「魔界以外に旅をしてみたい世界って、ある?」
柄にもなく、声が弾んだ。
オレの視線の先には、もう何杯目なのか分からない酒を呷る兄の姿。
兄者はオレの問いに、僅かに首を捻りながら答える。
「魔界以外……ってなると、やっぱり人間界だな。戦ってばっかのオレたちと違って、色んなモンがありそうだし」
「人間界……」
「おう! これ以上に美味い酒があるかもしれねえぜ?」
そう言ってジョッキを持ち上げて、にしし、と笑う。
オレたちが飲んでいるのは、魔界の中でも屈指の名酒だ。酒は兄者ほど強くはないが、こうして飲みながら淀みなく話をできる程度には強い。
しかし……これを超える酒か……。
「そうだとしたら、二人で飲み歩きなんてするのもいいかも」
「いいなそれ! 人間界の酒を飲み干してやろう」
「ははは……兄者なら本当にやってしまいそうなのが怖い……」
兄者が酒を樽ごと飲む光景がありありと浮かぶ。尋常ではないほど酒に強いのだ、この兄は。
ぐい、と酒を煽る。
心地の良い酩酊感。楽しそうにまた酒を呷る兄者。それは今までの兄者とは正反対で、本当に生き生きしていて。見ているこっちも陽気な気分になってくる。
「……これからやってみたいことって、ある?」
「ん? んー……そうだな……酒場の店主なんて楽しそうだな! 毎日酒が飲めるぜ?」
「でも兄者、料理できないよね……」
そう言うと、兄者は困ったように頰を掻いた。
「確かにな……オレもお前も料理下手だし……いや、エリザベスに任せればなんとか……」
「そうなったら、一番に飲みに行くよ。ゲルダも一緒に」
「おう、どんどん来い。不味いツマミと美味い酒が売りの酒場になりそうだけどな」
「それはあり得る……」
上手い具合に酒が回ってきたのか、特に理由は無いが笑ってしまう。それが何故かおかしくて、また笑う。そんなオレを見て、兄者はまたにしし、と笑った。
「お前もまだまだだな。この程度で酔うとは」
「オレは酔ってない、酔ってないよ……アレ? 兄者が三人?」
「完全に酔ってんなあ……どうすっか……」
「こらメリオダス! またゼルドリスを酔い潰させる気?」
「うっ、いやこれにはふかーい訳が……」
兄者の背後から、真っ白な翼を持つ女性が現れる。その人すらもブレて見えてしまい、注視する。その女性は、兄者の恋人であるエリザベスだった。
「エリザ……ベスゥ? なんで羽がいっぱい生えてるの……?」
「はあ……どれだけ飲んだの……」
「わりいわりい、つい話が弾んじまって」
「兄者ァ……オレにも、ゲルダっていう恋人がいるんだぁ……」
「ああ、知ってるさ。素敵な娘だったな」
「ゲルダは優しくて……一緒にいるだけで心が安らぐんだ……」
「ああ、そんな相手早々見つからねえぞ? 大事にしてやれよ」
少し、眠たくなってきた。兄者ともっと話していたい。何故か、この睡魔に負けたらこの光景が失われるんじゃないかと思ってしまう。もし次に起きたときに何も残っていなかったらと思うと、怖い。
……ダメだ、酔いで頭が回らない。
二人を見る。兄者は変わらず酒を飲んで、エリザベスはそれを優しく咎める。
思わず目を細めてそれを見ていたオレの後頭部に、何か柔らかいものが当たる。それが何なのか、オレは知っていた。
「ゲルダ……」
「どうしたんだい、ゼルドリス? キミらしくもない表情をしてたけど」
「……怖いんだ、この平穏を失うのが。もし次に目を覚ましたときに無くなっていたら、これがオレの夢なんだとしたら……」
どうしようもなく怖いんだ。
オレの独白を聞いて、ゲルダは「そうか……」と呟くと、オレから手を離して両手を広げた。そして次の瞬間……パンッ、と。ゲルダの手のひらがオレの頰を捉えた。
予想外のことに一瞬硬直する。
そのまま好き放題にオレの頰を弄り、最後に左右に伸ばす。
ゲルダはそのままオレの顔を覗き込み、短く聞いてきた。
「……どう?」
「
「おっと、ごめん。少し強かったかな」
パッと両手を離す。
実際そこまで痛くはないのだが、少し慌てるゲルダが可愛かった。
そんな感想を抱くオレの隣で、兄者が身を乗り出してくる。
「……どうだった?」
「……どうって、何が?」
「これに決まってるだろ、これ」
そう言って兄者は、ニヤニヤしながら両手でなにかを揉む動作をする。
それがなにを意味するか理解した瞬間、顔が熱くなるのがわかった。
「そ、そそそんなこと言えない!」
「こーらメリオダス」
「わかってるって、ほんの冗談だよ」
「ふふ……」
「……ふ、ははは!」
兄者を叱るエリザベスと、お世辞にも上手とは言えない口笛を吹く兄者。ゲルダは嫣然としてそれを見ていた。
そんな光景を見ていると、自然と笑みがこぼれた。それはオレだけではなかった。兄者も、エリザベスも、ゲルダも、みんな楽しそうに笑っている。
「さて、じゃあせっかく互いの恋人が揃ったんだ。となればやることは……分かるな?」
「恋人自慢ね!」
「受けて立つとも」
望んでいた、理想の光景だった。兄者たちと他愛の無い話をして、穏やかな時間を過ごして。
幸せだった。この至福の時間が永遠に続けば、と思った。
全ては遠き夢想。
けれど、この瞬間だけは──。
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