ツルギ、フタフリ (わさび仙人)
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第一話

本作品はスマートフォン向けゲームアプリ「感染×少女」のメインシナリオの非公式二次創作小説です。以下の要素を含んでおりますので苦手な方はご注意ください。

・原作に基づいた世界観、登場人物の設定を、読者様が理解している前提で進行していきます。

・原作とは無関係のオリジナルキャラクターが登場します。

・本作は非公式二次創作作品であり、一部の設定や解釈において原作との相違が起こる可能性があります。

・原作シナリオのネタバレ要素を含む可能性があります。

・一部の登場人物による下ネタの要素を含む可能性があります。

以上の内容についてご理解いただける方のみ、本作をお楽しみください。
個人の趣味で書いているシナリオにつき、苦情等は一切受け付けません。嫌なら読むなッ!!笑

はい、そこ。前置きが鬱陶しいってそっ閉じしたそこのあなた。






――読み損ねたことを、後悔しろ。








「『G-4』、『B-8』、それから……『D-11』ッ。近い物資はこのあたりですッ!」

 

 見上げた曇り空から、豹藤(ひょうどう)ちゃんの澄んだ大声が落ちてくる。

 これは号砲。無事に生きていられる保証もない明日へと、僕らが一斉に駆け出すための合図だ。

 

「聞いたねヒサギン! 一番近いGを狙いにいくよ……ってあれ、ヒサギンは?」

 

来栖崎(くるすざき)さんならもう行きましたよ。あと参謀さんも」

 

 そんなアドと百喰(もぐ)の会話が、まだ真後ろから聞こえるような気がする。

 おかしいな。僕は真っ白な髪を波打たせて走る少女を追って、もう随分走ったような気分なのだけれど。

 

 脚が重い。肺が痛い。脳がまともに思考しない。体力に人一倍恵まれていない自分に、反吐が出るほど憤りたくなる。

 それでも僕は走るしかない。微かな点にしか見えないほど突き放された彼女を見失うことは、僕にとっては死を意味するも同然だから。

 

 走る。走る。走る。時折転がっている真新しいゾンビの死骸を避けながら。

 そんな僕の視界から、ずっと追いかけてきた背中が消えた。どうやらこの先の角を右に曲がったらしい。

 すっかり遅れて僕も右折する。しかしその瞬間に僕は、全身の血の気が引くような恐怖感を覚えた。

 

「……来栖崎……?」

 

 乱れた息を整えながら、視線を右へ、左へ。

 しかしどこをどれほど見渡しても人気のない住宅地が広がるばかりで、追いかけてきた彼女の――来栖崎の姿がない。

 

 彼女の名前を呼ぼうとして、咳き込む。

 少し血の味が滲んだ痰を飲み込んだ僕は、もうとっくに追いつけないところまで駆けてしまったであろう来栖崎を追おうと、再び駆け出した――

 

 ――その時だった。

 

「あ……ッ!!」

 

 僕は冷静さを欠いていた。

 来栖崎を見失ったことに対する恐怖、自責、焦燥。これらの感情に完全に支配されていた僕は物陰に潜んでいるゾンビに気づくことができず、あろうことかその真横を通過しようとしてしまった。

 

 当然ゾンビは襲い掛かってくる。僕の喉笛を噛み千切ろうと。

 これに反応できる体力など僕には残っていない。来栖崎と離れてしまった今、僕が死を免れることはもうできない――

 

 ――はずだった。

 

 ヒュン、と。風が突き刺さる音。

 それを僕が耳にすると同時に、目の前のゾンビは何かに殴られたように頭を傾け、倒れ込んだ。

 

 腰が抜け、暴れまわる心臓を手で抑え込むことしかできない僕。

 見るとそのゾンビのこめかみには、七色の羽根が美しい一本の矢が聳え立っていた。

 

「無事か、サンくんッ!?」

 

 声のした方へ視線を向けると、礼音(あやね)さんが駆けてくるのが見えた。

 息切れが酷く、答えることができない僕は、右手を軽く上げて彼女に無事を伝えるので精一杯だった。

 

「ったく。遅すぎ」

 

 そのとき、呆れ返ったようなふてぶてしい声がした。

 僕はその声が聞こえた方へ向かって、砕けた腰を叱咤しながら立ち上がり、よろめき歩く。

 すると、住宅街の一区画先を曲がったところに物資のコンテナ。そしてその上に座る来栖崎の姿が、僕の目に映った。

 

「ケツパ背負ったナメクジかなんかなのかしら、こいつ」

 

 そう呟く軽蔑の視線に、僕はたまらなく安堵する。

 ああ、僕はまだ生きていられると、彼女の姿を目の当たりにすることで実感できるのだ。

 

「どうやら一つ目のコンテナは確保できたようだな」

 

「そうですね……あっ、さっきはありがとうございます、礼音さん」

 

「なに、気にしないでくれ。怪我もなくてなによりだ」

 

 追いついてきた礼音さんとそんな言葉を交わす。

 これが渚輪(なぎさわ)ニュータウンの生存組合における条約。物資コンテナは初めに触れた者の所属する組合が所有権を獲得する。普段はお調子者で世話の焼ける我らがポートラルの盟主――樽神名(たるみな)アドの功績により、組合間における物資の奪い合いはここしばらく起きていないのだという。

 

「他のみんなは?」

 

「樽神名くんたちは二つ目と三つ目のコンテナを狙いに向かったよ。三つ目はさすがに厳しいかもしれないと溢していたがな」

 

 そう話しながらコンテナを背もたれに腰掛ける礼音さんは、ふふと上品に笑っていた。

 随分疲弊していたこともあって、僕もコンテナの隣に腰掛けることにした。まあ、僕はただ走っただけでこの有様なのが恥ずかしいけれど。

 

「……あれ?」

 

 そのとき、僕はふと違和感に気づいた。

 コンテナの一部――主に蓋のあたりが半開きになっている気がする。これまでに何度か物資回収作戦には参加しているが、このようなコンテナを見るのは初めてだ。

 

「なあ来栖崎、お前もうコンテナ開けたのか?」

 

「は? なんで」

 

「いや、蓋がなんだか……」

 

 別に来栖崎が先に中身を抜いたのではと疑っているわけではない。

 ポートラルに所属する約30名が二日間生きられるだけの物資が詰まったコンテナ。そのような貴重なものに、彼女がこっそり手をつけるような人物ではないことは僕もわかっているのだが。

 

「ああ、それはしばしばあることだ。気にするほどでもないだろう」

 

 僕の疑問に答えたのは、隣に座る礼音さんだった。

 

「いくらパラシュートのついた頑丈なコンテナとはいえ、上空からの落下衝撃は計り知れないからな。当たり所が悪かったりすると開いてしまったり、損傷したりすることもあるらしい」

 

「はあ。そういうものなんですか」

 

「まあ、中身が無傷なら何も問題はないさ。私たちは入れ物に用はない。必要なのは中の物資だけだからな」

 

 そんな何気ない礼音さんの言葉に、僕は言いようのない感情を覚えた。

 入れ物に用はない。必要なのは中身だけ。それはまるで、コンテナの上で脚をぶらつかせ、かかとで鉄の箱をカツカツと打ち鳴らしている少女が考えていそうなこと。

 この鉄の箱は、まるで彼女に血を飲ませるためだけに存在する僕のようだなんて、そんなことを考えてしまって。

 

「……それにしても、すみません。また僕は助けられるばっかりでしたね……」

 

 後ろ向きな思考からは何も生まれない。そのようなことはわかっている。

 それでも、僕はこのコンテナとは違う、僕はもっと仲間の役に立ちたいと考え行動するたびに、自分の無力さを痛感して心が擦り減っていく。

 

「誰にでも得手不得手はあるものだ。君は君にしかできない部分で組織を支えてくれているじゃないか。それでは足りないのか、サンくん?」

 

 礼音さんの温かい言葉が胸に染みる。彼女の言う通り、ポートラルという組織における僕の役割は参謀職だ。前線でゾンビと戦う役目ではない。

 

 礼音さんの言葉は確かに嬉しい。彼女は彼女なりの観点で僕のことを認めてくれているのだから。

 けれど、それだけで納得することは難しい。計り知れない恐怖を押し殺して戦う少女たちの陰に隠れて、僕はいつも後方から偉そうに指示を出すだけだ。そんなことしかできない自分が、どうしようもなく歯痒くて、憎らしい。

 

「それでも、少しくらい戦えたらとは思いますよ。自分ばかり守られるのは、やっぱり申し訳ないですし」

 

()の子だな、サンくんも。しかしだ、君には常に冷静に状況を見極め、適切な判断をして欲しいと私は思っている。前線で武器を握っていては、それは難しいだろう?」

 

「まあ……確かにそうかもしれませんけど」

 

「冷静さを欠いた頭脳では統率が崩れる。そうして烏合の衆となれば組織の壊滅は必至だ。君は君の知らないところで、ちゃんとポートラルを守ってくれているのだよ。だからもっと自信を持ってくれ」

 

「……ありがとうございます、礼音さん」

 

 こうして礼音さんから励まされるのも何度目だろう。嬉しいような情けないような。

 来栖崎のかかとがコンテナを叩く音が少し強まったようにも感じる中、僕はぺこりと小さく礼音さんへ頭を下げた。

 

 しかし、僕の中の葛藤は収まらない。

 ポートラルという組織に守られている以上、僕はもっとポートラルに貢献したい――いや、すべきだと思う。

 しかしそれは、来栖崎に血を飲ませるためだけに生きると誓ったことと矛盾しないだろうか。

 

 来栖崎のためだけに生きるべき僕が、ポートラルという組織のために力を尽くすことに疑問を感じる。

 それが間違いだとは思わないものの、どうにも来栖崎に対して罪悪感を感じ得ないのだ。

 

「それはそうとサンくん、気づいているか?」

 

「……?」

 

 自問自答していると、不意に礼音さんの声色が緊張感をまとった。

 しかしその理由がてんでわからない。僕が首をかしげていると、礼音さんは僕と来栖崎だけに聞こえる声で囁いた。

 

「……見られているな、何者かに」

 

「えっ」

 

 冗談で言っているような雰囲気ではない。どうやら礼音さんは、僕が気づいていない何者かの視線を感じ取ったようだ。

 しかし僕には何も感じられない。これも戦い慣れた者とそうでない者の能力の差なのだろうか。

 

「は? 今更? こんなわかりやすい気配に気づかないなんて、よっぽど乳繰り合うのに忙しかったのかしら、このトシマンドリル」

 

「気づいてたのか、来栖崎? どうして言わないんだよッ!?」

 

「フン。私にそんな報告義務があったかしら」

 

 マフラーを弄りながらそっぽを向く来栖崎は、どうやら非常に機嫌が悪いらしい。そもそも機嫌がいいこと自体、最近は稀なのだけれど。

 いや、今はそんなことを考えている場合ではない。問題は僕らの様子を伺っているという、僕には居場所の見当もつかない何者かの目的だ。

 

 コンテナの横取り、というわけではないと思いたい。

 この渚輪ニュータウンでは、アドの功績により物資の奪い合いは禁じられている。投下物資は初めにコンテナに触れた者が所属する生存組合の物となるルールが遵守されているからこそ、生存者たちは物資を巡る抗争を起こさずに済み、横取りの可能性に気を張る必要もなくなっているのだ。

 

 もしこれを無視して物資を奪うような人物が現れようものなら、今後その者の所属する生存組合は《触れるだけで物資の独占権を得る権利》を自ら放棄することになる。物資に乏しいこの環境に置いて、それはあまりにもリスクが大きすぎるはずだ。

 

 だからこそわからない。このコンテナは来栖崎が触れた時点で、ポートラルに所有権がある。

 いくら見張っていたところで、僕らがこの物資を置いて去ることなどありえないというのに。

 

 ならばゾンビがまだいるのだろうか。先ほど見た限りでは、僕を襲った一体だけだったように思えるけれど。

 いや、奴らに相手の様子を伺うような知性などない。もしもゾンビに知性が備わっているのなら、渚輪ニュータウンの生存者はとっくに殲滅されているだろう。

 

 目に見えぬ何者かの意図を必死に読もうと頭を回転させる僕。

 そんな中、隣に腰掛けていた礼音さんはすっと立ち上がると、誰もいないように見える正面に向かって一歩足を進めた。

 

「安心してくれ、私たちに敵意はない。良ければ少し話をしよう。姿を見せてはくれないか?」

 

 礼音さんの呼びかけに対し、返ってきたのは沈黙。

 本当は誰もいないのではないかと思うほどの、長い長い数秒。

 

 言いようのない緊張感に、生温かい汗が僕の首を流れ落ちていく。

 するとそのとき、ある住宅の塀の陰から一人の少女が僕らの前に姿を現したのだった。

 

 紺色のショートヘア。蒼い瞳の釣り目と太眉からは、どこか勇ましく凛々しい印象を受ける。

 B系とまではいかないもののゆったりとしたパンツスタイルに、大きめのブルゾン。身長はそれほど高くはなさそうだが、そのファッションから体格までは正確にわからない。

 

「敵意がないのはこちらも同じだ。覗き見していて悪かったな」

 

 僕らの方へと足を進めながら謝罪を述べる少女は、特に見覚えのない顔だった。

 アドが他の生存組合との会合に行く際には僕と来栖崎が同行することが多いのだが、この少女とはどこの組合でも顔を合わせた記憶がない。

 

 そもそもだ。彼女はここで何をしていたというのだろうか。

 コンテナの物資が目的ならば、ポートラルが所有権を獲得したこのコンテナにはいち早く見切りをつけ、他のコンテナを狙うのが最善手だというのに。

 

「私たちに何か用だったかな? 残念ながら物資を譲ることはできそうにないが、それ以外なら話を聞こう」

 

「いや、特に用があるというわけじゃない。ただ、こんなところで懐かしい顔を見たものだからまさかと目を疑ってな。その動揺を気配として悟られてしまったようだ。私もまだまだ修行が足りないらしい」

 

「懐かしい顔……?」

 

「ああ――」

 

 礼音さんとの対話にも堂々と応じる少女。

 彼女は歩み寄る足をぴたりと止めると、とある人物へと視線を向けた。

 

「――久しぶりだな、来栖崎」

 

 少女と僕、礼音さんの視線が、名を呼ばれた彼女の方へと注がれる。

 コンテナの上でマフラーを弄っていた来栖崎はようやくこちらを向き、少しの間沈黙が流れた。

 

「あんた……」

 

 少女と目を合わせ、ようやく口を開いた来栖崎。

 どうやら二人は知り合いらしい。自分のことをあまり語ろうとしない来栖崎の交友関係には謎が多く、これは僕としても少し新鮮に感じられる。

 

 少なくとも、来栖崎と顔見知りならば話は早そうだ。

 所属する組合のことなどについて詳しく聞けるだろうと安堵した僕は――

 

「……誰?」

 

 ――来栖崎の一言に、一瞬で肝を冷やした。



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第二話

 どうにも耐え難い空気が漂う。あの礼音(あやね)さんですら反応に困ってしまうほどの、胸焼けしそうな苦い空気が。

 状況がわからない。相手の少女は来栖崎(くるすざき)と面識があると言っていたが、人違いなのだろうか?

 いや、名前まで知っているのなら人違いとは考えにくい。なら単純に来栖崎が覚えていないだけか?

 

 どちらにせよ気まずい。どうにかフォローをしなければ。

 しかし例の少女は、その必要はないと語るかのように軽快に笑ってみせた。

 

「ははは、やはり覚えてないか。無理もない。私たちが顔を合わせたのは一度きりだからな」

 

 例の少女の様子からして、彼女は来栖崎の返答をあまり気にしていないようだった。正直僕は少し安心した。

 来栖崎はというと、コンテナの上に腰掛けたまま興味もなさそうにそっぽを向いている。いくら覚えていないとはいえ、自分と面識があるという人物が現れたのだからもう少し話を聞いてもいいと思うのだけれど。

 

「挨拶が遅れて悪かった。私は不知火(しらぬい)。来栖崎とは中学生の時、剣道の大会で一度手合わせした関係だ」

 

「そうだったのか。それはすまない。来栖崎くんのことはどうか悪く思わないでやってくれ」

 

「構わないさ。あの時は互いに面を被っていて、顔も見えづらかったことだしな」

 

 礼音さんと会話する少女――不知火の堂々とした振る舞いは非常に好感が持てる。

 竹を割ったようというか、さっぱりしているというか、物分かりが早くて話のわかる人物という印象だ。

 

 来栖崎と剣道の大会で顔を合わせたということは、不知火も剣でゾンビと戦い、この渚輪区(なぎさわく)を生き残ってきたのだろう。

 今まで背中に隠れていて気づかなかったが、見ると確かに彼女は黒い竹刀袋を背負っていた。

 

「私は三静寂(みしじま)礼音(あやね)。背後にいる者らも含めて、私たちはポートラル所属だ」

 

「ポートラル……?」

 

 挨拶を返した礼音さんの言葉に、不知火はきょとんとした表情を浮かべた。

 一体どうしたというのだろう。僕らの立場を簡単に説明するなら、今礼音さんが述べた言葉以上にわかりやすいものはないと思うのだけれど。

 

「なんだ、その《ポートラル》というものは?」

 

「おや、聞き慣れない名だったかな? ニュータウンの生存組合の一つだよ。特に私たちの盟主の名は知れ渡っていると思うのだがな」

 

「その《生存組合》というものも初耳なんだが……」

 

 ここにきて、どうにも形容しがたい違和感が漂い始めた。

 生存組合を知らない……? この渚輪ニュータウンに生きていて……?

 

 そんなことがありえるのだろうか。

 ニュータウンの生存者はいずれかの組合に所属しているはずだ。個人でこの地獄を生きるなど、考えただけでも恐ろしいというのに。

 

「どういうことだ……? つまり不知火くん、君はどの生存組合にも所属していないと……そういうことなのか……?」

 

「恐らくだが、その解釈で間違いないと思う。私は集団で行動していない。ずっと一人で生き延びてきた」

 

 不知火の言葉に耳を疑った。そんな人間が本当にいるなんて。

 もしこれが本当ならば、彼女は相当な手練れだ。ゾンビと戦う力があるというより、《生き残る》という一点の事柄に対して。

 

 いくら剣道を経験し、武器も持ち合わせているとはいえ、一人で大量のゾンビに囲まれればなす術はない。個人でこのニュータウンを生き残るために重要なのは、いかにゾンビと接触しないかにかかってくるだろう。

 

 事実、不知火は個人でこうして生きているらしい。

 組織として動く僕らですら、状況に応じた適切な行動をとることが難しい中、彼女はそのような重要な局面を幾度となく一人で切り抜けてきたに違いない。かなりの切れ者であることはもはや間違いなかった。

 

「驚いたな……随分苦労しているだろう。この環境を一人で生きていくなど」

 

「そうでもないさ。常に自分の身のことだけ考えていればいいというのは、案外立ち回りやすいものだ」

 

「食料調達はどうしているのだ? 私たちはこうして投下物資を手に入れられるが……」

 

「同じだよ。私も投下物資を少々もらい受けている。投下直後の、まだ誰も手を付けていないものから少量頂戴しては身を隠してきた。他の生存者が集団である以上、見つかって奪い合いになれば勝ち目はないからな」

 

 不知火の言葉は、聞けば聞くほど信じ難いものばかりだった。

 信じ難いものの、すべて辻褄が合っていて納得してしまう。彼女は本当に、この渚輪ニュータウンを一人で生き抜く術を熟知しているのだ。

 

 しかし、そんな不知火の話にも気になる点があった。

 

「実はな、不知火くん。わざわざ身を隠さずとも、奪い合いになどならないのだよ」

 

「……?」

 

「組合間の条約でな。物資の奪い合いは禁じられているんだ。物資のコンテナは、最初に触れた者に独占権が与えられる。先に触れた者がいるコンテナは、他の者に横取りされないことが約束されているのだよ」

 

 礼音さんは、まさに今僕が気になった点について語り始めた。

 不知火はそれに対してまたもきょとんとした表情を浮かべ、礼音さんの言葉に疑いを隠せない様子だった。

 

「そんな規則、誰も守るはずがない。生きるか死ぬかの瀬戸際にいるんだぞ? 殺してでも奪うに決まってる」

 

「ところがこれが遵守されているのだよ。だから今のニュータウンは幾分平和だ」

 

「馬鹿な……信じられない……」

 

 組合の仕組みすら知らず、一人で生きてきた不知火が驚くのも無理はない。

 僕は当時のことは知らないが、感染爆発から最初の14日間は本当に壮絶だったと聞く。

 

 その地獄を一人で生き抜いた不知火だからこそ、ここまで危機管理が徹底しているのだろう。

 そして組織に属さず、条約の情報を得ることもままならなかったのなら、本当に警戒すべきはゾンビではなく人間だという考えを抱いていても不思議ではない。僕らを隠れて監視していた理由にも頷けるというものだ。

 

「もしかしてだが、不知火くん。私たちの後ろにあるこのコンテナ……君が既に開封したということはないか?」

 

「……ああ、来栖崎が来る直前にな」

 

 礼音さんの問いに対し、不知火は一瞬返答を迷うような素振りを見せた。

 しかし彼女はあっさりと答えると、羽織ったブルゾンのポケットから缶詰と飲料水のペットボトルをいくつか取り出してみせた。

 

「ふむ。どうやらサンくんが言っていたコンテナの蓋の違和感は、不知火くんが開封した跡だったらしい。ならば仕方がない。組合間の条約に則り、このコンテナは君のものだ、不知火くん。私たちは潔く身を引こう」

 

「はあッ!? ちょっと待ちなさいよトシマンドリルッ!!」

 

 まったく関心を示していなかった来栖崎がコンテナの上で吠える。意外にも耳は傾けていたらしい。

 

「このコンテナは私の手柄でしょ。なに勝手に譲ろうとしてるわけ?」

 

「違うぞ来栖崎くん。君より先にコンテナに触れたのが不知火くんなのだから、それは不知火くんのものだ」

 

「はあー? 私が見つけた時は誰もいなかったし。どうやってそいつが先に触ったって証明するのよ」

 

「君も見ただろう、不知火くんが持っている食料を。あれが何よりの証明だと思わないか?」

 

「思わないし。その缶詰がほんとにこのコンテナから取ったものかどうかなんてわかんないじゃない!」

 

 来栖崎と礼音さんの口論――というか、騒ぐ来栖崎を礼音さんが冷静に諭そうとする様子を、僕は黙って見ていることしかできなかった。

 

 本当ならば礼音さんの側につくのが正しいのかもしれない。けれど来栖崎の言い分にも一理あるのだ。

 不知火がコンテナに触れたところを目撃した第三者がいない以上、それを証明することは難しい。彼女が持っていた食料だって、《相手の了承を得た上でコンテナを奪う》ために予め持ち歩いていたものである可能性がないとは言い切れないのだ。

 

 しかし、もしそうでなかったら? 不知火の話がすべて本当であるならば、このコンテナを彼女に譲らなければポートラルは条約違反となってしまう。

 不知火にその情報を拡散されでもしたら、他の生存組合からの非難は避けられない。そうなればポートラルは一巻の終わりだ。礼音さんはそれを危惧しているのだろう。

 

 どうすれば……僕はどうすればいい?

 

 中立と言えば聞こえはいいが、要はどっちつかずの半端者。僕は自己を持たず、誰からも責められない、都合のいい立場にいる傍観者だ。

 しかしそれではこの場は収まらない。来栖崎につくか、礼音さんにつくか。きっと僕の判断で、この議論の結末は変わってくる。くれぐれも慎重に、かつ適切な判断をしなければならないだろう。

 

 

 

 

 

 

 

「――来栖崎の言う通りだ」

 

 ところが、がやがやと言い争う二人に割り込むようにそう述べたのは、僕ではなかった。

 その結論を口にしたのは、なんと意外にも不知火だったのだ。

 

「一度この場を離れた以上、私が最初だと証明する手段はない。それにだ。触れるだけで物資が独占できるという組合の規則の恩恵を、どこの組合にも属していない私が受けるのは筋違いだろう」

 

 そう話しながら、不知火は礼音さんの方へと歩み寄っていく。

 そして彼女は何の躊躇いもなく、自分の持つ食料を礼音さんへと手渡した。

 

「これは返そう。そのコンテナから抜いた分だ。規則のことを知らなかったとはいえ、悪いことをしたな」

 

「だが……それでは君が……」

 

「いいんだ。今回は気配を悟られてしまった私の失敗だからな。だが、次からはもっと上手くやる。今後はコンテナの違和感に気づいても、見て見ぬふりをしてもらえると助かるよ」

 

 なんという潔さ。明日どころか今日食べるものにも困るこのニュータウンにおいて、これは簡単に下せる決断ではないだろう。

 しかし、ふふんと勝ち誇ったような顔をする来栖崎とは対照的に、礼音さんの表情は浮かばない。

 それもそのはずだ。不知火が納得したとはいえ、僕らは最初にコンテナに手を付けたかもしれない者から、ほんの一握りの食料をもらい受けようとしているのだ。礼音さんの性格では罪悪感を感じるに決まっている。

 

 するとそのとき、僕の中に一つの考えが浮かんだ。

 来栖崎の主張も礼音さんの懸念も、すべてが丸く収まる完璧な解決策が。

 

「待ってくれ」

 

 礼音さんへ食料を返し、背を向けてこの場を去ろうとする不知火。

 気が付くと僕は、そんな彼女の背中へ咄嗟に声をかけていた。

 

「どこの組合にも所属してないなら、僕らと一緒に来ないか、不知火?」

 

 その言葉に、不知火がピタリと足を止める。

 僕の背後からは来栖崎の「……は?」という殺意に満ちた声が刺さり、隣に立つ礼音さんからはその手があったかとハッとなる息遣いが聞こえた。

 

 これは確実に最善手だろう。コンテナの所有権は変わらずポートラルが持ち、かつ不知火もこの物資の恩恵を受けることができるようになる。

 さらには、これまで一人でこのニュータウンを生き延びてきた不知火も、ポートラルに所属することで仲間と助け合いながら生きていくことができるのだ。来栖崎は不服のようだが、絶対にそうした方がいいに決まっている。

 

「……悪い。もう一度、言ってくれるか?」

 

「ああ。ポートラルの仲間にならないかって言ったんだ。そうすれば食料調達もゾンビとの戦いも、全部一人でやらなくて済む。みんなで助け合えるんだ。悪い話じゃないだろ?」

 

 振り向いた不知火の言葉に、僕はもう一度答える。

 この地獄をずっと一人で生きてきた不知火のことだ。これだけ凛々しい彼女でも、きっと怖い思いや大変な思いをたくさんしてきたに違いない。

 

 そんな彼女に手を差し伸べたい。傍観するだけではなく、一人でも多くこの地獄で生き残るために、僕もできることをしたいのだ。

 

「一つだけ、答えてくれ」

 

 僕の目をまっすぐに見据え、不知火はそう述べた。

 

「今、声を聞いてまさかと思ったんだが……お前はもしかして……男か?」

 

 論点のずれた不知火の問いに、僕は一度固まりかける。

 しかしこの疑問は決して不自然なものではない。感染爆発以降、男性の生存率は0%であるとされている。おそらくたった一人の例外である僕を見て驚かない者など、このニュータウンにいるはずがないのだから。

 

「ああ、そうだ。理由はわからないけど、どうやら僕は感染しない身体らしい」

 

「本当なのか……? どうにも男性的な外見の女がいると思っていたが、まさか……」

 

 蒼い蒼い瞳を見開き、一歩一歩歩み寄りながら驚愕する不知火。

 男性生存者の存在しないこのニュータウンで遭遇した僕という存在は、例えるなら現代の街中に突如出現した恐竜のようなものだ。絶滅したはずの生物が目の前に現れて、冷静でいられる者などいないだろう。

 

「名は……なんと言う?」

 

 ついに僕の目の前までやってきた不知火。

 今までの凛として逞しかった表情から一転。彼女は僕と視線をべったり合わせたまま、一声一声を繊細に噛み締めるように、弱々しい声で問うた。

 

「みんなからはサンって呼ばれてる。実は記憶がなくて、本名を思い出せなくてな……」

 

「サン……サンか……」

 

 ゆっくりと咀嚼して飲み込むように、不知火は僕の呼び名を復唱する。

 そして大きく息を吸い込みながら天を仰いだ不知火は、背負った竹刀袋の口を解きながら声を発した。

 

「サン。さっきの提案だが、ぜひともよろしく頼む。飯を食う口が増えるのは厄介だろうが、その分は戦の前線で活躍することで取り返してみせよう……この剣に懸けて」

 

 再び表情を引き締めた不知火は、竹刀袋から取り出した日本刀を僕の前に水平に突き出してそう述べた。

 黒い鞘に反射した太陽の光が目に刺さる。その輝きは不知火の言葉を体現するかのように明るく、力強く、眩しかった。



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第三話

「決まりだな。これからよろしく頼む、不知火(しらぬい)くん」

 

 凛々しかった礼音(あやね)さんの口調が柔らかくなった。早くも不知火を仲間として受け入れる姿勢はさすがとしか言いようがない。

 正直なところ、ゾンビと戦える人員が増えることは非常に有難い。必要な食料が一人分増えるくらいのリスクなど帳消しを通り越して黒字になるくらい、不知火の加入はポートラルに良い影響をもたらすだろう。

 

 そうと決まれば盟主であるアドに伝えなければ。それから、幹部を含めてポートラルのメンバーにも紹介しないと。

 しかし、僕と礼音さんのそんな浮き足立った雰囲気を前に、コンテナの上の少女はなぜだか不愉快そうに眉を顰めていた。

 

「……不服そうだな、来栖崎(くるすざき)

 

 その苛立ちにいち早く気づいたのは、僕でも礼音さんでもなく不知火だった。

 

 来栖崎は何かを答えるでもなく、無視するかのようにそっぽを向く。せっかく新しい仲間が加わることになったというのに、空気が悪くなりそうで心配だ。

 来栖崎は一体何が気に入らないというのだろう。まあ、彼女が簡単に心を開くような性格ではないことはわかっているけれど。

 

「そんなに穀潰しが増えるのが嫌か? それとも、自分より先にコンテナに辿り着いた者がいるのが悔しいのか?」

 

「は? なにこいつ。勝手な妄想をぺらぺら喋らないでくれるかしら。あと馴れ馴れしい」

 

「おい来栖崎、やめろって」

 

 なんだか来栖崎と不知火の会話の雲行きが怪しい。いきなり仲間割れなどまっぴらごめんだ。

 そう考えた僕が来栖崎を諭すと、彼女は僕をキッと睨んで、またそっぽを向いた。

 

「ま、せいぜいそこのもやしみたいな足手まといにはならないでよね」

 

 捨て台詞こそ後味の悪い雰囲気だが、来栖崎もなんとか不知火の加入を認めたようだ。いや、厳密にはそういう空気になってしまったから止む無くといった風だけれど。

 

 まあ、来栖崎が他人と打ち解けるのに時間がかかるのは今に始まったことではない。

 24時間行動を共にする僕ですら未だに彼女に受け入れてもらえてはいないのだ。……あるいは24時間行動を共にしているからこそ受け入れてもらえないのだとも考えられるけども。

 

 けれどそのようなことはどうだっていい。

 僕は来栖崎に血を飲ませるためだけに生きている。彼女が僕を認めるも認めないも、僕が生きていく上では何の意味もないことだ。

 

 けれど、不知火にとっては違う。仲間との(わだかま)りは、今後背中を預け合う上で致命的な弱点となりうるからだ。

 特に2人は共に剣を持っており、戦いの最前線に並んで立つことになる可能性が高い。どうにか仲を取り持たなければと、僕はあれこれ考えを巡らせた。

 

「足手まとい、か。心配しなくてもそれはありえないさ。なんなら手合わせして試してみるか、来栖崎?」

 

 すると不知火はそう言って、手にした剣を来栖崎へと向けた。

 鞘に収まったままとはいえ、これは紛れもない宣戦布告。彼女の実力を見る上では悪くない提案だが、この雰囲気では後の関係性を悪くするだけだ。

 

 それに、来栖崎が《感染》によって超人的な力を発揮していることを不知火は知らない。

 いくらこのニュータウンを一人で生き抜く実力があるとはいえ、ただの人間である不知火が感染した来栖崎と打ち合えばどうなるか、結果は考えるまでもないだろう。

 

「いや、不知火。そこまでする必要は――」

 

「――アホくさ。振りたきゃ1人で刀振ってればいいでしょ」

 

 ところが僕が止めるまでもなく、来栖崎は不知火の提案を突っぱねた。

 来栖崎もここで打ち合う意味がないことをわかっているのだろう。これから協力していく関係であるはずなのに、初日から仲間割れのようなことをするわけにはいかない。まあ、単純に面倒くさがっているだけなのかもしれないけれど。

 

「怖いのか、私と剣を交えるのが」

 

 ところが、意外なことに不知火はこのまま引き下がろうとはしなかった。

 

「まあそれも致し方ないか。察してやれなくて悪かった。誰だって《同じ相手に二度も負ける屈辱》なんて味わいたくないものな」

 

「……あ?」

 

 ぞわりと悪寒が走る。背後の来栖崎が尋常ではないほどの殺気を放っているのだ。

 彼女はコンテナから飛び降り、不知火を睨みながら足を進めていく。どうやら不知火の挑戦を受けるつもりのようだ。

 

 これはまずい。なんとしても止めなければ。

 不知火の言葉からして、以前剣道の大会で来栖崎と戦ったときには、おそらく不知火が勝ったのだろうと想像できる。つまり剣の実力では不知火の方が上なのだろう。

 

 しかしそれが今も同じであるはずがない。

 来栖崎は感染によって、踏み込んだだけで地を砕く膂力(りょりょく)や、たった一歩で数十メートルの距離を詰められるほどの俊敏さを持っている。いくら武道を経験しているとはいえ、常人が敵うはずがない。

 

「おい、来栖崎。一旦落ち着――」

 

「――邪魔」

 

 来栖崎を止めようとして進路に割り込んでみたものの、僕は軽々と突き飛ばされて尻餅をついた。

 それを見た不知火の眉がぴくりと動き、同時に僕を心配した礼音さんが駆け寄ってきてくれた。

 

 しかし、それらを気に留めている余裕などない。早く来栖崎を止めなければと、僕は慌てて腰を持ち上げた――

 

 ――けれど、遅かった。

 その瞬間、二人の剣士の刀の鞘と鞘がぶつかる鈍い音が響き渡ったのだ。

 

「いきなり切りかかるか。真の剣士なら、互いに構えの姿勢を取ってから打ち合うべきだろう」

 

「なにそれ、ダサすぎワロタ。私は剣士ごっこになんて興味ないわよッ!!」

 

 鍔迫り合いの中、語尾を強めながら来栖崎が剣を振り抜く。

 不知火はその力を難なく往なすと、数歩下がって剣を構え直した。

 

 刹那、来栖崎が間合いを詰める。そして猛攻。一撃、二撃、三撃……幾度となく繰り出される、目にも止まらぬ速さの太刀筋。

 これは本当にまずいことになった。来栖崎に何と言われても止めなければ不知火が危ない。そう思った僕は二人の元へ駆け出そうとしたが――

 

「嘘だろ……」

 

 目の前の光景に、僕は唖然としてしまった。いや、僕だけでなく、礼音さんもだ。

 なんと不知火は、あの来栖崎の猛攻をすべて自分の剣で受け流しているのだ。

 

 まともに受け止めはしない。来栖崎の剣をすべて外側へ外側へと往なし続ける。

 傍から見ている僕は来栖崎の太刀筋を目で追うのがやっとだというのに、不知火はそれらすべてに反応し、なんなく捌いている。ひょっとすると不知火も感染しているのではと考えてしまうほどだ。

 

「この……ッ! こいつ……ッ!」

 

 来栖崎が次第に焦りと苛立ちを見せ始め、攻撃が徐々に大振りになっていく。

 すると不知火はその瞬間を待っていたかのように身を(ひるがえ)し、今まで受け流し続けてきた剣をひらりと(かわ)してみせた。

 

 体重の乗った剣は受け皿を失い、来栖崎は「わわッ!?」という声と共に大きくよろめく。

 そんな来栖崎がバランスを立て直した瞬間、不知火の剣の鞘は来栖崎の首にぴたりと当てられて動きを止めたのだった。

 

 聴覚を失ったのかと錯覚するほどの、無音。長い長い一瞬の沈黙。

 呼吸を忘れ、風の音すら聞こえないように感じる中、不知火はそっと剣を引いて凛と佇んでみせた。

 

「喉元を裂いた。私の勝ちだ」

 

 その一言に、誰も異を唱えることはできなかった。

 本当に信じ難いが、不知火は僕らの目の前で、あの来栖崎を打ち負かしてみせたのである。

 その強さを目の当たりにして、僕も礼音さんも言葉が出ない。来栖崎は幾分手加減していたのだろうけれど、それを差し引いても不知火の強さは圧倒的だったのだ。

 

「……調子乗ってんじゃないわよ。今のはちょっと……油断しただけだし」

 

「甘えたことを言うな。これが本当の斬り合いだったなら、その油断一つでたった今お前は死んだんだぞ」

 

「は? そんなに本物の斬り合いがしたいなら、望み通りにしてやろうじゃないの」

 

 来栖崎がより一層の殺気をまとい、ついに鞘から刀を抜いた。

 いよいよまずい!! 本当にまずい!! 次こそ来栖崎は本気で不知火を殺しかねない。それだけは何としても避けなければ……ッ!!

 

 しかし僕が駆け出すよりも早く、来栖崎は不知火へ襲い掛かる。

 そして不知火も同様に鞘から剣を抜き、来栖崎の攻撃を受ける構えの姿勢を取った――

 

 

 

 

 

 

 

「――そこまでだぜィ!!!! 剣を収めなァ、小娘どもォゥッ!!!!」

 

 そのとき響き渡ったのは、この緊張感漂う場には明らかに不釣り合いな、意気揚々とした啖呵だった。

 まさに電光石火。疾風迅雷。来栖崎の剣が不知火を捉えるよりも、僕が二人の元へ走り出すよりも早く、二振りの剣の間には我らが盟主――樽神名(たるみな)アドが割り込んでいたのだ。

 

「なッ!? アドッ!?」

 

 驚いた来栖崎が踏ん張って急停止。そんな彼女の刀は、アドの額を割る寸前でなんとか踏み止まっていた。

 アドの背後に構える不知火も目を丸くしている。当然だ。誰が予想できるだろう。自らの命を顧みず、二人の剣士の斬り合いの間に丸腰で割り込むバカの出現など。

 

「ヘイヘイヘーイ。このあたしの目を盗んでなーに楽しそうなことやってんだい? いけないねえ。見逃しちゃあおけないねえ」

 

「あ、あんたね! バッカじゃないのッ!? 危うくぶった斬るところだったじゃないッ!!」

 

「フッフッフ。甘いぜヒサギン。この樽神名アド様の念力を持ってすれば、刀を止めてみせるくらい朝飯前よッ!!」

 

「踏み止まったのは私でしょッ!? 意味不明なんだけどッ!」

 

 場の空気は一転。殺気が渦巻いていた剣士たちの間合いは一瞬にして、一体どこに重心があるのかわからない謎の立ち姿を披露するアドのテンションに支配された。

 なんというか、助かった。危うくこの場で《人間の》死者が出るかもしれなかったのだ。ここはアドの奇行に感謝すべきだろう。

 普段は空気の読めないアドの言動や行動に悩まされている僕らだが、今回ばかりは彼女に国民栄誉賞でも与えたい気分だ。彼女の足元にだけ存在している超局地的ゲリラ豪雨の跡には、今回は目を瞑ってやるとしよう。

 

「おい樽神名ァ……テメェいきなり荷物放り出して何してんだァ?」

 

「ぅぅぅ……重いです……」

 

 来栖崎とアドがガヤガヤと騒ぐ中、遅れて僕らの前に現れたのは、大きな袋を背負った姫片(ひめかた)豹藤(ひょうどう)ちゃんだった。

 その後ろには百喰(もぐ)もいる。どうやらアドの分の荷物まで三人で手分けして運んできたらしい。

 

 ということはつまり、アドのグループもコンテナの確保に成功したということだ。

 各々が背負った袋の数を見るに、どうやら三個目のコンテナは入手できなかったようだが、二つ分確保できたならば上出来だろう。

 

「あー、メンゴメンゴ。風があたしを呼んでたからさ。つい」

 

「つい、じゃねえよ。妄想が詰まったその頭ァ、ほんとに風穴開けてやろうかァ?」

 

「ま、まあ落ち着けって姫片。それよりもみんなに話があるんだ」

 

 額に血管を浮かび上がらせる姫片を宥めながら、僕は話題を逸らそうとそう切り出した。

 僕の言葉で皆が気づく。この場には見慣れぬ顔があることに。

 

「さっきここで会った不知火だ。どこの生存組合にも所属してないらしいから、僕らと来たらどうかって提案してたところなんだけど」

 

「生存組合に所属していない? そんな人間がいるんですか、このニュータウンに?」

 

「ああ。まさに今ここに」

 

 僕が不知火を紹介すると、すぐさま百喰が懐疑的な視線を向けてきた。

 疑り深い性格の彼女のことだ。このような反応をされるのも仕方がない。

 しかしこれは紛れもない事実だ。僕だって最初は信じられなかったが、不知火は組合のことも条約のことも何も知らなかったのだから。

 

「そういうことだ、アド。いいだろ?」

 

「にゃるほど。サンちゃんがいいと思うなら、もっちー」

 

 一応ポートラルの盟主であるアドに、不知火加入の是非を問う。

 案の定、アドの返答は予想通りだった。あまりにも軽いノリで加入が認められたものだから、不知火は戸惑いの表情を隠せていなかったけれど。

 

「悪いな、これから世話になる」

 

「いーってことよッ。出会った美少女は必ず仲間にするのがうちのモットーだからねん」

 

「美少女……か……」

 

 いや、そんなモットーはなかった気がするが。というか、それが事実なら僕は一体どういった括りになるのだろう。

 いや、考えるのはやめておこう。アドの話をいちいち真に受けていたらキリがない。

 というかアド。お前あまりのハイテンションっぷりにいきなりドン引きされてないか。お前と話す不知火の顔が引きつってるぞ。

 

「んでんで、名前はなんぞ?」

 

「名前? 名前は不知火だ。さっきサンから紹介されたはずだが……」

 

「違くて違くて。それは苗字でしょー。下の名前も教えちくりよーん」

 

「はあ……」

 

 いきなり馴れ馴れしく肩を組んできたアドへの反応にあからさまに困る不知火。

 そうだ。アドは僕と初めて会った時もやたら距離が近かったな。仲間に対して壁を作らないという意味ではよいことかもしれないが、少しは加減を覚えてもらいたいものだ。

 

「不知火……な……だ」

 

「およ? なんて?」

 

「不知火……なずな」

 

 アドに名を教える不知火は、なぜだか下を向いてしおらしくしていた。

 凛々しい印象の一方で、少し照れ屋だったりするのだろうか。名乗ることをここまで渋るとは、彼女も意外な一面を持っているようだ。

 

「オッケー。これからよろしくねナズナズ!」

 

「待て、今何と?」

 

「ああ、気にすんな。こいつすぐあだ名つけたがるやつだからよ」

 

 アドに呼ばれた名を即座に聞き返した不知火。

 やっぱり馴れ馴れしすぎて敬遠されているのではないだろうか。姫片がフォローに入ったからまだよかったものの。

 

「いや、悪い。名前で呼ぶのはよしてもらえるか。私のことは苗字で不知火と、そう呼んでくれ」

 

「えー。下の名前ダメなのー? じゃあ、ヌイヌイは? これならいいっしょ?」

 

「……まあ、それなら……」

 

 いい加減気づけアド。お前ほんとに引かれてるから。

 しかしながら、皆が不知火加入に対して前向きで本当によかった。来栖崎といざこざを起こすところだったことを考えれば、そんな当然とも言えることにほっとする。

 

「……ってあれ、来栖崎?」

 

 そのとき僕は気づいた。さっきまでいたはずの来栖崎の姿がない。

 慌てて辺りを見渡すと、彼女はいつの間にか背を向けてすたすたと歩み始めていた。

 

「待てよ来栖崎。どうしたんだ?」

 

「……萎えた。帰る」

 

「帰るってお前、物資は!?」

 

 どうやら来栖崎は不知火との勝負に水を差されたことが気に入らないらしい。

 自分が確保した物資をほったらかして帰りたくなるほど、彼女は機嫌が悪いようだ。

 

 というか来栖崎が先に帰ってしまったら、僕は彼女から離れられない以上、物資を持ち帰る仕事ができないのだけれど!?

 きっと僕と来栖崎が持ち帰るはずだった分まで、礼音さんと不知火が抱えて帰ることになるのだろう。あとでしっかり謝っておかなければと、僕はため息をつきながら来栖崎の背を追った。



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第四話

「やーやー皆のしゅー! ちゅうもーく!!」

 

 午後のひと時。確保した物資を持ち帰った僕らは、例のごとくデパートの会議室に集まっていた。

 議題はもちろん、不知火(しらぬい)のポートラル加入についてだ。

 

「この出会いは偶然か必然か。それとも運命か宿命か。我らがポートラルに新たな同胞を迎え入れたことを、この樽神名(たるみな)アド様が今ここに報告するぜィ。紹介しよう! 彗星のごとく現れた美少女剣士の名は――ヌイヌイッ!!」

 

「知ってる。一緒にここまで来ただろうが」

 

「しゃーらっぴゅー!! こういうのはムードっちゅーもんが大事でしょーがッ!!」

 

 改まって意気揚々と不知火を紹介するアドが、姫片(ひめかた)の冷たい指摘に頬を膨らませた。

 不知火もなんだか反応に困ったような表情を浮かべている。そろそろ本当にアドを避け始めるかもしれない。仲間にネグレクトされるなど、なんと哀れな盟主だろうかと呆れそうになる。

 

「あの、あだ名ではなく名前を教えてくださる? 皆さんと違ってわたくしは初対面ですわ」

 

「ああ、そうだよな、甘噛(あまがみ)

 

 物資回収には参加していなかった甘噛の当然の反応にフォローを入れる僕。確かに、デパートで留守番をしていた彼女がこの空気についていけるはずはない。

 

「彼女は不知火。さっきの物資回収の途中でたまたま会ってな。どこの生存組合にも入ってないらしいから、僕からポートラルに来ないか提案させてもらったんだ」

 

「まあ、組合に加入しておりませんの? それは驚きですわね」

 

 やはり甘噛も僕らと同様の反応だった。それだけこのニュータウンに置いて、生存組合という仕組みが重要視されているということだろう。

 しかしそんな仕組みを作ったのが、僕らの目の前で新たな仲間の加入に浮かれまくっているハイテンションガールだなんて……正直嘘だと言われれば納得してしまいそうである。礼音(あやね)さんあたりだろう、こういうのは普通。

 

「さすがはサン様。誰にでも救いの手を差し伸べるお優しい姿勢、本当に素敵ですわ」

 

「ああ……ありがとな」

 

 僕の隣に座る甘噛が満面の笑みで腕に絡みついてくる。

 これはいつものことと言えばいつものことなのだが、何度経験しても周囲の目が気になって仕方がない。まあ、みんなすっかり慣れて誰も気にしてはいないように見えるけれど。

 

「紹介を賜った、不知火だ。よろしく頼む」

 

 短めの挨拶を述べた不知火は、ぺこりと小さく頭を下げた。

 一同の拍手で、晴れて彼女もポートラルの仲間入りだ。

 

「んじゃーヌイヌイこっちおいでー。お姉さんがポートラルの幹部を一人ずつ紹介してあげよう」

 

 アドに強引に手を引かれ、不知火は会議室の面々を一人ずつまわっていく。

 不知火は浮かれ切ったアドに随分翻弄されているようにも見えるけれど、大丈夫だろうか。

 

「大丈夫ですかね、不知火……いきなりアドに振り回されてますけど」

 

 アドたちの様子を楽しげに見守る礼音さんに、僕はこっそり声をかけた。

 

「なに、初めは戸惑っていても、不知火くんも直に慣れるさ。樽神名くんの力量を知れば、いずれね」

 

 礼音さんの落ち着きっぷりは本当に見習いたい。それだけアドのことを評価しているのだとわかる。

 僕自身もアドのことは認めている。ただ残念な点が多いだけに、認めているのだと認めたくない自分がいるのは……否めない。

 

 

 

 *****

 

 

 

「そんじゃ、この会議はこれにて閉廷ッ!! 解散ッ!!」

 

「「うーい」」

 

 裁判じゃねえよ、なんてツッコミを入れる者はいない。一人だけテンションの高いアドを残して、各々が会議室を後にした。

 アドはまさにポートラルの基本理念――《終末をもっと楽しもう》の体現者だ。壊れてしまったこの世界ですら、彼女にとってはテーマパークも同然なのだろうか。

 いや、それはさすがに言い過ぎかもしれない。そんなことを本人に尋ねようものなら、意外と「遊園地の方が楽しいに決まってるっしょ?」なんて真顔で答えそうだし。

 

 けれど時々そう思い込んでしまいそうになるほど、彼女はいつも楽しそうにしている。

 この壊れてしまった世界においては、安全な拠点よりも十分量の食料よりも、こうして仲間と馬鹿騒ぎできる雰囲気の方が、案外一番大切なのかもしれない。

 

「いやあ、ここの盟主は随分とエネルギッシュだな」

 

 来栖崎(くるすざき)と共に会議室から自室へと戻る途中、不意に僕に声をかけてきたのは不知火だった。

 

「そもそも人と話すこと自体久し振りだったから、少しばかり疲れたよ」

 

「毎日会ってたって疲れるよ、あいつは」

 

「ははは。お前も皮肉を言うんだな、サン」

 

 会議室では口数が少なかったように思える不知火だったが、ようやく表情が少し柔らかくなったように感じる。

 やはり人見知りしやすい性格なのだろうか。今は僕の隣に来栖崎という顔見知りがいるから、それほど気を張ってはいないようだ。

 

「それはそうと、私に謝らせて欲しいんだ」

 

「謝る?」

 

 デパートの通路を歩きながら、不知火が唐突に話を切り出した。

 何のことか見当もつかない僕は、ひとまず立ち止まって彼女の言葉に耳を傾けることにした。

 

「ああ。このデパートに来る前の話だが、あのときは煽って悪かったな、来栖崎」

 

 僕から来栖崎へと視線を向け直し、そう述べる不知火。

 先ほどからずっとむくれた様子で知らん顔していた来栖崎も、ここにきてようやくこちらへと顔を向けた。

 

「弁明させてもらうと、戦力として役に立つかどうか不信感を抱かれたまま加入するのは、私としても不本意だったものでな。お前に私の実力を示すには、あれが一番手っ取り早いと思ったんだ。今では早計だったと反省している」

 

 そう語る不知火の潔さに、僕はますますの好感を覚えた。

 しかし来栖崎はその謝罪を耳にしても、不知火を突っぱねるように再びそっぽを向いた。

 

「おい、来栖崎……」

 

「いいんだ、サン。あの勝負をけしかけたのは私の方だしな。これからの活躍で信頼を取り戻せるよう、努力させてもらうよ」

 

 不知火は許容したようだが、僕としては何とも言えないもどかしさが残った。

 これから背中を預け合う仲間になったというのに、いきなり関係に亀裂など作りたくはなかったのだけれど。

 しかしながら、来栖崎も不知火を許してやればいいのにと思う。負けてしまったことを根に持っているのか、それともいつものように他人に心を開きにくいだけなのかは、僕にはわからないけれど。

 

「そうだ。それと一つ聞きたいことがあったんだ」

 

「聞きたいこと? なんだ、不知火?」

 

 改まってそう述べる不知火に、僕は再び耳を傾ける。

 これまで組合のことすら知らずに生き延びてきた彼女のことだ。突然放り込まれた環境への疑問は尽きないだろう。僕で答えられることならばなんでもサポートすべきだ。

 

「ああ。少しばかり聞きづらいんだが……サンと来栖崎は、一体どういう関係なんだ?」

 

 しかしその問いに、僕は一瞬固まってしまった。まさか最初にこの疑問が投げかけられるとは思っていなかったのだ。

 

「悪意があって尋ねているわけじゃないことはわかってほしい。ただ、この短時間で純粋に疑問に思ってな。お前たち二人が常に行動を共にしている理由がわからないんだ。恋仲というわけじゃないんだろう? 来栖崎の態度からは、とてもそういった風には見えない」

 

「ああ……それはな……」

 

 何と答えるのが正しいのだろうか。

 僕は来栖崎に血を飲んでもらうためだけに生きる存在。そして来栖崎は、自身の感染を治療し、恋人を見つけ出すまで命を繋ぐために僕の血を飲んでいるだけだ。

 常に行動を共にしている理由は、突然の感染発作に対応するため。それ以上でもそれ以下でもない。

 

 けれど、これをどう説明したらいいのか、僕にはわからない。

 このような歪な関係を説明したところで、不知火のような常識人に理解してもらえるとは到底思えないのだ。

 そもそもこの関係に屈辱すら抱いている来栖崎の前で、僕なんかが安易に他人に語っていいものでもない。ならば、一体どう答えるのが正しいというのだろう……。

 

「いや、やっぱり答えなくていい」

 

 ところが、口籠る僕に不知火はそう述べた。

 

「話しにくい事情があるなら無理には聞かない。仲間になったとはいえ、知られたくないことの一つや二つ、誰にでもあるだろう」

 

「……すまないな、不知火」

 

 不知火の言葉には、正直救われたようにも感じられた。これほど物分かりがよく、気配りもできる彼女ならよい仲間になれそうだと、僕は純粋にそんな印象を抱いた。

 ただ、僕の背後の来栖崎はずっと難しい顔をしている。まあ、時間はかかるかもしれないけれど、少しずつ打ち解けていってもらえたらいいだろう。不知火もきっとわかってくれるはずだ。

 

「ヌイヌイーッ!!」

 

 不意に廊下を走って近づいてくるアド。

 いつにも増して楽しそうな彼女は、またも強引に肩を組んで不知火を困らせていた。

 

「えっと、まだ何か用が?」

 

「あるあるそりゃあるぜヌイヌイ。君がいなきゃ始まらないチョーゼツ大事な用が」

 

 アドが何を言おうとしているのか、僕はもうあらかた予想がついていた。

 なぜなら廊下の先の角から、アドが何を言うのかそわそわと様子を窺う姫片と豹藤(ひょうどう)ちゃんの姿がちらりと見えているからだ。

 

「今夜は荒れるぜ。ヌイヌイの仲間入りを祝して歓迎パーチーを開催するから、デパートの屋上にカモンベイベーッ!!」

 

「「宴じゃーーーーッ!!」」

 

 ほら、やっぱり。アドが啖呵を切るのに合わせて、姫片と豹藤ちゃんが涎を垂らしながら飛び出してきた。

 しかし、これに反対するほど僕だって野暮じゃない。せっかく仲間が増えたのだ。歓迎会くらいしてあげたい。

 今はまだ、このポートラルの明るすぎるくらいの空気に困惑している様子の不知火だけれど、少しでも早く輪の中に馴染めるよう、まずは宴会でも楽しんでもらいたいものだ。



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第五話

「……いつまでそうしてるんだよ」

 

 西日が傾き始めた頃。おそらく屋上では不知火(しらぬい)の歓迎会の準備が着々と進められていることだろう。

 そんな折に僕と来栖崎(くるすざき)は、自室で夕方の輸血を行っていた。

 

「は? なにがよ」

 

 僕の指を咥えたままで、来栖崎がそう答える。

 

「不知火に対して冷たくしすぎなんじゃないかって話だよ」

 

 物資回収を終えてからというもの、来栖崎の様子は明らかにおかしい。

 口が悪かったり愛想がなかったりするのはいつものことなのだが、それがいつにも増して棘があるのだ。

 

 原因は大体予想がつく。手加減していたとはいえ、不知火と打ち合って負けてしまったことが気に入らないのだろう。

 

「確かにあの勝負は褒められたものじゃないけどさ、不知火だって反省して謝ってただろう? 仲間としてちゃんと向き合ってあげてもいいんじゃないか?」

 

 小言を垂れるようでいい気分ではないけれど、せっかく増えた仲間と亀裂を残したままにしたくない。

 このままの状態を引きずるのは絶対に来栖崎にとってよくないはずなのだ。だから僕は心を鬼にして彼女に説教をする羽目になっているのだが、そんな僕の覚悟など露も知らず、来栖崎は僕の指を思いきり噛んだ。

 

「痛ッだ!? 何するんだよッ!?」

 

「……フン」

 

 たまらず手を引いてしまった僕。まあ、輸血の量はもう十分だろうから問題はないのだけれど。

 しかし来栖崎の機嫌は相変わらずだ。一体どうしてそこまで不知火を目の敵にするのだろうか。

 

「ま、あんたが好きそうなタイプだもんね。あの女」

 

「は? 何の話だよ、それ」

 

「別に」

 

 来栖崎の言いたいことがちっともわからない。尋ね返しても曖昧にはぐらかされるし、もう何が何だか。

 これも時間が解決してくれるのだろうか。というか、そうでなければ困る。

 なぜなら、仲間との間に生じた(わだかま)りを放置することは、やがて僕らの中の誰かの命を脅かす可能性を孕んでいるからだ。早急に解決しておきたい問題だけれど、僕にはその糸口がちっとも掴めない。自分自身の無力感に、僕は大きくため息をついた。

 

「さてと、じゃあ屋上を手伝いに行くぞ、来栖崎」

 

 気分でも変えようと、僕は来栖崎にそう提案する。

 

「は? なんでよ、面倒くさい」

 

 そして、案の定予想通りの返答をされる。

 

「僕らだって歓迎会に参加するんだ。なのに準備を全部任せっ放しなんて許されるわけないだろ?」

 

「参加するなんて、私一言も言ってないんだけど」

 

 ああ言えばこう言う。今日の来栖崎は本当に手がかかることこの上ない感じだ。

 けれどどうにか彼女を歓迎会に参加させ、不知火と和解させなければ。いつの間にか僕は、そんな使命感を抱くようになっていた。

 

「なんだ、行かないのか? 久し振りに食えると思ったんだけどなあ……肉」

 

 くらえ、僕の切り札。

 そしてこのカードは予想通りの効果を発揮してくれた。来栖崎の眉がぴくりと反応したのを見逃さなかったぞ僕は。

 

「来栖崎が行かないなら、僕も行けないな。残念だけど、僕らの分までみんなに楽しんでもらうとしよう」

 

「……えっ、えっ」

 

 必死に平静を保っているつもりだろうが、来栖崎の表情には徐々に焦りが見え始めている。

 なんというか、単純だな。不知火に勝負を挑まれた時もそうだったけれど、彼女は簡単な挑発や誘いに乗ってきやすいらしい。弄んでいるみたいで罪悪感は若干あるけれど。

 

「参加しないなら来栖崎の言う通り、面倒な手伝いに行く義務もない。そうと決まれば、僕はここでのんびりさせてもらうとしよう。今日はたくさん走って疲れたしな」

 

「……ちょ、ちょっとッ」

 

 さっきまでの仏頂面だった来栖崎の顔が、一瞬にして不安一色に支配される。

 けれど僕は心を鬼にする。これは来栖崎のためであり、不知火のためであり、ポートラルのためだ。

 

 誰にも知られず、一人ひっそりと抱いた使命感。

 随分しおらしくなってしまった少女に対し、それを完璧なまでに貫き通した僕は――

 

「……参加しないとも……言ってないんだけど」

 

 ――完璧なまでの、勝利を手にした。

 

 

 

 *****

 

 

 

 幸い天候にも恵まれ、デパートの屋上は宴会場として大盛況となった。

 主役である不知火に楽しんでもらうため、そして来栖崎と不知火を和解させるため、もちろん僕も労力を惜しまなかった……つもりだ。

 けれど、事は簡単に進んではくれない。来栖崎は相変わらず不知火のことを見ようともしないし、不知火は終始アマゾネスたちに囚われてしまっていた。

 

 どうしてこうなった。いや、その理由はわかっている。

 一糸纏わぬ姿で泥酔し、屋上までゾンビを呼び寄せるのではないかと思うほどの大声で騒ぐ盟主に近づく勇気が、僕になかったからだ。

 

「アドのやつ……歓迎会とか言って、自分が飲んだり騒いだりしたかっただけなんじゃないのか」

 

 隣で黙々と肉を口に運ぶ来栖崎は、僕の独り言には何の反応も示さない。

 ずっとアドに付き合わされている不知火が気の毒だ。夜逃げして明日の朝には姿がない、なんてことにならなければいいけど。

 

「あちらは随分と楽しそうだな」

 

 ふと僕らのテーブルにやってきたのは、グラスを手にした礼音(あやね)さんだった。

 グラスの中身はやはり酒なのだろう、ほんのり顔が赤くなっている。アマゾネスたちもこのくらい慎ましく酒を楽しんでくれればいいのに。

 

「混ざっても楽しくはないと思いますけどね」

 

「それはどうだろうな。経験してみれば思いの外……ということもあるかもしれないぞ、サンくん。まあ、私は遠慮させてもらうが」

 

「無茶振りにも程がありますよ」

 

 冗談を言ってくすくすと笑う礼音さんの上品さと言ったらこの上ない。爪の垢を煎じてアドに飲ませてやりたいくらいだ。案外喜んで飲むんじゃないかと思うと怖いけれど。

 

「サンくんはちゃんと楽しんでいるか?」

 

「ええ、まあ、ぼちぼち」

 

「本当にか? ずっと難しい顔をしているように見えたぞ」

 

 少しギクリとした。この宴会の間、僕が来栖崎と不知火のことでいろいろ考え込んでいたことは、どうやら礼音さんには見透かされていたらしい。

 本当にこの人は良く出来た人だ。他人や周囲をよく見ているし、こうして気配りもできる。この人柄故に、彼女は仲間たちからもよく信頼されているのだろう。

 

「アーーヤーーネーールーーッ!!」

 

 うわ、来た。と僕はつい呟いてしまった。

 振り向きはしない。そこにはあられもない姿の盟主がいるとわかっているから。絶対に視界に入れるものか。

 

「聞いてよ聞いてよアヤネルぅ。リッちゃんったら酷いんだよぅ」

 

「どうしたどうした樽神名(たるみな)くん。ちゃんと上着を羽織ってくれたら話を聞こうじゃないか」

 

 もうその返しが既に礼音さんの高潔さを物語っている。裸の女性にうろうろされたら僕が困るとわかっての言動だろう。

 なんというか、有難い。ありきたりな言葉でしか形容できないのがもどかしいけれど、本当に有難い。

 

 思いの外素直に外套を拾いに行くアドに連れられて、礼音さんも行ってしまった。

 この混沌とした場を少しでも楽しもうと思ったら、礼音さんと話しているのが僕にとって一番安らげるのだけれど。そう思うと残念だ。

 

「いやあ、少しばかり疲れた。いつもこの調子なのか、ポートラルは?」

 

 ところが、礼音さんと入れ替わりで僕らの元へやってきた人物がいた。ようやくアドから解放された様子の不知火だ。

 

「宴会の時だけだよ……多分。悪いな、うるさかったろ」

 

「謝るほどのことでもないさ。これまで一人で生きてきた分、大勢での食事が随分新鮮に感じるしな」

 

 僕らのテーブルの空いた席に腰掛ける不知火。

 その様子を見た来栖崎は、不知火へと鋭い眼光を向けた。

 

「なんでいちいち私のとこに来んのよ」

 

「随分つれないな、来栖崎。私たちは二度も剣を交えた間柄じゃないか」

 

 来栖崎が噛みついたことで空気が悪くなると心配した僕だったが、不知火は笑って流してくれた。

 どうやら不知火は、来栖崎に受け入れてもらえるよう、まず自分から歩み寄る姿勢を取るつもりらしい。これは僕にとって僥倖であることは間違いない。

 

「それに、サンはニュータウンで唯一の男性の生き残りだ。興味を持つなという方が酷な話だろう」

 

 次の不知火の言葉には、僕は少し驚いてしまった。

 けれど、よくよく考えればそれは自然なことだ。今でこそポートラルの面々は僕という存在を当然のように見ているけれど、僕を除く男性の感染発症率が100%である現状、僕という存在は都市伝説同然の扱いを受けても不思議ではないのである。

 

 なるほど。不知火が僕らに近づくのは、来栖崎と積極的に和解するためだけではなく、僕への個人的な興味もあるわけだ。

 言い方は悪いかもしれないが、この関心を利用しない手はない。未だ謎の多い不知火の人柄を詳しく知ることができる上、いきなり亀裂が入ってしまった不知火と来栖崎の関係を修復することだってできるかもしれないのだ。

 

「だからどうだ、三人で詰まる話でもしようじゃないかと思って来たんだ。まあ、邪魔なら席を外させてもらうが」

 

「邪魔なもんか。僕も聞きたい話がたくさんあるんだ」

 

 正直、不知火がこのニュータウンを一人で生き抜いてきた術に関しては僕も興味がある。

 肉を口に運ぶ手を休めることなく「……勝手にすれば」と不貞腐れてしまった来栖崎の許可も得たところで、ようやく歓迎会らしい歓迎会を不知火に催してやれそうだと、僕は安堵したのだった。



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第六話

「それじゃあ、まずは私の方から話させてもらうとしようかな。何が聞きたいんだ、サン?」

 

「ああ、そうだな……」

 

 微笑みを浮かべながら気さくに尋ねる不知火(しらぬい)。いざそうやって問われると、聞きたいことが多すぎて順序に困ってしまいそうだが――

 

「じゃあまずは、来栖崎(くるすざき)と知り合った経緯でも」

 

 ひとまず僕はそう尋ねることにした。

 今でこそまだ心を開く気配のない来栖崎だが、自分の関わる話なら耳を傾けるはずだ。

 それに二人の馴れ初めについて話を聞けば、来栖崎だって不知火のことを思い出すかもしれない。そんな淡い希望を抱いて、僕は最初の話題を選んでいた。

 

「そうだな。一度話したように、来栖崎と前に顔を合わせたのは剣道の大会だ。私は中学生のときから剣道をやっていてな。おかげでこれまで生き延びることができたようなものだ」

 

 確かに不知火の言う通り、ゾンビと戦う術を持たない者がこのニュータウンを生き延びることは非常に難しいだろう。

 いや、戦う術を持ち合わせていたとしても、傷一つでも負えば死を免れられない恐怖と戦うことは簡単ではないはずだ。

 

 そんな恐怖を不知火はたった一人で乗り越えてきた。仲間と助け合ったり、励まし合ったりすることなく。

 どれほど強靭な精神力だろうと感心する。これも武道の修行を積んできた成果なのだろうか。

 

「来栖崎には耳が痛い話で悪いんだが、中学生当時の勝負は私が勝った。だが、来栖崎が強敵だったことは間違いないよ。紙一重の勝利だったことはよく覚えている」

 

「へえ……昔から強かったんだな、来栖崎」

 

 今でこそ感染の影響で超人的な力を発揮する来栖崎だが、彼女は感染する前からポートラル内でもずば抜けた身体能力を持っていたことは知っている。アドが「エース」と呼んでいただけのことはあるというものだ。

 不知火もそうだが、来栖崎もそれだけの修行を積んできたということだろうか。実家が剣術道場であるという話はアドから聞いたものの、来栖崎は自分のことをまったく話そうとしない分、僕は彼女のことをあまりよく知らない。

 

「来栖崎がどう思っているかは知らないが、私にとって剣の道を歩んできたことは誇りなんだ。ルーツこそ人殺しの技術かもしれないが、肉体と精神を研ぎ澄まし、これを正しく用いる修行を積む。それが私の生き甲斐なんだ」

 

「立派な志だな。まさに今、その技術を正しく使って生きているわけだ」

 

「そうかもしれないな。これからの私の剣は、自分だけじゃなく仲間を守るためにも振るわれる。もしかしたら、私はこの時のために修行を積んできたのかもしれないと思うくらいだよ」

 

 そう語る不知火は瞳を輝かせ、活き活きとした表情をしていた。

 彼女は自分の歩んできた剣の道を、心の底から誇りに思っているのだろう。まるで人生そのものを修行として生きているようだ。

 

 ここまで自分に厳しく生きられる者はそういない。それ故に彼女はここまで凛々しく、気高く振る舞うことができているのかもしれない。人の生き様は志からというわけか。

 

「フン、アホくさ。漫画の読みすぎなんじゃないの」

 

 しかし来栖崎は、もぐもぐと肉を頬張りながらそう悪態をついた。

 そんな水を差すようなことをわざわざ言わなくてもいいだろうに。もう少し大人にはなれないのだろうか……。

 

「ははは。生憎漫画の類はあまり読んだことがなくてな。そんな暇があったら竹刀を振って己を鍛えていた」

 

「おえ。素でそれとか重症すぎ。もう手遅れね、救いようがないわ」

 

 どこまでも不知火を嫌悪する来栖崎だが、それを笑って流せる不知火の器の大きさには感心させられる。

 同じように武道の修行を積んできたとしても、来栖崎と不知火ほど性格が正反対だとなんだか不思議な感覚だ。

 

「さて、次はサンのことを聞いてもいいかな」

 

「ああ、そうだな。何から話そうか」

 

 思い出したように話題を切り替える不知火。しかし、僕は彼女に何を話せばいいだろうか。

 僕に記憶がないことは既に話した。ならば、それ以上に僕が話せることは少ない気がするのだけれど。

 

「サンはどういった経緯でポートラルにいるんだ? お前のような聡明な男が身を置くには、ここは少しばかり賑やかすぎるようにも思えるが」

 

「あはは……まあ、確かに僕も振り回される側だしな……」

 

 やや遠回しに、ポートラルは品がないと言われたような気がする。まあ、盟主を始め一部の面々の醜態を思えば反論できない。

 

「けど、僕はポートラルに恩があるんだ。僕は突然目覚めたら記憶がなくて、わけも分からないままゾンビに襲われてるところを、たまたま通りかかった来栖崎とアドに助けられた。そして行く宛がないからこうしてポートラルで厄介になってるって状況だ」

 

 そう考えると、僕はいかに幸運だったかと思わざるを得ない。

 感染爆発が起きた当時、状況がわからず混乱したのは僕以外の者らも同じはずだ。

 

 そのままなす術なく死んでいった者もいれば、不知火のように一人で戦い生き延びた者もいる。

 それに比べて僕はどうだろう。自分で戦ったわけでもなく、誰かを助けたわけでもなく、にも拘らず他人に救われてのうのうと生き残っている。一番質の悪い人間なのではないだろうかと思えてきてしまうのも無理はないと思いたい。

 

「それで、サンと呼ばれているのはどうしてだ? 本名じゃないんだろう?」

 

「ああ、それは僕がポートラルで参謀職を任せてもらってるからだよ。戦えない僕は来栖崎やみんなに守ってもらわないと生き残れない。だからせめて後方からみんなを支援できるよう心掛けてたら、いつの間にかアドがそう呼び始めてたんだ」

 

「《参謀》だから《サン》か。なるほどあの盟主らしいな。私も妙なあだ名をつけられたことだし」

 

 あ、やっぱりアドがつけたあだ名は煙たがられてるんじゃないだろうか。

 アドは誰に対してもゼロ距離で接してくる。不知火のような人見知りするタイプへの配慮も弁えてもらいたいものだ。

 

「なんか、悪いな。アドがいろいろと迷惑かけてるみたいで」

 

「迷惑だなんてとんでもないさ。むしろこのニュータウンの現状を考えれば、ああして明るく振る舞うことができるのも一つの才能だよ。私は堅苦しい性格だと自覚しているし、ある意味見習うべきかもしれないな」

 

「そうか? 不知火は今の不知火で十分だろ。アドを見習うなんてとんでもないと思うけどな」

 

 不知火は、堅苦しいというよりも気高いというか、謙虚と表現した方が適当なようにも感じる。彼女はただ頑固なのではなく、自分の中に通った一本の芯を曲げずに貫いているだけだ。

 そしてその芯もまた固いだけではない。こうして集団に属すれば周囲を見て波長を合わせられる柔軟性を持っている。本当に良き仲間になれそうな人物と巡り会えたものだと僕は胸躍る気持ちが溢れるようだった。

 

「……あれ、来栖崎?」

 

 そのとき僕は、来栖崎が不意にテーブルを立ってどこかへ歩き出したことに気が付いた。

 さっきまで黙々と食事をしていたというのに、一体どこへ行こうというのだろう。歓迎会もまだまだ終わらないというのに。

 

「……部屋に戻る」

 

「えっ、なんでだよ? せっかく不知火も来てくれたのに」

 

「ならあんただけ残ればいいじゃない。私は戻るから」

 

「おい、待てって来栖崎!」

 

 背を向けてすたすたと歩いていく来栖崎を、僕は慌てて追いかける羽目となった。なんだろう、このデジャヴ。昼間も同じようなことがあったような。

 けれど、僕だけ残るなんてできるはずがない。来栖崎だってそれはわかっているはずなのに、どうしてあのようなことを言うのだろうか。

 

 本当に今日という日は、来栖崎の行動も言動もまるで読めない。僕にわかるのは、来栖崎がいつもよりなぜだか機嫌が悪そうだということだけだ。

 新しい仲間が加わってめでたい日だというのに、一体彼女は何がそんなに気に入らないというのだろう。先が思いやられる、と言えば少しばかり違う気もするが、僕は来栖崎の考えがわからないことがなんとなく不安に思えてきたのだった。



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第七話

 暗い暗い部屋の中、窓から差し込む月明かりに目元を照らされて、僕は目覚めた。

 来栖崎(くるすざき)は屋上から部屋に戻るとすぐに不貞寝してろくに口も利いてくれなかったが、どうやらいつの間にか僕も眠っていたらしい。

 

 騒がしかった屋上の声も、今はすっかり止んでいる。もう真夜中だし、不知火(しらぬい)の歓迎会もお開きになった頃なのだろう。

 きっと屋上には酔い潰れたアマゾネスたちの肢体が散乱しているに違いない。そう思うと翌朝片付けに向かうのも気が重い。

 

「……そうだ、輸血……」

 

 ふと、僕は思い出したようにそう呟く。

 ちょうど目覚めてよかった。そろそろ来栖崎への夜中の輸血の時間だ。

 

 けれど、彼女を起こすのは気が乗らない。ただでさえ寝起きの機嫌が悪い来栖崎は、今日は特別虫の居所が悪い様子だったからだ。

 それでも輸血を放棄することは許されない。なにしろこの輸血こそ、僕という弱者の最大で唯一の存在意義なのだから。

 

 

 そう。来栖崎に血を飲んでもらわなければ、僕に生きる価値など微塵もないのだ。

 

 

「……ん? 何の音だ?」

 

 横たわる来栖崎を揺すって起こそうとした、そのときだった。僕の耳が妙な違和感を覚えた。

 次第に大きくなるこの音は……足音か? どうやら部屋の外の廊下を、誰かがこちらへ向かって走ってきているようだが……。

 

「――サンくん、来栖崎くん、起きてくれッ!!」

 

礼音(あやね)さん?」

 

 足音が部屋の目の前まで迫った時、激しく扉を叩く音と共に聞こえてきたのは、礼音さんの声だった。

 なぜだか随分急いでいるようだが、どうしたのだろう。

 

「起きてます、礼音さん。どうかしたんですか?」

 

「すぐに来てくれ、敵襲だ! エントランスのバリケードが、ゾンビ共に破られたッ!!」

 

「なんだってッ!?」

 

 扉越しの礼音さんの言葉に、僕は急ぎ立ち上がる。

 どうやら外のゾンビがバリケードを破って、デパート内に侵入してきたらしい。

 

 とにかくこれは急がなければならない。

 時間帯は誰もが寝静まった深夜。それもデパートにいるのは僕らだけではない。非戦闘員のメンバーに被害が出る前に食い止めなければ。

 

 僕に非常事態を伝えた礼音さんはもう現場に向かったのだろうか、ドアの向こうには既に気配はない。

 僕は急いで来栖崎を起こすと、押っ取り刀でデパートのエントランスへと走った。

 

 

 

 

 *****

 

 

 

 

 現場に駆け付けると、それはもう地獄絵図だった。

 バリケードは見事に崩れ落ち、エントランスホールには既に三十体ほどのゾンビが闊歩している。いや、エントランスの二階から見たところ、外にはまだまだいる様子だ。

 のろのろ、よたよたと拙い歩みで侵入してくるゾンビの群れ。しかしその中には一人だけ、まったく異なる俊敏さを見せる者がいた。

 

「不知火ッ!!」

 

 その者の名を咄嗟に呼ぶ。

 すると不知火は、一階で剣を振りながら僕らの方を見上げた。

 

「来たか、サン。悪いが早く手を貸してもらえると助かるッ。一人で抑えるのはもう限界が近いぞ……ッ!」

 

 どうやら礼音さんが皆を起こして周る間、不知火は一人でこの場を抑え込んでいたようだ。彼女の足元には、既に数体のゾンビの死骸が転がっている。

 加入したばかりの彼女にいきなりこのような重労働を任せてしまったらしく、申し訳ないことこの上ない。

 

「ああ、そうだな。来栖崎、頼むッ!」

 

 ここで僕自身が前に出ることができないのがどうしようもなく歯痒い。本当に僕は無力なのだと痛感してしまう。

 けれど、僕の隣にいる来栖崎はそんな葛藤などお構いなし。僕が指示を出す前から、彼女はいつの間にかエントランスホールへ飛び降りていた。

 

 着地の瞬間に二つ、ゾンビの首が宙を舞う。来栖崎がいつ首を撥ねたのか、速すぎて僕は見逃してしまった。

 続けて駆け出す来栖崎。足音につられて寄ってくるゾンビをさらに二体、三体。同じく首を撥ねたり、頭を串刺しにしたり。目にも止まらぬ速さでゾンビの死骸を積み重ねていく。

 

 共に戦う不知火も負けず劣らず。彼女は掴みかかってくるゾンビの腕を落とし、顎を潰し、無力化してから胴体を真っ二つ。

 一撃で決着をつけ、とにかく数多く斬る来栖崎と違って、不知火は一体一体を確実に仕留めていくスタイルのようだ。

 

 初めから既に死んでいるゾンビ共は、完全に倒したのかまだ動くのか、一目で判断することが難しい。仕留めたつもりがあとから起き上がって襲ってくるなんてことは珍しい話ではないのだ。

 それを考えると、不知火の戦術は理にかなっている。仕留めきれず起き上がってきたとしても、腕や顎を潰しておくだけでその脅威は激減するからだ。

 

 これも不知火がこれまで生きてきた環境で身に着けた戦術だろう。

 一人で戦うならばもちろん仲間のフォローなど存在しない。できるだけゾンビとの接触を避け、最低限の戦闘でもゾンビを確実に再起不能に追い込んでおく。その用心深さ故に生き残って来られたのだと言っても過言ではない。

 

「クッソ。人がいい気分で寝てるってのによォ!!」

 

「早く終わらせて二度寝するです……」

 

「今加勢いたしますわッ!!」

 

 少し遅れて、タンクトップにジーパンというラフな格好の姫片(ひめかた)、Tシャツ1枚の豹藤(ひょうどう)ちゃん、上品な寝間着にナイトキャップまで被った甘噛(あまがみ)が掃討に加わった。

 その後ろには弓を引く礼音さんと、銃を構える百喰(もぐ)の姿もある。ここまで人数が揃えば何とかなりそうな気がしてきた。

 

「甘噛と豹藤ちゃんで入り口を食い止めてくれ! 新手を中に入れないようにするんだ! 姫片はホールの真ん中! その方が思いっきり鎌を振り回せる。礼音さんと百喰は適宜援護射撃を! あとは来栖崎と不知火で、奥に進もうとするゾンビを片付けてくれ!」

 

 二階からの僕の指示を了承し、皆がその通りに動き始める――ただ一人を除いて。

 

「っておい、来栖崎ッ!?」

 

 真っ白な髪を波打たせて駆ける一人の少女だけは、僕の指示を完全に無視していた。

 来栖崎の動きは、とにかく視界に映ったゾンビを片っ端から斬るといった風で、荒々しいことこの上ない。

 

「来栖崎ッ!! 陣形を乱すなって、おいッ!!」

 

 僕の呼びかけにもまったく反応する様子がない。

 来栖崎は時に姫片の鎌を掠めながら、時に礼音さんや百喰の射線を横切りながら、とにかく数多くのゾンビを斬り倒していく。

 

 これは危険極まりない。掃討のペースこそ早いものの、今の来栖崎の周囲を見ない立ち回りはあまりにもリスキーだ。

 一体何が来栖崎にそうさせるのだろう。僕にはわからない。普段はここまで無鉄砲な戦い方はしないというのに、どうして……。

 

「ぁがッ……!?」

 

 そのとき、尋常ではない速さでゾンビを斬り刻んできた来栖崎が、不意に動きを止めた。

 

「来栖崎……?」

 

 その瞬間を僕は見逃さない。突然片膝をつき、刀を杖のように床に突き立てる来栖崎は、二階から見下ろす僕にもわかるくらい呼吸を乱していた。

 一体どうしたのだろう。僕の声を聞いて動きを止めたようには見えなかった。

 というか、あまりにも突然すぎる。今の今まで人間離れした早さで最も多くのゾンビを切り倒してきたというのに、手の止め方が不自然すぎるのだ。

 

 けれど、僕がその疑問の答えに辿り着くまでには、まったく時間はかからなかった。

 

 

 

 

 ――血が、足りないのだ。

 

 

 

 

 そうだ、思い出した。僕らは突然、礼音さんにこの非常事態を知らされ駆けつけてきたために、深夜の輸血ができていない……!

 故に来栖崎は短時間の戦闘でも感染度が上昇し、発作を起こしてしまったのだ。

 

 なんということだろう。僕は自分自身の失態に吐き気を催すようだった。

 どれほどの非常事態であったとしても、僕が最優先すべきは来栖崎であったはずなのに。自分の命よりも大切な契約を忘れ去ってしまっていたなんて、どう足掻いても償い切れない。

 しかしエントランスの状況は、そんな僕の自責の時間すら待ってはくれない。気が付くと、肩で息をする来栖崎の背後には一体のゾンビがよろよろと迫っていた。

 

「後ろだッ!! 来栖崎ッ!!」

 

「チィッ……!!」

 

 舌打ちと共に振り向いた来栖崎の両目は、既に真っ黒に染まっていた。

 そんな彼女に構わず牙を剥くゾンビ。咄嗟に反応して防御の姿勢を取った来栖崎だったが、ゾンビは容赦なく彼女の左腕に食らいついた。

 

 血が飛び散る。死体から流れ出るような真っ黒に腐った血ではなく、ありありと生命を感じられる赤々とした血が。

 それを目にした僕の視界も真っ赤に染まるように感じる。この血を流したのは来栖崎であり、僕であり、この事態を引き起こしたのは紛れもなく僕自身だ。自分の命が齧り取られていく様を、今僕は目の当たりにしている。

 

「こんの……ッ! 退け……ッ!!」

 

 来栖崎は自分の腕に食らいついたゾンビの頬に刀を突き立てて引き剥がすと、そのゾンビの腹を力一杯に蹴り飛ばした。

 

「来栖崎ッ!!」

 

 蹴り飛ばされて転がるゾンビを見て呆然としていた僕も我に返り、咄嗟に階段を駆け下りる。

 僕には今すぐしなければならないことがある。他の何を犠牲にしてでもしなければならないことが……ッ!!

 

「来んなッ!! 来たら殺すッ!!」

 

 しかし来栖崎は、そんな僕を漆黒の双眸で突き刺した。

 足がすくむほどの殺気。来栖崎のたった一言で、僕は階段の途中で立ち止まったまま身動きが取れなくなってしまったのだった。

 

 来栖崎はそのまま立ち上がる。そして自身に群がろうとするゾンビを再び斬り裂き始めた。

 これ以上彼女を戦わせてはいけない。頭ではそうわかっているのに、なぜだか僕は動けなかった。

 

 来たら殺す。来栖崎のその言葉に臆したわけではない。

 僕に向けて叫んだその一言が、なんだか酷く悲痛だったような気がして。そんな痛々しい彼女の望みを裏切ることが、どこまでも罪深いような気がして。

 

 

 

 

 *****

 

 

 

 

「おい! 中は片付いたぞッ!!」

 

「急いでバリケードを修復しましょう……!」

 

 数分後。姫片と百喰の合図で、戦闘班は一斉に出入口へと集まった。

 外から群がるゾンビたちも粗方掃討できたようで、抜け殻のように茫然自失となった僕の指示を待たずして、いつの間にか各々がバリケードの修復を始めていた。

 

 ひとまず脅威は去った。けれど刀を取り落とした来栖崎だけは、エントランスホールの真ん中で一人蹲り、自分の両肩を抱いてがくがくと震えていた。

 

「……殺したい……殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい……」

 

 ぶつぶつと呟き続ける来栖崎。感染度の限界が近いのは火を見るよりも明らかだ。

 すると、そんな来栖崎の元へゆっくりと歩み寄っていく足音が一つ――右手に血濡れた刀を握った、不知火だ。

 

「噛まれてしまったなら、ここまでだな」

 

 耳を貸す余裕もない来栖崎にそう呟いた不知火は、手にした刀をそっと持ち上げた。

 切っ先を一度来栖崎へ向ける。そのあとで不知火は、刀を両手で握り直し、ゆっくりと高く持ち上げた。

 

「短い付き合いだったな、来栖崎」

 

 不知火がそう囁く。冷静な僕がこの状況を見たのなら、彼女が何をしようとしているのかはすぐにわかったことだろう。

 けれど僕に不知火の姿は見えていない。彼女の意図に気づく余裕もない。

 

 僕の視界には、たった一人の少女の姿しか映っていないのだ。その姿を目掛け、床中の血油に足を滑らせながらも、僕は一心不乱に走っていた。

 

 

 

 

「 来 栖 崎 ―――― ッ ! ! 」

 

 

 

 

 するとその叫びを発した瞬間に、来栖崎は僕目掛けて飛びかかってきた。もちろん僕の身体能力では反応できるはずもない。

 辛うじて押し倒されることなく踏ん張ったものの、飛びかかった勢いのまま僕の左肩に食らいついた来栖崎を受け止めて、僕は尻餅をついてしまった。

 

「なッ!? 何をしてるんだサンッ!? いくら感染しない身体だからって……殺されるぞッ!!」

 

 不知火が狼狽えるが、僕にその声は届かない。

 僕が感じているのは左肩の激痛と、その中に顔を埋めて血を啜る少女の荒い息遣いだけだ。

 

「待ってろ。今引き剥がして――」

 

「――やめろッ!!」

 

 来栖崎の背後から伸びる不知火の手を、僕は無心で払いのけていた。

 不知火の驚いた表情が見える。それに対して僕が抱いたのは、ただただ強い憤りと憎悪だけだった。

 

「サン……?」

 

「……悪い、不知火。今は……今だけは、僕らの邪魔をしないでくれ」

 

 これは僕と来栖崎にとって、命よりも世界よりも重要な儀式。

 それを阻もうとする者がいるならば、僕は鬼にでも悪魔にでも死神にでもなる。例え命の恩人であろうと背を預け合う仲間であろうと、僕は躊躇いなく殺そうとするだろう。

 

 幸い、不知火はそれ以降、黙って僕らを見守るだけだった。

 次第に来栖崎の呼吸も落ち着き始めている。どうやら感染度が臨界点を超えるのには間に合ったようで一安心だ。

 

「どうなってるんだ……? 感染が……治った、のか?」

 

「いや、治ったわけじゃない。一時的に症状を抑え込んだだけだ」

 

 来栖崎の症状が治まり始めて頭が冷えたのか、いつの間にか僕は不知火の問いに答える余裕が生まれていた。

 

「実は来栖崎は、僕のせいでとっくに感染してるんだ。そして僕の血にはなぜだか、感染の進行を抑える効果があるらしくてな。だから僕は、来栖崎に血を飲んでもらうためだけに生きると誓った……それが僕と来栖崎が交わした契約なんだ」

 

「……そうか……」

 

 思いの外、不知火はあっさりと理解したような素振りを見せた。

 

「ずっと疑問に思っていた。お前たちの関係を。だが今ようやくわかったぞ。信頼でも恋愛感情でもない……お前たちを縛る鎖は――《依存》か」

 

 その言葉に、僕は何も返すことができなかった。

 そうだ。僕らはずっと――《共依存》。互いを救い、互いを巣食う、どろどろに真っ黒に絡み合った――《凶依存》なのだ。



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第八話

 バリケードが修復されるまでの間、僕は自分と来栖崎(くるすざき)の関係について不知火(しらぬい)に話した。

 戦えない僕をゾンビから庇って来栖崎が感染したこと。来栖崎の感染が治るまでは僕の血で命を繋ぐ契約をしたこと。その間僕は来栖崎の所有物となり、生かすも殺すも彼女次第であること。

 

 そして来栖崎の感染が治療された暁には、僕は彼女の望み通り、必ず死ぬと誓ったことを。

 

 不知火はその話を、とても信じられないといった風に聞いていた。

 けれど僕が話したことに偽りは一つもない。来栖崎が血を飲むのに一心不乱でこちらの会話に注意が向いていないのをいいことに、僕はすべてを話してしまったのだった。

 

 言いようのないほどの罪悪感。来栖崎はこのことを他言したくないだろうに。

 しかし、ここまで来てしまってはもう話すしかないのも事実だ。少なくともこれで不知火が抱いていた疑問が一つ晴れたのなら、まだよしとすべきなのかもしれない。

 

「……理解できない」

 

 僕の話を聞き終えた不知火が、首を左右に振りながらそう呟いた。

 

「そこまでする必要はないじゃないか。来栖崎にサンの血が必要なのはわかった。だがだからって、人が人を《物》として所有するなんて……言い方は悪いが、狂ってる」

 

理解(・・)してもらえるとは思ってない。それでも把握(・・)だけはしておいてくれ、不知火。僕と来栖崎にとって、これはこの世界の何よりも重要なことなんだ」

 

 この契約は、僕が生きるために必要なすべて。来栖崎に血を飲んでもらうことだけが無力な僕の存在意義で、これを失えば僕に生きる価値はない。

 狂っているとは思わない。これが僕にとっては当然で、必然で、絶対だ。

 生きるために呼吸をするように、食事を取るように、睡眠を取るように、僕は来栖崎に血液を提供する。そこには疑念も不自然も違和感も、何も存在しないのだ。

 

「……来栖崎?」

 

 不意に、来栖崎が僕の左肩から頭を上げた。

 口周りが血で汚れたままだが、目の色は正常に戻っている。症状は治まったようで一安心だ。

 

「身体はどうだ? 落ち着いたか?」

 

「……別に。最初っから平気だし」

 

 尻餅をついた僕にのしかかる形だった来栖崎は、袖で口元を拭うとそそくさと立ち上がって僕と不知火に背を向けた。

 しかしその後ろ姿を見て僕は気づいた。来栖崎の左手から、ぽたぽたと血が滴っていることに。

 

「来栖崎、お前……その手……」

 

「……あ? 手がなに?」

 

 そうだ。来栖崎は先ほど、感染の発作で動きを止めたときに左腕を噛まれている。

 僕は慌ててポケットからハンカチを取り出し、立ち上がった。

 

「腕を出してくれ、来栖崎。手当しよう」

 

「いい。このくらいほっときゃ治るわよ」

 

「そうかもしれないけど……でも、痛いだろ?」

 

 僕が来栖崎の左側に回ろうとすると、彼女は左腕を僕から隠すように身体を捻る。

 確かに来栖崎の身体は感染の影響なのか、傷の治りが異常に早い。背骨が剥き出しになるような大怪我でも、彼女の身体は数時間もあれば活動可能なまでに回復する。

 

 だがそれでも、痛みは感じているはずなのだ。

 傷が塞がってしまえばどうということはないかもしれない。それでも、その傷が塞がるまでの痛みは計り知れないはずである。戦わない僕に、それがどれほどのものなのかは想像もつかないけれど。

 

「いいから見せてみろって。ハンカチ巻くだけだから」

 

「いいって言ってんでしょ! 触んなケツパッ!」

 

 僕がやや強引に詰め寄ると、来栖崎は僕の手をはたいてそう叫んだ。

 ハンカチは僕の手を離れ、ひらひらと足元に落ちる。床のハンカチから来栖崎の顔へと視線を持ち上げると、彼女は殺気立った紅い瞳で僕を睨みつけていた。

 

「おい来栖崎、なんだその態度はッ! サンはお前を心配して――」

 

「――いいんだ、不知火」

 

 来栖崎の振る舞いに煮えを切らしたのか、不知火が食って掛かる。

 そんな不知火を制し、僕は足元のハンカチを拾った。

 

「これが僕と来栖崎なんだ。来栖崎がしたいようにするのが最優先。僕に干渉する権利はないんだからな」

 

「……お前は本当にそれでいいのか、サン……?」

 

「ああ。もちろん」

 

 不知火の問いに即答する。そこには少しの虚偽も違和感もない。

 僕は来栖崎のためだけに生きていればそれで十分なのだ。彼女が手当したくないと言うのならそれに従うし、彼女に死ねと言われれば――当然僕は喜んで死ぬ。

 しかし不知火はやはり納得できていない様子だ。無理もないことだとは思うけれど。

 

「う~い~。我が家の玄関でぇ~。にゃあにゃあ騒いでんのはドコのドイツだイタリアだぁ~? 発情期の仔猫ちゃんはあたしのとこに来なさぁ~いぃ~。ムフフ~」

 

 バリケードの修復が終わる頃、千鳥足を通り越してほぼ這いずるようにエントランスホールに現れたのは、全身真っ赤になって泥酔した我らが盟主だった。

 ところがそんな盟主にはお構いなし。誰一人彼女に声をかけることなく、まるで存在すら認知していないかのように、各々は事態の収束した現場から自室へと戻っていったのだった。

 

 

 

 

 *****

 

 

 

 

「――つうわけで、野郎ども。今日集まってもらったのは他でもねえ。昨晩のゾンビ襲来についてだ」

 

 翌朝。デパートの会議室には戦闘班の面々が集められていた。

 会議を仕切っているのが、昨晩埃ほどの役にも立たなかった、マフィアのボスのような口調で話す酔いどれ姫なのが気に入らないけれど。

 

「疲れてるところ、朝から集まってもらって悪いな、みんな。今日の議題は、チームの危機にもかかわらず酔っ払って居眠りしてやがった()盟主の処分についてだ」

 

「サンちゃん酷いよッ!! そのことについてはもう何回も謝ったのにッ!!」

 

案山子(カカシ)程度じゃ生温(なまぬり)ぃだろ。刻んで丸めて、屋上菜園の肥料にでもしようぜ」

 

「ね"ぇぇぇぇごめんてばぁぁぁぁ許してリッちゃぁぁぁぁんッ!!」

 

 僕が会議を仕切り直すと、すぐさま議論が展開された。最初の発言者は、怒っている様子に見えないのが逆に怖いように思える姫片(ひめかた)だ。

 その後はまさに阿鼻叫喚。涙と鼻水の洪水警報を鳴り響かせながら、アドは姫片(ひめかた)に縋り付いていった。

 

「まあまあ、サン。冗談はこのくらいにして、本題に入ったほうがいいんじゃないか?」

 

「そーだよッ!! さすがはヌイヌイ!! いいこと言うじゃないの!!」

 

 さっきまでの号泣はどこへやら。不知火の発言を受けて強気に出たアドは、打って変わって満面の笑みを浮かべていた。

 なんか腹立つ。本当に反省してるのかこいつは。

 

「まあ、()盟主の処分はいつでも決められるしな。不知火の言う通り、今はもっと重要な議題があるのも確かだ」

 

「サンちゃんさっきから《元》ってなに!? 辞めてませんけど!? あたし辞任した覚えありませんけどッ!?」

 

 騒ぐアドに付き合っていたらきりがない。僕はこの会議の本来の議題である、昨晩のゾンビ襲来について話題を修正する――

 

「――と、その前にみんなに話しておきたいことがあるんだ」

 

 改まって僕がそう述べると、皆の視線が一斉に僕に集まった。

 ゾンビ襲来について話し合うことも重要だ。けれど僕には、それと同じくらい重要だと思うことがある。まずはそのことから話そうと考えたのだ。

 

「昨晩バリケードが壊されたとき、不知火は僕らが応援に駆け付けるまで、エントランスのゾンビを一人で抑え込んでくれてたんだ。まずはそれを賞賛してやって欲しい。本当にありがとな、不知火」

 

「えっ、ああ、いや……まあ、当然のことをしただけだが……」

 

 自分の話が出るのが予想外だったのか、不知火はあからさまに戸惑っている様子だった。

 僕の話を受けて、一同が不知火に拍手を送る。不知火の活躍を全員で共有することで、新入りと古株の間にどうしても生まれがちな壁を取り去ることができるだろう。僕がこの話をしたのは、それを期待してのことだった。

 

「そーだったのね! いいじゃんいいじゃん。ヌイヌイは昨晩のMVPぞよ! うむうむ!」

 

「そう言うお前は戦力外通告だ、弛みナード」

 

「次で挽回しますからチャンスをくだせえ!! サンちゃん監督ぅ!!」

 

 アドのやつ、やけにはしゃいでるから反省してるのかどうかいよいよ怪しくなってきたな。

 非難される側に立っていながら何がそんなに楽しいのだろうか。僕には少し理解しがたい。いつものことと言えばいつものことだけれど。

 

「私のことじゃなくてだ、サン! ここに集まったのは、昨晩の件について話し合うためじゃなかったのか?」

 

「そうだな。そろそろそっちの話をしようか」

 

 照れくさいのだろうか、不知火は自分の話題を早々に終わらせようと必死なように思えた。

 やはり振る舞いには見せない照れ屋な一面があるらしい。人は見かけに依らないものだ。

 

「もうみんな知ってると思うけど、一応確認しておこう。昨夜未明、デパートのエントランスのバリケードが突然破られた。100体弱程度のゾンビの侵入を許したものの、みんなの活躍でこれを掃討。その後バリケードを修復するに至った。ここまではいいな?」

 

 僕の言葉に皆が頷く。

 確認するまでもなく、ここにいる者らが数時間前に対処した事態なのだから当然と言えば当然だ。……まあ、ただ一人を除いて、だけれど。

 

「バリケード倒壊の原因は不明。第一発見者は……不知火でいいんだよな?」

 

「ああ」

 

 僕の問いに不知火が即答する。

 すると不知火は立ち上がり、僕に変わって発言し始めた。

 

「眠ろうとしていたら大きな物音が聞こえてな。何事かと様子を見に行ったらあの有様だった。既に数体のゾンビが侵入していて、それに応戦せざるを得なくなったといったところだな」

 

「そして次に現場に居合わせたのが、私だ」

 

 不知火の次に立ち上がり発言したのは礼音(あやね)さんだった。

 

「不知火くんの言っていた物音とやらは聞いていないが、エントランスに何者かの気配を感じてな。様子を見に行ったところ、ゾンビが侵入していることに気づいたのだ。対処に人数が必要だと判断した私は、不知火くんに少しの間現場を任せて皆の部屋を周らせてもらったよ。その時は弓も持ち合わせていなかったしな」

 

「正しい判断だったと思いますよ、礼音さん」

 

 そうして礼音さんは僕と来栖崎の元にやってきて、それ以降のことは僕もよくわかっている。次第に事態の全貌が明らかになってきた。

 しかし、最も肝心な部分があまりにも不鮮明なままでもどかしいのも事実だった。

 

「あとは《バリケードが倒壊した理由》……だよな」

 

 そう。ここが明らかにならなければ根本的な解決にはならない。

 

「侵入してきたゾンビの中に、バリケードを突破できそうな個体がいたりしなかったか? 身体が大きかったとか、腕力が強かったとか」

 

「いんや、そんなのはいなかった気がすんなぁ。雑魚ゾンビばっかだった」

 

「わたくしも覚えがありませんわ。主に侵入前のゾンビに対処しておりましたので」

 

「私も同意見です。できるだけ全体を見るようにしていましたが、そのような個体は確認していません」

 

 姫片、甘噛(あまがみ)百喰(もぐ)が順に答える。

 僕も高台から全体を見て指揮をとっていたけれど、皆と意見は同じだった。

 

 乱戦の中で見落としてしまったのだろうか。もしくはバリケードを破壊した強力な個体は早々に倒れていたとか。

 後者である可能性はあるかもしれない。なぜならあの現場で戦っていた中には、少々身体が発達したゾンビなどよりも遥かに勝る力を持った者がいたのだから。

 

「来栖崎はどうだ?」

 

「あ?」

 

 隣の席で退屈そうにマフラーを弄る来栖崎に、僕は声をかける。

 しかし彼女は心底面倒くさそうな顔を僕に向けてきただけだった。

 

「いや、話は聞いてただろ? バリケードを破る力がありそうなゾンビはいなかったかって――」

 

「――知らないわよそんなの。全部一撃でぶった斬ってんのにそんな区別なんかつくわけないでしょバカなの死ぬの?」

 

 早口で罵倒する来栖崎の答えを聞いて、不知火の眉がぴくりと動く。しかしこれで、バリケードを破ったと思われる強力な個体は早い段階で処理されていた説が濃厚かもしれないと思えてきた。

 思えば来栖崎は、不知火を除いて最初に掃討に加わったのだ。そして彼女は、侵入してきたゾンビの約半数を一人で処理している。この仮説が正しいと考えるのが最も理にかなっているのは間違いないだろう。

 

「ひとまず、バリケードの補強は必要だと思う。それから、今後同じことが起こらないように、バリケードの点検も頻繁にやっていこう」

 

 僕の提案に異を唱える者はいなかった。今回は不知火が早い段階で気づいたからよかったものの、彼女がいなければどうなっていたかと想像すれば身の毛がよだつ。

 寝静まった深夜。あっという間にデパートはゾンビで埋め尽くされ、眠ったまま何も知らずに僕らは――いや、これ以上はやめておこう。



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第九話

「それじゃあ、この会議はこれで終了ということで――」

 

「――その前に、私から一ついいか、サン」

 

 解散しようとした僕の言葉を遮る声。

 その声の主は、昨晩大活躍だった不知火(しらぬい)だった。

 

「どうした、不知火?」

 

「ああ。バリケードの補強も重要だが、もっと他の対策も必要なんじゃないかと思ってな」

 

「他の対策?」

 

 新入りながら、会議で積極的に発言する不知火の姿勢は非常に好感が持てる。

 昨晩共に戦い合ったことで、ポートラルのメンバーとして打ち解け始めてきたのだろう。僕としては嬉しい限りだ。

 

 しかし、バリケードの他の対策とは一体どういったものを指すのだろうか。

 不知火の提案に興味を抱いているのは、どうやら僕だけではなく、会議室の面々が皆そうであるようだった。

 

「簡単に言えば、もう一か所拠点を作ったらどうか、ということだ。今回のようなことはもう起きないのが望ましいのは確かだが、その保証もないだろう? 万が一のとき、このデパートを捨てて逃げ込める第二の拠点があればと思ったんだが、どうだろう?」

 

「なるほどな……」

 

 不知火の提案も非常に理にかなっていると感じた。

 今回のような事件がまた発生し、デパートがゾンビで埋め尽くされる最悪の状況となった場合、身一つで逃げ出しても街はゾンビの巣窟だ。安息の地などない。

 

 けれど第二の拠点を作っておけば、一直線に駆け込むことでひとまずの安全は確保できるわけだ。

 何の準備もないまま行先もなく街を彷徨うよりは、態勢を立て直すための安全地帯を予め設けておく方が生存率は格段に上がるだろう。

 

「確かに、非常時に明確な行動目標と行先があるっていうのは心強そうだな」

 

「混乱の中ではぐれたとしても、その第二拠点で皆と合流できることは確実だからな」

 

「非常時に持ち出す備品を前もってまとめておけば、脱出もスムーズになりますわね」

 

「その第二拠点に日持ちする食料を数日分備蓄しておけば、身一つで逃げ出さなければならないような状況からでも十分立て直せます」

 

 僕に続いて礼音(あやね)さん、甘噛(あまがみ)百喰(もぐ)が意見を重ねる。皆不知火の提案に肯定的で有意義な議論となりそうだ。

 他の面々も頷きながら話を聞いていて、特に反対する者もいないようだった。

 

 安全性や生活利便性を考えればデパートを出るという選択肢はあまりにもリスキーだ。

 しかしながら、その選択肢を視野に入れておく必要性を考えさせられる出来事が起きたのは昨日の今日だ。ここは不知火の提案通り、ひとまずの安全が確保された第二拠点を用意しておくことを検討する必要があるのだが――

 

「――そうなってくると次は……どこを(・・・)第二拠点にするか、って話になるんだけど……」

 

 そう。一番の論点はまさにここだ。

 

 この渚輪ニュータウンにおいて、安全と言える場所はほんの一握りしか存在していない。

 街はゾンビで溢れかえっているし、このデパート以外の安全な建造物は他の生存組合が拠点にしていたりする。

 ポートラルのメンバー全員を収容可能なほどの大規模な拠点候補など、そう簡単に思いつくものではなかった。

 

 僕以外の面々も同じように頭を悩ませている。

 不知火の提案が魅力的だったのは間違いないのだが、やはり現実的ではないのだろうか……。

 

「私に心当たりがある。数十人程度なら容易に収容できて、かつ比較的ゾンビの少ない地域にある、拠点候補にうってつけな場所のな」

 

「本当か、不知火!?」

 

「ああ」

 

 これはなんという僥倖だろうか。どうやら僕らは、これから拠点候補地を一から探す必要もないらしい。

 候補地が既に定まっているのなら、不知火の提案を却下する理由はもはや存在しない。会議室のメンバーも皆、僕と同意見のようだった。

 

「よーーーーしッ! それなら早速、その拠点候補とやらを見に行こうず! 40秒で支度しな、てめえらッ!!」

 

「却下だ。早まんな弛みナード」

 

 勢いよく立ち上がり啖呵を切るアドを、僕はあくまで冷静に引き留めた。

 

「えーッ! なんでさッ! オラわくわくすっぞ。早く冒険行きてっぞ!?」

 

「昨晩ゾンビの群れに応戦したばっかりで、みんな疲れてるんだよ。今すぐ冒険に出られる元気があるのは、居眠りぶっこいてたお前だけだ」

 

「そんなことないもん! みんな行きたいよね? ドキがムネムネの大冒険楽しみだよねッ?」

 

 アドの問いに頷く者は……悲しいことに、一人もいなかった。

 

(わり)いがサンに一票だ。ゾンビ共に叩き起こされて参ってんだよこっちは」

 

「うぅぅ……今すぐにでも寝られそうです……」

 

「睡眠不足は美容の大敵ですので」

 

「コンディションが万全でない状態での作戦決行には賛同しかねます」

 

「すまないが樽神名(たるみな)くん……今回はサンくんの言う通りだ……」

 

「わあお。四面過疎」

 

 四面楚歌な。勝手に僕らの存在を抹消するな。

 なんてツッコミはもう入れない。誰一人背中に続こうとしないこの哀れな盟主には。

 

 とはいえ、僕だってアドをいじめたくて反対しているわけではない。ゾンビと戦ったばかりで疲弊している皆を差し置いて、実際に戦ってもいない僕が今すぐの作戦実行を宣言するなんて、到底できるはずがないのだ。

 

「出発は明日の朝にしよう。不知火の案内で拠点候補地を視察。問題なさそうなら、拠点づくりの準備を順次進めていきたい。それまでは各々しっかり身体を休めてくれ」

 

 さすがにこれに反対する者はおらず、会議はここで解散となった。

 つまらなそうに頬を膨らませる盟主を残して、皆は不足した睡眠時間を補うために自室へと戻っていったのだった。

 

 

 

 *****

 

 

 

「寝なくていいのか、来栖崎(くるすざき)?」 

 

 二人の自室。頬杖をついて窓の外を眺めている白髪の少女の背中に、僕はそっと声をかけた。

 

「別に。あの程度で疲れるほどヤワじゃないし」

 

「そっか」

 

 外を向いたまま振り向きもせず、口だけでそう答える来栖崎。

 彼女が会議の間ほとんど発言しないのはいつものことなのだが、不知火の提案についてどう考えているのかは正直気になる。

 

 けれどそれを尋ねられるはずもない。不知火の話題を振るのはタブーと言っても過言ではないほど、来栖崎は不知火のことを毛嫌いしている様子だからだ。

 勝負に負けたことをまだ根に持っているのだろうか。それとも、顔見知りだからと馴れ馴れしく接してくるのが苦手なだけだろうか。

 

 なんにせよ、僕にはわからない。来栖崎の考えていることなんて。

 いや、わからない方がいいのだ。僕のせいで感染し、一度自ら命を絶とうとまでした彼女がどれほどの絶望を抱いているかなんて。

 

 

 わかってしまったら、きっと僕は壊れてしまうだろうから。

 

 

「そうだ、腕の怪我の具合はどうだ?」

 

 不知火の話題の代わりに、僕はそんな当たり障りもないことを尋ねてみる。

 来栖崎は変わらず僕に視線を向けないまま、ふんと鼻で笑ってみせた。

 

「今更その話? もうとっくに治ったんですけど」

 

「そっか。ならよかった」

 

「だから言ったでしょ、手当なんかいらないって。次同じ話したら、その舌斬り落とすから」

 

「はいはい、わかったよ」

 

 怪我の方はもうなんともないようで一安心だ。

 けれど来栖崎は、また僕のせいで負傷してしまった。その罪悪感に胸焼けがする。

 

 僕が自分の役割を見失ったりしなければ。ちゃんと輸血を済ませてから応援に駆けつけていれば。

 来栖崎に血を飲ませるという、僕の唯一の存在意義を放棄した結果がこれだ。今後は何よりもこれを優先していくことを、僕は自分の胸にひっそりと、改めて固く固く誓った。

 

「じゃあ来栖崎。一回シャワーでも浴びてきたらどうだ?」

 

「……は?」

 

 改まった僕の提案に、来栖崎はようやくこちらを向いた。

 眉にしわを寄せ、目一杯の軽蔑の視線と共に。

 

「あ、いや、変な意味じゃないからな!? まだところどころ血で汚れたままだから、それを洗い流してきたらどうかって……」

 

 しまった。言葉足らずだった。

 僕らは24時間行動を共にする以上、僕からシャワーに誘うなんて言語道断だ。

 

 けれど僕は気になってしまうのだ。タオルか何かで拭ってはいるようだが、来栖崎の顔や身体のあちこちには返り血の跡がある。

 それがどうしても、彼女自身が傷ついた跡であるかのように見えてしまって、どうにも落ち着かないのである。

 

 とはいえ、一体どんな罵詈雑言を浴びせられることだろう。僕は来栖崎の機嫌を一層損ねてしまったことを覚悟した。

 しかし来栖崎は何も言わなかった。それどころか彼女はすっくと立ちあがるとため息をつき、適当なタオルケットを一枚引っ掴んで部屋を出た。

 

 どうしたのだろうか。まさか、僕の言ったようにシャワーを浴びに行ったのか?

 なんだか突然素直になったものだから少し戸惑ってしまうものの、僕も来栖崎に続いて急ぎ部屋を出ることにしたのだった。

 

 

 

 *****

 

 

 

 デパートのシャワールーム。とはいっても世間一般に知られていたそれとは違い、ペットボトルに溜めた水で身体を流すだけの簡易的なものだが。

 シャワーの間ももちろん僕は来栖崎から離れられない。突然発作が起きたときに対処できるよう、シャワールームの目の前に待機だ。

 

 来栖崎からすればなんと屈辱的なことだろう。けれどそれが契約である以上仕方がない。

 トイレに行くことすら躊躇い、そのたびに大喧嘩していた初期に比べれば、嫌々ながらも傍に僕を置いてシャワーを浴びるようになっただけ良しとしなければならないというものだ。

 しかしながら、やはり僕がいるのが嫌なのだろう、シャワールームが近づくにつれて来栖崎の足取りは重くなっていく。来栖崎に続いて歩いていたはずが、到着する頃にはいつの間にか僕が先導する形になってしまっていた。

 

「ほら、着いたぞ」

 

「……」

 

 タオルケットを胸元に抱きかかえて僕を睨む来栖崎。その視線が痛い。軽蔑されることはわかっていたものの、やはり痛い。

 

「心配すんなって。僕が覗いたりしたことなんかないだろ?」

 

「……でも……もしなんか起きたら?」

 

「…………」

 

「…………変態」

 

「いやいやいやいや何も起きないって! 大丈夫だよ来栖崎ッ!」

 

 《なんか》とはつまり、感染の発作のことだろう。というか、なんで急にこんなしおらしくなるんだよ。接し方に困るだろ。

 どうやら来栖崎にとっては、僕を罵る元気もなくなるほど屈辱的な案件らしい。その解決策なんて……ないけども。

 

「ほら早く行ってこいよ。次が来るかもしれないだろ」

 

 もう強引に入れた方がいいかもしれないと、僕はシャワールームの戸を開ける。

 するとその先の光景に、僕は唖然とすることになってしまったのだった。

 

「あっ」

 

「えっ」

 

 こんなことがあるだろうか。シャワールームの戸には確かに《空室》の札がかかっていた。

 だというのに中にいたのは――まさに今着替えている真っ最中の、不知火だった。

 

 いや、着替えているというか、これからシャワーを浴びるつもりだったのだろうか。彼女が羽織っていたブルゾンは壁にかけてあり、その下に着ていたスポーツTシャツを脱ぎ去ったところだったようだ。

 そしてそのTシャツの下はあろうことか――ノーブラだった。

 

「……わ、わああああッ!!?? 悪い不知火ッ!!」

 

 僕は慌てて目を背ける。きっと次の瞬間には不知火の悲鳴が響き渡り、何事かと幹部たちが駆け付けてくるだろう。僕の尊厳は失われたも同然だ。

 

「ああ、すまない。驚かせてしまったな」

 

 ところが不知火は、信じられないほど冷静だった。

 どういうことだ? 事故とはいえ僕は、意外にも発育のよい上半身裸の女性にばったり遭遇したはずなのだけれど。ばっちり目まで合ってしまったのだけれど。

 まさか、気にしていないのか? だとしたら肝が据わりすぎていないだろうか。それとも周囲に男性がいなくなってしまったが故に、恥じらいを感じなくなってしまっているのか? もう焦りと混乱でわけがわからない。

 

「実は私はな……下着は身に着けない派なんだ」

 

「驚いたのはそこじゃないッ!!!!」

 

 そう叫びながら、僕は勢いよく戸を閉める。

 まだ心臓が暴れまわっている。女性の裸を見たからというわけではなく、冗談抜きで僕は死を覚悟したからだ。主に社会的に。

 

「つ、次からは、ドアの札を《使用中》にしておいてくれるか、不知火?」

 

「そんな札があったのか。気づかなかったな。今後は気を付けるよ」

 

 中にいる不知火とドア越しにそう話す。新入りであるが故にルールに疎いのは仕方ないが、よりによってシャワールームでトラブルとは……僕もついてない。

 というか、下着を身に着けない派ってなんだ。あれだけ凛々しく常識人である不知火にそんな一面があったなんて。ひょっとしてあのパンツァーと同類なのか……考えたくはないけれど。

 

 ひとまずは不知火がシャワーを終えるまで待つとしよう。

 そう僕が来栖崎に提案しようとした瞬間、彼女は僕の右足を思いっきり踏みつけてきたのだった。

 

 指の骨が、砕け散ったかと思った。



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第十話

 電力供給のストップしたこのデパートを照らすのは、薄っすらと雲がかかって頼りない月明かりだけ。

 誰もが明日の作戦に向けて休息をとる深夜、僕は未だに欠伸の一つすらしていなかった。

 部屋の隅には毛布を被って静かな寝息を立てる来栖崎(くるすざき)がいる。昼間は疲れていないと強がっていたけれど、彼女はやはり、あのエントランスでの戦いでかなり消耗していたようだ。

 

 泥のように眠る来栖崎を見て、僕はまた自己嫌悪する。

 感染の発作を起こしてしまうことが、彼女にどれほどの負担を強いるのか。それは今の来栖崎の疲弊した様を見れば想像できる。

 けれど、想像はできても理解はできない。彼女が一体どれだけの苦しみの中で剣を握っているかなど、僕なんかには永遠にわかりはしないのだ。

 

 来栖崎が傷ついたのは、輸血ができていないことを考慮して采配しなかった僕のミスだ。

 自覚はある。僕は来栖崎の強さに頼りすぎている。不知火(しらぬい)の言っていた通り、彼女に依存しすぎていると。

 

 それでも、僕にはこうすることしかできない。内なるナニカに怯える来栖崎に剣を握らせ、最も多くの敵を斬らせるために最前線に立たせることしか。

 

 弱い僕は、来栖崎を苦しめることでしか生きられない。だからこそ、その苦しみが少しでも軽くなるようにと考える。

 けれど最近、それ自体がまったくの無意味であるようにすら感じるのだ。

 

 なぜなら来栖崎にとっては、憎み恨み忌み嫌う僕の血を啜ることでしか生きられない依存関係こそが、軽減しようのない最悪で最大の苦悩であることには違いないのだから。

 

 今日何度目かもわからないため息をつく。

 するとそれに被せるように、僕らの部屋のドアがノックされる音が聞こえた。

 

「休んでいるところすまない、不知火だ」

 

 僕は腰を持ち上げてドアへと歩み寄る。

 来栖崎を起こさないようそっとドアを開けて顔を出すと、昼間同様大きめのブルゾンとパンツスタイルの不知火が立っていた。

 

「起こしたか?」

 

「いや、僕は起きてたよ。来栖崎は寝てるけど」

 

「そうか。本当にすまないな、こんな時間に。少し話があるんだ」

 

 申し訳なさそうに眉を顰める不知火。シャワールームの一件があったばかりで、顔を合わせるのが少し気まずい。

 しかし不知火はまったくその件を気に留めてはいないようで、普段通り平然と僕に話を切り出してきた。

 

「まずは、その……ありがとう。私の提案を採用してくれて」

 

「ああ、第二拠点を作るって話か。改まって感謝されることでもないだろ、僕以外のみんなも賛成してたし。いい案を出してくれて、むしろこっちが感謝したいくらいだ」

 

 新入りとは思えない堂々とした発言。不知火の性格を思えば珍しいことではなさそうだが、これができる者は多くないだろう。

 参謀を任された今だからこそ、僕は会議なんかでも積極的に発言しているけれど、ポートラルにやってきた当初はチームの空気に馴染むのも一苦労だった。ここは不知火と僕の人望の差なのだろう。

 

「あの場にサンがいてくれて本当に助かったよ。私だけじゃあんなにスムーズに作戦立案なんてできないし、あの盟主に流されてすぐにでも出発していたかもしれない。ポートラルの参謀と言われるだけのことはあるな、お前は」

 

「大したことは何もしてないよ、僕は。いつだって頑張ってるのは、ゾンビと戦ってくれてるみんなだからな」

 

 そうだ。皆の苦労や恐怖と比べれば、僕の役割などなんと負担の軽いことだろう。

 だからこそ、僕はせめて自分の発言には責任を持ちたい。仲間たちの安全を最優先に考えたい。

 仲間たちが生きるか死ぬかも、安全圏に立つ無力な僕の指示一つですべて変わってくるのだから。

 

「それで、本題はなんだ、不知火? まずは(・・・)なんて言ったくらいだ。他にも要件があるんだろ?」

 

「……ああ。察しがいいな、お前は」

 

 僕の指摘に、不知火の表情が重くなる。

 どうしたのだろう。何か問題でもあったのだろうか。

 

 少しの間俯いて考え込む不知火。

 僕はそんな彼女が何の話を切り出してくるのかと、静かにその時を待った。

 

「……なあ、サン。二人だけで話せないか? ここじゃちょっと……」

 

「……二人で?」

 

 僕の問い返しに不知火が頷く。

 けれどそれは不可能だ。僕は来栖崎から一瞬たりとも離れるわけにはいかない。そのことは不知火にも話したはずなのだけれど……いや、あるいは――

 

「――もしかして、来栖崎がいると話しづらいことか?」

 

 僕の問いに、不知火は黙り込んだ。

 どうやら彼女は何と答えるか迷っている様子だ。おそらくは図星なのだろう。

 けれど不知火は少しの間考え込んだあとで、気まずそうににこくりと頷いてみせた。

 

「本当に察しがいいな、サン。その通りだよ」

 

 私の負けだ、とでも言いたそうにため息をつく不知火。

 けれど、来栖崎を抜きにして彼女が話したいこととは一体何なのだろう。不知火は来栖崎に友好的に接しようとしていたはずなのに、聞かれてまずい話でもあるのだろうか。

 

「来栖崎にとっては面白くない話なんだ。寝ているとはいえ、それをわざわざ彼女の前で話すことには、なんだか抵抗があってな……」

 

「そうだとしても僕は、今ここで話せないことなら聞くつもりはない」

 

「……わかった」

 

 部屋の奥で眠る来栖崎を一瞥する不知火。

 そのあとで彼女は、より声を小さく落として僕に語り始めたのだった。

 

「お節介かもしれないが真面目に聞いて欲しい。私はお前たち二人に、あの依存関係を脱却してもらいたいと思ってるんだ」

 

 真剣な表情を突き合わせる不知火の言葉を、僕なりに飲み込んで解釈してみる。

 けれど適当な解にはどうにも辿り着かない。僕と来栖崎がこの依存関係を脱却する方法は、来栖崎の感染の治癒と僕の死以外にはありえないからだ。

 

「来栖崎にサンの血が必要なのは十分理解できる。だがだからと言って、24時間行動を共にする必要はないだろう? 血を飲むときだけでいいはずだ」

 

「感染度の上昇に関係なく、不意に突発的な発作が起こることもあるんだ。常に目の届く範囲に僕がいなきゃ、それに対応できないんだよ」

 

「それも確かに重要かもしれないが……私が心配してるのは、お前自身のことなんだ、サン」

 

「僕自身?」

 

 不知火の言葉に首を傾げる。僕は彼女に一体何を心配されているというのだろう。

 感染に伴った発作で危険なのは、感染している本人である来栖崎と、彼女の殺人衝動の矛先が向くかもしれないポートラルのメンバーたちだ。感染しない身体を持つ僕ではない。

 第一、僕は来栖崎に襲われたとしても、そのとき血を飲ませることで発作は収まるのだ。一体自分に何の危険があるのかと考えても、僕にはまったくもって想像がつかなかった。

 

「お前ほどの聡明な男が、この関係を良しとしている理由がまるでわからないんだ。 来栖崎はお前のことを人として見ていない。血液パック(ケツパ)などとふざけた名で呼んで、お前を所有物として好き放題だなんて。私はそれが……見ていられない」

 

 唇を噛み締めながらそう語る不知火は、どこか悔しそうに見えた。

 けれど、この契約は僕自身が決めたことだ。不知火が胸を痛める必要などどこにもないはずなのだけれど。

 

「今すぐ来栖崎との契約を解消すべきだ、サン。お前は自己評価が低すぎる。ポートラルでのお前の功績は目覚ましいんだ。来栖崎の所有物だなんて言わず、もっと自分を認めるべきだろう?」

 

 そう言って必死に詰め寄ってくる不知火は、どこか僕に嘆願するようにも見えた。

 なんというか、正直嬉しい。ここまで自分のことを思ってくれる仲間と巡り会えたことが。

 

「……それは違うよ、不知火」

 

 けれど僕は、彼女の言葉を否定しなければならない。

 

「来栖崎に守ってもらわなきゃ生き残れない僕なんかが、そこまで組織に貢献してるとは思えない。いや、仮に不知火の言ったことが全部正しいんだとしても、僕が狂わせてしまった来栖崎の人生に償うためには、こんなもんじゃまだまだ足りないんだ」

 

 僕の言葉を聞いた不知火は、やはり悔しそうにグッと拳を握り締めていた。

 理解されなくていい。そもそも理解してもらえるなんて思っていないから。

 

 誰に何と言われようと、僕は来栖崎との契約を最優先に生きていく。

 そのことで誰かが胸を痛めようと、この意志だけは決して揺るぐことはない。

 

「だから僕は、来栖崎のために生きることをやめない。誰に何と言われても、来栖崎が僕を殺すまで、絶対にだ」

 

「……そうか……わかった。邪魔をしたな」

 

 僕の決意が固いと悟ったのか、そう言い残した不知火は、踵を返すと僕らの部屋の前から去っていった。

 あの様子では、やはり不知火から理解は得られていないだろう。なんだか申し訳ない気分にもなる。

 

 けれど僕には、これ以外の生き方などわからないのだから仕方ない。

 来栖崎のために生き、来栖崎のために死ぬ。それこそが僕にとって唯一の、かつ最大の幸福なのだ。

 

 改めてそう実感し、部屋の中へと振り向く。

 視界に映った来栖崎の、寝息を立てながらもぞもぞと寝返りを打つ姿に、僕はなんだか胸が温まるような気持ちさえした。



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第十一話

「――ではこれよりッ! 『第408回ポートラル第二拠点視察作戦~せっかく別荘作るなら、やっぱ屋外プール付きがいいよね~』を、決行するぜィ!!」

 

 相も変わらず適当なナンバリングの作戦名を唱えながら、アドが大きな横断幕を広げる。すぐ出発するんだから邪魔なだけだろうに。

 毎度のことでもう誰もツッコミを入れようとしない。それでも一人でやいやいと楽しそうにしているアドの図太さは本当に目を見張るものがある。いい意味でも悪い意味でも。

 

 先程少し外を覗いた限りでは、天気は曇り。

 厚い雲が太陽にかかってはいるものの、雨が降る様子はない。少し涼しくて活動しやすく、屋外作戦にはそれなりに適している天候と言えるだろう。

 

「それじゃあ案内しよう。私についてきてくれ」

 

 黒い竹刀袋を背負った不知火(しらぬい)の背中に続いて、僕らもデパートを後にする。彼女の言う第二拠点候補地とは、一体どこにあるのだろうか。

 最低でも、デパートから第二拠点までゾンビの少ない地域を移動できることが必要な条件となってくるだろう。

 

 非常事態によりデパートを捨てる判断をしたと仮定した場合、非戦闘員のメンバーを守りながら第二拠点まで移動する必要がある。

 戦闘が可能なメンバーの人数を考慮すれば、守りながら移動できる非戦闘員の人数には限界がある。距離が近いのがベターなのは間違いないが、戦闘を極力避けながら移動できるルートを確保しておかなければ、第二拠点に辿り着いた時の生存人数に直結してしまう。

 

 けれど、それは要らぬ心配だったようだ。

 不知火も僕の懸念については同様に考えていたようで、彼女が先導するルートは見晴らしの良い広い道路であったり、踏切から中に入った線路の上であったりした。

 

 住宅街や細い道では、物陰に潜むゾンビから不意打ちを受ける可能性がある。障害物の少ない大きな道路や、柵で隔離された線路内を歩くことで、ゾンビとの接触を最小限に抑えようということだろう。

 実際不知火に続いて歩く中でも、ゾンビとはまだ数体しか接触していない。この程度なら、数十名の非戦闘員を守りながらでも進むことは容易そうだ。

 

「ところで不知火。今向かってる候補地って、どんな場所なんだ?」

 

 ふと、僕はそんな疑問を不知火へと投げかけてみる。

 すっかり忘れていたが、まだその話をしていなかった。僕以外の皆もそういえばといった風に、不知火の回答に耳を傾けた。

 

「それは着いてからのお楽しみだ。きっと驚くぞ、サン」

 

 ニヤリと楽しげな笑みを浮かべる不知火。どうやら候補地について具体的に語らなかったのは敢えてのことだったらしい。

 遊び心があると言えば聞こえはいいかもしれないが、僕は少しばかり不安に思えてきたようにも感じる。しっかり者に見える不知火だけれど、意外にも一風変わった趣味趣向の持ち主であることは既に思い知っているからだ。例えば、そう……昨日のシャワールームとかで……。

 

「うひょーッ! そう言われると余計に楽しみじゃないかー! 到着が待ちきれないぞよヌイヌイッ! まだ着かんのかッ。まだ着かんのかッ!?」

 

 僕の心配事とは裏腹にはしゃぐアド。

 思えばコイツは不知火と同類かもしれないわけだしな……同調していても不思議ではない。不知火からは若干避けられてるみたいだけど。

 

「一体どんな場所なんですかね……」

 

「心配か、サンくんは?」

 

「まあ、少しだけですけど」

 

 そんな話を持ち掛けると、礼音(あやね)さんは僕を安心させようとするかのように微笑んでくれた。

 

「なに、きっと大丈夫だろう。不知火くんは一人でこのニュータウンを生き抜いてきたのだ。ゾンビ共から身を守る術は、おそらく私たちよりも熟知しているだろうからな。空が落ちてくることを憂いても仕方あるまい」

 

「空が落ちる……『杞憂』の語源になった逸話ですね」

 

「うむ。さすがだ」

 

 礼音さんと話していると、やはり考えすぎかと思えてきた。

 そうだ、僕らは不知火を新しい仲間として受け入れ、一度共に戦ったじゃないか。彼女の言葉に疑念を持つ理由などない。僕の懸念は礼音さんの言ったように杞憂に過ぎないのだろう。

 

 ゾンビがデパートに侵入してきたときも、その後の会議で第二拠点を築こうという話をしたときも、不知火が僕らに良い影響を与えていたことは間違いないのだ。

 そんな彼女に連れられてやってきたのが、例え少々おかしな場所だったとしても……なんとかフォローしてみせるさ……ッ。

 

「――ん」

 

 そんな折、僕の隣を歩いていた来栖崎(くるすざき)が、僕の前に手を出してきた。

 その意図を僕は把握できない。手のひらを上にして差し出されたこの手は……何かを渡せとでも言っているようだが?

 

「……悪い、なんだ来栖崎?」

 

 結局、僕はその意図を理解できずに尋ねてしまった。

 すると来栖崎は僕に対して「使えない」とでも言いたげにため息をついた。

 

「喉乾いたんだけどー?」

 

「ああ、そういうことか。少し待ってろ」

 

 僕は急いでリュックサックを開け、中からペットボトルを取り出す。

 それを来栖崎の手の上に置いて任務完了――かと思ったが、来栖崎は再び大きなため息をついた。

 

「キャップ」

 

「えっ、ああ……わかった」

 

 僕はボトルのキャップを開けて、もう一度来栖崎に手渡す。そうして来栖崎はようやく喉を潤すことができたのだった。

 

「血は大丈夫そうか? どこか調子が悪かったりとかは――」

 

「――血なら出発前に飲んだでしょ。ボケた老人じゃあるまいし」

 

「そうか。ならいいんだ」

 

 なんだその、朝ごはんならさっき食べたでしょ、みたいな。

 けれど僕は心配なのだ。例え杞憂と言われても、僕は来栖崎のことが何よりも大事で、何よりも気がかりで仕方がない。

 

「ったく。しっかりしなさいよね。辛うじて荷物運びくらいにしか役に立たないんだから、あんた」

 

 そう言いながら突き返されたペットボトルに、僕は再びキャップを閉める。

 けれど、なんだろうか。このとき僕は来栖崎に、なんとなく昨日までと異なる雰囲気を感じた。

 

「なあ、来栖崎。お前……何かいいことでもあったのか?」

 

 漠然とそう尋ねてみる。不知火と揉めてからというもの口数が減っていた来栖崎が、なんだか今日はよく喋っているのだ。喋っているというか、僕を罵っているんだけれど。

 僕にとっては、その様子がどうにも機嫌がいいように感じられる。その理由が知りたくて、僕はつい来栖崎に取り留めもない問いを投げかけたのだった。

 

「別に。むしろその逆だったら? どっかのクソ虫がクソどうでもいいことを聞いてきた、とか」

 

「それは悪うございましたね」

 

 クソがつくほどどうでもいい割に、質問にはちゃんと答えるんだな。どっちとも取れない曖昧な回答だけれど。

 けれども、24時間一緒にいる僕にはわかる。来栖崎は昨日までと比べて明らかに機嫌がいい。それだけは自信を持って断言できるのだ。

 

 一体どうしてだろう。僕には心当たりがまったくない。それこそ24時間一緒にいる僕ですら、だ。

 わからない。わからない。理解したくても僕にはひと摘まみもわからない。来栖崎が何を感じ、何を思っているのかが。

 

「ここを通り抜けるぞ」

 

 あれこれと考え込んでいると、前方から不知火の声がした。

 見渡すと、いつの間にか僕らは山の入口にいて、眼前には巨大な洞窟のようなものがあった。

 

「な、なあ不知火……拠点候補ってまさか、この洞窟か……?」

 

 恐れていた事態が起きたかもしれない。いくらなんでもそんな不便な場所に身を顰めなくても。

 デパートと比較すると生活水準は格段に下落することは間違いない。僕以外の面々も眉が引きつっているじゃないか。

 

「ははは、まさか。通り抜けると言っただろう。候補地はもう少し先だ。そこへ行くまでの近道なんだよ、ここは」

 

「それを聞いて安心したよ……」

 

 セーフ。もしここが拠点候補だと言われたら全員で回れ右するところだった。

 しかし、ニュータウン内の山地にこのような洞窟があることなど知らなかった。

 いや、ここは自然にできた洞窟ではなく、どうやら人工的に掘られた場所のようだ。採掘場か何かだったのだろうか。

 

「ここは感染爆発の前にトンネル工事が行われていた場所のようでな。作業員用の通路も完備されていて歩きやすいんだ。ここを通れば山の向こう側に抜けられる」

 

「なるほどな。山の反対側に行くなら、迂回するよりずっと早そうだ」

 

「ただ、中には稀に少数のゾンビが迷い込んでいることがある。だから前衛で戦える者から先へ進み、後衛がそれに続いてもらいたい。私とサンで殿(しんがり)を務めるのがいいだろう」

 

「そうか。わかった」

 

 僕らにとっては土地勘のない場所である以上、ここは不知火の指示で動くのがよさそうだ。

 彼女の提案通り、前衛には姫片(ひめかた)甘噛(あまがみ)豹藤(ひょうどう)ちゃんを配置し、中間には射撃隊の礼音さん、百喰(もぐ)、アド。最後尾は不知火と僕、そして僕から離れられない来栖崎という陣形で進むことに決まった。

 

 

 

 *****

 

 

 

 洞窟内は暗く、充電式の懐中電灯で照らしながら進むしかなかった。

 それも当然だ。感染爆発によってライフラインがストップしている以上、工事用の照明が使い物になるはずはない。

 

 皆の足取りも慎重になる。真っ暗な中から突然ゾンビが現れようものなら死に直結するからだ。

 しかし不知火の話では、これまで何十回と通った中でゾンビが現れたことなど片手で数える程度だという。遭遇率が低いのはありがたい話だが、それでも警戒は怠らないようにしなければ。

 

「ん?」

 

 暗い視界の中に何かが見える。けれど最後尾の僕にはそれが何なのかはわからない。

 

「吊り橋が見えますわ。下は谷になっています」

 

 前方の状況を確認した甘噛の声が聞こえてくる。

 少し進んで追いつくと、その言葉通り一本の吊り橋がかかっていることが確認できた。

 

 どうやらこの山の内部には洞窟のような空洞があったらしく、トンネルを掘っている途中でその空間にぶつかり、それが谷となっているようだ。

 鎖で吊られた橋は少々錆びついてはいるものの固定は十分そうである。吊り橋の幅は随分狭いが、一列になって進めば問題なく反対側へと渡れるだろう。

 

「ここまで来たなら出口はもうすぐだ。さっきまでの順で渡っていってくれ」

 

 不知火の合図で一人ずつ吊り橋に足をかける。

 鎖で吊られているだけであるため割と揺れるようだが、想定外の地形に臨時でかけた橋にしては良く出来ている方だろう。

 

 前衛が橋の真ん中あたりまで差し掛かり、中間の射撃隊が橋を渡り始める。

 それに続いて最後尾組の来栖崎が足をかけ、殿(しんがり)である不知火の前に僕が橋を渡る――

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――はずであった。

 

「――うわぁッ!?」

 

 橋に足をかけた瞬間、僕は背後から引っ張られバランスを崩す。

 そのまま尻餅をついた僕の目に飛び込んできたのは、なぜだか抜刀している不知火の姿だった。

 僕の声に皆が振り向く。しかし不知火は何を思ったか、橋を吊っている鎖を自らの刀の一振りで断ち斬った。

 

「なんだッ! 何が起きているッ!?」

 

「サン様ッ! これは一体!?」

 

「おいしがみつけッ! 橋が落ちるぞッ!!」

 

 ジャラジャラと音を立てる鎖の橋と共に、真っ暗な谷の底へと皆が吸い込まれていくのは一瞬の出来事だった。

 何が起きたのか、まだ僕にも把握できない。突然のことに驚き呼吸を乱す僕の前には、鎖を切った刀を鞘に収める不知火の後ろ姿だけがあった。

 

「無事かみんなッ!? 返事してくれッ!!」

 

「なんとか生きてるよ、サンちゃん。全員無事ー!」

 

 慌てて谷底に向けて叫んだ僕は、アドからの返答に胸を撫で下ろした。

 どうやら咄嗟に橋にしがみついたおかげで、落下による致命傷を受けた者はいないようだ。

 

「うおッ!? なんだコイツらッ!?」

 

「早く戦闘態勢を取らないとッ!」

 

「まずいぞサンくん! 橋の下はゾンビ共の巣窟だッ!」

 

「なんだって!?」

 

 耳を澄ますと、確かに皆の声に紛れてゾンビの呻き声が聞こえてくる。

 数体……いや、数十体は軽く超えているのではないだろうか。どうしてこのような谷底なんかにゾンビの大群が……!?

 

 しかし、考えればそれは当然の話だ。

 感染爆発当時、このトンネルには大勢の作業員がいたと推定される。それも大半が感染に対する免疫のない男性作業員が、だ。

 

 ふらふらと歩くゾンビ共は平衡感覚がほとんど機能していない。吊り橋を渡るほどの知能もない。

 千鳥足でこのトンネル内を彷徨ううちにほとんどがこの谷底へと落ちていったことは容易に想像できることだ。

 そして落ちたら最後、彼らが這い上がってくる手段はない。必然的にゾンビの掃き溜めがこうして出来上がるというわけだ。

 

 わからない。わからない。わからない。一体どうしてこのような状況になってしまったのか。

 混乱する。錯乱する。狼狽する。僕らに何が起きたというのだろう。たった今まで並んで平穏に歩いていた僕らの身に、一体何が?

 

 いや、本当はわかっている。ある人物がこの状況を作り出すところを、僕は目の前で見ていたのだから。

 

「……どういうことだ、不知火……ッ!!」

 

 振り向いた先に立つ彼女の表情には、何の感情もこもってはいなかった。

 あまりにも遅すぎるが、僕はこの瞬間にようやく気付いたのだ――

 

 

 

 

 ――本当に空が、落ちてきたのだと。

 

 

 

 



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第十二話

「答えろ不知火(しらぬい)ッ!! 一体何のつもりなんだよ!?」

 

 僕が問うても何も答えない不知火。彼女は表情を変えぬままで僕の前に立っているだけだ。

 まだ状況が飲み込めずにいる。不知火はなぜこのようなことをしたのだろう。言葉を交わし、笑い合い、そして互いに背中を預けて戦った仲間だというのに……!

 

「許せ。これはお前のためなんだ、サン」

 

「僕のため……?」

 

 俯きながらそう呟く不知火は、なんだかとても悲しそうに見えた。

 しかし彼女はすぐに表情を引き締めると、僕の前へと少しずつ歩み寄ってきた。

 

「意味がわからないぞ不知火……僕らは第二拠点の視察をしに来たんじゃないのか?」

 

「そんな場所はない。最初からな。すべてはお前たちをここに連れてくるための方便だ」

 

「……何が目的だ?」

 

「それを尋ねる必要はあるのか? 聡いお前ならもうわかってるんだろう?」

 

 不知火の言う通り、なんとなくの推測はできている。

 それでも、そうだと信じたくない。本気で仲間だと信頼していた彼女が、本当にそのようなことを企てていただなんて思いたくない……!

 

「潰すためだよ。ポートラルを」

 

 僕の目の前まで迫ってきた不知火の言葉に、僕は拳を握り締める。

 そうだ。そうに決まっている。でなければ、仲間が大勢乗った吊り橋を落とす理由などないのだから。

 

 僕の背後。谷の底からはゾンビの大群と戦うみんなの声が聞こえる。

 しかしそれを援護している余裕はない。僕は不知火と視線を交えたまま、一歩も動くことができずにいた。

 

「ポートラルはお前という男を見誤っている。お前は間違いなく盟主の器だ。参謀なんて役不足だろう。なのにどうして誰もそこに疑問を抱かない? どうしてあんな下品で無能で能天気な盟主に付き従っているんだ? まったく理解できない」

 

 理解できないのは僕も同じだった。

 僕が盟主の器? 来栖崎(くるすざき)やみんなに守ってもらわなければ生き残れないほど弱い僕が?

 参謀が役不足? 決してそんなことはない。むしろ参謀だなんて、僕なんかにはもったいない大役を任せてもらっていることが幸せなくらいだ。

 

 そう思っても、僕は何も答えることができない。

 下手な反応を見せれば何かが壊れてしまいそうな、そんな危なげな雰囲気が、今の不知火にはあるからだ。

 

「お前も同じなんだろう? 女の醜い社会に飲み込まれ、本当の自分を偽り、肩身の狭い思いをしながらそれでも息を殺して生きるしかない……お前も()と同じだ」

 

「……()……?」

 

 一瞬、僕は思考が停止した。

 不知火の言動が明らかに不自然だったのだ。

 ずっと《私》と言っていた彼女が、今自分を指して《俺》と言った。この変化は一体何を意味するというのだろうか。

 

「俺と来い、サン。男がいなくなったからって上に立った気でいる女共に首を垂れる必要なんかないんだ。少数派(マイノリティ)であることは劣っていることとイコールじゃない。それを証明してみせるんだよ。お前と、俺で……!」

 

「不知火……お前は……」

 

 僕の中に、一つの推測が生まれた。

 というか、これはもう確信だ。不知火の言葉を聞けば聞くほど、僕は不知火の正体が日の下に晒されていくように実感できた。

 

「……LGBT……なんだな」

 

 僕の言葉に、不知火はこくりと頷いた。

 

 LGBT――つまり性的少数者(セクシュアル・マイノリティ)

 この中には同性愛者や両性愛者、身体と精神の性が一致しない性別超越者などが含まれるという。

 どうやら不知火は、女性の身体でありながら男性の精神を持っているらしい。一人称を《俺》と言っていたことからそう考えるのが妥当だろう。

 

「俺はお前を救いたいんだ、サン。お前のような能力のある男が、女共に蔑まれながら自分を殺して生きているのが我慢ならない。それがどれほどの苦しみを伴うのか、俺は痛いほどよく知ってる。俺なら本当のお前を理解してやれるんだ。だからこんな豚小屋なんか捨てて俺と来い。二人でこの世界を生きるんだ……!」

 

 見開かれた不知火の目が、得体のしれない恐怖を煽る。

 一体どれだけの苦悩を背負えば、ここまで人間は盲目になるのだろう。自分の求めるもののために、他のすべてを排除しようなどと考えてしまうほどに。

 

 ちらりと、背後の崖下を見る。暗くてよく見えないものの、そこには蠢くゾンビの大群の影が確認できた。

 この中で今、みんなは必死に戦っている。なのに、僕は動けない。本当なら今すぐ駆け付けなければならないはずなのに……!

 

「来栖崎が気になるか?」

 

 不知火の一言に心臓が跳ねる。

 再び彼女の――いや、彼の方を振り向くと、なぜだかそこには不気味な笑みが一つ浮かんでいた。

 

「そういえばお前は言ってたな。《来栖崎のためだけに生きる》んだと。ヤツに依存しなければ生きられないなら、その障壁も俺が取り去ってやる」

 

「……なんだと?」

 

 不敵な笑みを浮かべたままの不知火。

 彼は鞘に収まったままの刀を僕の前に水平に突き出してみせると、固い覚悟に満ちた声を高らかに張り上げた。

 

「生きるために依存する剣が必要なら、今日からは俺がその役目を担おう。生きるために依存される弱者が必要なら、今日からは俺がお前の聡明さと唯一性に依存しよう。どうだ? 今よりずっと理想的な凶依存の関係だろう? お前が躊躇う理由なんか一つもない。だから俺と来るんだ、サン……さあ!!」

 

 不知火の双眸は、眩しいほどの希望に満ち満ちているようだった。

 例えるなら、欲しいおもちゃを買ってもらえた時の子どものような、あまりにも純粋で嬉々とした目。

 きっと彼は幸福なのだ。長きに渡って続いた苦悩が、僕という存在によって終わりを告げるのだと。それを確信しているのだと、僕にはわかった。

 

 

 

 

 

 

「断る」

 

 

 

 

 

 けれど、そんな彼の眩しすぎる期待を、僕はたった一息で斬り伏せてみせた。

 

「……今……なんて言った……?」

 

 途端に表情が崩れ落ちる不知火。僕の返答はそんなにも予想外だっただろうか。

 いや、予想外なんてものではない。彼はもう、僕が頷くことを確信していたのだろうから。そんなことは、それこそ本当に空が落ちてきたのだとしてもありえない話だというのに。

 

「僕を救いたいと言ったな、不知火。そもそも、お前はその前提から間違ってるんだよ――」

 

 刀を握る手を震わせる不知火に、僕は淡々と言葉を投げかける。

 彼が聞いているかは定かではない。僕の返答に尋常ではないほど動揺している様子だ。

 

 それでも僕は言わなければならない。

 これは僕という無力な存在において、ある意味では心臓とも言えるほどの、何事にも代えがたい事実だからだ。

 

 

 

 

 

「――僕はとっくに、来栖崎に救われてるんだからな」

 

 

 

 

 その瞬間、僕らの足元は突然不安定になった。

 地震でも起きたのかと思うほどの地響きと揺れ。何が起きたのかも把握できないうちに、僕と不知火は崩れた地面と共に谷底へと滑り落ちていったのだった。

 

「ゲホッ、ゴホッ……何が、起きたんだ……?」

 

 土煙に巻かれてむせ返る息。すぐ横には僕同様に落ちてきた不知火の姿もある。

 どうやら垂直落下ではなく滑落だったおかげで怪我はしていないらしい。

 

「プギャー。一世一代の公開プロポーズを見事に拒否られてやんの、このおとこ女。どんな気持ち? ねえ今どんな気持ち?」

 

 ざくざくと土を踏みしめる足音と共に現れたのは、少し上擦っていて楽しげに不知火を煽ってみせる来栖崎だった。

 彼女は既に多くのゾンビを斬り伏せたのだろう、刀やコートにはどす黒い返り血がこびりついていた。

 

「岩壁を蹴って……足場を崩したのか……馬鹿力め……!」

 

 歩み寄ってくる来栖崎を睨みつけながら不知火が呟く。確かに来栖崎の膂力を持ってすれば、この程度の岩壁を崩してみせるくらい容易いことだろう。

 いや、そんな悠長なことを考えている場合ではない。崖下に落ちてきてしまったのなら、ここには大量のゾンビが蠢いているはず……! 現に僕の視界には、数えるのも億劫なほどのゾンビの群れと交戦する仲間たちの姿が映っていた。

 

「動くな、来栖崎(バケモノ)

 

 そう言って僕の背後に回り込んだ不知火は、咄嗟に僕の首に刀を突き付けた。

 それを見て来栖崎も足が止まる。首に当たる冷たい金属の感触に、僕は全身から冷や汗が噴き出るのがわかった。

 

「不知火……お前……ッ」

 

「全部お前のせいだ、サン。お前が素直に俺と来ていれば、こんなことはしなくてもよかったのに」

 

 耳元で囁かれる低い声は、もはや仲間として肩を並べた不知火ではなかった。

 彼の声色から感じ取れるのは、憎悪。何もかも諦め、眼前の敵にせめて一矢報いようとするような殺意だった。

 

「今すぐ剣を捨ててゾンビの群れに身を投げろ、来栖崎(バケモノ)。さもないとサンを殺す。そうなればお前にとっては死活問題どころの騒ぎじゃないんだろう?」

 

 動揺する僕とは対照的に、来栖崎は不知火の言葉に対して何の反応も見せなかった。

 

 彼女はどうしてそんなに冷静なんだ? 彼女は今何を考えている?

 僕が死ねば、僕の血を飲めない来栖崎も死ぬしかない。僕が死ぬことに関してはどうだっていいが、そのせいで来栖崎が死ぬことなどあってはならないのに……!

 

 右手に握った刀をだらりとぶらさげたまま、来栖崎は立ち尽くす。ゾンビと戦うわけでもなく、不知火の要求に応えるわけでもなく。

 

「やめてくれ、不知火……お前を拒絶したのは僕だ……来栖崎は関係なッ……ぅぐッ」

 

 どうにか不知火を説得しようとした僕の言葉は、喉にグッと強く押し付けられた刀によって嚥下を強要された。

 

「関係ないと思ったか? 大ありなんだよそれが。俺はあの女が昔から気に食わなかった……初めて会った中学生の時から、ずっとずっと殺してやりたくてたまらなかったんだよ……ッ!!」

 

 言葉尻が強くなる。叫ぶ呼吸が荒くなる。

 冷静沈着な不知火の印象を根底から覆す取り乱しっぷり。僕の首に刀を突き付けたままで、彼は立ち尽くす来栖崎に向けて喉を潰す勢いで吠えた。

 

「なあ、どうしてお前なんだッ!? どうしてお前はいつもいつもッ! 俺が死に物狂いで求めているものを何の努力もせずに手に入れるッ!? そのものの価値をまったくわかってもいないくせに……罪深いバケモノめッ!!」

 

 その叫びは、不知火の持つ感情のすべてを吐き出したと言ってもいいほどに悲痛だった。

 けれど僕には、その真意がわからない。どうやら来栖崎と不知火は、一度剣道の大会で試合を行ったというだけの間柄ではないらしいのだ。

 

「どういう……意味だよ……?」

 

 刀が突き付けられた喉から、どうにか言葉を絞り出す。

 それを聞いて不知火は、くつくつと不気味に笑ってみせると、再び僕の耳元で囁いた。

 

「そうだな……いいだろう。這い上がる手段がない以上、どうせここで全員死ぬんだ。冥土の土産に教えてやる」

 

 僕の首に突き付けた刀を、今一度握り直す不知火。

 そうして彼は、これまで謎に包まれてきた自身の過去について、僕と来栖崎に語り出したのだった――



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第十三話

今回は不知火視点の過去編となります。


 俺は、自分の名前が嫌いだ。

 

 名付けたのは父親。なんでも俺の母親は、俺を産むときに入れ違いで命を落としてしまったのだという。

 臨月を迎えていた母は不運にも交通事故に見舞われ、搬送先の病院で辛うじて俺だけが取り上げられたのだと父親から聞かされた。

 

 俺が産まれた当時のことなんて、俺自身が覚えているはずはない。

 それでも俺には確信を持って言えることがある。

 

 《女》として産まれたこの日こそが、俺にとっての地獄の日々の始まりだったのだと。

 

 

 

 *****

 

 

 

 不知火(しらぬい)なずな。この名前の持ち主が男性だと想像する者はほとんどいないだろう。

 いかにも女性的で可愛らしい名前。その名は俺にとって、《俺》という存在を否定する最も身近な存在だ。

 

 物心ついた時、既に俺はそう呼ばれていた。

 当時はそれについてなんとも思わなかったが、次第に成長し小学2年生になったとき、その疑問は唐突に俺の中に生まれ落ちたのだ。

 

 俺が通っていた私立小学校には制服があった。なんでも渚輪ニュータウンに住む富豪の子どもたちが集まる学校だったらしい。

 そこで俺は、自分が着ている制服に違和感を覚えたのだ――自分もズボンが履きたい、と。

 

 その小学校の制服は男子がハーフパンツ、女子がスカートというありきたりな構成だった。

 女子として入学していた俺がスカートを履いて登校するのは当然のことなのだが、当時は男子児童が履いているハーフパンツにどこか憧れていたことは今でもよく覚えている。

 

 そして俺は、男子のクラスメイトと馬が合う性格だった。

 昼休み、多くの女子児童が教室で本を読んだりおしゃべりをしたりしながら過ごす中、俺は男子児童たちに混じって校庭で鬼ごっこをしたり、ドッジボールをしたりするのが好きだった。

 

 一緒に登下校するのもいつも男子グループの中。女子の友達と一緒に遊んだ記憶は、少なくとも俺の中にはほとんどない。

 そんな俺の何を心配したのか、担任教諭から個人面談のようなものをされたこともある。どうしていつも男子と一緒にいるの? クラスの女子と何かあったの? と。

 

 それに俺は何もないと答えた。本当に何もなかったから。

 別に女子のクラスメイトのことが嫌いなわけではない。ただ、男子の方が気が合うから一緒にいるだけだ。それの何が問題だというのだろう。当時の俺にはまったく理解できなかった。

 

 そんな俺の学校での様子は、担任教諭を通じて父親の耳に届いた。

 そしてこれをきっかけに、俺の地獄はもう一段階加速し始めることとなる。

 

 小学3年のある日、俺は父親から呼び出されて説教をされた。

 どうして男子とばかり一緒にいるんだ。女子の友達と遊びなさい、と。

 

 俺は反発することができなかった。なぜなら我が家では父親の命令を守ることが絶対だったからだ。

 まだ無名で小規模であるとはいえ、不知火財閥のトップであるこの男の令嬢(・・)として産まれた以上、俺に歯向かうことなど許されるはずはなかった。

 

 そう。だから俺は私立の小学校に通っていたのだ。

 俺の家は財閥の家系。他の児童たちも親が大企業の社長であったり、政治家であったり。金に物を言わせる親のくだらない自己満足で、俺はこの小学校に通わされていた。

 

 別にその学校に通うこと自体は、それほど嫌だとは感じていなかった。何事も親が決めてくれる年頃だ。それも当然と言えば当然だろう。

 本当に俺が嫌だと感じていたのは、父親の命令で男友達との付き合いを制限されたことだ。

 

 財閥の令嬢として相応しい振る舞いや所作を俺に求めていた父親は、例の説教の日以降、俺に屋外で遊ぶことを禁じた。

 それから、昼休みや登下校の時間は女子児童と一緒にいるようにとも言いつけられた。

 

 思えば父親は、俺を産むときに命を落とした母の姿を俺に重ねていたんだと思う。

 父親から聞いた話では、俺の母親は常に父親の一歩後ろを歩いているような、大和撫子という言葉が似合う淑やかな人格だったらしい。

 だから父親は我慢ならなかったのだろう。そんな母の血を引く俺が、成長するにつれてみるみる《お転婆》になっていくのが。

 

 事あるごとに父親は、お前の母さんはお前の母さんはと俺に説き続けた。

 けれどいくら言い聞かせられても、俺は自分の母親と面識がないのだ。母と同じものを俺に求められても、正直その期待に応えられるとは思えなかった。

 

 それでも俺は、父親の言いつけを守り続けた。

 男友達が校庭で楽しそうに遊んでいるのを横目に見ながら、興味もない本を読みふけったり、女友達のくだらないおしゃべりを聞き流したりしていた。

 ところが、そんな俺に再び転機が訪れる。それは俺が小学4年になり、保健の授業を受けていたときのことだ。

 

 それは、男子も女子もなんとなくそわそわする年頃の授業。人間の性に関する授業だった。

 男子は少しずつ体毛が濃くなり始めるだとか、女子は次第に胸が膨らみ始めるだとか。そんな担任教諭の話はまったく耳に届かないほどの衝撃を、このとき俺は受けた。

 

 《トランスジェンダー》――その単語は、適当にめくった教科書のページの隅に書かれていた。

 身体的性と精神的性が一致しないこと。つまりこの世には、身体と心の性別が異なっている者が存在するのだ。

 

 自分は間違いなくこれだ、と俺はこのとき確信した。

 周囲が自分を女として扱うからそうなのだろうと無理矢理納得していたが、心のどこかではずっと引っかかっていた。その正体がこれなのだと。

 

 自分が何者なのかを理解し、少しだけ心のもやが晴れたように感じた。

 自分は女ではない。身体が女に産まれてきただけであって、正真正銘の男なのだと自信を持つことができた。

 

 しかしだからと言って、それを周囲に打ち明ける勇気はなかった。

 周囲は俺のことを完全に女子として見ているし、何より父親が俺に女としての在り方を求めている。それをわかっていて、実は中身は男でした、なんて打ち明けたらどんな顔をされるだろう。想像しただけで身の毛がよだつ思いだった。

 

 男としての自覚が完全に芽生えた俺は、今まで以上に男として振る舞いたいと思うようになっていった。

 けれどそれは許されない。もしかしたらクラスメイトや担任から軽蔑されるかもしれない。何より父親が納得しない。

 だから俺は、《父親の期待を裏切らないように》父親を裏切ることに決めたのだった。

 

 具体的には、男でありたいという自分の欲求を満たすために、父親の言いつけを破って男友達との付き合いを再開したのだ。

 しかし学校では担任教諭の目があり、父親の耳にすぐ届いてしまうのは明白。そこで俺は、学校では女友達と過ごしつつ、放課後には女友達の家へ遊びに行くと父親に嘘をついて男友達と遊ぶようになった。

 

 公園で缶蹴りをしたり、草野球をしたり、虫取りをしたり。父親に気づかれるといけないから、服だけは汚さないように、慎重に。

 傍から見れば、男子児童の中に一人混じって遊ぶ女子児童。けれどそれは最高に充実した時間だった。

 何のしがらみもなく、男としてありのまま振る舞うことができる。幼いながらに俺が求めていたのは、たったそれだけのことなのだ。

 

 それだけのこと……だったのに。

 

 小学6年の授業参観の日、その悲劇は起きた。

 俺の家からはもちろん父親がやってきた。財閥のトップとして仕事が忙しいだろうに、わざわざこの日のためにスケジュールを調整したのだそうだ。

 

 そこまでしてやってきた()の授業参観で、父親の表情は羅刹のように曇ることとなった。

 放課後こっそり遊んでいた男友達の保護者が、俺の父親に「いつも息子がお世話になっています」なんて挨拶をしたからだ。

 

 てっきり俺が女友達と遊んでいると思い込んでいた父親は、その日の夜に当然俺を問い詰めてきた。

 そこで俺は、ありのまま正直に白状するしかなかった。嘘をついて男友達と遊んでいたのだと。

 

 それからは放課後に遊びに出ることを禁じられた。

 不知火財閥の()として相応しい振る舞いをしろと何度も言い聞かせただろう。これはその罰だ、と。

 

 そして父親は自分の権力や財力に物を言わせたのか、俺の進学する中学校に女子校を選んだ。

 その意図は俺自身にも容易にわかった。もう男友達とつるむのをやめさせるために、男のいない環境に俺を置こうと父親は決めたのだ。

 

 翌年、父親の敷いたレールに沿って、俺は女子中学校に入学した。それからの日々は決して比喩なんかではない、本物の地獄だった。

 女は怖い。気の合う者だけで派閥を作って、その外にいる者は完全に排斥しようとする。入学してすぐにどこかの派閥に属せなければ、それ以降の学校生活は惨めな孤独だけが待っている。

 

 少なくとも1年目の俺はその被害者となった。

 いわゆるスクールカーストと呼ばれるものの底辺。女同士の話題についていけなかった俺は常に一人ぼっちで、身内だけで共有される宿題や試験範囲といった情報が連絡されてくることはなく、担任教諭からは協調性がないと指摘を受けた。

 

 これが女の世界に放り込まれた男の末路。俺は自分が産まれた境遇を呪うことしかできなかった。

 俺がちゃんと男の身体に産まれていれば。そんな叶いもしない願いに何度枕を濡らしたのかは覚えていない。

 

 しかし中学2年への進級を間近に控えた頃には、俺もこの環境に随分順応していた。

 興味もない男性歌手の曲を聴き、着たくもないファッション誌の女性モデルを褒め、好みでもないスイーツを食べに行くクラスメイトに笑顔で付き合えるようになった。

 

 俺は、仮面を被るのが上手くなったのだ。本音を隠す術に長けるようになったのだ。

 そうしなければ生き残れないから。そうでなければ心が死んでしまうから。

 

 そんなある日、俺は学校帰りに参考書を探して書店に立ち寄った。

 そしてそのとき、何の前触れもなく次の転機は訪れた。参考書売り場で俺が見つけたのは、他の客が適当な棚に戻したのだろう、一冊の少年漫画だった。

 

 どうしてこんなところにあるんだ、なんて思いながらも手に取ってみる。

 パラパラと中身を覗いてみると、その中に一際目を引くページがあった。

 

 それは、敵に殺されそうになった仲間を主人公が助け出す戦闘シーン。

 敵の親玉らしき長髪の女がまさに手にかけようとした仲間は、主人公によって間一髪救い出され、そこから敵の女と主人公の戦いが始まる。展開としては王道と呼ぶのが相応しいだろうか。

 しかしそんなありきたりな展開にこそ、俺は心を奪われた。なんて勇ましい……なんて眩しいんだ、と。

 

 その主人公が握っていた武器は、それこそありきたりだと言われるであろう《剣》だった。

 けれどそれが何だというのだ。ありきたりでもなんでも構わない。この漫画の主人公の姿に憧れた俺は、女社会に埋もれて生きるのではなく、彼のように気高く、勇ましく、男らしく生きてみたいと思うようになったのだ。

 

 その日、俺は父親に剣道部に入りたいと思い切って申し出た。どうしても剣道がやりたい。もう言いつけは二度と破らないからお願いだ、と。

 動機は言わずともわかるだろう、憧れたあの主人公にまずは形から近づきたかったのだ。

 もちろん父親にいい顔はされなかった。しかし、二度と言いつけを破らないと誓った俺の言葉を信じてか、父親は数日にも渡って悩み抜いた末、大会で良い成績を残し続けることを条件に渋々了承してくれた。

 

 それからは毎日が修行の日々だった。

 結果を残し続けることが条件である以上、俺は勝たなければならない。まったくの剣道未経験者である俺が、だ。

 

 朝一で剣道場に入っては授業前に竹刀を振り、昼休みも食事を終えるとすぐに剣道場へ。

 放課後も全速力で道場入りすると、誰よりも早く着替えて竹刀を振った。

 

 休日も鍛錬は怠らなかった。

 剣道部の顧問に作ってもらった初心者用のトレーニングメニューを欠かさずこなし、朝日が昇る前から夕方暗くなるまで竹刀を握っていた。

 

 負けることは許されない。(きた)る最初の大会で結果を残せなければ、俺はいきなり剣道部をやめさせられてしまう。

 それだけはなんとしても避けなければ。ようやく自分が男らしくいられる場所を見つけたのだ。簡単に手放してたまるものか。

 

 あの主人公に近づこうと努力するうちに俺は、《自分は男だ》という自覚がより強くなっていった。

 もっと強く。もっと勇ましく。もっと男らしく。それを突き詰めることだけが俺の生き甲斐になっていった。

 

 やがて俺は、人に裸を見られて恥じらうことをやめた。それは女のすることだ。男である俺なら絶対にありえない、と。

 女性用の下着を身につけるのもやめた。胸は同級生よりやや大きかったのだが、女性専用の衣類を身につけるという行為自体が、自分を女だと認める気がして耐えられなかったのだ。

 クラスの女子と無理に付き合うこともやめた。そんな時間があるならもっと修行を積まなければ。女社会に飲まれることなく、一人でも生きられる強さを身につけるために。

 

 そして、その日はやってきた。剣道を始めてたった四か月で迎えた、夏の大会だ。

 俺は今までの修行を信じて戦った。この四か月をすべて捧げてきた自分の剣を誇りながら。

 

 ところが結果はベスト16。決して上位と言える成績ではなかった。

 当然だ。竹刀を握って数か月の俺が、もう何年も剣道を経験してきた相手に敵うはずはない。

 そして結果を残せなかった以上、俺は父親との約束通り剣道部を辞めなければならない。実際、その現実が負けたことよりも悔しかった。

 

 しかし、俺の剣の道はそこで途絶えることはなかった。

 剣道部の顧問が、その大会を見に来ていた俺の父親にこう言ったのだ。(かのじょ)は素晴らしい才能の持ち主だ。たった四か月でベスト16なんて普通ありえない。来年の大会ではきっと全国を狙える逸材になる、と。

 

 その言葉を受けて、父親は俺に剣道を続けることを渋々許可してくれた。

 俺はこの時ほど父親に感謝したことはない。そもそも父親に感謝の気持ちを抱いたこと自体、ほとんどないのだけれど。

 

 それ以降の俺は、ますます剣道にのめり込むようになった。

 父親がくれたたった一度きりのチャンス。次の大会こそは勝ち上がって、お情けではなく実力で剣道を続けてみせると意気込んでいた。

 

 そこからの俺の成長ぶりには、顧問も部員たちも驚いていた。

 秋になる頃には部内で俺に敵う者はいなくなり、冬には顧問すら俺の相手にならなくなった。

 すると顧問の計らいで近くの女子高の剣道部の練習に混じるようになった俺は、中学生でありながら高校生の剣士たちですら圧倒するようになっていった。

 

 十八歳以下の剣道日本代表にも選ばれた。けれど俺はその招集を断った。

 俺が剣を握るのは自分を磨くため。剣士としての誇りを持つためだ。世界の舞台で戦うためじゃない。そう思えて興味が湧かなかったのだ。

 

 そうして青春のすべてを剣に捧げる中、俺にはとある癖が染みついていった。剣を交えた相手を、特に自分が倒した相手を記憶することだ。

 本来ならば、剣で相手を負かすということは命を奪うということ。ならば、倒した相手の死を背負う覚悟がなければ真の剣士として剣を振ることはできないだろうと、そう考えるようになったのだ。

 

 だから俺は、これまで打ち負かしてきた者の名前をすべて言うことができる。矢野理沙、岩尾綾香、久我紀子、島崎幸恵、名城日紗子、大西美沙希、瀬戸園子……他にも何百人と覚えている。もちろん顔まで完璧にだ。

 その中でも、俺が特に忘れられない名前がある。きっと俺は、その名前に一生憑りつかれて生きていくのだろう。

 なぜならそれは、俺が剣を交えてきた中で唯一……本当に殺してやりたいと思った名前だからだ。

 

 来栖崎(くるすざき)ひさぎ。俺はコイツのような剣士を見たことがない。

 俺がコイツと剣を交えたのは、忘れもしない、中学三年の引退試合でのことだった。




次回は過去編の続きです。


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第十四話

不知火視点。前回の過去編の続きです。


 準々決勝。全国優勝候補筆頭と言われていた俺にとってはただの通過点のうちの一つだ。

 そんな試合でも、俺は決して手を抜くことはない。気を緩めることはない。それが俺の剣士としての誇りだから。

 

 誰が相手であろうと、持てる力のすべてで向き合う。でなければ倒す相手に失礼だ。

 これは中学生の部活動だが、本来ならば命の取り合い。自分を殺す相手の全力も見られぬまま死ぬのでは、斬られた相手が報われないであろうという俺なりの配慮は、もちろん今日も欠かすことはなかった。

 

 だが、コイツの――来栖崎(くるすざき)ひさぎという女の考えは明らかに違うようだった。

 それは試合開始直後、俺と来栖崎が一合目を打ち合ったその瞬間に確信したのだ。

 

 この女には、何もない。

 闘志も、覇気も、誇りも、信念も。勝ちたいという意欲すら、俺にはまったく感じ取れなかったのだ。

 

 そんな人間がいるだろうか。部活動とはいえ大会だ。俺ほどの強い覚悟がある者は珍しいとしても、せめて目の前の試合には勝ちたいと必死になるのが普通ではないのか?

 けれどこの女は違った。この女が剣を握っているのは、俺のように自分の修行のためでも、他の剣士のように試合に勝つためでもないようだった。

 

 それが何のためだったのかは俺にはわからない。わかりたくもない。

 少なくともわかっているのは、この女は剣士の誇りとは対極に位置し、仕方なく(・・・・)剣を振っているのだということだった。

 事情は知らないが俺にはそれが許せなかった。同じ剣士として恥だと感じた。そんな女に負けるわけにはいかない。そうして俺はより一層の強い覚悟を持ってこの女との勝負に臨んだのだ。

 

 正直俺は、剣士としての覚悟もないこの女との決着はすぐにつくと思っていた。

 しかし実際は違った。このような女でも準々決勝まで駒を進める実力は本物らしく、思いのほか接戦となったのだ。

 

 わからない。ますますわからない。

 これだけの実力を持つ者が、どうして自分の剣に一切の誇りを抱いていない? それだけの強さに憧れる者がどれほどいると思ってるんだ。剣士の誇りを汚すのも大概にしろ……ッ!!

 

 気が付くと、俺の剣は来栖崎の頭を捉えていた。

 面打ち、一本。審判が下した判定を聞くまで、俺は自分が冷静さを欠いていたことに気づかなかった。

 これが剣道の試合でよかったというものだ。握っているのが真剣だったなら俺は間違いなく、この女を再起不能にするまで止まらなかったことだろう。

 

 その女の――来栖崎ひさぎの名前を知ったのは試合後のことだった。

 噂ではコイツの家は剣術道場で、その跡取りとしてこれまで育ってきたらしい。

 

 だからこそ理解できなかった。だからこそ憤った。それだけ剣士として恵まれていながら、どうすれば自分の剣をそこまで汚すことができるのだと。

 俺が剣士であるためにどれだけの苦労をしたと思っているんだ。俺が死に物狂いで手に入れた幸福を、お前は道場の家に産まれたというだけで簡単に手に入れて、なぜそれを誇ることができないんだ。

 

 殺してやりたい。殺さなければならない。コイツは剣士を名乗るすべての者にとっての恥だ。

 けれどそれが許されるはずもない。せめて世界が終わってくれたりでもすれば、話は別なのだろうが。

 

 その後俺は周囲の期待通り、全国大会まで駒を進めた。

 そして全国4位という結果で中学生最後の大会を締めくくるに至ったのである。

 

 優勝できなかったことは正直悔しい。けれど俺よりも強い剣士がいるというのはとてもわくわくする。

 自分はもっと強くなれる。その伸びしろを身をもって体感したのだ。これからの修行にも一層気を引き締めて臨まなければ。

 

 父親が指定した女子高校に進学したあとも、もちろん俺は剣道を続けた。

 高校でも全国大会常連となり、界隈で俺の名前を知らない者は一人もいないだろうと言われるくらいだった。

 

 けれどそんなことはどうでもいい。俺は有名人になりたくて修行をしているんじゃない。男らしく、強く生きていくために剣士としての誇りを大切にしているだけだ。いつか打ち負かしたあの女とは違う。

 しかし、そんな俺の充実した修行の日々は、唐突に終わりを迎えることとなる。それは高校三年のとき、俺の引退試合が終わった後のことだった。

 

 高校での俺の最終成績は全国3位。惜しくも再び優勝を逃してしまった。

 ならばもっと修行を積めばいいだけ。父親が俺の今後の方針をどう定めるかは知らないが、進学しようと社会人になろうと剣道は続けられる。自分より強い剣士ともっともっと戦い、自分の誇りを磨いていけるのだと、この時の俺はそう思っていた。

 

 しかし父親から与えられた次の命令に、俺は深く深く絶望を抱くことになったのだ。

 父親が俺に求めたのは、進学でも就職でも、はたまた財閥の仕事の手伝いでもなかった。

 

 

 

 

 父親が選んだ《男》との――結婚だ。

 

 

 

 

 父親は俺にこう言ったのだ。経営上の姉妹契約を結んだ他財閥の御曹司の許嫁になることで、両財閥の関係をよりよいものにするのだと。

 それを聞いて頭が真っ白になった。どうして俺が初対面の相手――それも()と結婚しなければならないんだ?

 

 しかし俺に反発は許されない。それは剣道を始めるときに父親と交わした契約があったからだ――二度と言いつけは破らない、という契約が。

 けれど黙ってもいられない。他財閥に嫁ぐことになれば、剣道を続けることなどできるはずがないのだから。そしてそのことについて父親に問うと、返ってきた言葉はあまりにも冷たかった。

 

 

 

 剣道なら十分すぎるほどやり切っただろう。夢を見るのはもうやめて、大人になりなさい、と。

 

 

 

 夢? 俺がこれまですべてを懸けて向き合ってきた剣の道は、ただの夢物語なのか?

 違う、違う、違う……ッ! 俺はそんな中途半端な覚悟で剣を握ってきたわけじゃない……あの女とは違うんだ……ッ!!

 

 しかし、俺に拒否権など与えられなかった。俺は高校卒業と同時に、契約を結んだ財閥の御曹司と結婚してもらうと、その決定事項だけが俺に伝えられたのだ。

 もう、何も考えられなかった。今自分を取り囲む状況のことも、これからのことも、何も。

 俺には剣しかない。それ以外のものは何も持っていないのだ。そんな唯一の誇りを奪われた俺に、一体何が残るというのだろう……。

 

 そんな折、幸か不幸か、その日は突然やってきた。

 3月15日。その日渚輪区は、地獄に落ちたのだ。

 

 家の者は次々とゾンビへ変貌し、互いを食い合い殺し合う混沌が俺を襲った。

 咄嗟に家に飾られていた日本刀を握った俺は、どうにか死線を潜り抜け、家から脱出することができた。

 

 けれど、生きて出られたのは俺だけであるようだった。

 父親も、家政婦も、仕事の関係者たちも、このときに揃って全員死んだのだ。

 

 それでも俺は生きなければと前へ進んだ。

 家に未練はない。むしろ今となっては自分の障害でしかなかったと思えるくらいだ。

 

 俺は強い。心身ともに。そのためにこれまで修行を積んできたのだ。そう思うとこれまでの青春の日々がさらに誇らしくも思えるようだった。

 

 ところが、これはまだ地獄のほんの入り口。

 この先にさらなる地獄が待ち受けていようとは、俺は想像もしていなかった。

 

 そう。気づいてしまったのだ。

 ニュータウンで見かける生存者たち――その全員が、女であることに。

 

 いつしか生存者たちの間でこんな噂が出回るようになった。

 男は感染に免疫がない。生き残れるのは女だけのようだ、と。

 

 俺はそれを聞いてさらに絶望した。ならばなぜ俺はこうして生きているんだ? 男である俺が、こうして、堂々と……?

 理由ならわかっていた。わかってはいたが認めたくなかった。それでも、現実は俺の胸の内までじわじわと確実に侵食してくるようだった。

 

 

 

 

 俺が生き残った理由……それは間違いなく、俺が女だから(・・・・・・)だ。

 

 

 

 

 正確には、俺の身体が女だからなのだろう。感染がどういった原理で起こっているのかは知らないが、身体的異常が精神を通して感染するはずもない。俺は女の身体を持つが故、男でありながら感染を免れているのだ。

 そのことに気づいた俺は、今すぐにでも自害してやろうと思った。俺が男なら死ななければならない。そんな義務感まで芽生えたほどだ。

 

 どうして、どうして、どうして……ッ!

 父親や友人や教師たちだけじゃない。どうして《世界》までもが《俺》を否定するッ!? 俺はただ、本当の自分に正直に生きていたかっただけなのに……ッ!!

 

 けれど、自分の喉元に剣を当てる俺を、とある記憶が思いとどまらせた。俺が剣道を始めるきっかけになった、少年漫画の主人公だ。

 彼のようになりたくて、俺は剣を握り始めたんだったな。彼ならこんなときどうするだろう。ふと俺はそんなことを考えたのだ。

 

 そして辿り着いた結論は、戦うことだった。

 彼なら絶対に諦めたりしない。きっと残酷な現実に立ち向かうことを選ぶはずだと。

 

 だから俺は、この地獄を生き抜くと誓った。

 男のいなくなったこの世界で、女社会などという醜い世界に染まることなく、一人で。

 

 俺にはそれを可能にする強さがある。誇りがある。覚悟がある。

 俺はそれを最後まで貫きたい。この壊れた世界でも、気高き剣士として……!

 

 ところが、どうやら俺という男の人生には転機というものがつきものらしい。

 渚輪ニュータウンという地獄を一人生きる決意をしてどのくらい経った頃だろうか。俺の前にとある人物が現れたのだ。

 

 そう。空から投下される物資コンテナの上。

 そこにいかにも不機嫌そうな様子で腰掛ける、中学最後の大会以来一度も顔を合わせていなかったあの女が、俺の前に現れたのだ。



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第十五話

サン視点に戻ります。


 言葉が、出なかった。

 

 すぐ耳元で聞いたはずなのに、どこか現実味を感じられなくて。よくできたフィクションであるような気がして。

 けれどこれらはすべて事実なのだろう。実際に不知火(しらぬい)が経験してきた《地獄》なのだろう。

 

 でなければ、《彼》がこれほどの狂気に飲まれてしまったことへの説明がつかないのだから。

 

「不知火……」

 

 辛うじて僕が発した言葉は、それだけだった。

 彼の名を囁くも、それ以上は何も口にすることができない。それ程までに僕は、不知火が経験してきた過去の苦悩に驚きを隠せずにいた。

 

「同情してくれるか、サン? お前を殺そうとしているこの男は哀れだろう? 惨めだろう? だからお前が必要だった。お前に依存しなければ、これ以上は生きられなかったんだよ」

 

 僕の喉元に突き付けた刀にグッと力を込めながら、不知火はくつくつと笑ってそう囁く。

 その嘲笑は僕でもなく、来栖崎(くるすざき)でもなく、不知火自身に向けられているようだった。

 

「だから潰す必要があったんだ。ポートラルがある限り、来栖崎(あのおんな)がいる限り、お前が俺に依存することは未来永劫ないんだからな。俺はお前という存在を知った時点で、どうしようもなく依存していたっていうのに……」

 

「まさかあの夜……ゾンビがデパートに侵入してきたのも……」

 

「ああそうだ、俺がやったんだよ。お前らが宴だなんだと浮かれて眠っている間に、ゾンビ共に皆殺しにしてもらうためにな」

 

 そう白状すると不知火は、悔しそうにギリギリと歯を食いしばっていた。

 彼の視線は、どうやら僕らの周囲で大量のゾンビと戦っているポートラルの仲間たちに向けられているようだ。

 

「そのためにわざわざ音を立てずにバリケードを開いたっていうのに……あの三静寂(みしじま)とかいう女の鋭さを甘く見ていた。咄嗟にゾンビに応戦するふりをしたらまんまと信じてくれたから助かったが、三静寂(あれ)は先に殺しておくべきだったな」

 

 弓を引く礼音(あやね)さんを睨みつけながらも、不知火は僕を捕らえた手を緩めようとはしなかった。

 思えば不知火と初めて会った物資コンテナでも、礼音さんは第三者の視線を敏感に感じ取っていた。そんな礼音さんがあの夜エントランスで感じ取った気配は、ゾンビだけではなく不知火のものでもあったらしい。

 

「だから僕らを……ここに連れてきたのか……? 今度こそポートラルを潰すために……」

 

「そうだ。せっかく最後のチャンスを与えても、お前は断固として来栖崎の所有物であり続けようとした。だからこうするしかなかったんだ。半分はお前のせいだよ、サン」

 

 最後のチャンスとは、おそらく昨晩のことだろう。

 不知火は僕と来栖崎の契約を解消すべきだと説得するために、わざわざ僕らの部屋を訪れた。あのとき僕が不知火の提案を飲まなかったが故に、彼はこのような強行手段に出たというのだろうか。

 

 けれど僕にとって来栖崎との契約は、自分の命よりもこの世界よりも重い。例えあのとき説得に来た人物が誰であったとしても、僕は必ず同じ結論に辿り着いたはずだ。

 そのせいで仲間たちが危険に晒されている。ならば僕はどうすればよかったというのだろうか。考えれば考えるほどひどい頭痛に襲われるような感覚だ。

 

 いや、過ぎたことを考えても状況は好転しない。今考えるべきは、ゾンビの掃き溜めと化したこの谷底で生き残り、脱出することだ。

 仲間割れしている場合ではない。どうにか不知火を説得しなければ、本当にここで全員死んでしまう……!

 

「頼む、不知火……こんなことはもうやめてくれ……今ならまだ間に合う。みんなと生き延びて、もう一度やり直すんだ……!」

 

谷底(ここ)から出る方法なんかないのにか? 例え出られたとしても、あの女(・・・)がいる限りお前は何も変わらないんだ。お前があの女(・・・)に依存したままじゃ、生き延びたって何の意味もないんだよ……!」

 

 淡々と語っていた不知火が、突然感情を剥き出しにした。

 背筋が凍るような彼の殺意が僕らを取り囲む。その中心にいるのは……右手に刀をぶら下げたまま黙っている来栖崎だ。

 

「さあ、さっさと自害しろ、来栖崎(バケモノ)。さもないと本当にサンを殺すぞ? お前はどちらにせよ、ここでゾンビに食われるか自分の感染で死ぬかしか選べないんだ。だったらサンが少しでも長生きできる選択をしたらどうだ?」

 

 来栖崎は何の反応も見せない。まるで不知火の言葉が聞こえていないかのように。

 そんな彼女が何を考えているのか、僕にはわからない。不知火の自白を聞いて何を思ったのか、僕には想像もつかない。

 

「どうした、来栖崎(バケモノ)……俺にサンが殺せるはずがないとでも思ってるのか? だったら本当に殺してやる……お前に殺させるくらいなら俺が――ッ!!」

 

 まったく動きを見せない来栖崎に苛立ちが限界を迎えたのだろう、不知火は突然感情的になったかと思うと剣を振り被った。

 次の瞬間には彼の剣が僕の喉元を引き裂くだろう。僕は死を覚悟した。ゾンビと懸命に戦う仲間を残して、来栖崎との契約も最後まで守れぬまま、僕は――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 頬に、温かな何かが飛び散った。

 きっと血だろう。僕は喉を裂かれ、そのときに飛び散った血が頬についたに違いない。

 けれど、なぜだか痛みは感じない。いや、死んでしまったなら痛覚が働くはずもないし、当然か。

 

「――バッカじゃないの」

 

 ふと、そんな声が聞こえた。お世辞にも上品とは言えないけれど、聞いていてとても落ち着く声が。

 

 あれ? 声?

 僕は死んだはずなのに、聴覚だけはまだ生きているのか?

 いや、そういえば温感もある。頬についた血の体温を感じ取っているじゃないか。

 

 これは一体、どういうことだ……?

 

 いつの間にか閉じていた瞼を、ゆっくりと持ち上げる。

 そこで目にした光景に、僕は呆然としてしまっていた。

 

 すぐ目の前に迫った、一人の少女。赤いマフラーに巻かれた長い銀髪がひらりとうねって、すとんと落ちる。こんな谷底で風なんて吹くはずはないのに。

 そんな少女から伸ばされた左手は、僕の首に突き付けられた刀身を鷲掴みにしている。その刀身に沿って流れ落ちていく赤い雫にを見るに、随分力一杯握り締めているようだ。僕の頬についた血はここから飛んだものだろうか。

 

「……なッ……速い……!?」

 

 耳元でそんな囁きが聞こえる。

 それが誰のものなのかを考える余裕はない。それほどまでに、僕は眼前の少女の姿に目を奪われていた。

 

「あんたなんかに言われなくても、死ねるもんなら死にたかったわよ。私だって」

 

「くそッ……動か、ない……!!」

 

 僕の首に突き付けられた刀が、かちゃかちゃと忙しなく音を立てる。

 しかし微動だにすることはない。ぽたぽたと血を滴らせながらも、刀身を握り締めて離そうとしない少女の左手がそれを許さないのだ。

 

「だけど私は、そいつのために慈善事業で生かされてんの。なのに今度は慈善事業で死ねって? 生きててやるだけで手一杯だってのに、あんたのためにくれてやる命なんか――」

 

 そう言って彼女は息を吸い、少しだけ仰け反る。

 そして身動きが取れない不知火の額目掛けて――

 

「――あってたまるかってのッ!!」

 

 ――渾身の、頭突きを繰り出したのだった。

 

 石と石がぶつかり合うような鈍い音が響く。

 その瞬間、僕は身体がふわりと軽くなるような感覚を覚えた。どうやら来栖崎の頭突きで怯んだ不知火が僕を開放したようだ。

 

 すると次に僕が感じたのは、首が締まるような息苦しさ。

 いや、実際本当に締まっていたようだ。それに気づいたのは、来栖崎に首根っこを掴まれて放り投げられた後だった。

 

「サン様ッ!? どうしてここに!?」

 

 放り投げられたのは、ゾンビと戦っている真っ最中の甘噛(あまがみ)の真横。どうやら僕が谷底へ落ちてきたことには気づいていなかったらしい。

 しかし驚く彼女の言葉に耳を傾ける余裕はない。僕はすぐさま立ち上がると、手にした刀を構える来栖崎の方へ視線を向けた。

 

「待て来栖崎! お前まさか不知火と戦うつもりじゃ――」

 

「――邪魔だからそこで震えてなさい。来たらあんたも切り刻むから」

 

 そう呟く来栖崎に向けて、自分の頭を抱えたまま睨みつける人物がいる。

 言うまでもなく、不知火だ。彼の目にはもう、かつての頼もしい面影はない。

 

 そこに宿るのは、目の前に立つ憎き少女に対する、強烈な殺意だけだ。

 

「そうか……ゾンビに食われるでもなく、自分の感染で死ぬでもなく、俺に斬られて死にたいのか。このバケモノは」

 

「やめろって二人とも! どうして仲間同士で殺し合わなきゃならないんだよッ!」

 

 僕は叫ぶも、同時に違和感を抱いていた。

 咄嗟に《仲間》と呼んだものの、本当にその言葉は正しいのか? 少なくとも来栖崎と不知火は、互いを仲間だなんて思っていないんじゃないのか?

 

 その疑問の答えは一瞬にして導き出された。

 僕の目の前で来栖崎と不知火は、初めてコンテナ前で会ったあのときのように斬り合いを始めたのだ。

 

 最初に飛び出したのは来栖崎。弾丸のような速さで間合いを詰め、一太刀。ところが不知火はそれをなんなく受け流してみせた。

 続けて来栖崎の連撃が不知火を襲う。しかし来栖崎の刀が不知火を捉えることはない。不知火はすべての攻撃を常人離れした反応で捌き続けていた。

 

 そのまましばらく打ち合ったあと、不意に不知火は身を翻し、来栖崎の一振りを躱す。

 体重の乗った来栖崎の刀は受け皿を失い、彼女の身体は大きくバランスを崩した。

 

 その隙を突いた不知火の一撃。

 しかし来栖崎は土煙を上げながら右足を踏ん張ると、自身の頭目掛けて振り下ろされた不知火の剣を自分の刀で受け止めてみせた。

 

「同じ手が二度も通じると思ったわけ?」

 

「ほう、意外だな。バケモノにも学習能力があるのか」

 

 来栖崎が刀を振り抜き、不知火が数歩下がる。

 しかしその瞬間には来栖崎が間合いを詰め、再び目にも止まらぬ速さの打ち合いが始まった。

 

 幾度となく鳴り響く金属音が谷底に反響する。

 それだけの回数を打ち合っても、2人の刃は一向に相手を捉えることができない。

 

 まさに互角。他者の介入の一切を許さないほどに互角だ。

 やがて2人の打ち合いは鍔迫り合いへと発展する。先程までとは打って変わって異様な静寂が二人を包んでいた。

 

 しかしその静寂は来栖崎が打ち破る。

 彼女が勢い良く刀を振り抜くと、不知火は後方へ跳んで距離を取り、再び構えの姿勢を取った。

 そのとき僕は気づいた。二人の背後には一体ずつのゾンビが迫っていることに。

 

 ところが「後ろだ!」と叫びかけた瞬間、僕はその息を飲み込んだ。

 僕が声をかける前に、既に二人は襲い掛かるゾンビを仕留めていたのだ。

 不知火は首を撥ね、来栖崎は頭を串刺しにして。それも互いに睨み合ったまま後ろ手に。邪魔だ、と無言で切り捨てるかのように。

 

 不知火の足元にゾンビの頭が転がり、来栖崎は刀に刺さったゾンビの死骸を蹴り飛ばす。

 そうして二人は仕切り直すように、再び駆け寄って剣を交えた。

 二人にはもう、互いの姿しか見えていない。あたりをうろつくゾンビどころか、必死に説得を試みる僕のことすら眼中にないらしい。

 

 来栖崎の連撃と、それを受け流し続ける不知火。前に二人が打ち合った時と戦況は似ているが、明らかに違ったのはその勢いだった。

 あのときは手加減していた来栖崎も本気を出しているのだろう、スピードとパワーが段違いに上がっている。しかし不知火は難なくそれに対応してみせる。とんでもない集中力と反射神経だ。

 

 僕は一体、どうすればいい……?

 仲間同士で争うところなんて見たくない。けれど二人はきっと、どちらかが死ぬまで止まらない。

 

 しかし、何かが変だ。二人の斬り合いを前に狼狽える僕は、なんとなくそう感じた。

 ポートラルを崩壊させ、僕だけが不知火と共に生き延びるよう仕向けるのが彼の目的だったはずだ。なのに今の彼は僕のことなどまったく考えていない。来栖崎への異常な憎悪と殺意しか感じられないのだ。

 来栖崎もそうだ。今の彼女は、単純に僕やポートラルを不知火から守るために戦っているようには見えない。目の前の敵を斬る。それだけが彼女を突き動かす衝動であることは一目瞭然だ。

 

 現状を考えれば、まずは周囲を取り囲む大量のゾンビを処理するのが先決だろう。

 議論はそのあとでいくらでもできる。その先の結果が和解であろうが決裂であろうが、こんな混沌とした中で斬り合う必要なんてないはずなのに。

 

 何かがおかしい。二人は今、一体何のために戦っているんだ……?

 それがわからなければ止められない。けれど僕にはそれがわからない……きっと二人にしかわからない何かが、そこにはあるのだ。

 

 僕の視線の先で一度距離を取った二人が、再び駆け出す。

 そしてもう何百回目かもわからない火花が二人の剣の間に散るかと思われた、その瞬間だった。

 

 谷底で反響する、何かが爆発したような音。

 鼓膜がツンと痛み、耳鳴りに頭痛が巻き起こる。

 一体何事だと音のした方へ視線を向けると、岩壁の一部が大量の土煙に覆われていた。

 

 そこから瓦礫が吹き飛んでくる。中には僕の全身を丸ごと圧し潰せるほどの大きさのものまであるようだ。

 そんな大きな瓦礫は来栖崎と不知火の方へ。しかし二人はそれに気づくと、打ち合う寸前で間一髪回避してみせた。

 

「なんだッ!?」

 

 突然のことに驚きを隠せない。一体何が起きたら岩壁が突然爆発するのだろう。

 トンネル工事の最中に設置されていた不発弾かなにかだろうか。いや、このご時世に爆破でトンネルを掘削するとは考えにくい。いくらなんでも危険すぎる。

 じゃあ一体何が? そんな僕の疑問の答えは、土煙の中から現れた一際低い呻き声が与えてくれた。

 

「嘘だろ……なんでこんなところにいるんだよ……」

 

「なんだ、あれは」

 

 呟く不知火の疑問に答える余裕はなかった。

 土煙の中、岩壁の向こう側から現れたのは5mはあろうかという巨躯。その大部分は分厚い脂肪が覆っており、千切れそうになりながらぶら下がった皮膚の重量感は計り知れない。

 身体どころか四肢や顔までもが灰色の脂肪組織で包まれている《それ》は、唯一右手だけが赤黒い結晶のような棘で固まっている。血液かなにかが硬化したものだと推測できるが、その鈍い輝きが《それ》の不気味さを一層掻き立てていた。

 

「《変異種》……よりによってこのタイミングで……ッ!」

 

「《変異種》だと?」

 

 僕の独り言に不知火が反応してみせる。

 そう。岩壁の向こう側から現れたのは通常のゾンビとは違う。感染によって突然変異を起こし、身体が異常発達した個体――僕らが俗に《変異種》と呼んでいる個体に間違いなかった。



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第十六話

 突如現れた変異種に、その場にいる全員の視線が向けられた。

 最悪だ。本当に最悪の状況だ。

 この谷底には未だ大量の通常種ゾンビが蠢いている。さらには谷の上へと這い上がる手段の見当すらついていないというのに。

 そこへ変異種まで出現したとなると、状況はなんと絶望的なことだろう。いや、既に絶望的だった状況に追い打ちをかけられた、というのが正直なところだろうか。

 

「《変異種》か……なるほどな。その呼び名からして、あれがどういった個体なのかはおおよそ見当がついた」

 

 けれど、動揺する僕とは対照的に、不知火(しらぬい)は冷静さを保っていた。

 彼の反応を見るに、変異種と遭遇したのは初めてなのだろう。だからきっと知らないのだ。変異種は、来栖崎を含めたこの場の全員でかかったとしても、倒せるかどうか五分五分であるほどの強敵であることを。

 

 巨体を引きずるように歩く変異種は、少しずつ僕らの方へと近づいてくる。

 やがて変異種は来栖崎(くるすざき)と不知火の目の前までやってくると、紅く硬く変貌した右手を振り上げ、二人目掛けて叩きつけたのだった。

 

 二人はそれを難なく躱す。すると二人が立っていた場所は、変異種の拳と同程度のクレーターができあがっていた。

 俊敏に動くことはできないようだが、その巨体から繰り出される一撃の重さは脅威だ。直撃すれば間違いなく即死だろう。

 

「真剣勝負に割って入るつもりか。その愚行は万死に値するな」

 

「フン。死ぬほど気に入らないけど、はげど」

 

 変異種を睨む一方で、互いに一瞥する来栖崎と不知火。

 「はげど」とは確か、古いネットスラングで「激しく同意」という意味だった気がする。この絶望的な状況の中でも、どうやら来栖崎にはまだ軽口を叩く余裕があるらしい。

 

 いや、余裕があるというのは少し違う。きっと今の彼女は不知火と決着をつける以外のことなど取るに足らないのだ。

 きっとそれは不知火も同じ。例え乱入してきたのが、この場の全員を簡単に皆殺しにできる力を持った変異種だとしても、だ。

 

 そして二人は、駆け出した。突然現れた巨躯目掛けて一目散に。まるで邪魔者を先に始末しようと言わんばかりに。

 

「待て来栖崎!! 不知火!! 変異種相手にたった二人で戦うなんて危険すぎるッ!!」

 

 僕が叫ぶも、二人は聞く耳など持っていない。

 来栖崎が先に変異種の胴体に一太刀。変異種がそれに気を取られた隙を突き、続いて不知火が脚を斬りつけた。

 

 半分固まった真っ黒な血が飛び散る。けれど変異種の動きが鈍ることはなかった。

 どうやら全身を覆う脂肪組織は想像以上に分厚いようで、二人の剣は皮膚の表面を少し切り裂いた程度なのだろう。

 

 すると変異種は来栖崎に目を付けたのか、彼女目掛けて紅い拳を振り下ろす。

 来栖崎がそれを正面から刀で受け止めると、彼女の足元の地面には稲妻のようなひび割れが走った。

 

 眉間にしわを寄せ、ギリギリと歯を食いしばって踏ん張る来栖崎。

 彼女ですら受け止めるだけで精一杯なこの一撃。他の者なら間違いなくぺしゃんこだろう。

 

 そこへ不知火が次の攻撃を繰り出す。

 どうやら彼は執拗に脚ばかり狙っているようだ。ふくらはぎの腱でも切って転ばせようとしているのだろうか。

 

「不知火、腕だ! 腕を狙ってくれ! このままじゃ来栖崎が危ないッ!!」

 

 咄嗟に僕は指示を出す。

 けれど不知火は僕の言葉が聞こえていないのか、あるいは無視しているのか、黙々と変異種の脚に斬りつけ続けるばかりだ。

 

 まさか不知火は、来栖崎を助ける気がまるでないのか?

 来栖崎と顔を見合わせていたからてっきり共闘するとばかり思っていたけれど、今の彼の動きはどう見ても連携を取ろうとしているようには思えない。

 

 これは本当にまずいかもしれない。このままでは本当に来栖崎が……ッ!!

 

「重すぎ……ッ。ちょっとは痩せろ、このクソブタッ!!」

 

 来栖崎が、吠える。

 彼女は足が地面に食い込むほどの力で抑えつけられながらも、刀で巨大な拳を押し返している。

 

 このまま切れてしまうのではないかと思うほどに額の血管を浮かび上がらせながら、ようやく来栖崎が刀を振り抜いた。

 すると変異種の拳は軌道が逸れ、来栖崎の真横に再び巨大なクレーターを穿った。

 

 その時に舞い上がった土煙の中を来栖崎が跳躍。

 彼女はひとっ飛びで変異種の頭の高さまで飛び上がると、瞼や頬が醜く垂れ下がった顔面を一閃。赤黒い一直線の傷を走らせた。

 

 しかし変異種に怯んだ様子はない。

 脚を狙い続けていた不知火の攻撃もあまり効果がなかったようだ。彼の剣はふくらはぎの筋肉まで辿り着かず、それを覆う脂肪組織を切り裂くばかりだった。

 

 そのとき、変異種の注意が不知火へと移る。

 振り向きざまに水平に振り抜かれた紅い拳が、不知火の頭を直撃――

 

 ――する寸前で、彼は地面すれすれまで体勢を低くすることでその一撃を躱した。

 ところがその拳は勢いそのまま振り上げられ、不知火へと落下する。

 回避する余裕のない不知火は、高く構えた剣でそれを受けようとしているように見えた。

 

「駄目だ不知火ッ!! 避けろッ!!」

 

 僕は全身から冷や汗が噴き出るのを感じた。

 来栖崎ですら踏ん張るのがギリギリだったあの拳を、不知火が受け止められるはずがない。間違いなく潰れて死んでしまう……ッ!!

 

 ところが、そんな僕の予想は簡単に裏切られた。

 不知火は頭上へと持ち上げた剣を斜めに傾ける。そこに変異種の一撃が落ちると、紅い拳は剣の上で火花を散らしながら滑り、不知火の真横の地面を砕いた。

 

 彼は初めから受け止めるつもりなどなかったのだ。

 来栖崎の様子を見て、自分なら潰されることはわかっていたのだろう。だから受け止めるのではなく、受け流す(・・・・)選択をしたというわけだ。

 

 思えば不知火の戦い方はいつもそうだった。

 来栖崎の斬撃をすべて受け流し、その隙を突いて斬りつける。同じ戦術を変異種相手に即応用してみせるとは、一体どれほどの修羅場を潜ればそれだけの対応力が身につくのだろうか。

 

 変異種が不知火に気を取られている間、来栖崎は猛攻を仕掛ける。

 顔、腕、腹、脚、背中、肩、胸……来栖崎の刀は目にも止まらぬ速さで変異種の全身を切り刻んでいく。

 しかし、やはり変異種の動きには何の変化も起きない。あの来栖崎の攻撃ですら分厚い脂肪を引き裂くだけで、致命傷にはまったく至らないのだ。

 

「まずい……やっぱり二人だけじゃ……!」

 

 見ている限り、来栖崎と不知火の動きはバラバラだ。連携で敵を叩こうという意識がまったく見られない。

 そもそもたった二人で相手取ること自体が危険な相手だ。にもかかわらず連携までめちゃくちゃでは勝ち目はないというのに。

 今のところたった一度の有効打すら与えられていない。これでは二人が殺されるのも時間の問題じゃないか……!

 

「落ち着くんだ二人とも!! 一旦下がって態勢を――」

 

「――危ねぇッ!!」

 

 僕の言葉を遮って、鋭い風が駆け抜けた。

 何事かと驚くと、僕の真横には胴体を真っ二つに切り裂かれたゾンビ。そして大鎌を振り抜いた姫片(ひめかた)の姿があった。

 

 僕の頬には黒い血が飛び散っている。

 どうやら僕は知らぬ間にゾンビに接近されていたらしい。危うく姫片の鎌で一緒に斬られるところだったけれど。

 

「おいサン! あんま出過ぎんなッ!!」

 

「わ、悪い……でもッ!!」

 

 僕はいつの間にか、通常種ゾンビと戦うみんなから随分離れたところに立っていた。無意識に来栖崎と不知火が戦っている変異種の方へと足が進んでいたようだ。

 けれどゾンビ共はまだ数十体単位で僕らを取り囲んでいる。みんなその掃討に手を取られてしまっていて、変異種に構っている余裕はなさそうだ。

 

「でもこのままじゃ来栖崎と不知火が……ッ! どうにかして助けないと二人とも変異種に――」

 

「――サンくんッ!!」

 

 嘆願を遮った叫びに、僕は振り向く。

 そこにはゾンビに向けて弓を引く、凛々しく美しい背中があった。

 

「落ち着くのは君の方だ、サンくん! 私の言葉を思い出してくれ。自分の役割を見失うな……ッ!!」

 

「……礼音(あやね)さん……?」

 

 僕に背を向けたままで、礼音さんは僕にそう説いた。

 

 自分の役割? そんなものはとっくに自覚している。

 僕の役割は来栖崎に血を飲ませること。来栖崎のために生き、来栖崎のために死ぬことだ。彼女の危機である今動かないで、一体いつ動けばいいというのだろう。

 

 ……いや、違う。礼音さんが言ったのはきっとそんな意味ではない。

 礼音さんが言ったのはきっと、組織(ポートラル)における自分の役割という意味だ。僕という個人の本質についてじゃない。

 

『冷静さを欠いた頭脳では統率が崩れる。そうして烏合の衆となれば組織の壊滅は必至だ』

 

 物資回収の際、コンテナを見張りながらそんなことを言われた気がする。

 礼音さんが言っているのはきっとこのことなのだろう。そのときに僕は、ポートラルという組織が僕にどんな役割を期待しているのかを聞いているはずだ。

 

 しかしだからといって、来栖崎が危険に晒されているとわかっていながら放り出してもいいのだろうか。

 僕は一度失敗している。来栖崎の輸血を後回しにして他の仲間を優先したばかりに、彼女を負傷させてしまったあの夜を忘れたわけではない。

 

 僕は……どうしたらいい……?

 

 変異種と対峙する来栖崎を一瞥する。そしてゾンビの大群と戦う仲間たちを見渡す。

 僕はどちらかを切り捨てる判断をしなければならないのか? ポートラルという組織を救うために、来栖崎を見捨てるか。大勢の仲間を見殺しにしてでも、自分の命より大切な契約を貫くか。

 

 どちらを選択するか。どちらを選択したいか。どちらを選択すべきか。

 ポートラルを殺すか、来栖崎を殺すか。僕は散々迷い迷った末――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……僕が指示する。まずはゾンビの大群を掃討。終わり次第、変異種の討伐を援護するぞ。みんな、力を貸してくれ……ッ!!」

 

 

 

 

 ――来栖崎を、信じる(・・・)という選択をした。

 

 

 

 

「おうよッ!!」

 

「っしゃあッ!!」

 

「はいですッ!!」

 

「了解ッ!!」

 

「承知したッ!!」

 

「おまかせをッ!!」

 

 まるで統一感のないバラバラな返事。

 けれど、それが今日ほど頼もしく思えたことはない。

 

 僕は諦めない。諦めたくない。来栖崎も、ポートラルも、絶対にだ。

 きっと来栖崎は、みんなが駆け付けるまで持ちこたえてくれる。それができる彼女の強さを、僕は誰よりも知っている。

 だから信じる。この窮地を乗り越えて、全員揃ってデパートへ帰れると……!!

 

「絶対に背中を晒すなッ。常に仲間を背後において戦うことを意識するんだ!!」

 

 僕を中心に背を預け合う仲間たち。僕は全体の状況を見極めながら指示を出していく。

 僕が掃討組に加わったことで、ゾンビ共は確実にペースを早めながら数を減らしていった。

 

 急いで掃討して、来栖崎と不知火に合流しなければ。

 けれど焦りは禁物だ。僕が冷静さを欠けばこの場にいる全員を危険に晒す。

 大丈夫。まだ周りはよく見える。すぐに僕らもそっちへ向かうから、もう少しだけ持ちこたえてくれ、来栖崎……!

 

「ぐッ……!!」

 

 そのとき、ドサドサと音を立てながら僕らの方へ転がってくる声が聞こえた。

 見るとそこには、頭から血を流したぼろぼろの来栖崎。どうやら変異種の攻撃で吹き飛んできたようだが、その姿に僕は一瞬、頭が真っ白になるのを感じた。

 

 しかし来栖崎は即座に立ち上がる。おかげで少し安心して、冷静さを取り戻すことができた。

 見ると不知火も土でドロドロに汚れていて、かなり息も上がっている様子だ。幸い負傷はしていないようだが、随分苦戦しているのは明らかだった。

 

「こんにゃろォ……!!」

 

 再び来栖崎が変異種へと向かっていく。

 彼女に一番苦しい役回りを押し付けなければならないのが悔しい。

 それでも僕は、僕のすべきことに集中しないと。それが来栖崎を救うための一番の近道なのだから。

 

「……ぐぁ……ッ!?」

 

 ところが、僕の集中は一瞬にして奪われた。

 変異種の元へと駆け出した来栖崎が、突然呻き声をあげてよろめいたのだ。

 

 まずい……感染度が……!

 不知火から変異種へと連戦。どちらも一筋縄ではいかない強敵だ。来栖崎の感染度が上がり始めているのも当然である。

 急いで輸血しないと……ッ! そんな焦りを抱いて駆け出そうとした僕だったけれど、次の瞬間には足が止まった。

 

 よろめいた来栖崎は、膝をつかなかった。足を滑らせ土煙を上げながらも踏ん張り、立ち続けた。

 その背中がまるで僕に語っていたような気がしたのだ。私はまだやれる。あんたの血なんかに頼らなくても、まだ戦える、と。

 

 来栖崎の片眼はもう真っ黒に染まっている。

 それでも彼女は再び刀を構えると、一向に倒れる気配のない変異種へと再び斬りかかっていったのだった。

 

 落ち着け。冷静になれ。自分の役割を見失うな。

 もう一度胸の奥でそう唱える。再び仲間たちの指揮を取るために。

 

 信じろ。来栖崎は強い。来栖崎は負けない。僕らが行くまで絶対に。

 だからもう少しだけ待っていてくれ。僕らもすぐに行く。必ず助けに行くから……!

 

 

 

 *****

 

 

 

 それから戦い続けたのが5分だったのか10分だったのか。

 あるいは数十分が経過していたのかは、もうわからない。

 

「――獲ったッ!!」

 

「ちょッ!? 待てッ不知火ッ!!」

 

 ゾンビ掃討の指揮を終えた僕の背後で、二人の剣士のそんな声が聞こえた。



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第十七話

一部、サン視点からひさぎ視点に切り替わる場面があります。


「よし! 掃討完了だ! 早く二人の援護に――」

 

 振り向きながら変異種のいる方へと駆け出した僕は、そこで息を止めた。

 その瞬間に見てしまったのだ。猛攻の末、ついに変異種を四つん這いの姿勢に追い詰めた二人の剣士。そのうちの一人がちょうど異形の首を撥ねる、まさにその瞬間を。

 

 声が、出なかった。息が、できなかった。

 変異種は倒された。僕らの援護を待たずして。たった二人の剣士の手によって。

 

 それが吉報であることは間違いない。けれど首を撥ねた直後、頭のない状態の変異種が最後の力を振り絞って右拳を振り抜いた。

 その一撃は首を撥ねた直後の不知火(しらぬい)を捉え、彼は十数メートルに渡ってゾンビの死骸だらけの谷底を転がった。

 無数に裂けた脂肪だらけの頭がゴロンと転がる。殴られた衝撃で手放した不知火の剣が地面を滑る。それと同時に頭のない変異種の巨体は地面を揺らしながら倒れ込み、ようやく沈黙した。

 

「不知火ッ!!」

 

 名前を呼びながら、僕は慌てて駆け寄る。幸い即死はしておらず、彼はどうにか自力で上体を起こしてみせた――のだが。

 

「不知火……お前……」

 

 彼の左脇腹には――巨大な紅い棘が深々と突き刺さっていた。どう見ても致命傷と言えるほど、痛々しく。

 

「……はは。しくじったな。まさか首を撥ねてもまだ動くとは……」

 

 不知火の身体に刺さった棘は、変異種の右拳を形成していた結晶だ。

 どうやら来栖崎(くるすざき)と不知火は、二人で変異種を相手取るうちに、自分が先に仕留めるのだと張り合ってしまっていたようだ。僕が振り向く直前に聞いた二人の声からして、そう考えられる。

 

 そして二人はついに変異種に膝をつかせ、手をつかせ、またとないチャンスを作り出した。

 その瞬間に不知火はとどめを刺そうと剣を振ったのだろう。だからこそ来栖崎の焦る声が聞こえた。不知火に先を越されてしまうと。また不知火に負けてしまうと。

 

 不知火自身も焦っていたのだろう。何がなんでも来栖崎より先に仕留めなければと。来栖崎にだけは負けたくないと。

 結果、変異種は不知火の手によって仕留められるに至った。けれどそのとき不知火も重傷を負ってしまったのだ。

 

 激痛に顔をしかめながら脇腹に刺さった棘を引き抜き、疲れ果てたように息をつく不知火。

 彼の片眼が少しずつ黒く染まり始めてきた。そう……彼は《感染》してしまったのだ。

 

 なんというか、不知火らしくない。

 彼は一人でこのニュータウンを生き抜いてきたが故に、誰よりも用心深く、誰よりも危機管理が徹底していたはずだ。

 それなのにどうしてあのような無茶をしたのだろう。それほどまでに来栖崎に負けたくなかったのだろうか。ここまでくると、その執念は狂気の沙汰だ。

 

「だがおかげで……俺の望みも叶うわけだ。ある意味この変異種(バケモノ)に……感謝しないとな」

 

 出血する脇腹を抑えながら、不知火はよろよろと立ち上がる。

 そして今にも倒れそうな足取りで一歩一歩僕の方へと進む彼の姿に、僕はなぜだか鳥肌が立った。

 

「サン……お前の血を飲ませてくれ。俺もあの女と同じバケモノになった……お前に依存しなければ生きられなくなったぞ。これならお前は……俺を受け入れてくれるんだろう?」

 

 その目に宿る光は、希望そのものだった。

 なんて幸せそうな目で僕を見るのだろうと、背筋が凍るようだった。

 こんなにもどす黒く汚れた希望があっていいのか? ここまで堕ちてしまった彼を、僕なんかに救うことができるのか?

 

 僕はどうすればいいんだ? 彼はポートラルを陥れた人物。それでいて僕に依存した感染者。

 彼に血を飲ませれば命を助けることはできる。けれどそれで本当に救われるのだろうか。僕も、彼も、皆も……本当に?

 

「だから早く……俺にも血を飲ませてくれよ、サン……お前に依存した二振り目の剣を取るんだ。さあ……さあ!」

 

 澱んだ幸福感に真っ黒な目を輝かせながらにじり寄ってくる不知火の姿に、僕は――

 

 

 

 

 

 

 

 ――思わず一歩、後退ってしまった。

 

 なぜそうしたのかは、僕にもわからない。

 彼の狂気を恐れたのか、仲間を騙したことを憎んだのか。

 それとも、彼は生きている限り僕を求めて同じことを繰り返すと、そう感じたからなのか。それは僕自身にもわからない。

 ただ、そのたった一歩が彼にとっては非常に大きな意味を持ったことは確かだった。僕が後退る様子を見て、幸福感に満ち溢れていた不知火の表情は、一瞬にして絶望一色に支配されていた。

 

「どうして……どうしてだよ、サン……」

 

 突然力が抜けたように膝をつき、僕の顔を見上げる不知火。

 その姿に僕は、何も言葉をかけてやることができない。目を合わせてやることすら、僕にはできなかった。

 

「どうしてあの女なんだよッ!? あの女はお前のことを《所有物》としてしか見てないんだぞ!? 俺の方がお前を守ってやれる!! お前を人として生かしてやれる!! 剣士としても俺の方が優れているのにどうして――ッ!!」

 

 ――カランッ。

 

 と、僕と不知火の間に何かが転がった。

 それは一振りの剣。不知火が変異種に殴り飛ばされたときに手放してしまった、彼の剣だった。

 

「……来栖崎?」

 

 僕は剣が転がってきた方を見やる。

 するとそこには、不知火同様に片眼を真っ黒に染めた来栖崎が立っていた。どうやら彼女は、この剣を拾って不知火に投げ渡したらしい。

 

「……構えなさい」

 

 そう言って来栖崎自身も刀を構える。

 その言動に、その行動に、僕は来栖崎が何を意図しているのかを察した。

 

 彼女は不知火にこう言っているのだ。早く立ち上がって剣を拾え。邪魔者は消したのだから、さっきの勝負の続きをしよう、と。

 

「ちょっと待てって来栖崎。それはあんまりすぎるだろ。今の不知火がお前と戦ったりなんかしたら本当に――」

 

「――ダメだよ、サンちゃん」

 

 このままでは不知火は来栖崎に殺されてしまう。そう感じた僕が来栖崎を説得しようとした言葉は、不意に割り込んできたアドによって遮られてしまった。

 

「君は黙って見てなきゃダメ。今の君に、ヒサギンとヌイヌイを止める権利は……ないはずだよ」

 

 らしくもない神妙な口ぶり。どこか悲しげな声色。

 そんなアドの言葉に、僕は息を飲むことしかできなかった。

 

 助けを求めるように、僕は礼音(あやね)さんの方を見る。

 けれど彼女もどうやらアドと同じ考えであるようで、申し訳なさそうに俯く礼音さんが僕と目を合わせてくれることはなかった。

 

 そうだ。僕だって本当はわかっている。ただ、向き合う強さが僕にはないから目を背けたいだけだ。

 

 感染者の発症率、死亡率は100%。唯一命を繋ぐことができるのは、僕が持つ特殊な血液だけ。

 そして僕は、血を飲ませてくれと嘆願する彼を拒絶した。彼の命を救えるのは、僕しかいないというのに。

 

 感染した仲間は即処分。それがポートラルの鉄の掟(オメルタ)

 来栖崎は僕が24時間輸血可能であることを条件とした例外だ。僕がその条件を拒否してしまった不知火は……言うまでもない。

 

 それなのに、どうして来栖崎に「不知火を殺さないでくれ」なんて的外れなことが言えるだろう。

 不知火を殺したのは、僕だ。救う手段を持ち合わせていながらそれを拒んだのは、他でもない僕だというのに。

 

「……畜生……畜生ッ……」

 

 剣を拾い上げ、ふらふらと立ち上がる不知火。彼の足元には、滴る脇腹の出血によって大小さまざまな斑点模様が描かれていた。

 出血量は既に致命的だ。このまま放置していても出血多量で死ぬか、ゾンビとなって死ぬかしか道は残されていないだろう。

 

 だからせめて、来栖崎との勝負だけでも決着をつけさせてやらなければならない。彼がゾンビになる前に。彼がまだ人間であるうちに。

 不知火を見殺しにした僕に、その邪魔をする権利なんてあるはずがないのだから。

 

「殺シ、てヤル……お前はァ……お前、ダけはァッ……!」

 

 剣を構えた不知火が、勢いよく駆け出す。

 同じく刀を構えた来栖崎目掛けて。鮮血を撒き散らしながら真っすぐに。

 

 

 

「 来 栖 崎 ィ ィ ィ ィ ッ ! ! ! ! 」

 

 

 

 一合、打ち合う。

 その瞬間に、決着はついた。

 

 来栖崎が刀を振り上げると、不知火の剣は甲高い音と共に刀身の真ん中から真っ二つに折れ、宙を舞った。

 時が止まったような錯覚の中、驚嘆に目を見開く不知火の顔が見える。

 そして来栖崎は、彼の剣を弾いて振り上げた刀を勢いよく振り下ろし――不知火の左肩から右脇腹にかけて、真っ赤な袈裟を走らせた。

 

 

 

 

 *****

 

 

 

 

 私の目の前で、一人の剣士が倒れる。たった今、私が斬った剣士が。

 私のすぐ近くに、折れた剣が落ちてくる。目の前の剣士が、何よりも大切にしてきた眩しい誇りが。

 

 そいつの顔は、絶望に満ちていた。

 すべてを懸けた計画は失敗し、求めてきた相手には拒絶され、挙句憎らしい相手に斬られて死ぬ羽目になったんだから、当然かもしれないけど。

 

「……どう、して……だ?」

 

 私の足元で、今にも消えそうな声がする。

 私はただその場に立って、その最期の言葉に耳を傾けていた。

 

「どうして……俺の剣が劣らなければならない……? お前は、剣を握ることに……何の誇りも情熱も……抱いていないくせに……」

 

「あら、そんな簡単なこともわからないの?」

 

 仰向けに倒れた剣士の前に片膝をつき、その虚ろな目に視線を落とす。

 どこを見ているのかもわからない、私の顔がちゃんと見えているかも怪しいその剣士だけに聞こえるように、私はそっとその答えを囁いた。

 

 

 

 

 

「好きだからに決まってんでしょ。なんだかんだ言って」

 

 

 

 

 

 その言葉はちゃんと届いたのか、倒れた剣士は私を嘲笑うような息を漏らした。

 どうやらもう、笑い声を出す力すらろくに残っていないみたい。

 

「くだら……ないな……理解、でき……な……」

 

 最後まで言葉を終えることなく、剣士はそのまま目を閉じて、動かなくなった。

 

 そんなことは言われなくてもわかってる。自覚なんかとっくにしてる。

 だけど、そんなくだらない我儘に命を懸けて生きている。それが私という――来栖崎ひさぎという女だから。




次回、最終話です。


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第十八話

最終話です。


 終わった。すべてが、終わった。

 この谷底に残されたのは無数の死骸と、ただ一人を除いたポートラルのメンバーたちだ。

 

 僕は、ゆっくりと歩み寄る。最期まで戦い抜いた剣士と、彼を看取るもう一人の剣士の元へ。

 

「……でしょうね」

 

 ふと、来栖崎(くるすざき)が倒れた不知火(しらぬい)にそんな言葉をかけるのが聞こえた。

 動かなくなった不知火は、既に息を引き取ったのだろう。そんな彼と来栖崎が最期に一体何を話していたのかは、僕にはわからない。

 

「さてとさてと。あたしらの夢の別荘地とやらは儚い幻想だったわけだし? デパートに帰るとしますかねえ。やっぱり実家が一番よ」

 

「とは言え、どうやって谷底(ここ)から脱出すれば……上に登る手段がないと、帰りたくても帰れません」

 

「ふむ……何か策はないものか……」

 

 仕切り直すように口を開いたアドの言葉に、百喰(もぐ)礼音(あやね)さんが頭を悩ませる。

 岩肌をよじ登る、なんて無謀すぎるが、それ以外に方法があるとも思えない。しかし実際、登り切れるのは豹藤(ひょうどう)ちゃんくらいではないだろうか。

 

「……あの、ちょっと待ってください」

 

 そんな声を上げたのは、豹藤ちゃん本人だった。

 先に彼女に一人で登ってもらって、どこかでロープでも調達してきてもらうか。そんな策を僕がぼんやりと考えていた矢先、彼女はとてとてとどこかへ走っていった。

 

「あ、やっぱり」

 

 豹藤ちゃんが気にかけたのは、変異種が現れた大穴。

 この場所の岩壁を突き破ってあの怪物は現れたわけだが、その大穴を覗き込んだ豹藤ちゃんは、僕らに向けて手を振りながらこう呼びかけてきた。

 

「この向こうから風が吹いてきてますー! ここから出られるかもしれませんー!」

 

「なぬッ!? やちるんそれはまことかねッ!?」

 

「確かに、外に繋がっている可能性は高いですね。密室で風が吹くはずはありませんから」

 

「でかしたやちる! お前はやっぱ最高だよ!」

 

 姫片(ひめかた)に頭をぐしゃぐしゃと撫でられる豹藤ちゃん。

 「栗子(りつこ)、褒め方が荒い……」なんて小言を言いながらもちょっとだけ嬉しそうな豹藤ちゃんの元へと、皆いつの間にか揃って足を向け始めていた。

 

 空気に似合わないほどの底抜けの明るさ。

 ポートラルはいつだって、この陽気さで様々な壁を乗り越えてきた。命の危機も、仲間の死も。

 

「おっしゃーッ! 隠し通路一番乗りはあたしーッ!!」

 

「シャツが泥だらけで気持ち悪いです……脱いでいい、栗子?」

 

「いいんじゃね。こんだけ頑張ったんだからサンも許してくれんだろ」

 

「駄目です。一応男性の目があるんですから、デパートに帰ってからにしてください」

 

「はぁ……早くシャワーが浴びたいですわ……」

 

「ほら、サンくんも来栖崎くんも、行くぞ」

 

 皆がぞろぞろと歩いていく中、最後尾の礼音さんがそう呼び掛けてきた。

 それに僕は「あ、えっと……」なんてしどろもどろな反応をしてしまったけれど。

 

 来栖崎はなぜだか、不知火の元を離れようとしない。あれだけ毛嫌いしていたのにどうしたのだろうか。

 いや、それよりも今は先にやることがある。感傷に浸るよりも、皆とデパートへ帰るよりも、僕にとってもっと重要なことが。

 

「すみません礼音さん。みんなと先に帰っててください。僕と来栖崎は……ちょっと」

 

 僕はポケットからナイフを取り出してみせる。

 するとそれだけで礼音さんは納得してくれたようで、彼女の物分かりのよさには本当に頭が下がる思いだ。

 

「では、先に行かせてもらうとしよう。二人とも、くれぐれも帰路は気を付けてな」

 

「ありがとうございます」

 

 こうして礼音さんの背中を見送り、この場所には僕と来栖崎だけになった。

 ゆっくりと、来栖崎の方へと歩み寄る。彼女はどうやら、折れた剣を不知火の手に握らせ、その手を彼の胸の上に添えたようだ。

 まるで、歴戦の騎士が倒した相手に敬意を表するかのように。まるで、名誉の戦死を遂げた英雄を弔うかのように。

 

「……ケツパ」

 

 不知火の前で片膝をつく来栖崎は、背を向けたままで僕にそう呼び掛けてきた。

 

「私……わからなかった」

 

 ぽつぽつと呟かれる来栖崎の言葉。

 それはひっそりと悲しんでいるような、静かに嘆いているような、どこか胸の奥がツンと痛む声だった。

 

「あれだけ言葉を交わしても、あれだけ剣で打ち合っても……不知火が何に苦しんでたのか、私には一つもわからなかった」

 

 その言葉は、僕にとっては随分意外に感じられた。

 あれだけ嫌悪し合っていた不知火に対して、来栖崎がそんな風に考えるなんて。

 

 それは最初からなのか、はたまたつい先ほどからなのか。

 僕がそれを知ることはない。僕はいつだって、来栖崎に血を飲ませることしかできない無力な傍観者だから。

 

「答えて、ケツパ。それは、私が――」

 

 片膝をついた姿勢から、ゆっくりと立ち上がる来栖崎。

 そして彼女は首だけ僕の方へと振り返ると、黒く染まった片目で僕を見ながら無感情に呟いた。

 

「――私が……バケモノだから?」

 

 悲しんでいるわけでも、自身を哀れんでいるわけでもない。

 彼女の言葉と表情には、何かの感情がこもっているようには感じられなかった。

 

 無表情のまま僕を見つめる来栖崎と、それを呆然と見つめ返す僕。

 そんな彼女に、一体どんな言葉をかけてやるのが正解なのだろう。彼女は今、僕にどんな答えを期待しているのだろう。

 

 彼女はこう考えているのだろうか。不知火の苦しみを理解できなかったのは、自分が人間らしい心を失っているからだと。

 感染によって自分は、身体だけではなく心までもが怪物に成り果ててしまっているのではないかと、そんな不安でも抱いているのだろうか。

 

 僕は、その不安を否定してやることができない。彼女が恐れていることが実際に起きていない証拠など、僕は持ち合わせていないから。

 それでも否定してやるべきなのだろうか。その場凌ぎに曖昧な答えで場を濁すことは簡単だ。けれど、それは本当に来栖崎の求める答えなのだろうか。

 

 わからない。わからない。わからない。

 僕にだってわからないよ、来栖崎。お前が何を望んでいるのか、いくら知りたくても僕なんかにはわからないのに。

 

 僕に向けられた無感情な視線が痛むようにすら感じる。

 そんな彼女に対して僕が返した答えは――

 

「……さあ……どうだろうな」

 

 ――あまりにも、無責任なものだった。

 

 僕を見つめていた来栖崎が視線を落とす。長い睫毛がどこか悲しげに見えたのは僕の勘違いだろうか。

 けれどこれが事実なのだ。僕なんかが簡単に否定することなんてできない。その場凌ぎに否定することが彼女を救うことになるとは思えない。

 

 だから僕は、自分の感じていることをありのまま伝えようと、そう思ったのだ。

 

「だけどな、来栖崎。感情を共有する方法が存在しない以上、人の痛みっていうのはその本人にしかわからないものだ。違うか?」

 

 俯いたままの来栖崎に、僕は説く。

 彼女が納得してくれるかどうかはわからないけれど、それでも僕は自分の思いの丈を伝えたい。それが救いになるとしても、そうでないとしても。

 

「それでも人は、他人の心を推し量ろうとすることをやめない。共有はできなくても、共感くらいはしたいと願うことはできる。不可能だとわかっていても、理解しようと努力することくらいはできる」

 

 僕は知っている。来栖崎がそれを実践しようとしていたことを。

 彼女は努力したはずだ。不知火の苦悩を理解しようと挑んで、足掻いて、もがいて。そして彼が本物の怪物になる前に、せめて人として死なせてやろうと考えたんだ。

 けれどそれでもわからなかったから、今こうしてお前は不安に駆られているんだろう? ただの血液パックに過ぎない僕なんかに、その答えを求めてしまうほどに。

 

「それは、きっとゾンビなんかにはできないこと――人間にしかできないことなんじゃないかって……少なくとも僕は、そう思うよ」

 

 だから、お前はきっと大丈夫なんだよ、来栖崎。

 そもそもお前と不知火が、互いの苦悩を理解し合えるはずはないのだから。

 

 剣術道場の跡取りとして、女らしさを捨てるよう育てられてきた来栖崎。

 普通の女の子らしい幸福を望んでいた彼女にとっては、剣の道など産まれた家柄のせいで無理に押し付けられた苦悩に過ぎない。

 

 女性の身体に産まれてきたというだけで、男としての自分を否定され続けてきた不知火。

 彼にとって剣の道は、周囲から期待される女性らしさという檻から自由になれる唯一の逃げ道だったのだろう。

 

 自身の苦悩が、相手の幸福。互いが互いの幸福を苦悩と感じ否定し合う二人が、どうして相互理解などできようものか。

 

 二人の剣士の立ち位置は、例えるなら北極と南極。二振りの(つるぎ)は、決して交わることのないねじれの位置。

 

 それでも来栖崎は、理解しようと努力した。理解できなくて苦しんだ。

 そんな彼女をどうしてバケモノと呼ぶことができるだろう。こんなにも人間らしい彼女を人間と呼ばずして、一体なにを人間と見なすべきなのだろう。

 

 もちろん、こんなものは僕という一個人の見解に過ぎない。

 もっと高尚で、もっと現実的で、もっと説得力のある思想なんていくらでも存在するだろう。

 

 けれど、今の僕が来栖崎に提示できるのはこれだけだ。

 こんなもので彼女が納得するかはわからない。なぜなら人間同士の完璧な相互理解など不可能だから。

 来栖崎と不知火がそうだったように、僕と来栖崎もまた然り。相手のことをどれほど強く想っていたとしても、異なる精神のもとに住み分けた二つの人格が完全に理解し合うことなど、到底できるはずなどないのだ。

 

 しばらくの沈黙が流れる。今の彼女は、僕の言葉をどうにか理解しようとまた努力しているのだろうか。

 そんな考えを起こしてしまう自分が図々しい。僕なんかのために彼女が労を割くことなど、本来ならばあってはならないのだから。

 

 すると来栖崎は、不意に僕の方へと歩み寄ってきた。

 そして何を思ったか、彼女は僕の右隣までやってくると膝を抱えて座り込んだ。その意図は、もちろん僕にはわからない。

 

 とりあえず、僕もその場に腰を下ろす。一人分の間隔をあけて、来栖崎の隣に。

 すると彼女は、唐突に僕の顔の前に左手を伸ばしてきた。無言のまま突き出された手は何かを要求しているようだ。

 

 なんだか前にもこんなことがあったような。確かこのトンネルにやってくる前、来栖崎は喉が渇いたと水を僕に要求してきたっけ。

 けれど今は違うようだ。僕の顔の前にある左手は軽く握られているし、何かを渡せと言っているわけではなさそうだけれど……。

 

「……来栖崎?」

 

 結局、僕はその意図がわからなくて尋ねてしまった。

 それを聞く来栖崎は膝を抱えたままで、僕とは反対側に顔を逸らしたままこちらを見ようともしない。

 

「……手……痛いんだけど」

 

 不機嫌そうにつぶやかれた来栖崎の言葉。見ると彼女の左手は、自身の血で真っ赤に染まっていた。

 そう言えば不知火に捕まった僕を助けるために、来栖崎は彼の剣を鷲掴みにしていた。ぱっくりと切れた手のひらの傷は、その時ついたものに違いない。

 

 いや、どういった経緯の傷なのかなど問題ではない。

 こうしてぶっきらぼうに突き出された血濡れの手が、僕にとって天にも昇るほどの幸福を運んでくれたことに、果たして君は気づいているだろうか。

 

「ああ。僕に手当てさせてくれ」

 

 ポケットからハンカチを取り出し、真っ赤な左手に巻いてやる。

 傷の回復が異常に早い来栖崎のことだ。この程度の傷なら手当てしなくてもすぐに治癒することだろう。

 

 けれど彼女は、敢えて僕に手当てすることを許してくれた。前はあんなにも僕の手当てを拒否していたのに。

 それがどういった心境の変化からきたのかは、もちろんわからない。けれど、もうこのままわからなくてもいいと思えるほどに、今の僕は満ち足りている。

 

「これでよし。じゃあ次は――」

 

 来栖崎の手にハンカチを結んだ僕は、次にナイフを取り出してみせる。

 そしていつものように自分の手を切りつけ、指の上に小さな赤い風船を膨らませていく。

 

「飲んでくれるか、来栖崎?」

 

 そう尋ねると、彼女は片方が黒く染まった双眸で僕の方をちらりと見た。

 

 少しだけ間が空いて、来栖崎はずりずりと僕の方へにじり寄る。

 そうして僕の無骨な指は、彼女の柔らかな唇の間へと咥え込まれていくのだった。




最後までお読みいただきありがとうございます。わさび仙人と申します。

いかがでしたでしょうか。ここまで本格的に二次創作シナリオを書いたのは初めてのことだったので、どこか不自然なところなんかがないかと心配です。笑

本作は非常にマイナーなジャンルの二次創作であることは自覚しておりますので、ほとんど読まれることはないでしょうと勝手に思っております。
それでも最後までページをめくり、この後書きにまで目を通していただけているのであれば作者冥利に尽きるというものです。本当にありがとうございます。

さて、私にとって久しぶりの長編作品であった本作。気に入っていただけましたら是非とも二周目を読んでいただけたらなと思います。
サン視点であるが故に、作中は基本的にサンの心理描写ばかりとなっているわけですけども、結末を知った上で他の登場人物たちの心理にスポットを当てて読んでいただくと、また新しい発見ができるように書いたつもりですので。

また、このシーンがどこの伏線だったとか、あのシーンが後々こう繋がってくるなど、いろいろと仕込んで書いたつもりですので、そういったところに気づいてもらえると嬉しいですね。

またなにかいいシナリオが思いついたら書くこともあると思います。そのときはぜひとも御贔屓に。

以上、わさび仙人でしたー!


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