詐欺師さとりは騙したい (センゾー)
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プロローグ【詐欺師◼︎◼︎は騙したい】

少女◼︎◼︎◼︎は騙したい


 詐欺師という職を、貴方達はどう思うだろうか。

 

 世の裏を可能な限り察知し、言葉巧みに人の心を弄って、虚構と欺瞞を以て利益を得る社会の悪。それが詐欺師だ。疑わせない事が肝要な行いであるが、皮肉な事に、疑いようもなく犯罪者である。

 

 どこかでミスをやらかして捕まれば、刑務所にぶち込まれ、臭い飯を食って、最近では快適な生活らしいが、刑期を終えるまで何もできずにいるだけになる。

 

 一度バレたらもう言葉に意味はなくなる。幾万も積み重ねた虚構は崩れ落ち、隠してきた痕跡は暴露され、そして言葉の鬼はただの人となる。

 

 詐欺師とは、ハイリスク・ハイリターンである。超ハイリスク・ハイリターンと言った方がいいだろうか。全てを失う可能性という谷を、言葉という綱で渡るのだ。愚かという他ない。馬鹿だ。愚昧だ。社会のドブの極め付けだ。

 それでも、やる。失敗しなければマイナスは発生しない。ギャンブルと同じで勝ち続ければ最強。詐欺師は皆傲慢だ。馬鹿だから。

 

 驕れる人も久しからず、ただ春の夜の夢の如し。猛き者も遂には滅びぬ、偏に風の前の塵に同じ。この世の条理を前にして、詐欺師の九割五分は敗れ去る。要するに逮捕だ。そして、四分九厘はロクな死に方をしない。裏社会に生きていてマトモな死に方をできるだなんて思ったか、馬鹿め。クズはクソみたいに死ぬ。取り敢えず死ねるだけ結構な事だ。

 

 ん? 残りの一厘はなんなのか、と?

 

 ご明察。この話の本題はそこだ。九割五分と四分九厘、合わせれば九割九分九厘。わかりやすく言えば、99.9%だ。さっきの話には残りの0.1%が欠けている。そして、その0.1%こそが私だ。つまり、先程の話は私の身の上話をするにあたっての前座だったというわけである。

 

 恐らくは、貴方達の誰もが、悪は滅びるべきだと思っているだろう。詐欺師などとっとと捕まってしまえばいいと。だから、先に謝罪しておこう。私は貴方達の願いを裏切った。

 

 詐欺師は悪だから地獄に行く。キリスト教のでも仏教のでもいいが、取り敢えず悪は地獄に行く。そして裁かれて、罰を受けるのだ。

 

 しかし、もし、その長い生涯を一度たりとも誰にも正体を知られず、暴かれず、その人自身しか詐欺師であると知らないままに、まるで凡人であるかのように終えた者がいたとしたら、その人を誰が悪とするのだろうか。そんな人がいたとしたら、たとえ悪事を働いたとしてもシュレーディンガーの猫のように善であり悪であるという状態、その真偽を問わず悪だと確定できないようになってしまいはしないだろうか。

 

 私がそうだ。私こそがそうなのだ。

 

 喜ぶべきか悲しむべきか、私には人を騙す才能が有った。長い人生を一度も誰にも私が詐欺師であるということを知られずに終えられるほどの才があってしまった。

 

 多くの人を騙した。多くの益を得た。暴かれぬ罪は重なり続け、その重さは最早量り切れないものと成り果てた。無神論者だったが、あの世というものがあるならば地獄に行くものと思っていた。そう思わざるを得ないだけのものだった。

 

 だが、その結末はそんなありふれたものでなく、奇妙極まるものだった。世界は私という例外を例外的に処理したのだと、今ではもう悟っている。さとりだけに。フフ、いや失敬。

 

 詰まるところ、私は死んだが、今地獄にはいない。私は、今でもこう言うのは少々抵抗があるが、そう、転生した。所謂、異世界転生というやつだ。それも中世ヨーロッパじみた魔法世界とか、意味不明に魔王がいる魔物だらけの世界とかではなく、生前から知る物語の世界に転生した。

 

 私は生前オタク文化に身を浸していた。だから、知っている。私が転生したのは東方projectの世界観だ。

 

 気が付けば私は幻想郷に生れ落ちていた。何を言っているのかわからないと思うが私にもわからない。地獄に行けない、だからといって天国にやるわけにもいかない。その判断の迷いどころはわかる。それで転生させようというのも百歩譲ってわからないでもない。だが、それでも転生先が幻想郷というのはわからない。

 

 しかも。しかも、だ。私の転生というのは通常の異世界転生のようなその体のままワープ的アレではなく、本当に新しい生命として生まれた。それも、東方project既存のキャラクターに。

 

 理解不能、この一言に尽きる。神という奴は実のところエロ同人作家か突飛な設定で二次創作を書く馬鹿なんじゃないかとすら思えてくる。

 

 そして、バカはこれだけで終わらない。私の転生先、それもまた問題だ。別に雛みたいに不幸なわけもないし、レティのように不遇でもない。チルノのように演じづらい馬鹿でもないし、レミリアのようなカリスマでもない。むしろ、逆だ。マイナスであることが問題なのではない。私に限ってはプラスであることが問題だ。

 

 私が転生したのは古明地さとり。心を読むさとり妖怪の少女である。

 

 馬鹿だろう。天性の詐欺師をさとりに転生って誰がうまいこと言えとじゃなくて、何故、詐欺師をさとりに入れた。鬼に金棒どころの話ではない。論外。選択の時まず除外すべき者を転生先と選んでいる。もし神がエロ同人作家ならTSものばっか書いてる奴、二次創作者なら安直な設定でやる馬鹿だ。それくらいのことが言えるくらいに狂った選択だと私は絶叫する。

 

 嗚呼、本当に何故なのか、未だに謎でしかない。

 

 ここまでされると逆に、罠かなにかなのでは、と疑いたくもなるし私は今も疑っている。だから、私は生き方を変えた。前世が完璧な悪だったという自覚はあるし、意味不明な選択に抗いたいので、私は生き方を変えたのだ。なるべく正しい事、善き事のために私の才と能力を使うと誓った。たまには悪事に使うが、それもやむを得ない事情のためだから許してほしい。私は善き人となったとも。本当に、ね。

 

 古明地さとりの中身が私という詐欺師である、この狂った状況が東方projectの正史であるのか。どうなのか、私は全く知らない。知りようがない。もしかしたら正史かもしれないし、IFの物語かもしれない。いつになっても、箱庭の中の少女は箱の形を知ることはできない。だから、私は東方projectに沿ったさとりであるように生きてきた。

 

 もし、この世界が正史であるというのならば、強制力が働くだろう。その時に私という人格がどうなるかわからない。もし全く違うように生きてきて、強制力でさとりらしいものになったのなら、それはもう私ではないのだ。私は私でなければならない。

 

 その為には、世界に服従しよう。尻尾を振ろう。お手だってする。過程などどうでもいい。詐欺師だった私にとって、何より大事なのは結果だ。

 

 私は、この状況が気にくわない。正史ならば古明地さとりが私だったという事実を嫌悪するし、IFならば古明地さとりという殺された人格を私は憐み、その殺人犯を憎悪する。

 

 私は詐欺師だった。悪だった。社会の敵だった。だから、私は私が嫌いだ。悪という概念には美徳があるが、人が行えば醜悪な事この上ない。悪を好んだが、悪人を嫌う人生だった。私は、私が嫌う者が古明地さとりであるという事実を認めない。

 

 私は詐欺師だった。悪だった。社会の敵だった。だが、命は決して取らなかったし、生活を脅かす額も奪わなかった。私は、人の余裕の一部を掠め取って生きていた。だから、私のために殺されたさとりという人格を心底可哀想に思うし、殺した世界を認めない。

 

 どちらにしろ、私は認めたくないのだ。転生と言えば幸福に思えるが、私はやっぱり悪人だったらしい。どう足掻いても私は絶望的結末なのだから、宣告されるまでもなくどん底だ。

 

 ただ、それで沈められたままでいるほど、私という人間は甘くない。罰だろうと何だろうと、こんな現実を与えた世界を許さない。何があろうと憎み続ける。今は服従しよう。尻尾を振ろう。お手だってしよう。過程は問題ではない。大事なのは結果だ。

 

 いつか、狼煙があがる。反逆の狼煙が地の底から上がるのだ。全ては世界への叛逆のために。飼いならしたと思っていた犬が、その実狼王もかくやとばかりの憎悪を秘めた狼だったのだと教えてやろう。

 

 私は今、叛逆と、とある馬鹿げた欲で生きている。詐欺師がこうなったのなら、どうしても思わずにいられない欲だ。

 

 世界を騙すという決意と共に、私には世界を騙したいという欲があるのだ。

 

 詐欺師を天職とした以上、この誰も成し遂げた事のない、出来るはずもない挑戦は正直言ってワクワクもある。悪事にそんな事を思う時点で、善性に曇り有る気もするがそれはそれ。人は山があれば登らずにはいられないものなのだ。

 

 地の底にありながら、天高く輝くシリウスに手を伸ばす。願い、願い、願い。願う度に何か策を積み重ね、一寸でも高くを目指すのだ。報われるかどうかなど知らない。意味があるかなど知らない。やらなければ叶わない。舞台袖にいるだけでは何も起こらない。舞台に立ち、すべき事を為して初めて喝采は訪れ得る。眠りこけた観客の目が見開くくらいの、車椅子の老人が立ち上がるくらいの素晴らしい最果てに至ろう。その願いこそが、そこに至る唯一の鍵なのだから。

 

 願いはいつだって繰り返そう。私は世界が憎い。だから、世界を騙すのだ。私は、世界を騙したい。だから、世界を騙すのだ。

 

 私は詐欺師。詐欺師入りのさとり。世界を騙すという悪行を成す人。一度たりとも捕まらず、誰も私の真実を知らなかった。御伽噺じみた偉業を成した私は、御伽噺の入り乱れる世界でどうなるのだろうか。

 

 私はマッチ売りの少女。虚構に乱れて悦に浸る愚者。アンデルセンのそれと違うのは、マッチなど必要なく己の口一つで叶えてしまう事。

 

 誰にも見られないからと、狂った無知蒙昧は欺瞞の上で踊るのだ。もしこの世界に私を暴く者があるならば、どうかどうか、戻せるものなら戻してください。本当のところ、狂っているわけではなく、見る人がいないのをいい事に鼻歌を歌う恥ずかしがり屋と変わらないのだろうから。

 

 誰かが気付けば、私は変われるのかもしれない。だけど、だからといって、わざとバレようとは思わない。どうか気づいて欲しい。隠れるのが上手い少女を、見つけて欲しいのだ。隠れん坊は終わりだと告げて欲しいのだ。

 

 それまで私は、欲と決意に満ちて、大それた悪事を働く試みを続けるだろうから。










※詐欺は犯罪です。詐欺罪で訴えられます。覚悟の準備をしなければならなくなります。やめようね!


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第一話【地獄に垂らすは】

欺瞞し、裏切る、これ人間生来の心根なり。
     ソフォクレス ー『アイアス』よりー


「面会の予定なんて今日はないわよ」

「そうでしょうね。だから、態々猫と話なんてせず、手っ取り早くここまで来たのだから」

 

 少女達の声が低く響いた。どうやらそれは互いに辟易したような感情から来ているらしかった。

 

「はぁ......貴方は割と常識のある方だと思っていたのだけれど」

 

 小さな体躯に見合わぬ書斎に見合わぬ態度で座った少女は、何度か咳をして「お燐、大丈夫かしら」と呟いた後、忌々しげに漏らした。

 

「ここにいる時点でそんな訳がないじゃない。地底に遁れた御老公、耄碌するには早いのでなくって?」

「紫を思い出すから老人扱いはやめて欲しいわね」

「若々しくあろうとしてから言いなさいな」

「そう見せる相手がいなければ甲斐がないじゃない。で、要件は何かしら?」

 

 二人は小さな、ありがちな書斎にいた。そして、そこは破壊の後の土ぼこりに包まれひどく汚い様にある。

 しかし、それを気にする様子もなく、会話は進行する。

 

 かたや、老人めいた雰囲気を纏う桃色の髪の少女。

 かたや、陰気に爪を噛む嫉妬深そうな少女。

 

 二人とも見るだけで只者でないことはわかるが、しかし、同時にそれしかわからないような女だった。

 未知数が人の皮を被ったみたいな不気味さがあった。

 そして、それは実際考えすぎなどではなく、きっと理性あるものの多くがどうにも忌避せざるを得ないものを二人が持っているからであった。

 

 嫉妬の女が憎々しげに言う。

 

「要件なんてわかってるんでしょうに。まるで自分の能力をないもののように扱うのね。図太いわ。後白河院だってもう少しマトモではないかしら。......妬ましい」

「私がそういうものだって知っているでしょう。このやり取りは23回目よ、パルスィ」

「嘘ね。27回目よ。当たり前のように嘘を吐くのね、さとりおばあちゃん」

「......忘れていただけよ。なんてったって、おばあちゃんですから」

 

 心底嫌そうな顔をして、さとりはマホガニーの机から一枚の書類を取り出した。

 21世紀頃の日本のように綺麗に印刷されたそれは明らかに異質であったが、当たり前のように置かれ、特に何事もなくパルスィの手に渡る。

 内容はどうやら警告文のようで、要するに何かしらの騒動を今すぐ辞めないと処罰を下すというものらしかった。

 

「......私の心を読んだのよね」

「えぇ。だから、それを渡したのよ」

「私は一緒に来て欲しいと思っているのだけど」

「御断りよ。その紙があれば十分。というか、勇儀がいるからそれすらいらないでしょう」

「勇儀ならいないわよ」

「......はぁ......」

 

 珍しく予想外だった言葉に、直ぐに新たな心を読み取る。

 そして、勇儀のいないという事情を知りさとりはため息を漏らした。それは苛立ちと諦観の混じった音を立てていた。

 

「あの人はなんでこういう時にいないのかしら」

 

 その人、鬼だが、星熊勇儀は地底の鬼の棟梁であった。

 

 かつて地の上に栄えた妖怪の山、その頂点にあった鬼の四天王の一人であり、そして、唯一さとりや紫に協力的な鬼である。

 唯一と言っても特別協力的なわけではなく、また、他が非協力的なわけではない。

 

 鬼の四天王は地に潜った際に離散していたのである。

 一人は完全に行方を眩まし、一人は何の道楽か仙人なぞになったと風の便りに聞こえてくる。

 伊吹萃香は勇儀と共に地底に潜ったが自由人であり、上も底もどこへでも、今でもどこにいるかなどわかりはしない。

 

 その点、星熊勇儀は頼りになった。

 基本的には地底を動かないから抑止が破綻することもなく、その強さが小細工じみた能力よりも単なる膂力に依ることから妖怪達が反感を抱くこともそうない。

 極めて優良な彼女はそうあるだけで、地底における抑止力として、実質的な維持を行なっていた。

 

 そして今、その彼女がいないのである。

 つまるところ、基本のいるではない、例外のいないだ。

 

「地上に行く際はせめて一声と耳にタコができるくらい言っているのに。馬耳東風とはこの事ね。馬の方がまだ聞き分けが良さそう。汗血馬も赤兎馬だってもう少しマシよ」

「苛立ったって仕方がないわ。元々、貴方の仕事なんだから観念して来なさいな」

「わかった。わかりました。行けばいいのでしょう」

「よろしい」

「じゃあ、準備をしてから出るから先に行っておいて。あと、ヤマメも呼んでおいて。私が出るんだから護衛をお願い」

「了解。では、お待ちしておりますわ。地底の支配者古明地さとり様?」

「はいはい」

 

 最後に嫌な笑みを浮かべて、パルスィは退室した。

 

 ホント、彼女は変わらないわね。

 さとりは皮肉に苦笑しながら立ち上がる。

 

 パルスィ。水橋パルスィは、旧友だ。私の数少ない友だ。

 

 嫉妬の妖怪橋姫である彼女は世界の全てに嫉妬する。そして、彼女のそれはあまりに純粋な感情だ。

 あまりに澄んでいて、あまりにも固執している。彼女の心の殆どがそこに処理を割いている。

 だから、彼女は心を読まれることに対する抵抗感が他より若干弱い。

 

 それで、地上にいる頃から親交を持ち、妖怪の山の騒乱の際には除け者同士、地底に遁れた。

 今となっては、皮肉と嫌味の応酬が当たり前となっている。

 はたから見れば結構に劣悪な関係で、これが良いんだか悪いんだかわからないが、まぁ、そんな関係も悪くはないと今では考えている。

 

 だから、そんな友人の願いは結局聞き届けてしまうのだ。

 

「さて、行きましょうか」

 

 少女は先程とは打って変わって軽快な足取りで部屋を出て、廊下を行きながら陽気にフィンガースナップを鳴らした。

 

「なんでございましょ」

「若干心配していたのだけれど......貴方、パルスィを通したのね」

「......怒ります?」

「まさか。そういう思考は私のやる事だし、何より貴方達の成長が感じられて嬉しいわ」

 

 廊下を歩きつつ、音に合わせて現れた猫耳少女の頭を撫でる。

 その表情には欺瞞はなく、明確に穏やかさと母性が滲んでいた。

 される方も彼女を信頼しているようで、少々恥ずかしい様子ではあるが、撫でられるのをひたすらに歓喜で享受していた。

 

「さて、お燐。街に出るわよ」

「なんかの騒ぎがあったんです?」

「また地底生活に嫌気のさした連中が暴れようとしているんですって。勇儀がいないみたいだから私が行かなきゃいけない。ヤマメとパルスィが守ってくれるけれど、数は多いほうがいいし、貴女の方が私をよく知っているでしょう?」

「えぇ、えぇ。知ってますとも。私の育ての親ですから!」

「じゃあ、お願いね。まぁ、ゴロツキ共が相手なら大した問題は起きないでしょうけどね」

「しかし、自分から地底に下っといて文句を言うとは太い野郎共ですね。一回どうにかした方がいいんじゃありません?」

「ダメよ。私は独裁者じゃないし、そもそも為政者でもない。ただの管理者が何かして、閻魔に目をつけられたら厄介極まりないわ」

 

 さとりには冷淡さが言葉の端々にうかがえた。しかし、明らかに何か企んでいるのに、それを追及させない風格があった。

 やがて二人はエントランスへ至る。

 来客の珍しいこの館には不必要に大きいそこを20秒ほどかけて通り抜け、玄関の扉は開かれた。

 

「早いわね、パルスィ」

「ヤマメが直ぐそこにいたもので」

「そう。それは運が良かったわね」

「えぇ、とっても」

 

 流れるような応酬が10秒で終わる。

 新たな当事者はすぐに呆れたように口を開いた。

 

「二人は相変わらずだねぇ。皮肉を構わず言い合うってのは、私はもたれそうで勘弁被るが見てる分には仲良さげで良い」

「皮肉なんて言わない方がいいわよ。貴女とキスメみたいに仲良く笑いあってる関係の方が素晴らしい」

「そうね。あれは妬ましい」

「さとりに褒められ、パルスィに妬まれるなんて、光栄な事。こりゃあ、吉兆に違いないね」

 

 喜ぶ土蜘蛛の少女ヤマメの笑顔に、パルスィは再び「妬ましい」と言う。

 一行はそのようなやりとりを繰り広げながら、市街区域へと向かう。

 パルスィとヤマメはさとりの両隣に、お燐は建物の屋根を伝って、何も言わずともそれぞれがさとりを護衛するように居た。

 

「それで? 問題の連中の情報は?」

「ホイホイ、私が調べといたよ。ヤバイのは大体西区の連中。あっちは勇儀のいる東区から離れてて、あと代表が萃香なのもあって治安はお世辞にも良いとは言えなかったけど、最近は余計に悪かったんだ」

「原因の目星は?」

「ついてる。というか、見りゃわかるよ。前からNo.2が実質代表だったけど、ほら、ここ最近萃香がいないもんだから調子に乗ったんだなあれは」

「自分でスティグマを刻んでおいて、それを忘れるような輩ならやりかねないわね」

「愚昧ここに極まれり、だね! そんな小物にさとり様が出る必要あるのかい?」

「そりゃあ、一時的な鎮圧なら私らでもできるさ」

「でも、それじゃあじきにまた暴れ出す。妬ましいけれど、さとりか勇儀がどうにかしないとだめね。ホント妬ましい事に」

「繰り返さなくていいわよ」

 

 そこで、不意にさとりの足が止まった。

 

 その表情は3秒間驚きに引かれて、その後気怠そうに苦笑した。その肩には既に力がなくだらしなくぶら下がるのみであった。

 

 完全に場違いな様だった。

 

 何故ならば、他三人は真面目不真面目と様子の差はあれど、臨戦態勢に入っていたからである。

 雰囲気に浮いたまま、さとりはヤマメに問う。

 

「ヤマメ、一応、聞いておくわね。今回、私が出るに当たって、会談の場所とかは設定していたの?」

「当然。いつも通り、中央の集会所」

「そう。あれ、西区の人達よね」

「うん、そうだね」

 

 中央区に至る前、あと5分は歩くかと思われた頃である。

 四人の前には、二、三十人ばかりの妖怪が立っていた。

 

「待ち兼ねたぞ。古明地さとり」

「あら、普段から私を避けている人の言葉じゃないわね。心変わりにエスコートでもしてくれるのかしら?」

「お前を口説く者も、慕って付き随う者もないだろう。ずっと陰で静かに生きているのがお似合いだったろうに」

「残念。紫のバラの人にお願いされてしまったの。この素晴らしき世界に尊い支援をってね」

「あのような女に心を拐かされたか。覚の程度も知れたものよ」

「拐かされた? 私が? ハハッ、面白い冗談」

「……何がおかしい?」

「いえ、何も。こちらの話。では、集会所まで行きましょうか」

 

 妙な強さがその言葉にはあった。

 

 名も語られぬNo.2は、本当はその場でさとりを始末してしまおうと思っていた。

 だから、彼らはここにいたのだし、ヤマメ達までもが殺気立っていたのだ。

 

 さとり以外の誰もが、その場で始まり終わるのだと思っていた。

 

 なのに、何故かその言葉を前にしては従う他なかった。

 

 どうしてこのような雑魚に。

 

 No.2の巡る思考は答えを導かず、一行はやはり彼女の言葉のままに集会所へと向かう。

 道中は沈黙に尽き、それが一層不気味に感じられた。

 

 それは荒くれ者達だけでなく、さとりの味方であっても感じていた事であった。

 密やかにヤマメはパルスィに話しかけた。

 

「こういう時のさとりはやっぱりちょっと不気味だねぇ」

「何考えているのかわからないものね。イマイチ方針や手段が定まらないから、八雲紫より厄介」

「本人がそうしてるんだから、今も私達の心読んでほくそ笑んでるだろうね」

「えぇ。ホント妬ましい心胆」

 

 灯が強くなった。それは繁華街に足を踏み入れた事を意味する。

 一行の行進に少し騒めきはあるが、それでも栄えた街といった様子はあり、ヤマメ達は落ち着いたように息を吐いた。

 

「さ、着きましたよ?」

「言われずともわかる。お前こそ、とっとと入るがいい」

「はいはい。そんなに急いでも仕方がないでしょうに」

 

 小さな靴を綺麗に揃えて、少女は畳敷の屋敷の奥へ進む。

 後ろにはパルスィとヤマメ、横にはお燐がいた。

 荒くれ者達は少し後ろを歩いていたが、その視線には少々の殺気が宿り、四人の背中を指していた。

 

 直ぐに戦闘になるかもしれない。

 そんな想定をして、ヤマメは糸の準備をする。

 

 ここは狭いから、糸を上手く使えば逃げられる。普通にやっても戦いに勝てない事はないだろうが、そうすると被害が大きい。

 

 街に馴染んだ彼女にとって、街の中心が破壊される事は避けたかった。

 

 パルスィとお燐に「先ずは逃げる算段でいこう」と耳打ちをする。

 さとりは心を読んでいるだろうから、言わずとも良かった。

 

 いくつもある部屋を過ぎて、さとりは廊下の突き当たりの引き戸の前に立つ。

 直ぐに、迷いなく、戸は開き、一行は部屋の中へと進んだ。

 

 長机をいくつも繋げてあるだけの会議場だったが、地底の人々にはそれで十分だった。

 

 さとりは奥へ奥へと進み、入口から最も遠い最奥に座った。

 

「さとり、もしかして私の声聞こえてなかったのか」

「知らないわよ。私だって、まさかこうするだなんて思ってなかったし。......でも」

「でも?」

「アイツは狡猾よ。私が知る誰よりもね。貴方の声が聞こえてなかったとしても、逃げる算段くらいする女。だから、奥に座った以上逃げる必要がない。きっとアイツには何かがあるんでしょう。私はそう信じる」

「何もなかったら?」

「貴方には悪いけど、ここで思い切り暴れる」

「マジか。さとりー......ホント頼むよー......」

 

 小声で祈りを漏らしながら、ヤマメはさとりに連なるように座った。パルスィも同じく。

 お燐だけはさとりの後ろに立っていたが、彼女はそういうものだと知っていたから、特別言及される事はなかった。

 

 皆が座り、話し合いの大体の準備ができたと見ると、さとりは一つ咳払いをして、待ち兼ねたように言葉を放った。

 

「貴方達の要求は知っているわ。地上に戻りたいのでしょう?」

「話が早いな。さぁ、どうする? お前としてはこんな要求呑むわけにはいくまい?」

 

 パルスィとヤマメは心の内でその言葉に同意した。

 

 そうだ。さとりは地底を任されている以上、この件をどうにか解決する必要がある。

 しかし、こいつらは勇儀にはノータイムで従うが、さとりの事はナメている。

 

 理由は単純。さとりに戦闘能力がないと思っているからだ。

 

 いや、実際どうなのかは誰も知らない。知っている者がいたとして、八雲紫やそれに類する連中くらいのものだろう。

 少なくとも、さとりは徹底して戦闘を避ける。

 弱いが為か、策謀の為か。何方にしても、そういう物事はわからない内は都合よく解釈されるものだ。

 

 さとりは弱いと思われている。だから、彼らは従わない。

 

 だから、さとりには勇儀なら必要ない数手がいる。

 

 今回のそれが何なのか。それが問題で––––––––––

 

「いや、別にいいですよ。地上に戻る事に関しては」

「......は?」

 

 え?

 

「いや、だから、別に戻ってもいいですよ。戻りたければ」

 

 えぇぇぇぇええええええ!?

 

 ヤマメの心は絶叫した。さとりは五月蝿そうにしながら髪をいじっていた。










作者より賢いキャラクターは描けないもので、どうやっても賢く描けないのですが頑張ります。


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第二話【誰の糸】

ずるい人間は、すぐに他人もずるいと思い込む。
彼らは決して欺かれはしないが、人をも欺くこともできない。
     ラ・ブリュイエール ―『人さまざま』より―



「どういうことだ、地上に出てもいいだと!?」

「そう繰り返す必要もないでしょう。というか、どうして動揺しているのかしら。あなた方の要望が通るのだから笑えばいいのではなくて?」

「貴様……何を企んでいる」

「企んでいるのはそちらの方でしょう」

「その疎ましい瞳で何を見通しているのだ!」

「くどい」

 

 刹那に空気が張り詰めた。その部屋の誰もが、端にいる少女を真っ直ぐに見た。

 たった三文字の言葉には、それほどの力があった。勇儀や萃香のような暴力ではなく、地底の誰も持たない力であった。

 言うなれば、意志の力がそこには宿っていた。

 No.2も思わず言葉を詰まらせて、息を飲んだり唾を飲んだりするばかり。

 一分間にもわたる沈黙。そして、その原因たるさとりは、呼吸以外の動作を見せず、目を閉じて座すのみであった。

 長い沈黙を破ったのは、ヤマメであった。

 

「ちょいと待ちなよ、さとり。いくらなんでも訳がわからない。そりゃあ、アンタと親しいつもりの私らでも知らないことだ」

 

 パルスィも同意を以ってうなずいた。

 その同意は、その場にいる全員に情報の不明瞭さを伝えている。

 パルスィは地上で疎まれ、地上を疎み、地底に逃れた妖怪である。

 かつては嫌われ者の一人であったが、嫌われ者の集まった地底においてはその感情にある種の純粋さを持つ実力者として多大なる信頼を得ていた。

 皆、さとりとの関係は知っている。知っていてなお、水橋パルスィという人物がいかに嫉妬深く、それ故に真摯な人物であるかを知っているからこそ、彼女を肯定する。

 視線はすぐさまさとりに移った。

 パルスィでさえ知らないのならば、それはさとりの個人的動機による発言ではない。何かしらの総意として、先ほどの発言は飛び出したのである。

 であれば、誰が知っている。さとりは知っている。では、勇儀は? 萃香は? 或いは、地底にはいない者たちは? そう、たとえば、博麗の巫女とか。

 どこまで誰がかかわっている。さとりは何を知っている。

 少なくとも、断言したということは話す準備があるということ。ならば、求めよう。

 心を覗くまでもなくすべてを察し、ため息一つ。億劫そうにさとりは言葉を綴り始める。

 

「まず、勘違いされてるようだから訂正しておきます」

「勘違い?」

「私は地底の管理を頼まれはしましたが、治安維持などは請け負っていません。理由はお分かりの通り、私が強くないからです」

 

 お分かりの通りって、あなたの強さなんて誰も知らないじゃない。

 皮肉を漏らしそうになり、パルスィは思わず口を手で塞ぐ。

 だが、直ぐに周りの視線に気づいた。他の者達も、同様の意見を持っているらしかった。

 

「私が戦った姿を見たことはない。ですか」

「あなた自然と心を読んで話を進めるわね」

「その方が早いでしょう。それで、私が強いかどうかですが、この地底においてそれは大した意味を持ちません」

「……なぜだ?」

「決まっているでしょう。私が多少強かったとて、地底の妖は鬼を中心とした妖怪の山の者達。鬼の四天王までいるのでは、覚にどうこうできる程度ではないからです。覚に鬼が従うとかないでしょう。実際、今、そういうことになっているのですし。あと、まぁ、私は嫌われてますから味方がいなくて多勢に無勢ですね」

「なら、何故そんなお前が任ぜられた?」

「仕方なく。そもそも、私がここに適しているから任ぜられたという考えが間違いです。八雲紫がこの役割を任せようとしたのは、元々私ではなかった」

「なら誰が」

「心当たりがあるのではなくて? 鬼の四天王に適任がいたでしょう。どこぞへ遁れた矢鱈と鬼らしくないことをする鬼が」

 

 騒めきが波立った。唱えた口は一様に一つの言葉を示す。

 

「……茨木童子殿か!」

「そもそもは彼女に任せるつもりの仕事だった。しかし、彼女は拒否し、姿を消した。だから、私です」

「力の足りぬお前にか」

「管理者というのは残念ながら人手不足なようで。それに、完全に指示に従うことはないとはいえ、勇儀が統治面を多少引き受けた」

「勇儀殿がか」

「幻滅する必要はありませんよ。妖怪の山残存組の安全と、あと沢山の珍しい酒を条件としてでしたから」

「あの酒はそういうことだったのかい!?」

 

 驚愕の新事実にヤマメが固まる。実は、彼女は当時その酒の幾らかをくすねていたのである。

 遠い昔の話とはいえ、やっちまったと怯え始める。

 そんな彼女に、さとりは「勇儀はあれに執着はないから大丈夫よ」と囁くと、本題に戻る。

 

「私はただの管理者。だから、私に貴方を止める必要はないのです。私はここに居る者達の為にいるのであって、去る者を追えなどと言われていないのですから」

「そんな不安定を、八雲紫は許容したと?」

「人手不足ですし、地底に行く者はそもそも八雲紫を認めていないのが大半ですから。勇儀はなんだかんだ義に篤い人ですし。今回のような件がなかったのは、勇儀がそうしていたことと、萃香が友誼でそれに協力していたから。勇儀だけに。忘れてください。ですが、まぁ、不運が重なればこうなる。私にはどうすることもできない。ただ、一つ言えることがあるとすれば、勿論、間違いなくあの狡猾な女は対策を講じていますとも」

「狡猾とか人のこと言えないんじゃないかしら」

 

 パルスィの言葉を無視して、さとりは続ける。

 

「例えば、地底の出口付近に結界を展開。通った瞬間に博麗の巫女がそれを感知する」

「博麗の巫女など、大勢で行けば関係がない」

「多くが犠牲になろうとも?」

「犠牲になどなるものか。人など喰ろうてやるわ」

「嘘。貴方は、他の人たちを犠牲にしていこうとしている」

「その目で俺を見たとでも」

「心を読むまでもなく。初歩的なことですよ。だって、貴方は西区の者、もしかしてもしかしての話ですが、もしかすると、聞いているのではありませんか?」

「……なにをだ」

「伊吹萃香は博麗の巫女に負けた、とか」

「虚言だ。人の心を読めるからと嘘ばかり述べ立てる」

「伊吹萃香は博麗の巫女や地上の連中に首ったけ。地底にいて地上に顔を出すはずが、気が付けば地上にいて地底に顔を出す変わりっぷり。最早、萃香は地上にいるという我儘を通して、帰ってしまった」

「黙れ」

「萃香でさえ負けたのならば、勇儀でさえもどうなるかわからない。萃香がいなくなった分も大きい。これまで幻想郷の爆薬庫としてあった地底の威信は地に落ちる。そうなれば、自分もどうなるかはわからない」

「黙れといっている」

「そうだ! 地上に出て人を片端から喰らってしまえ。無数に食えば強くなれると聞く。あぁ、そういえば、かつて不老不死の薬の話なども聞いた。飲んでしまえば無敵よ。何があろうとも少なくとも少なくとも、倦んだ地底にいるよりは余程良い考えに違いない。一人でも生き残ってやろう」

「貴様ぁ!!!」

 

 激昂した鬼が立ち上がった。

 それが真実を射止められたことに対する動揺か、或いは謀に対する憤怒か、どちらかはわからないが、結果としてさとりに対して明確な殺意を持っていることは確かであった。

 しかし、彼女は動じない。座ったまま、第三の瞳も伏せたまま、二つの眼のみで鬼の見上げている。

 お燐やパルスィ、ヤマメが戦闘態勢に入ろうかというとき、さとりは底意地の悪い顔で笑った。

 

「あら、私を殺そうとしていいのですか? あちらにおわすはどちらの方でございましょう」

 

 さとり以外のすべての視線が、部屋の入口へと向いた。閉じていたはずの襖が、少しだけ開いている。そして、その先には背の高い誰かの姿。頭の上には天を突くような角がちらりとのぞく。

 さとりが言うまでもなく、皆がその名を心で唱えた。

 さとりが呼ぶまでもなく、誰かは姿を現した。

 

「遅かったですね、勇儀」

「あぁ、うん。まぁ、何も言うまいさ」

「勇儀殿、なぜここに……!?」

「そりゃあ、まぁ、紫に頼まれたからなぁ。強奪略奪奪うのみが鬼の華とはいっても、私はこういうのもアリなんでね。仕事はするさ」

「八雲紫などに従属するとでもいうのですか!?」

「口を慎めよ、なんの我儘も通す気も無いやつが。私とアイツは少なくとも対等だ。やることやって、私はアイツを認めた。だから、交渉に乗った。それだけの話だよ」

「まぁ、その話はその辺で終わりとして」

 

 二人の間に言葉を滑り込ませた。それは、会話を間違いなく断ち切り、意識をさとりに呼び戻した。

 

「では、交渉は終わりとしましょう。私が地底から出ることを問題としないことは分かったでしょう? あとは、勇儀達が決めること。お好きにどうぞ」

「貴様、勇儀殿を、この話を」

「さて、なんのことでしょうか。私はここに来る前に勇儀に連絡を取りはしました。襲われてはほんの一握りで私の小さな体躯は壊れてしまう。どうか帰ってきてほしい、と。そこから先は、私の存じ上げることではございません」

「貴様っ」

「おい、三下。こっちの話は終わっちゃいないぞ」

 

 鬼の後ろに立った勇儀が、厳粛に告げる。

 

「ここのやり方はわかってるな。大抵の揉め事は適当に済ませる。殴り合った。壊してしまった。そんなのは大したことじゃない。全部、酒と夢で消えるささやかな忘れ物だ。だが、この話はそういうもんじゃない。ここのそういう混沌とした秩序を壊そうとするやつが出た場合、私らは合議制をとる」

「まさか、俺を殺そうってのか」

「だから、それを今から決めるのさ。皆が正しいとしたなら、まぁ、この先問題はそう起きはしない。だが、皆が危ないと感じたなら、それはそういうことなのさ。地底の連中は私込みで馬鹿だが何もわからぬわけじゃない。どういうやつかを見る力はある。そいつらが駄目ってんなら、そうなっちまう」

「端的に言えば、死刑というわけですね」

「まぁ、そうなるね。幻想郷で最も野蛮な秩序だっていう自覚はあるよ。でも、ここじゃあ妖怪の山みたいにはいかないからなぁ」

「まっ、待ってくれ! 全部さとり妖怪の憶測だ。俺はあんなこと考えちゃいないし、それにこれはあんたらに逆らうんじゃなく、地上に逆らったんだ。勇儀殿の仕事も知らなかったんだから仕方ないだろう⁉」

「なるほど。前者はともかく後者は筋が通ってる。が、それに関しては嘘だな」

「なぜ⁉」

「萃香が言ってたよ。私がいなくても、勇儀のことは多少伝えておいたから地上に行っても西区に関しては問題ないだろうって。なのに、その期待を裏切っちまいやんの」

「だ、だが」

「それ以外の言葉は不要だよ」

 

 有無を言わさず言葉をさえぎって、勇儀は一歩前に出た。

 

「それじゃあ、この場に集まりました西区の皆様方、決着の時に御座います。此度の騒動に関与したこの者の処遇、どう致すか。手前が見届けます故、挙手をお願い致す。ではまず、擁護を主張する者!」

 

 勇儀の声に、誰の手も上がらない。

 鬼はうろたえながら周りを見る。

 

「なっ、なぜだ⁉ 俺は悪くないだろう⁉ 何もしていないじゃないか! 全部さとり妖怪の謀に」

「では! この者を悪と断じる者!」

 

 皆の手があがった。上がらなかったのは、皮肉にもさとりの手だけであった。

 

「それでは以上を持ちまして、此度の合議を終わりと致す」

 

 すべては呆気なく終わった。皆、それぞれ思うところがあったのだろう。鬼の悪性に関して心当たりをささやきあった。

 茫然とする鬼に、さとりが近寄って、静かに語りかける。

 

「蜘蛛の糸という話をご存知ですか?」

「蜘蛛の、糸?」

「地獄にとある悪人がおりまして、天の上の仏様が彼の唯一の善行を思い出しになった。それで助けようと蜘蛛の糸をおろし、悪人はこれ幸いと登り始める。しかし、他の亡者も登り始めてしまう。これでは糸がちぎれると、亡者達に降りろと喚くと糸はちぎれて真っ逆さま。悪人の浅ましさを見た仏様はどこかへといってしまった、というお話です」

「それがどうした。皮肉のつもりか?」

「いえいえ、そんなつもりはありません」

 

 さとりの肩を勇儀が引っ張って、鬼から引き離した。

 

「どきな、さとり。なすべきことをなさなきゃならない」

「えぇ、はい。どうぞ」

「では、見届け人、四天王星熊勇儀の名のもとに、なすべきことをなす」

 

 鬼はもう諦めていた。勇儀にかなうはずなどない。ましてや、ここにはほかの実力者もそろっている。もう今生を諦めるしかないのである。

 しかし、先程のさとりの言葉がやけに気になっていた。

 皮肉か、嫌みか。奴ならばやりかねないことではある。しかし、どこか引っかかる。

 

 勇儀が拳を握り、振りかぶった。その時、後ろのさとりが小さく何かを言った。

 誰にも聞こえない声である。だが、殺される寸前、スローモーションの世界の中で、さとりの口の動きを鬼は理解できてしまった。誰も知らない声を聞いてしまった。

 そうか、貴様が。全て、最初から全て。なんて極悪! なんたる最悪! 許すまじ、さとり妖怪! 来世では必ずその首を掻き切――――

 

 

 

 

 

 

 

「誰が糸を垂らしたのでしょう」







語ったことは、何が真実なのか。




※話の真相を一応確認しておきたい方は活動報告に掲載しておりますのでお読みください。なお、本筋についてしか触れておりません。些細な嘘、あるいは真実はわかりませんのでそちらに関しては申し訳ありませんがわからないままでお願い致します。


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第三話【謎の草と謎の人】

我々は理性によってのみではなく、心によって真実を知る。
            パスカル ー『パンセ』よりー


「謎の植物の栽培と、新たな人外の出現、ふむ」

「ご存知でしたか?」

「えぇ、まぁ、噂程度には。けれど、地上、或いは向こう側からの干渉なのだから地底とはいえ八雲の仕事ではないですか?」

「はい、その通りでございます」

「というか、はっきり言ってしまえば目星はついているのでしょう?」

「……やはり、古明地家には隠し事ができないようで」

「心を読んではいませんよ。開きっぱなしはとかく喧しいと言わざるを得ないので」

「では流石、と言うと溜息を吐かれるのでしょうね」

「言うまでもなく。……まぁ、長い付き合いですし、紫のことは信頼しています」

 

 やたらと分かれて数える事九つ、その格を辺りに誇示するかのような尾が、女性の小さな笑い声に揺れる。

 それを見て、館の主人は結局溜息を吐いて、おもむろに立ち上がった。

 

「わかりました。八雲紫が、あれが私に任せたいと言うのならばそういうことなのでしょう。不承不承ではありますが、引き受けるしかないようで」

「有難う御座います。紫様も、喜ばれるかと思います」

「報酬は期待していると伝えておいてください。そうね、セイロンティーでもいただきましょうか」

「我が主人を困らせるのがお好きなようで」

「お互い様でしょう」

 

 やがて、狐は去て、覚は独り部屋にて静寂に浸る。

 いつもながら嫌々という素振りを見せつつなんだかんだで了承したが、今回、八雲が依頼してきた案件は恐らくはとんだ厄ネタである。

 実の所、この一件については、お燐などに行かせていくらか調査を行っている。とはいっても、問題の場所には近づかせず、その近隣である南区への聞き込み調査などに留めており、情報は確たるものではない。この事は、先程の会話でも八雲藍は気づいているだろう。大体、いつもそういう言い方をするから。

 目撃されるようになったのは二週間ほど前から、場所は決まって南区の西南の端。

 特徴を聞けば、返ってくるのは決まって三つ。

 その在り様、人に似るが人にあらぬこと誰もが知る。

 さりとて妖というには面妖でなし。

 ただ一つ、その姿は眼には綺麗に見えども、誰の心にも歪を映す。

 正体不明の人物。その正体は勿論の事、正体すらも、知る者はこの地底にはいない。

 

「一番問題なのは、コイツの配っているものね」

 

 机の奥にしまわれていた、なにかを包んだ御札を摘むようにして持ち上げる。

 重量はほとんどなく、揺らしてもカサカサと音を立てるのみ。

 しかし、幻覚効果がある。

 

「こんな場所で薬物とは、中々面倒なことを……」

 

 件の人物は、南区に住人に「これからどうぞよろしく」と言って、この御札を渡す。

 そして、この御札を手に入れた者は、数日中に軽度の幻覚を見る。

 どうやら、入っているのは例の植物らしいが、その種について目星はついている。

 だが、配布量に対して情報の生産量が多過ぎる。

 実際の目的は別であると考えたほうが良い。いや、別だ。こんな御札は大した意味を持たない。私への撹乱が四割。六割は、くだらない理由ね。聞く価値もないけれど、聞けば答え合わせにはなる。

 問題なのは、もう一つの用途。こちらが厄介だ。時間を与えないほうがいい。早めに片付けておかないと。

 御札をそのまま紙袋に放り込んで、それを抱えて少女は部屋を後にする。

 

「私の得た情報だと半信半疑だったけれど、紫が関わってくるならもう正解のようなものね」

 

 扉を閉めると同時に、影が背後を横切った。

 気がつけば、少女の足元には猫がいて、人懐っこく足に頬を当てていた。

 

「さとり様、お出掛けで?」

「あら、お燐。そうね、例の南区へちょっと行ってくるわ」

「えぇ! それはアタシもついていきませんと」

「大丈夫よ。今回の件は暴力なく解決するわ」

「どうしてそう言えるんです?」

「弱者が二人揃って争いになることなんてないもの」

「相手のことを知ってるんで?」

「えぇ。正体についてはなにも言えないけれど。まぁ、そうね。一つ言えることがあるとすれば、長い旅の果てに辿り着いたのがここだなんていうのは、あまりにも哀れなものよ」

「ははぁー、流石はさとり様! よくわかりませんが、やっぱり賢い!」

「あまり褒めないで。頬が赤くなるわ」

 

 血の気の薄い青い顔で、幸薄そうな微笑みを浮かべて、少女は館の無駄に大きな玄関を開けた。

 

「あ、お燐」

「はい?」

「万が一、私に何かがあったなら、即刻紫のもとに走って地底を閉鎖するように伝えておいて」

「え?」

「まぁ、紫のことだから見ているでしょうし、そのあたり分かっているから私に依頼したんでしょうけど」

「え、えぇ!?」

「それじゃあ、よろしく頼むわね」

 

 地霊殿に、火車の絶叫がこだまする。












謎は謎。
人伝にかすかに聞いた程度でわかるならば、それは殆ど明るみに出ている。
故に、暴く者が必要である。さて、此度の謎はいかなる顛末を迎えるか。


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第四話【煙草と悪魔と■■】

最も残酷な嘘は、しばしば沈黙のうちに語られる。
 ロバート・ルイス・スティーブンソンー『真実の交際』よりー


「紫様、仔細は語りました。さとり様は、いつも通りの反応に御座いました」

「そう」

「ご心配なさらないので? いくらさとり様とはいえ、此度の者は中々に。油断されているようにも思えましたが」

「必要ないわ」

「それは、利害関係にあるのみの相手だからですか?」

「……フフフ」

 

 想像もしていなかったこもった笑いに、思わず顔をしかめた。

 この幻想郷の維持に協力的な賢人、そして、数少ない紫様の御友人である古明地さとり様の危機であるというのに、何も気にしていないという風な振る舞いに、式神に過ぎない身なれど感情を殺すことは叶わなかったのである。

 さとり様は良くも悪くも分け隔てのない方だ。誰に対しても、感情を見せず真意を隠し欺瞞を散らして、輪郭を眩ませる。

 しかし、それは私にとっては数少ない救いであった。

 八雲紫様の式神であることに恥はなく誇りがあれど、式神に堕ちたかと嘲りを受けることはやはり耐え難く、その点に関して、私をも個人として見て眩ます手間をいただいたことには幾らかの温情を感じずにはいられなかったのである。

 

「あら、ひどい顔。ちょっとあなた、勘違いしてるわよ」

「はい?」

「さとりのことをどうでもいいと思ってるとか考えたでしょう。それは違う。さとりは大丈夫よ」

「なぜ、そう言えるのです」

「あそこまで特異な者は幻想郷にそういないし、今回の件程度なら、私の干渉という情報を以て全ての推察は終えて上手くいくかいかないか程度の考えに落ち着いてるわ」

「上手くいくかいかないか考えている時点で、状況は良いとは言えますまい」

 

 藍の反論に紫はニヤニヤと笑って見せた。

 

「なぁんにもわかってないわね。さとりはたとえどんなに簡単な案件を任せたとしても、最悪を想定して動く奴よ」

「どうしてそう言えるのです。心が読めるわけでもありますまいに」

「どうしてかしらねぇ。言えることがあるとすれば、いつも表舞台で起きた事に起因する問題を任せているけれど、さとりは決まって舞台には上がらない。まるでまだだって言ってるみたいに、そしてその時まで最善を尽くそうとしているかのように。絶対にしくじったりしない。だけど、その思い込みは過信でしかない、ってね。あと、丁度さっきダメだったら私にって、火車に伝えているしね」

 

 少し憂うように黙り込み、すぐに顔を上げていった。

 

「私との約束すら通過点に過ぎないほど、さとりは何かに縛られているのかもしれない」

「それであの生き方は、壮絶なものがあります」

「何を見ているのか、どこへ向かっているのか知らないけど。まぁ、普通の生き方ではない」

「妹君の事が関係しているのか……」

「考えてはいるでしょうけど、あの気質は別にあるでしょうね。今は一度諦めているようだし」

「……さとり様は、本当に大丈夫なのでしょうか」

「大丈夫。私も最悪の事態に備えてはいる。……あとね」

 

 少し溜めて、微笑みと共に言葉は放たれた。

 

「さとりが仕事を全うできなかったことなんて一度もないのよ」

 

 とある昼下がりの迷い家のことであった。

 

 

 遠い。感想はこの一つに絞られる。

 館より徒歩1時間の距離であるが、何分幼い身体にて。いや、実際は動かない生活をしているせい。寧ろ、幼児ほど起きている間は疲れを知らぬもの。

 こうも辛いならば飛べれば良いものを、それでは目立つからできない。

 

「為政者とは、なんとも辛いもの。紫の力を羨んだ事は多いけれど、ここまで強くは久しいわ」

 

 少女は、少し上がった息と額に滲んだ汗を伴って、目的の場所に辿り着く。

 そこに育つ緑は、こんな日光もない地の底でおかしいほど健康的に育っていて、風もないからただそこにあるだけであった。

 撫でるようにして、その葉に触れる。

 

「お燐がいたら、慌てふためくのでしょうね」

「あれ、久しい顔があるじゃないか」

「……面倒くさいお方がいらしてるようで」

 

 声の方へ振り向くと、そこにはさとりと少し大きい程度で、大人からすると大差ない背丈の少女があった。

 紫の服、大きく目玉のついた帽子、そこから覗く瞳は髪色と同じく黄昏の輝きに満ちる。振る舞いはわざとらしく少女然としていて、かえってまるで子供に見えない様子であった。

 知った顔である。以前縁があって、外の世界で会った人である。なんなら、彼女がここにいる原因の二割程度は私がある気さえする。

 

「お久しぶりです、洩矢諏訪子様。ここは貴方の来るような場所で……ないこともないですね。いや、来てはいけないのですが」

「ちょっとくらいはいいじゃないか。私だって責任くらい感じるんだ」

「御心遣い感謝致します。けれど、忘れないで。貴方はもうアンダーグラウンドにいない」

「流石に自覚したさ。巫女に退治されるというのは、一つの権利らしいってね」

「でしたら、大丈夫です。私も多分そのうちにそちらへ行きます。貴方の連れが裏で色々とやっているようで、ここもいよいよ舞台裏程度にはなれるようです」

「ハハァ、そこらも察している辺りは流石だね。そして、止める気もない」

「ただの異変ですよ。歯車が繋がるだけで舞台下の話なら、私は須く共犯者であるべきなのです。私が止めるのは、舞台がダメになること。弾幕の普及と共に多少の平和が訪れました。地底にそれが波及して、ただの場所になるのは当然と言えば当然の話」

 

 街の方を見て、さとりの瞳は瞬いた。そこには、普段ならば少しも感じられないはずの暖かさや、ある種の母性じみたものが感じ取られて、諏訪子は思わず緩やかに息を吐き出した。

 

「アンタ、冷徹冷酷冷血の人外じゃあなかったんだねぇ」

「失敬な。情は事情に通じ情報となる。だから、私はただ静かでいるだけで、人並みの感情は持ち合わせていますよ」

「ここまで隠せているなら、人並みでは決してないけど、まぁ、それはいいだろう。ところで、さとり」

「はい?」

「アンタがここにいるって事は、任せていいのかい?」

 

 さとりは迷いなくうなずいた。その目には自信が宿るわけでもなく、静かな、ただ折れぬことだけが解る意志だけが灯っている。

 諏訪子は苦笑いして、初対面の時にも同じように問題が解決されたことを思い出した。

 懐かしい記憶だ。私も神奈子もこんな妖怪一人に何ができるものかと舐めてかかっていたが、なんだかんだ丸くおさまっちまったんだから仕方ない。もう私は信用する他ないのだ。

 

「何かあれば紫がなんとかしますし」

「ハハハ、頼もしいことだね」

「えぇ、貴方に迷惑をかけはしませんよ」

「……私達が来たせいで最近は迷惑をかけている。今回はその中でも面倒な手合いだって手を貸そうと思ったんだけど、余計なお世話だったみたいだね」

「気持ちだけ頂きましょう。大丈夫、幻想郷は全てを受け入れます。残酷だろうとなんだろうと、それは事実で、それを成立させるために私達がいますから」

「……ありがとう……」

「いえいえ。貴方の力を借りると、良くも悪くも私に色んな因果が纏わり付きかねませんし」

「ハハ、そりゃそうだ。うん、じゃあ、私は帰るよ。何かがあったら声かけて」

「はい。その時はきっと」

 

 穏やかな笑みと共に、諏訪子は去っていった。

 その心中は、存外に明るい。それは幻想郷にいることだけを知っていたさとりとの再会や、その意外な側面が見れたこと、或いは冷徹と思っていた彼女がただ述べるだけでなく、心と共に歓迎をしてくれたから。

 かつては祟ると脅しても一切怯むことなく、言葉を並べたて、私達を納得させたあの胆力は、長生きだけじゃ手に入らない理性の力は健在だ。ならば、信じよう。

 最早振り返ることもないその背中を見送って、さとりは苦笑する。

 まさかここまで買われているとは、思いもしなかった。洩矢諏訪子、やはり侮れない。どこまで私の事を察しているのかわからない。

 だが、あそこまでの神に認められるというのは、存外に悪くない。

 

「それでは、ご期待に添えるように頑張りましょうかね」

「おや、来訪者とは珍しい。どちら様ですかな」

 

 さとりが珍しく普通に笑った矢先、気がつけば、すぐ近くに綺麗な身なりをした美しい少女が立っていた。

 一般的には異常の範疇にある程度にその「気がつけば」は意識の外にあったもので、誰もが思わず飛び退くに違いなかった。博麗の巫女や花畑の化け物、鬼達ですら例外でなく。戦力の有無でなく、その存在が不可思議なのである。

 しかし、さとりは静かに笑みを穏やかにして、少女の方を見るばかりであった。

 

「これをすると皆驚くのですが、貴女は驚かれないのですね。不思議な人」

「えぇ、少々慣れておりますので。それに、知っていましたから」

 

 穏やかな会話の中の不思議な言葉に、少女は思わず眉をひそめた。

 慣れていたと言うのも不思議であるが、摩訶不思議の彩るここにおいてはそういうこともあるかもしれない。だが、続いた内容はそうして流せるものではなかったのである

 

「知っていたとは?」

「話をしに来たのです、貴女のこれからについて。そして、貴女を拒絶しに」

 

 淡々と、糸を紡ぐように言葉を繋ぐ様に、そして想像より遥かに早い拒絶に、少女は何の切り返しもできずにいた。

 少し黙って、喉から声を引き出す。

 

「ここはなんでも受け入れると聞きましたが」

「そうですね。幻想郷は全てを受け入れる。そして、それはとても残酷な事」

「何を言い出すのです」

「自由ゆえに殺される者がいる。本当の自由だけは決して求められない。古臭い時代。大して広くもない世界。箱庭に見合わない事象の規模。ここは残酷な事に満ちている。だけれど、一番残酷なのはここにいる事」

 

 向き合うのでなく、少女の瞳を覗くようにしてさとりは目を合わせた。

 

「ここは終わった者の世界。幻想郷とは幻想のような郷であると同時に、幻想に成り下がった者の郷なのです。だから、終わっていない者は来てはいけない。終わっていなければここで続けてしまう。それは最早意志持つ嵐と変わらない。終わりを受け入れた者にその経過を見せる事は、いかにも恐ろしい」

「まるで私の目的が分かっているかのように」

「えぇ、全部わかっているからこう言うのです。たとえ、どれほど酷い道のりであったとしても、まだどこにも辿り着いていない以上、その漂着先はここでは有り得ない」

「……まるで私について何もかも全部わかっているかのような口振りで言う。本当は何もわかっていないのではありませんか?」

「さて、どうでしょう。まぁ、確かに私は紫と違って賢者ではない。ただの傀儡かも?」

「いや、傀儡ではない。噂に聞く賢者は私の近くに来ることを避けているようだ。あるとすれば、そもそもこれが探りであるということ」

「フフ、まぁ、半分正解と言っておきましょう」

 

 時々、少女はさとりの第三の瞳をチラリと見ては目線を戻す。

 見透かしたように、さとりは浮遊するそれに触れた。

 

「覗かれたくないですか。そうですね、今のところ使うつもりはありません。使うと、交渉が難航しそうなので」

「そうですか、その言葉、信用はしていませんが少し安心しました」

「話を戻しましょう。貴女の言うことは半分正しい。私は確かめに来ました。そして、確信した」

「何を?」

「貴女はまだ終わっていないから、結局のところ真似事しかできないということです」

「酷い言いようですね」

 

 少女が軽く睨みつけると、さとりはわざとらしく怯えたフリをしてみせた。

 

「嗚呼、怖い。では、こんな事はどうでしょう」

 

 懐から取り出したマッチに火を付けて、それを畑に投げ入れる。

 炎はあっという間に燃え広がって、その緑を灰に変えていく。

 

「何をするんですか⁉︎ この麻畑が燃えたらその煙が地底に広がって」

 

 パチンと音が鳴る。

 すると、少女の眼前には先ほどまでの緑があった。

 動揺を隠せず、唖然とするその有様をケラケラと笑うと、さとりは手をひらひらと揺らしてみせる。

 

「マッチなんか持っていませんよ。今のは、炎の記憶を見せただけ」

「……なぜそんなことをするのです」

「気まぐれです。貴女のお母様と同じように炎にまつわる体験はどうかと思いまして。ほら、御兄弟じゃありませんか」

「っ! ……やっぱり、全部わかっている」

「えぇ、わかっていますよ、全て憶測ですが」

「よく回る頭ですこと」

「私に仕事が振られるということは、例外中の例外でしょうから。そもそも、本質が歪んでる人なんてそういません。それで、御札の現物を確認して、ようやく大体の予想はつきました。ここで育て、御札の中に入っているのは麻。普通なら、薬物を取り扱う厄介者な所ですが、どうやらその類ではない。地底の方々の被害は、薬物の服用ではなく関心がないから燃やしただけのことみたいですし。まぁ、貴女は神宮大麻の真似事でもしたかったのでしょう。しかし、ただ葉が入っているだけというのが中々におかしい」

「……?」

「貴方は流れ流れている内に、いつかに伊勢神宮だかなんだかを覗き見て、麻に意味があるとでも思ったのでしょうけど、あれは全てを合わせて意味をなすようなもので、麻を入れておけばいいというわけではないのです。そんなこと、地上にいる新参者の土着の神でも知っている。そんな勘違いをするのは、天照大御神の前の時代、概念それぞれを司る神が生まれ単独で意味を持っていた神代の者」

 

 さとりは哀れみの視線を向け、少女はそれを強い視線で切り落とした。

 

「そんな古い時代の神、幻想郷に辿り着くとか着かないとか、そういった所にいないものです。だって、当たり前の中にいるのですから。貴方はきっと相当に古いのでしょう。でも、そういう存在ではない。該当者があるとすれば、火の神すら生まれぬ時、一番最初の子供、とか」

「……」

 

 なんの返答もない少女に、嫌な微笑みを投げかけて、さとりはようやくその名を呼んだ。

 

「はじめまして、ヒルコ様。私は古明地さとり。地底の管理人です」

「貴女は、嫌な人だ」

「えぇ、嫌な奴ですよ」

 

 嫌がる素振りもなく肯定する様は、悪党でも悪人でもないのに邪悪さが染みついているようで、ヒルコには向かい合うことが嫌に思えてならなかった。しかし、全てを見透かしたように笑うのをそのままにしておくのは、それはそれで嫌な感じがする。

 

「麻を育てた目的は、あんな御札のためではないでしょう?」

「そうですよ」

「どこにも流れ着いていなかった貴女は、恐らくは偶然に八坂神奈子と洩矢諏訪子の幻想入りを知り、信仰なき神の逃げ道が此処であると認識した。だから、こうして来た。だが、貴女は社も何もない神。そこにいるだけの者。ならば、何が必要か」

「己を此処にいると断定するもの」

「そう。そして、その為には境界が必要になる。即ち、此処より先は神の常世であると定める必要がある。神道においてその役割を果たすのは注連縄。材料不足といったところでしょうか? まぁ、麻だけで作ろうとするのは、無茶だけど不可能ではない」

「そう、だから、私はこの畑を作った」

 

 さとりは建物に近づいていくと、途中で振り向いて畑の方に視線を向けた。

 

「これを栽培するだけならば、紫の干渉はまだ猶予があったでしょうね」

「……? なぜ?」

「紫は、終わっていないモノを大体迎え入れないけれど、例外はある。だから、本当なら貴女もしばらく様子見だったはず。だけど、貴女は大麻を御札として配ってしまい、結果的に幻覚作用などが働いてしまった」

 

 だから、どうしたというのだ。毒か何かが作用しただけに過ぎないのではないか。

 ヒルコは訝しんで、さとりはそれを見て更に続けた。

 

「知っていますか? 向こうの世界では、大麻は悪質な薬物として規制されている植物です。ヤクというやつですね。幻想郷という狭い世界では、一旦大麻が薬物として流行すると歯止めが効かなくなる。だから、そういう目で見させないようにしなければならない。今回の件はまだ誤魔化しが効きます。しかし、これ以上は問題になる。貴女は無知だった。無知は、時には罪にすらなり得る」

「たったそれだけの理由で?」

「たったそれだけの理由なのです。不完全に、歪を前提とした存在に生まれた貴方をそれだけで流したように、完全を見逃した未完成のこの世界はそれだけで崩壊する」

「しかし、貴方はこれを知っていたではないですか」

「封じる者はいりますから。誰かがそうした時に誰も知らなかったことにする為には、私達が知っていなければならない」

「私をそちら側に迎え入れてくれればいい」

「ダメです」

「なぜ?」

「さっきも言ったでしょう? 貴方はまだ終わっていない」

「作る側ならば、終わっていない、進み続ける方がいいでしょう」

 

 呆れたようにため息をついて、さとりはヒルコを一瞥すると社予定地に腰掛けた。

 

「貴方は、この世界を理解していない」

「理解できるはずがないでしょう。どうして諦める。どうして立ち止まる。何も成していない私ですら歩き続けているのに、何度も成して回復している人達が諦めるのです」

「失う事はあるいは持たざる事よりも痛みを伴うものです。そこにいる事に意味があった者にしかここにいる資格はない。いつの間にか手元から消えていた意味の代用品を提供するのが、幻想郷というサービスで、本物を用意することもなかったものを用意することもできない。貴方は、その手に何を持っていますか?」

 

 真っ直ぐに抉る言葉に思わず後ずさる。

 

「私達、幻想郷を管理する者はそれが代用品と意識しながら生きる者。いつでも手放せるようにして、必要になれば犠牲となって世界を救う者。そこに熱意は必要ない。そこに善意は必要ない。そこに悔いは必要ない。心配ありません、それでここは維持される。立ち止まらぬ不屈の意思も、充血を繰り返した壮烈の瞳も、負担に歪んだ肉体も、全てここではただ足を捉える過去に過ぎない」

 

 諭すような言葉が、あまりに重く語られる。

 それは、ただ権威に縋るとか都合のいいように進めるためとかそんな利己的な言葉ではなく、あまりにも平等な響きを持っていた。

 それが、ヒルコにとってはある種の救いを伴っていた。

 ヒルコという存在はただ不完全な者である。そこに具体性はなく、何かがダメだったから流された。その何かが語られていたならば、きっと不出来な神であっただろう。しかし、「何か」が不完全な彼女はそもそも生きているという状態すら不完全。そこに在り切れていない。神でなく、神でない者でなく。だから、ここで己を神として定義する試みをした。

 彼女は何もない何か。何も持っていないし、何かを持つことを望まれない。ただ「ない」ままのヒルコ。

 しかし、さとりの言葉はヒルコを肯定する。

 ただ流され続けただけの歴史を、ヒルコという人物の全てにさとりは意味を見出している。心も、目も、足も、全部誰も気にしたことなんてなかった。そんな彼女に、ただ平等な言葉で意味を持たせたのである。

 

「去るがよろしい、お客人。もう少し歩き続けて、たどり着いた場所でどうしようもなくなったなら、その時こそはここに至るとよいでしょう」

「……わかった」

 

 ヒルコは肩を落とすと、疲れ果てたように座り込んだ。

 

「こうして、言葉だけで引き下がることになろうとは」

「真摯な言葉は、何より重いものでしょう?」

「貴方は、悪い人だ。きっと私のことを思ってなどいない。真摯に思えたところなんて、一つだってなかった」

「なら、なぜ私のいうことを聞くのです?」

「真摯でないからこそ、というべきか。あまりに打算に塗れていて、かえってその先は信用できる。だって、貴方は今から何かを私に吹き込む気でしょう」

「存外に清さばかりを望むわけでもないようで」

「私はそもそもが不完全ですから。あぁ、ところで、私が貴方を殺そうとしたらどうする気だったので?」

「さぁ、どうする気だったのでしょう」

「……これ以上は聞かないでおきましょう」

 

 やけに無感情な言葉に、ひきつった笑顔で追及を避ける。

 果たして、このさとりという人は、強いのだろうか弱いのだろうか。妙に底知れない。

 そんなことを考えながら適当に笑っていると、不意に更なる問いが思いついた。聞くか聞かないか迷って、これならば答えてくれるんじゃないかと少しだけ思った。

 

「なぜ、貴方がここに来たのですか? そこまで問題視していて、なお幻想郷の賢者が来ない理由とは?」

「えぇ、えぇ、単純な話です。貴方と彼女は相性が悪い」

「相性?」

「神より生まれし神の子。その存在は神であるようで、神でないかもしれない。そこに明確な境はないのです。我らが賢者はその境を探る者。貴方と会えば、貴方がなりふり構わなくなった時、彼女は下手に動けない。貴方を神と断定したならば、その定着は決定的になる」

「成る程、それならもっと色々とやっておけば良かったかな?」

「さて、どうでしょう。諏訪よりの来訪者に関連して多くの神がこちらに流れ着きましたが、その対応は全て紫が行い、唯一例外的に貴方だけは私がやった。その意味は、なんなのでしょうね?」

「本当に、どうしようもなく卑劣な人」

「そうです。私はそういう妖怪。裏方に徹し、そして誰も触れない厄介事を処理する役割。悪党でも悪人でもないけれど、お天道様に背を向けるハズレ者」

「卑劣の次は卑屈ときますか」

「そうだと言いたいところなんですが、はい、ここからが相談です」

「相談?」

「今日、私は貴方のこれからの話をすると言ったでしょう。お互いにとって有益な、とても良いお話に御座います」

 

 

 日が燦燦と照り付ける。セミの声が重なり重なって、炭酸飲料より頻りに騒ぎ立てる。

 夏。そう表現するのが適切である。

 春夏秋冬の彩。七、八ヶ月も経てば帰ってくる、人間が六十から八十回ほど経験する季節。

 紫にとって当たり前の季節。彼女は今、縁側に足を放り出して、桶に満たされた冷水に浸したり掠めたりして、夏の風情を楽しんでいた。

 

「夏は良いわねぇ。お素麺も美味しいし、ラムネなんて夏じゃなきゃ甘ったるい」

「……そう、ですか」

 

 賢者の傍には、横たわる詐欺師の姿があった。

 普段ならば、目の下に隈を侍らせ、青白い顔で静かに淡々と喋るさとりであるが、今に限っては違っていた。その顔は赤く、首から胸にかけて服が少し緩く広げられていて、息は上がっていた。言葉は一言ですら言うのが辛いといった有様であった。

 

「本当に、情けないわねぇ」

 

 紫がその首元に手を当てる。さとりは何もすることなくされるがままにいて、ただぐぅと唾を飲んだ。

 喉の動きが手のひらを伝う。熱い首をなぞる動きはぎこちなく、弱っている事を語る。

 さとりの二つの瞳が見上げるように紫を向く。それに応えるように紫はその手を喉から顎へと滑らせた。

 ただ、20秒ほどそうしていた。

 やがて、さとりがその眼を閉じて小さく息を吐き出すのを合図に、空気はただの夏に帰る。

 紫の手は自身の膝下へと置かれ、代わりにさとりのただ腹に置いていた手が顔を覆った。

 その影にある顔の熱は、単に体温の上昇によるものであったのか、或いは感情に作用したものであったのか。

 その答えは、彼女しか知らない。

 ゆっくりと水彩を馴染ませるように紫が言葉を吐き出した。

 

「久しぶりに地上に出たからってすぐ熱中症だなんて、自己管理が出来ていないなんて話じゃないわよ」

「余計な、お世話です」

「ふふ、私は悪くないとだけ言っておきましょうか。境界を使おうとしたら、業務が終わり次第勝手に向かうと言ったのはそちらなんだから」

「まさか、ここまで地上の感覚が、抜けているとは」

 

 また、静かになった。

 セミは変わらず鳴き続け、桶の水が跳ねた音がやけに大きく聞こえた。

 だが、今回は長続きしなかった。

 

「ヒルコは、どうしたのかしら?」

「…………どうも、していませんよ。ただ、向こうに帰っていただいた、だけのこと」

「貴女はそういうんでしょうね」

「事実がどうであれ、私は、こう言いますよ」

「……」

「……」

「……」

 

 三言分の沈黙を話し終えて、さとりはため息を吐く。

 弱った体には酷なそれは寒空の下かのように震えていて、妙な癖のようものに思えた。彼女は、いつだってなぜかため息を吐くのだ。

 紫には最早そのため息が何を意味するか分かっていた。このため息は、さとりが観念した時のものだ。あまりにも珍しいから間違えようがない。

 

「……交渉を、しました」

「あら、話してくれるのね」

「今、助けてもらっている、借りを、返しておきたいのと、大したことでもないのに、変に疑われるのも苦しいので」

「それで、何を?」

「ヒルコには、幻想入りした神々の、いた場所を。たとえ、神が幻想入りを、選ぶほどの場所だとしても、彼女には価値ある、ものですから」

「あまり急いで話さなくていいわよ。見ていて苦しい」

「いいえ、大丈夫です。落ち着いてきましたから。そのラムネ、いただいても?」

「どうぞ」

 

 さとりは本当にゆっくりと起き上がってすこし乱れた髪を撫でると、ぼんやりと庭を見た。

 そして、差し出されたラムネを少し震えた手で受け取ると、添えられた紫の手を必要ないといったふうに遮って、一息に残っていたラムネを飲み干した。七割ほどは紫に飲まれていたが、残りだけでも臓腑も四肢も平常の半分に戻るには十分であった。

 ラムネを縁側に置いて、さとりはラムネより透き通った夏空を見上げた。そんな彼女の口元を、紫の手が拭った。

 怪訝な面持ちでさとりが紫を見ると、彼女は指先を見せた。それは紅く染まっていた。そして、そのままその指先で自身の紅い口元を指す。

 納得したような顔のさとりを見ると、紫はそのままその紅を戻すように唇をなぞった。だが、さとりは大した反応を示すこともなく、つらつらと話の続きを語り始める。

 

「そう、彼女には情報を提供したのです」

「見返りは?」

「向こうの情報。私があちら側で仕事をする時に使えるよう様々な情報を仕入れてもらいます」

「へぇ、まぁ、対等な交渉かしらね」

「そうでしょう。私にしては穏当だと思いますよ」

「本当にそれだけならね」

「はい、それだけなので」

 

 笑顔の仮面が二人の顔に張り付いた。

 

「大麻は?」

「処理しましたよ。旧地獄の奥で燃えてもらいました」

「本当に?」

「本当に。私は幻想郷をダメにすることだけはしないとしないと知っているでしょう?」

「……そこは信じていいかしらね」

 

 糸が切れたように力を抜いて、紫は後ろに倒れ込んだ。その様子は見た目相応の少女のようで、けれど服装なんかはやけに大人びているものだから、やけに異様な感じがするものであった。

 対するさとりは肩だけから力を抜いて、前に傾いた頭で、地面を見た。そこにはこぼれたラムネか何かに惹かれてきたのか、蟻が列を作るばかりであった。

 

「大丈夫ですよ、紫。私は貴女を裏切りはしない。多くの嘘をついてきましたが、これは本当です」

「知っているわよ。貴女が裏切らないことも、貴女がやることなら裏で何をしていようと下手は打たないことも。それでも、知っておきたいじゃない」

「知ると面倒なこともある。知らぬが仏というでしょう」

「それでも知りたいから、何かがあれば聞くのだけれど」

 

 とある昼下がりの迷い家のことであった。

 

 

「先程の内容に加えてもう一つよろしいですか?」

「なんです?」

「この植物、大麻を、さっき言った薬物として向こうにまだ残っている神々の間で広めてください」

「なぜ……?」

「今回の件で神が多く幻想郷に来ました。えぇ、はい。多すぎるほどに。今、幻想郷にこれ以上神が流れ込むのを受け入れる余裕はない」

「それで、なんで大麻を広めることになるんですか?」

「八百万の神には少しの間バカになっていただかこうかと思いまして」

「……は?」

「大麻には薬物としての効能がある。これを吸って幸福感を得てもらうことで、幻想郷に来るという選択を遅らせます。幸せだからまだいいや、と思わせるのです。勿論、これで神がダメになることはありません。仮にも神ですから、依存性などほとんど発揮されない。本当にただのその場凌ぎでしかない」

 

 驚愕のあまりに呆然とするヒルコに、さとりは微笑みかける。

 

「辿り着くまでは流れる貴女に適したお願いです。見返りは、そうですね。これをすると、貴女がここに来る時、既に居座っている神が少ないからやりやすいといった点でしょうか。幻想郷はそう広くない。神々が定着するにも限度がある」

「……本当に、恐ろしい」

「紫は流石にここまでしないでしょうね。だから、私がやります。幻想郷を少しでも安定させるために。私は、ここがどういう結末を迎えるか見届けないといけない。それを大麻なんかに邪魔されては困るのです」

 

 侮っていた。悪人でも悪党でもないと思っていた。

 違う。彼女は悪人であり、悪党であり、悪魔でもあるのだ。

 

「そうです。私は悪魔でもいい」

「っ! 心を……」

 

 古明地さとりはまた微笑んだ。正義など捨て去った笑みを浮かべて。

 

「さて、煙草を暴く人間と、煙草を広めたい悪魔。同一人物でないと誰が決めたのでしょう?」










『煙草と悪魔』


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第五話【伽藍堂】

人間は真実を見なければならない、
真実が人間を見ているからだ。
         ウィンストン・チャーチル


「最後の勇気が出ない、と言うじゃない?」

「はい?」

 

 地霊殿の奥深く、書斎にて。

 資料を広げながら呟いた主人の言葉に、ハタキをかけていた飼い猫は呆けて返した。

 

「また、妙な事を言い出しましたね」

「酷い言われようね。私のような弱い妖怪は悲しくて泣いてしまうわ」

 

 いつもの顔で声だけ僅かながら悲しげに言う様に、最早大した感情の機微もない。

 お燐にとって、こういった会話は日常であった。

 古明地さとりは思いついた事をその場で吐き出す類の者であるから、今回のようにお燐や、或いは鴉の霊烏路空、お空などがいるとそれなりの頻度で起きるのである。そして、お空はさとりの言葉を大して理解せず返答してしまうので、大抵さとりが彼女の頭を撫でて会話が終わる。結果的に、問答が起きるのは決まってお燐のいる時であった。

 お燐はそれなりに頭の回る妖怪である。それは、彼女が元来そういう頭脳を持つことによるものでもあったが、三割程度は主人の存在が大きいものとしてあった。さとりに影響されて成長したお燐は、ある程度までなら彼女の思考を理解することができるようになっていたのである。そのため、会話を楽しませる程度のことはできていた。

 今回のテーマは「最後の勇気が出ない」である。この題も、いつもと大差ないものである。したがって、お燐の態度もまたいつも通りであった。

 

「それで、さとり様はなんで急にそんな事を言い出したんです」

「いえね、この前地上に行った時にそういうことがあったのよ」

 

 ただ、今回の話は少し違った。

 いつもはただの思いつき。空想の中の仮定の話。だって、さとり様は家を出ない。

 だが、今回は現実の話。さとり様が関わった、どこかの誰かの物語。

 火焔猫燐は、その全てを聞いて言った。

 

「人にとって人というのは、同胞ということですから。人間であったとして、そいつは人だったのかどうか」

 

 さとりはただ笑って返した。

 

「人でもなく妖怪でもない、男の行方は誰も知らないのね」

 

 

 雨が降る。夏特有の、大地のにおいを晒す水が落ちる。

 その勢いは四季の中でも苛烈で、冬の冷たさに勝るとも劣らない脅威として、明確な対抗手段を必要とするものであった。

 朽ちて森に消えた寺の、かろうじて形を残す伽藍堂。最早信仰宿らぬその下で、一人の少女が雨止みを待っていた。

 周囲に集落などなく、また、人のいないところに妖はいない。

 しかし、少女のいる伽藍堂の奥には気配があった。人の気配である。それも、女子供でなく、強い存在感を示す気配であった。

 このような場所、まともな人がいるはずもない。なぜならば、ここの近くには地底への入口がある。かつて地上に辟易した、鬼を筆頭とした妖怪が潜む場所に人は集まらぬものである。

 野盗か、或いは駆け落ちか。

 心底面倒そうなため息とともに、少女は奥の誰かに声をかけた。

 

「もしもし、そこのお方。このようなところで何をされているのです」

 

 影が少し動いた。どうやら座禅を組んでいたらしく、固くなったと思われる体をおもむろに動かして、軒下の明るみに出る。

 汚れた服、伸びてばかりの髪に髭。少なくとも、文化的な生活を送れているとは思えない風貌の男がそこにあった。最初の動作から僧侶の類かと一瞬穏やかな心持ちになったが、どうやらそんな事はなかったようで、少女は再び面倒をため息にした。

 

「どういったご身分で?」

「俺は野盗をやっていた者だ。あぁ、そちらはどうやら人間でないように見受けられる。一つ問いたい。人を喰うか、喰わないか」

「食べませんよ。私はそういう妖怪ではありませんから」

「ならばよし。すまない、人を喰う奴ならば我が身が危ういでな」

「いえ、人間でしたら妥当な判断でしょう」

「ところで、貴殿はどうやら知恵者らしいから、一つ相談に乗ってみてはくれまいか」

 

 予想だにしない言葉に、少女は思わず目を見開いた。

 少女はさとり妖怪である。心を読むことができる。しかし、少女の元来の性格から平常時は瞳を閉じて、自身の頭で心を読むことに努めていた。実際その効果はあるもので、今回地上に来る前にあった仕事では瞳を殆ど使わずに解決まで導いたのである。

 だが、今の言葉は少女にも予想できないものであった。

 人喰いであるかどうかの確認を取ったとはいえ、妖怪を相手に相談など正気の沙汰ではない。人喰いでないというのが嘘かもしれず、よしんば嘘でなかったとして、妖怪が何をするかなどわかったものではない。

 男には如何なる理由があって、斯様な愚行に及ぶのか。少女の興味を誘った事は言うまでもなく、すぐさま平静を得て、いつもの調子で会話を続けた。

 

「野盗と問答とは物騒な事で」

「何を隠そう、相談というのはそこなのだ」

「どこです?」

「俺が野盗だという事だ。野盗であったと言うべきか否か、少々困るところではあるが」

 

 言葉を濁らせる野盗に、少女は怪訝な顔で返した。

 

「つまり?」

「俺はこれまで野盗をやってきた。人の世に仇為す者であった。だが、ここにきて妙な悟りを得てしまってな。悪事は虚しいもので、善行を為すべきであると思ったわけだ」

「今更都合の良いことを仰るのですね」

「都合の良い話である事は重々承知の上だ。そうなんだが、当然世が俺を受け入れぬ事は怖い。全てが因果応報であるために、俺は最後の一歩を踏み出すことができずにいる」

「それで、私に何を相談しようと?」

「最早俺には相談できる相手はいない。妖怪でもよいから、話せば活路を見出せるのではないかとな」

「そんな事はありませんがいいでしょう。雨が止むまでは、付き合いますよ」

「かたじけない。ところで、貴殿は悪事を為す者か?」

「悪といえば悪ですし、違うといえば違う。曖昧な所にいる半端者です」

 

 ぼんやりと空を見つめて、少女は漏らすように答えた。

 その姿はやはり年相応でなく、男はこの妖怪がそこらの木端共とは違うのだとここではっきりと理解する。そして、今日この時にそのような妖怪と出会えた自身の僥倖に感謝した。

 

「俺は、生まれは大層悲惨であった。母親は俺を産んで死に、父親は5つになった頃に何処かへ消えた。何も持たぬ子供が生きるには、悪事をするほかなかった」

「かといって、悪事が許されるわけではない」

「そう、悪は悪だ。更に言えば、俺は歳をとって真面目に働こうと思えばそうできたものを、悪人である事を選んだ。生粋の悪党であり、はっきり言って救いを得られる身ではない」

「あらゆる善人が貴方を拒絶するでしょうね」

「俺はどうすればいいのだろうか。自身の愚かしさに気づいてしまった今、悪人でいることに耐えられず、善人となるには悪に染まりすぎてしまった」

 

 大層な難問である。

 どこぞの寺の聖人であれば、それでも善を為すことを勧めるであろうが、現実的に考えて良くて死に、悪して生地獄。マトモな頭を持つ者であれば、それを勧める事はない。

 かと言って、悪であることを勧めても男が納得しない事はわかり切っている。

 どうしようもない状況である。或いは、自身の愚かしさに気づくという事こそが男への応報なのかもしれない。全ては、あまりにも遅すぎたのである。

 しかし、少女は悩む様子もなく、大した間を置く事もなく問いに答えた。

 

「私から提示できる選択肢は二つ」

「二つもあるのか? それは良い。聞かせてくれ」

「一つは、悪への悪となる事。即ち、世の悪党を殺し善人を救う影となる事」

「それは……ふむ、善といえば善か。もう一つは?」

「今生は諦めて、妖怪か何かに身を捧げる事。捨身飼虎というやつですね。果たして人の世に善行を為せないならば、別の生類の助けとなるもまた答えかと」

「ふむ、そちらはちと理解し難いな。よし、俺の腹積りは決まったぞ。悪を殺す悪となろう。最早この身は地獄に堕ちるのみ。善人の為に殺生を重ねるもまた良きかな」

「意外と早く問答が終わりましたね。雨はまだ降っている」

「妖怪よ、助かった。礼を言う。それでは俺は行くよ。一刻も早く善行を為し、善人を救わねばならぬ」

「最後の一歩を踏み出せたようで、良かった」

「あぁ。では、さらばだ。恐らくはもう会う事もないだろうが、貴殿のことは忘れない」

 

 男が素早く雨の中へと消えていく。明るい空の下でも、雨と森に覆われてしまえば、人一人が隠れてしまうには十分である。

 少女はそれをただ見送って、雨を待つまで伽藍堂でただ座って待つばかりであった。

 

「そういえば伝えていませんでしたね」

 

 わざとらしく呟いた。

 

「この辺りは、誰も寄り付かないから野盗どもの巣窟となっている。とりわけここは目立つから、人がいれば気づかぬはずもない」

 

 遠くより雄叫びが聞こえた。

 

「妖怪を襲うほど馬鹿ではありませんが、人を容易く殺す程度には狡賢い連中です」

 

 二つの悲鳴が聞こえた。

 

「あぁ、どうやら一人は殺せたようで。良かったですね、善行を為せた」

 

 声は聞こえなくなった。

 

「その上、その身を妖怪や獣に捧ぐ善行まで為せた。大層な人物では御座いませんか」

 

 雨が止んだ。

 

「ここに来た時点で、死ぬ事は決まっていたようなもの。最後に二つも善行を為せて良かったと思いますよ」

 

 少女はゆっくりと立ち上がると、歩き始めた。

 誰もいなくなった伽藍堂に人の気配はなく、足跡もいつかの雨にゆっくりと消されて誰もいなかったかのようになっていく。

 ここには人などいなかった。いたのは一人の妖怪と、一匹の愚かな獲物。

 狙っていたのは、妖怪ではなかったけれど。

 

 少女の行方は、誰も知らない。









悪人が善人になろうとする事と比べれば、善人が悪に堕ちる事のなんと簡単な事か。


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閑話【神神の苦笑】

真実味のある言葉は美しくなく、
美しい言葉には真実味がない。
          ―老子―


 懐かしい夢を見た。

 昔々のそのまた昔、地獄が旧地獄となり、地底と呼ばれるようになったころ、私が今の仕事を始めた頃の夢を見た。

 嫌な顔を思い出した。

 幻想郷の運営にかかわるメンバー達とマヨヒガで話し合ったときだから、あまり思い出したくない顔を見た。

 こういう時は、決まって予兆なのだ。

 だって、ほら、意識は覚醒しているけど、私は今ベッドの横の気配に気づきたくなくて瞼を閉じている。

 

「ほら、さとり、起きているんだろう? 神様を無視しちゃいけないよ」

「……」

 

 沈黙。少女は瞼を閉じて、寝返りを打った。

 

「狸寝入りとかする性格じゃないくせに強情ねぇ」

「…………なんで」

「ん?」

「なんでここにいるんですか」

 

 瞳を閉じたままに表情に嫌悪を浮かべる。

 

「お前の顔が見たくなっただけだよ。普段は陰気そのものといった具合だけど、やはり顔は可愛いんだね。寝顔は愛らしかったよ」

「……それはどうも。それで、何の用です、隠岐奈」

「いや、今回は本当にあなたに会いに来ただけよ」

「では、もう満足でしょう。お帰り願いたいのですが」

「うーん、ものすごい拒否。あなたじゃなかったらぶん殴ってるわね」

 

 さとりは瞼を開けると、おもむろに起き上がって眼鏡をかけた。

 すると隠岐奈は顔を輝かせて、ケラケラと笑いながら目元を指さした。

 

「あなた眼鏡とかかけるのね。というか似合いすぎじゃない!」

「妙に収まりがいいもので」

 

 愛想のない返答と共に、さとりが二度手を鳴らした。

 間も無くノック音が聞こえ、「失礼します」という声の後、お燐がさとりの衣類を持って入室する。

 

「さとり様、今日はいつもより少しだけお早いんですね、って侵入者⁉︎」

「お客様よ。私の知己だから、丁重にもてなして差し上げて」

「か、かしこまりました!」

「じゃあ、そういう事だから、お燐について行ってください」

「パジャマからパジャマみたいな服に着替えるの?」

「早く、行って、ください。今すぐに。速やかに」

 

 あまりにも感情のこもった催促であった。

 お燐も長い時をさとりと過ごしてきたが、これほど明らかに苛立ち嫌がっているのは、両の手で数えられるほどしかない。

 この相手は誰なのか。さとり様にとってなんなのか。そういった問いが思考をめぐり、お燐は緊張に体を硬直させた。

 

「フフフ、はいはい行きますよ」

「あぁ、それと」

 

 衣類を受け取った後、部屋の奥で、さとりが振り返った。その瞳は相変わらず静かで、しかし僅かながら熱を灯していた。

 

「ん?」

「お燐に何かしたら本当にただじゃおきませんから」

「……フフ、わかってるわよ」

 

 お燐はさとりの言葉にさらに緊張する。

 なんでこうなっているのかわからない。なんか、私が危ないみたいな感じになっている。

 具合が悪くなってきた彼女は、猫らしからぬふらついた足取りで案内を始めるのであった。

 そんなお燐の様子に不安を覚えつつ、隠岐奈はさとりを見た。

 家族思いなのはいつになっても変わらないのね。

 そう言おうと思ったけれど、珍しく反応に困るのだろうから言わないでおこう。

 そんな笑みが、さとりには第三の瞳でなくとも透けて見えた。

 苛立ちを隠さず、視線をさえぎるように扉を閉める。

 そして、いつも通りの面倒くさそうなため息をついて、ベッドに座り込んだ。

 

「面倒くさい……」

 

 珍しく、本当に面倒で嫌だと、感情をあらわにした言葉であった。

 摩多羅隠岐奈。神である。幻想郷の賢者の一人で、ようは紫と同類の神。

 それだけならば、いい。同僚でしかない。

 問題なのは、穏健派であり不干渉の姿勢をとる紫に対し、隠岐奈は干渉をしてでも幻想郷のために動く過激派であるということだ。

 この対立は当然にあり、そして、私は最初から今までずっと紫の側に立ち続けてきた。

 だから、私は彼女と会いたくない。

 折り合いが悪く感じられるし、そもそも気質が合わない気もする。

 しかし、それで一切話さずに済むなどということもなく、私は今日も結局彼女をもてなすほかないのだ。秘された神を知らないようにしながら、それでも会えば増える知識を蓄積しなければならないのである。

 嫌だ嫌だと思いながら着替えて、重い足取りで客間へと向かう。着けば当然に笑顔で待つ隠岐奈の姿があった。

 わざとらしくため息をついて、向かいに座って目を合わせた。

 

「用件はないのなら、何を話すのです」

「じゃあ、いつも通りに誘おうか。さとり、お前はこちらの方が向いているよ」

「嫌です。私はそんな干渉する気はありませんから」

「ハハハ、いつも通りの反応、ご苦労様。そうよね、貴方は紫の味方だものね」

「紫の味方でもありませんよ。私は私の味方です」

「強情ね。なんだっけ、確か、私は貴女を裏切りはしない。多くの嘘をついてきましたが、これは本当です、だっけ?」

 

 ニヤニヤした隠岐奈の顔にどうしようもなく苛立ちを覚える。

 なんというか、神として扱ってほしいくせに、神らしくある気はあるのだろうか。

 さとりは額に手を当てて、ここ一ヵ月で一番のため息をついた。

 

「…………はぁ、本当にもう…………」

「在原業平が和歌でも詠みそうな雰囲気だったわね。覚物語とかって歌物語にでもする?」

「……………………はぁ」

 

 ため息の一番は、更新の15秒後に早くも更新されることとなった。

 

「まぁ、それはいいわ。だけど、あなたこの前も結構な干渉を加えたじゃない。内ではなく外にだけど」

「あれに怒っているなら私を殺せばいいでしょう」

「いや、不敬と言えば不敬だけど、私は関係ないし。あと、結局影響は少ないから別に怒ってないよ。大麻とか昔にちょっとやって飽きた」

「そうですか。まぁ、あれは取り敢えず幻想郷の安定のために利用しただけのことです。普段の私は、干渉なんてあまりしないでしょう」

「あなたは基本はしないけど、する時はなんだってするじゃない。そういうのが、幻想郷には必要なのよ」

「だとしても、私は紫のやり方を肯定します。その上で、裏でやるのが私の役目ですから」

「始まりからいるのに賢者でないのは、だからなのかしら」

「私はあなた達ほど賢くはありませんし、大した存在でもありません。私は陰にいるだけでいいのです」

「よく言う。こんなに秘されたただの妖怪があってなるものですか」

「ただの覚妖怪である他に、私になにがあるでしょうか」

 

 その問いに返す言葉はなく、さとりをしばらく見つめた後、隠岐奈は厳かに話し始めた。

 

「博麗の巫女が、今地底に下ってきている」

「……お空ですか」

「察しはついているようだ。そう、地上の神とかかわった霊烏路空は太陽の力を得た。今、地上ではここが異変の原因として認識されている」

「そうでしょうね。ここもついに舞台となるだけのことです」

「その通り。と、言いたいところだが、そうでもないんだなこれが」

「何か?」

「この異変の後も、霊烏路空は力を失わないだろう」

「そうですね」

「地底は、地霊殿は、古明地さとりは大きな力を得ることになる。太陽の力、幻想郷を崩壊させるには十分な力だ。ねぇ、さとり、あなたはその力を持った時、どうするの?」

 

 隠岐奈の瞳は先ほどまでの笑みを宿さず、ただまっすぐにさとりを見ていた。

 それに対し、さとりは纏う空気を一切変えることなく、ただいつもの調子で返した。

 

「私は、今までもこれからも、外れ者の集まる地底を管理する覚妖怪です。何も変わらない。何も変えない。ただ、ここが舞台の一部となり、それが私のペットに起因するだけのこと。何か企んでいる? 笑わせないでください。私は自分を変えない。自分に嘘をつかない。私は幻想郷のために策をこしらえるだけの者。八雲紫の協力者です」

 

 淡々とした言葉に圧倒されたかのように、隠岐奈は10秒ほど黙ったかと思うと弾けたように笑い出した。

 

「いや、悪いね。念のためだ。そうだな、何も変わらない。私も紫もいくらか変わったが、幻想郷が始まったときからお前は何も変わらないものな。これは信頼するほかない」

「私も変わりましたよ。見えないようにしているだけで」

「見せないのなら何も変わらないさ。いや、邪魔をした。巫女もそのうち来るだろうし、私は帰るとするよ」

 

 おもむろに立ち上がると、隠岐奈は窓の外を見た。

 空も何も映らない、ただ地底の街並みと遠くの岩肌が見えるだけで、形ばかりの窓であった。

 

「私は、しばらくしたら舞台に上がるわ。最近の異変は幻想郷を壊しそうなものではないから何かする必要もないもの」

「あなたが関わると面倒になるのでそうしてください。秘された神なのだから」

「そうね。じゃあ、さようなら」

 

 笑顔で別れを告げて、隠岐奈は部屋を出ようとする。

 さとりはそれを見送ることもなく、椅子に座ったままでいた。

 しかし、最後に「大丈夫ですよ」と言い、隠岐奈はそれに振り向いた。さとりは言葉を続ける。

 

「ここは幻想郷、全てを受け入れる場所。神も妖怪も何もなく、舞台に上がればただの住人。誰もそれから逃れられない。だから、ここは素晴らしいのです」

 

 隠岐奈はただ今日一番の笑顔で返して、どこかへ消えていく。

 さとりは立ち上がると、窓のそばに立った。先ほどまで見えなかった弾幕の光が遠くに見えた。

 

「そう、誰も彼も負けて、ここはやっと舞台になる」

 

 そして、待ちわびたように、泣きそうで嬉しそうな表情を浮かべた。

 さとりが誰かに見せるはずもない、誰も知らない少女の顔であった。

 

「あの子が帰ってくるのよ」

 

 光は、少しずつこちらへ来ていた。



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原話【地霊殿】

私は不幸にも知っている。
時には嘘による外は語られぬ真実もあることを。
           ―芥川龍之介―


「鬼の言う事を真に受けてこんな大きな屋敷に来ちゃったけど、肝心なこの館の住人っぽい人が全く見えない。猫はいたけど。……………………猫に止めを刺せば良かったなぁ。死体の臭いにつられて出てきたかも知れない」

 

 紅白の巫女服に身を包んだ少女が飛行しながら言葉を紡ぐ。

 それは独り言にしてははっきりとしていた。言葉の間は空いていた。

 独り言というには、少女の表情は嫌に誰かを意識していた。

 彼女は他者と会話している。

 ただし、その誰かは近くにはいない。

 奇妙なことに、少女の心へ伝わる声は近くを浮遊する陰陽玉より発せられていた。

 地上より地底までコミュニケーションを通すそれは、幻想郷においても珍しいものであり、魔法や妖術の類であれば一部の者が可能、声まで程度を落としての再現であれば、それでも科学技術に手を伸ばす河童達くらいしか思い当たらない代物である。

 声の主人は賢者、八雲紫。此度の異変において、少女の補佐を買って出た者。

 賢者が助ける者。これの意味することは即ち、紅白の少女の正体は、幻想郷を守り続けてきた博麗巫女の当代、博麗霊夢であるということである。

 既に何人もの妖怪たちを倒してこの地底の奥まで駆け付けた彼女は、異変の原因に近づいていることを経験による勘からすでに察していた。

 そして、今、妙な悪寒を感じている。

 何か、嫌なものを感じる。感覚的な嫌悪。条件反射に近しいなにかが霊夢の体を駆け巡っていた。空気感が、これまでの連中に共通したある種の明快さが消え果て、確かに変わったのである。

 何か来る。

 予感は的中。彼女の前に、新たな少女が姿を現す。

 パジャマのようだといわれそうな服に桃色の髪、クマがあって不健康そうな顔をしている、顔つきや纏う空気のせいでひどく幼く見える少女がふらりと倒れそうな体で立ちはだかったのである。

 

「そう、紫なのね」

 

 蟻の足音のような音量で囁いた。誰も、それを聞いてはいないし、聞けるはずもなかった。

 

「……来客なんて珍しい。……なるほど、私の猫(ペット)が迷惑を掛けてしまったようね」

 

 不気味な少女に霊夢は警戒を解いていない。そんな物騒な雰囲気にもかかわらず、落ち着いた様子でただ述べる。

 それに応じるように、霊夢は肩の力を抜いて、不敵な笑みで会話に臨んだ。

 

「やっと妖怪らしい妖怪に出会えたわ。さあ、色々訊きたい事があるの」

「言わなくても判るわ……神社の近くに不思議な間欠泉? ……あら、そのままでも良いと思ってるの。……え? 喉が渇いたって? そう、お茶の用意でもしましょうか?」

「あー? 何を独り言してるのよ。さっきから何故か暑くて……喉が渇いているのは確かだけど。お茶でも出してくれるってあんた使用人か何か?」

 

 全てを察した顔をしながらもわざとらしく適当な対応を見せる霊夢に、少女は静かに微笑みかけてうやうやしくお辞儀をする。

 

「申し遅れました。私はさとり、この地霊殿の主です。私には隠し事は一切出来ませんよ。何故なら、貴方の考えている事が全て聞こえてきてしまうのですから」

「なんと! 会話いらずね。じゃあ、早速お茶でも…………………………しょうがないじゃない。私はまだ怨霊とかよく判らないし」

 

 地底の妖怪は取り敢えず倒すべきであるという助言とも指示ともしれない賢者の声に、霊夢はため息ともともに返答する。

 

「一体、誰と話しているの……? ……そう、地上に居る妖怪と話しているのね。……流石に地上は遠すぎてその妖怪の心は読めないわ」

『貴方かしら? 忌まわしき間欠泉を止める事が出来るのは』

 

 思わず笑ってしまいそうになりながら、さとりはなんとか平静を装った。

 そうね、貴方はそうなのよね。知っているし、そうでなくてはならない。

 

「間欠泉? 間欠泉ねぇ……また私のペットが何かやらかしたのかしら」

『ペット? さっきの猫の事かしら』

 

 お燐が聞いたら死ぬほど笑い転げるんじゃないかしら。

 あとでお燐に教えよう、なんてことを考えながら、さとりはさも不思議そうに続ける。

 

「でもそこの人間は「間欠泉は残しても良い」と考えているようだけど……」

『霊夢……そろそろ妖怪退治の本分を思い出しなさい』

 

 駄目よ、紫。その言葉は一応霊夢だけに聞かせないと。私を相手にして動揺しているのが、心を読まなくても透けて見えている。

 

「んー。そうねぇ」

「そう、面倒だからみんな倒して地上に帰ろう、と考えているのね」

「その通りよ。流石、会話いらずね!」

「地上の間欠泉は恐らく私のペットか、うちの怨霊の手によるものでしょう。私が調べても良いのですが……貴方には平和的に解決するという心は持っていないようね」

「当たり前じゃない。誰が妖怪の言う事なんて真に受けるのよ」

 

 私の言うことの間違いでしょうに。

 やはり霊夢は勘が良い。子供の頃に会ったことなど覚えていないのでしょうけど、あれから何も変わらず天性の感覚を持っているのね。

 

「しかし鬼の言う事は真に受けた。そして地上の妖怪の事を信用している。貴方がその妖怪の事を思い出している事が私にも判るよ。さあ、心に武器を持って!自分の心象と戦うが良いわ!」

 

 

 地霊殿の中を閃光が満ちる。

 光っては消え、光っては消え、そしてやがて光は途絶えた。

 目まぐるしい様子が終わったとき、そこにあるのは見下ろす巫女と、見上げる妖怪の姿であった。

 

「あらら。こんな地底深くまで降りてくるだけあるわ」

「どっかで見た事のある弾幕だったわね」

「そりゃそうよ、貴方の心の中にあった弾幕だもの。私はそれを真似ただけ……」

『それはともかく、今度は貴方の心当たりを霊夢に教えてやってくださる?』

「えーっと、間欠泉を止める方法でしたっけ? それなら私のペットに会うと良いわ」

「ペットって猫の事? それならさっき会ったけど……」

「猫にはそんな能力はありません。私は数多くのペットを飼っていますから。この屋敷の中庭に、さらに地下深く、最深部に通じる穴があります。その先に居るはずですわ。……え? ペットなら呼べばいいのに、ですか? どうも、私はペットに避けられるのですよ。この力の所為かしらね」

「ペットだけじゃなくて誰からも好かれなさそうね。会話が成立しなくて」

 

 少々きつめの皮肉だけを投げつけて、霊夢はさとりを越えて更なる奥へと消えていった。

 さとりはただそれを見送って、大きく息を吐き出した。

 

「疲れた……」

「どうして、霊夢を奥まで進ませたのかしら」

 

 執務室へと向かう背後から、美しい声。

 先ほどまで他人のふりをしていた八雲紫の姿がそこにあった。

 しかし、さとりは振り返らない。ただ立ち止まって、うつむいたままで、何も言わないでいた。

 それはとても珍しいこと。何があろうと、適当であろうと、必要ならば言葉を並べ立てる欺瞞少女の沈黙。

 静寂の回答にしばらく視線を送って、しびれを切らしたように続ける。

 

「戦いで手を抜くのは、いつものこと。問い詰めるつもりはない。だけど、あの嘘は何なのかしら。あなたはペット達からこれ以上ないほど愛されているでしょうに。実際、いくら暴走していようと妙なことを吹き込まれていようと、あなたが言えば全て終わる。この異変は、博麗の巫女が必要なかったはず」

「……大した意味などありませんよ。この異変に関しては八坂の神とこれ以上関わるのが面倒だっただけのこと。霊夢を進ませた理由は、私の会話で終わらせるより霊夢が倒した方が地底への影響が大きいから」

「……さとり、あなた、お空が持っている力を何かに利用しようとはしてないわよね」

「隠岐奈と同じことを言うのですね。では、同じ答えをしましょう」

 

 さとりは振り返って、紫と向き合った。

 彼女にしては、ひどくまっすぐで、嫌に真面目な目だった。それがまた、紫の心を刺激した。

 

「私は、今までもこれからも、外れ者の集まる地底を管理する覚妖怪です。何も変わらない。何も変えない。ただ、ここが舞台の一部となり、それが私のペットに起因するだけのこと。私は自分を変えない。自分に嘘をつかない。私は幻想郷のために策をこしらえるだけの者。あなたの協力者ですよ、紫」

「…………それを言われたら、もう何も聞けないじゃない」

「幻想郷は安定している。様々な勢力がこの世界とのかかわりを強めている。地底が、この小さな世界の陰が、舞台に上がることができるのは今だけなんです」

「それは本音?」

「本音ですよ。私は冷徹であって、冷酷なわけではないのですから」

「いいわ、信じましょう。じゃあ、どうやらお燐と遭遇したみたいだし、向こうに戻るわ」

「えぇ、さようなら。紫、よい旅を」

 

 さとりが最後に見せたのは、久しく見なかったにこりとした笑顔だった。

 

 

 さとりの言葉に嘘はない。

 ただ、真実であるかと言えば、きっとそうではないのだ。

 並べ立てられた理由はどれも一側面に過ぎなくて、別の理由がさとりにはある。

 これはいつものこと。隠されているのも慣れている。

 ただ、今回はいつもとなんだか違うように思えて仕方がない。

 なぜか、さとりがそう仕向けることが、まるで本当に正しいことのように思えるなんて、そんなことは今まで一度だってなかった。

 いつもさとりは、正しくはないことを私たちのためにやっている。

 正しくはないけれどそうすべきであることを背負っている。

 なのに、今日に限って、こんな大事な時に限って彼女が世界にとって正しいかのように感じてしまうのである。

 

 古明地さとりは舞台に上がった。

 幻想郷のすべてを知ったうえで、それでも彼女は何のためらいもなく舞台上でただの管理人をやってみせるだろう。

 私は知らない。

 古明地さとりの真実を。古明地さとりの現実を。古明地さとりの顛末を。

 彼女はなぜ舞台に上がるのか。

 裏方でいることを選び、自身を泡沫と笑い、その言葉と裏腹に誰よりも己を保ち続けてきた彼女は、なにを目的としているのか。何のために生きているのか。

 私は知らない。

 家族を何よりも大事にする彼女が、家族以外で最も愛しているのは私だと自惚れでなく言い切ることができるけれど、それでも私は知らないのだ。

 

 彼女は何を明かしているのだろうか。

 彼女は何を秘めているのだろうか。

 

 彼女は私を知る。

 彼女は幻を知る

 彼女は海を知る。

 彼女は何を知る。

 

 彼女の体が電解質に保たれていること以外、何一つとして確かなことなどないことを、私は知っている。




東方地霊殿 ~ Subterranean Animism.


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第六話【藪の下】

誠は嘘の皮、嘘は誠の骨、迷うも吉原、悟るも吉原。
              ー大田南畝ー


 幻想郷は冥界が奥、西行寺家白玉楼の桜の木の下には眠る者がいる。

 端的に言えば、死体が眠っている。

 それは「死を操る程度の能力」がまだ「死を誘う能力」であった頃、死人の能力が生者の能力であった時に、生命を手繰り寄せた西行妖を自害の果てに封印した際に輪廻を逃れんとして留めたからである。

 白玉楼の主人は、その不可思議な桜の下に眠る者が自分であることは知らない。

 知っているのは生前から彼女と関係を持っていた者、深い関係者、或いは幻想郷の根幹に関わる人物だけ。

 誰も死体を掘り起こしはしない。

 美しい少女の真っ白な姿を見ようとはしない。

 本人も少し前に試みたが阻まれ、取り敢えずはその気はない。

 何も起きなければ、もう100年は安泰と言えるだろう。

 いつまでもどこまでも、桜の下で生命を振り解いた屍が笑うばかりである。

 

 嗚呼、違う。今は語るべきはこれではない。

 

 西行寺幽々子の御話に関しては、またいつか、語る日が来るだろう。

 その時は、きっと騙る少女も共に。

 この話は『桜の下』ではなく『藪の下』なのだ。

 ここで桜の話をしたのは、幻想郷はその手の話に事欠かない事を示すためである。幻想郷という倒錯した小世界では、どこに何があるかわからない。どこの下に、どこの中に、どこの上に、どこの前に、どこの後ろに、何があるかわからないということなのである。

 特に、古い者、立場のある者は大抵裏に隠しているものである。

 

 そして、それは古明地家も例外ではない。

 

 古明地さとりは、幻想郷の成立に賢者としてではなくただの助力として関わった妖怪である。よって、彼女の持つ情報は賢者達も把握し切れたものではない。

 さとりならば、あの始まりの時に何かをやっている。確信めいた思考を誰もが抱いた。

 だが、さとりならば、大してマズい事はしていないだろう。推測に満ちた安堵がすぐさま疑念を打ち砕いた。

 

 今回の御話は、それにまつわる御話。

 知っているのは、古明地さとりと■■■■■■、そして、当事者だけの秘された過去。

 この件についてさとりに何かを問うたとしても、きっと彼女は唇の前に人差し指を立てて、「しぃー」と息を滑らせるばかりであろう。

 決して彼女のいつもの欺瞞に鼻歌混じりで塗れさせた話であるからでなく、彼女がどうしようもなく欺瞞に塗れさせるしかなかった話だからで、きっとこの話は古明地さとりだけの話ではない。

 彼女は、ただ一人ならば話さないのではなく、本当の闇に隠してしまうだろうから。

 

 

 町奉行にて問われたる小作人の言葉

 

 左様で御座います。あの藪の中で死体を見つけたのは私に違いません。

 あれは忘れる筈もない、やけに冷える雨の日のことでした。田畑の仕事も終わりましたので暇を持て余しまして、ここいらには娯楽もそう多くはありませんから、散策などしておりました。あんなに冷える雨ですから、何かあるのではないかと。叶うならば、あの時の気楽な私を引き止めてやりたいところで御座います。

 嗚呼、申し訳御座いません。どうにも未だに胸が苦しいままで、要らぬことまで口から出てきます。

 兎にも角にも、散策をしていた私は、なんとなくあの藪を通ったのです。そうです、『あの』藪です。不知八幡森とも称される、あそこの近くを通ったのです。勿論、入ろうなどという気は御座いません。最早いつから禁足地であるかも分からないあそこは、ここいらでは爺様婆様から話されてを繰り返して、もう血気盛んな若者でも肝試しをやろうなどとは思わない場所です。ですが、あくまで入ってはいけない場所ですので、そうである限り、何も起こりはしません。私などは、神聖な場所なのではないかと思っておりました。それで、近くを通ったのです。

 今にして思えば、妙な事でした。ガサガサと音が聞こえたのです。はい、あの日は雨でした。不知八幡森は、そう広くはないとは言え森ですし、雨もそう弱いものでは御座いませんので、晴れの日に比べれば五月蝿いものです。なのに、中から音が聞こえたのです。青ざめました。誰ぞ入ったのかと。あそこは誰も入らない禁足地ですから、入ったらどうなるかわかりません。駆け寄って、古い柵越しに、中を見たのです。

 ひどく雑でした。不知八幡森の真ん中で、上半身だけが埋まった死体があったのです。下半身だけがまるで穴を覗き込んでいるかのように出ていて、滑稽にすら思えたほどです。はい、誰かが死体を埋めたのです。私はその発見者に御座います。禁足地に誰かが足を踏み入れ、斯様に悍ましいことをしてみせたことに震えております。この地に何が起きようと、もう不思議では御座いません。

 

 

 町奉行にて問われたる盗っ人の言葉

 

 そうだ。俺がここいらを数年に渡り荒らしまわった盗賊である。

 貴様らが聞きたいのは、あの藪の話であろう。いいだろう、捕まってしまった今、最早この身は死を待つばかり。不思議を明かす手伝いをするも一興。語ってやる。

 あれは、雨の日のことであった。俺はいつも通りに盗みを働き、逃げおおせていた。そのまま川辺に腰を下ろして奪った飯など喰らっていたところ、女が声をかけた。追手かと思い、小刀を構えたが、どうやら違うらしい。いわく、自分を殺して欲しいということだ。今生が恨めしいが、自死の勇気などなく、どうにかして死にたいと。

 俺は盗人だが人殺しではない。必要に駆られて命を奪うことはあっても、理由もなしに奪うほど野蛮ではない。よって、頼みを断った。他所をあたるか、或いはなんとかして自死を遂げろとな。女は奇妙な桃色の髪を揺らして、どこかへと去っていった。その時はそれまでだった。

 数刻の後、俺は女とまた会った。藪の前で、だ。女は柵を越えようとしていた。勿論、止めたとも。いかに俺が不信心なる悪党であろうとも、あそこは立ち入らないべきだとわかっている。無理矢理引き留めた。だが、俺の手には破れた布切れが残り、奴の足は藪へついた。そのまま駆けて、藪の真ん中まで行くと、女は座り込んだ。藪の中では、何も起きはしなかった。その時、俺が千切った袖から、視線を感じた。見ると大きな瞳が覗いている。

 俺は理解した。この女は妖で、俺を惑わしているのだと。藪というのも神仏に関係なく、怪物のものでしかなかったのだと。そうとわかれば、俺の行動は早かった。柵を越え、ゆっくりと近づいて首元を一切り。それで終いだ。死体は掘って埋めようと思った。そうしていると、誰かにそれを見られた。すぐさま逃げ出したものの、俺はこうして捕まった。

 俺は妖を殺したぞ。俺はあの藪を明かしたぞ。もう死なぞ恐ろしくもない。我が今生はこの為にあったのだ。

 

 

 町奉行にて問われたる少女の話

 

 はい、そうです。あの人を殺したのは私です。

 奇怪な髪同士? あぁ、そうですね。親戚でしたから、遠い昔にどこかで妙な血が混ざったのでしょうか。

 動機は親族間の揉め事です。よくある事です。ここらでもそんな事件は絶えない。それで、ここからいつも喚き声が聞こえる。喚き声を上げることなど少ない? そうでしたか。まぁ、動機など大した意味は御座いません。肝要なのは、私があの人を殺した事。そして、あの藪に埋めてしまった事では御座いませんか? さっさと悪党は殺すに限るでしょう。

 ……その盗賊は嘘を吐いていますよ。どうせ捕まり死ぬのなら名声と共に死ぬなんて、馬鹿な考えです。なぜわかるのか、ですか。私も悪党だからです。幼い少女が何を言うかと言われても、あなた方は私の事なんて何もご存知ないでしょう。

 私は藪の中に入った彼女を追って、彼女を殺して、彼女を埋めようとした。それを見られて、逃げた。何かおかしいところがありますか? 盗賊に嘘をつく理由はありますが、私にはないと思いませんか。盗賊はあらゆる罪で捕まって、藪の件を仄めかしてわざとらしく語った。私はこの事件の犯人だと言ってここに来た。信じられるのはどちらでしょう。

 数多の事件を裁いてきた奉行様の、技量の見せ所で御座います。




語るは証言ばかりではなく、事件の外で語る言葉はまだあるもの。
まだ、この事件は終わらない。







お久しぶりです。前編。ガチガチに考える必要は全くないです。


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第七話【幻の上】

正解とは、真実とは、
本人が最も納得できる仮説に他ならないのです。
             ー森博嗣ー


誰に語るでもない少女の独り言

 

 あの人を殺したのは、お姉ちゃんだ。

 何の理由があったのか知らないけれど、きっとお姉ちゃんはいつも通りに暗躍して幻想郷のために、命を奪った。必要以上に誰かを殺そうとはしない人だったけれど、必要ならばどんな悪に身を染める事も厭わない人だった。ただ、直接誰かを殺すことは少なくとも私の知る限りなかったけれど、そうする事が疑惑を晴らすのに十分かと言えばそうではなかった。

 お姉ちゃんがあの人の死体を埋めるのを見た。藪の真ん中を掘って、死体を隠そうとするのを見た。あの藪が、神仏が宿る場所でも悪妖の蔓延る洞窟のようなものでもなく、お姉ちゃんがずっと昔に幻想郷の始まりに、あちらとこちらを繋ぐ、誰にも秘密の通路として作り出しているものだと知っているから、誰にもあそこに入れないようにいじったのだと知っているから。心を読む瞳でしか、感知ができない、できても通れはしない、本当の覚妖怪にしか使えない現と幻の境界ならざる通り道。あそこに埋めることがあまりにも合理的で、あまりにもお姉ちゃんらしいと思ってしまった。

 あの人はきっと同族だった。なのに、殺した。お姉ちゃんは誰も信用しない。誰であろうと、お姉ちゃんを信用してはならない。

 私が見てしまった時、こちらに気づいたお姉ちゃんのあの眼は、増えた障害に対する苦痛に違いない。

 その絶望は、この眼を閉じるには十分すぎた。

 

 

死後のどこかでとある霊が語る思い出

 

 私を殺したのは、桃色の髪をした覚妖怪ですよ。

 きっと辛いだろうに、きっと苦しいだろうに、それでも進むことをやめない目をしていた。生きることに執着しているのではなく、生きなければできないことに執着する少女。心の奥底を読むことにも、それで人を信じられなくなることにも、耐え切れる心を持った天性の覚妖怪。

 彼女に殺されました。

 人と覚の混血で、人の心を読めてしまった私が、幻想郷に行きたいという願いを口にした時、彼女はそれを許さなかった。それでもなお懇願した私を彼女は鬱陶しく思い殺した。そして、埋めた。とても単純な事件です。ただ、妖怪が人を殺すという当たり前だった。

 え? 自分が殺された話をするには、やけに明るい?

 そんなことはありませんよ。私はとても彼女を憎んでいます。

 彼女は私を殺した。真実はそれでいいのです。

 彼女にとっても、それが都合が良い話なのですから。

 

 

 友人に語る少女の話

 

 私が直接誰かを殺したこと? ありますよ。なんですか、意外そうですね。

 経験は一度だけですよ。聞きたいのですか? 昔の話です。あなたに頼まれた向こうの調査の時ですね。こいしが眼を閉じる前、覚と人の混血を一人殺しました。えぇ、はい。同胞殺しです。幻想郷に来たいと言ってきたので、邪魔になって殺しました。あの頃はこいしが不安定だったので、それに影響するようなものは排除したかった。それだけの理由です。

 どうしてそんな顔をしているのです。やけに悲しそうな。

 こいしを失った私を憐れんで、ですか。仕方がなかったのでしょう。この能力を持つには、あの子は優しく純粋だった。覚妖怪の才能がなかった。どうしようもなかったのです。だから、こうして私には待つことしかできない。

 私は待ちますよ。何があったとしてもあの子は私の妹で、愛しているのですから。

 

 

 とある賢者の話

 

 私は、彼女が独自の道を確保している事を知っていた。だから、私は彼女とその妹の顛末を知っている。

 彼女は同胞殺しなどやっていない。彼女は、誰も殺していなかった。

 何の思惑があってか幻想郷に来ませんかと藪の中から問う彼女の顔を見て、少女は悲しげに彼女を抱き締めて、そして自害した。あの事件に犯人は存在しない。何故か死を選んだ少女がいるだけだ。そして、その遺体を何を思ってか埋めようとした彼女がいて、それを見た妹が彼女が殺したのだと思ったのである。そんな単純な勘違いでしかなかった。

 おかしいのは、彼女が誤解を解く事を一切せず、寧ろそちらを真実に置き換えようとしていること。彼女は殺していない。殺意を抱いてすらいない。救おうとしたのに、彼女は犯人であることを選んだ。

 私は事の顛末を知っている。だが、真実は知らない。

 彼女が何を考えてそうしているのか。相変わらず私にはわからない。

 いつだって、彼女のことは彼女しか知らない。

 彼女は誰も殺していない。少なくとも、私にとっては。

 彼女すらそれを真実と言ったならば、この言葉は如何様にも捻じ曲げられて、虚構の果てに追いやられるのだろう。

 少なくとも、そうするだけの意味が彼女にとってはあるのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「お姉ちゃんは、どうして私が帰ってくるって分かっていたの?」

「私がお姉ちゃんだからよ」

「何それ」

「お姉ちゃんはね、いつだって妹のことを想っているということよ」

「それで私がお姉ちゃんを嫌いになっても?」

「えぇ、そうよ」

「変なの」

「そういうものなのよ」

「お姉ちゃんは嘘つきだから何が本当かわかんなくなってきたわね。あの人を殺したって私が思っても何も言わないし」

「でも、あなたが私を嫌いになったから、あなたは今ここにいるのでしょう?」

「どういうこと?」

「私が嫌いなだけなら、私を憎んでそれで終わりよ」

「またよくわかんないことを言ってる」

「わからなくていいのよ」

「いつもそう。全部お姉ちゃんの手の上」

「そんなことはないわ。私は分かったふりをしているだけよ」

「でも、大体はお姉ちゃんの思うまま」

「……ねぇ、今は、楽しい?」

「楽しいよ。皆楽しくて、世界が楽しい」

「なら、私はそれで良いわ」




あの日になにがあったのか、あの日になにが思われたのか。






次回から伽藍堂までの感じに戻ります


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第八話【静止画の散歩者】

真実の無い生というものは有り得ない。
真実とは多分、生そのものであろう。
           ーフランツ・カフカー


 多分それは一種の精神病でもあったのでしょう。

 十六夜咲夜は、吸血鬼の少女に仕え、幻想郷という奇天烈極まる世界に移り住み、時を操る能力を持っていましたが、一向に物足りなさが付き纏っておりました。

 人生を諦めるほどのものでは御座いません。メイド長という仕事にはやり甲斐を十二分に感じておりますし、主人に対しては一生涯を捧げるだけの忠誠を誓っております。然るに、その不足というのは、所謂趣味の領分に御座いましょう。彼女は、楽しい日常とは別に、ただ楽しいだけの何かを欲していたのです。

 では、遊びの一つでも覚えれば良いのではないかと思われるでしょう。その言葉に誤りは御座いません。博麗の巫女ですら、同じ悩みがあったとしてその言葉で片付きましょう。

 しかし、咲夜は違ったのです。

 彼女のいる紅魔館で得られる娯楽の類を片端から試し、満たせるものがないと見るや少女の足は少ない自由を使って様々なところへ向かいました。人里、博麗神社、永遠亭や冥界にまで。果ては、戦う事すらも試そうと太陽の畑にまで足を運んでおりました。

 それでも、彼女はなにも得られなかったのです。

 終には、およそ楽しいなどとは思えぬ事さえも試したのですが、それでも、何一つ得ることはなかったのです。

 

 ある日、咲夜は、初めて能力を使っている時に居眠りをしたのです。

 単なる疲労から来た出来事でしたが、結果的に咲夜に一つの生き甲斐を与える事となりました。

 何があったかというと、寝てしまって起きた時、時は止まったままだったのです。

 本当にそれだけです。大したことでは御座いません。

 しかし、十六夜咲夜は一つの閃きを得てしまったのです。向こうの世界で、人殺しを繰り返しているところをレミリア・スカーレットに拾われた経緯もあってでしょうか、その閃きはおよそ常人の考えつくところでは御座いませんでした。

 

 時が止まった世界で、自分が死んだ時、世界はどうなるのだろうか。

 私の能力が、単なるスイッチだったとするならば、私が死んだ後世界はずっと止まったままなのだろうか。ずっと止まった世界は、どうなってしまうのだろうか。

 私の能力が、電源を私に持つものだったとするならば、何もないところに私の死体が発生した時、皆は何があったと思うのだろうか。止まった世界で死んだ人間に、どんな事件を作るのだろうか。

 

 興味は止まるところを知りません。彼女は、自分を殺したいと思うようになりました。

 自殺では御座いません。彼女は自殺してはいけません。主人があり、仕事があります。ですので、自分を納得させるための詭弁として、自分を殺すという言葉を選んだのです。

 しかし、幻想郷には大変多くの障害が御座います。つまりは、彼女の能力を打破する事すら叶うかもしれない連中が数多くいるという事です。そんな連中がいては、たった一度の機会が文字通りの無駄死にとなってしまいます。

 これはいけないと、彼女はただ思いました。深い感情は御座いません。ただ、やろうとした事に面倒ができたという心です。ティータイムに人数分には茶葉が足りない。水場にやけに取りづらい黴がある。掃除が終わっていないのに来訪者。そういった具合の、軽い心でした。

 彼女には殺人に対して抵抗というものがありませんでした。それは、元々殺人鬼として名を馳せた、とは言っても彼女がそうだと誰も知りませんが、人物だったからというのもありますし、主人のために多くの邪魔者を止まった世界で殺してきたからでもありました。

 理性は御座います。良心も御座います。気品すらもあります。しかし、いずれも殺人を躊躇わせるだけのものではありません。十六夜咲夜にとって、殺すという事はそういった事象に御座います。だから、彼女は易々と自分を殺そうとできるのです。

 

 彼女の密かな人生目標は、幻想郷の住民の排除を目論みました。

 即ち、自分を殺すために、障害になり得る能力を持つ者を全て殺すという、幻想郷史上類を見ない壮大かつ最悪の殺人計画がここに誕生したのです。

 しかし、そもそも対象者は咲夜の能力を打破し得るからこそ対象となるのであり、安易な犯行は愚行と言うほか御座いません。ですから、彼女は自分を殺すために他人を殺す、その為にという更なる一手間を加え、それが50年先まで続く怪談話となるのです。が、物語をこの先へ進める前に、十六夜咲夜が計画遂行の際には真っ先に殺さねばならないと思った一人である古明地さとりを、読者の皆様はこの名前に嫌な予感をしたものと思いますが、その対象としさとりと知り合いになった経緯について語らねばなりません。

 

 さとりが紅魔館を訪れたのは、地底異変解決後に地底の出入りがある程度緩くなった時、レミリア・スカーレットの興味を引いたからでした。

 地底には多くの実力者が御座います。星熊勇儀や水橋パルスィなど、伊吹萃香も元々は地底の妖怪。畏怖か嫌悪、どちらかを強烈に抱かれるのが地底妖です。しかし、地上の妖怪が地底で妖怪の名前を出す時、総じて嫌悪と畏怖の入り混じったものを感情に出すのは古明地さとりに限りました。そして、皆の口ぶりから察するに、さとりのその評判は能力によるものでなく、人物から来るものであるようで御座います。それが、レミリアの好奇心に触れたのです。

 レミリアの招待により、古明地さとりは紅魔館に招かれました。ただし、能力の制限を条件に。勿論、これはレミリアの意向では御座いません。皆の意向であり、何より咲夜が強い嫌悪を示した為でした。彼女に心を読まれることだけは、咲夜は何としても避けなければならなかったのです。

 

 館の主人の前に座った覚妖怪の姿は、想像とは違ったものでした。

 レミリアのようなカリスマ性はありません。強さもありません。可愛らしい容貌ですが、人を狂わせる類ではありません。いかにも惑わすような様でもなく、陰湿かと言えば肯定も否定もできない、そんなよくわからない妖怪でした。噂とはどうにも合わない、偽物かとすら思える。しかし、確かにレミリアの前に座ることを許される存在である事は誰もが認めるほか御座いませんでした。

 話してみると、その答えは直ぐに得る事が叶いました。

 全ての言葉があまりにも重く、全ての発言があまりに軽い。発声に意識を巡らせづらく、表情は一貫して静寂をたたえておりました。何を言っても信用に足るものでなく、しかし、嘘だと言い切れるものではありません。レミリアの問いにも十分に答え、しかし、本心を曝け出す訳ではない。強者に媚びへつらうのではなく、ただ言葉を放つ相手として向かい合う。

 古明地さとりは、噂に違わぬ人物に御座いました。

 レミリアは驚きを以て彼女という人物を迎え、一人の強者として認めました。誰一人として、異論はありませんでした。

 咲夜もまた、この少女を認めました。しかし、この時はまだ殺すつもりなど毛頭なかったのです。心が読めるだけならば、推理に駆け付ける時に殺せばいいと思っておりましたから、然程脅威では御座いません。

 原因となったのは、さとりが間も無く帰ろうかという時の事でした。

 館の主人は部屋の出口まで見送りに終わり、館の玄関までの見送りはメイド長である十六夜咲夜が任される事となりました。そして、沈黙のまま廊下を進み玄関の扉が開いた時、さとりは言ったのです。

 

「私は、害にはなりませんよ」

 

 ただ、それだけを言って、直ぐに彼女は別れを告げました。美鈴の笑顔に微笑みで答える姿が最後に見えました。

 咲夜の心中は穏やかではありませんでした。

 勿論、彼女の計画の事は知られておりません。能力は使っていなかったのですから、知り得るはずもございません。ですが、少なくとも、ほとんど会話がない中で、或いはレミリアとの会話の中の情報や噂に過ぎない幻想郷での咲夜の評判のみで、障害を除く者であるという咲夜の本質を大方察している事が、まず彼女の力量が裏切った予想を更に超えるものである事を示しております。

 そして、何より咲夜の心を揺さぶったのは、その表情でした。

 それはまるで保身のためのような発言でしたが、彼女の顔がそうではない事を十二分に物語っていたのです。つまりは、「私を殺さないでください」ではなく「私を殺すなんて無謀ですよ」とでも言いたげな忠告であったのです。

 実際、さとりの真意は分かりません。

 しかし、この一件を以て、咲夜はさとりを殺さねばならないと強く感じるようになったので御座います。殺人事件においては、その殺意こそが肝要なのです。

 そして、その心はやはり、とある事件を以て終いとなってしまうのですが、これから語られる話こそが、その事の顛末に御座います。








前編。


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第九話【どこかの旅人】

嘘とは何か。それは変装した真実にすぎない。
  ジョージ・ゴードン・バイロンー『ドン・ファン』よりー


 刺殺はできない。ナイフ使いの私の癖を見抜かれて、暴かれるかもしれない。

 絞殺はできない。急に首に絞めた痕ができたら、それは時を止めた証明に他ならない。引っ掻き傷がない事が、更に真実を引き寄せる。

 撲殺はできない。絞殺と同じ理由だ。そして、執拗でなければならない事が危うい。

 撃殺はできない。素人が試みた所で失敗の可能性が高く、凶器の特定がされ易い。

 殴殺はできない。この手に痣の一つでもできて仕舞えば、証拠が出来上がる。

 焼殺はできない。火の無い所に煙は立たないと言うが、火種が無いところに火は起きない。

 溺殺はできない。水は香る。私の体に少しでも水の匂いがついたなら、服が濡れていた事が知られてしまったなら、それはもう怪しい。

 銃殺はできない。火薬の匂いもあるし、凶器の特定もされ易い。

 

 やはり、どうしても、手段は限られてしまうのである。

 結局の所、私は毒殺と呪殺を以て、計画の遂行とする事にした。

 

 全くもって優雅ではない。どう足掻いても瀟洒ではない。

 私らしからぬ手段である。そして、同時に紅魔館らしからぬ手段である。

 紅魔館は正々堂々を旨とする訳ではない。だが、卑劣を嫌う。

 清くなければならないのではなく、卑しくあってはならない。

 そう在れかしと、語られずとも理解してきた。

 それに反くつもりはない。それを捨て去るつもりはない。

 ただ、十六夜咲夜がそうであったとしても、謎の事件群の犯人がそうではなかっただけの事なのだ。

 だって、十六夜咲夜は完璧で優雅、瀟洒なだけのただのメイド長なのですから。

 

 

 その少女は、『向こう』においては近世に分類される過去の趣を残す町において、異質な存在感を放っていた。

 まだ訪れぬ文明開化を衣服に纏い、革製の大きな鞄を下げ、男性用のハット帽を被る。ただ流れついたものを着たのではないとわかる姿は、恐らくは迷い人ではなく、多くの妖怪達と同じように文明を知る者なのであろう事を思わせる。

 髪は白く、奥より覗く瞳は穏やかで、その容姿の幼さとはかけ離れた人格を知らせた。

 

「失礼。上白沢先生の御自宅はどちらでしょう?」

「お、おぉ。先生のお宅のかい」

 

 戸惑いを隠せずにいる人々に然程の反応を残すこともなく、聞くべき事を聞くばかりである。

 ただ、その有り様が同時に危険な妖怪ではなさそうだとも思わせた。上白沢慧音について尋ねた事も、彼女の友人であるという推測を生み、勝手な安心感を与えることとなる。

 残念ながら、少女は上白沢慧音とは友人関係にない。そして、人間の味方でもない。

 ただ、本心には億劫さのみを抱く、幻想郷の味方の妖怪であった。

 三度ほど町人に尋ね、ようやく少女は一つの家屋へと辿り着く。

 そして、扉の横を三度ほど叩いた。

 

「上白沢先生、いらっしゃいますか」

 

 間も無く引き戸が音を立て、少女の前に新たな少女が姿を現す。

 少しばかり身長が上ではあるが、そう大きなものではなく、そしてそれに似合わぬ大人びた雰囲気がやたらと目を引く。来訪者に比べ、その大人さは真っ当に思え、ただ人格者であるだけの事だとわかる。

 件の上白沢先生というのは、この人なのだろう。

 

「どうぞ、入ってください。ええと、なんとお呼びしたらいいでしょう」

「やまこ、とお呼びください」

 

 促されるままに座敷へ上がり荷物を下ろすと、帽子を取ってやまこは優しい笑みを浮かべた。

 

「今回は、こちらへいらしていただきありがとうございます。私が上白沢慧音です」

「改めて、私は雁ケ地やまこ。流れの覚妖怪です。以後お見知り置きを」

「霊夢から話は聞いています。なんでも、幻想郷の中でも外でも事件を解決してまわってるそうで」

「そんな大層なものでは御座いません。ただ不幸体質なだけの流浪人です」

 

 微かに照れたような様子を見せて、やまこは頭を軽く掻く。

 そこから察せられる人柄は朗らかで、大人しいものであるように感じられた。だから、慧音はなんだか安心したのである。だが、それでもどうしても意識せざるを得ないことは残っていた。

 やまこは慧音の視線が自身の目に注がれている事に気づくと、慌てたように服の奥から三つ目の瞳を出した。

 

「覚妖怪の読心はこの眼を使っているんですが、大丈夫です。私はコイツを使いません。誰だって心を覗かれたくはありませんし、私も辟易しているので、必要な時しか開かないんです」

 

 やまこの弁解じみた言葉に控えめに安堵したような息を漏らすと、慧音は真面目な顔で頭を下げた。

 

「申し訳ありません。覚妖怪でしたらこんな態度を取られるのは不快でしょうに、私の考えは自分本位なばかりで」

「あぁ、いえいえ。大丈夫です。本当にこれは当たり前で、むしろそうすべきことなのですから、お気になさらず」

 

 慧音の生真面目さに若干気圧されるようにして、手をワタワタと振りながらやまこはただ彼女を慰める。

 その姿すらも慧音の生真面目な罪悪感を助長し、その後3分余りを状況の回復に費やす事となった。

 そして、また二人が向かい合った時、ようやく本題へと進むのであった。

 

「今回の事件については、もう概要は把握されてることと思います」

「人里を中心に発生する、怪事件ですね」

「はい。近頃、不審な体調不良は多くはあったんですが、あんまりにも多いし似過ぎているということで確認が行われました。結果、臓腑の異常が原因ではないことが判明しました。多くは毒薬の投与が確認され、そして」

「一部は、完全なる異常現象。詰まるところ、能力の使用、或いは魔法、呪術、妖術の類の行使が認められた、と」

「仰る通りです。その後は、一先ず人里での捜査が行われましたが、証拠も疑わしい人物も何も見つからず、難航を極めてる間にも事件は発生を続けました」

「これだけならば、博麗の巫女の出番となる所ですね」

「しかし、そうはならなかった。一週間前、人里に出入りする妖怪達から驚くべき情報が齎されました。人ならざる妖怪達の間でも斯様な事件が頻発しているというのです」

「この一件は、これでただ人を襲う何かでは無くなった、と」

「妖怪の方では死者も出てるそうで、度合いから察するに犯人は人を殺すのは良くないと見てるようです」

「人を襲う妖怪なら博麗の巫女の介入で済むが、妖怪まで手を出したんじゃ妖怪の山なんかから報復行動が行われ得る。その機会を奪うと、話が変な方向に飛びかねない」

「幻想郷に影響を及ぼすものではないから異変認定は出来ず、しかし人と妖怪のバランスの問題で無いから口出し無用と言われかねない。今回の一件は、そのようなものです」

 

 慧音の不安そうな表情を見ると、やまこは浮かぶ瞳を一撫でして立ち上がった。

 

「だから、私が寄越されたのです。大丈夫です、私が何とかしましょう」

「あぁ、やまこ先生は良い人ですね。霊夢が解決は期待していいと言ってたのも納得できました。妙な顔はしていましたが」

「私は余所者ですから。霊夢は私をあまり知りません。依頼も紫からのものでしたしね」

 

 少々寂しげな表情を浮かべると、すぐにまた靴をはいて、玄関の前に立った。

 

「里をぐるりと回ってきます。あとで荷物は取りに来ますので、隅の方にでも置いておいてください」

「あっ、私が案内しましょうか。こんな里は不慣れでしょう」

「お気遣いなく。一人の方が良いでしょう、その方が犯人がいれば私を注視する」

「それじゃあ危ないじゃありませんか!」

「私のような目立つ者をやればどうなるかくらい、わかる犯人でしょうから。大丈夫です。上白沢先生は御自身のお仕事をなさってください」

「……心配ですが、きっと私では考えの及ばぬ思惑があるのでしょう。ご無事を祈っています」

「はい、ではまた後ほど」

 

 慧音に別れを告げて、やまこは町の中を歩き出す。

 その姿は相変わらず好奇の目に晒されて、少し歩きづらそうで。だが、それでも少女の足は止まらず前へと進む。

 そうして、里の中でも川沿いで、人気のない場所に辿り着いた。

 周りを見渡す姿は迷ってしまって、どうするべきかと思案しているように見える。そう、見えるような様子だった。

 

「こいし、町の様子はどうかしら」

 

 小さく細く、ゆっくりとした声が帽子のつばの下に響く。

 それは必要以上の情報を漏らさまいとする試みであったが、普通にいくとその声が誰かに届くはずなどなかった。近くに誰もおず、その声はあまりにも小さかったのだから。そう、聞こえないはずだった。

 

「まだ、変なことはないよ。お姉ちゃんを見ている人も普通の目ばかりしているし、陰から見てる人もいなかった」

「そう、ありがとう。ここからも、お願いね」

「うん。任せて」

 

 その少女はやまこと同じ髪の色で、いつのまにかやまこの横にいた。少なくとも、やまこにとってはそのように認識できる状態になっていた。他の者にとっては、そこに誰の姿もないのだけれど。

 間も無く少女の姿はやまこにも見えなくなり、そして、また歩き出す。

 

「全く、紫はまた厄介な事件を持ち込んだ」

 

 その瞳は暗く、静寂に満ち、あまりにも冷たいように見えた。が、1秒もしないうちに、慧音と話していた時のような穏やかさを灯した。

 

「さぁ、事件を解決しましょうか」











中編。
なんか収まりが悪くなりそうだったので三つに分けました。
一番進展がない回。面白くなくてすみません。
次回で完結ですので、早めに投稿します。


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第十話【動画の住人】

時は貴重であるが、真実はそれよりもっと貴重である。
   ベンジャミン・ディズレーリ ー『断片』よりー


「これは犯人の捕縛は不可能ですね」

 

 二、三日の調査を経て伝えられた結果は、予想外なものだった。

 咀嚼がまだ終わりきっていない団子を茶で無理に押し込んで、嚥下し終えた喉から声を出す。

 

「不可能というのは、どういうことですか?」

「証拠がないんです。この事件はあまりにも完璧すぎる」

「完全犯罪というやつですか? 流れ着いた本で読みましたが」

「近い。けれど、少々趣が異なります。言うなれば、完全犯罪は誰にも見破れない犯行で、こちらは見破るも何もない犯行とでも言いましょうか」

「ううむ、わかるようなわからないような」

「完全犯罪は誰にも解けないタネがあるわけです。まるで不可能を可能な手段にする仕掛け。それで誰も見抜けなかったから完全な犯罪になる。しかし、今回はそれがない。言うなれば、魔法のない世界で魔法を使うようなもの。見抜くも何もなく、完全になるまでもなく完璧。おそらくは、そういうものです」

 

 詳細を聞いても理解できた感覚がしなくて唸っていると、ふと彼女が視線を手元に落としていることに気づいた。

 茶柱でも立っているのかと少し覗き込むも何もない。

 思案に耽っているのかとそのまま顔を上げると、目が合う。

 

「お茶、美味しいですね」

「え、あぁ、はい。ここは人気の茶屋ですから」

「ここ数日間、調査を兼ねてここらの店で食事をとっていましたが、何度か毒物が仕込まれていました」

「なっ、どういうことですか⁉」

「あぁ、ご安心ください。店の者は何も悪くありません。彼らに害意はありませんし、誰かに操られていることもありませんでした」

「では、誰が」

「決まってるじゃないですか、犯人ですよ」

「それは、そうなのでしょうが」

「言ったでしょう。これは完璧犯罪です。毒を盛られたとき、周りにそういう心を持った人はいなかったし、なんなら人里に不審な人物は誰一人としていなかった」

「……なぜ、そのお茶を飲めるのですか」

「あなたが横にいる以上、恐らくは毒を盛らないでしょうから」

「なぜ私が?」

「単に関係者に目撃されたくないというだけのことです。心配いらないですよ、私は毒物に慣れているものですぐにわかるんです。耐性もありますし」

 

 舌を見せて笑う少女の姿に戦慄する。

 博麗の関係者とはいえ、初対面からの所感は総じて凡庸な妖怪であるということだった。

 静かなのに明るく、誰にも嫌われる特性を持ちながら朗らかで、人に優しく妖怪にも優しく、ただ交流しやすいのだと。

 違った。

 やはり、賢者の知人が普通なはずなどなく、彼女はこの事件に最適たる人物としてここへ来たのである。

 それを今になって理解した。

 ただ、であれば、疑問が生じる。

 

「完璧だと言うのでしたら、この事件はあなたですら解決できないのですか?」

 

 彼女のいつも通りの微笑みが失せた。

 失意が表れるかと思った。

 だが、彼女はただニヤリと笑った。

 

「証拠を集め、事実を合わせ、真実を作り出し、それを突き付ける。これはできません。ですので、ただ止めます」

「捕まえずに解決すると?」

「はい、私が請け負ったのは事件を治めることですから。それに、こればかりはどうしようもない」

「完璧なら、確かにそうですが」

「あぁ、いえ。それもですが、それだけじゃないのです。私では裁けないのです。ここでは、博麗の巫女が裁くのがルールですから、部外者が勝手に事件を終わらせてしまうと、私のようなことをしたがる奴が出る」

 

 手元の湯呑みを、少し揺らした。

 

「波紋は、一つとして立たないのが何よりです。だから、この事件は、異変になる前に自然消滅した謎に終わる」

「犯人を捕らえずに終わらせる、そのような方法が本当に?」

「なに、ただ説得するだけのことですよ。ハハハ、そんな顔をしないでください。大丈夫、大丈夫ですからね」

 

 

 1日の仕事を終えて寝巻きに着替えた美しき少女は、ゆっくりとベッドに腰掛けた。

 その面持ちは暗く、何か解決すべき事象に頭を悩ませていることは容易にうかがえる。

 

「どうしたらいいのかしら」

 

 脳裏に浮かぶはあの探偵もどきの姿。

 何度毒を盛ろうとも、彼女はそれを回避する。毒を察知できるのか、或いは毒を盛られることを前提にしているのか。後者ならば、タイミングをずらせば何とかなるが、同時にそれは事件の深刻度を上げる。いくらバレようがないとはいえ、これ以上大ごとになるのは避けたい。

 人里に近づけない今素性は知らないが、恐らくは古明地さとりが変装した姿だろう。

 止まった世界ですら変わったように感じる雰囲気、優れた変装であることは間違いないが、私は欺けない。

 嗚呼、古明地さとり。残念ですわね、その素晴らしき変装こそが、真実に到達していないことを物語っている。まだ過程にいることを示している。

 この事件は解決できない。完璧なシナリオに干渉することなど、誰にもでき

 

 視界の端に見慣れない色がうつった。

 

 黄色、緑、白。そのような色。決して私の部屋に集まりはしない色が。

 

「っ! 誰⁉︎」

 

 咄嗟にベッドから飛び退いて、窓を背にした。

 

 そこにいたのは覚妖怪。第3の瞳を閉じた、恐らくは噂に聞いたさとりの妹。

 察知と共に予感したさとりの出現予想は外れた。そこにいたのは、恐らくは古明地こいしに違いなかった。

 彼女は部屋の隅に立って、こちらを見ると手元の紙に視線を移した。

 

「えー『逃げなくてもいいですよ』」

「……?」

 

 困惑。明らかにその紙に書いていることを読み上げている。

 彼女は何をしに来たのか。彼女はなぜここにいるのか。疑問が浮かんでは消えて、思考はやがて澄んでいく。

 何だろうと問題はない。だって、完璧なのだから。

 

「『驚かせて、申し訳ありません。一寸あなたの真似をしてみたのです』」

 

 それは実に、いかなる衝撃より恐ろしさを伝えるものだった。その言葉に3秒前の余裕は早くも微かに揺らいだ。

 きっと、古明地さとりだ。彼女は大方を理解しているのだろう。そして、妹をここにやったのだ。

 状況を理解した。そして、同時にやはり完璧である以上問題ないのだと結論づけた。

 

「何の話をしているのかしら。と聞けば、その答えがそこに書いてあるのでしょうね」

「うん、多分ね」

 

 その紙を視線がなぞる。そして、すぐに止まった。

 

「『とぼけられても困ります。この答えを用意するのがいかに手間かわかるでしょう』」

「なぜ、私だと考えたのかしら」

「『今回の事件、できる者は少ない。その中でも私が現れてから人里に姿を現さないようになったあなたが怪しいとか、実は心を読んでいたとでも言えば満足ですか? 大丈夫、そんなのはどうでもいいし私は心を読んでいません。大事なのは証拠が何一つとして存在しないことです』」

「何を言っているのかしら。証拠がないなら、何もわからないじゃない」

「『完璧であろうとすることと完璧であることは違います。これだけの事件を一切痕跡無しにできるのは何かしらの力があって完璧にできる人です』」

「……それだけで?」

「んー、これが一番ぽいかなぁ。『どうせあなたが犯人なので長々と語るのは面倒です。あなたの経歴、人柄、能力全てがあなたを指し示している』」

「ただの推測じゃない」

「『実は証拠があります』」

「……は?」

 

 嘘だ。ハッタリだ。そんなはずはないのだ。

 完璧に私はやってみせたのだから、何一つとして私がいたという事実はないはずなのだ。

 

「『嘘です』」

「…………何を言っているの?」

「『今回の事件、犯行は完璧の一言に尽きるものでした。賞賛しましょう。あなたは全ての犯行で一切の痕跡を残さず、私を除こうとした時も足跡の一つも残しはしなかった』」

「……」

「『残念ながら、あなたは完璧過ぎました』」

 

 お嬢様の前に少しだけ背筋を伸ばして座るさとりの姿が脳裏を過った。その姿は、記憶にない動きでこちらを覗くように体を傾ける。

 肘をついて、手の平を重ねて、その上に幼い顔を這わせて、小さく微笑んでいる。

 知らないのに、まるで目の前にいるかのように思う。

 そこには、古明地こいししかいないのに。ここにある古明地さとりは、紙に記された文章だけなのに。

 

「『完璧なあなたはやたらと噂される私に完璧を求めたのでしょうけど、私は別に完璧を求めません。目的が達成されれば十分。だから、思いもよらぬ方法でこの謎を解くことはしません』」

 

 少女の表情が、妖しく笑った。

 

「『建設的な提案を致しましょう』」

「提案、何を提案しようと言うの」

「『この事件を終わらせてください。ただ、やめるだけでいいですよ。私はその為にこうしていますから』」

「犯人でもないし、よしんば犯人だとして何のメリットが?」

「ちょっとつながらないけど、まっいっか。『あなたを捕えます』」

「証拠もないのに?」

「『推測のみでどうやって、ですか? 簡単な話ですよ。無ければ作ればいいのです』」

「……は……?」

「『時を止められるあなたが万に一つ、いや、不可説不可説転に一つのミスを起こしたとしたら? 可能性は否定できません。そして、穴がある犯行なら辻褄合わせが必要な証拠作りも完璧ならば問題無し。だって、それは完璧に生まれた唯一の綻びなのですから。あなたが能力で完璧を遂行できるが故に、誰にもこの綻びを否定することはできません。我々はその証拠があってなおあなたの罪を証明できませんが、あなたは完璧であってなお自身の無罪を証明できない。どうなるでしょう。あなたを捕えて事件が起きなくなったら、とかどうでしょうか。困りますよね。それで事件が起きなくなったのを真犯人が身を潜めたと主張しても、やはりあなたは無罪を証明できない』」

 

 あまりの衝撃に、返す言葉にすら詰まる。

 私の動揺を意に介さず、古明地こいしはさとりの言葉を語り続ける。

 

「『きっと、恐らく、十中八九、あなたが犯人でしょう。だから、そうするのが確実です。完璧ではありませんが、完璧である必要はありません。だって、あなたが犯人でなかったとしても、きっと事件は止まるでしょう? あなたがこの先どんな思いをしようと、私はこの事件を止めることを優先します』」

「そんな、そんなひどいことが」

「『ですが、私も犠牲を生むのは不本意です。ですから、提案なのです。あなたが犯人なら、ここでやめれば私は手を引きます。事件が止まればいいのですから。あなたがただその衝動を抑えるだけで全ては片付くのです。完璧ではなくとも、とても簡単で安心な答えでしょう?』」

 

 そこにいない少女の瞳が上目遣いにこちらをうかがっているような気がした。

 聡いあなたならどうすべきかわかるだろうとでも言いたげに。

 犯行は完璧だった。その自負はまだ消えない。変わらない。

 ただ、相手が悪かったのだと思う。

 今日、私は、この世には完璧であることなど関係ない類の者がいることを理解した。

 

「……あなたの姉君に伝えてもらえるかしら」

「ん? なぁに?」

「私は犯人ではないのだけれど、事件はきっとそろそろ落ち着くのではないかしら。丁度今日は満月、明日は狂う月も躊躇う十六夜だから」

「わかった、お姉ちゃんに伝えておくね。じゃあ、解決したみたいだし、私もう行くね」

「えぇ、さようなら。姉君によろしく」

 

 先程現れた時のように、こいしはスルリと姿を消した。

 侵入者のいなくなった寝室で、またベッドに腰掛ける。

 その顔には安堵が浮かぶ。そして、心情は存外に穏やかで、密かな野望は打ち砕かれたにもかかわらず、何か満ち足りたものがあった。

 それが何かといえば、自身の未熟を知れたこと、上にいる者を多少なりとも理解できたことへの嬉々たる感情。

 そして、これまで障害としての殺害を目論んでいた古明地さとりへの、彼女を完全に出し抜いた上で成し遂げる彼女の殺害計画の始動によるものだった。

 

 ただ、この計画は結局の所成し遂げられるはずもないのだが。

 それはただ物語の外にいる私達だけが知る事。

 

 

「……そう。こいし、助かったわ。これで事件は解決、ようやく地底に帰れる」

「ねぇ、お姉ちゃん。なんで今回変装なんてしたの? 咲夜にはバレてたし、あの人のこと知ってたなら意味ないってわかってたんじゃないの?」

「バレていい変装だったのよ。良い変装を見破って勝った気にならせておけば、状況が変わった時に私の手のひらで踊っていたような気がするでしょう。今回の事件は、彼女をやめる気にさせればいいものだったから、そういう仕掛けが意外と大事なのよ」

「へぇー、やっぱりお姉ちゃんは色々考えてるんだね」

「あと、もう一つ理由があるわ」

「? なに?」

「髪の色、あなたと同じでしょう? お揃いにしてみたかったのよ」

「! お姉ちゃん大好き!」

「ほらほら、抱きつかないの。慧音先生に挨拶したら帰るわよ」

「お弁当買ってくるね! 一緒に途中で食べようね!」

「はいはい。ちゃんとお金は払うのよ。はい、これ」

「うん、またあとでね!」

「えぇ、また後で」

 

 銭貨を幾らか握らせて、駆けていく妹を見送って、さとりはふぅと息を吐いた。

 その姿を見て、後ろからクスクスと笑う声。

 

「何の用ですか、紫」

「単に解決のお礼よ。今回の事件は厄介で、あなたじゃないとこじれそうで無理矢理呼んだから」

「それは別にいいですよ。もとよりそういう仕事をするのが私です」

「そう言って貰えば楽だわ。それにしても、意外とすんなり事が進んだわね」

「たとえば屋根裏だったり、たとえばあなたのスキマだったり、自分だけが知っている空間を持っている人はそこに依存しやすいものです。運悪く彼女が持つ世界はあまりにも完璧過ぎた。止まった世界では誰も見ていないとしても、時が進めば何が起きるかわからないのに。そんなことも忘れるほどにね」

「私も気をつけないといけないわね」

「えぇ、是非とも気をつけてください」

 

「静止画の散歩者ですらも、結局は私達と同じ動画の住人に過ぎないのですから」









『屋根裏の散歩者』

遅くなってすみません。
良い感じなのか悪い感じなのか、出来の具合がもうわからないので投稿しました。
さとりを探偵チックに考えてた人には残念な感じかもしれません。
次も頑張ります。


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Episode.1【変辰】

悪は善のことを知っている。
しかし善は悪のことを知らない。
         フランツ・カフカ


 この身を、シルクロードの遥か先の日沈む国の悪魔の従僕に堕として久しい。

 堕とす、と表現したが不満はない。元より辟易していたし、そもそも上にいたいと思っていなかった。これは必然だったと思っている。

 紙巻きタバコを一本懐より取り出して、女は徐に火をつけた。

 その煙を口の中を巡らせて、ふわりと空へと流し込む。白い煙は、すぐに風に流されて消えた。

 穏やかな笑みを浮かべて、徐々に灰と消える火先を眺む。

 元々煙草を吸いはしなかった。葉巻を好む人であった。だが、幻想郷に移ってからは入手の容易さから、主人に不満を言うこともなく煙草へと切り替えた。

 女はそういう人であった。彼女の素性を知る者からすれば奇妙に思えるものだが、これがついこの数百年でようやくさらけ出せた彼女の気性であった。とはいえ、つい最近までほとんど出すことはなかったが。

 遠い日々を懐かしむ。かつてのしがらみを思い出す。

 あれはあれで悪くなかった。

 そして、今の主人に出会った時に記憶は至る。

 あの日、私は魂を売った。悪魔の取引に随分簡単に乗った。幸福へ至る最短経路を選んだと断言する、己が素晴らしき過去である。

 やがて、記憶は今へと駆けていって、最近のことを思い出す。

 10年程度だったか。最近すぎてあまり細かいことは覚えていない。だが、彼女を見るにその程度の経過であるのだろう。ここでようやく今のように常に穏やかであれた。幸福である。

 気がつけば、手元の煙草はかなり灰が長くなっていた。慌てて以前プレゼントにもらった携帯灰皿へと灰を落とした。幸い、地面に落ちることはなかった。落とせば大目玉であるし、手をかけて育てた庭を汚すのが嫌であるから、安堵に息を漏らした。

 その庭は女に残る大地。主人のものであるが同時に主人が語らずとも認める、女の愛でる土地。夏の頃より大地を照らしたその偉力は、小さなその地に存分に注がれているのである。

 落ち着いた頃に、ふと気付いた。女が気付きやすいこともあったが、それそのものが目を引くが故であった。

 

「あぁ、苺が綺麗な花を咲かせている。花托を食べるのも良いけれど、こうして見れば花も美しい」

 

 茎を撫でる。その中で、花の白い美しさに思ったことがあった。

 

「花托は遊びに来る幼い妖精や妖怪にあげるとしよう。花は、そうだな、切ってはつまらない」

 

 女は徐に苺を植えているあたりの土に手をつくと、「ちょっとすまない」と断りを入れて、何かをした。

 

「明日の正午頃かな。お昼を届けてくれるだろうから、その時に見せよう」

 

 立ち上がり、また門の前に立つ。一つ欠伸をして、空を見上げた。快晴であった。

 

「咲夜さん、喜んでくれるかな」

 

 

「お嬢様、美鈴の業務態度には問題があるかと。パチュリー様から魔理沙の来訪などの苦情も上がってますし、もう少しキツく言ったほうがいいのではないですか」

「でも、咲夜は今日イチゴの花を見せられて喜んでいたじゃあないか」

「っ! それは、そうですが、これとはまた別に話で」

「なに、パチェも口ではああ言っているが、存外に悪くなさそうよ。交友関係が広がるのは友人として喜ばしい。魔理沙も、まぁ、ある程度返しているようだし本当に盗む気はないのだろうね」

「そうは言っても……」

「美鈴も、妖精達が入らないようにしてると言えば職務は全うしているわ」

「ですが」

「今日はお休みなさい、咲夜。あなたは気を使いすぎ。全てを考える必要なんてないのよ。ここは世界の西の果てのブリテン島ではなく、東の果ての幻想郷。大した考えが必要になる場所じゃないわ、今のところ。特に門番のことなんてね」

 

 お嬢様に押されるままに廊下に出る。振り返る間もなく、「良い夜を」という言葉と共に扉が閉まる音がした。

 そうなってしまえば、私にはどうしようもなかった。

 小さくため息をつく。お嬢様に対する不満ではなく、自身がその意図を汲み取れていないことに対してのものであった。

 だが、それでも今日もこう思うのである。また、聞き入れてはもらえなかった。

 勿論、何も考えずに言っているわけではない。

 美鈴が本当に何かがあった時に命を賭してここを守る事は聞かずともわかる。お嬢様がわざわざスカウトするほどなのだから、只者でないこともわかる。お嬢様は基本的にスカウトした者の自由を許容することもわかる。

 ただ、それでも彼女は門番なのである。パチュリー様がお嬢様の御友人であるのとは別に、美鈴は門番としてここにいるのである。

 ならば、なにか、それを全うしなければならない、と思う気がしている。

 そして、お嬢様はこの見え透いた曖昧さ故にはぐらかしているのではないと私は考えている。何か隠されているのである。追及を避けるのが優れた従者であることは重々承知のことだが、それでも、気になってしまっているから、何度もこうしている。

 今日のところは諦めた、と重い足取りで自室に戻り、ブリムを取ってピナフォアを脱いだ。今日もこれで、メイド長は終了。早く眠ってしまおう。明日もまた、私はメイド長なのだから。

 その時、一月前と同じ感覚が、色彩が襲いかかった。

 あの不自然さ、あの危機感。

 

「っ!」

「今日はお姉ちゃんは関係ないよ」

「…………なら、どうしてここにいるのかしら、古明地こいし」

「こんばんは、理由は特にないと言えばないよ。無意識に誘われただけだもの」

「彷徨ってここに着いた、という認識で正しいかしら」

「お姉ちゃん風に言うなら、彷徨うという言葉は正確とは言い難いでしょう、かな。言うなれば、無意識の強さに導かれて、みたいな?」

「無意識の強さ……?」

「無意識にも色々あるの。習慣が体に染み付いた無意識、思考と身体の不一致の無意識、そして、自分の中に染み付いた何かが行動を変化させる無意識。他にも色々あるけど、今日は三つ目のやつ」

「私がそうだと?」

「最近、紅美鈴が気になっているんでしょう?」

「……っ! あなたも心が!」

「読めないよ。辿り着いたのがこの前で、そこからずぅっと見てただけ」

 

 さとりのように全てを覗き込むような目でなく、ただ穏やかなような虚ろなような奇妙な目で、古明地こいしは私を見る。

 

「私は敵じゃないし、この話の答えを知っているわけでもないよ。だから、ちょっとだけ普通にお話をしない?」

 

 奇妙な夜の始まりは、存外に穏やかな始まりを迎えた。

 

 迎えた会話の始まりは、これまた存外にストレートなものであった。

 

「あなたは、紅美鈴が怖いの?」

「え…………怖い、のかもしれない」

「あんなに優しいのに?」

「あんなに優しいから、よ。いつも強く当たっている私を嫌に思ってるだろうに、優しいまま。そこらの木端妖怪とはきっと格が違うだろうに」

「なぜ、ただ苦笑いしたりするだけなのか、わからない?」

「あなたはわかるの?」

「ううん、わからない。でも、彼女、私が近づくと気づくの。気づいて、こんにちはって言ってくる」

「やっぱりただの妖怪ではないってことかしら」

「そうじゃないかな。ここの門番やるくらいだし。あなたのご主人様、お姉ちゃんが褒めてたよ」

「それは私が聞いていいことなのかしら」

「この前の事件でお姉ちゃんの表面くらいは見えたでしょ? 口は堅いだろうし、大丈夫だと思うな、私」

「じゃあ、聞かせてもらうわ。何と褒めていたのか」

「心底関わり合いになりたくない、ってさ」

「……それは褒め言葉なの?」

「かなりの褒め言葉だね。簡単に御せる相手じゃないってことだからね。で、そんなレミリア・スカーレット様の部下である美鈴は只者じゃないかも! でも、重要なのはそこじゃないの」

「……?」

「私が近づく前、誰もいない時、美鈴はいつものあの調子じゃない。昼寝するにしても煙草を吸うにしても、なんだか物静かで、悠然としてる」

「……本当の彼女は、やっぱり、違う……?」

 

 考え込んで青ざめていく咲夜の顔を覗いて、こいしはため息もつかず表情を変えることもなく、問う。

 

「本当の彼女って、なんだろうね」

「……?」

「私は眼を閉じてから性格が変わったよ。最近は随分戻ったけれど、間のところにいる。私は私じゃないのかな? お姉ちゃんだって、いや、いいや。まぁ、とにかく、そういうこと」

「私は……美鈴の何を知っているのかしら」

「夜中の少女の会話なんて長くなると思ってたけど、今日はこれでお開きかな。また、来るね。お休みなさい、十六夜咲夜。やっぱりあなたは人間ね」

 

 少女はやがて姿を消した。

 恐らくは認識できなくなっただけなのだろうけど、口ぶりから察するにどこかへ行ったのだろう。

 少なくとも咲夜はそう認識して、頭を妙な思考に支配されたまま、入浴を済ませ、就寝した。風呂では、使う石鹸は間違えていた。

 

 

 明朝、時間通りに起床した。いつもと変わらぬ朝である。

 ため息を一つついて、ベッドから足を下ろした時、待っていたかのように誰かがドアをノックした。

 

「咲夜、入るわよ」

 

 主人の声であった。まさかこの時間に訪ねてくるなどと思っていなかったから、大層驚きながら咲夜は「どうぞ」と慌てて言った。

 

「おはよう」

「おはようございます」

「突然で悪いけど、今日、あなたに休暇をあげるわ。あぁ、心配はいらない。今日の茶会の予定は妖精メイドが何とかする。咲夜の教育は行き届いているからね。何か質問は?」

 

 あまりに突然の話であった。適当に加えられた最後の問いに様々な質問が思い浮かんだ。

 だが、取り敢えずとばかりに出た言葉は存外に理性的であった。

 

「それは、何か私に考える時間を与えたいということで御座いますか」

「その質問に意味がないことを聡いお前は理解しているだろう。きっと私がどう答えるかまで想定済みのはず。なればこそ、そう答えましょう。私の気まぐれ、よ」

「……かしこまりました」

「なに、たまには穏やかに過ごすといい。パチェに図書館で面白い本はないかと聞いてもいいし、友人を訪ねてもいい。せっかくの庭園だ。花を愛でるもいいだろうね。あなた、美鈴に見せられるまであまり花々を意識していなかったでしょう?」

 

 吸血鬼は微笑んだ。相変わらず、見た目と相まって異様に見える容姿であった。

 

 

「それで、こちらにいらしたんですね」

「えぇ、まさかあなたもだなんて思っていなかったけれど」

 

 紅魔館の庭園のベンチで、二人は座っていた。

 庭園に来てみればそこには美鈴がいた門の外には妖精メイド姿が見えた。

 話を聞いてみれば、美鈴も休暇をいただいたとのことで、お嬢様の意図を考えざるを得なかった。

 

「いやぁ、お休みがいただけるとは思っていませんでした。普段から眠ったりしている不真面目の言うことではありませんが」

「……まぁ、お嬢様が寛容ということね」

「咲夜さん」

「なにかしら?」

「私が怖いですか?」

「ッ!」

 

 思わず美鈴の方を向いて、後ろに手をついた。幸い、ベンチの中心に座っていたものだから、地面へ倒れることはなかった。

 咲夜の狼狽ぶりに反して、美鈴は正面を向いたままで、空をぼんやりと見ていた。

 その穏やかさが、咲夜に恐れを抱かせた。

 気づかれていた。知られていたのである。そして、私はこの妖怪に心を呑まれるのである。

 そうして、今生を恐怖と共に生きるのである。

 

「あぁ、そうか。うん、そうか」

「なにを、言っているの?」

「いえ、お嬢様も随分と意地が悪いと思いまして」

「……私にこんな怖がらせることが、かしら」

「申し訳ない。私は怖がらせたくないのですけど、あぁ、どうにも。……昔の話をしましょうか」

 

 唐突な会話の切り出し方であった。それでも、今の咲夜には肯定も否定もできず聞くことしか出来なかった。

 

「咲夜さん、ここに来たばかりの幼い時、お嬢様の玉座に侍る者がいた事を覚えていませんか」

「玉座に?」

 

 記憶を探れば、そんな者がいたような気はする。だが、大した記憶はなかった。いや、記憶が足りていなかった。

 

「その人が、どうかしたの?」

「いやぁ、その人、お嬢様の騎士? みたいな立場だったんですけど、咲夜さんに滅茶苦茶怖がられたんですよね。でも、その理由がわからなかった。お嬢様に聞いたら、威圧感だと言われた。答えを言われてもどうしようもなかった。その人は数千年を玉座と共に過ごした。そこにいる事が王権の証明であった。威厳のない皇帝なんて大抵駄目でしょう? だから、そういう風にいることしか知らなかった」

「……それで、どうしたの?」

「助言を受けた。単純な話だ、変わればいいってね。それで、玉座から門番に役職を変えられた」

「つまり、それはあなたの話って、ことね」

「そうです。龍が侍るべき玉座はもうない。だから、あなたはただの化生だって繰り返し言われましたね。それで、門で来る人と話したり適当に過ごしていると、なんだか王権の重い衣が消えていくような気がして、それであなたと過ごしていると、今みたいになってました。やっぱり、変わるには最初の意思が大切なんだなぁと思いましたね」

「でも、あなたは誰もいない時、前のあなたのようだったって聞いたわ」

「前の私も私ですから。人が花で、それ以外は木のようなもの。花は一年で枯れて次へと繋ぐけれど、木はずっと同じように在って、でも少しずつ変わっていく。同じ木ですが、色んな時期はありますから」

 

 事情はわかった。しかし、どうにも恐怖は拭えなかった。

 この大妖らしい門番が私は怖いのだと、それを知られているから、疑念はつきなかったのである。

 

「正直にいうとね、ちょっとだけ、ちょっとだけですよ? それに主題ではないですからね? その、私を怖がってくれることが嬉しいんです」

「……え?」

「私は実は結構凄いんですよって、誇らしくなる。さっき言ったように、私はもう役割を失った龍です。いらないとは思っていたけれど、富も名声も権力も、失えばそれなりに悲しくなる。だから、大好きなあなたにそう思ってもらえるのは、私の生きる意味の一つです」

「何十年も経てば消える命なのに?」

「だからです。だから、私は今が嬉しくて、あなたと接していることを幸福に思う」

 

 意外な事実であった。少なからず、奇妙な高揚があった。

 

「変わった私をどうか信じて欲しい。ただ、いつも通りにメイド長と門番をやって、良い同僚として。幼いあなたが愛らしくて、今の美しいあなたに見惚れて、峻厳の龍は変身したのですから」

「まるで愛の告白ね」

「愛の告白のようなものです。人であるあなたとは少し感覚が違うかもしれませんが」

 

 まさかの肯定であった。美鈴に淫蕩の気があるとも思えない。人生初の告白体験である。

 咲夜の顔が火のように熱くなる。手は汗に湿り、爪が食い込みそうなほどに握られる。

 その様子を見た龍は小さく笑って、立ち上がった。

 

「実はね、プレゼントがあります」

「プ、プレゼント?」

「ずっとあったものですが、伝えるなら今でしょう。知っていますか? 紅魔館の庭は元々大した意味を持たなかった。十数年前までは、精々来客に甘く見られないように整えられる程度。お嬢様がね、くださったんです。せっかくだから、変わるついでに贈り物でも準備なさいって」

「……それって、つまり……?」

「この庭は全て、咲夜さんへの贈り物です。生きている間、ずっと様々な花を咲かせ続ける庭園」

 

 ここにきて、ようやく咲夜が抱いていた龍への疑念は払拭された。

 

「どうでしょうか。私は、まだ怖いですか」

「……えぇ、怖いわ。でも」

「でも?」

「その龍が私に恋しているのならば、それは存外に悪くない気分ね」

「なら、その気も一緒にあげましょう。なに、私は多くを持ちませんが、多くを与えられる程度ではまだありますから」

 

 美鈴は咲夜の横に座った。

 まもなく二人の顔が重なったように見えたのは気のせいだろうか。少なくとも、ここらで観測者は無粋な覗き見をやめたのである。

 だから、ここから先は二人しか知らないお話。

 

 

 夕方の頃。咲夜の自室にて。

 

「なんだ、私がいない間に全部解決したのね」

「えぇ、お嬢様のお陰でね。いえ、あなたのお陰と言った方がいいかしら?」

「あなたのご主人のお陰でいいよ。私が言わなくてもそのうちそうしただろうし。言ったでしょう? お姉ちゃんが褒める人なんだから」

「まぁ、それでも感謝はしておくわ。ありがとう」

「どういたしまして」

「あなたは普段からこんな他人事に首を突っ込んでいるの?」

「多少はね」

「もっと奔放だと思ってた」

「自由に生きてるよ。だから、私は口出しするの。お姉ちゃんは仕事でしか干渉しないから、私は私の意思でしか干渉しない。私はお姉ちゃんと反対側にいるの。だって、そうしていれば、きっとお姉ちゃんは自由を忘れないでしょう?」

 

 

 日が暮れた。咲夜は疲れて眠って、美鈴は人里まで散歩などしてから、また、庭園のベンチに腰掛けていた。

 

「咲夜とはうまくいったようね」

「あぁ、お嬢様」

「二人きりよ。丁寧でなくていい。元々、ほとんど対等な契約だ」

「あなたが上で私が下だとは思いますが、まぁ、そういうならそうしましょうか。こんばんは、レミリア。草臥れた龍になんの用かな」

「特に用はない。ただ、あなた達がうまくいったのならよかったと思ってね」

「それはありがとう。気を利かせてくれなかったら、今もどうすべきか悩んでいた」

「王権の龍でも、一人の小娘の心に惑うとはまさか思わないだろう。いつまで怖い怖いとどうしようを続けるのかとそろそろ苛立っていた頃でね。無理矢理話を進めたわ」

「あなたのそういうところ、嫌いではないよ。あぁ、ただ一つ申告しておく」

「何かしら?」

「契約の際、私に逆鱗はないと言ったね」

「言ったわね」

「今日からは十六夜咲夜が私の逆鱗だ。彼女を不幸にすることは許さないし、彼女の許可無しに眷属にはさせない」

「いくら従者とはいえ、人の恋人に手を出す気はないよ。だが、フフ」

「?」

「これじゃあまるで我らがヨーロッパのドラゴンだ。洞窟の奥に宝物を仕舞い込んで、近づくものに牙を剥く」

「気に入らないかい?」

「いいや、大いに結構。それじゃあ、私は散歩にでも行ってくる。良い夜を」

「良い夜を」

 

 庭を離れて、夜闇の奥で吸血鬼は苦笑した。

 

「どこの世でも、人に恋して聖性が邪性に堕ちるのは同じらしい」








こいし回。
さとり回とはタイプが違います。事件とかではなく、ちょっとした話や人間関係にこいしが首を突っ込んでいくだけの話。だから、さとり回と違い、こいしの活躍度がまちまちです。
さとり回だとキャラクターの妙な側面ばかり出るのでアフターケア的な意味合いも。
これ、普通の東方短編では?
ごめんなさい。

予定では、さとりの話を3つ4つくらい書いたら1ついれます。なので、8話に1話くらいのペース……?


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第十一話【あ○○○○】

確かなものがないことが唯一の確かなことである。
      ガイウス・プリニウス・セクンドゥス


「地底の管理を、引き受けてよかったのですか?」

「なんでそんなことを? 私のような陰気にはこの上ない適役でしょうに」

「あやややや、えー、まぁ、多少そういうところはありますけど、あなたはもっと地上ですごいことをやるんじゃないかと勝手に思っていたもので」

「あはははは、陰気って認めてしまうんですね。いえ、別に文句じゃなくて」

「覚ですからね。わざわざ嘘をつくこともないでしょう」

「助かります。あなたはたまに覗いても、私に嘘をつかないから好きですよ。恐れてもいるけれど好意的にも見ている。打算がないわけでもないし、かと言って私が気になってるのは本当。あなたらしくって良い。少なくとも、妙に取り繕うより良い」

「私はあなたを、少なくとも他の人らが思っているほど遠くのものと思ってませんから。こうして笑ってるあなたは普通に見える」

 

 少女の顔は美しく、夕日に照らされて映える。

 理性に満ちた幼い容姿は矛盾しているのに、彼女に限ってはそれが自然に見えた。

 

「あはははは、そんなことを言われたのは初めてです。嬉しい」

「あやややや、素直な反応でいいですね。良い笑顔! この表情を他の人に見せることができたら良かったのですけど」

「きっとそんな事がいつかできるようになりますよ」

「予言ですか?」

「予感です。誰だってそうしたい時があるなら、いつか誰かが成し遂げますよ」

 

 いつだったか、随分昔、紅葉に染まる妖怪の山での事だった。

 

 

「あやややや、あなたもしかして」

「あら、お久しぶりです」

「地底から出てきたんですか。またこちらに戻られるので?」

「いえ、用向きがあって上がってきただけです。この前の異変以来、用事が増えてしまって」

「それは残念……。しかし、またお会いできて嬉しいですね。あっ、覚えていますか。地底に上がる前にあなたが言っていた道具、本当に生まれましたよ!」

「ハハハ、覚えていますよ。是非それで沢山の物事を残してください」

「……そうですね、そうしたいと思います」

「そう落ち込まれると困りますね。では、こう付け加えましょう。沢山の笑顔を撮って残してください」

「! やっぱり、あの時のことを……」

 

 少女は指で口角を引っ張り上げて、感情の希薄な顔に表情を描いた。

 そして、自嘲気味に呟く。

 

「……私は撮られるに向きませんから」

 

 答えに窮する。何も言えなかった。いや、一言でも言うべきでなかった。

 静寂だけが二人を見つめる。

 

「あぁ、そういえば聞きましたよ。新聞を発行しているそうで」

「はい。生憎売れてはいませんが」

「購読しても?」

「えっ」

「えっ」

「俗っぽくてくだらなくてあなたとは縁遠い内容ですよ? きっとあなたに必要な情報はあまりありませんし」

「ハハハ、それでいいんです。それとも、みすみす顧客を見逃すとでも?」

「あやややや、そう言われると痛い。じゃあ、お願いします。お届けはどうしましょう?」

「地底の入り口にポストを立てておくので、入れておいてください。定期的に回収します」

「わかりました。じゃあ、お代の方もそこにお願いします。初月は無料サービス中ですので、購読料の方は配達の際に一緒に入れてお伝えします」

「わかりました。では、あなたの新聞、期待しています」

「はい、あなたにも喜んでもらえるように頑張ります」

 

 森をいく少女の姿を空から見届けた。

 同時に、それは私にとって「私の知る彼女」を見届けているような気がした。

 彼女の目元には隈があった。だが、あんなに濃くはなかった。

 彼女の表情は動きづらかった。だが、動く時は人なりのものを見せた。

 声は変わらない。

 嗚呼、違う。彼女の言葉で声だけが変わっていない。

 

 森の奥へ消えていこうとしている影を見つめて、揺れる感情からはっきりとした文章化できるようなものは生まれてこなかった。

 ただ、自身にしか理解できない情動に従って、手を振るのだ。

 次に会う時は、今の彼女とまた仲良くできるように。

 

「さようなら、またいつか」









『あばばばば』

閑話。
謎もないし欺瞞もない。たまにはこういう回もいいかなと。
考察お待ちしております。


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第十二話【幻想の猶太】

だまされる人よりも、だます人のほうが、数十倍くるしいさ。
地獄に落ちるのだからね。
             太宰治ー『かすかな声』よりー


 救いの手が差し伸べられた時、それが天使か悪魔か見定められるだろうか。

 たとえば、それが甘く優しい言葉に満ちていたとして。

 たとえば、それが辛く虚しい言葉に満ちていたとして。

 何を以て、相手の正体を悟るだろうか。

 

 このような問答は無用だ。

 

 実際に来るのは、天使でも悪魔でもない。

 善き人か悪しき人か、善き妖か悪しき妖か。

 

 そうですらない。

 

 実際には、手を取る側からすればそれら全てが入り混じった何かでしかない。

 だから、もう天に全てを任せるのが一番だとも言える。

 

 それならば、いっそ考えることをやめよう。

 

 最も信頼できるのは、手を差し伸べない者であり、そして、既に罪を持つ者だ。

 

 

 ある夏の真昼のことであった。

 人里の中心街、大通りに面した屋敷の奥で男が一人、しきりに叩いた算盤を忌々しげに零へ返し、窓の外に視線を向けながらため息をついた。

 出来のいい卓の上に広げた紙には多くの物の名と共に数字が書き連ねられている。隅には日付と思わしき数字が書かれており、どうやらここ一月の収支に関わる資料であるらしいことが見て取れる。

 なにやら最近商売がうまくいってないらしい。それも、世の不作がどうだ時期がどうだという問題では片付かないほどの状況にこの商家は陥っているらしかった。

 

 男は近頃、巷で聞く噂を思った。

 曰く、霧雨道具店は貧乏神に取り憑かれたのではないかということである。

 否定はできなかった。事実として異常な状況にあることは確かであり、こと幻想郷においてはその手の話は珍しいものでもない。近頃、守矢神社とかいうのが新しく山にできたこともあり、どうにも貧乏神の存在が真実に感じられてならなかった。

 そうだとすれば、男にできることなどないのだ。

 神仏の類に遭うことは最早人の手に負えるものでなく、須らく道理に身を任せるべし。さすれば、少なくともなるべきようになる。たとえ、それが破滅であったとしても。

 

 ただ、それでも抗ってしまうのが人というもの。男は、これが己一人の話なら諦めがついたが、少なくとも幾人の収入と生活をこの店は支えている事は看過できぬものであるし、或いは男の縁も切れた娘を待つにはこの店の存在が不可欠に思えてならなかったから、こうして、帳簿を睨みつけているのである。

 

 解決策がないわけではないのである。

 幸が尽きたところから貧乏神は去るとも言われる。よって、一定期間店を畳めば、他所へ行くかもしれない。

 だが、男はこれを頑として拒んだ。

 自身の為に他者の幸福を犯すことを嫌ったのである。自身が滅んだ結果、他者へ行くのは仕方がない。世の道理というものだ。しかし、私が逃れてそうなったのではいけないと、清廉でなければ高潔でもない男は、ただ道理に沿うかどうかでそれを選択するのである。

 他の商家もしきりにそうして逃れることを勧めるが、いけない。自身に貧乏神が来るかもと思いながら、それでも私を救わんとする気概に反してでも、私は必ずやこの決意を終えねばならぬ。

 救わんとされたからこそ、私は少しでも他者の幸福を保とう。そうする事が取り敢えずは良い事で、その中でどうすべきかを探さなくてはならない。

 

 男の心は強かった。小賢しく、善人でもなく、恨まれることもあるような人間であったが、確かに男の心にはただの商家らしからぬ強さが宿っていた。或いは、その強さが里で一番にまで成り上がらせたのか。

 

 男を救うのは、その強さ。

 

 強さそのものではない。ただの人の心の強さでは、幾ら素晴らしくとも強いがゆえにどうにもならない。

 大事なのは、縁である。

 たとえば、霧雨道具店が無縁塚の漂流物などを扱うほどに商いの手を広げていたとして、それが漂流物を欲しがる妖怪の目についたとして、やがて契約を交わしお得意様となったとして。

 そして、その取引相手が、あまりにも優れた、男の強い心を少なからず好ましく思っていたとして。

 それでも、彼女は救いの手を差し伸べはしないだろう。

 彼女は悪人のように笑うことよりも、善人のように微笑むことを嫌う。ただ助ける事は、彼女の望まない方法となってしまうからだ。

 

 

 それは、霧雨道具店にて必死の説得を演じて帰った矢先の事であった。

 霧雨の旦那は頑固者で道理がどうこういう変人であるから、自身の為に他者を傷つけるような選択はしない。だから、やたらとそれを勧めれば、どうなってもきっと奴はそうしないだろう。そうして、ずっと貧乏神を抱えて生きて貰いたい。

 そんな思惑があって、近頃男は霧雨道具店に通い詰めていた。今日も、そんな日のうちの一つであった。

 

「どうも、こんにちは」

 

 庭より声が聞こえた。聞き慣れない声だった。ただ少女然とした声であったから、多少の警戒はありつつも徐に男は障子を開けた。

 そこにいたのは、幼い少女。

 桃色の髪をした、物憂げな表情を浮かべる少女であった。

 

「なんだいお前は。人の庭に入るもんじゃあないよ」

「それはすみません。でも、正面から行っても追い返されるばかりでしょう」

「こちらから来ても変わりはしないことだよ」

「私が『覚者』だとしてもですか?」

 

 男はわずかに身震いした。それは恐れとかのような感情に起因するものでなく、得難い機会を目の前にした興奮によるものであった。

 『覚者』とは長らく噂された霧雨道具店のお得意様。様々な珍品を欲しがる謎多き客の偽名である。

 使いを寄越しては無縁塚の物品を買い取るので、何処かの道楽者とさえ噂された上客が目の前にいる。

 何故か。

 決まっている。落ちぶれつつある霧雨道具店に見切りをつけてこちらへ来たのだ。

 

「おぉ! 貴方様が『覚者』でいらっしゃるか。これは失礼した。しかし、なんの御用で?」

「商家に現れたのだから、答えは決まって一つでしょう」

 

「さぁ、素晴らしき取引を致しましょう」

 

 少女は、笑った。










前編。
軽めの話。今までが謎感強すぎた気もするのでそこらへんの塩梅を考えるための実験作。
作者が賢くないので賢い内容を書けない。騙し騙しやっていきます。


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第十三話【銀貨三十オーバーの取引】

金持ちでも貧乏人でも強い者でも弱い者でも、
遊んで暮らしている市民はみんな詐欺師だ。
 ジャン=ジャック・ルソー ー『人間不平等起源論』よりー


 この世には、貧乏神というのは、残念ながら存在する。

 それは誰かにどうにかできる代物でなく、憑かれる家があるならそれはそういうものと受け入れるほかない。

 雨が降れば傘を指す。傘が無ければ軒下で待つ。雨を消すことなんて考えない。

 ただ、それと同じこと。

 

 つまり、たとえ幻想郷きっての謀略家であっても、解決策を用意できない。

 

 彼女が今貧乏神を別の商人に移そうとしているのも、無駄な話。

 だって、これは絶対ではなく相対の話。

 栄えればまた来る。貧すれば離れる。

 根本的な解決には至らない。

 いくら少女がいつもの顔で策謀を巡らせたところで、道理ある限りは繰り返すのだ。

 

 そう貧乏神の妹は考えていた。

 

 彼女の考えは間違っていない。全くもってその通りである。

 

 問題なのは、その謀略少女はこういうどうにもならないような案件を解決してきた人物であり、そして、今回一件に関して少しズルかった事である。

 

 この論には抜け落ちているところがある。

 難しいことではない。至極単純で、当たり前な事。

 それは、霧雨道具店はなぜ今になって貧乏神に憑かれたのか、ということ。端的に言えば、人里一の商家に貧乏神が憑くのはつい最近になって始まったのである。

 あらゆる物事には始まりがある。始まりがあればこそ終わりがあり、無限ですらも始まり無くしては。この貧乏神の誕生は、つい先日、という風に語られるものではない。ずっといて、今になって憑いた。これは極めて恣意的なものだ。

 ここまでは、論理自体は簡単な話。

 しかし、これが妖怪でなく神の話である事が、話をややこしくする。

 神は、超常的な存在だ。幻想郷では比較的分け隔てなく扱われるから忘れられることであるが、妖怪と神は違う。

 妖怪は自然現象の具象化であり、人々の思考の具象化であり、或いは超自然的力を持つ生物だ。結局の所、どこかで生まれてしまえば力を行使するだけの存在に過ぎない。

 神は、願われるものであり、罰するものであり、救うものであり、或いは殺されるものだ。生まれるにも、生きるにも、死ぬにも、人との関わりが断ち切れる事は決してない。普通、日出る国では神は自然な存在として思われる。あなたが近所の小さな神社で祈るからといって友達感覚でないように。伊勢や出雲だからひどく祈りが必死になることもない。それは習慣に過ぎない。生活の中で、神の座す所でそうするという行動がプログラムされているだけの話だ。神は、人の内ではただそうあるだけのものとしか思われない。幻想郷でも、それは少し前の洩矢の異変から徐々に変わり始めたばかりのこと。

 誰も貧乏神に人格を求めない。雨に性格がないように、嵐が怒りではないように。

 

 しかし、謀略少女は知っている。

 

 なぜって、それはこの世界のことを知っているからだ。

 貧乏神の容姿も、性格も、家族も、この先起こす異変も全て知っている。

 だから、彼女はその妹のことも知っている。

 この一点において、少女はズルいのだ。先に起きることも人物も知っているのだから、予想など簡単であるに違いない。

 

 だから、これは謀略少女にとっては、知っている未来への道筋を整えるだけの話。

 

 

 最近、人里の様子がおかしい。そう誰もが思っていた。

 この前のような事件があったわけでもなく、異変があったわけでもなく、里はいたって平和なままである。

 やけに町の景気がいい。自然なものではないとわかるほどに。

 とはいえ、町人にとっては、ただそれだけのこと。いくらか生活に影響はあれども、何かが大きく変わることはない。

 この状況に関心を持ったのは、一部の聡い者達。

 霧雨道具店が妙な事になってから、ほかの商家の金回りが良い。それも、どこかが秀でるということもなく、どこかが儲けては衰え、どこかが儲けては衰えを繰り返している。

 原因ははっきりしている。噂の『覚者』だ。霧雨道具店を主として契約を結んでいた上客。恐らくは人ではないだろう、人里ではお目にかかれない富豪の類。こんな客が『覚者』を名乗るなど皮肉にも程があると思われるかもしれないが、存外にそうと断言できたものでもなかった。そいつが買っていくものは、最近現れた紅の客のような贅を尽くす類の代物でなく、人里では大抵不要な無縁塚の漂流物。何かの理由があって、何かの思惑があって、恐らくは聡いその人は言い値でそれらを買い漁る。まるで不要と思われたものを救うかのように。故に、誰が言うともなく『覚者』、誰が教えるともなく名乗る名は『覚者』となった。

 その『覚者』が最近妙な動きを見せている。

 霧雨道具店との取引を取りやめたのは、大したニュースではなかった。業績が悪化するばかりの商店を切り捨てて他に移るのは商売では当たり前のこと。問題なのは、どこの商店にも定着しないという事。

 商品の質に幻滅したのか、或いはサービスが気に入らなかったのか。定着しない理由など普通はいくらでも考えられる。だが、おかしい。それを確かめるには金づかいが荒い。以前のように目的があって決まったものを皆買い取るような感じでなく、ただ雑に買い漁る。それはまるで、金と交換に何かを得ようとするのでなく、金を使う事で何かを得ようとするかのような。

 皆皆が不思議に思い、皆皆が答えには行きつかない。

 当たり前だ。それは真っ当な理由などではないのだから。

 そして、その真っ当でない理由ゆえに、感じ取るものがいた。

 貧乏神の妹たる疫病神である。

 彼女は疫病神であるが、近頃は病気云々ではなく金銭を巻き上げることを生業としていた。お金を奪い、それで豪奢な服装を身につけ、また奪う。それを繰り返す彼女は、近頃の異常を感じ取っていた。

 

「さて、今回もそれなりに儲かったな。癪だけど」

 

 彼女の脳裏に『覚者』の姿が思い浮かぶ。

 あの時、アイツの目的は単純で、私は姉さんを移すことを考えていたのだと思っていた。それは間違っていなかった。実際、姉さんは移り移りで商店を巡っている。だが、本質はどうやら違うらしい。

 移されてるのは私の方だ。

 私が確実に儲かる状況、間違いなく飛びつくような環境を作り出して私がそれなりに巻き上げた頃に『覚者』は移動している。その頃には姉さんもこちらに移ってきて、私は次に移らざるを得なくなる。

 私達神は嵐のようなものだけど、私達貧乏神疫病神はその手順は極めて人間的だ。お金が瞬時に消滅するわけじゃない。一瞬で大病にかかるわけじゃない。物事の道理に従って、そこに行き着くだけのこと。金銭などはそれなりに手間がかかる。いくらか時間をかけて奪い取っていくのだ。

 それをさせないようにされている。

 だけど、確実に一定の儲けが出るようにもされている。

 癪だ。企みに乗せられているのは実に癪だ。

 じゃあ、どこかでこの話は降りるのかって?

 そんな馬鹿な事をするつもりはない。私は感情より理性を優先する。

 これは儲かる話だ。確実に金になる話だ。私をどこかで陥れるための策略でない。そういう話に私が敏感で、飛びつかないことを『覚者』はきっと知っている。恐らくは向こうも理性的な奴だろう。理性的なやつと理性的なやつが金銭を手段に関係を持つ事を取引という。つまり、これは商売だ。私は向こうの企みに乗る。向こうは私を儲けさせる。この関係に何の問題があるだろうか。

 『覚者』の事を舐めていた。こいつは世の中で一番厄介な類の知恵者だ。だが、こういう奴ほど信用できる。無駄がない。そして、無駄がないものは切り捨てない。必要なことを必要な分だけする。取引をするのはこういう奴が一番裏切らない。

 だから、互いに利益が出るうちは乗ってやろう。ここまで来れば、どこが目的か大体察しはつくけど、問題になるようなことでもない。

 どこかが儲ける。私が奪う。奪えば姉さんが来る。そこが貧すればどこかが儲ける。この繰り返しを作りたいんだろう? そうすれば、商家が潰れたりする可能性は低くなる。どこも突出しないが、どこも潰れない商い。そういうのが良いらしい。

 いいだろう。家を潰して回るのも飽きてきたところだし、ここ幻想郷は向こうと違って家も商家も限りがある。長期的な計画も悪くはない。どこかでアンタが離れたとして、きっとまたバランスが崩れれば介入してくれるんだろうし、私にリスクはあまりない。姉さんも安定してそこそこ貧乏くらいの生活なら今よりマシだって喜ぶだろうし、私がたかられることも減るかもしれない。

 あの時の声が、なぜか思い出された。

 もしも、あれが私への言葉だったなら、最初から最後まで『覚者』の思惑通りで挨拶までされていたということになる。そうだったなら、大したものだ。

 

「さぁ、素晴らしい取引を致しましょう」

 

 あぁ、よろしく。これからも素晴らしい取引を。願わくば、良い顧客でありますように。

 

 

「珍しいわね、あなたが一人の人間を助けるなんて」

「心外ですね。私はそれなりに良心を持ち合わせていますし、人助けをしますよ。それと、私は今そんな事をしている覚えはありませんが、遂に耄碌しましたか、紫。私は無能の助けをするつもりはありませんよ」

「触れられたくない話題の時に雑に毒吐く感じ、信頼の証だから好きよ」

「……」

「あぁ、ごめんなさい。私が悪かったわ、悪かったから。その真っ当な笑顔をやめて頂戴。可愛らしいけど違和感が酷くて気持ちが悪いわ」

「よろしい」

「ホッとした。やっぱりあなたはその陰気な顔がいいわ。ただ、一つだけいいかしら?」

「何ですか」

「これは幻想郷に関わること?」

「長い目で見れば結果的にそうかもしれませんが、大したことはありません」

「つまり?」

「殆ど、ただの買い物ですよ」

「じゃあ、いいわ。これはあなたがいつもよりほんの少し浪費しているだけのこと」

「そういうことです。私も女の子ですから、買い物は大好きなもので。まぁ、少々高くつきましたが」

 

「神の子を裏切るのには銀貨三十で足りるのに、ちょっとした悪神ですら取引にはその十倍あっても足りないとは、なんて不平等な取引でしょう」











次の自分に丸投げしたら何も思いつかなかったので今回は駄目でした。すみません。次は頑張ります。


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第十四話【竹月記】

嘘つきがいつでも必ず嘘をつくとしたら、
それはすばらしいことである。
  アラン(エミール=オーギュスト・シャルティエ)
                ー『人間論』よりー


 嫌な予感がする時は、ノックの音は少しばかり大きく聞こえるものだ。

 

「さとり様、お手紙ですよ。まーた」

「招待状、ね」

「仰る通りで。最近色んなところに呼ばれてますね。主人が人気者だとペットとしても鼻が高いってものです」

「人気者って、覚には酷い皮肉ね。あぁ、大丈夫よ。その気があなたにない事はわかっているから。まぁ、事実として面識がない連中は興味本位だし、面識がある連中は今まで呼べなかったからって取り敢えず呼んでるだけでしょう」

「まるで気にされないよりはマシってものです」

「注目されると仕事しづらくなるじゃない。表舞台に出たからって裏方の仕事が無くなるわけじゃないのに」

「紫様にもなんか御考えがあるんでしょ。賢者様の考えることはアタシなんかじゃ推し量れやしませんが」

「ないわよ、何も。私の事は私が何とかすると思って大して考えてくれないのだから。本当に面倒くさい」

「ま、実際なんだかんだそれをやっちゃえるのがさとり様ですから!」

「出来るだけよ。許容量は超えているわ。そうじゃなかったら、あなたに地上でマッサージを覚えてきてもらったりしないもの」

「お役に立てて嬉しいですよ、アタシは」

「ありがとう。本当にいつも助かってるわ。あぁ、手紙だけど、守谷、西行寺なら行かないわよ」

 

 さとりはペンをコツコツと鳴らしながら第三の瞳を開いて、お燐の言葉を待たず答えを得る。そして、その招待状の送り主が誰かを知って、三秒の沈黙の後、ゆっくりとため息を吐いた。

 それが苛立ちによるものでないことはさとりの様子からはっきりしていることだった。つまり、西行寺家や守谷神社でもなく、近頃呼ばれている紅魔館などでもないのである。そんなどこかからの招待状を、どこか不思議そうで、妙に落ち着いた様子で、お燐から受け取った。

 

「ついでに疲労に効く薬でも貰ってくることにするわ」

 

 宛名は古明地さとり。送り主は蓬莱山輝夜。

 その縁は古くも、強くなったのは永夜異変後、しばらくの間幻想郷を騒がせた月との問題に際して繋がれたもの。

 この古明地さとりが唯一八雲紫に敵対行動を取った事件での協力者。

 彼女からの連絡は、極上の厄介事か、何よりもくだらない事に違いなかった。

 

 

 三日月を掲げる夜。静寂を告げる竹林。行き先を知らせない闇。

 少女はこれらの中にいた。

 黙々と歩く。時折周りを見渡しながら歩く。スカートを踊るように揺らせながら、鞄を笑うように下げながら、少女は歩き続ける。

 随分歩いて、さとりは立ち止まる。また、周りを見た。しかし、今度は歩き出さなかった。近くの大石に腰を下ろして、空を見上げた。月は眩しいほどに輝いて少女を見下ろしている。忌々しいと言わんばかりの視線を月に注いで、ため息を吐いた。

 

「さぁ、どうすべきか」

 

 ここ、迷いの竹林では珍しく少女は迂闊だった。

 竹林の進み方を教えてもらったことがあったから特に人の協力や出迎えを必要ないと断じたことは近頃の疲労から来たのか、あまりにも真っ当ではない考えだった。それがここ一ヶ月の話であるならいざ知らず、竹林は恐ろしくもたった一年で変化を遂げていたのである。さとりの教わった進み方というのが竹林の性質そのものを理解するものであれば打倒も叶ったであろうが、残念ながら手っ取り早い暗記であったのが今回の事態を招いた。

 こうなれば、迎えか、或いは知人との遭遇を待つほかない。八雲紫を呼ぶ手段をさとりは持っているかもしれないが、彼女を呼ぶことが今後どのような苛立ちを生むかはあまりにも分かり切ったことで、それを行使することがない事は確かだった。

 一番確実なのは、知己との遭遇だろう。千年以上の付き合いで、少なくともさとりが死ぬまで関係は続くであろう人物。何しろ向こうは死なないのだから、絶交を告げられない限り最後まで終わらない。そんな彼女はここらに住まい、竹林を知る。そもそもさとりにここについて教えたのも彼女である。

 

「月まで届かないし、不死の煙でもないけれど、火でも焚こうかしら」

 

 幼い体躯に引きこもりの陰気な彼女には似合わぬ手際で、間もなく火は用意された。

 汚れた手を見て嫌な顔をして、焚火の前に座り込む。

 

「これで、あとは早く気づいてくれる事を願うだけね」

 

 静寂と闇の中では、ただ時間だけが過ぎていく。今の彼女に出来ることはなく、ただ座り、そこにいるだけが全てであった。

 やがて少女は疲労から微睡み始める。トランクを枕がわりにして、さとりは眠りに落ちた。出来ることなら、夜のうちが火も見えやすいし、誰かが起こしてくれると嬉しいのだけれど。そんな願いを浮かべながら。

 

 

「もしもーし」

 

 今日は三日月である。今日が満月ならば、こんなことはしない。

 だって、毛深くなってしまって誰にも会いたくないのだもの。

 今日は三日月である。今日が満月ならば、こんなことはしない。

 だって、月が誰かを狂わせるのだとしたら、その日は満月のほかにないのだもの。

 だから、この子は幸運だ。今日が三日月で、今日は月夜も明るいから。竹林の真ん中で火を焚いて眠っているあなたを見つけたのは、恐らくはこの竹林で3番目くらいに安全な遭遇者なのだから。

 

「もしもーし」

 

 人ではない。妖怪だ。どの妖怪かまではっきりしている。さとり妖怪である。

 噂の第3の瞳が体に寄り添うようにして転がっているのだから間違いないだろう。何かしらの用事があってここに足を踏み入れ、迷ったのだと思う。

 さとり妖怪に心を読まれるのなんて気持ち悪くて嫌だから、助けない選択肢もあったけれど、このさとり妖怪の目的地が永遠亭だったら話が変わる。永遠亭に客人を届けて恩を売れば体毛に関する薬を貰えるかもしれないのである。

 その可能性に賭けて、私は今呼びかけている。

 

「もしもーし」

「ん…………あなたは……」

 

 少女は目覚めた。完全に覚醒とは行かずとも、直ぐに状況をある程度は把握したようだった。

 

「まだ夜だけど、おはよう。私は今泉影狼。あなたは?」

「私は、私は古明地さとりです。ご覧の通り覚ですが、あなたの優しさに免じてこの瞳は閉じたままに致しましょう。厄介者に声をかけてくれてありがとうございます」

「どういたしまして。それで、こんな夜に、どうしてこんなところに? しかも一人で」

「この奥の永遠亭にお呼ばれしまして。前に藤原女史に道を教えてもらって、油断していました」

「それはお気の毒。ずっとここにいないと、竹林の事はわからないよ。迷う道理ってものをわからないと」

 

 竹林に限っての先輩面をしながら、影狼は歓喜していた。この覚は話がわかる人で心を読まれない上に、確かに今永遠亭に呼ばれたと言ったのだ。勝手に向かった奴を助けてもどうにもならないかもしれないが、本当に客人ならば。

 もしかすると顔に出ているかもと思うほどに彼女は心躍っている。こんなに良い事があるなんて、特に良いことをしたわけでもないのに、嗚呼、本当にツイてると胸の内が騒ぎ立てている。

 古明地さとりという名に聞き覚えがあるような無いような、そんな考えも過ったが思い出せない以上瑣末な事。今泉影狼がやる事はもう決まっていた。

 あぁ、でも一つ気になる事がある。この子の声、どこかで聞いた事があるような。名前は思い出せないならそれで良いと思えたけれど、この声はどうでもいいとはなんだか思えない。

 

「どうかされましたか?」

「……私達、どこかで会ったことがあったかな」

「私の方に覚えはありませんが……私の顔を知っていましたか?」

「ううん、声なんだけど。気のせい、気のせいかな。ごめんなさい、変なこと言って」

「誰かと私が重なったのでしょう。そういう事もあります」

「あぁ、そうだ! あなた、永遠亭に行くんでしょう? 迷ってるなら案内してあげるわよ」

「本当ですか、助かります。藤原女史か永遠亭の兎達を待つのもこう夜が長いと辛くて眠っていたものですから」

「アハハ、だからこんなところで人間みたいに火なんて焚いてたのね。永遠亭はこっちよ、月は明るいけれど夜はまだ暗いから、しっかりついてきてね」

「えぇ、その影を見失わないようにします」

「……? うん、気をつけて」

 

 少しでは同じにしか見えない竹林を進む。取り敢えず進んでいたさとりの足取りと違い、影狼の進み方には自信があった。迷わないという自信ではなく、今やっている事を解っているという自信。さとりにとっては理解できるがほとんど経験のないものだから、少しばかり羨ましく思った。

 歩けど歩けど景色は変わらない。竹林はこんなに広かったかと疲労感からくたびれた顔で息を少し切らせた。影狼はそれは見て、「体力がないのね」と笑った。さとりは卑屈そうな顔で苦笑するばかりであった。

 

「覚って、正直にいうと嫌われやすいけど、あなたはここで上手くやってるのね」

「どうしてそう思うのですか?」

「上手くやれない人はここではもっと追い詰められた顔をするものだから。ほら、ここって最後の場所でしょ。ここでダメじゃどうしようもない」

「体験談ですか」

「えっ、あなた意外と遠慮なく踏み込んでくるのね。まぁ、そうだけど。100年くらい前かな。向こうで仲間達と流れのままに滅ぼうと思っていたら騙されてここに来ちゃってた。仲間は誰もこっちにいなくて、独りぼっちでどうしようもなかった」

「でも、今は元気ですね。普通の悩みを持ち、普通に世界を楽しんでいるように見える」

「草の根ネットワークの仲間がいるからねー。新しい仲間達とうまくやって、今は楽しく生きてるよ」

「それは良かった。誰も人が不幸な姿なんて見たくありませんから」

「私も、打算もあるけど、あなたを助けたのはそういうのもあるしね。助け合いが一番」

「良い世の中になったものです」

 

 そこからは他愛のない話ばかりして過ごした。

 仲間の話、人里の話、近頃の異変について。影狼が実は体毛で悩んでいることを告白したりもした。さとりは陰気な性格に悩んでると返した。

 そうして、やがて、少し先に光が見えた。

 

「見えたね」

「ここまでありがとうございます、それで、何か希望があるのでは?」

「いやー、本当に遠慮なく言ってくるね。実際そうだからお願いするんだけど、永遠亭の先生に体毛関係のお薬を出してもらうよう頼んでもらえないかな」

「お安い御用ですよ、さぁ、どうぞこちらへ」

「……」

「どうかしましたか?」

「今の言葉、何か」

 

 違和感があった。胸の奥の何かにその言葉が触れた。

 何か、ではない。それは傷だ。古い古いかつての記憶だ。

 もしかすると最初からどこか気づいていたのかもしれない。これだけたくさん話したのに気づかないはずもなかった。

 手招きする彼女の姿。見えなかったはずの少女。

 

「気づかれましたか、残念。このまま良き友人でありたかったのですが」

 

 4m先のさとりが、無表情に影狼を見つめていた。

 

「やっぱり、そう。『私の影についてきて』『こちらへどうぞ』、あなたが新月の夜に闇夜で私を誘った時の言葉」

「えぇ、そうです。尊大な平和と臆病な平等を掲げて、滅びゆくあなた達を看取らずあなたという最後を無理矢理救い出し、知らない世界で最悪の孤独に追い込んだのは私です」

「自分のやったことを悪し様に言うのに悪びれないのね」

「私はやるべきと思った事をしただけですから。殺したいなら殺せばいいでしょう。抵抗はしますが恨みはしませんよ」

「死ぬ気はないのに、殺させようとする」

「復讐は権利です。奪われたものを取り戻す事で前に進む事はある。その自由も受け入れる世界を私達は作ったのだから、少なくとも私達はその自由に殺される可能性を許容しなければならない。私は、古明地さとりはそう思っていますよ」

「また、私を騙せばよかったのに。前みたいにあなたならできたんでしょう」

「さぁ、どうでしょう。私はそんな凄い人ではありませんから」

「でも、普段ならきっとそうしてしまったんだって、わかるよ」

「私のことを何も知らないのに?」

「二度の邂逅でわかることもあるから」

「いいえ、何も分かりませんよ。それで、私が永遠亭に逃げ込めば復讐は難しくなりますが、どうするんですか?」

「殺さないよ」

「そうですか」

「驚かないね」

「選択はあなたの自由ですから」

「さっきうまくやってるんだねって言ったけど、あなたはこの世界では上手くやっていても、人生はずっと苦しいんでしょう。だから、そのままでいていいよ。私は今が楽しい。今の平和を壊そうと思わないし、だからと言っても憎くないわけじゃない。あなたが生きているうちは苦しいんだと思って笑っていてあげる」

「そうですか、今日はありがとうございました」

「どういたしまして」

「では、さようなら、今泉影狼さん。幻想郷で良い日々を」

「言われなくとも」

 

 さとりは振り返って、永遠亭へと歩き出す。

 それを見送るまでもなく、そしてその背中を襲う事はやはりなく、影狼は竹林の闇に消えた。

 さとりが永遠亭につき、月が雲に隠れた頃、遠くから狼の遠吠えにも似た叫び声が聞こえた。

 兎達に何かあったのかと聞かれても、さとりは何も答えなかった。そして、出迎えた八意永琳に挨拶を済ませた後、最初に伝えたことは毛深い人のための薬を作って欲しいということであった。








いくつか続く話の始まり。
最近迷走していてダメな感じですみません。何が良いのかわからなくなって参りましたが、書いていこうと思います。


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第十五話【儚月抄】

私たちのように未完成な人間に、
何もかも完璧にこなせるわけがない。
私たちにできるのは、
その時その時の妥協点を探ることである。
                 マハトマ・ガンジー


「私が妹紅と古い友人だと、知らぬあなたではないと思いますが」

「別にそんなのどうでもいいわよ。あなたと私が友達で、あなたとアイツが友達で、私とアイツは友達じゃない。不思議なことではないでしょう?」

「友達じゃない、じゃなく、殺し合う仲に訂正は必要ですけれどね」

「もうそこらは大して変わりないわ。それに、どうであろうがどちらの味方もしないし、どちらの敵でもない、中立ですらない無関係があなたのポジションだものね」

「……だから、私はここに来たくないんです。わかったような顔をする澄んだあなたと、私なんかより賢い医者がいますから。そもそも、私みたいな濁りきった妖怪には居心地が悪い」

「あなた賢いし、大物じゃない」

「私は頭の回る小物程度ですよ」

「それに、私には、あなたが逆に澄んでみえるけど?」

「冗談を」

「透明な水ではないけれど、一色に染まった染料みたいに美しい」

「口説かれ飽きて、ついに人を口説くようになりましたか」

「誰でもではないわ。あなたなら本当は知っているのでしょうけど、あなたは風評に反して好かれているし愛されているわよ。ほとんどから嫌われて、ほんの少しに物凄く愛されるあなた。誠実だものね」

「……」

「あら、もしかして照れてるの⁉︎ あなたって、照れると黙るのね。珍しいものを見たわ。八雲紫でも滅多にお目にかかれないでしょう」

「呆れていたんですよ、全く。何かあったのかと思って来てみれば何もありませんでしたし」

「友人を招くのは普通のことよ」

「私が友人なら、そうでしょう」

「あなたが友人なのだから、そうなのよ」

「白黒つけようとしても、あなたはそんな風に笑ってこちらを見るのでしょうね」

「そうかもしれない。そうじゃないかもしれない」

「そういうところ、嫌いですよ」

「……」

「……」

 

 途切れることなく続いた会話が遂に切れた。

 それは、嫌悪の言葉に対する反応ではなく、不思議と穏やかな静寂であった。

 

「聞きたいことがあるの」

「答えるとは限りませんが、聞きましょう」

「あれから、八雲紫とはどうなった?」

「どうもなりませんよ」

「本当に? あれは初めての裏切り行為ではなくって?」

「紫を明確に敵にしたのは初めてでしたが、裏切ったつもりはありません」

「詭弁ね」

「あなたにとっては」

「敵意無く業務として動くあなたが、とてもとても珍しく、敵意を見せたのに?」

「えぇ、少なくとも私達にとっては」

「とても良い関係ね、あなた達」

「あなたと八意女史ほどではありませんよ。命を捨てる事はできても、命を渡す事はきっとできませんから」

「月が綺麗ね」

「死ねないあなたがそれを言う」

 

 団子を頬張る二つの口がただ咀嚼する微かな音が風にとけて消えた。永遠亭の広い庭を滑る風は涼やかで、どこからか穏やかな草木の匂いも運んでくる。良い夜であった。月は綺麗で、空は落ちそうな闇。明日が来ないと言われても不思議でないほど終末的で、今日で終わりと言われても静かに待てるほど風流な碧落である。

 情緒に耽った輝夜は、やがて小さく座る少女を視界の端に覗き見て、何度でも思い出せそうなあの日の表情を重ねて見た。

 強い感情であればあるほど奥に仕舞い込んで、冷徹の人であるこの古明地さとりには決して似合わない、今だって重ねようとしてもまるで合わないその情念の表情を、少なくとも彼女が生きている間は忘れはしないだろう。

 

 

「あなた達の味方をしに来ました」

 

 時雨降る夜、傘もささずに突然に訪れた知人の言葉に蓬莱山輝夜と八意永琳は動揺した。

 八雲紫の味方をする。それ以外には、誰かに一時の肩入れをする事はあっても味方となる事はなかった古明地さとりの、あり得ざる宣言。それも、幻想郷からすれば余所者の色の濃い月人に、月と幻想郷の間で一悶着がありそうなタイミングで。

 普通ならば、それは見え透いた嘘であなたは間者の類に違いないと跳ね除けるものだが、相手は古明地さとりである。

 古明地さとりはこんな直接的な手段を講じない。

 古明地さとりは自分から舞台に上がることはない。

 古明地さとりは「手助けに来た」と言う事はあっても「味方をしに来た」と言う事はない。

 古明地さとりは虚偽と欺瞞に彩られても、その居場所は変わらない。

 そして何より、古明地さとりは傘もささずに動くほど感情的にはならない。

 二人は、古明地さとりの言葉に真実を見た。

 つまり、古明地さとりが「古明地さとり」であることを一時的であろうとやめるには、それだけの何かがあって、それ程の事ならば彼女は寧ろ信用に足る人物であるという判断であった。

 藤原妹紅ほど親密ではないにしろ、旧知の仲ではあった彼女らにもそう思わせる程度には、さとりの行動はさとりらしくないものだったのである。

 

「何をしに来たのか、聞かせてもらいましょうか」

 

 迎え入れるや否や無理矢理風呂に放り込んで着替えさせて、それで不機嫌そうにしているさとりへの輝夜の第一声であった。

 輝夜が最初に聞いたのは、往々にして問題の中心にいるのは彼女で、そもそもこの場所自体が輝夜を守る為にあったからである。自分が何をしたのか、自分に何が起きようとしているのか、自分がどう思われてるのか。さとりの抱える問題に対して、状況把握の全てを込めた問いであった。

 

「幻想郷を守りに来ました」

 

 それは二人に対して自分の立ち位置もやる事も変わりはしないという宣言であった。

 つまり、古明地さとりは普段とはまるで違う行動をしていて、誰かの味方になるとまで言っている。それでも、その根本はいつもと変わらず幻想郷への貢献であるということで、これは心変わりの類でないことを示している。

 そうなのだが、二人はその言葉を咀嚼しつつ、違和感に少なからず驚いていた。

 さとりの視線は、語りかけは、明らかに蓬莱山輝夜ではなく、八意永琳へと向いていた。

 

「八意永琳、あなたを助ける為に、私はここに来たのです」

「……はぁ、私と幻想郷の繋がりはそう深くはない。だから、私を助ける事が幻想郷の為になるとは思わない。そう切り捨てられたなら簡単だったけれど、あなたがそう言うのならば、きっとそうなのでしょう。姫ではなく私、その理由を聞きましょうか」

 

 さとりの表情が微かに和らいだように見えた。

 

「ここであなたに突き放されていたら、妹紅を焚き付けていた。話が通じるようで助かります」

「物騒なこと。あなたらしくないじゃない」

「そうもなりましょうとも。こんなに感情を晒して動くのは久しぶりです。何もかもが私らしくない自覚はあります」

「あなたがそうもなるなんてよっぽどね」

「今の月の騒乱、八雲紫の月面侵攻に関してあなたが月に通じている事、私は把握しています」

「……まぁ、読まれるでしょうね。これは八雲も同じでしょう。それが裏切りだとでも?」

「いいえ、紫はあなたがそうする事を前提に動いている」

「それはそうかもしれないわね。妨害の可能性は考慮」

「違います」

 

 さとりが言葉を遮るように否定を吐いた。

 大抵の場合、大体を聞き届けてから言葉を返すのがさとりであるから、二人には酷く妙な反応に感じられた。

 

「……何が違うのかしら?」

「あなたは、きっとこの計画のほとんどを見通しているのでしょう。今回関与していない私でも読めますから、当然です。囮を使った侵入作戦、それで正解。ですが、同時にこうも思っているのではありませんか。そこまでして侵入してどうしようというのか。入ったところでできることなんて何もない。月と幻想郷にはそれほどの差があるし、それは八雲紫も知っているはず」

「そうね、少なからず違和感を覚えているわ」

「あなたの考えは正しい。あなたは月の者と通じて紫を出し抜くでしょう。ですが、恐らくはそれすらも囮。幽々子辺りが月へ侵入する」

「……そこまでは読めていなかったけれど、誰が侵入したとしてもできるなんてないでしょう」

「はい。だから、幽々子も適当に何かして帰ってくるでしょう」

「それでは話の筋が通らないのではないかしら。リスクとコストに対するリターンが見合っていないと思うけれど」

 

 真っ当な意見であった。理路整然としていて、どうしようもないくらい正論だった。

 幻想郷の様々な妖怪、人を巻き込んで、時間までかけて月に行く。そこまでしてする事ではないというのが誰もが思う事だった。

 ただ、そう思っていないのが古明地さとりだったから、今永琳は断定ではなく意見を言葉に選んだ。

 八意永琳はさとりを自身を凌ぐ頭脳であるとは思っていない。ただ、この妖怪はただ優れた頭脳を持つという人物でなく、物事を解る事に長け、その上で為すべき事を為すという一点において誰よりも優れている。そう考えていた。輝夜が時折口にする、澄んでいなくとも美しい色があるという言葉に当てはまる人格で、穢れある地上における月人と対極の知恵者であるとも。

 詰まるところ、永琳にはさとりに真っ当な疑問を的確に与える事はできても、否定を与える事はできないのだ。視座が違い、思想が違い、生き物として違う。定数を誰より正確に扱う賢者には、変数を計算に組み込む愚者の答えは見えない。

 

「八意永琳、あなたにこの騒動の真相が分からなくて、私には分かる。その理由は幻想郷を知っているかどうか、その一点に尽きます」

 

 そこにいるのは間違いなく旧友古明地さとりであったが、同時に幻想郷の古明地さとりである事を二人は思い出した。

 

「ここは、至極簡単なルールの下で運営されています。人を襲う妖怪と、妖怪を恐れる人。この関係が妖怪達の終着駅を居場所たらしめている。永琳、あなたはどうですか?」

「どうとは?」

 

 さとりの表情に、若干の諦観が滲んだ。

 

「あなたは、ここに来た時、人である事を選んだんです。妖怪ではなく人として住民になった」

「その覚えはないけれど」

「あなたは妖怪のコミュニティに入っていきましたか? あなたは、不思議なお医者さんとして人里と関係を持っているのではありませんか?」

 

 さとりにしては何か迫るような言い方だった。

 それが事態の深刻さを表しているようで、妙に薄暗い感情が永琳の奥より湧き上がった。

 

「あなた方には理解し難いかもしれませんが、この世界はそのルール故に関わった社会に属する事になります。ならば、八意永琳、あなたは人なのです。人ならば、妖怪を恐れなければならない」

 

 返答は沈黙であった。

 幻想郷への不理解故の掟破りに対して、それを突きつける古明地さとりの声に対して、答えに窮していた。

 

「と、ここまでが紫の言い分です」

「え?」

 

 思わず呆けた声が出た。さとりはそれまでとは打って変わって普段とそう大きくは変わらない面持ちで永琳を見つめていた。

 

「この騒動は、要は月の頭脳とも言えるあなたを出し抜く事を目的とします。あなたには理解できない思考で、あなたを騙す事ができる妖怪がいると、紫はそう思わせて妖怪への恐怖という義務を果たすよう仕組んだ」

「……その言い方だと、あなたはそれを良しとしないのかしら」

「えぇ、だからあなたを救いに来た」

「それが、八雲紫への敵対行為だとしても?」

「私は迷いなく行動します。紫が守るものが幻想郷ならば、それを守る為に紫を敵としましょう。紫の味方で、八雲藍と私が違うのはそこですから」

 

 断定の言葉と共に、さとりは懐から煙草を一つ取り出したかと思うと、徐に火をつけて煙をくゆらせた。

 二人は彼女が喫煙者であるとは知らなかったと意外そうにそれを眺めていたが、どうやらそうではなかったらしく、少し吸うと咳き込んで、渋い顔をして小さく息を吐いた。

 

「これは魔除けです。紫は今はこちらに構う余裕がありませんから大丈夫でしょうが、他の誰が見ているとも分かりませんから」

「用心深いのね」

「何かと気苦労の多い身でして。まぁ、それはいいのです。話を戻しましょう」

「咳き込むのには気をつけて」

「えぇ。……紫のやろうとしている事はルールの完全なる適用です。例外を認めるわけにはいかないと、彼女はそう思っている。幻想郷を守る為に」

「例外というのはいつだって厄介なものだものね。そうおかしい事ではないわ」

「これは幻想郷の原則に従う行動ですが、決して幻想郷の為になる行動ではありません」

「その心は?」

「この世界は不完全であるし、そうでなければならないという事です」

「自分達で作った世界なのに、随分辛辣なのね」

 

 横からひょっこり顔を出した輝夜が、面白そうに笑った。

 

「元々、世界の解明に追われた魑魅魍魎の最果てです。不完全だからここにいる」

「あなたも?」

「私も、です」

 

 一つ咳払いをして、続ける。

 

「八意永琳、あなた程の例外を認めないという事は全ての例外を認めないに等しい。つまり、あらゆる存在がこの世界のルールに束縛されることになります」

「それは良い事なのではない?」

「ルールが単純であるが故に、これは問題になる。不完全な世界で、完全なルールがあればどうやったって浮くものです。種も仕掛けも割れるのです。このルールは曖昧でなければならない。なんとなくそういうものであると思われてなければならない。完全に理解された時、人は再び我々への恐怖を忘れるでしょう。そうなれば、全てが終わる」

「厳密にすれば実質的に、不文律でなく明文化されたようなものになると。だから、私をそうするのはいけないと」

「あなたには例外でいてもらわないといけません。綺麗事では世界は救えない」

 

 輝夜はさとりらしい言葉だと思った。同時に、さとりらしくない言葉だとも思った。

 きっと、その言葉はさとりのやり方の一部を正確に伝えているのだろう。だが、さとりはここまでそれを具体的に言いはしないし、感情的にも言わない。さとりという人物の少しだけ深いところを垣間見た気がした。

 

「さて、経緯を理解してもらったところで、ここからが本題です」

「……? 私が事の次第を理解した以上、もう問題ないのではないかしら?」

「相手は八雲紫です。どのような手を講じてくるかわかりません。あなたと違って狡い事も予想できないような事もします。だから、私が来たのです。あちらが毒を盛るならば、こちらも毒を盛りましょう」

 

 さとりが酷く意地の悪そうな笑顔で、二本目の煙草に火をつけた。

 

「さぁ、悪巧みの話を致しましょう」









迷走中。
どこへ向かえば良いのかわからなくなってきています。

ここ好き機能とか使っていただけるとどういう台詞がいいのかわかるので余裕があるとお願いします。


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Episode.2 【異邦神】

意志もまた、一つの孤独である。
         アルベール・カミュ


「神様、あなたはどうしてここにいるの?」

「それはね、私がここを気に入ったからよ」

「神様、あなたはどうして私が見えているの?」

「どうしてかしらね。特に理由はないのかもしれない。ただすごいってだけで見えるのも素敵じゃない?」

「不思議な神様。お姉ちゃんが嫌いそう」

「ふーん。あなたのお姉ちゃんはどんな人? 存分に自慢してくれちゃっていいわよん」

「ううん、秘密。お姉ちゃんにとってその方が都合がいいもの」

「あら、スパイか何かなのかしら」

「地底の管理者だよ。お姉ちゃんに会いたいなら地底に行けば普通に会える」

「それは喋っていいのかしら?」

「うん、今ならそれなりの妖怪に聞けばわかるし、神様、多分霊夢達のことも知ってるでしょ? 普通に教えてくれるよ」

「そんな皆に知られているのに、自慢は都合が悪いのね」

「皆お姉ちゃんのことは知っているけど、お姉ちゃんについては知らないからね」

「また遊びに行ってみようかしらね」

 

 茶屋の軒下、人里の中心。そして、眼前の閃光。

 街中で発生した霧雨魔理沙とクラウンピースの弾幕ごっこを眺めている最中の出来事であった。

 やたらと目立つ神様の、酷く会話じみて理知的な独り言。

 

「神様は多分遠いところから来たんでしょう? ここは過ごしづらくないの?」

「別にそうでもないわよん。ここは全てを受け入れるらしいし」

「神様のいた場所に地獄はあったとして、黄泉平坂はないとしても?」

 

 神様の顔が少しだけ驚いて目を見開いた。すぐに戻ったけれど、いくらか彼女の心が動いたのは事実であった。

 

「聡い子ね」

「覚、だからね」

「心が読めるっていうあの?」

「私はもう読めないよ。やめちゃった。ぜーんぶ嫌になって、投げ出したの。私達アンバランスな姉妹だから」

「ふーん、お姉ちゃんは人の心が分かっても全然問題ないんだ」

「お姉ちゃんは凄いから。どんな人でもお姉ちゃんには勝てないんだよ」

「最強、ってやつかしらん」

「ううん、お姉ちゃんが強いかどうか知ってる人は多分誰もいない」

「じゃあ、なんで勝てないのかしら?」

「勝敗の前提がないから。必要なことをするだけで、勝ちたいなんて微塵も思っていない。だから、形だけの勝利は相手にあげちゃうの。そんなの貰っても誰も勝ったって思わないでしょう?」

「そうね。それは厄介なもの。で、結局、自慢してしまっているけれど大丈夫なのかしらん」

「あっ。……お姉ちゃんには秘密にしてね」

「多分、そのお姉ちゃんはこの程度の事を知られただけではきっと何ともないけれど、秘密にしておいてあげる」

 

 小さく笑って、独り言は30秒ほどおさまった。

 

「地獄というのは、別に一つの形しか持たない訳ではないのよ。私がいた所には黄泉平坂はなかったけれど、どっちも私の地獄。違う地獄があるとするならば、それは生き地獄というやつね」

「生き地獄?」

「生きてる事で地獄みたいに辛い人もいるのよ」

 

 あなたのお姉ちゃんもそうかもねと独り言を言いかけて、やっぱりやめて言葉を続けた。

 

「あなたのお姉ちゃんは誰にも理解されていない。だから、あなたが寄り添ってあげなさいね」

「うん、お姉ちゃんとはずっと一緒にいるよ」

「良い子ね。やっぱりここは面白いわ。復讐だなんだと言ってきたけれど、思わぬ収穫」

「復讐?」

「私のお友達に復讐したい相手がいてね、その人の家族に恨みがあったから私も来たの」

「何をされたの?」

「昔、太陽がいっぱいあったの。光があったら影ができるでしょう? だから良かったのだけど、その人が太陽をいっぱい射落としたから私まで損しちゃったの」

「結構どうでも良さそうだね」

「まぁ、向こうにも道理があったし、そうなったところで私は今も最強だもの」

「ふーん」

「全てが自分の都合の良いように進む訳じゃない。正直、可哀想と思う気持ちもあるし。その人は必要であったから英雄になり、その後もその道を進んで、結局死んでしまった。それで英雄として名を刻んだ。人々を救う尊い人だってね」

「嫌な人生。私もお姉ちゃんも選ばない道。ただの偶像だもの」

「そうね。でも、滅びが待っているとしてもそういう栄光の道を選んでしまうのが普通なのよ。目の前に輝くものがあれば手を伸ばすのが心というもの」

「神様はなんでもわかってるんだね」

「あなたのお姉ちゃんの事は知らないけれどね。でも、そうね、きっとその子は同じ事をしても栄光の道なんて進まず、こんな事を言うのでしょうね」

 

 さようならを言う前の、最後の独り言。

 

「太陽が眩しかったから」








『異邦人』
短めの話。
深く考える必要はないです。


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第十六話【満月抄】

我々は中傷・偽善・裏切りを憤る。
というのは、それらが真実でないからではなく、
我々を傷つけるからである。
         ジョン・ラスキン–『建築の七灯』より–


「あなたになら、私を駒のように扱っていただいても構わなかったんです」

 

 月光を背に語る声。

 

「卓上で、最高効率に願望へ向けて支配されるただの駒。都合の良い人形のように」

 

 竹林の奥へ語る声。

 

「私は形ばかりは人形のようでしょう? どうでしょう。この指に、腕に、脚に、糸をつけてみますか?」

 

 賢者の前で語る声。

 

「声と脳が残っているのなら、私に糸をつけても意味なんてありませんが」

 

 愚者の喉が語る声。

 

「それとも、こんな事をする奴なら首に巻くのがお好みですか?」

 

 罪科の処を語る声。

 

 ここで、ようやく賢者が声を発した。酷く歪で、言い表せようもない感情の混ざった声だった。

 

「あなたが、それを選択するとは思わなかった」

 

 拍子抜けしたような顔した。呆れたようにため息を吐いて。

 

「そうでしょうね、私は八雲紫の味方であってあなたの味方ではないのですから。八雲紫の為ならば、こうして敵にもなります。ずっと私はそうだったでしょう? 私を忘れましたか、紫」

「忘れたつもりはなかった。ただ、あなたを無条件に信じるようになっていた」

 

 告白のような言葉だった。それは或いは愛よりも重い何かだったのかもしれない。

 だが、その焦燥の声に、普通の顔で奇妙なほど明るく返された。

 

「それはいけない。私はずっと疑わないとダメですよ。信用しても信頼しても、私に対してやめてはならないのは疑うことです」

「心はそう簡単に御せるものではないわ。あなたを私はただ味方だと」

「私は幽々子とも隠岐奈とも違う。私は私として幻想郷に携わります。八雲紫が抱いた幻想郷の理念と理想の為に、そして私の目的の為に。古明地さとりがそういう人だと、あなたが知らないはずもないでしょうに」

 

 知っていても、あなたの心に同じような親しみがあると思っていたから。

 そんな言葉が賢者の脳裏を過ったが、言っても何にもならず、ただそれすら理性で箱の中へ綺麗に押し込んでおける彼女には、理解ができても共感ができても賛同してもらえるはずもない事を考えるとあまりにも無意味だった。

 少なくとも彼女には心があり、感情があり、一般的な感性があり、常人の域を逸する事はない。ただ、その全てが誰よりも堅牢な理性のもとにあるから、どうしようもなく彼女は古明地さとりだった。

 

「異変が終わった後、私をどうするかはお任せします」

「今、私を見下ろしているのはあなたなのに」

「見下ろす事に意味などありませんよ、紫。この手の争いに勝ち負けは無いのです。目的を達したかどうか、得るものがあったかどうか。それだけの話」

 

 勝利というものへの渇望が全く感じられない言葉だった。心底興味がないという表情だった。

 

「私は八雲紫の理念の下にあなたの謀略を妨げた。これは嘆願でも讒言でもありません。ただ、あなたのいる場所を知らせただけ。私はあなたの過去からあなたを見ているんです。だから、殺されたとして恨みはありませんし、私を排斥しても特に気にはしません」

 

 あまりにも信じられない言葉の筈だが、さとりが言っているというだけでそれが真実で本心である事は確かだった。

 彼女は虚偽を口にし、欺瞞を施す人であったが、少なくともこれまでの関係の全てが彼女の言葉を肯定する。いつだって彼女は自分の命を簡単に賭け金にし、幻想郷の為に行動していた。そして、あらゆる理不尽にイカサマで応ずる。そのイカサマが、その生き方が楽なものでなくとも、立ち止まる事なくやってきたのだから、疑いようもなく彼女は八雲紫の味方だった。

 

「どうですか、紫。そこは心地がいいですか。私はここが気持ち悪いです」

 

 静かな言葉。微かな嫌悪の顔。

 

「心は簡単に御せないものと言いましたか。えぇ、そうでしょう。私も、こんなに感情を抑えながら動くのは久しぶりです。これほど怒るのはしばらく無かった」

「とても怒っているようには見えないけれど」

「怒っていますよ。ただ、それでも、感情的になるのではなく理性で動く。あなたを叱るのではなく、あなたが理念に背きつつある事を知らせる。私はどこまでいっても幻想郷の賢者でなく、ただ共にあった一妖怪に過ぎない。怒り、欺き、知らせました。それでも、選択はあなたに委ねます。あなたを欺き、立ちはだかり、気持ち悪い思いをしても、それでも私は選択者ではない」

「酷い事を、するのね」

「酷い事をなどした覚えはありません。寧ろ、こっちの方がされたと言いたいくらい。勝手に気持ち良くなって理想に溺れないでください」

「なんて感情的な言葉かしら。ハハ、片手で数えるくらいしかあなたのそんな姿、見たことないわ」

「頭に血が上りました。忘れてください。そして、答えはやがて返してください。それまで僅かばかりの暇をいただきます」

 

 見せたくないものを隠すように、その顔半分を手で覆った。そして、そのまま徐にさとりは歩き出す。

 紫の方へではない。暗闇の竹林の奥へではない。紫のいない方へ。それまで背に受けていた月光の方へ。彼女は歩き出した。そして、そのまま振り返る事はなかった。代わりに少しの言葉が残された。

 

「さようなら、紫。今のあなたは心を読むまでもありませんでした」

 

 

「さぁ、悪巧みの話を致しましょう」

 

 少女は、幼い体躯に似合わない煙草をふわりと揺らせ、意地の悪い笑顔で言った。

 

「策は練ってあるという事ね。いいわ、あなたに任せましょう」

「あら、永琳が口を挟みもしないなんて、さとり、あなた相当信頼されてるわよ」

「月の賢者の信頼とは光栄ですね」

「適材適所というやつよ。ただ合理的に頭を使うだけの話なら私の方が上手くできるけれど、こういう騙し合いならさとりの方が圧倒的に優れている」

 

 当然のように自身の優位を示し、不服そうな様子など一切なく相手の優位を彼女は語る。

 その様子はまさしく彼女が月の賢者であり、頭の良い人、天才であるだけの人でない事をわかりやすく示していた。できる事とできない事、優れている点と優れていない点。その全てを事実として飲み込む胆力もまた、彼女の素晴らしさであった。

 そういうかえって嫌味のない言い方に、さとりもまた苦笑いするまでもなく肯定するかのように会話を継続するのである。

 輝夜はそういう二人を見るのが好きだった。

 

「それで、どうするかという話ですが、とても簡単な話です。たとえば、紫が自身を囮にしたとしてあなたは容易に捕えてみせるでしょう。その後、スキマで逃げないように拘束するのではありませんか」

「当然ね。あれで逃げられると厄介な事この上ないもの」

「拘束しないでください」

「……逃げられるけれど、いいのかしら」

「えぇ。だって、紫は結局月に行く気なんてない。逃げた所でできる事なんてないのです。拘束されて、侵入を阻止したと思わせる事が目的なんですから」

「その先にまた策を弄してくる可能性は?」

「当然、あります。ですが、そもそも拘束されない事が彼女にとっては予想外です。拘束しない理由があなた達には無いはずなのにされない。彼女は考える事でしょう。そして、一つの可能性に辿り着く」

「内通者の存在、ね」

「えぇ。そして、ここで大事なのがただ逃すという事です。内通者がいたとして、あなた達は紫の侵入を阻止したならきっと企みを看破してみせるでしょう。でも、それすらしないのです」

「それに何の意味が?」

「内通者が私であると仄めかす事ができます。それこそ適材適所という事。ただ見通して、目的に必要なことだけするのは私のやり方です。内通者の正体は古明地さとりだったのです」

「あえて明かすなら、その目的は?」

「勿論、紫の心を折る事ですよ」

 

 流れるように吐き出された言葉は、その軽さに対して酷く重い意味を持っていた。

 それでも、同朋を正気に戻すかのような口ぶりで、その相手を苦しめる事を、ドン底に突き落とす事を画策する姿は、優しさなどという言葉とは程遠いものだったが、或いは何より真摯だったのかもしれない。

 

「あなた達の行動に私の影を見せる事で紫は私を疑うでしょう。でも、彼女は私を疑いたくない。これは私への信用だけが理由ではありません」

「あなたが古明地さとりだから」

 

 永琳の答えに、さとりは頷いてみせた。

 

「恐らくその言葉の意図は正解でしょう。はい、紫はこと幻想郷に関しては私の選択は正しいと思っています。賢者に属さず、賢者達の対立にも関与せず、始まりの理念を残す唯一の者として、私の判断を尊重します。ですから、私が否定する事は彼女にとって迷いになる。あとはもう簡単です。私が彼女の前に現れて、裏切り者は私だったと敵対を断言する。彼女は動揺するでしょうね。私が裏切るとは思ってなかったと宣うでしょう」

「かなり酷い毒を盛るものね」

「えぇ。私にとっては、今の彼女の行いが幻想郷に対する毒ですから。あぁ、それと、この毒を飲んでもまだ前に進む意思を見せたなら、私はそれ以上敵対しないつもりです」

「あら、あなたにしては諦めが早いじゃない」

 

 意外そうに首を傾げる輝夜を一瞥して、煙草の灰を落とした。

 

「理念が時代と共に変化するなら、そういうものなのでしょう。過去を認めた上で変化を望むなら私はそれ以上何もしません。地霊殿で隠居して、のんびり過ごす事にします」

 

 それは淡々とした言葉であったが、それまでの微かに苛立ちなどを内包しているように思えた言葉とは違って、どこか穏やかな気配を持っていた。自分が排斥される事すらも、大した事ではないと最初から納得していたかのような様子だった。

 輝夜と永琳は、こういうさとりの感情の機微を好ましく思っていた。どこまでも冷徹で、残酷で、無感情に見える彼女にも当たり前の心があり、稀にそれが顔を覗かせるのである。これがかえって普通の人より人らしく感じられて、輝夜の言う一色の美しさと相まって月人の二人には美しいものに思えていた。

 だから、二人は永琳に関してさとりに協力してもらうのではなく、これから運命の分岐点を迎えるさとりの策謀に協力する事を内心決意していた。

 

「あなた達らしくない行動をする。私がしそうな行動をする。それだけです。疑われずに人を殺すのに密室のような大仰なものが必要でも、毒を盛るのはそう難しい事ではない。毒の作用が強ければ、少しの違和感という投与で効果は出るでしょう」

「まるで人を殺した事も毒を盛った事もあるかのような言い方ね」

「密室殺人の経験も、毒を盛った経験もありませんよ。私は口先でしか物事を解決できませんから」

「口先だけで全て解決してしまえるの間違いでしょうに。まぁ、いいわ。私も永琳もあなたの案に従う。八雲紫の狼狽する姿は見てみたいし」

 

 煙草の火が灰皿にこぼれた灰と共に消えた。勝手に落ちたのではなく、さとりがほんの少し強く灰皿に叩いたからであった。

 

「あら、見られてしまうかもしれないわよ」

「外に妹紅を待たせてあります。私は今日、あなたと妹紅の殺し合いが酷いことを恐れた、私よりタチの悪い兎から仲介を頼まれた。それだけのことなのです」

「……成る程ね」

「彼女は大事にした方がいいですよ。随分長生きで、老獪で、私より頭が回る。正直な所、もし私があなた達を罠にかけようとしたなら、間違いなく最大の障害になります」

「ふふ、古明地さとりに褒めてもらえるなんて光栄な事ね」

「そう思ってくれる人はほとんどいませんがね。では、私はもう行きます。お邪魔しました。これからの連絡は妹紅を経由しますのでよろしくお願いします」

「あら! 妹紅が手伝うのね」

「随分不機嫌な返答でしたが、あなたの頼みならと言ってくれました。数少ない、私の友です」

「良い関係ね」

「えぇ、とても」

 

 立ち上がり、時計を見た。間もなく丑三つ時を迎えようとしていた。

 今の時間にさしたる意味などなかった。ただ、時計が気になったから見た。それはもしかすると輝夜の能力の行使を気にかけたものだったのかもしれないが、一瞬を掻き集めたその能力が時計などでわかるはずもなかった。

 だからといって、さとりが何かをしたり問う事はなかった。

 そのまま二人に見送られて、待ちくたびれた妹紅と共に竹林に消え行く際、さとりは一度振り返って言葉を残した。

 

「さようなら、輝夜。あなたを信用はしませんが賢人だと認めているので、その心は読みません。ですから、どうか良き関係をお願いします」










またスランプに。頑張ります。


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第十七話【新月抄】

良心は、ただただつねに沈黙という形で語る。
   マルティン・ハイデッガー -『存在と時間』より-


 地霊殿の奥、書斎で紅茶を注ぎながら少女は一人呟いた。

 

「……久しぶりの自由は、三日で終わりでしょうか。それとも、私はもう自由なままなのか」

 

 その部屋に姿は一人。カップは二つ。

 それはペットに振る舞うものだったのか、或いは待ち人へのもてなしだったのか。

 少なくとも、彼女はカップ一つにしか紅茶を注がなかった。

 

「答えはそれなりに待つつもりでしたが、十分悩んだようですね」

 

 ソファに腰掛け、低いテーブルにカップを置く。

 無人の対面には当然に空のカップが静かに待つ。それはまるで誰かが去った後のように。

 そして、それを否定するかのように、次の瞬間には別の少女がそこに座っていた。

 可愛らしくも妖艶であった容貌は少々やつれて見えた。

 

「えぇ。もう、十分よ。さとり」

「では、答えを聞きましょうか。紫、あなたは幻想郷をどうする事を選ぶのですか」

 

 さとりの言葉に、紫は微かな侘しさを覚えた。

 

「私は、私の過去と共にあるわ。少なくとも今はこの変化と決別する」

「そうですか、それではまたよろしくお願いします」

 

 特別何か感情を示すこともなく、さとりは空のカップに紅茶を注いだ。

 本当に、普段と変わらないただの古明地さとりだった。

 

「それでは、私にとってもあなたにとっても、きっと本題でしょう話をします」

「本題……? 今の話が全てではなくて?」

 

 紫の言葉に若干のためらいを見せた。確かに見えたさとりの感情であった。

 

「紫、あなたは幻想郷の為に戻ったのですか。それとも」

 

 嫌な予感がした。

 

「私の為に、私の下へ、私がいるから戻ったのですか?」

 

 どんな感情よりも思考よりも早く悪寒が走った。頭より身体が先に強烈に反応した。

 

「紫、この問いには答えが必要です。それはもう、あなたの心を読むことすら選ぶ程に」

「……」

「もう一度、聞きましょう。紫、あなたは過去の理念と添い遂げる為に戻ったのか、それとも私というただ一人と添い遂げる為に戻ったのか。どちらなのですか?」

「答えが、必要なのね」

「はい」

「それを聞くあなたは全てをわかっているのに、それでも私が答える事を望むのね」

 

 青ざめた少女の嫌悪の表情。それは、残酷な彼女への憎悪か、それとも公人と私人を彷徨う半端な自身への辟易か。

 少なくとも、答えを口に出すのは憚られた。それでも、答えねばならなかった。

 

「あなたがいるから」

「それは、私が幻想郷にとって正しい支援者だからですか」

「それも、えぇ、あるわね」

「それも、ですか。嘘を吐く気はないのですね」

「あなたに嘘なんて吐いても意味がないでしょう」

 

 残った紅茶を飲み干して、さとりは紫の目を見た。

 

「これはフィリアなのか、マニアなのか、それともエロスなのか」

「エロスよ」

「即答。随分、妙な愛を拗らせたようで」

「その対象があなただと思えば、その歪みも納得がいくでしょう」

 

 呆れたようにため息を吐き、さとりは見上げるようにソファに身を預けて、その顔を腕に覆った。

 なぜ、賢者がそんな愛に堕ちたのか。なぜ、大義を前に私情を優先したか。そんな問いが彼女から投げかけられると紫は感じていた。だからこそ、少しばかり開き直ってすぐに先程の答えを返したのである。

 しかし、10秒ほど待っても何の言葉も返っては来なかった。

 不思議に思い、少し覗き込むように身を屈ませる。少しばかり見えるさとりの頬は普段の青白さもあって、随分赤く見えた。

 その意味を理解して、紫は息を呑んだ。

 

「……あなた、もしかして照れているの?」

「……」

 

 また少し垣間見えた、目元が隠されているにもかかわらず逸らされる目が全てを物語っていた。

 

「私だって照れます。そういう感情を向けられるのは、なかったものですから」

「それは、好意的な反応として見ていいのかしら」

「……いいえ。たとえ、私が如何にらしくない表情を見せようとも、決してそうではありません」

 

 覆う手が下ろされて、また向かい合ったさとりの顔はまだ熱を若干残すもののいつもの冷淡さを取り戻しつつあった。

 

「あなたのそれは気の迷いです。献身に情が湧いたのを恋心と勘違っただけ」

「そんなことはないわ。その判断がつかないほど愚かにはなっていない」

「どちらにしろ、私はあなたの思いを受け入れる事はない」

 

 静かな声。冷徹の顔。

 

「なぜ、私にそんな感情を抱いてしまったのです。よりにもよって、この私に」

「あなたが素晴らしい人だからよ」

「どこが素晴らしいのですか。私は古明地さとりです。嫌われ者で、陰湿で、陰険で、幻想郷が隠すべきものを沢山背負っている。古明地さとりは、素晴らしくなどない」

「それは主観の話でしょう。大事なのは私という客観」

「だから、あなたの主観だから、それを勘違った感情だと言っているんです。こんな事なら定期的にあなたの心を読んでいれば良かった。同志だからとか、あなたの味方だからとか、そんな情はやはり捨て去るべきだった」

「それができなかったから今があるのでしょう?」

 

 それをしなかったから、今も私は半端なのです。

 

「とにかく、駄目です。あなたは前だけ見ていてください。こちらを見ないでいてください」

「過去を忘れ去った事をあなたはあれ程怒ったのに?」

「過去は覚えているだけでいいのです。振り返る必要は無いのです。少なくとも、この後ろ向きな世界では、運営するあなただけは前向きでなければならない。だから私が後ろにいる事を忘れましたか?」

「いいえ。最初からあなたとはそういう話だった」

「契約の通り。私はただの協力者です。あなたの親友でも恋人でもない。だから、後ろ向きな世界で後ろ向きな私を放っておいてください」

「それでも諦められないといったら?」

 

 随分長いため息を吐いた。

 

「今の私には応えられません。それでも、と言うのなら、私が変わるのを待ってください」

「千年経っても変わらないあなたが変わるのを?」

「えぇ。それ以外に可能性はありません。ですが、私自身、変わるかわかりませんし、できれば変わりたくないと思っています。随分不平等な話です」

「それでも、待つことにするわ」

「その間に心が離れるか、正気に戻ってくれる事を祈っています」

 

 紅茶をまた注ぐ。

 

「私は最後まであなたに寄り添います。愛も恋も関係なく、最果てまで。それだけは保証します」

「では、これからも今まで通りの関係で居続けるのね」

「えぇ。私は今までと何も変わりません。契約に更新の必要もない。あなたが変わって、私は変わらない。いつも通りの事です」

「こうなっても私についてきてくれてありがとう。心から感謝しているわ」

「契約ですから」

 

 素っ気ない言葉に、いつも通りのさとりを感じた。

 それが妙に嬉しくて、隠すように少し冷めた紅茶を飲み干した。

 

「では、私は帰ることに致しますわ。親愛なるあなたに応えなければならないものですから」

「さようなら、また、何かあれば来てください。それが幻想郷に必要な事ならば私がやります」

「それが契約だから」

「はい。そして、私が八雲紫の味方だからです」

 

 よく交わす言葉。それが今日は違って感じられた。

 だが、それを指摘する事なく、八雲紫は姿を消した。まるでそこには誰もいなかったかのように。

 けれど、最初から空だったカップが、飲み干されたカップになっていることが、その来訪を何よりも象徴していた。

 静寂。

 カップの音がカチと響いた。

 さとりは脱力して、ソファに沈むように横たわる。

 そして、一人きりの部屋で、穏やかな顔で言葉を漏らした。

 それは古明地さとりの心の言葉。感情的な言葉ではなく、少女の心が自然と語る裸の言葉。

 

「紫、私があなたの最果てに寄り添ったとしても、私の最果てにあなたがついてくる必要はないんですよ」









スランプ継続。
なんとかします。


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第十八話【朧月抄】

生まれけり、死ぬるまで生くるなり。
               武者小路実篤


「あなたが何も変わらなかったというのだから、私はそれを信じましょう。友達の言うことって、信じてあげるのが情というものでしょう」

「私とあなたが友人であるかはひとまず置いておいて、そういう言い方をしているうちは、感情の理解には程遠いでしょうね、至極残念な事ですが」

 

 さとりの言葉に輝夜はヘラヘラと笑いながら自分の湯呑に適当に茶を注いだ。そして、ついでにとばかりに、さとりに湯呑を寄せるよう求める動きをしたが、さとりは小さく「結構です」と言って注がれることを拒んだ。湯呑には、お茶が一口程度しか残っていなかった。

 輝夜は、一度微笑むと、意地の悪い笑みを浮かべて言った。

 

「今日は、泊まっていってはどうかしら?」

「……はぁ」

 

 心底面倒くさいといった具合のため息だった。面白がった輝夜がさとりの顔を覗き込むと、少し視線を寄越すばかりで顔を向けることはされなかった。疲れ果てたと言わんばかりの表情は、余計にお姫様の嗜虐じみた好奇心を刺激した。

 

「いいじゃない、ここは良いところよ。仕事に疲れたあなたの療養には最適だと思わないかしら」

「あなたがいなければ、或いはそうだったかもしれません」

「でも、私がいなければ門前払いもいいところよ?」

「あなたが招かなければ、私がここに来ることもありません。余程の事がない限りは」

 

 何を言っても返される素っ気ない反応にクスクスと笑って、輝夜は満足げに伸びをしたかと思うと、すぐに立ち上がった。それはからかうことに飽きたのか、それともそれ以上踏み込む事をやめたのかは誰にもわからなかった。相手は古明地さとりであったから、彼女の心と同じように彼女への心もいつだってわからないものなのである。

 少なくとも、蓬莱山輝夜は立ち上がった。それは、それまでさとりが望んでいた、会話の終わりを告げるものだったから、歓迎されるべき事に違いなかった。

 

「宴もたけなわだけど、そろそろお客様はお帰りの時間のようね」

「宴もたけなわという言葉を選んだ神経は疑いますが、そうですね、もう帰らなければならない。生憎と忙しいもので」

「お土産を準備しているわよ。あっ、今また変なものをって思ったでしょう?」

「いつもそうじゃありませんか。前にいただいた蓬莱の玉の枝のレプリカ、既に物置の奥に眠っていますよ」

「永琳に呆れられたから、ちゃんと良いものを用意したのよ。ほら、疲労に効く薬と髪染めの薬、あと、瞳の色を変える薬とか、って、どうしたのかしら、そんな驚いた顔をして。あなたらしくもない」

「いえ、あなたにそんな有用なものを贈られる日がくるとは思っていなかったもので」

「心外ね」

 

 小さく笑って、小さな鞄を差し出した。受け取ってみると然程重くもない。中身を除くと、言った通りのラベルが付いた瓶がいくつか見えた。どうやら、本当にこんな贈り物を輝夜はしたのである。

 

「ありがとうございます。こちらは有用に使わせていただきます」

「えぇ、是非ね。永琳作だから効き目はバッチリ」

「言うまでもありません。永琳女史の腕前を疑う者など何処におりましょうか」

 

 さとりの言葉を聞いて、輝夜は少しはにかんだ。自分の事を褒められるのには慣れていても、信頼する永琳の事を褒められるのにはあまり慣れていないらしかった。

 その人間らしさを小さく笑うと、さとりは徐に立ち上がって、お辞儀をした。

 

「では、お邪魔しました。またいずれお会いしましょう。その時は、私が必要である事を願っています」

「また何の用もなく呼ぶわ。あなたが必要な時は、そうね、きっと凄く恐ろしい事でしょうから」

「その恐ろしくかつ厄介な事象の為に私はいます。それが必要ならば、私はあなたを助けますよ。あの時だってそうだったでしょう?」

「最初の事を言っているのなら、あれは妹紅の為にやった事でしょう。感謝しているし、助けられた事は否定しないけど、あなたの心情を否定させはしないわよ。友達を助ける事って、とても良い事だから」

「意地悪なお姫様。結局のところ、私のような浅慮な者は見透かされているのでしょう」

「表面だけよ、見えてるのは」

「そうですか、それは良かった。これからも、どうか私の事はわからないままでいてください」

 

 その言葉を最後に、古明地さとりは永遠亭の敷居を跨いだ。引き戸を閉める動作は落ち着いていて、気を張った泥棒よりも静かに思えた。名残惜しさなど少しもなく、ただそこからいなくなったかのように去る。まるで幽霊のような彼女は、しかし誰よりも悍ましいほど強く生きていた。

 蓬莱山輝夜は不老不死である。しかし、古明地さとりは定命である。彼女がこの先何千年を生きるとしても、永遠の前にはかの愚者の時間など塵にも等しい。それでも、彼女を忘れない理由があるのだとしたら、それは彼女が古明地さとりであるからで、いわゆる生き様が既に過ぎたる時間のうちでも際立ったものであるからなのである。

 もっと勝手に生きてもいいと思うのだけれど、なんて言葉にすべきでないとわかった事を思って、遠のく足音を見送った。消えかける頃、足音は二つになっていた理由を彼女は知っていたが、それこそ自分が触れる事ではないとわかっていたから、そのまま欠伸をして、自室で夜の午睡に耽るのであった。

 

 

「どうだった」

「どうだった、とは」

「アイツがまた余計なことしたんじゃないかと思って」

「今回は珍しく普通にしていたわよ。この前の騒動に関して話を聞きたがっただけだったし、ほら、今回の土産物は永琳女史の薬」

「じゃあ、いいけど」

「ねぇ、妹紅」

「なに?」

「嫉妬?」

「はっ⁉︎」

「最近、あなたと会う事も少なくなった中で何度も永遠亭への案内を頼むから、友達として嫉妬しているんじゃないかと思って」

「……心、読んだ?」

「いいえ、読まなくても顔に出ている」

「……さとりには敵わないわ。八割くらいそれ。でも、正直言ってあなたはあまりあそこと関わらない方がいいんじゃないかって思ってる」

「中立が揺らぐから?」

「そこは信用してるから大丈夫。それよりは、永遠を生きる者と関わっていい事なんてないと思うから」

「自分は棚に上げて?」

「そ。私は元々地球人だし、あの二人よりは人間性あるって自負があるからね。幻想郷があるうちはずっと今と変わらないと思う」

「えぇ。私が死ぬまでの間くらいは、きっと変わらずあなたのまま」

「あなたが幻想郷を存続させるから?」

「当然。いつか隠居する日はあるかもしれないけれど、本当にここが終わりかけたら、何としてでも存続させる」

「あなたが言うのなら、きっとできる」

「心配しなくて大丈夫。たとえ死んだとしても、旧友の為ならば、止まった心臓のまま蘇ってしまうから」

「あなたが言うと本当にやりそうだからその手の冗談はやめた方がいいわよ」

「言う相手なんてほとんどいないから大丈夫よ。それにこういうのはあなたの方が得意でしょう。あなたも言いやすい相手はいないでしょうけど」

「お互い、友達が少ないからね」

「ふふふ」

「ふふふ」

「そういえば、生活に不便は?」

「慧音が良くしてくれるから、最近は随分良い生活をさせてもらってる」

「放っておくと野人同然な事もあったかしら」

「あれは、慧音には秘密ね。多分、過保護になるから」

「過保護にされた方がいい気もするけれど」

「お願いよ。あんまり心配かけたくはないから」

「わかっているわ。そんな余計な干渉をできる立場でもないし」

「……」

「……」

「月が綺麗ね」

「死ねないあなたがそれを言うのね」

「死ねないあなたにだからこれを言うのよ」

「私はまだ死ねないものね」

「死ねないあなたと、死ねない私。死んでもいいだなんて言えはしないでしょう」

「えぇ、そうね」

「だから、この言葉にこれ以上の意味なんてないのよ。月が綺麗ね」

「あぁ、相変わらず、月が綺麗ね」













お久しぶりです。あまり面白みのない回になってしまいました。次回は頑張ろうと思うのでよろしくお願いします。


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第十九話【その花束は誰へのものか】

And if you listen very hard
The tune will come to you at last.
When all are one and one is all
To be a rock and not to roll.
        Led Zeppelin - Stairway to Heaven


 こいし、お燐へ。この記録が私の遺品整理などで発見された場合、即刻破棄するように。

 少なくとも私の心情や行動に関する事項の記載はなく、そしてここに書かれた情報の流布は幻想郷に良からぬ影響を齎します。一頁たりとも開くことなく、誰の目にも触れることなく灰に変えなさい。

 

 二人でない誰かがこれを見つけたのならば、見ないことを推奨します。

 これは誰かの弱みでも、誰かの秘密でもなく、ただ知るだけで人生を蝕み得る、知るべきでない記録です。古明地さとり(私)が誰にも話さずに死んだのならば、この記録が消えれば不穏の種が芽吹くことなどないのです。

 

 紫へ。あなただけはこれを読まなければならない。

 我々が築いたものが未完成の幻想ならば、これは真実の希望です。

 この記録と同じ事例を決して作ってはいけない。この記録の先を望んではいけない。

 諦めなかった彼方に天国があるのならば、幻想を去り行く者達がいる。希望はささやかでなければならない。

 

 これは希望への階段。私にできたのは記録する事と彼女の後に続こうとしなかった事だけ。

 

 止める事も連れ合う事もなく、私はただ彼女の歩む階段に花束を添えたのです。

 

 

 本日を起点とし、これから彼女に関する記録をつける。

 彼女とは闇を操る力を持つ長い金髪と黒い洋服の背の高い彼女である。名前がない為、彼女と呼称する他ない。

 記録の理由は彼女に何か決定的な変化のきっかけがあった事と、私らしくもないが嫌な予感がした為である。もし私が死んだとしても問題ないように。杞憂である事を願う。

 

 彼女が訪ねてきた。地霊殿を訪ねる者は少ない為、回数は把握している。

 27度目の来訪で彼女は妙な事を言い出した。

 自身と逆の性質への関心であるが、妙な憧れを感じると。

 彼女の変化が良からぬものでない事を願う。

 

 

「ここに来る前は私が人を食べようとしたらよく同じような言葉を皆口にしたのよ」

「生きたいとか死にたくないとか、そんな所でしょう」

「それが違うのよ。なんて言ってたのかしら、確か、る、るあ、いや、るいあ?」

「ルミナ、ですか」

「そうなのね。なんでわかったのか聞いても?」

「推測の域は出ませんよ。ルミナとは星明の事です。夜に闇に覆われれば、誰もが光を求めて神に縋るでしょう。あなたの闇に呑まれた時などは特に」

「光ってそんなにいいものかしら。ただ眩しいだけ」

「あなたには理解し難いかもしれませんが、希望や素晴らしき事を人は光と重ねて見るのです。少なくとも、真っ当に育った人は」

「そんな良いものなら見てみたい」

「神は光あれと言われた」

「あら」

「すると光があった。神はその光を見て、良しとされた。神はその光と闇とを分けられた。神は光を昼と名づけ、闇を夜と名づけられた。夕となり、また朝となった。第一日である」

「信仰なんてないくせに」

「神がいようといなかろうと関係なく、闇が光を見れるわけないでしょう。あなたにとっては極上の毒です」

「でも、私と正反対の綺麗が、私にとっても美しいかもしれないじゃない?」

「闇は闇で美しいものです。北の果ての人々は氷河を知り、幻想郷の私は桜を知る。あなたがいる場所は闇を見る場所で、あなたはそこを離れると良くない。人も同じです。互いに知らないままが平穏」

「停滞ではなく?」

「そう言い換えてもいいですよ。ここは立ち止まる為の世界ですからそれが正しい」

「つまらないこと」

「つまらなくても在り続ける事を望んだから、いかにもここは素晴らしく、そして残酷なのです」

「それでも私が光を見たいと言ったら?」

「私に止める手立てはありませんね。それが幻想郷に関わらない限り、止めようとも思いません」

 

 

 彼女の来訪があった。彼女は些かやつれて見えた。

 光への接触を果たしたようだ。不思議ではなかった。彼女の中では無意識の内に避けている概念だろうから、望めば触れられるものではあった。ただ、同時にそれがやはり良くない働きをしている事も明らかであった。

 この先どうなるかなど私には知る由もない。

 経過を見守るべきか、或いはここで無理にでも止めてしまうべきか。

 私は取り敢えず前者を選択した。幻想郷の存続に関わらない以上、個人への過剰な干渉は避けるべきであるからだ。

 

 

「調子は悪そうですが、気分は良さそうですね」

「良いものね、光って」

「人にとっては、とても。あなたにとっては語るに及ばず。言うまでもないでしょうが、このままだとどんどん弱っていきますよ」

「知ってる。けれど、離れられないの。人の言う悪い、クスリって、こんな感じなのかしら」

「さぁ、どうでしょう。アレは快楽の奴隷とでも言うべきものですが、あなたは寄り添っているようにも見えます。隷属ではなく、恋慕のような。真っ黒な心など読めないから関係ありませんが」

「そういえば、あなたでも私の心は読めないのだったわね」

「闇ですからね。見えないものです」

「見えるあなたにとって見えない事は、ただの人間より恐怖ではなくて?」

「えぇ、とても怖いですよ。これは本当の事です。ですが、それでいいのです。恐怖はいつになっても忘れるべきではありませんから」

「理性的ね」

「私ですから」

「あなたなら、この光への渇望も理性で抑えられるのかしら」

「……」

「ちょっとした問い掛けなのに、あなたにしては真面目に難しい顔をするのね」

「いえ、正直なところ、私でも御せないだろうと思いまして」

「謙遜かしら」

「いえ、むしろ傲慢でしょう。そこまでの事でなければ理性でなんとかできると思っている。あなたの渇望は、どれほど強固で堅牢な理性であろうとも、それが心で思考である限り逃れ得ぬものかもしれません」

「光とはそういうものだと?」

「いえ、闇にとって光とはそういうものだと」

「酷く確信に満ちて語るのね」

「憶測ですよ。今、光に呑まれる人を前にした愚者の瑣末な言葉です」

 

 

 再度の来訪。どうやら、かなりまずい状況であるらしい。

 やつれて見えた顔つきは戻り、目の下に隈もない。明るい表情で、光を求める前と同じように私に語りかける。前と同じ顔で、光の話を私にするのである。

 不審に思った私は第三の瞳を開き、想定はしていたものの決してそうであってはいけないと思っていた事項の確認を行った。

 結果は想定通りだった。

 

 この日記はただの日記では済まされなくなった。厄介な事この上ない事象に対する古明地さとりの対処の記録であり、今起きている事、これから起き得る事が幻想郷に与える影響を考慮するに必要不可欠な情報である。また、古明地さとりが介入すべきか、或いは古明地さとりに何かがあったとして介入すべきであったかを判断する判断材料として欲しい。

 本件は幻想郷の構造思想に壊滅的な影響を与えかねないものであり、それゆえに賢者達が監視による影響を受けることは断じて避けるべきである。よって、地底観察者古明地さとりが自身を最適と見做し、独断により単独での観察を継続する。

 

 彼女の心は読めるようになっていた。










歌詞引用機能初めて使いました。
この話は次で終わります。


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第二十話【その花束は何の花か】

闇深ければ 光もまた強し
                坂村真民


 心を読む、という能力に関しての解釈を多少ここに記す。

 それは音で心の声が聞こえる。それは言葉で心が文字となって読める。それは意識で心が情報となって伝わる。多様な解釈が可能で、少なくとも私はこの記録においてそれをどれと断定する気はない。これを記すのは、彼女の心を読めたという事実の重要性の明示の為であり、それ以上の情報を開示する必要はない為である。

 心を読むということは、言うなれば覗き見である。覗くからには隙間があり、文字通り垣間見えるわけである。彼女を前提に例えるならば、夜闇では覗き見ようとも何も見えない。光があることが前提になる。その意味で、彼女の心は決して見えないのである。夜闇どころではなく本当に真っ黒な世界なのだから、何一つ見えない。これは彼女の本質に由来するものであるから、策を弄したところで解決する類のものではない。

 人が人であって妖怪でないように、妖怪が妖怪であって人でないように、神がただ神であるように、或いは私が私であって他の誰でもないように、これは一種の固定された変動しようのない性質である。

 彼女の心が読めるという事は、闇が薄れているという事。闇そのものである彼女から闇が薄れるというのは、私が覚妖怪でなくなるようなもの。つまり、存在の変質であり、幻想郷が望まない新たな生への決定的な変化である。

 だから、私は関係者の中で最も理性的な私をそのまま監視役に選んだ。この事案に対し、自身も手を伸ばすことなく、ただ記録し、必要あれば介入し、なければ見届ける役割として、古明地さとりは適任であるとした。この理性しか私の中に役立つものはないのだから、私がやるのである。

 誰にも耐え難い誘惑ですら戯言と冷徹の目を向けられるのは、私でしかないのである。

 

 

 心の解読範囲が広がっている。常人と比べれば小さな穴であるが、少なくとも見える範囲は広がっている。

 対照的に彼女の表情は朗らかになっていく。やつれた頬がえくぼに見える程度に。

 発言には生命活動への解釈の著しい乖離が見られる。

 また、彼女の来訪が著しく多い。前回から一週間程度しか経過していない。私に対して何らかの意図を持つようであるが、現在の解読範囲では詳細はわからない。引き続き監視を行う。

 

 

「気分はどうですか」

「とってもいいわ。調子はすごく悪いんだけれど、心地よさが苦しみを凌駕しているの」

「不健康なことで。痛覚を失っていってるようなものなのに、自覚が全くないのですね」

「あるわよ。ある上で、私はこれが幸福だと選択した」

「したのか、或いはせざるを得なかったのか」

「今日のあなたは不機嫌なのね」

「そうですか。私はいつも通りですが」

「いつも通りのあなたはそんな事言わないと思うけれど。ほら、渋い顔をした」

「私を苛立たせて楽しいですか」

「苛立つ理由は特にないと思うけれど」

「人が傷ついていく様を見せられれば不快にもなりますよ」

「そういうものなのね」

「そういうものなのです。人も妖も関係なく、少なくとも、狂うか歪でない限りは」

「あなたは酷く歪だけれど」

「……」

「図星?」

「それ以上私に踏み入ることはオススメしませんよ。あなたには触れる理由もないでしょう」

「好奇心だと言ったら?」

「Cat has nine lives」

「Curiosity killed the cat」

「ほら、答えが出ましたよ」

「でも、私の命はそんな少量じゃないわ。散々喰い散らかしただけあって数はそれなりよ」

「幾つあろうと変わりませんよ。私の内というのは、ヒンノムの谷より忌むべきものです。何を持とうと持たざろうと、有象無象の区別なく、私はそれを許さないのですから」

「じゃあ、諦めるわよ」

「おや、存外に素直で」

「誰に許されなくても知らないけれど、あなたが明確に敵となるのは嫌ね。強いかどうか、恐ろしいかどうかではなく、あなたなら何かをしてしまいそうだから。そんなか弱い体で、どうしてかしら」

「できるかどうかは知りませんが、私が試みるのはいつだって生きる為であり、進める為ですよ」

「進む為とは言わないのね」

「そういうのは、私の役割じゃありませんから」

「そう」

「あなたは」

「ん?」

「あなたがその毒に身を浸すのは、何の為ですか」

「生きる為よ。幸せである事って、生きてるって感じがするから」

「……そうですか」

 

 

 前回から三日後の訪問。解読範囲の広がりは誤差の範囲。

 訪問の意図ははっきりした。この監視の適任者は私であった。私にしかできない監視であり、私以外では恐らく監視する状況にすらいたらなかった。

 詳細は毒になり得る為省くが、闇というのは不可解で、やはり知性の敵であるらしかった。

 

 

「どうして」

「え?」

「どうしてここに来るのですか。楽しい場所ではないし、私は楽しい人ではありませんが」

「怖い?」

「えぇ、闇のあなたが光に狂うのに私は何の関係もないのに、頻繁に顔を出されては怖いに決まっているでしょう」

「無表情なのに」

「強がりですよ」

「普通、強がれもしないのだけれど」

「冷静である事と恐怖を感じない事は違いますよ」

「じゃあ、その勇気に免じて教えてあげる。それはね、あなたが誰よりも夜目がきくからよ」

「何を言っているのか理解できませんね」

「ねぇ、今、私の心は薄暗いくらいなのかしら」

「……」

「知ってるかしら、どんな悪い人もどんなに絶望した人も、何も見えない闇からは目を逸らすものなのよ。なのに、ねぇ、あなたは昔から真っ暗なはずの私の心を覗く試みを繰り返しているわよね。それも、義務感や好奇心じゃない何か別の感情から」

「不快ですか?」

「不快ならここにいないわよ。闇と向かい合える人なんて稀少だから、数少ない友人だと思っているわ」

「それはどうも」

「でもね、数少ない友人の中でもあなたのところに来ているのはね、あなたが見え始めても目を逸らさないからなのよ」

「さっきの口振りからすれば、見えるようになる事は普通良い事なのでは?」

「あなたらしい言葉。話を進めるのに適した問いをわざとらしく投げるのね」

「望んだのはあなたでしょう」

「……夜でもなく、特異点のように闇があったら、そこには「何かがある」と思うのが当たり前なの。そして、その闇が異常であればあるほどその中にあるものも異常だと思うもの。私を見たら、私の中の何かが怖くて見たくなくなるの。それはどんな賢者でも強者でもね」

「だから、見ようとする私は異常だと?」

「そう。そして、私は今、その異常なあなたがあなたが持つ固有の力でしか見ることのできない私をあなたを介して見ている。あなたは嘘を吐くけど、真実から目を逸らさないからね」

「私はあなたに加担するつもりはありませんよ」

「しなくていいのよ。心は読めないけど、人の心の闇を感じる事くらいはできるから、そこから何となく解釈するわ」

「私はそれをただ受け入れろと?」

「あなたも、私が今どこかへ消えると困るでしょう?」

「えぇ、とても」

「じゃあ、最後までよろしく」

「はい、最後まで」

 

 

 前回から一週間後の訪問。解読範囲が前回までと比にならない速度で拡大。

 会話はほぼ無し。異常事態と認識する。私に何かを伝えようとしたが、少し迷ってやめたようであった。断片的に得られた心の情報から察するに、恐らくは、毒になり得る言葉であったようだ。彼女は存在が変質し始めている。このまま観察を続行、問題が生じれば処理する。

 ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■。

 私は仕事をします。それ以上もそれ以下も、この件に関してはありません。

 

 

「おしゃべりなあなたが、今日は何も言わないのですね」

「えぇ、もう、読めてきているのでしょう」

「はい」

「……」

「……」

「今日は帰るわね」

「はい、どうぞ。引き止める理由もありませんから」

「あぁ、忘れていた。これをあなたに預けておくわ」

「花」

「えぇ、きっと時がくればどうするべきかわかるでしょう」

「そうですか」

「うん、じゃあ、さようなら」

「さようなら」

 

 

「あの方、おかえりになったんですね」

「えぇ」

「あれ、花ですか。いただいたもので?」

「預けておくと言われたわ」

「花を預けるなんてロマンチックでいいですね。恋仲ではないですけど。ところで、その花はなんていう花で?」

「あぁ、花の名前。お燐は見たことがないかもしれないわ」

「まぁ、ここらに花なんて生えませんからね」

 

 少女は花に口付けをした。

 

「この花の名は、カレンデュラよ」










お久しぶりです。繁忙期でした。今も繁忙期です。
中編になりました。次回で終わりです。よろしくお願いします。


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第二十一話【その花束は誰が添えたのか】

And as we wind on down the road
Our shadows taller than our soul
There walks a lady we all know
Who shines white light and wants to show
        Led Zeppelin - Stairway to Heaven


 一週間ぶりの来訪。

 解読範囲は拡大している。もう他の人とそう変わらない。例えるならば霧が立ち込めている程度で、読むのに苦労はあるが困難はないという具合である。

 存在の変質は続いている。彼女はいずれかの頃に、彼女でなくなるだろう。変質過程の今封印を行っても問題の先送りにしかならない。

 その時を待とう。機会は残っている。

 もう、彼女を救うことはできない。彼女は幻想郷にいてはいけない。

 

 

「あなた、私を止めないのね」

「止めて欲しかったので?」

「いいえ、きっとあなたが泣いて懇願しても私はこの道を選んだ」

「はい、だから止めないのです」

「花は?」

「ありますよ。ちゃんと、綺麗なままで」

「やることは?」

「わかっていますよ」

「そう、あなたは聡いからね」

「友人と呼称する人物に願うことではないでしょうけど」

「友人だからよ。あなたがいなかったら一人で好き勝手にやってたわ」

「そうでしょうね」

「私は自由だから」

「あぁ、そうではなく、私を友人だと思っているからという部分への肯定です」

「あら」

「私の都合を随分重く考えてくれたようで」

「数少ない友人であるあなたをこれ以上苦しめたいとは思わないからね」

「……行く先に何があるか知りたくはないの?」

「知りたいわ。だから、変わるんだもの」

「なら」

「なら、なぜ私に自身の殺害なり封印なりを願うのか?」

「……」

「私の行くところは、私が私でなくなった時点でもう行ける場所だと思っているの。たとえ殺されようと、変質の決定的瞬間に封印されようと、それは、あぁそう、人間が求める天国というものね。死者の行く場所でなく、魂の安楽の地。私は変わりたいんじゃなくて、変わることで全てから解放されてそこに行きたいのかもしれない」

「だから、私が幻想郷の為にあなたに危害を加えてもいいと言うのね」

「えぇ、あなたの為になら変わった後の私が犠牲になっても構わない」

「愛されたものね」

「皆、あなたの事が好きなのよ」

「冗談」

「あなたはまさかと思うかもしれないけれど、いつかあなたは近しい誰かから愛の告白を受ける日が必ず来るわよ」

「ハハハ、それこそ冗談」

「言ってなさい。いつかあなたを嘲笑えないのがとても残念だわ」

「安心しなさい。そんな日は生きていたとしてもありはしなかったでしょうから」

 

 

 事件は解決した。問題は解消した。彼女が幻想郷の敵となる事はなく、彼女の変化が幻想郷に何かを齎すことはなかった。

 彼女は私が封印した。私以外に封印を解除する事はできず、同時に私は決して彼女の封印を解く事はないだろう。

 役目は果たした。古明地さとりが成すべきことを成した。

 

 

「来たわ」

「意識は?」

「まだある」

「もう終わりが近そうね」

「お別れの時間ね。ようやくあなたと仲良くなれた気がして嬉しかったのに」

「向こうに誰かいるのか知らないけれど、いるなら私なんかよりよっぽど仲良くなれるわ。こんな根暗妖怪の一人くらい忘れ去ってしまうことね」

「誰がいてもあなたの方がいいと思う気がする。あなたが、変わりゆく私の唯一の後悔かもしれない」

「死の間際にはやはり妙なことを口走るものなのね」

「フフ、照れてるのね」

「最期の言葉がそんなんじゃ死んでも死に切れないでしょう」

「大した言葉を残せもしないもの。なんでもいいわ」

「私が変な気持ちになるじゃない。多少でもそれらしいことを言って頂戴」

「あぁ、それじゃあ、この後の話をしましょうか」

「あなたはいなくなるのに?」

「だからよ。ねぇ、私をどうするつもりなのかしら」

「封印するわ。あなたの意思が消え失せ、光に傾くあなたの境が最も曖昧になる瞬間に、光と闇の傾きすら空になって、ただ闇の妖怪である最後の瞬間に」

「そこには、きっと何も覚えていない、私のような何かがいるのよね」

「そうでしょうね」

「私をよろしくね」

「また、あなたは私に任せる」

「あなたくらいしか頼れる人はいないもの」

「ただでさえ忙しいのに子育てはごめんよ。幻想郷で生きるといいわ」

「優しいのね」

「なぜ?」

「封印したとしても危ないことには変わりないのに、幻想郷にいることを許してくれる。幻想郷の為に生きるあなたがそう言うことは、ずっと私のことを注意していてくれる、面倒を見てくれると言うのと同義よ」

「……こういう時ばかり察しがいい」

「アハ、どれだけ長い間ちょっかいかけてきたと思っているのよ。あなたのことなんてお見通しよ」

「あなたほど私のことをよく理解している人も珍しいわ。あなたがいなくなれば、私の思惑を読める人はいなくなるわね」

「そうなれば、きっとあなたは無敵。そして、誰より孤独」

「置いていく人の言うことかしら」

「後悔の理由の大半はこれよ。あなたを置いていくべきではなかったかもしれないと思っている」

「孤独は考える時間をくれる。私に何より必要な時間をね」

「あなたの旅路に安息のあらんことを」

「どこへ向けた祈りなのかしら」

「いわゆる神様へ。最初で最後のお願い事をね」

「聞き届けられないんじゃないかしら」

「酷いことばかりしてきたから、その可能性は高いわね。でも、やらないよりはやった方がいいでしょう?」

「最後の最後だし?」

「そう」

「楽観的ね」

「あぁ、マズイわね。眠くなってきた」

「長い長い夜が終わるのね」

「そう、私は朝日の中へ消えゆくの」

「新たなあなたとは別に、このあなたの為の墓くらいは作ってあげるわよ。そこにあのカレンデュラも添えてね」

「ありがとう、本当に」

「どういたしまして」

「ねぇ、古明地さとり」

「急に名前を呼ぶのね」

「私も名前が欲しいわ」

「急にまたどうして」

「あなたに覚えていてもらう為に、私がいた痕跡を残す為に」

「……」

「難しいかしら」

「……ルーミア」

「ルーミア」

「これから光に旅立つあなたへ、闇の中の道標、星明に似た名を」

「ルーミア……気に入ったわ」

「それはよかった」

「この名を忘れないでね」

「きっと」

「あぁ、話していると眠くなってきたわ。どうやら、本当に時間みたい。じゃあ、あとはよろしくね」

「えぇ、気ままに旅立つといい。後のことは気にせず。それはいつだって私の仕事なのだから」

「さとり、いつか楽園で」

「……また、楽園で会いましょう」

「会いましょうね」

 

 

 これを読んでいるのが紫ならば、これだけは伝えておきます。これを読まれているのなら、きっとあなたの横に、幻想郷に私はいないでしょうから。

 私は決してその階段を登りはしません。希望に溢れ、夢に満ち、輝ける階段です。我々が存在を知らなければならないもので、忘れてはならないもので、しかし近づいてはならないものです。

 私は何があろうとその階段に踏み出す事はないでしょう。

 だから、決して花束を添えないでください。

 私は彼女の為に花束を添えました。

 だから、もういいのです。

 それは訣別。後を追うことも、その袖を掴むこともなく、見ることしかできなかった証左。

 私は今後悔しています。

 少なからず動揺して今このメッセージを書いています。

 彼女は友人でした。私にとっても、きっと友人だったのです。

 だから、私の行いは裏切りなのです。友として彼女の幸福を祝福することも、友として別れを惜しむでもなく、行ってしまった後に、彼女が彼女を忘れた頃に彼女を残す選択をした事が。たとえそれが彼女が望んだ結末であったとしても。

 私は同じ状況になっても階段を進みません。彼女がどうなったか知ることはできませんが、少なくとも最後まで進ませなかった私にその資格がないのです。

 だから、私は階段を前にしてそこに留まり続けるのです。

 これは贖罪であり、故にこそ花束は必要ないのです。

 誰も知らない私だけの悔恨を、どうか止めないでください。

 きっとこの記録の前書きに、私はいつもの私としてメッセージを書いているでしょう。

 だから、この泣き言を知るのは紫だけです。

 私が死んだ後にようやく垣間見える私の良心に、どうか細やかな軽蔑を。

 彼女が遺した最後の願いを、私は叶えられない。









『アルジャーノンに花束を』
『Stairway to Heaven』


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第二十二話【浄土変】

色即是空
空即是色
          『般若心経』より


 それは、恐らくは罪を匿う夜闇の様なもの。

 吐息も足音も、何かが終わる音も、真実に至る為のものを全て覆い隠してしまう至聖所なのだろう。

 その人の救済というのは、人の身には余るほど平等で、それ故に罪深いのだろう。幸いだったのは、彼が信じたのは神でなかったという事だろうか。

 

 それは、恐らくは罰を逃れた先の碧落の様なもの。

 謀略も暗躍も、何かを終えた後も、事実だけを残し真実は惑い最早祈るしかなくなる教会なのだろう。

 その人の孤高というのは、妖の身にも余るほど欺瞞で、それ故に罰など必要ないのだろう。幸いだったのは、彼女が孤高であるのは孤独故ではなかったことだろうか。

 

 二人は交わるべきではなかった。

 

 救いは人に。人に罪あり。罪には罰を。罰は悟りへ。悟りは救いに。

 罪深く敬虔で清い彼を、躊躇なく彼女は拒むだろう。それは正しさを、彼の善行と生涯を否定する事。価値観に肯定され価値観に否定されたはずの彼を、ただ論理で否定する事。時代ではなく個人で聖人を貶める罰。

 罰無く欺瞞で満つ彼女を、躊躇なく彼は救うだろう。それは怪しさを、彼女の咎と生涯を否定する事。価値観を否定し価値観に肯定されたはずの彼女を、ただ慈悲で救済する事。勝手に赦されてしまう自ら選んだ罪。

 

 これは1000年前の邂逅。

 物事を忘れはしないが情報に変えていく彼女が、記憶として残し続ける、否、変えることができないでいる出来事。

 思い出せば苦虫を噛み潰したような顔をする。

 思い返せばポーカーフェイスの彼女が、ほんの少しだけ純粋な感情を顔に出す。

 

 神が来た。大地は揺れた。地の底より水が溢れた。

 ならば、次には船が来る。船の行く先に、彼女の因縁がある。

 

 

「近々、幻想郷に厄介な問題が訪れます、と言ったら驚きますか?」

「その事実には驚くけれど、あなたがそれを知っていることは全く不思議に思わないわ」

「なんだ、つまらない」

 

 さとりは頬杖をついて、窓の外を見た。彼方の岩肌だけが目について、その行動の意味などあるはずもなかった。

 紫はそれを面白がってクスクスと笑い、さとりの横髪に撫でるように触れた。

 

「話を聞こうかしら、かわいいあなた?」

「仏教が来ます」

「……詳しく聞きましょうか」

 

 髪をくぐる指が降りて、少女の顔は賢者となった。

 

「今、上で宝船の噂が出ているでしょう?」

「よくご存知で。存在は確認済み。近々、霊夢が見に行くでしょうね」

「あれの目的は聖白蓮という僧侶の封印を解くことです。人間と妖怪の平等関係を掲げる魔法使いの僧侶をね」

「危険人物なのかしら」

「許容はできます。ただ、影響に関しては注意が必要です。少なくとも、あの男よりは随分マシですが」

「あの男?」

「彼女の弟です。故人ですが、もしもまた会う事があればその時は一度殴るかもしれません」

「あら、私怨に染む言葉。余程の事があったのね」

「余程の事がありました。本当に、あれは、筆舌に尽くし難い」

 

 怒気をはらむ声。眉間の皺がいつもより鋭く見えた。

 

「聖白蓮の封印が解ける事があれば、私が出向きます」

「許容できるのに?」

「保険ですよ。宗教の流入が危うさを秘めていることは事実です。それに、私用でもあります」

「積もる話もある?」

「ありはしませんよ。彼女は私を嫌悪と共に迎えるでしょうし、私は辟易と共に招かれざる客となるでしょう」

「誰かつけた方がいいかしら」

「いいえ。私一人でいいです」

「あなた一人で十分だから? それとも、誰にも聞かれたくないから?」

「どちらでしょうね。あの男が相手なら、間違いなく後者だったでしょうけれど」

 

 不意にさとりが見上げた。視線の先を追うも何もない。

 10秒にも満たぬ沈黙の後、小さく「まさかね」と呟いて話を続けた。

 

「聖白蓮ならば、人妖怪問わず受け入れる寺程度で済むでしょう。影響はあるでしょうが、大勢を変えるものではありません。これから宗教が増える可能性を考慮すれば、均衡は保てるでしょうね」

「あなたの言うあの男なら?」

「即刻消してしまうべきです。あれは幻想郷にいるべきではない」

「あなたがそこで言うなんて珍しい。何があったのか聞いてもいいのかしら」

「仔細を語ることはないと思ってください。ただ、あれは私にとって敵ではありませんでしたが、私ではどうしようもなかったものです」

 

 怒りとは違う、何か良くない感情を含んだ表情。

 

「お互い、決して変わることのない自身の本質に薪を焚べ続けた。消えぬ炎が交わることなどあり得なかった」

 

 彼女との再会まで、あと7日。








プロローグです。


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第二十三話【後の聖人の覚者に会はるる事】

自心すなはち仏たることをさとれば、
阿弥陀ねがふに及ばず、自心の外に浄土なし。
       一休宗純 ー『般若心経提唱』よりー


「あぁ、起きられましたか」

「……ここは」

「あなたが倒れた場所からほんの少し先のところです、お坊様」

「……君は」

「倒れていたあなたを偶然見つけて、ここまで引きずって介抱した物好きです」

「すまない、いや、ありがとう。迷惑をかけてしまった」

「尊きお方が倒れられていたのです、下々の者が助けぬ理由がございましょうか。どうかお気になさらず」

 

 衰弱した男の世話をする少女の表情は、その言葉に反して感情の見えないものだった。

 信仰に厚いわけでもなく、何か見返りを求める風でもなく、ただそうすべきだからしたという様子。

 男は不思議に思ったが、それよりも助けた良心のようなものへの感謝と、生きるために必死な少女の手を借りて生きながらえていることへの申し訳なさばかりが胸に込み上げて、やがて少女の手を握っていた。少女に驚く様子はなかった。

 

「私は命蓮、命蓮だ」

「命蓮様、どうかそのような顔をなさらないでください。これもまた御仏の導きでしょうから、あなたの徳のなさった事なのです」

「私にはそのように積み上げられたものはない。偏に君の善き行いの為、だから、一つ聞かせてほしい。君に名はあるか?」

 

 問いに少女は微笑んだ。

 そして、口を開こうとした時、家の奥から足音がした。小さな音だ。大人が出す音ではなかった。

 

「さとり姉ちゃん、魚を取ってきたよ」

 

 声変わりもまだに思える少し高い男の声。姿を現したのは少年だった。

 

「ありがとう、全員分はある?」

「分ければ十分。用意しておくね」

「えぇ、助かるわ。少しこの方の分も用意してさしあげて」

「うん、他のも一緒に」

 

 遠ざかる足音。またこちらを見る少女の表情は、その容姿に似合わない大人らしさを宿していた。

 

「家族かい」

「えぇ、血は繋がっていませんが」

「それはまた珍しい」

「ここにいる子は皆血の繋がりはありません。皆近くで死にかけていた孤児ですから」

「君は、その子らを集めて世話をしていると?」

「そんな大層なものではありません。ただ、集まった皆で協力して生活しているだけです」

 

 手の届く先にある死に行く者を助けて共に生きる。そんな人はこれまでいなかった。

 高貴な身分の者がする事はあっても、それは余裕があるからで、半ば酔狂で、真に善性の発露であるとは言い難い。高貴でない者は自分のことで、家族のことで精一杯で、それ以外の人に多く心を傾けることなどない。

 だから、この少女の行いに、微笑みに、心を大層動かされるのだ。

 

「あの子は、君の名を呼んでいたね」

 

 その名は覚り、その表情の奥を示したかのような名だった。

 

「はい、私はさとり。ただのさとりです」

 

 

「お久しぶりです、八坂神奈子様」

「あぁ、少女の来客と聞いたから誰かと思ったら、あなただったのね。久しぶりね、いつぶりかしら」

「前回お会いしてから10年は過ぎています。諏訪子様とは何度かお会いしていますが」

「そんなに経つのね。それで、用件は?」

「驚かれるかもしれませんが、今日はただ雑談をしに来たのです」

「……あなたが?」

「諏訪子様も同じ事を仰っていました。はい、かつての私を思い出す為に、古くからの知人達とただ話しています」

「わざわざあなたが過去を振り返るなんて、余程の事があるのかしら」

「恥ずかしながら。私事ですから、心配は不要です。ただ、遠い因縁がやってきただけのこと」

「あの船のことかしら」

「……えぇ、あれは私に縁があるもので、誰かが解決して異変が終わった頃に、私が行かないといけません」

「そう、深くは聞かないでおくわ」

「ありがとうございます。それで、こちらにきてからどうですか」

「随分良くしてもらってるよ。慌ただしい日々だが、向こうにいた頃よりは充実している」

「色々と活動されてるようですね」

「……」

「おや、気まずそうな顔をしますね。どうかされましたか?」

「いや、別に」

「へぇ、そうですか。それでは、今展開している事業の話など聞いても?」

「…………いや、すまない」

「何を謝る事が? 今は心を見ていませんし、皆目見当もつきません」

「その、あなたのところの」

「はい」

「霊烏路空ちゃんに色々した件に関して……」

「あぁ、その事ですか」

「ちょっとテンション上がってたというか、今はあなたの家族に手を出した事を後悔してるし反省しているというか」

「私は、怒っていませんよ」

「いや、その顔は多分怒ってるわよね」

「いいえ、怒っていませんとも。私はたかが覚妖怪、神様の行いに口出しなど出来ましょうか」

「本当にごめんなさい。本当に反省してる」

「あぁ、そんな頭を下げて、私は怒っていないのに。しかし、そうですね。そこまで言うのならば、貸し一つという事で」

「えぇ、もちろん。できる事なら、させてもらうわ」

「では、今すぐお願いしましょうか。早苗さんを例の船に行かせてください。異変解決人として」

「……それは、あなたの都合の為?」

「いいえ、これはいつもの私。幻想郷の為に巡らせる策の一つです」

「なら、大丈夫ね。わかった、適当な理由をつけて行かせるわ」

「よろしくお願いします」

「結局、今日もいつものあなたという感じね。この流れも予定調和なんでしょう」

「はい、予定通りです。ですが、これはついで。主たる目的はちゃんと雑談ですよ」

「あなたが言うならそうなんでしょう」

「はい。こういう事では、私は嘘をつきませんから」

「あなたが、必要でない些細な嘘をつく時の基準とかってあるのかしら」

「そうですね。明確な基準はありませんが」

「そのあたり、こだわりとかあると思っていただけれどないのね」

「ありません。そして、本当に私がどうこうしようと思っている時は」

「時は?」

「嘘だけでなく、真実も使って騙しますよ。知っていることほど、人が縋りたいものはありませんから」








お久しぶりです。
あまりにも投稿できていなかったので、急ぎ書き上げたものです。
あまり出来が良くありませんし話も進んでいませんが、次の話は頑張ります。


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第二十四話【空が落ちてくるような気がしても】

美しい肉体のためには快楽があるが、
美しい魂のためには苦痛がある。
        オスカー・ワイルドー『獄中記』よりー


「またいらっしゃったのですか。私共のことなど気になさる必要はありませんのに」

「私は君たちにお礼をしたいだけなんだよ、さとり殿。何か力仕事などあれば言って欲しい」

「隠しても仕事を見つけ出してしまわれるでしょうから正直に申し上げますが、薪の用意が足りておりません。ここには大人もいませんから、枝葉を集めるばかりなのです」

「うん、ならば集めてこよう。なに、坊主だなんだと言っても私は意外とこういうのは得意なんだ」

 

 命蓮は呵呵大笑といった具合で瞬く間に外へと走り去る。それをさとりは微笑みと共に見送った。

 しかし、彼の姿が消え、周りに誰もいなくなった時の彼女の表情がどうであったかというと、実に陰気臭いものであった。

 

「あれも、あなたの気まぐれかしら」

「……厄介な人に付き纏われているだけですよ。それで、いったい何の用です、ゆかり」

「今日も今日とて泣き落としよ。あなた、幻想郷を飛び出してから帰ってこないんだもの」

「今の幻想郷に私は必要ありませんから」

「今の、ね」

「意図はありませんよ」

 

 スキマより顔を覗かせてクスクスと笑うゆかりを前にさとりは気怠げに足を崩した。

 

「今のあなたはいずれ来る役割を待っているように見えるけれど」

「任ぜられれば全うすることもあるでしょうが、実際そうなるかは私の知るところではありませんよ」

「それは役割を用意しろという意味かしら」

「アハハハハ、本当に言葉の裏を読み過ぎですよ。私は、えぇ、可能であればこのように暢気に暮らしていたいものですね」

 

 暢気に、という言葉が相応しくない身なりであくび混じりに宣う姿はいかにもさとりらしかった。

 それが本当にさとりらしかったのか、或いはこの時のゆかりの印象における話なのかは今を知る者ですらはっきりと答えられたものではなかったが。

 少なくとも、彼女は理性と知性の奥に並々ならぬ激情を抱える人であり、ゆかりにはさとりがそんな風に隠居することがおかしく見えたし、そんな気などないようにも思えていた。

 

「しばらくはこうして子供達と暮らしていますよ。用があれば、誰もいない時に声をかけてください」

「……この暮らしは、親無き子達を慈しんだから始めたのかしら」

「さぁ、どうでしょう」

「それとも、あの男を知っていて、全てこうなるように仕組んだのかしら」

「さぁ、どうでしょう」

「何が目的なの? あなたは、いつも誰にも見えないどこかへ歩き続けている」

 

 ゆかりの問いにようやく顔を上げて、さとりは微笑んだ。

 

「私はただの覚ですよ。私はどこまでいってもただの覚妖怪で、だから私を全うするのです」

「恐ろしい人。どうか、私の味方でいてちょうだいね」

「それはあなた次第ですよ、ゆかり。そして、彼との事はあなたを害なすものではありません」

「これ以上踏み入るなということね」

「察していただけたようで何よりです」

 

 さとりはおもむろに立ち上がる。その視線は遠く消えた命蓮の方へ向けられていた。

 

「終わったら、幻想郷に戻ってもいいかもしれません」

「なら、それまで待っているわよ」

「えぇ、待っていてください。私が帰ってきたなら、大丈夫ですから」

「なにがなぜ大丈夫なのか知らないけれど」

「ゆかりも、私も、幻想郷も、向こう千年くらいは全てちゃんと進む気がするというだけのことです」

「また、何かを知っているような言葉」

 

 微笑み、ゆかりを見下ろすさとりの瞳の奥に大きな炎が揺らめいたような気がした。

 

「私は、私達を、幻想郷を信じているだけですよ」

 

 

「昔からあなたって、決して一人で暮らしはしないわよね」

「そうでしょうね、意図してそういう風にしているので」

「なんでも一人でこなすのに、不思議なことね」

 

 マヨヒガの縁側で茶を啜る二人の姿があった。

 

「誰かといないと私はどんどん心を理解できない怪物に成り果てるような気がするので人と接して生きていようとしている、とか」

「あなたが?」

「そうですよ」

「冗談」

「冗談ではありませんよ。心を読めることと感じることは違います」

 

 さとりの幾分真面目な表情に、紫は戸惑いを隠せなかった。

 

「そして、あなたが冗談と言うような事を加えるならば」

「……ならば」

「私はひとりぼっちが嫌なんです」

 

 衝撃の告白であった。

 紫の顔に隠せぬ驚愕が表れた。「まさか」と言ってしまいたくなった。

 だが、どうにも真実味があって、どこか嘘じゃない予感がして、開きかけた口を結んだ。

 さとりはそれを見て小さく微笑んだ。

 嘲笑なのか、安堵なのか、或いは心情の伴わないただの表情なのか。相手がさとりだというだけで、紫ですらなに一つわかりはしなかった。

 ただ、その微笑みを綺麗だと思ったのは、いつものことだった。

 

「こればかりは嘘ではありませんよ。私が一人でいることに耐えられない弱虫なのは本当のことです」

「今になって、そんな話を聞けるとは思わなかったわ」

「そろそろ、私の話をしておこうかと思いまして」

「珍しい、何か理由があるのかしら」

「気まぐれというか、私の周りの整理をしておこうと思っただけです」

「なによそれ、まるで」

「いなくなるみたいとか言わないでくださいよ。そんなわけないんですから」

 

 困惑し青ざめる紫を、さとりは軽く睨みつけた。

 

「ただ、私も随分長生きしましたから、そろそろ一度整えたいと思っただけです。もし私が突然消えたとして、誰にも心を知られていなかっただなんて皮肉が過ぎるでしょう」

「随分と急に老いたわね」

「とっくの昔に老いてますよ。あなたや皆のようにいつまでも若くいられる気性ではないんです」

「見た目は少しも変わらないのに」

「見た目以外何もかも変わったんです。私は、大妖怪の類ではありませんから」

「これほどの大物がね」

「ハハ、小物ですよ、私は。小物だから、こんなに苦労しているんです」

「ずっと私についてきてくれていることに感謝ね」

「本当に」

 

 さとりは後ろに倒れ込み、両の手を広げて、寝転んだ。

 

「聖白蓮のところへ行くのも私の整理の為です。聖命蓮との縁をそろそろ終わらせる為に」

「疎ましき因縁、ね」

「私はもうあれをどう思っているのかわからなくなってきています。少なくとも、忘れようもない、数少ない感情の記憶であることだけが確かで」

「理性だけでは捉えられないというわけね」

「……私が見透かされたのは、長い長い今生にあって、あの一人だけでした」

「さとりが? 本当に?」

「えぇ、恐ろしいことに。唯一見透かされた人であり、唯一私が考えずとも見透かした人です」

「同族嫌悪というやつかしら……今日は驚きの連続ね」

「同族だったのか。それとも似た道を行くだけだったのか。少なくとも、私とあれは逆だったような気がします」

「あなたが最も嫌がりそうなこと。そんな因縁が幻想郷に来ることに恐れはないのかしら」

 

 多少の逡巡。

 その後、微笑み、紫を見上げるさとりの瞳の奥に小さな炎が揺らめいたような気がした。

 

「私は、私達を、幻想郷を信じているだけですよ」








お久しぶりです。生きています。


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怪奇譚
奇譚ノ一【スワコ様】


人間が神のしくじりにすぎないのか、
神が人間のしくじりにすぎないのか。
 フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ ー『曙光』よりー


 君と私は友達じゃない。

 メリーと君も友達じゃない。

 友達の友達ですら、君と私は有り得ない。

 

 赤の他人の君に、こんにちは。

 

 君とは誰か。勿論、君だよ。私達を読んでる君だよ。

 ベタついたスマートフォンに指を滑らせる君であり、汚れの付いたキーボードとマウスを忙しく往復する手の君のことを私は言っている。

 メタ視点を謳う気はないよ。そんな君が触ってるものみたいに手垢に塗れた事は、これ程沢山の言葉を必要とはしないだろう。

 

 そもそも、私は君を認識できていない。

 

 これはただの独り言だ。

 では、なぜこのように語りかけているのか。

 パズカルの言葉を借りるならば、「人は考える葦である」からだ。

 誰もが考えたことがあるだろう。

 

「もしかすると、この世界は誰かの物語の中で、私はその中の登場人物、或いはエキストラに過ぎないのかもしれない」

 

 世界の空虚さに、己の存在理由に、或いは素晴らしき誰かの所為で、そんな空想じみた不安は脳裏を過る。だが、それは直ぐに消え去るものでもある。直ぐに忘れるのは、実際にはそんな事はないと思っているからだ。痛い程にその生涯が現実を証明しているからだ。どれだけ逃げても終わりはないからだ。

 今、私はそんな弱さとは対極の所でこの壁を見る。

 この世界が現実か物語かは、この際どうでもいいのだ。

 

 思うに、どちらにしても『読者』は存在する。

 

 これを読む、或いは聞く君はそこにいる。

 まるで私がネット小説を読むかのように、手軽に私達を知る君がそこにいる。

 私はそこまで世界として認めよう。世界の全てを考える事で人であろう。

 

 そもそも、私には君の存在を認める根拠が存在する。

 

 俗に「第四の壁」と呼ばれるようなものが私と君の間に存在するとしたならば、それは世界の境界に他ならない。

 

 私は境界を知っている。

 

 不思議なこの世界と、更に不思議なあの世界を隔てる境界が存在することを知っている。

 ならば、ここに境界があったとしてなにが不思議であろうか。

 私には境界が見えない。見えるのは私の友人であるマエリベリー・ハーンだけ。それも、彼女に見えるのはとある世界との境だけ。

 

 見えない私にとって、あらゆる境界は平等だ。

 既に知り始めている世界も、全く知らない世界も、何も変わらない、同類に過ぎない。

 

 ここまでややこしい話をした上で、改めて、見知らぬ知人の君にこんにちは。

 

 そちらはどんな世界だろう。文明はどこまで発達しているだろうか。

 月へは行った?

 火星は?

 太陽系のどこまで知っている?

 銀河系やクエーサー群、或いはグレートウォールはどうだろうか。

 そもそも、宇宙という概念があるのだろうか。

 なかったなら申し訳ない。

 私には星を見る眼があるものだから。なにかと星のことを考えてしまう。

 今回も私はいつも通りで、これから君にかける言葉は、宇宙と地球、私達の人類史を前提として送るものだ。

 

 ようこそ、この世界へ。ようこそ、秘封倶楽部へ。

 平凡なる世界の、不可思議な事象を探る御話が聞きたいならば、ここは最適解に近いかもしれない。

 これから君達が知る話は、恐らくは境界の向こう側に起因する世にも奇妙な怪奇譚であり、そして、私達が初めて対話を果たした、酷く人間らしく人間というには外と内の不一致が見える、幻想の住人との冒険譚だ。

 

 

「スワコ様?」

 

 相棒との冒険の始まりは、いつだって聴き慣れない単語から始まった。

 今日は大学のカフェテリアで紅茶と共にシフォンケーキをいただく私の下へ。彼女がモンブランとコーヒーを持ってきた時から既に表情が浮ついていて、きっとまた碌でもない話題が持ち寄られるのだと感じていた。

 

「そう、スワコ様。最近、長野の方で連続行方不明事件が起きてるでしょ?」

「どこかへ人が消えてしまったけど、誘拐の痕跡が一切残されていないっていう、ワイドショーを騒がせてるアレ?」

「そう、それ。あの事件は神隠しなんじゃないかって。それで、諏訪の神様だからスワコ様」

「女性である根拠は?」

 

 直感的な疑問であった。相棒は三度舌を鳴らしながら指を四度振った。

 

「コを子と断定して女性扱いは気が早いわよ。ヒルコとか色々いるでしょう」

「じゃあ、女性じゃないのかしら」

「まぁ、今回はそれで正しいのだけど」

「なら、さっきの分かってないなって素振りは何だったのかしら。……まぁ、いいわ。理由、ちゃんとあるのね」

「目撃証言がある。神隠しの前には、決まって緑色の髪に蛇と蛙の飾りをつけた女の子がいる」

「それが、神様?」

「さぁ? でも、あの地で蛙と蛇っていうのは、普通じゃない。今までみたいなただの怪奇現象じゃないかもしれない」

「行くの?」

「勿論」

「境界絡みとは限らないわよ。もしかすると禁忌の類かも」

「それでも行くのよ。だって、私達は」

「秘封倶楽部なのだから」

「そ」

 

 結果、この事件は境界絡みだった。

 私達の探求は進展を見せ、境を越える日が存外に近く見えた。

 ただ、同時に最も死に近づいた事件でもある。つまり、これまでと比べものにならないくらいに危険で、人間が踏み入るべきでない領域だった。私が最初に言った通り、禁忌の類だった。

 それでも私達が生きて進めているのは、幸運のためであり、知見の為であり、そして、一人の少女のお陰である。

 

 

「スワコ様。洩矢諏訪子ではなく?」

「はい、スワコ様という都市伝説、怪奇現象、いえ、本当の神隠しが向こう側で確認されました」

「なぜ私より先に知ったかは詮索しないでおくわ」

「助かります。それで、スワコ様の特徴は緑の髪、蛙と蛇の髪飾り、背格好は女学生を思わせる。東風谷早苗と一致します」

「守谷が何かやったのかしら」

「その線は薄いでしょうね。それなら、度々私に招待状を送ったりしないでしょう。これは恐らく偶発的なものです。幻想郷という機能の抱えた欠陥の類」

「行くの?」

「行きます。このまま放ってはおけませんから」

「どう考えても危険なのに?」

「危険だから私が行くんでしょう。死んでも幻想郷に影響がなく、向こうでの情報収集も容易な私が適任です。なに、私の仕事など誰でもできる事。少しばかりそれが得意だからやってきただけです」

「時々、あなたがわからない」

「私の心は誰にも読めませんから」

 

 そういう意味ではないと言いかけて、やっぱりやめて話を戻す。

 

「……あなたが行ってなんとかできるの?」

「なんとかします。できなければ、そうですね。あなたに泣きつくことにしましょう。私が助けを求めた時は、来てくれる事を願います」

「あなたの涙なんて見たくもない。そうならない事を祈るわ」

「えぇ、どうか祈ってください。神様を相手取る私には、祈る先もありませんので」

 

 少女は、さとりは、いつもと変わらず微笑んだ。

 彼女は、きっといつだって神に祈りはしないのだろうけど。











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奇譚ノ二【53ミニッツの虚ろの海】

半分の真実は偽りよりも怖い。
 エルンスト・フォン・フォイヒタースレーベン
             ー『警句集』よりー


 スクリーン越しの、波一つない凪いだ空と雲一つない大海が、彼女を前にしては正しいように思えた事を覚えている。

 その景色はいつだってリアルより綺麗で、それ故に現実味なんてなくて、眺望絶佳を謳うには情動を促すものではなかった。だからこそ、何も考えずに見られていたし、53分間の旅を相棒との時間とする事ができていた。

 ただそこにあるだけの、ただ美しいだけの青。

 だが、どうしたことだろうか。そんな景色が、今目の前にいる幼い少女と共に視界に収めたならば、何の違和感もない。まるで本当にそこにあるかのような、虚像などではないかのような。

 思わず目をこすって、初対面の少女を見つめてしまう。それに気づいた彼女は不思議そうに問う。

 

「どうかしましたか。私の顔に何かついていますか?」

 

 何もついていない。そんな言葉すら口に出すのを躊躇うほどに、彼女は不可思議で謎に満ちていた。

 

「こんな人の少ない電車で相席というのも何かの縁でしょうか。せっかくですから、お話でもしませんか?」

 

 朗らかな笑顔。中学生程度だろうか、幼い風貌には見合わない大人びた雰囲気に、これまた見合わない穏やかな表情だった。

 彼女の言葉の通り、今日の卯酉新幹線には乗客が少ない。発車時刻にもまばらに人が見える程度で、この車両には不思議な事に私達以外誰もいなかった。そんな中で、偶然にも向かい合わせの指定席にたった一人の乗客が座っていた。

 いつもなら、向かいに誰もいない時、こっそり相棒と向かい合わせに座る為の、少し安い相席前提の指定席。今日、そこに不思議な少女が座っていることを偶然で片付けてはならない気がしていた。

 

「私は古明地さとりです。お姉さん達の名前は?」

「私は宇佐見蓮子、こっちはマエリベリー・ハーン。蓮子とメリーって呼んで」

「よろしくね、さとりちゃん」

「少しの間ですが、よろしくお願いしますね。一人旅は少し寂しくて」

 

 本当に寂しそうで、なのに共感に欠ける言葉。少し見えた手のひらの筆マメが、どこか無機質さを思わせた。

 

「お二人はどこへ?」

「諏訪に。ちょっと色々用事があってね。さとりちゃんは?」

「私は……東京までです。親戚の家を訪ねに。せっかくの夏、ですから」

 

 彼女は画面、いや、窓の外に目をやると、じっと海を見つめた。

 

「海が好き?」

「えぇ、好きですよ。海とは縁がない人生を送ってきたので、この海すらも新鮮に感じます」

「画面の事はわかってるんだ」

「ふふ、それくらい知ってますよ。カレイドスクリーンに映った映像。いいじゃないですか、偽物の海」

「珍しいね。皆、映像なんか味気ないって言うもの。ねぇ、メリー?」

「ちょっと、印象悪くなるようなこと言わないでよ」

「大丈夫ですよ、気持ちはわかりますから」

「ほら、さとりちゃんもわかってくれてるよ」

「もう……」

「ここにあって、どこにもない。存在しないどこかの海。そういうものも、嫌いじゃないんです」

 

 漣の音色が聞こえたような気がした。普段は少しだって聞こえはしない音だった。

 ヒロシゲにそんな機能はないし、カレイドスクリーンの海は漣を聴くには遠く、漣が響くには凪いでいた。

 

「でも、この海は、もしかしたら電子の海として存在しているのかもしれません」

「哲学的なことを言うのね」

「子供の戯言ですよ。ちょっと大人ぶってみたかったんです」

 

 小さくため息を吐いて、その幼い手で画面に触れた。

 

「いくら偽物だとしても、ここに美しいままあり続けるなら、それはそれで良いことだと思いませんか」

「そうね、そういうのも、選択肢としてありだと思う」

「私は歴史が好きで、古いものを残したいと思ってるんです。少しでも長く過去を遺していきたい」

「温故知新とも言うしね。それはきっと良いことよ。応援するわ」

「さとりちゃんって賢いのねぇ。蓮子よりよっぽど大人よ。この子、好き勝手してばかりなんだから」

「ちょっとー、さっきの仕返しのつもり?」

「先に仕掛けてくる方が悪いのよ〜」

「さとりちゃんの前でみっともないことはやめましょうよ。仮にも歳上の私達が軽蔑されたくはないでしょ?」

「ふふっ、軽蔑したりはしませんよ。でも、お二人は仲がいいんですね」

「……まぁ、メリーは一蓮托生の相棒だし?」

「そうね、色々してきたものね」

 

 照れくささが残る私と対照的に落ち着いたメリーを見て、少女は微笑む。その視線は、これまでと違って少しメリーの方に注がれている気がした。

 

「メリーがどうかした?」

「あ、いいえ。ただ、ブロンドの髪が紫の服に映えて綺麗だなって」

「あはは、照れるわね」

「メリーさんはきっと、これからもっと綺麗になりますよ」

「あっねぇねぇ、さとりちゃん、私は〜?」

「蓮子さんも勿論」

「ふふ、こんな可愛い子に言われると嬉しいわね。言わせちゃってごめんね」

「いいえ、二人とも綺麗なので」

「さとりちゃんはもっと綺麗になるよ。今でこんな可愛いんだもん。成長したら、とんでもない美少女になるわ」

「そうね、大人になったさとりちゃんが楽しみね」

 

 本心の言葉だった。きっと、それはメリーも。でも、さとりちゃんが成長した姿を、私はなぜか少しも想像できてはいなかった。ずっとこのまま変わらないかのような。それはまるで、かつて一度だけ姿を目にした、幻想郷のスキマの彼女のような。

 

「どうかしましたか、蓮子さん」

 

 こちらを覗き込む少女の姿に、最初に感じた、偶然とは思えないという考えを思い出す。

 これがもしも作為的なものなのだとしたら、彼女が何かこの先に繋がる鍵なのだとしたら、私はここで止まっていていいのだろうか。

 いいや、そんなはずはない。そんなはずはないのだ。私は前に進む。それが私の目的に到達するためになるならば、決して立ち止まれはしない。メリーの為にも、進むしかないのだ。

 

「さとりちゃんは、スキマを見たことがある?」

「っ⁉︎ 蓮子、何を言ってるの⁉︎」

「どうかしら、さとりちゃん。急にこんなこと聞かれて困っていると思う。でも、答えて欲しいの」

「……」

 

 沈黙。それは困惑ではなく、思索を示す表情だった。

 やがて、彼女はため息を吐いて、こちらを見た。

 

「やはり、あなたはわかるんですね」

「……さとりちゃん?」

「直感的に違和感を抱くのは、流石というべきなのでしょうか」

 

 彼女が独り言と共に指差せば、いつの間にか隣のメリーは気絶していた。いや、眠っていたと言うべきなのだろうか。

 

「やっぱり、あなたは」

「はい、そうですね。私はあなた達が求めるスキマの向こうの住人で、人ならざるものです」

「随分簡単に教えてくれるのね」

「今から忘れてもらいますから。安心してください、害意はありません。ただここでの会話は無かったことになって、あなた達は53分の旅を眠りに終えるだけのこと」

「抵抗は?」

「お分かりでしょうが、無駄です」

「わかったわ」

「素直ですね」

「本当に害意があったらこんな回りくどい事しないでしょうから。あと」

「あと?」

「どうしてだかわからないけど、正体がわかった今、あなたは私の絶対的な味方なような気がしている」

「また、直感ですか」

「当たってるんじゃない?」

「当たらずも遠からずといったところで。敵でないことだけは保証しますよ」

「じゃあ、信用して忘れてあげる。でも、次に会った時また気づく」

「その時は、また忘れさせてあげますよ。では、さようなら。僅かな会話でしたが、存外に楽しめました」

 

 これまでと違う、静かな微笑みを最後に蓮子の意識は途絶えた。

 そして、眠る二人の前に、少女は一人頬杖をつく。

 

「私に気づいたのはあなたが宇佐見蓮子だからなのか、それとも…………いや、まだ確定させるには早い。あなた達の正体は、まだ私にはわからない」

 

 大きなため息。

 

「私の仮説が正しかったとすれば、いつか目醒めた時、あなたは私を見てどう感じるのでしょうね」

 

 それは53分の旅のうち、僅か15分の出来事。

 残りの38分を二人は眠りと共に過ごした。そして、向かいの一人はそれを見守るかのように、じっと座って、虚ろの海を静かに眺めていた。












こちらの話はお久しぶりです。
少し安い指定席とかは捏造です。
個人的に「53ミニッツの青い海」は東方の中でもトップ5に入るくらい好きな曲です。


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番外編
繝。繧ャ繝ュ繝槭ル繧「【蟇セ蟷サ諠ウ縺ョ螂エ髫キ】


ある真実を教えることよりも、
いつも真実を見出すにはどうしなければならないかを
教えることが問題なのだ。
          ジャン=ジャック・ルソー


 たとえば、その古明地さとりに鉄心がなかったとして。

 たとえば、その古明地さとりが瞳を閉じることがあったとして。

 たとえば、古明地こいしが瞳を閉じず地霊殿の主人になったとして。

 

 その古明地さとりは、古明地こいしと同じ顛末を辿ったであろうか。

 瞳を閉じて無意識に宿った先で、奔放でありながら思慮深さをどこか持ち合わせる、いかにも不思議な古明地こいしのようになれたであろうか。

 

 なれない。いや、ならないのである。

 その古明地さとりは、きっと理性を手放すことなどできないのである。

 その古明地さとりは、きっと欺瞞を手放すことなどできないのである。

 

 これは、どこにもあり得ない『もしも』の話。

 幻想郷の陰、地底を管理する妖怪としてではなく、ただ生きた場合の古明地さとりのお話。

 

 

「なんて、そんな話はどうかしら?」

「どこに向かって話しているんですか、そして何の話ですか、紫」

 

 紫の空を見上げての言葉に、さとりは純粋な困惑を以て返した。

 春先は頭がおかしくなってしまった者がよく出るものだが、もしや賢者までもがそうなってしまったかと。

 さとりの手が、不安に揺れながら紫の背中をさすった。

 

「心配しなくても狂ってなどいないわよ。兎に会うには早い季節だもの」

「しっかりしてください。あなたが大丈夫じゃなくなると、幻想郷が危ないのですから」

「フフフ、それでどうかしら?」

「何がです」

「もしもあなたが逆だったとしたら、どうしていたかしら」

 

 賢者の微笑みが鋭く突き刺さる。答えが求められている。

 これは、さとりという妖怪について更なる知見を得ようという試みである。つまり、さとりの本質をより知ろうという紫の企みがあって、それは勿論、さとりには透けて見えていた。

 そのはずだった。いつものさとりがそこにいるはずだった。

 さとりの瞳が天を仰いだ。何かを考えているのか思い返しているのか、だらしなく口を開けて、らしくない有様を見せている。

 それがどうにもおかしくて、紫はクスクスと笑った。

 

「目的はわかっているでしょうに。あなたにしては珍しい反応を見せるのね」

「……私は、きっとどうしようもない阿呆に成り果てていたでしょうね」

「……あなたが? 冗談も程々にした方がいいんじゃないかしら?」

 

 いつもの軽口と捉えてケラケラと返したものの、さとりの様子は想定と違っている。

 やけに深刻そうで、やけに不安そうで、どうしようもなく弱々しい。

 仮定とは違う、現実の理性の鬼が空想だけでここまで弱ることなど誰にも読めるはずがなかったのである。それこそ、心が読めなければ。

 

「私は、きっと誇大妄想を抱いて、家族の為と思ってひたすら周りを敵視する化け物に成り果てた」

「何を根拠にそんなことを」

「今も、そう変わらないからです」

「え……?」

 

 硬直。

 古明地さとりは誇大妄想狂だと、目の前の古明地さとりは語る。

 

「違うのは、私は心を読めるからやたらと疑わない事と、信じる相手を選ぶことくらいはできるという事」

「じゃあ、あなたは違うじゃない」

「私の瞳は地上に届かない。私は、幻想郷の殆どの真意を知らないで生きている。勿論、合理的な推測から大体わかります。だけど、心はそれだけじゃない。私は誰も信じていない。私は家族を守るために、いつだって全てを疑って生きています」

 

 弱々しい瞳の奥から、冷たい視線が紫を刺した。

 

「……そんな言い方は酷いのではなくて?」

「……フフ、嘘ですよ。皆の事を疑う余裕なんて、私にはありません。そんなの必要最低限でいい」

 

 嘘。

 あの言葉は、さとりの真実。

 そして、その真意は私にすら100%の信用は抱いていないという事。

 きっと彼女は家族が何より大事なのだろう。家族に対しては、絶対的な信用を失うことがないのだろう。それ以外には相対的な信用しかなくて、私はなんとか99%に立てているだけなのだろう。

 

「なんて酷い嘘。あなたにしては程度が低い」

「これは手痛い。何せ嘘など慣れていないものでして」

 

 いつもの欺瞞に戻った少女は、また嘘で本心を塗り固める。

 さっきの言葉は私が踏み込んだことに対する警告であり、そして、自分と過剰に関わらない方がいいという忠告なのだろう。

 それに関しては、傷ついた。

 だが、その言葉を出す為に自身の本質を晒した事と、あのあまりに脆く弱い姿を見せた事は、どうしようもなく私への信用に他ならない。

 私は99%の先へは進めない。だが、99%でいいのだろう。

 この誇大妄想狂にとって、二番目に信じられる存在ならば、それはあまりにも光栄で、極めて素晴らしき少女の関係なのだろうから。

 

 とある日のマヨヒガの出来事。




嘘つきが嘘の日に真実を語ったならば、それは嘘か真か、誰にもわからない。





エイプリルフールなので特別編。どう解釈するか、どこまで真実と捉えるかは自由です。


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繧オ繝ウ繝峨Μ繝ィ繝ウ【繧オ繝ウ繝峨Μ繝ィ繝ウ】

古之聴訟者、悪其意、不悪其人
             孔子ー『孔叢子』よりー


 深い霧に包まれた、川とも沼とも知れぬ水の上で、一隻の舟が静かに進んでいた。

 罪人のように座る少女に船頭が場違いな朗らかさで話しかけた。

 

「あんたも何度も何度も呼び出されて大変だね。しかも移動は昔の地獄から今の地獄ときたもんだ」

「仕方ありませんよ。仮にも旧地獄の管理者は私で、映姫様は私の事を信用してはいませんから」

「私はあんたほど信用できる奴もいないと思うけどね」

「意外な感想ですね。あなたも聡い人で、私の事は常に疑っているものかと」

 

 その皮肉は少女にしては珍しく、多少直接的に思われた。

 しかし、船頭は気にする様子もなく、会話を続けようとする。少し笑ったところを見ると、気づいていないわけではないらしかった。

 

「あんたはなんだってやるんだろうけど、きっと越えてはいけないところを越えはしないし、変に移ろいもしない。かえって安心さ」

「私の事を買っていただいているようで光栄ですね。これはこの川を本当に渡る時、幾らか忖度していただけるので?」

「ハハハ、普通でも絶対ないけどあんたの場合特にないね。映姫様に目をつけられてるんじゃ手出しなんてできないよ。それに、あんたはきっとそんなもんを求めやしないんだろう」

「さぁ、どうでしょう。私は俗人ですから、苦しいのは嫌ですよ」

「死に近い人生を歩んでいる奴に説得力はないね」

「……あぁ、あなたはわかるんでしたか」

 

 やけに静かな納得の声。

 

「最初に会った時から、ずっと死に近い奴の気配を感じてるよ。でも、あんたの死期はそんなすぐじゃなかった。なのに、まだ気配はある。死なないあんたはずっと死の隣人であり続けてる」

「不気味ですか?」

 

 問う声は微かな微笑みをたたえた。

 それははなから答えがわかっているかのような明瞭さで、或いは答えを気にしないかのような不明瞭さで。

 

「最初はね。今はそうでもない。そういう奴がいない訳じゃないんだ。こういうのは決まって、自分の存在を賭けて何かを為そうとしてる奴か、死ぬほど苦しい思いをして生きている奴か、単に生き急いでいる奴だ」

「私はどれでしょうか」

「さぁね。どれか一つなのか、どれか二つなのか、どれでもないのか、それとも」

「全てなのか」

 

 10秒間の沈黙。

 まるでタブーに触れたかのようにすら思える文脈であったが、存外に雰囲気は何も変わらず両者の表情は装いなき平静だった。

 

「まぁ、どれでもいいさ。私があんたを買ってるのは、こういう奴はなんだかんだでそのうち死ぬのに生き続けている事だ。死は恐ろしいものだが、悪いものじゃない。ここに逃げるのは理性ある者の正しい選択の一つだ。でも、あんたは決してそれを悩みすらしない」

「死ぬよりは生きる方がいいものですから」

「普通はね。あんたは生きてる方がしんどいだろうに。私はあんたの寿命を知っている。その上で断言しよう。それは生き長らえる運命にあるとか、悪運が強いとか、その類のものではなくあんたがその理性で生きることを誰よりも鮮烈に選び続けるからだ。流石は八雲紫をして理性の鬼と言わせしめるだけの事はある」

「今日は随分と口がまわりますね。船賃が欲しいなら払いますが」

 

 懐の銭が小さく鳴った。

 

「いやいや、そんなの貰ったら映姫様に怒られるよ。あぁ、そうさな、私がこれほど饒舌になるのは一種の慈悲なのかもしれない」

「おや、あなたに慈悲を賜る日が来ようとは」

「私とあんたはこうして時折川を渡るだけの仲だけど、役職もあってあんたの事はそれなりに理解しているつもりだ。古明地さとりの理解者は少ない。だから、少しばかりでもこの理解があんたの安楽に繋がればと思ってるよ。きっと、こんなものがなくたって、その歩みは止まらないんだろうけど」

「どうでしょう。あなたには私が強い人に見えているようですが、私はそんな人物ではありませんから。私は臆病で陰湿で、八雲紫の為に必死になって策を練る名だけの脇役の、古明地さとり。慈悲を賜る資格などありませんよ」

「知ってたけど、あんたはそういう事を言うんだね。まぁ、いいさ、着いたよ」

 

 舟が止まった。そこには陸があり、桟橋がある。

 しかし、その全てがただただ奇妙に冷たく感じられるものであった。

 

「ようこそ彼岸へ。お帰りの際にも私小野塚小町を御贔屓に」

「商売でもないのに。まぁ、ありがとうございます。帰りもよろしくお願いしますね。三途の川に帰りがあるのもおかしな話ですが」

「映姫様によろしく。あと、小町は仕事してたって」

「あなたの事に言及する気はありませんが、またいつも通り幾らかの問答をするだけでしょう。私は黒に決まっているのですからそう気にする必要もないでしょうに」

 

 呆れたような言葉に対し、茶化すこともなく存外に船頭の反応は落ち着いたものだった。

 

「映姫様もあんたのことが心配なのさ」

「……私が?」

「映姫様は白黒ハッキリつけるけど、あんたは最初から黒であろうとするだろう。地獄よりも苦しい中で自分を一切の白のない黒と断定する。そんな生き方はあの方の目にはあまりにも辛すぎるものに映るのさ。だから、あんまり嫌わないで差し上げて欲しいね。あんたを疑ってるのも事実だけど、9割はあんたを心配する老婆心だろうからさ」

「……わかりました。別に嫌ってもいませんが、少し映姫様の心情を慮る事にします」

「よろしく。じゃあ、数刻の後に」

 

 舟を降りた少女は歩み出す。霧深き彼岸の向こうへ。地獄の閻魔のおわす間に。

 少し船酔いにふらついた足取りと同じように、彷徨うような声で小さく漏らす。

 

「罪人に御慈悲などを授けようものなら、その裁きの公平性を誰が認めるのでしょう」

 

 これは今より少し前。

 古明地さとりが今より少しはっきりと悪らしく動いていた頃の話。

 今ほど曖昧な言葉で人を惑わす事をしなかった頃の話。

 

「白黒ハッキリつけるのがダメならば、灰色になりましょう」





誰の助けがなくとも灰被りは裸足で。






遅れて申し訳ありません。エイプリルフール番外編です。


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鮟貞ケ輔?驕句多【螟峨∴繧九?縺ァ縺ッ縺ェ縺冗オゅo繧峨○繧】

たとえ明日、世界が滅亡しようとも、
今日私はリンゴの木を植える。
                 マルティン・ルター


「春の日差し、風の音、鳥の囀り、囲う花の香り、焼きたてのスコーン、桜のお茶」

 

 淡々と告げられる情景。少女の周りには、言葉の全てがあった。

 そして、それに微笑む口元もあった。

 

「フフ、とてもいいシチュエーションでしょう?」

「あなたには、とても似合っているでしょうね。絵になります。これほど色とりどりの花が咲く中で、一番華があるのはあなたなのですから」

「華々しさが必ずしも肯定的なニュアンスを持つとは限らないけれど」

「けれど、花が似合わないほどに華がないことは全く良い意味を持たない」

「卑屈ね」

 

 対照的な二人の存外に似たような口振り。

 

「そんな華がなく花がない場所から来た私に、あなたはどんな用事があるのでしょうか」

「別に用事なんてないわよ。こうしてあなたとお茶をするのが目的。疑うのなら、心を読めばいいじゃない」

「……嘘はついていないようですね」

「ね。心配しなくてもあなたに戦えと強要したのはもう過去の話よ。いかにここが停滞の都であろうとも、何事も移ろいゆくのが道理だと知らぬあなたではないでしょう」

「そうですね、しかし、そうですか。意外と少し寂しいかもしれません」

 

 思わず目を見開いた。

 

「寂しい! あなたがそんな言葉を口にする日が来るとは思わなかったわ。それに、私は疎まれているものだと思っていたけれど」

「はっきり言って迷惑でしたね。戦わないと何度言っても戦えと言ってくることのストレスといったら、面倒な神の訪問にも匹敵しました」

「でも、あなたは結局一度だけ戦ってくれたわね」

「五度は応じた覚えがありますが」

「ちゃんとやったのは一度だけよ。わからないと思ったのかしら」

 

 渋い顔をした。

 

「期待外れだったでしょう」

 

 嘲笑うように言った。

 

「期待外れだったわね。あれだけ戦えるのに、弱いふりをしているなんて」

「あなたには勝てなかったでしょう」

「私に食い下がる程度あることは誇るべきよ」

「たとえあなたを追い込んだ事実があろうとも、勝てなかったことも事実です。強いことが有益になるとは限らないので私はきっと弱いのです。それこそが真実であるべきなのです」

「また嘘をつくのね」

「嘘ではありませんよ。あなたにも、レミリア・スカーレットにも、星熊勇儀にも、八雲紫にも、博麗霊夢にも、私は決して勝てはしないでしょう。少なくとも、その程度の強さではあるのです」

「狡い場所にいるわよね。それなりに強いのに、本当に強い人に勝てない位置。強きも弱きも、嘘と真に織り交ぜて花の香りのように消えていく」

「結局、幻想郷のバランスに関与し得ない強さですから、私には大した意味がありません」

「あら、それは私のことは気にしてくれているということかしら」

「えぇ、要注意人物です。あなたは気ままですから」

 

 風がそよぐ。まだ天を仰がない向日葵のありもしない香りが抜けた気がした。

 

「これはあり得ない話だろうけど、あなたが幻想郷に反旗を翻す事があれば、どんな異変になるのかしら」

「あまりにもあり得ない事ですから、話す必要もないでしょう」

「あり得ない事だから話すのでしょう。起きる事ならいつかの楽しみに取っておくわ」

「成程。では、お茶請け代わりに少しだけ」

「有難いことね」

「私が異変を起こすとしたら、そうですね、まず暴れるような異変はないでしょう。私の持ち得る戦力では武力での解決は困難でしょうから」

「星熊勇儀を手駒にもできるあなたなのに?」

「一人二人いてどうこうなるものでもありません。だから、私はいつも通り、狡い手を使います」

「詳細は伏せます。私の手法が漏れて誰かが実行にでも移すと面倒ですから」

「誰かが真似てもあなたが解決できるでしょう」

「……こんな事を言いたくはありませんが、私でなければ解決できないでしょう」

「珍しく傲慢じゃない」

「私はいつだって傲慢ですよ。そうじゃなければ、無理難題に二つ返事で応じませんよ」

「傲慢じゃなくても応じるから、あなたは強いのよ」

「お褒めいただきありがとうございます」

「あら、じゃあお礼に、異変に関して詳細は伏せると言ったけれど、ヒントくらいはくれてもいいんじゃないかしら」

 

 また、渋い顔をした。しかし、少しの沈黙の後、答えた。

 

「…………博麗の巫女に干渉するでしょうね」

「へぇ、解決する本人に」

「私も博麗の巫女のシステムに関して詳しい事は知りません。その辺りは賢者しか知らない領域、どこまでいっても賢者ではない私には知り得ない事。だから、これはあくまで私の予想です」

「それを前提にしてほしいということね。いいわよ」

「博麗の巫女は、人間ではない」

「霊夢も? 彼女はどう見ても人間よ」

「あぁ、正確に表現しましょう。巫女は『人間ではない』という性質を持った人間です。あの子の能力はご存知ですか?」

「『空を飛べる程度の能力』ね」

「私が考える博麗の巫女に関して大きな考察のヒントです。妖怪や神は空を飛べます。人間ではありませんから。十六夜咲夜のような特殊な力を持った人間は空を飛べます。普通ではない力がありますから。しかし、ただの人間は空を飛べないのです」

「真意を量りかねるわね」

「ただの人間は空を飛べないし、空を飛べるのは人間ではないということです。『空を飛べる程度の能力』というのは、ある種自由の証であり、そしてパワーバランスから逃れる道標なのだと私は考えます。博麗霊夢は人間ですが、人間は空を飛べない。空を飛べるのは人ならざるものと、人の域を外れたもの。だけど、霊夢は特殊な力なんて持っていない。人間であって、しかし空を飛べるから人間でない。この世界において、それは大きな意味を持つ。恐怖に怯える側ではなく、恐怖を与える側でもない。それは均衡の中心にいる、あらゆる存在に対して正しくニュートラルでいられる力。博麗の巫女というのは、そういう存在なのだと私は考えています」

「それなら、巫女はあなたにはどうしようもない事なのではないかしら」

「はい、きっと私は勝てないでしょう。きっとどんな策略を講じたとしても、それは存在そのもので私を否定するでしょうね。それでいいのです」

 

 穏やかな笑み。少なくとも、諦観ではなかった。

 

「相互関係の外にいるから敵がいないのならば、そこに誰かが行けばいいのです。何を当てても落ちない鳥を撃ち落とす事なんてできないのだから、一瞬でも飛ぶその横にいる事でその孤高が揺らげば十分」

「あなたはそれを成し得る手段を持っているということかしら」

「さぁ、どうでしょう。人と人外、そのどちらでもないか、或いはどちらでもある。それが簡単な答えですけれど」

「……ハッタリだと思って、これ以上は聞かないであげる」

「ありがとうございます」

「あなたって、どんな妖怪なのかしら」

「いたって平凡な覚妖怪ですよ」

「何歳くらい?」

「秘密です」

「そう」

 

 呆気なく少し重々しく感じられた会話が終わって、アフターヌーンティーは続く。

 平凡な覚妖怪は、日傘の下でさえ太陽の熱に額を拭った。それはまるで平凡な少女のように。











今日はエイプリルフールらしいですよ。


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