あんたの傍にいることが一番うれしい。今年は遅れちゃったけれど、来年はちゃんとあんたにおめでとうっていうわ。来年だけじゃない。再来年も、その後も、ずっと。あたしが生きている限り、あんたにずっとおめでとうって言ってやるんだから!」

 

汐の言葉に炭治郎は目を見開いて汐を見た。汐の顔は暗がりの中でもわかる程赤く、そんな彼女から漂ってくる甘い果実の匂いに、炭治郎の頬も熱を持ち、心臓が早鐘の様に打ち鳴らされていった。

 

「汐・・・、お前、それって・・・」

「だから、死ぬんじゃないわよ。あんたが死んだら、あたしはあんたにおめでとうって言えなくなるんだから」

「・・・だったら今、言ってくれないか。今年の分のおめでとうを、俺はまだお前の口から聞いていない」

 

汐が顔を向ければ、真剣な表情をした炭治郎と視線がぶつかり、思わず息をのんだ。鳴りやまない鼓動を抑えるように胸元を握りしめながら、汐は口を開く。

 

「炭治郎。お誕生日、おめでとう」

「・・・ありがとう」

 

汐の透き通るような声が炭治郎の耳を通り、甘い果実の匂いが彼を満たしていく。互いの瞳に映る自分自身を見つめながら、ごく自然に、二人はゆっくりと顔を近づけていった。

 

その時だった。

 

「猪突猛進!!!」

 

その場の雰囲気をぶち壊すような声が響き、二人の前を茶色い影が駆け抜けていった。

そして、

 

「濃厚接触禁止ぃいい!!」

 

耳をつんざくような汚い高音と共に、黄色い影が二人に割り込むように突っ込んできた。

 

「炭治郎と禰豆子ちゃんがどこにもいないと思ったら、お前ら二人っきりで何やってんだ!!」

 

黄色い影、善逸は何故か涙を流し、顔中に青筋を立てながら唾を飛ばしてまくし立て、伊之助はたくさんの蛍に興奮しているのか背後ではしゃいでいた。

 

一気に騒がしくなったその光景に、炭治郎が苦笑いを浮かべたその時。

不意に炭治郎の視界が真っ暗になった。

 

「な、なんだ!?」

 

困惑する炭治郎の耳元で、汐の静かな声が響いた。

 

「炭治郎、悪いけどちょっとだけ我慢してて。あたし、部屋の掃除は苦手だけれど、ごみの掃除自体は得意なの」

 

そう言った汐からは、先ほどの果実の匂いは消えうせ、代わりに怒りと殺意の匂いが炭治郎の鼻を刺激した。

 

「ま、待て汐!殺意、殺意引っ込めて!!」

 

だが、炭治郎の懇願も虚しく、裏山は悲鳴と断末魔に包まれた。

 

 

 

 

――炭治郎、お誕生日、おめでとう。

どうか、あなたの行く末が、光に満ちたものでありますように・・・



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

みんなから見てあの子はどう?

柱から見た汐の印象&評価をファンブック風に書いてみた


仲間たちから見た、大海原汐の印象、評価(刀鍛冶の里時点で)

 

竈門炭治郎

「いつも俺や禰豆子を気に掛けてくれる素晴らしい仲間。元気で明るくて、一緒にいるとすごく楽しい。でもため込んで無理をしてしまう癖があるから心配。最近、一緒にいると胸がドキドキして落ち着かない。」

 

我妻善逸

「怒ると怖いけど、優しくて本当は繊細な女の子。炭治郎との仲睦まじい姿を見せつけられるのは腹立つけど、すごく幸せな音がする・でもやっぱり、すぐに殴るのはやめてほしい」

 

嘴平伊之助

「すぐ怒る、すぐ殴る。でも歌は凄く綺麗。一緒にいると結構面白い。時々目を開けたまま寝てるのは怖い」

 

竈門禰豆子

「むー!むむー!!むむむー!!!(歌がもっと聞きたい)」

 

栗花落カナヲ

「蝶屋敷以外で初めてできた大切な友達。明るくて声が大きい。歌がとってもうまくて羨ましい。何故かはわからないけれど、負けたくない気がする」

 

不死川玄弥

「男だとずっと思っててごめん。もう少し自分の物は大事にしてほしい。それと距離感がちょっとおかしい」

 

水柱・冨岡義勇

「年の割に覚悟が決まっていると思う。男みたい。歌が上手い。不思議な髪の色」

 

蟲柱・胡蝶しのぶ

「ぶっきらぼうだけれど、優しくて他人を気にかけてくれるいい子。でも時々勘が鋭すぎて怖いところがある。カナヲと友達になってくれてとても感謝している」

 

霞柱・時透無一郎

「子犬みたい。声が大きい。青い髪にびっくりした」

 

元音柱・宇髄天元

「派手に髪の色も頭もぶっ飛んでるがいい女。見てて飽きない。技も面白い。体型はちんちくりん」

 

蛇柱・伊黒小芭内

「口が悪い。努力と誰にも媚びず屈しない姿勢"だけ"は評価する。甘露寺と仲がいい、羨ましい。蛇男と呼ぶのはやめろ」

 

恋柱・甘露寺蜜璃

「可愛い!大好き!たまに酷いことを言われるけれど、それも可愛い!炭治郎君ともっと仲良くなってほしい!」

 

岩柱・悲鳴嶼行冥

「年の割に強い意志を持っている。粘り強い。無理はしないでほしい。そして、口が悪すぎるのでもう少し慎みある行動をしてほしい。後、猫を好きになってほしい」

 

風柱・不死川実弥

「口も態度も悪い。見ていて腹立つ。危なっかしい。絶対に認めない」

 

元炎柱・煉獄杏寿郎(特別出演)

「面白い技を使う!強く、美しく、誇り高き魂を持った素晴らしい女性!守れてよかった!もう少し話をしたかった。愛する者と幸せになってほしい」

 

 

 

*   *   *   *   *

汐から見た人々の印象、評価

 

竈門炭治郎

「何よりも大切な人。死んでも守りたい。純粋すぎて時々腹立つ」

 

竈門禰豆子

「大好き。守りたい。本当の妹だったらいいのに」

 

我妻善逸

「うるさい。助平馬鹿。でも自分の事をいろいろ気にかけてくれるいい奴」

 

嘴平伊之助

「馬鹿その弐。でも見ていて飽きない。たまには被り物脱げばいいのに」

 

栗花落カナヲ

「大事な友達であり、負けたくない相手。花の呼吸をもっと見せてほしい」

 

不死川玄弥

「なんか目を合わせてくれない。オコゼ野郎(不死川実弥)と目つきは似てるけどいい奴」

 

水柱・冨岡義勇

「命の恩人。ちゃんとお礼したい。でも何考えてるかわかんない"目"をしてる」

 

蟲柱・胡蝶しのぶ

「命の恩人その弐。最初は怖かったけど、優しくていい人。でも無理して笑ってるみたいで気持ち悪い」

 

霞柱・時透無一郎

「腹立つ!すごい才能を持ってて腹立つ。"目"が無機質で人形みたいで怖い」

 

元音柱・宇髄天元

「ぶっ飛んだ人だと思ったけど、冷静に物事を見ている。男柱の中では一番話しやすい。褌が似合いそう」

 

蛇柱・伊黒小芭内

「苦手。斬撃がいやらしい。みっちゃん(甘露寺蜜璃)に対してあからさますぎて逆に引く」

 

恋柱・甘露寺蜜璃

「大切な師範。一番本音を言いやすい。時々全く柱らしくないところもあるけれど、決めるときは決める。蛇男とは絶対に両思いだと思う」

 

岩柱・悲鳴嶼行冥

「見た目よりも繊細で優しい人。二の腕にぶら下がりたい。褌が似合いそう」

 

風柱・不死川実弥

「大嫌い。見てて腹立つ。禰豆子を傷つけたことは一生許さない。褌が似合いそう。余計に腹立つ」

 

元炎柱・煉獄杏寿郎

「命の恩人その参。人間の誇り、人間の魂そのものの人。出会えたことを誇りに思う。絶対に忘れない」

 

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

二十五章:招かれざる客


人形との訓練で、汐と炭治郎は新たな力に目覚めた。

 

汐は相手の隙の位置を視覚的に捉えることができる【青の(みち)】。炭治郎は匂いにより相手が次に狙ってくる場所がわかる【動作予知能力】。

 

二人共死に近しい経験をしたことで得た能力であり、柱よりも反射や反応が遅い二人が彼らに匹敵する動きをするための強力な武器となる。

 

その日も小鉄を監視する汐を加え、炭治郎は人形を使っての特訓にいそしんでいた。

 

「行けぇ、炭治郎!やっちまえーっ!!」

 

汐の声援が飛ぶ中、炭治郎は全身の神経を研ぎ澄ませながら刀を振るっていた。

 

(よし、よし!!わかるぞ動きが!!前よりもずっとよくわかる!!)

 

炭治郎は最初は目で追うこともやっとだった人形の動きが、今や細部までしっかり見えるようになった。

 

(体力も戻ってついていけてる!!)

 

汐の声援が炭治郎の身体に熱を持たせ、力をみなぎらせた。

 

(よし、入る!!渾身の一撃・・・)

 

人形の大ぶりの攻撃を、炭治郎は身体を捻って飛び上がりながら躱し、そのまま人形の首筋に刃を向けた。

だが、刃が届く寸前に炭治郎は思い出した。この人形は老朽化と損傷が激しく、もしも自分の攻撃が当たったら壊れてしまうかもしれない。

 

「斬ってーーー!!!」

 

しかしそれを見抜いた小鉄が、全身全霊で叫んだ。

 

「壊れてもいい!!絶対俺が直すから!!」

 

小鉄は心の中で炭治郎の人の好さを危惧した。大事な局面で躊躇ってしまうことを。

けれど、だからこそ。そんな彼だからこそ。小鉄は炭治郎に死んでほしくないと思った。強く、願った。

 

そしてその願いが通じたのか。炭治郎の刀が人形の首のあたりに綺麗に入った。

 

「入った!!」

 

汐が思わず叫ぶと、炭治郎はその勢いのまま地面に尻を思い切り叩きつけてしまった。

そして持っていた借り物の刀も、役目を終えるかのように真っ二つに折れた。

 

「炭治郎!!」

「大丈夫ですか、炭治郎さん!!」

 

汐と小鉄は尻を抑えて悶絶する炭治郎に駆け寄った。

 

「ご、ごめん小鉄君。借りてた刀折れちゃった」

「あんたねぇ、少しは自分の心配をしなさいよね」

「そうですよ。炭治郎さん、あんた人が良すぎです」

 

二人の言葉に炭治郎は微妙な顔をするが、小鉄が人形の方に顔を向けて小さく叫んだ。

 

振り返ってみれば、人形の頭部が砕けており、その中からは一本の刀が姿を現していた。

 

「で、でた!!なんか出た!!ここここ、小鉄君、なんか出た!!何コレ!?」

 

炭治郎は混乱しているのか、疲労困憊しているはずなのに小鉄を両手で軽々と抱えていた。

 

「いやいやいや、分からないです俺も!!何でしょうこれ!!」

 

小鉄も混乱しているのか、喚きながら炭治郎の両手を使い見事な倒立を決めていた。

 

「あんた達驚きすぎじゃない?ただの刀じゃないの」

「いやいやいや!少なくとも三百年以上前の刀だぞ!?やばいよ、やばいよね、どうする!?」

 

炭治郎と小鉄は全身を真っ赤にして荒い息を吐きながら、人形の中の刀を凝視していた。

 

「・・・あんたらすごい顔になってるわよ?鏡持ってきてあげようか?」

「逆に汐さんはなんでそんなに冷静なんですか!?普通人形の中から刀が出てきたら驚くでしょう!?」

「そう?鬼殺隊なんてやってれば、大抵の事には驚かなくなるわよ」

 

汐はさも当たり前のように言うと、二人は何とも言えない顔で汐を見つめた。

 

「あ、そうだ。炭治郎さん!!この刀貰っていいんじゃないですか?もももも、貰ってください、是非!!」

 

小鉄は興奮のあまり呂律の回らない口でそういうが、炭治郎はその申し出を拒否した。

 

「やややや、駄目でしょ!今まで蓄積された剣戟があって、偶々俺の時に人形壊れただけだろうし、そんな」

「いえいえ、炭治郎さん、ちょうど刀を打ってもらえず困ってたでしょ>いいですよ、持ち主の俺が言うんだし」

「そんなそんな、君そんな」

「戦国の世の鉄は凄く質がいいんです。もらっちゃいなよ。ゆう」

「いいの?いいの?っていうか、ゆうってなに?」

 

再び組体操を始める彼らに、汐は「阿呆かこいつら」と小さく言うと、出現した刀をまじまじと見つめた。

 

「と、とにかく刀ちょっと抜いてみます?」

「そうだね、見たいよね!!」

 

二人は黄色い声を上げながら、はやる気持ちを抑えて刀に手をかけた。

 

だが、鞘から抜き放たれた刀は、見るも無残に錆びついていた。

これを見た二人はあまりの事に地面に突っ伏してしまい、それを見た汐は「忙しいなこいつら」と再び呟いた。

 

「いや、当然ですよね。三百年とか・・・、誰も手入れしてないし、知らなかったし・・・。すみません炭治郎さん、ぬか喜びさせて・・・」

「大丈夫!!気にしてないよ」

 

申し訳なさそうに謝る小鉄に、炭治郎は顔を上げてそう言った。しかしの顔からは涙が流れ落ち、鼻水まで出ていた。

炭治郎の悲壮感漂う顔に、小鉄は罪悪感でいっぱいになり何とかなだめようとした。

 

その時だった。

 

背後から何かの気配を感じ、汐は反射的に振り返った。それと同時に、何かが近づいてくる足音が聞こえてきた。

 

そして木々をかき分けるようにして姿を現したのは――

 

――筋肉隆々の鋼鐵塚の面をつけた大男だった。

 

「うわあああああ!!」

「ぎゃあああああ!!」

 

その風体に炭治郎は勿論、汐ですら絶叫した。

 

「話は聞かせてもらった・・・。後は・・・任せろ」

 

鋼鐵塚はそれだけを言うと、炭治郎の手から刀を奪い取ろうとした。

それを慌てて阻止する炭治郎、小鉄、汐の三人。しかし何故か、三人がかりでも鋼鐵塚と均衡するのがやっとだった。

下手をしたら、汐と炭治郎よりも強いかもしれなかった。

 

「放してください!ちょっ・・・、なんで持っていこうとしてるんです!?」

「何やってんのあんた!これじゃあ強盗じゃないの!!」

 

炭治郎と汐が必死に訴えるが、鋼鐵塚は「俺に・・・任せろ・・・」とだけ言った。

 

「だから何を任せんのよ!」

「任せろ・・・」

「だから何を!?」

「説明してくださいよ!鋼鐵塚さん!!」

 

何を聞いてもそれしか答えない鋼鐵塚だったが、一向に刀を放さない三人にしびれを切らしたのか、突如両腕を振り回した。

 

「俺に任せろと言ってるだろうが!!」

「うわああああ!!大人のする事じゃない!!」

「こんの37歳児!!いい加減にしなさいよ!」

 

――ウタカタ・参ノ旋律――

――束縛歌!!!

 

汐は怒りのあまりウタカタを放ち、鋼鐵塚の身体を拘束した。が、それは一瞬の事で彼は暗示を振り払うと再び暴れ出した。

 

「「ほぎゃああーーーー!!!」」

 

これには汐だけでなく炭治郎も、目玉がまろび出る程に驚いた。万事休すか、と思ったその時。

 

「少年達よ。鋼鐵塚さんの急所は脇です。ここを狙うのです」

 

この場に似つかわしくない冷静な声と共に、鋼鐵塚の背後に回っていた人影が彼の両脇をくすぐった。

 

すると鋼鐵塚は情けない声で笑いながらその場に倒れた。

 

「あ、あなたは・・・、鉄穴森さん?」

 

そこにいたのは、伊之助の刀を打った刀鍛冶師、鉄穴森鋼蔵だった。

 

「ご無沙汰してます。お元気でしたか?」

 

最後に会ったのは、鋼鐵塚、鉄火場と共に伊之助の刀を蝶屋敷に持ってきたときであり、あの時は伊之助の暴挙のせいで二人は散々な目に遭っていた。

 

「お久しぶり、炭治郎君、汐さん。鋼鐵塚さんはくすぐられるとしばしぐったりしますので、私から説明しましょう」

 

鉄穴森は一つ咳ばらいをすると、そっと口を開いた。

 

「二人とも、鋼鐵塚さんを許してやってくださいね。山籠もりで修行していたんですよ」

「山籠もり?」

「修行?」

 

二人がきょとんとしながら聞き返すと、鉄穴森は鋼鐵塚が炭治郎を死なせないよう強い刀を作るために、己を鍛える修行をしていたと説明した。(その時小鉄は、気絶している鋼鐵塚に向かって石を投げつけていた)

 

感動のあまり涙を流す炭治郎に、汐は(刀鍛冶師の修行じゃないんじゃない?)と心の中で冷静に突っ込んだ。

 

「炭治郎君はずっと鋼鐵塚さんに刀をお願いしているでしょう?嬉しかったんだと思いますよ。この人、剣士さんに嫌われて担当外れる事多かったから・・・」

「そうなんですか?」

 

顔を歪ませる炭治郎に、小鉄は鋼鐵塚に対してさらに厳しい言葉を投げつけた。

 

「人づきあいが下手すぎなんですよね、この方。だから未だに嫁の来手もないんですよね」

 

その言葉を聞いた汐は、脳裏に鉄火場の事が思い浮かんだ。悪態をつき、木槌で殴りつけることもあるも、彼に憧れ好意を抱いている彼女の事を。

 

「そう?実は案外近くにいるんじゃない?候補」

 

汐がそう呟くと、炭治郎と小鉄は怪訝そうな顔で汐を見つめた。

その時、倒れていた鋼鐵塚が弾かれるようにして起き上がった。

 

「この錆びた刀は俺が預かる。鋼鐵塚家に伝わる日輪刀研磨術で、見事に磨き上げてしんぜよう」

 

まるで世紀末に迷い込んだ者のような動きでそういう鋼鐵塚だが、小鉄の容赦ない一言が突き刺さった。

 

「じゃあ初めからそう言えばいいじゃないですか、一言。信頼関係も無いのに任せろって、馬鹿の一つ覚えみたいに」

 

すると鋼鐵塚は小鉄の首を掴んで締め上げたので、炭治郎と鉄穴森は慌てて彼のわきの下をくすぐりだすのだった。

 

やがて落ち着いた鋼鐵塚は、錆びた刀を持って仕事場へ向かうと言った。

 

「あ、ちょっと待って」

 

そんな鋼鐵塚を汐は呼び止めると、彼にだけ聞こえる声で言った。

 

「鉄火場さん、あんたからの贈り物、ものすごく喜んでたわよ」

 

鋼鐵塚は一瞬だけ足を止めたが、言葉を発しないまま森の中へと消えていった。

 

*   *   *   *   *

 

「ということが昨日あってさ、刀の研磨が終わるまで三日三晩かかるらしくて、研ぎ終わるのが明後日になるんだ」

 

翌日の昼前。炭治郎はある部屋で煎餅をかじりながらそう言った。

 

鋼鐵塚家に伝わる研磨術。それは想像を絶するほどの苛酷な物らしく、命を落とした者すらいるという。

鋼鐵塚の身を心配する炭治郎は、覗くなと釘を刺されていたのにもかかわらず様子を見に行きたいと言い出した。

 

だが、それを聞いていたのは汐・・・ではなく。

 

「知るかよ!!出て行けお前等!」

 

何故か二人の前には玄弥がおり、目の前にいる汐と炭治郎に怒声を浴びせた。

 

「大体、なんで大海原まで俺の部屋にいるんだよ!?」

「だって人形が壊れてやることもないし暇なんだもの。それと、あたしの事は汐でいいって言ったじゃない」

「そういう問題じゃない!そもそも、女が男の部屋に来ること自体がおかしいんだよ!」

「なんでよ?別に知らない仲じゃないじゃない」

「うるせえな!大体、お前等何友達みたいな顔して喋ってんだよ!!」

 

声を荒げる玄弥に、炭治郎は心底驚いた顔をした。

 

「えっ、俺たち友達じゃないの?」

「違うに決まってんだろうが!!てめえは俺の腕を折ってんだからな!忘れたとは言わせねえ」

 

玄弥は炭治郎にそう怒鳴りつけるが、炭治郎は淡々と曇りなき眼で言った。

 

「あれは女の子を殴った玄弥が全面的に悪いし、仕方ないよ」

「そうよ。っていうか、あんたまだそんな昔のことを根に持ってるの?いい加減に忘れなさいよ」

「うるせーなぁ!!それと下の名前で呼ぶんじゃねえ!!」

 

二人とは対照的に玄弥はぎゃあぎゃあと騒ぎ続け、炭治郎は親交を深めようと彼に煎餅を手渡そうとした。

それを拒否し煎餅を叩き落すが、炭治郎は玄弥の顔を見てある事に気づいた。

 

「あれ?歯が・・・、抜けてなかったっけ?前歯。温泉で」

「前歯?温泉?」

「ああ。実は汐がいない間、どこからか歯が飛んできたんだ。飛んできた方向を見たら玄弥が温泉に入ってて・・・」

 

炭治郎の言葉に汐は玄弥の口の中を見ようと身を乗り出したが、玄弥は口を押えてそっぽを向いた。

 

「見間違いだろ」

 

居心地の悪い沈黙が少し続いた後、玄弥はぽつりとそう言った。だが、汐は玄弥の"目"が嘘をついていることに気が付いた。

 

「玄弥、あんた・・・」

「見間違いじゃないよ。その時の歯取ってあるから」

 

炭治郎は懐から取り出した歯を玄弥の前に突き出した。それを見た玄弥は顔を青ざめさせ叫んだ。

 

「なんで取ってんだよ!気持ち悪ィ奴だな!」

「いやだって、落とし物だし返そうと」

「正気じゃねえだろ!捨てろや!」

「炭治郎あんた、流石にそれはないわ・・・。ありえないわ・・・」

 

きょとんとする炭治郎と対照的に、汐と玄弥は顔を思い切り引き攣らせていた。

 

「ああもう!!お前らいつまで居座ってんだ!!さっさと出てけ!!」

 

玄弥は炭治郎を蹴りだし、汐を押し出すと障子を音を立てて閉めてしまった。

 

「なんであんなにずっと怒っているんだろう。やっぱりお腹が空いているのかなあ」

「あんたが非常識だからでしょ!落とし物って言って歯を持ってくるのはあり得ないわ」

 

汐がきっぱりとそう言うと、炭治郎は納得できないように唇を尖らせた。

 

「あ、さっきは言いそびれたけれど。あたしそろそろこの里を発つことになると思うの」

「えっ、もう?」

「刀もできたし、懐剣の方は置いて行っても問題はないからね。今こうしている間にも、どこかの誰かが鬼に襲われているだろうし」

 

汐は決意に満ちた顔で炭治郎を見た。汐と別れるのは寂しいが、鬼殺隊員である以上当然のことだと思った。

 

「そうか、そうだよな。じゃあ発つときは行ってくれ。見送るから」

「ありがとう、そうさせてもらうわ。さて、あたしは鉄火場さんが気になるし、挨拶も兼ねてちょっと出てくるわね」

 

汐はそう言って炭治郎と別れると、鉄火場の元へ向かった。

 

 

*   *   *   *   *

 

その日は下弦の三日月が掛かった静かな夜だった。

 

一人の鍛冶師の男が、浴衣姿に手ぬぐいをぶら下げた格好で帰路についていた。

 

「ちょっとのんびり長湯しすぎたな。明日も早朝から作業だってのに・・・」

 

下駄の音をからころとさせながら、男は急ぎ足で家路を急ぐ。

 

すると彼の前に、何かが置かれているのが目に入った。

 

それは、美しい模様が描かれた一つの壺だった。

 

「壺?」

 

何故道の真ん中にこのような物が置いてあるのか。それに、こんな場所にあっては、ぶつかって割れてしまい怪我をする恐れもある。

 

「危ねえなあ。誰だ、こんなところに壺なんか置いて・・・」

 

男が壺を片付けようと手を伸ばした、その時だった。

 

壺の中から何かが飛び出し、男の身体を壺の中に引きずり込んだ。

骨が砕ける嫌な音が辺りに響き渡り、男を引きずり込んだ壺はガタガタと激しく揺れた後、まるで生き物のようにその中身を吐き出した。

 

そこには先程まで男が身に着けていた面と浴衣。そして身体の一部が無残な姿で転がり出て来た。

 

「不味い不味い。やはり山の中の刀鍛冶の肉など、喰えたものではないわ。だが、それもまたいい・・・。」

 

壺の中から姿を現したのは、顔の目のある位置に口があり、口のある位置に目があり、顔の横から手をはやした異形の鬼、玉壺だった。

口の部分からは血が滴り落ち、先ほどまで食事をしていたことが伺えた。

 

「しかしここを潰せば鬼狩り共を、ヒョッ、確実に弱体化させられる」

 

玉壺はそう言って嬉しそうに舌なめずりをした。

 

一方、とある建物の上では、老人の鬼半天狗が震えながら蹲っていた。

 

「急がねば・・・急がねば・・・、玉壺のお陰で里は見つかった」

 

半天狗はぶるぶると震えながら、か細い声でつぶやいた。

「けれどもあの御方はお怒りじゃ・・・。早う早う、皆殺しにせねば・・・。あの御方に楯突く者共を・・・」

 

脅威はすぐ傍まで迫っていることに、この時は誰も気づくことができなかった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

弐(再投稿&再編集)

鉄火場の工房についた汐は、音を立てないようにしてそっと中を覗き込んだ。

 

鉄を研ぐ音が聞こえてきて、それに合わせて鉄火場の背中が揺れる。

 

顔を見ずともわかる真剣な姿に、汐は声を掛けるのをやめてほほ笑んだ。

 

(ありがとう、鉄火場さん。あたし、頑張るわ。あなたが打ってくれたこの刀で人を、大切な人達を必ず守るから・・・、元気でね)

 

別れの挨拶をかわすことなく、汐はそっと工房を後にした。胸に感謝の思いを抱きながら。

 

汐は直ぐには部屋に戻らずに、少しだけ歩いてみることにした。世話になった里を離れるまでの間に、少しでもこの場所を覚えておきたかったからだ。

 

歩いていくと、突然森が開けて光が差し込んできた。さらに進んでいくと、そこは大きな崖になっており遥か先に地平線が見えた。

 

(へぇ・・・、この里にこんな場所があったなんて・・・)

 

汐はあたりを見回しながら歩き、崖の下を覗き込んだ。

 

(でもこの崖、結構高いわね。こんなところから落ちたらひとたまりもないわ)

 

背中にうすら寒いものを感じながら、汐は崖から離れて空を見上げた。

 

微かに残る雲が、そよ風に載ってゆっくりと流れて行く。

 

(あたし達が戦っている間、ここでは刀鍛冶の人達が鬼と戦う、人を守る刀を作っている。その魂をかけて。彼らの為にも、あたしは前に進まなきゃ)

 

汐は胸に決意を抱き、そして今もどこかで頑張っているみんなの事を思い浮かべた。

すると、汐の頭の中に一つの旋律が浮かんだ。それは、あふれんばかりの感謝の歌。

 

汐は自然と口を開き、その旋律に合わせて声を繋いだ。心からの想いを歌に乗せて。

 

美しく優しい歌は風に乗り里中へ運ばれ、それを聞いた者たちの心を優しく包み込んだ。

だがそれは、里の者だけではなく偶然そばを歩いていたある人物の元へも届いた。

 

「ん?」

 

黒と水色の長い髪を風に揺らしながら、時透無一郎は聞こえてきた歌に足を止めた。

 

耳に残る不思議な旋律に惹かれるように、無一郎は歌の主を捜して顔を動かした。

 

すると、崖の傍で青い髪と赤い鉢巻を靡かせながら歌う少女に目を奪われた。

 

なぜこんなところで歌を歌っているんだろう。何の歌なんだろう。そんな疑問を抱きつつ、無一郎は何故かその歌をもっと聞きたいと思ってしまった。

その歌にどこか、懐かしさを感じたから。

 

(何だろう、この感じ。僕は、この歌を、声を、知っている気がする・・・?)

 

胸の中に生まれた不思議な感情に戸惑いつつも、無一郎はその場から縫い付けられたように動かずにいた。

やがて汐が歌を終えてその場から立ち去るまで、彼は何かを思い出しそうな不思議な感情を抱えながらぼんやりとしているのだった。

 

*   *   *   *   *

 

日が沈んだ頃。汐は長である鉄珍に挨拶を済ませ、里を出る準備を整えた。

だがその前に、汐は炭治郎に挨拶をするために部屋を訪れた。

 

(炭治郎、いるかな。あいつにはなんだかんだでまた世話になっちゃったし、ちゃんと挨拶をしていこう)

 

汐は逸る気持ちを抑えて、部屋の前で炭治郎に声を掛けた。

 

「炭治郎、炭治郎。いる?」

 

すると少し間を開けて「汐か?」という炭治郎の声が返ってきた。

 

「そうよ。あんたに挨拶をしに来たの。入ってもいい?」

「あ、えっと。うん、いいよ」

 

しかし次に返ってきた声は、心なしかぎこちなく、汐は少し不審に思いながらも襖を開けた。

 

「あれ?あんた・・・」

 

そこにいたのは、炭治郎と向かい合って話す無一郎だった。

 

「あんた、生意気柱!!」

 

汐は思わず叫びながら人差し指を突き付けると、無一郎は少しだけ眉をひそめながら「誰それ?」と言った。

 

「なんであんたがここに居るの?ここは炭治郎の部屋なんだけど」

「僕がここに居ることが君に関係あるの?」

 

相も変わらず棘のある言い方に、汐のこめかみがぴくぴくと痙攣しだした。

それを見た炭治郎は、慌てて二人の間に割って入った。

 

「時透君は新しい担当の鉄穴森さんを捜しているんだって。多分鋼鐵塚さんと一緒だと思うから、俺は一緒に捜そうって話していたんだ」

「あんたが?わざわざ?」

「うん。俺も鋼鐵塚さんに会いたいと思っていたからちょうどよかったって思って」

 

そう言ってほほ笑む炭治郎に、汐は呆れと相も変わらず優しい心を持つ炭治郎をうれしく思った。

 

「それより汐は、もう出発するのか?」

 

汐は頷くと、飛びついてきた禰豆子の頭を優しくなでながら言った。

 

「ありがとうね、炭治郎。またあんたには世話になったわね」

「それはこっちもだ。汐にはいろいろと助けられたよ。元気でな」

 

二人はそう言って固い握手を交わし、汐は炭治郎の目に宿る寂しさを見ないようにしてほほ笑んだ。

それを見ていた無一郎は、すっと音もなく二人の間に入ると、汐の目をじっと見つめた。

 

「な、なによ」

 

汐はその視線に耐えられずに目を逸らすと、無一郎は首を傾げながら言った。

 

「君と僕、前にどこかであったことあった?」

「え?前って、もう何度か会ってるじゃない。裁判のときとあいさつ回りのときと・・・」

「そうじゃなくてもっと前。君の声と歌、何だか聞いたことがあるような・・・」

 

無機質な"目"のまま淡々と言葉を紡ぐ無一郎に、汐と炭治郎も首を傾げた。

 

その時だった。

 

襖の外で何かの気配がして、汐達は一斉に視線を向けた。

 

「ん?誰か来てます?」

「さあ」

「里の人かしら。ちょっと見てみるわね」

 

汐がそう言って立ち上がった時、襖が音もなくそっと開いた。

 

その向こうから入ってきたのは、里の者・・・ではなく。

 

――涙を流し小さく悲鳴を上げながら、這いつくばっている異形の者だった。

 

汐達は一瞬面食らったが、数秒後にそれが鬼であると認識した。

 

それは炭治郎の鼻も、汐の気配を感じる力も反応せず、無一郎でさえ目視するまで鬼とは気づかない程気配のとぼけ方が上手かった。

その鬼は目に数字は確認できなかったが、間違いなくこの鬼は上弦だった。

 

そう、その鬼の名は半天狗。上弦の肆の称号を持つ鬼だった。

 

「っ!!」

 

汐はすぐさま刀を取り、炭治郎も同じようにして戦闘態勢に入った。

 

だが

 

二人が動くよりも早く、無一郎は刀を抜き放ち動いた。

 

――霞の呼吸 肆ノ型――

――移流斬り

 

無一郎の流れるような剣が、鬼のいた場所を綺麗に薙ぐ。

しかし鬼はそれを素早く躱すと、天上へと逃げ延びた。

 

(速い・・・、仕留められなかった)

 

無一郎が視線を動かすと、天上に張り付いた鬼は斬られた傷を抑えながら涙を流していた。

 

「やめてくれええ、いぢめないでくれぇ。痛いぃいい」

 

震えながら痛みを訴える半天狗に、炭治郎は一瞬だけ戸惑った。だが、汐の殺意の匂いが炭治郎を現実へと引き戻した。

 

(気後れするな。大勢人を殺している鬼だ!!そうでなきゃ柱の攻撃を避けられない)

 

「あたしが動きを封じるわ!!」

 

汐が前に飛び出し、半天狗へ向けて口を開いた。

 

――ウタカタ・参ノ旋律――

――束縛歌!!!

 

空気が張り詰める音と共に、鬼の体が一瞬強張る。その隙を突いて炭治郎は刀を抜いた。

 

――ヒノカミ神楽――

――陽火突(ようかとつ)

 

「ヒィィィ」

 

炭治郎の突きが鬼のいる場所を綺麗に穿ち、半天狗は畳に落ちると悲鳴を上げた。

だが、何故か反撃してくる様子がない。

 

不審に思う炭治郎の横から禰豆子が飛び出し、身体を大きくすると左足を半天狗の腹に思い切り叩きつけた。

 

「ギャアアアッ!!」

 

その蹴りの威力に半天狗は吹き飛ばされ、濁った悲鳴を上げた。だが、炭治郎は禰豆子が以前にこの姿になった時、我を忘れてしまった事を思い出した。

 

「禰豆子!その姿になるな!!」

 

禰豆子はぴくりと身体を震わせ動きを止め、その間を縫って無一郎が斬りかかってその頸を落とした。

 

「ヒイィィ、斬られたああ」

 

涙を流しながら、半天狗の頸が宙に舞う。汐と炭治郎は、無一郎の驚くべき剣捌きに度肝を抜かれた。

普通なら、これで勝負はついただろう。

 

しかし、相手は上弦の鬼。以前に戦った妓夫太郎と堕姫は、普通に首を斬っても死ななかった。

 

もしかしたら、この鬼もただ頸を斬っただけでは死なない可能性もある。

 

それを経験済みの汐と炭治郎は、無一郎に向かって叫んだ。

 

「時透君、油断しないで!!」

「こいつ、このままじゃ終わらないかもしれない!!」

 

二人の言葉に無一郎は肩を震わせ、鬼の頸は畳に叩きつけられるようにして落ちた。

 

その時だった。

 

落ちた頸から突然腕が生えてきたかと思うと、瞬く間に身体が形成された。

そしてもう一方の身体からは、別の頸が生えてきた。

 

(分裂!!一方には頭が生え、もう一方には身体ができた!)

(何よこいつ!!ヒトデみたいじゃないのよ!!)

 

しかし面食らっている時間はない。無一郎は今、鬼に囲まれている状態だ。

 

「後ろの鬼は俺たちが!汐、行くぞ!!」

 

汐と炭治郎は二人で、無一郎の背後にいる鬼に斬りかかった。

無一郎も正面の鬼を仕留めようと、刀を振り上げた時だった。

 

頭から生えてきた鬼が、どこからかヤツデの団扇を取り出し、無一郎に向けて一振りした。

 

その瞬間、爆発的な風が起き、砲弾のように汐達に向かってきた。

 

その威力はすさまじく、無一郎は成す術もなく吹き飛ばされ、汐達も建物の外へ投げ出された。

炭治郎の身体は禰豆子が辛うじて捕まえてくれていたが、汐はその脇をすり抜けてしまっていた。

 

「炭治郎!!」

 

汐は炭治郎の手を掴もうとし、炭治郎も汐の手を掴もうと手を伸ばした。

だが、その健闘も虚しく、汐の身体は無一郎同様に吹き飛ばされてしまった。

 

「汐ーーーーッ!!!」

 

炭治郎の悲痛な叫びが闇夜に響き渡り、それに合わせて建物が崩れる大きな音が響いた。

 

(そんな・・・、汐が・・・!守り切れなかった・・・、助けられなかった・・・!!)

 

炭治郎は汐を守れなかったという事実に打ちのめされ、力なく頭をたれていた。

 

「むっ!!!」

 

鬼の気配を感じた禰豆子は、放心する兄を叱り飛ばすように声を上げた。

 

(そうだ、放心なんかしている場合じゃない。柱の時透君は勿論、汐も強くなっている。こんなところでどうにかなるはずがない!!)

 

炭治郎は禰豆子の手を握り返すと、自信を奮い立たせて目の前の敵を見据えた。

 

「カカカッ!」

 

団扇を振った鬼が、楽しそうに笑いながら炭治郎達を見据えていた。

頭が生えた鬼は、先ほどは持っていなかった錫杖をもって腹立し気に隣を睨みつけていた。

 

「楽しいのう。豆粒二つが遠くまでよく飛んだ。なあ、積怒」

 

積怒と呼ばれた鬼は、苛々と頭を振りながら答えた。

 

「何も楽しくはない。儂はただひたすら腹立たしい。可楽・・・、お前と混ざっていたことも」

「そうかい。離れられてよかったのう」

 

可楽と呼ばれた鬼は、怒ることもなく楽しげに笑いながら舌を出した。

その長い舌には、【楽】という文字が刻まれていた。

 

(また同時に頸を斬らなきゃ駄目なのか!?)

 

だとしたら、今ここに居るのは炭治郎と禰豆子の二人だけ。しかし禰豆子では、鬼に傷は負わせても致命傷を与える事はできない。

圧倒的に不利な状況だが、炭治郎は迷っている暇などなかった。

 

何とかして、一人でも同時に頸を斬らなければ・・・!!

 

炭治郎が意を決して斬りかかったその時、積怒の持っていた錫杖が動き、その柄を畳に突き刺した。

 

その瞬間、鼓膜が破れそうなほどの轟音が響き、部屋中に閃光が走った。

 

炭治郎の体を凄まじい稲光が貫き、痛みも痺れも通り越した強烈な衝撃が脳を揺らす。

 

(何っ・・・だ、これは・・・!!)

 

光で目がくらむ中、炭治郎の目は雷の発生源が錫杖であることを捕らえていた。

 

(あの錫杖・・・、まずい、意識が・・・飛びそうだ・・・!!)

 

このままでは意識を失い、最悪の場合は二度と目覚めなくなってしまう。そうなってしまえば、誰がこの状況を改善できる。

炭治郎は必死に抗うが、人知を超えた力の前に太刀打ちできず、目の前が暗くなりかけた時だった。

 

炭治郎の目はもう一つ、鬼以外の誰かの姿を捕らえていた。

眼球がぶれ、はっきりとその姿はとらえきれていないが、見覚えのあるものだった。

 

(屋根に・・・誰か・・・・)

 

炭治郎に気が向いているせいか、鬼はその姿に気づいていない。

そう。この場にいた鬼殺隊士は、炭治郎達だけではなかった。

 

特徴的な髪形に、顔に傷のある目つきの鋭い少年隊士。

 

――不死川玄弥が、銃口を静かに鬼に向けていた。

 

*   *   *   *   *

 

――海の呼吸――

肆ノ型・改 勇魚(いさな)下り!!

 

吹き飛ばされた汐は、地面に叩きつけられる寸前に技を放ち衝撃を緩和した。

 

(いたたた・・・、ずいぶん遠くまで飛ばされたみたいね。それに、ちらっとだけど生意気柱も吹き飛ばされているのが見えたし、早く炭治郎と禰豆子の所に戻らないと・・・!)

 

汐は焦る気持ちを抑えつつ立ち上がるが、周りを見渡して息をのんだ。

 

(ここは・・・、鉄火場さんの工房の近くだわ!!しかも微かだけど鬼の気配がする!まさか、鬼はあのヒトデ爺一匹じゃないってこと!?)

 

汐は顔を青ざめさせながら、すぐさま鉄火場のいる工房へ向かった。

 

(お願い、鉄火場さん。無事でいて・・・!!)

 

汐は祈るような気持ちで、足を進めるのだった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



「鉄火場さん!鉄火場さん!!」

 

汐は、鉄火場の工房の扉を叩きながら声を張り上げた。すると少し間をおいて、中から鉄火場が顔を出した。

「汐殿?こんな時間にどうして・・・。いやそれよりも、里が何やら騒がしいようですが・・・」

 

怪訝そうにそういう鉄火場に、汐は矢継ぎ早に捲し立てた。

 

「鬼よ!里に鬼が出たわ!!」

「えっ、鬼が!?何故・・・」

「いいから早く逃げる支度をして!!」

 

汐の言葉に、鉄火場は慌ててうなずくとすぐさま荷造りを始めた。その間に汐は、刀を抜いて周囲を警戒する。

 

あちこちから鬼の気配はするが、炭治郎のように正確な位置まではわからない。しかしその気配は、先ほど見た分裂する鬼とは異なるものだった。

 

(やっぱりさっきの奴の気配じゃない、別の鬼がいるわ。もしも上弦だとしたら相当やばい・・・!)

 

汐は微かに震える身体を叱咤しながら、神経を研ぎ澄ませた。

 

「お待たせいたしました!」

 

数秒後、風呂敷を抱えた鉄火場があわただしく出て来た瞬間、里中に半鐘の音が響き渡った。

既に鬼の報せは里中に広がっているようだ。

 

「行くわよ!あたしから離れないで!」

 

汐はそう言って刀を納めると、鉄火場の手を取ろうとした。

 

「あ、ちょっとお待ちください!」

「何!?まだ何かあるの!?」

 

汐はこんな時に何を言い出すのかと言わんばかりに、鉄火場を睨みつけた。

 

「鋼鐵塚の元へ行きたいのです。鬼の襲撃を知らせないと。あいつはきっと、この騒ぎを知りません」

「知らないって、これだけ派手に鐘の音が鳴ってるのに、気づかないわけないわよ。きっと逃げてるわ」

 

汐の言葉に、鉄火場は首を何度も横に振った。

 

「いいえ。鋼鐵塚は一度仕事に没頭すると、誰が何をしようとも己の仕事を全うするまで決して動きません。にわかには信じられないかもしれませんが、あの人はそういう人なんです!!」

 

鉄火場は身体を震わせながら叫ぶように言った。汐は一瞬だけ迷ったが、今までの経緯を見て、彼ならありえない事ではないと思いなおした。

 

「わかったわ。鋼鐵塚さんの所に行きましょ!鉄火場さんは何処にいるかわかるのよね?」

「はい!存じております!」

「じゃあ道案内をお願い。走るからあたしの手をしっかり握って」

 

汐はそういうと、鉄火場の手を取って走り出した。勿論、鉄火場の事を考えていつもよりは速度を落として。

 

そのまま汐は、鉄火場を連れて森の中を駆け抜けていた。鉄火場の手から伝わる震えが、不安と恐怖を汐にも伝えていた。

それを感じた汐は、絶対に鬼達の思い通りになどさせないと胸に決意を抱いた。

 

やがて少し進むと、少し前に誰かが走っているのが見えた。

 

(あれは、隊服!そしてあの髪の色は・・・)

 

「あんたっ、時透無一郎!!」

 

汐が叫ぶように呼ぶと、人影の主時透無一郎は汐の方に顔を向けた。

 

「よかった!あんたも無事だったのね!」

 

汐は無一郎の隣を走りながら嬉しそうにそう言った。そんな汐に無一郎は一瞬だけ驚いた顔をしたが、すぐに表情を戻した。

 

「あんたなら気づいているかもしれないけれど、この辺に別の鬼の気配がするわ!多分、さっきのヒトデ爺とは別の――」

 

汐がそう言いかけた時、少し後ろの方で叫び声が聞こえてきた。その声に、汐は聞き覚えがあった。

 

「あの声は・・・、小鉄!?」

 

思わず振り返れば、魚のような怪物に襲われている小鉄の姿があった。

 

汐は足を止め、そちらに向かおうと顔を向けた。だが、それを無一郎は静かに制止した。

 

「どこに行くの?まさか助けに行くつもり?」

「はあ!?何言ってるの、当たり前でしょ!?」

 

汐は苛立ちを隠すことなく無一郎にぶつけた。

 

「あれ、どう見ても子供でしょ?刀鍛冶として技術も未熟なはず。助ける優先順位は低いと思うけど」

 

無一郎の無機質な声に、汐は思わず息をのんだ。

 

「あんたそれ・・・、本気で言ってるの・・・?」

 

汐は声を震わせながら聞き返すが、無一郎はさも当たり前と言ったように汐を見つめ返した。

 

「里全体が襲われているなら、まず里長や技術の高い者を優先して守らない――」

 

「うるせェェェーッ!!!」

 

無一郎の言葉を、汐は遮って叫んだ。

 

「命に優先順位があるかボケェ!!鬼から人を助けんのが鬼殺隊だろうが!!」

 

汐はそう叫ぶと、迷わず小鉄の方へ駆け出した。

 

「小鉄!!」

 

汐が呼ぶと、小鉄はこちらに顔を向けた。小鉄の前には、身体は魚で人間の腕のようなものが生えた化け物が、奇妙なうめき声を上げながらにじり寄ってきていた。

 

「汐さん・・・!?」

「伏せて!!」

 

小鉄が伏せると同時に、汐は怪物の頸に向かって刃を振り下ろした。

だが、怪物は身体が崩れず再生し始めた。

 

「頸を斬っても死なない!?鬼の気配がするのに・・・!?」

 

汐は一瞬焦りの表情を浮かべるが、ふと怪物の背中に壺のようなものが生えているのが見えた。

 

(いかにも怪しい壺・・・、もしかして・・・っ!!)

 

「小鉄、ちょっとこれ貸して」

 

汐は小鉄から半ば強引に刀を奪い取ると、両腕を振り下ろそうとしている怪物の懐に潜り込んだ。

 

海の呼吸 漆ノ型――

――鮫牙(こうが)!!!

 

汐は刀を挟み込むように怪物の胴体に突き刺すと、身体を大きく捻って怪物をねじり切った。まるで獲物を食いちぎる鮫のように。

 

(前に見た、伊之助の獣の呼吸を参考に思いついた技だけど、うまく決まったわ!)

 

怪物の身体が大きく傾き壺が露になると、汐は壺に向かって刀を振り下ろした。

 

壺が砕けると同時に、怪物は形を失い崩れていった。

 

「大丈夫!?怪我は・・・」

「汐さん、後ろです!!」

 

汐が言い終わる前に小鉄が叫んだ。振り返れば、汐の死角からもう一匹の化け物が鋭い爪を振り下ろそうとしていた。

 

間に合わない!小鉄が悲鳴を上げ、汐が固く目をつぶったその時。

 

ふわりと柔らかな風が吹いた。汐が目を開くと、そこには風になびく長い髪と、真っ二つに両断された化け物の姿があった。

 

「君、邪魔だからさっさと逃げてくれない?」

 

声の主、時透無一郎は刀を構えたまま、後ろで震える小鉄に言い放った。

 

「小鉄君、こっちです!」

 

物陰から鉄火場が小鉄に向かって手を伸ばし、小鉄は頷くと立ち上がって走り出した。

無一郎はそれを一瞥すると、呆然としている汐に顔を向けた。

 

「ねえ、ぼさっとしてる暇あるの?君が発端なんだから、最後まで油断しないでよ」

 

そういう無一郎の"目"には、先ほどの冷徹さは消え失せていた。

 

「そうね。助かったわ、ありがとう。でも奴さん、まだやる気みたい」

 

汐の言う通り、真っ二つに斬ったはずの化け物は崩れずに再生していた。

 

「あいつは壺を壊せば倒せるみたい。あたしが注意を引くから・・・」

「いい。一人で十分。それよりも周りを警戒して。まだいくつか気配がする」

 

無一郎はそういうと、目にもとまらぬ速さで化け物の壺を斬り裂いた。

汐は思わず唖然としそうになるが、無一郎の言う通りに周りを警戒した。

 

すると周りからぞろぞろと化け物たちが集まりだした。一匹一匹は強くないが、数が多い。

 

「ええい、面倒くさい!!みんなまとめて吹き飛ばしてやる!」

 

――ウタカタ・伍ノ旋律――

――爆砕歌!!!

 

汐の歌が広範囲に響き、壺ごと化け物を吹き飛ばした。それを見た無一郎は目を見開き、汐を凝視していた。

 

「これで全部かしら。だけど、こいつを生み出した本体は近くにいないようね・・・」

 

汐は周りを見渡しながらそう言い、無一郎は表情を崩さぬまま崩れる化け物を見つめていた。

 

その時だった。

 

「うわあああ、二人共ありがとう!!」

 

隠れていた小鉄が飛び出し、汐と無一郎にに抱き着き涙を流した。

 

「死んだと思った。俺死んだと・・・、怖かった!うわあああ!!!」

 

小鉄はバタバタと手を振りながら、大声で泣き喚いた。余程怖かったのか、未だに膝が震えていた。

 

「昆布頭とか鬼よりも鬼女とか思って悪かったよぅ!ごめんなさい~~~!!!」

 

小鉄は再び二人に抱き着き涙を流すが、小鉄の発した言葉に汐のこめかみがピクリと動いた。

 

「ちょっと待って?昆布頭はともかく、鬼よりも鬼女ってあたしの事!?」

「昆布頭って、僕の事?」

 

二人が詰め寄ると、小鉄は泣きながらそれを肯定し謝った。

汐は十発ほど殴ってやろうかと思ったが、今の状況を思い出して踏みとどまった。

 

「そうだ、あたし達鋼鐵塚さんのところに行くつもりだったの!あんた何か知らない?」

 

汐がそういうと、小鉄の体が大きく跳ねた。

 

「そうだ!俺、そのために助けを呼びに行こうとしてたんです!鉄穴森さんも襲われてて、鋼鐵塚さんが刀の再生で不眠不休で研磨をしてるから・・・」

 

小鉄の言葉に、汐は先ほどの鉄火場の訴えを思い出した。

 

「どうか助けてください!少しでも手を止めてしまうともうダメなんです!!どうか、どうか・・・!!」

 

小鉄は服が汚れるのも構わずその場に突っ伏し、二人に向かって頭を下げた。

それを見た無一郎は、困惑した表情を浮かべる。

 

「ちょっと、男がむやみに土下座なんかするもんじゃないわよ。安心して!あたし達はそのために来たんだから」

「・・・え?」

 

汐の言葉に、無一郎は思わず顔を向けた。そのとき、彼の頭に小さな痛みが走った。

 

『君は必ず自分を取り戻せる、無一郎』

 

それはかつて、自分が大きな傷を負い床に臥せっていた時。

見舞いに訪れていた輝哉に言われた言葉だった。

 

『混乱しているだろうが、今はとにかく生きることだけ考えなさい。生きてさえいればどうにかなる』

 

それはとても優しく、温かな言葉。

 

『失った記憶は必ず戻る。心配はいらない。きっかけを見落とさないことだ。些細なことが始まりとなり、君の頭の中の霞を、鮮やかに晴らしてくれるよ』

 

「ちょっと、大丈夫?」

 

急に黙ってしまった無一郎を心配して、汐は声を掛けた。すると無一郎は座り込んだままの小鉄の手を引くと、そのままひょいと片腕で担いでしまった。

 

「へぁっ!?」

 

間抜けな声を出す小鉄をそのままに、無一郎は汐の方を向いていった。

 

「先に行くよ」

 

無一郎はそれだけを言うと、そのまま小鉄と共に走り出してしまった。

 

あっという間に見えなくなってしまった無一郎に一瞬あっけにとられるが、すぐに頭を振って鉄火場を見た。

 

「鉄火場さん、時間がないからあんたを背負っていくわ!」

「え、でも・・・!」

「つべこべ言わない!ほら、さっさとする!!」

 

汐が怒鳴りつけると、鉄火場は慌ててうなずいて汐の背中におずおずと負ぶさった。

鉄火場が軽いのか汐が鍛えられているのかは定かではないが、不思議と重さは感じなかった。

 

「飛ばすわよ!しっかりつかまって、舌噛まないように気を付けて!」

 

汐はそう言い放つと、足に力を込めて走り出した。

 

一方、小鉄を抱えた無一郎は、走りながらぼんやりと考えていた。

 

(これは正しいのかな?こんなことをしてたら、里全体を守れないんじゃ・・・)

 

『鬼から人を助けんのが鬼殺隊だろうが!!』

 

汐の怒鳴り声が脳裏によみがえると、迷いはまるで霞が晴れるように消えていった。

 

(いや、できる。僕はお館様に認められた)

 

――鬼殺隊霞柱・時透無一郎だから

 

無一郎が到着すると、既に化け物は何匹か入り込んでおり、一人の鍛冶師が襲われていた。

 

菜切り包丁を持ってはいるが、到底武器にはならないだろう。

 

「鉄穴森さん!!」

 

無一郎は叫ぶ小鉄を乱暴に落とすと、そのまま化け物の壺を一太刀で斬り裂いた。

だが、化け物はまだうめき声を上げながら無一郎ににじり寄ってくる。

 

数には問題はない。だが、動けば間合いの外になる小鉄たちが襲われてしまう。

しかし無一郎に迷いはなかった。襲われる前に、全て自分が倒してしまえばいい。

 

無一郎が動き、前方の化け物を一瞬で倒し、小鉄たちに襲い来る化け物も瞬時に倒した。

 

その無駄のない動きに、小鉄たちは目を奪われる。

 

やがて最後の一匹を倒した無一郎が、座り込む二人に近寄ろうとすると、足元から這い寄る様にして化け物が近づいてきていた。

無一郎はすぐに振り向き、刀を向ける。だが、その刃が届く前に、化け物の壺は淡い青色の刀に貫かれた。

 

「油断しないでって言ったのは、どこの誰だったかしら?」

 

止めを刺した汐は少し皮肉めいて笑うと、無一郎は少し呆れたように溜息をついた。

 

「遅い」

「あんたが速すぎるのよ!!あたしを柱みたいな出鱈目人間たちと一緒にしないで!というか、助けてもらった癖に何よその態度」

「別に助けてもらうつもりなかったんだけど」

「あんた、いちいち腹立つわね!!」

 

汐は歯を剥き出しながら怒鳴りつけるが、無一郎はそれを無視して小鉄たちに向き合った。

 

「ねえ、あなたが鉄穴森という人?」

 

鉄穴森が頷くと、無一郎は刃こぼれした刀を彼の前に突き出した。

 

「俺の刀用意してる?早く出して」

 

鉄穴森は無一郎の刀を見るなり、その無残な姿に思わず息をのんだ。

 

「これは酷い刃毀れだ」

「だから里に来てるんだよ」

「なるほどなるほど。では刀をお渡ししましょう」

 

いやにあっさりと通る話に、無一郎は不信感を抱いたのか眉根を寄せた。

 

「随分話が早いね」

 

後ろでは小鉄が「感謝したらいいですよ」と上から目線で口を挟むが、無一郎は完全に無視して言葉を紡いだ。

 

「実は、少し前に炭治郎君に頼まれていたんですよ。あなたの刀の事を。そしてあなたをわかってやってほしいと」

「炭治郎が・・・」

「成程。炭治郎なら言いそう、ううん。絶対に言うわね。あいつは呆れる程お人好しだから」

 

だから好きになったんだけど、と、汐は彼への想いをそっと胸の中に収めた。

 

「だから私はあなたを最初に担当していた刀鍛冶を調べて・・・あっ!!鋼鐵塚さん!!」

 

鉄穴森は思い出したように声を上げ、慌てた様子で駆け出した。汐達も彼を追って足を進める。

 

少し先には一つの小屋があり、鉄穴森はあたりを見回しながら言った。

 

「良かった、魚の化け物はいない!!あの小屋で作業してたんです。中には時透殿に渡す刀もあります!!それを持ってお二人はすぐに里長のところに向かってください!!」

 

鉄穴森はそう言って小屋の中へ入ろうとするが、無一郎は小さく首を横に振った。

 

「いや、駄目だ」

「え、何ですか?」

 

困惑する鉄穴森に、汐も気配を感じたのか鋭く言った。

 

「来てるわ。それも飛び切りやばい奴!!」

 

汐は鉄火場を、無一郎は鉄穴森と小鉄を掴んで制止させた。

 

「ヒョッ」

 

不意にどこからか声がして、少し前の草むらががさりと音を立てた。

それと同時に、壺がひとりでに動いて草の影から出て来た。

 

「よくぞ気づいたなぁ。さては貴様、柱ではないか?」

 

壺の中からにゅるりと何かが伸びあがるように飛び出て来た。

 

全身から人の腕のようなものを生やし、目や口などの位置が滅茶苦茶な異形の姿をした鬼だった。

 

「そんなにこのあばら家が大切かぇ?コソコソと何をしているのだろうな?ヒョッヒョッ」

 

そのあまりの醜悪さに刀鍛冶師達は震えあがり、汐は吐き気を催し、無一郎は表情を崩さずに見据えた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

肆(再投稿)

「ヒョヒョッ、初めまして。私は玉壺と申す者。殺す前に少々よろしいか?」

 

玉壺と名乗った鬼は、ニヤニヤとした笑みを浮かべながら頭を下げた。

額と口の位置にある目には【上弦・伍】と刻まれているようだ。

 

「今宵五方のお客様には、是非とも私の作品を見ていただきたい」

 

玉壺は複数の腕を動かしながら、嬉しそうにそう言った。

 

「作品?」

「何を言ってるのかな?」

 

汐と無一郎は、玉壺の言葉の意味が分からず首を傾げる。

 

「ではまず、こちら」

 

玉壺はそう言って手を叩くと、いつの間にかそばには壺がありその口から赤黒いものが飛び出してきた。

 

「“鍛人(かぬち)の断末魔”で御座います!!」

 

壺の中から出て来たものに、全員の身体に鳥肌が立った。

それは、刀鍛冶と思わしき者たちがいくつも組み合わさった、おぞましいものだった。

 

手足は滅茶苦茶につなぎ合わされ、あちこちに刀が突き刺さり、割れた面からは虚ろな目が覗き、皆夥しい量の血を流している。

 

あまりの凄惨な姿に、刀鍛冶の三人は言葉も出なかった。

 

「御覧ください、まずはこの手!」

 

そんな彼等に、玉壺は嬉々として語りだした。

 

「刀鍛冶特有の分厚い豆だらけの汚い手を、あえて!私は全面に押し出しております」

 

うっとりと自分の"作品"の素晴らしさを語り続ける玉壺に反して、鉄穴森と小鉄は震えながら口を開いた。

鉄火場に至っては、口元を手で押さえながら言葉もなく彼らを呆然と見つめていた。

 

「金剛寺殿、鉄尾さん、鉄池(かないけ)さん、鋼太郎・・・」

「あああ・・・、鉄広叔父さん・・・!!」

 

小鉄は面の中からボロボロと涙をこぼしながら、震える声で呼んだ。

 

「そう! おっしゃる通り!!この作品には五人の刀鍛冶を贅沢に!!ふんだんに使っているのですよ。それ程感動していただけるとは!!」

 

彼等の反応を湾曲して解釈した玉壺は、更に嬉しそうに手を叩いた。

 

「さらに刀を刺すことにより“鍛人(かぬち)らしさ”を強調しております。このひょっとこの面も無情感や不条理を表現するために残しました。こちらも勿論“あえて”意図してです」

 

もはや玉壺の説明は汐達には全く理解できなかった。いや、理解したくなどなかった。

 

(こいつ・・・、なんてことを・・・なんてことを思いつくの・・・!?残虐さ、異常さ・・・、今までの奴らとは比較にならない・・・!)

 

あまりの残酷さに汐の身体はぶるぶると震え、殺意が冷たい氷のように全身を流れていった。

 

「そして、極めつけはこれ!!このように刀を捻っていただくと・・・」

 

玉壺は刀鍛冶師達に突き刺さっている一本の刀を掴むと、思い切り捻った。

 

「ギャアアア!!」

 

その瞬間、刀が刺さっていた鍛冶師の男が耳をつんざくような悲鳴を上げた。

 

「うわああー、やめろーーっ!!」

 

小鉄が喚きながら駆け寄ろうとするが、それを鉄穴森が必死で抑えた。

 

「まさか・・・、まだ意識が・・・息があるのに・・・?」

 

鉄火場の声は震えを通り越して掠れ、身体は石のように固まっていた。

 

「その通り!どうですか、素晴らしいでしょう。断末魔を再現するのです!!」

 

その非人道的に、汐は全身から血管を浮き上がらせ、怒りの言葉を吐こうと口を開いた時だった。

 

「おい、いい加減にしろよクソ野郎が」

 

今までにない程の怒りに満ちた無一郎の声と共に、彼は目にもとまらぬ速さで玉壺を斬りつけた。

だが、玉壺はそれを上回る速さで壺の中に引きこみ、その一太刀を避けた。

 

そのまま玉壺は、いつの間にか置かれていた屋根の上の壺に移動していた。

 

「まだ作品の説明は終わってない!最後までちゃんと聞かれよ」

 

話を中断されたせいか、玉壺は不機嫌そうな声色で言い放った。

 

(あいつ、あんなふざけた姿してるくせに、移動速度が速い・・・!)

 

焦る汐に反して、無一郎は冷静に玉壺の動きを観察していた。

 

(壺から壺へ移動できる・・・なるほど)

 

「私のこだわりは、その壺の・・・」

 

屋根の上で再び語りだす玉壺に、無一郎は飛び上がると一気に斬りつけた。

しかしその刃は玉壺に届かず、虚しく空を切った。

 

(移動が速い、また逃げられた)

 

無一郎は顔をしかめながら、玉壺の姿を捜した。

視線を向ければ、先ほどまでは何もなかった位置に壺があった。

 

(気づくと壺がある、どうやって壺を出してくるんだ)

 

玉壺は先ほどから説明を中断され続けているせいか、不機嫌そうに顔をしかめた。

 

「ええい、いい加減にしろ!私の説明の邪魔を・・・」

 

――ウタカタ・参ノ旋律――

――束縛歌!!!

 

汐の歌が響き渡り、玉壺の身体を拘束した。その隙を突き、汐が斬りかかるが玉壺は歌を振り払うとまた別の場所へ移動した。

 

(束縛歌がほとんど効かない・・・。やっぱり上弦の鬼には効果が薄い・・・)

 

壺を破壊しながら汐が苦々し気に顔を上げると、玉壺は全身に血管を浮き上がらせながら言った。

 

「よくも斬りましたね、私の壺を・・・、芸術を!!話を遮るばかりか、気味の悪い歌まで聞かせおって!!」

 

玉壺は激昂しながら汐達を見回して叫んだ。

 

「審美眼のない猿共め!!脳まで筋肉でできているような貴様らには、私の作品を理解する力はないのだろう、それもまた良し」

 

一人で納得する玉壺を眺めながら、無一郎は苛立ちを感じつつも冷静に分析していた。

 

(いや、でもこれだけ逃げると言うことは、さっきの分裂鬼とは違って、こいつは頸を斬れば死ぬんだ)

 

だとしたら、まだ勝機はある。汐が鬼の動きを止めることができるなら、うまく使えば討伐することも可能だ。

 

「ねえ、君・・・」

 

無一郎が汐を呼ぼうと口を開いた、その時だった。

 

玉壺の手のひらから壺が生えるように現れたかと思うと、壺の中から金魚が何匹か飛び出してきた。

 

(あれは・・・金魚・・・?)

 

金魚はぴちぴちとかわいらしく跳ねたかと思うと、突然身体を大きく膨らませた。

 

だがそれは一瞬の事で、突然金魚の口から夥しい量の針が飛び出してきた。

 

──千本針(せんぼんばり)魚殺(ぎょさつ)!!!

 

無数の針は屋根の上にいた無一郎を狙い、彼はそれを身を捻ってかわす。

別の金魚は汐に向かって針を放ち、何とか躱すものの針の一本が汐の頬を掠めた。

 

汐が顔を上げると、金魚はもう一度口を膨らませ別の方向を見ていた。その先には、鉄火場たちがいた。

 

「鉄火場さん!!」

 

汐が叫ぶよりも早く、無一郎が動いた。だが、それと同時に針が発射される。

 

その針は鉄火場たちに届くことはなかったが、代わりに無一郎の身体にいくつも突き刺さっていた。

 

「時透殿!!」

 

鉄穴森が小鉄を抱えたまま叫び、小鉄は凄惨な姿になった無一郎を涙をこぼしながら見ていた。

 

「邪魔だから隠れておいて」

 

無一郎は淡々とそう言うと、呆然とする汐に向かっていった。

 

「君、動けるならこの人達を隠して」

 

汐は頷くと、震えている三人を連れて森の奥へを避難させた。その間にも、無一郎は発射される無数の針を、刀で弾いていた。

 

「ヒョヒョヒョ、針だらけで随分滑稽な姿ですねぇ。どうです?毒で手足がじわじわ麻痺してきたのでは?」

 

毒という言葉に、無一郎の眉が微かに動いた。しかし、動揺する様子はなかった。

 

「本当に滑稽。つまらない命を救って、つまらない場所で命を落とす」

 

玉壺は無一郎を嘲笑いながら、そう言い放った。すると、無一郎の表情が大きく変わった。

 

玉壺の言葉に、既視感を感じたのだ。

 

『いてもいなくても変わらないような、つまらねぇ命なんだからよ』

 

(なんだ、この感じは・・・。でも思い出せない。昔同じことを言われた気がする・・・。誰に言われた?)

 

無一郎の脳裏に、薄ぼんやりとここではないどこかの景色が蘇った。

 

とても蒸し暑い、夏の日。暑さのあまり、戸を開けていた。そのせいか、夜だというのに蝉が鳴いていて、酷くうるさかった・・・。

 

「ヒョヒョッ、しかし柱ですからねぇ一応は、これでも。どんな作品にしようか胸が踊る」

 

玉壺は嬉しそうに笑いながら、手をワキワキと動かしていた。

その隙を突いて、無一郎は一気に斬りかかる。

 

「うるさい。つまらないのは君のお喋りだろ」

 

無一郎の刀が玉壺の頸に届こうとしたとき、玉壺は別の腕から再び壺を生やした。

 

──血鬼術、水獄鉢(すいごくばち)

 

そしてそれを振り上げた瞬間、壺から大量の水が無一郎に向かってきた。

だが、水が無一郎に届く前に、彼の体に衝撃が走った。

 

「!?」

 

衝撃に耐えられず、無一郎の身体はごろごろと地面に転がった。同時に、玉壺からも息をのむ音が聞こえる。

 

(何だ、今のは・・・?)

 

無一郎は身体を起こし、顔を上げたその時。目の前の光景に目を見開いた。

 

そこには壺のような形の水球に閉じ込められた、汐の姿があった。

 

「汐!」

 

無一郎は思わず汐の名前を呼び、すぐに身体を起こして斬りかかろうとした。

 

だが玉壺は、あろうことか汐の後ろに隠れ、無一郎の刀が一瞬止まった隙に、再び水を浴びせた。

 

しかし無一郎も、一度見た技であるせいか、あふれでる水を避け、再び斬りかかる。

その度に玉壺は針を浴びせ、逃げ回ることを繰り返した。

 

「ヒョッヒョッ・・・、柱の小僧を捕らえるつもりだったが、これもまたいい・・・。窒息死は乙なものだ、美しい」

 

玉壺は、水球の中の汐をまじまじと見つめながら、うっとりと言葉を紡いだ。

 

「鬼狩りの最大の武器である呼吸を止めた。もがき苦しんで歪む顔を想像すると堪らない、ヒョヒョッ」

 

玉壺は嬉しそうに目を細めていたが、汐の青い髪を見て大きく目を見開いた。

 

「青い髪・・・。そうか!貴様が例の歌姫、ワダツミの子・・・!いい、これはいい!!この娘を使えば、更に素晴らしいものが・・・」

 

玉壺は興奮しながら汐の周りをぐるぐると動き、汐は何とか脱出しようと刀を振ってみた。

しかし水球はぐにゃりとたわみ、斬ることはできなかった。

 

(なんで・・・なんで・・・?)

 

必死に抵抗する汐を見て、無一郎の心がざわめいた。

 

(なんで僕を、俺を庇ったんだ・・・?なんで・・・)

 

無一郎は再び斬りかかろうとしたが、先程の毒のせいか、身体が痺れて全くいうことを聞かない。

だが、今自分が動かなければ汐が危ない。いや、汐だけでなく鉄火場たちの命も・・・。

 

動きが止まった無一郎に、玉壺は好機と言わんばかりに水を放とうとした。

しかし先程かわされ続けていたせいか、水は壺から流れ出ることはなかった。

 

(むっ、少し遊びすぎたか・・・?だが、まあいい。柱の小僧はもう動けん上に、小娘の歌も呼吸も封じた)

 

歯を食いしばる無一郎と水球の中の汐を見て、玉壺は高らかに笑った。

 

「里を壊滅させれば、鬼狩り共には大打撃。鬼狩りを弱体化させれば産屋敷の頸もすぐそこだ、ヒョッヒョッ」

 

勝ち誇ったように笑う玉壺の顔を、汐は腹立たしげに睨み付けた。

 

(こいつは、この生ごみ野郎は絶対に生かしておいちゃいけない・・・!)

 

しかし汐を取り巻く水は、刀では切れそうもない上ウタカタを放つための空気の余裕もない。

 

いくら人より息を長く止めることが出来ても、呼吸をしなければ生命活動を持続することは出来ない。

このままなにもしなければ、汐に待っているのは死のみだ。

 

(くそっ、無一郎は毒で痺れて動けないし、あたしは呼吸もウタカタも封じられた・・・。どうする?どうする?)

 

「さて、鬼狩り二匹は放ってもいいだろう。後は、目障りな刀鍛冶師共を・・・。ああ、小娘。お前は死んだ後にきちんと素晴らしい作品にしてやるから、安心して待っていろ」

 

玉壺は顔を汐に近づけて笑うと、小屋の方に向かって動き出した。

 

(まずい、まずい!早くしないと鋼鐵塚さんが危ない!早く早くしないと・・・、でも・・・!!)

 

焦る汐の脳裏に、突然過去の出来事が浮かんできた。

 

それは数ヶ月前に、吉原での任務の事。鬼の術を相殺した時に放った、新たなウタカタ。

 

(確かあの時は、毒で呼吸なんかほとんどできていなかった。でも、爆砕歌以上の威力が出た。あの感覚を思い出せたなら、何とかなるかもしれない・・・!)

 

一方、無一郎は水球の中の汐と小屋を睨みながら、動かない自分の身体に焦りを感じていた。

 

(駄目だ、体が動かない。毒を食らいすぎた・・・。もう戦えない)

 

無一郎は霞む視界の中、自分はもうここまでだということを感じた。

 

(せめて、あの子だけは助けたかったな。あの子の力はきっとこの先必要だったのに。でも、もう駄目だ。終わった)

 

『どうして、そう思うんだ?』

 

「え?」

 

誰かの声が聞こえた気がして、無一郎は頭を上げた。すると目の前に、その場にいないはずの炭治郎が立っていた。

 

(炭治郎?どうして・・・いや、ちょっと待て)

 

『先のことなんて、誰にも分からないのに』

 

(違う。炭治郎にはこんなことを言われてない。言ったのは、誰?)

 

しかし考える間もなく、無一郎の視界は段々と霞を帯びてきた。しかしそれでも、炭治郎に似た誰かは彼に語り続けた。

 

『自分の終わりを、自分で決めたらだめだ』

(君からそんなこと言われてないよ)

 

『絶対どうにかなる。必ず誰かが助けてくれる』

(何それ、結局人任せなの?一番駄目だろう、そんなの)

 

炭治郎に似た誰かの言葉を無一郎は否定し続けるが、それでも彼は口を止めなかった。

 

優しい声色で、語り続けた。

 

『一人でできることなんて、ほんのこれっぽっちだよ。だから人は、力を合わせて頑張るんだ』

(ううん、違うよ)

 

無一郎は小さく首を振って、ぎゅっと目を閉じた。

 

(誰も僕を助けられない。みんな、僕より弱いから。僕がもっとちゃんとしなきゃいけなかったのに、判断を間違えた。自分の力を過大評価していたんだ、無意識に。柱だからって)

 

だからあの子は、汐はあんな目に遭っているんだ。

 

無一郎は霞む視界の中、汐を見つめた。

汐も何とかもがいているが、水球からは出られないようだった。

 

(ごめん・・・)

 

無一郎が心の中でそう告げた時、視界の端に何かが動くのが見えた。

 

面をつけた小さな少年が、汐の入った水球に包丁を突き立てていた。

 

*   *   *   *   *

 

時間は少し遡り

 

鴉の羽音が響く中、暗闇の中を駆け抜ける一つの人影があった。

 

「急がなきゃ、急がなきゃ、里のみんなが危ないわ!」

 

桃色と緑色のお下げを激しく揺らしながら、恋柱・甘露寺蜜璃は風を切って走り続けていた。

 

担当地区での任務後、鴉から里の襲撃の知らせを聞き、直ぐ様里へ向かっていたのだ。

 

「でも、私の担当してる地区から刀匠さんたちの里、すごい近かったのね!びっくり!」

 

――よーし、頑張るぞォ!!

 

蜜璃は胸に決意を強く抱きながら、夜を軽やかに駆けていった。

 

大切な人たちを守るために。

 

反撃の準備は整いつつあった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

二十六章:強くなれる理由


(小鉄!?)

 

汐は、水越しに見える小鉄の姿を見て目を見開いた。小鉄は必死に右手の出刃包丁を、何度も何度も振り下ろしていた。

 

「死なせない!!頑張って、汐さん!!絶対に出すから!!俺が、助けるから!!」

 

小鉄は涙を流しながら、何度も何度も包丁を振り下ろした。しかし鬼の血鬼術で出来た水球は、刃を弾くだけでびくともしない。

 

(馬鹿っ、隠れてって言ったのに、何でここに居るのよ・・・!)

 

動けない歯がゆさと息苦しさに、汐は大きく顔を歪ませたが、不意に小鉄の背後で蠢くものがあった。

それは、ひれの部分が刃の様になっている、魚の化け物だった。

 

(小鉄、後ろよ!!気づいて・・・!!)

 

しかし汐の願いも虚しく、化け物はその刃を容赦なく小鉄に振るった。

 

「ギャッ!!痛っ・・・!」

 

短い悲鳴と共に、真っ赤な雫が汐の目の前を染めていった。

 

「うわぁ血だ!!」

 

小鉄は出血に驚き、その場から思わず後ずさった。しかし魚の化け物は、そんな彼の鳩尾に刃を突き刺した。

 

(・・・!!!)

 

その光景に汐の顔から血の気が引き、身体の熱は失われ、目の前も暗くなってきた。

喉を締められるような苦しさも、段々と薄くなっていくようだった。

 

(許さない)

 

汐は薄れて行く意識の中、小鉄を傷つけられた怒りを殺意に変え、意識を必死に手繰り寄せた。

あの時の感覚を思い出すように。

 

すると霞む視界の中、汐の目の前に一輪の花が現れた。

葉も茎もない、八重咲の百合に似た青白く光る半透明の不思議な花。

 

その瞬間、汐の中にあの時の感覚がはっきりと蘇ってきた。

 

汐は意識を集中させ、全身に力を入れる。頭のてっぺんからつま先まで、神経を研ぎ澄ませるように。

 

すると、汐の周りの水が震えだし、小さな泡が発生した。泡の数は瞬く間に増え、やがて汐の全身を包み込んだ。

 

一方、その光景を見ていた無一郎は、動かない自分の身体に怒りが沸き上がってくるのを感じた。

目の前で自分が助け、助けられた相手が傷つき、死に近づいていく。

 

――この光景を、無一郎は以前にも見たような気がした。

大切な誰かが、自分の目の前で奪われる理不尽さと、怒りを。

 

無一郎は刺さった針を抜き捨てると、足に力を込めた。次に胴体に、腕に、指先に、頭に。

 

『人のためにすることは、巡り巡って自分のためになる』

 

炭治郎に似た誰かは、再び優しく言葉を投げかけた。

 

『そして人は、誰かのために信じられないような力を出せる生き物なんだよ。無一郎』

 

無一郎は頷くと、目の前の光景をしっかりを見据えた。

 

(あの子達を死なせてはならない。必要不必要だからじゃない。鬼から人を助けるのが、鬼殺隊だから・・・!!)

 

無一郎は痺れが残る身体を叱咤し、小鉄に止めを刺そうとしている化け物に斬りかかろうとした。

その時だった。

 

『離れろ』

 

(!?)

 

何処からか声が聞こえた気がして、無一郎は倒れている小鉄を抱えてその場から飛びのいた。

それとほぼ同時に、汐の入った水球が突然破裂した。

 

――ウタカタ 伍ノ旋律・転調――

――爆塵歌(ばくじんか)!!!

 

水球が破裂するのと同時に、化け物も吹き飛ばされ木に叩きつけられて呻いた。

その隙に、無一郎は化け物を斬り捨てると汐達の元に駆け寄った。

 

「汐!大丈夫!?」

「ガハッ、ゲホッゲホッ、ゲェッ・・・!」

 

汐は激しくせき込みながら、口の中の水を吐き出し蹲っていた。

無一郎は焦る気持ちを抑え、汐の背中を優しくさすった。

 

その光景の中、無一郎は失った過去の事を思い出していた。

 

(思い出したよ、炭治郎。僕の父は、君と同じ赤い瞳の人だった)

 

それは、杣人という木を切る仕事をしていた父の記憶。息子である自分も、木を切る手伝いをしていた記憶。

 

『杓子定規に物を考えてはいけないよ、無一郎。確固たる自分を取り戻した時、君はもっと強くなれる』

 

そして、病が進行した輝哉の顔。失った記憶が次々と蘇ってきていた。

 

(酷く苦しそうだ・・・、肺に水が入ったんだ)

 

苦しそうに喘ぐ汐を見て、無一郎は自分の母親が風邪から肺炎をこじらせ死んだことを思い出した。

ひどい嵐の中、薬草を取りに行った彼の父親は、がけから転落して帰らぬ人となった。

 

「あ、あたしは、平気・・・。それより、小鉄・・・!小鉄が・・・!」

「わかった、わかったから、君は自分の心配をして!」

 

こんな状態でも自分より他人を心配する汐に、無一郎は思わず声を荒げた。

 

「こ、小鉄君・・・」

 

小鉄の着物にはあちこちに血が付着し、か細く息をしていた。

そんな小鉄を、無一郎はそっと抱き起した。

 

「時透さん・・・、汐さん・・・汐さんは・・・?」

「大丈夫、大丈夫だよ。汐は生きてる。無事だよ・・・!」

 

無一郎が答えると、小鉄はほっとした様に口元に笑みを浮かべた。

 

「時透さん・・・、おね・・・お願いします・・・。鋼鐵塚さんを、助けて・・・。刀を、守って・・・」

 

声が小さくなっていく小鉄を見て、無一郎の記憶は更に沸き上がった。

 

(両親が死んだのは十歳の時だ・・・。十歳で僕は一人になった)

 

一人。その事に無一郎は大きな違和感を感じた。

 

(いや、違う。一人になったのは十一歳の時だ。僕には兄がいた。双子だった)

 

無一郎の脳裏に、あの日の出来事がはっきりと蘇った。

 

それは、銀杏の葉が舞い散る季節。

無一郎には双子の兄がいた。名は有一郎。

両親を失った彼らは、生きる為に必死に働いていた。

 

『情けは人のためならず。誰かのために何かしても、ろくなことにならない』

 

有一郎は切った木を背負いながら、淡々とした声で言った。

 

『違うよ』

 

その言葉を、無一郎は優しい声色で否定した。

 

『人のためにすることは、巡り巡って自分のためになるって意味だよ。父さんが言ってた』

 

そういう弟の言葉を、有一郎は振り返ることもせずに一掃した。

 

『人のために何かしようとして死んだ人間の言うことなんて、あてにならない』

『なんでそんなこと言うの?』

 

それが死んだ両親のことを言っていると気づいた無一郎は、悲し気に顔を歪ませて言った。

 

『父さんは母さんのために・・・』

『あんな状態になってて薬草なんかで治るはずないだろ。馬鹿の極みだね』

 

尚も止まらない兄の罵声に、無一郎の声が震えた。

 

『兄さん、ひどいよ・・・』

『嵐の中を外にでなけりゃ、死んだのは母さん一人で済んだのに』

 

この言い草に、遂に無一郎も思わず声を荒げた。

 

『そんな言い方するなよ!あんまりだよ!!』

『俺は事実しか言ってない』

 

目に涙をためて言い返す無一郎を見て、有一郎は苛立たしそうに顔を歪ませた。

 

『うるさいから大声だすな。猪が来るぞ』

 

有一郎はそう言って、無一郎に背中を向けて言った。

 

『無一郎の無は“無能”の“無”。こんな会話、意味がない。結局過去は変わらない』

 

――無一郎の無は“無意味”の“無”

 

有一郎の針のような言葉は、無一郎の胸の奥深くまで突き刺さっていった。

 

(兄は、言葉のきつい人だった。記憶のない時の僕は、なんだか兄に似ていた気がする)

 

無一郎にとって兄との生活は、息が詰まるようだった。

彼は兄に嫌われていると思い、冷たい人だと思っていた。

 

月日は流れ、花が咲き始めた春ごろ。二人の元に一人の女性が尋ねてきた。

 

彼女の名は産屋敷あまね。鬼殺隊当主、産屋敷輝哉の妻だった。

そのあまりの美しさに、無一郎は白樺の木の精だと思ったほどだった。

 

あまねが尋ねてきたのは、有一郎と無一郎が始まりの呼吸の使い手の子孫であるということを伝え、鬼殺隊に誘うためだった。

無一郎はその事実に喜んだが、有一郎は暴言を吐いてあまねを追い返してしまった。

 

『凄いね、僕たち剣士の子孫なんだって』

 

その夜、無一郎は興奮した様子で野菜を切る有一郎に話しかけた。

 

『しかも、一番最初の呼吸っていうのを使う凄い人の子孫で・・・』

『知ったことじゃない。さっさと米を研げよ』

 

そんな弟の言葉を遮ると、有一郎は淡々と言いながら手を動かした。

 

『ねぇ、剣士になろうよ。鬼に苦しめられてる人たちを助けてあげようよ』

 

無一郎は朗らかな笑顔で兄に訴えた。

 

『僕たちならきっと・・・』

 

だが、有一郎はその言葉を聞きたくないと言わんばかりに、包丁を叩きつけるようにして野菜を切った。

一度、二度、三度、四度・・・。四度目に振り下ろした時の勢いで、野菜の一部がまな板からころりと落ちた。

 

『お前に何が出来るって言うんだよ!!』

 

有一郎の雷のような大声に、無一郎はびくりと体を震わせた。

 

『米も一人で炊けないような奴が剣士になる?馬鹿も休み休み言えよ!本当にお前は父さんと母さんそっくりだな!!』

 

砲弾のような有一郎の言葉に、無一郎の顔から笑顔が消えていく。

 

『楽観的過ぎるんだよ、どういう頭してるんだ。具合が悪いのを言わないで、働いて体を壊した母さんも、嵐の中 薬草なんか採りに行った父さんも。あんなに止めたのに・・・!!母さんも、休んでって何度も言ったのに!!』

 

有一郎は悔しさを吐き出すように叫びながら、包丁の柄を震えるほど強く握った。

 

『人を助けるなんてことはな、選ばれた人間にしか出来ないんだ!先祖が剣士だったからって、子供の俺たちに何ができる?教えてやろうか?』

 

有一郎は言葉を失っている無一郎を睨みつけながらつづけた。

 

『出来ること、俺たちに出来ること。犬死にと無駄死にだよ!父さんと母さんの子供だからな。結局は、あの女に利用されるだけだ!!

何か企んでるに決まってる』

 

有一郎は吐き捨てるようにそう言うと、涙目で俯いている無一郎に夕餉の支度をするように命じた。

 

それ以来、二人は口を利かなくなった。毎日のように通い続けているあまねに、有一郎が激怒して水を浴びせた時に喧嘩をしたきり――。

 

それから更に時は流れ、夏。

その年の夏は酷く暑く、二人の苛立ちも募る一方だった。あまりの暑さに、夜になっても蝉が鳴き続けていた。

 

その暑さを少しでも和らげようと、戸を開けていたその夜。

一匹の鬼が、二人の元に現れた。

 

鬼は瞬く間に有一郎の左腕を斬り落とすと、家じゅうに真っ赤な雫が飛び散った。

激痛に呻く兄を、青白い顔で抱える無一郎に、鬼は嘲笑いながら言い放った。

 

『うるせぇ、うるせぇ、騒ぐな。どうせお前らみたいな貧乏な木こりは、何の役にも立たねぇだろ。いてもいなくても変わらないような、つまらねぇ命なんだよ』

 

鬼の言葉が無一郎の耳を穿った瞬間、目の前が真っ赤になった。

生まれてから一度も感じたことのない、腹の底から噴き零れ出るような、激しい怒りだった。

 

無一郎はその後の事を覚えていない。ただ、途轍もない咆哮が己の喉から発せられているとは思いもしなかった。

 

無一郎が我に返ると、目の前には杭や農具が突き刺さり、頭を岩で潰され全身を八つ裂きにされた鬼の身体が横たわっていた。

しかしそれでも死ねないのか、鬼は苦しそうにもがいていた。

 

朝になり、日が昇ると鬼は塵となって消え去った。しかし、無一郎にとっては心底どうでもよいことであった。

 

無一郎は残してきた有一郎が心配になり早く戻ろうとしたが、身体が突然鉛の様に重くなってしまい、目の前の家に戻るまでに時間がかかってしまった。

よく見てみれば、自分の身体にはいくつも傷がつき夥しい量の血が流れていた。

 

(兄さん・・・、兄さん・・・!)

 

無一郎は這いつくばりながらも必死で家の中に戻ると、兄は全身を血に染めながらもか細く息をしていた。

 

(生きてる・・・!)

 

無一郎は必死で兄の元へたどり着こうとするが、身体は石の様に固まり動かない。

そんな中、倒れ伏す有一郎の口から、泡のような言葉がぽつりぽつりと零れてきた。

 

『・・・神、様、仏・・・様・・・どうか・・・、どうか・・・弟だけは・・・助けてください・・・』

 

いつもとはかけ離れた弱弱しく小さな声に、無一郎の体が震えた。

 

『弟は・・・俺と・・・違う・・・。心の、優しい・・・子です・・・。人の・・・役に・・・立ちたいと・・・言うのを・・・俺が・・・邪魔した・・・』

 

今まで聞いたことのない、優しく悲しい言葉が、無一郎の心を突き刺した。

 

『悪いのは・・・俺だけ・・・です。バチを当てるなら・・・俺だけに・・・してください・・・』

 

段々とかすれて行く声に、無一郎の目から大粒の涙があふれ出した。

兄の気持ちに気づけなかった自分、兄を助けられなかった自分。いろいろな感情が渦巻き、無一郎は涙を流しながら、必死で兄の手を掴んだ。

 

『わかって・・・いたんだ・・・本当は・・・』

 

有一郎が事切れる寸前、無一郎は確かに彼の声を、言葉を聞いた。

 

『無一郎の、無は・・・』

 

――“無限”の“無”なんだ・・・

 

「汐」

 

汐の容体がだいぶ落ち着いてきた頃。無一郎は静かに名を呼んだ。

汐が顔を上げると、無一郎は振り返らずに口を開いた。

 

「小鉄君を頼む」

「え?」

 

汐が何かを言う前に、無一郎はすっと音もなく立ち上がった。

 

「あの鬼は僕が斬る。後は任せて」

 

無一郎がそう言った時、一陣の風が吹き彼の髪を大きく揺らした。

その時、汐は大きく目を見開いた。

 

無一郎の頬に、不思議な痣のような文様が浮き出ていた。

 

「あんた・・・、それ・・・」

 

汐が言葉を発する前に、無一郎は力強く地面を蹴ると、鋼鐵塚のいる小屋に向かって走り出した。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



無一郎の顔に浮き出た痣に、汐は既視感を感じていた。

それは吉原での戦いで、一瞬だけ見た炭治郎の額の痣。それと似たようなものを、どこかで見たような気がしていた。

 

「って、今はそれどころじゃない。小鉄!!」

 

汐は倒れている小鉄を見て息をのんだ。小鉄の着物は血に塗れ、腹部の部分が真っ赤に染まっていた。

 

「小鉄・・・!」

 

汐は顔を歪ませながら小鉄を抱きしめた。自分が後れを取らなければ、小鉄をこんな目に遭わせずに済んだのにと。

 

(いつも、いつもそうなのよ、あたしは。失くしてから初めて気づくの。そして後悔する。あの頃とあたし、何にも変わってないじゃない!!)

 

汐は悔しさをこらえるように唇をかみしめた。すると、ふと違和感を感じ小鉄の胸元に耳を寄せた。

 

(!!)

 

汐は今度は先ほどとは別の意味で息をのんだ。胸の奥から、確かに鼓動音が聞こえていた。

 

生きている!小鉄は生きている!!

 

汐はすぐさま腕の傷の止血を試み、赤く染まった腹部の部分を手当てしようと羽織を脱がせた。

 

「え、こ、これって・・・」

 

そこから出て来たものに汐は驚いた。そこにあったのは、かつて炎柱である煉獄杏寿郎が使っていた炎を模した鍔であった。

 

「れ、煉獄さんの鍔だわ・・・。なんで小鉄が・・。いや、それよりも、小鉄はこれのお陰で・・・」

 

汐は小さく息をついている小鉄を見て胸をなでおろした。腕の傷は深そうだが、命に別状はないだろう。

 

(煉獄さんが小鉄を守ってくれたんだ・・・)

 

汐は鍔をぎゅっと握りしめ涙を浮かべた。

 

(あれ、そういえば、鉄火場さんと鉄穴森さんは・・・?)

 

小鉄の手当てをしていた汐は、二人の姿がないことに気づいた。

 

(まさか、鋼鐵塚さんの所へ!?)

 

汐は嫌な予感を感じ、眠っている小鉄を草の影に隠すと、落ちていた刀を拾ってすぐさま小屋へと向かった。

 

*   *   *   *   *

 

時は少しさかのぼり

玉壺は汐達を戦闘不能にした後、鋼鐵塚のいる小屋へ入り込んだ。

 

すると鉄穴森が鉈を手に、玉壺に斬りかかってきた。

だが、玉壺は鉄穴森をいとも簡単に鉈ごと切り裂いた。

 

「こんなあばら家を必死に守ってどうするのだ」

 

悲鳴を上げて倒れ伏す鉄穴森をしり目に、玉壺は嘲るように言った。

 

「もしや、ここに里長でも居るわけではあるまいな」

 

それはないだろうと玉壺は口元を歪ませて笑うが、不意に鉄を研ぐ音が聞こえてきた。

 

「んんん?」

 

玉壺が視線を向ければ、そこには一心不乱に刀を研ぐ一人の男の背中があった。

 

「すごい鉄だ。すごい刀だ。なんという技術・・・、素晴らしい」

 

男、鋼鐵塚は背後に危険が迫っていることにも意を介さず、ぶつぶつと呟きながら手を動かしていた。

 

(若い人間だな。四十手前の肉体、長とは思えぬ)

 

玉壺は鼻を鳴らすと、鋼鐵塚の背中に向かって口を開いた。

 

「おい、そこの人間」

 

だが、鋼鐵塚は玉壺の言葉が聞こえていないのか、返事もせず反応もしない。

響くのは鉄の研ぐ鋭い音だけだ。

 

「作者は誰なのだ。どのような方がこの刀を・・・。なぜ自分の名を刻まず()()()()()()・・・。いや、分かる、分かるぞ・・・」

 

自分に対しての反応がない鋼鐵塚に、玉壺は驚愕のあまり顔を歪ませた。

 

(こいつ!何という集中力!!この玉壺に気づか程、没頭!!きっ、気に喰わぬ!!)

 

鋼鐵塚のこの態度が、玉壺の矜持を大きく揺らした。

 

(私とてこれ程、集中したことはない!!芸術家として負けている気がする!!)

 

玉壺は怒りのあまり、持っていた壺から魚の化け物を呼び出すと、鋼鐵塚の身体を斬り裂いた。

 

「は、鋼鐵塚さん・・・」

 

飛び散る血飛沫を見て、倒れ伏す鉄穴森は悔し気に歯を食いしばる。

しかし鋼鐵塚は、痛みに悲鳴を上げることも、血まみれの体に怯えることもなかった。

 

面が砕け、その素顔が露になっても、刀を研ぐ手を止めなかった。

 

(こっ・・・、この男、手を止めぬ!!)

 

ありえない事態に、玉壺の顔がさらに大きくゆがんだ。

 

「これ程の刀に自分の名を刻まなかった理由、この一文字、この一念のみを込めて打った刀なんだ。ただ一つ、これだけを目的として打った刀」

 

鋼鐵塚はその刀に取り憑かれたかのように、一心不乱に研ぎづつけていた。

まるで、その世界に刀と自分だけしかいないかのように。刀と一つになったかのように。

 

鋼鐵塚にはもう、その刀しか目に入るものはなかった。

 

(気にくわぬ・・・)

 

完全に自分の存在を蚊帳の外にされた玉壺は、湧き上がってくる怒りを全身から滲みださせていた。

 

(殺すのは造作もなきことだが、何とかこの男に刀を放棄させたい!!この集中を切りたい!!)

 

玉壺は再び手の壺から、化け物を呼び出し再び鋼鐵塚を斬りつけた。

それも一度ではなく、何度も、何度も。

そしてその斬撃の一つが、鋼鐵塚の左目を斬り裂いた。

 

「鋼鐵塚さん・・・!」

 

鉄穴森は折れた鉈で再び斬りかかるが、玉壺はうっとおしいと言わんばかりに彼を吹き飛ばした。

 

(ぐぬぬ、こやつ!!こやつ!!)

 

玉壺の意識は、未だに動き続ける鋼鐵塚の背中だけに集中していた。

 

(この男!!この人間!!これだけやっても、まだ研ぐのを止めない!!)

 

もはや傷を負っていないところを探す方が難しい程、鋼鐵塚の身体にはいくつもの傷がついていた。

しかしそれでも、彼が手を止めることはなかった。

 

(片目を潰した時ですら、声を出さず研ぎ続けるとは・・・)

 

その異常事態に、玉壺の矜持はこれ以上ない程傷つけられた。

 

(そうだ。あいつ、あの男を殺すと言えば・・・)

 

玉壺の視線が、瓦礫の中でうめく鉄穴森に向いた時だった。

 

背後から玉壺に斬りかかった者がいた。不意の事に玉壺は少しだけ驚いた顔をしたが、すぐさま攻撃の手をそちらに向けた。

 

血が飛び散り、うめき声と共にその者は床にたたきつけられた。

 

「ああ・・・、鉄火場!!」

 

鉄穴森が襲撃者の名を呼ぶと、玉壺は目障りだというかのように鉄火場を一瞥した。

だが、血に染まった鉄火場を見て、玉壺は目を見開いた。

 

「やや、ややや!!!よく見たら貴様、女ではないか!!」

 

玉壺の言葉に、鉄火場と鉄穴森の肩がびくりと動く。

 

「これはこれは、女の鍛治とはまた面妖な。だが、それもまたいい・・・」

 

玉壺は鉄火場の首を乱暴に掴み、持ち上げた。面が割れ、露になった口元から泡になった血が零れ落ちる。

 

「そうだ!おい人間。この女の命がどうなってもいいのか!?今すぐ手を止めねば、こやつを使って作品を・・・」

 

しかし玉壺がそう叫んでも、鋼鐵塚は一向に手を止める気配はなかった。

 

「無駄、ですよ・・・」

 

そんな中、首を掴まれている鉄火場の口から、か細い声が漏れた。

 

「ほ、蛍・・・は、一度、ぼ、没頭すれば・・・、天地が、ひっくり返ろうとも・・・、その手を止めることは、決して、ない・・・。この人は、そういう人間、なんです・・・。あなたとは・・・、格が・・・、違うのですよ・・・」

 

割れた面越しに玉壺を見る鉄火場の目には、恐れはあるものの凛とした意志が宿っていた。鋼鐵塚を心より信頼し、想っている目だった。

 

それを見た玉壺は奇声を上げると、鉄火場を思い切り壁に叩きつけた。

 

「どいつもこいつも、この私をこけにしおって人間どもが!!まずは生意気な女!貴様を切り刻んでやる!」

 

激昂した玉壺は、鉄火場に壺の口を向けた。それを視界の端でとらえていた鉄火場は、自分の死を覚悟した。

 

(嗚呼、蛍・・・、私が殺されかけているというのに、貴方という人は。)

 

鉄火場は未だに鳴りやまない砥石の音を聞きながら、口元に笑みを浮かべた。

 

(でも、一つの事を極め抜く。そんな貴方に私は憧れ、そして好きになった。最期に見る光景が私の一番好きな、貴方の姿でよかった・・・)

 

鉄火場は目を閉じ、愛しい者たちの姿を思い浮かべた。

 

鉄珍、仁鉄、鋼鐵塚、里の者達、そして、汐。

 

(汐殿・・・、私は貴女に会えて、大切な気持ちを思い出すことができました。だから貴女も、私の分までどうか大切な人と、幸せに・・・)

 

壺の口から怪物が今放たれようとしていた、その時だった。

 

風を切る鋭い音が聞こえ、玉壺の息をのむ音と壺が移動する重い音が聞こえた。

鉄火場が恐る恐る目を開けると、そこには移動した玉壺と、刀を振り下ろした姿勢のままの無一郎が立っていた。

 

「と、時透殿・・・」

 

そう呟くな否や、鉄火場の意識は深い闇の中に沈んでいった。

 

一方、玉壺は乱入者の姿を見て顔を引き攣らせていた。

 

(こやつ、何故動ける!?あれ程毒針を身に受けていたというのに・・・!)

 

玉壺は無一郎が毒で動けなくなると思い、意識を向けていなかった。そのため、先ほどの攻撃は完全に予想外のものだった。

 

(いや、しかしだ。逆に言えば、それだけ私が集中していたと言うことだ!!よし!!)

 

しかしそれを認めなくない玉壺は、自分を無理やり納得させると笑みを浮かべながら無一郎を見据えた。

 

(ん?待て待て待て、何だあの痣は)

 

玉壺は、無一郎の顔に先ほどまではなかった痣を見つけ、狼狽した。

無惨からは耳飾りをつけた鬼狩り、炭治郎にも似たような痣が発現していたということを情報として与えられていた。

 

(いやいや、それよりも、何を涼しい顔して出て来てるんだ。私の攻撃でお前は体が麻痺してるはずだろうが!)

 

玉壺は先ほど汐を閉じ込めた時、まともに動けなくなる様子を確かに見ていた。しかし目の前の無一郎は、先ほどよりも尚早い動きで刀を振るった。

 

その肩からは、証であるかのように鮮血が流れ出ていた。

 

無一郎はしっかりと玉壺を見据えると、足に力を込め踏み出した。すると玉壺は再び壺を取り出し、口を無一郎に向けた。

 

――蛸壺地獄!!

 

壺の中から人の胴ほどの太さの蛸足が這い出し、無一郎の刀を阻んだ。

蛸足の弾力が刃こぼれした刀を押し返し、無一郎の身体にも絡みつく。

 

「時透殿!!」

 

鉄穴森は気を失った鉄火場を庇いながら、手にしていた刀を無一郎に渡そうとした。

しかし飛び出してきた蛸足に絡めとられ、無一郎の刀はへし折られてしまった。

 

蛸足は勢いを衰えさせずに暴れ回り、遂には小屋を破壊するほどまでに膨れ上がっていた。

 

「ヒョヒョッ、どうだこの蛸の肉の弾力は。これは斬れまい」

 

玉壺は先ほどの鬱憤を晴らすがごとく、得意げに笑みを浮かべていた。

ふと視線を向ければ、先ほどの衝撃で飛ばされた鋼鐵塚が、砥石を拾って刀を研ぎ始めていた。

 

その姿に、流石の玉壺も気味悪がった。

 

(まだ刀を研いでいる。馬鹿か?まともではない・・・)

 

しかし玉壺はすぐに頭を切り替えると、先ほど捕らえた無一郎たちに視線を向けた、その時だった。

 

――海の呼吸 壱ノ型――

――潮飛沫!!

 

突然煌めいた群青色の刃が、玉壺に向かって振り抜かれようとしていた。だが、玉壺は再びその攻撃を避け移動していた。

 

「ちっ、ちょこまかと・・・!」

 

刀を振るった主、汐は、苦々し気に舌打ちをしながら玉壺の居場所を探していた。

 

(な、あ、あれは・・・、ワダツミの子!?)

 

玉壺は自分に斬りかかってきた者の姿を見て、顔中から汗を吹き出しながら狼狽えた。

 

(水獄鉢を抜けている!!何故だ、どうやって!!いや、それよりも、あの小娘を捕らえたのは少なくとも十分以上も前のはず。それ程呼吸を止められて生きているなどあり得ぬ・・・。ま、まさか・・・!!)

 

「貴様ァ!!さては人間ではないな!?」

 

玉壺は木の影に置いてあった壺から身を乗り出すと、汐を指さして叫んだ。

 

「はあ!?お前に言われたくねーわよ!!鏡で自分の面を見てから言いやがれ!!」

 

汐はそう叫ぶと、蛸足に捉えられている無一郎たちを見て顔を青くした。

その隙を玉壺は見逃さず、汐に向かって壺の口を向けた時だった。

 

突然、無一郎たちを絡めていた蛸足に線が入り、瞬く間に細切れにされたのだ。

 

これに汐は勿論、玉壺も驚き固まった。

 

そのまま無一郎たちは重力に従い落下し、無一郎は着地後ゆっくりと立ち上がった。

その手には、鞘から抜き放たれた霞の様に真っ白な刀があった。

 

「俺のために刀を作ってくれて、ありがとう。鉄穴森さん」

 

無一郎は玉壺を見据えたまま、鉄穴森に感謝の言葉を伝えた。

 

「いやいや、私は・・・、あなたの最初の刀鍛冶の書き付け通りに作っただけで・・・」

 

「そうだったね」

 

無一郎は優しい声色でそう言った。

 

「鉄井戸さんが最初に刀を作ってくれた。心臓の病気で死んでしまった・・・」

 

無一郎の脳裏に、刀を作ってくれた鍛冶師の姿が蘇った。

 

余命僅かでありながらも、最後まで自分の心配をしてくれていた人。

 

(鉄井戸さん、ごめん。心配かけたなぁ。だけど、俺はもう大丈夫だよ)

 

無一郎は心の中で鉄井戸に感謝と謝罪の言葉を呟き、目の前の敵を見据えた。

 

「あたしも加勢するわ!!」

 

汐は無一郎の傍に駆け寄ると、玉壺に向かって刀を構えた。

だが、無一郎はそんな汐を見てこう言った。

 

「いや、こいつは俺がやる。君はすぐにここから離れて」

 

「えっ!?」

 

汐は思わず無一郎の方を向くと、無一郎は玉壺を見据えたまま動かない。

汐は何かを言いかけたが、自分が足手纏いだということを察し口をつぐんだ。

 

「そ、そうね。あんたの事は心配だけど、あたしがいると邪魔よね」

「違う、そうじゃない」

 

無一郎は視線を動かさないまま、言葉をつづけた。

 

「君には炭治郎達の加勢を頼みたいんだ。上弦の鬼はこいつだけじゃない。俺はともかく、炭治郎達には君の力が必要だ」

 

そういう無一郎の目には、最初に出会った頃の冷徹さは微塵もなかった。

 

「そうね、あんたの言う通りだわ。でもこれだけは言わせて」

 

――死なないで。

 

汐の温かい声は、無一郎の耳を優しく包み込み身体に熱を持たせた。

その感覚に無一郎は、汐が炭治郎や皆に慕われている訳が何となく分かったような気がした。

 

「あんたには言いたいことが山ほどあるんだから、死んだら承知しないわよ!」

 

汐はそういうと、刀を納め森の奥へ駆け出した。

 

「逃がすか、ワダツミの子!!」

 

そんな汐の後を追うように蛸足が再び向かうが、そうはさせまいと無一郎が動いた。

 

(ありがとう、汐。君の言葉、忘れないよ)

 

――霞の呼吸 伍ノ型――

―─霞雲の海

 

無一郎の決意に満ちた刃は、道を切り開く様に蛸足をバラバラに斬り裂いた。

 

そのまま無一郎の白刃は、玉壺の頸を穿とうとしたが、再び高速移動でその攻撃を躱した。

 

「素早いみじん切りだが、壺の高速移動にはついて来れないようだな」

 

玉壺は嘲るように言い、それに対して無一郎も言い返した。

 

「そうかな?」

「何?」

「随分、感覚が鈍いみたいだね。何百年も生きてるからだよ」

 

無一郎がそう言った瞬間、玉壺の頸から鮮血が吹き出した。

 

「次は斬るから」

 

無一郎は刀を向けながら、凛とした声で言い放った。

 

「お前のくだらない壺遊びに、いつまでも付き合ってられないし」

 

そんな彼に玉壺は傷を抑えつつ、顔中に青筋を浮かべながら返した。

 

「・・・舐めるなよ、小僧」

 

その表情には無一郎に対しての、確かな殺意が現れていた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



不死川玄弥には目的があった。それは、何が何でも柱になる事。

柱になる目的は、風柱であり実兄である不死川実弥に認められることだった。

 

あって"あの時"の事を謝りたかった。

 

それは玄弥がまだ幼い頃。彼らの母親は、体の小さな女性だった。

しかしそれに反して、母親はよく働いた。少なくとも玄弥は、彼女が寝ているところを見た記憶はなかった。

 

父親はろくでなしという言葉が生ぬるく感じる程の、屑な男だった。妻や子供に暴力を振るい、暴れることに一切躊躇のない男だった。

そんな彼は人から恨まれ、刺されて死んだ。自業自得の最期だった。

 

ある日、玄弥は外出したきり戻らない母を、幼い弟や妹たちと待っていた。兄の実弥は母を捜しに行くと言って家にはいなかった。

 

日付が変わっても帰らない母親を妹は心配したが、玄弥はきっと戻るとなだめた。

 

しかし母の代わりに戻って来たのは、狼のような獣だった。

 

獣は一瞬で弟や妹たちを斬り裂き、玄弥の顔にも大きな傷をつけた。動きが素早く、玄弥も目で追うことができなかった。

あわよくば殺されると思った時、それを救ったのは兄だった。

 

実弥は獣と共に外に消え、玄弥は医者を呼ぼうと外に飛び出した。

そこで見たのは、血で真っ赤に染まった実弥と、同じく血に染まってその下で横たわる母だった。

 

玄弥は泣きながら母親の亡骸を抱きしめた。そして兄に向かって声を荒げた。

 

『何で母ちゃんを殺したんだよ!!うわあああ!!人殺し!!人殺しーーーーっ!!」

 

その時の玄弥は、兄が母を殺したということしか認識していなかった。

混乱していた。弟と妹たちはすでに冷たくなっており、もう手遅れだということがわかってしまっていたから。

 

そして後になり、玄弥は真実を知った。自分や家族を襲った獣の正体が、鬼と化してしまった母だったということに。

実弥は家族を守るために、自分の母親を殺したということに。

 

夜が明け始めた外に出て初めて、家族を襲ったのが母親だと気づいたとき。

最愛の母親を手にかけて打ちのめされていた時に、必死で守った弟から罵倒された彼は、どんな気持ちだったのだろう。

 

――一緒に守ろうって、約束したばかりだったのに・・・

 

『玄弥、家族は俺たち二人で守ろう』

 

それは父親の死後、実弥と二人で買い出しに来ていた時だった。

 

『親父は刺されて死んじまった。あんなのは別に、いない方が清々するけど、親父がいねぇとなると皆心細いだろうから。これからは、俺とお前でお袋と弟たちを守るんだ。いいな?』

 

まるで自分に言い聞かせるようにう言う実弥の言葉を、玄弥は少し訂正した。

 

『これから()、じゃなくて、これから()、だよな』

 

玄弥の言葉に実弥は少し驚いた顔をしたが、飛び切りの優しい笑顔を弟に向けた。

見事な満月がかかった、綺麗な夜だった・・・。

 

*   *   *   *   *

 

汐、無一郎と分断された炭治郎と禰豆子は、分裂し力を増す半天狗に苦戦を強いられていた。

 

寸でのところで玄弥が駆け付けたものの、分裂した鬼がそれぞれ異なる能力を使うため、戦況は不利に傾きつつあった。

 

だが治郎と禰豆子も、負けじと新たな技、日輪刀に禰豆子の血鬼術を合わせた【爆血刀】を生み出し鬼に手傷を負わせていた。

その刀で斬られると、再生が非常に遅くなるうえに焼けるような激痛を鬼に与えることができるようだった。

 

玄弥も重傷を負いながらも鬼の本体を突き止め追っていた。

 

そしてついに、玄弥の目が鬼の本体を捕らえるが、それは想像をはるかに超えるものだった。

 

半天狗の本体は、野ネズミほどの小さな小さな鬼だった。

 

その頸は非常に硬く、玄弥の刀をいとも簡単にへし折り、炭治郎の赤い刀でも斬り落とすことはできなかった。

 

それどころか、炭治郎達の前には六体目の新たな鬼が現れていた。

 

【憎】という文字が刻まれた雷神の太鼓のようなものを背負った、幼い少年ほどの姿の鬼だった。

鬼は半天狗の本体を、樹木のようなもので盾のように守り炭治郎の攻撃を防いでいた。

 

(六体目・・・!!)

 

その光景に炭治郎の顔が大きく歪んだ。四体の鬼にさえ手こずっているのに、さらに新たな鬼が現れたという事実に絶望を感じた。

 

しかし炭治郎はある事に気が付いた。喜怒哀楽、他の鬼の気配が消えていたのだ。

 

その絡繰りは、別の場所にいた玄弥が目撃していた。

 

炭治郎が本体の頸を斬ろうとしたとき、積怒が両手を掲げた。

その瞬きほどの間に、空喜と可楽は握りつぶされるようにして吸収された。

 

少し離れた場所にいた哀絶は、声を発することなく吸収され、積怒はあの姿へと変化したのだ。

 

鬼は半天狗の本体を、樹木のようなもので覆い隠し始めた。

 

「待て!!」

 

炭治郎が叫ぶと、鬼は炭治郎を鋭い目で睨みつけた。

その威圧感に炭治郎は思わず竦み、玄弥ですら汗と動悸が止まらなかった。

 

「何ぞ?」

 

鬼の口から、重りの様な声が漏れた。気を緩めれば一瞬で押しつぶされてしまうようだった。

 

「貴様、儂のすることに何か不満でもあるのか。のう、悪人共めら」

 

鬼は炭治郎を射抜く様に見据え、そう言った。そのあまりの声の重さに、玄弥は縫い付けられたように動けなくなった。

 

「ど・・・、どう・・・して」

 

そんな中、鬼の重圧に負けないようにと、炭治郎は日輪刀を握りなおしながら口を開いた。

 

「どうして俺たちが、悪人・・・なんだ?」

 

炭治郎の小さいがはっきりとした声は、鬼の耳にも届いた。

 

「弱き者をいたぶるからよ」

 

鬼はさも当たり前だというように答えた。

 

「先程 貴様らは、手のひらにのるような『小さく弱き者』を斬ろうとした。何という極悪非道。これはもう鬼畜の所業」

「小さく弱き者?」

 

鬼のあまりにも身勝手な言葉に、炭治郎は声を震わせた。

 

「誰が・・・誰がだ。ふざけるな」

 

先ほどまでの恐怖が、怒りに変わり体中を流れていく。

炭治郎は気づいていた。目の前の鬼から発せられる血の匂いに。

 

「お前たちのこの匂い、血の匂い!!喰った人間の数は百や二百じゃないだろう!!」

 

炭治郎の額に、怒りのあまり血管が浮き出した。全身の血液が、怒りのあまり沸騰しそうだった。

 

「その人たちが、お前に何をした? その全員が、命を償わなければならない事をしたのか!?」

 

炭治郎の怒りは空気を震わせ、禰豆子、玄弥も唖然として彼を見つめていた。

 

「大勢の人を殺して喰っておいて、被害者ぶるのはやめろ!!ねじ曲がった性根だ、絶対に許さない!!」

 

――悪鬼め・・・!! お前の頸は、俺が斬る!!

 

炭治郎の怒りに満ちた声が、あたり中に響き渡った。

 

一方。合体した鬼の気配は、森の中をソラノタユウに導かれながら走っている汐にも届いていた。

 

(何、この感じ!?ヒトデ爺の物なのは確かだけれど、最初の気配とは訳が違う・・・!炭治郎、禰豆子!!)

 

汐は焦る気持ちを抑えながらも、気配のする方向へ足を進めた。

 

すると身体を震わせるような音が響き、地面が激しく揺れた。

 

(何!?地震!?)

 

汐はよろけながらも視線を上に向けた、その時だった。

はるか上空に木の龍のようなものが現れ、激しく暴れているのが見えた。

 

その龍から鬼の気配を感じた汐は、すぐさまその場所へ向かった。

 

木の龍はうねりながらも、炭治郎を捕らえようとその頭を伸ばしていた。

既に玄弥と禰豆子は捕まり、炭治郎だけが辛うじて逃れている状態だ。

 

だが、炭治郎も愚かではない。逃げ惑いながらも、冷静に鬼の攻撃を分析していた。

 

(木の竜の頭は五本!!伸びる範囲は、およそ六十六尺*1だ。よし、一つ分かったぞ!!)

 

炭治郎は空中に投げ出されながらも、身体を捻って技を放とうと刀を構えなおした。

 

(ヒノカミ神楽、碧羅の・・・)

 

しかし炭治郎が技を放つ寸前、木の龍が口を開き、空喜超音波を炭治郎に浴びせた。

空中では身動きが取れない炭治郎は、その攻撃をまともに受けてしまった。

 

「ガッ・・・!」

 

炭治郎はうめき声を漏らしながら、近くの木に身体を打ち付けそのまま落下した。

 

「オエッ!」

 

炭治郎は酷い眩暈と吐き気に耐え切れず、そのまま胃の内容物を吐き出し蹲った。

 

(こっ・・・鼓膜が破れた。目が回る、立てない、駄目だ!!早く立て、早く!!)

 

歪む視界の中、それでも炭治郎は必死に立ち上がった。

 

(攻撃が来るぞ!!)

 

炭治郎が駆け出すのと、鬼の太鼓が鳴り響くのは同時だった。

地面が八つ手の形にへこみ、炭治郎の左足を容赦なく砕き潰す。

 

新たな鬼は、今までの鬼の全ての攻撃が使えるようだった。

 

攻撃予知で攻撃が来るのはわかるが、その猛攻に対処しきれなくなっていた。

一向に衰えない攻撃に、炭治郎の顔に焦りが見えた時。その目にあるものが映った。

 

それは、海の底のように真っ青な髪に、目を引く真っ赤な鉢巻。

 

(汐・・・!?)

 

炭治郎が汐の姿を捕らえたその一瞬の隙を突き、死角から木の枝が炭治郎の身体に巻き付いた。

 

(し、しまった・・・!!)

 

炭治郎は顔を青くさせるがもう遅く、木は炭治郎の胴に絡みつき締め付けた。

 

「炭治郎!!」

 

その光景は汐の目にも映っていた。今にも腹の中身を吐き出しかねない姿を見て、汐はすぐさまその方向へ向かった。

 

(ん?人間の気配が一つ増えた)

 

汐の存在は、炭治郎を攻撃していた鬼も感知していた。

 

(あれは、あの青い髪の小娘は・・・、ワダツミの子か!まさか生きておったとは・・・!)

 

鬼はすぐさま木の龍を炭治郎から汐に向けた。ワダツミの子の危険性は、無惨からもらった情報の中にもしっかりとあった。

 

――あの怪物は確実に潰せ、と。

 

炭治郎は霞む意識の中、近くの龍の頭が汐に向かって口を開いたのを見た。

 

(駄目だ、汐・・・、危ない!!)

 

――伍ノ旋律 爆砕歌!!!

 

汐が爆砕歌を放つのと、太鼓が鳴り木の龍が超音波を放つのは同時だった。

二つの衝撃波は空中でぶつかり合い、そのままはじけて消えた。

 

「爆砕歌が、相殺された!?」

 

汐が呆然としたその一瞬。再び太鼓の音が響き渡った。

その瞬間、汐は凄まじい重圧に押しつぶされた。周りが八つ手の形にへこむ。

 

「・・・!!」

 

その光景を炭治郎は呆然と見ていたが、汐が押しつぶされたことを脳が認識した瞬間、薄れていた意識が戻って来た。

 

「うわあああああああ!!!汐ーーーッ!!!」

 

炭治郎の悲鳴が、あたり中に響き渡った。

 

その攻撃は少し前に炭治郎も受けていた。しかし一度目は畳が崩落し、二度目は攻撃を喰らう寸前に鬼の腕を斬り裂いていたため、短時間で済んだ。

 

しかし汐の場合はわけが違う。身体がひしゃげる程の重圧をまともに受けてしまっていた。

 

炭治郎の悲鳴は、囚われていた禰豆子と玄弥の耳にも届いていた。

禰豆子と玄弥の脳裏に、屈託のない笑顔の汐の顔が蘇る。

 

「うううう!!!」

「クソがアアアア!!!」

 

二人は拘束から逃れようと、力の限り必死で藻掻いた。

 

一方、汐を押しつぶした鬼は、目の前の光景に目を見開いていた。

 

(し、信じられん・・・・。この小娘・・・、生きている!!耐えている!!)

 

地面がへこむほどの重圧の中を、汐は必死に耐えていた。普通の人間なら、とっくに人の形を成していない攻撃のはずだった。

 

(い、いや・・・、耐えているどころか、こやつ、こやつ!!この重圧の中、何故動ける!?)

 

鬼が驚愕を張り付ける中、汐は吐き気のするような重圧の中でゆっくりと動いた。全身から汗が吹き出し、筋肉が悲鳴を上げているが、汐はそれでも地面を踏みしめて立ち上がった。

 

焦った鬼が更に重圧をかけるが、汐は軽くよろけたものの膝をつくことはなかった。

震える足で、しっかりと立ち上がった。

 

「その、被害者ぶったクソ面を・・・、こちらに向けるな・・・!」

 

汐は骨が砕けかねない重圧の中、鬼を睨みつけながら言い放った。

口からウタカタ特有の高い音が響き渡る。

 

「目障りなんだよ、腐れ外道が!!」

 

――ウタカタ・陸ノ旋律――

――重圧歌!!!

 

汐の音のない歌が響いた瞬間、今までたっていた鬼が突然木にめり込むようにして倒れこんだ。

突然の事に何が怒ったか分からない鬼は、驚愕の表情を張り付けたまま木に顔を押し付けられていた。

 

(な・・・、なんだ・・・、これは・・・!?何故、何故立てん・・・!?)

 

「そのまま寝てろ!」

 

鬼が倒れたせいか重圧から解放された汐は、メキメキと音を立てている鬼に向かって鋭く言い放った。

 

炭治郎はその様子を、呆然とした表情で見つめていた。が、

 

「うわあああああああ!!!」

 

汐が鬼を押しつぶしたと認識した瞬間、炭治郎は先程とは全く反対の意味の悲鳴を上げた。

何とか這い出した禰豆子と玄弥も、目の前の光景が信じられずに目を点にさせていた。

 

その時、炭治郎は悟り、そして固く固く誓った。

 

(絶対に、絶対に!二度と、二度と!!汐を理不尽に怒らせたり、滅多なことを言うのはやめよう!粉砕される!跡形もなく!!)

 

背中に流れる冷たい汗が、今この時が現実であることを否が応でも伝えていた。

*1
約20m



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



同時刻。

玉壺の放った怪物たちは、手当たり次第に里の者を襲っていた。

詰が刃物のように鋭く動きも早い怪物たちに、里の者達は太刀打ちできず悲鳴を上げる。

 

その混乱の中を突如、桃と緑色の一陣の風が吹き瞬時怪物たちを両断した。

 

「遅れてごめんなさい!!」

 

里の者が顔を向ければ、そこには軽やかに舞う一人の女性の姿があった。

彼女の名は甘露寺蜜璃。鬼殺隊最高位の称号、柱を持つ剣士である。

 

「みんなすぐ倒しますから!!」

 

蜜璃はそう言うと、通りを塞ぐ怪物たちの壺を次々と斬り裂きながら飛ぶように駆け抜けていった。

 

「うおお、柱が来たぞ、凄ェ!」

「強・・・、速っ・・・」

「可愛いから忘れてたけど、強いんだよな柱って」

 

助けられた彼らは、呆然と蜜璃が去った方角を見つめていた。

 

その頃、長である鉄珍の屋敷も魔の手は伸びていた。建物は無残に破壊され、怪物の手には里の者と鉄珍が掴まれている。

鉄珍の身体は血に塗れ、面の中からも血が吹き出していた。

 

(里を常駐で警護していた鬼殺隊員が、あっけなくやられてしまった・・・)

 

人の何倍もある大きさの怪物の足元には、身体を真っ二つに裂かれた隊士と首をへし折られた隊士が哀れにも横たわっていた。

 

(里で最も技術を持つ長を死なせるわけにはいかない。だが、この大きすぎる化け物・・・、攻撃がまるで効かん・・・。異常に動きも早い)

 

鉄珍の付き人らしき男は、薙刀を握り締めながらなんとか立ち上がろうとしていた。

その時だった。

 

「動かない方がいいですよ」

 

凛とした声が響き、彼の前に一つの人影が現れた。

 

「多分貴方は、内臓が傷ついているから」

 

そこには、鞭のようにしなる刀を構えた蜜璃が立っていた。

 

「かっ、甘露寺殿・・・!!」

 

男は蜜璃がもつ奇妙な形の刀に目を奪われたが、怪物の咆哮がその思考を遮った。

 

怪物は両手に人を掴んだまま、蜜璃に襲い掛かってきた。

 

――恋の呼吸・壱ノ型――

――初恋のわななき!!

 

しかし怪物の手が蜜璃に届くよりも早く、その足元を駆け抜けた。

一瞬の間を置き、怪物の体中に亀裂が走った。

 

「私、いたずらに人を傷つける奴にはキュンとしないの」

 

その言葉と同時に、怪物の身体はバラバラになり崩れ落ちた。

灰になり消えていくその手から、鉄珍の身体が滑り落ちる。

 

「鉄珍様!!」

 

蜜璃はすぐさま駆け寄り、落ちてくる鉄珍をしっかりと受け止めた。

 

「大丈夫ですか鉄珍様!!しっかり!!」

 

涙をためながら、蜜璃は必死に鉄珍に呼びかけた。すると、鉄珍は小さくうめき声を上げながら身体を少し起こした。

 

「鉄珍様、聞こえますか!!」

 

蜜璃がさらに声を上げると、鉄珍は蜜璃を凝視しながら口を開いた。

 

「若くて可愛い娘に抱きしめられて、何だかんだで幸せ・・・」

 

血を吐きながらこの場に全く似つかわしくない言葉を紡ぐ鉄珍に、蜜璃は一瞬面食らったが途端に顔を赤らめた。

 

「やだもう、鉄珍様ったら」

 

そんな二人を見て、他の男たちは蜜璃に手を握って欲しい等の言葉を口にし、鉄珍から咎められていた。

 

だが、この時蜜璃は気が付かなかった。

 

もしもこの場に汐がいたなら、鬼の襲撃よりも大惨事になっていたということに・・・。

 

*   *   *   *   *

 

鬼が倒れたと同時に、炭治郎達の木の拘束が僅かに緩んだ。

その隙を突き炭治郎は脱出し、汐の傍に落下するように降り立った。

 

「炭治郎!!」

 

汐は炭治郎に駆け寄り思わず目を見開いた。炭治郎の顔にはあちこちに血が付き、左足が無残な姿になっていた。

 

「汐・・・、よかった、無事で・・・」

「人の心配をしている場合か、馬鹿!!」

 

自分よりも汐の心配をする炭治郎を、汐は怒鳴りつけた。だが、鼓膜が破れている今の炭治郎に、汐の声が聞こえない。

 

「それより状況を教えて!禰豆子は!?あのヒトデ爺は何処にいるの!?」

 

汐は捲し立てるが、炭治郎は声が聞こえず何を言っているのか分からなかった。

 

「すまない、汐。俺はさっきの鬼の攻撃で鼓膜が破れて音が聞こえないんだ」

「何ですって!?あの野郎・・・っ!」

 

汐は悪態をつこうとするが、歌が切れたのか鬼が動く気配がした。

 

「まずい、逃げるわよ!!」

 

汐が炭治郎を抱えて動くのと、木の竜が襲い掛かってくるのはほぼ同時だった。

 

「化け物め・・・。儂を、儂を跪かせて良いのは、あの御方のみだ!!」

 

激昂した鬼が雷を落とし、風を起こし、木の竜を次々と放ち、汐に猛攻を叩き込んだ。

その威力は炭治郎達が経験したそれの比ではなかった。

 

逃げる間、汐は炭治郎から矢継ぎ早に状況を教わっていた。

半天狗の本体は、野ネズミほどの大きさである事。あの鬼の能力によって本体は木の中に隠されていること。木の竜の射程距離はおよそ六十六尺である事。

 

「だからそれ以上離れれば何とかなる・・・!」

「わかったわ!」

 

汐は竜から六十六尺以上離れると、炭治郎を離し別方向に走り出した。

 

(重圧歌も暗示の一つ。ただ、束縛歌と違って同じ相手には一度しか使えない。でも、束縛歌は上弦の鬼には効果が薄い。なら・・・!!)

 

海の呼吸・伍ノ型――

――水泡包!!

 

汐は竜に飛び乗ると、型を使って鬼の目を逸らし一気に詰め寄った。狙いは頸を斬るのではない。束縛歌を至近距離で流し、動きを少しでも長く止めるためだ。

 

(鬼の動きを止めれば、炭治郎が本体を捜す時間を稼げる!)

 

汐は六十六尺の距離を保ちながら、鬼の元へと向かっていた。

 

ところが

 

「愚かな」

 

鬼の口が動いた瞬間、汐の死角から龍の口が襲い掛かりその大口で汐の身体ごと飲み込んでしまった。

 

「え・・・」

 

何が起こったのか分からない炭治郎の口から、声が漏れた。その一瞬をつき、木の龍の口が接ぎ木のように伸び、汐同様炭治郎を飲み込んでしまった。

 

「うーーー!!」

 

腕を挟まれたままの禰豆子が、二人の惨状を見て空気を裂くような唸り声をあげた。

玄弥も必死で、胴に絡まった木を外そうと必死にもがく。

 

木の竜に飲み込まれた汐は、先ほどの重圧とは比べ物にならない程の圧力を身に受けていた。

骨がきしみ、内臓が圧迫され、呼吸をすることもままならない。

 

汐は技を放とうとするも、指一本動かせず悔し気に歯を食いしばった。

 

その時だった。

 

突然身体を締め付けていた木が緩み、月明かりが差し込んでくる。そして耳に飛び込んできたのは――

 

「しおちゃん!!」

 

透き通るような、聞き慣れた声。

 

「みっちゃん!!」

 

汐はすぐさま木の中から這い出すと、師匠の名を高々と呼んだ。

 

「捕まって!!」

 

蜜璃は汐の手を引くと、そのまま飛び上がり炭治郎を飲み込んだ木の竜を斬り裂いた。

 

「炭治郎!!」

 

汐は炭治郎の手を掴み、蜜璃は汐の身体を抱えるとそのまま羽のように地面に降り立った。

 

「大丈夫!?ごめんね、遅れちゃって!!」

 

蜜璃は木の影に座らせると、「休んでていいよ!」と明るく言った。

 

「待ってみっちゃん。あたしはまだ戦える・・・!」

 

汐は首を横に振って蜜璃の傍に寄ろうとするが、蜜璃はそれを制した。

 

「しおちゃんは炭治郎君の手当てをお願い」

「でも・・・!」

「あなたは自分のするべきことをしっかりすること。私の継子ならわかるでしょう?」

 

蜜璃に諭され、汐は頷くと炭治郎の傷の手当てを始めた。

それを見届けた蜜璃は、地面を蹴って鬼の元へ向かった。

 

「あ、みっちゃん気を付けて!!」

「上弦です。上弦の肆で・・・」

 

汐と炭治郎の言葉も聞かず、蜜璃は鬼の前に降り立つと険しい顔で刀を向けた。

 

「ちょっと君!!」

 

蜜璃は頭から湯気を吹き出しながら、鬼を睨みつけて言った。

 

「私の可愛い継子とお友達をいじめるなんて!オイタが過ぎるわよ!!禰豆子ちゃんと玄弥君を返してもらうからね!!」

 

啖呵を切る蜜璃を鬼は睨むと、ゆっくりと口を開いた。

 

「黙れあばずれが。儂に命令して良いのは、この世で御一方のみぞ」

 

鬼の雷のような声が響いた瞬間、蜜璃は石のように固まるが、

 

(あばずれ!?)

 

鬼のあまりな言葉に、蜜璃は思い切り顔を引き攣らせた。

 

(あばっ・・・あっ・・・。私!?私のこと!?)

 

蜜璃は身体を震わせながら、さらに顔を大きくゆがませた。

 

(信じられない!!あの子なんて言葉使うのかしら!?私の弟とそんなに年格好変わらないのに!!あら!?でも、鬼だと実年齢と見た目は違うわよね。それにしたってひどいわ!)

 

「ちょっと待てコラァ!何適当なこと言ってんだガキ爺!!」

 

そんな空気を切り裂く様に、汐の鋭い声が響いた。

 

「みっちゃんはね、尻が軽いんじゃない!!」

「しおちゃん・・・!!」

 

汐の言葉に蜜璃の顔がパッと明るいものに変わるが、次の汐の言葉を聞いて固まった。

 

「頭が軽いんだよ!!間違えんな!!」

「あなたの方がとんでもないこと言ってるわよ!!」

 

鬼よりも無慈悲な汐の暴言に、蜜璃は先ほどとは比べ物にならない程顔を崩してまくし立てた。

 

「うわああん!酷い、酷い!!しおちゃんの馬鹿ァ!!」

「ご、ごめんって!流石に言いすぎたって、危ない!!」

 

汐が弁解しようとしたとき、鬼の背後の二つの竜が、蜜璃に向かって口を開けた。

 

狂鳴雷殺!!

 

木の竜の音波と雷の攻撃が組み合わさり、嵐のようになって蜜璃を襲う。

 

「甘露寺さん!!」

 

炭治郎が思わず叫ぶと、汐は首を小さく横に振って言った。

 

「大丈夫よ。あんな攻撃、柱のみっちゃんに通じるもんか」

 

汐の自信に満ちた言葉の意味は、次の瞬間に炭治郎も理解することになった。

 

――恋の呼吸 参ノ型――

――恋猫しぐれ!!

 

蜜璃は猫のように縦横無尽に飛び跳ねる様に動き、刀を振り回した。

すると鬼の攻撃自体が、しなる刀によって全て両断された。

 

「私、怒ってるから!見た目が子供でも許さないわよ」

 

蜜璃の技を初めて見た炭治郎は、口をあんぐりと開けたまま石のように固まった。

 

「やれやれ。相変わらずぶっ飛んだ動きするわ、我が師匠は」

 

炭治郎の手当てをしながら、汐は呆れたような嬉しそうな表情でそう呟いた。

 

一方鬼も、攻撃自体を斬り裂いた蜜璃に微かな驚きを見せていた。

 

だが、鬼はそのまま表情を変えずに、木の竜を操り蜜璃をからめとろうとした。

蜜璃はそれを、柔軟を生かしたしなやかな動きで全て避けている。

 

次に鬼が繰り出したのは、汐が先ほど受けた重圧の攻撃。

そのすべてを素早い動きで躱す蜜璃。隙の無い動きに、炭治郎は目を離すことができなかった。

 

(す、すごい。あれが汐の師範の・・・、甘露寺さんの戦い方・・・)

 

鳴り響く太鼓の音の中、木の幹ほどの太さの竜が蜜璃を喰らおうと突っ込んできた。

 

――恋の呼吸・弐ノ型――

――懊悩巡る恋

 

蜜璃は逆に竜に突っ込むように加速すると、流れるように刃をしならせ瞬く間に切り刻んだ。

 

今度は別の竜の口が、光の槍のようなものを飛ばしてきた。

 

――陸ノ型――

――猫足恋風

 

しかし蜜璃はその攻撃すらも、舞うようにしてすべて斬りおとした。

 

(この速さでもついて来るか)

 

蜜璃の素早さに、鬼の顔にも微かに焦りが見え始めた。

 

(ならば、術で埋め尽くす)

 

血鬼術――

――無間業樹

 

鬼の周りの木から無数の竜の頭が生えるようにして跳び出し、四方八方から蜜璃に襲い掛かった。

 

(キャー!!広範囲の術!!受けきれるかしら!?)

 

蜜璃は顔を青ざめるが、その迷いを打ち消すように大きく息を吸った。

 

――恋の呼吸・伍ノ型――

――揺らめく恋情・乱れ爪

 

蜜璃は大きく飛び上がると、関節の柔らかさを最大限に生かしながら広範囲に刀を振るい、その攻撃すらもいなした。

 

そしてそのまま、鬼の頸に刀を巻きつけるようにすると、その反動を利用して一気に距離を詰めた。

 

すると鬼は、そのまま蜜璃に向かって口を大きく開けた。

 

(ん!?何かしようとしてる!?)

 

それに蜜璃は気づいたが、そのまま頸を斬ってしまおうと腕を振るったその時だった。

 

「みっちゃん、駄目よ!」

「そいつは本体じゃない!頸を斬っても死なない!!」

 

汐と炭治郎の鋭い声が飛んだ瞬間、今度ははっきりと蜜璃の顔が青ざめた。

 

(えっ、やだホントに!?判断、間違えちゃっ・・・)

 

狂圧鳴波!!

 

蜜璃が気づいたときにはもう遅く、鬼の音波と重圧の合わせ技が容赦なくその身体を穿った。

 

「うわああああ!!みっちゃんん!!!」

「甘露寺さん!!」

 

膝をつき、ぐったりとする蜜璃を見て汐と炭治郎は叫び声をあげた。

 

木に捕らわれていた禰豆子は腕を引き千切り、玄弥は渾身の力で隙間をこじ開け何とか脱出しようとしていた。

 

(信じがたし!!)

 

だが、鬼は目の前の蜜璃を見て顔をしかめた。

 

(この小娘、今の攻撃を喰らって尚、肉の形を保っているとは!!)

 

先程の鬼の攻撃は、喰らえば肉体が破壊されるほどの代物。しかし目の前の蜜璃は、服は破れ白目をむいているもののまだ生きていた。

 

それを見て鬼は気づいた。蜜璃は特殊な肉体を持つ者だと。下手をしたら稀血の人間ほどの力を得ることができるということ。

 

(しかし、まずは頭蓋と脳味噌を殴り潰しておくとするか)

 

鬼は蜜璃との間合いを一瞬で詰め、その拳を頭に向けて振り抜こうとした。

 

その一瞬の間に、蜜璃は昔の事を思い出していた。

 

*   *   *   *   *

 

蜜璃はかつて、自分の特殊な体質により辛い思いをしながら生きてきた。

そんな自分が初めて認められたのが、産屋敷輝哉が治める鬼殺隊。

 

そんな蜜璃を鍛えていたのは、かつての炎柱・煉獄杏寿郎だった。

 

蜜璃は彼の下で炎の呼吸を学んでいたが、うまく使いこなすことができずに悩んでいた。

そしていつしか、自分は鬼殺隊に向いていないのではないかとすら思うようになってしまった。

 

しかし、そんな蜜璃を、煉獄は決して見限りはしなかった。

 

『弱き人を助けることは、強く生まれた者の責務。亡くなった母の教えだ!甘露寺はいずれ、俺をも超える剣士になるだろう!』

 

それはかつて、自身の悩みを初めて煉獄に相談した時の事だった。

 

『君の膂力も体の柔らかさもさることながら、奇抜な髪色だって見方を変えれば、鬼の気を引き人を明るくする、立派な才能だ!』

 

――何より君には、人を愛する心がある!君の育手になれて俺は幸せ者だ!誇りに思う!

 

(煉獄さん・・・!)

 

そして次に思い出すのは、煉獄が命を散らした後、汐が雨と涙に塗れながら自分の所へやってきた事。

 

(しおちゃん・・・。ごめんね・・・。私、死んじゃうかもしれない・・・)

 

心の中で汐に謝罪の言葉を述べる蜜璃だが、それを斬り裂くような声が響いた。

 

『心を燃やせ!!』

 

蜜璃がその声に導かれるように目を開くのと、目の前の鬼が吹き飛ぶのがほぼ同時だった。

 

「え・・・」

 

蜜璃は呆然と、目の前の光景を見つめていた。そこには、燃え盛るような炎のような音と、舞い散る火の粉。

そして、その場には決していないはずのその背中。

 

「れ、煉獄・・・さん?」

 

思わずつぶやいたその名前だけが、微かな静寂の中に響いた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

二十七章:光明


目の前の光景に、蜜璃は自分の目を疑った。そこには、上弦の鬼との戦いで命を落としたはずの煉獄杏寿郎が立っていたからだ。

 

(そんな、嘘・・・。だって師範は・・・煉獄さんは・・・)

 

溢れそうな涙をこらえるように、蜜璃は一度瞬きをした。すると、煉獄の姿が陽炎のように歪み、代わりに立っていたのは真っ青な髪の色と、真っ赤な鉢巻の少女。

 

大海原汐が、蜜璃を守るように立っていた。

 

「しお・・・ちゃん・・・」

 

蜜璃の目から涙があふれ出し、頬を濡らしていった。

 

それは、鬼の拳が蜜璃に到達する数秒前の事。

 

炭治郎の手当てをしていた汐が突如飛び出し、鬼に飛び掛かった。

 

汐の刀が橙色に煌めき、その斬撃は鬼の身体を大きく抉るとはるか遠くに吹き飛ばした。

蜜璃に意識が向いていた鬼は、汐を完全に失念していたため反応が遅れたためその力に成す術はなかった。

 

「しおちゃん・・・!!」

 

汐の姿を見て涙を流す蜜璃だが、間髪入れずに轟音が響き渡った。あちこちから竜の頭が汐達の方に向かってきたのだ。

 

「ぐあああああ!!!」

 

するとその轟音をかき消すかのような声が響き二人の身体は地面に引き倒されていた。

 

蜜璃が目を見開くと、そこには炭治郎、禰豆子、玄弥の三人が二人を庇うようにして倒れていた。

 

「み、みんな・・・」

 

蜜璃が口を開きかけたその時、炭治郎の焦った声が響いた。

 

「立て立て立て!!次の攻撃くるぞ!!」

「わかってるっつーの!!」

 

玄弥は怒鳴り返しながら禰豆子と共に、蜜璃を抱えて立ち上がった。

 

「甘露寺さんを守るんだ!!一番可能性のあるこの人が、希望の光だ!!」

 

炭治郎の凛とした声が、蜜璃の身体に染み渡るようにして響く。

 

「んなもん当り前よ!!あたしの師範は、仲間は、絶対に死なないし死なせない!!」

 

汐の決意に満ちた表情と声に、蜜璃の胸は締め付けられた。

 

「みんなで勝とう!!俺たちは・・・!!」

 

炭治郎が言葉を紡ぎ終わる前に、体勢を立て直した鬼の太鼓が響いた。

上空から雷の筋が、汐達めがけて降り注ぐ。

 

汐は爆砕歌を放とうと息を吸った、その時だった。

 

「伏せて」

 

蜜璃の静かな声が響くのと、雷が落ちるのはほぼ同時だった。

轟音と土煙が上がり、焦げ臭い匂いが辺りに充満する。

 

(やったか?)

 

鬼は表情を険しくさせながら、その場所を凝視していた、その時だった。

 

「みんな、ありがとお~~!!」

 

土煙の中から、間の抜けた声が辺りに響く。

 

「柱なのにヘマしちゃって、ごめんねぇぇ」

 

土煙が収まったその場には地面に突っ伏す汐達と、涙を流しながら刀を振り回す蜜璃の姿があった。

あれ程の数の雷の雨を、蜜璃は全て斬り捨てたのだ。

 

「仲間は絶対に死なせないから!!鬼殺隊は私の大切な居場所なんだから、上弦だろうが何だろうが関係ないわよ!!」

 

蜜璃は涙と泥で汚れた顔を乱暴に拭くと、叫ぶように言い放った。

 

「私悪い奴には絶対負けない!!覚悟しなさいよ、本気出すから!!」

 

そう言って立ち上がる蜜璃の"目"を見て、汐は息をのんだ。今までにない程の決意と気迫、そして柱としての責務を読み取れた。

 

「うん、それでこそみっちゃん。あたしの師範の甘露寺蜜璃よ!」

 

汐の嬉しそうな言葉に、蜜璃の口元に笑みが浮かんだ。

 

「だったらもう遠慮はいらないわね。あの馬鹿、ぶちのめすわよ!!」

 

汐もそう言って蜜璃の隣に立とうとしたとき、蜜璃は首を横に振った。

 

「ここは私に任せて、しおちゃんは炭治郎君たちと本体を捜して」

「え?」

 

汐が思わず見つめ返すと、蜜璃は顔を鬼に向けて言った。

 

「炭治郎君にはあなたが必要よ。私の言いたいこと、わかるわね?」

 

蜜璃の真剣そのものの表情に、汐は全てを察すると頷いた。

それを見た蜜璃は嬉しそうに笑うと、表情を引き締めて前を見据えた。

 

(お父さん、お母さん。私を丈夫に生んでくれて、ありがとう)

 

蜜璃は心の中にたくさんの人達を思い浮かべた。

 

ある任務での最中に救った人々は、涙を流して蜜璃に礼を言った。

 

同じ柱である伊黒は、蜜璃の為に縦じまの長い靴下をくれた。

 

継子を迎えることもできた。たくさんの仲間もできた。

 

(女の子なのに、こんな強くっていいのかなって。また、人間じゃないみたいに言われるんじゃないのかなって、怖くって。力を抑えていたけど、もうやめるね)

 

蜜璃の脳裏に、汐と炭治郎の言葉が蘇る。

 

(他人が何を言おうが、関係ないわ。胸張ってふんぞり返ってればいいのよ!)

(この人が、希望の光だ!!)

 

「任せといて。みんな、私が守るからね」

 

蜜璃は胸に確かな決意を抱くと、地面を蹴って走り出した。

それと同時に太鼓が鳴り響き、巨大な竜が姿を現した。

 

「こっちは私が何とかするから、しおちゃん達は本体を!!」

「わかったわ!行くわよ、あんた達!!」

 

汐の言葉に炭治郎達は頷き走り出した。

 

「炭治郎、本体の入っている玉は何処だ!?わかるか!?」

「わかる、こっちだ!!」

 

炭治郎がある方向を指さすと、汐達はその方角へ足を進めた。

 

残された蜜璃は、四方八方から襲い来る竜を片っ端から切り刻んでいった。

 

(もっと心拍数を上げなくちゃ)

 

大きく息を吸い、肺に空気を大量に入れ血の循環を速くする。

 

(もっと早く、強く・・・、もっと!!)

 

鬼は本体のある方向へ向かった汐達を見て、僅かに焦りを見せた。

再生力を落とす剣術を使う炭治郎、人と共に戦う鬼禰豆子、致命傷を与えても絶命しない玄弥、そして、人とは思えない技を持つワダツミの子、汐。

本体を落とされることを危惧した鬼は、汐達の方向へ追っ手を放とうとしたときだった。

 

蜜璃が瞬時に飛び掛かり、竜の頭をバラバラに斬り裂いた。しかも先ほどよりも速度が増しているようだった。

 

(先ほどよりも動きが速い!何をした!?何をしている!?)

 

鬼はすぐさま蜜璃に視線を向け、そして大きく目を見開いた。

蜜璃の左首筋に、桃色の奇妙な痣が浮き出していた。

 

(痣・・・!?初めから在ったか?)

 

それを見た鬼はある事に気づいた。酷似していたのだ。鬼の持つ文様に。

鬼は太鼓を二度同時に打ち鳴らし、雷と竜を同時に差し向けた。しかし蜜璃は、それすらも容易に斬り裂き、舞うように飛び回る。

 

(不愉快極まれり!!)

 

鬼は不快感を隠すことなく、蜜璃を睨みつけた。

 

(この小娘のせいで、童共の方へ石竜子をやれぬ!!憎たらしい!!)

 

だが、蜜璃と鬼との間には絶対的な相違点があった。

それは、蜜璃は人間で、こちらは鬼であるということ。

 

鬼には体力の限界がないということ。

 

(必ず体力が続かなくなる。人間は、必ず!!)

 

「ぐああああ!!」

 

一方、森の中では炭治郎のうめき声が響いていた。

本体の入った木を見つけたのはいいが、血鬼術で出来た木は、炭治郎達を振り落とそうと暴れまわる。

 

汐が何度か束縛歌で動きを止めるものの、やはり上弦の鬼の能力は侮れなかった。

 

「振り落とされるな!!頑張れ、頑張れ!!木のアレ・・・ヘビトカゲ竜みたいなのが、来ないうちに、甘露寺さんが止めてくれてるうちに!!」

 

全身を引き裂かれるような風圧を必死で耐える汐達だが、しがみ付くのに精いっぱいで刀を振ることすらできない。

 

一向に変わらない状況に、玄弥は悔しそうに歯を食いしばった。

 

(大海原が動きを止めても、このままじゃ埒が明かねえ。なら・・・!!これしかねえ!!)

 

玄弥は意を決すると、突然目の前の木に食らいついた。木を噛みちぎるバリバリという音が、風を切る音に交じって聞こえてくる。

それを見た汐と炭治郎は、目玉が飛び出す程驚いた。

 

(木を、鬼を喰ってる・・・!?)

「玄弥大丈夫か!?お腹壊さないか!?」

 

冷静に驚く汐と、微かに驚く場所が違う炭治郎をしり目に、玄弥はそのまま気を喰らい続けた。

 

玄弥は蜜璃同様、特殊な肉体を持っていた。鬼、もしくは体の一部や血鬼術を帯びたものを喰らうと一時的に鬼と同じ体質になれるのだ。

それは鬼の強さに比例し、相手が強ければ強い程、玄弥の身体能力も再生能力も増す。

 

玄弥は呼吸が使えないが、彼の持つ優れた咬合力と消化器官による短時間の鬼化によりここまで戦って来られたのだ。

 

玄弥が幹を喰いちぎったことにより、暴れ木は重力に従って倒れた。だが、それでも木は抵抗をやめず、枝の鞭が炭治郎達を寄せ付けまいと暴れまわる。

 

その時、一本の枝が禰豆子の右肩を大きく抉り、真っ赤な鮮血が吹き出した。

 

「禰豆子!!」

 

一番近くにいた汐が思わず叫ぶと、禰豆子の血は汐の頭から雨の様の降り注いだ。

 

禰豆子の血を浴びて真っ赤になった汐は、目の前の状況を見てある事を思いついた。

 

「禰豆子――!!あんたの血鬼術であたしを燃やして!!」

「!?」

 

汐の声に、禰豆子は驚いたように汐を見た。

 

「あたしがこのまま突っ込んで、あの枝を全部焼き払う!!だからお願い!あたしに力を貸して!!」

 

禰豆子は一瞬だけ戸惑うように瞳を揺らしたが、汐の真剣な表情を見て頷いた。

 

汐は刀を構えると、大きく息を吸った。低い地鳴りのような音が響き、刀が橙色に変化する。

 

「皆どいて!!禰豆子、お願い!!」

 

汐が踏み出すと同時に、禰豆子が術を発動した。汐の身体が真っ赤な炎に包まれ、火の玉となって木の中に突っ込む。

 

海の呼吸 捌ノ型――

――漁火(いさりび)!!!

 

炎の弾丸と化した汐の振り下ろされた剣戟が、動き続ける枝を全て焼き払い消し炭へと変えた。

 

「今だぁああああああ!!」

 

叫びと同時に炭治郎の刀にも火が燃え移り、漆黒の刃が赤く輝く。

 

――ヒノカミ神楽――

――炎舞!!!

 

炭治郎が刀を振り抜き、木の球体を斬り裂いた。

汐、禰豆子、玄弥が木が閉じないよう押さえつけ、炭治郎が止めを刺そうと振り上げた時だった。

 

(い、いない!!)

 

汐はすぐさまあたりを見回し、鬼の気配を探った。それ程遠くはない様だ。

炭治郎も匂いを辿り、鬼のいる方角を向いた。

 

「ヒィィ!!」

 

遠くで甲高い悲鳴を上げながら逃げていく、半天狗の本体が目に入った。

 

その瞬間、炭治郎の体内を怒りが流れるように駆け巡った。

 

「貴様アアア、逃げるなアア!!責任から逃げるなアア!!」

 

雷鳴のような炭治郎の声が森中に響き渡り、半天狗の身体が一瞬硬直する。

 

「お前が今まで犯した罪、悪業、その全ての責任は必ず取らせる!!絶対に逃がさない!!」

 

その言葉を聞いた半天狗は、一瞬、同じようなことを誰かに言われたような錯覚に陥った。

 

『貴様のしたことは、他の誰でもない貴様が責任を取れ。この二枚舌の大嘘つきめ』

 

(大嘘付き?馬鹿な)

 

半天狗は走りながら、首を横に振った。

 

(儂は生まれてから一度たりとも嘘など吐いたことがない、善良な弱者だ。これ程可哀想なのに、誰も同情しない)

 

半天狗はそう自分に言い聞かせながら、ひたすらに逃げ惑った。

 

(くそっ、ここからじゃ束縛歌が届かない・・・!!早くケリをつけないと、みっちゃんがもたない・・・!!)

 

汐は顔を歪ませながらも、半天狗を逃がすまいと必死で後を追った。

炭治郎も負けじと、汐の後を追おうとしたときだった。

 

炭治郎の背後で、メキメキという奇妙な音が聞こえた。そして否が応でもわかる、激しい怒りの匂い。

 

「いい加減にしろ、このバカタレェェェェ!!」

 

炭治郎は後ろを振り返り、ぎょっとした。玄弥が自分の何倍もある大木を担ぎ、振りかぶっているところだった。

 

「汐危ない!よけろーーー!!」

 

炭治郎が叫ぶと同時に、玄弥は怒りに任せて大木を放り投げた。

 

大木は綺麗な放物線を描き、汐を飛び越え半天狗の方向へと叩き落された。

 

「うわああああああ!!!」

 

いきなり飛んできた大木に汐は悲鳴を上げるが、それをかき消す玄弥の怒声が響き渡った。

 

「ガアアアアアッ、クソがァァァ!!いい加減死んどけお前っ!!」

 

玄弥は再び大木を引き抜くと、怒りに任せて再び放り投げた。

 

「空気を読めえええ!!」

 

投げられた大木は半天狗の進路を塞ぎ、たまらず悲鳴を上げる。

そこにすかさず、追いついた禰豆子が爪を振り上げた。

 

「ヒイィィ!!」

 

半天狗は小さな体を生かして禰豆子の攻撃をかいくぐると、そのまま恐ろしい速さで再び逃げ出した。

 

「足速ェェ!!何なんだアイツ、クソがァアアア!!追い付けねぇええ!!」

 

玄弥の怒声が飛び、汐も苛立ちが頂点に達する中、炭治郎は半天狗の狙いに気づいた。

 

半天狗の狙いは延々と逃げ続け、夜が明ける前に蜜璃が潰れるまで粘る事だった。

 

(そんなことさせない!!俺たちが、お前には勝たせない)

 

炭治郎は必死に半天狗を追うが、先ほどの攻撃で左足をやられているため激痛で踏ん張りがきかない。

禰豆子も玄弥も、もはや体力は限界に近かった。

 

(せめて、せめて・・・。一瞬だけでもいい。あいつの動きを止められたら・・・。あいつの耳に、少しでも歌が届けば・・・!!)

 

だが、半天狗は束縛歌が届く範囲外におり、仮に届いてもすぐに拘束は解かれるだろう。

 

(でもやるしかない!例え何の力になれなくても、少しでもみんなの役に立てるのなら・・・!!)

 

汐は走りながらウタカタの呼吸音を響かせた。弦を弾くような、高い音。

そして頭の中に流れ込む、束縛歌の旋律。

 

すると、その旋律は突然。いつもとは異なる旋律へと変わった。

 

鬼を確実に捕らえる。絶対に逃がさない・・・!!

 

――ウタカタ 参ノ旋律・転調――

――繋縛歌(けいばくか)!!!

 

汐の口から歌が放たれた瞬間、時が止まったような奇妙な感覚が広がった。

 

それは汐の遥か前を走っていた半天狗の耳にも届いた。

 

(なん・・・じゃ・・・。これは・・・!?)

 

半天狗の身体が突然硬直し、足が石のように重くなった。

 

(う、動け・・・ん!?何故じゃ・・・!?何故儂の身体が・・・動かん・・・!?)

 

半天狗は体中から汗を吹き出しながら、必死でこの状況を理解しようとした。

 

(あの青い髪の娘の・・・、青い怪物の・・・!!)

 

半天狗の顔がみるみる青く染まる中、後方から何かが破裂するような轟音が響いた。

 

思わず振り返ったその時。半天狗の首筋に押し当てられたのは、真っ赤に燃えた日輪刀。

 

炭治郎が刃を、その頸に食い込ませていた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



汐の新たな歌が半天狗を拘束する少し前。炭治郎は以前、善逸と技について語り合っていたことを思い出していた。

 

『雷の呼吸って、一番足に意識を集中させるんだよな』

 

善逸は磯部揚げ餅を旨そうに頬張りながら、唐突にそんなことを言った。

 

『自分のさ、体の寸法とか筋肉一つ一つの形ってさ、案外きちんと把握出来てないからさ。『それら全てを認識してこそ、本物の“全集中なり”』って俺の育手のじいちゃんが、よく言ってたなぁ』

 

その言葉を思い出した炭治郎は、筋繊維一本一本、血管の一筋一筋まで空気を巡らせ、力を足だけに溜めた。

溜めて、溜めて、そして一息に爆発させる。空気を切り裂く雷鳴の如く。

 

汐が新たなウタカタを放ち、鬼の動きが止まると同時に、炭治郎は雷神の如く一気に半天狗との距離を詰めた。

 

そして、真っ赤に燃える刀身をその細い頸に押し当てた。ミシミシと音を立てながら、刃が少しずつ食い込んでいく。

 

(行け!!行け!!今度こそ、渾身の力で・・・)

 

炭治郎は力を込めて、そのまま押し切ろうと歯を食いしばった時だった。

半天狗は頸をぐるりと炭治郎の方へ向けると、恨みと憎しみの篭った表情で睨みつけた。

 

「お前はああ、儂がああああ、可哀想だとは思わんのかァァァア!!」

 

突然、半天狗の身体が膨れ上がるように大きくなり、炭治郎の顔を乱暴に掴んだ。

口を塞がれ、呼吸がし辛くなった炭治郎の腕から、力が抜けていく。

 

「弱い者いじめをォ、するなあああ!!」

 

半天狗はそのまま炭治郎の顔を握り潰そうと力を込めた。骨がきしみ、炭治郎の鼻からは血が流れだす。

だが、それを阻止しようと、鬼の力を宿した玄弥が半天狗の手を掴んだ。

 

「テメェの理屈は全部クソなんだよ。ボケ野郎がァアア!!」

 

玄弥は怒りの咆哮を上げながら、更に腕に力を込めた。すると、半天狗は口を開き、超音波を放とうと力を貯め始めた。

 

すると、突然赤い雫が上空から降り注ぎ、半天狗が身体を逸らした時だった。

禰豆子が遠隔で血を発火させ、半天狗を飲み込んだ。

 

そしてその一瞬の隙を突いて、後方から汐が飛び掛かり半天狗の脳天に刀を突き刺した。

 

「それ以上ほざくな、下衆がァァア!!」

 

汐が半天狗の頸をへし折り、玄弥は炭治郎を掴んでいた手を引き千切った。

だが、禰豆子の火は、鬼を喰っている玄弥も燃やしてしまうため、彼の身体にも燃え移った。

 

「玄弥!!」

 

汐が叫んだその時、半天狗の身体はそのまま重力に従って傾いた。

奇妙な浮遊感を感じて汐が振り返ると、そこは切り立った巨大な崖になっていた。

 

(ここは、まさかあの時の・・・!!)

 

刀を突き刺したままの汐は勿論、炭治郎、禰豆子も半天狗と共に崖から落ちていく。

 

そしてやや遅れて、落下の轟音が響き、土煙が立ち上った。

 

「炭治郎、禰豆子、大海原ーーー!!」

 

鬼化が解けた玄弥は、青い顔で三人の名を叫んだ。鬼の禰豆子はともかく、炭治郎と汐はこの高さから落ちてしまったら、ただじゃすまない。

 

やがて土煙が収まると、その中に蠢くものが見えた。半天狗と、禰豆子だった。

 

(炭治郎と大海原は何処だ!?)

 

この位置からは二人の姿が見えない。玄弥は歯がゆい思いで必死に目を凝らした。

 

一方、半天狗と共に崖下に落下した汐は、身体にかかるであろう衝撃に備えて身を固くした。

だが、衝撃はあったものの、思ったほどの強さではなかった。

 

不審に思って目を開ければ、自分の身体は地面から浮いており、顔を上げればそこには苦しそうに顔を歪める禰豆子の姿があった。

 

「禰豆子!?」

 

汐が声を上げると、禰豆子はほっとした様に目を細めた。落下する寸前、禰豆子が落ちてくる汐を受け止めたのだ。

だが、その衝撃で禰豆子の両足は、筋肉と骨が見える程大きく裂けてしまっていた。

 

「あ、あんた・・・!鬼だからってなんて無茶を・・・!!ううん、違うわね。助けてくれてありがとう」

 

しかし汐は禰豆子への叱責を飲み込み、助けてもらった礼を言った。

 

「そうだ、あいつ・・・!それと炭治郎は・・・!?」

 

汐は禰豆子に下ろしてもらうと、慌てて辺りを見回した。

炭治郎の姿はない。だが、半天狗は炭治郎の刀を頸に食い込ませたまま、ふらふらと動きだしていた。

 

「こいつっ・・・!!」

 

汐は慌てて追いかけようとするが、突然強烈な眩暈を感じて蹲った。

ウタカタの新技を二度も使い、新たな型も撃った反動で身体が言うことを聞かないのだ。

 

(そんな・・・、こんな時になんで・・・!あと少しで奴を仕留められるのに・・・!!)

 

汐は動かない身体を激しく憎む中、満身創痍の半天狗は覚束ない足取りで動いていた。

 

(まずい、再生が遅くなってきた。"憎珀天(ぞうはくてん)"が力を使いすぎている。人間の血肉を補給せねば・・・)

 

半天狗はあたりを見回すと、少し離れた場所に人間の気配を感じた。

 

「待て」

 

だが、半天狗がそちらへ向かおうとしたとき。鋭い声が響いた。

思わず顔を向ければ、そこには木の枝に身体を預けた炭治郎が、こちらを睨みつけていた。

 

「逃がさないぞ・・・。地獄の果てまで逃げても追いかけて、頸を、斬るからな・・・!!」

 

炭治郎の口から出たのは、怒りと憎しみが籠った声。その気迫に半天狗の背筋に冷たいものが走った。

慌ててあたりをもう一度見渡せば、草むらの影に刀を持った里の者が慌てふためいているのが見えた。

 

(いた。人間(くいもの)だ・・・!!)

 

食料を見つけた半天狗は、力を振り絞って走り出した。

 

(童四人のうち、一人は鬼、もう一人はワダツミの子で厄介じゃ。悉く邪魔される)

 

時間が経ち、段々と戻ってくる足の感覚に感謝しながら、半天狗は走り続けた。

 

(結局あの童の刀は、儂の頸に食い込むだけで斬れはせん。まず先に、あの人間を喰って補給してから・・・)

 

炭治郎は痛む体を叱責しながら、枝から滑り落ちるようにして地面に降り立った。

すぐさま立ち上がり、もう一度先ほどのように地面を蹴ろうと足に力を込めた時だった。

 

頭上から風を切るような音が聞こえ、すぐに大きくなったかと思うと炭治郎の前に何かが落ちてきた。

 

(!?)

 

炭治郎は突然の事に一瞬だけ思考が停止したが、それが一本の刀だということがわかった。

 

「使え!」

 

間髪入れずに聞こえてきた声に振り返ると、いつの間にか崖の上に人影が増えていた。

 

その声を聞いて、炭治郎は思わず笑顔になった。そこには、時透無一郎と鉄穴森、小鉄、鉄火場、鋼鐵塚の姿があった。

 

「炭治郎、それを使え!!」

「返せ!ふざけるな殺すぞ使うな!!」

 

必死で叫ぶ無一郎を、鋼鐵塚が怒りながら首を絞めている。

 

「第一段階までしか研いでないんだ、返せ!!」

「夜明けが近い、逃げられるぞ!!」

 

怒りのあまり暴れ出す鋼鐵塚の拳を受けながら、無一郎は必死で叫んだ。

 

(時透君・・・)

 

炭治郎は投げ渡された刀の柄をしっかりつかむと、大きく息を吸った。

 

(ありがとう!!)

 

炭治郎の口から炎のような呼吸音が漏れた瞬間。

空気を震わすような爆発音が響き渡った。

 

半天狗が振り向いたその時には、もうすでに刃はその頸に届いていた。

 

――円舞一閃

 

善逸の【霹靂一閃】の動きを参考に取り入れた、炭治郎の新たな技が半天狗の頸をついに穿った。

巨大な頸が綺麗に体から離れ、落下していく様を汐も見ていた。

 

(やった、やった・・・!!斬った、斬った!!)

 

汐は身体が動かないことも忘れ、喜びに顔をほころばせた。

だが、汐は見落としていた。ここは大きく開けており、日陰になる場所が殆どない。

 

そして、もうじき夜明けが近いことも。

 

それに気づいたのは、空がうっすら白みだしているのを見た時だった。

 

(まずい、夜が明ける!日が昇ったら、禰豆子が危ない!!)

 

汐は何とか身体を動かそうとするが、全身が麻痺したように動かない。

禰豆子は力を使いすぎたせいか、うとうとと眠そうに目をこすっていた。

 

炭治郎もその事に気づいており、禰豆子に安全な場所に隠れるように伝えようとした。

だが、技の反動で声が出ず、出るのはか細い咳だけだ。

 

禰豆子は満身創痍の兄の姿を見て目を見開くと、慌てたように駆け寄ってきた。

 

(違う!!禰豆子、こっちに来なくていい。お前だ、お前なんだ危ないのは。日が差すから・・・)

 

声が出せない炭治郎は、心の中で必死に叫んだ。しかし禰豆子は焦りを浮かべたまま、炭治郎の元に駆け寄った。

 

「禰豆子!!逃げろ・・・!!日陰になるところへ・・・!!」

「ううっ、うう!!」

 

しかし禰豆子は、炭治郎の制止も聞かず、何かを訴えるように声を上げた。

その時、炭治郎の鼻が微かに鬼の匂いを捕らえた。

 

「!?」

 

炭治郎が振り返ると同時に、耳をつんざくような悲鳴が聞こえてきた。

 

「うわああああ!!逃げろ、逃げろ!!」

「死んでない。頸を斬られたのに・・・!!」

 

里の者たちが慌てふためき、何かから逃げている。視線を動かせば、そこには頸のない鬼の身体が里の者たちを追いかけていた。

 

「なん・・・!?」

 

それをみた汐は思わず声を上げた。本体の頸は、炭治郎が斬り落としたはずだ。

 

「まさか・・・、あれも本体じゃ・・・ない・・・!?」

 

汐は頭から冷水を浴びせられたような感覚を感じた。

 

(ふざけんな!!ここまで来て・・・!!)

 

汐はふらつく体でなんとか立ち上がり、半天狗の方へ視線を向けた時だった。

 

「ギャッ!!」

 

絹を裂くような悲鳴と、何かが焼ける嫌な音。そして

 

「禰豆子!!」

 

炭治郎の悲鳴に近い声が響き渡った。

振り返れば、そこには陽の光に身体を焼かれる禰豆子と、必死で禰豆子を覆い隠そうとする炭治郎の姿。

 

「炭治郎!!禰豆子!!」

 

汐は一瞬だけ迷いを見せたが、すぐに炭治郎の方へ向き自分の羽織を脱いで投げ渡した。

 

「これを・・・、使って!!」

 

炭治郎が汐の羽織を受け取ったのを見届けると、汐はすぐさま悲鳴の聞こえた方へ走り出した。

 

「縮めろ!!体を小さくするんだ!!」

 

炭治郎は汐の羽織で禰豆子を覆い、己の身体で日陰を作ろうとする。

しかし、禰豆子の身体はみるみるうちに焼けただれて行く。

 

(まだ陽が昇り切ってなくてもこれほど・・・!!)

 

炭治郎は唇をかみしめながら、必死に禰豆子を庇った。

 

背後から悲鳴が再び聞こえ、炭治郎ははっとした。汐は、半天狗の本体の潜んでいる場所を知らない。

鬼の気配を感じることはできても、伊之助程正確にはできない。それに、汐自身も満身創痍で動くのがやっとのはずだ。

 

(汐が危ない・・・!ああでも、禰豆子をこのままにできるはずがない!!)

 

崖の方を向けば、玄弥が必死で降りようとしている姿と、飛び降りようとして小鉄に止められている無一郎の姿が目に入った。

とても間に合うはずがない。

 

炭治郎は鬼も朝日で塵になることを想像したが、その前に汐や里の者がやられる可能性が高い。

 

炭治郎は迷っていた。禰豆子を取るか、汐や里の人達を取るか。

勿論、どちらかを犠牲になどできない。したくはない。だが、迷っていればどちらも失う。

 

その決断を、炭治郎はすることができなかった。

 

すると、そんな兄を見かねたのか。禰豆子の足が動き、炭治郎を思い切り蹴り飛ばした。

 

「・・・っ!」

 

空中に投げ出された炭治郎が見たのは、全身が焼けただれて行く中笑顔を見せる、最愛の妹の姿。

まるで、私の事は気にしないで。みんなを助けて。と言っているかのように。

 

(禰豆子・・・!!)

 

炭治郎は身をひるがえすと、あふれる涙をこらえながら走り出した。

 

遠くから鬼と汐の匂いが流れてくる。その匂いを辿りながら、炭治郎はひたすら走った。

 

同時刻、汐は悲鳴を頼りに鬼の居場所を探していたが、疲弊しているせいか鬼の気配が感じづらくなっていた。

早く仕留めねばと焦る汐の耳に、切羽詰まった声が聞こえてきた。

 

「汐ーー!!俺が誘導する!!そのまま走れぇぇえ!!」

 

それは、まごうことなき炭治郎の声。汐は一瞬驚いたものの、言う通りに走った。

すると少し先に、里の者に今にも襲い掛かろうとしている半天狗の姿があった。

 

「テメェエエエ!!!潔くあの世へ行きやがれェエエエ!!」

 

汐は叫び声を上げながら、半天狗に向かって刀を振り下ろした。固い音が響き、刃が微かに食い込む。

すると半天狗の腕が大きく動き、汐の右肩を掴んだ。

 

肩が外れる鈍い音と共に激痛が走るが、それに構うことなくさらに刀を強く握った。

 

「汐、心臓だ!!鬼は心臓の中にいる!!」

(心臓!?)

 

先程よりも近づいた炭治郎の声に従い、汐は刀を心臓に向かって振り上げた。

だが、片腕を潰されたせいで力が入らない。半天狗も必死に抵抗し、汐を握り潰そうとしている。

 

「おおおおおおぁあ!!!」

 

汐が獣のような咆哮を上げ、空気がびりびりと音を立てる中。汐の青い刃と共に重ねられたのは、漆黒の刀だった。

 

「命をもって、罪を償え!!」

「地獄で詫び続けろ、屑が!」

 

二本の刀が半天狗の本体に届いた瞬間、半天狗の脳裏には微かな記憶が蘇った。

だが、それを認識する間もなく半天狗の頸は切断され、朝日を浴びて塵と消えた。

 

「・・・・!!」

 

汐は息を切らしながらも、目の前で消えていった鬼を見て僅かに安堵した。だが、先ほどの光景を思い出し、炭治郎に駆け寄った。

 

「炭治郎!!」

 

炭治郎は汐より少し離れた場所で項垂れており、身体が小刻みに震えていた。

 

「炭治郎!炭治郎しっかり!!」

 

汐が炭治郎の身体を揺さぶると、炭治郎は光を失った目で汐を見上げた。

 

「汐・・・」

 

炭治郎は抑揚のない声でそう言うと、唇を大きく震わせた。

 

「禰豆子が・・・、禰豆子が・・・っ」

 

炭治郎の目から大粒の涙があふれ出し、地面を黒く染めていく。

炭治郎が禰豆子を見捨てるはずはない。その事を、汐は誰よりも知っているつもりだった。

 

だからこれは、禰豆子が自分自身で選んだ結末だったということを。

 

「っ!!」

 

汐は膝をつくと、左腕で炭治郎の頭を抱え込むようにして抱きしめた。

 

この行為に意味などないかもしれないが、炭治郎をこの残酷な結末から少しでも遠ざけたいという、汐のささやかな我儘だった。

 

抱きしめられた炭治郎は、汐の胸元に顔をうずめて隊服を握りしめた。

戦いには勝った。だが、炭治郎は禰豆子という最愛の妹を失った。

 

陽の光に焼かれて、禰豆子は骨すら残らない。今まで戦ってきた意味を、この瞬間自分は失ってしまった。

 

その現実を拒絶するかのように、炭治郎は汐に身体を預けて、肩を激しく上下させながらすすり泣いた。

 

(何なのよ、これ。こんなの、こんなの。あんまりよ・・・。惨すぎるわよ・・・!!)

 

汐は悔しさのあまり、唇が切れる程かみしめた。

だが、ふと何かの気配を感じて顔を上げると、そこには。

 

「え・・・」

 

汐の口から、力のない声が飛び出した。目の前に広がる光景に、我が目を疑った。

 

「炭治郎」

 

汐は未だに顔を上げない炭治郎を呼ぶが、炭治郎は聞こえないのか動かない。

 

「炭治郎っ。炭治郎ってば・・・!!」

 

汐の声が大きくなり、ようやく炭治郎も反応を見せた。

恐る恐る顔を上げれば、汐は驚愕を張り付けた表情で後ろを見ている。

 

「炭治郎・・・!あれ、あれ・・・!!見て・・・」

 

汐がかすれた声で後ろを指さし、炭治郎もゆっくりと振り返った。

 

そこにあったのは、否、いたのは。

 

「禰豆子が、禰豆子が・・・」

 

日光を浴びて尚、その姿を保っている禰豆子だった。

 

「太陽を、背にして・・・!!」

 

皆が言葉を失う中、汐の羽織を肩に掛けた禰豆子は、口枷が外れた口をゆっくりと動かす。

 

「お、お・・・おはよう」

 

禰豆子の歯切れのよい声が、汐達の耳に優しく届いた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

参(一部閲覧注意描写有)

今回はいつもより短めです。
久々にあの方が出ますww


時間はかなり遡り。

炭治郎はある日、ある人物から一通の手紙をもらっていた。

 

それはかつて汐と共に出会った、鬼でありながら鬼舞辻無惨を敵視する、珠世という女性からだった。

 

珠世からの手紙には、炭治郎が禰豆子と十二鬼月の血液を提供してくれたことへの感謝の意と近況報告がつづられていた。

 

かつて、浅草で悲運にも無惨に鬼にされてしまった男性が自我を取り戻し、無惨の支配を逃れ少量の血で生きているということ。

次に珠世は、禰豆子の血が短期間で何度も成分変化を起こしていることに驚いていることと、彼女の考察が記されていた。

 

禰豆子が未だ幼子のような状態でいるのは、自我を取り戻すよりも重要で優先すべきことがあるのではないかということ。

 

そして最後に、手紙にはこう綴られていた。

 

『炭治郎さん。これは完全に私の憶測ですが、禰豆子さんは近いうちに 太陽を克服すると思います』

 

日が差す中を禰豆子は、優し気な視線を炭治郎と汐に向けていた。

 

「禰豆子・・・」

 

炭治郎はふらつく体を汐に支えてもらいながら、ゆっくりとその手を禰豆子へと伸ばした。

 

「良かった・・・」

 

目から涙をとめどなく溢れさせながら、炭治郎は言葉を紡いだ。

 

「大丈夫か?お前・・・、人間に・・・」

 

すると禰豆子は、そのままふにゃりと柔らかい笑みを浮かべながら口を開いた。

 

「よ、よかった。だい・・・、だいじょうぶ。よかったねぇ。ねぇ」

 

禰豆子は炭治郎の言葉をオウム返しに繰り返していた。

よく見ると目は鬼の者であり、口の中には牙も見える。人間に戻ったわけではないようだった。

 

落胆する炭治郎だが汐は気づいていた。鬼の気配はそのままだが、明らかに今までとは何かが違うと。

少なくとも、悪い方向へは向かっていないようだった。

 

「みんなありがとうなぁ。俺達の為に」

 

声がして振り返れば、先ほど半天狗に襲われかけた里の者たちが駆け寄ってきていた。

 

「禰豆子ちゃん、死んでたら申し訳が立たなかったぜ」

 

皆涙を流しながら、汐達に感謝の言葉をかけていた。

 

「いや・・・ほんとに、よかった。ち、塵になって消えたりしなくて・・・」

 

炭治郎は身体を大きく震わせると、禰豆子をそのまま抱きしめた。

 

「うわあああ、よかったあ・・・!!よかったああ、禰豆子、無事でよかったああ!!」

 

炭治郎はそのまま大声をあげて泣きわめき、そんな兄を禰豆子は優しく抱きしめた。

 

そんな混沌とした光景を、崖から降りてきた玄弥は呆然と見ていたが、笑いあう兄妹を見て優しくほほ笑んだ。

 

「良かったな・・・、炭治郎、禰豆子・・・」

 

玄弥の口から、温かな声が零れた。

 

一方。それを見ていた汐も、二人の顔が見えなくなるほど涙を溢れさせながら声を上げた。

 

「本当よ。禰豆子、よがっだ・・・。本当にぃ・・・よがっ、うぼろろろろろ」

 

だが汐は、言葉の途中でえずきそのまま決壊してしまった。

 

「うわあっ!!汐大丈夫か!?」

 

炭治郎は禰豆子から離れると、蹲くまってしまった汐に駆け寄った。

 

「しっかりしろっ、ううっ」

 

しかし炭治郎も、今までの戦いの傷のせいか、口を押えて汐同様に蹲ってしまった。

途端に里の者たちは慌てだし、禰豆子もびっくりしたのか目玉が零れ落ちそうなほど目を見開いた。

 

たちまち辺りは、混沌とした空気に包まれた。

 

一方、森の奥では濁った悲鳴が辺りに響き渡っていた。

 

「ぎゃあああああ~~~~っ、もう無理!!」

 

半天狗の分身憎珀天と戦っていた蜜璃は、一向に衰えない攻撃に窮地に陥っていた。

頭からは血が流れ、体中傷だらけで動いていることが不思議なほどだった。

 

「ごめんなさい、殺されちゃう~~っ。しおちゃああん!!」

 

蜜璃は泣きながら刀を必死で振り回していたが、突然自分に迫っていた木の竜が粉々になった。

驚いて目を凝らせば、憎珀天の身体も同様に塵となり消えていった。

 

「ひゃあ、助かった・・・!!」

 

蜜璃は間の抜けた声を上げながら、刀を握りしめて座り込んだ。

 

「しおちゃん達が本体の頸を斬ったんだわ・・・!!流石私の継子と仲間たちだわ・・・!!」

 

蜜璃はもたらされた勝利に顔をほころばせ、朝日の差す空を見上げた。

 

 

*   *   *   *   *

 

その報せに喜んだのは、汐達だけではなかった。

 

どこかにある、どこかの大きな屋敷。その一室で一人の少年は積み上がった本を戻そうとしていたが、突然目を見開き本を全て床に落とした。

無造作に転がる本が無作法な音を立てるが、少年は拾おうともせずに立ち尽くしていた。

 

「あら?」

 

女中と共に現れた養母の女性は、その光景を見て不思議に思いながらも笑顔で問いかけた。

 

「俊國、どうしたの?こんなに散らかして」

 

養母がそう言うと、少年は歓喜に身体を震わせながら口を開いた。

 

「ついに、ついに太陽を克服する者が現れた・・・!!よくやった、半天狗!!」

 

そのあまりの喜びように、少年は裏返った声で部下の名を呼び褒めたたえた。

 

養母は言葉の意味は分からなかったが、息子が非常に喜んでいることがわかると思わず顔をほころばせた。

 

「まあ、ずいぶん楽しそうね。読んだ本のお話かしらっ・・・」

 

だが、養母の言葉はそれ以上続けられることはなかった。突然彼女の首から上が消失したからだ。

 

「え?」

 

養母が倒れる音と共に、床には真っ赤な液体が広がった。突然の事に女中は、事態を理解するのに時間を要した。

 

「えっ?奥様?首が・・・、どうしたんですか?どっ・・・、ええ?」

 

女中が必死に言葉を紡ごうとする中、少年はその惨劇を全く意に介することなく肩を震わせた。

 

「これでもう、青い彼岸花を探す必要もない。クククッ・・・」

 

無惨は愉快そうに笑うと、その顔を天井に向けた。

 

「永かった・・・!!しかしこの為、この為に千年、増やしたくもない同類を増やし続けたのだ」

 

少年の身体がメキメキと不可思議な音を立てたかと思うと、小さな体は瞬く間に膨らみ始めた。

 

「十二鬼月の中にすら現れなかった稀有な体質、選ばれし鬼」

 

そして瞬く間に少年は、成人男性の姿になり歓喜の雄たけびを上げた。

 

「あの娘を喰って取り込めば、私も太陽を克服できる!!」

 

変貌した少年、否、鬼の始祖鬼舞辻無惨の姿を見た女中は、金切り声を上げた。

 

「キャアアア!!人殺し!!化け物、化け物!!旦那様ァー!!」

 

女中はそのまま逃げようとするが、無惨が手を大きく振るとその上半身が瞬く間に吹き飛んだ。

部屋中に充満する血の匂いと汚れていく部屋。だが、今の無惨に取ってそんなことはどうでもよかった。

 

あの日、初めて鬼となった日からずっと待ちわびていた。この瞬間を。

 

鬼舞辻無惨という鬼が誕生したのは、今から千年以上前にさかのぼる。

 

貴族の出身だった無惨は、非常に病弱であり二十歳前には死ぬと言われていた。しかしそんな無惨を見捨てず、救いの手を差し伸べたものがいた。

 

それは、無惨の主治医だった善良な医者だった。

 

医者は少しでも無惨が生き永らえるように苦心していたが、一向に病状が改善どころか悪化していくことに無惨は腹を立てていた。

 

そしてある日の事。風の噂でこの医者にかかっていた貴族の娘が死んだということを聞き、ついに我慢ができなくなった無惨は、回診時に医者の頭に鉈を突き立て殺害した。

 

しかしその医者が処方した新薬の効果が出たのは、医者を殺してから間もなくのことだった。

それが、鬼の始祖が生まれた瞬間だった。

 

いかなる傷を負っても治り、病にもかからない。強靭な肉体を手に入れたと、無惨は初めは喜んだ。だが、一つ大きな問題があった。

 

日の光の下を歩けない。日光に当たれば死ぬということを、本能で理解していた。

その他、人の血肉が必要ということもあったが、それは人を喰えばいいという至極単純な事であり、無惨にとっては問題ですらなかった。

 

昼間のうち行動が制限されるのは屈辱的であり怒りが募った。

日の光でも死なない身体になりたい。

 

無惨は医者の作った薬の調合を見たが、試作の段階だったからか、“青い彼岸花”という薬の作り方はわからなかった。

それは実際に青色をした彼岸花を使用していたらしいが、生息地も栽培方法もわからない。

 

知っているのは殺した医者だけだった。

 

無惨はその医者の足取りをたどり、かつてこの医者にかかって死んだ貴族の娘の事を調べたが、娘の一族は彼女の葬儀中に起った事故で屋敷ごと滅びてしまっていた。

 

手掛かりをなくした無惨は完全な不死身の身体になるために、青い彼岸花と太陽を克服できる者を探すことを最優先としていた。

 

そして、竈門禰豆子が太陽を克服した今。無惨の狙いはただ一つとなった。

 

禰豆子を喰らい、太陽を克服して完全な生物になる事。

 

事態が大きく動き出すことは、確実であった。

 

 

*   *   *   *   *

 

「炭治郎、汐、大丈夫?」

 

里の者に背負われた汐と、禰豆子に背負われた炭治郎は、小鉄に肩を預けていた無一郎に声を掛けられていた。

 

「あ・・・、と・・・時透くん。よかった、無事で」

「あ、あたしも平気。何とか生きているわ」

 

汐と炭治郎は、疲労のせいか力ない声でそう言った。

 

「刀・・・、ありがとう」

 

炭治郎が言うと、無一郎は毒の後遺症で身体を震わせながら言った。

 

「こっちこそありがとう。君達のお陰で大切なものを取り戻した」

「え、そんな。何もしてないよ、俺は」

「そ、そうよ。炭治郎が何もしてないなら、あたしはもっと何もしてないわよ」

 

炭治郎と汐がそう言うと、無一郎は一瞬困ったように笑うが、視線を禰豆子に向けると首を傾げた。

 

「それにしても、禰豆子はどうなってるの?」

 

そんな無一郎の行動を真似てか、禰豆子も同じように首を傾げた。

 

「いや、それが・・・」

 

炭治郎が詳細を説明しようと口を開いた、その時だった。

 

「しおちゃああああん!!みんなああああ!!」

 

遠くから声と共に地響きが聞こえ、皆が何事かとぎょっとして振り返ると、桃色と緑色の塊が砲弾のように駆け寄ってきた。

 

「うわああああ!!勝った勝ったぁ、皆で勝ったよ。すごいよぉおお!!」

 

蜜璃は泣きじゃくりながら、汐達を両手で抱きしめた。

炭治郎と無一郎、玄弥の三人は驚きのあまり固まり、特に玄弥に至っては耳まで茹蛸の如く真っ赤に染まった。

 

「いだいいだいいだい!!!みっちゃん痛い!!あたし右肩外れてるのよ!!力入れないで!!」

 

汐は抱きしめられて脱臼した肩に激痛が走り、涙目になりながら叫んだ。

 

「うわあああ!!ごめんねええ!!!でもみんな生きてるよおおお!!よかったああああ!!」

 

先程よりも更に大声で泣きわめく蜜璃を見て、禰豆子はにっこりと笑うと「よかったねぇ」と答えた。

 

上弦の鬼二体を相手にし、汐達は誰一人として欠けることなく勝利を収めた。

そして禰豆子が日の光を浴びても命を失わず、人の言葉を取り戻した。

 

これが何を意味するのかは、誰にも分からない。

 

しかし今はこの喜びの時間を少しでも長く分かち合おう。

明日へつなぐ、希望として。




注意!今回炭治郎君はリバースしていません


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



その後、傷を負った汐達はすぐさま蝶屋敷へと搬送された。

炭治郎と柱二人は勿論の事、汐と玄弥も見た目以上に重傷を負っていた。

 

汐は脱臼した右肩に加え、ウタカタ多用による喉の炎症が起きていて、最低でも一週間は安静と診断された。

 

それから数日後。ギプスを外してもらった汐は、散歩がてら蝶屋敷の中を歩いていた。

強張った腕の違和感をぬぐうように腕を動かしながら歩いていると、炭治郎達がいる病室から声が聞こえてきた。

 

「あら、誰か来てるの?」

 

汐がのぞき込むと、そこにはおにぎりを頬張りながらこちらを向く炭治郎と隠の男があった。

 

「汐。肩の怪我はどうだ?」

 

開口一番に汐を気遣う言葉を発する炭治郎に、汐は困ったように笑った。

 

「それはこっちの台詞。あんた、つい最近まで意識不明の重体だったんでしょ?ったく、相も変わらず人の心配ばかりするんだから」

 

汐はそう言って炭治郎の眠るベッドに座った。

 

「ほら。顔にご飯粒ついてるわよ」

「え、どこ?」

「ここよ。ああもういいわ。あたしがとるから、手ぬぐい貸して」

 

汐は炭治郎から手ぬぐいを受けると、ご飯粒が付いた顔を優しく拭く。

汐から漂う香りに炭治郎の心臓が跳ね、頬に熱が籠った。

それを見ていた隠の男は、顔をしかめながら咳払いをした。

 

「ところで、誰この人?」

「え、覚えてないか?後藤さんだよ。ほら、俺と一緒に裁判にかけられたとき、一緒にいただろ?」

「覚えてないわよ、そんな前の事。っていうか、隠ってみんな顔隠れてて見分けがつかないし」

「お前、それ本人の前で堂々とよく言えるな」

 

汐と炭治郎の会話を聞いて、後藤は思い切り顔をしかめながら突っ込んだ。

 

「で、その隠の後藤さんは何でここに居るの?」

 

汐が尋ねると、炭治郎は後藤から刀鍛冶の里の詳細を聞いていたと言った。

 

あれから刀鍛冶の里の者たちは、鬼の襲撃を逃れるため拠点をすぐに移していた。

後藤の話では、彼等は"空里"という場所をいくつか作っており、有事の際にすぐに移れるようにしているとのことだった。

 

「っていうかあんた、朝っぱらからよくそんなに食べられるわね」

「朝ご飯をしっかり食べないと、一日が始まらないからな。それに、甘露寺さんもいっぱい食べるって言ってから大丈夫だろう!」

「あれは普通の人間の物差しにあてはめちゃ駄目よ。みっちゃんはともかく、無一郎も三日でほぼ全快って、いよいよ人間卒業し始めてるんじゃない?」

「流石に言いすぎだぞ汐。そこは尊敬しなくちゃ」

 

呆れたように溜息をつく汐を見て、後藤は目を見開きながら言った。

 

「お、お前。柱をよくそんな風に言えるな。恐ろしくないのか?」

「怖い?どこが?みっちゃんは時々柱っぽくないところあるし、無一郎は腹立つことを平気で言うけど、悪い連中じゃないと思うわよ?」

「いやそうじゃなくて!柱をよく呼び捨てにできるなってことだよ!」

 

後藤の言葉に、炭治郎もはっとした様子で顔を向けた。

 

「そうだ。師範の甘露寺さんはともかく、時透君は年下だけど俺たちより上の立場なんだぞ。呼び捨てはいけないと思う」

「あたしだって、最初は立場を考えて名字で呼んだわよ。でも、そうすると口をへの字にして不貞腐れるから、名前で呼ばざるを得なくなったのよ」

 

汐が二度目の溜息をつくと、炭治郎と後藤は汐がそこまで柱と親しくなっていたということに、驚きのあまり表情を固まらせていた。

 

「と、ところでさ。竈門の妹!えらいことになってるみたいだけど、大丈夫なのか?」

 

後藤の言葉に、汐は肩を震わせた。

 

禰豆子が太陽を克服した。その噂は隠の間でも広がっていた。

人を襲わないというだけでも驚くべきことなのに、更に鬼の絶対な弱点である太陽まで克服した。

 

それによって何が起こるのか、今時点では全く分からないのだ。

 

「あっ、はい!太陽の下、トコトコ歩いてますね」

 

後藤の心配をよそに、炭治郎はあっけらかんとした表情で答えた。

 

「それってやばくね?マジでやばくねえか?今後とうなるんだよ」

 

すると炭治郎は、微かに表情を曇らせながら口を開いた。

 

「今、調べてもらっているんですけど分からなくて。人間に戻りかけているのか、鬼として進化しているのか・・・」

「胡蝶様が調べてくれてんの?」

「いや、珠世さんが」

「ちょっと、炭治郎!」

「たまよさんて誰だ?」

 

後藤がそう口にした瞬間、炭治郎はおにぎりを盛大に噴き出した。

 

「わっ!何やってんのよ馬鹿!大丈夫!?」

 

汐はすぐさま咳き込む炭治郎の背をさすりながら、水の入った洋杯を差し出した。

 

「おいおい!!やっぱり食いすぎだろうが!病み上がりなんだから、控えろよ!!」

 

後藤も慌てて炭治郎の背中を汐と共にさすった。

 

(あ、危なかった・・・)

 

青い顔で呼吸を整える炭治郎を見て、後藤は呆れた表情を向けながら言った。

 

「っていうか、チビ三人組と妹はどこにいんだよ。アオイちゃんもいねぇしよ」

「今は重体の隊士もいないらしいので、ずっと禰豆子と遊んでくれてるんですよ。そのお陰で、少しずつ喋れるようになってきて」

「そうそう。こないだ、伊之助が怪我してここに来た時に禰豆子に名前を教えてたせいか、あたしの事を伊之助って呼んだのよ。その後に伊之助を締めてから、禰豆子にはきちんと訂正させたけどね」

 

汐は笑いながらそう言うが、さらりと出た恐ろしい言葉に気づいたのは後藤だけだった。

 

「まあこいつの事情はともかく、平和だな」

 

後藤は一瞬目を細めるが、ある事を思い出して目を見開いた。

 

「ただ、黄色い頭の奴が来たら、えらいことになるんじゃねぇの?」

「えっ?」

「あっ」

 

その言葉に炭治郎は疑問を抱き、汐が何かを察して表情を変えた、その時だった。

 

「ギィィャアアアアアアアアアア」

 

外から耳をつんざくような叫び声が響き、三人は思わず飛び上がった。

 

「この声は、善逸か?」

「噂をすれば何とやら、か。全く、人の鼓膜を破る気かよ」

 

後藤が顔をしかめていると、汐の口から小さく舌打ちの音が聞こえてきた。

 

「ちっ、うるせぇな」

 

汐は小さく呟くと、すっと音もなく立ち上がった。

 

「どこに行くんだ?」

 

後藤が尋ねると、汐は背中を向けたまま淡々と答えた。

 

「あいつ、締めてくる」

「!?」

 

汐の冷たい声に、炭治郎と後藤は全身に鳥肌が立つのを感じた。

 

「う、汐。やりすぎるなよ」

「いや、そこは止めろよ!お前の彼女だろ!?」

「流石に無理ですよ!粉砕されます!!跡形もなく!!」

 

涙目になる炭治郎を見て、後藤は心の中でひそかに先ほどの声を主の無事を祈るのだった。

 

 

*   *   *   *   *

 

「ギィィャアアアアアアアアアア」

 

その光景を見た瞬間、善逸の口から凄まじい程の高音が放たれた。その五月蠅さに、禰豆子と遊んでいたアオイたちは、思わず耳を塞いだ。

 

「お、おかえり!」

 

善逸の顔を見て禰豆子がそう言うと、善逸は顔を真っ赤にし、目玉が零れ落ちそうなほど見開いて叫んだ。

 

「可愛すぎて死にそう!!」

「どうぞご自由に!!」

 

そんな善逸にアオイは冷ややかに突っ込むが、その言葉すら今の善逸の耳には届かなかった。

 

「どうしたの禰豆子ちゃん、喋ってるじゃない!俺のため?俺のためかな?俺のために頑張ったんだね!!」

 

善逸は禰豆子の両手を握りしめながら捲し立て、あまりの五月蠅さにきよは耳に痛みを感じたのか、塞ぎながら顔を青くさせていた。

 

「とても嬉しいよ!!俺たち遂に結婚かな!?」

「あっち行って下さい!!」

 

尚も喚く善逸をアオイは引き剥がそうとするが、善逸は禰豆子以外目にも耳にも入らない様だ。

 

「月明かりの下の禰豆子ちゃんも素敵だったけど、太陽の下の禰豆子ちゃんも、たまらなく素敵だよ!!素晴らしいよ!!」

「離れなさいよ!」

「結婚したら毎日寿司とうなぎ食べさせてあげるから、安心して嫁いでおいで!!」

耳がよいはずの善逸が、アオイの言葉に全く耳を貸すことなくしゃべり続ける程、彼は興奮状態に陥っていた。

だが、

 

「おかえり、いのすけ」

 

禰豆子のよく通る声が響いた瞬間、善逸はぴたりとその動きと口を止めた。アオイたちは何とも言えない表情で善逸を見つめ、禰豆子はニコニコと笑いながら善逸を見ていた。

 

やがて少し間が開いた後。

 

「あいつ、どこにいる?ちょっと殺してくるわ・・・」

「物騒なこと言わないで!!

 

緩み切った表情は伊之助に対しての憎悪と嫉妬に歪んだものになり、口からは血が流れ出ていた。

それを慌ててアオイは止めようとするが、その足は不意にぴたりと止まった。

 

善逸の前に立っている人物の気配を感じたからだ。

 

「あら、おかえり善逸。相も変わらず元気いっぱいね」

「あ、う、汐・・・ちゃん」

 

善逸の程までの怒りに歪んだ表情が、みるみるうちに怯えたものへと変わっていく。

 

「ちょうどよかったわ。腕が固定されていたせいか、少し違和感があるの。訓練、付き合ってくれるわよねぇ?」

「え、ちょっ、汐ちゃん・・・待って・・・やめて・・・!!」

 

汐はにっこりと笑いながら善逸に近づき、閉じていた目を開けた。そこには、鬼も震えあがるような光の無い目だった。

 

「ギイヤアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!」

 

その瞬間、善逸のこの世のものとは思えない断末魔の叫びが、屋敷中に響き渡った。

 

*   *   *   *   *

 

汐達が蝶屋敷で騒いでいたころ。柱達は産屋敷邸に集められていた。

 

緊急での柱合会議のためだ。

 

「あーあァ、羨ましいことだぜぇ。なんで俺は上弦に遭遇しねぇのかねぇ」

 

風柱・不死川実弥は心底残念そうにそう口にした。

 

「こればかりはな。遭わない者は、とんとない」

 

それに答えたのは蛇柱・伊黒小芭内。彼はそう言った後向かいに座る蜜璃と無一郎に顔を向けて言った。

 

「甘露寺、時透、その後 体の方はどうだ?」

「あっ、うん。ありがとう、随分よくなったよ」

「僕も・・・、まだ本調子じゃないですけど・・・」

 

蜜璃は心配してくれる伊黒に嬉しさをかみしめつつ答え、無一郎は目を伏せながら答えた。

 

「これ以上、柱が欠ければ鬼殺隊が危うい・・・。死なずに上弦二体を倒したのは尊いことだ」

 

岩柱・悲鳴嶼行冥は涙を流しながら二人を労わった。

 

「今回のお二人ですが、傷の治りが異常に早い。何かあったんですか?」

 

蟲柱・胡蝶しのぶが二人に尋ねると、代わりに応えたのは水柱・冨岡義勇だった。

 

「その件も含めて、お館様からお話があるだろう」

 

義勇がそう言った時、柱達の待つ部屋の襖が開いた。

 

「大変お待たせ致しました」

 

そこに現れたのは、鬼殺隊当主産屋敷輝哉ではなく、彼の妻である産屋敷あまねだった。

 

「本日の柱合会議、産屋敷耀哉の代理を、産屋敷あまねが務めさせていただきます」

 

あまねはそう言って、黒髪と白い髪の子供たちと共に頭を下げた。

 

「そして、当主の耀哉が病状の悪化により、今後皆様の前へ出ることが不可能となった旨、心よりお詫び申し上げます」

 

あまねのあいさつの後、柱達は一斉に頭を垂れた。

 

「承知・・・。お館様が一日でも長く、その命の灯火、燃やしてくださることを祈り申し上げる・・・。あまね様もお心強く持たれますよう・・・」

「・・・柱の皆様には、心より感謝申し上げます」

 

悲鳴嶼の凛とした声にあまねは、いったん言葉を切ると感謝の言葉を述べた。

 

「既に御聞き及びとは思いますが、日の光を克服した鬼が現れた以上、鬼舞辻無惨は目の色を変えて、それを狙って来るでしょう。己も太陽を克服するために。大規模な総戦力が近づいています」

 

あまねの言葉に、柱達の顔に緊張が走る。

 

「上弦の肆・伍との戦いで、甘露寺様、時透様の御二人に独特な紋様の痣が発現したと報告が上がっています。御二人には、痣の発現の条件を御教示願いたく存じます」

 

「!?」

「!?、痣?」

 

これを聞いた蜜璃と無一郎は表情を変え、他の柱達は一斉に二人に視線を向けた。

 

「戦国の時代、鬼舞辻無惨をあと一歩と言う所まで追い詰めた始まりの呼吸の“剣士たち”・・・。彼らは全員に、鬼の紋様と似た痣が発現していたそうです」

 

その話に、一部の柱達は驚いたように肩を震わせた。

 

「伝え聞くなどして、御存じの方は御存じです」

 

あまねの言葉に悲鳴嶼は口をつぐみ、なんとも言えない表情を浮かべていた。

 

「俺は初耳でした。何故伏せられていたのです?」

「痣が発現していない為、思い詰めてしまう方が随分いらっしゃいました。それ故に、痣については伝承が曖昧な部分が多いです」

 

実弥の問いに、あまねは少し目を伏せながら答えた。

 

「当時は重要視されていなかったせいかもしれませんし、鬼殺隊がこれまで、何度も壊滅させられかけ、その過程で継承が途切れたからかもしれません。ただ一つはっきりと記し残されていた言葉があります」

 

――“痣の者が一人現れると、共鳴するように周りの者たちにも痣が現れる”

 

「始まりの呼吸の剣士の手記に、このような文言がありました」

 

あまねの代わりに応えたのは、彼女の息子である黒髪の少年だった。

 

「今、この時代で最初に痣が現れた方。柱の階級ではありませんでしたが、竈門炭治郎様。彼が最初の痣の者」

 

炭治郎の名前が出た瞬間、一部の柱達の表情が強張った。

 

「ですが御本人にも、はっきりと痣の発現の方法が分からない様子でしたので、ひとまず置いておきましたが、この度それに続いて柱の御二人が覚醒された。御教示願います。甘露寺様、時透様」

 

「は、はい!!」

 

あまねに見惚れていた蜜璃は、不意に名前を呼ばれて上ずった声で返事をした。

 

「あの時はですね、確かにすごく体が軽かったです!!」

 

あの時の感覚を思い出しながら、蜜璃は上ずった声のまま答えた。

 

「ぐあああ~~って来ました!グッてして、ぐあーって、心臓とかがばくんばくんして、耳もキーンてして、メキメキメキィって!!」

 

蜜璃の説明に、柱達は勿論あまねたちですら、呆然とした表情で見つめていた。

伊黒に至っては、頭を抱えてしまう始末だった。

 

「申し訳ありません。穴があったら入りたいです」

 

一気に変わった空気に蜜璃は我に返ると、真っ赤な顔で顔を伏せた。

 

(もぉー!何やってるのよ私の馬鹿馬鹿!!こんなんだから、しおちゃんに呆れられちゃうのよ!)

 

蜜璃が心の中で自己嫌悪に陥っている中、空気を切り裂く様に無一郎の声が響いた。

 

「痣というものに自覚はありませんでしたが、あの時の戦闘を思い返してみた時に、思い当たること、いつもと違うことが、いくつかありました」

 

無一郎は真剣な表情で、あまねの目を真っ直ぐ見据えた。

 

「その条件を満たせば、恐らく みんな痣が浮き出す。今から、その方法を御伝えします」

 

無一郎の言葉に、場の空気が一瞬にして張り詰めるのだった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

二十七章:為すべきこと


「ギイヤアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!」

 

善逸の断末魔が聞こえた後、あたりは水を打ったように静かになった。

 

「お、おい。何も聞こえなくなったぞ・・・?」

 

後藤は青ざめた顔で炭治郎を見ると、炭治郎も顔を真っ青にしながら俯いていた。

 

「お前の彼女、怖すぎじゃねえか?」

「ふ、普段はとても優しいんですよ!」

 

炭治郎は慌てて後藤に向き合いながら答えた。

 

「確かに怒ると怖ろしいことをしたり言ったりしますけれど、相手の事をきちんと見ていますし、それに笑うと可愛いし、お化粧をすると物凄く綺麗だし――、とにかく!汐は本当は凄くいい子なんです!!」

(惚気かよ・・・)

 

顔を真っ赤にしながら捲し立てる炭治郎に、後藤はため息を一つついた。

ふと視線を移せば、炭治郎のベッドの傍の水差しが空になっていることに気づいた。

 

「その水差し、もうねえんだろ?俺いって水貰ってくるわ」

「え?そんな、いいですよ。俺が自分でやりますから」

「いいって、いいって。怪我人は寝てろ。んじゃ、行ってくるわ」

 

後藤は水差しを手に取ると、ごねる炭治郎をしり目に病室を後にした。

 

(えっと、確か台所は・・・)

 

後藤が辺りを見回しながら歩いていると、前方から何かがこちらに向かってくるのが見えた。

 

目を凝らしてみてみると、それは頭に山のようなたんこぶを乗せ、顔をへこませた善逸が、泣きながら三人娘に引きずられていく姿だった。

 

善逸がとりあえず生きていることに安堵しつつ、後藤が振り返ったその時だった。

 

「あら、後藤さんじゃない。こんなところで何してるの?」

 

すぐ傍から汐の声がして、後藤は小さく悲鳴を上げた。

 

「何よ。人の事化け物みたいに・・・」

 

汐はそう言って不満げに頬を膨らませた。

だが、後藤がぎょっとしたのは、汐の顔と服にいくつもついている赤い斑点だった。

 

「いやいやいや!!お前の顔!服!!ついてちゃヤバいもんがついてんだろ!?」

 

後藤が指をさしながら叫ぶと、汐は首を傾げた後自分の服を引っ張った。

 

「あら本当。あの時、善逸の鼻血が飛び散ったのね」

「善逸の鼻血!?」

「最初に平手打ちしたら、思いのほか威力が出ちゃったの。でもこれじゃあ炭治郎の前には出られないわね。着替えてくるわ」

 

汐はそう言って踵を返し、後藤は呆然とその背中を見ながら呟いた。

 

「竈門・・・。お前の彼女、やっぱ怖えわ」

 

その小さな声は、誰の耳にも届かず静かに消えていった。

 

 

*   *   *   *   *

 

「前回の戦いで、僕は毒を喰らい動けなくなりました」

 

皆の視線が集まる中、無一郎は静かに口を開いた。

 

「僕を助けてくれた一般隊士の少女が鬼に捕らわれ、それを助けようとした少年が殺されかけた時、僕は以前の記憶が戻りました。そして、その際に思い出した強すぎる怒りで、感情の収拾がつかなくなりました」

 

あの時の燃えるような感覚を、無一郎は思い出しながら言った。

 

「その時の心拍数は、二百を越えていたと思います」

 

落ち着き払った無一郎の声に、蜜璃は呆然としていた。

 

「更に体は燃えるように熱く、体温の数字は三十九度以上になっていたはずです」

「!?」

 

その言葉に、しのぶは驚きのあまり目を見開いた。

医学に精通している人間ならわかる、普通の人間なら、立っているのもやっとのはずの体温だ。

 

「そんな状態で動けますか?命にも関わりますよ」

「そうですね。だからそこが、篩に掛けられる所だと思う。そこで死ぬか、死なないか。恐らく、痣が出るものと出ない者の分かれ道です」

 

無一郎は頷くと、再びあまねに視線を移しながら言った。

 

「心拍数を二百以上に・・・。体温の方は、何故三十九度なのですか?」

「はい。胡蝶さんの所で治療を受けていた際に、僕は熱を出していたんですが、体温計なるもので計ってもらった温度、三十九度が、痣の出ていたとされる間の体の熱さと同じでした」

 

そんな無一郎を見て、蜜璃は(そうなんだ・・・)と、どこか他人事のように聞いていた。

 

「チッ、そんな簡単なことでいいのかよォ」

 

小さく舌打ちをしながらそういう実弥に、義勇の小さな呟きが刺さる。

 

「これを簡単と言ってしまえる簡単な頭で羨ましい」

「何だと?」

 

その言い草にカチンときたのか、実弥は青筋を立てながら義勇を睨みつけた。

しかし当の義勇は「何も」と表情を崩さぬまま答えた。

 

「では、痣の発現が柱の急務となりますね」

 

険悪な空気を変えるようなしのぶの声に、柱達は一斉に頷いた。

 

「御意。何とか致します故、お館様には御安心召されるよう、御伝え下さいませ」

「ありがとうございます」

 

皆を代表する悲鳴嶼の言葉に、あまねは深々と頭を下げた。

 

「ただ一つ。痣の訓練につきましては、皆様に御伝えしなければならないことがあります」

「何でしょうか・・・?」

 

蜜璃が首を傾げながら訪ねると、あまねはいったん言葉を切ると話し出した。

 

「もう既に痣が発現してしまった方は、選ぶことが出来ません・・・。痣が発現した方は、どなたも例外なく──・・・」

 

会議は恙なく終わり、あまねが退室した部屋には数珠をかき鳴らす音が響いていた。

 

「なるほど・・・。しかしそうなると、私は一体どうなるのか・・・、南無三」

 

悲鳴嶼の静かな声が見散る中、義勇は音もなく立ち上がった。

 

「あまね殿も退室されたので、失礼する」

 

そんな彼に、実弥はぎろりと視線を向けながら言った。

 

「おい待てェ、失礼すんじゃねぇ。それぞれ今後の立ち回りも決めねぇとならねぇだろぅが」

「六人で話し合うといい、俺には関係ない」

 

しかしそんな実弥に意も解さず、義勇はそう言った。

 

「関係ないとは、どういう事だ。貴様には柱としての自覚が足りぬ。それとも何か?自分だけ早々に鍛錬を始めるつもりなのか?会議にも参加せず」

 

伊黒の言葉に、義勇は答えることなく立ち去ろうとした。

 

「テメェ、待ちやがれェ」

「冨岡さん、理由を説明してください。さすがに言葉が足りませんよ」

 

義勇のあまりの態度に、実弥は思わず叫び、しのぶも彼を咎めるように言った。

 

「・・・俺は、お前達とは違う」

「気に喰わねぇぜ・・・・。前にも同じこと言ったなァ冨岡。俺たちを見下してんのかァ?」

 

実弥は思わず立ち上がると、敵意が籠った言葉と視線を向けた。

 

「けっ、喧嘩は駄目だよっ!冷静に・・・」

 

険悪な空気を察した蜜璃が止めようと口を開くが、義勇は実弥の言葉を肯定も否定もせずに退室しようとした。

そんな態度に対に堪忍袋の緒が切れた実弥は、義勇に殴りかかろうとした。

 

「待ちやがれェ!!」

「キャー、だめだめ」

 

もはや乱闘は避けられないと、誰もが思ったその時。

 

悲鳴嶼が両手を叩く音が響いた。

 

空気全体を震わす音に全員の動きが止まり、伊黒の相棒鏑丸も、目を大きく見開いて固まった。

 

「座れ・・・、話を進める・・・」

 

悲鳴嶼は涙を流しながら、静かに口を開いた。

 

「私に一つ、提案がある・・・」

 

皆は黙って、悲鳴嶼の言葉に耳を傾けた。

 

 

*   *   *   *   *

 

「ほらよ。水、持ってきたぜ」

「何から何まで、ありがとうございます」

 

後藤から水を受け取った炭治郎は、笑顔で感謝の意を伝えた。

 

「汐の匂いがしますけれど、大丈夫でしたか?その、いろいろと」

「あ、ああ。とりあえず、黄色い奴は生きてたよ。大海原は着替えて来るって言ってた」

 

善逸の返り血が付いた服を、とは言えず言葉を濁す後藤に炭治郎は何かを察して口をつぐんだ。

すると、不意に嗅ぎ覚えのある匂いが鼻を掠めた。

 

(あれ、この匂いは・・・)

 

「お?誰か来たな。あいつか?」

 

しかし、病室に入ってきたのは汐ではなかった。その人物の顔を見た瞬間、炭治郎の顔に笑顔が浮かぶ。

 

「あーー!!鋼鐵塚さん!!」

 

炭治郎の視線の先に、刀を抱えた鋼鐵塚の姿があった。

 

炭治郎はあの後、汐達から鋼鐵塚の事は聞いていた。己の身を顧みることなく、刀を研ぎ続けたため重傷を負っていたことを。

その事をずっと心配していた炭治郎は、彼の姿を見て心から安堵した。

 

「怪我は大丈夫ですか、良かった!!」

 

だが、炭治郎は笑顔のまま顔を強張らせた。

鋼鐵塚の身体は小刻みに震え、心なしか息も荒い。

 

とても大丈夫には見えなかった。

 

「大丈夫じゃない感じですか!?」

 

炭治郎が尋ねると、鋼鐵塚は黙って持っていた刀を差しだした。

 

「あっ、刀・・・。ありがとうございます」

 

炭治郎は礼を言って刀を受け取った。

 

(あっ、こ、これは・・・!)

 

刀を見て、炭治郎は目を見開いた。

 

「煉獄さんの鍔だ!!」

 

そこには、自分たちの命を救ってくれた、煉獄の鍔がつけられていた。

 

「小鉄くんを守ってくれて、ありがとうございます・・・」

 

炭治郎は目に涙を浮かべながら、天国にいる煉獄に心から感謝の言葉を述べた。

 

「座ってください、大丈夫スか?」

 

息も絶え絶えな鋼鐵塚を心配して、後藤は自分が据わっていたイスを譲った。

鋼鐵塚は椅子に腰を下ろすと、か細い声で「刃・・・」と言った。

 

「刃かな!?刀身も見ますね」

 

炭治郎は慌てて刀を抜くと、その刀身に瞬時に目を奪われた。

 

そこには、今までの自分の刀とは比べ物にならない程の純粋な"黒"がそこにあった。

 

「凄い・・・。漆黒の濃さが違う」

「鉄も質が良いし・・・、フゥ、前の持ち主が相当強い剣士だったんだろう・・・、フゥ」

 

座って少し落ち着いたのか、鋼鐵塚はそう語った。

 

刀を眺めていた炭治郎は、刀身に刻まれているある文字に目が行った。

 

「滅の文字・・・」

「これを打った刀鍛冶が、全ての鬼を滅する為に作った刀だ」

 

すっかり落ち着いた鋼鐵塚は、再び語りだした。

 

「作者名も何も刻まず、ただこの文字だけを刻んだ。この刀の後から階級制度が始まり、柱だけが悪鬼滅殺の文字を刻むようになったそうだ」

 

その説明に炭治郎は身体を震わせ、息をのんだ。この話が本当なら、今自分の手にしている刀は、全ての始まりの刀であるということだろう。

 

「そうなんですね、すごい刀だ・・・」

 

刀を鞘にしまっていた炭治郎は、ある事に気づいた。

 

「でも、前の戦いでこれを使った時は、文字が無かったような・・・」

 

炭治郎が何気なくそう口にした瞬間、鋼鐵塚の動きが止まった。

そして一拍置いた後、彼の全身を怒りの炎が包んだ。

 

「だからそれは、第一段階までしか研ぎ終えていないのに、お前らが持ってって使ったからだろうが!!錆が落としきれて無かったんだよ、ブチ殺すぞ!!」

「すみません!!」

「今もまだ傷が治りきってなくて、ずっと涙が出てるんだよ!痛くて痛くてたまらないんだよ!!研ぎの途中で邪魔されまくったせいで、最初から研ぎ直しになったんだからな!!」

「すみません」

 

痛みと仕事を台無しにされた怒りは収まらず、鋼鐵塚は炭治郎の頬を引っ張った。

 

「でも、怪我の酷さならコイツの方も負けてないっスよ」

 

二人のやり取りを見かねた後藤が、炭治郎に助け舟を出した。

 

「身体中の骨折れまくってるし、コイツ」

 

鋼鐵塚は後藤に顔を向け、動きを止めるがそれは一瞬の事だった。

 

「ブチ殺すぞ・・・!!」

「話通じねぇな!!」

 

再び怒りに燃えた鋼鐵塚が、後藤につかみかかろうとしたとき。

軽快な音と、鋼鐵塚のうめき声が上がった。

 

「まったく、いきなり走り出したかと思えば、怪我人になんて真似をしているんですか」

 

頭を抑える鋼鐵塚の背後から、呆れを孕んだ声が聞こえた。

炭治郎と後藤が顔を向ければ、右手に木槌を握った鉄火場の姿があった。

 

「鉄火場さん!!」

「お久しぶりです、炭治郎殿」

 

炭治郎が嬉しそうに名を呼ぶと、鉄火場は礼儀正しく会釈をした。

 

「蛍がお騒がせして、申し訳ありません。この人、ちょっと目を離したすきに、どこかへ行ってしまって」

「いえいえ。鉄火場さんも具合は大丈夫ですか?汐から聞きましたが、怪我をされたと」

「まだ多少痛みますが、支障の出る範囲ではありません。お気遣いいただきありがとうございます」

 

鉄火場はそう言って、うめき声をあげる鋼鐵塚をしり目に辺りを見回した。

 

「つかぬことをお聞きしますが、汐殿を知りませんか?先ほどお部屋に行ったのですが、いらっしゃらなかったので」

「あれ?おかしいな。汐は着替えをするって言って部屋に戻ったはずですけど」

「そうですか。入れ違いになってしまったのかもしれませんね。よろしければ、こちらで待たせていただいても?」

 

鉄火場がそう言うと、炭治郎は「どうぞどうぞ」と言って、近くにあったもう一つの椅子を鉄火場に渡した。

 

「おい焔・・・。俺は怪我が治ってないんだぞ!それなのに頭を叩くとはどういう了見だ!!」

「あなたがみっともなく騒ぎ立てるからです。場所を弁えなさい、場所を」

 

怒りの矛先を鉄火場に向ける鋼鐵塚と、それを諫める鉄火場を炭治郎は呆然と眺めていた。

 

その時だった。

 

(あれ?この匂い・・・)

 

鋼鐵塚と言いあっている鉄火場から、いつもの彼女と異なる匂いがした。

 

それは、汐から時々香る果実のような匂いとよく似ていた。

 

(どうして鉄火場さんから、汐とよく似た匂いがするんだ・・・?)

 

炭治郎が新たに芽生えた疑問に首をひねっていると、入口の方から嗅ぎなれた匂いがした。

 

「あれ?鉄火場さんに鋼鐵塚さん!!二人とも来てたのね!!」

 

そこには、汚れを綺麗に落とした汐が嬉しそうな顔でこちらを見ていた。

 

「ああ汐殿。よかった。お部屋にいなかったもので、こちらで待たせていただいたんですよ」

「そうだったの、ごめんね。服と顔が汚れちゃったから着替えてたのよ」

 

ニコニコと笑う汐を見て、後藤は背中にうすら寒いものを感じた。

 

「ところで鋼鐵塚さんはともかく、どうして鉄火場さんまで?」

「以前私に預けていただいた、懐剣の研磨が終わったので持ってまいりました」

 

鉄火場はそう言うと、箱の中から布に包まれたものを汐に差し出した。

布をめくれば、そこにはフジツボや汚れがすっかり取れた懐剣が姿を現した。

 

「うわぁ・・・」

 

汐は感嘆の声を漏らし、炭治郎も綺麗になった懐剣に目を奪われた。

余計な装飾はないが、それがかえって懐剣本来の美しさを醸し出していた。

 

「ねえ、抜いてみてもいい?」

「どうぞ」

 

汐は恭しく懐剣を受け取ると、ゆっくりと鞘から抜き放った。

美しい銀色の刃が、汐の顔を映し出す。

 

その時、炭治郎はある事に気づいた。

 

「あれ?この懐剣、日輪刀と同じ匂いがする・・・!」

「えっ!?」

 

炭治郎の言葉に汐は目を見開き、反射的に顔を向けた。

 

「そうなんです」

 

鉄火場は面越しに汐を見据えると、はっきりした声色で告げた。

 

「この懐剣は日輪刀と同じ、猩々緋砂鉄と猩々緋鉱石で出来ていたのです」

 

突然告げられた事象に、汐は勿論炭治郎も言葉を失うのだった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



「日輪刀と同じ素材・・・。それって、玄弥の銃のようなものですか?」

 

炭治郎が尋ねると、鉄火場は「おそらく」と答えた。

 

「銃?」

 

汐が聞き返すと炭治郎は、玄弥は日輪刀の他に日輪刀と同じ素材でできた銃を使うということを話した。

 

「そうだったの。何よアイツ。あたしが話しかけた時は、そんなことちっとも教えてくれなかったわ」

「玄弥と?」

 

今度は炭治郎が聴き返すと、汐は頷いた。

 

「でも、あたしと話す時は何故か顔を赤くして目を逸らすのよね。いい加減に慣れて欲しいわ。あたしだってもっともっと玄弥と話してみたいのに」

 

汐はそう言って頬を膨らませると、炭治郎は何とも言えない、微妙な気持ちになった。

 

「話を戻しましょう」

 

鉄火場の冷静な声に、炭治郎は慌てて気持ちを切り替えた。

 

「調べてみた所、江戸よりもさらに前の時代、戦国、もしくは安土桃山時代辺りの物ということがわかりました。その頃には既に日輪刀を打つ技術がありましたから、この懐剣はその過程で打たれたものでしょう」

「でも、これじゃあ鬼の頸は切れないわね。精々隙を突くくらいにしか使えなさそう」

 

汐が首をひねっていると、黙っていた鋼鐵塚が口を開いた。

 

「懐剣の用途は護身の他に自害、暗殺などだ。だが、これは色も変わらず、使った形跡が殆どなかった。おそらく、一度も使わなかったか、もしくは使えない者が何らかの理由で所持していたのだろう」

「そう・・・って、鋼鐵塚さん。あんたなんでそんなこと知ってるの?これを研いだのは鉄火場さんなんでしょ?」

 

汐が問いかけると、鋼鐵塚の肩が小さく跳ねた。

 

「実は、蛍は私の仕事を少しだけ見てくれたんですよ」

 

代わりに答えたのは鉄火場だった。

 

「この懐剣が日輪刀だと気づいたのは、蛍が炭治郎殿の刀を研磨する少し前でした。日輪刀となれば研磨の方法が違う。私は師匠に叩き込まれた研磨術を思い出しながら仕事をしていたんです」

 

だが、研ぎ終わる前に鬼が里を襲撃したため、結局研ぎ直しになってしまったという。

 

「そんな時、この人が私にいろいろと教えてくれたんですよ。最も、相も変わらず上から目線でしたが」

「それはお前が未熟だからだろうが。あんな調子でいたら、何年かかるかわかりゃしねぇ」

 

そう言う鋼鐵塚の声が優しいことに、汐と炭治郎が気づいてほほ笑んだ。

 

「この懐剣は、是非とも汐殿がお持ちください。貴女の故郷で見つかったからだけではなく、これは貴女がもつべきです」

「どうしてそう思うの?」

「確かな根拠はありませんが、しいて言えば【勘】でしょうか。こういった類の物はあまり信用しないのですが」

「ううん、ありがとう。大切にするわね」

 

汐は懐剣を受け取ると、抱きしめるようにそっと胸に当てる。

喜びの匂いを感じた炭治郎は、その嬉しさにつられるように微笑んだ。

 

「あ、そう言えば!」

 

汐は思い出したように鉄火場の方を向くと、少しどもりながら訪ねた。

 

「鉄火場さん、あの後大丈夫だったの?その、鉄火場さんが・・・」

「私が女であること、ですか?」

 

鉄火場があっけらかんと答えると、ほぼ全員が肩を震わせた。特に後藤は目をこれ以上ない程見開き、鉄火場を凝視していた。

 

「あの件で私の性別がほぼ里の者に知られたのですが、驚くことに知っている者は知っていたんです。むしろ、知らなかった者の方が少なかったくらい」

「ええっ、そうだったの!?」

「はい。この人も、私が女であることを知ったら、しばらく石のように固まっていましたよ」

 

くすくすと笑いながらそう言うと、鋼鐵塚は「うるせぇ」と小さく言ってそっぽを向いた。

 

「勿論、奇異の目で見る者はいました。ですが、私の打った刀が上弦の鬼を討伐したということで、里の者の考え方が少しずつ変わってきたように感じました」

「そう。よかった。あたし、実は心配してたのよ?鉄火場さんが里を追い出されちゃったらどうしようって。もしそうなったら、里に怒鳴り込んでやるって思った」

「こらこら汐。流石にそれはやりすぎだ」

 

張り切る汐を炭治郎が諫め、それを見た鉄火場の面から、軽快な笑い声が漏れた。

 

「そのせいかわかりませんが、最近になってよく手紙をもらうようになったのです。私の仕事ぶりを見たいとか、話がしたいとかそう言う内容の手紙が」

「そうなんですか。いったい誰が・・・」

「・・・全部男からだがな」

 

炭治郎の問いを遮って、鋼鐵塚がぶっきらぼうに言った。

 

「この人、私が手紙をもらうようになってから、ずっと不貞腐れているんですよ。訳を聞いても答えてくれないし。あ、不貞腐れるのはいつもの事なのですが、今回はそれが長いような気がして」

 

何故でしょう?と首を傾げる鉄火場を、後藤は何故か羨ましそうに見ていた。

 

「汐殿、本当にありがとうございました」

「えっ?」

 

突然頭を下げた鉄火場に、汐は思わず声を上げた。

 

「私は、自分の腕が未熟なこと、女であることからずっと逃げてきたのです。ですが、貴女と出会ったことで、私は自分を偽ることをやめました。どんなに取り繕っても、所詮私は私なのだということに気づいたのです」

「鉄火場さん・・・」

「これからは、ありのままの自分で生きて行こうと思います。本当に、本当にありがとうございました!!」

 

鉄火場の声には一切の迷いも恐れもなかった。面で顔は見えないが、きっと晴れ晴れとした表情をしているだろう。

 

「それから、炭治郎殿」

「は、はい!!」

「これからも、汐殿をよろしくお願いいたします」

「は、はい!!・・・って、ええっ!?」

「ちょっ・・・」

 

炭治郎と汐は真っ赤になり、うまく言葉を紡ぐことができなかった。

 

「とにかく!!」

 

そんな空気を切り裂く様に、鋼鐵塚の声が響く。

 

「炭治郎」

「は、はい!!」

 

不意に呼ばれた炭治郎が返事をすると、鋼鐵塚は突然炭治郎の髪を掴んで言った。

 

「お前は今後、死ぬまで俺にみたらし団子を持ってくるんだ。いいな、分かったな」

「は、はい・・・。持っていきます」

 

ひょっとこの口が炭治郎の頬に刺さる程顔を近づけながら、鋼鐵塚は震える声で言った。

 

「ちょっと、何をしているんですか。二回り近く下の子に集るなんでみっともない」

 

鉄火場は鋼鐵塚を引きはがすと、呆れたように言った。

 

「そんなにみたらし団子が食べたいなら、私が作りますよ。だから少しは落ち着きなさい」

 

鉄火場がそう言った瞬間、鋼鐵塚の動きがぴたりと止まった。

 

「は、鋼鐵塚さん・・・?」

 

まるで石のように動かなくなった鋼鐵塚に、炭治郎が恐る恐る声を掛けると、

 

「止めろおおおおおお!!!俺を殺す気かァァアア!!」

 

突然、断末魔のような叫び声が鋼鐵塚の口から飛び出した。

そんな彼からは、まごうことなき恐怖の匂いが漏れていた。

 

「殺すだなんて心外な。あの時はたまたま失敗してしまっただけで、次は・・・」

「たまたまで歯が折れそうなほどの強度の団子ができるのか?喉が焼けるようなタレができるのか?あんな劇物生み出しやがって。あの時、危うく俺は死ぬところだったんだぞ!!」

 

先程と同じくらいの怒りの炎を纏いながら、鋼鐵塚は鉄火場に詰め寄った。

それを見ていた汐達は、同じ考えを胸に浮かべた。

 

(鉄火場さん・・・、料理、苦手なんだ・・・)

 

口論する二人を見て、汐達は何とも言えない気持ちになった。

 

「さて、私たちはお暇します。ほら蛍、帰りますよ」

「おい炭治郎!!必ずみたらし団子を持ってこい!!絶対に焔に作らせるな!!」

 

鉄火場に引きずられていく鋼鐵塚は、必死の思いで炭治郎にそう言った。

 

「ありがとうございました!お二人共お大事に!!」

 

去って行く二人に、炭治郎はそう言った。

 

「噂には聞いていたけど、スゲェ人達だな」

 

静かになった病室で、後藤がぽつりと言った。

 

「鉄火場さんはともかく、今日の鋼鐵塚さんははかなり穏やかでしたよ。相当つらいみたいです」

「マジかよ・・・」

「そうね。でも、二人が元気そうでよかったわ」

 

そこまで言った汐は、唐突にある事を思い出した。

 

「そう言えば炭治郎。あんた、鉄火場さんが女だって聞いたとき、あんまり驚いていなかったけど、もしかして知ってたの?」

「えっと、知っていたというか違和感はあったよ。初めて出会った時、鉄と火の匂いの他に、妙に柔らかい匂いがしたから・・・」

「何よそれ!知ってたんなら教えなさいよね!!あたし結構後になって知ったんだから!!」

 

汐が思わず叫ぶと、背後から不機嫌そうな声が聞こえてきた。

 

「さっきから、うるせぇんだよ」

 

汐が振り返ると、玄弥が不機嫌そうな顔でこちらを睨んでいた。

 

「あら、あんたいたの?いたんなら会話に混ざればよかったのに」

「できるわけねぇだろ。この状況で」

 

玄弥はそう言って汐に背を向けた。その耳が真っ赤に染まっていることに、汐は気が付かなかった。

 

「さて、あたしはそろそろ部屋に戻るわ。あんた達もゆっくり休んで」

「ありがとう。お前もゆっくり休むんだぞ」

「そうさせてもらうわね。じゃあね、炭治郎、玄弥、後藤さん」

「おー、お大事にな」

 

汐がそう言って部屋に戻ろうとしたときだった。

 

「うおおおおお!!!」

窓の硝子が砕け散ると同時に、外から伊之助が雄たけびを上げながら飛び込んできた。

 

「ぎゃあああああ!!!」

 

玄弥を除く全員が悲鳴を上げ、先ほどまでの静けさはあっけなく崩壊した。

 

「ああーーーー!!伊之助・・・!!何してるんだ!窓割って・・・!!」

「お前バカかよ!!胡蝶様に殺されるぞ!!」

 

炭治郎と後藤が叫ぶように言うと、伊之助は両腕を振り回しながら「ウリィィィィ!!」と叫んだ。

 

そんな伊之助に後藤が「黙れ!!」と言いながら頭を叩くが、伊之助は一向に黙らない。

 

(部屋を別にしてほしい・・・)

 

玄弥は両手で耳を塞ぎながら、騒音から逃げるように布団に潜り込んだ。

 

「強化、強化、強化!!合同強化訓練が始まるぞ!!」

 

伊之助は興奮しきっているのか、身体についた硝子の破片を気にも留めずに叫んで走り回った。

 

「強い奴らが集まって、稽古つけて・・・何たらかんたら言ってたぜ」

「?なんなんだ、それ」

 

炭治郎が尋ねると、伊之助は胸を張って「わっかんねえ!!」と答えた。

 

飽きれて呆然とする炭治郎だが、汐が妙に静かであることに気づくのに少しだけ遅れた。

視線を移せば汐は俯いたまま小刻みに震えており、はっきりとわかる怒りと殺意の匂いが鼻を突き刺した。

 

その雰囲気は後藤にも伝わった。善逸を再起不能にすると宣言した時よりも、明らかに怒りの度合いが違う。

 

二人の背中を、冷たいものが伝った。

 

「人の部屋で騒ぐなって、何回何十何百何千回も言ったはずなのに、あんたはこれっぽっちも懲りていないようねぇ・・・」

 

汐の地の這うような声が響き、炭治郎と後藤は顔を引き攣らせた。

 

「よかったわ。今ちょうどここにいい獲物があるの。研ぎたてて切れ味抜群の、素晴らしい獲物よ」

「汐・・・、お前、まさか・・・」

 

炭治郎の顔がこれ以上ない程真っ青に染まり、出てくる声も震えていた。

 

「今日という今日は絶対に許さない!!その皮と腸と××××(ピー)綺麗に掻っ捌いて、干物にしてやるゴルァアアアア!!!」

 

汐は貰った懐剣を握りしめ、伊之助に向かって躍りかかろうとした。

それを後藤が羽交い絞めにし、何とか阻止した。

 

「落ち着け汐!!それをやったら本当に人殺しだぞ!!殺意、殺意引っ込めて!!」

「やかましいいい!!!しのぶさんが来る前に、あたしがお前をやってやるぅぅぅうう!!」

 

汐はそう叫んで後藤を振り払い、伊之助に飛び掛かろうとしたときだった。

 

「その必要はありませんよ、汐さん」

 

背後から透き通った声が聞こえ、汐は思わず動きを止めた。

恐る恐る振り返れば、そこには満面の笑みで青筋を立てているしのぶの姿があった。

 

「ひっ、こ、胡蝶様!!」

 

後藤は上ずった声を上げ、汐は勿論あれほど騒いでいた伊之助も、ぴたりと動きを止めた。

 

「私はこれから伊之助君と話をしますので、汐さんはお部屋に戻ってくださいね」

「・・・はい」

 

汐の殺意はみるみるうちに消え失せ、伊之助は汐に睨まれたときよりも明らかに怯えているように見えた。

 

その後、伊之助が朝までこってり絞られたことは、言うまでもなかった。

 

 

*   *   *   *   *

 

同時刻。

 

銀糸の髪を夜風に揺らしながら、宇髄は星空を見上げた。

失った左目のあった場所には、彼の趣味がちりばめられた眼帯がある。

 

ふう、と小さく息を吐いたその時。

 

「失礼します、天元様」

 

背後から声がして振り返ると、そこには宇髄の妻である三人の女性が立っていた。

 

「おー、戻ったかお前等。おかえり」

 

宇髄がそう言うと、彼女たちの表情が緩んだ。

 

「はー!あんな遠くまで行ったの、久しぶりで疲れましたー!」

「よく言うよ、須磨。あんたは海を見てはしゃいでいただけじゃないか」

 

疲れたように伸びをする須磨を見て、まきをは呆れたようにそう言った。

 

「まきをさんだって、港町の珍しいものに目移りしてたの、知ってるんですからね!」

「うるさい!!あたしは仕事で聞き込みをしてたんだ!」

「二人ともちょっと黙って」

 

言い争いを始める二人を、雛鶴は鋭い一言で黙らせた。

 

「天元様の読み通り、元海柱・大海原玄海様の居住地から、これが見つかりました」

 

そう言って雛鶴が差し出したのは、一冊の古い文献だった。

 

「大海原家の跡地は既にありませんでしたが、彼はこのような物を海の隠し洞窟に保管していたようです」

「そうそう。あの大きな岩のある入り江、まさか隠し通路があったなんて驚きです!!」

 

興奮する須磨に、まきをは「あんたが転んだ拍子に偶然見つかったんだけれどね」と呟いた。

 

「天元様・・・」

「ああ。こいつが、大海原家とワダツミの子の謎を解く大きな手掛かりになる」

「さっそく読んでみましょうよ!!」

 

須磨の言葉に雛鶴は頷き、皆に見えるようにして文献を開いた。

 

「こ、これは・・・」

 

文献を読み進めて行くほど、皆の顔が青ざめたものに変わっていく。

 

「こ、これ・・・、本当の事なんでしょうか?信じられない・・・」

「でも、これが現実だ。現実は受け入れなくちゃいけない・・・」

 

須磨とまきをは、青い顔で宇髄を見上げた。

 

「天元様。もしも、これが事実だとしたら、彼女は・・・」

 

雛鶴は今にも泣きそうな表情で宇髄を見上げると、宇髄は顔から一筋の汗を流していた。

 

「嗚呼。あいつに取っちゃ、これはあまりにも酷すぎる現実だ・・・」

 

宇髄は目を閉じ、汐の顔を思い浮かべた。何者にも、何事にも屈しない、気高き魂を持つ青い髪の少女。

 

だが、今目の前で明かされた真実は、汐にとっては残酷なものだった。

 

(汐・・・。お前は、いや、お前達は・・・)

 

四人の間の重苦しい空気に反し、星空はどこまでもどこまでも澄みわたっていた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



翌日。

 

機能回復訓練をしていた汐の元へ、蜜璃が様子を見にやってきた。

 

汐は訓練を中断すると、蜜璃と共に部屋へと戻った。

 

「そう、もうすぐ完治なのね。よかった・・・」

 

汐から話を聞いた蜜璃は、心の底から嬉しそうに笑った。

 

「腕の違和感ももうほとんどないから、長くても一週間以内には復帰できるみたい。ところで、みっちゃんがここに来たのは見舞いだけじゃないわよね?」

「ええ。しおちゃんにこれからの事を伝えるために来たの」

 

蜜璃はそう言って、真剣な表情で汐を見た。

 

「もしかして伊之助が言ってた、合同強化訓練・・・ってやつ?」

「そうそう!名付けて"柱稽古"!!柱よりも下の階級の隊士の人達が、私達柱の所に来て稽古をする、大規模な催しなの!!」

 

蜜璃は頬を高揚させながらそう言った後、突然真剣な表情で汐を見ながら言った。

 

「ねえ。しおちゃんは、柱がどうして継子以外に訓練をつけないかわかる?」

 

蜜璃の問いかけに、汐は首をひねってこたえた。

 

「柱が変人すぎて人が近寄ってこないから?」

「しおちゃん、ボケないで真面目に考えて」

「あ、うん(ボケてないけど)。えっと、単純に考えたら、忙しいのよね。みっちゃんもしのぶさんも、あちこち飛び回っているみたいだし」

 

汐の答えに、蜜璃は頷いた。

 

柱は警備担当地区が広大なうえ、鬼の情報収集や自身の更なる剣技向上の為の訓練。その他諸々やることがたくさんあった。

その為圧倒的に時間が足りず、隊士の育成が不十分だった。

 

「でも、この間の刀鍛冶の里の事件以来、鬼が全然出なくなったの。どうしてか分かる?」

「うーんと、考えられるのは・・・。禰豆子が太陽を克服した事・・・」

「そう。無惨はきっと禰豆子ちゃんを狙ってくるから、きっと大きな戦いになると思う。そのためにも私達はもっともっと強くならないといけないから、皆の戦力向上の為に悲鳴嶼さんが提案したのよ」

 

そう言う蜜璃は、まるで自分の事のように誇らしげだった。

 

「参加するのは私の他に、伊黒さん、悲鳴嶼さん、無一郎君、不死川さん、そして、元柱の宇髄さん」

「え、宇髄さんも?」

「話を聞いたらノリノリで参加してくれたそうよ。最近いろいろあって鬱憤がたまっていたからちょうどいいって笑ってたって」

 

嬉しそうに話をする蜜璃を見て、汐は少し困ったように笑った。

 

「ん?あれ?今出した名前に、冨岡さんとしのぶさんが入っていないけれど、どうして?」

 

汐が唐突に尋ねると、蜜璃の表情が明らかに曇った。

 

「冨岡さん、何だか元気がないみたいなの。会議の時も『俺はお前達とは違う』って言って不死川さんと喧嘩になりそうだったから、何か悩み事でもあるのかもしれないわ」

「しのぶさんは?」

「しのぶちゃんは、何か大切な用事があるって言ってたわ。稽古よりも大事な事って、よっぽどの事なのね。心配だわ・・・」

 

悲し気に目を伏せる蜜璃を見て、汐も何とも言えない気持ちになった。

 

「ところで話は変わるんだけど、しおちゃん。あなたは"痣"って知ってる?」

「痣?」

 

汐が聞き返すと、蜜璃は神妙な面持ちで頷いた。

 

「上弦の鬼と戦った時、私の身体に痣が出ていたみたいなの。その時は無我夢中で分からなかったんだけれど、それが出るといつも以上にすごい力が出せるの」

「痣・・・。もしかして、無一郎や炭治郎の顔に出てたあれのこと?」

 

汐の言葉に、蜜璃は驚いたように目を見開いた。

 

「あたしも少しだけ遠目で見ただけだけれど、確かにすごい動きをしていた気がする。あれっていったい何なの?」

「原理はよくわからないけれど、身体の温度を三十九度以上にして、心拍数を二百以上にすると痣が出てすごい力が出せるの。でも、体質的に痣が出ない人もいるみたいで、そこはよくわからないわ」

「体温を三十九度・・・。たぶんあたしには無理ね。あたしの平熱は低いから、そんな体温だったら確実に死んでるわ」

 

汐は少し残念そうに答えた。

 

「・・・でも、しおちゃんはそれでいいのかもしれないわ」

 

蜜璃はそう小さく呟くと、汐に悟られないように笑った。

 

「さて、私はこれから準備をしなくちゃ。しおちゃんはしっかり回復訓練をして、万全の状態で稽古に挑むのよ」

「はーい」

 

蜜璃はそう言って蝶屋敷を後にした。

 

訓練を終えた汐は、炭治郎の顔を見ようと病室へ向かっていた。

すると

 

「自分よりも格上の人と手合わせしてもらえるって、上達の近道なんだぞ」

 

部屋の中から炭治郎の熱のこもった声が聞こえてきた。

 

「自分よりも強い人と対峙すると、それをグングン吸収して強くなれるんだから」

 

その声が炭治郎の飽くなき向上心を現していると感じて、汐も自然と笑顔になった。

 

だが

 

「そんな前向きなことを言うんであれば、お前と俺の中も今日これまでだな!!」

 

空気を震わすような善逸の怒声が、汐の耳を突き刺した。

 

「お前はいいだろうよ、まだ骨折治ってねぇから、ぬくぬくぬくぬく寝とけばいいんだからよ!!俺はもう、今から行かなきゃならねぇんだぞ!!分かるかこの気持ち!!」

「いたたたた!!」

 

炭治郎の悲鳴が聞こえたため、汐は慌てて部屋の中に飛び込んだ。そこには、炭治郎の額に激しく噛みつく善逸の姿があった。

 

「へー、そう。そんなに休みたいなら、休ませてあげましょうか?」

 

汐がそうささやくと、善逸の顔が一瞬で青く染まった。

昨日、汐に完膚なきまでに叩きのめされた恐怖が蘇ってきたのだろう。

 

よく見れば善逸の頭には、こぶの痕がまだ残っていた。

 

「こらこら汐。やたらめったらに怪我人を増やしちゃ駄目だ。アオイさんたちが大変だろう?」

「え、気にするところそこ?俺の心配はしてくれないの?」

 

炭治郎のズレた指摘に、善逸は冷ややかに突っ込んだ。

 

「まったく、今更騒いだってしょうがないでしょ?覚悟決めなさい覚悟」

 

汐の有無を言わせない圧力に、善逸は涙を流しながら背を向けた。

 

「あっ、善逸。いい忘れてたけど、ありがとう」

 

炭治郎は、去り行く善逸の背中に向かって声を掛けた。

 

「俺に話しかけるんじゃねえ・・・!!」

 

しかし善逸は振り返ることなく、恨みと憎しみを籠った声で答えた。

 

「いやいや、待ってくれ。上弦の肆との戦いで片足がほとんど使えなくなった時、前に善逸が教えてくれた雷の呼吸のコツを使って、鬼の頸が斬れたんだ」

 

炭治郎は、朗らかな表情を向けて言った。

 

「勿論、善逸みたいな速さでは出来なかったけど、本当にありがとう。こんな風に、人と人との繋がりが窮地を救ってくれる事もあるから、柱稽古で学んだ事は全部きっと良い未来に繋がっていくと思うよ」

 

炭治郎の"目"と"音"は、嘘偽りのない彼の心を静かに映していた。

善逸はそんな炭治郎に一瞬だけ面食らうが、

 

「馬鹿野郎、お前っ・・・そんなことで俺の機嫌が直ると思うなよ!!」

 

しかし言葉とは裏腹に、善逸の表情はこれ以上ない程緩んだ笑顔になっていた。

それを見た炭治郎は(あ、ゴキゲンだ。よかった)と安堵し、汐は(単純な男ね・・・)と呆れた顔をした。

 

そのまま善逸は頭から花を咲かせながら、蝶屋敷を後にした。

 

「あ、汐。甘露寺さんが来てたって聞いたけれど、何か話してたのか?」

「うん。柱稽古の事を少しね」

「そうか。俺も詳細を善逸から聞いてたんだ」

「そうだったの。みっちゃんの話だと今回の稽古、今の柱連中は勿論、宇髄さんも参加するって」

「宇髄さんも!?それは楽しみだなぁ」

 

稽古が待ち遠しいのか、炭治郎は頬を赤くしながら鼻息を荒くしていた。

 

「でも、冨岡さんとしのぶさんは不参加なんですって」

「冨岡さんとしのぶさんが?どうして?」

「詳しくはみっちゃんもわからないみたいだけど、しのぶさんは凄く大事な用事があるみたい。冨岡さんは・・・、なんか妙なことを言ってたらしいわ。『俺はお前達とは違う』って」

 

汐の言葉に、炭治郎の目が不安げに揺れた。

 

「どういう意味なんだろう」

「さあ?ひょっとして、『雑魚とは違うのだよ、雑魚とは!!』みたいな感じかしら」

「冨岡さんがそんなことを言うわけないだろう。それに、その言葉はなんだかすごく危険な気がする」

 

うーんと二人が首をひねっていると、突然窓の外から何かが飛んで来る気配がした。

 

汐が顔を動かした途端。黒い塊が二つ、ものすごい速さで飛んで来るのが見えた。

 

一つは炭治郎の額に。もう一つは汐の脇をすり抜け、壁に激突した。

 

「ギャアアアアアッ!!」

「なっ、なっ・・・」

 

炭治郎は悲鳴を上げて額を抑え、汐は目を白黒させた。

炭治郎に激突した黒い塊はけたたましく鳴いた。

 

「うわぁ、血が出た!急に何するんだよ!酷いな」

 

よく目を凝らせば、それは炭治郎の鴉であり、炭治郎を嘲るように何度も鳴いた。

そして壁にぶつかっていたのは、汐の鴉だった。

 

「タユウ!?び、びっくりするじゃない!!ダツ*1みたいに突っ込んでくるんじゃあないわよ!!」

 

汐も驚きを怒りに変えて詰め寄ると、タユウはいつも通りに間延びした声で鳴いた。

 

「と、ところで二人、いや、二羽とも。どうしたんだ?」

 

落ち着いた炭治郎が問いかけると、二羽の鴉はほぼ同時に咥えていた手紙をそれぞれに渡した。

 

「オ館様カラノ手紙ダ!!至急読ムノダ!!」

「オ館様カラノオ手紙デス~。今スグ読ンデクダサイネェ~」

 

「「えっ!?」」

 

鴉の言葉に、二人は目玉が飛び出る程驚いた顔をした。

 

「お、お、お館様からァーー!?ど、どうしよう!あたしまた、なんかやらかした!?」

「(自覚あるのか・・・)いや、手紙からはそんな殺伐とした匂いはしない。とにかく読んでみよう」

 

二人は顔を見合わせてうなずくと、恐る恐る手紙を開いた。

 

「え、これって・・・」

 

汐と炭治郎は、輝哉からの手紙を読み進めて息をのんだ。

 

「お館様、もうそんなに具合が悪くなってたの・・・。それに、これ・・・」

 

汐は読み終わると硬い表情のまま炭治郎を見た。

 

「・・・汐。頼みがあるんだ」

 

炭治郎は手紙を読み終えると、汐の目を見据えながら言った。

 

「俺と一緒に行って欲しい。お館様の頼みを聞くために」

「そんなの当り前よ。嫌って言ってもついていくわ。お館様の直々のお願い、断る理由なんてないもの」

 

汐は決意を込めた表情で頷き、炭治郎も同じく頷いた。

 

「じゃああたしは、しのぶさんに話をしてくるわ。それまで勝手な事するんじゃないわよ」

 

汐はそう言うと、足早にしのぶの元へ向かった。

 

「・・・・」

 

炭治郎は、輝哉からの手紙を握りしめながら目を伏せた。

 

「・・・冨岡さん」

 

炭治郎の小さく呟かれた名前は、病室に静かに響いた。

 

*   *   *   *   *

 

その頃、宇髄邸では・・・

 

「遅い!!」

 

晴れ渡った空の下を、宇髄の怒声が響いていた。

 

「遅い、遅い、遅い!!何してんのお前ら。意味わかんねぇんだけど!!」

 

宇髄は片手に竹刀を持ちながら、眼前で蠢く隊士達に檄を飛ばしていた。

 

「まず基礎体力が無さすぎるわ!!走るとかいう単純なことがさ、こんなに遅かったら上弦に勝つなんて、夢のまた夢よ!?」

 

宇髄の言葉は、地面に突っ伏している隊士達容赦なく突き刺さるが、彼等は動くことすらできないようだった。

 

「ハイハイハイ、地面舐めなくていいから。まだ休憩じゃねぇんだよ。もう一本走れ」

 

宇髄はそんな彼等に、容赦なく竹刀を振り下ろす。

乾いた音が響き渡り、隊士達のうめき声が聞こえた。

 

(ったく、どうしようもねえな。質が悪い!)

 

そんな隊士を見て、宇髄はうんざりしたように鼻を鳴らした。

 

柱稽古。その名の通り、柱達による一般隊士達の強化訓練。

 

まず初めに宇髄の下で基礎体力の向上から始まり、無一郎による高速移動の稽古。

次に蜜璃の地獄の柔軟訓練、伊黒による太刀筋矯正訓練、実弥による無限撃ち込み稽古。悲鳴嶼による筋力強化訓練。

 

柱一人一人がそれぞれの訓練を担当し、隊士達は彼らの元を回って稽古を受ける。

 

だが、この訓練の目的はそれだけではなかった。

 

柱の方も、隊士との訓練によって自分自身の能力の向上も見込まれ、痣が出ている者は痣状態でいられるように。

まだ痣が出ていないものには、痣を出せるようにするという目的もあった。

 

その過程で、得た情報は隊全員に伝達・即共有で、隊全体の力を上げていた。

 

来たる戦いに備えて。

 

だだ、一人の男を除いては。

 

「・・・・」

 

その日、水柱・冨岡義勇は一人、自身の屋敷で瞑想をしていた。

今頃、他の柱達は隊士達との訓練に精を出しているころだろう。

 

聞こえるのは自分が生きている音と、外から聞こえる鳥のさえずりだけだった。

 

ほんの、数秒前までは。

 

「ごめんくださーい!冨岡さーん!!」

 

屋敷の外から聞き覚えのある声が聞こえた。

 

義勇は小さく肩を震わせるが、聞こえなかったことにして瞑想を続けた。

 

「こんにちは、すみませーん。義勇さーん、俺ですー。竈門炭治郎ですー」

 

しかし、炭治郎の声は一向に止まる気配がない。

それでも義勇は、声に答えることなく目を閉じた。

 

「ああもう、じれったい。炭治郎、ちょっとどいて」

 

外から聞こえた別の声に、義勇は思わず目を見開いた。

 

(大海原も来てるのか・・・!?)

 

「ちょっと冨岡さん!!いるのはわかってんのよ!!居留守なんか使ってないで、さっさと出てきなさいよ!!」

 

汐の怒鳴り声と共に、扉を叩く大きな音が屋敷中に響き渡った。

 

「わー、汐やめろ!それじゃあ取り立て屋みたいじゃないか!」

「うるっさいわね。いくら呼んでも出てこない冨岡さんが悪いのよ!あーもう、これじゃあ埒が明かないじゃない!」

 

苛立ちを孕んだ汐の声が聞こえ、義勇はこのまま炭治郎が汐を連れ帰ってくれることを願った。

 

正直なところ、義勇は汐が苦手だった。

 

苦手というよりは、今まで出会った事のないタイプの女性だったため、扱い方が分らないのだ。

 

それ程まで、歩く爆発物のような汐は、義勇にとって未知の存在だった。

 

だが、次の炭治郎の声で義勇の願いは粉々に吹き飛ぶことになった。

 

「じゃあ入ってみよう。すみませーん、入りますねー」

 

その言葉に、義勇は耳を疑った。

 

(入ります?いや・・・。帰りますだな、聞き間違いだ・・・)

 

しかしそれは聞き間違いではなかったことが、扉の向こうから現れた炭治郎と汐の姿を見て嫌でも気づかされるのだった。

*1
ダツ目ダツ科の魚。光に反応し突進してくるので非常に危険。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



時間は少しさかのぼり。

 

汐と炭治郎がもらった輝哉からの手紙には、二人の怪我の具合を心配する言葉から始まり、自分が病が進行して動けなくなってしまっていることがつづられていた。

その為、大切な時期に皆一丸となって頑張りたいと思うから、一人で後ろを向いてしまう義勇に話をしてほしいということだった。

 

汐はしのぶに炭治郎の外出許可を何とかもらい、二人は鴉に案内されながら義勇の屋敷を目指していた。

 

「大丈夫?少しでも辛くなったら言って」

「ありがとう汐。今のところは大丈夫だよ」

 

炭治郎は汐の優しさに顔をほころばせつつも、義勇の事を思うと胸が痛んだ。

 

「冨岡さんの噂をしていたら、まさかこんなことになるなんてね」

 

汐は輝哉の手紙を眺めながら、そう呟いた。

 

「でもお館様は、どうしてあたしにも手紙をよこしたのかしら?弟弟子の炭治郎はともかく」

「汐だって、呼吸は違うけれど鱗滝さんから学んだ妹弟子じゃないか。それに、汐も俺と同じ、冨岡さんに命を救われただろう?だから無関係じゃない」

 

炭治郎がそう言うと、汐は小さく息をついた。

 

汐の村が鬼の襲撃を受けた時、命を助けてくれた恩人。鬼となってしまった妹を殺さず、炭治郎の可能性を見出してくれた人、冨岡義勇。

彼がいなければ、汐も炭治郎も、この道に進んではいなかっただろう。

 

いや、この世にいなかったかもしれない。

 

「そういえば、あたしちゃんと冨岡さんにお礼を言っていないわ。みっちゃんと挨拶に行った時も留守だったし、手紙を送ってもちっとも返事をくれないし、何考えてるのかさっぱり分からない人なのよね、冨岡さんって。あたし、正直ああいう人って苦手」

「おいおい、それは流石に言いすぎだ。とにかく、冨岡さんに会ってきちんと話そう。その時に、きちんとお礼を言うんだぞ」

「・・・わかってるわよ」

 

炭治郎に諭された汐は、唇を尖らせた。

 

「あ、そう言えば思い出したんだけど。冨岡さんの羽織って、中々風変りよね?」

「ああ。羽織の柄が半分違うんだよな。伊之助が半々羽織っていうくらいだから」

「あたしの気のせいかもしれないんだけど、あの羽織の柄、何か見覚えあるような気がするのよねぇ・・・」

 

汐はぼんやりとした記憶をたどりながら、そう言った。

しかし頭の隅まで出かかっているのに思い出せない。そんなもどかしさを感じていた。

 

「そうなのか。実は俺もなんだよ。でも、どこで見たのか思い出せないんだ」

「何だ、そうだったの。不思議なこともあるものね」

 

そんな会話をしていると、大きな屋敷が段々と見えてきた。

 

「ここが冨岡さんの屋敷・・・」

 

初めて見る義勇の屋敷に、炭治郎は大きく目を見開いた。

 

「随分静かね。また留守かしら」

「いや、微かだけれど冨岡さんの匂いがするし、今は鬼が出ないから柱としての仕事はないはずだ」

 

炭治郎はそう言い切ると、閉ざされた扉に向かって声を張り上げた。

 

「ごめんくださーい!冨岡さーん!!」

 

炭治郎が呼んでみるものの返事はなく、聞こえるのは鳥の鳴く声だけだった。

しかし炭治郎はめげずに、もう一度声を張り上げた。

 

「こんにちは、すみませーん。義勇さーん、俺ですー。竈門炭治郎ですー」

 

だが、返ってくるのは静寂だけ。困ったように眉を寄せる炭治郎を見て、汐は我慢が出来なくなった。

 

「ああもう、じれったい。炭治郎、ちょっとどいて」

 

汐は炭治郎を押しのけると、大きく息を吸い拳を振り上げた。

 

「ちょっと冨岡さん!!いるのはわかってんのよ!!居留守なんか使ってないで、さっさと出てきなさいよ!!」

 

汐は声の限り怒鳴りながら、凄まじい音量で扉を叩きだした。

あまりの音に周りの鳥は一斉に飛び立ち、道行く人は何事かと足を止めた。

 

それを見た炭治郎は、慌てて汐を制止させようとした。

 

「わー、汐やめろ!それじゃあ取り立て屋みたいじゃないか!」

「うるっさいわね。いくら呼んでも出てこない冨岡さんが悪いのよ!あーもう、これじゃあ埒が明かないじゃない!」

 

汐は苛々と頭を振り、どうしたもんかと考えていた時だった。

 

「入ってみよう」

「そうね」

 

炭治郎の言葉に汐は頷くが、ふと一瞬我に返ると思わず声を上げた。

 

「って、ええっ!?あんた今、なんて言ったの?」

「入ってみようって言ったんだ。行こう、汐」

「いやいやいやいや!!あんたの方がよっぽどとんでもないことしてるわよ!?取り立て屋よりやばいことしてるわよ!?」

 

汐が顔を崩壊させながら突っ込むが、炭治郎は意も解さず「すみませーん、入りますねー」と言って扉を開けた。

 

(この純粋さが時々怖くなるわ・・・)

 

汐は呆れながらも、炭治郎の後を追った。

 

扉を開ければ、なんとも言えない表情をした義勇と目が合った。

 

(うわ、相変わらず何を考えているんだかわかんない"目"をしてるわ、この人・・・)

 

汐は顔をしかめつつも、炭治郎と並んで義勇の前に座った。

 

座るなり炭治郎は、柱稽古という大規模な訓練が始まったことを話しだした。

正直柱である彼が知らないはずはないと思いつつも、汐は話している炭治郎を黙って見つめていた。

 

「っていう感じで、みんなで稽古してるんですけど」

「知ってる」

「あ、知ってたんですね、良かった!」

 

義勇が答えると、炭治郎はすかさず相打ちを打つ。

流れるような会話に汐が舌を巻いていると、炭治郎はにこやかな笑顔でつづけた。

 

「俺、あと七日で復帰許可が出るから、稽古つけてもらっていいですか?」

「ちょっと、あんた何抜け駆けしてんの。あたしにもつけてよ。冨岡さんの水の呼吸、炭治郎とちょっと感じが違うから興味あったのよね」

 

炭治郎の話に汐が乗っかると、義勇は微かに眉根を寄せてから口を開いた。

 

「つけない」

「なんでよ?」

 

汐がすかさず反応すると、義勇の前に炭治郎が口を開いた。

 

「義勇さんからじんわり怒っている匂いがするんですけど、何に怒っているんですか?」

 

炭治郎がそう言うと、義勇は更に眉根を寄せながら答えた。

 

「炭治郎が、水の呼吸を極めなかったことを怒っている」

「はあ?」

 

汐は思わず声を上げる。義勇はつづけた。

 

「炭治郎は水柱にならなければならなかった」

 

義勇の"目"には、怒りの他に苛立ちが見て取れた。

しかし、義勇の言葉を聞いて汐は口を挟んだ。

 

「んなこと言ったって、炭治郎の身体は水の呼吸に適してないんだからしょうがないじゃない」

「それは申し訳なかったです」

「って、なんであんたが謝るのよ?あんたはこれっぽっちも悪くないじゃないの」

 

汐は口を尖らせながらそう言うと、炭治郎は目を伏せながら言った。

 

「でも、鱗滝さんとも話したんですけど、使ってる呼吸を変えたり、新しい呼吸を派生させるのは珍しいことじゃないそうなので。特に水の呼吸は、技が基礎に沿ったものだから派生した呼吸も多いって・・・」

 

「そんな事を言ってるんじゃない」

 

そんな炭治郎の言葉を、義勇はぴしゃりと遮った。

 

「水柱が不在の今、一刻も早く誰かが水柱にならなければならない」

 

「「え?」」

 

汐と炭治郎は、同時に頭の中に疑問符を浮かべた。

 

「水柱が、不在?」

「わけがわからないわ。水柱は冨岡さんじゃないの」

 

汐と炭治郎が言う。しかし義勇は淡々と答えた。

 

「俺は水柱じゃない」

 

その義勇の"目"からやるせなさを感じた汐は、思わず息をのんだ。

 

「帰れ」

 

義勇は冷たくそう言うと、そのまま立ち上がった。

 

「それってあんたが言ってた、他の柱とは違うっていうのと関係あるの?」

 

義勇は足を止めた。

 

(そうか。大海原は甘露寺の継子だったか・・・)

 

だが、義勇は振り返りも答えもせずにその場を去ってしまった。

 

「炭治郎、どうする?冨岡さん、話してくれそうにないわよ?」

 

炭治郎は腕を組んで考えていたが、何かを思いついたように目を輝かせた。

 

「お館様の手紙にはなんて書いてあった?」

「え?そんなの、冨岡さんと根気強く話をしてくれって」

「それだよ!俺達が根負けしたら、義勇さんは前を向いてくれない。だから、根気強く話しかけてみよう!」

 

炭治郎の"目"に、迷いは一切なかった。誰かの為にこんな"目"をしてくれる炭治郎を、汐は心の底から好きになったのだ。

それを思い出した汐は、力強くうなずいた。

 

そして。汐と炭治郎は、義勇が心を開いてくれるまで付きまとった。

 

義勇は初めは困惑したが、どこにいてもついて来る二人に恐怖感を覚え始め、わずか二日で根負けした。

 

炭治郎だけだったらもう少しかかっただろうが、にこやかな笑顔で話しかけてくる炭治郎とは異なり、目を見開いて無言で迫ってくる汐に精神が持たなかったのだ。

 

「俺は最終選別を突破していない」

 

二日後のある日。二人の(特に汐からの)圧に負けた義勇は、そう呟くように言った。

 

「・・・え?」

「は?」

 

汐と炭治郎は顔を見合わせると、同時に義勇の方を向いた。

 

「最終選別って、藤の花の山のことですか?」

「そうだ」

 

義勇は目を伏せながら答えた。

 

「あの年に俺は、俺と同じく鬼に身内を殺された少年・・・、錆兔という宍色の髪の少年と共に、選別を受けた」

 

「!?」

(錆兎ですって!?)

 

その名前に二人は聞き覚えがあった。否、忘れるはずがなかった。

汐と炭治郎も、同じ名前の少年に出会ったことがあったからだ。

 

その時、義勇と錆兎は同い年の十三歳で、天涯孤独ですぐに仲良くなった。錆兎は正義感が強く、心根の優しい少年だった。

 

だが、その年の最終選別で命を落としたのは彼一人だけだった。

最終選別には義勇を含めて数人の参加者がいた。しかし、錆兎が一人でほとんどの鬼を倒してしまったため、彼以外が皆選別に受かった。

 

義勇は最初に襲い掛かってきた鬼に傷を負わされ、朦朧としていたところを錆兎に救われた。

そして彼は、他の参加者を救うために戦い、そしてあの手鬼に命を奪われたのだった。

 

「気づいた時には、選別が終わっていた。俺は、確かに七日間生き延びて選別に受かったが、一体の鬼も倒さず助けられただけの人間が、果たして選別に受かったと言えるのだろうか」

 

――俺は、水柱になっていい人間じゃない

 

そう言った義勇から後悔と悲しみの匂いがして、炭治郎の胸がきしんだ。

 

「そもそも、柱たちと対等に肩を並べていい人間ですらない。俺は彼らとは違う。本来なら鬼殺隊に、俺の居場所はない」

 

炭治郎の目には涙がたまり、零れ落ちそうになった。胸が痛くて痛くてたまらなかった。

 

「柱に稽古をつけてもらえ。それが一番いい。俺には痣も出ない。・・・錆兔なら、出たかもしれないが」

 

義勇は言葉を切ると、二人に背を向けた。

 

「二人共、もう俺に構うな。時間の無駄だ」

 

義勇はそれだけを言うと、そのまま歩きだした。

 

炭治郎は何も言葉をかけることができなかった。声が出なかった。

義勇の気持ちが、痛いほどわかるから。

 

自分よりも生きていて欲しい人が、自分の為にいなくなってしまったらとても辛い。

心が抉られるような辛さだ。

 

そんな彼を、汐は黙ってみていたが不意に口を開いた。

 

「待ちなさい」

 

その瞬間、義勇の足が止まった。いや、止まったのではない。止められた。

ウタカタを発動したわけでもない。だが、何故か義勇は動くことができなかった。

 

「先に無礼を謝っておくわね。ごめんなさい」

 

汐はそう言って義勇の腕を強く引き、こちらを振り向かせた瞬間。

 

汐は義勇の右頬に、渾身の平手打ちを叩き込んだ。

 

「!?」

 

空気が斬り裂く鋭い音が響き、義勇の身体が僅かに傾く。

ぶたれた頬はみるみる赤く染まっていった。

 

その光景を見た炭治郎は、目が転び出る程剥きながら飛び上がった。

 

「馬っっっ鹿じゃないの!!??」

 

義勇の頬と同じくらいに左手を赤く染めた汐が叫んだ。

 

「さっきから黙って聞いてりゃ、自分は柱になっていい人間じゃない?鬼殺隊に居場所がない?ふざけるのもいい加減にしてよ!!」

 

汐はそのまま義勇の胸ぐらをつかんでまくし立てた。

 

「最終選別の結果に納得いかないのもわかる。自分を守った人間がいなくなる辛さもわかる。でも!!だからと言ってあんたが今までやってきた事がすべて無意味だと思ったら、大間違いよ!!」

 

義勇は汐の顔を見て目を見開いた。汐の目に、涙がたまっていた。

 

「あんたが自分をどう思っていようが、柱じゃないって思おうが好きにすればいい。考えるのは自由だから。だけどね。あたしも、炭治郎も禰豆子も、あんたに助けられた。あんたがいたからあたし達は、今こうしてここに存在していられるの!!あたしだけじゃない。今までだって、冨岡さんという人に命を救われた人間が確かにいるの!!」

 

その言葉を聞いて、義勇の心に今まで出会った人たちの顔が蘇った。

 

「その想いを、あんたは無下にするの?あんたのことを心配してくれたお館様や、怪我を押してあんたを気にかけてくれている炭治郎の気持ちを、絆を、あんたはぞんざいに扱えるの!?答えろっ!!水柱・冨岡義勇!!!」

 

「止めろ汐!!やめるんだ!!」

 

炭治郎は慌てて汐を義勇から引きはがした。

汐は荒い息をつきながら、苦しそうに胸を抑えていた。

 

そんな汐を見て炭治郎の心に、いろいろなものが駆け巡った。

 

義勇の話を聞いて、炭治郎の脳裏に浮かんだのは煉獄の姿。自分たちを命がけで守ってくれた、誇り高き武人。

彼がいれば、無惨を倒せたのではないかと思った。彼ではなく、自分が死ねばよかったのではないかと思うこともあった。

 

けれど、伊之助が言った「信じると言われたなら、それに応えること以外考えるな」という言葉が、炭治郎をつなぎとめた。

そして、禰豆子や善逸、汐。たくさんの大切な人達に支えられ、繋げられて炭治郎は今生きている。

 

(俺がとやかく言えることじゃないかもしれない。だけど、汐は言った。自分の気持ちを。だから、俺も言わなくちゃ。俺の気持ちを)

 

炭治郎は汐から離れると、俯く義勇の目を見て言った。

 

「義勇さん。汐が無礼な真似をしてすみません。ましてや、この大事な時期に怪我をさせてしまい、本当に申し訳なく思います」

 

炭治郎はそう言って深々と頭を下げた。汐は顔をしかめたまま、義勇から目を逸らすようにそっぽを向いた。

 

「ですが、俺は彼女の言ったことが間違いだとは思いません」

「えっ?」

 

炭治郎は凛とした声で言った。義勇は驚いたように顔を上げ、炭治郎の顔を見つめた。

 

「俺、うまく言えないですけれど、どうしても聞きたいことが一つあったんです。義勇さんは・・・」

 

――錆兔から託されたものを繋いでいかないんですか?

 

その瞬間、義勇の耳に乾いた音が聞こえてきた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

二十八章:千里の道も一歩から
壱(注意書き有)


注意:
義勇さんの過去に一部捏造があります
義勇さんの扱いが酷いです


冨岡義勇には蔦子(つたこ)という、年の離れた姉がいた。

彼等は病死した両親の遺産を使って、二人で慎ましく暮らしていた。

 

そんな蔦子が嫁ぐことになり、義勇はそれを心の底から祝福した。今まで苦労した分、姉には幸せになってほしかった。

 

しかしその願いは、蔦子が祝言を上げる前日の夜に無残にも砕かれた。鬼が蔦子と義勇を襲い、蔦子は義勇を守ってその命を落とした。

 

義勇は、姉を殺したのは鬼だと必死に訴えたが、誰も信じてもらえなかった。それどころか、周りの人間は義勇が心を病んだと思い、当方の親戚の医者の元へ送られることになってしまった。

だが、義勇はそれを拒みその途中で脱走するが、遭難してしまった。

 

その際にのちに師となる鱗滝左近次の知り合いの漁師に拾われ、鬼殺の路へと進むことになった。

 

その時に出会ったのが、義勇と似た境遇の同い年の少年、錆兎だった。

 

二人は意気投合し、辛い修行も二人なら乗り越えられた。義勇の傍にはいつも錆兎がいた。

 

しかし義勇の心の中には、決して消えないしこりがあった。

それは、自分を庇って死んだ姉の事。姉の代わりに自分が死ねばよかったのではないか。自分のせいで姉は死んだのではないか。

自分は、生きていていい人間なのか。

 

ある日、義勇はその想いを錆兎に打ち明けた。だが、錆兎から返ってきたのは、渾身の力の平手打ちだった。

 

頬が腫れ、口からは血があふれ出た。義勇は頬を抑えながら、錆兎の顔を見つめた。

 

『さ・・・、錆兎・・・』

『自分が死ねば良かったなんて、二度と言うなよ。もし言ったらお前とはそれまでだ。友達をやめる』

 

錆兎は義勇を見据えながらきっぱりと言い切った。

 

『翌日に祝言を挙げるはずだったお前の姉も、そんなことは承知の上で鬼からお前を隠して守っているんだ。他の誰でもない、お前が・・・お前の姉を冒涜するな』

 

錆兎の鋭い言葉が、義勇の胸に突き刺さる。

 

『お前は絶対死ぬんじゃない。姉が命を懸けて繋いでくれた命を、託された未来を繋ぐんだ。義勇』

 

 

*   *   *   *   *

 

義勇は汐と炭治郎に背を向けると、頬を手で押さえた。汐が打った右ほおではなく、左頬を。

 

(痛い・・・)

 

義勇は痛みを感じていた。汐に打たれた頬も痛むが、同じくらいに痛むのは心。

義勇の脳裏には、あの時錆兎に打たれた衝撃と痛みがはっきりと蘇っていた。

 

(何故、忘れていた?錆兔とのあのやり取り、大事なことだろう)

 

大切な親友が教えてくれた、大切な出来事。それをなぜ忘れていたのか。

いや、忘れていたわけではなかった。思い出したくなかった。涙が止まらなくなるから。思い出すと悲しすぎて 何も出来なくなったから。

 

(蔦子姉さん・・・、錆兎・・・未熟でごめん・・・)

 

義勇は、二人に背を向けたまま項垂れた。それからまるで石になったかのように、ピクリとも動かなくなってしまった。

 

(あれ・・・?)

 

汐は顔を引き攣らせながら、冷たい汗を流した。先ほど、自分が叩いた頬とは反対側の頬を押さえていたように見えた。

 

(もしかして、強く叩きすぎて、冨岡さんの頭馬鹿になっちゃった・・・?)

 

汐は青い顔で炭治郎と見つめた。炭治郎も、自分が酷いことを言ってしまったのではないかと表情を曇らせた。

 

(汐の言っていることは間違っているとは思わないけれど、義勇さんにとってはそうじゃなかったかもしれない。追い打ちをかけてしまったのかもしれない・・・)

 

このままでは義勇の心が折れてしまうかもしれないと感じた炭治郎は、必死に考えを巡らせた。

 

その結果、炭治郎の頭に一つの案が浮かんだ。

 

(そうだ。早食い勝負をするのはどうだろう?)

 

炭治郎は至ってまじめに考えた。

 

(勝負で俺か汐が勝ったら、元気を出して稽古しませんか?みたいな・・・。俺はまだ復帰許可おりてないから、手合わせ的なこと出来ないし。義勇さん、寡黙だけど早食いなら喋る必要ないし、名案だな!)

 

目を輝かせる炭治郎を見て、汐は炭治郎がまた何か突拍子もないことを考えているのを察した。

 

「炭治郎、大海原。遅れてしまったが、俺も稽古に「義勇さん、ざるそば早食い勝負、しませんか?」

 

義勇の言葉を遮って、炭治郎が提案した。

 

(なんで?)

(やっぱり)

 

義勇は疑問符を頭に張り付け、汐は相も変わらずおかしな提案をする炭治郎に頭を抱えた。

 

その時だった。

 

「え?」

 

義勇は突然、強烈な眩暈を感じて蹲った。頭が揺さぶられるような不快感が、段々と広がっていく

 

「えっ、ちょっ・・・?!」

「うわああああ!!義勇さーん!!」

 

呆然とする汐の顔と叫ぶ炭治郎の声が、ぼんやりと見え、そして聞こえた気がした。

 

「嘘、嘘!?あたし義勇さんやっちゃった!?本当にやっちゃった!?」

「言ってる場合じゃない!!とにかく、義勇さんを休ませよう!!手伝ってくれ!!」

 

 

*   *   *   *   *

 

眩暈を起こした義勇を連れて、汐と炭治郎は休めるところを探した。

運よく空いている茶屋がみつかり、休憩がてら皆で休むことした。

 

「ごめん、本当に、ごめんなさい」

 

義勇に濡れた手ぬぐいを手渡しながら、汐は心から申し訳なさそうに謝った。

 

「いや・・・」

 

義勇は腫れた頬を冷やしながら、汐から目を逸らしていた。

 

「善逸や伊之助を殴った時もよく気絶してたけれど、まさか柱のあんたまでそうなるとは思わなかったわ」

「・・・、お前は普段からもこんなことをしてるのか?」

 

義勇の問いかけに汐は「まさか!こんなことは偶にしかやらないわよ!」と答えた。

 

義勇はため息をついて目を閉じた。頬の鈍い痛みが、手ぬぐいの冷たさに溶け込んでいく。

 

「あのね、義勇さん。あたし、あんたにちゃんと言っておきたいことがあるの」

 

汐は顔を逸らす義勇に向かって話しかけた。

 

「あたし、あんたに命を助けられて、鬼殺隊の事とかいろいろ教えてくれて本当に感謝しているの。あんたがいなければ、あたしはとっくにこの世にはいないし、おやっさんの事も救えなかった。それだけじゃない。あたしを炭治郎と禰豆子に会わせてくれた。前に進む希望をくれたのはあんたよ。だから、その、本当にありがとう」

 

汐の声は、義勇の耳を通り体の中に染みて行く。

 

「俺は特別なことは何もしていない」

「十分特別よ。あんたいい加減に、その後ろ向きの性格何とかしなさいよ」

「俺は後ろ向きじゃない」

「・・・鏡持ってきてあげようか?」

 

汐は相も変わらずつれない義勇に呆れながらも、思っていたことを口にした。

 

「でも、そう言う融通が利かないところ、錆兎にちょっと似てるかも」

「!?何故お前が錆兎を・・・」

 

義勇はそう言いかけて口を閉じた。汐も鱗滝の下で学んだ、いわば妹弟子のようなものだ。

彼から錆兎の事を聞いていてもおかしくない。

 

「この半分の羽織の柄は錆兎の物で、もう半分は俺の、姉の形見なんだ」

「お姉さんの?」

「ああ。俺の姉は、俺を守って殺された」

 

義勇はぽつりぽつりと、自分の過去を語りだした。姉を殺され、鱗滝と出会い、そして錆兎と出会った事。

話が進むにつれ、汐の胸もきしむように痛みだした。

 

「姉さんは本当にやさしかった。俺が眠れないときには、眠るまで傍にいて子守唄を歌ってくれた」

「へえ。義勇さんにもそんな時代があったのね」

「あの時の俺は、本当に小さく、無力だった。姉さんが鬼に襲われているのに、何もできなかった」

「そりゃそうよ。あたしだって、親友が鬼にさらわれたのに助けられなかった。時々夢に見ることもあるのよ」

 

でもね、と汐はつづけた。

 

「炭治郎が言ってたわ。『過ぎた時間はもう戻らない。下を見てしまえばきりがない。失っても、失っても生きていくしかないんだ』って。実際その通りだった。あたし達も今日まで、多くの物を失ったわ。でも、それと同じくらいに得たものもある。今の自分がここに居るのは、その失った過去があるからこそだと、あたしは思うわ」

 

義勇は目を見開いて汐を見た。深い青い瞳に自分の顔が映っている。

 

年下の少女とは思えないその雰囲気に、義勇は圧倒された。そして思い出した。

かつて、鬼と化した父親を斬ると決心した、あの時の事を。

 

「だから、その。うまく言えないけれど、あんまり気にすんじゃないわよ。あんたがそんなんだと、あたしも・・・」

「すまなかった」

「え?」

 

義勇の謝罪の言葉に、汐は面食らった。

 

「俺のせいで、お前達にいらぬ心配をさせてしまった。本当に申し訳ない」

「馬鹿ね、言葉が違うでしょ?こういう時は謝罪じゃなくて、別の言葉があるじゃない」

 

汐がそう言うと、義勇はきょとんとした表情で見つめた。"目"を見る限り、本当に分からないようだった。

 

その時、炭治郎がお盆に水を乗せて戻って来た。

 

「あ、義勇さん。具合は大丈夫ですか?」

「ああ」

「ちょっと炭治郎。そんなことよりこの鈍感柱何とかしてよ!」

「ええっ!?何があったんだ?」

 

炭治郎が加わり、三人の間に奇妙で騒がしい時間が生まれ、義勇は困惑した。

しかし不思議と、不快には思わなかった。

 

そんな義勇の胸に、その時には気づかなかったある思いが生まれた。

 

――この二人は、決して死なせてはならない。守らなくてはならない。

 

それが、今自分にできる為すべきことだと。

 

義勇が元気になったころ、炭治郎は改めてざるそば早食い競争を提案し、汐と義勇は困惑したものの受け入れた。

 

結果は、汐が二人に圧倒的な差をつけ完勝。義勇に稽古をつけてもらうことを約束させた。

 

「あ、そうだわ。あたし明日から復帰だから、早めに帰って準備しないと」

 

蝶屋敷に向かう途中に、汐は唐突に口を開いた。

 

「そうなのか。俺はあと5日はかかるみたいだから、頑張って待つよ」

「頑張って待つって意味わかんないけれど、まあいいか。じゃあね、二人共。後義勇さん。もう二度と柱じゃないとか居場所はないとかいうんじゃないわよ!もし口にしたら・・・、性転換させるからね」

 

汐は拳を握りしめながらにっこりと笑った。その瞬間、義勇と炭治郎はこれ以上ない程の怖気を感じた。

 

(最近の女は、これほどまでに怖ろしいのか・・・)

 

時代は変わるものだなと、義勇はしみじみ思うのだった。

 

 

 

*   *   *   *   *

 

 

その日は、雲一つない満点の星空が輝く夜だった。

 

純白の雪の上に転々とつく足跡の先には、一人の男が佇んでいた。

彼は真っ赤な鉢巻を靡かせながら、星空を慈しむ様に見上げていた。

 

すると背後から誰かが近づく気配がした。男は振り返り、その姿を見て目を細めた。

 

『よう。夜更かしは肌によくないぜ。いくらちっこいガキでも、お前は女だからな』

 

男の言葉に青い髪の少女は少し顔をしかめつつも、男の目を真っ直ぐ見据えながら口を開いた。

 

『お前に聞きたいことがある』

『・・・なんだ?』

 

少女の淡々とした声に今度は男が顔をしかめつつも、返事を待った。

 

『なぜ私を殺さなかった?』

『今更かよ』

 

少女の問いに、男は心底呆れたように溜息をついた。

 

『本来なら、私とお前の一族は相いれない存在だ。お前の名と私の【歌】がお前に通用しないのがその証拠。だのに、お前は私を殺すどころか受け入れ、あろうことか【家族】として傍に置いている。何故だ?』

 

少女の淡々とした言葉が、静かな夜に響いて消える。

男は困ったように頭をかきながら、言葉を探しているようだった。

 

『私は【家族】というものが分からなかった。否、今もよく分からない。そしてお前の事も未だに分からない。わからないことだらけで、どうしたらいいか分からないんだ』

 

少女はまるで痛みをこらえるように、ぎゅっと表情を歪ませた。すると

 

『あのよぅ。さっきからお前は俺に理由ばかり聞いているが、理由ってそんなに重要か?』

『・・・何?』

『俺も大して生きてねえから、でけぇことは言えねえ。だがこの世には、理由がないこと、必要ないことがいくらでもあるんだよ』

 

男の言葉に、少女は混乱しているのか視線をあちこちに泳がせた。

 

『まあ簡単に言っちまえば、お前を連れ出した理由なんざ特にねえよ。俺がしたいからそうしただけだ。俺はちまちま考えるのが好きじゃねえからな』

『そのようだな。でなければ、己の約束された地位を捨ててまで私を連れまわすなどの酔狂ができるわけない』

『なんだよ。わかってんじゃねえか』

 

男は小さく笑みを浮かべながらそう言った。

 

『そうだ。昨夜生まれた赤ん坊だが、名前が決まったようだ。皆大喜びで名を呼んでいた』

『当たり前だ。名前ってのは人が生まれて最初に貰う、一生物の贈り物だからな』

『・・・私には名がないが』

 

少女は少し残念そうな声色でそう言った。すると男は、驚いたように目を見開いて言った。

 

『あれ?俺、お前に名前つけてなかったっけ?』

『私を一度も読んでいないだろうに。年齢の割に頭の中はすでに耄碌していると見える』

 

少女の辛辣な言葉が男を穿つと、男は小さく『可愛げのねぇガキ』と呟いた。

 

『まあ、お前を拾ってからいろいろと忙しかったからな。って、言い訳にすらならねぇか。だが、俺だってお前につける名前くらい用意してるぜ』

『適当なものではないだろうな。名前とは、一生物なのだろう?』

 

少女は挑発的にそう言うと、男は心なしか嬉しそうに目を細めた。

 

『いいか。一度しか言わねえ。耳の穴かっぽじってよく聞けよ』

 

――お前の名前は・・・

 

 

薄雲が空を覆う時刻、汐はゆっくりと目を開けた。

だが、その目は虚ろでどこか遠くを見ているように見えた。

 

「私の、名前は・・・」

 

汐の口から出た声は、いつもの彼女とは全く異なる淡々としたものだった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



怪我が完治した汐は、柱稽古への参加を許可された。そして、今現在は宇髄邸の前にいる。

 

以前に蜜璃と柱間のあいさつ回りをしたときに一度訪れてはいるが、森に囲まれたかなり大きな敷地に驚いた記憶がある。

 

汐は意を決して、屋敷の門をくぐった。

 

「よォ、久しいな騒音娘!お前また上弦と遭遇したんだって?生き残るたぁ、悪運の強い女だな」

 

汐の顔を見るなり、宇髄は声を上げた。左目には装飾がされた眼帯がつけられ、左腕は斬り裂かれたせいで中指がなかったが、それでも元気そうだった。

 

「ちょっと。しばらく見ない間に人の名前を忘れたの?それとも、頭に行くはずの血液が明後日の方向に流れてるの?」

「相変わらず減らず口は一丁前だな、汐」

 

宇髄は微かに顔をしかめるが、心なしか嬉しそうだった。

 

そんなやり取りを見て、這いつくばっている隊士達は目を見開いた。

 

(あいつ、元とはいえ柱と対等に話してるぞ・・・?)

(いや、対等どころか言い合ってるぞ。何者だ、あいつ)

 

そんな彼等をしり目に、汐は宇髄を見上げながら言った。

 

「で、ここではどんな訓練をするの?」

「ああ。基礎体力の向上訓練っつって、まあ早い話が走り込みだ。この土地をひたすら、死ぬ寸前まで走る訓練だ」

「そりゃあまた単・・・、分かりやすい訓練だわ」

 

汐が皮肉めいた笑みを浮かべると、後方から甲高い声が聞こえてきた。

 

「あーーっ、青い髪の子!お久しぶりー!!」

 

汐が振り返ると、そこには見覚えのある三人の女性がいた。

 

「こら須磨!!あんた何仕事を放り出してるんだい!!」

「お久しぶり、汐さん。ごめんね、騒がしくて」

 

汐を見つけるなり騒ぎ立てる須磨、それを怒鳴りつけるまきを、その二人を諫める雛鶴だった。

 

「お久しぶり、皆。あの時は皆を助けてくれて本当にありがとう」

 

汐が礼を言うと、三人は意外そうに目を見開いたがにっこりとほほ笑んだ。

 

「おいアホ娘!んなところで無駄口叩いてねえで、とっとと準備しろ」

 

宇髄の言葉に汐は返事をすると、雛鶴に連れられて荷物を置きに行った。

そんな汐の背中を、須磨は複雑な表情で見ていた。

 

「須磨。そんな顔をするんじゃない」

 

それに気づいたまきをが、語気を強めて言った。

 

「だって、だって。私より年下の女の子が、あんな・・・、あんな・・・」

 

須磨の目にはうっすらと涙がたまっていた。

 

「須磨。お前の気持ちはわかる。だが、真実を告げてそれをどう受け入れるかはあいつが決めることだ。お前が心配することじゃない」

 

そう言う宇髄の顔は、柱だったころと変わらない威厳に満ちていた。

 

「そうだよ。それに、あたしらだって見たじゃないか。あの子の底力。それに、あの子は一人じゃない。たくさんの仲間がいる。きっと大丈夫だよ」

「ううっ・・・」

 

鼻水を啜る須磨に、まきをはそう言った。

 

「さて、あたしらは皆の食事の支度をしないとねぇ。みんなくたくたになって帰ってくるだろうし。ほらいくよ!」

 

まきをは須磨を引きずってその場を去り、宇髄はそんな二人を見て柔らかくほほ笑んだ。

 

「天元様、お待たせいたしました」

 

宇髄が振り返ると、そこにはさらしを巻いた洋袴姿の汐が立っていた。

 

引き締まった体格に、しっかりとついた筋肉。そして見事に割れた腹筋に皆の視線はくぎ付けになった。

 

「ちょっと、人の身体を何じろじろと見てるのよ。厭らしいわね」

「馬鹿言うな。誰がお前みたいなちんちくりんに興味持つかよ」

「・・・やっぱり男として再起不能にしておけばよかったわ」

 

汐は宇髄をじろりとにらみ、それを見た雛鶴は「流石に配慮が足りません、天元様」と彼を窘めた。

 

「んじゃ、とりあえずまずは一周ひとっ走りして、鈍った身体を存分に叩き起こしな!!」

「当然よ!あんたこそ、強くなったあたしを見てひっくり返ったりしないでよ!」

「言うじゃねえか。あ、一つ言っとくが、ウタカタを使うのは禁止だからな」

「わかってるわよ。じゃあ行ってくるわね」

 

汐はそう言うと、準備体操をした後そのまま走り出した。

 

一部始終を見ていた隊士達は「あいつ、女だったのか・・・」と呟き、汐の去った方向を見つめていた。

 

元々汐は海辺育ちで、肺機能は勿論の事、動きづらい砂の上での走り込みを日課としてこなしてきた。

そして今は、蜜璃と伊黒の指導を受けている身だ。

 

汐の身体能力の高さは、すぐに他の者たちの目に留まることになった。

ごつごつとした険しい道を、まるで普通の道のように軽やかに掛けて行く。

 

その韋駄天のような姿の汐に、宇髄は舌を巻いた。

 

(ほぉ~。病み上がりであの動きたぁ、上弦とやりあっただけはあるな。柱の継子は伊達じゃねえってことか)

 

「それに引き換えてめえらは・・・」

 

宇髄は地面をはいつくばっている隊士達に目を向けると、竹刀を振り上げ容赦なく打ち鳴らした。

 

「いつまで這いつくばってんだ!!女が気張ってるのに男がそんな体たらくでどうすんだ!!男の意地一つくらい見せてみろやァ!!」

 

青い空に宇髄の怒鳴り声が響き渡った。

 

*   *   *   *   *

 

柱稽古が始まってしばらく経ったある夜の事。

一つの影が、夜空を斬り裂く様に飛んでいく。

その先にある窓から見える部屋には、一人の女性が物憂げな顔で書物を読んでいる姿があった。

 

影はためらうことなく窓に近づき、その足を止めた。

 

「こんばんは、珠世さん」

 

落ち着いた声が響き、珠世は手を止めて窓の方を向いた。そこには首に紐のようなものを巻いた一羽の鴉が静かにたたずんでいた。

 

「物騒ですよ、夜に窓を開け放っておくのは。でも今日は、本当に月が美しい夜だ」

 

言葉を話す鴉を見て、珠世はそれが鬼殺隊の鴉だとすぐに理解した。

 

「初めまして。吾輩は産屋敷耀哉の使いの者です」

 

身分を明かした鴉に、珠世は小さく肩を震わせた。

産屋敷耀哉。鬼殺隊の現当主の名は珠世も勿論知っており、それは鬼である自分とは決して相いれないはずの存在。

 

それがなぜ、自分と接触してきたのか。珠世は不審気に目を細めながら言った。

 

「・・・どうしてここが・・・、わかったのですか?」

 

珠世が尋ねると、鴉は人間の人脈を辿って珠世が買ったこの家の持ち主を特定。更に昼間のうちに愈史郎の視覚を把握していたことを明かした。

自分は訓練を受けているとはいえ、ただの鴉に過ぎない。そのためそこまで警戒されないことも。

 

「貴女方に危害を加えるつもりはないので、安心してほしい」

 

鴉は穏やかな口調でそう言うが、珠世は警戒心を解かないまま口を開いた。

 

「では、何の御用でしょうか」

「ふむ、不信感でいっぱいの様子。無理もない。吾輩が炭治郎や汐のように、貴女から信用を得るのは難しいですね。やはり」

 

鴉は少し考えこむような動作をした。

 

(どういった腹積もりなの。産屋敷・・・、何か騙そうとしている?)

 

それを見た珠世は、耀哉の意図が全く読めず困惑していた。

 

「・・・愈史郎は・・・?」

「愈史郎君は心配いりませんよ。ほら、走ってくる足音が聞こえる」

 

鴉が言い終わると同時に、上の階から凄まじい足音が響き渡った。

 

「では、用件を話しましょうか」

 

そんな騒がしさに目もくれず、鴉は淡々と言葉を紡いだ。

 

「鬼殺隊にも、鬼の体と薬学に精通している子がいるのですよ。禰豆子の変貌も含めて一緒に調べて頂きたい」

「一緒に・・・?」

 

珠世が尋ねると、鴉は驚くべき言葉を口にした。

 

「鬼舞辻無惨を倒すために、協力しませんか?産屋敷邸にいらしてください」

「!?」

 

思いもよらぬ提案に、珠世の心臓が大きく跳ねあがった。

 

(鬼である私を、鬼殺隊の本拠地へ・・・!?)

 

「勿論、今すぐにとは言いませんが、一刻を争う。それに、貴女も我々と目的は同じ。悪い話ではないはずだ」

 

珠世は早鐘のように鳴る心臓を抑えながら、鴉を見つめていた。

 

 

「珠世様ああああ!!!」

 

部屋中に響き渡る大声で、愈史郎が部屋の中へ突進してきた。それと同時に、鴉もまた闇夜に姿を消すのであった。

 

「珠世さん。迅速な検討をお待ちしております」

 

その言葉を残したまま。

 

 

*   *   *   *   *

 

場所は変わり、蝶屋敷では

 

(落ち着いて、大丈夫よ。姉さん、私を落ち着かせて)

 

しのぶは一人、仏壇の前で心の中でそう呟いた。

 

(感情の制御が出来ないのは未熟者・・・、未熟者です)

 

だが、いくら頭でわかっていても、顔はそれに反して怒りで歪んでいく。

それを押さえつけるように、しのぶは深く深く、息を吐いた。

 

すると、

 

「師範。お戻りでしたか」

 

しのぶの背後から、カナヲの声がした。今までよりはっきりとした彼女の声に、しのぶの心が跳ねた。

 

「私はこれから、風柱様の稽古に行って参ります」

「そう」

 

しのぶは振り返らないまま、淡々と答えた。

 

「師範の稽古は、岩柱様の後でよろしいですか?」

 

カナヲがそう言うと、しのぶは険しい表情のまま首を横に振った。

 

「私は今回の稽古には参加できません」

「えっ・・・?」

 

しのぶの思わぬ返答に、カナヲは表情を固まらせた。

 

「ど、どうして・・・」

「カナヲ、こっちへ」

 

狼狽えるカナヲに、しのぶは振り返ると手招きをした。

カナヲは素直にうなずき、しのぶの元へ近寄った。

 

「あの、あの・・・私・・・」

 

自分をまじまじと見つめるしのぶに、カナヲはもじもじしながらも口を開いた。

 

「もっと師範と、稽古したいです」

 

頬を染め、俯きながらも自分の想いを口にするカナヲに、しのぶは嬉しそうにほほ笑んだ。

思えば、カナヲは生い立ちのせいで自分から動くことがほとんどできず、指示をされていない事は銅貨を投げて決めていた。

 

それが、汐や炭治郎達と出会ってから、カナヲは心身ともに大きく成長した。

 

汐が記憶をなくした時、初めてカナヲから直談判をされたときは本当に驚き、そして嬉しかった。

 

「カナヲも随分、自分の気持ちを素直に言えるようになりましたね・・・。いい兆しです」

 

その時と同じように、自分の気持ちを素直に言えるようになったカナヲを見て、しのぶは一つの決心をした。

 

「やはり、良い頃合いだわ」

「?頃合い?」

 

カナヲが尋ねると、しのぶは表情を引き締めて言った。

 

「カナヲ。これから私の話すことをよく聞くのです」

「えっ、は、はい」

 

いきなり何を言い出すんだろうとカナヲの表情が不安げになる。

 

「私の姉、カナエを殺した、その鬼の殺し方について話しておきましょう」

 

驚くカナヲをしり目に、しのぶはその鬼の特徴を事細かに話し出した。

そして、その鬼を倒すための手段を。

 

その話は数十分続き、話を終えたカナヲは青ざめた顔で部屋を後にした。

 

(そんな・・・。そんなことって・・・)

 

カナヲは激しく脈打つ心臓を、ぎゅっと握りしめるように隊服を掴んだ。

 

(でもこれは師範が、しのぶ姉さんが決心した事。そして、私との約束・・・)

 

カナヲはぎゅっと目を閉じた。浮かぶのは炭治郎と、汐の顔。

 

(私、ちゃんとやれるかな。ねえ、炭治郎、汐・・・)

 

カナヲの小さな心のつぶやきは、誰の耳にも届くことはなかった。

 

 

 

*   *   *   *   *

 

汐が宇髄邸で訓練を始めてから五日後。

 

「よし、もういいぞ。お前はとっとと次の柱の所へ行け」

「えっ、いいの?五日しかたってないけど」

 

汐がそう言うと、宇髄は目を逸らしながら言った。

 

「ああ、騒音アホ娘の相手はこれ以上してられねえからな」

「何ですって!?」

「バーカ、冗談だよ。この土地を5時間以上も動き回れる体力がありゃあ、文句はねえってことだよ」

「あ、あんた、あたしをからかったわね!?」

 

キーキーと喚く汐の頭を抑えながら、宇髄は言った。

 

「汐。お前なら大丈夫だと思うが、何かあったら周りの連中を遠慮なく頼れよ」

「どうしたのよ急に。気持ち悪いわね」

「別になんでもねえよ。ただの独り言だ」

「随分具体的な独り言ね」

 

汐は小さくため息を吐くと、まあいいわと荷造りを始めた。

 

「あ、もしも炭治郎が来たらあんまりいじめないでよ?あたしの、その、大切な人なんだから」

「へいへい」

 

汐の頼みに宇髄は生返事をすると、そのまま妻と共に汐を見送った。

 

「・・・・」

 

小さくなっていく汐の背中を見て、宇髄は大きく息をついた。

汐は目を見て人の感情を読み取るのが得意だ。

 

いくら忍びの訓練を受けて感情を表に出さないことができるとはいえ、いつ汐に気づかれるかと思うと気が気でなかった。

 

「天元様・・・」

 

そんな宇髄を、三人の妻たちは心配そうに見上げる。

 

「さあて、まだまだやることは山ほどある。雛鶴、まきを、須磨。行くぞ」

 

宇髄はそう言ってにっかりと笑い、妻たちは不安を抱えながらも微笑み返した。

 

その時だった。

 

「すみませーん!!」

 

遠くから元気な聞き覚えのある声が聞こえてきた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



「こんにちはーッ!!今日からよろしくお願いします!!」

 

炭治郎は宇随邸に来るなり、屋敷中に響き渡るような声で高らかに挨拶をした。

 

「よォよォ!久しいな。お前もまた上弦と戦ったんだってな!あいつといい、五体満足とは運の強ェ奴だ」

 

そんな炭治郎に、宇髄は嬉しそうに言った。

 

「ここでなまった身体を存分に叩き起こしな!」

「はい、頑張ります!!」

 

炭治郎は拳を握りしめながらそう言った。

だが、炭治郎は何かを探すように視線を動かした。

 

「汐ならいねえぞ。お前が来る少し前に次の柱の所へ行っちまった」

「えっ、そうなんですか?残念だなあ・・・」

 

炭治郎はがっかりしたように眉根を下げた。

 

「・・・竈門。お前、汐から絶対に目を離すなよ」

「え?どういうことですか?」

 

炭治郎が尋ねると、宇髄は真剣な表情で言った。

 

「ああいう奴ってのは、いったん心が折れちまうと、落ちるところまで落ちちまう。もしもそんなことがあった時に、支えてやる奴が必要なんだ。だから、あいつのことを頼む」

 

炭治郎は宇髄から、僅かな悲しみの匂いを感じた。何故そのような匂いがするのかは分からないが、炭治郎は頷いた。

 

「勿論です。何があっても、俺は汐を守ります」

 

そう言う炭治郎の目は、決意と汐への確かな想いが見て取れた。

それを見た宇髄は、満足げにほほ笑むのだった。

 

*   *   *   *   *

 

宇髄邸を出た汐が向かっているのは、無一郎のいる時透邸。

 

「あっ、汐!久しぶり!」

 

着くなり笑顔で出迎えてくれた無一郎に、汐は表情を固まらせた。

 

「何だかいろいろあったって噂で聞いたけど、大丈夫?」

「え、ええ。大丈夫よ。心配してくれてありがとう」

 

にこやかな笑顔で言う無一郎に、汐はぎこちなく笑いながら答えた。

 

記憶が戻り、本来の優しい性格を取り戻したのだが、以前の無一郎を知っている汐はその変貌に未だに慣れなかったのだ。

 

(記憶が戻る前は腹立つ奴って思ってたけど、これはこれでちょっと難しいかも)

 

汐は稽古をつけられていないのにもかかわらず、何故かどっと疲れるのだった。

 

汐が稽古場へ行くと、打ち込み台にひたすら稽古をしている隊士達がいた。

皆長い間いるのか、顔に覇気がない。

 

辺りを見回しても、見知った顔は一人もいなかった。

 

「荷物を置いたらすぐに来て。詳細を説明するから」

 

無一郎に言われ、汐はすぐに荷物を指定の場所に置きに行った。

 

ここでの訓練は体さばきを鍛える高速移動。

まずは素振りをし、その後は打ち込み台を使った打ち込み稽古。

 

それをこなした後、無一郎との手合わせを行うというものだ。

 

準備が整った汐は、さっそく素振りから訓練を開始した。

 

(この感覚、懐かしいわ。鱗滝さんのところでの素振り地獄を思い出す・・・)

 

あの時汐は、玄海から刀を使った訓練を施されていなかったため、一から鍛えなおされていた。

一日でした素振りの回数は、おそらく一万回は近かったような気がする。

 

(でも、あの時は炭治郎がいたからどんな辛い修行も耐えてこれた。ううん、今もそう。炭治郎が笑顔になれるなら、あたしはなんだってできるのよ)

 

汐は素振りをしながらも、炭治郎の事を思い浮かべた。あの一番好きな"目"を思い出しながら。

 

(そう言えば炭治郎。そろそろ復帰する頃よね。ちゃんとこなせているのかしら・・・)

 

汐がそんなことを考えていると、油断したせいか汐の手から竹刀がすっぽ抜けてしまった。

 

「あっ!」

 

汐が気づいたときには、竹刀は無一郎の足元に転がっていた。

 

「汐」

 

無一郎は竹刀を拾うと、汐にそっと差し出しながら言った。

 

「駄目だよ、ちゃんと集中しないと。注意散漫は怪我の元になるんだから。そう言うのは君が一番わかっているはずなんだけどな」

 

無一郎の優しい声に、汐は驚くが表情を緩めて言った。

 

「そうね、集中しないと!ありがとうね」

 

汐は無一郎から竹刀を受け取ると、再び素振りを開始した。

一心不乱に竹刀を振る姿に、無一郎は目を見開いた。

 

少し粗削りが目立つが、その太刀筋には迷いがない。

今までたくさんの人の訓練を見てきたが、汐にはなぜか他の者にはない何かを感じた。

 

*   *   *   *   *

その夜。

 

「あー疲れた」

 

汐は敷かれた布団に大の字に寝転がりながら呟いた。

今日は一日素振りだけで終わってしまったが、それが決して無意味ではないことは経験上知っていた。

 

(宇髄さんのところで体力が戻ったとは思ったけれど、腕に結構来てるわね。けど、こんなところでへこたれてらんないわ)

 

汐はそのまま起き上がると、気合を入れるように両頬を叩いた。

稽古はまだ始まったばかり。明日の朝に備えて、今日はもう寝ようと思った時だった。

 

「汐、起きてる?」

 

突然声を掛けられ、汐は小さく悲鳴を上げて飛び上がった。

振り返ってみれば、無一郎が汐の後ろで立っていた。

 

「あ、ごめん。驚かす気はなかったんだけど・・・」

「び、びっくりしたわ。あんた、全然気配ないんだもの。善逸じゃないけれど、心臓が口からまろび出るところだったわ」

 

汐の言葉に、無一郎は申し訳なさそうに眉根を下げた。

 

「それより、こんな時間にどうしたの?柱のあんたがここに居るのはいろいろとまずいんじゃないの?沽券とか・・・」

 

汐がそう言うと、無一郎は首を横に振りながら答えた。

 

「今は柱じゃなくて、僕個人として君と話がしたいんだ。駄目、かな?」

 

無一郎の"目"には、からかいの意思など微塵もない。これはただ事ではないと察した汐は、深くうなずいた。

 

無一郎に連れられてやってきたのは、中庭が見える縁側。月は雲に隠れてはいるが、風が心地よい。

 

「ごめんね、休もうとしている時だったのに」

「いいわよ、そんなの。あたしも、そんな"目"をしているあんたを放っておけないからね」

 

そう言って笑う汐に、無一郎は心づかいを感じた。

 

「君にはきちんと話していなかったけれど、僕は刀鍛冶の里の時まで記憶をなくしてたんだ。その後遺症で物事を忘れやすくなってて、いろいろな人に迷惑をかけた。特に君や炭治郎には酷いことを沢山言った。本当にごめん」

 

無一郎は申し訳なさそうに顔を歪ませると、汐の顔を見て言った。

 

「何だそんなこと。いいわよ別に。気にしてないわ。それよりあたしも、あんたの事情を何も知らないで勝手なことを言ったわね」

 

今度は汐が謝ると、無一郎は驚いた顔で見つめた。

 

「実はあたしも覚えがあるのよ。記憶喪失。あたしの場合は一時的だったけれど、それでも自分の中に穴が開いたような感覚は、今でも思い出しただけでぞっとする。だからあんたの気持ち、少しだけど分かるわ」

「君も、記憶を・・・?」

 

汐の思わぬ過去に、無一郎は口を開けたまま見つめた。

 

「でもあたしもあんたも、今は記憶も戻ってやるべきことをきちんとわかってる。それでいいんじゃないの?ぐだぐだ悩んでるのなんて時間の無駄よ。だからあんたも、あんまり気にするんじゃないわ」

 

汐はそう言ってにっこりと笑った。屈託のないその笑顔を見て、無一郎は汐がたくさんの人に好かれている理由がわかった気がした。

 

そして同時に、汐を死なせてはならないという気持ちが芽生えた。

 

「ありがとう、汐」

「え?」

「君が僕の戦う理由を思い出させてくれた。大切な人を失う悲しみを、これ以上誰かに味わわせてはいけない。誰かの役に立ちたい。これがまごうことない、僕の本当の気持ちだ」

 

そう言い放つ無一郎の"目"は、柱としての決意と責任感が見て取れた。それを見た汐は、改めて自分の前の少年が柱であることを再認識した。

 

「そこまで言われちゃ、あたしもあんたに答えないとね。明日からさらに気合を入れるわ!こちらこそよろしくね、時透くん」

 

汐がそう言った瞬間。

 

「は?」

 

無一郎は唇を思い切り尖らせ、眉間に深く皺を寄せた。"目"からは決意が失せ、不満と不快感が現れている。

まるで、欲しいものを買ってもらえなかった子供のような顔になっていた。

 

「何その呼び方。前に言った事もう忘れたの?僕の事は無一郎でいいって言ったよね?」

「えーっ、だって。そこまで柱としての威厳のあるあんたに、呼び捨てはちょっと・・・」

「炭治郎や玄弥は名前で呼んでるくせに、なんで僕だけ扱いが違うの?おかしくない?」

 

無一郎は更に唇を尖らせ、拗ねた感情を隠そうともせずに捲し立てた。

 

「わ、分かった、分かったわよ。ごめんね、無一郎」

 

汐がそう言うと、無一郎の表情は途端に年相応の明るいものに変わった。

それを見た汐は(ちょっとめんどくさいな)と、心の中で小さく悪態をつくのだった。

 

*   *   *   *   *

 

それから八日後の事。

 

「うおりゃあああああ!!」

 

汐は雄たけびを上げながら、目の前の打ち込み台に竹刀を振り下ろす。するとその衝撃に耐え切れず、打ち込み台は轟音を立てて倒れた。

 

周りの隊士達は、青ざめた顔でその光景を凝視していた。

 

「あ、打ち込み台が壊れたのか。じゃあ汐はそろそろ、僕との手合わせかな」

 

無一郎はそう言うと、汐に竹刀を構えるように告げた。

 

(そう言えば、無一郎と手合わせするのは初めてだわ。上弦の鬼と戦った時に少しだけ見たけれど、動きに一切の無駄がなかった)

 

汐は唾を飲み込みながら、無一郎に向かって竹刀を構える。

空気が一瞬張り詰めたかと思うと、二人の身体は同時に動いていた。

 

部屋中には市内のぶつかる音と、二人の足音だけが響き渡る。

やはり無一郎の動きには全く無駄がない。それは彼が身体の使い方を熟知しているからだ。

 

筋肉の弛緩と緊張を切り替え、滑らかな動きを作り出している。

 

だが、汐も無駄に時間を費やしてきたわけではない。

 

初めは防戦一方だった汐だが、無一郎の動きに目が慣れ、やがて体が慣れてきた。

彼と同じように筋肉の動きにメリハリをつけ、体の動きを加速していった。

 

汐の動きが短時間で変わったのは、無一郎もすぐに気が付いた。初めて手合わせをしたはずなのに、もう自分の動きについてきている。

 

今まで見てきた隊士の中でも、確実に上位に入る程の上達の速さだった。

 

「汐、その調子だ。筋肉の弛緩と緊張をもっと滑らかに切り替えるんだ!」

 

汐は言われたとおりに身体の動きを変えた。すると、先ほどよりも筋肉の動きがわかるようになった。

 

そして

 

「やあっ!!」

 

汐のひときわ大きい声が響き渡ると同時に、無一郎の手から竹刀が弾き飛ばされた。

 

竹刀はそのまま放物線を描き、吸い込まれるように床に落ちる。

 

無一郎は呆然とした表情で、右手を見つめた後汐の顔を見て言った。

 

「君には本当に驚かされてばかりだな」

 

無一郎は満足そうに微笑むと、落ちた竹刀を拾って言った。

 

「動きも前よりずっと良くなったし、足腰の連動もきちんとできてるね。うん、合格だよ」

「本当!?じゃあ・・・」

「少し休んだら次の柱の所へ行っていいよ」

 

そう言って笑う無一郎だが、心なしか少し寂しそうな気がした。

 

「あ、あの・・・」

 

そんな中、二人の背後からおずおずと他の隊士達が声を掛けてきた。

 

「何?」

「あの、そろそろ俺たちも・・・。もう二週間近くいるので・・・」

 

だが、隊士がそう言った瞬間無一郎の表情が一変した。

 

「は?何言ってるの?君たちは駄目だよ。素振りが終わったなら、汐みたいに打ち込み台が壊れるまで打ち込み稽古しなよ」

 

汐とは全く異なる冷たい言葉に、隊士達は真っ青になり俯いた。

 

(あ、こういうところは変わってないのね。なんか安心したわ)

 

そんな無一郎を見て、汐は何故か安堵するのだった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

肆(加筆修正有)

冒頭部分が消えていたので、急遽修正させていただきました。
誠に申し訳ございませんでした。


汐が無一郎邸を出てから数時間後。宇髄から許可をもらった炭治郎がやってきた。

 

「いらっしゃい、炭治郎!来てくれたんだね!!」

 

炭治郎の顔を見るなり、無一郎は満面の笑みで出迎えた。

 

「こんにちは、時透君。今日からよろしくね!」

 

それに対し、炭治郎も朗らかな笑顔で答えた。

無一郎に案内されて荷物を置きに行くと、炭治郎は微かに汐の匂いを感じた。

 

「あれ?汐の匂いがする・・・」

 

炭治郎が何気なくそう言うと、無一郎は足を止めていった。

 

「汐はもう次の柱の所に行っちゃったよ。ほんの数時間くらい前だった」

「え?そうなの?そっか・・・」

 

炭治郎はがっくりと肩を落とした。

 

「そんなに汐と会えなかったことが残念?」

「え、う、うん。汐とは長い付き合いだし、色々助けられたし、その、何だかいないと落ち着かなくて・・・」

 

そう言ってふわりと笑う炭治郎を見て、無一郎は不思議な気分になった。

 

「ふーん・・・。そうなんだ」

 

無一郎はその気持ちが何なのかは分からなかったが、少なくとも炭治郎と稽古ができるということに嬉しさを感じていた。

 

*   *   *   *   *

 

 

無一郎邸を後にした汐は、次の柱の屋敷へ向かっていた。

 

(確か次の柱は、みっちゃんだったわね)

 

蜜璃とは見舞い以来顔を合わせていなかったため、久しぶりに会う師匠に汐の心は踊った。

宇髄や無一郎はともかく、一番親密な付き合いをしている柱だからだ。

 

(でも、いくら自分の継子でも、柱稽古では贔屓なんてしないで対等に扱うんだろうな)

 

それはそれで少し寂しいと思ったが、蜜璃はあれでも鬼殺隊最高位の柱。私情と世情を切り替えるだろう。

 

だが汐のその考えは、屋敷についたとたんに木っ端みじんに吹き飛んだ。

 

「しおちゃああああん!!会いたかったわーーー!!」

 

汐が門をくぐるなり、緑と桃色の塊が転がるようにして突進してきた。

汐が避ける間もなく、蜜璃は汐を思いきり抱き締めた。

 

「怪我はもう平気!?稽古はきつくなかった!?お腹は空いていない!?喉は乾いていない!?」

 

蜜璃は汐を抱きしめたまま、機関銃のような速さでまくし立てた。

 

「と、とりあえずみっちゃん・・・。腕を緩めてくれない?あんたの凶悪な物で窒息死しそうなんだけど・・・」

 

汐がうめき声をあげると、蜜璃は慌てて汐を離した。

 

「や、やだ!ごめんなさい!私ったら、しおちゃんが復帰したって聞いてうれしくてうれしくて・・・」

「快気祝いをしてくれるのはうれしいけれど、あんた一応柱なんだから、私情を挟むのはどうかとおもうわ」

 

汐が呆れながら言うと、蜜璃は頬を赤くしながら言葉を詰まらせた。

 

「でもまあ、みっちゃんが元気そうでよかった。今日から多分、しばらくお世話になるからよろしくね」

 

汐がそう言うと、落ち込んでいた蜜璃の顔が瞬時に明るくなった。

 

荷物を置いて訓練場へ行けば、既に何人かの隊士が稽古を受ける為に来ていた。

しかし、彼等の身に纏うものを見て汐は顔を引き攣らせた。

 

それは、汐が稽古の時に来ている【レオタード】という西洋式の運動着だった。

 

(あれって体の形がはっきり見えるから、着るとき恥ずかしいんだけど・・・。男でも着られるものなのねずかあれって)

 

汐はこの時点ですでに疲労感を感じていたが、それを振り払うようにして自分も着替えた。

 

着替えた汐が稽古場へ入ると、一斉に視線を感じた。おそらく汐を男だと思っていた者たちが、体つきを見て驚いたからだろう。

同じことの繰り返しに、流石の汐も慣れきっていた。

 

「はーい!注目!!」

 

汐の後から入って来た蜜璃は、手を叩いてそう言った。すると、視線は汐から蜜璃に移り、雰囲気が一変した。

 

(うわっ、男共の"目"から邪な感情を感じるわ。流石助平男量産体質・・・)

 

顔をしかめる汐に気づかないのか、蜜璃はそのまま続けた。

 

「みんなにはここで身体を柔らかくする訓練をしてもらいます。一見地味に見えるかもしれないけれど、柔軟はとっても重要なの。怪我の防止は勿論、動きも滑らかなものになるから。だから、一緒にがんばりましょうね」

 

蜜璃が笑顔でそう言うと、周りの隊士達から一斉に歓声が上がった。

 

(皆善逸と同じ顔をしてるわ。男って本当に、単純なんだから)

 

汐がそんなことを思っていると、ふと脳裏に炭治郎の顔が浮かんだ。

 

(ま、まさか。炭治郎がここに来たらこんな風になるんじゃ・・・。ううん、それはないわね。あいつ、腹が立つほど鈍感だから)

 

汐は腹が立つような安心したような、奇妙な感情を感じていた。

 

「それじゃあ早速始めましょう。準備運動が済んだら身体を解して、その後は音楽に合わせて私と踊ってみましょう」

 

稽古が始まると同時に、訓練場に悶絶する隊士達の絶叫が響き渡った。

何しろ、蜜璃の怪力による力技による柔軟のため、激痛で悶絶する者が後を絶たないのだ。

 

そんな中、ただ一人だけ声を上げない者がいた。汐だ。

 

唯一の経験者だった汐は、既にその訓練に慣れていたためだった。

 

しかし汐はその時は知らなかった。

汐が来る前にいた善逸は、痛がるどころかこれ以上ない程の幸せな笑顔で柔軟訓練を受け入れていたことを。

 

「はい。これでみんなの柔軟訓練は終わり。次は音楽に合わせて踊ってみましょう」

 

蜜璃はそう言って周りを見渡すと、汐と視線がぶつかった。

 

「じゃあまずはお手本から。しおちゃん、踊ってみて」

「えっ、あたしがやるの!?」

「大丈夫大丈夫。しおちゃんならできるわ!頑張って」

 

もはや完全に丸め込まれている汐だが、師範の指示を断ることもできずに渋々受け入れた。

 

隊士達が見つめる中、訓練場に音楽がかかる。汐はいつもの訓練と同じように余計な力は抜いて、旋律に身を任せた。

 

踊りだす汐に皆の視線はくぎ付けになった。しっかりした体格からは想像もできない程、しなやかで柔らかな動き。

ふわりと舞う度に青い髪が揺れ、飛び散る汗すらキラキラと輝く。

 

皆は痛みも息をすることも忘れて、汐の踊りに魅入っていた。

 

「はい。ありがとう、しおちゃん。さあ、皆もやってみましょ!」

 

皆は音楽に合わせて足を上げたり、リボンを回したりして踊った。しかし誰も、汐のようにしなやかな動きはできない。

男と女では体格や筋肉の付き方に差があるため、汐と同じ動きはどうしてもできない。

 

そんな彼等を蜜璃は指導するのだが、蜜璃は炭治郎と同様説明が恐ろしく下手なため、あまりいい成果は出なかった。

 

前半の訓練を終えた汐は、流れ出る汗を拭きとった。

と、同時に腹の虫が盛大に鳴いた。

 

「お疲れさま、しおちゃん。お腹が空いたでしょ?」

「そうね。もうぺこぺこだわ」

「じゃあそろそろおやつにしましょう。パンケーキを焼いて・・・、あっ、しおちゃんは甘いものが苦手だったわね、ごめんなさい」

 

蜜璃はそう言って申し訳なさそうな顔をするが、汐は真剣な表情で言った。

 

「その事なんだけど、みっちゃん。前にあたしに用意してくれた【すみつ】って奴を用意してくれない?」

「えっ!?」

「前に刀鍛冶の里に行った時に、蜂蜜入りのかりんとうが食べられたでしょ?もしかしたら蜂蜜なら食べられるかもしれないって思ったの。それに、せっかくみっちゃんが手塩にかけて作った物だもの。一度ちゃんと食べなきゃって思って」

 

汐の言葉に、蜜璃の胸が大きく音を立てた。嬉しくて嬉しくて、言葉が出なかった。

 

「しおちゃん・・・、ありがとう。わかった。あなたの為に、一番おいしい巣蜜を用意するわ!」

 

蜜璃は高らかに言うと、鼻歌を歌いながら台所へと向かった。

 

それからしばらくして、汐の前には巣蜜が乗ったパンケーキが運ばれてきた。

汐の味覚に考慮して、パンケーキ自体は甘さ控えめにしてあるという。

 

黄金色に輝く巣蜜を見て汐はごくりと唾をのんだ。

おいしそうだから、ではない。これからの戦いに備えての事だ。

 

漂う蜂蜜の香りに、汐はかつての事を思い出していた。

初めてこの屋敷に来たときは、充満する蜂蜜の匂いに当てられて、しばらく厠から出られなかった。

 

数日掛けてようやく慣れたものの、採蜜期である夏場は吐き気と戦いながら稽古をしていた。

 

だが、刀鍛冶の里で蜂蜜のおいしさを知った汐は、意を決して巣蜜への戦いに挑んだ。

 

「さあ、召し上がれ」

 

満面の笑みで自分を見つめて来る蜜璃の期待に応える為に、汐は決心して巣蜜をフォークですくい、口に入れた。

 

そして――、

 

――決壊した。

 

そのせいで汐は体調を崩し、午後からの訓練は参加できなかった。

 

*   *   *   *   *

 

(うぅ・・・、油断したわ・・・)

 

一日経った後、厠を出た汐は青い顔をしながら訓練場へ向かっていた。まだ口の中に蜂蜜の甘さが残っているようで気分が優れない。

 

(あのかりんとうはたまたま美味しかっただけで、蜂蜜自体が大丈夫になっただけじゃなかったのね・・・。もう絶対に甘いものは口にしないわ)

 

汐はそう誓いながら、訓練場の中を覗き目を見開いた。

 

そこには蜜璃以外誰もおらず、閑散とした雰囲気が漂っていた。

 

「あれ?ここに居た他の人達は?」

 

汐が尋ねると、蜜璃は微笑みながら言った。

 

「みんな次の柱、伊黒さんの所へ行ったわよ。しおちゃんのお手本を見てやる気出してくれたのか、動きがすごくよくなっていたの!だから全員合格にしちゃった」

 

てへへと笑う蜜璃に、汐は嬉しいような恥ずかしいようなこそばゆさを感じた。

 

「ところで、身体の調子はどう?まだ気分悪い?」

「ううん、もう大丈夫よ。みっちゃんにはまた迷惑をかけたわね。ごめんね」

「そんなことないわ!しおちゃんが苦手なことを克服しようと頑張っていたんだもの。迷惑だなんて思わないわ!」

 

蜜璃は両手を握りしめながら力強く言った。

 

「それよりもみっちゃん。あたしそろそろ訓練始めたいんだけど・・・」

「あ、そうだった。その事でしおちゃんに伝えたいことがあったの」

 

蜜璃の言葉に、汐は怪訝そうな顔を向けた。

 

「正直なところ、しおちゃんは訓練を完ぺきにこなしているから、本当はすぐにでも合格を出したいの」

「出したいってことは、なんか理由があるのね」

 

汐が尋ねると、蜜璃は真面目な表情で頷いた。

 

「理由というよりも、私があなたときちんと話したいの。言い方は悪いけれど、二人しかいない今が好機だと思って」

 

蜜璃のただならぬ雰囲気に、汐は思わず身体を震わせた。

 

「しおちゃんは、炭治郎君に想いを伝えるつもりはあるの?」

「えっ!?」

 

思ってもみなかった問いかけに、汐は飛び上がる程驚いた。

汐が炭治郎を好きなことは勿論知っている。だが、今まではこのような話をしたことがなかった。

 

"目"を見てもからかいの意思は微塵もなく、汐を見つめる表情は真剣そのものだ。

 

「・・・はいかいいえかで言うなら、きっと答えはいいえ、だと思う」

 

汐は自分の気持ちを口にした。

 

「あたしは炭治郎が好き。この気持ちは嘘じゃない。炭治郎がいたから、あたしはここまで来られた。あたしにとって、炭治郎は光そのものなの。でも、あたしの想いが炭治郎の負担になるんじゃないかって思うと、怖くて」

「負担?」

「うん。炭治郎は優しい、優しすぎるから、自分よりも誰かの幸せを願う人。でもそうなると、自分の事は二の次になって傷ついてしまう。あたしは、炭治郎があたしのせいで傷つくのは見たくないのよ。だから、この戦いが終わるまで、あたしは想いを伝えない」

 

汐は迷いのない表情で蜜璃を見た。絶対に揺るがない意思を感じ、蜜璃は言葉を飲み込んだ。

 

(しおちゃんの言いたいことはわかるわ。自分のせいで大切な人が傷つくなんて、絶対に嫌だもの。でも、でも・・・。本当にそれでいいの・・・?だってこのままじゃ、炭治郎君は・・・)

 

「それより、みっちゃんこそ想いを伝えなくていいの?」

「え?誰に?」

「またまた、とぼけちゃって。あいつよあいつ。いやらし斬撃してくるあいつよ!」

 

いやらし斬撃、の言葉である人物を思い出したのか、蜜璃の顔が真っ赤に染まった。

 

「そ、そんなことっ!!できるわけないわ!伊黒さんに想いを伝えるなんてそんな・・・」

「あれぇ~?あたし伊黒さんなんて一言も言ってないけれど、やっぱりそうなんだぁ~!!」

「あ、ああー!!しおちゃんたら!!からかったわねぇーーー!!」

 

蜜璃は顔を別の意味で真っ赤にさせて、頭から湯気を吹き出した。

 

「まあとにかく、しおちゃんの気持ちはわかったわ。だけど、これだけは忘れないで。何があっても、しおちゃんはしおちゃんなのだから、あなたはありのままのあなたでいて」

「みっちゃん・・・、ありがとう」

 

蜜璃は優しく笑うと、そっと汐を抱きしめた。

 

「さて!久しぶりに二人だけになったのだし、次の人が来るまで特別な訓練をしましょう!」

「特別な訓練?」

「そう!さっきのお手本の踊りを、三倍の速さで踊ってみるの。それからいくつか振り付けを追加しましょ!」

 

意気揚々と語る蜜璃に、汐は思わず声を上げた。

 

「三倍って、みっちゃん。あたし赤くないんだけど!」

「よく意味が分からないけれど、しおちゃんならきっと大丈夫よ!ガンガン行くわよ!」

 

蜜璃は鼻息荒く言い放ち、汐はそんな師範を見て考えることをやめた。

 

その訓練をこなした後。汐は次の柱である伊黒の元を尋ねることになる。

だが、汐は気が付かなかった。

 

彼の元でもひと騒動が起きることになるここと、自分が去ったすぐ後に炭治郎が蜜璃の元を訪れていたことを・・・。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

二十九章:譲れないもの


汐が蜜璃の屋敷を出た次の日。

 

「こんにちはー!!」

 

屋敷中に響き渡る元気な声を聞いて、蜜璃の表情が輝いた。

 

外に出てみれば、にこやかな笑顔を向ける炭治郎がいた。

 

「炭治郎君久しぶり!!」

 

蜜璃は満面の笑みを浮かべながら、大きく手を振った。

 

「おいでませ、わが家へ!!」

 

炭治郎は蜜璃を見つけると、すぐさま駆け寄り頭を下げた。

 

「ご無沙汰してます!お元気そうでよかった!」

「炭治郎君もね!」

 

炭治郎の誠実さに、蜜璃の胸はいつもの通り高鳴った。

 

「養蜂されてらっしゃるんですね。蜂蜜のいい香りがします」

「あっ、分かっちゃった?そうなのよー!」

 

蜜璃は嬉しそうに語り、炭治郎は蜂蜜の香りの中に微かに残る汐の匂いを感じた。

 

「あ、あの・・・、汐は・・・」

 

炭治郎がそう切り出すと、蜜璃は笑顔を固まらせたかと思うと表情を曇らせた。

 

「ご、ごめんなさい。しおちゃんは昨日伊黒さんの所へ行っちゃったの」

「・・・・」

 

炭治郎は呆然とした表情になり、そんな彼を見た蜜璃は大きく顔を歪ませた。

 

(ど、どうしよう!無理言ってしおちゃんをここで待たせておけばよかったかしら!?で、でも柱の私情でとどめることは本当はいけないことだし、ああでも、炭治郎君の悲しい顔は見たくないし・・・)

 

蜜璃が心の中で葛藤していると、炭治郎は突然自分の両頬を打ち鳴らした。

 

「す、すみません!俺、これから稽古だというのに私情を挟んで・・・。それだけ汐が優秀ってことですよね!流石汐だ・・・!」

 

だが、そう言う炭治郎の目には涙がうっすらと溜まっていた。

 

「俺なら大丈夫です。こんなことじゃあ、汐に笑われてしまう。だから、今日からよろしくお願いします!!」

 

炭治郎の大声に、蜜璃は心臓を撃ち抜かれたような衝撃が走った。

汐が炭治郎を大切に思っているように、炭治郎もまた汐を大切に思っている。それは火を見るよりも明らかだった。

 

だからこそ蜜璃は、汐が炭治郎に想いを伝えないと言ったことを悲しく思った。

 

(ううん。あれはしおちゃんが自分の意思で決めたこと。私ができるのは優しく見守る事だけだわ・・・)

 

蜜璃はぎゅっと目を閉じると、炭治郎ににっこりと笑顔を向けるのだった。

 

そして訓練が始まり、炭治郎は皆と同じレオタードを身に纏い励んだ。

だが、ふと思ったことがあった。

 

(汐もこの服を着て稽古をしたんだよな・・・。この西洋式の服は体にぴったりくっついて動きやすいけれど・・・でも・・・)

 

それは裏を返せば、体の線がはっきり浮き彫りになるということ。

そんな姿を、同じ隊士達とは言えたくさんの人に見られたことを想像すると、炭治郎はもやもやとした奇妙な感覚を感じた。

 

 

*   *   *   *   *

 

次の柱の元へ向かう汐だが、その足は明らかに重くなっていた。

 

(次の柱は蛇男かぁ・・・。できれば顔を合わせたくない奴の一人だけれど)

 

汐はため息をつきながら、伊黒の屋敷を目指す。そんな気持ちに反して、空は晴れ渡っていた。

 

「来たか。大海原汐」

 

屋敷につくなり、伊黒の鋭い視線と冷たい声が汐を出迎えた。

 

「まさか出迎えがあるとはね。どういう風の吹き回し?」

 

汐は不快感を隠すこともなくそう言った。

 

「甘露寺からの文で詳細は聞いている。ずいぶんと楽しそうにしてたみたいだな。だが、俺は甘露寺のように甘くはない」

「あんたね、ひがみもここまでくるとみっともないわよ。全く、みっちゃんが絡むと途端にポンコツになるんだから」

 

汐は吐き気を催すような表情を浮かべると、伊黒のこめかみがぴくぴくと動いた。

 

「減らず口を」

 

伊黒はそれだけを言うと、汐を訓練場へと案内した。

だが、その光景を見て汐は足を止めた。

 

そこには、天井、壁、床いたるところに縛られ、猿轡を噛まされた隊士達が所せましと並べられていた、

 

皆顔は青ざめ、涙を流している。

 

「何コレ。あんたの趣味?」

 

汐が顔を引き攣らせたまま尋ねると、伊黒は小さく鼻を鳴らしていった。

 

「大海原汐。お前にはこの()()()を避けつつ、太刀を振るってもらう」

 

汐はあたりを見回すと、小さくため息をついていった。

 

「あんまり人の趣味にケチをつける気はないけれど、こいつらがいったい何をやらかしたって言うの?」

「そうだな・・・」

 

伊黒は少し考える動作をした後、目を鋭くさせていった。

 

「あえて言うなら、弱い罪、覚えない罪、手間を取らせる罪、イラつかせる罪・・・と言った所だ」

「・・・・」

 

伊黒の答えに汐は言葉を失ったが、

 

「うげぇーッ」

 

途端に塵を見るような目で伊黒を見つめた。

 

「あんたって元々変なところがあると思ってたけれど、流石に理不尽にも程があるんじゃない?」

「黙れ。お前にあれこれ言われる筋合いはない。ここに加わりたくなければ、精々励むことだ」

 

伊黒はぴしゃりと汐の言葉を跳ねのけ、汐は顔を歪ませたまま()()()を見た。

 

皆怯えた"目"をしており、小刻みに震えている。

 

「悪いけど、あたし、障害物は避けるよりもぶっ壊す方が好きなのよ。だってその方が手っ取り早いじゃない?」

 

汐がそう言った瞬間、全員の背筋に冷たいものが走った。

青ざめた顔がさらに真っ青になり、今にも失禁しそうな者もいた。

 

「お前には人の心がないのか?」

「こんなトチ狂った訓練考える奴に言われたくないわ!」

 

呆れる伊黒に対して、汐は思わず大声を上げた。

 

「とにかく、あたしはそう言う質だから。障害物と間違ってあんたをぶっ叩いても、文句は言わないでよね?」

 

汐はそう言って挑発的な目を伊黒に向けた。その目に伊黒は一瞬たじろいだが、鏑丸と共に汐を睨み返した。

 

「いい度胸だ。そこまで大口を叩けるなら、訓練でその成果を見せてみろ」

 

それから二人の、(いろいろな意味で)世にも怖ろしい訓練が始まった。

 

人で作られた障害物の間は、木刀が一本やっと通る程の大きさしかない。

その間をぬって、伊黒の蛇のような太刀が汐を襲う。

 

反撃をしようにも、障害物となり果てた隊士達が必死の形相でこちらを見るため、まともな精神の人間なら思わずためらってしまい動けなくなる。

しかも、訓練前に汐がとんでもない発言をしてしまったため、恨みを籠った目を向けてくるものもいた。

 

しかし、汐は伊黒と何度も手合わせをしているため、彼の太刀筋を知っている。

勿論、伊黒もそれを知っているため、汐の隙を突いた攻撃をしてきた。

 

「いったっ!!」

 

汐の攻撃が届く前に、伊黒の太刀が汐の顎を強打した。

 

「鈍いな。威勢のいいのは口だけか」

「んの野郎っ・・・」

 

蹲る汐を伊黒がネチネチと責め立て、汐は額に青筋を立てながら立ち上がり木刀を振るった。

 

結局その日は、張り付けられた隊士に当てることはなかったが、伊黒に一発も当てることができずに訓練は終了。何とか磔にされることはなかったものの、殴打された部分は腫れあがっていた。

 

「いったたた・・・。あの蛇男、相変わらず容赦ないわね。ったく、みっちゃんもあんな男の何処がいいのかしら」

 

腫れた部分を冷やしながら、汐は小さく悪態をついた。

 

伊黒との打ち合いは何度かしているが、今回は障害物があるということであり思い通りに刀が振れず、それだけで別の相手と対峙しているようだった。

 

(でも悔しい。あいつに一発当てることもできなかった)

 

汐は口と実力が伴っていないことに悔しさに震え、用意された布団を握りしめた。

腫れた顎は勿論だが、心にもずきずきとした鈍い痛みが現れていた。

 

(あー、だめだめ。いろいろ考えても腹が立つだけだわ。さっさと寝て、明日になったらこの悔しさをあいつの全身に叩き込んでやるんだから!)

 

汐は心の中でそう叫ぶと、布団を頭まで被って目を閉じた。

目と閉じていると、ふと稽古中の伊黒の事を思い出した。

 

性格には、伊黒が自分を見ていた"目"にだ。

 

(あの時は気づかなかったけれど、あいつ、気のせいかあたしを見ている時、心なしか悲しそうな"目"をしていたような・・・)

 

何故今頃になってそんなことを思い出したのか分からず、寝るはずだったのに眠気はどこかへ吹き飛んでしまった。

 

「あーーー!!気になったら余計眠れないじゃない!全部あの蛇男の所為だ―!!」

 

汐は掛けふとんを蹴り飛ばすと、勢いをつけて体を起こした。

 

そのまま部屋を出てみれば、月明かりはあまりなく世闇が屋敷を包んでいる。

所謂肝試しには最適の夜だった。

 

(思ったより暗いわね。善逸がいたら悲鳴を上げて漏らしそう)

 

汐の脳裏に、涙と鼻水を飛ばしながら泣き叫ぶ善逸の姿が浮かんだ。

 

(そう言えば、みんなはどうしているかしら。思えばもう何日もみんなと顔を合わせていないわ)

 

ふと考えてみれば、汐の周りにはいつも炭治郎達がいた。皆個性的で騒がしいところもあるが、いるのが当たり前になっていた。

 

(みんな元気かな。特に炭治郎。ちゃんと訓練についていけているかしら)

 

炭治郎なら大丈夫だろうと思う反面、無茶をしているんじゃないかと思うと気が気ではなかった。

 

(そうだ。蛇男に炭治郎に手紙を出していいか聞いてみよう。稽古には支障は出ないと思うし、それぐらいなら流石に許してくれるわよね・・・)

 

汐は伊黒に人の心がある事を願いながら、暗い空を見上げた。

 

その時だった。

 

どこからか物音が聞こえ、汐はびくりと体を震わせた。

獣でも迷い込んできたのかと思ったが、音は近くの部屋の中から聞こえてきた。

 

(な、なに?何かいるの・・・?)

 

汐の中に恐怖心と好奇心がひしめき合ったが、最終的には好奇心の方が打ち勝った。

 

汐は気配を殺しながら、音のしたほうへそろりそろりと近寄った。

 

(確か、この辺から音がしたのよね・・・)

 

汐は壁に耳をつけると、目を閉じて神経を研ぎ澄ませた。

すると、壁の向こうから微かな物音とうめき声が聞こえてきた。

 

誰かいる!

 

汐は音を立てないようにして、そっと部屋の中を覗き込んだ。

 

部屋の中は暗く、小さなろうそくの光が微かに見える。

その奥では人影が一つ、蠢きながら小さくうめいていた。

 

「っ!!」

 

汐は思わず息をのんだ。人影は苦しそうに呻き、そのそばでは長いものが動いているのが見えた。

 

それが蛇だと認識した瞬間、人影が鋭い声を上げた。

 

「誰だ!?」

「やばっ!!」

 

汐はすぐさま壁から離れると、全速力で駆け出した。背後から何かが追ってくる気配がするが、一心不乱に足を動かした。

 

だが

 

「いたっ!!」

 

足に鋭い痛みを感じ、汐はそのまま前につんのめった。鼻を強打し、鈍い痛みが走る。

 

しかし、その痛みを感じる前に汐の頭からは地を這うような声が響いた。

 

「ここで何をしている。大海原汐」

 

今までにない程の低く憤りを含んだ声に、汐は体を震わせた。思考は停止し、声が出てこない。

 

「答えろ。ここで何をしている?」

 

汐は観念し、意を決して振り返った。そこには、はっきりと"目"に怒りを宿した伊黒が静かに立っていた。

 

「眠れないから散歩をしていただけよ」

 

汐は微かに声を震わせながらも、嘘偽りなく答えた。

伊黒は探るような目で汐を見たが、汐はしっかりとその顔を見据えた。

 

(あれ?)

 

伊黒の顔を見て汐は違和感を感じた。心なしか、口元の包帯が緩んでいるようだ。

 

「伊黒さん。あんた、その包帯・・・」

「っ!!」

 

汐が言葉を言い終わる前に、伊黒の手が汐の口を塞いだ。

 

「お前は、何を見た?」

 

伊黒は視線を鋭くさせ、汐を睨みつけた。

強くなった怒りに汐は再び身体を震わせるが、勇気を振り絞って伊黒の手を無理やり放した。

 

「何も見てないわ。本当よ。暗くて見えなかったし」

「嘘を吐くな」

「嘘なんかつかないわよ。あたしは隠し事はするけど嘘は下手なの。それはあんたもよく知っていると思ったんだけど」

 

汐は軽口をたたきながら、伊黒の目を見つめた。怒りは収まってはいないものの、その奥に微かに悲しみが見えた。

 

「それより、あんたこそ大丈夫なの?なんだか苦しんでいたように見えたし、具合が悪いなら無理しない方がいいんじゃ・・・」

「黙れ、無駄口を叩くな」

 

伊黒は鋭くそう言うと、汐から離れて立ち上がった。

 

「・・・、今回だけはお前の言葉を信じよう。わかったなら、さっさと立ち去れ」

 

伊黒はそれだけを言うと、そのまま立ち去ろうとした。

だが

 

「あんたは、何をそんなに憐れんでいるの?」

「!?」

 

汐の口から飛び出した言葉に、伊黒の背中が大きく跳ねた。

 

「あの時は気づかなかったけれど、あんたの"目"の奥には悲しみ。ううん、憐みって言った方がいいのかな。それが微かだけど見えてる」

 

汐は先程の恐怖心も忘れて、伊黒の背中に話しかけた。

 

「あんたがあたしの事を嫌っているのはわかるわ。でも、だったら何でそんな感情をあたしに抱くの?」

 

汐の言葉に伊黒は胸元を一瞬だけ握ったが、すぐに手を放し口を開いた。

 

「お前に話すことはない。さっさと部屋に戻れ」

「でも・・・」

「聞こえないのか?」

 

有無を言わせない伊黒の声に、汐はこれ以上何も言うことができず大人しく従わざるを得なかった。

 

「・・・」

 

汐が立ち去った後、伊黒は早鐘のように打ち鳴らされる心臓に驚いていた。

 

(何だ、あの娘は。まるで心の中を見透かされたようだった)

 

蜜璃から汐が目を見て人の感情を読み取ることができるということは聞いていたが、まさか自分が自覚していない感情まで暴かれるとは思わなかった。

 

(大海原汐。いや、ワダツミの子。柱合裁判の時もそうだったが、あいつは本当に、人間なのか・・・?)

 

伊黒は緩んでいた包帯をしっかりと巻きなおすと、深くため息をついた。

そんな彼を労わるように、鏑丸がそっと寄り添った。

 

「大丈夫だ、鏑丸。心配をかけてすまない」

 

伊黒はそう言って、鏑丸の頭を優しくなでた。鏑丸は安心したように目を細めると、そっと伊黒の顔を舐めたのだった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



蜜璃の元へ来てから二日後。

午前中の訓練を終えた炭治郎は、青い顔で訓練場の床に倒れ伏していた。

 

(ううっ、股関節が痛い・・・。身体が裂けるかと思った・・・)

 

炭治郎は蜜璃の地獄の柔軟を受け、その想像を絶する激痛にもだえ苦しんだ。

その痛みがまだ残り、動けないでいたのだ。

 

(い、いや。汐達だってこの痛みを経験したはずだ。みんなが耐えることができたのに、俺が泣きごとを言ってどうするんだ)

 

炭治郎は心の中で自分を鼓舞し、残っている痛みに必死で耐えていた。

 

その時だった。

 

「カァ~カァ~。炭治郎サンハドコデスカ~?」

 

窓の外から間延びした鴉の鳴き声が聞こえ、炭治郎は顔を上げた。

そこには、嗅ぎ覚えのある匂いを纏った鎹鴉だった。

 

「き、君は・・・、汐の鎹鴉の・・・」

「そらのたゆうト申シマス~。たゆうデモイイデスヨ~」

 

ソラノタユウは間延びした声でそう言うと、足につけられた手紙を炭治郎に差し出した。

 

「汐カラデス~。訓練、頑張ッテクダサイネェ~」

 

それだけを言うと、ソラノタユウはそのまま悠然と飛び去った。

 

炭治郎はすぐさま手紙を開いて中を見た。

 

(ははっ、字が所々滲んでいる・・・。汐、また墨が乾かないうちに包んだな)

 

炭治郎は微笑みながらも、汐からの手紙を読んだ。

手紙には近況報告と炭治郎への想い、そして伊黒の愚痴が書かれていた。

 

汐らしい手紙の内容に、炭治郎は苦笑いを浮かべつつも心が満たされていくのを感じた。

 

そんな炭治郎を見ていた他の隊士達は、嫉妬と恨みを籠った目を向けていた。

 

それから暫く、蜜璃邸と伊黒邸を往復する鴉の姿が目撃されたという噂が立った。

 

*   *   *   *   *

 

汐が伊黒邸に来てから五日後の事。

 

「うおおおおお!!」

 

汐の雄たけびと、木刀が打ち合う音が訓練場に響く。

障害物の間を縫ってくる攻撃を紙一重で躱しながら、汐も伊黒に向かって木刀を振るった。

 

汐の太刀筋の正確さは、初めて訓練を初めた時とは雲泥の差とも呼べるほどに上達していた。

どんな位置にいても、障害物がないかのように的確に伊黒を狙ってきた。

 

そして

 

「そこだぁっ!!」

 

汐の攻撃が伊黒の攻撃をかいくぐり、その切っ先が届いた。

 

「っ!」

 

伊黒は息をのみ、初めて汐から間合いを取った。だが、その一撃は伊黒の左の部分の羽織を僅かに斬り裂いた。

 

「くそっ、もう少しだったのに!!」

 

汐は悔しさに顔を歪ませ、床を拳で思い切り叩いた。

 

「床に穴をあけるつもりか?」

 

伊黒の嫌味が籠った声が響き、汐が苦々しい顔で睨んだ時だった。

 

「訓練は終了だ、大海原」

「へ?」

「聞こえないのか?訓練は終いだと言ったんだ」

 

伊黒は呆れたように溜息をつくと、木刀を下ろした。

 

「いつまで呆けた顔で座り込んでいるんだ。さっさと来い」

「え?あ、うん」

 

汐は慌てて立ち上がると、伊黒の後を追って訓練場を後にした。

 

伊黒は黙ったままひたすら廊下を歩き、汐はその後ろを必死で着いていく。

全く読めない彼の意図に、ただ困惑するだけだった。

 

すると、どこからか一羽の鎹鴉が伊黒の元へ飛んできた。

その足には手紙がつけられている。

 

伊黒は手紙を受け取ると、すぐに開いて内容を一瞥した。

 

「来い」

 

伊黒はそう言うと、汐をある場所へと案内した。

そこは、隊士達が宿泊に使っていたと思われる部屋だった。

 

「大海原。お前には今から、この部屋の掃除をしてもらう」

「はぁっ!?掃除!?あたし合格したんじゃなかったの!?」

 

汐が叫ぶと、伊黒は苛々した様子で口を開いた。

 

「俺は訓練は終了だと言ったが、合格とは言っていない。少し考えれば分るだろう」

「分かるかァァ!!散々人の事嬲っておいて今度は掃除!?あんたこそ人の心がないんじゃないの!?」

 

汐は顔を真っ赤にして捲し立てた。

 

「ぎゃあぎゃあと騒ぐな、うっとおしい。俺が戻るまで掃除が終わらなければ、お前も障害物に加える。異論は聞かん」

 

伊黒はそう言うと、汐に目もくれずに部屋を後にした。

 

「最低!鬼!!人でなし!!ポンコツ柱!!!」

 

汐は、去って行く伊黒の背中にありったけの罵倒の言葉を浴びせた。

 

(何なのよアイツ・・・。あたしに恨みでも・・・、あるわね絶対)

 

汐は大きくため息を吐くと、周りを見渡した。乱れた布団が散乱し、所々に塵やほこりが見える。

普通の人間なら半日程度で終わりそうなものだが、汐は片付けがこの世で最も苦手だった。

 

今いる屋敷も、使用人が派遣されていなければごみ屋敷になっていただろう。

 

(あの野郎。あたしが片付け苦手な事知ってて、わざとこんなことを押し付けたわね!絶対に許さない!いつか絶対にぶっ飛ばしてやるわ!)

 

汐は伊黒への怒りを露にするが、ふとある事を思い出して動きを止めた。

 

(でも、あたしが炭治郎に手紙を送ることは許してくれたのよね・・・。てっきり突っぱねられると思ったのに)

 

その事を踏まえ、実は案外話が分かる人ではないかと思った矢先の仕打ちだった。

 

「ああーー、もう!!とにかくさっさと掃除しよう。まずは布団を片付けて・・・」

 

汐は散らばった布団を仕舞おうとして手を止めた。

 

(そう言えば、前に炭治郎に布団を綺麗に畳む方法を教わったわね)

 

汐は記憶を探りながら、まずは窓を開けると布団を一枚一枚丁寧に畳んでいった。

それを押し入れに押し込む、のではなくしっかりと仕舞、次は畳を箒で掃きだした。

 

ブリキのバケツを借り、ぞうきんを濡らして窓枠を拭き、溜まった埃をはたきで払っていた。

一通りの掃除が終わり、後片付けをしていた時。

 

外の方から足音が聞こえてきた。

 

(嘘ッ!?蛇男が戻って来たの!?まだ片付け終わってないんだけど!!)

 

汐は慌てて埃を払う手を速めるが、足音は無情にも部屋の前で止まり、そして襖が開かれた。

 

「ご、ごめん!!まだ終わってないの!!」

 

汐は慌ててそう言うが、目の前の人物を見て固まった。

 

そこには

 

「汐・・・?」

 

覚えのありすぎる緑色の市松模様の羽織を纏った、見覚えのありすぎる顔がそこにあった。

 

「炭治郎・・・?」

 

汐が思わずその名を呼ぶと、炭治郎の顔はみるみるうちに笑顔になった。

 

「汐っ!!」

 

炭治郎は叫ぶように汐の名を呼ぶと、飛ぶように傍に駆け寄ってきた。

 

「久しぶりだな!あれ?お前少し瘦せたんじゃないか?ちゃんと食べて寝てるか?訓練は辛くないか?」

「ちょっ、待ってって!そんなに一気に聞かれても答えられないわよ!!とにかく落ち着きなさいって」

 

汐は捲し立てる炭治郎を落ち着かせようと、必死でなだめた。

 

「あ、ごめん。久しぶりにお前に会えたから嬉しくて、つい・・・」

「別にしょぼくれる必要はないわよ。あたしだってあんたに会えて嬉しいんだから」

 

汐がそう言うと、炭治郎は驚いたように顔を上げた。

 

「あっ、べ、別にあんたに会えなくて寂しかったとか、そんなんじゃないんだからねっ!!」

 

汐は顔を真っ赤にしてそっぽを向くが、匂いは嬉しさに満ち溢れていた。

 

「そんなことより、あたしあいつにここの掃除を命令されてるの」

「あいつって、伊黒さんか?」

「そうよ!訓練が終わって合格かと思ったのに、いきなり掃除をしろって言うのよ!相も変わらず訳が分からない男だわ」

 

汐がそう言って顔をしかめていると、

 

「どの口が言うか」

 

背後から声がして、汐と炭治郎は悲鳴を上げて飛び上がった。

いつの間にか、そこには伊黒が腕を組んで立っていた。

 

「あ、伊黒さん・・・」

 

炭治郎が青い顔でそう言うと、伊黒はじろりと炭治郎を睨みつけた。

 

「何油を売っているんだ。さっさと訓練場へ行け、殺すぞ」

「は、はい!!」

 

炭治郎は慌てて返事をすると、荷物を置いて訓練場へと走っていった。

 

それを見届けた伊黒は、今度は汐を睨みつけた。"目"には懐疑が強く出ている。

汐は唾を飲み込みながら、伊黒の次の言葉を待った。

 

だが、伊黒は視線を汐から部屋へと移し、畳や壁、窓を探るように見た。

窓枠に至っては、人差し指を滑らせて埃を見る始末だ。

 

それを見た汐は(姑かっ!)と、心の中で叫んだ。

 

「ふん。及第点という所だな」

 

伊黒はそう言うと、汐の方を向いた。

 

「何を呆けているんだ。さっさと荷物をまとめろ」

「え、それじゃあ・・・」

「次の柱の所へ行け。二度と顔を見せるな」

 

伊黒はぶっきらぼうに言うと、訓練場の方へと歩きだした。

 

「あ、ちょっと待って」

 

汐は伊黒を呼び止めると、振り返らないまま口を開いた。

 

「あんた、あたしを炭治郎と会わせるためにこんな事をさせたんでしょ?」

「何を言っている?ついに頭がおかしくなったか?」

「そう思うならそれでもいいわ。でも、炭治郎の顔を見ることができて安心したのは確かだもの。だから、ありがとう」

 

汐の謝罪の言葉に、伊黒は肩を震わせることはなかった。

 

「でも、これだけは言わせてもらうわ。炭治郎を虐めたり酷い目に合わせたら、ぶっ殺すからね」

 

汐はそう言って、殺意の篭った目を伊黒に向けた。

 

「ふん」

 

伊黒は小さく鼻を鳴らすと、そのまま振り返ることなく去って行った。

 

(あとでみっちゃんに報告しとこ)

 

そんなことを考えながら、汐は荷物をまとめて伊黒邸を後にした。

 

 

*   *   *   *   *

 

伊黒邸を出た汐は、ソラノタユウを頼りに次の柱の所へ向かっていた。

 

(次は・・・、オコゼ野郎のところね)

 

汐の表情は伊黒の時とは少し異なり、歪なものになっていた。

 

伊黒とも仲が良いとは決して言えないが、実弥とは犬猿の仲を遥かにり越したものだった。

炭治郎同様、汐も禰豆子を傷つけたことを未だに許していなかったからだ。

 

いや、きっと一生許すことはないだろう。

 

屋敷へ向かう度に、汐の"目"には少しずつ殺意が宿っていく。

 

やがて屋敷が近くなってきた頃。

 

「ぎゃあああああああああ!!!」

 

耳をつんざくような悲鳴が聞こえ、汐は肩を震わせた。

そして悲鳴から間髪入れずに、何かが打ち合う轟音が響く。

 

汐は嫌な予感を感じながら、そっと不死川邸の中を覗いた。

 

そこには、あちこちに倒れ伏す隊士達の姿があった。

皆うつ伏せに倒れ、ぴくぴくと痙攣している。

 

(ここは死体置き場?)

 

汐が顔をしかめていると、少し前に見知った顔を見つけた。

 

特徴的な髪形をした、背の高いその姿は。

 

「玄弥!!」

 

汐が呼ぶと、玄弥は驚いたように振り返った。

 

「おまっ、わだ・・・」

「汐って呼べって言ったわよね?」

「・・・、汐」

「よし」

 

玄弥の言葉を無理やり訂正させた汐は、満足そうにうなずいた。

 

「ここに居たのね。はぁ~、やっと見知った顔に会えたわ」

 

汐は安堵の溜息をついて玄弥を見上げた。

 

「あ、そう言えばお前は少し遅れて復帰したんだったな」

「そうよ。ここまで来るのに苦労したわ~。いろいろ理不尽な目にも遭ったしね」

 

汐がそう言うと、遠くからとんでもなく汚い高音が響いてきた。

 

「ギャア゛ア゛ア゛ア゛!!!」

 

その声に覚えがあった汐と玄弥は、互いを見て顔をしかめた。

 

「この声って・・・」

「ああ、あいつだよ。ここに来てからずっと叫びっぱなしだ」

 

玄弥はげんなりとした表情で汐を見、汐もうんざりしたように肩をすくめた。

 

やがて断末魔が途絶えた後、凄まじい殺気を纏った実弥が姿を現した。その瞬間、玄弥の身体が強張ったのを汐は見逃さなかった。

 

「てめえは・・・」

 

実弥は汐を見るなり、ぴくぴくとこめかみを震わせた。

 

「久しぶり、とでも言えばいいかしら?」

 

汐は、不快感と敵意を隠そうともせずに実弥を睨みつけた。

 

「あたし、あんたが炭治郎と禰豆子を傷つけたこと、まだ許してないわよ。ううん、多分、いや、絶対に許さない」

 

汐が挑発的な視線を向けると、実弥の表情が明らかに変化した。

 

「でもちょうどよかったわ。あんたのスカした面に()()ぶちかませる好機がやってきたってことよねぇ?」

 

汐の言葉に、実弥の"目"にこれ以上ない程の怒りが宿った。

だが、汐もそれに負けない程の殺意を込めた"目"を向けた。

 

そんな二人の背後に玄弥は、龍と虎ではなく、二匹の鬼が見えたような気がした。

 

「いい度胸だァ、クソガキ」

 

実弥はそう言うと、そのまま踵を返して屋敷の中へ戻った。

 

「相変わらず腹が立つ男だわ。あれ、あんたの兄貴って本当?」

「あ、ああ・・・」

 

玄弥はそう言って顔を伏せた。心なしか、"目"に覇気がないように見えた。

 

「玄弥?どうしたの?」

「何でもねえよ。それより兄・・・、風柱の修行を受けに来たんだろ?さっさと準備にしに行けよ」

 

それだけを言って玄弥は、屋敷の中へと戻っていった。

 

(どうしたのかしら、玄弥の奴。"目"にもいつもの元気がなかったわ・・・。それにあいつも、玄弥がいるのにまるっきりいない奴みたいに扱ってたし・・・)

 

汐はその空気に違和感を感じたが、汐は湧き上がってくる言い難い感情を抑え込むようにして屋敷の門をくぐった。

 

体中に刺さるような殺気を感じ、汐は生唾を飲み込んだ。

 

――最後まで足掻け

――心を燃やせ

 

(上等じゃない。やってやるわよ!)

 

大切な人の言葉と大切な人の顔を思い浮かべながら、汐は足を進めるのだった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



炭治郎は、伊黒の常軌を逸脱した訓練に心を抉られながらも、何とか一日目を終えた。

 

夜になり、入浴を終えた炭治郎が部屋へ戻ると、嗅ぎ覚えのある匂いが鼻を掠めた。

 

(この匂い・・・、この果実のような匂いは・・・?)

 

炭治郎が反視線を向けると、一人の隊士が友人と談笑している姿があった。

その隊士から、汐や鉄火場と似た匂いを感じたのだ。

 

炭治郎は話に花を咲かせている彼に近寄ると、そっと声を掛けた。

 

「あの、お話し中すみません。ちょっとよろしいでしょうか?」

 

炭治郎が礼儀正しく声を掛けると、隊士は怪訝そうな顔で振り返った。

 

「ん?なんだ?俺になんか用か?」

「用と言いますか、あなたからする匂いが気になって・・・?」

「は?匂い?」

 

ますます怪訝そうな顔をする隊士に、炭治郎は自分が鼻が利くことを伝えた。

 

「へぇ~、お前は匂いで人の気持ちがわかるのか。面白い奴だな」

 

それに答えたのは、匂いの主ではなく彼の友人の隊士だった。

 

「俺は今までいろいろな感情の匂いを嗅いできたんですが、その人の匂いが今まで嗅いだことがない匂いなんです。まるで果実のような、甘酸っぱいような・・・」

 

炭治郎がそう言うと、隊士の友人はゲラゲラと突然笑い出した。

 

「だったらあれじゃねえか?ほら、お前、あの子の事考えてただろ!?」

 

すると匂いの主は途端に真っ赤になり、あたふたと視線を泳がせた。それと同時に、例の匂いも強くなる。

 

「え?え?」

 

混乱する炭治郎に、友人は笑いながら言った。

 

「こいつ、町の団子屋の看板娘の事が好きなんだよ。今は柱稽古のせいで会いにいけねえが、この訓練が終わったら会いに行こうなんて考えてたんだろうな」

「おい!!余計なことを言うなよ!!」

 

匂いの主はさらに顔を赤くさせながら友人に殴りかかるが、彼はそれをひょいとかわして再び笑った。

 

「お前の言う気持ちに匂いがあるとしたら、今お前が感じてる匂いはきっと【恋】の匂いだぜ」

「えっ・・・!?」

 

友人の言葉に、炭治郎は呆然として見つめた。二人が何かを言っていた気がしたが、炭治郎の耳には入らなくなっていた。

 

夜が更け、炭治郎は布団の中でその言葉を繰り返していた。

 

(恋の匂い・・・。恋ってあれ、だよな。魚じゃなくて、その、相手の事を好きになる、あれの事だよな・・・)

 

その言葉の意味はなんとなく知っていても、その経験がない炭治郎は匂いの正体に気づくことができなかった。

だが、あの隊士に指摘されて初めて知り、動揺していた。

 

(もしもあの人の言っていたことが本当なら、汐は・・・、誰かに恋をしているということになる・・・。後鉄火場さんも・・・)

 

そう考えた後、炭治郎は首を横に振った。

 

(い、いやいやいや!そんなの当り前だろう!汐も鉄火場さんも年頃の女性だ。恋ぐらいするだろう!)

 

炭治郎は布団を頭まで引き上げ、目を閉じた。だが、汐が誰かに恋をしているということを考えると、全く眠れない。

 

(でももし、もしも汐が誰かに恋をしているなら、相手は誰なんだ?鉄火場さんは、多分鋼鐵塚さんだろうけれど、汐は・・・)

 

炭治郎の脳裏に、明るく笑う汐の姿が蘇った。

 

もしも汐に好きな人が本当にいるなら、ぜひとも応援したい。だが、その気持ちとは裏腹に、何故かもやもやとした奇妙な感覚がまとわりついていた。

 

(誰なんだ?汐の好きな人って・・・)

 

その事が気になり、結局炭治郎は一睡もできずに訓練に臨み返り討ちになった。

 

汐の想い人が自分であることなど露知らず・・・。

 

 

*   *   *   *   *

 

不死川邸に入った汐は、荷物を置くと訓練場へ向かう廊下を歩いていた。

ここに来てから肌を刺すような殺気を感じ、微かに鳥肌が立った。

 

(だけどあたしはこんなところでへこたれないわ。やってやるんだから)

 

汐は決意を胸に、訓練場へ向かおうと振り返った時だった。

 

「くぁwせdrftgyふじこlp!!」

 

突然前方から、黄色の塊が奇声を上げながらこちらに向かって飛んできた。

それを見た汐は、反射的に人差し指と中指を塊に向かって突き出した。

 

汐の指は、塊の両目にキレイに突き刺さった。

 

「ギィヤアアああああ!!」

 

黄色の塊は耳をつんざくような声で叫ぶと、両目を抑えてのたうち回った。

 

「目が・・・、目がぁあああああ!!」

 

よく見るとそれは、全身が痣だらけの善逸だった。

 

「ああびっくりした。よく見たら善逸じゃない。何かの物体かと思ったわ」

「酷いよ汐ちゃん!!俺さっきまでボコボコにされてたのに、君にまでこんな仕打ちを受けるなんて!!」

 

両目から涙をとめどなく流しながら、善逸は抗議の声を上げた。

 

「で、あんたはこんなところで何やってんのよ。今は訓練中でしょ?」

「しぃーっ!!大きな声を出さないでよ!そんなの逃げて来たに決まってるじゃないか!!殺される・・・!!」

 

善逸は全身をガタガタ震わせながら、汐に縋りついた。

 

「俺もうこれ以上耐えられないよォ!毎日毎日ボコボコに殴られて吹っ飛ばされて、死んじゃうよぉ!!」

「ええいうるさいわね。そんなのやり返せばいいでしょうが!骨を折るなり、××××するなりできるでしょうに」

「できるかぁ!!あのね、そんな怖ろしい考え方ができるのは君だけだからね!!あんな化け物に啖呵を切ることができるなんて、君と伊之助ぐらいだからね!!」

 

善逸がそう言った瞬間、突き刺すような殺気が汐の全身を穿った。

 

「ほぉ・・・。だったら今選ばせてやろうか?訓練に戻るか、俺に殺されるか」

「ぎゃあああああ!!!」

 

背後から実弥の気配を感じた善逸は、悲鳴を上げてのたうち回った。

実弥はそれを物理的に黙らせると、汐をじろりとにらみつけた。

 

「おい、何をもたもたしてやがる。準備ができたならとっとと来やがれ。グズは嫌いだ」

 

実弥はそう言うと、気絶した善逸を引きずっていってしまった。

汐は不満そうな顔をしながらも、その後ろについていった。

 

「初めに言っておくが、俺は女だからって一切手加減はしねぇ。ましてやテメェは、俺を一発殴ってんだからなァ」

「ちょうどよかったわ。あたし、男女差別がこの世で五番目に嫌いなの。あんたが本気でかかってくるなら、こっちもやりがいがあるしね」

 

汐は満面の笑みを浮かべながら、実弥を睨みつけた。(服の下でこっそり中指を立てていたのは内緒だ)

 

(クソガキ)

(クソ野郎)

 

二人は睨みあいながら、訓練場へ続く廊下を歩いていった。

 

不死川邸での訓練は、善逸が逃げ出したくもなるような地獄だった。

 

ここで行われる訓練は、無限打ち込み稽古。その名の通り、実弥に斬りかかるだけという至極単純なものだ。

 

だが、風柱の称号は伊達じゃなく、斬りかかっていた隊士達は皆竜巻のような彼の剣技に一掃されていた。

 

(まるで塵みたいに人が吹っ飛んでるわ・・・)

 

舞い散る隊士達を遠目で見ながら、汐は心の中で合掌した。

よく目を凝らしてみれば、屍と化した善逸と玄弥の姿まである。

 

すると

 

「オラオラオラァ!!」

 

嵐の中から聞き覚えのある声がして、汐は目を見開いた。

そこには、襲い来る猛攻を必死にさばく、伊之助の姿があった。

 

(伊之助!あいつもここに居たのね!)

 

また見知った顔に会えた汐は、思わず顔をほころばせた。

 

「まだまだ行けるぜ!!」

 

いつの間にか立っているのは伊之助だけで、周りは皆ありとあらゆるものを垂れ流しながら倒れていた。

 

(伊之助、何だか前よりも太刀筋が綺麗になってない?修行の成果ちゃんと出てるんだ)

 

汐の思う通り、伊之助の太刀筋は以前に比べて精錬されたものになっていた。

そして常人より関節の可動域が広い彼の動きが、少しずつ実弥を追い詰めていく。

 

(あたしも負けてらんないわ!!)

 

汐は意を決して木刀を構えると、嵐の中に突っ込んでいった。

 

実弥の身体能力は、汐の想像を遥かに超えていた。一見荒々しく見える太刀筋だが、汐が思っているよりもずっと精錬されていたものだった。

しかも、繰り出される剣技の数々は、皆地面を抉るような強力な物ばかりだ。

 

(な、なんて威力なの・・・。他の連中が吹っ飛ぶわけだわ・・・!)

 

まるで暴風のような技に、汐は圧倒される。だが、伊之助はその中を必死に搔い潜りながら剣を振るっていた。

 

(でも、台風で荒れに荒れた海に比べたら、こんなの屁でもない!!)

 

汐は鍛えられた柔軟と反射神経を駆使し、伊之助同様に嵐の中を進んだ。

中々倒れない二人に実弥は少し驚いたものの、太刀を緩めることはなかった。

 

よけきれなかったいくつかの打撃が、汐の全身を穿ち痛みが走った。

 

その時、ひときわ大きな風が巻き起こり、伊之助は抗うことができず吹っ飛ばされた。

残ったのは汐ただ一人。だが、いつその身体が吹き飛ばされるかは時間の問題だった。

 

しかし、汐には秘策があった。それは、刀鍛冶の里で汐が目覚めた【青の路】

 

汐は荒れ狂う風の中、神経を限界まで研ぎ澄ませた。

すると、実弥の中心に向かって伸びる青い光が、一瞬だけ見えた。

 

(見えたッ!そこだぁっ!!)

 

汐は一気に距離を詰めると、実弥が刀を振るよりも早くその刀身を突き出した。

 

「っ!!」

 

木刀の切っ先は実弥の右頬を掠めたが、その一瞬無防備になった汐の腹部に木刀の柄を叩きつけた。

 

「ぐっ・・・!!」

 

腹部に強烈な衝撃を感じ、汐の意識は遠のいていくのだった。

 

 

*   *   *   *   *

「おい、大丈夫か?」

 

上から声が振ってきて、汐は目を開けた。そこには、心配そうな顔で見下ろす玄弥の姿があった。

 

「玄弥・・・?いっ・・・!」

 

身体を起こそうとした瞬間、痺れるような激痛が全身を駆け巡り、汐は小さくうめいた。

 

「あれ?あたし、どうしたの?確かアイツの一撃を喰らって・・・」

「お前、その後気絶してたんだよ。猪もそこで伸びてる」

 

玄弥が指さした方向には、伊之助が大の字になって横たわっていた。

胸が上下していることから、どうやら息はあるようだ。

 

「あたし、アイツにろくな一撃も浴びせられなかったわ」

「いや、女なのにあそこまでやれるなんてすげぇよ。猪が伸びても、お前ひとりで向かって行ってたんだぜ」

 

玄弥はそう言って、濡れた手ぬぐいを汐に手渡した。

 

「使えよ」

「あら、ありがとう。気が利くのね」

 

汐は玄弥から手ぬぐいを受け取ると、痛む顔にそっと当てた。

 

「ふぅ。まさか初日でここまでやられるなんて、不覚だったわ。まあ、アイツの態度からある程度は察していたけど」

 

腫れた顔で笑う汐を、玄弥は複雑な表情で見ていた。

 

「ん?どうしたの玄弥。そんな顔して」

「いや・・・。兄貴、いくら訓練でも女をここまで殴るなんてなかったのに・・・」

 

玄弥はそう言って顔を伏せた。

 

「ああ、それならあたしがあいつを一発殴っちゃったからじゃない?」

「は!?殴った!?なんで!?いつ!?」

「柱合裁判の時に、禰豆子を傷つけたから思わずぶん殴っちゃったの。顰蹙は買ったけれど、後悔はしてないわ!」

 

そう言って得意げに笑う汐を、玄弥は口をパクパクさせながら呆然と見ていた。

 

「う゛~ん・・・」

 

傍で倒れていた伊之助が、うめき声を上げながら体を起こした。

それから周りを見渡し、汐の姿を見つけると近寄ってきた。

 

「お、歌女じゃねえか!」

 

そう言う伊之助の声は、どこか嬉しそうに聞こえた。

 

「久しぶりね、伊之助。あんたも元気そうで何よりだわ」

「当り前だ!俺は肩の関節が外れたくらいでギャースカ騒ぐ奴とは、訳が違うんだからな!!」

「あのね。あたしは関節を自由に外すことができる出鱈目人間とは違うのよ」

 

汐は呆れた顔でため息をついた。

 

「あ、あのよ。お前等そろそろ移動しねえか?夜も更けたし、いつまでもここで喋ってたら・・・」

「そうね。アイツにまたどやされるのは面倒だし、何だかお腹も空いたし行きましょうか」

 

汐はそう言って立ち上がるが、足元がふらつき体勢を崩した。

 

「危ねぇっ!」

 

そんな汐の身体を、玄弥は慌てて支えた。

 

「おい、本当に大丈夫か?」

「大丈夫よ。ちょっとふらついただけ。でもありがとう。何から何まで悪いわね」

 

汐は玄弥の手を借りながら立ち上がると、痛む体を引きずって部屋へ向かった。

その後を伊之助が騒ぎながら追い、そんな彼の頭を汐が叩く。

 

玄弥は何故か早鐘のように打ち鳴らされる心臓に困惑しながらも、二人の後を追った。

 

夕餉が終わり、汐は厠で用を足した後鏡を見た。

顔は想像よりもだいぶ腫れており、所々青くなっている。

 

(うげぇーっ、思ったより腫れてるじゃない。あの野郎、本当に容赦ないんだから)

 

鏡に映った自分の顔を見ながら、汐は顔をしかめた。

伊黒との訓練とでさえ、ここまでは腫れなかった。

 

(傷跡が残ったらどうしよう。まあ傷はいくつもあるからいいけど、せめて炭治郎に心配かけないようにはしたいなぁ・・・)

 

汐は目を閉じて、伊黒の元にいるであろう炭治郎の事を思い浮かべた。

炭治郎も、あの恐ろしい訓練を受けてるかと思うと、少なからず同情する。

 

(炭治郎は優しいから、きっと縛り付けられた連中の事を気遣って、剣を思うように振るえなかったりして)

 

炭治郎の性格をよく知っていた汐は、苦々し気に笑みを浮かべた。

 

(さぁて、明日も早いし、傷も痛いしさっさと休もう)

 

汐は苛々とした気分を払しょくするように首を振ると、厠を出て部屋へと向かった。

 

その時だった。

 

「待ってくれよ、兄貴!話を聞いてくれ!!」

 

廊下の向こうから声がして、汐は思わず足を止めた。

 

「この声は、玄弥?」

 

汐は音を立てないようにそっと近づき、そっと覗きこんだ。

 

そこには、玄弥と実弥の姿があった。

 

「話があるんだよ。頼むから聞いてくれ!」

 

玄弥は必死の思い出そう言うが、実弥はそれに答えることなく背を向けた。

 

「兄貴!!」

 

玄弥がもう一度叫ぶと、実弥は顔中に青筋を立てながら振り返った。

 

「話しかけんじゃねぇよ、ぶち殺すぞォ」

 

まるで氷のような声に、玄弥は勿論汐でさえも震えた。

 

立ち尽くす玄弥をよそに、実弥はそのまま去って言った。

 

(何よあれ。あいつ、本当に玄弥の兄貴なの?)

 

汐に兄妹はいないが、炭治郎と禰豆子のような仲睦まじい二人を見てきたため、その温かさはある程度知っていた。

だが、目の前の二人は仲の良さなど微塵も感じなかった。

 

(でも何だろう。アイツの、オコゼ野郎の"目"。うまく言えないけれど、何か違和感があった・・・)

 

汐はさっきの実弥の"目"を思い出しながら、奇妙な違和感が何なのか探ろうとした。

 

「お前、何やってんだ?」

 

そのせいで、戻って来た玄弥に気づくことが遅れてしまった。

 

「あ・・・」

 

汐と玄弥の目が合い、しばしの間奇妙な静寂が二人を包んだ。

 

「ご、ごめん。立ち聞きするつもりはなかったの。ただ、あんたの声が聞こえたから何事かと思って・・・」

「・・・そうか」

 

玄弥は少し疲れたような声でそう言った。

いつもなら怒りながら突っかかってくるはずの彼に、汐は怪訝そうに首を傾げた。

 

「どうしたのよあんた。いつもならガーガー怒って突っかかってくるくせに」

「そんな気分じゃねえんだよ。お前ももう寝ろ。傷に障るぞ」

 

玄弥はそう言って、汐の脇をすり抜けて去ろうとした。

 

(玄弥・・・、あんた・・・)

 

玄弥の"目"が悲しみと後悔で染まっているのを見て、汐は胸が潰れそうなほど痛んだ。

 

そのモヤモヤとした陰鬱な気分を抱えながら、汐は朝を迎えるのだった。




NG

実「俺はグズは嫌いだ。40びょ・・・、5秒で支度しろォ」
汐「うるせぇ、ジ〇リマニア!!」
玄(兄貴・・・、紅の○派じゃなかったのか・・・!?)


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



仕事が多忙なため、更新が遅れてしまいました。
申し訳ございません



翌朝。目を覚ました汐はすぐに洗面所へと向かった。

そして、鏡で自分の顔を見てほっと胸をなでおろす。

 

(腫れはすっかり引いたみたい。よかった)

 

だが、安心する反面汐は少しだけ不安を感じていた。

昨日は一目見てわかる程腫れていた顔が、今はすっかり元通りになっていた。

傷跡すら、うっすらと残る程だ。

 

(なんだか最近、傷の治りが早いような気がするわ。悪いことじゃないとは思うけど、あたしも段々人間離れしていくみたいでちょっと気持ち悪いかも・・・)

 

汐は傷跡を指でなぞりながら、小さく顔をしかめた。

 

(まあ、今更考えてもしょうがないわね。あたしはできることをやるだけよ。今日こそ、あの野郎のスカした面にぶちかましてやるわ!!)

 

汐は両手で顔を打ち鳴らして気合を入れると、洗面所を出て訓練場へ向かった。

 

その日の訓練も、相も変わらず凄まじいものだった。嵐のような実弥の太刀筋に、隊士達は吹き飛び、善逸は悲鳴を上げ、汐は殺意を剥き出しにしながら挑んだ。

 

そんな中、伊之助は実弥に一撃当てられたことを認められ、次の訓練へ行く許可が出た。

自慢げにする伊之助に腹立たしさを覚えながらも、汐は何度も嵐の中へ突っ込んでいく。

 

そして反吐を吐き、失神するまでその時間は続くのだった。

 

 

*   *   *   *   *

 

汐達がそんな調子な頃。

伊黒邸にいた炭治郎は、四日目にしてようやく訓練を終えることができた。

 

しかし、蜜璃の手紙で炭治郎と仲良くしていることを知った伊黒は、炭治郎を蛇蝎の如く嫌い辛辣な言葉を浴びせ続けた。

 

「じゃあな。さっさと死ね、ゴミカス。馴れ馴れしく甘露寺と喋るな」

 

炭治郎は伊黒に最後まで嫌われていた事に涙しつつも、屋敷を後にした。

 

鎹鴉に案内されながら、炭治郎は次の柱、実弥の屋敷を目指す。

曲がり角を右に曲がった瞬間、炭治郎の目の前に黄色い何かが音もなく姿を現した。

 

「うわあああああ!!!」

 

炭治郎と鴉が悲鳴を上げるが、それが顔中涙と鼻水塗れの善逸だと認識するのに時間はかからなかった。

 

「善逸!?」

 

炭治郎が名を呼ぶと、善逸は炭治郎に縋りつき堰を切ったように叫び出した。

 

「ににににに、逃がしてくれェェェ。炭治郎炭治郎何卒!!」

「逃がす?何から?」

「ややや、やっとここまで逃げてきたんだ。塀を這ってきたんだ。気配を消してヤモリのように、命にかかわる、殺されるっ」

 

炭治郎が尋ねるが善逸はそれに答えず、ただ自分の状況らしきものを支離滅裂に叫んだ。

 

だが、背後から恐ろしい気配を感じ、善逸は勿論炭治郎も震えあがった。

 

「てめぇええ・・・!何自分だけ逃げてんだぁ・・・!」

 

そこには、顔に血の跡をつけた汐が、身の毛がよだつような恐ろしい顔で善逸の首を絞めていた。

 

「ぎゃあああああ!!」

「うぎゃああああ!!」

 

そのあまりの恐ろしさに、善逸だけではなく炭治郎も涙を流しながら叫んだ。

 

「って、なんであんたまで驚いてんのよ!!失礼ね!!」

 

汐は善逸と炭治郎に同時に平手打ちを喰らわせた。

 

「あら炭治郎。やっとここまで来たのねぇ。待ちくたびれたわよ」

「い、いやいやいや!汐!血だらけだぞ大丈夫か!?」

 

顔を引き攣らせる炭治郎に、汐はあっけらかんとした表情で答えた。

 

「ああもう大丈夫、血は止まってるわ。ここじゃあ怪我人なんて飽きる程出るから、薬の確保が大変だけどね。ったく、こうなることを見越して、もうちょっと多めに置いておけっての」

 

汐が不満げに口を尖らせると、突如頭を誰かに鷲掴みにされた。

 

「何なら、薬なんざ必要ねえ状態にしてやろうか?」

 

地を這うような声が響き、善逸は声なき悲鳴を上げ、炭治郎も表情を強張らせる。

 

そこには顔中に青筋を立てた実弥が、汐と炭治郎の頭を掴んでいた。

 

「二人共選べェ。訓練に戻るか俺に殺されるか」

「ギャア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙」

善逸はとんでもなく汚い高音で叫ぶと、炭治郎にしがみ付いて泣きわめいた。

そのあまりの五月蠅さに、実弥は善逸に手刀を入れて黙らせた。

 

「運べ」

「あ、はい」

 

炭治郎は素直に返事をすると、気絶している善逸を申し訳なさそうな顔で背負って歩きだした。

 

「ちょっと、あんた。こいつとあたしを一緒にしないでよ。あたしはあんたをぶちのめすまで逃げるつもりはないから」

 

汐が実弥を睨みつけると、実弥は小さく鼻を鳴らしながら顔をしかめた。

 

「あ、あの、不死川さん」

 

険悪な空気を察したのかそうでないのか、炭治郎の明るい声が響いた。

 

「ご無沙汰しています。今日から訓練に参加させてもらいます。よろしくお願いします!」

 

炭治郎の声に実弥は足を止めると、ぎろりと睨みつけながら言った。

 

「調子乗んなよォ。俺はテメェを認めてねぇからなァ」

「全然大丈夫です!」

 

実弥が不快感を隠しもせずそう言うと、炭治郎も負けじと曇りなき目を向けて言った。

 

「俺も貴方を認めてないので!禰豆子刺したんで!」

 

炭治郎は満面の笑みでそう言うと、善逸を背負ったまま走り出した。

 

「いい度胸だ・・・」

 

こめかみを痙攣させながらそう呟く実弥を見て、汐は思わず吹きだした。

 

「ブフーッ、クックック・・・、綺麗に返されてやーんの」

 

笑いをこらえながら屋敷に戻り、残された実弥はこれ以上ない程の苛立ちを募らせていた。

 

訓練に加わった炭治郎は、善逸が逃げ出したくなる理由を身をもって知った。

 

反吐を吐き、気を失うまで一切の休憩はなし。そして汐同様、実弥は炭治郎に対しての風当たりが強かった。

 

下手をすれば、大怪我をして治療に逆戻りしてしまうほどの。

 

そしてその日、炭治郎は顔中を腫れあがらせて訓練を終えた。

 

だが、炭治郎はこれだけで済んでよかったのかもしれない。

汐はついさっき、訓練中に頭を打ち気を失ってしまった。

 

その為炭治郎は、痛む傷を押して汐を部屋に運んで休ませていた。

 

(全く、汐も相変わらず無茶をするなあ。俺たちはともかく、汐は女の子なんだから顔に傷なんて作っちゃいけないのに)

 

そんなことになったら汐が想っている人が悲しむだろう、と炭治郎が考えた瞬間、胸に奇妙な痛みを感じた。

 

(まただ、この痛み)

 

その痛みは、炭治郎が汐の事を考える度に起きていた。特に、汐に想い人がいるかもしれないと思った日から、度々起こるようになった。

そしてなぜか、身体の痛みよりも気になった。

 

どうしてこんな痛みを感じるのだろう、と考えながら歩いていると、

 

「待ってくれよ、兄貴!」

 

少し先で聞き覚えのある声が響いた。

 

(玄弥の声!)

 

匂いを辿りながら進むと、玄弥が廊下の真ん中に立っているのが見えた。

その前には、実弥の姿があった。

 

「話したいことがあるんだ・・・」

 

玄弥は早鐘のように鳴る心臓を抑えながら、絞り出すように言った。

 

だが、

 

「しつけぇんだよ。俺には弟なんていねェ。いい加減にしねぇと、ぶち殺すぞォ」

 

怒りが籠った低い声が容赦なく突き刺し、玄弥は青ざめた顔で、何も言うことなく俯いてしまった。

 

それを見た炭治郎は、自分とは全く異なる兄弟喧嘩に恐ろしさを感じた。

 

実弥はつづけた。

 

「馴れ馴れしく話しかけてんじゃアねぇぞ。それからテメェは見た所、何の才能もねぇから鬼殺隊辞めろォ」

 

刃のような言葉が容赦なく飛ぶが、炭治郎は微かに漂う匂いに少し違和感を感じた、

 

「呼吸も使えないような奴が、剣士を名乗ってんじゃねぇ」

「そんな・・・」

 

それっきり無言になった玄弥に、実弥は背を向け立ち去ろうとした。

 

「まっ・・・、待ってくれよ兄貴!!」

 

そんな彼の背中に、玄弥は必死で声をかける。

 

「ずっと俺は兄貴に謝りたくて・・・」

 

自分が嘗て、事情も知らずに兄を罵ってしまった事。大切な家族を傷つけてしまった事。

その事を謝りたくて、玄弥はここまで戦ってきた。

 

それを少しだがわかっていた炭治郎は、祈る気持ちで成り行きを見守った。

 

しかし、

 

「心底どうでもいいわ。失せろォ」

 

まるで虫でも追い払うように手を動かしながら、実弥はそう言い放った。

あまりにも冷たい言葉に、玄弥は勿論炭治郎も言葉を失った。

 

「そんな・・・、俺・・・」

 

玄弥の声は、今にも泣きそうなくらいに震えていた。

その声を聞くことなく、実弥はその場を立ち去るはずだった。

 

玄弥の次の言葉を聞くまでは。

 

「俺・・・、鬼を喰ってまで・・・、戦ってきたんだぜ・・・」

 

その瞬間、実弥は足を止めて反射的に振り返った。

目をこれ以上ない程見開き、血走った目を向けながら。

 

「何だとォ?今、何つった?」

 

実弥から感じるのは、怒りを通り越した殺意にも似た感情。

空気を斬り裂くようなそれは、炭治郎の身体も震わせた。

 

「テメェ・・・、鬼を・・・喰っただとォ?」

 

その言葉を言い終えた瞬間、実弥の姿が消えた。

 

(消え・・・?)

 

「玄弥!!」

 

炭治郎の鋭い声が飛び、次に玄弥が認識したのは。

 

自分の両目に向かって躊躇いもなく、指を伸ばす実弥だった。

 

だが、玄弥の両目は炭治郎の介入によって突かれることはなかった。その代わりに、玄弥の頬に一筋の傷をつけた。

 

そのまま炭治郎は玄弥を抱えたまま、障子を突き破って外へと飛び出した。

 

「うわあああああ!!!」

 

炭治郎が障子を破って出てくるのと同時に、善逸の叫び声が響き渡った。

実弥に痛めつけられた隊士達は、慌てて地面に伏せ死んだふりをした。

 

「あれっ?炭治郎か?」

 

善逸は初め、実弥が飛び出してきたのかと思ったが、よく見るとそこにいたのは炭治郎とどこかで見覚えのある少年だった。

 

(えええ、殺されるぞ炭治郎。何してんだ、建物ぶっ壊して・・・)

 

善逸が青ざめていると、炭治郎は建物の中に向かって「やめてください!」と叫んでいた。

すると今度は、捻じ曲がった禍々しい音が近づいてきた。

 

そして建物の中から現れたのは、全身に殺意を纏った実弥だった。

 

(うわあああああ!!おっさんが暴れてんのね!!稽古場じゃない所でもボコられるのかよ!!そう言うのは汐ちゃんだけでお腹いっぱいなんだってば!!)

善逸は青い顔を更に青くして涙を流した。

 

「どういうつもりですか!!」

 

そんな善逸の想いなど露知らず、炭治郎は抗議の眼差しを実弥に向けた。

 

「玄弥を殺す気か!」

 

「殺しゃしねぇよォ。殺すのは簡単だが、隊律違反だしよォ」

 

炭治郎の言葉に実弥は、淡々とそう答えた。

 

「再起不能にすんだよォ。ただしなァ、今すぐ鬼殺隊を辞めるなら許してやる」

 

あまりにも一方的な物言いに、流石の炭治郎も堪忍袋の緒が切れた。

 

「ふざけんな!!あなたにそこまでする権利ないだろ!辞めるのを強要するな!!」

 

炭治郎は先程の出来事を思い出し、あふれる怒りを言葉に乗せて実弥にぶつけた。

 

「さっき、弟なんかいないって言っただろうが!!玄弥が何を選択したって口出しするな!才が有ろうが無かろうが、命を懸けて鬼と戦うと決めてんだ!!」

 

そう、炭治郎は知っていた。玄弥がどんな思いで今まで戦ってきたか。自らの身体に多大な負担をかけてまでここまでやってきた理由を。

 

「兄貴じゃないと言うんなら、絶対に俺は玄弥の邪魔をさせない!!玄弥がいなきゃ上弦には勝てなかった!!再起不能なんかにさせるもんか!!」

 

自分の為に怒っている炭治郎を、玄弥は呆然と見つめていた。

 

「そうかよォ。じゃあ、まずテメェから再起不能だ」

 

実弥の殺意が玄弥から炭治郎に移り、炭治郎はにじり寄ってくる実弥をしっかりと見据えた。

だが、実弥は瞬時に距離を詰めると、炭治郎の鳩尾に容赦なく拳を叩き込んだ。

 

「うわっ、炭治郎!!」

 

その光景を見ていた善逸が思わず叫ぶ。

 

しかし、その光景に驚いたのは実弥もだった。

 

(コイツ!!止めやがった!!)

 

よく見れば実弥の拳は、炭治郎の両手に阻まれている。

 

「ふんがァ!」

 

炭治郎はそのまま身体を大きく捻ると、遠心力を利用して片足を実弥の後頭部へ叩き込んだ。

 

炭治郎が一撃を入れたことに、善逸は目玉を飛び出させながら驚いた。

 

「善逸ーーーーっ!!!」

 

炭治郎は地面に倒れながらも、善逸の名を叫んだ。

 

「玄弥を逃がしてくれ、頼む!!」

 

(ちょっ・・・バッ、バカお前・・・バカ!!名前呼ぶなバカ!!もっと上手いこと合図出来るだろう!!)

 

あまりにも短絡的すぎる合図に、善逸は心の中で文句を言いながら炭治郎を睨みつけた。

 

一方、炭治郎の蹴りを受けたはずの実弥は、すぐさま体勢を立て直すとそのまま逆立ちに近い体制で炭治郎を薙ぎ払った。

 

直撃は避けられたものの、掠っただけで炭治郎の耳から血が噴き出した。

 

(掠っただけで耳が切れる、蹴り!!)

 

顔を歪ませる炭治郎を、実弥は怒りと殺意を込めた目を向けて言った。

 

「いい度胸ォ、してるぜテメェはァ。死にてェようだから、お望み通りに殺してやるよォ」

 

そんな二人を見て、玄弥が叫んだ。

 

「待ってくれ兄貴、炭治郎は関係ない!」

 

だが、玄弥がその先を続ける前に善逸がその腕を掴んで走り出した。

 

その後、炭治郎と実弥の殴り合いは続き、実弥を止めようと隊士達は掴みかかった。

 

その騒ぎを聞きつけた汐は、その光景を見て顔を歪めた。

 

「だ―――!!うるさいわね!!おちおち寝てもいられないじゃないの!!」

 

――ウタカタ 参ノ旋律――

――束縛歌!!!

 

汐の歌が全員を拘束し、ひとまず騒ぎは収まった。

しかし、炭治郎は鴉を通じて上からおしかりを受け、実弥との訓練は中断。接近禁止が命じられた。

 

「ごめんな、二人共」

 

不死川邸を後にしながら、炭治郎は申し訳なさそうにそう言った。

 

「俺のせいで修業がなくなってしまって・・・」

「いやいや。あれ以上続けてたら俺死んでたし、ある意味感謝だわ」

 

善逸はお道化たようにそう言って微かに笑った。

 

一方、汐は何かを考えているようにうつ向いたまま、何も言わずに歩いていた。

と、思いきや突然足を止めると、炭治郎と善逸に顔を向けて言った。

 

「ごめん、あたし屋敷に忘れ物しちゃったみたい」

「え?」

「先に行ってて、すぐに追いつくから。じゃ」

「お、おい!汐!!」

 

困惑する二人に構わず、汐は踵を返すと一目散に屋敷に向かって駆けて行った。

 

だが、炭治郎と善逸は気づいていた。

汐から強い決意の匂いと音を感じた。

 

小さくなっていく汐の背中を、二人は心配そうに見つめていた。

 

 

*   *   *   *   *

 

その後、実弥は苛立ちを抑えられず、体中を震わせていた。

玄弥の事もそうだが、炭治郎。初めて出会った時から気に喰わないと思っていたが、これほどまでに腹立たしい奴だとは思わなかった。

 

(くそっ、くそっ!!)

 

怒りのあまり、注意が僅かにそがれていたのか、他に理由があるのか。それはわからないが。

 

実弥は気づかなかった。誰もいないはずの道場に人の気配がある事に。

 

「!?」

 

気配に気づいた実弥が振り返ると、目に入ったのは目を引く青と赤。

 

汐が静かに、その場にたたずんでいた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

三十章:本音


時間は遡り。

 

「ねえ、玄弥。ちょっと顔貸してよ」

「は?」

 

不死川邸で修業をし始めてから三日後の夜。汐はなんやかんやで逃げ回っていた玄弥を捕まえると、ほぼ無理やり自室へと連れ込んだ。

 

「な、何なんだよ。俺に何か用かよ?」

 

いきなりの事に玄弥は困惑し、視線をあちこちに泳がせる。汐の強引な行動も勿論だが、思春期を迎えた自分にとって異性の部屋に入るということは、どんな恐ろしい鬼と戦うことよりも緊張することだった。

 

玄弥が部屋の中心で縮こまっていると、汐は玄弥と向き合うように座って口を開いた。

 

「単刀直入に言わせてもらうけれど、あいつとの間に何があったか、教えてくれる?」

 

いきなりの言葉に玄弥は身体を大きく震わせ、目を見開いた。

 

「話したくないような内容な事は百も承知だし、あんたがあたしの事を心から信用しているわけじゃないこともわかってる」

 

汐は揺れる玄弥の目から視線を外さずに言った。

 

「だけどね、あたしは自分勝手な人間だから、そんな顔をしているあんたを放っておけないの。あたしはあんたに助けられたから、あんたが困っているときは力を貸してあげたい」

 

汐は迷いなき目で玄弥を見据えた。その凛とした佇まいに、玄弥の体が震えた。

全てを見透かすような目に、玄弥は心の中で白旗を上げた。

 

そして語りだした。自分の忌まわしい過去を。

 

話を聞いた汐は、悲しそうな顔で俯いた。だが、それと同時に腑に落ちた様子で立ち上がった。

 

「話してくれてありがとう、玄弥。こんな夜更けにごめんなさいね」

 

それだけを言うと、汐は玄弥を自室に帰し、布団を敷いて横たわった。

その顔には、ゆるぎない決意が現れているのだった。

 

*   *   *   *   *

 

「テメェ・・・、何でここに居やがんだァ?」

 

暗がりの中にたたずむ汐に、実弥は鋭い言葉を浴びせた。だが、汐は何も答えず実弥を見据えたままだ。

 

「訓練は中止と言ったはずだ。さっさとここから出て行け」

 

実弥が凄むが汐は一言も発せず、実弥を見つめているだけだ。

 

「聞こえねえのか?俺は今すこぶる機嫌が悪ィ。ぶっ殺されたくなければとっとと消えろォ」

 

しかしそれでも、汐は石のように動かない。段々と溜まってく怒りを吐き出すように、実弥は口を開いた。

 

「テメェ・・・、そんなに死にてえようだなァ」

 

実弥は一歩、汐の方に足を踏み出したその時。汐の口がゆっくりと開いた。

 

「玄弥からおおよその話は聞いているわ」

「あァ?」

 

言葉を発した汐に、実弥の足が止まった。

 

「あんた、鬼になった母親を殺したそうね」

「・・・・」

 

実弥の目が鋭くなり、汐に突き刺すような視線を向けた。しかし汐は、一切怯むことなく口を開く。

 

「それから一切、玄弥とは接触していなかったのね。大方、玄弥こちら側を見せたくなかったか、自分の姿を見られたくなかったか、いや、そのどっちもか」

「何が言いたい」

 

実弥がそう言うと、汐は顔を上げて嘲るような視線を向けた。

 

「じゃあ、手っ取り早く、馬鹿でも分かりやすくいってあげるわ」

 

――いつまでも玄弥(かぞく)から逃げてんじゃねぇよ!!

 

「!!」

 

その言葉を聞いた瞬間、実弥は汐の胸ぐらを乱暴に掴んでいた。

 

汐は締め付けられる感覚に顔を微かに歪ませたが、視線は真っ直ぐに実弥を射抜いていた。

 

「テ・・メェ・・・!!」

 

実弥は怒りのあまり言葉を旨く紡ぐことができなかった。全身にマグマのような感情が流れ、汐を掴む手は震えていた。

 

汐の目を見て、実弥は一つ確信したことがあった。

 

――自分は心底、この女が気に喰わないということ。

 

初めて会った時も、鬼を庇う不届き者だということで、実弥は汐にいい印象を持っていなかった。

だが、彼が汐を嫌うのはそれだけではなかった。

 

似ているのだ。汐と昔の自分が。

 

汐の過去は風の噂で少しだけ聞いていた。鬼と化した自分の父親を手にかけ、それがきっかけで鬼殺隊に入隊したということ。

 

その過去も踏まえて、汐は自分と似ている気がした。そのせいかは分からないが、頭では汐が悪いわけではないと分かっていても、気持ちの方がついて行かないのだ。

 

しかし、今自分の目の前にいる少女は、年相応に全く似つかわしくない目をしていた。

 

全てを見透かすような、鋭い目。自分の心の中をまさぐられるような、嫌悪感だった。

 

「あんたの家庭の事情なんか知ったことじゃないし、あんたが玄弥に対して何を思っていようが全く興味はない」

 

汐は胸ぐらをつかんでいる腕を、両手で外しながら告げた。

 

「だけど、あたしの友達をこれ以上傷つけるつもりなら許さない。柱だろうが何だろうが関係ない」

「ほぉ・・・。お前が許さなかったら、何だってんだァ?」

「あたしの目的は最初から何も変わっていない。あんたを完膚なきまでに叩きのめすこと。でも、今のあんたなら存外簡単そうね」

 

汐はふんと鼻を鳴らすと、隙を見て左足を思い切り実弥の鳩尾へと叩き込んだ。

 

実弥はギリギリでそれを躱すと、汐から間合いを取った。

 

「玄弥と、自分自身と向き合うこともできない臆病者に、私が負けるとでも思うか!」

「抜かせ、クソガキがァァァ!!!」

 

汐の鋭い声と、実弥の怒りに満ちた声が重なり、凄まじい衝撃が道場中に駆け巡った。

 

実弥の拳を汐は紙一重ですべて躱し、死角から連続攻撃を叩き込む。

しかし実弥も、伊達に柱を名乗っているわけではない。汐の攻撃を躱し、受け流す。

 

無言の殴り合いが、数秒、数分間続いた。

 

だが、実弥の顔には驚愕が張り付いていた。

 

(なんだァ・・・、こいつの打撃の重さは・・・!?)

 

汐の攻撃を受け流す実弥だが、その一撃一撃が非常に重く、今まで相手をしてきた隊士とは比べ物にならない。

否、とても女の力ではなかった。

 

汐が蜜璃の継子であり、時折伊黒が指導をしていることは知っていた。協力者がいたとはいえ、上弦の鬼と戦い、討伐していることも知っている。

柱稽古でもここまでくるということは、少なくとも他の隊士よりは抜きんでいる事はわかっていた。

 

だがそれでも、ここまで実弥をひやりとさせる実力ではなかったはずだ。

 

(どうなってやがる・・・!?いったい何なんだ、この女は・・・!?)

 

実弥が見せた微かな焦りを、汐は見逃さなかった。

実弥の正拳を躱し、間合いに入った汐は、左腕を大きく振り上げ顎に拳を叩きつけた。

 

「ガッ・・・!!」

 

決して軽くはないはずの実弥の身体が、衝撃のあまり浮き上がる。

だが、実弥はその体制のまま汐の腕を掴むと、思い切り投げ飛ばした。

 

汐の身体が羽根の様に吹き飛び、体勢を崩した隙に実弥の拳が汐を襲った。

 

「テメェに・・・、テメェに何がわかる!!ふざけてんじゃねェ!!」

 

実弥の怒号が道場中に響き渡り、空気をびりびりと震わせた。

 

実弥が鬼と化した母親を殺し、それからたくさんの出会いと別れを経て柱となった。

 

何度絶望し、何度憎しみを募らせたか。それでも自分が立って、戦って来られたのはある一つの想いだった。

 

それを、目の前の少女は逃げていると言った。ふざけるな。ふざけるな!!

実弥の中に再び怒りが、沸々と湧き上がってきた。

 

だが、

 

「ふざけてるのはお前だ!!不死川実弥!!」

 

汐の鋭い声と共に、刃のような蹴りがこめかみを掠った。

 

「お前は何一つわかっていない!突き放すことが優しさだと、ただ勘違いをしているんだ!!」

 

そう言い放つ汐の顔を見て、実弥は戦慄した。

 

違う。目の前にいるのは、汐ではない。汐の姿をした、別人のようだった。

 

「あんな言い方で気持ちが伝わると思うか!?あんな態度で弟の気持ちを変えられると思ったのか!?ふざけているのはどっちだ!!」

 

汐の攻撃速度が激しくなり、実弥の顔にはっきりと焦りが浮かんだ。

 

だが、言われっぱなし、やられっぱなしでで黙っている彼ではない。

 

汐が大きく振りかぶった時、その拳を実弥の腕がつかんだ。

 

「俺が逃げてる?臆病者?んなこと、テメエなんかに言われなくても分かってんだよォ!!」

 

実弥はそう叫んで汐を投げ飛ばすと、大きく拳を振り上げた。

 

それは汐が初めて垣間見た、不死川実弥の本音の一部だった。その言葉を聞いた瞬間、汐は一つ悟った。

 

不死川実弥は玄弥を憎んでなどいない。ただ、その想いを伝えるのがとんでもなく下手だということを。

 

(なんだ、そうか)

 

汐は意を決して、声を張り上げた。

 

「だったら逃げずに向き合ってよ!!あたしみたいに、後悔する前に!!」

 

汐の言葉に、実弥の"目"が微かに揺れた。

 

「あたしは駄目だった!!気づいたときには手遅れだった!!いくら後悔しても、想いを伝えたくても、その人はもうこの世の何処にもいないの!!」

 

そう言う汐の声は、泣き叫んでいるようにも聞こえた。

 

「でもあんたは違う!!思いを伝えなきゃならない相手がこの世にいる!!まだ間に合うの!!あたしみたいな思いをする必要なんて、どこにもないのよ!!!」

 

実弥が拳を振り上げ、汐の守りに入った腕を穿とうとしたとき。

拳は汐の防御を崩すと、無防備になった汐の顔面に突き刺さった。

 

「!?」

 

汐の身体はそのまま吹き飛び、壁に叩きつけられた。

衝撃で埃が舞い、煙のように汐を隠す。

 

もうもうと立ち上る埃の中、実弥は呆然と汐の吹き飛んだ方向を見つめていた。

 

(こいつ・・・、こいつ・・・!最後の瞬間、自分から防御を解きやがった!!)

 

「おい・・・、おい!!」

 

実弥はすぐさま汐のいた所に駆け寄ると、舞う埃を手で払った。

治まった先には、頬を腫らし口から血を流した汐が、ぐったりと身体を壁に預けていた。

 

実弥は汐に駆け寄ると、脈を取り生きていることを確認した。

顔をよく見れば、汐の左目からは涙が一粒零れ落ちた。

 

汐が吹き飛ぶ寸前、実弥は確かにはっきりと汐の声を聞いていた。

 

――あなたは間違えないで。お願いだから・・・

 

その声は、今までの汐の声とは全く違う、優しく温かなものだった。

 

「何なんだよ・・・、クソがァ・・・」

 

実弥の口から声が漏れる。だが、その声には怒りの感情は微塵もなかった。

 

 

 

*   *   *   *   *

 

どれくらい時間が経ったのだろうか。汐はゆっくりと目を開いた。

ぼんやりとした意識の中、少しずつ天井が見えてくる。

 

その天井には見覚えがあったが、どうも不死川邸の物とは違うような気がする。

 

そんなことを考えていた時だった。

 

「汐さん!!」

 

聞き覚えのある声がして、汐は視線を動かした。するとそこには、焦った顔のなほ、きよ、すみが自分を見つめていた。

 

「ああよかった!気が付いたんですね!!」

「すぐにアオイさんを呼んできます!」

 

なほときよはそう言って駆け出し、すみは汐に近づくと心配そうな目を向けて言った。

 

「気分はどうですか?」

「そうねぇ。少し頭がくらくらするけれど、それ以外は・・・、いっ!!」

 

頬に鋭い痛みを感じて、汐は顔をしかめた。触れてみれば布が貼られており、手当てが済んでいることがわかった。

 

「ってあれ?あたし何で蝶屋敷にいるの?あいつの道場でやりあって、それから・・・」

 

汐は記憶を手繰り寄せるが、実弥の拳が振り下ろされるところからの記憶が全くない。

どうやってここまで来たのか分からず首をひねっていると、すみはおずおずと話し出した。

 

「あの、実はですね。汐さんをここまで運んでくださったのは、風柱様なんです」

「はぁ!?」

 

告げられた言葉に、汐は思わず声を張り上げた。

 

「あいつが?嘘でしょ?あんな人を殴ることに一切躊躇いがない奴が?」

「あの、それは汐さんが言えることじゃ・・・」

 

すみはそう言いかけたが、いろいろと面倒ごとが起こりそうな気がして口を閉じた。

 

「数刻ほど前、屋敷の外でしのぶ様を呼ぶ声がして、今お留守だから私達が出たんです」

 

すみはそのことを思い出しながら語った。

 

外からしのぶを呼ぶ怒鳴り声が聞こえ、慌てて出てみれば、そこには汐を抱えた実弥が立っていた。

 

しのぶは不在だったが、汐が怪我をしていると分かった三人娘たちは、慌ててベッドを用意した。

 

実弥は汐をそっとベッドに寝かせると、そのまま何も言わずに帰ったという。

 

そして、汐の傷は応急手当てがされていた。

 

「まさか、あいつがそんな・・・」

 

汐にとって実弥はいろいろと相いれない存在であり、実弥もまたそのはずだ。

にわかには信じがたいが、すみが嘘をつくはずもなく、"目"も嘘はついていなかった。

 

「まあそれはともかく、あたしまたここに来ちゃったのね」

 

汐が自嘲的に笑うと、「本当ですよ!!」という大声が聞こえた。

 

汐が振り返ると、アオイが腕を組んで仁王立ちをしていた。

 

「まったく、ただでさえ怪我人が増えて大変だというのに、あなたは無茶をしすぎです!!」

 

アオイは汐のベッドに近づくと、ガミガミと叱りつけた。しかし、それが汐を心配していることは当然気づいていた。

 

「そうね、今回はちょっとやりすぎたかも。あんた達にも迷惑を掛けちゃったわね。ごめんなさい」

「誰も迷惑だなんて言っていません!!無茶をするなと言ったんです!!」

 

アオイはそういうと、頭から湯気を出しながら出て行った。

 

「とにかく、今日は一日休んでいってください。先ほど岩柱様の許可もいただきましたので」

「え、悲鳴嶼さんが?」

 

汐が尋ねると、先ほど鎹鴉を通して汐に悲鳴嶼から訓練の延期を告げる知らせが届いたという。

 

そして汐も、炭治郎同様実弥との接近禁止が命じられた。

 

(まあ、当然よね)

 

汐は小さく笑うと、ベッドに横たわった。傷は痛むが、久しぶりにゆっくり眠れそうだ。

 

そう考えて目を閉じた、その時だった。

 

「汐ーーーーーー!!!!」

 

何処からか声が聞こえたかと思うと、大きな足音がこちらへ近づいてくる。

そして、扉が大きく開かれると

 

「汐!大丈夫か!?」

 

鼓膜が破れんばかりの大声で、炭治郎が病室へと入ってきた。

 

「た、炭治郎!?」

 

汐はびっくりして飛び起き、再び頬の傷が痛んだ。

 

「な、なんであんたがここに・・・?」

「何ではこっちの台詞だ!お前、一体何をやってるんだ!!」

 

炭治郎は怒りと焦りを宿した"目"を汐に向けて言った。

 

「悲鳴嶼さんのお屋敷についてもお前がなかなか戻ってこなくて、心配してたら鴉から蝶屋敷に運ばれたって聞いて、悲鳴嶼さんに許可をもらってきたんだ」

「そ、そうだったの」

「不死川さんと殴り合ったって聞いたとき、血の気が引いたんだぞ!なんでそんな無茶をするんだ!!」

 

炭治郎は声を張り上げ、今にも汐に掴みかかりそうな雰囲気だった。

そんな炭治郎を、三人娘が必死で止めた。

 

「炭治郎さん、落ち着いてください!」

「ここは病室です!」

「お気持ちはわかりますけれど、汐さんも怪我をしているので・・・!」

 

彼女たちに口々にそう言われ、炭治郎ははっとして口を押えた。

 

「ご、ごめん」

 

炭治郎は申し訳なさそうに、三人娘たちに謝った。

 

「ううん、炭治郎が怒るのも最もだわ。すぐに追いつくなんて言って、結局この様だもの。今回は本当に無茶をしたわ。ごめん」

 

汐は布団を握りしめながら、炭治郎に頭を下げた。反省の匂いがすることから、汐の心からの言葉だということがわかる。

 

「汐。差し支えなければ教えてくれないか?何故、こんな無茶をしたのか」

 

炭治郎は備え付けの椅子に座りながら、汐の言葉を待った。汐は少し間を置いた後話し出す。

 

二人の雰囲気を察した三人娘たちは、音を立てずにそっと病室を後にした。

 

「そうか。そんなことが・・・」

 

汐から話を聞いた炭治郎は、複雑な表情で顔を上げた。

 

「やっぱり汐は優しいんだな」

「え・・・」

 

炭治郎の言葉に、汐の頬は桃色に染まった。

 

「でも、だからと言って汐が無茶をしていい理由にはならないし、玄弥だってきっと心配するよ。自分の為に誰かが怪我をして喜ぶ人なんていないんだから」

「そうね。あたしも馬鹿なことしたって思ってる。だけど、どうしても我慢ができなかった」

 

汐はぎゅっと布団を握りしめて言った。

 

「不死川さんが汐と境遇が似ているから?」

「それもあるけど、なんていうか。あたしはあいつが嫌いだけど、あたしと同じ思いはしてほしくないっていうか・・・。ごめん、うまく言えないわ」

 

汐はため息を吐くと、痛む傷を手で押さえた。

 

「今日は一日安静だから、ここから動けそうにはないわ。だから、あんたはさっさと訓練に戻りなさいよ」

「その事なんだけど、実は俺も今日一日は休みをもらったんだ」

 

炭治郎がそういうと、汐は目を点にさせて見つめた。

 

「訓練に参加したのはよかったんだけれど、汐の事が気になって集中できなくて、悲鳴嶼さんに少し叱られたんだ。だから、汐が復帰するまで、今日一日はここに居るよ」

 

炭治郎がそういうと、汐の身体は石のように固まり、そして

 

「えええーーーーー!?」

 

顔をこれ以上ない程真っ赤にしながら、汐は叫ぶのだった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



汐は翌日まで、炭治郎と共に過ごした。柱稽古が始まってから、汐と炭治郎は数える程しか会話をしていない。

そのせいか、二人の会話は深夜まで続いた。

 

翌朝。目が覚めてしまった炭治郎は、汐のいる病室へ足を運んだ。

すると汐はもう起きており、炭治郎を見ると朗らかに笑った。

 

その時、炭治郎の鼻をあの果実のような匂いが掠めた。

 

(この匂いは・・・、やっぱり汐は、誰かに恋をして・・・)

 

「炭治郎?」

 

難しい顔をする炭治郎に、汐は怪訝そうな顔で尋ねた。すると炭治郎は、真剣な面持ちで汐の傍に座ると、視線を向けた。

 

「汐。お前に聞きたいことがあるんだ」

「え?何よ、改まって」

 

汐が首を捻っていると、炭治郎は一息ついた後口を開いた。

 

「お前、誰か好きな人がいるのか?」

 

炭治郎がそう尋ねた瞬間、あたりの空気が凍り付いた。

こめかみをひくつかせる汐に気づかないのか、炭治郎はつづけた。

 

「前からお前の匂いが気になっていたんだけれど、その正体がわかったんだ。もし、汐が本当に誰か好きな人がいるなら、応援してやりたいんだ。だから――」

 

しかし、炭治郎の言葉はそれ以上続けられることはなかった。その顔面に、汐の徹甲弾のような拳がめり込んだからだ。

 

骨が砕ける鈍い音と共に、炭治郎は鼻から真っ赤な放物線を放出しながら倒れこんだ。

流れ出た血が部屋中を染め、目の前は真っ赤な色に包まれた――。

 

 

 

――

 

「はっ・・・!?」

 

炭治郎ははっと目を開け、身体を起こした。目の前には汐がすやすやと眠っており、外からは雀の鳴き声が聞こえる。

慌てて鼻を触るが、怪我などはしていなかった。

 

(ゆ、夢だったのか・・・)

 

炭治郎は冷や汗をかきつつ、ほっと胸をなでおろした。そして同時に、自分の疑問は決して汐に尋ねてはいけないということを悟った。

 

「あれ?炭治郎、おはよう」

 

すると、目を覚ました汐が寝ぼけ眼をこすりながら起き上がった。

 

「あ、ああ。おはよう汐」

 

炭治郎は汐から目を逸らしながら、ぎこちなく挨拶をした。

 

「俺、どうやらお前と話し込んでいるうちにここで寝ちゃってたみたいだ。夜遅くまでごめんな」

「いや、それはいいんだけど・・・。どうしたのあんた?顔色悪いし、目もなんだか変よ?」

 

汐が怪訝そうな顔でそういうと、炭治郎は視線を泳がせながら言った。

 

「さ、さっき嫌な夢を見たせいかな。でも、汐が気にする事じゃないから大丈夫だ」

 

炭治郎はそう言ってぎこちなく笑うが、顔からは汗が出ているし大丈夫には見えなかった。

 

(炭治郎がこれだけ怯えてるってことは、相当嫌な夢を見たのね・・・。流石のあたしもどんな夢かなんて聞けないわ・・・)

 

汐は炭治郎の事を心配して、夢の内容を聞くことをやめた。その内容が、自分が炭治郎を血に染めているものであるなどとは露知らず。

 

 

*   *   *   *   *

 

しのぶから絞られた後、許可が出た汐は炭治郎と共に悲鳴嶼邸を目指していた。

 

「そう言えば、炭治郎は少しだけとはいえ訓練に参加していたのよね?どんな内容だったの?」

 

歩きながら唐突に尋ねると、炭治郎の表情が強張った。

何かを思い出したのか、"目"に動揺と困惑がちらついている。

 

「・・・、ひょっとして、とんでもない大きさの滝に打たれたり、大岩を押し動かしたり、それから岩が括り付けられた丸太を背負いながら、下から火であぶるとか、そういう奴?」

 

汐がそういうと、炭治郎は何故知っているんだと言わんばかりの表情でこちらを見た。

 

「前に所用で悲鳴嶼さんの家に行ったことがあって、その時に修行の一部を見せてもらったのよ。あの時は修行じゃなくて苦行だって思ったけれど、まさかそれに参加する日が来るなんて・・・」

 

汐もあの時の光景を思い出したのか、顔が引きつっていた。

 

「あ、でも。火であぶるのは危ないから、それはやらないって言ってたぞ」

「それ以外はやるんでしょ。全く、どいつもこいつもぶっ飛んだ連中ばっかりだわ・・・」

 

二人はそんなことを話しながら、ようやく悲鳴嶼邸についた。

 

だが、二人を待っていたのは仁王立ちしていた悲鳴嶼で、彼は炭治郎に訓練を始めるように言うと汐を一人別室に連れて行った。

 

「まったく、不死川と殴り合うなど、無茶をするのにも程がある」

「ごめんなさい」

 

悲鳴嶼は腕を組みながら、呆れた様子でそう言った。

 

「君は女性として慎みある行動をしてもらいたいと、以前に言ったはずなのだが・・・」

「それは、本当に悪かったと思ってるわ・・・」

「本当か?」

 

悲鳴嶼の静かな声に、汐は少し間を置いた後頷いた。

 

「あたしのせいでたくさんの人に迷惑をかけたのは本当だもの。もうあんな無茶はしないわ。きっと」

 

汐の言葉を聞いた後、悲鳴嶼は探るような視線をしばらく向けていたが、やがて大きなため息をついて言った。

 

「まあ、終わってしまった事を蒸し返しても仕方がない。本来なら然るべき処分が下るのだが、今の我々にはあまり時間がない。すぐに訓練を始めよう」

 

ついて来なさい、と悲鳴嶼は言うと、汐を修行場へ案内した。

 

連れてこられた場所に見覚えがあった。以前に見せられた、滝に打たれる修行の場所だ。

あの時は悲鳴嶼が一人で滝に打たれていたが、今は何人かの隊士達が、声を張り上げて念仏を唱えていた。

 

「君には以前に見せたと思うが、ここでは身体の中心を鍛える訓練を行う。だが、これらの事は全て強制ではない。君が辛く続けることができなくなったと感じたら、いつでもやめてもいい」

 

「ありがとう。でも、その心配は無用よ。あたし、逃げる事って大嫌いなの。まあ、時には逃げることも必要なんだろうけれど、今は逃げちゃいけないときだって分かっているから」

 

汐の迷いない言葉に、悲鳴嶼は驚いたように目を見張った。

 

「さて、修業を始めようか・・・ん?」

 

汐がそう言って服を脱ごうとしたとき、足元に何かが落ちているのが目に入った。よく見ればそれは、気を失った善逸だった。

 

「悲鳴嶼さーん!ここに善逸の死体があるんだけど、どうするの?」

 

汐が言うと、悲鳴嶼を含めたその場にいた全員がぎょっとして汐を見た。

 

「本当に死んでしまっているのか?」

「えーっと、あ、息してる。気絶しているみたい」

「なら、川につけなさい」

 

悲鳴嶼は数珠をかき鳴らしながら、静かにそう言った。

 

汐は足元に横たわる善逸の腕を掴むと、そのまま身体を回転させ近くの川に思い切り投げ込んだ。

 

「なんで投げるんだ――ッ!!」

 

その様子を見ていた他の隊士達が、思わず突っ込みの大声を上げた。

 

「ぎゃああああ!!つべでえええぶわわああ!!!」

 

善逸は世にも奇妙な叫び声を上げながら飛び上がり、凄まじい速さで汐に詰め寄ってきた。

 

「ひ、ひ、酷すぎるよ汐ちゃん!!俺ばっかり何でこんな扱いなの!?」

 

善逸は顔中からありとあらゆる汁を飛ばしながら叫ぶが、川があまりにも冷たかったのか、すぐさま汐から離れて岩に張り付いた。

 

「あったけぇ・・・、あったけぇよ・・・、うわああん!」

 

善逸は岩に縋りながら泣き叫び、それを見た汐はげんなりした表情でため息をついた。

 

「あ、そうだ、悲鳴嶼さん」

 

そんな中、汐はある事を思い出すと、悲鳴嶼の所へと足を進めた。

 

「今まで忘れてたけど、あたし、あんたに次に会ったらお願いしたいことがあったんだ」

「お願いしたいこと?」

「あ、訓練が終わった後でいいの。その・・・」

 

汐がそういうと、悲鳴嶼は怪訝そうな顔で首を傾げた。

 

「あー、ちょっと恥ずかしいから大きな声で言えないの。だからちょっと、耳を貸してくれる?」

「???」

 

悲鳴嶼は訳が分からないと言った表情をしながらも、汐に背丈を合わせるようにしゃがんだ。

汐は少し目を泳がせてから、おずおずと悲鳴嶼の耳にささやいた。

 

「・・・・」

 

汐汐から頼みごとを聞かされた悲鳴嶼は、困惑したように眉根を寄せた。

 

「そんなことでいいのか?」

「・・・うん」

 

汐は微かに頬を染めながら、うつむきがちに言った。

 

「それは構わないが・・・」

「ホントッ!?」

 

悲鳴嶼がそう言うと、汐はぱっと顔を輝かせて言った。

 

「やった!よーし、やってやるわよー!!」

 

汐はやる気に満ちた顔でそう叫ぶと、隊服の上着を脱ぎ、晒を巻いた上半身を露にしながら滝へと向かった。

 

「あ、汐・・・!」

 

そんな汐の姿を見つけた炭治郎が声を掛けるが、隊服を脱いだ汐の姿を見て固まった。

 

「あら炭治郎、おまたせ・・・」

 

名前を呼ばれて振り返った汐も、炭治郎を見て固まった。

 

隊服の上からでは分からなかったが、炭治郎の上半身にはしっかりと筋肉がついていて、胸板は傷跡があったものの、がっしりとしていた。

 

腕周りも汐より二回り以上も太く、とても逞しくなっていた。

 

その男らしい体つきに、汐は顔を真っ赤にして背を向けた。

 

一方、炭治郎も肌を晒した汐を直視できず、同じく顔を真っ赤にして背を向けた。心臓が物凄い速さで鼓動し、息が荒くなる。

 

汐は炭治郎から距離を取り、火照る身体を冷ますように水の中へと入っていった。

 

滝行は、汐は想像していたものよりもずっと苛酷だった。

鱗滝の下で修練を積んでいた時も滝に打たれたことはあったが、ここの滝は狭霧山の物よりもずっと高く、水圧も比ではなかった。

 

下手をすれば、首がぽっきりと折れてしまうような圧だった。

 

その中で隊士達は、必死に念仏を唱えながら耐え続けるのだ。

 

念仏を唱えるのは悲鳴嶼曰く、集中する為と意識がある事を伝えるためだということだ。

 

汐は耳が痛くなるような水音の中を、歯を食いしばりながら滝の中へ進む。

汐の隣には伊之助がいて、被り物のまま念仏を唱えていた。

 

あまりに集中しているせいか、汐が隣にいる事にすら気づいていない様だ。

 

汐は意識を飛ばさないように必死で耐えながら、口を開いた。

 

如是我聞(にょぜがもん)一時仏在(いちじぶつざい)舎衛国(しゃえいこく)!!」

 

汐のよく通る声は、滝の轟音にもかき消されることなく遠くへ響いていく。

 

祇樹給孤独園(ぎじゅぎっこどくおん)与大比丘衆(よだいびくしゅう)千二百五十人倶(せんにんひゃくごじゅうにんく)!!」

 

すると汐の声に意識が引き戻されたのか、周りの隊士達が声を張り上げだした。

隣にいた伊之助も、汐の声を聞いて必死で口を動かした。

 

その声は、離れていた炭治郎にも届いていた。炭治郎も、凄まじい水圧の中を声が枯れる勢いで念仏を唱え続けた。

 

だがその数分後。

隣にいた伊之助から声が全く聞こえなくなり、不審に思った汐は必死で顔を動かした。

 

すると、伊之助は指先と首のあたりが真っ青に染まっていた。

 

「伊之助が死んでるぅううう!!誰かァアアア!!」

 

汐が声を張り上げると、先に滝を出ていた隊士達が伊之助を引きずっていった。

 

それから数分後。

 

「さ・・・さむい・・・、ううん、もう身体の感覚がなくなりかけてるわ・・・。久しぶりに水に入ると、意外ときついものね・・・」

 

汐は全身を陶器のように白くしながら、滝から上がり皆と同じように岩に肌を寄せた。

日光が当たった岩は、まるで湯たんぽのように汐の身体を温める。

 

「よ、よお。お前もここに居たんだな・・・」

 

何処からか声がして顔を向ければ、そこにはどこかで見覚えのある顔があった。

 

「あ、あんたは確か・・・。村・・・」

「村田だよ・・・、いい加減い覚えろよ」

「いやあたし・・・、村田って言おうとした・・・わよ?あたしどんだけ・・・馬鹿に思われてるの?」

 

あまりの事に汐は叫びそうになるが、身体が冷え切り疲労も蓄積していたため、小さい声しか出なかった。

 

「あ、汐・・・」

 

その向こう側には、同じく歯をガチガチならしながら岩にへばりつく、炭治郎の姿があった。

 

「まあ、それはともかく・・・、お前もすげぇな・・・」

「な、何がよ・・・?」

「お前も炭治郎も猪も、すげぇよ。俺なんて、初日滝修行できるようになるの夕方だったぜ。なかなか水に慣れなくて・・・」

 

村田は歯をガチガチ言わせながら、震える声でそう言った。

 

「滝に打たれるだけなのに、本当にきついですね・・・。高い位置から落ちてくる水が、あんなに重いなんて・・・」

「本当よ。下手したら首が折れるもの・・・」

 

炭治郎と汐は、変な笑い声を上げながら岩に頬を寄せた。

 

「取りあえず、一刻滝に打たれ続けられるようになったから、俺はこれから丸太の訓練だ・・・」

「す、すごいですね村田さん・・・」

「と、十日いるからな・・・」

「それは、ご愁傷様・・・」

 

三人は動けるようになるまで岩に張り付き、落ち着いたころに村田は次の訓練へと向かった。

 

その後、汐と炭治郎はまたしばらく滝に打たれた後、昼餉の時間を迎えた。

 

といっても食事は米以外は自分で調達せねばならず、炭治郎と伊之助は川魚を何匹か獲り、焼き魚にしようとした。

 

汐はヤマメを三枚に綺麗に下ろすと、悲鳴嶼から塩と容器を借りて塩水に漬け込んだ。

 

皆が何をしているのかと寄ってくると、汐は歯切れのいい声で言った。

 

「ヤマメの干物を作るのよ。普通に焼いてもおいしいけれど、干した魚を焼いて食べると絶品よ。まあ、作るのに時間がかかるから、食べられるのは明日になるわね」

 

汐はそう言って容器に蓋をしながら言った。

 

「半刻程浸けたら、風通しの良い場所に干しておくの。あ、言っておくけどそこの馬鹿猪!!絶対に触るんじゃないわよ!もしも勝手に食べたりなんかしたら、同じことを全部あんたにやらせるからね!」

 

「わーったよ!うっせぇな!!」

 

伊之助は悪態をつきながら、炭治郎と共に火おこしを行い魚を焼き始めた。

 

川辺に若者たちの笑い声が響き、それを木の陰から見ていた悲鳴嶼は、口元に笑みを浮かべた。

 

*   *   *   *   *

 

同時刻。

 

どこかにある産屋敷邸では、緊迫した空気が流れていた。

 

「御足労頂き、誠にありがとうございます」

 

そう言って深々と頭を下げるのは、産屋敷輝哉の妻、あまね。

その前には元・音柱の宇髄が、静かに据わっていた。

 

「こちらこそ、ご報告が遅れてしまい申し訳ございません」

 

宇髄はそう言って頭を下げると、あまねの前に一冊の文献を差し出した。

 

「こちらが元・海柱、大海原玄海の居住していた場所から見つかったものです。そして、大海原家とワダツミの子の関連性が判明いたしました」

 

宇髄はいったん言葉を切ると、重々しく口を開いた。

 

「大海原家とは、代々ワダツミの子を監視し、あわよくば抹殺するために存在した、初代ワダツミの子の子孫からなる一族でした・・・」

 

宇髄の言葉に、あまねは微かに身体を震わせたのだった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



それから数分後。

 

汐は塩漬けにしたヤマメを、汐は魚の身がくっつかないように楊枝で固定し、風通しの良い場所の木に吊るした。

 

「よし。後は一晩待てば完成よ」

 

汐はそう言って満足そうに笑った。

 

「へぇー、手際良いな、お前」

 

それを見ていた隊士が驚いたように言った。

 

「あたし海辺の村出身だから、時化で漁に出られないときのための保存食として、こうやって干物を作ってたのよ。まあ海魚だけどね」

 

汐はその光景を思い出すかのように目を細めた。

 

「さて、そろそろ炭治郎達の準備が終わると思うから戻りましょ」

「そうだな」

「あ、そうだ。もしも魚が一つでも足りなかったり、少しでもかじった後を見つけたら――」

 

汐はにっこりと笑って、奥にいる伊之助に視線を向けながら言った。

 

「そいつを干物にするからな」

「!?」

 

汐の発した言葉に、空気が一瞬で凍り付いた。感覚が鋭い伊之助は、その殺気に当てられ温まったはずの身体が再び震えだした。

その一瞬で、その場にいるものすべてが汐の前で粗相をしてはいけないと思い知ることになった。

 

*   *   *   *   *

 

パチパチと小枝が爆ぜる音と、立ち上る煙と共に魚の焼ける香りが漂う。

 

そんな中、伊之助は真っ先に焼き立ての魚を取ると被り物を脱いでかじりついた。

 

久しぶりに見た伊之助の素顔は、相も変わらず整っていた。

 

皆が魚の味に舌鼓を打っていたころ。

 

「アイツすげぇよ、玉ジャリジャリ親父」

 

魚を齧りながら伊之助は唐突にそんなことを言った。

 

「玉ジャリジャリ親父?誰よそれ」

「多分悲鳴嶼さんの事だと思う。変なあだ名を付けちゃだめだよ伊之助」

 

炭治郎は困った顔をしながら伊之助を窘めた。

 

「初めて会った時からビビッと来たぜ」

 

伊之助はそう言って魚の骨を音を立てて噛み砕いた。

 

「骨まで食べるのか、伊之助」

「別に構わないけど、喉に刺さると面倒だからちゃんとよく噛みなさいよ」

 

軽く引く炭治郎と、呆れながらも伊之助を心配する汐の声が重なった。

 

しかし伊之助は二人の言葉を聞いていないのか、口を動かしながら話した。

 

「間違いねぇ、アイツ――」

 

――鬼殺隊最強だ

 

伊之助のその言葉に汐と炭治郎は肩を跳ねさせ、他の隊士達は怪訝そうな顔で首を捻った。

 

「あー、やっぱりそうか」

「でしょうね」

 

二人の納得したような仕草に、伊之助は意外そうな顔をした。

 

「何だよ、お前等も気づいてたのかよ」

「まあね。あの人、ちょっと目は変わってるけど、見た目だけでも迫力がすごいし・・・」

「そうそう。悲鳴嶼さんだけ匂いが全然違うんだよなぁ。痣がもう、出てたりするのかな?」

 

炭治郎がそういうと、伊之助は新しい魚を手にしながら「出ててもおかしくねぇ」と答えた。

 

「っていうか、あんたちょっと食べすぎじゃない?それ何匹めよ?」

「五から先は数えてねぇ」

「あー、はいはい。あんたの脳みそに期待したあたしが馬鹿だったわ」

 

汐はさらりと手厳しいことを言うと、水の入った水筒をあおった。

 

そんな三人の会話を、村田を含めた隊士達は微妙な表情で聞いていた。

 

(やっぱちょっと・・・、短期間で階級上がる奴らの話はついていけんわ)

(あと、炭治郎が焼いた魚うまっ)

(大海原の作ってた干物もうまそう・・・。早く食いてぇなぁ)

 

隊士達が様々な思考を巡らせていると、その雰囲気を壊すような暗い声が聞こえた。

 

「俺は信じないぜ。あのオッサンはきっと、自分もあんな岩 一町も動かせねぇよ。若手をいびって楽しんでんだよ」

 

そんな善逸を見て、汐は呆れた表情を浮かべ、炭治郎も少し困った顔をした。

 

「あんたねぇ。他人をひがんでいる暇があったなら、少しは自分もできるように努力しなさいよ」

 

汐は食べ終わった魚の串を、善逸に向けながら言った。

 

「それに、あの人は自分にも他人にも厳しいけど、話がわかる人よ。少なくとも、あんたが思っているような人じゃないわ」

「汐の言う通りだぞ、善逸。それに悲鳴嶼さんは俺たちが押す岩よりもまだ大きな岩を押しているそうだから・・・」

 

だが、二人がそう言っても善逸は曲げた臍を戻さなかった。

 

「汐ちゃんはともかく、炭治郎、お前は何で言われたことを、すぐ信じるの?騙されてんだよ」

「あら、ともかくってどういう意味かしら?ねぇ、どういう意味?」

 

善逸の言葉に汐は顔を引き攣らせ、炭治郎は首を横に振った。

 

「いやいや・・・。善逸も耳が良いんだから、嘘ついてるか付いてないかくらい分かるだろ?」

 

そう言った瞬間、皆の後方から念仏を唱える声が聞こえてきた。

善逸が視線を向ければ、そこには自分よりもはるかに大きな岩を押して歩いている悲鳴嶼の姿があった。

 

「あ、ちょうど通ってるな」

「相変わらずぶっ飛んでるわねぇ、あの人」

 

そんな悲鳴嶼を見て、炭治郎と汐は感心し、善逸を含めた他の隊士達はそのまま石のように固まった。

 

「凄いなぁ、悲鳴嶼さん。俺もあんな風になれるかな!?」

 

炭治郎がそう言った瞬間、善逸の怒鳴り声が響き渡った。

 

「なれて、たまるか!!たまるものかァ!!」

 

善逸は目玉を飛び出させながら叫ぶと、炭治郎の頭を高速で殴打し始めた。

 

「バカかお前、コンニチハ頭、大丈夫デスカ!!」

「イデデデ」

 

炭治郎は頭を抑えながら、痛みに耐えるように目を固く閉じていた。

 

「ちょっ、やめなさいよ善逸!」

 

汐が制止に入るが、善逸は止まらない。

 

「あのオッサンが異常なの!!オッサンそもそも熊みたいにデカいだろうが!!」

「いや、でも・・・」

「黙れ!!巨人と小人じゃ生まれついての隔たりがあんのよ!!分かるだろ!!」

「あんた・・・、いい加減に・・・」

 

汐が顔を歪ませながら言うと、伊之助はそんな騒ぎなど気にしないと言わんばかりに立ち上がった。

勿論、しっかりと被り物をしてだ。

 

「腹も膨れたし、丸太担いで岩押してくるわ」

「うわー、もう前向きな奴ばっか!!俺の居場所ないわ!!」

 

やる気満々の伊之助を見た善逸は、炭治郎を掴みながら叫んだ。

そんな善逸を炭治郎は「まあまあ・・・」と言いながらなだめるが、不意に殺意の匂いを感じて口を閉じた。

 

「善逸くーん」

 

汐は砂糖を吐くような甘ったるい声で、汐は善逸の肩に右手を置いた。

その瞬間、騒がしかった善逸の動きがぴたりと止まる。

 

「あんたの気持ちも分からなくはないけど、皆のやる気を削ぐような事は、ほざかないでくれるかなぁ?」

 

いつもより何倍も高い声と、花のような笑顔でそういう汐に、炭治郎も善逸も全身を真っ青にしながら震えだした。

 

「うわああああ!!ごめんなさい!ごめんなさいぃいいい!!」

 

善逸は泣きながら、汐の前に土下座した。

 

「俺が悪かったです!ごめんなさい!ごめんなさい!女王様ぁあああ!!」

 

泣きじゃくりながら土下座をする善逸を、それを見下ろす汐を見て、炭治郎を含めたみんなは固く心に誓った。

 

この鬼よりも鬼のような少女を、絶対に怒らせてはならない、と。

 

*   *   *   *   *

 

それから汐は、伊之助に続き滝に一刻打たれる修行を終えた。

 

(始めはきつかったけれど、慣れてしまえばなんてことないわね)

 

だが、問題はここからだった。汐の目の前には、人の胴ほどはある太さの丸太が三本あった。

 

悲鳴嶼は汐が女性であることを考慮して、丸太を減らすことを提案していた。だが、汐はそれじゃあ対等な修行にならないといい、男たちと同じものにしてもらったのだ。

 

(呼吸を使えば力は出せるけど、きっとそれだけじゃ持ち上がらないわね。効率よく、そう、一転的に・・・)

 

汐は丸太を眺めながら、頭の中で映像を思い浮かべた。それから、蜜璃や伊黒から教わったことを反芻し、整理していく。

 

「よし、まずはやってみよう!」

 

汐は丸太の前に立つと、手を隙間に差し入れた。そして呼吸を整え、力を集中させる。

 

(思い出せ、今までの事を・・・)

 

汐は今までの事を思い出しながら、力を一気に込めた。

 

「ぬぐあああああああ!!!」

 

汐の口から、獣の雄たけびのような声が響く。すると沈黙していた丸太は、ゆっくりと持ち上がった。

 

「ああああああああ!!!」

 

汐はそのままゆっくりと身体を滑らせ、肩に担いで固定させる。体中から汗が吹き出し、晒を濡らしていった。

 

「女を、あたしを舐めるなああああ!!!」

 

汐は全身を真っ赤にさせながら、さらに力を込める。流石に立ち上がれはしなかったが、それでも汐はしっかりと丸太を持ち上げた。

 

「上がったアアアア!!!」

 

汐の声が森中に響き渡り、その声に驚いた鳥たちが一斉に飛び立っていく。

 

「まじかよ・・・」

 

汐の声は、滝修業をしていた炭治郎達の耳にも入った。

 

「やっぱり汐は凄いな!よーし、俺も頑張るぞ!!」

 

皆が顔を引き攣らせる中、炭治郎だけは汐の頑張りに触発されるように、目に輝きを宿すのだった。

 

 

*   *   *   *   *

 

汐は見事に丸太担ぎの修行を終え、最後の岩を押す訓練に取り掛かっていた。

 

だが丸太とは異なり、いくら呼吸を整えて効率的に力を込めても、岩が動くどころか自分の方が下がってしまう始末だ。

 

汐から遅れて炭治郎、善逸、伊之助も岩押しに加わったが、誰一人として動かすことができなかった。

 

そして修業を始めてから三日後。

 

(駄目だわ・・・、今日も全然動かせなかった・・・)

 

その日の訓練を終えた汐は、どんよりとした気分で休憩所へと向かっていた。

 

(いったい何がいけないのかしら?)

 

いくら考えても何故岩が動かないのか。悲鳴嶼と自分と何が違うのか。

彼に直接聞ければいいのだが、運が悪いのかここのところ姿を見ていなかった。

 

(考えてもしょうがないわね。とりあえず、腹ごしらえをしないと)

 

汐はうるさく鳴り出す腹の虫を抑えながら、重い足を引きずった。

 

(あ、そうだ。ついでに今日の分の干物を回収していこう)

 

汐は作っていた干物を取り込むと、皆が待つ場所へ向かった。

 

「あ、汐。帰ったのか。おかえり」

 

汐が中に入ると、間髪入れずに炭治郎の声が響いた。そして次に鼻をくすぐるのは、ご飯が炊けるいい匂い。

 

だが、汐は違和感を感じて辺りを見回した。

 

「あれ?なんか人数減ってない?」

 

汐がそういうと、炭治郎は表情を曇らせながら口を開いた。

 

「一部の人は訓練をやめて山を下りちゃったんだ。この訓練は強制じゃないから、辛くなったらやめてもいいって悲鳴嶼さんも言ってたし」

「そう。まあいいんじゃない?考え方は人それぞれだし。それよりお腹が減ったわ。干物も持ってきたし、さっさと食べちゃいましょ」

 

汐ははきはきと言い、持ってきた干物を焼き始めた。

部屋中にいい匂いが漂い、皆の腹の虫が奇妙な合唱を奏でていた。

 

そして始まった食事の時間。

 

「俺、今回の訓練で気づいたわ」

 

握り飯を頬張りながら、村田がぽつりとつぶやいた。

 

「今の柱達が、継子いない理由」

「なんですか?」

 

炭治郎がきょとんとして聞き返すと、村田は遠くを見つめるようにしていた。

 

「俺もなんとなくわかったわ」

 

そう言うのは、短い黒髪の吉岡という隊士だ。

 

「しんどすぎて、みんな逃げちゃうんだろ」

「ああ・・・」

 

坊主頭の長倉の言葉に、跳ねた黒髪の島本は力なく相槌を打った。

 

「それとかあの金髪みたいにさ、柱との違いに打ちのめされて心折れたりさ」

 

おかっぱ頭の野口はそう言って、握り飯を齧った。

 

「こういうのを当然のように こなしてきたんだから、柱ってやっぱすげぇわ」

「そうですね・・・」

 

村田の言葉に、炭治郎は握り飯を作りながら答えた。

 

「まあそれが大きな理由だと思うけれど、個性的な面子ばかりだから、その乗りについていけないって言うのもあるんでしょうね」

 

汐は握り飯を食べつつ、奪おうとする伊之助を牽制しながらそう言った。

 

「そう言えば大海原。お前は確か、恋柱の継子だったよな」

「ええ、そうよ」

 

村田の言葉に、汐は伊之助を締めあげながら答えた。

 

「すげぇよな。女の子なのにここまで頑張ってこれたってのはさ」

「別に大したことじゃないわよ。あたしは負けず嫌いだから、屈するのが嫌なだけ。それに・・・」

 

汐は言葉を切ると、ちらりと炭治郎の方を見た。

 

「それに?」

「ううん、何でもないわ。さて、あたし明日の分の干物を干してくるから、今日の分は先に食べてて」

 

汐はそう言って立ち上がり、塩漬けにされた魚をもって外に出た。

 

「本当にすげぇよな。あの子」

「そうですね。俺も尊敬してますよ。どんなに絶望しても、絶対に誇りを棄てない人なんです」

 

炭治郎は最後の握り飯を作り終えると、朗らかに笑いながら言った。

 

「いやいやお前もすげえよ。上弦とやりあって生き残ってるし、その背中の傷もその時なんだろ?」

 

長倉がそういうと、炭治郎は思い出すかのように目を細めた。

 

「これは、汐を庇って負傷した時の物です。汐は自分のせいでって落ち込んでいましたけれど、俺にとってこの傷跡は汐を守れた勲章なんです。後悔なんてしてませんよ」

 

笑顔を向ける炭治郎を見て、皆の心に温かいものが広がった。

 

「話は変わるけどよ。お前、めっちゃ米炊くの上手くない?魚焼くのもうまいしよ」

 

村田が褒めると、炭治郎は自信満々な顔で言い放った。

 

「俺、炭焼き小屋の息子なんで!料理は火加減!」

「成程」

 

その言葉に、皆は納得したようにうなずいた。

 

「あ、でも。包丁の使い方は汐の方が上手ですよ。魚の捌き方も達人並みですし、切った野菜は芸術品ですし、あと、この干物も絶品ですし・・・」

 

炭治郎は嬉しそうに、汐が作った干物を口にした。

 

「何だ、惚気かよー」

「やっぱり彼女持ちは違うな」

「この色男!」

 

そんな炭治郎を、吉岡、長倉、野口がからかった。

しかし炭治郎は、きょとんとした表情で三人を見つめた。

 

「え?彼女って、誰の事ですか?」

「誰って、お前。この流れでわからねえの?大海原と恋仲なんだろ?」

「え?俺たちそんなんじゃありませんけど」

 

炭治郎が答えると、一瞬時が止まったかのように皆の動きが止まった。

そして、数秒後。

 

「はあああーーーっ!?」

 

伊之助を除く全員が叫び声を上げた。

 

「いや、いやいやいや!あれどう見ても付き合ってるだろ!?」

「恋人どころかもはや夫婦だろって感じだったぞ!?」

 

吉岡と島本が問い詰めると、炭治郎は顔中を汗だくにして首を横に振った。

 

「いえいえいえ!それはないですよ!だって汐には、もう心に決めた人がいるみたいですし・・・」

 

炭治郎はそう言って、少し悲しそうに眉根を下げた。

それを見た村田は、何かを決心したように口を開いた。

 

「炭治郎。聞いてもいいか?」

「え、はい」

 

村田の真剣な姿に、炭治郎は身を固くした。

 

「お前、あの子の事はどう思ってるんだ?」

「どうって、凄いと思いますよ。強いし、優しいし・・・」

「いや、そうじゃなくて・・・。じゃあ、聞き方を変えるぞ」

 

村田は言葉を切ると、炭治郎を見据えて言った。

 

「もしもあの子が傷ついたり、いなくなったりしたらどう思う?」

「どうって、嫌に決まっています。いつも傍にいてくれた汐が傷つくなんて、耐えられません」

 

炭治郎ははっきりとそう口にした。

 

「じゃあもう一つ。もしもあの子がお前以外の男とにこやかに話していたら、どう思う?」

「どうって・・・、特には・・・」

 

そう言いかけた炭治郎だったが、以前に感じた奇妙な感覚を思い出した。

 

胸に靄がかかったような、ぐにゃぐにゃとしたおかしな感覚。

 

難しい顔をする炭治郎をみて、周りの者達はこぞってはやし立てた。

 

「それだよ、それ!」

「え?え?」

「それが所謂【好き】って奴だよ!他の奴と話をしていると不安になったり、腹が立ったりするやつ」

「お前鈍いからはっきり言ってやるけどさ。お前は大海原の事を好きなんだよ!!」

 

三人に指摘され、炭治郎は心臓を撃ち抜かれたような衝撃を感じた。

今まで見ていた世界が、急速に変わって行くようだった。

 

「好き・・・?」

 

炭治郎は今しがた言われた言葉を、そっと呟いた。

 

そんな中、魚を干し終わった汐が戻って来た。

 

「お待たせ。って、もうおにぎりほとんど残ってないじゃない!!」

 

汐はがっかりしたように口を尖らせ、炭治郎の隣に腰を下ろした。

 

「で、あんた達ずいぶん楽しそうだったけれど、何を話してたの?」

「何って、それは・・・」

「男同士の話し合いだよ」

 

口ごもる炭治郎に、野口が助け舟を出した。

 

「ふぅん・・・」

 

汐は疑惑の目を向けていたが、特に気にする様子もなく握り飯を抱える伊之助を追いかけまわしていた。

 

そんな喧騒の中、炭治郎は耳まで真っ赤になった顔を隠すように、休憩所を後にするのだった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



それからさらに三日後の夜。

 

汐は今日も岩を押す訓練に明け暮れた。だが、いくら力を込めても、岩はうんともすんとも言わなかった。

汐だけじゃなく、炭治郎や善逸、伊之助も含めて、誰も岩を動かせていない。

 

今までやってきた事を全てつぎ込んでも全く結果が出ないことに、汐は焦りを感じていた。

 

(何で動かないのかしら・・・。全集中の呼吸はちゃんと四六時中続けているし、筋力ももう十分ついたはずだけど・・・)

 

汐は流れ出る汗を拭きながら星空を見上げた。もやもやした気持ちとは裏腹に、空は憎らしい程澄み切っていた。

 

(そう言えば・・・)

 

汐はふと、炭治郎の事を思い出した。

 

(三日前から炭治郎がなんだか変なのよね・・・。あたしと目を合わせようともしないし、話しかけても逃げるし・・・)

 

汐は何故炭治郎が自分を避けだしたのか、理由が全く思い当たらなかった。

 

(もしかしてあたし、炭治郎に嫌われた・・・?)

 

そう思った瞬間、汐の中のもやもやした気分が急に不安へと変わった。

炭治郎に嫌われるようなことをした覚えはないが、無意識のうちに傷つけていた可能性もある。

 

(嫌だ・・・!)

 

汐は体中に広がっていく不安に身体が震えた。今の汐にとって炭治郎に嫌われるということは、何よりも恐ろしいことになっていた。

 

(駄目だ。こんな状態じゃ訓練なんてやってられない。少し気持ちを切り替えよう)

 

よく見れば汐の晒は汗と土で汚れており、微かに異臭を放っていた。

 

(げっ・・・、あたしこんな汚くなるまで訓練してたんだ・・・。とりあえず着替えよう)

 

汐は近くの川に手ぬぐいを浸し、晒を脱いで身体を拭くと、そのまま晒を洗った。

洗濯板がないので完全に汚れは落ちないが、汚れたまま置いておくよりはマシだろう。

 

汐は洗った晒を木に干すと、新しい晒を取り出し胸元に巻き付けた。

 

(あれ?なんだか前より晒がきつい気がする・・・。もしかして、ちょっと大きくなった?)

 

だとしたら少しうれしい。と、汐が顔をほころばせていると、不意に背後から気配を感じた。

 

「!?」

 

汐はすぐさま反応し、川べりの石を掴み気配がする方向に腕を振り上げた。

 

「曲者ォォォオオオオ!!!」

 

汐の声と共に石はすさまじい速さで飛んでいき、茂みの中に吸い込まれていった。

それと同時に、鋭い悲鳴が上がった。

 

「うわっ!!」

 

その声に汐は聞き覚えがあり、驚いた表情になった。

だが、汐が驚く暇もなく茂みの中から怒鳴り声と共に何かが飛び出してきた。

 

「何すんだ!あぶねえだろうが!!」

 

そこにいたのは、頭から湯気を吹き出しながらこちらを睨みつけている玄弥だった。

 

「あら玄弥だったの?ごめんなさい。不審者だと思って」

「だからっていきなり石を投げる奴がいるか!当たったら確実に死んでるぞ!」

 

玄弥は怒りで顔を真っ赤にしながら汐に近づいてきた。が、途中で石のように固まった。

 

「玄弥?」

 

急に動かなくなった玄弥を見て汐が怪訝そうな顔をしていると、突然そのまま全身を真っ赤にして仰向けに倒れた。

 

「えっ!?ちょっと、玄弥!?玄弥ってば!!」

 

汐はいきなり倒れた玄弥に慌てつつも、急いで介抱するのだった。

 

 

*   *   *   *   *

 

「まったく、びっくりさせないでよね」

 

数分後、気が付いた玄弥に向かって汐は呆れたようにそう言った。

玄弥もまだ微かに赤い顔のまま、小さな声で謝った。

 

「っていうか、お前が俺に石を投げつけたせいじゃねーか!」

「あ、そうだったわね。そっちはごめんね。苛々しててつい・・・」

 

汐はそう言って困ったように笑った。

 

「そういえばあんた、ここのところしばらく見かけなかったけど、どうしてたの?」

「あー・・・、謹慎、してたんだよ」

 

玄弥はバツの悪そうな顔をしながらそう答えた。

 

「悲鳴嶼さんに叱られてさ。本当は俺、兄貴と接触するなって言われてたんだ」

「そうだったの」

「それと、お前の事も聞いた。兄貴と、殴り合ったって・・・」

「ええ。あたしもその件で悲鳴嶼さんに説教をくらったのよ」

 

あははと力なく笑う汐に、玄弥は呆れたように溜息をついた。

 

「でもあんたが元気そうでよかったわ。あんたと連絡が取れなくなったって、炭治郎も心配してたし・・・」

 

汐はそう言った途端、思わず口をつぐんだ。

 

「ん?どうした?」

 

玄弥は汐が黙ってしまった事に違和感を感じ、顔を覗き込みながら尋ねた。

 

「あたし、炭治郎に嫌われたかも」

「は?何でだよ」

「わかんない。三日くらい前から炭治郎があたしと目を合わせなくなって、話しかけようとしても逃げちゃうし・・・」

「炭治郎が?」

 

玄弥はとても信じられなかった。人としっかり向き合う炭治郎が、誰かから逃げ出すなんてありえないと思ったからだ。

 

「何かの間違いじゃねえのか?」

「そうかもしれない。でも・・・」

「だったら直接炭治郎に聞けよ。俺もあいつに言いたいことがあるから、一緒に来るか?」

 

玄弥の言葉に、汐は驚いて顔を上げた。

 

「巻き込んだことを謝りたくてさ。元はと言えば、全部俺の所為だから・・・」

「馬鹿ね、あんたの所為の訳ないでしょ?炭治郎は誰かが困っていれば、自分の事よりもそっちを優先する奴だから、あんまりきにするんじゃないの」

 

汐はそう言ってにっこり笑った。

 

「炭治郎の事、ちゃんと見てるんだな」

「えっ!?」

 

玄弥の指摘に、汐は思わず真っ赤になって驚いた。そんな汐を見た玄弥の胸が、小さく音を立てた。

 

「じゃ、じゃあ。そろそろ俺は炭治郎のところに行くけど、どうする?」

「・・・・」

 

汐は少し渋い顔をしたが、このままもやもやとした気持ちを抱えて訓練に挑むわけにはいかない。

 

それに少しは気分転換にもなるだろうと、汐は玄弥の提案を受け入れることにした。

 

 

 

*   *   *   *   *

 

その頃炭治郎も、一向に動く気配のない岩に苦戦していた。

 

(今日も駄目だった・・・)

 

炭治郎は地面に仰向けになりながら、乱れた息を整えていた。

 

(鬼だって、いつまで大人しくしてるか分からないぞ。早くしないと・・・)

 

炭治郎の心には焦りが生まれ、顔からは嫌な汗が流れ落ちた。

 

(そう言えば、汐はどうしているだろう。俺、あの日から汐の事を避けている・・・)

 

炭治郎は汐の顔を思い浮かべ、悲し気に眉根を寄せた。

 

あの日村田を含めた隊士達から、自分が汐を好きだと指摘されてから汐の顔をまともに見られないようになっていた。

 

(汐の事は嫌いじゃない。それは確かだ。でも、俺は・・・)

 

炭治郎も、もやもやした気持ちを抱えながら目を閉じたその時だった。

 

「炭治郎?」

「えっ?」

 

その場にいないはずの声がして、炭治郎はすぐさま体を起こした。そこには、自分を心配そうに見つめる汐と、その隣には玄弥がいた。

 

(な、何で汐がここに・・・?それに玄弥も・・・)

 

炭治郎の心臓の音は何故かうるさいくらいに鳴り響き、口は乾き汗が吹き出す。

 

「大丈夫?なんだか顔色が悪いわよ?」

「え?い、いや、大丈夫だ。それより二人はどうしてここに?」

「玄弥があんたの事が気になるっていうから、ついでに付いてきたのよ」

 

怪訝そうな顔をする炭治郎に、汐は玄弥が謹慎していたことを伝えた。

 

「そうだったのか。道理で連絡が取れないと思ったよ。でも、玄弥が元気そうでよかった」

「悪かったな。巻き込んじまって・・・」

 

玄弥が申し訳なさそうに謝ると、汐は肘で玄弥を小突いた。

 

「馬鹿、言葉が違うでしょ?」

「あ、そうだった。庇ってくれて、ありがとよ」

 

玄弥がバツの悪そうな顔で言うと、炭治郎は顔を赤らめ手を振った。

 

そんな炭治郎を見ていた玄弥だが、ふと何かに気づいて目を見開いた。

 

「なあ炭治郎。お前の額の痣、濃くなってないか?」

「「えっ?」」

 

玄弥の声に、汐と炭治郎は同時に声を上げた。

 

「あー、よく見たら確かに少し色が濃くなってるかも・・・」

 

汐は炭治郎の痣をまじまじと見ようと近づいた。すると、炭治郎は驚いたのか一歩後ろに下がった。

 

「あ、ごめん」

「い、いや。俺もごめん」

 

二人は気まずそうに謝りあい、それを見ていた玄弥は難しい顔をした。

 

「でもあんた、よく気づいたわね。あたしだって今指摘されて初めて気づいたわよ?」

「そりゃ、毎日顔見てりゃ変化が分からんだろ。二人は鏡持ってねぇのか?」

 

玄弥の問いに、二人は同時にうなずいた。

 

「炭治郎はともかく、汐は持っておいた方がいいぞ。今度貸してやるよ」

「ありがとう」

 

炭治郎は礼を言うと、痣のある部分を指で撫でた。

 

「痣ね。みっちゃんから聞いたけど、いつも以上のすごい力が出せるんだって?」

「ああ。いろいろ条件はあるみたいだけどな」

「あたしは多分無理かも。体質的にどうしても出ない人がいるって聞いたし・・・」

 

そういう汐は、心なしか寂しそうに見えた。

 

「あ、そういえば。前にあたしが悲鳴嶼さんに会いに行った時、あんた岩を動かしてたわよね?」

「え?そうなのか?」

 

二人の期待を込めた視線に、玄弥は面食らいながらも答えた。

 

「ああ、動かせるよ。お前ら、"反復動作"はやってんの?」

 

その言葉に、二人はきょとんとしながら首を傾げた。

 

「やってねえのか・・・。悲鳴嶼さんも教えるの上手くねぇからな。よく見て盗まねぇとだめだぞ」

「あ、そうだった」

 

汐はあの時の事を思い出して、苦笑いを浮かべた。

 

「えーっと、反復動作って言うのは、集中を極限まで高めるために、予め決めておいた動作をするんだ。俺の場合は、念仏唱える」

「念仏?あ、そういえば・・・」

「悲鳴嶼さんもやってる!」

「そうそう、南無南無言ってるだろ」

 

そう言って玄弥は朗らかに笑った。

 

玄弥曰く、反復動作というものは全ての感覚を一気に開く技であり、全集中の呼吸とは異なるものだという。

 

「そうか。だから呼吸が使えない玄弥もできるのね」

「ああ。俺と悲鳴嶼さんは、怒りや痛みの記憶を思い出す。それにより、心拍と体温を上昇させているんだ」

 

痛みの記憶と聞いて、二人は微かに顔を歪ませた。

 

色々話しているうちに、もしかしたら炭治郎の痣が出た状態はそれと同じなのではないかと玄弥に指摘された。

だけど、悲鳴嶼さんにも玄弥にも痣はないから、汐達は三人で首を捻った。

 

「まあそれはともかく、なんとなくコツはつかめたわ。やってみましょ、炭治郎」

「ああ!」

 

炭治郎はそう言って汐の方を向き、途端に顔を逸らした。

 

「・・・」

 

汐はそんな炭治郎を見て、悲しそうに顔を歪ませた。

 

「ねえ、炭治郎。あたし、あんたを怒らせるようなことをした?」

「えっ!?なんで?」

「なんでって、あたしの事ずっと避けてるし・・・」

 

汐がそういうと、炭治郎は大きく目を見開いた。

 

「ご、ごめん。汐を悲しませるつもりはないんだ。ただ・・・」

「ただ?」

「まだいろいろと、気持ちの整理がついてないんだ。でも、俺は怒ってないし、汐の事を嫌っていることは絶対にないから」

 

そう言い切る炭治郎の"目"には、嘘偽りなどなかった。

 

「そっか。ごめんね、変なことを聞いて」

「いや、俺も汐に変な誤解をさせてしまって、ごめん」

 

再び謝りあう二人を見て、玄弥は何故か微かな腹立たしさを感じた。

 

「じゃあ早速、と言いたいところだけど、あたしはもう戻るわ。いろいろあって疲れたし、疲れているときに無理をしても意味がないわ」

「そうだな。俺も無理しないで戻るよ。玄弥、ありがとう」

「ありがとね」

 

二人から礼を言われ、玄弥は耳まで顔を真っ赤にするのだった。

 

 

 

*   *   *   *   *

 

その頃別の場所では。

月明かりの下を、目玉に足が生えた奇妙なものが地面を這っていた。

 

その目の部分には大きく"肆"と刻まれていた。

 

"それ"らは目をギョロギョロと動かしながら、少し前を歩く鬼殺隊士の後をつけていた。

 

"それ"らの、見たものは全て、ある場所へと伝えられていた。

 

そこは、どこかにある無限城の一室。

 

琵琶の掻き鳴らされる音と共に混じって、おぞましい心音が響き渡る。

 

「また一人、見つけました」

 

そう言って琵琶をかき鳴らすのは、無限城の管理をしている鳴女という女の鬼。

その前には、無惨が雅な模様の椅子にゆったりと座りながら、地図を広げていた。

 

「これで、六割程の鬼狩り共の居場所を把握。しかしまだ、太陽を克服した娘は見つかりません」

 

鳴女はそう言って顔を上げた。黒く長い髪に包まれていたその顔には、"肆"と刻まれた大きな目玉が一つあった。

彼女が半天狗に代わり、新たな上弦の肆になったのだ。

 

「鳴女、お前は私が思った以上に成長した。素晴らしい」

「光栄で御座います」

 

無惨の言葉に、鳴女は恭しく頭を下げた。

 

「あとはそうだな・・・、このあたり」

「承知いたしました」

 

無惨はそう言って地図を指さすと、鳴女は静かに返事をした。

 

「禰豆子も産屋敷も、もうすぐ見つかる」

 

無惨はそう言って、愉快そうに口角を上げた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

三十一章:真実(前編)


翌日。

 

「おい、歌女」

 

朝餉が終わった後、汐は唐突に伊之助に呼び止められた。

 

「何よ。っていうか、今普通に返事しちゃったけれど、あんたいい加減に名前を覚えなさいよね」

 

汐が少し不機嫌そうに言うと、伊之助はそれに構うことなくこう言った。

 

「お前、なんか歌えよ」

「はあ?何よ藪から棒に・・・。っていうか、それが人にものを頼む態度なの?」

 

顔をしかめて言い返せば、伊之助はそんなこと関係ないと言わんばかりにまくし立てた。

 

「お前の歌を聴いてると、なんか知らねぇけど腹の中のもやもやしたもんが全部出てすっきりすんだよ」

「あたしの歌を下剤みたいに言わないで!!」

 

伊之助の言葉に憤慨した汐は、顔を赤くして怒鳴り返した。

 

「なんだなんだ。お前等何を騒いでいるんだ?」

 

すると、その騒ぎを聞きつけて村田達が、どやどやとやってきた。

 

伊之助は村田達の方に顔を向けると、汐を指さした。

 

「おいお前等。こいつの歌を聴くとすっきりすんぞ!」

 

伊之助の言葉に、村田達は怪訝そうな顔で二人を交互に見た。

 

「えーっと、要するに・・・。大海原は歌が上手いってことでいいんだよな?」

 

身振り手振りでまくし立てる伊之助の言葉を何とか理解した村田は、少し困ったような顔でそう言った。

 

「まあそんなところだ!だから、歌えよ」

「何がだからなのよ。あんたって時々わけわかんなくなるわね」

 

汐は困ったような顔をして、ため息を一つついた。

 

「まあ猪はともかく、そんなに歌が上手いんなら俺たちにも聞かせてくれよ。みんな訓練が上手くいかなくって苛ついてるから、景気づけにさ」

「うーん・・・。ウタカタを使うのは禁止されてるけど、景気づけくらいならいいか・・・」

 

汐は小さくうなずくと、二人から少し距離を取って大きく息を吸った。

 

開かれた口からあふれたのは、以前落ち込んでいた鉄火場を元気づける為に歌った歌。

始めは怪訝そうな顔をしていた村田は、その歌に一瞬にして心を奪われた。

 

暫くは二人だけだった観客が、時間が経つにつれ少しずつ増えていき、いつしか全員がその美しい歌声に耳を傾けていた。

それは、炭治郎と玄弥も同じだった。

 

「すげぇ・・・」

 

玄弥は呆然とした表情のまま、汐の歌に聞き入っていた。

一方炭治郎は、歌を奏でる汐から目を離すことができなかった。

 

歌だけではなく、汐自身の美しさに。

顔が熱くなり、心臓は早鐘のように打ち鳴らされていた。

 

やがて汐が歌い終わると、皆はやる気を取り戻したのか意気揚々とした様子で訓練へと向かった。

 

その様子を、悲鳴嶼は木の陰から伺っていた。

 

(あれが大海原の、ワダツミの子の歌か・・・。いや・・・)

 

悲鳴嶼もワダツミの子の歌の力は目の当たりにしたことがあった。

鬼舞辻無惨が警戒する、人や鬼に影響を与える歌。

 

だが今奏でられた歌は、純粋な汐自身の優しさが込められたものだった。

言葉遣いや態度はお世辞にも良いとは言えないが、誰かの為に戦うことができる心根を持つ少女だということを。

 

その事を、悲鳴嶼は理解していた。理解はしていた。

だが、それでも一度凝り固まった考えを覆すことは難しい。

 

そんな沈痛な想いを抱いたまま、悲鳴嶼はその場を後にした。

 

 

*   *   *   *   *

 

 

汐は岩を前にして一つ、大きく深呼吸をした。玄弥が言っていた"反復動作"の事を思い出す。

 

(あたしの反復動作。それは勿論、あたしの大切なもの。大切な人達を思い浮かべる事)

 

汐は頭の中に、今まで自分が助け、助けられた者たちを思い浮かべた。

 

生きる術を教えてくれた玄海、鬼殺の道を示してくれた義勇、その命を賭して多くの命を守り切った煉獄、強くなる決意を抱かせてくれた蜜璃。

 

(次に忘れてはならないのが、あたしの中で決して消えない、鬼への殺意)

 

人を喰らい傷つける悪しき鬼。大切なものを守るためには棄ててはいけない、決意の一つ。

 

(そして何より、あたしにとって一番大事なことは、愛する人の幸せを守る事!)

 

汐の頭の中に、炭治郎の笑顔が浮かぶ。その想いが強い決意となり、汐の身体中の細胞を活性化させた。

 

「うおおおおおおお!!!!」

岩に手をつく汐の口から獣のような咆哮が発せられ、空気をびりびりと震わせる。

すると、今までびくともしなかった岩が、ほんの微かに動いた。

 

一方その頃、炭治郎も汐と同じく反復動作のために、頭の中を整理していた。

 

炭治郎の反復動作は、まず大切な人を思い浮かべること。そして、煉獄の"心を燃やせ"という言葉を思い出すこと。

そして次に浮かんだのは、汐の笑顔。

 

「ぐあああああ!!」

 

炭治郎は咆哮を上げ、全身に力を込めた。すると額に炎のような痣が広がり、体中が熱くなった。

その感覚を何度も何度も繰り返しているうちに、炭治郎の前の岩はゆっくりと動き出した。

 

「いったアアアア!!」

 

その様子をこっそりと見ていた善逸は、涙を流しながら汚い高音で叫んだ。

 

「炭治郎、いったアアア!!バケモノオオオ」

「くそォ、負けたぜ・・・!!」

 

同じく見ていた伊之助は、悔しそうにそう言った。

 

その時だった。

 

「おおおおおおおお!!!」

 

別の場所から聞こえてきた咆哮に、二人は飛び上がって振り返った。

その声が汐の物だと認識した善逸は、恐る恐る木の陰から様子をうかがう。

 

すると、そこには。

 

「うおおおおおおお!!!」

 

咆哮を上げながら汐が、炭治郎同様に岩を押し動かしているところだった。

 

「えええええ!?汐ちゃんもできちゃったアアア!?」

「あ、あいつまで・・・!くそっ、やりがやるぜ・・・」

 

汐が岩を動かせたのを見て、伊之助はすぐさま自分の場所に戻ると叫びながら拳を振り上げた。

 

「天ぷら、天ぷら、猪突ゥ猛進!!」

 

伊之助は胸を叩きながら叫ぶと、岩に手を押し当てた。

伊之助の反復動作は、大好物の天ぷらを思い浮かべる事。至極単純だが、伊之助にとっては大きな力となった。

 

その想いが通じてか、伊之助の岩も少しずつだがその歩みを進めて行った。

 

(伊之助まで岩動いちゃった、最悪・・・!!後俺だけじゃん、最悪・・・!!)

 

善逸は木にしがみ付きながら顔を青ざめさせて震えていた。

このままでは置いてきぼりをくらう。焦りと恐怖が善逸の全身を駆け巡った、その時だった。

 

足元で、雀がさえずる声が聞こえた。

視線を動かせば、善逸の鎹鴉改め鎹雀のチュン太郎が、手紙を前に鳴いていた。

 

「え、何?手紙・・・?」

 

善逸は怪訝そうな顔をしたが、チュン太郎の焦り様からただならぬ雰囲気を感じ取った。

急いで手紙を広げ、その内容に目を通す。

 

「・・・!!」

 

読み終わった瞬間、善逸の顔が一瞬で真っ青になり、瞳は細かく震えた。

 

一方、汐は反復動作を繰り返しながら、必死で岩を押していた。少しでも気を抜けば、岩は止まり動かなくなる。

 

汐は咆哮を上げながら、必死で岩を押し続けた。

 

だが、その集中力が切れたのか、半分ほどの距離まで来た時急激に力が抜けて行った。

 

(嘘ッ・・・、こんな時に・・・)

 

汐は焦ったが、抜けて行く力はどうにもならない。結局それから岩は動かず、汐は休まざるを得なくなった。

 

(あと少しだったのに・・・!)

 

汐は悔しそうに顔を歪ませると、岩の前に座り込んだ。鬼がいつ動き出すか分からない上に、隠しているとはいえ無惨が禰豆子を

捜す術をもっていないとも限らない。

 

汐の心に焦りが生まれ始めた、その時だった。

 

前方から何かの気配がして、汐は立ち上がろうとした。だが、疲労した足は動かず、再び座り込んでしまう。

 

「おい、大丈夫か!?」

 

その声と共に足音がこちらに近づいてきて、汐は顔を上げた。そこには、見覚えのある髪がやたら綺麗な顔の男が、心配そうに見下ろしていた。

 

「あ、あんた・・・、村田さん・・・?」

「そうだよ村田だよ!やっと覚えてくれたか・・・」

 

村田はほっと胸をなでおろすが、汐の顔を見てぎょっとした。

その顔からは汗が滝のように流れ落ち、目の焦点が定まっていない。

 

村田は急いで、持っていた水筒を汐に渡した。その瞬間、汐はすぐさま水筒の中の水を、凄まじい速さで飲みだした。

 

数秒後、水を飲みほした汐は、ゆっくりと岩に背中を預けて息をついた。

 

「ありがとう、助かったわ」

 

汐がそういうと、村田も安心したように笑った。

 

「驚いたよ。様子を見に来たら、お前が今にも死にそうな顔をしてたから」

 

村田はそう言って、汐が岩を押してきたであろう痕跡を見て目を見開いた。

 

「お前、岩を押せるようになったのか・・・」

「まあね。でも、まだあと半分くらいあるわ。それに、岩を押せるようになったのは、あたしが最初じゃないわよ」

 

汐は同期の玄弥から、反復動作の事を聞いたことを話した。

 

「そのおかげでここまでこられたけど、いつの間にか身体が悲鳴を上げていたのね。あんたが来てくれなかったらどうなっていたか・・・、ありがとね」

「いやいや、岩を押せるだけですげえよ。ましてやお前は女なのに、男顔負けの功績のこしてるじゃねえか」

「それって褒めてる?」

 

汐が少し顔をしかめて言うと、村田は「当たり前だろ」と呆れたように言った。

 

「けど、だからってあんまり無理すんなよな。お前が倒れたりなんかしたら、あいつらが心配するだろ」

「あいつらって・・・」

「炭治郎とか、猪とか、後黄色い奴だろ」

 

村田は指を折りながらそう話す。

すると汐は、少し悲しそうな顔で目を伏せた。

 

「どうした?」

 

村田が尋ねると、汐は伏し目のまま呟くように言った。

 

「最近、炭治郎の様子がおかしいの。本人に聞いてもはぐらかされて、気持ちの整理がつくまで待ってほしいって。でも、今までこんなことなかったし、待っていてって言われても、いつまで待てばいいか分かんないし・・・」

 

汐の絞り出すような声に、村田は驚いた表情を浮かべた。

 

「それって、本当なのか?」

「こんなことで嘘なんかつかないわよ」

 

汐はいつものように少しひねくれたように言うが、その声は真剣そのものだった。

 

村田は炭治郎が汐の事をどう思っているか知っていた。少なくとも、汐が今思っているような事ではありえない。むしろ逆だということを。

 

しかし村田はそれを伝えるつもりはなかった。これは、二人の問題だからと思ったからだ。

 

「あのな、大海原。俺からはあんまり凝ったことは言えないけれど、炭治郎を信じてくれないか?」

「え?」

 

汐が顔を上げると、村田は少し困ったように言った。

 

「お前は嘘を見抜くって聞いたからあえて言うけれど、炭治郎が何を思っているかちょっとは知ってる。けどな、酷なことを言うかもしれないけれど、こういうのはお前等二人で解決する問題だ」

 

村田は真剣な表情で汐を見据えた。

 

「だから、俺からは何も言えない。でも、これだけは言える。炭治郎は、お前を絶対に傷つけたりはしない」

 

そういう村田の"目"には、嘘偽りは一切なかった。それを見た汐は、大きく目を見開くとぽつりと言った。

 

「村田さん、あんた・・・。意外といい男なのね。地味だけど」

「お前はなんでそう、一言多いんだよ!」

「性分だもの、仕方ないじゃないでも、ありがとう」

 

汐はそう言って笑うと、立ち上がった。

 

「あたし、待つわ。炭治郎の事を信じて」

 

本当は待つのは得意じゃないんだけどね、と言って笑うと、村田もつられて笑顔になった。

 

「さて、あたしは少し休んだらまた訓練を再開するわ。あんたもこんなところで油売ってないで、訓練に戻りなさいよ?」

「分かってるよ。ったく、可愛げのない女だな」

「そんなもん、とっくの昔に投げ捨てたわよ。残念だったわね」

 

そう言いあった後、村田は汐にがんばるように言うとその場を立ち去った。

 

(そうね、村田さんの言う通りだわ。あたし、一番大切な人を疑うなんてどうかしてた)

 

汐は両手で頬を打ち鳴らすと、大きく深呼吸をして岩の前に立った。

 

(あたしは炭治郎を信じる。炭治郎が待ってほしいって言ってくれた言葉を信じる!!)

 

汐は再び両手をつくと、反復動作を開始した。

 

身体がかっと熱くなり、力が奥底から湧いてくる。

 

「ふんぐぉおおおおおお!!!」

 

男たちに負けじと大声を張り上げ、汐は再び岩を押した。沈黙を守っていた岩は、汐の気迫に答えたのか再び動き出す。

 

そして、開始から数刻後。

 

汐の岩は、目印を立てていた木の間を半分ほど超えたところで止まった。

 

(や、やった・・・!!)

 

汐は荒い息をつきながら、ずるずると座り込んだ。

 

岩を一町先まで動かせた。これでここでの訓練は全て終了した。

ここまで来るのに何日かかかったか分からない。ひょっとして出来ないのではないかと思ったこともあった。

 

だが、汐はやり遂げた。そう認識した途端、身体が急激に鉛のように重くなった。

 

しまったと思った時には、汐の意識は闇の中に沈んでいくのだった。

 

 

*   *   *   *   *

 

 

深い深い闇の底を、小さな意思が沈んでいく。

 

いくら藻掻いても、身体は一向に浮かび上がらない。

呼吸もできず、周りに見えるのは無数の泡沫だけ。

 

(嫌だ・・・!嫌だ・・・!!)

 

意思は必死に、拒絶の言葉を口にした。

 

(死にたくない・・・!まだ、生きていたい・・・!!誰か、誰か助けて・・・!!)

 

すると目の前に、泡に包まれた何かが落ちてきた。それは酷く不鮮明だったが、人のような姿をしていた。

 

(・・・!!)

 

小さな意思は、必死で人のようなものに向かった。二つが触れ合った瞬間、無数の泡の壁が包み、やがて何も見えなくなった・・・。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



「―陀仏、―陀仏・・・」

 

何処からか聞こえてきた声が、汐の意識を闇の中から導いていく。

それから顔に当たる冷たいものを感じて、汐ははっと目を覚ました。

 

「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」

 

そこには大きな人影があり、念仏を唱えながら自分を見下ろしながら水を注ぎこんでいた。

 

(え、あたし死んだの?ここは地獄?)

 

だがよく見てみれば、その人影に見覚えがあった。

 

「あれ、悲鳴嶼さ・・・」

 

汐はそう言うが悲鳴嶼は聞こえてないのか、水を注ぐ手を止めない。

止まらない水は鼻と口の中に絶えず流れ込み、汐はとうとう鼻の痛みと息苦しさを感じて噴き出した。

 

「ブッフォオオオオ!!!」

 

奇声と共に汐の顔面から汚い噴水が吹きあがった。

 

汐はそのまま鼻と口から液体を飛ばし、涙を飛び散らせながらのたうち回った。

 

激しくせき込み、気管に入った水を必死で吐き出す。

 

「だ、大丈夫か?」

 

その声に汐が意識を向けると、目の前に誰かの手が差し出されている。

極限状態の汐は、迷いなくその手を取った。

 

「あ、あり、ありが、と」

 

汐は荒い息をつきながら顔を上げて、そして固まった。

そこにいたのは、炭治郎だったからだ。

 

それを見た汐は瞬時に石のように固まり、鼻から冷たい雫が零れ落ちた。

 

そして、

 

「○✖△□※~~~!!!」

 

汐は声にならない悲鳴を上げると、瞬時に起き上がり炭治郎を思い切り殴り飛ばした。

 

「うぼぁ!!」

 

炭治郎はくぐもった声をあげながら、成す術もなく吹き飛んでいく。

 

「な、なんで・・・」

 

その言葉を最後に、炭治郎は意識を手放した。

 

「もうお嫁に行けなぁあああい!!」

 

汐は頭を振りながら、顔を両手で覆って泣き崩れた。

結局悲鳴嶼が汐を落ち着かせるまで、この騒ぎは続いたのだった。

 

それから数分後。

目を腫らした汐と、顔を腫らして鼻に詰め物をした炭治郎は、お互い少し距離を取りながら悲鳴嶼の前に座っていた。

 

「落ち着いたか?」

 

悲鳴嶼が優しく声を掛けると、汐は小さくうなずきながら返事をした。

 

「ところでなんで悲鳴嶼さんと炭治郎がここにいるの?」

 

汐が尋ねると、悲鳴嶼は炭治郎が数分前に汐同様訓練を終えたことを告げた。

 

「その時に君の事を大層気にしていたので、連れてきたのだ」

「そうだったの・・・」

 

汐は恥ずかしさのあまり、頬を染めながら俯いた。

 

「それに、私は君達に伝えなければならないことがある」

 

悲鳴嶼の言葉に、二人は思わず顔を上げた。

 

「岩の訓練も達成した。それに加えて里での正しき行動。私は、君達を認める・・・」

 

悲鳴嶼の静かな声が響く。

 

「君は刀鍛冶の里で、鬼の妹の命より里の人間の命を優先した・・・」

「あ・・・、それは・・・」

 

悲鳴嶼は炭治郎の方を向いていうと、炭治郎ははっとした表情になった。

 

「そして君は、どんな状況であっても目の前の命を決して見捨てなかった」

「・・・」

 

汐は口を閉じたまま、何も言わない。

 

「恥じることはない、君達は剣士の鑑だ。自分の正しき行動を誇るといい・・・」

 

しかし炭治郎は首を横に振った。

 

「いいえ、違います」

 

はっきりとした声に、悲鳴嶼は驚いたように目を見開いた。

 

「決断したのは禰豆子であって、俺ではありません」

 

炭治郎は悲鳴嶼の目を見据えながら、きっぱりと言い切った。

 

「俺は決断ができず、危うく里の人が死ぬところでした。認められては困ります」

 

炭治郎の言葉に、悲鳴嶼は言葉を失った。

 

「まったくあんたって、呆れるくらい無欲よね」

 

汐はため息をつきながら、困ったように笑った。

 

「でも、あたしが炭治郎と同じ立場だったら、同じように決断できなかったかもしれないわ。現にあの時、あたしは咄嗟に動けなかった」

 

汐は、その事を思い出しながら目を閉じた。

 

「それにあたしは、炭治郎と違って何もしてないわ。ただ命に優先順位をつけたくなかっただけ。理不尽なことで死んでほしくないのよ」

「汐・・・」

 

そんな二人を見て、悲鳴嶼は涙を流しながら思った。

 

(子供というのは純粋無垢で弱く、すぐ嘘をつき、残酷な事を平気でする我欲の塊だ)

 

悲鳴嶼が今まで生きてきて出会った子供というものは、そういうものだと思わざるを得なかった。

 

(しかしやはり、この子供達は違う・・・)

 

悲鳴嶼にとって目の前の二人は、今まで見てきたそれとは異なっていた。

 

すると、炭治郎は視線を地面に向けながら、呟くように言った。

 

「俺は、いつもどんな時も間違いのない道を進みたいと思っていますが、先のことは分かりません。いつだって、誰かが助けてくれて俺は結果、間違わずに済んでるだけです」

 

そう。あの時も本当に危なかった。あの場にいた誰か一人でも欠けていたら、上弦の鬼を退けることは難しかっただろう。

 

「だから、俺の事を簡単に認めないでください」

 

相も変わらず固い頭に、汐の口から笑いが零れた。

 

「分かった?悲鳴嶼さん。炭治郎ってこういう奴なのよ。でも、今の炭治郎の言葉が当てはまるのは、あたしも同じ」

 

汐は少し悲しそうに目を伏せながら言った。

 

「あたしも、誰かを守りたい、誰も死なせたくないって思っているのに、結局は里の・・・、小鉄の家族を助けられなかった」

 

汐の脳裏に浮かぶのは、"作品"にされてしまった里の者達と、泣き叫ぶ小鉄の声。

 

それを思い出しながら、汐は拳を強く握った。

 

「それに、あたしが今こうしてここに居られるのは、多くの人達に助けられたから。結局、守るつもりでいても守られてしまっているのよ。あんた達柱みたいな大層なことはしてないの。だからあたしの事も、簡単に認めないで」

「汐・・・」

 

そう言い切る汐からは、確かな決意の匂いがした。

 

「さっきは水、ありがとうね、悲鳴嶼さん。それと、訓練もありがとう。あたしのやるべきことを再認識できたわ」

「俺も、お水ありがとうございます!訓練も今日までありがとうございました。勉強になりました!」

 

そう言う二人が、頭を同時に下げる気配がした。

悲鳴嶼は少しばかり面食らったが、あふれる涙を拭くこともなく口を開いた。

 

「疑いは晴れた。誰が何と言おうと、私は君達を認める。竈門炭治郎。大海原汐」

 

その言葉に炭治郎は困惑し、汐は頭まで岩でできているんじゃないかと思った。

 

「ええっ、どうしてですか?」

 

混乱する二人に、悲鳴嶼は数珠をかき鳴らしながら語りだした。

 

悲鳴嶼はかつて、寺で身寄りのない子供たちを引き取り育てていた。

皆血縁は無かったものの、仲睦まじく、お互いに助け合い、本当の家族のように暮らしていた。

 

そのようにずっと、暮らしていくつもりだった。これまでも、これからも。

 

「ところがある夜、言いつけを守らず日が暮れても寺に戻らなかった子供が、鬼と遭遇し、自分が助かる為に、寺にいた私と八人の子供達を鬼に喰わせると言ったのだ」

 

「・・・!!」

 

悲鳴嶼の話に炭治郎は息をのみ、汐は怒りに顔を歪ませた。

 

余程の事だったのだろう。悲鳴嶼の顔には血管が浮き出ていた。

 

悲鳴嶼の住んでいた地域では、鬼の脅威の伝承が根強く残っており、夜には必ず、鬼が嫌う藤の花の香炉を焚いていた。

だが、その子供が香炉の火を消し鬼を寺に招き入れてしまった。

 

鬼は襲い掛かり、瞬く間に四人の幼い子の命を奪った。

 

悲鳴嶼は残った四人を何とか守ろうとしたが、そのうちの三人は彼のいう事を聞かなかった。

その頃の悲鳴嶼は今とは異なり、食べるものも少なくやせ細り、気も弱く大声を出したことがなかった。

 

「さらには、目も見えぬ大人は何の役にも立たないという、あの子たちなりの判断だろう」

「えっ!?」

(悲鳴嶼さん、目が・・・!?)

 

二人はそこで初めて、悲鳴嶼が盲目だということを知り、動揺した。

 

悲鳴嶼の言うことを聞いてくれたのは、一番年下の沙代という少女だけだった。

沙代だけが彼の後ろに隠れ、他の三人の子供たちは、悲鳴嶼を当てにせずに逃げ・・・、暗闇の中で喉を掻き切られて殺された。

 

「私は、何としても沙代だけは守らねばと思い戦った」

 

悲鳴嶼の数珠の一つがひびが入り、乾いた音が響く。

 

悲鳴嶼は鬼に飛び掛かり、拳を振り下ろした。生き物を殴る感触は、今でも鮮明に覚えている。

それは想像を絶するほど、おぞましく気色の悪いものだった。地獄のようだった。一生忘れられない程の。

 

「・・・」

 

汐はその話を聞きながら、初めて鬼を斬ったこと。家族だったものを斬ったことを思い出していた。

その手が微かに震えていることに、誰も気づくことなく。

 

「生まれて初めて全身の力を込め振るった拳は、自分でも恐ろしい威力だった。鬼に襲われなければ、自分が強いと言うことを知らなかった。私は、夜が明けるまで鬼の頭を殴り潰し続けた」

 

悲鳴嶼はその夜に山ほどの物を失い、傷つきながらも命を懸けて沙代を守った。

だが、駆け付けた者たちに沙代が言った言葉は、悲鳴嶼をどん底に突き落とすものだった。

 

『あの人は化け物。みんなあの人が、みんな殺した』

 

「そんな・・・」

 

炭治郎は愕然とした表情で言葉を漏らした。

汐に至っては、歯を食いしばりながら、全身を悔しさのあまりに震わせていた。

 

「恐ろしい目に遭い混乱したのだろう。まだ四の子供だ。無理も無いこと・・・。子供とはそういう生き物だ」

 

だがそれでも、悲鳴嶼は沙代にだけは労わってほしかった。自分の為に戦ってくれてありがとうと言って欲しかった。

 

夜が明け、鬼の屍は塵となり消え、子供たちの亡骸だけが残った。

そして悲鳴嶼は、無実でありながらも殺人の罪で投獄された。

 

処刑を待つ彼を救ったのは、鬼殺隊当主である産屋敷輝哉だった。

 

「それから私は本当に疑り深くなったように思う。君達のことも勿論疑っていた。普段どれ程善良な人間であっても、土壇場で本性が出る」

「それは、否定できないわね。あたしもそういう人間は嫌というほど見てきたもの」

 

汐は目を逸らしながら、吐き捨てるように言った。

 

「しかし君達は逃げず、目を逸らさず、嘘をつかず素直でひたむきだった。簡単な事のようだが、どんな状況でも、そうあれるものは少ない。君達は特別な子供」

「それは・・・」

 

炭治郎が何かを言いかけたが、悲鳴嶼は、再び涙を溢れさせながら、優しげな声で言った。

 

「大勢の人間を心の目で見てきた私が言うのだから、これは絶対だ。未来に不安があるのは誰しも同じ。君達が道を間違えぬよう、これからは私も手助けしよう・・・」

 

悲鳴嶼がかき鳴らす数珠の音が、あたりに響く。

汐は小さく息をつくと、炭治郎に耳打ちをした。

 

「炭治郎、ここは素直に認められましょ?ここであれこれ言ったら、逆に失礼になりそうな気がするわ」

「ううっ・・・、頑張ります。ありがとうございます」

 

炭治郎は涙を溢れさせながら、感謝の言葉を口にした。

 

すると悲鳴嶼はすっと腰を落とすと、その大きな手で二人の頭を優しくなでた。

そこにあったのは、鬼を屠る手ではなく、優しい父親のような温かいものだった。

 

(おやっさん・・・)

 

汐は昔、訓練で成果を上げた時にこうして玄海に撫でてもらったことを思い出した。

そのせいか。汐の目から涙の雫がぽろりと零れ落ちる。

 

炭治郎も目に涙を浮かべながらも、嬉しそうに顔をほころばせた。

 

それを感じた悲鳴嶼は、沙代の温かさと笑い声を思い出していた。

 

「私の訓練は完了した・・・、二人とも、よくやり遂げたな・・・」

 

悲鳴嶼の柔らかな声が、二人の耳に入り心を温めて行く。

と、その時。

 

二人の腹が、大きな音を立てて鳴いた。

 

「「あ・・・」」

 

汐と炭治郎は顔を見合わせると、途端に顔を赤くした。

 

「そ、そう言えば、もうすぐお昼だったわね。夢中だったから忘れてたわ」

「そうだな。戻ろうか」

 

炭治郎はそう言って立ち上がり、汐も一緒に立ち上がった。

 

「俺は昼餉の後義勇さんの所に行くけれど、汐も行くだろう?」

「ええ、勿論。って、ああ、そうだ!!」

 

汐はそう叫ぶと、悲鳴嶼に顔を向けた。

 

「悲鳴嶼さん。あんた最初の約束、覚えてるわよね?」

「約束?」

「ほら!訓練を終えたら"あれ"をしてくれるって言ったじゃない!」

 

汐がそう言うと、悲鳴嶼ははっとしたように目を見開き、そして困惑した表情へと変わった。

 

「ああそうか。"あれ"か」

「そう、"あれ"よ!」

「"あれ"って・・・?」

 

炭治郎は二人の会話の意味が分からず、首を傾げた。

すると、二人は少し頬を染めながら、もじもじと身をよじった。

 

「それは、その・・・。ここじゃ言えないのよ。恥ずかしくて・・・」

「???」

 

炭治郎はますます首を傾げるが、それを遮るように腹の虫が再び鳴いた。

 

「と、とにかく!お昼が終わったら悲鳴嶼さんの所に行って、その後に義勇さんの所に行くわ」

 

汐は顔を赤くしながら、炭治郎を追い越して歩きだした。

炭治郎は訳が分からず頭に疑問符を浮かべ、悲鳴嶼は何とも言えない表情で二つの背中があろう位置を見つめていた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



その日の昼餉は、午前中の訓練を終えた玄弥も加わり、皆で鍋をつついていた。

 

汐は残りの干物を回収するために席を外しており、休憩所に残っているのは僅かしかいなかった。

 

「悲鳴嶼さんも、何だかんだでいい人だからな」

 

お椀を啜りながら、玄弥は穏やかな声色でそう言った。

 

「才能無いから俺の事継子にしないって言ってたけど、俺が鬼喰いしてるの察して弟子にしてくれたし、体の状態を診てもらえって胡蝶さん紹介してくれて」

 

「あー、そうだったのか!」

 

炭治郎は、玄弥が悲鳴嶼と共にいる訳を聞いて頷いた。

 

「胡蝶さんには、めちゃくちゃ嫌な顔されたよ。会う度説教でさ」

 

その事を思い出したのか、玄弥は少し顔を青くした。

 

「お前も割りと頭固そうだから色々言われると思ってた」

 

玄弥はそう言って炭治郎に視線を動かした。

 

「でも結局、ごちゃごちゃ言わなかったな」

「いやぁ、呼吸使えなかったら俺も、同じようになってたかもしれないし」

 

炭治郎は首を横に振りながらそう言った。

 

「でも、体は大丈夫か?しのぶさんも、きっと玄弥の体を心配しての事だから」

「そうかねぇ」

「そうだよ!」

 

炭治郎はそういうと、にっこりと笑った。

 

「これ食べたら俺と汐は義勇さんとこ行くけど、玄弥も来るのか?」

「いやいや行けねぇよ。岩を一町も動かせてないし」

「俺はあと少しだぜ!!」

 

二人の会話を斬り裂く様に、伊之助の声が響いた。

 

「呼吸使えねぇからな、俺」

 

玄弥がそう言うと、伊之助は口を開けながら勝ち誇ったように笑った。

 

「ハハハハ。お前呼吸使えねぇのか、雑魚が!!」

 

そう言った瞬間、玄弥は奇声をあげて伊之助に飛び掛かった。

伊之助も負けじと玄弥の髪を掴み、取っ組み合いのけんかに発展した。

 

「こらこらこら、二人とも止めろ!!」

 

炭治郎は立ち上がり、慌てて二人の仲裁を試みた。

 

「そんなに騒いだりしたら、汐が・・・!!」

 

炭治郎はそこまで言いかけて口を閉じた。二人の背後から、冷たい怒りの匂いが漂ってきたからだ。

 

「あ・・・」

 

炭治郎が声を上げる間もなく、休憩所中に重く鈍い音が二回響き渡った。

 

「・・・で?あんた達は何をうるさく騒いでいたの?」

 

静かになった休憩所で、汐は残りの干物を炭治郎に分けながら言った。

 

汐の足元には、拳大のこぶを後頭部につけた玄弥と伊之助が、床に顔面をめり込ませて倒れていた。

 

「ああ、えっと」

 

炭治郎はしどろもどろになりながらも、先ほどの会話を汐に伝えた。

 

「成程ねぇ。正式な継子じゃなくて弟子って聞いてたから違和感はあったけど、そういう事だったのね」

 

汐は渡された食事に舌鼓を打ちながら言った。

 

「でもなんだかんだ言って、悲鳴嶼さんは玄弥が可愛くてしょうがないのよ。そうでなきゃ、こっそり様子を見に来たりはしないだろうし」

「そうだな」

「それに、玄弥の事を心配してるのは悲鳴嶼さんだけじゃないわよ」

 

汐はそう言って、頭を抑えながら立ち上がる玄弥を見た。

 

「あいつも、ね」

 

汐の言葉に、玄弥は驚いた顔をした。

 

「あいつって、風柱の・・・、不死川さんの?」

「うん。あいつとやりあった時に少しね」

「そうかぁ。やっぱりそうだったんだ」

 

炭治郎は柔らかく笑うと、小さくうめいている伊之助のこぶの手当てをしながら言った。

 

「玄弥と一緒に義勇さんの所に行けるなら道すがら話そうと思ってたんだけど・・・」

 

炭治郎は玄弥を見つめながら、そっと口を開いた。

 

「あの人はさ・・・」

 

 

*   *   *   *   *

 

昼餉が終わり、伊之助と玄弥はそれぞれの場所へ戻っていった。

炭治郎は汐に義勇の下へ行くかと尋ねたが、汐は悲鳴嶼との用事があるからと断った。

 

「そうか・・・」

 

炭治郎は残念そうに眉根を下げたが、汐からは例の甘い匂いはしなかった。

それを感知した時、何故かほっとした気持ちになった。

 

「そう言えば、さっきは気づかなかったけど、善逸はどうしたの?」

 

食べ終わった食器を片付けながら、汐は唐突に言った。

 

「何だか妙に静かだとは思ってたけど、善逸の奴、食べに来なかったわね」

「ああ。ここのところ最近、善逸の様子がおかしいんだよ。あまりしゃべらないし、食事もあまりとらないし、心配だな・・・」

「そうね。あの騒音の塊のあいつが静かだなんて、気持ち悪いわ」

 

汐の言葉には棘があるものの、善逸を心配しているのは明らかだった。

 

「俺様子を見てから義勇さんの所に行くよ」

「分かったわ。じゃあ後でね」

 

炭治郎は一足先に休憩所を出て、汐は片付けを終わらせた後同じくそこを出た。

 

(善逸、どうしたのかしら)

 

普段はうっとおしいと思いつつも、汐は善逸の事は決して嫌いではない。

嘗て自分が記憶をなくした時は、思い出すきっかけを作ってくれた人だった。

 

それに何より、普段騒いでいる人間が静かだと、落ち着かない。気持ち悪かった。

 

(悲鳴嶼さんのところに行く前に、善逸の様子を見に行こう。炭治郎も見に行っているだろうけど、念のためにね)

 

汐は善逸がいるであろう場所に静かに足を進めた。すると、岩の傍に静かに立つ善逸の姿が見えた。

 

だが、その顔の下からは、血の雫が滴っていた。

 

「ちょっと、あんた!何よその傷・・・」

 

汐は慌てて善逸の腕を引き、顔を見てぎょっとした。

善逸の"目"が、いつものそれと全く違っていたからだ。

 

「あんた・・・、その"目"・・・」

 

汐が声を震わせると、善逸は目を閉じて汐に背を向けた。

 

「驚かせて、ごめん」

 

善逸の口から、静かな声が漏れた。そのただならぬ雰囲気に、汐は善逸に何かがあったことを察した。

 

「何か、あったのね」

 

汐が尋ねると、善逸は口を閉じたまま何も言わない。だが、その沈黙が肯定を示す何よりの証拠だった。

 

何があったかを聞こうとして、汐は口を閉じた。先ほどの善逸の"目"が、それを望んでいなかったからだ。

 

「汐ちゃんは訓練を終えたんだよな」

 

善逸は振り返らないまま、そう言った。汐が頷くと、善逸は「そうか、おめでとう。頑張って」と静かに言った。

 

「あ、あの、善逸。あんたに何かあったかは聞かないけど、でもせめて、その頭の止血だけはさせて」

 

汐は震える手を抑えながらそう言った。

 

「ありがとう、汐ちゃん。でも、大丈夫だよ。君は君のやるべきことをやるんだ」

 

善逸は木にかけてあった手ぬぐいで乱暴に血を拭きながら、はっきりした声で言った。

 

「俺はやるべきこと、やらなくちゃいけないことがはっきりした。これは絶対に、俺がやらなきゃ駄目なんだ」

 

そう言う善逸の声からは、決意と微かな怒りを感じた。汐は身体を震わせ、唾を飲み込んだ。

 

「そう。わかったわ。でも、無理だけはしないで。あたしはともかく、炭治郎が心配するから」

 

汐はそう言って善逸に背を向け、一度振り返るとその場を立ち去った。

 

「ありがとう、汐ちゃん。君は強くて優しい女の子だね」

 

善逸は呟くように言うと、岩に手を押し当てた。体中に駆け巡る、決意と怒りを感じながら――。

 

 

*   *   *   *   *

 

善逸の事を気にしつつ、汐は悲鳴嶼の屋敷へと向かっていた。

屋敷が近づくにつれ、汐の胸が段々と高鳴っていく。

 

そして、屋敷についた汐を待っていたのは

 

「来たか」

 

羽織をひるがえし、腕を組みながら仁王立ちしている悲鳴嶼だった。

 

「もういいのか?」

「うん。やるべきことはやった。悔いはないわ」

 

汐ははっきりとした声でそう言い、悲鳴嶼を見上げた。

 

「来なさい」

 

悲鳴嶼はそういうと、屋敷から少し離れた開けた所に汐を案内した。

 

「さて、準備はいいか?」

 

悲鳴嶼はそういうと着ていた羽織をそっと脱ぎ、改めて汐に向かい合った。

 

筋肉隆々の逞しい体つきに、汐は眩暈に似た感覚を感じつつも、悲鳴嶼に向かって足を進めた。

 

一方その頃。

 

岩の訓練を再開していた玄弥は、先ほどの炭治郎と汐の言葉を思い出していた。

 

(兄貴は、本当に俺の事・・・)

 

二人を信じられないわけでは決してない。だが、玄弥の脳裏には、自分に躊躇いもなく危害を加えようとしてきた姿も浮かぶ。

 

(俺は一体、どうすればいいんだ・・・)

 

玄弥は集中ができず、岩から手を放して寄りかかった。

 

その時だった。

 

「きゃあああああ!!!」

 

何処からか甲高い悲鳴が聞こえ、玄弥は飛び上がった。

 

(この声は、汐!?炭治郎と次の訓練に行ったんじゃなかったのか!?)

 

玄弥はすぐさま悲鳴が聞こえた方向へと走り出した。

 

「すご・・い・・・!こんな・・・初めて・・・」

 

風に乗って汐の声が途切れ途切れに聞こえてきて、玄弥は何故か焦りだした。

 

そしてひときわ大きな木の陰から覗いた、その瞬間。

 

「きゃはははははは!!!」

 

汐の軽快な笑い声と共に、風を切る音か聞こえた。

そこで玄弥が見たものは――

 

「すごいすごーい!!悲鳴嶼さん力持ち―!!」

 

汐を左腕にぶら下げたまま、ぐるぐると大きく回る悲鳴嶼がそこにいた。

 

(えーーーーー!?)

 

玄弥は口をあんぐりと開けたまま、その光景を凝視していた。

汐は左腕にしがみ付きながら、けらけらと楽しそうに笑っていた。

 

(な、何だか見ちゃいけねえものを見ちまった気がする・・・)

 

いろいろと理解は追いつかないが、とにかくここに居てはいけない気がして、玄弥はすぐさま踵を返した。

 

(でも、でも。あいつ。汐・・・)

 

玄弥は走りながら、先ほどの汐の顔を思い出していた。

 

(あいつ、あんな顔もするんだな・・・)

 

そう考えた瞬間、玄弥の顔が茹蛸の如く真っ赤になった。その一瞬の気のゆるみが、玄弥の足元にあった石への注意を妨げた。

 

玄弥は石に見事に躓き、顔面から思い切り転んでしまうのだった。

 

 

*   *   *   *   *

 

「あー、楽しかった!!ありがとう、悲鳴嶼さん!!」

 

汐は顔を高揚させながら、満足げにそう言った。

 

「気に入ってもらえたようで何よりだが、まさか君がこのようなことを頼むとは思わなかった」

 

悲鳴嶼は、少し困ったように笑いながら言った。

 

「悲鳴嶼さんを初めて見た時、衝撃が走ったの。この人なら絶対に、あたしでも人間回転木馬できるんじゃないかって」

 

汐は乱れた息を整えながら、嬉しそうに語った。

 

「あたしがいた村じゃ、あたしが木馬役をやってて、されることは滅多になかったのよ。おやっさんは夜にしか出てこれないし、頼むとものすごい悪い顔で馬鹿にするから、頼めなかったの」

 

その事を思い出したのか、汐は頬を膨らませた。

悲鳴嶼には汐の表情は見えないが、ころころと変わる声色であらかた想像はできた。

 

「だからずーっとあたしは木馬役で我慢してた。でもいつか、いつかおやっさんの病気が治ったら、遊んでもらおうって思ってたのよ。もっとも、病気なんて生易しいものじゃなかったけどね」

 

汐の声色が切ないものになり、悲鳴嶼はその悲しみを少しだけ感じた。その悲しみが悲鳴嶼の目から涙となって流れ落ちた。

 

「あ、あのさ。悲鳴嶼さん」

「なんだ?」

 

悲鳴嶼が答えると、汐は言葉を切った後口を開いた。

 

「さっきの話なんだけど。さっきの沙代って子の話。あたしの憶測でしかないから大したことは言えないんだけどさ・・・」

 

汐は迷ったように視線を動かすと、意を決して言い放つ。

 

「その子、あんたの事を売ったりしたんじゃないと思うわよ。化け物って言ったのは、あんたの事じゃないと思う」

 

悲鳴嶼は黙ったまま、汐をじっと見据えていた。

 

「勿論、あたしはまた聞きだから詳しいことはわかんないし、その沙代って子がどんな子か分からないから何とも言えないけど、少なくともあんたの事を恨んでいるとか、陥れるとか、そう言うのはないと思う」

 

そうよ!と、汐は思い出したように立ち上がった。

 

「元凶は藤の花の香炉を消したクソガキじゃない!悲鳴嶼さんはなーんも悪くないし、人間として守るべき人を守るために戦っただけよ。あの人みたいに、煉獄さんみたいに・・・」

 

汐は目を閉じ、煉獄の姿を思い浮かべた。

 

「あー、聞けば聞くほど、そのクソガキに腹立つわー!もしも出会えたら、顔の形が変わるまでぶん殴ってやるのに!」

「それはやめなさい。というよりも、女性がそのようなことを言ってはいけない」

 

苛立ちのあまり暴れそうになる汐を、悲鳴嶼は優しく諫めた。

 

「あ、そうだ!その沙代って子、まだ元気なのよね?」

「ああ。そう聞いているが・・・」

「だったら、ひと段落着いたら会いに行ってみたら?」

 

汐の提案に、悲鳴嶼は驚きのあまり息をのんだ。

 

「もう分別の付く年だろうし、もしかしたらその事を悔いているかもしれない。謝りたいと思ってるかもしれない。悲鳴嶼さんだって、本当は沙代がそんな子じゃないって分かってるんでしょ?」

 

汐の迷いない声は、霧を晴らす光のように悲鳴嶼の心を斬り裂いていく。

 

「だが・・・」

「自信がないっていうなら、あたしも一緒についていくわよ。まあ、余計なお世話かもしれないけれどね・・・」

 

汐の言葉を、悲鳴嶼は黙って聞いていた。まだ齢十六の、自分の半分ほどしか生きていない少女の言葉は、どんな言葉よりも悲鳴嶼の心の霧を晴らしていった。

 

(大海原汐。この子は、いや、この人は・・・)

 

悲鳴嶼は目の前の少女から、途轍もない何かを感じた。まるで、肉体と魂の年齢に大きな差があるように。

 

「君は、一体・・・」

 

悲鳴嶼がそこまで言いかけた時、汐の足元がぐらりと傾いた。

 

「あ、あれ?」

 

汐は素っ頓狂な声を上げながら、ゆっくりと後ろに倒れて行く。

その先には、人の子供ほどの大きさほどの岩があった。

 

「大海原!」

 

悲鳴嶼が汐の名を呼んだと同時に、汐の頭に大きな衝撃が走った。

 

視界が真っ赤に染まり、そして黒く染まっていく。

 

「汐・・・!!」

 

誰かが名前を読んだ気がするが、汐はそれを認識することなく闇の中へ落ちて行った。

 

(炭治郎・・・)

 

愛しい者の名前を呼びながら・・・。

 

 

 

 

 

嗚呼そうだ。思い出した。

 

私は、生きたかった。生きるための身体が欲しかった。

 

生きて生きて生き延びて、奴を駆逐するために・・・。

 

その為の力を、得るために・・・。

 

幾人の人としての生を奪っても・・・。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



注意!ここから先は、ウタカタノ花の核心に加え、難解な設定が出てきます。


時間は遡り、汐達が訓練に精を出していたころ。

 

「大海原家が、初代ワダツミの子の子孫・・・」

 

宇髄から明かされた事に、あまねはそう呟いた。

 

「こちらは元海柱であり、大海原家最後の当主であった大海原玄海が、書き残した文献で御座います」

 

宇髄はそう言って、あまねの前に一冊の書物を差し出した。

 

「彼は柱としての任務をこなす傍ら、自身の生家とワダツミの子について調査をしていました。そして、大海原家とワダツミの子の関係性を秘かに突き止めていたと思われます」

 

宇髄は神妙な表情であまねに向き合うと、ゆっくりと口を開いた。

 

「初代ワダツミの子の子孫であるためか、大海原家の人間は、ワダツミの子の特性である人避けや歌が効かず、それを利用し彼女たちの監視及び抹殺を行っていたようです」

 

宇髄の言葉を、あまねは黙って聞いていた。

 

「ワダツミの子は人と鬼に影響を及ぼす。中には自らの力を制御できず、暴走し多くの人や鬼の命を奪った者も。それを防ぐため、歌が効かない大海原家の人間は、長い間ワダツミの子の監視、そして暴走した時の抹殺を請け負ってきたということです」

 

そう言う宇髄の顔は険しく、身体は微かに震えていた。

 

宇髄の脳裏に浮かぶのは、屈託のない笑顔を見せる汐の顔。そして吉原へ赴いたとき、玄海を思ってか時折寂しそうな顔をしていたことを思い出す。

自分を守り育ててくれた父親が、自分を監視、抹殺するために手元に置いていたと知ったらと思うと、胸が苦しくなった。

 

だが宇髄が最も胸を痛めたのは、この事ではなかった。

 

「そして玄海は、ワダツミの子の正体を突き止め、ここに記しておりました」

「・・・!」

 

宇髄の声に、あまねの目が微かに見開かれた。

 

「ワダツミの子は・・・!」

 

宇髄は痛みに耐えるように歯を食いしばりながらも、必死で言葉を紡いだ。

 

「人間では・・・、ありません」

 

そう言う宇髄の声は震え、握られた拳も震えていた。

 

時が止まったような静寂が、屋敷中を包み込んだ。

 

その静寂を破ったのは、あまねの声だった。

 

「人間ではないというのは、どういう事でしょうか」

 

宇髄は汗を一筋流した後、静かに語りだした。

 

「玄海の遺した文献には、ワダツミの子とは鬼とは異なる進化を辿った、鬼でも人でもない存在であると記されています」

 

宇髄は文献を開き、その頁をあまねに見せながら言った。

 

「その生態は鬼とは異なり、人は喰わず日の光でも死なない、治癒力は人より高いが再生はせず、人とほぼ変わりはないとの事。ですが、その声は人と鬼の脳に直接干渉し、場合によっては命を絶たせるなどの恐るべき行動を起こさせる引き金となります」

 

ですが、と宇髄は更につづけた。

 

「彼女達が何故、どのようにして生まれたのか。それは玄海でも突き止めることは出来なかったようです」

 

宇髄はそう言って、視線を畳に移した。

 

「この事実を彼女は、大海原汐様はご存じなのですか?」

 

宇髄は身体を震わせながら、首を横に振った。

 

妻たちの手前、真実を受け入れるかどうかは汐自身が決める事とは言ったものの、このような悍ましく残酷な真実を告げることに、宇髄自身もためらっていた。

 

矛盾しているとは知りつつも、決断できないでいた。

 

汐が今の今までどのような想いで、どのような覚悟で戦ってきたか、宇髄は少なからず知っていた。

人として、愛する者を守ろうと歯を食いしばり、血反吐を吐きながらも前に進む汐の魂の輝きを、全て否定しかねない事実だったからだ。

 

再び居心地の悪い沈黙が続くと思われたその時。

一羽の鴉が音もなく、あまねの隣に降り立った。

 

鴉はあまねの耳もとで何かを告げると、あまねは驚いたように目を見開いた。

 

(なんだ・・・?)

 

鴉の声はあまりにも小さすぎて、流石の宇髄でも聞き取ることは出来なかった。

だが、あまねの反応を見るに、何かが起こったことは明らかだった。

 

「・・・わかりました」

 

あまねはそれだけを言うと、再び宇髄に向き合い口を開いた。

 

「宇髄天元様。誠に申し訳ございませんが、早急の報せが入りましたので・・・」

「はい。貴重なお時間を頂きまして、誠にありがとうございました」

「いえ、そうではなく。もう少々お待ちいただけますでしょうか」

 

あまねの言葉に、宇髄は面食らったように右目を見開いた。

 

使いの鴉が飛び立ち、それから数分の時がったころ。

 

「失礼いたします」

 

聞き覚えのある声がして、宇髄が顔を向けると、そこには見覚えのある人物が立っていた。

 

「お前は・・・」

 

 

*   *   *   *   *

 

その頃。

 

「う・・・」

 

汐がゆっくりと目を開けると、目の前には自分を心配そうにのぞき込んでいる悲鳴嶼の顔があった。

 

「気が付いたのか・・・!」

 

悲鳴嶼は安堵のあまり、両目から涙を溢れさせながら言った。

 

「ここは・・・」

「覚えていないか?君はあの後、足を滑らせて岩に頭を打ち付けてしまい、今の今まで気を失っていたのだ」

 

悲鳴嶼がそう説明すると、汐は思案するように視線を地面に向けた。

 

「気分はどうだ?どこか痛むか?」

 

悲鳴嶼が尋ねると、汐は首を横に振りながら「大丈夫」と静かに答えた。

 

「心配をかけてごめんなさい。それと、ありがとう」

 

汐はそういうと、すっと立ち上がり悲鳴嶼の横を通り過ぎた。

そんな汐に、悲鳴嶼は何か違和感を感じた。

 

困惑している悲鳴嶼に、汐は振り返らないまま口を開いた。

 

「あなたは自分の行動を恥じることも、悔やむ必要もない。あなたは人間として、するべきことをしただけだ」

 

汐はそれだけを告げると、そのまま振り返ることなくその場を後にした。

 

(なんだ・・・?)

 

悲鳴嶼は拭えない違和感を抱えながら、汐が去ったであろう方角を見つめていた。

 

(今のは本当に、大海原汐なのか・・・?まるで精神が別人にすり替わったような・・・)

 

しかしその違和感の正体がつかめず、彼はその場から暫く動けないでいたのだった。

 

そして汐は、まとめた荷物を抱えながら空を見上げた。

 

「タユウ」

 

汐が静かに呼ぶと、どこからかソラノタユウがそっと足元に舞い降りてきた。

 

「悪いけれど頼める?すぐにみっちゃん、師範に伝えて欲しいことがあるの。それと、出来ればあの人に。お館様にも」

「!?」

 

タユウは驚いたように羽を広げながら、汐を見上げた。

 

「思い出したんだ。"私"の全ての事。そしてこれは、今すぐに伝えなければならない事なんだ。早く、急いで」

 

汐の鋭い声に、タユウは慌てたように蜜璃の元へと飛び立った。

それから炭治郎が向かったであろう、義勇の屋敷の方へ顔を向けると、汐は静かに目を閉じた。

 

(ごめん、炭治郎。また約束、破っちゃった)

 

汐は目を開くと、その道とは反対方向に足を進めた。

 

(あたしは、私は・・・。もう君の傍にはいられない)

 

張り裂けそうな痛みに耐えるように、その場から逃げるように、汐は全力で走った。

 

 

 

 

 

*   *   *   *   *

 

 

 

時間は戻り。

突如産屋敷邸に現れた者たちに、宇髄はこれ以上ない程驚きに目を見開いた。

 

そこには、恋柱である甘露寺蜜璃と、その継子である大海原汐がいたからだ。

 

「お前等、何でここに・・・?」

 

ここが産屋敷邸であるということも忘れ、宇髄は思わずそう言った。

 

だが蜜璃は険しい表情のまま何も言わず、汐と共にあまねに深々と頭を下げた。

 

「ご無理なお願いにもかかわらず、ご対応いただき恐れ入ります」

 

そう口にしたのは蜜璃、ではなく汐。その態度にあまねは勿論、蜜璃、宇髄も目を剥き凝視した。

 

「本来このような場所に"私"のような者はふさわしくないでしょうが、火急の報せゆえお許しいただきたく存じます」

 

いつもの汐からは考えられないような言葉が飛び出し、蜜璃は顔を青くし、宇髄も言葉を失った。

 

(汐・・・?いや違う。姿形は汐だが、目つきや雰囲気がまるで別人だ)

 

宇髄は一度、汐の雰囲気が変化したことがあったことを思い出した。いつもの汐らしからぬ、毅然とした厳かな雰囲気。

 

(まさか・・・、まさかこいつは・・・!)

 

「お前、まさか・・・ワダツミの子か?」

 

宇髄の口から、震える声が飛び出した。その言葉に、汐以外の全員の視線が彼へ向く。

 

「それはいったい、どういう・・・」

「その先は"私"が話そう」

 

そう言ったのは、いつもと雰囲気が全く違う汐の姿をした、ワダツミの子。

 

「全て思い出したんだ。"私"が、ワダツミの子と呼ばれるものが何か。そしてどうして、どのように生まれたのか」

 

そう前置きをすると、ワダツミの子は徐に語りだした。

 

自らの正体と、如何にして彼女たちは生まれたのか。

 

そのすべてを――。

 

*   *   *   *   *

 

「マジ・・・かよ」

 

ワダツミの子が語った真実は、皆が想像するよりも遥かに信じがたいことだった。

 

「そんな・・・」

 

宇髄と蜜璃の顔は真っ青になり、あまねの表情は変わらないようにも見えるが、目は微かに揺れていた。

 

「とても信じがたいのは百も承知だ。だが"私"は嘘偽りは言っていない。いや、正確には"私達"と言った方がいいか」

 

ワダツミの子は少し自嘲気味に笑うと、あまねをじっと見据えた。

 

「その話が真実だとして、鬼舞辻無惨はこの事を把握していると思いますか?」

 

あまねの言葉に、ワダツミの子は小さく首を横に振った。

 

「いいえ。近しい存在とは言え、ワダツミの子は鬼ではない。仮に真実に気づいたとしても、今は太陽を克服した鬼、竈門禰豆子を狙うことに執着しているでしょう。それに今の"私"は、奴にとっては天敵同然。わざわざ危険を冒してまで、凶手を差し向けるとは思えません」

 

ワダツミの子はそう言って、薄ら笑いを浮かべた。

 

「では、あなた方は私達の脅威ではない、ということでよろしいでしょうか」

「はい。少なくとも今は、"私"は人間の敵ではありません」

「・・・そうですか」

 

はっきりと言い切るワダツミの子に、あまねは静かに答えた。

 

「貴重なお話をお伺いすることができ、誠にありがとうございました」

 

あまねはワダツミの子に向かって深々と頭を下げ、皆も同じように頭を下げた。

 

「それから宇髄天元様、甘露寺蜜璃様。本日はお忙しい仲御足労頂き、感謝申し上げます」

 

あまねの挨拶を最後に、その場はお開きになった。

 

汐は困惑する隠に礼を言うと、すぐさま一人屋敷にに戻った。

既に日は傾き始め、夜の気配が近づいている。

 

「・・・・」

 

汐は一人、広間で佇んでいたが――

 

「うわああああああああああああああ!!!!!」

 

――突如、大声を上げながら周りのものを薙ぎ払った。

 

物が落ちる大きな音が広間中に響き渡り、何もなかった床がみるみるうちに物であふれて行く。

 

それは数秒、数分。時間の感覚すら、今の汐には分からなかった。

 

「ハァ・・・、ハァ・・・、ハァ・・・」

 

しばらく経った後、汐は息を切らしながら者が散乱した広間を見下ろしていた。

肩は大きく上下し、体中からは汗が吹き出していた。

 

「あはっ、あははは・・・・」

 

汐は左手て顔を覆いながら、乾いた笑い声を漏らした。

 

自分はワダツミの子としての真実を思い出した。今まで謎に包まれていたことが全て明らかになった。

 

自分が何者なのか、心の奥底では真実を知りたいとひそかに願っていた。

しかしそれは、自分が想像していたよりも、ずっとずっと恐ろしいものだった。

 

大海原汐として生きてきた人間の存在を、全て否定しかねないものだった。

 

汐は笑いながら、ずるずるとその場に座り込んだ。すると、膝のすぐ近くにひと際目を見くものが落ちていた。

 

それは以前、汐の故郷で見つけた、日輪刀の懐剣。

 

汐はしばらくそれを見つめていたが、手に取るとゆっくりと鞘から抜き放った。

 

そして、鈍く光る切っ先を、自らの喉に突き立てるようにして翳した。

 

窓の外で、鴉がはばたいたことに気づくこともなく・・・

 

「ごめんね・・・」

 

汐の力ない声が、誰もいない屋敷に木霊した・・・。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

三十二章:真実(後編)


時間は遡り。

 

汐と別れて一人義勇の屋敷に向かっていた炭治郎は、汐は勿論、様子がおかしかった善逸と、預けたままの禰豆子を心配していた。

だが、そんなことを考えていては訓練に支障が出ると思い、顔を叩いてその想いを無理やり払しょくした。

 

そして屋敷についた炭治郎は、義勇との稽古を始めた。

 

のだが

 

(汐が来ない・・・)

 

どれだけ待っても、義勇の屋敷に汐が現れることはなかった。

あと少し、あと少ししたら来るだろうと思いながら、もう数時間。

 

来る気配のない待ち人に、炭治郎は不安に思いつつも稽古に集中しようとした。

 

だが、

 

「訓練は中止だ」

 

突然、義勇がそう言って木刀を納めた。

 

「えっ、ど、どうしてですか?」

 

炭治郎が尋ね返すと、義勇は呆れた顔でため息をつきながら言った。

 

「さっきから全く集中できていない」

 

義勇の指摘に、炭治郎は観念したように木刀を下ろした。

 

「何があった?」

 

義勇が尋ねると、炭治郎は俯きながら汐とここに来る約束をしていたことを話した。

 

「悲鳴嶼さんに用事があるから先に行くようにって言われたんですけれど、いくら待っても来なくて・・・」

「今までも同じようなことはあったのか?」

「・・・・ありました」

 

炭治郎の言葉に、義勇は「あったのか」と小さく呟いた。

 

「で、でも!その時は嘘の匂いは全くしませんでしたし、もしかしてここに向かっている途中に何かあったのかもしれない・・・!」

 

炭治郎の胸の中に、嫌な予感が染みのように広がっていく。

 

「あのっ、俺、悲鳴嶼さんの所に行ってみます!もしかしたら何か知っているかも――」

 

炭治郎がそこまで言いかけた瞬間。とつぜん炭治郎の元に黒い何かが突っ込んできた。

 

炭治郎は慌てて避け、義勇は何事かと木刀を構えた。

黒い塊は炭治郎の傍をすり抜け、壁へと激突した。

 

「あれ、君は・・・」

 

激突したものを見て、炭治郎は目を見開いた。そこにいたのは、汐の鎹鴉のソラノタユウ。

 

「汐の・・・!」

 

炭治郎は慌てて、目を回している鴉に駆け寄った。

 

「大丈夫か!?汐はどうしたんだ!?」

 

炭治郎が声を掛けた瞬間、鴉から焦りの匂いを感じた。

だが、炭治郎が反応するよりも早くソラノタユウがけたたましく鳴いた。

 

「カァ!カァ!助ケテ!助ケテ!!」

 

いつもの間延びした鳴き方ではない、切羽詰まった鳴き声に炭治郎の顔は青くなった。

 

「どうしたんだ!?まさか、汐に何かあったのか!?」

 

炭治郎が尋ねても、ソラノタユウは慌てたように羽ばたくだけで答えない。だがそれが、汐に何か良くないことが起きていることが伺えた。

 

「汐はどこにいるんだ!?」

 

その問いかけに鴉は「屋敷デス!汐ガ危ナイ!」と答えた。

炭治郎はすぐさま立ち上がると、義勇に謝罪しすぐさま屋敷を飛び出した。

 

「カァ!カァ!!コッチ、コッチデス!!」

 

ソラノタユウは叫びながら空から誘導し、炭治郎は見失わないように気をつけながらも全力で走った。

 

胸の中に吹き上がる嫌な予感を振り払うように抑えながら。

 

どのぐらい走ったか分からなくなるころ、炭治郎の眼前に汐の屋敷が見えてきた。

だが、その前にたどり着いた瞬間。炭治郎の鼻を酷い匂いが突き刺した。

 

(うっ、なんだ・・・!?)

 

炭治郎は思わず足を止め、口を手で覆った。

汐の屋敷から、絶望と喪失の匂いが漂ってくる。

 

いつもの汐なら、絶対にありえない匂いだった。

 

炭治郎はすぐさま、扉を突き破る様にして突入した。

 

「汐!何処だ!汐!!」

 

炭治郎は汐の名を何度も呼び、必死になって捜した。

そして、広間に続く襖を開けた時。

 

目に飛び込んできた光景に、炭治郎は言葉を失った。

 

 

 

*   *   *   *   *

 

 

汐は懐剣を喉元に翳し突き立てようとしたが、切っ先は一向に動かない。

数秒の時間が空いた後、汐はそっと懐剣を下ろした。

 

「馬鹿だなぁ、あたし」

 

汐は懐剣を握りしめたまま、呟くように言った。

 

「こんなことしても次のワダツミの子が現れるだけだし、それに死ねるかもわからない。何の意味も無いのに・・・」

 

汐は乾いた笑い声を上げながら、暗くなっていく窓を見上げた。

今は何時だろう。ここに戻ってからどれくらい経っただろう。

 

そんなことを考えていた時。遠くから自分の名前を呼ぶ声が聞こえてきた。

 

「汐!!」

 

まるで水の底から響いてくるような声に、汐は僅かに首を傾げた。視界の端に、赤と緑色のものが見えたような気がした。

だがそれは、瞬時に汐の元に駆け寄ると、汐の手から懐剣を奪い遠くに放り投げた。

 

(あー、ずいぶん遠くまで飛ぶんだなぁ)

 

汐がぼんやりとそんなことを考えていると、突然肩に強い衝撃が走った。

 

そして次の瞬間に、部屋中に怒鳴り声が響いた。

 

「何をやっているんだ!!汐!!」

 

よく目を凝らしてみれば、ぼやけた視界の中に見覚えのある顔が段々とはっきり映ってくる。

それが焦燥と怒りを"目"に宿した炭治郎だと理解するのに、少しだけ時間がかかった。

 

「お前っ、一体何を・・・!?」

 

炭治郎は汐の手を掴んだまま怒鳴りつけた。

広い部屋に、その声がこだまする。

 

「ねえ、炭治郎・・・」

 

だが、汐はそれには答えずに、俯いたまま、絞り出すように言った。

 

「鬼でも人でもない存在って、なんだとおもう?」

「えっ?」

 

汐から投げかけられた問いに、炭治郎は意味が分からず聞き返した。

その途端。

 

「あはっ、あははは・・・・」

 

汐は力なく笑いながら、ゆっくりと顔を上げた。

その瞬間、炭治郎の体中に鳥肌が立った。

 

汐の目が、一切の光を失っていた。

 

笑っているときは勿論の事。怒っている時や泣いている時でさえ、汐の目には光があった。

水面に反射する光のように、美しく輝いていた。

 

だが、今の汐にはそれが全くなく、濁ったガラス玉のような双眸だった。

 

「何があったんだ!!汐!!」

 

尋常じゃない様子の汐に、炭治郎は汐の肩を掴んで激しく揺さぶった。

 

だが、汐の身体は起き上がりこぼしのように、力に従ってグラグラと動くだけだった。

 

「あたし、あたしね。人間じゃ、なかった」

「・・・え?」

「あたしは、あたし達は、存在しちゃいけなかった。生まれてきちゃいけなかった・・・!!」

 

うわああああああ!!!!

 

汐は叫びながら炭治郎を突き飛ばし、よろよろ後ずさった。

 

「いやだああああああああ!!!」

 

汐は両手で頭を抱えたまま、声を荒げて激しく狼狽した。

腕を振り、頭を大きく振り乱し、手当たり次第の物を払い落していく。

 

汐の叫び声と物が落ちる音が、部屋中に響き渡った。

 

そしてまとわりつく様な、絶望の匂いが炭治郎を包み込んだ。

 

「やめろ!やめてくれ!!もういいから!!」

 

炭治郎はその音をかき消すように叫んだ。

何があったのかは分からない。だが、決して弱音を吐かず、誰にも屈しない矜持を持つ汐がここまで心を乱してしまう何かがあったことは確かだ。

 

「汐!!」

 

炭治郎が叫ぶと同時に、汐の身体が一瞬だけ強張った。その隙を突く様に、炭治郎は汐の身体を掻き抱いた。

びくりと大きく身体を震わせる汐に構わず、炭治郎は強く強く抱きしめた。

 

「ごめん、ごめん!!汐・・・!」

 

炭治郎は歯を食いしばりながら、悔しさに顔を歪ませた。目から涙があふれ、頬を伝って流れ落ちて行く。

 

「お前が苦しんでいるのに、俺は何も気づかなかった。宇髄さんに目を離すなって言われていたのに、一人にさせてしまった。ごめん、ごめんな・・・!!」

 

汐を抱きしめながら必死に謝る炭治郎の声は、壊れかかった汐の心に微かに届いた。

 

(違う、違うの、炭治郎)

 

汐は、炭治郎の熱を微かに感じながら心の中でつぶやいた。

 

(あなたが悪いんじゃない。あなたがそんな顔をする必要はないの。でも、そんな顔をさせたのは、あたしのせいね)

 

結局迷惑をかけっぱなしだなあと、ぼんやり思っていると、突然すっと体の芯が冷たくなった。

 

そして浮かんだのは、「真実を話さなければならない」という一つの決意。

 

「相変わらず、君は優しいね」

 

不意に聞こえた声に、炭治郎は顔を上げた。

声は確かに汐の物だ。だが、炭治郎は大きな違和感を感じた。

 

汐の匂いが、いつものと違う。果実のような香りでも、優しい潮の香りでもない。

それどころか、人間とも鬼とも異なる匂いが汐からしていた。

 

「っ!?」

 

炭治郎は汐を離すと、その顔を見た。目は相変わらず濁り切っているが、雰囲気が汐ではない。

 

目の前にいるのは、汐ではなかった。

 

「お前は、誰だ?」

 

警戒心をあらわにしながら尋ねると、汐の姿をした者は微かに笑みを浮かべながら言った。

 

「汐であって汐でない。"私"は君達がワダツミの子と呼んでいるものの一人、とでも言っておこう」

 

ワダツミの子はそういうと、光の無い目で炭治郎を見据えた。

 

「これから私が話すことは、とても信じがたいものだろう。でも、君が汐の事を案じているのなら、君は知らなければならない」

「知るって、何をだ?」

「全ての真実。ワダツミの子とは何か。何故このような者たちが存在しているのか」

 

ワダツミの子は大きく深呼吸をすると、徐に語りだした。

 

 

 

*   *   *   *   *

 

 

むかしむかし、あるところに。

 

一人の貴族の娘がおりました。

 

娘は生まれつき体が弱く、二十歳まで生きられないと言われており、医者は皆匙を投げてしまいました。

しかしそれでも娘は笑顔を絶やさず、前を見続けておりました。

 

そんな中、ある善良な医者が開発したばかりの新薬を、二人の人間に使いました。

一つは娘に。もう一つはとある貴族の男に。

 

しかし治療の甲斐なく、娘はこの世を去ってしまいました。

娘が荼毘に付されようとしていた時、突如雷が落ち、屋敷は瞬く間に消失してしまったのです。

 

関係者たちは焼け跡から娘の遺体を探しましたが、遂に見つかることはありませんでした。

 

それから数十年が経った頃。

 

とある漁村で、少女が一人波打ち際で行き倒れていました。

しかし村人たちは、その少女を気味悪がって誰も助けようとはしませんでした。

 

何故なら少女の髪は、海の底のように真っ青だったからです。

 

皆物の怪のたぐいだと言って、少女には近づきませんでした。しかし、村はずれに住んでいた少年は、少女の青い髪を「ワダツミヒメ様のようだ」と言い、一目で好きになってしまいました。

 

ワダツミヒメと言うのは、この海を守る女神と言われておりました。

 

少年は少女を連れ帰り、二人は一緒に暮らし始めました。

少女の声はとても美しく、彼女を煙たがっていた者たちも、その歌声にたちまち魅了されてしまいました。

 

そして、ワダツミヒメの伝説にあやかり、少女の事を【ワダツミの子】と呼ぶようになりました。

 

時は流れ二人は夫婦となり、二人の間には子供が生まれました。

ところが、子を産んだ途端に妻の身体は、虹色の泡になって消えてしまいました。

 

夫は酷く嘆き悲しみましたが、残された我が子と共に生きることを決意し、やがて大きな家へと発展していきました。

 

それからさらに月日が経ち。

 

岩だらけの島に、真っ黒な髪をした今にも死にそうな少女が一人打ち上げられておりました。

 

少女はサメに襲われ、大怪我を負ってしまったのです。

 

段々と動かなくなっていく身体に恐怖を覚え、それでも生きたいと願った彼女の目の前に、一輪の花が咲いていました。

 

茎もなければ葉もなく、泡のような花びらをつけた真っ青な、それはそれは不思議な花でした。

 

少女は花に手を伸ばし、その蜜を一口飲みました。

 

すると花は消え、少女の身体に異変が起こりました。あれ程の傷がすっかり治ってしまったのです。

 

しかし、そのせいか。少女の真っ黒な髪は、海の底のように真っ青に染まっていたのです。

それだけではなく、口を開けばガマガエルのような声と呼ばれていた声は、美しく透き通ったものになっていました。

 

それから何度か、青い髪の少女があちこちで生まれましたが、皆死ぬと泡になって消えてしまいました。

しかし、青い髪の少女に変えた花は、少女の身体を苗床に長い年月を生き永らえてきました。

 

そしてある時、その花はある者から名をもらうことになりました。

 

泡のような花びらに、美しい歌声を与える花。

 

その者は花に、こう名をつけました。

 

 

 

――【ウタカタノ花】と。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



多忙と体調不良が続いたため、遅くなり申し訳ございません。
今年もよろしくお願いします。


時は戻り、産屋敷邸では。

 

「ウタカタノ、花」

 

ワダツミの子から告げられた言葉を、あまねは繰り返した。

 

「ウタカタノ花は寄生した人間を変異させる、ある種の災厄です。寄生した人間の細胞を変異させ、花自身が生きるための苗床にする。ワダツミの子と言うのは、ウタカタノ花に寄生された人間の成れの果てです」

 

蜜璃は勿論、ワダツミの子の調査をしていた宇髄も、この事は知らなかったのか青ざめていた。

 

「ワダツミの子は、鬼と同様元は人間だったということですか?」

 

あまねの言葉に、ワダツミの子は頷いた。

 

「鬼とは異なり、ウタカタノ花には人の細胞を瞬時に変異させる力はない。宿主の体内で根を張り、長い時をかけて細胞を変異させていきます。鬼を探知することができる者たちが、ワダツミの子を人間と誤認するのはそのためだ」

 

ごくりと、誰かが唾をのむ音が聞こえた。

 

「他にもワダツミの子が人と異なる点が三つある。だが、この特性が現れたのは、ウタカタノ花が鬼を脅威として認知してからの話になる」

 

ワダツミの子は言葉を切ると、深呼吸をしてから語りだした。

 

「一つ目は生殖能力、つまり子を成す能力が非常に低いということ。これは出産が肉体に大きな負担がかかる為ですが、この特性は初代ワダツミの子には備わっていない。その時はまだ、鬼の存在を認知していなかったからです」

「確かに。それでは大海原家の存在が矛盾してしまいますからね」

「二つ目は【還り咲き】と言う自己防衛能力。これは宿主の肉体が致命的な損傷を受けた場合、花の生命維持能力と宿主の記憶と寿命を代償に、一度だけ蘇生させることができるものです」

 

はっと、息をのむ音が広い部屋に木霊する。

 

「つまり、これが発動したワダツミの子は記憶を失い、その影響で身体の成長が止まる、もしくは退化する。これは大海原玄海はおろか、誰一人として知られていない事実です」

 

そして三つめは、とワダツミの子はつづけた。

 

「肉体が活動限界――即ち死を迎えた時。ワダツミの子の身体は虹色の泡となり骨も残らず消滅します」

「!!」

 

蜜璃は真っ青な顔でワダツミの子を見た。宇髄はもう言葉を発することすらできなくなっていた。

 

「今までワダツミの子の痕跡がなかったのは、そういう事だったのですね」

「痕跡を残さないだけではありません。ウタカタノ花は泡となった残骸に、自らの一部を宿して飛び散り、そして降り立った場所で休眠状態に入る。それから再び目を覚まし、新たな宿主を探すのです。この悍ましい営みを、千年以上続けてきた」

 

だが、と、ワダツミの子は更につづけた。

 

「いくら宿主を変えても、鬼がいる限り自身の生存は危うい。そこで鬼の存在を脅威と認知した後は、人を焚きつけ鬼を弱らせるウタカタを生み出し、鬼狩りと共に行動するようになりました。しかしそれでも、鬼を駆逐することは、今現在も成し遂げられていない」

 

その言葉に、宇髄と蜜璃はぐうの音も出なかった。

居心地の悪い沈黙が辺りを包んだ。その時だった。

 

「なあおい、ちょっと待てよ」

 

宇髄の声が、沈黙を破った。

 

「お前はさっき『これを千年以上続けてきた』と言ったが、何でそんなことがわかるんだ?人とは異なるとはいえ、ワダツミの子は鬼じゃあねえから不死ってわけでもないだろう。現にさっき、ワダツミの子の死に方を俺達に教えたばかりだろうが」

 

宇髄の指摘はもっともだった。今はワダツミのことは言え、汐の身体は齢十六ほど。それほど永い間肉体を保つことは不可能だ。

 

「それは、ウタカタノ花が今までのワダツミの子の記憶を保持しているからだろう」

 

ワダツミの子は淡々と答えた。

 

「全てではないが、ある程度の事は記憶している。だが、それをいつでも思い出せるかと言ったらそうではない。現に今も、この事を汐はずっと思い出せずにいたからな。それより、話を戻すがいいか?」

 

その言葉に宇髄は何か言いたげな顔をしたが、口を閉じた。

 

「このままでは鬼を駆逐することは不可能だと認識したウタカタノ花は、ある結論にたどり着きました。それは鬼を殺せるワダツミの子を生み出すこと」

「!?」

「本来ワダツミの子には戦闘能力はなく、庇護が必要な存在でした。ですが、それでは鬼の脅威に立ち向かうことは出来ない。だからウタカタノ花は長い年月をかけて、戦闘能力のあるワダツミの子。即ち全集中の呼吸を使える身体を持つワダツミの子を完成させました」

 

それが、全集中の呼吸とウタカタを同時に扱える特異点。

 

――大海原汐。

 

「そんな、そんなのおかしいわ!!」

 

重苦しい空気を斬り裂く様に、蜜璃が声を張り上げた。

 

「だって、だってしおちゃんは自分の意思で鬼殺隊に入ったのよ!大切な人を亡くし、愛する人を守るために、辛く悲しい道を自分自身で選んだのよ!ナントカの花なんて関係ないわ!!」

「甘露寺!あまね様の前だぞ!」

 

大声を上げる蜜璃を宇髄が窘めると、蜜璃は体を震わせながらワダツミの子を睨みつけていた。

その目には涙をいっぱい溜めて。

 

だがワダツミの子は、そんな蜜璃を嘲笑うかのように鼻を鳴らした。

 

「人間が一番力を発揮できる感情は何か、あなた方はご存じか?」

 

ワダツミの子の問いかけに、蜜璃は首を傾げた。

 

「人間は感情で強くも弱くもなる生き物。ウタカタノ花は長い年月を生きそれを学んだ。そして人間の力を最大限に引き出せる感情。それは――」

 

――殺意だ。

 

その言葉に全員の全身に鳥肌が立った。そう言い放ったワダツミの子は、まごうことなく人ならざる者であった。

 

「戦いに身を置くあなた方なら覚えがあるはずだ。怒りや憎悪、殺意などの感情は痛覚を鈍らせ、いつも以上の力を出せる」

「・・・否定はできねえな」

「だが殺意が力になることを学習しても、多くのワダツミの子はこの殺意に耐え切れずに自我が崩壊し、暴走した。だからこそ、殺意に耐え戦闘能力を持った大海原汐は、ワダツミの子の最高傑作と言えるだろう」

 

いや、それだけではない。とワダツミの子は更につづけた。

 

「今現在、大海原汐の体内にはウタカタノ花が深く根付き、細胞を変化させ続けている。そして上弦の鬼との戦いでそれは加速され、血鬼術に大きな耐性が付いている。もはや存在そのものが、鬼を殺す為の兵器と化しているんだ。だからこそ大海原汐は引かれたんだ。殺意と共に、鬼の元へ」

 

蜜璃は怒りに身体を震わせながら睨みつけていたが、反論する言葉が出てこなかった。

あまりにも残酷な真実に、声が出なかった。

 

「今こそが鬼を滅ぼす好機だと、ウタカタノ花も判断し活性化している。だからこそ、あなた方には知ってほしかった。"私"達の秘密を」

「マジ・・・かよ」

 

宇髄の口から零れたの言葉は、それだけだった。

 

「そんな・・・」

 

蜜璃もこれ以上の言葉は出てこなかった。

 

 

 

*   *   *   *   *

 

「それが君達の、ワダツミの子の秘密だっていうのか・・・?」

 

炭治郎は声を震わせながらそう尋ねた。

 

「信じがたい話だろう?だがすべて事実だ。ウタカタノ花はこうして永い時を生きてきた。ワダツミの子の命だけでなく、周りの大勢の人間の心を犠牲にして」

 

悍ましいだろう?と、ワダツミの子は炭治郎に自嘲的な笑みを向けた。

 

「ワダツミの子と言うのは、人にもなれず、鬼とも違う中途半端な出来損ない。そんなものが人の真似事をして今の今までのうのうと生きてきたんだ。これ以上滑稽なことはないだろう・・・!」

 

そう言ってワダツミの子は、汐は笑い出した。だが、その笑い声からにじみ出る悲しみに、炭治郎は気づいていた。

 

汐の、彼女達の悲しみに。

 

「やめてくれ!!」

 

炭治郎は叫んで汐の手を取ると、汐は体を震わせ炭治郎を見た。

 

「聞いてほしいことがあるんだ。汐にも、もう一人の汐にも」

「!?」

 

炭治郎の言葉に顔を引き攣らせたのは汐か、それともワダツミの子か。だがそんなことはどうでもよかった。

炭治郎は大きく深呼吸をした後、ゆっくりと口を開いた。

 

「正直なところ、今の話をすべて理解することも納得することもできない。でも、聞いてほしい。俺の気持ちを」

 

炭治郎はとった手を握りなおしながら、目をしっかり見据えた。

 

「汐は自分が人間じゃないからって苦しんでいるみたいだけれど、人間とか人間じゃないとか、そう言うのってあんまり関係ないんじゃないかな」

「え・・・?」

 

汐の濁った瞳が、微かに揺らいだ気がした。

 

「禰豆子は今は鬼になってしまっているけれど、鬼殺隊として俺達と一緒に戦い傍にいてくれる。それと、煉獄さんの最後の言葉を覚えているか?上弦の鬼と戦った、その後を」

 

『命を懸けて鬼と戦い人を守る者は、誰がなんと言おうと鬼殺隊の一員だ』

 

「煉獄さんが禰豆子を認めてくれた時の言葉だ」

 

その事は勿論覚えていた。否、忘れることなどできなかった。

汐はそう思いながらも炭治郎の目を見た。

 

「確かに汐は人とは少し違う生まれ方をして、違う生き方をしてきたかもしれない。でも、汐が、大海原汐と言う人が鬼殺隊員として多くの人を救い、守ってきた。これは何があっても絶対に消えない事実なんだ」

 

「・・・!!」

 

汐の目が大きく見開かれ、瞳が大きく揺れた。

炭治郎は更につづけた。

 

「もし、もしもだ。俺が大きな傷を負って人の形をしなくなったら、俺は俺じゃなくなると思うか?」

 

炭治郎の問いに、汐は大きく首を横に振った。

 

「何言ってんの?そんなわけないじゃない。どんな姿になったって、炭治郎は炭治郎でしょ・・・?・・・あ」

 

汐はそう言った後、何かに気づいたように口元を手で押さえた。

 

「そうなんだ。例え人とは少し違う存在でも、汐が汐である事には何も変わりはないんだ。汐は俺達の大切な仲間だ。それだけは何があっても、絶対に変わったりはしないんだ」

 

炭治郎の言葉が汐に届いた瞬間。濁った汐の両目からぽろりと涙がこぼれた。

それは瞬く間にあふれ出し、頬を伝って落ちて行く。

 

「あたしは、ここに居ていいの・・・?皆の、あんたの傍に、いてもいいの?」

「当たり前だろう!!」

 

炭治郎の力強い声に、汐は大きく体を震わせた。

 

「ああっ・・・、うぅうっ・・・・!!」

 

汐はこらえきれずに嗚咽を漏らしながら、炭治郎に縋りついた。

 

激しく上下する汐の背中に、炭治郎は手を当てた。陽だまりのような温かい手が、汐の凍り付いた心を少しずつ解していく。

 

(ああ、そうだったんだ)

 

炭治郎に縋りついて泣きながら、汐はぼんやりと思った。

 

(今も自分に対しての嫌悪感は消えないし、自分の運命が憎くてたまらない。でも、でもそれ以上にあたしは・・・)

 

――この男を、竈門炭治郎という男を、どうしようもなく愛してしまっているんだ・・・

 

(あたしはもう、炭治郎がいないと駄目みたい。この人がいない明日なんて考えられない。考えたくない・・・)

 

確かに感じる炭治郎の熱と鼓動を感じながら、汐の意識は深い闇の底に沈んでいった。

 

「・・・汐?」

 

炭治郎は嗚咽が聞こえなくなった汐の顔を、そっと覗き込んだ。

すると汐は、目を閉じて小さな寝息を立てていた。

 

余程疲れていたのだろう。起きる気配はなさそうだった。

ともかく汐をこのままにしては置けないと踏んだ炭治郎は、汐を起こさないように抱えると、広間をそっと後にした。

 

汐の寝室は、あまりものがなく殺風景なところだった。

ベッドに汐を寝かせ、炭治郎は一息をついた。

 

よく見れば汐の目の下のは隈があり、唇も少し乾いているようだった。

 

(汐・・・)

 

炭治郎は眠る汐を見つめながら目を閉じた。

先程のワダツミの子の話を、未だに信じ切ることは出来ないでいた。

 

(どうして、どうして汐がこんな目に遭わなければいけないんだ・・・。汐が一体何をしたっていうんだ・・!)

 

炭治郎は汐のことを思うと悔しくてたまらなかった。汐の運命を狂わせたウタカタノ花を心底恨めしく思った。

 

だが、それでも汐が汐であることは変わらないし、ワダツミの子だろうが何だろうか関係ない。そう思っていた。

 

(汐ともう一人の汐に伝えたこと。あれは紛れもなく俺の本心だ。けど、今思うと一つだけ。俺は無意識に汐に嘘をついていた・・・)

 

炭治郎は目を閉じながら、ゆっくりと顔を上げた。

 

『お前は大海原の事を好きなんだよ!!』

 

悲鳴嶼邸で村田達に指摘された言葉が、炭治郎の脳裏によみがえった。

 

(ああ、そうか。そうだったんだ)

 

炭治郎は目を開けると、眠る汐をもう一度見つめた。

初めて出会った時から、今の今までずっと汐が傍にいた。どんなに辛くても苦しくても、汐が傍にいて支えてくれた。

汐の存在に、ずっと助けられてきていた。

 

(村田さん達に指摘されるずっと前から。俺は――)

 

――大海原汐が、好きなんだ。仲間や家族としてだけじゃなく、一人の女性として、もっともっと特別な意味で。

 

「汐・・・」

 

炭治郎はもう一度汐の名を呼んだ。初めて気づき、出会った特別な女性の名を。

 

(汐が誰を好きでも関係ない。想いを伝えられなくても構わない。それでも俺は、この人が好きだ)

 

炭治郎はもう一度汐の手を取った。傷跡だらけの、思った以上に小さい手を。

 

せめて今だけはゆっくり休んでほしい。そう思っているうちに、いつの間にか炭治郎も深い眠りに落ちて行くのだった。

 

*   *   *   *   *

 

「ここ、は・・・?」

 

うっすらと明るい空間の中で、炭治郎は目を開けた。

鼻を掠める潮の香りと、水の音が耳を通り過ぎていく。

 

(汐の匂い?いや違う。これは、海の匂いか・・・?)

 

炭治郎は何故このような場所に居るのか分からず困惑するが、匂いと音のする方へと足を進めた。

 

少し歩いたところで、炭治郎は足を止めた。目の前に広がる光景に目を奪われたからだ。

 

そこは色とりどりのサンゴ礁や海藻が並び、たくさんの魚が泳ぎまわる不思議な光景だった。

まるで海の底のような景色に、炭治郎は呆然としていた。

 

すると、炭治郎から少し離れた場所に一つの扉がある事に気が付いた。

 

扉は鎖で縛られ、いくつかの鍵が付けられていた。だが、鎖の数にしては鍵の数が足りない気がする。

 

この景色に見合わない外見の扉に、炭治郎が近づこうとしたときだった。

 

『その扉には近寄らない方がいい』

 

静かな声がして振り返ると、そこには一人の小さな人影があった。

 

小さな子供の姿をした、ここの番人だった。

 

「君は・・・」

 

炭治郎はすぐに、番人が只者でないことを見抜いたが、不思議と敵意は感じなかった。

それどころか、どこか懐かしい感じがした。

 

『まさか、君とこうして会うことになるとは。何があるか分からないものだな』

 

番人は布越しに笑うと、炭治郎にそっと近づいた。

 

「ここはどこなんだ?そして君は・・・」

『本当に覚えていないのか?』

 

炭治郎の問いを、番人は更に問で返した。言葉に詰まっていると、番人は炭治郎の隣に立ちその顔を見上げた。

 

『君は本当は気づいているんじゃないか?ここがどこか、私が誰か』

 

番人の言葉に炭治郎は首を傾げ、番人は呆れたように溜息をついた。

 

『なら、これを見れば思い出すか?』

 

そう言って番人は、手の中にある何かを炭治郎に差し出した。

それは、半透明に透き通った花びらのようなものだった。

 

再び炭治郎が首を傾げた、その時。

 

花びらがまばゆい光を放ち、あたりは白一色になった。




補足
ウタカタノ花が瀕死の人間にしか寄生できないのは、本来の生命力に邪魔されないようにするため。
そして、瀕死の方が生存本能が花の力を求める傾向と学習したため。
花は宿主の生命力を上げるが、元々の生命力を増やすわけではないので結局のところ寿命を縮めていることになる。

海の呼吸
本来は大海原家の人間がワダツミの子を殺すために生み出した剣術。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



注意書き

過去捏造表現があります。


ふわりと鼻を掠める懐かしい匂いに、炭治郎は目を開けた。

 

最初に目についたのは、見覚えのありすぎる部屋。囲炉裏から聞こえるのは、燃える薪が爆ぜる音。

そこはかつて、炭治郎と禰豆子が家族と暮らしていた生家だった。

 

(ここは俺の家・・・!?なんでここに・・・)

 

困惑する炭治郎だが、自分の左手が青く光っているのを見て視線を向けた。

 

その手にはいつの間にか五枚の花弁のようなものがあり、一枚が青い光を放っていた。

 

だが、炭治郎がそれに疑問を持つ前に、目の前の人物を見て息をのんだ。

 

そこには幼い自分と、お腹の大きい、今は亡き母親葵枝がいた。

 

(母さん・・・!!)

 

母を見て、炭治郎の目頭が熱くなった。母親に寄り添って舟をこぐ幼い炭治郎と、それを優しい目で見ながら頭をなでる葵枝。

おそらく禰豆子が生まれる前の事だろう。

 

(でもどうして、俺の家族が?これは夢なのか?あの子は、俺に一体何を見せるつもりなんだ・・・?)

 

炭治郎は番人の意図が分からず首を捻っていると、突然家の戸を叩く大きな音がした。

 

その音に幼い炭治郎は驚き、葵枝は炭治郎をなだめながら立ち上がった。

 

「どなた?」

 

葵枝が声を掛けると、間髪入れずに外から声が聞こえた。

 

「俺だ。急ですまないが、すぐに湯を沸かしてくれ!」

 

外から聞こえた声は、炭治郎の父炭十郎の声。葵枝は一瞬驚いた顔をするものの、すぐに行動に移した。

葵枝が去ってからすぐに、扉が音を立てて開かれ、外の冷たい空気と雪が一気に入り込んできた。

 

『とうさん!』

 

幼い炭治郎は父親の傍に駆け寄ろうとして、思わず足を止めた。そこにいたのは、炭十郎一人ではなかったからだ。

 

彼の傍にもう一人、見知らぬ男がいた。

 

炭十郎よりも背が高く、体格のよい男だった。だが、男は苦しそうに息を吐きながら、炭十郎と共に部屋になだれ込んだ。

 

『大丈夫ですか!?気をしっかり!』

 

炭十郎が叫ぶと、男は首を横に振りながら、かすれた声で言った。

 

『俺は、大丈夫だ・・・。それよりも、こいつを・・・、こいつを頼む・・・』

 

男の左腕には、蓑にくるまれた何かがあった。炭十郎は頷くと、それを優しく抱えて居間へと上がり、そのまま寝室へと駆け込んだ。

 

幼い炭治郎は何が起こったのか分からず目を白黒させていたが、慌ただしく動く両親を見て何か"よくない事"が起こっていることを悟った。

 

幼い炭治郎はそっと寝室を覗いて、あっと声を漏らした。

布団の上に横たわっていたのは、真っ青な髪をした少女だった。

 

「!?」

 

少女を見て炭治郎は息をのんだ。青い髪をしているということは、汐と同じワダツミの子であることは間違いない。

だが、先ほど聞いた話では、ワダツミの子が現れるにはある程度の周期があったはずだ。

 

(まさかあれは汐なのか!?い、いやでも・・・)

 

炭治郎は改めて横たわる少女を見た。ざっとみても、少女は幼い炭治郎よりも年上に見えた。

汐と炭治郎の年齢差は殆どなかったはずだ。これでは計算が合わない。

 

炭治郎が首を捻る中、幼い炭治郎は横たわりか細い息をしている少女の手にそっと触れた。

その瞬間、弾かれるように手を放した。

 

少女の身体が、氷のように冷たかったからだ。

 

『!!』

 

幼い炭治郎には少女に何が起こっているかは分からない。だが、それでも身体が冷たい、寒いことは"よくない事"だとは分かっていた。

 

幼い炭治郎はもう一度少女の手を、今度はぎゅっと握った。冷たくて泣きそうになったが、それでも少女の手を放さなかった。

 

その後は葵枝と炭十郎が動き、男と少女は何とか一命をとりとめた。

その光景を炭治郎は、瞬きをすることも忘れてみていた。

 

すると突然、目の前の光景が急激に歪み、炭治郎は思わず目を抑えた。

瞬きをした後は、歪んだ光景が別のものに変わっていた。

 

(な、なんだ・・・?)

 

炭治郎は目の前の状況を理解しようとしたとき、左手に握られていた青い花弁が光り出した。

思わず視線を向けると、先ほどまで五枚あった花弁が一枚減っていた。

 

(まさか、場面が切り替わるたびに花弁が減っていくのか・・・?)

 

だとしたらあと四回。あの番人は炭治郎に見せたいものがあるということになる。

番人の意図が全く分からず混乱していると、目の前で誰かが動く気配がした。

 

意識を戻せば、聞こえてきたのは優しい歌。

 

『こんこん小山の子うさぎは、なぁぜにお目々が赤ぅござる』

 

炭治郎はこの歌を知っていた。いや、忘れるはずがなかった。

 

『小さい時に母さまが、赤い木の実を食べたゆえ、そーれでお目々が赤ぅござる』

 

それはかつて、禰豆子が鬼の力に飲まれそうになった時に決死の覚悟で歌った歌。

母が何度も歌っていた、子守唄だった。

 

炭治郎の視線の先には、幼い炭治郎の頭をなでながら歌を奏でる葵枝の姿があった。

 

記憶の中と同じ優しい母の歌に、炭治郎の目に涙が浮かぶ。

 

その時だった。

 

『それは、なんだ?』

 

不意に声が聞こえてきて、炭治郎と葵枝は顔を上げた。そこには、先ほどの青い髪の少女が葵枝を見つめていた。

 

どういうわけか、炭治郎の位置からは少女の顔は見えなかった。

 

『これは子守唄よ。私が住んでいた場所でよく歌われていた歌なの』

 

葵枝はそういうと、少女に座るように促した。

 

『こもりうた、とはなんだ?』

『子供を寝かしつけたり、あやしたりするときに歌う歌よ』

 

葵枝はそう言って、眠る幼い炭治郎の頭を優しくなでた。

 

『あなたもそのようなことができるのか?』

『そのような事って?』

 

少女の言葉に葵枝が首を捻ると、少女は目を細めながら言った。

 

『信じがたいかもしれないが、私の歌には、人やそれ以外の者を惑わし、傷つける力がある』

 

少女の言葉に、葵枝は驚いたように目を見開いた。

 

『その歌を目当てに、多くの者が私の歌を利用しようとやってきたが、全てはねのけてきた。今までそうして、私は生きてきた。だから私にとって歌は、自分が生きるための道具に過ぎない』

 

ただ、と、少女は窓の外を見上げながら言った。

 

『あの男は違った。私の歌はあの男には効かなかっただけではなく、あいつは私の歌を"綺麗だ"と言ったんだ。初めてだったんだ。そういうことを言われたのは』

 

窓の外の向こう側にいるであろう、その人物を思いながら少女はそう言った。その声は困惑しつつも、心なしか嬉しそうに聞こえた。

 

葵枝は少女の言葉の意味は分からなかったが、少女の言う歌とはそういうものではないんじゃないかと思っていた。

 

『あなたの言っていることはよくわからないけれど、でも、歌って言うのはそういうものだけじゃないと思うの。現に、あなたの歌を綺麗だと言ってくれた人がいるのでしょう?』

 

葵枝はそう言ってにっこりと笑った。それは少女が今まで見てきた、下卑たものとは全く違う心からの笑顔だった。

 

自分を拾い、育ててくれた彼とよく似た笑顔だった。

 

少女は何かを言いかけたが、葵枝の笑顔に毒気を抜かれたのか口を閉じた。

 

『あなたは不思議な人だ。今までいろいろな人間の"目"を見てきたが、あなたの"目"はとても綺麗で、落ち着く』

 

そして代わりに出て来たのは、こんな言葉だった。

 

『あなたさえ良ければ、その歌を、私に教えてくれないか?』

 

少女の申し出に葵枝は驚いた表情をしたが、再びにっこりと笑うと少女に歌を教えた。

 

少女のもの覚えはよく、一度歌えば旋律も歌詞もすぐに覚えてしまった。

 

『こんこん小山の子うさぎは、なぁぜにお目々が赤ぅござる』

 

葵枝とはまた感じが違うが、美しく優しい歌が少女の口から零れだす。

それを聞いていた葵枝は、少女の歌が人を惑わし傷つけるとは到底思えなかった。

 

歌を聴いていた炭治郎は、胸のあたりを優しくつかんだ。いろいろなものがこみ上げてきて、言葉が出てこなかった。

 

だが、そんな炭治郎の気持ちなど知る由もなく、手の中の花弁は消え再び視界がゆがみだした。

 

炭治郎が目を閉じ、そして再び目を開けると。

 

思わず息をのんだ。

 

『ううう~~~!!!』

 

まるで喉を締めあげられたようなうめき声が、炭治郎の耳を突き刺す。そして遅れて聞こえてくるのは、あわただしく動き回る音。

 

そこには体中から汗を吹き出しながら呻く、母の姿があった。

 

その日は雪の降る夜。その日に葵枝は産気づいてしまい、炭十郎は産婆を呼びに町へと下りて行った。

少女を連れてきた男は、雪道に慣れていないという理由で家に残り、少女と共にできる限りの事をしていた。

 

(これは、おそらく禰豆子が生まれたときの・・・)

 

炭治郎は拳を握りしめながらその光景を見ていた。今の自分にとっては初めてではないが、この頃の炭治郎にとっては修羅場だろう。

その推察はあたり、苦しむ母親を前に、幼い炭治郎はぶるぶると小刻みに震えていた。

 

(大丈夫、大丈夫だよ、昔の俺・・・。妹は、禰豆子は元気に生まれてくるから・・・!)

 

しかしいくらそれを知っていても、幼い頃の自分はそうではなく、母が死んでしまうのではないかと不安で仕方ないのだろう。

励ましたいが、目の前の光景はただの過去。触れることは叶わない。そんなもどかしさを感じていると。

 

『大丈夫!』

 

不意に声がして、炭治郎と幼い炭治郎は同時に顔を向けた。

そこには青い髪の少女が、幼い炭治郎の背中をさすっていた。

 

『大丈夫だ。君の母親は強い人だ。君を置いて死んでしまったりなんかはしない』

 

少女の力強い声が、目に涙をいっぱい溜めている幼い炭治郎の心を動かした。

 

『君は兄になるんだろう?なら、慌ててはいけない。君が慌てていたら、君の弟か妹は驚いて出てこられない』

 

少女はそう言って視線を前に向けた。歯を食いしばり、顔を歪ませながらも必死に痛みに耐える母親。

幼い炭治郎はそれを見て、小さな手を握りしめながら叫んだ。

 

『がんばれ、かあさん!!がんばれ、がんばれぇえ!!』

 

小さな口から飛び出した大きな声援が、葵枝へと届く。

涙をこぼしながらも精いっぱい、何度も何度もそう叫ぶ幼い炭治郎の傍を、少女はずっと離れなかった。

 

その光景を、男はじっと見つめていた。

 

やがて炭十郎が産婆を連れて戻り、幼い炭治郎と少女は男に連れられて別室へと移動した。

 

時折聞こえる葵枝の苦しみに耐える声に耳を塞ぎたくなるのを、幼い炭治郎は必死に耐えていた。

そんな彼の小さな手を、少女はしっかりと握っていた。

 

どのくらい時間が経ったのか、分からなくなりかけたころ。

 

二人の耳に、産声が届いた。

 

『!!』

 

二人は弾かれた様に立ち上がり、男の制止も効かず部屋へと飛び込んだ。

 

そこには安堵したように胸を抑える炭十郎と、優しくほほ笑む産婆。

憔悴しながらも笑顔を見せる葵枝と、その傍らには・・・

 

『ちいさい・・・』

 

布にくるまれた小さな小さな赤子が、声の限りに泣いていた。

 

『元気な女の子ですよ』

 

産婆のその言葉に、少女は面食らいながらも幼い炭治郎の背中をなでた。

 

『女の子、ということは、炭治郎の妹ということか?』

 

少女がそう言うと、後ろにいた男が『そうだ』と答えた。

 

その光景を見ていた炭治郎は、目に涙を溜めていた。

 

あまりにも幼すぎたため、炭治郎自身の記憶は曖昧だった。だが、それでもやはり、人がこの世に生を受けるという瞬間は素晴らしく尊いことだということを、改めて感じた。

 

炭治郎はぼやけている視界の中、幼い自分を支えてくれた少女が気になり、何とかその顔を見ようと首を動かした。

 

だがその瞬間、無情にも花弁は消え再び視界がゆがみだした。

 

「ま、待ってくれ!」

 

炭治郎は慌てて少女に手を伸ばすが、その手は届くことはなく更に視界がゆがんでいく。

 

「君は、君は一体誰なんだ・・・!?」

 

炭治郎の声はかき消され、歪んだ世界は再びはっきりと形を作り始めた。

 

次に映ったのは、葵枝と赤子。時間は経ったようだが、葵枝の顔は少しやつれているようだった。

だがそれでも、愛しい娘を見つめるまなざしは、どこまでも優しいものだった。

 

その時外から物音が聞こえ、葵枝は視線を動かした。

 

『どなた?』

 

そう尋ねると、外からは息をのむ音が聞こえたが、少し間を置いた後声がした。

 

『すまない。起こしてしまったか?』

 

それは青い髪の少女の声。葵枝は思わぬ訪問者に目を見開いたが、口元に笑みを浮かべた。

 

『大丈夫よ。そんなところにいないで、入ってらっしゃいな』

『・・・いいのか?』

 

少女の遠慮がちな声に、葵枝は優しく『どうぞ』と答えた。

 

すっと戸が開き、少女が部屋に入ってきた。やはり炭治郎からは、少女の顔は見えなかった。

 

『気分はどうだ?出産と言うのは、体力と気力を大幅に消費すると聞いたが・・・』

『そうね。まだ少し怠いけれど、大丈夫よ。ありがとう』

 

葵枝はそう言って、力なく優しくほほ笑んだ。

 

ふと、少女の視線が葵枝から眠る赤子に移った。それを見た途端、少女は首を捻りながら言った。

 

『先ほどまで泣いていたようだが、今は眠っているのか。何がそんなに悲しかったのだろう』

 

少女の言葉に、葵枝はくすくすと笑いながら答えた。

 

『あれは悲しいから泣いているんじゃないのよ。生まれた時に泣くのは、赤ちゃんの挨拶なの』

『挨拶?』

『そう。"私はこの世界に生まれてきました。これからよろしくお願いします"って言っているの』

『赤ん坊は喋ることができないと聞いているが?』

 

少女は首を捻りながら、不思議そうに赤子を見つめていた。

 

『そうね。赤ちゃんは言葉を話せないけれど、誰かの言っていることはきちんと聞いているのよ。不思議よね』

『理解できない。赤ん坊も、人間も』

『ええ。人って本当に難しいの。子供のあなただけじゃなく、大人になっても分からないことの方が多いんだから』

 

葵枝がそう言った時、眠っていた赤子が目を覚まし、小さく声を上げた。

 

『起きたのか?』

 

少女は思わずつぶやき、慌てて口を押えた。すると、赤子は何かを探すように両手を天へと向けている。

 

その行動の意味は少女にはわからないはずなのに、少女は無意識に赤子に手を伸ばしていた。

 

すると、少女の小さな手を、赤子の更に小さな手がつかんだ。

少女は驚き、目を見開いた。

 

『うー、あー』

 

赤子は声を上げながら、少女の手をしっかりつかんでいた。思ったよりも強い力とその温かさに、少女は石のように固まった。

 

かと思いきや、突然少女は俯いた。そして、炭治郎ははっきりと見た。

 

少女の顔のあたりから、透明な雫が零れ落ちていた。

 

『あらあら、大丈夫?』

 

葵枝は重い体を起こしながらも、少女の涙を手ぬぐいで拭いた。

 

『小さい・・・、でも、温かい・・・』

 

少女の声は震えていたが、その声からは怯え等の負の感情は感じられなかった。

 

『人間って、子供って、こんなに温かいんだな・・・!』

 

そう言った少女の声は無機質なものではない、確かな感情が宿っていた。

 

「・・・・」

 

炭治郎は言葉を発することもなく、その光景に魅入っていた。涙があふれ、頬を濡らしても、彼は拭おうとしなかった。

言葉にできない程の温かく、尊いものが炭治郎に染み渡り、広がっていく。

 

『そうだ。確かこの子の名前が決まったんだな』

 

少女は涙を拭きながら、葵枝に向き合った。

 

『ええそうよ。この子の名前はね・・・』

 

 

 

――禰豆子、と言うのよ。

 

 

その言葉を最後に花弁が消え、また視界が歪みだした。

 

(花弁はあと一枚。次が最後か・・・)

 

炭治郎は涙をぬぐいながら、最後の光景に向き合おうと目を開いた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



仕事が激務なため、更新が遅くなり申し訳ございません。
これから先、更新頻度は低くなりますので、ご了承ください。


歪んだ視界が段々と形を帯びてくると、そこには家の前に立つ家族と少女たちがいた。

 

雪はすっかり止み、温かな日の光が辺りを優しく照らしている。

 

『もう行かれるのですか?』

 

葵枝は禰豆子を抱きながら、名残惜しそうにそう言った。

足元で見上げる幼い炭治郎の顔は、今にも泣きそうだった。

 

『ああ。お前さん達には世話になったな』

 

そう言うのは少女の背後に立つ男だった。男の顔も少女の顔も、炭治郎には見えなかった。

 

『長居しちまっただけじゃなく、あの、"ヒノカミ神楽"だっけか?あんな見事なもんを拝ませてくれるたぁ、冥利に尽きるぜ』

『いえ、こちらこそあなた方には随分と助けられました。貴重なお話も聞かせていただきましたし、本当に有意義な時間でした』

 

炭十郎はそう言って深々と頭を下げた。

 

『おいおい、男がむやみやたらに頭なんざ下げるもんじゃねえよ。男が頭を下げんのは、女を泣かせたと・・・!』

 

男が最後まで言いおい割る前に、少女がその拳を鳩尾に叩きつけた。

呻く男をしり目に、少女は幼い炭治郎達の前に立つと、しっかりした声で言った。

 

『あなた方には感謝している。あなた方は私の知らないことを、沢山教えてくれた。そして私を、人として扱ってくれた』

 

少女はそう言って幼い炭治郎に近づくと、視線を合わせるように座った。

 

『炭治郎。君はこれから兄としていろいろと大変だろうが、君には君を愛してくれている家族がいる。だから、大丈夫』

 

少女はいったん言葉を切ると、意を決したように口を開いた。

 

『それから私も君の妹、禰豆子と同じように名をもらったんだ。あの男にしては、なかなか気の利いた贈り物だ』

 

少女の少し皮肉めいた声に、悶えていた男は背後から『なんだと!?』と叫んだ。

 

『名前?』

 

きょとんとする幼い炭治郎に、少女は歯切れのよい朗らかな声で言った。

 

―――私の名は、汐。

――大海原汐、だ。

 

その言葉を聞いた瞬間、炭治郎は目を見開いた。そして少女、汐の背中に向かって手を伸ばす。

 

「汐!!」

 

汐の名を呼んだその時、最後の花弁が消えかかっているのか視界が歪み始めた。

炭治郎は必死に叫びながら、手を伸ばし続けた。

 

「汐!!汐!!必ず、必ずまた会えるから!!」

 

身体が引っ張られる感覚に抗いながらも、炭治郎は叫んだ。

 

「だから、だから・・・!待っててくれ!!」

 

その言葉を最後に、炭治郎の意識は途絶えた。だが、視界が真っ暗になる寸前、炭治郎は確かに見た。

 

こちらを振り返った少女と目が合った。その目は、海の底のような深い青に染まっていた。

そしてその顔は、紛れもなく大海原汐そのものであった。

 

『どうした?』

 

何もない方向を見つめる汐に、男は怪訝な顔で問いかけた。

 

『・・・何でもない。それより、これ以上ここに長居をするわけにはいかない』

 

汐は立ち上がり、着物についた雪を払うと男を見据えていった。

 

『さっさと行くぞ、玄海』

 

名を呼ばれた玄海は、驚きつつも嬉しそうに笑った。汐はその笑顔の意味を理解できなかったが、吊られるように口元に笑みを浮かべた。

 

『じゃあ、俺達は行くぜ。達者でな、炭十郎。嫁さんとガキ共を大切にしろよ』

『はい、あなたもお元気で。玄海さん』

 

二人はそう言葉を交わし、にっこりと笑った。

 

*   *   *   *   *

 

「はっ!!」

 

意識を取り戻した炭治郎は、目を見開くと起き上がった。いつの間にか眠っていたようだった。

 

『思い出してくれたか?』

 

傍にいた番人が、炭治郎に優しく声を掛けた。

 

「あれは、間違いなく汐だった。雰囲気はいつもの汐じゃなかったけれど、汐だった・・・」

 

炭治郎は記憶をたどりながら、そう呟いた。

 

「でもおかしい。あの汐は俺よりも三歳か四歳くらい年上に見えた。俺と汐は一歳しか違わないはずだ。どういう事なんだ・・・?」

 

炭治郎は顎に手を当てながら考えるが、いくら考えても答えは出てこない。

そんな炭治郎を見かねてか、番人がそっと口を開いた。

 

『冷静に思い出してみるんだ。君はここに来る前に、汐からワダツミの子について詳しく聞いているはずだ』

 

番人の静かな声を聞き、炭治郎はいったん落ち着こうと深呼吸をした。

それから冷静に、汐の話を思い出してみた。

 

しばらく経った後、炭治郎は目を見開き口を開いた。

 

「まさか、まさかそんな・・・」

 

炭治郎は真っ青な顔で番人に向き合った。番人も、炭治郎の様子を見て察したようにうなずいた。

 

『どうやら気づいたようだな』

 

そういう番人の声は冷徹で、炭治郎の身体は震えた。

 

「か、還り、咲き」

『正解、だ』

 

震えた声で答えると、番人は布越しに口元を思い切り歪めながら言った。

 

『君の推察通り、大海原汐は一度致命傷を負い、ウタカタノ花の自己防御能力【還り咲き】を発現。汐の記憶と寿命、そして肉体の成長を対価に蘇生した。だから、君との肉体的年齢との差が失われた』

「そんな・・・!どうして汐がそんなことに・・・!?」

 

炭治郎が尋ねると、番人は首を横に振った。

 

『その時の記憶はすでに抹消されている。かつての汐の記憶と同様にな。それより話を戻そう』

 

悔しそうに顔を歪める炭治郎をよそに、番人は静かに語りだした。

 

『還り咲きを起こした汐は過去の記憶を失い、再び生命活動を開始した。その時に大海原玄海と今一度出会い、新たな力と人格を生み出した。それが君達がよく知る【大海原汐】というわけだ』

「じゃあ、俺が記憶の中で見たあれが、汐の本来の人格だっていうのか?」

 

炭治郎の言葉に、番人は静かにうなずいた。

 

『かつての汐は、どういうわけか花の影響が強く出ていた。その為感情が希薄で人としての心が形成されていなかった。通常は花の浸食がすすんでいくにつれ、人の心は失われていくのだが、汐は最初から特異だった』

 

番人は思い出すように首を傾けながら続けた、

 

『だが、玄海と出会い、君の家族に触れることで少しずつ、人としての心が作られていたのだろう。そのせいか、新たに生み出された人格は、あまりにも本能に忠実になってしまっているがな』

 

番人は小さく笑うが、その笑い声は虚しく響くだけだった。

 

『まあ、それだけではなく君ともう一度会いたいという無意識の願いも、今の人格を形成しているのだろう。汐にとって君はそれ程、心に刻まれている存在ということだ』

 

炭治郎は青い顔のまま、透き通る床を見つめた。薄赤色の小さな魚が、ゆっくりと足元を泳いでいく。

 

『君が気に病む必要はない。これは為すべくしてなったことだ。それに、君がそんな顔をしていては、汐は今度こそ壊れてしまうぞ』

「!!」

 

炭治郎は顔を上げて番人を見つめた。心なしか、少し体が震えているようだ。

 

『そのために私は切り離されてここに居るんだ。だから、頼む。汐を、彼女の心を支えてくれ・・・!』

 

番人の放ったその言葉は、今までとは異なる心の声。それを聞いた瞬間、炭治郎は全てを察した。

 

この場所の事も、番人の事も。

 

「勿論だ。でも、それだけじゃない。俺が守りたいのは、君もだ」

『わ、私も?』

 

炭治郎の思わぬ言葉に、番人は面食らったのか声を上ずらせた。

 

「君とは初めてあった気がしないと思っていたんだけれど、ようやくそれが分かった。君はずっと、汐の心の一部として汐が汐でいられるように守ってきたんだろう?本当の汐の人格を宿して」

 

『・・・・』

 

番人は言葉を失いながら、炭治郎に顔を向けた。

 

「君が汐から切り離されたなら、君だって汐の一部だ。だから汐を守るなら、君だって勿論守る。汐も、もう一人の汐である君も」

 

――だって全部そろって汐じゃないか。

 

炭治郎がそう言った瞬間、番人の布越しの顔に一筋の光が伝った。それに気づいたのか、炭治郎は慌てて近寄った。

 

「だ、大丈夫か?な、何か拭くものを・・・」

『ふふふ・・・』

 

番人は零れた涙を脱ぐながら、小さく笑った。嘲笑でも失笑でもない、嬉しさからの笑いだった。

 

『いや、君には本当に驚かされる。君という存在があったからこそ、大海原汐は人間として心を保ってきたのだろう。いや、君がいる限り、汐は人であり続けるだろう』

 

番人はそう言って、炭治郎に頭を下げた。

 

『感謝する、竈門炭治郎。君にまた会えて、本当に良かった』

「そんな、俺は・・・」

 

炭治郎が何かを言いかけた時、突然炭治郎の身体が白く発光し始めた。

 

『どうやら時間のようだ。本来なら君がここに現れること自体が特異だったからな。君は本当に、不可思議な存在だ』

 

番人は呟くように言うが、炭治郎には聞こえない。そのまま光は強くなり、やがて辺りを真っ白に染めた。

 

『だからこそ、私は信じている。君が、この悍ましい因縁を断ち切る、"心の鬼"を滅する刃になることを・・・』

 

番人はそう言って殺意の扉を見上げた。扉はただ静かに、番人を見下ろしているだけだ。

 

『もしその時が来たら、お前はどうする?正直私はもう、疲れ始めているんだよ・・・。だからもう・・・』

 

番人のかすれた声が、無意識領域に静かに響いた。

 

 

*   *   *   *   *

 

 

外から聞こえる鳥の声を聞いて、炭治郎はゆっくりと目を開けた。いつの間にか夜は明け、朝の光が窓辺から差し込んでいる。

 

(俺は、眠っていたのか・・・。じゃあ、あれは夢・・・か?)

 

段々と意識がはっきりしてきた炭治郎は、汐の事を思い出して慌てて体を起こした。

しかし汐は、炭治郎の目の前で静かな寝息を立てていた。

 

汐が傍にいる事に胸をなでおろしながら、炭治郎は先程の事を思い出していた。

 

(でも夢にしては凄く鮮明だった。もしもあれが本当なら、汐は・・・)

 

炭治郎は眠る汐を見て、悲しそうに目を細めた。

炭治郎が知らなかったところで、汐は死に至る程の傷を負い、花の力によって再び蘇った。

過去と寿命を犠牲にして。

 

(じゃあ汐は、あまり長く生きられないってことか・・・?)

 

還り咲きがどれほど寿命を減らすかは分からない。だが、それでも汐は命を削っても今を生きている。

鬼を殺し、花が生きるための世界にするため。

 

あまりにも理不尽で身勝手な理由だと炭治郎は思ったが、花がなければ自分は汐と出会うことはなかっただろう。

 

そして家族とは少し異なる思いを抱くことも、なかったかもしれない。

 

「汐・・・」

 

炭治郎は汐の名を呼び、もう一度手を握った。血の通った、温かいその手を。

 

「う・・・ん・・・」

 

すると、汐の瞼が微かに震え、口から小さな声が漏れた。

 

「っ!」

 

炭治郎は汐の手を放し、姿勢を正した。汐は身体をもぞもぞと動かしながら、ゆっくり目を開いた。

 

「あれ、あたし・・・」

 

汐がかすれた声でそう言うと、炭治郎は胸を抑えながら歯切れのいい声で言った。

 

「おはよう、汐」

 

その言葉に、汐はゆっくりと顔を向けようとして――

 

小さく悲鳴を上げて布団をかぶった。

 

「ええっ!?どうしたんだ汐!?」

 

汐の思わぬ反応に、炭治郎は慌てて立ち上がった。

 

「み、見ないで。今のあたしを見ないで・・・」

 

汐の声は震え、身体も震えているのが布団越しに伝わってきた。

炭治郎は座りなおし、汐に声を掛けようとしたときだった。

 

「あたし、あたし。あんたにまたみっともない姿を見せちゃった。あんたに悲しい思いをさせないって、泣いている顔をさせないって思ってたのに、またあんたを苦しめた」

「そんなこと・・・」

 

ない、と言いかけた炭治郎の言葉を、汐は遮った。

 

「でも、でもね。あたし、今までやってきたことを無駄になんてしたくない・・・」

 

汐は布団をかぶったまま、胸の内を吐き出すように言った。

 

「こんなへんてこな身体だけど、それでも、あたしは最後まで、大海原として最後の最後まで足掻いて、戦うから。必ず、皆を、あんたを守るから。だから、お願い。あたしと一緒に、いてくれる?」

 

汐の言葉に、炭治郎は言葉を失った。いつもの汐からすれば随分と小さな声だったが、決意が込められた迷いのない言葉だった。

 

こみ上がってくる熱いものをこらえながら、炭治郎は口を開いた。

 

「そんなの当り前だ!何があったって、俺は、俺達は汐の傍にいる!一人になんか、させない!!」

 

炭治郎の叫ぶような声は、汐の心に大きく響いた。揺らされた心は波紋のように広がり、やがて涙となりあふれ出す。

 

「ありがとう、ありがとう、炭治郎。あたし、あんたに出会えて、本当に良かった」

 

汐は涙ぐみながらも、炭治郎に感謝の気持ちを伝えた。だが、それでも布団からは出てこない。

 

「あの、汐。そろそろ顔を見せてくれないか?心配なんだ」

「それは駄目よ!」

 

汐は鋭く言って、ますます深く布団をかぶった。

 

「どうして?」

「だ、だって。あたし今酷い顔をしてるし、お、お風呂だって・・・」

 

汐は消え入りそうな声でそう言い、炭治郎は一瞬固まったが慌てて付け加えた。

 

「大丈夫だ!俺は汐からどんな匂いがしたって気にしな・・・ぶべっ!!」

 

だが、その言葉は汐の鉄拳により続けられることはなかった。

 

「馬鹿ぁ!!」

 

汐の悲鳴のような言葉を乗せて。

 

炭治郎は衝撃で椅子から転げ落ち、腰を強打した。殴られた頬からは、鈍い痛みが走る。

しかし炭治郎の心には、嬉しさがこみ上げてきた。

 

「な、なに笑ってんのよ?あんた、善逸のアホが移った?」

 

頬を抑えながらも嬉しそうにする炭治郎を、汐は怪訝な顔で見つめた。

 

「違う、違うんだ。汐が、いつもの汐が戻って来たんだって思ったら、嬉しくて・・・」

 

炭治郎はそう言って顔を上げた。そして汐の顔を見て、顔をほころばせた。

 

そこには、濁ったガラス玉のような目ではなく、どこまでも澄み切った海の底のような目があった。

今まで見たことのない程、美しかった。

 

「おかえり、汐」

 

そんな汐を見て、炭治郎の口からは自然と言葉が漏れた。汐は一瞬驚いた顔をしたものの、はにかみながら答えた。

 

「ただいま、炭治郎」

 

そしてそのまま、汐は炭治郎を見つめ、炭治郎もまた汐を見つめた。

 

目に入るのは、互いを映した透き通った瞳だけ。

それからそっと、ごく自然に顔を近づけた、その時だった。

 

「カァ!カァ!!」

 

外から鴉の鳴き声が聞こえ、二人は慌てて離れた。互いにそらした顔は、耳まで真っ赤になっていた。

 

「あ、そ、そうだ。俺、ご飯を作るよ。汐は昨日から何も食べてないだろう?」

「それはあんたも一緒でしょ?あたしも手伝うわ」

「いいよ。汐は休んでてくれ。俺が作るから。あとそれと、お風呂も沸かしておくよ」

 

炭治郎はそう言って足早に部屋を後にした。呆然としていた汐だが、ある事を思い出して顔を引き攣らせた。

 

「部屋、片付けないと・・・」

 

その後、炭治郎と一緒に部屋の掃除をすることになるのは言うまでもなかった。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

三十三章:不滅


その後、入浴を終えた汐は炭治郎と朝食を終えた後、散らかった部屋を二人で片づけた。

 

「忘れ物はないか?」

「うん、大丈夫」

 

二人は義勇の屋敷に向かうため、身支度を整え玄関を出た。

 

「じゃあ行こうか」

 

炭治郎はそう言って、汐に右手を差し出した。

 

「え?」

 

汐は驚いて炭治郎を見つめ、炭治郎は汐の顔をしばらく見つめた後、慌てて手を引っ込めた。

 

「ご、ごめん!俺、いつもの癖で・・・」

 

炭治郎は頬を赤く染めながら、顔を背けた。

 

「別に汐を子ども扱いしているんじゃなくて、あの、その・・・」

 

炭治郎は言葉が見つからず、しどろもどろになってしまう始末だ。

 

すると、汐は炭治郎の指に自分の指をからませた。

 

「!?」

 

炭治郎は驚いて汐の方を向いた。汐は顔を真っ赤にして、炭治郎から顔を逸らしていた。

 

「いいわよ」

「へっ!?」

「あんたと手をつなぐこと、嫌じゃないって言ってんの。それに、あたし嘘つきだから、しっかり捕まえていないと何処かへ行っちゃうかもしれないわよ?」

 

汐はそう言って炭治郎の目を見つめた。

 

「汐・・・」

 

炭治郎は一瞬言葉に詰まったが、汐としっかり向き合うとはっきりした声で言った。

 

「お前、まだどこか具合が悪いんじゃないか?しのぶさんに一旦見てもらった方がいいんじゃ・・・、いだだだだだだ!!!

 

だが炭治郎の言葉は、突如走った痛みによって悲鳴へと変わった。

 

汐が炭治郎の右手を、思い切り握りしめていたからだ。

 

炭治郎は悲鳴を上げながら汐の顔を見て、ひゅっと喉を鳴らした。汐は目を血走らせながら、「ぶちのめすわよ?」と言わんばかりの表情で炭治郎を睨みつけていた。

 

「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい!」

 

炭治郎はミシミシと骨が軋む音を聞きながら、自分の軽率な発言を心から悔やむのだった。

 

 

*   *   *   *   *

 

 

「あ!」

 

義勇の屋敷へ向かう道すがら、炭治郎は何かを思い出したように叫んだ。

 

「どうしたの?」

「俺、義勇さんに何の説明もしないで来ちゃったんだ!どうしよう・・・」

 

そう言って顔を青くする炭治郎に、汐もつられて困惑した顔をした。

その時だった。

 

「ソレナラゴ心配ナク~」

 

不意に声が聞こえて振り返ると、歩く二人に会わせてソラノタユウが飛んできた。

 

「冨岡義勇様ニハ、私カラ詳細ヲ伝エテ置キマシタノデ、ゴ安心クダサイ~」

「え、そうなのか?ありがとう」

 

炭治郎が礼を言うと、ソラノタユウは嬉しそうに鳴いた。

 

「あたしからも礼を言うわね。ありがとう、タユウ。それから、あんたにも心配かけちゃったわね」

「イエイエ~。私ハ当然ノ事ヲシタマデデス~。デスガ、悪イト思ウナラ、炭治郎サンヲ心配サセテハイケマセンヨ~」

「分かったわよ・・・」

 

汐が答えると、ソラノタユウは満足したのか空高く舞い上がった。

 

「話しは変わるけど、禰豆子はどうしてるのかしら?確かどこかに預けてあるのよね?」

「ああ。無惨に見つからないようにって、俺達も知らない場所にね」

 

そういう炭治郎の"目"は寂しげで、禰豆子を心から心配していることは火を見るよりも明らかだった。

 

「大丈夫よ、炭治郎。お館様一行を信じましょ?それに、あたし達が強くなって、禰豆子が見つかる前に無惨の野郎をぶっ潰せばいいのよ」

 

汐は両こぶしを握って力強く言った。あまりにも短絡的な思考に炭治郎は困惑するが、汐らしい言葉に安堵した。

 

少し歩いていくと、あたりは一面の竹林へと風景が変わっていった。普通の嗅覚である汐にもわかる程、竹の香りがあたりに漂う。

 

「そろそろ義勇さんの屋敷につくはずだ。ほら、あの【千年竹林】て書いてある岩があるから・・・」

 

炭治郎が言い終わる前に、近くで大きな音が聞こえた。

 

二人は顔を見合わせると、慌てて音がする場所へと走り出した。

 

そこで見たものに、二人は目を見開いて口を開けた。

 

義勇ともう一人、不死川実弥が剣を交えていた。

 

「な、なんであいつがここに?」

 

呆然とする汐の目の前で、実弥は木刀を構え大きく息を吸った。

 

――風の呼吸・壱ノ型――

――塵旋風・削ぎ

 

実弥はらせん状の風を纏いながら、凄まじい速度で義勇に斬りかかった。その一撃を辛うじて躱すも、義勇の木刀に亀裂が走った。

 

その速度に汐と炭治郎は驚くものの、二人の動きを目で追うことができていた。

 

「オラオラオラァ、どうしたァ!!」

 

実弥は大声を上げながら、義勇に猛攻撃を叩き込んだ。

 

「テメェは俺たちとは違うんじゃねえのかよォ!!」

 

(あっ・・・、それはそういう意味じゃ・・・)

 

その言葉を聞いた炭治郎は、悲しそうな表情を浮かべた。

 

しかし義勇はその言葉に答えることなく、静かに構えた。

 

――水の呼吸・肆ノ型――

――打ち潮

 

義勇の流れるような剣戟が実弥に向かうが、彼は軽やかな動きで身体を宙に投げ出しそれを回避した。

 

「遅ェんだよォォ!!」

 

――風の呼吸・伍ノ型――

――木枯らし颪

 

実弥はその体制のまま、身体を回転させて木刀を振り下ろした。

 

――水の呼吸・漆ノ型――

――雫波紋突き

 

義勇は振り向きざまに木刀を突き出し、広範囲の技に対処した。その衝撃で互いの木刀は真っ二つに折れてしまい、決闘を続けることは不可能になった。

 

だが、これで終わりではなかった。

 

「よォし、じゃあ次は素手で殺し合うかァ」

 

実弥は両手の骨を鳴らしながら、血走った目で義勇を睨みつけた。

 

「待った待った、待ったァ!!」

 

実弥から汐にも引けを取らない殺意を感じた炭治郎は、慌てて竹林から飛び出した。

 

「ちょっと待ってくださいよ。殺し合ったらいけませんよ!」

 

炭治郎は二人の間に入り込み、両手を広げて立ちはだかった。

 

「うるせェんだよ、テメェはァ。そもそも接触禁止だろうがァ。先刻から盗み見しやがって、このカスがァ」

 

実弥は歯を剥き出しながら、腹立たし気に炭治郎を睨みつけた。

 

しかし炭治郎は、実弥の殺気にひるむことなく言い放った。

 

「おはぎの取り合いですか?」

「はぁ?」

 

炭治郎の言葉に汐は思わず声を上げ、実弥は更に目を鋭くさせて言った。

 

「ふざけてやがるなァァ・・・」

「えっ?いやいや真面目です!!不死川さん、おはぎ大好きですよね?」

 

炭治郎は慌てながらも、至極真面目な表情で言った。

 

「不死川さんから稽古つけてもらっていた時、すっとほのかに餅米とあんこの匂いしてたし、戻ってくるたび抹茶とおはぎのいい香りがしてたので・・・てっきり・・・」

 

実弥は言葉を発しないまま、視線を下に向けていた。

しかし汐は気づいていた。彼の身体が微かに震え、頬には汗が浮かんでいることに。

 

「不死川は・・・、おはぎが好きなのか・・・」

 

義勇が呟くと、炭治郎は空気が読めないのか早口でまくし立てた。

 

「おいしいですよね!おはぎ。こしあんですか?つぶあんですか?俺もお婆ちゃんのおはぎが大好きで・・・」

 

しかし炭治郎の言葉は、実弥の振り上げられた鉄拳によって中断された。

炭治郎の身体は空高く舞い上がり、放物線を描いて地面に落ちた。

 

「いい加減にしやがれ!クソガキがァ!!」

 

実弥は全身を沸騰しているのかと思うほど真っ赤にさせると、そのまま背を向け立ち去ろうとした。

だが、誰かに袖を掴まれ、思わず足を止めた。

 

「何しやがる・・・!」

 

実弥が振り返ると、汐が袖を千切れんばかりに掴んでいた。

 

「テメェェェ・・・、炭治郎に何してくれてんだぁぁぁ・・・!」

 

汐は恐ろしい形相で実弥を睨み付けながら、地を這うような声を発した。

 

実弥は一瞬だけ身体を震わせたが、すぐに視線を鋭くして言った。

 

「なんでテメェがここに居やがる。接近禁止だろうがァ」

「んなこと今はどうでもいいんだよ。今すぐ炭治郎とついでに義勇さんに謝れ」

 

汐の言葉に、実弥のこめかみに青筋が浮かんだ。

 

「大海原、違うんだ。俺は・・・」

 

義勇が何か言おうと口を開くが、興奮状態の汐の耳には入らない。

 

「あんたがあたしを蝶屋敷まで運んでくれたことは感謝している。でも、それとこれとは話が別よ。さっさとしやがれ、この××××野郎!」

 

汐が放った下品極まりない言葉に、実弥の顔面が大きく引き攣った。

 

「テメェ・・・!!」

 

実弥は全身を震わせると、無理やり汐を振り払って向き合い睨みつけた。

 

汐も負けじと睨み返すと、実弥は大きく息を吸い大声で叫んだ。

 

「女がそんなクソみてェな言葉を使うんじゃねェ!!」

 

その凄まじい音量に汐はたじろぎ、実弥はそのまま背を向けた。

 

「あ、ちょっと待ちなさいよ!謝れこらぁぁ!!」

 

汐は立ち上がって悪態をつくが、実弥は振り返ることなく去って行った。

 

「大海原、炭治郎を介抱したい。手伝ってくれるか?」

 

汐は歯がゆい思いをしながらも、気を失ってしまった炭治郎の元へと駆け寄った。

 

炭治郎は顎を強打されたせいか、目を回して微かに泡も吹いていた。

義勇は自分の羽織を脱いで炭治郎の頭の下に敷き、汐も羽織を脱ぐと身体の上にそっとかけた。

 

「驚かせてしまってすまなかった」

「別に構わないわよ。あたしだってあんたにいろいろと迷惑をかけたし。タユウから詳細は聞いてるんでしょ?」

 

汐が尋ねると、義勇は表情を変えないまま頷いた。

 

「まあそんなわけで、あたしは普通の人間じゃなかった。でも、鬼を倒して大切な人を守りたいって気持ちは嘘じゃない。だからあたしは、鬼殺隊士大海原汐と言う"人間"として最後まで戦うわ」

 

汐は決意に満ちた声でそう言った。その曇りない瞳に、義勇は初めて汐に会った時のことを思い出していた。

 

「ところで、なんであいつがここに居たの?いくら仲が悪くても、今仲間割れしてる場合じゃないと思うんだけど」

「そうじゃない。実は・・・」

 

義勇が詳細を言いかけた時、

 

「あららっ?あれ?」

 

気を失っていた炭治郎が、素っ頓狂な声を上げながら起き上がった。

 

「おはよう、炭治郎」

 

汐が声を掛けると、炭治郎はきょとんとした表情でこちらを見た。

 

「気分はどう?あんた、あいつにぶん殴られて気絶してたのよ?」

「そうだったのか。で、不死川さんは・・・」

「不死川は怒ってどこかへ行ってしまった」

 

汐の代わりに義勇が答えた。

 

「そうですか・・・。どうして喧嘩してたんですか?」

 

炭治郎が尋ねると、義勇は視線を合わせないまま口を開いた。

 

「喧嘩ではなく柱稽古の一環で、柱は柱同士で手合わせしているんだ」

「何だ、そうだったの」

「どうりで木刀だったし・・・そうかそうか」

 

汐と炭治郎は納得したように手を鳴らした。

 

「邪魔してすみません」

「いや、そんなことはない」

 

謝る炭治郎に、義勇は首を横に振ってこたえた。

 

「俺は上手く喋れなかったし、不死川はずっと怒っていたから。でも、不死川の好物がわかって良かった」

 

義勇は、明後日の方向を向きながら呟くように言った。

 

「今度から懐におはぎを忍ばせておいて、不死川に会う時あげようと思う」

「あー!それはいいですね」

 

義勇の突拍子もない提案を、炭治郎は何の疑いもなく肯定した。

 

「そうしたらきっと仲良くなれると思う」

「俺もそうします!」

 

義勇は微かに笑みを浮かべ、炭治郎は満面の笑みで賛同する中、汐は静かに口を開いた。

 

「いいわね、それ。じゃああたしは、激辛唐辛子を仕込んだ特製おはぎをあいつの口の中に放り込んでやるわ!」

 

二人と歯は異なり、汐は邪な笑みを浮かべながらそう言った。

 

「ところで大海原。気になっていたんだが、さっき不死川に言っていたあの言葉の意味はなんだ?」

「言葉?」

 

義勇の言葉に炭治郎が聴き返すと、汐の顔がみるみる青くなった。

 

「ああ。さっき大海原が不死川と言い争っていた時、聞いたことのない言葉を発していたんだ。確か・・・」

 

義勇が口を開いた瞬間、

 

「あぎやあああああ!!」

 

汐は奇声を上げながら飛び掛かり、義勇の口を塞いだ。

 

「言わなくていいの!あんたにはまだ早い!!」

「ふぁが(だが)・・・」

「い・う・な!それ以上言ったら、口を引き千切るわよ・・・!」

 

汐が殺気を孕んだ目を義勇に向けると、義勇と炭治郎は同時に身体を震わせた。

 

(汐、前より狂暴になってないか・・・?俺はとんでもない人を好きになってしまったのかも・・・)

 

炭治郎は心の中で、そう小さく嘆くのだった。

 

一方、義勇の屋敷を後にした実弥は、腹立たし気に舌打ちをしながら歩いていた。

 

(くそがァ、いったい何なんだアイツらはァ。調子の狂ったガキ共だぜ本当に)

 

実弥は苛立ちと恥ずかしさを入り混ぜながら、屋敷へ向かって足を進めていたその時だった。

 

不意に背後から、草がこすれる物音が聞こえた。

実弥は振り返ると同時に、反射的に動いたものをつかみ取った。

 

手の中で何かが潰れる手ごたえを感じ、そっと手を開く。

 

「なんだァァ、これはァ」

 

手を離せば、そこには奇妙なものが血を滴らせながら落ちていった。

丸い形に細い触手のようなものが付いており、その中心には大きく【肆】と刻まれていた。

 

 

*   *   *   *   *

 

同時刻。

 

産屋敷邸のある一室。そこでは全身に包帯を巻いた輝哉が、布団に仰向けに横たわっていた。

病の証である痣はほぼ全身に広がり、口からはか細い呼吸音が漏れている。

 

彼の傍には妻であるあまねが一人で、静かにたたずんでいた。

 

その時だった。

 

不意に砂利を踏む音が聞こえ、輝哉はゆっくりと口を開いた。

 

「・・・やあ、来たのかい」

 

その穏やかな声は、夜の闇の中に静かに響く。

 

「・・・初めまして、だね。鬼舞辻・・・無惨」

「・・・何とも、醜悪な姿だな。産屋敷」

 

名を呼ばれたその男は、口元を歪ませてほくそ笑んだ。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



時間は少し遡り

 

――水の呼吸・肆ノ型――

――打ち潮

 

汐と炭治郎は義勇との稽古の合間に、参考にと水の呼吸を見せてもらっていた。

義勇が繰り出す美しい技に、炭治郎は勿論汐も釘付けになっていた。

 

「前々から気にはなっていたんだけれど、義勇さんの技は炭治郎のものとは別物に見えるわね。見事なものだわ」

 

汐は両手を打ち鳴らしながら称賛の声を上げた。

 

義勇の全ての技を見終わった後、炭治郎は何かを思い出したかのように肩を震わせた。

 

「そうだ、汐の海の呼吸を義勇さんに診てもらったらどうだ?」

「随分唐突ね」

 

その思わぬ提案に、汐は少し呆れたように答えた。

 

「でも義勇さんって他人にあんまり興味なさそうだし、あたしの技なんか見ても面白くないんじゃない?」

「流石に失礼だぞ、汐。いくら義勇さんが口下手で人と関わるのが苦手だからって、そんな言い方は・・・」

「いや、あんたの方がよっぽど失礼な事言ってるわよ」

 

炭治郎の言葉に汐は冷静に突っ込むと、義勇は少し遠慮がちに口を開いた。

 

「いや、興味がない訳じゃない。俺も様々な呼吸は知っているが、海の呼吸というものはよく知らない。名前からするに、水の呼吸からの派生なのだろうが・・・」

「違うわよ」

 

義勇の言葉を汐は否定し、二人は驚いたように目を見開いた。

 

「元々海の呼吸は、大海原家が暴走したワダツミの子を抹殺するために編み出した剣術だったらしいのよ。それがいろいろあって鬼を倒す剣術へと変わっていったの。水の呼吸と似ているのは、大海原家が使い手と仲が良かったから参考にして・・・」

「ちょっと待ってくれ。何で汐がそんなことを知っているんだ?」

 

炭治郎が尋ねると、汐は目を伏せながら少し悲しそうに答えた。

 

「話したと思うけど、"ウタカタノ花"は歴代のワダツミの子の記憶を保持している。その中に微かだけどそんな記憶があったのよ。こんなのがわかるっていう事は、いよいよ"ウタカタノ花"の浸食が進んでいるってことね・・・」

 

汐はそう言って胸のあたりを左手で掴んだ。一気に空気が重苦しくなり、炭治郎と義勇は口を閉ざしてしまう。

 

「なーんてね。んな事今のあたしには関係ないわ。さて、海の呼吸を見せてあげるからちょっとどいて」

 

汐は明るく笑うと、炭治郎を押しのけて広い場所へと足を進めた。

 

そして目を閉じ、精神を集中させてから大きく息を吸った。

 

――海の呼吸・壱ノ型――

――潮飛沫

 

低い姿勢から跳躍し、まるで飛び交う飛沫のように汐は木刀を振り抜いた。

 

――弐ノ型――

――波の綾

 

かと思えば、今度は波間を泳ぐような緩やかな足運びで木刀を振るう。

 

穏やかさと荒々しさを兼ねそろえた、文字通り海のような動きに、炭治郎は勿論義勇も思わず魅入るのだった。

 

それから時間は経ち、いつの間にかあたりは暗くなり夜の帳が降りようとしていた。

 

「うわっ、もう暗くなってる!?」

 

余程夢中になっていたのか、汐は驚いたように声を上げた。

 

「それだけ汐が集中してたってことだろう?義勇さんもありがとうございました」

「ありがとう」

 

二人は義勇の方に向き合うと、深々と頭を下げた。

 

「俺は礼を言われるようなことはしていない。むしろ、礼を言うのはこちらの方だ。海の呼吸、中々興味深かった」

「面と向かって言われると照れるわね。でも、あんたに興味を持ってもらえてよかったわ。ところで・・・」

 

汐は小さくため息を吐くと、ゆっくりと口を開いた。

 

「あんたね、人と話す時はきちんとこっちを向きなさいよ。会話の基本中の基本よ、それ」

「・・・尽力する」

「尽力する以前の問題だと思うわよ。炭治郎、あんたも何か言ってやってよ」

 

汐に話を振られ、炭治郎は面食らいながらも何かを言おうとした、その時だった。

 

「カァ、カァ!!」

 

とつぜん鴉がけたたましく泣き喚き、汐達の元へ飛び込んできた。

 

 

 

*   *   *   *   *

 

酷く冷たい風が、二人の間を静かに通り過ぎていく。

 

「ついに・・・私の・・・元へ来た・・・」

 

輝哉のかすれた声は、風に乗って静かに響いた。

 

「今・・・目の前に・・・、鬼舞辻・・・無惨」

 

だが、その名を呼ぶ声は、とてもはっきりとしていた。

 

「我が一族が・・・鬼殺隊が・・・、千年・・・追い続けた・・・鬼・・・」

 

輝哉はそういうと、視線だけを妻がいるであろう方向に向けた。

 

「あまね・・・。彼は・・・どのような・・・姿形を・・・している・・・?」

 

夫の言葉に、あまねは無惨から視線を逸らさないまま答えた。

 

「二十代半ばから後半あたりの男性に見えます。ただし瞳は紅梅色。そして瞳孔が猫のように縦長です」

 

あまねは声を震わせることもなく、淡々と無惨の外見的特徴を口にした。

 

「そうか・・・」

 

輝哉はそう答えると、言葉を途切れさせながらも口を開いた。

 

「そう・・・。君は・・・来ると・・・思っていた・・・。必ず・・・」

 

輝哉は言葉を切り、しっかりと目の前を見据えて言った。

 

「君は私に・・・、産屋敷一族に酷く腹を立てていただろうから・・・、私だけは・・・君が・・・君自身が殺しに来ると・・・思っていた・・・」

 

流れてくる輝哉の言葉に、無惨は静かに答えた。

 

「私は心底興ざめしたよ、産屋敷」

 

期待外れだと言いたげに、無惨は輝哉を見下ろしながら言った。

 

「身の程も弁えず千年にも渡り、私の邪魔ばかりしてきた一族の長がこのようなザマで。醜い。何とも醜い」

 

無惨は吐き捨てるように言った。

 

「お前からはすでに屍の匂いがするぞ、産屋敷よ」

 

無惨がそう言うと、輝哉は痣が侵食した細い腕に力を込め、身体を震わせながら起き上がった。

 

「そうだろうね・・・。私は・・・、半年も前には・・・医者から・・・数日で死ぬと・・・言われていた」

 

無理をした反動か、輝哉の口からは血が零れ落ち布団に染みを作っていく。

 

「それでもまだ・・・私は生きている・・・。医者も・・・言葉を・・・失っていた」

 

――それもひとえに・・・、君を倒したいという一心ゆえだ・・・、無惨

 

輝哉は包帯の隙間から、見えないその目をしっかりと無惨の方へ向けた。

 

「その儚い夢も今宵潰えたな。お前はこれから私が殺す」

 

無惨は淡々と言葉を紡いだ。

 

「君は・・・知らないかもしれないが・・・君と私は同じ血筋なんだよ・・・」

 

あまねに身体を支えてもらいながら、輝哉は息を切らしつつそう言った。

 

「君が生まれたのは・・・千年以上も前の事だろうから・・・私と君の血はもう・・・近くないけれど・・・」

「何の感情もわかないな。お前は何が言いたいのだ?」

 

無惨は興味がないと言わんばかりの表情を、輝哉に向けた。

 

「君のような怪物を・・・一族から出してしまったせいで・・・、私の一族は・・・呪われていた・・・」

 

喉からか細い呼吸音を響かせながらも、輝哉はかすれた声で紡いだ、

 

「生まれてくる子供たちは皆、病弱ですぐに死んでしまう・・・。一族がいよいよ絶えかけた時、神主から助言を受けた・・・」

 

――同じ血筋から鬼が出ている・・・。その者を倒す為に心血を注ぎなさい・・・。そうすれば一族は絶えない・・・

 

「代々神職の一族から妻をもらい・・・子供も死にづらくなったが・・・、それでも我が一族の誰も・・・、三十年と生きられない・・・」

「迷言もここに極まれりだな。反吐が出る。お前の病は頭にまで回るのか?そんな事柄は何の因果関係もなし」

 

無惨は心底軽蔑していると言った表情を浮かべながら、嘲るように言った。

 

「なぜなら私には何の天罰もくだっていない。何百何千という人間を殺しても私は許されている。この千年、神も仏も見たことがない」

 

無惨の声は自信に満ち溢れ、恐れなど微塵もないようだった。

 

「君は・・・、そのように物を考えるんだね・・・」

 

輝哉はそんな無惨を責めることもなく、咳き込みながらも言葉を紡いだ。

 

「だが、私には私の・・・考え方がある。無惨・・・、君の夢は何だい?」

 

思わぬ問いかけに、無惨は思わず口を閉じ輝哉を見据えた。

 

「この千年間・・・、君は一体・・・どんな夢を見ているのかな・・・」

 

輝哉の言葉を聞きながら、無惨は得も言われぬ奇妙なものを感じていた。

 

(奇妙な感覚だ・・・。あれほど目障りだった鬼殺隊の元凶を目の前にして憎しみが沸かない。むしろ)

 

無惨はふと輝哉から視線を逸らし、屋敷の方へと向けた。

幼い少女の歌声が、聞こえてくる。

 

「ひとつとや、一夜明くれば賑やかで、賑やかで。お飾り立てたり松飾り、松飾り」

 

そこには輝哉の娘と思しい白髪の少女二人が、紙風船を飛ばしながら戯れていた。

 

「二つとや二葉の松は、色ようて色ようて。三蓋松は上総山、上総山」

 

それは主に元旦や新春に歌われるわらべ歌、正月の数え歌だった。

 

歌、を聞いて無惨は微かに眉をひそめた。まるで歌というものを嫌悪するかのように。

 

(・・・この奇妙な懐かしさ、安堵感、気色が悪い)

 

無惨は胸の中に湧き上がってくるものを、心から嫌悪するように強く顔を歪めた。

 

(そしてこの屋敷には四人しか人間がいない。産屋敷と妻、子供二人だけ。護衛も何もない・・・)

 

てっきり敵襲に備え、柱の一人や二人ほどはいると思った無惨は、その警備の甘さに拍子抜けした。

 

「当てようか、無惨」

 

不意に発せられた声に、無惨の意識は再び輝哉へと向けられた。

 

「君の心が私にはわかるよ。君は永遠を夢見ている・・・。不滅を夢見ている・・・」

「・・・・、その通りだ」

 

無惨は思案するように言葉を切ったが、すぐに淡々と答えた。

 

「そしてそれは間もなく叶う。禰豆子を手に入れさえすれば」

 

太陽を克服した唯一の鬼、竈門禰豆子。今の無惨が喉から手が出る程欲しい、稀有な存在。

それは千年間無惨がずっと心待ちにしていた、完全な存在になるための鍵。

 

しかし輝哉は、穏やかな声で静かに否定した。

 

「君の夢は叶わないよ、無惨」

 

そう言い切る彼に一瞬だけ腹立たしさを感じるが、それもすぐに溶けるように消えた。

 

「禰豆子の隠し場所に随分と自信があるようだな。しかしお前と違い、私にはたっぷりと時間がある」

「君は・・・思い違いをしている」

「何だと?」

 

自分の言葉を悉く否定され、無惨は微かに眉を潜めながら返した。

 

「私は永遠が何か・・・知っている。永遠とは人の想いだ。人の想いこそが永遠であり、不滅なんだよ」

「下らぬ・・・、お前の話には辟易する」

 

無惨は、湧き上がってくる不快感を隠そうともせずに言い放った。

 

「この千年間、鬼殺隊は無くならなかった。可哀想な子供たちは大勢死んだが、決して無くならなかった」

 

輝哉の心を震わせる優しい声が、静かに響く。

 

「その事実は今、君が・・・くだらないと言った、人の想いが不滅であることを証明している」

 

遠くで娘たちが砂利を踏む音が聞こえた。

 

「大切な人の命を理不尽に奪った者を許さないという想いは永遠だ。君は誰にも許されていない。この千年間、一度も」

 

先程無惨が言った言葉を、輝哉は全て真っ向から否定した。

 

「そして君はね、無惨。何度も何度も虎の尾を踏み、龍の逆鱗に触れている。本来なら一生眠っていたはずの虎や龍を君は起こした」

 

輝哉の脳裏には自分を慕ってくれた柱と竈門兄妹、そして汐の姿が浮かぶ。

皆鋭い視線を、無惨に向けていた。

 

「彼らはずっと君を睨んでいるよ。絶対に逃がすまいと」

 

それから、と言いたげに、輝哉は表情を緩めながら言葉を紡いだ。

 

「私を殺した所で、鬼殺隊は痛くも痒くもない。私自身はそれ程重要じゃないんだ。この・・・人の想いとつながりが、君には理解できないだろうね、無惨。なぜなら君は・・・、君たちは」

 

――君が死ねば、全ての鬼が滅ぶんだろう?

 

その言葉に、無惨は思わず目を見開いた。

 

「空気が揺らいだね・・・。当たりかな?」

「黙れ」

 

無惨は視線を鋭くすると、静かに輝哉の元へと近づいた。

 

「うん、もういいよ。ずっと君に言いたかったことは言えた」

 

輝哉は臆することもなくそう言い、あまねはそんな夫の傍を離れまいと寄り添っていた。

 

「最期に・・・、ひとつだけいいかい?」

 

輝哉は無惨を見上げながらそう言った。

無惨が怪訝な顔をすると、輝哉は相も変わらず静かに言葉を紡いだ。

 

「私自身はそれ程重要でないと言ったが・・・、私の死が無意味なわけではない。私は幸運なことに鬼殺隊・・・、特に柱の子達から慕ってもらっている」

 

輝哉の声は最初の時とは別人のように、はっきりと無惨の耳に届いていた。

 

「つまり私が死ねば、今まで以上に鬼殺隊の士気が上がる・・・」

 

それは、彼からの最後の警告だった。

 

気づいているのかそうでないのか。無惨は鋭い左手の爪を輝哉に向けながら言い放った。

 

「話は終わりだな?」

「ああ・・・。こんなに話を聞いてくれるとは思わなかったな・・・」

 

心底くだらないと言いたげな無惨の声とは対照的に、輝哉は心から嬉しかったと言わんばかりに笑みを浮かべた。

 

「ありがとう、無惨」

 

まるで友人と別れるような声色で、輝哉は感謝の言葉を述べた。

 

その頃。

 

「緊急招集ーーーッ!!緊急招集ーーーッ!!」

 

鴉の鋭い声が、森中に木霊する。

その後ろをすさまじい速さで追いかけるのは、風柱・不死川実弥。

 

「産屋敷邸襲撃ッ・・・。産屋敷邸襲撃ィ!!」

(お館様・・・!!)

 

かつてない程の非常事態に、その顔は青ざめ、大量の脂汗が浮かんでいた。

 

その報せは他の柱達の元にも届き、伊黒は顔を真っ青にしながら、蜜璃は涙目になりながら、必死に産屋敷邸を目指す。

 

無一郎、しのぶ、義勇。そしてその後ろから汐と炭治郎も彼の後に続き、全速力で駆け抜けた。

 

(間に合え・・・っ!!)

 

最悪の事態を振り払うように、汐達は縋る想いで輝哉の元へ急いだ。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

参(再投稿・あとがきにお知らせあり)

時間は遡り。

 

緊急の柱合会議が終わった柱達は、退室しようとする義勇を無理やり引き留めた後、悲鳴嶼の提案で今後の事を話し合っていた。

今後の事と言うのは、鬼が出現しなくなったことにより時間が取れるようになったため、柱達による大規模な一般隊士の訓練をするという話だった。

 

その提案に皆は賛同し、具体的な日時と内容を事細かく決めた。

 

やがて話し合いが終わった後、実弥が徐に手を上げた。

 

「お館様の事で話がある。少しいいかァ?」

 

皆が視線を向けると、実弥は真剣な面持ちで口を開いた。

 

「これからの事に備えて最低でも二人、お館様の護衛につけるべきだぜェ。何とかできねえのか、悲鳴嶼さんよォ」

「・・・無理だな・・・」

 

悲鳴嶼は静かに首を横に振った。

 

「私も十九で柱となり八年間言い続けているが、聞き入れてはくださらぬ・・・」

 

数珠をかき鳴らしながら、悲鳴嶼は静かに涙を流してそう言った。

 

「柱と言う戦力は、己一人の為に使う者ではないとの一点張り・・・、困ったものだ」

 

その言葉を蜜璃は、悲しげな表情で聞いていた。

 

「産屋敷家の歴代当主は皆、誰一人として護衛をつけなかったそうですね」

 

しのぶの言葉を聞いて、皆難しい顔で目を伏せていた。

 

何とも陰鬱な雰囲気のまま、会議は幕を閉じたのだった。

 

*   *   *   *   *

 

(お館様、お館様)

 

実弥はわき目も振れず、無我夢中で屋敷を目指す。木々をかき分け、闇の中をひたすら走る。

 

どのくらいは知っただろうか。産屋敷邸の一部が木々の間からかすかに見えた。

 

(見えた!!屋敷だ!!)

 

屋敷には損傷は見られず、敵の気配も感じない。それを見た実弥の胸に微かに安堵が沸き上がった。

 

(大丈夫、間に合う。間に合っ・・・)

 

だが、その安堵は次の瞬間粉々に砕け散った。

 

突然凄まじい爆発音が響き渡り、屋敷が木っ端みじんに吹き飛んだのだ。

 

一番近くにいた実弥は勿論、蜜璃は真っ青な顔で頭を抱え、無一郎、伊黒、しのぶは呆然と真っ赤に燃え上がる産屋敷邸を呆然と見つめていた。

 

その光景は汐達の目にもしっかりと焼き付いていた。

 

(爆薬・・・!!大量の・・・!!)

 

炭治郎のよく聞く鼻はそのほかの匂いもとらえていた。

 

(血と肉の焼け付く匂い!!)

 

そんな中、汐はただならぬ気配を感じ身を震わせた。そして誰よりも早く屋敷に向かって走り出した。

 

「あっ、汐!!」

 

炭治郎の制止も効かず、汐は義勇の脇をすり抜け凄まじい速さで駆けてゆく。

 

汐は気づいていた。いや、気づいていたのは汐の中に根を張るウタカタノ花だった。

 

(奴が、奴がいる!!)

 

花の殺意が血液のように汐の身体を流れ、思考すら支配しているようだった。

 

(殺す、殺す!!殺せる・・!!)

 

汐は氷のような殺意を纏ったまま、飛ぶように駆けるのだった。

 

その頃、産屋敷邸では。

 

「ぐっ」

 

燃え盛る炎の中に、うめき声を上げながら動く影が一つあった。

それは上半身の皮膚の大半が焼け爛れた、鬼舞辻無惨だった。

 

「産ッ屋敷ィィッ」

 

無惨は恨みの篭った声を上げながら、つい先ほどの事を思い出していた。

 

(あの男の顔!!仏のような笑みを貼りつけたまま、己と、妻と子供諸共爆薬で消し飛ばす!!)

 

無惨は何とか冷静さを保とうと、必死で思考を巡らせた。

 

(私は思い違いをしていた。産屋敷という男を人間にあてる物差しで測っていたが、あの男は完全に常軌を逸している)

 

無惨も人間の中に紛れて生きてきた以上、いろいろな人間を見てきた。彼に媚びるもの、憚ろうとするもの、様々だ。

しかし産屋敷輝哉という男は、そんな人間などがちっぽけに思える程だった。

 

(何か仕掛けてくるとは思っていた。しかしこれ程とは)

 

無惨は体を再生させながら、自分の身体に突き刺さっていたものを抜いた。

それは鋭い棘の付いた細かい撒菱のようなもの。殺傷力を上げ一秒でも無惨の再生を遅らせる為に、爆薬の中に仕込まれていたものだった。

 

無惨は気づいた。これで終わりではない。まだ何かある、と。輝哉はこの後何かをするつもりだ、と。

 

(人の気配が集結しつつある。おそらくは柱。だが、これではない。もっと別の何か、自分自身を囮に使ったのだ。あの腹黒は)

 

無惨は思い出していた。輝哉の中には無惨への怒りと憎しみが、蝮のように真っ黒な腹の中で蜷局を巻いていたことに。

 

(あれだけの殺意をあの若さで見事に隠しぬいたことは驚嘆に値する。が、妻と子供は承知の上だったのか?)

 

無惨は彼の行動に混乱しつつも冷静さを取り戻していた。いくら考えても、その本人は爆発に巻き込まれ生きてはいない。

考えるだけ無駄だった。

 

(動じるな、間もなく身体も再生する)

 

焼け爛れた皮膚は治り、砕けた骨も元通りになろうとしたとき、無惨は眼前に赤黒い何かが浮かんでいることに気づいた。

 

(肉の種子、血鬼術!!)

 

無惨が認識すると同時に、種子から無数の棘が瞬時に飛び出し無惨の体中を突き刺した。

 

(固定された。誰の血鬼術だ、これは。肉の中でも棘が細かく枝分かれして、抜けない)

 

無惨は全く予想していなかった血鬼術に一瞬混乱するが、すぐに冷静さを保とうと試みた。

 

(いや、問題ない。大した量じゃない。吸収すればいい)

 

全ての鬼の始祖である無惨にとって、鬼のものである血鬼術は自分の身体の一部のようなものだった。

すぐさま集中し、棘の血鬼術を吸収し始めた。

 

その時だった。

 

腹部に衝撃を感じ、無惨は意識をそちらに向けた。

 

何かがいる!

 

無惨は反射的に左腕で"それ"を掴み、そこに現れた者を見て驚愕を露にした。

 

「珠世!!」

 

珠世は苦悶の表情を浮かべながらも、左腕を無惨の鳩尾に突き刺していた。

 

「何故お前がここに・・・」

 

思わぬ襲撃者に無惨が声を荒げると、珠世は無惨を見据えながら言い放った。

 

「この棘の血鬼術は、貴方が浅草で鬼にした人のものですよ」

 

無惨は一瞬だけ眉根を動かすが、珠世の身体に張り付けられている奇妙な文様の紙を見て、ここまで接近されるまで気づかなかったのは目くらましの血鬼術のせいだと勘づいた。

 

(目的は?何をした?何のためにこの女は)

 

「吸収しましたね、私の拳を。拳の中に何が入っていたと思いますか?」

 

しかし無惨が答える前に、珠世は高らかに叫ぶように言った。

 

「鬼を人間に戻す薬ですよ。どうですか、効いてきましたか?」

 

その言葉が無惨の耳には言った瞬間、無惨ははっきりと表情を変えた。

 

「そんなものができるはずは・・・」

「完成したのですよ。随分状況が変わった。私の力だけでは無理でしたが」

 

珠世の声ははっきりとしており、嘘を言っているようには聞こえなかった。

無惨は左腕を無理やり動かし、珠世の頭を掴んだ。

 

「・・・お前も大概しつこい女だな、珠世。逆恨みも甚だしい」

 

そのまま鋭い爪を珠世の頭と目に突き刺しながら、無惨は呆れたように言った。

 

「お前の夫と子供を殺したのは誰だ?」

 

無惨の言葉に、珠世の表情が大きく歪んだ。

 

「私か?違うだろう。他ならぬお前自身だ。お前が喰い殺した」

「そうだ!鬼は人を殺して喰べる。決して逃れられなかった宿命だ」

 

珠世は見開いた両目から大粒の涙を流しながら叫んだ。

 

「そんなことがわかっていれば、私は鬼になどならなかった!!病で死にたくないと言ったのは!!子供が大人になるのを見届けたかったからだ・・・!!」

 

珠世の血を吐くような鋭い声が、炎が燃え上がる音に交じって響き渡った。

 

「世迷言を」

 

そんな珠世を、無惨は嘲笑った。

 

「その後も大勢人間を殺していたが、あれは私の見た幻か?楽しそうに人間を喰っていたように見えたがな」

「そうだ自暴自棄になって大勢殺した。その罪を償うためにも――」

 

――私はお前と、ここで死ぬ!!

 

「悲鳴嶼さん、お願いします!!」

 

珠世の声と共に、背後で人の気配がした。無惨が振り返れば、そこには両目から涙を溢れさせた悲鳴嶼が、棘の付いた鋼鉄球を構えながら突っ込んできていた。

 

「南無阿弥陀仏!!」

 

悲鳴嶼はそのまま無惨の頭部に、その鉄球を叩きつけた。骨が砕ける鈍い音と共に、肉片が飛び散った。

 

悲鳴嶼にその光景は見えないが、音と充満する血の匂いで、無惨の頭部が破壊されたことを察した。

 

しかし悲鳴嶼の表情は硬いままだった。

 

悲鳴嶼は思い出していた。初めて産屋敷輝哉という人に出会った時のことを。

無実の罪で投獄されていた所を助けてくれた、命の恩人。

 

出会った時の輝哉は十四歳で、悲鳴嶼は十八歳だった。

 

だが、その立ち振る舞いは四つも年下だとは思えない程のものだった。

 

『君が人を守るために戦ったのだと、私は知っているよ。君は人殺しではない』

 

彼はいつでも、その時人が欲しくてやまない言葉をかけてくれる人だった。

だからこそ、多くの柱は彼を崇拝するのだ。

 

(お館様の荘厳さは、出会ってから死ぬまで変わることがなかった)

 

悲鳴嶼は思い出していた。彼がなぜ、無惨の襲撃を予測し、奇襲することができたのか。

 

それは五日ほど前に遡る。

 

悲鳴嶼は一人、輝哉に呼ばれて産屋敷邸を訪れていた。

周りに他の柱の姿はなく、彼だけが極秘で呼び出されたのだ。

 

『五日・・・以内に、無惨が・・・くる・・・』

 

床に臥す輝哉の言葉に、悲鳴嶼は小さく息をのんだ。

 

『私を・・・囮にして・・・無惨の頸を・・・取ってくれ・・・』

『・・・何故そのように思われるのですか?』

 

悲鳴嶼は微かに表情を強張らせながらも、冷静を装いながら尋ねた。

 

『ふふ・・・勘だよ・・・、ただの・・・。理屈は・・・ない・・・』

 

輝哉は小さく笑いながらそう言った。

 

産屋敷家はワダツミの子同様特殊な声を持っていたが、それ以上にこの"勘"というものが凄まじかった。

"先見の明"ともいう、未来を見通す、所謂予知能力というものだった。

 

この力により彼らは財を成し、幾度もの危機を回避してきていた。

 

『他の・・・子供たちは・・・私自身を・・・囮に使うことを・・・承知しないだろう・・・。君にしか・・・頼めない・・・。行冥・・・』

 

輝哉の弱弱しくも真剣な声に、悲鳴嶼は涙を流しながら頷いた。

 

『御意。お館様の頼みとあらば』

『ありがとう・・・』

 

輝哉は心からの感謝の言葉を述べた。

 

『どうか・・・、もうこれ以上・・・私の大切な子供たちが・・・死なないことを・・・願って』

 

その姿が、悲鳴嶼にとっての彼の最後の姿だった。

 

産屋敷輝哉という人の決意と魂を決して無駄にしないために、必ず鬼舞辻無惨を討ち倒す!

 

託された想いを乗せながら、悲鳴嶼は日輪刀を振るった。

 

手ごたえはあった。だが、悲鳴嶼は違和感を感じていた。

鬼が死ぬときの灰のような匂いはせず、奇妙な音まで聞こえてきた。

 

(・・・やはり!!)

 

悲鳴嶼は硬かった表情を更に強張らせながら、その光景を見ていた。

 

(お館様の読み通り、無惨、この男は)

 

――頸を斬っても、死なない!!

 

悲鳴嶼に砕かれた無惨の頭部は、凄まじい速度で再生していた。

 

『行冥』

 

悲鳴嶼は輝哉から無惨襲撃を告げられた後、ある事を告げられていた。

 

『恐らく無惨を滅ぼせるのは・・・、日の光のみではないかと思っている・・・。君が頸を破壊しても彼が死ななければ、日が昇るまでの持久戦となるだろう・・・』

 

その予測通り、無惨は頸ごと頭部を破壊されても死ぬことはなかった。

 

(さらにこの肉体の再生速度。音からして、今まで退治した鬼の比ではない)

 

悲鳴嶼は投げた鋼鉄球を戻しながら考えた。

 

(お館様による爆破と、協力者による弱体化があっても、これほどの余力を残した状態。夜明けまで、この化け物を日の差す場に拘束し続けなければならない)

 

勿論、無惨もこのまま黙って拘束され続けているような男ではない。

無惨は珠世から左手を離すと、悲鳴嶼へと向けた。

 

悲鳴嶼が目を見開くと同時に、無惨の腕から有刺鉄線のようなものが生えだした。

 

――黒血枳棘

 

無惨の血鬼術と思わしきものが、悲鳴嶼の周りに展開し覆い尽くそうとした。

 

――岩の呼吸 参ノ型――

――岩軀の膚

 

悲鳴嶼は鎖斧の刃と鉄球を自身の周囲に振り回し、向かってきた血鬼術を一瞬で薙ぎ払った。だがそれでも、黒い棘は尽きることなく無惨の腕から生え続けた。

 

その時だった。

 

「テメェかァアア!!」

 

空気を斬り裂くような鋭い声が、あたり中に響き渡った。

 

「お館様にィイ、何しやがったァアーーー!!!」

 

それは、鬼のような形相で叫ぶ実弥の声だった。

その声を皮切りに、あちこちから人の気配がする。

 

(柱達が集結。お館様の采配、見事・・・)

 

「お館様ァ!!」

「お館様」

 

森の中から飛び出してきたのは、蜜璃と伊黒の二人。その後からも次々と柱達が飛び出してきた。

 

「無惨だ!!鬼舞辻無惨だ!!」

 

悲鳴嶼の雷のような怒鳴り声が響き渡る。

 

「奴は頸を斬っても死なない!!」

 

その声に、皆の表情が大きく変化し、目の前にいる男を凝視した。

 

(!!!!コイツがァ!!!)

(あれが・・・!!)

(あの男が!!)

 

実弥、蜜璃、伊黒の顔が強張り、

 

(奴が・・・・!!)

(鬼舞辻!?)

 

義勇、しのぶの顔が鋭くなり、無惨がこちらを振り向いた時だった。

 

「無惨!!」

 

炭治郎の怒りに満ちた声が響き渡り、

 

「貴ッ様ァアアー!!!」

 

汐の殺意に満ちた怒鳴り声が重なった。

 

その声に導かれるように、全員の殺意が一気に膨れ上がる。

 

――霞の呼吸 肆ノ型――

 

――蟲の呼吸 蝶ノ舞――

 

――蛇の呼吸 壱ノ型――

 

――恋の呼吸 伍ノ型――

 

――水の呼吸 参ノ型――

 

――風の呼吸 漆ノ型――

 

――海の呼吸 陸ノ型――

 

――ヒノカミ神楽――

――陽火突

 

全員がそれぞれの技を一斉に、無惨に向けて放とうとしたときだった。

無惨がにやりと笑みを浮かべたかと思った、その時。

 

突然、奇妙な浮遊感を足元に感じた。

 

目を凝らせば、無惨を含めた全員の足元に、ぽっかりと空洞が開いていたのだ。

 

それはまるで、障子戸のようだった。

 

攻撃は無惨に届くことなく、皆それぞれ落ちて行く。

 

「これで私を追い詰めたつもりか?貴様らがこれから行くのは地獄だ!!目障りな鬼狩り共、今宵皆殺しにしてやろう」

 

無惨の声が響く中、それを遮るように炭治郎の声が飛び出した。

 

「地獄に行くのはお前だ、無惨!!絶対に逃がさない、必ず倒す!!」

「この時を何百年も待ったんだ!!頸を洗って待っていろ!!」」

 

汐の鋭い声が、炭治郎の声に重なった。

 

「面白い」

 

珠世と共に落ちて行く無惨は、口元を大きく歪ませて笑った。

 

「やってみろ、できるものなら。竈門炭治郎、ワダツミの子!!」

 

全員が暗闇に飲み込まれると同時に、障子戸は閉じ跡形もなく消え去った。

 

残るのは、未だ囂々と燃え続ける屋敷の残骸だけだった。




いつもウタカタノ花を愛読いただき、誠にありがとうございます。

誠に勝手ではございますが、話数の関係のため、ウタカタノ花本編をいったん完結とさせていただきます。

次回からは数話の幕間の後、続編であるウタカタノ花~無限城血戦編(仮題)を公開させていただきます。

それまでしばしの間お待ちくださいませ。

今後ともウタカタノ花をよろしくお願いいたします。


薬來ままど

追記
ウタカタノ花続編連載中です


目次 感想へのリンク しおりを挟む




評価する
一言
0文字 50~500文字
※目安 0:10の真逆 5:普通 10:(このサイトで)これ以上素晴らしい作品とは出会えない。
※評価値0,10は一言の入力が必須です。また、それぞれ11個以上は投票できません。
評価する前に
評価する際のガイドライン
に違反していないか確認して下さい。