刀使ノ巫女 if (臣 史郎)
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外の物 ―とのもの―

永らくご無沙汰しておりました。臣です。ようやく刀使巫女SSをお届けすることが出来ます。

ずっとTVシリーズの隙間を縫って話を作ってきましたが、この度限界を感じ関東大災厄(…と、タギツヒメ討伐に連なる事件を呼称します)以降、可奈美と姫和が無事幽世より生還を果たした時間軸で再開することにしました。IF展開ありありとなりますのでご注意下さいますよう。

また今回よりですが、調査隊の面々も物語に絡んでくる感じにしています。

同じく今回よりですが、刀使巫女IFシリーズとして連作の形態を取ろうと考えています。もしよろしければご贔屓下さりますよう。

では始まりです!



 日光杉は、北関東の山々の王である。

 どれ程の年月をかけて、何処まで伸びているのか見当もつかぬほどに高々と聳える彼らの足元に日の光は届かぬ。それ故、雑木林に見られがちな草々はここには見られない。太陽の恵みは全てこの杉の伸ばした長大な枝に吸い取られ、下にはただ、その影が落ちるのみの常闇となる。

 独尊となった杉の足元で生きるのを許されるのはせいぜいがそれにおもねる蔦か、そうでなければキノコやコケの類であった。

(青空が恋しいぜ…)

 暫くお天道様を見ていない。

 空を見上げて見ても、あるのは鬱蒼たる針葉樹の天蓋だ。

 一抱えでは到底利かぬ杉の幹の下で、土を緑に覆っているのは雑草ですらなく、コケであった。カビの偉い奴がコケだとするなら、ここは杉の他にはカビしか湧かない絶境とも言えるだろう。

 そのような絶境の、まだ新しい杉の切株に腰を掛け、益子薫(ましこ・かおる)は霧の紗幕に目を凝らす。

(近づいて来てるな、確実に)

(明眼持ち、透覚持ちが居るか…居るんだろうな)

 よもやの事態となりつつあった。

 荒魂狩りを生業としてきた益子の娘が、狩られる立場となろうとは。

「お前らのせいだかんな、全く」

「…ねね」

 しょげ返るねね。その傍らには――もう一体、『それ』が在った。

 荒魂である、と言うよりは、生きたノロ。

 サイズはねねと同等くらいの小金属球。

「どうしてくれようか、こいつめ」

 荒魂となるには穢れが足りぬ。人を襲わねば穢れは得られぬ。このまま立ち去れば、未だ何者でもないこの溶鉄はノロへと戻ってしまうだろう。ようはこの少々大きめのソフトボールは、ここに居る唯一のヒト、薫の穢れによって形を保っているのである。

「サクッと斬っちまえば話ははええんだが…」

「ねねねね!」

 何をしやがる気だこの野郎、とねねが立ち塞がってくる。

「ねね! ねね! ね!」

「何々? こいつはまだ何にも悪さをしてねえ、荒魂未満のただのノロボールだって? ノロボールってなんだよw」

「ねねねね!」

「斬られるようなことはしてねえし、ましてやあいつらに追っかけられるようなこともしちゃいない、と?」

「ねねねー!」

「これは俺様の勝手でしたことだから、薫はさっさと逃げやがれ、だと? バカ言ってんな。俺だってその、そいつを奴らに差し出すつもりはねえ」

「ねねっ」

「好きにしろ、ってか。こいつめ…ってか、こいつとかそいつとかどうも呼び名がないと不便だな…ふむ、よし。おい、お前は丸いからタマだ」

「ねねね!」

「おいネーミングセンスって? いいだろ可愛くねーか猫みてーで。って、そろそろだべっている場合じゃなくなって来やがったな」

 音も無く、姿も見えず。

 しかし確実に迫って来ている、それが薫には分かる。

 目で見えたわけでもなく、音に聞いたわけでもない。それでも来ていると五感ではない何かが、伝えてくるのだ。

「さて、少し脅かしてやるか。それで逃げてくれると、いいんだがな」

 見れば膝元には、うず高く小石が積まれている。

 ここまでの道中見繕って拾ってきた、薫の掌にすっぽり収まる程の石ころだ。

「益子流ケンカ技、見せてやるぜ」

 石ころの一つを、薫はその掌より中空へと弄ぶ。

 

***

 

 薫が上のような状況に陥ってしまったのには、相応の顛末があった。

 事は一昨日に遡る。

「ねえダメ? どうしてもダメなの? ねえお願い、して?」

「だめだ」

「してよぉ」

「しねえ」

「お願いだからぁ」

「だから、もうしねえ」

「ねえお願い、してえええ!」

 やべーな、と薫は思ったものだ。

 衛藤可奈美(えとう・かなみ)にああやって上目遣いでおねだりされると、知らないうちに身体が動いてしまうのみならず、「ありがとう、薫ちゃん」と言われるまでそのことに何の疑いも持たないし自覚も出来ないのだから恐ろしい。ある意味新陰流秘奥よりもヤバい代物だ。

「可奈美ちゃんを…可奈美ちゃんを拒むなんて…あんなに一生懸命おねだりしてるのに…」

「私も、可奈美におねだりされたい……」

 傍らでは柳瀬舞衣(やなせ・まい)と糸見沙耶香(いとみ・さやか)がビキビキ来ている。妙なオーラがはみ出しかけていてこっちはこっちでヤバかったのだが、

「きょーみねえっつってんだろしつけーな」

 一番ヤバいのは、それが通じぬ七之里呼吹(ひちのさと・こふき)であるのかも知れない。

「アタシには愛するもんがあるんだよ。んでそれはおめーじゃねーんだよ」

「そんなあ。呼吹ちゃん……」

「あばよ衛藤可奈美。もっと早く出会ってればよかったかもな」

「呼吹ちゃん! 呼吹ちゃーーん!」

 よよよ、と泣き崩れる可奈美には目もくれず、すたすたすたと道場を去っていく呼吹。

「おい録音(と)れたかー?」

「バッチリデース」

「あとで編集しろよー」

「Yeah♪」

「よっしこいつで紗南センセーをちょいちょいと強請(ゆす)って連休頂きだ」

 薫とセットで長船の凸凹コンビこと、古波蔵エレンは(こはぐら・―)には、相変わらず反省の色はない。

(…にしても信じられねーな。あの御刀怪獣トジゴン可奈美が、稽古とはいえ一本入れられるたあ)

 ちなみにここは、泣く子も黙る折神本家大道場。やっていたのは地稽古であって、断じていかがわしいことではないのである。

 大道場と言うだけあって敷地面積は並みの体育大の体育館以上あり、折神家に駐留する伍箇伝の刀使たちは、外回りでない限りここで訓練に明け暮れるのがお仕事だ。鎌倉特別危険物漏出問題よりこのかた、頻出するようになった荒魂に対応する為、伍箇伝各校より選りすぐりの刀使がここ折神本家に起居するようになり、さながら伍箇伝選抜選手の合同合宿と化している。

 衛藤可奈美はその選手筆頭最右翼であり、十条姫和や糸見沙耶香と共に特別祭祀機動隊の切り札である。往々にして切り札とは温存されるもので、現場の刀使たちで対応出来ている場合はこうして手持無沙汰になり、そういうときは訓練、というわけであった。大方、可奈美にとっては幸せな時間であろう。

 大張り切りであったそんな可奈美の相手となったのが、ひょっこり現れた七之里呼吹であった。

 そしてそれが、何の拍子だか可奈美から写シを剥いでしまったのである。

(可奈美が手を抜いた、って感じじゃあねーし、腹でも減ってたか?)

 呼吹は決して弱くない。荒魂討伐の月間スコアで必ずベスト5に顔をだす、スーパーエースが弱かろうはずがない。とはいえ、剣対剣においては今や強すぎて稽古相手にすら不自由する衛藤可奈美では相手が悪かろう、しめしめざまあみろ、ぜいぜい懲らしめられろ、くらいに思っていたのだが…

(ちっ。逆に懲らしめられるたあ思わなかったぜ)

 正直薫は呼吹とは相性が良くない。多分向こうもそう思っているだろう。

 大方呼吹にとって薫は、目の上の瘤のような存在であろうことは想像に難くない。薫が居なければ荒魂討伐数月間最上位、ということが多々あったから。

 そんな感じで呼吹と薫は、あまり言葉を交わしたことが無い。

 というか、呼吹にしてからが、他人との接触を持ちたがらないのだ。

 荒魂の方が好きなのだ、と言う者がいる。人よりも荒魂のほうが好きなのだ、と。

「何をバカな」

 と人は言う。

「荒魂と仲良くなれるのか。人がそう思っていても奴らは襲ってくる。最小限度、コミュニケーション出来るのか。言葉は交わせるのか」

「出来るとも」

 七之里呼吹は嘯(うそぶ)く。

「こいつでな」

 二振りの小太刀、北谷菜切(ちゃたんなきり)と二王清綱(におうきよつな)を右手と左手に血祭に挙げた荒魂は数知れず。「アイシテルゼ!」と哂いながら荒魂を切り刻む様子を、目にした者は多い。

 薫としては、呼吹を見かけるたびにねねの身を案じねばならず、面倒な相手であった。ねね、とは益子の家の守護獣であるが、その前身は中世備州に猛威を振るった伝説の荒魂である。何処で身に付けた技か、最近はかつての巨大荒魂に戻って戦うこともあるものだから、余計にである。

「何だかんだで、あいつとは了見があいそうもねーな。ま、稽古不熱心ってところは似てるわけだが」

「薫ちゃん? 何処行くの?」

「ここじゃあない何処かだよ。んじゃデータ出来たらこっちにも送ってくれ」

「何のデータ?」

「なんのデータってそりゃ…」

 振り向いた薫の後ろに、笑顔の可奈美。

「まだ練習始まったばっかだよね? 何処行くの? データって何の?」

「あ…あーそうだな。データどころじゃねー。練習しなきゃ、練習。久々に腕がなるぜー(棒)」

「ホント!? 丁度不完全燃焼だったから嬉しいよ!」

 ヤバい死ぬ、と薫は思った。データのことはすっかり頭から吹っ飛んでくれたようだが、代償が大きすぎる。

「薫ちゃんとの手合わせなんて何時ぶりだろう! んー燃えて来た!」

(うぉい! なんだこの流れは! 何で俺が大荒魂を活け造りにしちまう刀使怪獣オカタナザウルスと本気で稽古せにゃならん! 死んでまうだろうがあああ!)

 怪獣の相手なら怪獣がすればいいだろうがと周囲を見渡すと、沙耶香も舞衣も目を逸らす。

(あいつら覚えてろぉ!)

 ちなみにエレンに至っては、とっくの昔に何処にも姿がなかったりする。

「さあいっくよー!」

 ぶんぶん、と左腕をぶん回す可奈美。

「たっ助けてだれかああ!」

 薫の声にならない叫びを聞いてくれる者は、誰も居なかった。

 

***

 

「よう。衛藤可奈美とガチ稽古たあ、珍しく熱心だったじゃあないか」

「腰がいてえ。肩がいてえ。再起不能だ。俺の選手生命もこれまでだ。今のが引退仕合だ…」

「うむ。感心感心。薫の勤勉に免じ新たな任務を与えよう」

「人の話聞く気あんのかこのパワハラ上司! 痛え!」

 大道場でorz状態の薫のドタマに、真庭紗南(まにわ・さな)特別刀剣類管理局長代行の拳固がさく裂する。

「普段から真面目に道場に顔だしときゃこんな目にあうこともないだろうが」

「畜生。畜生。親父にもぶたれたことねーのに」

「私にゃあ毎日どつかれてるけどな。心配するな、今度の任務、多分働くのはお前じゃあないさ」

「何だと?」

「荒魂との戦闘訓練を実戦に近い形で行いたいがどうにかならんか、って弊社へオーダーがあってな」

「実戦に近い形式ってのはつまり…」

「用があるのは薫、お前じゃなくお前の相棒ってわけだな」

「ねねを戦わせる気なのかよ! 冗談じゃねーぞ!」

「あー、そうだよな。お前が怒るのも尤もだ。や、すまんすまん忘れてくれ。この話、別のところに持っていくとしよう」

「あーそうしてくれ。ねねは益子の守護獣だ。特別刀剣類管理局の職員でも何でもねー。お前らの自由にしていいもんじゃあ、ねーからな」

「分かってるさ。ダメもとで言ったんだ、気にせんでくれ。仕方ない他を当たるよ」

「…」

「…」

「…おい」

「…ん?」

「一応聞いといてやるが、他のアテってあるのか」

「あー、錬府の実験施設の一つに、荒魂を捕獲しているところがあってな」

「モノホンじゃねーか!」

「モノホンだな。死人が出るかもしれんが、まあ仕方ないさ。あいつらもプロ、覚悟の上だろ」

「んな覚悟あるわけねーだろ! くそ、客は誰なんだ」

「防衛省。防衛相と総理の連名」

「…げっ」

 到底断れるメンツではない。下手を打てば特殊刀剣類管理局が消えてなくなりかねない相手である。

「幸いにも出先は近所の駐屯地だ…が、お前には関わりない話だったな。ま、ゆっくり心と身体を癒してくれ…」

「待て待て待て!」

「んん?」

「やる。分かったやればいいんだろう! 俺が断ったから死人が出たなんてことになったら気色が悪いわ!」

「無理しなくてもいいんだぞ? んー?」

「ぐぬぬ…足元見やがってこの腹黒上司め。言っとくが、俺が引き受けたのはねねに話を通すところまでだからな! ねねがダメだって言えばそれまでだからな!」

「ああそうしてくれ。報酬はそうだな…ここで一晩水入らずってのはどうだ?」

「ねねー!」

「な!? ねね何時からそこに!」

 何時の間にやら、薫の傍らですっかり目をハートにしたねねが飛び跳ねている。ちなみに真庭学長のいう「ここ」とはおおかた、今人差し指でくつろげている胸元だろう。

「きたねーぞ卑怯だろ! 畜生大人はいつもそうだ!」

「はっはっは、早く寝とけよ明日は早いぞー」

 左うちわで去っていく真庭学長とねね。大道場には再びorz状態となった薫がオブジェクトアートのように残された――

 

***

 

 薫とねねが帯びた任務は、自衛隊新設の荒魂対応部隊の訓練を、アグレッサーとなってお手伝いしろ、というものだった。

 アグレッサーというのは、早い話が敵軍役のことで、大抵は教官が務める。薫とねねは教官役ということになる。

 依頼主の防衛相、つまり防衛大臣は自衛隊で二番目に偉い人である。最高司令官は防衛大臣ではなく内閣総理大臣ということに、一応なっている。防衛大臣と共に総理が連名していたのはそういうわけだ。

「その名も特別害獣駆逐隊(とくべつがいじゅうくちくたい)、か。うちのパクリだな」

「パクリですネ」

 真庭本部長代行の言に、古波蔵エレンは肩を竦めて同意を示す。

「特殊作戦群から抽出された陸上総隊の司令部直轄部隊、ということらしいデス」

「…対特殊武器衛生隊や中央情報隊に相当する規模ということか」

「字ずらで察するところ、そんな感じデスネ」

「対荒魂対応部隊というが、今のところ荒魂に有効なのは珠鋼を精製した御刀のみ。その御刀を納める拵(こしらえ)の業者も、伍箇伝の制服を帯びぬ者に品物は卸さぬこととなっているはず。もし奴らが御刀で武装しているとなれば、未登録の御刀ということになり、少々物議の種だ。まあそこらへんを何とかする目途が立っているから我々に接触してきたんだろうが…そこらへん、少し探りを入れて見てくれ」

「分かりましタ。…ありがとうございまス」

「礼を言われるようなことはしていないが」

「いえ、何だかんだで、薫と一緒に行動できるよう配慮して頂いてますカラ。やっぱり先生は、優しいデス」

「仕事をサボらないいい子にはな。詳細は端末に直接送る。頼むぞ」

「了解デス。…ところでこれ、例のブツデース」

「おっと」

 ひょい、と小指の先程のロムディスクをエレンの掌から懐に掠め取る真庭紗南局長代行。

「うん。なんだか急に優しい気持ちになったぞ。君らの休暇重ねちゃおうかな」

「サンキューセンセーありガトー!」

 

***

 

 水泡と帰したそれが、七之里呼吹の足元の下水へと流れ落ちていく。

 赤々と明滅する泥濘は、呼吹によって念入りに解体されるまで、荒魂であったものであった。

 バスルームの下水のような施設は、ここ錬府女学園固有のものであり、摸擬戦で討伐された荒魂のノロを効率よく回収する為のものである。

 折神家より特別に分け与えられたノロはプールへと戻り、再度荒魂化するのをまってまた摸擬戦に供される。

 早い話が呼吹は、本物の荒魂と戦っていたのである。本物の荒魂と戦闘の出来る施設が、錬府には存在していた。そしてそれはタギツヒメ討伐の後も予算を与えられ存続しているのである。

「おい全然食い足りねえぞ。これだけってことはねーだろうな」

「これだけです」

 播つぐみ(ばん・―)は、にべもそっけもなかった。

「なんでだよシケてんな、普段の二分の一も出てきてねえじゃねーか」

「荒魂化が可能なノロは温存しておくよう、上から言われてるんですよ。だから出ません。出てきません」

「上ぇ?」

 錬府の中でもここは秘匿施設であり、一般生徒はおろか教職員すら出入りを制限された錬府学長、高津雪菜の直卒である。つまり命令できるのは高津学長のみであり、その学長が不在であればどこの制限も受けぬ筈である。

「誰だ? 学長なら療養中の筈…まさか」

「そのまさか。折神家直々の御上意ですよ」

「朱音ちゃんか、紗南ちゃんか」

 この場に居ないことをいいことに、折神家現当主と特別刀剣類管理局局長をちゃんづけで呼ぶ呼吹に、つぐみは首肯する。

「そんなところです。何でも、自衛隊新設の対荒魂対応部隊に供与することになった時の為の予備だとか」

「何でもと警察「予備」隊に俺らケーサツが荒魂の「予備」を貸さなきゃいけねーんだ。荒魂のことはこっちに任せとけってーの」

「任せきりにした挙句、関東大災厄じゃあ自衛隊さん、何も出来なかった無駄飯食らいって大分叩かれましたし、荒魂――まあ皐月夜見先輩のペットなんですが――に駐屯地を襲撃されたりしてますし、何より予算を特祭隊に取られてますからね」

「止めとけ止めとけ。下手すりゃ伍箇伝丸ごと自衛隊に移管されかねねーぞ」

「鎌倉特別危険物漏出問題以降、信用ゼロですからねうちは。兎に角、長船の益子薫さんが出張っていったそうですから、うちにお呼びはかからないんじゃないんでしょうか」

「益子薫が出張ったから? どういうことだ」

「ああ、それは益子の守護獣じゃあないですかね」

「益子の守護獣…ってあの噂の奴か。益子薫が飼ってる荒魂の」

「ねねちゃんです。何でも新部隊の訓練でアグレッサーを勤めるんだとか」

「訓練、ね」

 足元を見れば荒魂であったノロの水泡はとうに廃液管に流れ落ち、痕跡は全く残っていない。

「じゃあちょっと行ってくらあ」

「おや、どちらへ?」

「愛を探しに、さ」

 

***

 

 炸薬により弾頭を弾き出し、その運動エネルギーで対象を破壊する銃砲は、今や500年以上にわたり人類の主武器である。

 現代戦において未だに主要な兵器であり、自衛隊においても拳銃から野砲に至るまで様々な銃砲が採用されている。

「あんたらは鉄砲のプロな訳だが、荒魂ってのに鉄砲は頗る相性が悪いのが分かっただろう」

「協力を感謝する、益子巡査」

「巡査はやめろ。俺は女子高生。警察はバイトだ、一応な。益子でいいよ、ええと…」

「日向士郎(ひな・しろう)だ」

「よろしくな、日向司令」

 確か三等陸佐、と聞いている。

 三佐は戦前ならば少佐相当で、普通ならば壮年くらいまでを大過なく勤めて任官されるものだが、日向三佐は若い。真庭紗南学長よりも若いかもしれない。事前情報では一尉、即ち大尉であったから、究めて最近、それこそ極々数日の前に昇進したものと思われる。

 この少壮の男性士官こそが自衛隊気鋭の荒魂対応部隊、特別害獣駆逐隊の隊総司令であった。

「多くの犠牲を払った。都心に出張った高射砲大隊の損害は分けても甚大だった。自衛隊のみならず、都民の救助に当たった消防にも、殉職者が出た」

「ああ、聞いてるよ」

「我々はあれらが、タギツヒメと名乗る異次元人に率いられていたという事実を掴んでいる。またそのタギツヒメと共謀した者の存在の情報も得ている」

「テレビで記者会見までやったからな」

「我々は今やこれを、警察力で対応する犯罪とは見ていない。我が国の存立を脅かす、武力侵攻と捉えている。君たち特別祭祀機動隊の御陰をもって一度は敵の鋭鋒を挫いたものの、我々はさらなる侵略に備える必要が生じたわけだ」

「侵略、ね」

 肩を竦める薫の傍らでは、一働きしたねねが大の字になって高いびきをかいている。

 この小動物が先刻のモンスターであるとは到底誰も信じ得ないであろう。

 真庭紗南局長代行の甘言に釣られておおいに張り切ったねねは、先ずは小銃で武装した隊員たちに大暴れして見せた。

 正体現わしたねねの巨躯は、現在生存する如何なる地上生物よりも巨大である。インド象よりもまだでかいのだ。

 世の常の生物ならば筋肉が自重を支えきれずのろまになるはずのものを、生体金属を筋肉替わりにする祢々は猫よりも機敏に駆ける。もう人の手に負える代物ではない。

 一方の対荒魂兵は彼らの言う「プラン1」で立ち向かった。

 荒魂に対しては拳銃弾が役に立たないことはとうに知れているが、これは荒魂の外殻の硬度が弾頭を上回っているからである。そこで兵たちは、弾速が早く貫通力の高い自動小銃を用いた。何やら一度は現役を引退した7.72ミリ大口径の旧式小銃を、兵器庫から引っ張り出してきたらしい。

 実包のみはタングステンを弾頭に用いた最新式だと薫には説明があった。

(実弾使うのか)

 薫は眉をひそめたが、それ以上は何も言わなかった。

 結果は知れているからである。

 荒魂の外殻は赤茶色になっているがこれはノロが低温になって硬化しているからだ。ノロの外殻の内側は、冷えていない高温の、マグマ状のノロである。

 溶岩に石を投じているようなもので、全く意味をなさない攻撃であった。

 人類の主武器たる銃器は荒魂には無力である。

 特祭隊の荒魂資料の正しさを再確認することとなった兵士たちは、次なる作戦、「プラン2」の準備に取り掛かっているという。

「一応聞いとこう。プラン2ってのはどんなのなんだ」

「放水車を使用する」

「放水車?」

「都内で被災した消防隊員から得た情報では、効果があったそうだ。手元の資料にも、荒天の荒魂出現率は多くなく、出現したとしても大型のものだ。早い話、奴らは水を好まぬらしい」

「…ほう」

 事実それはある。でかくなってくると少々の降水などものともしないが、それでも川に橋が架かっていれば好んで水に入らず橋を通る。人間同様、体温が奪われれば活動が鈍るのだ。

「で、活動が鈍ったねねをどうするんだ?」

「物質としてのノロの融点は高い。体温が低下した荒魂は体組織の凝固が進むだろう」

「多分な」

「水は砕けぬ。しかし氷なら砕ける。聞くなら寒冷地では、刀剣は脆く折れやすくなるそうだな」

「…ちなみに、プラン2の次がどんなもんか聞いてもいいか。2があるんだから3も4もあるんだろ」

「プラン3は10式戦車の平射砲を用いた直接攻撃。プラン4は重砲を用いた飽和攻撃となっている」

 全く仕事選べよ紗南センセー、と薫は心中ぼやく。

 割と今までろくでもない仕事にこき使われてきたと思っていたが、今回のは格別だ。

「お前ら戦争が仕事だろ」

「如何にも」

「戦争ってのは人間同士でやるもんだろ。つまり人間同士でも敵味方に分かれて争うことがあるってえことだ」

「異論はない」

「荒魂もそうなんだよ、司令さん。人の味方となる変わり者の荒魂だっているんだ。そしてその変わり者がこいつ、ねねなんだよ」

「ふむ。荒魂祢々は人類に味方する存在であるのか」

「ついでに言うとねねは益子の守護獣だ。荒魂じゃねえ。百歩譲って荒魂だとしても、俺たちに仇なす存在じゃねえ」

「何処に行く」

「御社との取引は停止だ、陸自さん。敵と敵でない者との区別がつかねえ味方は、正直敵よりもやっかいなんでな」

「それは困る」

「悪いが他を当たって…」

 薫のセリフは途中で切れた。

 眼前に切っ先が突き付けられたからだ。

(こいつ、いつの間に…)

 そいつは、薫と天幕の出入り口との間に立ち塞がっていた。

 薫は出口であるそっちに向かっていたわけであり、つまり真正面にいきなり現れたことになる。

(いや、いきなり降って湧いたわけじゃねーか)

 それは困る、の日向司令のセリフに言い返すために、司令の方を振り向かないまでも、一瞬注意がそっちに行った。それを見計らって、というなら不可能ではない。

 不可能ではないが、それこそ瞬きするほどの間を見計らい、合わせて迅移を行えるような者は限られている。薫が知る限りでなら、親衛隊の獅童真希(しどう・まき)や此花寿々花(このはな・すずか)などの巧者なら可能であろう。

(つまりは、親衛隊クラスの奴ってことか)

(それに…)

 突き付けられているのは御刀ではない。

 槍の穂先であった。

「兄さんが困るって言ってる」

「…誰が出てこいと言ったか」

「けど兄さん」

「状況待機と命じた筈。控えていろ」

「おいちょっと待てお前ら。こいつはなんだ」

「あたし、日向野々美(ひな・ののみ)! 槍は、日本号(にほんごう)!」

 槍の娘は、ちんまい身体から出る声とは思われぬ、でっかい声で名乗った。

 大剣もかくやの大身の穂先、芯鉄入りと云われる、手に余りそうな太さの柄、日本号と称する豪槍に不釣り合いな、小柄な娘であった。

(って俺が言うのもなんだがな)

 アンバランスさでは薫とどっこいであろう。

 年のころでは年下、に思えるが多分向こうもそう思っていよう。腹立たしいことに薫は、同年代からはたいてい年下に見られる。可奈美や姫和に至っては高等部の制服を着ていたにも関わらず年下だと思っていたそうだ。

(全く、コスプレだとでも思ってたのかあいつら)

 いや、今はそのようなことはどうでもいい。

「にほんごう、だとお?」

 日本号は言わずと知れた天下三名槍の一槍、その筆頭とも云うべき槍だ。それくらいは薫も知っている。重要文化財、国宝にも指定されようという戦国期の槍だが、それを用いて迅移を行うとは?

「ことここに至れば仕方あるまい。防衛省にも、珠鋼兵装の保有はある、ということだ」

「保有はある(キリッ)じゃねーだろ。そいつはうちの管理じゃねえ。つまり未登録特別刀剣だ」

「登録ならばおいおい行われる。現在は特祭隊の御刀にあやかり現在、御槍(みやり)と仮称している、隊で保管してい旧軍の遺物だ。そ奴は差し詰め、槍者(そうじゃ)と言ったところか」

「御槍に槍者だとお」

 刀使の持つ御刀に対して、御槍というわけか。

 単に御槍と云えば、大名行列の先頭にあったり、籠の両脇を守ったりしているあの槍のことを指す。御大将の槍即ち御槍である。

「その御槍とかいう刃物を、警察官に向けてるように見えるんだが。これ緊急逮捕でも仕方ねえ場面だよな」

「約定通り部隊錬成にご協力頂けるならば、すぐにでも穂先を下げさせよう」

「…分かった。分かったよ」

 柳瀬舞衣のような居合達者ならいざ知らず、穂先を突き付けられた状態からでは薫に分は悪い。

(薬丸自顕流にも抜き技はないでもねえが、ここは違うだろ)

 自衛隊が密かに特別刀剣に類別される刀剣を保有していたという事実を、真庭本部長代行の元へ持ち帰る必要が出来た。分の悪い賭けは慎むべきだ。ここで斬り合いとなった挙句に演習中事故死、なんて報告をされるわけにはいかない。

「見られてしまったからには仕方がない、とかいいだすんじゃねーだろうな、三佐さんよ」

「何れは特別刀剣類管理局に通さねばならぬと思っていた話、そのタイミングが早まったまでのこと。そ奴のそそっかしさに振り回されるのは今に始まったことではない。法整備はおいおい、為されるだろう」

「なんだと?」

「特別刀剣類管理局に、特別刀剣や特別危険物を一括管理する能力は既にない、と上は考えておいでだ」

「上ってのは」

「むろん我らが最高司令官であり、自由民主党総裁であり、国民の代表たるあの方だ」

 国法に認められずとも総理の黙認を得る兵装は複数ある。

 航空母艦がそうである。ヘリ搭載護衛艦は、航空機の運用も視野に設計されている。

 核兵器がそうである。原発を持つこの国は当然ながら核物質を保有している。純度を高めたものを弾頭に搭載していないだけであり、その気になれば一夜にして核兵器保有国となることが出来る。

 そうしたものの一つが、今薫に御されている。槍者とやらが左足を一蹴りすればそれが喉笛を突き破るだろう。

「降参だ降参。おいねね、この状況下で何時まで寝てる」

「ねね?」

「協力すりゃあいいんだろ。するよ。してやる。相手してやるから放水車でも10式戦車でも何でも持ってこい」

「お分かり頂き感謝する。午後の訓練も宜しくお願いする」

 ちびの槍者は既に御槍の穂先をどけていた。

 もちろん、これで危機が去ったわけではない。防衛省にとっても政権にとっても打撃となりかねない事実を知ってしまったのは事実である。すんなりと返してもらえるようには思えなかった。

(…さて、どうすっかな)

 命を繋いだのは当座のことだ。自動小銃で武装した小隊規模の精兵に加え、珠鋼兵装まで持ち合わせた奴らのいわば腹中に、薫は呑まれているのである。生殺与奪の自在は彼らのものだった。しかし、もし日向三佐がそう思い込むようならばそれは油断だ。

 今は機を待つ。

 幸い薫は多忙の身である。長逗留は真庭本部長代行が許さぬだろう。拘束が長引くならば、何らかの形で連絡が来るはずだ。

 時間は薫の味方であった。

 時間を稼ぐ。その為にも今は、従順が得策の筈だった。

 その筈であったのだが…午後になり、状況はさらに、もう一転する。訓練再開と共に分け入った北関東の山中で、薫の所持するスペクトラム・ファインダーが反応を示したのだ。

「…本物の荒魂だと?」

 その呟きと、ねねが駆け出すのは同時であった。

「おいねね! どうしたねね!」

 薫はその後を追い…

「…ちっさ」

 荒魂を発見した。

 荒魂だけに、玉状の荒魂である。

 玉といっても色々だが、大きさはソフトボール大。

 色々な荒魂を見て来た薫にとってもわりと、記録的な小ささである。

「お前、こんなとこに居ると兵隊さんに見つかるぞ。そしたらお前、櫛団子にされちまうぞ」

 人を襲う様子はないものの、このままにしては置けない。穢れを得れば確実に害獣となるからだ。

 薫とねねが立ち去らないと見て、そいつはばっくりと割れた。

「うお!?」

 真っ二つになったわけではなく、アルマジロのように丸まっていたのだ。

 現れた無数の足をうぞうぞ動かして、そいつは逃げ出した。といっても、その小荒魂に追いつくのはそんなに難しいことではなかった。

「…おっそ」

 びっくりしたが、それだけだ。足の一本一本はそんなに太くない。数でカバーしているから移動は出来るようだがそんなに走るのが得意ではないようだ。

「ねね!」

「よし、ちょっと捕まえてろ」

 追いついたねねが前足でつつくと、逃げられぬと思ったのか完全に丸まってしまった。外殻は中々立派な、大型荒魂のそれである。こっちは歯が立たないが、向こうは手も足も出なくなってしまっている。

「ダンゴムシかなんかを擬態したのか」

 ノロが荒魂となって結実するとき、手近に居た生物の形態を真似ることが多いのは、よく知られている。とはいえ絶対そうなるとは言えず、例えば一度荒魂となって討伐されたノロは、もう一度荒魂となった時以前と同じ形態を取ることが多い。

 牙や角のある生き物となった時には殺傷能力が高く非常にやっかいだが、大体はノロとして地面に溶けていた時に親しむ昆虫や長虫になることが多い。目の前にあるのは一般的な荒魂の姿と言えるだろう。

「…ま、この大きさなら、人目に触れないところに逃がせば小さくなって、そのうちノロに戻るだろ」

 だが衆目に晒せば穢れを得て、大型化して人を襲うかもしれない。放って置くわけにもいかないのだ。

「全く、仕方ねえな」

 幸いにして、運搬し易い形をしている。

「よっこらせ」

 ずっしりと重いチビ荒魂――鉄塊なのだから当然だが――を抱え上げると、驚いたのかチビ荒魂はぱっくり虫にもどって生やした手足でジタジタと暴れる。

「あっこの野郎」

 地面に落とすとまた丸まる。

「これじゃあ千日手だな」

「ねねぇ」

 ねねが肩を竦める。

「仕方ねえ。折角丸まってるんだから蹴り転がすか」

「ね!?」

 マジか、とねねが目を剥く端から、薫は荒魂ボールをサッカーキックした。八幡力のオマケつきだから、まるでゴールキックのようにぶっ飛ぶ。

「ひえええええええ!」

 荒魂に口が在ったらこんな感じに悲鳴を上げていただろう。

 山頂の方に飛んで行った荒魂ボールは、斜面なものだからまた転がって戻ってくる。そこをまた薫がトラップ&蹴る。飛ぶ。また戻ってくる。蹴る。

 そんな感じで、小荒魂――後にタマと命名――と薫たちは、山頂方向に逃れ、現在に至るというわけである。

 

***

 

 巻き戻した時間を、ここで元に戻す。

 日向司令より状況再開の号令一下、先に山中に分け入った薫をねねを追尾するのは、特別害獣駆逐隊の兵のみではなかった。

 槍の穂先を煌めかせ、緊張の面持ちで、槍者たちがそれに続いていく。

 たち、というからには一名だけではない。

 十二本の槍を携えた十二名が、兵たちに随伴していた。

「ねねちゃんは荒魂だったけどもう荒魂じゃない、人間の味方だって薫ちゃん言ってましたよね?」

『発見したのは益子の守護獣ではない。別の個体だ、恐らく人類の味方ではないな』

 インカム越しに日向野々美は、隊本部の兄と交信する。

「別って、本当に荒魂が現れたってこと?」

『そうだ』

「なら、薫ちゃんにも協力を仰いで討伐を…」

『益子薫とその守護獣ねねは、人類を裏切った』

「え?」 

『ねねとは別個体の荒魂を発見した隊員がただちに攻撃しようとしたら、突如現れたねねに阻まれたと報告を受けている』

「荒魂を…ねねちゃんが庇った? どうして? 昔の仲間だから?」

『分からんが、ねねはその荒魂と共に山中に逃亡、益子薫も後に続いて山中に逃亡したそうだ』

「――」

 あまりの事に、野々美は絶句する。

「…話、聞いてみようよ、兄さん。きっと理由があるんだよ。だから…」

『事情は、有るだろう。しかし私は最悪の事態を想定せねばならん。お前たちを隊に同行させたのはそのためだ』

「みんな、本当の荒魂を見るのさえ、今日が初めてなんだよ…?」

『荒魂に有効な珠鋼兵装を扱えるのは、現下お前たち、特駆隊槍者班だけだ』

「…分かったよ。でも危なくなったらあたしがやる。皆には、逃げてもらうから」

『判断は現場のお前に任せる。第一分隊とよく連携しろ』

「分かった。交信終了」

『交信終了』

「…あの、演習本部はなんて…」

 不安げな傍らの同僚槍者に、

「大丈夫。話だと荒魂の形状は小型。ねねちゃんくらいだって」

 そう言って野々美は微笑んで見せる。

「ねねちゃんくらいなの?」

「うん。そのくらいのかわいい奴なら、ちょっと見てみたいよ」

 冗談めかした野々美の言葉に、気の毒なほどおっかなびっくりだった槍者たちに一度に安堵が流れる。穢れを得た荒魂が急速に巨大化することもあると知る野々美であるが、それは語らないことにした。

(油断は良くないけど、あまりに緊張していても判断が鈍るし、なにより可哀そうだし)

 実戦経験があるのはあたしだけ。皆の分もあたしが頑張らなければと密かに唇を噛んだ時であった。

「…居ました!」

 透覚を使える槍者の一人が声を上げる。

「荒魂?」

「いえ、あれは…薫さんです! 薫さんを目視で確認! 正面、距離百!」

「…! 分隊長!」

「こちらでも視認した」

 百メートルほどの以遠に、人影が見える。

 周囲の木々との対比から小柄と分かる。長船女学園の制服を着ているところからも益子薫に間違いないだろう。それが、切株か何かの上に立っている。

 逃げも隠れもしない、という風であった。

 薫かどうか確認をとろうと、折り畳み式の双眼鏡を取り出したところであった。

「うわ!」

「きゃあああ!」

 眼前の地面が爆ぜた。

「伏せー!」

 分隊長の声が聞こえて、陸美も慌てて手近な物陰に転がり込む。

「皆大丈夫!?」

「だ、大丈夫!」

 分隊長に指示されるまでもなく皆、頭を抱えてしゃがみ込んでいる。怪我人は居ないようだ。

「槍者班、写シ!」

 野々美は指示を飛ばす。

 今のは攻撃だ、と思った。けど、どんな?

 薫は百メートルの以遠だ。如何な弥々切丸の長大と云えど、御刀で何か出来る距離では全然ない。それをどうやって?

「へーい、自衛隊ビビってるー♪」

 切株の上から様子を眺めつつ、薫は人の悪い笑みを浮かべる。

「カウントはワンストライクノーボール。ピッチャーセットポジションから、第二球、振りかぶって――投げた!」

 空気を打ち破る、甲高い高周波とともに、一本の杉がまるでベニヤか何かのように破砕され、木片が周囲に降り注ぐ。

「うわ!」

「攻撃! 攻撃だ! 分隊は火器による攻撃を受けている!」

「誰か、益子薫が火器を携帯しているのを確認したか!」

 違う。火器じゃあない。

 野々美には分かった。

 飛んで来てるのは銃弾でも砲弾でもない。

「これぞ薬丸自顕流、必殺秘技、印字打ち…って言いたいところだが、実は思いつきでな。体育サボってたから悪いがコントロールにゃ自信がねえ。頼むから当たらないでくれ、よ!」

 印字打ちとは、狭義には投石、石礫(いしつぶて)のことを指す。

 何のことはない益子薫は、道すがら拾い集めて来た手頃な岩石を、投じていただけである。

 投じていただけであるが、薫は伍箇伝髄一の八幡力の使い手である。その腕力で投じれば、例え石くれでも飛行速度は低速拳銃弾に迫る。ライフル弾の数倍にも上る質量が、その速度で飛来する。

「ぐ…!」

「弾着に備えろ!」

 杉の根で黒く固まった地面が抉り飛ぶ。

 中世の大筒にも迫る、大威力であった。

「演習本部! 演習本部! 隊は火器による攻撃を受けている! 反撃の是非を問う!」

『反撃を可とする』

 分隊長と本部の兄との交信は、陸美のインカムにも届いてくる。

「…! 薫ちゃんを撃つの!? ダメだよ!」

『むろん、殺傷は避けよ。目標はあくまで荒魂。非殺傷となる攻撃のみを許可する』

「了」

 兄の言葉に、野々美はほっと胸を撫でおろす。

 先ほど槍を突き付けた相手ではある。しかし野々美には、薫が人類を裏切って荒魂の手先となるなど俄かには信じがたい。「荒魂にも人の味方をする者がいる」というようなことを言っていたが、だからといって荒魂に与する人間が稀に居て、それが薫だなんてことがあるだろうか。

 分からない。分からないなら、確かめないと。

「分隊長。あたし行きます」

「行けるか」

「薫ちゃんの投弾のスキに、迅移で接近しクロスコンバットに持ち込みます。皆、退避してて」

「ちょ、野々美」

「何言ってるの! 野々美ハンチョ―が行くなら私たちも行くよ!」

 さすがにこれには不平が上がった。

「ダメだよ。皆に怪我させられないし、薫ちゃんにだって怪我はさせられないんだ。多分、大勢だと薫ちゃんにも手加減は出来なくなる。そうなったらあたしも手加減出来ない」

「けど…」

「あたしたちの主任務は荒魂駆逐。目標は薫ちゃんじゃあないし、薫ちゃんは敵じゃあない。皆は主任務の荒魂に備えて」

 顔を見合わせていた槍者たちは、思い思いに頷く。

「…野々美が言うなら」

「気を付けて、ハンチョー」

「任せて!」

 野々美は、笑みを見せた。

「では任せる。演習分隊、距離二百まで後退して射線を確保! 槍者班は荒魂の奇襲に備え待機。日向二等陸士は、この地点を突撃発起点とし機を見て突撃」

「はい、分隊長」

「分隊、配置に付け」

 寄せ手の特駆隊の空気が変わったことは、守る薫にも感じられた。

(仕掛けて来るな…何か)

 ここらが潮時か、と薫は悟る。

「そいじゃあ、こいつが決め球だ。魔球、ブラック省庁1号、喰ら、えっ!」

 薫の投じた4投目とほぼ同じ速度で、対向方向からぶっ飛んできたものがある。

「…!」

「だあああ!」

 投じた石は何かにぶつかって跳ね上げられ、遥か上空へと機動を逸らした。

 野々美の槍だった。

 投じた石の軌道を真っ向遡って、御槍日本号と、その槍者日向野々美が薫に飛び込んで来る。

(迅移で真っ向からか。律儀な奴だな)

(んじゃスリーアウトチェンジ。こんどはこっちが打席に立つ番だぜ…!)

 ぽいと石ころを捨てた薫は、その手で佩刀弥々切丸の柄本を、がっきと掴んだ。

「薬丸示現流、『抜き』! いくぜ!」

 示現流には抜刀術が存在する。

 示現流の抜刀術であるからには、「相手の未発を封じ、鞘の内に勝つ」などという、相手の顔色を伺うような技では一切ない。

「き、えええ―――!」

 この小兵の何処から、というような声であった。

 猿叫(えんきょう)、と流に称する特異な発声と共に、問答無用に敵に走り寄り、地から天に向かって太刀抜き上げるのが薬丸派の抜き技である。

(…!)

 薫の身長にして、弥々切丸の刃渡りである。下から上に抜き上げれば相手より先に地面を斬るのは自明である。地面に斬り込んでしまえばそこで刃が止まるのが世の常だが、薫の抜きは世の常の技ではなかった。

 地面に斬り込み、そのまま地面を斬り進み、地面をぶち破って、10キロ以上の鉄塊が唸りを上げて野々美に迫る。それも地面を抉ったその過程で、巻き上げた泥濘をマッハの速度で野々美に飛ばしつつ、だ。

(不味い!)

 槍を水車と回して泥濘を避けることは出来るが、それでは本命の弥々切丸に哀れ真っ二つ。

 槍を下に囲って弥々切丸を受けても、あの運動エネルギーの泥濘を被ったらただでは済まない。ダメージで棒立ちになったところをやはり真っ二つだ。

(だからなんだ!)

(あたしは槍。槍はあたし。他にないんだ! 突き進む!)

 野々美は着地に使う筈だった左足で、さらに思い切り地を蹴った。

 蹴った地は爆ぜ、そこにクレーターのような弾痕が残された。

「ええええ―――、イ!」

「あああああああああ!」

 交錯した。

 両方の槍と刀が、双方に掠りもしなかった。

 刀は地面を斬り破った分、到達が遅れた。

 槍は余計に地を蹴った分、精度を失った。

「「…!」」

 交錯した両者が振り向いたそこにあったのは、薫の足元の小火山の火口のような跡と、陸美の足元に長々と掘られたレールのような二本の大地のブレーキ跡である。

(おいおい、こりゃあ…)

 薫の脳裏に、かつての大敵――燕結芽(つばくろ・ゆめ)や衛藤可奈美の面影が浮かび上がる。

(こんなの、初めて)

 思いがけず、野々美の瞳は輝いていた。

 今の今まで、野々美にはまともな稽古相手すら居なかった。

 日本号に出会って以来、荒魂相手の実戦だけが稽古だった。特別刀剣類管理局の管理の及んでいない玉鋼兵装を全国各地からかき集め、その使い手を陸自の子女より募ってより後野々美に仲間は出来たけれど、稽古相手には程遠かったのである。

(こいつは…)

(この人…)

 強い…!

 

***

 

 同時刻、演習場の麓。

 演習場に至る唯一の舗装路である広域農道には車両通行止めの黒黄ツートンのバリケードが設置され、簡便なテントには数名の、「交通整理」の担当兵が待機している。

 他にも山中に向かう未舗装の林道や山道が存在しているが同様に封鎖がなされ、地元林業の業者やハイカーが入り込むことのないよう警備が配されて居る。

 もちろん麓の全周に歩哨を配することは不可能であるから、文明の利器である無人機、ドローンや監視の定点カメラを頼ることとなる。

「…ん?」

「どうした」

 テントでモニターを監視していた兵の一名が、異変に気付いた。

「女だ。それもこれ、伍箇伝の制服じゃないか」

「帯刀してる。間違いないな。本物の荒魂でも出たのか?」

「いいからすぐ演習本部に報告入れろ。場合によっちゃ状況中止を具申しなきゃならん――」

 言っている間に、もう定点カメラに人影は居ない。

 恐らくは移動したのだ。その歩みの先は、実弾での演習がなされている山中である。

「不味い、危険だ。最寄りの兵に追いかけて止めさせろ。流れ弾にでも当たられたら省庁間の大問題になるぞ」

「了」

 この時点で、警備担当は図らずも真実を言い当てている。

 本物の荒魂は確かに出現していたのだ。

「これ見よがしに監視カメラが設置されてやがる。古波蔵エレンの情報に間違いはないみたいだな…」

 独り呟く画像の人影は、七之里呼吹に紛れも無かった。

「さあて、待ってろよ愛しの荒魂ちゃん」

 

***

 

 その切っ先は遥か天を突き、その刃筋は、相手を向かず外を向く。

 蜻蛉――

 薩南の名流、薬丸示現流を代表する、基本にして最大の構えであった。

(圧が凄い…流石特祭隊を代表する刀使だけある)

 通常、剣と槍の勝負は、所謂三倍段とされる。

 段位を持たぬ者が剣と槍を取れば、どちらが勝つかは分からない。

 初段の槍に勝つには三段の剣の技前が必要となる。

 二段の槍には、六段の剣があれば互することが出来る。

 その三倍段の例えが、この場合全く通用しない。剣であるところの弥々切丸があまりにも長大であるからだ。

(リーチは互角…だけどあっちは斬撃、こっちは刺突)

 曲線と直線だ。速度が同等なら何れが先に相手に到達するかは自明。

(よし…行ってみる!)

 野々美は短く踏み込む。

 基本中の基本、中段突きである。

 深く抉って止めを刺そう、という技ではないが、だからといってなにもしなければ串刺しになる。

(おいでなすったか!)

 いきなり薫は反撃した。

 と言っても、野々美を狙っての反撃ではなかった。狙ったのは野々美の槍であり突きだった。蜻蛉から、突いて来た野々美の槍目掛けて、弥々切丸を撃ち込んだのである。

 これにより野々美が怪我を負うことは無いものの、弥々切丸の質量をまともに受けたら普通、槍は保持できない。最悪指を折られる可能性もある。

 野々美を狙ってはいないが、十分痛烈な反撃であった。最低でも、手指は痺れる。そこを斬ることは十分可能なはずだったが…

(!?)

 空を切った。

 突きが来るはずのところに来なかった、わけではない。

(なんだこりゃ…槍の戻りが…)

 戻りが速い。

 突いた槍が戻っていくのに、薫の打ち落としが間に合わなかったのだ。

 雲耀(うんよう)の速さと称される示現流の打ち込みより槍の戻りが素早かったのである。

(聞いてねえぞ畜生)

 槍の繰り引きの素早さは、単純に手数に繋がる。それ故槍士は例外なくそれを練る。

 が、それにしたって今のは異様だ。突いた速さと同等、いやもっと速かったのではないか。

(こいつ陸自だから銃剣術がベースだって思ってたが…)

 それでは説明が付かない槍技であった。

(よし!)

 野々美にはチャンスが訪れていた。

 薫は空振りをしたのだ。ここで二の槍を継げばさらにチャンスは広がるはずであったが…

(…!)

 空振りしたはずの薫の弥々切丸はもう元の蜻蛉へと戻っている。

(技の戻りが速い!)

 短いやり取りであったが、お互いの技前を察するには十分であった。

(薫ちゃん、練習嫌いだっていう話だったけど、絶対それはないよ)

 示現流は一撃必殺、という言葉が独り歩きしているが、全くそれは当たらない。大抵は一撃目で斬り伏せられるからそのように言われているだけであり、稽古を見る限り、息の続く限りの連撃がその持ち味である。素早く沢山の、それも強い攻撃を繰り出すことを得意とする流儀なのだ。

 それを可能とするのは、流に左肱切断(さこうせつだん)と称する、非常にコンパクトな強振である。左肱――左ひじを切断する、と書いて時の如く示現流の打ちは左の脇を締め、肘の位置を固定して行う。剣道の面などと違い両手で振りかぶらないのだ。

 技は小さくなるが、その分速く硬く強い。

 小さい技であるから戻りも速くなるわけだ。

(これが薬丸示現流…!)

 そして、このコンパクトな技というのが、示現流の場合リーチの問題にならない。

 示現流の踏み込みは非常に長く、速いからだ。

 さらに言うなら薫の得物は4尺を超える長尺の弥々切丸なのだから、輪をかけてとんでもない。

(…ごくり)

 野々美は生唾を呑み込む。

 途方もない相手であった。荒魂の相手をしている方がマシにすら思えた。

(ちっと重てえ食いもんだ)

 一方の薫も内心顎を出す。

 示現流の踏み込みは確かに深く素早いが、目の前には槍の切っ先がある。踏み込んだら最期自分から串刺しになってしまう。

 さらにいうなら蜻蛉に振りかぶっているものだから、鋭い穂先と己の間には何にもない。野々美がこのまま進んで来たとして、薫がなにもしなければ矢張り串刺しだ。

(相性悪りいんじゃねーか、これって)

 槍の柄は短いからリーチは同等なのが幸いである。

(どっちにせよ…)

(どちらにせよ…)

 お互いが悟った。

 お互いが超攻撃型であり、一たび攻撃が始まれば凌ぎきるのは非常に困難だということをである。

((先手必勝!))

 弥々切丸が唸りを上げた。

 日本号が閃いた。

 突きと斬撃が激突する。

(…!)

 狙いを外されたのは野々美。狙いにはまったのは薫であった。

 薫の狙いは突きであった。攻撃の邪魔になる目の前の槍を打ち払うことが目的だったのである。

(もらった!)

 今度は捉えた。弥々切丸でまともに払ったのだ。最悪は槍が破損。良くても手は痺れる。どっちにせよ邪魔な切っ先はもうないはずだった。

 あとはそこに潜り込んで一撃入れるだけ…の筈であった。

(うお!?)

 しかし払ったはずの日本号の穂先は再び何事も無く中段に戻って来ていた。

 穂先はやはり行く手を阻んだままだ。これでは踏み込めない。

(今だ!)

(ちいいい!)

 構わず薫は二の太刀を継いだ。

 やけくそだったが幸いした。突きと斬撃は再び激突し、結果的に野々美の突きは軌道を外れることとなった。

(納得いかねえ!)

 何故弥々切丸の大質量を受けて手が痺れない?

 奴の左手の指はどうなってやがる、と見ると、左手は目立って武骨な、穴あきグラブが覆っている。

(…まさか)

 武骨だが、よく見られるグラブだ。特祭隊にも愛用する者が居る。それだけでは説明が付かない。皮一枚増やしたところでどうにかなるものではないはずだからだ。

 しかし、そのようなグラブを嵌める理由を考えると、槍の繰り引きの素早さ、衝撃に対する強靭さにも納得が行く。

(こいつ、管槍使いか!)

 管槍とは槍の柄の短い管を填めた、本邦独特の槍のことだ。

 本来槍の柄を直接握る左の掌で、この管を握って保持する。前に出た左で管を握ったまま、後ろの右手をちょっと操作すると、管を滑って飛び出すように槍が伸びる。

 突きを戻す時も同じだ。ばね仕掛けか何かのように戻っていく。繰り引きの素早さは通常の素槍をはるかに凌ぐ。拳銃の弾丸を槍とするなら、管は弾丸を加速する銃身やそのライフリングの役割を果たすのである。

 そればかりか、衝撃にも強い。直接槍の柄を握っていないのだから、槍の柄を叩いても衝撃が伝わりにくい。

(槍を落とさねえのはその為か!)

 野々美の日本号は管槍ではないが、左手のグラブが管の代わりとなってるのだ。

(間違いねえ。こいつの遣うのは…尾張名古屋のケンカ槍、貫流(ぬきりゅう。かんりゅうとも)槍術だ)

(だとすると、こいつの武器は突きだけじゃねえ!)

 ひょい、と中段に御された野々美の槍の穂先が消えた。

 つっかえ棒を取り払われたように、薫は感じた。思わず前につんのめって攻撃したくなる。今なら斬り込める――そう感じたままに斬り込んでいたならば間違いなく斬り伏せられていただろう。

 槍の穂先は、薫の弥々切丸と同じく天を向いていた。天を沖する剛槍が、大地を斬り割るが如くに薫目掛けて振ってきた。

(…こっ)

 名門に産まれ高等部までの人生全てを刀使として過ごしてきた、薫の知識が薫を救った。

(こなくそ!)

 日本号と弥々切丸が激突した。

 薫は受け止めず、真っ向から応戦したのだ。

 突きと斬りが当たったのではない。まともにぶったたきあったのだ。

(ぐっ!)

(つあっ!)

 尾張名古屋の叩き槍。貫流の異名の一つである。衝撃に強いということは積極的に叩いていけるということだ。突くばかりでなく叩き槍を多用する貫流は、まさにケンカ槍の名に相応しい実戦槍術であった。

 槍は芯鉄入りの柄の日本号。鉄棍に等しい。

 お互いが吹き飛ばされた。

 だが二人とも、吹き飛ばされた相手から逃げようとはしなかった。

 磁石のように引き付け合う。

((こなくそっ!))

 ガチイイイン、という鉄と鉄がかち合う音。

(なんの!)

(まだまだ!)

 一合。二合。三合目。

「ちぃ…っ!」

「くっ!」

 薫は斬る。

 野々美は打つ。

 真っ向からそれをやるから、ぶつかり合う。

(ちっちゃいくせに、何てパワー!)

 双方がそう感じていた。薫同様、野々美の得意も八幡力であったのである。

 もちろん、薫にも野々美にも、他の引き出しはある。周囲の十条姫和や糸見沙耶香が桁外れで目立たないが、こう見えて薫はスピード豊かな刀使である。野々美の先刻の迅移にしても、十分御前試合規模の大会で通用するレベルのものだ。

 しかし、いやだからこそ、この力比べで譲るわけにはいかない。

 得意とする八幡力で遅れを取れば、この後出来ることがなにも無くなってしまうからだ。

(そうなれば、この勝負、持っていかれる!)

 故に八幡力に対し、八幡力で応じざるを得ない。応じなかったならば、それは相手の八幡力が上であると認めることに他ならないからだ。

 何度目かの火花が、昼なお暗い北関東の山中を照らす。

「荒魂の姿はあるか」

「確認出来ず。ねねの姿も確認出来ません」

 遠巻きとはいえ、複数の視点からライフルの高精度スコープで捜索する特駆隊だが、薫と弥々切丸の近くに居るねねの姿は見えない。何処かに潜んでいるか、或いはさらに山中深くに逃れたか。

「日向二等陸士を支援出来るか」

「現在距離二百。この距離なら外す隊員は居ません」

 分隊長の傍らの副長が、さらりと言う。

 これは事実である。そういう技量の精兵が選りすぐられてここに居るのだ。足を止めて斬り合ってくれているなら、この距離なら命中確実である。

「特に技量を高い者を選抜せよ。対象が写シを張っているか確認」

「確認出来ます、写シを張っています」

「よし、弾種は対荒魂用高速貫通弾を使用、弾を体内に残留させず貫通させる。念のため、致命的な部位を確実に避けられるタイミングを見計らえ。…では、各個の判断で射撃開始」

「了」

 何合目かの打ち込みが火花を散らし、間合いが開いたその時であった。

 三条の銃声は、一条に聞こえた。 

「がっ!」

 三方向から軸足を何かに射抜かれた。

 がくり、と体制を崩す薫の耳に、銃声が今届く。何が起こったか理解した。撃たれたのだ。

「…!」

 野々美にはもちろん、チャンスであった。

 殺傷が目的なら、ここで躊躇いなく突く。ブレーキを掛けたのは、ダメージで写シが飛ぶ可能性を恐れたからだが流石歴戦の薫。ダメージには慣れていた。

(すごい…足が千切れるくらいのダメージなのに持ちこたえるなんて)

 だがこれで終わりにする。

 日本号で弥々切丸を巻き落とし、取り上げてしまうつもりであった。そうなれば薫は刀使としての能力を失う。大きく体制を崩しているこの一瞬ならばそれが出来る――

「ねねー!」

「!?」

 その時、茂みから飛び出してきた何かが、横合いから野々美に体当たりする。

「ねねちゃん!?」

 やはり隠れ潜んでいたのだ。まともにぶつかりはしなかったが、咄嗟に身を躱した御陰で好機は去った。薫は体制を立て直していたが、狙撃担当の兵も既に次弾を装填していた。

「ねねねねねねー!」

「馬鹿! 止めろ戻れ!」

 子犬くらいであったねねの質量が、爆発的に増していく。

 中世備州を震撼させた巨獣、弥々がその正体を現しつつある。

(不味い)

 相手がライフルだけなら何の問題もないが、今や彼らには珠鋼兵装がある。あれにまともにやられれば如何な弥々とて致命傷だ。

 それだけではない。

 ねねと共に潜んでいたチビ荒魂のタマが、バレーボールどころの大きさでは無くなっている。それだけでなく、見る見る膨れ上がっていく。

 間違いない。薫や野々美、特駆隊の兵たちの害意に反応し、穢れを得ているのだ。

(やべえ、このままじゃあ)

 始まってしまう。

 荒魂退治の実戦が、である。そうなれば弥々は、どちらの味方をするのか。

 実弾で薫を撃った陸自側の味方をするとは、全くもって考えられなかった。

(くそ…早く戻りやがれ!)

 足を吹き飛ばされるダメージをS装備無しで受けたのだ。写シが吹き飛ばなかったのが奇跡だ。身体は鉛のように重い。

 

KaooooooooN!

 

 今や完全に正体現わした荒魂弥々の、咆哮(ウォークライ)が轟く。

 威嚇だ。

 縄張りを冒された獣のように、弥々が人類を威嚇している。

「弥々です! 弥々が現れました分隊長!」

「見れば分かる! こちら前線指揮! 弥々が巨大化、攻撃態勢! 先制攻撃の是非を問う!」

『こちら演習本部。状況が変わった。演習区域に何者かが侵入。実弾使用の許可は出来ない』

「なんですって…!」

『撤退せよ。荒魂撃破も討伐も無用、兵の安全を最優先とする』

 荒魂と市民を間違えて撃つような兵はここには一人も居ない。しかし、リスクは常に存在する。跳弾や流れ弾が民間人に当たらぬとも限らないのだ。

「止む無しか…了解! おい日向、撤退だ! 聞こえてるのか、撤退だぞ! 応答しろ!」

「…」

 薫は確かに言ったのだ。「ねね、止めろ」と。

 この状況は、益子薫の本意ではない。

「ねえ、何故!?」

 野々美は声を限りに叫んだ。

「何故荒魂の味方をするの!? どうして!? 薫ちゃん!」

「お前ら、山を降りろ」

 問われた薫の応答は、対照的に静かであった。

「ここから先は、俺たち益子の者の仕事だ」

 

***

 

 弥々の咆哮は、麓の演習本部にあっても聞こえて来た。

「まさか演習中に、本物の荒魂に遭遇するとは…」

 幕僚の一人が、声に出して呻く。

 日向士郎三佐にあっても、想定外の事態であった。槍者班の娘たちを連れて来たのも、演習に伴った妹の野々美に、「経験を積ませて上げたいから」と懇願されたからであり、見学はさせても、特祭隊のゲストの参加する演習に御槍を持たせて参加させるつもりは無かった。「写シは張れる」と報告は受けているが、特別祭祀機動隊の中等部一年生に勝てるかどうかも疑わしい。

 因みに伍箇伝各校において荒魂と直接戦闘するのは、専ら高等部まで進んだ娘であり、文字通り「三年早い」状態であった。本物の荒魂と戦わせるなどとんでもないし、討伐など夢の夢である。

 日向の妹、野々美のみが唯一の例外であり、ここに至るまでの野々美には、相応の実戦経験がある。荒魂災害のさなか偶然にも手にした天下の名槍で、陸自唯一の対荒魂秘密兵器としてここまで濃密な経験を経てきている。

 荒魂出現が報じられ、それが非常に小型であると知れた時点で、野々美に処置させるつもりであった。

 しかし荒魂に弥々が味方し、さらにそれに益子薫まで味方する事態に至っては、隊の現在の対応能力を超えている。

「やはり、伍箇伝は人類の敵、というわけか」

 誰知らず、日向司令は呟く。

 本部テントの内の全員にこれは聞こえたが咎める者は誰も居ない。

 防衛庁の主流の認識で、それはあったからだ。

 関東大災厄の際、防衛庁と協力関係にあったのは伍箇伝にあって非主流反乱勢力であった舞草(もくさ)を前身に、再建された特別祭祀機動隊であった。舞草に中央を追われた伍箇伝旧主流はタギツヒメと手を組み、生徒を冥加刀使に仕立てて人類を襲った。陸自は駆り出されたタキリヒメ警護から大災厄に至るまで、相応の犠牲を払っている。自衛官の殉職者の過半は、伍箇伝によってもたらされたものなのだ。

 現在伍箇伝を取り仕切っているのは、関東大災厄の首班たる折神紫の妹朱音である。紫の実の肉親から、「姉はタギツヒメに取りつかれて人類に仇為した」と説明されても鵜呑みに出来るものではない。

 防衛省が、紛い成りにも協力関係にある伍箇伝に内密に玉鋼兵装の運用を始めたのにも、このような認識が根強くあるからであった。

「日向司令」

「どうした」

「演習予定区域の封鎖に当たっていた第二分隊より、状況中止の具申です。山中に向かう市民をカメラが発見したそうなのですが…」

「ですが、なんだ」

「これをご覧ください」

 差し出された携帯端末に表示されたのは、精度がいいとは言い難い画像である。

「…伍箇伝の刀使である可能性が高いと報告されています。現在追尾中もまだ接触出来ていないとのことです」

「一人、か」

「制服は、色調からして長船のものではなく、綾小路か錬府のものですが…益子薫は救援を呼んだのでしょうか」

「可能性はある、通信を遮断してはいないからな。が、一人とは数が少なすぎる。無人偵察機はどうなっているか」

「すでに山中に向け飛行中です」

「警戒を密にせよ。他にも居るはずだ」

「それには及びまセン」

 本部テントの入口に、一斉に視線が集中する。

 本部に留まる特駆隊の全員に、聞き覚えの無い声であった。

 女の声であった。

「特祭隊の命令を受けた正式な救援は、ワタシだけデス。その画像に居るコはイレギュラーね」

 今や敵の本丸と化した特駆隊の演習テントに正面堂々、単騎乗り込んだのは薫の相棒、古波蔵エレンであった。

 

***

 

「繰り返す。発砲はするな。ただちに退去せよ」

 そう命じ通信機を置いた日向三佐は、改めて闖入者に向き直る。

「さて、何処から入った。歩哨が居た筈だが」

「安心してくだサイ、峰打ちデス」

「つまり押し入ってきたのか、特祭隊」

「ノー、乱暴されそうだったから仕方なく、デス。エスコートはもっと優しくネ」

 パチリ、とエレンはウインクして見せる。

(司令。隊の玉鋼兵装は全て前線です。刀使への対応能力は…)

(分かっている。帰還を急がせる)

 傍らの幕僚とのこのやり取りは、ハンドサインで行われた。

 特駆隊固有のものであり、傍受の危険は少ない。しかし、何らかのやり取りが為されたことは察知されて居よう。

 刀使への対応能力は、対荒魂と同様、高いとは言えない。そもそも荒魂も刀使も神通力の塊のようなものであり、士官携帯の拳銃で戦うことは難しい。演習中の「事故」として益子薫が殉職することも有り得るように、今ここで特駆隊司令部に「事故」が起こらないとも限らない状況であった。

(上手くいきましタ)

 一方エレンは、特駆隊を薫から遠ざけるという第一の目的を達したと言える。

 正直、ここまで状況が悪化するとは、エレンの念頭にはなかった。薫は「荒魂を庇って」交戦したというのが陸自の認識であり、陸自は薫に対し発砲までしているようだ。

 そうでなくとも特祭隊、ひいては特別刀剣類管理局の信頼は失墜している。「特祭隊の刀使の一人がまたも人類を裏切った」と主張すれば世論は自衛隊側に傾こう。その目算があるからこそ実弾の使用を許可したとすれば目の前の三佐は相当な切れ者だ。

 しかし、警官に準ずる特祭隊員に発砲したのみならず、不法に玉鋼兵装を隠し持っていた自衛隊の立場も決して付け入る隙がないものではない。

「ところで薫は何処に居ますカ? ワタシたちは真庭学長に言われて、応援に来たのデスが」

「ワタシたち、とは君以外に誰かがいるのか、古波蔵エレン君」

「今こっちに向かってマス。あー、そのイレギュラーちゃんは、荒魂が出たって聞いて飛び出していっちゃいました。演習中の山中を探すには、こっちに断りが必要ですヨネ?」

「現在、隊の者がそのイレギュラーとやらを追っている」

「捜索を行いたいのはそのイレギュラーちゃんだけではありまセン。通報のあった、荒魂に関してデス」

「君は、益子薫の応援に来たのではないのか」

「それが、その薫から荒魂出現の連絡があったみたいで、これにも対応するよう、ついさっきオーダーが追加されちゃいましタ」

 三佐の後ろで、本部要員たちが顔を見合わせる。

 それが事実ならば、益子薫は特祭隊本部に連絡を入れていることになる。さらには薫の行動に容認を示しているとも受け取れる。

「益子薫は恐らく、荒魂と共に行動していると思われる。荒魂を庇って隊を攻撃したと前線より報ぜられ、演習本部は今それの対処について指揮していたところだ。これについては我々からも確認を取りたいのだが、我が隊を火器によって攻撃したのは特祭隊本部の指示か」

「カキ? 秋にはまだ早いデスヨ」

 エレンはとぼけたが、内心は冷や汗ものである。

 火器を使用したなど初耳だ。奪った銃で発砲でもしたのか? 兎も角、警官に準じる薫が自衛隊に銃を向けたら大問題である。

(薫ってばもう…勘弁してくださイ)

 だが愚痴ることは出来ない。ここはすでに敵の本丸と化している。それを承知で乗り込んできたのだ。

(うう…あとで、憶えててくださいネ)

 文句を言いたければ、薫を無事、死地から連れ戻すしかないのだ。

 

***

 

「まさか姫和ちゃんが来てくれるなんて思わなかったよ」

「当たり前だ。死なれてたまるか。あいつを斬るのはこの私だ」

 まさか現実にこのセリフを聞くとは思わなかったと衛藤可奈美は、傍らの安桜美炎(あさくら・みほの)と顔を見合わせる。ちなみに二人は、可奈美の兄の定期購読していた少年ジャンプをこっそりすくねて回し読みしていた仲である。

「いやただ斬るだけでは面白くないな。先ずは皆の目の前で、捕らえた奴の胸囲を測ってくれる。そしてそれをみて鼻先で笑ってやる。くくく、すぐには斬らん、じわじわと、じわじわとな…」

 まさか現実にこのセリフを聞くとは思わなかった。これがフラグという奴かと六角清香(むすみ・きよか)が感心する。ちなみにこのフラグを立てたら、大抵後で逃げられる。

「…しかし、集まりも集まったな。皆薫の為に集まったのか」

「信じがたいですがそのようです。古波蔵エレンがラインに投稿した後、真庭学長のレスが付いたあたりから続々と集まり始めました」

 そうして集まった有志を車両に満載したら、今のような有様となったという訳だ。

「認めたくはないが、ああ見えて信望があるんだな、薫の奴め」

「人徳、と言った方が適切でしょう」

 女性のやりとりとは思われぬ口調のこの会話、姫和に対し木寅ミルヤ(きとら・-)が応えている。ミルヤが隊長を勤める特祭隊最精鋭たる「調査隊」は当初、「赤羽刀」の調査収集を目的にした任務部隊であったが、過日人類として記録上初めて幽世に侵入し荒魂を討伐し生還を果たすという大偉業をやってのけていた。

 その調査隊隊長、木寅ミルヤの直接の部下が七之里呼吹である。

「それにしても全く、七之里呼吹にも困ったものです」

 ミルヤは嘆息する。

「早く合流しなければ、何をしでかすか…討伐での働きは確かなのですが、益子薫が一緒なのが気になります。彼女が居るなら益子の守護獣ねねも居るハズ、勢い余って、ということが無いとも限りません」

「きっと大丈夫。ああ見えて常識のある、素直なコよ」

「恐らくそれは瀬戸内智恵(せとうち・ちえ)、貴方に対してだけです」

「そんなことないわ、ミルヤさん。あのコ意外と、気遣い上手なところもあるんだから。きっとミルヤさんが困るようなこと、しないと思うわ」

 瀬戸内智恵(せとうち・ちえ)は調査隊の副長の任にある。

 連携に長けた長船女学園の高等部高学年として培った十分な指揮能力に加えミルヤに手の届かない、仲間への細かい気配りが出来る人物であり、傍目に可奈美や姫和は改めて、結隊当時の折神紫本部長の人選の妙に感じ入る。

「おい、お喋りはそのくらいにしろ、舌噛むぞ」

 運転席から怒鳴ったのは智恵と同じく長船女学園高等部、舞草出身の米村孝子(よねむら・たかこ)である。運転しているのはSTT隊員私物の軽トラであった。なおちゃんと免許は持っている。警察官に準じる特祭隊員には何かと便宜が図られるのだ。

 すぐ後続の車両は孝子の同僚、小川聡美(おがわ・さとみ)が運転している。

 そのさらに後ろ、さらにその後ろ、さらにさらに後ろ――全てのクルマの荷台といい座席といい所せましと刀使が満載されている。

「何人来てるんだろう。数えきれないわ」

「薫…凄い…」

 隣合わせに座った柳瀬舞衣と糸見沙耶香が声に出して呟く。

「有能な怠け者は、有能な働き者に将才で勝る、と云いますが、どうも本当の事のようですね」

「それはない」

 ミルヤの考察を、姫和はサクっと切りすててしまう。

「…あ、そういえば由衣は?」

 由衣、とは例の、山城由衣(やましろ・ゆい)のことであろう。

「特に召集を掛けているわけではありません。居ないということも…」

 言う端から、後続の車両で、先頭車のここまで聞こえる黄色い悲鳴が上がる。

「…居るみたいだね」

「…そのようですね」

 木寅ミルヤ、どうやら本日の頭痛の種が、また一つ増えたようである。

 

***

 

 北進してくる特祭隊の車列の情報は、程なく演習本部にもたらされる。

「司令、市ヶ谷から状況の問い合わせが来ていますが…」

「こちらも問い合わせ中だと応えろ」

 にべも無く、日向司令は命じる。

「いいんですカ。大事な電話じゃないんですカ」

 ニンマリ、と古波蔵エレンは人の悪い笑みを浮かべる。

 真庭本部長代行を巻き込んで騒ぎを大きくした甲斐があったというものだ、少し大きくなりすぎている気もするが。三十にも達しようかという精兵刀使に対応する能力は、恐らく、世界中のどの軍隊にも無いであろう。

(この上もない圧力デス。皆ありがトウ)

 自衛隊とケンカをする必要などない。薫の安全を確保する後押しになればそれでいいのである。

「我が隊は兵数二個分隊100名、玉鋼兵装は12本余りです、司令。対応能力は…」

「全隊、弾倉にソフトポイント装填。対刀使戦闘に備えよ」

 日向司令は眉一つ変えず命じ、エレンからは笑みが消える。

「本気ですカ」

「専守防衛。これは国是であり隊是でもある」

 日向司令の答えはこうであった。

「我々には常に最小限度の装備しか与えられず、その上で敵の攻撃の有るまでは決して引き金を引くことは許されない。軍隊が敵に勝利することを目的とするなら我々は軍隊ではない。乏しい戦力の我々は戦いとなれば敗北は必至。だが相手も無傷では決して済まさぬ。それが我々の戦だし、他にどのようにしようもない。現在の状況、まさに我々が常に置かれてきた状況だ」

「ワタシたちと、実弾で戦うのですカ?」

「特祭隊は珠鋼兵装の威力を、我が隊に使用するがいい。攻撃してくるとなれば我々は自衛権を行使する」

「――」

「荒魂の中には、弥々のように人間に味方する者も居ると益子薫は言っていた。ならば人類にも荒魂に味方するものがいてもおかしくはない。…お前たちはどうなのだ、特別祭祀機動隊」

 

***

 

 ノロを体内に受け入れた人間は破壊に飢え渇くと、衛藤可奈美や十条姫和に、聞いたことが有る。実際にノロを摂取した人間に聞いたのだと二人は言っていた。

 ノロが実体を得た荒魂は、故にただ壊す。

 食べたり、眠ったり、子供を作ったりといった命の営みを一切行わず、命が命であるが故にもたらす欲望の類は全て、壊すことで満たす。

 それがどんな気持ちであるのか、人間である薫には想像だに出来ない。

(苦しいか? タマ)

 今や人間大に大きくなったタマが、本当に苦しんでいるかどうかは分からない。

 ただ、飢えていては苦しかろう、渇いていては苦しかろうと思った。

(今俺が楽にしてやるからな…)

 タマであったものは、どういう訳か山頂方向を目指して登っている。

 ノロが一たび荒魂となったなら、第一に人間を目指す。御刀を持った人間はさらに優先される。

(しかし…何故登る?)

 荒魂に成りたてのタマが狙うなら下だ。麓の方に向かえばそこには獲物の陸自が沢山いるはずだ。その中には珠鋼を持った人も居るというのに、それに背を向けて登るとは?

 最近では、ノロ同士で引き合う性質も確認されているとはいえ、荒魂の目標となるようなものが山頂付近にあっただろうか。

(心当たりねえな…いや、待てよ)

 薫は懐からタブレット型のスペクトラムファインダーを取り出し確認すると、

『薫へ。七之里呼吹が演習場の封鎖を突破して山頂方向に向かったみたいデス! 狙いは多分荒魂だと思いますケド、くれぐれもねねと鉢合わせさせないよう注意ネ!』

 などと、古波蔵エレンより書き込みがなされている。

 エレンと薫の私室ではない、刀使なら皆見る部屋への書き込みだ。

(七之里呼吹が来てるのか? いやいや、待て待てこりゃあ…)

 エレンからの書き込みには同じ舞草出身の瀬戸内智恵にレスがなされ、その上に真庭紗南本部長代行より「呼吹の奴め…」などと一言のみだが書き込みがされている。そうこうしていると当の呼吹より、「愛を探して旅の途中だ」などと適当なコメントがある。

「大丈夫か、薫! 大丈夫かねね!」

「ねね大丈夫? 呼吹ちゃんに斬られてない?」

「薫はいいけどねねが心配」

 こんな感じのやりとりが続いていて、薫は苦笑するより他にない。

 しかしその後、「戦闘が始まりやがった。銃声が聞こえる。荒魂らしいもんが吠えてる」という呼吹の書き込みがあり、続いて「薫が撃たれたみたいデス。これから陸自演習司令部に事情を確認しに行ってきマス」というエレンの書き込みがあったあたりから多方面から問い合わせが集まり始め、今に至るもどんどん増えている。

「あー、こちら俺。自衛隊との演習中にモノホンの荒魂と遭遇。荒魂は大型化し山頂方向に逃亡、追尾中。応援は無用。以上生存報告」

 手入力している暇はない。山中を駆けながら音声で生存報告を入力する。

「全く大騒ぎし過ぎだ――って大騒ぎにもなるか」

 仮にも警官である薫が自衛隊と戦闘になったのだ。その自衛隊は未登録の玉鋼刀剣を保持していたのだ。公になったら大騒動である。

(特駆隊が後退してくれて助かったぜ)

 その大騒動が、現在進行形で生起しつつある。そしてどうもそう仕向けているのは薫の相棒、エレンの仕業のように思われる。

 薫の身に演習中の不慮の事故を発生させぬ為、エレンが奮闘してくれていることは間違いない。特駆隊の後退は、おそらくはエレンの援護射撃によってもたらされたものなのだ。

(持つべきものは頼れる相棒だな。あとは…)

 タマに追いついた。

 タマが急停止したからだ。

「見つけたぜぇ、愛しの荒魂ちゃん」

 目深に被ったフードのせいで、視線は明らかではない。

 しかしその口角は、耳元まで裂けているかのように、薫には見えた。その牙で荒魂の生命を喰らう、異形の人獣。

 間違いない。タマの狙いは呼吹だったのだ。

 特駆隊の恐怖よりも、呼吹の狂気に引き寄せられたのだ。

「馬に蹴られるのを承知で言うが、すっこんでろ呼吹。こいつは、俺がやる。いいや俺がやらなきゃならねえ」

「あ? 誰がやったって同じだろ。悪さをする荒魂が消えてくれりゃあ世間様は皆満足。真庭本部長代行もニッコリだ。それとも何か? 今月の討伐ランカーでも狙ってるのか」

「討伐スコアならお前にくれてやる。そんなもん欲しいと思ったこともねえ。だけどこいつは譲れねえ」

「こっちも譲れねえって言ったら?」

「――」

 これ以上の言葉は無用だろう。話の通じるような相手ではないし、刀使である者の誰かに話して理解してもらえるようなことでもない。

 弥々切丸が、天を指して聳(そび)える。

 蜻蛉(とんぼ)――幕末日本を切り開いたと言われる薬丸示現流を代表する構えである。

「マジか。こっちは荒魂以外にゃ興味ねえんだがな。邪魔するとあっちゃあ…」

 何時の間に抜いたのか。

 猫が爪を伸ばすかのように、呼吹の両手に、二本の小太刀が出現する。

「仕方ねえ!」

 普通両手にモノを持っていたら走行には支障をきたす。それも持っているのは一キログラム弱ほどもある小太刀である。しかし七之里呼吹の場合、諸手の小太刀がまるで、飛鳥の使う翼のようであった。水魚の使うヒレのようであった。

 真っ向から、疾走してくる。

「…仕方ねえ、な!」

 薬丸示現流+八幡力。

 まともに喰らえば主力戦車もひしゃげるであろう斬撃を、呼吹はもちろんまともに受け止めにはいかなかった。それどころか相手にもしなかった。

 大地を一蹴りし、遥か高空を舞う。

(…ちぃ! しまった!)

 はなから狙いは薫ではなかった。

 薫の遥か頭上を飛び越し、狙うはただ荒魂、一直線――

「アイシテルぜ! 荒魂ちゃん!」

 タマはかなり大型化していた。今や大型の牛馬程はある。

 だがそれしきの荒魂であれば、幾体も退けて来た呼吹である。恐れも躊躇いも無かった。諸手の二本の牙を、上下の顎の如く振りかぶる――

「!?」

 その時呼吹は異変に気付いた。

 地面に落ちる己の影が、異様に大きい。

(いや、違う!)

 己の影ではない。

 咄嗟に体を入れ替え、諸手の牙を、盾へと変える。

 空手で言う所の十字受け、クロスアームブロックは正面よりの打撃に対して最も堅牢と言われるガードであったが、この場合意味があったかどうか。

「ぐあ!」

 ラケットか何かでピンポン玉をはたくかののようだった。呼吹を、上空から地面目掛けて叩きつけたのは、今や正体現わした、巨獣弥々であった。

 ドン、と山が揺れた。

 先ほどの薫の投石とは比べ物にならない衝撃であった。当然だ。石くれと人体とでは質量が桁違いだ。

 

カオオオオオオ!

 

 金属が発したとも、生物が発したともつかない咆哮を、弥々が発する。

 勝利の雄叫びであった。

「ばか弥々! 無茶するな!」

 もちろん、呼吹を殺すつもりは薫には無い。争うつもりすらなかった。ただ、タマのことを任せてもらえればそれでよかったのだ。しかし――

「…もう一体居たのかよ」

「!?」

 普通死ぬ。五体が残っていればまだましだ。写シがあったとしても刀使生命が断たれてもおかしくないほどのダメージが、アストラルの方に入ったはずだ。

「それも超大物じゃあねーか。遊び甲斐がありそうだぜ…!」

「…金剛身か!」

 むくり、と起き上がってきた。

 エレンほどの達人ではないにせよ、呼吹は金剛身の技を得ていたのだ。

 一対一の試合であれば写シがあれば護身に事足りる。しかし現場では不測の事態は起こるものだ。それを想定して金剛身を学んだとすれば、エレンと同じく、究めて実戦型の刀使であった。

「さあお返しだ! 行くぜデカブツ!」

 目の色が変わっていた。伍箇伝史上においても屈指の生涯討伐数を誇る呼吹のキャリアにおいてすら、めったにお目にかかれない超大物。

 当然ながら大型化したねねの姿を見たことは呼吹には無い。正体がねねであるなど思いもよらぬし、そもそもねねの存在が頭から蒸発していた。

 もちろん、弥々の方も大人しくしてはいない。咆哮をほうき星の尾のように引きつつ、一直線に向かっていく。

(不味い…)

 二王清綱、北谷菜切、何れもが弥々に致命傷を与えうる。七之里呼吹は、荒魂に対しての殺傷能力は並みの刀使の倍火力を持つ刀使なのだ。

 弥々の方もタダでやられはしない。人間の胴回りほどもある腕の一撫でを受ければ、並みの刀使の写シなど簡単に吹っ飛ぶ。

 ようするにどちらかが死ぬ。下手をすれば両方死ぬ。

(ちいい…!)

 間に割り込む。迅移なら間に合うかもしれない。

 両方にやられるかもしれないが仕方ない。何とかするしかない、何とかなるとは限らないが――

(ダメージに備えろ! 歯を食いしばれ…!)

 悲壮な覚悟で薫が地を蹴った、その時だった。

「うお!?」

 呼吹の眼前に突如何者かが出現した。

 呼吹が急停止しなければ、そいつが構えた槍に自分からぶつかって串刺しになっていただろう。驚くべき反射神経であった。

「何しやがる! 何もんだてめえは!」

「あたし、日向野々美! 槍は、日本号!」

 構えた槍の主は、野々美であった。

 

***

 

 この国にはひと時、刀使を失った時期があるのだと兄は言っていた。

 敗戦後、GHQの行った御刀狩りによってである。徴収された御刀は東京都赤羽に集積され、後米国へと輸送される途上、海難事故でその全てが喪失したのだと。

 この後、占領軍は刀使たちに代わり荒魂と対峙し、少なからぬ犠牲を――兄の話では一方的に――払ったのだと。

 程なく刀剣の所持や本邦固有の武技の練習が認められ、ついには自衛隊の前身、警察予備隊が発足。GHQが日本を引き払うに至った時人々は囁き合った。怒れる荒魂、奢れる鬼畜――連合軍をさす――を追う、と。

 占領軍が払った犠牲は、一説には沖縄戦を上回るとも言われる。

「ここにある刀は真剣ではありますが、儀仗隊が用いるもので珠鋼は使用しておらず、貴方がた警察の言われるようなものではありません」

「それは何度も聞いた、それを確認する為の立ち入り査察だ」

「ですから高裁の令状だけじゃ自衛隊の兵装を査察することなんでできませんから! 立ち入りの許可は――」

 妹は、兄の押し問答を固唾を飲んで見守っていた。

 立ち入ろうとしているのは特別刀剣類管理局の人たちで、門前払いにしようとしているのは旧陸軍中野学校跡地を利用した資料管理施設の当直責任者である兄だった。その妹である己は、兄の手伝いで受付をしていたのだが、いつもの手に負えない連中が来たから兄を呼んだのである。

「…全く、何度来ても同じだ。どうしても中を見たければ防衛相か総理でも連れてきてくれ」

 戦後の御刀には、三種類ある。

 一つは、地方の集積所に一時残置されていたなどの理由で水没を免れ、後珠鋼兵装を恐れて手放したGHQより返却されたもの。

 一つは、水没した後海底などより回収された、所謂赤羽刀を研ぎなおしたもの。

 もう一つは、GHQの御刀狩り自体を逃れたもの。

 一つ目と二つ目には基本的に登記があり、この全てを特別刀剣類管理局によって管理されていることになっている。

 三つ目においては、現在に至るも登記が無い者が存在する。それら全てを登録特別刀剣とするのが特別刀剣類管理局の仕事であり、それ故に幾度となく押しかけてくるのだと兄は言う。

 だが今回も、その前と同じに追い返した。

 次に来てもまた同じように追い返せばいいと、思っていた。

 この時は知らなかったのだ。特別刀剣類管理局がその実、指導者が禍神に乗っ取られ、荒魂の手先となっていたことを。

「うわ!」

「ぎゃああああ!」

 この時、産まれて初めて人の断末魔を聞いたのだと思う。

(…? なに?)

 なんだろう、今の声。

 感想はこのくらいなものだった。

 今の今まで、そんな場面に出会ったことが無かったから。まさか出会うことなんてないだろうと思っていたから。

「荒魂だああ!」

 え? 荒魂?

 そう思った時自動扉が開いたが、多分開かなくても結果は変わらなかったろう。扉に入りきらないほどの赤錆びた巨体が、扉自体を打ち破って入ってきたからだ。

(…!?)

 錆びた鉄の巨獣には口があって、なにかを咥えていた。

 さっきまで誰かのものだったであろう、人間の四肢だった。

 口の右から足が、左から腕が出ていた。

 けど、その足と腕との間にあるべき胴体がすっぽりと収まるには、獣の口は小さかった。じゃあ胴体はどうなったのか――考えたくも無かった。

 獣がこっちを向いた。

 目と思しき部位は確認出来なかったが、そう思った。

「…ひ!」

「こっちだ!」

 手を引っ張られた。

 兄だった。

 走った。階段を下っていく。

「ここなら…」

 兄があたしを引っ張り込んだのは、一度も入ったこともない地下室の鉄扉の奥だった。

 頑丈そうな鉄扉だった。これなら、あの化け物もそう簡単には入ってこれないはずだ。けど、ここは?

「ここ、何?」

「外の物(とのもの)」

「とのもの?」

 常夜灯のみの照明となった、うす暗い部屋の中に安置されている多数の長柄。穂先には、鞘が被せてある。

「御刀は神の骨、という説がある。御刀は、珠鋼を加工して刀にしたものではなく、始めから刀としてのみ存在していたのだと。しかし、その柄や鞘は後の世に人が拵えたものだ」

「うん、授業で習ったことある、けど」

「神の骨である御刀は人間がどうこう出来るものじゃない。だけど、御刀の柄の代わりに長柄を着けて長巻にしたり、長刀にしたりしたものもある。敗戦後GHQが御刀を狩り集めたのは知ってるだろ」

「うん」

「その時、GHQの目を逃れるために柄を付けて、槍や長刀の恰好をさせることがあった。奴らは珠鋼武装が全て刀であると思っていたみたいだからな。ここには旧軍が、再起を期してそうして秘匿した珠鋼武装が安置されている。言わば世を忍ぶ仮の姿。…特別刀剣類管理局の剣術使いは、槍や長刀などの長柄を兵法の常道より外れた、外の物と呼ぶそうだがな」

 野戦に置いては刀は基本、サブウェポンである。戦においては槍、弓が主武器であった。

 だがそれは平和の世に在って用いられるものではない。

 平時においては侍は、刀のみを頼りとする。

 槍を取ることがあるとするならそれは平和が乱されるときである。平和が侵されるときである。

 よって自ら槍を取る行いは、好もしいものではない。自ら平和を冒す行いとなるからである。

 このような理由で、剣士は長柄の武器を「外の物」と呼んで遠ざけるのである。

 侍が槍を取るとき。それは主上(しゅじょう)の戦に召されたときである。主の戦に参じるときである。

 しかるに、彼ら自衛隊の主であるところの国が、自ら進んで戦を命じることは今や無い。

 法の禁じるところである。あってはならぬことである。

 よってここにあるのはまさしく、国内にあってはならぬ外の物なのである。

「珠鋼の武器がこれだけあるんなら、あいつを倒せるんじゃないかな」

「一本だ」

「一本?」

「珠鋼の槍はこのなかに一本しかない。後はみんなダミーの鉄の槍だ。特別刀剣類管理局がここに来初めて、他所に移したからな。それがどれかは、校長にしか分からん。それにもし珠鋼の槍を手にしたとしても、槍が認めなければ威力を発揮できない」

「それでも…」

 言いかけた言葉は頭の中から吹き飛んだ。

 言ったとしても聞こえなかったろう。鉄で鉄を思い切り叩いた時のような、身も竦む音とともに鉄扉が隆起する。

 向こうで何かが扉を、硬いもので叩いているのだ。それも、一撃で丈夫な扉のカタチが変わる程の力で。

「くそ。逃がすつもりは無いか。隠れてろ」

 いつの間にか兄は、その手に銃を握っていた。士官の兄の携帯するのは機関拳銃と言われる小型マシンガンであるが、それが荒魂に有効ではないことは、知っている。

 再度、扉が鳴った。

 前の音とは違った。前は金属同士がぶつかる音だったが今度のは金属がねじ切れ、割れる音だ。

「こっちだ、デカブツ!」

 乾いた銃声が連鎖する。

 うす暗い室内を、マズルファイアが目まぐるしい陰影で彩る。

 それで荒魂が、兄に気付いた。

 それだけだった。何等かの痛手を受けているようにはまるで見えない。

(ダメだ。本当に、銃は効かない)

(なら…)

 荒魂が入ってきた。

 無茶苦茶に潰れ、力尽きた鉄扉が、ガランガランと床に落ちる。 

(ここにあるっていう珠鋼の武器なら――)

 だが、二桁では利かない数の槍の中のどれがそうなのか? 

 兄の話では本物は一本だけ。後はダミーなのだ。では、どれが?

(考えたって分かんないよ!)

(やるしかない!)

 兄は弾倉を捨てた。

 空になったのだ。

 次の弾倉を素早くセットする。

 荒魂は――兄へと歩いた。ゆっくりと、だ。どうもこの獲物には逃げる様子がないから、急がなくてもいいとでも思ったのだろう。

「逃げろ! 野々美逃げろ!」

「やああああああああ!」

 兄が喚いた。

 あたしは――

「はあっ…はあっ…は…」

 気づけば巨獣は居なくなって、足元の赤く光る泥濘は、床の隙間へと沁み消えていく。

「野々美…お前どうやって…」

「分からない。たまたま…」

 どうやって見分けたかなんて分からない。

 たまたまだ。運よく手に取ったのが数十分の一本の珠鋼の武器だった。それがたまたまあたしに力を貸してもいいって気まぐれに思ってくれた。だからたまたま荒魂を倒せた――

「…いいや違うな。10パーセントにも満たない偶然が続くものか。お前は槍に呼ばれたんだ」

「槍に、呼ばれた…」

「そうだ。選ばれし者を呼んだんだ。この天下三名槍の筆頭、日本号が」

 この旧軍学校跡地に秘匿されていたのは槍一本のみであり、珠鋼兵装として市ヶ谷に移送になったものもダミーであったと後になって聞いた。ここはたった一本の日本号を管理する為に維持されてきた施設だったのだとも、日本号が日の本第一槍と称された、折神家所有の天下五剣にも相当する名宝であることも。

 そして、襲ってきたあの荒魂が、特別刀剣類管理局が使役し差し向けたものであるであろうことも。

「これで明白となった。特別刀剣類管理局、いや警察庁は今や荒魂の手中。野々美、お前の持つ日本号だけが、人類に残された珠鋼の武器だ。今や、たった一条の――」

 野々美と共に唯一の事件の生き残りとなった兄はそれ以来自衛隊が独自に荒魂に対応可能となるべきだと提唱し、時の陸幕長、統幕長、防衛大臣、果ては総理に至るまで会って言葉を尽くした。荒魂も珠鋼も、決して警察庁に一任してはならない、と。

 関知せぬ、が黙認に変わったのは先の鎌倉特別危険物漏出問題が切っ掛けだった。

 この時特別刀剣類管理局には内紛が起き、荒魂に与した者たちを、人類側の刀使が駆逐したと云う。しかしそれ以後も、内紛は続いた。

 当時三尉に過ぎなかった兄は二尉になり、一尉になった。関東大災厄の折辞令が出て、新設の特別害獣駆逐隊司令に任じられ、待遇は佐官並みとなった。

 野々美は兄と一緒に走った。

 気づいたらここまで来ていた。この先何処まで行くのか――それはまだ分からないけど決めていることならある。

 この先も兄と共に走っていくこと。

 その為にも――

(山を降りろ、ここから先は、俺たち益子の者の仕事だ、って…)

(それじゃ分かんないよ。あたしバカだから全然分かんないよ)

(薫ちゃんは荒魂どうするつもりなの。薫ちゃんたちは今まで、荒魂をどうしてきたの?)

 ねえ。薫ちゃんは教官なんでしょ。

 だったら教えて。あたしに見せて。あたしたちはこれから荒魂と、どうやっていったらいいのか――

 

***

 

 降って湧いたわけではもちろんない。迅移で飛び込んできたのである。

(ついて来ていたのか!)

 特駆隊は全て退去したと思っていたのは誤りだった。

 野々美だけは、薫を追いかけてきていたのだ。

「邪魔すんのかよ!」

「そっちこそ邪魔しないで! あたしたちは薫ちゃんに、聞きたいことがあるの! …薫ちゃん!」

 何故、薫の味方をするのか。聞きたいこととは?

 分からない。

(日向野々美…あいつ…)

 しかし、これで余裕が出来た。

 ついにチャンスは訪れた。葬るべき時が来たのだ。

(タマ…)

 離れて布陣する相手に走り寄りて斬る。薬丸示現流においてはこの動作を習得するカリキュラムが正規に存在する。「打ち廻り」と称されるそれで、林立する敵兵に斬り込んでは、次々と斬り伏せて行く動作を繰り返し学ぶ。

 稽古嫌いの薫ですら、すらすらと繰り出せるようになるくらいに、先輩刀使に叩き込まれた技である。

(タマ…!)

 地を蹴った。

 迅移は使わなかった。

 出来れば逃げてくれ、そう思ったからだ。

 だがタマは逃げなかった。

 その場で球状に丸まる。確かに丈夫な外殻は、下手な鉄砲玉くらいなら凌ぐだろう。

(ダメなんだ、それじゃあ…)

 それでも弥々切丸は防げない。薫の斬撃は単純計算でも、小型の艦砲に匹敵する破壊力を持つ。しかも珠鋼の刀なのだ。とてもじゃないがそれでは防げない。確実に、タマはもとのノロへと還る。

(お前は丸いからタマだ)

 そう名付けたのは薫だった。

(ただのノロボールだって? ノロボールってなんだよw)

 放って置けばそのうち穢れを得られなくなり、もとのノロに戻るだろうと思っていた。

(人畜無害なちび荒魂を殺す必要なんてねえ)

(放って置けばいいんだ。互いのテリトリーを守ってれば俺たちは上手くやっていけるんだ)

 だからこいつを刺激しないでくれ、山頂に近づかないでくれ、そう思って薫は、特駆隊の精兵と対峙することまでしたのだ。薫たちが守るべき、同じ国に住む、同じ人々と。

「畜生…」

 食いしばった歯の奥から、そのセリフが漏れた。

 何度か、こんな気持ちになったことはある。

 それは多分、生まれた時からねねと共に在ったからだ。荒魂と共に在ったからだ。

 薫が荒魂を斬るたびに、ねねは悲しい目で薫を見た。

 そんな目で見られるのがいやだから、斬らずに済む荒魂は斬らないでおくようになった。しかし薫は斬らなくても、他の刀使が斬る。そうするとやはりねねが悲しそうにするから、なるべく薫が自分で斬るようになった。

 そんなことをしているうちに薫は稀代の討伐エースになった。

 誰も薫以上に荒魂のことを知らないから、荒魂が現れるたびに出張になる。特別刀剣類管理局一の働き者となってしまったのには相応の理由があった。

 ねねが嫌がるからだ。仲間であったものがノロに還っていくのを悲しむからだ。

 今までも必ずそうであったように、今もねねの視線を感じる。

「ちくしょう…」

「…おい!」

「薫ちゃん…!」

 呼吹と野々美のものであろう声が聞こえた。

 それで気づいた。

 斬っていない。蜻蛉に振りかぶった袈裟斬りは、まだ振りかぶられたままだ。

 意識に身体が付いて行ってなかった、のではない。従ったのだ。心の奥の本当の気持ちに身体が従ったのだ。

 ねねに悲しい顔をさせたくなかった。後で気まずくなりたくなかった。でもそうしてきた。

 今度もそうするのか。

 御免だった。

 もう沢山だったのだ。

「しっかりしろ薫! やられるぞ!」

 硬く丸まっていたタマが、結んだ拳を解くように、丸まっているのを緩めた。来るべき最期が何時まで経っても来ないから、不審に思いでもしたのだろうか。

 いや、違う。

 タマが模したと思われるダンゴムシの触角や無数の足。それらが全て、鋭利な刃物となって薫を狙いを定めていた。

 撓めたばね仕掛けが跳ねあがるように、それが一斉に放たれる――

(不味った)

 さっきも一度、足を吹っ飛ばされてる。もう一回やられたらもう写シは持たない。串刺しにされたまま写シが飛んだら後は推して知るべしだ。

 薫は瞑目した。他の誰でもない、躊躇った己が悪いのだ。この大きさになるまで穢れをため込んだらもう、後は死ぬまで人を殺し続ける、人血に飢えた鬼でしかない。そのくらいなことは分かっていたはずなのに…

「…?」

 しかし、来るべき最期が何時までも来ない。

 今度は薫が、硬く結んだ瞼を開く。

 そうすると、事態が把握できた。

 弥々の諸手が己を庇っている。その外殻がタマの無数の槍衾を阻んでいたのである。

(…ああ、そうか)

 ねね。お前にとっては同じだったな。

 荒魂の仲間を失うことも、俺という仲間を失うことも。

 同じ悲しいことなんだな…

「薫ちゃん!」

「ちいいいい!」

 そのタマの背部を、野々美と呼吹、二人の手に在る三つの珠鋼の刃が突き刺さる。

 

コオオオオオオオ、ン

 

 再びタマは吠えた。けどそれは、何か悲し気だった。

 多分、もう助からない。

 だが野々美と呼吹が突いたのは頑丈な外殻だ。深くはない。

 すぐに楽にさせてやれるのは、腹の側に居る薫であった。

「おおおおおお!」

 薫は雄叫びを上げた。

 それで何もかもを振り切った。

 弥々切丸の切っ先が、腹の側から背の外殻を突き破る。

 

キ、キ、キ…

 

 金物と金物がこすれ合う、かすかな音が暫く聞こえていた。

 だがすぐそれも聞こえなくなった。

 どっと崩れる。 

 大気中の水分が蒸気となって、白く気化した。高温のノロの仕業である。

 だがそれもじきに冷える。雲上へと昇っていくそれを、タマであったものの魂であるかのように、薫はただ天を仰ぎ、見送る。

 

***

 

「…ちっ」

 呼吹は舌打ちした。

 巨獣の姿であった弥々は、すっかり元の姿のちび毛玉に戻ってしまっている。

 結局これで、荒魂は一匹も居なくなってしまったのだから、険しい山を登ってきたのは全くの骨折り損となってしまった。

「…おい日向野々美とか言ったな。そいつはなんだ。槍のカタチの珠鋼刀剣なんざ聞いたこともねえぞ」

 不機嫌もここに極まった呼吹は、うろんな目を野々美とその槍に向ける。

「日本号は、陸自が管理してた御槍の一本なの。色々事情があって…特別刀剣に登録されてないみたい」

「うえっ。未登録刀剣なのかよ、めんどくせえ。どっかにしまっとけ、見なかったことにするぜ俺は」

「見逃して…くれるの?」

「関わり合いになりたくないだけだ、勘違いすんな」

「ありがとう! 二刀流の刀使ちゃん!」

「ぐっ…」

 まぶしすぎる満面の笑顔から逃れた呼吹は、地に突き立った二振りの小太刀を引き抜き鞘に納めると、薫に歩み寄る。

「…」

 薫は、呼吹が近づくのにも気づかぬようだった。

 いや気づかぬのではなく、関心を持たぬようであった。

 呼吹がその気なら、何時でも腰の二刀をどてっ腹に差せたであろう。

 そうなっても構わない、そんな風にも思えた。

「…荒魂を殺り続けてりゃ、何時かは歯が立たねえほど強い荒魂に出会う。きっとそいつがアタシらを、あいつらが待ってるあっち側に送ってくれる」

 呼吹の声は、ことさらに低い。

 その右手が、薫の左肩を、強く掴む。

 その手に噛みついてやろうかと毛を逆立てるねねを、薫は手で制する。

「それでいいのか、お前は」

 どこか上の空のように、薫はそう問う。

「いいに決まってるだろ。アタシは荒魂を殺す。荒魂はアタシを殺す。それでいい。それがいいんだ」

 不思議な問答であった。

 呼吹と薫の会話のようでありながら、己の中の誰かに言い聞かせているような、会話であった。薫を励ましているようで、呼吹が自身を励ましているようにも思われた。

「アタシはな。荒魂に命を預けてる。けどどういうわけか好きにしていい預けた命をあいつらは後生大事にまた返してくれるんだ。アタシがまだ生きているのは、そんだけの理由なんだ」

「イカれてやがる」

 一方薫も、答えはしたものの呼吹を見ようとすらしておらず、心は未だここに在らずのように見える。

「今にお前にだって来るべき時が来る。そしたら、今あっちに逝った、あいつにも会える。またあいつに会いたきゃあ、狩り続ければいい。そうすりゃ何時かあいつの仲間が、あいつの仇のアタシらをあの世に送ってくれる。あいつの元にアタシらを送ってくれる」

「ついてけねえな、お前には」

「愛のカタチは人それぞれってことさ。荒魂に名前を付けて、そいつが死んだら涙を流すなんてイカれてる。けど、アタシがアリならお前のようなのもまあ、アリなんだろ、きっとな」

 そう言って掴んだ右手を離し、それからその手で薫の左肩を二度、ぽんぽんと叩いた。

「…ねねはさ」

「ん?」

 誰にともなく、薫は語り始める。

「ねねは、荒魂なのに穢れが無いんだ」

「ああ」

 呼吹を見もしていない、独りごとのような薫の言葉に、呼吹は相槌を打つ。

「ヒトが大好きでとりわけビックバストが好きすぎる困った奴だが、ヒトとは上手くやっている。とりわけ、俺とはもう長い付き合いさ」

「ああ」

「ねねみたいな奴が居るからさ。ひょっとしたら、他にも居るかもって…こいつこそは、今度こそはそうかもしれねえって…」

「…ああ」

 タマであったものは、荒魂の常として、その残滓を地のノロとして残すのみであった。

 タマであったものの魂は遥か高空へと溶け失せ、今や人知の及ぶ処ではない。

 さっきまで確かにタマが存在していたそこに立ち尽くし、七之里呼吹は地に残るその成れの果てに目を落としていた。

 益子薫は、それとは逆の天空に、未だその姿を探すようであった。

「なあ、益子」

「ん?」

「お前ホント、荒魂が好きなんだな」

「…かもしれねえな」

「俺と同じだ」

「――いや、違うだろ」

「んだよ。同じだって言う流れだろ?」

「違うね」

「畜生、やっぱいけすけねーなてめーは」

「そうか。けど俺はお前を見直すことにしたよ」

「ああ?」

「元気づけてくれてんだろ。意外と優しいところあんだなお前」

「んなんじゃねーって」

「お前たあ了見は合わねーが、認めてやるよ。お前と俺は変わり者、似たもの同士だ、ってところはな」

「似たモノ同志か」

「ああ。似た者同士だ」

「…ふ。まあ、確かに変わり種ってところは互いに、認めざるを得ねえとこだろうなな」

 特駆隊保有の外の物、御槍と同じく、彼らもまた特祭隊中の異物であった。彼らもまた御槍と同じく外の物、と言うことも出来るのかもしれなかった。

「…ふ」

「…ふふん」

 なお名残を惜しみ、益子薫は天空を仰ぐ。

 空は果てなく青かった。

 杉林を歩んでいたときには、恋しいとすら思った青空であった。

(仕方ねえな)

(お前の分も、このアタシが言ってやるよ。あの荒魂ちゃんに聞こえるように)

 そうと見た七之里呼吹は、その隣で、薫の仰ぐ天空に向かって薫に代わって諸手を広げて呼ばわる。

「アイシテルぜ!」

 どんな愛も言葉にしなければ伝わらないと誰かが言った。

 天に上った荒魂の魂には、聞こえたであろうか。

「アイシテルぜ! アイシテルぜ荒魂ちゃん!」

 北関東の山々の残響のみが、それに応えた。

 

***

 

 薫と呼吹と陸美とねねの4名が連れ立って下山した時――いや正確には途中で、呼吹を追いかけていた第二分隊の人たちと一緒になった為6名になっていたが――麓はえらいことになっていた。

「薫ちゃん!」

「七之里呼吹!」

「…何で皆居るんだよ」

 衛藤可奈美ら「次代の英雄」たちに、木寅ミルヤ以下、調査隊の面々。旧舞草の先輩後輩たち。あちこちの遠征任務で面倒を見た奴らも居る。ざっと見ても三十を超える人数が、小銃を携えた――流石に構えてはいないが――完全武装の自衛官、凡そ百名以上と睨み合いの真っ最中であったのだ。

「何でって…薫ちゃんが撃たれたって…」

「やれやれ大げさだな。御覧の通り俺は無事だ。演習なんだからそりゃあ撃たれもするさ」

「撃たれる、ってどういう演習だったの!? 荒魂との戦いの演習じゃないの!?」

「俺らはアグレッサー、教官さまだぜ。レクチャーの内容は俺らが決めるんだ。なあ、七之里」

「呼吹でいいぜ」

「そっか。なら俺のことも薫で頼むわ、呼吹教官」

「おう」

 何時の間に呼吹が教官となったのか。ということに引っかかったのはミルヤあたりくらいのものであった。他の大体は、「どうしてこの二人が仲いい感じなんだ」というところに目を見張る。

「ご歓談の途中悪いが、質疑にお答え願いたい」

 薫も、薫に駆け寄った可奈美ら刀使たちも、この一声に凍り付く。

(出たな、ラスボス)

 日向士郎司令の傍らには、一歩下がって、古波蔵エレンの姿が認められた。

(薫…)

(エレン…)

 二人は目と目を見交わす。

 エレンの尽力がなければ、とっくの昔に「訓練中の事故」が起きていたかもしれない。その骨折りを無駄にするわけにはいかない。もちろんこの場で特祭隊VS特駆隊の大乱闘など誰もが望むところでないのは明白で、それは回避したいところであった。

「…あー、聞きたいことは大体分かる。訓練についちゃあ、やり過ぎた。すまねえと思ってる。あんたの妹には山を降りろって言ったんだがな。だが結果的に助けられた。お陰で無事に荒魂を討伐出来た。礼を言わせてくれ」

「我が隊への攻撃は訓練であったと」

「そうだ、と言ったら信じるか」

「益子教官が荒魂と共に山中に逃亡した、という複数の証言がある」

「だよなあ。俺の本音としてはまあ、誤解を恐れずに言えばあんたたちから荒魂を守っていた、んだ」

 日向司令の目が細り、逆にその横の古波蔵エレンが目を剥く。

 特駆隊の兵士たちが殺気立つ。

 何言ってんだこいつ、と周囲の刀使の仲間たちの視線が、薫に集中する。

 織り込み済みの反応だった。

(こいつにトンチの類は通じねえ。本音で語るしか方法はねえ)

 薫は、賭けに出ていた。

「あんたたちを荒魂から遠ざけて置きたかったのさ。もしあんたら特駆隊が戦ったなら万が一、怪我人が出かねねえ。俺が単独で処理したかったんだ」

「…日向二等陸士」

「はひっ!」

 日向司令は矛先を変えた。同僚の槍者たちに取り囲まれていた日向野々美は、その声にはたかれでもしたのかというほどに、びしりと背筋を伸ばす。

「お前は益子教官に同行していたようだが、事実か」

 後ろから「頑張れ班長」「おちつけ班長」「しっかり班長」などと同僚たちが小声で声援を送るのが、刀使たちの方まで聞こえた。多分日向司令にも聞こえているだろう。

 野々美は兄である司令を見、次に刀使たちとその真ん中の薫と呼吹を見、それから司令へと向き直った。

「私は、益子教官に同道してたのではありません!」

「同道していたのではない?」

「はいっ! 私はただ同行していたのではなく、継続して、益子教官から訓練を受けていました!」

「訓練」

「はい!」

 陸美の言は、先刻の「訓練をしていた」という薫の言を裏付けるものである。

(あいつ…)

 薫にとっては思わぬ助け船である。

 これで特祭隊側と特駆隊側の証言が一致したわけだが、「それならいい」とは日向司令は言わなかった。

「撤退命令に従わなかった理由は」

「へっ」

「演習本部は訓練区域より退去を命じたハズだ。何故それに従わなかった」

「そっそれは…」

 日向野々美は明らかにキョドった。それを聞かれるとは思わなかった、といったところだろう。

「訓練中は、演習本部の指示に従うのが原則だ。無視したのは何故だ」

 実際には、日向司令は接近してくる刀使の集団を警戒して戦力を呼び戻したのであるが、刀使たちの前でそれを語るつもりはなかった。

「…それは…どうしても、聞きたいことがあって」

「聞きたいこととは、どのようなことか」

「…それは、自分でも、何をどう聞きたかったのかもよく分かっていなくて…でも荒魂に止めを刺したのは薫ちゃんです! 本当です!」

 日向司令は嘆息し、薫へと向き直る。

 どうやら妹からはもう有効な情報は聞き出せないと判断したようである。

「荒魂は著しく小型であったと聞く。教官の技量なら見つけ次第即座に対応が可能だったのではないか」

「あー、それなんだが、俺流の荒魂の対応には段階があってな。まだ穢れを喰らってねえチビ助は、わざわざ斬らねえのさ」

「何故だ。小型であってもいずれは穢れを貯め込み、大型化して人を襲うだろう」 

「そのまま誰も接触しなければ、貯まった穢れを食い尽くしてノロに戻っちまう可能性がある」

「その可能性は100%ではない。一片の危険があれば駆除を行うのが安全と考える。事実荒魂は大型化していた」

「それなら熊も猪も野犬も、人に噛みつくのは何でも根絶やしにしなきゃダメだろうが」

「野生動物と荒魂は同列ではあるまい」

「同列じゃあねえかも知れねえ。だが荒魂ってえ代物は俺のお袋のそのまたお袋の…そのまたまたお袋のお袋の、それこそずっとずっとご先祖様の世代まで俺たちと一緒にこの国に在ったもんだ。もうこれはこの国の一部じゃあねえのか。あんたら国を守るのが仕事なら、ちょっとは考えてくれよ」

「我らが第一とするのは国家ではない。国民の安寧だ」

「それでいいよ。けどねねみたいな変わり種の荒魂が、中には居るかもしれねえ。昨日の敵は今日の友って可能性はゼロにはならねえんだ、ここに俺とねねが居る限り」

「――」

「だから考えてくれ。決して自分からは引き金を引かねえ、殺すためでなく守る為にある、それがあんたたち、自衛隊なんだろ」

「…」

「…」

 薫は言葉を切って、無言で日向司令を見ていた。

 日向司令もまた、薫を見ていた。

「…荒魂が敵であるのか、味方であるのか、それを決するのは我らの役割ではない」

 そうと発するまで、日向司令は暫くを要した。

「特祭隊が荒魂の味方であるのか、人類の敵であるのか、それが国民――と言って語弊があるなら国民の代表たる政治家たちの目に分明でない故に、我が隊が生み出され、ここに在る」

「…」

「心することだ。今やこの国は、貴君ら特別祭祀機動隊を、必ずしも味方とは思っていない」

「特祭隊が人類の敵だったことは一度もねえ。刀使が人類の敵だったことは一度もねえ」

「では、この場でそのねねを私が撃つとしたなら?」

「なにい?」

「この場でお前の友の荒魂を、私が撃つとしたならどうする」

 日向司令のすぐ横にはエレンが居た。

 帯刀しているのは御刀だ。それをやればタダでは済まない。

 だが日向司令は、抜いた。

 ゆっくりと、ゆっくりと銃口が上がり、薫の肩のねねへと狙いを定める。

 エレンの顔が強張る。

 だがそれだけだ。何も出来なかった。

 あとは引き金を引くだけだ。

「ねね!」

「ねねちゃん!」

 刀使たちが一斉に動いた。

 衛藤可奈美が、十条姫和が、柳瀬舞衣も糸見沙耶香も。

 安桜美炎ら調査隊の刀使たちも。

 特祭隊を代表する刀使たちが日向司令の前に立ち塞がる。

 誰一人も、御刀を抜いた者は居なかった。

 写シは当然張れない。日向司令の拳銃が火を噴けば、確実に一人は斃れる。それが己かも知れないのだが、意に介する者は誰も居ない。

 わが命よりも優先するモノが、存在するのだ。

 そのようなモノを懐いている者たちがこの場に在る者たちであった。

「…」

 そうと見た日向司令が、拳銃の撃鉄を起こす。

 ダブルアクションオートの新鋭拳銃だ。そのようなことをする必要はない。引き金を引けば弾は出る。わざわざそうしたのは威嚇だ。今撃つぞ、すぐ撃つぞという威嚇だ。

 刀使たちが御刀に手を掛ける。今にも鯉口を切ろうとする時であった。

「止めとけ」

 薫のぼそりと言ったセリフは、その場の全員に聞こえた。

「そいつは自衛隊だ。絶対にてめーから引き金は引かねえ」

「――」 

 薫の言葉を何と聞いたか。

 日向司令は、静かに起こした撃鉄を降ろす。

「…状況終了。撤収する」

「…は」

「聞こえなかったのか。撤収だ」

「は! 了解! 全隊撤収! 撤収だ!」

 控えていた部下たちが慌ただしく踵を返し、それにより刀使たちもあわや乱闘の窮地が去ったことを知る。

 安堵が流れた。

 関東大災厄を共に戦った自衛隊と戦うなど、望む者は誰一人居ない。薫が無事に戻るなら、それでよかったのだ。

「益子薫。それに…古波蔵エレンと言ったな」

「…」

「我らの任は二つある。一つは荒魂の駆逐。今一つは来たるべき、再度の特祭隊造反に備えることだ。今の我らには力が足りん。だが何れは足りぬものを得よう。憶えて置くがいい」

「もう一度言う。特祭隊が人間に造反したことは今まで一度も無え」

「今までもこれからも、荒魂を鎮め人々を守っていくデス」

「その言葉、努々忘るな(ゆめわするな)。…さらばだ」

 部下たちに続き、日向司令もその踵を返す。一度背を向けたなら、二度と振り向くことは無かった。

「エレン」

「薫、無事で良かっタ」

 日向司令の背を見送る薫の元に、まるで恋人のようにエレンが走り寄る。

「世話になった」

「怪我は…どこか、痛いトコロは…」

「心配すんな、大丈夫だ」

 特別害獣駆逐隊。現在の主要な装備は陸自普通科にほぼ準じるものに過ぎず、荒魂に有効な兵装はたった十二本ほどの、御槍と称する玉鋼兵装を持つのみである。現下、荒魂への対応能力においても、もし直接に戦うこととなったとしても、伍箇伝は圧倒的に優位にある。

 とはいえ、自分たちの事を潜在的な脅威とみなし、それに備える組織が、国民の支持を受けて発足したことはやはり衝撃を産もう。この後、伍箇伝が信頼を再び失うようなことがあれば、彼我の勢力は逆転するだろう。

「…帰りまショウ。きっと皆、心配してマス」

「ああ」

 既に日向司令の背中は見えぬ。

 二人も、刀使たちの元へと戻ろうと振り向いた時だった。

「益子教官!」

 薫を呼び止めた者が居る。

(あれは…)

 既に長い一日は過ぎ去り、茜に染まりつつある山の麓で、深々と頭を下げているのは日向野々美だった。

「ありがとう、ございました…!」

 自衛隊式の挙手礼ではない。

 武門の礼であった。

 刀使たちにも、通じる礼である。

(でっけえ声だな、やっぱ)

 薫は苦笑した。

 何か声をかけてやろうと思ったが、ここからでは結構な大声を出さねばならずおっくうだ。

 代わりに薫は、手を振ってやった。

 照れくさいから、背中越しにだ。

「何をしている。行くぞ」

「うん、兄さん」

 そうと見て野々美は満足だった。

 ちゃんとお礼は伝わったみたいだったから。

 一匹の荒魂が天に召されたあの時、少し離れたところで野々美は、薫と呼吹の背中を見ていた。

 この二人の背中を、あの山頂の光景を、多分一生忘れないんだろう。

 野々美は、そう思った。

 漁師が海を愛するるように。木こりが山を愛するように。あるいは兵士が、戦場を愛するように。

(荒魂なんて、ただ怖いだけだった)

(一匹残らずこの世から居なくなればいいのにって思ってた)

 けど益子薫も、七之里呼吹も違った。荒魂を愛している、に語弊があるなら、荒魂の存在するこの世界を愛している、と言おう。

(七之里さんみたいに、荒魂にだったら殺されてもいいなんてとてもじゃないけど思えない)

(ましてや、あたしにはねねちゃんみたいな荒魂の友達は居ないから、薫ちゃんみたいな気持ちにもなれない)

 だから、もし次に荒魂と戦う時には、薫ちゃん達のことを思い出すよ。

 荒魂に命を差し出すあなたの事。荒魂の死に涙するあなたの事を。

(今度荒魂と戦う時には――)

 きっと今日の事を思い出す。

 あの二人のあの背中を思い出す。

(次の時も、その次の時にも)

 忘れない。

 絶対に。




一旦休題。次回に続きます。


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馘御用 その1

お久しぶりです。臣です。また戻ってまいりました。

また刀使ノ巫女IFストーリーをお届けします。時間軸はアニメ版に準じているので、夜見や結芽は亡くなっている前提になっていますのでご注意!



「我が国はかつて二度、剣の時代を経験しました」

 

 伍箇伝合同新学期始業式。

 演壇に立った折神家当主代行、折神朱音(おりがみ・あかね)の訓示劈頭第一声は、上のようなものであった。

 

「一度目は戦国末期より江戸初期に至る、剣豪と云われた者たちが数多輩出された時代。塚原卜伝、宮本武蔵、柳生一門などが生きた時が、我が国が最初に経験した剣の時代です。二度目は幕末維新。坂本龍馬や新選組などが闊歩した時代。人々は身を立てるため、志を成す為手に剣を取り、その技を磨きました。剣が国を回した時代は、確かに存在したのです」

 

 現代の軍隊に、剣技の訓練はない。

 現代戦が、剣やその技術によって戦われないからだ。

 所謂特殊部隊においてはナイフや格闘のカリキュラムが存在するが、彼らが出向くのは紛争レベルの限定的な不正規戦であり、規模の大きな正規戦ではない。剣を携える者は個人レベルで居るかもしれないが、基本、剣を携行するキャパがあるならば小銃を携えるだろう。

 本格的な正規戦は正規軍の要する銃砲、戦闘車両や艦船、航空機によって戦われる。もちろんこれらは、刀剣でどうこできるものではない。軍はこれらを保有し、兵にはこのような現用兵器への習熟が求められ、訓練される。

 現代戦は高度に電子化された兵器で戦われ、剣が戦争に求められた時代は過去のものである――

 この前提が完膚無きまでに覆ったのが、先の鎌倉特別危険物漏出問題に端を発する一連の事件であった。

 関東大災厄――俗称するところの年の瀬の災厄。相模湾大災厄をも上回る、関東どころか人類規模の大破壊となる危険があったこの事件で自衛隊の出動は当然あったが、厚木の高射砲大隊による威力偵察のみに留まり、とどのつまり、何の役にも立たなかった。

 核戦争レベルの危機に対応したのは防衛省ではなかった。相模湾大災厄の折と同じく警視庁の一部局、刀剣類管理局の擁する特別祭祀機動隊であった。

 首謀者であるタギツヒメは自衛隊の所持する兵器では効果を得られない荒魂である上、自らも御刀を高い技量で使用し、特祭隊の刀使を寄せ付けなかった。撃退したのは、これも究めて高い技量で御刀を使用した特祭隊隊員によってであった。

 核戦争レベルの事態が剣技によって決着し、地球は剣技によって守られたのである。

 もしタギツヒメに等しい、御刀によって武装した大荒魂が再び現れた場合、自衛隊に対応能力はない。これば米軍であろうと同じであろう。

 御刀を大荒魂に勝る技量で使用し得る、刀使のみが人類を救い得る。

 一連の事件はこの事実を人類に突き付けたのである。

 実は当の特殊刀剣類管理局においても、意識改革は同様に求められていた。

 彼ら実働部隊たる特別祭祀機動隊の本業は御刀を用いて荒魂を退治することで、早い話が害獣駆除であった。爪や牙、或いはその巨体は危険であったではあるものの、武装していることはなかったし、迅移や金剛力を使ってくることもなかった。

 それに対抗する刀使は剣を練ったが、それは御刀を正しく荒魂に用いる為であり、本来の目的である敵兵との斬り合いを制して勝つ為には行われていなかった。ようするに刀使は、本邦古来の対人剣術を応用して、荒魂を倒してきたのである。

 このような害獣駆除であるところの荒魂退治を本領とした刀使は、御刀で武装したタギツヒメのような大荒魂に対して有効に戦えなかった。最終的にタギツヒメ討伐を成功に導いたのは、荒魂退治はそっちのけで剣対剣技に邁進して来た、特祭隊としては本流ではない刀使であったのである。

 この戦いでエースと目された衛藤可奈美(えとう・かなみ)の荒魂討伐数は中の上と平凡なもので、同行した益子薫(ましこ・かおる)には及ばない。しかし一連の戦闘で柳瀬舞衣(やなせ・まい)は可奈美と、大荒魂鎮めの秘剣を有した十条姫和(じゅうじょう・ひより)を中核とした突入作戦を立案し、討伐エースのはずの益子薫は一から十まで支援に徹していた。

 これは特祭隊としても画期的な作戦であり、後に至るも評価が高い。荒魂討伐の実績よりも、剣対剣の技量を中核とした点が、である。そしてこれは、後の特祭隊の方針ともなっていくのである。

 

「火器の隆盛により剣の時代は二度終わりを経て――三度目の始まりを告げようとしています。それも、火器が通じず、御刀によってのみ倒すことが出来る荒魂の大襲来によって」

 

 大荒魂、タギツヒメを幽世の彼方に退けて尚、人類の危機が去ったとは言い難い状況が続いていた。

 

「刀使の心は荒魂狩りに在り。今まではそうでした。剣対剣訓練は、クラブ活動のレベルでしか行われてはいませんでした。今までは、です」

 

 幽世と現世のかつてない接近はノロの活性化を呼び、荒魂発生を続発させ、収束の気配は見えなかった。この上の事態悪化は防げたものの、史上最悪の月間荒魂事件発生件数を今なお更新し続けている。

 

「しかし、禍神(まがかみ)との戦を経験した我々は、過去の認識は改めなければなりません。御刀を手にし神性を取り戻した荒魂は、既知の荒魂に非ず、刀使の技を持って人に仇為す荒神にあられます。畏れ多くもこれを払うには、鹿島刀剣大明神の業前を身に付けねば務まりません。究めねば人々は守れないのです。究めねばこの国は、この世界は守れないのです」

 

 折神朱音は、我が右掌と左掌を、胸へと合わせる。

 

「今やあなた方の、その腰間の一振りの重みがこそが、人類の重みなのです。己の命よりも重いかもしれぬものが、鞘の内に納められていると知らねばならぬときが来たのです――」

 

***

 

 折神家当主訓示は専用回線によって伍箇伝各校の講堂のスクリーンに中継される。各校生徒はそれぞれの校舎でそれぞれの思いを持って、朱音の言葉を聞いたであろう。

 演壇から降りた朱音を、舞台の袖に出迎える者があった。

「良い草稿だった」

「姉さん!? お怪我は!?」

「思いの他経過が良くてな。医師に頼んで出してもらった。お前が考えたのか?」

「皆で考えたに決まっていますよ、紫姉さん」

 折神紫と、折神朱音。

 折神家姉妹の顔立ちはよく似ている。

 それだけに、何れが姉で何れが妹であるのか、見分けることは至難である。折神紫の肉体年齢は17歳で停止しているのだから、なおの事であった。

 しかしこれは言えるであろう。

 鋭の紫に対し、朱音は柔である。

 二天一流の業前により、刀使たちの手綱を実力で握った紫の真似はそもそも、刀使としては引退して久しい朱音には不可能であったし朱音の好むところでもなかった。

 御刀に代わる朱音の得物は、言葉であった。他に取り得る武器は、折神家に生まれただけのただの女と成り果てた朱音には、他に何もなかった。

 その唯一の得物を、朱音は研いできた。

 別条鍛錬を積んだであるとか、そのようなことではない。誰よりも特祭隊や刀使たちの取り巻く状況を考え、伍箇伝創立以来の長い間心を砕いて来たから、それが言葉となって出る。

 今の朱音の得物は、いわば伍箇伝五校に散った仲間たちへの、引いてはその教え子たる刀使たちへの愛そのものである。

「私だってまだまだ三十を出たばかりの若造ですもの、分からないことだらけです。でも迷ったときは、伍箇伝の皆がいつも、道を示してくれる。だからなんとかやっていけてます」

 このようなことを言う折神朱音の武器は愛であるとして、何の過言があろうか。

「苦労をかけた。その苦労に報いることも、まだ出来ん」

「あんな大けがからこうして立ち直っているのですもの、それが何よりの報いです」

「…いずれ借りは返す。何等かの形で」

「いいって言っているのに…ああ、そうだわ」

「ん? 何だ」

「思いつきました、たった今」

「言ってみろ。させてもらおう、この姉に出来ることならば」

「…タギツヒメ討伐作戦の折、真希さんと寿々花さんが、高津学長を保護して下さったでしょう」

「ああ。しかし皐月夜見の救出は叶わなかったが、雪菜だけでも連れ戻せたのは幸いだった」

「事件後、高津学長からの押収品の中に、それはもうたくさんありましたの」

 にっこり、と朱音が微笑む。 

「たくさん? 何がだ?」

「それは見てのお楽しみですわ」

 いやにっこりではない。にんまり、だ。

 ニッカリ、でも良いかもしれない。

 妙に愉快そうな妹に、紫の柳眉が微痙攣する。そういえば、子供のころの朱音は悪戯をさせれば相楽結月(そうらく・ゆづき)も真っ青の腕白だった。鬼の結月、悪魔の朱音と密かに思っていた若かりし日を思い出す。どうして今まで忘れていたのか。ひょっとして私はまた、過ちを犯してしまったのではないのか…

 

***

 

 思い出すだに、衛藤可奈美は胸ときめく。

 古今の剣を見聞、実践することを喜びとし、青春のわりとかなりの部分をそれに割いて来た可奈美を驚かせる、それほどまでの奇剣であったのだ。

 数刻前の話である。

 自失でシャワーを浴びてさっぱりした後、実家から送ってもらったお気に入りのでっかいタオルケットで水気を拭いつつ、先刻の立合いを可奈美は振り返る。

 対敵となった七之里呼吹の用いた立ち方からが先ず、尋常ではない。新陰流にも直立――すぐだち、と読む――のような画期的な構えはないこともないが、呼吹の構えと来たら、右足も左足も前に出てないし後ろにも出ていない。

 これがどう奇なのかというと、剣道であれフェンシングであれボクシングであれ、大抵はどちらかの足が前に出ているものなのだ。

 これは摺り足を用いるためにそうなっている。右左右左の歩み足は、武道の世界のみならず、ガンシューティングの世界になっても戦闘には用いられない。敵を眼前にした兵士は摺り足で移動するもので、大抵初心者が道場に行ったら、先ずこの摺り足を嫌というほど練習させられるのだ。

 稽古大好きな可奈美に、嫌な稽古を上げろと言われればランキング上位にこれがくる。

(だって、御刀振れないんだもん)

 それはさておき、呼吹のような立ち方が、武術の世界に無いわけではない。

 空手においてはナイハンチ立ちや鉄騎立ちがそうである。中国武術においては馬歩立ちがそうである。

 しかしその何れもが、鍛錬として用いられこそすれ、好んで戦闘に用いられることはない。両足を揃えて立ったら前からの衝撃で簡単によろけてしまい、そうなったら斬られる他ないからだ。

 しかし呼吹は、そう構えたのである。

 下半身はそんな感じで、上半身はこれまた、諸手にそれぞれ小太刀をだらりと携えた異形の構えであった。

 折神紫(おりがみ・ゆかり)の修めた二天一流をはじめ、新免二刀流や心形刀流など、左右諸手に二刀を用いる流派は在るが、大抵は大小を用いるものであり、両手に小太刀ということはない。

(いったいこの構えから、どういう風に…)

 どうやって攻めて来るのか、などと、正眼で待ち構えていたのが今思えば間違いだった。

 これは可奈美的には仕方のないことで、そもそも可奈美は勝つために剣を握っているのではない。

 剣を見てみたいのだ。技を見てみたいのだ。

 でも己の剣が凡庸では、相手も本気になってくれないから技を磨いてきた。磨いていくと不思議に、一度戦ったことのある相手でも、見せてくれなかった技を見せてくれるようになる。そうすることが嬉しいから、もっともっととせがむように鍛錬を重ねた。

 この気持ちは、恋に似ている。

 相手の事をもっと知りたいとか、分かり合えて嬉しいとか、それって風の噂に聞く例のナニと同じものなのだから似ているのだ。男子とする方のそれは未経験だったがきっとこんな感じに違いない。

 そんな可奈美だったから、一先ず呼吹の様子を見たのだ、どのように攻めかかってくるのかと――

 それが誤りだった、というのは非常に躱しづらい攻めが来て、それが次から次へと繰り出されてきたからである。

 呼吹が駒の如くに回転した。

 といっても実際にその場でくるくる回ったわけではない。身体を中心を軸に右に半弧を描いたのだと思う。そうなると横の身体が縦になって肩の方が前に来る。肩の先には右腕があり、右手の先は、琉球王朝の至宝北谷菜切の切っ先だ。

 それが呼吹の踏み込みであった。

(うわ!)

 正面の相手に、横から突かれた。

 初見の相手だから驚かされることもあるだろうと心構えはしていたが、それにしたって驚いた。

 おかげで可奈美がしたことと言ったら、後ろに下がって間合いを開けるという、平々凡々な回避であった。

 当然呼吹は追った。今度は左に半弧を描いた。前と違うのは、前が身体の中心線を軸とした半弧だったのに対し、踏み込んだ右足を軸としたことだ。

 今度は左の二王清綱が前に来た。しかも前と比べ踏み込みが、身体の半径に対し直径となっている。倍以上に深い。これにもさらに、可奈美は面食らった。

 可奈美は再度下がったが、当然ながら間合いはさらに詰まって、完全に小太刀の間合いになっていた。後は推して知るべし――

 可奈美の観の目(かんのめ)は、この年代の刀使として比類ないものだ。

 観の目とはここではおおざっぱに言うと相手の動作となる前の予備動作を察知する目付のことで、よく「何故動かん」などと時代劇の剣豪対決で耳にするのは両者がこれを駆使しているからだ。瞬きも呼吸も傍には見えないが攻防の予兆であり、可奈美はこれを得意とするが故に、先に攻撃されてもどんどん先回りして躱していくことが出来る。

 そして相手の技が尽きたところを打って倒すのが、傍目には危なっかしい可奈美の勝ち方である。

 だけど相手だって熟練の刀使だ。読みが外れることもある。そんな時の脆さは多分母親譲りなのだと可奈美は思う。史上最強と知る人ぞ知る可奈美の母も、時折脆くも負けることがあったというから。

(まだまだだなあ)

(その後の薫ちゃんも、ヤバかったし…)

 あんな長物を小枝のように振り回されたらもう剣技も観の目も何もない。

 絶対刀を振りかぶって斬り下ろす為でない、それこそ指先を動かすくらいの予備動作で、10キロを超える鉄塊がぶっとんでくる。

 予測が出来ないから反射神経だけで躱す。ほとんど弾幕シューティングの世界だ。迅移で懐に飛び込もうと思ったら薫も迅移で逃げるから追いつけない。ずっと一方的な攻撃を浴びながらやっと掻い潜って一太刀を入れた時にはこっちも疲労して写シが剥がれてしまう始末だった。

(いつもはドッカンドッカンぶん回す操刀だったのに、あんな緻密なやり方もあるなんて。流石は先輩刀使だなあ)

(一体何段階の八幡力なんだろう、あれ…)

 世界は広い。

 思い知らされた。可奈美の知ってる剣なんてまだまだほんのちょっぴりなのだ。けどそれは、この先まだまだ、知りたいこと、知って嬉しいことがたくさんあるということでもある。

「よーし、頑張ろう。もっかい道場行こう」

 お風呂にゃもっかい入ればいいや。

 大道場には誰か居るだろうか。

 稽古の虫の舞衣や沙耶香が追い稽古してるかも知れないし、昼間警備だったコたちが夜稽古してるかも知れない。

 どうだろう、明かりは点いているだろうかと様子見に普段開けない方のスモークのサッシをがらり、と開いた、可奈美の目の前に紫様が居た。

「…へ?」

「衛藤可奈美。ここは君の部屋か」

 もう一度記すると、窓を開けたら目の前に紫様が居た。

 どの紫様でもありはしない、刀剣類管理局局長で折神家当主、刀使の棟梁の折神紫(おりがみ・ゆかり)様である。

 常通りの厳しいお顔に常通りの重々しいお声で、紫様はこう仰った。

「丁度いい。君に頼みが…」

 声はそこまでで途切れた。

 何故なら可奈美ががらぴしゃと、サッシを閉じてしまったからだ。

「何で!? 何で紫様が…」

 私の部屋のベランダに? ここって確か三階だよね!

(え? なに? 夢? 私今寝てるの?)

 ちなみに衛藤可奈美、先般のタギツヒメとの決戦より以前は夢の中で、とうに亡くなった生母の衛藤美奈都(えとう・みなと)とチャンバラしていたわけで、あながち有り得ない訳ではないのである。

「いてて。うん寝てないよね。なーんだ。だったら…」

 つねったほっぺたは痛かったから夢じゃない。

 だったら多分何かの間違いだ。うん誰にでも間違いはあるよ。人間なんだから間違うことだってある、私だって間違う、テストなんてかなりしょっちゅう間違う、だって私人間だもん。刀使怪獣オカタナザウルスじゃないもん――

 己の人間としての誇りと尊厳をかけて、可奈美はもう一度、窓を開く。自分ちの部屋の窓を開けるのに何でそんなもの賭けるハメになっているのか分からないが――

「衛藤可奈美。繰り返すが君を見込んで頼みが――」

「うぎゃあああ!」

 オカタナザウルスは鳴き声を上げた。

 やっぱり間違いなく居たからだ。

「ホンモノホンモノホンモノ!」

「待て落ち着け。驚くのは分かるが冷静になれ。訳なら話す。これにはあまり深くはないながら一応の訳がある――」

 可奈美は窓を閉めようとする、そうはさせじと紫様ががっきと窓枠を掴む。

 力対力、筋力対筋力、パワーVSパワー… 

「はあ、はあ、ぜえ、ぜえ」

「少々の間ここに匿ってくれ、故あって私は今、追われる身なのだ」

 数分後、紫様は無事可奈美の部屋の中央に鎮座為された。

(全然息、乱れてねえ。汗一つかいてねえ)

 私よりよっぽど怪獣だと可奈美は思う。

「ひい、はあ…追われるって…ふうふう…まさか、まさか!」

「荒魂に憑かれてはいないから千鳥から手を放せ。それと、衛藤可奈美」

「何ですか」

「私室でどのような恰好をしようと自由だし、思わぬ来客であったことは認めるが、その、何だ。服を着ることを勧める」

「へ?」

「服だ」

 びゅんばたん、と三段階迅移もかくやのスピードで可奈美はさっき使ったユニットバスに舞い戻る。何故ユニットバスかというと、自室に他に部屋がないからだ。短期逗留の刀使たちは相部屋だったりするから、延々と折神家に長逗留するはめになっている可奈美にとっては不幸中の幸いであった。

 ちなみに流石御刀怪獣、千鳥はちゃんと、手放さなかった。

「…うう。見られた。紫様に。全部見られた…」

「衛藤可奈美」

「何ですか…」

「風呂の中に着替えはあるのか」

「うっ…」

 あるにはある。脱ぐのが困難なくらい汗だくになったのが。

 触ると濡れて冷たい。流石にこれをもっかい着るのは嫌だ。すごく嫌だ…

「うっ…うっ…」

 なんだろう。目から玉鋼が…

「分かった。とってやる。着るものは何処だ」

「…」

「黙っていては分からん。そのままでは風邪をひくぞ」

「…分かりません」

「ここは君の部屋ではないのか」

「…ひっく…分かんない…だって何処に脱いだか覚えてないもん…」

「下着は」

「…」

「…分かった」

 可奈美は片づけるのが苦手だ。

 もっとはっきり言うなら片づけない。

 可奈美は衛藤家の紅一点であるので、そのプライベートに兄や父は立ち入り禁止である。なので文句を言われることもなかった。

 目を逸らされていた、とも言える。

 時折やってきた舞衣あたりに突っ込まれた時には「散らかって見えても自分じゃ何処に何があるか分かってる」などと、片づけない人間のお定まりのセリフで躱してきた。舞衣も可奈美には甘いものだから、「仕方ないわね、また様子見に来るわ」などといそいそと部屋を片付けて帰ったりする。

 人生を舐めていた。全く甘く見ていた。

 まさかご当主様御自らが、御立ち入りになる日が来ようとは思いもよらなかった。

「ほう。ふむ」

 などと言いながらクローゼットやら引き出しやらを開けたり絞めたりする気配をバスルームの中で聞きながら、なにやら素っ裸にひん剥かれるような――いやもうこれ以上ないほど素っ裸ではあったが――そんな気持ちになった。

「ここに置くぞ。向こうを向いているから、着替えるといい」

 すごく優しい声で、家探しされた挙句に引っ張り出されたのであろうあれこれ一式が、バスの前に、まるでケーキか何かのようにきちんと畳まれてそっと置かれ、また目から特別危険廃棄物が漏出した気がする…

「隊員に与えた私室の管理に付いて、私がことさらとやかく言うつもりはない」

 紫様が選んだスペシャルコーデ――といってもなんのことはない、美濃関のジャージ一式であったが――に袖を通して無事ことなきを得た可奈美に、ことさらに、ご当主様は仰られた。

 どうせことさらに言うことある部屋です。そのくらい自覚あります。ええありますとも。

「部屋を去る時に元通りにしてくれればそれでいい。それまでの間、ここは君の部屋だ、だから泣くな」

「…泣いてません」

「泣いていないのか」

「泣いてません!」

「そうか。分かった。衛藤可奈美。君は泣いていない。ともあれここは君の私室であり、私はそこに闖入した立場であるという事実は認める。これについては私にも、相応の理由があって…早い話、私は今追われる身なのだ」

「それさっきも言ってましたよね?」

「追手が諦めるまで少々の間、匿ってほしい。頼む」

「ええ?」

 折神紫に取りついたタギツヒメは幽世へと追い払われ、今や紫様は清廉潔白、公正明大の身の上の筈である。

 というか、折神家ご当主様を追い回す存在なんて、可奈美には想像出来ない。

 可奈美が舞衣や十条姫和(じゅうじょう・ひより)であっても想像できなかったろう。

「一体誰が…いえ紫様、紫様は一体何を…」

「いや私が何かをしたという訳ではないが…む、追っ手が来たか」

「…!」

 咄嗟に左手が傍らの千鳥を手繰る。

(一体どんなのが…)

 流石に衰えたりとはいえ、実年齢三十余歳を超えても最強刀使の一角として君臨する折神紫を追い立てる者を、可奈美は想像出来ない。

 戦巧者の紫は大荒魂タギツヒメと単騎対峙しても善戦している。それを一方的に退却せしめるとなればタギツヒメ以上の追手を想定せねばならない。

 よく見ると紫様は徒手でいらっしゃる。大包平(おおかねひら)も童子切安綱(どうじきりやすつな)も帯びてはいらっしゃらない。追手とやらに対処出来るのは可奈美だけだ。

(私が頑張らないと…!)

 衛藤可奈美の美点は数多いが、その一つは、自分が強いと露にも思っていない所である。奇しくも前年度御前試合の選手権者、獅童真希(しどう・まき)にも通じるもので、この為に可奈美には油断というものがない。

 左の親指が柄元を圧する。

 あとほんの少し力を加えれば鯉口が切れる、その寸前の力である。

 鯉口を切ったら写シが張れる。戦支度は整った。あとは斬り合うのみ。いざ来い曲者、相手してやるぞと思った時だ。

「姉さま~」

 聞き覚えのある声が聞こえて来た。

(朱音さまの声?)

 サッシの窓は閉めてあるから、相当大きな声を出しているはずだ。

「ねえさま~」

 朱音さまが姉と呼ぶ相手といったらこの世にただ一人である。

「紫さま、朱音さまが…」

「しっ。静かに」

 え?

「あの紫さま? ひょっとして紫さまが追われている相手って…」

「察しの通りだが、説明はあとだ」

 ええと。

 どういう状況?

「おかしいわね。確かこの辺りに…何も窓から飛び降りて逃げ出さなくてもいいのに…」

 聞こえてくる朱音さまのこんな声が、だんだんと遠ざかっていく。

「…あまり深くはないが、一応の訳が在るのだ」

「…聞いてもいいですか?」

 素っ裸でいたところを無理くり部屋に侵入されたんだから、そのくらいの権利はあるはずである。

「先般の関東大災厄の折、朱音は捜索隊を組織し、行方不明となった君と十条姫和の行方を捜していた。その際、思わぬ品が出て来たのだ」

「…その、品って…」

「錬府学長、高津雪菜(たかつ・ゆきな)の悪しき遺産、というべきか…」

 何処からともなく小型端末を取り出した紫様は、ちょいちょいと操作して、可奈美に画像を示して見せる。

「なにこれ…これ全部お洋服…?」

「そうだ。雪菜の私室から出て来た」 

 フルーツバスケットもかくやの有様で、ふりふりのひらひらが敷き詰められている。

 どれくらいふりふりひらひらかというと、可奈美が警邏に出ていたとして、この服を着ている人を見かけたら確実に職質するくらいにはふりふりでひらひらであった。

 それが部屋一面に敷き詰められた写真の画像がそこにはあった。

「はあ、高津学長、こんな趣味があったんですねぇ」

「若いころにはな。ああ見えて、学芸会などがあったときには白雪姫とかシンデレラとかをよくまかされていたものだ」

 これを着たプリンセス高津雪菜学長を想像してみたが、日本中何処に出しても恥ずかしくないくらいの女王様にシームレス進化し、口に手を当てて高笑いした。お姫様…には無理がある、失礼ながら。

 次に、これを着た紫さまを想像しようとしたら、今度は何度装着しようとしても、可奈美の頭の中の紫様は、衣装を差し出された端からぽいっと後ろに放り投げておしまいになる。

「…ええと、あの何と言いますか。朱音さまだってきっとお姉さんに甘えたかったんだろうと思うから、一回くらい着てあげても、バチは当たらあないっていうか、死にはしないっていうか」

「一回で済むと思うか」

「済まないんですか!?」

「一着、一回だろう、少なくとも」

「一着…一回…?」

 この時点で可奈美は軽く、目が回った。

「しかも一着ごとに右から左から、立ったり座ったりで写真撮影だろうな」

「…あのう、一体何着…」

「30点程」

「ヒェッ」

 何処の婦人服売り場だ。

「対策が無い故に今は逃れた。対策を得ることがなければ、出て行けん」

 それは困る。

 きっと特祭隊が困るし、何より可奈美のプライバシーとか人間関係とかがピンチになる。

「うーん…あ、じゃあこんなのはどうでしょうか」

「なにか策があるのか」

「策っていうほどのものじゃ、ないですけど」

 部屋の中には可奈美と紫様以外には誰もいないけど、何となく可奈美は紫様に耳打ちする。

「天才か。衛藤可奈美」

「えへへ。ありがとうございます」

 

***

 

 一方姉を求める妹朱音は、突如中断を余儀なくされた。

 立ち塞がる者が在ったからである。

「卒爾ながら、今代折神家御当主とお見受けする」

「伍箇伝の生徒ではありませんね。ここは折神家本邸、伍箇伝生徒と関係者以外の立ち入りは禁じられています」

 襤褸(らんる)、と言ってもいい出で立ちは伍箇伝生徒のものではないし、教職員や出入りの業者ならば見覚えが無い。

 にも拘らず、腰間に長々と差した太刀を隠そうともせぬ。ここが刀使の本丸で、特別祭祀機動隊即ち警察の敷地の中であることを知らぬのか、知って気にせぬのか。

「折神家御当主の装いで在られながら、御刀を帯びぬとは如何なることか」

 穏やかに質した朱音の言葉を、侵入者は質問で返した。

「私は折神朱音、故あって当主であり姉の紫を代行している者です。かつては刀使でしたが、高齢故御刀は後進に譲りました」

「御当主殿の妹君で在られるか」

「はい」

 段平を帯びた侵入者に対しても、朱音の物腰は変わらず、平素の柔らかさのままであった。

 侵入者が腰のものを抜いて襲い掛かって来れば、命は無いであろう。今のこの様子は定点警備カメラが捉えているだろうが、それを常時確認している者が居るわけではない。画像が改められるのは、朱音が屍となって後のこととなる。

 そうと知らぬ朱音ではない筈だが、怯む様子が全くない。自若と侵入者に向き合うのみである。

 一方、侵入者の方もそのような朱音の様子を不自然に思わなければ、訝しいとおも思わぬようであった。

 折神家の血統とはそのような者たちである、ということを知っているかのようであった。

「では姉の御当主、折神紫殿に伝えられたい。馘が来た、と」

「馘(くびきり)?」

「本日只今をもって、馘今代の御試し御用事始めとなる故そのつもりで在られよ。では、さらば」

 賊は唐突に踵を返した。

 朱音はそれをただ見送る。

 朱音とて警官の端くれである。未登録刀剣かも知れぬ太刀を帯びた者をただ返すべき立場ではない。備えの者を呼ばなかったのは、危険を感じたからであった。備えの刀使たちの身の危険に、である。賊との斬り合いとなった場合の危険に、である。

 根拠を問われれば困る。しかし確信である。

 並みの刀使では斬られる。

 では斬られぬ程の刀使は今折神本邸に詰めているか。

 衛藤可奈美や柳瀬舞衣、糸見沙耶香などの名が思い浮かんだが、彼女たちにもしものことが有ったら、対荒魂警備に重大な支障を来たすのではないかと、そう思ったのだ。つまり伍箇伝最強の刀使達ですら危うい相手と、朱音は見積もったのである。

「馘…」

 くびきり。

 その名の不吉さに、暫くの間、折神朱音は立ち竦む。

 




さてここに至るまで、とじともの方で臣にはショッキングな展開がいくつかありました。その一つは先の御前試合での可奈美の敗退です。しかもこれを下したのは、荒魂と融合してすら相手にならなかった姫和ということですから、これはいったいどうやって勝ったのか。何かの間違いなのかとも思うのですが、一体どんな状況だったのか。

もう一つ、臣がアニメ版で一番好きなシーンで、皐月夜見の最期というのがあったのですが、これが何と、結芽が帰還を果たした結果夜見も助かってしまいました。
夜見の最期に見せた赤誠が無かったことになるのは臣にとってはキツイことです。しかし夜見が助からなかったとすると救出の原動力となった結芽も戻らなかったということになり、さらにキツイこととなってしまいます。

そこで、臣はアニメ版ととじとも版の時間軸を一つにするべく、色々と考えていきたいと思っています。大目標はアニメ時系列での結芽、夜見の救出、ということになってくると思います。どこまでやれるかわかりませんが皆さまにお付き合いいただければ幸いです。


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馘御用 その2

「馘、と言ったのか」

「お心当たりが? 姉さま」

 朱音の姉への呼称は姉さんになったり姉さまになったりで、一定しない。紫もそれをあまり気にしていないようである。身内には存外大雑把な姉妹である。

「ある」

 荘重に呻く折神紫であるが、今日に限ってはあまり様になっていない。

 というのも、紫の御召し物は普段の特祭隊総司令のものではなく、フリフリでひらひらでどピンクの、これで巷を出歩けば職質待ったなしの衣装であったからである。

「とは?」

 重ねて問う朱音の出で立ちも、紫に準じていた。

 即ちフリフリで、ヒラヒラである。到底真面目な話をする格好ではないが、紫と朱音は真顔だった。

「特別刀剣、即ち御刀は一見、鉄刀と見分けがつかん。その真贋の極めを付ける役儀は折神家が担っていた。が、さる時代…かの剣の時代においては、それを行うのはは折神家のみではなかった」

「存じています。しかし御試し御用などという言葉があったのは、徳川将軍家の世ではありませんか」

 極め付き、という言葉は現代においても、箔が付くというような意味で用いられている。

 折神家の家名の元となったとされる「折紙」とは、極めを行った刀剣に対し発行された証書を指す。天皇家よりそれを任された家であったからこその折神の家名であった。極め付きと似た意味の、折紙付き、という言葉の原義もそこにある。

 後代、今一つの刀剣極めが武家社会となった本邦において行われ始める。公儀御様御用による業物極めがそれである。

「今際(いまわの)の家は、大政奉還の折、公儀御試し御用のお役目を解かれた筈。徳川に与した今際の家の保有した膨大な御刀は廃刀令に伴い召し上げとなり、折神の家に付託されたと…」

「正式に幕府の知行を受ける幕臣ではなかった今際の家は抵抗し、刀使同志の斬り合いが組織的になされた最初で最後の例となったと聞く」

「残念ながら、それが最後では無くなってしまいました」

「…そうだな」

「去年の年の瀬が、本当の最後となればいいのですけれど」

「ああ」

 姉妹は暫くの間、無言となった。

 刀使たちがそれぞれの背景から御刀取っての斬り合いとなった遠くない昔の出来事に、それぞれが思いを馳せるかと見える。

「そんな奇天烈な恰好で、何しんみりしてるんですか、二人とも」

「今宵は仕事の話はなしなんだろう?」

 姉妹二人きりの一席に寄ってきた二人は誰在らん、真庭紗南(まにわ・さな)長船女学園学長兼特別祭祀機動隊司令代行と、それを陰ながら補佐する相楽結月(そうらく・ゆづき)綾小路武芸学舎学長である。

 それぞれに手に手に徳利と杯を持っているのは良いとして、どうしたことかこの二人もフリフリのヒラヒラであった。うっかり居合わせたばかりに衛藤可奈美が紫に伝えた回天の秘策、「みんなで着れば怖くない」の計に(わりとノリノリで)巻き込まれたのである。

「どうせですから皆で着ればいいんですよ、新年会の時にでも」

 成程、少なくとも都内に留まる紗南と結月は来るから、紫の負荷は四分の一になる。可奈美の言葉をそのままに、恐る恐る朱音にお伺いを立てた紫は、「それはそれで」というお言葉を首尾よく賜り、今ここに至るのだった。

「文化祭以来だな、こんなのは」

「結婚式でも着たろう、君らは」

「いや、ここまでではない」

「行かず後家はもう紫様だけになっちゃいましたよ?」

「子が居ないのもな」

 紗南の軽口に、紫が苦笑いで応じる。

 皆がけらけらと笑う。

 あの時は、いつもこうだった。かつてこんな日々が何時までも続くと思っていた。永遠など無いと思い知らされ、もうあんな日々を送ることは無いだろうと思っていた。

 なのに皆、こうしている。

(衛藤可奈美。十条姫和)

 あの日紫の前に現れた雛鳥たちの御陰だった。それを育てた母、美奈都と篝の。

 今日は去りし日を忍ぶ時だ。今この時くらいは役儀のことは忘れようじゃないか。

 紫は、朱音と頷き交わす。

「さて写真も撮ったし、さっそくアップしましょう」

「おい、うちの生徒に送るのは止してくれよ」

「まさか、そんなことしませんよ姉さん」

 朱音はタブレット端末も兼ねたスペクトラムファインダーに指を滑らせる。伍箇伝の学長たちの専用トークルームアプリのメンバーには、故人となった衛藤美奈都や十条篝の名の他に、負傷して療養中の高津雪菜の名もあった。

 

***

 

 全日本剣道連盟の定めるところの剣道において、最初に行われる対錬に「切り返し」と称する稽古がある。対手に対し、仕手側がひたすらに、肺活量の続く限り左右の袈裟を繰り返す激しい稽古である。

 元となったのは薬丸示現流で行われていた立木打ちや打ち回りといった稽古で、一刀流の切り落としや鞍馬流の巻き落としなどと共に、全剣連設立に連座した門派が世界に対抗する最強の剣術を創造する過程で取り入れられたものである。

 刀使養成課程でもこれが最初の対錬として行われるのは、これにさえ習熟すれば荒魂退治の剣として取り合えず通用するからであり、事実荒魂退治に成果のある刀使は、この稽古のみを専らとすることが多い。実際動物や昆虫を擬態する荒魂は剣など携えていないし、これが巨大な物ともなれば重機が襲い掛かってくるのと変わらない。このような荒魂と戦い続けていれば、こう外してこう打ち返すなどといった道場剣法は実地の役には立たないお遊びのように思えてくるのも無理からぬ。御前試合に参加しない刀使が多いのにはこういったジレンマがあったのである。

 だがこのようなベテラン刀使達の意識は年の瀬の戦訓によって覆った。

 刀使を指導する立場の折神紫たちの認識も、である。

 御刀で武装した刀使型の荒魂や、ノロに支配された刀使、果ては志を違えた刀使と刀使の戦いを経験した紫たちは、抜本的な改革を要求されつつあったのである。

「危険過ぎます、先輩」

「ああ、そうだな」

 杯を舐めつつ応える相楽結月に動揺は感じられない。想像通りの反応、と言ったところか。

「だが、ここまでせねば、御刀を帯びた荒魂――即ち荒神に対抗する刀使を養成することは難しい」

「試合中の事故で優れた刀使が失われたなら本末転倒です」

「朱音と紗南の心配は尤もだ。だから対策を設ける」

「対策とは」

「レフリーを設ける」

「審判なら、従来も…」

「私の構想するルールでは、今の審判では選手の安全は守れない。万が一の時の責任も負えない」

 従来の刀使の試合では、一般に行われる剣道の試合のように道場中央で高段者が審判を務めることはない。場外に、写シの剥離判定を行う生徒のみ配置するだけで十分試合は機能した。

 写シが剥がれた刀使が敗北を認めるのは戦闘する体力を失うからだが、それ以上にこれが御刀仕合の掟のようなもので、ルールであるからだ。潔くこれを守らぬことは恥ずべきことだという意識があるからだ。相手が荒魂であったなら、写シが飛んだなら張り直す。張れなくなったなら覚悟を決める。それが刀使の在り方である。

 仕合は試合、試し合いに過ぎぬ。刀使は荒魂狩りを本領とすべき者。

 伍箇伝はそのような刀使を数多養成して来た。その結果として、タキリヒメ護衛戦の敗北がある。

 タキリヒメとの融合を目論むタギツヒメに対し、特祭隊は選りすぐりの刀使を要所に配置してそれを阻もうと試みた。一度は防衛に成功するも、次の襲撃の際タギツヒメは近衛隊と称する配下を伴う。

 冥加刀使の名の示す通り、彼女達の前身は伍箇伝の錬成した刀使であった。

 明治維新後初とされる刀使対刀使の組織的な戦闘は、特祭隊に苦い敗北をもたらした。タキリヒメは討たれ、これを吸収したタギツヒメはより大きな脅威となって人類を脅かすこととなる。

「…限りなく果し合いに近い試合でも選手の安全が守れ、守れなかった時も責任が負える…その人物とは?」

「今代折神家当主、特別刀剣類管理局局長、折神紫」

「いいのか」

 これは傍で妹と結月のやりとりを聞いていた紫である。

「私は、あまり表に出ない方がよいもののはずだが」

「もちろん一応の責任は負ってもらう。局長は朱音、君と交代だ」

「私が局長に…」

「そうすると私はもう長船に戻っていいので?」

「そんなわけがあるか。特祭隊司令本部長として朱音を手伝ってもらうぞ。もちろん長船学長も兼任だ」

「そんなぁ! ブラック過ぎませんか刀剣類管理局!」

「似たようなことを君の部下が言っていたな。確か益子の家の今代だったか」

「うぐっ」

「やって見せ、言って聞かせてさせてみせ、褒めてやらねば人は動かじ。言って聞かせるには先ず、やって見せることが必要だと思うがな」

「うう…。鬼。悪魔。結月先輩…」

「幸い、表向きの折神家当主は朱音だからな。紫が座ってた当主の座には朱音が座ってもらう。それで恰好は付くだろう」

「姉さまは当主の座を降りて責任を取ったのだと、内外にアピールすることも出来そうですね。分かりました、結月先輩」

「紫様が行司として軍配を持つなら、生徒の安全も守れるかもしれませんね。ところで…」

「ところで?」

「今日は仕事の話は無しだとしか言いつつ、結局仕事の話になってませんかね」

「「「あ」」」

「たった今平城学館学長からアップロードです。「うちらを辺退け(へのけ)にしよるとか許されへん」とかのコメント付きです」

 紫と結月と朱音は、ふいた。

 コメントと共に上がってきた写真には娘から奪ったと思しき、平城学館制服の五条いろはが写っていたからである。

「な、なかなかの破壊力だな…」

「いろは先輩自身、社会的な何かを自分で破壊されちゃってますけどね…」

「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ…」

「ちなみに江麻先輩は…ああ…既読だけですね何の反応も無い」

「「「ヒェッ」」」

 とは流石に言わなかったがこれはこれで怖い。

「これはあれだな」

「絶対何か考えてますね」

 宴席がハケて、酔いがすっかりさめて一晩明けて寝て起きたあたりの底辺のテンションのところに凄いのを突っ込んでくるパターンだ。

「江麻さんって昔からこういうところあるよね」

「あいつはいつもこう、小技ってのが無いんだよ。なんていうかいつもこう、知らない間にいつの間にか致命的なのを涼しい顔でどかんと放り込んで来るんだよ」

「ああ、それは美奈都先輩も言ってましたね。優しいと思ったらいつの間にか首根っこを押さえられてるって」

「あいつに勝ち越してる奴いるか?」

「美奈都さま以外だったら紫姉さまくらいじゃあないですか」

「いや私は、高等部後半にはズルいことをしていたからな」

「またまた」

 女四人の、戦友四人。

 相模湾大災厄と関東大災厄、二つの大災厄を戦った女たちの夜は更ける。

 伍箇伝の今だ存在しない時代、同じ特務の制服に身を包み、同じ敵と戦ってきた女たちが一様に胸をに留めながら、一様にこの席で名を出さない者が居た。

(雪菜は、どうしているだろう)

 

***

 

 現特別刀剣類管理局局長代行であり、特祭隊司令の座を昨晩約束された真庭紗南にとり、瀬戸内智恵(せとうち・ちえ)は子飼いである。

 舞草(もくさ)の頭目として折神家と反目していた折から、折神家から荒魂の影響を一掃し自ら局長を代行するようになった現在も変わらず絶大な信を置いていた。長船女学園を卒業後も未だ赤羽刀調査隊の副長を信任されていることからも、それは窺い知れる。

「お前は、馘とやらへの用心だ、瀬戸内」

 そう言う真庭局長代行の浅黒い額には、冷えピタと思しき保冷湿布が、白々と存在感を示している。どうやら昨日の新年会で少々ハメを外し過ぎたと思しいが、あえて智恵は突っ込まないでおくことにした。

「馘…今際の家の生き残りなのでしょうか。だけど、廃刀令で根絶やしになった筈の彼らが、なんで200年もたった今になって…」

「分からん。今際の家の者を騙る何者かかも知れん」

 しかし流石は元舞草の頭目、ハメを外していても、共有すべき情報は共有することは忘れなかったようだ。余談だが、後に新年会はどうだったかと生徒に尋ねられた折神紫は、「結局やはり仕事の話ばかりだった」と回答したと云う。

「厄介なことに、もうすぐ御前試合だ。早いトコロではそろそろ予選の段取りをしているが、面倒なのは本戦が始まってからだ。そうなれば主力の刀使は鎌倉に集まっちまう。結果手薄なところが増える」

「けれども私はもう伍箇伝の生徒じゃあない。出場資格が無いから自由に立ち回れる」

「流石、察しがいいな。長船のOG連中でも満足に写シが張れるのは瀬戸内、もうお前くらいなものだ」

「孝子さんや聡美さんは」

「斬られ過ぎたからな、あの二人は」

「…」

「そんな顔をするな。祓い清めるが勤めの刀使とて御刀を取ったなら戦人。戦の習いくらい心得て置け」

「…はい」

「燕結芽はもう居ない。死んだんだ。いいな」

「はい」

 智恵は首肯したが、到底納得しているようには見えなかった。

「折神御本家は今回の御前試合を例年になく重んじて居られる。選手として参加する刀使が増えれば試合を離れて討伐任務を行う刀使は少なくなるだろう。件の馘に対応する者もだ。負担は大きいものとなるだろうが、どうだ、やれるか」

「微力を尽くします、学長」

「学長か。君たちには、それらしいことが何一つ出来ていない自覚はあるよ。紫さまが大手を振って表に出て来ることが出来れば、私も学校に戻れるんだが…いったい何時になることやら」

「微力を尽くします」

 智恵は、そう繰り返した。

 



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馘御用 その3

『荒魂は大型。タイプW、体長30メートル、体幅3メートル』

「ミミズか蛇か」

「またムカデかもな」

「最悪だな」

 隊員たちは呟き合う。

 タイプWのWとはワーム、長虫を意味する。良く見られる形態の荒魂である。

 日本の大地に混然と溶けたノロは、地面に染みている内に親しむミミズなどの地虫を擬態して荒魂化することが多い。分けてもムカデ型の荒魂は頻繁に大型化して現れ、東京に甚大な被害を及ぼしていた。

 そもそもがムカデは本邦屈指の獰猛な生物である。

 無数の足で大地の震動を感得し、動くものがあれば即座に毒牙で噛みつき、それがたまたま自分の食事になりそうな大きさの生き物であれば絡みついて喰らう。大抵の生き物は、自分の食糧にならぬような大きすぎたり小さすぎたりする生き物には興味を示さぬものであるがムカデは違う。食いモノになろうがなるまいが、大きかろうが小さかろうが、動くものはとりあえず攻撃するのである。それを擬態しているのだから大変狂暴な荒魂となる傾向があった。

『荒魂は多足型W。荒魂は多足型W。時速30キロで南進中、推定目標霞ヶ関魔城』

「直近の部隊で阻止線を形成。荒魂警報発令要請を官邸に上げよ」

「了」

 特別害獣駆逐隊司令・日向士郎(ひな・しろう)の下令に応じ、放水が開始された。

 自衛隊の車両ではない。赤く塗装された消防庁所属の無人放水車である。水平メートルもの放水距離を誇る新鋭車両より噴射された大量の水が夜間の都内の照明に七色のスペクトルを描き出す。

 荒魂は水を好まない。生き物と同じく、体温を奪われることを嫌う。

 付着した水が少量ならば上がり過ぎた体温を快適なものに戻すが、大量ならば体温を奪っていく。それはヒトも荒魂も同じだ。並みの荒魂ならばその侵攻を鈍らせることが可能であった。

 もし消防士がこれを行えば、荒魂は攻撃とみなし襲い掛かってくる。それを警戒し、配置の放水車は全て無人であった。

 しかし荒魂は、闇夜に虹がかかるほどの放水をものともせず、前進を続けている。

『進路速度変わらず。放水効果、認められず』

「周囲の住宅地の避難はまだ完了していません。そちらにいっても良さそうなものですが」

「ノロは互い引き寄せ合う生体金属だ。そちらの性質が優先されているのだろう。最近の大型の荒魂に一様に見られる性質だ」

 日向司令は副官に応じつつ、背後を顧みる。

「奴もまた目指しているのだ。霞ヶ関魔城を」

 かつて霞ヶ関、と言えば昼夜政治家の集う政治の中心地であり、国政そのものすら意味した。

 今やそこは年の瀬の災厄に端を発する、荒魂災害の中心であり象徴であり、最前線である。

 タギツヒメとその本体、ヒルコミタマが討伐された折、神々が本陣とした地上60階を誇る都心最大級の高層ホテル、霞ヶ関ビルには大量のノロが注ぎ込まれた。昭和の昔には大量の液体を「霞ヶ関ビル一杯分」などと表現することがあったが、まさしくそれだけのノロが霞ヶ関ビルに充填されたとされており、ここより半径2キロ余りは特別警戒区域とされ、警察と消防により厳重に封鎖されていた。

 この封鎖に陸自の担当区域が加わったのは極最近のことで、事実上政府の対特祭隊対抗組織であるところの特別害獣駆逐隊がそれを担っていた。

『こちら槍者班。何時でも行けます』

「待機せよ」

 特駆隊保有の珠鋼兵装、御槍(みやり)を携える、槍者班班長にして日向司令の実の妹、日向野々美(ひな・ののみ)の声は無線越しにも逸っていたが、日向司令は抑揚のない声でこれを阻む。

 珠鋼兵装の保有は少数である。特祭隊と比して貧弱、といってもいい。特祭隊のように刀使のみを直接荒魂の正面に展開し、堂々たる戦闘によって撃退するのような方法は取れない。

 刀使は損耗する。槍者も同じだ。

 特祭隊は刀使を補填する伍箇伝5校というシステムを持つが、特駆隊にそのようなものはない。直接対応能力にも継続対応能力にも劣った彼らは、何等かの手段でそれを補わねばならなかった。

「74式の配置はどうか」

「所定の位置で射線を確保しています」

「現場指揮官の判断で射撃開始せよ」

「了。74式各車、主砲の使用を許可する。繰り返す、主砲の使用を許可する」

 74式、と呼ぶのはは、36トンの装甲された車体に一門の105ミリ滑空法で武装し、履帯によって時速60キロで疾駆する、紛れもないあの主力戦車74式である。

 第二世代に属するこの74式は、第四世代とされる10式戦車の2世代前の、言うなれば旧式戦車であった。

「10式なら大型の荒魂とも渡り合えるのですが…」

「我々自衛隊が戦わなければ相手は、荒魂のみではない」

 参謀のこぼすのも無理はない。大型の荒魂の移動速度は時に時速80キロ近くにもなる。74式では振り切れない上に、砲の威力も劣っている。しかしそれ故新鋭の10式戦車にその座を譲り一線を退きつつあり、ここに配備されているのはいわば陸自のお下がり戦車であった。

 代償として得たのは、戦車一個小隊4両という頭数である。

 74式が4両束になって戦って、それで10式に勝てるかと言えば五分といったところだろう。しかし日向司令は同じ予算の中で二両二組という、戦術を駆使することが可能な頭数を選んだのである。

 なお、人員については志願者が殺到し、今や1年ほどの順番待ちになっている。自衛隊内でももっとも濃密な実戦が経験出来るのであるから、無理はない。

「来たぞ! 各車自由射撃!」

「頼むぜ爺さん戦車! 昭和世代の底力みせてやれ!」

 4門の105ミリ砲の咆哮が都内に轟く。自衛隊発足当時には誰もが思ってもみなかった、東京都内での戦車戦の開幕であった。

 自由射撃を命じられれば、各車は任意に砲撃する筈であったが、4門の砲音は一つに聞こえた。弾着もまた同時であった。

「全弾命中!」

 この時荒魂の速度は時速にして30キロ余りで、大型の荒魂としては歩くほどの速度と言えるだろう。この速度の相手に対してならば必中は当然であった。

 

キキキキキキキキキ!

 

 金属と金属を擦り合わせているような、これが荒魂の咆哮である。

 銃弾は荒魂に効果がない。それは確かだ。しかし音速で飛来する1キログラム以上の大質量弾となれば話は別である。さしもの大型荒魂の上部な外皮が凹み、抉れていた。

 しかしそれだけだ。見る見るうちに再生していく。元々がノロ、流体金属である以上叩いても抉っても致命傷にはならない。水面を叩いたところで、叩くのを止めたらもとの水面となる道理だ。

 だが全く無駄であるかといったら、そうでもない。

「荒魂の速力低下を認む!」

「槍者班、匍匐接近を開始せよ」

『了!』

 荒魂の無数の足の何対かがぶらぶらになっている。

 もちろんそれも再生していくのであるが、すぐにではない。足によって移動している以上、足に不具合が発生すれば当然移動に支障が生じる。

 

キイイイイイイ!

 

 荒魂は攻撃してくる何者かを威嚇するが、敵を見つけることが出来ない。

 百足を擬態している以上、視力は悪い。加えて4両の戦車は距離1000の以遠である。大地の震動を察知できるような距離ではない。

『槍者班、配置につきました!』

「突撃開始せよ」

『了! 皆私に続いて!』

『了解!』

 槍者班班長を務める日向野々美に従う槍者の少女はその数を増し、煌めく穂先の数は20を超えていた。それが四方より一斉に迅移突撃する。如何に荒魂が大型といっても、一溜りも無かった。

「たあッ!」

「どうだ化け物!」

「死んじゃえええ!」

 動きが鈍ったところに珠鋼兵装に八方から次々と貫かれ、成す術もなくノロへと戻っていく。

『荒魂液状化! やったよ兄さん!』

「槍者班点呼。死傷者は居ないか確認せよ。お前の仲間であろうが」

『り、了!』

 日向司令は、盛大に嘆息する。

「妹さんはよくやっておいでです、司令」

「場数は踏んでいる筈なのだがな、あれも」

「たまには労って差し上げては如何でしょう? きっと士気も向上するかと」

「考えて置こう」

 ぼやく日向司令に、ニヤニヤが止まらぬ参謀であったが、この時司令本部のオペレーターの一人が「新たな荒魂!」と報じる。

「方位後方、タイプH! 現在警戒隊と交戦中!」

「タイプHだと!」

 Hとはヒューマノイド、人型を指す。

 目下最も名高いタイプHは荒魂の棟梁タギツヒメであり、同じく禍神タキリヒメ、イチキシマヒメの二柱の他には僅かに数体しか目撃例がない。そしてそれらは高い技量で御刀ないしは御刀状の武器を使用し、討伐隊に甚大な被害を及ぼしていた。

「タイプH、一体! 身長160センチ未満なれど御刀状の刀剣を装備! 警戒隊突破されます!」

「霞ヶ関魔城からノロを回収に出て来たのか」

「槍者班長、聞こえたか。全周警戒。新手がノロを奪いに来るぞ」

『了! 皆、方陣展開! タイプHがこっちに来る!』

 ここでノロを渡してしまっては、百足荒魂を素通りさせたのと同じことである。阻まねば先ほどまでの戦闘の意味が無い。

(みんな、強くなった)

(けど、タイプH…禍神級の相手と剣格闘なんてしたことない)

 槍者班を率いる日向野々美は固唾を呑む。

「…あたしが、頑張んないと…」

「来た! わあああ!」

「…!」

 先ほどの戦車砲の弾着かとも思える衝撃が大地を揺るがす。

 瞬間視界を遮る粉塵を、生暖かい風が吹き散らかしていく。

「タイプHを目視で確認…!」

 先ず野々美の目を奪ったのは、夜目にも輝く亜麻色の髪であった。長い。肩下まではありそうなそれが月光を孕み輝いている。

(…女の子? けどあれって…)

 痛々しいほどに細っこい、その四肢を包む服と思しきものに見覚えがある。あれは制服だ。それも、都内では知らぬ者もいないくらいの名誉の制服。

(旧折神家親衛隊…!?)

 しかし似通っているのは形だけだ。あれはこんな、血に泥を混ぜてこねたような色はしていない。脈打つように赤く明滅したりはしない。

 何より顔に当たる部分には、鼻梁と思しきもの以外に人間らしいものは存在しない。

 代わりに存在しているのは、本来人間の両眼があるところを占拠する、視力に優れた荒魂が備えることがある口よりも大きな単眼だ。

 野々美は吐き気を催した。

 これはヒトを擬した荒魂だ。この痛々しいほどに華奢な少女の姿を盗んだ荒魂だ。

(…けど、なぜ?)

 ノロが結実するのは大抵が、身近に長く親しんだ生き物だ。通常大地に渾然と溶けたノロは、大地を這う生き物に最初に親しみ、その姿を取る。そして一度その姿を取ったなら、次に荒魂と為った時も同じ姿を取ることが多い。如何なる原理かは不明だが、最初に取った姿を憶えているのだ。

 その原理を踏襲するならこの不出来なノロ人形は、最初にこの少女に親しんだことになる。

(ヒトの多い都内なら分かる)

(だけどこの荒魂は霞ヶ関魔城の中から来た…)

 こいつが模したのは霞ヶ関魔城の中の生き物の筈。しかしそんなことが有る筈がない、一度はノロの充填された水槽と化した霞ヶ関ビルの中に生存者など――

 と、それ以上考える暇は与えられなかった。

(うわわわわわッ!)

 一瞬で眼前に現れた荒魂は、凄まじい攻撃で斬り立てて来た。

(攻撃されてるッ!)

 そう思いいたったのは三太刀目を槍の何処かで受けたところだった。そこまでは反射神経のみで躱したのだ。

 油断していたわけではない。眼を離していたわけでもない。

 正面の相手に不意を突かれた。

(技の出どころが分からない!)

 野々美の知っている剣ではなかった。

 この背格好、この筋肉量の人間が1キロ以上の金属棒である御刀を操作する為には相応の溜めというか、振りというか、そのようなものが必要な筈だ。それがまるでない。まるで宙に浮いた刀が勝手に動いて飛んできたかのようだ。

「野々美!」

「はんちょー!」

「皆来ないで!」

 仲間にそう叫ぶのが精いっぱいだった。来たら斬られるのがオチだ。

 反撃しようにも糸口がない。もう何をされているのか分からない状態であった。とにかく剣であちこち攻撃をされていて、それが続いていて、恐らくは時間の問題だろう。

 刃を受けて写シを剥がされる。

 問題はその後だ。相手が刀使、即ち人なら慈悲もあるかもしれない。が、相手は荒魂だ。止めを継ぎ太刀する筈だ。

(だめ…)

 その後はもうダメだ。皆斬られる。成す術もなく。

(そんなのだめ)

(誰か…)

 神でも悪魔でもいい、誰か何とか、と思った時だった。

 

ギ!?

 

 短く荒魂が哭いた。

 野々美を斬り立てていた荒魂が今まで居たところに屹立するのは、一縷の槍であった。荒魂が後ろに飛ばなければ、これに串刺しになっていただろう。

「航空自衛隊静浜基地、蜻蛉切(とんぼきり)槍者、八雲未羽(やくも・みう)候補生、現着」

「…!」

 野々美のみならず、全員が目を見張った。

 上空から槍が飛来した。荒魂はそれを察して飛び躱した。槍は突き立った。一瞬前の状況はこうだった。槍者の姿は何処にもなかった。その筈であった。

 ところがどうだ。

 まるで槍と一緒に飛来したかのように、突き立った御槍――蜻蛉切のたもとに、その主と思しき槍者が立っている。

 迅移で移動してきたのか。

 いや、それは珠鋼兵装を装備していなければ不可能な芸当である。空からこれを投じてしまったら、もう迅移は使えないはずであった。

「ごめんなさい、仕留めそこなったわ」

「ううん、助かったよ。来てくれたんだね」

「遅くなったみたいね」

「そんなことないよ。ありがとう」

 八雲未羽。

 伸びやかな手足の少女であった。

 髪もまた長い。その髪を、無造作に後ろにくくって纏めている。

「来たのは私だけじゃないけどね」

「え?」

 それはどういうことか、と問い返す暇もあればこそ、だった。

 槍の穂が見えぬ程地に埋まっていた蜻蛉切を未羽は、おもむろに引き抜きざま投じた。

 目標となった荒魂は、それを跳ね上げた。

 我が手の刀で、である。

 蜻蛉切は大身の槍だ。柄こそ日本号より短いが、刃渡りは勝るとも劣らない。柄と合わせれば5キロ程にもなろうそれを投じる者も投じる者なら、跳ねのける側も跳ねのける側であった。

 わざわざ避けず跳ね上げたのは巧妙と言える。

 避けずに跳ね上げれば、槍はどっちに飛ぶか分からない。少なくとも投じた槍者の意図しない方向に飛ぶ。迅移で移動しながら蜻蛉切を投じ、弾着地点に追いつくと言ったような手段を取っているなら、迅移で飛んだ地点に槍は無いから労せずして珠鋼装備を奪える。その可能性を考えてやったのならば、この荒魂は兵法にも明るいと考えなければなるまい。

 いずれにせよ、邪魔ものは無力化出来た。今度こそ止めをと当面の対敵、野々美に向かって地を蹴った荒魂であったが、またもその剣の行く手を阻まれた。

 ギイン、という鋼と鋼の打ち合う音。

 何者かが荒魂の凶刃を阻んだ。

(…斧? 槌?)

 …のように、一瞬見えた。

 荒魂と己の間に立ち塞がった槍者の携えた槍は、それほどに身幅が大きかった。

 しかし驚くべきは、槍者はその大身の槍で荒魂の剣を弾いたわけではなかった。受けも外しもしていない。まともにその身で受けたのだ。

 

ギギ!

 

 荒魂が吠えた。

 嵐のような連撃が、大身槍の槍者を斬り苛む。

 それらの全てを、その槍者は受けも外しもせず、その身で受けた。にもかかわらず槍者は微動だにしない。その全てが空しく金属音となっただけであった。

(金剛身…でもこんなの初めて見る)

 一体何レベルの金剛身なのか。

 使う者を見たことが野々美にもあるが、体の一部を瞬間硬化させるくらいなものであった。しかしこの人は違う。全身を持続して鋼と化している。

 流石に永遠にこのままではあるまい。斬り続ければ何れは斬れる。一対一ならそうであったろう。しかしここは戦闘で荒魂は単騎。槍者たちには、仲間が居た。

 

ギ!?

 

 真上に飛んだ荒魂の、今まで居たそこに一縷の槍が突き刺さっていた。

 遥か彼方に跳ね飛ばしたはずの蜻蛉切が再び、荒魂に向かって投じられたのだ。誰も予測が付かぬ何処かに跳ね飛ばした筈の蜻蛉切に、その槍者八雲未羽は追いついていた。追いついて再度これを投じたのだ。

 迅移を遣わねば追いつけぬ筈。御槍を失えば迅移は使えぬ筈。

 にも拘らずこうして槍を投じ、しかもまた投じたそこに現れるとは如何なる魔技の持ち主か。

(チャンス!)

 荒魂は支えも何もない空中に居る。

 漂っている的を貫くことくらい、野々美には容易い。

「やああああ!」

「グギ!」

 辛くも荒魂は受けてしのいだが、受けたのは剛槍・日本号。それを繰り出したのは八幡力において屈指の野々美である。体制はもんどり打って大きく崩れた。

 落下した荒魂は判断を誤らなかった。一目散に逃げ出したのだ。

「あっ、逃げる!」

「待て!」

「追っちゃダメ!」

 野々美は部下を制する。

 深追いしても損害が出るだけと思えたのだ。

「あ、ありがとう」

「礼を言うのはこっちだよ。ありがとう、来てくれて」

「海上掃海隊、御槍御手杵(おてぎぬ)槍者、櫂潮(かい・うしお)候補生、只今到着しました!」

「陸上勤務、お疲れ様です!」

 二人の槍者は大仰な挙手礼を交わし合う。

 野々美のそれは大きな陸自式。潮のそれは脇を締めた小さな海自式のものであった。

 そうしておいて、にへっ、と微笑み合う二人に、未羽が歩み寄ってくる。

「二人はもう、知り合いなのね? 海自のコかしら?」

「うん。紹介するね。こっちが静浜基地の八雲未羽候補生ちゃん。こっちが横須賀の海上掃海隊の櫂潮候補生ちゃん!」

 美空と美波は一応の敬礼を交わし合う。

「あなたも野々美さんに巻き込まれたのかしら」

「んと、うん。何だか、巻き込まれたみたい」

「こら候補生君。今は現役自衛官のあたしが一番上官で偉いんだぞ?」

「あら。私たち卒業したら尉官だから、あと少しで野々美さんが一番下になるのよ?」

「うっ」

「それまでよろしくね、班長」

「うう、短い間ですがよろしくお願いします…」

 三人は、同時に吹き出す。そんな三人に、野々美の部下たちが駆け寄ってくる。

 日本号。

 蜻蛉切。

 御手杵。

 天下三名槍。最強の御槍が一堂に集ったこれが、最初であった。

 



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馘御用 その4

 荒神級タイプH、都心に浸透せり。

 凶報は荒魂災害対策本部を通じ、自衛隊より警視庁、そして特別刀剣類管理局にもたらされる。たちまちの内に都内には厳戒態勢が敷かれ、夜間外出は禁じられ、昼の活動も刀使が集中警備する施設に限定される。

「…とはいえ、相手は荒神級。対応出来る刀使は限られます」

「その数える程の刀使も、御前試合の予選を控えているから地元から離れられないし」

「その為に我らが居る、ということでしょう」

「馘の上に荒神級だなんて…ごめんなさいね、ミルヤ。付き合ってもらって」

「なに、御前試合より余程、その馘とやらの方が興味深い。幾多の御刀を試斬し刃味(はみ)を定めたという今際一門、かつて折神と並び称された大家と、言葉を交えてみたい」

「交えるのは言葉だけじゃないかも知れないわよ」

「そうならないことを祈るだけです」

 ミルヤの祈りは、どうやら天に通じることは無かったようだった。

『非常呼集非常呼集。瀬戸内智恵。木寅ミルヤ。直ちに司令室に来い。繰り返す、瀬戸内智恵、木寅ミルヤ――』

 折神本邸各所に配置されたスピーカーと同時に、スペクトラムファインダーのコール音がけたたましく鳴り響く。眼を見交わした智恵とミルヤは、佩刀を手繰って立ち上がった。

「呼集から二分か。流石だな二人とも」

「何事でしょうか、司令」

 駆けつけた待っていたのは特祭隊司令、真庭紗南である。手に持ったインカムから、手ずからに放送を行ったものと知れる。

「これだ」

 その真庭司令が指し示したメインモニタに大写しになっているのは、都内に張り巡らされた監視カメラの映像であったが――

「これは…」

「殺人事件だ」

 真庭司令は端的に、そう言い表した。

「直ちに現場へ向かってくれ。車両は手配してある」

「「了解」」

 通常、特別刀剣類管理局も特別祭祀機動隊も、犯罪とは無縁である。殺人と言えどそれは都警の管轄で、特祭隊に連絡があることは普通ない。特祭隊が出向くのは一部の例外を除き、荒魂災害の可能性があると判断された場合が殆どである。

 例外、というのは例えばそれが刀剣、分けても特別刀剣で為されたと思われる場合である。

 御刀が殺人に使用された可能性があるのだ。

「件(くだん)の馘が容疑者の可能性があると?」

『その通りだが、自衛隊からの連絡も無視はできない。そのタイプHは御刀状の武器を持ち、特駆隊と立ち回りを演じたという話だからな』

 用意されたミニパトの後部座席で、二人は道々、真庭本部長より事件詳細の説明を受ける。

「特駆隊――」

「手練れの隊員が居るって話よ。槍者班の班長は超ヤバいって、薫ちゃんが言っていたもの」

『それが取り逃がしたという話だ。脅威は大と考えていいだろう』

「馘とタイプHの二正面ですか」

『二兎を追うは避けたいが、止むを得ん。現場には此花と獅童がもう到着しているころだ。協力して当たれ』

「それは心強い」

 現場は都内のど真ん中、新橋駅の程近くの繁華街の路地であった。

 平時はパトランプとサイレンで渋滞を蹴散らしながら進まなければならない所であったが厳戒下の都内には乗用車の姿は殆どない。路肩には白黒ツートンの警察車両が、回転灯を旋転させつつ何台も止まっている。

 路地の入り口に立つ警官に敬礼し、バリケードの間をくぐって分け入ると、見知った背中が先ず目に入る。

「真希さん。寿々花さん」

「来たか」

「中等部のコたちじゃなくて良かったですわ」

 此花寿々花は鼻口をハンカチで覆っていた。獅童真希の方はそれは流石にしていなかったが、険しい顔だ。

 理由はすぐに知れた。

(う…)

 金気の味に口腔が一杯になる程の血の匂いは、路地表まで漂い出て来ていた。だからそれなりに覚悟はしていたのだが、甘かったのかも知れない。

 先ず眼前にあるのは折り重なっっいたと思しき遺体であり、それからその遺体が斬割により噴出したのであろう、赤や黄色の臓腑であった。

 それもピラミッド状にかき集めたのではなく、丁寧に上に上にと積み上げたように見える。それはまるで、空手道の手割りで、積み上げられた瓦やレンガのように。

「刀を持った人が居ると通報があって、警官隊が駆けつけたところ、対象がここに逃げ込んだそうだ。いや、誘い込まれたというべきか」

「詳しくは検死待ちですけれど、出血の量や範囲を見ると、死んだ者は放っておいて、まだ息が有る者だけをここに積み上げたように思いますわ。何故わざわざこのような手間をかけたのか、分かりませんけれど」

「生き胴試しです」

 木寅ミルヤが、寿々花に即答する。

「いきどうためし?」

「ええ。中世日本、江戸期に今際の家が、罪人などで行ったという試斬の一つです。実際に生きた人間を用いる為、御刀の実用度を測るうえで有力な手掛かりとなったとされます。ちなみに折神家秘蔵の三日月宗近にも七胴落としという異名があります」

「つまり、これは例の馘の仕業である、と?」

「そう考えた方が自然です、獅童真希。ちなみにこれは三胴を土壇払いにしています。相当の腕前であるかと」

「みっつどう? とたんばらい?」

「三つの胴体を、いっぺんに斬り割ったということです。土壇払いは即ち、斬ってなお土壇、即ち地面に食い込んだということです」

 刀剣に明るいミルヤは、試斬の予備知識も豊富なようであった。

 ちなみに土壇とは、刑場に盛られた血を吸った黒土を指す。土壇場という言葉があるが、これはまさしく刑場で首が飛ぶか否かの瞬間を現わす言葉であるのだ。 

「例の荒神を追っていたんだけどな、僕と寿々花は」

「ですが一応、連絡は受けていますわ。そういう不信な刀使が潜伏しているということは」

「荒神型の個体が自衛隊を突破したって話は、私たちも聞いているわ。そっちも相手にしなきゃならなくなるのかって思ってたけど、真希さんと寿々花さんが動いているなら手分けが出来そうね」

「馘は頼む。僕たちは結芽を追う」

 真希はそう言い遺し、寿々花が後に続く。

(…え?)

 結芽。智恵には確かにそう聞こえた。

 燕結芽のことか。彼女はもう故人ではないのか。それを追うとは?

「結芽って、それはどういう…」

 そう質そうにも二人は速足で歩み去った後であった。

「馘への対処が先です、瀬戸内智恵。詳しい資料を道々、送ってもらいましょう」

「そ、そうね。行きましょう」

 こうしている間にも二人の所持するスペクトラムファインダーには、本部から続々と監視カメラの映像が送られて来ていた。本部オペレーターが分析し選別した良質の映像だ。その時間と場所をさらに厳選し、調査隊の二人は動き出した。

 

***

 

 痛々しいほどに細い四肢。長く亜麻色に透き通った髪。旧親衛隊の隊服を模したと思われる外皮まで、何から何まで燕結芽を連想させるそいつの足取りに迫るにつれて、スペクトラムファインダーが無音の警鐘を伝えてくる事実が、真希と寿々花に最悪の事態を想起させる。

「結芽ではありません。例えあれがいくら結芽に似ていたとしても、また或いは、元々が結芽であったものだとしても」

「分かっているよ。それよりも、本当に間違いはないんだな」

「結芽の亡骸は私が荒魂として蘇生せぬよう処置をした後、局本部に引き渡しました。そこは、間違いありませんわ。通例ならば遺体は焼却され、残留するノロは回収されたはずです」

「通例ならば、か」

「ええ。通例ならば」

 その後、特別刀剣類管理局は発足後未曾有の混乱に陥る。折神紫らは役を追われ、反折神派である舞草の頭目、真庭紗南が実権を掌握する。紫に近しかった高津雪菜や相楽結月はタギツヒメに与し、人類に造反する――

「折神派だった私は、何を調べたくても調べられない立場でした。けれども今や、私たちは旧舞草に対しても相応の信を得つつあります」

 寿々花は舞草に投降し、協力をして来た。全面的、いや献身的とも思える協力であった。

「あと少し。あと少しで追えますわ。結芽があの後、どうなったのか」

「その為に君は…」

「その為だけではありませんわ。けれど、大きなファクターです」

「頑張っていたんだな、君は。それに比べてボクと来たら」

 寿々花が頑張っていた間、一人合点でタギツヒメを追い、タギツヒメと勘違いされて事態を混乱させていただけだった。

「全く未だに差を縮められた気がしない。それどころかどんどん水を開けられているような気がするよ」

「何を言っていますの貴方は。水を開けられているのはむしろ――」

 嘆息する真希に言い募ろうとする寿々花の声が中断する。

 スペクトラムファインダーがひと際大きな警報を発したからだ。

「来ますわ!」

「上だ!」

 白昼堂々、公衆の面前での強襲であった。

 右と左に別れて飛んだ真希と寿々花の真ん中の虚空を、禍神が斬り割る。追いかけていた獲物が事もあろうに、自ら牙を立てに来たのだ。

「此花獅童、対象と接触!」

 寿々花がインカムに敵襲を告げる。これで最寄りのSTTが飛んでくる筈である。特祭隊刀使の救援はその先となるだろうが、住民の避難誘導であればSTTの方が頼りになる。御刀も無しに荒魂と格闘するハメになりながらも命を繋いできた、ある意味刀使よりも化け物じみた連中である。

(にしても、これは…)

 夢でも見ているのか。

 今生もう二度と、まみえることはあるまいと思っていたその姿。

 亜麻色の甘やかな長髪、思わず駆け寄って支えたくなるほど華奢な四肢、そしてその――

(夢だとするなら、間違いなく悪夢――)

 その、悪戯っぽい微笑みのあるところに嵌っている狂おしく赤い単眼。

 単眼以外何もない。

 真希と寿々花が願わくば今一度と、もし夢にでも会えたならと今なお願わずには居られない、あの悪戯っぽい微笑みはそこになかった。代わりに有るのは知覚能力のある荒魂が備える、上下左右にイライラと動くあの単眼であった。

「…っ」

 ものも言わずに、真希が佩刀の鞘を払う。

「真希さん…!」

 皮肉なものであった。

 この時寿々花は、真希同様結芽の姿を盗んだこのノロ人形に憤怒を懐いていたが、それ以上に大切なものがこの場には有ったのである。

「分かっているさ。ありがとう」

 寿々花の警告に真希は答えた。

 平静を欠いて勝てる相手では有り得ない。真希はその正しく警告を受け取ったようであった。

(フ――――ッ)

 太古平安よりの源氏歴代の重宝、薄緑が白昼に煌めく。

(ス―――――ッ)

 深呼吸であった。

 細く長く呼気を引き絞り、その切っ先はゆるゆると動いて中段正眼へと、次第に移動していく。

 常の真希だ。平静を欠いてはいない。先ずは、寿々花は胸を撫でおろす。

 円弧を描いた切っ先が狙いを定め、ぴたりと止まった瞬間、荒魂は動いた。

 

「カッ……」

 

 金属と金属を打ち鳴らすが如きその鳴き声。

 

 準備は出来たな。

 ではいくぞ。

 

 そう言っているようにも聞こえた、それと共に具風と化して、荒魂は襲い掛かってきた。

「む…!」

「真希さん!」

 真希は初手を薄緑で切り払った。

 その次も払い、その次もそのまた次も受けた。

「真希さん…!」

 寿々花の眼裏に蘇るのは、在りし日の結芽と真希の立合いの風景であった。結芽が仕掛け、真希が凌ぐ。次もその次もそのまた次も真希は凌ぐ。しかし徐々に斬り立てられていく。隙を見つけようにもとうとう反撃が出来ず、最後にはいいのを貰う。

 単純にスピードが迅い。

 太刀行きもフットスピードもそれを操る結芽の意識も、兎にも角にも迅いのだ。小さな遅れが積み重なり、やがて周回遅れになってリタイアする。結芽と立ち会った相手は大抵が、こういう負け方をする。

(成程。結芽の生き写しなのは姿かたちだけではないようだな)

 スピードの速さ、というものには色々な要素が絡む。ハンドスピード一つとっても、筋量を増やせば発生させられるエネルギーは増えスピードに繋がるが、増やし過ぎれば加重となり、逆の結果になるものだ。

 ハンドスピードが同等であったとして、次にフォームの問題が出て来る。同じ荷物に同じ力を加えても、それが土の上か氷の上かで結果は異なってくるものだ。刀使が日々励む素振り稽古は一重にスイングの無駄を削り取り、重い刀を滑らす地面を土から氷へと変えんが為だ。

 近い、遠い、というのも重要な問題となる。間合い取りの巧拙はスピードに絡んでくるのだ。同じ筋力で同じエネルギーを加えたとしても、移動距離が長いか短いかで結果が異なるのは自明であろう。

 結芽の場合、腕力ということであれば一般的な刀使には劣るであろう。

 だがそれ以外の全てにおいて世の常のものではない。むしろ下手に筋量を増せば技が曇る、まである。

 剣捌き、という言葉があるがまさしくそれだ。燕結芽は操刀の天才であった。才能任せに斬り立ててそのままに勝つ、結芽の剣。

 対応が出来るのは異様な学習能力で後先に長けた衛藤可奈美か、二刀の御刀に全く違う仕事をさせられる折神紫くらいなものだろう。燕結芽という刀使は。それほどの怪物であるということだ。

(ハンドスピードが速い。それだけならばいつかは何とでもなるものさ)

(受けていればそのうち目が慣れる。初めはボクもそう思っていた)

 まだある。

 同じ技が同じタイミングで来ない。

 結芽の筋力は一般的刀使の水準にないが故にだ。緩急を付けている、というのではなく、単純に筋力が少なすぎるのである。だから同じように刀を振ってもどっちに飛ぶか分からない。

 ところが当の結芽は、それが分かっているようなのだ。だから少々技がすっぽ抜けても対応が出来る。病弱で稽古もままならない身体を押して、まだ戦おうとする我が身のことを一番知っているのは、当然ながら主である結芽自身という理屈だ。

 普通あそこまで肉付きが薄い人間は、一キログラムある日本刀をああもスイング出来ない。

 金剛力などに頼るのが並みの刀使だが、結芽はそれをしない。あの筋量で日本刀を飛ばして見せる。日本刀という二尺四寸の金属棒にどう力を加えればどうなって、反動が加わればどうなるのか、それを寸毫単位で判断できるから出来ることで、それは、多分誰にも真似が出来ない。

 そう、誰にもだ。宮本武蔵にも塚原卜伝にもだ。

 燕結芽は天才であった。

 刀使発祥以来の才能と、今獅童真希は斬り結んでいるのでる。 

(強いな…強い)

 技の起こりを盗んで合わすのは極めて至難。だからと言って強引に反撃でもしようものなら、反撃のハの字にもなる前に鱠切りにされるは必定。何せ相手のほうが遥かに迅いのだ。

(結芽は強い。それに引き換え…ボクは弱い)

 結芽に始まったことではない。

 寿々花は巧かった。

 紫様は巧い上にパワフルだった。

 真希が今まで立ち会ってきた大抵の相手は、己より強い相手ばかりであった。

(そういえば…)

 真希の後輩。あの年の瀬の、折神邸の十条姫和。

(あれは迅かった)

 全く無類の速さだった。正直見えなかった。救いはあれの技は速くても単発に成り勝ちで直線的、しかも技の起こりが分かりやすかった。来ると思ったらそこから逃げれば何とかなったのである。

(あれに比べれば…)

 襲撃間隔が短くその上にモーションが読めない、ということを除けば、これより速い剣を、今の真希は知っている。

(なんだ。捨てたものじゃあないじゃないか、、ボクも)

 成長しているのだ。

 かつて結芽に成す術もなかった頃の己ではない。

 それに比べ相手はどうだ。

 迅い。強い。だけど二年前の結芽だ。

(もし結芽がまだ生きていたら…)

 その操剣にさらなる磨きをかけて、誰も及びもつかぬ境地に到達していたであろう。しかしいまここに居る結芽は違う。

「やはりお前は結芽ではない」

 真希のその言葉を荒魂はどう聞いたか。

 斬り合いの様相が少しずつ、変わって来ていた。

 相変わらず斬り立てられているのは真希だ。一度の反撃らしい反撃もない。しかし徐々にだが、荒魂の次ぎ太刀の間隔が長くなっている。

(真希さん…)

 寿々花には分かった。寿々花程の者でなければ分からなかったであろう。

 真希は剣をただ受けているのではない。

 受けた剣を弾いている。

 大きく弾き返すことは出来ていないが、結芽の天才を超える剣の挙動を、荒魂の剣に与えている。恐らくは手首の僅かな返し、掌の、指の僅かな傾斜によって荒魂の連撃を小さいながらも払っているのだ。

 真希は練習の虫であった。日々の素振りの単純数は時に万単位に乗っているのではとすら言われている程だ。刀使の命、左手首の強靭さならこれにより現役最強、なにせSTTのマッチョマンを腕相撲で捻るほどなのだ。

 真希にとっては小さいかもしれないそのスナップが、荒魂にとっては斬撃に斬撃をぶつけられたにも等しいものとなっているのだ。

 その斬撃と、斬撃のぶつかる間隔が徐々にだが、広がって来ていた。

 即座の継ぎ太刀への体制を整え切れていない。払われた斬撃を立て直すのに、ロスが生じているのだ。

「ギギギ!」

 荒魂が吠えた。

 払いのけてくる真希の薄緑に力負けしまいと、握る刀に力に力を籠める。

 ノロで形成された仮想の筋骨は、生物をはるかに超える力を発揮する。力と力で負けることは有り得ないと考え至ったのだろう。

 しかしそうなれば、真希の眼前の相手はもう結芽でも、結芽の偽物ですらもない。

 ただの人型の荒魂だった。

「フッ!」

 ここで初めて、真希が反撃の短い呼気を放った。

 払う。

 但し荒魂の刀ではない。

 払ったのは刀の柄を保持しているその拳だ。

 

 ギアアアアア!

 

 四散した手指は、地面に付くまでの間にたちまちの内に液状化し、雫と落ちる。

 荒魂にとっては毒刃を受けたも同然であった。

「逃がすと思って?」

 飛び逃れようとするその鼻先を、寿々花が迅移で抑える。

 荒魂の単眼が恐怖と絶望に歪む様を、寿々花は見た。

「!?」

 もし、視界の隅で真希がガクリと膝を付いていなかったなら、確実に荒魂の命運はここで尽きていたろう。

「真希さん!」

 構わず荒魂を斬り伏せるという選択肢を、躊躇いなく寿々花は投げ捨てた。

 繰り返すが、寿々花には何より優先すべきものが、ここにはあったのだ。

「構うな、奴を追え!」

 駆け寄る寿々花に真希叫んで寄越した時には悪運強くも荒魂は、遥か彼方へと飛び逃れていた。あっというまに、ビルの谷間に見えなくなる。

「お待ちなさい!」

『待て寿々花。深追いするな』

「!? 真庭司令?」

 インカムから入ってきた声は折神本邸の司令部に在る真庭紗南司令のものであった。

『すでに包囲は完了しつつある。お前たちは切り札だ。今は回復に努めろ』

「―――」

 真希の写シが飛んでいた。

 無傷で勝ったわけではなかった。払った筈の荒魂の太刀は、真希の上腕を斬り割っていたのである。

「真希さん! 大丈夫ですの!」

「どうだい寿々花」

「どうだい、って…」

「どちらが速かった? ボクかい、それとも奴?」

「ハナから相打ち狙いで…全く、貴方という人は…」

 この場に寿々花が居たから荒魂は逃れたのだ。

 ではもし居なかったらどうなっていたか?

 分からない。分かっているのは、姿も剣も結芽の猿真似に過ぎないあの荒魂は、例え猿真似であっても恐るべき相手に違いは無いいうことであった。

 

***

 

 御刀による手傷は、荒魂にとり毒刃を受けたに等しい。傷は絶対に再生せず、痛覚に相当するものが無い荒魂を激痛で苛む。

 人気の無い路地をよろめき進む、真希と寿々花より辛くも逃れた荒魂を出迎える者たちがあった。

 いったい何処から這い出て来たのかという数の、仲間の荒魂であった。大きさも様々なら形状も様々。猫程のサイズも居るし、人を模したと思える姿の者も居た。

 あの年の瀬に都内に降り注いだノロの分量は、たった一日足らずで今まで国内で管理していた量の数倍と言われており、つまり都内の何処でいつ何時ノロが活性化してもおかしくない状況が未だ続いている。荒魂の活性化に繋がる人の穢れは都内であるから事欠かず、つまり荒魂が小隊単位で同時活性化したとしても不思議なことではなかった。

 ノロとは互い引き寄せ合う生体金属であり、優れた荒魂は自然、他の荒魂を従える。これは結芽型の荒魂の云わば、現地徴用の手勢であった。

 思い思いに蠢く手勢の手近な一体に、おもむろにその残った左手を付き込む。

 貫手を突き込まれた荒魂は暫くビタビタと足掻いていたがすぐ動かなくなり、じきにその左手へ一体となって溶け込んでいく。

 次に荒魂が為したのは、今しがた仲間を刺し殺した左手で、我が右の手首を切り落とすことであった。

 まるで腐食していく患部を切り落とす、戦場の荒療治のように見える。

 手首の消失した右手を打ち振ると、振り下ろしたときには新たな右手首が現れていた。その袖口を模した部位から液状のノロが噴出し、じきに刀の形状となる。

 蠢く荒魂たちは、寄せてくる敵の気配を感じていた。

 彼らに惧れという感情はない。動く身体の在る限り人に仇為し続ける。例えそれが荒魂にとって致命を与える御刀を持つ相手だととしても、荒魂の行いが変わることは無いのだ。

 




オミ、ついに初結芽チャレンジです(偽



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馘御用 その5

「今際の家の生き残りを名乗っているのは貴方?」

「今代今際を襲名し、雅号(がごう)乱世(らんぜ)を頂き申した」

 真希と寿々花の死闘とほぼ時を同じくして、智恵とミルヤは対象の捕捉に成功していた。

「雅号…そういうことなら、今際乱世(いまわの・らんぜ)さんとお呼びしてもいいかしら」

「如何様にお呼び頂いても差支え御座らぬ」

 襤褸を身にすっぽりと覆ったその風体からは、容貌も背格好もうかがい知れぬ。服装、装備も不明であったが恐らくは御刀を携えて居よう。

 しかし都会にそのような形では、返って人目を引いてしまうものである。捕捉はいとも容易かった。

「じゃあ、乱世さん。貴方には、殺人容疑が掛かっています」

「疑義を承ろう」

「ここよりさほど遠くない下町の路地で、殺人がありました。その…生胴試しが」

「生胴試しとは穏やかならぬ。御公儀より免状得たるは当家今際のみの筈、何者が如何なる仕儀で行いたるや」

「その疑いが貴方に掛かっているのよ、乱世さん」

「とは、解せぬ」

「解せぬ、って?」

「申し上げたる通りにて、当家は御公儀より公儀御試し御用に任じられて御座る。されば例えこの身が何を試そうと、罪科を負うことは無い筈」

「殺人は罪です。誰であろうとそうです」

「無法なり」

 今際乱世は断言した。

「何者の定めた法か」

「国の。日本の定めた法です」

「ニホンとは、薩長に与した折神のこしらえた国か」

 智恵は、絶句する。

 その通りはその通りである。明治の維新を成したのは薩長土肥で、明治以降の国は薩長閥が動かしてきたとしても過言ではないからだ。

「薩長の法に従う義理は無し。さらば失礼申し上げる」

「まって。違うの」

「察するに貴公らは、薩長に追従する折神の家の刀使であろう。主に従う身の上と覚える故直ちには斬らぬ。されど御試し御用を阻むとあれば、当方に容赦なしとお覚悟召されよ」

「我々が明治政府の走狗、と考えているのでしたらそれは違います」

 これは、今の今まで黙していた木寅ミルヤである。

「今や明治政府など跡形も有りません。日本は太平洋戦争でアメリカに敗れ、明治以来の主だった幹部は皆処刑されました」

「アメリカ…つまり夷狄(いてき)に敗れ国を失ったと申されるか」

「その通りです」

「重ねて問う。貴君らの仕えし者とは」

「我ら伍箇伝の刀使は須らく折神御本家に仕え、それにより御本家より許されて御刀を借り受け、任務を行っています」

「折神家が今なお御刀を収集している事は置くとして、それが明治政府の指図でないとするなら、それを破ったという夷狄の差配によるものか」

「貴方の言う夷狄をアメリカ進駐軍とするなら、彼らは荒魂との戦いに敗れ、退きました。彼らの去った後私たちの祖父母たちが立てた日本政府が、今国を治めています。日本政府は民主主義なので、私たちの主人は民、と言うことが出来るでしょう」

「夷狄が去った後、文民自身が国を興し、治めているというか」

「そういうことになると思います」

「それに刀使が、仕えていると」

「はい」

「にわかには信じがたき哉」

 今際乱世は唸る。

「我が身が野呂(のろ)に投じられる以前の世とは、隔世の極み」

「ノロに…投じられた?」

「我が代では、ノロを満たした窯もまた、同じく野呂と呼び習わしており申した。一度敗死したるこの身が今在る理由、この他に思い当たらぬ」

「その窯に、投げ込まれたって言っているの?」

「敗れ伏したる身故、確たることは言えぬが、折紙の家との戦に敗れた我が身の亡骸は、我らが家中により密かに野呂に投じられたと覚える。この身が今在るは二世紀の長きを経て、先代の処置が功を奏したるものであろう」

「今は西暦2020年、令和2年。貴方の生きていた時代から、二百年が過ぎているのよ」

「今際家伝の人丹(じんたん)法と言えど、死人を蘇らすには月日が必要であったということになろう」

「一度死んだって言うの貴方は?」

「恐らくは」

「そして二百年後にまた蘇った、ノロの力で」

「恐らくは」

「…信じられない」

「ノロを医学的に用いる研究が存在したことは事実です、瀬戸内智恵。冥加刀使の複数名がノロの投与で心肺停止状態から蘇生しているという、資料を閲覧したことがあります。その最初の治験が旧折神家親衛隊の燕結芽であるとか」

 燕結芽。

 またもこの名前であった。

 智恵にとって、喉につっかえた小骨のような名であった。

「…しかしそれは綾小路学長、相楽結月の長年の研究による最新の治験です。未だ薬学の範疇となったとは言い難い。それを二百年も前に実用化したとは考えられません」

「ええ。ええ。分かってるわミルヤ。けれど…」

 信じられない。

 けれど嘘を言っているとは思われない。

 信じるしかないのではないか。そう思っている己を、瀬戸内智恵は自覚する。

「でもこうして、この人が目の前に居るのよ。最新の研究も覆す事実が目の前に居るっていうことにならないかしら」

「その通りかもしれません、瀬戸内智恵」

 学において瀬戸内智恵を上回る自信が、ミルヤにはある。その知恵をミルヤが尊敬して止まぬ理由は、資料の山からは決して得ることの出来ない知見を、この智恵が得ていると思われるからだ。

「重ねてお願いします、今際乱世さん。私たちに同行願えないかしら。もっと詳しく、話を聞きたいの」

「不承知」

 短く、乱世は答えた。

「もし我が身を折神の手の者に委ねるとなれば、この月山鬼王丸(がつざん・おにおうまる)は召し上げとなろう。そうなれば御用に差し障りが出申すが故に」

「鬼王丸…月山?」

「知ってるんですかミルヤさん」

「御刀の発祥に諸説ある中、鬼王丸は神から出羽月山に於いて御刀を得たと昔語りに伝えられる刀仙です。その名に因み、最初に神より得た御刀を月山と称する人も居る程です。昔話の類と思っていましたが…」

「神より賜りし御刀の第一はソハヤノツルキに御座れば、それは誤りに御座り申そう。家伝の月山鬼王丸はその神より、最初に奪いし御刀と伝えられており申す」

「ソハヤノツルギ?」

 思わぬ名が出て来た。それならば瀬戸内智恵の腰間にある。元来は日光東照宮の御神体であり、GHQも手を出しかねたものを、駿河湾大災厄の後今代折神紫が召し上げ、巡り巡って智恵の手にある。

「ソハヤノツルギなら、ここにあるわ」

「何と申されたか」

「ソハヤノツルギならここにある。私の御刀よ」

 ここに至って、その言葉に乱世はゆっくりと向き直る。

 今の今まで、乱世は帯刀した智恵たちに背中を晒して、話をしていたのである。

「聞き捨てなり申さぬ。ソハヤノツルギは畏れ多くも東照大権現様の佩いたる御刀ぞ。東都鎮守の為、日光東照宮に配置されていたものを、何故折神の刀使が腰に差すか」

「東照大権現…徳川家康公のことね。私の御刀は妙巡和尚伝持(でんじ)のソハヤノツルギの写しで本歌(ほんが。モデルとなった刀を指す)ではないとされているけれど、家康公の御刀に間違いはないと思うわ」

 刀使の神技たる写シと御刀の写しとは似て非なるものの通性を備える。

 征夷大将軍坂上田村麻呂が、世の荒魂を大征伐する折に天皇家より賜ったという御刀がソハヤノツルギ、その本歌とされるものであるが、今や見たことの在る者は誰も居ない。家康が所持していたのは、それを写したと伝承される御刀である。

 むろん御刀を鍛造する技術は失われて久しく、ましてやそれの写しを作成することなど現代では不可能である。写しとされる御刀は、そのような伝承がある、ということに過ぎない。

 しかし本歌が現存しないとされる写しの御刀は、その本歌の行方は知れず、往々にして現世にはもう存在しない、とされることもあり、そのアストラル、刀使が行っているところの写シのみが現存しているのでは、という説を唱える者もいる。

 智恵の佩刀ソハヤノツルギなどがまさしくそれである。千鳥や小烏丸にも匹敵するような存在であるかも知れない、人類の重宝であった。

「御試し御用は容易ならざるお役目なれど、避けては通れぬ仕儀と相成った」

 今際乱世は今や、智恵と真っ向から相対していた。

「今際流試刀術相伝印可、今際乱世。只今より御用仕る」

「長船女学園練士四段、瀬戸内智恵よ」

 直新陰流を学んだとされる瀬戸内智恵だが、それは伏した。

 駆け引き、というわけではない。御刀の扱いは真剣に準じる為刀使の多くは、御刀を得て後はその扱いを学んだ門派を名乗ることが多いが、元々智恵は全日本剣道連盟で得た段位を好んで用いていた。伍箇伝各校を冠すれば刀使の間では道場名として通用するので、流儀を求められればそうして応じるのが、門派を持たぬ刀使の常であった。

 そうと見た木寅ミルヤが、一歩を引く。

 名乗りに対し名乗ればこれは、一対一の果し合いであった。

 ツラ、白刃を抜き合わせた両者は、共に中段に付ける。

 相正眼となった。

 剣道の試合に見られるようなそれは、仕掛けられ難く同時に仕掛けて行き難い、手堅い構えであった。

(初見の相手には無難の構えですが…)

 智恵は兎も角、乱世がそう布陣したのは、ミルヤには拍子抜けであった。

 二百年前折神家と抗争を繰り広げ、敗死して二百年後に彷徨い出でたという怪物にしては、こう言っては何だが面白味が無い。初代月山鬼王丸を帯びたる刀使に相応しい秘術をこの目で見極めてやろうと身構えていたのが肩透かしを食らった格好である。

(最低限データを取って撤収しようと思ったのですが、案外その必要も無いかもしれません)

 智恵は強い。

 高校を卒業し女子大生となってなお現役の智恵のキャリアは大抵の刀使より長い。刀使の歴代を見ても長寿であると言えよう。それもただ長いだけでなく、特祭隊最精鋭たる赤羽刀調査隊副長として濃密な時間を過ごしてきている。

 柔道や空手道のピーク年齢が二十歳前半から後半と言われるのに比べ、剣道のそれは七十歳頃とされている。剣道は面数、という言葉通り、面を被った数がそのまま強さに結び付くのが剣道という武道である。

 瀬戸内智恵も御刀を取ってからは古流や居合に触れて来ている筈であるが、その上で御刀で剣道をやっているのであれば、己の強みをよく理解していると言えるだろう。

 ようは、場数が違うのだ。何度も勝ち、負けもして来たそのキャリアを最大限に活かそうという、智恵の構えである。

 対する今際乱世は――

(動かない…)

 どのような動きも見逃してはならない。

 そう考えてミルヤは、一歩を引いたのである。ミルヤなら見極めてくれると、そう信じて智恵は明治維新から彷徨い出て来た危険な相手に挑んだのである。

 なればこそ見極めねばならない。御刀定めの鑑定眼、他に類を見ないスキルを持つ木寅ミルヤの名に賭けて――

 しかし、動きは無かった。

 真似のように月山を、智恵と同じ中段に付けてから、それきりであった。

(何のつもりだ)

 御刀を持っているだけの棒立ちであった。

 何もしようとしていない。

(今際乱世、一体貴方は――)

 どういつもりであるのか。当然ながら同じ感想を智恵も懐いた。

(罠?)

(分からない)

(でも、見極めないと)

 ミルヤの為に、その役を買って出たのだ。

(…いこう)

 行く、といっても御刀を振り上げて踊りかかったわけではない。智恵のしたのは、ソハヤノツルギを中段に付けたまま、そろりと、ほんのつま先ばかりを、前に進めただけのことであった。

(…!)

 それと全く同じタイミングで、乱世も動いた。

 やはり鏡のように、智恵と同じだけ、ほんのつま先ばかりを智恵の間合いへと忍び入れたのだ。

(偶然? それとも…)

 智恵の真似をしているのか。

 分からない。だがこれで一気に危険が高まっていた。

 これにより両者の間合いは、合わせて一足分ほども縮まったこととなる。

 踏み込んでいかねばならない距離であったのが、今や手の働きのみで相手の皮膚に刃を走らせることが出来るところに来ている。

(どうする…!?)

 下がるか。進むか。斬って行くか。斬って行くならどういくか。一番手近の小手か、深く踏み込んで面か、突いて行くという手もある、或いは、或いは――

 怒涛の選択肢より選択をせねばならない。それも一刻の猶予もない。一瞬遅れれば斬られるのは己なのだ。

(いくんだ!)

 斬られるかもしれない。

 けど大丈夫。ミルヤが居る。何とかしてくれる。

(信じるんだ!)

 友ミルヤの存在が、智恵に勇気を与えた。

 果敢にも真っ向唐竹割りに斬り割っていく智恵に、これも――

(まさか!)

 まさか、まさかであった。

 これも乱世は合わせ鏡としたのである。

 唐竹割りの応酬、それもノーガードの斬り合いとなった。

(バカな)

 一体なにを考えているのか。

 見守るミルヤは、正気を疑う。

 智恵はまだいい。写シを斬られて意識が飛んでもミルヤや、何処かに潜んでいるであろうSTTの支援がある。生還が期待できるのだ。しかし乱世が相打ちとなって斬られた場合そんなものはない。煮るも焼くも自在だ。

(今際乱世、貴方は――)

 斬撃と斬撃が、両者の間で火花を散らした。面打ちと面打ちが空中衝突したのだ。昼なお明るく路地を照らす程の光芒は、御刀の棟と棟ではなく、刃と刃がぶつかり合ったことを示唆する。

 合わせ鏡にも程がある。

 そのまま刃は、右と左へ、同じだけ逸れた。

「ぐ…!」

 脳天をカウンターで斬り割られれば生身なら即死、写シを張っていても失神コースは確定であったが、その結果双方の御刀は双方の肩口を斬り飛ばしていた。

 智恵の写シが飛ぶ。

 ミルヤが抜刀する。

 乱世は――

「お見事」

 乱世の写シも飛ぶ筈であったが、そうはならなかった。

 写シが飛べば肉体が残る。その筈であったが、乱世であったものは肉体どころか肉片すらも残さず、霧散しつつある。

「「な…!」」

 ゆめ幻か。

「確かに面打ち一本、お預かり致し申した」

 その言葉を限りに、今際乱世のその姿は智恵とミルヤの眼前から霞と消え果ていた。

 

***

 

 折神家本邸の階段を駆け上っていく安桜美炎の血相が変わっている。

 美炎だけではない。六角清香、七之里呼吹、山城由衣、鈴本葉菜ら赤羽刀調査隊の面々がその後に続いている。

「ちぃ姉! 写シが張れなくなったって本当!?」

 局長室の扉をノックも無しに打ち開いた美炎の開口一句がこれであった。

「智恵さん!」

「マジかよチチエ!」

「嘘ですよね!」

 口々に言う調査隊の刀使達に、智恵は微笑んで応える。

 寂し気な微笑みであった。

「申し訳ありません、私が付いていながら」

 木寅ミルヤの言葉の語尾は僅かに震えており、調査隊の面々は現実を突きつけられる。

「…その馘ってやつは何処に居やがる」

「許せない…許せないよ!」

「待って皆、落ち着いて」

 殺気立つ美炎たちを制したのは、隊長であるミルヤや、その上司でもある折神朱音、真庭紗南でもなく、当の瀬戸内智恵であった。

「私もうすぐ、二十歳になるの。成人して現役だった刀使は、そんなには居ない。だから今度斬られたらって覚悟はしていたの」

「ちぃ姉だったら行けるよ! もっともっと行けるよ! 紫様と同じくらいまでだってきっと…」

 成人式に御刀を返納する刀使は多い。

 人に成ると書いて成人であるが、刀使にとって成人とは寿命であり、即ち刀使としての生の終わり、死を暗示するものであった。

「きっと…きっと…」

 美炎の瞳から、熱いものが零れて落ちる。

「智恵さん。今まで、大変お疲れさまでした」

 今の今まで黙していた折神朱音がこれを発した時、声にならぬ悲鳴のようなものが、調査隊の面々に走る。

「ソハヤノツルキですが、暫しの間、貴方に預けます。宜しいでしょうか、真庭司令」

「はい。急な話で、ソハヤノツルギの次の適合者の捜索は段取りさえ出来ていませんし、歳を重ねれば一時的に写シが張れなくなったりする例はあります。もう少し様子を見てみるのが妥当だと、私も思います」

「ホントですか!?」

 泣いた烏がもう笑うというが、今の美炎が正にそれであろう。

「智恵さん。貴方さえ良ければ」

「…有難うございます、局長。お言葉に甘えます」

 智恵は微笑んだが、それは寂し気であった。

 

***

 

 モニターに表示された画像は急激に落下し、二度三度と跳ね回った挙句同じところしか薄さなくなってしまった。

「撃墜したのか!? 荒魂がドローンを!?」

「この時までパラメーターに異常は有りませんから、恐らくはそうですね」

「ドローンが何なのか分かっているのか、奴らには」

「はっきりと分かっているとは考えにくいですが、有害なものであるということは認識しているのでしょう」

 真庭紗南司令に応えているのは、最近オペレーター兼技術参謀として司令部に招かれることの多い播つぐみ(ばん・―)である。かつては錬府学長高津雪菜の子飼いとして活躍していたが、療養中なのをいいことに紗南がいいように使っている。ざまあみろ、と思っているかどうかは定かではない。

「言葉を操る機能はないにしろ、人型相応の知能があると見て良いでしょう。作戦科から上がってきた対荒神用の作戦案が役立つかと」

「だと良いのだがな」

 剣対剣に優れた刀使一名ないしは二名を護衛し敵中を突破、という作戦骨子はタギツヒメ戦で柳瀬舞衣が立案したものを踏襲している。ただ、大荒魂の多くが引き連れる荒魂の群れを突破するには突破重点が形成されねばならず、そうなれば荒魂も集中してくる。混戦になれば事故も起きやすい。大荒魂と対峙するまでは、可能な限りエースの写シを温存しておきたい。

 このような事情で、ここ最近の手ごわい荒魂にはは少数のエース刀使を有象無象をかき集めて全力護衛というような作戦になりがち、というかそれ一辺倒と言って良かった。

 エースのタマが少ないのだから他にどうしようもない。対大荒魂決戦戦力が衛藤可奈美、十条姫和のみという状況は余りにも作戦資源に余裕がなく、この両名に拮抗する刀使の錬成が急務となっている昨今である。

 せめて春先、御前試合が終わるころには対荒神用の作戦の錬成がひと段落する筈であったがそれを待ってはいられない。何せあの偽結芽の手勢の支配区域にはまだ取り残されている人々もいるハズであった。こうしている間にも犠牲者が出ているかも知れない。

「なけなしの決戦戦力の一翼、十条姫和は地元…すぐ動員は難しい。ここは衛藤可奈美を突入に、獅童真希、此花寿々花の両名を決戦中核として出動割りを作るとしよう」

「はい。あと、例の申し出、どうしますか」

「自衛隊か」

「大荒魂に突破を許した負い目があるんでしょうね、恐らく」

「協力してくれる分にはありがたいが、こちらの手の内を見られるのもあれだ。情報協力だけ有難く受けて置こう」

「分かりました。それと、あの…」

「ああ」

 特祭隊最精鋭たる赤羽刀調査隊は今、フルメンバーが動員可能状態にある。しかし――

「馘め」

 真庭司令は吐き捨てる。

 あの亡霊のお陰で、調査隊は今、気持ちが作戦に向いていない。副長、という以上にメンバーの精神的支柱である瀬戸内智恵の刀使生命を奪われたのだから、無理からぬことであった。

 あの偽結芽だけならまだよい。

 かつて折神家の宿敵となった今際の家の生き残りは、今なお放置されたままだ。まさしく二正面作戦の愚を、特祭隊は強いられている。

 折神紫が示唆する「大荒魂複数体の同時襲来」という事態を、特祭隊は一度乗り切っている。しかしそれはその複数体の大荒魂が相争っていたから何とかなったのだという側面も否定出来ない。

 もし再び、あの年の瀬の災厄のような事態が生起したとしたら――

 それは真庭司令のみならず、伍箇伝指導部の共通の懸念である。あの偽結芽も馘も所謂大荒魂ではないにしろ、それと同等の脅威だ。目下目指す、エース刀使の増強が進んでいない今、少ない手駒でこれを乗り切らねばならなった。

 

***

 

 神々との邂逅は、稀血(まれち)を受け継ぐ稀人(まれびと)を産んだ。

 折神の家の刀使は如何なる御刀とも適合する。神の五体とも云われる天下五剣並びに大包平に適性を示した刀使は現代に至るまで折神家の刀使のみであり、最も神に近いとされる血脈である。

 柊の家は魂鎮めの秘剣を受け継ぎ、その迅移は光速すらも超えるとされる。

 代々荒魂を守護獣とする益子の家もこれに準じよう。

 今際の刀使はノロへの適性を持っていた。一説に今際の始祖が大荒魂に血を与えられた為とも伝う。今際家伝持の月山鬼王丸は神より盗んだ第一の御刀とその家伝に称するが、それとも関わりがあることかも知れない。

 同じく荒魂と親しんだ益子の家が弥々を守護獣としていたのとは違iい、液状化したノロの壺を受け継いでいた。不思議なことにこのノロは穢れを蓄えることがなく荒魂化せず、これを適切に処方すれば死病も治癒した例もあったことから、今際の家は医家としても大家となり江戸時代には一財を蓄えた。

 しかし処方は今際の家の者にしか出来ず、様々な憶測を生んだ。曰く、今際の家の者には代々、ノロが血に流れている。荒魂の血を受け継いでいる家である――

 このようなこともあって折神の家とは折り合いが良くなかった今際の家は江戸期に入ると幕臣となり、各地に散逸していた御刀を収集する役割を担った。

 折神の家が極めた御刀を折り紙付きと称するのに対し、業物、大業物などと言った呼称は今際の家が極めを付けた御刀に付く。御刀保全を専らとする折神家に対し、今際の家の極めは実用、対荒魂のみならず対人戦闘用、即ち刀使対刀使の斬り合いにおいても効力が保証された実用刀として、武門に広く認められたとされる。

「代々、今際の家の当主となるものは詩歌俳諧を学び雅号を得なければならないという取り決めがあったそうです」

「がごう?」

「例えば葛飾北斎の北斎は雅号です。松尾芭蕉の芭蕉もそう。今でいうペンネームのようなものでしょうか」

「宮本武蔵の武蔵とか、塚原卜伝の卜伝とか?」

「それは道号ですね。雅号というのは詩歌や俳諧、絵画の道で用いる名です」

「なんで? 俳句と刀使は関係ないんじゃ」

「今際の家は斬首刑にも携わっていたんです。馘を名乗るのはその為でしょう。刑執行の際、受刑者が詠む辞世の句を解する為であろうと一般的には言われていたそうです」

 斬首刑。

 調査隊の面々はうそ寒く首を竦める。

 ここに居る誰もが、実際に人を殺めたことはない。当たり前であった。刀使の斬るのは荒魂であって、人ではないはずだ。

「人を斬るのに使ってたってのか。御刀を」

「徳川が御刀を収集したのは、折神家を擁する天皇家に対抗する為でした。何も徳川に限ったことではなく、鎌倉の昔から、時の権力者は挙って御刀を求めました。優れた御刀が手元に在れば領地の荒魂を鎮めるのみならず、隣国に対する牽制にもなったからです」

「それって今の核兵器みたいね」

「じゃあ実際に人を斬るのはあれか、核実験か何かか。笑えねえ」

 賜った公儀御試し役の名の元、今際の家の収集した数々の御刀は抑止力としての役割を全うした。明治維新、官軍に付いた折神家との抗争に敗れ去るその時まで――

「現代の刀使は幸せなのかもしれません。荒魂のみを相手にしていればよいのですから。同じ刀使を相手に殺し合わなくてもよいのですから」

「そうも言ってはいられないわ、ミルヤ」

 瀬戸内智恵の声色は厳しかった。

「馘は今もまだ、この街の何処かに潜んでいるのよ」

 智恵の言葉に応える者は居ない。

 二百年の過去より彷徨い出たのは、刀使の黒い歴史そのものであった。その重い闇は思いもかけず、歴戦の調査隊の面々ですら、ただ立ち竦むしかなかった。

 

***

 

 無明の闇の内に灯った有るや無しやの燈明が、女の姿を映し出す。 

「あれが今世の折神の刀使。そして今世ソハヤノツルギか」

 呟きは陰々滅滅と、闇を跳ね回って消えた。

 その部屋の内に窓は無い。出入り口らしいものすらもない。

 似たものを探すなら、石室であった。

 故人の棺を納める墳墓の、あの石室である。

 女の坐しているのは、その中央の石台の上であった。

 女、といっても女を思わせるような衣服らしいものを身に付けてはおらず、代わりに身を覆っているのは夥しい面積の包帯であった。

 清潔とは、決して言えぬ。文字通りの襤褸である。

 襤褸の女は刀を手にしていた。

 抜き身である。

 鞘も無ければ柄すらも無いその刀の、妙純傳持、と刻まれた茎を裏返せば、ソハヤノツルギウツスナリ、とある。

「御刀の姿、健全なり」

 呟き、茎に鞘を被せる。その鞘を握り、傍らの鞘を取って納める。

 その一連の動作を終えた瞬間には、その手の内で検めていたはずの御刀は跡形もない。

 霧のように、消え失せてしまっていた。

「但し技前に曇り在り。さらなる試刀の要を認む」

 御刀が消え失せれば、石室に燈明は無い。

 ただ無明の闇のみであった。

 



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馘御用 その6

 要人暗殺や破壊工作などの特殊作戦は、進入する兵士によって遂行され、作戦の成否は進入した兵士の成果により決まる。

 だが荒魂掃討を作戦目的と位置付けた今回のような作戦で、突入班が成否を決するとは限らない。突入を受けた対象が全て突入班と望んで交戦するとは限らないからである。

 荒魂も逃亡することがある。知能の高い野獣などに擬態した荒魂にはその傾向が高い。勝ち目がないと判断したら生命活動の維持を優先することがあるのだ。

 そうした荒魂を逃がしてしまっては作戦の目的は達せられない。目的を駆逐ではなく殲滅に置く以上、突入以上に重大になってくるのが包囲だった。

『特別祭祀機動隊総司令、真庭紗南より現場に達する。現時刻を持って、作戦対象の刀使擬態型タイプHをイクサと呼称。このイクサ撃滅が本作戦の最優先目標となる』

 本邦の神話よりその名を引く大荒魂の呼称に準じ、ヨモツイクサの名を折神朱音が提案し、それを省略したものが呼称として採用された。最早結芽の偽物でも何でもない、冥王の獄卒というわけだ。

『この作戦で最も危険にさらされるのは突入班である。突入班は遭遇した荒魂を駆逐しつつ区域を検索、保護対象となる市民を発見次第救出する。その過程で突入班がイクサと遭遇する可能性は高い。もしそうなった場合は交戦せず討伐班に通報せよ』

「うい」

『ういではない、はい、だろうが』

 突入班を指揮するのは伍箇伝において討伐参加数は髄一と噂される益子薫(ましこ・かおる)である。薫の突入班が荒魂群生地に突入、荒魂と交戦。次にイクサを発見すれば直ちに討伐班に通報。討伐班は直ちに出動、これを殲滅する。これに加えもしイクサや他の荒魂が逃亡した場合、包囲班がこれを食い止める。特祭隊並びにSTT総力を挙げた作戦となる。

『古波蔵、衛藤、こいつの世話を任せだぞ』

「何時ものことネ!」

「あはは…」

 益子薫と古波蔵エレン(こはぐら・―)、衛藤可奈美(えとう・かなみ)が率いるのは都心に常駐する古参であった。偽結芽――イクサを撃破する力は無くとも、並みの荒魂に後れを取ることは無いし、何よりそういった、己に出来ることと出来ないことを分かっている刀使たちである。要救助者を探し、荒魂と出くわせば交戦。無理そうならば下がって応援を呼ぶというこの、無理そうならば、という判断がしっかり出来るベテランであった。

 なお全隊員に新鋭の、稼働時間延長型のストームアーマーが支給されている。真っ二つにされても写シが飛ばない優れもので、一度も斬られなければ丸一日の間稼働する、ことになっている。

「まあ一回斬られれば稼働時間は1時間になっちまうけどな」

「グランパ、頑張りましタ!」

 こうして荒魂の支配区域に突入した薫とエレンであったが、いきなり異常事態に出くわす。

『こちら第一班、イクサと思われる対象を発見!』

「いきなりすぎだよ!」

「まだ突入して五分もたってないネ!」

「すぐ行く無理すんな!」

『それが隊長』

「なんだ!」

『イクサと思われる対象、撃破。液状化していきます』

「…は?」

『こちら第二班! イクサです!』

「何!?」

『こちら第三班! こっちもイクサ! それも二体!』

「何だと!」

「なんかいっぱいいるよ、薫ちゃん」

「どういうことデス?」

 状況は現場司令部の紗南にも即座に共有される。

「おそらくイクサが用意した替え玉ですねえ」

 播つぐみが見解を述べる。

「そんなことが可能なのか」

「元々荒魂は、生物に擬態したノロですからね。イクサを擬態することも論理的には可能かと」

「いや問題はそこじゃない。替え玉を拵えてかき回してくる荒魂とか、聞いたことも無いぞ」

「新たな発見ですねえ」

「言ってる場合か! これじゃあ討伐班の出動がかけれないぞ!」

 前代未聞の事態と言える。

 荒魂には知能が無いというのが、最近までの刀使たちの常識だった。現在でも荒神クラスでなければ知能は無いと認識されている。しかし荒魂の頭目に知能があるとするならば、こうした作戦を考えてくる事態は想定出来たはずであった。

「ドローンを撃墜したのもこれを悟られないためか。知恵ある荒魂ってのがこうも厄介だとは」

「どうします、司令」

「突入班、威力偵察に切り替えろ。イクサとの交戦を許可する。イクサを倒せ!」

『いいの!? やったあ!』

 この時点でエレンと薫は二人とも、戦闘を部下に任せ一歩を引いている。

 怠けているわけではない。備えているのだ。偽物を倒していけばそのうちには本物に出くわす。その時までに写シを温存しておくためだ。

「燕結芽のニセモノだとぉ? 肩腹痛えぜ。こちとらモノホンをぶった切ったこともあるんだぜ?」

「その後メッチャ斬られましたケドね」

「うるせえぞエレン!」

 なおこの時点で可奈美は飛び出して行ってしまっている。沢山いるから沢山手合わせ出来るとでも思ったのだろう。よって二人が臨時の決戦主力となった。しかしこの時点で大きく想定と違った作戦となったことは、確かであった。

「随分と面倒なことになってるようだな」

「結芽に似て、悪戯好きな荒魂ですこと」

 この時点で獅童真希、此花寿々花の二名はポッドの中である。

 S装備の充電設備も兼ねるポッドはロケット推進で打ち上げられ、マッハ5で飛翔、目標地点に衛星からの電波誘導で照準から誤差1メートル以内の地点に落下する。リチャード・フリードマン博士に言わせれば着地だそうだがあの絵はどう見ても墜落、百歩譲っても着弾であろう。当初はS装備運搬用であったが、写シを張った刀使ならば着地のショックに耐えられることから今は刀使の急展開用装備として運用されている。なお着地した時点で写シを一回使ってしまうらしい。有人ミサイルとか神風特別攻撃刀使とか自治体間弾道刀使とかダイナミック宅配刀使とか云われる所以だ。充電しているから問題は発生しないが――

「確かに結芽らしい、と言えば結芽らしいな」

「ええ。結芽も大層、悪戯好きでしたし」

 獅童真希、此花寿々花の二名のみ本作戦の中核、討伐班である。

 真希、寿々花の刀使としての実力経験は可奈美や姫和に拮抗しうる貴重なものであったが、それと等しく貴重な前線での戦闘指揮能力を併せ持つところが悩ましい。本来なら1列目でなく1.5列目の立ち位置で起用したいところだが、今回はカチコミ役である。

「それにしても、本当に奴は、結芽を擬態したんだな」

「ええ」

 結芽は二年前亡くなっている。そして無生物に擬態した荒魂は一例しかない。30年以上も前の相模湾大災厄のタギツヒメのみが例外なのだ。

 ならばどうやって擬態したのか。

((まさか結芽は…))

 結芽は死んだ。それは二人とも確認していることだ。

 だから二人とも、口にはしない。

 口にすれば消えそうなほどに、儚い希望であるから。

 

***

 

「流石特祭隊。想定外事態でも即座に立て直してるわ」

「薫ちゃん、大丈夫かなあ」

「この調子なら大丈夫。きっと私たちの出番は来ないんじゃないかしら」

 折りたたみ式の電子双眼鏡を覗き込んでいるのは、特祭隊の作戦を遠望する自衛隊、特別害獣駆逐隊槍者班、班長の日向野々美と、空自の助っ人八雲未羽であった。

 海空自衛隊よりの選抜者と合流した特駆隊槍者班は60名を超えていた。

 特祭隊の戦闘を遠巻きにしているのはそれより選抜された10名程で、言うなれば観戦武官であった。全員が御槍を装備しており討伐参加は可能であったが、目下のところその必要は感じられない。

「…でも美濃関の制服いいよね。儀仗隊っぽい」

「え?」

 突然何を言い出すのかと、未羽は切れ長の涼やかな瞳を丸くする。

(ええと…作戦に関係ないと思う話だけれど、答えなければいけないのかしら。この場合、感想を?)

 リアクションに困惑している未羽と野々美を見比べて、

「えと。あの。班長さんは、儀仗隊に入りたかったんですよね」

 こう助け船を出したのは海自出向の櫂潮であった。

(海自さんがに乗った!?)

 未羽が真ん丸にしたままの目を、野々美から潮へと向ける。

「うん。男の子しかダメだって知った時にはへこんだよ」

 そんな出向槍者二人の様子などお構いなく、野々美は双眼鏡を覗き込んでいる。

「えと。うちも野戦服じゃあなくって、美濃関みたいなのだったらよかったですね」

「うーん、美濃関もいいけど、薫ちゃんとお揃いもいいな」

「あの。長船は、似合う子と似合わない子がいるんじゃないかなって」

(話題が続いてる…)

 いや制服可愛いという話なのだろうが、今ここで話さなければならないことだろうか。どうにも野々美のペースに付いて行けないところが、未羽にはある。今のところは大丈夫そうだが、状況が変われば支援突撃となる可能性もある。その為に御槍を持ってきているのだ。

 未羽は相応に緊張していたが、野々美はそうでもないらしい。調子を合わせてる潮はどうか分からないが、多分、歴戦のなせる業だろう。緊張感を持っていても固くなってはいないようだった。

(これでいいのかも知れないわね。私も見習うべきなのかしら…ん?)

 未羽の覗き込む双眼鏡のレンズに、異変が写る。

 手元のズームを操作して拡大したのは突入があったところではない。その外だ。

「いぶり出された!」

 傍らで野々美が呟く。包囲網の内縁の辺りで、爆塵が上がっている。それを野々美も捉えたのだ。見ていないようで見ているらしい。

「行こう。もっと間近で見たい」

「COPY」

「了!」

 三人の槍者は、仲間と共に飛び出していく。

 

***

 

 包囲に配置される刀使には限りがある。

 正面が広すぎるのだ。

 そこで主力となるのがSTTのマッチョ達なわけだが、稲河暁(いなご・あきら)の名は割とSTTに通りがよい。以前安桜美炎や鈴本葉菜らと共に警察へ出向したことが活きているのであろう。

 暁の出で立ちに、伍箇伝生徒を思わせる露出は極最小限度だ。袖を抜いて肩に乗せた皮ジャンの、今宵の刺繍はドラゴン・ライジングサン。トッポい見てくれ通り現場叩き上げ、喧嘩の巧さでは伍箇伝髄一とも噂される。前に居ても後ろに居ても頼れる刀使であり、彼女が居合わせたことは包囲班にとっては強運であったと言える。

「おいおいなんだなんだ。手も足も出ねえじゃあねえか」

 何事も無かったかのようにむくりと起き上がる。

 今しがた写シの上から脳天をカチ割られ、ひっくり返ったばかりである。並みの刀使ならば丸一日は意識が戻らぬ負傷だ。平気な筈はない。

 やせ我慢であった。

 弱みを見せればなし崩しになることを、暁は知っている。

 その暁の眼前に立ち塞がっているイクサは、今突入班が始末している個体とは明らかに、『濃さ』が違っていた。

「手下を見捨てて逃げ出すなんざ、みっともねえぜお前」

 こいつは本物だ。

 オリジナルのイクサである。

「手下をダミーの群れにして、それに紛れてトンズラのつもりだったんだろうが、あたしらの目は誤魔化せねえ。ここらが年貢の納め時だぜ」

 ニンマリと口角を上げる暁を、イクサがどう見たのか分からぬ。

(こいつで誤魔化されてくれよ。流石に余裕がねえんだ)

 正直、押せば倒れる状態である。御刀を肩に置いているのは構える体力がないからだ。

(これでもう一回斬られたら刀使生命終了だな。いや、それで済めばいい方か)

 一生意識が戻らないかもしれない。写シは未来の己の命。斬られて無事なのは肉体だけだ。魂が死ねば、肉体も死ぬ――

(頼むぜ。急いでくれ)

 速く来い。情けねえが今はお前らが頼りなんだ。頼む――

 暁の願いは叶えられた。

「カウントダウン入る! 5,4,3、だんちゃーく、今!」

「退避!」

 包囲していた刀使達が一斉に飛びずさるのと同時だった。

 

「ギガ!?」

 

 イクサの前後に、超音速の救援が突き刺さった。

 何事かと単眼を瞬くイクサの眼前で、進路と退路を塞いで屹立したストーム・アーマーポッドがそのハッチを解放する。

「待たせたな」

「出前迅速で助かるぜ」

「よく食い止めてくれました。後はお任せくださいませ」

 内より現れたのは獅童真希と此花寿々花である。

 二年連続の御前試合ファイナリストであるこの両名がストームアーマーを装着して戦った記録は、意外にもない。真希たちが討伐任務の前線に居た頃はS装備は開発中であり、親衛隊入りしてからは討伐から外れることが多く、使用する機会が無かったからだ。

 衛藤可奈美らと共にタギツヒメ討伐に加わった折も、旧折神派ということで装着が許されなかった。だから目の当たりにした者たちは幸運であったと言える。

「さて。第二ラウンドと行こうじゃないか」

 源氏の重宝薄緑が、白昼にその姿を現す。

 

***

 

 赤羽刀調査隊は、その全員が制服と御刀を装備して現場司令部に控えていた。

 その全員が有力な刀使である調査隊は可能なら現場でバリバリ働いてもらいたいところだが紗南の見立て通り、揃って全員が作戦に気持ちが向いていない。よって無理に戦闘させず、予備として留めおかれている。

 もちろん無駄に出来る戦力ではない。もし討伐班の二人が仕損じたなら、継ぎ太刀として調査隊出動が掛かることになっている。

 可能な限りは馘に集中させてやりたいという、紗南の温情を誰もが感じていた。

「ごめんなさいね、私のせいで」

「ちちえが謝ることじゃねーだろ」

 荒魂討伐と聞けば飛び出していきそうな七之里呼吹に、その気配が無い。もちろんほかのメンバーもである。智恵の傍を離れようとしない。

(瀬戸内智恵の存在の大きさを思い知らされる)

 もしこのまま智恵が戻らなければ、己は隊を纏められるのか。木寅ミルヤは自問せざるを得ない。そのようなことにならないで欲しい。というか隊の運営に支障が出るから、という話以前にミルヤは智恵に傍に居て欲しかった。どのようなことでも受け止めて、一緒に考えてくれる智恵という存在はいつの間にかかけがえのないものなって来ていた。

 他の皆もそうであろう。

 何とか。何とかならないものか。

 その方法が無いことは分かっている。刀使である以上何時かは訪れることだと分かっている。しかし、それでも、何とか――

「これは…不明刀使一名、作戦区域に向かっています!」

 つぐみの声で、ミルヤは我に返る。

「自衛隊ではないのか」

「いえ、これは…馘です!」

「何だと!」

 色めき立ったのは真庭本部長のみではない。

 調査隊の面々が、一斉にモニターに身を乗り出す。

(間違いない。奴だ)

 着る、というより被っているだけの襤褸は、先の接触と何ら変わりがない。身に帯びた御刀、月山鬼王丸も。しかし、何故、このタイミングで今ここに?

「対応します、本部長」

 分からない。分からないが短く、ミルヤは告げた。

「行け」

 紗南の回答もまた、短かった。

 



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馘御用 最終話

 幕末、池田屋の攘夷派を取り締まった新選組の内、死者を出したのは突入した隊士ではなく、裏口を封鎖していた隊士たちであったことはあまり知られていない。突入以上に危険かつ重要なのが敵の脱出を封じる包囲である。

「御用の筋にて罷り通る。邪魔だてすまいぞ」

 馘は、既に抜き身である。

 盾を連ねて城壁となっているのはSTTの隊員である。

 稲河暁を始め有力な刀使も配置されていたが、包囲の正面は長く、全員を刀使とすることは出来ない。それを補うのがべく配置されるSTTは、御刀を携えているわけではないから、写シは張れないし迅移も金剛力も使えない。それを補うために全備重量60キロにもなる防刃防弾装備を装着し、日夜荒魂とジュラルミンの盾と警棒で白兵戦闘を繰り広げ、市民を守って来た猛者たちである。

 全員が何らかの武道の有段者であった。

 それがじりじりと後退していく。

 今際乱世の歩む足元に転がる半透明の板は、STTの用いる特殊強化アクリルの防盾であった。半透明故内側からの視界を妨げにならないながらも20ミリ対物ライフルの接射を受けても割れることが無いそれを、刃物で断ち切ることなど常識的に不可能の筈であった。

 しかし切断は起こっている。それも何度も。

 WWⅠにおいては戦車砲として用いられていた口径の砲を上回る刀勢とは一体如何なるものなのか。

「止むを得ん。発砲を許可する」

「了」

 散弾銃を携えた隊員が、その筒先を向けた瞬間全員の視界から馘が消えた。

「矢弾鉄砲にても苦しからず」

「ちぃッ!」

 隊員が咄嗟に銃を投げ出さなければそれごと真っ二つになっていただろう。

 ここに至って初めて、馘が迅移の踏み込みを遣ったのだ。

 咄嗟に仲間の盾の内側へと飛びのく隊員に対し、馘は二の太刀を継がない。

「我が役儀は試刀、無用の争いは好まぬ。退かれたし」

「分かった。退こう。我々の任務はここまでだ」

 その一言と共に突如、肉弾の城壁が下がっていく。

「馘っていうのはお前かよ」

「…む」

 潮が干くように退いていくSTTの、半透明に霞んで見えなかった盾の裏側より現れたのは、調査隊の六名と、その携える七振りの御刀であった。

「今際乱世。貴方には特別刀剣所持法違反、並びに暴行の現行犯で、同行してもらわねばなりません」

 六名の刀使と七振りの御刀が新たに今際乱世を包囲する。

 木寅ミルヤ。

 安桜美炎。

 六角清香。

 七之里呼吹。

 山城由衣。

 これに鈴本葉菜を加えた六名が現在の赤羽刀調査隊の前衛フルメンバーである。

(こいつがちぃ姉を…)

 本当ならば瀬戸内智恵とそのソハヤノツルギが、ここに在らねばならない。

 でもここには居ない。居ないのはこいつの…馘のせいだ。

 安桜美炎の想いは他の五名も同じである。

「恨みの筋ではないのか」

「我々もお役目であるとご理解下さい。…ただ、その筋が無いと言えば嘘になります。貴方に斬られた瀬戸内智恵は写シが張れなくなれました」

「役儀と言うならやむを得ぬ。怨みつらみもまた斬り合いには付き物故致し方なき事。したが当方にも役儀在り。暫くの猶予を求む」

「貴方の役儀とは何ですか」

「公儀御試し役の役儀は御試し御用の他になし」

「試す、とは何を。何で何を斬るつもりなのですか今際乱世」

「畏れ多くもソハヤノツルキを以って、燕結芽なる刀使を仕り申す所存」

「…!?」

 一同が耳を疑う。

 燕結芽はもう居ない。二年前に死んだ。その筈だが…

(いや。燕結芽ならば居る。そのニセモノ、イクサが)

 では、ソハヤノツルギでそれを斬る、とは?

(いや、まさか)

 ミルヤは我が眼鏡を取り払う。

「…ソハヤノツルギだと!?」

「え!?」

「ソハヤノツルキです。今際乱世はソハヤノツルギを所持しています…!」

「どういうことなの? ソハヤノツルキは今もちぃ姉が持ってて…」

「分かりません。ですが間違いありません。あれはソハヤノツルギです」

 木寅ミルヤの固有能力、御刀定めの鑑定眼に間違いはない。ミルヤが言うのであればあれはソハヤノツルギなのだろう。しかし、何故? 瀬戸内智恵ならばまだ現場本部に居るはずだ。その智恵は御刀の返納を猶予され、まだソハヤノツルギを佩いているはずだ。

「ちぃ姉! ソハヤノツルキは!?」

『こちらに有る。間違いないわ。けど…』

 智恵はモニター超しに、馘の御刀と我が腰の御刀を見比べる。

 画面の精度の関係で刃紋までは見て取れぬ、しかし刃渡り身幅に腰反りに至るまで我が佩刀ソハヤノツルギの鏡写し。

 しかし何故ソハヤノツルギが二振り在るのか。大体先ほどモニターを確認した時には、馘は月山を帯びていた筈だ。

「どういうこと!?」

「どっちかが本物でどっちかが偽物ってことかしら」

「どっちだっていいだろ、こいつをとっ捕まえてしまえばいいことだ!」

「「待って!」」

 美炎と清香が期せずしてハモった。

「ダメよ、それはダメ」

「何でだよ! 清香はムカつかねーのかよ! こいつがチチエをやったんだぞ!」

「でもダメだよ。私たちが斬って祓うのは荒魂。刀使じゃない」

「もう冥加刀使の時のようなことはいや…」

 かつて調査隊は凄絶な同士討ちを行ったことがある。

「「…!」」

 冥加刀使としてタギツヒメ側に付いた山城由衣と鈴本葉菜、その両名共が清香の言葉に居竦む。途中より洗脳から回復した由衣は兎も角、葉菜に至ってはつい最近に至るまで、調査隊のメンバーとの面会すら避けていたのだ。

「…事情がお有りとお見受け致す」

 馘は包囲の真ん中で調査隊のやり取りを聞いていた。

 葉菜と由衣が気を取られた瞬間は隙であった筈だが、そこを突いて出ることはしなかった。

「当方も無用の斬り合いは好まぬ。御試し御用の首尾によっては、預かり入れたるソハヤノツルギはお返し申し上げる所存」

「預かり…って? 御試し御用って貴方はこれからなにするつもりなの?」

「先ほど申し上げた通り、ソハヤノツルギを以って、燕結芽との斬り合いを所望」

 燕結芽はもう居ない。死んだのだ。

 だが燕結芽は居る。その化身たるイクサが今ここに。

 これを討伐する為に、大勢の刀使たちが命がけの作戦に身を投じているのだ。

「イクサとの戦闘を望む、と言っているのですか」

「燕結芽に化生した荒魂をそう呼んでいるのならば、その通りに御座る」

「ソハヤノツルキの技を以って、とは」

「今際流試刀の秘奥に関わる事故、お答え致しかねる」

 言っていることの意味が何一つ分からない。

「無用の斬り合いを望まないのは私たちも同じです、今際乱世。ここは私たちに…」

「待って、ミルヤさん」

「安桜美炎?」

「ねえ、言ったよね。場合によってはちぃ姉にソハヤノツルギを返すって」

 確かにそのようなことを言っていたが、ソハヤノツルギは今も智恵の手元に在る。

 だがしかし、乱世の手の内にもまたソハヤノツルギが握られている。

 このような不可思議が起こり得るのか。

「どういうことなの。貴方のソハヤノツルギは何? それがソハヤノツルギだったら、ちぃ姉の持ってるソハヤノツルギは何なの?」

「瀬戸内智恵の差したるものこそ実のソハヤノツルギ。ここに在るはその写シに御座る」

「…え?」

「先も申し上げたる通り、当流秘奥に関わる仕儀なれば、本来今際流皆伝印可を持たぬ貴君に語る事は許されぬ。しかしソハヤノツルギとは浅からぬ縁の方であることは今やこの乱世も知るところなれば推して申し上げる。我が手に在るものはソハヤノツルギの写シに御座る。これが我が手に在る以上、瀬戸内智恵様に於かれては、写シの技を行えなくなっているものと推察致す」

「やっぱこいつが原因なのかよ!」

「待って!」

「止めるな清香! この野郎は私が…」

 二刀の抜き身を引っ提げ詰め寄ろうとする呼吹を、清香が必死で押しとどめる。まだ美炎の話は終わっていない。そして、美炎の話は上手く行っているような気が、清香にはしていた。

「さっき、ソハヤノツルギを返すって言ったよね。そんなこと出来るの」

「出来申す。試刀次第によってはお返し申し上げる所存」

「次第…って? それ次第では返さないことも在るってこと?」

「如何にも」

「どうすれば返してくれるの? 私、まだちぃ姉と一緒に居たい。だから返してもらいたいの。ねえお願い、ソハヤノツルギを返して!」

 その表情は目深になったぼろ布の奥であり、理屈も飾り気も何も無い美炎の言葉が、明治維新より這い出て来た亡霊が心を動かされたかどうかは窺い知れぬ。

「…先ほどイクサとの斬り合いを望むと言っていましたね。それを踏まえて今一度問います。今際流試刀術がイクサと斬り合う理由とは?」

「…試刀の技に五法有り。一つには棒試し、これは木材を断ち試すもの」

 突如何を言い出すのかと、調査隊の面々は目を細める。 

「一つに巻き藁試し、最も広く行われたるもの。一つに鹿角(への)試し、これは鹿の角を用いるもの。続く屍試しは文字通りの遺体を斬るもの。そして水試し、これは心気を凝らし水を打って御刀を極める離れ業」

「――」

「今より我が身の試みんとする影試しは、五法を行い過たぬようになって伝授される今際流試刀の秘奥、御刀の刃味のみならずその御刀を佩く刀使をも試さんとするもの。国家鎮護の為各地に配された刀使とその御刀の代変わりが近づく度、我が一門が召されお役目を行い申した」

「それを行うためにイクサと戦うというのですか」

「如何にも」

「その合否とは」

「ソハヤノツルギの刀使がそれに合相応しいか否か」

「それを判断するのは」

「当一門に一任されて御座る」

「では貴方の匙加減一つで、我々は仲間を失うということですか」

「そのように成り申す。したが…」

「が?」

「…」

 今際乱世の視線はボロ布に遮られ、その行方は窺い知れぬ。しかしそれは一瞬、安桜美炎を見やると思えた。

「…瀬戸内智恵殿に於かれては、良き剣友をお持ちになった。安桜美炎、と名を聞いたが」

「…はい。美濃関学園中等部三年、安桜美炎です」

「その者のここに在るを以って、きっと明るき御用次第となるものとこの乱世、覚え申す」

 微笑んだ、ものか。

 表情は窺えねども、声色にその気配を感じる。

「…如何しますか、真庭本部長」

『ううむ』

 事の次第は全てモニターされ、音声と共に現場本部に送られている。

「まさかの二正面…」

 つぐみのこの言は紗南への言葉ではなく、我知らず声に漏れた心中であった。

(…確かに想定外の二正面。しかし…)

 数瞬の黙考の後、紗南は決断する。

「イクサとの戦闘を望んでいる、と言ったか」、

『確かにそう言っていました』 

「言われた通りにしてやれ。獅童、此花、討伐作戦を変更する! 聞こえるか! 作戦変更だ!」

 

***

 

 戦闘中に作戦が変更となるのは珍しいことではない。

 戦闘とは混沌であり、小さなミスや思い違いの連続である。そのような中に在って秩序を貫いた者が戦闘に勝利するとされる。獅童真希も此花寿々花も歴戦の刀使であり、戦況の急変はある程度、折り込んでいる。

「馘とイクサを!?」

『そうだ』

「正気ですの!?」

『冗談でこんなこと言えるか』

 先の「第一ラウンド」と変わって、専ら今イクサに対抗しているのは寿々花であった。

 寿々花が好き好んでのことではなく、真希を手強しと見たイクサが斬り込むのを嫌がり、突破対象に寿々花を選んだからである。

 真希はイクサの斬り込みを切り払って対抗したが、寿々花はそれと別のアプローチで対応した。

 攻め立ててくるイクサの太刀を受けるところは同じ。

 その内の幾つかを、払うのではなくスエーして空振りさせていっている。

(私には真希さんのようなゴリラではありませんもの。このようなやり方をするしかありませんわ)

 刀に加わるあらゆるベクトルを巧みに次の斬撃に繋げてくるイクサであったが、空打させられたらそれが出来ない。加えて空いた両手に違う仕事をさせることが出来る。

 誰にでもできることではない。天凜に加え結芽の剣を良く知る寿々花なればこそ出来ることであった。一撃入れるには及ばぬものの、何度かの反撃がイクサの拍子を狂わせている。

 仕合で言えばイクサの優勢だが、決定打が与えられない以上イクサの敵は減らない。早々に始末しなければ、控えているさらなる強敵、獅童真希に対処が出来ない。

 

「ギギギィ!」

 

 イクサは忌々し気に哭く。

(案の定、雑になってきましたわね。こんなところも結芽にそっくり)

 このような所が無ければ、紫に一太刀くらい、浴びせてのけることもあったであろう。

 結芽は操刀の天才であったが、同時にほんの、思い通りに行かないと我慢が出来ない我儘な子供であったのだ。

(もし…結芽があのまま、生きていれば…)

 結芽の剣は経験による重厚さを加え、他を圧倒しただろうに。己など及びもつかぬ境地に達していただろうに。

(それなのに…どうして逝ってしまったの…)

 頃合いを見て、寿々花は大きく退く。

 逃れる為ではなく、司令に従う為であったが焦るイクサにはそうは見えない。寿々花を退けたと見たイクサは寿々花が退いたそこを手薄と一目散に駆けて抜ける。しかし、駆けて抜けたその直線上には――

「イクサと馘、同時に相手をすれば確かに二正面の挟み撃ち。しかしこれが相打つとすれば――」

 真庭本部長がほくそ笑む。

 これはまさしく漁夫の利ではないか。

 

「ギ!?」

 

 脱兎となって賭けて来たイクサの正面に立ち塞がった者が居る。

「公儀御試し役にて御座候」

 ソハヤノツルギ、その写シを構えて立つのは馘、今際乱世である。

(乱世さん…貴方は一体…)

 何を期して立合いに臨むのか。ソハヤノツルギの何を試そうというのか。現場司令部のモニター超しに、瀬戸内智恵は固唾を呑む。

 

***

 

 イクサと馘。

 その周囲は、さながら壁を巡らせた闘技場の如き有様となっていた。

 壁となっているのはSTTの防盾。その前には赤羽刀調査隊の六名が要所要所に立つ。イクサも馘も逃がさぬ布陣である。

 相打ちとなれば尚善し。生き残ったとしても消耗しているであろう片方を倒す。

 その為の布陣であることは明白だった。

「あ、二刀流の刀使ちゃんが居る。確か七之里呼吹、って名前だったっけ。でもあいつの相手をしているのって誰だろう。調査隊なのかな」

「伍箇伝の制服を着てないわね」

「えと、その多分馘って刀使だと」

「凄い潮ちゃん! 何で分かるの!?」

「いえ、あのさっきからオープン回線で無線が行き来してますから、それを拾って」

 その外縁で、特駆隊の面々は観戦している。もちろん日向野々美には、観客で終始するつもりはない。流れによっては手を貸すつもり満々であった。

 特祭隊の精兵のみならず特駆隊までもが包囲に加わり、イクサの命運は尽きたと言えるであろう。そうと知ったか今や、イクサの雰囲気は先ほどと一変していた。

 本性が、露わに成りつつある。人に仇為し、その人の恨みつらみを糧とし、より大きな災いと為らんとする荒魂の本性が。

 荒魂は人に引き寄せられる。人の恐怖や怨みを穢れとして得、糧とするからだ。しかし御刀と刀使が居たならば、それを優先とする例が多い。荒魂は、刀使への怨みを起源とするのだ。

 生存本能は捨てていた。

 我が身がどうなろうとただ仇なさんと、殺さんとしていた。そう先ず目の前の、不遜な襤褸布刀使。次はどいつだ。どいつだっていい。殺す。殺すコロスコロス!

「御試し御用仕る」

 そのイクサの正面へ、今際乱世はするすると進み出る。

 ソハヤノツルギを、中段へと付けた。

(あれって…私の)

 智恵以外に気付いた者も居ただろう。まさしく智恵が得意とする中段正眼に瓜二つ。

(いえ、確かあの時乱世さんは、私の中段をそっくりそのまま写し取って見せた)

 対敵を真似てやっていたのかと思っていた。

 だがどうやらそうではないようだ。智恵は現場司令部の天幕の中に在りあの場にはいないにも関わらず、馘の成り代わった瀬戸内智恵がイクサと対峙していた。如何なる経緯か、燕結芽の生き写しとなって現れた荒魂、ヨモツイクサと。

(なんてこと…)

 舞草の本拠を燕結芽が襲撃したあの日、瀬戸内智恵は遠く任地に離れていた。同志たちと共に戦うことは出来なかった。居たとしても結果は変わらなかったかもしれないが、痛みを共有することは出来たかもしれない。

 米村孝子や小川聡美を始め、刀使としての復帰が困難な程必要以上に切り刻まれ、今も苦しむ者たちがいる。

 今は余命幾何も無かった燕結芽の事情も分かっている。そもそも結芽とて命令に従っていたに過ぎず、命令を下したのはすでに討伐されたタギツヒメであることも理解している。

 結芽は病死し、タギツヒメは討伐された。同志たちの仇は勝手に何処かに行ってしまった。あの時の、すぐに駆け付けてあげたいという想いの行先は、もう何処にもなくなってしまったと思っていた。

 だから智恵自身驚いていた。

 この光景に心躍る己に。

(もし出来るのなら飛んで行きたかった…どんなことになっても、舞草のみんなと最後まで…)

 焦がれた光景が目の前に在った。

 今まさに。ソハヤノツルギを構えた己が、燕結芽と相対している。 

「いざ…!」

 馘がそろり、と足指半分程の間合いを詰めたとき、智恵もまた薄氷を踏む思いを味わっていた。

 今際乱世がどうしたいか、どうするかが分かる。

 燕結芽、イクサがどうしてくるのかが分かる。

(…来る!)

 感じたその時が、智恵の征く時であった。相手が斬ってきたら自分も斬る。

 斬られるかもしれない。いや多分斬られる。燕結芽に勝てる者など、誰も居ない。だけど、相打ちならば。相打ちに及ばずとも骨を断たせて肉を斬れるなら。

(それぐらいのことはしたかったの。だって私は、皆のお姉さんだもの)

 奇しくも、先の乱世との立合いと全く同じ結果となった。

 イクサの剣は素早かった。

 しかし智恵の剣は、この場の刀使たちの誰よりも長い月日、修練を重ねて来た剣であった。そのフォームはよどみなく、結果速かった。

 互いの剣は中空で激突し、火花と共に目標の脳天を外れて互いの肩口を斬り割った。

 

「!?!!!!!!」

 

 表記不能の断末魔を、イクサは上げる。

 先の智恵と乱世の時とは違う。イクサは写シを斬ったに過ぎず、イクサが斬られたのは毒刃の御刀である。

 単眼が中空を彷徨い、何かを見つけたのか、求めて指先を伸ばす。

 その先には、真希と寿々花の姿があった。

(さよなら、結芽)

(どんな形でも私たちの前にまた現れてくれてありがとう)

 二人の表情に、単眼は何を見たのか。

 その指先も、根本から燃え墜ち、灰塵となって、天へと還っていく。

 

***

 

 一方、馘もまた、がくりと膝を付く。

 肩口を斬り割られたのだ。実地では致命傷である。当然ながら写シは飛ぶはずであったがその様子はない。馘はそれに耐えているもののようであった。

「御試し御用は容易ならぬ仕儀なれど、辛くも相務め上げ申した」

 食いしばった歯の奥より声が漏れる。

「今際乱世…貴方は…」

「伝えられたい。ソハヤノツルギの今世今代、瀬戸内智恵に申し分なしと、公儀御試し役が極めを付けた、と」

 我が手のソハヤノツルギを鞘へと納め、柄を左に、地に横たえる。

 何をどう納得したのかは分からない。どうして納得したのかも分からない。しかし馘は、智恵をソハヤノツルギに相応しいと認めたようであった。

「確かに御試し申し上げた――」

 それを最後に、今際乱世の姿は光輝と化して数瞬、跡形もなく消え失せた。

 智恵と立ち会ったあの時と、全く同じであった。

「…作戦成功ですね、本部長」

「ああ。作戦成功だ」

 現場司令部では、播つぐみに真庭本部長が会心の笑みを浮かべていた。

 イクサの逃亡、馘の奇襲、これを腹背に受けながら見事に凌ぎ切ったのだから愉快でないわけがない。

「しかし馘さん、一体何がしたかったのでしょう。御試し御用と言いながら、自分が斬られてしまっては余りにも無意味なのでは」

「いいえ、無意味ではないと思うわ」

 これは真庭本部長ではない。傍らで経緯を見守っていた智恵である。

「御試し御用は容易ならぬ仕儀と、乱世さんは言っていた。どういう理由であれどういう技を使ったのであれ、あの人は私に代わって斬るべき相手を斬り、斬られるであろう相手に斬られて見せた。私が昔、やり残してそのままになってしまっていたことを」

「…何故そう言える」

「分かるの。だって…」

 乱世とイクサが対峙した時、思いもかけず智恵は、舞草壊滅のあの夜に戻ったような気がしていた。あの時の同志たちの苦闘に、やっと己も加わる事が出来たような気がしていたのだ。

 智恵は、燕結芽という刀使を直接にはあまり知らない。

 だから荒魂と同じような、あのイクサと同じ悪鬼のような者と心のどこかで思っていた。けれど、イクサが灰塵となって天に昇った時の、真希と寿々花の顔を見てしまった。

 友達を想う友の顔をしていた。死を悼む、残された者の顔をしていた。

 燕結芽は人であったのだと思う。智恵と同じ人で、舞草の仲間たちと同じように、タギツヒメとの戦いの中斃れた。真希と寿々花は、智恵が舞草の同志たちとそうであったように、結芽の友達であった。彼らもまた智恵と同じようにやり切れない思いを懐くことがあったのだろうか。

(次会うときは味方同士だといい)

 燕結芽はもうこの世には居ない。それでも思った。

(真希さんや寿々花さんともそう出来ているように、燕結芽さんとも、お話出来る日が来たなら…)

 とても素敵なことだと。

(乱世さん。貴方ともまた、会えるかしら)

 もし今度会ったなら、どこがソハヤノツルギに相応しいと思ったのか、聞こうと思う。

 智恵は、我が胸に抱く、ソハヤノツルギの鯉口を切った。

「「!」」

 つぐみの目にも、紗南の目にも明らかであった。

 幽世の紗幕が、今また智恵を覆った。

 智恵が再び、写シを張ったのである。

「…帰還命令だ」

 紗南は命じた。

「すぐ調査隊に帰還命令を出せ! ソハヤノツルギが瀬戸内智恵の許に戻ったと伝えろ! 大急ぎでだ!」

 ソハヤノツルギは在るべきところに戻った。

 瀬戸内智恵は、伍箇伝創立以来、折神紫に次ぐ現役期間を、更新し続けることとなる。

 

***

 

 神々との邂逅は、稀血(まれち)を受け継ぐ稀人(まれびと)を産んだ。

(初代月山以来の今際家伝、影試し――上首尾に終わったは幸いであった)

 無明の石室で、今際乱世は思いを巡らす。

 今際流試刀術、御刀極めの切り札にして最大の離れ業、影試しを行い得るのは今際の血を受け継ぎかつ、野呂壺の相伝を受けた者のみに限られる。己を斬らんとする相手の御刀とその技をそのまま我が写シとするこの技は、今際家伝の鬼王丸月山こそが最初に人類が神より盗んだ御刀であるとする家伝の論拠となっている。 

(一度主を定めた御刀を、他者が遣うことは出来ぬ)

 もしそれをするなら、御刀の主と成り代わらねばならない。それを可能とする稀人こそが今際の血を受け継ぐ者である。

(にしても、折神の刀使の精兵無比よ)

 成り代わったからこそ分かる。

 瀬戸内智恵は優れた刀使であったが、それを凌ぐ数々の刀使を、折神は従えているようであった。

(我が方は今や単騎。この戦、打ち勝つこと極めて至難)

 影試しの技で盗むのは所詮、影のみ。本身を手に入れるには刀使本人を斬らねばならない。今際の家が幕府より委ねられた御刀の全てはそうやって折神の家に奪われた。その筈であった。ソハヤノツルギのみではない。あの場に在った加州清光を初めとする御刀全て、元は今際の家に委ねられていたものの筈。

 死してなおこの命在りたるなれば、折神に奪われたこれらを家門へ取り戻さんとは、主上より課せられた役儀であり、我が望みであり恐らくは、己を生かした先代の望みでもあるだろう。

(しかし、この悲願もし果たせば…)

 折神は一族の仇。しかし鎮護国家は主上より賜った役儀である。

 折神の刀使を全て斬り伏せて御刀を取り戻したとして、あのイクサの如き大荒魂が跋扈する今、天下大乱をもたらすのは必定。悲しいかな、世の営みを守るのは敗れた今際でなく、勝った折神であるのだ。

(ではきゃつらの守る、この折神の世とは?)

 折神の刀使…木寅ミルヤが語った現代は、上代とは何もかもが異なっていた。敗れたりとはいえ最終的に夷狄を打ち払い、民たちがその後国を興したというのであれば、天下国家は今や一体どのようになっているのか。

(今際を破り、天下を治める折神の技、如何程のものか先ずは御試(ため)さねばなるまい)

 相応しいと出れば良し。相応しからざるなればその時は――

(今際一党、再び朝敵と成ろうぞ)

 今際乱世の見上げた先に空は無い。

 ただ陰々と、闇があるだけであった。

 



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一指しの太刀 その1

 平素は夜明け前から日が沈むまで、刀使達の鬨(とき)の声の絶えることのない京都平城学館第一道場が、寂と静まり返っている。

(ようこそおいでやす、江麻ちゃんの秘蔵っ子ちゃん)

 異様なその静寂(しじま)の中心に、二名の刀使が在った。

 互いの御刀を手に、向き合う一人は美濃関学院の次席代表、柳瀬舞衣。

 今一人はこれも平城学館次席代表、岩倉早苗。

 真剣取っての一対一の斬り合いは真剣勝負と一般に呼ばれる。生涯一度きりの立合いである。何故なら何れか一人は斬られ伏し、二度と立つことはないからだ。

 対して御刀取っての斬り合いはこれに準じ、御刀勝負と俗称される。一般的に何れが写シを先に剥がされるかが競われ、二度目三度目がある斬り合いである。

 しかし、舞衣と早苗、両者の間に満ちる気魂は、二度目三度目などといったような余地が感じられぬ、真剣勝負と五条いろは平城学館学長は俯瞰する。

 御刀勝負であるから命は賭けぬ。

 刀使が命を賭すのは荒魂討伐に在ってのみ。しかし命以外の何かのかかった立合いであると、五条いろはには見て取れた。

(美濃関の首席刀使、衛藤可奈美はんとは親友、ということでしたなあ、次席のあのコ)

 対する岩倉早苗は同じく平城学館本年度次席であるが、柳瀬舞衣と衛藤可奈美に同じく、平城学館主席の十条姫和の友、と呼べるのか。

 想起するのは過去、相模湾大災厄の在ったあの頃のことだった。

 衛藤可奈美の母、美奈都には友達が沢山居た。いろは自身もまたその一人であったと思う。 

 対して十条姫和の母、篝はどうであったか。

 衛藤美奈都…当時の藤原美奈都は篝の友であったろう。だが物理的に距離の近かった筈の己はどうであったのか。

(自信、ありまへんなあ…)

 岩倉早苗はどうなのだろうか。

 十条姫和が御前試合での折神家当主暗殺未遂を起こして以来――いや、篝の小烏丸が娘姫和に受け継がれた時から、いろはは特別な思いで、その軌跡を見守ってきた。

 頑なに思いつめる性質の篝と姫和の母子の心を、磊落な美奈都と可奈美の母子が解きほぐしていく様は、往時の篝と美奈都を知る者たちに一様に、運命を感じさせた。

 まるで篝と美奈都のように、可奈美と姫和は関わり合いを深めていった。共に幽世に消え果る、その瞬間まで――

(それが、こうなるとは正直おもいもしまへんでしたけど) 

 可奈美と姫和は、戻ってきたのだ。

 終わったと思っていた美奈都と篝の物語は、この奇跡によってまた書き継がれ始める。可奈美と姫和、次代の千鳥と小烏丸の物語となって。

(歴史は繰り返す、と言いますけれど)

 篝と美奈都がどんどん近づいていって、そんな二人にあれよあれよという間に置いてきぼりされて、ただ見守ることしか出来なかった人々が居た。

(よしなに、江麻ちゃんの見込んだお人)

(そして、うちの見込んだ――)

 道場中央の決着は、そろそろのことになるだろうと、五条いろはには見えた。

 

***

 

 柳瀬舞衣が、平城学館の岩倉早苗という名に接した初めては、御前試合のあったあの春の事であったと思う。

 平城は前年度優勝校であり、当然ながら関心が集まっていた。美濃関で予選が始まったあたりからそろそろ話題に上ってくる。

 親衛隊入りした獅童真希は今年は出てこないから一安心。

 いやいや、安心するには早い。馬庭念流を遣って無双の者が平城に居る、昨年度は中等部ながら真希と共に本戦に駒を進めたあの刀使が。

 恐らくは折神本邸まで上がってくるのは彼女だろうとの噂通りに、岩倉早苗は柳瀬舞衣の前に現れた。

 平城学館主席としてでなく、次席として。

 主席となったのは、あの十条姫和だった。

 糸見沙耶香と並び全国的な迅移の使い手であり、トップスピードでは史上屈指と目される新鋭の天才刀使の前に、またしても早苗は次席に甘んじたのである。

 その早苗と舞衣が合い見知ったのは御前試合本戦前夜のことだった。十条姫和による折神家当主暗殺未遂事件の前夜ということでも、それはあった。

 人当たりの良い人、すぐに友達になれそう――

 この感想を双方が、互いに対し懐いた。

 同じナンバー2同志、立場も同じだ。通じるところもあるだろうと。

 姫和が事に及び、それに衛藤可奈美がくっついて逃亡する事態となり、揃って取り残され、ますますそのように思われる所は増していった。舞衣と早苗は同様に尋問を受け、同時期に開放される。

 早苗は母校平城へと戻った。

 舞衣は残り、可奈美を探した。

 舞衣は思った。私たちは中学に入る前からのライバルで今は友達、舞衣ちゃん、可奈美ちゃんと呼び合う仲。だから可奈美ちゃんを放っておけない。

 でも早苗は違うんだろう。それほどの仲じゃあないんだと、舞衣は確証もなく思っていたのだ。

「京都平城にあっても馬庭念流を伝える数少ない刀使だって聞いてたけど…」

「破門になったの。色々あってね」

 中段正眼、北辰一刀流にあっては星眼とも記する。

 切っ先を相手の正中に向け、柄を我が正中へと向ける柳瀬舞衣の構えに対し、岩倉早苗の構えはあらゆる意味で真逆だった。

 先ず分かりやすいところから言えば、切っ先が舞衣の方を向いていない。全く反対の、相手のいない方を向いている。舞衣の方を向いていかるのは、切っ先と逆側の、柄である。

 柄の前には肘がある。

 舞衣の切っ先の一番近いところにあるのは、岩倉早苗の肘であった。

 上段脇構え――舞衣にとっては、見慣れた構えである。

 十条姫和が多用する、あの構えだ。

 これを行う流派は多くはない。姫和の鹿島新当流は数少ない一つである。が、それは舞衣が知る、馬庭念流に学んだという岩倉早苗の経歴と一致しない。

(岩倉さんが、鹿島新当流を?)

 門派というのはどのような武芸であっても、入るのも抜けるのも難しいものだ。伍箇伝の刀使に限っては入るのは殆どクラブ活動の勧誘のノリだから難しくないかもしれないが、抜けるのはやっぱり難しい。

「…どうして?」

「柳瀬さんが勝ったら話すよ」

 早苗としては精一杯、といった感じの不敵な笑みと共に、そう言った。

「分かった」

 舞衣も、真似をして、同じように笑んでみせた。

 それきりもう、何も言わない。

 これより後は、剣のやりとりであった。

(それにしても…)

 何から何まで十条姫和を連想させる構えであった。

 馬庭念流を破門になったと云うが、そんな問題を起こすような人物とは、舞衣には思えない。

(何か理由があるんだ)

 それを聞くためには、どうやら勝たねばならないらしい。

 相手は、舞衣が孫六兼元を手にした時には、既に知る人ぞ知る、平城学館を代表する刀使の一人であった人物だ。簡単な話では、無い筈であった。

 孫六兼元の切っ先が、浮沈を止めて静止する。

 鶺鴒(せきれい)の尾と称し、仕合にあっては盛んに切っ先を運動させることを推奨する北辰一刀流。その教えに忠実な舞衣にあっては稀有なことであった。

(よくみること。見る目は少なく、観る目は多く)

 剣において見の目は忌み、観の目は尊ばれる。兵法にあって見の目とは視覚的光学的情報であり、観の目とは戦術的情報である。

 変化情報、と言ってもいい。

 実地において舞衣は、対手となった早苗を見ておらず、早苗を指した切っ先を見ている。視覚的には、切っ先が遮る分を見ていないわけだが、そうすることにより知覚的に感得しやすくなるのが、早苗の変化である。

 例えば文字を読むなどしている場合、当然周囲のことは見えなくなる。

 一方、何も注意していない場合、動体、つまり何か動くものに気付く範囲は正面より直径190度とも200度とも言われている。

 然るに人体は呼吸などで絶えず運動しており、その全てを観察して判断していては重要な情報を見落とす。ここでは舞衣は、武技的な情報のみ、つまり早苗が次に右に動くのか、左に動くのか、掛かって来るのか下がるのか、そのような大きな運動の情報に絞って判断をしようとしているのだ。

 余計な情報は、孫六兼元の切っ先が切り落としてくれる。

 舞衣に届くのは、攻撃か、それに繋がるような動作のみだ。

(見なくてもいいものは見ないでいい)

(見極めるんだ。見なくてもいいものと、見落としてはいけないものを)

 静止した切っ先。

 そこから透かし見れば、本当のことや、大切なことを孫六兼元の切っ先が指し示してくれるのだ。

(姫和ちゃんとは、全然反対のコ…)

 一方の早苗もまた舞衣と同様、舞衣を透かし見ていた。

 舞衣の孫六兼元の代わりとなっているのは、早苗自身の肘の部分である。

 対敵の舞衣に最も接近しているのが早苗の我が肘であり、肘を切っ先として舞衣の全容を透かし見ているのだ。

 舞衣の方から早苗を見れば顔の下半分までは肘に隠れ、両眼のみが露出して見えるであろう。かつてこの構えで対峙した十条姫和がそうであったように。

 脇構えで上段に付ける利点は攻めの強さだ。我が剣の長さを相手に悟らせぬ為の工夫だ。剣の長さが撃尺となり、間合いとなるなら、それを狂わせれば斬り込み易くなる道理である。

 そう構えて、早苗は待っていた。

(こう構えたら、十条さんは必ず仕掛けていった)

(堅い攻撃の意思を示す勢なんだ)

 十条姫和は、ここから突きに変化する。

 無類の技だ。

 どう見ても突きに適した構えではない。何せ切っ先は舞衣の逆側を向いているのだ。そこから切っ先を舞衣に突き立てるには身体を半周させねばならない。突くよりは斬って行った方がはるかに能率がいい。

 だけど、もし突いて行けた場合。

 突き技は一点だ。攻撃範囲が小さい分相手にとっては動いて見えるものが少ない技だ。撃尺を隠した剣が、その突き技で飛んで来た時の受けづらさは、多分誰よりも、早苗が知っている。

(誰にも真似の出来ない、十条さんだけの技――)

 攻撃的な構えでありながら、ただ待つ。

 舞衣の正面に晒されるのは生身の肘であり、腕である。そこに孫六兼元の切っ先が突き付けられてあるのだ。勇気や覚悟無くして出来ない構えであることはもちろん、舞衣には分かっていたが――

(岩倉さん、貴方は…)

 立ち合おう、と持ち掛けたのは早苗の方だった。

 受けて立った舞衣だが、内心は意外だった。遠慮深い人という印象を持っていたからだ。

 しかしこうして御刀を通して向き合ってみると、分かってくる気がする。攻撃的な姫和の得手に構えつつ、それでいて攻めてこずただ待っている、岩倉早苗という人が。

 平城学館大道場で両者が立ち合って、最早一時間以上が経過していた。

 環視の平城の刀使達が、そろそろどよめき始める。

 御刀勝負である。両者は写シを張っていた。

 それがまだ剥がれない。

 並みの刀使ならば三度は剥がれているほどには時間が経過しているのにだ。

 通常の御刀での立合いは、写シが剥がされれば負けであり、剥いだ方が勝ちである。

 御刀で斬ればそれが出来るのだが、ここまで両者は一合も剣を合わせていない。それどころか一撃することすらしていない。

 何をしているのか、さっさと斬り合え、攻めろ、と思うような素人はこの場にはいない。技になっていないだけで、両者とも虚実を凝らしている。互いの技が技になる前に潰し合っているとも言える。

(そう来るならこうするよ)

(こう来たらこうだよ)

 そんなやり取りを、ずっと交わしている。

 これはもちろん、尋常の刀使では読み取れないようなものだ。

 舞衣と早苗はそれを読み取り、読み取られながらずっとここまで来ているのだ。

 誰が仕合をしてもこのような場面はあるものだが、舞衣も早苗もそれを尋常でなく早い段階で処方する為、双方とも実際に動作することが出来ない。

 一見御刀を持って向き合っているだけに見えて、恐るべき高等技術の応酬であった。

 それをしながら、これ程の時間、写シを維持しているのだから、疲労しない筈がない。誰の目にもその兆候が見えないのは何れもの集中力が並外れているからであった。ようは正面の相手に集中する余りに疲労を忘れている。時間も忘れているかもしれない。

(あ…)

 終わりは唐突だった。

 早苗の身体が一瞬明滅した。

(写シが…)

 体の縛めが解けたように、舞衣は感じた。張り詰めた糸に、ハサミを入れたようなものだった。

 今なら斬れる。

 舞衣がそう思ったのではない。今まで斬ろう斬ろうとしていた身体が、阻んでいた早苗の技を急に取り払われて勝手に動いた。

 実際に、写シの切れかかった早苗を斬りに行っていたら、大惨事になっていたかも知れない。

 しかしそうはならなかった。

 かくん、と踏み込もうとした舞衣の右膝が砕けた。

(…え?)

 自分がどのような状態にあるのか、舞衣が悟ったのはそれを支えようとした左の足もぐにゃりと萎えて、そのまますとんと座り込んでしまった時だった。

 写シが飛んでいた。

 舞衣も同時に限界を迎えていたのである。

(いけない…)

 御刀を手放さなかったのは流石であるが、それを持ち上げることも出来ない。  

 長距離走を短距離ペースで走ったとしてもここまでではあるまい。疲労の極みであった。もし今早苗が斬り込んで来たら…

 しかし、そうはならなかった。

 向こうでは、早苗もまた舞衣と同じようにしゃがみ込んでいたのである。

 環視の平城の刀使達が駆け寄ってくるのが分かる。まだ勝負の途中なのにと思ったが、考えてみれば写シが剥がれたのだから刀使の仕合は終わりだ。

(でもこれ…)

(どちらが勝ったのかしら)

 見れば多分、向こうも同じことを考えたのか。

 舞衣と早苗は、汗だくの顔を見交わし、笑みを浮かべた。声を発したかったが、二人が二人とも、それが精いっぱいだった。

 




早苗がプレイアブルキャラになった時、モーションが姫和に似てる印象を持ちました。そこから膨らませて言ったお話になります。


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一指しの太刀 その2

 早苗と舞衣は二人揃ってシャワールームに放り込まれ、汗だくの制服と御刀を取り上げられた挙句に、大道場を追い出された。

「二人とも今日は、御刀を持たないで」

 出動がかかったら任務に差し障るから、と居合わせた先生や先輩に剣もほろろに言われて、そろって芝生に座り込んでいる。

 二人ともジャージである。御刀は無いし、あっても制服がないから装刀して出歩けない。ちなみに、刀使たる者このような時に備えて予備の下着は持ってきているから大丈夫だ。

「それにしても、本当に何時から鹿島新当流を…」

 もし岩倉早苗が馬庭念流を遣って来たら、負けていたかもしれない。

 破門になった、というのはこれが原因であろうと見当はつく。

 早苗は、鹿島新当流に入門したのだ。

 馬庭念流の前身である念流は新当流に並び本邦最古の剣の術技である。仏道との結びつきが強い同派は、神道に仕えるを許さない。とはいえ、現代においてはだいぶ緩くなっている伝統である。掛け持ちをする、ないしはしていた伍箇伝の生徒は少なからず、舞衣は知っている。かく言う舞衣も、北辰一刀流に籍を置きつつ神明夢想林崎流や新田宮流を摘み食いしてきた身分でありながら、刀使として身分証明を求められれば北辰一刀流美濃関学院、中等部三年、柳瀬舞衣と臆面も無く記している。

「二年前、十条さんのお母さんが悪くなって…その時からなの」

「ああ…」

 そのようなことではないか、とは思っていた。

 鹿島新当流は、その稽古を概ね、型稽古に費やす。伝わるその殆どは、独り型ではなく、対錬である。北辰一刀流がそうであるように、鹿島新当流も仕手と対手に別れて行うのだ。

 十条姫和の稽古相手は、母十条篝だった。

 篝が対手に立てなくなってから、姫和の稽古相手は居なくなってしまった。京都平城は京流の本場であり、関流最古の新当流を学ぶ者は少なく、それも姫和の相手となって過不足無い者は皆無だった。

 早苗に白羽の矢が立った。

 当時まだ荒魂が頻出していなかったこともあり、親友の娘であるという姫和の稽古相手になってやってくれという五条いろは平城学院学長の頼みを引き受けた早苗は、親しんだ馬庭念流を辞し、十条の家へと通うようになったのだ。つまり破門となったのは鹿島新当流を学ぶためであり、それは姫和の稽古相手を勤める為であったのだ。

「勝ったら話すって言ったのに、白状しちゃった」

 そう言って舌を出す早苗の、新当流の師とは姫和であったのである。

「最初の方は露骨に溜息とかつかれて…相手にならないって感じだったけど、でも最後には稽古相手くらいにはなれたと思うの。まさか、二人で練った鹿島の太刀を折神御本家様に向けるとは思ってもなかったんだけどね」

「私も、あんなことになるなんて…でも」

 でも、可奈美の気持ちも分かる。あんなに楽しみにしていた姫和との立合いを取り上げられたのだから。

 特別祭祀機動隊員として、可奈美の行動はテロ幇助、殺人幇助であり、取り締まるべき行為である。ましてや可奈美も特祭隊員なのだから罪は重い。

 一方刀使として、兵法家の端くれとして、可奈美の行動は舞衣にも理解できるものである。一度立ち合うと決まった相手が都合で立ち合えなくなり、その理由が目の前に現れた親の仇を討つことだとなれば、轡を並べて折神紫を討ち、阻む親衛隊も全て斬り伏せた後、改めて立合いを求めるとしても、剣人刀者として通らぬ筋ではない。

 とっさに後者を選ぶところはむしろ可奈美らしい、とすら舞衣は思ったし、あの場で事件を目撃した刀使たちもにも共感を示す者は居た。まだ士分の存在した古き良き剣の時代にあっても、屠腹自裁は免れ得ないだろうが、それであっても後者を選び剣に殉じるのが剣者であろう。

 後、その折神紫こそは大荒魂タギツヒメの化けの皮だったと知れて、反折神本家の地下組織であった舞草が抗争の末主流となった為、姫和と可奈美は一転して英雄となる。

「結局私も、可奈美ちゃんに引っ張り込まれちゃうんだけどね」

「いいなあ」

「いい…かな」

「いいよ。羨ましいよ。私だって本当は、柳瀬さんみたいに…」 

 そんな無茶な、と舞衣は思う。一つ間違えば犯罪者だ。

 とはいえ、得難い経験が出来たとは思ってもいる。美濃関の学校で普通に刀使をやっていたら決して出来なかったであろうことばかりだった。

「いいなあ。羨ましいな。柳瀬さん達が大冒険してる間、私がしてたことと言ったら、ただ待っているだけ」

「早苗さん…」

「今だってそう。十条さんだったら脇構えに付けたら必ず攻めてたのに、私は待っているだけ。それしか出来ないから、仕方ないんだけどね」

「…今からでも遅くないと思う。って言うか、もう早苗さんは巻き込まれてるよ。だって早苗さんが居なかったら、今の姫和ちゃんは居ないって思うし。御前試合に出れたのも、親衛隊の人たちを退けたのも大荒魂を倒せたのも、早苗さんが姫和ちゃんのお母さんに代わって、姫和ちゃんの稽古相手になったお陰よ、きっと」

「そっか…そうかも…」

 だとしたら嬉しいかな。そう言って、早苗は微笑む。

「だから早苗さんは…」

 そこまで言ってハタと舞衣は気付く。

 いつの間にか早苗さん呼びになっていた。

 これは(美濃関は一応共学ではあるが)女学校の古い仕来たりのようなもので、上級生は姓でなく名に様を付け、同級生以下は名にさんを付ける。兎に角女子には下の名を用いて呼ぶのが品行方正とされているのだから仕方がない。しかしもう癖となっているようなそのような仕来たりが、平城の生徒に通じるものとは限らない。

「岩倉さんは…」

「早苗さんでいいよ。っていうか早苗ちゃんとかでいいから」

 図々しいかと思い律儀に言い直した舞衣を、早苗は笑って言う。

「何時か、十条さんにも下の名前で呼んでもらう日が来ればいいけどね」

「え? てっきり私…」

「ファーストネームで呼び合ってると思った? 残念、違うの。十条さんとはそんな仲じゃあないから」

 あの御前試合の春、舞衣は姫和と早苗のことを、早苗が今言ったように思った。

 けど今は違う。十分、そんな仲だと舞衣は思う。

 もし早苗がずっと馬庭念流の刀使に徹していたならどうだろう。御前試合ではベスト8より上を狙えたのではないだろうか。

 しかし早苗はそうせず、馬庭念流を辞して姫和のパートナーとなることを選んだ。自分のキャリアよりも姫和を選んだのだとは言えないか。

「私も柳瀬さんと衛藤さんみたくだったら、本当に巻き込まれてたんだろうけどね」

「…そんなはずない」

「え?」

「きっと姫和ちゃんは、早苗さんが思ってるのと同じくらい、早苗さんのこと大切に思ってる。そうに決まってる」

「柳瀬さん…?」

 舞衣は立ち上がって、ジャージに着いた砂利や草葉を払う。

「早苗さんは知ってる?」

「何を?」

「姫和ちゃん、もうここの生徒じゃあないってこと」

「え?」

「私はね」

 目を見開く早苗に、舞衣は宣戦布告の烽火をあげる。

「姫和ちゃんを連れ戻しに、京都に来たの」

 

***

 

 舞衣が、京都平城を訪れたのには、それなりの経緯がある。

 年の瀬を乗り越えた、春先の事だ。

 伍箇伝の生徒の間で、単に年始とか年の瀬とかと言ったら、年の瀬の災厄、TVやネットなどで国が呼称に用いるところの「関東大災厄」を指す。

 首班たるタギツヒメは衛藤可奈美と十条姫和により撃退され、危機的状況は去ったが、多くの刀使たちにとってそれは始まりに過ぎなかった。幽世との接近により大地に降り注いだ大量のノロが、荒魂を頻出させ始めたからだ。分けても霞ヶ関魔城と俗称されるところの旧霞ヶ関ビルはタギツヒメ終焉の地ということもあり量も密度も桁違いのそれが降り注ぎ、荒魂の居城と化していた。

 特別祭祀機動隊は東西奔走、疲弊しかけていたころに可奈美と姫和が変わらぬ元気な姿で戻って来、伍箇伝全校挙げてのお祭り騒ぎになったものだ。

 これは蔓延するメディアの特祭隊責任論と荒魂に挟撃された形の伍箇伝の生徒たちに、刀使が二人増員になったという以上のものを齎した。勇気づけられた刀使たちの奮闘により荒魂頻出への即応体制が整い、一時期は中止も止む無しと囁かれた折神家御前試合開催の機運が高まったころであった――十条姫和の名が、参加選手候補名簿に無いことに舞衣が気付いたのは。

 年の瀬より後美濃関学院中等部の刀使の訓練を任され、学院中等部師範代と言っても過言でない舞衣である。学長、羽島江麻に近しく接することが増えたからこそ知り得た情報であった。

「この事、皆は…可奈美ちゃんは」

「五条学長しか知らないことよ」

 そうだろう。予選の日程が発表にもなっていないうちに出回っているリストの事だ。もちろん、まだ折神家に駐留して活動している沙耶香やエレン、薫らには知り得ないことだった。

「鎌倉特別危険物漏出問題以降は、もう伍箇伝の生徒じゃあなく、予備警察官扱いだったらしいの」

「じゃあ、姫和ちゃんは…」

 退学していた、と言うのか。

 そういえば思い当たる節もある。最近折神邸で一緒にならない。イクサ討伐作戦の際も、出動割に名前は無かった。

 ちなみに舞衣も出動から漏れたが、これは羽島学長が舞衣を手元に置きたがったからで、理由ははっきりしていることである。

「だけど、そのことは内密にしておいてくれ、とも頼まれたみたいね」

「どうして…」

「あれだけの騒ぎを起こして、多方面に迷惑をかけておいて、私が無罪放免っていうわけにはいかないだろう、って。だけど――」

 それを皆には言わないでくれ。もし可奈美辺りが知ったら、自分も同罪だから退学するって言い出しかねないから――

「…だから、内密にしておいてくれって」

 舞衣には、言葉も無い。

 姫和に協力したのは、己の意思だ。だから姫和が退学となるなら己もまた退学になるべきじゃあないかと、本当に今思ったからだ。

「でも大丈夫。ここから先はこの江麻センセーの想像だけど、きっと姫和さんは、退学したって思っているだけね」

「?。思っているだけ、って?」

「いろは先輩のことだもの、確かに届は受け取っていると思うけど、平城の次期エースをおいそれと手放すとは思えないわ。退学届はきっとまだ懐の中。受理するかどうかはいろは先輩の胸次第ってこと。つまり学則的にはきっとまだ姫和さんは、平城の生徒よ」

「じゃあ…」

「姫和さん今は平城の常勤に戻ってるから、実家じゃあないかしら」

 そう言って羽島学長は、意味ありげに微笑む。

「…京都に発ちます。後のことはお願いします、学長」

「もし五条学長に会ったら、貸しにしとくって伝えておいてね」

「はい。ありがとうございます」

 快諾、と言ってもいい羽島学長の言葉に、舞衣は一安心する。

(…思った通りのコね、舞衣さん)

 行くなと言っても、黙って行くのは間違いない。それも友達の可奈美や沙耶香には内密に、自分一人で何とかする気だろう。もし姫和が戻ったとしても、事の次第を舞衣から話すことはない。姫和が隠し事をしていたことが明るみに出るのを避ける為だ。

(賢くて、友達想いの頑張り屋さん)

 十条姫和を失うわけにはいかない。折神紫御本家の力が衰えつつある以上、特祭隊の唯一残った切り札は、姫和なのだ。

(そのために、貴方達の友情を利用する。いいえ、そんなカッコいいものじゃあなくて、頼っているのね、私は)

 教え子に丸投げの頼りっきり。嫌な大人にも程があると、羽島江麻は自嘲する。

 舞衣と姫和は、可奈美を挟んで微妙な仲である。それはかつての、藤原美奈都を挟んでの柊篝と己を連想させる。

(上手く行くといいのだけれど)

 それで救われるのは姫和と舞衣だけではない。

 多分、江麻自身も救われるのだ。

 



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一指しの太刀 その3

 ちゃぶ台に、湯飲みが二つに急須が一つ。

 湯飲みの一つは姫和のものであり、もう一つは来客用のものであったが、姫和の話によると、舞衣はこれを使用する、記念すべき三人目なのだそうだ。

「ここに来るのは岩倉さんか、五条学長くらいなものだったからな。また役立てることが出来て良かった」

 そう言って、姫和は笑う。

「私に用があって来たんだろう」

「うん」

「可奈美のことか」

「…うん」

「言っていたな。可奈美に勝て、とか」

「声に、出ちゃって」

 姫和とあったらどう話すか、数時間余り費やして考えてきたわけだが、綺麗さっぱり白紙になってしまった。どうやら舞衣は、姫和には常に翻弄される定めにあるらしい。

「聞いたよ。もう伍箇伝の生徒じゃないって」

「…そうか。でも当分予備警察官では居るつもりだ。荒魂は依然頻出してて何処も人手が足りないし、それに予備役してるうちは、小烏丸とも一緒に居られる」

「それなら…」

「言っておくが、舞衣や可奈美は同罪じゃないぞ。私は首謀者、舞衣たちは協力者。罪科が違う」

 先手を打たれた。やはり伍箇伝最速刀使、先々の先はお手の物のようだ。

「大体、皆と一緒に居られなくなるわけじゃない。伍箇伝の生徒じゃあ無くなったってだけで、特祭隊の刀使であることに変わりはない」

「けど、それじゃあ御前試合には出られない」

「あれの参加資格は伍箇伝の生徒限定だからな。けど、いいんだ。私は伍箇伝最強に興味が無い。元々、無かった。先の御前試合に出たこと自体、例年決勝を観覧においでになる紫様を狙ったからだからな」

「…それでいいの? 可奈美ちゃんとの決着を着けなくても」

「決着なら着いた。舞衣も見たろう」

 姫和と衛藤可奈美が立ち会った最後は、関東大災厄、刀使たちの間で通称するところの年の瀬の災厄の折であった。

 姫和は禍神イチキシマヒメと融和しており、まさしく神憑りの状態であったが、それをも可奈美は一蹴した。

 この時の姫和は半荒魂化とでも言うべき状態の為、御刀で斬られれば重大なダメージを受けるが、逆に御刀以外の――例えば荒魂の打撃を受けたとしても一撃やそこらで写シが剥がれることはない。その気になれば迅移の連続で日本列島を航空機並みの時間で横断出来るだろうし、迅移と八幡力、八幡力と金剛力など同時に使用しても息切れすることはない。無尽の神通力を幽世からくみ上げることが出来る状態にあったにも関わらずである。

「あの時ですら可奈美には及ばなかった。可奈美の剣は、私が影すら踏めない域に達している。それに私は、可奈美に剣を見せすぎている。可奈美のような後先の技に秀でた奴に、それが何を意味するのか、舞衣なら分かるはずだ」

 姫和の学んだ鹿島新当流の太刀筋は凶悪そのもので、鹿島の太刀を修めた者と立ち会えば、初見でそれを凌ぐことは不可能であろうとすら言われる、数々のハメ手が収められている。

 それだけに鹿島の太刀は秘するを専らとし、悪戯に広めることを嫌った。一度見られてしまえばその威力を減じるからである。新当流は多彩な奇襲攻撃を強みとするが、知られてしまえば奇襲は奇襲でなくなるということだ。

 然るに姫和は、折神家駐在中は日常的に可奈美と立合いを交えている。その必要を感じていなかったから技の出し惜しみなどしていない。その結果、姫和の繰り出す技は全て可奈美にインプットされていると言っても過言ではない。流の持ち味である攻め強さは、無意味となり果てている。

「もしもう一度半神半人の身となって圧倒的なエネルギーゲインを得ても、迅移の速力自体が倍になる訳でもないし、御刀に斬られて写シが剥がれないわけでもない。それが尽きせず行えるというだけで、行う技は刀使の技だ。その刀使としての技前が勝る相手に、及ぶはずもない」

 作戦科に出入りすることの増えた舞衣にとり、姫和の言に重みがあった。

 関東大災厄当時、タギツヒメの走狗となった冥加刀使はノロの注入に加えS装備を標準装備し、写シの維持や迅移の段階などは熟練刀使並みの高段階で行うことが出来たにもかかわらず、可奈美たちや調査隊の面々には及ばなかった。

 御刀が刀使に授ける神通力は、刀使の御刀の取り扱う技に及ばない、ということが戦訓となって示された形であった。

 姫和も、当事者としてよく知っている事である。

「今や可奈美との立合い、私に理は無い。ここから先、不利になる一方だ。だから…」

「だから?」

「舞衣。お前が勝て」

「え」

「お前が勝つんだ」

 姫和は繰り返した。

「そんな、無理よ」

「何故そう思う」

「だって」

 可奈美と試合して勝った最後は、何時だったか。最後に一本を奪ったのは、何時だったか。

 霞みのかかる程の、記憶の彼方であった。

 どうすれば勝てるのか。どうすれば一矢報いることが出来るのか、工夫を重ねては跳ね返されることを繰り返し、いつからか思うようになった。

(もう可奈美ちゃんに勝つことは出来ないかもしれない)

 と。

 可奈美の傍に居ることは出来ない。

 並んで歩むことは出来ない、と。

 だけど、己はそうでも、並び立てる者は在るかも知れない。誰か――己よりももっと強い誰かだったら、どうにか――

 でなければ、可奈美は独りぼっちだ。

 あんな高みの、誰にも及びもつかぬところにたった一人だ。

 それでは可哀そうだ。可奈美が可哀そうだ――

「…だって…」

「舞衣。お前は強い。少なくとも諦めていない。可奈美の背中を追いかけ続けている。私とは違う。標(しるべ)を見失ってしまった私とは」

「姫和ちゃんは!」

 姫和ちゃんは、それでいいの?

 可奈美ちゃんが独りぼっちでもいいの?

 可奈美ちゃんに置いてきぼりにされて、それでもいいの?

「…今日は、帰るね」

 それは言わず、ただ告げた。

 己には出来ないからお前が救えと、そう言っているのは姫和も舞衣同様なのだと気づいたからだ。 

「姫和ちゃん」

「何だ」

「早苗さん、馬庭念流を破門になったって言ってた。戻るつもりはもう、無いと思う」

「岩倉さんに会ったのか!?」

「立ち会ったの。鹿島新当流の岩倉早苗さんと。御刀仕合で」

「…岩倉さんは」

「強かった。…姫和ちゃんに似てた」

「――」

「早苗さんもきっと待ってる。馬庭念流に戻らないってことは、そういうことだって思うから」

「…」

「また来るね」

 言い遺した。

 

***

 

 柳瀬舞衣が十条の家を辞し、姫和はまた、独りになった。

(良いわけがない)

 独りは寂しい。そう思う。

 今ならなおの事身に染みて、それが分かる。舞衣の言葉の意味が身に染みる。

(ああ、そうか)

(私は、寂しいのか)

 だから、己と同じに、可奈美の寂しさが分かるのか。

 姫和は、太刀置きに横たえられた、我が佩刀小烏丸を見やる。

 母が亡くなった後は、常に抱いて眠った太刀であった。

 暫くは、触れていない。

(…私の剣は、ここまでだ)

 もとより、好んで御刀を握ってきたわけではない。

 母の仇を討たんがために一つの太刀を磨いて来た。

(可奈美とは違う)

 身に付けた鹿島の太刀は、手段であって目的ではない。

 斬りたい相手を斬る為に磨いて来た。

 それがたまたま、最強の刀使折神紫であったから、最強を身に付ける必要があった。

 それだけのことであった。

 目的が失われてしまった今、母が伏せって後は岩倉早苗を頼ってまで磨いて来た鹿島の太刀もその意味を失った。

(空しいな…)

 衛藤可奈美とは違う。岩倉早苗には悪いが小烏丸を抜くのは好き好んでのことではない。

 姫和が好きだったのは剣ではなかった。

 母だった。

 見やれば、母の臥所(ふしど)があったあたりには、今はもう、何もない。

 母はもう、居ないのだ。

「母様…」

 もう何度目であろうか。

 声に出して呟いたその時であった。

「寂しいのか」

 と応えがあったのは。

「…! 誰だ!」

「我のことを誰かと問うとは。いや当然か。今や我は言の葉を発するもようやっとの落ちぶれ果てた存在。人にとってどれ程の価値やある。いや害とすら思いもしよう。ましてや一度はを我を仇のまで思いつめた柊の娘、我の事など羽虫ほどにも思うておるまい。再び小烏丸にて幽世に送り出されるは必定。我が身我が命の儚きかな――」

「誰だ! 何処に居る!」

「ずっと傍らにあったというに、気づきさえしておらなんだのか。一たびは世に禍神よと音に聞こえた我が身も衰えること極まれり。かつて仇と呼ばれた我が身が、今や殺す価値すら無き者と成り果てようとは」

「禍神だと! 傍らだと! まさか貴様は――」

「ようやっと思い出したか、我の名を」

「イチキシマヒメ!」

 三柱の禍神の一、姫和と一つと融和し、共にタギツヒメを討ち、衛藤可奈美と戦ったイチキシマヒメはしかし、声はすれども姿は見えない。

 肉声が確かに、鼓膜を打っているにも関わらずだ。

「一体どこに…」

「今の今まで穢れが足りず、言の葉を音と発することすら出来なんだ。しかしお主より流れ出でる陰々滅々たる穢れのお陰で今やこうして言の葉を発することが出来るぞ。まあそれが、命とりとなってしまう訳だが」

「まさか――」

 声を辿り、姫和はちゃぶ台の上を見やる。

 そこには母の偲び形見となった古式のスペクトラム計がある。食膳に着いては、必ず母の座った我が対面に、それを置くのが姫和の常であった。

「久方に相まみえるな、柊のむすm」

 声は途中で途切れた。

「わあああああ!」

 物凄い悲鳴を上げた姫和が、手近な己の茶碗で、カポッとスペクトラム計に蓋をしたからである。

 それもその筈、スペクトラム計の八角形状の中央、ノロの流滴が収められていたその辺りに、よおく見覚えのある顔が、永遠に寝起きのよおく見覚えのある寝ぼけ眼で浮かび上がっていたからだ。

(なんだ! なんだなんだなんだ!)

 とりあえず手元にあった茶碗の上に味噌汁のお椀で蓋をして二重に補強し、それでもまだ不安だったから台所に駆け込んで駆け戻ると分厚いガラスのサラダボールを乗せて、さらに引っ張り出してきた土鍋をズシンと乗っける。

「ぜーはーっ。ぜーはーっ。ぜーっ…」

 これでそう簡単には逃げられまい。

 しかし、何故に三柱の大荒魂の一柱が、居間のちゃぶ台の上に?

 奴はタギツヒメに吸収され、消滅したのではなかったのか?

「由々しいことだ。学校へ、特祭隊へ連絡を…」

 電話に這いよって、はたと伸ばした手を止める。

「…ふむ」

 取り乱すな、見苦しい。

 私は十条篝の娘。大荒魂が現れたなら、この小烏丸で今一度刺し違えればそれで済むこと、どれ程の事やある。

 どっか、と姫和は、我が食卓の前に胡坐をかく。

 制服なのでスカートで丸見えだが、誰も見ていないしいいだろう。

「…」

「……」

「…………」

 これは、大丈夫なのだろうか。

 そう、空気とか。窒息とかしないのだろうか。

(いやいやいや)

 奴らはアストラル体、刀使の常識で言うなら常に写シを張っているようなものだから、酸欠で死ぬようなことは無いはずだ。大体、大荒魂が酸欠で退治できるなら願ったりではないか。

(ヒトにノロを注入して荒魂化させ、それを進化とか言っていた奴だ)

(仏心など無用、無用)

 このままメシを食って、風呂に入って寝ればいい。

 放っておけばいいのだ。放っておけば…

(いやまて) 

 姫和愛用の茶碗は一番最下層を封印している。

 これでは御飯が盛れないし食べられない。食べられなければ、御飯は悪くなっていく。

 母の茶碗もあるにはあるが、今は仏壇の写真の前で母の分の御飯が盛られている。まさかこれに手を付けるわけにはいかない。いかないが、そこからは炊き立て御飯の甘やかな香りが漂い出て来るから始末に負えない。

(いかん。腹が減って来たじゃないか)

 姫和は健康な若者である。健康であるからには、夕飯時にはお腹が空く。

 健康なお腹が健康な音を立てる。誰も居ないからといって乙女が鳴らしていい腹などない。一人勝手に赤面しつつ、姫和は覚悟を決める。

(背に腹は代えられない、色々な意味で)

 我が手に太刀置きの小烏丸を手繰り、鯉口を切った上で、厳重な蓋を一枚一枚と退ける。

「感謝するんだな。私が空腹だったことに」

「我を食すか。まさか大荒魂たる我が、ヒトの腹に収まる日が来るとは思わなんだ」

「誰がお前なぞ食うか! ノロ中毒になるわ!」

「大荒魂たる我を生鮮魚と一緒にした者はお前が初めてだ。だが料理する気は満々であると見受けたぞ」

「ああ、そうだとも。おかしな真似をすればこの小烏丸で三枚に下ろしてやるからそのつもりでいろ」

「我は柊の家のおかずと成り果てるのか…」

「食い終わるまで黙ってろ。話なら後で聞いてやる。こっちにも聞きたいことが山ほどあるしな」

「話すか食べるか、何れかにせよ柊の娘よ」

「大きなお世話だ」

 程なく姫和は、膳の前で「御馳走様でした」と両手を合わせる。

「我は食さぬのか」

「今度妙なことをほざいたら冷蔵庫に放り込むぞ」

「我の宿りたるこれは、母の形見と覚えたが、魚臭くなったり青臭くなっても良いとお前は言うのか」

「表に放り出して蟻に攫われるに任せてもいいんだぞ。んん?」

「恐ろしや。今の柊は鬼畜か。荒神も神ぞ。柊の今代におかれては、神として相応の扱いを求む」

 では裏の畑に埋めて注連縄付きの要石でも置いてやろうかと思ったが、だんだんと時間の無駄に思えて来た。それは、聞きたいことを聞いた後でも遅くない。

「…応えろ、イチキシマヒメの成れの果て。お前は一体何だ」

「今お前が言った通りの者だ。荒神であった我が、タギツヒメに吸収されたる折、五体のノロを吸い尽くされ、そのノロとの接続回路も切断され、不要となった我の思念は吐き捨てた。その梅干しに例えれば我の失った五体は果肉、今の我は種のようなもの。まあもとより、始末に困ったタギツヒメに放り出されたのが我の出自。別に何も変わらぬ」

「お喋りな上に後ろ向きな奴だなお前は。紫様が仰っていた通りだよ」

「柊の娘よ、話に出たついでに一つ聞く」

「なんだ」

「紫はどうか。傷を負ったというが、大事ないか」

「ああ。回復は順調だ。ただ、刀使として現役に留まるのは難しいだろうな」

 そうだった。

 姫和は思い出す。

 姫和との融和は、イチキシマヒメからの申し出であった。「紫を助けたい」と懇願するイチキシマヒメに姫和が折れたのだ。

 この時、イチキシマヒメとしての意識は姫和に上書きされて消失したが、それも承知の申し出であった。この荒神の末妹にとり、紫とはそうまでして救いたい者であったということであろう。

 そう思うと、紫に対してもそうであったように、このイチキシマヒメにも親しめるのではないかと思える。

「祝着。それを聞けただけでも、幽世から我をお前たちに着けて戻したタギツヒメに感謝せねばなるまい」

「タギツヒメが?」

「そうだ。お前たちが、荒神すら戻るに千年を要する幽世の果てより、無事に戻れたのは我の御陰よ」

「あれ、お前だったのか!?」

「うむ、如何にも。感謝するが良い、柊の娘よ」

 姫和は、可奈美と共に幽世から戻る折、案内をしてくれた小荒魂を思い出す。

「…しかし、禍神ですら千年戻れぬものを、何故梅干しの種のお前が戻れたのだ」

「正しくは、戻れぬのではない。戻っては来れる。その為の我であったのだ」

「その為の、だと」

「ヒトが使う携帯端末の機能に例えれば、ブックマークのようなものだ。幽世の彼方に追いやられた時の用心として、タギツヒメはこの現世に道標を残した。念入りに無力化した我がそれだ。お前と可奈美が実際に戻ってきたことで、機能は実証された。それは、幽世のタギツヒメも把握して居よう」

「聞き捨てならん! じゃあ奴は戻ってこようと思えば何時でも戻ってこれるということじゃないか!」

「案ずるな。すぐに戻ってこれるのはアストラル体、つまり幽霊くらいなものであろう。刀使らが写シとして呼び出しているあれを、短時間なら現出出来る可能性はある。大荒魂として、ヒルコミタマを引き据えて戻ってくるにはそれこそ千年を要することだろう。もっとも、そのつもりは無いようだが」

「ホントか?」

「嘘ならば、大荒魂をあの世送りに出来るお前を、小烏丸付きで現世に戻したりはせぬであろう」

「…ふむ」

「それに幽世から現世が窺えるということは、現世の我らもまた幽世が覗き込めるということでもある」

「とは?」

「刀使共が挙って幽世に攻め入り、タギツヒメを追撃することも出来るということだ。その危険も、タギツヒメは承知していよう」

「…大体分かった。事は私の手には余るということがな。明日五条いろは学長に会って、仔細を報告しようと思う」

「よいのか、それで」

「是非もない。今の話、一特祭隊員のしかも予備役の私がどうこう出来るレベルの問題ではない」

「もし伍箇伝に我の存在が知れれば、我は伍箇伝の管理下に置かれ、幽閉されよう。そうなれば二度と逢えぬぞ」

「逢えぬ? 誰に」

「お前の母様、柊篝にだ」

「何、だと!?」

「申したであろう。向こうのタギツヒメの居場所は、我からも分かると」

「それは承知している。だがそれで何故母様の居場所が分かる」

「タギツヒメとお前の母が、一緒に居るからよ」

 そうと聞いた瞬間、姫和は横たえた小烏丸を引っ掴んだ。

「案内しろ。せねば斬る」

「待て待て待て。慌てるな。柊篝は藤原美奈都と共に在る。如何なきゃつであろうとも、ヒルコミタマを切り離された上にあの二人を腹背に受けては勝ち目は薄い。それにどういう風の吹き回しか奴め、あの二人と敵対するつもりはないようだ」

「本当だろうな」

「本当だ、と言っても信じまい。写シを張って、その携帯端末を操作するがいい」

「操作?」

「電話を掛けよと言っているのだ。柊の実家に」

「そこの電話が鳴るだけだろう」

「いいからせよ。荒神たる我の力に驚くぞ」

「茶碗の下から出られないくせに威張るな」

 鯉口を切る。それのみで、小烏丸は姫和の体内に幽世の神秘を横溢させる。

(写シ…)

 姫和の身が、幽かに輝く。写シの展張完了は一瞬であった。次に、ポケットからスマホを取り出す。

 市販のスマホなら電波が通じない状態になる。何故なら、姫和が写シを張れば、衣服同様姫和が身に付けていたものもアストラル体となるからだ。甚だしきは破損したりもするが、これはフリードマン教授肝煎りの特祭隊正式装備だ。写シを張った状態でも通話は可能である。

 操作に右手は使わない。右手で小烏丸の柄本を握って、左手で操作するのは、イチキシマヒメが妙なことをしたらその場で叩き切る為だ。

 コール音が鳴る。一度、二度、三度…

(そんなバカなことがある筈がない)

 そう思いながら、もしもと思う。

 もしまた、母の声が聴けることがあるのなら、と。そんな奇跡がもし起こるなら、と。

『もしもし』

 だからスマホから応えがあった時には、心臓が爆発しそうになっていた。

「もしもし! 母様! 私です姫和です!」

『もしもし? 姫和? 姫和なの?』

「母様! 本当に…」

 聞きなれた母の声、とはまた違う。母の姓が十条では無かった頃の、姫和と同じ年ごろであったころの声。しかしそれでも確かに、母の声だった。

 スマホを取り落とすのではないかというくらいに手が震えた。

 涙が溢れたが、その自覚は無かった。

 重要なことを忘れなかったのは、右手が小烏丸を握っていたからだ。

「母様! タギツヒメがそちらに居るというのは本当ですか!」

『ええ。今美奈都先輩と表で遊んでるわ。でも、どうしてそれを?』

「今すぐ姫和が加勢に行きます、もう暫く…って、今なんて?」

『タギツヒメなら、お庭で仲良く美奈都先輩と立ち会ってるわ。私が知っているタギツヒメはヒトの姿をしてなかったから、少しピンとこないけど』

「お庭で、仲良く…!?」

 ピンと来ない、はこちらのセリフである。

 しかし、姫和の会ったあの藤原美奈都なら、本当に大荒魂と庭で遊んでいてもおかしくないと思える。

「お変わりないのですね、母様」

『こちらはまだ大丈夫よ。タギツヒメが、ここを維持しているみたいだから。だから心配しなくていいのよ』

「母様…良かった…」

 姫和は胸を撫でおろす。

「そろそろ限界だ。通話が切れるぞ」

 イチキシマヒメが告げる。

 姫和は慌てた。まさか本当に電話がつながるとは思っていなかった。話したいことは沢山あっても、どれから話していいか分からない。

「母様、姫和は無事に現世に着きました。可奈美も一緒です」

『そう…良かった…本当に…』

「母様、姫和は…」

 切れた。

 聞こえるのはツーツー音ばかりだ。もう母の声は聞こえない。

「…」

 声も無く姫和は、物言わぬスマホの画面に目を落とす。

 通話終了、とあった。

「全く。昭和の公衆電話じゃあるまいし。十円三分で問答無用で切れるとか」

「折角なけなしの穢れを使ってつないでやったというに昭和扱い。まあ我は今や十円玉くらいの価値しかないと言うならその通りであろうがな。それより何故泣く柊の娘。母と話せて嬉しくは無かったのか」

「泣いてない」

「涙腺が緩み、涙滴が溢れればそれは泣いておるのではないか」

「泣いてないと言ったら泣いてない! 要らんことを言ったら、伍箇伝に突き出すぞ!」

「だからそれをしたらもう母の声は聞けぬと言うておろうに」

「いや決めた。明日にでも学長に会う。丁度便に心当たりがあるしな」

 ちなみに便とは舞衣、正確には舞衣が乗ってきたであろう柳瀬の家の車の事である。

「止めて下さいお願いしますなんでもしますから」

「急にしおらしくなったな、結構結構」

 大荒魂をも震え上がる邪悪な笑みを浮かべつつ、姫和はこう付け足した。

「まあ心配するな。お前の考えるようにはならない、多分な」

 



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一指しの太刀 その4

 翌朝、舞衣に連絡を取ってより、ものの半日も経たぬ間に姫和は鎌倉、折神本家の当主代行、折神朱音と面会していた。

 同行者が増えている。

 五条いろは平城学館学長である。ちなみに道中は、伍箇伝が保有する学長専用ヘリであった。

「いやほんま、びっくりですわ」

 少しもびっくりした風ではないように、はんなりといろは学長は所感を述べる。

「まさかこんな形で、イチキシマヒメと初対面なんてなあ。それも、姫和はんの紹介で」

 言葉は全然急いだ風ではないが、疾風怒涛の行動力で姫和と舞衣をここに連れて来たのは五条学長である。

 学長専用ヘリは、当然ながら学長の移動にしか使用がなされない。伍箇伝の保有する最速の空中機動はこれである以上、学長自らが動くしかない。

 いろは学長は本日の予定を全てキャンセルし、ここに赴いたのである。

 それほどの事態であった。

 多大な犠牲を払って封印したタギツヒメが異界に健在であり、現世に干渉することが可能であり、また現世から刀使を派遣して追撃することも可能であるかもしれないとなれば、滅多なことでは慌てない五条学長も、かなり慌てていたのかもしれない。とてもそんなふうには見えないが。

「お久しぶりですね、イチキシマヒメ」

「息災とは何よりだ、折神紫の妹よ」

「相変わらず、私は紫姉さんの妹で、それ以上でもそれ以下でもないんですね」

 折神家当主代行、折神朱音は苦笑する。

「当主の事ならばご安心ください、イチキシマヒメ。回復は順調です。早ければ今月中にでも退院なされるでしょう」

「左様か。左様であれば祝着」

 柳瀬舞衣にとっては、友人づてにしか聞いたことの無い禍神三姉妹の一柱との初対面であった。

 大荒魂の三柱を、ヒトと思ったことはない。人知を備えた強力な荒魂、それくらいな認識であった。

 それが、誰かの事を心配したり、無事を喜んだりする。

 目が回りそうだった。

 今まで後輩たちには、単純に荒魂を害獣として、効率的に駆除する方法を舞衣なりに伝えて来た。

 大前提が狂った。知能を備えた荒魂が居ると聞いてはいた。イチキシマヒメの姉タギツヒメは確かに人の言葉を操っていたが、人間性は全く感じられない、人類の天敵であった。それがどうだ。舞衣が可奈美や沙耶香にそうするように、誰かのことを心配しているとは。

「ここにお出迎え出来ぬ無礼を、当主代行としてお詫び申し上げます」

「出迎えるというたか、我を」

「…姉との申し交わしが御座います故」

「申し合わせとは何か?」

「次の機会には、和魂としてお迎えしよう、と」

「荒魂の棟梁たる我らをか」

「はい」

 和魂。ニギミタマ、と発する。荒魂の反語であり、反存在である。災いをもたらす者が荒魂なら、福をもたらす者が和魂である。 

「出来ると思うてか。タギツヒメは、怨みの化身ぞ」

「そうであったかも知れません。しかしタギツヒメは貴方方を産みました。タギリヒメとイチキシマヒメ、ヒトに対する立場の異なる神を」

「されば?」

「ヒトがそうであるように、タギツヒメもまた進化を遂げている、と我々は踏んでいます」

「ヒトの災いとなる進化であるかも知れぬぞ」

「その可能性を否定できません。ですが、私は願っているのです。ヒメにあられても御芽生えあそばされたように、タギツヒメに在られても誰かを思い、心を配り、親しむ未来が訪れることを」

「願う」

「はい。願っております。かつて私と荒神様との間には滅ぶか滅ぼされるか、それのみしかありませんでした。ですがそれでは、ヒトも神も寂しゅうございましょう?」

「我らの所業は、ヒトには災いでしかなかったと覚えるが」

「そうでもない、と思うようになりました。それは、そう、きっとイチキシマヒメ、貴方と出会ってからのことだと思っているんですよ」

 そう言って、折神朱音は恋する少女のように我が両掌を胸に、瞳を閉じる。

 

***

 

「言ったろう。心配するなと」

「ぐぬ。何か釈然とせぬ」

「なんだったらヘリに戻ってもらうよう頼むか?」

「お願いします止めて下さいなんでもしますから」

 結局のところ、イチキシマヒメの身柄(?)は、姫和の預かるところとなった。

「イチキシマヒメの御宿り召されたそれは、篝さんに託された大切なモノでしょう、姫和さん」

 その当主代行、折神朱音の一言によって、人類存亡のカギとなるやも知れぬイチキシマヒメの残滓は、姫和の掌に残ったのである。

「それで篝ちゃんと美奈都ちゃんは、どうだったん?」

「はい、母の話では二人とも無事だと。信じがたいことに、タギツヒメが幽世の住処を提供している様子でした」

「ほんにまっこと、信じられへんことやなあ。びっくりや」

 五条学長が言うと、すこしもびっくりなことではないように聞こえる。

「まあ、こうなったからには仕方ない。一つ姫和ちゃんを見込んで頼みがあるんやけど」

「私に?」

「そう。姫和ちゃんにや。実は朱音さま、姫和ちゃんの今の待遇のこと、ご存じでおへんの」

「え?」

「姫和ちゃんがもう特祭隊員やないことは、うちと姫和ちゃんの二人だけの内緒ってこと」

「ええ!?」

 まあそんなところだろう、と舞衣は傍で聞いて思った。羽島学長の読みは当たったわけだ。

「そないなわけでや。頼んます姫和ちゃん復学して、うちを助ける思うて」

「えええ…」

「やって。大荒魂の人格装置なんて大層なもんの管理を、特別刀剣類管理局の部外のお人にお任せすることなんて出来ひんことやもん。バレたらうち、朱音さまにごっつう怒られてまうわ」

「いや、けど…」

「三人の秘密ですね。私ももう知ってますから」

「あ。舞衣ちゃんにバレた」

「学長!」

 舞衣は今の話を聞いて京都を訪ねたわけだから当然知っているのだが、もし知らなかったとしたなら五条学長、大暴露である。三人並んでヘリの座席に収まっているのだから当然話をすれば耳に入ってくるのは当たり前だろう。

(遊んでる…姫和ちゃんで遊んでる…)

 おそるべし、平城学長五条いろは。

 怒らせても怒らせなくてもとっても怖い姫和ちゃんを、おもちゃにするとは。

「返事はすぐじゃなくてええから。考えといて。色よいお返事、まってますえ」

 普段からそんな風だから、優しく目を細めているかどうかは、舞衣には分からなかった。

 



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一指しの太刀 その5

 ひらひらと手を振る五条学長に見送られた後、柳瀬家の車は舞衣と姫和をバックシートに納め、厳かに走る。

「色々ありがとう、舞衣」

「うん。色々びっくりしたけど」

「期待させてしまったかもしれない。済まないと思ってる」

「うん。正直、期待しちゃった」

 今朝姫和から連絡があった時には良い返事が聞けそうだと思っていたが、事態は舞衣の想像の斜め上のそれまた上を行っていた。如何に賢い舞衣でも、イチキシマヒメが姫和のスペクトラム計に宿って未だ健在で、幽世に追いやったはずのタギツヒメとのアクセスが可能になるかもしれなくて、事態は一特祭隊隊員の裁量には全く収まらないから五条いろは学長の判断は必要で、その五条学長の手にも余るから折神本家に上げねばならなくなって、京都から奈良までヘリで往復することになろうとは思いもよらなかった。

「…でもまだ、期待はしちゃっている途中だから」

「…」

 事情を聞いてからの舞衣は素早かった。

「平城学館に向かってください」

「畏まりました、舞衣お嬢様」

 このやり取りが朝行われて後、昼下がりには姫和は平城学館経由で折神家に到着していた。

 長くて短い道中で、舞衣には事情を話した。

 イチキシマヒメが現世に健在であること。

 その力で、幽世の母、柊篝と電信出来たこと。

 幽世に未だ、タギツヒメは健在であること。母篝や、藤原美奈都も同じく健在であるということ。

 多分、舞衣が姫和から聞きたかった返事とは、関わりの無い話だ。

 しかし舞衣は、突然にも関わらず、真剣に聞いた。

「それって、可奈美のお母さん――美奈都さんともひょっとしたら、話が出来るかもしれないってことよね」

「多分出来るだろう。どうなのだ、おい」

「可能かどうかと問われれば可能だ。しかしそれには相応の穢れを得る必要があり、しかも今の我はノロと結びつけぬ故穢れを蓄積することが出来ぬ」

 姫和に求められ、イチキシマヒメは応えた。

 スペクトラム計が本当に人語を話した時には、沈着な舞衣も驚いたものだ。

「だと、どうなるんですか」

「汝の求めに応えるには、一時に多くの穢れを浴びねばならぬということだ、孫六兼元の刀使よ。蓄積が為し得ぬ以上、浴びた穢れは浴びた端から消える。消える前に幽冥界と言葉を結ばねばならぬから、大量の穢れが必要なのだ」

「どうすればそれは得られるんですか、イチキシマヒメ」

「確たることは我にも言えぬ。大勢の人と交われば穢れは得やすいが、一人の者から大量の穢れを得られることも有る」

 実は舞衣にとってこれが、イチキシマヒメと言葉を交える機会を得た初めてであった。

 年の瀬を姫和や可奈美と共に行動した舞衣たちだが、実は大荒魂という存在と会話らしい会話をしたことは無かったのである。

「本当に、姫和ちゃんにはびっくりさせられてばっかり」

「重ね重ね済まない。…けど舞衣。これ以上迷惑はかけたくないんだ。私が私の勝手で回りを振り回している自覚はある。だからもうこれ以上は…」

「関わらないで、っていうつもりなら止めてね。私もっともっと、姫和ちゃんに関わらせてもらうつもりだから。…でも私、いくら何でも我慢出来なくなってきたから」

「…え」

「だから仕返しさせてね、ちょっとだけ」

「ち、ちょっとだけ?」

「うん、ちょっとだけ」

 舞衣のちょっとだけが、姫和には計り知れない。

「わ、分かった。私も貸しを作りっぱなしは嫌だと思っていた。私に出来ることなら」

「ありがとう、姫和ちゃん。あ、丁度着いたみたい」

「…え」

 何をさせられるのかと恐々とする姫和をよそに、車は静々と止まった。

「いやここは、私の家の前だが」

「ここでいいんだよ」

 バックシートより降りて先ず目に止まったのは、玄関先に駐輪してある、見覚えのある自転車だった。

「…岩倉さん?」

「待ちくたびれたよ」

 腰を上げた岩倉早苗は、スカートの裾をパタパタと払う。どうやら十条の家の前でしゃがんで、家の主の帰りを待っていたらしい。

「久しぶりにどう? 十条さん」

 早苗は我が左手の御刀を、姫和に向かって掲げた。

 

***

 

「舞衣の仕返しとはこれか」

「どう? 思い知った?」

「ああ、全く思い知ったよ」

 精一杯不敵に、といった感じの表情の舞衣に、姫和は苦い笑みを向ける。

 

「早苗さん、真庭念流を破門になったって言ってた。戻るつもりはもう、無いと思う」

「強かった。勝てなかった。…姫和ちゃんに似てた」

「早苗さんもきっと待ってる。念流に戻らないってことは、そういうことだって思うから…」

 

 先日の、そのような舞衣の言葉が蘇ってくる。

 舞衣と早苗が会って言葉を…いやそれ以上の、御刀に掛けたやり取りを交わしたことは窺い知れた。舞衣は姫和が平城学館を辞したことを知っており、ならば早苗がそれを聞いている可能性はある。

(岩倉さんがここに現れて、御刀を掲げたという時点で、知ったと思うべきだな…)

 知られたくなかった。

 岩倉早苗には、姫和が今日に至るまでどれ程の迷惑を掛けたか知れない。考えれば眩暈がしてくるから考えたくもない程にだ。

 だから今回のこともも、考えないようにしていた。ようは尻尾を巻いて逃げていたのだ。

 そのツケが今、御刀を掲げて立ち塞がっている。

「思えば岩倉さんには、いつも隠し事をしてばっかりのような気がするよ」

 姫和は応じ、我が腰間の小烏丸を外して掲げる。

 鞘ごとである。

 早苗と全く同じ動作だった。

 早苗は、左手で掲げた我が御刀を、右手を添えて頭上に拝する。

 姫和も同じくそれを行い答礼する。

 鹿島に伝わる礼式であった。

 鹿島新当流の礼法はかつて姫和が早苗に伝えたものだ。

 新当流の御刀の技は、知るその全てを伝えた。そうしなければ対錬が出来ず、母の仇を討てないだろうと思った。

 早苗はどう思ったろう。

 一つ年上の早苗が、馬庭念流を姫和に伝えるならば兎も角、逆に教えられて気持ちのよかったはずはない。

 しかし早苗は何も言わず、最終的には母と行っていたのと同じレベルの稽古が行えるようになっていった。

 大した刀使だ、と思っていたがそれ以上の所感を姫和は懐かなかった。そんな精神的余裕もあの時はなかった。仇討ちが上首尾であってもそうでなくても己は終わりだ。命は無いだろう。恐ろしくはあったがそれを上回ったのは、母への想いだった。母を失った寂しさであり怒りだった。

 死に物狂いで打ち込んだ。怖さも寂しさも怒りも忘れて眠れるまでそうした。熾烈を極める稽古となった。

 早苗は何も言わずにそれに付き合った。御前試合のあの日まで――

 早苗とは平城の決勝で当たった。

 あの時は勝利を得たが、思えばもし新当流でなく、馬庭念流の岩倉早苗と戦ったなら勝てたのか。

 分からなかった。姫和は主席、早苗は次席の結果となったが、もし早苗が居なかったなら、早苗を対手とせず、独り稽古であったなら結果はどうなっていただろう。

(今この姫和がこうして在るのは、岩倉さんの御陰だ)

 分からなかったが、そのことは確かであった。

 鞘を背に回し、御刀を構える。

 姫和は小烏丸を。

 早苗は千住院力王を。

(上段脇構え――)

 今一人、姫和に続き車から降りた舞衣は、御刀は抜かず、姫和の後ろに立つ。

(まるで鏡に映したよう――)

 申し合わせたように同じ構えであった。

 とはいえ二人の間に申し合わせたやり取りがあったようには見えない。

 稽古なのか仕合なのか、それとも斬り合いとなるのか、どのレベルの戦なのかの申し合わせがないままに始まってしまっている。

 稽古であれば、申し合わせがなければ非斬り稽古だ。お互いが流の技を――新当流の型を繰り出す。どの型を繰り出すかは自由だ。新当流の技であれば、どちらがどの型を何時仕掛けて行っても良い。限りなく仕合に近い稽古と言える。

 仕合となれば、流の太刀に拘らず自在に工夫をこらして、雌雄を競う。仕合は試し合いであり、実戦ではない。刀使の戦は荒魂狩りであり、それ以外ならば伍箇伝の禁じるところの私闘に当たろう。

 繰り返すが姫和と早苗の間に申し合わせは何もない。

 だから、ここに居合わせた舞衣の役割は、両者が斬り合い、刀使の禁じるところの私闘に移行するようなら直ちに止めることであった。

 現れた早苗が姫和を斬り合いに誘ったことに驚きはなかった。なるのではないかという確信的な予感が舞衣にはあったからだ。

 御刀勝負は写シが剥がれれば終わりだ。

 仕合であればそれでケリだ。だがこれが私闘、喧嘩の類ならそこから先がある。その場合写シを剥がした剥がされた以上のものが掛かった斬り合いになる。

 特祭隊隊員としてこれを静止するべきであることは分かっていた。しかし姫和の動向を早苗に伝えていたのもまた、舞衣であった。

 だからこそ、段階が上がる前に止めなければならない。

 腰の孫六兼元に賭けても、である。

(早苗さんは強い)

 実力は舞衣と互すると見て良いだろう。しかし…

(でもそれじゃあ、姫和ちゃんには勝てない)

 姫和に勝利しうる刀使は限られている。もと親衛隊と、それを従える折神紫前当主を別格とすれば、衛藤可奈美のみが為し得る刀使だ。

(私に手こずってたら姫和ちゃんには歯が立たない)

 それは早苗も承知だろう。平城学館の予選では姫和と戦って敗れているのだ。

 ならば、この場に立って御刀を抜いたのには、何等かの目算あってのことの筈。

(だけどそれは一体…)

 ふと、舞衣は気付いた。

(握剣が…前と違う?)

 早苗とは一度立ち会っている。そのとき早苗の脇構えも見ている。

 肘は舳先(へさき)、切っ先は艫(とも)。肘越しに対手を照準する、それは変わらないが唯一つ。

 御刀の持ち方が異なっている。

 というか、握り込んでいない。

 給仕が手に盆を乗せるかのように、右掌に御刀の峰を乗せている。もちろんそれだけでは、長細い御刀は掌から零れてしまう。だからそうならないように、左手を柄尻に添えている。

 そんな風に見えた。

 明らかな違いだ。しかし、だからといってここから何があるのか?

 姫和も感づいたか、目を細める。

 だからといって、脇構えより変じることはしないようだった。当然である、母の仇を討つために、ひたすらに磨いて来た構えであるのだ。トップスピードは掛け値なしに伍箇伝一。如何なる切っ先よりも先んじて相手を貫く姫和の「一つの太刀」。

 早苗はそれに、あろうことか正面から、しかも全く同じ構えで勝負を挑もうとしているのだ。

 

「羨ましいな。柳瀬さん達が大冒険してる間、私がしてたことと言ったら、ただ待っているだけ」

「今だってそう。十条さんだったら脇構えに付けたら必ず攻めてたのに、私は待っているだけ」

 

 そのような早苗の言葉を、舞衣は思い出す。それしか出来ないから仕方ないと、そのようなことも言っていた。

「ホントだね。十条さんは何時も私に、隠し事ばかり」

 だけどそれは仕方のないこと。

 だって私と十条さんはそんな仲じゃあないから。

 そう思って諦めていた早苗が居る。しかしその一方で思っていた。どうして己を巻き込んでくれなかったのか。力を智恵を貸して欲しい、話を聞いて欲しい、相談に乗って欲しい、そんなことのどれか一つくらいはしてくれても良かったのではないかと、その思いは常にあった。

 平城の先輩でかつて主席代表の座を争ったこともある獅童真希に姫和のことを尋ねられ、「分からない、何も知らない」としか答えようが無かった早苗の気持ちは、きっと姫和には分かるまい。

(私怒ってるんだよ、十条さん)

 何かを犠牲にして姫和に付き合ったのは舞衣たちだけではないのだ。

 真庭念流の稽古を返上し、己のキャリアを犠牲にしてまで姫和の稽古に付き合った。

 早苗自身が思い定めてしたことだ。姫和に頼まれてしたわけでなく、姫和の力になりたいと思ってそうしたのだ。 

(だって不公平よ)

(私がそう思って巻き込まれたのに、巻き込みたくないから黙ってるなんで不公平よ)

 思い知らせてあげるから。

(覚悟してね、十条さん)

 早苗が下がった。

(…?)

 歩幅にして半歩程だから、距離としては小さい。

 しかし間合い、という言葉を使うなら大きな後退である。一足刀を踵よりつま先の幅とすればその倍程もの距離を下がったのだ。

 石を投じれば当たるか当たらないかというこの間合い、確かに姫和が得意とする間合いだ。御前試合でもここから一突き、という姫和の迅移の刺突に、歴戦の刀使が次々と敗退している。それを嫌って退避したのか。

(いや違う。これは…)

 攻撃である。

 姫和の勘がそう告げている。後ろに逃げたのではない。早苗がしたのは…

「一指しの太刀…!」

「むうっ!」

 その間合いから早苗が仕掛けた。

 姫和が応じた。

 応じぬ筈がない。姫和が得意とする「一つの太刀」。早苗が「一指しの太刀」とやらを繰り出したのは正にその適正距離である。近すぎず遠すぎずの、ドンピシャの距離だ。

 繰り返すが姫和のトップスピードは伍箇伝髄一。同じに技を繰り出せば先に相手に到達するのは姫和の切っ先だ。御前試合でも伍箇伝各校の代表に選出されるほどの刀使が成すすべもなく敗れて来たのだ。

 早苗もそうなって当然の筈であった。

 そうならなかったのは何故なのか。

「…が…!」

 早苗が太刀を引き抜くと同時に、姫和の写シが飛んでいた。胸部、その中心を一突き。写シが無ければ脊椎を損傷して良くて廃人となっていただろう。

 早苗の写シは飛んではいない。

 小烏丸の諸刃は早苗の鳩尾に埋まっていたが、浅かったようである。

(なに…いまの光…)

 早苗は姫和と同時に突いた。

 迅移による刺突だ。

 姫和の得意の技であり、これに限っては姫和以上の遣い手は存在し得ぬ程のものだ。

 早苗の迅移が、姫和を凌ぐ程のものであったとは見えなかった。

 早苗とて御前試合本戦を伺う刀使である。相応の技を持ってはいる。迅移のレベルは高いが、姫和以上の物であろうはずが無かった。

 応じて技を出すか、身を躱して後先を取るか、多くの刀使が応じようとして、同じように全く間に合わず、成す術もなく刺し貫かれて来た姫和の太刀に、早苗が対して繰り出した技は――

(フェンシングで見たことある…あんな刀法を…)

 まるで刃を指でなぞるか、と見えた。それがフェンシングの選手の良く行う、フルーレの切っ先を指先で弓のようにしならせる、あれを連想させた。

 しかしあれは、刃も切っ先も丸められた競技用の剣であるから出来ることだ。真剣でそれを行えば当然ながら怪我をする。然るに、早苗は御刀でそれをやった。刃を指で撫でたのだ。

(…いえ、違う)

 刃を撫でた指は鎬から中町に至った時には火花を発し、切っ先まで来た時には光芒となって夜を照らした。

 撫でただけではこうはならない。指で押さえつけたのだ。技へ至る刃を指先で。

 物打ち所より切っ先に至った指先が、ついに千住院力王を離れた時、指から離れ自由となった刃は急激に運動した。

 舞衣ですら見失う程だった。

 古代の投石機か何かのようなものだ。一端を縛められた木材が、その縛めを解き放たれた瞬間、バネ仕掛けで巨岩を敵陣深くに投じるあれだ。

(確かに迅移の素早さは姫和さんだった)

(でもそれにも増して、早苗さんの千住院力王が、突きになるのが迅かった)

 迅移の素早さで劣っても、技の素早さで優った。早苗の突きの方が速く、技として成立していたのである。

「…続きは御前試合でね、十条さん」

 決着と見て、早苗は納刀する。

「私、待ってるから」

 そう言って背を向けても、姫和は動かない。

 只々茫然と、膝をついて視線を彷徨わせたままだ。

「…どうして、私の時には遣わなかったの?」

「柳瀬さんだって居合を遣わなかったでしょ? だからおあいこ」

 すれ違いざま、舞衣と早苗は視線を合わさぬやり取りを交える。

 姫和に届くか、届かないかというほどの小さな声である。

「私、柳瀬さんの役に立てたかな」

「――」

「でも御免ね。私、十条さんを本戦で衛藤さんに合わせるつもり、ないから」

 早苗は坂を下っていき、舞衣は取り残された。

 自失している姫和と共に――

 

***

 

 ふと見上げれば、星が降るようであった。

 夜空の息吹を間近に感じられるような、明るい夜道を一人、岩倉早苗は下っていく。

「…あ」

 ふと気づく。

 自転車を、姫和の家の玄関前に置きっぱなしだ。

 すっかり忘れていた。そんな余裕が無いくらいの、多分我が人生で何度目かというほどの、御刀と御刀のやり取りを、今交えたのだという思いが押し寄せてきて、手と言わず足と言わず、みっともないほどに震えだす。

(…やった)

 やってやった。

 ずっと工夫してた、いつか十条さんと仕合う時の為の「一指しの太刀」。

 大切なこと、肝心なことを私にはいつも黙っている十条さんには、仕返しに内緒で鍛えた私の鹿島新当流。

 それを決めてやった。

(よし! よし! やった! やったやった!)

 震える我が両の拳を、胸に握り締める。

 驚いたか。

 驚いたか!

(…)

 達成感とか勝利の感慨とかは、たったそれだけで冷めていった。代わりに眼裏に浮かぶのは、伏したまま、自失している姫和の姿だった。

 胸がズキリと痛んだ。

 胸に結んだ両の拳を、掌と広げてみる。

(…十条さんも)

(隠し事をしてた時、こんなふうに胸がズキズキしたりしたのかな…)

 今己が感じていることを、かつて姫和も感じていたりするのだろうか。

 もしそうであれば、と早苗は思った。姫和のかつて感じたことを、今己が感じていることが嬉ばしいと思っている早苗が居る。

(自転車は、いいや)

 あのまま姫和の家に置いて行こう。そのうちに取りに行けばいい。

 歩いて駅までどれ程の時間がかかるのか、すぐには思い浮かばなかった。

 でも今日は歩こう。

 暫くはこうして、今の気持ちを噛みしめながら歩むことが心地よい。そうするには幸いにも、夜は明るい。

(…ごめんね柳瀬さん)

 きっと何時かは姫和は、最大の好敵手である衛藤可奈美のことのみを見据えて、小烏丸を握るのだろう。そう導くのが柳瀬舞衣の目標であったはずである。

 だったら生憎なことだ。何時かは分からないがそれまで、姫和の視線は己の物になる。そうすることに成功したののは、姫和に教わって、それを早苗がずっと温めてきた、言わば姫和と早苗の産んだ新たな鹿島新当流の技なのだ。

 そのことは姫和に伝わっただろうか。

 十条家の庭先での稽古の日々が二人の間に生み出したのは溝だけではないことが、もし伝わったなら嬉しい。

 そうして出会ったあのころの、二人にもし戻れたとしたら――

 そう思うと笑みが零れた。涙も一緒に零れた。

 あとからあとから零れた。

 その笑みと涙のままに、星の明るく照らす夜道を、早苗はまた、歩き出していた。

 




「一指しの太刀」編、一区切りです。
これについては全くの、僕の妄想による創作なのでアプリブラウザのとじともはこんな技使いませんから、それはお断りしておきます。
でも本当にモーション似てるんだよなあ。偶然なのか?


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令和御前試合 その1





 負けた。

 完敗であった。実感が押し寄せて来たのは、岩倉早苗も柳瀬舞衣もいつの間にか立ち去り、十条の家の前に独り取り残されたと知った時だった。

(なんだ)

 何だというのだ。

 写シを剥がされたことなんて何度もある。獅童真希にも折神紫にも、タギツヒメにもさんざんに斬られた。それらと比しても格別なこの敗北感は、あの時と似ている。衛藤可奈美に敗れたあの時と――

(何だと言うんだ――)

 身を起こせば、誰も居ない。

 早苗は兎も角、舞衣も黙って姿を消していた。姫和の復学、そして御前試合出場を求めて来た舞衣は、何の言質も求めず帰ったということになる。己の言いたいことは、全て早苗の千住院力王が語ったのだとでも言うかのように――

(舞衣のやつ、なんでこうも、大事なときに限って推しが弱いんだろうな)

 思えば可奈美の身柄を争った時も、身を引いたのは舞衣の方だったな…

 そんなことを思いつつ、のろのろと身を起こし、玄関を開けて我が家に転がり込んだ姫和は、明かりもつけずに先ほどの御刀勝負を反芻する。

(迅移の速さに劣ったんじゃない)

 迅移は勝った。それは間違いない。後れを取ったのは――

「それにしても弱いものだなあ、今代の柊は」

「う、五月蠅い! しみじみと言うな!」

 そういえばイチキシマヒメ。こいつが居たのだった。

「太刀行きに遅れを取ったが敗因であると知れ、柊の娘よ。如何に迅移に秀でたところでそれは間合いを詰めるのが素早いというだけのこと。刃圏に入ればモノを言うのは太刀行きの迅速さよ」

「そんなことは分かってる」

 姫和や早苗のレベルになれば、同じフォームで同じ技を行えば、そこに大きな時間差は生じない。

 同じ突きでも、技のフォームが違っていたのだ。

(素手で刃を押さえて、急激に運動させていた。まるで、飛び出しナイフか何かのように――)

 そんなことが可能なのか。

 そっと触るなら兎も角、力を込めた刃を押さえれば血が出る。ましてや刃に滑らせれば確実に指が飛ぶ。そうならなかったのは恐らくは、金剛身を遣ったからであろう。刃と指の間の光芒の正体はその際生じる鉄火花火であったのだ。

「金剛身と迅移の合わせ技、といったところであろうな、あれは」

「ああ」

 小烏丸を、得意の上段脇構えに取ると、鍔元の我が右手を外して白刃に添える。

 姫和なりに「一指しの太刀」を模した姿である。

(迅移なら私。それは確かだ。ならば――)

 同じ一指しの太刀を姫和が成功させたなら、迅移の差によって、勝者は姫和となるはずであった。

「浅はかなるかな」

「やかましい」

 金剛身ならば心得がある。

 得手ではないし、故に実地で使ったこともあまりない。練習すれば使いこなせるようになろうが、今まで必要に迫られたことがなかった。

 結構久方に、それを使った。これで小烏丸の白刃を滑らせても指が落ちることは無いだろう。

(これを…こうか!)

 左手一本で柄に込めた力を、右手指を放して一気に開放すると、小烏丸は急激に運動し――

「あ…!」

 左手から離れてあらぬ方に飛んだ。

「ああ! 母様の小烏丸が!」

「言わぬことではないわ」

 算を乱して我が佩刀に駆け寄る姫和を、イチキシマヒメが哂う。

「八幡力も合わせて遣ってみるか?」

「うるさい! 慣れてなかっただけだ!」

 これしきに八幡力の必要などあってたまるかと、憤然と立木に突き立った小烏丸に歩み寄る。引き抜いた物打ち所は樹液で光っている。念入りに拭っておかねば。

(それにしてもこれは、相当にリストに負担がかかるぞ)

 片手打ちの遣い手と言ったら折神紫が真っ先に思い浮かぶが、柳瀬舞衣も忘れてはならない一人だ。居合の技の殆どは、腕一本で行うものなのである。

(そもそも前提条件としての筋力が足りないのか)

 紫は、舞衣は、そして岩倉早苗は、これに耐えうる鍛錬を行ってきたのか。

「くそ」

 練習量で負けてたまるか。手首の負担は分かった。心積りを改め、今度は小烏丸を手放さないよう、我が左手に力を籠める。

(金剛身…!)

(…続いて、迅移!)

 第二の試技でも、再び小烏丸は手を離れて飛んだ。

 金剛身の指に刃を滑らせることは出来る。刃の離れと共に迅移を発動しようとするとしかし、どうしても持ち手の刀の方がおろそかになる。三度目も、四度目もそうなった。

「…くそ!」

「熱くなるでないわ。余計と刀理より遠ざかるだけぞ」

「お前に言われなくても分かっている! いいから黙っていろ!」

 いきなり早苗の真似は無理があった。ものには順序というものがある。

 迅移と金剛身は全く異なるベクトルの技、同時には行えない。なら導かれる答えは一つ。金剛身で身を固めつつ、刃の離れの瞬間に迅移に切り替えた。そうとしか考えられない。

(そんなことが可能なのか)

 再び姫和は、胸中に反芻する。

 考えれば考える程驚くべき、岩倉早苗の「一指しの太刀」であった。

 真似せよと言っても出来そうもない。いや元々、突出した何かを持たぬ代わりに器用に何でもこなせる刀使であった。

 器用で何でもできる上に賢いものだから、何でも出来る刀技を、適宜に用いることが出来る。バカの一つ覚えのように迅移ばかりの己とはえらい違いだ。

(相手が悪かった)

(岩倉さんが上手過ぎたんだ)

 だから私が弱かったわけじゃない。悪かったわけじゃない。仕方が無かったんだ。大体もう刀使は止めるんだ、平城学館の生徒じゃあないんだ、だから、だからだから…

「くそ!」

 何で私は、こんなに弱いんだ。

 可奈美の時だってそうだ。だって大荒魂の強大な力を得てすら、問題にもされずに一蹴されたんだぞ。どれだけ弱いんだ私は!

 どうして母のような天分がない!? 本当に母、柊篝の娘なのか!? もしかしたら私は母の娘ではなくて私は…

「不思議の勝ちこそ有れど、不思議の負けは無い。お前たちヒトの言葉であろうが、柊の娘よ」

「黙れ」

「黙らぬ。敗北には理由がある。それを突き詰めねば仕合の意味があるまい。そうして検証を繰り返し正解に近づき、ついにはタギツヒメをも討ったではないか、お前たちヒトは」 

「私が弱かったからだ。愚かだったからだ、それが理由だ、違うのか!」

「違わぬが違う。考えよ、ヒトよ。先ずは千鳥の刀使に敗れた時はどうであった」

「どうもこうもないだろう! 可奈美は天才で私は凡人だったんだ、母様から何も学ばなかった、何も受け継がなかった、本当に私は母様の娘なのか? 私は…」

「分からぬか、柊の娘よ。あの時お前は衛藤可奈美とこの私、二人を相手として戦っておったのだ」

「意味が分からん! お前は私と同化し、無尽蔵の力を得ていたんじゃないのか!」

「無尽蔵の通力。確かに大荒魂であった我にはそれが在ろう。しかしそれを引き出すは、人の子たるお前だ、柊の娘、姫和よ。思い出すが良い、お前は小烏丸を手にして、すぐさまに写シを張り、迅移を遣い得たか?」

「それは…」

 人類は様々な道具を作り出し、利用している。

 例えばスマートフォンは今や殆どの老若男女が手にしているが、その機能の全てを使いこなす者がどれ程居るだろう。その通信速度の限界を感じる者がどれ程居るだろう。

 例えば乗用車は今やほぼ全ての世帯が一台は保有しているが、最低でも60馬力を下らないその動力性能を引き出せる者がどれ程居るだろうか。

「衛藤可奈美と戦う前にお前は、我の力を制御せねばならぬ。二十余年も連れ添った折神紫ならば慣れても居ようが、お前はどうだった。我が力に振り落とされぬよう、我が力に必死にしがみついて斬り合うていたではないか」

「――」

 身に覚えがある。

 鹿島の社での斬り合いを振り返れば確かに、普段使えば精魂尽き果てて数日間は身動き出来なくなる三段階の迅移を多用、というか全ての打ち込みをそれで行っていたような気がする。

 その全てを可奈美は凌ぎ、凌ぎ切った後に一太刀を入れたが、考えてみれば単調に過ぎたのではないか。

 可奈美と言えど当初は凌ぐのがやっとだった。並みの者なら付いて行けずそのまま斬られたであろうが、相手は当代一の後先の技の遣い手だ。高い学習能力と、十分な太刀行きの迅さ。あとはタイミングだ。スピードに慣れたら、たった一度だけ、チャンスを掴めばいい。

(何のことは無い)

(可奈美のいつもの勝ち方じゃないか)

 慣れない戦い方で大荒魂の力に振り回され、練習通りの慣れたやり方で戦った可奈美に負けたのか。

 思い起こせば、姫和は大荒魂を身に沈めた刀使と実地に斬り合ったことがある。

 折神紫の行った斬合はどうだったか。

 汲めども尽きぬ大荒魂の無限力にモノを言わせ、迅移を連発するようなことはしなかった。ただ竜眼の未来視を利用して、可奈美と姫和に先に掛からせ、丁寧に後先を取っていた。二十余年も大荒魂と付き合ってきた紫は、その用途を熟知していたと言えるのではないか。

 免許取りたてのドライバーが、いきなりフォーミュラカーを乗りこなせるはずがない。法定速度でノロノロ走らせるのがやっとだろうし、もしアクセルを踏もうものなら即コースアウトがオチ。

 そんな状態で当代一の御刀怪獣トジゴン可奈美と斬り合えば鱠斬りにされるに決まっている。

 不思議の勝ちはあるが、不思議の負けはない、という剣句は刀使ならば誰しも親しむ。格上にまぐれで勝つことはあっても、負ける時には必ず、負けるに至った理由があるという、そのような言葉だ。

 まさしく姫和は、負けるべくして負けたのだ。可奈美の時も、恐らくは早苗の時も。

(私は弱い。慢心すまい)

(先ずは金剛身より迅移。これのみを行ってみよう)

 これならば確かに出来はしたが、返って余計に早苗の一指しの太刀の凄さを思い知らされる結果になった。金剛身を終えてそれから迅移することまでは出来ても、それは二つの技だった。早苗の金剛迅移、とでも言うべきスムーズさの再現は難しい。まぐれで上手く行っても、迅移で突っ込んだつもりの地点を通り過ぎたり、近すぎたり、これで突きを行っても命中させることが出来るとは到底思えない。

「…おい。言いたいことがあるなら言え」

「黙っていろと言うたはヌシであろうがw」

 くそ。くそ、くそ!

 もう燃料切れだ。写シも張れるかどうか分からない。

 しかし出来ることはあるはずだ。

 小烏丸の柄尻を握った姫和は、それで縦横に素振りを始めた。

 このバランスに左手を馴染ませる。最初はそれであった筈だ。紫も、舞衣も、そして早苗にも最初はあったはず。同じものを積み上げていけば良い筈だ――

 期せずして、と言うべきか期してというべきか。

 この時の姫和は、早苗の思い通りになっていた。一指しの太刀の早苗、彼女のこと以外、何も考えられなくなっていたのである。

 

***

 

 翌朝、姫和の左手首は腫れた。

 腫れ方にも色々あるが、良くない腫れ方だとすぐに分かった。明らかに剥離骨折、つまり捻挫の一歩手前に陥っている。筋が骨から剥がれかかっているのだ。

 そうと姫和が知った時、我が両目から涙が零れた。

 情けなかった。

「どうすればいい…どうすれば勝てる…」

 岩倉早苗にも、衛藤可奈美にも及ばない悔しさが、結んだ口から言葉となって出た。独り言のつもりであったが、今はこれに答える者が居る。

「何故に勝とうと思うか」

 イチキシマヒメである。

「勝つ必要が何処にある」

「勝たないでどうするんだ!」

「勝つばかりがその道に非ず。我は憶えているぞ。昨年の春のお主の太刀筋を。我は死するが敵も死する、必死必殺の技」

「まさかお前、一つの太刀のことを言っているのか」

「如何にも」

「馬鹿なことを言うな! あれは柊に伝わる大荒魂封じだ! 人に向けるものでは――」

「向けたならどうだ」

「――」

 何を言っているのだ、この大荒魂の成れの果ては。

 可奈美相手に、早苗相手に必死必殺だと?

 それを行えば勝者などいない。二人の存在がこの世から消える。それだけだ。

 それでは全く無意味ではないか――

「確かに、勝者は誰もおらぬ。しかし敗者もおらぬ。これで目的は達せまいか」

「む…」

「勝てはせぬ。しかしそれは衛藤可奈美も岩倉早苗も同じこと。お前の「一つの太刀」を向けられたが最後、理論上今世に存在出来ぬ。大荒魂タギツヒメであっても例外ではない」

 確かに一理はあるかもしれない、イチキシマヒメの言であった。

 勝つことは出来ずとも、相打ちには出来る。即ち負けぬ。決死剣たる「一つの太刀」を用いたならば可能だ。何のことは無い、無敵ではないか。我弱しと思ったのは気の迷いか?

(いいや、違う)

 危うく口車に乗るところであった。

「母様から受け継ぐ鹿島の秘太刀が心強いことは分かった。だかそれでは、可奈美か岩倉さんか、どちかかと戦ったならそれで終わりで、両方とは戦えん」

「如何にも、そのようになるな」

「それはダメだ」

「何故に駄目か」

「私は平城の予選で岩倉さんと戦い、それに勝って可奈美にも勝ちたいからだ。来年も、再来年も、卒業するまで」

「はて。話が違うぞ。お前は学校を止め、大会には出ず、千鳥の刀使との戦いは勝てぬと諦め、あの千住院力王の遣い手との仕合も気に留めるには能わぬ、そのように考えていたのではなかったか」

「ああ。そうだな」

「違うぞ。話が違う。何故だ、柊の娘」

「岩倉さんに負けて分かった。悔しいんだ。すごく悔しいんだ。母様がら受け継いだ鹿島の太刀が負けるなんて、そんなことが有るか。有る筈がないんだ。それじゃ母様が負けたみたいじゃないか。そんなバカなことってあるか」

「うむ」

「私が母様の娘だって証明したい。母様から正しく技を受け継いだって証明したい。母様の技で勝ちたい。だって母様は…」

「うむ」

「母様は…私の…たったひとりの…」

「…うむ」

 姫和は泣いた。

 敗れて泣いた。さめざめと泣いた。

 敗残の剣者の姿であった。惨めな姿でありながら、その啼泣は何処か、気高かった。敗れて誇りを失わぬ者の、今一度立ち上がらんとする者の、それを何処か、感じさせた。




久々の投稿となってしまいました。これから暫くの間、間欠的に投稿していこうと思っています。果たして決勝まで行けるのか、神のみぞ知る?






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令和御前試合 その2

 刀使達の間で称されるところの御前試合。

 伍箇伝草創と時を同じく開催された同大会の源流は、古く中世の天覧試合にまで遡るとされる。それこそ、刀使の世にあった頃より存在したのだから、歴史は古い。

 御前試合、という名称には大名将軍などが開催する試合という意味合いがある。古くは天皇が執り仕切った国事であるが次第に折神家が代行して観覧するようになり、鎌倉期の武家社会となって後、維新の世となるまで天皇家の埒外に置かれ衰微した。天覧試合が御前試合と名を変えたのはこの頃とされる。

 明治期になってからは機運を得て幾度となく全国規模の大会を行うも敗戦で御刀をGHQに奪われ一度途絶える。再開催となったのは相模湾大災厄の後であり、主導したのは折神紫と、伍箇伝各校の現職学長たちであった。

 このように刀使たちには歴史も思い入れもある大会であったが、伍箇伝が二度目の大災厄を経験した本年度はかなり大会色が変わって来ていた。

 現特別刀剣類管理局長、折神朱音の年頭訓示にもあったように、個人の剣技が国防の要となることが判明したからである。幽冥界よりの侵略を凌ぐには、侵略者の棟梁たる大荒魂の御刀の技に勝りうる、優れた刀使が必要であった。刀使養成に近道はなく、刀使当人たちの修練によるしかない以上、同大会は人類防衛に直接関わる重要なものとなりつつあった。

 対荒神決戦想定の訓練、その最終フェーズとも言える本大会には、今まで試合に不熱心だった現場派の刀使達も数多く参加を表明していた。荒魂の棟梁、タギツヒメやヒルコミタマと実地に斬り合った刀使達と真っ向試合える絶好機である。気合が入らぬ筈はない。

「っしゃ! こい!」

 稲河暁(いなご・あきら)などはその際たるものであろう。

 由緒正しき本邦最古の香取神道流を学んだという経歴が本当なのかと疑いたくなる程には、型破りが過ぎた。担ぎ太刀、というには無造作すぎる、まるでツルハシかなにかのように右から左へと名物山姥切国広を乗せて渡たした肩を怒らせながら、ズカズカと歩み寄っていく。

 相手は美濃関でも手練れの刀使である。操刀に適さない姿勢であることは分かっている。

(こいつ、現場ばかりで剣法を知らんな)

(そこからどう斬ろうとも、私の太刀が先だ)

 御前試合には一度も参加した記録がない暁である。相手はそう思ったであろう。観世思惟(かんぜ・しゆい)も、そう思った。斬ってきたところに後先を取れば、容易く斬れると。

 ところが暁が出したのは御刀ではなく足であった。

 相手はぶっ飛んだ。

 金剛力入りのケンカキックである。

「そ、それまで!」

 行司役の生徒が仕合を止める。

「KO勝ちとは、珍しき哉」

 呆れたような感心したような、これは思惟に伴われた辻漣(つじ・れん)のものである。

 相手生徒は、場外で白目を剥いて失神していた。恐らく何が起こったかも分かっていないだろう。

「現場至上主義で稽古嫌いの道場嫌い。そう噂を聞いたが」

「実地の対人戦、所謂ところのケンカの場数は相当なものと推察致す。喧嘩に段位を付けるなら伍箇伝随一に疑いはなし。あれなる稲河暁を筆頭に、曲者揃いの御前試合を舞衣様が勝ち抜くには、相応の工夫あるべきかと存ずる」

「その為の私か」

「如何にも。宜しく頼み申し上げる。これも全て、舞衣さまの御為」

 

***

 

 前年度選手権者でシードということもあり、無難に準決勝に駒を進めた舞衣を待ち構えていたのが、この稲河暁であった。

 これが決勝であれば勝とうと負けようと本戦に進めたものを、あと一歩のところで伍箇伝髄一のケンカ師と戦うことになろうとは…

(不運? …いいえ)

 勝ち進めば何れはぶつかる相手。それが衛藤可奈美と戦う前になる可能性はある。ここで勝ち抜けなければそれまでのこと。

(勝つ)

 勝って可奈美ちゃんともう一度…

(戦ってどうするの)

 心の中でもう一つの声がする。

(私が戦ったところでどうにかなるの?)

(また差を見せつけられるだけ。私も、可奈美ちゃんも)

(寂しい思いをするだけ。私も、可奈美ちゃんも――)

「おいおい、お前さん誰と仕合うつもりなんだ? 当面の相手は目の前の私だろうがよ」

「…!?」

「衛藤可奈美のことでも考えてたか?」

 何で? どうして私の考えていることが分かったの?

 驚懼惑畏を剣の心は忌む。

 驚くこと、懼(ひる)むこと、惑うこと、過剰に畏れること。

 この瞬間まさしく舞衣は驚き、惑っていた。そしてそれを見逃す暁ではなかった。

(勝機!)

 種を明かすなら暁は、調査隊の安桜美炎を始め多くの生徒と親交がある。衛藤可奈美を気にかけている事などは当然耳に入っており、揺さぶりに使えるかもしれない材料として、心に留め置いた一つをここで使ったわけだが、これが大当たりだったわけである。

 とはいえ、この「口撃」が効果を上げたか上げなかったかを判断するのは暁であり、勝機と捉えた暁のケンカ勘は確かなものであった。

 鯉口を切りつつ真っ向から、助走付きで斬り込む。

 迅移は使っていない。

 普通ならいきなり相手に当たろうはずもない大振りの抜き打ちは、相手に単調な回避をさせるための威嚇である。言うならば見せ技、物凄く大振りなフェイントだった。今の舞衣にはこれが通じる状態であると暁は思ったし、実際通じる状態であった。

(ひ!)

 舞衣は、暁の狙い通り単純に後ろに逃げた。びっくりして飛びのくという、ヒトなら当たり前の反射は当然暁の読み通りだ。これを迅移で追撃し斬れば、飛びのいている途中の舞衣には何も出来ない。

(な…)

 だが狙い通りでなかったのは、暁の継ぐ筈だった迅移で踏み込む二の太刀の、遥か射程外に逃れていたことであった。

(んだとお…!?)

 そんな遠くに行くには迅移でもやらなきゃ無理だ。けど舞衣はまだ御刀を抜いていない。迅移は使用できない筈。なのに何で、そんな遠くへ?

 皮肉にも、驚き惑ったのは仕掛けた暁の側となった。もちろん、舞衣がそれを見逃すはずもなかったのである。

(ぐ…ッ!)

 迅移は同時だった。

 暁は後ろへ。舞衣は前へ。

 人間、前に踏み込むのと後ろへ下がるのとでは前者が速いし深い。そして迅移からの抜き打ちは舞衣の十八番であった。

(小手いかれたか!)

 間合いは離れていたから、舞衣が踏み込んで詰めて、それでも小手を引っ掛けるのがやっとであった。

 引っ掛けた、と言っても右手首は半塲まで断たれている。勝負は付いた、筈であった。

(…!?)

 食いしばった歯の音が聞こえてきそうな形相であった。

(写シ、が…)

 暁の写シが飛んでいない。半塲ぶらぶらの手首で山姥切を、振りかぶる。

「まだまだぁ!」

「…ッ!」

 舞衣は夢中で二の太刀を継ぎ――山姥切が、宙を高々と舞って地に刺さる。

 暁の写シが剥がれたのは、やっとこの時であった。

 相打ちであった。肩口に感じる痛みは、暁の山姥切が残したものだ。斬り込みはしたが、保持した手首が斬撃に耐えられなかったのである。

 一方舞衣の斬り下ろしは正しく、暁の眉間までを斬り割っていた。

「は…」

 行司役の生徒が旗を振り上げたまま、立ち竦んでいる。

 旗を振り上げ、「始め」で振り下ろす、その間に決着が着いてしまっていた。

 試合開始の号令がかかって終わるまでの間に、両者はここまでの攻防を行っていたのである。

「ちっ。あんたに居合で勝負した私がバカだったよ。手品の種は…あいつか」

 見やる客席には、観世思惟に伴われた新田宮流、辻漣の姿がある。かつて都内で可奈美や獅童真希と大立ち回りを演じた漣は今や有名で、新田宮流を学びたいと言う者も次々と現れているという。

「あたしも弟子入りすっかなあ」

 カラカラと笑いながら、クルリと背を向けて去っていく暁に、只々舞衣は、息を弾ませるのみであった。



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令和御前試合 その3

 御前試合には例年。東西のトーナメントにシード選手枠が設けられる他、特別枠出場選手枠が複数設けられる。シード選手となるのは前大会の優勝者と準優勝者であり、今年で言うなら、十条姫和と衛藤可奈美の二人である。

「ダメです。どうか、弁(わきまえ)えて下さい可奈美さん」

「そんなあ!」

「いけません。確かに御前試合は今年の刀使の錬成の集大成。有力な刀使が大勢参加します。ですけどそこには、実力はまだまだでも可能性を秘めた、去年の貴方達のようなコが居るかもしれません」

「だったら!」

「ええ、ええ、そういうコとも立合いたいという気持ちは分かります。一人でも多くのコと全力で立合いたい。だから本選で二戦しか出来ないシード選手は嫌だ。そうですよね。でも私達、決勝トーナメントで待つしか出来ない私は、貴方と地区予選で戦って敗れたコと出会う機会が無くなってしまいます」

「わ、私が勝つとは限りません!」

「負けるとは限らないでしょう? 貴方は伍箇伝最強の刀使。それは誰しもが認めることです。知っています。私がこの大会で出会いたいのは、第二、第三の貴方なの。だからどうかお願い、弁えて」

 折神朱音に直談判に及んだ可奈美だが、今代の折神御本家に懇願されては引き下がるより他になかった。

「…わかりました。失礼します」

「…あ…」

 トボトボと肩を落として去っていく可奈美の背中は、流石に気の毒だった。

 出場者全員の試合を見届けたい。出来るならまだ見たことの無いコの試合を見てみたい。それは紛れもない朱音の本音であるが、だからといって叱られた子犬のような有様の可奈美をこのまま返すのは朱音には難しいことであった。

「あのね、だけど可奈美さん。今年は特別出場枠を例年より多く設けようと思っているの。だからシード枠のコもちゃんと試合があるのよ」

「…」

「ええと…そうだわ。十条姫和さんもシード枠なの。予選がないから一足先に本邸に詰めることになると思うの。だからきっとお稽古も出来ると思うわ」

「…姫和ちゃんが? 本当に?」

「本当です」

「本当の本当に?」

「本当の本当にですよ」

 ぱあっ、と日が差したような可奈美の笑顔である。

「有難うございます、朱音さま!」

 ぴょこんと頭を下げて、可奈美は執務室を飛び出していく。

「どういたしまして。ああもう、扉くらい閉めて行って…」

 席を立って手ずから扉を閉める朱音は、上手に生徒の機嫌を取れて、ほっとしていた。

(今頃は稽古相手が居なくて、寂しそうにしていると聞いていましたが…少しは元気付けられたでしょうか)

 特別出場枠は降って湧いた話ではない。そもそも伍箇伝各校に代表二名が選出される以上、八強プラス二人になるのは例年のことだ。前年度優勝校の代表二人が東西トーナメントのシードになったり、東西の選手が4-6に別れてどちらかのトーナメントが一戦多かったり、様々だ。そんな中で、特別枠の話は何度も出ていた。本年度の御前試合においては、姉紫の意向により採用される運びとなりつつあった。十強であった代表選手は、本年では十六強になる公算が、既に高い。

 六名の招待選手の内訳であるが、先ずは伍箇伝各校に一名ずつの選出が委ねられる。選出の方法は完全に各校のフリーハンドで、真っ当に三位決定戦をやってもいいし、学長が独断と偏見で推薦してもいい。学外から有力なOGを連れてきても良し、果ては他校で代表から洩れた選手を引っ張っても良し。ともかく伍箇伝五校にそれぞれ五枠が与えられる訳だ。

 そして残る一枠を握るのは、折神本家。つまり、紫と朱音なのである。これについては朱音は、紫に一任するつもりでいる。

(私も楽しみにしているのですよ、可奈美さん)

 伍箇伝学長、皆一筋縄では行かぬ者ばかり。相当に趣向を凝らして来るだろう。普通に優勝を狙ってくるか、かき回しに来るか、それとも――

 

***

 

「聞いてませんよ!」

「そりゃあ、言ってへんもの」

 母の親友の一人であったという五条いろは(ごじょう・―)平城学館学長は何だか、根っこのところで衛藤可奈美の母、衛藤美奈都(えとう・みなと)に似ているところがあるような気がする。

 悪戯好きな所とか、その悪戯がよくよく考えてみたら、相手の為であったことが多い所とかがだ。

「姫和ちゃんはうちの切り札。予選でうっかりがあったらいけへんし」

「予選でうっかりするようならそもそも本選もダメだと思います、学長」

 姫和は前年度御前試合決勝の選手権者である。よって自動的に本選トーナメントに選出される。それは分かっている。分かっているが、姫和は一度退学届けを出した人間である。予選免除の優遇を受けるに値するとは思えない。

「優遇される理由がありません。そのようなお話でしたら、出場は考えさせてください」

「いけずなこと言わんで。姫和ちゃんに理由がなくても、うちにはあるん」

「それは、どのような…」

「やって、姫和ちゃんが退学届けを出したこと、うちしか知らへんのえ。シード辞退しますって言ったら絶対理由は聞かれる。そしたらうち、姫和ちゃんの届け物、握りつぶしてましたって白状せなならんようになるのんよ?」

「それは、学長が悪いのではないでしょうか」

「うん。悪い。ほんに悪かった。せやからここはうちを助ける思うて。な?」

 はーっ、と姫和は息を吐く。

「全く、貴方という方は。分かりました。任務として受領します。平城学館中等部三年、十条姫和、予選は辞退し、本戦に出場します」

 平城学館と同様本戦決勝を戦った衛藤可奈美の居る美濃関学院は、自由枠がこれで埋まる。残るは予選の優勝選手と準優勝選手が、春の御本家に行くことになるだろう。

(うちは岩倉さんと他の誰か、ということになるんだろうな)

 校舎のそこかしこから、稽古に励む平城刀使たちの鬨の声が心地よく聞こえてくる。教職員棟を辞し、妙に美味い外の空気を満喫しつつ、姫和は夕暮れ迫る空を見やる。

(岩倉さんが予選でうっかり、なんてことは有り得ない)

 ならば対決は先に延ばせる。早苗との再戦へ、猶予期間が取れるのは幸いだ。

 決着は奈良の御本家。それまでに、一指しの太刀への対策を取らなければ。

(美濃関からは、可奈美と舞衣が出て来るんだろうな。可奈美は決勝シードだから、もう一人は稲河暁か、安桜美炎か)

 この時には、想像だにしていなかった。

「…聞いていないぞ…」

 岩倉早苗との再戦に、立ち塞がる者があろうとは――

「えいっ」

 ぽんっ、というような感じだった。

 愛らしい声で伍箇伝髄一の豪強を誇る平城の腕自慢を子供のように地に這わせ、大丈夫かな、という風に覗き込んでいる六角清香(むすみ・きよか)は姫和も大変良く見知った後輩だ。主に刀使としての御勤めに関わりの無いところの、女の子の女の子として善く在る為の知識に、常々世話になっている。学友が居るかと問われれば、先ず最初に思い浮かぶのは清香の顔であるくらいには。

 しかし清香を「姫和君のガールフレンド」などと失礼なことを言う奴、あれはどういう意味なのか。私は女のコなのだから友達が女のコなのは普通だ。わざわざガールフレンドなんて特記することはないだろう。「男前」と言われるのは武門の娘なんだから見逃してきたが、こう見えても私は普通に立派に女のコだぞ――

(うむ。話が逸れたな)

 六角清香は、伍箇伝最精鋭たる赤羽刀調査隊にその名を連ねる。弱かろうはずがないし、姫和も幾度となく任務を共にし、実力の程は知っている。

 知っている、筈で知らなかった。

 六角清香があれ程の者であろうとは、全くもって御見逸れである。

「無二剣(むにけん)、か」

 自宅へと戻る途中の畦道、普段なら乗って走る愛車を今日は手で押しつつ、姫和はハンドルのスマホホルダーに付けたスペクトラムファインダーの画像に見入る。

 清香の修める卜伝流では確か印(いん)の構えと称される。中段構えの一種、と見ていいだろう。その代表である正眼構えは我が目の位置に切っ先を持ってくる。晴眼と書けばこれは相手の喉元。地刷り正眼ならば相手の腹当たりに持ってくる。これを下段とする流派も在る。

 無二剣の諸手の位置は臍下(せいか)、つまり臍の辺りに来る。これは中段と同じだが、切っ先と言えば天井の方を向いているのだ。騎士が決闘に臨んで切っ先を天に剣を捧げ持つ、あれに似ている。

「多用してるな」

 中段に構えることも在るが、試合時間の殆どが印の構えだ。

 姫和もこれに構えることも在るが意識しての事ではない。例えば鍔競り合いになったりで、試合の過程で恰好がこうなることがあっても、始めからこうと構えるようなことは無い。

 有利とは思われないからだ。何せ正眼と違って、相手と己の間に一刀身分の間合いを開けることが出来ない。上段や陰陽の構えのように強い斬撃に適しても居ない。メリットが無い。

 ところが、清香はこれを多用していく。

 先ほどの試合もそうであった。

 両者立合いとなって直ぐは中段に構えた清香だが、相手が進むとびっくりしたように切っ先を引っ込める。相手が止まると中段になったが、進むとまた腕を畳んでしまう。

 怯えている――ように見える。事実怯えているのかもしれない。六角清香の人柄は姫和も知る。謙虚で遠慮深く、人との争いを好まず、先に行くものが在れば道を譲りがちの、普段の清香はそんな娘だ。自分でいうのも何だが、男前が過ぎる己とはかけ離れている。

 だけど、こうと思えば頑固一徹、万難を排して突き進む、誰もは知らない芯の強さも姫和は知っている。

(清香が怯んだと見たか)

 相手の刀使は推し進もうとした。

 正眼の構えならば、前進にも限りがある。真っすぐ進めば相手の切っ先が己に突き刺さるからだ。だが清香の切っ先は天を向いている。阻むものはない――そう見えたのだろう。

 今度は清香は下がらなかった。

 距離が縮まる。

 そうなってから、相手は気付いたのだろう。一見メリットが無い無二剣の強みは、小回りが利くことだ。技は小さく、写シを飛ばせない可能性はあるが技の仕掛けは速い。足回りにしても、正眼では邪魔な刃渡り二尺が身体に添って折りたたまれているので素早く足を捌ける。

 並みの太刀行きでは先んじられる。しかし唯一、正眼の方が仕掛けの迅い技がある。

(突きだ…!)

 姫和の思った通り、相手の刀使は発射台に乗った突きを繰り出すが、それは清香の蓮華不動輝広の峰を滑ったのみであった。まるで鏡から鏡へと飛び移るように、清香は突きに晒された右半身を、安全な輝弘の左側とへクルリと入れ替えていた。

「えいっ」

 気合、というには可愛らしすぎるこの一声はここでである。

 強い斬撃など出来ぬ筈の印の構えがら、とん、という感じで繰り出した斬撃で相手の左手が吹っ飛んでいた。

 写シは飛び、これで勝負が付いた。

 立ち上がることが出来ない相手を、只々申し訳なさそうに、清香が見下ろしていた。

(…聞いてないぞ…)

 あんな小さな打ちで小手を斬り飛ばせるのは、カウンターになっているからだ。我が力が弱くても、相手の力を利すれば大威力となる。しかしそれを試合開始の一太刀目で、あれほど簡単に…

(ここまでの者か、六角清香)

 岩倉早苗と当たるのは準決勝だ。

 負ければ早苗は予選落ちとなる。姫和とは戦えなくなってしまう――

(いいや、岩倉さんには一指しの太刀がある)

 簡単には行かない筈。そう思って岩倉早苗の試合の入った動画を見てみる。

(…? 何をやっている?)

 常々姫和の多用するのと同じ、車(くるま。しゃ、と読む人も)の太刀に構えていても、右手を刃に添えてはいかない。あの形にならなければ一指しの太刀には行けない。

(おい! 相手はあの朝比奈北斗(あさひな・ほくと)だぞ!)

 簡単に勝てるような相手ではない。猛稽古に裏打ちされた確かな技に、獅童真希の正当後継と噂する生徒も居る程なのだ。同期の早苗なら良く分かっている筈だ。

(そんなに真っ向から打ち合ってどうする! あの人に真正面から行って力負けしないのはそれこそ獅童真希くらいだぞ!)

 間合いを取れ。頑丈な朝比奈さんにまとわりつかれたら消耗する一方だ。

(一指しの太刀の間合いに持っていくんだ…!)

 試合は推移し、何度かその形にはなっているのに、何故使わない…?

 試合は延長、再延長となり、両者とも写シが危うくなっていた。ついには判定となり、早苗の勝利はぎりぎりであった。

(私の判定では、岩倉さんの負けだった…)

 いつの間にか姫和は、畦道の真ん中で立ち止まっていた。

 手数を評価する審判が多かったから良かったようなものの、一つ間違えばどうなっていたか分からない。

(どうしてなんだ。何故一指しの太刀を使わない)

 決勝に備えて温存か? いや朝比奈北斗は出し惜しみして勝てるような相手ではない。それはライバルだった早苗が一番知っている筈だ。

 次に当たる六角清香は更なる強敵である。正直勝ち目は薄い。早苗が弱いと言っているのではなくて、あれは天才だ。燕結芽、糸見沙耶香にも迫る次代の剣だ。

 もし次の試合も温存策を、と考えているようならば間違いなく負ける。

 勝つ気があるなら全力で行くべきだ。勝つ気があるならば――

(もしも、次も使わないでいるのならひょっとして) 

(ひょっとして岩倉さんは、勝ち進みたくないのか?)

 姫和と再び、戦いたくはないのか。いやまさか、どうしてそんな…

 そこまで考えた時、スペクトラムファインダーの画面にコールサインが現れる。電話の主は――

(御本家!? 朱音様が私に直接!?)

 

***

 

 稲河暁を辛くも降した柳瀬舞衣を、決勝で待ち受けていたのはやはり、思った通りの刀使だった。

(嬉しい…)

 勝ち進んできてくれて嬉しい。これは対決を望んでいたとかではなく、単純に友達の頑張りが、こうして形となって報われたたのが喜ばしい。

 安桜美炎(あさくら・みほの)もきっと、舞衣と同じに違いない。というか、みれば分かった。

 さあ、さあ、さあ!

 いくぞいくぞいくぞ!

 そう言わんがばかりに忙しなく、美炎の両足が前後前後にステップを刻む。

(ふふ、美炎ちゃん、それじゃあボクシングみたいよ…)

 試合中というのに思わず笑みを誘われる程、美炎は大張り切りであった。

 そうと見てか、美炎の唇にも笑みが浮かぶ。

(去年ここでは、可奈美ちゃんと戦った)

(今年は美炎ちゃん、貴方なのね)

 以前の美炎にはムラッ気というか、集中力不足というか、飽きっぽさがあった。

たった5分の制限時間中に、どんどん雑になってしまう。これでは試合中尻尾上がりにテンションの上がる衛藤可奈美に敵う筈もなく、準決勝で敗北している。

 これは剣に限ったことでなく、学業でもそうであったから美炎の性格と言えるのかも知れない。とはいえ、美炎も最高学年となって、そういった欠点はだんだんと鳴りを潜めつつある。そうなるともう、ただただ強敵であった。

 ここに来るまでに長江ふたばや加守明等の名手を下して来ている。美炎の試合は何れも熱戦となった。きっと美濃関学園末代までの語り草となるだろう。

 それはきっと、この試合も。

 いくよ舞衣! 準備はいい!?

 そう言っているように、美炎のステップのテンポが上がっていく。

(美炎ちゃんったら、本当に…)

 美炎の唇の笑みに、可奈美の事を思い出す。

 剣を楽しむ、試合を楽しむ。こういうところは似ている。剣だけでなく色んなことを楽しむところは、可奈美にも見習ってほしい。

 楽しいことには一直線、好きなことには一直線。そこは同じだ。美炎ちゃんには、もうすこし一つのことを落ち着いてやって欲しいと思うけど。

 熱い気持ちの二人ははよく似ていて、少しづつ違う。

 ずっと一緒に居て、分かるようになった。可奈美は狭く深く、美炎は広く浅く。だけどどっちも一生懸命だ。可奈美は剣を通して色んなことを考える。美炎は色んなことを通して剣を高める。

 そうして二人とも、先へ先へと進んでいっている。

(可奈美ちゃんは可哀そう)

 あんな高みに、たった一人で。だから誰かに救ってほしい。傍に行ってやって欲しい。心当たりは十条姫和しか居なかった。だから京都を訪ねた。

 けど、それは姫和でなく、目の前の安桜美炎であっても構わないのではないか。

 美炎なら、この人ならばひょっとして可能なのかもしれない。今は無理かもしれないが、何時かきっと可奈美の居る高みに辿り着くのではないかと思える、そんな輝きを放つ美炎の剣であった。

 だん、と地を蹴って美炎が斬り込む。助走を付けて殴りつけるように、フルスイングだ。迫力はあるが、仮にも美濃関代表選抜にに名乗りを上げる刀使で喰らう奴は居ないだろう。むしろこんな大振りは絶好のカウンターチャンスとなってしまうものだ。

(美炎ちゃん、張り切りすぎ!)

 舞衣は体を入れ替え、これを躱す。

 単純に躱しただけだ。

「…行けそうだったが」

「行かぬな」

 これは舞衣の試合を見守る、観世思惟と辻漣である。

 この試合、舞衣はハナから中段に構えて行った。居合は選択しなかったわけで、居合の師である思惟や漣の技が役に立つ試合とはならなかった。

 元々舞衣の居合は可奈美に対抗する為の技だから、というだけの理由でそうしたわけではあるまい。美炎の技には何処か、真っ向からがっきと受けて立ちたくなる何かがあるようだ。

 躱された美炎はぐるりと振り向き、再度中段となる。

 仕掛けを簡単に回避されたわけだが、特に思う所は無いようであった。いやむしろ嬉しそうなようにも見えた。

(流石舞衣だ、やっぱり強い)

 心形刀流を学んだ、とされるがそれが安桜美炎という刀使を語る上で話題にされることは少ない。そもそも当人が心形刀一致、などと語ることがないし、多分、考えていない。思いっきり体を動かし、刀を振り回しているだけで、そういう意味では可奈美と正反対だし、舞衣とも反対だ。頭より先に手が動くタイプなのである。そもそも考えるのが苦手なのだから仕方がないとも言える。

(舞衣は強いし賢い。それに比べて私ときたら…)

 運動神経と身体能力で勝てるのは小学生レベルまでだ。中等部からはそんなわけにはいかないというから、考えるようにはして来た。試合開始後1分ほどなら大丈夫になってきた…

 大体無我夢中で御刀を振り回し、気づいたら勝っていたというのが、そんな美炎の勝ち試合だ。現在はまだ明らかになっていないが安桜美炎の肉体には大きな秘密が隠されており、その影響で身体能力が強化されることもあった為、この戦い方は相性が良かったと思われる。

「だああ!」

 また真っ向から斬りかかるが、これも簡単に躱されてしまった。

(ああもう。これじゃあ舞衣もがっかりしちゃうよ)

 日高見派が動き出すのままだ先の事で、この時期美炎にはまだ色々と自覚が無い。秘めた己の底力なんて、知りもしないものは当然アテに出来ない。

(このままじゃあ通じない。どうする? フェイント混ぜてく?)

(いやダメダメ、私が変に考えたって舞衣にはお見通しに決まってるよ)

 舞衣の試合はスペクトラムファインダーが熱で持てなくなるくらい見た。勝つ方法も考えて来た。けどダメだ。考えれば考える程勝てる気がしなくなるだけ。

(考えたって分からないよ。私に出来るのは――)

 当たって砕ける。これしかない。

「為せば! 成るッ!」

「…!」

 ダンっ、と再び地を蹴り、美炎は挑む。

 相手はあの衛藤可奈美をして簡単には崩せないと言わしめた、舞衣の中段正眼である。かつてあの燕結芽は舞衣の攻略に数分を要しているが、これはコンディションが悪ければ結芽の写シが使用不可能に成りかねない時間である。それほどまでに舞衣の守りというのは堅いのだ。

 キイン、と冴えた金属音が響いた。

 光芒が観戦する刀使達の瞳を焼く。

「…む」

「何と」

 思惟と漣が息を呑む。

(触った!)

 そう思った美炎の表情を、加州清光と孫六兼元の激突が照らし出していた。

 歓喜の表情であった。

(やった! やった!)

(さあいくぞ! いくぞ!!)

 牙を剥いている。敵となった相手には、美炎の微笑みはそう見えるであろう。

 前後左右、左右前後と美炎がステップを刻む。

「どう見る」

「環視の我らには、三度安桜美炎が同じように打ち込み、三度とも同じように舞衣様が凌いだ、そうとしか見えぬ。しかし…」

「うむ。柳瀬舞衣は、三度とも違う刀使の斬り込みを受けたように感じているだろうな」

「尋常ではない。あれはヒトを模してはいるが、ヒトの骨格で為せる打ちではない。安桜美炎とは抑(そも)、何者であるのか」

 舞衣の表情が緊張感を増した。

(おかしい。何、この違和感は)

 打ち込んでくる速さも距離も、舞衣の予想と異なる。傍目には微妙、しかし相対する舞衣にとっては致命的に異なる。だから返して打とうにもタイミングが合わない。

(美炎ちゃんの試合なら何度も見た。ペースに呑まれないないようにしよう、それは思った。負ける人は、そうして負けて来たから)

 美炎と先に戦った加守明や長江ふたばは、簡単にペースを譲らなかった。そもそもが我が道というものをしっかり持っている刀使たちである。我が剣で正面から斬り合い、紙一重で敗れて来ていた。

 舞衣の剣は相手の拍子の裏を取って勝つ剣だ。それは北辰一刀流のみならず、本邦の剣術発祥以来の理法である。真面目にそれに打ち込んできた舞衣は当然ながら相手の拍子を読もうと試みる。

(こういうときこそ基本。基本を思い出すんだ)

 中段に構えた舞衣の孫六兼元の切っ先が、小刻みに動き始める。

(…出た、セキレイの尾だ)

 鶺鴒の尾、とは北辰一刀流の中段構えの特質を指す。小鳥の尾の如く微細に切っ先を運動させる、これを美炎はもちろん、何度も立ち会って知っている。

 これを習った北辰一刀流剣士の卵たちは闇雲に切っ先をぴょこぴょこさせるものだが、舞衣クラスになると違ってくる。動く時と動かないと気がある。美炎が行こう、と思った時に上がって目元を狙って付けて来たり、下がろうと思うと胸元まで下がって追いかけてきたりする。こっちのやろうと思っている事を先回りして動いてくるのだ。

 オーケストラの指揮者のタクトを、美炎は連想する。お見通しどころではない、思い通りに動かされている、そんな錯覚を覚える。

(ダメだダメだ、そんな風に考えちゃ余計にハマる気がする)

(自分の剣で戦わなきゃ)

 タンっ、タンっ、と美炎のステップが一度大きくなり、それから間隔がたん、たた、と狭まっていく。

 舞衣は全く足を使わず、代わりにその切っ先の運動が、美炎の足と全く同じテンポで狭まってきている。

 どよめいていた客席の刀使達が、知らぬ間に静まり返っていた。

 ここに居る誰もが日々美濃関で厳しい修行を積む刀使であるが、これほどまでの超高度の駆け引きは、そうそう目に出来るものではない。

 いつ来るか。今行くか。

 今来るか。何時いくか。

 確かなことが有る。仕掛けるのは美炎だ。受けて立つのは舞衣だ。

 この均衡が崩れるのは――

「行くよ、舞衣!」

 体育館は静寂に包まれていたから、この声は良く通った。何と美炎は、自らの打ち込みに行くのを予告したのだ。

(まさか)

 正直に行くなんてことはないだろう。これは駆け引きでフェイントの筈。環視の刀使達の半分以上はそう考えた。

(…来る!)

 舞衣はそう考えなかった。美炎はフェイントなんて真似はしない。真っ向から来る。ならば私は――

「たあああ!」

「…ッ!」

 ガキイ、と刃と刃が、珠鋼と珠鋼が噛み合った。

「…うっ」

 ぎり、ぎりと孫六兼元と加州清光がせめぎ合う。

 鍔迫り合いとなっていた。

(来るって、分かってた)

(なのに、どうして…)

 互角に見えて、押しているのは美炎であった。触っただけの先の一撃よりも、明らかに上手く行っている。そうと分かって美炎の表情は、輝きを増して見えた。

 押されているのは舞衣であった。予期していた真直斬りだ。技に乗る事は簡単だった筈。なのにどうして。

 分からないのに闇雲に動くのは危険だと舞衣は考えた。

 どうせ分からないから行ってしまえと美炎は考えた。

「ぐッ!」

 引き面を一打見舞って下がった美炎は再び打ち込んできた。これも舞衣はしっかり受けた。

「まだまだッ!」

 美炎が打ち込む。舞衣が受ける。また打ち込む。また受ける。

 何度繰り返したか舞衣は憶えていない。必死に防いでいたら試合時間は過ぎ去っていた。

「両者有効打突なし。延長となったか」

「その延長も予選では一度。これは危うし」

 蓋を開けてみれば、試合展開は一方的だ。舞衣はここまで一度も攻めていない。どんな素人が見ても美炎の判定勝ちであろう。思惟も漣も敗勢であると見ていた。逆転するには、たった三分の延長戦で美炎の写シを剥がすしかない。

「これはいけるかも…」

「流石私に勝っただけの事あるじゃない」

 加守姉妹や長江ふたばは、ここでは美炎の味方である。舞衣のことも友達であるが、ここは自らに勝利した美炎を応援したい人情である。

(ぜんぜん…分からなかった)

 一分のインターバルの後試合再開となる。舞衣にとっては短い一分であった。

 同じ相手が同じ技で何度も斬り込んできているのに一度もタイミングが合わないなんてことは初めての経験であった。原因は何処に在るのか。自分の調子が悪い?それとも他の何かの原因?

(分からない…分からないよ…)

 いっその事、守りを捨てて攻める?

 機を捉えて攻める、というやり方は出来ない。だってじっと待っていてもそれが分からないのだ。闇雲に御刀を振り回して当たってくれるのを待つ、そんな攻めになってしまう。それで今の美炎に勝てるのか?

(…どうしよう)

 舞衣は途方に暮れていた。勝ち目を見失っていた。

(もう一分だ。行かなきゃ)

 結局何の目算も無く試合再開を迎えようとするその時、舞衣の膝元に舞い落ちて来たものがある。

(なに?)

 紙飛行機だった。何か絵が描いてある。

 広げてみると、試合会場の鳥観図であった。つまり、真上から見た絵だ。

(上にカメラ、あったかしら)

 見上げてみるがそんなものはない。ドローンが飛んでいる様子も無かった。

(何を見て書いたんだろう)

(だけどこれは明らかに…)

 今の試合の局面局面を絵にしているのが舞衣には分かる。鉛筆の白黒で、向き合っている両者の老若男女を示す描写はない。四肢や姿勢が見て取れるのみだ。手の位置足の位置、何処からどのくらいの距離を美炎は踏み込んできて、舞衣が最初どう受けて、その次をどう受けたか――

(体育館の屋根に登って描いた?)

 見つかったら大目玉だ。そんなことが出来るわけがない。けど…

(似たようなことなら、出来るかも)

 誰にでもは出来ない。しかし、舞衣になら出来る。

(明眼(みょうがん)…!)

 透視や遠視を可能とする明眼は、刀使が稀に備える通力の一つである。舞衣は伍箇伝でも名高いこれの名手で、その作戦能力と相まって戦闘指揮を任されることが多かった。

 これを行うと、視覚は肉体を離れて飛ぶ。何処に飛ぶかは修練次第で、舞衣はこれに長けていた。

(…なるほどこれなら)

 試合会場を鳥観出来る。

 普段ならもちろん、このようなことに意味が無い。目の前に居る相手を透視したり遠視したりする必要が無いからだ。

(これなら、行けるかもしれない)

 しかし、今は違う。ヒントが掴めるかもしれない。安桜美炎を破る為の、何か、手がかりが。

「両者中央」

 インターバルが終わりを告げた。

 進んできた舞衣に、美炎は一瞬で気付いた。

(今までの舞衣じゃない)

 全然違う。上手く言葉にできないけど、何だろう、この大勢の舞衣に取り囲まれているような感じは。

 もちろんそんなはずはない。目前の舞衣は舞衣一人だ。だけどそんな気がするのだ。

 本気を出してきた? じゃ今までは本気じゃなかったってこと?

 そうかも知れない。元より自分よりずっと先を進んでいる刀使なんだと、舞衣の事を思っていた。敵う相手じゃあないって。

 だけど、とても敵うような相手でなくても、何とかしてきた美炎である。

(為せば成るっ!)

 その精神で行くしかない。

「始めッ!」

 行司役の上級生が告げ…両者は動かなかった。

 舞衣は居合スタイルではない。今度も正眼に付けていた。その切っ先が再び、微細な拍子を刻み始める。

 美炎も正眼であった。ただ相変わらず切っ先の位置は相手の壇中、つまり胸元あたりである。

 美炎も拍子を刻み始めた。

 ここまでは、先程見られた光景である。ただ先ほどと違っているのは、美炎が前後のみでなく、左右にも足を散らせ始めたことだ。そうして舞衣の切っ先の右左横を伺うが、どう動いても切っ先が離れない。美炎のステップと全く同じ拍子、同じ方向で上下している。美炎が行こうとすると、ピタリと止まるのだ。

(やっぱりさっきと違う)

 舞衣がギヤを上げてきた。本気を出してきたんだ。

 でもだからといって、美炎に秘密兵器があるわけではない。一回戦から今まで強敵ばかりで気を抜くことなんて出来なかった。いままでずっと本気だったし、これ以上の本気なんてない。

(ごめんね舞衣、変わり映えなくて。でも私、精一杯やるから)

 ダン、と体育館全館内を揺るがすような踏み込みであった。やはり先に行ったのは美炎であったのだ。対する舞衣は――何もしなかった。

 美炎が何もしなかったからだ。

 美炎は踏み込んだまま、舞衣の横を通過しただけだ。斬りには行かなかったのだ。だから舞衣は応じ太刀をしなかったのである。

(ダメだった。舞衣には見えてた)

 もし清光を振るっていたら、カウンターを綺麗に貰っていたに違いない。一方舞衣が飛び込んできた美炎に反応して斬りに行っていたら、逆にカウンターを貰っていただろう。

 凄い判断であった。

 どちらも凄い――環視の美濃関の手練れ達も固唾を呑む。

 東西が入れ替わった。さっきまで舞衣が居た位置に美炎が、さっきまで美炎が居た位置に舞衣が居る。再び、舞衣の切っ先が浮沈し始める。美炎のつま先が、リズムを刻み始める。

(もっと! もっと全力…!)

 セミロングに纏めた美炎の髪が、炎の如く揺らめく。常に忙しなく拍子を刻む美炎の剣であるが、そうして少しずつでもエネルギーを逃がさなければ、漲る気迫が臨海突破しかねないからだ。大爆発しかねないからだ。

 集中力が無いのではない。瞬間的に高まり過ぎるのだ。安桜の血の封印の件があるにせよ、これは美炎の生粋としても良いだろう。いつ切れるか分からないにせよ、持続すれば実力に倍する力を発揮する。そして学年を一つ重ねた今、維持できる時間は確実に増してきている。

「…恐るべし、安桜美炎」

「お前の師は旗色悪いぞ、思惟」

 美炎に衰えの兆しが無い以上、この延長戦、全くの五分と五分である。故に当然、判定は美炎優勢のままであろう。このままでは優勢勝ちを美炎に譲ることとになる。攻めていかねば敗北は必至。舞衣はそれを分かっているのかいないのか。やはり正眼で不動のまま、運動するのは切っ先のみ。

 拍子木が、残り時間1分を告げる。

 それでも舞衣は動かない。攻めて行かない。

 攻めていかねば負けが確定する舞衣に、幸運が二つあった。

 一つは、客席。何をしている攻めろ負けるぞ、などと囃す者は一人も居なかった。ここに居る誰もが手練れの刀使であり、舞衣と美炎が稀に見るレベルの攻防を行っていることを見て取っていた。悪戯に舞衣を急かしたり、美炎に自重させたりするようなことがなかった。

 一つは、美炎。このまま守って優勢勝ちを収めれば美濃関刀使総代が決まるというのに、全くそれが念頭に無かった。逆にあと一分しかないのが残念だと美炎は感じていた。いやむしろ焦った。早く仕掛けなきゃ、試合が終わっちゃう。

 打ち込んでいける隙なんて今の舞衣には無い。上手く行く気は全然しない。だけど行かなきゃ。舞衣に見てもらわなきゃ。

(…行くよ。私と清光の、全力!)

 美炎の忙しないステップ、そのリズムが徐々に小さくなり、ついには傍目に止まる。それに従い忙しなく運動していた舞衣の孫六兼元、その切っ先も定まる。

 静止ではない。その逆だ。爆発に備えた収縮であった。

((…今!))

 美炎がいった。それは前と同じだ。舞衣が違った。

 美炎の斬り込みに、真っ向から斬り込んでいったのだ。

 この試合、最初に繰り出した舞衣の技は、美炎と同じく真っ向斬り下ろしだった。

(…むうッ)

 思惟は心中唸った。漣も、加守姉妹や長江ふたばもそうであったに違いない。

 同時に見えて、仕掛けは美炎だ。舞衣は応じ太刀だ。

(切り落としにいったか…!)

 舞衣は機先を押さえたかったに違いないが、それは出来なかった。故に次善の、後先を狙った。しかし実際はそれも追いつかなかった。加州清光と孫六兼元は空中で衝突。弾かれ合って落下点を変じ――

「…ッ」

 舞衣の写シが飛んだ。

 勝者美炎か、と思われた時、中空から体育館の羽目板に深々と突き立ったのは、切っ先の欠けた加州清光であった。

 美炎の写シも、また飛んでいた。

 孫六兼元は、舞衣の手に握られている。再び写シが張れる。一方、美炎の手に我が御刀は無い。

 墓標の如く屹立する加州清光に、美炎は写シを失ったことを悟った。

 …ダメだったか。頑張ったんだけどなあ。

「勝負あり! 勝者、柳瀬舞衣!」

 行司役の刀使が勝者を告げた時、美炎の瞳からどっと、熱いものが溢れ出した。舞衣は只々、息を大きく弾ませるのみであった。

 試合はどうなったのか。もう終わりでいいのかと、そんな顔をしていた。

 しかし、かくして、本年度美濃関学院総代は決したのである。

 

***

 

 あの娘には私と同じ思いはさせたくない。

 そう思うようになったのは何時だったか。

 あの相模湾に置き去りにして来た己の夢が、果すことの出来なかった約束が、今あそこに居る。

(私には出来なかった)

(だけどあなたにはなって欲しいの。衛藤可奈美さんの、友達に)

 羽島江麻学長にとり、柳瀬舞衣は宿題であった。

 出題者は、己自身である。

(星王剣(せいおうけん)の位に達しなければ、本戦には勝ち残れない。可奈美さんを救うことも、貴方自身を救うことも出来ない)

 私には出来なかった。だけど柳瀬舞衣さん、貴方なら私の為し得なかったことがきっと出来る。

(美奈都さん。貴方の娘は、貴方と同じにはならない)

 きっとあのコが、救ってくれる。そうすることによって、多分私も救われる――

「言われた通りにしたよ。あれでよかったの」

「ええ。ありがとう七奈。じゃ、行きましょうか」

 観戦席を立つ学長羽島江麻に、一名の女生徒が付き従った。

 中等部であろうその刀使は、御刀と共にスケッチブックと絵筆を携えていた。

 



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令和御前試合 その4

 美濃関学院代表決定の報は瞬く間に伍箇伝を駆け巡った。

「総代は舞衣、次席は美炎か」

「カナミンはシードですかラ、美濃関代表は三人決定ですネ」

「下馬評通り、って感じだな」

 本戦に現れれば台風の目となって席巻したであろう稲河暁が代表から外れたのは、真面目に優勝を目指す他校代表にとっては幸いではなかろうか。

「まーうちには関係ねーけどな。予選なんてまともに出来ねーし」

 舞草の根拠地であった長船女学園は燕結芽(つばくろ・ゆめ)の襲撃により壊滅し、有力な刀使の殆どは再起が難しい状態であった。古豪の米村孝子(よねむら・たかこ)、小川聡美(おがわ・さとみ)は、この後タキリヒメ護衛戦に無理を押して出動し敵刃を受けているから、健康寿命の心配すらあった。

 まともに活動できる刀使が居ない。いや全く居ないわけでは無い。居ることは居るのだ、居ることは。

「嫌な予感がしないか?」

「イやな、予感がシマスね」

 益子薫(ましこ・かおる)と古波蔵エレン(こはぐら・―)がそんなことを言っていた丁度その時、二人のスペクトラムファインダーのコールサインが、同時に鳴った…

「こうして長船女学園代表が決まったのだった。って雑過ぎだろうが!」

『…あーわりい。学長先生、流石に反省してるわ』

「素直にあやまんな、調子狂うからよ」

「まあまあ、厄介ごとは何時もの事デスし。ですけド、うちの推薦枠、どうなるんデス? 他所から呼ぶんですカ? それともOG?」

 長船OGと言えば瀬戸内智恵(せとうち・ちえ)が真っ先に思い浮かぶ。赤羽刀調査隊副長として尻上がりに実力を付け、今なお成長を続ける現役レジェンド刀使が参戦すれば、本戦も大いに沸くに違いない。

『あーそれについては色々考えている奴が居てな。お前らも知ってるだろ、レイピア遣いの新田弘名(にった・ひろな)』

「あーあいつか。本気出すかなーあいつ」

『お前がそれ言うのか』

 新田弘名は本気を出していない。それはルーム通話中の三人の共通認識であった。数少ない、というかほぼ絶無と言っていい最前線に出せるレイピア遣いの刀使であるが、稽古場での評判は散々なものである。御前試合の予選も、勝利を上げたことは一度も無い。それでも現場に出れば無事実績を上げて帰って来るから、速い話、手を抜けるところは抜いている。それもとことん抜いている。コスパいい、コスパ悪いが会話の端々で頻出するあたり、既にそれを隠す気もないようである。

「何つーか、あいつとは俺、友情を育めるような気がするよ」

『そういう訳だ、エレン。宜しく頼む。お前が頼りだ』

「オー…薫がもう一人増えマース…」

 こうして美濃関学院に続き、御前試合に臨む長船女学園代表三人が決した。当事者以外誰も、いや一部当事者すらも知らぬ間に…

「ま、うちはまだマシな方かもしれねえ」

 予選開催困難校は長船だけではない。

 綾小路武芸学舎の刀使は冥加刀使徴用の中核となっており、その結果有力な刀使は殆どがリハビリ中。錬府に至っては学長が療養中であり、学校行事は停滞気味。高津雪那(たかつ・ゆきな)は荒魂に与した人類の裏切り者であり、本復しても学長に返り咲けるか不明であるにも関わらず錬府女学院における信望は非常に厚く、新学長など送り込もうものなら職員生徒の猛反発は火を見るよりも明らかだった。

「まともに予選が出来るのは美濃関、あと平城くらいなものかもしれまセン」

「錬府とか、予選で代表二人が決まったとして、学長推薦枠はどーすんだろうな」

 果たして十六強は出揃うのか。そもそもが学校の態を借りた刀使養成施設である伍箇伝、その訓練プログラムの集大成である御前試合のトーナメント表が歯抜けだらけではあまりに寂しい。

 綾小路と錬府は果たして、代表を出して来るのか――

『内々の噂だが、気になるメンツが出揃ってきている。でなければお前ら二人以外に行ってもらうさ』

「気になるメンツ、デスか」

「前回と同じく、優勝は二の次ってか?」

「それも優勝するより難しそうな奴デース」

『話が速くて助かる。先ずは御本家に向かってくれ。詳しくは道々伝える』

 学長兼特祭隊司令の言葉に、二人は顔を見合せ、揃って肩を竦めた。

 

***

 

 これで良い。

 良くない筈がない。

(…なのに何だ、この違和感のようなものは)

 後悔に似る。

 御本家、折神朱音自らの通話を終えたスペクトラムファインダーを、姫和は見下ろす。

『貴方は衛藤可奈美さんと同じ本戦シードですね』

「はい。この間、五条学長よりそう申し渡されました。不本意ですが、そのようなことになっているようです」

『ふふ。可奈美さんと同じようなことをいうのですね』

「可奈美が?」

『ええ。予選に出させてくれって、私のところに怒鳴り込んできたのですよ』

「怒鳴り、って、あいつめ…」

『無理からぬことかもしれません。今頃の可奈美さんは手合わせどころか、稽古相手にも不自由している様子ですから』

 それはそうだろう、と姫和は想像する。大荒魂と融合した己すら斬り伏せた可奈美だ。あれを苦しめる刀使が、姫和には思い浮かばない。

『ですから姫和さん。貴方には早めに、本家に来て欲しいの』

「とは、つまり」

『ええ。可奈美さんの、稽古相手を…』

「無理です」

 姫和は躊躇なく告げた。

「私如きでは可奈美の稽古相手にはなりません」

『そんなことは…』

「私が三人四人束になっても可奈美には敵わないでしょう。それに…」

『それに?』

「私には開催中の平城予選にまだ、心残りがあります」

『心、残り…』

「しかし、命令とあらば登殿(とうでん)します。私はまだ、平城の生徒で特祭隊隊員のようですから」

『…いいえ、姫和さん。命令ではありません。姫和さんの意向がそうであるなら、可奈美さんの意向を優先する不公平は、私には出来ません。この話は忘れて下さい、姫和さん』

 あの方は一体何を為されておいでなのか。

 通話内容を思い起こしつつ、通話終了の端末表示に目を落とす。

 我々いち生徒のことなど構っている暇はあるのか。今や天下国家に不可欠なお方と成りつつある朱音さまには、もっと他に、気に掛けるべき大切なことがあるのではないか。

(…と、口にしたら、返ってくるんだろうな。貴方達以上に大切なものなどありません、って)

 それから一言二言の挨拶で、通話は終った。

(可奈美が寂しそうだから相手してやってくれって、それを言いに来たのか)

 政財界の要人や学会のエキスパート達が引っ張りだこでアポを取り合う押しも押されぬ国士だというのに…

(けど、今の私に、朱音様をお助けすることは出来ない)

 可奈美の稽古相手というなら、今の己は不足も甚だしい。行ったところで何の役にも立たないどころか、可奈美を失望させるだけだろう。

(それに、気になることもある)

 岩倉さん。何故、一指しの太刀を使わない?

 

***

 

 美濃関代表に続き長船代表が御前試合運営委員会のホームページに掲載され、未発表校は残り三校となった。

 本日中には二校となるだろう。平城の準決勝二戦は何れも本日ここ、平城学園第一体育館で行われ、平城代表選手権者二名は本日出揃う。

 問題はその代表二名の内に、岩倉早苗の名があるかどうかであった。

「そっか」

「ああ。そういう理由だから今日のところは、清香の応援は出来ない」

「ふふ、だからって、それをわざわざ直接言いに来るなんて」

「だ、だって悪いじゃないか。何時も世話になっているのに、大事な試合で応援できないなんて」

「大体の人は心で思っても口に出さないものだと思いますよ♪」

「それは隠し事じゃないか。清香にそんなこと出来るものか」

 姫和の話をどう聞いたのか、六角清香はニコニコの上機嫌であった。

「姫和さんらしいです」

 清香はただ、それだけを言った。

「凄く緊張してたのに何処かに飛んでっちゃいました。全力が出せそうです」

「それはそうしてくれ。清香の足を引っ張りたいわけじゃあないんだ。それにきっと岩倉さんだってそれを望んでる」

「ホント、姫和さんは姫和さんなんですね」

 この人がこんなにも、というほどに凛々しい笑みの清香であった。

「行ってきます」

「武運を」

 こう言葉を交わしたのを最後に清香は道場中央へと進む。対面から現れたのは…

(岩倉さん)

 岩倉早苗は対敵、清香の側に立つ姫和の姿を見止めた筈である。

 むろん、一瞥をくれたきりで早苗は、清香を見据えた。

(今日も出さないつもりなのか…一指の太刀を)

 試合が始まってみねば、分からない。

 

***

 

 思わぬ人を思わぬところに見て、とっさに早苗は目を背けた。

(なんでそっちに…)

 ボクシングで言えば相手コーナー側、セコンド的なところに姫和が居るのか?

 当然かもしれない。清香と姫和はよく一緒に居るところを見かける。仲良しだ。それに引き換え、この間野試合を挑んだ挙句に軒先に自転車を迷惑駐車しっぱなしで帰った早苗の扱いがこうなるのはむしろ自然な成り行きだ。

(そんな、つもりじゃあ…)

 早苗なりに、早苗のことを伝えたいが故のあの行動であった。

 姫和にどう思われても仕方がないと頭の中では分かっていたが、それでも、姫和に分かって欲しいと思ってやったことだ。だから何処かで姫和が許してくれないかなとか、期待する気持ちもあったかもしれない。

(私は…十条さんに敵対したいとか、困らせたいとか思っていたわけじゃあ…)

 でもその可能性はあった。なのに覚悟が足りていなかった。

 全然足りていなかった。

「…! …!!」

 十条さんが何か言ってる。きっと私を怒っているんだ。罵っているんだ。

 私それなりに器用なつもりなのに、十条さんとはいつもこう。どうしていつも上手く行かないんだろう。どうして――

「前! 試合!」

 ほら、十条さんもああ言って…

 …え?

 試合?

「しっかりしろ!! もう始まってるぞ!!」

「うわあ!」

 千住院力王と蓮華不動輝弘が燦然と火花を散らす。

 清香が先手を打って斬りに行ったのを、早苗がまともにブロックしたのだ。

(清香も清香だ! なんだその、恐れ入りますが斬っていいでしょうか、みたいなのは! 完全に気が逸れてたのが分からなかったのか!)

 何処の誰が見てもチャンスであったはずだが、清香と来たらそこをまるで石橋を叩いてみようの態で、御刀でぺち、と早苗を叩いただけであった。

 慎重な性格で大きな失敗をしない清香であったが、ここでは裏目だ。

 それが幸いして試合は終らず、始まったのである。

(うわあ、って言っちゃったよ私…)

 これ以上みっともない所、十条さんには見せられないよ。

 こう見えてもいっこ上。先輩らしい試合しないとね…!

(む…)

 清香は無二の好機を逸した。

 岩倉早苗が体制を整える。

 早苗のベースは幕末の名流、真庭念流。守りを大事と謳うこれに姫和に学んだ本邦最古の鹿島神道流を融和させた岩倉早苗一流と言ってもいい独特の剣。

 言うまでも無く鹿島の太刀の強みは攻め強さ。予測の付かない太刀筋、初見で見切ることは不可能と言われるそれを身に沈めつつも、早苗は真庭念流をベースとした、迎撃型といっていい。鋭い反撃を持つが故、ゆとりを持って守れる。懸中待(けんちゅうたい)、待中懸(たいちゅうけん)という言葉があるが、待中懸、即ち攻めの意識の強い攻撃的防御こそが早苗のスタイルと言えるだろう。

 一方の清香もまた、タイプは待ち剣だ。相手に掛からせ、技の尽きたところを斬る。衛藤可奈美を筆頭に、柳瀬舞衣などもこれだ。挙がった名前を見れば分かる通り、技術に優れた刀使のみが選択出来るスタイルである。敵に先に攻めさせることが前提となっており、並みの刀使では攻められた時点で斬り立てられて終わってしまう。これで勝っていけるのは才に恵まれ、努力を惜しまなかった者だけだ。

(そう、例えば、六角清香のような…)

 相中段となった。

 早苗の中段は高く喉元、一方清香の中段は低い。壇中、即ち胸元あたりに付けている。同じ構えでも攻撃的な早苗に対し、清香は相手に距離を取りたがっているように見える。

(攻め気が無さすぎる)

 姫和と同じように、早苗も思ったであろう。

 早苗の切っ先がさらに上がる。喉元から目元へ。より威圧的な中段構えへと変化していく。一方の清香は――

(おい!)

 切っ先が悄然と下がっていく。

(ケンカに負けた犬の尻尾じゃあないんだぞ!)

 ハナから地磨り気味の正眼に取る事は確かにあるが、相手が圧し掛かって来ているのにつれて、どんどん下げていると相手は調子付く。相手が怯んだと見る。

(…誘い、かな)

 姫和が脳死で突っ込むところを、考えるのが早苗である。

(試してみる!)

 タン、と早苗が小さく踏み込む。

 御刀は構えたままだ。技は出さない。防御態勢のまま間合いを詰める。

「…っ!」

 清香は狼狽した、と見えた。ビクッと飛び退く。

 真っ直ぐ後ろに、だ。

 明らかに好機だった。誰の目にもそう見えた。早苗の目にもそう映っただろう。しかし…

「いかん!」

 早苗の行く手を阻んでいた蓮華不動輝弘が無くなっていた。

 何処に行ったのか。

(印の構えになっている…!)

 輝弘は清香の胸元だった。

 早苗の勢いに気押されてるように見える。いや、本当に気押されているのだろう。

 清香の性質を姫和は良く知っている。温和で、争いを好まず引っ込み思案。他人の悪意に過敏で、接触を躊躇いがち。凡そ武道に向いていると思えない、ウサギのように臆病な清香の、刀使として優れたところを探すなら、相手の攻勢に対する早期警戒能力であろう。

 攻撃の兆候を掴むのが早い。逃げるのが早いから打ち込み難いという、清香の場合そればかりではない。早期警戒能力が高いということは、素早く反撃体制を整えられるということだ。赤羽刀調査隊員として実戦経験を積んできた清香は、迎撃手段も豊富になって来ていた。

「えいっ!」

「…っ!」

 突いて出た早苗の手元の鋭い金属音は、蓮華不動輝弘の刃と千住院力王の鍔が立てたものだった。早苗の突きに対して清香がカウンターで小手を斬って行ったのだ。対する早苗がとっさに手元を回して、鍔で受けたのである。

(…うっ…)

 思いの他、重い一撃であった。早苗の攻撃が、そこで途絶えてしまっていた。様子見のつもりが釣り出され、綺麗にカウンターをもらった。鍔で受けることが出来たのは幸運以外の何物でもない。

 手加減も様子見もしたつもりはない。本気の諸手突きが相手の何処にも触れなかった。清香といえば少し半身になっただけだ。それだけで突きは大きく外れていた。

 早苗は間合いを取り、その分を、そろそろと清香が進んで詰める。

 攻めた早苗が後退し、攻められた清香が逆に押して出る結果となっていた。

(六角さん…手ごわいとは思ってたけど…)

 これ程とは思わなかった。

(まるで、ハリネズミみたい)

 ハリネズミを飼っている人の動画を見たことが有る。ずっと見てられるほど愛らしいこの小動物は、捕食しようとする側には、厄介この上ない。一度丸まってしまえば怪我せず触ることすら難しいのだ。

(さて、どうしようかな)

 どうにかこっちが釣り出せれば、逆にカウンター出来るんだけど…

 栗の実状態の清香はどう見ても、攻めて来てはくれそうにない。なら美味しそうな技を見せて、脳死で出して来る清香のカウンターを凌いでカウンターする。

(他に方法はない。しかし――)

 早苗が再度打ち込んでいく。虎尾の技だ。初手は見せ技、相手の反撃を跳ね上げてそこを斬る。いきなり反撃を受けて、即座に対策するのは流石平城の次席刀使だが、新たな問題が立ち塞がる。

(わ、技が…小さいぃ!)

 清香の技が小さすぎる。

 ボクシングで言う左ジャブのようなものだ。出して来る技の隙が少なすぎる。下手に行ったらカウンターのカウンターにカウンターを貰うと言う、笑うに笑えない事態になりかねない。

 フェイントも試してみるのだが、引っかかったと思っても立て直すのが速過ぎてどうすることも出来ない。

 もともとが、無二剣という素早く小さい技を、清香は存分に使い尽くしていた。

(何て守り…こんなの見たことない)

 鉄壁の防御に、コンパクトで強い反撃。

 奇しくも、早苗と同じ方向性。それもより防御の意識の強い刀使が、六角清香であった。

 相手になっているのが早苗でなく、超攻撃的な、例えば燕結芽(つばくろ・ゆめ)や、ここに居る姫和のような刀使ならば守りを崩して打ち込んでいけるかもしれない。だが早苗の刀使としての方向性は、清香と同じ防衛迎撃型。燕結芽のような手数やハンドスピードも、姫和のような爆発的な踏み込みもない早苗に、清香の守りを突き崩すのは至難の技である――

(いや、ある!)

 あるのだ。如何なる守りも突き崩す秘剣が、早苗にはある。

(一指しの太刀に破れぬ守りなどない! 使うんだ、あの秘剣を!)

 出し惜しみして勝てる相手ではない。それは早苗にも、十分分かっている筈。なのに何故。

(何故、何故使わない、岩倉さん…!)

 ちらり、と姫和の姿を、岩倉早苗は盗み見る。

(使えない)

(使えるわけないよ。だってこの技は…)

 きっかけはあの春の御本家だ。早苗にとって二度目の御前試合の決勝。姫和が御本家暗殺未遂の挙句逃亡したあの時、ずっと一緒だった早苗は取り調べに対してただただ知らない、分からないと言う他に無かった。

 悔しかった。情けなかった。どうして何も言ってくれなかったのか。一言相談してくれれば、もっと他にやり様もあったかも知れないのに。

(それなりに、十条さんのこと分かってきたかもって思ってたんだよ)

 姫和の母の代わりの稽古相手は出来ても、姫和の母の代わりに話を聞くことは、させてもらえなかったのか。

 姫和に追撃隊が出た。親衛隊も出動になったと聞いて、姫和の家まで何度も自転車を漕いだ。居るわけがないと分かっていても、もしかしたらと姫和の姿を求め、空しく引き返した帰り道の、早苗の気持ちなんて分からないだろう。

 数か月後、姫和は無事戻ってきた。

 大荒魂に乗っ取られていた御本家と、百草の人達と一緒に戦っていたことはその時初めて知った。姫和が大変だったあの時、一緒に居たのは同じ学校の剣友のはずの早苗ではなく、衛藤可奈美という他所の学校のコだった。

(あの時、決めたんだ)

 貴方に置いて行かれないために、貴方の真似をして、それは無理そうだから考えて、考えついて試して、出来なかったからまた試して、何度も、何度も試して…

(どれだけ重い女なんだろう、私って)

 高校二年という人生一度の大切な時間のどれ程を、姫和の為に割いて来たのか。

 恋とか勉強とかもっといろいろあっただろうにと自分でも思うけど。でも全然後悔してないなんてどうかしてる。

(十条さんが、私の青春…なんて)

 そんなバカなこと他の誰にも言えないし見られたくない。

 当の姫和本人にだって出来れば見せたくなかった。貴方に振り向いてもらいたい。その為だけに編み出した技なんて。

 ましてや他のコに向けることなんて――

(岩倉さん…!!)

 じり、じりと間合いが狭まって来ている。

 印の構えはそのままで、清香が前に前にと進んでいっているのだ。

 止む無く早苗が下がる。前進を止めようとすれば攻めなければならないが、中途半端に手を出せば手痛く反撃されるのは目に見えている。

 ハリネズミのように丸まって転がっているだけではなかった。

 今や清香は槍衾となって、早苗を追い詰めている。

 清香は臆病で引っ込み思案だった。だけど今はそれだけじゃない。慎重に、だけど確実に進んでいける、その守りと同じくらい堅い意思を清香は手に入れていた。

(間合いが潰される…!)

 一指しの太刀は迅移で遠間を踏み込んで突く技だ。間合いが必要になる。必要な間合いを確保しようとしても、10メートル四方の白線の外は場外判定。出てしまったらまた中央からだが、また清香が印の構えで推して来れば同じ結果となるだろう。

 決定打が無い両者にとって、場外判定は重い。一度出てしまえばそれが判定を決めてしまうことだって有り得る。

「…くそッ!」

 どうしてそうしようと思ったのかは、今に至るも分からない。どうにでもなれ、という気持ちだった。

「岩倉さん…ッ!」

 姫和は小烏丸の鯉口を切った。

 抜き放ち、写シを張る。

「来い! 掛かって来い岩倉早苗ッ!」

「…!!」

 この声で周囲は、姫和が抜刀し、写シを展張していることに気付いた。ただ一名の例外は清香で、丁度この時、姫和には背を向けていた。

(…何?)

 誰かが写シを張った気配は分かる。姫和の声は聞こえたが意味は分からない。早苗に掛かって来いと言ったように聞こえたが、姫和は早苗の味方をすると言っていたのではないのか?

(何、が…)

 続いての異変は正面の対敵、岩倉早苗であった。

 早苗の構えが変じつつある。中段正眼が脇構え、脇構えが徐々に上がっていき…上段脇構えに。

(脇構え? 違う、あれは…)

 脇構えとは異なるところがある。

 右手だ。右手が鍔元にない。右手が在るのは御刀の刃だ。早苗の右の人差し指が千住院力王の刃の上を、柄本から切っ先へと渡っていく。

 

…イイイイイイン!

 

 おびただしい光芒と冴えた金属音は、その早苗の指が発したものだった。

(一体、何が…)

 何が起こっているのか。

「また見たいなら、見せてあげる」

「…!?」

「一指の太刀…!」

 来る!

 そう思った。

 印の構えにはなっている。ならあとは判断するだけだ。

 誰から習ったわけでもない、自然と身に付いた清香だけの技。

(ほんの、つま先半分だけ)

 僅かに半身。それだけのささいな動きで、清香を脅かすものは消える。

 視界は右と左に分かたれている。目の前に天を指して掲げた蓮華不動輝弘の刃が清香の目の前の世界を二分しているのだ。右から来るか、左から来るか。右から来るなら左に、左からくるなら右に半身になるだけで、相手は輝弘の分かつ世界から叩き出される。

 判断が二択だから変り身も素早い。あとは近くに在る相手の部位を叩くだけ。

(…右!)

 踏み込みの速い刀使ならば身近にいる。何度も見ている。姫和以上の迅移は来ない筈。左へと踏み違えて、あとは反撃を…

(あれっ?)

 早苗が居ない。というか迅移は清香を通り過ぎてしまい、背を向けてしまう形になっている。

(今なら、追って反撃が…)

 そう思って振り向いた拍子に、視界がどんどん傾いでいっていることに気付く。

(そっか)

 何があったのかと思ったら。

 姫和が小烏丸を抜いていた。その姫和の眉間に、早苗の蓮華不動輝弘がぴたりと御されていた。

(そっか。そうだったんだね)

 早苗は己ごと、姫和を串刺しにしに行ったのだ。

 背を向けていた清香には事情は分からなかったが、姫和が御刀を抜いて構えることが早苗を鼓舞したことは分かる。

(ちゃんと、早苗さんを応援できた? 姫和さん)

 とうに膝は砕けてしまっていた。座っている事すら出来ず、清香は倒れ伏す。

 躱したと思った千住院力王は、清香の変り身より速く右半身を捉えていたのだ。

「…なにやってるの、十条さん」

「それはこっちのセリフだ、岩倉さん」

「こっちのセリフだ、じゃあないよ」

「うわああ!?」

 姫和の背後から職員生徒複数人が一斉に飛び掛かり、小山のように姫和の上に積み重なる。

「何だ、何だ!?」

「突然場外で御刀を抜くからだよ。選手以外発刀厳禁なの、知ってるでしょ?」

「しかしだな、って痛て! 痛ててて! 分かった、投降する、抵抗の意思はない、だから上から降りろお!」

「ふふっ…」

 じたばたする姫和に、我知らず早苗は微笑みを誘われる。

(応援してくれたんだね)

(…ありがとう、十条さん)

 岩倉早苗が三年連続、御前試合平城代表選手権者となることが、この日決した。

 

***

 

 わざわざ有難うございます、朱音様。そう言って衛藤可奈美は通話を終えた。

(…そっか)

 姫和は来ない。

 来てもきっと、可奈美の練習相手になることは出来ないと、そんなことを朱音は伝えて来た。

(…そうだよね)

 可奈美も姫和も御前試合の出場選手。ライバルなのだ。手の内を明かしたくはないだろう。

 今度会えるとしたら御前試合。何時手合わせ出来るかはトーナメント次第ということになる。

(楽しみだな…御前試合)

 可奈美の稽古相手となる者は、今や誰も居ない。

 可奈美の方も、誰かに声を掛けることはなくなった。

 有力な刀使の殆どは、予選で母校に帰ってしまって暫くは戻らないし、残っているコたちに持ち掛けても、

「私じゃあ稽古相手にならないから」

 そう言って断られることが何度もあって、もう分かっていたから。

 鏡の前が可奈美の定位置となって、もうどれ程が立つのだろう。

(可奈美は何時も、寂しそう)

 母、美奈都の言葉であった。強くなることとはこういうことなのだと。

 今まで思い出せなかった言葉が、幽世から戻ったあの日から、はっきり思い浮かべることが出来る。

(これからもっと練習して、もっと強くなったら私、どうなっちゃうんだろう)

 今日の姫和のように、今まで手合わせしてくれていたコ達もそうではなくなって、今日のような独りぼっちの日がずっと続くのだろうか。

(違うの師匠)

(私、強くなりたいなんて思った事、一度も無くて)

 ただ、剣が好きで。剣技が好きで、剣技に携わる人が好きで、だから特祭隊の皆が好きで、なんなら大荒魂のタギツヒメだって剣の上手だったから好きで…

 好きだから打ち込んだ。剣に打ち込むことが幸せだったから、寝食を忘れて稽古することが出来た。まさか、寝てるときまで、天国に行った筈のお母さんと稽古していたなんて、ついこの間までは思っても見なかったけど。

 知らない間にこうなっていたのだ。伍箇伝最強、どころか有史最強に数えられる刀使に。

「どうして…」

 どうしてこんなことになっちゃったんだろう。

 朝から夜まで、剣で遊んでいたかっただけの子供のような可奈美は今、我が手の内の玩具が何者であったかを思い知りつつある。千鳥と無邪気に戯れ歩むその先に何が口を開けて待っているのかを。

 うそ寒い思いに駆られ、可奈美は折角抜いた我が御刀、千鳥を再び鞘へと戻してしまう。

 こんな気持ちになったのは初めてだ。

 御刀に触りたくない、なんて気持ちになったのは。

(みんなどうしているだろう)

 姫和は。舞衣は。沙耶香やエレンや薫や美炎はどうしているだろう。いつ本邸に来てくれるんだろう。

 手がかりをスペクトラムファインダーに求めてみると、舞衣や美炎から、美濃関代表になったよの一報が届いている。

「なんか知らん間に長船代表になった。当たったら手加減してくれ」

 という相変わらずな薫に、

「手加減無用で切り刻んでやってデース!」

 などと物騒なエレンの書き込みも、添えてあった。

(ほら)

 私は独りなんかじゃない。大丈夫。寂しくなんかない。

 剣を合わせることはなくても、遠くはなれた剣友たちは可奈美の支えだった。チャットアプリの書き込みを続けて見ていると…

(…歩ちゃん?)

 ずいぶんとご無沙汰だった内里歩(うちさと・あゆむ)の個人チャットに書き込みが為されていた。

 冥加刀使となって幾度となく可奈美の前に立ち塞がった歩は、今は摂取した大量のノロを除去する為、透析器とリハビリ室を行き来する日々を送っている筈であった。

(久しぶりだ。何だろう)

 あの年の瀬以来連絡はしていない。気にはなっていたけど、勝者たるこちらから連絡することは生意気な行いに思われ、出来ていなかった。何を話していいか分からなかった、ということもある。だから、向こうから書き込んでくれるのは有難かった。あれきりになんて、可奈美はしたくなかったのである。

「綾小路の代表になりました。そっちに行ったら宜しくお願いします」

 書き込みはこのようなものであった。

(…綾小路の代表に!?)

 本当だろうか。本当だったら凄い。

 綾小路武芸学舎の有力な刀使は軒並みリハビリ中で、御前試合に代表が出せるかどうか分からないと聞いたけど、ただの噂だったのだろうか。それとも有力な刀使たちがダウンしているお陰で出番が回ってきたということだろうか。

 本戦に出て来るとしたら、冥加刀使とならなかったり、早期に離脱してリハビリの進んだ木寅ミルヤ(きとら・―)や山城由衣(やましろ・ゆい)が居る。歩はこの二人と肩を並べた、ということだろうか。それにしたって、歩は年の瀬のあの突入作戦の時まで冥加当時として戦った筈。まだまだリハビリの最中のはずなのに…

 そういうことをさておいたなら、代表選出は分からなくもない。現場に弱いところはあったにせよ確かな腕前の刀使だ。冥加刀使となってからは弱点も鳴りを潜め、分隊長も務めたようだ。

(でも、その後は…)

 言いたいことは、腰間の千鳥に込めた。

 あの時の斬り合いを、歩が冷静に分析していれば分かると思う。あの後糸見沙耶香とも斬り合ったようだが、同じ負け方をした筈だ。要は後先の抜き技をまともに貰ってしまっているのである。

(冥加刀使の技は力強い。感覚も研ぎ澄まされていて反応も素早い)

 けれど単調だ。数度斬り合えば間合いを盗まれる。可奈美や沙耶香のような技巧派に相対すれば、それはそうなる。腕力も敏捷さも荒魂と同等になるだけなら、可奈美にとってはいつもの相手。それが刀で斬って来るならむしろ得手、まである。

 技が伴わない力は無意味。

 嘘はつけないんだよ。近道はないんだよ。込めたそんな思いを、歩は汲んでくれただろうか。

 汲んでくれたのだ。

 そうでなければ、御前試合本戦に出て来ることなど、出来はしない。

(私も頑張らないと)

 鎌倉御本家で歩と立ち会う己を想像しつつ、鞘に納めた我が御刀に伸ばした指先が、柄に触れた瞬間、静電気のような痛みを憶え思わず引っ込める。

(…つ!?)

 注意深く触ってみると、今度は何とも無い。けどこんなことは今までなかったことだ。刀身ならいざ知らず、柄を触って静電気なんて聞いたことが無い。

(よし)

 改めて柄本に手を伸ばそうとして、躊躇う。

 怖い。

 今の痛みが怖い。ピリリと刺したようなその痛み。

 おかしい。このくらいの痛みなんて稽古には付き物、慣れっこの筈なのに。

 今度は慎重に、除電のつもりで手の甲から触れ、次に握ってみると何でもなく、すんなりと握れた。

(やっぱり静電気だったのかな)

 しかし、翌朝可奈美は同じ痛みで、千鳥を取り落とした。

(…っ)

 その次の日にも同じことが有って、ついにその日は御刀に触らなかった。

 無理に稽古をしなくてもいいと考えたのである。これ以上強くなって何になるのか。立合い稽古に不自由になっていくだけではないか。だったら弱い方がいい。その方が思いっきり千鳥で戦える。

(早く…)

 本戦まであと数日。早くその日が来ないだろうか。

 鞘に納めてしまったままの千鳥で、きっとまた羽ばたいて行こうと思える筈のその日が。

 



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伍箇伝の娘 その1

 人類史未曾有の年の瀬の災厄以来、かつてない荒魂頻出に対し、その在り方を問われているのは伍箇伝だけではなかった。

「荒魂災厄担当省?」

「今度の内閣改造で、そういう話が出たと、一族の者から伝え聞きました」

「それがどうしたってんだ。年の瀬に荒魂災厄対策室が立ち上がったばっかだろうに」

「大違いです。今の私達の立場は?」

「あたしらは特別祭祀機動隊だろ」

「特祭隊の上は?」

「特別刀剣類管理局だろ」

「その上は?」

「警察省だろ」

 先年までは庁が下に付いた警察であったが、相次ぐ荒魂災害を受け、対応能力を高める為晴れて省に昇格していた。なお防衛庁の省昇格も同時に行われている。自衛隊も対荒魂部局を独自に設置しており、警察組織への牽制とも噂されている。

 日高見真琴(ひたかみ・まこと)との話に出た荒魂災厄対策「省」は、稲河暁(いなご・あきら)には初耳だった。

 ちなみに荒魂災厄対策室は年の瀬に設置された内閣直轄の荒魂対策のエキスパートチームで、特別刀剣類管理局長の折神朱音(おりがみ・あかね)やリチャード・フリードマン教授も名を連ねている。

「警察省は、所謂ところの省庁、その省ね」

「そうだな。うちの元締めは、警務大臣ってわけだ」

「ところで、荒魂災厄担当省は、省庁でいうところの省です」

「聞きゃあ分かる」

「貴方の言う元締めは、総理から任命された大臣、ということになります。つまり警察大臣と同格になるんですよ」

「ふむふむ…って何い?」

 現状の特別刀剣類管理局は省庁の庁ですらない。それが一気に省が付く身分となるならば二足飛ばしどころではない大出世である。

「えらいことになって来やがったな」

「何せ私達の朱音さまが荒魂対策担当大臣になるには先ず、国会議員にならないといけません」

「あたしらみんな、選挙カーに乗るハメになるかもしれねえのか」

「当選してもそこはスタートラインに過ぎません。総理の信任を得て大臣に任命されなければなりませんから、大変な道のりです」

「…けど、ホントにそうなるなら、あの人にやって欲しいぜ。あたしら刀使のことを本当に考えてくれているのは、あの人だろうから」

「ただこれには防衛省も警察省も反対していると聞き及びます」

「防衛省は敵の頭数を増やしたくねえ。警察省なんざ、うちら特祭隊が重視されてるから省昇格したようなもの、手放したら発言権は大きく減じちまうってわけか。当分は息苦しいままが続きそうだな」

「ええ。これはまだ先の話」

「当面は、永田町に臨時設置されっぱなしの対策室に、足しげく出向くことになりそうだな」

「環境が整うまで、私達は私達の出来ることをやらないと」

「…そうだな」

 

***

 

 あの年の瀬より内閣府設置となった荒魂災厄対策室には本日、錚々たる顔ぶれが訪れていた。

 内閣総理大臣と東京都知事を筆頭に、警察大臣、防衛大臣、災害時の救急医療を統括する厚労大臣、消防庁長官に災害復旧を担う国交相、その他その他、現内閣の主要な閣僚たち。

 迎える対策室首座の折神朱音局長、筆頭顧問のリチャード・フリードマン教授を始め、STT副長官や特別希少金属利用研究室の主任研究員たる古波蔵公威(こはぐら・きみたけ)ら、それぞれの道で荒魂災害と対峙してきた設置当初からのエキスパート達に混じって、いきなり今回から初入室のメンツも居た。

(こんなところで再会とは思っても見なかったぜ、特別害獣駆逐隊司令、日向士郎(ひな・しろう))

 この場で唯一の現役刀使、益子薫(ましこ・かおる)のことを、気づいているのか居ないのか。日向士郎の表情からは何も受け取ることが出来ない。

 薫はここで唯一の現役刀使であったが、同時に最年少で、閣僚とか長官とか以前に学級委員もやったことが無ければ日直だってサボるガチ普通の女子高生である。「お前のような大段平をぶん回すフツーのJkが居るかデース!」などと、古波蔵エレン(こはぐら・―)あたりは突っ込むかも知れないが。

 朱音らの認識ならば現刀剣類管理局が舞草であったことからの同志であり、最も荒魂討伐の経験豊富な現場経験者であり、非常に頼れる存在であるのだが当人に自覚はない。

(呼ばれた原因はまあ、こいつだろうな)

 両手の中には益子の守護獣、弥々(ねね)が居る。

 最近色々と進境著しい弥々であったが、つい先日、以下のような驚くべき大変化があったのである。

 

***

 

「なあ弥々。さっきエターナルホライゾン姫和から連絡があってな。何でも行きがかりでイチキシマヒメを保護することになったんだと」

「ねねー」

「誰だそれ、知らん名だだって? まあそうだな。俺も名前しか知らん。偉いネガティブなお喋りらしいが、会ったことは無いんだ」

「ねねね」

「お前も直接対面したことは無いのか。そりゃあそうだろうな。ずっと潜水艦の中で幽閉状態だったらしいし。まあそんなことはどうでもいいんだよ」

 ひょい、と薫は弥々を猫摘み上げる。

「あいつが言うにはな。多分三女神の残る一柱、タキリヒメもまた、同じように何処かに打ち捨てられている筈だっていうんだよ」

「ギクッ」

「心当たりがあんのか? 奇遇だな。俺もだよ。確か市ヶ谷のタキリヒメ護衛戦の時だったよな。お前が突然元の姿に戻ったのって」

「ね、ねね…」

「あの前の日まではあんな真似出来なかった。確かそれからだ、お前の言葉が分かるようになったのは。それまでは何となく気持ちは分かっても、会話を交わすところまでは行かなかったからな」

「ね、ね…」

「どうした。眼を覆って。こっち見て話せよ」

「……」

「ン――?」

「………」

「ンンン――?」

「…流石は益子の者よ。この上は逃げるも隠れるも無駄か」

「うわしゃべったーっ!」

 既に日常的に会話を交わしているようなものなのだが、普段ネネとしか鳴かぬ弥々からいざ本当に声となって流ちょうな日本語が出てくればこうもなろう。

 盛大に放り出された弥々は猫のように着地を決めたが、何故か両眼は、塞いだままである。

「何をするか不敬者。話せと言ったは汝ぞ、益子の者よ」

「マジか! やっぱりか! そこに居るんだなタキリヒメ! 何時から、どうやってそこに居る! 俺のペットはどうなった!」

「摘まむな、揺さぶるな、振り回すな! 答えてとらす故落ち着けい!」

「これが落ち着いて居られるか!」

「そこを押しても落ち着け! 益子の者であろうが、汝は! 益子の守護獣がどうなっているか知りたくは無いのか!」

 ピタ、と薫が停止する。

「弥々はどうなった。返答次第じゃぶった斬るぞ」

「それでよい。順に答えてとらす。先ず第一の、何時からという問いに対しては、益子の刀使の考える通りである」

 薫としては、重要事項は第二の、弥々がどうなっているのかが最大の懸案である。それを聞くには先ずは第一の問いの答えを聞き終えなければならないようである。

(機嫌をそこねて引っ込まれたら何も分かんねー)

 冷静になれ。冷静にだ。

 薫は努めて、己自身に言い聞かせる。

「…あんたがタギツヒメに吸収されたのはあの時だからな。見当は付く」

「ヒトにより幽閉されていた我はノロを蓄えること叶わず、我と異なりヒトの協力を得て戦支度十分のタギツヒメと不利の斬り合いを強いられるに至った。不利は明白であった故、我は相応の準備を講じてあった」

「準備とは何だ」

「手近に出会った荒魂、即ちこの弥々に、縁(えにし)を作った。今風に言うなら、我が精神データをバイパスしたのだ。敗れたならば縁を遡り、魂のみなりとも逃れて後途を期すつもりであった」

「案外潔くねえんだな、荒神ってやつは」

「案の定きゃつは、我が身をノロと切り離し、念入りに無力化して無用な部分を放り出した。我が落ち延びたとは知っていたかもしれんが。落ちた先に関心は無かったであろう。我の落ちたる先は上古吉備津の大荒魂、弥々の許であったとはましてや思いもよらぬことに相違なし。まんまとあの後、弥々と語らい、きゃつに一泡、吹かせてやったわ」

「あの時の巨大弥々、やっぱお前のせいだったのか。で、弥々と語らうってえことは、弥々を乗っ取ったわけじゃあねーんだな」

「ここよりは第二の問いへの答えとなるが、先に行ったように今や我はノロと結びつけず、穢れを蓄えること一切が出来ぬ。こうして実声によっての対話が可能なのは、この弥々の求めあればこそ」

「弥々の求め?」

「理解しやすく言うなら、汝がこれを摘み上げて厳めしい顔で問い詰めるによってだ。面倒だから後は任せたなどと申して居ったぞ、益子の者よ」

「あー…」

「このように我がヒトと言葉交え得るのは、弥々の合力あっての事。弥々が望まねば出ては来れぬ。流石の我も、これよりヒトを従え正しく導くは、相当の骨と言わねばなるまい」

 この期に及んで不穏な発言を聞いた気がするが、ともあれ弥々は無事で、主導権も弥々にあるようだ。先ずは一安心であった。

「さて、この上は弥々に負担となる。引き上げるとしよう。岩戸隠れの前に問うておくが、千鳥の刀使は如何しておるか」

「千鳥の刀使、って言ったら可奈美のことか。あいつなら、タギリヒメを祓った後、小烏丸の刀使と一緒に五体無事にこっちに戻ってきてるぞ。いまや誰もが認める現役最強刀使だ」

「幽世に迷うて再び、元の時系列に戻るは我ら荒神とて至難であるを、流石は我が見込んだ名手。祝着と言うておこう。我が知るあの者は立ち居に迷い見受けられた。高く飛べと申したものの、あれの翼は強すぎる。高く飛び過ぎて戻るべき大地を見失っておらぬか」

 少なからず、薫は驚いた。

 衛藤可奈美(えとう・かなみ)の周囲の者が、皆感じていることをこの、ヒトを不完全と見下し隷属を目論む荒神も感じているというのか。

「ヒトはヒトを導きヒトたらしめる。刀使もまたそうであろう。千鳥の刀使のこと、頼みおく。益子の者よ」

「言われるまでもねえ」

「さらば」

 弥々が、目を覆っていた両手を、ひょいと避けたそれきり、呼べど叫べど弥々は「ねね?」としか応えない。どうやらこのイナイイナイが、弥々のタキリヒメ召還フォームであるらしかった。

(ふむ)

 ぽい、と弥々を放り出した薫は、少々の試案の後、タブレット型のスペクトラムファインダーを取り出す。

(何やらやべえ考えを持ってるみたいだが、悪い奴には思えねえ)

 そうでなければ、己が消滅の危機に瀕しているのに可奈美を気に掛けたりはしないであろう。

「あーもしもし折神邸司令室? 俺だけど、紗南ちゃんそこら辺に居る?」

 タギリヒメ以外は消失したと思われていた二柱の女神の無事(?)が、特別刀剣類管理局に相次いでもたらされることとなって程なく、薫は弥々と共に荒ら魂災害対策本部に呼び出されることとなったのである。

「大儀である、ヒトよ」

 本邦の首脳らに対し重々しく告げたのは、薫が右手で猫つまみでプラプラさせている弥々、であって、そうではない。

 弥々は両目を覆っており、つまりこれは弥々のタキリヒメ召還モードであった。

「目通り、さし許す。面を上げよ」

「再び目通りお許しいただき恐悦至極です、タキリヒメ」

 閣僚一同、タキリヒメが市ヶ谷に幽閉されていた時面通しはすましている筈であるが、いやだからこそ、何とも言えない顔である。それもその筈、その頃には磨き抜かれた輝く白磁の仏尊像に、枯れ果てたヒトの四肢が枯れ蔦の如くに絡みつく、禍々しくも神々しい姿であったからだ。

「タキリヒメがこのようなお姿になられたのには理由があります」

 朱音は閣僚たちに、事情を包み隠さず説明する。

「つまり、あと一柱の荒神が、存在していると言うのか」

「はい。あと一柱のイチキシマヒメは現在、特別刀剣類管理局長が厳重に管理下に置いています」

 姫和に丸投げした、ということは薫も聞き知っている。が、まあ姫和の傍であるなら確かにおかしなことは出来ないであろう。朱音は嘘を言っていない。

「管理体制は信頼してよいのだな」

「はい」

 来室した閣僚は外国人の、それも恐らく軍人を伴っていることに、薫は気付く。おそらくは米軍の駐日武官であろう。太平洋を分けて戦った米国とは今や、対荒魂で連携する同盟国である。とはいえ、政府が対応しきれなければ当然、しゃしゃり出て来るであろう。

 霞ヶ関ビルに充填されたとされる大量のノロが一斉に活性化した場合関東平野を覆い尽くすほどの荒魂の軍勢が現れると思われる。これは日本の全滅を意味する。

こうなった場合、荒魂災害が海を渡り世界中に拡散する可能性が高い。国際社会もこれを懸念している。あの年の瀬以来、荒魂は世界の危惧となっているのだ。

「畏れながらタキリヒメに於かれては、我らヒトにお教え願いたく」

「質疑相許す。申し述べてみよ、ヒトよ」

「有難き幸せ。では――」

「荒魂は何故ヒトを襲う!」

「総理! お待ち下さい、タキリヒメは畏くも――」

「よい。知らぬのならば答えよう、蒙昧なヒトよ。我らの血肉が荒魂と化してヒトを襲うのは、我ら神より御刀を盗み去ったからである」

 そのようなことはとうに説明してある。回答も分かり切っている。無意味な問答をしている暇はない。ここに居る人物の誰もが貴重な時間を割いてここに在るのだ。

「しかし、霞ヶ関魔城には我が国を滅ぼすに足るだけのノロがあるが、荒魂と化して攻めては来ないではないか。これは何故なのだ、荒神よ」

 魔城のノロは何故だか、一斉に活性化されない。一部が這い出し都内に荒魂災害を散発させるのみ(それでも大型のものが多いが)。人口密集地の都内のど真ん中であるにも関わらず、一斉に活性化しない理由は、ノロの量に比して穢れが少なすぎるからではないかとも推測されている。

 では、穢れとは何か。

 これについては全くもって確かに言えることがない。

 ノロは概ね人に接することによって荒魂化するが、寺社などに神体として祀られたノロは頻繁に人と接するにも関わらず活性化しない。これにより荒魂は浄を嫌い不浄を好むなどとも云われることがあるが、では人がどう在れば浄で、どう在ったら不浄であるのか。

「そればかりはそ奴の好みによる」

「好み!?」

「然り、魔城とやらの城主となった荒魂の好み、趣味趣向である」

「つまりノロは、ノロの気分次第で活性化したりしなかったりするというのか!?」

「然り」

「不機嫌ならば荒魂化して都民を殺傷すると」

「如何にも」

「平穏に暮らしたければ機嫌を取れと。しかもどうとればよいかは荒魂の個体によって異なると」

「ヒトの考えの通りである」

「ぬう…」

 総理は唸った。

 その後ろに控えた都知事らは声こそ発しなかったが、似たりよったりの表情であった。

「我々人の子は、静かに平和に暮らして行きたいだけなのです、タキリヒメ」

 沈黙した総理を引き継いだのは朱音であった。

「御鎮まり頂くには、我らは何をすれば宜しいのでしょうか」

「先に答えた通り、そ奴の考えに寄る」

「ではせめて、貴方方神より御刀を持ち去りし者をお教えくださりませ。然るべき罰を与えます故、それで御鎮まり頂きますこと、願い奉ります」

 人は定命であるから、当然ながらその者はこの世には居ないであろう。

 罰を受けるのは当人以外ということになる。朱音の性格からして自分が代わって罰を、とか言い出しかねないから薫は冷や冷やする。

「知らぬ。我らの知は持ち去られた。ヒトが言うココロというようものも今やヒトの手の内にある」

「…とは?」

「我らの知、心、魂ともいえる概念は全て御刀の内に在るのだ。さらに言うなら我らの知の炎の冷え固まったものこそが御刀と言うことも出来る。我らの起源を知ろうと欲すれば、世の御刀全てを我らが手にする必要がある。今だ我らの知らぬ御刀の何処かに我らの起源の記憶があろう」

「つまり荒魂の起源の記憶は失われており、人類が御刀を手放さなければ、取り戻せないと?」

「然り。タギツヒメが大きな力を得たのも、数々の赤羽刀を得、真なる姿に近づけたが故。我らは荒神だが、全知の神へと戻るにはより多くの御刀を得る必要がある」

 もし全ての御刀をタキリヒメへと戻せば、人類は荒魂への対抗手段を失うこととなる。到底呑める条件ではない。

「ヒトの内には、我らの神格を取り戻そうと、赤羽刀とノロを捏ねて混ぜた生命を造ろうとした者も在った。神造計画と称されたそれは棄案となり、竣工なった人造神一号、スルガ級はヒトに滅ぼされたと聞く。それについては我らよりヒトが詳しかろう」

「聞き捨てならんぞ!」

「説明しろ、折神家!」

「タギツヒメは極秘裏に数々の計画を進めており、その内の一つだと認識しています。資料は散逸しており調査が必要です」

 朱音は弁明する。

「折神は何を隠しているのだ。我々が折神について知っていることはこれで全てなのか。答えろ、折神朱音!」

「それは…」

「お待ちください、総理」

 思わぬ人物が、詰問を遮る。

(こいつ…)

 特駆隊司令、日向士郎であった。

「折神を問い詰めることは後でもできます。今は荒神を質すべきでしょう。人類と相容れるのか、容れないのか、はっきりさせる必要があります。そしてそれはタキリヒメの意識が顕在化している今しかありません」

「お前のことは憶えているぞ。我に銃を向けたヒトではないか」

「そうだ、荒神」

「我らとヒトとは相容れぬ。そう考えているようだな」

「正確には異なる。我々は国民の安寧を守る自衛隊だ。お前たち外次元生物が我々に害を成すならば対応する。その為の特駆隊だ」

「順序が異なる。我らより御刀を奪ったのはヒトである。お前たちの言う荒魂災害はそれに端を発する」

「では珠鋼兵装を全て返却すればお前たちは退くのか」

「最低限度必要である。荒魂が獣の如く荒れ狂うを止めるにはヒト並みの知恵や心が必要であり、それにはヒトが御刀を手放す必要がある」

「それでは人類は、荒魂に抵抗する手段を失う」

「奢るな、ヒトよ。もとよりヒトは神に屈する者。奢りを捨て、我が身の丈を知るが良い」

「タキリヒメ。貴方は神が支配してこそのヒトだと考えていると聞く」

「然り。神代に立ち戻れ、ヒトよ。されば荒魂はヒトを襲うことは無い」

「だが神に都合が悪ければ、荒魂をけしかけると」

「我らに従わねば、そうなることもある」

「今とさして変わらんな」

「ヒトが神に抗うというなら、そうなろう」

「…成程」

 室内は静寂に包まれる。

 日向司令はこの上問いを発しなかった。十分な答えを得たからであろう。閣僚たちからも、この上声は上がらなかった。

「神を拝し、神を戴け。さらば不完全なヒトも我ら神の如く完全足り得るであろう」

 荒神の言葉のみが、ただ、場を圧するのみであった。

 

***

 

 ヒトと荒神との時ならぬ「首脳会談」は不調に終わったのか。

 閣僚たちが去った後も、残った人物が居る。

「外相の宗像孝蔵(むなかた・こうぞう)です」

「質疑あらば申し立てることを許す」

「は。有りがたき幸せ」

 宗像外相は元舞台俳優より演出家としても名を馳せたキャリアを持つ老紳士であり、気障な言い回しも堂に入っている。

「タキリヒメのお話は理解致しました。我々の立場の隔たりは大きい。それを確認することが出来ただけでも幸いです」

「神に成り代わろうとするヒトにとり幸いな話であろうはずも無いと覚えるが」

「いいえ。如何に関係が悪化しようとそれを整理し、改善に努めるのが外務です。困難は幸いです、神との外交に臨む外相など古今東西前代未聞、終戦工作となればなおのこと。互いの立場の差が確認出来ただけでも良しと致しましょう」

「左様か。話あらば、また聞いて取らせよう。して、今一人は」

「東京都知事の高祖美和(こうそ・みわ)と申します。若かりし日には刀使として山鳥毛(さんちょうもう)をお預かりしておりました」

「ほう。かの名物をてなづけるとは中々の手練れよ」

「もう40年以上も前の話で御座います、タキリヒメ。しかし山鳥毛に見初められた御陰を持ちまして、戦後最大の荒魂災害に際し、経験を買われ都民に都政を付託されることとなりました。折神御本家とはよく相談の上、事に当たりたいと思っています」

「左様か。折神の当代はあまりに心優しき故、果断さに欠ける。努めて支えるが良かろう」

「はい。肝に銘じまして」

 政治家は利権に群がるが、金が欲しくてたまらぬ人種ではない。利権を得ることによる発言権こそが彼らの求める者である。早い話が権勢を欲するのだ。

 宗像外相、高祖都知事、共に思う所の名誉を求めているのであろう。そしてそれは何れも、折神朱音と利害の一致するものであった。

「お二人とも、今後とも何卒お引き立てのほどを」

「こちらこそ、よろしく頼む。まだまだ交渉材料が足りない。それを持っているのは君だよ、朱音君」

「しっかりなさい。貴方は折神御本家。私を導く立場でしょう」

「い、いえ、私などはお二人よりも二回り以上年下の若造で…この後も変わらず、ご指導ご鞭撻、どうかお願いいたします」

 深々と朱音は、頭を垂れる。

 



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伍箇伝の娘 その2

 ネッカチーフのように丁寧に包装された包みを解けば、そこにはまた包装の個別にされたクッキーが整列していた。

「一日いっこ…」

 一日にひとつづつ。無くなる頃には、舞衣が戻る。

 舞衣がイクサ討伐作戦前に、美濃関に召還が為されたのは作戦に不要、とかではもちろんない。作戦で手薄になった緊要地のフォローに、一枚引き抜くなら前衛後衛、教官役から学長の秘書役まで何でもこなせるスーパーウーマン、柳瀬舞衣(やなせ・まい)だと判断されたからである。

 時を移さず伍箇伝各校は現在御前試合の予選が始まる、今はその頃である。舞衣は美濃関代表の有力候補。順当なら決勝まで試合をしないと、御本家に戻っては来れない。

 そんなことは、糸見沙耶香(いとみ・さやか)には分かっていた。

 普段ならば毎日ひとつづつ、おやつの時間にこれの包みを破って齧るのが日々の楽しみとなっていただろう。クッキーの残りは心細くなっていくが、その代わりに、舞衣が帰って来る日が近づいてくる。舞衣が折神邸を去る日には、このような日持ちに工夫したカウントダウンクッキーを沙耶香の為に残していくのが、常であった。

 だから沙耶香にとっては名残惜しくもあり、指折り数える楽しみでもあったものだ。

 しかし、今週ばかりはすこし勝手が違っている。

(チャンス…!)

 ついに、訪れたのだ。

 こんな好機はもう来ないかもしれない。

 常に沙耶香を気遣い、ほんのささいな変化も見逃してくれない友人たちは今、イクサ討伐作戦の後始末だったり、予選で地元に戻っていたりする。こんなことはありそうで、今まで全然なかった。

(何を着て行けばいいんだろう)

 色々と迷ったがこれは結局、制服に落ち着いた。おめかししようにもどういうのがおめかしなのか沙耶香には分からない。行先が行先だし、これでいいだろうと納得した。

(何を持っていけば?)

 花だ。綺麗なのががいい。

 だけどどんなのが好きなのか、聞いたことはなかった。迷って、花に詳しい心当たりにそれとなく…出来得る限りそれとなく、心当たりに聞いてみたところ

「生花の持ち込みが可能かどうかは病院にもよるが…それならライラックやチューリップなど定番だね。あと菊や百合などの縁起の悪いのや、赤や白の色は避けた方がいいよ」

 このような答えを獅童真希(しどう・まき)から得た。

「大きな病院には売店があって、見舞い用の花を置いてるところもある。多分あそこにもあったんじゃあないかな」

 チューリップ。

 話に出たライラックという花がどんなものか沙耶香には分からなかった。けどチューリップなら分かる。多分、好きな花だと思う。

 その真希の話を参考に病院の売店で買い求めた黄色いチューリップを二輪持って、沙耶香は生涯二度目の大冒険をするべく、廊下を歩んでいる。ちなみに一度目は、先生の手を振り払い、舞衣と一緒に逃げ出した時だ。

(先生…)

 ここに来ることは舞衣たちには話していない。

 沙耶香を止めたり、着いて来て庇ったりするような人たちには誰にもだ。

 一人だけで会いたかった。

「次に会うときは敵同士です」

 そのように言われていたが、あの事件はもう一年前に決着した。敵も味方も無い筈だった。会いに来るのに不自然なことは無い筈だ。

(会ったら、私は…)

 皐月夜見(さつき・よみ)の話をするつもりであった。

「あの人を頼む」

 そう己に、己の最も大切な人の事を託した夜見のこと。その約束を裏切った己の不実も。

 結果、どうなるか沙耶香には想像もつかない。怒られるかもしれない。口もきいてくれないかもしれない。最悪、斬られるかもしれないとすら思う。それでも。

 避けては通れない。沙耶香が自分で乗り越えねばならないことだ。何時になるか分からないけどいつかは必ず、そう決めていたのだ。

(先生…)

 廊下を歩むにつれ、鼓動は高まる。手も足も震えている。

 幾多の大作戦に参加し、命を的に働いて来た沙耶香をして、ここまで緊張を感じたことはない。いやこれは緊張などというレベルでなくもう恐怖であるだろう。

 荒魂の大群にも豪強の荒神にも恐怖したことが無い沙耶香は怯えていた。

 怖い。怖いけど。

 それでもやはり沙耶香は進んだ。

 行くのだ。進むのだ。そう決めて来たのだ。だから私は――

『高津雪那(たかつ・ゆきな)』

 そう書かれた病棟の前に、ついに沙耶香は立つ。

(先生――)

 ここまで来て沙耶香は分かった。

 怖かった。逃げ出したかったけれど、それに勝る感情が沙耶香の内にはあった。

 先生に会いたい。もう一度、会いたい。

 思いもよらぬ感情であった。己の何処か片隅にでも残っているとは思いもしなかった気持ちであった。けれどそれは…

(気づかなかった…)

 今まで気づかなかったのは、大きすぎたからだと思う。

 大きすぎて見えなかった。分からなかった。思えば己は、この気持ちに包まれながら今まで戦ってきたのだ。包まれていたから分からなかった。見えなかった。だけど今なら分かる。

(先生)

(沙耶香が行く)

(今、そちらに――)

 病棟は個室ではなかった。四棟の内一棟、一番奥の窓際、そこに先生が居る。先生が。

 二輪のチューリップを武器のように握り締め、踏み入った病棟のその先に居たものは――

(……え?)

 先生が居るハズの一番奥の寝台の上に誰かが居た。

 外を見ている。

 いや、何を見ているのか。

(…せん、せい?)

 沙耶香の知る、どんな高津雪那でもない。

 高津雪那の魂は、何処かに抜け落ちてしまっていた。

 ぼんやりと、窓の外を見ながら何も見てはいない、高津雪那の姿をした何者かには、何処にも雪那を雪那たらしめていたものが見当たらなかった。

「…ひ」

 沙耶香は悲鳴を上げた。 

 上手く声にすらならない悲鳴だった。

(死、んで…)

 高津雪那の亡骸。

 もちろん本当に死んでいたわけではないが、そこに坐しているそれに、沙耶香が連想したのはそれであった。朽ち果てた雪那の残骸。

(手、に…)

 何かを懐いている。それが夜見の御刀、水神切兼光(すいしんきりかねみつ)であると知ったとき、沙耶香は武器と頼んだ二輪のチューリップを投げ出して、駆けだしていた。

 逃げ出したのだ。

 どんな荒魂の大群にも、己に倍する技量の荒神にも一歩も引くことの無かった沙耶香が逃げた。

(ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい――)

 そんなことを心の内に言いながら、何処をどう逃げたのか沙耶香は憶えていない。

 気づけば病院の外に居た。

「…う…」

 そこでやっと、涙が出た。

「ごめんなさい…」

 先生に。先生を託してくれた夜見に。

 他に言葉が無かった。

 取り返しのつかないことをしたのだと思った。

 沙耶香が裏切ったから、先生はあんな風に…沙耶香の知る先生では無くなってしまって、もうこの世の何処にも居なくなってしまった。

 もう無理だ。

 二度と逢えない。

「うっう…」

 地面にはいつくばって、沙耶香は泣いた。

 そうすることしか出来なかった。

 ただ泣くことしか出来ない、無力な少女に今だけは戻って、沙耶香は何時までも、そうしていた。

 高津雪那、失踪の報が伍箇伝を駆け巡ったのは、その夜のことである。

 



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伍箇伝の娘 その3

 水面にゆらめく月影のように、歩む女の姿には現実味というものが無かった。

 明るく月光に照らされつつも、闇そのもののように、女は見えた。

 靴らしいものを履いていない。

 ひた、ひたと、素足であった。

 身を覆うのは医療機関で使用される男女共用の夜着であったが、そんなものでは覆いきれないような色気が…いやもうそれを通り越して妖気のようなものが漂い出て来ていた。

 手荷物が一つある。

 水神切兼光――かつて皐月夜見(さつき・よみ)を主とした御刀であった。

「対象は日本刀らしきものを所持」

『御刀か』

「錬府女学院所蔵の水神切兼光と特徴が一致します」

『では対象は…』

「療養中と報告のあった錬府学長、高津雪那で間違いないと思われます。職質しますか」

『うかつに近づくな。先日、旧折神家親衛隊を擬態した荒魂が現れたばかりだしな。特祭隊に連絡する。彼女達の管轄だ』

「了」

 当直の警官のみならず、都内複数の防犯カメラが彷徨い歩く素足の女の姿を捉えた。目撃情報は刻々と寄せられ、高津雪那には密かに抜け出そうとか、人目に触れぬようにしようとか、そのようなつもりが全くないことが窺える。

「誰も付いていなかったのですか」

「それが、服務態度が非常に良かったもので、最初は見張りも付けていたんですが人員の無駄に思えて外してしまい…」

「そういうことではありません。御身内のどなたも、病室にいらっしゃらなかったのかと聞いているのです」

「す、すみません」

 折神本邸の作戦司令室で当直の刀使とこのような問答を交わしているのはここを取り仕切る真庭紗南本部長ではなく、特別刀剣類管理局局長、折神朱音であった。

「御身内の方に連絡をして下さい」

「し、しかし今は御前1時を回ったところで、あまりに失礼では…」

「しない方が失礼に当たります。ただちに行ってください。責任は私が取ります」

「り、了解しました!」

 ここまでの会話を行ったところで、真庭本部長が作戦司令室に転がり込んでくる。

「遅くなりました、局長」

「いえ、たまたま私が早かっただけです。しかし…」

「しかし?」

「雪菜先輩は、一体何処に――」

 何処に向かっているのか。マップを一望すれば、すぐに分かった。

「霞ヶ関魔城…」

 真庭本部長が呻く。

 このまま進み続ければ、行きつく先はそこであった。

「本部長、保護を」

「当直の刀使に出動を命じろ! 直ちに、だ!」

 

***

 

 本来糸見沙耶香はこの時、出動するべき立場にない。

 沙耶香は切り札であり、おいそれと切れるカードではない。沙耶香自身もそれを理解していた筈である。

「先に行く」

 その沙耶香がそれだけ言い捨てて、エントランスに集結した当直たちが止める暇も有らばこそ、迅移でぶっ飛んで行ってしまった。

 迅移は戦闘技術であって行軍技術ではない。移動手段としては息が短すぎるのだ。写シと併用などすれば戦闘可能な時間はごりごり削られていく。だから写シ同様、会敵までは温存しておくのが常道である。

 しかし、これが沙耶香には当てはまらない。トップスピードこそ十条姫和に譲るものの、他の追随を許さない持続時間の迅移を会得している。無念無想の名で呼ばれるそれは、移動距離だけを見るなら二段階迅移に達した強豪刀使の十数倍にも及ぶ。まさに異能の天才であった。

 このような特質により、沙耶香は接敵行軍に有効な迅移を行える唯一無二の刀使であり、対荒魂警備の火消し役として緊急出動、機動展開を行える虎の子であった。イクサ討伐作戦から首都警備に引き抜かれた理由がそれであり、であるからこそ現場に真っ先に向かうべき刀使ではない。先ず現場が対応し、しきれないなら切り札として投入されるのが沙耶香であるべきなのだ。

 沙耶香もそんなことは分かっている。

 けどじっとしていることなんて出来ない。

 沙耶香は、昼間に師の様子を伺い見ている。

 だからなおさらであった。

(もしあの時、私に勇気があったら…)

 先生は病院を抜け出すことなどしただろうか。

 分からない。分からないが先生の様子を察して、病院に注意してもらうよう頼むことくらいは出来たかもしれない。

 だけどあの時沙耶香は逃げた。

 他に何も、考えることも出来なくて、他にどうすることが出来たかなんて――

(…違う)

(出来ることはきっとある。今、これから)

 先生の進む先は霞ヶ関魔城。

 あそこには、多分あの人の亡骸がある。水神切兼光のかつての持ち主、皐月夜見の。

(会いたいんだ、きっと。けど…)

 それは阻まなければならない。御刀を持った一般人を荒魂が見逃すはずがない。先生はこのままでは、夜見の後を追ってしまう。いや、それが先生の目的なのかもしれないのだ。

(急がなきゃ)

 迅移に次ぐ迅移を繰り返し、ついにスペクトラムファインダーが示す目標位置へと到達したときには、ほぼフルマラソンを走り切った状態に、沙耶香はなっていた。写シなど張れない。だけど、やらないと。

「…え?」

 ついに沙耶香は雪那の姿を目視で捕らえるを得た。それと同時に目に入ってきたものは――

「裏切り者。殺してやる」

 刀使、であろうと思う。己と同じ錬府の制服を着ている。

 顔見知りではない。

 いや、顔見知りであるとしてもいいであろう。

 夜目に浮かび上がった刀使の顔立ちは、沙耶香の良く知る者にそっくりであったからである。

「……!」

 沙耶香は走った。

 迅移も無念無想も発動するかどうか分からない。だからそれに頼らず沙耶香は走った。

 師、雪那の許で鍛えた伍箇伝中等部髄一と噂も高い身体能力が、師の危急を救った。沙耶香が突き飛ばした師の居たところを、間一髪、凶刃が走り抜ける。

 殺気に満ちた刃であった。

「邪魔するな!」

「そうはいかないッ!」

 妙法村正を中段に付けると、相手は応じて写シを張る。沙耶香は――

「…写シを張れ」

「…」

 張りたくても張れない。そんな生命力はここに来るまでに全部、使い果たした。

「舐めてるのか」

「…」

「待てよ、お前…妙法村正の刀使、糸見沙耶香」

「うん。そう」

 今や沙耶香は誰しもが知るエースだ。知られていてもおかしいことではない。

「糸見沙耶香。そうか、糸見沙耶香、お前がここに現れたのか」

 ニンマリ、と刀使は牙を剥いた。

 嗤ったのだ。

「丁度いい。その女の前でお前を斬ってやる」

「!」

 沙耶香は目を見張る。刀使の見せた脇構えはまさしく小野派一刀流、初伝にして奥義、切り落としの構え。

(同門…)

 沙耶香の胸の内の疑義が次第に、確信に変わっていく。

「先生に、よく似てる」

「なにッ」

「そうして構えたら本当にそっくり。もしかして、貴方は…」

「それ以上言うな!」

 刀使は吠えた。

「その女と私たちはもう何のかかわりも無い! それにそっくりなのは糸見沙耶香、お前の方だろう!」

「…? 私と先生が?」

「そうだ! その、斜(はす)に取る中段はその女のそれにそっくりだ!」

「先生にそう教えらえた。半身になれば敵からは小さくなれるって」

「お前…っ!」

「君。君はもしかして…」

「言うなぁ!」

 キれた。

 目くら滅法の力任せに振り下ろして来る。

(切り落とせる)

 頭でそう思った沙耶香であったが、身体はそう動かなかった。

(え!?)

 身体の方は、真っすぐに下がっていた。

 稽古通りやれば切り落とせると頭では思っていた。だが稽古を積み上げて来た身体は知っていた。稽古通りのタイミングでは切り落とせない、ということを。

(…思ったより、鋭い)

 それも相当に、だ。

 切り落としを仕掛け、正中線を争って競り合えば、弾き出されたのは己の村正であったかも知れない。

 思いかけぬ手練れであった。

 大幅に想定を改める必要があった。太刀行きの速さには色々あるが、この相手は剣が近道を通ってくるタイプだ。フォームが良く練られているのに加え何か、何処までも獲物を追う毒蛇の如く相手の生命を狙ってくる執拗さを感じる。

 危険なこの相手に対し己は、写シが張れない。体力も相応に消耗している。

(不利…だけど)

 視界の隅にうずくまっているのは、己が突き飛ばして守った恩師の姿。

「やるしかない」

「…!」

 沙耶香の纏う空気が一変していた。

 中段に取った切っ先がゆらり、と下がっていく。剣先は地面を指し示し、それで止まらず地を掃くように、相手と反対側へ。

 脇構え――

 小野派一刀流の基本にして奥義。切り落としを学ぶに最も適しているとされ、実地で行うにもよく用いられるこの構えを、沙耶香が用いる相手は限られる。柳瀬舞衣、さらには衛藤可奈美あたりが相手になった時くらいなものだ。

「…」

 そうと見て相手も仕切り直した。

 激高、していたと思われる先ほどとは打って変わっていた。

 斬り下ろした切っ先が、もとあったところに戻っていく。沙耶香と同じく、脇構えに――

 ビリリ、と夜気が電光石火を帯びる。

 先に仕掛ければ切り落とされる。だがそれを損なえば斬られるのは己である。

 互いがその条件であった。

 じりり、と互いの左足が、相手のより近間を求める。じりじり、じりじりと、しかしどちらも止まる気配はない。一足刀の刃圏に今将に近づかんとしていた時であった。

「対象を発見! 直ちに保護!」

「了解!」

 沙耶香の後を追ってきたと思われる当直の刀使達のものと思われる声であった。

ことさらに大きな声は、沙耶香の相手となっている刀使に、己たちの来援を知らしめているものと思われた。

「…命冥加な女だ。だが憶えていろ。誰が許しても私は許さない。裏切り者は必ず斬る」

 それだけの言葉を置いて、相手の刀使は身を翻す。

 適確な判断であった。

「沙耶香さん!」

「大丈夫だった!?」

 追いついて来た夜警の精兵刀使たちは既に写シを展張し、戦闘態勢であった。

「相手は誰? またタイプHの荒魂?」

「違う。荒魂じゃない」

「荒魂じゃあない? じゃ相手は伍箇伝の刀使だったの!?」

「…」

 沙耶香は嘘が付けない。だから黙っているしかなかった。

「刀使なら何処の刀使? 制服を着てたの?」

「…」

「沙耶香さん! 応えてよ!」

「…ごめん。上手く話せない。話していいかも分からない。だから、一度本部長に相談してみる」

 沙耶香は嘘がつけない。

「ごめんなさい」

 ようやくこれだけを言って、重ねて謝るものだから、問うた刀使もそれ以上の追求は止めた。命じられたのは高津雪那の保護だ。任務は果たしていた。

「…先生」

 意図せぬ形ではあったが、本当に久方の再開であった。

 雪那にとってもそうであった筈である。しかし師の無事を確かめようと歩み寄った沙耶香のことが、まるで視界に入っていないようであった。

「…呼んでいる」

 本当に久方に聞いた、師の言葉がこれであった。

「え」

「呼んでいるの。あのコが」

 あのコ、とは。沙耶香のことではない。雪那を斬ろうとした、あの刀使のことでもなさそうであった。

 では、誰のことなのか。

「普通じゃない。病院に運ぼう」

「了解」

 仲間の刀使たちが師を連れ去りつつあったが、沙耶香は只々、立ち尽くしていた。あの厳しくも凛々しかった師は何処に行ってしまったのか。あのコとは誰の事なのか。沙耶香のことは、もう忘れてしまったのか――

 




 同人作家が手を出してはならない所に踏み込みつつある自覚はあります。
 藤原美奈都にも柊篝にも娘が居た。なら伍箇伝学長たちにも子供が居ておかしいということはないだろう。というのはずっと思っていました。ただ次代の英雄たちはそれぞれが後継者ポジを占めていて、必ずしも必要ないのかも、とも思っていました。
 どちらにしろ伍箇伝の娘なんてものを設定できるのは公式のみで、同人作家の分は超えているのではないかと考えています。
 ただ、その公式が今は無くなってしまいました。どう指針を定めれば良いのか、僕には分かりません。

 兎も角申し上げておきたいのは、高津雪那に娘が居るという事実はありません。私のシリーズのみの設定です。


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伍箇伝の娘 その4

「本当なのですか、沙耶香さん」

「はい」

 高津雪那には娘が居る。知ってはいたが面識はなかった。

「おそらくその刀使は高津、刹那(たかつ・せつな)だ。今年から中等部入りの筈だ。雪那の実の娘なんだから、似ていて当然だろう」

「その刹那さんが、母である雪那さんを斬ろうとしたと」

「…はい」

 沙耶香には嘘がつけない。

 包み隠さず話すより他にはなかった。

「…裏目に出てしまいました。このようなことになるなんて」

 折神朱音が肩を落とす。

「ご家族に連絡するように命じたのは私なのです。沙耶香さんを大変な目に合わせてしまいました」

「局長は悪くない!」

 本当に頭を下げられそうだったから沙耶香は慌てて言った。

「…局長は、悪くない、です」

 

(裏切り者。殺してやる)

(その女の前でお前を斬ってやる)

(誰が許しても私は許さない。裏切り者は必ず斬る)

 

 あの時のあの刀使――高津刹那の言葉が蘇る。

 母である雪那のことを、娘が呼ぶなら母さん、であるとかお母さまとかママとか、色々あるだろう。

 でも刹那は、「あの女」と呼んでいた。「裏切り者」とも。

(ああ、そうか)

 沙耶香には分かってしまった。

 高津刹那は師、雪那の実の娘。

 人類を裏切り、大荒魂タギツヒメに与した裏切り者、高津雪那の。

 どんな目で刹那を、刀使たちは見たであろうか。

 母を継ぐ刀使たらんと伍箇伝の門を叩いた刹那は、己をどう見たであろうか。

 雪那が夢を、理想を託した弟子たる己を。その師雪那を見限って舞草に与した己、糸見沙耶香を。

(そうだったんだ)

 大荒魂に与した師、雪那の評判は当然、舞草の中では散々であった。舞草に与した沙耶香は当然ながら、直接にそれを聞いて来ていた。だからと言って何も言えなかった。師が裏切り者なら己もその師の裏切り者。

 雪那にノロを注入されかけ、逃げ出したところを舞衣たちが保護した、という経歴は嘘でも何でもなく、今や沙耶香を知る誰もが知るところである。だから皆沙耶香には同情的だった。それは、「高津雪那の被害者」であるから。もし被害者であることを止めて師を庇ったりしたらどうなっていたろう。

 舞衣や可奈美は分かってくれるかも知れないけれど、それによって舞衣や可奈美も変な目で見られはしないか。何か言われたりしないか。

 そう思うと、師のことを悪く言うななどと口に出せなかった。師の立場を上手く弁護するような口先も、持ち合わせていなかった。だから黙っていた。ただそうしていた。

 後々これが夜行刀使の如き事件を引き起こしたりするのだが――

(刹那は――先生の実の娘は今までどんな気持ちで過ごしてきたんだろう)

 己と同じような思いをしていたのか。

 もしそうであるなら、実母斬殺に及ぼうとした刹那の気持ちは、分からなくもない。沙耶香だって一時期は、先生のことを悲しい人だって思っていたことがあるから。

 舞草に居た沙耶香は黙っていた。制服からして錬府に居ただろう刹那はどうだったのだろうか。

(分からない)

 どう思っていたのか知りたい。そう思った。

「…高津、刹那に会いたい」

 ぽつりと沙耶香は言った。

「話を、聞いてみたい」

「分かりました。沙耶香さん」

 こう言った時の折神朱音を、舞衣みたいだと沙耶香は思った。

「この度は、この折神朱音の落ち度です。そのくらいのことは手配させて下さい」

 この夜、結局とうとう、朱音は沙耶香に頭を下げた。

 

***

 

 この夜の記憶は混濁していて、断片的にしか記憶が無いようだと、雪那の主治医より連絡があったそうだ。娘、刹那や弟子沙耶香が現れたことは憶えていても、仔細は分からない。

「昨日、夢を見たね」

「ええ、見ました」

 急を聞いて病院に駆け付けた相楽結月(そうらく・ゆずき)副局長は、こんな入り方をして、雪菜から状況を聞き出したらしい。

 雪那にとって昨日の出来事は、よく覚えている夢、くらいの感覚のようであった。しかしその夢には、在り得るべからざる登場人物の名が現れていた。

「あのコが出て来る夢です」

 そう言って、片時も離さぬ水神切兼光を愛おし気に、その指先で触れる。

 影に日に、その御刀で雪那を守護していた皐月夜見(さつき・よみ)。彼女は今やこの世の存在ではない筈であった。

 行方不明のままなのは遺体が発見されていない為であり、彼女の遺体が霞ヶ関魔城の内にある限りは、回収がされる可能性はほぼゼロであった。よって関係者は限りなく殉死したも同じと認識していた。高津雪那も例外では無いであろう。

「何か言っていたか」

「憶えていません。ただ、どうしても返ってこれなさそうだから、迎えに行ってあげなければと思って」

「それで、どうした」

「兼光が導いてくれるような気がしました。だから、そっちの方へと…」

「皐月夜見には会えたか」

「…憶えていません。でも先輩、どうしてそんな質問を?」

 高津雪那は未だに、錬府学長の身分を留保されていた。

 療養中であり、事情聴取もそれに伴う捜査も出来ないと対外的には説明がなされていたが、実際のところは異なる。

 高津雪那の錬府学長解任が、非常に難しいことになっているからである。

 舞草側からは想像も付かないが、雪那への錬府生徒の信望は、もはや忠誠心と言っても良いものであった。これは卒業生であっても変わりない。控えめに言っても、伍箇伝で最も、生徒の信を勝ち得た学長と言えよう。

 指揮官先頭を地で行く雪那は、決して刀使たちだけを危険な現場に行かせることをしなかった。危険な出動では、必ず自らが前線指揮を執ったのである。

「紫様のお役に立つのだ!」

 この号令の許、自身が荒魂の爪牙に掛かりかけたこともあれば、負傷した生徒を自ら背負いながら撤退戦を指揮したこともある。記録にある例外に折神紫追跡戦があるが、この時ですら作戦対象の紫よりよほど危険と思われる禍神タギツヒメの傍らに控えていた。タギツヒメにはもっぱら自らのみが会い、生徒たちとの接触は出来得る限り避けさせていた。

 舞草一党から見た悪の女幹部は錬府生徒にとって憧れの女王であり、皐月夜見のみならず彼女に心酔する多くの生徒が、他の女王を頂くことを拒絶していた。高津雪那を学長から降ろすなら折神邸に斬り込むと息巻く職員生徒も少なくないという。

 雪那がタギツヒメに付いた際、ほぼ全ての生徒がそれに追従し人類に敵対した錬府である。雪那を降ろせば確実に騒動になり、伍箇伝全校に連鎖する。伍箇伝解体論が声高に取り沙汰される昨今、そうなればようやっと築きかけた朱音悲願の幽世への懸け橋は瓦解しよう。

 かと言って無罪放免では、政府も世間も黙ってはいない。難しい対応を、朱音は迫られていた。

「沙耶香さんと刹那さんのことは憶えていたのでしょうか」

「夢に現れた、とは言っていたが何をしていたのかまでは憶えていないそうだ」

「そうですか」

 相楽副局長の言葉に、朱音は胸を撫でおろす。我が子に殺されかけるなど想像したくもない。文字通りの悪夢だ。

 

*** 

 

「子を成し、血を残せ」

 言われた通りにした。

 許より、見合い写真なら親元から山ほど送り付けられてきていた。紫様以外なら、誰であっても同じだ。その内の一人を見繕い、子を作った。

「よくやった。さらに励め」

 そう紫様からお褒めの言葉を頂いた。思えばあれは紫様ではなく紫様に取り憑いたタギツヒメだったのだが、知らなかった。

 高津、雪那の一字を送り、娘を刹那と名付けた。

「きっと立派な刀使になって、紫さまをお助けするのですよ」

 産まれた娘にかけた最初の言葉がそれであった。母は紫様の役には立てなかった。だからその分、お前がそれをするのだ。母の過ちは矯め、及ばざるは補い、完璧な刀使として今度こそ、母に成り代わって――

 だけど、そんなに上手くいくはずもない。許より才無き母の娘。

 刹那を見初める御刀は何時まで経っても現れなかった。我が村正もあのコにはそっぽを向いた。あのコは落ちこぼれだった。私と同じに――

 努力は、しているのだろう。

 それが実にならぬ。昔日の己の姿と重なった。ただ紫様の足を引っ張るだけだった己の姿。

(このような有様を紫様のお目に入れるわけには…)

 親子二代でこのざまかと思い悩んでいた雪那の許に、糸見沙耶香が現れたのはそのような時のことであった。己の足らぬ、欲する全てを持ち合わせ世に現れた天才刀使は、雪那を魅了し熱狂させた。かつての佩刀、妙法村正が沙耶香を主と認めたことも、それに拍車をかけた。

(これを育て上げ、紫様を守り参らせるのだ。かつてそれが出来なかった私の代わりに――)

 雪那は全てを忘れ、沙耶香に全てを注ぎ込んだ。

 全てをだ。

 忘れた中には実の娘、刹那のことも含まれていた。刹那に注がれるはずの、母子の情も――

 



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伍箇伝の娘 その5

 瞳を閉じれば、浮かぶのは過日の光景である。

 舞う桜花の下、錬府の門をくぐった刹那は、先輩たちにもみくちゃの大歓迎を受けた。それは言うまでもなく、学長高津雪那の娘だからだ。請われて雪那譲りの一刀流を披露すると、皆大いに沸いたものだ。

 まだ刹那たち家族の味方をしてくれる人達が居るなんて思っていなかったものだから、只々嬉しかった。

 母、雪那への怨みを忘れられるかも知れないと、他愛もなく思ったものだ。

 しかし、ある時そんな刹那の先輩の一人が退学届けを出したという。驚いて訳を聞けば錬府の生徒たちを世間が見る目も、刹那へのそれと大同小異なのだという。家族を守る為、親元に戻るのだと。

 仕方がないと思った。それもこれもあの母の悪行のせいだ。私の母が済まないと謝ることまでした。

 ところが、他の錬府の生徒たちはそうではなかった。裏切り者と先輩を呼び、私刑紛いの稽古で半殺しにした。その先輩が刀使としての生命を絶たれたと知った時だと思う。あの女は、高津雪那だけは生かして置けぬと、確固たる決意を胸に刻んだあの時。

(来たか…早かったわね思ったより)

 瞳を開けば、眼前七メートル先の赤と緑に彩られたターゲットには、幾本ものダーツが突き立っていた。

 刹那が投じたものだ。既にかなりの時間を、ここで過ごしていると糸見沙耶香にも見て取れるだろう。

「見つけた」

「見つかると思ったよ。身を隠そうにも、中学生の才覚なんて知れてるし」

 あれ以来、家にも学校にも姿を現していなかった高津刹那を補足したのは、都内のネットカフェであった。大胆にも刹那は、現場と幾らも離れていない宿泊施設を堂々と利用していたのである。

 ダーツゲームは、そのネットカフェの店舗施設であった。複数人数のプレイヤーが騒いでも声が外に漏れぬよう防音サッシで仕切られているものの、施錠することは出来ない。だから沙耶香が突然に入ってきたとしても、侵入を阻むことは出来ない。

 しかし沙耶香の突然の侵入にも、刹那が慌てる様子は何処にもなかった。

「帰ろう」

「帰る? 人殺しの私が何処に帰るっていうの」

 突然の開口一句に、平然と応じる。

「そんな場所なんて何処にもない。父さんも、錬府も私を許しはしない。だって私が殺そうとしたのは――」

「高津雪那学長。私の先生で、貴方のお母さん」

 ダーツが飛んだ。

 突き立ったのは沙耶香ではない。ターゲットのど真ん中だった。

「学長、ね。錬府の奴ら、私を担ごうとしやがった。あの女を取り戻すのに協力するって。冗談じゃあない。あんたもそうなの?」

「分からない。ずっと錬府には、戻ってないから」

「…ふうん。だろうね」

 糸見沙耶香もまた、刹那と同じく高津雪那を裏切った者である。錬府に居場所は無かった。

「…私と斬り合ってどうだった?」

「強かった。とても中等部一年生は思えなかった」

「だろうね。チビの頃から仕込まれた。出来なかったらぶたれた。メシも抜かれた。でも一番堪えたのは、口を利いてくれなくなることだった」

「…」

「私を想ってきつく当たってるんだって言うのも居たさ。親父とかね。私もそう思いたかった。だけどある時、あの女は家に帰ってこなくなった」

 左掌に連ねた三条のダーツの一つを、右手に番(つが)える。

「あの女の隣には糸見沙耶香、あんたが居た。私は悟った。見捨てられたって。だけどそれじゃあ終わらなかった。一年後あいつの隣には、あんたじゃあなくてあのタギツヒメが居たんだ」

 一般的なダーツの投法ではない。直打法と呼ばれる、古式の手裏剣術に見られるそれであった。ダーツは弧を描いて飛んだと見るや、先の矢と同じ中央へと突き立った。

「これもう、親子じゃあないだろう。あの女が欲しかったのは娘じゃあない。御刀を持てなくなった自分に代わる、優秀な刀使だ。あの薄気味悪い折神紫とかいう奴に侍らせるためのね。実の娘じゃあ不足だからあんたに鞍替えしたんだ。んでそれがダメだったもんだから、折神紫に復讐か、気を引くためかかなんか知らないけどタギツヒメにまた鞍替えた。でも親子って鞍替えとか出来ないでしょ? 母から生まれれば母の娘だよね!」

 一般的にダートのプレイヤーがターゲットに対峙する際、持つダーツは一矢のみであるが、手裏剣術においては二の矢、三の矢を左手に保持する。続けざまに刹那は、第二投を見事中央に突き刺した。

「父さんは会社に居られなくなった。家の電話は契約を切った。抗議の電話がいっぱいかかって来るから。そうしたら直接来て石を投げる奴も出て来た。近所の奴らは見て見ぬふりだった。このままじゃあ家にも居られなくなる。だから私は錬府に入った。私たちは人類の味方だって証明して、父さんやお家を守る為に」

 その人類共が錬府の生徒を見る目が思ったのと違うと知ったのは、入学したあとだったのだが。

 年の瀬の関東大災厄の首魁こそは大荒魂タギツヒメであり、高津雪那はその協力者であると、世間は見做している。錬府の生徒はその雪那の手先であると。折神朱音を始め弁明する者はいるが、その声はまだ大きくはない。

「だから私はあいつの娘じゃあないし、あいつは私の母じゃない。あいつは私たちを裏切った。折神家を裏切って、人類も裏切った。だからあいつの娘の私も裏切る」

「お母さんを、裏切る?」

「ええ。裏切るの。私は特祭隊の一員。人類の味方。人類を裏切った母を斬る。母を裏切ってね」

「そんなこと出来ない」

「出来ない? 何で。現に私は――」

「出来ない。私も先生を裏切ったから分かる。先生に今度会ったら敵同士だって言われたから分かる」

「知ってるよ。あんたノロの注入が怖くてあいつから逃げたんでしょう」

「うん」

「少しは取り繕うとかしたらどうなの! それとも裏切り者同志の私だったら分かってくれるとでも思ったの!?」

「ノロを注入されたら、人の心は無くなってしまう。大切な思い出も無くなる。友達を想うことだって出来なくなる。未来だってきっと無くなる。それが怖かった」

「無くなるんじゃない。捧げるんだってあいつなら言ったはずよ。私も言われたもの」

「…そうだね。私も言われた。紫様に全てを捧げてお仕えするんだって。ノロの注入もその為だった。逃げ出してしまったけど」

「あの女もいい気味よ。家を忘れて全てを注いだ秘蔵っ子にまんまと裏散られるなんて。あんたには感謝しておくわ。すこしすっきりしたし」 

 明らかな挑発が、口調に現れていた。

 しかし沙耶香には、それに乗る気配がまるでない。

「私の友達がね。先生には負けたくないって言っていた」

「…?」

 刹那は聡い娘であったが、沙耶香のこの言葉の意味は測り兼ねた。

「友達が言うの。私の色々な所に、先生を感じるって。任務の時も、そうでないときも、良い先生だったんだなって感心することがあるって。私はその先生を捨てて友達を取った。だから友達は悩んでいるみたい。先生のように、私に何かしてあげることが出来るんだろうかって」

「…」

「でも私、先生のようになんて何も出来てない。先生は私以外にも大勢の刀使たちを育てた。皐月夜見や七之里呼吹(ひちのさと・こふき)のような手練れも、大勢。でも私は、舞衣に守られているだけ」

「舞衣…美濃関の柳瀬舞衣のことね。次代の生徒総代って言われてる」

「うん。舞衣も沢山の後輩たちを指導してる。だから、私もそうしたい。そう思ったからここに来た」

「…?」

「私、貴方に剣を教えよと思う」

 沙耶香の言葉が終わるか終わらないかの瞬間、左手のダートが消え失せた。消え失せたと見えた時には宙を疾っていた。目標は的ではない。沙耶香だった。

 眉間だった。

 沙耶香が何もしなければ、鏃は頭蓋を貫いていたろう。そうならなかったのは。沙耶香の右手が閃き、虚空でダーツを掴み止めていたからだ。

「ざけるな!」

 つまりこの時沙耶香の右手は塞がっていた。片手で抜刀は出来ない。当然刹那は、それを狙ったのだ。傍らに立てかけた御刀から迅雷の抜刀が天地に走る――

 

キン!

 

 鋭い金属音が跳ねた。

 刹那の抜刀は、沙耶香を狙ったものではなかった。沙耶香が投げ返してきたダートを、これも虚空で斬り払ったものであったのである。

「私を斬りたいならそれでいい。だけど今じゃないほうがいい」

「…む」

 既に沙耶香の手の内には妙法村正が抜き身であった。

 もし沙耶香がダーツを掴まず、手で払うなどしていれば刹那の抜刀は沙耶香を直接狙い、より体制は不利になっていたであろう。流石の判断力であった。

「今やりあったら勝負は分からない。だけど、私は貴方に剣を教える。貴方は、私より強くなる」

「だから教わっておけ、と」

「うん」

「自分を斬ろうとしている相手に剣を教えて、自分より強くして、その結果どうなるか分かってんの?」

「分かってる」

「…もし嫌だって言ったらどうするつもり?」

「言わないで」

「は?」

「言わないで欲しい。だって他に思い付かないから。今の先生に、何が出来るのか。どうしたらもう一度先生の前に立てるのか」

「…」

「…」

「……」

「……」

「…はぁ」

 刹那が、剣を引く。

「何が勝負は分からない、よ。斬られてくれるつもりなんて何処にもないじゃない。抜き合わす前にしかチャンスはないって思ったから仕掛けたのに、あっさり返してくれて。五分の立合いじゃ今の私じゃあ返り討ちが関の山。そのくらい分かるわ。悔しいけどね」

「…だけど、そうじゃなくなる」

「あんたに剣を教われば、あんたの手の内が多少なりとも知れる。私には有利になる」

「私は裏切り者。あなたが私の首を持っていけば、先生も喜ぶ」

「悪くない。いいわ、乗ったげる。だけど忘れないで。私の目的は貴方を斬ること。別に貴方から全てを教わらなくても、斬れると思ったらいつ何時だってそうする」

「それでいい。その時にはきっと先生も見込み違いを悟る。私より刹那、貴方の方が優れていたって」

「…それで私はどうなるの? どうせこれ、監視カメラで見てるんでしょ? あんた一人がここに来るわけないし、周りにはSTTが詰めてるよね」

 どのみち刹那に、この上逃れるつもりはないようであった。

 納刀した刹那は、柄を右に、御刀を床に横たえる。

「好きにしたらいい。殺すなり捕まえるなり、その…教えるなり」

「じゃあ、一つだけ」

 妙法村正を納めたその手で、沙耶香はポケットから包みを取り出す。

「良かったらこれ…クッキー、食べない?」

 一日いっこの舞衣のクッキー。多分沙耶香の今一番大切なものだけど、恥ずかしいからそれは言わないでおく。

 舞衣とは、クッキーで始まった。

 だから刹那とも、こうやって始めようと思った。

(クッキー、一個減っちゃうけど)

 だから舞衣。早く帰ってきて。

 話したい事、いっぱい出来たから。

 

***

 

(…む)

 さて一方、美濃関学院。

 こちらに戻っている柳瀬舞衣の年上の弟子である観世思惟(かんぜ・しゆい)は見知らぬ生徒と、ベンチの右端と左端で顔を見合わせていた。

 思惟の掌には小柄と木切れが。

 相手の生徒は手にはスケッチブックと、今や懐かしい鉛筆が握られている。

(中等部の生徒と覚えるが…しかし何故高等部の学舎に?)

 思惟には待ち人が居る。

「紹介したい人が居る」

 そう言った舞衣が指定した待ち合わせ場所が学長室に程近い、美濃関に幾つかある小庭の一つであった。生徒たちの為に幾つか設けられているベンチは羽島江麻(ばしま・えま)学長のお膝元ということもあり、利用している生徒は、普段あまり見かけない。

 今日のような日は、例外と言えるであろう。

 思惟と、思惟と顔を見合わせている小柄な眼鏡の女生徒と、さらにその向かいのベンチには思惟の顔見知りであるところの加守姉妹の姉の方、加守明(かもり・あかり)、三人が顔つき合わせているのだから、珍しい。

 いや、顔つき合わせているという表現は適切ではないかも知れない。

 何故なら加守明は目下、爆睡中であるからだ。

「…」

「…」

 何となく顔を見合わせた思惟とその女生徒は、無言で自らの作品に戻った。

 女生徒はスケッチブックに。

 思惟は塑像に。

(このようなものであろう)

 数十分の後、何となくお隣の方を見ると、お隣も思惟の方を見ていた。

(む…)

 お前のを見たい。いや見せろ。

 そんな風に思っているのだろうと何となく思う。何故なら思惟もそう思ったからである。

(よかろう。手慰みではあるが)

 思惟が木像を置くと、中等生もスケッチブックを置く。

(ほう)

 感心した。

 線はあまり多くない。眠っているから目も瞑っているのに、ちゃんと明であると分かる。恐らく明を知る誰もが、これを明と言い当てるだろう。

 一方の中等生も、思惟の塑像に感心したようであった。

 お前やるなとでも言うように、中等生が口角を上げる。

 お前もな、という代わりに思惟も、そっくりそのままに笑みを返した。

 それきりものも言わずに両者はそれぞれ塑像とスケッチブックを取り、小柄と鉛筆を使い始めた。なんとなく先ほどまでよりも、指先の動きがせわしなくなっている。黙々と作品に取り組むこと十数分。両者は同時に小柄と鉛筆を置く。

「…」

「…」

 中等生はスケッチブックをもいで取ると、明の手元に――この期に及んでまだ明は爆睡中である――置く。それならと思惟は、その画用紙の上に塑像を置く。これなら風で飛ぶことは無いであろう。

「ふふ…」

「ふっ…当方、神明夢想林崎流、観世思惟。御姓名を承ろう」

「私は――」

 そこまで言いかけた時、

「遅くなりました、思惟さん」

 と思惟の待ち人の声があった。

「舞衣さま」

「ですから、さまは止めて下さいって言ってるのに」

「そのような訳には参りませぬ。思惟が今在るは全て舞衣さまの御陰」

「もう。それを言うなら居合を教わってるのは私の方なんだから、思惟さんが先生でしょう?」

「恐れ入り申す」

 舞衣は嘆息した。思惟とは最近このやりとりがだんだん挨拶のようになって来ている。

「ところで、二人はもう知り合いなのね?」

「思惟はまだ、こちらの御姓名を承っておりません」

「こちらは…」

「私は七奈。羽島七奈(はしま・なな)です」

 舞衣の紹介を待たず、中等生はぺこりと頭を下げた。

「…羽島? ということはこちらは…」

「お二人には母の江麻がいつもお世話になっています」

「羽島学長の御息女であられるか!?」

「しー」

 舞衣は唇の手を当てて思惟を制する。

「大きな音を出さないで。起こしちゃいますから」

 そこそこの騒々しいやり取りをしたと思うが、未だ明は起きる気配がない。流石天晴な爆睡ぶりである。

「折角だから…」

 舞衣は手元の鞄を探って、包みを取り出す。美味しい香りが漂ってくるから、これはお手製のクッキーであろう。

「これは私の分ね」

 それを明の膝の上に置くと、抜き足差し足で教職員棟へと去っていく。思惟と江麻の娘、七奈もそれに倣った――

「遅くなったわ…あのコ達きっと待ってるわね…ん?」

 それより時を置かず、所用を済ませた速足の羽島江麻学長が通りかかる。

 爆睡中の明の膝には画用紙と木彫りと、それからクッキーが置かれている。

「…お地蔵様?」

 小首を傾げる。

 一度そう思ったら、この時の加守明、お地蔵様とそのお供え物のようにしか見えなくなってくる。

「だったら素通りも出来ないわね」

 お供えしないと祟るかもしれないし。が、お供えに適した持ち合わせがないから仕方なく着ていた上着を脱いで、肩に掛けた。

「これで御利益、あるかしら」

 羽島学長は上機嫌で、我が仕事場教職員棟へと歩んでいった。

 

「何道祖神になってるの!」

「なんじゃこりゃあああ!」

「こっちが聞きたいわ!」

 

 探しに来た妹と明の間にこのようなやり取りが交わされたが、それはまた別の物語である。

 




私信

古い約束を果たしに参りました。お待たせしました。


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令和御前試合 その5

 話したい事が沢山あり過ぎた。言葉は大渋滞して、簡単に出てきそうにない。

「美濃関学園主席代表、おめでとう。舞衣」

「ありがとう。沙耶香ちゃんも、代表選出おめでとう」

 御前試合本戦、開催日。

 ぞくぞくと開催地鎌倉、折神家本邸に集った刀使たちの中、互いの姿を探し当てた柳瀬舞衣と糸見沙耶香は、先ず言おうと思っていたそれだけを言った。

「錬府は代表、出せないかもしれないって言う人も居たから、心配していたの。けどよかった。そんなことはなかったのね」

「うん」

 実際は曲折があった。混迷の続く錬府女学院では予選は行われず、自薦他薦での代表選考となった。

 毎月マンスリー討伐スコアを益子薫と競い合う錬府のスーパーエース、七之里呼吹に次いで推されたのが播つぐみだった。

 特殊希少金属研究の若きホープにして、直新陰流を遣って無類の達者。文武両道を地で行くこの播つぐみ、会って見れば細面のスレンダー美少女で、一体どれ程神に偏愛されているのかと呆れる程である。暫く話してみると大抵は、やはり神は平等だったと考えを改めることになるのだが…

「都の荒魂災厄対策室に出向も決まりましたし、予選に出ている暇は…」

「ヘリを出してもらう」

「と、いいましても本戦でうっかり勝ってしまうと足止めされますし…」

 ああ言えばこう言う。つぐみとの付き合いが長い沙耶香でなくとも、全くやる気がないことは分かるだろう。関東大災厄後初となる御前試合には、かつてないほど多くの刀使が参加を希望しているのに、つぐみはそのつもりがないようであった。

 昨年度選手権者の沙耶香は、本年度参加の枠は無いと考えていた。錬府の職員生徒にとっては己は裏切り者であるからだ。予選があれば実力で本戦に進むことも出来たろうが、再建の目途も付かない今年の錬府に、その余力はない。

「そうだ。あの方はどうでしょう。今年中等部に入った、学長の娘さん」

 高津刹那の名が、ここで上がってきた。

 刹那を推す声は特に、生徒の中で高かった。高津雪那学長の娘というだけで、学校ではこのような扱いを受ける。もちろん、未遂に終わった母親殺しの件は、沙耶香と特祭隊中枢しか知らぬ事である。

「皆噂していますよ。彼女の一刀流は学長の現役時代に生き写しだって」

「知ってる」

 いい考えだと思った。

 娘の刹那が自身の不在に、錬府の為に奮闘していたと知れば先生はきっと驚き、刹那を見直すだろう。

「じゃあ、お願い」

「え? 何をですか?」

「刹那を推薦しておいて。でないと、代表はつぐみ」

「…へ…?」

 かくて播つぐみは、錬府に戻れぬ沙耶香に代わり、高津刹那の錬府代表選出に尽力することとなった。つぐみの労苦の結果が、今ここに居る。

「あなたが、高津刹那さん?」

「…」

 高津刹那は無言で、そうだとも違うとも言わない。

 高津学長の娘ということであれば、沙耶香に裏切りをそそのかした舞衣に、良い印象があろう筈もないかと目を伏せる舞衣に、

「…いつも師が世話になっている」

 とそれのみ、ぼそりと刹那は告げた。

「…師?」

「剣を、教えてる」

「沙耶香ちゃんが…?」

「舞衣が戻ってくるまで、色々あった。話したい事沢山」

「私も。沙耶香ちゃんに話したい事、沢山あって。とりあえず、紹介するね。羽島七奈ちゃん。私の後輩で、羽島学長の一人娘。それに私の絵の先生なの」

「ええと、羽島七奈(はしま・なな)です。母がお世話になってます」

「…絵?」

 美濃関学長の娘、というところよりそこが引っかかる。絵、というのはあのスケッチとか油彩とかのあの絵なのか。先生というのは、それを舞衣に教えている?

「舞衣が? 絵を?」

「ええ」

「…どうして?」

「それは…試合までのお楽しみ」

「ですね!」

 沙耶香の問いに、舞衣は傍らの七奈と、微笑み合う。

 分からない。

 この口ぶりだと、御前試合と絵に、何か相関があるように聞こえる。だけどどんな関係があるのか、沙耶香には分からない。

「すぐに分かるわ」

 そんな沙耶香に、弟子、刹那が短く言った。

「柳瀬舞衣。あなたの一回戦の相手は、私だもの」

 美濃関学園主席代表、柳瀬舞衣。

 錬府女学園主席代表、高津刹那。

 トーナメント表の一番下に、二人の組み合わせが並んでいた。

 

***

 

 ここまでの名手が一堂に会するのは、大きな作戦でもない限り、珍しい。

 柳瀬舞衣と糸見沙耶香のように、久方の再開を喜び合う各校代表に混じって、それどころじゃあない者も居た。

「よりにもよって沙耶香かよ。相性最悪じゃねーか。…ま、早く終わっからいいけどよ」

 長船女学園代表、益子薫vs錬府女学院代表、糸見沙耶香のカードは第三試合にクレジットされていた。

 素早い、伍箇伝最高に素早すぎる沙耶香相手に、大振りの野太刀示現流は分が悪いことは明らかで、しかし誰の目にも明らかということは、一刻も早くサボりたい益子薫にとって幸運かも知れない。

「薫さん、相変わらずコスパ悪いですねぇ」

「ああ? 今のセリフのどこら辺にコスパの悪さがあるんだよ。チャンバラ大会なんざさっさとフケて熱海あたりでのんびりした方がいいだろ」

「そう考えそうなのは皆さんお見通しですので。そうなったら学長先生から怒鳴られた上でもっと厄介な仕事を押し付けられるにきまっています」

「ならどうすりゃあ、いいんだよ」

「適当に戦って、適当な成績を残して地味に退場するですよ。そうすれば残念惜しかったで怒られず、それで次は他のコに任せようってなるから一石二鳥」

「成程その手があったか。お前頭いいな」

「成程、じゃねーデース」

 新田弘名は安桜美炎と一回戦を戦う。勝敗は兎も角、熱戦製造マシーンの美炎相手にどう足掻いてもコスパ云々が出来る試合には成らないであろう。

(今一つ不明なヒロヒロの実力を見るのに丁度いい相手デス。渡りにフネ)

 長船のナンバー3、舞草の同志でもあったこの娘も、実は古波蔵エレンのミッション・ターゲットとなっていた。

 元来舞草は反折神家の寄り合い所帯、強大すぎる御本家に対し敵の敵は味方の精神でやってきたところがある。決して一枚岩ではないのだ。伍箇伝創設以前より存在する会津若松の名門、日高見家は舞草最右派、荒魂殲滅に手段を択ばぬ過激思想で、多くの刀使の支持を得ていた。

 荒魂との共存を模索する折神朱音とは、もちろん相容れぬ存在である。そしてこの新田弘名、どうもその日高見派と接点があるようなのだ。

 それがどの程度の接点であるのか、その接点を用いて日高見一派が何を成そうとしているのか、内偵するのがエレンと薫の任の一つである。

 任の一つ、というからには任は一つきりではない。

 さらなる任の一つ、はエレンの一回戦の相手であった。

 相楽瞑(そうらく・めい)、とは相楽結月、綾小路武芸学舎学長兼任特殊刀剣類管理局副局長の一人娘の名である筈である。

(同姓同名、と思いたいデスが…)

 相楽結月はあの年の瀬の災厄でタギツヒメに与し、冥加刀使の開発に携わった人物である。その一人娘の瞑もまた刀使であったが、ノロの人体投与の被験者第一号に志願し、そのまま帰らぬ人となった筈であった。冥加刀使の冥は、その名に因んでいると云う。

 もし同姓同名であるならば良し。相楽瞑を騙る別人であるなら、それを送り込んだ相楽結月の意図は何か。或いはもし瞑がその名の通りの本人であるなら、死した筈の結月の娘が何故に令和の世に彷徨い出たのか。

(戦ってみれば分かる、になればいいのデスが)

 それだけではない。

 その相楽学長と同じく荒魂に与した錬府女学院の選手筆頭、七之里呼吹の相手がまだ不明なままなのである。

(錬府の推薦枠は糸見沙耶香。綾小路の推薦枠は内里歩。美濃関と平城はカナミンとヒヨヒヨ…)

 長船推薦枠は新田弘名であるから、残りの一枠は折神本家の推薦枠であった。

 しかし予選当日のこの時点で不明とは、一体何者が?

 伍箇伝創立史上最大規模の御前試合は、史上最大にミステリアスな大会となりつつあった。

 

***

 

 令和初年度御前試合は例年通り三日の日程が組まれた。

 これは即ち、伍箇伝最精鋭が三日余り前線から離れると言うことであり、当然日程への異論はあった。極論ワンデイ・トーナメントとして翌日いち早く代表選手を前線に戻すプランも検討された。

 三日開催に拘ったのは他ならぬ折神紫である。「写シが張れなくなった方の敗北」という限りなく実戦に近いルールは当然ながら選手に深いダメージを残す為、

どうあっても疲労を抜くための時間が必要となる。

 新ルールに期するところが、紫には大いにあった。来たるべき大荒魂との決戦に、人類防衛を成し得るのは剣対剣に優れた刀使のみであり、これの錬成は喫緊であった。

 紫は全試合の主審を自ら行うことと定めていた。間違いなく開催史上最も危険な御前試合で選手の安全を守り得るのは紫のみあるし、万一の責を負いうるのもまた、紫のみである。

 これは事前に関係者に達せられていたが、やはり現実となってみると、目を疑う光景である。昨年までは本邸望楼の最上席に坐して、試合を眺めていたのだ。

「折神御本家名代として訓示する」

 去年、紫が座っていた特別席には、妹、折神朱音が坐している。紫は現本家折神朱音の名代であった。

「本年度御前試合は伍箇伝各校三名代表制を採用しており、これにより伍箇伝開校以来最大の開催規模となった。ここに在る選手は各校の主軸であり、各校の担当区域には当然ながら、相応の負荷が掛かっている」

 現在の紫には前の折神本家という以外、特段の役職が無い。しかし伍箇伝創立から去年に至るまで、恐らく史上最長の期間、折神本家と呼ばれた人間であった。ここに居る誰もが、今や本家では無くなった紫に違和感を懐いているだろう。いや紫こそは真の本家と思っている人間も、居るやも知れなかった。

「それを推して諸君を本家に召集した理由は一重に、来たるべき外次元敵対生物、即ち大荒魂との決戦に備える為である。諸君ら刀使が太刀付けるより他大荒魂に傷を負わせることは出来ず、それを成すのは諸君の日々の修練を於いてより他にない。大荒魂の齎す大破壊に抗い得るのは、諸君の錬磨の御刀のみである」

 いつの間にか、会場となった折神本邸正面広場は静寂に包まれている。

 刃のような静寂であった。

 音が無いのではない。招かれた報道陣はカメラを回しているし、シャッターを下ろしている。空には複数のドローン、それにヘリまで飛んでいる。

 しかしそれらの音は、耳に入ってこない。紫の声のみが聞こえてくる。

 極限の集中状態が、ここに居る刀使の誰もに訪れていた。

「本大会は、伍箇伝生徒諸君の剣術刀技の精華であり、即ち人類の現在保有する防衛力そのものである。試合は試し合うと表記するが、本試合で試されるのは人類の興廃と知れ。選手諸君の奮励努力に、期待する」

 ここまでをマイクも無しの声量で全会場に届けた紫はおもむろに、両腰に帯びた御刀を抜き放つ。

 右の大包平。

 左の童子切安綱。

 言わずと知れた折神本家伝家の宝刀、神の骨ともされる御刀に於いて最も重要とされる二振りが、それぞれ東西を指し示す。

 

「西、平城学館主席代表、岩倉早苗」

「東、綾小路武芸学舎主席代表、木寅ミルヤ」

 

 令和元年度御前試合、記念すべき第一試合の組み合わせだった。

 



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令和御前試合 その6

 東席側より現れた木寅ミルヤはおもむろに挙手した。

「主審に進言します」

 両選手正面に招かれ、開始の和太鼓が鳴るのを待つばかりの時である。

「許可する」

「有難うございます。この試合ですが、四対四の集団戦への変更は可能でしょうか」

 この声は応援席まで聞こえた。ざわめきが広がる。

 四対四の集団戦闘訓練は、刀使達が日常的に行っているものだ。実地に於いても四人で隊伍を組むことが多く、特祭隊の隊構成単位とも言えるだろう。それより人数が増えたなら四人隊+四人隊で八人隊、八人隊を二つで八八隊と、何処まで行っても四人が単位となっている。

「本御前試合の訓練目的は一対一の技量確認である」

「存じています。しかしこの木寅ミルヤも岩倉早苗も、集団戦の指揮を執ることが多い傾向にあります。実地で我々が一対一での戦闘を行っていた場合、既に作戦は失敗しているものと考えられます」

「一対一での決戦討伐が生起せぬとは言い切れまい」

「四対四に於いても、訓練の進行次第で一対一となることはあります。それに御前試合に選抜された者以外にも、優れた刀使は多い。四名づつ計八名の刀使に御前試合の大舞台を、経験させる意義はあるかと」

「ふむ。一理を認める。許可しよう。全責任は私が取る」

 躊躇、したのかもしれないがだとしても全くそれを感じさせず、紫は即決した。

 折神家本邸にどよめきが広がった、とりわけ大会執行を担う特別席の辺りに。

「メガホン! メガホン有るか!」

 特別席では真庭紗南特祭隊司令が半塲錯乱していたが、もちろん文句を言うためのメガホンの備え付けなどあろう筈がない。大体携帯端末を使用すれば済むことであろう。

「木寅ミルヤ、並びに岩倉早苗。選手以外より自軍を指名せよ。但し、三対三までだ」

 三対三の訓練は専ら写シが行える者が揃わない中等部で行われる初心者向けで、伍箇伝各校何れも取り入れている。東西一名づつ、計二名演習の参加刀使が減り、その分刀使たちの負担も審判の負担も減る。

「お許し頂き有難うございます、紫様。では先ず、山城由依を」

 綾小路の代表選手団に、この名が無いのは早苗には意外だった。誰もがそう感じているだろう。腰間の大剣蛍丸は益子薫の弥々切丸に次ぐ刃渡り質量を有しており、その破壊力は推して知るべし。剣対剣に於いてはずば抜けたスピードこそ無いが確実で無駄がない意外にも実力派である。綾小路の刀使として当代誰を思い浮かべるかと問われれば、燕結芽は別格として先ずこの由依の名が挙がるだろう。

「頼めますか、山城由依」

「もちろんですともミルヤさん! ミルヤさんの頼みとあらば例え火の中水の中!」

 山城由依、実力派と名高い刀使ではあるが、それ以上に「女好き」が有名だ。

 女好き、とは文字通りの女好きである。刀使である由衣は当然女性であったが、にもかかわらず女のコが好きなのだ。ジェンダーフリーなのである。伍箇伝発祥以来、女子更衣室に潜んで防犯ベルを鳴らされた女の子は多分由依くらいであろう。かく言う早苗も、お近づきの印と称して下げ緒の交換を迫られたことがある。あの時はやぶさかでなく思っていたのに、

「誓って変なことには使いませんから!」

 などとことさらに言うものだから、返って変な使い方をされそうな気がしてきて断ってしまった――

 それはさておき。

 三名指定と言われながら、木寅ミルヤは三人目を指名しようとしない。

(これは、あれかな…)

 こちらが一人目を指名するのを待っているのか。

 だとしたらミルヤの意図は何だろう。

 そもそも三対三を持ちかけて来たのはミルヤだ。屈指の戦闘知能と戦闘経験を持ち、特祭隊最高の呼び声高い討伐指揮官が無思慮であるとは思えない。カードを一枚オープンし、こちらの出方を見ていると言ったところだろう。

 では、カードとしての山城由衣はどうだろう。

 刀使としての由衣は前出の通りの堅実な大剣遣いだ。女好き、などと言われながらも身内に難病の妹を抱え、医療費稼ぎの為積極的に危険な任務に手を上げる面もある。

 彼女の示現流は薩摩伝の、よく知られるところの薩南系示現流諸派ではなく、どうも京都伝なのではないかと、早苗は見ている。示現流は当初自顕流と表記され、流祖東郷重位(とうごう・しげたか)は京の慈念和尚よりこれを学び、示現流と改め世に広めたのだ。示現流のルーツは京なのである。示現流に特徴的な蜻蛉の構えを由衣は用いない。だがやはり大太刀の取り回しに非常に長けるのは確かで、当人の名乗る示現流が嘘でない限り、こういうことではないかという辻褄合わせを早苗はしていた。

 伍箇伝生徒としてなら、由衣はミルヤと同じ綾小路武芸学舎の刀使である。つまりミルヤは同校の生徒を自隊に指名したことになるのだ。

(わりと謎な流派を遣う、代表になっていない後輩、ってことなら…)

 乗ってあげる。こっちのオープンするカードは…

「じゃあ、こちらは六角清香さん」

「ふえ!?」

「御刀、持ってきてるよね?」

「ええええええ!?」

 清香は早苗たち平城選手団に同行して折神本家に来ていた。当人は赤羽刀調査隊仲間の応援兼見取り稽古と言っていたから、試合参加は寝耳に水であろう。早苗自身、御前試合で三対三なんて思っても見なかったから当然だ。

 そして同じく、三人目は指名しない。

 ミルヤと同じく自校の生徒を一名だけ指名と、提示した指名の法則に乗ってきた形だ。

 ここでミルヤが三人目に自校選手を指名するなら、これは綾小路VS平城の集団戦闘訓練ということになる。そうなれば早苗は、やはり自校平城の選手の誰かを指名しようと考えていた。

 自校以外の選手を指名するようであれば、これはミルヤの作戦であるとみるべきだ。木寅ミルヤは真庭念流を遣い、要所要所で自身の実休光忠で成果を上げている凡庸とはかけ離れた刀使だが、それ以上に戦闘指揮に秀いで、作戦立案にも一家言ある頭脳派である。

 これは、挑戦状であった。

 木寅ミルヤは、早苗に知恵比べを挑んできたのである。

 個人の試合以上に、勝利して後に戦うことを求められる集団戦闘で、戦闘開始以前の勝利を手に入れるべく、ミルヤと早苗は知恵を巡らせている。

 仕合は既に、始まっていた。

「では三人目は、伊波栖羽(いなみ・すう)を」

「うえ!?」

「伊南栖羽は居るか。御刀を装備して木寅チームに加われ」

「えええ? 何言ってるんですか怖いんですけど! 私なんて私史上御前試合出場経験どころか予選一回戦も怪しい幽霊刀使なんですけど!」

「大丈夫ですよ伊南さん、この山城由依が守ってあげますから! 私から離れないでくださいね、ピッタリと!」

「かっ身体目当てだ!」

 ミルヤ陣営で始まっている何かのやり取りはさておき、伊波栖羽は綾小路ではなく錬府の刀使である。つまりここで、綾小路VS平城という図式は崩れた。ミルヤは自身の戦術に必要なユニットとして伊南栖羽を指名したということになる。

「急すぎますよぅ」

「それは私もそう思うよ」

 恨めしそうに蓮華不動輝弘を携えて来た清香に頭を下げつつ、早苗はユニットとしての伊波栖羽を思い浮かべる。

 御前試合で見るべき成績を残したことはない。現場に出ればそれなりに頼られており、中等部としては経験を積んでいるが、剣対剣にあっては中等部相応。

 しかしそれは、写シを剥がせば終わりという、前回までの御前試合予選のルールの上でのことだ。伊南栖羽という刀使で特筆すべきは、写シの展張回数である。写シを展張時間は高等部の平均を大きく上回る上、ダメージを受けて写シが剥離したとしても、即座に張りなおすことが出来る。記録にある七回という数字は、第一先代型S装備を装着した刀使にも匹敵するものだ。七生報国という言葉があるが、伊波栖羽は七度死んでも蘇る、七生の刀使なのである。

 これを投入する以上、ミルヤはチームの被弾を見越していると思われる。

(心当たり…ある気がする)

 一指しの太刀への備え、と考えるべきだろう。栖羽の相手は、早苗なのだ。

(十条さん以外の人に見られるのはまだ、抵抗あるんだけど)

 予選で見せてしまったし、それは今更、なのかも知れない。

「岩倉。三人目を指名しろ」

「…三人目は…」

 早苗は首を巡らせる。

 ミルヤの作戦は明らかだ。早苗の一指しの太刀でのダメージを吸収しつつ、反撃で削り取るつもりなのだろう。マークされたとして、簡単に排除できるほど、今の栖羽は弱くない。あの朝比奈北斗の猛稽古に付き合わされているのは平城でも有名だ。

 手こずっていたら、ミルヤに由衣という平素より現場を共にしている綾小路コンビを大暴れさせてしまう。

 では、どうするべきか。

(選手以外で、ここに居る刀使…)

 各校から応援に来ている刀使の他にも、本邸詰めの非番の刀使たちも大勢詰めかけている。警衛大のOGたちの姿も見えた。

 指名されるのではないかと緊張している顔もある。

 我こそはと目を輝かせている顔もある。

 彼女たちの中から、三人目を定めなければならない。  

「ええと…じゃあそこの君!」

「へ?」

「うん。君。名前は?」

「美濃関学園中等部一年、羽島七奈、ですけど…」

 早苗が指名したのは、柳瀬舞衣の隣に立っていた、刀使としてさして名が知られているとも思えない、羽島江麻美濃関学長の娘で舞衣の絵の先生であった。

「御前試合デビューね」

 どうしよう、と顧みると、弟子で先輩の舞衣は、七奈に頷き返した。

「みんなを驚かせて来よう」

 舞衣の傍らの沙耶香は、舞衣の様子に少なからず驚く。思いの他、自信有り気であったからだ。

(七奈ちゃんの事を知っている? それとも知らないのかな。どっちにしろ、お目が高いよ、早苗さん)

 二コ、と笑みを放つ舞衣に対し、同じ笑みで、真っ向から早苗が応じる。

(平城で試合した時みたいね、柳瀬さん)

 あの時、二人は御刀を抜き合わせて微笑み合った。

 今、早苗は同じ笑みで、舞衣が師と呼ぶ羽島七奈を、味方に迎えようとしている。

「水心子正秀(すいしんし・まさひで)か」

「はい。携えていくようにと母から言われました」

 江戸後期と、比較的近世に銘の打たれた正秀は大慶直胤(たいけいなおたね)、源清磨(みなもとのきよまろ)と並び江戸三作と呼ばれ名を馳せた名剣であった。

 生半可な刀使に扱える代物ではない。木寅ミルヤが知る限り、正秀を手にする刀使には傾向がある。武才に加え文才豊かな刀使たちのみが、この御刀の来歴には記されている。水心子正秀は文武両道を要求するのだ。

(ならばこの羽島七奈も、高い戦闘知能を有している筈)

 ミルヤも折神紫も等しく、そう見立てた。

(討伐指揮適性は高いと考えられるが…)

 討伐指揮ならば、今や伍箇伝三哲の一人に数えられる刀使が、七奈と同じチームに居る。一人はミルヤ、一人は美濃関の柳瀬舞衣、そして平城の岩倉早苗――

(船頭多くして船山に上るの故事を、岩倉早苗が知らぬわけがない。三人のチームに二名の指揮官を配する意図はなんだ?)

 不明である。

 どちらにしろ、ミルヤのやることは変わらない。

(一指しの太刀、あれを封じなければ何も始まらない)

 平城の予選の映像を見て、確信した。もし岩倉早苗とトーナメントでぶつかった場合、あの秘剣が攻防のカギを握る。封じれば勝利。損なえば敗北。

 ミルヤは簡潔な方針を立てていた。あれから身を守る術はない。デフフェンスに優れた六角清香ですら成す術のなかったあれが、一度放たれれば防御は不可能。唯一の希望は刃圏の内に留まっての超接近戦であるが、それは賭けだ。早苗は奇しくもミルヤの同門、真庭念流であり、手の内は互いに知り尽くしている上、早苗は鹿島神道流にも通暁しており、引き出しは多いと考えられる。

 一対一で早苗に勝利することは難しいだろうとミルヤは結論していた。その上で、打てる限りの手を、ミルヤは打ったのである。

(成算があったとはいえ、三対三に持ち込めたのは幸いでした。ああ言えば恐らく紫様はお許しになる。しかし、これでやっと五分の土俵に登ったに過ぎません)

 御前試合初日のトーナメント発表で早くも早苗と激突することを知ったミルヤは即座に作戦を立てた。先ずは集団戦に持ち込む。恐らくは現御本家の折神朱音や特祭隊司令の真庭紗南に持っていたところでこの話は通らない。現場で主審の折神紫に持ち掛けて初めて話になるし、朱音様や馬庭司令の制止も入らない。

 その上で早苗のマークに適切な人物を居合わせた刀使から見繕い、あとは呼吸のあったメンバーで固める。三対三になってしまいはしたが、止むを得まい。

 ここまでのことを、トーナメント表発表から第一試合開始の数十分で、木寅ミルヤは立案し、実行したのである。

 伍箇伝現役最高の討伐指揮官の看板に偽りない作戦能力であった。

「両隊東西」

 紫が告げ、早苗隊は大包平の指す西陣側へ、ミルヤ隊は童子切安綱の指す東陣側へと一度下がる。

「木寅隊用意ヨシ!」

「岩倉隊用意ヨシ!」

 中央の開始線から始まる個人戦とは違い、集団戦の屋内訓練は両陣スタートが常であった。作戦の申し合わせをするなら限られたこの時間しかない。これもまた、訓練の内である。

「状況開始!」

「伊波栖羽! 行け!」

「はっはいいい!」

 紫の掛かれの号令と共に、いささか間の抜けた応答と共に栖羽が一直線に飛び出す。目標はミルヤの下知通り、岩倉早苗であった。

「山城由依続け!」

「はーい! 今行くね栖羽ちゃーん!」

「いつの間にか親し気!?」

 どさまぎに、色々な意味で色んなところの距離を縮める山城由衣。そんな彼女の言行は、何だかんだ言って、咎められられることなく許されている。

 由依はこう見えて、相手が嫌がる一線というのがはっきり見えているようなのだ。由衣自身が生来病床の妹を世話しながら育ってきており、語弊を恐れず言うなら、女慣れしていることもあるであろう。

 戦場、を含む鉄火場に、ユーモアのセンスが求められる不思議は世界各国の特殊部隊が採用マニュアルに記するほどのリアルであり、由依のそうしたギリギリのギリで度を過ぎない愛嬌は現場を救っていると思われる。

 武道の心境には空が求められるが、空に最も近い人の心は喜怒哀楽の楽であり、次いで喜であるという。心を軽くしてくれる由依の前向きな振舞いは、現場で討伐が機能する上で、掛け替えのないものなのだ。

「行こう、六角さん!」

「はい!」

 一方の早苗は――清香と共に自ら応じた。

 攻めかかった栖羽と由依に対し、清香を引き連れ二対二で相対したのである。

(む…)

 完全にミルヤが企図した形となっていた。中長距離を踏み込んで突く一指しの太刀は乱戦向きではない上、突き技故に隙も大きい。一人が斬られても、もう一人で斬れる可能性は高い。そうして早苗を脱落させたなら、早苗のチームは、防御特化の清香と未知数とはいえ中一の七奈のみとなり、攻撃力は激減する。

 理想通りに行けば、斬られ役は栖羽だ。しかし、栖羽はすぐに写シを張り直して戦線復帰する。

(だが岩倉早苗。貴方はそうはいかないでしょう?)

 理想通りに行けば、反撃するのは由依の剛剣、蛍丸だ。威力ならば弥々切丸にも迫ろうというこれを受ければ確定で失神コースである。下手をすれば数日は意識が戻らぬだろう。

 逆に早苗は、栖羽を斬りに行って蛍丸で反撃を喰らう事態は避けたいはずだ。伍箇伝現役屈指、ミルヤや舞衣に比肩する討伐指揮官の彼女なら、当然この辺りまでは読んで来る。

 その上を行く必要が、ミルヤにはあった。

(ここまでは想定通り)

 この時、隊伍で言うなら早苗と清香は横隊、所謂一文字に布陣していた。対して栖羽と由依は縦隊、栖羽が前衛、由依が後衛となっている。早苗と清香は同時に攻撃出来るが、攻撃目標に出来るのは栖羽のみ。逆にミルヤ隊は攻撃出来るのは栖羽一人、攻撃目標と成り得るのも栖羽一人であると言える。

 異能の刀使、伊波栖羽の打たれ強さを最大限に活かそうというミルヤ隊の布陣に対し、早苗隊は盾となった栖羽を二人掛かりで削り取りに来ていた。

「いくよ六角さん!」

「はい!」

 同時に斬り込むと見せて僅かに時間差を付ける、多対一に考案された五月雨斬りである。同時に斬り込んでも相手に下がられてしまえば二人が同時に空振りする。しかしこの僅かな時間差で、もし相手が下がると見たら続く一人がより深く一歩を斬り込むことが出来る。

「今だ! 山城由依!」

「気は進まないけど…」

 この時、由依は蛍丸を脇構えに保持していた。

 由依がよく実地で見せる、変則の左手前の脇構えである。ここから横凪ぎの鉞刀法は示現流の定法には見られぬものだ。

 示現流の刀使として名高い益子薫が袈裟や真直斬りを得意とするのに対し、由依は特徴的に水平斬りを多用する。輪斬り車斬りであった。重力を味方とした斬割ではないため袈裟などと比べ殺傷力は落ちるが、それでも長尺の剛剣蛍丸でそれをやるのだ。加撃範囲は無類、威力は写シを剥ぐ分には十二分。それを――

「下がって!」

 三ツ胴を輪切りであった。

 何と由依は、味方の栖羽ごと、早苗と清香を薙ぎ払いに行ったのである。

「あう!」

 反応のしようが無い筈であった。由依の位置取りは清香と早苗から死角。栖羽の影にすっぽり入っている。

 しかし二人は飛び退いた。

 指示したのは羽島七奈だ。二人はそれに反応したのだ。

 先に太刀を付けに行った清香はそれでも間に合わず、下がったところの小手を、由依の蛍丸に引っ掛けられた。しかし、継ぎ太刀だった早苗は脱出に成功した。

(…なに!?)

 木寅ミルヤ会心の、そして苦肉の策であった。

 試合前、自陣に下がったミルヤがこれを説明した際、由依も栖羽も当然ながら複雑な顔をした。

「そうしないと勝てない、んだよね」

「はい」

「そんなにヤバいのか、早苗さん。流石は三年連続出場ってとこですね」

「はい。ヤバいです」

「…」

「…」

「…ぷっ」

 由衣は唐突に吹き出す。

「くく…ジワる…」

「山城由衣?」

「そんな顔しながら、ヤバいです、なんて言わないでくださいよもう」

「?。危険、脅威と類義に用いられる言葉です。誤用ではないはずですが」

「ヤバいなんて下々の言葉、使わななそうなミルヤさんが言うから可笑しいんですってば」

 ミルヤは、憮然とするより他にない。

「…でも、ええ、分かりました。やりますよ」

「ちょ、私の意思は!? 今の話だと私後ろから味方に斬られるんですよね!?」

「大丈夫大丈夫。痛くしないから」

「そりゃ胴体を輪切りにされたら痛み感じる暇もありませんよね!?」

「大丈夫。きっと栖羽ちゃんなら」

「き、急に真顔になってもダメですよう!」

 敵を味方ごと斬るという外道。結局栖羽が承諾したのは由依の人徳によるところが大きい。

「この木寅ミルヤ、誓って言います。この類の計を用いるのはこれが最初で最後です。ですから、お願いします伊波枢羽」

 本来ならば一指しの太刀を受けた栖羽に対して行う筈の作戦であったが、望外に早苗と清香を同時に討ち取れる好機を得た。そうと見て即座に判断実行するミルヤの決断力は流石と言えるであろう。

 しかしこの場には、それに対抗しうる戦闘知能の持ち主が居た。

(羽島、七奈…!)

 想定以上だった。

 水心子正秀の刀使であり、美濃関学長羽島江麻の娘であることからも、相応の指揮官適性を持つであろうと思ってはいた。しかしまさか、ミルヤ会心の奇計を見破るとは――

(いいや。まだです)

 清香は写シが剥がれ、戦線を離脱している。小手を引っ掛けられた程度であるから我慢強い清香なら復帰するだろう。しかしその頃には栖羽も復帰する。振り出しに戻るだけ。栖羽を斬りに行ったらどうなるかを見せて置けば、容易に一指しの太刀を出しては来れなくなる。取り返すことは出来る筈――

「一指しの太刀…!」

「なに!」

 ロングレンジからの光芒に貫かれたのは栖羽ではない。

 由依だった。

「がっ!」

 由依の蛍丸の横凪ぎの刃圏の外、即ち中長距離。

 どんぴしゃりの間合いとなっていた。盾となる栖羽は味方の由依に斬られて写シが剥がれ、倒れ伏していた。絶好機を、早苗に与える結果となっていたのである。

「…くっ!」

 ここでミルヤは突っ込んだ。

 一指しの太刀の隙は大きい。早苗はまだ体制を整えられない。斬り込めぬまでも攻め込める筈。

「…くっ、何の…」

「う!?」

 写シは剥がれ、倒れ伏しつつあったが流石は由依。ミルヤの意図は読み取っていた。倒れ伏すなら死なば諸共。由依は早苗に覆いかぶさるように倒れて行ったのである。

 早苗も飛び離れようとしたのだが振りほどくには至らず、半身を絡め取られる。

「…ミルヤ、さん…!」

「すまん!」

 真っ向から斬り込んで来るミルヤに、早苗も必死で千住院力王を掲げて防ぐ。

「うおおっ!」

「ぐ!」

 全体重載せての鉞刀法である。下半身が自由にならない早苗に凌ぎ切れるものではない。太刀で踏みつぶす、とでも言うべきミルヤの真庭念流に、ついには体勢を崩す。

「あう!」

 受けたものの支えきれず、喉元を斬り込まれて早苗の写シが飛ぶ。

(これで残るは…)

 残るは、中等部一年の羽島七奈のみ。油断は出来ないが、さりとて中一、御刀を手にしたばかりの刀使に伍箇伝でも名の知れた己がそうそう遅れを取る筈がない。大きく勝利を手繰り寄せることが――

「…がっ!」

 ミルヤは、我が胸元から突き出た水心子正秀の切っ先を見る。

「…見逃してはくれませんか」

「ミルヤ先輩が斬りに行ったら、私も行く。そう決めてましたから!」

「確かに私と同時でなければその位置は間に合わない。見事です」

 後ろに回らず正面に回り、ミルヤをブロックすることも出来た筈である。だが、そうしなかった。羽島七奈は敢えて早苗を守らず、決定的な機会を求めて死角に回り込んだのである。

「凄いよ、羽島さん!」

「早苗さんなら時間を稼いでくれると信じてました!」

 この時、清香と栖羽が同時に復帰する。

 続いて、ミルヤの下となっていた早苗が復帰した。千住院力王の上から力任せにに圧し斬った為、やはり傷は浅かったのである。

 ミルヤは…心臓を一突き。致命傷を受けていた。五分以内での復帰は難しい。一指しの太刀を受けた由依も似たようなものだろう。唯一無事なのは特異な写シを持つ栖羽だけであったが…

「ひいッ! 三対一とは卑怯なりい!」

 すっかり戦意を喪失していた。

「投降します」

 この時点でミルヤは告げた。

 己が斬られた時点で不利ならばこうする。初めから決めていたことだ。

「降参です。我々の敗北です」

「投降を受理しよう」

 主審、折神紫がこれを認める。

 前代未聞、御前試合本戦初の集団戦は、投降すなわちギブアップという、これも前代未聞の決着を迎えた。

 

***

 

「見事でした。何故我が策を見破ったのですか、羽島七奈」

「それは、栖羽先輩と、由依先輩の位置を見てです。蛍丸の射程は把握してたので」

「それにしても、山城由依が横断体制に入ったのはあなた方からは死角で見えなかった筈」

「それは…」

「分かるんだよ、このコには」

 岩倉早苗が引き継ぐ。

「前から気になっていたの。最近柳瀬さんが可愛がっている一年生がいるっていうから」

「…柳瀬舞衣?」

 七奈の母、羽島江麻学長の正当後継者とも言われ、討伐現場指揮の三哲、「最高」のミルヤ、「最優」の早苗と共に、御前試合の戦績などから「最強」とされる柳瀬舞衣の名はもちろん、知っている。

 そしてその羽島学長の一人娘が今年美濃関に入学してきたことも知っている。指揮官適性が高いことも、予測はしていた。

 しかし柳瀬舞衣と親しくしていることは知らなかった。 

(柳瀬舞衣と羽島学長…この二人の共通点は言わずと知れた明眼、透覚の手練れ)

 羽島学長の娘であり、その後継、舞衣の後輩ということであれば、おのずと共通点は思い浮かぶ。

「羽島七奈、貴方は明眼、透覚を?」

「はい! これだけは得意です!」

「成程…しかし岩倉早苗。貴方は何処で羽島七奈の能力情報を得たのです?」

「口コミだよ。たまたま耳に入ってきてたの」

「たまたま…」

 そんなわけは無い。

 これはたまたま、で片づけて良い問題ではなく、岩倉早苗という討伐指揮官の特質とも云われるものだ。作戦能力に秀で、現場で適切な指示を素早く出せ、かつ鑑定眼という秘儀まで繰り出すミルヤに対し、現場においての早苗が勝るものはない。しかし現場に至るまでのところ、討伐メンバーの選出から始まり適材適所の戦闘配置やメンバーのケアなどにおいては及ばないとミルヤは感じている。

 調査隊副長の瀬戸内智恵と、似ていると言えば似ている。

 ミルヤが御刀を愛するように、早苗は刀使の仲間たちが大好きなのだ。

 だから誰が討伐メンバーになろうと実力を見抜いて引き出そうとするし無理の範囲も見極めが上手い。人当たりがよく聞き上手で、その上困った友達を放って置けない早苗の性分は広い付き合いを産み、これによりミルヤにはないデータを手にしていた。

 その結果たまたま柳瀬舞衣の隣に立っていた初対面の刀使をその特徴から羽島江麻学長の娘と見抜き、その特技も聞き及んでいたからメンバーとして選出。自身の武器である戦闘指揮をその初対面に放り投げて任せてしまうに至っては、たまたま、で為し得ることでは有り得なかった。

「完敗です。岩倉早苗」

「勉強になったよ、木寅さん。…ところで」

「はい」

「あの、重いんだけど」

「ああ、これは気付きませんでした。試合は終りましたよ山城由依。いつまでくっついているつもりですか」

「え? 終わった? ホントに? ロスタイムとかは?」

 山城由依は試合中圧し掛かったまま、未だに早苗の臍下下半身を両手両足でガッシリホールドしていた。

「離れて下さい。礼があるんですよ」

「でもここいい匂いして…」

「どさまぎに何やってるんですか!」

「あだあ! 分かった離れる離れますぅ!」

 この調子であるから、勝者となったとき何時も早苗の胸を刺す、敗者の道を閉ざしたであるとか、敗者を残して己だけが進むであるとかの罪悪感、そういうものは何処かに吹き飛んで、感じずに済んでいた。

(山城さんは、凄いなあ…)

 山城由依の赴くところ常に、頬に笑みが光差す。

 

***

 

 舞衣の絵の師匠は、試合を終え早苗と清香を伴い弟子の許へと凱旋して来た。

「お疲れ様、師匠。御前試合初白星、おめでとう」

「山城さんの優しさに救われました。伊南さんを斬るのに一瞬、躊躇ってくれなければやれれてたと思います…凄い作戦をしますね、流石は伍箇伝最高の現場指揮官、木寅ミルヤ」

「それに勝った師匠は、やっぱり凄いよ」

 絵画の師、羽島七奈の奮闘を労った舞衣は、岩倉早苗と再び、視線が合う。

「師匠を貸してくれてありがとう、柳瀬さん。羽島学長の娘さんから、何を習ってるのかな?」

「早苗さんこそ、前見た時より切れが増して来てるよね。あの、一指しの太刀。もうタギツヒメでも躱せないんじゃないかな」

 平城と美濃関で、学長の正当後継者、とそれぞれ呼ばれている早苗と舞衣である。討伐指揮官としても、ライバルと見做す者は多い。

「噂には聞いたことが有るよ。美濃関学長の御息女に絵を習ってるって。明眼透覚の刀使修練なら私も選択授業で受けたことが有る。確かそういう見取り稽古、あったよね」

「私まだ中等部だから、受けたことはないけどね」

 とぼけている、わけでは無い。中等部で基礎を学んだ後、高等部より受講出来る訓練を受けたことが無いのは本当なのだ。

「私達が試合うのは、決勝」

「それまでの楽しみ、ってことだね」

「舞衣は、決勝には行けない」

 これは、今まで推移を見守っていた糸見沙耶香のものである。

「私の弟子が、舞衣を倒すから」

「「…」」

 早苗と舞衣は、揃って絶句する。

 特に舞衣にとっては、思わぬ言葉であった。続く第二試合、舞衣と戦うのは沙耶香が剣を教えているという高津刹那。

 その刹那は、舞衣や早苗にはお構いなしに、つかつかと、我が舞台へと歩んでいた。母が敬愛して止まなかった、折神紫の待つ御前試合の舞台へと。

 



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令和御前試合 その7

 恰好の、最高の舞台だった。

(あの女の慕った折神紫の前で、あの女の弟子が慕う柳瀬舞衣を葬る、か)

 しかもあの女の娘である、この高津刹那が。

(どんな顔をするかなあ、あいつは)

 想像するだに愉快だった。笑みが止まらなかった。

 口角がつり上がっていく。まるで牙を剥いた獣だ。

「西。錬府女学院中等部1年、高津刹那」

 すざまじい、その表情のまま刹那は玉砂利を踏み締め、石舞台へと昇っていく。

「東。美濃関学園中等部3年、柳瀬舞衣」

 舞衣は、平静な…平静すぎる表情でこれに向き合う。

(魂が入っているのか?)

 一瞬刹那が疑うほどに、表情が無い。

(…いいや。逆だな)

 一足刀先の敵を遠望せよ、という教えが斯界にはある。「遠山の目付け」と言い表し、遠くの山を見るように、相手を眺めやるのが伝える目付の極意である。「目で聞き、耳で見よ」とも口伝される。

 言うほど簡単ではない。刃物を持って今にも斬りかかって来そうな相手をぼんやり眺めやるなど、普通出来ない。出来うる者は斬り合いの場数を踏んだ、相当な手練れと言えるだろう。

(まあ相手が何者だろうがどんな手練れだろうが、私のやることは変わらないがなぁ)

 ただ斬る。ただただ斬る。「命をひっ取る技」こそが母より刹那の学んだ小野派一刀流である。

「始め!」

 号令と共に、刹那に対し、舞衣も抜き合わせた。

 初見の相手に対し、舞衣は居合を選択せず、堅実に正眼に付ける。

(様子見? そんな暇は与えない!)

 裏腹に、刹那は大きく間合いを取る。

 下がったのだ。両者の距離は5メートル程も離れた。

 逃げた訳ではない。

 溜めたのだ。

「糸見沙耶香のお下がりだ。喰らえ…!」

 5メートル弱の間合いを二足刀、などと伍箇伝では呼び習わす。二回の踏み込みで到達、という意味ではなく、一足刀の倍の距離、という意味合いで、迅移による踏み込みに最も適した、一足刀と同じ刀使の剣機であった。

「…!」

 もちろん舞衣もこれは知っている。如何に迅移による踏み込みでも、正眼に備えた舞衣に真っ正直に突いていって突けるものではない。チリ、と剣の平が触れ合い、それだけで突きは舞衣への何処の到達軌道からも外れる。

(…反撃!)

 突きの仕掛けは素早いが、一点を穿つが故に外し易く、外せば立て直すのは容易ではない。いきなりこれを遣って突けるのは、一つの太刀の十条姫和か、一指しの太刀の岩倉早苗くらいなものだ。

 今度は舞衣の番だった。突きを戻すまでには小さいのを一つくらい入れられる。そうしたら返す刀で大きいのを入れる。これで勝負は着く。

(…!?)

 ところが、刹那は留まらなかった。

 突いて、その突いたところからさらに駆け抜けて行く。

「うあッ!?」

 ギリギリであった。

 突いて駆け抜けて行った後ろから、また突きが戻ってきた。

 いや戻ってきた、なんてもんじゃない。二人に腹背から同時に突かれたようなものだった。

 辛くも身を躱したが、刹那の村正は舞衣の制服と、その下の皮一枚を持って行った。写シは飛ばなかったものの、舞衣は大きく体制を崩す。

(いけない…追撃される!)

 そう思ったが来ない。流石に刹那も、体制を大きく崩していた。

(初見で躱されただと!?)

 刹那は思った。

(何をされたの!?)

 舞衣は思った。

 両者共に想定外事態だった。

 慌てて、中段に備える。

(何? こいつ)

(なに? この人)

 互いが同じ感想を懐いていた。

「いくら舞衣でも、いきなりあれを避けるなんて…」

 刹那の師、沙耶香は思わず、声に出す。

「いくら星王剣(せいおうけん)でも、完全にあれは凌げない…」

 同時に舞衣の「絵の先生」、羽島七奈も、隣で思わず漏らしていた。

「星王剣? 北辰一刀流の?」

「さすが沙耶香さん。御存じですか」

「知ってる。北辰一刀流始祖が辿り着いたという最奥の境地」

「私の母も、北辰一刀流を学びました」

「美濃関学園学長、羽島江麻。相模湾大災厄で中核だったって先生が言ってた」

「私はその血筋を受け継ぎました。明眼も透覚も。だけど舞衣さんは母に迫る明眼、透覚に加え、衛藤可奈美にも迫る剣の技を持っています。母以上に、星王剣の境地に迫るかもしれない」

「明眼、透覚。それと星王剣には、何か関係があるの?」

「ええと。しゃべり過ぎました。一応今は、敵同士ですよね私達」

「七奈は舞衣の先生。私は、刹那の師。それに私は、勝ったら次に舞衣と試合するかもしれない」」

 もし沙耶香が益子薫に勝利すれば、次に当たるのはこの試合の勝者だ。種明かしはその後にした方が良いだろう。

 それも、舞衣が高津刹那を退けることが出来たらの話である。

「思いついたぞ。顎(あぎと)。そう名付けよう」

 ボソリと呟き、再び突きを狙い定める。

 確かに、刹那の突きは、噛み砕く上顎と下顎の牙と牙だ。一の突きと二の突きに、タイムラグが感じられない。

(仕掛けは見当が付く。あれは速くて長い迅移だ)

 多くの刀使が習得する迅移には、それぞれ個人差が産まれる。御刀による差と刀使による差があるとされ、短い者、長い者、速い者と遅い者、連発できる者とそうでない者、様々だ。

 十条姫和や糸見沙耶香のような、異能の迅移も稀に存在する。

 高津刹那の迅移は、沙耶香と姫和のハイブリット、とでも言うべき非常に良質のものであった。速く、そして長い。一度疾走(はし)れば、石舞台を端から端まで亜音速で往復出来るくらいには。

(超音速の姫和さんには及ばないかも知れない。一試合ずっと迅移で飛び回れる沙耶香さんには及ばないかも知れない。でも…)

 その何れにも迫る危険な相手であった。

(落ち着いて、舞衣さん。対応策はあります。今の舞衣さんなら出来る筈)

 舞衣も、七奈と同じ対策に思い至ったらしい。腹背からの突きを凌ぐのは確かに至難、しかしそれはあくまで、正面からの突きが通過したあと、後ろからまた突いてくるという動作を極限まで素早くしたに過ぎないものだ。

 ならば最初の突きを捉えれば、次いで来る突きを考慮はしなくても良い。

 刹那の中段に、舞衣も再び中段に備える。

(一突き目を切り落とすつもりか。早くも我が顎を見切るとは、流石は伍箇伝指折りの名手)

 刹那も、舞衣の備えを見て取る。

 一の突きと返しの突きは同時ではない。同時に思えるのは返しの突きが異常に速いからだ。

 剣を穂先に突進し、そのまま背後に突き抜け、反転しまた突いてくる。一回の迅移で二度、それも腹背に突きを放つ。それを行う刹那は、迅移の途中で体を入れ替え、逆戻って来ていることになる。

 そのようなことが可能なのか?

 第一宇宙速度、などと言われるくらいに姫和は速いがあくまで直線的だ。一度吹き過ぎれば戻って来ることはない。同じことが出来そうなのは沙耶香であるが、刹那の迅移の瞬間速度は沙耶香を凌いでいる。沙耶香が同じことをやったとしても一の突きと返しの突きは同時ではない。僅かなりとも時間差がある。それ故先年の御前試合で、衛藤可奈美は沙耶香の無念無想を凌ぎ得たのだ。

 刹那の速度は沙耶香を凌ぐ。移動距離は姫和を凌ぐ。

 高津刹那こそは、伍箇伝第二の迅移速度を持ち、伍箇伝第二の迅移持続を可能とする刀使であった。

(どうして、これ程の刀使が今まで無名だったの)

 高津雪那の娘が錬府に居ることは知っていた。しかしこれ程とは、早耳の岩倉早苗すら、想像を絶していた。

(ううん。これは、必然なのかも知れない)

 刹那の母雪那こそは、柊篝、即ち姫和の母の、折神紫を巡るライバルだった人物だ。篝に阻まれ、欲しいものの一つも得ることが出来なかった人物でもある。

 ならば当然欲するであろう。柊に迫る迅移を。力を。それが決して得ることの出来ぬものだとしても。

 その過程で雪那は探し当てた。糸見沙耶香という、柊の刀使にも匹敵する異能の才を。しかしそれまではあくまで我が身を、柊に近づけようと工夫を続けていたのではないか。己が出来ずとも、己の血を引く娘には己の轍は踏ませまい。辛い思いはさせまいと。

(そしてその工夫は高津刹那となって結実しつつあるんだ。高津雪那学長の高弟、糸見沙耶香の教えによって)

 例え沙耶香に成れずとも、迅移の移動距離を延長するコツのようなものを伝えることは出来るであろう。それに姫和に成れずとも、工夫と努力あればそれに迫ることも出来るのではないか。早苗自身が、そうしたように。

 結果がこれだ。

(凄い)

 これに対峙する舞衣もまた、伍箇伝の五始祖たる羽島江麻の技を、意思を、色濃く受け継ぎつつある。娘七奈が舞衣の傍らに居ることでも、それは明らかだ。

 そしてその羽島江麻こそは、かつて衛藤可奈美の母、藤原美奈都のライバルであった人物なのだ。

(凄すぎるよ)

 何という瞬間であるのか。

(親子二代に受け継がれる技が、想いが、今ここに、こうしてぶつかってるんだ)

 両者、完全に試合開始時と同じ位置に戻っていた。構えもまた、相中段である。

(一度で外すなら、二度三度と続けるまで)

(次こそは捉えてみせる)

 やることもまた同じだった。間合いは二足刀、刹那、中段よりの諸手突き。

 対する舞衣は――

(…! 前より伸びて来る…!)

 孫六兼元が、辛くも突きを祓う。

 軌道は逸れた。しかし――

(返しの突き!)

 振り向く暇など何処にもない。そこから逃げるのが精いっぱいだった。今まで舞衣の心臓があったところを、刹那の突きが駆け抜けて行く。

(無理! 何も出来ない!)

(また外した!?)

 両者三度、二足刀の間合いとなった。

(思い切って踏み込んだ…一度目とはタイミング違った筈なんだけど)

 それでも凌がれたとすれば、原因は何か。

(一突き目の軌道から、返しの軌道を読んでいる?)

 刹那が思い当たることは他にない。柳瀬舞衣程の者なら有り得ることだ。

(ならば!)

 一突き目に技を合わされれば一溜りもない。それは刹那も分かっている。今度はいささか抜いた一突き目であった。野球であるなら前はストレート、今度はチェンジアップだ。傍目には同じでも、相対する舞衣には蝶と燕ほども違う筈。

 それでも、舞衣は反応して払ってきた。

(織り込み済みだ!)

 駆け抜けた一の牙は、二の牙となって返って…行かなかった。

 刹那は後ろに駆け抜け、そこで一旦停止したのである。

(どうだ!)

 一度目で当たりを付けているなら、回避する。しかし避けたところで刹那は来ない。避けるのを待っている。そして避ける動作が尽きたところを突く。これが刹那の作戦であった。しかし――

(避けろ。はやく。何故避けない…!)

 舞衣は避けなかった。避けずに、ゆっくりと振り返る。

 水も溜まらぬ、という言葉通りの居合刀使らしい、隙も淀みもない動作であった。振り向く、の動作の中に飛びのく、があり、払うがあり、逆に打ち込むがある。様々な含みをもった所作だ。もしここで突きかけていれば、確実に反撃されるであろう。

(…化け物め)

 刹那が二の突きを継がないことを予測したのか。それとも突いてこないのを背中で見て取ったのか。どちらにしろ柳瀬舞衣は、背中にも目が有ると考えた方がよさそうであった。

(…だからといってやることは変わらない。変わらないとも)

 絡め手などガラでは無かった。

(我が顎で噛み砕くのみだ!)

 刹那は再度、狙いを定める。

(前の私だったら、今ので突かれてた)

 一方の舞衣も再び中段に備える。

 羽島家伝の星王剣。星王とは北辰即ち北極星を指す。北辰一刀流、その名を冠した秘剣が今舞衣の身を守っている。とはいえ、このままでは反撃もままならなず一方的に突かれるのみ。何時かはやられる。

(だったら…やってみる)

 殆ど間を置かず、またもや刹那の顎が牙を剥く。

(今の優位を手放すつもりはない。押し切らせてもらう!)

 秘剣、顎をもってしても柳瀬舞衣の正眼は崩せない。有効ではないかもしれない。しかし舞衣とて人。二度三度と行う内に、ミスが出るかもしれない。出ないかもしれないが、攻めない理由にはならない。攻めなければ決して、勝機が訪れることはないのだ。

 一度目、二度目は喉を狙った。今度は避けずらい胴突きだった。それでも空しく、勢州猪切正真(せいしゅう・いのししきり・まさざね)は孫六兼元の棟待ちを滑って外れていく。

(だろうな!)

 前回、前々回と比べいなされた後の体勢は良かった。崩されてはいない。前よりも良い技になる筈。

(よしいけ!)

 と、思った瞬間、何故か刹那の身体は意思を裏切った。

 前と同じく、突かず止まってしまったのである。

(何故だ!?)

 自分でも一瞬分からなかったが、すぐ理由が明らかになった。孫六兼元の鞘であった。

 刹那の勝負勘が刹那自身を救った。

 舞衣は刹那の二の顎が襲ってくる当たりを読んで、我が腰の鞘尻を「置いておいた」のである。突けば自動的に鳩尾にこれを喰らっていただろう。

(なんて真似を…油断も隙も無い)

(ダメだった。なんて勘のいい刀使なの)

 舞衣が振り向く。刹那が再度、狙いを定める。両者は再び二足刀の間合いとなる。

(今度こそ!)

(次こそは!)

 またも振出しに戻った両者は、ものも言わず再びぶつかり合った。刹那の顎は舞衣の体勢を大きく崩すが、噛み砕くには至らない。舞衣も反撃には至らない。そのまま二度、三度…

「「いけない」」

 石舞台で試合う二人の師、七奈と沙耶香両名が同時に呟く。

「星王剣の負担は大きい。今の舞衣さんは一分が限度です」

「刹那の迅移も同じ。二回が限度」

 二人は、顔を見合わせる。

 刹那が顎を放ったのはこれで何度目か。試合時間は半場をとうに超えていた。三分以上を経過している。

 つまりは二人ともすでに、限界を超えているはずであった。何時写シが飛んでもおかしくない。もし斬り合っている瞬間にそれが起こったら…

((止めないと))

 沙耶香と七奈は蒼白となった。

 それぞれの指が、腰間の妙法村正と水心子正秀を探り当てる。乱入も辞さないつもりだった。

(今、何分経ったっけ…)

 そしてまさしく、沙耶香たちの危惧した通りの状況に、舞衣はあったのである。

「明眼も透覚も、ずっと出し続けられるものではありません」

「でも、大分時間が伸びて来たよ。今じゃもう1分近く行ける。七奈ちゃんの御陰よ」

 実際今、舞衣の目の前に在るのは対敵、刹那では無かった。

 七奈と出会ってからの日々の断片であった。

「それは舞衣さんが明眼を上手になっているからです」

 明眼に上手下手などという話をしだしたのは、七奈と出会って以来であった。

 今までは明眼、透覚を持っていればそれだけで重宝された。敵と相対しながら明眼を遣うなど、考えたことも無かった。

 今は違う。「見える」までが明らかに短くなった。「見続ける」ことも出来るようになっていた。

「母は、私が刀使になることを望んでいませんでした。私もそうで、母から受け継いだ刀使としての才は、だいたい、絵画の方に使ってしまっていて。母も父もみんなそれを喜んでくれて」

「上手よね。将来はイラストレーター? それとも漫画家?」

「そんな感じかなって思っていましたけど、去年母も母の学校も大変なことになって…閉校になるかもしれないって。志願者とか全然来なくなって。それで私、決めました。美濃関でやっていくって。美濃関でやっていくってことは、刀使になるってことですよね」

「お母さんの為、なんだ」

 そうと聞いて舞衣は、何だか嬉しかった。舞衣も父や母や妹たちの為に一杯頑張って来たし、いくらでも頑張れたから。

 今、七奈は、舞衣と同じことを頑張っている。そのことが舞衣には嬉しかった。

「いいですか、舞衣さん。眼は所詮、熱量を検知する器官です。明眼も透覚もその延長です。それを実体化するのは脳なんです。見えていても、脳が理解しなければ意味ある画像として結実しません」

「だから、絵を描くのね」

「はい。そうすることによって確実に、明眼も透覚も、素早くなります。上手くなるんです」

「ねえ、七奈ちゃん」

 私の、絵の先生。

 私上手くなっているかな。可奈美ちゃんと戦うことが…一緒に居ることが出来るようになっているかな――

 ぐらり、と舞衣の身が傾いだ。

 攻撃を受けても居ないのにだ。

(…何だ!?)

 これは、隙であるのか。刹那は逡巡した。試合開始より体験してきたあの柳瀬舞衣が、こんな突いてくれといわんばかりの隙を晒すとは考えられない。

 では罠か。誘いか。それにしても。

(悔しいが柳瀬舞衣は強い。罠だろうが誘いだろうが、これを逃せば…)

 次好機が訪れる保証は何処にもない。ならば…

(イクより他にないなあ!)

 身体が行きたがっていた。魂が、本能が行きたがっていた。矢も楯も溜まらず貫きたくて仕方がなかった。

(何時かあの女を。あの女の愛弟子を噛み砕く私の顎が、柳瀬舞衣、今こそお前を噛み砕く!)

 中段に番えた突きは、ただ進むだけで突きとなる。ただ進むだけで勝利が手に入る筈であった。

 その突きが、阻まれた。

「!?」

 舞衣によってではない。他の誰かだ。

(バカな!)

 先の集団戦ではあるまいし、ここは御前試合の石舞台だ。他の誰もいるはずがない。居るとするならば――

「写シを張れ。高津刹那」

「邪魔するか! 折神紫…!」

 突きを阻んだのは主審、折神紫の左腕の御刀、童子切安綱であった。

 右の御刀、大包平の切っ先がピタリと御した一方の舞衣は、そのことに気付いてもいないようであった。うたた寝でもしているように頭が座っていない有様であったが、しかし写シは張っている。

「邪魔をするな! 邪魔するならばお前も…」

「直ちに写シを張れ高津刹那。さもなくば敗者だ」

「何を…」

 何を言っているのか。刹那は気付いた。

 張っていたと思っていた写シが無い。写シが途切れてしまっている。

(何だとおお!)

 試合中写シが途切れればその時点で敗北となる。本年度御前試合のルールにおいてはそうではないが、直ちに写シを張り直さねばならない。何れかが写シを張れなくなること、それが勝敗を分ける唯一である。

「写シ!」

 刹那は初めて御刀を手にした中等部初年生のように叫んだ。

 しかし幽世の刹那は、応えない。

「写シ! 写シ! 写シ写シ写シ!」

 如何に叫んでも、刹那の現身と幽体が、重なる事はなかった。

「勝者、東。柳瀬舞衣」

 そうと見て厳かに、紫が告げる。

 御前試合第二試合の勝者は、柳瀬舞衣と決した。

 

***

 

 近くに居た沙耶香と七奈が、舞衣を助け起こす。

 主審、折神紫が自ら支えねば、自陣まで戻って来れぬ有様に、舞衣は陥っていた。

「大丈夫! 疲れて眠ってるだけ!」

 倒れて動かぬ舞衣を気遣い歩み寄ってくる皆に、心配いらないと岩倉早苗が大きく手を振って告げる。

(…私と戦った時も、ここまでの状態にはならなかった)

 一体どれ程のレベルの攻防であったのか。何れにせよ、早苗は認めなければならなかった。今や柳瀬舞衣に昔日の面影はない。衛藤可奈美や十条姫和の背を捉えうる存在となりつつある。

 美濃関の生徒たちに付き添われ、担架で搬送されて行く舞衣を見送り、ふと早苗は違和感を覚えた。

「ねえ六角さん。十条さんを見かけた?」

「え?」

 何故ここで十条姫和の名が出るのかと、訝しむ傍らの清香だったが、そういえば姫和の姿は見ていない。

「衛藤可奈美さんは?」

「ううん。見てません、言われてみれば二人とも」

「…そっか」

「ちょっと探してみます。また二人で何処かに行っちゃうかもだし」

「付き合うよ」

 妙であった。伍箇伝屈指の強豪の集う御前試合の観客席に、あの三度の飯より剣術の可奈美が姿を見せないとは。

 もしかして、姫和と一緒なのだろうか。

(二人で特訓しているのかな)

(二人で、一緒に…)

 羨ましい? 妬ましい?

(違うでしょ、早苗)

 選んだ道はそちらではない。沢山一緒に居るよりも、姫和の中で少しでも大きくなることを選んだ。黙ったまま、何も言われず、知らない誰かと居なくなるなんてことが二度と無いように。もしそんなことがまたあったとしても、ずっと姫和の心の中に居られるように。

(あなたはどうなのかな。柳瀬舞衣さん)

 衛藤可奈美を独りぼっちにさせないために、姫和を頼ったという舞衣。

 しかし舞衣は、新たな、大きな力を手にして戻ってきた。衛藤可奈美に届くかもしれない力を手にした舞衣は何を思うのだろう。

 早苗と同じことを?

 それとも――

 

***

 

 もちろん、飛んで行きたかった。目覚めるまでずっと手を握っていたかった。

 でも、今の糸見沙耶香が目指す糸見沙耶香は、そうじゃない。舞衣も、師、高津雪那も知らない、強い糸見沙耶香で居なければ。

 だから居場所は舞衣の傍では無かった。

「…負けた」

 敗れて戻った弟子、高津刹那がぼそりと結果だけを告げる。

「課題ははっきりしている。身体をしっかり作って行こう。あと一度写シが張れていたら、勝ったのは刹那」

「あと一度、か」

 写シの展張回数は才能による部分が大きいものの、体力を付ければ良い結果をもたらすことは証明済の事実である。

 それで写シを張れていたとして、もう一度迅移が行えたかどうか。恐らく無理であったであろうと刹那は悟っていた。一方舞衣の写シが飛ばなかったのは、恐らくは場数だ。幾度も死地に臨んだ舞衣は、無意識に写シの分の体力だけはセーブしていた。ようは地力で劣った。だから負けた。

「遠いあと一度ね」

「刹那…」

「心配する相手が違うし、私を心配してる場合じゃない」

 刹那は先ほどまで己が戦っていた石台の上を、顎でしゃくる。

「お前の相手が待ちかねているぞ。師匠」

「…」

 確かに舞衣を心配している場合でも、刹那を気遣っている場合でもない。

 三回戦目は沙耶香の出番であった。沙耶香の相手となる刀使は、既に対面の陣に在る。

「あーどうぞ。ゆっくりでいいぞ」

 益子薫の声は、何処か眠そうであった。

 それもそのはず、繰り返すが本年度御前試合での目的は勝利ではない。

 敵中の敵とも、獅子身中の虫とも言える荒魂殲滅最右派、日高見派の内偵であり、相楽瞑なる故人を選手登録してきたり、先のヨモツイクサ殲滅戦の頃よりまだ隠し事があるのではないかと疑われて居たり、今一つ動向の怪しい綾小路学長、相楽結月の内偵である。

 それに御本家選抜枠の選手が未だに不明なままなのも気にはなっていた。

(御本家の覆面選手の相手をするのはあの荒魂ラバーズ七之里、じゃねーか)

 姓名は愚か存在すら不明の御本家選抜枠の選手の相手は薫に並ぶ討伐エース、七之里呼吹。気の毒なことこの上ないが、不戦勝の可能性もあることも考えると少しだけ羨ましくもない。当人にとっても荒魂相手以外の運動など時間の無駄であろう。

(まあこれから俺も、時間と労力を無駄にするわけだがな…ん?)

 妙法村正を携えた、糸見沙耶香と対陣した瞬間薫は悟る。

 雰囲気が違う。

 具体的にはまだ分からない。どことは分からない何かが違う。

「薫」

「お、おう」

「私と戦って」

「…」

 真剣な沙耶香を何時も見て来た。何時も真剣に過ぎる沙耶香に肩の力の抜き方を教えてやることも度々だった。しかし今日ここに在る沙耶香はどうも、そんな薫の知る沙耶香とは違うようであった。

「…本気だせってことか? 何時もは本気出してねえような言い方だな。何時だって俺は真面目で真剣だぞ」

「薫は強い。強い薫と戦って勝ちたい」

「なんでだ? 楽して勝ち進んだ方が楽じゃあねーのか?」

 両者開始線。試合開始は今や主審、紫の号令を待つのみ。

 通常ならば審判は私語に注意を与える場面であるが、その気配は紫にはない。二人が言いたいことを言い終えるのを待つ様子であった。

「勝つだけなら、弱い相手と戦えばいい。だけどそれじゃあ強くなれない。強くなくちゃ届かないから」

 届くとは、何に? いや、誰に、か。

 誰にだろう。前の試合で強さを見せた舞衣? それとも、衛藤可奈美?

(俺が仮想敵に? 無理だぜそりゃあ)

 可奈美には勝てない。今日の舞衣にも恐らくは勝てない。あのヒステリー学長高津雪那の娘を相手にしても怪しいし、一指しの太刀なんて御免被りたいものだ。

「私が弱いままなら負ける。強くなっていたなら勝てる。それだけ」

「相変わらずだな沙耶香は。ちったあ肩の力抜けって言ってきたつもりなんだがな。けどな」

 しかしまあ、仕方ない。沙耶香が薫をどう買い被っているかは知らないが、薫にとって沙耶香は目の離せない、放って置けない可愛い後輩だった。そんな沙耶香にこんな顔をされては、先輩として応えないわけにはいかないだろう。

「肩の力を抜くっていうのと、手を抜くっていうのは違うんだ。それを今から教えてやるよ」

「…ありがとう、薫。大好き」

 驚くべきことに、二人は微笑みを交わし合った。

 全力で戦えと求めた者と、全力で戦うと応じた者同士であった。

「…正面に礼」

 兵気満ちたと見た紫が、やっと試合開始を告げる。

「互いに、礼」

 微笑みのままに礼を交わした薫と沙耶香は、「始め!」の紫の号令と共に飛び離れる。

 御前試合第三試合の開幕であった。

 



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令和御前試合 その8

 この時点まで、益子薫に打倒沙耶香の目算があったわけではない。

(さてどうしたもんか)

 糸見沙耶香の攻略法などない。如何なる刀使であってもねじ伏せ得る小野派一刀流の技に、無念無想なんていう飛び道具まである化け物だ。一方己の八幡力は大型重装甲の荒魂をカチ割るときに役立てるもので、刀使相手にはあるだけ無駄。僅か一寸皮膚を割くだけでも写シを飛ばすことは出来るのだから。

(けどまあ、すばしっこい相手に対する手段は考えては来た。タギツヒメや燕結芽にゃあ散々な目に合ってきたからな)

 この時点で薫は高等部二年となっており、現場の数で拮抗し得る者は今や三年の刀使の中にも数少ない円熟の刀使だ。RPGで言う所の雑魚狩りで、稼いだ経験値は高等部二年としてもあり得ない数字となっている。

 本年度御前試合本戦、選手権者中、実地の場数で並ぶ者は居ない。それが益子薫である。

「やってみるとするか」

 この時点で気付く者は気付いた。

「あ、あれ私の」

「確かに」

 弥々切丸の保持が、今までとは異なる。

 第一試合を戦った木寅ミルヤと山城由衣は、いち早く薫の意図に気付いていた。

「横凪ぎか。考えましたね益子薫」

 二人の見立て通りであった。

 環視の刀使たちは目を見張った。台風を連想する、薫を目とするスーパーセルだ。

「…!」

 沙耶香は迅移で飛び退く。普通に飛び退いて躱すには、弥々切丸は長すぎた。

(薫が、横凪ぎを…?)

 見れば主審の紫も、沙耶香と反対側に飛びのいて難を逃れている。

 当然であろう。地表に逃げ場がない。

 弥々切丸の横凪ぎは、山城由衣の蛍丸のそれよりもさらにカバーする範囲が広い。間合いを外そうにも折神本邸の石舞台は一反四方。

「Hey、沙耶香ビビってる~♪」

 などと拍子を付けながら、弥々切丸を肩に薫が迫る。次後ろに飛び退けば沙耶香は場外判定を受ける。即負けではないものの、度重なれば判定に不利となる。

(考えてみれば、厄介な相手)

 無念無想ばかりが沙耶香の得意ではない。切り落とし技の多彩さは伍箇伝現役髄一を誇る、純粋に剣の名手である。

 しかしその切り落としが薫には通じない。

 弥々切丸の質量が巨大に過ぎるからだ。例え七分三分で切り落としを合わせたとしても、弾き出されるのはどう考えても沙耶香の妙法村正である。

 その上迅移も封じられれば打つ手なしだ。

(待っていてはダメだ。先手を取って横凪ぎを躱して斬り込むしかない)

 それを可能とするスピードが、沙耶香にはある。

(…無念無想!)

 踏み込んだ。迅移だ。

 正面にではない。右回りにである。

(来やがった!)

 薫から見れば左側。薫の横凪ぎと同じ風向きに、沙耶香は走ったことになる。

(俺の弥々切丸と競争するつもりかよ!)

 薫の横凪ぎ以上の速度で迅移し、渦巻き状に間合いを詰めて斬る気なのだ。

 無謀、などではない。時化に遭った船が採る、航法の定石に似る。船が風より速く進むことは不可能だが、沙耶香なら不可能を可能としうる。

 普通迅移は真っ直ぐ進むだけだ。先の高津刹那の顎は行って戻ってきたが、あれは直線×2と見るべきだ。ところが沙耶香は弧を描く迅移を平気でやってのける。そのことを薫は知っている。

(流石沙耶香、考えやがったな)

 一度日本刀を振り抜けば、その切っ先の速度はマッハ0.4に達するとされる。これは22口径の拳銃弾に勝る速度である。

 一方沙耶香は時速300km前後の迅移で巡航することが可能である。ワンチャン薫の反応が遅れれば、捕捉されることなく横凪ぎの内側に飛び込める。捕捉されたとしても同方向に疾走っている為弥々切丸の運動エネルギーは相殺できる筈。

(確かに斬れる…相手が俺じゃなかったらな!)

 並みの横凪ぎならば斬られていた。これが、八幡力伍箇伝髄一の益子薫の横凪ぎでなかったならば。

(…! 追いつかれ…!)

 場内から沙耶香が消し飛んだ。

「あ、が!」

 受けた妙法村正ごと、沙耶香の身は軽々と場外まで吹き飛ばされていた。

「場外」

 主審の紫が告げる。当然ながら場外の選手への攻撃は本御前試合でも反則である。もしこれが実戦であったなら、薫は速やかに止めの太刀を継いだであろう。

(本番なら勝負有りだぜ、沙耶香)

 これは御前試合。ルールという制限がある。だから勝負は付いていない。

 客席の幾つかを薙ぎ倒して倒れた沙耶香が再び立ち上がり、写シを張れたら、の話だが。

(…ん?)

 むくり、と沙耶香が起き上がる。

 驚いたことに写シは剥がれていない。

「両者中央」

 主審の紫が平然と告げる。

(ちったあ驚けよ、紫様)

 恐らく飛ばされた沙耶香はとっさに金剛身を展開し、衝撃を受けたのだ。

 弥々切丸をまともに受けて、そんな真似は出来ない。しかし沙耶香は迅移で弥々切丸と同方向に疾走っており、少なからず威力は減衰していたのである。

(相変わらず、なんて奴だよ)

 一方何て奴だ、とは沙耶香も思っていた。

(八幡力は腕力を強化する技。弥々切丸に与えられる加速力は高まる)

 沙耶香もそのくらいのことは分かっている。とはいえ弥々切丸だ。その重量は沙耶香の村正の三十数倍の鉄塊である。

 例えば同じエンジンでも軽いクルマの方が、加速には有利だ。太刀行きに三十数倍の不利を薫は負っている。だから迅移で逃げ切れると沙耶香は考えたのだ。

 沙耶香の知る薫であったならば。

 薫の見せた八幡力は、沙耶香の想像を絶するものだった。一瞬で音速の加速を、弥々切丸に与えたのである。

「フットワークってことなら沙耶香。お前のスピードは確かに凄え。けどハンドスピードなら俺の弥々切丸が上だぜ」

 客席は手練れ揃いであったから、思い思いに身を躱し、誰も沙耶香の下敷きにはならなかった。もし前年度のように一般客も招き入れていたら大惨事になっていたかも知れない。

「八幡力じゃあ薫には敵わない」

「なんだ、認めんのかよ」

「うん。けど私も、薫ほどじゃないけど八幡力は得意」

 伍箇伝最速迅移を十条姫和と争う沙耶香。その得意は迅移だけではない。金剛身に八幡力、簡単な透覚など、刀使の御刀技を幅広く使える非常に優れた刀使である。高等部高学年並みの錬磨を沙耶香は、中等部二年の始めにして既に備えているのだ。

「うお!」

 客席からぶっ飛んで来たのは、沙耶香の手近にあったパイプ椅子だった。

 受けた弥々切丸に当たって四散し、遥か上空まで舞い上がる。人間が普通に投じたならこうはなるまい。明らかに八幡力の働きだ。

(両者中央って言ってるだろうが!)

 主審がこう言ったら、選手の沙耶香と薫は開始線まで戻らなければならないのがルールだ。それを沙耶香が知らぬ筈はない。だから恐らく、知っていて奇襲して来たのだ。

(えげつねえ、やるじゃねーか。ん?)

 パイプ椅子から我が身を遮った弥々切丸をどけたら、沙耶香の姿は掻き消えている。

「ちいい!」

 沙耶香は上空に居た。

 八幡力を利用した跳躍である。八幡力が強化するのは腕力だけではない。脚力もまた強化されるのだ。刀使の自身の身長に数倍する超跳躍はこれに因る。強化された筋力によって、着地時の骨格へのダメージも減殺出来るオマケも付く。

「これなら横凪ぎは当たらない」

「しまった…とでも言うと思ったか!」

「…!」

 薫の保持が変わっている。普段の順手持ちだ。

(蜻蛉の構えに、なって…)

 衝撃は、薫の頭上より高く飛んだ沙耶香の、さらにその頭上から来た。

 薫本来の、薬丸示現流、雲耀の打ち。

 それが上空の沙耶香をまるでハエたたきでハエを叩き落とすかのように、石台に叩きつけた。

「横凪ぎはサブ。メインはこっちのほうだぜ」

 薫は沙耶香の実力を把握していた。弥々切丸の横凪ぎの外から飛び込めるであろうことは予測が付いていたのだ。

 誰でもが出来ることではない。伍箇伝でも可能な八幡力を遣える者は限られる。

 だからこれは相手が天才、沙耶香だからこその戦法であった。無念無想で飛び回る沙耶香を補足するなど何者にも不可能。しかし空中で迅移は出来ない。飛ばせてしまうまでが、薫の横凪ぎの役目であったのだ。

(由衣の横凪ぎがヒントだったんだが、思いの他ハマったみてーだな)

 山城由衣は薫の同門、示現流の遣い手で、同時に流儀を欺く横凪ぎの名手でもある。パワーファイターでありながら、スピードのある相手にも堅実に立ち回れるのはこれではないかと薫は目を付けていたのだ。

 薫は衛藤可奈美のような、見た技そのまま完コピ出来る変態超人ではないから、人目を憚りながら練習のようなこともして見ていた。そんな薫らしからぬ努力の精華がここに結実しつつある。

(これで終わってくれりゃあ楽なんだが…んなわけねーか)

 恐らく会場の誰もが終わったと思ったであろう。

 しかし沙耶香は立っていた。

(また金剛身で受けやがったな――)

 それでも、写シは飛んでいた。金剛身で受け身を取ったからそれで済んだのであって、並みの相手なら刀使生命を絶ちかねない一刀であった。

「糸見沙耶香、警告一」

 主審の紫が通告する。

 次に反則すれば沙耶香は敗退する。

「写シを張れ、糸見沙耶香」

「…」

 言われて無言で写シを張る沙耶香の瞳は、死んではいない。

(突破口はまだある、ってか)

 そりゃああるだろう。こちらも横凪ぎ戦法での試合は始めて、粗が無い筈がない。しかも相手は迅移伍箇伝双璧の糸見沙耶香と来た。

(さあて、どう来るか…ってうお!)

 早くも沙耶香は動いて行った。

(真っ向からかよ!)

 基本通りの迅移による真直斬り。

 最短距離を奔って来る為、侮れるものではない。それ故最も警戒されるのがこれであり、当然ながら薫も警戒していた。

(びっくりするくらい芸が無いな!)

 薫の横凪ぎが迎撃する。

 沙耶香の迅移は驚異的な移動距離を誇る反面、その速度は二段階迅移の域を出るものではない。薫程の刀使ならば反応可能。しかも弥々切丸は長尺、その分距離を取っていたから薫は遠い。遠いと言うことは、時間がかかると言うことだ。

「やけくそか、沙耶香!」

「違う」

「…!」

 踏み込んで来る沙耶香が、踏み込んで来ない。

(止まった…だけじゃねえ)

 迅移で下がった。沙耶香が下がった丁度その空間を、弥々切丸が超音速で通過していく。

(下がりやがった。しかも…)

 迅移で踏み込み、踏み込みを中断して迅移で下がり、下がったところから今度は、再び迅移で踏み込んで来ようとしている。横凪ぎに迎撃した弥々切丸が通過した後の、安全な空間を。

「もらった」

「う、おおおおおお!」

 フェイントだ。

 それも迅移を使ったフェイントであった。

 現在点から目標点を高速で直線移動するのが迅移だ。常識ではそうだ。それが二度もUターンしたのだから意表を突かれないわけがない。

(非常識にも程があるだろうがぁ…ッ!)

 相手は糸見沙耶香だ。常識の埒外に存在する超天才刀使だ。非常識に立ち向かうには、こちらも非常識を持って当たるしかない。

「こなくそォ!」

「…!」

 沙耶香は気付いた。

 吹き過ぎる筈の横凪ぎが止まった。いや止まっただけではない。逆風となって戻って来ている!

(そんなことは起こり得ない)

 30キログラム、並みの御刀の30倍に達する弥々切丸の質量を、マッハで運動させればそのエネルギーは相当なものの筈。それを相殺し、あきたらず逆方向に運動させる八幡力とは一体どのようなものなのか。

(そんな、バカな…!)

 試合開始3分で三度、沙耶香は妙法村正で弥々切丸を受け止めた。

 右手で鍔元、左手で峰を支えて、それでも止まらず身体ごと地を滑って、ようやくに止まる。

「「…ッ!」」

 両者は飛び離れる。振出に戻ったようで、そうではない。

 この三分で、相手の太刀を受けたのは全て沙耶香の側である。それも一度は写シを飛ばされている。

 太刀を付けたのは、一方的に薫の方であった。

「強くね?」

「思ってたのと違う…」

 そんな類のどよめきが、会場を流れていた。

「迅移に劣る益子薫の分が悪い。下馬評は大方そうでしたが…」

「八幡力のパワーを、上手くハンドスピードに転化してる。驚きですね。薫さんがここまでやるなんて」

「ええ。率直に驚きです。ここまでは一方的に、益子薫の試合です」

 木寅ミルヤや山城由衣といった一線級の刀使ですらこの流れを予想していなかった。大段平をぶん回す薫はあくまで対荒魂の討伐エースとして評価されてはいても、御刀試合で成績を残す刀使とは見られていなかったのだ。

(…ふふふ。皆驚いてマスね)

 古波蔵エレンにとっては、予想出来ない光景では全くなかった。

(薫が練習嫌いなのは確かデス。けども実地の任務は桁違い。討伐スコアは月間ランキングの常連。弱いわけがありまセン)

 瀬戸内智恵ら三年生が現役を退いた今、間違いなく薫は、長船女学園最強刀使なのだ。

「どした沙耶香。もう終わりかよ」

「…ありがとう」

「あ?」

「手を抜かないでくれてありがとう。本気で戦ってくれてありがとう。薫になら出せる。今の私の全力を」

「…何?」

「行くよ、薫」

 迅移対策は上手く行った。スタミナにも余裕がある。余程の一太刀が決まらねば写シが張れなくなることはないだろう。

 しかし何なのか。この言い知れぬ不吉は。

「…一念無想」

「…!?」

 沙耶香は眼前に居た。何処にも行っていない。それは確かだ。

 にもかかわらず背後に沙耶香が居た。妙法村正を突きに番えて。

(な…)

 異常は客席からも見て取れた。誰から見てもそう見えた。

 糸見沙耶香が二人、と。

(な、んだ…!?)

 沙耶香が二人? いや一人は、幻か何かなのか? ともかくされたのは、弟子だという高津刹那の顎の逆、後ろから突かれ、前からも一突き。

「う…」

 この試合始めての薫の迅移は、攻撃の為ではなかった。

 緊急回避の為であった。突如出現した背後の謎の沙耶香の突きから距離を取る為であった。

 代償は少なく無い。

 後ろの沙耶香から遠ざかるということは、正面の沙耶香に接近することであった。正面の沙耶香の、突きとなって迫る妙法村正の切っ先に。

「うおおおおお!」

 構わず薙ぎ払いに行った。

 真っ向からだ。

 村正と弥々切の競争となった。先んじた方が写シを失い、再度展張は不可能だ。

 弥々切丸の大質量が先んじれば、ヒトの姿すら留め得ぬ。再起不能の可能性すらある大打撃となる。

(もし、横凪ぎじゃなかったら…)

 しかし村正の突きが先んじれば、その大質量がそのままカウンターとして薫に跳ね返る。残り時間内に再度写シを張るなど不可能だ。

(慣れない横凪ぎを軸に試合させたのは、先生と一緒に磨いて来た、私の迅移)

 それでも薫の得意、蜻蛉からの雲耀の打ちであったなら、こうは行かなかったろうと、沙耶香は思うのだ。

「ぐ…!」

 先んじたのは村正だった。沙耶香の突きだった。

 薫の写シが飛ぶ。

「写シを張れ、益子薫」

 背に刃が抜けていた。致命傷の中の致命傷だった。時間は残り一分余り。もう試合中に写シが回復することはあるまい。そうなれば薫の敗北であった。

「お前もだ、糸見沙耶香」

 しかし見ると沙耶香の方も、どういうわけか、写シが剥がれていた。

 しかも、再び張れぬ様子である。

(何故だ!?)

 弥々切丸はすんでのところで届いていない。その筈なのに。

 沙耶香と、目が合った。

「く…」

「う…」

 御刀を手にして以来、初めての時以来ではなかろうか。敵同士でありながら薫と沙耶香の思いは一つだった。写シよ、張れてくれ…!

 主審、紫の視線が往復する。

(クソ、写シ…)

(写シ、が…)

 薫を見、沙耶香を見て、二度三度それを繰り返し…

「勝者、糸見沙耶香」

 決着を告げた。

 

***

 

 どよめきの中、激闘を終えた両選手は互いに礼を終える。

「どっちも写シ、張れなかったのに」

「途中までは益子の方が優勢だったじゃん。判定おかしくね?」

「それよか最後の糸見のあれ、何? 分身の術?」

 環視の刀使らが口々に言うのが、古波蔵エレンの耳に入って来る。

(写シを張れなかったのは両者同じ。ケド最後に突きを入れたのは、サヤサヤ。勝負を決したのはサヤサヤデス。紫サマも、そう見たのでショウ)

 エレンは納得したし、薫も恐らくは、そうだろう。

(それにしてもサヤサヤのあれは…)

 一念無想。そうと聞いた。

 思い起こされるのは前年の事件である。沙耶香の知らぬまに沙耶香の写シのみが独行し、伍箇伝挙げての一騒ぎとなった夜光刀使事件には、解決までにエレンも一肌ならず脱いでいた経緯がある。

「おい沙耶香。最後のあれはなんだ」

 一方、試合を終えた両者は未だ石台の上に在った。

「一念無想、って呼んでる。写シだけを私とは別の所に現わす技」

「現わす技、じゃあねえ。てことはお前最後、写シ張ってなかったろうが」

「うん。写シを別の場所に出すから、私に写シは張れない」

「それで俺が速かったらどうするつもりだったんだよ!」

「斬られてたと思う」

「斬られてた、じゃねえ! 俺にお前を殺させる気か!」

「本気の薫に勝つには、命くらい賭けないとダメだって思った。だから覚悟はしてた」

「そういうことじゃねえっつってんだろうが!!」

 激高し詰め寄ろうとする薫の前を、紫の御刀、大包平が遮る。

「試合は終りだ、益子薫」

「…分かった。分かったよ紫サマ。けど一言言わせろよ。弥々切丸は益子の聖剣。守護獣弥々の宿る御刀だ。血で汚すわけにゃ行かねえし、それ以前に沙耶香てめーは、俺の大事な後輩だ。俺の弥々切丸で死のうとなんざ、してくれるな」

「うん。もうしない。ごめんなさい。本気で戦ってくれてありがとう、薫」

「ちっ。分かったんならいいから、早く舞衣のとこ行ってやんな。…全く、なまくらな横凪ぎで良かったぜ…」

 舌打ちを残し、御前試合の石台を降り行く薫の背にもう一度、沙耶香はぺこり、と頭を下げた。

 

***

 

「気付いたか?」

「…ここは? 試合はどうなったの?」

「私の負けよ。柳瀬舞衣」

「…そう。私はあなたに勝つことが出来たのね」

 舞衣が目覚めて、これが最初の会話であった。

 目に入った時計を見ると、試合を終えて十数分といったところである。短いとも、長いとも言えない時間、舞衣はここで横たわっていた。

「それで、どうして貴方が?」

 高津刹那は舞衣の対戦相手であった。赤の他人とは最早言い難い。

 とはいえ普通、勝ち負けの後すぐ、相手選手に付き添う理由はない。その役目なら普段から舞衣と近しい、例えば美濃関の生徒で本邸に居る衛藤可奈美などが相応しいと言える。

「それで…とは?」

「貴方が私を心配する理由が無いと思うの」

「心配する理由はない。けどここに居る理由なら有る」

 かた、と椅子を鳴らして刹那は立つ。

「私は紛い成りにもあいつ…糸見沙耶香に師事する身。師がやらなければならないことを出来ないなら、代わって務めるのも弟子でしょう」

 牙のような鋭さの中にも丁寧さが入り混じる、これが刹那の普段の語り口であるらしかった。厳しく躾られてきたことも、反発するところが大いにあったことも窺い知れる。

(そういうところ、沙耶香ちゃんっぽいかも)

 本当に師弟なんだなと、そう思った。

「沙耶香ちゃんの代わりにいてくれたのね。ありがとう、刹那さん」

「…さっきまで美濃関の奴らも居たのよ。私だけ残して行っちゃったわ。薄情だし、不用心。さっきまで貴方と本気で斬り合ってた私だけ残すなんて。良からぬ気持ちを起こしたらどうするつもりだったのか――もう行く。代理役ももう必要ないようだし」

 刹那の視線を追えば、息を弾ませて、糸見沙耶香が居た。

「まい…」

「沙耶香ちゃん」

「薫に勝った。強かった」

「うん」

「負けたら会わずに帰ろうと思ってた。けど勝った。だから来た」

「うん」

「準々決勝、舞衣と戦えるよ」

「…うん」

 何か言ってあげればいいのに。うん、しか言ってないじゃない。思いつつ、刹那は二人の医務室を後にする。

 

***

 

 寮が一番最後になったのは、まさかまだそこには居ないだろうと誰もが思っていたからだ。

 伍箇伝各校選抜の刀使達が奥義の限りを尽くしてぶつかり合う、数少ない機会が御前試合だ。安桜美炎らが知る衛藤可奈美なら、最前列で声援を飛ばしている。

 それが、姿が見えない。

 会場を見渡す限り何処にもその姿が無いのだ。

 スペクトラムファインダーのアプリにも既読が付く気配は全くない。これはどうしたことなのか。

「…居ました。寮です」

 ついに羽島七奈が水心子正秀にモノを言わせ、透覚で突き止めた居場所は可奈美の起居する刀使寮であった。御前試合本戦当日となっても可奈美は、部屋から一歩も出ていないのか。

「ところで、岩倉さんはどうして可奈美を探してるの?」

「私の探しているヒトも、多分一緒に居るんじゃないかって思うからかな」

 美炎が仲良しの六角清香を伴うのは兎も角として、その清香に岩倉早苗が付いて来たのは美炎にとって意外なようであった。しかし言われてみれば可奈美と同じくシード枠でかつ平城推薦枠の十条姫和の姿は、確かに見かけていない。

 この二人組を見失い、後伍箇伝を揺るがす大事件に巻き込まれたのは丁度一昨年前だ。美炎の胸騒ぎは当然と言えよう。

「羽島さんこそ、柳瀬さんの傍に居なくていいの?」

「私は…舞衣さんなら可奈美さんが居ないなら心配して探すって思うので」

「そっか」

 つまり可奈美の個室の前で、美濃関の羽島七奈と安桜美炎、平城の岩倉早苗と六角清香が雁首を揃えている事となる。誰が行くかと見交わし合い、結局こういう時には何時もしびれを切らして先頭に立つ美炎がノックした。

「可奈美…? 美炎だけど」

「美炎ちゃん?」

 応えがあった。

「可奈美!」

 ノブを回すと、あっさりと扉が開く。

「岩倉さん?」

「やっぱり…」

 早苗の探していた十条姫和の姿はやはり、可奈美と共に在った。

「御前試合もう始まってるよ? どうしたの可奈美」

「うん。知ってるよ。もうすぐ私の試合だよね。そろそろ行かなきゃ」

「そうじゃなくて! どうしちゃったの可奈美!」

「どうって…どうもしないよ」

「どうもしてるよ!」

 思わず声を大に美炎は叫ぶ。

 何時もの可奈美ならこんなところに居ない筈。伍箇伝各校から選りすぐりの刀技に目を輝かせている筈だ。自分の出番を今か今かと待ちかねて、試合会場最前列にがぶり寄りしている筈だ。

「舞衣の試合、終わったよ。舞衣が勝った。凄い試合だった。沙耶香と薫さんの試合は沙耶香有利って言われてたけど、薫さんホントに凄かった。一緒に見たかった。ううん、何処かで一緒に見てるって思ってた。なのに、こんなところで…」

「もう一度聞くぞ、可奈美。大丈夫なんだな」

 言葉尽きてしまった美炎の後を、先客であった姫和が次ぐ。

「大丈夫だってば」

「調子はいいんだな。悪いところは無いんだな」

「心配性だな、姫和ちゃんは。普段通りだってば。そんなことより皆会場に行かなくていいの? 試合あるんでしょ?」

「あ、ヤバ。私そろそろだ」

「早く行きなよ美炎ちゃん。私もすぐ行くから」

「ごめん先行ってるね。必ず来てよ可奈美、私勝つから!」

「うん。また後で」

 転げるように部屋を出て行った美炎はともかく、残った全員が気づいていた。

 姫和は手にヘアブラシを持っており、つまりは姫和は可奈美の身支度を手伝っていたのだ。これは御前試合第一試合が始まってより四試合目が行われている時間にも関わらず、ほんの直前まで可奈美は部屋着のままで制服を着けておらず、つまり姫和が訪れるまでは部屋を出るつもりがなかったことを物語っている。

「迎えに来てくれてありがとう。行こう、みんな。あ、君誰だっけ。多分初めましてだよね」

「中等部一年の羽島七奈です。母がいつもお世話になってます」

「え!? 学長の娘さんなの!? 言われてみれば似てるかも…ね、眼鏡取ってみてよ」

 可奈美は常通り快活で、変わったところなど見られない。

「十条さんは、どうして衛藤さんの部屋に?」

「…実は平城で予選をやってたくらいに、御本家から直接、私の端末に電話があってな」

「朱音さまから直接?」

「そうだ。可奈美の練習相手が居ないから、早く本邸に来てくれということだったが私は断ったんだ」

「朱音さまがわざわざそれを? どうして断ったりしたの?」

「私では可奈美の練習相手にはなれない。剣の位が違い過ぎる。それに気になることもあったしな」

「気になる事?」

「ああ。けどもう、それは解決した。岩倉さんが平城代表としてここに居るわけだからな」

「…それって」

 準決勝の清香との一戦を応援に来ていた姫和は、決勝戦には来てくれなかった。少しむくれたりもしたものだが、決勝進出さえすれば本戦出場は決したということで、本戦で待つ姫和は、早苗が本戦に来れるなら満足だった、ということではなかったのか。

(衛藤さんより、私を優先した…?)

 そう思ってもいいのか。

 でも、それは何故?

「一指しの太刀は私が破る。道はまだ見えないけど、必ず破って見せる。それまでは出し惜しみして負けてなどくれるなよ、岩倉さん」

 姫和のこの言葉に、思わず早苗は立ち止まってしまう。

(出し惜しみなんかじゃなくて…あれは、十条さんの為の…)

 姫和の為だけに編み出した技だ。だけどその技は六角清香も木寅ミルヤも退けて、姫和への道を切り開いてくれた。

「…岩倉さん?」

「あ…ごめん。用事、思い出して…先行ってて」

「そうか。私の試合も近いんでな。先に行く」

「うん。後でね」

 一度だけ、六角清香が振り向いたが、そのまま姫和や可奈美と一緒に試合会場へと続く階段を一緒に降りていく。

 早苗は独りになった。

(このまま千住院力王を振るえば、十条さんとまた戦えるかも知れない)

 それは紛れもなく、早苗の工夫した一指しの太刀の御陰だ。

 早苗があの十条家前の野試合で姫和に負けていたなら、どうなっていただろう。姫和は平城に留まっただろうか。

 そんなはずはない。御本家朱音さま自らの招へいを断る理由が姫和にあろうはずがなかった。姫和は本邸に赴き、可奈美と会う。姫和と会った可奈美は――どうなっていただろう。

(たいしたこと、ないよね衛藤さん)

 少しだけ分かるのだ。待ち人を奪われる、あの気持ちが。

 もし早苗が、かつての可奈美の側になってしまったとするなら―― 

(衛藤さん…)

 可奈美に会って話さなければ。何を話すべきかは分からないけど、可奈美に寂しい思いをさせるつもりはなかった。早苗のせいで辛い思いをしたのなら、全く本意ではなかった。

(十条さんの隣はきっと、私じゃあなくて…)

 きっと己は貴方のように傍に居られないと思うから、せめて心の中に残ることを望んだ。ここ一年程の早苗の剣は、ただその為に在った。衛藤可奈美に対抗してどうこう、ではない筈であった。

 伏せていた顔を上げる。

 そこには可奈美たちが歩み降りた昇降階段がある。急いで走り降りれば、追いつける筈であった。

 



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フー・アーマー その1

 歩み始めたのが何時で、何処まで歩めばよいのか分からない。

 何時からか、霧の道を、ただ歩んでいた。

 闇のような霧であった。

 白い闇である。

 我が足元が既に見えない。一歩を踏み出すのも躊躇われる闇の中、何故だが躊躇うことなく歩むことが出来る。

 そこに道があることを、我が身は知っているようであった。

 やがて、霧は晴れたと知れた。

 歩んだ先の霧中より、何者かの姿が現れて見えたからである。

 綾小路の制服、抜き身の御刀。刀使であると分かった。

「迷ったのかい。こんなところに来てはいけないよ。早くお目覚め」

「学長…ではないですね。よく似た貴方は、だれですか」

「誰でもいい。私に会ったことは忘れるんだ」

「二ツ銘則宗。御刀の銘は思い出せるのに、貴方の名前は思い出せないようです。間違いなく、どこかですれ違ってるはずなんですけどね」

 一度会った人の顔を見忘れることはない。そのような訓練を受けて来たからだ。

「君は…」

「夢にまで現れる貴方です。きっとボクにとっては大事な人なんでしょう。あるいは、これから大切な人となる、誰かさん」

 我が腰間を探る。

 果せるかな腰には、我が御刀があった。

「折角なので、一手、お願いします」

「斬り合う気なのか。察するところ君は刀使。私は荒魂では恐らくないけど」

「先に抜いていたのは貴方の方ですよ。そのつもりで無かったのなら、一体何のつもりだったんですか」

「ふむ。何故抜いていたんだろうな。自分でも分からんが、まあいい。久方ぶりの稽古としようか」

 鞘鳴りを立て、我が御刀、三条吉家が白刃を現わす。

「いざ」

「いざ」

 相中段となって、目が覚めた。

(今のは…)

 何であったのか。いやそんなことよりも思い出した。ここはベットの上などではない。出動だ。今現場に居るのではないか。

「折神紫の突破を許したらしい」

「赤羽刀調査隊との合流を阻止せねば」

 そのような会話が聞こえてくる。

 随分と長く霧の中を彷徨ったように思えて、その実我が身は立ったまま、誰も眠っていたことに気付いてすらいないところをみると、あの長い長い夢も現実にはほんの瞬きの間の出来事であったのか。

「行こう」

「行こう」

 近衛隊の刀使たちと言い交し、今度こそ現実に、三条吉家が鞘走る。

 

***

 

 岩倉早苗らより先に試合会場に戻った安桜美炎は、ただただ目を見張るしかなかった。

「あの、古波蔵エレンさんが…」

 長船女学園の双璧、実戦に於いては伍箇伝最強の兵士とすら言われるあのエレンが、これ程までに一方的に。

 しかしそれも対敵を見れば納得であった。エレンの対戦する綾小路武芸学舎学長の娘、相楽瞑の身を覆うのは通称S装備、ストームアーマー。

「き、汚い! 反則だよ!」

 思わず声に出る。

 それは環視の刀使たちも皆同様だった。怖いくらいの静寂に包まれるのが常の試合会場が、まるでプロレスの試合だ。

「まだやれるか、古波蔵エレン」

「あ…当たり前デース」

 エレンの制服は既に、泥濘に塗れていた。

「来ましたか」

「ミルヤさん、あれいいの!? 綾小路の代表ですよね!」

 木寅ミルヤとはイクサ討伐作戦ぶりの久方であった美炎だが、挨拶もそこそこに詰め寄る。

「主審の紫様が御認めになりました。これは公式の試合です」

「だからって!」

 そもそもがS装備装着のメリットは第一に写シの展張回数の飛躍的な増加だ。五倍から十倍の増加が見込まれる上、簡単に剥離し難くなる。一度写シを飛ばせば終了の御刀試合なら兎も角、本年度御前試合のルールでは圧倒的な優位となる。

 それだけではなく、写シが剥がれにくいということは、それこそ写シの維持限界ぎりぎりまで迅移や八幡力を連発することが出来るということでもあり、試合運びの点でも利をもたらす。

「エレンさんが可哀想だよ!」

「古波蔵エレンも条件を呑みました」

「快諾だったよ。流石はエレンさん、気っ風がいいよね」

「気っ風の問題じゃ…ていうかまさか、二人は知ってたの? S装備の選手が綾小路代表で出場するの」

 ミルヤも由依も答えない。

 ただ、試合の帰趨を見守る風であった。

(木寅さんも山城さんも…)

 エレンの味方ではない。二人は綾小路武芸学舎の刀使であり、同じ綾小路の覆面代表刀使の味方をしているのだ。罵声を浴びる綾小路学長相楽結月の娘、瞑の。

(相楽さん…)

 美炎より少々遅れて、早苗はこの光景を目にしていた。

 主審の折神紫がこのハンディキャップマッチを認めたのなら、これは正式な御前試合本戦だ。とはいえ、早苗には只々、違和感しかない。

(こんなことをする人じゃあなかった)

 剣は嘘をつかないし、剣に嘘はつけない。二度の斬り合いを経験した早苗には分かる。母、相楽結月がそうであったように、常に最適を選択し躊躇なく御刀を振るう、そんな刀使であった。

 だから早苗には信じられなかった。瞑は試合は試し合い、伍箇伝の教えを学んで恙(つつが)ないかを確認をする場であると、よく理解している人であった。試合は結果ではなく、過程の一つと理解している人であった。だから御刀の操作技術以上のモノを試合に持ち込んで来なかった。技が勝れば勝ち、劣れば負ける。勝ろうと劣ろうと、今の己を知り、今の己を練る糧にすると理解している人であった。

 簡潔な人だった。その人なりが現わす、簡潔な剣に早苗は破れて来たのだ。

(相楽さん…)

 そのような相楽瞑が刀使同士の試合に過ぎぬ御前試合で結果が欲しくてS装備を持ち出すだろうか。

「エレンさんもエレンさんだよ! どうしてこんな試合受けちゃったの!? せめて自分も同じS装備で戦ったらいいのに!」

 蹂躙されている当のエレンも実は、美炎と同じくそう思っていた。

(まさかそう来るとは思いマセンでしタ)

 まさかの、ストームアーマーフル装備。顔半分はバイザーの下だ。

(まるでプロレスのマスク剥ぎデスマッチですネ)

 戸籍上とうに生者ではない、相楽結月の娘瞑。果たしてこの世の者や否や。生死を偽っていたのか、偽物の影武者であるのか、はたまた本当に冥府から迷い出た怨霊であるのか。確認するのがエレンに課された任務の一つである。あれを引っぺがして素顔を白昼に晒したいところだが、無装備ではなかなかの難儀であった。

 だからといって我が身もS装備を、などと求めて棄権などされたら元も子もなくなる。圧倒的不利であっても、試合を逃げられるよりましだ。

(なんにせよ、確かなコトは…)

 いつぞやの夜行刀使のような、実体のない存在ではない。本人なのか、偽物なのか、それは分からないがあのバイザーの下は相当の手練れだ。

(頭部への守りの意識が高いデス。メイビー、素顔を晒すのを嫌がってイル)

 なら、付け入る隙も出て来るはずであった。

(薫も、頑張りましタ)

(ワタシも、頑張って行きまショウ)

 越前康継が、くるりと右手の掌の上で回った。柄が前、刃は後ろの逆手持ちだ。

 ざわ、と環視の刀使達がざわめく。常寸の打刀の康継を逆手に持つメリットを測り兼ねたからだ。

 刃物を逆手に持てば組み打ちに利がある。馬乗りになった相手に止めを刺す場合などにはこの握剣が用いられる。しかしそれは小太刀脇差等の、組み打ちに適した短い御刀を用いてもたらされる利である。二尺以上もある打刀の康継をこの構えで用いてどんなメリットがあるのか。

 それだけではない。

 構えが左手前になっていた。

 左足左手が前、右手右足が後ろ。空手やボクシングなどで一般的なストロングスタイルだが、剣においてはそうではない。制定剣道では右足右手が前に来る。伍箇伝の教える一般的な剣もこれを陽の構えとし基本とする。

 つまりエレンは陰の構えに取りかつ、後ろ手に康継を保持しているのだ。本来盾と掲げて身を守るべき御刀は相手に対し一番後ろに隠れている。

 異様な構えであった。

 長船一の奇剣遣いに相応しい構えであった。

「タイ捨ワタシ流、見せてあげるネ」

 じり、じりとにじり寄る。

 エレンの欠点を挙げるとすればスピードだ。迅移が不得手なのである。

 もちろんそれは御前試合決勝レベルで決め手に不足、ということであって、伍箇伝の高等部として十分水準である。

 迅移の段階が試合の勝ち負けなところもある刀使の御刀試合で、迅移を主戦力に出来ないエレンが勝ち進めるのには理由があった。

(エレンさんが仕掛けた!)

 踏み込むが、浅い。露骨に浅すぎる。

 フェイントだ、と早苗たちも思った。瞑もそう思った事だろう。

「…!?」

 次の瞬間には瞑の写シが飛んでいた。

「ぐあ!」

 瞑の悲鳴らしきものが客席まで聞こえた。それもその筈で、美炎の目には瞑の右足が折れ飛ばされる様がはっきりと見て取れた。

「なにあれ…蹴りで足斬れた…」

「…ローキック?」

「そんなの分かってるよ! だけど…」

 格闘技の試合でもローキックでダウン、そのまま立てずにKOされるケースというのはある。しかしS装備を装着した刀使の足を折り飛ばして、写シを剥いでしまう威力は、常識的に考えられない。

「ありゃあ金剛身の応用だ」

「薫さん!」

 いつの間にか、先程糸見沙耶香との死闘を演じた益子薫が美炎たちの隣に居た。

「金剛身? って普通、守りに使うものじゃあ…」

「エレン程になりゃあ、四肢を鋼にするのも自由自在だ。おまけにあいつは俺が居なけりゃ八幡力長船ナンバーワン。鉄の手足であの勢いでぶち蹴られたらそりゃあ、写シも飛ぶ」

 金剛身が得手な刀使は、迅移が苦手な傾向にある。エレンも例外ではない。

 そのエレンが御前試合の決勝常連である理由は、迅移の不要な斬り合いをスタイルとして確立しているからであった。どんなに素早く踏み込み打ち込もうとも、金剛身の上からエレンの写シを剥ぐことは出来ない。一方エレンは、相手がどんなに素早く飛び回ろうダメージを負うことは無い。ただじりじり追い詰めて行けば良いのだ。

「金剛身を攻撃に使うってのは、エレンの奴の独創だ。お前らにそんな発想が無いのは無理もねえ。伍箇伝にそんな剣は存在しねえからな」

 ようするにエレンは五体を任意で、鈍器に出来るのだ。

 八幡力は、明眼透覚同様、発動をさせずとも御刀を所持していればバフがかかる。筋力が強くなる。強化された筋力で、鈍器と化した手足をぶつけて来る。

 考えてみるだに脅威であった。

 須らく攻撃の威力は速度と質量即ちエネルギーと、そして硬度によって決する。格闘技においては小技と見られがちなローキックが、鉄パイプの殴打と化すのだ。いや八幡力によるバフが掛かっていることを考慮すると、刃物といっても良いのかもしれない。でなければ先ほどの光景は説明が出来ない。

「エレンの一番やべえところは、タイ捨流でも金剛身でもねえ、あの頭の良さだ。日頃ああだから忘れがちだがあいつは爺さんも二親も研究者だからな。発想が尋常じゃあねえんだ」

 たった一蹴りで空気が変わった。

 古波蔵エレンという刀使が何者であるかを、誰もが思い出した。

 それは、相楽瞑もであろう。

(前足の加重を抜いてる…)

 美炎たちにも見て取れる。左前から右前直立の、制定剣道に近い構えへと瞑が構えを変じていた。

 ローキックがKOに繋がるケースは大体、前に体重が乗っていた場合である。己の体重で天地を固定した前足に打撃が入れば、その威力は逃げることなく余さず足に行く。しかし体重が乗っていなければ天地の固定が甘く、柳に風、足を攫っても刈ることは出来ないというわけだ。

「頭の良さならこっちも相当だよ」

「気を付けてエレンさん…」

 防戦一辺倒だったとはいえエレンの写シはまだ飛ばされていない。一方瞑は一度写シを飛ばされてしまった。

「判定、微妙だ…」

「攻撃の機を掴まねば、確たる勝利はないぞ、相楽瞑」

 エレンの敵も、瞑の敵も、固唾を呑んで帰趨を見守る。

 



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