揺れて、止まって。また揺れて (しこりん45)
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君が揺らす、私の

 

 本日は晴天なり。嘘、今、八幡吐いた。めっちゃ雨降ってる。

 お天気お姉さんが梅雨入りを発表してから、もう二週間ほど経ったが、未だ梅雨が明ける兆しは見えず。小町の奴も朝になる度に湿気で髪の毛が纏まらないとかよくボヤいている。

 ちなみに、これは豆しばレベルでどうでもいい話なのだが、よく『本日は晴天なり』なんてマイクテストで言ったりするが、この言葉は、元となった『It’s fine today.』みたいに全ての母音や破裂音、摩擦音といった要素を全て含んでいわけではないため、あまりマイクテストとしての意味を成していない。あれ、なんか急にこの言葉に親近感湧いてきたんだけど。

 

 そもそも休日は休む日と書いて休日なんだから、こうやって雨が降っていようが無かろうが家から出ないことがベストなはずだ。こんな最悪のコンディションの中、タピオカを飲むために一時間も並ぶなんて愚の骨頂に他ならない。

 そう言えば、この前、由比ヶ浜が雪ノ下と二人でタピオカ飲みに行ったとか話してた気がする。

 噂によれば、タピオカチャレンジなるものが巷で流行しているらしいが、あの二人もやったのだろうか。……いや、無理だな。由比ヶ浜はともかく雪ノ下には無理だ。賭けてもいい。え? 賭けになってないって?そうかな、そうだね。

 

 しかし、いくら休むための日だと言っても、こうも連日雨が続くと、家でゴロゴロしたり、家で休んだり、プリティでキュアキュアなアニメの録画を片付けるといった予定で多忙なことでお馴染みな俺でも流石にやることがなくなってきてしまっている。

 晴れの日だったら、それはそれで小町の買い物に連れまわされたり、元奉仕部の面々で集まってなんやかんやしたり、後は新刊を買うため珍しく外に出たら、偶然出会ってしまった魔王に捕らえられたり……。

 最後のやつに至っては、どこぞの赤い配管工の嫁も真っ青な誘拐率である。おい、葉山。お前、光の王子様だろ?  囚われのお姫様みたいになってるんだから俺のことを助けろよ。と言うか助けてください。ああ、でもはやはちは勘弁してくれると助かります。

 

 そう考えると、晴れの日は休むための日という本来の目的を果たすことが出来ないのだから、やっぱり休日は雨でいいと思います。

 そして、休むことに疲労感を覚えるあたり、やはり休むこともまた重労働だと言えよう。労働には対価を支払うべきであり、これだけ立派に休んでいる俺はお給料を貰ってもいいのではないだろうか。だめですね、知ってた。

 

 自分でもどうでもいいと言ってしまえるような思考の海に溺れかけた所で、全く頭に入ってこないラノベを適当にベッドの上に放り投げ、ゴロンとベッドに寝転がって天井を見つめる。電灯の明かりが目に入ってしまったことにより、思わず目を顰め、腕を瞼の上に置いた。

 視界が幾分かマシになったからなのか、休むことに疲れているからなのか、身体は次第に泥のように重くなっていく。

 

「“元”奉仕部……か」

 

 意味も無くこんなことを呟いてしまうのは、きっと、この陰鬱とした雨の空気に当てられてしまったからだ。

 実際、“元”奉仕部なんて言っても、あいつらとの関係は今でも切れていないし、たまに遊びに行ったりもしている……発案者はほとんど由比ヶ浜だが。

 それでも、受験を終え、それぞれ違う大学に進んだ俺たちが奉仕部として活動することはないし、奉仕部として活動していたことが過去のことになったのは事実だ。

 雪ノ下は父親の仕事を継ぐという夢の為に、由比ヶ浜はいつか俺や雪ノ下の助けになれるように(正直、聞いてるこっちが恥ずかしくなった)、各々の道を選んで進んでいる。

 じゃあ、俺は…。俺はどうなのだ。

 俺は何か変わったのだろうか。

 遠回りで捻くれた虚実混ざった理論しか振りかざせなかったあの頃から、言葉なしには伝えられず、言葉があるから間違え続けたあの頃から、いったい何が変わったのだろう。

 

「大丈夫、何も変わってない」

 

 変わらなくていい、そう肯定したのは自分ではないか。

 自分自身が、過去の自分を、そして今の自分を肯定出来ないでいったい誰が肯定してくれると言うのだ。誰も肯定出来ないのなら、せめて自分だけでも肯定しているべきだ。

 だから、俺はこれでいい。

 

「……大体、雪ノ下の胸だって全く変わってないしな」

 

 辛気臭くなってしまった思考を切り替えるためにグッと身体を起こす。ついでに本人に聞かれでもしたらコンクリートの基礎にでもされてしまいかねないことを口走ってしまった。大丈夫、まだ希望はある。遺伝的に。

 

 不意に部屋中にバイブ音が響き渡り、身体が大きく跳ねた。

 普段は暇つぶし機能付き目覚まし時計として働いているそれが本来の役割を果たしている。それだけでも大きな音に聞こえるのに、タイミングがタイミングの所為でそれよりも更に大きく聞こえてしまう。

 枕元にあったスマホを恐る恐る手に取り、表示を確認すれば『雪ノ下雪乃』の文字。

 

「ひぇっ」

 

 やっぱり雪ノ下さん、エスパーなのん!?

 父親の跡を継ぐために俺を基礎にして建築をするつもりか!?

 『腐った物は基礎にはならないわよ。根っこから崩れるじゃない』……いや、それは別に大丈夫そうだな。代わりに自分、涙いいっすか。

 

 冗談はさておき、雪ノ下の方から電話がかかってくるのは非常に珍しいことだ。基本的に重要な連絡のやり取りはメールで済ましてしまうし、お互い由比ヶ浜のようにアクティブでもないことが大きいのだと思う。陽乃さんからの電話だったら無視一択なんだけどなあ。

 

 意を決して、画面をタップして通話にでる。

 こう言う時は、電光石火。社畜の親父直伝『電話越しに頭を下げる』に限る。

 

「その節は本当に申し訳ございませんでした!!」

『……はぁ? 何を言っているのかしら、あなたは。……全く、緊張していた私が馬鹿みたいじゃない』

「……いや、なんでもない」

 

 どうやら俺のとった選択は正解ではなかったらしく、一拍置いてから切れ味鋭い言葉が飛んできた。

 後、雪ノ下さん? いくら俺の発言が意味わからなくても『は?』なんて言っちゃダメだって親から教わらなかったの?いや、よく考えたら俺も教わってねえな。

 

『まあいいわ。比企谷くん、明日の予定は空いているかしら?』

「えっ、空いてな」

『そう。良かった。空いているのね』

「まだ話してる途中でしょうが」

『だって聞く意味ないもの。それに、小町さんからあなたの予定は既に聞いているのだし』

「あ、そう…」

 

 やっぱり小町を押さえてたのね。人の予定を勝手に外に出すのは、お兄ちゃん的にポイント低いぞ。

 いや、確かに明日もやることないけど。

 

「……んで、何時にどこ行けばいいわけ?」

『やけに潔いわね。もしかしてあなた、比企谷くんの偽物?』

 

 こいつ、ホントいい性格してる。高校を卒業してから少しは丸くなったと思ってたけど前言撤回してもいいですか。材木座だったら血反吐を吐きながら倒れてるところだからね? 反省してね?

 

「馬鹿言うなよ。俺みたいな奴がそう何人もいて堪るかっての」

『そこは自覚しているのね…』

 

 あっ、今電話の向こうで雪ノ下がこめかみの辺り抑える姿が見えた気がする。

 

『はあ。それじゃあ、13時に千葉駅前でどうかしら』

「…あいよ」

 

 昼前まで寝かしてくれるのは雪ノ下なりの優しさなのだろうか? いや、普通にあいつの都合な気がするな。最近、雪ノ下のやつも忙しそうだし。

 それじゃあ、と言って通話を切ろうとしたところで雪ノ下に「待って」と呼び止められた。

 

『え、っと……その、また明日』

「ああ、また明日な」

 

 そう言って今度こそ通話を終了する。

 ふぅ、と息を吐くと、全身から力が抜けていくのが分かった。

 電話してるときって妙に緊張しない? 鼻息は荒くなってないかとか、喋るときにくちゃくちゃ音が鳴ってないかとかが気になって上手く喋れなくなるよな。まあ、俺はそんなの関係なく誰とも上手に喋れないけど。なにそれ悲しい。

 

 スマホを枕元に放り投げベッドから起き上がり、身体をぐっと伸ばす。

 外ではまだ雨粒がベランダに打ち付けられる音が響き渡っている。

 梅雨明けが告げられるのはまだ先のことになりそうだけれど、少しだけ先の未来、分厚い雲の隙間から陽が差し込めるような気がした。

 

「そう言えば、何しに行くのか聞いてないな……。まあ、いいか」

 

         × × × ×

 

 生温い風が頬を撫でる。空は鈍色の雲に覆われ、お天道様は相も変わらず雲の向こうで絶賛引きこもり中。ヒッキーは俺の特権だって言ったでしょ。ヒッキーな俺が外に出てて、お日様が引きこもってるのはおかしいから早く役割交代してくれないかな。できれば今すぐにでも。

 

 現在、待ち合わせ時刻を少し過ぎたぐらいの時間だが、俺を呼び出した当の本人の姿はまだ見えない。

 呼び出しておいて先に来ていないのは雪ノ下らしくないとは思うが、あの由比ヶ浜をして驚かせるほどの方向音痴の彼女のことを考えると、近くで迷っている可能性もあるわけで。

 

 スマホをポケットから取り出そうとしたところで、少し離れた場所できょろきょろと辺りを見回している雪ノ下と目が合った。目が合った瞬間に凄い微妙な顔したけど、そういうの全部見えてるからね? 迷子になってるところ見られて恥ずかしいからってその表情はやめようね?

 

「遅れてごめんなさい。待たせてしまったかしら?」

「まあ、それなりにな」

「待たせてしまった私が言うのもあれなのだけれど、もう少し気を使えないのかしら」

 

 口をへの字にしながら抗議してくるが、遅れて来てしまったことに後ろめたさを感じているのか、普段の氷の女王然とした様子からはほど遠いものだった。

 

「別に、俺が少し早く来ただけだ。だから…その、なんだ。気にしなくていい」

 

 なんだかバツが悪くなってそう言うと、雪ノ下はくすりと笑った後、柔らかく目を細めて微笑んだ。

 

「……あなたのそういうところ、嫌いじゃないわ」

「奇遇だな。俺も嫌いじゃない」

「ふふっ。それじゃあ、行きましょうか」

 

 高校の時から群を抜いて美人だった雪ノ下だが、大学に上がってさらに磨きがかかってきた気がする。

 昔の俺だったら、それは美人になったんじゃなくて化粧を覚えたからであって、そいつ自身が美人になったわけじゃないなんて言っていたのだろうが、きっとそういうことではないのだろう。少なくとも、今、目の前を歩いている彼女においては。

 

 しばらく雪ノ下の後を着いていっていると、不意に雪ノ下が足を止めた。

 何かあったのだろうかと不思議に思っていると、雪ノ下がこっちに聞こえるように大きくため息を吐いた。

 

「比企谷くん? 通報されたくなければ、ちゃんと私の隣を歩きなさい。今のあなた、まるでストーカーよ?」

「一応、俺なりに気遣いのつもりだったんだけど。ほら、一緒に歩いてるとこ見られて友達とかに噂されると恥ずかしいし」

 

 そう言うと、雪ノ下は無言でカバンからスマホを取り出し始めた。あれ? なんか嫌な予感がするんですけど。それ、警察に通報とかしようとしてないよね? ねえ?

 何回か軽く操作をした後、こちらに雪ノ下がスマホに画面をこちらに見せてくるが、案の定、スマホの画面には俺を社会的に抹殺するには充分な三桁の数字が表示されていた。

 

 こうなっては俺にできることはポツダム宣言並みの無条件降伏しかないわけで。もし、かつての日本と同じ轍を踏もうものなら、警察という名の原爆が投下されるのは避けられない。

 『愚者は経験から学び、賢者は歴史から学ぶ』という言葉が示しているように、この選択は賢いものである。そう、俺は賢いのだ。決して雪ノ下に屈したわけではない。ホントだよ?

 

 せめてもの抵抗として肩を落としながら雪ノ下の隣まで行くと、雪ノ下は勝ち誇ったように満足気な微笑みを浮かべた。こいつの姉ちゃんもそうだが、こういう態度が絵になるあたりやっぱり姉妹なのだと思う。

 

「それにしても、流石は比企谷くんね。ストーカーが板についているわ。思わず本職の人かと思ってしまったもの」

「ストーカーは職業じゃないからな。そんなことしても食べていけないだろ」

「臭い飯は食べていけるのではなくて?」

「やっぱ、お前いい性格してるよ」

「そう? ありがとう」

「皮肉だっつの」

 

 そんな他愛ない会話を繰り広げながら、雪ノ下と雑貨屋を物色していく。

 雪ノ下はと言えば、目についたものを手に取っては、ああではない、こうではないと言って元の位置に戻している。正直、置いてけぼりである。これなら家でゴロゴロしていてもよかったのではないだろうか?

 

「なあ、雪ノ下。結局、俺が呼び出された理由って何だったわけ? まさか荷物持ち?」

 

 そう言えば聞いていなかったなと思い、何となく問うたところ、難しい顔をしながらお高そうな手帳を手に取っていた雪ノ下の手が止まった。

 

 よくよく考えたら変な話なのだ。雪ノ下雪乃はただ自分の買い物に付き合わせるためだけに俺みたいなやつを呼び出すような人間ではない。

 雪ノ下はどちらかと言えば俺側の人間だ。それは交友関係の狭さであったり、パーソナルスペースの広さであったり、休日の過ごし方であったり。

 自分がもし買い物に出かけるとしても、他の誰かを誘うことはしないだろう。だからこそ、彼女が理由もなくこんなことをするはずがないのだ。

 

 雪ノ下は持っていた手帳を置くと、深く息を吐いた後、何拍か置いてからぶっきらぼうに口を開いた。

 

「……もうそろそろ、姉さんの誕生日なのよ」

「つまり、俺にも雪ノ下さんへの誕生日プレゼントを考えろと?」

「まあ、平たく言えば、そういうことになるわね」

 

 ぶっきらぼうな口調とは裏腹に、その理由を口にするのが恥ずかしかったのか、雪ノ下の顔には赤みが差していた。

 

「べっ、別にあなたでなくてもよかったのだけれど、由比ヶ浜さんとは予定が合わなかったし、小町さんに相談したらあなたに聞いた方がいいって言われるし、消去法みたいなものよ。他意はないわ。そこのところ勘違いしないでもらえるかしら」

 

 ぽしょぽしょと、「それに、」と言葉を続けていく。

 

「あなたと姉さんはよく似ているから、私より良い物を選べると思ったのよ」

 

 雪ノ下はそう言うと、少しばかり悔しそうに、それでいて寂しそうに、自嘲気味な笑みを浮かべた。

 

 雪ノ下雪乃という人間にとって、彼女の姉である雪ノ下陽乃はそのあまりの完璧さ故に、羨望や嫉妬の対象として大きく君臨してきたのだろう。

 実際、雪ノ下はいつだったか、私もああなりたかったと口にしていたことを覚えている。

 なら、逆はどうなのだろうか。

 雪ノ下陽乃という人間にとって、雪ノ下雪乃はどんな存在なのだろう。

 以前、彼女は雪ノ下のことを可愛い妹だと言っていた。それは、きっと事実なのだと思う。しかし、今でこそ鳴りを潜めているが、高校時代に俺たちに時折見せていた、冷淡で残酷とまで言える態度を見るに、それだけではないのもまた事実だ。

 

 そんな歪みに歪んでいた姉妹関係も、雪ノ下の最後の依頼の達成を期に、少しばかりだが改善の兆しが見えていた。そして、今の雪ノ下の選択がこれだと言うのならば、きっと、それは間違っている。

 傷ついて、歪んで、壊れかけてしまった関係に、俺が介入していいはずがない。歩み寄ろうとする手を俺が取り繋いだってそんなものにきっと意味はない。

 だとすれば、俺に取れる選択は、比企谷八幡にできることは一つしかないのだと思う。

 

「……買い被りすぎだ。俺はあの人みたいに完璧超人じゃない。あの人が何を考えているかなんて分からないし、正直、底が知れなくて怖い。それに、あの人のことなら家族であるお前の方がよっぽどよく知ってるんじゃねえの?」

「それは……、」

「少なくとも、雪ノ下さんはもうお前のことを認めてると思うし、お前があの人に何かしたいなら、雪ノ下のやりたいようにやるべきだよ」

 

 雪ノ下はしばらくの沈黙の後、まるで自分に問いかけるように、ゆっくりと目を瞑った。そうして、何度か頷いた後、真剣な顔つきでこちらを見据えると、先程までの不安げな声とは違う、凛として怜悧な声で問うてくる。

 

「……比企谷君、一つ質問はいいかしら?」

「……ものによるな」

「大丈夫よ。もし、あなたが小町さんからプレゼントを貰うとしたら、何を贈られたら嬉しいのかしら?」

 

 答えなんて聞かなくても分かるけど、一応聞いてやると言わんばかりに勝ち誇ったような表情を浮かべる雪ノ下を見て、思わず吹き出しそうになる。

 だから、俺も見せつけてやるのだ。

 見とけよ、雪ノ下。これが千葉の兄妹の模範解答だ。

 

「小町が俺のために選んでくれたものなら、何でも嬉しいに決まってるだろ」

 

 雪ノ下はその答えを聞くと、呆れたと言わんばかりにこめかみを押さえた後、満足気な表情を浮かべた。

 

「そんじゃ、俺は店の外で待ってるわ」

「そう。それじゃあ、私はゆっくり選ばせてもらおうかしら」

「ねえ? おかしくない? そこは俺に気を遣う場面だよ?」

「……冗談よ」

 

 本当に冗談なんだろうな、この女。

 

 雑貨屋から出て、近くにあった自販機でマックスコーヒーを買ってから適当なベンチに腰を掛ける。

 プルタブに力を籠めると、カシュッと小気味良い音を立てるとともに凶暴なまでの甘みを感じさせる香りが鼻腔を擽った。

 

『比企谷くんは、雪乃ちゃんのお兄ちゃんみたいだねぇ』

 

 以前、そう言われたことがある。何にでも手を出して、雪ノ下の助けになっているのだと自分でも気付かぬうちに自分に酔いしれ、その関係を共依存だとも言われた。

 しかし、今はどうだ。

 高校を卒業して、雪ノ下は陽乃さんをして目の色が変わったと言われるほどに変わった。

 自身の夢に向かって進む雪ノ下を前に、変わらないでいるしかできない俺はきっと彼女の枷にしかなれないのだろう。

 今まで散々いないものとして扱われてきたのに、今度は誰かの歩みを止めることしかできないなんて、つくづく救えないやつだと笑ってしまう。

 

 そう考えと、雪ノ下と敵対し続けてきた陽乃さんの行動は、大なり小なり雪ノ下のためだったのだろう。

 今でもたまにあの人に捕まっては雪ノ下の様子を聞かれるし、あの人、妹のこと好きすぎでしょ。もう二人とも実家に戻ってるんだから、直接本人から聞けばいいのに。暇かよ。もう就職決まってるから暇なんだろうなあ。

 こんなぼっちを相手して何が楽しいのかよく分からないんですけど。天才の考えは凡人には分からないってよく言うけど、本当にそうだと思う。

 

「比企谷君」

「んぁ?」

 

 思考の海を漂っているなか、凛とした声に名前を呼ばれ、意識を引き上げられる。

 急に話かけられたからなのか、気の抜けたどころか魂の抜けた声が出てしまった。

 

「あら、少し遅かったみたいね。意識もないようだし、これはもう手遅れかしら」

「人を死人扱いするのやめてね?」

 

 雪ノ下さん、今日も切れ味鋭いカーブが冴え渡ってますね。でも、もう少し手加減してくれると助かります。

 肩を落としながら雪ノ下を見れば、憑き物が落ちたように楽しそうに微笑む雪ノ下が目に映る。そんな彼女にせめてもの抗議としてため息を一つ吐いてから帰路に就きはじめる。

 

「んじゃ、帰るか」

「あなたは何か買っていかなくてもいいのかしら?」

「別に、何かを贈るような間柄じゃないだろ。これは友達の友達から聞いた話だが、ああいうのは親しい間柄じゃないと渡された方も困るんだと。微妙な顔されると、こっちも微妙な顔しないといけなくなるらしい」

 

 あれってホント傷つくよね。あれ、友達の友達の話のはずなのに涙が。あと、雪ノ下さん、そんな顔でこっちを見ないでもらえますかね。

 

「そうかしら? 少なくとも、姉さんはあなたのこと気に入っていると思うけれど」

「あれは……揶揄ってるだけだろ。」

 

 そう言えば、以前、葉山が『あの人は好きなものを構いすぎて殺すか、嫌いなものを徹底的に潰すしかしない』って言っていたっけ。やだ、それって結局は潰されちゃうってこと?怖い。やっぱりあの人には近寄らないでおこう。

 

「それも含めて、よ。何にせよ、簡単に逃げられるとは思わないことね」

「……知ってる」

「そう……」

 

 諦めたように呟くと、雪ノ下も同情するようにぽつりと言葉を漏らす。

 その会話を境に二人の間を奇妙な、そして心地よい静けさが支配する。

 

 その静けさを破るように、雪ノ下が真っ直ぐ前を見つめながら、言葉を紡いでいった。

 

「ねえ、比企谷君? もしよかったらなのだけれど、これからも姉さんに向き合ってあげてくれないかしら」

 

 未だ晴れない空が夕日に燃やされ、赤黒く染め上げられる中、雪ノ下は確かにそう言った。

 自分に向き合うことで手一杯な俺が、誰かと向き合うなんておこがましい。そう口にしようとしても、どうしてなのか言葉にすることができない。

 そんな俺を見て、雪ノ下は柔らかく微笑み、それは違うと言うように首を横に振った。

 

「それじゃあ、私はこっちだから」

「……そうか」

 

 じゃあな、と別れを告げ、再び歩き始めたところで雪ノ下に呼び止められた。

 

「比企谷くん! えっと…。言い忘れていたけれど…その、私ともちゃんと向き合ってくれると嬉しいわ」

 

 そう言うと、俺が何かを言う前に雪ノ下は逃げるようにして駆けていってしまった。

 真っ白になった頭の中でも、荷物をそんなに振って大丈夫なのかと考えてしまうが、ピンチの時にどうでもいいことばかりが浮かんでしまう心理とはこのことなのだろう。

 ようやく思考の落ち着いてきた頭の中で独り言ちる。

 

 ああ、本当に。本当に敵う気がしない。

 

 きっと、彼女は俺が思っているよりも、そして陽乃さんが思っているよりも、ずっとずっと強い女の子になっていくのだろう。以前、彼女に抱いていた押しつけがましいレッテルではなく、確かにそう感じたのだ。

 

 来週には星空が見える夜が来る。そんな未来に思いを馳せて。また一歩、歩き始めた。

 

         × × × ×

 

 雪ノ下との買い物から、ちょうど一週間経った。

 一週間経っても相も変わらず、いつ雨が降りはじめてもおかしくない天気が連日続いていた。お天気お姉さんが言うには、梅雨明けはまだまだ先のことらしい。誰だよ、来週には星空が見えるとか言ったやつ。

 

 こういう日はリビングのソファでゴロゴロするに限るのだが、近々期末テストがあるらしく、泣きそうな顔をしながらテスト範囲の内容を詰め込んでいる小町のことを考えると、どうにも気が引けてしまう。

 そもそもの話、中間テストにちゃんと勉強しなかったツケが回ってきているだけなのだが、今こうやって頑張ってやっている小町にそれを言うのは野暮だろう。

 これは経験論なのだが、勉強している時、していない時に関係なく、勉強しろと言われると十二割の確率で勉強する気がなくなる。これマメな。

 

 何となく口が寂しくなったので、とりあえずコーヒーでも淹れるために一階へ下りていく。

 リビングに入ると、うんうんと唸りながら学校の補助教材と格闘する小町が目に入った。さっき昼飯を食べたばっかりなのに、もう再開していることに思わず感心してしまう。

 

「お兄ちゃん……小町はもうダメなのです。このまま補習にまみれて青春を消費することになるんだよ」

「まあ、あんまり大丈夫とか無責任なこと言えないからあれだけど。あの由比ヶ浜でもなんとかなったんだ。あんまり根詰めない方がいいぞ」

「あの結衣さんでも……」

 

 小町ちゃん? 俺が由比ヶ浜を引き合いに出したのが悪いんだろうけど、その言い方はちょっとよろしくないんじゃないかしら。本人が聞いたら、あのよく分からん騒がしいツッコミが炸裂しちゃうぞ。

 

「小町。コーヒー淹れるけど飲むか?」

「うん。小町、カフェオレがいい」

「ん。りょーかい」

 

 マグカップにパッパッとインスタントの粉を入れ、小町の要望通りにカフェオレを作っていく。

 まあ、気分が落ち込んだ時は甘い物だよな。

 

「……俺ちょっと甘い物食べたいんだけど、小町はなんか食いたいものあるか?」

「……捻デレ?」

「ばっかお前、俺が甘い物食べたいだけだっつの。ほら、カフェオレでよかったんだろ? これで我慢してろ」

「ぶー、ぶー。小町は季節のスイーツを所望するであります!」

 

 高校生にもなってその文句の言い方をするのは兄として少しばかり不安を覚えてしまうのだが、小町だから許せてしまうと思ってしまうあたり、妹とは恐ろしい存在である。この場合、小町が可愛すぎるのがヤバいのか。

 

「そんじゃ、行ってくるわ」

「え? もしかしてお兄ちゃん、その格好で外に出る気?」

「え? なに? ダメなの?」

「ダメだよ! そんな格好でお高いケーキを買いに行くのはポイント低すぎだよ!」

 

 マジか。『アイ・ラブ・千葉』と胸に大きく書かれた千葉愛に溢れたこのTシャツのどこがいけないって言うんだ。後、小町ちゃん? さりげなく買ってくる物のグレートが上がってるのはどうしてなの?

 「ちょっと待ってて!」と言い残して、勢いよく二階に駆け上がっていく小町をとりあえず制止してみるが、効果がないのは実証済みである。雪ノ下の買い物に付き合った時も小町に引き止められたのは言うまでもない。

 

 しばらくすると、再び階段の方から慌ただしい足音が聞こえてくる。バンッ!と大きな音を立てながら扉が開けられ、反射的に「うぉっ」と控えめに気持ち悪い声が出てしまう。でも悲しきかな。気持ち悪いのは避けられない性である。

 

「なに気持ち悪い声出してるの? それ、小町以外だったら絶対ドン引きだからね」

「安心しろ小町。そもそも話しかけることがないから、そうなることがない」

「誇らしげに何言ってるんだか……」

 

 小町は雑に俺の部屋から持ってきた衣服を渡しながら、呆れ半分、諦め半分、無関心半分の視線を向けてきた。総量1.5倍になってるな。しかし、こういう些細なところで同じような行動をとるあたり、やっぱり兄妹だよな。

 受け取った服に着替えるため、お気に入りのシャツを脱ぎ捨て、小町プロデュースの八幡へと生まれ変わっていく。よくラノベとかで姉や妹の着替えに遭遇したときに、顔を真っ赤にして恥ずかしがるシチュエーションとかあるけど、あれ絶対嘘だよな。少なくとも、小町も俺も下着で恥ずかしがったりなんてしないし、兄妹ってそんなもん。

 

「ん。どうだ? 小町」

「うん。遠目で見たらちゃんとイケメンに見えるよ」

「一応聞くけど、近くで見たら?」

「……小町は嫌いじゃないよ?」

 

 答えるまでに少し間があったのと語尾に疑問符がついていた気がするんですけど、気のせいですか? そうですか。おかしいな、顔は悪くないって小町からもお墨付きをもらってるはずなんだけどな。やはりこの眼か。

 

「んじゃ、今度こそ行ってくるわ」

「にしし。期待してるからね、お兄ちゃん」

「だから、ついでだっつの。高いやつもないからな」

 

 今度こそ財布とスマホを持ったことを確認してから家を出る。

 たった一時間ほどで空模様が変わるはずもなく、いつ雨が降り始めてもおかしくないような曇天が広がっていた。こんな天気の中、妹の為にスイーツを買いに外に出るとか、ちょっと俺いいお兄ちゃん過ぎない? スイーツ(笑)な女子とは違うのだよ。

 

 なんとなくスマホを取り出して現在時刻を確認すると、七月七日という文字が目に入った。

 七月七日。俗に言う七夕と呼ばれる日である。ついでにリア充どもがイチャコラするための口実になったりする憎らしい日でもあったりするため、俺には全く縁のない日と言っていい。

 昔は給食に七夕スイーツがでてくるというイベントを楽しみにしていたりもしたものだが、残念ながら小学生の時間は終わってしまっているため本当に無縁なものになってしまった。

 

 七夕と言えば、織女星と牽牛星の伝説が有名で、多くのリア充たちはその逸話をロマンチックだの素敵だのと目を輝かせながら短冊に「ずっと一緒にいられますように(はぁと)」とか書いたりするのだろうが、それは間違っている。

 そもそも、あの伝説は働き者だった織姫と彦星が結婚を境にイチャイチャするばかりで全く働かなくなったことで天帝の怒りを買ってしまい、そのことが原因で引き離されたと言う話であって、別に理不尽な別れでもなんでもない。

 節度を弁えなかった二人が悪いとしか言いようがないのだ。

 この話からも分かるように、何事もバランスが大事だという事だ。

 そして、その点において俺は全く問題がないと言える。イチャイチャするような女子もいないし、専業主夫を志しているため外に出て働くこともない。やべぇ、完璧すぎる。

 

 それにしても、曇り空で太陽が隠れてるのに暑いってどういうことだよ。誰も見てないんだから少しぐらいサボっても誰も文句言わないっての。

 額に汗が流れるのを感じながら小町の行きつけのケーキ屋に向かっていると、野良猫が戯れているのが目に入る。こういう動物の戯れっていいよな。写真撮って小町に送ってやろう。

 

 ポケットからスマホを取り出そうとしたところで、不意にスマホが震えた。前回の雪ノ下からの連絡は例外だとして、俺に連絡を取ってくるのは基本的に小町ぐらいしかいないため、おそらく小町からだろう。

 スマホを確認すると、案の定、メッセージの送り主には『小町』と表示されている。

 ケーキのリクエストだろうかとメッセージを開くと、予想とは異なる文字列が目に飛び込んできた。

 

『ついでに小町はお兄ちゃんからのおいしい報告も楽しみにしてるからね!』

 

「……は?」

 

 そのあまりに唐突で意味不明なメッセージに思わず声が漏れてしまう。そして同時に嫌な予感が体中を支配する。

 だって、このメッセージはまるで───

 

「あっれー? 比企谷くんだぁ」

 

 その声を聞いた瞬間、反射的に身体がビクリと跳ねた。

 パターン青!魔王です!

 

「はあ……こんにちは、雪ノ下さん」

 

 声のした方へと向き直り、精一杯面倒くさいオーラを振り撒きながら、その声の主へと挨拶をする。

 以前の俺なら無視をするか、適当にやり過ごそうとするところなのだが、悲しきかな。目の前に現れた魔王、雪ノ下陽乃には通用しないことはこの二年間で身をもって知っている。

 よって、こうすることが俺にできる精一杯の抵抗だったりする。大魔王からは逃げられないのだ。

 

「せっかく偶然出会えたのに、そんな顔しないでよ。お姉さん悲しくなっちゃうなぁ」

「すみません、デフォルトでこの顔なんです」

「ならしょうがない」

 

 陽乃さんはころころと鈴の音を鳴らすように笑い、「白けた顔しないでよ」なんていいながら俺の頬をツンツンと突いてくる。ええい!暑い、近い、可愛い、鬱陶しい、いい匂い。

 いい加減しつこいですと、熱くなる顔を自覚しながらも、なんとかこのイタズラ魔王様から離れる。

 

「それで、今日はどうしたんですか?」

「言ったでしょ? 偶然だって。でも、そうだなぁ。ちょっとお姉さんに付き合ってよ」

 

 前言撤回。こういう場合は適当にやり過ごして逃げるに限る。

 

「すみません。今日は用事があって外に出てるので、また今度暇なときに誘ってくれると嬉しいです」

 

 もっともらしいことを言いながらペコリと頭を下げて撤退を試みる。

 嘘を吐くときにはコツとして、所々に真実を織り交ぜ、完全に嘘を吐き切らないことが挙げられる。

 この場合、本当のことは用事があって外に出ていること、嘘はまた今度暇なときに誘ってくれると嬉しいということだ。陽乃さんのことは別に嫌いではないのだが、どうにも苦手意識が先行してしまう。

 

「うーん、そっかー。それは残念だなぁ」

「ええ、本当に。俺も残念ですよ」

 

 よし! いける!

 初めてあの雪ノ下陽乃との撤退戦に勝利できる! 第三部、完!

 

「ところで比企谷くん。バレにくい嘘の吐き方って知ってる?」

 

 人差し指を立て、今思い出したと言うように陽乃さんが問うてくる。

 あっ、これは終わった。いや、まだいける。まだ間に合う。心を強く持て。

 

「へ、へぇ。そんなのあるんですか? 知りませんでした」

「ありゃ、意外だなぁ。てっきり比企谷くんなら知ってるものだと思ってたよ」

「まだまだ勉強不足な若輩者でして……それで、その方法って言うのはどういうものなんですかね?」

 

 なんだかこの人の目を見てしまったら取って食われてしまうような気がして、目を合わせずにそう言うと、陽乃さんは罠にかかった獲物を見つけた時のような笑顔を浮かべて、俺の心臓のあたりに人差し指を置いた。

 

「嘘を吐く時は、本当のことをいくつか織り交ぜるんだよ。比企谷くん?」

 

 耳元で陽乃さんに囁かれ、体中に熱いような冷たいような妙な震えが走り、思うように身体が動かなくなる。蛇に睨まれた蛙って多分こういうこと。

 

「……降参です」

「ふふっ。もう何回も似たようなやり取りしてるのに逃げようとするんだから、可愛いなぁ」

 

 なんとか陽乃さんから離れることに成功し、お手上げだと言うように両手をあげる。この人に見つかったときから逃げられるなんて思ってなかったよ、ちくせう。

 陽乃さんはと言えば、そんな俺の反応に満足したのか、俺の肩のあたりをバシバシと叩いてケラケラと笑っている。ただでさえ目立つのにこうも楽しそうにしていると余計目立ってしまい正直敵わない。

 

「でもこの理屈だと、用事があるのが嘘で、私から誘われるのが嬉しいってことが本当のことになるのかな? いやー、お姉さんそんなにはっきり言われたら照れちゃうよ」

「妄言ですよ。妄言」

 

 こうも自分に都合のいいように解釈して振舞っても様になってしまう人もなかなかいないだろう。俺が同じようなことしても罵声や諦観の念ぐらいしか飛んでこない気がする。

 

「それで? 結局、俺はどうすればいいんですかね?」

「ありゃ、珍しく素直だね」

「別に。あなたと違って無駄なことはしない主義なので」

「ふむふむ。して、君の言う無駄なことって?」

「妹の同級生を捕まえて連れ回したりとか」

「なるほど、なるほど。例えばこんなふう?」

 

 陽乃さんは俺の答えに満足したのか、俺の左腕を抱え込むようにして抱き着き、そのまま陽乃さんが来たであろう道へと引っ張られていく。

 左腕が本当に同じ人間のものなのか疑いたくなるような幸せな柔らかさに包まれ、案外悪くないかもなんて考えが脳裏を過る。騙されるな、比企谷八幡。この人の場合は単に俺の反応を見て楽しんでいるだけだ。

 

「あの、これってどこに向かってるんですかね?」

「んー、とりあえずは私の車のあるところかな。ここの近くに止めてあるの」

 

 鼻歌交じりに歩いていく陽乃さんに連れられ、言われるがままに助手席に座らされる。

 ちなみに途中から抵抗するのはやめた。抵抗してもこの人を楽しませるだけだし、なによりここで体力を使っても俺が疲れるだけだということを察してしまった。空気を読むどころか空気に徹してきた俺の状況判断能力を甘く見てはいけない。

 

 半ば誘拐のような形で車に乗せられたため、車が走りだしたらどうなるのだろうかと戦々恐々としていたのだが、意外にも車が動き始めてからはこれといって何かをされることはなかった。こちらとしても車の運転に集中してもらいたいし、あのペースで弄ばれ続けても身体がもたないので願ったり叶ったりである。

 しかしながら、平塚先生もそうだったのだが、この人もまた運転をする姿がよく似合う。

 

 今日のラジオは『懐メロ特集』というテーマを放送しているらしく、さっきから随分と懐かしい曲ばかりが流されている。懐メロと言えば、つい最近まで「懐メロ」を「夏メロ」だと勘違いしていたのは苦い記憶である。

 中学時代とか懐メロの話で盛り上がっているやつらに対して、「冬なのになんで夏メロの話してるの? バカなの?」なんて思ったりもしていたものだ。

 まあ、中学時代はそんな話をする機会も相手もいなかったから恥をかかずに済んだわけだが。良かった、友達がいなくて。何この悲しい喜び。涙出てくるわ。

 

「どうしたの? 急に目を腐らせちゃって」

 

 信号が赤になり、車が止まったタイミングで二人の間に流れていた心地よい静寂のようなものが破られた。

 陽乃さんの方を見れば、少し楽しそうに微笑みを湛えながら、横目でこちらを見つめているのが分かった。

 

「なんでもありませんよ。ちょっと昔のことを思い出していただけです」

「なにそれ。変な比企谷くん。あっ、変なのはいつもか」

「余計なお世話ですよ」

 

 さっきからこんな感じの会話は何回かあったのだが、どうも今回は少し違うらしい。

 それは横目で見つめてくる陽乃さんの表情、と言うよりもその眼が雄弁に物語っていた。まるでお遊びは終わりだと言うように見つめられ、背筋に嫌な汗が流れる。

 

「……ねぇ、比企谷くん」

「なんすか?」

「今回、雪乃ちゃんを唆したのは、君かな?」

 

 信号が青になり車が動き始める。それは、さながら試合開始のホイッスルのようで。

 この狭い空間をなんとも言えない緊張感が包み込む。

 

 陽乃さんが言っているのは、おそらくこの前の雪ノ下との買い物の一件のことなのだと思う。それがこの人の行動原理のどこに引っかかったのかは分からないが、やれるだけのことをやってみるしかない。

 俺みたいな奴がどこまでこの人にやれるかは分からない。それでも、あの時の雪ノ下の選択を否定させるわけにはいかない。

 

「まさか。あいつに頼まれたんですよ。姉ちゃんの誕生日が近いからプレゼント選ぶの付き合ってくれって。でも、それだけです」

 

 そう。それだけだった。

 確かに最初こそ意見を求めてきたが、自分で答えを出してからのあいつの選択を、俺は知らない。

 雪ノ下が何を贈り、この人に何を伝えようとしていたのかを、俺は知らない。

 

 どこまでこの人に伝わったかは分からない。

 やれるだけやってみると言っても、俺に言えるのはこのぐらいしかないのだから。

 

「ふーん……ま、信じてあげるよ」

 

 言葉ではまだ疑っていますとポーズをとっているが、その言葉とは裏腹に陽乃さんの声色は、一応は納得したといった感じのものだった。

 ただその顔には、嬉しいような、悲しいような、苦しいような、愛おしんでいるような、どう形容すればいいのか分からない表情が浮かんでいた。

 

「でも、そっかぁ……」

 

 陽乃さんは「うん、うん」と一人で何かを噛みしめるように頷くと、今度は寂しそうに笑顔を浮かべた。

 再び信号が赤に変わり、車が止まる。

 

「意外にドライなんですね。雪ノ下からの誕生日プレゼントとか、あなたならもっと喜ぶと思ってました」

 

 この人も俺に負けず劣らずシスコンの匂いがするし。

 

「それこそまさかだよ。あの雪乃ちゃんからのプレゼントだよ? 嬉しくないわけないじゃない」

 

 ただ、と陽乃さんは言葉を繋いでいく。

 

「どんな顔していいのか分からなかった。雪乃ちゃん、プレゼントくれた時になんて言ったと思う?」

「……さあ? 『お姉ちゃん、だーいちゅき』とかですか?」

「ふふっ、それはそれでどんな顔していいか分からなくなりそうだね」

 

 違ったか。まあ、雪ノ下がそんなこと言うわけないよな。なんて言ったって、あの雪ノ下だぜ? もし明日、世界が終わるとしてもそんなこと言わない気がする。ていうか言わない。

 

「そうじゃなくてさ。私は私になるわって。私にしかなれない私になるって、そう言ったの」

 

 その言葉に、俺は何も言うことが出来なかった。

 いったい、雪ノ下のその言葉にはどれだけの意思が、そしてどれだけの意志が込められていたのだろうか。

 雪ノ下はできないことは言わない。雪ノ下雪乃は虚言を吐かないから。

 なら、雪ノ下雪乃はその選択を、その決意を必ず達成してみせるのだろう。

 

「私もそんな顔してたんだろうなぁ」

「……それを確かめるために捕まったんですか? ちょっと横暴すぎません?」

「そうかな?」

「そっすよ」

 

 「ごめんね?」なんて舌を見せながら謝罪と呼ぶにはどうにも心許ない陽乃さんの謝罪を受け取り、わざと聞こえるようにため息を吐いた。

 

「それで、どうでした? 自分の顔を見た感想は」

「そりゃ雪乃ちゃんに笑われるわけだって感じ。初めて雪乃ちゃんにしてやられちゃった」

 

 そう言って、楽しそうにケラケラと笑う陽乃さんの表情は本当に綺麗で。

 陽が差したように曇りない笑顔もできるのかと、雪ノ下陽乃にはこんな一面もあったのかと思い知らされる。

 

「……そう言えば、雪ノ下からは何を貰ったんですか?」

「んふふ。気になる?」

「まあ、それなりには」

 

 実際、帰り際にあれだけ振り回されていた物がなんだったのか気になるし。

 

「ペアカップだよ。いいでしょ? でもダメ、私のなんだから」

「貰いませんよ」

 

 口が滑っても「いりませんよ」とは言わない。今のこの人の前でそんなこと言ったら普段の数十倍は面倒なことになりそうだし。

 

 ようやく信号が青に変わり、再び車が動き出す。

 

「ちなみに、雪乃ちゃんもあげない。んー、でもこれは少し違うかな。結果的に雪乃ちゃんが比企谷くんのものにならないだけで」

「はぁ……?」

「よく分からないって顔してるね。今はそれでいいよ」

 

 陽乃さんが頬を軽く突っついてくるが、正直、お姉さん面してないで運転に集中して欲しい。あと本当によく分からないんですけど。誰か陽乃さん検定三級の人いたら教えてくれない? え、そんな人いない?

 

「それで、比企谷くんは何を用意してくれてるのかな?」

「え? してませんよ」

 

 そもそも陽乃さんの誕生日がいつなのかも知らないし。

 雪ノ下にも言ったけど、ああいうのは親しい間柄じゃないと双方にダメージが行くって教えてもらわなかったのかよ。教えてもらわなかったんだろうなあ。大体、俺をして強化外骨格と言わしめるこの人が誕生日のプレゼントごときでダメージを受けるわけがなかった。

 

「えぇーっ!? 比企谷くんつめたーい」

「……もしかして雪ノ下さんの誕生日って今日なんですか?」

「あれ? 雪乃ちゃんから聞いてないの?」

「近々誕生日があるとしか」

「そっか、そっか。でも、残念だなぁ。比企谷くんからのサプライズ期待してたのに」

 

 え、この人ってサプライズとか期待しちゃう系女子なの? 俺、あの手のタイプの女子って苦手なんだけど。

 

「ならサプライズ成功じゃないですか」

「ふむ。して、その心は?」

 

 陽乃さんはころころと鈴の音を鳴らすように笑うと、楽しませてくれるんだろうなと言わんばかりに口元を歪ませて俺の返答を待つ。

 

「『雪ノ下陽乃』の誕生日という日に贈り物をする人は大勢いるでしょうから、俺はあえて何も贈らないことにしたんですよ。贈り物をする大勢の中の一人ではなく、何もしなかったただ一人の存在。つまり、ある種の特別な存在になったわけです。その証拠に雪ノ下さんも驚いてくれていたでしょう?」

「ぷっ……! なにそれ」

 

 「ダメだ、堪えきれない」と言うと、いつかの文化祭のスローガン決めの時のように車内は彼女の盛大な笑い声で包み込まれた。良かった、俺の渾身のギャグが受けてくれて。

 

「うーん。でも、そっかー。比企谷くんからは何もなしかー。お姉さん悲しいなあ」

「……悲しいなら、せめてもう少し悲しそうな表情してくれません?」

 

 運転中だということを忘れていないかこっちが心配になるほど笑った後、いまだ吊り上がった口角のまま、わざとらしく悲しそうな声で陽乃さんが抗議してくるが、誰が見ても悲しんでいないことなんて明白である。

 

「あーあー、悲しいなあ」

「いや、だから」

「と、言うわけで。比企谷くんには罰を与えたいと思います!」

 

 だから、少しは俺の話聞いて。そんな言葉がこの邪智暴虐の王に通じるはずもなく。

 快活に宣言されたその判決に、俺は為す術もなく無条件降伏をするしかないのだ。

 

 何回目か分からない敗北を噛みしめ、少しだけこの曇り空に期待を込めて、俺はこう言うのだ。

 

「……お手柔らかにお願いします」

 

         × × × ×

 

「んーっ! 着いたぁ!」

 

 長い運転を終え、その疲れを吹き飛ばすように陽乃さんがぐーっと伸びをする。

 おかげでほとんどの男子が魅了されて止まないであろうプロポーションが惜しみなく強調され、思わず目がその膨らみに吸い寄せられてしまう。流石、乳トン先生が提唱した万乳引力だ。抗えない。

 

 しかし実際のところ、疲れたとは口に出して言ってはいないものの、陽乃さんにも少しばかり疲労の色が窺えるのも頷ける。

 

 陽乃さんから判決が告げられた後に連れていかれたのは雪ノ下の買い物に付き合った時にも行った千葉駅だった。

 そこで俺はウィンドウショッピングと言う名の冷やかしに付き合わされ、言外に「罰だって言ったよね」と目で告げられては陽乃さんの我が儘を聞かされた。腕組んで歩かされたり、買いもしない服の感想を求められたり、逆に俺を着せ替え人形にして遊んだりとか。

 そうしている間は必然的に周囲の視線を浴び続けるわけで。ああいった視線に慣れていない俺には中々に過酷なものだった。それを分かっていて楽しそうにする極悪非道な女が隣にいるのだから勘弁して欲しい。

 

 店内をある程度見て回った後、「まだまだ帰さないぞ」と言う死刑宣告を受け、陽乃さんの運転する車に再び乗せられてさらに約一時間半。これだけハードな日程を過ごしていれば、流石に疲れない方がおかしい気がする。

 

 陽が落ちるのが遅くなったのにも関わらず、辺りは既に仄かな闇色に包まれていることから、今日という日にそれだけ多くの時間をこの人と共有したのだと思い知らされる。

 普段は苦手だの何だの言っているのに、今はそれを苦に思っていないのだから不思議なものだ。

 

 陽乃さんに連れてこられたのは、千葉の南の方にある星が綺麗に見えることで有名な灯台だった。

 ちなみに千葉にはもう何ヶ所か星が綺麗に見える場所があるのだが、ここは水平線もよく見えるため地球の丸さも実感できちゃう凄い場所である。ちばすごい!

 しかし、天気はご察しの通り相変わらずの曇り空。向こう側で鵲が橋を架けている様子なんて見えるはずもない。

 

「ねえ、比企谷くん」

 

 見えもしない星空を眺めている陽乃さんの隣でぼーっと同じように空を見つめていると、不意に陽乃さんがその静寂を破った。

 独り言とも取ることもできそうなその声色に、少しドキリとする。

 

「私さ、あんまり自分の誕生日って好きじゃなかったの」

「……」

 

 「奇遇ですね、俺もです」なんて茶々は入れない。

 

『これからも姉さんに向き合ってあげてくれないかしら』

 

 雪ノ下から言われたというのも心のどこかにあるのだろう。

 だけど、きっとそれだけではない。

 俺は雪ノ下陽乃が自分のことを語るところをほとんど見たことがない。もしかしたら、全く見たことがないのかもしれない。

 そんな彼女が今、俺の目の前で何かを話そうとしている。

 なら、今が『彼女と向き合う』その時なのだろう。

 

 俺が陽乃さんを聞く態度をとったからか、陽乃さんは一言「ありがと」と言うと、言葉を紡いでいく。

 

「もちろん、いろいろな人から祝ってもらえるのは素直に嬉しいよ? だけど、一番祝って欲しい人からは中々祝ってもらえないし、そういう意味では凄く寂しい一日だった」

 

 そこに関してはこの人にも原因があるから反応に困るんですけど。

 

「それに七夕って言う日も気に入らないのかな。比企谷くんはさ、織女星と牽牛星の伝説のことをどう思う?」

「どうって……」

 

 陽乃さんの唐突な問い掛けに一瞬だけ面食らいながらも、なんとか返事をする。

 そりゃそうだ。ただ聞いているだけで誰かと向き合うなんて言うことが許される筈がない。自分の持つ嘘偽りない答えをぶつけて、ようやく初めて向き合うと呼ぶことが出来るのだから。

 

「……なるべくしてそうなった。きっと、それだけの話ですよ」

「ふふっ、君らしい答えだね」

 

 この人と出会う前にも似たようなことを考えていたけど、やはりそうなのだと思う。

 この話は年に一度だけ愛し合った二人が出会えるなんて、そんな素敵な話ではない。

 二人が働き者のままであったなら、そんな結末は向かえることはなかっただろうし、どこにでもある幸せな家庭を築いていたのだろう。

 なるべくしてそうなった。これに尽きてしまうのだろう。

 

「私も。七夕に関して言えば概ね一緒だよ。なるべくしてなった、そういう話だと思う」

 

 陽乃さんは一つだけ、くすりと笑いを零すと、まるでこのまま闇夜に溶けて消えてしまうのではないかと思うほど、儚げに目を細めた。

 

「それにね、友達とかと七夕で盛り上がっても、心のどこかで冷めた私が見つめてるの。馬鹿してる自分を冷笑しながら私を見てる、それが結構気持ち悪いんだ。あっ、こっちは比企谷くんには分からないかな? 友達いないし」

「……大きなお世話ですよ」

 

 揶揄うような口調では言っているものの、陽乃さんの表情は相変わらずのものだった。

 

 しかし不思議なものだと思う。

 人当たりがよくて、ずっとにこにこしていて、優しく話しかけてくれる。いつだったか強化外骨格と名付けた彼女の外面を持ってすれば、王道は王道を行くのだろう。

 だが、実際はそうじゃない。

 高校時代、時折俺たちの前に君臨した雪ノ下陽乃はそんな優しいものではなかった。

 ぬるま湯の関係を否定し、雪ノ下雪乃の前に立ちふさがり、見たくない現実すらも突き付けてきた。

 そんなリアリストである彼女の誕生日が、世間がロマンチックだのと囃し立てる日であるということも何かの縁に思えてしまう。

 

 しかし、当の陽乃さんはまだまだ語り足りないと言うように、次々と自身の誕生日に対する愚痴のような文句を垂れ流していく。

 やれそんな日が誕生日だなんて皮肉っぽいだの、やれ誕生日なんてなくても人生の主役は私だの、エトセトラエトセトラ。よくもまあここまで気ままに振舞えるものだと呆れを通り越して感心してしまう。

 

「だから、誕生日ってあんまり好きじゃなかったの」

 

 自分語りはこれでおしまい。そう言うように、陽乃さんはあっけからんとして言った。

 

「だけど、今日は嬉しかった! 雪乃ちゃんからおめでとうって言ってもらえたし、プレゼント以上に良いものも見れた。ま、それだけじゃないけどね」

 

 そこにはいつもの雪ノ下陽乃がいた。

 お姉さんぶってて、見る者全ての目を惹いて止まない完璧超人。

 弱みを見せるのは終わり、そう言うことだろう。

 

「それと同時に雪乃ちゃんが羨ましくなっちゃった」

 

 陽乃さんは目をスッと細めて微笑むと、いたずらっ子のような表情でこちらを見つめてくる。

 

「さて、比企谷くん。今から君に罰を与えたいと思います!」

「……はい?」

 

 人差し指をビシッと突き付けて宣言する陽乃さんに頭が付いて行かず、思わず頭の中が真っ白になる。

 今この人なんて言った?

 

「なに訳が分からないみたいな顔してるのさ」

「いやいやいや! 罰として今日一日散々振り回されたじゃないですか!」

「え? むしろあれはご褒美でしょ。普通の男の子だったら泣いて喜んじゃうレベル」

 

 ようやく動き出した頭でなんとか抗議に言葉を捻り出してみるものの、当の陽乃さんは何言ってるんだコイツと言うような顔をしている。やめて! そんな顔で見ないで!

 よくよく思い返してみると、この人「罰を与える」とは言ってたけど、それが今からだとは一言も言ってなかったわけで。

 

「勘違いした俺が悪い、か。……はあ」

「ため息なんて吐いちゃって。ホント、可愛げなくて可愛いなあ、もう。比企谷くんは楽しくなかった?」

 

 珍しく不安そうな顔で聞いてくる陽乃さんに少しドキリとさせられ、なんとなく罪悪感が湧いてきてしまう。

 今日一日を振り返ってみるが、疲れたと言う感想はあれど退屈だったかと聞かれたら答えは間違いなくノーだ。

 

「……まあ、退屈はしませんでしたね」

「おっ、これが噂の捻デレってやつ?」

「だから何なんですか、それ」

 

 小町のやつ、流行ると思ってるんだろうか。流行らないからな、比企谷菌は流行ったけど。

 ついでにケラケラと楽しそうに笑う陽乃さんを見て、さっきの悲しそうな顔も演技だったのだと察する。一色にも似たようなことされた覚えがあるけど、いい加減学習しろよ、自分。

 

「ねえ、比企谷くん。私も、君の言う『本物』が欲しくなったって言ったら、どうする?」

 

 柵に肘を置いて凭れかかる体勢を直し、陽乃さんが俺の方に向き直る。

 そのことに少し驚きながら俺も陽乃さんの方に身体を向ける。

 

「別に、欲しい欲しくないは人の自由なんじゃないですかね? そもそも、そんなものが本当にあるのかすら分かりませんよ」

「……君なら、そう言うと思ったよ」

 

 そう言うと、陽乃さんは自身の細く美しい両腕をするりと伸ばし、俺の首の後ろに回してくる。

 ふわり。

 女性特有の甘い香りで埋め尽くされ、それなりに出来がいいと自負している脳みそから次第に正常な思考回路が奪われていく。

 

「比企谷くん。契約、しようか」

 

 蜂蜜を溶かしたように甘い声で囁かれ、耳朶から溶けてしまうような錯覚に陥る。

 魔王だなんだと呼んできたが、これじゃ悪魔だ。

 甘言で人を惑わし、どろどろに溶かして堕落へと誘う悪魔。

 

「……それが、さっき言ってた『罰』ですか?」

「そ。これが私から君に与える『罰』。私の隣を歩けなんて言わない。君に変われとも言わない。ただ、苦しんで欲しい、足掻いて欲しい、悩んで欲しい。君がそうした分だけ、私も苦しんで、足掻いて、悩んで、みっともない姿を君に、ううん。君だけに晒してあげる」

 

「それが、私と君が結ぶ契約」

 

 ああ、本当に卑怯な人だ。

 だって、それじゃ───

 

「最初から俺に拒否権なんて存在しないじゃないですか」

 

 罪を犯したら罰を受ける。それは世の中では絶対とされるルールなわけで。

 無条件に結ばれてしてしまうものを契約として呼んでいいのかは分からない。けれど、これだけは分かる。

 俺はこの人には一生敵わないのだろう。

 

「ふふっ、そういうこと」

 

 陽乃さんは満足気にそう言うと、何かを思いついたように目を細めた。

 普段から距離感が近い人だけど、今のこの体勢の所為なのか、いつもよりもこの人を近くに感じる。

 どれだけ俺が冷静でいよう努めていても、この鼓動は聞こえてしまっているのだろう。

 

「ねぇ、比企谷くん?」

「? ……なんすか……んむっ!?」

 

 あまりに突然の出来事になんとか必死に繋ぎ止めていた思考回路がショートしそうになる。

 いま、陽乃さんは何をした?

 首の後ろから引っ張られて、気付いたら陽乃さんの顔が近くにあって、そうして───。

 

 甘い。

 呼吸が出来ているかも分からないのに、確かにそう感じた。

 何が起きているのか未だに分かってすらいないのに、自分の体温が上昇することだけが手に取るように分かる。

 満たされていく。

 周囲の音なんて何も届きやしないのに、艶めかしい吐息が混じり合うこの時間が愛おしいとすら思えてしまう。

 

「ん……ん、ぷはっ!」

 

 何秒続いたのかも分からないその一瞬が終わりを迎え、脳みそが必死に酸素を求めて荒く呼吸を行う。

 高くなった体温も潮風に当てられ、徐々にだがショートしていた思考回路も戻ってくる。

 

「ふふっ、契約成立だね」

 

 唇に残った感触が冷めやらない中、してやったりと言うように声が聞こえた。

 さっきまでの距離が近すぎたからなのか、二歩も陽乃さんと離れていないはずなのにやけに遠くに感じる。

 ただ、近くにいるはずの彼女がどんな顔色をしているのかは分からなくて、

 

「さ、帰ろっか!」

「……そっすね」

 

 その少しばかりの悔しさを誤魔化すように、曇天が広がっているであろう夜空を見上げた。

 

「……あ」

「どうかしたの? 比企谷くん」

「……いえ、なんでも」

「なんだよー。気になるだろー」

 

 ぶぅ垂れる陽乃さんを適当にあしらいながら、少しだけ優越感に浸る。

 

 どうせ何も変わってなんていないだろうと見上げた夜空。

 その雲間からは、確かに星空が顔を覗かせていた。

 

(了)

 



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