皆で綴る物語 (ゾネサー)
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第1章 始まりの物語
あつい夏が終わり


 9月。幾つも重なるようにしてけたたましく響いていたセミの鳴き声も聞こえなくなり、ほとんど閉じてしまったひまわりの花を涼しげな風が揺らす中、まだまだ暑い日差しがグラウンドを照らす。そんなグラウンドで今日も練習する里ヶ浜高校女子硬式野球部に新たな部員が加わろうとしていた。

 

「各自、簡単な自己紹介と希望のポジションをお願いするわ」

 

 (みどり)色の髪をした正捕手を務める少女、鈴木(すずき)和香(わか)がバインダーに切り取ったノートをセットし、シャープペンシルの芯を伸ばして準備を終えるのを横目に数少ない野球経験者である藍色の髪の少女、東雲(しののめ)(りょう)が自己紹介を促すと、部員の視線が6人の新入部員に注がれる。注目が集まったことで緊張が高まった者もいる中、それを喜ぶように小刻みにジャンプしながら小柄な金髪の少女が手を挙げた。

 

「はいはーい! アタシは逢坂(あいさか)ここ。大女優の卵よ! 夏の大会を応援席から見て、アタシもああいう舞台で輝きたいなって思ったの。ポジションは一番目立てるピッチャーがいいわ!」

 

 逢坂は一歩踏み出して言葉に合わせるように大仰な身振りをすると、最後は満面の笑顔にピースサインを添えた。

 

(決まったわ!)

 

「ピッチャー……それにその握り! もしかしてフォークが投げられるの!?」

 

 逢坂が満足げにしていると有原が興奮気味に栗色の髪をなびかせて息遣いが聞こえるほどの距離まで近づき、質問を投げかけた。

 

「……へ? なんで野球で食器を投げるの?」

 

「えっ」

 

「……フォークボールは変化球の一種よ。それと有原さん、今は大人しくしててもらえるかしら」

 

「あはは……。ごめんなさーい」

 

(……はっ! しまったぁ……。アタシとしたことがオーディションなら即落ち確定レベルの失態を……)

 

 逢坂が意気消沈しながら歓迎の拍手をバックに列に戻ると、次に髪を団子状に纏めた茶髪の女の子が元気よく前に出た。

 

「新田美奈子でーす! わたしも夏の大会を応援席で見て、みんなで一生の思い出に残るようなことしたいって思ってこの二人を誘って入ることにしました! ポジションはえーと……ショート? を希望します!」

 

 新田に紹介された緊張気味の黒髪ロングの少女と、落ち着き払った様子の青髪を左右に一つずつ三つ編みで纏めた少女が続けて自己紹介をしていく。

 

「え、えっと……永井(ながい)加奈子です。よ、よ、よ、よろしくお願いします!」

 

「加奈ちゃん。希望ポジションも言わないと」

 

「あっ……ごめんなさい。ポジションはえーと……が、外野でお願いします!」

 

「ふふ……私は近藤咲(こんどうさき)です。『鉄人』で何人か会ったことがある方もいますが、改めてよろしくお願いしますね。ポジションはキャッチャーを希望します」

 

 やっちゃったぁ……と呟く永井を励ましながら拍手を受けて三人とも列に戻る。残り二人となった新入部員、その内の一人が前に出ようとすると緊張のあまり踏み出そうとした足がもう片方の足にぶつかってよろけてしまう。

 

「きゃっ……」

 

「わっ……だいじょうぶー?」

 

「あ、ありがとうございます。……すいません、先にお願いしてもいいですか?」

 

「うん! わかったー!」

 

 小柄な少女は眼鏡をかけた水色髪の少女を受け止めると、はつらつとした態度で前に出る。

 

「小麦は秋乃小麦(あきのこむぎ)だよ! 応援しに行って、みんなババーッと走ったり、ドーンって打ったりするのが楽しそうだったから小麦もやりたくなったんだ! ポジションはどこでもどんとこい、だよー!」

 

 日焼けした肌も合わせて活発的な性格であることを印象づけるには十分だった。賑やかになりそうだと嬉しそうにする部員もいる中、拍手を受けて小麦も楽しそうに列に戻った。

 

(しまった! 最初に挨拶したアタシの印象がどんどん弱く……。目立つなら後の方が良かったか……)

 

 逢坂が挨拶の順番で後悔している間に拍手が収まると最後の一人が前に出る。

 

「……ぁ……」

 

 しかし言葉が思うように出てこず、静寂がグラウンドを包み込んだ。

 

(ど、どうしよう……。なんて言おうか考えてたはずなのに、前に出た途端に頭が真っ白になっちゃった……!)

 

 そんな彼女の視界も真っ白になり、驚きのあまり思わず一瞬目をつぶる。遅れてパシャリ、という音が聞こえてその閃光の正体を理解した。

 

(あ……中野さん。そうだ……)

 

 音を境にするように彼女の思考が切り替わっていき、伏し目がちだった顔がしっかりと上げられる。照りつけるような日差しは彼女を含む全ての部員に降り注がれていた。

 

(眩しい……。でもこの眩しい場所に、私は来たんだ)

 

「私は初瀬麻里安(はせまりあ)と言います。普段は図書委員をしていて、野球部の活動は中野さんの新聞記事を通して知りました。一から女子野球部を築いて、勝利に向かって邁進(まいしん)する皆さんの情熱に憧れて、私もその一員として頑張りたいと思い入部させて頂きました。ポジションはサードを希望します……! 精一杯頑張りますので……よろしくお願い致します!」

 

 そう言うと初瀬は思い切り頭を下げる。すると勢いの良い拍手がグラウンドに響き渡り、頭を上げて列に戻る初瀬の顔には安堵の表情が浮かんでいた。

 

「これで全員ね。……有原キャプテン」

 

「うん!」

 

 必要事項を書き終えた鈴木はシャープペンシルをバインダーに引っ掛けると既存部員の列に戻り、代わりにそこから有原が飛び出して東雲の横に立った。

 

「キャプテンの有原翼です! 女子硬式野球部に入ってくれてありがとう。私、とっても嬉しいよ! これからよろしくね! 練習も試合も一緒に楽しくやっていこう!」

 

 有原の言葉で新入部員は部に入った実感を持ち、各々嬉しそうな反応を見せて盛り上がる中、横に佇む東雲の視線は静かに有原に向いていた。

 

「……今日はまず希望したポジションに入ってもらって守備のテストをするわ。それが終わったらバッテイング練習に参加してもらって、その様子を見て今後のポジションや練習メニューを考えさせてもらいます。秋乃さんはそうね……ファーストから順番に試してもらおうかしら。ポジションテストの間グラウンドは使えなくなるから、他のメンバーは自主トレをお願いするわ」

 

「おお〜。しのくものことだから、ポジションテスト中はずっとランニングとか言うと思ったのだー」

 

「あら、そうしましょうか?」

 

「け、結構なのだー。自主トレに行ってくるのだー!」

 

 東雲は視線を前に戻すと練習内容を伝える。すると三年生がいないこの部では最上級生に当たる二年生の阿佐田(あさだ)あおいがからかってきたが、東雲が不敵な笑みを浮かべると紫色の髪を揺らしながら龍に睨まれた猫のように一目散に逃げていく。その流れで皆も自主トレに向かい、新入部員は柔軟体操をした後にグローブをそれぞれ選んで手に取ると嵌めた感覚を不思議そうにしながら、キャッチボールを始めた。

 

「ちょっと加奈子ー。どこ投げてるのー」

 

「ご、ごめーん!」

 

 新田と永井は友人同士和気藹々と。

 

「とりゃー!」

 

「わ! 小麦さん、凄いジャンプですね」

 

「へへー。そうでしょそうでしょ! ボール、行くよー!」

 

 近藤と秋乃はほぼ初対面ながら気さくに。

 

「麻里安ちゃん! ここに宣言しておくわ!」

 

「は、はい。なんでしょう……?」

 

「アタシの読みだと最初の挨拶で一番目立ったのはあなたよ。だからアタシはあなたをライバルに認定するわ! 主役の座は渡さないわよ!」

 

 初瀬は対抗心を燃やした逢坂にライバル認定されていた。

 

「主役? 物語のですか?」

 

「そうよ! エースピッチャーとしてチームを率いて優勝、そして一躍スーパースターになったアタシは女優として引っ張りだこになってイケメンにプロポーズされて……このシンデレラストーリーの主役は私なんだから!」

 

「えへへ……自分の未来を自由に想像するのって楽しいですよね。私もよく本を読んで、物語の主人公に自分を重ねたり……」

 

「わかる!」

 

「わっ、新田さん」

 

 そこに永井があらぬ方向へと投げたボールを拾っていた新田がちょうど戻り、話に参加した。

 

「本とかドラマの中では色んなイベントがあるのに現実のなんと代わり映えのない光景が流れすぎていくことか!」

 

「そういえば新田さんは一生の思い出になることがしたくて野球部に入ったと言われてましたね」

 

「そ! なんていうか……現状からの脱却! みたいな?」

 

「わぁ……! いいですね。その気持ち、分かる気がします」

 

「へー。みんな刺激を求めてるのねぇ……」

 

 秋乃が投げたボールをミットの先でかろうじて捕りながら近藤は自分と秋乃以外がキャッチボールをやめてしまっていることに気がついた。

 

「みんな。雑談もいいけれど、今はキャッチボールを続けましょう? 話したいことがあれば練習後にうちに寄って何か食べながらゆっくり、ね?」

 

「おっけー。加奈子、行くよー!」

 

「こ、こーい!」

 

 近藤が声をかけると新田が元いた位置に戻っていき、ライバル宣言をするために近くにいた逢坂も適度な距離へと離れていった。

 

(咲ちゃんのところ元々美味しいけど、運動した後で食べるともっと美味しく食べられそう。それに運動してカロリーを消化してるから、その(あと)カロリーとっても太らないよね……?)

 

 大きくワンバウンドしたボールをミットを下に向けて取りながら、永井は練習後の食事を美味しくするべく沢山動いておくことを決意していた。

 

(……全然ダメね)

 

 自主トレでグラウンドの近くにある遊歩道を走っていた赤髪を一つの三つ編みで纏めた二年生、倉敷舞子はキャッチボールをする様子を遊歩道から眺めていたが、基礎的な部分が出来ていないことに気がついていた。

 

(新入部員は有原と東雲と鈴木が見るって話だったはずだけど……。あの三人は何してるのよ)

 

 ランニングを中断してグラウンドを見渡すと彼女らの所在はすぐに分かった。

 

(バックネット裏? なんでそんなところに……なにか話しているようだけれど、ここからじゃ聞こえないわね)

 

「…………」

 

「さあ、準備できたわよ!」

 

「……行きます! え、えーい!」

 

 初瀬が投げたボールは緩い放物線を描くが勢いが無く、失速したボールは少し横に移動した逢坂のすぐ近くでバウンドして、跳ね際を取ろうとした逢坂のミットはボールを弾いてしまった。

 

「あっ! す、すいません!」

 

「大丈夫大丈夫! 行くわよ、麻里安ちゃん!」

 

「は、はい……」

 

 逢坂が投じたボールは勢いはあるものの初瀬から見て左側に大きく逸れてしまう。右利きである彼女は左にグローブを嵌めていたが、硬球への怖さから一瞬目をつぶってしまったこともあり何とか反応した瞬間にはグローブにかすることもなくボールは彼女の後方へと抜けていった。

 

「……はぁ」

 

 坂を下りながら倉敷は短くため息を吐き出した。

 

「あちゃー……」

 

「ご、ごめんなさい! 私拾ってきます!」

 

 初瀬は捕れなかった恥ずかしさから顔をやや赤く染め、慌てて後ろに振り向き、ボールを追いかけて走り出そうとする。

 

「……その必要はないわよ」

 

「えっ……」

 

 倉敷は勢いよく転がっていたボールを素手で軽くとると彼女たちのもとに近づいてきた。

 

「……一度だけ」

 

「へ?」

 

 素っ頓狂な声を出す逢坂と向かい合うように初瀬の隣まで歩き、初瀬をジェスチャーで少し横に移動させるとボールを握った手を掲げるように突き出した。他の四人も倉敷が近づいてきたことに気づき、一旦キャッチボールを中断した。

 

「一度だけしか、言わないから」

 

「……あっ、は、はい! お願いします……」

 

「まずボールは基本的にこうやって親指、人差し指、中指の三本で握るの。薬指と中指は曲げて添える程度、手のひらはつけない。間違っても鷲掴みにはしない」

 

「えっ! そうな……んですか」

 

 すっぽ抜けないようにと力強く鷲掴みにしていた新田はそうなの!? と驚くところを先輩だということに気づいて、とっさに変えながらボールを言われた通り握ってみた。

 

「人差し指と中指は指の腹をボールの縫い目に引っ掛けるようにする。こうすれば上にすっぽ抜けにくくなるから」

 

「そうだったんですね……」

 

「そっか! なるほどー」

 

 近藤と秋乃が納得しながら、近藤は手元にあるボールで、秋乃は倉敷がボールを握る様を真似しながら確認をする。

 

「あと手だけで投げない。一時的なコントロールくらいはつくかもしれないけれど、全身を使うのが基本よ。全身を使えていれば地肩が弱くてもある程度ボールに勢いはつくわ」

 

「うっ。そ、そうなんですね……」

 

 キャッチボール程度の距離の送球でもボールが届かなかったことを肩が弱いせいだと思っていた初瀬は顔だけでなく耳の付け根まで赤くなっていき、それを隠すようにメガネのツルをいじった。

 

「それと投げる方向にまっすぐ立ちなさい。横に向きながら投げてたら、安定しないのも当たり前よ」

 

「あわわっ。分かりました!」

 

 永井が焦りながら足を新田の方に向けてまっすぐになるよう立ち直す。

 

「それで軸足にしっかりと体重を乗せて投げる。でもキャッチボールだから軽く。全力投球なんて論外よ」

 

「ろ、ろろろ……論外!?」

 

 狼狽する逢坂に倉敷はジェスチャーでミットを構えるように指示を出す。逢坂が頬を膨らませながら渋々といった様子でミットを構えると、倉敷は指をさしながら説明を続ける。

 

「ボールを捕る側は親指と人差し指の付け根部分にあるポケットでボールを捕るのを意識する。部室にあったやつだし、適度に型付けはされてると思うわ。最初は痛いかもしれないけど、ミットを前に突き出してボールが来たらポケットの部分を中心に手のひらで包み込むようにして捕球する」

 

「ふむふむ。えーと……ここらへんかぁ」

 

 逢坂はポケットでキャッチするイメージを掴むために二、三度ミットを動かすと前に突き出した。

 

「そう。そこで構えてて」

 

「へ?」

 

 逢坂のミットが胸元あたりに来たところで倉敷は話しかけると、話したことの全てを実践しながらボールを投げた。

 

「ひゃいっ!? ……ったあ〜!」

 

 パンッ、と小気味良い捕球音が響く。逢坂のミットのポケットの部分にボールはしっかりと収まっていた。痛みに震える逢坂以外の全員から感嘆の吐息が漏れ出した。

 

「キャッチボールは相手の胸元を狙って投げなさい。最初は安定しなくても仕方ないけど、意識だけはしておいて」

 

 その言葉に各々が返事をすると、逢坂がミットを外して左手をひらひらさせながら倉敷の方を見る。

 

(なに今の……? アタシ、ミット動かしてないのにポケットってところまでボールが吸い込まれたわ。そういえばこの人大会でピッチャーをやってたわね……。もしかして、この人が真のライバル!?)

 

「全身の細かい使い方とか、そういうところで気になったことがあればあの三人に聞きなさい。……それじゃ」

 

 そう言い終わるや否や倉敷は踵を返した。

 

「あ、あのっ!」

 

「ん? ……何」

 

「あ……ありがとうございました!」

 

 呼び止められて少しめんどくさそうな表情で振り返る倉敷に初瀬が謝意を示すとつられるように他の皆もそれぞれ感謝の言葉を述べた。

 

「……別に、お礼なんて言う必要はないわ」

 

 そう言い残すと初瀬たちの前から足早に去っていった。

 

(……カッコいい、人だったなぁ……)

 

「麻里安ちゃーん? 行くわよー!」

 

「あっ! わ、分かりました」

 

 ミットを嵌め直した逢坂がボールの縫い目を確認しながら声をかけてくると、初瀬もポケットの位置を確認しながらミットを前に構えた。

 

「力は抜いて……てやっ!」

 

 逢坂が投げた球に今度は目をつぶらずに反応した初瀬は一歩左に動くとボールの軌道上にミットを差し出す。

 

「痛っ……」

 

 ミットはボールを捉えポケットの位置に当たったが、キャッチには至らず下にボールが(こぼ)れてしまった。

 

(うう……手のひらで包み込むようにするタイミングが遅れちゃった)

 

「惜しい! もうちょっとで捕れたわよー」

 

「は、はい! ボール行きます……!」

 

 ミットからボールを取り出すと縫い目を確認して丁寧に人差し指と中指の腹を引っ掛け、ボールを捕ろうとした時にずれた立ち位置を修正した。

 

(さっき倉敷先輩や逢坂さんがやってたみたいに手だけじゃなくて、身体全体を使うようにして……)

 

 言われたことを反芻するようにしながらややぎこちないながらに軸足に体重が乗ると胸元めがけてボールが投げられる。逢坂のボールと比べて勢いはないものの、十分な勢いを持って放たれたそれは逢坂のお腹あたりに落とされたミットに収められた。

 

「ナイスボール! なんだか捕るコツが掴めてきた気がするわ!」

 

「な、ナイスキャッチです……!」

 

(やったぁ……! 届いた……私でも届けられるんだ。なんだか嬉しいというか……楽しい、な)

 

 他の皆も胸元に狙い通り届くボールやポケットに収まる綺麗なキャッチばかりとまではいかないものの、アドバイスを受ける前と比べて明らかに安定したキャッチボールが出来るようになっていた。

 

「……はぁ」

 

 坂を(のぼ)りながら下りた時と同じように倉敷は短いため息を吐く。

 

(軽く説明するだけのつもりだったのに。どうしてあそこまでしっかり説明しちゃったんだろ)

 

 歩きながらその理由を考えてみるが結局思い当たらずに坂を上りきってしまう。倉敷は頭を横に振ると、頭の中を切り替えた。

 

(いや、今はそれより……しっかりランニングをしないと。夏の大会、アタシたちが負けた二回戦。負け投手は野崎(あの子)だったけれど、敗因はアタシにある。今までと同じ、打たれまいと初回から全力投球して、最後まで持たずに代わって、負担を掛けた。もうこんなことないように、一人でも投げきれるようにスタミナをつけないと)

 

 ようやくバックネット裏から有原たちが出てきて新入部員のもとに向かうのを横目に倉敷は中断していたランニングを続けたのだった。

 

「みんなー! 待たせてごめん!」

 

「何かあったの?」

 

「あはは……ちょっとね。でももう大丈夫!」

 

「……そう、それなら良かったわ。キャッチボール上手く出来てるか見てもらえる?」

 

 キャッチボールを始めたあたりから東雲に話しかけられた有原と鈴木がバックネット裏に連れていかれたことに気づいていた近藤はその様子を遠目に見て心配していたが、当事者が問題ないと言った以上そこに深入りすることはしなかった。

 

「うん! ……ってあれ、みんな形になってる!」

 

「さっき倉敷先輩が来て丁寧に説明してくれたんです」

 

「へえー……そうだったんだ!」

 

 東雲は有原がキャッチボールの邪魔にならない程度に近づいて話すのを少し引いた位置から見ながら、先程あったことを思い出していた。

 

 少しいいかしら、と話しかけ有原と鈴木をバックネット裏まで連れてきた東雲は、有原に問いかける。

 

「有原さん。あなた、この時期に新入部員が六人も入ったことをどう考えているのかしら?」

 

「そりゃもう嬉しいよ! これだけの人数が野球に興味を持ってくれたんだもん!」

 

「……そうね。男性と比べて女性の野球に対する認知度はまだ低い。興味を持ってくれたこと自体は私も嬉しいわ」

 

 その言葉を聞いて鈴木は訝しげな顔をする。

 

(……“自体は”。つまり東雲さんは……)

 

「でしょでしょ!」

 

 対して有原はまだこの言葉が持つ不穏さに気づかず、意見の一致を喜んでいる。

 

「……ただ」

 

「ただ?」

 

「私は懸念しているの。今回加入してくれた新入部員のやる気のいかんによっては、部に弛緩した雰囲気が蔓延するのではないかと。練習を厳しくしてそれを防ぐべきじゃないかしら?」

 

「それは……だ、大丈夫だよ! みんなで一緒に頑張れば……」

 

「本当にそうかしら? 今まで私たちが程よい緊張感を保ってこれた要因の一つは、良くも悪くも人数に余裕が無かったこと。誰一人欠けてもいけないような状況が続いていたこと。それが……これだけの人数になれば、プレーに直接関わらず試合を終えるメンバーがいるのは否定出来ない。そしてそのメンバーは今のところ、経験があまりない新入部員よ。あなたの言うように“楽しく”練習したとして、試合での出番がなく終わっても、果たして緩まずにいられるかしらね?」

 

「…………」

 

 東雲がまくし立てるように発した言葉に有原は返す言葉が続かない。それを見兼ねた鈴木が助け舟を出す。

 

「……でも、それはメンバー間で気遣うことでフォローできる問題だわ」

 

「そうかもしれないわ。でも、これは一例に過ぎない。私が有原さんに言っているのは先程新入部員に言ったように楽しく練習すること、それは私たちがもっと上にいくためには邪魔になるということよ」

 

「そ、そんな言い方……!」

 

「誤魔化してもしょうがないでしょう。どうなのかしら、有原さん?」

 

「……少し、考えてもいいかな」

 

「構わないわ」

 

 有原は向き合っていた東雲から視線を外すと、グラウンドの方を見る。ランニングに向かったメンバー以外はグラウンド付近で各自自主トレを進めていた。野球同好会の設立当初と比べて賑やかになったメンバーを見て有原は複雑な心境を抱いていた。

 

(私は……みんなと楽しく野球がしたい。でも、試合にも勝ちたい。勝って、もっと大きく羽ばたきたい。けれどそのためには東雲さんの言うように、楽しいだけじゃ……ダメ、なのかな)

 

 今の有原にとってバックネットの網目を通して見える景色はどこかパズルのピースのようにばらけているように感じられた。そのピースの一つに、思わず目を奪われる。

 

(ともっち……!?)

 

 有原の竹馬の友である黒髪ショートの少女、河北(かわきた)智恵(ともえ)は素振りをしていた。一回一回、実際に打席に立っているように集中し直す彼女はまたスイングをする。その足元にある土が軸足で蹴られて跡が残り、それが元々いたであろう場所から10メートルは続いていたことに有原は驚嘆した。

 

(……ともっち、前に私に言ってくれたよね。甘やかさないで、もっと厳しくして欲しいって。私はみんなに野球を楽しんで欲しい。厳しくして野球を嫌なものだと思って欲しくない。……でもそれって、甘やかしてる……ってことだよね)

 

 有原は視線をグラウンドに移す。ポジションテストのために空けている、まだ誰もいないグラウンド。グラウンドに誰もいないこの状態は有原に清城(せいじょう)高校と初の練習試合で惨敗した時のことを思い起こさせた。

 

(あの時、みんなもう来てくれないって思った。でも信じられなかった私の思いに反して一人も欠けることなく来てくれた。……そっか。結論はもう出てるじゃない)

 

 グラウンドから目を離して反転すると、その目は真っ直ぐに東雲に向けられていた。

 

「答えを聞かせてもらおうかしら」

 

「うん。……練習は厳しくしようと思う」

 

(私はみんなを、興味を持ってくれた野球を自分の意思でやろう! と決断してくれたみんなを、信じる!)

 

 東雲が有原の目をじっと見つめる。その様子を横から見ていた鈴木は二人の間に走った緊張感に思わず息を呑んだ。

 

「でも! 練習は厳しくしても、試合は楽しんでやろう!」

 

「…………ええ、異存はないわ」

 

 有原の答えに東雲は口角を上げて笑った。

 

「えっ」

 

「……? 鈴木さん、何か問題があったかしら」

 

 話の流れを見守っていた鈴木が間の抜けた声を発すると、東雲がとても不思議なものを見るように彼女を見ていた。

 

「いや、だって……さっき試合での緊張感の話があったから。てっきり試合も厳しくとか、そういう方向になるかと思って」

 

「試合で厳しくしてピリピリした雰囲気が充満することほど最悪なことはないのは私自身嫌になるくらい味わってきたわ。それと緊張感は試合を楽しむ上で練習もただ楽しくやっていたら弛緩した雰囲気が流れるという話、有原さんがそこを混同してないか試させてもらったのよ」

 

「……そう」

 

(確かにそういう話ではあったけれど、東雲さんはもう少し言い方に気をつけるべきだわ……)

 

「……でも、おかげで気持ちをはっきりさせられたかな。東雲さん、ありがとう!」

 

「…………そ、そろそろ戻りましょう」

 

「あ! そうだね。待たせすぎちゃった!」

 

 有原がすっきりした笑みをこぼして礼を言うと東雲は有原に向けた視線をそっと逸らして、新入部員の方に向かって歩いていく。その後ろを有原がついていくと、今のやりとりで一番疲れたような顔をした鈴木がその後ろをついていった。

 

(有原さん。その言葉、態度でも示すことね。……とはいえ、新入部員の中に経験者はいないし、まずは硬球に慣れてもらってからの話かしら)

 

 先ほどの出来事を確認するように思い出した東雲は自身も新たに入った部員たちのもとに近づいていく。

 

「確か初瀬さん……だったわね。少しいいかしら?」

 

「は、はい。なんでしょうか……」

 

「基本的な動作は問題なさそうだけれど、時折目をつぶってしまう癖は直した方がいいわ。硬球はぶつかったら痛いし、気持ちが分からないことはないけれど、目をつぶってしまう方がよっぽど危険よ」

 

「分かりました。意識してみます」

 

 その後3人の指導を受けながら10分ほどキャッチボールを続け新入部員が硬球の扱いに少し慣れてきた頃、ポジションテストを始めるべく各自希望したポジションに散っていく。東雲がボールの入ったカゴをホームベースの近くまで持っていく間、鈴木が逢坂に話しかけていた。

 

「逢坂さん。あなたはピッチャー希望だから、ノックを受ける前にそこのブルペンでボールを受けさせてもらえるかしら?」

 

「分かったわ! 肩もなんだかいい感じに軽くなってきたし、思いっきり投げたいと思ってたのよ!」

 

 レガースを取り付けながらグラウンドに行こうとする逢坂を呼び止めるとプルペンに向かうよう指示を出す。彼女がブルペンと呼んだそれはグラウンドにあるマウンドと比べると盛り上がった土も無く、真新しい白線で投げる場所と捕る場所だけ分かるようにした仮のものであったが、逢坂は全力投球出来ることへの喜びから上機嫌で入っていった。

 

「美奈子ちゃーん。わたし外野のどこに行けばいいのかな……」

 

「うーん。あ! わたしの頼れる背中がよく見えるあそこなんてどうかね?」

 

「あそこは……センターだね。そこにしてみる!」

 

(永井さんの第一希望ポジションは……センターにしたのね)

 

「有原さん。ボールは私が打つからあなたは外野側から彼女たちの様子を見ていて」

 

「あいあいさー!」

 

 近藤がつけていたミットがキャッチャー用のものではないことに気づいた有原がミットをキャッチャー用ヘルメットと一緒に持ってきて渡すと、ノックの準備を終えた東雲に話しかけられ外野に向かっていった。

 

(あ! 秋乃さんがつけてるのもファースト用じゃない! ……でも秋乃さんはファーストだけ希望してるわけじゃないから、ポジションが決まったらで大丈夫か。……ん?)

 

 秋乃を見ながら横を通り過ぎたあたりで後ろ側から息を大きく吸い込むような音が聞こえる。疑問に思った有原が振り向こうとする前に彼女の耳が新たに発せられた音に反応した。

 

「フレーッ! フレーッ! 新入! 部員ー!」

 

「うひゃぁっ!?」

 

 突然の大声に驚いた有原が振り返ると、グラウンドで構えていたメンバーも遊歩道の方を見ながら目を丸くする。そこでは学生帽を被り学生服をマントのようにして羽織った少女が掛け声に合わせて腕を伸ばしながら精一杯応援していた。

 

「びっくりしたぁ……。もー、岩城(いわき)先輩。急に大声を出したらびっくりするじゃないですかぁ」

 

 カランコロン、という独特な下駄の足音をさせながら二年生の岩城(いわき)良美(よしみ)が坂を下りてくる。

 

「はっはっは! 悪い悪い。ランニング折り返してきたらちょうどノックが始まるところだったから、これはウチが応援しないといけないと思ってな。というわけで、今からは急じゃないぞ!」

 

 黄色の髪を揺らしながら有原のすぐ近くまでやってきた岩城はそう言うと屈託のない笑顔を浮かべた。

 

「へっ……?」

 

「フレーッ! フレーッ! ガッツだ! ファイトだ! 青春だー!」

 

「わひゃあぁ……! 耳が、耳がキーンって……」

 

(うう……でも新入部員に思わず応援したくなるなんて岩城先輩らしいなあ。私たちがまだ5人しか人数揃ってなかった時もこうして応援してくれたっけ)

 

 有原は至近距離からの声援に思わず耳を塞ぎながらも顔には喜色が現れていた。

 

「フレ……おわっ! な、なんだぁ!」

 

「あっ、ルーちゃん!」

 

 全身を使って応援していた岩城が思わず動きを止めると、足元に来ていたリスが器用に彼女の体を上っていき、肩の地点に到着すると腕を交互に伸ばし始めた。

 

「こいつは……?」

 

「その子はね、ルーちゃんっていうの! 小麦のともだちなんだよ!」

 

「も、もしかして……岩城先輩の真似をしてるのかな?」

 

「うん! ルーちゃんはね、とっても賢いんだよ!」

 

「キュー♪」

 

 秋乃に褒められて嬉しそうに応援を続けるルーちゃんの応援熱に思わず岩城が感動する中、ホームから注意が飛ばされる。

 

「…………岩城先輩。ノックを始めたいので、すいませんが今は声援は無しでお願い出来ますか」

 

「なにっ! だ、だが……」

 

「……ノックの掛け声が遮られてしまいますから」

 

「む、それはいけないな……。邪魔になっては意味がない」

 

「キュー……」

 

 岩城が応援を中断して肩を落としながら遊歩道に戻っていくとルーちゃんも肩を落とした。

 

「あ! ルーちゃん、そこのどんぐり集めてあるところにかえしてあげてー!」

 

「ああ。分かった!」

 

 そこは新入部員用のミットが入ったカゴの近く。岩城は言われた通りそこに行き手をつくと、ルーちゃんは腕を渡るようにしてそこを降りていった。

 

(ミット……ん、そうか!)

 

「サードから行くわよ!」

 

「よ、よろしくお願いします!」

 

(えっと……まず、目をつぶらない。そして出来るだけポケットで捕る!)

 

 東雲が軽く打ったボールは初瀬のほんの少しだけ左側に転がっていく。それに初瀬はミットをつけた左手を伸ばすが、収まることなくボールは弾かれてしまう。

 

「きゃっ、ごめんなさい!」

 

「今は謝らなくていいわ。けど手だけで捕りに行こうとしないで、体を動かして! ボールの正面に入ることを意識するのよ!」

 

「は、はい! 気をつけます」

 

(もしかして東雲ってめちゃ怖い感じ……?)

 

 新田が東雲に警戒心を抱くと、東雲も新田の方に振り向き思わず新田はびっくりする。

 

「次、ショート!」

 

「お、おっけー!」

 

(そっか、次はわたしかって……速っ!)

 

 東雲が軽く打ったそれも初心者の新田にとっては速く感じられ、正面に放たれた打球だったが差し出したミットの下、そして足の間を抜けていってしまった。

 

「新田さんも手だけで捕りにいってるわ。腰を落として!」

 

「わ、分かったー!」

 

(ほっ……良かった。私だけじゃないんだ……。……って、私なんてことを!? 他の人のミスを喜ぶなんて……)

 

 初瀬が自分を責める間にもノックは続けられていく。

 

「ファースト、行くわよ!」

 

「ばっちこーい!」

 

(……あっ、しまった! いつものノックの癖で厳しめに……!)

 

 二人に放った打球とは違い、一二塁間のややファースト寄りという捕れるか捕れないかギリギリといった位置に転がってしまう。勢いも鋭いこの打球に、秋乃は反応していた。

 

「とりゃー!」

 

「えっ……!」

 

 地面スレスレのジャンプでボールに飛びついた秋乃のミットの先にはボールがしっかり収められていた。

 

「とったよー!」

 

「な、ナイスファースト!」

 

「秋乃さん、ナイキャッチー!」

 

(秋乃さん、野球経験はないようだけれど一歩目が早いわね。反射神経がいいのかしら?)

 

「センター!」

 

「は、はい!」

 

 空に向かって伸びていった白球がやがて勢いが収まり、落ちてくる。

 

(わわっ。今、ボールどこらへんにあるの〜?)

 

 白球を見上げる永井だったが距離感が掴めず少し下がったあたりで足が止まってしまう。

 

「加奈子! もっと後ろ〜! もう落ちてきてるよ!」

 

「ええっ!」

 

 新田の指示で永井は慌てて後ろ歩きで下がるとミットを上に向けて構えるが、ボールは無情にも頭の上を抜けて後ろでバウンドしてしまう。

 

「あちゃー。加奈子、バンザイしてるみたい」

 

「うう……ボール拾って来なきゃ」

 

「その心配はないぞ!」

 

「えっ……」

 

 ボールを追いかけようとする永井だったが、外野の奥にまだ咲いているひまわりを避けながら岩城がそのボールをミットに収めて拾い、新田が逸らしたボールと共にジャージのポケットに入れた。

 

「あ、ありがとうございます。すいません、逸らしちゃって……」

 

「なに、気にするな! ウチが今出来る応援はこれくらいだ! それに最初はみんな逸らすもんだ。ウチも最初はこぼしたり逸らしまくった!」

 

「そうなんですか……?」

 

「ああ! だけどみんなのアドバイスを聞いたり、一杯練習して大分マシになった! だから今は焦らなくても大丈夫だぞ!」

 

 快活な笑みを浮かべながら岩城が背中をミットで軽く叩くと、永井はどこか安心した様子だった。

 

「は、はい! 頑張ります!」

 

「翼ー! ウチにしてくれたアドバイスを加奈子にも!」

 

「任せてください! フライはね、慣れない最初は自分が感じてるより後ろに下がって大丈夫!」

 

「え……? だ、大丈夫なんですか? 下がりすぎちゃったら……」

 

「それは平気! なんていうか……後ろじゃなく前ならなんとかなるの!」

 

「ええと……」

 

「キャッチャー!」

 

 有原が説明している間にもノックは進められ、東雲が大きく打ち上げたボールを近藤が見上げると、その視界には小さな点としか捉えられないほどになったボールが映る。

 

(う……どこらへんだろう)

 

 近藤はほぼ真上にあるボールに見づらさを感じて後ろに下がっていく。すると角度がついて点のようだったボールが球体として捉えられるようになり、既に落ちてきていることに気づいた。

 

「わっ……と!」

 

 慌てて前に出てミットを差し出すと、不恰好ながらもボールをキャッチすることに成功していた。

 

「ナイス判断よ。キャッチャーフライは慣れるまでは距離感が掴みづらいし、打ち損じだから変則的な打球も多いのだけれど、一つずつ慣れていけばいいわ」

 

「は、はい!」

 

(あれ……もしかして東雲、怖いばっかりじゃないのかな)

 

「あ……なるほど。後ろ足でとてとて下がりながらだとさっきの私みたいに追いつききれないこともあるけど、前なら思い切り走れるし、後ろに下がって角度がつく分見やすいから、やりやすくなるんだ」

 

「そうそう! それが言いたかったの! 最初はね、そうやって感覚を掴んでいくといいよ」

 

 永井が有原が伝えたかった内容を友人のプレーを見て理解していると、二巡目のノックが始まる。

 

「それとね、最後には絶対にボールを捕るぞーっていう気合も大事だよ!」

 

「き、気合ですか?」

 

「うん! 守備をやってると捕れるか捕れないか、ギリギリだなーって打球が来る時があるの。そういう時はなんとしても捕ってやるんだーって思うんだ」

 

「そうだな! 気持ちで負けていたら捕れるものも捕れん!」

 

「ううん……そうなのかな?」

 

 やがて永井の順番になり、金属音が響くと打球が空を舞う。彼女から見てそれはやや右側へと放たれていた。

 

(あ……さっきみたいな真正面の打球より、少し見やすいかも)

 

 永井はそう思いながら自分の感覚より深めに下がっていくと捕球体勢を整えた。

 

(えっ!)

 

 彼女が構えていた位置にちょうど打球が落ちてくる。驚きながらも捕球を試みたが、ミットはボールを弾いてしまった。

 

(び、びっくりしたぁ。思いっきり下がったつもりだったのに、ボールってこんなに伸びてくるんだ……)

 

「永井さん、惜しいよ!」

 

「後は気合だ! ミットが届く位置にボールが来たなら、そのボールは捕れるはず。そこからは気持ちの勝負だ!」

 

「は、はい!」

 

(確かに……。ボールが体に向かって飛んでくるのが怖くなってつい腰が引けちゃった。気持ちも……案外大事なのかなぁ)

 

 その後もノックが進められ有原も岩城と同じくボール拾いに回ると、プルペンで投げていた逢坂が口を尖らせながら外野まで歩いてきた。

 

「逢坂さん。どうかしたんですか?」

 

「それがさー、聞いてよ加奈子ちゃん! たいかん? がどうとかで、今のアタシじゃピッチャーは任せられないんだって!」

 

「それは……残念だったね。キャッチボールの時に投げてた逢坂さんの球、速そうに見えたのに」

 

「でしょー! とりあえず外野でノックを受けてって言われたけどこんな地味な練習、大女優になるアタシには世界で一番いらない練習だわ……」

 

「あ、でも夏の大会を応援しにいった時、ライトの宇喜多(うきた)さんがフェンスにぶつかりながらフライを捕った時は凄かったですよね。球場にいた観客が一斉に盛り上がって……」

 

「……! そうか……守備でも目立てる? ……決めたわ! アタシ、ライトやる!」

 

 ふくれっ面が一転して嬉しそうに顔を輝かせ息を弾ませると、意気揚々とライトにノックを受けにいった。

 

「あ、逢坂さん? ……行っちゃった」

 

 鈴木がプロテクターを外しながら近づいてきたことに東雲は気がつくと、ノックを一旦中止して話しかけた。

 

「どうだった?」

 

「球速は悪くなかったわ。ただコントロールがあまりに酷かったから角材に乗ってもらったのだけれど、どうも体幹が弱いらしくて今のところピッチャーは難しそうよ」

 

(……まあ、そうよね。ピッチャーはどこのポジションよりも運動センスが問われるポジション。そう簡単になれるものではないわ)

 

「分かったわ。……ノックを続けるわよ! ライト!」

 

 話を聞き終えると東雲はさばさばとした顔つきでノックを再開し、入ったばかりの逢坂に向かって打球を飛ばした。

 

「来たわね! 見せてあげるわ、アタシの華麗な守備を!」

 

 飛んできた打球に嬉々として向かっていく逢坂、自信ありげな眼つきがボールの位置を捉えるとそのボールに飛びついた。

 

「ダイビング……キャーッチ!」

 

 華奢な体が宙を舞い、弧を描いて落ちてくるボールがミットに吸い込まれていく。

 

(放さない……んだからぁ!)

 

 ミットの先で掴まれたそのボールは彼女の体が地面に接触した衝撃を受けても放されることはなかった。

 

「や、やった! やったわ! さっすがアタシ!」

 

 豪快なダイビングキャッチに新入部員たちは驚きの声を上げ、逢坂はこれ以上ないほどのドヤ顔を浮かべる。

 

「……良く捕ったけれど、一歩目が大幅に遅れていたわ。最初は余裕を持って届く範囲に打つから、今はそういうプレーよりも基礎的な部分から身につけてもらえるかしら」

 

「あ、あれぇ……?」

 

 しかし東雲から予想外の注意を受けてしまい逢坂は困惑する。そんな逢坂を見て、永井は気持ちも大事だけれど気持ちだけが先行するのも良くないことを学んだのだった。

 

「……ノック終了! 休憩に入るわ」

 

 その後30分近くポジションテストを兼ねたノックが続けられ、ようやく終了する。普段運動しない新田が疲労のあまり東雲のことを冗談交じりに鬼東雲(おにくもー)と呼んだことが彼女の癪に触ったこともあり少し長めのノックとなってしまった。

 

「ふへぇー、疲れたぁ」

 

 新田を始めとして近藤・永井・逢坂が次々と木製のベンチに倒れこむようにして座り、ジュースで水分を補給する。エネルギッシュさを見せていた秋乃も色々なポジションを試して疲れたのか、ベンチに寝転がるようにしてタオルで汗を拭いた。

 

「ふぅ〜。つかれたけど、たのしかったぁ」

 

「秋乃さん、どのポジションが一番やりやすかったかしら?」

 

「うーんとねー……一番最初にやったところがよかった!」

 

「ファーストね、分かったわ。しばらくはそこで練習することにしましょう」

 

「りょーかい!」

 

 秋乃のポジションも決まり、他のメンバーも先ほど守っていたポジションでやっていくことになったため全員のポジションがひとまず確定する。そのことに安堵しながらノックの疲れを取るように東雲はスポーツドリンクで喉を潤した。

 

「東雲さん、少しいいかしら。秋乃さんのポジションのことなのだけれど」

 

「彼女はファーストでやっていくそうよ」

 

「ファースト? でも彼女はファーストを守るには身長が低いし、リーチもそこまで長くないわ」

 

「そうね。そこは野崎さんと比べると劣る部分だけれど、守備範囲の広さには目を見張るものがあったわ」

 

「私が本で読んだ限りだと、ファーストはそこまで守備に比重を置かなくて良いポジションだと思うのだけれど……」

 

「それは恐らく古い本か、昔に読んだ本ね。今は右打者が右方向にも強く打球を飛ばす時代、引っ張ることによって強い打球が来やすいサードに比べてファーストの守備は軽視されがちだったけれど、今はファーストの守備というのも大事になってきていると思うわ。内野一人一人の守備範囲が広がることで相手のヒットゾーンを減らす効果もあるしね」

 

「……そう、なのね」

 

 幼い頃から兄の役に立ちたいと思い野球の勉強をしてきた鈴木にとってこの意見はすぐには納得し難いものだった。しかし幼い頃に読んだ本という指摘が当たっていたことや、野球一家の家系であり幼い頃から今日に至るまで野球に真剣に取り組んできた東雲の言葉を、まだ実戦の経験が少ない彼女は否定しようとは思わなかった。

 

 バックグラウンド裏での口論やノックが長引いた影響によって予定した時間より遅くなってしまったため、休憩が始まる前に自主トレでランニングを選んだ者たちもほとんど戻ってきていた。

 

(あれ……倉敷先輩がいない。まだランニングに行ってるのかな)

 

 タオルをボールに見立てて投球の練習を行うシャドウピッチングの自主トレを行っていた長身で金髪の少女、野崎(のざき)夕姫(ゆうき)は倉敷が帰ってきていないことに気づき、彼女たちが連絡用のツールとして使用しているアプリ『NINE(ナイン)』の個人連絡を使い、ポジションテストが終わった旨を連絡した。

 

「ふぅ……」

 

 野崎は連絡を送ると休憩もそこそこにシャドウピッチングを再開する。

 

(夏の大会の二回戦、倉敷先輩に託されたマウンドだったのに制球(コントロール)が定まらなくて無駄な四球(フォアボール)を出して、甘くなったボールを打たれて……皆さんの夏を終わらせてしまった。私のせいで……皆さんに迷惑をかけてしまった。もう、こんなことがないようにコントロールをつけないと……!)

 

 タオルが風の抵抗を受けながら空を裂き、ブーンという長い音が響く。すると彼女がバッグに戻した端末に返信が届く。練習に夢中になる彼女が今それに気づくことはなく、そこに書かれていた返事は履歴にあるやり取りと同じように長文で書かれた夕姫のものと違い「分かった」という淡白なものだった。

 

(やっぱり……私が運動なんて無理だったのかな)

 

「そんなところでなーにやってるにゃ?」

 

「あ、中野さん……」

 

 そんな中、湿り気を帯びたオリーブグリーン色の髪がタオルで拭いた際に少しくしゃくしゃになっている中野綾香(なかのあやか)が一人離れた場所でミネラルウォーターを飲んでいた初瀬に気づき、話しかけた。

 

「先程は助けていただいてありがとうございました……」

 

「困った時はお互い様だにゃー。初瀬には部を認めてもらう時に色々世話になったからにゃ。気にすることはないのにゃ」

 

「そう言ってもらえると助かります……」

 

「で、なーんでこんな隅っこにいるのにゃ?」

 

「う……それは、その……」

 

 初瀬は言いづらそうに目線をそらすとグラウンドの方に目をやる。それは新聞部を自称するほど観察眼に自信がある中野にとって事情を察するには十分な行動だった。

 

「ははーん。さてはノックが全然捕れなかったんだにゃ」

 

「うっ! ……そうなんです。最初こそ秋乃さん以外は同じような感じだったんですが、最後の方は皆さん慣れてきてそこそこ捕れるようになってきたのに私だけ結局一回も捕ることが出来なくて……」

 

「なるほどなるほど。それで落ち込んでると」

 

「はい……。私、野球向いてないのかなって……」

 

「にゃははは! 初瀬は気にしすぎなんだにゃー。そもそも野球部がまだ同好会だった頃にワタシが入ったばかりの時なんて、翼と阿佐田パイセン以外はみんなポロポロしまくりだったし、宇喜多だって今の初瀬と似たようなもんだったのにゃ」

 

「えっ!? 宇喜多さんって……この前の大会の時にフェンスにぶつかりながらもボールを捕っていた方ですよね……?」

 

「そうにゃ。それだけ宇喜多が頑張って練習して、上手くなったってことだにゃ。最初から上手いやつなんて早々いないのにゃ」

 

「で、ですが秋乃さんはほとんどボールを捕られていましたが……」

 

「記者をやってきたワタシの経験則でいうと、こういう初心者組が一斉になにかをやる時ってのは一人ぐらいは上手いことこなすやつがいるもんにゃ。翼は経験者だったからワタシたちの場合はそれが阿佐田パイセン、今回はそれが秋乃だったってことにゃ」

 

「そうなんですか……?」

 

「そうにゃ。初瀬は頭が良いからその分、色々考えすぎなんだにゃー。真面目なのが悪いとは言わないけど、自分を精神的に追い込んで良いことなんてまず無いのにゃ」

 

 そういうと中野は初瀬がかけていたメガネを外し、代わりに自分が頭につけていたツルのない黒縁(くろぶち)メガネを押さえるようにして取り付けた。

 

「わわっ……!? み、見えないです……」

 

「にゃはは。度が入っていない伊達メガネだからにゃ。でも、今見える光景なんてこれくらいぼんやりとした感じで受け取ってしまえばいいのにゃ。ワタシだってこの高校に入った時はまさか野球部に入るとは思わなかったけど、実際にはこうして野球部の一員として頑張ってるのにゃ」

 

「わ、私も……想像もしてなかったです」

 

「そういうことにゃ」

 

 初瀬は目の前の黒い物体が離れていくのを感じると耳にツルの感触を覚え、その視界には少し見下ろすようにして晴れやかな表情をしている中野が映し出された。

 

「……中野さん。ありがとうございます。私、自分には無理なんだって決めつけちゃってました。まず頑張ってみて……それからまた、考えてみようと思います」

 

「それがいいにゃ」

 

 初瀬からようやく笑みが零れるのを確認して安堵した中野は有原と東雲を呼びつけた。

 

「どうかしたのかしら?」

 

「ちょっと初瀬にサードの守備を見せてやって欲しいのにゃ」

 

「構わないけど……」

 

「翼にはノックをお願いするにゃ」

 

「うん! 任せといてー!」

 

 準備が完了すると金属音が響き渡り、鋭い打球が三塁線を襲う。打球に素早く反応した東雲は逆シングルでボールを捕るとすぐさま送球体勢を作り、ファーストにボールを投げるフリをした。

 

「す、凄い……。私の時と、全然違う……」

 

「次、行くよー!」

 

 東雲がバックネットに向かってボールを流すと次の打球が放たれる。その方向は東雲の正面だったが、ボールが彼女の目の前でバウンドする形となった。東雲はボールが打たれた瞬間、立ち位置を調整するとボールがバウンドした間際でキャッチしてその勢いを殺さずに送球体勢を作り、投げるフリをする。その後も何球かノックは続けられ、全ての打球を東雲は捌いてみせる。その様子を初瀬はじっと見つめ続けていた。

 

「有原さん、東雲さん、ありがとうございました……!」

 

「大丈夫だよ! なにか分からないことがあったらいつでも遠慮なく聞いてね!」

 

「やる気があるのは良いことだわ。サードのことで聞きたいことがあれば私に聞くといいわよ」

 

「は、はい! また何かあればお願いします」

 

 やる気に満ちた顔つきでプレーを見る初瀬に二人はどこか満足げな表情で休憩に戻っていった。

 

「で、どうだったかにゃ?」

 

「なんというか……無駄がなかったように感じます。全てのプレーがスムーズでした。打球も速くて、東雲さんのプレーも素早くて……」

 

「今初瀬が言ったように野球のプレーってのは“はやい”んだにゃ。一々こういう時はどうするとか頭で考える余裕ははっきり言って無いのにゃ」

 

 その言葉を受けて初瀬は自分がノックを受けた時のことを思い出す。頭で毎回反省点を反芻し、どう動くのがいいのか考えながらプレーしていた自分の動きはどこかぎこちなかったように思い出された。

 

「確かにそんな時間は無いのかもしれません。ただ、それならばどうやって……」

 

「ワタシも始めた頃気になって調べてみたのにゃ。すると元プロ野球選手(先人)自叙伝(じじょでん)に興味深いことが載っていたのにゃ」

 

「自叙伝まで調べたんですか……!?」

 

「こういう時、先人の知恵ほど頼りになるものはないのにゃ。それによると理性ではなく本能で判断しているらしいにゃ」

 

「ええっ! 本能っていうと……何も考えていないってことですか?」

 

「平たく言えばそうみたいにゃ。ただ本能っていっても適当にやる訳ではないにゃ。頭で考えているようなプレーを無意識に脳裏でイメージ出来るまで練習することで、本番で理想的な動きが本能で引き出される……といった具合みたいにゃ」

 

「や、やはり練習の賜物なんですね……」

 

「よく考えると当たり前ではあるけれど、そういうことなんだにゃ。ただここで終わらないのが新聞部の新聞部たる所以(ゆえん)だにゃ」

 

 中野はふてぶてしい笑顔をのぞかせながら先ほどから構えていたカメラの映像を繋ぎ終えた。

 

「どういうことですか……?」

 

「無意識でイメージ出来るようになるためには練習以前にまず意識してイメージ出来ないと、そこには辿り着けないにゃ。ただ野球知識がないと一つ足りとも同じ打球が飛んでこない野球ではそれすらも難易度が高いのにゃ」

 

「た、確かに。イメージの中でも私が上手くやれるような感じはしないです……」

 

「にゃはは。私も最初はそうだったにゃ。だから東雲に実際の動きを見せてもらったのにゃ。翼も経験者なだけあって、色んな打球を飛ばしてくれたんだにゃ」

 

「う……頑張って見てみたのですが、なにぶん動きが早くて、今イメージ出来るほどは……」

 

「そりゃあすぐにイメージを固めるなんて至難の業にゃ。けど安心するにゃ。ワタシの愛用カメラ(ワトソン)がしっかり映像(イメージ)を捉えているんだにゃ」

 

 すると中野はカメラを初瀬の前にまで持ってきて先ほどの東雲の守備をコマ送りで再生し始めた。

 

「あ……凄い。さっき目で追いきれなかった動きがよく分かります……」

 

「この動きを頭の中でイメージ出来るようになれば、きっとさっきよりはマシになるにゃー」

 

「あ、ありがとうございます……!」

 

 カメラを渡された初瀬は礼を言い、ツルを動かしてメガネの位置を調整すると液晶モニターを覗き込む。のめり込むように凝視する初瀬の横顔を見て中野は柔らかな微笑を浮かべた。

 

「つっくも〜、せっかくしのくもが自主トレでいいって言ってたのに、わざわざずっとランニングしてたのだ?」

 

「まあね。生徒会に入ってから本格的に運動する機会は減ってしまったから、体力を少しでも戻しておこうと思ってね」

 

 その頃、ちょうどランニングを終えて汗を拭きながら息を整えている同学年の九十九(つくも)伽奈(かな)を阿佐田が見上げるようにして話しかけた。

 

「おおー、九十九がやる気なのだ」

 

「倉敷さんには敵わないけどね。私が最後かと思ったら、彼女はまだ走っているんだろう?」

 

「まいちんは頑張りすぎなのだー。最近は隙さえあれば走ってる気がするのだ」

 

「確かにね……今の彼女は少し頑張りすぎかもしれないな。大会が終わってから、笑っているところを見なくなったように感じるよ」

 

 九十九は倉敷の最近の様子を思い出す。練習中を始めとして特に態度に大きな変化があったわけではない。ただ彼女のことをよく見ていた九十九にとっては今の彼女は時折笑顔を見せていた以前とは異なり、どこか張り詰めているように感じられた。

 

「そうそう。まいちんも九十九も、あおいを見習って表情筋を柔らかくするのだ」

 

「……そういえば大会で捻挫した足はもう大丈夫かい?」

 

「もう大丈夫なのだー。この通りなのだ」

 

 阿佐田はその言葉と共に怪我した足を軸に一回転してみせた。

 

「良かった。捻挫はクセになると厄介だから、気をつけるんだよ。それであおいは自主トレ、何をしていたのかな?」

 

「ふっふっふ。必殺のにゃんこ打法の習得に励んでいたのだ」

 

「…………ああ。素振りをしていたんだね」

 

「そこは表情筋を大きく動かして驚くところなのだー!」

 

 猫が吠えるように表情筋を動かす阿佐田。そんな彼女たちの会話が落ち着いたタイミングを見計らって鈴木が話しかけた。

 

「少しいいかしら」

 

「鈴木さん。どうかしましたか?」

 

「すずわかもにゃんこ打法に興味があるのだ?」

 

「いえ、無いです。それよりお二人のポジションのことなんですが……」

 

 ショックを受ける阿佐田をよそに鈴木は説明を続ける。するとそのタイミングで倉敷がようやくランニングから戻ってきた。

 

(……まだ、休憩中みたいね)

 

 ベンチに座りタオルを首にかけてうな垂れるように一息つく。呼吸は荒く、落ち着くには時間がかかりそうだった。

 

「あ、倉敷先輩! お疲れ様です」

 

「……有原……?」

 

「そのままで大丈夫ですよ! さっきはキャッチボールの指導をみんなにしてもらってありがとうございました!」

 

 声で有原が話しかけてきたと判断した倉敷が顔を上げようとするが、疲れを察した有原がそれを止めると、自分たちが口論していた際に新入部員にキャッチボールのコツを伝えてくれたことの礼を述べた。

 

「……ああ。別に大したことはしてないよ」

 

「でもみんなしっかり形になってましたよ!」

 

「アタシが入った時に鈴木や、東雲に教えてもらったことの受け売りだよ」

 

「……あれ、私のは……」

 

「……アンタのは擬音が多くて、全然分からなかったわ」

 

「あはは……よく言われます。……次のバッティング練習ですけど、東雲さんがバッティングピッチャーをやるので倉敷先輩はもう少し休んでて大丈夫ですよ」

 

「……そうさせてもらうわ」

 

 バッティング練習が始まる時間が迫っていたが、倉敷の呼吸はまだ整っていなかった。倉敷は有原の提案に乗ることにし、炭酸が抜けてぬるくなったコーラを一気に飲み干した。

 

「……おや、練習が始まるみたいだにゃ」

 

 東雲がボールの入ったカゴをマウンドの近くまで持ってきたことで練習の時間になったことに気づいた中野は初瀬の肩を軽く叩くと、ミットを取り出した。

 

「あっ、もうそんな時間なんですね。……あれ、なんでミットを持っているんですか?」

 

「バッティング練習といっても、ゲージを買う余裕がなくて同時に一人しか打てないから他のメンバーの守備練習も兼ねているんだにゃー」

 

「そうなんですね……よ、よーし……!」

 

 映像を繰り返し見た初瀬はやる気に満ち溢れた顔でサードに向かう。するとそこには先客がいた。

 

「おっ。来たのだ」

 

「あ、阿佐田先輩……? 先輩のポジションは確かセカンドだったような……」

 

「うむ。大会ではセカンド専門だったけど、元々はサードを守っていたのだ。すずわかのお願いで今後はどちらも練習しておいて欲しいって言われたから、またサードも頑張ることになったのだ」

 

「そ、そうなんですね……。二つもポジションを守れるなんて、凄い……」

 

「といっても九十九なんて外野のポジション全部練習するみたいなのだー」

 

「ええっ! 三つもですか……今の私には想像も出来ないです」

 

 会話をしている間にバッティング練習が始まり九十九が放ったライナーが三遊間に飛ぶ。低い弾道の打球に深めでワンバウンドしたタイミングでのキャッチを図る有原だったが、バウンド前にその打球は阿佐田のミットに収められていた。

 

(あ、あれ……阿佐田先輩、いつの間にあんな位置に……)

 

「阿佐田先輩、ナイスキャッチです!」

 

「……やるね、あおい」

 

「くくく。勝負師として、九十九には負けられないのだー」

 

 阿佐田が九十九に挑戦的な表情を向けると、九十九は表情こそあまり動かなかったが口角を上げ、その後のバッティングで調子良くヒットを量産していた。

 

(バッティングピッチャーだから全力での投球ではないけれど、それにしてもよく打つわね。経験者の私と有原さんを除けば、チームで一番打率が高いのは九十九先輩じゃないかしら)

 

 九十九がバッティング練習を終えてライトに戻っていく。すると同じくライトのポジションを守っている猫耳のフードを被った茶髪の少女、宇喜多(うきた)(あかね)が逢坂に絡まれていた。

 

「ね、いいでしょ! そのフードの中に目立つ秘訣が隠されてるんじゃないかって思うのよ!」

 

「そ、そんなものないよ〜」

 

「怪しいわ! きっとその中には本物の猫耳が……!」

 

「……何をやっているんですか」

 

 そんな二人の様子を見て呆れながらも無視はできず九十九は声をかける。

 

「あっ、伽奈先輩! 先輩も茜ちゃんのフードの中、気になりますよね!」

 

「……本人が嫌がっているのなら、やめたほうがいいと思いますよ」

 

「えーっ、つまんないなぁ……」

 

 逢坂は渋々といった様子でフードを剥がすのを諦めたが、その表情は明らかに不服を訴えていた。

 

(た、助かったぁ。でも……)

 

 ライトにフライが飛び、順番の都合で逢坂が反応する。すると逢坂は先ほどのノックで早くも慣れてきたのか、ふらふらとした足取りながらもボールを掴み取った。

 

(ライト、三人に増えちゃった……。激戦区だよぉ〜)

 

 宇喜多は賑やかになった雰囲気に反して、今後への不安で胸の内が一杯となっていた。

 

 バッティング練習は進んでいき、九十九がセンターに移動し、阿佐田がセカンドに移ると、阿佐田と同じくセカンドを守っていた河北がバッターボックスに立った。

 

「……よし。こ、こーい!」

 

 気合十分といった様子でバットを構えると初球はバックネット方向へのファール。次の球を捉えるとライナーとなって放たれた。

 

「やった! ……あっ!」

 

 その打球はセカンド定位置からやや二塁ベース寄りの打球。セカンドに変わったばかりの阿佐田の頭上を抜けようかという打球はジャンプ一番、捕球されてしまう。

 

「むー。まだまだぁ!」

 

 次に放った打球は二遊間、ショート寄りのゴロ。勢いのある打球がセンターに抜けようかというところ、深めの位置で有原がなんとか体勢を崩さずに捕球した。

 

「ううー!」

 

(バッティングピッチャーとして投げてみて、有原さんと阿佐田先輩の間はほとんど抜かれない感じがするわね。……えっ!)

 

 そう思ったのも束の間、東雲の足元を抜いた打球は反応した有原・阿佐田に捕まることなくセンターへと抜けていった。

 

「中々やるのだ……!」

 

「やられたぁ。今のは捕れないよ、ともっちー!」

 

「ふふーん。私だって捕らせるために打ってるんじゃないんだから!」

 

(へぇ……)

 

 得意げにする河北を東雲が意外そうな表情で見ている間に、勢いよく転がっていく打球を永井が捕りにいく。しかしミットの下をボールがくぐり抜けてしまい、後ろにいた中野が慌てて捕球した。

 

「うう……。また捕れなかった」

 

「ドンマイにゃ。こっちに向かってくる打球に向かってこっちからも走るわけだからにゃ。スピード倍増なんだにゃ」

 

「どうすればいいかな……?」

 

「そうだにゃあ。どこら辺で捕るか目測をつけるのが一番だけど、その感覚が中々難しいんだにゃ。次飛んできたら、どう捕るか見てみるといいんだにゃ。……にゃにゃ!?」

 

 間髪入れず打球がセンターに飛んでくる。虚を突かれた中野だったが、その打球に反応した。

 

(これは……ツーバウンドする前に捕れるにゃ!)

 

 二遊間を超えてセンター前に落ちた打球。ワンバウンドで大きく跳ねると、その球が地面につこうとするほんの少し前のタイミングで中野は捕球に成功した。

 

「わぁ……」

 

「まぁ今のはバウンドも緩い感じだったから、慣れれば永井も捕れるようになるにゃ」

 

「……! 中野さん」

 

「おっと……!?」

 

 再び東雲の足元を抜いた打球がセンターに飛んでくる。中野が横に避け、九十九がその打球に向かって走ると何バウンド目か分からないほどバウンドした打球の跳ね際をすくうようにしてキャッチした。

 

「す、凄い……」

 

「転がってきた打球は思ったより跳ねないので、最初は早く捕ることより後ろからタイミングを計って確実に捕れるように意識してみるといいかもしれません」

 

「ありがとうございます。頑張ってみます……!」

 

 バッティング練習が進められていくうちに倉敷も息が整い、バッターとして参加した後ファーストのポジションに入る。その後も練習は進められていき、いよいよ新入部員たちを残すのみとなった。

 

「うっ!」

 

「ひゃぁ!」

 

「くうっ……!」

 

 しかし新田、永井、近藤とボールにタイミングが合うことはほとんど無かった。

 

(スイングがばらばらね……。まずは素振りで安定したスイングを身につけることから始めさせないと)

 

 順番は周り、初瀬の番となる。だが彼女も新田たちとほとんど同じで、バットが空を切っていく。たまにかすることはあった新田たちと違い、初瀬は結局バットがボールに当たることはなかった。

 

(うう……打てなかった)

 

 残り二人となり秋乃が左打席に入る。最初は真ん中付近に投げられていたボールをたまにファールするくらいだったが……

 

「ねえー、もう少しここらへんになげてー!」

 

「……分かったわ」

 

(低め? 基本的に低めは打ちづらいとされているのだけれど……)

 

 秋乃が示したのは低めのストライクゾーン。疑問に思いながらも東雲は言われた通りに投げると、快音がグラウンドに響き渡る。ドライブがかかったボールはファーストを守っていた野崎の上を超えるとライト線を勢いよく転がっていった。その後も低めに投じられた球を秋乃は次々とヒットにしていく。

 

「うーん。たのしかったー。りょーもありがと!」

 

「ええ、お疲れ様。あと名前ではあまり呼ばないで……」

 

 秋乃の順番が終わり最後は逢坂の番となる。しかしその顔はどこか落ち込んでいた。

 

(今度は目立つなら最後! ……と思ったのに、これじゃあアタシの印象弱まるばかりじゃない……)

 

 そんな考えで右打席に入ると最初こそタイミングが合わなかったが、段々とタイミングが合ってくるとそんな考えも忘れ目の前のボールに集中していく。ラスト一球として投じられたボールを振り抜いた逢坂の打球は見事に左中間を抜いていった。

 

(スイングは他のみんなと同じくばらばらだったけど、最後は器用に腕をたたんで打ったわね)

 

 そんなこんなで新入部員にとって一日目の練習が終了した。硬球に慣れさせる必要もある初日はあまり無理もさせられず、いつもより少しだけ早めに切り上げることになった。

 

「バッティングもそうですが、結局守備でキャッチすることが出来ませんでした……」

 

「ううーん。阿佐田パイセンがサードも兼ねて、守備機会も少なかったからにゃ。イメージを身に染み込ませるにはもっとやらないといけないのかもにゃー」

 

 中野に相談を続ける初瀬。そんな中、新田があるものを発見していた。

 

「東雲ー。何それ、タピオカミルクティー? 飲んでみたい!」

 

「……飲んでみる?」

 

「え! いいの? 飲む飲む!」

 

 東雲が先ほどまで飲んでいたスポーツドリンクとは違う飲み物を作っていたのを目ざとく発見した新田は永井と近藤が興味津々といった様子で見つめる中、それを頂いた。

 

「…………」

 

「ど、どう? 美味しい?」

 

「……美奈子?」

 

 そんな中、様子がおかしいことに近藤が気がつく。すると新田が行動を起こす寸前、東雲が一瞬早く動いた。

 

「まずっ……!? うぐぐぐ……!」

 

「勿体無いわ。自分が飲んでみたいと言ったのよ。責任を持って最後まで飲み切りなさい」

 

 あまりの不味さに思わず吹き出しそうになった新田の口を東雲が容赦なく押さえ込む。新田は液体が喉を通過する感覚を覚えると、東雲の手が離れていくのを感じながらその場に倒れこんだ。

 

「大丈夫?」

 

「加奈子、咲……。ワタシの屍を越えていけ……がくっ」

 

「そんな……生きて、生きて美奈子ちゃん!」

 

 新田は倒れた。

 

「……何これ」

 

 その場が収集するまで5分近いやりとりを挟みながら新田は復活した。

 

「それでさっきのやつ、結局なに? 青汁?」

 

「……プロテインよ。栄養素の吸収率が高い運動後に摂取することで、筋力を向上させる効果があるわ」

 

「……へえー。そうなんだ」

 

「思い切り目を逸らしながら言ったわね……」

 

「あれ、初瀬じゃん。どしたのー?」

 

 新田が目を逸らした先にはちょうどこちらに向かって歩いてくる初瀬の姿があった。初瀬は東雲の前で立ち止まり息を深く吸うと頭を下げた。

 

「東雲さん、お願いします……! この後、もし予定が空いていれば私に特訓をつけてください……!」

 

(………………へぇ)

 

「ちょ、初瀬……特訓って……ええ!?」

 

「構わないわよ。ただし」

 

 言葉を区切るとその眼は鋭く射抜くように初瀬の目を見つめていた。

 

「自分で言い出した以上、最後までやりきる覚悟はあるかしら?」

 

「……!」

 

(覚悟……。私は……)

 

 この瞬間、初瀬の脳裏に野球部のことを知ってから今に至るまでの経緯がフラッシュバックされる。

 

(そうだ。一から野球部を作り上げた皆さんのように、私も……本の中じゃなく、現実で何かに挑戦できたらって……そういう覚悟を抱いて、私は野球部に入りたいって思ったんだ……!)

 

「あります……!」

 

 東雲の目を初瀬はまっすぐ見つめ返す。数瞬の沈黙の後に、東雲が口角を上げながら目線を逸らした。

 

「……ふ。いいわ。さあ、特訓を始めるわよ……!」

 

「はい!」

 

 特訓に向かう初瀬を見て中野は思わずシャッターを切る。彼女の一日目はまだ終わらないようだ。



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支えがあったから

アニメ6話で中野の「頑張るにゃー」をみんなで合わせてやるの地味に好き。


 初瀬(はせ)は昔から物語が好きだった。幼い頃、仕事で帰りが遅くなることが多かった父親を寝ずに待って、絵本や童話を読み聞かせて貰いながら瞼がだんだんと重たくなっていくのが彼女にとってはとても幸せなことに感じられた。

 

 そんな彼女はやがて本の世界に心を奪われていく。最初はおおよその流れを聞いて話の終わりが幸せに締めくくられていたらどこかそれだけで満足していた。しかし、自我が芽生え好奇心が高まってきた頃、父の書斎にあったある一冊の小説を何となく手に取り、分からない言葉を辞書で調べながらその一日の時間を全て使って、初めて物語というものに真剣に向き合ってみた。

 

 その物語は誰もが羨むような豪華で何一つ不自由のない暮らしをしていた一人の女性が、ある晩、屋敷を抜け出すところから始まる。女性が屋敷を抜け出した理由は最後まで語られない。屋敷を抜け出した女性は遠く離れた地まで歩いてきたことを既に見えなくなった屋敷がある方向を振り返って確認すると、したり顔を浮かべる。すると一人の紳士が彼女に話しかける。この紳士の正体も最後まで語られない。彼女は自分のことを連れ戻しにきたと思い、とっさに走り出す。その腕を思わず掴んだ紳士は、少し困ったような素振りを見せた後、ニヒルに笑ってこう語りかけた。私と一緒に踊りませんか——。女性は怪訝な表情を浮かべる。しかし同時に連れ戻しに来たわけではないことを確信した彼女は、彼についていくことにした。夜だというのに明るい歓楽街に連れて来られる。そこで待っていたのは未知の体験だった。紳士に連れて行かれる場所は彼女にとって全てが新しく、彼女は一言こう呟いた。自由だ——と。そんな楽しい時間はやがて終わりを迎える。物語の最後、二人はダンスを踊る。そしてバックに流れていた音楽が止むと同時に——彼女の意識が途切れる。次に目が覚めたのは屋敷の天蓋付きのベッドの上。使用人がいつも通りの対応をし、あの出来事は夢だったのか、そう感じた彼女は思慮の末、子供がいたずらを思いついたような笑みを浮かべると、この言葉で物語は締めくくられる。——そうだ。今夜も屋敷を抜け出してみようかしら——。

 

 最後のページを読み終え彼女はまさしく放心していた。その夜彼女は瞼を閉じながら、明かされなかった内容はこういうことだったんじゃないかと考察したり、自分がもしそんな体験が出来たらと想像しながら眠りについた。次の日からまた新たな小説を手に取り、その世界に飛び込んでいく。それはまだ幼かった彼女にとってはまるで未知の地を冒険しているようだった。

 

 幾年の月日が流れ、父の書斎にある小説を全て読み尽くした初瀬は新たな小説を求めて図書館によく通うようになり、彼女のカバンには常に2冊以上の本がしまわれるようになった。速読の特技を身につけた彼女だっだが、物語を楽しみたいためゆっくり読み進めていく。家でも、通学中の電車内でも、喧騒に包まれる教室内でも彼女は本と共にあった。

 

「……ねえ、初瀬さんっていつも本を読んでいるよね」

 

 ある日の休み時間、授業と授業の間の10分休憩でも彼女は本の続きが気になり、いつものように読み進めていく。すると友達同士で集まっておしゃべりをしていたグループのそんな言葉が漏れ聞こえてきた。本を読む彼女の手に思わず力が入る。

 

(……本を読むことが、私にとって幸せなことですから)

 

 彼女自身会話すること自体に特別な支障がある人間ではなかった。しかしそれは話しかけられることが前提になりつつあり、自分から話していく必要のあるおしゃべりは不得手で、本を好きで読んでいるというのも偽りのない事実だったため、彼女は休み時間でおしゃべりというものに興じたことは一度もなかった。彼女の手にする本はクライマックスに差し掛かる所まで来ていたが、クラスメイトの様子が気になり物語に集中することが出来ない。その日は本を閉じることにしたのだった。

 

 そんな彼女はある些細なきっかけで、文通を始めることになる。彼女は自分の気持ちを文字に起こすことで、自分自身が知らなかった内面に向き合うことになった。読書は楽しくて幸せだけれど友人同士で弁当を囲んだり帰宅するのを見ると羨ましく感じていたこと、そして自分が思った以上に友情を育む物語に憧れていたこと。そんな自分を知った彼女に好機が訪れる。クラスメイトの女子グループが遊園地に行く計画を立てた際、あと一人で入園料が安くなるといった状況で、初瀬がそのグループに誘われた。その場では返事を保留とし、行くべきか悩んでいることを文通相手に相談したところ、どんな理由で誘われたらにしろ行ってみて楽しんできたらいい、きっといい思い出になると後押しを受けて行ってみることを決意する。不安を抑え勇気を振り絞った彼女に待っていたのは文通相手が言っていたように楽しい時間だった。クラスメイトが普段から初瀬のことが気になっており、本を常に読んでいてあまり話す機会が作りづらかった彼女と一緒の時間を過ごしてみたかったということを知り、彼女は驚きつつもそれを嬉しく思った。高揚感に包まれて過ごした遊園地の一日はやがて終わりを迎えたが、彼女が中学に入ってから始めて出来た友達と過ごす学生生活は彼女にとって本を読むことに変わり得る幸せなものとなった。

 

 そんな学生生活を過ごした彼女だったが進学先の里ヶ浜高校は友人たちの進学先と分かれており、また不運な事情から文通も途切れてしまう。彼女は高校生活に一人で挑むことになった。彼女はまた中学の時のような友人に会えたらいいな、と考えた。しかし教室で本を読む彼女に話しかけてくる人はおらず、また彼女の方から話しかけることも出来なかった。入学から一週間ほど経ち、周りのクラスメイトがグループを形成していく中、初瀬は友人が出来ずにいた。ただ中学生活と異なる点を挙げれば図書委員となった事だろうか。図書室が保有していない本の要望申請をしやすい立場という点に惹かれた部分もあるが、一番の理由は図書室の用途の通り、本を読みやすい静かな環境があること。友人が出来なかった彼女が手に取ったのは、やはり本だった。しかしそんな彼女の狙いを揺らがせる者がいた。

 

「このネタも、こっちのネタもボツにゃ! 新聞部の第一号にふさわしいネタ! ネター!」

 

「あの……大声を出すのはやめてもらえないですか?」

 

 図書室の自習スペースで騒ぎ立てる中野。携帯端末を所持している人が多い今ではあまり利用者がいないパソコン側の自習スペースとはいえ騒いでいい理由にはならない。机から落ちてしまったボツになったのであろう丸められた原稿をくず箱に入れながら、初瀬は彼女のことを迷惑だな、と思った。

 

「そもそも新聞部なんて部活ウチには……」

 

……部活……。それにゃ!」

 

「えっ……」

 

 椅子のキャスターを利用してパソコンに飛びつくように移動した中野はスムーズに何かを打ち込んでいた。

 

「きたきたきたー! ビッグなネタの予感がするにゃー!」

 

「あ、あの……ですから図書室ではお静かに……!」

 

 中野は目を輝かせて何かを必死に調べ始めると、集中し始めたためかひとまず大声を出すことはなくなった。それを確認した初瀬はマイペースさを苦手に感じ、その場を離れていった。

 

 少し日にちが経過したある頃、廊下の掲示板に新聞記事が張り出されていた。人だかりが出来ており気になった初瀬は後ろから覗いてみたが視力の低い彼女には見えず、合間を縫っていくのも申し訳ない気がして出来なかった。結局人だかりが収まった次の休み時間にその内容を確認してみる。

 

(『女子硬式野球同好会発足!』……ですか)

 

 バッティングセンターでボールを捉えている有原の写真と共に書かれた記事の内容は大きく分けて二つあり、一つ目は里ヶ浜高校に女子硬式野球同好会が作られた経緯について。有原が新入生にむけた部の紹介をする場で最後に割り込んで野球同好会の部員勧誘を行なったこと、同好会として認められるために必要な人数5人が勧誘の甲斐もあって揃ったことや、9人制の野球では試合ができず現在も部員募集中であること。学校内に練習可能なスペースがない問題に対して、顧問である掛橋(かけはし)桃子(ももこ)が昔使われていたグラウンドを所有している地主の方に交渉して許可をもらったことや、長年手入れされていなかったグラウンドであるため雑草が生え放題で、現在部員の手による撤去作業に時間がかかりながらも野球同好会としての活動も頑張っていることなどが書かれていた。

 

 もう一つの内容は女子硬式野球の歴史について。昔は中学や大学での女子硬式野球はあったが高校には無く、クラブチームを選ぶか、公式試合には出れないが男子に混ざってやるくらいしか選択肢が無かったこと。そんな中、1995年に女子高生と海外のクラブチームで硬式野球での親善試合が行われたことをきっかけとして、国内で女子高生の全国大会を開こうという流れになり、少しずつ女子高生の硬式野球部が作られるようになっていったことが書かれていた。最後に『現在連盟に参加している女子硬式野球部の数はいまや30、されど30。火がついたばかりの女子硬式野球を今後も広めていきたい』という言葉でこの記事は締めくくられている。

 

(有原さんって方は野球同好会を一から作ったんだ。部員の皆さんも色んなトラブルに向き合って頑張ってるんだ。……みんな、すごいなぁ)

 

 記事を読み終えた初瀬は新聞を書いた筆者が気になり、見出しの近くに再び目を向ける。そこには中野綾香と書かれていた。

 

(そういえば、この学校に新聞部は無かったはず。……ということは、この前図書室に来て騒いでいたあの人が書いたんでしょうか……)

 

 結局あの日はそれ以降騒ぎ出すことはなかったが、それでも図書室でマイペースに騒いだ彼女への初瀬の第一印象は悪いものとなっていた。

 

(でも野球を知らない私でも読みやすい記事だったな……)

 

 教室にある自分の席に座りながら本を取り出した初瀬は先ほどの記事を思い出す。それは彼女にとっては先人が起こした行動が連なるように今に繋がっている様がどこか物語のように感じられ、思わず微笑を浮かべた。

 

 彼女が入学してから1ヶ月の日々が流れ、5月も折り返しを迎えようとしていた。図書委員として過ごす日々は新たに加わった蔵書をしまう力仕事が少し大変なくらいで、彼女にとっては充実したものとなっていた。しかし……

 

「……あおい、これはどうやれば太刀打ち出来る……?」

 

「……だんちょー、このサイコロ鉛筆を授けるのだ。これを転がせばきっとなんとかなるのだ……」

 

 試験期間が近づいてきたことで友人同士で図書室に集まって勉強するという人たちが増えてきた。小声で話しているため声は聞こえてこないが、初瀬は無意識のうちにそんな光景を本から目を上げて眺めていた。本を借りに受付に訪れた生徒に声をかけられるまでは自分がしていたことに気づかなかった。

 

 帰宅した彼女はノートを広げてみる。彼女は授業を至極真面目に受けており、授業内で得た知識で優秀な成績を残すことが出来たため、今まで試験というものに合わせて勉強したことはなく、今回もそれは同じだった。彼女は少し悩んだが、文通をしていた時のように自分の気持ちを文字に起こしてみることにしたのだった。最初こそ恐る恐るといった感じだったが、一度筆が進むと自分の内にしまっていた気持ちが溢れるように筆が止まらなくなっていく。そこに書かれていた内容はとても他人に見せられないほど恥ずかしく、同時に自分の正直な気持ちだった。

 

(私はもしかしたら憧れていたのかもしれません。初めて向き合ったあの小説の彼女が一人で屋敷から一歩を踏み出したことに。私は……一人では何も踏み出せないのかもしれません。あの野球同好会を一人で一から作り上げた有原さんのような強さが、私にもあれば。そう思います……)

 

 結論からいえば有原がその一歩を踏み出せた理由は友人である河北の支えがあったからこそだった。しかしそのことを初瀬が知る道理はなく、その日の晩は自分の弱さを責めて、中々寝付くことができなかった。

 

 その次の日の放課後。いつものように図書委員として過ごしていると、自習スペースが騒がしいことに気づき様子を見に行った。

 

「試験勉強と、記事の締め切りの板挟みなんだにゃー! 時間がいくらあっても足りないにゃー!」

 

「あ、あの! ですから大声は……」

 

「んにゃ? こりゃすまないにゃ。興奮するとつい周りが見えなくなっちゃうのにゃ……」

 

 彼女の机の上には数学の問題集や英語の英文集、記事のネタとする予定なのであろうメモが雑多に散乱していた。初瀬は今目の前で慌てふためく少女と、あの記事を書き上げた記者が同一人物のようにはとても思えないほどのギャップを感じた。

 

「……あの、よろしければ試験勉強の方お手伝いしましょうか?」

 

「…………へ? い、いいのかにゃ?」

 

「はい。これ以上騒がれるのは図書委員としても望ましいことではないですから」

 

「助かるにゃー。是非お願いするにゃ!」

 

 こちらから言い出したこととはいえ調子のいい人だなぁ、と初瀬は感じる。しかしいざ勉強を手伝い始めると中野の顔つきが変わり、こちらが教えることにも真面目に応じて、初瀬としても教え甲斐があった。これは初瀬が高校に入って初めて誰かに歩み寄った瞬間だったのだが、彼女自身今はそのことを自覚していなかった。

 

「初瀬だったかにゃ。おかげで試験、なんとかなりそうなんだにゃ! 助かったんだにゃー」

 

「いえ……中野さんも真面目に頑張られてましたから。てっきり教える途中も騒ぎ出すものだとばかり」

 

「こらこら。上げて落とすとはなんてことをするにゃ」

 

 日が地平線に隠れようかという時間になり図書室にいる生徒も片手で数えられる程度になってきた頃、悪い点は取らないであろうという所まで中野の試験勉強が進み終え、彼女は礼を伝えていた。

 

「でも、本当に助かったんだにゃ。これで記事の方も何とか間に合いそうなんだにゃ」

 

「え……これから、書かれるんですか?」

 

「そうにゃ。確か閉館時間はまだ先だったにゃ?」

 

「は、はい。それは大丈夫です。ただ……少し、思ったのですが」

 

「んにゃ?」

 

「新聞部って……正式な部活動ではないんですよね?」

 

「その通りにゃ」

 

「それならば……締め切りの延長というのは自由が効くのではないでしょうか?」

 

「あー……まあ、効かないこともないんだけどにゃ」

 

 塩アメを口に放る中野に、図書室内では飲食厳禁であることを伝えようか悩む初瀬だったが、その前に中野の言葉が続いた。

 

「締め切りっていうのは、よほど物理的に難しい事情がない限り守りたいんだにゃ。締め切りは一定の間隔で出すことで今日は記事が張り出される日だ、って読者に感じてもらうためにあるんだと思うんだにゃ。そう直接思わなくても何となく覚えてて張り出されているのに気づいたら、ふらっと見て欲しい。そうして見てもらって、色んなことを伝えて、みんなに驚いたり、楽しんだりしてもらいたいんだにゃ」

 

「…………」

 

 中野が少し言葉に詰まりながらも紡いだ内容に初瀬は言葉が見つからなかった。ちょっとした静寂が流れ、爽やかに笑う中野に初瀬は何か言おうと慌てて言葉を絞り出す。

 

「……あ、えっと、凄い……ですね。私もそういうの、えっと、いいなって思います。そ、その……頑張って下さい!」

 

「頑張るにゃー」

 

 腕を軽く突き上げる中野に微笑むと初瀬は受付に戻っていった。その位置からでは本棚が境になってお互いに顔が見えない。椅子に座って一息つくと、先ほどの出来事を思い返していた。

 

(『これ以上騒がれるのは図書委員としても望ましいことではないですから』……なんて、偉そうに聞こえたかな。……それに最後もうちょっと気の利いたことを言えたかな。ああ……どうしてこうなんだろう。あれだけ長い時間、人と話すのが久しぶりだったからかな。…………あれ。私、自分から試験勉強に……誘った?)

 

 中学生の時に友人に頼まれて勉強を教えた経験はあったが、自分から試験勉強に誘ったのはこれが初めてのことだった。疑問に思った初瀬はその理由を考えてみる。

 

(締め切り……一定の間隔……あっ。もしかして……)

 

 すると先ほど中野が話してくれたことが気になり、同時に図書委員になってからの出来事を思い出した。

 

(そっか……。記事の更新間隔が同じということは、中野さんが図書室に来る間隔も一定。図書委員になってから中野さんが来るタイミングが分かるようになってきて、騒ぐのを警戒して、でもいつも一人で記事を作り上げるのを凄いと思って。……中野さんの狙いとは違いますが、私は記事だけではなくそんな中野さん自身に興味を惹かれていたのかもしれません)

 

 初瀬はそう考えてみると、どこかスッキリしたような感じがした。笑みをこぼしてメガネのツルをいじると、本に目を落とす。

 

(昨晩、一人で成し遂げられる強さがあればと思いました。でもそれは、必ずしもなければならないものではないのかもしれません。私は中野さんの記事を作る姿勢に後押しされるように今日、一歩を踏み出せたような気がします)

 

 静かな空気にページをめくる音とペンで何かを書く音が交差するように響きながら、彼女はそう思ったのだった。

 

 ガタンゴトン、と音が鳴り電車が揺れると初瀬は目を覚ます。少し放心した後に、慌てて窓の外を確認すると自宅の最寄り駅までまだ3駅分手前の場所であり、安堵の吐息を漏らした。

 

(寝ちゃってた……。昨日、眠れなかったからなぁ。でも電車で寝ちゃったのなんて、中学の時以来かも。いつもは本を読んでるから寝ることはないし……)

 

 ずれたメガネの位置を調整すると、彼女はこれからの行動を考えてみる。本を読むにはやや時間が少ない。かといってこのまま何もせずにいたらまた眠りに落ちてしまいそうな気がしていた。

 

(あ、そうだ……)

 

 彼女はカバンを開き、ポケットに入れておいた塩アメを取り出すと口に放った。それは原稿を書き上げた中野がとりあえずの礼として渡していったものだった。

 

「……おいしい」

 

 程よいしょっぱさと甘さが混じった味が口の中に広がると、初瀬は次の記事の内容に思いを巡らせたのだった。

 

 試験も終わり、6月を迎える。初瀬はこの時期、正確には梅雨の時期があまり好きではなかった。紙が湿気を吸収しやすいため本にカビが生えたり、少し変形してしまったりと、本の敵ともいえるこの時期は早く過ぎ去って欲しいと感じていた。里ヶ浜高校では6月から図書室でのクーラーの使用が解禁されることが彼女にとっての救いだった。

 

「美奈子ちゃん。なんで図書室に来たの〜?」

 

「そりゃもうこの冷房の恩恵を受けるためですとも」

 

「まあ、蒸し暑いからね……。二人とも授業中ぐったりしてたし」

 

 試験勉強のために訪れる者がいなくなった代わりに冷房を頼りに来る人たちが増えてきていた。梅雨特有の蒸し暑さも影響して図書室内にどこかだらけたような空気が漂う中、それを切り裂くような声がいつもの場所から聞こえてきた。

 

「うおおー! 今こそジャーナリストの出番にゃ!」

 

「……あの。だからここで大声を……」

 

 梅雨の蒸し暑さなどまるで関係ないような快活な声が耳に届き、初瀬は注意しにいく。すると机に広げられた『女子硬式野球同好会 ゼロからの出発』と銘打たれた原稿に貼られている中野がミットをつけ、野球同好会のユニフォームを着た写真を見つけた。

 

「ん? 新聞部だったんじゃ……?」

 

「新聞部兼野球同好会にゃ」

 

 意外に感じた初瀬は近くにあった『共に苦難を乗り越えて』と銘打たれた原稿を思わず手に取る。そこには11人となった野球部員たちの集合写真が載っていた。

 

「野球興味あるかにゃ?」

 

「ああ、いえ……」

 

 初瀬は野球の基本的なルールも分からず、テレビで野球を好んで見る家庭でもなかったため、野球に関しては何も知らないと言える状態だった。しかしそれでも気になった理由を、今までの記事を思い出しつつ原稿を読みながら、初瀬は口に出していた。

 

「でもなんだか……物語、みたい……」

 

 野球同好会が発足してから楽しいこと、大変なこと、様々なことがあった。一筋縄ではいかないことも多かったが、皆で協力して乗り越えてきた。野球同好会の軌跡を記事を通して知った初瀬は、彼女たちが紡いでいく物語にいつのまにか惹かれていた。野球に興味はなくても、そんな野球同好会に興味が湧いていたのだ。

 

「あ! ……すみません。なんでも」

 

「ワタシもそう思うにゃ!」

 

(えっ……)

 

 考えていたことを口に出してしまい、慌てて訂正しようとする初瀬だったが、思わぬ賛同を受けて目を白黒させていた。

 

「でもこれは確かにワタシたちがやってきたことなんだにゃ。だから知って欲しいのにゃ。ちょっとでも、みんなに」

 

 初瀬の目をまっすぐに見て、中野は一点の曇りもない言葉を伝える。初瀬はその言葉を受けて目から(うろこ)が落ちたように自らが胸の内に秘めていた思いに気づいた。そして彼女は一歩踏み出すと、こう言った。

 

「私も知りたいです!」

 

 明るい期待に彩られた表情をする初瀬に中野は思わず微笑むと、自分たちがやってきたこと、これからやりたいこと、そのためにやろうとしていることを余すことなく話したのだった。

 

「すいません。この本、借りたいんですけど」

 

「はい。少々お待ちくださいね」

 

 日が流れ、彼女は本の最後のページに貼られたバーコードを読み取り、貸し出しのメモを取ると、借りにきた生徒にその本を渡していた。

 

「ありがとうございます」

 

「あっ、あの。もし良ければ、こちらの署名にご協力お願いできますか?」

 

「署名というと……図書室の?」

 

「いえ……女子硬式野球同好会が部に昇格することへの署名です」

 

「野球かぁ……あまり、知らないんだよね」

 

「それでしたら……こちらの記事をご覧ください」

 

 そういって彼女が手を右方向に向けると、そこには今まで中野が書いてきた記事が並べられていた。初瀬は中野から夏の大会に出るためには今まで以上にお金がかかるため同好会から部に昇格しなければ部費が足りないこと、生徒会から出された条件はクリアしているが学校側からの許可が下りていないことを教えてもらった。

 

「へぇー、頑張ってるんだね。いいよ。署名したげる」

 

「あ、ありがとうございます!」

 

 記事を読み終えた生徒が署名にサインする。中野から話を聞いた数日後、野球同好会として署名を集める方針になったことを聞き、自分に出来ることで協力したいと思った初瀬は図書室で署名活動をすることにしたのだった。

 

 さらに日が流れ、6月も終わりに差し掛かっていた。既に日が落ち、図書室も利用者が少なくなってきた頃、今日も図書委員としていつものように過ごしていた初瀬だったが、内心は不安が募っていた。

 

(今日の職員会議で部への昇格が決まらなければ、大会には間に合わない。どうなったのかな……)

 

「初瀬ー! 初瀬はいるかにゃ!」

 

 そこに中野が駆け込んでくる。ジャージを着たまま息を切らせている様子から、遅くまで練習していたことと、練習後に急いで報告に来たことを初瀬に窺わせた。

 

「な、中野さん。結果は……」

 

「決まったのにゃ! 無事、部に昇格したんだにゃ! 里ヶ浜高校女子硬式野球部、始動なんだにゃー!」

 

「ほ、本当ですか! 良かったぁ……!」

 

「……2人とも、ここは図書室よ。お静かにお願いするわ」

 

「す、すまないにゃ」

 

「ご、ごめんなさい……!」

 

 喜びのあまりつい声が大きくなってしまい、近くにいた生徒から注意されてしまった。

 

「……でも、良かったわね初瀬さん。書類整理をするためにここ数日通っていたけれど、あなた地道に署名に協力してもらえるよう頑張っていたものね」

 

「え……」

 

「それと中野さんも。記事を読んだ生徒に熱心に声をかけていたみたいね。署名がどれくらいの効果があったかは正確には分からないけれど、間違いなく後押しになったと思うわ」

 

「どういたしましてにゃ。生徒会長も署名にご協力ありがとうございますにゃ」

 

「生徒会の審査も問題なかったし、当然のことをしたまでよ。じゃあね」

 

 そう言うと栗色の髪を揺らしながら能見(のうみ)志保(しほ)は書類をまとめたファイルをカバンにしまうと、図書室の扉を開いた。

 

(びっくりしたぁ。まさか私のことを見てた人がいたなんて。でも無事に部に昇格出来たことを含めて、嬉しかったな……)

 

「……あ、そうだ。中野さん、あなた図書室で大声を度々出していて迷惑だって苦情が生徒会に届いてるわ。あまり酷いようだと、相応の処分が下るわよ?」

 

「にゃ!? き、気をつけますにゃ……」

 

 図書室の扉がキキィ……と独特な音を立ててゆっくりと閉じる。冷や汗を浮かべる中野を見ながら初瀬は思わず笑ってしまうのだった。

 

 梅雨が明け、夏の季節がやってくる。暑い日差しが降り注ぐ中、彼女は屋根によって影で覆われるスタンドから無事大会に出場した女子硬式野球部の応援をしていた。ワンプレーに球場が湧き、ワンプレーに球場中からため息が聞こえる。そんな球場の熱量に圧倒されつつも、彼女は初めて見る野球を楽しみ、また必死に戦う彼女たちの姿を見て感心していた。

 

 リリーフとして登板した野崎の球が大きく弾き返され、ライトを襲う。ライトを守る宇喜多はそのボールをフェンスにぶつかりながらも、キャッチしてみせた。そのプレーは岩城のホームランに引けを取らないほど、球場から歓声が上がっていた。

 

「……眩しい……」

 

 グラウンドで戦う選手を見て、初瀬はそんな言葉が口からこぼれたのだった。

 

 そして9月を迎える。初瀬は遊歩道から少し外れた草むらに座って野球部が練習するグラウンドを眺めていた。

 

(私も中野さんや皆さんと一緒に……)

 

 大会を見てそこで戦う選手たちを“眩しい”と感じた彼女は本の中ではなく現実で何かに挑戦したいと思うようになっていた。そして今までの軌跡を知り、また自身も署名活動に参加した野球部なら、そう思ってグラウンドまで来た。グラウンドまでは目と鼻の先、しかしそこから前に進めないでいた。グラウンドを眺める彼女を追い抜くように新田、永井、近藤、秋乃、逢坂が坂を下っていくと練習していた部員に声をかけた。

 

「あの!」

 

「私たち入部希望なんですけど!」

 

「えっ、本当!?」

 

「ようこそ。女子硬式野球部へ!」

 

「歓迎歓迎!」

 

 5人の新入部員がグラウンドで入部を歓迎される様を初瀬はじっと見つめていた。

 

(運動経験がないし、野球の知識も基本的なルールは勉強してみましたが皆さんに比べるとまだまだでしょうし、私が入っても……)

 

 寂しそうにグラウンドを見る初瀬。そんな彼女の後ろから声をかける者がいた。

 

「もしかして……」

 

「えっ……」

 

 そこにいたのは野球部のキャプテンであり、設立のきっかけを作った人物である有原だった。

 

「あなたも興味あるの? 野球」

 

「あ、でも……私じゃ」

 

 初瀬は自信を持てず、下を向いてしまう。そんな初瀬の視界に差し出された手が映ると、思わず視線を上げた。

 

「私たちと一緒に野球、やろうよ!」

 

 その言葉に後押しされるように差し出された手を握る。すると有原が嬉しそうに彼女を引っ張って立たせるとこう言った。

 

「行こうっ!」

 

「……はい……!」

 

 初瀬は一歩を踏み出した。坂道を一緒に下りながら、初瀬は一つの決心をした。

 

(私はやはり、一人で踏み出すことは出来ないのかもしれません。……でも)

 

 坂道を下りきってグラウンドに足を踏み入れると皆の目がこちらに向く。中野も初瀬が来たことに気づいて嬉しそうに手を振っていた。

 

(誰かに支えられて一歩を踏み出せたなら、その分……強くなろう)

 

 こうして初瀬は女子硬式野球部の一員となったのだった。そして……

 

「自分で言い出した以上、最後までやり切る覚悟はあるのかしら?」

 

「あります……!」

 

 中野にまだノックを捕球できない事を相談すると、サードが本職の東雲に特訓をつけてもらうと良いというアドバイスを貰った初瀬。まだ野球に自信は持てないが、強くなりたいと思った彼女はその一歩を踏み出していたのだった。

 

「きゃっ……」

 

 特訓が始まり、それなりの時間が経った。東雲が有原にノックを頼むと有原は初日からそこまでやる気を出してくれたことに感動しながら、快く引き受けてくれた。東雲は実際に捌く様子を見せたり、近くで初瀬の守備を見ていた。しかし未だ、捕球することは出来ないでいた。

 

(おかしいわ。正面のゴロのノックを続けていてここまで捕れないことなんてあるかしら。腰の位置も最初は高かったけれど、ゴロを続けることで自然に低い体勢を取るようになったし、グラブも下から上にという基本は段々と出来るようになってきている。安定して捕れないのは分かるけど、一つも捕れないのはやはりおかしい)

 

「有原さん、ノックを中断して」

 

「わ、分かった」

 

(うう……。せっかく特訓に付き合ってもらってるのに、まだ捕れないなんて恥ずかしい。東雲さんも、呆れちゃってるのかな……)

 

「中野さん。そのカメラ貸してもらえるかしら」

 

「にゃ? 構わないけどにゃ……」

 

 東雲は初瀬の守備の映像を撮っていた中野に話しかけると、そのカメラを借りて、映像をコマ送りで確認する。

 

(構えは問題ない。打球が飛んできてからの動きは無駄があるけど、正面の打球だしこれが捕れない原因じゃない。……なるほどね)

 

「分かったわ。初瀬さんこれを見てもらえるかしら」

 

「ええと……」

 

 それは飛んできた打球がミットに収まろうか、という瞬間だった。

 

「いい? 直前までは腰はここに構えられている。けど捕球の瞬間だけ、腰が少し引けているのよ。弾いた後には元の位置に戻っているから分かりづらいけれど」

 

「ほ、本当ですね……。自分ではそんなつもりなかったんですけど……」

 

「……あー、永井も何回か思い切り腰を引いて捕れそうなのを弾いていたことがあったにゃ。聞いてみたらキャッチボールの時に手が痛かったから、打球が体にぶつかったらと思うとつい腰が引けちゃうみたいだったにゃ」

 

「あ……確かに。私もキャッチボールの時、逢坂さんが最初に投げた球が速くて少し……怖かったのかもしれません」

 

「そういえばあなた、時折目をつぶっていたものね……」

 

「さっき頭で考えるんじゃなくて本能で反応するって話をしたけれど、初瀬の場合本能が硬球への怖さを優先してしまったのかもしれないにゃ」

 

「うう……お恥ずかしい限りです」

 

 サードベース付近で会話する皆にノックをしていた有原が駆け寄ってくると、拳を強く握りしめて話しかけた。

 

「それが分かったなら、後は怖がらないように気合でキャッチしよう!」

 

「……初瀬さんはわざわざ特訓まで申し出てノックを受けているのよ。気合でなんとか出来る問題ならとっくにキャッチ出来ていると思うわ」

 

「うっ! 確かにそうかも……」

 

「……そうにゃ! 体にボールがぶつかっても、痛くなければどうにゃ?」

 

「……何をする気?」

 

「ふっふっふ。少し待ってるにゃ」

 

 中野は新入部員用に多く持ち出された備品の中からある物を持ってくると初瀬につけようとしたが、どうつけるか把握しておらず経験者の有原と東雲が代わりに取り付けた。

 

「きゃ、キャッチャーの方って、こんなに重いものを身につけて動かれていたんですね……」

 

 初瀬が身につけたのはプロテクターやレガースという本来はキャッチャーが着ける防具。想像より重いそれに多少ふらつきながらも、何とか動くことは出来ていた。

 

「考えたわね。これならボールへの恐れを緩和できるかもしれない」

 

「にゃはは。初瀬、どうかにゃ。動けそうにゃ?」

 

「は、はい。重いですが、何とかいけます」

 

「よし! ノックを再開するよー!」

 

 夕日が地平線に差し掛かる時間となり、影が横に長く伸びる中、その打球は放たれた。一定のスピードで放たれ、次第に慣れてきたボール。防具をつけた初瀬は思い切って前に出ると、手首を立てるようにグラブを構えてすくい上げるように捕りにいく。その瞬間、フラッシュと共にシャッター音が響き、中野が撮った写真には見事ボールを捕球する初瀬の姿があった。

 

「や、やったぁ……!」

 

 グラブの中を確認し、確かにボールが収まっているのを見た初瀬は嬉しさのあまり思わず涙目になるほど喜んでいた。それを見た3人は思わず微笑む。

 

「……こほん。ここからが本番よ。今日はしっかり安定して捕れるようになるまでやるわよ」

 

「……はい!」

 

 その日の特訓は結局、夕日が地平線に隠れるまで続けられたのだった。

 

「いやぁ。初瀬もだいぶ上達してきたんだにゃ」

 

「まだよ。基本となるファーストへの送球から、ランナーがいる場合の状況判断、アウトカウント毎の対応。やらなければならないことは山積みよ」

 

(……練習試合の日も近づいてきているしね。上達具合の如何によっては実戦の経験を積ませたいわ)

 

「まあまあ。いきなり全部やるのは無理だよ。一つずつ出来るようにやっていこう!」

 

「はい。皆さん色々とご指導ありがとうございます……!」

 

 慣れない運動をして初瀬は疲れを感じていた。けどそれと同じくらい出来なかったことが出来るようになる達成感にも包まれていた。皆が自分のことを考えて指導してくれることを本当にありがたいと思い、そしてその指導に応えたいと感じるのであった。

 

 初瀬は家に帰ってくると夕食を食べ、風呂に入り、自分の部屋に入る。今すぐにでもベットで泥のように眠りたいところを抑え、初瀬は本を取り出した。それは彼女が好む小説ではなく、野球部の入部が決まった時に購入した日記だった。眠る前にこれだけはと文章を綴る。今日感じたことを始めとして色々な思いを書き連ねると、最後はこういった文章で締めることにしたのだった。

 

『これは私にとっては野球部に入って1ページ目の物語なのかもしれません。でも野球部にとっては有原さんが野球同好会を作ることを宣言したことが1ページ目ならば、私が入ったのは10ページ目、100ページ目……あるいはそれ以上なのかもしれません。今日はその物語の中に私も来たんだって、そう強く感じました。不慣れなこと、自信を持てないこと、そういったことも多いですが、やれるだけやってみようと思います。皆で綴る物語の中で。』

 

 日記を閉じて机の引き出しにしまうとベッドに倒れこむ。するとすぐに眠りに落ちてしまい、その寝顔は幸福感を噛みしめていた。




文通の下りの詳細が気になる方はハチナイの公式ノベルをチェックだ!


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新チームの門出!

初めての試合回。試合を描くのは初めてだったので色々試行錯誤してみました。


「ワンナウト、ランナー一塁! サード行くわよ!」

 

 キィン……と金属音が響き、トップスピンがかかったゴロがサードを襲う。やや強めに放たれたボールを初瀬は見事にキャッチしていた。

 

「セカン!」

 

「はいっ!」

 

 鈴木の指示で二塁ベースで構える河北に送球が行われる。やや低くなった送球に合わせて河北は二塁ベースを踏みながらボールを捕ると、素早く一塁ベースで構える秋乃に投げられた送球は正確なもので秋乃はその場からほとんど体勢を変えずにキャッチしていた。

 

「えーと……この場合、ランナーが先の塁に進まなくてはいけないから、タッチしなくてもベースを踏むだけでアウトに出来るんですよね」

 

「そうなのだ。進塁義務とか、フォースプレーとかいうらしいのだ。今のプレーならランナーより送球が届くのが早ければアウトが二つ取れるダブルプレーになってお得なのだ〜」

 

(意欲的にこつこつ頑張ってるのだ。はせまりもともっちも……)

 

 特訓を始めてから二週間が経ち、初瀬はようやく防具をつけなくてもボールが捕れるようになっていた。まだ確実な捕球には至らないが、際どい打球でなければ特訓の甲斐もあって安定して処理できるようになってきていた。そんな彼女にとって次の課題はルールの把握。特に内野は考えることが多く、プレー中に整理しては間に合わないため、ケースバッティングにより一つずつ慣れるよう努力を重ねていた。

 

(初瀬さんは確かに上手くなってきている。ただ明日の練習試合に出すかどうかは正直際どいわね。試合の経験こそ貴重なものはないけれど、サードというポジションを任せるにはまだ把握していないことが多すぎる)

 

「……次、行くわよ!」

 

 どうするにせよ、今は練習で初瀬を含めた皆の守備の穴を一つずつ埋めていく他ない、そう判断した東雲はノックを続けたのだった。

 

「ちょっと初瀬〜、めちゃくちゃ上手くなってるじゃん!」

 

 休憩時間に入り初瀬がミネラルウォーターを飲んでいると、新田が勢いよく近づいて話しかけてきた。

 

「えへへ……そうですか? それなら嬉しいです。新田さんもさっきはダイナミックなプレーで凄かったですね」

 

「でしょ〜。なんか東雲には注意されちゃったけどね。そんなプレーが必要な場面じゃない、無駄が多いって。ちょっとは褒めてくれてもいいのにー」

 

「まあまあ。それだけ良く見てくれてるんじゃないかな」

 

「そうかな〜。ま、いいけどね。……あれ、加奈子は?」

 

 新田が永井がいないことに気づくと、初瀬と近藤も周りを見渡す。すると外野から遅足で向かってきていた。

 

「あ、いたいた。どしたの?」

 

 ようやくやってきた永井はオレンジジュースで喉を潤すと、絞り出すようにこう言った。

 

「……おなかすいた……」

 

「ま、そうだと思ったけどさ。ボールに慣れてきてから練習厳しくなったしね〜。じゃ、おにぎりタイムにしようか!」

 

「おにぎり……! 今日の具材は何……?」

 

「食べてみてからのお楽しみ! ほら、初瀬も!」

 

「え……いいんですか?」

 

「いいのいいの! ほら!」

 

 新田はそういうとアルミホイルで包んだおにぎりを初瀬にも渡すと、手を合わせた。

 

「「「いただきまーす!」」」

 

「い、いただきます」

 

 慌てて初瀬も手を合わせると、アルミホイルを開いておにぎりを一口頂く。程よい塩味が口の中に広がり、どこか疲労も吹き飛んでいくように感じた。

 

「おいしい……」

 

「ねー。この一口のために練習してるといっても過言ではない!」

 

「チーズおかか……! なんという悪魔の組み合わせ……!」

 

「美奈子も最初はいびつな形のしか握れなかったけど、最近は綺麗に三角に握れるようになったね」

 

「咲先生のご指導のおかげですとも」

 

「そういえば、3人は野球部に入られる前から付き合いがあるんですね」

 

「そそ。ずっと一緒にいてさ、『おいしいものクラブ』を名乗って、美味しいもの巡りをしてたんだよね」

 

「楽しかったよね〜」

 

「ふふ、そうね。父さんの店の新メニューをみんなで考えたりもしたっけ」

 

 おにぎりを食べ進めながら、おいしいものグラブの思い出を楽しそうに話す3人。初瀬は本当に仲が良いことを感じながら、ふと疑問に思った。

 

「おいしいものグラブの時間を削ってでも皆さんが野球部に入られたのは、何かきっかけがあったんですか?」

 

「あー……あったよ。それ話す前に聞きたいんだけど」

 

「?」

 

「初瀬ってさ。中学生から高校生になって、何か劇的に変わったことってあった? 大人っぽくなったなーとか」

 

「い、いえ! 全然……」

 

 途端に真面目な顔で語り出す新田に驚きながら、初瀬は入学時の自分を思い返してとっさに否定した。

 

「だよね。高校生になってもこんなものか〜って時間を過ごしてたんだ。……あ! もちろんみんなで美味しいもの食べたりするのは楽しかったんだよ? ただ、こうさ……高校生の時こんなことあったなーって、そう思えるようなことやらずに終わっちゃうのかなって……」

 

「…………」

 

「その時に野球同好会が署名活動してるの見かけたんだよね。咲の店にもたまに来てて顔は見たことあったんだけど、実際何してるかよく知らなくって。で、記事とか話聞いたりで何してるか知って、大会も応援に行ってさ。本気でやり込んでるんだなって。野球のことは詳しく知らなかったけど、もしかしたらここなら、何かやった! ……って言えるようなこと出来るのかなって。3人で相談して野球部に入ることにしたんだ」

 

「そうだったんですね……。何かを変えようとすることって大変で不安が纏うことだと思いますし、そう決断された皆さんは凄いなって思います」

 

「……たまにサボろうとしなければ、ね」

 

「ちょ! 咲ー! せっかくいい感じの話だったのに!」

 

 近藤に突っ込みを入れられて新田は作っていた表情を崩す。対して近藤の表情はどこか冴えないものだった。

 

「……もう。東雲さんもそうだったけど特に河北さんが怒ってたよ? みんなの士気にも関わるし、サボっちゃダメだよ」

 

「だ、だって練習が厳しくなって、新田ちゃん体力メーターが危険信号を発信するようになってきたから……」

 

「そ、そうだよ。ほら。わたしたち初心者だし……」

 

「……本当に体力が限界なら私か周りの人が止めるわ。でも思ったよりきつくて、先に根を上げちゃってるだけでしょ」

 

「う……だって、朝練とかあるし、今日だって土曜なのに午前中から練習で……」

 

「自分でやりたいって言ったことは守る。いい?」

 

「うう……分かった」

 

「はーい……」

 

 食べ終わった皆のアルミホイルを持参したビニール袋の中に捨てながら近藤は友人たちに注意する。渋々といった様子ではあったが、2人はその注意を聞き入れた。

 

(近藤さんってなんだか、2人のお姉さんみたい……)

 

 皆が食べ終わっていることに気づき、慌てて最後の一口を頬張ると、初瀬はそんなことを思ったのだった。

 

 時を同じくしてこの休憩時間にバットのスイングによって風を切る者がいた。

 

「ふっ! ふっ!」

 

「わ〜。ここが素振りしてる。小麦もやる〜」

 

「あら、小麦ちゃん。まだまだ元気みたいね」

 

「小麦はねー。昔からいーっぱい走ってきたから体力には自信あるよー。ここも、体力いっぱいだねー!」

 

「まあね。女優業は体力のいる仕事だから子役時代から体力は意識してつけてきたのよ」

 

「そうなんだ!」

 

 逢坂の自主的な素振りに秋乃も参加し、交互に風を切る音が聞こえるようになってくる。

 

「ね、小麦ちゃん。アタシ最近凄いことに気づいちゃったのよ」

 

「すごいこと? 知りたい〜」

 

「こうしっかりボールを捉えたとしても野手の正面だとアウトになっちゃうでしょ?」

 

「うん。小麦、それすっごく納得いかないー!」

 

 逢坂がボールを痛烈に捉えたようにしてみせると秋乃はそうなった時のことを思い出して口を尖らせていた。

 

「けどね。逆にこうも考えられない? 野手が届かないところに打ってしまえば、アウトにならないのよ」

 

「おおー! ほんとだ! 届かないところってどこー?」

 

「ふふ……それはね」

 

 逢坂は一呼吸置くと、バットのグリップを片手で持ち、その先をある場所に向けた。

 

「それは、柵の外! つまりホームランを打てば野手はどうあがいても手出し出来ないのよ!」

 

「なるほどー! ここ、すごーい!」

 

「でしょー?」

 

 2人がそんな話で盛り上がりながら素振りをしていると、そこに有原がやってきた。

 

「2人とも熱心だね!」

 

「あ、翼ちゃん! ちょうどいいところに! ね、ホームラン打つにはどうすればいいか教えて!」

 

「いいよー」

 

「え! 小麦も聞きたいー! どうすればいいの?」

 

「それはね……」

 

 有原の言葉を今か今かと2人は固唾を飲んで見つめる。

 

「筋トレ♪」

 

「えー! 地味ー!」

 

「つまんないー!」

 

「うーん……でもね。私たち女子選手は男子と比べると根本的に筋力が足りないからさ。まず筋トレから始めないとホームランは難しいと思うよ」

 

「そうかもだけどー……」

 

 期待していた派手な答えから遠く離れており、逢坂は頬を膨らませる。すると有原は思い出したように話を続けた。

 

「あ、他にもやれることはあるよ。素振りなんだけどさ」

 

「素振りならやってるわよ?」

 

「そのやり方なんだけど、今漠然と振ってると思うんだ」

 

「んー?」

 

「例えばだけど……」

 

 有原は先ほどノックで使用されベンチに立てかけるように置かれていたバットを持ち上げ、構える。

 

「インハイのストレートなら……こう!」

 

 有原は腕を畳むと左足をやや体の外側に踏み出しながらバットを振り抜く。すると距離を置いていた2人にも強烈な風切り音が聞こえてくる。

 

「真ん中から外に流れていくカーブなら……こう!」

 

 バットの振り出しを溜めて始動を遅れさせ、溜めた分を解放させるような腰の回転で再び強烈な風切り音が響く。

 

「こんな感じで振ってみるといいよ!」

 

「……え? どういうこと?」

 

「だから、えーと……」

 

「……有原さんが言いたいのはがむしゃらにバットを振るより、コースや球種を考えながら、それをどういう風に打つのかイメージしながら振るほうが効果的だということよ」

 

「あ、りょー!」

 

「だからあまり名前で呼ばないで……」

 

 有原が指導していることに気づいた東雲は慣れたようにそのフォローへとやってきていた。

 

貴女(あなた)が言わんとすることが分かってきた自分が恨めしいわ……」

 

「おー。私たち以心伝心だね!」

 

「はあ? 調子に乗らないで貰えるかしら」

 

「ご、ごめん……」

 

 有原が嬉しさのあまり調子に乗ると東雲が即座に睨みつけるように釘を刺し、思わず謝ってしまう。

 

「つまり真ん中にストレートが来たら……こう! これでホームランのイメージで振ればいいのね」

 

「…………まあ。素振りの段階から遠くに飛ばすことを意識して練習するのは、あながち間違った選択ではないんじゃないかしら」

 

 東雲にOKを貰ったと思った逢坂は気を良くし、秋乃と共に休憩時間中、素振りの練習を続けた。

 

「有原さん、貴女から見て今のあの2人のスイングはどうかしら?」

 

「大分スイングが安定してきたよね。コツを掴むのが早いのかも」

 

「そうね。秋乃さんは最初からおおまかに出来て、逢坂さんはある程度数をこなしたら形になってきたという違いはあるけれど」

 

(守備もあの2人は似たような特徴があるわね。……逢坂さんは時折魅せるプレーに走るのをやめてもらえればだけれど)

 

 やがて休憩時間も終わりメニューが再開される。初の練習試合の時にほとんどの者がエラーしたこともあって、明日の練習試合に向けて守備の不安を減らすべくケースバッティングが再び行われたのだった。

 

「みんな、お疲れ様ー」

 

「あ、桃子先生!」

 

 残暑がまだ残る秋でもスーツに身を包み、茶色の髪が汗で少し湿っている野球部の顧問、掛橋(かけはし)桃子(ももこ)が練習の様子を見にやってきた。

 

「お疲れ様です!」

 

 それに気づいた生徒たちが各々の言葉で伝える中、鈴木が近藤と交代すると近づいていった。

 

「先生、お疲れ様です。……あの件ですが、どうなりましたか?」

 

「ああ、あれね。そろそろ大会が始まるから、それが終わって落ち着いてからなら予定空けられるって」

 

「そうですか。色々手を回していただき、ありがとうございます」

 

「いいのよ。可愛い教え子のためですもの」

 

 鈴木が頭を下げると練習に戻っていく。一生懸命練習する生徒たちの姿を眺めるようにして、掛橋は微笑んだ。

 

 掛橋が学校に戻ってからさらに時間が経ち、ようやく午前練が終了する。午後もあるのかと滅入る新田に朗報が入ってきた。

 

「え! 午後は休み!?」

 

「……明日の練習試合に影響しないよう、前日の午後練を休みにすることは事前に伝えておいたはずだけれど」

 

「う……ごめんごめん」

 

 目を輝かせて喜ぶ新田だったが東雲に睨まれて苦笑いを浮かべていた。部室に戻り、各々ジャージから学生服に着替えていく。

 

「初瀬さん。今日の特訓は無しよ。休養も練習のうち、しっかり体を休めておくことね」

 

「はい。そうします」

 

「よーし。じゃ、初日全員で出来なかった新入部員同士の歓迎会を咲の店でやるとしますか!」

 

「え、いいなー。私も行きたい」

 

「何言ってるの有原さん。私たち3人はこれから明日のオーダー決めがあるでしょう」

 

「うー。分かってますぅ……。初瀬さんも皆も楽しんできてね」

 

「は、はい。有原さんの分まで楽しんできます」

 

 部室から準備を終えた者からカーテンをくぐり、扉をあけて出ていく。ややドタバタした様子に同好会設立当初と比べると賑やかになったことを感じ取った翼は柔和な笑みを浮かべた。

 

「翼ー。また明日ね」

 

「あ、うん。また明日ね。ともっち!」

 

 河北が出て行き扉が閉じられると部室内に一瞬静寂が広がる。東雲、有原と共に部室に残った鈴木がホワイトボードを移動させてくるとオーダー決めが始められたのだった。

 

 次の日。相手校のグラウンドを訪れた里ヶ浜高校女子硬式野球部はグラウンド入りする前にキャプテンの有原の指示によって一列に並んでいた。

 

「みんな、礼!」

 

「よろしくお願いしまーす!」

 

 声を揃えて元気よく挨拶をするとグラウンドにいた相手高校の選手たちからも挨拶が返ってくる。それを受けてからグラウンドに入っていくのだった。

 

「今日もお互いにとって良い試合にしましょう」

 

「うん! よろしくね、神宮寺さん!」

 

 キャプテン同士で握手が交わされる。有原が見上げるようにして握手するのは神宮寺(じんぐうじ)小也香(さやか)。雅やかな立ち振る舞いで有原たちを迎い入れた彼女が率いる清城(せいじょう)高校は初めて練習試合を行った相手であり、また初めて公式戦を行った相手という浅からぬ因縁があった。

 

「ねー、ゆうき。ここって大会で当たったところだよね? どうしてここと試合することになったの?」

 

「ああ。女子硬式野球部は全国で見ても数が少ないので、比較的近くにある清城高校さんには懇意にして頂いてるんです。初めての練習試合も清城高校とだったんですよ」

 

「そうだったんだー!」

 

 互いにベンチに戻り秋乃が野崎に質問をしていた。すると有原が皆に向かって声をかける。

 

「ええと、まず今回は守備を重要視してオーダーを組みました。ではオーダーを発表したいと思います」

 

 有原は少し緊張しながらオーダー表を広げ、それを読み上げた。

 

「1番レフト、九十九伽奈」

 

「はい」

 

「伽奈。レフトは任せたぞ!」

 

「……了解しました」

 

 レフト以外の守備練習を行っていない岩城はこの時点でスタメンから外れたことを察したが、表に出すことなく九十九を励ます。九十九もそんな岩城を見て思うところはあったが、素直に応援を受け取ることにした。

 

(……5番から1番になったか。出塁率や打率を評価してもらえたと思って良いのかな。守備がテーマということみたいだし、まだ練習して日が浅いレフトの守備にも集中しないと)

 

「2番セカンド、阿佐田あおい」

 

「……!」

 

「はいなのだ〜」

 

 セカンドを守る2人の表情の明暗が分かれる。河北はこの結果にほぞを噛んだが、暗い表情をしてしまったことに気づくと慌てて取り繕った。

 

(サードの練習もしていたからどうなるかと思ったけど、大会から打順もポジションも変化なしというのはこれまで通りにしてくれれば良いということなのだ?)

 

「3番ショートは私、有原翼です」

 

(うーん。さすがにスタメンってことはないか)

 

 まだ部に入って間もない新田は確かな実力差を感じるキャプテンだからと、さほど悔しがることは無かった。

 

「4番サード、東雲龍」

 

「はい」

 

(守備重視とはいえ、2〜4番は大会から変えていない。ここでどれだけ効果的な打撃が出来るかが肝になる……)

 

(……そう、ですよね)

 

 もしかしたら、と淡い期待を抱いていた初瀬はスタメンから外れたことに少なからずショックを受ける。

 

「5番ピッチャー、倉敷舞子」

 

「……分かったわ」

 

(6番から5番。まあ、九十九(あいつ)の抜けた5番に収まった感じかしらね)

 

「6番ファースト、秋乃小麦」

 

「……!」

 

「え、小麦? ……は、はーい!」

 

 新入部員がスタメン入りしたことに驚いて少し他の部員がざわついてしまう。東雲が手を叩いて落ち着かせると、補足を入れた。

 

「野崎さん。あなたはこの試合ピッチャーに集中してもらうわ。試合の様子で多少変わるかもしれないけど、基本的に6回の1イニングに登板してもらう予定よ。そういう意味でも守備を重視しているわ」

 

「あっ、はい! 分かりました!」

 

「私は5回まで投げ切ればいいのね」

 

「はい。よろしくお願いします」

 

 ざわつきも収まり、野崎もどこか安堵した表情を浮かべるとオーダー発表が続けられる。

 

「7番センター、中野綾香」

 

「はいにゃ」

 

(1番から7番に打順がダウン。まあ九十九先輩の方が打率が高いからにゃ……。こうなったら下位でも足でかき乱してやるにゃ)

 

(ううーん。選ばれないよね。まだボールぽろぽろ零しちゃうし……)

 

「8番キャッチャー、鈴木和香」

 

「はい」

 

「鈴木さん。ベンチから勉強させてもらいますね」

 

「え、ええ……」

 

(……これまでは良くも悪くもキャッチャーは私1人しかいなかった。一つの事実としてそれがスタメン入りに繋がっていたのは否定出来ない。……プレッシャーね。でも、チームの層が厚くなるのは悪いことではないし、それにこのポジションを譲るつもりはない。近藤さんがどんな成長をするにせよ、私は私に出来ることをやる)

 

「9番ライト、宇喜多茜」

 

「……ふぇ!?」

 

「ほら、茜ちゃん。返事しなきゃ」

 

「は、はいぃ!」

 

 逢坂に急かされ、慌てて宇喜多は返事をする。その目は明らかに動揺していた。

 

「そ、そんなにびっくりしなくてもいいんじゃない? 茜ちゃん頑張ってたし」

 

「でも茜、11人になった時、スタメンになれなくて。人数が17人に増えたから、もうスタメンにはなれないのかなってどこか思っちゃって……」

 

「もう、考えすぎだって。今回守備がテーマらしいし、そこを評価して貰えたんじゃない?」

 

「そ、そうかな……?」

 

「茜ちゃんはもうちょっと自信持ちなさい。選ばれた人ってのは選ばれなかった人の分も背負って頑張るのよ」

 

「……! 分かった。頑張る……!」

 

 オーディションに合格し主役を張っていた子役時代の経験から宇喜多にアドバイスを送る逢坂。そんな逢坂の思いが伝わったのか、宇喜多は頷くとやる気を出したようだった。

 

「一塁コーチャーは宇喜多さん。三塁コーチャーはとも……河北さんにお願いします。ただ宇喜多さんの打席が近づいてきたら、誰か他の人が……」

 

「あ、それでしたら私が入りますよ」

 

「お願いするよ。後、スタメンに選ばれなかった人も試合の状況次第で出番があるかもしれないから、そのつもりでお願いね。……よし!」

 

 野崎が手を挙げたのを確認し、ベンチメンバーにも気持ちを切らさないよう伝えると、有原は頬を両手で軽く叩く。すると硬い表情は崩れ、陽気さが溢れる笑顔を見せた。

 

「みんな! 試合、楽しんでいこうね!」

 

 有原の言葉に皆が頷く。オーダー表が交換され、先攻後攻が決定し、ついに試合が始まる時が近づいてくる。後攻になった里ヶ浜高校、選ばれた9人の選手がグラウンドに散っていく。

 

「ラスト一球!」

 

「……ふっ!」

 

 マウンドの感触を確かめながら投じられたボールがミットに収まり、心地よい捕球音が響く。投球練習の時間が終わり、バッターが向かう前にボールを取り出しながら鈴木はマウンドに向かった。

 

「調子良さそうですね」

 

「ええ。悪くないわ」

 

「では、打ち合わせ通り……」

 

 倉敷はボールを受け取りながら鈴木の言葉に頷く。鈴木がホームに戻り球審に軽く頭を下げてキャッチャーボックスに座ると、キャッチャーマスクを下ろす。すると清城の1番バッターがやってきて球審と里ヶ浜高校の選手に向けて軽く頭を下げると右のバッターボックスに入り、球審の宣言がグラウンドに響く。試合開始(プレイボール)だ。

 

(この投手コントロールが良かったはず。今日の調子を探るために、1番バッターとしてまず様子を見ていこう)

 

 鈴木のサインに頷いた倉敷はこの試合の1投目となるボールを投じる。右バッターから遠いアウトコース低めに投げられたストレートが鈴木のミットに収まる。

 

「ストライク!」

 

(……随分厳しいコースに投げるじゃない。でも前より少し球速が落ちてるような……)

 

「ナイスボール!」

 

 鈴木が声をかけながらボールを倉敷に投げ返す。ミットに収めたボールの縫い目を手の感覚で確かめながら、鈴木が出したサインを見て頷く。

 

(私の課題はスタミナ。全力投球を続けて4、5回あたりで捕まってしまうことが多い。だからランニングをして少しでもスタミナを、と思っていたけど……)

 

 息を軽く吐き出すと2球目が投じられた。

 

(なっ……)

 

 スパーン、とミットに収まるボールをバッターは見送る。1球目と同じくアウトコース低めに投げられたストレートはまるでリプレイのようにストライクがコールされる。

 

(倉敷先輩の7割近くの力で投げるピッチングが功を奏してる。最初はスタミナの消費を抑えるために始めたけれど、普段の全力投球時ストライクゾーンを縦3横2の6分割で投げられるのに対し、これなら縦3横3の9分割で投げられる。球威や球速は落ちるけど悪いことばかりではなかった)

 

 手応えを感じながらボールを投げ返す鈴木。そのまま3球目のサインを出すと、倉敷は頷いた。

 

(ほほー。あのサインは1球目2球目より1球分外に外したボール球なのだ。すずわかも意地悪なリードするのだ)

 

(2球で追い込まれた。厳しいコースに来るなら食らいつくしかない。 ……3球目も同じコース!?)

 

 倉敷の指先からボールが放たれホームに向かっていく。バッターがここで初めてバットを始動させた。

 

(よし! ボール球を振らせた!)

 

(くっ、この……!)

 

 やや体勢を崩しながら振り出したバットはその先でボールを捉えると、一二塁間に向かって放たれた。

 

(なっ。ボール球なのにヒット性の当たり……!)

 

(よし。抜け……)

 

「ほっ」

 

 その打球はショートバウンドで阿佐田のミットに収められる。ボールの勢いに少しだけ引っ張られながらも、体勢を持ち直してスナップスローで投げられたボールはファーストベースで構えている秋乃のミットに収められた。

 

「アウト!」

 

(捉えたけど抜けなかったか……)

 

(危ない。抜けていたら長打になっていたかもしれない。ボール球といっても安全ではないということね。でも際どいコースをついたから野手が届く範囲にボールが来たとも考えられる。阿佐田先輩に助けられたとはいえこの投球は悪くないはず)

 

「阿佐田先輩ナイスプレイです! さぁ、みんな! 声出していこう! ワンナウトー!」

 

「ワンナウトー!」

 

 有原が1の形を指すように人差し指を立てながら声を張ると秋乃も真似しながら声を張り、遅れるように他のメンバーも声を上げた。

 

「わ、ワンナウト!」

 

(いけない。声かけを忘れてた。何を緊張しているのよ私は……)

 

 鈴木は一度深呼吸をしてから座り、キャッチャーマスクを被り直す。気持ちを切り替え、左打席に入ったバッターに一瞬目を向けながらサインを出した。

 

「……!」

 

 いきなり内の高目をついたボールにバッターは思わず手が出る。高めに外されたボールの下をこすりキャッチャー方向に上がったフライを鈴木が追うが、落ちてくる前にバックネットにボールが当たる。

 

「ファール!」

 

(よし。今の球が印象に残ってるうちに……)

 

「ストライク!」

 

 アウトコースに投げられたボールにバッターは手を出すが、腰が引けておりミートすることが叶わない。

 

(ボール3つ分の余裕がある。ここはより際どいところを攻めましょう)

 

(分かったわ)

 

 3球目は9分割よりさらに厳しくアウトコース低めを狙ってボールが投じられる。際どいコースにバットが出ず、球審のコールが下された。

 

「ストライク。バッターアウト!」

 

(くっ……)

 

 続く3番バッターが右打席に入る。初球インコース低めを見逃し0ボール1ストライクの場面。続けて投げられた1球目よりボールひとつ分内に外されたボールを引っ掛け、サードへのゴロとなる。東雲はそのボールを難なく捌き、3アウトでチェンジとなった。

 

(初回を8球で終わらせられた。これは幸先がいい……!)

 

 ベンチに戻りながら皆、倉敷にナイスピッチなど各々の言い方で声をかけていく。

 

「倉敷さん。ナイスピッチング。いいスタートが切れたね」

 

「……そうね」

 

(……笑わないんだな。前はこういう時、嬉しそうにしていたのに)

 

 表情を変えない倉敷に九十九は寂寞の思いを抱きながら、1番バッターとして準備をしてバッターボックスに向かっていった。既に神宮寺は投球練習を終えており、九十九が一礼して右バッターボックスに入るとプレイが開始される。

 

(……切り替えよう。彼女はストレートを主体にして、追い込んでから変化球を振らせてくる。追い込まれるまでは甘いストレートに絞っていこう)

 

 九十九はバットを構え、ストライクゾーンの中でも手を出すゾーンを決める。神宮寺のベージュ色の長髪がマウンド上で花咲くように揺れると、一球目が投げられた。

 

(低め……)

 

 きっちり低めを狙ったボールに九十九はバットを止める。するとそのボールは真ん中付近から外側へと曲がっていった。その変化量の多さは、初対戦ではないがそれでも目を見張るほどだった。

 

「ストライク!」

 

「小也香ナイスボール! いいところ来てるよ!」

 

 清城高校の正捕手を務める牧野(まきの)(はな)が声量を頑張って上げながら神宮寺にボールを投げ返す。

 

(初球から決め球(スライダー)? ……でも恐らく2球は続けないはずだ。次のボール、いけそうならいこう)

 

 神宮寺はサインに頷くとボールを放つギリギリまで指先で触れながら2球目を投じた。

 

(内のストレート。打てる!)

 

 ストレートを待っていた九十九は思い切ってバットを振り出す。しかし振り出した瞬間、ボールが九十九側に向かって変化していく。

 

「……!」

 

 ギィン。バットの根っこで捉えたボールはピッチャーへの勢いのないゴロとなる。打ってからすぐに走り出した九十九だったが、神宮寺はこのボールを落ち着いて処理し、余裕を持ってアウトにした。

 

(シュートか……やられた。まさか変化球を続けてくるとは。前とは随分違う配球になってるね)

 

 九十九は1番バッターとして最低限の役割を果たそうとネクストサークルから打席に向かう阿佐田とベンチに1球目と2球目のコースと球種を伝えた。

 

(変化球主体。あのピッチャーにストレートで力負けさせられることが多かったあおいにとってはありがたい話なのだ)

 

 牧野を中心に出されていたかけ声が収まるところでバッターボックスに立つ阿佐田。すると内野手の守備位置の変化に気づいた。

 

(ファーストとサードが一歩手前に。……これはセーフティバントを狙っていたのがバレてそうなのだ)

 

(この人は最初の練習試合でも大会でも厄介だった……。小細工を封じて、小也香のストレートで押し切る!)

 

 内野手を前に出すサインを出したであろう牧野を小動物を連想させる両目で見つめる阿佐田。ピッチャーに向けて左手を向けながら足元をならすと、左手を口元に一瞬持っていって笑みを隠し、バットを構えた。

 

「……はあっ!」

 

 牧野のサイン通り、先頭打者を打ち取った勢いまでも乗せるようなストレートが投じられる。ボールをリリースした瞬間、神宮寺は目を見開く。

 

(バント……!?)

 

 セーフティバントを読んでいたファーストとサードは既にチャージをかけており、神宮寺もバントに備えてチャージをかける。

 

(アウトハイのストレート……もらったのだ!)

 

 阿佐田はそのままバントの姿勢を崩さず、しかし引き手で一瞬引くようにした後押し出すようにしてバットがボールに当てられた。

 

(プッシュバント……!)

 

「このっ……!」

 

 勢いを殺すことなく転がっていくボールにチャージをかけていたファーストが飛びつくが、ストップをかけてから横に飛びついたそのミットは全くボールに届いていなかった。

 

「セカンド!」

 

「えっ……」

 

 一塁へのベースカバーに走っていたセカンドが走っていた方向とは逆方向に転がっていく打球に意表を突かれながら反転して走り、そのボールをなんとか収める。

 

(うっ、でもこれじゃあファーストが。……!)

 

「ファーストに!」

 

「なっ……神宮寺!」

 

 阿佐田は横で並走するように一塁へ向かう神宮寺に気がつく。神宮寺は打球が届く位置にないことをとっさに判断し、チャージを止めてから迷わずに一塁へ向かっていた。

 

「神宮寺さん!」

 

 セカンドから、一塁に入ろうとする神宮寺に送球が行われる。一塁手前でボールを受け取った神宮寺は一塁ベースの左側を、阿佐田は右側面を踏むようにして駆け抜けた。

 

「……!」

 

「アウト!」

 

 間一髪。ほぼ同時に駆け抜けたように見えるそのタイミングは一瞬、神宮寺の方が先にベースに触れていた。

 

「お、惜しかったです。阿佐田先輩!」

 

 ファーストベースを駆け抜けた阿佐田に一塁コーチャーに入っている宇喜多が声をかけるが、反応が返ってこない。不思議に思った宇喜多が覗き込もうとしたが、その前に阿佐田が動き出した。

 

「……くぅー。作戦で勝っても勝負で負けちゃ意味がないのだー!」

 

 そう言うと阿佐田はベンチに帰っていく。マイペースな人だなぁと宇喜多はコーチャーボックスに戻りながら思った。その間に右バッターボックスに有原が入っていく。

 

(簡単に3人では終わらせないよ!)

 

(打つ気満々といった目ですね……。望むところです)

 

 神宮寺の初球はアウトコース低めのストレート。外枠に沿うような形ではないが、低めにしっかりコントロールされたそのボールを有原は見送る。

 

「ストライク!」

 

(さすが。良いところに投げてくるね。この厳しいボールに手を出していたら、すぐ打ち取られてしまう。粘り強くいこう!)

 

 有原を横目で見ながら牧野はサインを出し、神宮寺も頷く。次に投げられたボールは内のコースにコントロールされていた。有原のバットはピクッ、と反応を示したが振り出されない。そのボールはさらに有原に向かって曲がるとボールゾーンで捕球された。

 

(九十九先輩が打ち取られたボール。情報はちゃんと貰ってる。無駄にはしないよ!)

 

(引っかからなかった。けど……これで!)

 

 3球目が投じられる。神宮寺が放ったボールは勢いよく内に向かっていった。有原もこのボールにバットを振り出す。

 

「……!」

 

 打球はバックネット方向に勢いよく飛んでいった。

 

(くぅ。シュートを見せ球に今度はさっきのシュートのコースに合わせてストライクゾーンにストレート。差し込まれた……)

 

(今のが前に飛んでくれたら楽だけど……そう簡単にはいかないよね。……小也香)

 

 牧野は少し考えたあとサインを出す。そのサインを見た神宮寺は極力表情に出さないようにしたが、内心驚いていた。数瞬の後、神宮寺はそのサインに首を振る。

 

(え!? 神宮寺さんが首を振った……? そんなの初めて見たかも)

 

(……小也香。この前の大会で私たちはお互いを信じるあまり、気持ちをぶつけてこなかったことを知った。だからサインも信じて頷くだけじゃなく、首を振ってくれるようになったことは素直に嬉しい。…………でも、ここは!)

 

(……! 全く同じサイン……!?)

 

 神宮寺は表情に出さないようにするのが精一杯なくらい驚嘆していた。少し考えた後、そのサインに頷いた。

 

(いいでしょう。まだ実戦で使うほどコントロールに自信はありませんが、あなたがそこまで主張するなら、それは尊重しましょう)

 

 神宮寺は覚悟を決めるとミットの中で握りを調整し、投球姿勢に入る。

 

(……何か、来る……?)

 

 明確な根拠はないものの、初めて見た首振りに危機感を覚えた有原はバットを短く握り、意識をセンターから逆方向に向けて、神宮寺のボールに備えた。投じられたボールのコース、高さは真ん中……いわゆる“ど真ん中”に投げられたそれに有原は意識は変えずにバットを振り出す。

 

(この球速……シュートでもない。ストレート! 失投……?)

 

 有原のスイングがボールに向かっていく。しかし次の瞬間には有原のバットは空を切っていた。

 

「ストライク、バッターアウト!」

 

「なっ……」

 

 有原は驚きのあまり思わず崩れた体勢のままキャッチャーミットの位置を確認する。アウトコースのボールゾーンに構えていた牧野は想定より内側に寄ったボールを迎えるように腕を伸ばして捕球していた。それは有原が目を切る前のボールの位置から考えると、かなりアウトコースにスライドしたことを窺わせた。

 

 3アウトとなったため里ヶ浜高校の攻撃が終了し、有原はベンチに戻っていく。途中ネクストサークルにいた東雲が有原と並ぶようにベンチに向かうと小声で話しかけてきた。

 

「今のはもしかして……“高速スライダー”かしら?」

 

「……うん。少なくとも今までのスライダーよりは速かったし、私はストレートと思って振りにいった。ストレートと同じくらいの球速であれだけ横に変化したから……東雲さんの言う通りだと思う」

 

「厄介ね……」

 

 新たな変化球の存在に東雲は頭を悩ませる。ベンチに戻ってきた2人は先に守備に向かった皆に追いつくように手早く準備を終えた。

 

「確かに厄介だけどまずは守備に集中して、それが終わったらまた考えよう!」

 

「……そうね。今回のテーマは守備だし、これを考えながらエラーなんてシャレにならないわ」

 

 気持ちを切り替えた2人は守備に向かっていく。その時、清城高校のベンチでも水を補給し、神宮寺が4番バッターとして準備を進めながら牧野と話していた。

 

「酷いコントロールですが、キレだけで空振りに取ることが出来ましたね」

 

「うん。それにこの球が相手の頭にあれば他の球種も生きてくる。多投は避けるけど、サイン出していくよ」

 

「分かりました。ただ左打者には要求しないで貰えますか? 今のコントロールだと向かっていく左打者には危険球になってしまうかもしれないのです」

 

「分かったよ」

 

「……それにしても」

 

 神宮寺がヘルメットを被りバットを引き抜くように取り出すとこう言った。

 

「同じサインを続けて出すなんて、前の大会から強引な一面が出てきましたね」

 

「……そう、かな?」

 

「そうです。……ですが、リードも弱気なばかりでは相手に読まれますからね。悪い変化ではないと思いますよ」

 

 そう言うと神宮寺はベンチを出てバッターボックスに向かっていく。その言葉に呆気に取られる牧野だったが、ネクストサークルに座って落ち着くとその言葉の意味が溶け込むように伝わり、思わず頬が嬉しそうに緩んでいた。

 

 初球インコース低めのストレートを見逃して0ボール1ストライクとなった神宮寺は同じようなコースに投じられたストレートに手を出す。

 

「ファウル!」

 

 レフト方向への大きな当たりとなった打球だったがタイミングが早く明らかにフェアゾーンから離れてしまう。

 

(初球より抜いたストレートでしたか。振らされてしまいましたね)

 

(神宮寺さん相手に0ボール2ストライク。……だけど、慌てて勝負に行く必要はない。際どく攻めていきましょう。中に入ってしまうくらいならボールでも構わない、それくらいのコースに)

 

 倉敷は頷くと甘くならないことだけを意識してそのボールを投げる。投じられたそのボールはアウトコース低めやや外に外れていたが、見送るには際どく神宮寺は手を出す。そのボールはファウルゾーンへと飛んでいく。

 

「ライト!」

 

「……!」

 

(こ、このボール。下、擦ったような感じだったから、もっとあっち側に流れていく……!)

 

 アウトコース低めに合わせるようにして放たれた打球はライト方向の飛球となっていたが、宇喜多の読みが当たりさらにライト方向へとスライスしていく。ファウルゾーンに設置されたフェンス側に向かう打球に宇喜多は飛びついた。

 

「……アウト!」

 

 フェンスにぶつかるギリギリにミットを前に突き出すようにして飛び込んだ宇喜多。そのミットの先にはしっかりとボールが握られていた。

 

「や、やった……!」

 

 グラウンドからはもちろん、ベンチから逢坂や岩城を筆頭に守備を褒め称える声が上がった。宇喜多はその歓声に照れながら倉敷に向かってボールを投げ渡す。

 

(助かるわ宇喜多さん。清城の柱とも言える神宮寺さんを抑えられたのは大きい)

 

 鈴木はマスクを被り直し、右バッターボックスに入る牧野を横目にサインを出す。

 

(とりあえず……)

 

(ここまでのピッチングだけで今日のピッチャーのコントロールの精度が高いことは十分に分かる。それならキャッチャー心理としては……)

 

 倉敷がサインに頷くと要求通りアウトコースの低めのストライクゾーンにストレートが投じられる。すると牧野は踏み込んでバットを振り出した。

 

(バッターから1番遠く、長打のリスクが少ないアウトローが多くなる!)

 

(読まれた!?)

 

 快音が響き、一二塁間に打球が鋭く転がっていく。やや一二塁間寄りに構えていた阿佐田だったが、そのミットにボールが収まることはなかった。

 

「くっ。……!」

 

「とりゃー!」

 

 阿佐田が目を見開くとそこに飛びついていたのは秋乃。長いファーストミットの先にボールが引っかかるように収まっていた。

 

「ファーストに!」

 

 ベースカバーに走る倉敷に送球するよう鈴木が指示を出す。飛びついて体勢が崩れていた秋乃は足で立つ暇はないと判断して片膝で立つようにして送球を行った。

 

「あっ!」

 

「……!」

 

 送球がカバーに入ろうと走る倉敷と反対方向に逸れる。倉敷は一瞬止まると何とか腕を伸ばしてキャッチしてからベースを踏みにいった。

 

「セーフ!」

 

 倉敷と牧野はほぼ同時に一塁ベースを踏んだが、一塁審判が下した判定はセーフだった。

 

(球速は前ほどじゃなかったからコースが読めれば確実にヒットに出来ると思ったけど、守備範囲が広くてびっくりしたな……)

 

「ううー! ごめん!」

 

「ドンマイドンマイ! 今のは仕方ないよ!」

 

(……そうね。甘やかすつもりはないけれど、今のは本当に仕方のないプレーだわ。経験者でも難しいプレー、さすがにこれを責めるのは酷というものね)

 

 この試合初めて清城高校にランナーが出る。6番バッターが左バッターボックスに入る中、鈴木はどうするべきか考えていた。

 

(これで倉敷先輩はランナーに走られないためにクイックモーションで投げる必要が出てくる。きっちりとしたコントロールを要求するより、ここはシンプルに行きましょう)

 

(……分かったわ)

 

 倉敷はサインに頷くとランナーを目で牽制し、少しの間を置く。そして投球動作を小さくしたクイックモーションで極力盗塁の隙を抑えながら、そのボールを投じた。

 

(……低い!)

 

 真ん中低めに投げられたボールをバッターは見送る。すると球審からストライクのコールが為された。

 

(く……今の入ってるのね)

 

(要求通り内外より低めに決まることを重視した制球。ストライクかボールか際どかったけれど、もしかすると初回の1球分ボールを出し入れするピッチングで球審にコントロールが良い印象を与えられたのかもしれない)

 

 ボールを投げ返しマスクの位置を少し調整しながらそんなことを考えると、鈴木はサインを出す。そのサインを見た倉敷は素早く一塁に送球した。

 

「バック!」

 

「……!」

 

「セーフ!」

 

 牽制のサインを受けて投げられたボールに一塁コーチャーの声を受けて牧野がベースに頭から滑り込み、秋乃がやや慌てた様子で戻りながらボールを受けて腕にタッチすると、一塁審判よりセーフのコールがされた。

 

(牧野の足は警戒されてるか……)

 

 倉敷にボールが戻されると6番バッターは息を深く吐き出し、バットを構える。今度はあまり間を置かずに投じられたコースはアウトコース低めやや真ん中寄り。そのボールを思い切って打ちにいくとボールの上を叩いた。

 

(く……!)

 

(強引に右方向に引っ張った!?)

 

「……ファーストへ!」

 

 鈍い当たりがセカンドに転がっていく。阿佐田が前に出ながらボールを処理するが捕った時点で牧野は既に二塁ベースの手前におり、ファーストに送球される。タイミングは際どくなったがアウトのコールが為された。

 

「ツーアウト! バッター集中!」

 

 鈴木が人差し指と小指を上げて声を張り上げる。それに呼応するように皆も声を上げていった。東雲もある疑問を抱きながらも声を上げていく。

 

(……今の左打者はそこまで足のあるバッターではなかった。もう少し余裕を持って刺せそうに思えたのだけれど……)

 

 東雲は首を軽く横に振り余計な考えを振り払うと守備に集中することにした。7番バッターが右打席に向かうと鈴木が外野に前進の指示を出す。

 

(夏大会と比べて清城のオーダーで1番変化したのは順番にレフトライトセンターを務める7、8、9番。3年生のいない私たちには実感しづらかったけど、清城はあの大会を最後に3年生が引退している。そして大会でスタメン入りしていなかった1年生3人が今日入っている。実力は未知数だけれど、上位打線と比べれば抑えやすいはず)

 

 倉敷が投じた初球は膝下のストレート。そのボールをバッターは見送るとボールのコールがされる。

 

(際どいコースを見送った?)

 

 2球目はアウトコース低めを狙ったストレート。このボールもバッターは見送ると今度はストライクのコールが為される。

 

(そういえば初めの練習試合の時、清城のバッターはボールをよく見ていた。そういうサインが出ているのかもしれない)

 

 3球目はアウトコース低め、先ほどよりやや真ん中寄り。そのボールにバッターは初めてスイングを行う。……が、そのアッパースイングはボール2個分上を通過していく。

 

「ストライク!」

 

(……随分大振りね。当たれば飛びそうだけど。……この様子だと最初の2球は手が出なかっただけね)

 

 マスク越しにバッターの様子を窺いながらサインを出す鈴木。倉敷はボールを少し長めに持つと、4球目を投じた。

 

(真ん中! いける……!)

 

 真ん中高めに投じられたボールは振り出されたバットの上を通り抜け、そのまま立って構えていた鈴木のミットに収められた。

 

「ストライク! バッターアウト!」

 

(あっちゃー……釣り球だったかぁ)

 

 3アウトになりバッターは悔しそうに肩を落としながらベンチに戻っていく。そんなバッターの肩を2塁ベースから戻ってきた牧野は軽く叩いて声をかける。ベンチに帰り守備の準備を整えると2人とも元気よくグラウンドに出てきていた。

 

「倉敷先輩、ナイスピッチです。この回も8球、かなりいいペースで投げられてますね」

 

「ええ、上出来ね。この調子でいきたいわ」

 

 ネクストサークルに向かおうとする倉敷だったが鈴木に呼び止められ、水が入った紙コップを渡される。素直にそれを受け取って喉を潤すと簡単な受け答えをしてからネクストサークルに向かっていった。既に右バッターボックスには4番を任されている東雲が入っている。

 

(初球から……ですか)

 

(さっきは決め球に使えたけど、意識されてる今はコントロールがつかないこの球は見せ球として使っていこう)

 

 牧野のサインに今度はすぐ頷く神宮寺。まだ慣れない球種の握りをミットの中で丁寧に確認するとそのボールを投じた。

 

(……! 体に向かってくる……!?)

 

 体に一直線に向かうスピードボールに驚き東雲の腰が引かれる。それと対照的にボールはホームベース上に向かっていき、ミットに収められた。

 

「ストライク!」

 

(高速スライダー! しかもフロントドアですって……!)

 

「ナイスボール!」

 

 内角のボールゾーンからストライクゾーンに入ってくるフロントドアを高速スライダーによって実現したことに東雲が驚く中、ボールを受け取った神宮寺は内心ではホッとしていた。

 

(……たまたま良いコースに決まりましたね。大雑把にストライクゾーンを狙って投げたつもりだったのですが。やはりコントロールしきれない球種、というのはあまり投手として投げたくないものです。ただ逆にこのボールをコントロールしきれるようになれば。……いえ、それは今考えることではありませんね)

 

 サインに頷き息を短く吐き出した神宮寺の第2投はアウトコースへのストレート。高さこそきっちり低めに決まったものではないが、外枠ギリギリに投げられたそのボールに東雲は迷いが生じる。

 

(ストレート。いや、また高速スライダー……?)

 

「ストライク!」

 

 先ほどのボールが散らつきアウトコースのストライクゾーンに決まったボールに手が出ない。

 

(くっ……!)

 

 0ボール2ストライク。追い込まれた東雲はセンターから逆方向に意識を向け、少しでもボールを見られる時間を増やす。3球目、投げられたコースはアウトコース。今度は反応して踏み込んだ東雲だったが、振り出そうとした瞬間変化に気がつく。

 

(スライダー!)

 

 東雲は振り出したバットをとっさに止めに行く。そのボールはアウトコース低めのストライクゾーンからボールゾーンへと流れていくスライダーだった。ワンバウンドするかしないかギリギリのボールを牧野は慣れたように捕球する。球審がボールのコールをすると牧野はスイングを主張し、一塁審判に確認が行われる。その結果、ノースイングの判定となり1ボール2ストライクとなった。

 

(よく見ましたね。追い込んであのコースに投げれば、大抵は振ってしまうものなのですが)

 

 ボールを受け取りずれた帽子の位置を戻して少し間を置く神宮寺。牧野が少し悩んでアウトコースのボールゾーンへの高速スライダーのサインを出すと首を横に振った。

 

(振らないにしても見せ球にと思ったけど……分かった。これで勝負にいこう)

 

(なるほど。分かりました)

 

 今度は首を縦に振り縫い目に指を沿わせる。第4投、投じられたコースはインコース高めだった。東雲もそのボールにバットを振り出す。

 

(ストレート! しかも入ってる……!)

 

 センターから逆方向に意識を向けていた東雲は内に来たストレートに差し込まれた形となり、ボールが高く打ち上がる。神宮寺は投球の反動で右足が跳ねる中、その顔には満足気な笑みが浮かんでいた。

 

「任せて!」

 

 東雲がバットを横に投げ悔しそうに一塁に走る。牧野は上から落ちてくるボールをしっかりキャッチした。

 

「ナイスストレート!」

 

 牧野からボールを投げ渡されて神宮寺はゆっくり頷く。

 

(高速スライダーも良い球種ですが、何よりピッチングの基本はこのストレート。たとえ分かっていても打てないように、球威・球速・コントロールを磨き上げているつもりです。今私が1番自信を持って投げられるボールと言って良いでしょう)

 

 自分が納得できる渾身のストレートを投げられたことに神宮寺が気を良くしていると、東雲が唇を噛むようにしながらベンチに戻っていき、倉敷が右バッターボックスに入る。

 

 倉敷に投じた初球はアウトコースへのスライダー。しかしベース手前でワンバウンドしてしまいボールとなってしまう。2球目に投じられたストレートもアウトコースに大きく外れてしまい2ボール0ストライクとなる。

 

(小也香……?)

 

(くっ……立て直さなくては)

 

(……ああ、なるほどね)

 

 コントロールが急に乱れた神宮寺に納得がいったような表情を浮かべる倉敷。次に投じられたストレートは真ん中やや低めのコース。甘いボールを待っていた倉敷はこのボールをしっかり振り抜き、三遊間をライナーで抜いてレフト前ヒットで出塁した。

 

(強打者に投げた後って打ち取っても、集中力持ってかれるのよね。東雲、アンタの打席は無駄じゃなかったわ)

 

「倉敷先輩、ナイバッチー!」

 

 里ヶ浜高校の初ヒットにベンチが盛り上がりを見せる。その勢いに乗るように新入部員からの初スタメンに抜擢された秋乃がバッターボックスに向かう。新田や逢坂を始めとした同期の部員たちが声をかける中、秋乃は張り切って左バッターボックスに入った。

 

(里高のスタメンオーダーでこの人だけ情報が無い。大会で1番だった中野さんより上の打順ということは、簡単にストライクを取りに行くのも危険かもしれない。1塁ランナーは投手だし盗塁は恐らくない。ここは変化球から入ろう)

 

(……分かりました)

 

 神宮寺は牧野のサインに頷くとボールをそれなりに持ち、投球前に一度倉敷を目で牽制すると1球目を投げる。牧野が要求したアウトコースのストライクゾーンからボールゾーンに流れるシュートより、外目に流れてしまったボールは結果的に大きく外に外れてしまう。

 

「ボール!」

 

(まだコントロールが少し乱れてる。この試合で初めてのクイックだしね……。ここはストレートで立て直そう。さっきも打たれはしたけどしっかり低めには来ていた。低めに投げこめればそう簡単には打てないはず)

 

 神宮寺はそのサインに頷くと再び少し間を置いてから2球目を投じる。

 

(よし! 膝下のいいコース!)

 

 ストレートは牧野が要求したコースに投げられ、ほとんどミットを動かさずにボールが来るのを待つ。

 

「いっ……けぇー!」

 

(なっ……)

 

 きっちり低めに投じられたこのボールに秋乃は反応し、振り出されたバットの内側にボールが捉えられると、ライトに向かって打球が放たれた。

 

(これは落ちる!)

 

 倉敷は打球が放たれた瞬間落ちることを確信してスタートを切る。バッターランナーの秋乃もバットを横に投げると一塁に向かう。倉敷が思った通り前に出てくるライトはノーバウンドでの捕球は叶わないと見てワンバウンドしたボールが落ちてくるところを捕りにいく。二塁手前まで来た倉敷は三塁コーチャーに入っている河北の方を見る。

 

(打球が背後にあって三塁行けるか分からない。振り返るとロスになる。どっち、河北……!)

 

「倉敷先輩、ゴーです! 三塁行けます!」

 

(分かったわ……!)

 

 勢いを殺すことなくそのまま二塁を回り三塁を狙う倉敷。打球が既にバウンドし、三塁に投げようとするライトだったが、打球の変化に気づく。

 

(……! ライト線方向に打球がバウンドした……!?)

 

 バウンドしてからその変化に気づいたライトは正面から逸れて左側に流れるボールをキャッチし、その後反転して送球の体勢に入った。

 

「……! 小麦ちゃん、ごぉー!」

 

 その瞬間、宇喜多は腕をブンブン回してバッターランナーの秋乃を二塁に向かわせる。秋乃もその指示に少し驚きながらも反応して、一塁ベースを駆け抜けようとしたところをとっさに二塁方向に切り替えた。既に送球体勢に入っていたライトはそのことに気づいたが、送球を止められる段階ではなかった。

 

(これは……サードは間に合わない!)

 

「サードカット! セカンに投げて!」

 

「……!」

 

 牧野の指示でサードが倉敷の横を抜けるように前に出るとライトの少し逸れた送球をショートバウンドでキャッチし、二塁へと送球を行った。このボールを塁上、胸元でキャッチしたセカンドはベースにスライディングしてくる秋乃の足にタッチにいく。

 

「セーフ!」

 

 胸元から足下にミットを動かす際先に秋乃の足がベースに触れた後、タッチが行われた。間に合った秋乃はベースに触れたまま嬉しそうに立つと里ヶ浜高校ベンチに向かってアピールする。

 

「やったー! ツーベースヒットだ!」

 

「いや、送球間の進塁だから記録上は単打よ」

 

「もー、東雲さん。今はいいでしょ。秋乃さん、ナイバッチー! コーチャーもナイス判断!」

 

 有原が張り上げた声に続きベンチから声が張り上げられる。特にスタメンから外れたいわゆるベンチ組も岩城に引っ張られるようにして声を出していた。

 

「えへへ……」

 

「宇喜多さん。コーチャー変わりますよ」

 

「あっ! そうだった!」

 

 褒められて嬉しく思っていた宇喜多が野崎に声をかけられると打順が近づいていたことに気づき、慌ててベンチに支度をしにいく。すれ違うように中野がネクストサークルから出て行くと左バッターボックスに入った。

 

(さて……どうするかにゃ。カウントによってはスクイズも……!?)

 

 ワンナウト二塁三塁。このチャンスをどう生かそうかと中野は思案していたが、牧野が立ち上がるのを見てまるで神隠しにでもあったかのようなぽかんとした顔つきになった。

 

「ボール。ボールフォア!」

 

 神宮寺は立ち上がった牧野のミットに計4回、ハッキリと外したボール球を投げ込む。中野はバットを軽く転がすと四球によって一塁へと歩いていった。ネクストサークルから立ち上がった鈴木は無意識にバットを握る手に力を込める。

 

「え? これ、どういうこと?」

 

 ベンチからその様子を見ていた新田は頭の上に疑問符を浮かべると、その疑問に東雲が答えた。

 

「敬遠といって意図的にフォアボールにすることでバッターと勝負しない作戦よ。ただこれは中野さんの打力を恐れたというよりは満塁策と言った方が良さそうね」

 

「満塁にして何かあっちにいいことあるの……?」

 

「……あ! 打球がゴロになれば、ランナーに進塁義務が発生するからフォースプレーになって、タッチを必要とせずベースを踏んでアウトに出来るようになるということですか?」

 

 腑に落ちないといった様子の新田。初瀬は積み上げてきた知識から思い当たった答えを口に出してみる。

 

「そう。近くの塁でアウトが取れるようになるから守りやすくなるのよ。そしてこれはカウント次第では仕掛けようと思っていたスクイズへの牽制の意味もあるでしょうね」

 

「あー。タッチプレーならスクイズを仕掛けて先にホームに送球来ても、躱してしまえばセーフになるかもしれないけど、今やったら躱す以前にアウトになるわけね」

 

 逢坂はタッチを華麗に躱してホームに滑り込む自分の姿を想像してみたが、この状況だとそうはいかないことに気づく。

 

「そうね。それどころかダブルプレーのリスクも出てくるから、仕掛けるなら相当な覚悟が必要よ」

 

「ふーん。じゃあピンチになったらとりあえず満塁策? をすればいいわけ?」

 

「そんな安易な……。満塁策には確かに守りやすくする効果はあるけど、同時にリスクもあるのよ」

 

「あ! ホームラン打ったら4点入るとか?」

 

「まあ、合ってるわ。長打や連打による大量失点のリスクがある。そして他にも——」

 

 東雲がまだ野球知識が浅く不思議そうにしながら聞く新入部員たちに説明を続ける声が途切れ途切れに聞こえる中、鈴木は中野が走者として準備を終えるのを見てバッターボックスに向かっていく。

 

(満塁策。一塁は空いていたし、続くバッターは8、9番。打力が落ちてくる所だし、無失点で切り抜ける可能性は十分にある。理屈として、作戦として、理解は出来る。……出来る、けど。実際に山なりのボールが一球一球外される様をネクストサークルから見ていると、まるで自分の身体能力の低さを指摘されているようで、これほどもやもやした感情が湧き出てくるものなのね)

 

 鈴木は右バッターボックスに入る前に大きく吸い込むと、ゆっくり息を吐き出す。しっかり息を吐き出し終えてから、バッターボックスに入ってバットを構えた。

 

(上等よ。子供の頃のように外で見ているだけじゃない。今はこうして戦える。なら自分のすべきことをすればいい! 狙いは……満塁策のもう一つのリスク!)

 

 神宮寺は滑り止め剤の粉末が入っているロジンバッグを軽く指で叩くと、マウンド近くの邪魔にならない場所へと放り、清城内野陣が中間守備の陣形を整えたことを確認するとバッターと向き合った。

 

(後逸の危険があるから高速スライダーは使えないか……。それにこの状況、ファーストストライクが欲しい。小也香、初球はここに……)

 

 牧野のサインに頷いた神宮寺は一球目を投じる。インコース低めを狙って投げられたストレートを鈴木は見送った。

 

「ストライク!」

 

 鈴木はミットの位置を確認する。構えを崩していないことからもほぼ要求通りのコースに来たことを窺わせた。ボールが投げ返され2球目が投じられる。

 

「……!」

 

 アウトコース、明らかなボールゾーンへのボール。それが立って構えていた牧野のミットに収まる。

 

「ボール!」

 

(ピッチアウト。今のは私のバットに届かないところに意図的に外したボール。満塁とはいえ、スクイズの選択肢が消えたわけじゃない。清城バッテリーもそれは承知の上というわけね)

 

 1ボール1ストライクの平行カウント。ボールを投げ渡された神宮寺は三塁ランナーを横目で確認してからプレートに足をかける。サインに頷き、息を軽く吐き出すと3投目が投げられた。真ん中低めやや外寄りに投げられたボールを鈴木は見送る。

 

「ストライク!」

 

(よし。追い込んだ!)

 

 少し要求より内に入ったが低めにしっかり決められたボールに牧野は手応えを感じボールを投げ返すと、鈴木の様子を見ながらサインを出した。

 

(今のコースから外に逃げていくスライダー。見送られてもストライクとなるコースにですね)

 

 3球目と同じボールだと思えば空振り。そうでなくても自身の決め球であるスライダー。神宮寺はこのリードに自信を持って頷くと4球目を投じた。鈴木はこのボールに初めてバットを振り出す。

 

(いいコース! これなら空振りに取れる……!)

 

 要求通りに投じられたボールと振り出されたバットをマスク越しに確認した牧野。しかし彼女の目論見は外れ、バットはボールの上を叩いた。

 

「ファール!」

 

「……!」

 

 打球は一塁ベンチにも届かないほどボテボテの勢いで転がったファールゾーンへのゴロ。

 

(……スライダーを読んでいた? 確かに決め球だから、キャッチャーを務める彼女が読んでくる可能性は十分あるけど……でも見極められているとは思えない)

 

  再び牧野はスライダーを要求し、神宮寺も頷く。5球目としてアウトコースに投じられたそのボールを鈴木は見送った。

 

「ボール!」

 

(なっ……!)

 

 バットを振り出す様子もなく自身の決め球を見送られ、神宮寺も少なからず驚きを感じていた。

 

(東雲さんですらスイングをなんとか止めて見送ったボール。まさか……本当に見極められている?)

 

 牧野は少し戸惑いながらもサインを出す。それに神宮寺はゆっくりと頷いた。6球目となるボールが今投じられる。

 

(内……これは……)

 

 インコースに投じられたボールに鈴木はバットを振り出す。するとボールが鈴木の方に向かって変化する。バットがボールの上を叩くとホームベースに叩きつけられるようにしてから牧野に向かっていった。

 

「きゃ……」

 

 目の前で軌道が変化したボールだったが牧野はとっさの反応で捕球する。

 

「ファール!」

 

 しかしキャッチャーは守備の中で唯一ファールゾーンで構えるポジション。とっさにキャッチしたもののフェアの判定にはならなかった。鈴木は今のボールで自らの確信を深める。

 

(やはり。これまで神宮寺さんが投げたボールを記録してきたけど、右打者の場合はスライダーをより外に、シュートはより内に。左打者の場合は今のところスライダーは使用していないけど、シュートは外に投げる傾向があった。つまりリードのセオリー通り、変化が中に入らないようにしている。見極めは出来なくても、変化球のタイミングなら内外でどちらの球種か判断できる)

 

 牧野がボールを投げ返す様子を横目で見ながら、鈴木は軽く地面をならしてバットを構え直す。

 

(そのセオリーを崩されれば私は対応できない。けどここはキャッチャーとして賭けてもいい。キャッチャーは最悪の状況にならないようリスクを避ける。ここで中に入る変化球というリスクは取ってこない……!)

 

 鈴木の視線と神宮寺の視線が2人の間で一瞬交錯する。すると神宮寺は一度首を振り、2回目のサインで首を縦に振った。少しボールを長く持ってからその指先からボールがリリースされる。

 

「……!」

 

 インハイに投げられたストレート。そのボールは牧野のミットに収まり、捕球音が内野に響く。鈴木のバットは振り出されることはなかった。

 

(し……しまった。ストレートに反応出来なかった……)

 

「ボール!」

 

「……!」

 

 際どいコース、球審が下した判定はボール。その判定に神宮寺の顔が鈴木から見ても曇ったのが分かった。

 

(た、助かった。運が良かっ……いえ、そう考えるのは良くないわ。こんな時こそ有原さんのようにポジティブに考えるべき。皆のバッティングで満塁を作り上げ、私も粘って神宮寺さんにプレッシャーをかけ続けた成果だわ。これで満塁のもう一つのリスクが発生する……!)

 

(やられた。早めに追い込んだのに結局3ボール2ストライク(フルカウント)まで粘られてしまった。これでこっちは否が応でも“押し出し”を意識せざるを得ない……)

 

(相手はこちらを振らせるボール球で勝負しにいく手もある。でも私がキャッチャーなら私相手に押し出しのリスクを背負ってまでそれはやらない。だから次のボールはこの打席の中で唯一……)

 

 1アウト満塁。3ボール2ストライク。グラウンドにこれ以上ないほどの緊張感が満ちる中、サイン交換が終わると牧野は腕を振る素振りを見せてからミットを構えた。

 

(小也香。しっかり腕を振り切って!)

 

(分かっています。中途半端なボールは相手の思うツボ。今のが外れたからといって入れにいくようなボールは投げません)

 

 神宮寺は鈴木に向かってこの打席8球目となるボールを投じる。指先からボールを離す瞬間、三方向から一斉に声が上がった。

 

「「「ランナースタート!」」」

 

(構いません!)

 

 右投げの神宮寺はサードランナーが視界の隅で動いたことに気づいたが、サイン通りのコースに迷わず腕を振って投げ込んだ。

 

(なっ……スリーバントスクイズ!?)

 

 全ランナーがスタートを切り鈴木がバントの構えを見せ、スクイズを察した牧野は意表を突かれ驚きを見せる。

 

(ボールは必ず手の届くところに来る! 転がしてみせる……!)

 

 アウトコース高め、枠ギリギリを狙ったものではなく漠然としたコースに投げられたストレートはまるで生きているかのように唸りを上げて向かっていく。

 

 ——キィィィン。鋭い金属音がグラウンドに響く。

 

(くっ、芯にまともに当たって勢いが殺せなかった!)

 

 ファースト方向に勢いを殺したバントを目論んでいた鈴木はハッとした表情を浮かべながら一塁に向かう。その打球は狙いとはブレてファーストではなく神宮寺の横へと転がる。神宮寺は投球の反動で跳ねた右足が地につくとそのボールをキャッチにいく。

 

(この打球は……!)

 

 神宮寺が差し出したミットの先からボール3個分離れた場所を通過していく。

 

「セカンド!」

 

(バントの勢いが強すぎて擬似的なセカンドゴロになった。スタートを切っていたから三塁(サード)本塁(ホーム)は間に合わない。二塁(セカンド)は……!?)

 

「にゃにゃにゃにゃー!」

 

 マスクを外した牧野の視界にはセカンドがゴロを捕る瞬間、駿足をとばして二塁へのスライディングを敢行しようとする中野の姿が映った。

 

「ファーストに!」

 

 二塁経由のダブルプレーを諦め牧野は即座に指示を出すとファーストに向かって送球が行われ、鈴木はアウトになる。同時にそれは三塁走者の倉敷のホームインが認められたことを意味した。里ヶ浜高校に先制点が入り、ベンチが今日一番の盛り上がりを見せる。

 

「和香さん、やりましたね!」

 

「ええ。色々と不格好だったけどね」

 

 一塁コーチャーに入っている野崎が嬉しそうに話しかけると鈴木はどこか照れくさそうに視線を逸らし、ベンチに戻っていく。

 

「鈴木さん。あのっ、おめでとう」

 

「宇喜多さん。ありがとう」

 

「茜もね、初めてのを、手に入れられるように頑張る……!」

 

「……? ええ、頑張ってね」

 

(初めて? 初めてって何のことかしら)

 

 宇喜多がネクストサークルから張り切って右バッターボックスに向かっていくのを見送ると、鈴木は疑問に思いながらネクストサークルに向かう九十九に労いの言葉を貰ってからベンチに帰った。岩城が背中を叩いて褒めたりと、ベンチで多くの人から祝福を受ける。そのメンバーにはホームインした倉敷も含まれていた。その様子を少し遠くから見つめる九十九は違和感を覚える。

 

(……倉敷さんが、笑った?)

 

 最近めっきり見る機会が減った倉敷の笑顔を確かに見た九十九は疑問に感じる。

 

(確かに倉敷さんは前も得点した時にベンチでハイタッチしたりと、仲間の好プレーを喜んでいた。けど倉敷さんは今日の好投や自分がヒットで出た時でも一度も笑みをこぼしていないのに。…………そうか、分かったぞ)

 

 盛り上がるベンチとは対照的にどこか悲しげな表情を九十九は浮かべる。

 

(倉敷さんは笑わなくなったんじゃない。前と比べて笑わなくなったタイミングがあるんだ。そしてそれは……自分が良いプレーをした時なんだ)

 

 野球部がまだ野球同好会だった頃、生徒会として部の昇格に相応しいか適性審査に訪れた九十九。ちょうどその頃に加入した倉敷。初めは自分と同じく感情を出すのが苦手だと思っていた倉敷が投手を始め、良い球を投げて褒められるのを嬉しそうに笑っていた。そんな彼女の笑顔が九十九は好きだった。だからこそ、この予想は間違っていて欲しい、そう願わずにはいられなかった。

 

 ベンチからの祝福も落ち着き、宇喜多の声援へと変わっていく。鈴木は落ち着くために水を飲んでから座ると防具を取り付けながら宇喜多の言葉の意味を考えていた。

 

(初めて、といえば。前の大会で私は初めて塁に出た。……なるほど、分かったわ。初打点のことね。…………私が……打点を)

 

 どこか興奮していた状態が収まっていくと、まるで今実行したかのように鈴木は自分がした事実に気がつく。段々とその実感が湧いてきたのか防具を取り付ける手が止まると、口からのぞく歯が何より彼女の嬉しそうな表情を引き立てていた。

 

(私、やっぱり野球が好き。野球を諦めないで良かった。ありがとうお兄ちゃん、みんな)

 

 宇喜多に声援を送る皆の背中を見ながら、鈴木はそう思うのだった。

 

(スリーバントがファールになればその時点でバッターはアウト。満塁でフォースプレーだったし、追い込んだ時点でスクイズを警戒から外してしまった……)

 

「牧野さん!」

 

「……!」

 

 ファーストからボールを受け取った神宮寺はそれ以上の言葉は発さず、何かを訴えるように牧野の目を真っ直ぐに見つめる。それを受けて牧野は頷くとキャッチャーマスクを拾って付け直した。

 

(そうだ。まだ2アウト二塁三塁。ピンチは続いている。今の失点を引きずっている場合じゃない!)

 

 下を向いていた目線が上がり、右バッターボックスで構える宇喜多を捉えると牧野は気を引き締め直してサインを出す。神宮寺はサインだけではなくその様子を見て頷くと、自身の気合も入れ直してからボールを投げるのだった。

 




前回の投稿から週一のペースを予定して木曜に更新を考えていましたが折角なので8月9日午後8時9分に更新させて頂きました。今後は木曜午後8時9分の週一更新を目処に投稿していく予定です。


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切り替えていこう

「ストライク! バッターアウト!」

 

「あうぅ……」

 

 2アウト二塁三塁、1ボール2ストライク。ストライクからボールに外れるアウトコースのスライダーにストレートのタイミングで振られた宇喜多のバットが空を切った。

 

(今の宇喜多さんの打力だと勝負できるのは2ストライク取られるまでね。けど積極的に振りに行ったのと3球目の釣り球に引っかからなかったのは評価出来るわ)

 

 宇喜多は下を向きながらベンチに帰り、バットとヘルメットをため息をつきながらしまう。そんな宇喜多にミットを渡しながら東雲は声をかけた。

 

「その。……切り替えていきましょう」

 

「東雲さん。……うん、分かった!」

 

 不慣れながらも励まそうとしたことが宇喜多に伝わり、彼女の顔も上にあげられ、あどけなさが残る微笑みを見せるとライトに向かっていった。

 

(……今度、有原さんか岩城先輩がどういう風に声をかけているのか観察してみようかしら)

 

 そんな考えが頭に浮かんだがあまり気乗りせず首を横に振ると切り替えて東雲もサードの守備につく。8番バッターが右バッターボックスに入り3回の表が始まった。

 

(さて、先制したからといって気は抜けないわ。点が入ったことで試合が大きく動き出すこともある。ここは簡単にストライクを取りにいかないで外角高めに外しましょう。外か高めが狙い球なら反応を示すかもしれない)

 

(分かった)

 

 倉敷は迷わずサインに頷く。バッテリーの様子を清城ベンチから見ていた牧野が少し違和感を覚える中、1球目が投じられる。このボールにバッターは反応して思い切り踏み込んだ。

 

(げっ、狙いはドンピシャだけどボール球!? ええい、いっちゃえ!)

 

 一瞬の驚きを制してそのまま振り出されたバットはその先でボールを捉えた。やや鈍い当たりがショートの頭上に向かって飛ばされる。

 

(高めに一個分外したボールを無理やり引っ叩いた……!?)

 

 有原は外野の方向に体を向けて走り出し、頭上にふらふらと上がった打球を追う。

 

(う……思ったより伸びる?)

 

「翼! 任せるにゃ!」

 

「……! お願い!」

 

「中野さん、カバー入れます。思いきって行ってください!」

 

「分かったにゃー!」

 

 中野と接触しないよう有原は横にそれ、九十九が回り込むようにして後ろに行くと中野は俊足を飛ばして落下地点に向かう。そのまま腰を落とし、足は伸ばさずに曲げるようにしてスライディングを敢行すると、腰の横に置くようにしたミットで落ちてきたボールを収めに行く。スライディングの余韻を残すように砂煙が舞う中、中野は崩れた体勢のままミットを掲げた。

 

「アウト!」

 

(うそっ! 捕ったの……!?)

 

 打球が溢れた位置によっては二塁に行けるかもしれないと様子を見ていたバッターランナーは大きく目を見開いた。

 

「中野さん。ナイスキャッチ!」

 

「ま、それほどでもあるにゃ」

 

 そう言うと有原は手を差し出し、中野はその手を掴むと引っ張られるようにして立ち上がった。倉敷にボールを投げ渡しているとベンチからも声が聞こえてくる。

 

「な、中野さん! えと……ナイスキャッチ、です!」

 

「任せるにゃー」

 

 初瀬の声援に中野は拳を突き上げるようにして応えると、スライディングの際に落とした帽子を九十九に礼を言って受け取りながら定位置へと戻っていった。

 

(最近の中野さんは守備練習に精を出している。初瀬さんの影響かしらね。ただその分打撃の調子が落ちてしまっているのは、本人としては歯がゆい所なのでしょうけど)

 

 そんなことを考えながらキャッチャーボックスに座ると9番バッターが右バッターボックスに入ってくる。初球膝下に投げられたストレートをバッターは見送り、ストライクのコールがされる。2球目、1つ内に外した膝下のストレートも見送られると、今度はボールのコールがされた。

 

(待球の可能性がないわけではないけど、今日の倉敷先輩ならストライクを取ろうと思えばいつでも取れるはず。その可能性を置いておくなら……)

 

 3球目も膝下にストレートが投げられ、バッターは踏み出そうとした足をとっさに引くとそのまま見送られたボールはストライクのコールが為された。

 

(3球続けて内か〜。そろそろ得意の外に来るかなと思ったんだけどな)

 

(多分単純に膝下は捨てていたんでしょう。でも3球も続けて、しかも追い込まれて意識しないのは難しい。ここは対角線に……!)

 

 サイン交換が終わり倉敷の指先からボールが放たれる。投じられたコースは外高め。とっさにバッターはバットを振り出す。

 

「ストライク! バッターアウト!」

 

 外に1.5個分外されたストレートに腰が引け気味に振り出されたバットは空を切る。

 

(よし……!)

 

(うわ〜。このキャッチャーさん意地悪さんだ〜。振らされちゃったよぉ)

 

 9番バッターがベンチに帰っていく途中少し離れたところから鈴木の方を見て拗ねているとネクストサークルから出てきた1番バッターに声をかけられ頬を膨らませて戻っていった。

 

(ここから2巡目。変化球を混ぜていきたいところだけど、まだ練習中なのよね。さすがに倉敷先輩のコントロールが良い方でも今は私の手の届く所に来るとは限らない。ここは下手にペースを乱すより、今まで通り9分割のストレートで抑えていきましょう)

 

 鈴木はバッターの立ち位置を見ながらサインを出すとゆっくりとアウトコース側に動く。倉敷は一度帽子を脱いで額に浮かぶ汗を拭うと帽子を被り直し、鈴木が構えているところをめがけてボールを投じた。

 

(外……!)

 

 バッターはアウトローに投げられたストレートに反応して踏み出したが、バットを止めた。

 

「ボール!」

 

 外にボール2個分は外されたボールにバッターの判断通りボールのコールが為される。鈴木はミットを構えていた位置にボールが来たことに頷き、倉敷に声をかけながらボールを投げ返すと、再び座りながらバッターの様子を窺った。

 

(1打席目で打たれたのはアウトローにボール1つ分外したストレート。結果アウトにはなったけど当たりはヒット性だった。そして今アウトコースに踏み込んできたのを見るに初回3つ続けてアウトローに投げたのが効いてるはず。ここは……)

 

(……その高さでいいのかしら)

 

 倉敷は鈴木のリードに疑問を感じながらも首を縦に振ると、2球目を投げた。

 

(……! 浮いたボール!)

 

 低めに投げられていたこれまでの投球と違い、高めに浮いたボールにバッターはとっさに反応してスイングする。

 

「ショート!」

 

「オッケー!」

 

(くっ……! 落ちて!)

 

 インコース、ベルトの高さに投げられたストライクゾーンへのボールはバットの芯から根元に寄った位置で捉えられ、ショートの頭上へと飛ばされる。しかし8番バッターの打球と違い、有原は外野の方向に反転はせず後ろ歩きで数歩下がると落ち着いた様子でボールをキャッチした。

 

「アウト!」

 

(うっ、全然打球に伸びがない……)

 

(よし。この回は7球、3回を終えて23球。……出来すぎなくらいね。皆の好守備にも感謝しないと。まだ3回とはいえ、そういう意味では今回の守備重視のオーダーは狙い通りに機能しているのかもしれない)

 

 1番バッターが悔しそうにベンチに戻っていくと、3アウトになったため里ヶ浜高校守備陣もベンチに戻っていく。

 

(今の、どうして打ち取れたのかしら。コースとしては甘めだったはずなのに。……打ち損じ?)

 

 マウンドから降りて周りから声をかけられながらベンチに戻っていく倉敷。これまで低めやボール球で打ち取ってきたのに対して、今のボールで打ち取れた原因は分からずにいた。

 

(ま、リードは鈴木に任せればいいわね。私は要求されたボールをその通りに投げればいい。それが私の役目よ)

 

 先にベンチに戻っていた鈴木から水の入った紙コップを受け取り、次の回からのことを聞きながら、倉敷は考えていたことも流すように水を流し込んだ。するとグラウンドの方から金属音が響き、2人とも顔を向けると打球が三遊間へと転がっていた。勢いよく転がるボールにサードは飛びついたがその横をボールは通り抜けていき、レフト前ヒットになる。

 

(同じ手は、通じませんよ)

 

(初回打ち取れたボール球のシュートを見せ球のつもりで投げたら、今度は上手く対応された……!)

 

 九十九は一塁少し回ったところからレフトの捕球を確認してベースに戻ると、グローブを外していた。

 

「倉敷先輩、少し失礼します」

 

 そう言うと鈴木はグラウンドから見える位置に移動し、全体に向けて攻撃のサインを出す。

 

(忙しいわね……)

 

 そのサインに九十九と阿佐田はヘルメットのつばを掴むように手をやると、阿佐田が右バッターボックスに入り、バントの構えを取った。

 

(送りバント……。妥当な作戦だけど、この人は初回プッシュバントをしているし、素直に送ってくるとは限らない)

 

 ストライクからボールゾーンへの高速スライダーのサインを出す牧野。しかし神宮寺はそのサインに首を横に振った。

 

(今のコントロールだとワイルドピッチもあり得ます。この状況ではあまり投げたくありません)

 

(なら……内にシュートを。食い込んで根元側に行くからバントしにくいはずだし、打ちに来ても引っ掛けやすい)

 

 間をおかずに次のサインを出す牧野だったが、そのサインにも神宮寺は首を横に振った。

 

(私のシュートはスライダーほど大きく変化しない。小技が得意な2番バッター相手にはさほど効果的ではないはずです)

 

(そっか。ならこれで行こう)

 

 テンポよくサインの交換が行われるとこのサインに神宮寺は頷く。息を軽く吐き出し、一塁ランナーを目で牽制してからすぐにクイックモーションでボールが投じられた。

 

(インハイのストレート……!)

 

 あらかじめバントを構えていた阿佐田にとっては顔の近くに来たボールに反応し、とっさにバットの位置を調整するとボールが当たる瞬間、ほんの少しだけバットを引くようにして当てられた。

 

「ピッチャー!」

 

「はい!」

 

 ボールは三塁線に沿うように牧野と神宮寺の間に上がり、神宮寺の方が捕れる可能性が高いと判断した牧野はとっさに指示を出す。

 

(浮いた打球。けれど勢いは殺されている。落ちるか……!? 落ちた時にリードを取っていないとセカンドで刺されそうだ)

 

 一塁走者の九十九はリードを広げてからどちらにも行ける体勢を取って止まり、打球の行方を見守る。打球が落ちてくるところ、その落下地点ギリギリをめがけて神宮寺の体が宙を舞った。

 

(捕ったのか……?)

 

 神宮寺の体が陰になり九十九からは捕球の瞬間が確認できない。判断に迷う中、球審からすぐさまコールがされる。

 

「アウト!」

 

「……!」

 

 そのコールに反応して一塁ベース目がけて九十九は走り出す。

 

「牧野さん!」

 

「分かってる!」

 

 体勢を崩した神宮寺はそのままグラブトスを敢行すると牧野はミットを使わずそのまま右手で右肩近くに来たボールを掴み、ファーストに送球した。

 

「アウト!」

 

 ヘッドスライディングで一塁ベースに戻る九十九だったが、それより早く送球が届いてしまいアウトになってしまった。ダブルプレーの成立に里ヶ浜高校ベンチからは思わずため息が漏れ出す。

 

(……やられた。ピッチャーが送球していれば帰塁もある程度の余裕を持って間に合う位置にいたのに。ただバウンドしてから捕られればセカンドもフォースプレーになるからあれより少ないリードだとそちらで刺される可能性があった。……難しいね)

 

「小也香」

 

「今のはいい連携でしたね」

 

 ミットを重ねるように合わせると互いに微笑んでから神宮寺はマウンドに、牧野はキャッチャーボックスに戻っていった。その様子とベンチを見比べるようにしながら右打席に有原が入っていく。

 

(まずい……。一点リードしてるのにベンチがまるで負けてる時みたいに落ち込んじゃってる。こんな時こそ、バットで雰囲気を変えてみせる!)

 

 気合を入れて打席に臨む有原。そんな有原を横目で見ながら牧野はサインを出す。

 

(ゲッツーになってランナーもいなくなったし、開き直って大きいのを狙っているはず。ストライクを取りに行くときは低めを突いていこう)

 

 牧野のサインに頷いた神宮寺は息を深く吐き出して集中すると、一球目を投げた。投じられたコースは真ん中低め。

 

(変化球……)

 

 変化球のタイミングであることを察した有原だったが球種を絞りきれずにバットが止まる。そのボールは有原から離れるようにアウトコースに曲がっていく。外枠には沿わないが低めにきっちりと決められたボールにストライクのコールがされる。

 

(こうも低めに変化球を集められると見極めづらいし、仮に分かっていてもヒットにしづらい。おまけにあの唸るようなストレートに、高速スライダーまで。甘いボールは期待せず、食らいついていくしかないか)

 

(……バットを短く握り直した? 長打狙いじゃないのかな……)

 

(後ろには東雲さんがいる。ここはまずしっかりバットで捉える!)

 

 そんな有原に2球目が投じられる。真ん中高めに投げられたストレートを有原は見送る。

 

「ボール!」

 

(はっきり外したボール。低めの変化球を生かすための見せ球……のはず。まだストライク1つ分余裕がある。ここは神宮寺さんの決め球のスライダーと読む!)

 

 3球目。真ん中低めに投げられたボールに有原は思い切って踏み込んだ。

 

「……!」

 

 スライダーに合わせるように外角低めに迷うことなく振り出されたバットに牧野が目を見開く中、彼女のミットはインコースに構えられていた。

 

「ストライク!」

 

(あちゃー……シュートだったかぁ)

 

(思い切って読んできた。バットを短く持ってるとはいえ、当たると怖いな……)

 

 ボールから大きく離れた位置を振って妙な気恥ずかしさを感じている有原を見ながら牧野はボールを投げ返すと、少し考えてからサインを出した。

 

(高速スライダー。確かにランナーもいなくなりましたし、ボールカウントにも余裕はある。良いかもしれませんね)

 

 そのサインに納得するように神宮寺は頷くと慣れない握りをミットの中で確認するようにしながら、4球目を投じた。

 

(インコース。真ん中くらいの高さのストレート?)

 

 有原は引きつけてからバットを振りだそうとしたが、その瞬間違和感を覚えた。

 

(いや、これは……!)

 

 僅かなボールの変化を感じ取った有原の脳裏に一打席目で仕留められたボールがフラッシュバックされると本能的に振り出すバットのコースを変えた。

 

(まずい。このコースは……!)

 

 インコースのストライクゾーンに向かっていたボール。高速スライダーを要求した牧野は焦りを感じる。内から鋭く変化したボールはコースも高さも真ん中のど真ん中へと向かっていた。

 

 ——キィィィン。捉えた打球は快音と共に放たれ一塁線を襲った。

 

「この……!」

 

 打球に反応したファーストはボールに飛びつきミットを伸ばす。長いファーストミットの先を勢いよく転がっていったボールはベースの上を超えると、そのままライト線に転がっていく。

 

「有原さん。二塁、行けるっ!」

 

「うん!」

 

 一塁手前まで来た有原に宇喜多が指示を出す。一塁ベースに対してスリーフットラインを超えない程度に膨らむように走っていた有原はそのまま減速することなく二塁に向かっていった。ボールは少し流れてファールゾーンへと転がりライトは横向きに捕球すると、セカンド方向に向きを変えて送球する。セカンドにボールが届くが、既に有原は二塁に到達しておりタッチにいくことはなかった。

 

「ナイバッチー!」

 

 ベンチから岩城が座って見ていた永井や初瀬を立たせて背中を押し、グラウンドとの境にある柵のところまで連れてくると声を張り上げた。つられるようにして2人も声を出すと皆もナイバッチと声を上げ、声を受けた有原は塁上で満面の笑みを浮かべながら親指を立てるジェスチャーをして応えた。

 

(……さすがにいくらキレが良くても真ん中のボールで貴女を打ち取ることは出来ませんか)

 

 ボールを受け取りながら有原を見る神宮寺。大きく息を吐き出して頭の中を切り替えると目の前のバッターに集中していく。

 

(2アウトランナー二塁。4番としてここで打たなくていつ打つというの)

 

 東雲も得点圏のランナーを意識し、集中を高めてバッターボックスに入った。

 

(一塁は空いてるけど5番にはさっきヒットを打たれてる。とはいえ入れにいかずにここは厳しくついて、結果的に歩かせることになってもいい)

 

(分かりました。甘くならないよう細心の注意を払います)

 

 かなり厳しいコースを要求するサインからその意図を理解し、神宮寺は頷くとボールに触れるギリギリまで指先で触れるようにしてボールを解き放った。投げられたコースはアウトコース低め。

 

(ストレート。際どい!)

 

 東雲のバットはピクリと反応を見せるが振り出されずにボールは牧野のミットに収まり、心地よい捕球音が響く。

 

「ボール!」

 

「いいボールきてるよ!」

 

 ボールになったものの要求通り際どいコースに投げられたストレートを肯定するように牧野は声を上げてボールを投げ返す。

 

(あれほど厳しいボールに手を出してしまえば簡単に打ち取られる。こういうボールに手を出さないのが神宮寺さん攻略の第一歩よ)

 

(今、少しバットが動いた。ストレート狙い?)

 

 アウトコースのボールを捕りながらも右打席に立つ東雲の様子も視界の隅で捉えていた牧野はその情報も加味して次のサインを出す。2球目、投じられたコースはインコース低め。

 

(入ってる! ストレー……)

 

 このボールに反応して東雲のバットが振り出される。ストレートと思い反応した東雲だったがボールの変化に気づくととっさに手首を使って早めにボールをさばいた。

 

「ファール!」

 

 打球はファールゾーンへ鋭く転がっていき、三塁側ベンチに直撃した。

 

(くっ、ストレートのタイミングで踏み込んでは今の球をフェアゾーンに運んでもみすみすアウトを献上するだけ。シュートは速球系の変化球とはいえ、スライダーほどのキレはないから落ち着けば見極められるはず)

 

(落ち着かせない。テンポよくいこう)

 

 神宮寺はボールを受け取るとサイン通りすぐに投球姿勢に入った。

 

「……!」

 

 クイックモーションで投げられていることも合わせてそれは東雲にとって意表を突かれるような形。アウトコース低めへと変化していくスライダーを思わず見送る。

 

「ストライク!」

 

(タイミングを外された。それだけじゃない。これだけ広く内と外を使われると対応が遅れる……! 1打席目はインハイのストレートに詰まらされた。追い込まれた以上、振り遅れてはどうしようもない。ストレートのタイミングで待って、変化球なら溜めて対応する!)

 

(さて、牧野さん。どのボールで仕留めますか? 先ほどの打席で決め球に使用したインハイのストレートは警戒されていると思いますが)

 

 次のサインを待つ神宮寺。牧野が少し考えた後出したサインと胸を叩くような動作をしてから構えられたミットに神宮寺は表情に出さないよう努めるものの、大きく驚いていた。

 

(……頼もしくなりましたね。以前のあなたは追い込んだ後、外へのスライダーに頼る事が多く、長打のリスクがある内はあまり要求したがらなかった。今の動作、その意図は十分伝わりましたよ)

 

 思わず口角が上がるのをミットで隠すようにしながら、投球動作にそのまま移る。4球目となるボールが今投じられた。そのボールが投げられたコースと球種を判断した東雲は目を見開く。

 

(インハイの……ストレート!?)

 

(たとえ読まれていたとしても、私のストレートならしっかり投げ込めれば抑えられる。それが私たちの答えです!)

 

(舐め……ないでっ!)

 

 ストレートのタイミングで待っていた東雲はこのボールに反応すると迷わずスイングを行う。振り出したバットのタイミングは合っており、金属音がグラウンドに響く。そして次に響いたのは……ボールがミットに収まる音だった。ファースト正面へのライナー、捕球が確認されアウトが宣言される。

 

「……っ!」

 

 バッターボックスから一塁に向かおうとした東雲は捕球されたボールを見て息を呑み、思わず足を止める。3アウトが成立し、清城の守備陣がベンチに戻っていく中、そのまま佇む東雲に二塁から戻ってきた有原が声をかけた。

 

「東雲さん、どんまい! ボールは捉えてたよ。切り替えていこう!」

 

「……捉えられてなんか、いないわ」

 

「え……」

 

 目線を下に向けていた東雲はそのまま有原の方を向かず反転してベンチに帰っていく。

 

(ストレートのタイミングで待っていた。だから順応(アジャスト)は出来た。イメージでは左中間を抜けていた。それがファーストへのライナー。バットがボールの下に入る前に押し込まれて打球が上がらなかった。……間違いなく、私は打ち取られたのよ。1打席目と同じボールで)

 

 鬼気迫る表情をしながらバットとヘルメットをしまい、ミットを取り出す東雲に誰も声をかけられずにいた。だがベンチから出ようとするタイミングで気圧されるようにしながらも意を決して声をかける者が1人いた。

 

「……東雲! アウトになってしまったのはもう変えられない。次のプレーに全身全霊を込めるくらいの気持ちで守備をやるんだ!」

 

「……分かりました」

 

 当たれば飛ぶ代わりに凡退することが多かった岩城は自分の経験から東雲に言葉をかける。東雲はそれなりの声量で返事をしてから守備に向かっていった。

 

「……東雲さん、大丈夫かな」

 

 様子がおかしい東雲に河北は心配そうな表情を浮かべる。

 

「ウチらに出来ることは信じて、応援してやることだ。みんな、声を出していくぞー!」

 

「そういえば岩城先輩。応援というと攻撃の時にするイメージがあるんですけど、先輩はどうして守備の時に特に声を出すんですか?」

 

「何を言ってるんだ咲! 守備の時こそ特に応援が必要な時だろう。だって相手に攻撃されてピンチを迎えることがあるんだぞ! チャンスの時も応援は欲しいとは思うが、何よりピンチの時こそ応援が必要なはずだ!」

 

「確かに……そうかもしれませんね」

 

 応援に対して攻撃の際にそれぞれが交互にするものというイメージがあった近藤は岩城の返答に納得がいった様子だった。

 

 左打席に入る2番バッターに投じた初球はアウトハイへのストレート。バッターはそのボールを見送った。

 

「ストライク!」

 

(……速くなってない?)

 

 1打席目と比較してボールの球速差を感じたバッターは困惑した表情を浮かべた。

 

(アタシが投げるイニングはあと2回。今ので球数は24球目。こっからは全力投球したってお釣りが返ってくるわ)

 

 3回の裏の間に鈴木と話した通り、倉敷は2巡目でボールに慣れてきた清城打線にここからは全力投球で応じることを決めていた。

 

(膝下のストレート。となると……)

 

 阿佐田は鈴木のサインを見ながら次の打球が飛びやすいコースを想像する。体が慣れたようにそれを判断する中、もう一つ考え事をしていた。

 

(さっきの回、あおいが送れていれば間違いなく点が……)

 

 ——キィン。響いた金属音にハッとするようにして顔が上げられる。

 

「セカンド! 後ろ!」

 

「……!」

 

 膝下のストレートに合わせた打球はセカンドの頭上に飛ばされていた。阿佐田は外野の方向に反転し、ボールの落ち際を追い縋るように飛び込んでキャッチにいった。

 

「うっ……」

 

 自分から逃げるような打球に思い切ってミットが伸ばされたが、ジャンプが足りず無情にもその先にボールは落ち、バウンドしたボールを宇喜多が収めた。今日2本目のヒットに清城ベンチからも活気的な声が上げられる。

 

(やられた。詰まらせはしたけど振り抜かれてポテンヒットになってしまった)

 

(……ふん。全力投球しようとアタシには野崎ほどの球速や球威は無いってわけね)

 

 宇喜多からの返球を受け取りながらバッテリーはそれぞれ思考を巡らせていると、3番バッターが右打席に入りバントの構えを取る。

 

(3番バッターにバントか……。あり得る話だけど、一応その前に)

 

 鈴木からサインが出されると倉敷はすぐに一塁に送球を行った。

 

「セーフ!」

 

 コーチャーの指示を受けながらランナーは一塁ベースに滑り込むと、少しの余裕を持ってセーフのコールがされた。

 

(バッター、バットを引く様子はなかったわね。1点差ということを考えても、ここは無難にバントなのでしょう。……なら)

 

(あのサインはアタシへのサインじゃない。アタシのは……そう、こっち)

 

 野手へのブロックサインを出した後、投手に向けて出されたサインに倉敷は頷く。一塁ランナーを2度目で見てから、次のボールがアウトコースに投じられた。すると同時に秋乃が前にチャージをかける。

 

「……!」

 

 バッターはバントの構えを崩さず、アウトコースのストレートにバットを当てた。その打球はサードへと転がっていく。

 

(くっ、セカンドは間に合わない!)

 

「東雲さん、ファーストに!」

 

 バントする確信を持った瞬間に前に走った東雲に鈴木は一塁へのベースカバーに入る阿佐田への送球を要求する。

 

(……そうね。セカンドは間に合わな……!?)

 

 東雲にまっすぐ向かっていた打球のバウンドが急に変わる。先ほど神宮寺が飛び込んだ際に削れた地面の僅かな凹凸によってボールのバウンドはピッチャー側へと変わってしまっていた。

 

(させない!)

 

 東雲はとっさの反応で目の前で変化したボールに食らいつくようにミットを伸ばしそのボールを掴み取ると、すぐに崩れた体勢から送球体勢に移行してファーストへの送球が行われた。

 

「アウト!」

 

 ノーバウンドで投げられた送球は一塁ベースの側面に触れるようにして足を伸ばす阿佐田の突き出したミットに収まり、ランナーがベースを踏む一瞬前に届いていた。

 

「東雲さん、ナイスプレー!」

 

「いいぞ東雲ー!」

 

(……何よ、みんなして声をかけて。攻撃と守備の切り替えくらい出来るわ)

 

 先ほどの凡退からやけに気を遣われているのを感じていた東雲はどう対応すれば分からないようなむず痒さを覚えていた。帽子で顔を隠すようにしながら定位置に戻る東雲を阿佐田が見つめる。

 

(……しのくもは攻撃のこと全然引きずっていないのだ。あおいは……。……! さっきのジャンプと今のプレーで……)

 

 阿佐田は鈴木の掛け声に応じてワンナウトと言いながら指を上げ定位置に戻っていると自身に生じている違和感が増幅しているのを感じ取り、背中に嫌な汗が浮かんでいた。

 

(あの状況での送りバントは一塁に転がすのがセオリー。だから秋乃さんにチャージをかけてもらって二塁でのアウトを狙ったけど、アウトコースに投げたボールをわざわざサード方向に転がされた。あのバッター、バントが上手いわね)

 

 すれ違い様に軽く神宮寺と片手でハイタッチしてベンチに戻っていくバッターを見ながら鈴木は情報をまとめると、歩いてくる神宮寺を迎い入れるようにキャッチャーボックスに座った。

 

(ワンナウト二塁で4番の神宮寺さん。一塁は空いてるけどここで歩かせて逆転のランナーを出すことはない。勝負に行きましょう。ただ長打で逆転のランナーが得点圏に進むのを避けるために、外野は前進させずこのままの守備位置で)

 

 ロジンバッグを叩いて少し多めに滑り止めの粉がついた指先に軽く息を吹きかけて飛ばすと、倉敷は鈴木のサインに頷いてボールを投げた。

 

「ストライク!」

 

(なるほど。確かに速くなっていますね)

 

 6分割のアウトローに決められたストレートを神宮寺は網膜に焼き付けるようにして見送った。

 

(ボールを見た? ……いや、低めにしっかり投げていれば神宮寺さんでも簡単には打てないはず)

 

 投げ返して続けて低めのボールを要求する鈴木のサインに迷わず頷く倉敷。二塁ランナーを一度見てから次のボールを投じた。

 

(ですが決して捉えられないスピードではない。球種も今のところストレートのみ。大振りしなければ……!)

 

 インコース低めに投げられたストレートに対して振り出した神宮寺のバットはその芯でボールを捉える。打球は東雲と有原がキャッチにいく隙もないほど鋭く三遊間を抜いていった。

 

(よし! 外野の守備位置は前に来てなかった。行ける!)

 

 二塁ランナーは迷わずにスタートを切り、鈴木がバックホームの指示を出す中、三塁ベースを駆け抜けた。

 

「す、ストップ!」

 

「えっ!」

 

 三塁コーチャーに止められ慌てて帰塁が行われる。ボールの位置を探ったその目には中継に入った有原のミットに突き刺さるような返球が映った。神宮寺もベースを回って二塁への進塁を窺っていたが、それを見て一塁ベースに戻っていく。

 

(九十九。慣れないレフトの守備なのに淀みなく、かつバッターランナーを下手に進塁させないよう中継がカットできる高さに素早い返球を実行したのだ……)

 

「九十九パイセン。ナイス返球ですにゃ」

 

「岩城さんに任されたレフトですからね。怠慢なプレーは出来ません」

 

「九十九ー! いいぞ! その調子だー!」

 

 ベンチから聞こえる岩城を始めとした声援に九十九は謙虚に軽くミットを上げて応えた。

 

(九十九先輩のおかげでタイムリーヒットにはならなかったけど、ワンナウト一塁三塁か……。ファーストとサードが牽制のためにベースに寄るから内野が広く空いてしまうのよね)

 

 鈴木はホームでのアウトを狙う前進守備ではなく二塁経由でのダブルプレーを狙う中間守備の陣形を内野に指示すると、右バッターボックスに入る牧野を見ながらどう抑えようか思案する。

 

(先程打たれたのはアウトコース低めのストレート。結果はファーストへの内野安打になったけど、あれはライト前に抜けてもおかしくなかった。アウトコースは見せ球として使って、インコースで勝負に行きましょう)

 

(まず外に外すのね)

 

 そのサインに頷いた倉敷はランナーにそれぞれ一回ずつ目で牽制を入れると投球姿勢に入った。

 

「……!」

 

 すると倉敷の目に走り出すサードランナーとバントの構えを見せる牧野が映る。

 

(スクイズ……!)

 

 倉敷はとっさの判断でボールを叩きつけるとベース付近でバウンドしたボールが鈴木に向かう。

 

(く……!)

 

 そのボールをミットで抑えるのは難しいと判断した鈴木は外に流れるボールの正面に身体を持っていくと、身を呈してプロテクターの胸の位置に当ててボールを前に落とした。

 

「ボール!」

 

「え……」

 

 倉敷はバットを引いて左手をサード方向に向ける牧野に驚きながら慌ててサードランナーを確認する。するとサードランナーは三塁へと戻っていた。

 

「タイムお願いします」

 

 ここで鈴木がタイムを取ると球審が頷くのを見てマウンドへと駆け寄ってきた。口元をミットで隠すようにして声を抑えるようにしながら話を始める。

 

「鈴木。今のどういうこと?」

 

「サードランナーはスタートの構えを見せただけです。スクイズをチラつかせて有利なボールカウントを作る作戦だと思います」

 

「……アタシはまんまと引っかかったわけね」

 

「あ、いや……」

 

「いいのよ。事実でしょ。どうすればいい?」

 

「相手が何を仕掛けるにしてもカウントが悪くなったら後手に回ってしまいます。次は思い切ってストライク取りに行きましょう。ただ本当にスクイズを仕掛けてくる可能性も残っているので、内野を前進守備に変えて守備で対応します」

 

「分かったわ」

 

 タイムが解かれマウンドから鈴木が戻り指示が出されると、内野の守備陣形が中間守備からホームでのアウトを意識した前進守備に変更されていく。

 

(よし。キャッチャーはさっきスクイズを仕掛けた張本人。意識しないわけにはいかないよね)

 

 牧野は前進してくる内野を見て狙いが上手くいったことに手応えを感じながら、グリップを握る手に心なしか力が入る。倉敷はサードランナーを意識すると、少し息を吐き出してから次のボールを投げた。

 

「ランナー走ったよ!」

 

(サードランナーじゃなく、ファーストランナーが……!?)

 

 すると秋乃から声が上がった通り神宮寺がスタートを切るのがマスク越しに鈴木の視野に入ったかと思うと、次に映ったのは振り出されたバットがボールに当たる様子だった。

 

(引きつけて右方向にゴロを……!)

 

 膝下に投げられたボールに振り出されたバットは外側でボールを捉えると、打球は一塁線に向かってゴロで放たれていく。バットが振り出される瞬間、ゴロになる確信を持ったサードランナーはスタートを切った。

 

(まずい! 長打コース!)

 

 スクイズ警戒で前進守備を敷いていたためファーストを守る秋乃にとっては普段より近くで受ける打球となり、その体感スピードはより速く感じられていた。

 

(今度こそアウトにっ!)

 

 1打席目の送球ミスでアウトに出来なかったことを後悔していた秋乃は奮起してその打球に飛びつく。

 

(え……!?)

 

 バッターランナーの牧野の目に秋乃が斜め後ろ方向に飛びつきながら伸ばしたミットに収められたボールが映った。

 

(捕った! バックホームは……あの体勢じゃ厳しいか)

 

「秋乃さん、そのまま一塁ベースを踏んで!」

 

(くっ、間に合わせる!)

 

 体勢を立て直すより先にベースを駆け抜けようと牧野は自身の瞬足を飛ばす。秋乃は飛びついた位置の近くにベースがあることに気づくと立つより早いと判断して直接ミットでベースに触れにいった。

 

「アウト!」

 

「やった!」

 

 一塁審判がアウトを宣言したのを喜びながら秋乃は立ち上がると二塁ベースを少し回った神宮寺は三塁は狙わずにそのままベースに戻った。

 

(良かったぁ。けんせいのためにちょっとベースに寄ってたから、なんとか届いた〜)

 

(さすがに内野が捕球した打球で三塁を狙うのはリスクが高すぎますね。……ですが)

 

 サードランナーのホームインが認められ、同点に追いついた清城の士気が上がる。ベンチからも声が出るようになり塁上で神宮寺は不敵な笑みを浮かべた。

 

(ファーストランナーを走らせて二塁経由でのゲッツーを防ぎながら、バッターは右方向へのゴロを狙い、サードランナーはゴロならスタートを切る。実践的な練習を積んでいなければ出来ないプレー。……やられたわ)

 

「まだ同点だよ。切り替えていこう!」

 

(そうね。ピンチは続いている)

 

「ツーアウト! ランナー二塁。バッター集中!」

 

 鈴木は頭の中を切り替えてピンチに向かい合うとキャッチャーマスクを拾って付け直し、声を張り上げた。そのままキャッチャーボックスに座ると6番バッターが左打席に入る。鈴木は外野を前進させると様子を窺いながらサインを出し、ミットを構えた。

 

「ボール。ボールフォア!」

 

(倉敷先輩……!?)

 

 しかし倉敷の制球が乱れ、鈴木が要求したコースからずれたボールが続き、結局ストライクを1つも取れずにフォアボールを出してしまう。

 

「タイムお願いします」

 

(しまった。先ほどタイムを取ったからと遠慮せず、一点取られた後ももう1度タイムを取るべきだったのよ)

 

 マウンドに駆け寄る鈴木にフォアボールを出してしまった倉敷は気まずそうに応じた。

 

「悪いわね」

 

「いえ、これで塁も埋まりましたし守りやすくなりました。7番バッターは先ほど三振にとってます。ここで切りましょう」

 

「分かったわ」

 

(倉敷先輩、どこか疲れている? でも球数はまだ34球。余裕はあるはず……)

 

 どこか冴えない倉敷の表情が気になった鈴木だったがジェスチャーで大丈夫だと伝えるようにする倉敷を見て、マウンドから離れていく。タイムの間待っていた7番バッターが楽しそうに声をかけてくるのに一礼してから鈴木はキャッチャーボックスに座った。

 

(さっきチャンスで打てなかったからなー。今度は打つぞー!)

 

(このバッター当たれば飛びそうなのよね。一塁ランナーが還れば2点差になってしまう。2アウトでランナーは迷わずスタートを切るし、単打での一点はしょうがないものとしましょう)

 

 そう考えた鈴木は外野に先ほどとは対照的に後退のサインを出すと、九十九・中野・宇喜多はそれを受けて下がっていく。

 

(膝下のストレート。立て続けに打ちにこられているから、あまり投げたくないけど……)

 

 インコース低めを要求する鈴木のサインに倉敷はそれでも頷くと、意を決して膝下を狙って投げた。

 

(……! ボールが浮いてる……!)

 

(フォアボールの後の初球。思い切って……!)

 

 ——キィィィィン。余韻すらグラウンド中に響くような快音が響いた。

 

「レフト!」

 

 すくい上げるようなアッパースイングから放たれたボールの軌道はレフト方向に向かって伸びていった。バットがボールに当たる瞬間、ランナーは迷わずにスタートを切っている。

 

(伸びる……!)

 

 九十九が懸命に打球を追いかける。九十九は打球から早々に目を切ると全力で疾走し始めた。

 

(手応えあり! ホームランか、そうじゃなくてもフェンスダイレクト!)

 

 バッターランナーはバットから十分な手応えを感じ、自らも先の塁を貪欲に狙う構えを見せる。

 

(ここだ!)

 

 打球から目を切っていた九十九はほぼ減速することなくフェンスに向かうとキャッチに行く一瞬だけ再び後ろを見る。するとすぐ目の前に来ていた打球に反応するようにジャンプしながらの捕球を試みた。

 

「……!」

 

 減速せずにジャンプを行った九十九の身体はそのままフェンスに叩きつけられるような形になる。

 

「つ、九十九パイセン! ……!」

 

 その衝撃を受けてもミットの中で掴み取るようにしたボールがこぼされることはなかった。

 

「アウト!」

 

(うわっ、捕ったんだ! ……悔しいなぁ)

 

「九十九……」

 

 このファインプレーに倉敷から笑みがこぼされる。九十九にとってついてないのは、体勢を崩していたのと距離があるためそれが確認できなかったことだろうか。九十九は中野の手を借りて立ち上がると、共にベンチに戻る。3アウトチェンジだ。

 

(今のは九十九先輩が捕っていなければ間違いなく2点入っていた……)

 

「鈴木さん。あなたが外野後退の指示を出してくれたおかげで追いつけました。ナイス判断でしたよ」

 

「……! そう、ですか。ありがとうございます」

 

 九十九の守備に感謝していた鈴木は逆に感謝されたことに戸惑いながらも、その言葉を嬉しく思った。倉敷が打席に向かっていくのを確認すると今度は東雲が話しかけてくる。

 

「倉敷先輩スタミナは余裕ありそうだけど、この回制球が乱れたわね」

 

「ええ。どうしてかしら。全力投球とはいえ、普段ならそれでもコントロールは効くのに」

 

「最近ピッチャーを練習している身から言えるのは、肉体的な疲労と精神的な疲労は別物ということかしらね」

 

「……なるほど」

 

(確かにここまで7割投球とはいえ、かなり精度の高いピッチングを要求し続けてきた。その分の精神的な疲れが、点を取られて一気に出てきたのかもしれない……)

 

「ストライク! バッターアウト!」

 

(く……全球ストレート!?)

 

 2人がそんな話をしていると球審のコールが聞こえてくる。倉敷が振り出したバットに当たることなく、神宮寺が投じたボールは牧野のミットに収まっていた。

 

(4番()が続けてストレートで打ち取られたことで自信をつけさせてしまったみたいね……!)

 

 東雲が今のピッチングを見て鬼のような形相になりどこか青白く燃え上がるようなオーラすら浮かぶような気迫を出すと、鈴木は少しだけ引き気味にその様子を見る。その間に6番バッターの秋乃がネクストサークルから打席に入っていった。

 

(ストレート!)

 

 ストレートのタイミングで待っていた秋乃はアウトハイに投じられたストレートに積極的にバットを出す。しかしバットの上を通り過ぎてボールはミットに収まった。

 

(明らかにストレート待ち。ここは1打席目に投げきれなかったこれでカウントを稼ごう)

 

(このままストレートでも構いませんが、それもありですね)

 

 そのサインに納得して頷いた神宮寺は2球目を投じた。アウトコース低めに投げられたボールに秋乃は続けてバットを振り出す。

 

「……!」

 

(よし。振らせた!)

 

 秋乃のバットから逃れるようにストライクゾーンからボールゾーンへとシュートが変化していく。ストレートのタイミングで振り出した秋乃はタイミングを崩されていた。

 

「えいっ!」

 

(な……片手で合わせた!?)

 

 とっさに秋乃は両手で行方を操っていたバットが十分な勢いがついたことを感じると、左手を放して右手一本でその変化に体の重心を低くしながらついていった。

 

「サード!」

 

 頭上に飛ばされた打球にサードはジャンプして捕りにいくが、そのミットの先をボールは越えていった。

 

「ファール!」

 

「ありゃ」

 

 一塁に向かって走り出した秋乃だったが打球はスライス回転がかかっており、空中で曲がった打球がバウンドしたのはファールゾーンとなってしまった。バッターボックスに戻り牧野から打った際に転がしたバットを礼を言いながら受け取ると打席が再開された。

 

(今のはコースも高さも良かったのに。……待って。確か1打席目もこんなことが。膝下のいいところに決まったストレートをしっかり捉えてライト前に運ばれて……もしかしてこのバッター)

 

 牧野はあることに思い当たると次のサインを出す。そのサインに神宮寺は頷き、3球目が投げられる。投じられたのはインコース高めへのストレート。秋乃は負けじとバットを振り出した。

 

「ストライク! バッターアウト!」

 

 インハイに投げられたボールに秋乃のバットは空を切った。

 

(やっぱり。多分このバッター、低めが得意な打者(ローボールヒッター)なんだ)

 

「ううー。やられたー」

 

 しょんぼりとした表情でベンチに帰っていく秋乃。代わるようにして同じく左打席に中野が入っていく。

 

(さて、さっきは敬遠だったからにゃ。どんなボールで来るか……)

 

 ズバン。インコース真ん中に鋭いストレートが突き刺さるように投じられると、中野は冷や汗を浮かべる。

 

(速っ! ボールの軌道が一本の糸みたいに見えたにゃ……)

 

 2球目、膝下に投げられたストレートに思い切って中野はバットを振り出したが、明らかにタイミングが遅れていた。

 

(ストレートにタイミング合ってないなら、変化球はいらないよね)

 

(ええ。このままストレートで押しましょう)

 

 3球目、アウトコース低め際どいコースに投げられたボールに追い込まれた中野はバットを振り出したが、振り遅れて三振となってしまった。

 

(うう。せめてストレートのタイミングに合わせられるよう、打撃の調子取り戻さないとにゃ……)

 

 三者連続三振。完璧に抑えたピッチングに清城野手陣は次々と神宮寺に声をかけ、次の攻撃への気力を高めていた。

 

「倉敷先輩、大丈夫ですか?」

 

「大丈夫よ。あと1イニングでしょ。抑えるわよ」

 

 そういうと倉敷はマウンドに上がる。5回の表、清城高校の攻撃は8番バッターからのスタートだった。

 

(さっきの打席ではアウトハイ、高めに一個外したストレートをセンターフライ。ここもアウトハイから入りましょう。ただ念のため、外に1つ外して)

 

 倉敷はそのサインに頷くと1投目を投じる。アウトハイに投げられたボールにバッターは反応したが、そのボールは見送られた。

 

「ボール!」

 

(半歩踏み出したわね。外狙いかしら。……倉敷先輩、次の球はこれでお願いします)

 

(……それで大丈夫なの?)

 

 要求されたボールに倉敷は驚きというよりは疑問を多く含んだような困惑を覚えたが、サインに頷きその通りに投げた。

 

(外!)

 

 アウトコース低めに投げられたボールにバッターはしっかり踏み出すとそのバットを振り抜いた。

 

(……! タイミングが……)

 

 捉えた当たりは倉敷の横を抜け二遊間に転がる。

 

「ショート!」

 

「任せて!」

 

 膨らんだマウンドに当たり少し不規則なバウンドとなった打球だが勢いは決して鋭くなく、有原は落ち着いてキャッチすると一塁に送球した。

 

「アウト!」

 

(……なんで、7割投球より抜いたストレートで抑えられるのよ)

 

 納得がいかない様子の倉敷だったが、次のバッターが打席に入ると切り替えてサインを待った。

 

(意地悪キャッチャーさんにリベンジするぞ〜。もう変に読み合いとかしないもんね。多少ボールでも外一本に絞っちゃうもん)

 

(……ここで7割投球のサイン? 全力投球でいいのに……)

 

 倉敷はそれでもサインに首を振ることなく要求通りのボールを投げた。投げられたコースはアウトコース低め。

 

(際ど……いけど迷わない!)

 

 バッターは踏み込むとアウトコース低めのボールに合わせてスイングを行う。捉えた打球はライト方向へライナーで向かっていった。

 

「ファール!」

 

 鋭く放たれた打球だったが打った瞬間ファールであることが分かり、バッターも走り出すことはなかった。

 

(むー。ベースの角の角でしょ今の。さすがにあそこ狙って投げたわけじゃないでしょ)

 

(厳しいコースに手を出してくれるならこちらとしてもありがたい。次は……)

 

(ボール球投げるのはいいけど……また、7割?)

 

 2球目。次に投じられたコースもアウトコース低め。そのボールにバッターは反応してバットを振り出した。

 

「ファール!」

 

 バットの先にかするようにして当てられたボールはバックネットにそのまま突き刺さった。

 

(うー。さすがに遠すぎたかな。読み合いしたくないけど、追い込まれたし外外って来たから、さすがに内来ちゃいそうだな〜)

 

(……! ここで……?)

 

 倉敷はそのサインに一瞬眉を動かしたが、すぐに頷くと3球目を投げた。

 

(やっぱ内……え)

 

 インハイに投げられたボールにバットが振り出されたが、そのタイミングは大きく遅れており、鈴木のミットにボールは収まっていた。

 

「ストライク! バッターアウト!」

 

(え、速。……そういえばみんな速くなったっていってたけど、私的にはそんな速くなってないなーと思ってたのに。……ああー! この意地悪キャッチャーさん、2球目までは抜いたボール投げさせてたんだ!)

 

「……? あの、アウトですよ」

 

「ああ、ごめんなさい! ほら、早くベンチに戻って」

 

「むー」

 

 アウトになっても鈴木を見て中々打席から離れないバッターにネクストから出てきた1番バッターが注意すると、頬を膨らませてベンチに戻っていった。

 

(なんだったのかしら……。でもこのイニング、ここまでいい調子ね。この練習試合勉強になることが多いわ。ストレート一本でもここまで変化がつけられるなんて)

 

「ツーアウト!」

 

(あと、1人アウトを取ればいい)

 

 鈴木が声をかける中、今日の役目の終わりが見えてきた倉敷は一度息を大きく吐き出すと、気合を入れ直した。

 

 初球。アウトローに投げられたボールをバッターは見送るとボールのコールがされる。

 

(反応しないか……)

 

 2球目。再びアウトローに投げられたボールをバッターは見送るが、1球目よりボール1つ内に入れられたボールに今度はストライクのコールがされる。

 

(全力投球を始めたのは2番から。まだこのバッターには速いストレートは見せていない。ここはインハイに速球を見せて、最後はアウトロー厳しいところに7割投球。球速差と厳しいコースがつければ、十分打ち取れるはず)

 

(ここまでの3打席、外は簡単に打てるようなボールは来てない。追い込まれるまではさっきみたいに内の打たせる球を待つ!)

 

 3球目。一転してインハイをついたストレート。そのボールにバッターはバットを振り出した。

 

(……! 速い……!)

 

(よし。差し込んだ!)

 

 ギイィン。鈍い音が響くと打球は三遊間を超えてレフト前に落ちた。そのボールを九十九が収めるとバッターランナーは一塁で止まる。

 

(やっと初ヒット!)

 

(く……さすが上位打線、見事ね。あれだけ差し込んだのにバットを振り切って詰まりながらもレフト前に持っていくなんて)

 

 まさしくやられた、というような表情を浮かべた鈴木だったがすぐに次のバッターに意識を向けなおす。

 

(このバッターにはさっき膝下のストレートを持っていかれてる。それを踏まえて……)

 

 2番バッターがベンチを見てヘルメットのつばを掴むようにしてから左バッターボックスに入り、どう打ち取ろうか思案する鈴木。

 

(まずはやはり初球アウトコース低めに。コントロール重視の7割で。さすがにそう簡単には打てないはず)

 

 倉敷はサインに頷くと一度ランナーの方を見てから間を置く。そして投球体勢に入った瞬間、秋乃が声を上げる。

 

「走ったよ!」

 

「……!」

 

 倉敷は気にせずクイックモーションでアウトコース低めにボールを投げ込む。対して鈴木は焦りを覚えていた。

 

(まずい。左バッターの陰からランナーが……送球体勢に入れてない!)

 

 振り出されたバットから大きく離れて抜けるようにして届いた低めのボールをすくうように掴む。球審からストライクのコールが上がると、鈴木は慌てて送球体勢に入ろうとしたが、その動作を途中で中断した。投げても間に合わない、そう確信出来るほどにはランナーが二塁に近づいていた。

 

(さすが1番バッター……)

 

(かなり足が速いのだ……)

 

 二塁ベースに入ってボールを待っていた阿佐田と送球が逸れた際のカバーに入っていた有原はその足の速さに開いた口が塞がらない様子だった。

 

(しまった! リードに気を取られてランナーへの配慮が全然なかった。この場面走ってくる可能性は十分にあったというのに……)

 

「鈴木。……ボール」

 

「あ、はい……」

 

 二塁を向いて固まっていた鈴木に倉敷は声をかけると投げ渡されたボールを受け取った。

 

(慌てることなんてないわよ。ストライク1つ取れたんだし、このバッターを打ち取ってしまえばいい)

 

(落ち着けってことよね。確かにこの場面、ストライクから入れたのは決して小さくない)

 

 深呼吸をして可能な限り落ち着いた鈴木はキャッチャーボックスに座りなおすとバッターを見ながら考えを巡らせる。

 

(このバッターは全力投球を既に見ているけど、倉敷先輩の全力投球は6分割で十分にコースがつける。それを考えれば……。あと先ほどのバッティングを見るに長打を狙うタイプじゃなかった)

 

 鈴木の指示を受けて九十九・中野は前に、引っ張りで強い打球が飛ぶ可能性のある宇喜多はやや前に出てくる。それを確認した後、今度は倉敷にサインが出されると倉敷は頷いて、少し間を置いた後、ボールを投げた。アウトローに投げられたストレートにバッターはバットを振り出す。

 

「ファール!」

 

(追い込んだ!)

 

 打球はバックネット方向に低い弾道で向かっていき、ファールとなった。

 

(本当だ。8番9番(あの子たち)が言ってた通り球速差がある。頭には入ってたけど、実際に感じる球速差はそれ以上ね。追い込まれたわ。……けど、後輩の前であっさりやられるわけにはいかない)

 

 2番バッターの目つきが変わるとバットを短く持ち、さらに立ち位置を変えて先ほどより外に踏み込んだ構えに変わった。

 

(……どういうつもりかしら。これなら内に投げ込めば、窮屈なスイングを強いられることになるのに)

 

(外に手こずってるからでしょ。投げ込んでやればいいのよ)

 

(……さっきの打席、膝下のストレートを打たれたけど、この構えならさすがにヒットにするのは難しいはず!)

 

 覚悟を決めた鈴木は膝下へのストレートのサインを出すと倉敷は望みのサインが来て頷き、内心では満足気だった。二塁ランナーに2度、目をやってから3球目となるボールが投じられる。

 

 ——キン。軽い金属音が鳴ると打球はそのままバックネットに向かっていき、ファールになった。

 

(……あ? なに今のスイング。打つ気あるの?)

 

 倉敷から見て振り切らずに軽く当てに行くようなスイングは舐められているようにも感じられた。

 

(……カットね。意図的にファールにして粘り、球数を稼ぐ気だわ)

 

 鈴木は今のバッティングを見て相手の狙いを探ると、次のサインを出した。

 

(でもこっちはボール3つ分の余裕がある。初回見逃したこれならどうかしら)

 

(アウトロー。7割投球でボールになってもいいからギリギリ狙うのね)

 

 倉敷はそのサインに頷くと今度はあまり間をおかずにボールを投げる。

 

(アウトロー! この立ち位置ならそう遠くない!)

 

 このボールに合わせるように振り出されたバットは軽く振られたものだったが、その打球はサードの頭上を越えていった。

 

(なっ、カット狙いじゃなかった!?)

 

「レフト!」

 

 二塁ランナーはスタートを切り、既に三塁手前まで来ている。そんな中、レフト線に飛ばされた打球に九十九は判断を下す。

 

(これは……追いつけない。ワンバウンドで、正面で捕れるように回り込むしか……)

 

 九十九はこの打球に突っ込みすぎず回り込む選択をすると打球がバウンドした。

 

「ファール!」

 

(……レフト線、ギリギリのところでボールが切れてくれたか……)

 

 近くで打球を見ていた九十九はほんの少しの差で点を取られたことに肝が冷える思いを抱きながら、倉敷にボールを返球する。鈴木はバットをバッターに渡しながら、内心安堵していた。

 

(……カットだと決めつけてしまった。多分バッターの狙いはカットしながら、打てる球が来たら打つ。打てる球っていうのは、立ち位置から考えるとアウトコースの球なんでしょう。……そこにわざわざ放ってしまった。けど、まだチャンスはある!)

 

 鈴木は顔を上げると次のサインを倉敷に出す。倉敷はそのサインに頷くと、二塁に戻っているランナーを一度見てからそれなりに間をおいてボールを投じた。

 

(アウトロー……遠いな)

 

「ボール!」

 

 7割投球で今度はアウトローにボール2個分遠くに外させたボールが要求通り鈴木のミットに収まった。

 

(そんなボールは振らないわ)

 

(よし。じっくり今のボールを見た、わね)

 

 倉敷に返球して鈴木は次のサインを出す。すると倉敷はすぐには頷かなかった。

 

(そこは……踏み込んで来てる分、アタシのコントロールがずれたらデッドボールよ)

 

 鈴木は倉敷の様子を見て胸を叩く動作をするとその位置にミットを構えた。

 

(倉敷先輩のコントロールなら投げ切れます。ヒットが狙えない時にカットするためにはバッターは基本的にセンターから逆方向に意識を向けてボールをよく見れる状態にしないといけない。だからここは根元寄りになることも含めて、カットされる確率は低いはずなんです)

 

(アタシのコントロールをそこまで信用してくれるっていうわけ。なら、応えないわけにはいかないでしょ)

 

 倉敷はこのサインにしっかり頷くと、ランナーを確認することなく、投球モーションに入る。リリースするギリギリの瞬間まで触れるようにされたボールが、今解き放たれた。

 

(……! 速いボール。それにこのコース!)

 

 バッターは速球に反応してバットを振り出す。投じられたコースはインコースの高め。右投げの倉敷から左バッターに向かうようにして投げられたボールに短く持たれたバットで当てに行くスイングで応じられた。

 

(……!)

 

 金属音が鳴ると鈴木はすぐさまキャッチャーマスクを外し、反転して立ち上がるとバックネット方向に向かって走り出す。そしてバックネット下にある壁のギリギリに飛びながらミットを伸ばすとスピンがかけられたボールを掴み取りにいく。そして体はそのまま壁にぶつからずに、ミットだけが壁と衝突した。球審が近づいていくと右手がグーの形を取って上げられる。

 

「アウト!」

 

 しっかりミットの中でボールは握られていた。キャッチャーフライが成立し、3つ目のアウトが宣告される。すると倉敷が立ち上がった鈴木に近づいていき、ミットを向けた。

 

「ナイスキャッチ」

 

「……! ナイスピッチングです」

 

 ミットを重ね合わせると鈴木の顔に自然に笑みが浮かぶ。すると倉敷も思わず笑みを浮かべる。そんな自分に気づくと焦りながらすっとミットを外し、耳を赤くしてベンチに戻っていく。鈴木は不思議そうに見ていたが、自分の打順からの攻撃だということに気づくと急いで戻っていった。

 

「いいじゃないか、笑ったって」

 

「……! み、見てたの……?」

 

 するとレフトから戻っていた九十九と目が合い、倉敷は普段の彼女からは想像がつかないような狼狽を見せる。

 

「君は大会が終わってから自分に厳しくしようと、自分がいいプレーをしても笑わないようにしていたんだろう?」

 

「……アンタ、よく見てるわね。そうよ。ピッチャーとしてチームを背負う以上、当然でしょ」

 

「そうかな。今、楽しそうに見えたけど」

 

「そ、それは……鈴木が良いプレーしたからよ」

 

「そうだね。味方が良いプレーをしたり、自分が良いプレーをしたり。それは楽しいことじゃないか」

 

「……いや、別にアタシは」

 

「そういえばさっきあおいに聞いたんだけど、4回の表の私の守備にも笑ってくれたらしいね」

 

「なっ! あ、アイツ……」

 

「君はそうやって他人のプレーを素直に喜べる優しさを持っているんだ。その優しさを、少しは自分に分けてあげてもいいんじゃないかな」

 

 正面から訴えかけるようにまっすぐ見つめてくる九十九。その目線を先に外したのは倉敷だった。

 

「……なんなのよ、もう。屋上でのことといい、アンタはアタシの笑顔を気にしすぎでしょ」

 

「……ごめん。気に障ったなら謝るよ」

 

「はぁ。そこまでは言ってないでしょ。……」

 

 ここで本気で謝ろうとする九十九に呆れながらも倉敷の顔には自然に笑顔が浮かんでいた。

 

「あー! まいちんが笑ってるのだ!」

 

「んなっ……!」

 

 しかしそこはベンチ内。他の人もいる空間で、その笑顔が見られるのは必然とも言えた。

 

「九十九ー。どうやったらまいちんをここまで笑わせられるのだ?」

 

「ええと……」

 

「そ、そんな困った顔してこっち見ないでよ」

 

 2年生同士そんなやり取りをしていると、グラウンドから球審の宣言が聞こえてくる。

 

「ストライク! バッターアウト!」

 

(ストレートのタイミングで待ってたのに、ここまで当たらないなんて……!)

 

 ストレートに合わず空振り三振で鈴木が凡退し、宇喜多がバッターボックスに向かっていた。

 

「ほら。アンタ、ネクストサークルに行かないとでしょ」

 

「ああ。そうだね」

 

「あー、まいちん逃げる気なのだ」

 

「ち、違うわよ。アイシングしないとだし……」

 

 阿佐田から離れるようにベンチ裏に向かっていく倉敷。九十九も急いで準備をしてネクストサークルに座っていた。

 

「ストライク! バッターアウト!」

 

(まずいな。あのストレート、段々と手がつけられなくなってきている)

 

「つ、九十九先輩。あのね、投げた瞬間に振ってみたけど当たらなかった……」

 

「横から見ていた限り、バットが下に入っていたように見えましたね。恐らくそれだけストレートが走っているんでしょう」

 

「ううー。後はお願いします……」

 

 宇喜多がとぼとぼとベンチに戻っていくと、九十九はバッターボックスに入り、軽く息を吐き出した。

 

(流れが良くないな。ここまで前の回と合わせて五者連続三振だ。断ち切らないと)

 

 初球。アウトハイに投じられたストレートに反応した九十九はバットを振り出す。

 

「ファースト!」

 

 上がった打球をファーストが追うがそのまま一塁側ベンチの上でバウンドし、ファールになった。

 

(少し上を狙って振ったつもりなんだけどな。これでもまだ足りないのか)

 

(今の小也香のストレートに合わせてくるんだ。……ここは)

 

(構いませんよ)

 

 2球目。アウトコースに投げられたボールに今度こそはと九十九はバットを振り出す。

 

「ストライク!」

 

(えっ!)

 

 九十九はボールが消えたようにすら感じられた。ミットを確認すると収まっていたのはアウトコースのボールゾーン。

 

「ナイスボール!」

 

(ようやくストライクからボールになる軌道にこのボールを投げられましたね)

 

(今のが有原さんと東雲さんが言っていた高速スライダーか。何らかの理由で2人にしか投げてこないと思っていたけど、これを混ぜられると厄介だ……見分けがつかない)

 

 追い込まれた九十九はなんとか繋げようとバットを短く握る。

 

(それならアウトコースは届きづらくなる。スピードボールを2つ続けたし、スライダーをストライクからボールに外そう)

 

(ええ。見逃されたらそれを見せ球に今度は内を攻めればいい)

 

(今のところ2球続けて高速スライダーは無かったはずだ。ここはストレートに絞る!)

 

 3球目。真ん中低めやや外寄りに投げられたボールにバットが振り出される。

 

(うっ、これはストレートじゃない? バットは……止まらない、か!)

 

 既にスイングは止まらないと感じた九十九はボールに食らいつくようにスイングを続行する。

 

「ファースト!」

 

 ボテボテの当たりがファーストに転がりキャッチされると、九十九が一塁にたどり着くより早くベースを踏まれ、3アウトになった。

 

(ちょっとだけ要求より内に入った。でも十分にいいコースだったよ)

 

(ストレートを続けてましたから変化球の感覚が少しずれましたね。それでもタイミング的にも空振りが取れそうでしたが、当ててくるのですね)

 

 5回が終わり、6回の表。清城高校の攻撃が始まるところでピッチャーの交代が告げられた。

 

(倉敷先輩は清城打線を5回1失点で抑えたんだ。私は1イニングなんだから、無失点で抑えないと……)

 

 オーダー発表の時に告げられた通り、6回のイニングを任されたのは野崎。

 

「鈴木さん。プルペンで受けてた限りだと今日の野崎さんは大きくボールゾーンに流れるボールは少なかったわ。球速もいつも通り速かったし、行けると思うよ」

 

「野崎さんが肩を作るのを手伝ってもらうだけでも助かるけど、その情報を教えてもらえるのもありがたいわ。後はマウンドで確かめてみる」

 

「ええ。頑張ってね」

 

 防具をつけるのを手伝いながら近藤がプルペンでの野崎の様子を伝えると、背中を押されるように鈴木はグラウンドに向かった。マウンドでの投球練習が挟まれ、鈴木も今日の野崎の様子を確認する。

 

(プルペンとマウンドで感覚は違うのでしょうけど、私から見ても今日の野崎さんは良い安定感を感じるわ。いわゆる“当たり”の日かしら)

 

「とにかく腕を振り切っていきましょう。清城相手に中途半端なボールは通じないわ」

 

「はい! 入れにいかないで、しっかり腕を振ります!」

 

 投球練習が終わり2人はマウンドで意思疎通を図ると、鈴木がキャッチャーボックスに戻っていく。そしてベンチの外で投球練習を見ながらタイミングを合わせていた3番バッターが右打席に入った。

 

(ここまでサードゴロとサードへの送りバント。1打席目に引っ掛けたのは内のストレート。……と考えはするけど、野崎さんの場合基本的に要求は内か外か。細かいコントロールの精度より、左ピッチャー特有の軌道とその球威・球速で勝負していきましょう)

 

 サインを出し大雑把な位置にミットを構えると野崎は頷く。初球を投げる前に長い息を吐き出してから、振りかぶってボールを投じた。

 

「ストライク!」

 

 投げられたコースはアウトコース、高さは真ん中。そのボールをバッターは見送った。

 

(参ったな。さっきのピッチャーとタイプが違いすぎて、そのギャップが。……ここは仕掛けてみるか)

 

 2球目。内のサインに頷いた野崎はそのコースを目掛けて投げるとバッターがバントの構えを見せた。

 

「……!」

 

 バントされた打球はそのまま大きく後ろ側に飛んでいき、バウンドしてバックネット下の壁に当たった。

 

(このバッター、確かバントが上手かったわね。けど今のインハイは高めに外れたボール球。軌道が独特で判断が遅れたのでしょうけどバットを引くべきだったわね)

 

(よ、良かったぁ。投げることに集中して、守備のこと全然考えてませんでした)

 

 ボールを受け取った野崎はミットの中にしまうように安堵の吐息を漏らすと、3球目を投じた。

 

「ボール!」

 

(悪くないけど、全体的に浮き気味ね)

 

 アウトハイに外れたボールをバッターはしっかり見送る。鈴木はボールを投げ返すと、ジェスチャーで低めを意識するように指示を出した。

 

(低め。イメージとして叩きつけるくらいのつもりで……)

 

(今のは見送ったけど、際どく来たらファールにはしないと)

 

 4球目。内を要求したサインの通り、かつ出来るだけ低めを意識して投げられる。そのボールにバッターはバットが出ずに見送った。

 

「ストライク! バッターアウト!」

 

(やった! まず1つ目、取れました!)

 

「ナイスボールよ、野崎さん!」

 

「ありがとうございます!」

 

(正直そこまで低めというほどじゃなかったけど、内には厳しく決まったわね。クロスファイヤー。左投手が右打者の内角目掛けて投げることで角度がつく。安定して投げられるようになれば大きな武器よ)

 

 その球威にミットが思わず必要以上に横に流れてしまうのを気にしながら鈴木はボールを投げ返す。そして神宮寺が右バッターボックスに入った。

 

(内と外で考えるなら神宮寺さんは内をヒットにして、外でアウトに取られている。単純にここは外を攻めましょう)

 

(はい。分かりました)

 

 神宮寺がバットを構えると野崎は再び振りかぶってボールを投げた。

 

「ボール!」

 

(ちょっと外に流れすぎね。長打のある神宮寺さん相手だから内に入らないようにしてるのは分かるけど、あなたのボールならゾーンで勝負できるわ)

 

「楽に! ボールは悪くないわよ!」

 

「は、はい!」

 

 野崎はボールを受け取り、1度深呼吸を挟む。それが終わると鈴木からサインが出されて野崎は頷いた。

 

(続けて外。ミットはストライクゾーンに構えられているから、それを目掛けて……)

 

「……ふっ!」

 

 大きく振りかぶり縫い目に上手く指先が引っかかるような感覚を覚えながら2球目を投じた。

 

「ストライク!」

 

(……振ってきた。けどタイミングが合ってないわね)

 

 アウトコース高めに投げられたボールに神宮寺のバットは空を切っていた。

 

(次も外。徹底してますね……)

 

 そのサイン通りアウトコース目掛けて次のボールが投げられるとそのコースはアウトコースやや低め。神宮寺は再びバットを振り出したが軽くかすったようなボールはそのまま鈴木のミットに収まり、ストライクとなる。

 

(次も外……ってええ!? ここで内……ですか?)

 

(ちょっと表情に出しちゃってるわね。でもいくら神宮寺さんでもいきなりこのボールを内に投げられたら、厳しいはずよ)

 

(わ、分かりました。投げてみます)

 

 驚いたような表情をなんとか直すと意を決してインコース目掛けてボールを投じた。

 

(インコース高め!)

 

 神宮寺はインコースに投げられたボールに反応し、スイングを行った。

 

「ストライク! バッターアウト!」

 

(よし! 高めに外れたボール球を振らせた!)

 

(くっ、高めに来た時のボールの伸びが凄まじいですね)

 

 見極めきれずにボール球を振った神宮寺のバットは下をくぐり、表情に出来るだけ出さないように、されど悔しそうにベンチに戻っていた。

 

(小也香が三振……。あんまり小也香は三振しないバッターなのに)

 

 神宮寺の三振に驚きながら牧野が右バッターボックスに入る。そのバットは少し短く握られていた。

 

(やれることは限られてる。思い切っていきましょう)

 

(はい。まずは内……ですね)

 

 振りかぶって第1球が投げられる。インコース目掛けて投げられたボールは高さこそ真ん中だが、しっかりとインコースに投げられていた。

 

「ストライク!」

 

(う……凄い角度)

 

「ナイスボール! その調子よ!」

 

「はい!ありがとうございます」

 

(……律儀に返事をしなくても、大丈夫なんだけどね。いや、勿論してもらっても問題はないけれど)

 

 そんなことを考えながら鈴木はサインを出す。選択肢が2つしかない分、倉敷の時と比べてそれはテンポが速くなっていた。

 

(外に……)

 

 2球目、外を目掛けて投げられたボールは本人の思惑とは異なり真ん中に寄ったボールとなった。

 

(真ん中低め!)

 

 牧野はこのボールを見逃さずスイングを行う。振り出したバットはボールの上を叩いた。

 

(よし。初球のボールで少し腰が引けてる!)

 

(うっ……!)

 

 打球はピッチャーの横へのゴロとなり、有原がそのボールをさばこうと二塁ベース側に移動していた。

 

「あっ……!」

 

「……!」

 

 左利きの野崎はちょうど右に嵌められたミットでボールを捕りに行こうとしたが、そのボールを弾いてしまう。軌道が変わった打球に有原はブレーキをかけて前に出ながらボールを素手で掴むと、ジャンピングスローでファーストに送球した。

 

「セーフ!」

 

 牧野はその足の速さを存分に発揮して一塁を駆け抜ける。結果、一塁審判によってセーフの判定が為された。

 

「ご、ごめんなさい!」

 

「ドンマイドンマイ! 今のはちょっと運が悪かっただけだよ!」

 

「そうだよゆうき! 気にしないで、切り替えてこー!」

 

「は、はい!」

 

 有原から励ましを受け、秋乃から言葉と共にボールを受け取った野崎は返事をする。

 

(アンラッキーな形になったけど、こちらにも幸運は残ってる。次のバッターは左打者、左投手にとっては打ち取りやすいバッターよ。それに野崎さん、セットポジションの方が球威は落ちるけどコントロールがつくのよね)

 

 左打席に立つ6番打者を見ながら鈴木は気持ちを切り替えるとキャッチャーボックスに座り直す。

 

(せっかくの練習試合。練習中のこれも試してみましょう)

 

(そのサインは……はい、やってみます)

 

 野崎は右足を垂直方向に上げるとそのまま一塁方向に踏み出して牽制を行った。

 

「ば、バック!」

 

「……!」

 

「……セーフ!」

 

(あ、危ない……。そうだ。左ピッチャーにはこれがあるんだ……。しかも肩が強くてボールが届くのが早い。もう少し送球が低ければアウトになってたかも。気をつけなきゃ)

 

 足に自信がある牧野は隙があれば盗塁を仕掛けようとしていたが、鋭い牽制を受けて思わず冷や汗をかいていた。

 

「いいよゆうきー! こーいんやのごとしだよー!」

 

「秋乃さん。それは月日が経つのが早いことの例えです……」

 

 野崎はツッコミながらボールを受け取るとどこか緊張もほぐれてきたのか微笑みを浮かべていた。

 

(……よし。牧野さんのリードが少し小さくなった。牽制の効果はあったわね)

 

 鈴木は横目で牧野のリードを確認すると、次のサインを出す。野崎はそのサインに頷くと右足を垂直方向に上げた。

 

(牽制来る……?)

 

 警戒する牧野だったがそのままホームに右足が向けられると、1球目が投じられた。

 

(インコース、真ん中!)

 

 打てると判断したバッターは初球から打ちに行く。バットの根元側でボールの上を叩いた打球はサードへの勢いの無いゴロになった。

 

「サード!」

 

「はい!」

 

 詰まった打球に対して東雲が前に出てくるとバッターランナーはバットを通じて少し痺れを感じながら一塁に向かっていた。

 

「ファーストに!」

 

(……この場面ならジャンピングスローじゃなくてもアウトに出来る!)

 

 東雲は丁寧に捕球すると堅実に足の向きを整えて送球を行う。すると余裕を持ってアウトが宣言された。

 

(6番バッターはあまり足のあるバッターじゃない。派手なプレーを好む誰かさん達も今のプレーを見て、必要な時に必要なプレーをすればいいことを分かってくれればいいんだけど)

 

 その1(新田)その2(逢坂)がベンチで有原のジャンピングスローの話題で盛り上がる中、3アウトになり、攻守が入れ替わった。

 

「ナイスピッチ」

 

「……! 倉敷先輩。あ、ありがとうございます!」

 

 アイシングを終えてベンチからピッチングを見守っていた倉敷が1番にベンチの前に行くと1イニングを抑えきったことを祝福する。少し驚いた様子の野崎だったが褒められて嬉しそうに礼を言い、倉敷の1歩後ろにいた岩城は2人に浮かぶ表情を見て満足気に頷いていた。

 

「小也香。ここまで63球。疲れは大丈夫?」

 

「問題ありません。清城(うち)には私以外の投手はいませんし、あと2イニング投げきってみせます」

 

「お願いね。この回クリーンナップに回るからそこを抑えれば終わりは……」

 

 牧野と神宮寺は里ヶ浜ベンチの方を向いて目を見張る。阿佐田に代打が告げられ、打席に向かっていたのは河北だった。

 

「……球数は多くなっても構いません。全力を以って抑えましょう」

 

「分かった」

 

 牧野と神宮寺は軽くミットを合わせて気合いを入れ直すと牧野が河北に向かって軽く頭を下げてからキャッチャーボックスに座る。打席の外で少し緊張した面持ちの河北だったが、ネクストサークルから有原に声をかけられ、緊張が緩和されるとバッターボックスに入った。

 

(コーチャーからの景色ってこう見えるのね)

 

 河北に変わり三塁コーチャーに入った倉敷はマウンドから、あるいはランナーとして見える光景とも違う様子に感想を漏らしながら漠然と打席の方を見ていた。

 

「あの……すいません。あおいはどこに行ったか分かりますか?」

 

「先程代打を出すことを伝えてから、見当たらないんですよね……。コーチャーをお願いしようと思ったんですが」

 

「そうですか」

 

(グラウンドにいなくてベンチにもいない以上、恐らくは……)

 

 鈴木に質問した九十九はそのままベンチ裏に向かう。すると荷物を置かせてもらっている部屋の明かりがついていることに気づいた。

 

(倉敷さんがアイシングをした際に消し忘れたのか?)

 

 深い考えはなくその部屋の扉を開く。するとハッとした表情の阿佐田と目があった。

 

「……あおい、何をやってるんだ」

 

 九十九は阿佐田が何をやっているのか瞬時に理解した。しかしその上で質問した。

 

「これは……その……」

 

 とっさに誤魔化そうとする阿佐田だったが、それは不可能なことにすぐ気がつく。椅子に座ってスパイクとソックスを脱ぎ、足首をテーピングテープで固定しようとする所を見られてしまったのだから。

 

「捻挫はもう治ったんじゃ」

 

「治ったのだ。ただ……」

 

 言葉に詰まる阿佐田。静寂が彼女たちを包み込むと、阿佐田はため息を吐いてから止むを得ずといった様子で伝えた。

 

「……初回一塁ベースを駆け抜けた時に踏んだ場所が悪くて、同じところを捻挫してしまったのだ」

 

「……!」

 

 九十九はあまり顔に感情を出すタイプではなくぱっと見の表情はさほど変わってないようにすら見える。しかし長い付き合いの阿佐田には彼女が驚いてから、怒ったような様子で近づいてくるのが分かった。

 

「なぜ、すぐに言わなかったんだ」

 

 心なしか言葉にも怒気が含まれている。

 

「……前の捻挫と比べると軽いものだったから」

 

「前に伝えたはずだ。捻挫はクセになると厄介だから、気をつけてくれと」

 

「…………言われたし、あおいも分かってはいるのだ」

 

「そうだろうね。君も看護学校を志望する身だ。捻挫を甘く見ているとは思っていない。だからこそなぜすぐに言わなかった、と聞いているんだ」

 

(……バレてるのだ。軽いと思ったから、が理由じゃないことを。そしてこれだけ九十九が珍しいくらいに怒るのは……多分、あおいのことを本気で心配してくれているからこそなのだ。……嘘は、もうつけないのだ)

 

 逸らすようにして下を向いていた目線を阿佐田は上げると九十九の目を見つめるようにした。

 

「……今から言うことは他の誰にも言わないで欲しいのだ」

 

「内容によるよ」

 

「……うん。それでいいのだ。夏の大会であおいが捻挫してからセカンドはともっちに任せて、しばらく絶対安静の期間が続いたのは覚えているのだ?」

 

「覚えてるよ。捻挫を引きずらないために、必要なことだった」

 

「そう、だけど。あおいにとっては何も出来なくて、皆が上手くなっていくのをただ外で眺めることしか出来ない時間だったのだ」

 

「……皆が上手くなるのが嫌だったのかい?」

 

「そうじゃないのだ。ただ見ていた時にゾワっと恐ろしいものを感じたのだ。皆に置いていかれるような、そんな感覚を」

 

「……」

 

「ようやく捻挫が治って練習に参加出来るようになって、程なくして新入部員が入ってきたのだ。同じポジションを守るはせまりが少しずつ上手くなれるよう頑張って、ともっちも出来ることからこつこつと頑張っていたのだ。だから……だから、同じように怪我をして練習出来なくなったら、また置いていかれるんじゃないかって……!」

 

「……それが、理由か。この捻挫を隠し通して、これまで通り練習に参加したかったのか」

 

「…………うん」

 

「……正直、意外だ。君は私と同じように、無難に物事をこなせるから、そんなことを考えているとは思わなかった」

 

「逆なのだ九十九。最初から無難にこなせたから、皆に置いていかれるような感じが、凄く怖かったのだ。置いていかれたら、どう頑張っても、追いつけないような感じがして」

 

「…………なるほど」

 

(その感覚は感じたことのない私に安易に同意出来るようなものではないのかもしれない。けど、あおいの言っていることは分かる気がする)

 

 友人が抱えていた悩みや、自分との考えの違い、色々なものを受け取ってそれでも九十九は答えを出した。

 

「だけど、その考えを肯定することは出来ない。そのやり方は君が傷つくだけだ。強さを目指す以上、競争は起こるものかもしれないが、私たち里高が目指す野球は、誰かを傷つけて成り立つものではないはずだ。有原さんの言う楽しさと東雲さんの言う強さ、その2つが同時に成り立つ、そんな場所のはずだよ」

 

「…………そう、なのだ。分かっていたはずなのに……。一塁ベースを駆け抜けてあかねっちに覗き込まれそうになった時、とっさに誤魔化してしまったのだ。……あおいは怖かったのだ。自分の中にある弱さを認めることを」

 

「でも、私に今話してくれたじゃないか。経過はどうあれ君は怖さに打ち勝ったんだ」

 

「……! 九十九〜!」

 

「うわっ」

 

 近づいてきた九十九に阿佐田は椅子に座ったまま思わずしがみつくようにすると体勢を崩しそうになり、とっさに九十九が支えた。

 

「全く……。しょうがないな。テーピングもこんなにぐるぐるにしたら、スパイクに入らないだろう」

 

「う……それは、お恥ずかしい限りなのだ」

 

 九十九は阿佐田を椅子にしっかり座り直させると、自身はしゃがんで足首に乱雑に巻かれたテープを一度ほどくと丁寧に足首を固定するようにテーピングを行った。

 

(話を聞いてくれてありがとうなのだ、九十九。おかげで気持ちの整理がついたのだ。……そして1つだけごめんなのだ。嘘をついたわけじゃないけど、1つだけ隠してしまったことがあるのだ。あおいが何より置いていかれたくなかったのは、ともっちやはせまりじゃなく……。でも、そればかりはさすがに言えないのだ)

 

 先程自分が苦労していたテーピングを九十九がスムーズにこなす様を見て、阿佐田はそんなことを考えたのだった。

 

「ファール!」

 

 ベンチ裏でそんなやりとりが行われてる間1ボール2ストライクと追い込まれてから3球連続でストレートをファールする河北にベンチが盛り上がりを見せていた。

 

(……全力を以って抑えるって言ったよね。なら出し惜しみはしないで……)

 

(……! 高速スライダー……ですね)

 

(ストレートを続けたから、これを見極めるのは至難の業だよ)

 

(分かりました)

 

 サインに頷くと握りを確認しながら神宮寺は眼前で粘りを見せる河北を見つめ、軽く息を吐き出すと自身の新たなフィニッシュボールを投じた。

 

((低い!))

 

 河北と牧野が同時にボールの高さを感じ取ると河北はバットを止め、牧野はミットで目の前でバウンドしたボールを止めに行き、そのミットに収めることは出来なかったものの真横に弾いたボールをすぐに拾った。

 

「ボール!」

 

(……今、変化した? ストレートじゃなかったんだ……)

 

(……しまった。ただでさえコントロールが効かない高速スライダー。球数が重なって疲れが出てくるこのイニングで、こうなるのは想定しないといけなかった。……今のは私のミスだ)

 

 ボールについた土を落とすようにしてから牧野は投げ返すと、キャッチャーボックスに座り直し、今のボールを踏まえた上で新たなサインを出した。

 

「凄いわね、河北さん。さっきまで手がつけられなかったストレートにここまで粘れるなんて」

 

「そうね。多少球威は落ちているのかもしれないけど、何よりバッティング練習の成果でしょう。最近の彼女は明らかに意識が変わっているわ」

 

「意識?」

 

「ええ。以前の彼女と比べてボールを打つポイントが後ろになっている。ボールを引きつけて、よく見て打っている証拠だわ」

 

「そこまで考えてバッティング練習をしていたのね」

 

「……彼女がそこまで考えていたかは分からないわ。ただ少なくとも基本に忠実な彼女らしくバッティングのセオリーを意識していたのは確かよ」

 

 8球目。牧野のサインに首を縦に振った神宮寺は膝下目掛けてボールを投じた。

 

(ストレー……いや、違う!)

 

 バットの始動を溜めた河北はそのボールを引きつけてからコンパクトなスイングを行った。

 

(センター……返しっ!)

 

 内に食い込むシュートを芯で捉えた打球は神宮寺の頭上を快音を置き去りにするように飛んでいった。

 

「……」

 

(やった……!)

 

 両者の表情の明暗がはっきり分かれる。互いに打球が飛んだ瞬間にヒットが確信できる、お手本のようなという形容が相応しいセンター前ヒット。一塁に到達し喜びを露わにする河北に対して、神宮寺は後ろや横を振り向かずそのまま前を見ていた。

 

(とうとう打たれてしまいましたね。貴女の野球に対する意識は近くで見てきたつもりです。悔しさはあれど、驚きはしません)

 

(打ったね、ともっち)

 

 有原は塁上で喜ぶ河北を見て一瞬だけ微笑むと表情を切り替えて神宮寺の方を見ながらバッターボックスに入った。ノーアウトランナー一塁。里ヶ浜高校は3番有原から始まるクリーンナップへと打順が回る。

 

(ここまで連打は倉敷先輩と秋乃さんの1回。長打はさっきの打席で真ん中に来たボールを打った1本。この場面、まず真ん中には来ないはず。連打と長打、そのどちらも簡単じゃない上で今日の神宮寺さんからそれでも点を取るには……)

 

 左手を向けて地面をならした有原はネクストサークルに入っている東雲と、ベンチで準備をしている野崎を見ると決断した。

 

 サインの交換が終わり1度、目での牽制を入れた神宮寺はクイックモーションでボールを投げた。投じられたコースはアウトコース低め。

 

「翼……!?」

 

 河北は有原がとった構えに驚嘆する。有原はセーフティ気味にバットを出すとアウトコースのボールを一塁側へと転がした。

 

(送りバント……! 程よく勢いは殺されてる。二塁は間に合わない!)

 

「ファーストに!」

 

 牧野の指示に従って前に出たファーストはベースカバーに入ったセカンドへとボールを送球した。

 

「アウト!」

 

 それなりに余裕を持ってアウトが宣言され、有原はベンチへと戻っていく。

 

「有原さん、貴女……」

 

 すれ違う東雲に拳を突きつけるような動作を見せるとそのままベンチに入っていった。東雲は覇気のある眼差しで神宮寺を見ながらバッターボックスに入る。

 

(鋭く射抜くような目つきですね東雲龍。ここまで貴女は2打席ともインハイのストレートで打ち取られているというのに。いえ、だからこそでしょうか)

 

(5番から左打者が3人も続くし、次のバッターはパワーがあるから歩かせると一気に2点取られる可能性もある。甘いコースに行くのは避けなきゃだけど、安易に歩かせることも出来ない。……ここは、行こう)

 

(……! ……正直、それはこちらも想定外ですよ牧野さん)

 

 表情に出さないように努めながらあまりに強気な牧野のリードに内心で驚いているのか呆れているのか、自分でも整理しきれないほどの衝撃を受けながらそのサインに頷くと1球目を投じた。

 

(……は!?)

 

 全神経を指先に集中させるような神宮寺のストレートが唸りを上げて襲いかかり、そのボールを東雲は見送った。

 

「ストライク!」

 

 投じられたのは、インコース高め。

 

(……やってくれるじゃない! それにストレートの球威が戻ったように感じられる。タフね……。ピンチになって球数も重なる状況で、ギアを上げ直したってわけ)

 

(インハイに目つけは出来た。今度は……)

 

 2球目。投じられたのはアウトコースの低め。そのボールをバットを反応させることなく東雲は見送った。

 

「ボール!」

 

「……!」

 

(ここまでしてもストライクからボールになるスライダーに手を出さないか……)

 

 投げ返されるボールを受け取りながら自身の決め球を見送られることの悔しさを少なからず神宮寺は感じる。

 

(膝下にシュートいってみようか?)

 

(2打席目で鋭くファールにされていますし、先程河北さんに打たれたそのボールをまたすぐに投げるのは厳しいです)

 

 神宮寺はシュートのサインに対して首を横に振った。

 

(……これでいこうか)

 

(……いいでしょう。ボールの圧力で振らせてみせます)

 

 サインの交換が終わると神宮寺は二塁ランナーの河北を1度確認した後、3球目を投じた。

 

(インハイのストレート! 今度こそっ!)

 

(高めに半個分外したボール球を振らせた!)

 

 インハイに僅かに外したストレートに東雲のバットが振り出される。ボールの中心部からやや下の部分をバットが叩くと、打球がレフトに大きく上がった。

 

「レフト!」

 

(……! 想定より飛ばされた……!)

 

「河北、ハーフウェーまでリードを取って!」

 

「わ、分かりました!」

 

 倉敷の指示を受けて河北は二塁と三塁のちょうど中間あたりにリードを広げると打球の行方を見守った。

 

(く……! させない。さっきアタシが似たような打球飛ばして捕られたんだ。今度はこっちの番!)

 

 レフトが懸命に打球を追うとフェンス際まで来て滞空時間の長い打球を見上げ、ゆっくりと下がっていく。すると背中に何かが当たる感触を覚えてレフトは冷や汗をかきながら、ミットを可能な限り伸ばした。

 

「アウト!」

 

「……!!」

 

 既に二塁付近まで走っていた東雲はフェンスギリギリでキャッチされたボールを見て思わず歯噛みして悔しがった。

 

「河北バック!」

 

「はい!」

 

 河北が二塁に戻るとレフトの返球は距離のある送球でタイミングには余裕があり、無事に塁に戻った。そんな河北とすれ違うようにして東雲はベンチに戻っていく。

 

(東雲さん……)

 

(一歩間違えれば入っていましたね。投手として、これほど心臓に悪い滞空時間はないでしょう)

 

 ボールを受け取った神宮寺は帽子をとって汗を拭うと、息を大きく吐き出してからかぶり直した。左打席には先程好投を見せた野崎が入っている。

 

(外野前進。ボールは全部低めで、この場面なら厳しくついて歩かせても構わない)

 

 二塁ベースを片足で踏むようにしていた河北は外野の守備位置が前に来ていることを確認する。

 

(アウトローのストレート。無難な入り方でしょう)

 

 1球目。要求通りアウトコース低めに投げられたストレートに野崎のバットが振り出された。

 

「ファール!」

 

 レフト方向に飛ばされたフライは大きく左に切れていく。

 

(……このバッターリーチが長い分、外にもすんなりバットが届くな……)

 

 十分良いコースに決まったストレートをファールになったとはいえ捉えられたことに少し焦りを覚えながら牧野は次のサインを出す。2球目。再び投げられたアウトローのストレートは今度は見送られる。

 

「ボール!」

 

「良いボール来てるよ!」

 

(よし。要求通りしっかり見せ球になった。次は内いくよ)

 

(望むところです)

 

 3球目。インローめがけて投げられたストレートを野崎は見送った。

 

「ストライク!」

 

(うう……さっきの明らかに外れたボールと違って、手が出なかったです)

 

(行こう。左打者相手でもあなたの決め球は決め球足り得る(たりうる)!)

 

(はい!)

 

 4球目。再びボールは膝下に投げられた。

 

(今度こそ!)

 

 野崎はこのボールにバットを振り出し豪快なスイングでボールを捉えにいった。

 

「ストライク! バッターアウト!」

 

「……!」

 

 捉えたと思った野崎はミットの位置を慌てて確認するとさらに膝下に食い込むようにボールゾーンに構えられていた。

 

(良いスライダーだったよ小也香。左バッターの死角にしっかり投げ込めたね)

 

「ナイスボール!」

 

 爽やかに笑う牧野のボールを応えるように神宮寺は微笑を見せて受け取り、そっとプレートの近くにボールを置いた。3アウトになり、河北もベンチに戻っていく。

 

「……すぅ。……はぁ」

 

 ベンチでは東雲が深呼吸をしてから、目つきが自分を叱咤するようなものから次の役割に集中するものへと切り替えられていた。

 

「河北さん。あなたはこのままセカンドの守備位置についてもらうわ」

 

「うん! 任せて!」

 

「野崎さん、お疲れ様。さっきの回は良いリリーフだったわ。後は任せて」

 

「はい! お願いします!」

 

「み、皆さん。あと1イニング頑張って下さい!」

 

「あら、初瀬さん。何を言っているのかしら」

 

「……?」

 

「ポジション交代で最終回のイニング、サードから私がマウンドに上がる」

 

「ええ、なんとか抑えられるよう願って——」

 

「そして野崎さんに代わり、初瀬さん。あなたにサードに入ってもらうわ」

 

「……えっ。ええええっ!」

 

 6回が終わり、延長は無いこの練習試合。後は7イニング制における最終回の攻防を残すのみとなったところで、ベンチに初瀬の仰天したような声が響いたのだった。




試合を書き始めた当初は4話目で試合終了とその後の描写を入れる予定でしたが、目論見が甘かったです。試合は予想以上に文章量を要求されますね。


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ありのままの自分をさらけ出して

 ピッチングの邪魔にならないよう髪を結った東雲がマウンドで投球練習を行っている間、内野間のボール回しで回ってきたボールを初瀬は緊張のあまり弾いてしまう。

 

「あわわ……ご、ごめんなさい」

 

「初瀬さん。リラックスリラックス!」

 

「私も代わったばかりだから気持ちは分かるよ。お互い頑張ろうね!」

 

「肩の力ぬいてこー!」

 

「は……はい! 頑張りますっ」

 

(ベンチから見ていた時も感じたけど、グラウンドに立つと思った以上にみんな声が出てる。特に普段とのギャップで驚いたのが……)

 

 投球練習が終わりマウンド上でバッテリーが意思疎通を終えると、鈴木がホームベース側へと歩いていき、キャッチャーボックスに座る前に外野にも届くように大声を出していた。

 

「最終回。あとアウト3つ! しまっていきましょう!」

 

(鈴木さん。普段は大人しい方なのに、試合になると腹の底から声を出されていて驚きました。キャッチャー……だからなのでしょうか)

 

 掛け声に皆が各々の返事をしていくのに気づくと初瀬も「お、おおー!」と精一杯の声量で声を出す様子を見た鈴木は頷くようにするとそのまま座り、右打席に入っていくバッターを横目で見ていた。

 

(この回は7番から。1人でもランナーを出せば上位に回ってしまうから、出来れば3人できりたい。下位はまだヒットはないけど、この人は2打席目に投げた膝下のストレートに対してあわやホームランという打球を放っている。ここはアウトローにこれを……)

 

(……まだ早いわ。久しぶりのマウンドで投げる初球でコントロールの難しいボールは下手したらテンポを崩す恐れがある)

 

 考えた末に鈴木はサインを出したが、東雲の首が横に振られ、両校のキャッチャーが反応を示す。

 

(……あの人は首振るんだ)

 

(……あっ。首を振ったのね。そうよね……なら、こうしましょう。さっきの打球の感覚を求めてインローを狙ってるかもしれない。ボール球でいいからここに)

 

(分かったわ)

 

 今度のサインに東雲は頷くと投手として握るボールの感覚を確かめながら、第1球を投じた。

 

(よっしゃ! 今度こそ!)

 

 ストライクゾーンから低めかつ、内側に外されたストレートを思い切り引っ張ったボールは芯を外れて平凡なゴロとなった。

 

(しまった! 振らされた!)

 

「サード!」

 

(いきなりですか!?)

 

 三塁線に転がる打球に初瀬は足を動かして正面に回るとボールをキャッチしにいった。

 

(と、捕れた!? 後はファーストに……え! ランナーがもうあの位置に……!)

 

 初瀬は捕球後、すぐに送球体勢に移行するとベースで構える秋乃目掛けて送球を行った。

 

(……! 慌てすぎよ初瀬さん。あのバッターは一塁ベースに遠い右打者で足は並。立ち位置と足の向きを整える余裕くらいはある……!)

 

 サードを本職とする東雲が抱いた感想を裏付けるように初瀬の送球は秋乃が構えたミットより高めの送球となっていた。

 

(よし。これなら二塁まで……!?)

 

 送球が越えると判断した清城の一塁コーチャーはランナーに指示を出そうとした瞬間、思わず目を見開いた。

 

「とりゃ!」

 

 ベースについていてはキャッチ出来ないと判断した秋乃は足首をバネのようにしならせて垂直方向にジャンプすると長いファーストミットの先で収め、着地の際そのままベースを踏んだ。

 

「セーフ!」

 

「ありゃ」

 

「うっ……」

 

 秋乃がベースを踏むより一瞬早くランナーがベースを駆け抜けたことで、セーフの判定となる。

 

(や、やっちゃったあ……)

 

 後悔の念に駆られる初瀬に有原が声をかけようとしたが、その前に東雲が近づいており、初瀬は思わず今の失敗を謝っていた。

 

「謝らなくていいわ。そして反省も試合の後でいい」

 

「えっ……?」

 

「やってしまったことは無かったことにはならない。それを悔いる暇があるなら、これからのプレーで何とかするしかないのよ。あなたも、私もね」

 

「……わ、分かりました。切り替えます!」

 

 初瀬の表情が変わる様子に東雲は無言で頷くとマウンドに戻って秋乃からボールを受け取った。

 

(……ミスはミスとして認めて、次のプレーに意識を向けさせたんだ。私は惜しかったとかつい言っちゃうから、東雲さんのこういう所を見習わないと)

 

 マウンドに戻った東雲は短く息を吐き出すと右バッターボックスに入ったバッターに目線を向ける。

 

(バントの構え、ね)

 

(この試合清城は実は長打が1本もない。だからランナーを効率的に前に進ませたいでしょうね)

 

(……そうね)

 

 鈴木が出したサインに東雲は頷くと目でランナーを1度制してから、クイックモーションでボールを投げた。

 

「走ったよ!」

 

 一塁ランナーがスタートを切り、バッターはサインで出ていた盗塁の補助をすべくバントの構えを解くとバットを振りだす。

 

(外された!?)

 

 バットが届かない場所にはっきり外されたアウトコース高めのボールにバッターは焦りを覚えながら空振ると、ストライクの宣告が終わる前に鈴木の送球が行われ、ワンバウンドしてから二塁ベースに入った河北のミットに収まり、タッチが行われた。

 

「アウト!」

 

(なっ!)

 

 ランナーがスライディングを行ったタイミングで既に河北がタッチの体勢を整える形になり、余裕を持ってランナーはアウトになった。

 

「代わったばかりの投手が打ち取った打球を同じく代わったばかりのサードがエラーして出塁。浮き足立つであろう所に盗塁を仕掛けましたが、思ったより落ち着いていましたね」

 

「うん」

 

「余裕あったけど、キャッチャー肩強かったっけ」

 

「あ、先輩。いえ、肩はむしろ弱い方に見えます。ただキャッチャーが送球しやすいアウトコース高めに予めピッチアウトで外されていたのと、スローイングまでの動作が早かったです。加えてワンバウンドではありますが、送球が低めに来ていました。高めにいくとタッチにいくまでロスがあるので、それも大きかったと思います」

 

「なるほどね……」

 

「ワンナウト!」

 

「ワンナウトー!」

 

 ランナーを刺した鈴木の掛け声が内野に響くと次に声を張り上げたのは河北だった。

 

(ナイス送球だったよ。和香ちゃん! キャッチャーをやるには肩が弱いから、その分練習しなくちゃって頑張ってたもんね)

 

(良かった。上手くいったわ。いずれはノーバウンドで低めに投げられるようになりたいけど、これが今の私にとっての精一杯)

 

「ワ、ワンナウトー!」

 

(た、助かった。私が出しちゃったランナーをアウトにしてくれた。……いや、そんな考えじゃダメだよね。東雲さんに言われた通り、この後のプレーにしっかり集中!)

 

 心臓の鼓動の音をかき消すように精一杯声を上げ、息が大きく吐き出されると、その目は前を見据えていた。

 

(さて。こちらにとっては理想的な形になり、ストライクも1つ貰えた。けどバッターもこのままじゃ終わらないはず。慎重に行きましょう)

 

 鈴木のサインに東雲は頷くと2球目となるボールを投じた。

 

「ボール!」

 

 アウトローを狙ったボールがはっきり低めに外れ、バッターは迷わず見送った。

 

「OK。悪くないわ!」

 

(この場面、甘く入るくらいなら外れていた方がいい。要求よりはだいぶ低めとはいえ、それは仕方のないこと。最初の清城との練習試合以来、4〜5ヶ月ほどマウンドに立っていなかった以上、感覚は簡単に取り戻せない)

 

(低すぎね。慎重にしたって限度があるわ。ただ私には倉敷先輩のような精度の高い制球や、野崎さんのような球威があるわけじゃない。それを踏まえた上でどうするか……それが大事なことよ)

 

 次の鈴木のサインに対して首を振ると東雲側からサインが出される。鈴木は少し驚きながらもそれを踏まえてサインを出すと、東雲は頷いた。

 

(ピッチャーからもサインを出すのか。今時珍しいな。だが今のコントロールを見るに、カウントを下手に悪くしたくないはず。打てる場所に来たら行く! ……少し、間が長いな)

 

 東雲は球審に注意されない程度にボールを長く持つとようやく投球姿勢に入る。今までとの変化にバッターは眉を動かす暇もなく、投げられたインコースのストレートにバットが振り出され、打球はバックネットに突き刺さった。

 

(ランナーがいないのにクイックモーションで投げてきた……!?)

 

(バッティングは0.1秒のずれで全く異なる結果を生み出す。それほどバッターにとっては大事なタイミング、それをずらす手段があるなら使わない手はない)

 

「タイミングをずらすためのクイックモーションですか。ですがあれは諸刃の剣。それを分かっていて使用したのかは気になりますね」

 

「小也香も試そうとしたことあったけど、投手側もリズムが崩れるからやめたんだよね」

 

「ええ。投手の感覚はそれほど繊細なものです。もし目先の結果に拘ったものならば、相応の結末が待っているでしょう」

 

(今のはバッターにとって内に速い印象を覚えさせたはず。ここしかない)

 

(そう。ここでよ)

 

(ここと最初に練習試合をした時、私はベンチメンバーだったけど、その時彼女が投げたのはストレートだけだった。そしてここまでもストレートのみ。しっかりタイミングを掴めば捉えられる! ただ追い込まれたし大きいのは狙わなくていい。重心を後ろに置いて、セカンドの頭上を意識して弾き返す!)

 

 サインの交換が終わると、東雲は今度は通常のモーションでボールを投げた。

 

「……!」

 

(よし、体勢を崩した!)

 

 指先から抜かれるようにして投げられたボールは弧を描きアウトコースに曲がっていく。

 

(カーブ……か!)

 

(……! 体勢を崩したのに、上体を残された……!?)

 

 バッターはずれたタイミングを修正するように崩れた体勢のままボールを引きつけるとようやく始動に入り、アウトコース真ん中やや低めの高さに投げられたカーブを打ち返した。

 

(捕る!)

 

 河北はちょうど頭上に放たれた打球に反応してジャンプを行い、ミットを可能な限り上にあげてキャッチを試みた。

 

「……っと」

 

「アウト!」

 

 ちょうどポケットの位置に刺さるように捕球が行われ、着地した河北は少しバランスを崩したが立て直すとミットを掲げ、アウトが宣言された。

 

(くぅー。打球が上がりきらなかったか。カーブに上手く合わせられたと思ったんだけどな)

 

「ふぅ。ナイスキャッチよ河北さん」

 

「うん! あとアウト1つ取ろう!」

 

(……ちょっと高かったかしら。私はピッチャーが本職じゃない分クイックの影響はあまりなかったと思うけど、さっきからコントロールがブルペンの時と違って高低のずれが大きい。気をつけないと。……それにしても、代わったばかりのところってどうしてこうも打球が飛びやすいのかしら)

 

(最初の練習試合で投げられなかった変化球をようやく投げられたわね。あの時は私に変化球の捕球技術がなくて投げさせてあげられなかったけど、今は違う。リードの幅も広がるわ)

 

 2アウトになり9番バッターが右バッターボックスに入っていく。

 

(意地悪だなあ。ここまでストレートだけで来てて、いきなり緩いカーブでタイミングを崩しに来るなんて。でも……このまま簡単に3アウトになんかさせないもんね)

 

 目つきが変わると東雲の全体像を大まかに見るようにしてバットが構えられる。

 

(あのバッター……こっちを見ているようで、見ていない? 不思議なバッターね)

 

(ここまで2三振で良いところなし。気合いが入ってるみたいね。ならここは打ち気を削ぐように……)

 

 サインに頷いた東雲は高さを意識して1球目を投げた。投じられたのは真ん中低めへと変化していくカーブ。このボールをバッターは見送った。

 

「ストライク!」

 

(バットを振り出さなかった? タイミングが合わなかったのかしら)

 

(危ない。高さは良いけど、今度はコースが甘かったわ)

 

 東雲は真ん中に入ったことに焦りを覚えながら次のサインに頷くとインコース目掛けてボールを投げた。

 

「ファール!」

 

(カーブの後のストレートかぁ。頭にはあったんだけどな)

 

 バットに当たってから右斜め後ろへと飛ばされた打球はそのままファールになり0ボール2ストライクとなった。

 

(緩急が効いてるわね。……これで締めましょう)

 

(……いいわ。次で最後よ)

 

 東雲はミットの中で握りを確認するように1度ストレートの握り方をしてから、人差し指と中指をボールの外側にずらして揃え、その握りでボールを投じた。

 

(よし。このボールはアウトローにいく。コースも高さも悪くない!)

 

(……ストレートじゃない。この“回転”は……スライダー!)

 

 ——キィィィン。芯で捉えた打球が右中間へと飛ばされる。

 

「なっ……!」

 

 東雲が驚きで目を見張る中、その打球を見上げながら中野と宇喜多が打球を追っていた。

 

「宇喜多! そのまま下がりながら打球に突っ込むにゃ! 頭越えられた時のフォローは私に任せるにゃ!」

 

「う、うん。分かった!」

 

 声を出し合いながら高く上がった打球を懸命に追う二人。右中間深めのゾーンまで来たところでようやく落ちてきた所に宇喜多が飛びついた。だがボールは伸ばしたミットの少し先を越え、高くバウンドしたボールはそのままフェンスに当たった。

 

(うっ! 打球が上に上がった分勢いが無くて、全然跳ね返ってこないにゃ!)

 

 駿足を飛ばす中野だがそれでもフェンスにかなり近いところでボールを拾うまで時間がかかり、焦燥感に駆られる。

 

「中野さん。中継の河北さんに! ランナー三塁狙ってます!」

 

「分かったにゃ。河北!」

 

「任せて!」

 

 九十九の指示を受けて中野は素手で直接拾ったボールを河北がいる方向に投げる。距離のある送球だったが河北が少し外野に近づいていた分もあり、ワンバウンドしてすぐのところで河北が捕球するとすぐさまサードに向かって送球が行われた。

 

(あっ……!)

 

 外野に近づいていた分の距離感の差と、スリーベースヒットへの焦りから送球が横に逸れてしまう。三塁で構える初瀬はこのボールをベースについたままキャッチしにいき、タッチプレーに持ち込もうとした。

 

「……! 初瀬さん! ベースから離れてボールを捕りにいって!」

 

「え……は、はい!」

 

 二塁への帰塁に備えて二塁ベースで構えていた有原がとっさに初瀬に指示を出すと、初瀬はそれを受けてベースから離れて捕球しにいった。送球はランナーの右側にバウンドしてからキャッチしにいった初瀬のミットの先に何とか収まると、ランナーは三塁にスライディングを行いスリーベースヒットが成立していた。

 

(い、今のそのまま逸れてたら……)

 

(私がベースについたままだったら……)

 

 このイニングから交代して守備に入った2人がランナーを見ながら今のプレーで得点が入ってしまった時のことを考え、心臓が縮み上がる感覚を覚えた。

 

「翼……ありがとう」

 

「有原さん、助かりました」

 

「どういたしまして。でもまだピンチだよ! しっかり抑えよう!」

 

(私は……こう、東雲さんみたいに的確なアドバイスは出来ないかもだけど、せめてプレーで皆を支えよう!)

 

 マウンドに立つ東雲の背中を見ながら、有原は決意を固めていた。

 

「ふふーん」

 

「ほら、ドヤ顔晒してないで早くグローブ外しなさい」

 

「もー。余韻に浸らせてよぉ」

 

 同じく東雲の背中を見て塁上で胸を張りながら満足げな顔をしていたところを三塁コーチャーに咎められたバッターランナーが口を尖らせながらグローブを外していた。

 

(ようやく外の打てそうなとこに投げてくれたねえ。意地悪キャッチャーさんにもリベンジ成功だ。それにしてもここでストレートでもカーブでもないボールとはびっくりだよ。ただ清城(うち)は神宮寺さんにバッティングピッチャーお願いしてるから、あれくらいのキレとコントロールのスライダーなら対応出来ちゃうよぉ)

 

「タイムお願いします」

 

 鈴木がタイムを取ってマウンドに駆け寄るとミットで口元を抑えるようにして話し始めた。

 

「ごめんなさい東雲さん。勝負を焦ったわ」

 

「……そうかもしれないわね。冷静に考えれば3球で仕留めにいく必要はなかった。お互い上位に回る前に終わらせたいって考えが先走ってしまったようね」

 

「そうね。次のバッターだけど……」

 

 話し合いが終えられると互いにミットを合わせてから鈴木がキャッチャーボックスに戻り、座る前に野手に声をかけた。

 

「ツーアウト! セーフティ警戒! サードもここはベースにつかなくていいわ!」

 

「え……あ、はい!」

 

(ふーん? リード取り放題じゃん。ホームスチール行っちゃおうかなぁ)

 

(冷静ね、キャッチャー。ここはセオリーなら牽制のためにサードは三塁に寄る。そこにバントで転がせば私の足ならかなり高い確率でセーフに出来るのに。ま、それならそれで割り切れていいわ)

 

 思い思いの考えがグラウンドの上で浮かび上がるように交錯すると鈴木は座り、1番バッターも右打席へと入っていった。

 

(ストレート、スライダー、カーブ。他にもあるか分からないけど、今のところこの3球種みたいね。ストレートは前の練習試合の時の感覚で打ち返せるはず。変化球を下手に打ち損じないよう気をつけましょう)

 

(相手に持ち球は全て見せた。後はこれをどう使って抑えるか。初球は……)

 

 サイン交換が終わり大きくリードを取るサードランナーを横目に東雲は1球目を投じた。投げられたのはアウトコースの低めのストレート。

 

「ボール!」

 

(外に大きく外してきたわね。意図的な見せ球か、コントロールの影響かは分からないけど)

 

 鈴木はサード方向に一度目をやってからボールを投げ返した。

 

(ううーん。ホームスチールは……さすがに厳しいかぁ。ここは先輩に任せようかな)

 

 ボールを受け取った東雲は少し帽子の位置を調整する。

 

(見せ球のつもりとはいえ外に外れすぎね。倉敷先輩はよくあそこまでシビアな投げ分けが出来るわね……)

 

 2球目。東雲の指から抜けるように投げられたボールはバッターの体がある方向に向かっていく。

 

(このボールは……!)

 

 その緩い軌道から球種を判断したバッターは腰を引くことなくスイングを行い、ホームベースに向かって曲がってきたカーブを捉えた。

 

「ファール!」

 

 打球は勢いよく三塁側フェンスにライナーでぶつかると、跳ね返ったボールがファールゾーンに落ちてくる。

 

(よし。これは最初から待っていなければファールにしかならない)

 

(肩口から入ってくるカーブ(ハンガーカーブ)か。一歩間違えれば甘いボール。けどカウントを稼がれてしまったわね。さっきカーブの後のストレートのパターンがあった。緩急は意識しておかないと)

 

 3球目。アウトローを狙って東雲が投げたボールにバッターは目を見開く。

 

(カーブ!?)

 

 バッターは打ちに行こうとしたがタイミングを外されバットが出ずにこのボールを見送った。

 

「ストライク!」

 

(よし! 追い込んだ!)

 

 要求通りアウトコース低めに投げられたボールがストライクとなり、キャッチャーマスクの下で鈴木の口角が上がる。

 

(さて、さすがにもうカーブは使えないわよ。ここからどうするつもりかしら?)

 

(ここは東雲さんのもう1つの変化球、スライダーを使って……)

 

 4球目。再びアウトローを狙って東雲の指先からボールが放たれる。

 

「ボール!」

 

 追い込まれていたバッターはスイングを行おうとしたが、その球種と曲がっていくコースをとっさに感じ取り、バットを止めた。

 

(これはスイングを主張するだけ無駄ね。しっかり止まっている。さっきの長打になる打球を見た後だし、またゾーンのスライダーで勝負するのはやはり得策ではなさそうね)

 

 しっかり見極めた様子のバッターを横目で確認しながら鈴木はボールを投げ返した。

 

(あなたの要求通り、ボールになるように投げたわ。私のコントロールだとフルカウントにするのはあまり好ましくない。次で勝負に行きたいところよ)

 

(内にカーブ。外のストライクゾーンにカーブ。外のボールゾーンにスライダー。変化球を段々と外に流れるように見せてきた。布石は十分。これで勝負に行くわよ)

 

(……! ……分かったわ)

 

 東雲は鈴木が出したサインにしっかり頷くと息を短く吐き出し、リードを出来るだけ取ろうとしているサードランナーに1度目をやった後、投球姿勢に入った。

 

(な……ランナーがいるのにセットポジションじゃなく、ワインドアップポジション!?)

 

(2アウト2ストライクまで来たから思い切ったってわけ? でもリードはその分取らせてもらう……! パスボールでもしたら即1点だよぉ)

 

 セットポジションと比べ投球動作に時間がかかる投球姿勢を取ったため、目での牽制で一瞬足を止めたランナーは反応するとその隙に大きくリードを取る。右投げの東雲にはその様子がしっかり見えていたが、意に介さずそのまま踏み込むとインコース低め目掛けてボールを投げ込んだ。

 

(ストレート!)

 

 バッターは膝下のストレートに反応してスイングを行う。振り出されたバットはやや根元側でボールの上側を叩いた。その打球は三遊間へと向かっていき、転がっていくボールを横目にランナーは迷わずスタートを切った。

 

(詰まった当たりだけど、振り切った分思ったより勢いのある打球になった! どっちに任せる……?)

 

 このボールを捕りにいく初瀬と有原。ちょうど2人の間に転がっていく打球はどちらもギリギリ追いつけそうに見えた。

 

(翼が捕球できるとしても位置は深め。バッターランナーの足を考えれば!)

 

「サード!」

 

「はいっ!」

 

 瞬時に判断した鈴木はこの打球を初瀬に任せる。それを聞いた初瀬は懸命にボールを捕りにいき、有原は捕球を狙うのをやめて進む方向を転換した。

 

(和香ちゃんは初瀬さんに任せたんだ。だったらもう捕れなかった時のことは考えない!)

 

(この打球、強いスピンがかかっていてゴロのスピードが増していくような……!? 届いてっ……!)

 

 正面に回り込むのは難しい打球。まだ際どい打球が安定して処理出来ない初瀬は不安を覚えたが、ボールをキャッチに行く瞬間今までの特訓が脳裏に浮かび上がると目の前を通り過ぎていきそうなボールに気づいたら飛び込んでキャッチをしにいっていた。

 

(と、届いたっ……!)

 

 飛び込んだ上でミットの先ギリギリに収まったことに安堵したのも束の間、初瀬の体はミットを伸ばした状態のまま着地した。

 

「初瀬さん! ボールを!」

 

「……! お願いします!」

 

 崩れた体勢から立て直しての送球は難しいと判断した有原は既に初瀬の近くまで来ており、その意図を理解した初瀬はボールを取り出すと下手投げでボールを放る。ボールが投げられたコースを確認した有原は目を切ると送球体勢に入り、後ろから来るボールを素手で掴むとそのまま一塁ベースの側面に触れるようにして精一杯足を伸ばした秋乃のミット目掛けて投げこんだ。

 

「……アウト!」

 

「ええっ!?」

 

 際どいタイミングとなったが、一塁審判によりアウトのコールが為された。一塁を全速力で駆け抜けたバッターランナーは思わず声を出す。

 

「あ、アウト……? 点、入らなかった?」

 

「うん! これで3アウトだよ。ナイスキャッチ! 初瀬さん!」

 

「よ、良かったぁ」

 

「わわっ」

 

 有原が差し出した手を掴んで立ち上がろうとした初瀬だったが安堵感から思わず力が抜けてしまい、体勢を崩しそうになったところを慌てて有原が引っ張り上げるように支えた。

 

「あ、ありがとうございます。今のプレーも有原さんのおかげでアウトに出来ました」

 

「いや、私だけじゃないよ。東雲さんが打ち取って、和香ちゃんが指示を出して。初瀬さんが飛びついて、私が投げて、秋乃さんが出来るだけ前の位置で受け取ってくれたからアウトに出来たんだよ!」

 

「……そうですね。私も、捕れて良かったです」

 

「あー! 仲間外れにしたなぁ」

 

 そこに秋乃と一緒にやってきた河北が冗談交じりに拗ねたように話しかけてきた。

 

「ごめんごめん! でもともっち、送球が逸れてもランナーが二塁に進まないようにファーストのカバーに入ってくれてたでしょ。だから私も思い切って投げられたよ」

 

「そっか。それなら良かった。今のアウトは内野全員で取ったアウトだね!」

 

「みんなで掴んだアウトだー!」

 

(低めを続けたからインハイを攻める選択肢もあったけど、あのバッターは差し込まれても振り抜いてくる。あくまで低めを攻め続けたのが功を奏したわね)

 

 先にファールラインを超えてベンチに戻る鈴木と東雲。すると東雲が内野陣の足が止まっていることに気づいた。

 

「貴女たち、いつまでグラウンドにいるつもりなの。早くベンチに戻るわよ」

 

「分かったよ、りょー!」

 

「いや、だからあまり名前では……」

 

 言葉を全て伝え終える前に元気よくベンチに走っていく秋乃に東雲は呆れながら、こちらに小走りで向かってくる初瀬に話しかけた。

 

「良いプレーだったわ。あの打球はダイビングキャッチが必要な場面だった」

 

「ありがとうございます。でも、最初から飛び込もうとしてたわけじゃないんです。気づいたら飛びついてて……」

 

「特訓の成果でしょうね。頭で考えるより先に体がそうしないと捕れないと判断したのよ」

 

「そ、そうなのかな……」

 

 初瀬は自分がしたプレーにまだ実感が湧かない様子だった。

 

「理由はどうあれ、あなたが2週間でしっかり守れるようになったのはあなた自身が練習を頑張った成果よ。胸を張りなさい」

 

「は、はい! ありがとうございます!」

 

「初瀬ー!」

 

「わっ。中野さん」

 

 外野から走ってきた中野は初瀬の肩を抱えるようにすると、そのまま勢いよく話し続けた。

 

「ナイスプレーだったにゃ! 初めての試合で緊張してたと思うし、最初の送球が浮いた時にはドキッとしたけど、最後捕れて本当に良かったんだにゃー! 特訓頑張ってたからここで結果に繋がらなかったって考えるとなんだかワタシも緊張しちゃって——」

 

「お、落ち着いて下さい」

 

「はぁはぁ。なんか言葉が纏まらないんだにゃ。ジャーナリスト失格なんだにゃ」

 

「ふふ。でも、ありがとうございます。中野さんが心配してくれたのが伝わって、嬉しかったですよ」

 

「そ、そうかにゃ? それなら良かったんだにゃー」

 

 初瀬から零れ落ちた笑顔を見て中野はほっと胸をなでおろした。

 

「あおいー! あおいはー!?」

 

「おお、こむぎん。どうしたのだ?」

 

 ベンチにダッシュで駆け込んだ秋乃はそのまま一直線に阿佐田のもとに向かっていった。

 

「あ、いたー! ねえねえ、今のプレー見てくれた?」

 

「もちろん見てたのだ。みんないい動きだったのだー。こむぎんもよく足を伸ばして構えてたのだ」

 

「でしょー? あれね、ちょっと前の回にあおいがやってたのを見て、ギリギリの時ああした方がいいんだなーって分かったから出来たんだよ!」

 

「……? ……ああ! こむぎんの代わりにベースカバーに入った時のプレーなのだ?」

 

「そうだよー! おかげで今のアウト取れたんだよ! だから元気出してよー!」

 

「……へっ? な、何言ってるのだ。あおいはちょー元気なのだ」

 

「えー! ほんとにー? ……でもさっきより顔がしょんぼりじゃなくなった気がするー」

 

「……心配してくれてありがとうなのだ。もう大丈夫だから、気にしなくていいのだ」

 

「んー? あおいがそーいうならもう気にしないことにするー!」

 

 阿佐田が自身より10cmほど低い秋乃の頭に手を置いて撫でると、秋乃は不思議そうにしながらも納得した様子だった。頭から手を離すと先頭打者としてヘルメットを被りバットを持って溌剌(はつらつ)とした様子でグラウンドに出ていくと、最終回もマウンドに上がる神宮寺の投球練習を見つめていた。

 

(……後輩にも心配かけちゃったのだ。上手く誤魔化していたつもりだったのに。……先輩として、しっかりしなきゃなのだ)

 

 九十九のテーピングで楽になった足を気にしながら、阿佐田は試合が終わった後にそのことをキャプテンに誤魔化さず打ち明けようと決断したのだった。

 

 座りながら防具を全て外した鈴木は息を長く吐き出すとベンチに背中を預ける。

 

「はぁ……」

 

「お疲れ様です鈴木さん。お水どうぞ」

 

「あ、ありがとう。いただくわ」

 

 そこに近藤がやってきて紙コップを差し出すと鈴木はそれを受け取って喉を潤した。

 

「だ、大丈夫なの鈴木さん。すごくぐったりしてるけど……」

 

「7回、それも3人のタイプの違うピッチャーのリードを考えて疲れたんじゃないかな。それにキャッチャーは座るっていうけど、実際には中腰でずっと構えてないといけないから体力的にもきついんだ。私も練習させてもらってるけど、かなりきついもの」

 

「そうなんだ……」

 

 コップを一気に空にすると少し放心気味になる鈴木を見て永井が心配そうにする中、近藤は永井の言葉に答えながらコップを受け取ると首にタオルをかけていた。

 

「ありがとう」

 

「いいんです。皆さんが頑張ってるのはベンチから見てても十分に伝わってますから。私は私に出来ることをしたいんです」

 

「それでも助かるわ。私がブルペンで東雲さんのボールを受けている間に野崎さんのボールを受けてくれたし、ボールの状態まで教えてくれたのはリードにも役立ったわ」

 

「いえ……! 私はまだ変化球が捕れないので、東雲さんのボールも受けて負担を減らせなかったのがむしろ申し訳ないというか」

 

「いやいや、それでも……」

 

「えっと、この流れずっと続いちゃうんじゃないかな……?」

 

「そ、それもそうね」

 

「あはは……ついね」

 

 終わらなそうな会話に永井が割って入ると2人とも引き際を逃したことに苦笑を洩らす。するとそのタイミングでベンチに東雲の声が響いた。

 

「鈴木さん。宇喜多さん。少しいいかしら?」

 

「はいっ!」

 

「何かしら?」

 

「最終回だし、代打攻勢に打って出ようと思うの。悪いけど貴女達の打順で代打を出すわ」

 

「……分かったわ。結局私はこの試合神宮寺さんのストレートにバントでしかバットを当てられなかったもの」

 

「茜も2三振だから……。分かりました」

 

 浮かない顔ではあったが代打を受け入れた2人に東雲は頷く。すると宇喜多は投球練習が終わり、7回の裏が始まりそうなことに気づき、河北と共にコーチャーをするためグラウンドに出ていく。それを見届けながら、東雲は他の2人に声をかけた。

 

「岩城先輩。逢坂さん!」

 

「おう! ウチの出番か!」

 

「来たわね! ヒーローは遅れてやってくるものよ!」

 

 声をかけられたのはレフトをノーエラーで守りきった九十九に賛辞を送っていた岩城とこの回の守備をやりきった初瀬を新田と共に(ねぎら)っていた逢坂だった。

 

「あの……逢坂さんは女性なので、正確にはヒーローではなくヒロインではないでしょうか……?」

 

「……そ、そうとも言うわね?」

 

(そうだったっけ……?)

 

「……あっ、ごめんなさい。つい……」

 

「謝ることじゃないわよ? ヒロインは遅れてやってくる! でもカッコイイし」

 

 水を差してしまったと謝る初瀬を逢坂は不思議そうにしながら気にしないよう伝えると岩城と共に代打の準備を進めていた。

 

「2人とも準備しながらでいいので、ちょっと聞いてくれますか?」

 

「なんだー?」

 

「どうしたの?」

 

「スタメン陣と、交代で打撃の機会があった河北さんと野崎さんには伝えてあるんですが、まだお2人には伝えてなかったと思って」

 

 そう前置きすると鈴木は1打席目の時に気づいていた変化球がベースの外側に曲がるよう投げられている法則を伝えた。

 

「それ間違いないの?」

 

「ええと、100%ではないんです。東雲さんと有原さんの打席で1回ずつ高速スライダーが内から中に入るものがあったので。ただ河北さんの打席でワンバウンドしたボールが高速スライダーだったようなんです。それ以降高速スライダーは投げられてなくて、他の変化球は法則通りに投げられているので、賭けてみる価値はあると思います」

 

「分かったぞ!」

 

「……その、悪いんだけど。スライダーとシュートってどう曲がるの?」

 

「あ……そうよね」

 

 野球に対する知識がない状態での入部だった逢坂はまだ変化球の球種を把握していなかったため、鈴木が軌道を説明する。すると金属音がグラウンドから響いた。

 

「サード!」

 

「うっ……!」

 

 ファールラインを超えたところでサードはボールを見上げて捕球体勢に入る。

 

(高めを続けてみてよく分かった。この人は低めの打球にはバットが線になるように打ちにいけるけど、高めは点でしか打ちにいけないんだ。だから当たりにくいし、当たっても芯から外れやすい)

 

 落ちてきたボールを難なくサードがキャッチすると秋乃が悔しそうにベンチに戻っていく。

 

「うー。また高いのが打てなかったー」

 

 よほど悔しかったのかベンチの近くまでやってくると高めのボールを打つような仕草で2、3度素振りをしていた。

 

「どんまい秋乃さん。今度練習で高めのボールの特打(とくうち)やる?」

 

「うん。やりたい!」

 

「分かった。だけど今は試合に集中しよう!」

 

「んー? 小麦、もう出番ないよ?」

 

「出来ることがなくなったわけじゃないよ。一緒にベンチから精一杯の声援を送ろう!」

 

「あ! そうだね。分かったー!」

 

 グラウンドとの境になる柵の近くにいた有原に声をかけられ駆け足でベンチに入った秋乃は身につけていた道具を置くと有原の隣まで来て声援を送った。

 

(……そっか。打順が回る可能性があるのは2番の河北さんまで。3番の有原さんや4番の東雲さん、5番に入れてもらった私はもう出番はないんだ)

 

 そのことに気づいた初瀬は深呼吸してから思い切って立つと秋乃の隣まで来てネクストサークルから打席に向かう中野に声援を送る。ベンチからの声援に気づいた中野は1度止まって任せろと言わんばかりのサムズアップを見せてから、再び歩いていった。

 

(多分ワタシが代打を出されなかったのは敬遠の分1打席しかチャンスが無かったのと、残りのベンチメンバーのスイングが固まってないからにゃ。初瀬もそうだから、恐らく意図して打順が1番遠い5番に……。守備でもリズムを作ってくれたし、何とか初瀬の分もワタシが塁に出たいんだにゃ……!)

 

(……一塁コーチャーが代わらない?)

 

 中野が気合いを入れて左打席に入ると神宮寺はこのタイミングでいつも交代していた宇喜多がそのままコーチャーボックスにいることに気づき、相手ベンチの方に目を向ける。するとネクストサークルに座る岩城とベンチの出口でバットを持ちながら鈴木と話している逢坂が目に入った。

 

(なるほど。最後のイニングですし思い切って代打攻勢を仕掛けようというわけですか)

 

(この試合延長はないから守備のことは考えなくてもいい。とはいえ、逢坂さんはそのままライトに、岩城先輩には近藤さんに代わってもらえば守備も成立する実戦的な代打でもある。本番でこういう機会もあるかもしれないし、今回守備重視でオーダーを組んだ分、これも試しておきたかった)

 

 東雲がそんなことを考えながらグラウンドを見ていると神宮寺も打者の方に視線を戻し、牧野からのサインを待った。

 

(この人は小也香のストレートに合ってない。ストレートで押すよ)

 

(さっきストレートに全然合わなかったから来ると思うけど、打ち返せる気がしないんだにゃ……)

 

 神宮寺はサインに頷くと縫い目に指先がしっかりかかったことを確認し、ボールを投じた。

 

(ま、最初から狙いはこれだけどにゃ……!)

 

(……! セーフティ!)

 

 アウトコース低めに投げられたストレートに中野はバントでバットを合わせにいく。

 

(ストレートだと分かってるならバントくらいしてみせるにゃ!)

 

 ボールの中心から少し上の部分にバットが当たるとキャッチャーの目の前で大きく跳ねた打球がサード側に転がっていき、中野も一塁に向かって走り出した。

 

(大きくバウンドしてる分、転がる勢いはあまりない。ここはサードに任せるんじゃなく……)

 

「ピッチャー!」

 

「はい!」

 

 サードも打球に反応していたが神宮寺の方が早く処理出来ると判断した牧野は神宮寺に指示を出す。それを受けて神宮寺がミットにボールを収めようとする。

 

「……!」

 

 膝を落としてボールを捕ろうとした神宮寺だったが、その際に膝がガクン、と想定以上に落ちてしまい体勢を崩しながらの捕球になる。送球前に体勢の立て直しを必要としたファーストへの送球より先に中野は余裕を持って一塁を駆け抜けた。

 

「セーフ!」

 

(にゃはは。打撃にスランプはあっても、足にスランプはないんだにゃ)

 

 中野はしてやったりといった表情でゆっくりとベースに戻ると、グローブを外す。

 

「中野さん、ナイバン!」

 

「あやかー! 速いよー!」

 

「な、ナイスバントです……!」

 

 声援に応えてグローブを外した左手でガッツポーズを決める中野を横目に牧野は神宮寺に話しかけた。

 

「小也香、大丈夫?」

 

「ええ、問題はありません。ただ思ったより下半身に疲れが溜まっていたようですね」

 

(……無理もないか。1人でここまで投げてるんだから、最終回で疲れが溜まってないわけはないよね)

 

「牧野さん。そんな顔をしないでください。あと2人抑えますよ」

 

「……! うん。分かった」

 

 そう声をかけ神宮寺は気丈に振る舞うとマウンドに戻っていく。牧野はそんな神宮寺を見ながらキャッチャーボックスへと戻っていった。

 

(ピッチャーを支えるキャッチャーが逆に励まされてどうするの。……私に出来るのはリードで小也香を支えること! そして小也香を支えられるのは、私だけじゃない!)

 

 キャッチャーボックスに立った牧野は一度神宮寺から目線を外して地面に向かって息を吐き出すと、振り返って皆に向かって大きく声を出した。

 

「ワンナウト! あとアウト2つ、しっかり取ろう!」

 

「おう!」

 

「任せて!」

 

「打たせてこい!」

 

「後ろには私たちがいるわよ!」

 

(……心強いですよ。こんなにも頼もしい味方が前にも後ろにもいるんですから)

 

 神宮寺は自分を包み込むようにあげられる声を聞きながら、軽く叩いたロジンバッグを放ると、左座席に入る岩城に目を向けた。

 

「……いいチームだな! けどウチらも負けないぞ!」

 

(これで前の回から合わせて4人連続左打者。小也香の決め球(スライダー)対策? でも、小也香のスライダーなら右も左も関係なく、決め球として機能する。……! バットを短く持ってる……)

 

 座りながらそれを見た牧野は夏の大会で里ヶ浜高校と対戦した時に同じようにバットを短く握った岩城にホームランを打たれたことを思い出していた。

 

(この人にはバットを短く持ってもスタンドに運ぶパワーがある。けど選球眼には難があった。積極的に振ってくるバッターだし、その打ち気を利用してボール球でカウントを稼ぎ、最後は膝下のスライダーで仕留めよう)

 

 牧野からサインが出され神宮寺は頷くとプレートに触れながらランナーの位置を確認し、眉をわずかに動かした。

 

(さーて、そう簡単にバッターだけに集中させるわけにはいかないにゃ)

 

(……あの範囲がセーフティリードだというのですか)

 

(あ、あんなに大きく塁から離れちゃって大丈夫なのかなぁ?)

 

 一般的に取られるリード範囲よりも中野は明らかに大きく取っており、宇喜多は不安そうな表情を浮かべる。神宮寺はランナーから目を切るとそのままボールを長く持った。

 

「バック!」

 

(それ来たにゃ!)

 

 宇喜多の声が届くより早く一塁ベースに向かった中野は頭から滑り込むと牽制球を受け取ったファーストが腕にタッチし、一塁審判にアウトのアピールをする。

 

「セーフ!」

 

(……今、かなり戻るタイミングが早かった。もしかして、帰塁に特化したリード? ……だとしたら、恐らくあのランナーは走るつもりはない。小也香、あなたはバッターに集中して)

 

 ファーストからボールを受け取った神宮寺はミットの中を軽く叩いてから構える牧野を見て頷き、再びボールを長く持った。そして今度は牽制を挟まず、サイン通りのコースめがけてボールを投じた。

 

(インコース高め!)

 

「どぅおおおりゃああ!」

 

 インハイに投げられたストレートに岩城は迷わずフルスイングで応じた。

 

「ストライク!」

 

「たぁー……」

 

 ボールはバットの上を通過すると立って構えられた牧野のミットに収められた。するとすぐさま岩城の背中の後ろをボールが通過する。

 

(に゙ゃ!?)

 

「……セーフ!」

 

 牧野の矢のような送球に慌ててベースに飛び込んだ中野。かなり際どいタイミングでの帰塁になったが、判定はセーフとなった。

 

(あ、危なかったにゃ。ファーストがベースにつくのがやけに早かったから、こっちも少し早めに戻っといて正解だったにゃ)

 

「……ピックオフプレーね」

 

「へ? な、何それ?」

 

「事前にサインで共有しておいて、走者の虚をついてアウトを狙うプレーのことよ」

 

「えー。せっかく塁に出たのにそれでアウトにされたら、超ショックじゃん」

 

「そうね。それだけに試合の流れを大きく変えることもあるわ」

 

(そしてそんなプレーを練習なしに出来るわけはない。得点された時のプレーもそうだったけど、清城は実戦的なプレーに力を入れているのね。新入部員も硬球に慣れてきた頃だし、うちも今まで人数が少なくて出来なかった練習メニューを取り入れるべきね)

 

 神宮寺がボールを受け取るのを見ながらユニフォームについた砂を叩いて落とすと、中野は再びリードを取る。

 

(……ここで引くわけにはいかないにゃ)

 

(リードを小さくしませんか。しかし意識には突き刺さったはず。私はバッターに集中すればいい)

 

 牧野のサインに神宮寺は頷くと今度はほとんど間をおかずに投球姿勢に入り、アウトコース低め目掛けてボールを投げ込んだ。

 

「だりゃあああ!」

 

 このボールに対して踏み込んだ岩城はそのままフルスイングを敢行する。

 

(よし。ここから……!? シュートが枠の外まで流れない!?)

 

 ——キイイイィン。バットがボールを捉え、金属音が響き渡った。

 

「レフト!」

 

(大丈夫! バットの先だった。このボールは伸びない!)

 

 左中間方向に高々と上げられた打球をレフトが追っていく。フェンス手前まで来たレフトはボールの位置を確認すると一歩内野側に踏み出してからミットを構えた。

 

(くぅー! 短く持つようになってから少し当たりやすくなったけど、外の球がちょっと打ちにくくなったような気がするぞ! ……おっと!?)

 

 少しでも前に進もうとした岩城だったが中野が一塁ベース付近まで戻っていたため、追い越さないよう慌てて一塁ベース前でブレーキをかけ、その場で駆け足をしていた。

 

「早く前に行きたいぞー!」

 

「それはちょっと難しい注文だにゃ。レフトも前に向いてるし、これは捕られるんだにゃ」

 

「くそー! 己の力不足が憎い!」

 

「……いや、飛距離は……十分だにゃ!」

 

 一塁ベースの端を踏むようにした中野はレフトの捕球に合わせて走り出す。

 

「……! セカンド! ランナータッチアップしてるよぉ」

 

「なにっ!」

 

 センターの指示を受けてレフトがセカンドに送球する。中野がベースにスライディングするのを確認するとセカンドはタッチが間に合わないと判断してベースから離れてワンバウンドしたボールをミットに収めた。

 

「おおー! 綾香、ナイスダッシュだ!」

 

「岩城パイセンのファイトは無駄にはしないんだにゃ!」

 

 一塁ベースから離れベンチに戻りながら岩城は拳を突き出すと、中野も塁上から拳を突き返した。

 

(やられた。一塁からタッチアップしてくるなんて……。ただ、それ以上に気になるのは小也香のシュート。いつもの変化ならボールゾーンまで流れるのに、今のは変化量が小さかった。握力が落ちてきてるんだ……)

 

「ここ! 頼んだぞ!」

 

「はい! 任せてください♪」

 

 岩城に後を託された逢坂は上機嫌で返事をするとバッターボックスへと向かっていった。

 

(最終回で同点。2アウトランナー二塁で代打! 龍ちゃんも分かってるわね! ここ1番の目立つチャンスでアタシ! 美味しいところ持っていってやるわ!)

 

 気合いを入れて右打席に入る逢坂を確認しながら、牧野はネクストサークルに入る九十九に一瞬目を向けた。

 

(この人を下手に歩かせたら上位に回る。1番の人は今日ヒットを打ってるし、前の打席でスライダーにもついてきた。情報がないバッターだけど、出来ればこの人で勝負したい)

 

 牧野の指示で外野が前に出され、中野もその様子を塁上から確認する。

 

(前には来たけど極端なほどではないにゃ。2アウトで迷わずスタートがきれるし、打球によってはホームまで突っ込んでやるんだにゃ)

 

(守備位置なんて関係ないわ。アタシは茜ちゃんの代わりにこの場面を任されたのよ。その分も背負ってここは打ってみせる!)

 

(立ち位置は少し左寄りかな……? ただ外に届かないと決めつけるのは危ない。初球は……)

 

 牧野が逢坂の構えを見ながらサインを出すと神宮寺は頷き、二塁ランナーの様子を一度確認してから投球姿勢に入った。

 

(……へ!?)

 

 投じられたインハイのストレートに逢坂は大きく仰け反る。

 

「ボール!」

 

(さすがに球威は落ちてきてるか……)

 

(大女優になる身として顔にぶつけられるのはNGよ!? しっかり投げてよね!)

 

 投げた神宮寺を睨むようにしながら逢坂はバットを構え直すと、ボールを受け取った神宮寺はサインに頷きあまり間を置かずに2球目を投じた。

 

(低い……)

 

「ストライク!」

 

(ええっ!? 嘘ぉ!?)

 

(外にきっちりとはいかなかったけど、しっかり低めには来てる。初球の見せ球でバッターにはかなり低く見えたはず。次は……)

 

(今のコースから曲がるスライダーですか。先ほどのシュートのように変化が小さくなってしまうかもしれない。コースには細心の注意を払うとしましょう)

 

(ええい、初めての打席だし慎重にと思ったけどやめよ! 振らなきゃ当たらないわ! 次打てそうなところに来たら振る!)

 

 サインに頷いた神宮寺は握力がなくなってきた手でボールがすっぽ抜けないよう丁寧に握るとボール長く持ち、ランナーを2度確認してからアウトロー目掛けてボールを投じた。

 

(いける! ……ん?)

 

 思い切って踏み込みバットを振りだそうとした逢坂だったが違和感を覚えていた。

 

(なんかタイミングが……あ! これがさっき和香ちゃんが言ってた……!)

 

 逢坂はバットを振り出す軌道を無理やり外にずらしてスイングを敢行する。

 

「ストライク!」

 

(い、今ので届かないの……?)

 

(スライダーの変化はそれほど変わった感じはしないかな。ただこの人、スイングは泳いでたけどスライダーに反応してた……?)

 

 牧野はボールを投げ返すと警戒しながら次のサインを出す。

 

(今度はボールになる軌道にですか。……いいでしょう)

 

 少し遅目にサインに頷いた神宮寺は息を深く吐き出してから、4球目となるボールを投じた。

 

(このタイミングで外ってことは……)

 

 逢坂はストレートのタイミングで踏み込むとタイミングの違いを感じ取り、振りだそうとしたバットをなんとか止めた。

 

「ボール!」

 

(またこのボールを見極められた……!? スライダーを投げる時にクセがあるとか? でも6回では左の5番打者に通用した。確かにスライダーの軌道はこのコースに投げるなら右打者の方が見れる時間は長いとは思うけど……。小也香のスライダーはそれだけで攻略出来るものじゃない。現にこの試合スライダーはヒットにはされていないし……)

 

 普段なら仕留められることの多い決め球がこの試合では見送られやすく、牧野はボールを投げ返しながら頭の中でその原因を探っていた。

 

(ふぅ。追い込まれている状況で見逃すのって、中々怖いわね。ここで決められたら試合終わっちゃうし。けど天才子役として一世を風靡して大舞台を経験してきたここちゃんは度胸なら誰にも負けないんだから!)

 

 逢坂は自信満々といった表情を崩さないまま神宮寺の目を真っ直ぐに見つめる。

 

(……そうだ。小也香のスライダーを初対戦で打てるはずない)

 

 結論に達した牧野はサインを出す。すると神宮寺は首を横に振った。

 

(落ち着いてください牧野さん。さすがに外低めに三球続けてスライダーはバッターも目が慣れてきて危ないでしょう)

 

(……! ……だ、ダメか。確かにちょっと強引すぎるかも……)

 

 首振りを受けて思い直した牧野は次の手を模索する。

 

(左打者が続いて投げられなかった高速スライダーいってみる? いや、今の状態で未完成の高速スライダーはちょっと賭けが過ぎる。……よし、決めた)

 

 決心して牧野が出したサインに神宮寺はしっかりと頷いた。

 

(インコース低め厳しいコースにストレート。外れてもまだフルカウントですし、追い込まれているバッターが見逃すとは限らない。外野の位置を考えれば高めは危ないことも踏まえて、強引過ぎず良い選択だと思います。あとは私が投げきれるか……ですね。……投げきってみせましょう、エースとして!)

 

 時間を少し使って神宮寺も投げる決心をつけると、セットポジションから5球目となるボールが指先から放たれた。

 

(げっ! 外じゃない!?)

 

 アウトコースに意識が向いていた逢坂はインコース低めに投げられたストレートに意表を突かれながらバットを振り出した。

 

(……! 腕をたたんだ……!?)

 

 インコースのボールにとっさに腕をたたみながら振り抜かれたバットはボールを捉え、弾き返した。中野はバットがボールに当たった瞬間に走り出す。

 

 ——パァン。中野はトップスピードに到達する前にスピードを緩め、逢坂も打席から出てすぐに足を止めた。

 

「アウト!」

 

 弾き返した打球が飛んだ方向はサード正面。スピードがある打球をしっかりキャッチしたサードがミットを掲げ、アウトが認められると同時にそれは試合終了(ゲームセット)の瞬間だった。

 

「……くうぅ……!」

 

(捉えたのにぃ! ……悔しい!)

 

 その場で立ち尽くし言いようのないもどかしさを感じる逢坂。その横を牧野が通り過ぎると神宮寺に話しかけた。

 

「ナイスピッチ小也香。最後のボール、良いコースに来てたよ。あそこに投げきれたから打球が上がらなかったんだと思う」

 

「ありがとうございます。牧野さんも良いリードでしたよ。ピンチを迎えることも多々ありましたが、1点で抑えられたのはあなたのリードあってこそです」

 

「えへへ……そうかな。ありがと、小也香」

 

「事実ですから」

 

 同点ではあるが練習試合により延長がないため、両校の選手がグラウンドで相対するように並ぶと球審のゲームセットの宣言と「両校、礼!」の言葉に続いて双方から「ありがとうございました!」という声が飛び交った。

 

「有原さん。お疲れ様です。有意義な練習試合になりましたね」

 

「神宮寺さん、お疲れ様! うん。これからやらなきゃいけないことが見えてきた気がする。今日はありがとうね!」

 

「こちらこそ。……それで話があるのですが。明條(みょうじょう)学園という高校はご存知でしょうか?」

 

「え? えーと……聞いたことない、かな」

 

「おっと翼。こういう情報はワタシに任せるにゃ」

 

 有原が神宮寺と話をしていると中野が話に割って入り、どこからともなくメモ帳とペンを取り出していた。

 

「確か夏季大会の出場校にいたはずにゃ。……えーと、あったにゃ。明條は芸能人を多数輩出していることで有名な高校だにゃ。夏の大会は1回戦で敗れているみたいだにゃ」

 

「ええ。その明條学園です。どうやら私たちが戦った1回戦を見ていたようで、話を頂いて先日練習試合をさせてもらいました」

 

「開幕試合だったからにゃー。結構色んな人が見てたみたいだにゃ」

 

「いいなー。私たちも練習試合の相手欲しい……」

 

「はい。まさしくその話です。明條さんが貴女方にも興味を持ったようで、良ければ紹介してもらえないかと」

 

「えっ、本当に!」

 

「本当です。なのでそちらがよろしければ後日連絡がいくよう手配させて頂きますが、どういたしますか?」

 

「ぜひぜひ! よろしくお願いします!」

 

「わ、分かりました。 ……あの、近いです」

 

「わわっ! ごめんなさい」

 

 女子硬式野球部の数の少なさが故に練習試合の相手が不足していたため、有原は願ってもない話に飛びつくように賛同し、神宮寺に注意されていた。

 

「牧野さん。少しいい?」

 

「えっ、あっ、は、はい!」

 

「ちょっと花〜。緊張しすぎだよぉ」

 

「だ、だって……」

 

「試合中、外野にもはっきり聞こえるくらい堂々としてるのにねぇ。意地悪キャッチャーさん。花はすこーし人見知りだけど優しくしてあげてね」

 

「ちょ、ちょっと。その呼び方は失礼だよ」

 

「あら、キャッチャーにとって意地悪は褒め言葉よ。失礼には変わりないけど」

 

「ごめんごめん。2三振させられたからさあ、勘弁してねぇ」

 

「気にしてないわ。それよりその後三塁打を打たれたことの方が気になるくらいよ」

 

「そっかー。でもその秘密は教えられないなあ」

 

「……何か打つのに繋がった秘密があるのね」

 

「おっと。なんという誘導尋問。私は退散させてもらうよ〜」

 

(勝手にそちらが喋ったような……)

 

 緊張する牧野の背中を軽く叩いてから去っていくのを見届けると鈴木は話を再開させた。

 

「それで話というのは、そちらに提案があるのよ」

 

「提案……ですか?」

 

「ええ。お互いのチームのレベルアップのために、相手チームを見て気づいたことをキャッチャー同士話し合えないかと思って」

 

(……お互いに相手チームと再戦することを考えれば得ではないけど、チームがもっと上に行くためには必要なこと、かな)

 

「……分かりました。いいですよ」

 

 少し考えてからOKを出した牧野に鈴木は頷くと、言い出した側ということで先に気づいた情報を提供した。

 

「……なるほど。だから外に流れるスライダーが見極められてたんだ」

 

「ええ。とはいえ、そうなると半ば決めつけられていたからこそね。例えば……あれだけの変化量があるのだから、右バッターならボールゾーンから膝下に切れ込むようにスライダーを使うとまた幅も広がるんじゃないかしら」

 

「……そうですね。ありがとうございます。勉強になりました」

 

 ベースの外側に流れるように変化球を使うパターンが読まれやすいことを伝えると牧野は納得がいった様子で素直に感謝を伝え、牧野側からも気づいた情報を提供した。

 

「特に先発の方はコントロールがいい分、キャッチャーの頭の中だけではパターンが出来てしまうので、それが仇になることもあると思うんです」

 

「そういえば、あなたにアウトコース低めを思い切り読まれたこともあったわね」

 

「はい。私たちも夏の大会が終わってから始めたことなんですが、首を振るというのは信頼していないということではなく、相談なんだってことが分かりました。2人の考えが合わさることでパターンも読まれにくくなりますし、何よりお互いに考えることでバッターを打ち取るビジョンが共有出来るのが大きいと感じました」

 

(バッターを打ち取るビジョン……。確かに、コントロールが良い倉敷先輩は狙った打ち取り方が出来ることも多いけど、そのビジョンはあまり共有出来ていないかもしれない。配球と投球の役割分担、そう考えていたけど、考え直した方がいいのかもしれないわね)

 

「なるほどね……。ありがとう。助かったわ」

 

 サインに対しての首振り。特に先発して5回を投げた倉敷が1回も首を振らなかったことを指摘され、危機感を覚えながら鈴木は感謝を伝えると今日のところはこれでお開きとなった。

 

「ここ、惜しかったねー」

 

「そうねー。早くミットが届かないスタンドまで打てるようになりたいわ」

 

「ほ、ホームランですか。あれだけ速い打球が打てるだけでも驚きでしたが……」

 

 荷物を置かせてもらっている部屋で部員たちはユニフォームから制服へと着替えていた。

 

「でもさー、意外だったよね! 私たち入ったばかりだからさ、新入部員は試合出れないかなーと思ってたら6人中3人も試合に出れるなんて!」

 

「おいしいものクラブは全滅だったけどね……」

 

「いやいや、逆だよ加奈子! 私たちも頑張れば、チャンスあるかもだよ?」

 

「……!」

 

 新田の発言に既に着替えを終えた東雲が眉を動かした。

 

「珍しいね美奈子。なんかやる気じゃない」

 

「岩城先輩に引っ張られて試合近くで見てたけどさ、やっぱりみんな楽しそうだったじゃん。頑張れば試合出来そうなら、やってみたくない?」

 

「それは……やってみたいね」

 

「うん。やってみたい」

 

 試合を間近で見たことで触発された新田がやる気を出しているとそんな新田に引っ張られるように2人とも試合への憧れが増していた。

 

「……有原さん。お先に失礼するわ。悪いけど、後のことは任せるわ」

 

「え? ……あ、うん。分かった。お疲れー」

 

 東雲は有原だけに聞こえるように小声で伝えると足早に部屋を去っていった。

 

(……東雲さん)

 

「翼、ちょっといいのだ?」

 

「阿佐田先輩。どうしたんですか?」

 

 そこにまだユニフォームを着替えていない阿佐田が話しかけて来たため、有原は東雲が出ていった扉からそちらに視線を移した。

 

「実は初回一塁ベースを駆け抜けた時に……」

 

 阿佐田は同じところを捻挫してしまったこと、そしてそれを隠していた理由など、今まで誤魔化していたことを打ち明けた。

 

「そう、だったんですね……。ごめんなさい、阿佐田先輩。私先輩がそんな思いをしていたなんて知りませんでした」

 

「あ、謝ることはないのだ。これはあおいが誤魔化していたのが悪かったのだ」

 

「……阿佐田先輩。少しいいですか?」

 

 有原の隣で着替えており、それとなく話が聞こえていた河北が声をかけてきた。

 

「翼や東雲さんは知らないと思うけど、私たち未経験者組はずっと阿佐田先輩の背中を追ってやってきたんですよ」

 

「そうだったの?」

 

「……えっ! そ、そうだったのだ?」

 

「初めての清城戦、結局エラーしなかったのは経験者の翼と東雲さん、それと阿佐田先輩だけでしたよね。試合後、皆で夕日に向かって叫んだ時、勝負に負けて悔しいけど試合で後悔することは無かったって1人言い切った阿佐田先輩を見て、私たちはまず翼や東雲さんじゃなく、阿佐田先輩のようになろうって思ったんです」

 

「知らなかったのだ……」

 

「でも先輩、私は追いかけてるだけじゃなく、いずれその隣に並べるようにならなきゃとも思いました。だから先輩が休んでいる間も必死に頑張っていたんです。その遠い背中に少しでも追いつきたくて」

 

(……だから休んでいた時、置いてかれるような感覚を感じたのだ? 止まっているところに追いつこうとされていたから……)

 

「先輩、まずはしっかり捻挫を治してください。その間の練習、私は少しでも追いつけるように頑張ります。けど、それだけじゃ追いつかない。この二桁の背番号と、一桁の背番号にはそれくらいの差があると思うんです」

 

「……!」

 

 着替え終わり畳まれたユニフォームにある10の背番号と阿佐田の背中に浮かぶ4の背番号。その差の重さを否応なく感じていた河北は偽りのない気持ちを伝えた。

 

「私はたとえ先輩が練習していても、その背番号を諦めるつもりはないですから」

 

(……馬鹿なのだあおいは。どこか練習していれば追いつかれないみたいな……そういう驕りがあったのだ。後輩にここまで言わせてやっと気づくなんて……)

 

「……分かったのだ。まずしっかり休んで捻挫を治す。そして出来るだけ早く練習に復帰するのだ」

 

(スタメンを張っている者として追われているのは、休養中も練習中も変わらない。あおいに足りなかったのはもっとシンプルなものだったのだ)

 

「けど、あおいもこの背番号を譲るつもりはさらさらないのだ! ともっちが追ってくるなら、届かないところまで走り去ってやるのだ〜!」

 

「私だって負けません!」

 

(ともっちがスタメンに選ばれなくても、奮起して一桁の背番号に追いつこうとしていたのは知っていた。ただ、阿佐田先輩がそんな悩みを抱えていたなんて思ってなかった。……そうだよね。皆、何かを抱えていても、素直にそれを見せるわけじゃない)

 

 全員の着替えが終わり、清城に挨拶をしてから里ヶ浜高校の面々は現地解散となった。新田たちが打ち上げパーティーを企画する中、有原は断りを入れてからある場所へと向かっていた。

 

(……やっぱり、ここにいた)

 

 たどり着いた場所はひまわりグラウンド。彼女たちがいつも練習で使っている場所。そこでは一定間隔で金属音が響いていた。バッティングティーをホームに置いてバックネットに向かって繰り返しボールを打つ者がいたのだ。

 

(厳しい練習の成果か、鈴木さんの言った通り他の部員がフォローできる問題だったのか。新入部員のやる気が弛緩する様子は無かった。その原因の追求より……何より厳しく出来ていなかったのは、私自身だった!)

 

「……東雲さん!」

 

「……! 有原さん……!? どうしてここに……」

 

「……東雲さんの気持ちになって考えてみたんだ。今日の東雲さんの打撃成績は東雲さんとして納得できるものじゃ無かったはず。すぐにでもバッティングが出来る場所に行きたいと思ったんじゃないかって」

 

「……バッティングセンターという選択肢もあるわよ」

 

「部屋から出て行く時急いでたように見えたんだ。バッティングセンターなら夜でも打てる。日が落ちる前に練習出来て硬球が打てる場所は……ここかなって」

 

「……ふぅ。貴女、そういうことに頭が回るのね」

 

 有原が遊歩道から坂を下って近づいてくると東雲は観念したようにバッティングを中断した。

 

「それで、何の用?」

 

「あのね。私東雲さんに謝らないといけないことがあって……」

 

「貴女が私に……?」

 

 思い当たることがない東雲は怪訝な表情を浮かべた。

 

「私、東雲さんがプロの野球選手を目指すって、私が1度は諦めちゃった野球を貫き通してるんだって知ってから、どこか東雲さんのことを完璧な人だって特別視してたんだと思うんだ」

 

「……」

 

「でも、完璧なんてことないよね。私たちまともに話してから半年も経ってないし、分かっていたつもりなだけだったんだ」

 

「あら、今日の私の打撃で失望させたかしら?」

 

「そうじゃない! 私、新チームが始動してから東雲さんの負担を全然考えられてなかった。投手の練習をまた始めて、新入部員の守備練習を徹底して、初瀬さんの特訓に毎日付き合って……サードとしての東雲さん自身の練習の時間が減っていたことに気づかなかったんだ」

 

「初瀬さんの特訓は本職がサードである私がやるべきだと思うのだけど」

 

「慣れるまではそうだったかも。けど、初瀬さんがプロテクターを外して捕れるようになってからは交代でやっても良かったはず」

 

「……そうかもね。けどバカね。私の練習時間が減っていたとして、その責任は私自身にあるに決まってるじゃない」

 

「……!」

 

 そう言って東雲が自嘲するように浮かべた笑顔は、どこか脆くて、どこか危なげで、気づいたら有原は東雲を支えていた。

 

「な、何?」

 

「私たち、もっと強くなるから。だから東雲さんも私たちのことをもっと頼って! 自分のことを全部自分で何とかしようとしないで……!」

 

「……!」

 

 いつもならすぐにでも手を振り払うところだったが、そう言われ胸の中にあるつかえが溶けていくような感覚を覚えた東雲は憑き物が落ちたような笑みを浮かべた。

 

「……参ったわね。私のことを他人に任せろなんて。自分のことは自分で……そうやってきたのに。貴女といると、私の中の当たり前がどんどん壊されてしまう……」

 

 自分の弱さを振り払うように先ほどまでひたすらにバットを振っていた東雲はその安心感のある手を今日だけは振り払おうとはしなかったのだった。



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したい、やりたい

反省会というか、反省回。


 清城高校との練習試合の翌日。放課後になり、練習前のミーティングに向かおうと教室を出た秋乃は1年6組を訪れていた。

 

「ここー。まりあー。一緒に……」

 

「む、無茶ですよ。逢坂さん」

 

「いや、やってみせるわ! よいしょ……って、きゃあ!」

 

「わっ」

 

 角材に片足で乗り、1秒でバランスを崩した逢坂がよろけて倒れそうになるところを慌てた様子で初瀬が支えた。

 

「だいじょうぶー?」

 

 心配そうに秋乃が駆け寄ってくると、逢坂は支えてもらいながら体勢を立て直して角材の上から降りた。

 

「だ、大丈夫よ。助かったわ。麻里安ちゃん」

 

「だから無茶だって言ったんですよ……。まだ角材に乗っても3秒持たずにバランスを崩しているのに、それに加えてハンドグリップをそれぞれの手で握って握力のトレーニングも同時にやろうなんて……」

 

「…………ハンドグリップは常識的な範囲で使えば、初心者でも怪我の心配がないトレーニング器具よ。頭が痛くなってきたわ」

 

 教室の入り口から逢坂の両手に握られた棒状の2つの鉄をバネで繋いだトレーニング器具を見ながら東雲はこめかみの辺りを押さえていた。

 

「あれ、龍ちゃん。なんでここに?」

 

「りょーはねー、小麦と同じ5組だから一緒に行こうって誘ったんだー」

 

「貴女たちは揃いも揃って名前で……」

 

「えー、さっき呼んでいいって言ったじゃないー」

 

「貴女があまりにも呼ぶから、仕方なくね……」

 

 東雲は首を2、3度横に振ると教室の中に足を踏み入れた。

 

「あのね、逢坂さん。根拠のないトレーニングをいくらやっても意味ないわ。練習後にしっかりしたトレーニングを教えてあげる。体幹は今の状態で角材に無闇に乗るより効果的なものがあるわ。ただハンドグリップに目をつけたのは悪くない」

 

「そうなの?」

 

「握力は送球やバットコントロールにも影響するし、大きく負荷のかかるトレーニングをする際にも求められるから鍛えていて損はない。それに……」

 

 東雲は話しながらハンドグリップを1つ借りると胸の前に持っていき、両手で押さえるようにして握った。

 

「こうすれば胸筋を鍛えることも出来る。低い負荷で回数も重ねやすくて、しかも怪我の心配は今みたいに無茶なことさえしなければまず無い」

 

「へぇー。これ、握力鍛えるだけじゃないんだ」

 

 逢坂は片手でもう1つのハンドグリップを握って放してを繰り返しながら、東雲がハンドグリップを扱う様子をまじまじと見つめていた。

 

「あ、それダメよ」

 

「へ?」

 

「握ってからすぐに力を抜くと少し楽に感じるでしょ。それはせっかくかけた負荷を軽減してしまっているのよ。こうやって握った後、一度静止してから放しなさい」

 

「えーと……こう?」

 

 東雲のやり方を真似るように逢坂はハンドグリップを握った状態を一定時間保ってから放してみせ、その様子に東雲は頷いた。

 

「あ、あのっ。私も練習後にトレーニングのこと一緒に聞いていいですか?」

 

「小麦も聞きたーい! 高い球もかきーんって飛ばしたいもん!」

 

「構わないわ」

 

(随分モチベーションが高いわね。……そうか。3人とも試合を経験したから、やりたいことが出てきたんでしょうね)

 

 東雲は教室を出ると3人と共に部室へと向かっていく。

 

「昨日のピッチャー……神宮寺小也香さん、だったっけ。彼女を見てアタシの目標は更新されたわ!」

 

「逢坂さんの目標というと……ああ。エースピッチャーとしてチームを率いて優勝して……という」

 

「そう! そこをエースピッチャー兼4番打者に変えたわ!」

 

「あら、私から4番を奪うつもりなのね」

 

「……も、もちろんよ! 今はまだ及ばないかもだけど、いずれはアタシが4番になるんだから!」

 

(す、すごい。逢坂さん、本人を前にそこまで言いきるなんて……。私はまだ、まともにバットにも当てられないのに)

 

「そう。楽しみにしているわ。もっとも、それを実現するためには地道な努力が必要不可欠でしょうけど」

 

「そのためならなんだってやってやるわ! それにピッチャー今はダメって言われてるけど、そっちだって諦めてないんだから!」

 

「貪欲ね……。でも、それくらいやる気があるのは嬉しいわ」

 

(鈴木さんも言っていたけど、彼女の球速は悪くないのよね。体幹トレーニングの成果が出れば、ピッチャーを検討してもいいかもしれない)

 

 部室にたどり着いた東雲はノックをしてから扉を開き、他の3人も後ろをついていくようにしてカーテンをくぐって部室内に入る。すると先客が鼻歌交じりにミーティングの準備を進めていた。

 

(やけに上機嫌ね……)

 

「るんるん気分だね!」

 

「何か良いことあったんでしょ、和香ちゃん」

 

「……そう見えたかしら? 実は昨日お兄ちゃんが帰ってきて、試合のことを話したら頑張ったんだなって褒めてくれて……」

 

(お兄さんと仲がいいんですね……)

 

 普段冷静な鈴木が感情を包み隠すことなく嬉しそうに話す様子を初瀬は意外そうに見ていた。

 

「へぇー。良かったじゃない。昨日点取ったの和香ちゃんだけだったもんね。私も打ちたかったけど……あ! アドバイスくれたの助かったわ」

 

「小麦もねー。わかのおかげで守りやすかったよー」

 

「私も鈴木さんのおかげで、思い切って動けました」

 

「ありがとう。……ふふっ」

 

(昨日点が1点しか入らなかったのは……やはり、4番()が打てなかったから……!)

 

「有原、入りまーす! ……って、東雲さん?」

 

 河北と共に部室に入ってきた有原が東雲に気づくと、頬を軽く引っ張った。

 

「リラックスリラックス〜」

 

「な、なにひゅるのよ。……もう」

 

 東雲が有原の腕をそっと下げさせるのを見て河北は目を丸くする。

 

「表情が硬かったから柔らかくしたんだ〜」

 

「誰もそんなこと頼んでないわよ……」

 

「それで、どうしたの?」

 

「昨日の試合、得点は結局1点止まりだったでしょう? 勿論、神宮寺さんは好投手ではあるけど、この結果はやはり私が打てなかったのが大きかったと思うのよ」

 

「えー、そんなこ——」

 

 有原がいきなり言葉を紡ぐのをやめ、東雲は怪訝な表情を浮かべる。

 

(いや、ここで「そんなことない」なんて言っちゃだめだよね。それはチームの為にも、東雲さんの為にだってならない)

 

「——うん。確かに4番が打てなかったのは大きかったと思う」

 

(つ、翼……!? そんなこと言ったら東雲さん、もっと落ち込んじゃうんじゃ……)

 

「そうよね。特に2、3打席目は得点圏にランナーがいる状況。4番にも関わらずブレーキになってしまったのは、疑いようのない反省点。ピッチャーをやるために減らしていたバッティングの練習時間を増やすことにするわ」

 

「それが良いと思うよ」

 

「ピッチャーといえば、私のピッチングは貴女からどう見えたかしら?」

 

「後ろから見てた感じだと失投らしい失投もなかったし、ストレートも走ってたと思うよ。ただ変化球が少し甘く入ってたかな……?」

 

「貴女もそう感じたのね。私からしても変化球はコースか高さのどちらかは甘くなりがちだったわ。三塁打を打たれたスライダーだって悪くはなかったけど、それだけ。理想的なコースからは程遠かった。今は変化球を決め球として使うには不安が大きい。……となると、ピッチングの時間もやはり欲しいのよね」

 

「大丈夫! 今まで東雲さんがやっていた分の負担を私たちで分担して、東雲さんの練習時間を確保出来るようにするよ!」

 

「そうね。こうして話してみると昨日貴女に言われた通り、やるべきことに練習時間が足りていない。……分かった。頼らせてもらうわ」

 

 その言葉に有原が満面の笑みを浮かべながら頷くと東雲は照れくささを誤魔化すようにミーティングの準備を手伝いにいった。

 

「ねえ、翼。東雲さんと何かあったの?」

 

「え? うん。あったけど……なんで?」

 

「だって翼が調子に乗った時はいつも東雲さん睨みつけるのに今回は軽く振り払っただけだったし、東雲さんが自分のことを他の人に聞くなんて今までなかったから……」

 

「そっかー。えへへ……」

 

「一体何があったの?」

 

「うーん。秘密!」

 

「えー? 教えてよー」

 

 河北が有原に食い下がっているとその間に他の部員も集まり、準備が整ったため東雲が皆に声をかけるとミーティングが開始された。

 

「さて、昨日の試合の反省点を洗い出して課題をはっきりさせておきましょう。まず守備をテーマとして選んだスタメンだけど、予想以上に良い影響があったと思うわ。ランナーの出塁も抑えられたし、清城打線を1点に抑えられたのは大きかったわね」

 

「7回で6被安打、1四死球、1失策。投手陣の踏ん張りも大きかったと思うわ」

 

「うっ……1失策。私がいきなりやっちゃったエラーですね」

 

「そうね。あれは慌てすぎだったわ。……ただ貴女だけの反省点でもないのよ。今まで人数が少なくてケースバッティングもランナーがいる想定で、実際に走らせたわけではなかった。新入部員も硬球に慣れてきたし、これからの練習メニューはより実戦に近い形にしていきましょう」

 

「え? あ、はい……」

 

(なんというか……あっさりですね。あの場面でのエラーはかなりまずかったと思うのですが……)

 

 メガネのツルに触れながら困ったような表情を浮かべる初瀬に東雲はため息をつくと話を続けた。

 

「あのね初瀬さん。確かにエラーも反省すべきことだけど、貴女にとって1番の反省点はそこじゃないのよ」

 

「えっ! ほ、他の反省点ですか……?」

 

(でも他というと後はなんとか3アウト目を取ったあのプレーくらいしか……。打席では出番はなかったですし)

 

「……どうやら自覚はなさそうね」

 

「ご、ごめんなさい……」

 

「もー、龍ちゃん。麻里安ちゃんをいじめないの!」

 

「いや、別にいじめてるわけでは……そうね。逢坂さんはこの点において問題はなかったわ」

 

「へっ?」

 

(私の出場機会は守備のみで、逢坂さんは攻撃のみ。……もしかして反省点はプレーのことじゃない?)

 

 話題が初瀬の反省点になり、割って入った逢坂はかけられた言葉に心当たりがなく目が点になる。初瀬は自分が交代した時と逢坂が交代した時の様子を交互に思い出すことで自分の反省点を探ることにした。

 

「そして野崎さんに代わり、初瀬さん。あなたにサードに入ってもらうわ」

 

「……えっ。ええええっ!」

 

「岩城先輩。逢坂さん!」

 

「おう! ウチの出番か!」

 

「来たわね! ヒーローは遅れてやってくるものよ!」

 

 初瀬は交代を告げられた時の自分の反応と、岩城や逢坂の反応を比べるようにして思い返すとあることに気づいた。

 

「あっ……もしかして、出番があると思っていなかったことでしょうか……?」

 

「……! そうよ。オーダー発表の時、有原さんが言っていたでしょう。スタメンに選ばれなかった者も出番がある可能性があるから、そのつもりでお願いすると」

 

「そ、そうでしたね……。すいません。私試合には出れないとばかり……」

 

「貴女がエラーしたのは、基礎がまだ固まりきっていないのも一因でしょうけど、何より“心構え”が出来てなかったからよ。交代したばかりだろうと試合は容赦なく進んでいく。つまり交代したらすぐに気持ちを試合に集中させなくてはいけない」

 

「そのためには交代を告げられる前から心構えをしておく必要がある……ということですか」

 

 話し合いながら達した結論に東雲はゆっくりと頷いた。

 

(そうか……そうだよね。出番があることに驚いてちゃダメなんだ。次からは試合に出る心構えを、しっかりしておこう)

 

「ありがとうございました。次はしっかりベンチで気持ちを作っておきます」

 

「あら、次もベンチでいいのかしら」

 

「ええっ! あっ、いや……」

 

「もー! りょー、そーいう言い方良くないよー? ことばのあわじゃないー」

 

 狼狽える初瀬に助け舟を出すように今度は秋乃が話に割って入った。

 

「言葉の(あや)ね。確かにちょっと意地が悪かったかしら。でもしっかりスタメンに入るつもりでね」

 

「は、はい。頑張ります!」

 

(そのつもりでないと困るのよ。細かい情報は中野さん待ちとはいえ、次の試合は恐らく……ね)

 

 初瀬と秋乃を始めとした新入部員たちを東雲が見渡していると秋乃が先ほど話に割って入った勢いを収めることなく前に出ていた。

 

「ねー。なんでエラーが1なの? 小麦も、ミスしちゃったよ?」

 

「ああ……牧野さんの1打席目の時のプレーね。確かに理想よりは逸れたけどベースカバーに入る倉敷先輩の手の届くところには来ていたからあれは内野安打なのよ」

 

「そうなのかー。でも、やっぱり悔しい。もっと上手くなりたいよー」

 

「一塁ベースカバーに入る投手に投げる練習はしたけど、あそこまで崩れた体勢での送球はとても基礎を固める2週間で出来るものではなかった。普通ならライト前に抜けるところを捕ったのだし、タイミング的にあれしか間に合わなかったことも考えると仕方のないことではあると思うわ。ただ貴女がもっと上手くなりたいのなら、それは応援するわよ」

 

「うん! 練習頑張るよー」

 

(本人が望まなそうだから言わないけど、貴女の守備はとても初試合とは思えないものだったのよ。経験者にも劣らない守備範囲、ベースから離れて捕球する判断、阿佐田先輩を見て学んだというプレー……。いい反射神経と吸収性を持っているわ)

 

「ただ貴女にも1番の反省点はあるのよ。守備じゃないところにね」

 

「えー?」

 

 秋乃は困ったような顔をしたが思い当たったことがあったようでぱあっと顔が明るくなった。

 

「高い球が打てなかったことだ!」

 

「……それは確かに課題ではあるけど、1番ではないわね。打撃に関してはまだ始めたばかりで未発達の領域。課題自体は多くあるけど、初試合の打席でヒットを打てたのだから評価としては十分よ」

 

「んー? 2つ消えたらもうなくなっちゃうよー?」

 

(ちょっと自力でたどり着くのは難しそうね)

 

「……走塁よ。貴女、ライト前にヒットを打った時に一塁を駆け抜けようとしたでしょう」

 

「うん! 小麦、まっすぐ走るの大好きだから思い切り走っちゃおうかなーって」

 

「打球はライトゴロもまず有り得ない緩めの軌道だったし、駆け抜ける必要はなかったのよ。……鈴木さん」

 

「ええ。分かってる」

 

 鈴木がホワイトボードにグラウンドの簡易的な上面図を書くと一塁ベースの横にファールラインに並行するように矢印が書かれた。

 

「秋乃さん、いいかしら。一塁ベースを駆け抜けようとするとこの方向に走ることになるのよ」

 

「そうだねー」

 

「このプレーが必要ない時にこのプレーをすることのデメリットを伝えるわね。あの時はライトがサードに送球した時に宇喜多さんの判断で二塁に向かうことになった。一塁を駆け抜けようとする貴女はこう動いたのよ」

 

 先ほど書かれた矢印にほぼ垂直になるように二塁ベースへの矢印が書かれていく。

 

「んー。そういえば慌てて急に曲がったような気がする」

 

「そう。これほど急な方向転換、減速は避けられないでしょうね」

 

「あー! そっかぁ……。ちょっと膨らんで走った方がスピード落ちないではやーく走れるもんね」

 

「そうね。きっと東雲さんが言った1番の反省点はそのことを指してると思うわ」

 

 東雲が頷くと最初に書いた矢印からベース付近で弧を描くようにして矢印が追加された。

 

「それに一塁ベースから駆け抜けてこの場所から二塁に向かうことになったら距離もある。守備の乱れなどで一見二塁に行けない打球でも向かうことはあるから、最後に書いた矢印のように回ってから無理そうならベースに戻ればいいのよ」

 

「そっかー。うん、分かった!」

 

「そうだったんだ。全然知らなかったね」

 

 秋乃だけではなく新入部員を中心として鈴木が書いた図を見ながら走塁について納得したような声が漏れると、秋乃も満足したように後ろに戻っていった。その後も試合のプレーを取り上げながら反省点を洗い出していると、扉がノックされて開かれる。

 

「失礼します。ごめんねみんな、遅れちゃって」

 

「そんな、謝らないで下さいよ〜。今週の土曜に剣道部の大会があって忙しいのにこっちにも顔を出してくれるだけでもありがたいんですから!」

 

「ありがとう。そう言ってもらえると助かるわ」

 

 野球部の顧問と兼任して剣道部の顧問も務めている掛橋は有原にそう言われて微笑むと、話を切り出した。

 

「東雲さん、有原さん。昼に電話があった明條さんとの練習試合だけど2週間後の日曜日に組めたわ」

 

「ありがとうございます!」

 

「ありがとうございます」

 

「後さっき有原さんが言ってたけど土曜は大会があるから、責任者不在になるので……怪我だけは気をつけて欲しいの」

 

「はい!」

 

「分かりました。細心の注意を払います」

 

「とりあえずそれだけ……で、もう戻らないといけないの。後はよろしく頼むわね」

 

「まっかせてください!」

 

「はい。先生もお疲れ様です」

 

 他の部員たちからもお疲れ様ですと声をかけられながら掛橋は扉を開いて部室から出ていった。

 

「翼、東雲! 土曜は応援団としての活動を優先させてくれないか!」

 

「あ、はい! 分かりました。剣道部の応援に行くんですね」

 

「そうだ! ……東雲、練習が大事なことはウチも分かってるつもりだが、応援もウチにとっては大事なことなんだ」

 

「……清城との練習試合では先輩の応援に試合に出てるメンバーだけでなくベンチメンバーも引っ張られました。それは先輩の応援に対する姿勢が生み出したものだと思います。否定することなんてしませんよ」

 

「そうか!」

 

 岩城が嬉しそうに少し強めに東雲の背中を叩いている後ろで驚いたような表情をした新田が小声で話し始める。

 

「……東雲。悪いものでも食べたのかな。なんか今日しおらしくない?」

 

「ええと……ちょっと柔らかくなったかも?」

 

「そこ! 私語は厳禁よ!」

 

「「は、はい!」」

 

「あと新田さん。貴女は後でグラウンド10周ね」

 

「げっ! 聞こえてた!?」

 

(わたしに対しては全然しおらしくないじゃん……!)

 

 グラウンド10周を免れた永井が内心安堵している中、新田が不満げに向けた目線を東雲は無視するとミーティングが再開された。

 

「……さて、こんなものかしら。着替えて練習に行きましょう」

 

 反省会を兼ねたミーティングが終えられると各自練習用ジャージに着替え始める。

 

「アンタ、足大丈夫なの?」

 

「大丈夫なのだ。幸い軽い捻挫だったから3日安静にしたら大丈夫ってお医者さんに言われたのだ〜」

 

「そ。あんまり無理するんじゃないわよ」

 

 着替えない阿佐田に気づいた倉敷が話しかける。捻挫を治すために今日から3日間の練習は休むことになっていた。

 

「ねえ、話があるんだけど……。アンタさ、勝負師らしいじゃない」

 

「お? まいちんまさかギャンブルの世界に興味が……」

 

「無いから。今試合で選手の交代は東雲が、攻撃の指示は鈴木が出してるじゃない。でも鈴木は守備の指示も出しているから、負担が大きいと思うのよ」

 

「ふむふむ。つまりあおいがどっちか……って言ってもいきなりキャッチャーは無理だから」

 

「そう。攻撃の指示出し、アンタなら出来るんじゃない?」

 

「ふむ……面白そうなのだー! すずわかー!」

 

 目を輝かせながら阿佐田が鈴木の方に歩いていくのを見て、倉敷は短く息を吐き出した。

 

(これでいい。アタシから鈴木に言うのはお節介焼いてるみたいに見えるだろうし)

 

「ううん。まいちんのアドバイスなのだー!」

 

「んなっ……!」

 

 阿佐田の提案ということにして深く関わらないようにする倉敷の目論見は早くも崩れ去り、鈴木が阿佐田と共にこちらに歩いてきた。

 

「倉敷先輩、私の負担を考えて提案してくれたんですね。ありがとうございます」

 

「……別に、そっちの方が良いだろうなと思っただけよ」

 

「いやいや、さっきすずわかの負担がどうこうって言ってたのだ!」

 

(……コイツには迂闊なことは話さないようにしよう……)

 

 阿佐田に話したことを倉敷は心底後悔しながらグラウンドに向かう間も話が続けられ、阿佐田は鈴木から本を借りて戦術を勉強することになった。

 

「今度の試合で試してみましょう。慣れないと思うので私もサポートします」

 

「うむ。お願いするのだ」

 

「和香ー! ちょっといいかー!?」

 

「あ、はい。今行きます」

 

 グラウンドについたところで、先についていた岩城に呼ばれた鈴木は遊歩道から坂を下っていった。

 

「……まいちん。ありがとうなのだ」

 

「え? なによ急に……」

 

 先ほどまでのおどけた態度から一転して真面目な表情で阿佐田は感謝の気持ちを伝えた。

 

「この提案、すずわかのためだけじゃないのだ。練習休んで不安になるあおいのためにも、戦術の勉強に時間を使えばいいって。その気持ちが嬉しかったのだ。だから……ありがとうなのだ」

 

「……どういたしまして」

 

(……何も考えてないようで気づいていたのね。もしかして鈴木に伝えたのも、アタシが隠そうとしているのに気づいた上で……)

 

「あっ! はせまりー! 図書室に野球の戦術の蔵書ってあるのだ?」

 

「ええと……数は多くないんですが、あったような覚えがあります」

 

「分かったのだ! 今日はすずわかの本もないし、自主勉強するのだ。ばいばいなのだ〜」

 

 あおいは反転して手を振りながら今来た道を帰っていった。それを見届けながら倉敷は坂を下りていく。

 

「……少しはいつものアイツらしくなったわね」

 

 そう呟きながら微笑むとグラウンドに足を踏み入れたところで鈴木が岩城にバットを渡しているのが目に入った。

 

「おお! なんだこのバットは! グリップがいつものより太いぞ!」

 

「はい。そのバットをグリップエンド一杯に持ってもらえますか?」

 

「分かったぞ! グリップエンドも厚いな……おお!? み、右手の小指が浮くぞ! いいのか!?」

 

「大丈夫です。その持ち方であってます。それなら岩城先輩の悩んでいた外角に届きにくい問題も解決すると思うんです。1度振ってみてもらえますか?」

 

「分かった。いっくぞー!」

 

 鈴木が距離を取るのを確認した岩城はいつも通り思い切ってフルスイングをすると、風を切るような音が響いた。

 

「おお! 持った時は重い感じがしたが、思ったより軽く振れるぞ!」

 

(そう。このタイプのバットは手元での振りやすさがある。その分、一般的には単打の打ちやすさが魅力とされている。けど……)

 

 振った感触が良かったようで岩城は気持ちよさそうにスイングを繰り返し、風を切っていた。

 

(左打者は前側にある右腕を主導としてバットを振り出しやすい。だけど岩城先輩は驚異的なパワーのある左腕を主導にしてバットを押し込むタイプで、それが長打に繋がっている。だから小指を浮かせて力を抜かせた右腕を支えに徹させて、左腕で押し込むこのスタイルは相性が良く感じられる。右腕主導じゃなければこのバットもアベレージヒッター用からパワーヒッター用へと変貌を遂げる……!)

 

「うおお! これ振り切るの気持ちいいぞ! 早く打ちたい!」

 

「そうですね。皆も集まってきたことですし、練習を始めましょうか」

 

 声がかけられ練習が開始される。バッティング練習で順番が回ってきた岩城が新しいスタイルを試そうとするタイミングでなんとかグラウンド10周を終えた新田が守備についた。

 

(あら。走った分休まさせろと言ってくるかと思ったけど、やる気あるじゃない)

 

 倉敷にバッティングピッチャーを任せサードにつく東雲は外角のボールを打ち返した岩城の打球に飛びついた。

 

「……!」

 

 打球はミットの上を超えると鋭く転がっていきレフトを守る九十九の横を抜けていった。

 

「おお! 和香! 外角もしっかり届いたぞ!」

 

「ギリギリまで長く持っているのでその分、届きやすくなっていますね。打球のスピードを見るにパワーも落ちていないように見えます」

 

「そうか! よーし、どんどん打つぞー!」

 

 バッティング練習が終えられるとケースバッティングでの守備練習が行われた。実際にランナーを配置し、ノッカーが打球を打った瞬間にホーム近くからランナーを走らせてより実戦に近い形になるように練習形式が変えられていた。その後も走塁についてミーティングで確認したものを実際に走ることで体験させ、日が落ちてきたところで今日のメニューは終えられた。

 

「——総合病院前。お出口は左側です」

 

 練習後。電車を降りた野崎は駅を後にしてある場所へと向かっていた。

 

「美味しい……!」

 

 徒歩3分の場所にある喫茶店に入った野崎は注文した好物のティラミスを一口頬張るとほっぺが落ちるような美味しさを感じていた。

 

(今日は自分へのご褒美で来ましたが、今度新田さん達にも教えてあげましょう。新メニューとして期待してきましたが、ここまで美味しいとは……)

 

 満足して喫茶店を後にした野崎は帰りの電車の時間までまだあることを確認すると、食後の散歩として近くを歩いていた。すると下に降りる道に気づいた。なんとなく降りていった野崎は周りを見渡すと、そこは駅の下付近にある高架下で、スプレーでいたずらされた壁が印象的だった。

 

「ここなら練習しても、誰の迷惑にもならないかも……」

 

 そう思った野崎はコンクリートの上にバッグを置くとそこからタオルを取り出してシャドウピッチングの練習を開始した。

 

(東雲さんが投手の練習をまた始めたのは私が崩れたときのため。阿佐田先輩がサードの練習を始めたのも空いたサードを務められる選手が今までいなかったから。皆に任されてマウンドに立っているのに、私が頼りないから……)

 

 タオルが抵抗を受けながら空を裂きブーンという長い音が静かな空間に響く。その後も野崎は夢中にシャドウピッチングの練習を続けていると、それを上から見る者がいた。

 

「……」

 

 その者は様子を2、3度見ると上から降りてくる。コンクリートを叩くような足音でようやく誰かがいることに気づいた野崎は顔を上げると目を見開いた。

 

「アンタさぁ。それ、シャドウピッチングのつもりぃ?」

 

「あ、あなたは……」

 

 長い金髪をツインテールにして纏め、それぞれの根元に青いリボンをつけた少女が棒のついた飴を舐めながら高架下に足をつけた。

 

「高坂さん……!?」

 

 野崎が目を向ける先にいたのは先の女子高校野球夏季大会の準優勝校、向月(こうげつ)高校のエースピッチャーを務める高坂(こうさか)椿(つばき)だった。




岩城先輩が渡されたのはいわゆるタイカップ型バットというやつです。


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その努力は誰が為に

「アンタは確か……里ヶ浜の2番手ピッチャーだっけ?」

 

「え……あ、はい。そうですけど……どうしてそれを知ってるんですか? 向月さんとやった時にはまだ……」

 

「大会の試合全部見てたから知ってるわよ。特にピッチャーはしっかりチェックしたわ。前の大会でアタシが気になったのは界皇の3年ピッチャーの藤原と清城の1年ピッチャーの神宮寺くらいだけど」

 

「……! 私はともかく倉敷先輩は……」

 

「そんなことはどうでもいいのよ。何、さっきのお粗末な練習」

 

「お、お粗末って……!」

 

 対面して会話するのが初めてにも関わらずあからさまに馬鹿にしているような発言に普段は温厚な野崎もさすがに腹を立てていた。

 

「じゃあ聞くけど。シャドウピッチングって何を目的にやるのか分かってる?」

 

「え、えっと……その……投球フォームを安定させるために……」

 

「ふーん? まあ、70点ね。無駄のない理想的な投球フォームで安定して投げられるようにするのが目的。で、なんでそれが分かってるのにそんなお粗末な練習してるのよ」

 

「どういうことですか……?」

 

「はぁ……タオル貸しなさい。一回だけ見せてあげるわぁ。お遊びじゃない本物の野球をね」

 

 野崎が戸惑いながらも差し出したタオルを高坂は無造作に受け取ると、野崎から少し離れ足場が踏ん張れることを確認してからボールを握るようにタオルを掴み、1度静止する。両腕を振りかぶらずに胸の前にタオルを構えたまま左足を後ろに引き、左足を浮かせて軸となる右足で全体重を支えながら腰を右向きに捻ると今度は前側に体重を移動しながら左足で大きく踏み込む。さらに右足で地面を蹴ると左足に完全に体重をかけ、下半身で溜めた力を解放するようにほぼ真上から投げ下ろすオーバースローの投球フォームでタオルが振られ、まるで手を叩いたような短い音が鳴った。

 

(……綺麗……)

 

 目の前で行われた全ての動作は自分自身を鏡に映して何度も見た動作より“綺麗”だと感じられ、野崎はまるで完成された芸術品を見るように魅入られていた。

 

「これで分かったでしょ? アンタもお遊びの野球なんかさっさとやめて……」

 

 タオルを渡すとそのまま踵を返そうとした矢先に手を掴まれ、高坂は思わず言葉を止めた。

 

「あのっ! わ……私にもっと野球を教えてくれませんか!?」

 

「……はぁ? アンタバカなの? アタシ敵よぉ? わざわざ相手チームに野球を教えるお人好しなんているわけないでしょ」

 

「で、でも……私もっと上手くなって皆さんのお役に立ちたいんです! そこをなんとかお願い出来ませんか!」

 

「……ああ。そういえば2回戦では酷い有様だったもんね。四死球出しまくって、挙げ句の果てに入れにいったボール打たれて……アンタのせいで負けたようなもんだったわね」

 

「——っ!」

 

 高坂の言葉で野崎は息を呑むとあの日の自分の投球が脳裏に蘇り、普段の彼女を知る者からは想像がつかないような青ざめながら歯をくいしばるような仕草を見せた。

 

(……!)

 

 高坂はその顔をした者を1度見たことがあった。それは先の夏季大会の決勝戦が終わった後、人混みから逃れるように駆け込んだトイレの鏡に映っていた自分の表情だった。嫌でも忘れられないあの日の記憶が彼女の脳裏に流れた。

 

「結局界皇の完封勝ちかぁ。今大会No.1投手って言われた高坂ならもう少し抑えられると思ったんだけどな」

 

「6回3失点なら上出来じゃないか? 7回に出したリリーフはその回だけで3点取られたんだし」

 

「いやー。打線が沈黙してるからこそ踏ん張って欲しかったというかさ。それこそ7回も投げて0に抑えればさ……裏の攻撃でチャンスがあっただけに勿体なかったなって」

 

「確かになぁ」

 

(……うるさい。黙れ。何も知らない外野が……!)

 

 ——パキィン。思わず歯に力を込めて割れてしまった飴の音で高坂は現実に引き戻された。そして目の前でまだ同じ表情を浮かべている野崎を見て、こう言った。

 

「——ごめん」

 

「……えっ?」

 

 その言葉に顔を上げ不思議そうにする野崎に高坂は砕けた飴を飲み込むと言葉を続けた。

 

「悪かったって言ったの。どういう結果だろうとなんも事情を知らない外野にあれこれ言われるのは、気分良くなかったと思うから」

 

「あ……えっと、大丈夫ですよ。気にしていないですから……」

 

 努めて明るく振舞おうとする野崎に高坂は1度ため息を吐き出すと、棒に残った飴も噛むようにして口に含んだ。

 

「……アンタのところ、ピッチャーの指導できる奴いないの?」

 

(……コイツ、投げ込んでるわね。よほどストレートを投げ込んでなきゃこんなマメのつき方はしないし。これは……グリップが擦れて出来たマメか。バットも振り込んでるってわけね。皮膚も硬い……これは最近ちょっと練習したからってなるものじゃない。皮膚が破れて治る時に硬くなるのを相当繰り返してる……)

 

 高坂は質問しながら先ほど自分を掴んできた左手をなぞるようにして確認していた。

 

「ええと……東雲さんがリトルシニアの時に投げる機会があったみたいで、その経験を生かして指導をしてもらっています」

 

「……つまり投球指導専門のコーチとか、そういうのはいないわけね」

 

(そういえばあのグラウンドまともなブルペンもなかったっけ……。そんな高校がコーチを雇えるわけないか)

 

 残った飴も舐め終えて手を離すと、棒を元々包装に使われていたプラスチック製の袋に戻し、縛って封をしてからポケットに入れ、代わりにボールを取り出した。

 

「分かったわよ。どうせ時間潰さないといけないし、その間くらいなら付き合ってあげるわ」

 

「あ……ありがとうございます!」

 

 野崎の顔が自然に綻ぶと思い切り頭が下げられた。

 

「あー、そういうのいいから。それでアンタは結局何がお粗末だったのか分かったわけ?」

 

「はい。私の投球フォームには……無駄があるんだと思います」

 

「そうよ。アンタのタオル振った時の音が長いのはそれだけ空気の抵抗がある、つまり力を無駄に使ってるってことよ。そんな投球フォームを安定して投げられるようになっても逆効果でしょーが」

 

「うう……その通りです」

 

(そっか……。こう、手応えがあったので上手く投げられている感じがしたんですが、そうではないんですね……)

 

「アンタ、セットはどうなの?」

 

「えっと……セットポジションだと球威は落ちるんですが、コントロールは比較的マシになります。それでも日によっては全然ダメですが……」

 

(セットだと球威が落ちる……ねぇ)

 

「球威が落ちるのはクイックで投げるからじゃないの?」

 

「ええと……一塁にしかランナーがいない時はクイックモーションでは投げないんですが、その時も球威は落ちているみたいです」

 

「ふーん……? じゃあワインドアップとセットで1回ずつ投げてみて。セットはとりあえずクイックはしなくていい」

 

 野崎がボールを右手で受け取ると高坂はタオルを代わりに受け取ってから壁を指差した。

 

「あそこの壁にどっかのバカがスプレーで三目並べやった場所があるでしょ。あれをストライクゾーンだと思って投げてみなさい」

 

「はい。まずはワインドアップから……」

 

 野崎は右足を引くと両腕を振りかぶり右足を浮かせ、左足を軸に腰を左向きに捻ると右足で踏み込んで地面を左足で蹴りながらほぼ真上から振り下ろすようにしてボールが投げられた。投じられたボールはスプレーで描かれた枠からボール4つ分上に当たって跳ね返ってくる。

 

「ひっどいコントロールねぇ」

 

「うう……今日は“外れ”の日みたいです」

 

「あのねぇ。ピッチャーってのは毎回毎回調子良い時にマウンドに立てるとは限らないの。調子悪い時こそどれくらいのピッチングができるかってのが肝なんだから、そんなんじゃ使い物にならないわよ」

 

「は、はい……。次、セットポジションで投げますね」

 

 跳ね返ってきたボールを拾った野崎は縫い目に指先を引っ掛けるようにすると1度静止してから投球姿勢に入り、右足を垂直方向に上げた。

 

(セットでも小さめに振りかぶるのね。……あ?)

 

 ボールをリリースしようと投げ下ろされた腕がほぼ真っ直ぐだった先ほどと比べて斜め向きで振られたことに高坂が違和感を覚える中、投じられたボールは枠の真ん中高めに当たった。

 

「ど、どうでしょう……?」

 

「……アンタさ。ワインドアップとセットで腕の振り方違うの気づいてる?」

 

「えっ! い、いえ……同じように投げているつもりなんですが……」

 

(無意識か……)

 

「ワインドアップは誰かに指導してもらったの?」

 

「はい。最初は投げ方がバラバラだったのでまずはワインドアップから……」

 

「ああ、紛らわしかったわね。ワインドアップポジションのことじゃなくて、ワインドアップ(両腕を振りかぶるの)は誰かに教わったのってこと」

 

「ええと……それは倉敷先輩も東雲さんもそう投げていたので、私も……」

 

「そう。じゃあやめなさい」

 

「ええ!?」

 

 あまりにもあっさりと今までやってきたことをやめろと言われ、野崎は困惑した表情を浮かべた。

 

「今どき振りかぶらないなんて珍しいことじゃないでしょ」

 

「そうなんですか……?」

 

「そうよ。余計な体力使うし、コントロールもぶれやすくてあんまりいいことないでしょ」

 

「でも倉敷先輩も東雲さんも……清城の神宮寺さんもそう投げていますし」

 

「合うやつは合うから、それなら無理にやめる必要はないのよ。上手く投げれば多少は勢いつくんだろうし。でもアンタは分かりやすく合ってない。てか他人がどうこうとか関係なくない? 自分のことなのよぉ」

 

「う……そうですね。試してみます」

 

 足元に転がっているボールを拾うと野崎は言われた通りワインドアップポジションから足を引く際に腕を振りかぶらず胸の前に構えたままにし、他の動作は変えずに投げ込むとボールは枠の左上からボール2つ分高めの位置に当たった。

 

「……! い、今。ボールに力が乗ったような……」

 

「そりゃそうよ。シャドウピッチングでアンタの投球フォームに無駄があることは分かってるんだから。その無駄を省いたら良くなるに決まってんでしょ」

 

「そう、ですね……」

 

(振りかぶるより振りかぶらない方がいいなんて考えもしなかったです……)

 

「ていうか最初に投げたやつ指先にかかるはずの力が分散しすぎだから。そんな無駄があるから日によって当たり外れが大きいんでしょ。……次はセットで投げてみなさい。振りかぶらずにね」

 

「はい!」

 

(アタシの目論見が正しければ……)

 

 今度はセットポジションから振りかぶらずにボールが投げられると枠の右の真ん中の位置にボールが当てられた。野崎は跳ね返ってくるボールを拾うと左手の指先を見て不思議そうにする。

 

「今のをあと10回やりなさい」

 

「わ、分かりました」

 

 その後も野崎はセットポジションからボールを枠の中めがけて投げ込んだ。

 

「10球中、9球が枠の中。高さは高めが5、真ん中4の低め1ってところね」

 

「ど、どうして……? 今日は外れの日なのに……」

 

「大体見当はついてるわ。アンタさ、体格が大きいでしょ。だからちょっとした動作でも全体に影響が出やすい。足を引いたりとか勢いをつかせるための動作でバランスを崩しやすいのよ」

 

「それはつまり……セットポジションの方がバランスを崩しにくいということですか?」

 

「そうでしょうね。その足の上げ方は一塁牽制と投球の併用で垂直に上げてるんだろうけど、アンタにとってはバランスを安定させる効果がある。それはアンタのワインドアップとセットを横から見比べれば分かる。そしてもう一つ」

 

「なんでしょう……?」

 

「セットはランナーがいる状況で投げるから……だと思うけど、暴投するわけにはいかないし身体が無意識にコントロールがつきやすい投げ方を選択したんでしょ。セットでのアンタの投げ方はオーバースローじゃなくてスリークォーターなのよ」

 

「さっき言っていた腕の振り方が違うという話……ですか」

 

「そう。サイドスローってほど横からじゃないとはいえ、ほぼ真上から投げるオーバースローに比べればコントロールがつく代わりに球威は出づらい」

 

「そうだったんですね……」

 

 セットポジションで球威が落ちる理由が自分が無意識に選択していた投げ方の影響だという指摘に、野崎は目を丸くしていた。

 

「だからアンタ、ランナーいない時もセットで投げなさい」

 

「えっ! でも球威が……」

 

「そんな極端に落ちてるわけじゃないでしょ。アンタ今までセットで投げた時に球威が落ちたから打たれましたってことどれだけあったのよ」

 

「この前の練習試合では詰まらせて……。それ以外だとえっと……その……」

 

「記憶にあるほどないなら大丈夫よ。それより甘くなって打たれたことの方がよほどあるでしょ」

 

「う……その通りです」

 

「ていうか全然今のでもコントロール良くなってないから。ボール高めに浮きすぎ。良いバッターにそんな甘いところ投げてみなさい。痛い目見るわよ」

 

「うう……」

 

 続けざまに悪い点を指摘されて萎縮してしまう野崎を見て高坂はため息を吐き出すと髪を指先でいじりながらこう言った。

 

「その枠みたいに9分割とはいかなくても右上、右下、左上、左下の四隅あたりには投げられるようになりなさい。そうなれば左でその球速で……さすがに使い物にはなるでしょ」

 

「……! は、はい! ありがとうございます!」

 

 高坂のアドバイスで一条の活路が開けたような感覚を覚えた野崎は嬉しそうに顔を輝かせて息を弾ませた。

 

(……ん)

 

 その時、高坂の後ろ側のポケットに入っていた携帯受信機が振動する。それに気づいた高坂は取り出さずにポケットに手を入れてボタンを押し、振動を止めた。

 

「時間ね。じゃ、後は精々頑張ればぁ」

 

「あ……ご指導、ありがとうございました!」

 

 タオルを返してボールを受け取ると背中を向けて新たな飴が入った包装袋を取り出しながら離れていく高坂に野崎が感謝の気持ちを伝える。すると高架下から上がる道に差し掛かったところで高坂が足を止めた。

 

「……そうだ。アンタに一つだけムカついたことがあるから言っておくわぁ」

 

「えっ! ……な、なんでしょう?」

 

「さっき気になったピッチャーの話した時に倉敷がどうとか言ったでしょ。そんな情けないこと言ってないで、まずは自分がくらい言いなさいよぉ」

 

「で、でも……倉敷先輩は凄いんですよ。私なんかじゃどれだけ頑張っても敵わないくらい……」

 

「…………は?」

 

 野崎は高坂に対して常に不機嫌そうな表情を浮かべているという印象を抱いていた。だが今高坂が浮かべた表情は声色も相まって彼女が見てきた中で最も不機嫌そうに感じられ、野崎はたじろいだ。

 

「……ちっ! 上手くなりたいって言ったくせに……だからアンタの野球はお遊びなのよ!」

 

「あ……」

 

(ああ……もう……イライラするぅ! アイツみたいなこと言いやがってぇ……!)

 

 雑に包装袋を切って飴を咥えた高坂はコンクリートを叩くような足音をせわしなく響かせながら道を上り、振り返ることなく野崎から見えない場所へと行ってしまった。

 

(ま……まずいことを言ってしまったのでしょうか。倉敷先輩に敵わないと言ったこと、上手くなりたいって言ったこと。……確かにおかしい、ですよね。上手くなりたいと思って頑張っているのに、同時に倉敷先輩には敵わないと思っている。それって上手くなる限界を自分で決めつけている……?)

 

 野崎はそう考えると、途端に嫌な汗が背中ににじみ出た。

 

(倉敷先輩が凄いから、自分はそこまで上手くなれない。そんな風に考えているのって、もしかしなくても勿体ないことですよね。……あまりにも当たり前、なのに。なんでそんな風に考えてしまうのでしょう……)

 

 電車が上を通過する音が響き渡る中、野崎は目をつぶって今までのことを思い出す。

 

「そっか……私、あの時から……。夏の2回戦で、私のせいで負けた時。あれが……中学時代のバスケ部の経験と被って。団体競技で皆が出来ることが実戦で出来なくなる感覚が蘇って。皆が出来るのに私は出来ないって……その時からずっと心に残り続けていたんですね」

 

 野崎はタオルを握った左手を胸の上に乗せると奥にあるものを掴むようにして力を込めた。

 

(それから自分が上手くなるため、じゃなく。皆に迷惑をかけないために頑張るようになった。……違いますよね。有原さんに集まってくれてありがとうって言われた時、私は自分がやりたいと思ったからですって答えました。なのに私、中学時代と同じ過ちを繰り返そうとしていた……!)

 

 胸から手を離した野崎は胸の前でタオルを構え、右足を垂直方向に上げると腕を振りかぶらずにそのまま前側に体重を移動させてスリークォーターの投球フォームでタオルを振る。すると短い音が高架下に響いた。

 

(他の人が凄くても、自分が上手くなることを諦める言い訳にしちゃダメ……! 私がやりたいと思ったことなんです。他の誰でもない自分の為に、他の人に負けないくらい努力をするんです……!)

 

 野崎はそれからセットポジションからノーワインドアップで投げる投球フォームを安定して投げられるようになるためにシャドウピッチングの練習を終電の時間が近づくまで繰り返したのだった。

 

「野崎さん。……野崎さん」

 

「……んん。あれっ……」

 

「珍しいわね。あなたが授業中に居眠りなんて」

 

「え……あ……私、寝ていたんですか」

 

「それはもうぐっすりとね」

 

 翌日。6時限目の授業の終わりを告げるチャイムが鳴り、彼女たちのいる1年3組の教室も喧騒に包まれる。少し離れた位置に座る鈴木が野崎を起こしにやって来ると野崎は寝ぼけた様子で周りを見渡して現状を把握した。

 

「うう……お恥ずかしい限りです」

 

「寝不足かしら?」

 

「ええと、昨日はシャワーを浴びたらすぐに寝てしまったので睡眠時間はいつもと変わらないんですが、ちょっと遅くまで自主練をした分の疲れがあったのかもしれません……」

 

「そう。ほどほどにね」

 

 野崎は鈴木に礼を言ってノートを写させて貰いながら話していると、彼女の2つ後ろの席に座る中野がカメラ片手にやって来た。

 

「鈴木〜。明條との練習試合も決まったことだし、今日は偵察に行ってくるんだにゃ」

 

「ええ。お願いね。皆には私から伝えておくわ」

 

(そうだ。有原さんには今のうちに伝えておこうかしら)

 

 そう思って窓際にある有原の席を見ると委員長を務める月島(つきしま)結衣(ゆい)になにやら注意されている様子が伺えた。

 

(……後にした方が良さそうね)

 

「ネットにアップされた大会の動画を見るにやはり注意すべきは1回戦に先発した2年生左投手(サウスポー)かにゃ?」

 

(……! 私と同じサウスポー……)

 

「それとバッテリーを組んだ2年生捕手に唯一1年生でレギュラーに抜擢されたショートね。この3人を中心にチェックしてもらえると助かるわ」

 

「了解だにゃー!」

 

 中野が元気よく敬礼と共に返事をしていると掛橋が入ってきて、野崎が写し終えたノートを鈴木にもう一度礼を伝えてから返すと各々席に戻っていった。そして終礼が終わると教室から中野が素早く出ていく。

 

「あれ。中野さんどうしたの?」

 

「ああ。明條の偵察に行ってくれるそうよ」

 

「そっか。助かるなぁ」

 

「さっき委員長さんに何を言われていたんですか?」

 

「6時間目の数学で当てられた問題を答えられなかったのは復習や予習が足りてないからだって言われちゃったんだ……」

 

「そ、そうだったんですね。そういうこともありますよ」

 

「でも10月には中間試験があるのよ。大会前の試験だし、万が一にもキャプテンが赤点を取るなんてことは避けないと」

 

「うう……気をつけます」

 

 有原・野崎・鈴木の3人は教室を出ると話しながら部室に向かっていく。

 

「そうだ。試験前の1週間は部活動も禁止されていますし、野球部の皆で集まって勉強会をしませんか?」

 

「自主参加でやってみても良いかもしれないわね。どうも新入部員の中にも一部成績が怪しい人がいるみたいだし」

 

「べ、勉強会……?」

 

「あ。もちろん有原さんは強制参加よ」

 

「うえぇ……べんきょーかい……きょーせーさんか……? やきゅーきんし……?」

 

 この世の終わりを告げられたような顔をしてうな垂れる有原を野崎がなだめていると部室につく。そこでジャージに着替えると練習の時間が近づいている感覚を覚えた有原の調子も戻っていた。

 

「そうだ有原さん。昨日の初瀬さんの特訓は何をしたの?」

 

「えーとね。送球の練習を重点的にやったよー。練習試合で送球が浮いたこと気にしてたみたいだし、ここは三遊間を組む者として一肌脱ごうと思って!」

 

「なるほどね」

 

(東雲さんがノックによる捕球、有原さんが送球の練習をしたとなると……)

 

 有原の提案で東雲の負担を減らすべく組まれたローテーション。今日の担当は鈴木であったため、特訓内容を考えながらグラウンドへと向かっていった。全員がグラウンドに集まると練習が始められ、活気的な声が上げられる。

 

「鈴木」

 

「和香さん」

 

「「あ……」」

 

 別メニューとなった投手と捕手がブルペンとして使っているスペースに集まると倉敷と野崎が同時に鈴木に話しかけていた。

 

「お、お先にどうぞ!」

 

「……悪いわね。鈴木、見てほしいものがあるのよ。構えてくれる?」

 

「はい。分かりました」

 

 練習前のキャッチボールで肩を温めていた倉敷は鈴木を座らせると振りかぶって腕を強く振り、ボールを投げた。

 

「えっ……!」

 

 すると野崎がそのボールを見て驚きの声をあげた。それは腕の振りからいつものようにストレートだと思っていた野崎の考えに反してボールのスピードは遅めで、やや山なりの軌道を描いて緩やかに落ちていくと鈴木は真ん中付近の高さでボールを捕った。

 

「……! 倉敷先輩。これは……」

 

「前に東雲に変化球を教えてもらった時にアタシたち投げられなかったでしょ」

 

「はい……。カーブやスライダーも投げられなくて……」

 

「その時は練習試合の前だったし下手に調子を崩さないようにって深追いはしなかったけど、鈴木がカーブみたいに曲がらなくてもタイミングを外せるこのボールのことを教えてくれたのよ。チェンジアップって球種らしいわ」

 

(チェンジアップ……)

 

 鈴木と横で見ていた近藤が驚いた表情で2人に近づいてくる。

 

「いつのまに投げられるようになったんですか? 少しだけベースとなる指でOKの形を作る握りを試した時は安定しなかったのに……」

 

「説明聞いた感じだと要はストレートと同じ腕の振りで、それより抜いたボールになればいいのよね。だから空き時間に色々試してたらこの握りがしっくり来たのよ」

 

 そう言って鈴木からボールを渡された倉敷は実際に握りを見せる。その握りは人差し指を完全に外して4本の指で握るもので、親指と中指が縫い目にかけられ薬指と小指はほとんど添えられている状態だった。

 

「これは……見た目だけで判断するならかなり投げにくそうですね」

 

「どうも教えてくれた握りはアタシは変に力が入っちゃうからさ。人差し指思い切って外してみたら力まなくなったわ」

 

(……なんでもないように言ってますが、そんな簡単に出来ることじゃないはずです。倉敷先輩もきっと見えないところで……やっぱりこの人は凄い。……でも、私だって……!)

 

「あ、あの和香さん。私もいいですかっ」

 

「ええ。構わな——」

 

「ま、待ってください。野崎さん、私に受けさせてもらえませんか?」

 

「近藤さん? は、はい。お願いします!」

 

 鈴木の返事に割り込むようにして志願した近藤に野崎は少し戸惑いながらもお願いした。近藤は鈴木と一緒に目印となるラインが引かれた場所に戻ると座ってミットを構える。

 

(鈴木さんが信用されてるのは、彼女がやってきたことへの信頼があるからだと思う。けど東雲さんがバッティングピッチャーをやっている今、投手も捕手も2人ずつ。なのに2人とも鈴木さんの方に行くことはないじゃない)

 

「野崎さん。何を見てほしいの? もしかしてあなたも……」

 

「い、いえ! 変化球じゃないんです。少し投げ方を変えたのでそれを見て欲しくて」

 

「分かったわ。近藤さん、お願いね」

 

「はい!」

 

(私はまだ変化球が捕れないし、そういう意味でもキャッチャーとして信用されてないのは仕方ないかもしれない。私自身、初心者だからと思っていたところもあった。けど……)

 

 野崎が倉敷からボールを受け取っている間に一瞬だけ近藤は視線をグラウンドの方に向けた。

 

「小麦ー! ボールよく見て! 打てるよー!」

 

「ば、ばっちこーい!」

 

 秋乃が高めのボールを打つ練習に苦戦している中、声を張り上げている新田と永井を見ると視線を前に戻した。

 

(前はサボったりもした美奈子と加奈ちゃんが今ではやる気を出して頑張ってるんだ。私も負けてられない……!)

 

 野崎がセットポジションから足を垂直に上げて両腕を振りかぶらずに前に体重を移動させ、ボールが投じられる。真ん中低めに勢いよく投げられたボールを近藤はキャッチしにいった。

 

(う……!)

 

 キャッチャーミットの中に入ったボールが収まりきらずに外へとこぼれてしまい、近藤は慌ててそのボールを拾った。

 

「す、すいません」

 

「……球威が少し増してる? しかもコントロールが低めに収まっている……」

 

「え? 球威が増しているんですか?」

 

「見た感じ増しているように見えるけど……」

 

(あれ……なんででしょう。球威は落ちているはずなのに。……あっ、違う。振りかぶらずにワインドアップポジションからオーバースローで投げた時よりは落ちているけど、無駄が多い投球フォームの時よりはむしろ上がっている……!?)

 

「あの。ランナーいない時もセットポジションで投げたいんですけど……」

 

「今日その投げ方で試してみて、問題なさそうならそうしましょう」

 

「はい!」

 

 嬉しそうに返事する野崎を横から見る倉敷は清城との練習試合で詰まらせても外野に運ばれてしまったことを思い出していた。

 

(……負けてられない)

 

「鈴木、ボールお願い」

 

「あ、はい。分かりました。チェンジアップは高めに浮くと危険なので、低めに意識をお願いします」

 

「分かった」

 

「野崎さん。私もお願いします!」

 

「はい! こちらこそお願いします!」

 

 鈴木がもう一つのボールを取り出し倉敷に投げ返してから座りミットを構えると、近藤も拾ったボールについた土を落としてから座ったまま野崎に投げ返しミットを構えた。

 

(投げ方を変えるのは一歩間違えば逆効果になる可能性だってあったかもしれない。高坂さんはそうならないように、しかも無駄が無くなるように教えてくれました。本人が言っていたように相手チームの私に……。威圧的な方でしたが、野球に真摯で妥協が出来ない人なのかもしれません。私はそんな人にとても失礼なことを言ってしまいました。今度会う機会があったら、絶対に謝ろう……!)

 

 野崎はそう思うと倉敷に続くようにボールを投げ込む。するとブルペンから鳴る捕球音に負けないような打球音がグラウンドから響いた。

 

「おわっ!」

 

 ジャンプして腕を伸ばす新田のミットの上を打球が超えていくと永井は回り込むようにしてバウンドしたボールを確実に抑えた。

 

「やったー!」

 

(インコース真ん中から高めとアウトコース真ん中から高めは難しくても、最初は打てなかったど真ん中と真ん中高めは少しずつ打ち返せるようになってきたわね。変化球もセオリーなら低めに集まりやすいこともあって対応出来ることが多いし、十分な打力だわ)

 

「りょー! もっとー!」

 

「もう交代の球数だから我慢してね」

 

「わかったー!」

 

(どうして名前呼びを許してしまったのかしら。普段なら絶対に許可なんてしないのに……)

 

 秋乃がファーストの守備につくと一時的にファーストに入っていた有原がショートに戻り、続く初瀬が打席に入る。しかしほぼ真ん中に投げられたストレートを空振ってしまい、バックネットまでボールが転がってしまう。鈴木はブルペンでボールを受けながら、初瀬のバッティングが始まったことに気づくとそれとなく気にするようにした。

 

「初瀬さん。振り切るのはいいけど、ボールから目を切るのが早すぎるわ」

 

「は、はい。気をつけます……」

 

(……どうしよう。新入部員の中でボールに全然合ってないのもう私だけだ……)

 

 続くボールをじっくり見た初瀬は今度はスイングが大きく遅れて空振ってしまい、その後もたまにボテボテの当たりが出るくらいでヒット性の当たりが出ることはなかった。

 

「うう……ありがとうございました」

 

 初瀬は頭を下げるとベンチに置いたミットを手に取りサードに向かおうとする。

 

「麻里安ちゃん。そんなに落ち込まなくても大丈夫よ。まだ2週間ちょっとしか経ってないし、これからよ!」

 

「逢坂さん。そう……ですね」

 

(ううーん。まだ落ち込んでるみたいね。ここは同じ新入部員のアタシが打って自分も打てるようになるって思ってもらわないと!)

 

 初瀬がサードに入るとベンチにミットを置いた逢坂は右打席に入り、東雲が投げたアウトハイのストレートを初球から打ち返してライト前ヒットにしてみせた。

 

(アタシだって野球経験なかったけど打てるようになってきたし、麻里安ちゃんもきっとすぐ打てるようになるわよ!)

 

(秋乃さんも逢坂さんも凄いなあ……。それなのに私空振ってばかりで……)

 

 ストレートを順調に打ち返していく逢坂を見て東雲は少し思案した後に提案をした。

 

(新入部員の中で秋乃さんに加えて、逢坂さんも次のステップに入って良さそうね)

 

「ねえ逢坂さん。貴女そろそろ変化球を打つ練習をしてみない?」

 

「どんなボールが来ても打ってみせるわよ、龍ちゃん!」

 

「いや、貴女に関しては名前呼びを許した覚えは……」

 

「さあ来なさい!」

 

「…………まずはカーブからいくわ」

 

 渋々カゴからボールを取り出した東雲が真ん中低めを狙ってカーブを投げると逢坂は右に曲がる軌道にバットを合わせようとしたが腰が引けており、打ち上げた打球はファーストフライとなってしまい秋乃がしっかりと捕球した。

 

(逢坂さんにアドバイスをする? ……いや、少し待ちましょう。彼女は修正する能力が高い。それなら自分で考える機会を奪うことはない)

 

「……龍ちゃん。次、1回見逃してもいい?」

 

「いいわよ。でもあまり名前では呼ばないで」

 

 続けて投げられたカーブを逢坂は見送ると目をつぶった。

 

(最初ちょっとインコースに来るから構えちゃうけど、これだけ緩いならカーブだと分かっていれば一拍置けば……)

 

 逢坂は目を開くとバットを構えて次のボールを待つ。東雲は再び真ん中低めを狙ってカーブを投げた。

 

(まだ……まだ……ここ!)

 

 始動を溜めた逢坂はカーブにタイミングを合わせてボールを打ち返すと打球が上がった。

 

「えっと……ここら辺、かな……?」

 

 永井が打球を見上げて経験から落下地点を不安げに予測してミットを構えると落ちてきたボールに対して一歩だけ踏み出してから捕球を行なった。

 

「捕れた……!」

 

「加奈子ー! ナイスキャッチ!」

 

「えへへ……」

 

(タイミングは合ったのに……カーブってもしかして打ち上げやすいのかしら?)

 

 次に投げられたカーブは先ほどより外にずれて、外低めのゾーンへと曲がっていった。

 

(これで……どうよ!)

 

 タイミングを先ほどより溜めた逢坂はスイングを行うと打球は一二塁間へと転がっていった。

 

(よし! ……あっ!)

 

「とりゃ!」

 

 打球は飛び込んだ秋乃の守備範囲内であり、ミットのポケットでしっかりと捕球されてしまった。

 

「ぐぬぬ……。やるわね、小麦ちゃん」

 

(ちょっと溜めすぎたか。でも感覚は掴めてきたわ)

 

 東雲はさらにカーブを投げ込むと外ではあるが意図せず真ん中の高さにいってしまったことに気づく。そのボールに対して逢坂はバットを振りだすと再びファースト方向に打球が飛んだ。

 

「うっ!」

 

 速いライナーにジャンプして捕球を試みた秋乃だが長いファーストミットの先をボールが越えていくとライト線のフェアゾーンに打球が転がっていく。宇喜多はなんとか回り込むとそのボールを体の正面で捕った。

 

(逢坂さんもう変化球を……。茜はまだストレートだけに集中してたまに打てることもあるくらいなのに……)

 

「よーし! これなら文句はないでしょ」

 

「ええ。無いわ」

 

(低めに投げるつもりが浮いた……。やはり変化球のコントロールはまだまだね。逢坂さんや秋乃さんが変化球を打てる段階に来たのは助かるわ。私としてもただ打たせるんじゃなく、バッター相手に練習が出来るんですもの)

 

「じゃあ次はスライダー……だっけ。それで来なさい!」

 

「いえ、スライダーはまたの機会にしましょう。それより次はストレートとカーブをどちらか宣言せずに投げるから、それを打ってちょうだい」

 

「ん? いいけど……」

 

(なんで? ストレートもカーブもどっちも打ったじゃない)

 

 疑問に思いながらも逢坂がバットを構えると東雲はインコース高めを狙ってボールを投げた。

 

(やっぱりね。カーブ一杯投げたばかりだし、ストレートくると思っ……!?)

 

 腕をたたんでボールを打ちにいった逢坂だが振り遅れて打球はバックネットへと飛んでいった。

 

(あれ? さっきまであんなに打ち返せてたボールよ!?)

 

(そうそう。考えなさい。貴女たち新入部員は野球の知識がない分、セオリーを知らない。そしてそれは口で説明するより……)

 

 次に投げられたカーブがボールゾーンからインコース低めのストライクゾーンへと曲がっていくとボールは打ち上げられ、そのまま東雲が落ち着いて捕球した。

 

(実際に味わってもらった方がより深く感じられる)

 

(……ストレートとカーブ。二択なのに全然打てなくなった……。どうすれば打てる? どっちか一つを待つ?)

 

 東雲は再びカゴからボールを取り出すとアウトコース低めを狙ってカーブを投げる。すると逢坂はそのボールを見送った。

 

「ストライクね」

 

「うぐ……」

 

(どっちかに絞ったら読み合いになるわよね。そうなると野球経験が豊富な龍ちゃんの方が有利になるから、ちょっと微妙か。……カーブは右にしか曲がらないのよね)

 

 少し考えてから逢坂は普段の左寄りの立ち位置からベース側ギリギリの立ち位置へと移動してからバットを構えた。

 

(それは……カーブの対策? でもそれだと……これに対応出来ないんじゃないかしら)

 

 東雲がインコース真ん中にストレートを投げ込むと逢坂は腕をたたんでバットを振りだす。するとやや鈍い金属音が響き、三塁線に打球が転がった。

 

「え、えいっ!」

 

 ゴロを逆シングルで思い切って捕りにいった初瀬のミットにボールが収まると、あくまでバッティング練習のためランナーは走っていないが、少しでも練習の質を高めるために昨日の練習で内野ゴロの場合は一塁に送球することが決められていたため、足の向きを修正してから投げられたボールはワンバウンドしてからすくい上げるようにした秋乃のミットに収まった。

 

「麻里安ちゃんもやるわね……!」

 

「初瀬さん。ナイス送球! 今のはアウトだね!」

 

「あ、ありがとうございます。おかげで守備は段々と自信がついてきたかも……」

 

「良かったー! 秋乃さんもナイスキャッチー!」

 

「最初はちょっと慣れなかったけど、今はどんとこいだよー!」

 

 昨日の有原との特訓で初瀬はボールが確実に浮かないようファースト前でワンバウンドするよう投げるやり方を提案されており、その練習の成果が少しずつ出てきたことを実感していた。

 

(なるほど。得意な内なら多少窮屈でも対応できるという判断をしたのね。詰まりはしたけど、そのトライアンドエラーは重要よ)

 

 その後もバッティング練習が続けられ逢坂の番が終わると一巡したため全体に休憩がかけられた。

 

(結局あの後ほとんど捉えきれなかった……。次のバッティング練習では必ず対応してみせるわ!)

 

 逢坂は水分を補給してからバットを構えると休憩時間中も素振りを続けることにしていた。

 

(……バッティングはあまり疲れないけど、全員回るまでの守備で結構疲れちゃった……)

 

「くく、あかねっちよ。力が欲しいか……?」

 

「……! その声は……」

 

 疲れた体を休めるべくベンチに座っていた宇喜多にどこからともなく声が聞こえてくる。宇喜多はその声がする方向に振り向いた。

 

「阿佐田先輩……!」

 

 その声の主は鈴木から借りた戦術の本をベンチに座りながら読んでいた阿佐田だった。

 

「違うのだ。あおいのことは師匠と呼ぶのだ」

 

「え……? し、師匠?」

 

「うむうむ。良い響きなのだ〜。してあかねっちよ。同じポジションのここっちの成長にさぞ焦っていると見たのだ」

 

「えっ! な、なんで分かったんですか……? もしかして読心術……!?」

 

「いや、あかねっちは大分顔に出やすいのだ。すごく分かりやすく焦っている顔だったのだ」

 

「あうう……」

 

 宇喜多は慌てて両手で顔を隠すと阿佐田は思わず吹き出してしまう。

 

「今更隠してどうするのだ。それより、師匠があかねっちに足りないところを教えてあげるのだ」

 

「……な、なんでしょう!?」

 

 宇喜多はごくり、と喉から音を鳴らすと今か今かと阿佐田の言葉を待った。

 

「それは……一杯あるのだ!」

 

「うう……! 茜もそれは分かってます……」

 

「まあ待つのだ。本題はここからなのだ。足りないところを補うためにあかねっちはまずやらなきゃいけないことが2つあるのだ」

 

「それは……?」

 

「1つ目を教える前に、あおいとあかねっちは結構体格が似てるのだ」

 

「えと……そうですね。身長や体重とかも同じくらいだと思います。なのに師匠は皆から頼りにされていて凄いなって……」

 

「ちょっと照れくさいのだ。けどよく考えるのだあかねっちよ。同じ体格を持つ者同士そんなに素の能力に差なんてないはずなのだ」

 

「はっ! 確かに……」

 

「そこで1つ目なのだ。あかねっちは……ずばり、足腰がちょー弱いのだ」

 

「あうっ!」

 

 隣に来た阿佐田が指先で軽く足の付け根あたりを触ると練習の疲れもあって震えているのが分かった。

 

「だから走り込みをもっと増やすのだ。ついでにあかねっちは体力も無いから一石二鳥なのだ〜」

 

「は、はい! 分かりました!」

 

「あおいは気づいたのだ。足腰は野球のほとんどのプレーに影響すると。攻撃ではここがぶれぶれだと強い打球が飛ばせない上に走塁にも関わってくるし、守備でも早い一歩目に影響するし、送球なんて分かりやすく足腰が大事なのだ」

 

「おお……! 師匠凄い……」

 

(茜、ちょっと失礼なこと考えてた。あんまり真面目にアドバイスしなさそうとか思っちゃった……ごめんなさい。茜、一生師匠についていきます!)

 

 茜がキラキラした目で見つめると阿佐田は話を続けた。

 

「そして2つ目……ずばり!」

 

「ずばり……!」

 

「必殺技を習得することなのだ!」

 

「へ……?」

 

 ポカーンとする宇喜多をよそに眩しい眼差しを受けて気を良くした阿佐田は調子よく話し出す。

 

「一発逆転の秘奥義があれば球場の雰囲気もがらっと変えられるのだ! 九十九に話したら呆れられたけど、きっとあおいとあかねっちなら出来るはずなのだ!」

 

「ええと……頑張ります」

 

(あっ! 勢いに押されて頑張りますって言っちゃった……。だ、大丈夫かなぁ)

 

(……本当はあかねっちの2つ目の問題点は自分に自信がないこと、なのだ。けど本人にそれを直接言っても余計に意識させてしまうのだ。あかねっちは地道に頑張ってる。だからここは根拠がなくてもいいから必殺技で自信をつけさせるのだ!)

 

「それで……必殺技ってどんなのですか?」

 

「ううん……例えば、打球を直接ベースに当てて軌道を変えるとか」

 

「ええ! そんなバットコントロールないですよぉ……」

 

 宇喜多と阿佐田は残りの休憩中ずっとそんな内容の話を続けたのだった。

 

「サインに首を?」

 

 同じ休憩中、別のベンチに座ったバッテリー陣。鈴木がこの前の試合の反省点として言い出したサインの首振りに、倉敷は不思議そうにしていた。

 

「でもアタシはアンタに比べて野球の知識なんてないわよ。足引っ張るだけじゃない?」

 

「私も役割分担と考えていましたが……。牧野さんの指摘を受けて一昨日の試合の配球を見直してみたんです。すると私も何個かパターンが出来てしまっていて……。2人の人間が介在するのと、1人で考えるのではやはり大きく変わってくるんだと思います」

 

 そう言って鈴木が取り出したノートには清城戦の全打席の配球が書かれていた。

 

「……分かった。アタシもアンタのリードの意図が分からないこと結構あったのよ。そういう時に限って打ち取れたりするから余計分かんなくって。アンタ1人に全部背負わせたくないし、アタシにあの試合でのアンタの考えをそのノート見ながら教えてよ。色々アタシなりに考えてみるからさ」

 

「……ふふ」

 

「……? なんか変なこと言った?」

 

「いえ、ありがとうございます。じゃあまずは1番バッターから……」

 

 鈴木が倉敷と話している中、近藤も野崎に話しかけていた。

 

「野崎さん、コントロールいい感じですね。枠から大きく外れるものが以前より少なくなっています」

 

「ありがとうございます。近藤さんも、上手く捕って下さるので私も気持ちよく投げられます」

 

「ええ……そう言って貰えると助かります」

 

(本当はついていくのがやっとだけど……まだ始めたばかり! 鈴木さんみたいにしっかり音を鳴らして捕れるようになってみせる……!)

 

 野崎と話しながら近藤は水で濡らしたタオルで手のひらを隠すようにして手を休めさせていた。

 

「でも最初こそボールが低めに決まったんですけど、まだまだボールが高めに浮いてしまうんですよね……。四隅にも投げられるようになりたいですが、まずは低めをしっかり狙えるようになりたいです」

 

「付き合いますよ。遠慮せず、練習中以外でも投げたい時があればいつでも声をかけてください!」

 

「は、はい。よろしくお願いします」

 

 あまり積極的に話すタイプというイメージが無かった近藤に野崎は戸惑いながらも、その気持ちを嬉しく思い頭を軽く下げた。その後も練習が再開され、日が落ちてきたところで今日の練習も終わりとなった。

 

「初瀬さん。いいかしら」

 

「はい。特訓、ですね!」

 

 鈴木が話しかけると初瀬は意気込み十分といった様子だった。

 

「私が見るに守備はそれなりに安定してきたように見えるのよ。だから今日は打撃の特訓にしましょう」

 

「だ、打撃ですか……。分かりました」

 

 自信がついてきた守備の練習ではなく全く自信がない打撃の練習と聞いて、初瀬はメガネのツルに手を伸ばすとややトーンを落として返事をした。

 

「……私もね。最初はそうだったの」

 

「え?」

 

 バットとボールの入ったカゴを持ってきながら鈴木が発した言葉に初瀬は目を見開く。

 

「結局部員の中でボールに合わせるのが一番遅くて。正直焦ったわ。それでも練習を続けたら、今ではそれなりに打てるようになった。気持ちは分かるけど、焦りは禁物よ」

 

(鈴木さんが……そうだったんですね)

 

「……分かりました」

 

 初瀬はメガネのツルから手を離すと鈴木から差し出されたバットを受けとった。

 

「そして私はその時の経験からあなたにアドバイスが出来る。スイングスピードが遅いから早めに振りだすと目を切るのが早くて打てない。ボールをよく見ようとするとスイングが間に合わない……」

 

「そ、そうなんです!」

 

「だからまずは振らなくていいからボールに目を慣らしましょう。こう構えてくれるかしら」

 

「こ、これって……」

 

 そう言われ初瀬が言われた通りにバットを構えるとそれはバントの構えだった。

 

「硬球に顔が近づいて怖いかもしれないけど、これで慣れていくしかないわ」

 

「は、はい。頑張ります……!」

 

「それとまずバットの芯で捉える感覚を覚えるためにそのままバントの練習をしましょう。大丈夫、私のボールは東雲さんほど速くないわ」

 

「分かりました……。お願いします!」

 

 意を決して足の位置を整えてバントの体勢を取った初瀬に鈴木はボールを投げ込む。この練習は結局日が沈むまで続けられたのだった。



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たくさんのはじめて

 里ヶ浜高校の練習の日々は続いていた。水曜の練習終わりにローテーションにより東雲が担当する順番となっても初瀬のバントの特訓は受け継がれて行われた。

 

「うっ!」

 

 東雲が抜き気味に投げたストレートをバントしにいく初瀬だったが当てにいく際にヘッドが下がってしまい打球はバックネット方向へのフライとなってしまう。

 

「初瀬さん。手だけで合わせにいっちゃダメよ。緩いボールならそれでも何とかなるかもしれないけど、実戦で投げられるボールのスピードには対応できない」

 

「は、はい!」

 

(バントを成功させるために必要なのは、最初に構えた時の形を出来るだけ崩さないこと。今の初瀬さんに足りないのは……)

 

 東雲は豊富な野球経験から初瀬に不足している部分を推測し、そのためにやるべきことを考える。

 

「……目線ね。バットとボールが同時に見れない瞬間があるからブレるのよ。バットを目線と水平方向の高さになるように構えてみて」

 

「分かりました」

 

 初瀬が目の高さまでバットを持っていくのを確認すると東雲は再びボールを軽く投げる。真ん中の高さに投げられたボールを初瀬はバット越しに確認した。

 

(ここから手だけじゃなく合わせにいくには……えいっ!)

 

 膝を使って体勢を低くした初瀬はボールの高さ付近まで目線を持っていくと見えた通りのボールの軌道に目の前にあるバットを合わせた。狙い通りバットの芯に当たったボールは勢いよく東雲の前に転がっていった。

 

「いいじゃない。その感覚を忘れないで」

 

「は、はいっ!」

 

 東雲は転がってきたボールをミットに収めると再び投球姿勢に入る。

 

(欲を言えば勢いを殺せるようになれば理想的だけど、それはまだ早い。まずは硬球のスピードに慣れさせ、バットの芯で捉える感覚を覚えてもらう。勢いや転がす方向はバントに慣れてもらってからでもいいでしょう)

 

 そう考えた東雲は初瀬に細かい注文をつけることなく、再びボールを投じたのだった。特訓後、夕日が地平線に隠れる時間になり部室で着替えていると東雲は思い出したように初瀬にもう1つアドバイスをした。

 

 翌日。教室で昼休みの時間を迎えた初瀬はカバンから弁当箱を取り出しながら考え事をしていた。

 

(誰に頼みましょう。中野さんは最近偵察のデータを纏めるので忙しそうですし……)

 

「麻里安ちゃーん! 一緒に食べましょ」

 

「逢坂さん」

 

 野球部に入ってから2人の間では昼ごはんを共にするのが恒例となっていた。逢坂はいつものように空いている近くの机を適当に選んで動かすと初瀬と机を向かい合わせにして手を合わせた。

 

「いただきまーす!」

 

「いただきます」

 

「麻里安ちゃん今日もお弁当のバランスいいわねー」

 

「ありがとうございます。逢坂さんは鶏肉に卵焼きに……コラーゲンたっぷりといった感じですね」

 

「ふふん。大女優を目指す身として、美容には常に気を使ってるのよ」

 

 互いに作ってきた弁当を見せ合いながらご飯を食べ進めていく。すると話題が逢坂が借りた本の話へと移っていった。

 

「この前勧めてくれた恋愛小説良かったわよ。あんなラブロマンスに巻き込まれてみたいわ……!」

 

「良かった……。あの作者さんの作品には外れがないので、他の小説もお勧めできますよ」

 

「ホント!? なら今度別のも読んでみるわ」

 

(逢坂さん嬉しそう。……そうだ。逢坂さんにお願いしてみようかな)

 

(特に告白のシーンが最高だったわ。不器用ながらに真っ直ぐに伝えようとして絞り出すように出た言葉が……)

 

「あの。……付き合っていただけませんか?」

 

(そうそう! ……え?)

 

「ま、麻里安ちゃん?」

 

「ダメでしょうか……?」

 

 初瀬が眼鏡越しに真っ直ぐ見つめてくる瞳を見た逢坂は状況を飲み込めず少しの間口が半開きになってから、思わず椅子から飛び上がるように立ち上がった。

 

「だ、ダメとかじゃなくて。そんな急に言われても……」

 

「あ、もちろんすぐにとは言いません!」

 

「ええと……?」

 

(え! 心の整理がつくまで待つってこと!?)

 

 ただでさえ狼狽していた逢坂は初瀬が紡いだ言葉を聞いて子役時代でもなかったようなパニック状態に陥っていた。

 

「ご飯食べ終わったら……」

 

 そう言いながら初瀬はカバンの中を探る。すると彼女が取り出したのは好んで休み時間に読む小説ではなく、ボールとミットだった。

 

「片手キャッチの練習に付き合ってください!」

 

「…………へ? 野球の練習のことだったの?」

 

「そうです。あ、買い出しと勘違いさせてしまいましたか?」

 

(…………ラブロマンスは当分お腹いっぱいだわ)

 

 妙に紅潮している頬に手で風を送るようにしながら力が抜けたように座ると逢坂はOKの返事をしたのだった。

 

 昼ご飯を食べ終えボールとミットを手に1年6組の教室を出た二人はそのまま校庭に歩を進める。サッカーやテニスなどをして昼休みを過ごす生徒が多くいる中、空いているスペースを探していた。

 

「あれ? 夕姫ちゃんに咲ちゃんじゃない」

 

「逢坂さんに初瀬さん。キャッチボールですか?」

 

「はい。私が逢坂さんにお願いして……。お二人は投球練習ですか」

 

 壁沿いのスペースまで来たところにいた野崎と近藤に二人は声をかける。キャッチャー防具一式を身につけた近藤を見て、初瀬は投球練習をしていることを察した。

 

「ええ。私が近藤さんにお願いしたんです。まだ私、構えたところに全然投げられませんから……」

 

「いいのよ野崎さん。私だってあなたのボールをしっかり捕れるようになりたいもの。あ、私たちの横のスペース空いてるので、遠慮なく使ってね」

 

「ありがと! じゃあ早速やりましょうか。……それで、片手キャッチってどういう練習?」

 

「あ、えっと東雲さんからアドバイスしてもらった練習なんですけど……」

 

 準備運動がてらキャッチボールをしながら練習内容を説明すると、身体もほぐれてきたところで初瀬はミットを外して逢坂と5m(メートル)ほどの距離まで近づいた。

 

「行くわよー?」

 

「お願いします!」

 

 逢坂が軽く投げたボールが初瀬の右側に飛んでいくと、初瀬は手だけで取りにいくのを我慢しながら下半身を使ってボールに目線を合わせるようにしながら右手で捕球を試みた。しかし手のひらに収まりかけたボールは上手く力を吸収しきれずにそのまま下に落ちてしまう。

 

「大丈夫?」

 

「だ、大丈夫です。軽く投げてもらってますから」

 

 初瀬が拾ったボールを投げ返すと逢坂はミットで難なくそのボールを受け止める。

 

「最初にキャッチボールは胸元を狙ってって言われたけど、これでいいの?」

 

「はい。バントの感覚を掴む練習なのでこれで大丈夫です」

 

「あー。バントっていうと……この前の練習試合で和香ちゃんやあおい先輩や翼ちゃんがやってたあれね。でもなんでバントなの? これだけ人いるから打って練習するわけにはいかないけど素振りとかは出来るし……」

 

「私、まだ打つ方は全然感覚が分からなくて……。なのでまずは出来ることからやれるようになりたいんです」

 

「なるほどね。よし! じゃあバンバン行くわよ!」

 

 ピッチング練習の捕球音をバックに逢坂がボールを投げ、初瀬は片手でそのボールを収めて投げ返すと、テンポよく逢坂からまたボールが投げられる。この繰り返しが続けられ、昼休みも折り返しの時間となったところで初瀬が話しかけた。

 

「あ、あの。交代しますか?」

 

「え……なんで?」

 

「私ばかり付き合ってもらうのは申し訳なくて……」

 

「気にしなくていいのよ。麻里安ちゃんは今この練習がしたいんでしょ?」

 

「でも……」

 

「……じゃあさ。今度時間あるときはアタシに付き合ってもらうわ。それでいいでしょ?」

 

「あ……はい! ありがとうございます!」

 

 そんなやりとりを挟みながら初瀬の片手キャッチの練習は昼休みの終わりが近づいていることを告げるチャイムが鳴るまで続けられたのだった。

 

 放課後になり今日もひまわりグラウンドで里ヶ浜高校女子硬式野球部は練習に励んでいた。特にこの日熱が入っていたのはセカンドのポジションを守る二人だった。

 

「ふっふっふ。ともっちよ。あおいの足の封印が解けた以上、お主の天下もここまでなのだ!」

 

「そうはいきません! 私だって負けませんから! あと足治ったばかりなんですから、あまり無理しないで下さいね?」

 

「九十九にも耳にタコが出来るほど言われたのだ。気をつけるのだ!」

 

 阿佐田が絶対安静の期間が終了したことで練習に復帰していたため、前の練習試合後のやり取りの影響もあり二人はライバル意識が芽生えていた。

 

「2点差で勝ってる状況、ワンナウト満塁で内野中間守備、外野少し後退! ……で、どこに打つか言わないから皆頭の中整理していつ打球が来てもいいようにしてねー!」

 

 シートノックがランナーを実際に塁に配置した状態で行われており、さらに打球が飛ぶコースを予め宣言しないことでより実戦に近い形となっていた。

 

「いっくよー!」

 

(……!)

 

 有原が自分でボールをトスし、バットを構えてスイングに移行しようとするタイミングで阿佐田が足を動かす。すると金属音と共に一二塁間にゴロで放たれた打球を少し深めに位置にいた阿佐田は身体の正面で捕球した。

 

「みっちゃん!」

 

 目の前を走り去る九十九を意に介さず身体を二塁ベース方向に少し開いて投げられたボールはベースの上を通過するようにコントロールされていた。

 

「えと……そだ。ファースト!」

 

 九十九がスライディングに移るより早く届いたボールをベースの上に立ち、ミットを引くようにしてベースの上で捕った新田は一瞬の間を挟んでから慌てた様子で一塁に投げる。すると秋乃がベースの隅を踏むようにしながら伸ばしたミットに収まり、有原が打った瞬間に走り出していたバッタランナー役の中野を辛うじてアウトにした。

 

「オッケー、ナイスプレー! 無失点でスリーアウトチェンジ! あと何回か同じシチュエーションでやろう!」

 

「次はともっちの番なのだ」

 

「はい。……あの、阿佐田先輩。聞いてもいいですか?」

 

「なんでも聞くといいのだ」

 

「じゃあいつも気になっていたので……。先輩はどうしてそんなに一歩目が早いんですか?」

 

「んー? それはとにかく頑張って反応してるからなのだ」

 

「えっと、そうじゃなくて。なんて言ったらいいのかな……」

 

「……気がつくとあおいが打球が飛ぶ場所に移動している、ですか?」

 

「あ、はい!」

 

 表現に困っていた河北の助太刀をするように一塁へと戻ろうとしていた九十九が言葉を添えた。

 

「なーんだ。そんなの簡単なことなのだ」

 

「そうなんですか!?」

 

「私も興味あるね。教えてくれないか?」

 

「単純なことなのだ〜。最初からボールが飛んでくるところにいればいいのだ」

 

「……えーと」

 

「打球が飛ぶ場所が予め分かっているような口ぶりだね」

 

 冗談で言っているのか測りかねて困惑している河北をよそに、本気で言っていると判断した九十九は話を続けた。

 

「正確に言うならここに来るってビビッとくる瞬間があるのだ」

 

「ふむ……どんなことを意識しているか教えてくれないか?」

 

「まずはボールが投げられるコースを頭の隅っこに置いておくのだ」

 

「コースによっては飛びやすいところってありますよね。ただ確実にそこに飛ぶって訳じゃないですけど……」

 

「さすがにコースだけじゃあおいも分からないのだ。そこで次にボールが投げられてからホームベースの方をぼんやりと見るのだ。するとここに飛ぶって分かる瞬間があるからスススッと移動しておくのだ」

 

「……え。それだけかい?」

 

「ちょっとー。ともっち達ー! 練習中だよー」

 

「あ、すいません。すぐ戻りますね」

 

 九十九が一塁へと戻ると練習が再開され、有原のバットから打球が放たれた。

 

(うーん。ぼんやりと見てみたけど、よく分かんないな……)

 

 フライとなった打球を見上げ河北は不思議そうな顔をする。やがて打球がセンターの定位置で構えていた永井のところに落ちてくると、掲げたミットで捕球が行われた。

 

「バックホーム!」

 

 近藤の掛け声で永井はミットから取り出したボールを力の限りホームに向かって投げた。

 

(高い!)

 

 一度一塁ベースに戻ってから二塁を窺っていた九十九はその送球を見て迷わず走り出した。河北の頭を越えていった送球が近藤のミットに収まりランナーにタッチに行くと、三塁走者の鈴木がタッチから逃れながら回り込むようにしてベースに触れてセーフとなった。

 

「咲! こっち!」

 

「えっ」

 

 突っ込んでくる鈴木に集中していた近藤は新田の声で遅れて二塁へと振り返ると九十九がスライディングをして先の塁を陥れていた。

 

(しまった……。1点差に詰められて、2アウト二塁三塁の一打逆転のピンチ。三塁ランナーの対応をすることだけがキャッチャーの仕事じゃないのに……)

 

「近藤さん。確かに今のは三塁ランナーをアウトに出来るタイミングだったからタッチにいくのは良かったわ。ただ私に直接タッチにいくよりはベースで構えるような形の方が良かったかもね」

 

「はい。分かりました! あと他のランナーも意識しておかなきゃ……ですよね」

 

「そうね」

 

「永井さーん。送球は低くね。場合によっては中継がカットするから」

 

「は、はい。気をつけます……!」

 

 河北が永井に話しかけている間にランナーが再びベースに戻っていくと、近藤からボールを渡された有原が再び打球を放ち今度は三遊間にボールが転がっていった。

 

「初瀬。まっかせてー!」

 

「お願いします!」

 

 ややショート寄りに放たれたボールに新田がミットを伸ばすと無事捕球に成功した。

 

「えと……ホーム!」

 

 少し迷ってホームに投げられたボールが浮き、近藤がジャンプして捕球するとその間に鈴木がベースに触れる。近藤は着地してから一塁に投げたが、少しの余裕を持って中野が先にベースを駆け抜けた。

 

「あっちゃあ……」

 

「新田さん。今の場面前進守備ならホームに投げるのは十分ありだけど中間守備でホームまで距離がある形だったし、勢いのある送球が要求される場面だった。軽い送球で近いセカンドを狙えばある程度余裕を持ってダブルプレーも狙えたと思うわ。そちらに体勢を立て直すのが厳しいと思ったなら、三塁経由のダブルプレーという選択肢もあったわよ」

 

「あ、うん。分かったー」

 

 二塁走者を務めている東雲がベースに戻りながらアドバイスをすると新田もそれに頷いた。

 

「それと初瀬さん」

 

「は、はい! なんでしょう」

 

「打球を新田さんに任せた後、すぐに三塁ベースについたのは良い判断だったわ」

 

「あ……ありがとうございます!」

 

 初瀬が嬉しそうに返事をすると東雲は二塁へと戻っていった。

 

「…………」

 

「どうしたのだともっち?」

 

「あ、いや……なんでもない、です」

 

「……?」

 

 その後もアウトカウントやランナーの配置を変えたり、守備側とランナーの交代などを行いながらケースバッティングが続けられたのだった。

 

 そんな練習の日々が流れていく。新入部員が硬球に慣れたことで部員が11人だった時とはまた違った質の練習が行われる中、月曜日を迎え明條学園との練習試合まで一週間を切った。

 

「咲〜。練習行くよー」

 

「うん。ちょっと待ってね……」

 

 放課後になり新田と永井が1年1組の教室から出て行くと隣の2組の教室まで赴き、近藤を迎えに来ていた。近藤の支度が終わると3人で部室へと向かって行く。

 

「土曜の練習、いつもより後ろが静かだったよね」

 

「岩城先輩が剣道部の応援に行ってたからかな」

 

「九十九先輩も声出しはしてたけど、岩城先輩の声はレフトからでも響くからね」

 

「その分わたしが声出ししておいたから、これで次の試合のスタメンは確定……!」

 

「いやいや、それだけでスタメンには入れないと思うよ……。もちろん試合には出たいけど」

 

「今日のミーティングでもしかしたら発表あるかもね」

 

「え? 今日ミーティングだっけ?」

 

「月曜はいつもミーティングあるけど……」

 

「そうなんだ〜」

 

(ああ、そっか……。この二人がサボったの、清城との練習試合のミーティングの日だった。あの時はギリギリまで様子を見たいってことで、スタメンの発表はなかったけど)

 

 そんな話をしていると部室についた3人はノックをしてから扉を開いた。

 

「失礼しま——」

 

「ひゃあ!?」

 

 すると3人の目に声を上げながら仰向けにひっくり返される逢坂の姿が映った。

 

「あ、新田さんに永井さんに近藤さん。こんにちは」

 

「こんにちは。……何をやっているんですか?」

 

「これ? 龍ちゃんに教えてもらった体幹トレーニングの一つよ。麻里安ちゃんもう一回!」

 

「はい。じゃあまたうつ伏せになってくださいね」

 

 逢坂が両手を脇につけてうつ伏せの状態になると初瀬はストップウォッチの時間を30秒に設定し直してからスタートさせ、逢坂を両手を使って胴体をひっくり返そうとしていた。

 

「今度こそひっくり返らずに耐えてみせるわ!」

 

「……えいっ!」

 

「ひゃあ!?」

 

 奥側から引くようにするのを諦めた初瀬は今度は手前側から持ち上げるようにすると、逢坂はあっさりひっくり返った。

 

「逢坂さん、こちら側から力を入れるとあまり耐えられませんね……」

 

「ぐぬぬ……。鋼の体幹への道は険しいわね」

 

「失礼しまーす。わー、ここ何やってるの? たのしそー!」

 

「なんか楽しそうだよね。わたしもやりたい!」

 

 そこに秋乃が入ってきてミーティングの準備が終わるまで新入部員同士で体幹トレーニングが行われたのだった。

 

「明條戦に向けてミーティングするよー! 和香ちゃん、中野さんお願いね!」

 

「ええ」

 

「任せるにゃー」

 

 ミーティングが開始され、鈴木と中野がデータを纏めた資料を手に説明を始めた。

 

「恐らく先発してくるのは、夏の大会でも投げていた左投手(サウスポー)よ。少し小さいけどこれを見てくれるかしら」

 

 そう言って鈴木が取り出したタブレットに流れていたのは夏季大会の一回戦、明條学園対高波(たかなみ)高校の試合だった。

 

「長身で高いところから角度のあるストレートをバンバン投げ込んでくるんだにゃ。そしてもう一つ特徴的なボールがあって、それは……」

 

 初回、2アウト二塁のピンチで右の4番打者を迎えた明條学園。2ボール2ストライクから投げられたボールがボールゾーンから弧を描いてアウトコース低めのストライクゾーンへと収まり、見逃し三振を取っていた。

 

「あ、カーブじゃない」

 

「カーブには違いないけど、これは一般的にスローカーブに区分されるボールね」

 

「え? カーブって元々遅いボールじゃないの?」

 

「……ちょっと待ってね」

 

 鈴木がタブレットを中野に預けると、ホワイトボードにカーブとスローカーブの軌道を描いた。

 

「スローカーブはカーブよりさらに球速が遅い分、さらに変化量が多いのよ。特にこのピッチャーは身長が高いから真上から落ちてくるように感じられるんじゃないかしら」

 

「へー。そうなのね」

 

「……ただ。ボールが遅い分コントロールが甘くなると一転して絶好球になりやすいし、そのコントロールもつけにくいと言われているわ。実際……」

 

 中野からタブレットを渡されると映像が早送りされ、6回の裏の場面になった。明條は2-0でリードしている状況で2アウト二塁三塁のピンチ。4番に厳しいコースを突き続け、結果四球を出していたところだった。そして次のバッターが右打席に入っていく。

 

「ここで高波は5番の中条(なかじょう)明菜(あきな)さんに回るわ。彼女はここまで2打席連続見逃し三振で終わっているのだけれど……」

 

 初球スローカーブが弧を描いてボールゾーンからストライクゾーンへと向かっていく。しかしコースが中に寄り、高さも真ん中近くに浮いてしまったボールをバットが捉えると、弾丸ライナーでスタンドに突き刺さるように入った。

 

「こうやって甘くなったスローカーブを叩かれているわ。球数が重なった分の疲れなども影響してるとは思うけれど」

 

「なるほどー。変化が大きいから、その分凄いとは限らないってことね」

 

 鈴木の解説に逢坂が納得していると中野がタブレットを受け取って補足を入れた。

 

「ちなみにこの試合、7回の表にツーベースで塁に出た大咲みよをセカンドゴロで三塁に進めて、なんとか犠牲フライで還したけどあと1点が届かずに一回戦で敗退しているんだにゃ」

 

「ふーん……。この子アタシに負けず劣らず、美少女ね」

 

「どこを見てるんだにゃ……。偵察に行った時、ガードが固くて投手陣の練習スペースには入れなかったけど、グラウンドの練習ではこの選手が一人飛び抜けていたんだにゃ。……というのも無理はない話だけどにゃ。明條は夏の大会、バッテリーとこのショート以外は全員3年だったから、他の選手はどうやら経験不足に見えたんだにゃ」

 

「……そう。やはり3年が抜けたことでの戦力低下は大きいと見て良さそうなのね?」

 

「そう見て大丈夫だと思うにゃ。ただバッテリーが変わってないし、守備は言うほど落ちてないと思うんだにゃ。どちらかといえば3年の打者が抜けたことで、打線にできた穴の影響の方が大きそうだったにゃ」

 

「分かったわ。有原さん、お願い」

 

「うん。分かった! ……おほん。では、今回の明條との練習試合のスタメンを発表したいと思います」

 

「え! 今……!?」

 

「前は皆の調子ギリギリまで見たかったけど、今回は早めに発表して試合に向けての心構えを作ってもらいたくて」

 

「そっかー。……わたし達、入ってるかな?」

 

「入っている……といいなあ」

 

(……入りたい、な)

 

 新田達を始めとしてざわつく部員達を東雲が黙らせると、有原がメモを取り出してオーダーを読み上げた。

 

「1番ファースト、秋乃小麦」

 

「はい!」

 

(秋乃がファースト、となるとどっちが先発になるのか分からないわね)

 

「2番セカンド、河北智恵」

 

「……!」

 

「え……あ、はい!」

 

「3番ライト、逢坂ここ」

 

「はいっ!」

 

(やったぁ! スタメン……!)

 

(うう……)

 

「4番ピッチャー、野崎夕姫」

 

「はいっ」

 

(……前の試合でアタシが先発だったし、それもそうか)

 

「5番レフト、岩城良美」

 

「おう!」

 

「6番センター、永井加奈子」

 

「ええっ……! あわわ……」

 

「加奈子、返事返事」

 

「あっ! はい!」

 

(なっ、なんで……? 試合には出たいと思ってたけど、まさかスタメンなんて……)

 

「7番ショート、新田美奈子」

 

「へ……? あ、うん。……じゃなかった。はい!」

 

(嘘! スタメン来ちゃった!?)

 

 新田が驚く中、このオーダーの意図を何人かが察し始めていた。

 

「8番サード、初瀬麻里安」

 

「……! は、はいっ!」

 

(……心構えはしていました。けど、このオーダー……もしかしなくても、ですよね)

 

(もし私の考えが間違っていなければ次に呼ばれるのは……)

 

「9番キャッチャー、近藤咲」

 

「……はい!」

 

(……やっぱり。このオーダーは……)

 

(……阿佐田先輩に勝ったわけじゃない。秋乃さんがファーストに入っていて分かりづらいけど、これは基本的に清城戦でスタメンから外れた人でオーダーを組んでいるんだ。……でもチャンスに違いはない。よぉーし……やるぞー!)

 

 スタメン発表が終わり、河北を始めとしてスタメンに選ばれた者たちは試合に向けての気合が入った様子だった。

 

「一塁コーチャーは宇喜多さん。三塁コーチャーは……」

 

「アタシが入るわ。前の試合でも三塁コーチャーやったし」

 

「はい! 倉敷先輩、よろしくお願いします!」

 

「野崎さん、いいかしら」

 

「なんでしょう?」

 

「あなたは小中と運動部に入っているだけあって野球部の中でもかなり体力がある方だわ。だからこの試合、完投を目指して欲しいの」

 

「……! わ、分かりました!」

 

「もちろん、用意はさせておくから厳しくなったら……」

 

「いえ、是非最後まで投げさせて下さい!」

 

「え? ええ……お願いするわ」

 

(……野崎さん、なにかあったのかしら。前はそんな主張しなかったのに……。まあ、ピッチャーがマウンドに欲を持つのは悪いことではないわね)

 

 東雲は前とは違う野崎の様子に驚いたが、どこか頼もしさも覚えていた。

 

「鈴木。あのことは言っておいた方がいいんじゃないかにゃ?」

 

「あっ! そうね。皆、聞いて」

 

 鈴木が手を叩いてざわつきを収めると、皆の目線が鈴木に向いた。

 

「試合はあちらの希望で球場を借りて行うことになっているの。それで借りる負担はあちら持ちとする代わりに1つ条件があって……テレビカメラでの撮影を許可してくれって話だったわ。こちらも部費は節約したいし、OKの返事を出したわ。一応聞いておくけど問題なかったかしら?」

 

 鈴木の言葉に皆が頷く中、一人テレビという言葉に反応してやる気を出していた者がいた。

 

「え? テレビ!? いやー、見る目があるわね。この元天才子役かつ美少女が野球をする姿を撮ろうといち早く嗅ぎつけるなんて」

 

「いや、あちらの部員の一人が持つ番組の企画らしいから、逢坂さんは関係ないと思うけど……」

 

「きっとそれはアタシを撮るための建前ね! 俄然試合が楽しみになってきたわ!」

 

「……とにかく、まだ試合経験が少ない新入部員は不安もあると思うけど、後悔がないようにこの後の練習も頑張ってね」

 

 皆の返事が元気よく部室に響き渡るとミーティングが終わり着替えに入る。そんな経緯で行われた今日の練習は特に新入部員達の声が大きく出ていた。兎にも角にも試合のスタメンが決まり、緊張や期待が入り混じったような心臓の鼓動が彼女たちの胸の内に響いたのだった。




今話で試合に入ろうか迷ったんですが、中途半端になりそうだったので少し短いですがここで区切らせて頂きました。次回から試合に入るのでお楽しみに〜。


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認めさせたいなら

「……いない、ですよね……」

 

 明條戦の先発に指名された野崎はその発表があった月曜日の練習の後、ジャージ姿で先週も赴いた高架下へとやってきていた。周りを見渡し人の姿がないことを確認するとコンクリートの上にカバンを置き、ボールを取り出した。

 

「ここ最近近藤さんに付き合ってもらったおかげで、コースを問わなければ高めと低めの投げ分けは大分出来るようになってきました。次は……」

 

 スプレーで三目並べの落書きがされている壁を視界に入れた野崎はセットポジションの投球姿勢に入るとボールを投げ込んだ。すると左下の枠からさらに左にボール2つ分外れた場所に当たった。跳ね返ってきたボールを野崎は拾い上げると再びボールを投じる。この繰り返しを30分ほど続けると野崎は小休憩も兼ねてカバンからスポーツドリンクを取り出して喉を潤した。するとどこからともなく緩いテンポの拍手が高架下に響くように鳴った。

 

「えっ……!」

 

 突然のことに驚きながら野崎は拍手の主を探すと、上から鳴っていることに気づいて顔を上げた。するとその目が大きく見開かれる。

 

「……ま、一週間でそれなら及第点ってところね」

 

 音の主は舐め終えた飴を包装袋にしまいながら立ち上がり高架下へ降りる道をコンクリートを叩くような音をさせながら歩いてくると、野崎の目の前までやってきた。

 

「高坂さん……!? あ、あのっ。この前はとんだご無礼を……!」

 

「全くよ。……まあ、アタシもアンタに酷いこと言ったからね。お互い様でしょ」

 

「えっと……でも……」

 

「あー。アタシ、あんまりうだうだ言うの好きじゃないのよねぇ」

 

「えっ!? ご、ごめんなさい……」

 

「あと、とりあえず謝られるのも好きじゃない」

 

「ご、ごめんな……うう」

 

「……はぁ。アンタさ、今でも倉敷に敵いっこないなんて思ってないでしょうね」

 

 高坂は野崎の真正面に立つと見上げるようにして鋭い眼差しで野崎の眼を射抜くように見つめた。

 

「……はい!」

 

「でしょうね」

 

 高坂は視線を外すと先ほどまで投げ込みが行われていた壁の近くまで歩いていき、スプレーの枠付近に付いている砂の跡を確認した。

 

「四隅のコントロールを磨こうとしてんのは分かるけどまだまだね。ただ一球一球丁寧に、本気で四隅を狙って投げていることは分かった。やらされている練習だとこうはならない。アンタがアンタ自身のために練習をしていることは言葉なんかよりボールが雄弁に語ってたわぁ」

 

「えっと……もしかしてずっと見ていたんですか?」

 

「……15分くらい前からね」

 

 そう言うと高坂はポケットからボールを取り出すと壁から距離を取った。

 

「ま、コッチだけ勝手に見るってのも不公平だし、見せてあげるわぁ」

 

 高坂は胸の前でボールを握ってから一度静止すると、その指先からボールを投じる。放たれたボールは左下の枠の左下隅へと見事に当たった。

 

「す、凄い……」

 

「いや、肩作ってないから全力で投げてない分コントロール効いてるだけよ。アタシも全力投球で四隅狙うなら多少のズレは出る。それでも中に入るくらいならボール気味にとか、ストライク欲しいけど甘い場所は避けたい時にストライク気味にとか、そういうコントロールは出来るつもりよ」

 

「そ、それでもかなり凄いことですよ……」

 

「そうね。けどアタシだって最初っからそんなこと出来たわけじゃない。むしろピッチャー始めた時なんかは前のアンタみたいなひっどいコントロールだったわ」

 

「高坂さんがですか……?」

 

「当たり前でしょ。同じ時期にピッチャー始めたやつが比較的コントロールが良くて、それが凄いムカついたから練習したのよ。おかげで今は……」

 

 跳ね返ってきたボールを拾い上げた高坂は再びボールを投じた。

 

(コースは真ん中だけど低めギリギリ……えっ!?)

 

 枠の下線に沿うようにしてボールが右に変化していくと右下の枠のさらに右下の隅にボールが当たった。

 

「ストレートだろうと変化球だろうと狙ったコースに投げられるようになったわ」

 

(あれほどの変化量のシュートを右下隅ギリギリに……これが全国No.1(ナンバーワン)投手(ピッチャー)、高坂椿さんの実力なんだ)

 

「だから焦んじゃないわよ」

 

「え?」

 

「アンタは前まで高めと低めすら投げ分けられなかったのよ。いきなり四隅に投げるなんて芸当は難しい。こればかりは投球フォームどうこうじゃなく、時間をかけてじっくりと身につけるしかない」

 

「は、はい! 分かりました」

 

「分かったならいいわ。アンタ……野崎だっけ。強くなることに妥協しないっていうなら当然アタシも超えるつもりでくるのよね」

 

(……なんだろうこの感覚。怖い……? それくらい圧倒的な自信と、裏付けされた実力が今の2球だけで伝わってくる。今の時点での私とのはっきりした実力の差も。……それでも私は、決めたんです)

 

「……もちろんです!」

 

「ふぅん? 負けるつもりはないけど……楽しみにはしておくわ」

 

 野崎の目に常々不機嫌そうに映っていた高坂の表情に変化が訪れる。嬉しそうに笑う高坂の顔を初めて見た野崎はどこか安心に近いような感情を抱いていた。

 

「そ、それで……その。今日はまだお時間ありますか?」

 

「あ? あるけど……」

 

「えっと……良ければまたご指導をしてもらえないかと……」

 

「アンタ、思ったより図々しいわね」

 

「す、すみません……」

 

「……時間来るまでよ」

 

「え……あ、ありがとうございます!」

 

 断られると思った野崎はその返答に驚きながらも嬉しく思い、頭を下げた。

 

「それで何か見てほしいもんでもあるの?」

 

「あの、出来れば変化球を身につけたくて……」

 

「……あのさ。念のために聞くけどストレートのコントロールに自信がないから、変化球で何とかしようとか考えてないわよね」

 

「……! な、なんで分かったんですか?」

 

(……はぁ。そんなところまでアイツに似てるわけ?)

 

「あのねぇ。変化球を生かすも殺すもストレートが肝になるのよ。ストレートに自信がないから変化球なんて考えじゃダメね」

 

「うぅ……分かりました」

 

「それで? 何を試したいの?」

 

「スライダーやカーブの握りを試してみたんですがダメだったので……」

 

(その2つがどっちもダメって割と不器用ねぇ……。手のひらが大きい分、繊細な感覚が必要な変化球は難しいのかもね)

 

「“チェンジアップ”を投げられれば、と」

 

「……ま、アンタの速球に緩急がつけられればさすがに厄介でしょうね。選択としては悪くないんじゃない」

 

「あ、ありがとうございます。その……次の日曜の練習試合の先発を任されているので、出来ることはやっておきたくて」

 

「……一週間後にあるなら、本格的に練習するのは後にした方が良いかもね。付け焼き刃の変化球が試合で上手くいかなくて調子を崩す可能性だってあるし」

 

「なるほど……言われてみれば、そうかもしれません」

 

 変化球があって損はないと考えていた野崎は自分が思い至らなかった可能性を指摘され、納得すると共に投手の繊細さを感じていた。

 

「とりあえず軽く投げてみなさい。それで自分に合うような握りを見つけたら、試合が終わった後にでもしっかり練習すればいいでしょ」

 

「分かりました。えっと、基本となるのはこの指の形でしたよね」

 

 そういうと野崎は指でOKの形を作り、高坂が頷くのを確認してからボールを包むように握ってから軽くボールを投げてみた。しかしボールが抜けきらず引っかかったボールは地面に叩きつけられる形となった。

 

「……アンタ、指が長い分引っかかりやすいかもね」

 

「うう。そうかもしれませんね……」

 

 壁に当たるもほとんど跳ね返ってこないボールを拾いにいった野崎が戻ってくると違う握りでボールを握った。

 

「随分変わった握り方ね。人によって投げやすい握りは変わるとはいえ……」

 

(これは倉敷先輩の投げるチェンジアップの握り……これならどうでしょう)

 

 先程の握りから人差し指をボールから離すようにした握りで野崎はボールを投じる。しかし先程より自分に近い位置でボールは叩きつけられた。

 

(ぜ……全然ダメです。これは私には合わないんだ。倉敷先輩のやったことをそのまま追うだけじゃ……ダメなんだ)

 

「どうしましょう……」

 

「チェンジアップってのは極論、ストレートと同じ腕の振りで投げて遅くなれば握りはなんでもいいのよ。低めへのコントロールのしやすさもあるから、本当になんでもいいって訳にはいかないけど。……この握りならどう?」

 

 知っているチェンジアップの握り方を試し終えた野崎は高坂に助けを求める。高坂は自らの野球知識から野崎に合いそうな握りを何個かピックアップするとそれを実際に握らせ、試しに軽く投げさせた。試行錯誤を繰り返しながら、合計7回目となる握りでボールが投じられると高くはあるが抜いたボールが枠に当たった。

 

「や、やったあ……!」

 

「やっぱりアンタは手のひらが大きいから、いっそのこと包むようにして投げる握りは合うみたいね。でもまだ身についた訳じゃないわ。低めに決まるようにならなかったらただの甘い球だから、試合が終わったらしっかり練習することね」

 

「はい! 頑張ってものにします……!」

 

 このタイミングで高坂は後ろのポケットから振動を感じ、手を突っ込むようにしてボタンを押して振動を止めた。

 

「じゃ、アタシはこのへんで」

 

「ご指導ありがとうございました……!」

 

 充実した表情を浮かべながら礼を言う野崎に軽く手を挙げるようにした高坂はもう片方の手で器用に包装袋を切り、飴を咥えると来た道を戻っていった。

 

(……アタシはどうしたいのかしら。野崎に教えたってアイツが帰ってくる訳でもないのに……)

 

 上まで来たところで振り返ると、野崎は忠告通りチェンジアップの練習を深追いはせずにストレートで四隅を狙う練習を再開させていた。その様子を少しの間ボーッと眺めるように見た高坂は首を二、三度横に振ると再び歩き出すのだった。

 

 日は流れ、土曜日。グラウンドへ続く遊歩道を準備運動がてら河北と共に走っていた有原はその途中でボールが入ったカゴを台車で運んでいる東雲を見かけた。

 

「おーい、東雲さーん!」

 

「おはよー!」

 

「おはよう。走ってきたのね」

 

 2人は息を整えながらボールを運ぶ東雲に追いつくと、並行するように歩き出した。

 

「うん。ともっちが気合い入ってたから一緒に走ってきたんだ」

 

「そう。いい心がけね」

 

「えへへ……」

 

「明日の練習試合で貴女が果たすべき役割を考えれば、そのくらいの心持ちはないと困るけどね」

 

「うっ! 厳しい……」

 

「当然でしょう。新入部員6人がスタメン。試合経験が無い3人に、初瀬さんや逢坂さんもそれぞれ7回の表裏を分けての経験しかない。フル出場した秋乃さんを経験者側に数えるとしても、半数以上がほとんど経験が無いのよ。貴女達経験者が崩れでもしたら試合にならない可能性だってあるわ。その自覚は持つべきよ」

 

「そ、そうだね……! うん。頑張るよ!」

 

(東雲さん、凄いプレッシャーかけるなぁ。ともっち、最近阿佐田先輩とのポジション争いも気にしてるみたいだし、あんまり気負い過ぎないといいけど……)

 

 河北が気合いを入れ直す中、3人がグラウンドにつくとそこには先客が2人いた。グラウンド脇にいる2人のうち1人が軽くボールを投げるともう1人は右手のみで握ったバットで合わせるようにしてバントをしていた。

 

「初瀬さんに逢坂さん。おはよう!」

 

「おはよー。私たちが一番乗りだと思ったんだけどなぁ」

 

「早いわね」

 

「あ、おはようございます!」

 

「おはよー。だって明日は初スタメンだもの。居ても立っても居られない、って感じで早く来ちゃったわ」

 

 東雲と有原がボールカゴを一つずつ持ち、河北が台車を運びながら坂を下るのに気づいた2人は一度練習を中断した。

 

「初瀬さん、バントの練習はどうかしら?」

 

「東雲さんの言う通り、片手キャッチに慣れてから片手でバントする練習を始めてみたんですが、逢坂さんに付き合って頂いたおかげで感覚が掴めてきました」

 

「そう。今日は基礎の確認をするメニュー中心でいくから、貴女はバッティング練習の時にバントの確認をしておきましょう」

 

「はい!」

 

「龍ちゃん! アタシはカーブお願いね! 明日のピッチャーも投げるみたいだし」

 

「右から投げるのと左から投げるのでは軌道も変わるけど……まあ、練習にはなるでしょう。あと、当然のように名前で呼ばないでちょうだい」

 

「いいじゃない。小麦ちゃんにもOK出したって聞いたわよ?」

 

「それは……そうだけど」

 

「アタシのこともここちゃんって呼んでいいからね」

 

「いや、別に逢坂さんでいいわ」

 

「そう? じゃあまた後でね、龍ちゃん!」

 

 片手バントの練習を再開する2人を見て短くため息を吐いた東雲は有原とすれ違い、ボールカゴを置きに行った。

 

「えいっ!」

 

 バットの芯に当たったボールがそこそこの勢いで跳ね返っていくと有原の足元に転がっていき、それを拾った有原は逢坂に投げ返した。

 

「初瀬さん、バント上手く合わせられるようになってきたね!」

 

「ありがとうございます。特訓でも付き合って頂いたおかげで少しずつ慣れてきました。ただ……」

 

「ただ?」

 

「軽く投げてもらっているので今はそうでもないですが、私のバントは先日の試合で拝見した有原さんのバントと比べると勢いが強い気がして……」

 

「うーん。いい感じになってきたし、そろそろいいのかな」

 

「え? どういうこと……ですか?」

 

「ほら、このバント練習は元々はバッティングのために和香ちゃんの提案でボールに目を慣らすのと、バットの芯で捉える感覚を覚えるために始めたからさ。バントの踏み込んだ技術を教えるのはタイミングを見てってことになってたんだ」

 

「そ、そうでしたね。私バントの練習に夢中になり過ぎて、最初の目的を忘れてました……」

 

「でもバントが出来るようになって損はないからさ! ここは私がドーンとバントのコツを教えるよ!」

 

「え〜? 翼ちゃん、アドバイス出来るの?」

 

「むー。私だってアドバイス出来るもん……」

 

(あ、拗ねちゃった。気にしてたんだ……)

 

 逢坂がからかうと有原は口を尖らせてしまう。そんな有原を初瀬はなだめながら、アドバイスをお願いすると有原は元気よくバットを構えて、逢坂に全力投球を頼んだ。

 

「こう! 初瀬さん、こうだよ!」

 

「えっと……」

 

 逢坂が真ん中を狙って投げたボールはスピードはあるもののコントロールが散らばる形となっていたが、有原はその度に上手くバットを合わせて勢いを殺して転がしていた。

 

(あちゃー。それじゃ全然分からないでしょ……)

 

「あ……! もしかして、バットの芯より先で当てているんですか?」

 

「……! そう! それだよ!」

 

(え……嘘でしょ)

 

 逢坂が信じられないものを見るような目をする中、有原のバントを近くで見ていた初瀬は観察の末に伝えようとしているコツに気づいていた。

 

「バントの芯で捉える感覚が分かってきた今だからこそ、初瀬さんも練習すれば出来るようになると思うんだ!」

 

「ありがとうございます。やってみます!」

 

(……アタシが悪いのかしら。演技指導とかでも自分で見て学ぶ必要があるのに近い……? いや、でももう少し言葉の補助くらいは……)

 

「逢坂さん。片手バントの練習はここまでで、私にも全力でお願いします!」

 

「あ……うん。分かったわ」

 

 釈然としない様子の逢坂だったがすぐに切り替えると、バントの練習に付き合うのだった。

 

 そうこうしているうちに他の部員も集まってくる。そして最後に岩城がやってくると、掛橋ともう1人の生徒と一緒だった。

 

「おーい! みんなー! 新しい仲間だぞー!」

 

「え? 新入部員?」

 

 岩城の大声がグラウンドに響き渡ると部員が皆集まってきた。

 

「いえ、彼女は野球部の部員にはならないわ」

 

 東雲がその言葉を伝えながら皆を制すと、掛橋がその生徒と共に前に出た。

 

「紹介します。2年生の塚原(つかはら)(しずく)さんです」

 

「ご紹介に預かりました。塚原雫と申します。普段は剣道部のキャプテンを務めています」

 

 灰色がかった長い黒髪が風で揺れながら自己紹介が行われる。疑問を浮かべる部員もいたが、顧問の掛橋の紹介もあって塚原は拍手で迎えられていた。

 

「女子硬式野球部のキャプテンをさせてもらってます。有原翼です! 今日は来て頂いてありがとうございます」

 

「いえ、こちらこそお招き頂きありがとうございます。ふふ、皆さん元気がありますね」

 

「……何故、剣道部の塚原さんがここへ来たのでしょうか?」

 

「えーとね。試合のためだったわよね」

 

「明日の試合、でしょうか?」

 

「あー、そうじゃなくて……えーと」

 

「先生、ここは代わりに私が説明します」

 

「東雲さん。お願いするわ」

 

 東雲が前に出ると皆の方に振り返って説明を始めた。

 

「はっきり言って今の野球部は実戦の経験が足りないの。リトルシニアの時のように出来れば多く練習試合を入れたいと有原さんや鈴木さんと話していたのだけど、知っての通りまだ女子硬式野球部は数が少ないから高い頻度では練習試合は組めないのよ。部費もあまり余裕はないし、練習試合を組めない週は紅白戦をやりたいと考えたの」

 

「でもわたし達17人だから紅白戦には1人足りなくない? ……あっ、そっか!」

 

「そう。だから1人助っ人を頼めないかと掛橋先生に相談したら心当たりがあるという話だったから……」

 

「私に話が回ってきたんです。掛橋先生とは縁があり、私自身も署名活動などを通して野球部には興味があったのでこの話を受けさせて頂きました。キャプテンを務める身であるので兼部は難しく、また平日は剣道部の活動があるため土日のみしか予定は空けられませんが……」

 

「そんな! 無理を言ってるのはこっちですから、気にしないでください!」

 

「ありがとうございます。私はまだ野球のルールや経験に乏しいので、土日は練習に参加させて頂いて足を出来るだけ引っ張らないようにしますね」

 

「ありがとうございます! じゃあ早速練習始めますね!」

 

「雫ー! ウチが色々教えるぞ! 応援も任せろ!」

 

「よろしくお願いします。応援は今は大丈夫ですが、必要だったらお願いしますね」

 

「……まさかアンタが来るとは思わなかったわ」

 

「あ……舞子。元気にしていましたか?」

 

「まあ、元気ではあるけど」

 

「塚原さんと知り合いだったのかい?」

 

「1年の時に同じクラスで、どうしても家に帰りたくなかった時に世話になってね……」

 

「なんなのだその話は! 初耳なのだー。2人に何があったのか詳しく聞かせるのだー!」

 

「別に面白くないわよ」

 

「私も興味あるね。聞かせてくれないかい?」

 

「いいけど……」

 

「ふふ。良き友に出会えたようですね」

 

「……まあね」

 

 キャッチボールが始められると岩城と組んだ塚原の近くに2年生の部員が集まっていき、キャッチボールと平行して話が行われていた。その後の練習も慣れない塚原に2年生のうち、1人はついていた。

 

(なるほど……あの舞子が所属するのも分かります。初対面の人が多いにも関わらず親切で、居心地が良い。それでいて……)

 

「ともっち、ナイスプレー!」

 

「ありがとう。でももっと厳しいところにも振ってー! 球際の処理、もっと上手くなりたいからー!」

 

「分かった!」

 

(努力する人は希望を語り、怠ける人は不満を語ると言いますが……。この部が本気で上を目指していることが全体から伝わってきます。掛橋先生が夏大会の期間専念するほど思い入れがあるのも納得ですね)

 

「雫。最初は無理に前で捕ろうとすると捕り損ねて逸らすことがあるから、まず確実に捕ることを意識するといいわ」

 

「分かりました。注意しますね」

 

「しずちゃん。行くのだ!」

 

「はい!」

 

 サードに入っている阿佐田がゴロを捌いて投げたボールをベースにつきながらキャッチしにいった塚原はポケットで丁寧に掴むようにしてミットに収めていた。

 

「いいじゃない」

 

「ふふ、上手く捕れると気持ちが良いものですね」

 

「そうね」

 

 2年生の助けもあって特に問題なく塚原も野球部に馴染み、午前練が終了した。

 

「咲ー。手、大丈夫?」

 

「わわっ。凄く赤くなってるよ……!」

 

「心配しなくても大丈夫。痛みはしばらくすれば引くから」

 

 近藤がタオルを水で濡らしているところにやってきた2人が心配そうにしていると、野崎は申し訳なさを感じていた。

 

「すいません。私のせいで……」

 

「……野崎さん。私、ようやくあなたの全力投球を音を鳴らして捕れるようになってきて嬉しいんです。私にとっては気を遣って手を抜かれてしまうのが、1番悔しいことなんです。あなたはそれをしなかった。だから……謝らないで下さい」

 

「……! わ、分かりました」

 

「明日の練習試合、お互い頑張りましょう」

 

「……はい!」

 

 近藤が右拳を突き出すようにし野崎も左拳を軽く突き出すようにして合わせると、お互いに照れが混じった笑みを浮かべた。

 

「あ、美奈子。一応聞いておくけど、この後のこと分かってるよね」

 

「ん? そりゃあもちろん。明日の練習試合に疲れ残さないために、午後練は休みなんだよね」

 

「ミーティングでそう言ってたね」

 

「うん、良かった。じゃあ部室に戻りましょうか」

 

 近藤が左手をタオルで押さえるようにしながら歩き出すと2人はそれについていった。

 

「明日はわたしたち『おいしいものクラブ』の初陣だよ。頑張ろうね!」

 

「うん! ……けど、野球部でも『おいしいものクラブ』を名乗るのはちょっとどうかな」

 

「雰囲気に合わない感じはするね。……あ、そういえばわたしたちのポジションってセンターラインって呼ばれているらしいよ」

 

「ふむ……。なら野球部では『グルメセンターロード』を名乗るとしましょうか!」

 

「食べ物要素は外さないんだね。……お腹、空いてきたかも」

 

「でも、私たちらしくていいかもね」

 

 おいしいものクラブ改めグルメセンターロードは明日の試合に向けて気合いを入れながら、慣れ親しんできた遊歩道を歩いていくのだった。

 

 次の日、やや遠くにある球場へとたどり着いた里ヶ浜高校女子硬式野球部だったが、念を入れた分早めについてしまったため少しの間自由時間を設けていた。

 

「ルーちゃん。きょうはねー小麦たち、新入部員が全員スタメンなんだよ!」

 

「キュー?」

 

 秋乃は頭の上にリスのルーちゃんを乗せながら球場の周りを歩いていた。

 

「きっとねー。皆、緊張してると思うんだ。小麦も最初に試合をするときワクワクと同じくらいドキドキがいっぱいだったから」

 

「キュー……」

 

「でもね、その時は他の皆が頑張って小麦が伸び伸びとやれるようにしてくれたんだ。だからね、今日は小麦が頑張って皆を少しでも楽にする番なんだよー」

 

「キュッキュー」

 

「ルーちゃんはベンチで小麦たちのこと応援してね。小麦も、皆も、いっぱい頑張るから!」

 

「キュー♪」

 

「あはは。まだ早いよー」

 

 頭の上で交互に腕を動かし始めるルーちゃんに秋乃が笑みをこぼしていると、足元にあるクロスするように貼られていたビニールテープに気づいた。

 

「んー。なにこれー」

 

「小麦ちゃーん。そろそろ時間だってー。一緒に戻りましょ」

 

「うん。ねー、ここ。これ何か分かる?」

 

「これは……バミってるみたいね」

 

「バミってる……? なにそれー?」

 

「予定してる立ち位置にマークをつけておくことよ。外での撮影だと普通に撮ったら丸見えだからあんまりやらないんだけど、見上げるような視点で使うのかもね」

 

「へー。バミってるは予定してるとこを分かりやすくしておくことなんだ!」

 

「あ、ちょっといいですか? 撮影で使うので……え」

 

 水色の髪に、腰のところにMの字がデザインされたユニフォームを着た女の子が話しかけてくるが急に言葉を止めてしまう。不思議そうにしながらも逢坂は前のミーティングの映像で見た自分に勝るとも劣らない美少女と同じ人物であることに気づいた。

 

「あれ? 明條のショートの子じゃない」

 

「ホントだー。今日はよろしくね!」

 

「よ、よろしく。……あの、もしかしてあなた、逢坂ここさん……?」

 

「え? なんでアタシの名前を……そっかー、やっぱりテレビの撮影はアタシを撮るための建前で……」

 

「きゃー! 久しぶり! 私よ。ほら、昔よく一緒のオーディション受けた……!」

 

「え……大咲みよって名前に聞き覚えないんだけど……」

 

「ほ、ほら。そこは……察してよ」

 

「……?」

 

「あ、アンタねえ……。仮にも私を押しのけて何回も主役の座を獲ったんだから、芸能界の事情くらい察しなさいよ」

 

 周りを見回して誰もいないことを確認すると様子が変わった大咲に逢坂は既視感を覚えた。

 

「あ……その言い回しはもしかしてはらぐろ……じゃなくて、大黒谷(だいこくだに)美代子(みよこ)!?」

 

「……そーよ。アンタ、カメラ回ってる時に本名(それ)言ったらガチのマジで干すからね。今のアタシは人気急上昇中のアイドルグループ『タッチアップ』のセンター、大咲みよなの」

 

(ふーん。聞いたことないけど……。芸名も新しくしたのね)

 

(センター? ショートじゃなかったっけ?)

 

「分かってるわよ。てかあんた、オーダー表に芸名書いてるわけ?」

 

「ちゃんと高女連に申請は出してるから大丈夫よ。アンタこそ何してんのよ。最近全然名前聞かないじゃない」

 

「アタシにはアタシのやり方があるのよ」

 

「そう。今日試合出るの?」

 

「出るも何も……スタメンよ」

 

「……え? アンタ、夏の大会はベンチにすらいなかったじゃない」

 

「ふふん。アタシの実力に恐れ慄きなさい」

 

「えー、そうじゃ——」

 

「さ、時間みたいだし行きましょうか。大黒谷、今日はアンタにぎゃふんと言わせてみせるわ!」

 

「ふん。こっちのセリフよ」

 

 秋乃の口を慌てて手で閉ざした逢坂は大咲にそう言い放つと皆に合流しにいった。

 

「ぷはぁ。もー、なんでお口にチャックするのー」

 

「ごめんごめん。でもさ、いくら大黒谷にでも3年抜けて戦力が下がってるからってアタシたち新入部員中心のオーダーを組んでる……なんて直接言うのはまずいでしょ」

 

「そ、そっか。あの人とは友達なの?」

 

「うーん。まあ、腐れ縁ってやつね。相変わらず裏表の激しいやつだったわ。全然変わってない……」

 

 やってくるテレビカメラと最初に話しかけてきた時のような様子に戻る大咲を見ながら逢坂は懐かしそうに昔のことを秋乃に話すのだった。

 

 互いに球場に入りアップも済まされ、いよいよ試合の開始が近づいてくる。有原はキャプテンとしてオーダー表を交換しに行っていた。

 

「今日はよろしくお願いします!」

 

「こちらこそよろしくお願いします。今日はお互い実りのある試合にしましょう!」

 

「はい!」

 

 キャプテン同士の握手と先攻後攻のじゃんけん、オーダー表の交換が行われると互いにベンチへと戻っていった。

 

「……どうだった?」

 

「あ! 待っていてくれたの? もー、女房役の帰還がそんなに待ち遠しかった?」

 

「誰がキャプテンでも普通待つから。そんなことより、どうだったのよ」

 

「相変わらず厳しい……。うーん。これは……スタメンにビデオで確認してない選手が6人いるね。で、先発は大会でリリーフで投げてた左投手(サウスポー)

 

「そ、それって……私たちが舐められてるってことですか!?」

 

「落ち着きなさいって。ま、あっちは2回戦まで勝ち進んでて、引退したメンバーもいないし格だけで言うなら上だからね。練習試合だから目的持ってオーダー組むのが悪いことってわけじゃないし、それに最善のオーダーじゃないって意味ではこっちもそうでしょ」

 

「ちょっと、先輩! 私が頼りないってことですか!」

 

「……みよ、うるさい。当たり前でしょ。アンタ、実戦で投げるの初めてなんだから。それも“先発”で」

 

「むうぅ……!」

 

(ぐぐ……! そりゃそうだけど、エースとしてまだまだ余裕あるって感じでムカつくー! 最近読者モデル(読モ)に選ばれて、しかも希望してるモデル業に良い話来たからって調子こいてると、すぐにアタシが4番エースピッチャーになってやるんだから!)

 

 大咲が先輩投手に対抗心を燃やしている中、里ヶ浜ベンチでは驚きの声が上がっていた。

 

「にゃにゃ!? 先発はサウスポーじゃないんだにゃ?」

 

「うん。ショートを務めていた大咲さんが今回は4番ピッチャーで入ってるよ」

 

「4番ピッチャーですって! アイツ、アタシより先に4番エースに……!」

 

「そうではないでしょうね。前のビデオを見る限り6回あたりから投手がスタミナ切れを起こしていたことを考えると肩の良いポジションの選手に投手をやらせてみるってところでしょう。そもそもよほどのことがない限り大会は1人の投手では勝ち抜けないし、考えられることよ」

 

「……な、なるほどね」

 

「ちなみに5番ライトに入ってるのがエースピッチャーだね。あと1番の人がキャッチャーで、その人がキャプテンもやってるみたい」

 

「キャッチャーでキャプテンでしかも誰よりも多く回ってくる打順。負担が大きそうね……」

 

(よほど立ち回りに自信があるのかしら……)

 

 後攻を取った明條の選手が守備に散っていくと大咲が投球練習をしていた。

 

「まあまあ速そうね。野崎さんほどではなさそうだけど」

 

「よーし。打ってくるよ!」

 

「あ、待つのだこむぎん。しっかりベンチを見てサインを確認するのを忘れずに、なのだ」

 

「うん。分かった!」

 

「ふっふっふ。しずちゃん、あおいの名将っぷりをとくと見るが良い、なのだー!」

 

「ええ。楽しみにしています」

 

 投球練習が終わり、秋乃がバッターボックスに向かう。球審と明條のキャッチャーに頭を下げて元気よく「お願いします!」と言ってから秋乃は左打席に入った。そして球審の試合開始(プレイボール)の宣言がグラウンドに響き渡る。

 

(……そうだ。サイン! ……えー、“待て”かぁ)

 

(あの投手は情報がないから、こむぎんにはまず1番バッターとして情報を引き出してもらうのだ)

 

(この打者が1番の意味を分かってるなら初球は見てくるはず。多少甘く入ってもいいからこのボールを印象づけさせるわよ)

 

(お、いきなり来た! 記念すべき将来のエースピッチャーの最初のボールね)

 

 大咲はサインに頷いてミットの中でボールを回転させるようにしてから握ると、この試合の第1投を投じた。

 

「……!」

 

 秋乃は思わず目を見開いた。その理由は投じられたボールがベースより遥か手前でバウンドしてしまったからだった。転がってきたボールをキャッチャーは隠すように押さえて捕球した。

 

「ボール!」

 

(……力、入りすぎでしょ。付け焼き刃のボールを初球で試したのは焦りすぎたかしら。ブルペンでは問題なく投げられていたのに、あの子結構緊張してる……?)

 

「みよ。切り替えて!」

 

 砂を軽く叩いて落とすようにしてからキャッチャーがボールを投げ返すと大咲は耳たぶを赤くしながら受け取った。

 

(次も待てかぁ……)

 

(ファーストストライクまでは見てくると読んで、ここは膝下の大雑把なところでいいからストレートでストライク取るわよ)

 

 深呼吸を挟んでからそのサインに頷いた大咲は2球目を投じた。そのボールはアウトコースへと向かっていく。

 

(くっ、逆球!?)

 

 構えていた位置とは異なるところにきたボールにキャッチャーはとっさの反応でミットを動かして捕球した。

 

「ボール!」

 

(初球を引きずってるわね……。明らかに外れたボールが2球続いた。流れが良くない。バッティングカウントだし思い切って狙ってくるか?)

 

(ここは次も見てもいい……いやいや、勝負というのは先手を打つことが大事なのだ。こむぎん、待球解除なのだ)

 

(……! あれは甘いところに絞って打てー! のサインだ。小麦にとっての甘いところは……)

 

 秋乃がストライクゾーンの真ん中を出っ張りとする凸状のコースに狙いを絞るとボールを投げ返したキャッチャーはサインを出した。

 

(かといって今のみよに際どいところ狙わせても自滅させるだけ。内外は問わないから、浮かないように低めに来なさい)

 

(分かりました。とにかく低く……)

 

 サインに頷いた大咲は低めを狙ってその指先からボールを放った。

 

(真ん中低め!)

 

 そのボールに反応した秋乃は迷わずバットを振り抜くと金属音がグラウンドに響き渡った。バットの内側で捉えられたボールはファーストの頭上を通過し、ライトに向かって飛んでいったがドライブ回転がかかったボールが空中で曲がっていくとファールラインを超えてバウンドした。

 

「ファール!」

 

「ありゃ」

 

 走り出していた秋乃は足を止め、キャッチャーが拾ったバットを礼を言いながら受け取ると左打席に入り直した。

 

(うー。好きなところすぎて、思わず振れすぎちゃった)

 

(危ない。フェアなら間違いなく長打コースじゃない。思い切って振ってきたわね……)

 

(サインに変更はないのだ。好球必打、継続なのだ)

 

(振ってくるならもう1球ファールを打たせてカウントを稼ぐわよ)

 

 4球目。大咲はサイン通り膝下のコースを狙ってボールを投げた。秋乃はそのボールに反応して始動に入ろうとしたが、途中で振るのをやめて見送った。

 

「ボール!」

 

(ちょっと内に外れすぎたか……バットはでかかっていたんだけど。さすがに同じコースは怖いわね。コントロールもそれなりに落ち着いてきたみたいだし、アンタの好きなこのコースに来なさい)

 

(……! よーし!)

 

 そのサインに大咲は心の中で喜ぶと5球目となるボールを投じた。そのコースはインコース高め。秋乃は自身の狙いとは違うボールが来たため、そのボールを見送った。

 

「……ボール! フォアボール!」

 

(くっ、いいところに来たけど少し高かったか)

 

(くー! あの子、背ぇちっちゃくて枠が狭い……!)

 

 フォアボールが宣言され秋乃はバットを軽く横に転がすと一塁に歩いていった。

 

(打てなかったのは残念だけど、これで一杯走れる!)

 

(よしよし。よく見たのだこむぎん。……さて、こうなってくると)

 

「ここっち! ちょっと待つのだ!」

 

 秋乃が一塁コーチャーの宇喜多と話しながら走者としての準備を進めている中、ネクストサークルに向かおうとする逢坂を阿佐田は呼び止めた。やがて秋乃の準備が整うとネクストサークルから河北が右打席に入った。

 

(そのサインは……分かりました)

 

 河北は阿佐田のサインにヘルメットのツバを掴むようにするとバントの構えを取った。

 

(手堅いわね。ここはさせてもいいから、アウト1つもらってみよを落ち着かせよう)

 

 大咲がキャッチャーのサインに頷いているとその視線が少し遅れてネクストサークルに入った逢坂へと向けられた。

 

(バントさせるってことは1アウト2塁のピンチでいきなりアイツか。アンタはいつもそうよね……演技力だけじゃなく、どこか“持っている”っていうかさ)

 

 大咲はそのままランナーを見ることもなく無造作にクイックモーションに入ると真ん中高めにボールを投じた。すると河北がバットの構えを解いた。

 

(バスター!?)

 

(センター返しを意識して……!)

 

 真ん中高めのストレートに少し始動を溜めてから振り出した河北のバットがボールを捉えるとセカンド頭上へのライナーとなって放たれた。

 

「小麦ちゃん、越えるよ! ごぉー!」

 

「分かった!」

 

 宇喜多の指示で秋乃がスタートを切るとジャンプするセカンドが伸ばしたミットの先を打球が越えていき、右中間方向へと転がっていった。

 

(や、やった……!)

 

 河北もバッターランナーとして走り出している中、秋乃が二塁ベースに対して膨らんで入ると三塁コーチャーの倉敷から指示が飛ばされた。

 

(センターとライトの間に転がってる。秋乃の足なら三塁狙える!)

 

「秋乃、三塁いける!」

 

「うん!」

 

 そのまま減速せずに三塁を狙う秋乃。すると三塁に近づいたところで倉敷からさらに指示が飛ばされた。

 

「……! 秋乃、頭から!」

 

「……!」

 

 秋乃は頭から三塁に滑り込むとサードが上に伸ばしたミットにノーバウンドで送球が届き、タッチが行われた。

 

「……セーフ!」

 

 際どいタイミングとなったが三塁塁審からセーフのコールがなされると、サードは振り返ってセカンドの方を見る。河北は二塁を狙うのは危ないと判断して自重し、一塁へと戻っていた。

 

「ナイスラン。大丈夫?」

 

「うん。良かったー。はやーく回れる走り方教えてもらってなかったら危なかったね」

 

「……そうね」

 

(そうか……今送球したライトはエースピッチャーだった……。ライトに飛んだ時の走塁判断は厳しくした方が良さそうね)

 

 サードからボールを受け取った大咲はライトの方を見る。すると背中を向けて、腕を軽く回しているのが見えた。

 

(いつでも、交代するけど?)

 

(むきー! これ見よがしに1番の背番号を見せつけてきて……!)

 

「みよー! 切り替えて、しっかり腕を振り切って!」

 

「あ……はい!」

 

(さっきのボール気が抜けてたからね……。バントだと決めつけて真ん中高めを要求した私も甘かった。一球外して様子を見ても良かったわ)

 

(くくく。フォアボールの後にバントの構えを見せればバントさせるボールが来ると思ったのだ。ともっちもよく一球で仕留めてくれたのだ。……さて)

 

「タイムなのだ!」

 

(なっ……初回から? しかも一塁と三塁ランナーも集めて……一体何を。スクイズを仕掛けるカウントの確認か……?)

 

 阿佐田がタイムをかけて秋乃と河北を呼び、逢坂を含めた3人に指示を伝えるとベンチに戻っていった。そしてタイムが解除されそれぞれベースに戻ると、逢坂がバッターボックスに向かっていった。

 

(ノーアウトランナー一塁三塁でクリーンナップか。ここは最悪一点は仕方ないから、アウトカウント優先で中間守備を取るわよ)

 

 キャッチャーが外野の位置はそのままに内野に中間守備を敷かせるとキャッチャーボックスに座り直し、左打席へと入ってくる逢坂を横目で見た。

 

(来たわね、逢坂ここ……! ……こいつ、右利きじゃなかったっけ。ああ、右利きだけど左打ちってやつはいるか。目立ちたがり屋なアンタらしいわね)

 

(さ、来なさい大黒谷!)

 

 お互いに睨みつけるようにして相手の目を見ると視線が間で交錯し、火花が散るような感覚を覚えていた。こうして昔はオーディションで競い合った2人が今度は投手と打者として対峙したのだった。




プライベートが忙しくなるため次の投稿は一週分スキップして再来週の木曜日とさせていただきます。


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エースで4番

(さて……この状況、何でくる? 初回からタイムをかけて一塁・三塁ランナーを呼びつけるなんてよっぽどのこと。何か仕掛けてくるのか、それともただのサインの確認なのか)

 

 キャッチャーはランナーが極端なリードを取っていないことを確認すると左打席で地面をならし終えた逢坂を見る。

 

(無駄な力が入っていない自然な構えね。これならどこにでもバットが振り出せそう。この場面下手に仕掛けず、ヒッティングだって勿論あり得る。スクイズの可能性もあるけど、前進守備は敷かない。みよ、あんたの得意なインハイから入るわよ。もしバントなら打ち上げさせるくらいのつもりで来なさい)

 

(インハイ……分かりました。仰け反らせるくらいの気持ちで投げ込んでやります!)

 

 大咲はそのサインに力強く頷くとサードランナーを一瞥し、逢坂を睨むようにしながら縫い目に指先を沿わせると、クイックモーションに入る。そして足を踏み出し投げ込むタイミングでファーストの声が響いた。

 

「ランナースタート!」

 

(一塁ランナーが……!? さっきの走塁を見るに足はさほど速くなかったはず! このタイミングなら……)

 

 ランナーを意に介さず逢坂に集中するようにして大咲はインハイにストレートを投じた。

 

(振らない……エンドランじゃない、単独スチール! 余裕で刺せる!)

 

 バットを振り出す様子がない逢坂を見て腰を浮かせるようにして送球の体勢に入りやすくするとそのミットにボールが収まった。球審のストライクのコールをバックにキャッチャーはテイクバックに移行する。するとぽっかりと空いた右打席を通して秋乃が走り出したのが見えた。

 

(……! ディレードスチール!? くっ……!)

 

 キャッチャーはとっさに二塁に投げるのを中断し腕が勢いで軽く振り下ろされると、足の向きを三塁方向に変えた。すると反転して走る秋乃に気づき、三塁に送球を行った。

 

「セーフ!」

 

 走り出す構えを見せてからすぐに三塁に戻った秋乃に対してスローイングをやり直す分のロスが響き、ヘッドスライディングで戻った秋乃の腕へのタッチは少しの余裕を持ってセーフとなった。サードはすぐに振り返るも既に河北も二塁を陥れていた。

 

(……やられた。ノーアウトでディレードスチールは普通ないとはいえ、この布陣でのカットの練習はまだ出来てないのと、さっきのタイムで何か仕掛けてくると過敏になりすぎていた。……! え……)

 

(……嘘でしょ)

 

 すると逢坂がエルボーガードを右肘から左肘に移しながら右打席へと移動していく。

 

(スイッチヒッター? いや、右のみよに対しては左の方がボールが見やすいし、打ちやすいはず。それに右打席の方がやりやすいなら最初からそっちに入れば良かった。……まさか、私に三塁走者の動きを見せつけるために)

 

(野球始めたばかりのはずのアイツが両打ちなんて器用なこと出来るわけない! でもネクストにいた時から肘当てはそこにつけてた。最初っから演技だったわけ……!? どうやら、子役時代の演技力は衰えてなかったみたいね! 上等じゃない……!)

 

(うわ、大黒谷が凄い顔してこっち見てる。アタシだってあおい先輩に呼び止められて肘当てを逆につけてベンチを出てって言われた時ビックリしたんだから。さて、こっからが本番よ。あおい先輩、あのサイン出してくれますよね♪)

 

 逢坂は地面をならしながらベンチの方を確認する。阿佐田が出したサインを確認すると逢坂は士気が鼓舞された様子でヘルメットのつばを触った。

 

「阿佐田先輩、少しいいですか?」

 

「すずわかよ、なんでも聞くといいのだ」

 

「積極策を続けてきたのに、ここでフリーのサインを出してバッターに任せる意図はなんでしょうか?」

 

「ここっちを含めて入部から1ヶ月くらいの新入部員に硬球をバントさせるのは怖いから最初からスクイズは考えてない……とか、技術的な理由がまずあるのだ。ただそれ以上にあおいの考えではリスクを負ってもいいタイミングと、負わなくていいタイミングというものがあるのだ」

 

「今は後者というわけですか」

 

「そーなのだ。リスクを負ってともっちを二塁に進ませたことでゲッツーの可能性もだいぶ減ったから、今は負わないのだ。あおいの戦略はミドルリスクハイリターンとローリスクミドルリターンを目指すのだ〜」

 

「なるほど。……今サイン毎に解説するのは難しいと思うので試合が終わった後にそれぞれどういう意図で出していたのか教えてもらえませんか?」

 

「えー、ちょっと面倒なのだ」

 

「お願いします。阿佐田先輩の勝負師としての考えは参考になるものが多いと思うんです」

 

「分かったのだ〜。干し芋一袋で引き受けるのだ!」

 

「あおい。後輩におごらせるのは、どうかと思うよ」

 

「じょ、冗談なのだ。心の広いあおいは快く引き受けるのだ」

 

 ベンチではグラウンドとの境になる柵の近くでサインを出す阿佐田の横でサポートをしている鈴木が試合後の解説を頼んでいた。近藤はベンチに座り防具を取り付けながらその背中を見つめる。

 

(共に練習していた時から感じてはいましたが、鈴木さんは野球に関する知識が豊富にも関わらず、その知識を深めるのに妥協しないですよね。それに加えキャッチャーとしての実力や経験、ピッチャーからの信頼……その差はバッテリー練習の時にひしひしと感じています。でも私は初心者だから、なんて言い訳には甘えないことに決めたんだ。だから……意識しよう。——この人と競うんだ)

 

 その目は揺らぎのない決意を示すように真っ直ぐと向けられていた。

 

(ノーアウト二三塁。みよがこの調子だと最悪一点は仕方ないと思っていたけど、こうなると一点は仕方ないから一点で抑えられるかという話になってくる。この場面スクイズで先制して1アウト三塁で4番に繋げるのはアリだ。とはいえ調子を乱しているみよにピッチアウトでボールカウントを悪くさせる余裕はない。……仕方ない。内野前進、スクイズなら守備でアウトにしてあげて。みよ、アンタはとにかくバッターに集中しなさい)

 

 キャッチャーの指示で中間守備を取っていた内野が前に出てくるのを大咲が見渡すように確認すると逢坂の方に振り返った。

 

(絶対アンタに打点はやらない……!)

 

(フリーのサイン……アタシの自由にしていいっていうなら狙いはホームラン! 一気に打点を3つ貰うわよ!)

 

 2人は大咲がサインの確認をするまで視線をぶつけ合うと、大咲はそのサインに首を振った。

 

(先輩、ここはアタシの得意なインハイに行かせて下さい!)

 

(インハイ投げたそうにしてるけどダメよ。このバッターの立ち位置少し左寄りだし、高めを狙っていたら長打もあり得る。外低めを丁寧についていきなさい)

 

(ぐぐ……分かりました)

 

 再び同じサインが出されると先輩のサインに二度は首を振れず、渋々といった様子で頷くと投球姿勢に入った。指先からアウトローを目掛けて投げたボールを逢坂が見逃すと、少しだけ外に動いたキャッチャーミットに収まった。

 

「ボール!」

 

(こんな低い球打ってもホームランにはならないわ。高め来い……!)

 

(よし。コントロールも落ち着いてきたみたいね。もう一球アウトローよ)

 

 3球目。再びアウトローを狙って投げられたボールを逢坂が見送ると今度は少しだけ内に動いたキャッチャーミットに収まった。

 

「ストライク!」

 

(うっ、追い込まれた……。次にストライク来たら手出さなきゃ)

 

(1ボール2ストライク。ここはアウトハイに外して、次のインローで勝負するわよ)

 

(高めに外す……分かりました。ここは振らせて空振り三振を狙う!)

 

 大咲は力強く頷くと走りたそうにウズウズしている秋乃を一度睨むようにして目で制し、せわしなく動いていた足が止まるのを見てから逢坂を射抜くように見つめた。そして縫い目に指先がかかった感覚を覚えながら4球目が投じられる。するとキャッチャーが投げられたコースに目を見張りながらミットの位置を動かしていった。

 

(打つ!)

 

 アウトハイに投げられたストレートは要求とはずれて枠内へと入っていく。外高めやや真ん中寄りに投げられたボールに逢坂のバットが振り出された。するとバットから響いた金属音がグラウンドに広がっていく。大咲が放たれた打球を振り返って確認するとライト方向へフライで放たれていた。

 

(うそでしょ……!?)

 

「みよ! ホームのカバー!」

 

「……! は、はいっ」

 

 大咲はキャッチャーに声をかけられると止まっていた足を動かしてキャッチャーの後ろへと回り込みにいく。彼女の視界の隅には一塁へと向かって意気揚々と走り出している逢坂の姿が映った。

 

(ホームランもらっ……!?)

 

 一塁手前まで走り二塁へと向かおうとする逢坂の目にはライトの足がホーム側に向けられて止まるのが映った。

 

(大きいと思ったけど……この打球、思ったより伸びない)

 

(ライトは強肩……でも定位置から三歩分下がった。秋乃の足ならホーム行ける!)

 

(あそこから一歩踏み出して勢いつけて投げられる体勢だ。ホームで刺せる!)

 

 ライトのミット目掛けて落ちてきた打球が捕球されると2人の声がグラウンドに重なるように響いた。

 

「ゴー!」

 

「バックホーム!」

 

 三塁ベースの隅を踏むようにしていた秋乃が走り出すと同時にライトは一歩分踏み出した勢いをそのままにホームに向かって送球を行った。

 

(送球が逸れた!?)

 

 ライトからレーザービームのような勢いで投げられたボールは一塁側方向へと逸れていき、反応したキャッチャーは辛うじてそらさずに捕球すると体を反転させて滑り込んできた秋乃の足にタッチを行った。

 

「……セーフ!」

 

(くっ!)

 

(やった!)

 

 キャッチャーはすぐに立ち上がって三塁方向へと振り返ったが、バックホームと共に走り出していた河北は既に三塁ベースへとたどり着いていた。

 

(ストライク送球ならアウトのタイミングだった。ただ慣れないライトの守備だ。無理をさせるべきじゃなかったか……)

 

(……先制された? アタシがアイツに打点を取られた?)

 

「みよ?」

 

 ボールを受け取った大咲は二塁ベース付近からベンチに戻っていく逢坂を見ながらマウンドへと歩いていった。

 

「逢坂さん。見事な犠牲フライでした!」

 

「ありがと。でも将来のエース兼4番打者としてアタシはまだまだ満足してないわ!」

 

「逢坂さん、4番エースを目指しているんですか?」

 

「そうよ! 夕姫ちゃんもでしょ?」

 

「え? いえ、私は特に4番は目指していませんが……」

 

「えー! 夕姫ちゃん、大きいのも打てるんだから目指さないと勿体ないわよ」

 

「えと……でも、逢坂さんが4番エースを目指すなら私が目指さない方がなりやすいのでは」

 

「そんなのつまらないじゃない。4番もエースも皆が目指すからこそなりたいのよ」

 

「……!」

 

(なるほど、そうかもしれませんね。……高坂さんもそうだったんでしょうか。全国No.1ピッチャーと呼ばれる彼女を超えるのは簡単なことじゃない。それを目指そうとすることは私だけじゃなく彼女にとっても意味のあることだったのかもしれません)

 

 初めて見た高坂の笑みが脳裏に浮かぶと野崎も思わず柔和な笑みを見せながら逢坂に伝えた。

 

「その、私も……エースを目指していますよ」

 

「そうこなくっちゃ! アタシたちは今からライバルよ!」

 

「ふふっ、そうですね」

 

「バッターラップ!」

 

「あ、すみません!」

 

 球審に注意されて慌てて左打席に向かう野崎を見送ると逢坂はベンチに入っていく。盛り上がるベンチに応えながら、帰還した秋乃とハイタッチをしていた。

 

(リーチが長いわね……。これなら外もすんなり届きそう。こういうバッターは案外長い手足を持て余して内を捌くのが下手な場合がある。膝下のボール球から入って苦手そうなら内中心で攻めるわよ)

 

(逢坂ここ……次の打席では必ず……)

 

(フリーのサイン。練習試合とはいえ4番を任されたんです。ここはしっかり打たないと!)

 

(もう一点取れれば夕姫ちゃんも投げやすくなるよね。ここは何としても私もホームに還るんだ!)

 

 大咲はサインに頷くと三塁ランナーの河北をよそに相手ベンチを見るようにした後、ホームに目を向けて投球姿勢に入ると、その指先からボールがリリースされる。真ん中低めやや内寄りに投じられたストレートに反応した野崎は豪快なスイングで振り出した。

 

 ——キイィィィン。振り出されたバットはボールの中心部からやや上の部分を捉えた。金属音と共に鋭く放たれたボールはファーストの正面へとゴロで向かっていく。三塁ランナーの河北はそれを見て走り出そうとした足を止めた。

 

(ぐっ!?)

 

 前進守備を取っていたファーストはたたでさえ勢いよく転がるボールを普段より近くで受ける形となり、反応が遅れてミットの付け根の部分でボールを弾いてしまい、それを見た河北はスタートを切った。ファールゾーンへと転がっていくボールにファーストが追いついて拾い上げた時には河北はホームを踏み、野崎も一塁ベースを駆け抜けていた。

 

「2点目ー!」

 

「ナイバッチー!」

 

 さらなる得点が入り里ヶ浜ベンチが盛り上がりを増す。野崎は遠慮がちにグローブを外した手を挙げてその声援に応えた。

 

(今のはファースト強襲のヒットだ。前進守備が仇になったか……でも、スクイズや凡ゴロで得点入れさせるわけにもいかなかったししょうがない。それより気になるのはみよのコントロール。マウンドに行って声をかけるか? ……でもあの子プライドが高いから、下手にマウンド寄ってくとペース乱れそう。……仕方ない、フォローはベンチ帰ってからにするとして)

 

「みよ! ここで抑えるわよ!」

 

「……はい」

 

(打ち取ったと思ったのに……。逢坂ここ、アイツに点を取られてから流れを作られた……!)

 

「ははは! 夕姫、ナイスバッティングだ! ウチも続くぞ〜!」

 

 ネクストサークルから声を張り上げながら岩城が左バッターボックスへと入っていくと、バットをグリップエンド一杯に持って握った。

 

(小さいバッターね。一番打者と同じタイプかしら。なんにせよ初球はこのボールから入るわよ。今なら三塁ランナーもいないし、ワイルドピッチで得点されることもない。一塁ランナーは投手だし盗塁も恐らくないから思い切って来なさい。…………みよ?)

 

 秋乃と同じく150cmにも満たない身長の岩城を見ながらキャッチャーはサインを出すと、首を縦にも横にも振らない大咲を不思議そうに見る。すると大咲は無造作に投球姿勢に入りアウトコース真ん中へとストレートを投げ込んだ。

 

(なっ! サインと違う……!)

 

(貰った!)

 

 このボールを少し引きつけた岩城はフルスイングを行うとグラウンド中に快音が響き渡った。

 

(なんて身体全体が巻きつくようなスイング……!?)

 

「みよ、ホームのカバー!」

 

「……」

 

「みよ!」

 

「……!」

 

 左中間へと伸びていく打球を見上げるようにして茫然自失としていた大咲はキャッチャーに2度声をかけられて我に帰ると、雲の上を歩くような安定しない足取りでキャッチャーの後ろへと向かった。

 

(くっ、処理にもたついた……!)

 

(野崎が三塁手前に来たタイミングとレフトが捕ったタイミングが同じ。肩もライトほど強くないはず!)

 

 倉敷はコーチャーボックスから腕を回しながら野崎に声をかけた。

 

「野崎! ホームいける!」

 

「分かりました!」

 

 そのまま減速せずに三塁を蹴った野崎に対してレフトからは深い位置から中継のショートへと送球が行われる。ボールを受け取ったショートが反転してホームに投げようとしたが腕を頭の上でクロスしているキャッチャーを見て送球を中断し、二塁へと向き直ると少しベースを飛び出していた岩城が慌てて塁に戻った。

 

「だんちょー! ナイバッチなのだー!」

 

「ありがとう! ……和香ー、お前のアドバイスのおかげで打てたぞー!」

 

「ナイススイングです!」

 

 3点目が入り、二塁ベースで拳を突き上げる岩城に盛り上がるベンチから声援が上がっていた。阿佐田の声に応えた岩城は隣に立つ鈴木に礼を伝えると拳をゆっくりと開くようにし、手のひらにじんわりと残っている芯で捉えた時の感触を嬉しそうに味わった。

 

「み、みよちゃん。ドンマイだよ!」

 

「……なんで、打たれるの。アタシが……なんで」

 

「……タイムお願いします」

 

「……! その、えっと……ボールっ!」

 

 ショートに入っている大咲の同級生が声をかけているとキャッチャーがバッテリー間のタイムを球審に頼んでマウンドへと向かってくる。投手の周りに2人以上の野手が集まると3回しかない守備側のタイムを取られてしまうため、ショートはだらんと下がったミットに押し込むようにしてボールを渡すと慌てて離れていった。

 

「先輩……」

 

「みよ。アンタさ……入部してきた時に私たちに語ってくれたことは嘘だったわけ?」

 

「……! う、嘘じゃないです!」

 

「私はさ、最初野球を本気でやるつもりはなかったんだよね。守備を指揮するキャッチャーや攻撃を仕切る監督のような役割を経験することで志望しているプロデューサーの経験に少しでも役立てばと思った。でもアンタは違った。本気で野球をやりに、しかも男子と比べて知名度の低い女子野球を少しでも知ってもらう努力までしていた」

 

 キャッチャーは首をスタンドに向けると大咲もつられてそちらを見た。そこには少数人のスタッフがおり、回されているテレビカメラがグラウンドを捉えていた。

 

「私たちはアンタに触発されて本気でやってみようと思ったの。でも私がここまでのピッチングを見たらこう思うわ。……所詮、お遊びの女子野球かってね」

 

「……! そ、それは……」

 

 大咲は拳を握った右手から震えを感じていた。そんな大咲の胸にキャッチャーミットが力強く押し付けられる。

 

「女子も本気で野球やってるってことを認めさせたいなら、やるしかないのよ。……大丈夫、アンタと私たちならそれが出来る」

 

「…………はい! 分かりました!」

 

 下を向いていた顔が上げられ、虚ろだった目から迷いが消えると先輩の目をしっかりと見つめ返していた。キャッチャーはそれを見て微笑を浮かべるとミットを少し手前に引き、上げられた大咲のミットと重ね合わせるようにした。

 

「抑えるわよ!」

 

「はい!」

 

 手でタッチするようにミット同士でタッチするとキャッチャーは右打席の近くまで来ていた永井と球審に一礼してからキャッチャーボックスへと座った。

 

(えーと、あのサインは……フリー、だったよね。皆いい感じで打ってるし、私も打てるかも……!)

 

(新入部員のおおまかな打力とかは分かっているけど、実際の試合でどう動けるかっていうのは試合じゃないと分からないのだ。だから1試合の経験があるこむぎん以外の新入部員の1打席目は全員フリーで、様子を見させてもらうのだ)

 

「加奈子ー! 打っちゃえー!」

 

「う、うん。頑張るよ!」

 

 永井の様子を横目で見ながらキャッチャーが出したサインに大咲はゆっくりと頷くと軽く息を吐き出した。

 

(アタシは子役時代に苦汁を舐めさせられた逢坂ここに拘りすぎていたのかもしれない。今はアイツだけとの勝負じゃない)

 

 息を吐き出し終えた大咲は二塁ランナーの岩城を二度確認してから、永井をその目でしっかり捉えるとボールを投じた。

 

(えっ……!)

 

 思い切って振り出された永井のバットがボールがベースを通過するより早く空を切るとボールは緩く弧を描いて内から真ん中低めへと曲がり、ミットに収まった。

 

「ストライク!」

 

(力まずに投げられたじゃない。付け焼き刃とはいえ、エース直々に投げ方を教えたこのボール。そしてアンタは習得するために遠慮なく私を練習に付き合わせたんだ。リハーサルがあってこその本番。アンタはもうこのボールを投げられるのよ)

 

「ナイスボール!」

 

 マスクの下でキャッチャーの口角が上げられると、ボールが言葉共に勢いよく投げ返された。

 

(い、今のって……スローカーブってボールだよね。サインは……変わらない。ど、どうしよ……!?)

 

 2球目。インハイを狙って投げられたストレートはほとんどミットが動かされることなく捕球された。

 

「ストラーイク!」

 

(ええっ! 速すぎ……!?)

 

「……初球のスローカーブに飲まれたわね。ストレートにまるで反応出来ていない」

 

「うん。私も野球始めた時は肘痛めないように変化球は禁止だったけど、スローボールを投げる子がいて、緩急には苦労させられたなあ……」

 

 3球目。再びインハイを狙ってボールが投じられた。

 

(ストレートだ! 今度こそ……!)

 

 ストレートに反応した永井が振り出したバットの上をボールが通過し、立って構えていたキャッチャーのミットへと収まった。

 

「ストライク! バッターアウト!」

 

(し、しまったぁ……)

 

(このボールを見せ球に外低めのスローカーブで勝負しようと思っていたけど、もうけたわね)

 

「みよ、良いボール来てるわよ! ツーアウト! バッター集中!」

 

「みよちゃん楽にね! こっち打たせても大丈夫だよー!」

 

 ボールを投げ返したキャッチャーが声を張り上げると3失点が響いて落ち込んでいた明條野手陣も次第に声が出始めてくる。

 

「み、美奈子ちゃん。ボール速いよ! 後はお願い!」

 

「オッケー! 任せといて!」

 

 新田はすれ違い様に永井から後を託されるとネクストサークルから右打席へと入っていった。

 

(立ち位置は普通。スタンスはオープン気味ね……。みよ、初球はここに)

 

 打席で構える新田の様子を見ながら出されたサインに大咲は頷くとリードを少しでも広げようとする岩城を目で制してから、ボールを投じた。

 

(遠い……)

 

「ストライク!」

 

(うっ! 入ってるんだ……)

 

 きっちり低めに収まる形ではなく外枠に沿うように投げられたストレートに新田はバットを振り出さずじっくり見るようにして見送った。

 

(でもそこまで速いかな? よくバッティングピッチャーしてくれる東雲と同じくらいな感じがする。これなら上手いこと合わせればいけるかも)

 

 2球目。指からすっぽ抜けたかのような緩いボールがボールゾーンから内低め真ん中寄りのコースへと曲がっていく。新田は体勢を崩されながらこのボールにバットを振りだす。すると軽い金属音が内野に響いた。

 

(やばっ! 遅い分打てそうで、つい中途半端に振っちゃった!)

 

 新田が焦りながら一塁へと駆け出すとボールは反対に三塁方向へと転がっていった。

 

(どっちに捕らせるか。バントみたいな打球だけど振った分それなりに勢いはある。ここは!)

 

「サード!」

 

「……!」

 

「はいっ!」

 

 そのボールを追っていた大咲は深追いはせずに少し離れてからしゃがむとサードが前に走りながらすくうようにボールを捕り、体勢を整えて一塁へと送球した。

 

「アウト!」

 

 しっかりファーストが構えたところに投げられた送球は新田が一塁へとたどり着くより早く、余裕を持ってアウトが宣言された。3アウトが成立したため、明條野手陣がベンチへと戻っていく。

 

「みよ」

 

「先輩。何ですか……?」

 

 ライトから戻ってきたエースにベンチで話しかけられた大咲は先ほどの自分のピッチング内容を考えて思わず身構えた。

 

「さっき送球逸れてアウトに出来なかったでしょ。初先発のアンタに守備でリズム作ってやれなくて悪かったわね」

 

「へ……? いえ、打たれたのはアタシですから……」

 

 謝られると思っていなかった大咲は意表を突かれ、困惑した表情を浮かべた。

 

「ごめん! 弾いちゃった分はバットで返すよ!」

 

「みよちゃん、この回まず一点返そう!」

 

「ええと……うん」

 

(なんか凄い気を遣われてる? マウンドでのアタシ、そんな頼りなく見えたか。……エースを名乗るにはまだアタシは力不足のようね)

 

 勢いに圧倒される大咲に防具を外し終えたキャッチャーが肩に手を置いた。

 

「この回必ずアンタに回してみせる。だから、後はお願いね」

 

(……そうだ。ピッチングのことをいつまでも引きずっていられない。今日先発を任されたのはお試しかもしれないけど、4番はアタシ自身の実力で任されたものだ。取られた分は、バットで取り返す!)

 

「もちろんです! なんならノーアウト満塁でアタシに回してください!」

 

「それは分からないけど、それだけ言えれば大丈夫そうね。じゃあ行ってくるわ」

 

 大咲が力強く頷くのを確認するとヘルメットを被り、一番打者としてグラウンドへと向かっていった。

 最後の投球練習のボールが近藤のミットに収まると、彼女はマウンドの野崎のもとへと歩いていきボールを直接手渡した。

 

「野崎さん。えっと、その……」

 

「……もしかして緊張されていますか?」

 

 言葉が上手く纏まらず目も泳いでいる近藤の様子に普段の毅然とした態度との違いを感じた野崎はその原因に気づくと、安心させるように出来るだけ穏やかな声で話しかけた。

 

「す、すいません。グラウンドに立った途端……その、本当に試合をしているんだって実感が急に湧いてきて」

 

「いつものグラウンドと違う場所、しかも球場ですもんね。お気持ちはよく分かります。私も初めての試合の時は足が地につかなかったような……そんな覚えがあります」

 

「野崎さんもですか?」

 

「はい。でも今日は不思議と落ち着いているんです。きっとそれは今までの練習で上手くなれたという実感があるから……。近藤さんが時間を問わずに付き合ってくれたからなんですよ」

 

「え……そうなんですか?」

 

「そうなんですよ。だから今日は……練習で培ったものを出し切りましょう!」

 

「……! は、はい!」

 

 野崎の左手と自身の右手を軽く合わせるようにしてタッチを交わした近藤は硬い手のひらやマメの感触を覚えるとホームへ戻っていった。ホームベースを過ぎたところで振り返ると前を守る8人をその瞳に映し、息を大きく吸い込んで声を張り上げた。

 

「……しまっていきましょう!」

 

「おー!」

 

「は、はい!」

 

「任せて!」

 

「いつでもオッケー!」

 

 近藤がキャッチャーボックスに座ると一番打者が一礼してから右打席に入り、地面をならす。

 

(さっきはみよにきついこと言っちゃったけど、3失点は何もあの子だけの責任じゃない。守備で細かいミスが響いたのもあるけど、なによりキャッチャーである私の声掛けも足りなかった。その借りはバットで返させてもらうよ)

 

 片手で持ったバットを立てるようにして腕を伸ばし、息を軽く吐きながら前を見据え、集中力を高めたところで腕を引くと右手を添えてバットが構えられた。

 

(まずは最近練習している四隅の……インハイから入りましょう)

 

(い、いきなり四隅ですか。……分かりました)

 

 近藤のサインに一瞬戸惑った野崎だったがその首を縦に振ると、胸の前でミットを構えてから投球姿勢に入った。

 

(ランナーいなくてもセットで投げるタイプか……)

 

 右足が垂直に上げられると腕を振りかぶらずにそのまま右足で踏み込んでスリークォーターの投球フォームからボールがリリースされた。

 

「……!」

 

 バッターはその軌道に気づくと軽く仰け反る。目の前をボールが通過するとその後ろで捕球音が響いた。

 

「ボール!」

 

(速い……。横から見るのとはまた別物ね。ただコースがストライク取りにいくには外れてるし、印象付けるにしても中途半端なところに来たな)

 

(インハイの後は対角線になるアウトローが有効なはず)

 

 近藤が投げ返したボールを受け取ってから野崎は次のサインに頷き、足を上げた。

 

「……」

 

「……? すずわか、どうしたのだ?」

 

「あ、いえ……投球練習の時から野崎さんのコントロールが乱れている気がして」

 

「うーん。ここから見る限りだといつもと同じ感じに見えるのだ」

 

「大きなズレではないと思うんです。恐らくさっきの攻撃で一塁から本塁(ホーム)まで全力疾走したのが影響しているんじゃないかと」

 

「ボール!」

 

 アウトコース低めに投げられたストレートは枠からボール2個分外れ、見送られたことでボールを取られていた。

 

(インハイからアウトローはバッターにとって打ちづらくなるけど、ピッチャーも制球がズレやすいのよね。2ボール0ストライク。厳しいコースに無理に手を出す必要はないか)

 

(次にボールを投げたら3ボールになっちゃう。ここはストライクを……)

 

 3球目。野崎の指先から放たれたストレートにバッターはここで初めてバットを始動させた。

 

(ほぼど真ん中! いける……!)

 

(振ってきた!?)

 

 振り出されたバットがやや鈍い金属音と共にボールを捉えると、打球はセカンドの頭上に向かってハーフライナーとなって放たれた。

 

(振り遅れて球威に押された……!)

 

(届けっ!)

 

 河北が反転して見上げるようにしながら走り出し、頭上にボールが来たところでジャンプをして捕球しにいく。

 

「うっ……!」

 

 腕を伸ばして上げられたミットの先をボールが越えていくと、そのまま外野の芝へとバウンドした。

 

「加奈子ちゃん、頼んだわ!」

 

「う、うん!」

 

 右中間へと緩い勢いで向かっていく打球はややセンター寄りに転がっていたため、センターを守る永井がこの打球を回り込んでから捕球しにいっていた。

 

「……! 加奈ちゃん、セカンドに!」

 

「えっ……!?」

 

 すると近藤から指示が飛ばされ、慌てて永井がバッターランナーを確認すると一塁を蹴って二塁へと向かっていた。ボールをミットですくうようにして捕った永井は二塁ベースで構える新田に向かって送球を行う。顔付近の高さに来たボールをミットに収めた新田が滑り込んでくるランナーの足をタッチしにいった。

 

「……セーフ!」

 

(う……ストライク取りにいったボールを長打にされてしまった)

 

 砂塵を巻き上げるようなスライディングの勢いがベースに吸収される中、際どいタイミングでされたタッチに二塁塁審はセーフのコールを上げた。

 

(試合前の守備練習からセンターの丁寧すぎる守備は気になってたのよね。ただ、ちょっとギリギリ過ぎたかも……ま、今は結果オーライとしておきましょうか)

 

 ランナーはグローブを外し終えた手でヘルメットを持ち上げ、橙髪をかきあげて額を拭うと一呼吸挟んでヘルメットを被り直し、バッターボックスの手前まで来た2番打者にサインを送った。

 

(えっと……はい! 分かりました!)

 

 キャプテンから送られたサインにヘルメットのつばを掴んで確認の意思表示をすると右打席に入り、バントの構えを見せる。

 

(バントですか……。三塁に進まれたくはない、ですよね)

 

(……いや、表のこちらの攻撃みたいにバスターの可能性もあるかも……)

 

 少しの間を空けて近藤が出されたサインに頷くと野崎は二塁走者を一度確認してからクイックモーションでボールを投げた。投じられたコースは真ん中高め。そのボールにバッターはバットを引くとそのまま見送った。

 

「ボール!」

 

 枠からボール1つ分高めに外れ、球審からボールの宣言がなされる。ミットを鳴らして捕球した近藤はボールを投げ返すと窺うようにバッターを横目で見た。

 

(バットを引いた……?)

 

(速いなあ……これで私たちと同じ一年なんだ。でもなんとかストライクとボールの見極めは出来た)

 

(……もう一球同じボールを。バントでもバスターでも打ち上げさせて、ランナー二塁のままアウトを取ろう!)

 

 再びバントの構えを見せるバッターにクイックモーションで投じられたボールは要求通り真ん中高めへと投じられる。先ほどと同じような高さに投げられたボールは見送られ、ボールを取られてしまう。それを見たキャプテンが2番打者に向かってサインを送った。

 

(……えっ! う、打つんですか……?)

 

(初回だし堅実に一点を返そうと思ったけどボール先行してくれるなら甘いとこ絞って打ってみましょう。クイックになって球威も少し落ちたように見えるしね)

 

(うう、打つのは自信ないなあ。……でもせっかく選球眼とバントの技術を買われて下位からみよちゃんと同じ上位に入れてもらえたんだ! ヒットも打てるってアピールする絶好のチャンスだと思おう!)

 

 近藤はボールを投げ返すとバントの構えを解きヒッティングの構えになったバッターを見て目を見開いた。

 

(バントをやめた……!? 打ってくるとしたら、さっきみたいに入れにいったらヒットにされちゃうよね……)

 

 3球目。アウトローを狙って投げられたボールをバッターは見送ると少し外に動かされた近藤のミットに収まった。

 

(際どい! ストライク取って……!)

 

「……ボール!」

 

(う……)

 

(ひゃー……。あれはもう少し中に入ってても打てなさそう。やっぱりこれだけ速い球だし、低めは捨てようかな。……あっ、待てのサイン。そっか。3ボール0ストライクだしさすがに見るんだ)

 

(どうしよう。次はストライク入れないと……でも相手もそれを狙ってくるかもしれなくて……ええと)

 

 悩んだ末に近藤からサインが出される。

 

(次はインコース低めで、要求はストライク……。今度こそ入れなきゃ……)

 

 そのサインに首を縦に振った野崎はランナーを一度確認してから4球目を投じた。近藤のミットが構えられていた位置からほんの少し中に動く、するとバッターが足を上げてスイングの始動に入った。

 

(……! 打ってくる!?)

 

 バットは振り切られることなく振り出そうとしたところで止められ、見送られたボールがミットに収まった。

 

「ストライク!」

 

(……やっぱり入れにいっちゃいけないんだ)

 

(よしよし。サインの意図をしっかり理解して動けてるわね。待球=(イコール)何もしないってことじゃない。振るフリをしてプレッシャーをかけるのも大事なこと。ここは……もう一球待ってみましょう)

 

 5球目。再び出されたインコース低めの要求に応じて野崎はボールを指先から放った。近藤のミットは大きくは動かされずにそのボールを収めた。

 

「…………ボール! フォアボール!」

 

(う……際どいところ取ってくれない……)

 

(やった! ヒットじゃなかったけど、塁には出れた!)

 

 バッターはバットを軽く転がすと思わず表情を緩めながら一塁へと歩いていった。

 

(うう……フォアボール。夏の大会で多く出したこれを出来るだけ出さないようにコントロールを磨いてきたのに……)

 

「ゆうきー、ドンマイだよ! ボールはいい感じだよー」

 

「は、はい! ありがとうございます」

 

(……二塁からだとよく見えるな。あのキャッチャー球威に押されてミットが流れてる。あれだと際どいところはボールにされてしまうわね)

 

 一塁走者の準備が終わり、まだアウトが取れていないことで里ヶ浜野手陣にも妙な緊張感が生まれつつある中、3番打者が右打席へと入った。

 

(さっき弾いちゃったし気持ち的には是非とも打ちたいんだけど、サインは……そりゃバントだよね。2番打者(あの子)ほどバントに自信ないけど、そんなこと言ってられない。みよ、待ってて。いい形で繋いでみせる!)

 

 バッターが気合を入れているとネクストサークルに入る大咲と目が合う。真剣な表情を浮かべている大咲に柔らかい笑みを見せてから、ピッチャーの方に向き直りバントの構えに入った。

 

(先輩、お願いします!)

 

 サイン通り送りバントを狙う先輩の姿に大咲は4番を任されたことの重大さを改めて感じ、バットを持つ手にも自然と力が入っていた。

 

(またバントの構え。…………野崎さん、これで行きましょう!)

 

(内……だけのサイン。フォームを変える前によく使っていたざっくりとしたサインですか……)

 

(この2打席でよく分かりました。ボール先行で後手に回るとどれだけ大変なのか……。ここは野崎さんのストレートを信じて初球からストライクを狙う!)

 

(……分かりました!)

 

 野崎もそのサインに力強く頷くと二塁ランナーを少し長めに見てから投球姿勢に入り、指先からボールをリリースした。投じられたコースはインコース真ん中。

 

(速い……!)

 

 バッターはそのコースに合わせるようにバットを動かすと鋭い金属音が内野に響いた。

 

(げっ!?)

 

「サード!」

 

「はい!」

 

 勢いよく転がっていくボールにランナーが走り出す中、初瀬がそのボールを処理するために前に出てくる。

 

(ま、まずい……! 勢いが強すぎる! 下手したらトリプルプレー取られ——)

 

(初瀬さんの反応も良い! これならトリプルプレー狙え——)

 

 二塁走者と近藤がトリプルプレーを考慮して三塁ベースに意識が向く。すると同時にあることに気づいた。

 

「……! 新田さん!? あなたのベースカバーはこっちじゃないよ!」

 

「えっ!? あっ……しまった!」

 

 前に出た初瀬の代わりに三塁のカバーに入るはずの新田が判断を誤って二塁へと向かっており、三塁は誰もついていない状態だった。とっさに気づいた野崎が代わりにカバーに向かうが、二塁走者よりは遅れた到達になるのは明らかだった。

 

「ふぁ、ファーストに!」

 

「え……あ、はい!」

 

(あっ……!)

 

 近藤の指示に一瞬戸惑いながらも初瀬はしっかり足の向きを整えて一塁ベースで構える秋乃へ送球を行う。ワンバウンドで投げられたボールを秋乃は慣れた様子ですくうようにキャッチした。

 

「アウト!」

 

 一塁走者の到達より目に見えて余裕のあるタイミングでアウトが宣言されると秋乃はまず二塁を確認する。一塁走者は既にベースに向けて足を伸ばしており間に合わないと判断して三塁を確認すると野崎がベースについていたが二塁走者も少し回ったところでベースへと戻っていた。

 

「野崎、ごめん!」

 

「き、気にしないで下さい。私は大丈夫ですから」

 

 新田が謝り、マウンドに戻る野崎が大丈夫だと落ち着かせている様子を河北はふくれっ面をして見つめる。

 

(……しまった。三塁経由のプレーばかりに気を取られて、それがダメだった時のこと全然考えられてなかった。今のはそれでも二塁に投げればダブルプレーが狙えたのに……!)

 

「あ、あの……」

 

「ごめんなさい初瀬さん。今のは私の判断ミスです……」

 

「えっと……その。私も最初の試合の時、ミスをしました。でもミスは無かったことにはならないから、その、これからのプレーで取り返しましょう……!」

 

「……! そう、ですね。ありがとうございます」

 

 初瀬の助言に近藤は礼を伝えるとそれぞれのポジションへと戻っていく。キャッチャーボックスに座った近藤は見上げるようにして右打席に入った大咲を観察した。

 

(立ち位置はやや左寄り……構え方も含めて逢坂さんに少し似てるかも)

 

(アウトカウントは違うけどアタシの時と似た感じの状況で大黒谷に回ったわね。折角ならアタシの方に打って来なさい! 三塁ランナータッチアップしてきたら刺してやるわ!)

 

(内野も外野も定位置のままか。先輩なら内野ゴロでも還ってこれるかもしれないけどサインは……フリー!)

 

(4番の特権よ。細かい指示はなし。アンタに任せるわ)

 

(……任せてください!)

 

 逢坂が腕を軽く回してやる気をみなぎらせている中、大咲は士気が上がった様子で目の前の投手に意識を集中させていた。

 

(中野さん曰くこの打線で最も警戒すべき打者。長打のリスクが高い内は避けて……)

 

 二塁三塁のランナーを見渡すように確認した野崎は要求されたコースめがけてストレートを投げ込んだ。

 

「ボール!」

 

 アウトコース低目を狙って投げられたボールは枠から下にボール2つ分ずれたところで捕球され、大咲も迷わず見送った。

 

(速っ……。先輩より少し速いんじゃない……?)

 

 2球目。再びアウトコース低めを狙って投げられたボールは先ほどよりやや高めに投じられた。

 

「ストライク!」

 

 大咲が見送ると今度は球審からストライクが宣告される。

 

(……振ってこない? このコースを狙ってないなら、さらに続けてみるか)

 

 近藤は大咲の様子を横目で見るとサインを出し、野崎がそれに頷くと三度(みたび)アウトロー目掛けてボールが投じられた。

 

「ボール!」

 

(う……やっぱり四隅はまだコントロールが……)

 

 さらに見送られたストレートは枠から外にボール2つ分外れ、ボールのコールが為された。するとこのタイミングで大咲が打席を外し、一回素振りをしてから打席に戻った。

 

(んー……よし! この3球でタイミングは掴めてきた!)

 

(さすがに4球続けて同じコースはまずいかな……)

 

(アウトコース高めにストレート。次もボールだとまずいですよね……)

 

 野崎がそのサインに首を縦に振ると三塁ランナーを一度見てから、クイックモーションでボールを投じた。そのボールに合わせるように近藤がミットを内側へ動かす。すると大咲が踏み込んでバットを振り出した。

 

(外ばっかり……内来ないならこっちからいく!)

 

 ——キィィィン。シャープなスイングがボールを捉えると打球は快音と共にライトに向かって放たれた。

 

(本当に来た!? よーし……!)

 

 逢坂はホームへと投げる気概を見せ、滞空時間の長い打球を見上げる。その落下位置を予測すると身体を反転させた。

 

(この打球思ったより伸びる……!?)

 

 逢坂は走り出すとフェンス手前まで到達し、打球を見上げながら後ろ足で下がっていった。

 

(ちぇ。これじゃあさすがに刺せな——)

 

 逢坂は背中に衝撃を覚える。そして振り返りミットを伸ばすと打球は目と鼻の先にあった。

 

(……! 思い出した……あの子アタシと同じ主役のオーディション受けて結局脇役ばかりに選ばれて……)

 

 伸ばしたミットは高いフェンスに遮られ、その上に設置された金網を境としてボールがすぐ目の前に落ちた。その打撃結果に選手の表情の明暗がはっきり分かれる。

 

(……主役を食う演技を見せていたんだ)

 

「同点ホームランだ!」

 

「みよちゃん、ナイバッチー!」

 

 スタンドに入ったボールが階段に当たってフェンスに跳ね返ってくる中、逢坂は拳を突き上げてベースを回る大咲を悔しそうに遠くから眺めるのだった。



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本気の熱意に触れて

(ホームラン……)

 

 野崎はダイアモンドを一周する大咲を見ながら高坂に言われたことを思い出していた。

 

「ボール高めに浮きすぎ。良いバッターにそんな甘いところ投げてみなさい。痛い目見るわよ」

 

(そう言われていたのに。ストライクにしなきゃって要求されたアウトハイより中に入れにいってしまいました……)

 

 大咲のホームインが認められたことで明條学園に3点が入る。既に本塁を踏んでいた二人が大咲を囲うように迎えた。

 

「みよちゃんおめでとう! 練習だと何回か打ってたけど、試合では初ホームランだね」

 

「ありがと。ギリギリスタンドに届いてくれたわ」

 

「なーに冷静にコメントしてるのよ。もっと素直に喜びなさいよ〜」

 

「わっ、先輩」

 

 キャプテンが肩を抱くようにして大咲を引き寄せると頬を軽く指で突っついた。

 

「なにするんですかぁ。そりゃ凄い嬉しいですけど……アタシがした失点も3ですから。あーあ、満塁なら逆転だったのになー」

 

「お? 言ってくれるじゃない」

 

(……そんくらい生意気で自信たっぷりな方がアンタらしいわ)

 

「……そこの3人。さっさとベンチに戻る。相手校に迷惑でしょ」

 

 ネクストサークルから5番打者が出てくるとキャプテンが悪気はなさそうに手を挙げながら大咲を解放する。するともう一人の一年生が肩をびくっと震わせ、頭を下げた。

 

「あっ、は、はい! すいません!」

 

……そこまでは

 

「し、失礼します!」

 

「あ! ちょっと待ってよ!」

 

 頭を上げるとあたふたした様子で2番打者がベンチに小走りで戻っていき、その後ろを大咲が追っていった。

 

「もー。脅しすぎよ?」

 

「そんなつもりは……」

 

「冗談よ。そんなつもりがないのは分かってる。でももう少しやわらかーい表情で話しかけないと、ね」

 

 キャプテンは白い歯をこぼしながらそう言うと、悄然(しょうぜん)として(うつむ)くエースに右肩を軽く二回叩いてからベンチへと戻っていった。彼女はそれを目で追うと盛り上がるベンチに、ホームランの祝福を受けている大咲に視線を移す。

 

(ああいうの愛嬌があるっていうのかな。アイツの周りには自然と人が集まる。……ふぅ。試合中に何を考えてるんだろ)

 

 首を二、三度横に振るとベンチから目を離し、左打席へと向かっていった。

 

「みんな。まだ同点だよ! 切り替えてー!」

 

「翼……」

 

 明條ベンチとは対照的に沈んだグラウンドの雰囲気を吹き飛ばすような有原の声援が里ヶ浜ベンチから飛ばされる。

 

「そうだよ! まだ負けてないよー!」

 

「うん! ワンナウトー! 後アウト2つ取るよ!」

 

「わ、ワンナウトー!」

 

 その声援に応じて秋乃を皮切りに内野陣から声が出始める。

 

「ゆうきー! 打たれたことはもう気にするなー! フレー! フレー!」

 

 有原に負けじと岩城も大声を張り、精一杯の応援を送った。しかし全員が3失点のショックから立ち直れたわけではなかった。

 

(わたしが慎重になりすぎないで最初のランナーを刺せていれば……)

 

(わたしがベースカバー間違えなきゃ……)

 

(私が落ち着いて二塁に送球させていれば……)

 

(上等よ大黒谷! アンタがそう来るならアタシはもっと目立ってみせる! 主役はアタシよ!)

 

 そんな状況でバッターが地面をならし終えて準備を整えるとプレイが再開された。

 

「……! 近藤さん、一旦タイムを取って間をおいた方が……」

 

 鈴木の考えに反して近藤はタイムを取らずにサインを出し終えており、野崎が既に投球姿勢に入っていた。投じられたボールはインコース真ん中へと向かっていく。

 

(う……指先にボールが上手く引っかかった感覚が無い……!)

 

(棒球! いける!)

 

 普段より勢いの無いストレートに反応したバッターは足を開いてスイングを行うと、バットがボール中心部からやや下の部分を叩いた。

 

「ら、ライト!」

 

(上から叩くつもりがフライになったか。でもこれは捕れない)

 

 振り切ったバットの先が背中の後ろまで回るとバッターは走り出し、ライト線へと放たれた打球を視界の隅へと収めた。

 

(絶対にノーバウンドで捕る!)

 

 定位置から全力で走り出した逢坂は落下地点へ一直線に向かうとその勢いを殺すことなくその身を宙に投げ出した。

 

「ていっ!」

 

「な……!」

 

 ダイビングキャッチを敢行した逢坂のミットの先に引っかかるようにボールが収まると落ちてきた身体がミットを伸ばした状態のまま芝に擦れるような形となる。

 

(絶対に放さないわ……!)

 

「……アウト!」

 

 捕球の瞬間に力が込められたミットからボールは衝撃を受けてもこぼれ落ちることなく、辛うじてその先に残っていた。

 

「ここー! ナイスキャッチー!」

 

「ふふん。任せなさい!」

 

 腕をぶんぶん振る秋乃に逢坂は自信満々の笑みを浮かべてボールを投げ返した。

 

「……宇喜多さん。今のプレーをどう思ったかしら?」

 

「えっ! な、なんで茜に……?」

 

「同じライトとしてどう思ったかを聞きたいのよ」

 

「え、えと……ナイスキャッチ、だと思うよ」

 

「……本当にそれだけ?」

 

「う……。ちょっとだけ一か八かだったような……。いや、でも逢坂さんなりに確信があったかもだし……」

 

 東雲の問いに宇喜多は言いづらそうにすると、あやふやな言い回しで答えた。

 

「そう。……分かったわ」

 

(私からも今のはかなりリスクがあったように見えた。勿論無理を通してこそ取れるアウトというのもある。けれど彼女はカバーに入れる選手がいないことを考慮していたのかしら。逢坂さんの守備範囲自体は十分だけれど、魅せるようなプレーを選択しがちな判断は実戦ではかなり怖いところなのよね……)

 

 逢坂が元気よく、かつベンチに今のプレーを敵味方問わずアピールするように「ツーアウト!」と声を出す様子を見ながら東雲は今のプレーについて考察をしていた。

 

「ゆうき! はい!」

 

「あ、ありがとうございます」

 

 秋乃はマウンドまで歩いていくと逢坂から受け取ったボールを野崎に直接渡していた。

 

「どんどん打たせて大丈夫だよ! 小麦たちもりょーやつばさに一杯ノック打ってもらって、たくさん練習したから!」

 

「小麦さん……」

 

 野崎は秋乃からボールを受け取ると一度目を閉じて息を吐き出す。そして目を開くと微笑んで返事をした。

 

「分かりました。沢山お世話になってしまうかもしれませんが、よろしくお願いします」

 

「任されたよー!」

 

 そう答えると秋乃は快活な笑みを浮かべてファーストの守備位置へと戻っていった。

 

(私は……出来ないことまでやろうとしていたのかもしれません。無駄のある投球フォームを改善し、以前と比べて確かに出来ることは増えました。でもいきなり倉敷先輩や高坂さんのようなコントロールが身についたわけじゃない……!)

 

 6番打者が右打席に入りバットを構えると近藤からサインが出される。そのサインに野崎は首を横に振った。

 

(え……インハイは投げたくないのかな。ならアウトローに……)

 

 近藤が困惑したように驚くと少し間を空けて出されたサインに野崎は再び首を横に振る。そして射抜くように見つめられた近藤はマウンドでかけられた野崎の言葉を思い出した。

 

(練習で培ったものを出し切る……。野崎さんが投球フォームを変えてからの2週間、私たちが重点的に取り組んだのは四隅へのコントロールと……そうか、もう一つあるじゃない。四隅の前にしっかり狙えるようになりたいと言っていた……)

 

 近藤から三度(みたび)サインが出されると野崎は頷き、息を短く吐きながら縫い目に指先を引っ掛けるようにすると投げ下ろすようにしてボールをリリースした。

 

「ストライク!」

 

(速い……! しかも……低い!)

 

 真ん中低めに投げられたボールがストライクになり、この試合で初めてストライクを先行させられたことに野崎も胸を撫で下ろした。

 

「ナイスボールです!」

 

「ありがとうございます!」

 

(もう一球同じ……内外を問わない低めのサイン、ですね。清城との練習試合では狙って投げられなかったこの高さ……でも今なら!)

 

 2球目が投じられると先程よりやや内よりに来たボールが同じような高さに決まり、ストライクとなる。バッターはベンチからのサインを確認するとバットを短く握り直した。

 

(待機解除か。今までの投球考えれば有利なカウント作れそうだったけど、そう甘くはなかったね。とにかくここはバットに当てよう)

 

 3球目は1球目と同じような真ん中低めへと投じられ、バッターはコンパクトなスイングで捉えにいく。やがて鈍い金属音が鳴るとあまり勢いが強くないゴロが一二塁間方向へと転がっていった。

 

(重っ……!)

 

 バッターは痺れた手を気にしながらも足を動かし一塁へと走っていく。

 

「よし、これでスリーアウトにゃ!」

 

(いやちょうどファースト、セカンド、ピッチャーのトライアングルの間に転がってる! これは簡単に処理できる打球じゃないわ)

 

「ファースト!」

 

「分かった!」

 

 打球に向かう秋乃とすれ違うようにして野崎がベースカバーへと向かっていく。ボールを捕った秋乃が反転してスロー体勢に入った。

 

(思いっきり投げる時と違ってこういう時は……これだ!)

 

 腕をコンパクトに動かし手首を使ったスナップスローによって投げられたボールがベースに入ろうとする野崎の進行方向に投げられると、野崎はそのボールを無理なくキャッチし、ベースを踏んだ。

 

「アウト!」

 

「小麦さん、ナイスフィールディングです!」

 

「えへへ。この前ミスしちゃったから、上手くいって良かったー。ゆうきもナイスボールだよ!」

 

 ベンチに戻りながら思いきりミットを上に伸ばす秋乃に合わせるようにして野崎がミットを前に突き出して重ねると二人から自然と笑みがこぼれた。内野陣がベンチに戻り、続いて外野陣が戻ってくる。逢坂がミットを外し、気を良くしてマウンドに上がる大咲の方を眺めるようにしながら愚痴をこぼした。

 

「くぅー、アイツめ。たまたまホームランが打てたからって……」

 

「あら、貴女なら分かるはずよ。あれが偶然の産物ではないことが」

 

「え……?」

 

 その言葉に反応して東雲がマウンドから目を離して逢坂の方に振り返った。

 

「貴女は素振りの段階から意欲的に長打、しかもホームランという明確な目標を持って練習に取り組んできた。けれど貴女は練習でも一本もホームランを打ったことがない」

 

「うっ……」

 

「それだけ難易度が高い上に、私たち女子選手にとってはさらに容易に達成出来るものじゃない。それを引っ張りではなく、打球を伸ばしにくい流し打ちでスタンドインした。……彼女は間違いなく、長い努力の積み重ねによってそれを達成したのよ」

 

「うう……そう、かもしれないけど……!」

 

 投球練習が終わり右バッターボックスに入った初瀬に向かって投げ込む大咲を睨むように見つめる逢坂は言いようのない気持ちを抱いていた。

 

「ストライク! バッターアウト!」

 

 0ボール2ストライクから一球アウトローに外れたストレートを見送ると、次に投じられたインハイのストレートに振り出されたバットはタイミングが遅れて空を切っていた。

 

(か、かすりもしないなんて。ボールは前より見えるようになってきたのに……)

 

 初瀬が悔しそうにベンチに戻るとネクストサークルから近藤が右打席に入った。

 

「あの……オーダーを聞いた時から気になっていたんですが、私よりボールに上手く合わせている近藤さんの方が打順が低いのは何故なんでしょう……?」

 

「ああ、それね」

 

 ヘルメットを外した初瀬の水色髪が跳ねる中、その質問に鈴木が答えた。

 

「キャッチャーの負担を軽減するためよ」

 

「キャッチャーの負担……ですか」

 

「ええ。特に近藤さんは初めての試合だし、攻撃の負担を少しでも減らしてリードに集中してもらいたかったの」

 

「ストライク!」

 

 1ボール1ストライクから投じられた膝下のストレートを見送った近藤は追い込まれていた。

 

(次の投球練習では低めと高めのそれぞれの調子を見ないと。後は守備の指示出しも落ち着いて……って、そうじゃない! しっかりバッティングに集中しないと……)

 

 大咲から4球目が投じられるとストレートのタイミングで待っていた近藤の足が止まった。

 

(しまった! スローカーブ……!)

 

 足が止まった近藤のバットが振り出されることはなく、真ん中から外へと流れていくスローカーブがミットに収まった。

 

「ストライク! バッターアウト!」

 

「ナイスボール!」

 

(ホームランで同点に追いついたからか気が楽になったみたいね。いい感じで力みが抜けてきた)

 

 近藤がベンチに戻ってくると待っていたように初瀬が話しかける。

 

「あ、近藤さん。阿佐田先輩から話があるみたいです」

 

「う……結局バット振れなくて、ごめんなさい……」

 

「いやいや、あおいは一度上手くいかなかったくらいで責めたりなんかしないのだ。それより、2巡目からの方針を二人に伝えようと思ったのだ」

 

「私たち二人だけですか?」

 

「皆に伝えた時には打席に入ってたはせまりとネクストにいたさっきーには伝えられてなかったから、なのだ」

 

「なるほど……」

 

「それで方針というのは何でしょう……?」

 

「それは——」

 

「ボール!」

 

(際どいところ見てくるな……。でも高めに目つけは出来た。これで仕留めるわよ)

 

 アウトハイに外れたストレートを見送り2ボール2ストライク。5球目が今、投じられた。

 

(来たっ!)

 

(身体の軸がブレていない……!?)

 

 膝下へと向かって曲がるスローカーブにバットの始動を溜めた秋乃は足を開いてスイングに入った。

 

(……!)

 

 しかしそれでも振り出すタイミングが早く、振り出したバットの軌道よりボールはまだ前にあった。

 

「とりゃ!」

 

(な……)

 

 それに気づいた秋乃は勢いのついたバットから左手を放すと体の重心を低くし、右手一本でバットの行方をコントロールした。

 

「セカンド!」

 

 バットに乗せるようにして捉えられた打球は一二塁間ややセカンド寄りにふらふらと上がっていた。セカンドがそのボールを下がりながら追うが捕球には至らず、芝に落ちた打球をライトが捕ると一塁から少し飛び出した秋乃はベースへと戻っていた。

 

(ふー……びっくりしたぁ。りょーのカーブよりさらにググーッて溜めなきゃなんだ)

 

「しかし秋乃はよくあんな打ち方が出来るもんだにゃ」

 

「秋乃さんは幼い頃からよく走り込んでいたらしいから足腰が強いみたいね。後は彼女が右利きだから、前側にある右腕を主導にしたバットコントロールが効きやすいのかしら」

 

「そういえば秋乃は右利きなのになんで左で打ってるんだにゃ?」

 

「ああ。ポジションテストで外野を試した時に秋乃さんの足の速さは武器になると思ったから、より一塁に近い左でスイングを固めるのを勧めたのよ。まだ右でスイングを固める前だったしね」

 

「むむむ。確かに秋乃の足はワタシより少し速いんだにゃ……」

 

(……まあ、一直線に走る足の速さと走塁技術はまた別物だけれどね)

 

 秋乃がランナーとしての準備を終えると河北が打席に入った。

 

(私も続くんだ……!)

 

 初球膝下のストレートを見送るとストライクになり、第2球。大咲が投球姿勢に入った瞬間、宇喜多の声が響いた。

 

「ごぉー!」

 

(スチール!? しまった……)

 

 大咲がボールを投じるとスローカーブが外のボールゾーンへと変化していく。そのボールにバットを出しかけた河北はそれをなんとか止めて見送った。

 

「ボール!」

 

(くっ、間に合わないか……)

 

 すぐに送球体勢に入ったキャッチャーだったが既に二塁ベースの近くまで走っていた秋乃を見て、送球を中断した。

 

(一球牽制挟んでおくべきだったか。これは私のミスね。反省するとして……。外野前進。このランナーを返すわけにはいかないわ)

 

(外野を前に出すってことはランナー返したくないってことよね。ならここはストライクを入れにいっちゃいけない)

 

(大黒谷、さっきの打席はこっちの方ちらちら見てたくせに、全然見なくなったわね……)

 

(打つ……!)

 

 3球目。再び投じられたスローカーブがアウトコース低めへと曲がっていった。

 

(貰った! センター……返しっ!)

 

 そのボールを引きつけた河北はスローカーブにタイミングを合わせると、センター方向を意識してバットを振り出した。僅かに低めに外れていたボールをバットの先で捉えると、彼女の目論見通りセンターに向かって打球が放たれた。

 

(やった……あ!)

 

 前進した守備位置を取っていたセンターがさらに前に出ると落下地点に入り、浅いセンターフライを捕球した。

 

「アウト!」

 

(河北さんは外野の頭を越える打球が極端に少ない。外野が前に出た時にどういうバッティングをするかは彼女の課題かもしれないわね)

 

 河北が悔しそうにベンチに戻っていくとバットとヘルメットをしまい、代わりにミットを持って2回裏の守備へと向かった。

 

(よし。低めと高めの投げ分けは練習通り出来てる。鈴木さんが書いた清城戦の配球のノートを見せてもらって勉強したのは一旦置いておこう。ここはまず……)

 

 7番打者が右打席に入ると近藤が出したサインに野崎が頷き、ボールを投じた。

 

「ストライク!」

 

 インコース低めやや真ん中寄りに投じられたボールに思い切ってバットが振り出されたが、既にボールがベースを通過していたタイミングだった。

 

(……! このバッター、野崎さんのストレートに振り遅れてる。そういえば中野さんが明篠学園は3年生が抜けて打力が落ちたと言っていたっけ。ここはストライクを続けても大丈夫かもしれない)

 

 2球目がアウトコース低めやや真ん中寄りに投じられると、再び空振りを取った。

 

(ここはさらに低めに。ボールの勢いで上手く内外に散っているし、四隅を要求しなくてもこの低めのストレートは簡単には打てないんだ)

 

 3球目が投じられると今度は低めにボール一つ分外れていたが、振られたバットが空を切った。

 

「ストライク! バッターアウト!」

 

「ナイスピッチです!」

 

「ありがとうございます!」

 

(まいったな……。あのストレートを淡々と低めに投げ込まれたら、そう簡単には打てなくなる)

 

 低めの制球が功を奏し、続くバッターをピッチャーゴロに仕留めると、9番打者からは空振り三振を取り、3アウトとなった。

 

(どうやらお互い上位と下位に打力の差があるようね。こうなると上位に回る攻撃はいつも以上に重要になるかもしれない)

 

 3回の表になり、逢坂が打席に入っていく。すると大咲が一度間をとって深呼吸を挟んだ。

 

(さすがに意識しないってわけにはいかないけど、意識しすぎない。先輩のミットをよく見て……そこに投げ込めばいい!)

 

「ストライク!」

 

 膝下に投じられたストレートが見送られると際どいコースではあったがストライクが取られた。

 

(アタシの狙いはこれじゃない。早く来なさい……あのボール!)

 

 2球目、ストレートがアウトコース低めに投じられると今度は外に僅かに外れてボールとなる。3球目は再びアウトコース低めに投じられ、今度はストライクとなった。

 

(追い込まれた……!)

 

(いい集中力ね。甘いところに入ってこない。ここはアンタの一番得意なコースで仕留めるとしましょうか)

 

(分かりました!)

 

 サインにしっかり頷くと大咲は腕を振り切ってストレートを投げ込んだ。投じられたコースはインコースの高め。

 

(げっ、あのボールじゃない!? 見送ったら三振になっちゃう……!)

 

 逢坂がとっさに腕をたたんでバットを振り出す。するとバットがボールの下に入り、打球が打ち上げられた。

 

「任せて!」

 

(やられた……!)

 

 フェアゾーンに上がったフライを落下地点で構えると、キャッチャーはバックスピンがかかったボールを落ち着いて捕球した。

 

「アウト!」

 

 大咲と逢坂の表情の明暗が分かれる中、逢坂が頬を膨らませてベンチに戻った。

 

「あおい先輩! スローカーブ一球もなかったじゃないですか!」

 

「落ち着くのだここっち。チームで狙い球を絞るっていうのは、プレッシャーをかけ続けるってことなのだ。だからここっちがアウトになってもそのトライは次のバッターに繋がってるのだ」

 

 その言葉を裏付けるように金属音がグラウンドから響き、二人がそちらを振り向くとアウトコース低めに投げられたスローカーブを弾き返した打球がライナーでショートの頭上を越え、野崎がレフト前ヒットで出ていた。

 

「ほ、ホントだ」

 

「ふっふっふ、なのだ」

 

「夕姫ちゃん。ナイバッチー!」

 

 野崎が逢坂の声援に手を上げて応えると、続く岩城が打席に入っていく。そして投じられたボールにフルスイングで応じた。

 

「ファール!」

 

 膝下のスローカーブを思い切り引っ張った打球がファールスタンドにライナーで入った。

 

(前の打席でこのバッターにスローカーブは投げれなかった。けど初球から来たか……。打ち気満々のようね。なら、打たせてやればいい)

 

「どりゃあああ!」

 

「ファール!」

 

 先程より内に外されたスローカーブに再びフルスイングを敢行した岩城だったが、ファールスタンド前に設置されたフェンスに勢いよく打球がライナーで突き刺さる。

 

(で、一球外して……)

 

「だりゃあああ!」

 

(え!?)

 

「ストライク! バッターアウト!」

 

 アウトハイに外されたストレートに三度フルスイングで応じた岩城だったが、ボールの下をバットが潜った。

 

(し、しまったぁ……! 見逃したら三振だと思ってつい振ってしまった! 不覚!)

 

(結構はっきり外したボールよ……? もしかしてこのバッター、選球眼がないんじゃ……)

 

「ツーアウト!」

 

「ツーアウトー! みよちゃん、あと一人!」

 

「ここで抑えるわよー」

 

「打たせて大丈夫だから、思い切り行きなさい!」

 

「はい!」

 

 内野陣から声が上がり外野からも声が聞こえてくる中、永井が打席へと入った。

 

(さっきからバッターがスローカーブに手を出してきてる。混ぜるにしても慎重に使った方がいいか。まずストレートをインハイに……)

 

(あおい先輩)

 

(かなかな。頼んだのだ)

 

 サインに頷いた大咲が一度野崎の方を見るとサイン通りインハイに向かってストレートを投じた。

 

(お願い……当たって!)

 

 ——キィィィン! 痛烈な打球音がグラウンドに響き渡った。

 

(なっ!)

 

「レフト!」

 

 野崎が迷わずスタートを切ると打球がライナーで伸びていく。するとレフトが後ろに下がり、勢いに焦りながらミットを伸ばした。

 

「アウト!」

 

「ああっ……!」

 

 打球が伸びていく軌道にレフトの定位置が入っており、横に移動はせずミットに突き刺さるように捕球されていた。

 

(あ、危な……! 少しでも横に逸れてたら長打で一塁ランナーが還ってた。このバッターも長打力があるのか……)

 

 3アウトになりチェンジになる。落ち込む永井に野崎が声をかけると、少し元気が出た様子で永井はセンターへと向かっていった。

 

「惜しかったですね、あおい。あなたの作戦が上手くいったようでしたが」

 

「うむ……。1〜5番まではスローカーブを、6〜9番まではストレートを狙い球として絞ってたのは上手くいってるみたいだからこのまま続けさせてみるのだ」

 

 投球練習が終わり、一番打者が打席へと向かっていく。3回の裏が始まった。

 

(リードを見るに初球は低めにストレート来るでしょ……。ただこのピッチャーくらい球速や球威があればそれだけでかなりの脅威だ。それでも打つしかない……!)

 

 野崎が頷くと足を垂直に上げ、体重を前に乗せるようにして真ん中低めやや内寄りにストレートを投げ込んだ。

 

(とにかくいけっ……!)

 

 一番打者が振り出したバットの内側にボールが当たると鈍い金属音と共に打球が転がった。振り切ったバットの先が身体の前に出るとバッターランナーが腕に生じた衝撃で表情が歪みながら走り出す。

 

「サー……いや、ショート!」

 

「分かった!」

 

 三遊間への打球はちょうど二人の間を縫うように転がっていく。食らいつく初瀬の横を抜けていくと深い位置で新田が捕球し、足の向きを変えて一塁に向かって送球した。そのボールを秋乃がベースの隅を踏んでミットを伸ばして捕球する。

 

「……セーフ!」

 

 間一髪のタイミング。ボールが届くより一瞬早くバッターランナーが一塁を駆け抜けていた。

 

(完っ全に打ち取られたぁ。転がったところが良くてセーフになったけど、あの球威が低めに決まるのは想像以上にヒットにしづらいわね)

 

 してやられたといった様子で野崎の方を見ながらキャプテンはグローブを外すと息を大きく吐き出して気持ちを切り替えた。

 

「野崎ー。ごめん!」

 

「今のはしょうがないと思いますよ! 切り替えていきましょう」

 

(今のは……翼だったら)

 

 河北の脳裏にそんな考えがよぎり、頭を横に振っていると2番打者が打席に入り、バントの構えを取った。

 

(このピッチャーを攻略するためにクイックモーションで投げさせて球威を落とさせたい。でも左投手だから一塁だとクイックでは投げてくれない。だから頼んだわよ……!)

 

(はい!)

 

(さっきは高めのボール球を打ち上げさせようと思ってボールカウントを悪くしちゃった。同じ失敗はしちゃだめ……さっきの経験を生かすんだ!)

 

(高めのストライクゾーンにですね。分かりました!)

 

 野崎がサインに頷くとボールを長く持ち、ゆっくり足を垂直に上げる。そして足を前に踏み出すと高めにストレートを投じた。バッターはバントの構えを崩さず、秋乃と初瀬が前に出てくる。

 

(うっ!)

 

「ファール!」

 

 勢いのあるストレートに押され、バントした打球がバックネットへと当たった。

 

(チームで一番バントが上手いあの子でも打ち上げさせられるのか……。それでもここはバントよ)

 

(次で決めなきゃ……)

 

 2球目。再び高めにストレートを投じるとバッターはバットの位置を調整して当てにいった。

 

(……!)

 

 その打球の行き先に反応した近藤はキャッチャーマスクを取ってバックネット方向に向かい、飛び込んだ。

 

「ファール!」

 

 思い切って飛び込んだミットの先に無情にもボールが落ち、ファールになった。

 

「近藤さん……」

 

「すいません! 次は捕ります!」

 

「は、はい。お願いします!」

 

(……! スリーバント……)

 

(下手に打たせるくらいならスリーバント失敗の方が痛くない。それに大丈夫。あなたなら転がせるよ)

 

(2球も失敗したのにチャンスをありがとうございます。バントだけは……成功させてみせる!)

 

 3球目。三度高めに投じられたストレートはやや内に寄っていた。バッターはボールをよく見ると自身の感覚を信じてバットを合わせにいく。

 

「サード!」

 

「はいっ」

 

 バットにボールが当たると三塁線にボールが転がっていった。前に出る初瀬と一塁ランナーの位置を確認すると近藤は判断を下す。

 

「一塁に!」

 

「分かりました!」

 

 捕球前に指示を受けた初瀬はボールを拾うように捕ると落ち着いて足の向きを変え、ファーストに向かって送球した。ワンバウンドで投げられたボールを秋乃が捕るとバッターランナーはアウトになった。

 

(す、凄いなあ。芯に当たったようにみえたけど、バントの瞬間バットを引いてたから思ったよりボールが転がってこなかった。ああいうことも出来るんだ……)

 

 今の一連のバントの様子をサードから見た初瀬は感心しながら定位置へと戻っていった。

 

「ナイバン!」

 

「えへへ……」

 

 二塁ベースの上からキャプテンに声をかけられたバッターは照れながらベンチへと戻っていく。ネクストサークルに向かっていた大咲と両手でハイタッチし、緊張がほぐれたように笑うとベンチに入っていった。

 

(ヒッティングよ。お願いね。ここでクイックを捉えて!)

 

(後輩が繋いでくれたんだ。先輩として打ってみせる!)

 

 外野が前進してから様子を確認しながらキャプテンがサインを送ると3番打者もそのサインに応じてヘルメットのつばを掴んだ。

 

「ワンナウト! しっかり声出していきましょう!」

 

 声かけに応じて皆それぞれの反応を示し、近藤はキャッチャーボックスに座りなおすとサインを出した。

 

(外野を前進させてるから高めは慎重に使わないとだ。だから初球は低めに)

 

(はい。しっかり低めに……)

 

 野崎が一度ランナーを確認するとクイックモーションに入り、ボールを投じた。真ん中低めに投げられたボールをバッターは見送る。

 

「……ボール!」

 

(球威が落ちてる。とはいっても相変わらず速いし、低めに決まってる。当てにいっちゃダメだ。しっかり狙いを絞って振り抜こう)

 

(う……)

 

「野崎さん、大丈夫よ。その調子!」

 

「は、はい!」

 

(そっか。甘くなるなら、外れていた方がいいですよね。この調子でしっかり低めに投げ込めばいいんだ)

 

 近藤の声かけに安心した野崎は再び低めを狙ってボールを投じる。内低めやや真ん中寄りに投げられたボールを再びバッターが見送った。

 

「……ストライク!」

 

(コントロールは大きく乱れてない。こうなったら、その低めのボールをなんとか打つしかないわよ)

 

 3球目。三度低めを狙って投じられたストレートは真ん中低めやや外寄りに向かっていた。

 

(よし。外側に来た……いけっ!)

 

 ここでバッターが初めてバットを振り出す。大きく弧を描くようなドアスイングで両腕が伸ばされるとバットの先でボールを捉えた。

 

(これは……落ちるか?)

 

 二塁走者が真上を見上げるようにしてその行方を探るとリードを広げていった。

 

(加奈ちゃんまでは伸びなさそう。そしてこれは……ちょっと美奈子寄りの打球!)

 

「ショ——」

 

「私が捕る!」

 

「わ、分かった!」

 

「……!」

 

(河北さんが打球に向かった……! ここから指示を上書きしても混乱させちゃうだけ。ここは……!)

 

「美奈子、ベースに戻って!」

 

「うん!」

 

 ボールを捕ろうと飛び出していた新田が二塁ベースに戻ってくると二塁走者もリードを少し縮めた。

 

(届けっ……!)

 

 二遊間にふらふらと上がった打球に河北が飛び込んだ。そのミットの先にボールが落ちてくると僅かに届かず、打球がバウンドした。それに反応して二塁走者が三塁へと向かう。

 

「あっ!?」

 

 飛び込んだ勢いがあまり、ノーバウンドで捕ろうとした河北のミットがワンバウンドした打球と接触してしまう。その結果、ボールを押し出すような形になり、カバーに入ろうとした永井の横をボールが抜けていった。

 

「えっ!」

 

(……! 回すか……!?)

 

 永井が驚いた声を上げながらボールを追っていく様子を見ながら三塁コーチャーが本塁突入の指示を出そうとする。

 

「加奈子、任せろ!」

 

「岩城先輩! お願いします!」

 

 センターの横を抜けレフト方向に転がっていくボールをカバーに入った岩城が収めた。

 

(前進位置での捕球……。ここは突っ込ませちゃダメか)

 

「ストップ!」

 

 三塁コーチャーが二塁走者を止めると岩城が新田に向かってボールを投げる。そのボールを受け取った新田は反転して一塁の方を見ると、少し飛び出したランナーがベースへと戻っていった。

 

「い、岩城先輩。ありがとうございます」

 

「智恵、気にするな。切り替えていけー!」

 

「はい……」

 

(ともっち……? どうしたんだろう。今のは新田さんのボールだった。二遊間の練習であんな判断ミスしたことないのに……)

 

 河北の様子に有原が違和感を覚える中、ネクストサークルから4番打者が打席へと向かっていく。

 

(1アウト一塁三塁……)

 

(ここで、このバッター……ですか)

 

 大咲がネクストサークルから右打席に入ると先程のホームランがよぎり、里ヶ浜ナインに緊張が走った。

 

(ここで突き放してみせる!)

 

 地面をならした大咲は塁上にいる2人の先輩を視界に入れると気合を入れてバットを構えたのだった。




途中で途切れてたので21時50分に大きく追記させていただきました。


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自分に出来ること

「守備のタイムお願いします」

 

「タイム!」

 

 近藤が球審にタイムを要請するとプレイが中断され、大咲も構えたバットを下ろすと、里ヶ浜内野陣がマウンドへ集まっていく。

 

「夕姫ちゃん、ごめん!」

 

「か、顔を上げてくださいともっちさん。外野まで運ばれた難しい打球でしたし、捕れないこともありますよ」

 

 申し訳なさそうに謝る河北を野崎が落ち着かせているところに新田が何かを言おうとしたが、言葉が上手く出てこず、誤魔化すように近藤に話しかけた。

 

「えっと……あいつさっきホームラン打ってたよね。満塁策、だっけ。あれやるの?」

 

「いや、次のバッターも良い当たり打ってるし、5点目のランナーを二塁に進めてまでやるのは危険だと思うんだ」

 

「そっか」

 

「それで守備位置なんだけど、長打が出たら一塁ランナーも還ってしまうから外野は定位置として……内野は前進させたいの」

 

「……!」

 

 近藤の言葉に皆思いがけないことを聞いた風に眉を上げた。

 

「二塁経由でのダブルプレーを取りに行く中間守備じゃなく、三塁ランナーをホームで刺す陣形ですか……」

 

「次の一点を出来るだけあげたくないんだね」

 

「前出たら、飛んでくるボール速くなるねー」

 

「よーし、やったろうじゃん!」

 

 口元をミットで隠し相手チームには聞こえないように発せられた各々の意見を聞いた近藤はしっかり頷くと野崎の目を真っ直ぐに見つめた。

 

「野崎さん。下位打線は低めの制球で抑えてこれましたが、上位はそれだけだと抑えきれないみたいです。なので……ここからは高低に加えて四隅も混ぜていこうと思います」

 

「四隅……ですか」

 

「はい。ただ初回のように多投はしないつもりです。もう一度私に……チャンスを頂けませんか」

 

「そんな……チャンスだなんて。私は近藤さんのリードを信じて投げますよ」

 

「……ありがとうございます」

 

 野崎の返答に近藤は一瞬柔和な微笑みを見せるとすぐに表情を引き締め直し、集合した内野陣を解散させ、自身もホームに向かって歩いていった。

 

(この試合……ここまでの私はきっとキャッチャーとしての役割の半分も果たせていない。それは悔しいけど、事実。でもそこで止まっちゃだめだ。初瀬さんの言う通りミスは無かったことにはならない。そしてミスから学べるものもあるはず。だからミスを無かったことにしてもいけない……!)

 

 キャッチャーボックスまでたどり着いた近藤は大咲から見えないように後ろを向いて息をゆっくり吐き出すと、振り返って大きな声を出した。

 

「ワンナウト! 内野前進、集中していきましょう!」

 

(……へぇ、さっきホームラン打ったアタシに対して内野前に出すんだ。……上等よ!)

 

 前に出てくる4人の内野手を視界に捉えながら大咲はバットを構え直すとグリップを握る手に力が入った。

 

 近藤のかけ声と前進する内野を通して定位置で構える外野手にも自然と力が入る。

 

(4点目をやりたくないんだな……。ウチがなんとかしてやる。こっちに打ってこい!)

 

(さっきは捕れなかったけど今度来たらなんとしても捕ってやる! ランナーだって還さないわ!)

 

(……凄い緊迫感が伝わってくる。大事な場面だと思うし、出来ればこっちに打って欲しくない、けど……もし飛んできたら。その時はしっかり練習でやってきたことを出したい……!)

 

 近藤はキャッチャーマスクを被るとその隙間から見える一人一人を見渡すようにしながら座った。

 

(初回のリードは鈴木さんのノートを参考にした……。でもそれだけじゃダメなんだ。野手の守備位置やランナーの有無、目の前のバッターの狙いや野崎さんの状態。今の状況に合わせて私が組み立てるんだ!)

 

 球審からプレイ再開のコールが上げられると一瞬の間を挟み近藤からサインが出される。すると定位置より前に出ていた秋乃が一塁ベースへと向かっていった。

 

「バック!」

 

(っと……!?)

 

 野崎の牽制が秋乃のミットに収まるとコーチャーの指示を受けて戻った一塁走者の腕にタッチされる。

 

「……セーフ!」

 

(少しでもゲッツー取られないようにと出過ぎたか。ファーストが前出てるとはいえ気をつけないと)

 

「いいよゆうきー! 白羽の矢が立ったみたいだったよ!」

 

「そ、それだと小麦さんが何かに選ばれたことになっちゃいますね……」

 

 ユニフォームについた砂を落とすと一塁走者はボールを投げ返す秋乃を見ながらリードを少し抑えて取った。

 

(初球はここにお願いします!)

 

(分かりました。近藤さん、私はあなたが構えたところを目がけて……今私に投げられる全力のボールを投げ込みます!)

 

 一塁走者、三塁走者の順に首を動かして確認した野崎はセットポジションからクイックモーションへと入り、足を前に踏み出した。

 

(どうせ内には来ない! さっきみたいに外一辺倒で来るんでしょ!)

 

 それに対し大咲はバッターボックスギリギリまで足を踏み込み、外へのストレートを待った。

 

(……えっ!)

 

 そのままスイングに移行しようとした大咲は慌ててバットを止めると体の近くに来たストレートに大きく仰け反る形になった。

 

(危なっ! 現役人気アイドルの顔にぶつけるつもり!?)

 

「ストライク!」

 

「な……」

 

「野崎さん、ナイスボールです!」

 

「ありがとうございます!」

 

 球審の判定に不服そうにする大咲を横目に近藤はボールを投げ返した。

 

(やっぱり四隅はコントロールしきれないか。要求したインハイより高さもコースも中に寄った。それでも1打席目で遠慮なく踏み込んできたバッターに内を見せれたのは大きいはず。インハイの後は対角線のアウトローがセオリーの一つだけど、初回はそれでコントロールを乱した。さらに今はクイックで投げているし、ここは難しいボールじゃなく……)

 

 ボールを受け取った野崎はサインに頷くと今度はあまり間をおかずにボールを投じた。

 

(真ん中……けど低いか? いや、いけっ……!)

 

 真ん中低めに投げられたストレートに反応した大咲はバットを振り出した。

 

「……ストライク!」

 

(くっ、振り遅れた……。このスピードボールを打つなら迷ってる暇はないわね)

 

(よし! 追い込めた……。でも焦って3球で勝負しちゃダメだ。ここは……)

 

 野崎はボールを受け取りながら息を吐き出すとサインに頷き、一度三塁ランナーの方を見てから長くボールを持つと、3球目のストレートを投げ込んだ。

 

(……高い!)

 

「ボール!」

 

 真ん中高めに投じられたボールは大咲の感じた通り高めに外れており、見送られてボールとなった。

 

(高めに外したってことは最後は低めで勝負してくる? 今の残像に捉われずにしっかりついてく……!)

 

 大咲は一度打席を外して素振りをし、自分の中で捉えるイメージを固めてから打席へと戻った。

 

 4球目。野崎が右足に体重を乗せると近藤が構えているミットを目がけて指先からボールを放った。大咲はそのボールに対しバットを振り出そうとしたが、眉を動かすとバットを止めに入り、スイングが途中で止められると少し動かされたミットの中にボールが収まった。

 

(く、クロスファイヤー……!?)

 

 左投手から右打者の内角へと投げられた角度のあるストレートに大咲は思わず驚嘆する。

 

「……ボール!」

 

「スイング!」

 

 近藤のアピールで球審から一塁審判に確認が行われるとノースイングの判定が出され、2ボール2ストライクとなった。

 

(くっ……ストライクかボールか際どいとこなのに、バットが出しきれなかった! 変化球は一球も来てないんだし、ストレートのタイミングに合わせて、振り負けずに振り切ってみせる……!)

 

(内のボールゾーンに構えたら少し中に入ってきたけど、そのくらいのズレは想定してた。……ここは神経使う四隅じゃなく、低めの制球で勝負しよう)

 

(低めのストレートですね。ミットが少し外気味に構えられてるから、それを狙って……。このバッターに入れにいくのは禁物、練習してきた通りにしっかり腕を振り切るんだ……!)

 

 先ほどホームランを打たれたバッターに対して上がっていく心拍数を少しでも抑えるようにミットを胸の前で構えるとクイックモーションに入り、スリークォーターの投球フォームからボールが投じられた。

 

(低め……迷うな、いけっ!)

 

 真ん中低めやや外寄りへと投げられたストレートに大咲はシャープなスイングで応じる。ストレートのタイミングで待っていた大咲が振り出したバットはその先でボールを捉えると、すくいあげるようにして弾き返された。

 

(……!)

 

 野崎は頭上を越えていった打球の行方を振り返って確認するとホームに向かって走り出す。

 

「センター!」

 

(と、飛んできたぁ……!)

 

 近藤の声が外野まで届く中、永井はボールを見上げるとその足を後ろに向ける。

 

(……ダメ! 有原さんや九十九先輩に余分に後ろに下がってって言われたのはあくまで慣れるまで。皆と比べてまだまだかもしれないけど、それでも練習、したんだ。ボールはここに落ちて……くる!)

 

 足の向きを前に戻した永井は一歩分右にずれるとミットを上に構えて落ちてくるボールを待った。

 

(くうぅ……! 外への踏み込みが少し甘くなって芯で打てなかった……!)

 

(加奈ちゃんはほぼ定位置のところで構えてる……ここは)

 

(微妙か……? いや、キャプテンの足なら!)

 

 段々と打球の外野方向への伸びが落ちていき、降下していくボールは永井が構えたミットに収まった。

 

「ゴー!」

 

「バックホーム!」

 

 捕球と共にベースの端を踏むようにしていた三塁ランナーがスタートを切るとミットからボールを取り出した永井もホームに向かって送球を行った。

 

(二塁行くのは……難しそうね)

 

 バックホームに合わせて二塁を窺うように飛び出した一塁ランナーは送球の高さを見て足を止める。送球が内野の位置まで来たところで近藤が指示を出した。

 

「美奈子、ノーカット!」

 

「分かった!」

 

 中継に入った新田がカットをやめるとその目の前をボールが通過し、マウンドを越えたところでワンバウンドすると近藤のミットに収まる。既にスライディングを敢行しているランナーに対してホームで構えていた近藤はホームに滑り込んでくる足を押さえ込むようにしてタッチを行った。やがてスライディングの勢いが収まると同時に近藤は立ち上がり、様子を窺っていたランナーが一塁ベースに戻るのを確認する。すると背後から球審の判定が上げられた。

 

「アウト!」

 

「……! アウトに……出来た……」

 

「スリーアウトだー!」

 

「体格の大きい上級生のスライディング、凄い迫力でした。ですがナイスブロックです……!」

 

 近藤が思わずコールに振り返りすぐには信じられないような様子で目を瞬かせていると秋乃が飛びつくようにして抱きつき、その様子を見た初瀬は穏やかな微笑みをこぼした。後ろからの急な衝撃で少しバランスを崩す彼女の目にカバーに入っていた野崎の安堵と嬉しさが混じったような笑顔が映る。そして目が合うとお互いにミットを合わせ、抱いた感情を分かち合っていた。

 

「加奈子ー! 良いバックホームだったぞ!」

 

「やってくれたわね加奈子ちゃん! アタシがやろうと思ったのにー。このこのー」

 

「わっ……!?」

 

 外野では好送球を見せた永井が両サイドから岩城と逢坂に肩を抱かれ、褒め称えられながらそのまま歩いてベンチへと戻ってきた。

 

「さてさて永井選手。今のプレーのご感想は?」

 

 盛り上がるベンチで永井が祝福されていると中野がペンをマイクがわりにしてインタビューを始めていた。

 

「えと……練習でやってきたことが、出来て、その……嬉しくて。後、楽しい……です」

 

 永井の返答に中野だけでなく他の部員も頷いているとまだグラウンドに残っていたナインもベンチに戻ってきた。

 

「……ね、翼」

 

「ん……なーに?」

 

 永井の言葉を聞き嬉しそうに頬が緩んでいた有原に河北が小声で話しかける。

 

「凄いよね、皆。私は……翼みたいにプレーで皆のこと支えたいって、出しゃばって、結局足を引っ張っちゃった……」

 

「ともっち……」

 

「東雲さんに経験者が崩れたら試合にならない可能性もあるって言われたのに、全然ダメだよね……」

 

「それは……違うよ」

 

「え……?」

 

「その……確かにさっきまでのともっちは空回りしてた、かもしれないけど。でも皆の支えになるために頑張ろうって気持ちは悪いものじゃないと思うんだ。だからさ……」

 

 上手い具合の言葉が思い浮かばず言葉が途切れた有原だったが、考え込んでいた顔がパァッと明るくなると柵に手をついて声を張り上げた。

 

「新田さん、流れきてるよ! ピンチの後にチャンスあり! まずは塁に出ていこー!」

 

「翼……」

 

 バッターボックスへと向かう新田にベンチから激励を送る翼を河北はポカンと口を開けて見ていた。

 

「私、東雲さんや和香ちゃんみたいにアドバイスとかするのあんまり上手じゃないからさ。キャプテンなのに……なんて思ったこともあったけど、でも誰かが出来ないことを誰かが補えるのがチームなのかなって。そう考えたら、私は私に出来ることをやればいいんだ! って思えるようになったんだ」

 

「自分に出来ることを……」

 

 声をかけられてベンチに振り返る新田の方に視線を移した河北は先ほどの出来事を思い出した。

 

(凄い……ストライク送球だ)

 

「……河北、ちょっといい?」

 

「新田さん……?」

 

 ピンチを凌いだ喜びを皆が共有する中、新田は永井や近藤のもとには行かず共に二遊間を組む河北に話しかけていた。

 

「その……ごめん!」

 

「ええ!? ど、どうしたの……?」

 

「わたしさ……前にサボったでしょ。サボり仲間が欲しくて普通に行くつもりだった加奈子を誘って、無断で……」

 

「……そうだね。正直、ショックだったよ」

 

「う……ホントにごめん!」

 

「……聞いてもいいかな。どうしてサボったの?」

 

「……わたし、本気で野球するってことの意味が全然分かってなかったんだ。練習は結構厳しいし、他のことする時間も格段に減って……何より皆凄い熱心に練習してて、わたしはそこまでする覚悟……みたいなものが足りなかったんだと思う」

 

「……今は、どう?」

 

「ううん……まだ凄く自信をもってやれる! って感じじゃないんだけどさ。この前試合をスタンドより近いベンチで見て、わたしも……試合やりたいなって思えたんだ。だから今はとりあえず自分に出来ることからやってこうかな……って思ってるよ」

 

「新田さん……」

 

(新田さんがサボった時……私自身上手くないんだから練習しなきゃダメだって奮起してたのもあって、大分怒ったし、今もスッと納得はしてない。けど……私も里ヶ浜高校への進学が決まった時に翼と一緒に野球をやりたいって伝えた。でもいざ始めてみるとてんで初心者の私は段々と置いていかれるようになって。その時になってようやく本気で野球をするってことの意味を味わった。だから……覚悟が足りなかったっていうのは分かる気がする。……自分に出来ることから、か)

 

 その出来事を思い返した河北は気持ちを整理すると柵の近くまで行き、息を大きく吸い込んで声を張り上げた。

 

「新田さん、打てるよ! バット振っていこう!」

 

「河北……うん! 任せといて!」

 

 新田は声をかけてきた河北と有原の方に軽く手を振ると前に向き直り、右打席へと入っていった。

 

 大咲が投球姿勢に入りボールを投じるとアウトコース低めに投げられたストレートを新田は見送った。

 

「ストライク!」

 

(あおい先輩の指示はストレート狙い。けど私は小麦みたいに低めのボールを打ち返すのはまだあんまり上手くない。だから狙いは高めのストレート!)

 

(ストレート見たか……1打席目と同じ手はどう?)

 

 2球目。内に投じられたボールは弧を描いて真ん中低めへと曲がっていく。このボールも新田は見送った。

 

「ボール!」

 

(小麦や逢坂みたいに変化球打つ練習してないし、遅くて当てられそうに見えてもやってきてないんだからわたしには打てない。わたしに出来るのは……)

 

 3球目。大咲が踏み込み縫い目に指先をリリースするギリギリまで乗せたようなストレートがインハイに投げられた。

 

(高めのストレートを振り抜くことだけっ!)

 

(振り遅れてる! 差し込んだ……!)

 

 キィン。新田が振り抜いたバットがボールを捉えると打球は一二塁間方向へのライナーとなって放たれた。ややセカンド寄りの打球だったが、飛びついても届かない高さの打球だったためそのまま見送られるとライト前に落ち、ヒットとなった。

 

「やった……!」

 

(く……オープン気味に開いてた分、完全には差し込めなかったか)

 

「新田さん、ナイバッチー!」

 

 河北の声援に新田が大きく手を振って応えているとネクストサークルから初瀬が右打席へ向かっていった。

 

「阿佐田先輩」

 

「どうしたのだ?」

 

「初瀬さんへのサイン、私から出してもいいですか?」

 

「ふにゃ? いいけど……どうするのだ?」

 

 阿佐田の前に立った鈴木が代わりにサインを送る。すると初瀬は力強く頷いてからヘルメットのつばを掴んだ。

 

「そのサインは硬球に慣れてない新入部員には……」

 

「大丈夫です。初瀬さんなら、やれます」

 

 初瀬は息を大きく吐き出してから打席に入るとバットを目と同じ高さに上げ、目線と水平方向に構えた。

 

(さっきのスイングを見るにこの打者はさほど打撃が上手いタイプじゃない。ここはランナーを進めずにアウト一つ取るわよ)

 

(簡単にやらせはしない。打ち上げさせるつもりで……!)

 

 大咲が目で牽制するとリードを広げようとした新田の動きが止まり、その瞬間クイックモーションでインハイに投じた。

 

(芯の先に当てるように……!)

 

 バントの姿勢を崩さずそのままバットにボールが当てられると跳ね返されたボールが大咲の前に転がった。

 

(二塁で刺してやる!)

 

「みよ、一塁に!」

 

「うっ……はい!」

 

 張り切って飛び出した大咲だったが打球の勢いが抑えられており、間に合わないと判断したキャッチャーが一塁への送球を指示した。その指示に従って大咲は一塁に投げると余裕を持って初瀬はアウトになった。

 

(で、出来た……!)

 

「わっ……」

 

 初瀬が二塁へと進んだ新田の方を見ながらベンチに戻ろうとすると緊張が緩んだのか足をもつれさせ、慌てて一塁コーチャーを務める宇喜多が支えた。

 

「だ、大丈夫?」

 

「す、すいません……。練習でやってきたことが試合で出来て、つい安心しちゃいました」

 

「……うん……!」

 

 その言葉に宇喜多が何度も頷くと、初瀬は支えてくれた礼を伝えてからベンチへと戻っていった。ネクストサークルから出てきた近藤とすれ違う時に褒められ嬉しそうにしてベンチに入ると中野が近づく前に先に鈴木が話しかけ、互いに練習の成果を嬉しそうに分かち合っていた。

 

(1アウト二塁か……外野前進、このランナーは還さないわよ)

 

 右打席に入った近藤を見ながらキャッチャーは外野を前に出すと少しずれたマスクを被り直し、気合を入れ直した。

 

(8番はバントは上手かったけど、スイングはヒットを打てるような感じじゃなかった。となればこの9番は打撃がダメなタイプのキャッチャーでしょう)

 

 大咲がスローカーブを投げ込むと体の方に投げられたボールが弧を描いて内のゾーンへと入り、見送られてストライクとなった。

 

(さっきの打席は全部見送ってきた。こういう打者にボール球を投げてもカウントを悪くするだけ。次もストライクに……)

 

 2球目。アウトコース真ん中へとストレートが投じられた。

 

(ストレート来た……!)

 

 近藤はこのボールに踏み込むとバットを上から振り下ろすようなダウンスイングで振り出し、ボールを弾き返した。

 

(なっ……)

 

 打球は一二塁間へと転がっていく。牽制のために二塁に寄っていたセカンドがその打球に反応して飛びつくと、そのミットの先をボールが抜けていった。

 

(よし。還れる……!)

 

「新田、ストップ!」

 

「おっと……!?」

 

 倉敷の指示で三塁を蹴った新田が慌ててベースへと戻る。ライトからの鋭い送球がホームへと投げられると三塁走者が突っ込んでこないことを確認したキャッチャーが前に出て捕球し、一塁へ投げる構えを見せると一塁を少し回った近藤もベースへと戻った。

 

(……やられた。8番よりいいスイングするじゃない。せめてさっきの打席、一回でもスイングを見れていれば……)

 

「みよ、ごめん。判断が甘かったわ」

 

「大丈夫ですよ! まだ点取られてないですし」

 

「……そうね。ここで抑えましょう」

 

「はい!」

 

 ホームのカバーに入っていた大咲とすれ違い様に会話したキャッチャーがホームに戻ると左打席へと入る秋乃を立ったまま見つめる。

 

(よーし。打つぞー!)

 

(1アウト一塁三塁。中間守備と前進守備どちらを取る……?)

 

 地面を二、三度足で叩くようにして足場を整えた秋乃を見ながら決断したキャッチャーは指示を送ったのだった。



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エースの振る舞い

 ベンチからグラウンドを見渡した阿佐田は明條内野陣の守備位置が動いていくのを確認していた。

 

(二塁経由でのダブルプレーを狙う中間守備……。スクイズを考えたいけど、こむぎんにバントは難しいのだ。ここは……)

 

(小麦には打てー! のサインで……)

 

(一塁ランナーの私は勿論として……)

 

(ゴロならスタートでフライやライナーなら戻れ、か。おっけー!)

 

 3人は阿佐田から出されたサインを確認すると、再開されたプレーに意識を戻す。

 

(この回スローカーブは全部見送られて、ヒットにされたのはどちらもストレート。けどこのバッター、さっきの回スローカーブをヒットにしてるのよね……。ここは厳しいコースをついていくわよ)

 

(内野の頭越えさせない! そのためには入れにいかずに、丁寧に低め狙う……!)

 

 投げ急がずにランナーを見渡してからキャッチャーの構えたミットを見ると、息を軽く吐き出してから投球姿勢に入り、力みの取れた腕の振りで投げ込んだ。

 

(スローカーブ……!)

 

(……! 軸がぶれてない。待たれてたか? でもコースは良いとこにきてる……!)

 

 右足を上げながらもタイミングを崩さない秋乃に焦燥感を覚えるキャッチャーだったが、要求通り外のボールゾーンからアウトコース低めの際どい場所へと曲がっていくスローカーブがマスクを通して見えていた。

 

(さらにググーッと溜めて…………今だぁっ!)

 

 溜めに溜めて右足を大きく踏み出した秋乃は下半身で解放した勢いを腰の回転で上半身に移し、鋭いスイングで振り出したバットは僅かに低めに外れていたボールの上を叩いた。

 

((ゴロ……!))

 

 一二塁間に転がっていく打球に反応した近藤と新田は迷わずスタートを切る。

 

(今同点なのは元を辿れば私が弾いたせいだ。これ以上後輩の初マウンドの足を引っ張ってたまるもんですかっ!)

 

 牽制に備えて一塁ベース寄りに守っていたファーストだったが反応よく打球に飛びつくと長いファーストミットの先で掴み取るようにして捕球した。

 

(ホームは無理だ……だけど!)

 

「セカンに!」

 

「分かってる!」

 

 飛び込んで崩れた体勢を持ち直したファーストは二塁で構えるショートへスムーズに送球を行った。

 

「アウト!」

 

(くっ……)

 

「みよちゃん!」

 

 足から滑り込む近藤だったがボールが届く方が早くフォースアウトに取られてしまう。ボールを受け取ったショートはスライディングを避けるように左に一歩分動いてから一塁のカバーに入った大咲へと送球した。

 

(こういう時は回り込まないで……とにかく駆け抜けるっ!)

 

 秋乃が一塁ベースに向かって真っ直ぐ走りベースを踏むとほぼ同時に大咲のミットにボールが届く。ベースを駆け抜けた秋乃が勢いを持て余しバランスを崩して転びそうになっていると背後から一塁審判のコールが上げられた。

 

「……セーフ!」

 

(う……アウトに出来なかったか)

 

「小麦ー! ナイスダッシュー!」

 

 ホームを踏んだ新田が声を張り上げたのを皮切りとして声援が湧き上がる。ダブルプレーが成立しなかったことで新田のホームインが認められ、勝ち越しの一点に里ヶ浜高校は今日一番の盛り上がりを見せていた。

 

(判断を誤ったか……? 野球にたらればはないけど、もし前進守備を選んでいれば今の失点はなかったかもしれない)

 

 ベンチへと戻っていく新田を見ながら己の選択を悔やんでいたキャッチャーは守備のタイムを取ろうとすると、マウンドに戻った大咲にショートが話しかけているのが目に入った。

 

「ごめん! 私がみよちゃんみたいにジャンピングスローで投げられれば……」

 

「そんなの気にしなくていいわよ。慣れないショートこなしてんだから、そうあれもこれも出来ないでしょ」

 

「え……」

 

「それより切り替えて。このままズルズルと追加点やるわけにはいかないわよ」

 

「……! う、うん。分かった!」

 

(初回アタシは逢坂ここ(アイツ)に点を取られてから、それを引きずって結局その回だけで3点も奪われた。点取られたのは悔しいけど、エース目指すならいつまでもそのことを引きずってちゃいけない。そうでしょ……?)

 

 定位置に戻っていくショートを横目に少しの間ライトの方を振り向くと、前に向き直った彼女は眼光炯々として気が強い普段通りの大黒谷美代子としての佇まいをしていた。

 

(みよは大丈夫だ。……それより切り替えなきゃいけないのは私の方か)

 

 キャッチャーは一度目をつぶって心の中にくすぶる後悔を溶かすように消していくと、目を開けて外野にも届くように腹の底から声を出した。

 

「ツーアウト! ここで切りましょう!」

 

 負けじと声を出して各々返事を返す野手陣に頷きながらマスクを被り直してキャッチャーボックスに座り、ネクストサークルから立ち上がる河北の様子を見上げるようにして窺う。

 

(新入部員だけで一点取っちゃった……。うあ……なんか凄く肩が重いような。……プレッシャー? 私、新入部員達よりは上手い……みたいに思ってたのかな。うう、だとしたら私は私が恥ずかしいよ。そりゃあ上手くなりたいとは思うけど、いきなり実力が身につくわけじゃない。私だってまだ野球始めて半年くらいしか経ってないし、まだまだ胸を張って上手いなんて言える実力はない! ……かといって何もしてこなかったわけじゃない。今の自分に出来ることをやるんだ……!)

 

 あえて強めに握ったバットを一度振り切ると、かかっていた力が和らぐような感覚を覚えた河北は右打席へと入っていった。

 

(2番は1打席目で真ん中高めのストレートをライト前、2打席目はアウトローのスローカーブをセンターフライ。恐らくこの打者にはセンターから逆方向に打つ意識がある。ただ長打を打てるようなスイングでは無かった。高めのストレートを打ち上げさせるのも手か……。初球はこのボールを……おっと!)

 

「バック!」

 

 キャッチャーから即座にサインが出されると大咲は一塁に牽制球を投じた。リードを取っていた秋乃は宇喜多の声に反応してとっさにベースに頭から滑り込むとボールを受け取ったファーストがミットで伸ばされた腕にタッチを行った。

 

「……セーフ!」

 

(あ……危なかったぁ……!)

 

 タッチのタイミングはかなり際どく、僅かな遅れがあればアウトになっていたことが窺えた。

 

「あかね、ありがとう! あれが無かったら、やばかったよー」

 

「ど、どういたしまして。あの、ちょっとリード広げすぎ……だと思うよ。あとベースから離れる時はボールがあるところは意識しないとまずいかも……」

 

「んー、分かった! 気をつけるね!」

 

(秋乃さんは打撃、守備において現状大きな問題はない。けど走塁に関しては足の速さに反して問題が山積みなのよね……。今だってリードを取る状況で先の塁を意識するあまり投手から視線を外していた。宇喜多さんがそれに気づいて牽制より一瞬早く帰塁の指示を出したから良かったものの……)

 

 その様子を東雲が鋭い眼差しで見つめる中、大咲はクイックモーションへと入りボールを投げ込んでいた。

 

(よし。スローカーブ! ……!)

 

 ボールを引きつけてからスイングを行おうとした河北だったが外に外れていることに気づくととっさにバットを止めに行った。キャッチャーのスイングの主張に対してノースイングの宣言が出されたことでボールの判定となる。

 

(この打者も軸がぶれてない? ……そういえば1番と2番はさっきの回もスローカーブを打って、4番と5番もスローカーブに手を出してきた。6番になった途端ストレートが打たれ始めて……そうか、そういうことね)

 

 2球目、3球目と続けてインハイにストレートが投じられ、狙い球と異なるボールを河北は見送るとそのどちらもストライクになり1ボール2ストライクとなった。

 

(う……追い込まれた。……! サイン……)

 

 ベンチの方を見ると阿佐田からのサインが送られてきており、河北は驚きを抑えながらヘルメットのつばを掴んで確認の表明をするとバットを構え直す。大咲が再び牽制を入れ、先ほどよりリードを抑えた秋乃が宇喜多の指示もあって少しの余裕を持って塁に戻る。ファーストからの返球を受け取った大咲はほとんど間を置かずにアウトロー目がけてストレートを投じた。

 

「ファール!」

 

(……! 手を出してきた。追い込まれたからか? このバッターに右方向への意識があるなら外のボールならファールくらいには出来るか。なら……)

 

 一塁側ベンチの上側に設置されている金網に当たったフライ性の打球を見たキャッチャーは次のサインを送ると、大咲はそれに頷き一度目でランナーを見てから再び間をあまり置かずに膝元へとストレートを投げ込んだ。

 

(これも際どい! 見逃しちゃダメ……!)

 

「ファール!」

 

(……! これもファールにしたか……)

 

 ボールの下にバットが入ると打球は低い弾道でバックネット方向に飛び、フェンス手前でバウンドしてファールとなった。

 

(さっき一塁に駿足のこむぎんがいるのに長打の危険があるインハイのストレートを2球も続けてきた。ともっちにスローカーブ狙い解除のサインを出した時には確信とまではいかなかったけど、この徹底したストレート攻めはやはりこちらの指示が読まれているっぽいのだ)

 

 阿佐田がベンチから相手の動きを見逃すまいと魚屋の隙を窺う猫のような目でグラウンドを見る。すると金属音と共に打ち上げられた打球が目に入り、マスクを外したキャッチャーがその打球を追っていった。

 

「ファール!」

 

(すっきりしたカットじゃないけど、インハイもファールにしたか……)

 

 滞空時間の長い打球が落ちてくるとフェンス際で構えたキャッチャーのミットに収まる前にバックネットへと当たっていた。

 

(清城戦でも見せていた河北さんの追い込まれてからの粘りか。センター返しの副産物ね。以前のようにボールを打つポイントが前だとこうはいかない)

 

 続けてインハイに投じられたストレートは高めに1.5個分外れており、河北はバットを振り出す前に止め、少しだけ余裕を持って見送った。

 

「ボール!」

 

(く……あまり際どいところ続けさせるとみよの方が先に崩れるか。このバッター、今どれだけスローカーブが頭にある……?)

 

 マスクの隙間からバットを構える河北を観察したキャッチャーは意を決してサインを送った。

 

(アウトローにスローカーブ……)

 

(内にストレートを続けたんだ。少しでも乱れればこれは打てない!)

 

 大咲はサインに頷くと河北に対してこの打席8球目となるボールを投げ込んだ。

 

(来た……!)

 

(な……軸がぶれない!?)

 

(まだ私はストレートに力負けして押し切られちゃうことが多い。だからストレートは軽く当てるだけで狙いはあくまでスローカーブ。それが今の私に……出来ることっ!)

 

 外へと弧を描いて曲がっていくスローカーブを引きつけた河北はようやく始動に入ると要求よりやや内に入ったボールをコンパクトなスイングで捉え、センター方向に低い弾道のライナーを放った。

 

(抜か……せるかぁ!)

 

(な……!)

 

 ピッチャーの横を抜けようかという打球だったが反応した大咲は左手に嵌められたミットをとっさに自身の右側に伸ばす。するとボールが弾かれた。

 

(抜けなかった……! でも内野安打に出来る!)

 

「ショート!」

 

「はいっ!」

 

 一瞬虚をつかれたショートだったが打球が速かったこともあり体勢を崩す間もあまりなく、ほぼ一直線にこぼれた打球へと向かった。

 

「セカンは間に合わない! ファーストに!」

 

 ミットで捕球したショートはボールを取り出しながら足の向きを一塁に向け、ファーストへと送球を行う。

 

(絶対に間に合わせるっ!)

 

(な……ヘッスラ!?)

 

 頭から滑り込んでくる河北に目を見開くファーストのミットへとボールが届き、一塁審判の判定が下された。

 

「アウト!」

 

(……!)

 

 執念のヘッドスライディングも実らず、僅かな余裕を残して河北がベースに触れるより早くボールが届いていた。

 

「ナイスプレー! 慣れないポジションなのに冷静だったわね」

 

 スリーアウトによりベンチへと戻っていく明條ナイン。大咲がショートの同級生とミットを合わせているとキャッチャーもそこへと合流して声をかけていた。

 

「あ……ありがとうございます。あのバッター足はあまり無かったので、落ち着いて捌けば大丈夫かなって思って……」

 

「偉い!」

 

「わ……」

 

 キャッチャーは嬉しそうに後輩の頭をミットで撫でるようにするとショートは嬉しさと困惑が混じったような照れ笑いを浮かべた。

 

「ちょっと先輩! その子だってアイドルなんですから、カメラ回ってるところで髪をくしゃくしゃにしないで下さい」

 

「……っとと。そうだったっけ。ごめんね」

 

 キャッチャーは思い出したようにスタンドで回されているカメラに目を向けて慌ててミットを離すと、灰色の髪が乱れてしまっていた。

 

「い、いえ! 大丈夫……です」

 

「もー、大丈夫じゃないわ。アイドルは清潔さが大事なんだから! ちょっと裏行ってセットし直すわよ」

 

「う、うん。ありがとう」

 

「それにしてもあなたがアイドルやってたなんて初耳ね」

 

「私。まだアイドルの卵ですから……」

 

「ダメダメ、謙遜しちゃ! この子、結構要領が良いんですよ。前にバックダンサーお願いした時も目立ちすぎず上手い具合にメインを引き立てるように踊ってくれましたし」

 

「なんでそんな面白そうな話、その時にしてくれなかったのよー。……ね、まだチームの雰囲気に慣れないかもしれないけどさ。少しずつあなたのこと教えてよ」

 

「は、はい。私の話で良ければ……」

 

 キャッチャーに正面から見つめられ彼女は照れるように頬をかきながら返事をすると、大咲に連れられてベンチ裏の通路を歩き控え室へと入った。椅子に座らされ、乱れた髪を大咲が直し始める。

 

(何か聞いてみようかな。……あ、そうだ)

 

「ねえ、みよちゃん」

 

「痛かった?」

 

「ううん、そうじゃないの。最初の回で、里ヶ浜の3番……逢坂ここさん、だっけ。あの人のこと凄い見てたけど、知り合いの人だったの?」

 

 大咲は止めた手を再び動かして乱れた部分を(くし)()かしながら、その質問に昔のことを懐かしむようにして答えた。

 

「ああ、アイツね……。アイツには子役時代にアタシがオーディションで一回しか勝てなかった借りがあるのよ」

 

「みよちゃんが? 凄い人なんだね」

 

「……まあね」

 

「一回っていうのは……?」

 

「最初よ。アタシとアイツが初めて一緒のオーディションを受けた時。その時は面識も無かったけど、結果発表の後にアイツから絡んできてライバル認定とかされたっけ。その時はさほど気にしてなかったけど、2回目のオーディションでアイツは見違えるような結果を残した」

 

「……みよちゃんに負けたのがよっぽど悔しくて、頑張ったのかな?」

 

「そうかもね。でも私も努力を怠ったつもりはなかった。けどアタシはそれ以降アイツと一緒に受けたオーディションで主役には抜擢されず、脇役に選ばれてばかりだった」

 

「で……でも、脇役に選ばれるのも凄いことだよ。主役だけじゃ、成立しないしさ」

 

「……分かってる。選ばれたからにはその役を全力で演じたわ。でもアタシは主役のオーディションを受けにいって脇役に選ばれたことを良しとした訳じゃなかった。努力して努力して、何度もアイツと同じオーディションを受けて……それでも勝つことは出来なかった」

 

「みよちゃん……」

 

 櫛を通して髪に伝わる震えからその悔しさを感じ取り、彼女はなんと声をかけようか迷っていたが、先に口を開いたのは大咲だった。

 

「……それでアタシね、一回だけ手を抜いちゃったことがあるの」

 

「え……」

 

「馬鹿なことしたなぁとは思うんだけどさ。当時のアタシはそんくらい心が折れちゃってたのよね。圧倒的な差をつけて勝ったアイツはいつも通り鼻高々に話しかけてくるかと思った。けど……違った。怒られたのよ」

 

「なんで……主役の候補が一人減って、あっちにしてみれば楽になったんじゃ?」

 

「アタシもそう言ったわ。けどアイツはこう言ったのよ。『そんなのつまらないじゃない。主役っていうのは皆が目指すからこそなりたいのよ』……って」

 

「ひゃー……凄いこと言う人だね」

 

「ま、アイツはなんというか……そういうやつなのよ。アイツにとってアタシはライバルで、オーディションで初めて負けたアタシをずっと目標にしてたんだって。その目標が主役を目指すのをやめることが何よりも腹が立ったみたいね」

 

「え……でも最初以外は全部勝ってるのにライバル、のままだったんだ」

 

「アイツはね、どんな時でも主役じゃないと気が済まないのよ。だからオーディションだけが勝負じゃなくて、アタシが主役を食うくらいの演技を見せるたびに悔しがって、負けじと裏で努力を重ねていたみたい。全く……アイツはほんとに馬鹿なんだから……」

 

 悔しさも滲ませながらどこか穏やかな声色で話す大咲に自然と頬を緩ませていると、だからこそこの試合負けたくないと言われた彼女は短く「うん」と答え、この試合に勝つという決意を共に固めたのだった。

 

(悔しい。……すごい悔しい! 自分に出来ることは全部やった……けど届かなかった。これが今の私の実力なんだ)

 

 ベンチへと戻った河北はバットとヘルメットをしまい、グローブを外していた。

 

(この悔しい気持ち、絶対に忘れない! 練習して、もっともっと上手くなってやる!)

 

 河北はグローブを外し終えるとミットを手に既に他の守備陣が出ていったグラウンドへと飛び出そうとした。

 

「待ちなさい。河北さん」

 

「東雲さん……?」

 

 しかし東雲に声をかけられ、ベンチの外へと踏み出した足の向きをそちらに向け直す。

 

「さっきのプレイどういうつもりかしら?」

 

「さっきのって……」

 

「ヘッドスライディングのことよ。これは練習試合よ。無理をして怪我でもしたら馬鹿らしいでしょう」

 

「……!」

 

「東雲さん、そんな言い方は……」

 

 先日の東雲の発言が少なからず先ほどの河北の気負いに繋がったことを感じていた有原は不穏な雰囲気を感じて仲裁に入ろうとした。

 

「貴女はうちの大事な戦力なのよ。怪我でもされたら困るの」

 

「え……」

 

「東雲さん……」

 

 その言葉を聞いた有原は大丈夫だと感じとり、仲裁に入るのをやめてその場を東雲に任せた。

 

「……一塁ベースって固定されているでしょう。だから全速力での慣れないヘッドスライディングで骨折するようなケースも私はリトルシニアの時に見てきているの」

 

「こ、骨折!?」

 

「知らなかったでしょう? 貴女が思っている以上に危険を伴うプレーなのよ。慣れていれば怪我を避けるように上手くやれる人もいるけど、私は貴女にヘッドスライディングを勧めることは出来ないわ」

 

「知らなかった……。ごめん! 気をつけるよ」

 

「分かればいいのよ。さあ、そろそろ行きなさい」

 

「うん!」

 

 試合進行をスムーズにすべく審判が里ヶ浜ベンチの方へ向かおうとするのを察知した東雲は背中を軽く押すと河北は返事と共に元気よくマウンドへと出ていき、5番打者も左打席へと入って4回の裏が始められた。

 

(東雲さん、高い意識で野球に取り組んでるだけあって彼女の言葉はほとんど正論なのよね。もう少し言い方を柔らかく出来るといいのだけれど)

 

 鈴木が東雲の指摘に同意しながらもその言い方を気にしているとバットから放たれる金属音で視線をグラウンドへと戻した。

 

「ファール!」

 

 打球がバックネットに突き刺さるとカウントは1ボール2ストライクとなっていた。

 

(キャプテン(アイツ)はこの低めのストレートを評価してるみたいだけど、他に変化球ないならストレートのタイミングで待っていればファールには出来る)

 

(低めを続けてファールにされた……ここは)

 

 四隅を要求するサインに野崎が頷くと体重の乗ったボールがインハイへと投じられる。そのボールをバッターは顔だけ軽く引くようにして見送った。

 

「ボール!」

 

(もう少し際どいコースに投げられるならこの速さだしそうも言ってられないんだろうけど、そこまでシビアな投げ分けは出来てないからボールの勢いに焦らなければ振らされるのを防げる。こうして粘っていれば……)

 

(今のは少しでも見せ球になったはず。もう一度低めを)

 

(2ボール2ストライク……。私のコントロールだとフルカウントはまずいですよね。なんとか低めのストライクゾーンギリギリに……!)

 

 5球目となるボールが野崎の指先から放たれるとバッターはスイングの始動に入った。

 

(甘いボールが来る!)

 

(少し浮いてる……! ……!)

 

 構えているキャッチャーミットの位置を上側に動かした近藤だったがそのミットにボールが収まる前に振り出されたバットがストレートを弾き返していた。

 

(よし! 今度は上から叩けた!)

 

(いけない。長打コース……!)

 

 振り切られたバットが背中の後ろまで回るとバッターはセカンドの横に放った打球に手応えを感じながら走り出す。

 

(この打球……阿佐田先輩なら正面に回り込んで跳ね際を上手く捌けるのかもしれない)

 

 一二塁間方向に足を動かした河北は速い打球に飛び込むと目の前でバウンドするボールに緊迫感を覚えながらミットを伸ばす。するとミットがボールを弾いた。

 

(……! 止められた……!?)

 

 弾かれた打球は河北の前に落とされており、河北は飛び込んだ勢いでユニフォームが砂で汚れるのも構わずボールを拾い上げて左膝を地面に固定させるように押し付けると、右膝を浮かせてボールを投げた。

 

(ギリギリ……えいっ!)

 

 やや緩めの送球に秋乃はベースの端を踏むようにして身体を前に伸ばすとミットにボールが収まり、ランナーも一塁ベースを駆け抜けた。

 

「……アウト!」

 

(くっ……なるほどね。このスピードじゃ狙って野手の間を抜くのは難しい。多少甘くなっても低めにさえ来ていれば野手が届くところに飛ぶってわけ)

 

「ともえー! ナイスだよー」

 

「ありがとう! 小麦ちゃんもナイスプレー!」

 

(格好がつくようなプレーじゃなくてもいい。今の私に出来るプレーをやればいいんだ!)

 

 声を出しながらベンチの方を見ると有原と目が合い、互いに一瞬だけ笑みをこぼすと、すぐに切り替えてバッターボックスに入る6番打者に意識を向けたのだった。

 

「い、今戻りました」

 

「お待たせしましたー。あれ、キャプテンはどうしたんですか?」

 

 髪のセットが終わりベンチへと戻ってきた大咲だったが不在のキャプテンを気にしてグラウンドを見渡すとブルペンでエースの球を受けているのが目に入った。

 

「おかえりー。みよ、伝言を預かってるよ。次の回、3番に投げたら結果に関係なくそこで交代だってさ」

 

「え……ええーっ! な、なんで……」

 

「え? みよが先発で4イニング投げて後3イニングは任せるって話だったでしょ?」

 

「さっきの回もキャッチボールして肩温めてましたしそれはいいんですけど、なんでアイツ……3番までなんですか!?」

 

「なんだ、そっちか。4番と5番が左打ちで3番が右打ちだから、右のみよを3番まで投げさせるみたいね」

 

「な、なるほど……」

 

(いや、確かにそれはセオリーだけど! よりにもよって……! 意識しすぎないようにしてたのに、これじゃあ意識するなっていう方が無理じゃない!)

 

「……良かったね」

 

「え? なんで……?」

 

「だって後は逢坂さんに全力をぶつければいいんだよ。色々考えないで勝負に集中できるんだし、こんな機会滅多にないよ」

 

「それも……そうね」

 

(勝負よ……逢坂ここ!)

 

 アドバイスに合点がいった大咲はライトで守る逢坂を半ば睨むようにして見つめる。すると金属音と共にその逢坂が前に走り出していた。

 

(前の打席は当てにいって打ち取られたけど、今度は振り切った! 落ちろ……!)

 

 バッターは一塁へ向かって走り出すと振り遅れながらも打ち返した打球を見上げる。

 

(届くか……? いや、アタシの華麗なダイビングキャッチなら!)

 

(芯で捉えた打球じゃない! これは……)

 

 打球を追っていた河北だったが彼女の頭上を越えたところで足が止まると代わりに声を出す。

 

「逢坂さん、突っ込んじゃダメ! 打球伸びないよ!」

 

「えっ……わ、分かったわ!」

 

 河北に言われ飛び込むのを中断した逢坂はワンバウンドで捕球しにいく。すると河北の言う通り失速した打球はある程度距離のある位置に落ち、バウンドした打球が落ちてくるところでミットに収まった。

 

(た、確かに……ちょっと届かなかったかも)

 

「ありがとう、智恵ちゃん!」

 

「どういたしまして! まずは確実に行こう!」

 

 頷く逢坂を確認した河北は振り返るとランナーが出たことでやや強張った表情の内野陣を視界に捉える。すると河北は人差し指を天に向け、声を張り上げた。

 

「ワンナウト! 一つずつ落ち着いてアウトを取っていこう!」

 

 河北が声を出すのに合わせて秋乃と新田が声を上げ始め、遅れて初瀬も声を出し、近藤も内野の守備位置確認と並行して声を出し、外野陣も負けじと声を張り上げていた。

 

「……」

 

(ん……まいちん?)

 

 柵の前に立っている阿佐田は隣にやって来た倉敷が用があるのかと勘ぐったが、その視線はグラウンドのある一点を見据えて離れなかった。

 

(ポテンヒットにされたのはしょうがないにしても、その前の2球は大きく外れていた。……強打者の5番に投げて集中力持っていかれたんだ)

 

 倉敷は柵に両手を広げてつくと身を乗り出すようにし、驚く阿佐田やベンチにいる他の皆の目も(はばか)らず、マウンドで佇む野崎に向かって一段と声を張り上げて自身が思ったことを伝えた。

 

「野崎! 気を引き締め直して、一球一球集中して投げなさい。近藤のミットもよく見て!」

 

「……! ……はい! 分かりました!」

 

 ベンチから届いた倉敷の激励に野崎は一瞬ハッとしたような顔を浮かべると、その言葉の意味をしっかりと受け止め力強く返事をする。真剣そのものというような顔つきだった倉敷の表情が返事を受けて柔らかい微笑みへと変化すると短く頷いた彼女は再びベンチの奥へと戻っていった。

 

(……私は高一の頃の舞子しか知りません。しかし……これが本来の舞子なのかもしれませんね)

 

 塚原は自分の知らない倉敷の姿を見て最初は驚いていたが当時は排他的だった彼女の細かい動作からもそういった部分に覚えがあり、変化の経緯を知らないことにどこか寂しさを感じながらも、その変化を嬉しく思っていた。

 

(今の……なんだか懐かしい感じがしました。……ふぅ。しっかり、切り替えていきましょう!)

 

 野崎は大きく息を吸い込むとゆっくり吐き出してからホームの方を見る。先ほどより近藤のミットが良く見えるような感覚を覚えていると、その視線を遮るようにしてバットが構えられた。

 

(バント……ですか)

 

(2アウトにしてでもランナーを二塁に進ませたいんだ。ここは……)

 

(高めのストライクゾーンですね。高めってことは近藤さんは打ち上げさせたいんだ。ここは細かいコントロールよりしっかり腕を振り切って……!)

 

 垂直に上げられた足にリードを広げようとしたランナーの足が一瞬止まるとその足は前に踏み出され、近藤が構えたミットを目掛けてボールを投げ込んだ。唸るようなストレートが要求通り高めに向かっていくと、そのボールに合わせるように動かされたバットに当てられた。

 

(……!)

 

 その行き先にいち早く反応した近藤はマスクを外すとバックネット方向に走り出す。球威に押された打球は球審の頭上を超えると放物線を描いて落ちてきていた。

 

(今度こそ捕るんだ!)

 

 近藤は下がりながら打球を見上げるとミットを前に構えて右手を添えるようにしながら落ちてきたボールに合わせるようにして捕球を行った。

 

「アウト!」

 

(まだ油断しちゃだめ……!)

 

 捕球後に走った勢いを抑えるように二歩、三歩と歩いた近藤は反転すると送球体勢に入る。捕球後ベースを踏んで走る構えを取っていたランナーがそれに気づいてすぐにベースに戻ると近藤はようやく一息つく。

 

「近藤さん、ナイスキャッチです!」

 

「ありがとうございます。野崎さんもナイスボールでした!」

 

(送れなかったか……クイックで球威を落とせれば下位でもヒットの確率が上がると思ったんだけど。左の速球派に盗塁を仕掛けさせるのも得策じゃない。それなら……このサインよ)

 

(りょーかいっと)

 

 ブルペンから送られたサインを確認した8番打者が左打席に入ると低めに投じられたストレートをバットを振り出すことなく見送った。

 

「ストライク!」

 

(7、8、9番は野崎さんのストレート自体に合ってないみたいだった。ここは細かいコントロールを要求するよりはシンプルにいっていいはず)

 

 一塁ランナーを一瞥してから再び低めを狙ってボールが投げられると真ん中低めに決まったストレートをバッターは再び見送った。

 

「ストライク!」

 

(初回みたいにボール先行のリードはしてくれないか……)

 

(待球解除っと。一応じっくり見てみたけど打てるかなあ。一打席目はぼってぼてのピッチャーゴロだったし。ま、この調子だとまた低めに来るだろうし、打てるかどうかってのは振ってみりゃあ分かるでしょ)

 

 バッターはだらんとした目つきを心なしか鋭くすると投じられたストレートに対して思い切ってバットを振り切った。

 

「ストライク! バッターアウト!」

 

(うげっ……低めじゃないじゃん)

 

 バットがボールから大きく離れたところをくぐると真ん中高めに決まったストレートが心地よい捕球音を鳴らし、スリーアウトとなった。

 

(5番も6番も低めのストレートを狙って来たから、思い切って高めのストライクを要求してみたらあっさり三振が取れた。高めは甘い球って聞いてたけど、野崎さんの場合ボールに伸びがあるし、もう少し混ぜていっていいのかもしれない)

 

「野崎さん、ナイスピッチです。あの……」

 

 低めを続ける投球でバッターに狙いを絞られ、野崎のスピードのあるボールにも対応され始めていると感じた近藤はベンチに戻りながら野崎に今後のリードについて自分の考えを伝える。

 

(それでいいのよ、近藤さん。サインだけじゃ伝わらないこともある。……前の試合で牧野さんに指摘された問題を改善するためにも、私も見習ってもっと積極的にコミュニケーションを取るべきかもしれないわね)

 

 意思疎通を図る近藤の様子を見ながら思案していた鈴木だったが、マウンドに上がる大咲を見て、阿佐田のサポート役として思考を切り替えるとアドバイスをした。

 

「先ほどエースがブルペンで投げていましたし、恐らく左の野崎さんから継投してくるのではないでしょうか」

 

「うむ……なるほどなのだ。ここっちー」

 

「はいはーい! どうしたんですか?」

 

(さっきの回で作戦は読まれたみたいだし、あのピッチャーが投げるのが後はここっちだけとなると……)

 

 既にバッターとしていつでも出れるよう準備を整えた逢坂がやってくると阿佐田が急に両肩に手を置いたことで身体がビクッと震える。

 

「勇者ここっちよ……汝に使命を与えるのだ」

 

「ははーっ! 一体なんでしょう?」

 

 唐突に阿佐田が物々しい雰囲気で語り出すと逢坂はアドリブで応じ、鈴木は当惑していた。

 

「この打席(冒険)自由にやっちゃっていいのだ。代わりに里ヶ浜高校(我が王国)追加点の足掛かり(新たな繁栄)をもたらして欲しいのだ」

 

「仰せのままに。不肖、逢坂ここ必ずや——」

 

「なにやってるんですか」

 

「あ、教会の人なのだ」

 

「誰が教会の人ですか! 審判がこちらを見てるので、早く打席に向かってください」

 

「しのくも怖いのだ〜。ちょっとしたあおい流コミュニケーション術なのだ」

 

(……これくらいカジュアルにコミュニケーションが取れた方がピッチャーも気が楽になるのかしら)

 

 おどけたように話す阿佐田を見て鈴木が再び思案に入る中、ベンチを出ようとした逢坂が何かを思い出したように止まると踏み出した足をそのままに、後ろを振り向いた。

 

「龍ちゃん!」

 

「何?」

 

(もう名前呼びを訂正するだけ無駄ね……)

 

「あなたとの練習の成果、出してくるわ!」

 

「……ええ、期待してるわ」

 

 自信満々に笑い白い歯がこぼれる逢坂の言葉を受けた東雲は微笑を浮かべて送り出した。

 

(逢坂ここ! アンタを抑えて、試合もアタシ達が勝つ!)

 

(今度こそヒットを打ってみせるわ、大黒谷!)

 

 大咲はロジンバッグを叩きながら打席に入ってくる逢坂を見つめる。逢坂が地面をならし終え準備万端と言わんばかりにバットを構えると大咲も口角を上げながらロジンバッグを放り、プレートを踏んだ。

 

(この打者にはまだスローカーブを投げていない。ただ上位にはスローカーブが狙われている可能性がある。ここはまず今まで手を出してきていないボールから入りましょう)

 

 サインにしっかり頷いた大咲がボールを投げ込む。アウトコース低めへと投じられたストレートに逢坂はバットを振り出した。

 

(……!)

 

「ストライク!」

 

 ボールの少し上をスイングが通過し、キャッチャーが構えたミットは大きく動かされずにストレートを収める。

 

(タイミングは合ってた……。ストレート狙いなら、ボール球を振らせてみるか)

 

 2球目。今度は膝下に投じられたストレートに再び逢坂はバットを振り出そうとする。しかしそのスイングが途中で止められ、内にボール一つ分外されていたストレートを見送った。

 

「ボール!」

 

「スイング!」

 

 キャッチャーの主張により一塁審判に判断が委ねられるとスイングが認められ、ストライクの判定となった。

 

(あちゃー、取られたか。アタシとしたことが……)

 

(やはりストレートにタイミングを合わせている……?)

 

(ん、サイン。……あおい先輩の読みだと次はボール球が来るんだ)

 

(このキャッチャー、3球勝負は滅多にしてこないのだ。下位打線にも一つはボール球を挟む場合がほとんどだし、恐らく次は遊び球を混ぜてくるのだ)

 

 3球目となるボールが投じられると逢坂は三度スイングの始動に入るとインハイに投じられたストレートに対してバットを止めた。

 

「ボール!」

 

 高めにボール2個分は外されたストレートがミットに収まるとキャッチャーはボールを投げ返しながら横目でバッターの様子を窺う。

 

(今度はしっかりバットを止めたか。みよ、次はこれよ)

 

(よーし。さっきは2番相手に少し中に入っちゃったし、しっかり際どいところ狙ってく!)

 

 大咲はミットの中で握りを確認するとキャッチャーが構えたミットの位置を目掛けてそのボールを投じた。

 

(外のスローカーブ。腰引けてちゃ打てない! しっかり踏み込む!)

 

(崩しきれてない……!? けどほとんど要求したとこに来てる! 少しでも迷いがあれば打ち取れる)

 

(まだよ……まだ…………今!)

 

 緩い軌道で外の低めへと逃れるように曲がっていくスローカーブに逢坂はギリギリまで始動を溜めると、溜めた分を解放させるような腰の回転でバットが振り出された。するとグラウンドに金属音が響き渡り、ファーストが見上げる先を打球が通過していく。

 

(合わせる形じゃない。振り切られた……!)

 

「ライト! 外流したボールよ、軌道気をつけて!」

 

(ちょっと下こねたけど、振り切ったわ! 落ちなさい……!)

 

(先輩……!)

 

 そのままフライ性の打球がライトに向かうとスライス回転がかかったボールの軌道は流れるようにライト線へと曲がっていくものとなっていた。

 

(ファールになるなら思い切って飛び込むか……?)

 

 ライトが曲がっていく軌道に合わせるように走っていると、ライト線上に立ったファーストが指示を飛ばした。

 

「フェアよ! 飛び込んじゃダメ!」

 

「……分かったわ!」

 

 ライトが打球に対して無理に飛び込むのをやめ、そのまま走り続けるとやがて落ちてきた打球はファーストの見立て通り線から僅かにフェアグラウンド側にバウンドした。

 

(くっ、フェア!? ……!)

 

 大咲はその判定に表情を一瞬歪ませた後、一塁を蹴った逢坂に反応して自身も走り出した。

 

(ファールグラウンド側に打球が逃げていく……!)

 

 バウンドしたボールがライトから離れるように転がっていくと、ライトはそのボールを少しでも早く取ろうと真っ直ぐ走る。するとファールゾーンの深い位置に設置されたフェンスにボールが当たった。

 

(しまった!)

 

 回転に弾かれるようにフェアグラウンド側へと跳ね返る打球に深追いしていたライトは反応が遅れ、そのボールを追うような形でミットに収めた。

 

(二塁でストップさせようと思ってたけど、処理にもたついてる。ここは……!)

 

「三塁まで来なさい!」

 

(……! そうこなくっちゃ!)

 

 二塁ベースに膨らむようにして入った逢坂がベースを蹴って三塁に向かうと、ライトからも鋭い送球が返ってくる。

 

(さすがに送球位置が深すぎる!)

 

「カット!」

 

「……! みよちゃん!?」

 

「アタシが中継に入るわ!」

 

(……そっか! みよちゃんの本職はショート!)

 

「お願いっ!」

 

 キャッチャーの指示でショートが中継に向かおうとしたが、走り出していた大咲が代わりに送球をカットするとすぐ様サードに向かってボールを投げた。

 

「左に!」

 

(……!)

 

 倉敷の指示でベースの左側に向かって逢坂がスライディングを敢行すると、逢坂の右横を通過した送球をサードが収め、その足にミットでタッチしにいった。

 

「……セーフ!」

 

(スリーベースヒット……ですって……!)

 

 呆然とする大咲にショートはなんと声をかけようと迷っていたが、キャッチャーが守備のタイムと選手の交代の旨を球審に伝え、マウンドに集まっていく。

 

「逢坂、どうしたの?」

 

 スライディングの体勢のまま起き上がってこない逢坂を不思議がり倉敷が膝を折って話しかける。

 

「なんか、凄い胸の中から湧き上がって……! 練習で何本も打ってるはずなのに、試合で打つのってこんなに気持ちいいんだ……!」

 

「……ふふ、良かったわね」

 

(翼ちゃんが言ってた『真ん中から外に流れていくカーブなら……こう!』って感覚もなんとなく分かった気がする……)

 

 手のひらに残った感触を無邪気に嬉しそうに味わう後輩に思わず倉敷の頬も緩む。少しして逢坂が立ち上がると声援を上げているベンチに向かって満面の笑顔にピースサインで応えた。

 

「東雲さん。さっき練習の成果が……と言っていたけど、あれは……?」

 

「ああ。逢坂さんにはストレートとカーブのどちらかを宣言せずに投げて、それを打ってもらう練習をしていたのよ」

 

「そうだったの。それにしてもよく打ったわね。あれほどストレートにタイミングを合わせていたのに」

 

「そうね……傍目から見れば逢坂さんはストレートを狙っていたように見える。けど最後もストレートで来られていたら、恐らく打てなかったでしょうね」

 

「え……? それはつまり……」

 

「逢坂さんは最初から最後までスローカーブを狙っていたのよ」

 

「けれどストレートに対してバットを出していたわよ?」

 

「……もしスローカーブを狙うためにストレートを全て見送っていれば、あなたならどうリードするかしら」

 

「……! あのピッチャーの球種はストレートとスローカーブの二つ。ストレートを打つ気が無ければ、スローカーブを狙っていることが分かる。そうなれば少なくともゾーンにはスローカーブを投げさせないわね……」

 

「そういうことよ。つまりあれはストレートを狙っているという演技。……正直、私もバッティングピッチャーをやっていなければ気付けないわ。それほど自然だった」

 

 東雲と鈴木が逢坂の演技力に感心していると、明條学園のベンチから守備位置の交代に伴い選手の1人が複数のミットを届けにいく。すると大咲がそれを断ろうとしているのが窺えた。

 

「ノーアウト三塁のピンチを作っといて、代われるわけないでしょ!」

 

「みよちゃん……」

 

(うう。私が全力をぶつける滅多にない機会なんて言っちゃったからかな。凄い気持ちが入ってて、抑えられないみたい)

 

「みよ。落ち着いて」

 

「でも……!」

 

「……悔しいのは分かる。アタシももう少し上手く処理できれば、三塁には進ませなかったのにと考えると悔しい」

 

「先輩……」

 

 キャプテンが大咲を落ち着かせようとしているとライトからマウンドにエースが小走りでやって来る。

 

「だからアンタの分も背負ってアタシは投げる」

 

 そう言うとエースはピッチャー用のミットを受け取り、そのミットを上に向けた状態で突き出した。

 

「う、うう……! ……分かり、ました」

 

 絞り出すようにそう答えた大咲は悔しさを叩き込むようにそのミットにボールを託すと、自身の愛用する内野手用のミットを受け取ってショートの守備位置へと歩いていった。

 

「みよちゃん……」

 

「あなたはそのままライトに入ってね」

 

「は、はい」

 

 大咲の様子を気にしながら外野手用のミットを受け取るとライトに向かい、投球練習があるからとキャプテンにより他の内野手も散っていった。

 

「いきなりピンチだけど、頼んだわよ。エースのピッチングを見せて頂戴!」

 

「それはアンタのリード次第よ」

 

「い、言ってくれるわね」

 

「自信ない?」

 

「まさか。望むところよ!」

 

 軽く構えたミットにキャプテンは力強くミットを合わせてからホームに戻っていく。エースはストレートの長い黒髪を邪魔にならないようにゴムで纏めると、ボールを投げ込んだ。

 

「夕姫! 後ろにはウチがいるぞ。思い切って振ってこい!」

 

「はい!」

 

 投球練習が終わるとネクストサークルで岩城に後押しされた野崎が左バッターボックスへと入っていく。

 

(4番はここまで2打数2安打。ここも打ってくるでしょう。初球はここに……)

 

(それはいいけど……内野前進させないのね。初回に強襲ヒット貰ってるし、これ以上傷口広げたくないってことか。アンタは人にガツガツいく割に、そういうところ慎重よね……。まあ、そういう判断を感情に流されないで出来るあたりキャッチャー向きなのかもね。けど……)

 

 内野を見渡すように確認すると逢坂を一瞥し、最後に構えられたミットを見てからクイックモーションに入る。狭いステップ幅で足が踏み出されるとオーバースローの投球フォームから投げ下ろすようにしてボールが投げ込まれた。

 

(え……)

 

 初球から振っていこうとしていた野崎だったが、膝下に投じられたストレートを思わず見送った。

 

(ピッチャーとしてはたとえどれだけ失点濃厚でも、最初っから点やるつもりでなんて投げない……!)

 

「ストライク!」

 

(凄い角度だな……けど、夕姫の方が速い! ん……あれ、そういえばウチらは夕姫に投げてもらって左投手の練習が出来るけど……)

 

(ぼ、ボールが見えづらい……! そういえば私、左投手を打つのは初めてでした……)

 

 ただでさえ長身から角度のあるストレートを投げ込まれているのに加え、左打者である野崎は初体験の左投手にやりづらさを感じていた。ボールが投げ返され、2球目となるボールが投じられる。

 

(スローカーブ……!)

 

 野崎はバットを振り出したが腰が引けてミートすることが叶わず、アウトコース低めにしっかり決まったスローカーブに空振りを取られていた。

 

(確か皆でビデオを確認した時にも綾香が特徴的なボールとして挙げていたな。コントロールが難しいみたいだが、スタミナが切れるまではあれがコースに決まり続けてた……)

 

(ここはもう一球スローカーブを、今度は外に外して……)

 

 次のサインがキャッチャーから出されるとピッチャーは首を横に振った。

 

(……! まさか3球勝負を……)

 

(下手にカウント悪くしたらスクイズもあるし、球数投げたらバッターも慣れてくるでしょ。合ってないうちに勝負に行くべきよ)

 

(……分かったわ。これで勝負に行きましょう)

 

 新たなサインにピッチャーが今度は頷くとその指先から投げ下ろすようにボールが投じられ、投げた勢いで腕が内側に捻られる。

 

(初球と同じコース……!)

 

 膝下に投げられたボールに野崎が反応を示すと思い切って振り出されたバットがボールをフェアゾーンへと弾き返した。

 

(今のは……!?)

 

 詰まった打球にストレートとはまた違った感触を覚えながら野崎は一塁に向かって走り出す。

 

(セカンドゴロ……! 前来てなかったし、ホーム行ける!?)

 

(させない……!)

 

「……!」

 

 セカンド方向へと鈍い勢いで転がっていた打球に右手に嵌めたミットを食らいつくように伸ばしたピッチャーはそのボールを捕球することに成功した。

 

(無理やりピッチャーゴロにした……!)

 

「ファーストに!」

 

 ピッチャーは崩れた体勢を持ち直すと一度逢坂の方に投げられる姿勢を取り、逢坂が三塁ベースに戻るのを視界の隅で捉えながら捕球時から一回転するようにしてファーストに送球を行った。

 

「アウト!」

 

 しっかり余裕を持ってバッターランナーをアウトにするとボールを受け取りながらマウンドに戻り、キャッチャーの目を射抜くように見つめる。

 

(……そうね。ここは)

 

「内野前進! 追加点与えさせないわよ!」

 

(……今のは横抜けてればアイツはホームに還ってた。言葉にしなくてもアタシにも、相手にも伝わる……一点すら許さないっていう立ち振る舞い。これがエース……)

 

 大咲は定位置から前に出ながらそのプレーに心が揺さぶられる感覚を覚えていた。

 

(まずはさっきの打席で振ってきたコースから)

 

 左打席に入った岩城を見ながらキャッチャーがサインを出すと首を縦に振ったピッチャーはアウトハイにストレートを投じた。そのボールに岩城はフルスイングで応じる。

 

「ストライク!」

 

(くぅー! 外れてたか! しかも横で見るのとはまた全然違うな!)

 

(ボール球振ってくれるのはありがたい。けどこの積極性は怖いわね。左打者なら初球はこの独特な軌道に思わず見てくることが多いのに)

 

 高めに1.5個分外れたストレートをミットに収め、ピッチャーに投げ返すと次のサインを送った。

 

(ストライクはいらないってわけね。なら中に入れないように……)

 

 サインに頷くと次のボールが投じられる。膝下に投げられたストレートは高さコース共に1個分ずつ外れていたが、岩城はそのボールを振りにいく。すると強烈な風切り音がピッチャーにまで聞こえた。

 

「ストライク!」

 

(……万が一あのスイングで捉えられたら)

 

 3球目となるボールが投じられるとそのボールはインハイに向かっていった。

 

「うおっ!?」

 

 要求されたボール球のコースよりさらに高めに外れたボールを岩城が見送るが、その軌道に思わず顔を引いていた。

 

(すごく曲がったわけじゃないが、最後少しこっちに向かって曲がってきた。シュート……か!)

 

「いいボール来てるわよ!」

 

(……ストライクに寄らないようにはしたけど、少し力んだな)

 

 力みを察したキャッチャーが声をかけて間を取らせ、程よく力みを取れたところで4球目となるボールを投げ込んだ。

 

(……! き、来たか……スローカーブ!)

 

(よし! 体勢を崩した……)

 

 外寄りのコースから弧を描いてアウトローのベースの隅へと曲がっていく軌道に内を印象づけられた岩城は体勢を崩されていた。

 

「まだ……だぁ!」

 

(嘘でしょ。こんな崩れた体勢からフルスイングする気……!?)

 

 身体の軸が斜めになりながらも遅れた始動を取り返すように左腕でバットが押し込まれると、その先でボールが捉えられた。そしてそのバットが振り切られると体勢を崩していた岩城は尻餅をつきながら放たれた打球を視界に捉えた。

 

(アタシだってこれ以上……点をやるつもりなんて、ない!)

 

「なにィ!?」

 

 岩城の目に三遊間方向に鋭く放たれたライナーに前に出ていた大咲が驚異的な反応で斜め後ろに飛ぶように捕球しにいく姿が映る。

 

「逢坂、バック!」

 

(えっ、嘘!?)

 

(アタシが出したランナーだ……)

 

 内野を抜けたと思った逢坂はホーム側に踏み出しており、倉敷の声に反応してブレーキをかけ、ベースに頭から戻る。

 

(けじめはつける!)

 

 そのミットにボールを収めていた大咲は飛び込んだ勢いをステップを踏むことで調整すると慌ててベースにつくサードに向かって流れるように送球を行った。

 

「アウト!」

 

(や、やられた……!)

 

 逢坂の手がベースに触れるより早くサードのミットに収まった。岩城のアウトと合わせて一気に二つのアウトが成立し、スリーアウトとなる。

 

「みよ、ナイス」

 

「先輩こそナイスピッチです。エースのピッチング、見せてもらいましたよ」

 

 ベンチへと戻る大咲にエースが近づいていくと小さくそう呟き、大咲が微笑みと共に返事をすると、エースはそのまま先にベンチに戻っていった。

 

「みよちゃーん。ナイスキャッチにナイススロー!」

 

「ありがと」

 

「先輩も凄い気迫だったね」

 

「あれ、あの人のこと苦手だったんじゃ?」

 

「に、苦手っていうか……高嶺の花で恐れ多いって感じかな」

 

「半年も一緒にいるのに?」

 

「私、夏はベンチ外だったから……」

 

「あ……ごめん」

 

「ううん、いいの! 大会で活躍するみよちゃんを見て、私も秋こそはって思ったんだし」

 

 申し訳なさそうにする大咲に手を振って気にしないようにと伝えると再びエースの話題に戻った。

 

「あの人は名家の出で、しかも才色兼備で文武両道で……この世の全ての四字熟語を掌握してるっていうかさ……住む世界が全然違うなあって……」

 

(いや、四字熟語ってそんな良い意味ばっかじゃないけど……)

 

「ま、エース争いの相手はそんくらいハードルが高い方がいいわ」

 

「ええ!? あの人は夏大会でも3年生を押し除けて、エースになったんだよ!」

 

「そりゃ、あの人が凄いのはアタシも知ってるわ。けど……」

 

 一度里ヶ浜ベンチの方を振り返ってから先に明條ベンチに戻ったエースに視線を移した大咲は曇りのない目でこう言った。

 

「だからって諦めるなんて……そんなのつまんないでしょ」



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散りゆく高嶺の花

 5回の裏、明條学園の攻撃。右バッターボックスに立つ9番打者はカウント0ボール2ストライクと追い込まれていた。野崎はボールを受け取りサインを確認すると、思いがけないことを見た風に眉を上げる。

 

(3球勝負ですか……?)

 

 ストライクへのボールを要求するサインに野崎は少し迷いながらも頷くと、要求通りストライクを狙ってボールを投じた。

 

「ストライク! バッターアウト!」

 

(うっ……!)

 

「野崎さん、ナイスボールです!」

 

「あ、ありがとうございます!」

 

 そのボールがバットを振る様子もなく見送られると、真ん中高めやや外寄りに投げられたボールに球審がストライクの宣言を上げ、ワンナウトが取られる。

 

「ドンマイ! けど、バットは振っていきしょ」

 

「うう……すいません。さっきの打席、外れたボールを振って空振り三振になっちゃったので……」

 

(それでか……)

 

 バッターがベンチへ帰っていくと、その途中でネクストサークルから出てきたキャプテンに声をかけられていた。

 

「ね、どうして相手が3球勝負に来たか分かる?」

 

「えっと……分かりません」

 

「初球、2球目とバットを動かさずに見送ったでしょ。あれで相手のキャッチャーに『このバッター、打つ気がないな』って思われたのよ」

 

「う……確かに、見ていってフォアボールで出れたらいいな……と思ってました」

 

「もうボール先行のリードはしてくれないから、フォアボール狙うにしてもただ待つだけじゃ厳しそうなのよね。だから思い切って振ってみましょう! あなたと同じ一年生なんだし、まるっきり打てないなんてことはないんだから……ね?」

 

「は、はい! 分かりました!」

 

 後輩の元気の良い返事にキャプテンは快活な笑みを見せながら頷くと、折っていた膝を真っ直ぐにして打席へと向かっていった。

 

(あれだけ速い球投げてるし、この辺りでスタミナ切れもあり得るかと思ったけどまだその片鱗は見えてこない。粘って球数稼ぐ手もあるけど……さて、どうしましょうか)

 

 バッターは地面をならしながら考えを纏めると片手で持ったバットを立てるように腕を伸ばし、その状態で少し長めに息を吐くと、腕を引いて右手が添えられた。

 

(このバッターは今日2打数2安打。一打席目は真ん中付近のストレートを右中間方向に、二打席目は低めのストレートをショートへの内野安打。でも二打席目はヒットにはされたけど打ち取った当たりだった。ここは)

 

(回を追う毎に投げやすくなっている気がします。そしてそれは気のせいじゃなく、近藤さんが投げやすいように尽力して下さっているから……。私もピッチャーとして……それに応えたい!)

 

 近藤の目を見ながらサインに頷いた野崎は湧き上がる気持ちをボールに乗せるようにして投げ込んだ。

 

「……ボール!」

 

「野崎さん、良いボールですよ!」

 

「はい! ありがとうございます」

 

(前はボールゾーンに投げる度、少しずつ不安が募っていました。けど近藤さんに声をかけてもらって、その不安が払われていくのが分かります……)

 

 投げ返されたボールが体全体に響くような感覚を覚えながら、再びサインに頷いた野崎はボールを投じる。

 

「……ストライク!」

 

(低めを軸にした配球、か。コースに厳しく来てるわけじゃないんだけど、こう低めに球威のあるスピードボールが来るとね……私はパワーはない方だし、芯を少しでも外したらあっさり打ち取られちゃうな)

 

 バッターはさりげなくキャッチャーミットを見て低めを想定して捕球されていることを確認すると、右手を口元に持っていき左手で一度バットを振り子のように揺らしてからバットを構え直した。

 

(この人はさっき低めを振り切ってきた。また狙ってくるかな……?)

 

 その様子を見ながら近藤がボールを投げ返してサインを出すとそれを見た野崎は首を縦に振り、ミットの中で縫い目に指先を沿わせるようにしてから投球姿勢に入った。

 

(新しい投球フォームを身につけてから、練習がしたくてたまりませんでした。そんな中、近藤さんはあの日から私が投げたい時にずっと付き合ってくださいました。その度に手を赤くして……おかげで私は高めと低めを投げ分けられるようになりました。こうして試合で投げている間もあなたの手はまた、段々と赤くなっているはずです。でも……いえ、だからこそ。私はあなたとの練習で身につけたものをこの試合、全力で出し切ります……!)

 

 右足が踏み込まれると力強くリリースされたボールは真ん中高めやや内寄りへと向かっていた。

 

(それを待ってた!)

 

(振ってきた……!)

 

 投じられたストレートに対してバッターの肩の高さでバットが振り出さられると打球は右方向へと放たれた。

 

「ファール!」

 

 秋乃と近藤が打球を見上げながら追っていったが、ファールスタンドにボールが入るのが途中で分かったため、その足は止められていた。

 

(低めを軸に高め混ぜてきてるからそれ狙ってみたけど、バットが下に入った……! この感じ、少なくともうちのエースよりはストレートの落ちが少ないってわけね。それに低めに目付けされてると高めを狙っていても、前のボールの残像を完全には消し切れない。せめて一打席目みたいに中途半端な高さに来てくれれば……)

 

 1ボール2ストライク。追い込んだ里ヶ浜バッテリーがサインの交換を終えると4球目が投じられた。そのボールにバッターは再びバットを振り出そうとしたが、勢いがつきかけたスイングを踏ん張って止めにいく。

 

「ボール!」

 

 スイングの主張で一塁審判に確認が行われノースイングの判定が出されるのを見ながら、バッターは横目で近藤の様子を窺う。

 

(高めに外したストレート……私の狙いが高めだということに気づいて誘ってきたんだ。もう少しゾーンに寄っていれば振らされていたかもしれない。……いいわ。それならキャッチャー同士、読み合いといきましょう。高めを2球続けたから、心理的には低めを要求したくなるところだ。ここは高めは捨てて、低めに絞って振る!)

 

(……カウントはこっちが追い込んでいるんだ。野崎さん、あなたはまだこれをコントロールしきれないけど、追い込んでから際どいコースに行けば外れていても振ってくれるかもしれない)

 

(四隅……ですね。分かりました!)

 

 要求されたベースの隅の一点を狙って野崎の指先からボールが放たれる。投じられたのはアウトコースの低め。少し中に入ったこのボールにバットが振り出される。

 

「ファール!」

 

 鈍い当たりの打球は一塁線に転がると秋乃が捕球する前にファールゾーンへと逸れていった。

 

(低めに絞っていたから当てられたけど、危なかった。今のは際どいコースを狙ったウエストボールか……? う……もう投げるのか。球種がストレートしかない分、テンポが早いな……)

 

 腕が振られるとインコースの高めにストレートが投じられ、バッターはそのボールを見送った。

 

「……ボール!」

 

(いいとこ来たのに……今のは取って欲しかったな)

 

(あ、危なかったあ……! キャッチャーのミットが少し内に流れてなければ、ストライクだったかもね……)

 

 ミットの位置を確認したバッターはキャッチャーから見えないように首を傾けると表情を崩して安堵の吐息を漏らす。その間にボールが投げ返されると近藤は少し悩んでからサインを出した。そのサインに野崎は一瞬驚いてから頷くと、5回の表の時にベンチで近藤と話した内容を思い出していた。

 

「全力投球……ですか?」

 

「はい。今までも腕は振り切れていると思うんですが、四隅や低めなどコースを狙って投げているボールはコースを考えずに思い切り投げたボールと比べると少しだけ勢いが落ちているんです」

 

「自分では分かりませんが、コントロールするために無意識に力を抑えているのかもしれませんね……。ですが、近藤さんの構えているところに投げられるかどうか……」

 

「それでも構いません。特にこの試合が決まってからはあなたのボールを幾度となく受けてきました。反応して捕ってみせます……!」

 

「……分かりました。サインが出されたら、私も思い切り投げ込みますね」

 

「お願いします!」

 

 フラッシュバックされるようにその内容を思い返した野崎は腕を広げるようにしてから真ん中に構える近藤を見ると、右足を上げて投球姿勢に入る。力のあるボールが指先から弾かれるようにリリースされると、アウトハイに唸りを上げて向かっていった。

 

(えっ!)

 

 バッターは想定していた球速とは異なる球速のストレートに振り出そうとしていたバットを思わず止めてしまった。

 

「……ボール! フォアボール!」

 

(は、入ってないのか。……本当だ。私が感じた高さより、ミットの位置が高い。このピッチャー、もう一段階上のギアがあったんだ……!)

 

 フルカウントから投じられたボールは高めに外れており、バッターは野崎の方を見ながら歩いて一塁へと向かっていった。

 

「野崎さん、良いボールでしたよ!」

 

「はい! 大丈夫です!」

 

(さっき近藤さんがこのサインはボール球になることも考えて使うって言っていました。ボールにはなりましたが、今のは振ってもおかしくなかった……はずです。攻めた結果として……切り替えましょう)

 

 上を向いて息を軽く息を吐き出した野崎はその目線をホームへ戻すと近藤のサインに頷き、バントの構えを取った2番打者に対してボールを投じた。真ん中低めへと投じられたストレートにバットが合わせられると一塁線に打球が転がっていき、秋乃が反応して前に出て捕球すると近藤の指示で一塁のベースカバーに入った河北に送球が行われ、一塁走者に二塁に進まれるもバッターランナーをアウトにしていた。

 

(一番バッターに投げている間に段々と野崎さんの息が乱れてきた。だからここは下手に球数を使うよりバントさせちゃっていい。これで2アウト、3番バッターで勝負……!)

 

 外野に前進の指示が出されると永井と逢坂は前に、岩城はやや前へと出てくる。その様子を確認した近藤はキャッチャーボックスに座り、右打席へと入る3番打者の様子を窺いながらサインを送った。

 

(内……ですね)

 

 乱れてきた息を二塁走者を確認しながら出来るだけ整えた野崎は要求されたコースを狙ってボールを投じた。

 

「ストライク!」

 

 厳しくコースに決まる形ではないがインコース低めに投じられたボールが見送られストライクとなった。

 

(え……もう一球、しかもさっきの大雑把な狙いとは違ってストライクゾーンを狙うサインですか?)

 

 近藤から出されたサインに一瞬戸惑った野崎だったがそのサインに頷くと投球姿勢に入った。

 

(近藤さんの出すサインの意味、汲み取って投げられるようになりたいな。でも今はまず、近藤さんのミットに私が投げられる限りのボールを……!)

 

 腕が振り切られるとインコース真ん中へとボールがリリースされる。そのボールに対してバッターは再び見送った。

 

「ストライク!」

 

 手を出されることなく追い込めたことに野崎が一安心している中、投げ返されるボールを見ながら二塁走者がリードの意図を探った。

 

(外野前進させてるのに内のそれほど厳しくないところに2球続けてきた。もしかしてあのキャッチャー、さっきの打席で気づいたのか……?)

 

 その間に次のサインが出され二塁走者はランナーとしての注意を高めてリードを取ると、野崎がボールを投げ込んだ。

 

「ボール!」

 

(外に外してきた。いや、厳しいところ狙って逸れたのか?)

 

 外に枠からボール二つ分外れたストレートを見送ったバッターは次のボールに備えてバットを構え直した。テンポ良くサインの交換が終えられるとインコースに向かってボールが投じられた。

 

(させるか!)

 

 インコース真ん中やや高めに投じられたストレートに対してバッターはこの打席で初めてスイングを行う。

 

「ファースト!」

 

「任せてー!」

 

 弾き返した打球がファーストの頭上へと飛ばされると秋乃は前を向いたまま下がり、落ちてくるボールをミットに収めにいった。

 

「アウト!」

 

(くっ……差し込まれた)

 

(最後も内か。バットの先で大きく円を描くようなドアスイングで外には滅法強いんだけど、スイングが大きいから内にはバットが遅れやすいのよね。……でもこれまで見せてたスイングはたったの一回よ。あのキャッチャー、良く気づいたわね)

 

 キャプテンはベンチに戻り打ち取られたバッターに声をかけて励ますと、防具を付けながら相手ベンチに入った近藤に目を向けた。

 

「……ねぇ、まだ? アンタがいないと投球練習出来ないんだけど」

 

「ん、ごめんごめん。でも先に行ってボール回しに参加してもいいのよ?」

 

「……いや、別にいい」

 

 先に守備陣がグラウンドに出ていく中、塁上にいて一番戻るのが遅くなったキャプテンが防具をすぐには取り付けられないでいると、待っていたエースが話しかけてきた。

 

「ふふ。それとも女房役との会話を楽しみたかった?」

 

「それはない」

 

「あーん。厳しい……。私はこんなにあなたに尽くしているというのに」

 

「ちょ、ちょっと。変なこと言わないでよ。アンタはキャプテンなんだから、もう少し威厳というか……」

 

「あなたに皆が話しかけやすいようにフランクに話してるだけよー」

 

「余計なお世話」

 

「ひーん……」

 

 泣く振りをしながらも慣れた手つきで防具をつけたキャプテンはエースと共にグラウンドに歩いて行く最中、エースがライトの方をチラチラと見ているのに気づき、少し見上げるようにして目を見ながら小声で話しかけた。

 

「初回のやつ、まだ気にしてる?」

 

「う……」

 

「あの子はさ、ちょっと臆病なところがあるから。悪気があったわけじゃないと思うの。まだベンチ入りして間もなくてあなたに慣れてないみたいだし、許してあげてね」

 

「別に気にしてない……」

 

 マウンドまで辿り着いたキャプテンはキャッチャーボックスに向かう前に腕で引き寄せるようにして耳元でささやいた。

 

「大丈夫。私も皆も上辺だけじゃない……あなたの良いところも悪いところも全部を見てるよ。ピッチャーって全員の視界に入るでしょ。だからあの子もきっと、本当のあなたがすぐに分かるよ」

 

「……!」

 

 その言葉にエースが目を見張ると、キャプテンは手を軽く振りながら橙髪を揺らしてホームへと向かっていった。

 

(アタシは……まだ引きずってたのか。そんなのもう過去のことだと思ってたのに)

 

 準備投球をしながらエースは脳裏で過去の記憶が呼び起こされていくのを感じていた。それはどこか切り放そうとしても消すことの出来ない焼印が心に押されているようで、少しでも心を冷やすようにボールを受け取りながら息を大きく吸い込んだ。

 

(初めはホントに些細なことだった。運動会のマラソンで一位になった時、中学受験で名門校に入った時、全国模試で好成績を残した時……アタシに対で使われる枕詞かのように、アレは引っ付いてくるようになった)

 

 ——さすが○○さんのところのお子さんね。——やっぱり○○さんのとこは頭の出来が違うな。——○○家の出は違うね。自分の名字がまるで雑音のように彼女の脳に流れていく。

 

(名家の出としてのアタシ。それも確かにアタシ、けどそれは一部分でしかない。でもいつからか……)

 

 彼女の脳の中で文武両道、才色兼備……誰かが彼女を形容するように色々な言葉を並べていく。それは過去に幾度となく彼女自身がかけられた言葉だった。

 

(アタシの家は確かに不自由ない環境だった。家族も皆大好きだし、今でもこの家に生まれたことを後悔なんてしていない。でもその環境、あるいはアタシ自身の才能、そんなことが取り上げられてアタシはまるで別世界の住人かのように扱われるようになった)

 

 高嶺の花、誰かが呟いた言葉に他の皆が同意するように頷くとまるで最初から誰もいなかったかのように彼女の脳内から人が消えていた。

 

(特別扱い……世界が違う? そんなことない。アタシだって人並みにオシャレしたりしたい、普通の女の子だ。でもそういう風に見られて、アタシはそういう普通のことを言ってはいけない、圧力のようなものを感じた。それがとてつもなく……嫌だった。嫌なのに、自分でその状況を変えられなくて、そんな自分自身も嫌いだった)

 

 彼女の心で一人佇む彼女自身を消えていた大勢の人々が遠巻きに見ると、彼女の身体から抜き出されるようにして功績の数々が浮かび上がり、皆はその功績を見上げて口々に褒め称える。やがて誰も彼女自身を見るのを、止めた。意を決して彼女は掠れるような声で叫ぶ。「見てよ、上辺だけじゃなくて、アタシを……本当のアタシを、誰か見つけて!」……と。しかし心の中でいくら叫んでも誰もその言葉に反応することはなかった。

 

(そんなアタシの些細な抵抗。アタシはエスカレーター形式で上がれる名門の高校、大学を蹴って明條学園を受験した。周囲の目が僅かに変わったような気はする。けど芸能人を多く輩出する明條は、普通とはまた違うベクトルで捉えられた)

 

 女優、歌手、アイドル……彼女を知る人々はその将来を口々に予想しあい、明條でも高嶺の花となりつつあった彼女はますます自分のことを見てほしいという気持ちが増していった。そんな中、ある日彼女は読者モデルのオーディションに応募をした。なにか特別なきっかけがあったわけでもなく、不意に気持ちが向いて出したものだった。そのオーディションに彼女は見事合格した。

 

(どうしてあの応募を出したか今でも分かってないけど、出してよかった。新作の服やメークを試せるし、仕事とはいえ色々な人と話せるのは楽しかった。アイツと会ったのはそんな時だったっけ)

 

「ねえ! あなた、もしかして明條学園の生徒じゃない?」

 

「え……そうですが」

 

「やっぱり! あ、私はただの手伝いだから敬語はいらないからね!」

 

 撮影の休憩時間に彼女がスタッフのコップに飲み物を注いでいると、急に同じくらいの年頃の女性に話しかけられてたじろいでいた。

 

「私もね、明條なんだー。今日は父さんの手伝いで来てて……あ、父さんはカメラマンだよ。頼りない顔してるけど、あれでも腕は確かだから安心してね」

 

「そ、そう。あの方は初めてじゃないから、そこは心配してないわ」

 

「えー、初めてじゃなかったんだ。ならその時も手伝いに行くんだったなー。あ! 良いんだよ休んでて! そういうことは裏方に任せて」

 

 話しながらもコップに飲み物を注いでいく彼女に気づき、自分が代わりにやろうと近づいていく。

 

「ありがとう。けど、これはアタシにやらせてくれないかしら」

 

「へ? そりゃ無理にとは言わないけど……どうして?」

 

「まだ仕事に慣れてないアタシが少しでもやりやすいようにって色々してもらっているもの。大したことはできないけど、少しでも自分に出来ることはしたいのよ」

 

 そう言った彼女がこぼした柔らかな微笑を見ると負けないくらいの快活な笑みを見せて次の撮影の準備を手伝いに行った。やがて撮影が終わると、二人はカフェへとやってきて話をしていた。

 

「ね、私さ。プロデューサー志望なんだ。父さんにお願いして現場の手伝いをさせてもらいながら、勉強中の身なの」

 

 アイスティーにミルクを入れてかき混ぜながらそう言われ、彼女もアイスコーヒーを一口飲んでから話を続けた。

 

「どうして、プロデューサーを目指してるの?」

 

 初対面で聞くことじゃなかったかな、と彼女は一瞬迷ったが、それに対してさほど間を置かずに返事が返ってきて彼女は安堵した。

 

「私さ、頑張ってる人の応援するのが好きなんだ。見ててこっちもエネルギー貰えるっていうかさ」

 

「なるほど。そういうの、いいと思うわ」

 

「だからさ」

 

「……?」

 

「あなたみたいに頑張ってる人、好きなんだ」

 

「え……」

 

 その言葉に彼女が戸惑っている間も程よく混ざったアイスティーを飲んでから、言葉が続けられた。

 

「一応私もプロデューサーの卵だからさ、分かるんだ。さっきの裏方みたいなことしてるのもそうだけど、撮影見てると普段からファッションのこと熱心に勉強してるの分かるし、なんていうか……一生懸命、よね。裏で一杯努力してるんだろうなっていうのが、今日の撮影を通して伝わってきたのよ」

 

「…………」

 

「あれ、どうしたの……ええ!?」

 

「ご、ごめん……なんでもないの」

 

 その言葉を聞いて彼女の目からは気付いたら涙が溢れてきていた。

 

「わ、悪いこと言っちゃったかな……?」

 

「う、ううん。違うの……嬉しかった」

 

 ナプキンで涙を拭こうとする彼女に慌てながらもとっさにハンカチを取り出して落ち着かせるように背中を撫でながら、涙を拭き取った。それが彼女たちが初めて出会った日の出来事だった。

 

(……あれは、今思うとちょっと恥ずかしかったな。初対面の人の前で泣いちゃうなんて)

 

「ラスト一球!」

 

 ストレートやシュートの様子を見ていた準備投球のラストボールとしてスローカーブが投じられると外から入ってくるような軌道でベースの角をなめるようにしてミットに収まった。

 

「オッケー、ナイスボール! さあ、6回の表もしまっていくわよ!」

 

(思えばアンタともあれからの付き合いか。あの時のしおらしさは何処へやら、凄くフランクに話しかけてくるようになったけど、明條でも同級生には高嶺の花みたいな扱いをされなくなったのはアイツのおかげなのかもね……)

 

 ボールが投げ返され、周りから声が上がるのを聞きながら彼女は最後に野球部に誘われた時のことを思い出した。

 

「女子野球部?」

 

「そうそう。私は一年の時からプロデューサー修行のためにキャッチャーやってるんだけど、今年になって面白い子が入ってきたのよ。ちょっと生意気だけどね。でもお陰で皆凄いやる気で、本気で上を目指そうってなってるんだ」

 

「そう。頑張ってる人が好きなアンタには、本気でやろうって方が合ってるかもね」

 

「へへー、そうなの。今すっごく楽しいんだ! だからさ、あなたもやりましょ!」

 

「え……アタシが?」

 

「二人でさ、一緒に何かやってみたいなーって思ってたのよ。だから、私とあなたでバッテリーを組んで、皆の力で明條を日本一のチームにしましょう!」

 

「バッテリーって……アタシが投手やるってこと?」

 

「そう! きっとあなたは投手向きだと思うわ。左とか背が高いとかもあるけど、何より……性格的にね」

 

「どういうこと?」

 

「それを知りたかったら、やってみましょう!」

 

「……いいわ。アタシもアンタとなら、野球楽しめる気がする」

 

 差し出された手を取り、彼女は野球部に入った。元々の運動神経に甘んじず、キャッチャーとスローカーブのコントロールを中心として特訓を重ねた甲斐もあって夏の大会では3年生を押し退けてエースとして登板することになった。

 

(今ならアンタが言ってたこと、少しは分かる気がする。アタシは、アタシが思っている以上に……わがままだ。自分のことを認めてもらいたくて、しょうがないのかもしれない)

 

 永井が右打席に入るとオーバースローの投球フォームから投げ下ろすようにして短いステップ幅でボールが投じられた。

 

(ストレートだ……えいっ!)

 

 アウトコース真ん中に投げられたボールにバットが振り出されると、シュート回転がかかったボールが外へと逃げていき、バットの先で弾き返された打球が転がった。

 

(ピッチャー、ファースト、セカンドのトライアングルの間に転がったか……!)

 

「ファースト!」

 

「任せて!」

 

 その打球をファーストが捕るとすれ違うようにして一塁へと向かったエースは走りながらミットを構える。ファーストから送球が行われるとエースはまずボールをしっかり掴み、そしてベースを踏んだ。

 

「アウト!」

 

(うう……ストレートじゃなかったのかな……)

 

「ナイスカバー! 上手く入れるようになってきたね」

 

「練習付き合ってもらったからね。おかげでスムーズに入れるようになったわ」

 

 ファーストとすれ違い様に言葉をかわすとマウンドに戻った彼女は柔らかい微笑を浮かべていた。

 

(楽しい……)

 

 続く新田への初球、ストレートがアウトハイからボール2個分外に外されると踏み込んだ新田が振り出そうとしたバットを止めたことでボールとなった。

 

(やっぱり下位はストレート狙いか)

 

 2球目、3球目とアウトコース低め、インコース低めにスローカーブが決まり、見送った新田は追い込まれていた。そして4球目が投じられる。

 

(やった。高めのストレート!)

 

「ストライク! バッターアウト!」

 

(うっ……釣り球だった……!)

 

 真ん中高め、少し枠から高めに外されたストレートに新田のバットは空を切り2アウトとなった。

 

(ど、どうしよう。……そうだ! 前の試合の中野さんみたいに、思い切ってセーフティバントを……えっ!)

 

 バッターボックスに入った初瀬はファーストとサードが前に出てくるのを見て、目を見開いていた。

 

(このバッター、さっきの打席バントを決めてるからね……。スイングはヒットを打てる感じじゃなかったし、この状態で勝負でするわよ)

 

(こ、こうなったら……思い切って振るしか!)

 

 意気込む初瀬だったが続けて投じられたストレートにタイミングが合わず、追い込まれていた。3球目の外に大きく外されたストレートを見送ると、4球目のサインが出される。するとピッチャーは首を横に振った。

 

(え……? あー、なるほどね。夏の時点で決め球として投げられるようになったアウトローへのスローカーブより……こっちも決め球として自信をつけさせた方がいいか)

 

(そう。夏が終わってからアンタとアタシで新しく磨き上げた……)

 

「……!」

 

 足が踏み出されるとインコースに投じられた角度のあるボールが突き刺さるようにミットに収まった。

 

「ストライク!」

 

(うぅ。振ろうと思ってたのに、あまりに厳しいボールに手が出ませんでした……)

 

 高さは真ん中だが内の厳しいところに決まったストレートに初瀬のバットは振り出されずスリーアウトとなった。

 

「……? 近藤さん?」

 

「あっ! す、スリーアウトですよね」

 

「え、ええ……」

 

 ネクストサークルで左手を前に出して開いたり閉じたりする近藤を不思議そうに見ながら初瀬はベンチへと戻ると、ミットを持って6回の裏の守備へと向かっていった。

 

(この試合、野崎さんは完投を目指してる。体力は……ちょっとギリギリかもしれない)

 

 準備投球も終わり、低めのストライクゾーンを要求するサインに頷いた野崎はボールを投じた。——キイィィィン。シャープなスイングで大咲がそのボールを振り抜くと右中間にボールが伸びていった。

 

(しまった……! 球数を気にして安易にストライクを要求してしまった……!)

 

 近藤が焦りを浮かべながら右中間に転がる打球を見て返球の指示を出すと大咲は二塁ベース手前まで来ていた。

 

(アタシも三塁に……!)

 

「みよ、ストップ!」

 

 三塁へと向かおうとする大咲にストップがかかり、二塁ベース付近で勢いを落とすと、逢坂の返球が中継の河北のミットに収まるのを確認してベースを踏んだ。

 

(ちぇ。アイツと違って鋭く転がった分、フェンスの跳ね返りも強かったんだ)

 

 大咲が口を尖らせながらグローブを外していると先程三者凡退に抑えたエースが5番打者として打席に入った。

 

(初球は厳しく……)

 

 初球が要求より低めに決まりボールとなると、2球目も大きく外れて2ボール0ストライクとなった。

 

(う……そうか。疲れや、クイックモーション、一点差のプレッシャーでコントロールが乱れてきてるんだ)

 

「タイムお願いします」

 

 近藤がタイムを取ってマスクを上げながらマウンドに近づいていくと、息が乱れてきた野崎を落ち着かせながら話しかけた。

 

「野崎さん。このバッターにボール先行のカウントから入れにいくのは危険だと思います。だからここは……」

 

 自分の考えを伝えた近藤はタイムの時間を使って息を少しでも整えさせると、ホームへと戻り、ミットを構えた。

 

(まずは……)

 

(低めを確認……ですね)

 

 息を整えた野崎がボールを投じるとアウトコースに大きく外れたボールは低く構えられたミットに収まった。

 

「ボール!」

 

(次は……)

 

「ボール! フォアボール!」

 

 アウトコースに再び大きく外れたボールが今度は高めに構えられたミットに収まると、フォアボールになったバッターが一塁へと歩いていった。

 

(よし! 低めと高めのコントロールが少し落ち着いてきた)

 

(今のは……歩かせたのかしら。逆転のランナーを出すかわりに、コントロールの確認をしたのね。……? 東雲さん?)

 

 鈴木が近藤の意図を察していると急に動き出した東雲を怪訝そうに見つめる。

 

「倉敷先輩」

 

「どうしたの?」

 

 野崎の様子に気づいた東雲は倉敷に声をかけると、完投を目指して欲しいと野崎に告げたことを思い出しながら、それでもこう言った。

 

「念のため……準備をお願い出来ますか」



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私たちのわがまま

「倉敷先輩、まずは軽くお願いします」

 

「分かった」

 

 ベンチから鈴木を連れてブルペンへとやってきた倉敷は肩をつくり始める。そのことに気づいた野崎と近藤は焦りを覚えていた。

 

(交代……?)

 

(今は念のため肩を温めてるんだと思うけど、塁上のランナーを還してしまったら……恐らく)

 

 6回の裏、明條学園の攻撃。ノーアウト一、二塁で6番打者に回る場面。一点差でリードする里ヶ浜高校はピンチを迎えていた。息が乱れている野崎を見ながら近藤は思案する。

 

(野崎さんなら7回を投げ切るのにも十分なスタミナがあるはず。それなのにもうここまで息が乱れてるのは私が上手くリードしきれず無駄なボール球を投げさせてしまったからだ。でもあと2回……最後まで野崎さんと一緒にこのリードを守り切って勝ちたい。そのためにも……!)

 

 バントの構えを取るバッターを見ながら近藤がサインを送ると、野崎はゆっくりと頷きランナーを見渡した。

 

(絶対ホームを踏んで、アタシが取られた4点を取り返す!)

 

(逆転のランナーも二塁に進ませたいのは分かるけど、キャプテン(アイツ)、バントのサインよく出すわよね。ホントに慎重なんだから……)

 

 ベンチから出されたサインを確認したランナーはボールを持つ野崎を意識しながらリードを広げていく。

 

(この試合完投を目指して欲しいと東雲さんに言われた時、それが今までの私から変われた証になると思いました。今でも私はその証が……欲しい)

 

 ランナーの足が少しリードを広げたところで止められるのを確認した野崎は前を向き、少し間を置いてからクイックモーションへと入るとボールを投じた。

 

(まずはとにかく転がす! ……!)

 

(よし。狙い通り打ち上げ……!?)

 

 高めに投じられたストレートに合わせられたバットがコン、と軽い音を立てると、上がった打球を見てランナーはほぼ迷わずにスタートを切った。

 

「ピッチャー!」

 

「はいっ」

 

 前に出てくる野崎を視界の隅で捉えながらバッターランナーも一塁ベースに向かって加速していく。

 

(思った以上の伸びに上げちゃったけど、それでも勢いは殺した! これは……落ちる!)

 

(二塁も三塁も間に合わない! それどころか……!)

 

「ファーストに!」

 

 打球がバウンドすると勢いのないゴロとなってゆっくりと野崎の方に転がっていく。野崎はその打球に足を動かして近づくと腰を落としてミットに収め、反転して送球を行った。

 

「アウト!」

 

 一塁ベースから少しフェアゾーン側に逸れた送球だったが、十分捕球可能な範囲に投げられたボールを秋乃は難なく捕球し、バッターランナーをアウトにしていた。アウトのコールを聞いて振り返るようにして、二塁にたどり着いたエースがベースを踏みながら野崎の顔を見る。

 

(へぇ……アタシたち左投手(サウスポー)は一塁に投げる時、一度身体を反転させなきゃいけないから、その分時間がかかって送球を焦りやすい。しかも体力がきついこの場面で腰を落とすバント処理の動作はかなり嫌だったはず。……このピッチャーの集中力は切れてない。ここで点を取らないと)

 

「タイム!」

 

 未だ集中が途切れない様子の野崎の顔つきを窺っていると近藤が二回目の守備のタイムを取り、マウンドへと野手が集まってきていた。

 

(高めのストレートで打ち上げさせてフライアウトを取ろうと思ったのに、上がった分打球に勢いがつかなくて結局ランナーを進めさせてしまった。高めのボールにはそんなリスクがあったんだ……)

 

 マスクを外した近藤の顔には後悔が浮かんでいたが、マウンドに向かう途中で首を横に振って顔を上げると、集まった内野陣に自分の考えを伝えた。

 

「えっ、マジで……!? ここでやるの?」

 

「うん。さっきあのピッチャーからノーアウト三塁の状況で点を取れなかった以上、後1イニングで点が取れないことはあると思う。だからこの試合、1点のリードを守り抜く必要があると思うんだ」

 

「た、確かに……そうかもしれませんね」

 

「分かった! 私たちも全力で守るよ!」

 

「ゆうきは思いっきり投げて! 飛ばされても、小麦たちが頑張って守るよ!」

 

「小麦さん……皆さん……」

 

 野崎は自身を囲むように立つ秋乃、河北、新田、初瀬の顔を見ると最後に近藤の目を見つめる。それから近藤がゆっくり頷き、皆も応じるように頷くと、野崎の目つきが一瞬安堵したものに変わり、そして真剣な眼差しへと戻っていった。

 

「ありがとうございます! 私に出来る精一杯の投球をさせていただきますね」

 

「うん! 後ろは任せて!」

 

 その言葉を最後に選手が内野に散っていき近藤もホームへと戻っていったが、プレーが再開されても彼女はキャッチャーボックスには座らず立ち続けていた。

 

「——フォアボール!」

 

(敬遠……満塁策、か)

 

 一塁に歩いていく7番打者をベンチから見ながらキャプテンは思慮を巡らせる。やがて8番打者が左打席に入ると相手の内野が前進していく様子を見てサインを送った。

 

(強気ねえ……。満塁なら中間守備でも良いと思うけど、よっぽど一点を防ぎたいのね)

 

(りょーかいっと。ま、スクイズのサインは出ないか。満塁でフォースアウトだし、それに……)

 

 バッターは足場をならしながら明條ベンチから声援を送るチームメイトの一人を見ると、視線を下に向けて一息吐いてからバットを構えた。

 

(小技がもう少し上手かったら2番から8番に下げられなかっただろうしねえ。キャプテンには打線に厚みを持たせるためって言われたけど、やっぱ後輩に打順奪われるのは悔しかったよ。こっから打順上げるためにも結果残したいけど……)

 

 野崎がクイックモーションで投じたボールにバッターはバットを振り出さず見送ると、心地よい捕球音が響いた。

 

「ストライク!」

 

(左はふつーに苦手なんだよねえ……。軌道見辛すぎ)

 

(よし。ファーストストライクが取れた……! 低めのコントロールもさっき確認した通り、いつもの調子に戻ってる!)

 

「ナイスボールです!」

 

 構えた高さとほぼ同じところに来たストレートの感触が手のひらに伝わり、かけ声と共に近藤はボールを投げ返す。返事を返したい野崎だったが体力の消耗を少しでも抑えるため軽く頭を下げてその代わりとしながら、そのボールを受け取った。

 

(苦手だけどさ……そんなこと言ってられないよね。投げてるのも一年だしさ。一年にやられっぱなしじゃ、ちょっとねえ)

 

 野崎の一挙手一投足を見逃すまいとバッターがその投球の動作を見つめる中、2球目が投じられた。

 

(低い!)

 

「ボール!」

 

 真ん中低めに投じられたストレートはボール1.5個分枠から下に外れており、バットを出す様子もなく見送られてボールとなった。

 

(3打席目でよーやく軌道に慣れてきたよ。後はキャプテンのサイン通り……)

 

(内野を前に出してるから簡単に高めは使えない。ここはもう一球低めにお願いします)

 

(はい!)

 

 受け取ったボールを背中の後ろで握りながら前屈みになってサインを確認した野崎は身体の軸を地面に対して垂直に戻すと、小刻みに息を吐いて乱れた息を整え、足を前に踏み出した。

 

(打て……うっ)

 

 今度はバットを振り出そうとしたバッターだったが真ん中低めやや内寄りに投じられたストレートにスイングが止まった。

 

「……ストライク!」

 

(くぅー。一打席目にピッチャーゴロで打ち取られたコースと似たようなとこ来て、頭をよぎったあ。この場面でピーゴロなんて打ったらホームゲッツーコースだもんねえ。それに……)

 

(1ボール2ストライク。押し出しは怖いけどまだボール球を使ってもいいカウントだ。野崎さん、体力はきついと思いますが……)

 

(……分かりました!)

 

 額から滝のように頬を伝う汗をユニフォームの袖で拭った野崎は一度周りを見渡す。

 

(後ろには皆さんがいるんです。出来ないことまでやろうとしなくていい……。今私に投げられる全力のストレートを……!)

 

 投球姿勢に入った野崎は縫い目に引っかけるようにした指先の一点に下半身で生み出した力を乗せると、全力投球のサインに応じるように腕を振り切ってボールを投じた。

 

(犠牲フライのサインこなすためには飛ばしにくい低めより……来た。ベルト高!)

 

 アウトハイに投げられたストレートにバッターは反応してスイングを行うと、そのバットが振り切られた。

 

「……!」

 

「サード!」

 

「はいっ!」

 

 金属音がグラウンドに走ると野崎が振り返って弾き返された打球を見る。するとサード方向に飛ばされたフライを捕りに初瀬が反転して走りだしていた。

 三塁コーチャーがその打球を見上げると一度ランナーにストップの指示を出してから打球の行方を見守る。

 

(これは……フェアだ。内野前に出てなかったらインフィールドフライにされてたかもしれないくらいの浅さ、捕られればタッチアップは無理だ。でもサードが追いつけなければ還れる!)

 

(初瀬さん……お願いします!)

 

 ホームへのカバーへ向かった野崎が追いかける初瀬にその打球を託して目を切ると、代わりに塁上のランナーやグラウンドを守る野手、そしてベンチからも視線が集まっていく。

 

(この試合、私はやっぱり皆さんのようにヒットは打てませんでした。でも鈴木さんを始めとして背中を後押ししてもらって、バントが出来るようになった。誰かに支えられるって、とても心強い……)

 

 同じく打球を追っていた新田が届かないと判断して足を止めるのを横目に初瀬はふらふらと上がっていた打球が落ちてきたところでその身を宙に浮かせた。

 

(支えてもらった分、私も誰かを支えられるように……!)

 

 自身から逃げるような打球に初瀬はミットを伸ばすとその先に引っかけるようにして捕球した。

 

(やっ……)

 

 宙に浮いた身体がミットを伸ばした状態のまま地面に叩きつけられるように落ちると、審判がコールを上げた。

 

「……アウト!」

 

(あ、危なかったあ……!)

 

 衝撃でミットの中で動きそうになったボールをとっさに掴むようにして強く握った初瀬は無事ミットの中に収まったボールを見て安堵すると立ち上がった。

 

(くぅー。バットが押し込まれた……)

 

 サードの捕球位置を見てタッチアップ出来ないと判断したランナーは初瀬が立ち上がる間にベースに戻り、その様子を見たバッターランナーは悔しそうにベンチに戻っていく。

 

「初瀬ー! ナイスキャッチ!」

 

「あ、ありがとうございます。捕れて良かったです……!」

 

 近くにいる新田を始めとして周りから飛ばされる称賛の声に初瀬は頬を緩ませながら、マウンドに戻った野崎へとボールを投げ返す。軽く頭を下げてからそのボールを受け取った野崎は緊張を緩めず右打席へと入る9番打者に目を向けた。

 

(ツーアウト、でもまだ満塁……!)

 

(内野は定位置に。……このバッターは野崎さんのストレートについていけてないように思える。初球から手を出してきたことはないしここはとにかく低めのストライクゾーンに……)

 

 近藤から出されたサインに頷いた野崎は上がる心拍数を感じながら、ボールを投じた。

 

(思い切って振るんだ……!)

 

(えっ……!?)

 

 近藤が目を見開く中、初球から振り出されたバットがボールの上を叩くとフェアゾーンへと打球が弾き返される。

 

(あ、当たった……!)

 

 バットから伝わる感触にバッター自身も驚きながら走り出すと他のランナーも迷わずスタートを切り、野崎は自身の横に転がる打球に反応して右手に嵌められたミットを左手側の足元へと伸ばした。

 

(うっ……)

 

 伸ばしたミットの先をすり抜けるようにボールが転がっていくと打球は野崎の後ろへ抜けていき、二遊間へと転がっていった。

 

(届けっ……!)

 

 河北がやや斜め後ろに走るとその打球に飛びついてミットを伸ばした。

 

(うっ、ミットの内側にボールを収められない。……!)

 

 自身の守備範囲より僅かに遠い打球に焦りながらも河北は打球に食らいつく。するとそのミットの先にボールが当たり、弾かれた。

 

「任せて!」

 

「お願いっ!」

 

 弾いた打球が外野に抜けようかというころでそのボールを新田が収めた。

 

(捕れた! えっと……い、一塁に……?)

 

「美奈子! そのまま二塁を踏んで!」

 

「そ、そっか!」

 

 投げるには体勢が外野方向に向きすぎていると判断した近藤の指示で新田は反転するとスライディングしてくるランナーを視界に捉えながら、地面を蹴るようにしてジャンプするとミットを伸ばし、そのままベースをタッチしにいった。

 

「アウト!」

 

 両者が飛び込んだ影響で砂煙が舞う中、ランナーが足でベースに触れるより先にミットが触れ、球審からスリーアウト目のコールが上げられた。

 

「新田さん、やったね!」

 

「河北こそ! あれがなかったら届かなかったよ!」

 

 河北が伸ばした手を掴んだ新田は引っ張り上げられて立ち上がり、互いに砂で汚れたユニフォームで笑いあいながらベンチへと戻っていった。

 ホームを駆け抜けた大咲は自身が取られた4点目を返せなかったことを心底悔しそうにしながらベンチへと戻っていく。

 

「……まだ、こっちの攻撃は残ってるよ」

 

「先輩……」

 

「まず相手の攻撃を抑えよう。大丈夫、アイツらならもう一回打順を回してくれる」

 

「……分かりました」

 

(次の回は1番から……アタシのバットで試合を決める……!)

 

 同じくベンチに戻っていくエースに声をかけられ、士気を取り戻した大咲は拳を強く握り、次の打席への思いを募らせるのだった。

 

「野崎さん……次の回もいけるかしら?」

 

「い、いけます……。いかせてください……!」

 

 ベンチに座り近藤から渡された水を飲んでいた野崎に東雲が話しかけると、野崎は懇願するようにして返事をした。

 

(確かに投げ切れる可能性はある。私としても野崎さんに自信をつけてもらいたい。そうね……)

 

「……限界が来るか同点に追いつかれたら、その時はバッテリー毎入れ替える形でマウンドを降りてもらうわ」

 

「分かりました……!」

 

「今は少しでも、休んでおきなさい」

 

 東雲の言葉に頷いた野崎は肩で息をしながら、コップを近藤に渡すと、前屈みになって呼吸を少しでも整えようとしていた。

 

(野崎さん……)

 

「近藤さん、貴女は早く打席に行きなさい」

 

「あっ、はい。分かりました……」

 

 コップを片付けた近藤は準備を整えて右バッターボックスに入ると、延長がないこの練習試合において最終回となる7イニング目が幕を開けた。

 

「ストライク!」

 

(今の見送り方……内は狙ってないのかな?)

 

 内角に投じられた角度のあるボールを悠々と見送ると近藤はそのミットを確認し、また前に視線を向けた。

 

「ボール!」

 

(ちょっとストレートが要求より内に外れたか。少しばらつきはあるけど、悪くはない)

 

「ストライク!」

 

 スローカーブがボールゾーンからアウトコース低めへと曲がっていくとこれも近藤は見送りストライクとなった。

 

(狙いが分からないな……ここは)

 

(外へのシュートね。アタシは外へのストレートのコントロールはそれなり、シュートの方がより確実にバッターから離れるとこにいくってことか)

 

 4球目。アウトローを狙って投げられたシュートがやや要求より中に入ると、その軌道が外へと曲がっていく。

 

(野崎さんを少しでも休ませるために球数を稼ぎたかったけど、狙ってファールにする技術はないから、この外のストレートをまた転がしてヒットにするんだ……!)

 

 ダウンスイングで振り出されたバットがその先でボールを捉えると一二塁間へとボールが転がっていく。

 

「ほいほいっと」

 

「……!」

 

 深い位置に守っていたセカンドがそのボールを難なく捕球するとファーストに向かって送球を行った。

 

「アウト!」

 

(うっ……)

 

(さっきは牽制のために二塁に寄ってたからねえ。二度目はないよお)

 

 近藤が秋乃とすれ違う際に声をかけるとネクストサークルに入った河北にも声をかけた。

 

「……出来るだけ粘ればいいんだね」

 

「うん……お願い出来るかな」

 

「分かった! 任せて!」

 

 近藤がベンチに入り、野崎の額に浮かぶ汗をタオルで拭き取っていると秋乃は既に2ボール2ストライクと追い込まれていた。

 

(いいとこに来たシュートをファールにしたか……このバッターにはスローカーブをヒットにされてるから避けてたけど、ここはあなたのコントロールを信じるよ)

 

 キャプテンに出されたサインに力強く頷いたエースがボールを投じると孤を描きアウトローに向かって曲がっていく。

 

(うー、げんかい! あとはうつ!)

 

(……!)

 

 そのボールに少しぐらつきながらも始動を溜めた秋乃はバットを振り出した。

 

「レフト!」

 

 金属音と共に放たれた打球はレフトの頭上へと伸びていくと、やがて降下してくる。

 

「アウト!」

 

(あ、あれれ……?)

 

(上手く軌道にバットを線になるように合わせてきたわね。でも上から落ちてくるように曲がるあのスローカーブに線で合わせたら打球は打ち上がる。パワーが無ければ平凡なフライにしかならないわ)

 

「ツーアウト! ラストもしっかり取るわよ!」

 

 キャプテンの言葉に応じて各々が声を上げると河北が打席に入ってくる。

 

「ファール!」

 

 1ボール2ストライクとなってからストレートをファールにした河北はその軌道から曲がるシュートにもおっつけるようにしてファールスタンドに入れていた。

 

「……ボール!」

 

 アウトハイに投げられたストレートが高めに外れ、河北はバットを振り出そうとした姿勢のまま見送る。

 

(さっき1番に投げたやつも良いコースに来てた。ここはこれで仕留めましょう)

 

「……!」

 

 7球目となるボールが投じられると弧を描いてボールゾーンからアウトローのストライクゾーンへとボールが曲がっていく。

 

(う……バランスが……カットだ!)

 

 そのボールにバットが振り出されるとバットがボールの上を叩く。

 

「ショート!」

 

「はい!」

 

(カットしきれなかった……!)

 

 やや中途半端に振られたバットが弾き返した打球はボテボテのゴロとなって転がっていく。

 

(しっかり、一塁を駆け抜けるんだ!)

 

(ちぃ、ボテボテすぎでしょ。あのバッター足は無いけど、ここは!)

 

 走るようにして打球に近づいた大咲は捕球の直前にスピードを落とすと、ミットですくうように捕ってからジャンピングスローで送球を行った。

 

「……アウト!」

 

(だ、ダメかあ……!)

 

 ヘッドスライディングはせずに一塁ベースを駆け抜けた河北はヘルメットを外すと、ベンチへと戻っていった。

 

「ナイスフィールディング」

 

「先輩こそ、ナイスピッチです」

 

(結局ランナー出させなかった。アタシもエース目指すなら、もっとランナー出さないようにしないとね……)

 

「さぁ、最後の攻撃ですよ! ひっくり返しましょう!」

 

 大咲の一声で明條が士気を高める中、里ヶ浜ベンチから野崎が近藤と共に出てくる。

 

「近藤さん、ありがとうございます。おかげで、少し落ち着いてきました」

 

「私だけじゃないですよ。皆さんが協力してくれたからです」

 

「……そうですね」

 

「最終回、抑えましょう!」

 

「はい!」

 

 バッテリーがミットを重ね合うと近藤はホームに戻り全体にも「最終回、しまっていきましょう!」と声を上げる。そして1番バッターを向かい入れるようにキャッチャーボックスに座った。

 

「ストライク!」

 

(今見た感じだとさほどコントロールは崩れてないけど……)

 

 低めに決まったストレートを見送ったバッターは一度バットから右手を離して左手を伸ばすと、再びバットを構え直した。

 

(ファーストストライクは取れた。球数を考えたらボール球は投げたくないけど、さっきは4番にそれで痛打をもらってしまった。ここは……)

 

「ボール!」

 

 高めに外れたストレートが振り出そうとしたバットを止めて見送られ、ボールのコールが為される。

 

(ただ疲れてるのは分かる……。ボール球に手を出して助けちゃダメよね)

 

「ボール!」

 

 3球目は低めに投じられたが、今度も振り出そうとしたバットを止めて見送られ、低めに外れてボールとなった。

 

(このバッターには3打席全部塁に出られてる。ボール球も振ってくれない。……選球眼がいいのかもしれない。……野崎さん、ここで)

 

 近藤が出したサインに首を縦に振った野崎は残った体力を振り絞るようにして全体重を乗せるようにストレートを投げ込んだ。

 

(打つ!)

 

 真ん中高めやや内寄りに投じられたストレートにバッターがバットを振り出すと、弾き返された打球が一塁側方向へと飛ばされた。

 

「……ファール!」

 

 やがてフライ性の打球が落ちてくると一塁側ベンチの上にバウンドしてファールとなった。

 

(ギアが上がった……! でもカットは出来た。相手のスタミナはほぼ残ってない。簡単に打ち取られなければチャンスは来る……!)

 

(全力投球の後ですしここは入れにいかず、外れてもいいからこのコースを狙ってみましょう)

 

 5球目。少し落ち着いていた息が再び目に見えて乱れ始める中、野崎はその目で近藤のミットだけを見つめるようにして腕を振り切った。

 

(……!)

 

 投じられたボールにバットを振り出そうとしたバッターだったが、角度のあるストレートにバットを出し切れずに見送る形となった。

 

(く、クロスファイヤー!? でも決まったとこが際どすぎる。このキャッチャーならミットが流れて……)

 

「……ストライク! バッターアウト!」

 

(なっ……。……!)

 

 キャプテンは球審の判定に驚いた表情を露わにしながらキャッチャーのミットを確認した。

 

(親指を押し込んで球威を抑えるように捕球をしてる……! こ、この捕り方は私のやり方。ま、まさか……私の捕り方を見て盗んだ……!?)

 

(よし! 初瀬さんの打席で見たキャッチング……さっきの私の打席で確認してイメージトレーニングはしてた。見様見真似だけど、ミットが流れずに捕れた!)

 

「ナイスボールです!」

 

 近藤の力強い返球に野崎は短い間隔で呼吸をしながらも微笑みを見せて受け取った。

 

(近藤さんもナイスキャッチです……!)

 

 キャプテンは見逃し三振に取られたことと自身の捕球方法をいつの間にか盗まれていた事実にショックを受けながら、ベンチへと戻っていく。

 

「キャプテン……」

 

「ごめん、一本取られた! 後はお願いね!」

 

 キャプテンはそのショックを表には出さずにネクストサークルから出てきた後輩の肩を2回ほど軽く叩くとベンチへと入っていった。

 

(キャプテン……という前に先輩が崩れたら後輩にも伝わっちゃう。まだ1アウトなんだ。逆転のチャンスはある!)

 

 ヘルメットを外して橙髪が跳ねるとバットとグローブをしまい、柵の前に行ってバッターに向かって声を送ると、釣られるようにしてベンチからも声援が飛ばされた。

 

(お願い……アタシに、繋いで!)

 

 大咲が出塁を信じてバッターとしての準備を進めていると初球から金属音が響いた。

 

(セーフティバント!?)

 

 低めに投げられたストレートにバントで合わせられると三塁線に打球が転がり、バッターランナーも一塁に向かって走り出す。

 

「初瀬さん、見送って!」

 

「え……あ、はい!」

 

「…………ファール!」

 

(うっ……)

 

 三塁線に転がったバントは勢いが抑えられており刺せないと判断した近藤の指示で初瀬はボールを見送る。すると僅かにボールがフェアゾーンから逸れてファールとなっていた。

 

(す、凄いなあ。ちょっとだけファールに逸れたけど、身体を一塁に傾けるようにバントしてスムーズにスタートを切ってました。ああいうバントもあるんだ)

 

 初瀬が自分の知らないバントに感心していると走り出していたバッターが戻って、近藤から礼を言ってバットを受け取っていた。

 そしてプレーが再開されると秋乃と初瀬が定位置から前へと出てくる。

 

(思えばこのバッター、一回もスイングをしてない。初回もバントの構えを見せたし、二、三打席目は送りバント。今もセーフティ、バントを封じれば有利に進められるはず!)

 

 2球目のストレートが投じられる。コースはインコースの高め。

 

「……!」

 

 野崎はバッターが取った構えを見て目を見開くと既に前にチャージをかけていた秋乃と初瀬に続くようにして前に出た。

 

(この布陣でセーフティ!?)

 

(みよちゃんに繋ぐんだっ!)

 

 バッターはバットを一瞬引くようにしてから押し出すとボールを押し込むようにして弾き返した。

 

(え……!?)

 

 チャージをかけていた初瀬が急ブレーキをかけると慌てて反転しながら頭上に飛ばされた打球にジャンプして捕球しにいく。

 

(と、届かない……!)

 

 伸ばしたミットの先をボールが越えていくとバウンドした打球が転がっていく。外野に抜けようかという深い位置で新田が捕球したが、既にバッターランナーは一塁に到達していた。

 

(やられた……! 三人で終わらせたかったのに、出塁されてしまった……)

 

 マスクを上げながら打球を見守っていた近藤だったがバントシフトが裏目に出たことに動揺し、自身の選択にほぞを噛んだ。

 

「よくこっちのこと見てるし、こちらからしたら中々嫌なキャッチャーなんだけど、私の感覚からすると積極策が多いのよね……」

 

「アンタが慎重すぎるってのもあるだろうけどね」

 

「そ、そうかな……?」

 

「ま、アンタはそれでいいと思うけど……たまに積極策を混ぜてみると意表がつけていいんじゃない」

 

 エースが5番打者としての準備を進める中、アドバイスを受けたキャプテンは少し考えを巡らせてからサインを送った。

 

「……ボール!」

 

(う……クロスファイヤーが。ちょっと内に外れすぎたか。でもこのバッターには)

 

(1ボール0ストライク……仕掛けていいカウント。お願いね)

 

(珍しいサインだな。しかも指示が細かい。さっき内狙われてるって話はされたから、次も内に来るってサインは納得できるけどね)

 

 2球目。野崎が右足を上げその向きを前に向けると一塁走者がスタートを切った。

 

「走ったよ!」

 

(スチール! ……!)

 

 膝下に投じられたストレートをすくうように捕球しようとした近藤の目が大きく開くと、少し立ち位置を左に寄せたバッターがそのボールを打ち返した。

 

(エンドラン!?)

 

「セカ……うっ」

 

(これでも差し込まれたか。でも……)

 

 一二塁間方向にほどほどの勢いで転がった打球がややセカンド寄りであったため河北に捕球指示を出そうとしたが、河北は盗塁に備えてセカンドのベースカバーへと走っており、慌ててブレーキをかけたが捕球には目に見えて間に合わなかった。

 

「任せて!」

 

(秋乃さん!)

 

「野崎さん! 一塁のカバーに!」

 

 秋乃が足首をバネのようにしならせてスタートを切るとその俊足を飛ばし、一塁ベースを背中にしてミットに収めた。

 

「ファーストに!」

 

(前の練習試合で失敗した後、簡単じゃない体勢から投げるのは一杯練習したんだ!)

 

 ジャンプしながら反転した秋乃は軽い腕の振りと手首を使ったスナップスローで送球を行うとそのボールは一塁ベース上に向かっていた。

 

「……!」

 

 時間がないと判断して大まかな感覚で送球した秋乃は野崎がまだベースにつけていないことを確認し、目を見張った。

 

(心臓の鼓動が身体全体に響く……それでも、私が最後まで投げたいって言ったんです。秋乃さんが繋いでくれたこのボールを無駄にはしません!)

 

 野崎の目が鋭く射抜くようにボールを捉えると踏ん張るようにして足の動きを速くし、長いリーチの腕をめいいっぱい伸ばしてそのボールを収め、ベースを踏んだ。バッターランナーもほぼ同時に一塁を駆け抜ける。

 

「……アウト!」

 

 2つ目のアウトが宣言され里ヶ浜ベンチからもさらに声援が飛ばされる。そんな中、明條のベンチは意気消沈することなく負けじと声援を送っていた。

 

「みよ、頼んだわよ!」

 

「打てー!」

 

「……任せて下さい!」

 

(よく繋いでくれたわ……。アタシが試合を決める!)

 

(大黒谷に回ってきたか……。こっちに飛んできたら何としても止めてやる!)

 

(敬遠したら逆転のランナーをタダで出すことになる……。5番も今日良い当たりを打ってるし、ここは勝負!)

 

「ツーアウト! バッター集中!」

 

「おー!」

 

「ば、ばっちこーい!」

 

「あと一つ!」

 

「抑えましょう……!」

 

 7回の裏2アウト二塁。右打席に今日ホームランも打っている大咲が入り、緊張感がグラウンドを満たしていった。

 

(さっきの打席は低めに入れにいって長打をもらった……。体力がきついのは重々承知です。それでも……)

 

(はい。大丈夫です。私は近藤さんのリードを信じて最後まで投げ抜きます!)

 

(みよちゃん。打って!)

 

(アタシが試合を決める!)

 

 初球。四隅のサインに頷いた野崎はアウトローに向かってボールを投じたが外に外れる形となった。

 

「ストライク!」

 

(……! 外れたボールに手を出してきた……)

 

 近藤がマスクの隙間から見上げるようにして大咲の様子を窺うと息を深く吐き出している様子が見えた。

 

(みよ、お願い。まず同点に追いついて……)

 

 ネクストサークルからエースも打席を固唾を飲んで見守り、無意識のうちにバットを握る手に力が入っていく。

 

「ボール!」

 

 インローを厳しく狙ったボールは今度は低く外れ、大咲も手を出さずに見送った。

 

(落ち着くのよ……チャンスは必ず来る!)

 

(全力投球はこの体力じゃ連投は出来ない……。でももし同点に追いつかれたら野崎さんは降板させられてしまう。出し惜しみはなしでいきましょう)

 

(はい!)

 

 3球目。一度二塁ランナーを見るようにしてから、野崎は体力を振り絞って渾身のストレートを投じた。

 

(打てる!)

 

 アウトコース真ん中へと投じられたストレートに大咲がシャープなスイングで応じると、金属音がグラウンドに響いた。

 

(入れっ!)

 

(飛ばされた……!?)

 

「ライト!」

 

(来た! なんとしても捕って……!?)

 

 逢坂は打球を追いかけていくが自身から離れるようにボールがスライスして曲がっていくと、ファールスタンドへと入ってしまい捕球には至らなかった。

 

(ちぇー。でも今のも大きかったわね。頭越されるかと思ったわ)

 

(このバッターに全力投球を見せたのは初めてなのについてこられた……! 凄いバッターだ……でも、追い込んだ!)

 

(少しだけ振り遅れて押し込まれたか……)

 

 一度大咲が打席を外してバットを振るとネクストサークルに入っているエースの様子が目に入った。

 

(なんて顔をしてるんですか、先輩)

 

 強張った顔のエースが大咲を強く見つめるようにすると、大咲は少し不思議そうにしてから打席に入った。

 

(そりゃアタシが打ち取られたら負けるし、そうなるのも分かるけど。あの人があそこまで怖い顔をするのは初めて見た気がする。……いや、待てよ……)

 

「ボール!」

 

 外にはっきり外されたボールを見送った大咲は次のボールに備えてバットを構え直す。

 

(まだ2ボール2ストライクだ。野崎さん、これを狙ってみましょう)

 

(インコース……クロスファイヤーですね。まだ厳しいとこには大雑把にしか狙えませんが、外れてもいいってサインを出してくれていますし思い切って。……!?)

 

 大咲に対して5球目となるボールを投じようとした瞬間だった。野崎が指先に異変を感じると投じられたコースに近藤は目を見張ってミットを伸ばす。

 

(危なっ!?)

 

 大咲は自身の足元に叩きつけられるように投げられたストレートを軽くステップを踏むようにしてかわすとボールは近藤が伸ばしたミットをすり抜けるようにして後ろへと転がっていった。

 

「くっ……!」

 

 近藤が慌ててマスクを外しながらバックネット下のフェンスに当たって跳ね返るボールを拾ったが、既に二塁走者は三塁付近まで進んでいた。送球を諦めて野崎の方を見ると唖然とした様子が窺え、近藤に限らず周りの野手も驚いた。

 

(ゆうきー?)

 

(も、もしかして)

 

(ここが……)

 

(げ、限界……なのでしょうか)

 

(……まだ、終わってない!)

 

「タイムお願いします!」

 

 近藤がタイムを取るとマウンドへと近づいていく。声をかけられてハッとした様子の野崎が、自身に起こった異変を伝えた。

 

「う……これは」

 

 その説明を受けて周りから見えないように野崎の左手の人差し指の腹を確認すると、潰れたマメと僅かながらに出血が見て取れた。

 

「ストレートを投げ込んで出来たマメが潰れてしまって……」

 

「そ、それなら絆創膏を巻いて……」

 

「いえ、ピッチャーは指に絆創膏や包帯などをつけてはいけないんです」

 

「そ、そうなんですか!?」

 

「はい。……近藤さん、あなたにだけ……話していいですか」

 

「……なんでしょうか?」

 

「私、一球だけ……この状況で投げられるかもしれないボールがあるんです」

 

「そ、それなら!」

 

「でもそれはまだ未完成のボールで……ここまで皆さんがやってきたことを無駄にしてしまうかもしれません。私は、この試合完投して、今までの自分から変われたって証が欲しい。けどそれは……私のわがままなのかもしれません」

 

「野崎さん……」

 

 そのボールを伝えながらも様々な思いが入り混ざり、体力面の疲れからも精神的に落ち込み、マメを潰してしまったことの後悔、それでも投げようとすることに迷いが感じられる野崎に近藤は意を決して話した。

 

「……私も、あなただけに言います」

 

「え……」

 

「私、今まで何かを選ぶということをしてこなかったんです。料理屋の娘だからその手伝いをして、美奈子や加奈ちゃんが行くから里ヶ浜高校を受験して……野球部に入るのも元はといえば美奈子の提案でした」

 

「近藤さん……」

 

「そんな中、私は野球部に入って……一つだけ自分で選択したことがあるんです」

 

「それは……?」

 

「それが『キャッチャー』というポジションだったんです。これだけは美奈子や加奈ちゃんにも相談せずに決めたことだった。明確な根拠があったわけではないですが……私はこのポジションがやりたいって思えた。そして今、初心者だからという言い訳に頼らずに野球をやろうと思えるようになった。だから私も……欲しいんです。1試合ずっとマスクを被り続けることで、前の自分から変われたっていう証を」

 

 近藤が野崎の胸にミットを当てるようにするとミット越しですら伝わるような心臓の鼓動を共有するように受け止めながら、目をはっきり見て伝えた。

 

「だからこれは……私たちのわがままです。あなた一人で背負わなくていいんですよ」

 

「近藤さん……! ……分かりました。ありがとう……ございます!」

 

 そのミットを自分の胸に押さえるようにしてミットを合わせると、お互いに頷いて、近藤はホームへと戻っていった。

 対して大咲は三塁まで進んだランナーとネクストサークルで見つめるエースを交互に確認してから、長い息を吐いていた。

 

(……ああ、あの時だ。あの人があんな顔をしたのはあの時しかない。夏大会の一回戦で3-4で負けた時……)

 

(野崎さん、お願いします)

 

(はい)

 

 野崎はミットの中で指先は使わずに浮かせ、手のひらでボールを包むようにして握ると投球姿勢に入った。

 

(慣れないボールだ。2アウト三塁だしクイックじゃなくていい。このボールに全てを懸ける!)

 

(クイックじゃない……!)

 

 クイックモーションではなく通常のモーションからの投球に三塁走者はリードを広げていく。野崎は包むようにしたボールを指の根元で押し出すようにしてリリースした。

 

(アタシがホームラン打ってサヨナラと行きたかったんだけどな……美味しいとこは残してあげますよ。アタシだって夏大会と同じスコアで負けるなんてゴメンだ……!)

 

(バットを短く持った!?)

 

 投球姿勢に入った途端にバットを短く持った大咲は投じられたボールに対してストレートのタイミングで踏み込んだ。

 

(な……んですって!?)

 

(チェンジアップ……大きな変化量じゃなくタイミングで勝負する球種だ。私はまだ変化球は捕れないけど、キャッチボールの感覚で待っていればなんとかできる!)

 

(くっ……でもボールは高い!)

 

(踏みとどまった!?)

 

 単打に意識を切り替えた大咲は右方向への意識を持っており、振らされるのを踏みとどまると引きつけてからバットをコンパクトに振り出した。

 

(なっ……!)

 

(えっ……! これは……チェンジアップじゃない!? くっ……!)

 

 ボールは大咲のバットの下を潜るように落ちるとそのままホームベースにバウンドした。

 

「みよ、走れっ!」

 

「……!」

 

 完全に空を切ったバットに試合終了がよぎった大咲だっだがネクストサークルから飛ばされた指示にとっさに反応して走り出すと、リードを大きく取っていた三塁走者もスタートを切っていた。

 

(コースが真ん中付近だったから、辛うじてプロテクターには当てられた……!)

 

 とっさにバウンドして体に向かってきたボールを右肩付近のプロテクターに当てた近藤は一塁側ファールゾーンに転がっていくボールを追いかける。

 

「さきー!」

 

「秋乃さん、行きます!」

 

 振り逃げを狙って一塁ベースを走り抜く大咲。ボールに追いつき秋乃がベースの端を踏むようにして伸ばすミットに送球を行った近藤。三塁走者がスライディングでホームに滑り込む中、一塁審判のコールがグラウンドに響いた。

 

「……アウト!」

 

 歓声と悲鳴が混じったような声がグラウンドを包み込むと、近藤は呆然としたのも束の間、急いでマウンドの野崎の元へと向かった。

 

「野崎さん……大丈夫ですか?」

 

「体力はきついですが……指は大丈夫です」

 

「良かった……野崎さん、やりましたね!」

 

「近藤さん……はい! あなたのおかげです!」

 

「ちょーっと待ったあ!」

 

 マウンド付近で話していた二人のもとに新田をはじめとした内野陣が次々と駆け寄ってくる。

 

「私たちを仲間外れにしないでよー」

 

「そうだよー」

 

「ふふっ。そうですよ」

 

「野崎さん。多分誰のおかげでもないんですよ。きっとこの試合、私たち一人一人、何かが欠けていたら勝てなかったと思います。だからあえて言うなら……私たち全員が頑張ったから、なんて月並みでしょうか」

 

「近藤さん……ふふっ、そうでしたね。私もそう思います!」

 

 ベンチを含め選手全員がグラウンドに出てくると向かい合うように並び、球審から4対3で里ヶ浜高校の勝利が宣言され、同時に試合終了となった。

 

「両校、礼!」

 

「「ありがとうございました!」」

 

「有原さん、だったっけ。良いチームね」

 

「あ、ありがとうございます。明條も、雰囲気が良くて活気もあったので私たちも負けてられないって思いました!」

 

「あら、ありがとう。また試合しましょう。こちらとしてはリベンジしたいしね」

 

「はい! こちらこそ、よろしくお願いします!」

 

(……4点目、か)

 

 キャプテンは負けた要因を頭の中で纏めながら、ショックを受けている後輩たちに一人一人声をかけていると大咲が絡まれているのが目に入った。

 

「大黒谷!」

 

「だーかーらー。本名で呼ばないでよ」

 

「今、カメラないしいいでしょ」

 

「スタンドから降りてグラウンドに向かってきてるのよ。アンタ、馬鹿みたいに声高いんだから気をつけなさいよ」

 

「なによー! 個人成績ではそっちの方が上だったからって」

 

「あん? 個人成績……? アタシ、アンタに犠牲フライとスリーベース許してお世辞にも上ではないでしょ」

 

「でもそっちはスリーランホームランに、ツーベースでしょ」

 

「ああ……相変わらず、究極的に主役じゃないと気が済まないのね」

 

「だってアタシはピッチャーやってないから、ピッチャーの成績では比べられないでしょ」

 

「ま、それもそうか。……でも、チームとしては負けたわ。今度は負けないわよ」

 

「ふふん。それなら次も返り討ちにしてやるわ。何ならその時までにアタシがピッ——」

 

「あ、みよちゃんお疲れ様。試合、残念だったね。悪いけどインタビューいいかな。そっちの可愛い里ヶ浜の生徒さんも良ければ」

 

「「はーい!」」

 

(テレビの企画でみよは別行動にしてくれって話だったっけ)

 

 明條学園がグラウンドから引き上げていくと里ヶ浜高校もテレビカメラの前から離れようとしない逢坂を諦めてグラウンドから引き上げベンチ裏の控え室で着替えていた。

 

「野崎さん、お疲れ様」

 

「東雲さん。ありがとうございます」

 

「その指のことを黙って最後まで投げたのは……正直、いただけないけど」

 

「う……」

 

「まあ、細かいことは明日のミーティングで伝えるわ。今日はそれでもよく投げきったと思うわよ」

 

「あ、ありがとうございます……」

 

(最初の清城戦は2か月練習して、結局私と有原さんと阿佐田先輩以外がエラーをした。記録に残らないエラーも踏まえても、正直思ったよりエラーが抑えられたように感じる。……いずれにしても、新入部員を中心としたオーダーで勝利を収めた、というのは)

 

 着替えを終え早々に控え室から出て行こうとする東雲が振り返ると今日の試合で出番が無かった選手たちに目を向けた。

 

(私たちにとってもいい刺激になったわ)

 

 扉が閉じられると新田が抜き足差し足といった具合で野崎に近づいてくる。

 

「いやー、あれは明日お説教かもね」

 

「そ、そうかもしれませんね……」

 

「もしそうだったら私も一緒にかなあ……」

 

「が、頑張れ咲ちゃん……!」

 

「まあ、仕方ないよ。でも後悔はしてないかな」

 

「ふふっ、私も……ですよ」

 

 思わず笑みをこぼしていると鈴木が近づいて怪我の様子を確認すると、最後に投げたボールの握りもついでに確認した。

 

「これはあの軌道も踏まえると……パームボール、ね」

 

「チェンジアップじゃないんですか……?」

 

「細かい説明は明日してあげるわ。ただ簡単に説明するならよりブレーキがかかるチェンジアップ、と思っていればいいんじゃないかしら」

 

「そうだったんですね……」

 

 鈴木が離れて阿佐田のもとへいくと野崎も着替え終え、その場で自由解散となっていたため帰ろうとしたところで近藤に声をかけられた。周りには新田、永井だけではなく河北も共にいた。

 

「これから5人で打ち上げに行きませんか?」

 

「いいですよ。……でも、この5人でですか?」

 

「問題!」

 

「せ、センターラインが指すポジションを全て答えて下さいっ」

 

 新田と永井が雪崩れ込むようにした質問に野崎はすんなりと答えた。

 

「キャッチャー、セカンド、ショート、センターと……あ、ピッチャー……もですか?」

 

「正解! 私もいきなり質問されてびっくりしたよー」

 

 ちょっと困ったように笑う河北に野崎も自然と口角が上がると近藤に怪我をしていない右手を引っ張られる。

 

「だから今日は……『グルメセンターロード』全員で打ち上げをしましょう!」

 

「……はい!」

 

 こうして明條学園との練習試合は幕を閉じたのだった。




プライベートが忙しくなるので1ヶ月ほど、更新を休ませて頂きます。


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ピースの行方

 明條学園との練習試合の翌日。放課後の解放感からなる喧騒が学校を包み込む中、女子野球部の部室では練習試合の反省会を兼ねたミーティングが行われていた。

 

「パームボールは手のひらで打ち出すようにリリースされる。つまり最初の軌道はこうなるわ」

 

 東雲によって評価すべき点と改善点が洗い出され、野崎が投げたパームボールについて鈴木から解説が行われているところだった。ホワイトボードにストレートとして斜め下に向かうように直線的に書かれた軌道と比較するように同じ地点からパームの軌道が書き出されると、リリース時点ではほとんど地面と水平になるように書かれた。

 

「ストレートより高いんですね」

 

「そうね。だからバッターに高いボールだと錯覚させやすい特徴があるわ。けれど回転が少ないし球速も遅いから、リリースしてすぐに縦に落ち始める」

 

 鈴木が書いた線が山なりに下方向に向かっていくとストレートの軌道と交差し、その後も少し歪な弧を描くようにしてパームの軌道が書き終えられた。

 

「私はあの時、チェンジアップの軌道を想定して真ん中低めに来ると思いました。けど実際にはホームベースにバウンドして……」

 

「す、すいません。私も軽く投げたことしかなかったので、まさかチェンジアップじゃないとは知らず……」

 

「チェンジアップはストレートと同じ腕の振りで投げられる球速の遅いボールのことを指す意味があるから、違うわけではないんだけどね」

 

「へー。昨日のエースピッチャーが投げてた変化球と似てるわね。あれもカーブだけど、さらに詳しく分けたらスローカーブって話だったし」

 

「なるほど……」

 

 逢坂の言葉に合点がいった様子で皆が頷くと、ミーティングの最後として東雲が話を切り出した。

 

「今月末には大会が始まるわ。その一週間前に紅白戦を行うわよ」

 

「えー! 今週末にやろうよ!」

 

「……近いわ」

 

 昨日の練習試合を見てやる気が沸いていた有原は東雲に詰め寄るように迫ると、息が届くほどの距離まで近づいたため注意されていた。

 

「はぁ。有原さん……貴女覚えていないの?」

 

「何を?」

 

「試験1週間前からは部活動禁止……つまり今日から試験が終わるまで紅白戦どころか練習も出来ないのよ」

 

「え……ええー! そ、そんなぁ……体動かしたくて堪らないのに、練習も出来ないの!?」

 

「自主練はしても問題ないでしょうけど……」

 

「あ、そっか!」

 

「……でも貴女、そんな余裕ないでしょう?」

 

「う……それは、そのー……」

 

 勉強を不得手とする有原が東雲の指摘から逃れるように目を逸らすと河北と目があった。

 

「翼、現実から目を背けても何も変わらないよ」

 

「ううう……その通りです……」

 

 河北に諌められ逃げ場がないことを悟った有原は観念したように野球道具に伸ばそうとした手を引っ込めた。

 

「これでミーティングは終わりね。今日から試験が終わるまで図書室で勉強会を開くから、予定がなければ苦手なところを教え合う場にしましょう」

 

 鈴木の言葉に各々が返事を返すとミーティングの終了に伴い、我先にと逢坂と秋乃が部室の扉へと向かっていく。

 

「じゃ! 翼ちゃん達、勉強頑張ってねー」

 

「じゃあねー」

 

「待ちなさい。あなた達は強制参加よ」

 

 しかし彼女達が扉にたどり着く前にそれぞれの肩に鈴木の手が置かれ、時が止まったように二人は静止する。そんな体を無理矢理動かすように逢坂が首を恐る恐る振り向かせた。

 

「……な、なんで……?」

 

「あなた達、入部当初からやけに仲が良いと思っていたら……二人とも一学期に同じ追試を受けていたのね」

 

「ええーっ! なんでしってるの?」

 

「掛橋先生から聞いたのよ……。新入部員の中に成績が心配な生徒がいるって話をね」

 

「だ、大丈夫よ! 今回はきっとなんとかなるわ!」

 

「うんうん!」

 

(どこからそんな自信が湧いてくるのかしら……)

 

「言っておくけれど、あまり勉強を疎かにしているようだったらスタメン選考にも響くわよ」

 

「嘘でしょ……!?」

 

「お、おうぼうだー!」

 

「さ、行くわよ」

 

 騒ぐ逢坂と秋乃の背中を押すと渋々といった様子で二人は歩き出した。

 

「あおい! ウチらも行こう!」

 

「慌てることはないのだだんちょー。あおい達にはこのサイコロ鉛筆が……」

 

「いや、今学期からは筆記が多くなるんだ!」

 

「そ、そういえば……でも、あおい達に勉強を教えられる二年生が……はっ!」

 

 彼女達の視線の先には今すぐにでも帰ろうとドアノブに手をかけている倉敷の姿があった。

 

「ま、舞子! ウチらを助けてくれ!」

 

「え……アタシ? そういうのは九十九に……」

 

「九十九は裏切り者なのだ! 生徒会の仕事が忙しくてミーティングにも顔を出してこないのだ!」

 

「それはしょうがないでしょ……。アイツなら事前に断りくらい入れてるだろうし」

 

「というわけで、ウチらを助けてくれないか!」

 

「……悪いけど、アタシは行けないわ」

 

「ううっ……そうか……」

 

「残念なのだー」

 

 岩城と阿佐田がうなだれながら図書室へと向かっていくのを見届けると、倉敷は扉を閉じながら携帯端末を取り出し、帰り道へと歩を進めたのだった。

 

 ノックの音が響き書類作業を進めていた九十九が顔を上げて返事を返すと生徒会室の扉がゆっくりと開かれていく。

 

(あおいか? 事前に忙しいことは伝えておいたのにな……ん?)

 

「会長」

 

「よしてよ。もう会長じゃないんだから」

 

「……そうでしたね」

 

 九十九の予想は外れ視線の先にいたのは元生徒会長である能見志保だった。彼女は栗色の髪を揺らしながら近づくとまだ暖かさの残るブラックコーヒーの缶を九十九の頬に当てた。

 

「もう日が暮れるのに、ずっと作業してたんでしょう? 少し休んでもいいんじゃない」

 

「お気遣いありがとうございます」

 

 九十九が手を添えるようにして缶を掴むと手を離した能見は空いている席に座り、カフェオレを取り出して喉を潤す。

 

「あなたもこれが良かった?」

 

「いえ、苦味がある方が脳がスッキリするのでブラックコーヒーの方が嬉しいですよ」

 

「そこだけは譲ってくれないのよね……って、そんなことを言いにきたんじゃなくて」

 

「何かありましたか?」

 

「図書室で勉強してる時に女子硬式野球部が勉強会を開いてるのに気づいたんだけど、倉敷さんの姿が見当たらなかったのよね。適正審査の時のいざこざがあったから気になって……」

 

「ああ、そのことですか。大丈夫だと思いますよ。特に誰かと険悪な雰囲気になっている様子もないですし、恐らく自主トレをしているんじゃないでしょうか。昨日の練習試合で完投した野崎さんと自分を比べてスタミナが無いことを気にしていたようですし、ランニングをしているのかもしれないですね」

 

「そうだったのね」

 

 思い過ごしで済んだことに能見は安堵の吐息を漏らすと今度は九十九の方から話しかけられる。

 

「私としてはあおいが真面目に勉強していたかが気になりますね」

 

「ええと……あの子か。剣道部のキャプテンの塚原さんに見てもらいながら真面目にやってたように見えたわよ」

 

「……そうですか。良かったです」

 

(おかしいな。ミーティングが終わったあたりの時間にあおいからNINEで『二年生組はだんちょーとあおいのふたりぼっちなのだ! 九十九許すまじなのだ〜』と連絡が来たんだが……塚原さんと親しい岩城さんが呼んだのかな)

 

 唇の下に右手を添えるようにしながら推測を立てた九十九は目線を能見の方に戻すと休憩時間が終わるまで近況を話すのだった。やがて九十九は進んだ時計の針に気づくと能見に提案した。

 

「……会長、そろそろ休憩を終わりにしましょう」

 

「まだクセが抜けないみたいね」

 

「あ……すいません」

 

「相変わらずね。そこまで真剣に謝ることでもないわよ」

 

 本気で申し訳なさそうな顔をする九十九を見て能見は吹き出すと、席を立って出口へと向かっていく。すると思い出したように振り返った。

 

「あ、そうだ。中野さんにあなたの方からフォローを入れてもらえる?」

 

「中野さんに……ですか?」

 

「一度警告はしたんだけどね……図書室で大声を上げていたから外に連れ出して説教しちゃったのよ。大学入試が近づいてピリピリしてる三年生も増えてきているし、お灸を据えないとと思って」

 

(……怒らせてしまったのか。生徒会長を務めていた時、彼女を怒らせるとその真面目さが故に鬼の如き表情になることから『般若(はんにゃ)の能面』を見た者は曲がった志を保つことは出来ないと恐れられたあの人を……)

 

「分かりました」

 

「それと試験勉強に配慮して他の人を早めに帰らせて残って作業してるみたいだけど……あまり無理しないでね」

 

「生徒会と並行して野球部の活動をさせて頂いてますから。その分の作業をするのは当然です。それに……去年の秋に同じことをした方がいましたからね」

 

「確か職務を放棄するわけにはいかないとその指示を聞かなかった人もいたわね」

 

「それは……」

 

「ふふ。その時に比べたらあなたも少しは表情が柔らかくなったわ」

 

「そう……でしょうか。自分では良くわかりません」

 

「変わらないところは変わらないか。でも少しずつ変わっていけばいいと思うわよ。じゃあね、あまり遅くならないうちに帰るのよ」

 

「はい。お疲れ様でした」

 

 部屋を出て行く能見を見送った九十九は先ほど言われたことを反芻するように思い出しながら僅かに口角を上げて作業を再開させるのだった。

 

 やがて日が沈み九十九も帰路についた頃、野崎は高架下へと赴いていた。静かな空間にバットのスイング音だけが響く中、それを遮るような足音が聞こえてくる。

 

「……アンタさぁ。暇なの? 毎週ここに来てるじゃない」

 

「いえ、暇というわけでは……。それに、高坂さんもそれは同じですよ」

 

「アタシは用事が……まあ、別にそんなことはいいのよ」

 

「……?」

 

 乾いた足音が止むと、高坂は目を逸らしながら舐め終えた飴の棒を包装袋にしまい、その視線を野崎が持つバットへと移す。

 

「今日は投げないの?」

 

「はい。今日はノースローでと言われているので……」

 

「ああ。昨日練習試合って言ってたわね。……で、どうだったの?」

 

「7回を投げて3失点でした……」

 

「ふーん……それは自責点も3?」

 

「自責点……ですか?」

 

「……まさかアンタ、ピッチャーやってて自責点を知らないなんて言わないわよねぇ」

 

「……す、すいません」

 

「はぁ……アンタが失点したイニングに3つ目のアウトを取るチャンスがあったらそのイニングのそれ以降の自責点は0、還ったランナーがエラーで出ていたならその失点は自責点に含まれない。本当はもう少し説明必要なところあるけど、とりあえずこの二つね」

 

「そういうものがあるんですね……。ええと、確かにエラーはありましたが……」

 

「なによその曖昧な言い方。はっきりしなさいよ」

 

「トリプルプレーを狙う際にエラーが出て、結果アウトが一つしか取れず……」

 

「随分お粗末な守備ね」

 

「そ、そんなこと……皆さん必死で……」

 

「ふん。そんな甘いこと言ってるからアンタ達の野球はお遊びなのよ」

 

「うっ……」

 

 射抜くように睨み付ける高坂に野崎はその身をたじろがせる。

 

「ま、今はそんなこと言ってるんじゃないの。とりあえずそれがダブルプレー取れるプレーだったとして、アンタの自責点は?」

 

(つまりランナーが後一人減って大咲さんにホームランを打たれたと仮定すると……)

 

「2点……ですね」

 

「……そう。エラーなんてものはないのが当たり前。それで取られた点はそっち側が直すべき欠点よ。だからアンタはその2点を取られた原因を潰しなさい」

 

(……言い方は厳しいですが、指摘として言っていることは正しいのかもしれません)

 

「……分かりました!」

 

 野崎が目を見てはっきりと返事を返すとそれに対して高坂は軽く頷く。

 

「それと、今日はアンタに話があって来たのよね」

 

(ずっと考えてた。野崎に野球を教える理由を……。酷いことを言った代わりに教えた一回目はともかく、二回目はそんな必要なんて無かったはずだった。けど考えに考えて……一つだけあった)

 

 纏まらない考えが彼女の中でパズルのように散っていた。心の中で高坂は散らばったピースを集め、一つ一つ当てはめていく。外枠から埋めるように嵌めていくと足りないピースが後一つとなった。その最後のピースを高坂は押し込むようにして差し込んでいく。

 

「話……ですか?」

 

 高坂の方から話があるとは思っていなかった野崎は怪訝そうに高坂の顔を見下ろすと、高圧的な態度をよく取る彼女にしては珍しく髪を指先で弄りながら視線も横に逸らして話を切り出した。

 

「野崎、アンタさ——」

 

 ——その告白の約三分前。ある三人組が喫茶店から出てきていた。

 

「やー、満足満足」

 

「野崎さんに教えてもらったこのお店のティラミス美味しかったね」

 

「最高だったね……! また食べに来よう!」

 

「大丈夫なのー……加奈子。最近体重気にしてなかったっけ?」

 

「うっ! し、試験終わったらまた沢山運動するから大丈夫だよ……!」

 

「ふふ……」

 

 夜風に当たりながら新田、永井、近藤の三人が駅に向かって歩いていく。すると近藤が覚えのある声に気づいた。

 

「あれ? 今、野崎さんの声がしなかった?」

 

「え? 聞こえなかったけど……」

 

「私もー。気のせいじゃない?」

 

「いや、確かにこっちの方から……」

 

 先ほど声が聞こえた方向を頼りに近藤が歩いていくと二人もその後ろをついていく。すると高架下にいる野崎を上から見下ろすようにして見つけていた。

 

「あっ! 本当にいたね」

 

「ホントだ! のざ——」

 

「待って。誰かと一緒みたい。……あの人は!?」

 

「咲ちゃん、知ってるの?」

 

「鈴木さんに映像を見せてもらったことがあるんだ。あの人は全国No.1(ナンバーワン)投手(ピッチャー)って言われている向月高校の高坂椿さんだよ……!」

 

「ええっ! なんでそんな人と一緒に……」

 

 三人は坂の上から覗くようにして不思議そうに二人の様子を見守っていると静かな高架下に反響するようにして彼女達のもとにも高坂の声が聞こえてきた。

 

「野崎、アンタさ——向月に来ない?」

 

「えっ……!」

 

(これしかない。最初から野崎を向月に迎え入れるつもりで、教えた。それ以外あるはずがない)

 

 高坂の誘いに距離がある場所から聞く三人にも野崎の動揺は見て取れた。

 

「や、やばいよ! 引き抜きじゃん!」

 

「止めにいかないと……!」

 

「待って……二人とも」

 

 慌てて身を乗り出そうとする二人の腕を掴んだ近藤はそのまま二人を落ち着かせようとした。

 

「どうして止めるの……?」

 

「いいの咲! 野崎が引き抜かれても!」

 

「良くないよ。私も野崎さんと一緒に野球したいもの」

 

「なら……!」

 

「……でも、もし高坂さんと野球する道を選びたいと野崎さんが言うのであれば、それを私たちが無理やり止めるのは違うと思うんだ」

 

「ううっ……で、でも……」

 

「……それに……」

 

 高坂の言葉を受け止め、自分の中で結論を出そうと考え込む野崎。二人の間に静寂が広がる中、野崎はゆっくりと顔を上げた。

 

「私は信じてるもの。この前の練習試合で私たちが分かち合ったわがままは……里ヶ浜高校で共にやっていく証のためなんだって」

 

「高坂さん、お誘いありがとうございます。名門である向月高校、その特待生である高坂さんが私を評価して誘って頂けたのは素直に嬉しかったです。……ですが、そのお誘いは断らせて下さい」

 

「……なんでよ。設備も格段にこっちの方が上よ。上手くなりたいならうちでやるべきよ。心配なのは何……お金? それはアタシが勧めれば特待生にはねじ込んで免除くらいさせてあげるわぁ……!」

 

 野崎の返答に高坂は身を乗り出すようにして迫る。その様子に野崎は驚きながらも落ち着いて返事を返した。

 

「確かにこちらはまともなブルペンもありませんし、部費も決して余裕はない。設備は間違いなく向月さんの方が充実していると思います」

 

「だったら……!」

 

「でも私は……里ヶ浜高校の皆さんと共に上手くなりたいんです」

 

「——! ……そう……」

 

(どうして……なんでアタシは……野崎の返事に安心した?)

 

 普段の余裕のある表情は崩れ、高坂の虚になっていく瞳は野崎の上に重なるようにしてある人物を映し出した。

 

(……認めたくない。でも、少なくとも……アタシが野崎に野球を教えた理由は引き込もうとしたからじゃないってわけ……!)

 

 心にぽっかりと空いた場所に押し込むようにして差し込まれた最後のピースは弾かれて溶けるように霧散していった。

 

「……行こう。二人とも」

 

「え……行っちゃうの?」

 

「まだ、しつこく勧誘してくるかもだよ?」

 

「そうだとしても大丈夫よ。それにこうやって勝手に覗いてるのもあまりいい趣味じゃないしね」

 

「そりゃ……そっか。うん、分かったよ!」

 

「だ、大丈夫だよね……うん! 帰ろっか」

 

 三人がその場を離れ駅へと向かっていく。その間に高坂は野崎に渡されたスポーツドリンクを飲んで乱れた息を整えていた。

 

「……ふぅ。取り乱して悪かったわね」

 

「いえ……気にしてないですよ」

 

「……名門向月の誘いを断ったこと、いつか試合で後悔させてやるんだからぁ」

 

 落ち着きを取り戻した高坂は普段のやや高圧的で毅然とした態度へと戻っていた。

 

「望むところですよ。……ただ今は置いといて、普段教えて頂いているお礼に喫茶店でティラミスをご馳走させて下さい」

 

「ティラミス?」

 

「よく飴を舐めていられるので甘いものが好きなのかと……」

 

「……まあ、嫌いじゃないけど」

 

 野崎の誘いに悪い気はしなかった高坂だったが現実に引き戻すような振動に気づくと、ポケットの中に入れたボタンを押して振動を止め、翻して背中を野崎に向けて歩き出した。

 

「それはまた時間ある時にお願いするわ。……用事があるのよ」

 

「そうですか……残念です。また、会いましょう」

 

 高坂は軽く手を挙げるとコンクリートを叩くような足音を響かせながら道を上っていく。やがて上まで来たところで素振りの練習を再開させた野崎のスイング音に気づき一度振り返ってから再び歩みを進め始める。

 

「大会までもう1ヶ月を切ったか……」

 

 そう呟きながらポケットから左手で取り出したのは飴ではなく先ほど振動していた携帯受信機。貼り付けられたラベルには『総合病院』と記されており、それを見た彼女は一抹の不安を感じていた——。




プライベートの方も落ち着いてきたのでまた週一のペースで更新していきます!


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紅白戦に備えて

「終わった……終わったー!」

 

「こら有原さん! まだ試験用紙の回収が終わってないわよ!」

 

「ご、ごめんなさーい!」

 

 静寂を打ち破るようにチャイムの音が鳴り響くと有原は喜びを全身で表すように勢いよく立ち上がり、両腕を天に向かって目一杯伸ばす。すると月島に注意され、慌てて着席していた。今日は試験の最終日。最後のテストが終わったことで有原に限らず教室中が解放感に満たされていた。月島の指導により湧き上がる気持ちを抑えられながらテスト用紙の回収が行われ、掛橋先生により名前の書き忘れがないか確認が終えられた。

 

「問題なさそうね。みんな、お疲れ様!」

 

「今度こそ終わったー!」

 

 テストの呪縛から解き放たれた学生たちは力が抜けたように机に突っ伏したり、問題の気になったところを確認しあうなど各々の反応を見せる。

 

「有原さん、どうだった?」

 

「大丈夫そう! ありがとうみんなー!」

 

「わっ。もう……テンション高すぎよ」

 

「翼ー! 大丈夫だった!?」

 

「ともっちー! うん。赤点は平気だと思う! ありがとー!」

 

 気分が高揚した有原が鈴木や隣の4組から真っ先に駆けつけた河北に嬉しさをぶつけるように抱きついていく様子を野崎は穏やかな表情を浮かべながら見守っていた。

 

「中野さんはどうでしたか?」

 

「お疲れ様ですにゃ。本日の試験は午前のみの日程で、精神的負担も少なく……」

 

「え、えっと……中野さん?」

 

 斜め45度にお辞儀をしてから落ち着いた口調で話す中野に野崎は困惑し、苦笑いを浮かべる。

 

「はっ……! またやってしまったにゃ! 能見先輩と九十九先輩のマナー講座の影響がまだ……!」

 

 度々図書室で騒ぎ立てる中野に先日能見が説教をし、秩序ある行動を取るよう叩き込まれていた。またやり過ぎてしまったと感じた能見は九十九にフォローを頼んだが、九十九は中野の厚生にフォローを入れるという勘違いを起こしており、中野にとってはダメ押しとなっていた。

 

「違和感はあるけど、礼儀正しいのは良いと思うわ」

 

「それだと普段のワタシが礼儀正しくないみたいに聞こえるにゃ!?」

 

「そこまでは言わないけど……たまに度が過ぎることはあるわね」

 

「うっ、確かに図書室で騒いだのは反省してるにゃ……」

 

「いや、それ以外にも……」

 

「か、勘弁してくれにゃ! この前散々注意されて、懲り懲りなんだにゃ!」

 

「みんなー! 早く部活行こうよ!」

 

「有原さん、まだ終礼が終わってないわ」

 

「うー! 早く野球したいー!」

 

 テストが終わり一層の賑わいを見せる3組、その喧騒は5組にまで届いていた。

 

(テストが終わったくらいで浮かれ過ぎでしょう……)

 

「りょー! やっと終わったねー!」

 

「……そうね」

 

(こちらの教室も騒がしさはさほど変わらなかったわ……)

 

 急に机に手をついて身を乗り出すように怒涛の勢いで話しかけてきた秋乃に東雲はビクッと肩を震わせると、声をかけてきた者の正体に気付き警戒心を緩ませた。

 

「貴女、一学期に追試を受けたそうだけど今回は大丈夫なのかしら? 大会前の貴重な時間が追試で潰れるのは痛いわよ」

 

「うんとねー、大丈夫! 一学期の成績を見せたらローテーションを組んでみんなが一杯勉強教えてくれたんだー」

 

(私は自主練を優先して勉強会には参加しなかったけど……大変だったでしょうね)

 

 ローテーションを組んでまでサポートを必要とする秋乃の成績を察した東雲は勉強会でフォローに回った皆の苦労を推し量り、心の中で労をねぎらった。

 

「……なんにせよ、大丈夫そうで安心したわ。大会まであと3週間弱。ここからはより実戦形式の練習を増やしていくからそのつもりでね」

 

 そう言うと東雲は立ち上がり、荷物を纏めて歩き出した。

 

「うん! ……あれ。どこに行くのー?」

 

「どこって……部室によ」

 

「まだ終礼が残ってるよー?」

 

「……あっ」

 

 秋乃の指摘に東雲は小さく声を漏らすと、心なしか顔が赤くなっていくのを感じながら再び席に座り直したのだった。

 

 やがて終礼が終わると部室に続々と部員が集まっていき、練習に行く前に各々昼食を取っていた。勉強会も皆が来たわけではなく、日によって来れない者もいたため、全員が揃うのは先週のミーティング以来であった。また勉強という目的のために集まっていた時とは違い、久しぶりの部活という高揚感から話もいつも以上に盛り上がっていた。

 

「いやー、試験終わった後にこんな晴れやかな気分でいられるなんてね」

 

「ねー! 追試がいっぱいでうわーってならなくてもいいんだ!」

 

「逢坂さん、やれば勉強が出来ないわけじゃないのにどうして一学期では追試を……?」

 

「だってぇー……めんどくさいんだもん」

 

「追試の方が面倒な気もしますが……」

 

「いや、わかる! わかるよー。面倒なことは後回しにちゃうよね!」

 

「そうそう!」

 

「そうかなぁ。後で面倒になるなら、先にやった方が楽だと思うけど……」

 

「今回は野球部の勉強会に参加したけど、いつもは咲ちゃんが誘ってくれるよね」

 

「わたしの家で開いてさ。そこでみっちりと仕込まれるわけですよ」

 

「良いことでしょ」

 

 総勢17人となった女子硬式野球部。全員が一箇所に集まるには人数が多く3つのグループに分かれて食事をしていた。

 

「生徒会の用事はもういいの?」

 

「ええ。落ち着いてきたので、後は野球部の活動にあわせながらで大丈夫ですよ」

 

「さすが九十九だな! 応援する隙もない!」

 

「むむむ。おのれ九十九〜。テストの時は特に仲良しになるという誓いを破った恨みは深いのだ〜」

 

「元から一方的な誓いだったじゃないか」

 

「しかし雫がウチらのことに気付いてくれて助かったな! おかげで今回も何とかなった!」

 

「おや……? 岩城さんが呼んだんじゃなかったのかい?」

 

「ん……いや、ウチは呼んでないぞ!」

 

「し、雫が元から図書室で勉強しようと思ってたんじゃない」

 

「……なるほどね」

 

 倉敷の表情を見て九十九は腑に落ちたように頷くと、話題を切り替えたのだった。

 

「来週の日曜日にやる紅白戦に備えて今週の土日でメンバーを決めるわよ」

 

「うーん……折角だからさ、今週の日曜にやって来週もやろうよ!」

 

「練習期間も空いてしまったし、すぐに試合をするというのは難しいと思うわ」

 

「それに付き合ってくれる塚原先輩のことも考えれば、今週だとまだ慣れないんじゃない?」

 

「そっかー……そうだね」

 

「それと岩城先輩から左投手のことで相談を受けたわ。特に野崎さんしか左投手がいないから、野崎さん自身が左投手を打つ練習が出来ないと」

 

「岩城先輩が……ありがとうございます」

 

「ん……ははは! 後輩の助けになるのは先輩として当然のことだ!」

 

「野崎さんのピッチング練習の時間を考えればバッティングピッチャーとして投げる負担も減らしたいし、誰か協力者を募りたいの」

 

「けど左投手なんてそう簡単には見つからないにゃ」

 

「私に任せて!」

 

「心当たりがあるの?」

 

「うん! そろそろ帰ってくる頃だし、頼んでみるよ!」

 

(帰ってくる……?)

 

「あ……翼。もしかしてあの人?」

 

「そうだよ!」

 

「そっか。久しぶりに会いたいな」

 

「……よく分からないけど、任せていいのね?」

 

「大船に乗ったつもりで任せていいよ!」

 

「……分かったわ。お願いね」

 

 やがて昼食を食べ終えた者からグラウンドに向かっていくと練習が開始される。

 

「セカンド行くよー!」

 

「うんっ!」

 

 ノッカーを務める有原が放った打球が一二塁間に転がっていき、河北が飛びついてミットを伸ばすと前に落とされ、河北はボールを拾い上げて一塁で構える秋乃に向かって送球を行った。すると有原が打つと同時に走り出していた新田より送球が早く届いた。

 

「いいじゃん河北! その調子でいこ!」

 

「ありがとう!」

 

(何とかアウトには出来たけど、まだまだ際どいところは前に落とすので精一杯。足が速いランナーだと、折角の打ち取った当たりをセーフにしちゃう。少しずつでも私に出来ることを増やしていかないと!)

 

「次パームボールをお願い!」

 

「はい!」

 

(野崎さんは倉敷先輩ほどとはいかなくても大会の時と比べるとストレートのコントロールはだいぶつくようになってきたわね。さて、パームの方は……)

 

 野崎は手のひらで包むようにしてボールを握ると押し出すようにしてボールを投じた。

 

「……!」

 

 そのボールがやがて降下してくると鈴木の目の前でワンバウンドする形になり、鈴木はミットに収めきれず弾いてしまう。

 

「す、すいません!」

 

「いや、これでいいのよ。ボールは良かったわ」

 

「そ、そうですか?」

 

(緩いボールがで目の前でバウンドするキャッチャー泣かせの軌道だけれど、パームは勢いがないからストライクゾーンに入ってタイミングを合わされると長打を貰いやすい。落ちる球はワンバウンドするくらいが丁度いいわ)

 

「もう一球!」

 

 鈴木が投げ返したボールを受け取った野崎は再びパームボールを投じると今度はワンバウンドせず、鈴木はミットを想定より上げるようにしてから捕球した。

 

(落ちる軌道だから低めには来やすいけど、そう簡単にコントロールは仕切れないか)

 

「もう少し低めを意識して!」

 

「分かりました!」

 

(私も試合であのボール弾いちゃったから、何とか捕球出来るようになりたいな……)

 

「近藤、次チェンジアップ行くわよ」

 

「あ……はい!」

 

 野崎に向きかけた意識を戻した近藤は目の前で佇む倉敷の投球に備えるとやや山なりの軌道で投じられたボールが落ちてくる。

 

(捕れ……えっ!)

 

 低めに投げられたボールに上手くミットを合わせたと思った近藤だったが、ミットの中心ではなく根本側での捕球になったことに驚いた。

 

(野崎さんのボールと比べて急激に落ちる軌道じゃないけど、ほんの少しだけ利き手側に向かって沈むんだ……気をつけよう)

 

(倉敷先輩のチェンジアップ、内外はともかく低めに決まるようになってきたわね。あのボールがあるだけでリードはグンと広がるわ)

 

 近藤の捕球位置を見て高まっていく精度を感じた鈴木は前に向き直るとパームの捕球を安定して出来る様になることに意識を切り替えて練習を続けたのだった。

 

 グラウンド側の練習が次のメニューに移ると鋭い金属音が響き渡った。

 

「にゃ……!?」

 

 その打球は中野の頭上を越えていくとワンバウンドしてから外野の奥にある生い茂っている草むらへと転がっていった。

 

「おお! いいじゃないか加奈子!」

 

「あ、ありがとうございます。この前の練習試合でグルメセンターロードの中でわたしだけヒットが打てなかったので、頑張らなきゃって思って。最近帰った後に素振りをするようにしてるんです」

 

(後、最近体重が気になってきたから少しでもカロリー消化しなきゃって……)

 

「そうか! それは良い心がけだな! よーし、ウチも続くぞー!」

 

(変化球はまだ難しいみたいだけど、ストレートには慣れてきたわね。新入部員の中で最も長打に期待出来るのは、永井さんのようね)

 

(やるわね加奈子ちゃん! アタシももうちょっと素振り増やそうかな。ホームラン打ちたいし)

 

(むむ……これはまずいにゃ。早いこと打撃スランプを克服しないと……)

 

「どりゃあああ! おわっ!」

 

 東雲が投じた高めに外したボールをフルスイングした岩城は勢い余って尻もちをついていた。

 

「先輩。ボールをよく見て下さい」

 

「たはは……悪い悪い! 今度こそ!」

 

(鈴木さんのアドバイスで手元で振りやすいバットに変えた分、ボールを見れる時間というのは長くなったはずなのだけれど……岩城先輩の場合そういう問題じゃないのかしら)

 

 こんな様子で練習の日々が流れていき、土曜日。紅白戦に向けて宇喜多は気合いが入っていた。

 

(大会1週間前に試合ってことは、そこでの結果、凄く大事だよね……。コーチャーとか、スタメンだけが大事なことじゃないのは夏の大会で分かったけど……でも)

 

「行ってくるね、弥太郎」

 

 リビングでくつろぐようにしていた亀の弥太郎に声をかけると、弥太郎はのっそりと首を伸ばしてから窓辺へと歩いていき、日向で日差しを浴びながら眠りについた。

 

(まだ、眠いんだ。茜も眠いけど……頑張るもんっ!)

 

「ふっふっふ。待っていたのだあかねっち」

 

「あ、師匠!」

 

 家を出るとそこには阿佐田が壁に背を預けるようにして待っており、芝居がかった口調で話しかけてきた。

 

「休日練前の秘密特訓と行くのだ!」

 

「えっと……足腰を鍛えるためにランニングに行くんじゃ……」

 

「あかねっちよ、これをただのランニングと思ってもらっては困るのだ」

 

「ごくり……」

 

「さあ、現れるのだ!」

 

 阿佐田が指パッチンを鳴らすとその音に反応するようにして一匹の猫が姿を現した。

 

「こ、これは……なんですか?」

 

「秘密特訓の内容、それは一直線に走るランニングじゃなく……猫ちゃんの気ままな動きに合わせてついていく……その名も『猫ちゃんランニング』なのだ!」

 

「えっと……どういう意味があるんでしょう……?」

 

「ライトを守るあかねっちは自分の周り360度方向のどこにもすぐに反応できるのが望ましいのだ。気ままな猫ちゃんの動きに即座に反応できる足腰があれば、試合にも生かせるのだ!」

 

「な、なるほど……?」

 

(分かるような分からないような……。でも師匠のことを信じてやってみようかな)

 

「走るのだあかねっち! あの茜空に向かって!」

 

「師匠……あれは夕日じゃなく朝日です……」

 

 そんなこんなで阿佐田と宇喜多は猫を追うようにして走り出したのだった。

 

「紅白戦のメンバー分けはこれで良さそうね」

 

「ええ。経験者の有原さんと東雲さんを分けたし、上級生の偏りもないから問題ないと思うわ」

 

「そうだね! じゃあこのままオーダーも決める?」

 

 日曜日の休日練が終わり、日も沈んできた頃。有原・東雲・鈴木の3人はメンバー分けを含めた紅白戦の細かい調整を話し合っていた。

 

「いえ、各チームで相談して決めるといいと思うわ」

 

「そうね。打順毎に求められる役割を考える機会にもなるんじゃないかしら」

 

「分かった!」

 

「これで決めることは終わったわね。……有原さん、東雲さん。二人に話しておくことがあるの」

 

「ん……どうしたの?」

 

「何かしら?」

 

「今までスタメンを決める際、私たち三人で話し合ってきたでしょう。けど今度の秋大会のスタメンは……あなた達二人で決めてもらえないかしら」

 

「え……」

 

「それは何故かしら?」

 

 鈴木の提案に目を見開く有原と怪訝そうな表情を浮かべる東雲。そんな二人を見て鈴木は意を決した様子で話を続けた。

 

「少なくとも秋大会の段階であなた達二人がスタメンを外れることはないと思う。けど夏大会と違って……私はそうとは限らない」

 

「和香ちゃん……」

 

「……いいのね?」

 

「構わないわ。勝つためのオーダーを組むには、二人に任せるのが最善の選択だと思うから」

 

「……分かったよ。責任を持って……私たちが決めるね」

 

 真っ直ぐ目を見て自分の考えを伝えてくる鈴木に有原もその目を見つめながら彼女の願いを聞き入れたのだった。

 

「紅白戦、ですか」

 

「うん! もう明後日に迫ってるんだ……」

 

「……自信が無さそうに見えますが」

 

「う……翼と別のチームになったのが不安で……」

 

 紅白戦2日前。ひまわりグラウンドでの練習後、神社にあるスペースで河北は神宮寺と共に練習し、その後ベンチに座って話し合っていた。

 

「関係ないでしょう。貴女は有原さんがいなくても、夏の頃からこうして練習しているではないですか」

 

「そ、そうだけど……」

 

「河北さん。試合というのはどちらのチームも負ける可能性がある。その不安を始まる前に完全に拭うことは出来ないのです。終わらないことには何が起こるか分からないのが試合ですから」

 

「神宮寺さん……」

 

「奇遇なことに私たちも日曜日に紅白戦をします」

 

「え……清城も? でも清城の部員の人数じゃ……」

 

 清城の女子硬式野球部は神宮寺が入部する前に監督の不祥事があり、一度は廃部していた。そこから神宮寺が再び部を発足させ部員を集めたという事情から人数に余裕はないというのが現状だった。

 

「ええ。しかし清城にはもう一つ……男子の野球部があるのです」

 

「そういえば……でも確か清城の男子野球部って甲子園出場の経験もある強豪だったような」

 

「そうです。明後日私はその相手に投げることになる……不安がないとはとても言えません」

 

「あ……」

 

(いつも揺るぎないように見える神宮寺さんも不安なことはあるんだ……)

 

「しかし、不安に押しつぶされないよう私たちはこうして練習で力を積み上げているのです。試合の結果がどうなるにせよ、私は自分がやってきたことを信じるようにしています」

 

「……そうだね。うん! ありがとう神宮寺さん! 私も私がやってきたことを信じて頑張ってくる!」

 

「それがいいでしょう。……ここで次に特訓をするのは大会後です。なので今度は……試合で会いましょう」

 

「うん! 試合……いや、グラウンドの上でまた会おうっ!」

 

「……! ええ、楽しみにしています」

 

 河北の返事に神宮寺は目を見開くと微笑を浮かべながら立ち上がり、共に階段を降りていくと、別れを告げて暗くなった夜道に分かれていったのだった。

 そして日曜日になり、紅白戦の準備が着々と進められていた。

 

「つばさー! 一番打者はだんちょーにするのだ!」

 

「ええ!? でもそれだと岩城先輩のパワーが生きないですよ……」

 

 東雲チームのウォーミングアップを見ながら有原達はオーダー決めをしているところだった。食い下がる阿佐田に有原は勢いに押されながらも、思いついたように提案した。

 

「そうだ! 阿佐田先輩、一番やってみませんか?」

 

「あおいが? 今まで二番が多かったから慣れないのだ……」

 

「折角の紅白戦なので、今までやってこなかったことを試すのもいいと思うんです!」

 

「おお! なるほど……それはアリなのだ。やってみるのだ!」

 

 有原達のオーダー決めが進められていく中、肩を作り終えた倉敷に東雲が近づいていく。

 

「どうしたの?」

 

「私も投球練習をしておこうかと」

 

「気持ちは嬉しいけど、野崎の方のチームにリリーフ出来る投手いないでしょ」

 

「それはそうですが……」

 

「同じ条件でやらせてくれない?」

 

(この試合、スタメンピッチャーを決めるのに大きく影響する試合でもある。そうね……二人がどれだけ先発投手として投げられるか、というのを見るのも大事なことね)

 

「……分かりました」

 

「ありがと」

 

 倉敷の気持ちを汲んだ東雲はこの試合リリーフに回らないことを決断すると、サードとしてウォーミングアップを続けたのだった。やがて東雲チームのウォーミングアップが終わると有原チームが代わりに準備を始めたのだった。

 

「初瀬! ちょっと付き合って欲しいにゃ」

 

「え……あ、はい!」

 

 野崎がマウンドで肩を作っている間、中野はキャッチボールをしていた初瀬に頼んでボールを投げてもらっていた。すると軽い金属音が響く。

 

「中野さん、練習でもバントをしていましたよね」

 

「バッティングの調子崩してるからにゃ……。基礎に立ち返ってバットの芯に当てる感覚を掴みたいんだにゃ」

 

(鈴木さんに勧められて私もバントの練習を始めましたが、それほど重要なことなんですね……)

 

「あ、あのっ。私も後で投げてもらっていいですか? 練習でやったことの確認をしたくて……」

 

「分かったにゃ!」

 

 やがて有原チームのウォーミングアップが終わると有原と東雲によってオーダー表の交換がなされ、先攻後攻が決められる。そして互いのチームがグラウンドで向かい合った。

 

「この試合塁審はいないから一塁コーチャー、三塁コーチャーが公平にジャッジしてちょうだい」

 

「うん! 分かったよ」

 

「掛橋先生。今日は球審、よろしくお願いします」

 

「こちらこそよろしくね。……こほん。それでは今から紅白戦を始めます! 互いに礼!」

 

「「よろしくお願いしまーす!」」

 

 18人の声がひまわりグラウンドに響き渡ると後攻になった有原チームがそれぞれのポジションに散っていく。

 

「近藤さん。今日もよろしくお願いします」

 

「ええ、よろしくね。ふぅ……緊張はしてるけど、前の試合ほど頭がテンパってないかも」

 

「初試合はやはり特別ですよね……」

 

「そうね。……よし! 最終確認ね。まず今回は低めのストレートを軸に組み立てていくわね。相手チームは全員右バッターだから明條戦で有効だったクロスファイヤーも混ぜることになると思うわ。そして決め球としてパームを試していきましょう」

 

「はい! 分かりました!」

 

 近藤の確認に野崎は迷わず返事を返すと互いにミットを合わせる。そして二人とも笑みを零すとミットを外して、近藤はホームへと戻っていく。

 

「プ、プレイボール!」

 

 近藤がキャッチャーボックスに座りながらマスクを被り右バッターボックスへと入る九十九を見上げると、初めて球審を務める掛橋がやや上擦った声で試合開始の宣言を上げ、紅白戦が始められたのだった。



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プレーに顕われるのは

(さて、一番打者としてまず私が果たすべき役割は……野崎さんの立ち上がりのコントロールを見極めることだ)

 

 掛橋先生の試合開始の宣言を背中に浴びながら九十九は投球に備えてバットを構えると、野崎の一挙手一投足を見逃すまいと鋭い視線を向けた。

 

(右足が垂直に上がり、身体のバランスも崩れていない)

 

 振りかぶらない投球フォームから自然に右足が踏み出されると指先からストレートがリリースされる。そのボールに対し九十九はバットを振り出すことなく見送った。

 

「ストライク!」

 

「野崎さん、良いボール来てますよ!」

 

「ありがとうございます!」

 

(やや内寄りだがコースはほぼ真ん中。だが低めに決まったな。球速も入れにいったようなものではなく、しっかり腕を振り切ったものだった)

 

 近藤が声をかけながら返球する様子を横目で見ながら九十九は頭の中で情報を纏めていくと再びバットを構え直した。

 

(2球目は……)

 

 野崎が再びストレートを投じると低めに向かっていくボールを近藤は心地よい捕球音を鳴らしてミットに収めた。

 

「ストライク!」

 

(今度は真ん中低めやや外寄りといったところか。それに近藤さんのキャッチングもスムーズのようだ。この2球は偶然ではなく、狙って投げたものと考えていいだろう)

 

(前の練習試合の反省その一、際どいコースを要求し過ぎてボールカウントを先行させてしまった。それにコントロールが安定しにくい立ち上がりに難しいボールを多く投げさせて調子が乱れてしまったんだ。野崎さんのストレートには球威がある。大雑把でも低めに決まればそう簡単には打てない……!)

 

 手のひら全体にボールの威力が伝わるような感覚に近藤は口角を上げながらボールを投げ返すと、野崎も柔らかい笑みを浮かべながら受け取った。3球目、高めに投じられたストレートに対して九十九はピクッと反応を示したがバットを振り出さずに見送る。

 

「ボール!」

 

(かなり高めに外れたが……さらに球速が上がった?)

 

 唸りを上げて向かってくるようなストレートに驚いた九十九は後ろを振り返ると先ほどとは違い中心部での捕球には至らなかったキャッチャーミットが目に入った。

 

(野崎さんの全力投球はコントロールを度外視したもの。ボールカウントを悪くしてから投げると四球(フォアボール)に繋がってしまう恐れがある。だからこそカウントが良いうちに投げて……このボールに繋げる!)

 

「……!」

 

 近藤の出したサインに野崎は一瞬驚きながらも頷くとミットの中で握りを確かめるようにしてからボールを投げ込んだ。

 

(高めの甘いボール! ……!?)

 

 この打席で初めて九十九はスイングの始動に入ったが、ボールがまだ遠い位置にあることに気付き、その球種の正体に気付いた。

 

(パームボール!)

 

(……! バットの振り出しを溜められたのだ……!)

 

 ホームベースの方をぼんやりと見ていた阿佐田がその足を一二塁間方向に動かすと快音がひまわりグラウンドに響き渡る。

 

「えっ!」

 

(まずい……長打コースに……!)

 

「任せるのだ!」

 

 野崎と近藤がパームを捉えられたことに動揺する中、セカンドの横へと飛ばされた低く鋭い弾道の打球に阿佐田が飛びついた。

 

「うっ……!」

 

 伸ばしたミットの先を打球が通過するとその勢いのまま右中間へと転がっていき、九十九は一塁ベースを回った。

 

「ストップです!」

 

「……!」

 

 転がっていく打球に駿足を飛ばして追いつき前を向きながら捕球した中野が二塁で構える有原へと送球をしており、一塁コーチャーを務める鈴木から指示を飛ばされた九十九は反転して一塁に戻っていく。

 

(追いつくとしても深い位置での捕球になると思ったんだが、定位置に近い深さで捕ったのか)

 

 送球が有原に届いた頃には九十九も一塁ベースを踏んでおり、野崎にボールが投げ渡される。グローブを外しながら同じ外野のポジションを守る身として九十九は中野の守備範囲に感嘆していた。

 

(明條との練習試合に続いてまた先頭打者を出してしまいました……)

 

「中野さん、ナイスプレー!」

 

「恐悦至極に存じ……っと、間違えたにゃ。 センターの守備はワタシにお任せにゃ!」

 

「阿佐田先輩も惜しかったですよ!」

 

「次は捕るのだー!」

 

(有原さん……皆さん……)

 

 有原が声を掛けていくと他の野手陣からも声が出始める。周りを囲むように発される味方の掛け声を聞いた野崎の固くなりかけた表情が和らいでいった。

 

(清城、明條との練習試合。どっちの試合でも翼のあの声が私の中にある不安を和らげてくれた。でも今日は敵のチーム……思えば、それで良かったのかもしれない。私は翼に支えられるために野球を始めたんじゃない。翼の隣で一緒に戦うために野球を始めたんだ!)

 

 声が出ていく相手チームを見て気合いを入れ直した河北はその視線を有原から鈴木へと移すと、サインの確認を示すためにヘルメットのつばを触ってからバントの構えを取った。

 

(送りバント……いや、運動能力が高い九十九先輩は中野さん程ではないけど足も速い。ここは……)

 

「バック!」

 

 牽制のサインを受けて野崎が左足を垂直に上げてから一塁ベースについた秋乃へと牽制球を投じると九十九が帰塁し、タッチが行われた。

 

「セーフ!」

 

 塁審の代わりを兼ねている鈴木が公平にジャッジを行うと、秋乃から返球が行われる。

 

「いいよゆうきー! 『どっどど どどうど どどうど どどう』って感じだね!」

 

「秋乃さん。『風の又三郎』の冒頭に出てくる風の表現ですね。……それほどの勢いだったということでしょうか?」

 

「うん!」

 

「あ、ありがとうございます」

 

(この前の国語の試験で取り上げられたこともあって、思わず口ずさんでみたくなるフレーズですよね)

 

(清城との練習試合では帰塁判断が遅れたことでアウトになってしまった。左投手(サウスポー)の野崎さん相手だし、気を付けないと)

 

 野崎がボールを受け取ったのを確認すると九十九はそこから視線を外さずに慎重にリードを広げていった。

 

(明條戦では初回に同じような場面で河北さんにバスターのサインが出ていたけど、今見た限りではヒッティングに切り替えるような素振りはなかった。左投手の野崎さん相手に簡単に盗塁は仕掛けられないはずだし……送りバントに備えよう)

 

(高めのストライクゾーンに……ですね。分かりました!)

 

(反省その2……バントを失敗させるためにボール球を要求し、見極められてカウントを悪くしてしまったこと。野崎さんには繊細なコントロールがあるわけじゃない。ボール球でバント失敗を狙うより……持ち味である球威を生かすんだ)

 

 サインに頷いた野崎は目で九十九を牽制しながらボールを長く持つと右足を踏み出し、腕を振り切ってストレートを投げ込んだ。

 

(しっかり送るんだ!)

 

 河北はバントの構えを崩さず鈴木のサイン通り送りバントを狙い、バットの高さを上に動かして調節する。するとキン、と軽い金属音が鳴った。

 

「任せて!」

 

「お願いします!」

 

 近藤がマスクを外しながらフェアゾーンへと足を踏み出すと宙にフラフラと舞うボールにキャッチャーミットを伸ばす。

 

(これは……)

 

「アウト!」

 

(うっ……!)

 

 ミットの先ですくうようにキャッチした近藤は足を小刻みにステップさせてバランスを整えると送球体勢に移行したが、判断良く塁に戻っていく九十九を見て送球を中断した。

 

「ナイスキャッチです!」

 

「ありがとうございます。野崎さんも見事なストレートでした!」

 

(ボールの力に押されて上げちゃった……。こういうのをしっかり決めないといけないのに)

 

 フライアウトに取られた河北がベンチへと戻りヘルメットを置きながら腰を下ろすと、無意識のうちに視線が有原へと向いていた。それに気付いた河北は慌てて首を大きく横に振り、拳を強く握った。

 

「ど……どったの?」

 

「あ……新田さん、ごめん。驚かせちゃったね。なんでもないから、気にしないで!」

 

「そう? なんかあったら言ってねー」

 

「ありがとう。でも大丈夫!」

 

(反省は試合のあと! 試合が終わるまで練習で積み上げてきたものを信じて、自分に出来ることをやり抜くんだ……!)

 

 河北はグラウンドに視線を戻すと決意を秘めた瞳で野崎の投球を中心として全体を見渡すようにして試合に集中し直す。右打席に入っている逢坂は外に外れたストレートを見送り、カウントは1ボール2ストライクとなっていた。

 

(野崎さん、もう一度……)

 

(はい! 試合前に確認してくれたおかげで心構えを作ることが出来ました。このボールを決め球として投げるんだって)

 

 ミットの中でまだ慣れない握りを確認するようにすると手のひらでボールを包むように握り、押し出すようにしてパームを投じた。

 

「ひゃん!?」

 

 ストレートを待っていた逢坂はタイミングを外され前足が開くと、泳いだスイングでボールに食らいつく。するとバットの先に当たった打球はボテボテのゴロとなってサード方向に転がった。

 

(初瀬さんの肩だとセカンドは厳しい……)

 

「一塁に!」

 

「はいっ」

 

 前に出た初瀬は身体の正面でボールを捕ると足の向きを変えて送球体勢を整えてから一塁に送球を行った。ワンバウンドする送球を秋乃が難なく捕ると、逢坂が一塁を駆け抜けた。

 

「アウト!」

 

「うー……やられたわ」

 

「でも進塁打にはなったわよ」

 

 逢坂が打ち取られたことを嘆くように空を見上げながら足を止めると、鈴木は二塁へ到達した九十九を確認しながらフォローを入れた。

 

「うーん。悪くないんだけど、地味なのよね。アタシはもっと派手に活躍したいわ!」

 

「地味でも大事なことなのだけれど……」

 

 進塁打にさほど興味が無さそうにベンチに戻っていく逢坂を鈴木は残念そうに見送ると、ボールが野崎に投げ返されたことに気付いて試合に意識を戻した。

 

(野崎さんのパームは縦への変化も大きいし空振りを狙える変化球。それがこうも当てられるのは……ボールが浮いているから。もう少し低めに決まっていれば今のは空振りを取れていた。けれどストレートとの球速差を考えればそう簡単に打てるわけじゃない。実際逢坂さんはタイミングを外されてヒットに持っていけるような状態ではなかった。そう考えると……)

 

 右打席へと入っていく四番打者の東雲にフリーのサインを送りながら鈴木は考えを纏めていた。サインの了承を見届けると視線を注意深くリードを広げる九十九へと移す。

 

(九十九先輩の運動能力の高さというものを実感させられる。私はもうスタメンを選ぶ立場ではないけれど、経験者の二人に続いて秋大会で九十九先輩がスタメンを外されるのは考えづらい。ただ九十九先輩は今まで守っていたライトだけではなく、レフトとセンターも十分こなせるようになった。つまり外野の選手はポジションが違えども、実質的にレギュラー枠を争うことになる……)

 

 その間に地面をならしながら東雲も頭の中を整理していた。

 

(鈴木さん……貴女は先週のメンバー決めの際に私と有原さんはスタメンを外れないだろうと言っていたわね。けれど、私は清城との練習試合で四番としての役割を全く果たせなかったことを無かったことにするつもりはない。確かに経験という面で見れば私と有原さんは頭一つ抜けているのでしょう。しかし選手には調子の波というものがあり、大会は一発勝負。私はスタメン決めを任された立場として、たとえ経験者であっても調子が悪いのであればスタメンから外すことを考えるわ)

 

 地面をならし終えた東雲はバットを立てるようにして左手を伸ばし、バット越しに有原を見る。

 

(有原さん……貴女は私に指摘したわね。新チームが始動してから私に過度な負担がかかっていると。そして私は貴女を頼り、今までかかっていた負担を軽減してもらった。あれからもう一ヶ月以上が経った……。もしこの試合でも調子を取り戻せていないようなら、スタメン決めを任された立場としてではなく東雲龍という野球選手として自らスタメンを降りる。それぐらいの覚悟を抱いて今まで練習を積み重ねてきた……!)

 

 バットを手前に引き右手を添えるようにして構えると、集中した面持ちで投球に備えた。すると外野を守る岩城・中野・宇喜多が前に出てくる。

 

(……単打で九十九先輩を還さないように外野を前に出す積極策ね。でも定位置から野手を動かすということはその分スペースが空いてしまう。初回から東雲さん相手に仕掛けるには、リスクが高い……)

 

 コーチャーボックスから鈴木は外野を前に出させた近藤を見つめ、同じくキャッチャーのポジションを務める身としてその作戦に違和感を覚えていた。

 

(後は外野の頭を簡単に越えられないよう……)

 

(そのサインは……“二つ目”の低めのサインですね)

 

 野崎は眉を一瞬動かすとそのサインに力強く頷きリードを少し広げた九十九に目をやってからクイックモーションでストレートを投げ込むと、東雲はこのボールを見送った。

 

「……ボール!」

 

「野崎さん、その調子です!」

 

 真ん中低めに投じられたストレートは低めに外れたが近藤は返球しながら野崎に問題ないと伝えるように声をかけると、キャッチャーボックスに座り直し、集中力が途切れない様子の東雲を見上げる。

 

(反省点その三……長打力のある四番打者に対して安易にストライクを取りに行ったこと。野崎さんのストライクを狙う低めはストライクゾーンを上下で二分割したもの。低めギリギリにいくこともあれば、真ん中に寄ることもある。だからここはボールゾーンを狙うつもりで投げ、振らせたりギリギリに入れば儲けものとする二つ目のサインで入れに行かずに丁寧に攻めるんだ……!)

 

 再び同じサインを出した近藤はミットを構えると投じられたストレートをしっかり受け止めるように捕球した。

 

「ストライク!」

 

(良し! 低めの良いところに決まった!)

 

 東雲がバットを振り出さずに見送ったボールは今度は低めの際どいところに決まり、1ボール1ストライクとなった。

 

「ナイスボール!」

 

「ありがとうございます!」

 

(近藤さんはバッテリーを組み始めた頃は低めのボールを捕球しきれないことがありました。でも何度も新しい投球フォームでの練習に付き合って頂き……次第に近藤さんも安定して捕れるようになりました。上手く捕って下さるおかげで、私も投げやすいです……!)

 

 投げやすさを感じた野崎は三度同じサインに頷くと指先に上手くボールが引っかかる感覚を覚えながら、低めを狙って腕を振り切った。それに応じるように東雲がスイングを行う。

 

(……!)

 

 低めの際どいコースに投げられたストレートの下にバットの先が入ると、打球は低い弾道でバックネット方向に飛んだ。

 

「痛っ……!」

 

「あ……すいません」

 

「ご、ごめんなさい」

 

「だ、大丈夫よ。プロテクターに当たっただけだから。こほん……ファール!」

 

(驚いたわ……プロテクター越しなのに、硬球って当たるとこんなに痛いのね)

 

 打球は近藤の真上を通り抜けるようにして球審の掛橋が身体の前につけているプロテクターに鋭い勢いで当たった。予想以上の痛みに顔をしかめた掛橋だったが生徒に心配をかけまいと気丈に振る舞い、ファールを宣言した。

 

(……真後ろに飛ぶファールはタイミングが合っている証拠。野崎さんの速球にもついていってるんだ。でも、追い込んだ! 決め球は……)

 

 近藤はパームを決め球に選択するか迷いを見せる。彼女の脳裏に九十九と逢坂に投じた浮いたパームがよぎると、顔を上げてサインが送られた。

 

(四隅のサイン……。分かりました!)

 

(追い込んでからの四隅はたとえ枠に入らなくても有効に働くのは明條戦で試せた。ここはこれで勝負!)

 

 ストレートのサインを送った近藤はボール球になっても大丈夫ということを示すように胸を拳で叩くとミットを構えた。

 

(ミットが大きく見えます。投げ込むんだ……あのミットを目掛けて!)

 

 野崎が力強くボールをリリースすると勢いのあるストレートがミットに向かっていく。

 

(アウトロー……際どい!)

 

(振ってきた……!)

 

 アウトコース低めへと投じられたストレートに対しバットを振り出した東雲はバックスイングからフォワードスイングに移行する際のステップで左足をバッターボックスギリギリまで踏み出し内側に捻るようにして軸足とすると、鋭い腰の回転でバットを振り切った。するとボールの上にバットが入り、打球はゴロとなって放たれた。

 

「ファースト!」

 

「とりゃー!」

 

 一塁線に放たれた打球に反応した秋乃は足首をバネのようにしならせると横っ飛びで飛びつき、長いファーストミットを可能な限り伸ばした。

 

「……!」

 

 秋乃はミットの先を通過していく打球に目を見張ると宙に浮いていた身体を地面に預ける。すると上の方から鈴木の宣言が聞こえてきた。

 

「……ファール!」

 

「あ、危なかったぁ……!」

 

(フェアだったらランナーは還ってた……)

 

 一塁ベース手前でファールゾーンに逸れていった打球に鈴木はファールの判定を下し、近藤は肝が冷える思いを抱きながら掛橋に渡されたボールを野崎に投げ渡すと座りながら安堵の吐息を漏らした。

 

(今のは少し外に外れてた。東雲さんほどのバッターでも追い込まれてからあそこまで際どいコースに投げられたら見極めは難しいんだ。それでもあれだけの打球を……どうしたら彼女を打ち取れるんだろう。今のアウトローを決め球にするつもりだったからその後のことまで考えていなかった。もう一度同じくらいの精度で投げられればあるいは野手が届くところに飛ぶかもしれないけど、野崎さんはまだ四隅のコントロールをそこまで高い精度では制御しきれない……)

 

 サインを出すのに時間がかかった近藤だったがようやくサインを出すと野崎はしっかり頷き、投球姿勢に入った。

 

(リードのセオリーの一つ、対角線への配球。バッターは前に投げたボールに対して意識が残るから、意識の対極にある対角線のコースに投じるのが有効な配球になる。まだボールカウントには余裕があるしボールになっても大丈夫。さっき投げたアウトローの対角線である……)

 

 野崎が左足を踏み込み5球目となるボールを投じると東雲は目を見開きながらスイングの始動に入った。

 

(インハイのストレート……!)

 

 その瞬間、清城高校との練習試合で打ち取られた三打席が東雲の脳裏にフラッシュバックされた。すると左足を後ろに引いて身体を開き、腕をたたんで振り出されたバットがボールを捉え、弾き返した。

 

(た、対応された……!?)

 

「レフト!」

 

 岩城は外野方向に身体を翻して走り出すとフライ性の打球を懸命に追いかける。打った東雲自身は一つでも先の塁に到達すべく走塁に集中したが、ハーフリードを取った九十九を始めとしてグラウンド中の視線が打球の行方に集まった。

 

「くうっ……!」

 

 全速力で追っていた岩城の頭を打球が超えていき、九十九もスタートを切った。すると打球は高く跳ねながらも逃げるように転がっていき、岩城に追いつかれるより先に外野を抜けて草むらへと潜り込んだ。

 

「あ、あら? これってどうなるのかしら……」

 

「掛橋先生! エンタイトルツーベースを宣言して下さい」

 

「え? ええと……エンタイトルツーベース!」

 

 混乱する掛橋に鈴木がフォローを入れるとエンタイトルツーベースが宣言される。エンタイトルツーベースとは打球が一度フェアゾーンに落ちてからボールがスタンドなどに入った際に与えられる安全進塁権の事を指す。里ヶ浜高校女子硬式野球部が普段使っているひまわりグラウンドには外野フェンスが無く、部費に余裕が無い都合から防球ネットの設置に至っていない都合もあり、本塁から61メートル地点を境として草むらを揃え、そこを越えた場合にスタンドインとしていた。

 

「なるほど。つまり東雲さんと九十九さんの二人は二塁ずつ進むのね」

 

「はい。送球がボールデッドになった場合はその時点で到達した塁から二つずつなんですが、今回は打球が直接ボールデッドになったので野崎さんが投げた時点でいた塁から二つずつ進むことになります」

 

 プレーが途切れたことで鈴木がコーチャーボックスからホームまで駆け寄り、説明を終えた。その説明で現状を理解した掛橋は球審として試合を進行させる。

 

「バッターランナーの東雲さんは二塁に! 九十九さんは二塁にいたから……ホームに! ……あれ、つまり……」

 

 まずは既に二塁付近まで来ていた東雲がベースを踏むと、プレーが中断され止まっていた九十九もホームベースを踏んだ。九十九が生還したことで先攻の東雲チームに1点目が入る。

 

(そんな……。今のストレートはコントロールミスどころかゾーンギリギリに入るか入らないかの理想的なコースに来ていたのに、打たれるなんて……)

 

 九十九が歩いてホームインしベンチに戻って歓迎されている間も近藤は信じられないといった様子でその場に立ち尽くしていた。

 

(野崎さんは投球フォームを変更して、真上から投げ下ろすようなオーバースローから斜めに振り下ろすスリークォーターへと変わった。そのため右バッターのインコースに投じるボールはより角度がつき、それによりバッターはボールに差し込まれやすくなった。その上野崎さんのストレートにはスピードがある。あのボールに対して差し込まれずに身体の前で捌ける身のこなしとそれを可能にするスイングスピード。これほどのバッティングが出来るバッターなんて全国にだってそうはいないわ。ただ……)

 

 真剣な表情を崩さないまま塁上に佇んでいる東雲の実力を改めて感じた鈴木は地面を見つめ呆然としている近藤に視線を移す。

 

(いくら東雲さんといえどあれほど際どいコースに決まったボールを真芯では捉えきれていなかった。それでも大きい当たりだったし追いつけたとは限らないけど、外野を前に出したことで捕れる可能性は消えてしまった……)

 

「さ、咲ちゃん?」

 

「……! か、加奈ちゃん……?」

 

「あの。プレー再開だって……」

 

「あ……ご、ごめんね」

 

 右打席に入った永井に声をかけられ近藤はようやく我に帰るとキャッチャーボックスに座り、野崎にサインを送った。

 

(咲ちゃんがこんなに動揺するところなんて初めて見たかも……えっ!)

 

 普段の毅然とした態度とは違う近藤に永井が驚いていると野崎から投じられたボールがアウトコースに大きく外れ、近藤はとっさの反応で辛うじて捕球した。

 

(何をやっているの……! あれほどの良いボールを打たれたんだ。私以上に野崎さんがショックを受けないわけないじゃない……!)

 

「タイムお願いします!」

 

「タイム!」

 

 掛橋によりタイムが掛けられ近藤は野崎のもとへ向かっていくと、その後ろ姿から励ましの言葉を送っているように見えた永井はその後ろ姿を見て近藤と初めて会った時のことを思い出していた。

 

「永井ー。お前さー、いつもばくばく食ってるよなー」

 

「そ、そうかな……」

 

「食ってるよー。なんも食ってない時の方が珍しくね?」

 

「うう……」

 

 その日教室でメロンパンを食べていた永井は男子生徒に絡まれていた。よく小腹がすくため食べる頻度が高かった永井にとってそのことで絡まれるのは珍しく無かったが、永井自身にとっては心地よいものではなかった。偶然用事があった近藤はそのことに気づくと堂々とした態度で男子生徒に注意をして退散させていく。嫌われることを恐れて嫌なことを嫌だと言い出せなかった永井はそんな近藤の背中を憧れの目で見ていた。

 

(気が利いて、誰が相手でも言うべきだと思ったことははっきり言い切る。そんな咲ちゃんはそれからいつもわたしを守ってくれた……。わたしは守ってくれる咲ちゃんの背中を見てばかりだった)

 

 タイムが終わり近藤がキャッチャーボックスに帰ってくると立ち直った様子の野崎が低めのストライクゾーンにストレートを投じた。永井も思い切ってバットを振り切ったが、振り遅れて空振りとなる。

 

「ストライク!」

 

「加奈子ー! ボール良く見て! 打てるよー!」

 

「美奈子ちゃん。……うん!」

 

 ネクストサークルにいる新田から声をかけられた永井は、近藤と仲良くなり元々近藤と親しかった新田ともよく遊ぶようになってから少し日が経った時のことを思い出した。

 

「あの……相談があるんだけど……」

 

「どしたの? ほれほれ、遠慮せずに言うてみい」

 

「美奈子……あなたは遠慮しなさすぎじゃない?」

 

「あ、いいの。凄く嬉しいよ」

 

「そう? それならいっか」

 

「それで、相談とはなにかね。ん? 頼れる新田ちゃんに話してみなさい」

 

「その……最近体重が気になって。食べるのを我慢しようかなって思うんだけど……」

 

「加奈ちゃん……」

 

「我慢することなんてないよ!」

 

「え……?」

 

 辛そうな表情をして語る永井に新田が震える手を強く握ると、目を見つめて語りかけてくる。

 

「一緒にごはん食べてる時の加奈子、すっごく幸せそうだったよ。それを無理して我慢なんて……もったいないよ」

 

「で、でも……私すぐ太っちゃうし……」

 

「なら運動しよう! 我慢するんじゃなくてさ」

 

「う……その、ランニングをやろうとしたことはあったんだけど、続かなくて……」

 

「じゃあさ。私たちと一緒にやろう!」

 

「いいじゃない。一人だと大変なことばかりかもしれないけど、皆でやればきっと続けていけるわ」

 

「美奈子ちゃん、咲ちゃん……」

 

「加奈ちゃん。私、『鉄人』で料理を美味しそうに食べているお客さんを見てよく思うんだ。美味しいものを『美味しいね』って言えるのは当たり前だけど幸せなことなんだって」

 

「……うん。そう、だね。わたし体重を気にし過ぎて、食べることが悪いことなんだって思えちゃってた……」

 

「よーし。じゃあもうそんなことがないように。体重が気になっても、運動すれば大丈夫って言って笑い合えるように。美味しいものを余計なことを気にせず『美味しい』って言えるように!」

 

 目線を配り近藤にも手を出させると新田はそこに自分と永井の手を乗せるようにして、腹の底から声を出した。

 

「わたしたちはこれから『おいしいものクラブ』だ!」

 

「おー!」

 

「お……おー!」

 

(ありがとう。二人とも……)

 

 重ねた手をタイミングを合わせて沈めると『おいしいものクラブ』の結成を祝うように三人の笑い声が自然と上がったのだった。

 

(明るくて、人一倍元気な美奈子ちゃん。持ち前の明るさでいつもわたし達を引っ張ってくれて、わたしはそんな美奈子ちゃんに手を引っ張られてばかりだった)

 

 今度は高めに投じられたストレートに先ほどより早くバットを振り出した永井だったが、目測と実際の軌道がずれてボールの下をバットが潜ると空振りで2ストライク目を取られていた。

 

(明條との練習試合でバックホームでサードランナーをアウトに出来た時、皆がそれを凄いプレーだと褒めてくれた。こんなわたしでも二人みたいに頼れるような人になれるのかなって。そう考えたら嬉しくて、頼ってもらえるようになりたくて。守備だけじゃなくて打撃もって……だから帰ったら素振りをするようにして)

 

 息を大きく吐き出すと、永井はバットを構え直しながら沸々と湧き上がるようなものを感じていた。

 

(もっと、もっとって……咲ちゃんや美奈子ちゃんにも頼られるようになりたくて……)

 

(永井さん、しっかりとバットが振り切れている。球威のある野崎さんのストレートは当てにいったスイングではヒットに出来ない。たとえ当たらなくても、それが打つために必要な第一歩よ)

 

 二塁ランナーの東雲は正面でよく見える永井のスイングに感心しながら、リードを広げていく。

 

(既に2アウトで永井さんがアウトになれば3アウトチェンジになる。つまり私は永井さんの打球の行方の如何に関わらず、彼女がスイングを行う確信を持った瞬間にスタートを切ればいい)

 

 サインの交換が終わり、目で牽制する野崎に対し東雲はジリジリとリードを広げていく。そして野崎が投球姿勢に入り、ボールを投じた。

 

(えっ!?)

 

 ストレートにタイミングを合わせるべく早めに足を踏み出しスイングの始動に入った永井だったが、そのボールに違和感を覚えていた。

 

(私も美奈子も加奈ちゃんもまだ変化球は対応できない。だから勝負球は……)

 

 押し出されるようにして投じられたパームがやがて縦に落ちてくる。ストレートにタイミングを合わせていた永井はこの遅いボールに対してバットの始動を溜めることは出来ず、豪快に空振った。

 

(うう……ダメかぁ……)

 

「加奈子、走って!」

 

「え……あっ!」

 

(し……しまった……!)

 

 ホームベースにバウンドしたパームを捕球しようとした近藤だったがミットの外でボールを弾いてしまい、後方にボールが転がってしまった。新田の指示でそれに気づいた永井は振り逃げを狙って走り出す。

 

(加奈ちゃんの足は遅い。まだ間に合うかも……!)

 

「……! 近藤さん、投げちゃダメ!」

 

「えっ……!」

 

 有原の制止は一瞬遅く、バックネット手前でボールに追いつき直接素手で拾った近藤は振り返りざま一塁へと送球を行った。すると三塁ベースに対して膨らむように入った東雲がベースを蹴ってホームへと向かってきていた。一塁を駆け抜けにいく永井に対し、秋乃はベースの隅を踏むようにして身体を伸ばし捕球すると、鈴木から判定が出される。

 

「セーフ!」

 

 秋乃は伸ばした足を戻してすぐにホームに向かって送球するとベースカバーに入った野崎がボールを受け取り、タッチプレーに持ち込みにいく。しかしタッチより早く回り込むようにスライディングを敢行した東雲が左手を伸ばすとそのままベースをタッチし、スライディングの勢いで砂塵が舞った。

 

「セーフ!」

 

 タッチされずにホームベースに触れた東雲に掛橋がセーフの判定を出し、ホームインが認められた。

 

「東雲、はっや!」

 

(……いや、違う。東雲さんは足の速さが秀でているわけじゃない。けれど彼女は走塁に対する意識がかなり高い……)

 

 東雲チームに2点目が入り、ネクストサークルにいた新田を始めとしてベンチからも東雲に対して声が掛けられ盛り上がりを見せていた。その様子を鈴木は一塁コーチャーから見つめる。

 

「和香ちゃん。代わるよ」

 

「あ……打順回ってくるかもしれないわね。お願いするわ」

 

「うん!」

 

 河北とコーチャーを交代した鈴木はベンチに戻り、バッターとしての準備を進めながら今の一連のプレーを考察していた。

 

(近藤さんが捕った位置はバックネット手前。永井さんの足は速くないけど、アウトに出来るタイミングではなかった。そう考えれば秋乃さんはベースから外れて前に出て、バックホームを優先すべきだったかもしれない。それでもアウトに出来たかは怪しいけど……。ただもう一つ、指摘すべき点があるとすれば近藤さんのプレー……)

 

 ホーム付近で自身のプレーを謝る近藤と気にしないように伝える野崎を見ながら、鈴木は野球同好会に入ってから今までの練習を思い出していた。

 

(私は結局変化球を捕れるようになるまで半年近くかかった。それを考えれば近藤さんは私より早いペースで変化球に対応し始めている。けど今の時点では安定した捕球には至っていない。それ自体は仕方のないことだけど、パスボールの後に焦ってファーストに送球するべきでは無かった)

 

(ブルペンでの練習では捕れないまでも、最低限前に落とせるようにはなってきたのに。バットで一瞬視界が遮られてボールの落下位置を見誤ってしまった……)

 

(近藤さん。さすがに落ち込んでいるみたいですね……)

 

 永井がランナーとしての準備を終えて新田がバッターボックスに入るとプレーが再開される。近藤のエラーを受けて野崎は先日高坂に言われたことを思い出していた。

 

(エラーが無いのが当たり前で、それは投手には関係ないと言わんばかりの言葉でしたよね。指摘として、確かに正しいのかもしれません。高坂さん、あなたは初めてあの高架下であった時、誰の為に練習をしているのかを見失っていた私の目を覚ましてくれました。ですが……)

 

 左足が垂直に上げられ牽制を警戒した永井の足が止まると、ノーワインドアップからスリークォーターの投球フォームで投げられたストレートは低く、それでいて勢いがあった。

 

「ストライク!」

 

(自分の為に積み重ねた練習で他の人のミスを補うことも出来る。それがピッチャーというポジションなのではないでしょうか)

 

(野崎さん……)

 

「……ナイスボールです!」

 

 ボールから伝わる何かを感じた近藤はボールを投げ返すと声を張り上げた。

 

「ツーアウトです! ここでしっかり切りましょう!」

 

「うん! どんどん打たせて大丈夫だよ!」

 

「ツーアウトー!」

 

 近藤の声に応えるようにグラウンドから声が上がっていくと近藤は座り直し、サインを出すと力強くキャッチャーミットを構えた。

 

(夏の大会、2回戦。最終的には野崎さんが崩れたことで取られた点を返せずに負けてしまった。その始まりは……私のパスボールによる振り逃げだった)

 

 バッターとしての準備を整えた鈴木はベンチから野崎の投球を見て思わずバットを握る手に力を込める。

 

(その後野崎さんはフォアボールを出し、入れにいったボールを打たれてしまった。野崎さんにあんな投球をさせてしまった屈辱は忘れたくても忘れられない。けれど野崎さんの今のピッチング……。あれは近藤さんにだけ向けたものじゃない。ここから見ていてもあのボールに込められた意志が感じられる……!)

 

 2球目。再び低めのストライクゾーンに投じられたストレートに新田がバットを振り出す。すると鈍い金属音が内野に響いた。

 

(重っ……! でも内野安打に出来るかも!)

 

「ショート!」

 

「任せて!」

 

 勢いの無いゴロがショートに向かっていくと有原は走って打球に近づき、捕球の寸前にスピードを落とす。そして捕球から流れるようなジャンピングスローで送球すると秋乃が構えたミットにボールが突き刺さった。

 

「アウト!」

 

「……マジ?」

 

 一塁を駆け抜けた新田だったが自分が塁を踏んだタイミングが送球から一拍おいていたことを感じており、思わず思ったことを口に出していた。

 

(うっそー……。前に突っ込んで捕る時って勢いがあるからミットで突いちゃったりすることあるし、投げる体勢作るのも時間かかって大変なのに……)

 

 同じショートのポジションを守る身として今のプレーの難しさを分かっていた新田は少しでも余裕をもってアウトにされたことに驚きを隠せなかった。

 3つ目のアウトが取られたことで一回の表が終わり一回の裏。マウンドで投球練習を終えた倉敷に鈴木が今日の方針を伝えるとホームへと戻っていく。

 

(私も近藤さんのようにピッチャーとのコミュニケーションを増やしていかないと。それが牧野さんに指摘された打ち取るビジョンの共有にきっと繋がるはず)

 

「しまっていきましょう!」

 

 返ってくる賑やかな返事を聞きながら鈴木がキャッチャーボックスに座り込むと有原チームの一番打者を任された阿佐田が右打席へと入ってくる。ネクストサークルに座る中野にも目をやった鈴木はサインを送りながら、阿佐田の様子を窺った。

 

(私の予想では中野さんを一番に置き、阿佐田先輩は二番にしてくると思っていた。ただこうして見ると阿佐田先輩の構えは自然そのもの。それに勝負勘の強い巧打者の阿佐田先輩は一番で起用しても面白いのかもしれない)

 

 構えを見ながらサインを出し終えた鈴木がミットを構えると、倉敷はワインドアップからボールを投じた。そのコースは……真ん中高め。

 

(え……?)

 

 阿佐田は困惑しながらもそのボールを見送り、判定はストライクとなった。

 

(コントロールの良いまいまいにしては随分雑な入りなのだ。……む。ランナーがいなかったからあんまり意識してなかったけど、よく見ると外野手が少し前に来てるのだ。ははーん……高めでゴロを封じ、パワーの無いあおいをフライアウトに取ろうってことなのだ)

 

 阿佐田の目が猫のように目ざとく前に出てくる外野手を捉えると、左手で一瞬浮かべた笑みを隠しバットを構え直した。2球目、再び真ん中高めに投じられたストレートに阿佐田はバットを振り出すとほんの少し早めに手首を返した。

 

(その作戦を逆手にとってゴロで内野を抜いてやるのだ! ……んがっ!?)

 

 今度は僅かに高めに外されたストレートにバットが下に入ってしまい、打球は打ち上がってしまう。やがて落ちてきたボールを倉敷が落ち着いて捕球した。

 

「アウト!」

 

(勝負師の阿佐田先輩なら乗ってくれると思っていましたよ)

 

(こ……小悪魔なのだ! すずわかは、りとるでーもんなのだ……)

 

 外野を定位置に戻させる鈴木に阿佐田は威嚇するように表情筋を動かしながらベンチに戻っていく。続いて打席に入った中野だったが……

 

「にゃっ!?」

 

 0ボール1ストライクから低めの際どいストレートに手を出し、芯を外した当たりはピッチャーゴロとなった。正面に程々の勢いで転がったボールを難なく捌いた倉敷はファーストで構える塚原に向かって丁寧に送球すると、無事塚原が捕球してアウトとなった。

 

(中野さん、打撃スランプで焦っているのかしら。ボールから目を切るのが早い。その分目測と実際の軌道の乖離が大きくなり、芯を外しやすくなっている……)

 

「雫、その感じで落ち着いてやれば大丈夫だから」

 

「はい、分かりました。舞子もその調子で頑張ってください!」

 

「ありがと」

 

 塚原からの返球を受け取った倉敷は微笑を浮かべると、それに気づいた塚原も思わず安心するように笑みを浮かべた。倉敷は前に向き直ると三番打者として左打席に入った秋乃にボールを投じる。高めを中心とした配球に秋乃は早々に追い込まれたが、1ボール2ストライクから投じられたインハイのストレートを辛うじてバットに当て、バックネットに突き刺さるファールとしていた。

 

(意欲的に高めのボールを打つ練習をしている成果が出ているわね。前の秋乃さんなら今のはバットに当てられなかった。……倉敷先輩)

 

(……! ようやくね。試合前の確認でこのボールはアウトカウントを確保して余裕がある時に試していくと言っていた。まさに今ってわけね)

 

 倉敷はミットの中で親指と中指を縫い目にかけ、人差し指は完全にボールから外し、薬指と小指を添えるようにすると、ストレートと同じ腕の振りでボールを投げ込んだ。

 

「……!」

 

 インコース低めに投じられたチェンジアップにタイミングを外された秋乃はバランスを崩しながら、踏ん張ってバットを振り出した。するとバットの先で捉えられたボールがライト方向に打ち上がった。

 

(捕れる!)

 

 ライトを守る逢坂がその打球に全速力で突っ込むとその身を宙に投げ出し、ミットを伸ばす。

 

(えっ!?)

 

 するとドライブ回転がかかった打球が逢坂の想定より早く地面に向かって落ちていく。その結果、打球は無情にもノーバウンドで捕ろうとした逢坂のミットの下をくぐった。

 

「や、やば……!」

 

 逢坂にとっては不幸中の幸いとでも言うべきか、打球はそのまま草むらまで転がっていき、秋乃はエンタイトルツーベースで二塁止まりとなった。逢坂がほっと一息ついたのも束の間、サードから飛ばされる鋭い視線に気づき身を縮こまらせた。

 

(逢坂さん……! 何度も言ったわよね……その時々の状況に応じて必要なプレーをしなさいと。今のはこのグラウンドだから二塁止まりで済んだ。下手したら今のプレーだけでホームに還られていたわよ……!)

 

「ひぃ……ご、ごめんなさーい!」

 

(あちゃー。こりゃベンチに帰ったらお説教コースだ……)

 

 怒りの形相を近くで見た新田は明日は我が身と注意してプレーすることを心に留めたのだった。

 

(二塁まで進まれたのは想定外ね。それにチェンジアップでタイミングを崩すところまではいったけど、強い足腰で踏ん張られてしまった。それでもあれだけ高めを見せた後、そう簡単には打てないと思ったけど……アウトコース低めに要求したボールが内に入った。さすがの倉敷先輩も習得したばかりのチェンジアップをストレートのようにシビアには投げ分けられないか。これは使い方を考える必要がありそうね)

 

「倉敷先輩、切り替えていきましょう」

 

「分かった」

 

(甘く入ってしまったけど、切り替えないと。だって次のバッターは……)

 

 倉敷はネクストサークルから出てきた有原に目をやると今のことを引きずらないよう息を吐き出していた。対して有原は河北の方に視線を向けると決意を固めていた。

 

(ともっちも私も……皆が色んな想いを抱いて挑んでる。だから“特別扱い”はしちゃいけない。それは誰も求めていないことだから)

 

 有原はすぐに河北から視線を外すと打席に入る前に大きく息を吸い込み、「よろしくお願いします!」と掛橋と鈴木に気合いを入れた挨拶を浴びせるとその足を踏み出した。

 

(この試合で私たちがやるべきことは一つ。それはプレーで想いをぶつけ合うことだ! 想いに優劣なんてつけられないけど、プレーははっきりと結果が出る。だから私たちは全力で戦う……!)

 

 打席に入り地面をならした有原は固めた決意と共にバットを構えたのだった。



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霞がかった道

明けましておめでとうございます!


(有原さんに対する鈴木さんのリード、よく見ておこう。私も学べるものがあるかもしれない)

 

 一回の裏、2アウトで秋乃を二塁に置き、打席にはこの試合4番を任された有原が入っていた。野崎を休ませながら近藤はベンチから鈴木が構えるミットの位置を注視する。

 

(わっ……!?)

 

 クイックモーションから倉敷が投じたストレートは有原の顔付近に向かっていくと少し身体を引いた有原の目の前をボールが通過した。

 

「ボール!」

 

(随分厳しい入り方ね……。あの球速は多分全力投球。それをあそこまで外したのは意識させたかったんだ。対角線のリードでアウトローに……。あるいはリードのもう一つのセオリー……緩急。ストレートと同じ振りで投げられるチェンジアップでタイミングを外すか……)

 

(清城との練習試合では全力投球は体力を温存するために後半の回まで使わずにいた。けれど球威がさほどない倉敷先輩の全力投球はそれだけでは驚異になりづらく、大事なのは7割投球との僅かな緩急の差だということが分かった。とはいえスタミナを考えれば序盤で連投はしたくないけれど、チームの軸を担うバッターになら……)

 

 2球目。倉敷が腕を振り切って投じたストレートは膝下へと向かっていった。

 

「……!」

 

 このボールに反応した有原はスイングを行ったが、振り出したバットの軌道から潜り抜けるようにボールは鈴木のミットに収まった。

 

「ストライク!」

 

(い、インロー……?)

 

(倉敷先輩のストレートは全力投球でも縦3横2の6分割で投げられる。しっかり低めに投じられたこのボール……引っ掛けてくれたら助かるのだけれど。今のは捉えきれないと勘付いてとっさにバットの軌道をずらして空振ったのね)

 

 返球した鈴木はキャッチャーボックスに座り直しながら、倉敷を真っ直ぐに見つめる有原を見上げ、様子を窺うとサインを出した。

 3球目、倉敷がボールを投じたコースに近藤は目を見開く。

 

(またインロー!?)

 

 ——キィィィン。芯で捉えた打球が放たれ、反応した東雲は三塁ベース側に身体を向けたが遠く離れたところを転がる打球に対しすぐに足を止めた。

 

「ファール!」

 

(うっ……ちょっと外れてたかな。それにスピードも少しだけ抑えられてた気がする。追い込まれたしここからは……)

 

 バッターボックスから出て走り出そうとした足をゆっくり減速させて止め、戻りながら1ボール2ストライクに追い込まれたことを踏まえ、意識をセンターから逆方向に向けてバットを構え直した。

 プレイが再開され倉敷はリードを取る秋乃に目をやるとそのリードが大きいことに気づく。

 

(牽制するか?)

 

(うっ、そういえばあかねに言われたっけ。リードを広げすぎで、ボールがあるところもしっかり意識したほうがいいって)

 

 倉敷の視線にやや遅れて気づいた秋乃は二塁ベースの方に少し戻っていくと、倉敷は前に視線を戻して鈴木が構えたミットを狙いボールを投じた。

 

(際どい!)

 

 インハイに投じられたストレートに有原はバットを振り出すと僅かに高めに外れていたボールの下にバットが入り、打球が打ち上がった。

 

「ファール!」

 

 引きつけておっつけるように振られたスイングから放たれた打球は後方に設置されたバックネットを越えていき、ファールとなった。

 

「ここまでインハイ、インロー、インロー、インハイ。何故鈴木さんはこんなリードを? 倉敷先輩のコントロールならもっとゾーンを広く使えるのに……」

 

「確かにまいちんならもっとゾーンを広く使えるのだ」

 

「阿佐田先輩」

 

「けど内に来たら次は外っていうのはバッターも意識することなのだ。でもこうも内に投げ続けられると、また内に来るかもしれないし今度こそ外に投げてくるかもしれない。そういう戸惑いをバッターに与えることが出来るのだ」

 

「な、なるほど……勉強になります」

 

「この前練習を休んだ時に図書室で読んだ本に書いてあったのだ。さっきー、勉強熱心みたいだし今度借りてきてあげるのだ」

 

「ありがとうございます!」

 

「だけど今は打順が回ってくるかもしれないから、準備しとくのだ」

 

「あっ……すいません。気づいてませんでした。すぐに準備します!」

 

(とにかく野崎さんの球威のあるストレートや二人の変化球を捕れるようになる練習に必死で、そこまで頭が回ってなかった……。キャッチャーは身体を動かす以外にも頭を動かさなきゃいけないんだ。もっと知る努力をしないと……)

 

 阿佐田に促され慌てて防具を外し近藤が準備を進める最中、鈴木から出されたサインに倉敷が頷いていた。

 

(やけにインコースに厳しく投げてくるな。もしかしたらウチにもどんどん内に投げてくるか? ウチは引っ張りやすい内の方が好きだ! 厳しく攻めてくるなら、狙ってみてもいいかもしれん)

 

 ネクストサークルで座りその投球を近くで見ていた岩城が心構えを整えている中、倉敷が投球姿勢に入る。

 

(今の倉敷先輩のコントロールだとこの状況でチェンジアップを勝負球にするのは危険すぎる。だからここはコントロールのつく7割投球で9分割よりさらに際どく狙ったアウトローに! 外れてもいい。しっかり狙ってください)

 

(試合前の打ち合わせで有原は単打までで抑えて、他でアウトを取れればいいって鈴木は言ってた。けど今ヒットを打たれたら秋乃の足ならホームに還られる。勝負をしなきゃいけない時だ。それほどの打者へのボール……甘いボールは禁物。アタシの武器であるコントロールで……勝負!)

 

 倉敷が左足で踏み込み投げ込んだストレートは目論見通りベースの角をなめるように向かっていった。

 

(アウトコース低め……!)

 

 内を意識づけられていた有原は反応が遅れたが、辛うじて腰を引かずに左足を踏み出してバットを振り出した。するとバットの芯よりさらに先でボールが捉えられ、フェアグラウンドに弾き返された。

 

「セカンド!」

 

(捕る……捕るんだ……!)

 

 秋乃がスタートを切る中、河北は外野側に反転すると自身の頭上にふらふらと上がる打球を追いかけた。そしてボールが落ちてくるところにダイブしミットを伸ばす。だが打球はそのミットの先に落ちると緩やかな勢いでバウンドした。

 

(くそぉ……!)

 

「バックホーム!」

 

 この打球に対して回り込まずにほぼ真っ直ぐ向かっていた永井がボールに追いつくと、鈴木の指示を受けてホームに向かって送球した。

 

(くっ……秋乃さん、速い! 2アウトで迷わずスタートを切っているし、これは……間に合わない!)

 

「カット!」

 

「オッケー!」

 

 永井の低い送球に対して新田がカットに入ると一塁を少し回った有原はそれに気付いて帰塁していった。

 

「いってんー!」

 

 その間に秋乃が駿足を飛ばしてホームを踏み、有原チームは1点を返す形となった。

 

(リードは……悪く無かったと思う。倉敷先輩のボールもほぼ完璧だった。ただ芯を外すことには成功したけど、内野と外野の間に上手く落とされてしまった……。有原さんの一番の持ち味はそのバットコントロールにあるのかもしれない)

 

 キャッチャーマスクを拾い上げながら鈴木は一塁ベース上でコーチャーに入っている宇喜多に対し笑顔で話す有原を見つめると、少しして東雲の方にも目を向ける。

 

(表の東雲さん、今の有原さん……どちらも4番打者としての打席で、厳しくマークされた配球だった。けれどこうしてしっかりと結果を残すことが出来る。あなた達がスタメンを外れないと言ったのは経験者だから、じゃない。確かな実力があるから……そう言ったのよ)

 

 鈴木は東雲から視線を外すと新田からボールを投げ渡された倉敷の方を見る。

 

「倉敷先輩! まだ一点リードしてます! 切り替えていきましょう!」

 

「……! 分かったわ」

 

「ツーアウト! 近いところでアウトを取りましょう!」

 

(……そうだ。捕れなかったからって落ち込んでる場合じゃない)

 

「ツーアウトー! 声出していこう!」

 

「おー! ここでスパッと切っちゃおう!」

 

「アタシの方に来たら、今度は絶対に捕ってみせるわ!」

 

 鈴木の声に連動するように河北と新田が声を出すと、逢坂が反応して通る声で叫ぶようにライトから意気込むと内外野共に声が出ている様子に頷き、左打席に入ってきた岩城を横目にサインを出した。

 

(来い……来い……インコース!)

 

(2アウトランナー一塁で岩城先輩。普段からフルスイングが信条の岩城先輩だし、ここはまず長打を狙っていると考えていいわね)

 

 アウトコースに構えられたミットに向かって倉敷がボールを投げ込むと岩城が豪快にフルスイングで応じる。すると思い切ってインコースを打つように振られたスイングはボールに全く当たらず、鈴木はやや上にミットを動かして捕球した。右手を低く押し込むようにしてから鈴木がボールを投げ返すと倉敷はしっかり頷きながらボールを受け取る。

 

(……少しボールが浮いた。いい加減にしなさいよアタシ。前の練習試合でも点を取られた後に浮いたボールを捉えられたじゃない。あの時は九十九に助けられたけど……いつまでも頼ってばかりじゃいられない)

 

 一度有原の方を見てから倉敷はストレートを投げ込むと今度は要求されたアウトコース低めにしっかりとボールが投じられ、岩城は再びフルスイングでそのボールを空振った。

 

(岩城先輩……ボールを見てないわけでは無さそうだけど、スイングに入る時に身体を開いてるわね。インコース待ち……のようね。有原さんにインコース攻めを徹底した甲斐があったわ)

 

 1球目で身体の動きが気になっていた鈴木は2球目を捕る時にアウトコースのボールを捕球しながらも岩城の動きを確認していた。

 3球目。ストレートが投じられたコースは……インコース高め。そのボールに迷わずバットを振り出した岩城だったがバットがボールの下を潜ると、ストレートが心地よい捕球音を残して立って構えられた鈴木のミットに収まった。

 

「ストライク! 岩城さ……バッターアウト! スリーアウトだから……チェンジ!」

 

「くぅー! やられたぁ!」

 

(岩城先輩はそのバッティングスタイルの都合上、空振りが多い。けど裏を返せば中途半端なスイングはしてこない。アウトコースにバットが届きにくい弱点も克服出来たのだし、当たれば飛ぶのは間違いないのだからそれでいいと思うわ)

 

「すまん咲! なんとかこの回で同点に追いつこうと思ったんだが……!」

 

「い、いえ。気にしないでください。まず次の回を無失点に抑えましょう。守備、頼りにしていますね」

 

「おう! 任せておけ!」

 

(ネクストサークルから見た鈴木さん。彼女は先輩相手にリードをしているのに、凄く堂々としていた。……そうか。キャッチャーが不安を見せれば、ピッチャーにもその不安が伝わってしまうんだ)

 

 ネクストサークルから立ち上がった近藤はベンチへと戻っていく鈴木を見ながらベンチに戻り、防具を取り付ける。そして歩き出した彼女は冴え冴えとした瞳でグラウンドに足を踏み入れた。

 

 二回の表、東雲チームの攻撃。先頭打者の塚原はまだ慣れぬ打撃に加え、野崎のスピードボールに対応しきれず、振り遅れて空振り三振となった。続く鈴木も続けて投じられた低めのストレートに振り遅れる形で追い込まれたが、バットを短く握りなんとかファールにして食らいついていた。

 

(パームボール来るかしら……?)

 

 パームを警戒してコンパクトに構える鈴木。すると次に投じられたボールに目を見開くこととなった。

 

(インコースのストレート……クロスファイヤー!?)

 

 とっさにバットを振り出した鈴木だったが角度のあるストレートにバットを合わせきれずに空を切ってしまう。すると鈴木は近藤が親指で押さえ込むようにして捕球していることに気がついた。

 

(これは……球威を押さえ込むキャッチング。私はまだ野崎さんのボールにミットが流れることがある。けどこれをやるには根本的に……腕力が必要になってくる。今の私では正しく力不足ね……)

 

 己の腕力不足を痛感しながら鈴木がベンチに戻っていくとすれ違うように倉敷が右打席に入っていった。

 

(この試合、今までと違って9番に入れられたのは完投を見据えて出来るだけ体力を温存出来るようにってことでしょ。多分あっちが野崎を8番に置いてるのも似たような理由。けど打席に立ったからにはピッチャーじゃなくバッターとして塁に出るつもりでバットを振る!)

 

 倉敷がバットを構えると鋭い眼差しで野崎を見つめる。そんな倉敷に野崎は少しだけ怯んだが、すぐに真剣な眼差しへと戻り投球姿勢に入った。

 

(倉敷先輩……ドッチボールをしていた小学生時代から、憧れていました。誰もが頼りにし、そんな皆を引っ張るあなたを……。今もそれは変わりません。けどあなたには敵わないと限界を作ってしまう、そんなことはもうやめました)

 

 右足が踏み出されると勢いのあるストレートが真ん中低めやや外寄りに投じられる。そのボールに対してバットを振り出した倉敷だが振り遅れて空振りとなった。

 

(打つ気満々ってところね。なら……)

 

(はい。インコース……クロスファイヤーで詰まらせるんですね)

 

 出されたサインに頷いた野崎は右足を上げると前に体重を移動させていき、その勢いをボールに乗せるようにして腕を振り切った。

 

(インコース真ん中!)

 

 このストレートに反応した倉敷はスイングを行うとバットの芯からやや根元側でボールを捉え、弾き返した。

 

「レフト!」

 

「任せろ!」

 

 その打球を追って全速力で駆け出した岩城は落下地点に向かうと急ブレーキをかけ、少し行き過ぎた分を戻り、ミットを上に向けて構えた。

 

「アウト!」

 

(くっ……差し込まれて打ち上げさせられた)

 

 ミットを掲げて高笑いをする岩城を見ながら倉敷はヘルメットを外すとまさしくやられたといった表情でベンチに戻っていった。

 3アウト目が取られたことで二回の表が終わり、その裏の有原チームの攻撃。先頭打者として右打席に近藤が入っていた。するとその初球は彼女にとって思いもよらないものだった。

 

(いきなりチェンジアップ!?)

 

 ストレートのタイミングで踏み込んでいた近藤は真ん中低めに投じられたチェンジアップに合わせることは出来ず、崩されたスイングで空振っていた。

 

(倉敷先輩のチェンジアップの使い方の一つとして試したかったのはストレートを活かすための見せ球。今は近藤さんが意識してないと思ったからゾーンに要求したけど、ボール球でも遅い球を見せておくことでまたリードの幅は広がるはず。前は7割投球より抜いたストレートをその代わりにしていたのだけれど、そこまですると腕の振りが緩くなってしまうから見極められる危険があったのよね)

 

 チェンジアップに動揺が窺える近藤を見上げながら鈴木が出したサインに倉敷は頷くと7割投球でアウトローにストレートを投じた。このボールに近藤はバットを振り出したが、タイミングが外されており振り切る前にバットに当たったボールは勢いのないゴロとなって転がっていった。

 

「セカンド!」

 

「うん!」

 

(しっかり……!)

 

 自分を鼓舞するようにして河北はボテボテのゴロを捌きにいく。前に突っ込むような形でボールを捕ると落ち着いて足の向きを変えて送球が行われた。

 

「アウト!」

 

(やられた……これが緩急。捕るときとはまた全然違うな……)

 

(よし!)

 

「構えた位置に投げて頂き、取りやすかったですよ」

 

「え? あ、ありがとうございます!」

 

(ふふ……礼を言うべきなのはこちらですが、それを今言うのは少し意地悪でしょうか。ファーストの練習をさせて頂いた時、セカンドで意気込む彼女の姿はよく見えていました。少しでも緊張が取れると良いですね)

 

 自分の方に放たれた打球をまず一つアウトに取れたことで河北が安堵していると、定位置に戻る際に倉敷に近づきながら投げ返した塚原に話しかけられ少し驚いた様子だった。そんな後輩の姿に塚原は微笑むと宇喜多が右打席に入ったのに気づき、足を引っ張らないよう守備に集中を戻したのだった。

 初球、膝下に投じられたストレートに振り出されたバットが掠るように当たると僅かに軌道がずれたボールはそのまま鈴木のミットに収まりストライクとなる。

 

(まだ野球部が野球同好会でもなく、草抜き同好会だった頃から宇喜多さんのスイングは見てきた。その時と比べたら宇喜多さんは随分スイングの軸がしっかりしてきた。心なしか以前より足腰も強くなっているように感じられる)

 

 鈴木はボールを投げ返すと気合いを入れてバットを構え直す宇喜多を見て同好会に入るきっかけとなったキャッチボールの時のことを思い出していた。

 

「ねえ、野球楽しい?」

 

「うん! 最初はボール怖かったけど段々平気になってきたし、ちゃんと捕れると嬉しいし……」

 

 リトルリーグに入っていた時、同じ年の女の子と自分を比べて自分が野球に向いておらずサポートとして頭を使う方が合っていると感じた鈴木は一度野球をやめていた。しかし楽しそうに練習をする彼女を見て、彼女は忘れていた野球を始めたばかり時の気持ちを思い出し、同好会への入会を決めたのだった。

 

(あなたのひたむきさに私は救われた。ひまわりグラウンドに置いてきた大切な忘れ物に気付かせてくれた。……でも、今は相手として勝負の時。あなたを見てきた私だからこそ、その弱点を突かせてもらうわ)

 

 鈴木は野手へのブロックサインを出すと続けて倉敷にサインを送った。

 

(今のサイン、その狙いしっかり理解したわ)

 

 力強く頷いた倉敷は腕を振りかぶるとリリースするギリギリまで触れるようにして指先からボールを解き放つ。すると勢いの良いストレートがアウトコース高めへと向かっていった。

 

(どんなボールでも食らいつくもん!)

 

 このボールに宇喜多が思い切ってバットを振り出すとフライ性の当たりでボールが弾き返された。

 

(やった! これなら逢坂さんの前に……え?)

 

 浅い当たりがストレートの勢いに押されて落ちていくと予め前に出ていた逢坂はさらに前に出てそのボールを直接捕球した。

 

(宇喜多さんの打球はボールの勢いに押されたものが多い。バッティング練習でヒットになっている当たりはほとんどセンターかライトの前にぽとりと落ちるようなもの。だから外野を前に出してフライを打たせれば、ヒットに持っていくのは難しい)

 

(うう……)

 

「宇喜多さん。当たりは惜しかったですよ」

 

「野崎さん……うん! 次は、打つね!」

 

 宇喜多がしょんぼりしているとネクストサークルから出てきた野崎に励まされ、気合いを入れ直してベンチに戻っていった。そして野崎が左打席へと入っていく。

 

(リーチが長い野崎さんは外にバットが届きやすい。まずは内に厳しく7割で……)

 

 初球、インコース高めやや真ん中寄りに投じられたストレートが見送られると僅かに内に外れてボールとなった。2球目のサインが鈴木から送られると倉敷は迷い、やがてその首を横に振った。

 

(……! 首を振った……清城戦での反省ね。問題は私がこれをどう捉えるか……今出したのは7割のストレートで膝下のストライクゾーンへのサイン。……パワーのある野崎さんに対してあまり内のストライクゾーンに投げたくない?)

 

 倉敷の表情を窺いながら鈴木は思慮の末サインを送る。

 

(振らせてファールを打たせようと思ったけど、それなら私が次の手を考える。私と倉敷先輩、どちらも納得できるリードを完成させるまで)

 

(アウトコース低めに全力ストレートね。アウトローは一番打たれにくい感じがする。それがいいわ)

 

(頷いた……。頷いたら、もうサインの変更は効かない。首振りを踏まえるなら、それも考えて慎重に送らないとね)

 

 振りかぶり第2球。アウトローのストライクゾーンへと投げ込んだボールに野崎はスイングを行った。すると外のボールに対して長いリーチを伸ばしバットを振り切った。

 

(球速差で振り遅れると思ったのに前で捌かれた……!)

 

 ライナー性の打球は右中間を抜けていくと勢いよく転がっていき、草むらへと突入して野崎はエンタイトルツーベースとなった。

 

(しまった……。リーチの長い野崎さんは内より外の方がバットを振り切りやすい。今のアウトローは早計だった。結果論ではあるけど、膝下のストライクゾーンが嫌なら膝下にボール一つ分外したボール球を要求すれば良かったはず。首を振った時のリードもしっかり慣れていかないと……)

 

「倉敷先輩! ツーアウトです。ここでしっかり切りましょう」

 

「そうね。分かったわ」

 

 鈴木は息を吐き出して切り替えてから倉敷に声をかけると9番打者として右打席に入った初瀬に目を向けた。

 

(初瀬さんはまだバッティングに少しずつ慣れていく段階。バント練習で芯で捉える感覚を掴んだ今は素振りでしっかりしたスイングを身につけていっている。どうしようもなさそうに困っていた前より、随分前進はした。けどまだコースに投げ分けたボールを打ち返すのは難しい。ここはしっかりコースを突いていきましょう)

 

(分かった。まずは膝下に……)

 

 野崎の方を二度見てからクイックモーションに入った倉敷。すると初瀬が取った構えに目をわずかに見張りながらボールを投げ込んだ。

 

(バント……セーフティ!)

 

(初瀬! 決めてやれにゃ!)

 

 2番打者として準備を進めながら中野は初瀬を心の中で応援する。東雲・塚原・倉敷の順で前に出てくる中、初瀬はバントの直前に身体を一塁へと傾けた。そしてコン、と軽い金属音と共にボールは三塁線に転がっていく。

 

(これは……切れない!)

 

「東雲さん、ファーストに!」

 

(やった……上手くいった!)

 

 初瀬は高鳴る鼓動に身を任せるように足を動かすと一塁ベースを必死に駆け抜けた。

 

「アウト!」

 

(え……!?)

 

 初瀬はそのコールに驚いて振り返ると一塁ベースで立つようにして胸の前で構えた塚原のミットに突き刺さるように投げられたボールとジャンピングスローの余韻で東雲が着地した際に舞った砂煙が目に入った。

 

(い、良いところに転がったのに……アウトにされるなんて)

 

「初瀬、切り替えるにゃ! 東雲は必要な時しかリスクのあるプレーはしてこない。今のはあっちもギリギリだったんだにゃ」

 

「中野さん……そうですね。切り替えます!」

 

 好送球を見せた東雲に同じポジションを務める初瀬はショックを受けたが中野のフォローを受けて気持ちを切り替えていた。

 

(そうだった……中野さんと初瀬さんはこの2週間弱、よくバントの練習をしていた。中野さんは打撃スランプ改善のための基礎の見直しと、自身の足を生かすため。初瀬さんは狙ったところに転がすことが出来なかったから、まずはインコースのボールをサードにアウトコースのボールをファーストへ捕らせる練習を。けどまさか一塁方向に身体を傾けながらなんて……他の人のプレーを観察して実践に取り込んだというわけね)

 

「東雲さん。良い送球だったわ」

 

「ありがとう」

 

 東雲は短くそう返すとベンチに素早く戻っていき、自身の打席に備えてバットを取り出して素振りを始めていた。鈴木もベンチに戻りキャッチャーマスクを外して一息ついていると、響いた金属音にハッとするようにしてグラウンドに振り返る。するとライトへとフライ性の当たりが飛んでいた。宇喜多はその落下地点にしっかり入り、落ちてくるボールをミットに収めた。

 

「アウト!」

 

(……あれでもバットが下に入るのか)

 

 ライトフライに打ち取られた九十九は打ち上げてしまった悔しさを噛みしめるようにしながらベンチへと戻っていった。

 

(野崎さんの一番の武器はやはり球威・球速のあるストレート。全力投球で大雑把にゾーンに入れにいって捻じ伏せる力業も時にはありね)

 

 アウトコース真ん中に投げられた力のあるストレートで好打者の九十九を打ち取れたことで確信を得た近藤はキャッチャーボックスに座り直すと、次に入ってきた河北を打ち取るべくリードを考えていた。

 

「逢坂さん」

 

「龍ちゃん。どうしたの?」

 

「さっきの打席、スイングが泳いでたわよ。あれではヒットは打てないわ」

 

「うーん。でもすっごいタイミング崩されるのよ」

 

「なら崩されない方法を模索しなさい。そのための練習をあなたはしてきたはずよ」

 

「……! そうね。守備でもミスしちゃったし、バットで取り返してみせるわ!」

 

 その間に2ボール2ストライクと追い込まれていた河北に5球目が投じられると、河北はそのボールを引きつけた。

 

(センター……返しだっ!)

 

(パームを狙われた……!?)

 

 ストレートに押されて打ち取られることが多い河北はパームに狙いを絞っており、浮いたパームに対して始動を溜めて打ち返していた。

 

「ショート!」

 

(……! 翼……!)

 

 野崎の横を抜けて転がった打球に有原が追いすがると深い位置で捕球し、足の向きを整えると一塁でベースの隅を踏むように足を伸ばす秋乃のミット目掛けて送球を行った。対して河北もヘッドスライディングは考えず、一塁ベースをただ全力で駆け抜けた。

 

「……アウト!」

 

(うっ……!)

 

 河北は決して足がある方ではなく、また有原の送球が正確であったため深い位置の捕球でも内野安打にはならず、河北はアウトに取られていた。

 

(翼、いいんだよ。特別扱いはしなくていいんだから。ただ……悔しいよ)

 

「河北さん。顔を上げなさい」

 

「し、東雲さん?」

 

「貴女は打ち取られるたびにそうして落ち込むのかしら」

 

「それは……」

 

「……はっきり言ってあげるわ。スタメン選考においては確かに結果も大事よ。けれど私が一番見るのは野球に対する姿勢……。勝利するために自分に出来るベストのプレーを貫けているかどうかよ。怠慢なプレー、雑なバッティング。そういったものがあればその時点でスタメンから外れると思いなさい」

 

「わ、分かった。……ありがとう東雲さん」

 

「……どういたしまして」

 

 悲しげな表情をしていた河北は東雲の叱責を受けるとその表情が引き締め直される。そして試合が終わるまで二度と下を向かないと決意したのだった。

 

(河北さんにパームを狙われた。もしかしたら逢坂さんも狙ってくる?)

 

 右打席に入る逢坂を注意深く見た近藤はサインを送ると野崎が投じたストレートが低めのストライクゾーンに決まる。このボールに対して逢坂はバットを振り出したがミートすることは敵わなかった。2球目は低めに外れたストレートを見送りボールとなる。3球目、インコース真ん中やや低めに投じられた角度のあるストレートに逢坂がバットを振り出すとミートポイントが小さくなるバットの根本側、その僅か上をボールが通過してストライクとなった。

 

(よし、パームは狙ってない。ストレートに合わせてきてるもの。一打席目と同じくタイミングを外せば打ち取れる!)

 

 4球目。投じられたパームボールが歪な弧を描くように落ちてくるとアウトコース低めやや真ん中寄りのストライクゾーンへと落ちてきていた。

 

(来たぁ……!)

 

(タイミングが崩されてない!?)

 

(逢坂さんの演技にかかったわね。最後もストレートなら彼女は間違いなく対応出来なかったわ)

 

 このボールに対して対スローカーブの要領で始動を溜め、溜めた分を解放するような腰の回転でバットを振り出した。すると振り抜いたバットがボールを弾き返すとファーストの頭上に向かって打球が放たれた。

 

「とりゃー!」

 

「げ……!」

 

 二塁打を狙って走り出そうとした逢坂だったが、鋭い打球に反応した秋乃が足首をバネのようにしならせてジャンプし伸ばしたファーストミットの先にボールが収まっており、思わず地団駄を踏んで悔しがっていた。

 

(逢坂さんは守備が一か八かなところがあり走塁は並。ただ打撃センスの高さが窺える……打撃力が今のところ一番の持ち味ね。秋乃さんはハイボールが苦手で走塁も意識が危ういところがあるけど、その守備範囲は広い……彼女は守備力が今のところ一番評価出来るわ)

 

 ネクストサークルから立ち上がり騒ぐ逢坂を諫めながら東雲は考え事と並行して守備の準備を進めていった。

 3回の裏、有原チームの攻撃は1番の阿佐田からだった。

 

(さて……一打席目と同じ手は通じないと思っていいわね。高めのボールをゴロにする技術もあるし、宇喜多さんと同じ手は使えない。そうなると……)

 

(りとるでーもんすずわかに復讐の時来たれり、なのだ。まいまい覚悟するのだ〜)

 

 不適な笑みを浮かべる阿佐田に倉敷は投げづらさを感じていると出されたサインに対して首を一度振り、次に出されたサインに頷くと振りかぶって投球姿勢に入った。

 

(……首を振った? さっきゆっきーに首を振ってから投げたコースは……)

 

 阿佐田は思い切って踏み込むと彼女の狙い通りアウトコース低めにストレートが投じられ、そのボールを打ち返した。すると逆らわずに放たれた打球が一、二塁間を転がっていきライト前ヒットになった。

 

(リベンジ成功なのだ!)

 

(やられた……そうか。コントロールの良い倉敷先輩はバッターから遠く長打が打たれにくいアウトローが最も安心して投げられるコース。だからいくつかある選択肢の中で、それに頷いてしまいやすいのね)

 

 2番打者としてバッターボックスに向かう中野に阿佐田が塁上からサインを送ると中野は普段通りの構えで左打席に入った。

 

(バントの構えは無しか……。あちらのチームの指揮を取るのは阿佐田先輩。リスクを取ってチャンスを広げてくる可能性もあるわね。倉敷先輩、ここは初球からエンドランで来るかもしれません。アウトハイにストレートをお願いします)

 

(分かったわ。……阿佐田のことだから盗塁を仕掛けてくるかもしれないわよね)

 

 倉敷はホームの方を向きながらボールを長く持つと一度目で牽制を入れるが阿佐田は特に動きを見せずそのリードを保つ。

 

(相変わらずふてぶてしいわね。何か仕掛けてくるなら……仕掛けてきなさい!)

 

 阿佐田から目を切った倉敷はクイックモーションに入る。すると中野がセーフティ気味にバットを出しバントの構えを取った。そのまま構えを崩さずにアウトハイに投じられたストレートにバットを合わせるとやや押し出すようにしてファースト方向へと転がした。

 

(セーフティ? それにしては勢いが……あっ!)

 

(うっ……バントの処理ですか)

 

 まだ練習して日が浅い塚原に向かってそれなりに強い勢いでゴロが転がっていき、塚原はその処理に不安を覚える。

 

(これならあおい(同点のランナー)を得点圏に進ませながら、なかあやも一塁を狙えるのだ。隙をつくのは勝負の鉄則、卑怯とは言うまいなのだ)

 

「雫! まずはボールを捕るのに集中しなさい!」

 

「……! はい!」

 

 戸惑いがあった塚原だったが倉敷の指示を受けてボールを捕ることに集中する。足を止めて確実に捕球しにいくとミットにボールが収まった。

 

「後はこっちに向かって投げて! 少しくらいズレても捕る!」

 

「お願いします!」

 

 視界の左側を瞬足を飛ばして通過する中野に丁寧に投げては間に合わないことを察した塚原は振り返り様に送球を行うと素早くファーストのベースカバーに入った倉敷のミットから離れた位置に投げられた。

 

(いくら雫の運動神経が良くても土日以外練習出来てないんだから全部正確に処理できないのは当たり前。その分を補ってみせる!)

 

 フェアグラウンド側に逸れた送球にミットを伸ばしながらベースに足を伸ばしにいくとミットの先でボールを掴み取った。中野も一塁を駆け抜けるとコーチャーに入っている宇喜多が判定を下した。

 

「……アウトッ!」

 

(くぅー! 出来ればワタシも残りたかったにゃ)

 

 ボールが届いたタイミングは中野が駆け抜けるより早く、倉敷の足がしっかりベースに触れていたことで中野はアウトになっていた。

 

「舞子、ありがとうございます」

 

「気にしないで。よく捌いてくれたわ」

 

(……セーフティは防いだけど、送らせてしまった。正念場ね)

 

 二塁に進んだ阿佐田を横目にマウンドに戻った倉敷は鈴木のかけ声に短く答えながら左打席に入る秋乃に対して集中するように長く息を吐き出すと、サインを受けてボールを投じた。アウトハイに7割で投じられたストレートに対して秋乃はスイングを行うとバットの中心部からやや上に当たったボールが弾き返される。

 

「……!」

 

(いや、これは……切れる)

 

 東雲の頭上を越えた打球が鈴木の目測通りファールラインを割ったことで0ボール1ストライクとなる。

 

(秋乃さんは高いボールが苦手だけれど、意欲的に対策に取り組んでいる。そうなると苦手だからといって簡単に高めにストライクを取りにいくのは危険かもしれないわね)

 

 アウトハイのボールにしっかりついてきた秋乃を警戒しながら鈴木が出したサインに倉敷は頷いた。

 

(なるほどね。それなら……)

 

 再び7割投球で投じられたストレートのコースはアウトコース高め。秋乃は負けじとバットを振り出したが、そのボールを空振る形となった。

 

「ストライク!」

 

(よし。さっきのコースからさらに高めに外してカウントを稼げた。次は? ……! 一打席目で打たれた球種か……)

 

 鈴木から出されたサインに倉敷は一瞬戸惑いを見せたがその首を縦に振った。

 

(このボールをもう一度ゾーンに投げるなら首を横に振ったかもしれないけど、はっきり外す分には……!)

 

 3球目、倉敷が投じたのはチェンジアップ。このボールがアウトコースに大きく外れると秋乃も余裕を持って見送った。

 

(この感じ覚えがある。次は……そうよね。ここで……!)

 

(追い込まれちゃってるんだ。ここは食らいついてく! ……!)

 

 4球目。倉敷が投げたストレートが勢いを乗せてインハイへと向かっていった。この速球に秋乃は食らいつくようにしてスイングするとバットの根本側に当たったボールが打ち上がった。そして鈴木が3歩下がりミットを構えると、そのミットにボールが収められ秋乃はキャッチャーフライでアウトとなった。

 

(アタシの全力投球も鈴木のリードがあれば、決め球になるんだ。それに鈴木が何を考えてリードしているか分かった気がする。鈴木は最後に仕留めにいくボールに合わせて、それまでのボールを布石にしているのね)

 

 2アウトランナー二塁で4番の有原が打席に入ってくる。鈴木は倉敷の表情に陰りがあることを感じ取るとタイムを取ってマウンドに駆け寄っていった。

 

「初回とほぼ同じ状況で不安ですか?」

 

「……不安がないといえば嘘になるわ。アタシが投げてきた中でも最高峰のコントロールのボールを打たれたんだもの」

 

「確かに私が受けてきた中でもあそこまで完璧なコントロールはそうありませんでした」

 

「ねえ、有原を歩かせて勝負ってのはダメなの?」

 

「状況によっては考えますが、今はその時ではないと思います。ここで有原さんを出せば逆転のランナーを出すことになりますし、次は長打のある岩城先輩ですから。それに……」

 

「それに?」

 

「私は倉敷先輩のボールなら勝負出来ると思っています」

 

「……それ、本気で言ってる? アタシは野崎に比べてスピードが大してあるわけじゃないわよ」

 

「本気ですよ」

 

「球威や球速はないけど、コントロールがあるから?」

 

「それもあります。しかし先輩はただコントロールが良いんじゃないんです。例えばスローボールは誰でもある程度コントロールは効きます。ですが倉敷先輩の場合腕を振り切って投げるストレートをこれだけの精度で投げられる。先輩は確かに最初からストライクゾーンに投げられるポテンシャルがありましたが、そのコントロールを最初から持っていたわけではなかった」

 

「……」

 

「チェンジアップの習得もそうですが……先輩が陰でどれだけ練習を重ねてきたか。それはキャッチャーである私だからありのままが分かるんです」

 

「そのアンタから見て、アタシは有原を抑えられる?」

 

「はい。倉敷先輩と……私であれば」

 

「……! ……そうだったわね。悪いわね。つい、少し前の癖で一人でどうにかしようとしちゃうみたい」

 

「その負けん気の強さもピッチャーとしての倉敷先輩の魅力ですよ」

 

「おだてても何も出ないわよ」

 

「その代わり最高のボールを私のミットに下さい」

 

「……言うじゃない。分かったわ。……抑えるわよ!」

 

「はい!」

 

 ミットが重なり強く重い音が二人の間で鳴ると鈴木はキャッチャーボックスに座りサインを送った。

 

(……信じらんない。それは……さっきの打席でヒットにされたボールじゃない)

 

(打つ! ……!?)

 

 倉敷はそのサインに頷いて投球姿勢に入るとボールを投げ込む。するとアウトローに投じられたボールはベースの角へと向かって行き、有原はバットを止めた。

 

「……ストライク!」

 

(い、今の……本当にギリギリのところ。あそこは二度も狙っては投げられない。もう少し甘いところに絞る!)

 

(ったく。そこに投げるのがどれだけ難しいか……。分かっててサイン出してるんでしょうね。個人練習でも早々決まらないのよ。でも……なんでだろうね。今は……)

 

 倉敷から投じられたストレートはまるでリプレイのように同じようなコースに投じられ、有原はそのボールを見送った。

 

「……ストライク!」

 

(うそ……いくら倉敷先輩でもここまでのコースを続けて狙って……?)

 

 この様子をバッターとしての準備を進めながら見ていた近藤は一つの疑問を抱いていた。

 

(凄い厳しいボール。……けれど有原さんはさっきの打席、アレをヒットにしたんだ。どうして今度は打てないんだろう……)

 

 追い込まれたことで有原はバットを少し短く握りセンターから逆方向に意識を向けてバットを構え直した。

 

(……ああ。そうか。鈴木……アンタにはこの道が見えていたのね)

 

 倉敷の頭の中で投げられるボールの道が展開されていくが、その分岐する道の途中で必ず対峙することになる有原への道が霞がかり、その奥を見通せない倉敷は不安を抱いていた。しかし鈴木のサインを受け取った瞬間、霞が晴れていくとその奥にあったものが見えていた。

 

(コントロールの良い倉敷先輩ならボール球を使ってくるかもしれない。それにチェンジアップもある……しっかり引きつけてバットを合わせるんだ。……!?)

 

 倉敷が3球目を投じると有原はそのコースに虚を突かれながらバットを振り出した。

 

(3球連続同じコース! ……あっ!)

 

 有原は振り出したバットがボールを捉えようとする瞬間、3球目だけは僅かに外れていたことに気付いたが、迷いを振り払いバットを振り切った。

 

(……!)

 

 ——パァン。乾いたキャッチ音が内野に響くと河北の正面に飛んだ打球はしっかりとキャッチされていた。

 

(やられたぁ……!)

 

「ナイスピッチです!」

 

「ナイスリード。……河北もナイスキャッチ」

 

「あ、いえ……倉敷先輩こそナイスボールです!」

 

(……分かったのだ。つばさは一打席目でかなり厳しくインコースを攻められ続けていた。アウトコースに投げられたのは最後の一球だけ。それが今度はアウトコースの厳しいところばかりを突いてきた。つばさは無意識のうちにどこかでインコースに投げてくることを警戒させられていたのだ。だからただでさえ見極めにくいあのボールに反応が遅れて、一打席目のように打球を上げられなかったのだ……。つまり二打席目で抑える布石を予め一打席目で打っていた……)

 

 ピンチを切り抜けた東雲チームの盛り上がりをランナーとして見ていた阿佐田は鈴木がこの打席で有原を打ち取るために打っていた布石に気づくと、敵ながらあっぱれといった様子でベンチに戻っていくのだった。

 回が変わり4回の表の攻撃。右打席に静かに入る東雲を近藤は見つめる。

 

(倉敷先輩と鈴木さんは有原さんを抑えた。私たちも東雲さんを……抑えないと)

 

 焦りや緊張が自身に纏わり付くのを感じながらそれを振り払うようにキャッチャーとして声をかけながら、近藤は自分の中で心の整理を終えるとキャッチャーボックスに座り、東雲を打ち取るべくサインを送ったのだった。



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積み上げたものが違っても

 4回の表、東雲チームの攻撃。この回の先頭打者である東雲に野崎が投じた初球のストレートは低めに外れており、見送られてボールとなっていた。

 

「良いボールですよ!」

 

「はい、ありがとうございます!」

 

(二つ目の低めのサインはボール球になるくらい厳しく低めを狙うもの。その要求通りボールは来てる。ただそこまではっきり外れてないのに、東雲さんは見送ってきた。この際どいボールを見極めているの……?)

 

 真剣な面持ちを崩さずにバットを構えている東雲を見上げるように窺った近藤はサインを送る。

 

(パームボールですね)

 

(ここは緩急を使って攻めましょう)

 

(分かりました。さっきの回、浮いたこのボールを河北さんや逢坂さんに狙われてしまいました。高さには気をつけないと……)

 

 そのサインに頷いた野崎は握りを整えてから投球姿勢に入ると高さに気をつけながら手のひらで押し出すようにボールを投じた。

 

(浮いたストレー……いや、パーム!)

 

 真ん中低めやや外寄りへと落ちていくこのボールに対してもバットを振り出す様子もなく東雲は見送ると、ホームベースを通り過ぎたところでワンバウンドした跳ね際をミットを下に向けて押さえ込むようにして近藤は捕球した。

 

「ボール!」

 

(ストライクからボールになる良い軌道。これも見た……?)

 

(厄介ね。一瞬浮いたボールのように感じる独特の軌道をしているし、甘いストレートと思って身体を早く開いてしまえば一打席目の逢坂さんのように打ち取られてしまう。ここは当初の狙い通り追い込まれるまでは……)

 

(遅いボールの後だし、振り遅れやすいはず。ここはストレートをインコースにお願いします)

 

(はい!)

 

 野崎が右足を踏み出すと腕が振り切られインコース真ん中やや低めへとストレートが投じられた。

 

(来た!)

 

(え……!?)

 

 左足を後ろに引いた東雲は差し込まれる前に身体の前でこのボールを捌くとバットを振り抜いた。

 

(迷いのないスイング……! クロスファイヤーに狙いを絞られてた……!?)

 

(こ、これは……追いつけん!)

 

 放たれた打球はレフト線への大飛球。この打球を追いかけていた岩城だったが、頭上をゆうに越えていくボールを見上げる形となった。

 

(サウスポーの野崎さんから放たれるクロスファイヤーの真価はその急な角度にある。ただそれはインコースを攻めきってこそ。鈴木さんの打席で投じたような厳しいコースならそうは打てない。けれど倉敷先輩の打席で投げたように中に寄る形になると、それだけ角度は緩くなる。ただ……パームの後で振り遅れないようにと気が逸ったわね)

 

 東雲はバッターボックスから出ていなかった。それはホームランの確信からではなく、捉えたタイミングが僅かに早い感触があったためだった。

 

「ファール!」

 

(あ、危なかった。少しの差で今のはホームランでした……)

 

(野崎さんのストレートを引っ張ってファールにするなんて……。ただ今の足の開き方は内に狙いを絞っていたように見えた。野崎さん、ここは外にお願いします)

 

 2ボール1ストライクとなり第4球。近藤のサインに頷いた野崎はアウトコースを狙ってボールを投じたが、近藤の構えたミットから大きく外に外れる形となり見送られてボールとなってしまった。

 

(野崎さん……?)

 

(う……)

 

「タイムお願いします」

 

 野崎の様子を察した近藤は掛橋にタイムを頼むとマウンドへと向かっていった。

 

(さっきの回、倉敷先輩と鈴木さんは有原さんを抑えた。私たちも抑えたい。でもこのカウントからストライクを取りに行ったら、打たれるかもしれない……)

 

「すいません。今ボールを投げる時にゾーンに投げたら打たれてしまうような感覚があって、コントロールが乱れてしまいました」

 

(今野崎さんには打ち取るビジョンが見えていないんだ。もしかしたら鈴木さんなら……ここから打ち取る道を示してあげられるのかもしれない)

 

「いえ、無理もないですよ。……野崎さん、いいですか?」

 

「はい。なんでしょう?」

 

 伝えられた作戦に野崎は目を丸くしたが覚悟を決めて頷くと、近藤がホームへと戻っていきプレーが再開された。

 

(……!)

 

「ボール! フォアボール!」

 

 立ったままの近藤のミットにスローボールが大きく外されて収まり、東雲はバットを置くように転がすと一塁へと向かっていった。

 

(ボール先行のカウントからは不利と判断して歩かせたのね。ただ、歩かせるにしてもはっきり外さずに際どいコースに投げるという手もあったはず。それをしなかったのは……)

 

 鈴木は一塁のコーチャーボックスからその理由を推察すると、引き締まった表情をする野崎を見てその理由に思い至った。

 

(東雲さんをはっきり歩かせることで、ランナーを背負った状態で次のバッターを迎えることが確定した。半端に勝負をさせるより、その後への心構えを優先させたのね)

 

(私にも東雲さんを打ち取るビジョンを見出すことは出来なかった。悔しいけど……でもその不安を野崎さんに見せちゃダメ、せめて私なりに堂々とするんだ。それに、この回を無失点で抑えられる道なら……示せるかもしれない)

 

 野崎に声をかけながらキャッチャーボックスに座った近藤は打席に入った永井を見るとサインを送った。そのサインに力強く頷いた野崎は右足を垂直に上げる。

 

(……! あの握りは……!)

 

(えっ……!?)

 

 野崎はスタートを切った東雲に驚きながら足を踏み出すとパームボールを投じた。永井のバットが低めのストライクゾーンを通るこのボールの上を空振り、近藤はミットに直接ボールを収めると二塁に向かって送球した。ベースカバーに入った阿佐田が胸元近くでボールを収めると足から滑り込む東雲の足に向けてミットを動かしタッチを行った。しかし東雲の足がベースに触れたタイミングの方が早くセーフとなっていた。

 

(サウスポーは右足を上げた段階では牽制の可能性が残る。けれど手のひらで包むような握りが見えた。あれでは牽制は出来ないわ。左で投げる彼女の握りは一塁側から見えてしまうのが難点ね)

 

(パームが読まれた? でも原因が分からない……。変化球がまだ打てない加奈ちゃんに有効なパームだけど、また走られるかもしれないことを考えるとうかつには使えないな……)

 

(うーん、どうしよう。小麦ちゃんや逢坂さんみたいに変化球上手く合わせられないから……ストレートを狙ってしっかり振り切ろう)

 

 二球目に投じられたボールはアウトコース低めやや真ん中よりのストレート。このボールに対して永井がスイングを行うと少し振り遅れながらも弾き返した打球はライトを守る宇喜多の頭上へと放たれていた。

 

(の、伸びる……?)

 

 予想より伸びた打球に少し焦った宇喜多だったが高く打ち上げられたボールを追って下がっていくと落下地点にしっかり入り、落ちてきたボールをキャッチした。

 

「サードに!」

 

「うんっ!」

 

 キャッチした瞬間二塁ベースにつくようにしていた東雲がスタートを切った。宇喜多がやや深い位置から送球を行うと中継に入った阿佐田が捕球し、繋ぐように送球を行った。そして初瀬のミットにボールが収まったが、タッチに行く隙を与えまいとするように東雲の足が三塁ベースに届いていた。

 

(よく振り切ったわ永井さん。それが出来てるから野崎さんの球威のあるストレートに振り負けなかった。おかげでタッチアップ出来たわ)

 

 初瀬が野崎にボールを投げ返す様子を見ながら東雲が立ち上がる。

 

「野崎さん、ボールは良かったですよ! ここをしっかり抑えましょう!」

 

「はい!」

 

「夕姫ちゃん! 打たせて大丈夫だよ!」

 

(1アウトランナー三塁。内外野を前に出したわね……。確かにこの場面なら私も前進の指示を出すわね。問題は先頭打者を歩かせた野崎さんに対してここでどういうリードを見せるのか……)

 

 鈴木が河北にコーチャーを代わってもらいながらベンチに戻り作戦のサインを送ると、バッターとして準備を進めながら声の出る有原チームを眺めるように窺う。すると右打席に入った新田に対して投じられた初球はボールは真ん中低めに決まったストレートだった。

 

「ストライク!」

 

(もし私ならここは狙いはシンプルに低めにとにかくストレートを集めさせる。新田さんには永井さんほどのパワーはないし、前進守備を取っている今だからこそ低めに集めることが重要になってくる。恐らく同じ考えね。……でもこちらも手を打たせてもらうわ)

 

 新田がそのボールを見送りストライクを取られると新たなサインが出され、東雲と新田はそのサインを確認すると次のボールに備えた。

 

(初球は待てで次はゴロゴーってやつね。そういえば明條との練習試合でも小麦がファーストゴロ打って、その間にわたしが還ったことあったっけ。ヒット打たなきゃと思ってたけど、そっか。この場面ならヒットを打てなくても東雲を還せればいいんだ)

 

 低めのボールに打ちづらさを感じていた新田だったがそのサインで意識が変わりコンパクトにバットを構える。2球目、投じられたストレートが真ん中低めやや外寄りに来ると思い切ってバットが振り出された。するとボールの中心部より上にバットが当たり、打球が転がった。

 

(重っ……でも転がせた!)

 

「バックホーム!」

 

 新田が弾き返した打球はぼてぼての当たりで一塁線を転がっていった。打球がゴロになる確信を持った瞬間東雲はスタートを切っており、近藤はバックホームの指示を出す。

 

「任せてー!」

 

(クラブトスをするには遠いし、東雲さんのスタートもいい! これなら。……!?)

 

 程よいところに転がったゴロに鈴木が処理の難しさを覚えていると、その打球に猛スピードで突っ込んできた秋乃はそのスピードを落とすことなくミットを下に向けて捕るとボールをミットから取り出しながら前方向にジャンプしその勢いを利用して下手投げで押し出すように送球を行った。

 

(……!)

 

 東雲は視界の外から入ってくるように近藤のミットにボールが投げられるのを感じ取りながらスライディングに入った。

 

(近藤さんはホームで構えてる。下手に回り込むよりここは……!)

 

 東雲のスライディングはホームに真っ直ぐと向けられており、近藤がボールを受け取るとミットでその足を押さえ込むようにしてタッチを行った。やがてスライディングの勢いが収まると東雲の足がベースに届いていないことを確認した掛橋からコールが為された。

 

「アウト!」

 

「うそっ……!?」

 

 さらに前進守備が功を奏し、一塁ベースカバーに入った野崎に届いた送球が新田がベースを駆け抜けるより僅かに早く、新田は後ろから聞こえたコールに加えて自身もアウトにされてしまったことに驚きを隠せない様子だった。

 

(前進守備でのゴロゴーだしリスクは承知していた。その上で間に合うと判断してスタートを切ったのだけれど……)

 

 東雲は両腕を天に伸ばして喜んでいる秋乃を見ながら立ち上がると、ベンチへと戻っていった。

 

(秋乃さんは清城戦で送球がずれたことを気にしていた。決して責められるようなミスでは無かったけど、彼女はそれを気にして難しい体勢からの送球に精を出していた。その成果を出されたみたいね……。それにもう一つ)

 

「近藤さんのブロック、崩れなかったわね」

 

「そうね。クロスプレーに持ち込んだのだけれど、しっかり防がれてしまったわ」

 

(近藤さんは私と違ってフィジカルが強い……。さっきの二塁への送球も高さが低ければタイミングは際どかった。低めに落ちてくるパームからの送球だから簡単な話ではないけれど……)

 

 バットを置いて防具をつけながら相手ベンチへと戻る近藤に目を向けた鈴木は自身との違いをひしひしと感じ取っていた。

 

(それに自覚しているか分からないけれど、彼女は面倒見がいい。キャッチャーというポジションは常にグラウンド全体を見渡し、ピッチャーの調子も見極めないといけない。彼女にキャッチャーを選んだ理由を聞いた時、明確な根拠はなかったと言っていた。けど恐らく……その性格がキャッチャー向きだったからなのでしょうね)

 

(……防具、つけるの遅いわね)

 

 清城との練習試合で野崎のボールを受けてその日の調子を含めた情報を教えてもらったり、疲労が溜まった自分のフォローをしてくれたことを思い出しながら鈴木が防具をつけていると、倉敷がしゃがみ込んでレガースの取り付けを手伝った。

 

(倉敷先輩?)

 

「なに考え込んでいるのよ。あと4イニング、しっかり頼むわよ」

 

 倉敷がレガースを取り付け終えると鈴木もプロテクターをつけ終えた。近藤から視線を外した鈴木が不思議そうに見下ろしていると倉敷は立ち上がり、背を向けてマウンドに向かっていった。

 

「今は、やることやるだけでしょ」

 

「……! ……そう、ですね。ふぅ……行きましょう!」

 

(そうよ。何を試合中に考え込んでるのよ。私は有原さんと東雲さんにスタメン選考を託した。今の私がやるべきことは目の前のプレーに集中すること。私にだってやれることは……ある!)

 

 その背中を追うようにしてグラウンドに出ていった鈴木は倉敷の投球練習を受け終えると左打席に入ってきた岩城に目を向ける。

 

(初球は……)

 

(ボール球からね。分かったわ)

 

 送られたサインに頷いた倉敷は投球姿勢に入るとアウトコース低めにストレートを投じた。

 

(よし! さっきは外ばっかりだったからな。内の良いとこに来ないならこれを……打つ!)

 

 踏み込んだ岩城がバットを振り抜くと外にボール1個分外されていたストレートを弾き返した。するとバットの先に当たったフライ性の打球は失速していき、かなり深い位置まで来た永井のミットに収まった。

 

「くぅー! ちょっと遠かったか……!」

 

(ボール球であそこまで飛ばされるのね。外にもよく届いている証拠……とはいえ、ボール球を打たせた。悪くないわ)

 

(ボール球もヒットにされることはあるけど、打ち取れることの方が多い。下手に粘られて合わせられる方がアタシは苦手ね)

 

 一球で打ち取れたことに倉敷は好感触を覚えていると次に打席に入った近藤に対してボールを投じた。低めのボールを中心としてコントロール良く投げたことで早々に追い込んだバッテリーだったが、コンパクトに振る近藤を仕留めきれずにいた。

 

(前の練習試合の最後のイニングで野崎さんを休ませるために球数を稼ぎたかったのにあっさり打ち取られてしまった。だから試験が終わってからの2週間弱、打撃練習でカットの練習を重ねてきたわ。おかげでなんとか上手くファールに出来るようになってきた……ここは粘っていくわ)

 

(さすがキャッチャー……ピッチャーの嫌がることが分かっているわね)

 

(鈴木、どうする? ストレートだけじゃなくてチェンジアップも必要なら投げるわよ)

 

(……このボールをお願いします)

 

(……分かったわ。膝下のストライクゾーンに……)

 

 1ボール2ストライクから6球目。倉敷はリリースの瞬間指先に力を込めるようにし、力のあるストレートを投げ込んだ。このボールに対してもコンパクトに振り出した近藤だったが、差し込まれる形になり打球が打ち上がった。

 

(内野フライ! けど勢いがありません。追いつけるでしょうか……)

 

「塚原先輩、任せて下さい!」

 

「……! お願いします!」

 

 バックスピンがかかった小フライが塚原と河北の前に上がるとスタートが遅れた塚原より早く一歩目を踏み出した河北がその落下地点に向かい、ボールが地面に落ちる直前にミットの先でボールを収めた。

 

(しまった! 全力投球……カットしきれなかった)

 

「河北さん。見事な捕球です!」

 

「ありがとうございます!」

 

(スイングをコンパクトにしていた……恐らく一打席目に投げたチェンジアップを意識してのものね。そこを避けて上手く打ち取ることができたわ)

 

「倉敷先輩、コースもスピードも良かったですよ」

 

「……ありがと」

 

 返球を受け取りながら鈴木に声をかけられた倉敷の口角が思わず上がり、それに気づいた彼女は誤魔化すように帽子を被り直した。

 

(全く……アンタのリード、良すぎて首が振りにくいのよ)

 

 宇喜多が右打席に入ると7割投球でコースを突いた投球で2球で追い込むことに成功する。3球目、アウトハイに投げられたストレートを宇喜多はバットに当てると一塁側のベンチを越えて河川敷前の坂にバウンドしてファールになった。

 

(意図的にカットしてるというより、食らいついてバットに当ててる感じね。ここは……)

 

(……分かったわ)

 

 4球目。ボールが投じられると振り遅れまいと宇喜多は踏み込むとそのボールがまだ遠い位置にあることに気づいた。

 

(あっ……!)

 

 真ん中低めやや外寄りへと投じられたチェンジアップに宇喜多はタイミングを外されてボールが来るより早くスイングしてしまい、空振り三振となった。

 

(うう……)

 

 宇喜多が悔しそうにベンチに戻っていくと3アウト目が成立したことで攻守が交代し、東雲チームの守備陣もベンチへと戻っていく。

 

「チェンジアップ、どうだった?」

 

「コースはまだ厳しくないですが、しっかり低めに投げられていますね。この高さに投げられたら簡単には打てないと思います」

 

「そう、良かったわ。まだこのボールは自信がないから、何かあったら遠慮なく言ってちょうだい」

 

「分かりました。……あ、それでしたら……」

 

(そうか。こういう時に私がどういう考えで要求しているかを伝えていけばいいのね。……打順が回ってくるのが惜しくすら感じられるわ)

 

 バッターとしての準備を進めながら倉敷に自分の考えを伝える鈴木。準備を整えてネクストサークルに座り一度会話が途切れるのを惜しんでいると、先ほどは振り遅れて空振り三振に取られた塚原が今度はストレートにタイミングを合わせて弾き返したが、低めに制球されたストレートに打ち取られた打球を阿佐田が難なく捌きセカンドゴロでアウトになっていた。

 

(野崎さんのストレートもばらつきはあるけどよく低めに収まっている。淡々とあのストレートを低めに投げ込まれるだけでも厄介ね……)

 

 8番打者として打席に入った鈴木は懸念していたように警戒していた低めのストレートを捉えきれずに追い込まれていた。0ボール2ストライクからの3球目、三度低めに投じられたストレートに食らいつくようにバットを振り出すとボールの上を叩いた打球は自身の後ろ側へと転がってファールとなった。

 

(さっきはクロスファイヤーが来て合わせられなかった。同じボールで勝負に来るとは限らないけど警戒はしておかないと)

 

 4球目、野崎の指先からリリースされたストレートはインコースへと向かっていった。

 

(これは……さすがに外れてるわね)

 

「ボール!」

 

 ゾーンからボール2個分は内に外れたストレートを鈴木は見送るとバットを構え直した。

 

(ボールカウントにも余裕があったし、厳しく攻めたのは悪くないはず。次は……)

 

 5球目、野崎が投じた球種はパーム。手のひらで押し出すようにして投げられたボールはゾーンを通るように投げられており、鈴木は崩されながらも少し溜めてスイングを行った。だがタイミングがそれでも早く、また目測より下に落ちていたボールを空振ると直接捕球する形で近藤のミットに収まり三振に取られていた。

 

(く……頭にはあったけど、全然対応出来なかった。頭にはあっても身体がストレートとはタイミングも軌道も異なるこのボールについていかない……)

 

(この試合、追い込んでからこのボールを何回か試しているけど最初に打たれた九十九先輩以外の打球は結局野手の取れるところに飛んでる。浮いた軌道も多いけど、たとえゾーンに来ても低めに落ちる軌道だから簡単にヒットには出来ないんだ)

 

 鈴木とすれ違うようにして右打席に入った倉敷は地面をならしながら狙いを絞っていた。

 

(アタシが投げるチェンジアップもだけど、野崎のパームは特に追い込んでから投げる頻度の方が高いわよね。なら追い込まれるまでは……)

 

 野崎が低めのサインに頷いて投げたストレートがインコース低めへのストライクゾーンへと投じられると倉敷は思い切ってバットを振り出す。すると低い弾道のライナーで弾き返された打球が三遊間へと飛んでいった。

 

「ショート!」

 

 この打球に反応した有原が横っ飛びでミットを伸ばすとその僅か先を打球が抜けていき、バウンドして転がってくる打球を岩城が収めてレフト前ヒットになった。

 

(飛ぶ打球の方向までは調整効かなかったけど、なんとか捉えてヒットに出来たわね)

 

「野崎さん、ここはバッター集中で行きましょう!」

 

「はい!」

 

 2アウトランナー一塁。右打席に入った九十九に対しての第一球はインコース真ん中へと投じられたストレート。際どく内に投げられたこのボールを九十九が見送ると近藤が親指で押さえ込むようにして捕球した。

 

「……ストライク!」

 

(……凄い角度だな)

 

 収まったボールを横目で見た九十九は前に向き直るとサインに頷いた野崎が2球目を投じた。すると今度も内に投げられたストレートを九十九は思わず見送る。

 

「……ボール!」

 

(惜しい……ちょっとだけ内にずれてしまった。でも、良いコースに来てる)

 

「その調子です!」

 

「はい!」

 

(先ほどの回東雲さんに甘くなったストレートをファールとはいえ打たれてしまいました。近藤さんと二人で相談して……低めのストレートと同じようにクロスファイヤーにも二つ目のサイン、ボール球にするくらい厳しく狙うサインを決めました。ボールになってもいい、そう言われると気持ちが楽になります。……!)

 

 送られたサインに目を見張った野崎だったが意を決して頷くと投球姿勢に入り、ボールを投じた。

 

(……! 3球連続で……!?)

 

 このボールに対して反応した九十九はとっさにバットを振り出すと根本に寄ったところで捉えられた打球が三塁線に転がっていった。

 

「サード!」

 

「……えいっ!」

 

 程々の勢いで転がっていくこのゴロに対して思い切って逆シングルで捕りにいった初瀬のミットにボールが収まった。

 

(足が速い九十九先輩でアウトを狙うより……ここは!)

 

「セカンドに!」

 

「はいっ!」

 

(タイミングがギリギリの時は……これでっ!)

 

 足の向きを二塁に向けた初瀬が送球を行うと浮かないように投げられたボールがベース手前でバウンドする。このボールをベースカバーに入った有原がミットですくいあげるように捕った。

 

「アウト!」

 

(対応したつもりだったが……詰まってしまったな)

 

「初瀬さん、ナイスフィールディング!」

 

「あ、ありがとうございます……!」

 

(良かった……上手く守れました。攻撃でも貢献したいな……)

 

 一塁ランナーの倉敷をフォースアウトに取れたことで3アウトチェンジになり、攻守が交代される。有原がベンチに戻る初瀬に駆け足で近づくと元気よく話しかけ、守備の上達を褒めていた。初瀬は照れながらバッターとしての準備を進め、次の打席への士気を高めているとグラウンドから金属音が響いた。

 

「ライト!」

 

 弾き返された打球が秋乃の見上げる先を越えていくとライト前に落ちた。引っ張った勢いのある打球がその横を抜けようとするが逢坂が横に走りながら追いつくと、二塁に送球を行う。その様子を見て野崎は一塁ベースに戻っていった。

 

(膝下にボール一つ分外すつもりが少しだけ中に寄った……ファールを打たせるためのボールだって分かってたのに)

 

(まだはっきりとした形ではないけれど……これはスタミナ切れの兆候かしら? 前の練習試合が上手く球数を抑えられたというのもあって、それと比べるとこの試合の球数はやや多い……)

 

「タイムお願いします」

 

「タイム!」

 

「悪いわね」

 

「いえ、今のはこちらももう少し内を要求すべきでした。ただ、まだコントロールが大きく乱れたわけではありませんし、落ちついて抑えていきましょう」

 

「そうね。ふぅ……」

 

(近くで見ると体力は、少しだけれど余裕はあるように感じる。以前ならここら辺でスタミナが切れてしまうことが多かった……意欲的なランニングの成果が出てるように感じるわ。……なるほど、これは一時的な……)

 

 息を短い周期で吐きだす倉敷を見て鈴木はあることに思い至った。

 

「先ほど塁に出て走った影響が少しあるみたいですね」

 

「ああ……そうかもね。気付かなかったわ」

 

「適宜間を置いていきましょう。……それで、初瀬さんへの配球なんですが……」

 

 やがてタイムが終わると鈴木がホームに戻っていく。すれ違い様に初瀬が軽く頭を下げたのに応じて鈴木も軽く頭を下げるとマスクをつけながらキャッチャーボックスに座った。すると初瀬がバントの構えを取るのが目に入った。

 

(やはり送りバントね。……倉敷先輩)

 

 少し間を置くようにしてから出されたサインに頷いた倉敷は塁に出た野崎を見るようにして息を整えると投球姿勢に入った。

 

(ヒットを打てないまでもせめてランナーを進めたい。……!)

 

 初瀬は投じられたボールに目を見張るとそのボールに合わせるように構えを崩さないように注意しながらバットを合わせにいった。

 

(チェンジアップ……? 遅くて、バットを合わせやすい……)

 

 真ん中低めに投じられたチェンジアップに初瀬はバットを合わせるとバットの先に当てるようにしてボールを前に転がした。

 

(あ……これは……!?)

 

 初瀬は走り出しながら背中に嫌な汗が滲むのを感じていた。

 

(狙い通り!)

 

「セカンド行きます!」

 

「分かった!」

 

 鈴木はマスクを外しながら一歩踏み出すと自分の目の前に転がった勢いのないボールを冷静にミットで捕ってからボールを取り出して送球を行った。送球の邪魔にならないようマウンドにしゃがむように避けた倉敷の頭上をボールが通過するとノーバウンドで投げられたボールを河北はベースを踏みながらミットを上に伸ばす形で捕る。

 

「アウト!」

 

 足から滑り込む野崎を横に避けて躱してから河北は送球を行うと一塁で構える塚原のもとにボールが届き、初瀬も一塁ベースを駆け抜けた。

 

「……アウト!」

 

(や、やっちゃった……あれは、バットの先に当てちゃダメなんだ……)

 

「初瀬さん……その……えっと、切り替えていこっ!」

 

「……! 宇喜多さん……そうでしたね。ありがとうございます」

 

 打球の勢いを抑えすぎてしまったことが仇になりダブルプレーにとられてしまったことに初瀬は大きくショックを受けたが、一塁コーチャーの宇喜多から声をかけられると、顔を上げてベンチに戻っていった。

 続く阿佐田が打席に入るとその初球、膝下に投じられたストレートを思い切って振ったがスイングが大きく、ボールとバットが大きく離れて空振る形になった。

 

(随分大きなスイング……2アウトになったから開き直って長打を狙っている? それに今のは低めに外れたボール球だった。ならもう一球同じところに外しましょう)

 

 第2球、要求通り低く外れたストレートが先ほどとほとんど同じコースに投じられた。すると阿佐田は今度は打って変わってコンパクトなスイングでそのボールをすくうように打つと三遊間に打球が上がった。そのボールの落ち側に東雲が飛びついたが、そのミットの先にボールが落ちてレフト前ヒットになっていた。

 

(う……阿佐田先輩の考えは読みづらい。ただ最初の大きなスイングはわざとだったみたいね……)

 

(くくく……まだまだ若人には負けてられないのだ)

 

 2アウトランナー一塁となり左打席に中野が入っていった。

 

(サインはフリー……ここは大きいのは狙わずに単打で繋ぐにゃ)

 

(コントロールは一旦落ち着いてきたようだし、ここは厳しいところをついていきましょう)

 

 初球。倉敷はベースの角を狙うように膝下にストレートを投じた。だが高さコース共にボール一つ分ずれる形となる。このボールに対して中野は早めに目を切るとスイングを行った。

 

「ファール!」

 

 一塁方向に転がった打球はファールラインを大きく割っており、ファールになる。

 

(落ち着くにゃ……)

 

(目を切るのが早いということは見極めがどうしても甘くなる。こうなると……中野さんには悪いけれど、厳しいコースを突き続ければ)

 

 続く第2球。アウトハイの際どいコースを狙って投じられたボールは今度はボール1個分中に入る形となっていたが、中野は見送ってしまいストライクとなった。

 

(う……)

 

(少し中に入ったけど十分に良いコース。今は牽制のためにファーストの塚原先輩が一塁に寄っているから一、二塁間が広く開いている。インコースを引っ張られてその間を抜かれたくないから、ここはアウトコースで勝負しましょう)

 

(アウトローにまた厳しく狙ったボールね。外れても良いっていうならいくらでも狙うわ)

 

 第3球。ベースの角を狙うようにアウトローに投じたボールは外枠に沿う形ではあったが低めに外れていた。追い込まれた中野はこのボールにバットを出すと芯を外した打球がサードの前に転がる。

 

(この体勢なら無理に二塁に投げるより……)

 

「……ふっ!」

 

 前に出た東雲が打球をスムーズに捕ると足の向きを変えて一塁に送球を行った。正確な送球が塚原に届くと中野も瞬足を飛ばして一塁を駆け抜けた。

 

「アウト!」

 

 駆け抜けた中野自身も先に送球が届いていたことが分かるほどに余裕を持ってアウトにされており、宇喜多が話しかけようとする。

 

「あ、あの……中野さん」

 

「くぅ……やられたにゃー! 宇喜多、チェンジにゃ! しっかり守るにゃ!」

 

「へ……う、うん!」

 

 落ち込んでいると思い励まそうとした宇喜多だったが、まだまだ元気そうな中野に引っ張られるようにベンチに戻っていった。5回の裏が終わり6回の表、東雲チームの攻撃。先頭打者は河北だった。

 

(多分これがこの試合最後の打席……)

 

「ふぅー……よし!」

 

 一度思い切り素振りをして気合いを入れると河北は打席へと入り、高鳴る心臓の鼓動を感じながらバットを構えたのだった。



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熱戦の末に

(ここまでの2打席はバント失敗にショートゴロ。このままじゃ終われない……。終わらせたくない!)

 

 ドクンドクン、と響く心臓の鼓動を感じながら地面をならした河北は意気込みと共にバットを構えると真剣な眼差しで野崎を見つめた。

 

(ともっちさん。……行きます!)

 

 夏季大会でスタメンを外れてしまった河北がこの打席に懸けている想いを察した野崎は、表情を引き締め直して縫い目に指先を引っ掛けるようにボールを握ると、右足を垂直に上げて投球姿勢に入った。

 

(あと2イニング……上手くいけば上位打線に回るのはこれで最後だ。出し惜しみは無しで行きましょう)

 

 近藤は影のように静かに動くと赤くなっている手を広げるようにしてミットを構えた。

 

(インコース……!)

 

 角度のあるストレートが投じられるとバットを止めた河北の胸前(むなさき)を通過したボールが左に動かされたミットに収まり、乾いた音が響いた。

 

「……ボール!」

 

(ううっ……一つ目の、ストライクを狙うクロスファイヤーのサインだったのに外れてしまいました)

 

「野崎さん、しっかり腕振れてますよ!」

 

「は、はい!」

 

 近藤は声をかけながらボールを投げ返すと野崎の息遣いを窺う。

 

(野崎さんの体力はまだ残ってる。前の練習試合の反省その四、無駄なボール球を投げさせて球数を多くしてしまったこと。その反省を生かしてここまでは上手く体力の消耗を抑えてこれた)

 

 明條学園との練習試合では6イニング目で息が乱れていたことを思い起こした近藤は6イニング目を迎えてもまだ余裕が残っている今の野崎を見て確かな手応えを感じていた。

 

(気をつけないといけないのはコントロール。野崎さんは以前と比べるとコントロールが良くなった。ただそれは倉敷先輩のように高い精度というわけじゃない。狙ったコースからずれることは十分にある。大事なのはそれを踏まえてどうリードするか……)

 

 ボールを投げ渡した近藤は思案しながらキャッチャーボックスに座り直すとサインを送った。

 

(あれは……フォームを変える前によく使っていたざっくりとしたサインですね)

 

 使う頻度が減っていたサインに野崎は内心驚きながらも頷くとボールを投じた。

 

(アウトコース真ん中! ……うっ!)

 

 外に踏み込もうとした河北だったが腰が引けておりミートすることが叶わず、外に投じられたストレートを空振る形になった。

 

「ストライク!」

 

(こんなスイングじゃ夕姫ちゃんのストレートには当たらない……!)

 

 河北は息を深く吐き出すとグリップを握り直してバットを構えた。

 

(バットを少し短く持ち直した……。スイングで描く弧が小さくなるから、飛ばしにくくはなるけどその分当てやすくなるんだっけ。でも野崎さんのストレートはそう簡単に打ち返せない。次は低めに……)

 

(また一つ目の、ストライクを狙うサイン。ここは際どいコースを攻めるんじゃなく、ストライク先行で行きたいんですね)

 

 3球目、野崎が投じたストレートが真ん中低めへと向かっていくとコンパクトなスイングで応じた河北のバットが芯より下の部分でボールを捉えた。そのままバットが振られ河北の身体より後ろ側の位置で捉えられたボールが弾き返されると、打球は一塁側のファールゾーンへと弱い勢いで転がっていった。

 

「ファール!」

 

(バットがボールに押し込まれてる。前の打席ではパームに上手く合わせられたし、ストレートが有効ならそれで押していこう)

 

 2打席目で追い込んでから投じたパームを始動を溜めて打ち返されていたため近藤は警戒してストレートのサインを送ると投球に備えてミットを構える。そしてサインに頷いた野崎から真ん中低めやや内寄りにストレートが投じられた。

 

(ストライクになりそうなボールにはとにかく食らいつくんだ!)

 

 先ほどより低めのストライクゾーンに投じられたストレートにスイングが行われると再び河北の身体より後ろ側でバットに当たったボールは近藤の左横を抜けて勢いよく転がっていった。

 

「ファール!」

 

(阿佐田先輩と河北さん。セカンドのポジション争いをしているこの二人はどちらも非力なバッターではあるけれど、そのバッティングスタイルは大きく異なるわね)

 

 ベンチでバッティンググローブをつけながらこの打席を見守る東雲は阿佐田と河北の大きな違いを感じ取っていた。

 

(阿佐田先輩は浅いカウントから勝負するのに対し、河北さんは追い込まれてから粘る形になることが多い。打率が高いのは阿佐田先輩の方だけれど……)

 

 グローブをつけ終えた東雲はバットを取り出しながらセカンドから声を送る阿佐田を横目に高めに外れた全力投球を辛うじてバットを止めて見送る河北を眺めるように見た。

 

(ヒットを打てずとも球数を投げさせていることをまずは評価すべきでしょう。それが疲労の蓄積やコントロールミスの誘発に繋がる。ただ欲を言えば粘った上で出塁出来るのがベスト。長打があまり期待出来ないことを考えれば、彼女はもう少し打率を上げて欲しいのが正直なところ)

 

 アウトローを狙って投じたストレートがバットを止めて見送られると少し外に外れる形になる。

 

「スイング!」

 

 近藤がスイングの主張をし一塁審判の役割を兼ねている鈴木に確認が取られるとノースイングとなりボールとなった。続く7球目のストレートが真ん中低め、やや真ん中に寄った高さへと投じられると振り出されたバットに掠るような形で当たり、打球はバックネットに突き刺さった。

 

(けれど早打ちと違って粘るバッティングスタイルには球数を稼ぐ以外にもメリットがある)

 

 8球目、インコース高めやや真ん中寄りにストレートが投じられると打球が打ち上がった。近藤はマスクを外して打球を追いかけていったが、打球が落ちてきたところで設置されたバックネットを越えたことでその足を止めた。

 

「ファール!」

 

(今のはさっきより芯の近くに当たった。その分球威の重さも伝わってくる……。悔しいけど今の私じゃこのストレートを真芯で捉える技術も、外野まで運ぶパワーも足りない。それでも……)

 

(凄い……6イニング目でも初回と球威はほとんど変わってない。ここは……)

 

(一つ目の低めのサイン……ですね。分かりました!)

 

 河北に対してこの打席9球連続となるストレートが投じられると真ん中低めへとボールが向かっていった。

 

(……低い!)

 

「……ボール! フォアボール!」

 

(うっ……!)

 

(……しまった。これは野崎さんのせいじゃない。一つ目のサインでもボールになることがあるのは分かってたんだ。慎重な攻めが必要な東雲さん相手ならともかく、長打があまりない河北さんに全力投球や四隅でカウントを悪くして後手に回ったのは悪手だった……!)

 

(ヒットを打てなくても粘ることでフォアボールによる出塁が狙える。それ自体は当然のことでも、彼女自身が自覚していなくては意味がない。自分が何を積み上げてきたのか、それが分からなくては戦えないもの)

 

 野崎からは見えないよう小さくガッツポーズを取った河北が一塁へ小走りで向かっていくのを見届けた東雲は頷くようにしてからネクストサークルに座った。

 

(一通りの練習に慣れてきたことで新入部員もバントの練習を始める余裕は生まれたけど、まだ硬球をバントさせるのは怖い。ここは……)

 

(ん……分かったわ!)

 

 一塁コーチャーボックスに立つ鈴木からサインが送られ、それを確認した逢坂が右バッターボックスに入った。

 

(次のバッターは東雲さんだ。逢坂さんをフォアボールで歩かせるわけにはいかない……)

 

 近藤からストライクを要求するサインが送られる。すると野崎は一瞬の戸惑いの末に……首を横に振った。

 

(え……)

 

「……タ、タイムお願いします」

 

「タイム!」

 

 この試合初めて首を横に振られた近藤は意表を突かれ当惑を覚える。やや上擦った声でタイムを要求するとマウンドに向かっていくと、野崎からミットで口元を隠すようにして話しかけられた。

 

「す、すいません。首を振ってしまって」

 

「いえ、大丈夫ですよ。ただ、その……どうすればいいのか分からなくなってしまって。どこが問題でしたか?」

 

「フォアボールの後なのでストライクをまず取りたいという近藤さんの考えは伝わったんですが……フォアボールの後にストライクを取りに行くと狙われることが多いんです」

 

「そうなんですか?」

 

「はい。コントロールが今よりつかなかった時はもっとフォアボールを出していたのですが、その時によく狙われてしまったので……。フォアボールの後ほど厳しく攻めなきゃいけないと思うんです」

 

「なるほど……」

 

 自身の経験から野崎は考えを伝えると近藤は納得がいった様子で頷いていた。

 

「分かりました。厳しく攻めていきましょう! ……野崎さん、手を出してもらえますか?」

 

「え……あ、はい!」

 

 近藤は手のひらを向けて右手を出すと野崎の左手がゆっくりと重ねられた。

 

(心拍数が上がってはいるけど、まだ余裕はありそうね)

 

「この回、しっかり抑えましょう!」

 

「はい!」

 

 近くで野崎の息遣いを見ると共に右手から伝わる鼓動のテンポを感じ取った近藤は硬い手のひらの感触を覚えながら掛けた声と共に手を離すと、少し見上げる形で引き締まった表情の野崎を見てからホームへと戻っていった。

 

(初球は……ここにお願いします)

 

(分かりました!)

 

 サインの交換が終えられると野崎は一塁ランナーの河北を見つめるようにして少しの間静止する。やがて右足が垂直に上げられ、前に踏み出されると足を止めていた河北はようやく少しリードを広げた。

 

(打ってみせるわ!)

 

(腕をたたんだ……!)

 

 投じられたストレートは要求通りインコース低めへと向かっていく。このボールに逢坂がとっさに腕をたたみながらバットを振り出すと、ボールが捉えられ弾き返された。低い弾道で放たれたスピードの乗った打球はサードへと向かっていく。

 

(打球が速い! しかもバウンドするかしないかギリギリのところに……!)

 

(これは……ダイレクトキャッチは出来ない!)

 

 鋭く放たれた打球が初瀬の足元へと向かっていき、初瀬は硬球が身体に当たることへの恐怖を感じていた。一塁ランナーの河北は打球を見て既に二塁へと走り出している。

 

(腰は引いちゃだめ。しっかり……!)

 

 初瀬は腰の位置を落として低い体勢を取ると自身のすぐ近くでバウンドした打球に対し手首を立てるようにミットを構え、すくい上げるようにして捕球しにいった。

 

(捕れた……!)

 

「セカンドに!」

 

「はいっ!」

 

(進塁義務……フォースプレー……。今ならダブルプレーが狙えるんだ。今はワンバウンド送球じゃなく……!)

 

 近藤の指示を受けてポケットに収まったボールを取り出した初瀬から二塁ベースで構える阿佐田に送球が行われると、やや低くなった送球に合わせるようにして阿佐田のミットにボールが収まった。

 

「アウト!」

 

(このままファーストに。……!)

 

(ダブルプレーにはさせない……!)

 

 一塁で構える秋乃に送球しようとしたところ二塁ベースに向かってスライディングを行なっていた河北の足が阿佐田が踏み出したい足の位置と被っており、阿佐田はその目を見開いた。

 

(この状況……夏季大会の一回戦を思い出すのだ)

 

(えっ!?)

 

 今度は河北が目を大きく見開いた。その理由は阿佐田がボールを受け取ってベースを踏んだ状態のままほぼ真上へとジャンプしたからだった。

 

(あの時はバッターランナーもアウトにするために無理やり捻るようにしてベースを踏んだ足の向きを変えてからジャンプして投げたのだ。おかげで随分と捻挫には悩まされたのだ)

 

 空中で腰を捻るようにして身体の向きを一塁方向に変えた阿佐田はその空中姿勢のまま送球を行った。

 

(後は頼んだのだ!)

 

 河北の足を踏まないよう左側に逸れて着地した阿佐田は少し右側にずれた送球を視界に収める。

 

(ここもすぐ近くまで来てる! ……えいっ!)

 

 その送球に対して秋乃はベースの側面に触れるようにしながら精一杯足を伸ばすと逸れた送球に合わせるようにしてミットを伸ばした。

 

「……アウト!」

 

「ええっ!?」

 

(ジャンピングスロー……!?)

 

 ショックを受けた逢坂の声を背に河北は自身が出来ない送球方法を間近で見せつけられる形となり、度肝を抜かれていた。

 

「龍ちゃん。ごめん!」

 

「……リスクを負った以上こういうこともあるわ。初球打ちのサインが出ていたのだから」

 

「うー……あとちょっと横にずれればヒットだったのに!」

 

「コースに投げられたボールというのは捉えても野手の捕れるところに飛びやすいのよ」

 

 ダブルプレーの成立で盛り上がりより一層声が出ている有原チームに対して、ストレートを捉えながらもダブルプレーに取られてしまった逢坂は言いようのないもどかしさを感じ、騒ぎながらもどこか意気消沈している様子だった。

 

「……逢坂さん。貴女、私に『エース兼4番打者を目指す』と言ったことを覚えているかしら?」

 

「覚えてるわよ?」

 

「最初は口だけかとも思ったけど貴女は確かにそのための地道な努力を積み重ねてきた。今の打席も膝下の厳しいボールを鋭く打ち返せたのはインコースが得意というだけじゃない。体幹トレーニングの成果が出てきてスイングの軸が安定しているからこそよ」

 

「あ……ありがとう。どうしたの龍ちゃん。いきなり……?」

 

「だからこそ貴女は今意識するべきだわ。4番打者に求められるものを……ね」

 

 そう言うと東雲は困惑する逢坂をよそにバッターボックスへと向かっていった。

 

(4番に求められるもの……やっぱりホームランを打てることじゃないの? ホームラン打てるようになりなさいってことなのかな?)

 

 右打席に入った東雲が地面をならし終えてバットを構えると近藤からサインが送られた。

 

(パームや四隅を混ぜていくにしてもまず全力投球を見せておきたい。野崎さんの体力に問題がないなら、初球は一番の武器である球威・球速のあるストレートから入ろう)

 

(はい!)

 

 サインを受けた野崎が右足を垂直に上げると腕を振りかぶらずにそのまま右足を踏み込み、スリークォーターの投球フォームから勢いのあるストレートがリリースされた。

 

(……! よし。全力投球が低めのストライクゾーンに来た!)

 

 ボールになる覚悟で全力投球を要求した近藤は唸りを上げるようなストレートが真ん中低めやや外寄りに来たことに好感触を覚えていた。

 

(これを無理にすくいあげては精々外野フライね。ここは……!)

 

(えっ……!)

 

 しかし近藤がミットでその感触を味わうことはなくそのストレートが目の前で捉えられるとマスク越しに右方向に弾き返されるのが映った。

 

「セカンド!」

 

 一二塁間方向に一歩踏み出していた阿佐田は打球が放たれるとすぐさま飛びついてミットを伸ばした。

 

(球足が速いのだ……!)

 

 既に2回バウンドしたボールは阿佐田のすぐ横に来ており、とっさの反応で飛びついた阿佐田のミットの先を抜けていった。

 

(ここはワタシが……えっ!)

 

 初回の九十九の打席の時のように打球を少しでも浅い位置で収めようとする中野だったが、その瞬足を飛ばしても打球に追いつくことはできず、ボールは草むらに入っていった。

 

「エンタイトルツーベース!」

 

 一塁を蹴って走っていた東雲は球審の掛橋から出された宣言でようやく足を緩めていくと二塁ベースを踏みながらヘルメットを外していた。

 

(あおい先輩と綾香ちゃんが追いつけなかった……。なんて低く、強い打球。でもこれが4番に求められることって言われても……よく分かんないわね)

 

 ベンチから東雲の打席を注視していた逢坂はその打球スピードに驚きながらも同時に腑に落ちないようだった。

 

「野崎さん、2アウトです。バッター集中でいきましょう!」

 

「はい!」

 

「外野前進! 二塁ランナー意識して、単打の場合はホーム優先でお願いします!」

 

「任せろ!」

 

「了解にゃ!」

 

「うん!」

 

 2アウトランナー二塁の場面。近藤は岩城・中野・宇喜多が前に出てくるのを確認すると5番打者の永井を迎え入れるように座り込んだ。

 

(一塁は空いてるし、一点負けてる状況だから二塁ランナーは絶対に返したくない。ここは四隅を突いていきましょう)

 

(分かりました! ……東雲さんに渾身のストレートをあれだけ良い当たりで打たれたんです。ここは慎重に……)

 

 初球。投じられたストレートが膝下に投じられるとボールは低く外れていたが永井が振り切ったバットの下をくぐるようにキャッチャーミットに収まった。

 

「ストライク!」

 

「良いコースに来てますよ!」

 

「ありがとうございます!」

 

(まだ二回は振れる。打てると思ったらしっかり振り抜くんだ)

 

 2球目。アウトコース低めを狙って投じられたボールは先ほどより低く外れ、永井も今度はバットを振り出さずに見送っていた。

 

「ボール!」

 

 3球目。インコース低めを狙って投げたボールだったが……ワンバウンドする形になってしまう。

 

(あっ……!)

 

(止める!)

 

 近藤は身体を三塁方向に動かし、ミットに収まりきらず跳ねるような形になったボールをプロテクターで押さえ込むようにして身を挺してボールを前に落とすと隙を窺っていた東雲も二塁へと戻っていった。

 

「ボール!」

 

「す、すいません!」

 

「大丈夫です。低めには集まってますよ!」

 

(なんだろう……? 体力切れじゃないよね。なのに急にコントロールが……)

 

 ボールについた砂を落としてから近藤が力強くボールを投げ返すとずれたマスクを微調整しながらキャッチャーボックスに座り直した。

 

(さっきから低めに凄い外れてる。……! さっき龍ちゃんが打ったのは確か低めの速いストレート。……もしかして4番に求められるものって)

 

 ——キィィィン! 考え込んでいた逢坂はグラウンドに鳴り響く金属音に顔を上げると、打球はセンター方向へ上がっていた。中野が反転して外野方向に走り出し、全速力でその打球に追いすがっていく。

 

(こ、これは……)

 

 自身の頭上を越えてミットを伸ばしても届かない位置に打球が高くバウンドすると中野は足が重くなるような思いを振り払うようにその足をせわしなく動かし、草むらに入る直前でミットに収めるとセカンドのベースカバーに入った有原へと送球を行った。すると永井がまだ二塁に到達していないことに送球した中野自身も驚いたが、ワンバウンドしたボールが有原のミットに収まるタイミングでスライディングして伸ばした足がベースに触れたことで辛うじてタッチプレーを避けてセーフとなった。

 

(永井……あんなに足遅かったんだにゃ。普通なら余裕でスタンディングダブルなんだにゃ。ただそれより……)

 

 2アウトで迷わずスタートを切っていた東雲は永井が二塁に到達するより早くホームベースを踏んでいた。これにより東雲チームに追加点が入り、有原チームとの点差を2としていた。

 

「加奈子ー! ナイバッチー!」

 

 ダブルプレーを取られどこか沈んでいた東雲チームだったが、息を吹き返すような盛り上がりを見せる。新田の声に合わせるようにして「ナイバッチ!」と声を合わせるようにベンチから声援が送られると永井は顔を赤くしながら屈託のない笑顔を浮かべていた。

 

「龍ちゃん。4番に求められるのって……相手ピッチャーの一番自信のあるボールを打って、その後のバッターを楽にすること?」

 

「私はそう考えているわ」

 

「そうなんだ……」

 

「ただ今永井さんが打てたのはそれだけが理由じゃないわ。確かに最後の野崎さんのボールは今までと比べると少し甘く入ったものだった。けれど腕はしっかり振り切られていたもの。当てにいっては外野の頭は越えない……最後まで自分のスイングを貫いた結果よ」

 

 そう言うと東雲はベンチに戻っていったが逢坂はまだヘルメットもつけたまま塁上の永井を見つめると対抗心を示すように拳を強く握ったのだった。

 

「すいません。厳しく攻める要求だったのに……」

 

「打たれたことを気にしても仕方ないですよ。まだピンチは続いています。まずはこのピンチを切り抜けましょう」

 

「そう……ですね」

 

「それに野崎さんだけのせいじゃありません。私も野崎さんの球威が落ちないからとストレートを続け過ぎてしまいました。お互い切り替えて、3アウト目を取りましょう!」

 

「はい!」

 

 野崎と近藤のバッテリーはタイムを取って気合いを入れ直すと、タイムが終わり近藤がホームへと戻っていく。その間に鈴木が河北と交代してコーチャーボックスからベンチに戻りバッターとして準備を進めていると、外野が再び前に出てくるのに気がついた。

 

(そうね。先程の場面は必ずしも前に出すばかりが正攻法ではなかったけれど、この終盤で点差を3に広げられたら負けに等しい。永井さんに比べると新田さんは長打力が落ちるし、2アウトで迷わずスタートが切れるとはいえ永井さんの足は遅い。ここは外野を前に出すべき場面だわ)

 

 右打席に入った新田に対し初球。ここまでの2打席で体感したストレートのタイミングに合わせるように踏み込んでバットを振り出した新田だったが、ゾーンに投じられたパームボールにタイミングを外されて空振っていた。

 

(これがパームってやつかぁ。わたしに投げてくるのは初めてだよね。また投げてくるかな?)

 

 2球目。野崎が投じた球種はストレート。真ん中低めへと向かっていくボールにとっさに反応してバットを振った新田だったが、タイミングが遅れて空振っていた。

 

(え……速っ!? いや、いつも速いけど……なんかいつもより速く感じたっていうか……)

 

 新田が球速差に戸惑っている間にサインの交換が終えられ3球目、野崎が手のひらで押し出すようにして投じられたパームに対してタイミングが外され前足が開いた。

 

(せめて当てる……!)

 

 泳ぎながらボールに食らいついた新田の目測より下へと独特な軌道でパームが落ちていくとホームベースにバウンドしたボールは正面に入った近藤のプロテクターに当てて落とされた。とっさに振り逃げを狙って走り出そうとした新田だったが、先にボールを右手で拾い上げた近藤にそのままタッチされてしまいアウトとなった。

 

(やられたぁ……! 最初入ってたように見えたのに結構外れてんじゃん)

 

 3アウト目が取られたことで6回の表が終わり、6回の裏の有原チームの攻撃。先頭打者は秋乃だった。左打席に入る秋乃に対して鈴木の要求にわずかに倉敷は眉をひそめる。

 

(低めが得意な秋乃に低めのストライクゾーンに投げるの?)

 

 首を振ろうか迷った倉敷だったが狙いがあると感じてそのまま頷くと要求通り全力投球で6分割の膝下へとボールを投じた。すると秋乃は虚を突かれたようにそのボールを見送る。

 

「ストライク!」

 

(うー……低め投げてくるのかー)

 

(積極的に振る秋乃さんにしては珍しい見送り。前の二打席で高めを執拗に攻めた成果が出ているようね)

 

(また膝下……。アタシとしては一番安心できるのはアウトローなんだけど、鈴木は結構インローを要求してくるのよね)

 

 2球目。今度は7割投球で投じられたストレートに秋乃は迷わずバットを振り抜くとドライブ回転がかかった打球がライト方向のファールゾーンへと大きく逸れていった。

 

「ファール!」

 

(むむー。ちょっと内に外れてたのかな)

 

(ここでインハイ。全力投球で厳しいとこね。体力ちょっと余裕なくなってきたけど、有原の前にバッターは出したくないってのは分かるわ)

 

 ネクストサークルで佇む有原を横目で捉えた倉敷は縫い目に指先を沿わせるようにボールを握るとリリースの瞬間に力を込めるようにしてストレートを投じた。

 

(うっ!)

 

「……ボール!」

 

(ストライクでも良かった? ……いえ、欲をかいてはいけないわ。もう一球、際どく外しましょう)

 

 秋乃はこのボールを振り出そうとしたバットを思わず止める形で見送ると息を吐き出してバットを構え直していた。4球目、再びインハイに7割投球で投じられたストレートはボール一つ分高めに外れていたが秋乃は迷うことなくバットを振り出すとやや詰まるように打ち上がった打球はサード側のベンチを越えてバウンドしていた。

 

「ファール!」

 

(まだカウントには余裕がある。倉敷先輩、外れてもいいので……)

 

(一打席目で打たれたやつか……。さっきは中に入っちゃったから外に外すくらいの気持ちで投げるわ)

 

 5球目。倉敷は親指と中指を縫い目にかけるようにし人差し指を浮かせた握りでボールを投げるとストレートと同じ振りで投じられたチェンジアップに秋乃はバランスを崩していた。

 

(要求のアウトローよりほんの少しだけ中に入ったけど高さもコースも悪くない。これなら……)

 

 バランスを崩しながらも踏ん張った秋乃が外低めへと投じられたチェンジアップの軌道にバットを合わせようとしたが、軌道に線で合わせきれずにバットの先で擦るようにしてボールが打ち返された。

 

「ショート!」

 

(丁寧に……丁寧に……)

 

 初回の逢坂のエラーを受けて迂闊なプレーをしないようにしようと注意していた新田は勢いがあまりないゴロを確実に捕球すると丁寧にファーストへと送球した。

 

「……セーフ!」

 

(げっ……!?)

 

 しかし送球が届くより秋乃が一塁を駆け抜ける方が早く判定はセーフとなった。

 

「新田さん」

 

「ひぃ!? ご、ごめん!」

 

「なにをそこまで恐れているのよ……。別に怒るつもりはないわ。反省はして欲しいけれど」

 

「う、うん。反省してる」

 

「必要な時に必要なプレーをするっていうのは、丁寧なプレーばかりをしろということではないわ」

 

「うぅ……わかった」

 

(そっか……。秋乃は左打席で一塁にちょっとだけ近いし、足もめっちゃ速い。今のはリスクあっても急いで処理しなきゃだったんだ)

 

 東雲に注意された新田が今のプレーを鑑みていると有原が右バッターボックスへと入っていった。

 

(まずいわね。倉敷先輩の息が乱れてきているわ。この状況で有原さんを抑えられるかしら……)

 

(私は今まで3番を打つことが多かった。だけどこの試合は4番を任されているんだ。さっきの東雲さんの打席……何かを伝えようとしている気がした。それが私に向けられたものじゃなかったとしても、感じるものがあったよ)

 

 先ほどの東雲の打席を思い返しながら有原が地面をならし終えるとバットが構えられ、プレーが再開された。

 

(やるしかない。もう一度有原さんを……。……!)

 

(……!)

 

 鈴木のサインを受けた倉敷はすぐさまボールを投じた。

 

「……! バック!」

 

(えっ!)

 

 それは投球ではなく送球、もっと正確に表現するならば牽制球であった。やや慌てた様子で一塁ベースにつく塚原にボールが届くと一塁コーチャーの宇喜多の指示で反応した秋乃がベースに飛び込み伸ばした腕にタッチが行われた。

 

「う……アウトっ」

 

 手がベースに触れるより早くタッチが行われて宇喜多が気まずそうにアウトのコールを上げた。

 

(しまったぁ……! リードを広げる時に二塁の方向いちゃった。リード取るときはボール持ってる人見なきゃだったのに)

 

 自分の行動を悔いるように秋乃は頭を抱えるとベンチに戻っていった。

 

(意識してないってほどではなかったけど、まだ注意が甘かったわね。……正直助かったわ。ノーアウト一塁とワンナウトランナー無しとでは大きく変わってくるもの)

 

(……初めて牽制でアウトに出来た。なるほどね……投球だけがピッチャーの仕事じゃないってわけね)

 

(あちゃー……ランナーいなくなっちゃった。でもさっきの東雲さんの打席もダブルプレーでランナーいなくなってからだった。沈んでる場合じゃない!)

 

 気を引き締め直した有原が再びバットを構えると倉敷が振りかぶって投球姿勢に入った。

 

(有原への二打席はどっちもセットポジションからだった。ようやくワインドアップから投げられる)

 

 ストレートが投じられると有原はインハイに投じられたボールを避けるように顔を引いて見送った。

 

「ボール!」

 

(まずはこれで初回のインコース攻めを思い出してもらうわ)

 

(ううー。残像が残るなあ……それでも打つしかないんだ。倉敷先輩が一番自信を持っているボールを)

 

 2球目。倉敷が投じたボールに有原は目を見張った。

 

(チェンジアップ……!)

 

 このボールに有原のバットが止まると真ん中低めやや内寄りに決まり、ストライクとなった。

 

(有原さん相手にまだ完成していないチェンジアップは決め球としては使いづらい。こうしてカウントを稼ぐのを兼ねて見せ球としながら緩急で攻める。次はアウトローに7割のストレートを際どく。これでストライクが取れたらインローに全力ストレートで勝負にいきましょう)

 

 倉敷がサインに頷くと鈴木は静かに動いてアウトローを想定してミットを構える。3球目、倉敷が鈴木のミットを目掛けてボールを投じるとアウトローのベースの角へと向かうような精度でストレートが投じられた。

 

(これだ!)

 

(振ってきた……!)

 

 有原はこのボールに対して一拍置くようにしてバットの始動を溜めると振り出したバットでボールを捉え、腰を回転させるようにして打ち返した。

 

(わっ)

 

 河北が見上げる先を越えていった速い打球がワンバウンドすると逢坂が押し留めるようにしてそのボールを捕球した。

 

「いっ……けー!」

 

「えっ!」

 

 そのまま前に出て逢坂がファーストへと送球すると塚原が慌てて一塁ベースについた。有原が迷わず一塁ベースを駆け抜けると宇喜多から判定が出される。

 

「……セーフ!」

 

(惜しい!)

 

(あ、危なかった……)

 

 危うくライトゴロに取られそうになった有原が少し焦った声色で宇喜多と話している様子を倉敷はじっと見つめる。

 

(今の逢坂の正面に飛んだからライトゴロになりかけたけど、裏を返せばそんだけしっかり捉えられたってことでしょ。少しでも横に逸れてれば間違いなく長打じゃない)

 

「倉敷先輩」

 

「……! ……びっくりしたわ」

 

 いつの間にか鈴木に背後に取られていた倉敷は驚いた表情を見せた。

 

(タイムを取ったのだけれど……耳に入らないくらい気にしていたのかしら)

 

「倉敷先輩、試合が始まる前に確認したこと覚えていますか?」

 

「……有原は単打までで抑えて、他で打ち取れればいいだっけ。でも今の当たりは……」

 

「すいません。狙われていたみたいです。でもコースには来ていました。有原さんほどのバッターが狙っていても長打には出来なかったんです」

 

「……確かにね」

 

「ここからも厳しくコースを突いていきましょう。そうすれば仮に捉えられても長打にはならないと思います。ただ球数は増えてしまうかもしれませんが……」

 

「……分かったわ。球数は増えても構わない。それで抑えられるならいくらでも投げてやるわ」

 

 息が乱れてきている倉敷を見て鈴木は上位打線に対しても甘いボールで誘って打ち取るピッチングに切り替えようか迷っていたが、その言葉を受けて迷いを断ち切っていた。ホームに戻り左打席に入った岩城を見上げながらサインを送ると、倉敷もそのサインに頷く。

 

(体力なんかより点取られる方がよっぽどキツイわ。ランニングで増えたスタミナもそろそろ底が見えてきたし、後は気力との勝負ね)

 

 滴る汗を拭った倉敷は乱れた息など意に介さないようにランナーに意識を向けると、ボールを長く持ってから投球姿勢に入りストレートを投じた。

 

「うおっ……りゃぁ!」

 

(えっ……大根切り!?)

 

 インコース高めに投じられたストレートは見せ球にするべく高めに外されていたが岩城はこのボールに対してバットを地面に叩きつけるようなフルスイングで応じると、バットが右足の横まで振り切られる。すると打ち返された打球がファーストへと向かっていた。

 

(うっ……まずい!)

 

 打球は牽制に備えて一塁に寄っていた塚原の頭上に一直線にライナーで向かっていく。少しリードを取っていた有原はライナーゲッツーを危惧してとっさに一塁ベースへと戻っていく。

 

「なっ!」

 

 するとミットの先で掴むように捕球しにいった塚原のミットが打球の勢いで引っ張られ、頭上にあったミットが背中側へと押し込まれると未だ収まらない打球の勢いを抑えきれずにミットの先からボールが抜け出して後方へと転がっていった。それを確認した有原が慌てて二塁へと向かっていき、体勢を崩した塚原に代わりボールを取りに行った河北が捕球した頃には有原・岩城の両者がベースに到達していた。

 

「申し訳ありません。私が捕れていれば……」

 

「さっきの翼の打球と同じくらい速い打球でしたし、無理もないと思いますよ」

 

「かたじけない……」

 

(2個分は高めに外していたのに振ってくるとは思わなかった。そういえば岩城先輩、地面(地球)を打って金属バットをひしゃげさせたことがあったわね……)

 

(……信じらんない。ボール球をあんな風にヒットにしてくるなんて。ま、でも鈴木の言う通り甘いとこいかなきゃ捉えられても長打にはなりにくいのかもね。アタシは球威が大してない。だからこそコントロールだけは磨いてきた。ストレートだけじゃない。チェンジアップだって最初は浮いてばっかりだった。3回の裏で鈴木が言ってくれた通りそれがアタシの……アタシ達の武器なんだ)

 

 ワンナウト一塁二塁となり右打席に入るのは近藤。地面をならしながら倉敷や相手野手陣の様子を慎重に窺っていた。

 

(外野は定位置。内野は美奈子と河北さんが二塁ベースに寄って、東雲さんが三遊間に寄ってる。これは……ゲッツーシフト。つまり私にゴロを打たせてダブルプレーを狙いたいんだ。倉敷先輩のコントロールなら……低めに投げてくる! サインは……)

 

(カウント次第ではエンドランを仕掛けてもいいけど、ここは好球必打なのだ。ストライクを取りに来るなら打ってやるのだ!)

 

(分かりました! ここは大きいのは狙わないけど、ヒットを打って私の後逸とフィルダースチョイスで取られた一点くらいは返したい!)

 

 宇喜多に代わり一塁コーチャーに入っている阿佐田からのサインを確認した近藤は気合いを入れてバットを構えた。

 

(……倉敷先輩)

 

(アタシはアンタのリードそれなりに分かってきたつもりなんだけど、それでも時折分からない要求があるのよね。まだ何か考えがあるんだろうなってくらいしか感じ取れないけど……)

 

 倉敷が送られたサインに頷くとセットポジションからボールを投げ込んだ。

 

(低め……じゃない!?)

 

 9分割のアウトハイに投じられたストレートに意表を突かれた近藤はバットを振り出せずに見送り、ストライクを取られていた。

 

(いつかその考えを全部分かってあげられる時が来るのか……来させなきゃいけないわよね)

 

(まだ1ストライクだ。惑わされずに低めに絞る……!)

 

 倉敷が再び最初に出されたサインに頷き2球目。投じられたのはアウトハイへのストレートだった。バットが振り出されずに見送られ、捕球音が響いた。

 

「ストライク!」

 

(……は、嵌められた……)

 

(0ボール2ストライク……さすがにエンドランを仕掛けるにはリスクが高すぎるのだ。ここはさっきーに任せるしかないのだ)

 

 フリーのサインを確認した近藤はバットを構え直しながら次に来るボールを予測する。

 

(3球連続アウトハイは考えにくいかな……。対角線のインローか、しつこくアウトコース、低めに来る? でもコントロールの良い倉敷先輩なら一球ボール球を挟んでもいい)

 

 投球姿勢に入った倉敷に大して何が来てもいいように二打席目で見せたコンパクトな構えへと変えて投球に備えた。そして足が踏み出されボールが投じられると勢いの良いストレートがアウトハイへと向かっていった。

 

(3球連続アウトハイ!? ……いや、外れてる!)

 

 このボールに対して振り出そうとした近藤だったが辛うじてバットを止めると高めに外れていたストレートがミットに収まった。

 

「ボール!」

 

(危なかった……。またアウトハイとは思わなかったけど、ボール球を挟んでくる可能性を考えておいて良かった。さっきは全力投球をカットしきれなかったんだよね)

 

(……なるほどね。3球目の全力ストレートで振らせたいのかと思った。それでも良かったんでしょうけど……)

 

 4球目。セットポジションから倉敷がストレートと同じ振りで投じたチェンジアップに近藤はタイミングを外されながら踏ん張るとコンパクトなスイングで応じた。

 

(アタシのチェンジアップは内外はともかく低めにはコントロール出来る。だから高めに目付けをしておきたかったのね。それを目付けだと勘づかれないように……)

 

 振り出されたバットは真ん中低めから少し内に沈むような軌道のチェンジアップの上を叩くと軽い金属音が内野に響いた。

 

(し、しまった……!)

 

 近藤は三遊間に転がっていく打球に焦燥感を覚えながら一塁へと走り出した。

 

「新田さん、任せたわ!」

 

「任された!」

 

 勢いがあまりない打球に突っ込んでいった新田は捕球の寸前にブレーキをかけるとボールをキャッチする瞬間にミットに力を込めて捕球しにいった。

 

(ミットで突かずに捕れた! でもこの体勢で二塁に投げるの難しいかも……)

 

 ミットからボールの感触が伝わった瞬間、新田の脳裏に練習で言われたことがフラッシュバックされていった。

 

「軽い送球で近いセカンドを狙えばある程度余裕を持ってダブルプレーも狙えたと思うわ。そちらに体勢を立て直すのが厳しいと思ったなら、三塁経由のダブルプレーという選択肢もあったわよ」

 

(そっか……!)

 

「東雲、お願い!」

 

 三遊間方向に身体が向いていた新田は二塁への送球を諦め、迷わず三塁ベースについていた東雲に向かって送球を行った。

 

「アウト!」

 

「ふっ!」

 

 三塁ベースにスライディングしてくる有原をかわすように捕球してからすぐ一塁側に踏み込んだ東雲の送球が塚原の構えていたミットに正確に届くと、近藤が一塁ベースを駆け抜け、阿佐田が判定を下した。

 

「……アウトなのだ!」

 

(だ、ダブルプレー……! そんな……)

 

 一塁ベースを駆け抜けた近藤が空を見上げるようにしてショックを受けていると阿佐田に手をかけられてベンチへと戻っていった。

 

「新田さん。そういうことよ」

 

「え……どういうこと?」

 

「必要なプレーを必要な時にすれば良いということの意味よ」

 

「んと……丁寧なプレーばかりすればいいってわけじゃないってことじゃなかったっけ」

 

「そうだけれど。貴女はこれだけ早い判断が要求されるプレーで一々頭で考えて判断出来るのかしら?」

 

「それは……無理じゃん。あれ? じゃあなんで……」

 

「今のプレーは前に指摘を受けて気をつけて練習するようにしていたでしょう。だからとっさに判断することが出来た」

 

「なるほど……」

 

「他のプレーも同じよ。実戦でとっさに必要な判断を出来るようにするには、まずそれを頭に入れた上で練習で身に染み込ませるしかない。それが質の高い練習をするということだわ」

 

(うう……意識高いって言いたいところだけど、皆そのためにここまで必死にやってるんだよね……)

 

「……わかった。気をつけるよー」

 

 6回が終わり最終回を迎える。7回の表の東雲チームの攻撃が始まるところで、阿佐田はボール回しに参加せずに近藤のフォローをしていた。

 

「まだ一回攻撃は残ってるのだ! 最後の攻撃で逆転するにはここで無失点で抑えるのが重要なのだ。ゆっきーを最後までしっかりリードで引っ張ってやるのだ」

 

「……そうですね。ありがとうございます。最終回も精一杯尽くします!」

 

「よく言ったのだ!」

 

(さっきの打席……恐らくすずわかの狙いは最初からダブルプレーだったのだ。高めのボールを見せ球にした上で、追い込んで前の打席でさっきーが見せたコンパクトなバッティングを引き出すのがもう一つの狙い。普段に比べればそれは当てにいくスイング、遅いボールであるチェンジアップに当てにいった先は……。ただそれを今のさっきーに伝えるのはショックを深めるだけなのだ)

 

 阿佐田と近藤が遅れてグラウンドへと出ていくと阿佐田が大声で全体に声をかけた。

 

「最終回! しまっていくのだー!」

 

「あ、阿佐田先輩! それはキャッチャーがやるもので……」

 

「固い固い。ニュージェネレーションベースボールはセカンドが全てこなすのだ!」

 

「そ、そうなんですか?」

 

「野崎さん、騙されないで下さい! 最終回、しまっていきましょう!」

 

「おー!」

 

 7回の表、塚原から始まる攻撃。ここまで空振り三振とセカンドゴロで凡退しており、この打席こそと意気込んで打席に入っていく。

 

(……参りましたね)

 

 1ボール2ストライクから4球目。低めに投じられたストレートに振り出されたバットが空を切るとミットが心地よい捕球音を鳴らした。

 

「ストライク! バッターアウト!」

 

(7回になってもスピードがほとんど落ちないとは……!)

 

 振り遅れて空振り三振となった塚原に代わり打席に入っていくのは鈴木。0ボール1ストライクからの第二球、意を決してパームに絞っていた彼女のバットがボールを弾き返したが芯より下で捉えられた打球はピッチャーへのゴロとなった。野崎は膝を落としてそのボールをすくうように捕ると、その動作が体力的に少しきつく感じながらも秋乃の構えたミットに送球が行われて2アウト目が取られた。

 

(後一人、倉敷先輩にはさっきヒットを打たれて……え?)

 

 野崎はバッターボックスに入った倉敷の立ち位置に驚きを見せた。

 

(さっきすれ違いざまに鈴木にね……。今、ランナーとして出てしまうと完投出来る体力が残らない可能性が高いって。バッターボックスに立つ以上バッターとして仕事したいけど、確かに……その余裕はないわね)

 

 ホームベースから遠く離れるようにバッターボックスギリギリに立ち、力なくバットを構える倉敷に戸惑いながらも野崎はボールを投じる。アウトコースの大雑把なところに3球投じられるとどれも見送られる形になって、3アウト目が取られた。

 

(なるほど……2点差を守りきりにきたのだ。しずちゃんかすずわかが塁に出れば点を取りに来たのかもしれないけど、出なかったから割り切ったっぽいのだ。確かにこっちのチームはここから下位打線だし、合理的な判断ではあるのだ)

 

「……あかねっち。ちょっと来るのだ!」

 

「は、はい。師匠!」

 

 三者凡退によりテンポ良く7回の表が終わり7回の裏の攻撃。先頭打者の宇喜多を呼び出した阿佐田はアドバイスをしていた。

 

「高めのボールを狙うんですか?」

 

「そうなのだ。今のまいまいのスタミナを考えれば一打席目のように打ち取りたいはずなのだ。でも注意しなきゃいけないのはあかねっちの打席では外野を前に出してくることなのだ」

 

「うう……ストレートに合わせるだけだと全然ヒットになる気配がなくて……」

 

「今のあかねっちに高めのボールをゴロにするのはちょっと難しいのだ。だからここはゴロ狙いはすっぱり捨てて思いっきり引っ張ってやるのだ!」

 

「引っ張るってことは……」

 

「外野の頭越えを狙うのだ。今のあかねっちの打球が伸びないのはボールの勢いに押されてるからなのだ」

 

「打て……るかな」

 

「そのために足腰を鍛えているのだ! 土台がしっかりしていれば野球ボールもピンポン球のようにぽーんと飛ばせるようになるのだ!」

 

(そうかな。……でも、一杯練習してきたもん。やれるだけ……やってみようかな)

 

(……まだ自信が無さそうなのだ? ここは温存していたネタで後押ししてやるのだ!)

 

「あかねっちよ、実はお主に隠していたことがあるのだ」

 

「そ、そうなんですか?」

 

「実は例の秘密特訓の末にあかねっちには知らず知らずの間に必殺技が身についているのだ」

 

「ええ!? そうだったんですか……?」

 

「その名も『すぴにんぐたーとる』! 腰の回転で打球を運び、ベースに当てて軌道を変えて、速い打球からあかねっちの飼ってる亀のようにゆっくりとした打球へと変貌を遂げることで相手を翻弄出来る必殺技なのだ!」

 

(弥太郎のことかな。確か師匠窓越しに弥太郎にいたずらしてたことあったし。……あれ、でも……)

 

「師匠。ゴロを打てないから引っ張るって指示なのに、ベースに当てる必殺技なんですか……?」

 

「……あっ」

 

(しまった! 温存してたネタが一つしかなくて、今の状況に全然合ってなかったのだ!)

 

 弟子の指摘に頭を抱える阿佐田だったが、宇喜多が冷静なことに同時に気づくと顔を上げた。

 

「まあ、それは置いといてなのだ。あかねっち、思ったより落ち着いてるのだ」

 

「その……前に逢坂さんに言われたんです。選ばれた人は選ばれなかった人の分まで頑張るものだって。だから茜も、スタメンを目指すからには茜なりに精一杯頑張ろうって。選ばれなくても選ばれた人に託せるものが茜なりに一杯あるって胸を張って言えるように、選ばれたら選ばれなかった人達に託されたものを受け止められるように……」

 

「あかねっち……」

 

「そうして茜に出来ることを少しずつでも重ねて、自信って言えるものが持てた気がして……だから今、落ち着いていられるのかも」

 

(……あおいはとんだ師匠なのだ。あかねっちは自分に自信がないって弱点を少しずつ自分で埋めていたのだ。なら……もう師匠としてあおいが言うべき言葉は一つなのだ)

 

「行ってくるのだ。あかねっち!」

 

「はい!」

 

 宇喜多が先頭打者として右打席に入ると阿佐田の予想通り外野が前へと出てくる。

 

(一度引っ張り損ねたらすずわかに勘づかれてリードを変えられるかもしれない。そうなったらこの作戦はパァなのだ)

 

 倉敷が息を整えると腕を振りかぶりストレートが投じられる。コースはストライクゾーンを9分割で分けたアウトコースの高め。

 

(だから食らわせてやるのだ。乾坤一擲(けんこんいってき)の一撃を!)

 

(これを思いっきり……引っ張る!)

 

 ——キイィィン。宇喜多のバットが振り切られバットの先が背中側まで回ると打球はレフトへと高々と上がっていた。

 

「レフト!」

 

(これは……伸びるぞ)

 

 前に出ていた九十九が打球に反応するとボールからすぐに目を切って走り出した。

 

(ボールに力が乗った感触がある。上手く引っ張れたんだ……!)

 

 一塁ベースへと走り出した宇喜多は手のひらに伝わる感触から狙い通りに行ったことを感じ取っていた。

 

「フェアになります!」

 

 サードの東雲から指示が飛ばされ九十九はこの打球がファールにならないことを知る。

 

(……ここだ!)

 

(……! あの体勢は……)

 

 九十九は目を切っていたボールに視線を戻すと落下地点へと一直線に向かっていたスピードを落とすことなくレフト線に落ちてくる打球に飛びついてミットを伸ばした。

 

「……アウト!」

 

「……! アウト……」

 

 一塁ベースを回ろうとした宇喜多はその判定に驚きというよりはただ呆然とした様子でベンチへと戻ってくる。

 

(今のは逢坂さんの一か八かのプレーとはまた違う。捕れる確証があって飛び込んだ……ここからだとそれが良く見えたわ)

 

 東雲はポケットの位置に収まった九十九の安定したダイビングキャッチに感嘆していた。

 

「あかねっち……」

 

「師匠……悔しいです。九十九先輩を……越えることが出来ませんでした」

 

「あ……」

 

 阿佐田はその言葉を聞いて宇喜多が夏季大会でライトのレギュラーポジションを九十九と争う形でスタメンから外れたことを思い出した。

 

「でも……今やれることは、全部出来たと思います。だから……なんていうのかな」

 

「……良いのだあかねっち。それは無理に言葉にしなくても伝わるのだ」

 

 ヘルメットを脱いだ宇喜多は寂しそうな微笑を浮かべると阿佐田はその頭に手を置いて軽く撫でていた。

 

(あと二人……ここで野崎か)

 

 倉敷は左打席に入る野崎に集中するあまり、思わず鋭い視線を浴びせていた。

 

(可能であれば4巡目に回る前に下位打線で終わらせたい。そのためには今日二本ヒットを打っている野崎さんを抑えないと。明條との練習試合が終わって野崎さんの怪我の様子を確認するために手のひらを触ったけど、凄い硬かった。それだけ素振りをしている証拠……)

 

 アウトコース低め、ボール一個分外に外したストレートを要求する鈴木だったが倉敷は首を振った。

 

(初球、チェンジアップで虚を突きたいのかしら)

 

 そのサインにも倉敷は首を振ると次に出されたサインに倉敷は頷いた。

 

(アタシは父親も母親も嘘をついているのが嫌で、大人になるために嘘をつかなきゃいけないなら大人になんてならなくていいと思ってた。けど……アタシはそんな事情を盾にして、自分に対して大きな嘘を一つつき続けていたのかもしれない)

 

 振りかぶると野崎と共にドッチボールのチームを組んでいた小学生時代が脳裏に走りながら、想いをぶつけるようにストレートが投じられた。膝下へと向かっていくストレートに野崎は思わずバットを止める。

 

「……ストライク!」

 

(この体力がきつい最終盤で全力投球は続けられない。次は7割で……)

 

 鈴木が送った7割投球のサインに対して倉敷は首を横に振る。

 

(……倉敷先輩は全力投球で勝負したいんだ。野崎さんに対して気持ちが入り過ぎている……。どうする……一度タイムを取って落ち着かせる?)

 

 鈴木は逡巡の末に再び倉敷に対してサインを送ると倉敷は力強く頷いた。

 

(今タイムを取ってしまえば折角気力で持っているスタミナが途絶えてしまうかもしれない。ここは倉敷先輩の要望に添えつつ、コントロールも捨てずに勝負する)

 

(アタシはチームスポーツが好きだ。個人スポーツはアタシには合わなかった。誰かを引っ張ってやってくのが、自分のモチベーションにも繋がっていたし、なにより誰かに頼られるのが好きだった。なのに……私は嘘をつくようになった。一人でいることは別に嫌いじゃない。ただ頼られることも嫌いだと嘘をつくようになった。野崎に野球部に誘われた時も嬉しかったのに、なにかと煩わしいことがあったらその嘘を貫こうとしてしまった)

 

 2球目。アウトハイにストレートが投じられると野崎も応じるようにバットを振り切った。

 

「ファール!」

 

(しまった。少し外に外れていました……)

 

 レフト方向へ飛んだ打球が大きく左に切れていくのを見ながらバットから伝わった感触で野崎は今のがわずかに外れていたことを感じ取った。

 

(いつもならボール球を混ぜたいところだけれど……そんな余裕はなさそうね)

 

 息が目に見えて荒くなっている倉敷を見ながら鈴木がサインを送ると、それに倉敷は頷いた。

 

(九十九のお陰で野球部に入って、アタシは自分の居場所を見つけた。誰にも譲りたくないくらいのとっておきの場所を……)

 

 3球目。倉敷の足が踏み込まれるとリリースするギリギリまで指先で触れるようにされたストレートが今投じられた。

 

(3球目も速球ですか……!?)

 

 インハイに投じられたストレートに野崎は意表を突かれながらバットを振り出す。

 

「ストライク! バッターアウト!」

 

(エース(ここ)がアタシのポジション(居場所)だ! 悪いけど……野崎、アンタにも譲れないわ)

 

 インハイの際どいコースに投じられたストレートに反応が遅れた野崎は振り遅れる形でこのストレートを空振っていた。

 

(最後は野崎さんを力で抑えたか……)

 

「倉敷先輩、ナイスピッチです! あとアウト一つ取りましょう!」

 

 鈴木が声をかけながらボールを投げ渡すと倉敷の後ろからも声援が上がる。しかし倉敷は反応する余裕は残っていなかった。

 

(野崎さんに力を入れ過ぎたわね……。まだここから崩れる可能性は残っているわ。けど……そうはさせない)

 

(低め……だけでいいの?)

 

(疲弊した倉敷先輩に難しいコントロールを要求するよりは、ここはとにかく低めに集めるのが最善。苦しいでしょうが踏ん張ってください)

 

(分かったわ)

 

 7回の裏2アウトランナー無し右打席には緊張した表情の初瀬が入っていく。その初球、真ん中低めにストレートが投じられると初瀬はバットを振り出せず見送った。

 

「ストライク!」

 

「初瀬ー! 打つにゃー!」

 

「は、はい!」

 

(今……凄いバットが重く感じて振り出せなかった。これはもしかしたら最後のバッターになるかもしれない場面。そう考えるとこのバットはあまりにも重すぎる。それでも振らなきゃ……)

 

 中野から声をかけられ気合いを入れ直した初瀬。続く第二球、今度はアウトコースに寄った低めのストレートに初瀬はぎこちなくバットを振り出すと、ミート出来ずに空振ってしまう。

 

「ストライク!」

 

(清城との練習試合が終わった後のミーティングで東雲さんに心構えの話をされました。試合に出る心構えは私なりにしてきたつもりですが、私は……最後のバッターになるかもしれないと考えたことはありませんでした。そういう意味では心構えは足りなかったのかもしれません)

 

(初瀬……諦めちゃダメにゃ。今の倉敷パイセンのストレートは普段より球威も球速も落ちてるにゃ。決して打ち返せないボールじゃないにゃ!)

 

 3球目。倉敷が振りかぶり右足が踏み出されるとインコースに寄った低めのストレートが投じられた。

 

(それでも私は皆さんに支えられてここまで来れました。支えられてもらった分、私も皆さんを支えられるようになりたくて……!)

 

 バッターボックスの一番後ろで構えていた初瀬は思い切って素振りでやっているようにバットを振り切った。すると手にバントの特訓でしか感じたことのない芯の感触を覚えた。今までヒッティングで鈍い感触しか感じたことのない初瀬はその感触に爽快さを覚える。

 

(捕れるっ!)

 

(東雲さん……!?)

 

 放たれた打球は三遊間に転がり、初瀬も一塁へと走り出す。球威の落ちた倉敷のストレートを振り切って弾き返した打球は十分な勢いを持って転がっていくと、その打球に東雲はダイビングキャッチで飛びついていた。

 

「東雲、ボールを……」

 

「平気よ。任せて!」

 

 ダイビングキャッチで飛びついた東雲はその体勢のまま着地はせず、左膝から地面に落ちて胸が地面に叩きつけられないように浮かすと、左足を伸ばして立ち上がり、すぐさまファーストへと送球を行った。

 

「アウト!」

 

 初瀬が一塁ベースを走り抜けるより早く東雲の送球が塚原のミットに届き、3アウト目が成立した。それは紛れもなく試合終了(ゲームセット)の瞬間だった。試合が終わり両チームの選手が向かい合うように並ぶと3-1で紅組の東雲チームの勝利が掛橋によって宣言される。

 

「両チーム、礼!」

 

「「ありがとうございました!!」」

 

 紅白戦が終了し、張り詰めていた緊張感が解けていくと急に疲労がどっと皆に押し寄せてきた様子だった。

 

「倉敷さん、大丈夫かい?」

 

「悪いけど……休ませて」

 

 特に疲れが溜まった様子の倉敷に九十九が肩を貸すと一度ベンチで休ませようと倉敷の歩幅に合わせて歩いていく。すると九十九は倉敷が充実した笑顔を浮かべたのに気づき、口角を上げるのだった。

 



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選ばれても、選ばれなくても

「有原さん、東雲さん。お疲れ様」

 

 紅白戦が行われた日の夕方。ほとんどの部員が帰路につく中、有原と東雲は部室に残り秋大会のスタメンを決めるべく話し合っていた。そこにノックと共に掛橋が入ってくると労いの言葉を二人にかけた。

 

「先生こそ、今日は球審ありがとうございました!」

 

「おかげでスムーズに試合を進行することが出来ました。ありがとうございます」

 

「良いのよ。また試合する時は言ってね。それでこれを拡大コピーしてきたんだけど……いるかしら?」

 

「あ、いいですね! ホワイトボードに貼りましょう!」

 

 そう言って掛橋が取り出したのは今日発表された秋季大会のトーナメント表だった。それを受け取った有原は『全国大会まであと一週間!』と書かれたホワイトボードにマグネットを使って貼り付けていた。

 

「私たちはえーと、いちにぃ……」

 

「……左から8番目よ」

 

「そうだった!」

 

 一つずつ指差しながら自分たちの高校を探す有原に対し把握していた東雲が呆れ気味に指摘すると、有原は思い出したように『里ヶ浜高等学校』と書かれた場所を見つけ、赤色のマーカーペンを取り出していた。

 

(先ほど初日は午前と午後で2試合ずつ試合が行われるから、第4試合の私たちも初日からの試合になるという確認をしたのだけれど……どこか抜けているのよね)

 

 不安そうな眼差しで見つめる東雲をよそに有原は上機嫌に自分たちの高校を起点としてトーナメント表に沿って一回戦の相手と当たるところまでマーカーで一つの線を書いていた。

 

「勝つたびにこれが上に、上にって伸びていくと凄くこう……(みなぎ)ってくるんだよねー」

 

「貴女がシニアで全国優勝した時、その感慨も一入(ひとしお)だったのでしょうね」

 

「うん!」

 

(……私はシニアでは結局良いところまでは行っても、優勝という(いただき)に立つことはできなかった。けれど……)

 

 トーナメント表の頂点を見ながら苦汁をなめたシニア時代を思い出した東雲はその鋭い眼差しを両手を胸の前で構えている有原に向ける。

 

「有原さん。夏大会での敗戦を忘れていないわよね」

 

「もちろん」

 

「新設野球部での一回戦突破、確かにそこに至るまでの道は決して楽なものではなかったわ。けれど私は掲げた目標に妥協を図るつもりはない」

 

「私もだよ。どれだけ険しい道でも目指すは……優勝!」

 

 鋭い視線を向ける東雲の目を有原は真っ直ぐ見返す。そして互いに力強く頷くとやる気に満ちた様子で再びスタメン選考へと戻っていく。そんな二人の姿に掛橋は微笑みながら静かに部室の扉を閉めたのだった。

 

 それから時が流れ翌日の月曜日。ミーティングのために部室に集まった河北と野崎はホワイトボードに貼られた組み合わせを見て同時に驚いていた。

 

「えっ……神宮寺さん、また開幕試合なの!?」

 

「相手は……向月高校。高坂さんのところですか……!?」

 

 河北が指導してもらっている神宮寺率いる清城高校と野崎が指導してもらっている高坂率いる向月高校が開幕試合の組み合わせであったことに二人は驚きを隠せない様子だった。

 

「いやー、私たちがまた開幕試合だったら良いなって話してたら清城の文字が一番最初に見えて凄いびっくりしたよ」

 

 先に部室についてスタメン発表の準備を進めていた有原と東雲がその声に反応するように振り向いた。

 

「驚くのはまだ早いわ。第二試合の組み合わせはさきがけ女子高校と夏大会で優勝した界皇高校よ」

 

「う……準優勝と優勝高校がここに集まってしまったんですね」

 

「そうね。ただ去年秋大会で優勝した帝陽学園やそこに匹敵する実力を持っていると言われる小河原(おがわら)高校は逆のトーナメントに配置されているし、そこまで強豪校が一方に集中している印象は受けないわ」

 

(とはいえ多少の偏りはあるけどね……32チームでのトーナメントではそういったことがあるのも珍しくはないけど、その僅かな組み合わせの差が勝ち抜くにつれて影響することは十分に考えられる)

 

 やがて他の部員も集まってくると全部で17人の部員が部室に集まり、話したりトーナメント表を見るなどしてミーティングが始まるのを待っていた。

 

(あれ? 第三試合に明條いるじゃない。相手は……聞いたことない名前ね。てことは一回戦お互い勝ち抜ければ……!)

 

「みんな集合! 今から大会に向けた先発メンバーを発表します」

 

 逢坂がトーナメント表を見ていると発せられた有原の言葉に談笑していた部員が静まっていき、スタメンに入れたかどうかという不安が緊張として皆に走っていった。

 

「私たちの一回戦の相手は高波高校よ。昨日トーナメント表が発表されたばかりだから詳細なデータは集まっていないけど、今までの傾向から高い得点圏打率を誇る中条明菜さんを中心とした勝負強い打線が持ち味ね」

 

「話し合って決めたレギュラーポジションのメンバーで一回戦は挑むことにしました。後ほど掛橋先生から大会用の背番号を渡してもらいます」

 

(ということはスタメンに呼ばれた人は……背番号一桁ってことだね)

 

 河北が固唾を飲んで有原を見つめているとついにスタメンが発表された。

 

「一番ライト、九十九伽奈」

 

「はい」

 

(……! う……やっぱり)

 

 短く返事をする九十九を見ながら宇喜多は紅白戦での最後の打席で打球を捕られたときに覚えた感覚が蘇っていた。

 

(でも……師匠の助けもあってやれることはやれたもん。悔しいけど……九十九先輩になら茜の分も託せるかな)

 

「ちょ、ちょっと待って翼ちゃん! アタシは!?」

 

「……!」

 

 そこに明らかに納得が行っていない様子の逢坂がスタメン発表に割り込んでくる。有原は一瞬ビクッと身体を震わせたが、逢坂の方に振り向くと真っ直ぐ目を見つめながら返事を返した。

 

「逢坂さんは打撃力は九十九先輩にも勝るとも劣らないものを見せてくれました。ただ守備の不安定さが抜けてなくて一発勝負の大会だと不安が残るので、今回は九十九先輩を選びました」

 

「う……」

 

 真っ直ぐとスタメンを外れた理由を伝えられた逢坂はそれ以上文句を言うことはせずに乗り出した身を後ろに下げていった。

 

(確かに後ろに逸らしたのはまずかったかもだけど……。伽奈先輩か……。頭も良くて、可愛さはアタシの方が上だけど美人で野球部と並行して生徒会にも入ってて……大黒谷もこんな感じだったのかな)

 

 表情に大きな変化が見られない九十九を遠慮なく見つめながら逢坂は自分の中から感情が湧き上がってくるのを感じていた。

 

(いつもあらゆる事に勝ってきた、そんな人に負けるのが……とてつもなく悔しい)

 

 逢坂がその感情の正体に気付いている間にもスタメンの発表は続けられていく。

 

「2番セカンド、阿佐田あおい」

 

「……! はい、なのだ」

 

(……追いつかなかった、か。あの背中に……)

 

「……ごめん、翼。私にもスタメンを外れた理由を教えてもらってもいいかな。何が足りなかったのか、次のためにも知りたいんだ」

 

(ともっち……)

 

「分かった。河北さんは打撃においては阿佐田先輩とはまた違った強みを見せてくれたのでどちらをスタメンに抜擢するか私たちも悩みました。ただ、守備範囲の僅かな差や送球の身のこなしを評価して今回は阿佐田先輩を選びました」

 

「そっか。……ありがとう」

 

(……正直、あおいも呼ばれるまで不安だったのだ。捻挫から復帰して練習を再開していても背中に常に迫られているような感覚があったのだ。……もし、あの時九十九が気付いてくれなくて今も捻挫を隠し通していたら……)

 

(……先ほどからやけに視線を感じるな)

 

 九十九が三方向からの視線を感じているとスタメン発表が進められていく。

 

「3番ショートは私、有原翼です」

 

(……そっかー。そうだよね)

 

 新田は発表される前にある程度こうなることを覚悟はしていた。しかしその言葉を聞いた瞬間、少なからず落ち込むものを感じていた。

 

「4番サード、東雲龍」

 

「はい」

 

(鈴木さんのアドバイスで苦手だった打撃も少しずつ出来るようになってきた今だからこそ、東雲さんの凄さというのが分かってきた気がします。打撃はもちろん……自信がついてきた守備もまだまだだってことも。もっと頑張っていつかは東雲さんのように皆を支えられるようになるんだ)

 

「5番レフト、岩城良美」

 

「おう!」

 

「6番センター……」

 

 呼ぶ選手の方を度々向くようにして発表していた有原。その身体が岩城の方から次に呼ぶ選手へと向けられた。

 

「永井加奈子」

 

「……えっ。……あっ、は、はい!」

 

 静寂を保つようにして聞いていた部員が大きくどよめく。夏大会ではスタメンを張っていた中野がスタメンを外れたことに皆が動揺する中、そのざわめきを鎮めたのは中野自身だった。

 

「騒ぎすぎにゃ。永井は持ち前の長打力に加えて、入部した頃は酷かった守備も今では大分良くなったにゃ。その証拠に回り込みすぎる癖も紅白戦では直ってたしにゃ」

 

「中野さん……その……」

 

「何を遠慮してるんだにゃ。ほれ、選ばれたからには堂々とするにゃ。それがスタメンに選ばれた者の務めだにゃ」

 

「……!」

 

(そっか……ここで遠慮しちゃう方が失礼だよね)

 

「は、はいっ! 分かりました……!」

 

 動揺する者の中には選ばれた永井自身も含まれていた。そんな永井を中野は鼓舞すると、それを受けた永井はまだ動揺はしていたがせめて表面だけでも堂々としようと力強く返事をしていた。

 

(……それともう一つ。ワタシは1ヶ月以上前から打撃の調子を崩していたにゃ。似たように調子を崩していた東雲はしっかりと大会前に調子を戻したのに、ワタシは結局気が逸るばかりで……。そこをどうにか出来なかった以上、今“スタメン”に選ばれても多分ワタシ自身納得が出来なかっただろうにゃ)

 

 中野の毅然とした態度にざわめきが収まっていくとスタメンの発表が続けられていく。

 

「7番ファースト、野崎夕姫」

 

「……はいっ」

 

(うー、牽制でアウトになっちゃったのがダメだったかな……もっと気をつけるようにしなきゃだ)

 

「野崎さんは今ピッチャーとしての練習が中心ですが、ベンチに置いておくにはもったいないバッティングの成績を残していたのでファーストでの起用になりました。ただリリーフとして投げることも考えて打順は下位でということになります」

 

「なるほど……分かりました」

 

(野崎さん……)

 

 野崎がレギュラーポジションとしてエースとしてではなくファーストとしてのスタメン起用になったことに近藤が悔しさを覚えていると続けて発表されたのはキャッチャーのレギュラーポジションだった。

 

「8番キャッチャー、鈴木和香」

 

「はい!」

 

(……良かった。勝つためのオーダーで私をキャッチャーとして評価してもらえた)

 

(……紅白戦で相手として向かい合って、如実にその差を感じさせられた。私は……悔しいけど、まだまだ知識不足だ。でも野崎さんは……)

 

「9番ピッチャー、倉敷舞子」

 

(ここだけは譲りたくなかった。エースとして頼ってくれるなら、アタシはその期待に応えてみせる!)

 

「……はい!」

 

「一塁コーチャーは宇喜多さんに、三塁コーチャーは河北さんにお願いします」

 

「うん!」

 

「分かったよ」

 

「これでスタメン発表は終了です。何か質問はありますか?」

 

「はいにゃ」

 

「どうぞ」

 

「高波高校のデータが足りないなら偵察に行ってこようかにゃ?」

 

「中野さん……。お願いします」

 

「了解したにゃー」

 

 ミーティングが終了し、背番号を手渡された部員たちが練習のためにジャージに着替えていく中、中野だけは偵察用に装備を整えていた。

 

「あの……中野さん」

 

「ん? どうしたのにゃ?」

 

「その……聞きづらいのですが。どうしてそこまで切り替えられるのかなって……」

 

「んー。ま、そりゃワタシもワタシなりに練習してきたからにゃ。悔しいってのが正直なところにゃ。けど……夏大会で河北と宇喜多がスタメン外れても腐らず頑張ってるのを見てきたからにゃ」

 

 夏大会時点で11人になっていた里ヶ浜高校女子硬式野球部。9人がスタメンに選ばれる中、宇喜多と河北はベンチ入りしていた。それでも奮起する二人を見て中野は学んだことがあった。

 

「スタメンはもちろんその試合の中心なんだにゃ。けどベンチにはベンチの役割があるんだにゃ。どっちの役割も勝つためには大事なことなんだにゃ」

 

「あ……」

 

 初瀬はその言葉に清城との練習試合でスタメンに選ばれなかった者も出番がある可能性があると言われていたが、心構えを作れておらずエラーをしてしまったことを思い出していた。

 

「じゃ、行ってくるにゃー」

 

(ベンチは、ただ座って試合を見守るだけじゃないんだ……)

 

 準備を終えた中野が立ち上がって部室から出て行くと初瀬は決心して二人に話しかけた。

 

「河北さん、宇喜多さん」

 

「初瀬さん」

 

「どうしたの?」

 

「あの、私もコーチャーの勉強をしたくて……」

 

「いいよっ。じゃあまずはハンドサインの確認からね」

 

 初瀬の要望を二人は快く引き受けるとひまわりグラウンドに向かう間もコーチャーとしての経験を生かして教えていた。

 

(コーチャーって、色んなことに気を配らなきゃいけないんだ。それに瞬時の判断力も大事で……)

 

 初瀬は熱心にその教えを聞きながら、この短い時間では全てを聞ききれない奥深さも感じ取り、この後も度々二人に教えを請いに行くのだった。

 

「野崎さん……ごめんなさい。私のせいで……」

 

「近藤さん? どうして謝るんですか……?」

 

 練習が始まってしばらくの時間が流れ、バッティング練習が行われると意を決したように近藤が野崎に話しかけていた。

 

「私の実力が足りないせいで、あなたの評価まで落としてしまったから……」

 

「……そんなことを言わないで下さい。私はあなたと組めて、今までで最高のピッチングが出来たと思っているんです」

 

「え……そうなんですか?」

 

 途端に悲しげな表情を浮かべる野崎に近藤は思わず罪悪感を覚えていた。

 

「はい。特に紅白戦は今の私に出来る全てを出しきれたと思っています。それを引き出してくれたのは間違いなくあなたですよ」

 

「でも……私はエラーであなたの足を引っ張ってしまいました。あれがなければ、失点は2で済んだ。本来はあなたと倉敷先輩の失点の差は1で済んだはずなんです」

 

「……近藤さん、自責点って知っていますか?」

 

「それは……なんですか?」

 

「失点とは別に投手自身が取られた点を示すもののようです。還ったランナーがエラーによるものであれば失点にはなりますが、自責点には含まれないということみたいです。東雲さんや翼さんはそこも考慮していると思います」

 

「なるほど……。それなら野崎さんの自責点は2になるんですね」

 

「はい。そして倉敷先輩の自責点は……0になると思います」

 

「え……あっ。逢坂さんのエラー……」

 

「そうです。本来あれは単打でした。それがエラーで一つ進んで、翼さんの単打で還りました。その後の岩城先輩を空振り三振に取っているので、もしエラーが無ければ点は入りませんでした。失点でも自責点でも私と倉敷先輩は2点分の差があった……あの試合で私は今の倉敷先輩とそれだけはっきりした差を感じました」

 

 近藤から見た野崎の表情は悔しさを滲ませながらも同時に笑っているようにも感じられた。

 

「でもきっとそれは倉敷先輩に憧れたままじゃ分かりませんでした。向かい合って全力を尽くして戦えたから、先輩が今どれだけ遠くにいるのかも分かったんです。そして全力を尽くすためにあなたも全力を以って支えてくれた……それが私にとって一番嬉しいことだったんです。だから……謝らないで下さい」

 

(……そうか。私が謝るってことは、今までやってきたことを否定することになるんだ。それは……凄く失礼なことだ)

 

「そう……ですね。あれが現時点での私の……私たちの全力だった。それを認めないと前には進めませんよね」

 

「はい!」

 

 野崎の言葉を受け止めた近藤は申し訳なさそうに下げていた顔を前を向くようにして上げたのだった。

 その夜、野崎は高架下でバットを振っていると聞き慣れた足音が上から聞こえてきた。

 

「高坂さん。今日は遅かったですね」

 

 いつも来る時間より一時間以上は遅れて高坂は高架下へと降りてくる。

 

「別に待ち合わせしてるわけじゃないのよ」

 

「そうですね。……でも来てくれました」

 

「……ふん。ま、ここに来るのはきっとこれで最後だからね。お別れの挨拶くらいしとこうかと思っただけよぉ」

 

「え……何故ですか?」

 

「理由まで説明してやる義理はないわねぇ」

 

「そうですが……あ、でしたらこの後空いていますか? あそこの喫茶店のティラミス美味しいんですよ」

 

「……本当に美味しい?」

 

「はい!」

 

「………ま、今日は先に用事済ませてきてんのよ。ご馳走になるわ」

 

「あ……はい! それでしたらすぐに片付けますね」

 

 素振りで流れるようにかいた汗をタオルで丁寧に拭き取った野崎はバットをケースにしまうと先導して坂を上って行き、高坂を喫茶店へと案内した。

 

「中はこうなってんのね……」

 

「高坂さんは普段こういった場所には行かれないんですか?」

 

「行かないわ。野球に関係ないでしょ」

 

(ず、随分ストイックですね……)

 

「こういうのって先に頼んで座るんじゃないの?」

 

「そういった場所もありますが、ここは店員さんが注文を聞きに来てくれますよ」

 

「ふーん……」

 

 そんなやり取りを挟んで二人は席につくと野崎は慣れたようにティラミスをオーダーした。

 

「アンタさぁ……もしかしてここで練習してるのって、練習後にティラミスを食べるためじゃないでしょうねぇ」

 

「うっ! そ、それは……その、ご褒美として……」

 

「なによ。図星じゃない」

 

「はい……おっしゃる通りです。初めて食べた時の感動が忘れられず……」

 

(大げさねぇ……)

 

 するとティラミスが運ばれてきて野崎と高坂の前に一つずつ置かれていく。

 

「………食べないの?」

 

「まずは高坂さんが食べた感想を聞かせて下さい」

 

「アタシ、不味かったら不味いって遠慮なく言うわよ」

 

 そう言うと高坂は直方体のティラミスの角をフォークで切るようにしてすくうと口に運んでいった。

 

(お口に合うでしょうか……?)

 

 緊張した面持ちで野崎が一連の動作を見守っていると高坂は口元についたパウダーを紙ナプキンで拭い、こう言った。

 

「……美味いわね」

 

 表情がほとんど変わらない高坂からその一言がこぼれた瞬間、不安げだった野崎の表情がぱあっと花開くように満面の笑みへと変わっていった。安心した野崎がティラミスを一口頬張ると美味さを噛みしめるように目を細くしていた。

 

(……顔によく出る子ねぇ。予想外のサイン出されたら顔に出るんじゃないの)

 

 そんな野崎を見て高坂は投手としての心配事を思い浮かべているとやがて話題は秋大会のトーナメントへと移っていった。

 

「それにしても今回はトーナメントの発表が早くて驚きました。以前は前日での発表だった覚えが……」

 

「遅いくらいよ」

 

「えっ」

 

「夏大会の発表が前日だったのはギリギリで大会に登録した高校がいて、予定変更に時間がかかったとか言われてるけど……」

 

(それってもしかして里ヶ浜(私たち)のことでは……)

 

「ま、運営を任された以上そんなのは言い訳よね。大会は情報戦なのに、前日は遅すぎるわ。向月(うち)も苦情送ったけど多分他からも苦情来たんでしょうね」

 

「そうだったんですね……」

 

(そういえば中野さんが偵察に行ってくれていますが、前日発表だと宿舎入りしているのでそれは出来ないですね……)

 

 トーナメントの発表が以前より早かったことの裏を知った野崎が驚いているとティラミスを食べ終えた高坂が携帯端末からトーナメント表を見直し、呟くように話しかけた。

 

「アンタ達と戦うとすれば……三回戦ね」

 

「はい! 是非、大会で戦いたいですね」

 

「アンタ達が負けなければ戦えるわよ」

 

「えっ!? 一回戦は清城ですし、二回戦は恐らくですが……夏大会を優勝した界皇高校ですよ。高坂さんが夏大会でも注目していた……」

 

「夏は夏よ。清城は打撃陣が薄いわ。アレじゃアタシは打ち崩せない。界皇も三年の藤原が引退した今となっては分はこちらにあるわぁ。それに……」

 

 まだ半分ほどしか食べ終えていない野崎をよそに高坂は立ち上がった。

 

「アタシは“負ける”なんてこと試合が始まる前に考えたこともない。……じゃあね。ティラミス、思ったより美味しかったわ。アンタ達が勝ち残って三回戦で会えるといいわね。そうしたら試合で見せつけてあげるわ。名門向月の実力を……ね」

 

「……わ、分かりました。私も、皆さんと力を合わせて勝ち残ってみせます」

 

 その言葉に高坂は微笑を浮かべると遠慮なく喫茶店の外へと出ていってしまった。

 

(私たちも負けるつもりで試合に挑んだことはないですが、どうしても不安で、よぎってしまう。そんな負けを考えたこともないなんて……どれだけの練習を積み重ねれば、それだけの自信を得られるのでしょうか……)

 

 高坂の圧倒的な自信を前に気圧されそうになる野崎だったが自分たちの積み上げてきたことを思い返すとティラミスを頬張りながら気合いを入れ直したのだった。

 

 そして翌日。この日は祝日で授業は無く休日練習が行われる日だった。

 

「ピンポーン、なのだー」

 

 亀の弥太郎は窓越しに猫のように手首を曲げる阿佐田に対抗するようにのそのそと腕を伸ばしていた。

 

「師匠。お待たせしました。あ、また弥太郎にいたずらしてる……眠いみたいなので、あまりちょっかいかけないで下さい〜」

 

「すまなかったのだ。つい、あおいの中の闘争本能が反応してしまうのだ」

 

「もう……行きましょう」

 

 宇喜多宅に集まった二人は早速猫を追うようにして走り出した。

 

「猫ちゃん。今日はあまり寄り道なしでお願いするのだ。大会に向けての練習があるのだ」

 

「にゃー」

 

(伝わってるのかな……?)

 

 阿佐田の要求が伝わったのかやがて二人は普段よりは遠回りせずにひまわりグラウンドへと向かう河川敷へと差し掛かっていた。しかしここで猫が急な方向転換を見せると、その後ろを二人は追っていった。

 

「はぁっ、はあっ……」

 

「ふっ、ふっ……もー、猫ちゃんは気まぐれなのだ。……ん?」

 

 すると草むらを抜けた先に猫の集団がおり、阿佐田はその中心に一人の黒髪の女性がいることに気がついた。

 

「こんなところで何してるのだ?」

 

「んー? 猫ちゃんをムギュムギュって……ああっ! もうこんな時間!? それにここどこ……!?」

 

 猫を夢中になって抱きしめていた女性は急に立ち上がると猫たちもびっくりしたのか四方に散っていく。すると彼女は慌てた様子で身長がほとんど同じ二人に詰め寄るように質問した。

 

「わ、悪いんだけど……ひまわりグラウンドってどこにあるか知らない? 翼とはぐれちゃって……」

 

「えっ。私たちのグラウンドに用があるんですか?」

 

「それに翼って……キャプテンのことなのだ?」

 

「し、知ってるの? 良かったー。可愛い猫ちゃんを見つけて夢中になってたら、いつの間にかこうなってて……」

 

 彼女は安心したように一息つくとようやく落ち着き、その緑色の瞳で二人を見つめた。

 

「えーと……それで二人はどなたなのかな?」

 

(絶対にこっちの質問なのだ……)

 

(絶対にこっちの質問だよぉ……)

 

「あおい達は里ヶ浜女子硬式野球部の部員なのだ」

 

「グラウンドは河川敷に戻って真っ直ぐ進めば見つかるよぉ〜」

 

「ありがとう! 名も知らない野球部員達! この恩は忘れないよ!」

 

 そう言うと彼女は急いだ様子で阿佐田とすれ違い、髪に結んだ緑色のリボンを揺らしながら河川敷に戻っていく。

 

「ちょっと待つのだ! あおい達も行くから……って行っちゃったのだ。追いかけるのだ、あかねっち!」

 

「は、はい!」

 

 正体が気になる二人も急いで河川敷に戻って走り出す。しかし、その差は開いていくばかりだった。

 

((は、速い……!))

 

 声を上げても既に届かず、彼女は先にグラウンドにたどり着いていた。そこには既に部員がほとんど来ており、その中の一人が彼女を見ると少し怒った様子で話しかけてきた。

 

「もー、ゆいさん。さっきグラウンドまで来た翼に聞いて探しにいくところだったんですよ」

 

「やー、ごめんごめん。間に合ったから許して〜」

 

「もう……」

 

「翼はどこにいるの?」

 

「みささんに弁当を届けに行きました。持っていくものを間違えたみたいで……」

 

「にゃはは。みさちゃん、またやっちゃったんだ」

 

「河北さん。そちらは?」

 

「あ、東雲さん。ほらこの前話していたサウスポーだよ。お願いしたら来てくれたんだ」

 

 そしてようやく阿佐田と宇喜多が追いつく。

 

「どうも。翼がお世話になってます。姉の有原ゆいです!」

 

「「ええっ!?」」

 

 翼に姉がいたことを知らない河北以外の皆はその言葉に大きく驚いていた。

 

「私はちょっと抜けてるかもだけど、翼は三姉妹の中で一番しっかりしてるから、安心して頼ってあげてね」

 

(有原さんが……一番しっかりしている……?)

 

「りょー!?」

 

 今までの抜けた行動が頭によぎり思わず足元がふらついた東雲を秋乃が支えた。

 

「前に言っていたサウスポーの対策のために来てくれたんだよ」

 

「帰ってくるタイミングだったからちょうど良かったんだ! 今日はよろしくねー」

 

 急な登場に驚いた皆だったが事情が分かったことでようやく落ち着くとゆいを迎えて練習が始められたのだった。

 

 秋になり、河川敷に楓が紅葉した大きく立派な一つの木が生えていた。その影になる場所で落ちてきた一枚の楓の葉を摘むように掴んだ少女は腕を伸ばしてその先を見つめる。

 

「おーい。置いてっちゃうよー」

 

 集団の後ろ側でネットに入れたサッカーボールを軽く蹴るようにして遊びながら歩いていた少女が隣にいた少女が大きく後ろにいることに気づくと呼びかけていた。

 

「今行くよー」

 

「はやくねー」

 

 彼女はその呼び声に短く答える。しかしその目は自分を呼んだ少女でも手にした楓でもなく、ひまわりグラウンドに向いていた。ゆいの左手の指先からストレートが放たれると野崎は大きく振り遅れ、さらにボールの下を振ってしまっていた。

 

(あれがじゅり姉とバッテリーを組んでいた有原ゆい……)

 

「化け物じゃん。……あはっ」

 

 すると彼女は楓の葉をグラウンドの方に向けて放り、ひらひらと落ちていく葉をよそに呼び声に応えて小走りで列に戻っていった。少女は隣に戻ってきた彼女の表情を見て安堵に近い感情を覚える。それは彼女が八重歯を覗かせて朗らかな笑顔を浮かべていたからだった。




プライベートがごちゃごちゃして来たので来週はスキップで、次の更新は2週間後でお願いします。


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第2章 あの時した選択
偽り者の本音と正直者の嘘


 時は遡り9月。左右に一つずつ白いリボンを茶鼠色の長髪に結んでいる少女——椎名ゆかりは中野が書いた校内新聞を読んでいた。

 

(『里ヶ浜惜しくも全国大会二回戦で敗れる!』かぁ……)

 

 ゆかりはその記事を読み進めていく。やがて彼女がその記事を読み終えると別の場所に貼られた同じ記事を読んだ生徒達の声が聞こえてくる。

 

「二回戦まで行ったのね」

 

「出来たばかりなのに凄いですね」

 

「このユニフォーム天草が考えたんだっけ?」

 

「そうだよお。自信作!」

 

 野球同好会の頃にユニフォームのデザイン案を出した天草(あまくさ)琴音(ことね)が腰に右手を添えて自分に向けた左手をVの字にし、嬉しそうに自信ありげな笑みを浮かべていた。しかしゆかりの顔はそちらを向くことはなく、ただ記事のある一点を見つめていた。

 

(キャプテン、有原翼……。あたしのお姉ちゃんの友達の妹。シニアでも活躍してたって聞いたような気がするけど……きっと色々あったんだろうなぁ。こんな学校で野球部を作るなんて……)

 

「椎名さん、野球やってたんだよね」

 

「……!」

 

 記事に書かれたキャプテンの名を見ていたゆかりは共に記事を見ていた直江(なおえ)太結(たゆ)に横から話しかけられ、ほんの一瞬だけ眉をひそめた。

 

「あはっ」

 

 けれど振り向いた彼女は胸に秘める冷たいものをおくびにも出さず、八重歯を覗かせて朗らかな笑顔を浮かべていた。

 

(あたしとおんなじだ。そういう逃げ道があれば……お姉ちゃんと比べられないもんね)

 

 そして現在。ゆかりは女子サッカー部の列の最後尾に並び、練習試合をするためにサッカーグラウンドへと向かっていた。

 

「それにしてもよく大学生が試合受けてくれたよねー。私たち春に同好会から部になったばかりなのに」

 

 ゆかりは隣でネットに入れたサッカーボールを蹴りながら遊歩道を歩いている少女から話しかけられると、日焼けした友人の肌を横目に唸りながら答えた。

 

「ん〜、冬に全日本大学女子サッカー選手権大会(インカレ)があるからねぇ。そのために色々試したいことがあるからとにかく組めるとこと組んじゃえーってとこじゃないかな」

 

「そっかー。じゃあベストメンバーでは来ないのかなー?」

 

「あっちからしたらサブのメンバーに経験積ませたいだろうし、そうかもねぇ」

 

「むむむっ! そう考えるとなんだか悔しいなー」

 

「そう思うならリードして引きずり出せばいいんじゃないかな? シュバっとね」

 

「おー! ゆかちゃん、ナイスアイディア! 俄然、やる気出てきたよー!」

 

「頼りにしてるよ〜。……ん?」

 

 目を輝かせている友人の肩に手を置いて期待の意味を込めて親指を立てていると話している間にサッカーグラウンドについたことに気がつく。するとゆかりの目に思わぬ人物が映った。

 

(有原……翼……? なんでこんなところに……)

 

「もー、みさお姉ちゃん! お弁当と間違えて炊飯器持っていくのやめてって何度も言ってるのにー!」

 

「あはは……もう大丈夫だと思ったんだけどね。寮生活が長くてつい、うっかり間違えちゃった」

 

「普通は間違えないよ……本当に天然なんだからー!」

 

「天然じゃないよー。ちょっとドジなだけ!」

 

 翼と話している女性の茶髪に結ばれた赤いリボンを見たゆかりは姉の椎名まりに見せてもらった家族写真を弾けるように思い出した。

 

(……あ〜、そっか。今日の相手チームの司令塔、有原みさは翼の姉だったっけ)

 

 相手ベンチの方を見て立ち止まるゆかりを不思議そうに友人が見つめていると、不意に翼が彼女たちに気付き、ユニフォームに刺繍された高校名が目に入った。

 

「あれ? 今日の相手、里ヶ浜高校なんだ!」

 

「そうだよー!」

 

(あっ、行っちゃった……)

 

 翼たちの方に元気よく駆けていく友人を追うようにゆかりも二人のもとへと向かっていく。

 

「今日はよろしく!」

 

「よろしくねー!」

 

「急に走るんだから……あ、よろしくお願いします〜」

 

 互いに挨拶を交わすと先ほどの会話で士気が上がった友人はみさへと意気込むように話し出す。その勢いに翼が驚いて身を引くとその視線がゆかりと交わった。

 

「あはは……ごめんね〜。この子、勢いに乗ると全然止まんなくって……」

 

「ちょっと驚いたけど大丈夫! 元気があって良いと思うよ! えっと、はじめまして……かな? 有原翼です! 同じ里高(さとこう)で女子硬式野球部のキャプテンやってます!」

 

「女子サッカー部の椎名ゆかりだよ〜。……やっぱ覚えてないかぁ」

 

「あれっ、もしかしてどこかで会ったことが……?」

 

「ある……けど、昔の話だから覚えてなくても仕方ないかな。……ねぇ、今野球ボール持ってる?」

 

「持ってるよー! はい!」

 

「ありがと〜。えーと、18.44m(メートル)離れてっと……ここら辺かな」

 

 翼がポケットからボールを取り出すとそれを受け取ったゆかりは大体の感覚で離れていく。

 

(18.44mってバッテリー間の距離……。ピッチャーだったのかな)

 

「座ってもらってもいい?」

 

「あ! でもミットはグラウンドに置いてきてて……」

 

「平気だよ〜。速いボールじゃないから」

 

「分かった!」

 

 翼が座ってミットを構えるように手を伸ばすとゆかりは投球姿勢に入る。

 

(マウンドじゃないから土が盛られてないけど……このくらいかなっ!)

 

 ゆかりの指先からすっぽ抜けるようにして上方向に投じられると山なりの軌道で遅いボールが落ちてくる。そして落ちてきたボールを翼は地面スレスレで手のひらに収めるように捕球した。

 

(す、凄い! あんな山なりのスローボールをストライクゾーンを通すように投げられるなんて。……!)

 

「ああっ! 思い出した! 肘痛めないように変化球禁止だった小学生の時にスローボールで緩急をつけてきた厄介なピッチャー……!」

 

「や〜、良かった。思い出してくれたね。そそ、一回だけ対戦したことあるんだよね」

 

(そしてそれが……あたしの野球人生最後の試合。もう、思い出すことなんて無いと思ってたんだけどなぁ……)

 

 ゆかりはボールの感触がまだ残っている指先を見つめながらその試合のことが頭によぎっていた。

 

 一点リードで迎えた7回の裏、2アウトランナー二塁の場面。ピッチャーとしてマウンドに立つゆかりは息を長く吐くと右打席に入った翼に対して投球姿勢に入った。

 

(野手が左に? ……そっか!)

 

 ゆかりが投じたボールはスローボール。山なりの軌道がストライクゾーンに向かって落ちていくが、投球姿勢に入ってから野手が全体的に左にシフトしたことを察知した翼はこのボールに対して始動を溜めていた。

 

(崩れてない!? けど、ボールは低めにいった……!)

 

 このボールを引きつけた有原のバットがついに振られると打球は一塁線へと放たれていた。

 

(なっ……)

 

 ファーストはそのボールに反応してミットを伸ばしたが左にシフトしていた影響もあり、打球には届かずミットの先をボールが抜けていく。

 

「フェア!」

 

 その打球が外野まで転がっていくと二塁ランナーは生還し、有原自身も二塁へと到達していた。

 

(打たれた……この追い込まれたカウントでスローボールに張ってた? それに遅いボールは反発する力が弱い。引っ張るならともかく、流し打ちであんな強い打球を打つなんて……)

 

 同点に追いつかれ尚も2アウトランナー二塁の場面。バッテリーは今の有原の打席からスローボールが待たれていると判断してストレートを投じた。

 

(翼があれだけしっかりスローボールを捉えたんだ。続けて投げるのは……難しい!)

 

(えっ!)

 

 弾き返された打球がゆかりの頭上を越えていきセンター前ヒットになる。そしてバックホームが返ってくるとホームのベースカバーに入ったゆかりの目の前で翼がスライディングでホームに滑り込んだ。

 

「……セーフ!」

 

 ゆかり自身目の前で見たからこそ、その判定が正しいことは分かっていた。逆転勝ちを収めた翼のチームが盛り上がるのを横目にゆかりはキャッチャーの肩に手を置いた。

 

「ごめん……」

 

「なに謝ってんの。あたしも皆も全力でやって負けたんだよ。悔しいけどさ、真正面からぶつかってやられちゃったんだ。仕方ないとは言いたくないけど……謝ることじゃないのは確かじゃん」

 

「ゆかり。……ありがとう」

 

「どーいたしまして! さ、帰ろ」

 

 ホームに崩れるようにして顔を下に向けていたキャッチャーにゆかりは手を差し伸べると握られて体重がかけられるのを感じながら、引っ張り上げるようにして身体を起こさせた。

 

(あの女の子凄かったな。中学生になっても野球やってれば、また会えるかな……?)

 

 ベンチで荷物を纏めながら考え事をするゆかり。やがて荷物を纏め終えると引き上げようとしたところで監督と目が合った。

 

「椎名、残念だったな」

 

「本当に……でも、全力で——」

 

「お前のお姉ちゃんは……ここぞという時に頼れる選手だったがな」

 

「えっ……」

 

 そう言うと監督はベンチから出て行く。ぼんやりと霞んでいく視界で離れていく背中を捉えながら、ゆかりはその場に立ち尽くしていた。

 

(なに……それ……。なんで、どうして、あたしはあたしなのに……)

 

 その試合が終わった後、ゆかりにかけられた言葉の多くは姉との比較が前提となるものだった。

 

「あらー、サヨナラ負けしちゃったの!? 残念だったわねー。お姉ちゃんみたいにはいかないわよねー」

 

「ふーん、負けたんだ。お姉ちゃんは、あんなに上手だったのに」

 

(じゅり姉が優勝したことを知っている人は、あたしとそれを必ずと言っていいほど比べた。比べなかったのは、じゅり姉とまり姉だけだった……。それだけは嬉しかったけど、ただそれ以上に……)

 

「椎名さん? 大丈夫?」

 

「……! ……ごめんごめん。ちょっとぼ〜っとしちゃったみたい」

 

 翼に声をかけられて我に返ったゆかりは軽く手を振って何でもないように振る舞った。

 

「椎名……? あ、もしかしてまりちゃんの妹の……」

 

「……そうです」

 

 話し終えたみさが椎名という名字を聞いてまりの妹だということに気づくと、ゆかりは心の中で思わず身構えた。

 

「まりちゃんとは同じクラブユースで色々お世話になりました」

 

「あ、いえ……こちらの方こそ姉がお世話になりました〜」

 

「大きくなったねぇ。まりちゃんに写真見せてもらった時はまだちっちゃかったのに」

 

「ん〜、でもあたし身長160ないんですよね」

 

「あたしもだよー。けど高校生ならまだ伸びるって!」

 

「え〜。もう成長期過ぎちゃってません?」

 

「高校生なら望みはあるよ! 大学生になっちゃうとホントに伸びなくて……翼にも背抜かされちゃったし」

 

「私も160ギリギリだよー。もうちょっと欲しいな」

 

「むむ。ゆかりちゃん聞いた? これが160に到達した者の余裕だよ」

 

「ずるいですよね〜」

 

「ええ!? 二人してひどいよー!」

 

「ゆかちゃん。皆呼んでるよー」

 

「おっと……のんびりしすぎたねぇ。じゃあ失礼しますね〜」

 

 呼ばれていることに気付いた友人がゆかりの袖を引っ張って味方ベンチの方を指差すと、ゆかりは一礼してから駆け足で向かっていく。

 

(……なんで翼に野球してたこと言っちゃったんだろ。適当なところで切り上げてサササッと離れても良かったのに。おかげでみささんにもまり姉の妹だって気付かれちゃったし)

 

 友人と共にベンチにたどり着いたゆかりは勝手に列から離れたことを先輩から注意されながら、先ほど自分がした行動に疑問を抱いていた。

 

「あ、ともっちからNINE(ナイン)来てる。良かったー。ゆいお姉ちゃん見つかったみたい」

 

「お姉ちゃんまたやっちゃったんだねー」

 

「もう、みさお姉ちゃんも人のこと言えないでしょー」

 

「えへへ……」

 

 翼はベンチに置かれた炊飯器に目をやりながら左右のポケットにそれぞれ携帯端末と野球ボールをしまうと遊歩道へと足を向けた。

 

「練習始まってるみたいだし、戻るね。試合頑張って!」

 

「うん! お弁当ありがとねー」

 

 手を軽く振るみさに翼も軽く手を振り返すと坂道を上がっていき、ひまわりグラウンドへと走って戻っていった。

 そして互いにハーフウェーラインを境として準備運動が終えられるとすぐにでも試合が行われようとしていた。

 

(まり姉……かぁ。あたしが中学生になって、野球の次に好きだったサッカーをやって……でもダメで。結局小学生の時と同じことの繰り返し。ホントは高校でサッカーを続けるつもりはなかったんだけどね〜)

 

「——以上がスタメンです。と言っても……」

 

「いつもと同じだねー」

 

「部員11人だからねぇ……」

 

「一応フォーメーション変えるのも検討したんだけど……今日の相手は大学生だからね。慣れないフォーメーションを試すよりはいつもの布陣でどれくらい戦えるか! 胸を借りるつもりで挑むよ!」

 

「「はい!」」

 

 檄が飛ばされると部員たちの元気のある返事にキャプテンは頷いていたが、不意にその目が(うる)んでいった。

 

「去年は11人もいなくて試合出来なくて……それが今年は夏の大会に参加どころか一回戦突破出来て。今では大学生と練習試合組めるようにまでなって……皆、本当に集まってくれてありがとう」

 

「あー、もうまた始まった。いい加減泣かないの。キャプテンでしょ」

 

「うん……」

 

「ちゃんとしなさい。一番後ろにいるGK(ゴールキーパー)がそんな頼りなかったら、皆不安になっちゃうでしょ」

 

「うん……」

 

 キャプテンの友人がユニフォームの袖で涙を拭おうとするのを止めると、ハンカチを取り出して代わりに拭いていく。その見慣れた光景を部員たちは穏やかに笑いながら見守っていた。

 

「……こ、こほん! 改めて……気を引き締めていきましょう!」

 

「「はい!」」

 

 弛緩させてしまった雰囲気を引き締めるべく円陣が組まれキャプテンの掛け声と共に組んだ腕が沈み込んでいくと、士気が上がった様子でイレブンがフィールドに散っていく。やがて選手が所定の位置についたことが確認されると審判の笛が響き渡り、40分ハーフで試合が開始された。

 

「まずはボール回していきましょ!」

 

「おっけー!」

 

 この試合FW(フォワード)を任されたゆかりはキックオフと共に受け取ったボールを後方のMF(ミッドフィールダー)へとはたくように渡した。細かくボールを回す味方を背にゆかりは前線へと上がっていく。

 

(こっちはいつもの4-2-3-1、あたしをワントップに置く布陣だ。相手は4-2-1-3……確か相手が得意とする布陣だった覚えがあるけど、やっぱりというか、見た感じベストメンバーじゃないねぇ。その証拠に……)

 

 前線へと駆け上がっていく最中、ゆかりは相手ベンチで座りながら声援を送るみさを横目で捉える。

 

「ゆかり!」

 

 細かいパスを繋いで相手陣地へと攻め込んだMFが前線に辿り着いたゆかりへと縦パスを送った。

 

「させないよ!」

 

「うっ!」

 

 相手のDF(ディフェンダー)の中でも中央寄りに守るCB(センターバック)と空中で競り合う形になったゆかりは競り負けてボールを受け取ることが出来ず、ゆかりがバランスを崩しながら着地すると体勢を保ったまま着地したCBからボールがMFの中でも守備的に構えるDMF(ディフェンシブミッドフィールダー)へと渡され、一転して相手の攻撃が始まった。チェックを躱しながらボールが繋がれていくと攻撃的に構えるMF、OMF(オフェンシブミッドフィールダー)へとパスが出された。

 

(今日はみさ先輩の代わりにわたしがゲームメークするんだ! ……えっ!?)

 

 相手陣地に少し入ったところでOMFがパスを胸でトラップしてボールを下に落とし前を向く。

 

(相手のOMFは一人!)

 

(攻撃を抑えるならここだ!)

 

 するとそこに二人のDMFが素早くチェックに入る。それに気付いた相手はとっさに躱そうとしたが一人のチェックを躱した瞬間、もう一人がその隙をついてボールを奪取した。

 

(よし!)

 

(しまった……!)

 

 序盤は静かな立ち上がりとなり中々お互いにシュートに持ち込めないまま時間が過ぎていく。試合(ゲーム)が動いたのは前半18分だった。

 

(わたしが今まで経験してきたフォーメーションは少なくともOMFが二人いたから知らなかった……。OMFが一人だとここまでチェックが厳しいんだ)

 

(またOMFにボールが渡った!)

 

(ここで止める!)

 

 低い軌道、グラウンダーで渡されたパスをOMFはスパイクで押さえるようにして受け取るとそこに二人のDMFのチェックが入る。

 

(でもみさ先輩はそれをしっかりこなしているんだ! わたしだって……! ここは相手陣地にそれなりに入ったところだし勝負していい。わたしの武器であるスピードで仕掛ける!)

 

「「なにィ!?」」

 

 トラップから急加速するようにしてドリブルを開始したOMFに二人は虚を突かれて反応が遅れる。その二人の間をスピードに乗ったドリブルですり抜けるように抜けていった。

 

((しまった……!))

 

(相手前線の人数は4、こっちのDFも4人。まだ慌てなくていい!)

 

「14番に一人ついて! FWにもマンツーマンで対応して!」

 

 そこにGKを務めるキャプテンからコーチングが飛ばされ、一人に対して一人のマークをつける指示が出された。

 

(DFが一人来たか……ならその前にっ!)

 

 マークが完全に来る前に背番号14のOMFはパスを選択した。マークにつこうとしたDFがとっさにジャンプするもその頭上をボールが越えていくと、3人のFWの中でも中央寄りのポジションにいるCF(センターフォワード)へとボールが向かっていく。

 

「しっかり身体寄せて!」

 

「はいっ!」

 

 キャプテンの指示でマークについていたCBが身体を寄せながらボールを競り合った。

 

(ここまで来たボールの中では一番シュートが狙える。ここは行く!)

 

 CFは浮いたボールに対して競り合いながらダイレクトにヘディングで合わせると思い切ってシュートを放った。

 

「はあっ!」

 

 ゴール右上隅へと放たれたボールにキャプテンが飛びついて両腕を伸ばすと、このシュートを掴み取った。

 

(くっ、強くは撃てなかったか……)

 

(あれだけ身体寄せてもしっかりコースは狙ってきた……なんてフィジカル。このCFに合わせるパワープレイは今後も注意しないと)

 

 キャプテンは両腕を伸ばしながら着地すると手に収められたボールを見て安堵しながらも同時に危機感も覚えていた。そしてお互い決定打が無いまま時間が過ぎていくと前半33分、センターサークル付近でゆかりのチームのOMFにボールが渡った。

 

(ここあたりなら何とか3人で繋いでいけるけど……)

 

(相手陣地に攻め込みきれない……)

 

(ここまでこっちのシュートは私が無理に撃ったロングシュート一本。このままじゃまずい……)

 

 センターサークル付近で攻めあぐねてボールを回していると二人のDMFだけでなく背番号14のOMFも守備に戻ってきて挟み撃ちのような形になった。

 

「あたしに!」

 

「……! お願い!」

 

 ボールが横にはたかれるとそこにはゆかりがFWとしては後方と呼べる位置まで戻り、パスを受けていた。

 

(ただでさえ上背がないあたしが大学生相手に前線に居座っても厳しそうだからねぇ。ここは戻ってボール回しに参加する!)

 

 4人でパスを回し3人のチェックをなんとか躱していく。しかし中々前にボールを運べない状況は変わらなかった。

 

(なんとかボールはキープしてるけど)

 

(前線にパスを送れる選手がいない!)

 

(うまく回して守備の陣形を乱したいけど……この位置だと相手がそこまで無理して動いてこない……)

 

(ん〜……こうなると、ジリ貧だよねぇ。となれば……)

 

 左サイドに移動したゆかりにパスが送られると同時にゆかりが腕を相手ゴール方向に振るようなジェスチャーをしながら声を出した。

 

「ライン上げて下さい!」

 

「……! 分かった!」

 

「ゆかり、危ない!」

 

「おっと……!」

 

 一瞬指示に気を取られた隙をついて相手がチェックに入ったがそれを背にするようにしてゆかりはボールをキープする。

 

(こういう時、慌ててボール離す方が危ないんだよね。相手を背にして自分の身体がボールとの境になるようにすればそう簡単には取られない。無理に取ろうとしたら反則(ファール)になる可能性も高いしね)

 

(くっ、身体の使い方が上手い! こっちが取ろうと仕掛けても重心が全然崩れない……)

 

 その隙に後方の選手が上がってくるとゆかりは相手を背にしたままスパイクの内側で押し出すようにしてボールを転がしDMFの一人にパスを送る。そして反転してゆかりが走り出すとボールは右サイドにいるもう一人のDMFを経由して前線へと上がった右サイドのOMFに渡った。

 

(良いリズムが生まれかけてる。ここはプレスをかけて、その芽を積む!)

 

(うっ……!)

 

 相手DFもラインを上げて早い段階で攻撃を止めようとプレスをかける。とっさに横にパスを繋いでいくOMF陣だったが、相手の厚い壁を崩せないでいた。やがてボールはやや左後方にいるゆかりへと戻ってくる。

 

「先輩、もっと前へ!」

 

「……! そっか!」

 

 ゆかりの指示が飛ばされると三人のOMFが一斉に前へと走り出す。

 

(……! スルーパスか!? ラインの裏を取られてキーパーと一対一にされるのはまずい……!)

 

 するとラインを上げていたDF陣の内の三人が一人ずつ張り付くようにしてOMFについていった。

 

(うげっ、完全に読まれてる。これは無理に送っても……っとぉ!)

 

 DMFからチェックを受けたゆかりは足裏でボールを引くようにして辛うじてチェックを躱し、反転して相手を背にする。さらに反転する際にもう一人のDMFがすぐそこに迫っていることに気づいた。

 

(さすが……フリーにさせてくれる時間がほとんどない。けど一応この位置で少しとはいえボールキープして時間は稼げたよね……っと!)

 

 ゆかりはライン際に向かってやや軽めに左前方へとボールを蹴り出すとその一連の流れで自身も前へと走り出す。パスアンドゴーだ。

 

(何! その位置に選手は……。……!)

 

「ゆかちゃん、ナイスパス!」

 

 するとDFの中でもサイドを守るSB(サイドバック)の内、左SBを務めるゆかりの友人がここまで上がってきており、ラインスレスレでボールに追いつくとスピードを落とさずにそのままライン際を駆け上がりに行く。

 

「……! 危ないっ!」

 

「うえっ!?」

 

 相手DF陣の中で先ほどOMFのマークに向かっていなかった右SBがゆかりのパスの意図に気づいて素早くチェックに向かうと、勢いの乗ったドリブルに対してタックルを敢行していた。タックルに気づくのが遅れた彼女はその勢いのまま突っ込んで行くと足と足でボールを挟むような形になり、勢い余ってボールが弾かれた。

 

(あちゃー。あの子、勢いに乗ったら止まれないんだよね。……でも!)

 

 ライン際から中央へと打ち上がったボールにいち早く反応したゆかりはこのボールの落下地点へと走る。

 

(トラップ……したら追いつかれる、か。パスコースも見当たらないし、ここは一か八か……やっちゃいますか!)

 

 後方に迫る二人のDMFを察知したゆかりはこのボールに対して右足を振り上げると軸となる左足で身体を支えた。

 

(……まさか!?)

 

(ダイレクトボレー……シュートだぁ!)

 

 ペナルティエリアの外、その左後方へと落ちてきたボールに対してゆかりはバウンドさせずにダイレクトで合わせると、右足から放たれたシュートがゴールマウスへと向かっていく。

 

(キャッチは無理か……!)

 

 ゴール右上のざっくりした位置に放たれたシュートに反応したGKが飛びつき、腕を伸ばす。すると指先でボールに触れて僅かにシュートコースが変わった。シュートの軌道がゴールの外へと弾き出すように変わったボールの行き先は……ゴールバー。ギン、という鈍い金属音の後に聞こえてきたのは……サイドネットへと収まるぽすっ、という音だった。そして審判の笛がフィールドへと響き渡ると、それはゴールインを認めた証だった。

 

「わお」

 

「ゆかちゃん、ナイッシュー!」

 

「ありがと〜」

 

「よく決められたねー!」

 

「ん〜、ど真ん中にいかないようにはしたけどね。入ったのは運が良かったよ〜」

 

 タックルを受けて思い切り地に伏していた友人が笛の音を聞いて起き上がって駆け寄ってくると勢いのまま喜びを示すように飛びついてくる。それを受け止めたゆかりは二、三度背中を軽く叩いてから彼女を地面に下ろした。

 やがて彼女たちが所定の位置へと戻っていくとセンターサークルにボールが置かれ、プレーが再開された。CFから戻されたボールを14番のOMFはやる気に満ちた表情で受け取る。

 

(やられた……。高校生相手に先制されるなんて。でもまだ前半が終わるまで5分ある。後半になる前に同点に追いつくんだ! ……えっ!?)

 

 相手の守備位置を確認した彼女は驚きで目を見開く。その理由は相手の両サイドのOMFがDMFの位置まで下がり、4-4-1-1の守備的なフォーメーションを取っていたからだった。

 

(一点を取って守りきるサッカー……これで私たちは夏大会一回戦を突破出来た。この試合も先取点取ってくれたからGK()が抜かれなければ大学生相手に勝てるんだ! まずは前半をこのまま0に抑える!)

 

 この守備的な陣形に大学生チームも攻めあぐねて時間が経過していく。しかし果敢にプレスをかけるよりは後方に人数をかけているこの陣形に対して大学生チームも守備的なポジションの選手もパス回しに参加することで着実に崩していった。

 

「任せた!」

 

「はい!」

 

(審判が時計を見てる……! これが前半のラストプレー!)

 

 前半40分。ショートパスの連続から相手陣地の中央付近にいる背番号14のOMFへパスが出されると、二人のDMFが彼女のチェックへと向かう。

 

(守備に人数をかけてるだけあって中央はスペースが狭い。ここは……!)

 

「お願いします!」

 

 パスにダイレクトで合わせた彼女はチェックより早く左サイド前方に向かってロングパスを送った。

 

「ナイスパス!」

 

 右SBの頭を越えていったスルーパスにFWの中でもサイド寄りのポジションを取るWG(ウイング)の内、抜け出した左WGがこのボールを伸ばした足でトラップする。

 

(……ここだ!)

 

(くっ……!)

 

 右SBが戻りながらクロスを上げさせまいとパスコースに飛び込んだが間に合わず、左WGが出したクロスがペナルティエリアへと向かっていく。

 

「よっ……と!」

 

(なっ!)

 

 CFの頭へと合わせるように上げられたクロスに判断よくGKが飛び出すと両腕を上に伸ばしてこのクロスを直接キャッチしていた。

 

(やっぱりフィジカルが強いCFに合わせてきた。読めて良かった)

 

 ——ピピー! ここで前半終了を告げる審判の笛が鳴り響いた。嬉しさが滲み出る里ヶ浜高校に対し、大学生チームは冴えない表情でベンチに向かっていく。

 

(攻撃が上手くいかないことは想定していたが……高校生相手に失点は予想外だったな)

 

 監督はしてやられたという表情を浮かべていると選手たちが戻って来る。労いの言葉をかけながらそれを迎え入れると背番号14の選手に対して水分補給してからまた来るように伝えていた。

 

「ふぅ……すいません」

 

「いや、一年のお前には荷が重いことは承知の上だ。だが、いくら練習試合でも高校生相手に負ける訳には行かない。後半は有原を投入する」

 

「そう……ですよね」

 

(交代……か)

 

「有原!」

 

「はい!」

 

「後半はお前をDMF(ボランチ)として投入する」

 

「「えっ!」」

 

 監督の指示に二人は意表を突かれて驚いた表情を見せる。

 

「あの、監督。わたしは……?」

 

「お前はこのまま後半も攻撃的ミッドフィールダーとして入れ」

 

「あたしはどうすればいいですか?」

 

「ああ。そこなんだが……」

 

 監督はコーチから4-2-1-3のフォーメーションを示すようにマグネットが10個つけられたコンパクトなホワイトボードを受け取ると右サイドのDMFに当たるマグネットに触れた。

 

「今の守備のバランスを崩さないよう相手が攻めてくる時はDMFとして守備に参加して欲しい。ただ攻撃の時には……」

 

 マグネットが上げられていくとOMFの右横の位置まで移動され、4-1-2-3のフォーメーションが完成する。

 

「いつものように攻撃的ミッドフィールダーとして動けば良いんですね」

 

「ああ。そうして欲しい。ただその分運動量も多くなるから負担も大きい。それでもやってくれるか?」

 

「まっかせて下さい!」

 

 その指示にみさが元気よく返事を返すと監督は迷いのなさにやや呆れながらも頷いていた。

 

「後半、まずは追いつこう!」

 

「は、はい!」

 

(前半で司令塔の役割を果たしきれなかったから交代させられても仕方ないと思ってたのに……まだチャンスを貰えるんだ。……頑張ろう!)

 

(有原という絶対的な司令塔がいるが故にうちの攻撃の起点は有原に頼りがちだ。これはインカレで攻撃パターンが読まれるという弱点になり得るし、有原が卒業した時に攻撃力低下を招いてしまうかもしれない。それを避けるためにも……今のうちに経験を積んでもらわないとな)

 

 みさに声をかけられ緊張した様子の彼女に監督が期待の視線を送っているとやがてハーフタイムが終了し、後半が始まった。

 

(有原みさ……)

 

 DMFと交代して投入されたみさの緑色の瞳を見つめるように見ているとみさがそれに気付いて軽くお辞儀をし、ゆかりも戸惑うように軽く頭を下げる。すると早速みさへとパスが出された。

 

(相手のフォーメーションは変わらず4-4-1-1かー。ここはじっくり攻めていくしかないね)

 

(……似てる。試合をするときのまり姉の目に……)

 

「ゆかり!?」

 

 OMFが手を伸ばす先を走るゆかりは焦燥感に駆られみさへと突っ込んでいくとタックルを仕掛けた。

 

「……! お願い!」

 

 みさはボールをもう一人のDMFにはたくとジャンプ一番、このタックルを躱していた。

 

(うっ……)

 

(どうしたのゆかり……今こっちは前線に二人しかいないからパスコースをあまり塞げない。無闇にタックルを仕掛けても……)

 

「もう一度戻して!」

 

「はいっ!」

 

 ゆかりを越えて着地したみさにDMFからダイレクトでパスが返り、ワンツーリターンが成立した。そのままゆかりは前線へとドリブルで上がっていくとOMFのチェックが入る。

 

「ふっ!」

 

(無理はしてこないか……)

 

 するとみさが身体を反転させて左サイドへとロングパスを送り、オーバーラップした左SBがこのボールを収める。一番右のDMFがチェックに入るとここも突っ込み過ぎず、背番号14のOMFへとショートパスでボールが渡された。

 

「こっち!」

 

「……! みさ先輩!」

 

 守備陣形が攻撃側から見て左に寄ったところでみさは右サイドを上がりながらパスを要求し、再びロングパスが送られサイドチェンジが行われた。

 

(そう簡単に突破はさせない!)

 

 今度は一番左側を守るDMFがみさのチェックに入るとみさは中央へとボールを蹴る振りをするキックフェイントを挟み、利き足でない右足のアウトサイドキックによって右前へとボールを転がした。

 

(なっ、プレーのスピードが落ちない!?)

 

 チェックに入られてもほぼ減速せずにこのプレーを刊行したみさに対応が遅れたDMFの横をみさは駆け抜けると右SBからのワンツーを受け取ってさらに駆け上がっていく。

 

(通さないよー!)

 

(相手の守備陣形が今度は右に寄ってきた……)

 

 左SBのチェックが入り今度はみさのドリブルが止まるとさらに厳しいチェックが入る。

 

(今!)

 

(うえっ!?)

 

 引きつけたところでボールの下に爪先を差し込むように蹴るチップキックで左SBの頭上をふんわりとした浮き玉が越えていく。

 

(でもこれは大きい! ライン割っちゃうよー!)

 

 左SBが振り返ってそのボールに気を取られた隙にみさは中央へと切り込んでいく。

 

「えっ!」

 

 するとバックスピンがかけられていたボールはバウンドしてからの勢いが抑えられており、ゴールラインを割る前に右SBが追いついた。慌てた様子で左SBがそこへのチェックに向かう。

 

(ダメだ、間に合わない! FW三人が全員ペナルティエリア内にいる。誰に来る……!?)

 

「クロス来るよ。気をつけて!」

 

 キャプテンからコーチングが飛ばされると守備陣もクロスに備える。角度がないとはいえ一時的にフリーの状態を作った右SBから万全の体勢でマイナス方向にクロスが上げられた。

 

(これは……しまった!)

 

「10番のブロックに入って!」

 

「分かった!」

 

 このボールがみさへと向かっていくことを察したキャプテンからの指示でCBがシュートコースを狭めようとシュートブロックに入った。

 

(空振り!?)

 

 利き足の左足でのジャンピングボレーの体勢に入っていたみさだったが、このボールを空振りしてしまい、CBは目を疑った。

 

(ミス……? ……あっ!)

 

(えっ!?)

 

 シュートブロックに入ったCBがブラインドになりシュートに備えていたGKはクロスがそのまま二人の間を通過したことに反応が遅れていた。

 

(前半わたしは司令塔としての役割を果たせなかった。その借りを……ここで返す!)

 

(しまった! 10番のプレーはシュートじゃなく、スルーだったんだ……!)

 

 ワンバウンドしたクロスボールの上がりっぱなを叩くような背番号14のOMFのボレーシュートが放たれた。キャプテンはゴール左下へと放たれたこのシュートに食い下がり右手を指先まで伸ばす。

 

(そんな……まだ始まって3分くらいしか経ってないのに)

 

 それでもボールに届かず、シュートはそのままバウンドしてからゴールネットへと突き刺さった。ゴールインを認める審判の笛がフィールドに鳴り響き、ゆかりはその光景に愕然としていた。

 

「は、入った……」

 

「ナイスシュート! 追いついたね!」

 

(一度左に振ってから右を起点に崩して、最後の最後でボールを左サイドに戻したから相手の守備陣形が乱れて、これだけ後方に人数がいるのにシュートコースが空いたんだ。これがみさ先輩のゲームメーク……)

 

「あ、ありがとうございます。でも……本来は先輩を出させずにわたしがこのゲームメークをしなきゃいけなかったんです……」

 

「んー。ダメだよ。そんな風に考えちゃ!」

 

 シュートを決めたのにも関わらず下を向く後輩の背をみさは力強く叩いた。

 

「ひゃわっ!?」

 

「ダメだったーってところは反省しなきゃだけど、良かったーってところはちゃんと褒めてあげなきゃ! 今のだって走り込んでくれなかったら、ゴールにならなかったんだから!」

 

「みさ先輩……。そう、ですね!」

 

 ひりひりする背中をさすりながらも緊張が解けた笑みを零す後輩にみさも笑みを浮かべながら自チームの陣地に戻っていくと、ゆかりとすれ違った。

 

「…………」

 

 ゆかりはそのまま歩を進めていくと八重歯を覗かせる朗らかな笑みを浮かべて、ペナルティエリア付近に集まっている皆に話しかけた。

 

「まだ同点ですよ。気を落とさないでいきましょ〜」

 

「そうだね……。切り替えないと!」

 

 キャプテンが気合いを入れ直すと彼女の友人が作戦を提案してきた。

 

「まずはフォーメーションを4-2-3-1に戻しましょう。それで、どれだけやれるかは分かんないけど……アタシが10番のマークについてみる」

 

「お願い!」

 

 DMFを務める彼女がマークにつくことが決まり、プレーが再開される。

 

(……これは……)

 

 ゆかりは3人のOMFがパスを回している間に前線へと上がっていく。するとボールを持っていない状態でもみさがマークについていた。

 

(前半、ベンチで応援だけしてたわけじゃないよー。ゆかりちゃんはボールキープ能力が高い。フィジカルで不利な大学生相手でもボールを渡さないんだもの)

 

(そうだ。前半を見る限り、相手の攻撃パターンはワントップの背番号9にボールを渡して前線でキープしている間にラインを押し上げるものが多い)

 

「監督。有原にマンマークの指示を出したんですか?」

 

「いや、試合前に言ったようにこの試合は交代以外の指示は出していない。あれは有原の独断だ」

 

(そして試合の意図を理解している有原なりのメッセージなんだろう。自らで考えて動く。指示通りに動くだけでは勝てない試合を経験してきたからこそ、それがプレーで語れるんだ)

 

 ゆかりへと出された縦パスをボールキープされる前にインターセプトし里ヶ浜の攻撃をDMFとして遮断するみさ。しかし里ヶ浜も負けじとみさにマークをつけることで試合は膠着状態となっていった。

 そして後半22分。ゆかりは中盤まで戻ってパスを受け、みさを背にボールをキープしにかかる。

 

(身長も体格も同じくらいなんだ。キープしてみせる!)

 

(むむむ……隙がないね)

 

 みさも身体を寄せるがそのボールを奪取出来ずにいた。その隙に里ヶ浜のラインが押しあがっていく。

 

(……ここは……)

 

(……! ドリブルコースが空いた!)

 

 反転したゆかりは身体を寄せすぎたみさの右脇をすり抜けるようにして低い体勢でドリブル突破を図る。するとみさの伸ばした足も届かずにその横を通り抜けることに成功した。

 

「……!」

 

(しまった! みささんの陰から……!)

 

 するともう一人のDMFが死角からタックルを仕掛けており、反応が遅れたゆかりはそのタックルを受けてしまった。

 

「ナイスプレー!」

 

(そんな……事前に打ち合わせ出来るようなプレーじゃないし、何かジェスチャーを送ってる素振りもなかったのに……!)

 

(先輩のプレー伝わりましたよ……!)

 

 タックルで溢れたボールがみさへと渡ると攻撃から守備に意識を切り替えたDMFがマークに入る。

 

(センターサークル付近で勝負して万が一取られたらまずい……!)

 

 みさはOMFへのパスを選択するとパスアンドゴーで振り切りにかかる。しかしマークに入ったDMFも負けじとついていっていた。

 

(速い……! けど、マークは外さない!)

 

(前半でもこのボランチは攻撃の起点を尽く潰してた……! マンマークが得意な選手なのかな)

 

 みさが小刻みな動きでマークを振り切ろうとするが彼女もフェイントに惑わされずにその動きに対応していた。

 

(みさ先輩が押さえられてもわたしがいる!)

 

 左サイドを14番のOMFが上がっていくともう一人のDMFがチェックに入る。スピードに乗ったドリブルを直角方向に切り返して隙を窺う中、タイミングを見計らって右サイドへとロングパスが送られ、少し中盤に戻っていた右WGの選手にボールが渡る。

 

(これだ!)

 

 するとみさは右WGのドリブルコース目掛けて走り出した。

 

(ショートパスを受ける気? 簡単にはやらせないよ!)

 

 DMFのマークが離れない中、ライン際を上がっていた右WGが突如中央へと切り返した。

 

(なっ……それじゃあ相手同士で衝突する!)

 

 みさと右WGがぶつかりそうになるギリギリですれ違うと一瞬動きが止まったDMFとみさの間に割って入るように右WGがすり抜けようとする。

 

(わざわざこっちに来たらボールを取って下さいと言ってるような……えっ、ボールを持ってない!?)

 

 右WGはボールを保持しておらずそのまま中央へと切り込んでいくと、みさは代わりにWGの役割を果たすようにライン際を駆け上がっていった。

 

「なっ……しまった!」

 

 交差する際にみさがボールを受け取っていたことに一瞬遅れて気づいたDMFはその背中を追っていく。

 

(くっ、身体を入れられた分の差もある! 完全にマークを外された……!)

 

(今度こそ止めるよー!)

 

 そこに左SBがやってくるとドリブルコースを塞ぐように構えた。

 

(時間を稼いで! そうすれば挟み撃ちに出来る!)

 

(仕掛けるなら……ここだ!)

 

 みさは左SBに対して左足と右足を交互にボールの上をまたぐように通すシザースフェイントを仕掛けた。

 

(どっちに行くか分からないようにする気だー! しっかり軸がブレないようにして、ボールがどっちかに動いた瞬間に反応するんだ!)

 

 左SBが重心を下にして軸を保つように足を開くとその間をボールが抜けていった。

 

(えっ!?)

 

(なっ……股抜き!?)

 

 みさはボールを左右ではなく左SBの正面へと出していた。軸がブレないように足が開いた隙間を縫うように通ったボールに、蹴った瞬間から走り出したみさはゴールラインを割るギリギリで追いつくとこのボールをダイレクトでゴール前に上げた。

 

(なんてプレーの速さ……! でもこのボールはフィジカルの強いCFに合わせたものだ!)

 

 このクロスに反応したキーパーが飛び出すとCFへのパスコースへと腕を伸ばした。

 

(あとはお願い!)

 

(任されたよ!)

 

(なっ……!)

 

 先ほどみさと交差した右WGがニアでこのボールに飛び込むとやや低めの弾道のクロスに頭で合わせた。シュートは飛び出したキーパーの横を抜け、ゴール右側へと豪快に突き刺さる。紛れもないゴールインだった。

 

(そんな馬鹿な……。今のはダイレクトで合わせた分、正確なクロスは上げづらかったはず。でも今のはCFも、ニアで合わせた右WGもシュートを撃てるクロスの軌道だった……)

 

 2対1となり逆転され、里ヶ浜にとっては痛い展開となる。同点に追いつき返そうと気合いを入れる里ヶ浜。しかし起点となるゆかりをマークされ、打開策がないまま時間が過ぎていく。

 そして後半36分。里ヶ浜のOMFが放ったロングシュートが容易にキャッチされ、素早くボールが投げ返される。

 

(まずい。点を返さなきゃってラインを上げ過ぎてる!)

 

「皆、戻って!」

 

 カウンターが始まった段階でゆかりの指示で遅れてラインが下がっていく。

 

(くっ、後半だけの出場とはいえこの選手の運動量は相当なもの……なのに……!)

 

(前半から結構激しくマークしてたからね……。ここはスピードで外せる!)

 

 ここに来て攻守の要をこなしているみさの運動量は未だ落ちず、対してマークについていたDMFは息も絶え絶えという様子だった。

 

(分かってたことだよ。うちには交代出来る選手がいないんだから……その分を埋めないといけないってね)

 

(……! ゆかりちゃん)

 

 スピードでマークを外してセンターサークルを過ぎたみさにパスが通るとFWであるゆかりが素早く下がりここまで戻って守備をしていた。

 

(パスコースは……うっ。皆も体力は結構限界か。上手くボールを受けられる位置にいない。……行くよ。ゆかりちゃん!)

 

 広い視野で周りを確認したみさはすぐ様切り替えるとドリブルを仕掛けた。

 

(この位置でみささんからボールを取れれば相手はDMFが一人減った状態! それならまだ崩せるチャンスはある!)

 

 ゆかりもこれに応じるように走り出すとほぼ同時のタイミングでゆかりは右足を、みさは左足を振り出した。そして互いにボールを足で挟み込むようにして競り合う形となる。

 

(……! この目……)

 

 競り合いの末にゆかりは右足を押し戻されるようにして横へと弾かれた。みさとまりの目が重なって見えたゆかりは地面に身体を預けながら、思わず歯を食いしばった。

 

(あたしと身長も体格もほとんど同じ。なのに……何が違うの)

 

 ドリブル突破したみさは相手陣地へと突き進みながら周囲を見渡す。

 

(ここは一か八か……)

 

(ラインを上げるしか……)

 

(今っ!)

 

 ディフェンスラインを上げようとした瞬間、みさは右足を軸に左足を振り切るとミドルシュートを放った。

 

(この距離なら止められ……!? これは……無回転シュート!)

 

 ボールの真芯を捉えるように放たれたシュートはほぼ回転がかかっておらず、ボールの後ろに発生した空気の渦による影響で不規則なブレ球となっていた。

 

(くっ……届け!)

 

 ゴール左上隅へと向かっていくブレ球にGKは飛びつくと右拳を突き出すようにしてこのボールをパンチングしにいった。すると距離があったこともあり、このボールを弾くことに成功する。

 

(よし! ……!?)

 

 すると詰めていた左WGがDFより先に滑り込み、こぼれ球をスライディングシュートでねじ込んだ。体勢が整う間も無く放たれたシュートにGKは対処できず、大学生チームに3点目が入った。

 

(やられた……! 最初から決めるつもりじゃなく、私に弾かせたところを詰めるのが狙い。だからDFのラインを上げられてFWのオフサイドを取られる前にシュートを撃ってきたんだ……)

 

 残り時間僅かになったところでの追加点。同点に追いつこうとする里ヶ浜にとって、終盤になっての2点差は覆し難いものだった。試合はロスタイムへと突入し、ラストワンプレー。体力を振り絞って相手ディフェンスラインの裏へと走るゆかりにロングパスが放たれた。

 

(最後の最後まで油断はしないよ!)

 

(なっ……オーバヘッドキック!?)

 

 ゆかりへのパスコースを切るように構えていたみさはロングパスに対して右足で踏み切ると自身の頭上を通過しようとするこのボールに対して身体を縦回転させながら左足で大きくクリアした。

 

(……ああ、そうか。なんで翼に野球してたこと言っちゃったのか。ようやく分かった気がする)

 

 空中でバランスを取って見事に着地したみさを見てゆかりはため息を漏らす。

 

(じゅり姉にも負けない才能を持つ有原ゆい、まり姉にも劣らない才能を持つ有原みさ。二人の化け物を姉に持った者同士が、同じ里ヶ浜高校で新設された部に入った。……この感情を共有したかったのかもねぇ)

 

 ゆかりは移ろいゆく空を見上げるように顔を上げると、フィールドには後半終了を告げる笛の音が鳴り響いた。

 

 そして同じ空の下、ひまわりグラウンドではゆいをバッティングピッチャーに迎えての練習が一段落つき、休憩時間となっていた。

 

「ゆいさん! あの変化球なんて言うんですか?」

 

「これー? これはね、カットボール(キャットボール)って言うんだー」

 

「可愛いー!」

 

「でしょ!」

 

 ベンチでは逢坂が波長があったようで二人の話が盛り上がっていた。

 

「アタシ思ってたんです! フォークとかカーブとか……あんまり可愛い名前じゃないなって。アタシもピッチャー始めて変化球投げられるようになったら、自分で名前つけてみます!」

 

「それがいいよ! 自分だけのボールって感じで楽しいよ!」

 

 そんな中、有原と東雲は鈴木が今の練習中に残した記録を見ていた。

 

「バッティングピッチャーということで少し軽めに投げてもらったけど……やはり左打者の打率は振るわないわね」

 

「うーん。たまに、左だけどサウスポーの方が得意って人いるけど……」

 

「どうやらうちにはいないようね」

 

「強いて言えば岩城先輩が対右投手の時とさほど変わらないかしら?」

 

「構わずフルスイング! って感じで凄かったね」

 

「スイングを崩さないのは評価出来るけど……見極めが出来ているかと問われれば否ね」

 

 休憩が終わり練習が再開されるとやがて午前練が終わり、午後は守備練習中心のメニューがこなされた。そしてグラウンドに夕日が差し込むと練習が終えられ、皆帰り支度を整えていた。

 

「ゆいお姉ちゃん、今日はありがとうね。バッティングピッチャー以外の練習にも付き合ってもらって」

 

「いいのいいの。私も身体動かしたかったし! ……そうだ! 翼、この後時間ある?」

 

「うん。あるよー」

 

「じゃあさ——」

 

 告げられた言葉に有原は目を見開くとゆいに至近距離まで近づいて返事をしていた。

 

「——行く行く! ちょうど今日知り合ったんだ!」

 

「直接向かうんですか?」

 

「そうだねー。家とは反対側だし、そうなるかな」

 

「そうなんですね。じゃあ翼、また明日ね!」

 

「あ、うん! また明日ね、ともっち!」

 

 先に帰り支度を終えたともっちがグルメセンターロードのメンバーと共に帰路についた。

 

「そういえば加奈ちゃん。今日偵察から戻ってきた中野さんから守備練習の時に何か教えてもらってたけど、何を聞いたの?」

 

「あ……偵察のことじゃないんだけどね。中野さんがセンターで一番気にしていることは何かなって」

 

「なんだったのでしょう……?」

 

「えとね……センターは外野の中心だから、レフトとライト以外は意識しなくても見える。だから他の外野が予めどのあたりにいるか意識して把握して、自分が捕る時以外にも送球の指示とか、スムーズなカバーを出来るようにしてるんだって」

 

「ほえー。その道のプロって感じだねえ……」

 

「咲ちゃんは本を渡されてたよね。あれは何の本だったの?」

 

「あれね。阿佐田先輩から渡されたのはリードの戦術に関する本で、鈴木さんから借りたのは……これ。スコアブックの書き方が書いてある本だよ」

 

「……スコアブック? なにこの文字の羅列……」

 

 近藤が開いた本を覗いた新田は目が回りそうになっていた。

 

「私もまだ全然分かんないや。でもこれで試合経過が分かるみたいだよ」

 

「嘘! これで!?」

 

「でもどうしてまたスコアブックなの?」

 

「鈴木さんにお願いしたんだ。秋大会のスコアブックは私につけさせて欲しいって。それで……リードのこととか、少しでも分かればなって思ったの」

 

「二人とも偉いなー。……わたしは正直、今回の紅白戦でちょっと自信無くし気味……」

 

「どうしたの?」

 

 オーバーにうなだれる新田の背中に河北は手を置いて問いかける。

 

「わたし、ショートじゃん? でもショートは有原がいるからさ。このまま一生スタメンになれない気がして……」

 

「それは分からないよ」

 

「なんで?」

 

「……セカンドは、実は夏大会が始まる前は私一人だったんだ。それで阿佐田先輩はね、あの東雲さんと同じサードを守ってたんだ」

 

「あ……」

 

「今すぐ、は無理でも……絶対スタメンになれない、ってことはないと思うよ」

 

「河北……」

 

「自分に出来ることから、でしょ?」

 

「……そうだね。弱気になる前にやることやってからだよね!」

 

 曲がった背をピン、と伸ばした新田は河北に元気付けられる形で迷いが消えた表情を浮かべる。そんな皆の様子を見守るように見ていた野崎も自然と笑みが浮かぶのだった。

 

(……どーして、こーなるのかなぁ)

 

 二人の姉に連れて行かれる形でゆかりはレストランへと足を運んでいた。するとそこで有原家の三姉妹と共に食事を取る運びになった。

 

「みさから連絡きたよ。今日試合したんだって? それに翼って子も同じ学校らしいじゃん」

 

「今日会ったばかりだけどねー」

 

「いつもゆいが帰ってきたら食事には一緒に行くんだけど、さっきゆいから連絡が来たのよ。みさや翼が行くみたいだから折角だし二人も連れてきてって」

 

「そう……なんだ」

 

「せっかくのバイキングだし、二人で取ってきなよ」

 

「行こう!」

 

「そうだね〜。じゃあ行きますか」

 

(ま、じゅり姉やまり姉も二人に久しぶりに会って積もる話もありそうだし、空気の読める妹は大人しく離れときますか)

 

 じゅりはゆいと、まりはみさと話し込むと、ゆかりの話し相手は自然に翼となった。

 

「椎名さん。プチトマトいる?」

 

「無理〜。それだけは苦手なんだ」

 

「そうなんだ〜。残念」

 

(ここのプチトマト甘くて美味しいんだけどなー)

 

「ねえ、翼さ……」

 

「ん? なーに?」

 

(思えば良い機会かもね)

 

「どうしてわざわざ野球部の無かった里ヶ浜で野球部を作ろうと思ったの?」

 

「色々あったんだ〜。でも一番の理由は……野球が好きだから! かな? 今は秋大会で優勝目指して頑張ってるよ!」

 

「……ふーん……? じゃあ野球やめようと思ったことはないの?」

 

「え……」

 

 翼はこの時、返答に困った。この質問にYESかNOで答えるのであればYESと答えるのが正しい答えであった。シニアで全国優勝を成し遂げた後、翼は男子には違う目標があるという理由からシニアでの決勝戦を最後の試合とし、一度野球を辞めていた。

 

「……無いよ!」

 

 しかしほぼ初対面の相手であり、また今は野球をやめることを微塵も考えていないという理由から翼はNOを選択した。

 

「そう……なんだ」

 

(……ああ。この子はあたしとは違うんだ。野球が好きでも、辞めたくなることがあるのを知らないんだ)

 

「そういえば椎名さん、野球やってたって……」

 

(……余計なこと言っちゃったな。まあ、いいか……翼とこの感情を共有することは出来ないんだ。なら、いいや。もう……)

 

 ゆかりの顔から八重歯を覗かせる朗らかな笑みが引いていくと、淡々とこう告げた。

 

「やってたよ。けど辞めた。翼もいつか分かる時が来るんじゃないかな」

 

「何を……?」

 

「好きなことをいつのまにか好きって言えなくなる。そんな時が……翼にも来るよ」

 

「えっ……!」

 

 すれ違うように去っていくゆかりの顔には寂しさが浮かんでいた。そしてその言葉を受けた翼はただ呆然とその場に立ち尽くすのだった。



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秋大会開幕!

 大会前日の金曜日。バスに揺られながら翼は窓の外をぼおっと眺めていた。彼女の瞳に流れゆく景色が映し出されていく中、窓には冴えない表情の翼が浮かび出されていた。

 

「……ん。翼……寝ないの?」

 

 朝早くからの練習の疲れもあり、ほとんどの部員は沼へと沈み込んでいくように背もたれに身を預けて眠りに落ちていた。するとバスが段差で跳ねるように振動して隣に座っていた河北が目を覚まし、半開きの眼で起きている翼の背を捉え、眠たげな声で話しかける。

 

「うーん。身体は疲れてるんだけど……全然寝れないんだ」

 

「そうなんだ。じゃあ……はい。これ使って」

 

 そう言うと河北はシートベルトを少し押し出すようにして体を動かし、足元に挟むように置いてあるバッグに手を伸ばすと、取り出したアイマスクを翼に手渡した。

 

「ありがとう! 使ってみるね」

 

「うん。ふわぁ……おやすみー」

 

「おやすみー」

 

 河北は睡魔の誘惑に惹かれ瞳を閉じ、再び夢の世界へと足を運ぶ。対して有原は渡されたアイマスクを目を覆うようにつけると、視界が暗闇に包まれていったが、それでも眠ることが出来ないでいた。

 

(椎名さん……)

 

 暗闇に促されるように翼が目を閉じると、椎名家の三姉妹との食事の際にゆかりから告げられた言葉が頭をよぎっていく。

 

「好きなことをいつのまにか好きって言えなくなる。そんな時が……翼にも来るよ」

 

 そしてその言葉と共にゆかりが浮かべた寂しげな表情が彼女の脳裏にこびりついていた。

 

(うーん……。私、椎名さんに何か悪いことしちゃったのかな。好きなこと……つまり野球が好きって言えなくなる? ……もしかして)

 

 翼は自分と椎名の繋がりを思い出していると、小学生の時に対戦したことを思い起こした。

 

(……私、あの試合で椎名さんが野球を好きじゃなくなっちゃうような何かを……しちゃったのかな。小学生の時のことだし、もうほとんど覚えてないけど、もしそうだったら。でもそんなことした覚えは……。緩急を使ってくる厄介なピッチャーだなーって思って、最終回に食らいついてギリギリで逆転出来て……それが原因? いや、でも……)

 

 そして時が流れ、もう少しで泊まる宿舎に着こうというところで東雲が目を覚ます。

 

(いつの間にか寝ていたわね。そろそろ宿舎に着く頃かしら。……ん?)

 

 すると右の方から小さいボリュームで唸るような声が聞こえてくる。

 

(有原さん……寝言? それとも起きているのかしら。アイマスクをしていてよく分からないわね……)

 

「はーい! 皆、そろそろ着くわよ! 起きてー!」

 

 前に座っていた掛橋先生が立ち上がり手を叩くと次々と他の生徒も目を覚まし、すぐに喧騒と言っていいほどの活気が溢れていった。

 

(なんと言っていたのかあまり聞き取れなかったわ。辛うじて『野球』と『好き』というのは聞き取れたけれど。……寝言ね。夢の中でも野球なんて、あまりに有原さんらしすぎるわ……)

 

 河北にアイマスクを返す翼を横目に東雲は呆れるようなため息をつく。やがてバスが宿舎へとたどり着き、荷物を分担して部員が次々へと外へ降りていく。

 

「着いたぞー!」

 

「空気が美味いのだ!」

 

「二人とも、後が支えているよ」

 

 岩城と阿佐田が出口付近で開放感を味わっていると九十九に注意され、慌ててそこから離れていく。すると二人とも違和感を感じ取っていた。

 

「あれ、夏の時とは違うところじゃないか?」

 

「確かにそうなのだ。バーベキュー場もないのだ」

 

「部員が増えたから大人数泊まれるところを選んだみたいだね」

 

「アンタ、またしおり読んでなかったでしょ」

 

 夏大会の時に泊まった宿舎と違うことに気づいた岩城に九十九から補足が入り、倉敷はポケットから読み込まれたしおりを取り出すと感心するように聞いていた阿佐田の頭の上に置くように軽い力加減で叩いた。

 

「そーいえば、先生が作ってくれたしおりに書いてあったな! 読んだんだが、すっかり忘れてたぞ!」

 

「あ、ホントなのだ。書いてあるのだ」

 

 岩城は合点がいったように掌に拳を置き、阿佐田は倉敷の行動に驚いたように表情筋を動かしながらしおりを受け取ると中身を読んで納得していた。

 

「でもまいちん、なんだかテンション高めなのだ」

 

「……そう?」

 

「バスに乗った時もヘッドホンで音楽を聴きながら、鼻歌を歌っていたね」

 

「それは……」

 

「はっはっは! 恥ずかしがらなくてもいいじゃないか! それだけ気合いが入っているということだろう! ウチはそういうの好きだぞ! 燃え上がる青春! 迸るアドレナリン! うぉー! なんだかウチも燃えてきたぞー!」

 

 倉敷が舞い上がっていると感じられたと思いそれを恥ずかしそうにしていると岩城が高笑いと共に遠慮なく左肩を叩く。すると少し痛そうにしながらも倉敷は安堵の表情を浮かべていた。

 

「そういえばこういう時アドレナリンが走る〜とか言うけど、そもそもアドレナリンってなんなのだ?」

 

「えっ。……そ、その……あれだ! 気合いとか……そういうものの、別バージョンとかだろう!」

 

「違いま……いや、そうとも言い切れないのかもしれませんが。少なくとも感情の概念ではありませんよ」

 

「おや? 九十九は知ってるのだ?」

 

「ああ。人の自律神経は交感神経と副交感神経の二つに分けられ、この二つの神経がバランスを保ちながら働いているわけだが……アドレナリンというのは交感神経が活発化した際に副腎髄質から分泌されるホルモンのことだ。それで……」

 

「九十九、待って」

 

「どうしたんだい?」

 

「二人ともパンクしちゃってるわ」

 

「伽奈がいきなり意味不明な呪文を唱え始めたぞ!」

 

「なんか難しそうな言葉がいっぱい出てきたのだ」

 

 九十九の解説は岩城と阿佐田には難しかったようで二人とも頭に疑問符を浮かべて困惑していた。

 

「……弱ったな。可能な限り専門用語は避けているんだが……」

 

「まあ説明聞く限り、身体から分泌される物質の一つってのが分かればいいんじゃない」

 

「なるほど! アドレナリンは身体からドワーっと出てくるわけだな!」

 

「……そうですね。交感神経というのは恐怖や不安、あるいは緊張や興奮を感じた時に活性化します。その際にアドレナリンが副腎から血液中に分泌されるわけです」

 

「……? 怖い時と興奮する時って全然イメージ違うのだ」

 

「そうね……。ただどっちもドキドキした時に起こるんじゃない」

 

「ほう! なんか納得できるのだ!」

 

「実際、アドレナリンが血中に分泌されることで血圧の上昇や心拍数の増加などの促進をするはたらきがあるんだ」

 

「なるほどね」

 

「そしてアドレナリンを出す最も手っ取り早い方法というのはあおいの好きな勝負事をすることだよ」

 

「確かに勝負事は興奮するのだ。丁か半かの大博打をしていると勝負師の血が滾るのだ!」

 

「む……? 勝負事というと……もしかしてウチらがやっている野球の試合でもアドレナリンは出ているのか!?」

 

「勿論。それにスポーツとアドレナリンというのは切っても切れない縁があるんだ。何故ならアドレナリンが脳に行き渡るとエンドルフィン・ドーパミン・ノルアドレナリンといった物質も同時に出てくるため——」

 

「……そこらへんの細かい仕組みは省いた方がいいんじゃない?」

 

「……そのようだね」

 

 再び頭の上に疑問符を浮かべたまま固まってしまう二人を見て倉敷がフォローに入ると、九十九はどう説明しようか頭の中で整理をつけてすぐに話を再開させた。

 

「端的に言えばアドレナリンには痛みや疲れを感じにくくさせる効果があるんだ」

 

「なにっ! そうなのか!?」

 

「特に投手はその効果を実感しやすいかもしれないね」

 

「この前の紅白戦が終わった時、アンタに肩を借りないとベンチまで歩けないくらいの疲労が急に押し寄せてきたけど、そんな状態でも投げ切れたのはそういうことだったのね。アタシはそれこそ気力で投げられたんだと思ってたけど……」

 

「先ほど岩城さんも気合いが……と言っていたが、アドレナリンがより多く分泌されるのは追い込まれた時だ。というのもアドレナリンというのは元々動物が生命の危機に瀕した時に闘うのか、逃げるのかを瞬時に判断するための身体機能なんだ」

 

「おお〜。火事場の馬鹿力ってやつなのだ。……分かったのだ! まいちんは体力きつくて追い込まれても、気合いを入れて完投を目標にして投げたからアドレナリンが疲れを和らげてくれてたのだ。つまり気力で投げられたというのも間違いじゃないのだ」

 

「そうだね。気合いが入るというのは物事を意気込んで、集中して取り組もうとする気持ちが起こるさまを指す表現なんだ。だから気合いとアドレナリンは異なるものではあるが……別バージョン、だったかい? そう捉えてもいいのかもしれないね」

 

「おおー! そうなのか! 凄くすっきりしたぞ!」

 

「さすが九十九! 普段から難しい本ばかり読んでるだけのことはあるのだ!」

 

「……逆にあおいは普段からもう少し本を読んだ方が良い。だって君も看護がっこ——」

 

「わーっ!? ストップ&(アンド)お口チャックなのだ!」

 

「むぐ……」

 

 九十九が言葉を紡ごうとしたところで大声を出した阿佐田は慌てて九十九の口を押さえると、九十九だけに聞こえるように小声で話しかけた。

 

「い、言っちゃダメなのだ!」

 

 すると九十九から手を軽く叩かれて、口を押さえたままだったことに気づいた阿佐田は慌てて手を離した。

 

「ふぅ。誤魔化すようなことではないと思うが……」

 

「ダメなものはダメなのだ! 勝負師のあおいがギャンブラー以外のものを目指すなんて、皆の夢を壊しちゃうのだ!」

 

「そんなことは無いだろう……」

 

「それに、その……は、恥ずかしいのだ……」

 

(それが本音だな……。真面目なところを見られたくないんだろう)

 

「どうかしたのかー?」

 

 赤面して縮こまる阿佐田の様子を見下ろすように窺った九十九は短くため息をつくと、岩城の方に振り返った。

 

「……アドレナリンの他の効果を聞かれただけですよ」

 

「何! 痛みや疲れを感じにくくさせるだけじゃないのか!?」

 

(……ありがとうなのだ)

 

 その返事に阿佐田は目線で感謝の意を伝えると九十九も頷きながら説明を続けていく。

 

「ああ。先程言ったようにアドレナリンは生存本能そのものだから、極限まで追い込まれた場合、生き延びるためにアドレナリンを一気に血流へと流し込む。これにより血管が広がり酸素が通りやすくなるんだ。すると脳内の酸素量が増えて注意力や集中力向上に繋がり、血液中の酸素濃度が上がることで——」

 

(結果だけじゃなく経過も伝えた方が九十九としては落ち着くんでしょうね……)

 

 懲りずに原理を説明する九十九の心情を倉敷がやや呆れながら察していると限界を迎えた岩城が声を上げた。

 

「九十九……すまん! もっとシンプルに頼む!」

 

「……つまり一時的ではあるが身体能力を飛躍的に向上させることが出来るんだ。『ゾーン』に入るというやつだね」

 

「おおっ! それは凄いな! 気合いを入れれば、ウチも凄く体が動くようになるのか?」

 

「いや、先ほど挙げた一つ目の効果に比べるとこちらはかなり追い込まれないと難しいね。なにせ自分のリミッターを外すようなものだから、相当な条件下でないと目に見えて分かるような効果は現れないだろう」

 

「そうかー……簡単にたどり着ける境地ではないということだな!」

 

(……そういえばこの前の紅白戦の有原への二打席目……今思い返しても、あれはアタシの限界を超えたピッチングだったように思える。それにも関わらず、あの時はそんな無理な狙いを通せるような感覚があった。あれはもしかすると『ゾーン』に入っていた……?)

 

 九十九の言葉に直感が働いた倉敷は右手の指先を見つめ、妙に鋭く研ぎ澄まされたような感覚を思い起こしていた。

 

「だが『ゾーン』とまで行かなくても、ある程度のパフォーマンス向上には繋がるね。きっと私たちも意識しないうちにその恩恵は受けているだろう」

 

「ふむ〜。知らなかったのだ。アドレナリンさんには感謝なのだ」

 

「その恩恵を明日も受けるためにも夜更かしせずにしっかり寝るんだよ、あおい」

 

「ふにぃ〜! なんで名指しなのだ! あおいは遠足前日の子供じゃないのだ!」

 

「騒ぎそうだからじゃない?」

 

「まいちんまで酷いのだー!」

 

 二人からの扱いを阿佐田が嘆いていると顎に手を当てて考え込んでいた岩城が不思議そうに問いかけた。

 

「寝ないとそりゃ身体には良くないだろうが……さっきの話とどう関係するんだ?」

 

「最初に自律神経は交感神経と副交感神経の二つに分けられるという話をしたね」

 

「アドレナリンは交感神経が活発化することで分泌されるって話だったわね」

 

「そうだったかあおい……?」

 

「そんなことを言っていたような気はするのだ」

 

「……難しい話ではないさ。簡単に説明すると眠っている時は心と身体を休ませる副交感神経の方が優位に働くため、交感神経を休ませることが出来る」

 

「ほう……」

 

「ふむ……」

 

(ここに来て説明のコツを掴んできたのか……。九十九自身は細かく説明したいところを我慢してるみたいだけど)

 

(本当は自律神経の乱れにより見られる症状やその予防法も触れるべきだと思うのだが……)

 

「しかし寝ないと交感神経を休ませる暇が無くなる。そうなると肝心な時に活発化してくれないというわけだね」

 

「なるほどな! 身体を休める時、神経もまた休みを必要としているわけか!」

 

「分かりやすいのだ〜」

 

「そうなんだ……。アタシは特に気をつけないといけないわね。先発を任されて、それで肝心な時に力を出せなかったら情けないわ」

 

「おお……まいちんがやる気に満ち溢れているのだ」

 

「……当然よ。アタシにとっては待ち望んだリベンジの機会だもの」

 

「リベンジ? 明日戦う高波高校とは試合したことないぞー?」

 

「夏のリベンジよ。打たれまいと初回から全力投球した結果、持たずに野崎に負担を掛けて負けてしまったあの大会の……。アタシはあの試合、先発として果たすべき長いイニング数の投球が出来なかった」

 

(……そうか。だから夏大会が終わってから、自分に厳しくしようと自分が良いプレーをしても笑わないようになんてことをしていたのか……)

 

「……そうだったな。だが一人で背負うな! 夏大会のリベンジをしたい気持ちはウチらも同じだ!」

 

「そうなのだ! 水臭いのだ!」

 

「アンタ達……」

 

「明日の試合、ウチら先輩がプレーで後輩を引っ張っていこうじゃないか!」

 

 右拳を突き上げるようにそう宣言する岩城に他の3人も頷き、明日の試合への士気を高めていくのだった。

 

(あわわ……先輩達凄いやる気……)

 

「どうしたの加奈子。そんなロボットみたいな動きして」

 

「明日試合なんだって思うと、頭が真っ白になってきて……」

 

「もう、今からそれだと明日まで持たないよ」

 

「そ、そんなこと言われても〜」

 

(わたしも二人みたいに頼ってもらえるようにって思ってたのに、まさかスタメンにわたしだけ抜擢されちゃうなんて……そのことの意味が試合が明日に迫って、ようやく身に染みてきたっていうか……)

 

 緊張が身を纏うように包み込みぎこちない動きになっていた永井に新田と近藤は声をかけていた。

 

「大丈夫! なんとかなるって! それに球場での試合は初めてじゃないっしょ!」

 

「た、確かに……」

 

「でも観客が入っての状態だとまた違うかもね」

 

「ひうっ……!?」

 

「こらー! 折角新田ちゃんが珍しく気配りを見せていたというのに!」

 

「ごめんね。けど、試合が始まっていざ観客に圧倒されると大変かと思って」

 

「それは……そうかもねー。自分のプレーを色んな人に見られるわけだからねー」

 

「あばば……」

 

「でも大丈夫っしょ」

 

「うん。ちゃんと最初からそれが分かってれば大丈夫だと思うよ」

 

「な、なんで〜!?」

 

「だって加奈子、スタメン決まっても一杯練習頑張ってたじゃん」

 

「中野さんにセンターの心得を聞いたりして、試合に向けて色々準備していたでしょ?」

 

「あ……」

 

 二人の手が永井の肩に置かれると次第に震えは止まっていった。

 

「加奈ちゃんが精一杯やってきたのは私たちが見てきたから」

 

「試合でも観客の目なんか気にならないくらい頑張ってるところをわたしたちが見るからさ」

 

(……見て、くれてたんだ。今までわたしのことを守ってくれた咲ちゃん、引っ張ってくれた美奈子ちゃん。二人が今度はわたしの背中を見て後押ししてくれてる……)

 

「……うん! 精一杯、やってくるね!」

 

 二人の後押しを受けた永井は気を引き締め直すと、覚悟を決めた表情を見て新田と近藤も顔を見合わせて笑みを溢すのだった。

 

「みんな、荷物は持ったわね。宿舎に入るわよ!」

 

 バスから全員が降りたところで東雲の指示で部員が次々と宿舎の中へと入っていく。翼も宿舎へと向かおうとしたところで後方で重そうに大荷物を運ぶ鈴木に気づいた。

 

「手伝うよ!」

 

「助かるわ……。ちょっと自分の筋力を過信しすぎたみたい」

 

 翼がそのフォローへと向かうべく鈴木のもとに向かい、彼女が元々持っていた荷物を左手だけで持つと、鈴木の持つ大荷物を右手で共に支えた。するとそこにランニングをする集団の声が届いてくる。

 

「帝陽ー! ファイ! ファイ!」

 

「そこまで! 各自ストレッチをしてクールダウンを済ませてから宿舎に戻るように」

 

 二人は一度大荷物を地面に下ろすと、指示を出していた長身の女性が二人に気づき長い青紫色の髪を揺らしながら向かってくる。

 

「里ヶ浜高等学校キャプテン、有原翼さんですね?」

 

「え……あ、はい! そうです!」

 

「私は帝陽学園のキャプテンを務めさせて頂いている乾ケイと申します。以後お見知り置きを」

 

「こちらこそよろしくお願いします!」

 

「私は同じく里ヶ浜のキャッチャーをしている鈴木和香と申します」

 

「ご丁寧にありがとうございます。同じ宿舎に泊まる者同士、少しでも長い滞在となることを願います」

 

「ありがとうございます!」

 

(同じ宿舎だったのね……)

 

「……ところで一つよろしいでしょうか?」

 

 話し込んでいると不意に乾が紫色を帯びた赤い瞳で二人のことを見つめる。

 

「今日からの宿舎入りということですが、大会に向けて現地の環境に慣れるようもう少し早い段階での宿舎入りが望ましいかと」

 

「あまり部費に余裕が無いので、それは出来なかったんです」

 

「部費ぃ……」

 

「……なるほど。そうでしたか。その事情は分かりましたが……一つ警告をしておきましょう」

 

「警告……ですか?」

 

「あまり他校に自分の部の内情を話さないことです。例えば今の情報だけでも貴女方の普段の練習環境レベルを察することが出来ます」

 

「「あ……!」」

 

「それでは失礼します」

 

 乾は一礼すると帝陽の部員のもとに戻り、共にストレッチをしてクールダウンを進めていった。

 

「ごめんなさい。私が余計なことを言ってしまったばかりに……」

 

「ううん! 和香ちゃんが言わなかったら私が同じことを言ってたから、それは気にしなくていいよ! ……それにしても凄い眼力だったね」

 

「蛇に睨まれたカエルの気持ちが分かったわね……」

 

「あれが帝陽が誇るID野球の要、乾ケイだにゃ」

 

「わっ!」

 

「中野さんいつの間に……」

 

「荷物置いても二人が来ないから、たった今様子を見にきたんだにゃ」

 

 乾の眼力に圧倒されていた二人の後ろから突如として中野が現れると、取り出したメモ帳から帝陽のデータを探り出していた。

 

「帝陽は実際にはプレーしないデータ分析の部員がいるほど、徹底した管理野球をしてくるチームだにゃ。その中でもキャプテンでキャッチャーを務める彼女は『不測の事態が殆ど存在しない』とされる広い視野を武器とし、高い統率力に定評があるんだにゃ」

 

「ほえー……凄い人なんだね」

 

「キャッチャー……」

 

「ま、去年の秋大会優勝校と同じ屋根の下なのはびっくりしたけど、もし帝陽と当たるとしたら決勝だから、今から嘆いていてもしょうがないにゃ。ほれ、さっさと宿舎に戻るにゃ」

 

 すると中野は翼が持っていた荷物を手に宿舎へとさっさと戻っていく。中野の意見に同意した二人は大荷物を持ち上げると宿舎へと入っていくのだった。

 そしてその夜。近藤は鈴木にスコアブックのチェックを行ってもらっていた。

 

「凄い……完璧よ。あれからまだ3、4日しか経ってないのに」

 

「咲の記憶力は凄いよー! なんたって『鉄人』のメニューを何も見ずに全部言えるんだから!」

 

「そ、それは自分のお店だからよ」

 

「でも『鉄人』のメニューって軽く100個はあったよね……」

 

「お父さんが色んなメニューを試すからね」

 

「……大丈夫そうね。秋大会のスコアラーは近藤さんにお願いするわ」

 

「分かりました!」

 

「よっ! 『鉄人』の咲ちゃん!」

 

「こら! その呼び方は女の子っぽくないから嫌だって言ってるでしょ!」

 

「やばっ! 逃げろー!」

 

「もう……」

 

 おどけた様子でその場を離れる新田に近藤は呆れたようにため息を吐くと、話を続けた。

 

「確かに記憶力に自信はあるけど、さすがに大変だったわ。普段そこまで難しい本を読んだりしないもの」

 

「えー、意外ー! さきってすっごく難しい本とか読んでそうなのにー」

 

「そんなことないわよ。私が普段読むのなんて恋愛小説か少女マンガくらいだもの」

 

「そうなの!? なんだー。それなら言ってくれればいいのに」

 

「……? どういうこと?」

 

「麻里亜ちゃんがこの前貸してくれた恋愛小説すっごい良かったんだから!」

 

「えっ! 二人とも恋愛小説を読むの? きゃー! 嬉しい!」

 

「わわっ!? 近藤さん落ち着いて、揺らさないで下さい」

 

「あっ、ごめんね。でも嬉しくって!」

 

 急にテンションが上がって初瀬の肩を掴んで身体を揺らす近藤に皆唖然としていた。

 

「近藤さん、恋愛もの好きでいらっしゃったんですね」

 

「それはもう! でも美奈子も加奈ちゃんも花より団子で……語り合ったり、貸し借りする相手がいなかったの」

 

「お団子も好きだけど、花料理もいつか挑戦してみたいとは思ってるよ……!」

 

「……なるほどねー。じゃ、時間あるときに三人で語り合いましょうか!」

 

「良いですね……!」

 

「今度私のおすすめの本持ってくるから、私にも逢坂さんに貸したっていう本読ませてね!」

 

「は、はい。是非!」

 

 普段見ないほどにはテンションの上がった近藤に初瀬と逢坂は戸惑いつつも趣味が合ったことを喜び合う。やがて新田の首根っこを掴むように部屋へと戻ってきた東雲によって電気が消され、部員達は就寝の時を迎えた。

 ——そして日が昇り大会当日。太陽の光が部屋へと突き刺さるように入ってくる。その原因は閉じていたカーテンを岩城が全て開けていったからだった。

 

「朝だぞー! みんな起きろー!」

 

「んん……朝かあ……。ふわぁ……。……あれ、翼は?」

 

 寝ぼけ眼を起こして河北が部屋から出ていくと洗面所で翼の姿を見つけた。彼女は水で顔を洗っており、河北に気づくと手に持ったタオルで顔を拭く。

 

「……おはよう! ともっち!」

 

「うん。おはよー、翼。珍しく早起きだね」

 

「き、今日から大会だもん! いつもみたいに寝坊してられないよ」

 

「あはは、そっか。私も顔洗って良い?」

 

「いいよー。先に部屋に戻ってるね」

 

 翼が使っていた洗面台以外は他の部員で埋まっており、河北は代わるようにその洗面台から出っ放しの水で顔を洗った。

 

「冷たっ! もう……そりゃ冷たい水の方が目は覚めるけど、寒くなってくる時期だし温水にすればいいのにー」

 

 河北は水色のマークがついている蛇口を捻って冷水を止めると、代わりにオレンジ色のマークがついている蛇口を捻って温水で顔を洗うのだった。

 

 準備が整い、バスで球場へと向かっていった皆を待っていたのは開会式だった。前秋大会優勝校の帝陽学園のキャプテンを務める乾が優勝旗の返還を行い、その様子を32校が列に並んで今年度の優勝旗を手にすることを夢にして見守る。やがて開会式が終えられると里ヶ浜高校も一度球場の外へと出ていった。外は他校の生徒達も大勢おり、人混みが彼女らを包囲するようにごった返す。

 

「ねえー、りょー! この後はどうするの?」

 

「第一試合はもうしばらくしたら始まるわ。私たちは今日の最終試合だから、それまでは観客席から試合を見守ることにしましょう」

 

「分かったー! じゃあ先に行って、バミっておくね!」

 

「え……バミっておく?」

 

 困惑した東雲が聞き返した頃には小柄な体を生かして人混みを縫うように球場へと向かっていくと、すぐに見えないところまで行ってしまった。

 

 そして時が流れ、開幕試合前のシートノックが始まっていた。

 

「おーい! 神宮寺! 頑張れよー!」

 

「俺たちとの紅白戦の成果を出してこい!」

 

 その声援に気づいた神宮寺は帽子を取ってスタンドに向かって一礼すると引き締まった表情でノックを再開させた。

 

「……あれ、清城の男子野球部ね。甲子園の出場経験もあるっていう強豪」

 

「強豪……ねぇ」

 

 そんな声援の正体に向月ベンチは気づいていた。

 

「椿。そろそろ飴はしまった方が良いわよ」

 

「はいはい。相変わらず細かいわね、クソキャッチャー」

 

「もうその呼び方にも慣れたわよ……」

 

 仕方なさそうに残った飴を噛むように口に含んで残った棒を包装袋に入れる高坂に向月高校の正捕手が呆れたように額に手を当てる。

 

「強豪っていっても、ここ10年くらいは甲子園に行ってないでしょ。強豪というよりは……“古豪”ってところね。秋大会も予選ベスト4止まりだったみたいだし」

 

「それって経験があるベテランみたいな意味じゃなかったっけ」

 

「だからアンタは細かいのよ。高校野球で古豪って言ったら、昔は良かったけど今は低迷してるとこ指してるようなもんでしょ」

 

「ふーん……? ま、どちらにせよここ一年、準優勝続きのうちが言えたことじゃないでしょ」

 

「ちっ……! まあ、そうね」

 

(うわあ……! あの怖い高坂先輩にここまで言い合えるなんて……やっぱり一軍のキャッチャーは違うなあ)

 

 高坂の高圧的な物言いをものともしない一軍捕手の姿に、夏大会時点では三軍で投げていた投手が二軍や三軍との違いをひしひしと感じていた。

 

「……聞こえてるわよ。誰が怖いですって?」

 

(ふわっ!? 声に出てた……!?)

 

「そりゃアンタは後輩からしたら怖い以外の何者でもないでしょ」

 

「アンタは黙ってなさい」

 

 高坂はキャッチャーを睨みつけながらおもむろに立ち上がると後輩投手の目の前までやってくる。

 

「……アタシはね、忘れてないわよ。アンタが夏大前の練習試合で格下で、しかも出来たばかりの里ヶ浜に5失点を喫したこと」

 

「う……で、でもわたしはその時の悔しさをバネに一軍まで這い上がってきたんです!」

 

「這い上がってきた……ねぇ」

 

「確かに二軍には三年生の引退で人数が減ったことで三軍を組むには人数が足りないという理由で上がりました。けどわたしはそこから一軍への昇格試験をクリアしてここまで上がってきたんです。“名門”向月の投手としてチームの力になるために!」

 

「ならアンタはアタシを超えられる?」

 

「え……いや、それは……」

 

(全国No.1(ナンバーワン)ピッチャーの高坂先輩に……。それは……む、無理だ)

 

「アタシ達は常に優勝、一番を狙っている。なのにチーム内で一番の投手も目指せないのなら、名門向月の看板を軽々しく語るな……!」

 

 質問に戸惑いを見せた後輩投手に高坂は苛立ちを隠そうともせず彼女の背後の壁に手をついて、身体との間に挟むようにして冷たい目で見下ろした。

 

「はいはい。そこでストップ。……試合前に後輩を脅してどうするの」

 

「ふん……!」

 

 高坂の迫力に顔が白くなっていく後輩投手を見兼ねたキャッチャーが割って入ると、高坂は壁から手を離して彼女に背を向けた。

 

「忘れんじゃないわよ。アンタが一軍に上がれたのは、アイツが……アイツがいなくなったことで空きが出たからだってことを」

 

 唇を噛むようにそう告げた高坂は後輩投手から離れていくとベンチに座り直した。

 

「そんなんだから怖いって思われるのよ?」

 

「うっさい」

 

「飴取り出そうとしないの」

 

 飴が入っているポーチに手を伸ばそうとする高坂をキャッチャーは止めると、耳元まで顔を持っていって他の人に聞こえないような小声で話しかけた。

 

「それで……大丈夫なんでしょうね。肘の方は」

 

「ほんっとに細かいわね、アンタは。大丈夫だって言ったでしょ。シュートの球数制限さえ守れば平気よ」

 

「……分かった」

 

 高坂の返事に頷いたキャッチャーは清城のシートノックが終わるのを見て皆に声をかけた。

 対してシートノックを終えた清城は先攻の向月高校がシートノックをする様子を横目に最終確認を行なっていた。

 

「——それが高坂さんを崩す数少ない手です。全員共通の意識として打席に立つようにして下さい」

 

「分かった!」

 

「おっけーだよぉ。9番から7番に打順も上げてもらったし、気合い十分!」

 

「ふふ……」

 

「……? どうしたの神宮寺さん?」

 

「いえ……『女子野球に未練を残さないよう清城に入った』と言っていた貴女を思い出して、今とのギャップに恥ずかしながら笑いが溢れてしまいました」

 

「や、やめてよぉ〜。私の黒歴史時代引っ張って来ないでー」

 

 清城の中堅手が目を瞑りながら耳を軽く塞いで呻き声を上げると清城ベンチにどっと笑いが起きていた。

 

「うー。みんな意地悪さんだ……」

 

 向月のシートノックが終わり、互いに向かい合うように整列して球審の礼に合わせるように向月・清城の挨拶がグラウンドに響き渡る。そして後攻の清城がそれぞれのポジションに散っていくと、神宮寺はストレートを4球、スライダーとシュートを2球ずつ投じて投球練習を済ませ、打席へと向かってくる一番打者に目を向けた。

 

(さあ……こちらは万全の態勢が整いました。今こそ、勝負の時です!)

 

 バッターが右打席に入り準備を整えると球審から上げられた試合開始(プレイボール)の宣言に凛とした顔つきとなった神宮寺のベージュ色の長髪がマウンド上で花咲くように揺れて、牧野のミットを目掛けてボールが投じられ、開幕試合の幕が切って落とされたのだった。



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コントラスト

「クルー。キュッキュー」

 

 里ヶ浜野球部が試合開始前にリスのルーちゃんの案内でスタンドを歩いていると、場所を確保していた秋乃のもとへと辿り着いていた。

 

「ルーちゃん偉い! はい、ご褒美のどんぐりだよー」

 

「キュー♪」

 

「もー、龍ちゃんから小麦ちゃんがバミってるって聞いたから何かと思ったわよ」

 

 秋乃に礼を言いながら次々と並んで座っていく部員たちを横目に逢坂は席の後ろでルーちゃんにどんぐりをあげている秋乃へと話しかけた。

 

「えへへー。ちゃんと分かりやすかったでしょ?」

 

「確かに……おかげで迷わずに来れたわ!」

 

(でもちょっと意味が違うのよね……。ま、いっか)

 

「それで……そっちの子は誰?」

 

「さあー? さっき話聞いたら虚栄と偽善(きょえーとぎぜん)とかなんとか……」 

 

 逢坂が手を組み合わせて作ったフレームを通すようにルーちゃんを見つめる、秋乃より10cmほど身長が高い謎の女性に疑問を抱いていると部員たちも気になって皆振り向いていく。新入部員が正体に疑問を抱く中、その正体に気づいた河北と宇喜多が同時に声を上げた。

 

「「天草さん!?」」

 

「んー? 誰かわたしを呼んだぁ?」

 

 プレイボールの宣言に紛れて聞こえた自分の名を呼ぶ声に思案した顔のまま杏色の髪を揺らして振り向いたのは野球部同好会の頃にユニフォームのデザイン案を出した美術部の天草琴音(あまくさことね)だった。集中していた彼女はようやく野球部の皆に気づいたようで今になって牡丹(ぼたん)色の目を見開いていると、マウンドでは神宮寺が投球姿勢に入っていた。

 

(身体に向かってくる……!?)

 

 プレイボールの宣言がグラウンドに響き渡ってから数瞬の後に投じられた神宮寺のボールに右打席に入っている向月の一番打者は危機感を覚えて避けようと身体を引く。するとボールはボールゾーンからストライクゾーンへと切れ込むように変化していった。

 

「ストライク!」

 

(あそこからストライクに入るのか!? これが神宮寺のスライダー……。なるほど、あの椿が目を付けるわけだ……)

 

(うわ……視線を凄く感じる。バッターだけじゃない……一球も見逃すまいとする向月ベンチの集中力が伝わってくるよ。でもだからこそ今の一球だけで小也香のスライダーを強く意識させることが出来たはず)

 

「小也香ナイスボール! その調子でいこう!」

 

 相手ベンチから集まる視線を感じながらも牧野は気後しないように声量を上げて神宮寺へとボールを投げ返す。

 

(夏大会ではスライダーの精度が乱れてしまいましたが……今日は良い調子です。この調子でいければベスト。そしてそのベストを貫けるよう……)

 

 振りかぶった神宮寺がボールを投げ込むとその反動で右足が跳ねる中、高さこそきっちり低めに決まったものではないが、外枠ギリギリに投げられたボールにバッターのバットが止まる。

 

「……ストライク!」

 

(練習を積み重ねてきたのです! 全ては……名門清城復活のために!)

 

(たぁー……これでホントに一年? まいったね。スライダーだけでも厄介なのに、中々良いストレート持ってるじゃん。神宮寺は公式戦のデータが少ないからな……他にも持ち球があるなら引き出したいところだけど)

 

 バッターは苦笑いを浮かべながらバットを構え直すと3球目がアウトコースへと投じられた。

 

(ちょっと遠い……ボールだ)

 

(よし! バットを止めた!)

 

 ストレートに備えてタイミングを合わせていたバッターはこのボールが外に外れたと判断してバットを止めると、ボールはストライクゾーンへと向かって曲がってきていた。

 

(しまっ……! シュート!?)

 

「……ボール!」

 

 変化したシュートはベースより僅かに外に外れた軌道になりボールのコールが為された。バッターはキャッチャーから見えないように安堵の息を吐き出すと、向月のベンチを見てサインを確認していた。

 

(ミットの位置とあの見逃し方を考えると……あのクソキャッチャー! ボールだと思わせてバックドアで入ってくるシュートで見逃し三振を取るのはアタシ達もよく使う手でしょうが……!)

 

(うわあ……睨んでる。めっちゃ睨んでる。分かってるって……けど神宮寺のシュートはアンタほど変化しないから、スライダーとストレートに意識があったこともあって意表を突かれたのよ)

 

 キャッチャーも務める一番打者はサインを了承すると鋭い眼光で射抜くように見つめてくる高坂を背に冷や汗を浮かべながらバットを構え直す。

 

「惜しいよ! でも高さは良かった!」

 

(ええ。もう少し中に投げられれば良かったのですが、中に入りすぎれば一転して甘い球となってしまいます。0ボール2ストライクからの意識としては間違っていないでしょう。次は……そうですね)

 

 ボールを受け取った神宮寺は牧野のサインに頷くと4球目を投じた。

 

(ストライクだ! 振らなきゃ……とっ!)

 

(スライダーに反応した? けどこれは……)

 

 アウトコース低めやや真ん中寄りから変化していくスライダーはボールゾーンへと曲がっており、空振りに備えて牧野はボールに備える。しかしボールゾーンへと流れたこのスライダーをバッターはバットの先で弾き返していた。

 

「ピッチャー!」

 

「はい!」

 

 芯を外した打球は右方向にボテボテの勢いで転がるゴロ。牧野の指示で神宮寺がこのボールを処理すると、前に出ずに一塁についていたファーストに送球が行われ、バッターはアウトになった。

 

(あっちゃー……ダメだ。当てただけのピーゴロか)

 

(あれでも当てられるんだ……。あのボールは手を出したらそのまま空振りになることが殆どで、見極めもしづらいのに)

 

(向月の特徴の一つ、三振率の低さ。簡単に三振を取らせないことでピッチャーにプレッシャーをかけられる打線……そして三年生が引退した秋大会でもこの強みを維持できる戦力の厚さも窺えますね)

 

 続く二番打者が左打席に入るとその初球はアウトコース低めからバックドアで入ってくるスライダー。遠く離れたコースから切り込むように入ってくるこのボールにバッターが手を出さずに見送るとストライクの判定が出されていた。

 

「この前の練習試合では変化球はセオリー通りにベースの外へと流れるものがほとんどだった。どうやら……この前提供した情報をリードに生かしているみたいね」

 

 鈴木がスタンドからバッテリーの配球を考察していると、続けて投じられたインコース低めのシュートにバットが振り出され、打球が放たれた。

 

(くっ、少し低めに外れてたか……?)

 

「アウト!」

 

「ツーアウト! しっかり声出していこう!」

 

 リズム良く二番打者をセカンドゴロに打ち取り、牧野の掛け声で緊張気味だった清城ナインにも声が出始める。

 

「スライダー嫌がって、ボール球打たされてちゃ世話ないわね」

 

「う……次は打つから!」

 

(ここまで球種はストレート、スライダー、シュートか……。夏の大会の時から変わってないみたいね)

 

 高坂は二人に投げてきた球種を聞いてから三番打者として右打席へと入っていった。

 

(来た……この人が高坂椿さん。バッターとしても好打者だ。ツーアウトでも気は抜かずにいこう)

 

(はい。慎重にいきましょう)

 

 高坂が地面をならしてバットを構えるとサインを交換し終えた神宮寺がボールを投じた。すると高坂はバットを振り出す素振りを見せずに真ん中低めからアウトコースへと曲がっていくスライダーを見送った。

 

「ストライク!」

 

(ストライクは先行出来たけど、軌道をじっくり見られちゃったな)

 

(ふーん……良いスライダーね。変化量は勿論、これだけ変化するとコントロールはつけにくいもんだけど、低めの悪くないとこに決まってる。でも決め球なんでしょ? 追い込む前に投げすぎじゃない?)

 

 次に投じられたボールがインコースへと向かっていくと高坂のバットはピクッと反応を示したが振り出されず、ボールは高坂に向かって曲がっていきボールゾーンで捕球された。

 

(シュートは並ね。後はストレートも見ておきたいけど……)

 

 3球目が投じられるとボールは勢いよくインコースに向かっていき、高坂はここで初めてバットを振り出した。すると差し込まれ気味にバットが振り切られ、打球は低い弾道でバックネット方向へと飛んでいった。

 

「ファール!」

 

(2球目のシュートのコースに合わせきたか……やってくれるじゃない。それに……)

 

 高坂の目は投球の反動で跳ねた神宮寺の右足の勢いが収まり、地面に下ろされる様子を捉えていた。

 

(ああやって反動で足が跳ねるのは下半身で生み出した力をボールにうまく伝えられてる証拠。野崎と違ってワインドアップが合っているタイプね)

 

(初回の攻撃を3人で終わらせられたら、相手もイヤだよね。ここは思い切って……)

 

 ボールを投げ返した牧野はキャッチャーボックスに座り直しながら、神宮寺の投球に気圧されるように声援が途切れ途切れになっている相手ベンチを見ると、意を決した様子で神宮寺にサインを送った。

 

(……牧野さん、焦ってはいけません。相手は名門向月です。勝負時を誤れば最後、こちらの勝機は消えてしまいます)

 

(……! ……そっか、そうだね。分かったよ)

 

 そのサインを受けた神宮寺はすぐに首を横に振り、牧野は少し動揺しながらも次のサインを送った。

 

(ええ、それで良いのです。一人もランナーを出させないというのは理想の投球でしょう。しかし現実としてそれは容易に出来るものではありません。ですからピッチャーというのは……)

 

 神宮寺が振りかぶり、高坂が投球に備える。そしてオーバスローの投球フォームから投じられたボールはアウトコース低めやや真ん中寄りへと向かっていった。

 

(打たれることは恐れず、その上で打ち取るための挑戦をしなくてはいけないのです!)

 

(入ってるか……? これは……ストレート、じゃない! 初球より厳しく四隅を狙った……!)

 

 ストレートを投じられた時にバットを合わせるべく、早めに踏み込んでいた高坂はこのボールにタイミングを崩されていた。そして外へと曲がっていくスライダーに腰を低く落とすと、振り切る形ではなく合わせるようにバットの先でボールを捉えた。打球は逆らわず右方向へと打ち上がる。

 

(芯を外されたか……けど)

 

(四隅の際どいコースへとコントロール出来ましたが……ついてきましたか)

 

 打球は一二塁間を越えると一度下がる構えを取ってから前に出てきたライトの前へとぽとりと落ちた。

 

(小也香のスライダーに初打席でついてくるなんて……。しかもあれだけ沈み込んでもブレない下半身の強さ、あれが全国No.1(ナンバーワン)ピッチャーの足腰なんだ)

 

(牧野さん)

 

(分かってるよ小也香。高坂さんは好打者だけど、長打はあまりないアベレージヒッター。けど次のバッターは夏の大会でも四番を務めて、長打を量産した好打者……打たれたことは切り替えて、このバッターに集中しないと)

 

 ボールを受け取った神宮寺は言葉は発さずに視線を送ると、それに気づいた牧野は頷いて指示を送った。

 

「内外野下がって! ファーストとサードはもう少しライン際に!」

 

(さすがにヒット一つじゃ焦らないわね……打ちなさいよクソ四番)

 

(高坂が出塁率高いから、その分ウチが打てないとなじられるんだよなあ……。まあ、その方がウチは気合いが入るからいいけど。むしろ打って当然くらいで構えといて貰わないと……名門向月の四番を任された意味が無いからね)

 

「しゃす!」

 

「し、しゃ……お願いします」

 

 向月の四番打者が球審と牧野に軽く頭を下げながら威勢よく挨拶をすると、牧野が小声で返事を返す間に右打席へと入り準備を整えた。そして神宮寺は一度高坂に目をやってから、クイックモーションでボールを投じる。アウトコース高めへと投じられたストレートは高めに外れており、ボールを引きつけたバッターはその構えのままバットを止めて見送った。

 

「……!」

 

「ボール!」

 

 すると牧野が一塁に向かって送球を行い、一塁ベースについていたファーストがボールを受け取り高坂にタッチする。

 

「セーフ!」

 

(へぇ。ツーアウトだし、盗塁を警戒すんのは当然として……初回からピックオフプレーとはね)

 

(こ、この人随分早く戻ったな……)

 

 余裕を持って一塁ベースに帰塁していた高坂へのタッチにセーフのコールがなされ、ファーストから神宮寺に返球される。

 

(ピックオフプレーは虚をついてこそですから。一塁ベースにつくタイミングや牧野さんの捕球体勢から察したのでしょう。ですがこう牽制されるだけでも走りにくくなるものです)

 

 2球目が投じられると再びアウトハイに投じられたシュートがボールゾーンからストライクゾーンへと曲がっていき、このボールをバッターは思わず見送っていた。

 

(長打のあるウチ相手に高めのゾーンに入れてくるとはね……)

 

(おや……睨まれてしまいました。気の強い方ですね)

 

 神宮寺は一度首を横に振り、次のサインに頷くと今度はインコースにボールが投じられた。

 

(よし!)

 

 インコース高めに投じられたボールを振り出されたバットが捉えると、左方向へと打球が飛ばされ、高い弾道で放たれた打球はやがてファールスタンドへと入った。

 

「ファール!」

 

(もう一球シュートで来たか……!)

 

(上手く打ち気を逸らせたでしょうか。次は……そうですね。里ヶ浜との練習試合の後、牧野さんからの相談を受けて意欲的に練習した……)

 

 4球目が投じられると膝下のボールゾーンへとボールが向かっていった。

 

(これは……見逃したらただじゃおかないわよ!)

 

(……! スライダー……か!)

 

 膝下から切れ込むようにフロントドアで入ってくるスライダーに反応してバットが振り切られると、すくいあげるようにしてフライ性の打球がレフト方向へと放たれた。高坂もスイングを行う確信を持った瞬間、スタートを迷わず切っている。

 

(うわ……! ボールがあんなにちっちゃく見える。アタシもこんな空へとグングン伸びるような打球飛ばしてみたいよ……っと!)

 

 予め深い所まで下がっていたレフトがさらに下がり、レフト線に沿うような位置に足を運ぶと落ちてきた打球に対してミットを構え、捕球しにいった。

 

「アウト!」

 

「ナイスレフトー!」

 

「ふぅ。このくらい楽勝だ!」

 

 滞空時間の長い打球に落球の不安がよぎっていたレフトだったが、無事に捕球が為されアウトのコールが響いた。

 

(くっ! 伸びなかったか……)

 

「スライダーに反応はしたみたいだけど、少し腰が引けたわね」

 

「あれだけ体に向かってくるとどうしても死球(デッドボール)がよぎるな……」

 

「それがフロントドアの強みだからねぇ。けど同じ手で二度もやられたら承知しないわよクソ四番」

 

「わ、分かってるさ」

 

(あのスライダーは厄介だけど、ストレートは思ったより捉えられそうなスピードだった。まあ、高坂にバッティングピッチャーしてもらってるし大抵はそう感じるんだけどさ)

 

 スリーアウトが成立し、攻守交代が行われ、マウンドに上がった高坂が投球練習を進めていく。

 

「——秋といえば……」

 

(スポーツの秋かしら?)

 

(読書の秋……でしょうか?)

 

(食欲の秋だよね!)

 

「芸術の秋ってことで、秋はコンクールが多いんだよねぇ。わたしも美術部として今回開催されるコンクールに出ることになったんだぁ」

 

「そうだったんだ。コンクールの絵のアイディアを探してここに来たんだね」

 

「刺激が欲しくてねぇ。夏の大会見に行った時も豪快な放物線が見れたし、何かないかなーと思って来てみたんだ。ちょうど土曜日で学校もお休みだったし」

 

「でも、ちょっと意外……。天草さんがデザインしてくれた茜たちのユニフォームすっごく可愛いし、頭の中に絵のアイディアが一杯あると思ってた……」

 

「んー。なんていうかねえ……コンクールって型に嵌った良い子ちゃんな絵を求めてるのかなぁって感じがしていまいち調子が上がらないんだよねぇ」

 

「さっき言ってたきょえーとぎぜん? ってやつだね! 絵って難しいねー」

 

「クルー……」

 

 野球部員と共に席に座った天草は真っ白なキャンバスを前に筆を走らせることが出来ないでいた。眉を潜めてキャンバスとにらめっこするのをやめて、彼女は試合に目を向けた。すると1ボール2ストライクから投じた膝下へのストレートに対して清城の先頭バッターはバットを振り切ったが、ミートすることは叶わず空を切ってしまった。

 

(速い……! しかも最後のはコースもかなり際どかった……!)

 

「お〜。わたし野球は全然分かんないけど今ボールを投げた人、凄そうだねぇ」

 

「あの人は、全国No.1ピッチャーって呼ばれてる高坂さん、だよ」

 

「でもさっき投げてた清城の神宮寺さんも凄いんだよ!」

 

「高坂さんと神宮寺さん、かぁ」

 

 河北と宇喜多に挟まれるようにして座る天草が二人の解説を聞きながら試合を観戦していると二番打者が左打席に入り、バットを短く持ってバッターボックスギリギリまで踏み込むような構えを取った。

 

「……? ねえ、鈴木」

 

「あ……はい、何かありましたか倉敷先輩?」

 

 試合を観戦していた倉敷が何かに気づくと下の段に座る鈴木に話しかける。

 

「あのバッター、最初っからあの構えだったっけ?」

 

「言われてみれば……確か追い込まれた時にあの打法に変えてきましたね。あの練習試合の後にバッティングスタイルを変えたのか、少しでもカットして球筋を見たい……というところでしょうか」

 

「なるほどね」

 

 ストレートの連投で早々に追い込まれた二番打者だったが、振り切らずに当てにいくようなスイングで速いストレートをカットして粘っていた。

 

(シュート投げてこないのか……?)

 

 ここまでストレート一辺倒のピッチングに決め球であるシュートがよぎる二番打者に2ボール2ストライクから7球目が投じられると、膝下へと投じられたボールをカットしにいこうとする。しかし目論見通りにはいかずに、意図的にファールにするべくボールの下に入れようとしたバットはボールの上を叩き、ファーストゴロでアウトに取られてしまった。

 

(なんだ……? 今のもストレート、じゃないのか? 違和感が……)

 

 二番打者が打ち取られ、続いて右打席に入った三番打者に対してもストレートを続けた高坂は1ボール2ストライクから、ここで初めて変化球を投じた。追い込まれていたバッターはアウトローの四隅から外のボールゾーンへと曲がるこのボールに手を出してしまい、空振り三振に取られてしまう。

 

(うっ! 神宮寺さんのより変化量は小さいけど、なんてコントロール……)

 

 ボール球を振らされてしまい悔しそうに三番打者がベンチに戻っていき、初回の清城の攻撃は三人で終了した。

 

「やはり我慢比べになりそうですね」

 

「そうだね。こっちも守備でリズム作っていこう!」

 

 攻守が交代し清城ナインが守備につくと、スタンドから試合を見守る天草が筆を動かし始めた。

 

「あれ? アイディアが浮かんだの?」

 

「うん! コンクールに出すかは分かんないけどぉ……ピーンと来た! ……あ。完成するまでは見ちゃダメだよぉ。恥ずかしいから」

 

「わ、分かった。楽しみにしてるね」

 

((こんなに近くにキャンバスあったらどうしても見えちゃうよ……))

 

 意気揚々とキャンバスに頭に思い描くものを写し出す天草に二人は呆れながらも出来るだけキャンバスを見ないように気を遣う。するとスライダーを主軸として追い込んだ神宮寺が一転してインハイにストレートを投じ、打球が打ち上がった。

 

「アウト!」

 

(高坂よりは遅いけど、あの変化量の多いスライダーとの緩急差が地味に厄介だな……)

 

 先頭打者をキャッチャーフライに打ち取った神宮寺は続く六番打者と七番打者に対しスライダーを低めに集め、それぞれセカンドゴロとショートゴロに打ち取り2回の表が終了した。

 2回の裏、清城高校の攻撃。右打席には四番の神宮寺が入る。

 

(……身長の高い方ではないですが、実際に打席に立つと上から見下ろされているようなそんな感覚が襲ってきますね。自分の実力に一切の疑いを持っていない……自信がひしひしと伝わってくるようです)

 

(神宮寺か……アンタは悪くない原石かもね。磨けばダイアモンドになれる可能性もある。けど……)

 

 高坂は両腕を振りかぶらずに胸の前でボールを構えたまま左足を少し引き、左足を浮かせると軸となる右足で全体重を支える。そして腰を右向きに捻り、前に体重を移動しながら左足で大きく踏み込み、さらに右足で地面を蹴ることで左足に全体重をかけるとほぼ真上から振り下ろすオーバースローの投球フォームからボールがリリースされた。

 アウトコース高めへと投じられたストレートに神宮寺はバットを振り出したが、タイミングが遅れて空振ってしまう。

 

「ストライク!」

 

(くっ!)

 

(アタシに勝とうなんて100年早い!)

 

「椿! ナイスストレート!」

 

 ミットから伝わる感触にキャッチャーがしびれながらボールを投げ返すと、キャッチャーボックスに座る際に神宮寺の顔を見上げた。

 

(アンタ、凄いね。椿が自分からフルのストレートを投げたいだなんて……アイツが実力を認めて、なおかつ自分が上だと誇示したい相手ってことだ。次は……)

 

(スライダー? 違うわ)

 

(こんな序盤からフルのストレート連投してたら、後半キツくなるでしょ。……って言っても、こうなった椿は言うこと聞かないからな。しょーがない)

 

 スライダーのサインに首を振った高坂は次に来たストレートのサインに頷くと、今度はインコース低めへとボールを投じた。このボールに対して神宮寺は今度は手を出さずに見送る。

 

「……ストライク!」

 

(……信じられません。これほどのストレートを四隅にコントロールしているのですか……)

 

 同じ投手としてそのことの難しさがよく分かっていた神宮寺は改めて高坂の投手としての能力を認めると、バットを構え直した。続く3球目のストレートがインハイに投じられると辛うじてバットに当たった打球がバックネット方向に上がり、キャッチャーが追っていく。

 

「ファール!」

 

 ふらふらと上がった打球は落ちてきたところでバックネットに届き、フライアウトに取れなかったのを残念そうにしながら戻ってくる。

 

(この試合……シュートに制限がかかってる以上、どうしても球数が増えるのは承知の上だ。だからあんまり力入れすぎても困るんだけど……)

 

(神宮寺はまだストレートに合わせきれてない。次のストレートで仕留めればいいでしょ)

 

(マウンド上のわがままプリンセスめ……アタシを従者だと思ってるんじゃないでしょうね)

 

 再び送られたスライダーのサインに首が振られるとキャッチャーはやむなくストレートのサインを送った。それに頷いた高坂は投球姿勢へと入る。

 

(ここまでアウトハイ、インロー、インハイ……いずれも厳しい四隅に投げてきています。それが可能な貴女の能力を認めるからこそ……次のボールは、ここに投げたいはずです!)

 

(踏み込んできた!?)

 

 アウトローへと投じられたストレートに思い切って踏み込んだ神宮寺のバットがボールを捉えると、打球は一二塁間を低く鋭い弾道で抜けていった。

 

(見下ろすのは自由ですが……ここまでストレートを続けられるとそのスピードにも慣れてきます。自分の能力を過信して、ピッチングのセオリーをあまり無視なさらないことです)

 

(ちっ……! やってくれるじゃない!)

 

「椿! 切り替えなよ!」

 

「分かってるわよ!」

 

(味方のエラーから乱れて四死球を連発して崩れた春大会より精神面は大分マシになったけど……すぐイライラするのは変わらないなあ。まあ、まだ慌てる場面じゃない。清城の攻撃力を考えれば次のバッターの狙いは十中八九……)

 

 右打席へと入った牧野がバットを構えるのを見ながらキャッチャーはブロックサインを送ると、続けて高坂にサインを送った。

 

(ふん。そりゃそうね。ヒッティングの構えを取っちゃいるけど、アタシ相手にノーアウト一塁のチャンス……奴らの狙いは……!)

 

 インハイへのストレートのサインに頷いた高坂はボールを長く持つと、クイックモーションからボールを投じた。すると牧野はセーフティ気味にバントの構えへと切り替える。

 

(小也香を二塁に送るんだ……!)

 

(送れるもんなら送ってみなさい!)

 

(うっ! バットの根っこに……)

 

 インハイのストレートに牧野はバットを合わせたがミートポイントの小さい根本に当てるのがやっとで、打球はストレートが真っ直ぐ跳ね返るように転がっていった。

 

「セカン!」

 

(当然……!)

 

 リリースしてからすぐにチャージをかけていた高坂はこのボールを捕ってから、スムーズに反転して二塁へと送球した。

 

「アウト!」

 

(くっ!)

 

 フォースアウトに取られた神宮寺のスライディングを避けながらショートが一塁のベースカバーに入ったセカンドへと送球を行った。

 

「……セーフ!」

 

(あ、危うくダブルプレーに取られるところだった……)

 

(ちっ、速いわね)

 

 駿足を飛ばして牧野が一塁を駆け抜けるとほぼ同時に送球が届き、一塁審判からセーフのコールが上げられていた。

 

(……高坂先輩……)

 

 向月ベンチから試合を見守る後輩投手は今のプレーを見て里ヶ浜との練習試合を思い出していた。一回の裏、ヒットで出た中野に盗塁されノーアウトランナー二塁の場面、二番打者として打席に入っている阿佐田にセーフティ気味にバントを刊行され、虚を突かれて送りバントを許してしまうと引率として来ていた高坂がベンチからコメントを漏らしていた。

 

「あんなバレバレのバントを許す? ちゃんと練習してんの?」

 

(……あの人は厳しい。他人にも……そして自分にも)

 

 そのことを思い出しながら高坂の投球を見つめているとグラウンドとの境となる柵を掴むようにしている手が震えていった。

 

(高坂先輩に超えられるかと問われて……わたしはとてつもなく怖いものを感じた。それだけあの人は野球に一途で、本気なんだ。わたしは……)

 

 0ボール2ストライクから低く外れたスライダーが見送られ、4球目。アウトローへと投じられたストレートに左打席に入っている六番打者のバットが振り出されるとボールの上を叩いた。

 

(強引に右方向に引っ張ったか……!)

 

「ファーストに!」

 

 鈍い当たりのゴロをセカンドが処理すると既に二塁付近まで来ている牧野を諦め、ファーストへと送球が届き2アウト目が取られた。

 

「ツーアウトよ! バッター集中でいきましょう!」

 

(7、8、9番は全員夏大会ではスタメン入りしてなかった一年。後はこのバッターを打ち取って終わりね)

 

(……まじか〜。いきなりチャンスの場面で回ってくるとはねぇ)

 

 ツーアウトランナー二塁。七番打者として打席に向かう彼女は一度清城ベンチの方を振り向く。すると神宮寺が頷くのを見て、彼女もまた頷いてから高坂の方に振り向き右打席に入った。

 

(あなたは認めたがらないけど、またこうして公式戦に立てる時が来たのは……神宮寺さん、やっぱりあなたのおかげだよ)

 

 地面をならしながら彼女の脳裏には清城に入ってからこれまでのことがフラッシュバックされていった。

 

「新入生の神宮寺小也香です。本日より硬式野球部を復活させます。この中で野球をやりたい方は放課後グラウンドに集まってください」

 

(……野球部は監督の不祥事で廃部寸前だって聞いてたんだけどなぁ……)

 

 入学式で硬式野球部の復活と勧誘を宣言する神宮寺を見て彼女は信じられないといった面持ちでそれを聞いていた。そして教室に戻った際、同じクラスであった彼女が野球経験者であることに気づいた神宮寺は直接勧誘を行なっていた。しかし彼女はそれを断っていた。

 

「私がこの学校に入った理由は二つ。一つは制服が可愛いから。で、もう一つの理由は……女子野球に未練を残さないため。悪いけど、私はもう野球はやらないよ」

 

「……そう、ですか。分かりました。なら無理にとは言いません」

 

(随分聞き分けがいいじゃん。やっぱりいないよね。本気で上を目指そうなんてやつが、廃部寸前のここなんかにいるわけないよね)

 

「……ですが、もし“貴女(あなた)”が野球を続けたいと思ったなら……いつでもいらして下さい」

 

「……もし、そう思うことがあったらね」

 

 結局、彼女がそう答えてから1、2ヶ月ほどの月日が流れた。ある日の休日、彼女はゲームセンターで遊んでいた。すると昔共に野球をしていた友人達とそこで半年ぶりになる再会を果たしていた。

 

「久しぶりだねぇ。今、なにかやってるの?」

 

「わたしは前も言ったけどソフトボールに転向したよー」

 

「帰宅部に入って自由を謳歌しているさ」

 

「そっかー。私も今は帰宅部入りしてるよぉ」

 

(……そーだよねぇ。最後の大会が終わってから、高校に入ったら硬式野球を続ける人なんて誰もいなくて……)

 

「あ! あれやらない? 確か得意だったよね!」

 

「あれかぁ。やろうやろう」

 

「久しぶりに見れるのか。あの舞が……」

 

 彼女たちが遊び出したのは縦長のスクリーンに1〜25までの数字が始まるごとにランダムに配置され、それを小さい順にタッチしてそのタイムを競い合うものだった。友人二人が先に終えてから、彼女がそれをやり出すと次の数字がどこにあるか迷うことがあった二人とは違い、全体をぼんやりと見るようにして次々と数字に触れていく。

 

「おおー! やっぱり速いねえ」

 

「ふむ……さすがだな」

 

「ありがと〜」

 

(……ベストタイムより、4〜5秒くらい遅いや。やっぱり使ってないと鈍るなぁ。……はぁ)

 

 二人よりは速いタイムであったものの、去年まだ野球をやっていた頃のスコアと比べると格段に落ちていることに彼女はショックを受けていた。そしてそれが引き金となり、彼女の胸の内に隠していた気持ちが浮かび上がってくる。

 

(私、どうしてこんなところにいるんだろう。なんでこうなっちゃったのかなぁ。去年はその時と同じように野球を続けてると思ったのに……。……難しい話でもないか。同じでもダメだと思い知ったのに、同じであることもままならないって知っちゃったもん)

 

 同じ女子であっても共に硬式野球をしていた友人がいた中学時代から高校に上がる際に一転して周りの人が野球を続けなくなり、彼女はそれならすっぱり野球を諦めようと硬式野球部が廃部されるらしい清城へと入学していた。

 

(……私は、諦めたくなかった。けど、仕方ないよね。だって……)

 

 そんな彼女に神宮寺から告げられた言葉が突き刺さるように蘇った。

 

「もし“貴女”が野球を続けたいと思ったなら」

 

(……あの人はどうしてわざわざ清城の硬式野球部を復活させたんだろう。野球をやりたいだけなら他の所でも続けることは。……! ……それは私にも言えるか。たとえ周りに続ける人がいなくても、野球を続けたければ……続けられたもんね。結局、周りに自分の意見を流されただけ……)

 

「ん? どうしたの?」

 

「……ちょっと用事があるんだぁ。今日はここまででバイバイするね」

 

「そうか。残念だが、お互い帰宅部の身だ。また会えるだろう」

 

「んー……どうだろう。分かんないけど、後で久しぶりにNINE(ナイン)で連絡するね」

 

 友人二人に別れを告げてゲームセンターを離れた彼女は学校へと辿り着いていた。

 

(野球から離れて、逃げても……ダメだ。そうすればそうするほど、野球のことが返ってくる。せめて神宮寺さんの、彼女の目指す野球の形を見て……決めよう。グラウンドは……こっちか。……? 練習試合してる……)

 

 グラウンドまでやってきた来た彼女は設置されてあるスコアボードに目を向けた。

 

(里ヶ浜ってところとやってるんだ。今は3回の表が終わったところでスコアは……3対1、勝ってる。……えっ、内野と外野が入れ替わった!? グローブは……今のポジションのものだ。どういうこと……?)

 

 すると里ヶ浜ベンチ裏からその試合の様子を窺っていた彼女の耳に、そのベンチ内で相手の狙いを指摘する東雲の声が聞こえてきた。

 

「不慣れなポジションの練習と一巡目の打席を捨ててピッチャーの球筋を見極める練習。清城は初めから目的を持って戦っていたのよ。……私たちとは意識が違いすぎる。試合をする前から負けていたのよ」

 

(……本気、なんだ)

 

 やがてこの試合が12対1で清城の5回コールド勝ちで終えられると、神宮寺が彼女のもとまで歩いてくる。

 

「いつまでそこで見ているのですか?」

 

「……! 気付いてたの?」

 

「ふふ、バックネット裏まで来て食い入るように見て何を言っているのですか? ピッチャーからはどう頑張っても視界に入りますよ」

 

「あっ……!」

 

 試合に集中するあまり無意識に見やすい場所まで来ていた彼女は様子を窺うどころか、もはや隠れることもせずにフェンスに指を食い込ませるほど清城の野球に魅入られていた。

 

「あのさ、一つ聞いていいかな?」

 

「なんでしょう?」

 

「神宮寺さんはどうして清城を選んだの?」

 

「……私の兄が昔、清城の野球部に居たのです。清城がまだ名門と呼ばれていた時に……その頃は男子野球部に引っ張られるように女子野球部も切磋琢磨して上を目指していました」

 

「……」

 

「ですが知っての通り、女子野球部は廃部寸前に。男子野球部も甲子園から遠ざかっていることから古豪と呼ばれるようになりました。……けれど私はあの時の、名門清城として兄たちが上を目指すその姿に……憧れていたのです」

 

「だから……清城を選んだの? 反対とか、されなかった?」

 

「当然されましたよ。ですが“私”は……復活させたかったのです。兄が愛し、私が憧れたあの時の名門清城を……!」

 

(この人は……貫いたんだ。たとえ反対されても、周りに流されずに自分の意思を……)

 

「そうだったんだ……教えてくれてありがとう」

 

「構いませんよ。代わりに……貴女のことを聞かせてください」

 

 彼女は去年から今に至るまでの経緯を伝えると、神宮寺はそれを一言一句聞き逃さず、ただ静かに聞き入れていた。

 

「……なるほど、分かりました。しかし一つ指摘させて頂きましょう」

 

「う……なにかな」

 

(周りに流されるなんて軟弱だー、とかかな……?)

 

「貴女は私のおかげでもう一度野球に向き合えたと言いましたが……私はあくまできっかけを作っただけですよ」

 

「え……どういうこと?」

 

「以前の貴女は野球をやめる理由を探していたのです。けれど今の貴女は野球を続ける理由を探しに来てくれた……その選択をしたのは紛れもなく貴女自身の意思ですよ」

 

「選んだのは……私?」

 

「はい。周りから影響を受けても受けていなくても、最後に道を決めるのは自分自身なのです。その道は誰のものでもない、己の道ですからね」

 

「あ……」

 

「その上で貴女に問いましょう。貴女は私たちの一員として共に名門清城の復活を目指す、戦友となってくれますか?」

 

「……よろしくお願いします!」

 

 彼女はその問いの答えを自分で選択してはっきり答えると、バックネット裏から回り込んでグラウンドに足を踏み入れ、清城野球部の一員となったのだった。

 

(結局ブランクがたたって、夏大会だと早い段階から動き出してた皆に追いつけなくてスタメン入り出来なかった……まあ、当然だよねぇ)

 

 地面をならし終えた彼女は高坂の全体像をぼおっと見るようにしながらバットを構えた。

 

(その分この大会では暴れまくっちゃうもんね!)

 

(気合い入れても無駄よ。打たせるわけ……ないでしょ!)

 

 クイックモーションから投じられたストレートが膝下へと投じられると、見送られてストライクのコールが上げられた。

 

(速っ! けど、なんだかなぁ。回転が思ったよりごちゃごちゃしてる)

 

 2球目が投じられると今度は先ほどより厳しい四隅を狙ったストレートだった。際どいボールにバッターはバットを振り出すことが出来ず、このボールも見送った。

 

「……ストライク!」

 

(得意の外に全然投げてくれないし……コントロールえげつないし。でも数少ないチャンスだ。そう簡単に打ち取られはしないよぉ。この人だって一試合ずっとコントロールが完璧なわけじゃないはず。厳しいボールに無理に手を出すよりは……稀に来るかもしれない甘いボールを仕留めるのが大事だよね)

 

(椿、次はこっちだからね)

 

(分かってる。これで三振よ)

 

 3球目がアウトハイへと投じられるとこのボールに反応してバットが振り出されようとした。

 

(え……これ、さっきのと違う!)

 

 振り出そうとしたバットが慌てて止められ、ボールが見送られると高めに外れたストレートにボールの判定が出された。

 

「スイング!」

 

「……ノースイング!」

 

 キャッチャーがスイングの主張をして一塁審判に確認が行われたが、ノースイングの判定が出されてカウントは1ボール2ストライクとなった。

 

(おかしいな……さっきまでのストレートと感じたスピードはおんなじぐらいだったのに、3球目はきれーなスピンがかかってた。なんか変……)

 

(見送ったのは偶然か? でも、ちょっと気味が悪いな……椿)

 

(しょーがないわねぇ。ピンチだし、良いんじゃない)

 

 牧野の方に視線を一度送ってから4球目が投じられると真ん中低めへとボールは向かっていた。

 

(えっ。今度は横方向に凄いギュルギュルって……これは、まさか……!)

 

 とっさに振り出したバットの軌道が内側に修正されていくと、ボールも膝下へと切れ込むように曲がっていった。

 

「ストライク! バッターアウト!」

 

(シュート……! ダメだぁ。全然当たんなかった……)

 

 鋭い切れ味のシュートが振り出したバットよりさらに内側を通り抜けてキャッチャーミットに収まり、空振り三振によって3つ目のアウトが成立した。

 

(へぇ。反応するだけ上出来ね。ま、上出来じゃ意味はないけどね……)

 

「みんなごめーん。打てなかったぁ……」

 

「二塁から見てたけど、甘いコースには一球も来てなかったよ。切り替えて!」

 

「花、ありがとね。……そうだ。ちょっとあの人のピッチング違和感あったから、この回の守備終わったら話すね」

 

「違和感ですか……分かりました。後で聞かせて頂きます。ですがチャンスやピンチの後は自ずと試合が動きやすいものです。まずはこの回の守備に集中しましょう」

 

「了解!」

 

 チャンスを逃した清城だったが気を落とすことなく守備につくと、3回の表が始まり八番打者が右打席へと入っていた。

 

「ねえ、ことねー! 何描いてるのー?」

 

「まだ見ちゃダメだよぉ。完成してないものを人に見せるのは恥ずかしいんだから」

 

「じゃあ見ないから教えてー」

 

「え〜……そうだなぁ。テーマは『大海原と深海』のコントラストだよ」

 

「コントラスト?」

 

「コントラストっていうのは対比のことで……例えば白い紙に黒い丸が一つ描いてあると黒い丸に自然と目が行くんだけど、これは黒と白のコントラストが強いからなんだよぉ」

 

「ん〜?」

 

「黒と白は白が明るい分、暗い黒がくっきり映るってことじゃないかな?」

 

「おおー。なるほどー!」

 

 河北の補足で秋乃が納得しているとこの会話に宇喜多が二つの疑問を抱いていた。

 

(なんで野球を見て大海原と深海が出てくるんだろう……? それにどっちも同じ海だから、対比も出来ないような……)

 

「あの、天草さ——」

 

 ——キィィィン。宇喜多が天草に質問しようとした瞬間、神宮寺が投じたアウトコース低めのストレートに対して初球打ちを敢行した八番バッターの打球が神宮寺の足元を抜けていくとその勢いのまま二遊間も抜けていき、センター前ヒットで出塁していた。

 

「今度はこっちの番ね」

 

「椿、もう少し休んでなって」

 

 ネクストサークルへと向かおうとするキャッチャーが早めに準備を進めようとする高坂を休ませるべく声をかける。

 

「球筋もさっきの打席でよく見れたし、ちゃんと繋いであげるから、アンタは少しでも体力温存しておきなさい」

 

「仮にもアタシの女房役なら点取ってきてやるくらい言いなさいよ」

 

「こ、細かいなあ……」

 

「ふん。普段の仕返しよ」

 

「分かった。取ってきてあげるから、ちゃんと休んでなよ」

 

 しっかり高坂を休ませた後、彼女がネクストサークルに座るとバントの構えを取っていた九番バッターが警戒されている中、勢いを殺したバントをファーストの前へと転がし、送りバントを成功させて1アウトランナー二塁となっていた。

 

(さて、そろそろ点取ってやらないと本格的に気分悪くしそうだし……一打席目のように見ていかず、本来のアタシの持ち味である積極的なバッティングを見せてやりますか!)

 

 この試合向月は初めて得点圏にランナーが進み、右打席に一番バッターが入っていく。ここから二巡目の攻撃であることを神宮寺は肝に銘じると牧野の出したサインに頷き、ボールを投じたのだった。



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名門の看板

 3回の表、1アウトランナー二塁の場面。向月高校の攻撃は打順がトップに戻り、一番バッターが右打席へと入っていた。

 

(神宮寺の持ち球で最も厄介な球種はスライダーだ。特に右バッターにとってはあの変化量で外に逃げられるのはきつい。けどスライダーもカウントを取るのに使ってくるけど、全球スライダーみたいなことはしてこない。まあ、そんなことしたらウチの打線なら目が慣れていずれあの決め球は決め球として機能しなくなるからな)

 

 一番バッターは足場を整えながら同じキャッチャーである牧野を横目で見て、出すサインをその頭の中で分析していた。

 

(スライダー以外でカウントを取りに来るボール、これを逃さず一球で仕留める。このバッテリー、ここまでストライクを先行させてきてるから簡単に見逃すのはダメだ。だからこそアタシの持ち味、積極的なバッティングの出番ってわけだ)

 

 定位置から守備位置の変わらない野手陣を二塁ランナーが確認してリードを取っていると、神宮寺はボールを長く持ってからボールを投じた。アウトコース低めへと投じられたこのストレートをバッターは踏み込みながらバットを止めて見送った。

 

「……ボール!」

 

 際どいコースに投じられたストレートは僅かに外に外れており、ボールのコールが為された。牧野はボールを投げ返すと前へと向き直るバッターに目を向ける。

 

(今のは見極めたのかな。悪くないコースだったんだけど……)

 

(積極的に打つって言っても際どい球に手を出して相手を助けちゃいけない。けどやっぱり良いストレートだな。でもこの試合ストレートはあまりゾーンに投げられてないし、組み立ては変化球中心だ。きっと、理解してるんだろうね。高坂のストレートに慣れたアタシたちにはこのストレートでもそうは通じないって。スライダーは追い込まれるまで捨てるとして、ストレートもあまりゾーンに来ないなら……狙いはシュートだ)

 

(8番にも悪くないコースのストレートを初球から打たれた。小也香のストレートは普通なら追い込むのにも決め球としても申し分ないのに。けど、手はある。次は1球目のストレートのコースに合わせて……)

 

(ええ。この1番はパンチ力もありますし、簡単に高めは使えません。それに多少のリスクを背負ってでも、この試合は低めの変化球中心で行かなければなりませんから)

 

 再びボールを長く持った神宮寺は一度二塁ランナーに目をやってからクイックモーションに入り、アウトローへとボールを投じた。

 

(……来た! これは一打席目でも使ってきた……!)

 

(うっ! 振ってくる!?)

 

 アウトコースに外れたボールに踏み込んだバッターはバックドアでストライクゾーンへと入っていくシュートに対してスイングの流れで体勢を低くしながらバットを振り切った。中へと入ってくる軌道に引きつけて合わせたバットから放たれた打球は神宮寺の横へと放たれた。

 

(良い当たりだ! これならセンター前に抜ける……!?)

 

(くっ、させません!)

 

 神宮寺から見て左横へと放たれた打球に彼女がとっさに左手に嵌めているミットを伸ばす。しかしその僅か先を抜けていくと二塁ベースを超えたところで打球はバウンドし、走り出してから一瞬止まったランナーも神宮寺の横を抜けたところで再びスタートを切った。

 

(外野は定位置だった。それに清城の外野陣は全員出場経験の無い一年。これはいける!)

 

「ゴー!」

 

「バックホーム!」

 

 三塁コーチャーが腕を回して本塁突入の指示を出すと二塁ランナーは迷わず三塁ベースを蹴った。カバーに入る神宮寺を背に牧野はセンターへとバックホームの指示を飛ばす。

 

(さっきの回、みんなは仕方ないって言ってくれたけど数少ないチャンスを逃しちゃったことには違いない。だからせめて……守備でチームの力に……!)

 

 鋭く転がってくる打球に真っ直ぐ入ったセンターは走りながら捕球の瞬間だけミットを下に向けてボールを捕ると送球体勢に入り、その勢いを乗せるように左足を踏み出すとホームに向かって送球を行った。

 

(ちょっと逸れたけどほぼストライク送球。アウトにしてみせる……!)

 

(キャッチャーが少し前に出た。ここは回り込む!)

 

 牧野は送球に合わせてホームベースから一歩左前に踏み出すとランナーはヘッドスライディングを敢行しベースに回り込むように滑り込んだ。ワンバウンドした送球を低い体勢で受け取った牧野はホームへと反転するように身体を動かしタッチしにいった。

 

「……アウト!」

 

(うっ、ギリギリミットが手に触れたか……!)

 

「ランナーセカンド狙ってます!」

 

「……!」

 

 タッチしてからすぐに神宮寺がランナーの位置を指差すと牧野は立ち上がりながら指された方に振り向く。すると一塁を飛び出したバッターランナーが急ブレーキをかけて一塁に戻ろうとしているのが目に入り、ファーストへと送球した。バッターランナーがヘッドスライディングをしてベースに腕を伸ばすとほぼ同時に送球が届き、ファーストはタッチにいこうとしたが既にベースに触れている手を見てタッチを中断した。

 

(あっちゃー……上手く打てたけどホームで刺されちゃったか)

 

「ふぅ……」

 

「牧野さん、良い動きでしたよ」

 

「ありがとう」

 

(……かなり際どいタイミングでしたね。結果的に浅い位置での捕球で送球も良かったことを考えると、アウトになりはしましたが一つでも先の塁を貪欲に狙う走塁意識の高さが窺えますね)

 

(追いタッチ気味になっちゃった。なんとかアウトには出来たけど、危なかったし気をつけよう。……あっ、そうだ。声出ししないと!)

 

「センター、ナイスバックホーム! ツーアウト! 後アウト一つ取ろう!」

 

 牧野の掛け声にセンターが「ふふーん」という声を漏らしドヤ顔を浮かべていると、清城野手陣からも掛け声が広がっていき、合わせるようにセンターも声を出していた。

 

(ちっ、クソコーチャーめ……。アタシも結果論で語りはしない。ライトは浅い打球に一歩下がってたし、レフトも高いフライに足元がおぼつかなかった。外野陣は全員一年で高校入ってから出場経験ないってこと以外情報無かったし、センターが刺せないという判断自体が分からないわけじゃないわぁ。ただピッチャーライナーを危惧して一瞬足が止まってたし、当たりも鋭かったからその分センターに届くのも早かった。1アウトだったことも踏まえると、確実に一塁三塁で二番に回すのが賢い判断だった)

 

 高坂がネクストサークルに入りながら三塁コーチャーを睨んでいるとその視線に気付いたコーチャーがその迫力に顔を引きつらせながら、外野に抜けた打球でもセンターに転がった場合の走塁判断は厳しくしようと心に留めた。

 

「ふっ!」

 

 2アウトになりランナー一塁。リードを広げる一塁ランナーに対して神宮寺は牽制球を2球続けて送っていた。

 

「セーフ!」

 

(しつこく牽制してくるね。でも、こっちとしては……)

 

 どちらも反応してしっかりベースに戻った一塁ランナーは再びジリジリとリードを広げていく。そして神宮寺がクイックモーションに入った瞬間、迷わずにスタートを切った。

 

(牽制のタイミング掴めた分走りやすいってもんよ!)

 

「ランナースタート!」

 

(構わず来ましたか……!)

 

 神宮寺が投じたボールは真ん中低めやや高め寄りからインコースへと曲がっていく。すると左打席に入った二番打者はこのボールに対してバットを振り出していた。

 

(よし、一番(あいつ)がシュートを打ったしスライダーから入ってくると思ってた!)

 

(エンドラン!?)

 

 芯から根元寄りでスライダーが捉えられると弾き返された打球はやや鈍めの当たりで一二塁間へと転がっていった。

 

(セカンド……は盗塁に備えて二塁のカバーに向かってるから無理か……!)

 

「ファースト!」

 

「このっ……!」

 

 ファーストがこの打球に反応して横っ飛びで飛びつくと牽制に備えて一塁ベースに寄っていたこともあり、決して鋭い当たりでは無かったが捕球には至らず打球は外野へと抜けていった。

 

(ランナー三塁狙ってる!)

 

 この打球を捕ったライトは既に二塁を蹴った一塁ランナーを刺そうと送球体勢に入ろうとした。

 

「だめっ、間に合わないよぉ! バッターランナー警戒!」

 

「っと……!」

 

 センターの指示を受けて瞬足を飛ばして三塁に向かう一塁走者を諦め、ライトは一塁の方を振り向くと一塁を少し回ったバッターランナーはそれに気づいてベースに戻っていった。

 

(小也香のスライダーにもう対応してきた……。 しかも次のバッターは……!)

 

(神宮寺、アタシはアンタを過大評価してたのかもね。この回だけでストレートもシュートもスライダーも……全ての持ち球を打たれてる。もう少し張り合いがあると思ってたんだけど。……この場面何がなんでも抑えたいでしょ? 全力をぶつけてきなさい。それをアタシが捻じ伏せて、トドメを刺してあげるわぁ……!)

 

 2アウト一塁三塁となり右打席に向かうのは先ほどの打席ライト前へのヒットを放っている高坂椿。ネクストサークルには先ほど大きな当たりを打っている四番打者が座り、牧野は逃げ場が絶たれていく感覚を覚えていた。

 

「……守備のタイムお願いします!」

 

(一旦間を置くか。ま、精々足掻きなさい。足掻いて足掻いて……アタシ達との差を痛感するのよ)

 

(……正直、調子が良い小也香のボールにここまで早く順応してくるとは思ってなかった。これが向月高校が名門と呼ばれている所以(ゆえん)なんだ)

 

 牧野は流れを落ち着かせるように守備のタイムを取ると内野陣が神宮寺を囲うようにマウンドへと集まっていく。

 

「……これが名門の実力なのですね」

 

「え……」

 

「どうかしましたか?」

 

「小也香……笑ってる?」

 

 引き締まった声色とは裏腹に神宮寺は柔らかな微笑を浮かべており、牧野に限らずマウンドにピンチのプレッシャーを感じながら集まった皆がそれに驚いていた。

 

「……失礼しました。少し、嬉しくもあったので」

 

「この状況で……?」

 

「ええ。名門というのはこれほどの高い志の上に成り立っているのだと向月高校に突きつけられたような気がするのです。走攻守の隙のなさ、一人一人の意識の高さ……妥協なしに築き上げていく高み、それが名門なのだと」

 

「あ……“名門”清城の復活。私たちの目標……」

 

「そう……“古豪”清城から抜け出せない私たちとの差を痛感させられたのです」

 

「小也香はそれが嬉しかったんだね。私たちが掲げた目標がそれだけ高かったからこそ……廃部寸前の清城を選んで野球部を立て直した意味があるんだって」

 

「そっか……そうだよね神宮寺さん。わたしたち二年生はあなたの説得があって、復活した野球部に戻ってきた。それは名門清城の復活っていうあなたの目標にわたしたちが共感出来たから」

 

「その目標が簡単に達成出来るようじゃ、つまらないってわけね」

 

「強気だね〜」

 

「だからこそ説得された甲斐もあるってもんだ!」

 

 神宮寺の想いを汲み取った牧野がそれを言葉にすると、二人を囲むように立つ四人の上級生もその想いに共感していた。

 

(……有原さん、私は以前貴女に甘いだけの友情は邪魔になる、必要なのは親友ではなく勝利に邁進できる戦友だと言いましたね。私は今でもその考えを捨てたわけではありません)

 

 全てを言葉にせずとも自分の考えを読み取った牧野を見ながら神宮寺はこの試合をスタンドで観戦しているであろう翼に思いを馳せていた。

 

(ですが、いつか貴女が言った『今の私はチームの形は一つじゃないと思ってる』……そのことの意味はあの夏大会から実感するようになりました。貴女たちには貴女たちの、私たちには私たちの……そしてチームの形は練習を経て、試合を経て……進化していくのかもしれませんね)

 

「……牧野さん。球数を抑えるのはここまでにしましょう」

 

「向月、そして次に勝ち上がってきそうな界皇、強豪との連戦に備えてここまで低めに変化球を集めて打ち取るピッチングで来てたけど……」

 

清城(うち)には私以外の投手がいませんからね。しかし、これほど早く対応されてはやむを得ません」

 

「分かった。出し惜しみは無しだね」

 

 やがてマウンドに集まった清城野手陣が散っていくとプレーが再開された。

 

(随分長く打ち合わせしてたじゃない。まだこっちも点が入ったわけじゃない。……アタシは油断しないわ。けれど不安にもならないし、安心もしない。ただ目の前のピッチャーの投げるボールを打ち砕く……!)

 

 バットを構えた高坂は赤紫色の瞳で神宮寺を捉え投球に備えると、クイックモーションからボールが投じられた。

 

(インハイ……外れてる!)

 

「ボール!」

 

 内の高めに投じられたストレートは高めに外れており、冷静に見送られボールとなった。

 

(簡単にボール球に手を出してはくれないか。小也香、次は……)

 

(なるほど、良いでしょう)

 

(今のが見せ球のつもりで投げたならアウトコースにスライダーか? さっきヒットにはしたけど……あの変化量は頭に入れておかないと)

 

 サインの交換が終えられ第2球が投じられる。コースは、インコースの高め。

 

(また同じ……いや、さっきよりは低い! ……!?)

 

 再び内の高めに投じられたスピードボールはさらに内へと変化していき、バックスイングからフォワードスイングへと移行しようと左足を踏み出した高坂はとっさに顔を引いてスイングを中断すると、内のボールゾーンを通過したボールは高坂の目の前を通りキャッチャーミットに収まった。

 

「ボール!」

 

(ち……シュートだったか。ストレートだと思った分、反応が遅れた)

 

(打ちにいって踏み込んだ分近くを通ったけど、危険球じゃない。気にして崩れないよう小也香にフォローを入れておこうかな)

 

「小也香、良いボールだよ! この調子で行こう!」

 

(……ありがとうございます。貴女の支えがあるからこそ、私は迷いなく一球一球に集中出来る……)

 

 ボールと共に送られた掛け声をミットに走る衝撃と共に受け取った神宮寺は次のサインに頷くと3球目を投じた。

 

(これは……今度こそスライダー!)

 

 真ん中低めに投じられたスライダーは高坂のバットから逃げていくようにアウトコースへと変化していく。そしてストライクゾーンに投げられたボールにバットが振り切られると、牧野のミットが捕球音を鳴らした。

 

「ストライク!」

 

(……やってくれるわね。ただの見せ球じゃなく、打ちにいったところに見せられたから残像を強く残された。あのスライダーが頭に入ってても、身体がついてこなかった……。ボール自体の力で劣っててもリードで補うってわけ?)

 

 神宮寺に声をかけながら返球する牧野を横目に高坂はバットを構え直した。

 

(そうね……確かにアタシもピッチャーとして配球次第でそのボールの持つ力を引き出しも殺しもするのは嫌というほど分かってる。この場面で投げきる精神力も悪くない。過大評価してたってのは訂正してあげるわぁ。けど……)

 

 4球目が投じられるとインコース低めに投じられたボールは高坂の膝あたりへと向かっていく。このボールに高坂は身体を引かずに左足だけを開くようにしてバットを振り出した。

 

(今のアンタには脅威になり()る……決め球が無い!)

 

 膝下からストライクゾーン切れ込むように変化するスライダーの軌道に線で合わせられたバットがこのボールを捉えると低い弾道で三塁線へと放たれ、サードランナーが打球をジャンプして躱すと飛びついたサードのミットの先を打球が抜けていった。

 

「ファール!」

 

(ち……あの軌道に線で合わせてもファールになるか。もう少し引き付けて、ちょっと詰まらせて押し出すように打たないといけないわね)

 

(凄い……一打席目は崩れながら合わせてたけど、今のボールは完全にアジャストしてた。二打席目でここまで完璧に合わせられたのは初めてかもしれない。でも、なんとか追い込むことは出来た)

 

 球審から新たなボールを渡された牧野がボールを投げ渡すと、神宮寺は鋭く捉えられた打球に焦りを覚えながらも表情を崩さずにボールを受け取った。

 

(こうして対峙しているとよく分かります。ピッチャーは投球練習に時間を割く必要があるため、打撃はその分野手より落ちやすくなるにも関わらず、戦力が充実している向月で彼女が三番を務めている訳が)

 

 神宮寺は三塁ランナー、一塁ランナーの順に目をやると投球姿勢に入る。

 

(全国No.1(ナンバーワン)ピッチャーと呼ばれるようになる前も、呼ばれるようになってからも高坂さんは研鑽を積み重ねてきたのでしょう。ですが、私たちにも積み重ねてきたものがあります。貴女のように語ってみせましょう……言葉ではなく、プレーで!)

 

 左足に体重をかけ、リリースするギリギリまで指先を触れるようにして5球目が投じられると勢いのあるストレートが真ん中高めへと向かっていく。このボールに対し高坂は振り出したバットを止めていた。

 

「……ボール!」

 

(……高めの釣り球を振らせに来たか。低めのスライダーを続けた後だったから、警戒しといて良かったわ)

 

(見ましたか……。この試合一番のストレートだったのですが)

 

 高めに外れた渾身のストレートを見送られ、神宮寺は悔しさを覚えながら牧野からの返球を受け取る。

 

(これでフルカウントだ。2アウトだし、私は投げたらすぐ走ればいいね。おっと……ここで牽制死なんかしたら高坂に何言われるやら)

 

 フルカウントになり一塁ランナーが先の塁を意識しながらリードを広げていると神宮寺が目で牽制し、牽制球に対する警戒があった一塁ランナーは少しリードを取ったところで足を止めながらも、投げたら迷わず走ることを心に決めていた。

 

(小也香、見送られたけど良いストレートだったよ。……今こそ、このボールを!)

 

 牧野から送られたサインに神宮寺はゆっくり頷くと、ミットの中で丁寧に握りを確認してからクイックモーションに入った。一塁ランナーがスタートを切る中、6球目となるボールが今投じられた。

 

(アウトハイの……ストレート!)

 

 アウトハイのストライクゾーンに投じられたストレートだと確信した高坂は鋭いスイングでバットを振り出した。そして振り切られたバットは……空を切っていた。

 

「ストライク! バッターアウト!」

 

(なっ……! キャッチャーミットが外のボールゾーンに!?)

 

 アウトハイのストレートの軌道に合わせて振れた高坂は手のひらに打球を捉えた感触がないことにひどく驚いていた。その視線がボールゾーンで構えられた牧野のミットに向けられる。

 

(外にスライドした? あの球速で外に曲がる……高速スライダー? これまでそんなボールは投げてなかった……ここまで隠していたっていうの?)

 

「小也香……! ナイスピッチ!」

 

 3アウトが成立し清城ナインがベンチに戻っていくと、牧野が神宮寺の横に嬉しそうに駆け寄っていく。

 

「牧野さんもナイスリードでしたよ。5球目のストレートを見せられたからか、まだ大雑把にしかコントロール出来ない高速スライダーをストレートだと思って振ってくれたようです」

 

「二人ともよく凌いだ!」

 

「よく抑えたね!」

 

 ピンチを凌いだ清城が盛り上がる中、神宮寺の背中を見ていた高坂は我に帰ったようにベンチへと戻っていく。

 

「……情けない……」

 

「えっ?」

 

(油断はしないと、そう誓ったのに。最後の最後でアタシはあのボールをストレートだと決めつけた。カットするくらいのつもりで引きつける選択肢もあったのに、詰めを誤ってしまった。相手の術中にはまりボール球を振らされ、おめおめとベンチに逃げ帰る……なんて情けない)

 

 三塁ランナーのキャッチャーが高坂の漏らした一言を気にかけて顔を覗き込むと、彼女の表情に大きく目を見開いた。

 

(……借りは、必ず返す……!)

 

(椿、アンタは今自分に怒ってるんだね。……向月の中で誰よりも名門を誇りに思ってるアンタらしいけど、ちょっと力入り過ぎ。……まあ、そこはアタシが上手くリードしてガス抜きしてあげるか)

 

 顔が怒りによって紅潮し、目を吊り上げ、身体をワナワナと震わせる高坂にキャッチャーは納得しつつも、その激しい感情の起伏に少し呆れながら、その上で彼女のことを支えようと高坂を(なだ)めながらベンチへと戻っていった。

 

「それで……高坂さんのピッチングに違和感があるという話でしたね」

 

「そうそう。8番9番(二人)には外野から戻ってくる時に掻い摘んで説明したんだけど……」

 

 3回の裏が始まり、八番打者が打席に向かうと清城ベンチではセンターが高坂の投球で覚えた違和感を説明していた。

 

「んー、なんていうかね。ストレートの回転がきれーなのとごちゃごちゃしてるのがあったんだ」

 

「回転が見えたのですか……さすがの周辺視野ですね」

 

「ざっくりだけどね。いやー、でもそこまでべた褒めされると照れちゃうなぁ」

 

(……べた褒めした訳ではありませんが……)

 

 神宮寺が独特なペースで話すセンターに戸惑っていると話を聞いていた上級生の一人が彼女の肩に手を置いた。

 

「おどけてたら話進まないでしょ」

 

「神宮寺さんから褒められるなんて滅多にないから余韻を……」

 

「良いから。次ネクストに入らなきゃ行けないから、なんかあるなら話して」

 

「えーっとねぇ、どっちのボールも回転の違うストレートだったのに、感じたスピードはおんなじくらいだったんだ」

 

「私もストレート気になってたんだ。カットしようとした時に変な感じがしてさ。それは……つまりどういうことなの?」

 

「ええっと……うーんと、ストレートが、二つ……ある?」

 

「……なるほど。おおよそ言いたいことは分かりました」

 

「小也香、どういうこと?」

 

「確かにストレートが複数あるというのは考えられることです。まず綺麗な回転というのはフォーシームのことでしょう」

 

「……フォーシーム?」

 

「あっ、ネクスト行かなきゃ。神宮寺さん、手短かにアドバイスもらえる?」

 

「そうですね……恐らく彼女は遅くて伸びるストレートと、速くて沈むストレートを投げ分けています」

 

「……そうか。だから軌道が全然合わないのか……分かった! 行ってくる!」

 

 するとそこに1ボール2ストライクから投じられたストレートに振り遅れて三振した八番バッターが戻ってくると代わるように一番打者がネクストサークルへと向かっていった。

 

「ええと、何の話してたんだ?」

 

「高坂さんの二つのストレートの話だよぉ」

 

「ストレートが二つ? ストレートって投げられて真っ直ぐ向かう以外に何かあるのか?」

 

「あ……それは違うよ。ストレートって落ちるんだ」

 

「ええっ! 牧野、どういうことだ!?」

 

「ストレートって真っ直ぐって呼ばれるけど、リリースされたボールは必ず重力を受けるから、実際には放物線を描いてミットに届くんです。軽くキャッチボールしてるとボールは山なりに落ちてくるのがイメージしやすいかな……?」

 

「おお、確かに……ストレートもそうは見えないが、本当は落ちてたんだな。アタシはてっきり伸びているのかと」

 

「なぜバッターが実際には落ちているのに、伸びているような感覚を覚えるのか……。まず私たちはストレートを打つ時、最後までボールを見ているわけではありません」

 

「そりゃまあ……そんなことしてたらバットを振れないからな」

 

「ええ。だからリリースされた時の軌道からおおよその位置を予想して打っているのです。バッティング練習ではその予想した軌道を打てるように身に染み込ませているわけで……伸びると感じるのは、それで覚えた感覚より実際にはボールが落ちていなかった時に起こるのです」

 

「うん? けど牧野の話だとボールは重力を受けて放物線を描くわけで……あれ?」

 

「それで先ほど挙げたフォーシームの話に繋がるのですが……」

 

「そう! それ、なにか気になってたんだ! フォーシームってのは……?」

 

「シームというのは縫い目のことで……ストレートを投じる際、私たちピッチャーは縫い目に人差し指と中指を引っ掛けるようにして、バックスピンをかけてボールを投じるのですが、この時ボールが一周する時に縫い目が4回通過するような握りはフォーシームと呼ばれています」

 

「ボールの縫い目か……だが、それは話が繋がっているのか? アタシにはイマイチ分からないんだが……」

 

「重要なのはここからです。投じられたストレートは進行方向とは逆方向の空気の流れを受けることになります」

 

「自転車でスピード出すと気持ちいい風がぶつかってくる感じだな!」

 

「ええ。そしてこの時ボールの上と下に生じる空気の流れを想像してみて下さい」

 

「空気の流れだと? ボールの向かい側から空気が来て、確かバックスピンがかかってるんだよな。だから……下側は回転に反発するように当たるから空気の流れは遅くなって、逆に上は回転と一致するから速くなる……か?」

 

「正解です。ここでエネルギー保存の法則が関係してきます」

 

「え、エネルギー保存の法則……? いや、アタシはその、り、理系じゃないからな……」

 

「この前の試験で出てたよ……。確かエネルギーの総量は常に一定である、だったよね」

 

 頬をかきながら目を逸らすレフトを牧野がフォローするように答えた。

 

「その通りです。今回の場合空気の流れは運動エネルギーに当たり、速い場合運動エネルギーは大きく、遅い場合は小さくなると考えられます。そして総量が一定であるため、運動エネルギーが大きい場合圧力エネルギーは小さくなり、逆もまた然りです」

 

「ええと、つまり……ボールの下は圧力が大きくて、上は圧力が小さくなる……?」

 

「そして圧力差がある場合大きい側から小さい側へと動こうとする力がはたらくのです」

 

「それはなんとなく分かるな。だから、ボールは……下から上に引っ張られる、のか! そうか! それが重力を受けても、予測よりボールが落ちてこない理由なんだな!」

 

「そういうことです。この流れに対して垂直にはたらく力は揚力と呼ばれ、飛行機にも応用されています。そして縫い目には出っ張りがあり、一周の間に最も縫い目が通過するフォーシームは空気の流れがより受けやすくなるため、圧力差も増し、揚力も大きくなるわけですね」

 

「なるほど……よく分かったぞ!」

 

「おー、そうだったんだ。神宮寺さん、分かりやすかったよぉ」

 

「あれっ! お前は分かってたんじゃなかったのか!?」

 

「やー、私は感覚でそんな感じだって分かってたけど、どーいう理屈かまではちょっと……」

 

「それで小也香。高坂さんの二つのストレートのカラクリは遅くて伸びるものと、速くて沈むものって話だったけど……」

 

「私のように先発するピッチャーはずっとストレートを全力投球で投げるのは難しい。ですから適度に7割くらいの力で投げて体力を温存する必要があります。彼女の一つ目のストレートは7割程度の力で投げられたフォーシーム、二つ目のストレートは一つ目よりは力を入れる代わりに縫い目があまり通過しない、つまり沈むストレートを投げているのではないでしょうか」

 

「だがさっきアタシはストレートを意識して打席に立ってみたが、高坂のストレートに球速の差は感じなかったぞ!」

 

「それこそが彼女の狙いなのではないでしょうか。球速は例えですが……100キロの遅くて強いバックスピンがかけられたフォーシームと120キロの速くて揚力がはたらきにくいストレートを、私たちはボールがリリースされた軌道を見てどちらも110キロのストレートの軌道を予測して振っているのではないでしょうか」

 

「なんだと!?」

 

 神宮寺の推測に清城ベンチは大きく驚き、どよめきで包まれていった。

 

「確かにそれなら辻褄は合うのかもしれない。でも小也香……もしそれが本当だとしたら、私たちは小也香にバッティングピッチャーをお願いしてストレートを打つ練習をしているから……」

 

「……はい。私のストレートより、高坂さんのストレートの方がよりスピンがかかっていることになりますね。そうでなければ、まず錯覚を起こす前に、遅いストレートに合わせられるはずですから」

 

「いや、だけど神宮寺さん……あなたのストレートだって良いストレートじゃない。そう簡単にスピン量で負けるとは思えないけど」

 

「私は先程の打席……高坂さんの力で捻じ伏せようとする意思を感じました。打ったときの感覚からもあれは全力のフォーシームの軌道だったと思います。4球連続で投げられたため打てはしましたが……経験したことのないような速さでした。……正直に言ってください。高坂さんの投げる全力投球ではないストレートも……私の全力投球より速く感じているのではないですか?」

 

「……どうだろう。私は一打席目バントだったからよく分からないけど……」

 

「…………」

 

 牧野が皆の方を振り向くと神宮寺が人一倍練習に励んでいるのを知っていた皆はこの言葉に押し黙ってしまう。

 

(神宮寺さんがピッチングの基本であるストレートを重要視して磨き上げて、自信を持ってるのは皆知ってるもんね。……でも野球で嘘をつかれるのが、きっと神宮寺さんにとって一番辛いことなんじゃないかな)

 

 そんな中、センターは意を決して言葉を発した。

 

「……そうだよ。球速だけじゃない。コントロールの精度も高かった。二つのストレートも、腕が緩くなったりしてなかったし、リリース時のクセみたいなのもなかったよ」

 

「やはり、そうですか。全国No.1ピッチャーとは聞いていましたが、こうして対戦すると、彼女の恐ろしさがよく分かります」

 

 その言葉を真摯に受け止めた神宮寺は投手としての力量差に悔しさを覚えながらも、キャプテンとして皆に指示を送った。

 

「今の私たちがそう簡単に高坂さんから得点を奪えないことはミーティングの時から覚悟していたことです。ですからこちらの狙いは当初の予定と変わらず、簡単には打ち取られないようにして一球でも多く投げさせるしかありません。全員共通の意識として、それは貫くようにしましょう!」

 

 キャプテンの指示に清城の皆が力強く返事をすると三振に取られた九番打者がベンチに帰り、右打席には一番打者が入っていた。

 

「ファール!」

 

(へえ、ボールを打つポイントを前にしたか……)

 

 1ボール2ストライクからインハイに投じられたストレートに対して一番打者は前のめりにバットを振り出し、打球は三塁側ベンチの上に跳ねてファールとなった。

 

(気づいたか? 思ったより早かったわね。まあ、気づいたから打てるような代物でもないけど……。普通、ボールは引き付けて打つのが最善。ボールを見る時間を出来るだけ多くすればそれだけ正確な打撃が出来る)

 

(椿、次はこっちね)

 

(そうね。……アイツらがどこまで気づいたかは知らないけど、一巡したとこで気づいたのは褒めてあげるわぁ)

 

 ボールを受け取った高坂はミットの中で握りを調整していく。

 

(ボールが一回転する間に縫い目が一回も通過しないアタシの“ゼロシーム”。ストレートとして評価するならある意味クソボール。このボールは揚力が全然はたらかないで沈んでいく。だから……さっき投げたフォーシームとは軌道に大きな差が開く)

 

 高坂がアウトローの際どいコースに投じたストレートに対して再び前で捌くように振り出されたバットはボールの上を掠るように捉え、打球はそのまま後ろへと転がっていった。

 

「ファール!」

 

(このボールの違いはよほどのことがないと見極められない。だからミートポイントを前にして差が開く前にどちらのボールも当てられるようにしてるってとこね。ま、結局のところそれはボールが見極められないやつの……)

 

 再びアウトローに投じられたストレートに対して前で捌くようにバットが振り出されると今度はバットの上をボールが通過していき、ミットに収まった。

 

(苦肉の策ってやつね。ボールを長く見れない分、予測も大きくブレる)

 

「ストライク! バッターアウト!」

 

(くっ!)

 

(それに……神宮寺はセオリー通りフォーシームの握りは恐らく中指と人差し指の間を開いているはず。けどアタシの握りは隙間を閉じる握り方。より強い回転がかけられる……代わりに制球が不安定になりやすいし、回転軸もブレやすい握りだけどねぇ。野球始めた頃この握りのせいでアイツとのコントロールの違いを馬鹿にされたけど、今は理想的な投げ方を身につけた。アイツにも神宮寺にも……誰にも負けない、最高のストレートよ)

 

 三者連続三振によりチャンスを逃したことで清城に傾きかけた流れを断ち切った高坂は三回の表が終わってベンチに戻った時よりは気分良くベンチへと帰っていく。

 

「……レナさん、そろそろ……」

 

「あ……すいません北山監督。両投手とも良いピッチングをしていたので、思わず見入ってしまいました」

 

「気持ちは分かるわ。次が試合じゃなければこのまま見ていたいくらいだもの」

 

「同感です。……みんな、そろそろウォーミングアップに向かいましょう」

 

 スタンドでこの試合を観戦していた界皇高校のキャプテン、草刈(くさかり)レナは監督に話しかけられ、試合に没頭していたことに気づくと皆に声をかけて次の試合に備えてウォーミングアップへと向かっていった。

 

「キャプテン、高坂ちょっとおかしいと思うんですけど。もっとシュートを投げれば、球数を抑えられると思うんですけど」

 

鎌部(かまべ)さん。貴女もそう思うのね。確かにストレートを多投しているから、ほとんど捉えられていないとはいえタイミングを合わされて球数が多くなっている印象はあるわね」

 

「アイツが自分以外のことを見下すのはいつものこととはいえ、なんかムカつくんですけど」

 

「……確かに高圧的だけど、彼女は自分以外の皆を見下しているわけじゃないわ」

 

「そうとは思えないんですけど……」

 

 ウォーミングアップのため球場の外へと向かう界皇高校。すると長い白髪を揺らして先導するレナにエースである鎌部千秋(ちあき)が黄色い髪をウォーミングアップ用に纏めながら追いつき、話しかけていた。

 

「時折口が悪いこともあるけど、彼女が見下すのは自分も含めた野球に対して全力を尽くせていない全ての行動。味方のエラーに激昂するのも、あれは実力を信頼しているからこそ意識の甘さに怒ってるのよ」

 

「……まあアイツとは一年半くらい戦ってるんで、アイツの実力至上主義の意味は分かってるつもりですけど、アイツ見てるとなんか自分が見下されてる感じしてやっぱり好きじゃないんですけど」

 

「相変わらず負けず嫌いね。好きか嫌いかで言えば私は好きよ。好敵手として、また戦いたいわ」

 

 鎌部と言葉をかわしながらレナは夏の大会の決勝戦、6回の表に2アウト満塁で打席が回り、高坂が投じた失投を捉えて走者一掃のツーベースを放ったことを思い出していた。

 

(あれが、今まで彼女に投げられたボールで最も甘い球だった。それに彼女の性格からして7回も登板すると思ってたわ。……高坂さん、貴女はもしかして……どこかを痛めているのでは……?)

 

 レナが既に姿が見えない高坂のことを考えている間も試合は進んでいく。4回の表の向月高校の攻撃。先頭の四番打者に対して2ボール2ストライクから高速スライダーが投じられていた。

 

「……ボール!」

 

(見送られたか……)

 

(嫌なボールだ……。けど、深くまで引きつければウチならなんとか変化は感じ取れる)

 

 アウトコースに外れた高速スライダーに辛うじてバットを止めたバッターは、次に投じられたボールにも反応していた。

 

(変化しな……ストレート、か!)

 

 インハイに投じられたストレートにバットが振り出されると放たれた打球はファースト正面に向かい、強烈な捕球音と共にキャッチされた。

 

「アウト!」

 

(くっ、高速スライダーを意識した分差し込まれた……! 攻略しかけていたスライダーやストレートが、高速スライダーの存在で息を吹き返しやがった……!)

 

(私のストレートは現状、高坂さんに及ばないのでしょう。しかしその不安に押しつぶされたりはしません。そのために練習で力を積み上げてきたのです。やってきたことを信じて、今投げられる最高のボールを牧野さんのミットを目掛けて投げ込むだけです)

 

 高速スライダーを交えたピッチングが功を奏し、このボールが相手の意識に刺さる投球の軸となったことで捉えかけていた他の球種も有効に働いてこの回は続く五番バッターがスライダーを打ち上げセンターフライ、六番バッターが高速スライダーに合わせるもののキャッチャーへのファールフライで倒れ、4回の表が終了した。

 反撃の糸口を掴みたい清城だったが、ベースとして今まで経験したことのないスピードと精度の高いコントロールに加え、二種類のストレートを投じられ、球数を稼ぐものの二番三番共にストレートの連投で三振に打ち取られてしまった。そして続く神宮寺の打席……

 

「ファール!」

 

(ふぅん? アンタはボールをむしろ引きつけるんだ)

 

(前では目測のズレも大きいですし、それに万が一変化球を投げられたらあっさり空振りさせられてしまいます。ここはギリギリまで引き付けて、窮屈でもフォーシームともう一つのストレートを見極めるしかありません)

 

 1ボール2ストライクから二つのストレートに反応して自分の身体より後ろでバットに当て続けている神宮寺は少しずつこのボールに対応し始めていた。

 

(……やるね。打つ瞬間、僅かに手首を使ってバットの軌道を調整してる。この変化を感じ取って、食らいついてるんだ。……椿、このボールに慣れさせるのはこっちにとって得策じゃないよ)

 

(……ちっ、仕方ないか。一球で決めるわよ)

 

(アウトコース、一球外してきましたか。……!?)

 

 アウトコースのボールゾーンからバックドアで入ってくるシュートに反応しきれなかった神宮寺はバットを振り出せずにこのボールを見送った。

 

「……ストライク! バッターアウト!」

 

「椿、ナイスボール!」

 

「アタシは良いボールしか投げないわよ。もう少し気の利いたことを言いなさい」

 

(……信じられません。普通シュートというのはストレートと同じようなスピードで僅かに利き手側に変化することで打ち取ることを目的とした球種です。それがあれだけの変化を……一体どうやっているのでしょう)

 

 大きくアウトコースに外れたと思ったボールがストライクゾーンの際どいコースに切れ込んできたことに神宮寺はバッテリーの背中を見ながら驚きを覚えていた。

 

「……できたぁ〜!」

 

 5回の表に入ったところで試合をスタンドで見守る里ヶ浜高校の一員として座っていた天草の嬉しそうな声が響いた。

 

「もう完成したの!?」

 

「うん! 描いてて楽しかったぁ。見て良いよぉ〜」

 

「……凄い綺麗……」

 

「宇喜多さん、私にも見せて下さい」

 

 完成した天草の絵に密かに気になっていた里ヶ浜野球部員達が次々とその絵を見に行く。天草の右隣に座っていた宇喜多がその絵に感嘆しているとさらに右隣に座っていた野崎も興味津々といった様子で覗き込んだ。そしてそのタイミングが偶然にも河北と被り、同時に感想を漏らしていた。

 

「綺麗〜。大海原が強く浮かび上がってくるね」

 

「わぁ……! 深海が目に飛び込んできますね」

 

「「えっ……?」」

 

「やったぁ。大成功ぉ〜!」

 

 正反対の感想を漏らした二人が目を見合わせているとその様子に天草は満面の笑みを浮かべていた。

 

「えっと、これは……?」

 

「コントラストは強い方に目がいくんだけど、今回は淡い青と深い青をベースにそれぞれ塗り分けて、人によって印象深い方のコントラストが強くなるように調整したんだぁ」

 

「凄ーい! 人によって浮かび上がるのが違うの!?」

 

「ともっちさんは大海原が強く印象に残ったみたいですが……私は深海が凄く印象深く見えましたよ」

 

「えへへー。その反応が見たくて頑張ったんだよ」

 

 野崎も河北もその技術に大きく驚きを見せていると他の部員もどちらが印象に強く残った、など絵を見て感想を話し出す。

 

(さっき聞かなかったことの一つは分かったけど……もう一つの方も、気になる……)

 

 すると宇喜多が不意に質問をした。

 

「あの……どうして野球の試合で大海原と深海が……?」

 

「それはねー、あの……ピッチャー? だっけ。あそこで投げてる二人が似てるけど、正反対だなーって思ったんだぁ」

 

「あの二人……神宮寺さんと、高坂さん?」

 

「そうそう!」

 

「えと……どういうところが? あんまり、似てないような……」

 

「うーん、わたしもインスピレーションで感じたからそんなに正確には説明出来ないけど……」

 

「……じゃあ、大海原と深海が似てるところと違うところって……?」

 

「まず深海は光が届かなくて暗いし、その名の通り深いから……あんまり一杯生き物がいるわけじゃないし、プランクトンとかも海面に比べるといなそうだから、生きるのも大変そうだよねぇ。……んー、逆境でも生き抜く個の強さって感じかな」

 

「じゃあ大海原は……?」

 

「大海原はまず広いイメージがあるし、太陽も近いから明るいよねえ。それに色んな種類の魚がいて……海面だと鳥さんとかも近くにいるよね」

 

(……暗いのと明るいのが違うのかな?)

 

「でも数が多ければ天敵も多いし……ちっちゃい魚だと団体で動いて一つのおっきな魚のように動いて見せたりとかあるよねぇ。数いれば味方もいるし敵もいるけど……自然の厳しさと逞しさが大海原にはあるなあって」

 

「んん……なんとなく分かるような気もするけど、ちょっと茜には難しいかも」

 

「良いんだよ〜。絵は自分が感じた通りに感じればいいんだから。これは私がこんなイメージで描いたよ〜ってだけ。これをね、どう受け取るかは自由なんだ。性質は似てるけど、環境の違いで正反対にも思えるこの二つをわたしなりにキャンバスに映し出したけど……茜がこれを見てどう思ったかって聞くのも楽しみなんだよぉ〜」

 

「そっか……! えっと、茜はね……」

 

(……絵に興味を持つなとは言わないけど、試合も見て欲しいわ……。互いに三回戦まで勝ち進んだら当たるのだから)

 

 東雲が絵への興味を抑えて試合の進行を見守っていると、試合は投手戦の様相を呈していた。互いにヒットが出ないまま5回の裏も2アウトになり、右打席に入っていた七番打者も1ボール2ストライクと追い込まれていた。

 

「えいっ!」

 

「……!」

 

 アウトローの際どいコースに投じられたゼロシームにバットが合わせられると打球はライト方向にふらふらと上がり、ファースト・セカンド・ライトがこの打球を追っていく。やがて落ちてきたところでセカンドがこの打球に思い切って飛びつくとその先にバウンドした。

 

「……ファール!」

 

(ありゃ。ちょーっと、切れちゃったか)

 

(……こいつ、まさか見極めてるのか?)

 

(フォーシームの方はちょっと染み込んだ感覚に引っ張られて下叩いちゃうけど、ゼロシームはつまりは伸びない変化球だと思えば良いんだ。回転さえ見極められれば……打てる! 出来れば、もう少し甘いとこに投げて欲しいけど……!)

 

 四隅を通すような精度で投げられたゼロシームを僅かにファールになったとはいえ、打ち返した七番打者にキャッチャーは警戒を強めていく。

 

(……また? もうこいつにシュートは勿体ないわよ)

 

(この試合延長だって考えた方が良いし、アンタが自分から降りたがるとも思えない。内に投げた7割フォーシームにもついてきたし、少しでも球数を抑えるのを優先するのよ)

 

(同じサインか……分かったわよ)

 

 高坂がそのサインに渋々頷くと投球姿勢に入る。バッターは高坂の肘あたりをぼおっと見るようにバットを構えるとインコース低めに投じられたボールを見送った。

 

「ボール!」

 

(……! 振り出す素振りもなく見送った?)

 

(……手が出なかったか?)

 

 ストライクゾーンから内のボールゾーンへと変化したシュートを見送ったバッターにバッテリーは気味が悪い感覚を覚えていた。

 

(一球でも多く投げさせて、あわよくば打ってみせるもんね)

 

 2ボール2ストライクから7球目、今度はアウトハイへとボールが投じられた。

 

(フォーシーム! ここはカットだ!)

 

 このボールの回転を見極めたバッターは軌道に合わせるようにバットを振り出す。しかし、振り遅れておりスイングは振り切られる前にバットに当たって打ち上がった。そしてボールが落ちてくるとミットを横に突き出すようにして高坂がこの打球を収めた。

 

「アウト!」

 

(や、やられたぁ……! 今のは多分、全力のフォーシーム……。もし二つのストレートを攻略したとしても、その奥には三つ目の本命が待ってるんだ……)

 

 ピッチャーフライが成立し、スリーアウトチェンジ。試合は6回の表を迎えていた。

 

「ストライク! バッターアウト!」

 

(インコースから高速スライダー……!?)

 

 既に二桁三振を成立させている高坂に対し、神宮寺はインコース真ん中から真ん中へと入った高速スライダーで一番打者を空振り三振に打ち取り、これで二つ目の三振を奪っていた。

 

(序盤体力を温存できた分、まだ余力が残っているのは救いですね。ですが……左バッター、ですか)

 

 続く二番打者は先ほどスライダーをライト前に運んでおり、またコントロールの大雑把な高速スライダーは少しコントロール出来るようになった今でも危険球の可能性が苦手意識として残っていた。

 

(小也香、まだボールに力はある。次に何を投げるにしても初球は……ここに!)

 

(……! ……本当に貴女はあの大会から強引に、そして頼もしくなりました)

 

(ストレート! 打てるっ!)

 

 インハイへと向かっていくストレートに右足を開いた二番打者はこのボールを引っ張り、打球は打ち上がった。快音と共に放たれた打球が落ちてくると、ライトは少し下がった位置でこのボールを落ち着いて捕球する。

 

「アウト!」

 

(よし、二番バッターは長打を打てるような打ち方をしてなかった。高めのストレートを打ち上げさせられたのは大きい!)

 

「ツーアウト! あと一つ、落ち着いていこう!」

 

 牧野の掛け声に清城野手陣も精一杯声を送る中、右打席には高坂が入っていく。

 

(……結局、お互い3回の表が終わってからランナー一人も出ずじまい。少なくともこっちの攻撃のリズムを崩されたのはアタシがあの回で三振に取られたからだ。……今度こそ、油断はしない)

 

(ランナーはいないけど高坂さんを出せば次は長打力のある四番……ツーアウトでも得点されたっておかしくない。慎重にいこう)

 

(分かりました。……睨まれているわけでもないのに、彼女の目は真剣でどこか怖い。この場面、先ほど以上に集中して挑んでいるのでしょう)

 

 振りかぶった神宮寺がボールを投じると内のボールゾーンへとボールが投じられる。

 

(……スライダーか?)

 

 少し詰まらせてレフト線に放とうとボールを引きつけた高坂だったが途中でスイングを中断してこのボールを見送った。

 

「……ボール!」

 

(……見てきましたか)

 

(危うく振らされるところね。さすがにあれは打ってもファールにしかならないわ)

 

 内のボールゾーンから変化したスライダーはストライクゾーンには入りきらずボールゾーンを通って牧野のミットに収まり、振らせたかった清城バッテリーとしては嫌な見送り方となった。

 

(延長を考えないならこれが最終打席、高速スライダーを惜しみなく使ってくるか?)

 

 先程の打席で空振り三振に取られた高速スライダーを高坂が意識する中、牧野から送られたサインに神宮寺は頷いた。

 

(……先ほどのラストボールと同じコースを狙うのですね)

 

 神宮寺は滴る汗を拭うとやがて振りかぶり、左足を踏み出すと中指と人差し指をギリギリまでボールに触れさせ、押し出すようにしてボールをリリースした。

 

(アウトコース高め、さっきの打席と同じボール……いや、油断する(決めつける)な……!)

 

 アウトコース高めに投じられたスピードボールに先ほどの打席で振らされたボール球の高速スライダーがよぎった高坂だったが、ボールを引きつけて横への変化が感じ取れないことを瞬時に判断し、振り出されたバットは投じられたストレートのコースに一直線に向かうように振られ、そして振り切られた。

 

(反応された……!?)

 

(くっ……!?)

 

 鋭い金属音がグラウンドに響くと神宮寺は左後方を見上げる。引きつけて放たれた打球はライト方向への大きなフライとなって伸びていった。

 

(ギリギリ、追いつけるかも……!)

 

(……! 深追いしすぎ……!)

 

 カバーに走っていたセンターがフェンス際にきたライトがまだ減速していないことに気づいたが、既に打球は落ちてきており指示は間に合わなかった。そして落ちてきた打球に飛びついたライトのミットの先をボールが越えると打球は外野フェンスの上に設置された金網の上側の角に当たり、勢いよくフェアグラウンドへと戻っていく。

 

「うっ!」

 

「な……しまった!」

 

 ライトは勢いそのままにフェンスにぶつかり、カバーに向かっていたセンターはフェンスに当たって勢いが殺されると判断していたため、跳ね返った方向に野手はおらず、打球は点々と転がっていく。

 

「……! まさか……!」

 

 何かに気づいた神宮寺がホームのカバーに向かうと牧野も二塁を蹴った高坂を見てその意味に気づき、外野に指示を送った。

 

「バックホーム! 急いで!」

 

「嘘でしょ……! まさか、ランニングホームラン狙ってる!?」

 

 一塁線側に逃げるように転がるボールに外野がようやく追いつくと高坂は既に三塁手前まで来ていた。

 

(フェンスにぶつかったライトの代わりにセンターがボールを捕った! タイミングは際どい……!)

 

「ストップ!」

 

 向月の三塁コーチャーは3回表の経験からここは無理せずに止まるべきだと判断し、ストップの指示を送った。しかし……この指示を高坂は無視して三塁を蹴った。

 

「高坂!?」

 

(打球はライトの定位置からさらに一塁線側に飛んでた。処理したのはライトのはず! ライトの守備なら、間に合う!)

 

 走塁に集中していた高坂は外野の位置を振り返って見るロスを嫌い、唯一振り返らずに見れる一塁へ走る際の情報からこのボールをライトが処理したと判断して三塁を蹴っていた。

 

(させないよぉ……!)

 

 ライン際のフェアゾーンでボールを収めたセンターは早めに飛ばされた牧野の指示に応じてホームへと送球を行った。

 

(よし、ストライク送球! ……!)

 

 送球は中継に備えたセカンドの頭を越えて一度マウンドの斜面にバウンドするとホームで構えていた牧野から見て少し右側へと逸れていた。

 

(どきなさい一年……!)

 

(大きなズレじゃない! アウトにするんだ……!)

 

 やがて牧野のミットにボールが届くと既に高坂はスライディングを敢行していた。そして牧野がこのスライディングをブロックしにいくと、その脳裏には3回の表のクロスプレーが浮かんでいた。

 

(追いタッチ気味になっちゃった。なんとかアウトには出来たけど、危なかったし気をつけよう)

 

 そして牧野がこのスライディングに真っ直ぐ向かうようにブロックすると、高坂の身体がスライディングの勢いで押し込まれ、砂塵が舞い上がった。砂煙は少しの間二人を包むように舞ったが、すぐに晴れていく。

 

(あ……)

 

 ホームのカバーに入っていた神宮寺がアウトのタイミングだと確信を持っていると、足元に転がって爪先に当たったボールに気づいた。

 

(くっ……!)

 

(ブロックが甘いのよ、一年キャッチャー……!)

 

 タッチのタイミングはアウトだったが、クロスプレーの衝撃で丁寧に押さえるようにブロックしにいった牧野のミットからボールが溢れて、神宮寺の足元に転がっていた。そして高坂の足がホームベースに触れていることを確認した球審から判定が出され、コールが球場に響き渡った。

 

「セーフ!」

 

 正式に高坂のホームインが認められ、0が続いていた得点ボードに1が記録される。投手戦の均衡を破り先取点を手にしたのは向月高校。その事実を突きつけられ、牧野はホームベースから立ち上がることが出来ないでいた。

 

「……立ってください」

 

「小也香……ごめん、私がボールを溢さなかったら……」

 

「牧野さん、野球にたらればはありません。間違いなく私たちはランニングホームランを打たれたのです」

 

 高坂相手に手痛い失点であることは神宮寺も十分に分かっていたが、神宮寺はボールを拾ってミットに収めると、落ち込んだ様子の牧野に右手を差し出した。

 

「しかし、これで済むとは限りません。まだ私たちは追加点を入れられるかもしれない」

 

「あ……」

 

「向月は容赦など勿論しないでしょう。気休めで言っているのではありません。落ち込んでなどいたら、その隙は間違いなく突かれる」

 

「……そうだね。……分かったよ、小也香」

 

(まだ、負けたわけじゃない。でもこの状況で二点目を入れられたら、ほとんど負けに等しい……そうだ。こんな状況だからキャッチャーは立ち上がらないと!)

 

 神宮寺の手を取った牧野が引っ張られるように立ち上がるとその目からは既に後悔は消え、前を見ていた。

 

「もう泣き言は言わないよ。……まずはこの回を抑えよう!」

 

「ええ。頼りにしていますよ。共に乗り越えましょう」

 

 互いに顔を見合わせて頷くと繋いでいた手を放し、神宮寺はマウンドへと戻っていった。

 

(小也香の手……私より冷たかったな。経緯はどうあれ、打たれたピッチャーこそが一番失点のショックを感じていたのかもしれない)

 

 ボールを溢してしまった自分の手より神宮寺の手の方が冷たかったことに気づいた牧野はその感触が残る右手を強く握りしめると、腹に力を込めて声を出した。

 

「ツーアウト! まだ一点差! ここでしっかり抑えよう!」

 

 その大きな声に清城野手陣は驚きながらもその意思を受け止めるように声を出していき、牧野はキャッチャーマスクを付け直すと、続く四番打者を迎え入れるようにキャッチャーボックスに座ったのだった。



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孤高のエースはライバルを求めた

 6回の表、2アウトランナー無し。打席には4番バッターが向かっていた。

 

「ナイスラン」

 

「どうも。……ここでもう一点入れなさい」

 

「分かってる」

 

(2アウトだったし、思い切ってホームに突っ込むのはアリだ。実際点は入った。……でもコーチャーはストップの指示を出していた。高坂は確かに指示が間違ってると思えば容赦なく指摘する性格だけど、プレー中に味方の指示を無視したところは初めて見たな……)

 

 帰還した高坂とすれ違い様に言葉を交わした4番はバッターボックスの手前まで来ると軽く頭を下げた。

 

「しゃす!」

 

 力強い挨拶に牧野も軽く頭を下げると、右打席に入った4番打者はロジンバッグを軽く叩いている神宮寺の顔色を窺いながら地面をならしていく。

 

(まあ高坂は結果論大嫌いだけど、ウチは試合は結果がなにより大事だと思う。深く考えるより……今の状況を受け止めるのが先決だ。先制したとはいえ、野球で一点差はセーフティリードじゃない。ウチの役目は相手の動揺した隙を逃さず、突き放すことだ)

 

 さばさばした態度で先ほどのプレーに執着せず、バッターは地面をならし終えるとバットを構えた。

 

(見た限りだと神宮寺が動揺してる感じはしない。けどこの場面でのランニングホームランにショックが無いわけないし、甘い球来たら逃さず打つ!)

 

(このバッターは一打席目はインコース低めのスライダーをレフトへの大フライ、二打席目はインハイのストレートをファーストライナー……どっちもいい当たりで、少しのズレで長打になってもおかしくなかった)

 

 長打を警戒した牧野は外野を後退させると、神宮寺にサインを送った。

 

(……そうですね。このバッターはただ低めをつくだけで抑えられるほど甘くはないでしょうから)

 

 神宮寺はそのサインに頷くと気持ちを落ちつかせるように叩いていたロジンバッグの白い粉が少し多めに指についており、一度息を吹きかけて適度に減らすと、振りかぶって投球姿勢に入った。

 

(な……インハイにストレート? さっき良い当たりした……いや、それともシュートか?)

 

 インコース高めに投じたボールに二打席目に捉えたストレートと一打席目で振らされたシュートが頭によぎったバッターは振り出そうとしたバットを止めてボールを見送った。

 

「……ストライク!」

 

(よし!)

 

(ストレート!? 一歩間違えば長打どころかホームランのリスクだってある。さっきアウトハイのストレートを打たれてランニングホームラン食らったばかりなのに、高めに投げてくるのか。それにコースも際どかった。タフだね……ならこっちも甘いボールに期待せず、狙う球種を絞るか)

 

 このストレートに意表を突かれたバッターは鋭い視線を神宮寺に送ると、意識を切り替えてバットを構え直した。

 

(……今のコースから少し高めにストレートを外せる?)

 

(……すいません。一球目は意表を突けましたが、僅かなコントロールミスが命取りになるこの場面で続けて高めに投じるのは厳しいです)

 

 先ほど高坂に打たれた当たりとこのバッターの一際鋭いスイングが頭によぎった神宮寺は牧野から送られたサインに首を横に振った。

 

(そっか。じゃあ、ここは球数使っても低めの際どいコースを突いていこう)

 

(分かりました)

 

 次に出されたサインに頷いた神宮寺が振りかぶり投球姿勢に入ると2球目が投じられた。

 

(ん……少し遅いな。これは……)

 

 タイミングの違いを感じ取ったバッターが始動を溜めたバットをそのまま止めると、真ん中低めから外へ逃げるようにスライダーが変化していき、ワンバウンドするかしないかというギリギリの低さのこのボールを牧野は慣れたようにミットに収めた。

 

「……ボール!」

 

「良い高さに来てるよ!」

 

(ええ、ここは長打を打たれるわけにはいきませんから。入れにいかず厳しいところを狙っていきますよ)

 

(スライダーか……変化にも慣れてきたし、甘く入れば狙えるんだが……この試合ウチには際どいところばかりだからな。ま、厳しく攻められるのは4番の宿命だ。その上で結果を残してこそ、名門の4番(ここ)を任された意味がある)

 

 丁寧に低めに投げられたスライダーを見送ったバッターが変化量に目が慣れた感覚を覚えていると3球目がアウトコース低めやや真ん中よりへと投じられた。

 

(……低い!)

 

 ボールは中に入るように真ん中低めへと変化していくとこのボールもバッターはバットを振り出すことなく見送った。

 

「……ボール!」

 

(中に入ってくるつい打ちたくなるような軌道なのに、落ち着いて見送られた……こういうボールに手を出してくれないのは嫌だな)

 

 低めに外したこのシュートも冷静に見送られ、牧野はやりづらさを感じていた。

 

(……今私たちに延長のことを考える余裕はない。これを最終打席だと思って……)

 

(そうですね。ここで流れを断ち切るためにも……!)

 

 4球目が投じられるとスピードの乗ったボールがインコース低めへと向かっていく。

 

(…………ストレートじゃない!)

 

 二打席目で2ボール2ストライクから投じられて見送ったボールと同じ感覚を覚えたバッターはこのボールに対して踏み込むとバットを振り出した。

 

(ここからボールは中に入ってくる!)

 

(なっ……!)

 

 インコースへと投じられたこのボールに対して腰を引かずに踏み込んできたバッターに神宮寺は目を見開くと、投じられた高速スライダーがバットへと飛び込むように曲がっていった。そしてバットが振り切られると、快音と共に打球が放たれた。

 

(まさか……高速スライダーを狙ってた!?)

 

 左中間に向かって勢いよく伸びていく打球に牧野が驚いていると、レフトとセンターがこの打球を追いかけていく。

 

(嘘でしょ……! 予め下がってたのに……)

 

(打球が速すぎて全然追いつけない……!?)

 

 後退していたレフトとセンターの頭上をスピードの乗った打球が越えていくと、外野フェンス僅か手前でバウンドし、フェンスに当たって跳ね返ってくる。このボールをレフトが収めて中継に入ったショートに送球が行われたが、ボールが届く頃にはバッターは悠々と二塁ベースに到達していた。

 

(高速スライダー……悪くないキレだったよ。けど他の球種に比べて外に大きく外れたり、逆に内から真ん中に入るような甘い軌道のもあったからね。悪いけどそのくらいの精度じゃウチには通用しないよ)

 

(あのバッターに高速スライダーは一球しか見せていなかったのにも関わらずこの対応力……まずいですね。3回からこの高速スライダーを意識させることで他の球種も生きていたのに、それを長打にされてしまった。このボールも打てないボールではないのだと、後に続くバッターを楽にするような……これが4番打者のバッティングですか)

 

 してやったりといった顔でバッターランナーがグローブを外していると、その様子を見ながら神宮寺はこの試合初めて高速スライダーをヒットにされたことに焦燥感を覚えていた。

 

「神宮寺さん切り替えて! 2アウトだよ! 次の5番は今日ノーヒットだし、ここで抑えよう!」

 

「……! そう……ですね。ありがとうございます。……ここで切りましょう!」

 

 ショートが歩いて直接ボールを渡しにくると、ミットに押し込まれたボールと一緒に上級生の助言を受け取り神宮寺は息を深く吐き出すと少し落ち着いたようだった。

 

「……! 神宮寺さん、あれ……」

 

「え……!?」

 

 ショートが指した先はネクストサークル。そこにいた5番打者がベンチに戻っていくと、打者としての準備を整えた別の選手が代わりにバッターボックスへと向かっていた。その行動の意味に神宮寺は目を見張る。

 

(……代打、ですか? ノーヒットとはいえクリーンナップを務める5番打者に……)

 

(5番は一打席目はスライダーを続けた後のインハイのストレートをキャッチャーフライ、二打席目は逆にストレートを続けた後のスライダーを打ち上げてセンターフライ。ストレートとスライダーの緩急差に苦労してた……とはいえ、ここで代打を出してくるなんて)

 

「し、守備のタイムお願いします!」

 

 牧野は代打を出された理由を推測したものの、5番打者に代打を出す向月高校の采配に驚きながら、一度間を置くべく少し慌てた様子でタイムを要請した。そして球審のタイムの声を背にマウンドへと向かい、集まった内野手と共に次に取る作戦を相談し始める。

 

「か、変えるんですね。5番バッターなのに……」

 

「んー、向月は元々選手層が厚いから調子の悪いバッターは容赦無く変えてくるんだにゃ」

 

 天草の絵の興奮も落ち着き、里ヶ浜の部員が試合の様子をスタンドから見守る中、代打を意外そうに見る初瀬に対し中野は大きくは驚かずメモ帳から向月の情報を探していた。

 

「あの代打の情報があったにゃ。左投げ左打ちの一年生で、キャッチャー登録だけど公式戦で守備での出場はないんだにゃ」

 

「二年生のスタメンがいるからでしょうか……」

 

「ま、そんなところにゃ。あのスタメンキャッチャーは一番を務めるくらいには打撃も足も良いから代わる機会が無くて、今のところキャッチャーとしての出番はないみたいだにゃ」

 

「でも代打で出てくるってことは、打撃の良い選手なんですよね」

 

「その通りだにゃ。夏大会でも代打の切り札として起用され、決勝の界皇戦では7回にエース藤原に代わってマウンドに上がった鎌部から代打で先頭打者としてレフト前ヒットで出塁してチャンスメイクをしているにゃ。そしてその打席も含め夏大会で立った5打席全てでヒットを打ち、代打成功率100%を記録している紛うことなき好打者なんだにゃ」

 

「そ、そうだったんですか……!? それは凄いですね……。そうなると、この場面で代打を送ったのはあの5番打者の調子が悪いというだけじゃなく、向月高校が勝負の時だと判断したということかもしれませんね」

 

「む……確かにそうだにゃ。クリーンナップへの代打ってところに意識持ってかれてたけど、言われてみれば6回の表で一点差の場面での追加点のチャンス。向月はあくまで冷静な采配をしているだけなのかもにゃ」

 

 情報を整理した初瀬の考察に中野は感心したように膝を打って同意すると、その目をマウンドから向月のブルペンへと向ける。

 

(その冷静な采配に違和感があるのは、こっちが原因かもにゃ。高坂も球数投げてるし、一点差という状況を考えると二番手ピッチャーに準備をさせるべき場面。向月の二番手は高坂と同じボーイズリーグ出身の二年生左投手(サウスポー)。夏大会では三番手だったけど、三年が引退した今ではあの投手が二番手のはず。それが今準備させてるのは少し前まで三軍にいたピッチャーだけ……。向月が冷静さを欠いていないなら、これはどういうことなんだにゃ?)

 

 夏大会前の向月高校との練習試合の前に調べたデータと現状の食い違いに首を傾げているとタイムが解かれてプレーが再開され、中野は疑問を抱きながらもその視線をブルペンからグラウンドに戻した。

 

(さて、どうくる?)

 

 左打席に入ったバッターは神宮寺の様子を窺いながらバットを構えると投じられたコースに大きく目を見開いた。

 

(歩かせるのか? ……!?)

 

 外高めに大きく外されたスピードボールが鋭く中へと向かうように変化し、その軌道にバッターは意表を突かれる。

 

「ボール!」

 

(今のが高速スライダーか……歩かせるつもりじゃないみたいだね。けど外れすぎでしょ。コントロールが甘いって話はどうやらホントみたいだな)

 

 中へと向かうように変化した高速スライダーだったがそれでも高さもコースも外れていた。構えていた位置から外へミットを動かしてこのボールを収めた牧野は神宮寺に視線を向けて頷きながらボールを投げ返す。

 

(さっきのタイムで歩かせるかどうか相談して、次のバッターも高速スライダーに合わせてきてるし、不用意にランナーは貯めたくないからこのバッターで勝負したいって決めた……。このバッターをどうやって抑えるか。キャッチャーとして一番頑張らなきゃいけない場面だ)

 

(左バッターにはコントロールが大雑把な高速スライダーが危険球になる恐れがあるのであまり投げたくはありませんでした。ただこのくらい大きく外に外せば、ストライクは望めないとはいえ危険球の恐れがなくこのボールをバッターに意識させることが出来たはずです)

 

 牧野の意図を汲み取るように神宮寺も頷いてボールを受け取ると、二塁ランナーに視線を向けた。

 

(ランナーは絶対に返すわけにはいきません。この打席、私に出来る全てを費やしましょう)

 

(内外野定位置……。2アウトだしスタートは迷わず切れるからな。無理に外野を前に出すより、定位置の状態でバッター勝負ってわけか)

 

 神宮寺がプレートを外している間二塁ランナーは一度塁に戻ると、改めて野手の位置を確認し、神宮寺がプレートを踏んでサインを交換するところでジリジリとリードを広げていった。

 

(小也香、腕を振り切って!)

 

 サインの交換を終えた牧野は腕を振る動作を見せてからキャッチャーミットを構えると、神宮寺が投球姿勢に入った。

 

(高速スライダーが甘く入れば私としても狙いたいとこだけど……続けてくるかな?)

 

 クイックモーションからスピードのあるボールがリリースされた瞬間、バッターはその球種を見極めようとする。

 

(膝下に高速スライダー、じゃない! これは……ストレート!)

 

 インコース低めに投じられたストレートに反応したバッターが振り出したバットはボールの下を叩いた。打球は牧野のミットを越えて低い弾道でバックネット下のフェンスへと当たる。

 

「ファール!」

 

(少し迷ったか……でもこの感じなら対応出来ないスピードじゃないね)

 

(真後ろに飛ぶファール……タイミングがあっている証拠だ。高速スライダーが頭にあったはずなのに、いきなりタイミングを合わせてきたんだ。……小也香)

 

(……? それだとボールは真ん中へと変化してしまいますが……)

 

 球審からボールを受け取った牧野は神宮寺にボールを投げ返すと次のサインを送った。そのサインに神宮寺は首をどちらに振るか一瞬迷いを見せる。

 

(……良いでしょう。低めに変化球を集めて打ち取るピッチングをやめたとはいえ、それが必要であるというのであれば、貴女のミットを目掛けて投げ込んでみせましょう)

 

 一瞬の迷いを振り払いこのサインに頷いた神宮寺は3球目を投じた。

 

(インコース低め……入ってる。同じボールか? ……!)

 

 スイングの始動に入ったバッターがストレートのタイミングで足を開いた瞬間、僅かな軌道の変化に気がついた。

 

(シュート!)

 

 中へと入っていくシュートに反応したバッターは芯から少し先でボールを打ち返すと打球はファーストの横へと転がっていった。

 

「ファール!」

 

 ファーストは打球に飛びつこうとしたが打球が目に見える程度にはファールゾーンへと逸れていき、その足を止めるとファールが宣言されていた。

 

(なるほど。右投手から左打者の内に投じればそのボールについた角度に対応するため身体を開く。ストレートにタイミングが合っていたバッターはその対応をしてきた……しかし実際は真ん中へのボールでタイミングもストレートよりはやや遅い。ストレートにタイミングが合っていたからこそ、ファールになりやすかったというわけですか)

 

 中に入ってしまうシュートの要求が腑に落ちた神宮寺は次のサインにも頷くと4球目を投じた。

 

(また膝下……!?)

 

 3球続けてインコース低めに投じられバッターは意表を突かれるが、追い込まれていたこともあり今度は始動を溜めてこのボールを引きつけるとバットを振り出した。

 

(……! これは……スライダー、か!)

 

(小也香のスライダーなら左打者相手でも決め球足り得る……!)

 

 内へと切れ込んでくる軌道にバッターはとっさに腕をたたんでスイングを調整し、バットが振り切られる。牧野はこのスライダーを受け止めようと構えていたミットにボールの感触がないことを感じ取る。

 

(打球は……ファースト、セカンド、ピッチャーのトライアングルの間に……!)

 

 鈍いゴロが三人の内野の間に転がっていくと走り出したバッターランナーが一塁へと向かっていく。このボールを捌こうと神宮寺が処理に向かう最中、打球の強さや転がった位置を判断した牧野は瞬時に指示を飛ばした。

 

「……ファーストが処理して!」

 

「……! お願いします!」

 

「分かった!」

 

 神宮寺は深追いせずに処理をファーストに任せるとスライダーの回転を上乗せするような強いトップスピンのかかった打球は神宮寺の先を通り過ぎて、ファーストのミットにそれなりのスピードで収まった。ファーストが反転して一塁ベースカバーに入ったセカンドに送球を行い、ランナーもベースを駆け抜けると、一塁審判から判定が下された。

 

「……アウト!」

 

 左打席から走り出していたバッターランナーもこの送球に際どいタイミングで駆け抜けていたが、鈍い当たりに対してスピードがあったこの打球を神宮寺より一塁に近い位置で捌いたファーストの送球が功を奏し、アウトのコールが響き渡った。その判定に神宮寺は小さく拳を握りしめる。

 

(この死角に向かうスライダーは内に鋭く切れ込む分、引きつけてから合わせるのは難しいのに、それでも合わせられた。今、小也香にとっての一番の決め球はやっぱりコントロールもキレもあるスライダー。追い込むまでこのボールを温存して良かった。まさしく決め球に相応しいボールだったよ……小也香)

 

「ナイスボール!」

 

 爽やかに笑う牧野に応じるように神宮寺は乱れた息を整えながら微笑を浮かべると共にベンチへと戻っていった。

 

(追加点は無しか……まあいい。アタシが0に抑える)

 

「こ、高坂先輩!」

 

「……何?」

 

「肩は温めておきました。いつでも上がる準備は出来てます」

 

「ふん。アタシは代わるつもりなんてない」

 

 ベンチから出るところで後輩投手に呼び止められた高坂はそう返事をするとそのまま背を向けた。

 

「準備してもらったのにごめんね。もし延長までいったら、その時はアタシが椿の様子見て交代お願いするから気持ちは切らないでね」

 

「あ……はい! 分かりました!」

 

 キャッチャーがフォローを入れてからグラウンドへと出てくると代打で出された選手に代えてファーストの守備が出来る選手が交代で入りボール回しに参加している様子を目に入れながらキャッチャーボックスに座り、高坂のボールを受けた。

 

(十分速いっちゃ速いんだけど……ちょっとボールの質が落ちてきてるな)

 

 準備投球が終わると6回の裏が始まり、8番バッターが右打席に立った。

 

(さっきは三振させられたからなー。この打席こそ打ってやる!)

 

(アタシはアイツの分まで投げないといけないの。ここで代わるわけにはいかない……)

 

 気合いを入れてバットを構える8番バッターをよそに高坂は一人の選手に想いを馳せていた。

 

(こうして投げてるとアイツがブルペンで準備してるのが目に入って……それが今は……)

 

 本来あるはずの姿がそこに無い。痛む心を抑えるように胸の前に構えたミットを押し付けると、高坂は彼女との記憶を思い出していた。

 

「アンタはアタシを超えられる?」

 

「ええっ! 無理だよ……。椿ちゃんが中指と人差し指の隙間を閉じるストレートのコントロールを安定させてから差は開いてばかりだし、わたしなんかがいくら頑張っても敵わないよ……」

 

「……それ、本気で言ってるなら今すぐ野球をやめなさい」

 

「え……」

 

「確かに今のアンタじゃアタシには敵わないかもしれない。けど努力する前に限界を作る……アタシはそういうやつが一番大っ嫌いなのよ」

 

 向月高校にある設備の整ったブルペンで高坂は彼女に話しかけると返ってきた答えを聞いて突き放すように冷たくあしらっていた。

 

(長い付き合いだしアンタが気が弱いのは知ってるわよ……。だからって闘争心まで失われたら困るのよ)

 

 最上級生からエースナンバーを奪い、秋大会、春大会とチームを準優勝までそのピッチングで導いた彼女は全国No.1(ナンバーワン)投手(ピッチャー)と評価されるまでになっていた。高坂はその称号を光栄に思いながらも、一つの不安を胸に抱いていた。

 

(アタシがここまで来れたのは競う相手がいたからだ。けどNo.1になったということは目指す目標を失ったということでもある……。アンタはアタシが野球を始めた頃に初めて目指した目標でもあり、今でもアタシのライバルなのよ。やたらと自分を過小評価するのがイライラする……! 左投げでコントロールも良くて背も高い……ストレートの球威やスピードの無ささえ克服すればアイツはもっと良いピッチングが出来るのに)

 

 その日から月日が流れ夏大会前、高坂は練習後にネットに向かって投げ込みの特訓をする彼女の姿を見かけた。

 

(ふん。気の弱いアンタにもプライドってもんはあったみたいね。……ん?)

 

 高坂はその練習内容を見て疑問を感じる。彼女は色々な握りを試して新たな変化球を身につけようと特訓をしていた。

 

(ストレートの球威やスピードに自信がないから変化球でなんとかしようってわけ? 甘いわ……変化球を生かすも殺すもストレートが肝になる。今のアンタに必要なのは投げ込みじゃなく、ウェイトトレーニングで下半身の筋肉に負荷をかけて鍛えること……)

 

 高坂はそのことを伝えようと一歩を踏み出そうとする。しかし……高坂はそれを思い留まった。

 

(……ダメだ。それは自分で気がつかないと意味が無い。アタシは自分で考えて、自分でやるべきことに気づいて、自分の力を磨き上げてきた。アイツとアタシは競争相手だ。アタシを超えようっていうなら……自分でその道を切り開きなさい)

 

 高坂がその場を立ち去ると彼女はその後も変化球の練習を積み重ねていった。そして……夏大会準決勝から1日後。決勝戦を翌日に控えて、連戦の疲れを癒すために向月はこの日を休養日としていた。そんな日に彼女の姿が見えないことに気づいた高坂が探しにいくと、やがて彼女の姿を見つけ、舐めていた飴が地面へと落ちてしまう。

 

「……! アンタ……準決勝で投げたのに……」

 

「ごめんね……椿ちゃん。昨日わたしが甘く入ったシュートを打たれて……チームは危うく負けかけた。だからわたしもっと頑張らなきゃって……」

 

 高坂が見つけたのは疲労が残る中投げ込みをして、そして肩を押さえていた彼女の姿だった。

 

(診断の結果もうピッチャーは出来ないと聞いた時……アタシは、自分のした選択を後悔した)

 

 高坂は投球姿勢に入り、ボールを投じた。インコース低めへと投じられたゼロシームの上を通過するように遅れたタイミングで振られたバットが空を切った。

 

「ストライク!」

 

(たぁー……これでフルのストレートじゃないんだよな。二つのストレートの前に、まずこのスピードについていかないと)

 

(さっきもそうだったけどやけに大振りね。当たれば飛びそうだけど……)

 

 ボールから大きく離れた位置で振り切られたアッパースイングをマスク越しに見たキャッチャーはボールを投げ返すと次のサインを送った。

 

(アイツがいなくなった夏大会決勝戦。アタシは長い間一緒に野球をやってきたアイツが後ろにいたことで、自分がどれだけ気が楽になっていたかを知った)

 

 サインに頷き2球目が投じられると今度はアウトハイにフォーシームが向かっていき、振り出されたアッパースイングは今度は大きく下を振っていた。

 

「ストライク!」

 

(やっぱりね……すくい上げるように振るアッパースイングの弱点は高め。アッパースイングは低め中心の配球には対応しやすいけど、打てるコースが限られる難点がある)

 

 アウトハイに決まったフォーシームに合う気配の無いスイングを見てキャッチャーは再び高めにボールを要求した。

 

(この大会こそ二人分の名門向月の看板を背負い、アタシは……)

 

(簡単に打ち取られるわけにはいかない。せめて粘らないと……!)

 

 3球目が投じられるとバットを短く持ったバッターが真ん中高めに投じられたフォーシームを打ちにいった。

 

「ストライク! バッターアウト!」

 

(チームを優勝に導かなきゃいけないのよ……!)

 

(しまった……。釣り球……!)

 

 立って構えられたミットにボールが収まり、ボール球を振ってしまったバッターは悔しそうにベンチへと戻っていく。

 

(仕方ない……あの子はアッパースイングで長打を狙うのが持ち味で、元々粘るのは向いてないんだ。代わりに私がなんとかしてみせる!)

 

 続く9番打者が右打席に入るとアウトローに投じられたゼロシームを見送った。

 

「ストライク!」

 

(速い……けどほんの少しスピードは落ちてきてる気がする。このスピードボールを前で捌くのは私には無理だ。ここは重心を後ろに置いて、正体の分からない沈む球よりフォーシームに絞って、セカンドの頭を意識して弾き返す!)

 

 2球目が投じられるとインコース低めに投じられたボールをバッターは内に外れてると判断して見送った。

 

「ストライク!」

 

(げっ! スライダー……しまった。ベースの角をなめるように……完全に意識の外だった)

 

 意表を突かれたバッターがバットを構え直すと3球目が投じられた。

 

(引っかかるな……釣り球だ!)

 

「ボール!」

 

 真ん中高めに外れたフォーシームを見送ったバッターは軽く息を吐き出すと次のボールに備えた。

 

(スライダー? こいつにもう変化球は必要ない)

 

(シュート投げたいわけでもないだろうし、ストレート勝負をご所望ね。まあ、それでも良いよ。コースは……)

 

(このピッチャーのボールに全部対応するのは無理だ。だから初志貫徹! フォーシームを待って、私の感覚より上に来るイメージでバットを振る!)

 

 4球目が投じられる。アウトローに向かっていくストレートに反応したバッターはバットを振り切った。

 

(どうだ……!)

 

 バットの芯から少し上でフォーシームが捉えられると打球は目論見通りセカンドの頭上へと放たれ、フラフラとした当たりをセカンドが追いかける。

 

「任せて!」

 

「……! お願いっ!」

 

「カバーは任せろ!」

 

 セカンドがボールを追う足を止めるとセンターのカバーを確認したライトがこのボールに向かって飛び込んだ。

 

「……アウト!」

 

(うっ、捕ったの……!? しかも私と同じライトに捕られたのか……)

 

 打球はミットの先に収まっており、ポテンヒットになると思っていたバッターはこのボールを捕ったライトを見ると、自分の守備力との差を見せつけられたような感覚も覚え、無念そうにベンチへと戻っていった。

 清城の攻撃は3巡目に入り、1番バッターが右打席へと入る。

 

(この回逃したら後がなくなる。2アウトからでも出て、足で掻き乱してやるわ……!)

 

 気合いを入れた様子でバットを構えるバッターに1球目がインコース低めに投じられる。

 

(低いか……いや!)

 

 低めに外れている感覚があったバッターだったがこのボールにバットを振り出すと弾き返した打球はレフト方向のファールスタンドへと入っていった。

 

(フォーシームについてきたか……ならこっちはどうだ?)

 

 2球目がインコース低めに投じられるとこのボールをバッターは見送った。

 

「ボール!」

 

(ゼロシームを見たか……)

 

(粘った甲斐があったわね。おかげでこのストレートに目が慣れてきた……。二打席かかっちゃったけど、今ならこのストレートに対応してみせる!)

 

(……椿。球数制限まであと5球だけど、ここは使っていこう。一点差だし、ここは出し惜しみをしちゃいけないところだよ)

 

(……分かったわ)

 

 3球目が投じられるとアウトコースに大きく外れたコースに投じられたボールをバッターは見送ったが、切れ味鋭くシュートがアウトローのストライクゾーンへと変化してくる。

 

「……ストライク!」

 

(くっ、シュートか……私には初めて投げてきたわね)

 

(アンタ達は二つのストレートの見極めにイニング数を費やしすぎたよ。これはあくまで体力温存のストレートが対応されやすいことを嫌った椿の工夫。本命の決め球はこのシュートなんだ。そして……本命はもう一つ)

 

(アウトハイ、四隅を狙って……)

 

(迷ったら相手の思う壺だ。ここまで投げられたボールの感覚は身に染み込んでる。投げられたら反応してとにかくバットを振り切る!)

 

 4球目が今投じられるとアウトハイに投じられたストレートにバッターは反応してバットを振り出す。そしてバットが振り切られると、その後ろで心地の良い捕球音が鳴った。

 

「ストライク! バッターアウト!」

 

(ギアが上がった……!? そうか、今のは全力のストレート……!)

 

 慣れたはずのストレートに振り遅れたバッターは投じられたボールの正体に気付いたが時すでに遅し。3アウト目が成立し、6回の裏は終わった。

 

「椿、ナイピ……と言いたいところだけどいくらアンタでも球数の影響が出てるよ。アンタの全力のストレートはもっと速い。速球の連投は避けるよ」

 

「ち……そうね。それでもアタシは投げるわよ」

 

「分かってる。あと1イニング頼んだよ」

 

 そして7回の表、向月高校の攻撃は6番バッターからだった。

 

(これ以上離されるわけにはいきません。ここは流れを作るためにも三人で抑えなくては……!)

 

「……ボール! フォアボール!」

 

(う……とうとう小也香にも球数の影響が……)

 

 フルカウントから投じたスライダーが低めに外れ、神宮寺は先頭バッターを四球(フォアボール)で出してしまう。

 

「守備のタイムお願いします」

 

「タイム!」

 

 ここで牧野は3回目の守備のタイムを取った。これで全3回のタイムを消費し、タイム回数が追加される延長に入るまではもう守備のタイムを取ることは出来ないことは牧野も分かっていたが、2点目を取られた時点で決定的だと思った彼女は少しでも神宮寺を落ち着かせることを優先させた。

 

「ふぅ……すいません牧野さん」

 

「気にしないで。ボールの力はまだあるよ。……向月も追加点が欲しいはず。ここは送りバントで来ると思うんだ」

 

「同感です。ですが他の作戦、エンドランなどの可能性も無いとは言い切れません……まだボールに力があるのであれば残りの体力を振り絞って、ここはストレート中心で行こうと思います」

 

「うん。私もそれが良いと思う」

 

「神宮寺さん、バントでもエンドランでも後のことは任せて思いっきり投げて!」

 

「そうそう。後ろにはこんなに頼りになる先輩がいるんだから」

 

「それ自分で言う〜?」

 

「だがこんな時くらい先輩を頼りにしてもいいんだぞ!」

 

「いつも頼りにさせて頂いてますよ。……この回を抑えて裏の攻撃に繋げましょう!」

 

 神宮寺の言葉に皆が返事を返すと、タイムが終わり内野手がそれぞれのポジションへと散っていく。そしてプレーが再開されるとバッターはバントの構えを取った。

 

(送りバント……決めつけは出来ませんが、この試合向月が得点圏にランナーを運んだのは3回と6回のみ。ここは確実にチャンスを広げてくると思います)

 

(コースは……ここだ!)

 

(ええ、それならたとえエンドランでも防げる可能性はあります。後は私が投げ切れるか……ですね)

 

 神宮寺は一息つくとバッターに目をやりなごら、少しボールを長く持つ。そしてクイックモーションに入るとボールを投じると、ファーストとサードがチャージをかけた。

 

(簡単にやらせはしない!)

 

(バッターに少しでもプレッシャーをかける……!)

 

「……!」

 

 インハイに力のあるストレートが投じられるとバッターはそのままバントの構えを崩さず、続くようにチャージをかける神宮寺を視界に収めながらボールに合わせた。そしてバットにボールが当たると、打球は神宮寺と牧野の間に上がった。

 

「ピッチャー!」

 

「はい!」

 

 チャージをかけていた神宮寺の方が捕れると判断した牧野はこの処理を託すと、神宮寺はこのボールの落ち際に飛び込んだ。

 

(勢いは殺せてる。バウンドするか……!?)

 

「アウト!」

 

「……!?」

 

「牧野さん!」

 

「うん!」

 

 浮いた打球とはいえ勢いが抑えられた打球にフォースアウトに備えて二塁に寄っていた一塁ランナーはそのコールに反応して一塁へと反転する。神宮寺はグラブトスを敢行し、そのプレーを待っていた牧野はダイレクトでボールを右手で捕ると一塁ベースカバーに入ったセカンドへと送球を行った。

 

「……アウト!」

 

(し、しまった……!)

 

 とっさに戻りベースに手を伸ばした一塁ランナーだったが、間一髪送球が先に届き、二つ目のアウトのコールが響いていた。

 

「小也香、ナイスプレー……! 立てる?」

 

 牧野が伸ばした手を掴んだ神宮寺はそれを支えにして立ち上がった。

 

「ありがとうございます。さすがにこの体力でのダイビングキャッチはきついものがありましたが……アウトに出来て良かったです。牧野さんもナイスプレーでした。後アウト一つ……取りましょう」

 

「うん!」

 

 2アウトランナー無しになり右打席には8番バッターが入ってくる。

 

(このバッターには一打席目でストレートを打たれてる……二打席目はシュートを打たせて取った。ここは甘くても良いから、まだ見せていない……)

 

 牧野のサインに応じるように神宮寺がボールを投じるとバッターは身体に向かってくるスピードボールに身体を引くと、ボールは対照的にストライクゾーンへと曲がっていった。

 

「……ストライク!」

 

(……大雑把にストライクゾーンを狙いましたが、運良く内の際どいコースに入りましたね)

 

 表情を崩さずあたかも狙ったように振る舞いバッターに動揺を見せない神宮寺だったが、内心では内に入りすぎた感覚があり死球もあり得るのではないかと冷や汗をかいていた。

 2球目。アウトコース低めへとボールが投じられる。きっちり低めに決まる形ではないが外枠に沿うように投げられたこのストレートに高速スライダーがよぎったバッターはこれを見送った。

 

「……ストライク!」

 

(一打席目でヒットにしたコースのストレート……!?)

 

 打ったコースと同じ所にストレートを投げると思っていなかったバッターは驚いた表情を見せた。

 3球目、投じられたコースは再びアウトコース低め。しかしこのボールを低いと判断したバッターがこのボールを見送ると、外へと曲がったスライダーがワンバウンドし、牧野は抑え込むように捕球した。

 

「ボール!」

 

(小也香のスライダーは変化量が大きいからコントロールがかなり難しい。この終盤で少しバラけるのは想定内……これで勝負しよう)

 

(ワンバンしたスライダーは続けないはず……ここは高速スライダーで来るか?)

 

 4球目が投じられ、ボールはインコース高めへと向かっていく。

 

(……! これは……!)

 

 その球種の正体に気づいたバッターはこのスピードボールに反応するようにバットを振り出す。するとボールの下を叩く形になり、打球は高く打ち上がった。そして打球が一塁側ベンチ前のファールゾーンに落ちてくるところで追いついたファーストがミットを上に構えてキャッチしにいく。

 

「アウト!」

 

 鋭いバックスピンがかかった打球だったが、溢れることなくミットに収まり3アウト目が成立した。そして清城ナインがベンチへと戻ってくるとどこからともなく送られた拍手がスタンド全体へと広がっていった。

 

「これは……?」

 

「んー。名門向月相手に7回を1失点で抑えたことへの拍手じゃないかなぁ」

 

「そうみたいね」

 

 内野陣より遅れて戻ってきた外野陣がちょうど拍手が広がってきたところでベンチ前に戻ってくると、その光景に圧倒されていた。

 

「今の清城の格を考えれば大健闘ってことで褒めてくれるのは素直に嬉しいけど……」

 

「まだ試合は終わってない!」

 

「そうね。皆、気持ちは一緒よ」

 

 拍手が鳴り止むと7回の裏、清城高校の攻撃が始まった。この回先頭の2番打者がバッターボックスの前で緊張を和らげるように深呼吸をすると左打席へと入っていく。

 

(準備投球も一球投げただけ……皆で粘った分、高坂もキツいはずなんだ。チャンスはある……! なら、それを逃さずに掴み取る!)

 

(椿はここまでバッター相手に6回で93球を投げてる。特にこの2番……)

 

 キャッチャーはマスク越しに、バッターボックスギリギリまでは踏み込まずバットも短く持たずに構えた2番打者の様子を窺った。

 

(2打席合計で13球……清城バッターの中で一番球数を使わされてる。さっきまでカット狙いの構えを取っていたけど……前に打球を飛ばす気配は無かった。追い詰められて、球数を稼ぐ場合じゃなくなったってところか)

 

 無得点ならゲームセット、一点入れば延長、二点入ればサヨナラゲーム。互いにこのイニングの重要性を十分に感じ取る中、その火蓋を切る一球目が今投じられた。

 

(インハイ。これは……フォーシーム、かな?)

 

 振り出されたバットはボールの下に入ると打球はそのままバックネット方向へと飛んでいく。

 

「ファール!」

 

(少しスピードが落ちたな。とはいえまだ速い……。コースも際どいところだ。タイミング合わせるだけでも精一杯なのにコースも良くて、しかも二つのストレートを投げてたんだ。無策で挑んだ一打席目で打てなかったのも無理ないな。でも原理を理解した二打席目で粘りながら、少しずつ軌道についていけるようになってきた)

 

 2球目が投じられると再び膝下に投じられたボールをバッターは見送った。

 

「……ボール!」

 

(今のが速くて沈む球だな。一打席目はこれにやられたんだ。同じ手は食わないよ)

 

(ゼロシームがまた見られたか……慣れてきたのと、ボール全体のスピードが落ちてきてるから窮屈だった見極めが少し楽になってるんだろうな。けど見極めが出来ても打てるとは限らないよ)

 

 続く3球目。インローに投じられたフォーシームにバットが振られると掠ったような当たりで打球はキャッチャーミットの上を低い弾道で越えていった。

 

「ファール!」

 

(くっ……! 見極めに一瞬でも時間を取られるのが厳しいな……ここは)

 

 1ボール2ストライクになり、バッターは外へと大きく踏み込んだ構えへと変更するとバットを短く持ち直した。

 

(……! 追い込まれてカット打法に切り替えてきたか。でも、それは想定内だ。椿……アンタなら一球で仕留められる決め球がある)

 

(そんだけ踏み込んでるバッターにこの要求……ボーイズリーグの時からその強気なリードは変わんないわね。アタシもそのつもりだったけど)

 

(この場面大振りしちゃダメだ。どんなボールにも合わせてみせる……!)

 

 キャッチャーからのサインに僅かに口角を上げた高坂が4球目を投じるとボールはバッターの膝へと向かっていく。

 

(……! 失投……いや、まさか……)

 

 デッドボールの衝撃を和らげようと本能的に身体を引いてしまった瞬間、2番打者はこのボールの正体に勘づいたが、腰が引けた体勢ではバットを振り出せずに中へと切れ込むシュートを見送った。

 

「……ボール!」

 

(なっ!)

 

(際どいけど少し低かったか……!)

 

(あ、危なかった……。けど、今のは決め球にしたかったはずだ。ここまで高い精度で投げ続けてきた高坂には珍しいコントロールのずれ。皆が球数を稼いだのが生きたんだ……!)

 

 僅かに低めに外れていたシュートにボールの判定が下されると安堵と嘆息が入り混じったような声がスタンドから漏れてくる。

 

「椿! 良いボールだよ! 次も良いボール来なさい!」

 

(だからアタシは良いボールしか……。ああ、だから次もなのね)

 

 キャッチャーの掛け声と共にボールを受け取った高坂は一度2ボール2ストライクのカウントを確認してまだボールカウントに余裕があると自分を落ち着かせた。

 

(なら、もう一つの決め球を……ここに!)

 

(その構えならそこは打ちにくいでしょうね。良いわ)

 

 サインの交換が終わり5球目が投じられると、インハイにスピードのあるストレートが向かっていった。

 

(それは……警戒してた!)

 

 このボールに対して振り切らずに合わせるように振られたバットが軽い金属音を鳴らすと、ミートポイントの狭い根元側に当てられた打球はバックネットに勢いよく突き刺さった。

 

(全力のストレートの情報はさっき1番打者(あいつ)に貰ってるし、それに前にもインハイのストレートを突かれてやられたことがあるのよ。弱点をそのままにはしない……神宮寺さんに頼んでインハイのカットの練習をした甲斐があったよ)

 

(ち……当てたか。速球で突き続ければしくじるかもしれないけど、連投は厳しい。まあ、こういうタイプのバッターの狙いは四球による出塁だ。こっちが自滅しなければ塁には出られない。椿、インコースを続けたし、バッターから一番遠いここに……)

 

(……シュートは温存するのね)

 

 このサインに頷いた高坂はこの打席6球目となるボールを投じると、アウトローへとボールが向かっていった。

 

(ようやく……! この立ち位置からなら!)

 

 アウトローへと投じられたゼロシームに合わせるように振り出されたバットが軽く振られると、打球はサードの頭上を越えていった。

 

(なっ……! 粘って、四球狙いじゃ……!?)

 

「レフト!」

 

 弾き返された打球に目を見開きながらキャッチャーの指示が飛ばされるとこの打球にレフトが向かっていく。

 

(これは……突っ込んじゃだめだ!)

 

 レフト線に放たれた打球にレフトは深追いせずに回り込むと打球がバウンドした。

 

「フェア!」

 

 ワンバウンドで打球を収めたレフトが内野に振り返るとバッターランナーは一塁ベースを少し回ったところでボールの位置を確認し、ベースへと戻っていった。

 

「ナイバッチー!」

 

 この試合2本目のヒットに清城ベンチから激励が飛ばされるとバッターランナーは笑みを浮かべて白い歯を見せた。

 

(やられた……! 散々ここまであの構えでカットしておいて、今度はアウトコースの打てる球が来るのを待ってたのか……!)

 

(……コースは悪くなかった。ただゼロシームは減速が大きいボール。引きつけて打つあのバッターにあまり相性は良くなかったか……まあ、それは結果論ね)

 

 ノーアウトランナー一塁。清城は3番バッターが右打席に入るとバントの構えを取っていた。

 

(当然同点のランナーを二塁に送りたいんでしょうけど……)

 

 ファーストを前に出しアウトハイにストレートを投じるサインを送ったキャッチャーに対して高坂は首を振るとジェスチャーでタイムを取らせて、キャッチャーをマウンドに呼びつけた。

 

「……アンタ、シュートの制限を気にしてリードが狭まってない?」

 

「当然でしょ。アンタのシュートは強烈なサイドスピンを与えるために肘の捻りを加えてるんだから、故障明けのアンタに医者から告げられたっていう球数制限は守らないと」

 

(……夏大会の決勝戦。アタシはこの決め球(シュート)を縋るように多投して、6回終わりに肘の違和感を理由に降板した。連戦の負担と無理な多投がたたって、アタシも肘を壊しかけた……。でもアタシはあの試合、降板したことを後悔してる……)

 

 ベンチに下がった選手は再びグラウンドには戻れない。夏大会でベンチに下がった高坂はただチームが負ける様をベンチで見ていることしか出来なかった自分に行き場のない怒りを覚えていた。

 

「……嘘よ」

 

「へっ……? 何が?」

 

「シュートの、球数制限。次の試合が十中八九あの界皇だからシュートに頼りっきりのリードだと困るのよねぇ」

 

「え? え? つまり……実戦の場でアタシのリードを磨くためにわざと制限をかけていたっていうの!? 一点差よ……!?」

 

「仕方ないでしょ。どこぞのクソ打線が一年ピッチャー相手に一得点しか出来ないなんて思いもしなかったんだから」

 

「うっ……」

 

 この試合高坂を打線で援護することが出来なかったことに引け目を感じていたキャッチャーは高坂の言葉に言い淀むと、言いたいことは多くあったが、まず目の前の問題を優先した。

 

「念のため確認するけど、本当なのね?」

 

「アタシが野球で嘘ついたことある?」

 

「今ついてたんでしょ!?」

 

「ああ……そうだったかしらぁ?」

 

「……嘘は嘘でもアタシを成長させるための嘘なら受け入れるけどさ。それにここまで無失点で来れてるし、相手にシュートの軌道をあまり見せてないメリットだってある。まずあのバッターにはインハイのシュートから入るわよ」

 

「分かったわ」

 

(……悪いわね、クソキャッチャー)

 

 プレイが再開されるとその初球、投じられたシュートは要求通りインコース高めに鋭い変化で食い込んでいく。

 

(く……これでどう!?)

 

 バッターはとっさに構えたバットの位置を手前に引くと食い込むシュートを芯近くに当てた。打球はシュートの変化を壁に跳ね返したようにサードの前へと転がっていく。

 

(バットを引いて勢いを殺されたか……!)

 

「ファーストに!」

 

 程よく勢いが収まっているバントに二塁は間に合わないと判断したキャッチャーの指示で一塁に送球が行われると、バッターランナーは難なくアウトになった。

 

(ち……よく変化についていったわね)

 

 根元へと食いませて失敗させたかったバッテリーとしては誤算の形になり、1アウトランナー二塁。この試合初めて清城が得点圏にランナーを進めると右打席には神宮寺が入っていった。

 

(アンタ、持ってるね……。いや、神宮寺の前にバント巧者を置いていたんだ。意図的にそうなりやすいように打順を組んでいるのか)

 

(私が取られた得点……私自身のバットで取り返すチャンスですね)

 

(外野は長打警戒で少し下げるか……まあ、こっちとしてはまず長打で逆転のランナーを得点圏に出すのを一番に避けなきゃいけないのはセオリー通り。その分、単打でも同点に追いつかれやすい。神宮寺には二回に単打を打たれてるし、ここはストライクを入れにいっちゃいけない場面ね)

 

 高坂は頭の中で今の状況を整理すると一球目を投じた。低めのボールに神宮寺のバットが止まると膝下へとシュートが切れ込んだ。

 

「……ボール!」

 

「椿、その高さで良いわよ!」

 

(単打で同点にされるこの場面の際どいコースはストライクに入るくらいならボール気味にっていうのは分かってるみたいね)

 

 2球目が投じられるとボールは再びインコース低めへと投じられた。

 

(先ほどよりは高い……。……!?)

 

 シュートの軌道を予測して振った神宮寺だったがボールは横に変化せずミットに収まった。

 

「ストライク!」

 

(ストレートですか……。この球速は全力ではありませんね。その分シュートに球速が近くて、判断しきれませんでした)

 

(よし、上手くいったね。でもストレートは合わせられるかもしれない。ここはこの試合温存していたシュート中心でいこう)

 

 次のボールがアウトコース低めへと投じられると神宮寺は遠いと判断してバットを止めた。シュートが変化していくと四隅へと向かうような際どいところに収まった。

 

「……ボール!」

 

(うっ、ゾーンに掠ってる感じもするけどボールに取られたか)

 

(際どい……これを打っても平凡な内野ゴロが関の山です。追い込まれるまではこのボールに手を出したくありませんね)

 

(ここはしつこくシュートだ。……椿?)

 

 サインを送ってから少し間が空きキャッチャーは不思議そうにするが数瞬の後に高坂はそのサインに頷くと今度は一転してインハイへと食い込むようにシュートを投じた。

 

「ボール!」

 

(これも際どい……。ですが先ほどまでのボールに比べると今のは少し余裕を持って見送れました。いかに貴女といえども、この終盤でシビアなコントロールを続けるのは容易ではないということですね)

 

(……アタシとしたことが少し、恐れたわね。いくらなんでも医者の球数制限が一球でも超えたらすぐに肘を痛めるくらいギリギリのところに設定されてるはずがないじゃない。……! 敬遠ですって……!?)

 

 高坂が肘に問題が無いことを確認しているとキャッチャーではなくベンチから神宮寺を歩かせるサインが出されていた。

 

(神宮寺は一打席目にヒットを打ってるからな……不利なカウントで勝負するよりは塁を埋めて、ヒットを打ってない後続で勝負した方が良いって指示か。椿、ほら……)

 

(クソ……!)

 

「ボール! フォアボール!」

 

(これは……座ったままでしたが、歩かせたのでしょうか)

 

 アウトコースに大きく外れたストレートを見送った神宮寺はバットを軽く転がすとネクストサークルに座る牧野に一度視線を移してから一塁へと歩いていった。

 

(先輩が、小也香が、繋いでくれた。6回のクロスプレー、私がボールを溢したから点を入れられたんだ。……ここで借りを返してみせる!)

 

 1アウト一塁二塁となり、牧野が引き締まった表情で右打席へと入ってくる。

 

(ここに来てリードが変わってきた。まだ私にシュートは投げてないし、惜しまず使ってくるよね。歩かせた後の初球……入れにきたシュートを狙う!)

 

(牧野は長打を警戒しないといけないバッターじゃないから神宮寺に比べれば慎重になりすぎることはない。それに椿のコントロールも乱れてきてるからボールカウントは悪くしたくないな。初球はここに……)

 

 サインに頷いた高坂はランナーに目をやってからクイックモーションに入ると真ん中低めへとボールを投じた。

 

(低めギリギリだけど入ってる! ここから内に来ると思って……!)

 

(……! 待ってたか……)

 

 インコース低めに入る変化を想定して牧野がバットを振り切ると、そのさらに内側へと切れ込んだシュートにスイングは空を切っていた。

 

「ストライク!」

 

(ふん……決め球っていうのはね、読んでても打てないボールのことを言うのよ)

 

(待ってたのにカスリもしなかった……! 想定以上の変化。どうする? シュートを捨てて……いや、この場面で相手に出し惜しむ理由はない! ここは対応するしかないんだ)

 

 乱れた息など意に介さないように不敵な笑みを浮かべてマウンドに立つ高坂を見ながら牧野がバットを構え直すと2球目が投じられた。

 

(さっきより内に、少し高い。……振っちゃダメだ!)

 

 インコース低めやや真ん中寄りへと投じられたスピードボールにバットが止められると、ボールは内のボールゾーンへと切れ込んできた。

 

「ボール!」

 

(見たか……焦って手を出してきてもおかしくないが、思ったより落ち着いてるな。けど、椿のシュートの軌道を続けて感じた以上これは打てない)

 

 3球目が投じられるとコースはアウトコース低め。内を続けられた牧野は反応が遅れると振り出しても間に合わないと感じ、バットを止めた。

 

「……ストライク!」

 

(この体力のきつい場面で四隅付近へのストレート……!? それに今のが多分全力だよね。速い……。でもこの終盤で全力のストレートを連投は要求しづらい、はず)

 

 1ボール2ストライクと追い込まれた牧野は高鳴る心臓の音を感じながらバットを構え直すと次に投じられたボールはアウトコースに大きく外れていた。

 

「ボール!」

 

(一球外してきた……確かにこっちは思い切ってエンドランを仕掛けるのも手だ。でもフルカウントならともかくこのカウントで仕掛けるのはリスクが高い。打つしかないんだ……。この場面、私がキャッチャーなら……)

 

 5球目が投じられるとボールは再び大きくアウトコースに外れていた。このボールに牧野はバットを振り出した。

 

(ピッチャーが一番自信を持っているボールを投げさせる!)

 

(バックドアのシュートに反応した……!?)

 

 ボールゾーンからアウトローのストライクゾーンへと切れ込むシュートの上に掠るようにバットが当たるとホームベースに叩きつけられたボールはそのままキャッチャーのミットに当たってファールゾーンへと転がっていった。

 

「ファール!」

 

(よ、良かった……反応したけど空振ったかと思った……)

 

(よく反応したね。でもこのスイングはシュートに合わせきれてない。さらにシュートだ)

 

(……シュートか……)

 

 高坂はボールを受け取るとサインに頷いたが、投げる前に一度大きく間を置いていた。

 

(今のバックドアのシュートを投げた時……肘に嫌な感覚が走った。アタシの肘はほぼ完治した……けど、完全に治ってるわけじゃない)

 

 背筋に走る嫌な冷や汗を感じながらも表情に出さず高坂は投球姿勢に入った。

 

(あと少し……もちなさいよ……!)

 

 6球目が投じられると真ん中低めやや内よりのコースに投げられたスピードボールに牧野はバットを振り出した。

 

(どっち……いや、最後に託してくるのは……!)

 

 ボールはそこからさらに膝下へと食い込んでくるシュート。このボールに牧野は思い切ってストレートの可能性を捨てて身体を開くとバットを振り切った。そして……金属音と共に打球は三遊間へとゴロで放たれた。

 

「ショート!」

 

「はっ!」

 

「……!?」

 

 一塁ランナーとして走る神宮寺は思わず目を見開く。三遊間を抜けようかという深いところで……ショートはこの打球をキャッチした。そしてスムーズに立ち上がると二塁に向かって送球が行われる。

 

「アウト!」

 

(くっ!)

 

 神宮寺のスライディングを躱すようにボールを収めたセカンドがジャンピングスローで一塁に送球を行い、牧野は焦りを覚えながら全速力で一塁ベースを駆け抜けた。

 

「……セーフ!」

 

 間一髪のタイミング。送球より僅かに牧野の駿足が勝り、牧野はセーフになった。

 

(あ、危なかった……!)

 

「……牧野さん、後はお願いします」

 

「小也香……うん」

 

 しかし一塁ランナーの神宮寺はアウトになり2アウトランナー一塁三塁。神宮寺は帰り際に牧野に後を託すと牧野は短く、そして力強く返事をした。

 左打席には6番バッターが入る。その初球だった。

 

(身体に向かってくる。いや、コントロールの良い高坂がこんな失投はしない。ここから入ってくるシュー……。……!?)

 

「デッドボール!」

 

(椿……!?)

 

 そのコースから内に切れ込むシュートに備えていたキャッチャーは大きく目を見開いた。高坂が帽子を取って頭を下げると、バッターは一塁へと歩き、牧野も二塁へと進んでいく。

 

(クソ……!)

 

 タイムを取ろうとするキャッチャーをジェスチャーでやめさせた高坂は一度ロジンバッグを手に取った。そして持ち上げた時、確かな痛みを肘に覚えていた。

 

(シュートの球数制限オーバー、それにこの試合自体の球数もかなり多い……けど、夏大会ではこの状況で降りて後悔したのよ。あと、一年バッターの一人くらい……!)

 

(こ、こんな場面で回ってくるなんて……嘘でしょぉ……)

 

 6番バッターがボールが当たった背中をスプレーで冷やしている間、7番バッターはネクストサークルで緊張した面持ちで待っていた。

 

「やれるだけやってこい!」

 

「私はこの回、打席は回ってこない。その分もあなたに託すよ。後は……そうね。グッドラック! やることやって、あなたらしく運も味方につけなさい」

 

「二人とも……うん!」

 

 ベンチから同じ1年生で外野を務める二人からのエールに覚悟を決めた7番バッターが右打席に入るとプレーが再開された。

 

(2アウト満塁。押し出しは嫌だろうし、私相手にはストライク先行の配球で来てる。…………よし、決めた。これまでの2打席はこのピッチャーの決め球、シュートと全力ストレートに対応できなかった。……あれは今の私には打てない感じがした。思い切ってきっぱり捨てて、得意のアウトコースに絞る!)

 

(7番か……さっきゼロシームをヒットにされかけたからな。初球は……)

 

(……ここはストライクが欲しい場面。狙いすぎず、それなりのコースを狙って……!)

 

 セットポジションから息を整えながら投げるコースの意識を強めた高坂はクイックモーションに入り左足を踏み込むと、リリースするギリギリまで指に触れさせたボールが膝下へと向かっていく。

 

「ストライク!」

 

(……さっきの打席より少し遅い。皆で意識して球数を稼いだ甲斐があったね。けど、それでも速いし、コントロールが甘いってわけじゃない)

 

 インコース低めに投げられたストレートは四隅を突くような精度ではなかったが、それでも悪くないコースに決まっていた。

 

(二塁ランナー還れば逆転されるから、外野は前に出してる。このバッターはシュートを見極めてる節があるし、高めに簡単には入れられないけど……)

 

 息も絶え絶えながら闘志を静かに燃やすような真剣な眼差しを送る高坂にキャッチャーは意を決してサインを送った。

 

(あのデッドボールの後、本来ならタイムを取るところだ。プライドの高い椿がマウンドに寄っていかれるのが嫌いとはいえ……けど、アイツは必要ないと伝えてきた。アイツがそう言うのなら、アタシは信じてサインを送るよ)

 

(インハイにストライクからボールになるシュート……それが見せられればバッターに強い残像を残せる。……分かったわ)

 

 そのサインに頷いた高坂が2球目を投じるとボールはインコース高めやや真ん中寄りへと投じられた。アウトコースを待っていたバッターはこのボールを見送る。

 

「……ストライク!」

 

(えっ!?)

 

 ストライクのコールと共にキャッチャーミットからボールが弾かれた。三塁ランナーがホームを窺うと、バッターは手を伸ばしてストップの指示を送り、ホームベースへと落ちてきたボールをキャッチャーが拾い上げた。

 

(……いつもならあそこからボールゾーンまで食い込んでくるところなのに、今のは……変化が小さかった。……球数を投げて握力が無くなってきたか……?)

 

(ううっ……2球で追い込まれた。しかも捨ててた全力ストレートとシュートじゃん。……どうする……?)

 

 容赦なく決め球を続けてくるバッテリーにバッターは迷いが生じていた。

 

「打てー!」

 

「繋いで!」

 

「自分を信じろ!」

 

 ベンチから送られ続けている声援に引かれるように7番バッターはベンチへと目を向けると、グラウンドととの境になるフェンスを掴んで前のめりになりながら共に声援を送る神宮寺の姿が目に入った。

 

「最後まで、貴女自身の意思を貫いて下さい!」

 

「……!」

 

(……そっか。……最後に道を決めるのは私自身。……最初に決めたんだ。全力ストレートとシュートは捨てて、アウトコースに絞るって。ピンチだからっていきなり私が出来ることが増えるわけじゃない。……貫くよ。自分自身の選択を信じて)

 

 視線を高坂に戻したバッターに今、3球目が投じられた。球種は……ストレート。インコース高めに決まったボールをバッターは見送った。

 

「……ボール!」

 

「ふふん……」

 

(ちっ、見極めたか……)

 

(あ、あっぶな……。結構際どいコース、ちょっと高めに外れてたのかな。……決めといて良かった)

 

 0ボールから2ストライクから投じられたインハイの全力ストレート、ストライクだったらゲームセットという場面で僅かに高めに外れたボールをバッターは見送っていた。

 

(よく見たな……。選球眼が良いのか? なら下手にボールカウントを悪くするのは悪手だな。けど高めを見せられたんだ。後は低めの変化球で仕留めればいい……いつも通り、シュートで……。…………)

 

(……! ……分かったわ。まだボールカウントに余裕はある。四隅を狙って……!)

 

 サインの交換が終わり4球目、投じられたのは……アウトコースの低め。

 

(来た! 入ってる。……! この“回転”……間違いない!)

 

 バッターはこのボールに対して深くまで踏み込むとバットを振り出し、この瞬間清城の全ランナーはスタートを切った。

 

(スライダー……!)

 

(なっ! この場面で、ほとんど投げてないスライダーに反応した……!?)

 

 ——キィィィン。芯で捉えた打球がピッチャーの膝下を抜けるような低い弾道のライナーとなって放たれた。

 

(抜けろ……!)

 

(届くか……? ……!?)

 

 この打球に反応したセカンドが深い位置での捕球を試みようと走り出したが、左側の膝下を抜けようという打球に高坂は本能的に左手に嵌めたミットを伸ばしており、目を見張った。走り出したバッターランナーが一塁ベースに向かっていると、左側からバチッというミットの音が聞こえてくる。

 

(……捕った? いや、最後まで諦めちゃダメ……!)

 

 視界の隅で起きたプレーに対して脇目も振らずバッターランナーはただ一塁ベースだけを見てその足を必死に動かした。

 

「いい! アンタは一塁ベースに張り付いてなさい!」

 

「わ、分かりました!」

 

「……!」

 

 鋭い打球はとっさに伸ばした高坂のミットには収まらず、一塁線、キャッチャーとファーストのちょうど中間地点へと向かうように転々と転がっていた。高坂は近づこうとするファーストを制止すると、その打球に走り、利き手である右手でこのボールを直接拾い上げた。

 

(この体勢じゃホームは刺せない! けど、バッターランナーはさほど足があるわけじゃない。ファーストは間に合う……!)

 

 最後の体力を振り絞るように下半身に力を込めた高坂は拾う際の沈み込む動作もこなすと、確実に身体の向きを一塁へと変えてから送球を行った。

 

(ファーストがベースについたってことは私でアウト狙ってるんだ。間に合えっ……!)

 

 バッターランナーは一塁ベースに近づいたところで思い切って頭から飛び込むヘッドスライディングでベースに両手を伸ばすと、その空中に浮いている刹那、視界の隅から飛び込んできたのは白球だった。

 

(え……!?)

 

 そしてベースに手を触れた彼女の目にジャンプしてこのボールを捕球するファーストの姿が映っていた。

 

「……セーフ!」

 

(高坂さん……!?)

 

 高い送球を投げた高坂が肘を押さえていることに気づいたファーストに、向月ベンチと野手陣から一斉に指示が飛ばされた。

 

「「バックホーム!」」

 

(なっ……!?)

 

(還るんだ……私も!)

 

 二塁ランナーの牧野は高坂が送球の際にこちらを確認していないことに気づくと減速せずにそのまま三塁を蹴っていた。ファーストはバックホームの指示に応じるようにキャッチャーへと返球する。

 

(あっ……!)

 

 ジャンプをしてベースを踏んだ状態から肘を押さえる高坂に動揺して、指示に反応するように投げられたとっさの送球はワンバウンドしてキャッチャーが構えた位置から三塁側へと逸れていった。

 

(届く! アウトにする……!)

 

(回り込むんだ……!)

 

 左前へと出たキャッチャーが荒れるようにワンバウンドしたボールをミットを下に向けて捕球すると、身体を反転させてそのミットを動かし、回り込むようにして頭から滑り込んだ牧野の手に触れるようにタッチしにいった。

 

(どうだ……!?)

 

(判定は……!?)

 

 両校のキャッチャーが同時に顔を上げると審判が両腕を横に伸ばし、判定を宣言した。

 

「セーフ!」

 

 判定はセーフ。三塁ランナーに続き、二塁ランナーの牧野のホームインも認められた。一塁に飛び込んだバッターランナーは振り返るとそれが現実味のないことのようにすぐには受け入れられなかったが、スタンドから湧き上がる歓声に後押しされるように次第にその意味が染み込んできた。

 

「逆転サヨナラ……! 勝ったんだ……! ……!」

 

「椿っ……!」

 

(肘を押さえて……。あれだけのピッチングをしてたのに、肘を痛めていたの……?)

 

 清城の2得点が認められたことで試合の終了を突きつけられた高坂に走っている肘の痛みを和らげていたアドレナリンが薄まっていき、高坂といえども隠す余裕はなく、顔をしかめていた。

 

(……そんなになるまで……。チームの勝利のため? 私は……あの人のこと全然知らないから、事情も知らずにどうとは言えないけどさ……)

 

 整列のために出てきた面々が逆転の一打を放った彼女を祝福するようにもみくちゃにする中、彼女は疲れが吹き飛んだように微笑みをたたえている神宮寺を捉えた。

 

(神宮寺さんにはあんなになるまで無理はして欲しくないな……)

 

 両校が整列し、試合結果が告げられ、互いの礼がグラウンド上で交差すると高坂はキャッチャーに支えられるようにベンチへと向かっていった。

 

「高坂さん! 大丈夫ですか……!?」

 

「野崎……」

 

 向月ベンチの上のフェンスまで降りてきた野崎が高坂の様子を心配する。そしてこの状況が夏大会の決勝戦の前日と被った高坂は、以前埋まることのなかったパズルの最後のピースが心に押し込まれていくのを感じていた。

 

(ああ、そうか。今になって……分かったわ。アタシが野崎に野球を教えたのは向月に迎え入れるとか、そんな格好のついた理由じゃなく。ただアタシはアイツに求めたことを野崎に求めて、アイツにしてやればと後悔したことを野崎にしていた……ってわけ)

 

「……ごめん……」

 

「え……?」

 

 消え入るような声でそう呟いた高坂はそのままベンチへと入って野崎から見えないところまで行ってしまう。

 

「野崎さん、どこへ……!?」

 

 そんな高坂の姿を見て野崎は気づいたらスタンドからの出口へと走り出していた。急に下まで降りていった野崎を気にした近藤がそれに気づくと、彼女もその背中を追いかけていく。

 こうして秋大会開幕試合、向月高校対清城高校は1対2で清城高校のサヨナラ勝利により幕を閉じた——。




次週は休みで、次の更新は再来週の木曜日を予定とさせて下さい。


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ありのままの貴女をさらけ出して

加筆修正完了しました!


「はあっ、はあっ……。野崎さん、待ってください……!」

 

「こ、近藤さん……!? どうしてここに……」

 

 スタンドから出ていった野崎が立ち止まって左右を見渡していると、追いついた近藤が声をかけた。その声でようやく近藤が自分を追っていたことに気づいた野崎は驚いた様子で振り返る。

 

「私たちのいた清城側とは逆側のスタンドにお手洗いに行くと言ったあなたの姿が見えたので、迷ったのかと思い迎えにきたんです。その間に下に降りていたあなたに気づいたところで急に走り出したので、それを追いかけて……」

 

「そうだったんですか……」

 

「何かあったんですか?」

 

「えっと、ですね……」

 

(……走り出す前、野崎さんが下に降りてから向月の誰かと話していた。あれは……うん、恐らく……)

 

 慌てた様子でその先を言い淀む野崎を見て近藤は先程遠くから目にした出来事を思い出すと、記憶に残っていた支えられた選手の帽子からはみ出るような金髪のツインテールから話していた人物を察した。

 

「高坂さん、ですか?」

 

「……! あ……はい。そうなんです。最後のプレーで一塁に投げた後に肘を押さえていたので心配になって……」

 

(肘を押さえてたんだ……気づかなかった。スタンドから距離もあったし、その時は二塁ランナーの牧野さんがホームに突っこんでいくのに目を奪われていたもの)

 

「よく気付きましたね……」

 

「その、偶然……ですよ」

 

(偶然……? そうは思えない。それに高坂さんがデッドボールを出したタイミングでお手洗いに向かったのも引っかかる。誰だって試合の結末が気になるところなのに。試合が終わると混んでしまうという理由で一度納得はしたけど……あっ)

 

「……もしかして本当は最初から高坂さんが心配で、向月側のスタンドに向かったんじゃないですか?」

 

「うっ……!」

 

 近藤の指摘に図星を突かれた野崎は思わず緊張した表情と共に言葉を詰まらせた。

 

(その通りです……。私は高坂さんの投げるボールの精度を目の前で見せられて知っていたから、あのデッドボールに違和感がありました。そして……今更、気付いてしまったんです。私たちがよく会う高架下、その上にある駅が……総合病院前であることを)

 

「……野崎さん。私、この前美奈子や加奈ちゃんと一緒に見てしまったんです。あなたが高坂さんに向月に誘われているところを」

 

「えっ……!? 見ていたんですか……」

 

「こっそり覗く形になってごめんなさい。あなたが全国No.1(ナンバーワン)ピッチャーと呼ばれる高坂さんと一緒にいるのに驚いてしまって……」

 

「いえ……私も高坂さんと特訓していたことを隠していましたから、無理もないと思いますよ」

 

「そう言ってもらえると助かります。ですが……聞かせて下さい。その件や先程のことといい……どうして高坂さんとの繋がりを隠しているんですか?」

 

(そういえば……あの二つの出来事は近藤さんが入部する前のことでしたね)

 

 高坂への心配を見抜かれ、向月への勧誘を見られていたことを知った野崎はそれらを隠していた理由を止まっていた足を動かしながら近藤に伝え始める。彼女がまず最初に話したのは初めての練習試合から少し経った頃に河北が神宮寺と特訓を始めていたことが判明し、それを知った翼と一時期仲違いしてしまった件だった。

 

「その時、私も他の皆さんも気が気でなくて……二人の仲違いも長引いたこともあって、結構な大事になってしまったんです」

 

「そういった心配を今回の高坂さんの特訓でも起こさないように秘密にしていたということですか……。ですが今も河北さんと神宮寺さんの特訓は続けられていて、皆受け入れているんですよね」

 

「はい」

 

「でしたら下手に隠すよりは指導を受けていることを素直に話した方が良いのではないでしょうか?」

 

「そうしたいところだったのですが……。実は私たち夏大会前に向月の三軍と練習試合を行なっているんです。その時の高坂さんの言動はお世辞にも礼儀正しいものとは言えなくて……特に——」

 

 歩きながら次に話されたのは翼が差し出した握手を無視したことを始めとする高坂の傍若無人な振る舞いの数々だった。

 

「確かにそこまで失礼な印象が強いと、まず野崎さんの指導をしていることを信じてもらえなさそうですね。あるいは何か裏があると勘繰られてしまうかも。……正直なところ、私も半信半疑です。実際に引き抜こうとしているのを目の当たりにしているので」

 

「あれは……本心では無かったと思います。いつもは自信に満ちて堂々としているのに、あの時だけは高坂さんらしくなかったといいますか……余裕が無かったように感じました。それに投球フォーム改善を始めとした彼女の指導は真摯なもので、私は高坂さんに……心から感謝しています」

 

「……そっか。私は彼女のこと詳しくないけど、あなたがそう言うのであれば信じます」

 

「ありがとうございます……!」

 

「それに皆に言えなかった理由も納得。その練習試合の時にいなかった私でもこんな感じだし、あんまり良い印象持ってない皆に打ち明けるのは確かに得策じゃないかもね」

 

「はい……。なので勧誘の件は内緒でお願いします」

 

「勿論。元々勧誘の話は無闇に話すことじゃないと思って二人にも秘密にするように言っておいたので大丈夫ですよ。……ところで、今どこへ向かっているんですか?」

 

「高坂さんが心配なので彼女に直接会いに行こうと思います。ただ選手用入り口は第4試合の私たちはまだ入れないので、出て来るところへ——」

 

 開幕試合が終わり第2試合に向けてグラウンドの整備等が行われ始める中、所用を済ませようとする観客の人混みを縫うように彼女たちはその歩みを進めていった。

 

「よく逆転したな!」

 

「良い試合だったぞ!」

 

「ありがとうございます。序盤から投げていた高速スライダーが後半見極められてしまった紅白戦、あれがあったからこそ今日のピッチングに繋げることが出来ました。……ん?」

 

(あれは……里ヶ浜の………)

 

 球場の外へと出て行った神宮寺が部員と共に興奮冷めやらぬ様子の男子野球部に祝われていると、その目に周りを見渡すようにして歩く野崎と近藤が映っていた。

 

「清城の皆さんがいるということは……」

 

「向月も出てきているはずですね。……あっ! 野崎さん、あそこです」

 

 近藤が指差した先には向月のユニフォームを纏った部員たちの姿があり、野崎は見つけたことによる安堵感で表情が和らいだが、その中に高坂の姿が見えないことに気づき眉を曇らせた。

 

「いませんね……まだ出てきていないんでしょうか?」

 

「どうなんでしょう……。誰かに聞いて……と言っても」

 

 高坂不在の理由を知っているであろう向月の部員にその事情を聞きたい野崎だったが、消沈している彼女たちに話しかけるのは(はばか)られた。

 

「確か向月はここ一年準優勝続き。初戦で負けることのショックは計り知れないものがあるでしょうね……」

 

「ええ……。それに心配で来てしまいましたが、高坂さんの肘のことも部外者の私たちに触れて欲しいことではないと思いますし……。近藤さん。ここまでついて来てもらって申し訳ないですが、このまま高坂さんが出てこなかったら……」

 

「それが良いと思うわ」

 

 足を止めて振り向いた野崎に近藤も頷くと二人は話しかけるのを諦めて柱に寄り、高坂が出て来るのを待った。それからしばらく時が流れたが高坂が出てくる気配は一向に無く、荷物を纏めた向月の部員が次々とバスに向かって歩き出す。それを見た二人がこの場から離れようとした瞬間だった。

 

「……! ……先に行っといてもらえる?」

 

「えっ? う、うん……」

 

 向月の部員の一人がバスに向かう皆に従うように下に向けていた顔を仕方なさそうに上げると目を皿のようにして驚き、断りを入れてからその列を離れて二人のもとへと向かってきていた。それに気づいた二人が足を止めると、野崎の方も何かに気づいたように目を見開いた。

 

「あ……。あなたは高坂さんを支えていたキャッチャーの……」

 

「ん、そっか。そっちからも見えてるよね。アンタが椿がコーチしていたっていう里ヶ浜の野崎さん?」

 

「はい。そうです」

 

 試合が終わった後、高坂を支えていた彼女は向月ベンチの上まで降りてきて心配の声をかけた野崎の姿を見ていた。その野崎が球場の外までわざわざ来ていた理由を察した彼女は野崎のもとまで歩くと、メモ帳を取り出して何かを書き始めながら話を続ける。

 

「椿はもうここにはいないよ。さっき部長の車で近くの病院まで連れてかれた」

 

「……! そうだったんですか……。あのっ、高坂さんの容態は……」

 

「正確なのは診断の結果待ちだけど……。椿はね、痛くても相手に弱みを見せないために隠す性格なんだ。その椿が隠す余裕も無かった……。最悪……いや、そんなことにはなって欲しくないけど。本当に最悪の場合は……ピッチャーが出来なくなるかもしれない」

 

「えっ……! そんな……」

 

 震える声で告げられた言葉に野崎はショックを受ける。しかしショックを受けていたのは野崎や近藤だけでなく、目の前でユニフォームの袖で零れるものを拭う彼女自身もだった。

 

「どうすれば良かったのかな……。違和感はあったんだ。けど椿は大丈夫って……そう伝えてきた。アタシはそれを信じた、のに。……いや、違うか……。信じるだけで……何もしてあげられなかった」

 

「…………」

 

 口から止め処なく溢れ出るように言葉が出てくる彼女に二人ともかける言葉を失っていた。

 

「……ごめんね。アンタたちに聞くようなことじゃないよね」

 

「いえ……確かにどうすれば良かったとは軽々しく言うことは出来ませんが、聞くことで少しでも楽になるのなら構いませんよ」

 

「……ありがと」

 

 自嘲するように笑う彼女の言葉に野崎はその裏にある気持ちを汲み取って言葉をかけると、彼女はほんの少しだけ自然に笑い礼を言った。

 

「あぁ……似てるなあ」

 

「……? 誰に……でしょうか」

 

「アタシと椿と同じボーイズリーグ出身で、一緒に向月入りした子。ちょっと引っ込み思案だけど、芯の強い子でね。コントロールの良いピッチャーだったんだけど……この前の夏大会を最後に投手生命を断たれちゃったんだ」

 

「そ、そうなんですか……」

 

(そういえば高坂さんが最初はコントロールが酷かったという話をしてくれた時に、同じ時期に始めたコントロールの良いピッチャーに対抗するように練習したということを言っていたような……)

 

「その方は今……?」

 

「向月には残ってるんだけど……ピッチャーが出来ない以上野球は続けられないって野球部を辞めちゃったんだ」

 

「それは……残念ですね。しかも今度は高坂さんまでなんて……」

 

「うん……。大丈夫……だと思いたいんだけどね。こればかりはもう、祈るしか出来ないよ」

 

「私たちも無事を祈ります」

 

「ありがと。……よし、出来た」

 

 彼女はメモ帳から一切れの紙を千切ると野崎にそれを手渡した。

 

「これは……」

 

「心配だから向かう病院聞いておいたんだ。これはその病院の最寄駅からの地図。もし良かったらだけど……会いに行ってあげてくれないかな」

 

「はい!」

 

 その紙を野崎が受け取ると遠くから向月の部員の呼ぶ声が聞こえてくる。

 

「じゃあね」

 

「わざわざありがとうございました……!」

 

 その呼び声に応えるように彼女は別れを告げて去っていくと、最後の一人としてバスに乗り込んでいった。

 

「本当に無事だと良いですね」

 

「ええ……」

 

「……野崎さん。分かっているとは思いますが、今日高坂さんに会いにいくのは難しいと思います」

 

「そう……ですよね。高坂さんの方も処置や診断などで忙しいでしょうし、私たちも試合がありますから……」

 

「今日の試合を勝って……明日、伺わせていただきましょう」

 

「……はい!」

 

 紙を丁寧にたたんでポケットにしまった野崎はその指に少し湿り気を感じながら力強く返事をすると近藤と共に球場に入り直し、スタンドへと向かっていった。

 

「……! えっ……!?」

 

「ぜ、0対9……!?」

 

 第2試合、さきがけ女子高校対界皇高校。試合は既に4回の裏まで進んでおり、界皇高校の攻撃は2アウトランナー満塁で打席には3巡目の8番打者が入っていた。スタンドに足を踏み入れた二人は驚きながら里ヶ浜の皆のもとに戻った。

 

「……随分遅かったわね」

 

「すいません……」

 

「私も迷ってしまって……」

 

「えー? 珍しいね。咲、記憶力いいしあんまり迷ったりしないのに」

 

「そ、それより……試合ちゃんと見れてなかったんですが、どうなってるんですか? 4回なのにもう9点入ってるなんて……」

 

「初回の界皇の攻撃で4番に入ったキャプテンの草刈レナが放った満塁ホームランで試合の流れを一気に持っていったわ。その後も動揺したさきがけの四球やエラーもあって初回一挙6得点。それから2回3回と1点ずつ入れられ、4回も既に1得点……」

 

「それでさー。咲、コールドって知ってる? 冷たい方じゃないよ」

 

「ええ……。スコアブックの勉強をする時に調べたわ。確か一定以上の点差がついた時や、天候が悪化して試合が続けられなかった時に規定のイニング数に達していた場合、その時点で試合を終了させるのがコールドゲームだよね」

 

「おー。さっき東雲がしてくれた解説とぴったし同じだ!」

 

「確かこの大会だと4回から10点差以上、6回から7点差以上の差がついた時にコールドゲームが……あっ!」

 

 近藤が声を上げると同時に金属音がグラウンドに響き渡り皆の視線がそちらへと向いた。打球は一二塁間へとスピードを乗せて転がっていく。

 

(よし! これでコールド……!?)

 

(やだっ! 折角、ギリギリスタメン入り出来たんだ……。それがこのまま終わるなんて……絶対に……!)

 

 さきがけ女子高校キャプテンを務めるファーストの芹澤(せりざわ)(むすび)がこの打球に懸命に食らいつくと深い位置で打球を前に落としていた。慌てた様子でそれを拾い上げ一塁ベースカバーに入るピッチャーに向かって送球が行われると、ランナーも一塁ベースを駆け抜け、判定が下された。

 

「……アウト!」

 

(くっ……粘られたか)

 

(よ……よしっ。生き延びた……!)

 

 辛うじて一塁ランナーをアウトに出来たことで3アウトチェンジ。この回でのコールド負けを回避したさきがけの部員がベンチに戻ってくる。

 

「結ー! 良く止めたよー」

 

「えっへへ。褒めなさい褒めなさい」

 

「けどさー。界皇マジやばいね」

 

「打球のスピードもめっちゃ速いしね。あたし、良く止めた! えらい!」

 

「えらい!」

 

「……二人とも現実逃避はそこら辺にしとこっか」

 

「うん……で、どうしよっか」

 

 芹澤たちは9点差の状況から目を背けるように空元気を振る舞ってはみたものの、4回も1点を追加されたことに変わりはなく、なんとかこの回のコールド負けを回避したが、お先真っ暗というのが彼女たちの正直な心情だった。

 

「少しでも還していくしかないんじゃない? 得点圏にランナー進められてないけど一応ここまでヒット3つ打ててるし……」

 

「そうだねー。なんとかまず1点入れよう」

 

「うーん。でもここから相手が無失点だとしても、6回には7点差以上でコールドだから……えっと、あたし達は避けるために2点必要なのかな?」

 

「3点ね……。結、あなたいつまで以上とより大きいの違いを間違えてるの……」

 

「ありゃ、そうだった。今のは言い間違い! まず5、6回で3点返そう!」

 

 高笑いをしてみる芹澤だったが、ここまで界皇に圧倒されていた彼女たちには3得点も現実的な数字には思えず、仮に返せたとしても、最終的には合わせて9得点を返しきるようなビジョンは見えていなかった。するとそこにスタンドから声援が飛ばされる。

 

「さきがけー! 良くあの打球を止めたぞー!」

 

「少しずつ守備のリズムも良くなってきてる! 今度は攻撃だー!」

 

 さきがけの部員が頭上から飛ばされるような声援を不思議そうに見上げ、芹澤もそれに驚いていた。

 

「応援団がいないあたし達に応援が……? ……! そっか! これだよ! これ!」

 

「どうしたの結?」

 

「あたし気づいたんだ! まだあたしたちが大番狂わせを起こすチャンスがあるってことに」

 

「ええっ!? どういうこと?」

 

「相手は夏大会優勝校の界皇で、あたしたちの部はまだ歴史が浅いし試合も一回戦負けばかり。つまりあたしたちは悔しいけど、分かりやすく格下。そしてさっきの第一試合……名門向月を、同じく格下の清城が下した。……観客は期待してるんだよ! 2戦続けての……ジャイアントキリングを!」

 

「……! そっか。本当に私たちが点を返していければ……!」

 

「観客はあたしたちの味方! そうなれば、止まらない流れが界皇を飲み込んでくれるかも!」

 

「おおっ! それなら……もしかするともしかするかも。気合い入ってきた! ……え」

 

「どしたの?」

 

「あれ……」

 

 おぼろげな形ながら可能性がゼロではないことを力強くアピールする芹澤に乗せられるようにさきがけの士気が高まり、得点への気持ちが募っていく。しかし、積もっていく塵を吹き飛ばすような選手交代が行われていた。

 

「ピッチャー交代!? しかもエースの鎌部がマウンドに……!?」

 

 その選手交代が行われる前、界皇ベンチではこのようなやり取りが行われていた。

 

「んー。向月があんな負け方したから気合い入れたんだけどなー。楽勝って感じー」

 

「気合い入れる必要なかったとよー。……あっ。鎌部先輩! 肩作るのはもう良いん?」

 

「出番なさそうだから戻ってきたんですけど。早いとこコールド決めて欲しいんですけど」

 

 楽勝ペースの試合に緊張感も薄れ、談笑がベンチを渦巻いていた。その現状を見た監督が言葉を発しようとする前に、この回敬遠で歩かされていたレナが戻ってくる。

 

「随分、余裕そうですね?」

 

「余裕ありまくりなんですけど」

 

「そうですね。客観的に見て、状況はこちらの圧倒的優位です。しかしランナーも出されていますし、どういう形であれここまで12個のアウトを取られている。そして私たちはまだ勝利したわけではない……」

 

「………」

 

「余裕を持つのも、自信を持つのも良いでしょう。しかし、慢心を抱いて相手を舐めるのはやめなさい。……見苦しい」

 

「……すいませんでした」

 

「うん。分かれば良いのよ」

 

 談笑していた一年の相良(さがら)や大和田、二年の鎌部が頭を下げると指摘と共に厳しい表情を浮かべたレナはすぐに表情を和らげた。

 

「監督」

 

「なーに?」

 

「“王者”界皇として迎えた、三年生抜きの初公式戦。春夏、そして……秋と三連覇を狙う私たちにとって、この初戦は重要なものです。だから……示させてください。全ての相手校に、変わりなき王者の強さを!」

 

「……分かったわ。ただその代わり……この回で決めてね?」

 

「ええ。皆さんも異存はないですね?」

 

「はい!」

 

 キャプテンの指摘で引き締められた緊張感が次の二回戦で先発予定の鎌部を登板させることでさらに高まっていくと、鎌部は真剣な面持ちでマウンドにそびえ立っていた。やがて投球姿勢に入り、その右腕からボールがリリースされる。

 

(藤原先輩の分も私はエースナンバーを背負っていかなきゃいけないのに、気を抜いてしまったんですけど……。恥ずかしいんですけど。キャプテンの言う通り私たち界皇が目指すのは常に……!)

 

「ストライク! バッターアウト!」

 

(カーブ……! しまった。外れてた……!)

 

(圧倒的な勝利なんですけど……!)

 

 インコースのストレートを意識した7番バッターがアウトローへのカーブで空振り三振に取られると、同じく右打席に入った8番バッターがインコースのストレートを狙ってスイングする。

 

(ん……!? 芯を外れ……げっ、シュートだったか!?)

 

「アウト!」

 

 ストライクからボールゾーンに曲がるシュートを振らされサードゴロでランナーが出ずに早くも2アウト。右打席には9番バッターの芹澤が入ってくる。

 

(うぐぐ……容赦ないなぁ。でもあたしが繋げれば上位に打順回るし……なんとかするしかない!)

 

 芹澤がヘルメットを片手で押さえるようにして頭を抱えると薄い赤色の髪が揺れる。やがて覚悟を決めた彼女がバットを構えるとボールが投じられた。

 

(ストレート……当たれっ!)

 

 アウトコース低めに投じられたストレートにバットが振り出されると掠ったように当たったファウルチップがキャッチャーミットに収まった。

 

「ストライク!」

 

(あ、当たったー……! めっちゃ速いけど、あたしでも当てられるんだ! よーし……!)

 

(このバッター、ポテンヒットとはいえ1打席目でストレートをセンター前に運んでるからな……慎重に行くか)

 

 2球目が投じられるとコースは再びアウトコースの低め。先ほどより遠く離れたボールが見送られると、変化せずそのままキャッチャーミットに突き刺さるように捕球された。

 

「ボール!」

 

(よーしよしよし。見えてる。あたしはこのストレートを見えてるんだ。だから打てる! 頑張れーあたし!)

 

(バットは振らなかったけどストレートのタイミングで踏み込んできたな。狙いは単純にストレートか。シュートで……でもさっき鎌部より遅いストレートをバットの先で打ってるしな。変に合ったら嫌だし……)

 

(……了解なんですけど)

 

 サインに頷いた鎌部が投じた3球目はカーブ。内のボールゾーンからからストライクゾーンへと弧を描いて曲がってくるこのボールに芹澤の足は完全に止まってしまっていた。

 

「ストライク!」

 

(たぁー……。それは、きっつい。コースも四隅とまでいかないけど、めっちゃしっかり投げ分けてきてるじゃん。でもなー……カーブもストレートも全部対応するってのはちょっと難しいし、ここはストレートに絞るしかない!)

 

 そして4球目が投じられると、コースは真ん中低めへと向かっていた。

 

(……ストレート! いけっ……!)

 

 速く感じるこのボールに芹澤のバットが振り出されるとその下をボールが潜り、ホームベースにワンバウンドしてからキャッチャーミットに収まった。

 

「ストライク!」

 

(なっ……ボールが消えた!? え……)

 

 視界から消えたように感じた芹澤を振り逃げさせないようキャッチャーミットが彼女に触れ、そのことに芹澤が驚いていると正式に3アウト目が成立していた。

 

(これが王者界皇のエース、鎌部千秋。やれるだけやったけど……完敗だなぁ……)

 

 リリーフから堂々の三者凡退でベンチへと帰っていく鎌部の背中を見て実力の差を見せつけられたような感覚を覚えながら芹澤がベンチへと戻っていく。

 そして5回の裏、界皇の攻撃。9番バッターとして打席に入った鎌部が2回からリリーフしているさきがけのピッチャーの浮いたストレートを捉えるとレフト前ヒットで出塁していた。

 

(打球も速……。ホントにこの人、ピッチャー……?)

 

(大和田、相良……後は頼んだんですけど)

 

(任せるけん!)

 

 ノーアウトランナー一塁。牽制に備えて芹澤は一塁に寄りながら、打席でも結果を残した鎌部に畏怖を感じていると、バントの構えを取っていた1番打者の大和田がボールがリリースされた瞬間ヒッティングに切り替え、さらに鎌部もスタートを切っていた。

 

(バスターエンドラン!?)

 

 打ち上げさせようと真ん中高めに投じられたストレートを手首を早めに返すようにして大和田はゴロで打ち返す。すると打球は一二塁間に転がっていき、そのボールに食らいつくように芹澤は飛びついた。

 

(うっ……!)

 

 しかしその飛びついた先を打球が抜けていくとライト前ヒットになり鎌部は二塁ベースを蹴って三塁まで到達し、打った大和田自身も一塁ベースを回ったところでベースに戻っていった。

 

(下位も十分速いのに……上位は打球のスピードが段違いすぎる。一体どんだけ練習すればあんな打球を……)

 

(さあ、後は頼んだとよ?)

 

(さきがけは1点取られた時点で終わり。だから思い切って満塁策って手はないわけじゃない。けどクリーンナップを後ろに控えてそれは厳しいでしょ……)

 

 さきがけの守備のタイムが終わり、2番の相良がその間に状況を分析して打席に入ると、さきがけは内野・外野を共に前進させてくる。

 

(だよねー。……夏大会から大和田と一緒に1番2番を任せてもらって優勝出来たからって、ちょっと調子乗り過ぎたかなー。ゴールデンルーキーって言われてちやほやされて、有頂天って感じだったし。でも夏は後ろに二・三年生がいて伸び伸びやらせてもらえたけど、秋も甘えっぱなしってわけにはいかないか。むしろあたしたち一年生コンビが……)

 

 低めの際どいところにストレートが続けられ2ボール0ストライク。三度(みたび)低めに投じられたボールがストライクゾーンに入ると感じた相良がこのボールをすくうように打ち上げた。

 

(このチームを引っ張っていく……!)

 

「……! ライト……!」

 

 芹澤が見上げる先を打球が越えていくと打ち上げられた打球に対し、ライトは下がりながらそれを捕球しにいく。サードランナーの鎌部は三塁ベースに触れながら、その打球の行方を見守っていた。

 

(外野の定位置からさらに後ろくらいに落ちる……さすがなんですけど。還るには十分……いや、十分過ぎるくらいなんですけど)

 

 打球が落ちてくるとなおも後ろ向きのライトが飛びついてミットを伸ばす先をボールがバウンドし、外野にボールが点々と転がっていく。やがてフェンスに跳ね返ったボールを拾ったセンターが見たのはホームベースを余裕を持って踏んだ鎌部と呆然と立ち尽くす他の部員の姿だった。

 

「礼!」

 

「「ありがとうございました!」」

 

 ライトオーバーのタイムリーヒットにより10点差、5回コールドが成立していた。0-10で界皇高校の勝利が告げられ、互いの挨拶がグラウンド上に交差する。

 

(ははは……強いなぁ。これが界皇。あたしたちじゃ歯が立たなかったな……)

 

「芹澤さん。少しいい?」

 

「ひゃいっ!? 草刈レナ……さん!? な、なななっ、なんですか!?」

 

「そんなに緊張しなくても大丈夫よ。キャプテンとしてちょっと話したいことがあってね」

 

「あたしにですか……?」

 

「ええ」

 

(目の前で見ると凄い威圧感……な、なに言われるんだろ)

 

 品格が漂う草刈を前に芹澤が緊張した面持ちでいると、草刈は破顔してプレー中は見せなかった明るい笑みを浮かべていた。

 

「初回6得点……あれはそちらにとってはモチベーションが落ちても仕方ないような始まりだったと思うの。けど、動揺があった初回と比べて2回からの守備は集中が保たれていて……一体どんな魔法を使ったの?」

 

「いやー、魔法なんて大層なものじゃないですよ。元々実力差のある相手だと思っていたので、開き直ってぶつかっていこう! って言っただけです。実力で負けてるあたしたちにあるのなんて、ガッツくらいですから」

 

「なるほど……素晴らしいことだと思うわ。点差が開き続ける中、尚も全力を尽くすというのは口で言うほど簡単なことではないもの。けどね……私はこの試合、貴女達のプレーに確かな基礎トレーニングの積み重ねを感じたわ」

 

「いやー、そんなそんな。あたしたちなんて大したことないですよ」

 

 しかしその笑みが優しげなものからやがて悲しげなものへと変化していくと、レナは意を決して伝えた。

 

「お節介かもしれないけど……一つだけ貴女に忠告をさせて」

 

「な、なんですか?」

 

「過ぎた自信というのは慢心を生み出す……私たちは今日の試合その慢心に溺れかけたわ。しかし、過ぎた謙虚というのは自虐を生み出すわ。どちらも己の成長を妨げてしまうもの。どうか自分たちの実力を見誤らずに、これからも貴女たちの野球を貫いてね」

 

「……あ、ありがとうございます。頑張ります!」

 

 差し出した右手を慌てて両手で包むように握りながら緊張していた表情を崩して元気の良い返事を返す芹澤にレナは安堵したように頷いていた。

 こうして第2試合の幕が閉じられると続く第3試合が始まろうとしていた。

 

「皆の心にー?」

 

「タッチアーーップ!!」

 

「ありがとー! みんなありがとー! 今日はいつものアイドルグループ『タッチアップ』のメンバーとしてじゃなく、真剣に野球をするために集まりました! まずは一回戦! 夏大会はここでつまずいちゃったから、まず今日の試合を一生懸命頑張ります!」

 

 試合が始まる少し前、大咲みよは自チーム側のスタンド前で応援に来たファンに声をかけていた。するとスタッフからOKのジェスチャー出て、映像を流すカメラがスタンドにいる別のカメラへと移っていき、応援に来たファンへの取材を流していた。

 

「ふぅ。後は……みんなー! 配ったしおりはちゃんと読んだかな? 念のため確認ね。相手の攻撃の時は拍手や声で応援してね! 楽器での応援はこっちの攻撃の時に——」

 

「大変ねー。試合の準備と並行してテレビの撮影なんて」

 

「でもみよちゃんらしいと思います。女子野球のことを知ってもらうためにはリアルタイムで試合を見てもらうのが一番だって、色々無理して明條が出る試合は生放送をしてもらえるように交渉したみたいですよ」

 

「……それなら一つでも多く勝ち進まないとね」

 

「あ、先輩!」

 

 その様子を明條ベンチからキャプテンや友人が見つめていると先ほど大咲と共にインタビューを受けていたモデルも務めているエースがベンチへと戻ってきていた。

 

「おかえりなさい♪」

 

「ちょ、ひっつかないで……」

 

「あっはは。随分気に入られたね」

 

 灰色の髪を揺らして腕に抱きついてくる後輩にエースが困惑していると、それを見たキャプテンがにやにやと笑っていた。

 

「何その変な顔……」

 

「酷ーい。傷ついたー」

 

「はいはい」

 

 傷ついた演技をするキャプテンを軽くあしらうと右腕に重みを感じながらスタンドに視線を向けた。

 

(高波高校……アタシたちが勝ち上がって次の第4試合であいつらが勝てば夏の雪辱を果たせる。それにこの試合、エースとして任されたのに4失点したあの試合のリベンジでもある。任されたイニングは絶対0に抑えてみせる……!)

 

 すると大咲に呼ばれて右腕にくっついていた彼女が離れていくと、その横にさりげなくキャプテンが近づいてくる。

 

「本当に良かったと思ってるのよ」

 

「ん? ああ……あの子のことか」

 

「あの子のことも、あなたのことも。あの子はベンチから外れた夏大会からいきなりスタメンになったから緊張していたみたいだけど、秋大会のメンバー発表で背番号9を貰ったあたりからようやく落ち着いたみたい」

 

「そうね。確かにそれは良かったわ」

 

 エースはベンチ入りして間もない彼女から恐れ多いような目で見られていた時と今の差をよく感じ取っており、それが彼女がようやくチームに馴染めた証だということに気づいていたため、多少馴れ馴れしい接し方をされても許容していた。

 

「あなたは……ねー。言った通りだったでしょ?」

 

「……そうだけど……顔がムカつく」

 

「それはどうしようもないなー」

 

 橙髪をかきあげながらエースの方を見つめてこれみよがしにドヤ顔を見せつけてくるキャプテンにため息をつきながら、前に言われたことを思い出す。

 

「あの子はさ、ちょっと臆病なところがあるから。悪気があったわけじゃないと思うの。まだベンチ入りして間もなくてあなたに慣れてないみたいだし、許してあげてね」

 

「大丈夫。私も皆も上辺だけじゃない……あなたの良いところも悪いところも全部を見てるよ。ピッチャーって全員の視界に入るでしょ。だからあの子もきっと、本当のあなたがすぐに分かるよ」

 

(確かに……もう高嶺の花みたいな、そんな接し方はしてこなくなった。最近はむしろ近すぎるくらい……)

 

 キャプテンを背にしてストレートの長い黒髪を境にするようにするとエースはボソッと言葉を漏らした。

 

「まあ、その……ありがとう」

 

 表情を見せずにそう呟いたエースに、キャプテンは目を丸くすると、穏やかな笑みを浮かべた。

 

「どういたしまして」

 

 試合前の明條の雰囲気は彼女たちに引っ張られるように明るいもので、緊張しすぎるわけでもなく、弛緩しすぎるわけでもなく、明條はちょうどいいバランスでこの試合を迎えていた。やがて試合が開始されると明條は相手高校の鉄壁高校の先発に序盤からタイミングが合っており、良い当たりが続けて出ていた。

 

「……アウト!」

 

(なっ……!? あれを捕った!?)

 

 しかし鉄壁高校の誇る堅守の前に中々ランナーを出せずにいた。4番に入った大咲が右中間の深いところへと放った打球も下り目に位置していたライトが追いつき、その守備範囲に大咲も驚いていた。

 

「あ、草刈キャプテン。お疲れ様です!」

 

「そちらこそお疲れ様」

 

「どうしたんですか? ビデオは私たちに任せても大丈夫ですよ」

 

「うん。それは信頼してる。けどこの試合は見ておきたくて」

 

 さきがけ戦の疲れを癒すべく殆どのメンバーが宿舎へと帰っていく中、レナはこのまま残って試合を見ることを希望して、スタンドでビデオを回している後輩たちのもとへと来ていた。

 

「でもこの2校が3回戦まで勝ち上がってくるとは限りませんよ?」

 

「そうね。でも個人的に……直接見ておきたい選手がいるの」

 

「知り合いですか?」

 

「ううん。私が一方的に知ってるだけね」

 

 後輩たちと話しながら試合の行く末を見守っていると何かに気づいた後輩たちが小声で話し始める。

 

「明條って、確か芸能人を多く輩出しているんだよね」

 

「そーいえば、そうだったね」

 

「もしかして誰かのファンなのかな?」

 

「レナさん綺麗だし、モデル雑誌読んでてファンになったとか?」

 

「……聞いてみようか。……レナさん。知ってる選手って誰のことですか?」

 

「ん、ああ……大咲みよさん。今日4番に入ってる子ね」

 

「そうなんですか……大咲みよって、アイドルだったよね」

 

「妹さんもインドア系の趣味があるって聞くし、レナさんってもしかして隠れアイドルファンだったりするのかな?」

 

 試合に没頭していたレナが顔を上げて返事をするとズレた視線でテレビカメラを捉え、小声で話し込む後輩をよそに視線をグラウンドへと戻していった。

 

(彼女は女子野球の認知度を上げるために、普通にプレーする私たちとは別の角度から世間にアピールしている。それは本当に尊敬すべきことね。そんな彼女の実際のプレー……どんなものかしら)

 

 試合は未だヒットが出ないでいた。それは鉄壁高校の守備に阻まれる明條側の話だけではなく、鉄壁高校の方もヒットを打つことが出来ないでいた。

 

(と、遠い……スローカーブ……くっ!)

 

「ストライク! バッターアウト!」

 

(あ、あそこから入るのか……!?)

 

 先発した左の長身エースの角度のあるストレートに苦戦していた鉄壁高校はさらに独特の軌道で上から落ちてくるようなスローカーブに翻弄され、まともなスイングをさせてもらえていなかった。試合は不気味なまでにお互いヒットが出ないまま4回の表。ストレートに狙いを絞った鉄壁の2巡目の1番打者の打球が三遊間へと放たれると深い位置で捕った大咲が間隔の短いステップで素早く体勢を立て直し一塁へと送球を行った。

 

「……アウト!」

 

「みよ、ナイス」

 

「先輩もナイピです。この回まで頼みますよ!」

 

(あれほど深い位置での捕球、足の速い1番打者……僅かなロスでセーフになってしまう。1歩目も早かったし、スローイングに移るまでの動作も早かった。スイングも良かったけど、良いフィールディングしてるなぁ……)

 

 レナが大咲のフィールディングに好印象を覚えているとここで右の2番打者がアウトコース低め、少し中に甘く入ったストレートを捉えてライト前にポトリと落ちるようなヒットを打ち、ようやく均衡を崩す初ヒットが生まれていた。次のバッターに送りバントを決められ、2アウトランナー二塁。右打席には4番打者が入っていった。するとここでキャッチャーから野手にサインが送られ、守備が全体的に定位置から右方向へとシフトしていき、さらに外野は前に出てきていた。

 

(……アウトコースのボールを打たせたいのか? でもこのピッチャー、角度はあるけどアウトコースのコントロールはそれなりだ。逸ってシュートを引っ掛けないようにして……。……!)

 

 投球に備えていたバッターだったが、ここで牽制球が挟まれ、二塁に入った大咲がランナーにタッチを行ったが、余裕を持ってセーフになる。

 

「先輩! 牽制球ちょっと高いですよー?」

 

「……悪いわね」

 

「バッターには浮かせないで下さいね!」

 

「気をつける」

 

(ん……ショート、声掛けに気を取られすぎて定位置まで戻ってるぞ。セカンドは右に寄ったままだし……単打で還るためにもありがたくリードは広げさせてもらおう)

 

 ピッチャーに声をかけながら歩いていった大咲がボールをピッチャーに投げ返すと、ピッチャーが前を向き、ランナーはショートが急に戻るのを警戒しながらリードを広げていった。

 

「……! バック!」

 

(えっ!)

 

 すると再び牽制球が投じられ、ランナーは虚を突かれた様子で塁へと頭から滑り込み手を伸ばす。

 

(ショートは動いてない! セカンド……いや、右にいるままだよな? カバーが……。……!)

 

 すると今度は低めに投じられた牽制球がミットに収められ、そのミットが伸ばした腕をタッチしにいった。

 

(うそ……せ、センター……!?)

 

「アウト!」

 

 前進守備を取っていたセンターがこの位置まで来ており、ランナーは大きく目を見開く。3アウトになりチェンジとなったが、ショックが大きくすぐには立ち上がれないでいた。

 

「ナイスセンター! みよもナイス演技! 塁からの離れ方がさりげなかった……さすが元天才子役!」

 

「そして今も現役バリバリのアイドルですから。これくらいならお茶の子さいさいです!」

 

「…………ねえ」

 

「ん?」

 

「アタシのこと、信用してないの? アタシが任された4イニング……こんなことしなくても0に抑えてみせたわ」

 

「えっ……」

 

 牽制球でアウトに取ったことで盛り上がる明條だったが、エースだけは不服な顔をしていた。その問いかけと共に詰め寄られたキャプテンは頬を指でかき、参ったような表情を見せる。

 

「……勿論、私も抑えられたと思うよ」

 

「なら……!」

 

「でも、相手を見てみてよ。ただ打てなくてアウトになるより……もしかしたら防げたかもしれない牽制でアウトになるショックの方が大きそうでしょ?」

 

「え……あっ」

 

「ホントだ……」

 

 その言葉に促されるようにエースと大咲はグラウンドに振り返ると、守備に出てきた鉄壁ナインはどこか表情が暗かった。

 

「プロデューサーが一番気をつけるのはね、担当の士気を下げてしまうタブーを避けることなのよ。何をするにも士気って大事でしょ?」

 

「ええ……それは分かりますけど。オーディションに挑むときに、暗い表情なんかしてたら絶対に選ばれませんから」

 

「そう……そのくらい勝負事で勝つには士気は大事よね。相手もこの試合、ヒットを一本も許すものかと高いモチベーションを持っていたからさ……私なりに逆プロデュースしてみたんだ」

 

(……士気を上げるならともかく、相手の士気を下げるなんて……考えたことも無かった)

 

(恐ろしいヤツ……)

 

 大咲がその考えに驚嘆していると、その横で気まずそうな顔を浮かべるエースが頭を下げていた。

 

「そうだったんだ……。ごめん、信用してないのとか言って……」

 

「気にしてないよー。それよりこっちも2巡目。こっから捉えていこう!」

 

 何でもないように振る舞うとキャプテンは防具を外して1番バッターとして右打席に入っていく。

 

(あー……びっくりした。確かにさっき言った考えもあったけど、何よりさっきの策はもしアウトにできなくても、こっちはほとんどノーリスクだし仕掛けて損は無いって感じだったんだよね。……気をつけよう。あの子にとってのタブーは……自分が信用されてないと思う行動なんだ。結構、認めて欲したがりさんだからなぁ……)

 

 エースの剣幕に冷や汗をかいていたキャプテンは息を大きく吐き出し、気を取り直して目の前のピッチャーに集中するのだった。

 

「あんなプレー、わたしたちとの試合じゃ使ってこなかったよね?」

 

「貴女たちの試合ではこの布陣の時にランナーが二塁に一度も出なかったのもあるでしょうね」

 

「あー……そういえばそうだったね」

 

「もしお互い勝ち抜いた時にはこういったトリックプレーに注意する必要があるわね」

 

 新田と東雲が話しているとグラウンドから鋭い金属音が響き、打球は三遊間へと転がっていった。このボールを深い位置で捕球したショートは素早く立ち上がり送球姿勢に移ったがボールを握り直してからの送球となり、ファーストにボールが届いたタイミングは際どいものだった。

 

「……セーフ!」

 

(決して大きなロスでは無かったけど、ここまでまさに隙の無い守備を見せていた鉄壁の僅かな綻び……。先程の回明條は似たようなプレーで先頭打者をアウトにし、その回を無失点で抑えきった。ここで明條が得点するようなことがあれば……試合の流れは大きく明條に傾くと言っても過言ではないわね)

 

 続く2番打者の送りバントに対して激しいチャージをかけていたファーストは二塁へ送球しようとするが、上手く勢いを殺したバントで間に合わないことを察したキャッチャーの指示で一塁への送球が行われた。

 

「ナイバン!」

 

「ありがとう! みよちゃん、後はお願いね!」

 

 バントを決めた2番打者がネクストサークルに入った大咲と両手でハイタッチしてからベンチへと戻っていくと続く3番打者はアウトコースのストレートを弾き返したが、二遊間を越えて外野にふらふらと上がった打球をセンターがスライディングキャッチの好プレーで捕球し、ランナーが二塁から動かないまま2アウトになった。

 

(打ってみせる……!)

 

 続いて右打席に入った大咲に対してバッテリーは先ほど長打性の当たりを打たれていたため徹底的に低めを突く配球で勝負に出る。そして……2ボール1ストライクからの4球目。

 

(低めばっかり……なら、その低めを打ってこそ4番!)

 

 インコース低めのストライクゾーンに投じられたシュートが内に切れ込んでくると、このボールに対して足を開いた大咲はバットを振り抜き、打球は左中間へと伸びていった。

 

(う……)

 

 1点もやるまいと外野を前に出していた鉄壁外野陣の頭上を悠々と打球が越えていくと、これがタイムリーツーベースとなり、明條の先制となった。

 

(……アタシも続く!)

 

 さらに5番に入っているエースがインコース低めやや真ん中寄りに入ったストレートを一塁線に引っ張ると、鋭い打球がファーストミットの先を抜けていき、連続タイムリーツーベースとなった。続く6番打者はピッチャーライナーに倒れたものの、この2得点でゲームの流れは大きく明條に傾いていた。

 

(序盤からヒット性の当たりは多かった。打たれるのは時間の問題だったでしょう。……鉄壁はピッチャー交代のタイミングを見誤ったわね)

 

 鉄壁のブルペンで準備していた投手を見ながらレナが考察していると、明條はここでピッチャーを交代し、ショートに入っていた大咲がマウンドに、エースがライトへと向かっていく。

 

「みよちゃーん。楽にねー」

 

「任せて! そっちも楽にねー」

 

(初公式戦のマウンド……先輩が打って2点差まで広げてくれたから少し気は楽になったわ。でも点はやらない! アタシも0で抑えてみせる!)

 

 ライトからショートに入った友人の掛け声を受けながら大咲は5回から7回までを投げ切った。明條側も鉄壁のリリーフしたピッチャーを打ち崩すことは出来なかったが、鉄壁側も左で長身のエースと右の小柄な大咲のボールの違いに戸惑い、お互いヒットは打つものの決定打が無く、2点差のままゲームセットとなった。

 

「やった……!」

 

 夏は為し得なかった一回戦突破に皆が喜んでいると、大咲はスタンドで応援してくれたファンに感謝を伝えてから、さらに移動して里ヶ浜が観戦していたスタンドの前まで来て、力強く指差した。

 

「逢坂ここ! いるわね? あなたたちも次の試合勝ちなさい! そして今度こそあなたたちに勝って……あれ?」

 

 しかしその場所には逢坂ここはおらず、居たのは空を見上げてぼーっとしている天草だけだった。

 

「そこの人ー?」

 

「……んー。誰かわたしを呼んだぁ?」

 

「呼んだわ。ねえ、逢坂ここはどこに行ったの!?」

 

「ああ……皆、次の試合のウォーミングアップがあるからって4回が終わったところでいなくなっちゃったよぉ」

 

「あっ……! そ、そっか。そうよね……うん」

 

 試合に集中するあまり、既に里ヶ浜がスタンドから離れていることを失念していた大咲は耳を真っ赤にしながら皆のもとに戻っていった。

 

「……」

 

 天草は再び空を見上げると、先ほど里ヶ浜部員たちがウォーミングアップに向かっていく時のことを思い出していた。

 

 総勢17人の部員が続々と立ち上がってスタンドからの出口に向かう中、それを見送っていた天草は1人残っていることに気づいた。

 

「どう? わたしの絵……」

 

「……!? い、いや……貴女の絵を見ていたわけでは」

 

「じゃあ今見てよぉ」

 

「わ、分かったわ」

 

 試合中天草の絵を見るのを我慢していた東雲が足を止めており、天草の言葉に甘える形でその絵を近くで覗き込んだ。

 

「綺麗な絵ね」

 

「でしょー?」

 

「東雲ー! 何してるのー?」

 

「あっ。今行くわ」

 

 その絵を食い入るように見ていると新田の呼ぶ声が聞こえ、東雲は顔を上げた。

 

「あ、そうだ……気をつけてね」

 

「何をかしら?」

 

「空の機嫌が悪くなってきたみたいだから——」

 

 そして今も空を見上げている天草はさらに怪しくなってきた雲行きを見て不安げな表情を浮かべていた。

 

「天候は曇り……と」

 

「スコアブックって天気も書くんだ」

 

「うん。後は風向きとかもだね」

 

 試合開始前に記入すべき事項をスコアブックに書き連ねていく近藤を見て永井が感嘆していると、オーダー表の交換と先攻後攻の取り決めを終えてきた翼が戻ってくる。

 

「相手が先攻を取ってきた?」

 

「うん」

 

「勝負強い打線が持ち味の高波……いきなり点を取ってゲームの流れを一気に持っていくつもりかもしれないわね」

 

「ちょっと待つのだ!」

 

 翼と東雲が話し合っていると、そこに阿佐田が焦った様子で割り込んできた。

 

「つばさ! 相手が先攻を取ってきた……ということは、じゃんけんに負けたのだ?」

 

「え……あ、はい。負けちゃいました」

 

「どうしたんだあおい。元からウチらは後攻を取るつもりだったんだろう。相手が取った先攻、ウチらが選んだ後攻。そこに何の違いもありはしないだろう!?」

 

「違うのだ!」

 

(思い出すのだ、だんちょー。あおいたちが野球同好会に入った時のことを……!)

 

 まだ野球部が野球同好会で試合をするための人数も足りなかった頃、岩城は野球同好会を応援するために部員の勧誘として阿佐田を連れてきていた。その時岩城は阿佐田を学校一の勝負師と称し、勝負してみたいという翼の要望に応えてじゃんけん勝負をしたことがあった。

 

「「じゃんけんぽん!」」

 

「おお!? 凄いぞ! あおいがあいこなんて!」

 

「でも勝てなかった……」

 

「何言ってるんだ! 普通は負けるんだぞ!」

 

(こいつ……持ってるのだ!)

 

 その時の経験から阿佐田は今の翼に僅かながら違和感を覚えていた。

 

「しのくも、ちょっとこっちに来るのだ」

 

「ひ、引っ張らないで下さい。……なんですか?」

 

「これはあくまであおいの勘なのだ。外れていたら、それが一番。だからしのくもだけに伝えておくのだ。……もしかしたら今日のつばさはいつものつばさじゃないかもしれないのだ」

 

「え……? そう……ですか?」

 

「さあ、みんな! そろそろ試合が始まるよ! 気合い入れて頑張ろー!」

 

「おー!」

 

 翼が皆に気合いを入れる様子を見てそうは思えなかった東雲だが、一応心に留めておくと、高波の先攻で試合が開始された。

 

「さあ、初回から見せつけてやるわよ。強打の高波の真骨頂を」

 

「オーケー!」

 

 高波ベンチからは小柄で薄ピンク色の髪をしているキャプテンの中条明菜の檄が飛ばされ、1番打者はやる気に満ちた様子で右打席に入った。

 

「プレイボール!」

 

(初回から見せてやる、ね。舐められたものね)

 

 倉敷が振りかぶり投球姿勢に入るとこの試合の1球目が投じられる。7割程度の力で投じられたストレートはアウトコース低めの際どいところに向かっていき、このボールにバッターは手が出ずにバットが止まっていた。

 

「……ストライク!」

 

(うわっ。入ったのか……)

 

「倉敷先輩、ナイスコントロールです! 高さもコースも良いですよ!」

 

 鈴木の言葉に頷きながらボールを受け取った倉敷は続けで2球目を投じる。

 

(よし、高めのボール……!)

 

 高めのボールを待っていたバッターはインハイに投じられた7割ストレートを打ちにいくと、金属音が響いた。

 

「ファースト!」

 

「はいっ!」

 

(しまった。少し高めに外れてた……!?)

 

 鈴木の要求通りストライクゾーンからボール一つ分高めに外されたストレートにバットが下に入ると、打ち上げられた打球がやがて落下地点に入った野崎のもとへと落ちてくる。

 

「アウト!」

 

(よし……まずワンナウトです!)

 

「野崎、そうやって落ち着いていれば大丈夫よ」

 

「はいっ。先輩もその調子で頑張って下さい!」

 

 投手としての練習に比重を置いていた野崎はスタメン発表からファーストとしての守備練習を重点的に行ったとはいえ、夏大会ではエラーしてしまったこともあって緊張していたが、難なく捕球できたことに安堵していた。その緊張を察していた倉敷が声をかけると、立ち上がりの大変さを分かっていた野崎も倉敷の緊張を取ろうと声をかけながらボールを投げ返した。

 

「ワンナウト! 声出しもしっかり!」

 

 鈴木のはっきりとした声がけで里ヶ浜ナインに声が出始めると、頭から勢いよく持っていく予定だった高波は逆にリズムが崩れていた。

 

「まだ一人アウトになっただけ。こっからこつこつランナー溜めていけばいい。それで私に回して……じゃないとダルいから」

 

「はい! 繋ぎます!」

 

 4番に入っている中条がバッターとして準備を進めながら再び檄を飛ばすと続く2番打者も集中した面持ちで打席に立つ。そのバッターへの初球はインコース低めの際どいコースへのストレート。

 

「ストライク!」

 

(立ち上がりはブルペンとマウンドの違いもあってコントロールが乱れやすい。けど倉敷先輩はこの試合に限らず、大きなコントロールの乱れはない。立ち上がりの良さ、それが倉敷先輩の一つの武器ね)

 

 2球目のストレートもインコース低めに投じられるとこのボールにバットが振り出された。ボール一つ分内に外す要求に応えるように投じられたこのボールを芯より内側でバットが捉えると打球はサード方向へと放たれた。

 

(……! 芯は外れたけど、ミートはされてる!)

 

(よし、ヒットだ!)

 

 打球はサード定位置から僅かに三遊間方向へ放たれ、さらに捕球しにいく東雲にとっては直前でワンバウンドする形になり、難しい判断での捕球を強いられていた。

 

「抜かせないっ!」

 

 打球の正面に足を動かし腰を低く落とした東雲はスピードのある打球のバウンド際をそのミットに収め、落ち着いて送球体勢を整えてから一塁へと送球を行った。

 

「アウト!」

 

「おー! しのくも、ナイスプレーなのだ!」

 

「このくらい当然です」

 

 スピードのあるボールをセオリー通り身体の正面に入れて捕球に専念した東雲は、打球が届く速さからまだバッターが一塁に駆け込むには時間があると判断し、確実な送球によって2アウト目を取っていた。

 

(三遊間方向の打球はアンタたち経験者二人がいるから、心強いわ)

 

 確実な東雲の守備を倉敷が心強く思っていると続く3番打者が左バッターボックスへと入ってくる。

 

「狙いを無理に上げなくていい。アンタはアンタのバッティングをしなさい」

 

「分かった!」

 

(バットを短く持った……。それにこのスタンスの取り方は、ノーステップ打法。予めかかとを上げておくことで……足を上げて、踏み込んで、スイング、この3動作のうち最初の足を上げる動作を短縮する打法。……中野さんのデータ通り、高波は中条さん以外は長打を狙わないバッティングスタイル……!)

 

 ネクストサークルに入った中条から三度檄が飛ばされ、3番バッターは右足のかかとを上げて投球に備える。

 

「ファール!」

 

 その結果、7割ストレートをコースに散らしてもついていかれ、1ボール2ストライクからカウントが動かずにいた。

 

(このバッター、全然空振らないわね……)

 

(このピッチャー、全然投げ損じしないな……)

 

(……アウトコースを2球続けた。ここはインハイに、全力のストレートを!)

 

(分かった)

 

 7球目となるボールが投じられるとインハイにストレートが向かっていき、このボールをバッターは見送った。

 

「……ボール!」

 

(ちょっと速くなったな……ストレートにも緩急があるんだ。気をつけておこ)

 

(くっ、少し内に投げすぎたか……)

 

「良いストレート来てますよ!」

 

 ボールを投げ返した鈴木がサインを送ると倉敷は眉をピクッと震わせたのちにそれに頷いた。

 

(ノーステップ打法は足を上げる動作がない分、早くスイングに移れるかわり溜めが作りにくいはず。これで勝負しましょう)

 

 そして8球目となるボールが投じられるとバッターは速いストレートに対応できるようそのタイミングで踏み込んだ。

 

(……! ボールが……来ない!?)

 

 既に足を踏み込んだバッターがコースは真ん中ながら低めギリギリに投じられたチェンジアップに体勢を崩したまま食らいつくと、泳いだスイングで辛うじてバットに当てた打球がフェアゾーンに打ち返された。

 

「ショート!」

 

「……! うん!」

 

 このボールに対して走って近づいた有原は捕球の直前にスピードを落とし、そこからジャンピングスローの体勢に移行……しようとした。

 

「あっ!?」

 

(有原さん!?)

 

 しかし減速のタイミングが遅くミットでボールを突くような形となり、前に転がったボールを右手で直接拾った有原は窮屈な体勢からのジャンピングスローで一塁へと送球を行った。野崎はその高いリーチを生かして目一杯ミットを上に伸ばすとミットの先に引っ掛けるようにボールを受け取った。

 

「……セーフ!」

 

 送球が届くよりバッターの足の方が速く、一塁を駆け抜けたバッターはホッと息をつく。

 

(……おかしいな。前の紅白戦の時にわたしが似た感じの打球打った時は余裕でアウトにされたのに。……緊張してるのかな?)

 

「気にすんなー! 次でアウト取ればこの回終わりだよ!」

 

 思いもよらない翼のエラーに動揺が見えるグラウンドの皆に新田が声援を送ると目を見開いていた河北も続けて声援を送り、グラウンドでも互いに声をかける形で平静を保っていた。

 

「お、来た来た。医学部の受験勉強は良いの?」

 

「痛いことを聞くねー。ま、ちょっと無理やり時間作ったわ。後輩たちの晴れ舞台だもの」

 

 高波高校のOGがスタンドに集まっていると、ここで高波は4番の中条に打順が回ってくる。

 

(あーあ、塁が空きすぎなんだよねぇ〜……せめて……)

 

「よろ〜」

 

 挨拶をしながら右バッターボックスに入ってきた中条。しかし鈴木は彼女の表情はどこか覇気に欠けているように感じられた。

 

(……実際見てみるまでは信じ難かったけど、前に確認した明條と高波の試合と確かに同じ……打つ気配が感じられない。やはり中野さんが調べてくれた通り……このバッターはかなり極端。その証拠に打率は1割8分8厘ながら、得点圏打率7割6厘というデータが残っている……)

 

(要注意バッターね。けど、今得点圏にランナーはいない……これならアンタの言っていた真骨頂は見せられない。アタシたちの作戦勝ちね)

 

 2アウトランナー一塁、中条を打席に迎えて、鈴木は思慮の末にサインを送った。

 

(……なるほど。分かったわ)

 

 そのサインに首を縦に振った倉敷は一度ランナーに目を配る。やがて前を向き、クイックモーションに入った。

 

(走れっ! ……!?)

 

 その瞬間一塁ランナーがスタートを切り、中条は口角を上げたが援護のスイングをしながら投じられたコースに目を丸くしていた。

 

(1〜3番に瞬足巧打の選手を配置し、4番に驚異的な得点圏打率を持つ中条さん。やはり相手の狙いは……!)

 

 アウトコース高めに大きく外されたストレートにバットが空を切ると立って構えていた鈴木が捕球からスローイングに移り送球を行った。そして二塁ベースに入った阿佐田のミットにボールがワンバウンドしてから収まるとスライディングで滑り込むランナーの足にタッチが行われた。

 

「……アウト!」

 

「よしっ……!」

 

(ち……読まれてたか)

 

 盗塁を読み切りアウトに出来た鈴木が小さくガッツポーズを取っていると中条は面白くなさそうな顔をしてベンチへと帰っていく。

 

「わ、和香ちゃん。ありがとっ」

 

「どういたしまして。あまり引きずらないでね。誰だって緊張はあるもの」

 

「……うん」

 

 里ヶ浜ナインが倉敷の投球や鈴木の送球を褒めながらベンチへと戻っていくと、鈴木は礼を言った有原に先ほどのエラーを気にしないようにと伝えていた。

 

「つっくも〜」

 

「なんだい?」

 

「ここは『あおい99(ナインティナイン)』でまず一点取ってチームを楽にしてやるのだ」

 

「あおい99? ああ……あおいと私を組み合わせたのか。勿論それが出来ればベストだね。ただ、まずは1番バッターとして情報を引き出してくるよ」

 

「情報を引き出した上でホームラン打ってくるのだ〜!」

 

「相変わらず無茶を言うね……」

 

(あおいは……冗談半分ではあるが、早めに得点が欲しいというのは真面目に言っているようだ。何故そこまで焦っているんだ……?)

 

 高波の投球練習が終わり、一回の裏の攻撃が始まった。1番バッターとして九十九が右打席に入ると相手ピッチャーの投球に備え、バットを構える。

 

(右投げで身長は高くも低くもない……そして投球練習で見た彼女の投げ方は)

 

 投球姿勢に入ったピッチャーが左足を踏み出したタイミングで開いた左肩が九十九の目に映ると、上からではなく横から投じるように腕が振られ、サイドスローから放たれたボールがアウトコースへと向かっていく。

 

(遠いか?)

 

「……ストライク!」

 

(球速は遅め……軟投派の投手だな。今のはシュートか……?)

 

 バットを振り出さずにボールの軌道を追っていた九十九は外のボールゾーンから中に入ってくるのを感じ取っていた。続く2球目、今度はインコース真ん中にボールが投じられると、際どいと判断した九十九は再びこのボールを見送った。

 

「ボール!」

 

(ん……今のもシュートか? いや、待てよ……これは)

 

 違和感を覚えている九十九が相手ピッチャーの動作に注意しながら3球目が投じられると再びボールはインコース。先ほどより中に入っていたボールだったが、九十九はこのボールを見送った。すると三度内に曲がってくる軌道に目を見開く。

 

「……ストライク!」

 

(分かったぞ。今ボールがリリースされた時……手首が寝ていた。横から投げても手首を立てればオーバースローのようなバックスピンをかけるのは可能なはずだ。しかしあれでは綺麗なバックスピンはかけられないだろう。それに肩の開きが早いことで、身体が横回転し、右腕が横向きに引っ張られている。これらを考慮すれば……あれは変化球のシュートではなく、ストレートがシュート回転してしまっているんだ)

 

 頭の中で考えを纏め終わった九十九に4球目が投じられるとコースはアウトコース。際どいコースだったが、ここから中に入る変化を想定して九十九はバットを振り出しに行く。

 

(……! これはさらに遅い……!)

 

 既にスイングは止められず外に逃げていく軌道のボールを辛うじてバットに当てた九十九だったが、打球は勢いのないセカンドゴロとなりアウトを取られた。

 

(カーブかスライダーあたりか……? 最後のボールの球種は分からなかったな)

 

「なにをやってるのだ〜!」

 

「すまない。だが情報は引き出してきたよ」

 

 先ほど考察したことも含め九十九が情報を伝えると阿佐田はニヤつくように表情筋を動かしていた。

 

「なるほど……ならここはセオリー通りにいくのだ」

 

「セオリー通り……。奇策を好む君がかい?」

 

「なにもおかしいことはないのだ。奇策をするにはセオリーを知っておく必要があるのだ。勝負師としてセオリーを知っておくのは大事なことなのだ〜」

 

 2番打者として右バッターボックスに入った阿佐田はインコース高めに投じられたボールを見送る。

 

「……ストライク!」

 

(ふむふむ。確かにしゅるる〜と曲がってきてる感じがするのだ。でも内からさらに食い込んでくる感じのこの軌道は分かってても打ちづらいのだ)

 

 続く2球目がアウトコースに投じられるとこのボールに対して阿佐田はスイングの始動に入った。

 

(けど外にシュート回転したボールを投げれば中に入る甘い軌道になるのだ。そして無理に引っ張れば引っ掛けちゃうかもしれないから……ここは重心を後ろに置いてセカンドの頭を意識して弾き返してやるのだ!)

 

 中へと入ってくるこのストレートに対して阿佐田は始動を溜めると流し打ちで弾き返した打球は目論見通りセカンドの頭上を越えていき、右中間方向に転がる打球をセンターが収め、センター前ヒットで出塁していた。

 

「阿佐田先輩! ナイバッチです!」

 

 三塁側コーチャーボックスから飛ばされる河北の声援に阿佐田が応えていると3番打者として翼が右打席へと入っていった。

 

(さっきミスした分はバットで取り返すよ!)

 

 その初球だった。クイックモーションから投じられたピッチャーのボールが真ん中高めへと向かっていく。

 

(よし、甘いボール。つばさなら……!?)

 

「ストライク!」

 

 しかし翼はこのボールにバットを振り出すことが出来ず、見送ってしまっていた。

 

(……思ったより甘いコースに来てビックリしちゃったのだ?)

 

(嘘……どうしよう。いつもなら試合が始まれば、どんどん身体が試合に集中していくのに……ボールに身体が反応しきれてない)

 

(クイックになってストレートのコントロールがばらけたな……ここは一球変化球を混ぜて、肩の力を上手く抜いてもらおう)

 

(了解)

 

 そして2球目が投じられると今度はアウトコースの低めにボールが投じられた。

 

(ボールは速くはないんだ。とにかくバットを……振る!)

 

 外に曲がっていくボールはコースはストライクゾーン上だったが高さが低く、このボールに翼が振り出したバットはその上を捉えていた。そしてバットが振り切られるとスピードのある打球が飛んでいったのは……ショート正面だった。

 

「あっ……!」

 

(甘いコースを見逃して、際どいコースを打って、しかもランナーを進める右打ちでもない……!?)

 

 そのバッティングに東雲が信じられないような表情を見せていると転がったボールを収めたショートが二塁に送球を行い、さらにセカンドから一塁に送球が届く。阿佐田も翼もどちらも送球には間に合わず、余裕を持ってダブルプレーが成立していた。

 

(そんな……どうして。好きな野球をしているのに、こんなに気持ちが上がってこないなんて……)

 

 一塁を駆け抜けた翼が物憂げに空を見上げるとその脳裏に反芻するようにゆかりの言葉が聞こえてきた。

 

「好きなことをいつのまにか好きって言えなくなる。そんな時が……翼にも来るよ」

 

(……! これが椎名さんが言っていたこと……?)

 

 ショックを受けた翼が顔を上に上げることが出来ないままベンチへと戻っていく。すると——手を掴まれた。誰に手を掴まれたのかと翼はその視線を上げる、そこにあったのは掴んだことに彼女自身驚いている様子の東雲の姿だった。

 

(なんて冷たい手をしているの。なんて苦しそうな表情をしているの。……貴女は……そう、あの時の私と同じ)

 

「有原さん。あの時貴女に言われた言葉を……貴女に返すわ」

 

「えっ?」

 

「私たちはもっと強くなると誓った。だから……有原さんももっと私たちのことを頼りなさい。貴女のことを全部貴女一人で何とかしようとしないでちょうだい」

 

「……! 東雲……さん」

 

 翼は東雲の手から伝わる温もりを感じながら顔をはっきりと上に上げると、その言葉に力を振り絞るような声で返事を返したのだった。



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眠れる翼と目覚めし獅子

完成したので密かに溜めていたハチナイの150連分チケット引いてきます。


 翼のダブルプレーにより1回の裏が終了し、里ヶ浜が守備に着こうとした時だった。ベンチから飛び出してきた皆が東雲に呼び止められ、視線が東雲と翼に集まる。

 

「どうかしたんですか? 早く守備につかないと審判に注意されてしまいますよ」

 

「はい。なので簡潔に伝えます。今日の有原さんはいつもの有原さんではないわ」

 

 九十九の指摘に同意するように頷いた東雲は溜めを作らずに淡々と告げると、告げられた内容に翼と阿佐田以外の皆がひどく驚き、告げたこと自体に阿佐田も大きく驚いている様子だった。

 

「え……いや、確かに良くないプレーが続いたけど、だからって……」

 

「ありがとうともっち。けど、ごめんなさい……。東雲さんの言う通りなんだ」

 

 東雲の言葉に戸惑いながらベンチから河北がフォローを入れようとしたが、翼自身がそれを遮って頭を下げた。

 

「さっき東雲さんと話して決めたんだ。……私がチームの足を引っ張ってるって東雲さんが判断したら、大人しくベンチに下がるよ」

 

「ええっ! ちょ、待ってよ。それってわたしが有原の代わりに出るってこと?」

 

「そうよ」

 

「いやー……それは、ちょっと荷が重いっていうか……」

 

「だから心構えをしておいて頂戴。それが今ここで皆に伝えた理由の一つよ」

 

 こちらの様子を窺い始めた審判を警戒しながら東雲は翼と共にベンチに入ると、狼狽する新田を奮い立たせるようにそう言った。

 

「でも、私は……ベンチに下がりたくない。だから、精一杯頑張る。それしか出来ないけど……それだけは約束するよ」

 

 バットとヘルメットをしまい、グローブをその手に持った翼は腹を括った顔をして皆の目を見渡すようにしながらその言葉を伝える。その言葉を飲み込むのには急すぎてほとんどの者がすぐにこの状況を受け止めきれない中、短いため息を挟んで口を開いたのは倉敷だった。

 

「…………どこか痛めてるとか、そういうことじゃないのね?」

 

「はい。それは大丈夫です!」

 

「ならいい。ほら、行くわよ」

 

 その言葉を聞いた倉敷がマウンドへと上がっていくと、他の皆もそれに引っ張られるようにグラウンドへと散っていく。

 

(確かにらしくないとは思ってた。けど、本人に自覚があるほど調子が悪いなんてね。……それでも本人がやれると言うのなら、アタシに出来るのはそれを信じてやることだ)

 

 倉敷が準備投球に入ると遅れてやってきた東雲と翼がボール回しに参加し、翼が野崎へと送球を行うのを阿佐田は考え事をしながら見つめていた。

 

(しのくもがわざわざ皆に打ち明けた理由……。心なしか翼の表情が引き締まった気はするのだ。……もしかして)

 

 野崎がゴロのように自分の方に向かって転がしてくるボールを難なく捌いて投げ返した阿佐田は清城との練習試合で前に痛めた箇所と同じところを捻挫し、それを隠しながらプレーしたことを思い出していた。

 

(自覚があるのに隠しながらプレーを続けるのは、今思えばかなりの負担になっていたのだ。しのくもの狙いは……打ち明けることで、その重荷になってる負担を減らしてあげること。確かにつばさにとっては、後はもう頑張るしかないこの状況は迷わなくていいかもなのだ。……けど……)

 

 阿佐田は周りを見渡して一人一人の顔色を窺っていく。

 

(チームの軸のつばさがこんな状態だと分かれば、皆多かれ少なかれ動揺するのだ。あおいは察しがついていたからまだしも……。……それでもしのくもは賭けたのだ。つばさ一人に背負わせるより、チームとしての強さに。……あおいも覚悟を決めるのだ)

 

 十人十色の表情を見せる皆を見て阿佐田も強張る表情筋を和らげるように右手で頬をほぐすと、準備投球やボール回しが終わり、2回の表が始まろうとしていた。

 

「フレーッ! フレーッ! 後ろにはウチがついてるぞ!」

 

(外野からピッチャーに声掛けるのって一苦労なのに、よくもまあランナーが出てないタイミングで……)

 

「岩城先輩……」

 

 腕を交互に伸ばしエールを飛ばす岩城にライトをこなしている中条が呆れるような眼差しでそれを見ていると、翼は気合いを入れ直すようにミットに拳を入れていた。

 

(試合は始まってる。もう止まってはくれない……。とにかく目の前の一球一球に食らいつくんだ!)

 

(有原さんの調子が悪い理由……それ自体を突き止める事は出来なかった。悩んでいることはあると言っていたけど、それは試合中は出来るだけ気にしないようにしていると語っていたし……)

 

 乾いたミットの音を鳴らす翼を横目で見ていた東雲は右打席に中条が入り間髪入れずにバットを構えるのに気づくと、そちらに視線を移して打球に備えた。

 

(……正直あまりにも予想外の告白で、頭の整理がおいついていない。けど、倉敷先輩が動じず私のサインを待ってくれている。……先輩の言葉を借りるなら、『今はやることやるだけ』なのかもしれないわね)

 

 鈴木が顔を上げてマスク越しにバットを構える中条の様子を見ると、彼女が着ている縦のラインが入った白のユニフォームの胸の部分に刻まれた高波の二文字がだらんと垂れ下がっているように感じられた。

 

「ねえ。今だから聞くけどさ……どうして明菜をキャプテンに指名したの? 前キャプテンさん」

 

「ああ……やっぱり気になってた?」

 

「そりゃね……。明菜は実力はあるし、初回からバッターに声を掛けてるみたいに周りに気を配れる性格だけど……問題も山積みだったじゃない。例えば……あれ」

 

 9分割のアウトローを狙って7割ストレートが投じられると中条は目線も動かさずにこのボールを見送った。

 

「……ストライク!」

 

「得点圏打率7割6厘ながら打率1割8分8厘の理由。あの子は得点圏にランナーがいない時は盗塁の援護くらいしかバットを振らない。だからチャンス以外の打席は全部見逃し三振」

 

「……そうね。私もそれは明菜の良くないところだと思ってるわ」

 

(コントロールはいつも通り精密……。この状況でなんて精神力)

 

(宿舎の前でアタシたちは誓った。こんな状況だからこそ、プレーで後輩を引っ張る時。有原だけじゃない……野崎も鈴木も永井も、東雲だって。アタシはエースとしてピッチングでチームを引っ張る!)

 

 精度の変わらないコントロールに感嘆しながら鈴木がボールを投げ返していると、高波ベンチから声援が飛ばされる。

 

「キャプテン! 振っていきましょう!」

 

「轟音スイング見せてください!」

 

「……!」

 

(……地面をならした? 打席に入った時は無造作にバットを構えただけだったのに)

 

 訝しむ鈴木の視線をよそに中条は先ほど肩に置くようにしていたバットを浮かせるようにして構え直す。そして2球目のボールがインコース低めに投じられると、そのバットを振り出した。

 

(振ってきた……! けれど見極めが甘い。これは低めに外させたボール球!)

 

 ボール1.5個分低く外れたストレートに振り出されたバットがボールの上を掠るように捉えると、鈴木は目の前の空気が揺れるような感覚を覚えていた。

 

(なんてスイング……! けど当たりはボテボテ……!?)

 

 打球は三遊間へと転がっていくと当たりは良くないものの、強烈なスピンがかかった打球が加速するように転がっていく。

 

(くっ。これは……飛びついてやっと届くかどうか)

 

(……捕れる!)

 

「……ショート!」

 

(……!)

 

 ショート寄りに転がっていたゴロに鈴木は一瞬の迷いを捨てて翼に捕球の指示を出すと里ヶ浜ナインに緊張が走った。

 

(なんでボールに身体がついていかないか、理由は分からないけど。でも今までやってきたことは……無駄にはさせない!)

 

(ボールの正面に身体を入れて腰を低く落とした! ここまでは問題ない。けど捕球位置が少し深い……打球スピード自体は遅かったことを考えると、のんびりしている暇はないわよ)

 

 三遊間やや深めの位置でこの打球を正面に入れて待った翼は打球が跳ねるところをミットを下に向けて掴み取った。そして捕球から急ぐように左足を一塁へと向けると送球を行った。

 

(……! 送球が低いのだ。……これは!?)

 

 翼の送球は一塁に入った野崎のカバーに走り込んでいた阿佐田から低く見え悪送球をよぎらせると、ボールはベース手前でバウンドした。野崎はこのボールをすくいあげるように捕りにいき、中条も一塁ベースを駆け抜けた。

 

「……アウト!」

 

(よ、良かった……とっさにこれが出来た)

 

「あれは……初瀬がよくやってるワンバウンド送球だにゃ!?」

 

「あ……はい。あれは元々ボールが浮かない確実な送球が出来る様にって有原さんに特訓してもらったんです」

 

「にゃるほどにゃ……すぐ送球しないと間に合わないけど今の調子だと浮いちゃうかもしれないから、あの投げ方を選択したんだにゃ」

 

「すぅ……ワンナウトー! 一つずつ取っていこう!」

 

「翼さん……はい! この調子で行きましょう!」

 

(……本当は迷ってたんです。どこかを痛めてるわけじゃないという言葉を信じるべきか。ですが、あの時皆さんの目を見て打ち明けた告白は本心だったように思えます。……信じますあの言葉を。信じて……その上で私に出来ることを探したい)

 

 大きく息を吸い込んで精一杯腹から声を出す翼に野崎は安堵したような笑みを溢すと、ボールを倉敷に投げ返しながら共に声を上げていった。

 

「……驚いた。まさか明菜がこの場面でバットを振るなんて」

 

「これが明菜をキャプテンにした理由の一つよ。皆の指標になるキャプテンがバットを振る素振りも無かったら、士気が下がる。それが分からない子じゃないからね」

 

「んー。そもそもが怠慢な感じだからな……」

 

「それはそうね。けど、あの子がバットを振らないのは……理由はあるのよ。一応ね」

 

「どういう理由?」

 

「それを説明するには……あなたには前に話したっけ。自律神経は交感神経と副交感神経の二つに分けられるって話」

 

「聞いた聞いた。交感神経が身体とか心にアクセル踏ませる時に働く方で、副交感神経がブレーキ踏ませる役割があるんだっけ」

 

「そう。それでね。明菜は……話を聞いてみた限り、夜型なの」

 

「夜型?」

 

「うん。本来人間の身体の中には体内時計があって、身体のリズムを司る自律神経は上手く昼夜にリンクするように出来てるの。太陽の光を浴びたら交感神経が活発化して、太陽が沈んだら副交感神経が優位になるって具合にね。けど……あの子は逆。昼夜が逆転しているの」

 

「あー……そういえばたまに練習中にうたた寝することあったよね」

 

「そんなこともあったわね。夜なんで起きてるかって聞いたらゲームしてるって言ってたわ」

 

「今どきって感じだね」

 

「でもね……液晶の光は交感神経を活性化させてしまうの。本来夜は副交感神経が優位になって、交感神経を休ませないといけないのに」

 

「寝て交感神経を休ませないと、肝心な時に活発化してくれないんだっけ」

 

「ええ。例えば昨日寝不足で今日の試合に挑むだけでも交感神経が活性化しづらくなって、アドレナリンが分泌されにくくなるから、ボールに対する反応が遅れたりでパフォーマンスが落ちる。それなのにあの子はずっとその生活を続けてしまっているから……自律神経のバランスが完全に乱れてしまっているのよ」

 

「つ、つまり……明菜は私たちでいうところの起きたばかりの状態で打席に入ってる感じなの?」

 

「……大体そんなところね」

 

「そ、そんなの打てるわけがない……。あっ! だからあの子はバットを振らないのか。打てる感じが1ミリもしないから……」

 

「まあ、それでも怠慢だとは思うわよ。明菜のスイングなら芯を外そうとヒットになる可能性はあるんだから」

 

「確かに……ん? でもおかしくないか。それなら得点圏にランナーがいようと打てないだろう」

 

「明菜はね……自律神経のバランスが乱れた状態に身体が慣れてきてしまっているの。それで、アドレナリンは興奮状態になるとよく分泌されるんだけど……明菜は自分の打席の時に得点圏にランナーがいると凄く興奮するじゃない?」

 

「トランス状態って感じになるよね。ちょっと怖いくらいに」

 

「そう……。普通のバッターなら元々試合に入れ込んでるからチャンスに興奮しても80から100にアドレナリンが沸騰していくイメージなんだけど、明菜の場合ほとんど0の状態から一気に100まで血流にアドレナリンが流し込まれて……得点圏のランナーという条件付きで超集中状態……いわゆる『ゾーン』に入ることが出来るのよ」

 

 右打席に入った5番打者がインコース低め、内にボール一つ分外した7割ストレートをすくいあげるように弾き返し、話し込んでいた2人のOGもそちらへと目を向けると、岩城がこのレフト線に放たれた打球に突っ込もうとしていた。

 

「フェアです! 確実に!」

 

「……! くぅ……分かった!」

 

 頭上を越えていく打球の軌道を見定めた東雲から指示が飛ばされると岩城は無理に突っ込むのをやめて回り込み、フェアゾーンに落ちた打球がバウンドしたところを収めるとすかさず二塁に送球した。一塁ベースを回ったところで足を止めていたバッターランナーはそれを見てベースに戻っていく。

 続く6番打者が右打席に入るとバントの構えを取らないバッターを見て、ここは送りバントは無いと判断した鈴木はインローの際どいコースを要求する。すると倉敷はこのサインに首を振った。

 

(今打たれたコースを続けて投げたくないのかしら。とはいえここはゲッツー狙いで低めを攻めたい。……ここにお願いします)

 

(分かった)

 

(ウチらの強みは長打は少ない代わりに繋いでいって、チャンスをモノにする勝負強さ。この場面……ウチはチームバッティングに徹するよ)

 

 次に出されたサインに頷いた倉敷がランナーを見てからすぐにクイックモーションに入るとアウトローへと7割ストレートが投じられる。

 

(来た! アウトコース。スピードはさほどないからコースを絞れば高さは投げてからでも合わせられる。これを右方向に……ゴロで打つ!)

 

(低めに一つ分外したボールに食いついてきた……! ゲッツーいける?)

 

 このボールに初球からバッターが手を出すとコースに逆らわず流して放たれた打球は一二塁間へと転がっていく。

 

(く……ヒットコースに。……!)

 

「いいのだゆっきー! 任せるのだ!」

 

 牽制に備えて一塁に寄っていた野崎がこの打球に反応して足を踏み出すが、バットが振り出されてから一二塁間方向に動き始めていた阿佐田はそれを制するとこの打球が外野の芝に抜けようというところでミットを伸ばす形で捕球した。

 

(セカンドは……無理ね)

 

「ファーストに!」

 

「ほいなのだ!」

 

 捕球から二歩、三歩と踏み出して体勢を整えた阿佐田はスナップスローでボールを投げるとランナーがベースを駆け抜ける前に一塁ベースに戻っていた野崎に送球が届き、バッターランナーはアウトになった。

 

「阿佐田先輩ナイスプレーです!」

 

「あおいにお任せなのだー!」

 

(阿佐田先輩の動き出しが早かったからアウトになったけど、今のもボール球をヒットにされかけた……)

 

(ちぇー、ヒット一つ損した。けど繋いだよ)

 

 二遊間同士翼と阿佐田が声を掛け合っている中、鈴木がアウトになったバッターを見ているとすれ違うように次の7番打者が向かってきていた。

 

「ツーアウト! 外野前進! 無失点で切り抜けましょう!」

 

(それでいいにゃ。高波は長打が多いチームじゃない。ここは外野を前に出してポテンヒットを防ぎにいっていい場面だにゃ)

 

 2アウトランナー二塁。岩城、永井、九十九が前に出てくると右打席に入り準備を整えた7番バッターがバットを構える。

 

(構えは後ろ足より前足をホームベースに近づけて踏み込むクローズドスタンス。身体の開きが抑えられる構え……コントロールが完全じゃないチェンジアップは使いづらい)

 

(考え込むわね……どれだけ厳しい要求でも構わないわよ)

 

(このバッターの細かいデータはないけど、予め踏み込んでる分アウトコースが打ちやすいはず。身体の開きも抑えられているから逆方向へ強い打球が飛ばしやすい……高波の特徴、繋ぐ打線にも合致するし恐らく間違ってない。その上でどこに投げるか。いつもなら得意なコースに僅かに外したボール球を振らせてアウトに取るけど……。……初球はここにお願いします)

 

(……分かった。そこに投げ込んでやればいいのね)

 

 熟考の末にサインが送られると倉敷はそのサインに迷わず頷き、ボールを長く持った。そしてクイックモーションに入ると7割ストレートが投じられたのはインローだった。このボールにバットが振り出されると、そのボールの右を通過するように振られたスイングは空を切った。

 

「ストライク!」

 

(むぅ。やなとこ投げてくるねー)

 

(よし……まず1ストライク。スイングも窮屈そうね)

 

 打ち辛そうにしたバッターが先ほどより立ち位置を少し左にずらすのを見た鈴木は次のサインを送った。

 

(アウトコースじゃないのね。……インコース低め、9分割より厳しいベースの角を狙って……!)

 

 2球目が投じられるとインローの際どいコースに投じられた7割ストレートをバッターは手が出せずに見送った。

 

「……ボール!」

 

(危なーい。あそこストライク取られたらやばいねー)

 

(惜しい。けど際どいコースに投げ切れてる。さすがにこの精度でストライクを取れないのは想定内……次はこっちにお願いします)

 

(立ち位置ずらしたから振ってくるかと思ったけど、見送ったわね。……ここで外か)

 

 3球目が投じられるとアウトローに投じられたボールにバッターはスイングの始動に入ったが、外に外れてると感じてスイングを中断すると、ボール2つ分外された7割ストレートがキャッチャーミットに収まった。

 

「ボール!」

 

(今のボールよりさっきのインローの方がストライクゾーンに近いボールだった。それにも関わらずこちらに反応してきた……やはり打ちたいのは外ね)

 

(やっば……今ので立ち位置戻して踏み込む作戦見られちゃった。外に大きく外してきたし、内に攻めてくるか……?)

 

(さすがに得点圏にランナーいると慎重にならざるを得ないのかしら。……! なんて思っていたら……)

 

 サインに首を縦に振った倉敷がクイックモーションからリリースの瞬間まで指先でボールに触れるようにして投げ込むと、インコースに投げられたボールにバッターは反応してバットを振り出した。

 

(このくらいのストレートなら内でも打ってみせる! ……!)

 

(6分割……インコース真ん中に全力ストレート。これで勝負!)

 

 低めに合わせるように振ろうとしたバッターがスイングの軌道を修正しながらバットを振ると、打ち上げられた打球は三遊間を越えていく。

 

「オーライ! 任せろ!」

 

(あの球速のストレートに差し込まれた……!?)

 

 前進していた岩城がさらに前に出てくると自分が捕るとアピールし東雲も翼も深追いせずに立ち止まる。やがて高々と上がった打球が落ちてくると岩城の構えたミットに収められた。

 

「アウト!」

 

(くっ……!)

 

(よし……勝負強い打線といってもチャンスを作られたら必ず得点されるわけじゃない。こうやって地道に抑えていけばいい……!)

 

 二塁ランナーが打球が上がっている間に僅かな落球の望みにかけて三塁ベースを蹴りホームへと向かっていたが、アウトのコールを聞いて顔をしかめながらベンチへと戻っていった。

 

(今までもボール球を捉えられることはあった。コースに決まったボールは野手の捕れる位置に飛びやすいから強くは意識してこなかったけど……意識しておいた方が良さそうね。ボール球も安全ではないことを)

 

「ねえ鈴木」

 

「はい。なんですか?」

 

「あそこで全力ストレートなのは7割との緩急を使ったのは分かるんだけど、なんでインコース真ん中なの?」

 

「バッターは外に意識があったようなのでインコースに、ただ低めは目付けしてましたし、バットを縦に出せる分窮屈さが幾分か軽減されていたように感じたんです。けれど高めは外野を前に出していましたしリスクが高過ぎると思いました。なので全力投球でも縦3横2で投げられるコントロールを生かしてインコース真ん中で勝負したんです」

 

「なるほどね……よく分かったわ。ありがと。この調子で抑えていきましょう」

 

「はい!」

 

 考えを纏めながらベンチへと戻る鈴木に倉敷が話しかけにいき、リードの意図を聞いて腑に落ちたような表情を浮かべるとここからも無失点で抑える気概を見せ、鈴木も力強く返事を返していた。

 そして2回裏の攻撃。右打席には4番の東雲が入っていた。

 

(有原さんの状態を伝えたことでチームは揺れた……けど、踏ん張ってくれた。有原さんも万全ではないにしろ、それなりの動きは保てている。後は先取点。4番()が……そのきっかけを作る!)

 

 集中した面持ちで打席に立つ東雲に投じられた初球はアウトコースへのストレート、中へと入ってくる軌道だったが、これを東雲は見送った。

 

「ボール!」

 

(低めに外したボールを見たか……)

 

(打ちたくなる軌道……けどボール球はボール球。打率というのは難しいボールを打つことで残るんじゃない。甘いボールを逃さないことで残るのよ)

 

 続く2球目に投じられたストレートがインコース真ん中へと向かっていくとシュート回転したボールが内に変化していき、東雲は始動を溜めたスイングをそのまま止めた。

 

「……ストライク!」

 

(クセのある変化ね……溜めすぎると差し込まれるかもしれない)

 

(よしよし、内の良いとこに決まった。もう一球内に。浮かさないでよー?)

 

(はいよ)

 

 3球目がインコース低めへと投じられると始動に入った東雲がそのままバットを振り出し、振り切られたバットが左肩の先まで回った。すると捉えられた打球が三塁線へと放たれ、サードが飛びつく先を抜けていく。

 

「……ファール!」

 

 三塁線、僅かにファールゾーンに逸れた場所でバウンドした打球が鋭く外野まで転がっていくが、ファールのコールが為される。

 

(くっ、思ったよりストレートのスピードが遅い。まだ溜められたわね)

 

(怖いスイングしてるなあ……今のも悪くないコースだったんだけど。まあ後はこれを振らせよう)

 

(了解)

 

 そして4球目が投じられるとアウトコース低めに投じられたボールに東雲は始動を溜めるとバックスイングからフォワードスイングに移行するタイミングでバットを無理やり止めにいった。

 

「ボール!」

 

「スイング!」

 

 外へと外れていたこのボールにスイングを中断した東雲。キャッチャーがスイングを主張し一塁審判に確認が行われる。

 

「……ノースイング!」

 

(えー。振ってたでしょー)

 

(危ない……辛うじてバットを止められた。今のが外へと逃げていく変化球。ストレート自体のスピードがあまりに遅いから、変化球のスピードだと感知するのが遅れてしまった。……前の有原さんの打席……)

 

 スイングを取られなかったことに安堵しながらも表情に出さない東雲に対し、ピッチャーは口を尖らせていた。そんな中、東雲は先ほどの有原の打席を思い出す。

 

(あの場面、有原さんにも右打ちの意識は少なからずあったはず。けどあのボールをストレートだと判断した場合、シュート変化に備える形になり、逆に変化するこのボールを捉えるのはバットの先になる。右方向に打とうとしてもストレートのタイミングでより遅いこのボールをバットの先で捉えたら……有原さんの調子ばかりに気を取られてる場合ではないかもしれない。このピッチャー、厄介よ)

 

 一度打席を外して考えを纏めた東雲は意識を切り替えながらバッターボックスに入り直すと次の投球に備えた。

 

(まだ変化球にタイミングは合ってない。ここはストライクゾーンで勝負だ)

 

(ストライクにね。高さは気をつけよう)

 

 2ボール2ストライクから5球目。投じられたボールはアウトコース低めへと向かっていく。

 

(ストレート自体は速くない。だから溜めて……溜めて……)

 

 このボールを引きつけた東雲はようやく足を踏み込むと外へと逃げる軌道に左足をバッターボックスギリギリまで踏み込んだ。

 

(身体を開くのをギリギリまで我慢してから……振る時は一瞬を捉える!)

 

 左足を内側に捻り軸足とすると溜めた腰を鋭く開いてバットが振り切られた。

 

「……! セカン!」

 

「おうっ……!?」

 

 芯で捉えられたスピードのある打球はセカンドの横をライナーで抜けていくと、バウンドした打球は右中間を切り裂くように転がっていき、外野フェンスに跳ね返ったボールをセンターが処理して二塁に送球したが、送球が届く前に東雲はスライディングの必要もなく二塁へと到達していた。

 

「東雲さん、ナイバッチー!」

 

(あの変化……恐らくだけどスライダー。なんとか4番としての役目は果たせたわね)

 

 バッティンググローブを外す東雲に翼と共に声援を送っていた逢坂は紅白戦での出来事を思い出していた。

 

「龍ちゃん。4番に求められるのって……相手ピッチャーの一番自信のあるボールを打って、その後のバッターを楽にすること?」

 

「私はそう考えているわ」

 

(翼ちゃんが打ち取られた外に逃げる球……龍ちゃんまで打てなかったら、みんなにとって結構嫌なイメージのあるボールになってたはず。……これが4番のバッティングなのね)

 

「はっはっは! よく打った! 後はウチに任せておけ!」

 

 岩城が高笑いと共に左打席に入るとアウトコースに投じられたストレートに初球から手を出しにいく。

 

「ストライク!」

 

「なにっ! ボールはどこだ!」

 

(……心の声だだ漏れだなこの人……)

 

 アウトコースからシュート変化して曲がっていったストレートはボールゾーンで捕球されており、そのミットを見た岩城はキャッチャーから見ても分かるように驚いていた。続く2球目もアウトコース真ん中に投じられボールゾーンへと曲がっていく軌道のストレートを振ってしまい、あっさりと2ストライクに追い込まれる。

 

(岩城先輩があのグリップエンドの厚いバットに変えたことで外にも強くなったとはいえ、外れたボールにはさすがに届かない……。選球眼があまり良くない岩城先輩にとって、目線をなぞるように外へ逃げていくあのストレートは打ちづらいかもしれない)

 

「ふんぬ……!」

 

「……ボール!」

 

(さすがに3球連続では引っかからないか。でもこのバッターが選球眼無いことはわかった。ちっこいバッターだしパワーも無いだろう。高めの釣り球で仕留めよう)

 

(はいよ)

 

 三度アウトコースに投じられたボールになんとか踏みとどまりスイングを止めた岩城に4球目が投じられると今度は真ん中高め。ボール2つ分は外れていたボールにバットが振り出された。

 

「どっ……りゃあああ!」

 

 このボールに対して伸び上がるようにバットを振り出した岩城は高めに外れていたボールの芯の僅か下を捉えるようにしてバットを振り切った。

 

(なんて無茶な。高めをさらにすくいあげるように打っても、浅いフライが精一杯……!?)

 

「東雲さん戻って! タッチアップいける!」

 

「ええ!」

 

 思い切り引っ張るように打ち上げられた打球は高くグングンと伸びていくと、やがて上に向かうのにエネルギーを使い尽くしたボールはそのまま下へと落ちていき、定位置より少し下がった位置でライトが捕球して、岩城はフライアウトに取られた。

 

「ゴー!」

 

 ライトに背を向けた東雲はサードコーチャーの河北の指示でスタートを切ると、中条からの送球がサードに届き、タッチが行われた。

 

「セーフ!」

 

 正確ではあったが強肩ではない中条の深めの位置からの送球は東雲のスライディングには間に合わず、一拍置いてからのタッチになりセーフとなった。

 

(嘘でしょ。あんな身体でパワフルな打球を……くそっ、見誤ったわね)

 

「ワンナウト! 内外野前進! このピンチ凌ぐわよ!」

 

 1アウトランナー三塁となり、右打席にはこの試合6番に入った初スタメンの永井が向かっていく。

 

(この試合初めてのチャンス……! 絶対モノにしないと……!)

 

「加奈ちゃん。もっと力抜いて!」

 

「はっ……!」

 

 ぎこちない足の動きで歩いていく永井に近藤が声をかけると、振り向いた永井は近藤の横で目の周りを指で丸を作って囲い永井へと伸ばすようなジェスチャーを見せる新田が目に入った。

 

(……そうだ。二人がわたしの背中を見て後押ししてくれてるんだ。一人じゃない……大丈夫!)

 

 頷いた永井に近藤と新田は安心したような笑みを見せると、今度こそ永井は右打席へと入った。

 

(サインは……)

 

(よし、ちゃんと落ち着いてサインを確認してくれたのだ。サインは……これなのだ)

 

(えっ、フリーのサイン……!?)

 

(初公式戦初打席……いきなり、あれやこれやと細かい指示を出すのは混乱のもとなのだ。まずはしっかり振ってくるのだ)

 

(わ、分かりました。……よしっ、とにかく振ってみよう!)

 

 内外野が前に出てくる中、気合いを込めてバットを構えた永井にボールが投じられた。

 

(……! ボールが背中から……!?)

 

「ストライク!」

 

 投じられたストレートに思わず腰を引いた永井だったが、インコース真ん中へと決まったボールにストライクのコールが上がっていた。

 

(上から投げられるのと横から投げられるのって全然違うんだ……)

 

(このバッター、サイドスローに慣れてないな。次も内だ。腰が引けてるうちは打てない……もう一球ストライク取るよ)

 

(そうだな。ここは早めに追い込んでおこう。スクイズも怖いしな)

 

 このサインに頷いたピッチャーはリードをじりじりと広げる東雲に目をやると、東雲はその足を止め、互いにその状態を保つように数秒の時が流れると、ピッチャーが前を向き投球姿勢に入った。

 

(横から投げる体勢に入れば牽制はない……!)

 

 東雲がリードを少し広げると投じられたボールがインコース低めへと向かっていく。

 

(のけぞれっ!)

 

(わたしは今まで守ってもらって、引っ張ってもらってきた。でも、わたしも咲ちゃんや美奈子ちゃんみたいに頼ってもらえるようになりたくて……がむしゃらにこのバットを振ってきたんだ!)

 

(踏み込んだ!?)

 

(……! あのボールは……!)

 

 インコースのボールにも腰を引かずに踏み込んだ永井がスイングの始動に入った瞬間、東雲はこのボールが中へと切れ込んでいくスライダーだと気づいたが、永井は意に介さずストレートのタイミングでバットを振り切った。

 

「ひゃん!?」

 

 するとストレートを捉えるように振った永井はボールを芯で捉えた感覚が無く、振り切った勢いで体勢を崩していた。

 

「……ゴー! ……!?」

 

(東雲さん、私が言うより一瞬早くスタートを切った……!)

 

 ボールの上を擦るように打った当たりはボテボテのゴロ。これをキャッチャーが処理しようとマスクを外してボールを追いかける。

 

「無理だ! 私が捕る。ホームで刺すよ!」

 

「……! 分かった!」

 

 打球はあわやキャッチャーに捕られるような勢いで転がっていたが、振り切ったことで勢いを保っており、体勢を崩した永井が一塁に向かって走り出すと、足を踏み出したキャッチャーはホームベースへと戻っていく。

 

(下手に回り込むより……ここは!)

 

「頼んだっ!」

 

 東雲が正面からスピードを殺さずにスライディングを敢行すると捕球したサードがそのままグラブトスにいき、目の高さでボールを受け取ったキャッチャーがこのスライディングをブロックにいく。

 

(……!)

 

 球審の判定をバックに一塁へと送球が行われると、永井は一塁ベースを走り抜け、一塁審判のコールが永井の耳に聞こえてくる。

 

「……アウト!」

 

(ああっ……。……あれ、東雲さん……間に合った?)

 

 体勢を立て直してからとにかく走り抜けることに意識を向けていた永井は後ろで起こった出来事を把握しておらず不思議そうな表情をしていたが、一塁コーチャーの宇喜多が嬉しそうにその結果を言うとその顔が屈託のない笑みへと変わっていく。

 

「永井さん。よく振り切ったわ。おかげで打球の勢いが死なずに、ホームへと突っ込むことが出来た」

 

「は、はいっ。芯を外した時はもうダメかと思いましたが、とにかく振り切ることだけを考えました!」

 

 球審が下した判定はセーフ。東雲のホームインが認められ、この試合の先取点は里ヶ浜が手にした。立役者の永井を新田を始めとする新入部員が中心となってもみくちゃにする中、水分を取っていた東雲に中野が話しかける。

 

「しかしよくもまあ、迷わず突っ込んだにゃ。結構際どかったにゃ」

 

「そうね。けれど突っ込む判断をしたのは河北さんよ」

 

「どういうことにゃ?」

 

「私があの場面やるべきだったのは少しでもリードを広げることと、一歩でも早くスタートを切ることよ。紅白戦で後ろを打っていた永井さんがあのままバットを振り切るのは分かっていたから、スタートは確かに迷わず切ったわ」

 

「けど勢いのあるゴロになった時はどうするんだにゃ? 内野は前進していたにゃ。挟殺プレーに持ち込まれる危険もあったにゃ」

 

「そうね。もしその場合は河北さんのストップの指示に反応してベースに即座に戻れば良かった。サードも前に出ていたからすぐにはベースにはつけないもの」

 

「にゃるほど……そういうことだったのにゃ」

 

(東雲の走塁判断は参考になるにゃ。それにスタートを早く切ったのも二人を信頼してたからだったんだにゃ……)

 

 2アウトランナー無しとなり左打席に野崎が入ったところ、キャッチャーがタイムを取ってマウンドに駆け寄り間を置いていた。

 

「あの、ピッチャーの方以外にあまり失点の動揺が見られないような……。失点って少なからず気にしてしまうと思うんですが……」

 

「ああ……高波は強打で打ち勝ってきたチームだから、良くも悪くも失点には慣れてるみたいだにゃ。取られた分も打ち返せばいいってスタイルみたいだにゃ」

 

「そうなんですか……」

 

 高波ナインを観察していた初瀬が違和感に気づいたが、偵察してデータを纏めていた中野がその正体を答えていた。するとタイムが終わり初球、少し内に甘く入ったストレートに野崎がバットを振り切ると芯より少し先で捉えられた打球がライナーで放たれた。

 

「ふっ!」

 

「あっ!」

 

 しかしライト正面に飛んだスピードのある打球を中条が難なくキャッチしたことで野崎はアウトになり、3アウトチェンジ。2回の裏が終了した。

 そして3回の表。1点の援護を貰った倉敷は7割ストレートと全力投球の緩急を中心とした鈴木のリードを受けたピッチングで攻める。

 

(くっ……!)

 

(私と同じく8番はキャッチャー……。他のバッターに比べると打撃力が落ちている予想は当たっていたようね)

 

「アウト!」

 

 アウトローの全力投球に対し振り遅れたバッターがバットを振り切る前に打球が放たれ、ファースト正面のゴロで野崎自身がベースを踏み1アウトを取っていた。

 

(そして次はピッチャー……さっきの失点を取り返したいはず。ここは高めのボール球で誘いましょう)

 

 アウトハイに投じた7割ストレートはボール1個分高めに外れていたが、反応したバッターがこのボールの下を捉えると打ち上げられた打球はセンターへと打ち上がった。

 

(下がりすぎず……ここ。ここに落ちてくるボールをミットを構えて……!)

 

 この試合まだ守備でボールに触れていない永井が正面に放たれた距離感の掴みづらい打球に足を止めてこのボールを見上げると上に構えたミットで落ちてくるボールをキャッチしにいった。

 

「アウト!」

 

「やった……!」

 

「いいぞ加奈子! その調子だ!」

 

 無事に捕球出来たことに安堵しながら永井がボールを投げ返し、2アウトランナー無しで打席には1番バッターが入ってくる。

 

(さっきはインハイのボール球を打たされたからな……誘い球には気をつけないと)

 

 初球の全力投球が6分割のアウトローに入り2球目。インコース低めに投じられた7割ストレートが9分割のインローに投じられ、振り出されたバットから放たれた打球は大きくファールになった。

 

(遅いストレートからの速いストレートの緩急差に気を付けろって言われたけど……逆も使ってくるのか。けどどっちのストレートも手がつけられないってスピードじゃないんだ。粘っていくぞ)

 

 3球目がインハイに投じられるとバットが止められ、ボール2つ分内に外された7割ストレートにボールのコールが上がる。

 

(またインハイのストレートを打たせようとしたのか? 同じ手にはかからないぞ)

 

(……踏み込むタイミングは速いストレートね。振り遅れたらどうしようもないから速めにタイミングを合わせて、一拍置いて遅めに対応するつもりかしら。倉敷先輩、ボール球でも構わないので……これを)

 

(分かった。……外に外すくらいの気持ちで、低めに……!)

 

 そして4球目が投じられると全力投球のタイミングで踏み込んだ1番バッターは虚を突かれた表情を浮かべる。

 

(この試合ほとんど投げてないチェンジアップ……!?)

 

 既に踏み込んだバッターは崩れながらスイングを行うと外に外れていたこのチェンジアップにタイミングが合わず、ボールは鈴木のミットにしっかり収まった。

 

「ストライク! バッターアウト!」

 

「決まりましたね!」

 

「そうね。それなりに外れてたけど……止まらないものね」

 

 テンポよく三者凡退に打ち取り、3回の裏。8番バッターとして打席に立つ鈴木は1ボール1ストライクから外に投じられた際どいストレートを見送っていた。

 

「……ストライク!」

 

(くっ、バックドアの形で入ったわね。それにこのキャッチャーの捕球の仕方……これはストレートがシュート回転する前提で構えているわね。確かにストレートはバックスピンをかけるばかりが全てじゃない。むしろ他との違いがあることで有効に働くこともあるわ)

 

(初球の感じだと内のストレートにあってなかったからな……2球目はスライダーが外れたし、ここは内のストレートで勝負しよう)

 

(分かった。いくらうちの打線が強打だからってポンポン点をやる気はない。これ以上の失点は許さない……!)

 

 インコース真ん中へとストレートが投じられる瞬間、鈴木は前足をホームベースから離れた位置へと動かした。

 

(内へと切れ込むこの軌道には前足を後ろに開く、このオープンスタンスよ。これなら背中から来るようなボールの出どころも見やすいし、身体を開いている分内に切れ込むこの軌道に対応しやすい……!)

 

(リードを読まれてたか……!?)

 

 そしてこのボールに対してバットが振られると……打球は平凡な当たりで三遊間へと転がっていった。

 

「アウト!」

 

(くっ、しまった……。身体の開きが早くて、スイングの力が逃げてしまった。原理は分かっても実践する力が足りないなんて……悔しいわ)

 

 サードゴロで打ち取られた鈴木に続いて打席に入った倉敷は真ん中低めから内へと切れ込むシュートに合わせるようにバットを振ったが、浅い当たりにレフトが追いつき2アウトとなった。そしてここから2巡目となり右打席に九十九が入ると、アウトローに投じられたスライダーを見送った。

 

「……ストライク!」

 

(入ったか。確かに東雲さんの言う通り、スライダーの軌道に感じるな。だが、あれを意識するのは追い込まれてからでも良いだろう。このピッチャーが主軸としているのはあのシュート回転するストレートだ)

 

(さて……そろそろ解禁しますか)

 

(……! ……そうだな。打順も一巡したことだし、このストレートに相手も慣れてきた頃だろう)

 

 キャッチャーから送られたサインに頷いたピッチャーはミットの中で握りを調節すると、縫い目が狭くなってくるところに中指と人差し指をかけ、中指と薬指でボールを挟み、下側を親指で支えるようにしてボールを握った。そしてボールが投じられる。

 

(来たか。ここから内に曲がる軌道……1打席目で散々見たボールだ。対応してみせる!)

 

 インコース真ん中へと投じられたこのボールに九十九はストレートの軌道をイメージしてバットを振り切った。すると、バットはボールの上を擦るように当たり、勢いがあまりないゴロとなって転がっていった。

 

「サード!」

 

(軌道修正しきれなかったか……?)

 

(よしこれで……。って、速い……!?)

 

「急いで!」

 

 完全に打ち取った当たりに安堵しかけたキャッチャーだったが、瞬足を飛ばして一塁へと走る九十九に焦燥感を覚えると、前に突っ込みながらボールを捕ったサードがその指示に沿うように素早く体勢を立て直し送球を行った。

 

「……アウト!」

 

(間に合わなかったか……)

 

(あっぶなー……。折角解禁したボールを内野安打にされなくて良かったよ)

 

 間一髪アウトになったことに送球の邪魔にならないようしゃがんでいたピッチャーが安堵し、3回の裏が終了する。そして4回の表、2番打者に対し1ボール2ストライクと追い込んだバッテリーは決め球にチェンジアップを選択した。

 

(1番3番(先輩たち)に投げていたボール……これを待ってました!)

 

(体勢が崩れてない……待たれていた!?)

 

 外を狙って投げたチェンジアップが真ん中低めに入り、このボールに対して始動を溜めたバッターがバットを振り出すと打球は倉敷の頭上を越えてセンター前ヒットとなった。

 

「ナイバッチ……! さあ、繋いで……!」

 

「任せときな!」

 

 ノーアウトランナー一塁。中条の檄を受けて左打席に入っていった3番打者がバントの構えを取る。

 

(送りバントで確実に得点圏に進めるつもりね……。そうはさせない。野崎さん、東雲さん)

 

(チャージをかけるんですね)

 

(分かったわ。転がされても二塁でアウトに取りましょう)

 

 野手にサインを送った鈴木は続けて倉敷にサインを送ると、倉敷もそのサインに頷いた。

 

(アウトハイに……全力のストレート!)

 

 そしてクイックモーションからそのサインに応じてストレートを投じると同時に野崎と東雲はチャージをかけたが、二人とも急ブレーキをかけるようにその足を止めた。その理由はバッターがバントの構えを解いてヒッティングに切り替えていたからだった。

 

(これは……ノーステップ打法じゃない!?)

 

(悪いけど、あたしはみんなと違ってソフトボールから野球に転向した身でね……)

 

 さらに先程の打席で右足のかかとを上げるように構えていたバッターは重心をピッチャーの方に移動しながらその右足を後ろに引くと左足を大きく前に踏み出し、バントを解く際に右手と左手の間に拳一個分のスペースを空けるように持ったバットを振った。

 

(ソフトボールでは一般的な、この走り打ち(スラップ)が得意なんだよね……!)

 

 ヘッドを立てて上から下へと力を抜いて当てるようなバットの軌道がバッターの身体よりほんの少し後ろの位置にあるボールを捉えて弾き返すと、バッターランナーはそのスイングの流れのまま一塁へと走り、叩きつけるように放たれた打球は三遊間へと転がっていった。

 

「くっ……!」

 

 チャージを止めたとはいえバントを阻止するために前に出ていた東雲はとっさに横っ飛びでダイビングキャッチを試みたが、そのミットの僅か先を打球が抜けていく。

 

「ショート!」

 

「うっ……!」

 

 ファーストの野崎とサードの東雲がチャージをかけ、倉敷は結果的にかけなかったとはいえ、この3人がチャージをかけることを想定していた内野陣は阿佐田が一塁ベースのカバーに、翼が二塁ベースへのカバーに向かっていた。そのためこの打球に対して意表を突かれる形になった翼は反転し、勢いの鋭くないこの当たりに追いつくのに少し時間を要した。

 

(二塁はカバーがいないから刺せない……。一塁に!)

 

 身体の向きを一塁に戻す暇はないと判断した翼がそのまま再びワンバウンド送球を投じると阿佐田は僅かに右に逸れるボールをすくいあげるようにして受け取った。

 

「……セーフ!」

 

「うっ……!」

 

「へへへ……」

 

 東雲がサードのカバーに戻り二塁ランナーは突っ込むのを自重したが、両ランナーがセーフになり、瞬足を飛ばして駆け抜けたバッターランナーはしてやったりという表情でベースへと戻ってきた。

 

「有原さん」

 

「……!」

 

 話しかけられた翼が一瞬緊張したような表情を浮かべると、東雲はそれにため息をついた。

 

「今のプレーは仕方ないわ。完全にこちらの作戦負けよ。切り替えてちょうだい」

 

「……分かった! しっかり切り替えるよ」

 

 その言葉に気持ちを切り替えようと翼が深呼吸していると、どこからか笑い声が聞こえてきた。

 

「ふふ……。ふふふふふふふ……!」

 

(な、中条さん?)

 

 その声の発生源がネクストサークルから向かってくる中条によるものだといち早く気づいた鈴木は訝しげな面持ちで彼女のことを見る。すると弾けたように彼女は口角を上げると今日1番の大声を出した。

 

「来た……! 得点圏……! やっと得点圏にランナー……! 来た来た来た来たー!」

 

「わっ……!?」

 

 鈴木を始めとした里ヶ浜の部員もスタンドでこの試合の様子を見守る観客のほとんどもその豹変ぶりに言葉を失うほどの驚きを覚える中、高波の部員たちはその様子を見て確信の笑みを浮かべていた。4回の表、ノーアウトランナー一塁二塁。昂る中条がそのテンションを崩さずに打席へと歩みを進めると、上空には眠れる獅子の目覚めを告げるような暗雲が立ち込めていくのだった。



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少女の心と秋の雨

150連結果は新しいSSR3枚でした。


「早く……! もう、待ち遠しくてたまらない……!」

 

 打席へと向かう中条に気圧されるように鈴木が1回目の守備のタイムを取ると、マウンド付近に集まった内野陣に中条の弾んだ声が聞こえてきていた。

 

「凄いやる気ですね……」

 

「近くで見ると瞳孔が開いてる感じがして怖いくらいよ……ん?」

 

 そのハイテンションさに困惑していると、鈴木は頬に何かが当たって弾けていくのを感じた。

 

「雨……?」

 

「本当だ。ぽつぽつ降ってきてるね」

 

 手のひらを上に向けた翼も雫が落ちてくるのを感じていると、上空に漂う暗雲から一瞬にして小振りだが切れ目の無い雨が降り出した。

 

(そういえば天草さんが空の機嫌が悪くなってきたと言っていたわね……これはすぐには止まなそうね)

 

「このくらいの雨ならピッチングには問題ない。それよりあのバッター……得点圏にランナーいると異常な打率を叩き出すんでしょ」

 

「はい。しかもデータでは長打の割合が非常に高く……小柄ながらホームランを打つことも多いようです」

 

「そーいえば、みんなで確認した明條と高波の試合でも満塁ホームラン打ってたのだ。どうするのだ? 思い切って歩かせるのだ?」

 

「いえ……5番には先ほどヒットを打たれていますし、一・二塁のランナーを進ませてまで満塁策を仕掛けるのはあまり良い手ではないと思います。なので……ここはバッター勝負でいきます」

 

「それは……私のボールでも勝負出来るってことね?」

 

「はい」

 

 正面から見つめるように問いかけた倉敷は迷いのない鈴木の返答に満足げに微笑むと、振り向いた。

 

「それさえ聞ければ平気。……後ろは頼んだわ」

 

 緊張気味な硬い表情が声をかけられて少し崩れた野崎に任せろと言わんばかりに不敵な笑みを浮かべる阿佐田、そして真剣な眼差しを向ける翼から堂々とした顔つきの東雲へと視線を移す際に一瞬動きを止めた倉敷が周りを見渡し終えると、タイムが終えられ内野陣がそれぞれのポジションへと散っていく。

 

(……このピンチの場面、真剣な顔になるのは何もおかしくない、のに。違和感が……いや、今はピッチングに集中しないと。鈴木がアタシたちなら勝負出来ると言ってくれた。ならアタシはあのミットに……投げられる限りの最高のボールを投げ込んでやる)

 

 鈴木の指示で内野と外野が下がっていくと、その光景をベンチから見ていた近藤は眉をひそめた。

 

(かなり後ろに下げてる。あのバッターは得点圏打率が高いから前に出すのは危険でも、後ろに下げすぎな気がするわ。ノーアウトだし単打で逆転のランナーを三塁まで進めたくないから、ここはもし私なら内野は下げて外野は定位置、配球を低め中心にして……)

 

 キャッチャーとしてグラウンドに立った時のことを想定して対応を考えていた近藤が鈴木と自分との作戦に違いを感じていると、濡れた指先をユニフォームで拭ってからロジンバッグを叩いていた倉敷が後ろにそれを放り、投球準備を整え終えていた。

 

「ふふふふ……!」

 

 対峙するように右バッターボックスで笑い声をこぼしながら少し湿気を帯びた地面をならした中条は高揚した顔つきでバットを肩から浮かせるようにして構えた。

 

「君、肘当ての締め付けが少し緩くないかい?」

 

「…………」

 

(……! この距離で声を掛けても聞こえていないのか? 随分集中しているな。肘当て自体は適切な位置についているし、無理に伝えなくてもいいか)

 

(先ほどの打席とはまるで別人ね。必ず打つという気迫が一目見ただけでもひしひしと伝わってくる。……もし、打ち気に逸っているのであれば)

 

(一打席目で振らせたボールね。分かった)

 

 球審がかけた声にも気付かないほど集中した中条の様子を観察した鈴木がサインを送ると、その狙いを察した倉敷もそれに頷く。そしてランナーのリードを抑えるのを兼ねて高鳴る心臓の鼓動を落ち着かせるようにボールを長く持った倉敷はとうとう投球姿勢に入ると、クイックモーションからボールが投じられた。

 

(あー、違う違う!)

 

(……!)

 

 インコース低めに投じられた7割ストレートは低めに外れており、このボールを中条は目線こそ動かしたもののバットを振り出す素振りもなく見送った。

 

「ボール!」

 

(冷静に見送られた……!?)

 

「どうやら敬遠はないみたいね」

 

「まあこの状況じゃね……」

 

 投じられたボールを見て驚異的な得点圏打率を残す中条の敬遠を多く見ていた高波OGはそれに安堵するような吐息を漏らしていた。

 

「こうなった明菜は止まらないからなー。久しぶりに見れるかもね。あの空気抵抗も重力も物ともしない弾丸ライナーが」

 

「……そうね。『ゾーン』に入った明菜は今、医学でいう散瞳(さんどう)……アドレナリンを多く取り込んだことによる放射状筋肉の収縮で、本来光の下では収縮する瞳孔を過度に広げている状態に今まで通りなっているはず」

 

「いつもはだらーんって感じなのに、この時だけくわって感じになるもんねー。でもあれって何か意味があったの?」

 

「視界の隅から隅まで明確に見えることで情報処理能力が膨れ上がるのよ。それも明菜の集中は打つために必要な情報以外は遮断するレベル」

 

「あの状態の時に声掛けても全然気付かないもんね。聴覚を遮断してるって感じで」

 

「そう。プロの一流選手がボールが止まって見えた……なんて言うことがあるけど、明菜はあの状態に限ってそのレベルに到達しているのかもしれないわ」

 

「確かにねー。そのくらいじゃないと得点圏打率7割9厘なんて残せないかも。……明菜ー! 打てー! って聞こえてないんだっけ」

 

 期待を込めて声援を送る彼女を横目に前キャプテンは中条の様子を静かに見守っていると、グラウンドでは二塁に牽制球が送られていた。このボールを一瞬遅れながらもミットに収めた翼だったが、タッチは出来ずに二塁ランナーは帰塁していた。

 

(牽制のサイン見落としちゃった? ……!)

 

 焦りを覚えながらボールを投げ返した翼は受け取った倉敷がすまなそうに一瞬右手を上げたのに気がついた。

 

(……そっか。あのバッターに投げづらくて間を置きたかったんだ)

 

「倉敷先輩! ボール良い感じですよ。気合いで押し切りましょう!」

 

(気合い……ね。今はそれも大事かもね。このバッターの目を見てるとストライクに入れた瞬間に打たれてしまいそうな、そんな圧力を感じる。でもどこかに抑える道はあるはず。そうでしょ……鈴木)

 

 翼の声援に頷いた倉敷は前を向いてサインを待つと、鈴木が中条を見上げながら悩んでいる様子が窺えた。

 

(確かに外れたボールとはいえ、あからさまなボール球ではなかった。初球は見ると決めていた……いや、この打ち気な様子が演技とはとても思えない。となれば見極められていると考えるのが妥当。歩かせたくないこの場面で、これ以上ボールカウントを悪くするのは悪手ね。けれど一打席目のスイング……)

 

 一打席目で低めに外れたボールで打ち取った際に近くで感じたスイング音や空気の揺れを思い出した鈴木も倉敷と同じく目の前のバッターからプレッシャーを感じていた。

 

(倉敷先輩は球威がある方じゃない。もし見極められてあのスイングで捉えられたら……。ストライクもボールもダメ、八方塞がりね。……それでも道は残っている。例えばチェンジアップ。見極められても緩急で体勢を崩せれば打ち取れることはあるはず)

 

 鈴木が指を下に向けてサインを送ると倉敷は内心の驚きを努めて隠しながらそれに頷いた。

 

(アウトコース低め、ベースの角を狙ってコントロール重視の7割ストレート……)

 

(明條の投手のスローカーブを始めとして、中条さんは緩急のあるボールも捉えて長打にしてきた実績がある。そういった見極めにも隙がないなら、コントロールが万全じゃないチェンジアップは危ない。だから……これで勝負しましょう)

 

(鈴木がこのサインを出すのは基本的にストライク先行の時だ。際どいところに決まったり、振らせたら儲けものって前提で要求してくる。それがボール先行のカウントから要求してきた。……リードに首を振るようになってから、アタシなりに色々考えるようになった)

 

 先ほど牽制した二塁ランナーが変わらずリードを保っているのを目に入れた倉敷は続けて一塁ランナーの様子を横目で見ると投球姿勢に入った。

 

(バッターから最も遠く低めに決まるアウトロー。セオリー通り長打が打たれにくい場所、けれど9分割でも抑えきれないと鈴木は判断したのね。ボールカウントを悪くしたくなくても、厳しいコースに投げないとこのバッターは抑えきれないと。…… 針の穴を通すようなか細い道ね。けど僅かでも道が見えるならアタシは……アウトローを攻めてみせる!)

 

 ボールを投じる瞬間、倉崎は指先に妙に鋭く研ぎ澄まされた感覚を覚えると、アウトコースの低めに投じられたボールはベースの角へと向かっていった。

 

「来ったー! 打ち頃の球ぁ!」

 

(……!? 迷わず踏み込んできた……!)

 

 このボールに対し中条は外へ大きく踏み込むとスローモーションで向かってくるように感じるストレートにスイングの始動を溜めた。

 

(遅い遅い遅い! もらった!)

 

(しかも引きつけて……ここからスイングが間に合うというの!?)

 

 鈴木が構えたところへと向かってきたボールをキャッチャーミットに収めようと指に力を込めた瞬間だった。鋭いスイングで振り出されたバットの芯でボールが捉えられる光景が彼女の眼前に映し出され、快音と共に打球は放たれる。

 

(打球は……!?)

 

 倉敷が放たれた打球に反応して左後ろに振り向くと、ライト方向に放たれた打球を九十九は早々に目を切って追っていた。

 

(この、打球は……!)

 

 弾丸ライナーで放たれた打球が阿佐田がジャンプして伸ばしたミットの先を越えていくと、低めの弾道ながら減速を感じさせないスピードで外野へと伸びていく。この打球に九十九は焦燥感を覚えながら、自身の予測する位置に向かって懸命に足を動かしていた。

 

「九十九先輩……!?」

 

 右中間、ライト寄りに放たれていたこの打球のカバーに向かっていた永井は走りながら驚きで目を見開いた。それは九十九が外野フェンスに向かってジャンプしたかと思うと、その上に設置された金網の僅か手前のスペースを右手で掴み、左足で乗った勢いを上に向けるように外野フェンスを蹴ることで、金網前の僅かなスペースに右足を乗せていたからだった。

 

(これでもまだ足りない……!)

 

「……!」

 

 一塁手前に来ていた中条は九十九の動きに気づくとその開いた瞳孔で情報処理を行い、打球と九十九の動きを予測した。

 

「……ベースに戻れ!」

 

「えっ……!」

 

 中条は一塁ベース手前で足を止めるとハーフリードを取っていたランナーに帰塁の指示を送る。

 

(この打球は……金網の上を越える!)

 

(九十九……!)

 

 倉敷の視線の先で九十九は金網の間に左足の爪先を引っ掛けるように乗せるとさらに上に飛び、ここで目を切っていた打球へと再び振り向くと眼前まで迫っていたボールに必死にミットを伸ばした。

 

(……よし! 捕っ……!? なっ!)

 

(そのまま落ちろ!)

 

 金網の上にまで身を乗り出した九十九は伸ばしたミットの先で打球を掴み取ったが、ここまで減速せずに飛びついた勢いと弾丸ライナーとなって放たれた打球の勢い、二つの勢いに押されて身体は金網を越えていった。とっさに右手を伸ばして金網の上を掴もうとしたが捕球のために左手を伸ばした体勢では難しく、空を切った右手に中条はニヤリと笑った。

 

「後はお願いします! ……ぐっ!」

 

「はい……!」

 

(なっ……叩きつけられる前にボールを投げた!?)

 

 九十九は空を切った右手をミットに伸ばすと金網を越えるよう上に向かってボールを投げ出していた。

 

(届いて……!)

 

 十分な体勢を作る時間はなくとっさに投げられたボールはカバーに走っていた永井の位置より外野フェンス側に落ちてきており、このボールの落ち際に永井は飛びついてミットを伸ばした。

 

「アウト!」

 

「やった……!」

 

「加奈子! バックホームだ!」

 

「えっ!? あ、はい!」

 

 飛びついた永井は滑り込んだ勢いもあって外野フェンス手前でこのボールを捕球すると、無事ミットの中にボールが収まったことに安堵したが、岩城の指示に反応して立ち上がり、バックホームを行った。そしてそのボールが内野へと到達するところでバウンドすると鈴木はスライディングでホームへと滑り込むランナーを見て、タッチは間に合わないと判断し前に出て2バウンド目の跳ね際を腰を落としてミットに収めた。

 

(……やられた)

 

 ホームのカバーに入っていた倉敷は滑り込んだランナーが立ち上がり、先にホームを踏んでいた二塁ランナーとハイタッチする様子を見て悔悟をかみしめていた。

 

「……ちぃ、あのライトめ。スリーランホームランのところを……」

 

「まあまあ、逆転出来たから良しとしておこうよ」

 

 ホームラン性の当たりをアウトにされた中条が先ほどの高揚した顔から一転して不機嫌そうな表情に戻ると、逆転のホームを踏んだ一塁ランナーに宥められながらベンチへと戻っていった。

 

「ちょっとちょっと! おかしくない? 加奈子がボールを捕る前にランナー走ってたよ。反則だー!」

 

「落ち着くにゃ。反則でもなんでもないにゃ」

 

 里ヶ浜ベンチではタッチアップしたタイミングに新田が違和感を覚えていたが、今にも飛び出そうとする新田を近藤が押さえていると、グラウンドとの境になる柵に手をつきながら見ていた中野がそれに異を唱えた。

 

「新田はタッチアップのタイミングを勘違いしてるんだにゃ」

 

「えー? タッチアップって、フライを野手が捕ったらベースから離れて進んでもいいよってルールでしょ」

 

「そうにゃ」

 

「じゃあさー。加奈子が捕るまではランナー走っちゃダメなんじゃないの?」

 

「そうではないにゃ。フライに一回でも野手が触れた場合、それが完全捕球じゃなくてもフライに触れた時点で捕球と同様にみなされるんだにゃ」

 

「そうなの!? なんでー?」

 

「そうじゃないと例えばタッチアップを防ぐために捕れそうなボールをぽーんって浮かせてわざとお手玉してキープしたまま内野に近づくのもやれないことはないからにゃ」

 

「な、なるほど……たしかにそうかも。さすが走塁のスペシャリスト!」

 

 左の手のひらに拳を置いて納得した様子の新田から目を離した中野は前に振り向き口の周りを囲うように両手で三角を作る。その頃外野では九十九が金網フェンスを登るとそこからグラウンドへと戻るように飛び降り、膝を曲げて衝撃のクッションにするように着地していた。

 

「だ、大丈夫ですか?」

 

「ええ……この球場のスタンドに当たる箇所が草地で助かりました。最低限の受け身は取りましたが、コンクリートなどであれば危なかったかもしれませんね」

 

「ほ、本当に良かったです……。あまり無茶しないでください」

 

「それは難しいですね」

 

「えっ?」

 

「怪我はしないように努めますが、今のは無茶をしなければアウトに出来ませんでしたから」

 

「そ、そう……ですね」

 

 飛び降りた九十九に駆け寄った永井は怪我を心配したが、いつもと変わらず毅然とした態度を取る九十九に安心と困惑が混じったような笑みを浮かべていた。すると中野が出した大声が二人にも聞こえてくる。

 

「九十九パイセン、ナイスキャッチですにゃ! 永井もスムーズにカバーに回れてたにゃ!」

 

「中野さん……ありがとうございます。あなたから他の外野が予めどのあたりにいるか意識して把握して、自分が捕る時以外にもスムーズなカバーを出来るようにという心得を聞いて準備していたから、今のプレーをすることが出来ました」

 

 ベンチから声援を送る中野に手を上げて嬉しそうに応える永井を見て九十九は僅かに口角を上げると、自身も軽く手を上げながら鈴木に声をかけてからマウンドへと戻っていく倉敷の方に目をやった。

 

(逆転された……か。それにこれ以上ないストレートを九十九のおかげでホームランにならなかったとはいえ、持っていかれた。どれだけコースに決まってもあの4番には、この球威や球速じゃ通用しなかったんだ)

 

 プレーが再開され、5番バッターが右打席へと入った。その初球、アウトコースに投じられたチェンジアップは大きく外に外れていた。

 

(失点の動揺があるのか……?)

 

 九十九がライトから心配そうな視線を送っていると2球目が投じられる。インコース真ん中へと投じられた全力ストレートをバッターは手が出ずに見送った。

 

「ストライク!」

 

(よし! これで良い。ストライクゾーンでも通用していたからと2番バッターにも中に入る可能性のあるチェンジアップを際どいコースに要求してしまい、この回の攻撃の起点にされてしまった。今は紅白戦で試したようにストレートを生かすための見せ球として使っていく! ……倉敷先輩も本人が言っていたように大丈夫そうね)

 

 鈴木がボールを投げ返すと、倉敷は受け取りながら集中した面持ちで次のサインを待っていた。

 

(アタシに足りないものなんて一杯ある。それでもアタシはこのチームのエースナンバーを任されたのよ。今まで失点した後はコントロールが乱れて、そこを狙われたこともあった。逆転された事実はもう変えられない……今アタシに出来るのは揺れずに自分のピッチングを貫くことよ)

 

(どうやら……大丈夫そうだね)

 

 遠くから視線を送る九十九は倉敷の表情までは見えなかったが彼女が投げたボールの精度から心情を感じ取り、胸を撫で下ろしていた。

 

(インローの内に外した7割ストレートを振らせて……いや、さっきの打席ではそれをヒットにされたのよね。……このバッターのさっきの打ち方、あえて詰まらせて内野と外野の間に落とすようなバッティングだった。内を厳しく攻めるのではなく……こういう選択はどうかしら)

 

 出された鈴木のサインに倉敷は頷くとミットの中に入れるようにしていたボールを湿り気を感じながら握り、3球目を投じた。

 

(真ん中低め……際どい!)

 

「……ストライク!」

 

(くっ!)

 

 コースは真ん中ながら低めギリギリに投じられた7割ストレートをバッターは振り出そうとしたバットを止めて見送ったが、ストライクの判定が出されていた。

 

「倉敷先輩! 良い高さに来てますよ!」

 

(コースを強く狙わなくて良い分、真ん中低めは低めの制球がしやすい。コースが狙えるアタシに出される頻度は多くないけど、鈴木は良いタイミングでこのサインを出してくれるのよね)

 

 1ボール2ストライク。追い込まれたバッターがバットを短く握り直すのを横目にサインが送られると4球目が投じられた。

 

(アウトロー、際どい! 振らなきゃ……!)

 

 三振を避けるべくアウトローに際どく投じられた7割ストレートにバッターが打ちにいくと振り出されたバットの先でボールが捉えられた。

 

(いけっ!)

 

「セカンド!」

 

「任せるのだ!」

 

 バッターはこのボールを逆らわずに流して放つと、阿佐田はこのボールを外野方向に反転して追いかけてミットを伸ばした。

 

「アウト!」

 

(追いつかれた……。それに思ったより打球が伸びてない!)

 

 放たれた打球は走りながら飛びつきはせずに伸ばされたミットに収まり、5番打者はセカンドフライに倒れ2アウトになった。

 

(よし……空振りを避けるために短く持ったバットではあの厳しいアウトローを捉えたとしても、バットのかなり先の部分になる。打たれても内野を越えるのは難しかったわね)

 

(一応ストライクでも良いってサインは出てたけどちょっと外れてた気がする。さすがにあの4番に投げたみたいな精度では早々投げれないわね。ただこれは鈴木も織り込み済みのはず。まさに振ってくれたら儲け物ね)

 

(倉敷先輩も他の皆も逆転されたショックはあるみたいだけど、なんとか普段通りに動けてる。……そっか。中条さん相手にあそこまで内外野を下げさせた理由が分かった気がする。逆転はされたけど1点差、まだ返すチャンスは十分残ってるんだ)

 

 スコアブックをつけながらベンチからグラウンドに立つ選手の顔色を窺った近藤は先ほどの鈴木の選択に納得していた。

 

(ホームランボールをアウトにするのはさすがに想定外だったと思うけど、長打を打たれたら少なくとも3点目のランナーがノーアウトで得点圏に行ってしまう場面だった。鈴木さんは万が一打たれた場合に、勝負強く繋ぐ高波打線ならノーアウトで得点圏にランナーがいればさらなる失点の危険が高いと判断したんだ。勿論抑えられるに越したことはないけど、相手も必死……必ず抑えられるというわけじゃない。あれは最悪の事態……逆転だけでなく3点目まで奪われてしまうことを想定してリスク管理したからこそ、内外野を大きく下げたんだ。……紅白戦でも私はリスク管理が甘かった。スタメンに入れなかったのは悔しいけど、こうしてベンチにいてプレーを目の当たりにするだけでも学べることは多くあるのね)

 

 鈴木を中心としてプレーを見てそこから学んでいた近藤が周りを見渡すとベンチにいる一人一人がグラウンドに声援を送りながら一つ一つのプレーを目に焼き付けているように感じられた。

 右バッターボックスには6番打者が入り、チェンジアップを見せ球として外して2球目に投じられたインハイの全力ストレートが打ち上げられる。

 

(確かに速く感じられる……けど、なんとか合わせたぞ!)

 

「レフト!」

 

 5番から情報を貰っていた6番はチェンジアップの後に投げられるストレートに的を絞っており、弾き返された浅い打球を岩城が前に走りながらキャッチしにいった。

 

「アウト!」

 

(うっ……落ちなかったか)

 

(長打の少ない高波打線なら高めも積極的に使っていけるわね。それに7割は上手く内野と外野に落とされても、全力なら簡単には捉えられていないわ)

 

「よーし! 届いたぞ!」

 

「岩城先輩! ナイスダッシュです!」

 

「だろう!」

 

「もう少し一歩目を早く出来れば、今のようにギリギリではなく余裕を持って捕球出来ますよ」

 

「うっ……! そ、そうだな。気をつけてみるぞ!」

 

 3アウト目が成立し、岩城の高笑いと共に里ヶ浜ナインがベンチへと戻っていき4回の表が終了した。

 

「倉敷さん」

 

「何?」

 

「あの打球……僅かでも高ければ捕れなかったよ」

 

「慰めのつもり? よしてよ」

 

「いや、あのバッターははっきり言ってホームランの確信があったはずだ。しかし厳しいコースに攻めたからこそ打球が完全に上がらず、私が捕れる高さになったんだ」

 

「……まあ、そうかもね。アタシとしてはあのボールを打たれた時点でショックだったけど」

 

 紙コップに給水器から水を注ぎながらそう答えた倉敷に九十九は寂寞の思いを抱いたが、倉敷は九十九に押し付けるように紙コップを渡すと、新たに取り出した紙コップに自分の分の水を注いでいった。

 

「けど……無理を通して投げたあの球をホームランにされてたら、アタシは今のピッチングを貫けなかったかもしれない。だから……そう思っておくわ」

 

 そう言うや否や水で喉を潤す倉敷に九十九は結んだままだった唇に微かな笑いを浮かべると共に喉を潤し、そんな二人を見ていた阿佐田は緩ませた表情を引き締め直すと、ヘルメットをつけてベンチから出ていった。

 

「さあ、まずは1点返すのだ! つばさ、しのくも! 後のことは任せたのだ!」

 

「はい!」

 

「分かりました」

 

 4回の裏が始まり、この回先頭打者となる阿佐田が右バッターボックスに入っていく。

 

(一打席目はアウトコースからシュート回転してくる甘いストレートを打ったのだ。相手としては心理的に避けたい……だからこっちは狙う候補からまずこのボールを外すのだ。勝負師としてここは読み勝って見せるのだ!)

 

(せっかく逆転したんだ。この回を0で抑えて流れを一気に持っていく!)

 

(気合い入ってるね。さて……このバッターにはさっき打たれてるからね。慎重に行くよ)

 

 阿佐田が猫のように目ざとく相手ピッチャーを見つめているとサインの交換が終えられ、1球目が投じられた。

 

(……狙ってたボール。いや、外れてるのだ!)

 

 阿佐田は始動に入ろうとしたバットを止めるとインコース真ん中に投じられたストレートが内に食い込んでいく。

 

「……ボール!」

 

(見たか……)

 

(よしよし。このピッチャーがここまで主軸にしているのはさらに食い込んできて分かってても打ちづらい、内のストレートなのだ。ボールになる軌道に逸って手を出さずにストライクに入るところを狙ってやるのだ!)

 

(今、バットがピクッと動いたような気がする。……ストレートを続けるのはやめておくか)

 

 2球目が投じられると投じられたのはインコースの低め。内に外れたところへと投じられたボールに阿佐田は食い込む軌道を想定して腰を引くと、ボールは中へと変化していきキャッチャーミットに収まった。

 

「ストライク!」

 

(スライダー……! いやーなところで混ぜてくるのだ。それにストレートが遅い分、変化球かそうでないかの見極めが難しいのだ。……ここで迷ったら相手の思う壺なのだ。まだカウントに余裕があるから、一貫して内のストレートに張ってやるのだ!)

 

(このバッター、一球一球考えながら打席に立ってるな。スピードが無い分、読み切られるとヒットにされやすいから下手な読み合いは避けたい。……これを、ストライクゾーンに投げてきなさい。ボール球にして軌道を見られたくないから、振らせるのよ)

 

(ん、分かった。まずはしっかり先頭バッター抑えないとね)

 

 3球目が投じられるとインコース真ん中に投げられたこのボールに阿佐田は反応した。

 

(入ってる。ボールは……こっから食い込んでくるのだ!)

 

 スイングの始動を溜めた阿佐田は僅かに内に曲がる変化を感じ取った瞬間、バットを振り出すと打球が放たれた。

 

「ショート!」

 

(なっ! バットが上に入ったのだ!?)

 

 このボールを芯で捉えようとした阿佐田は上を叩いて平凡なゴロとなって放たれた打球に驚きながら一塁を駆け抜けた。

 

「アウト!」

 

 打球は難なく捌かれアウトになった阿佐田が「すまんのだ〜!」と言いながらベンチへと戻っていく最中、ネクストサークルから打席に向かう翼に小声で話しかけた。

 

「……つばさ、気をつけるのだ。あのピッチャー、九十九が一打席目で引き出した以上の“何か”を持ってるのだ」

 

「えっ! 何か……ですか?」

 

「あおいは今ストレートを完全に捉えたつもりだったのだ。それが上を叩いて……外に逃げる変化じゃないからあれはスライダーじゃないのだ。もしあおいの打ち損じじゃなければ……の話だけど、あおいの勝負師としての勘がそう告げているのだ」

 

「……分かりました! その何かにも気をつけてみます!」

 

 阿佐田からのアドバイスを受けた翼が右打席に入るとインコース低めに投じられた初球を見送った。

 

「……ストライク!」

 

(今のはストレート……だよね。ううー! まだ身体の反応が悪い。けど、試合も中盤に入って少しずつだけど気持ちが上がってきてる感じがする)

 

(よし。内のストレートを見せられた……。次は一打席目で打ち取ったボールだ)

 

 2球目が投じられるとアウトコース低めに投じられたボールに翼はスイングの始動に入った。

 

(……! 低い……!?)

 

 投じられたスライダーの軌道はコースはストライクゾーン上だったが低めに外れており、翼はバットを止めにいく。

 

「ストライク!」

 

(ううっ! 少し気づくのが遅かった……!)

 

(悪くないコースだったし今のを引っ掛けてくれたら楽だったんだけどな……止められたか)

 

 バットは止めたもののスイングを取られストライクの判定が出されると追い込まれた翼はバットを短く握りボールを長く見れるように右方向への意識を持って構え直した。3球目が投じられるとアウトコースに大きく外れたストレートを翼は冷静に見送り、ボールとなった。

 

(外せとは言ったけど随分外に外れたな。……ああ、そうか。雨か……。確かにピッチャーにとって投げやすい状況ではないな)

 

 キャッチャーはボールを投げ返すと強くなってきた雨を気にするピッチャーを見て、外れた理由を察していた。

 

(無闇に球数は増やしたくないな。外に見せられたし内にこれを投げて終わりにしよう)

 

(分かった)

 

(後ろには東雲さんがいる……大きいのは狙わなくていい。繋ぐんだ!)

 

 そして4球目が投じられるとインコースの低めにボールが向かっていく。

 

(ストレー……。……!)

 

 翼がこのボールを引きつけてスイングの始動に入った瞬間、阿佐田に言われたことが頭によぎった。そして短く持っているバットの軌道をとっさに手首を使って調整すると、打球が放たれる。鋭い金属音の次にグラウンドに続け様に響いたのは……捕球音だった。

 

「アウト!」

 

「……!」

 

 放たれた打球はショート正面へのライナー。アウトになった翼は一塁方向に踏み出した足をベンチへと向けて、帰っていく。

 

(……! 初回と違って顔が……上がったままだわ)

 

「東雲さん。あのピッチャー……“シンカー”を投げてると思う」

 

「シンカー……ピッチャーの利き手側に変化しながら同時に沈む変化球ね。……分かったわ」

 

(どうやら…… 勝利するために自分に出来るベストのプレーを貫けてはいるようね。けれど……)

 

 真剣な顔つきを下げぬまま相手ピッチャーの情報を伝えてくる翼に東雲は安心と不安を同時に覚え、奇妙な感覚に陥っていた。しかしその感覚を振り払うように東雲は右打席に立った。すると外野が後ろへと下がっていく。

 

(さーて、要注意バッターか。どうする?)

 

(さっきの打席はアウトローのスライダーを信じられないスピードの打球でツーベース。明菜じゃないんだから……。でも明菜と対峙するくらい慎重にいった方がいいわね。厳しいところついていくわよ)

 

(はいよ)

 

(意識は一打席目と同じ……ストレートが遅い以上引きつけて変化を見極めることを考えるわ)

 

 バッテリーは東雲に対して慎重に攻めていくとアウトローの低めに外れたストレート、インローの内に外れたストレートと続けて見送られて2ボール0ストライクとなった。

 

(本当に得点圏にランナーいる時の明菜みたい。ボール球振ってくれない。次はさすがにストライク取らないと……けど続けたストレートは嫌だな。スライダーは……外はさっき打たれてるし、長打のあるバッターに内から中に入る変化は怖い。……これしかないか)

 

(おっけー。ストライクゾーンにね)

 

 2ボール0ストライクから投じられた3球目。インコース真ん中に投じられたボールに東雲はスイングの始動に入った。

 

(…………シンカー!)

 

(……! 合わせられた!?)

 

 真ん中の高さから内に切り込みながら低めへと沈んでいくこのボールに東雲は鋭角にバットを振り出すと、振り切られたバットから放たれた打球は鋭く三遊間を転がって抜けていき、深く構えていたレフトがこのボールを収めてレフト前ヒットとなった。

 

(どうやら有原さんの読み通りね。思えば2巡目に入ってから打球が上がらないものばかりだった。シンカーをあのシュート回転するストレートと思い込ませる相手の術中にハマりかけていたようね)

 

 東雲はベンチにいる翼に強い視線を送ると、先ほど翼が感じたことを裏付けるように力強く頷いた。

 

(そうか。シンカー……あのストレートとは別のボールも投げているんだな)

 

 ネクストサークルから出てくる岩城も先ほどベンチに帰ってきた翼に伝えられたばかりのことだと思い至りながら左打席へと入った。

 

(完全に打たれた……。あのバッターが特別なのか。あるいは、もうバレたのか。このバッターで確かめるよ)

 

(なんだあの4番……。まあいい。次は左バッターだ)

 

「よっし! かかってこい!」

 

 右手の小指を浮かせるようにグリップエンド一杯にバットを握った岩城はやる気に満ちた様子で、シンカーを待ち望んでいた。

 

(通常右のサイドスローは背中から投じられるように感じる右バッターからは見えづらく、逆に左バッターからはボールの出所が見やすいとされている。けれど……)

 

 投じられた初球、思い切り外に踏み込んだ岩城だったが膝下へと投じられた低めに外れているスライダーをフルスイングで空振っていた。

 

(たっはー……シンカーじゃなかったか)

 

(岩城先輩は選球眼に難がある。浅いカウントから決め打ちしていくのを悪いとは言わないけれど。あのピッチャーのストレートとシンカー。左バッターからはバットを振り出してから外へと逃げていく形になる……特に逃げながら沈むあのシンカーは左キラーになり得る。球種が分かっても、打つのは簡単じゃないかもしれないわ)

 

 次に投じられたのは真ん中高めへのストレート。高めに外そうとしたストレートが想定よりさらに高く外れると、岩城はなんとか踏ん張ってスイングを止めた。

 

「ボール!」

 

(ふぅ……)

 

(2アウトだしさっきみたいにボール球を打ち上げてくれたら良かったんだけどな。このバッター……長打力があるし、雨でコントロールがズレてる今下手に高目を攻めて持っていかれるのは怖いな。外いくよ)

 

(了解)

 

 そして3球目が投じられるとアウトコース真ん中に投じられたボールに反応した岩城は踏み込むとバットを振り出した。

 

「くうっ!?」

 

「ストライク!」

 

(……ストレートより下を狙ったように見えたな。このバッターのスイングが荒いから微妙なとこだけど。このフルスイングの下にバットを入れられるのは嫌だな。ストレートでそれが起こってしまうより……もう一球、合ってないシンカーで仕留めるよ)

 

(よし。さっきより少し際どいところ狙って……)

 

(次こそ……!)

 

 投じられた4球目はアウトコース低めから際どいコースへと変化していくシンカー。このボールに対してシンカーを意識していた岩城は先ほどより大きく外に踏み込んだ。

 

(これでっ……どうだ!)

 

(……! 小指だけじゃなく、薬指まで浮かせている!?)

 

 右手の2本の指を浮かせて残り3本の指を支えとして左腕を押し込み、岩城はこのバットを振り切った。するとチッ、という音共にシンカーの軌道が僅かに変わると、変化に備えてミットを左下に向けるように構えていたキャッチャーがさらに外へ逃げるような軌道へととっさにミットを伸ばした。

 

「……ストライク! バッターアウト!」

 

「くぅ……! 敵ながらナイスキャッチだ!」

 

「あ、ありがとう……?」

 

 ファウルチップがバウンドせずに捕球されたことで三振が成立し、岩城は悔しそうにしながらもキャッチャーの好捕を称賛してからベンチへと戻っていき、4回の裏が終了した。

 

(捉えた……と思ったのに、あれでも届かなかった。ウチのリーチじゃ、あのシンカーには届かないのか……?)

 

「だんちょー! 切り替えるのだ!」

 

「……! そ、そうだなっ!」

 

 5回の表、高波高校の攻撃は7番打者から。右打席に入った彼女はクローズドスタンスで構えると内外野が右へとシフトしていくのに気づいた。

 

(……確かに右に打つのは得意だけど、シフトを敷いてきたか)

 

 そして投じられた初球はアウトコース低めへの7割ストレート。このボールをバッターが見送ると、9分割に決められたこのボールはストライクとなった。

 

(そういうこと。……外を流すのは上手くても、これを引っ張る力は無いと……)

 

 続けてアウトローにストレートが投じられるとこのボールにバッターは踏み込んだ。

 

(このスピードのストレートくらい引っ張れる! ……! 速いストレート!)

 

 このボールが先ほど差し込まれた全力のストレートだということに気づいたバッターは始動を早めると、前で捌いて三塁線へと打球を放った。

 

「ふっ!」

 

「なっ……」

 

 2回バウンドして三塁線を抜けようという打球を横っ飛びで捕った東雲は右膝から着地して身体を浮かすと素早く反転して投げられる体勢を作り、ファーストへと送球した。

 

「アウト!」

 

(明條の試合が終わった後、阿佐田先輩から聞いた勝負師の心得……。その一つは相手に無理をさせること。身体の開きを抑えられるクローズドスタンスで引っ張らせれば、捕球可能な範囲に打球が飛ぶと思っていたわ。それに7割と全力ストレートの緩急もまだ通用しているわね)

 

 先頭バッターを打ち取りリズムに乗ったバッテリーは続く8番打者を膝下の際どいコースを狙った7割ストレートを打たせてピッチャーゴロに取ると、9番打者として打席に入ったピッチャーを7割ストレートを見せ球にインハイの全力ストレートを勝負球として選択し、浅いセンターフライで打ち取ってスリーアウトチェンジとなった。

 続く5回の裏の里ヶ浜の攻撃。先頭打者として打席に立った永井はまだ対応しづらい変化球を嫌い、浅いカウントからアウトコース真ん中から中へと入ってくるストレートを狙い打った。

 

「アウト!」

 

「うう……越えなかった」

 

 ライトの中条がやや深めに放たれたライナー気味のフライに追いつき1アウト。続く野崎は先程内を強く捉えていたことから外への丁寧な配球で攻められると外へのスライダーが低めに外れて2ボール2ストライク。次に投じられたのはアウトコース真ん中から沈んで逃げていくシンカーだった。

 

(2球目は外に外れたこのボールを振らされましたが……これなら届きます!)

 

 このボールを長いリーチを生かして振り出したバットが捉えるとレフトへフライ性の打球が放たれた。

 

「アウト!」

 

(うっ……届きましたが、バットの先でしたか……)

 

 大きな当たりだったが伸びが足りず、この打球にレフトが追いつき2アウト。右打席には鈴木が向かっていく。

 

(試合が落ち着いてきている……。けど、1点差で負けているこちらにとっては、良くない流れね。……どれだけ泥臭くても構わない。食らいついていくわ)

 

 雨がさらに強くなりコントロールが乱れてきていると感じた鈴木は追い込まれるまでバットを振らずに見送り、2ボール2ストライクとなった。そして5球目のシンカーを鈴木は早いタイミングで捌くと、打球はボテボテのゴロとなって三塁線を割りファールとなった。

 

(左バッターと違って私には向かってくるボール。ストレートのスピードが驚異でないなら、ファールにしてみせる)

 

(シンカーをカットしたか……まあいい。対右バッターへの決め球、スライダーでいくよ)

 

(ストライクゾーンに入れていいんだな。分かった)

 

 投じられた6球目のボールは真ん中低めからアウトコースへと曲がっていくスライダー。内を印象づけられていた鈴木は一瞬反応が遅れたが、食らいつくように足を踏み出す。

 

「なっ!」

 

 しかしぬかるんでいる地面に足を取られ、バランスを崩しながらのスイングになる。想定外の事態に加えて雨で滑りやすくなっていたグリップから手を滑らせてしまい、カットしきれずにバランスを崩した鈴木は空振り三振でアウトになった。

 

(しまった……打席に入った時にならした地面がここまでぬかるんでいるなんて。それほど雨が……)

 

 放ってしまったバットを拾い上げて鈴木がベンチへと戻っていく。すると両ベンチにしばらく待機するように通達が送られていた。

 

「どしたの? なんか集まってるよ」

 

「ほんとだー! 審判の人たちが集まって話してる!」

 

「……!」

 

 バットをしまった鈴木が審判団が集まっていることに気づくと、途端にその顔が青ざめていった。

 

「わかー。どうしたの? 気分悪いの?」

 

「……悪いのは気分じゃないわ。天気よ」

 

(さっき私が雨でバットを離してしまったのが……)

 

「そうだねー。早く止まないかなー」

 

「……! 鈴木さん……もしかして……」

 

 すると何かに気づいた近藤が震える声で鈴木に話しかけるとそれに鈴木は頷き、近藤の表情も強張った。

 

「ちょっとー。2人だけで納得してないでわたしたちにも分かるように説明してよ」

 

「……さっき界皇とさきがけ女子との試合でコールドゲームの説明をしたのを覚えてる?」

 

「覚えてるよー。確か……」

 

 2人に割り込むように入ってきた新田が言われた内容を思い出すと、その動きが一瞬止まった後、信じられないような表情で問いかけた。

 

「点差がついた時と……天候が悪くなって試合が続けられなくなった時に、その時点で試合を終了させる……?」

 

 その言葉にベンチ内にいる選手たちの表情が凍りつくと近藤はゆっくりとそれに頷いた。

 

「いや……でも待って! 確か既定のイニング数に達していた場合とか言ってたよね!?」

 

「……5回よ」

 

「へっ?」

 

「7イニング制のこの大会だと既定のイニング数は……5回なの」

 

「5回って……今5回の裏の攻撃が終わったところだから……」

 

「私たちは既に……既定のイニングに達してしまった」

 

 その言葉の意味にベンチに重い沈黙がのしかかり、彼女たちの口を閉ざしていった。

 

「…………えっと、でもさ。試合が続けられれば、いいんだよね?」

 

「そう、ね。続けられれば……そのためには雨が弱まらないと」

 

 なんとか重い空気を打開しようと新田が言葉を紡いだが、振り出してから強さが増している雨が彼女たちの心に打ちつけられるように響いてくる。

 

「…………」

 

 やがて明るく努めようとしていた新田もベンチの外へと目を向けて未だ強い雨に言葉を閉ざしてしまうと、残ったのは雨がグラウンドへと降り注ぐ音だけだった。

 

(なんとかなる? まだ希望を捨てるのは早い? ……いや、違うわね。この雨がどうなるかなんて、誰にも分からない。努力でどうにかなるものじゃないもの。どんな言葉も、その場しのぎの励ましにしか……)

 

 口を閉ざして下を向く後輩たちに倉敷を始めとする先輩たちが声をかけようとするが、この状況のショックは彼女たちにとっても大きく、口を開けないでいた。

 

「……あのっ!」

 

「……!」

 

 そんな状況が少し続いた時だった。倉敷はこの状況で口を開いた彼女を見て、目を丸くしていた。

 

(野崎……?)

 

「近藤さん」

 

「な、なんですか?」

 

「この雨の中恐縮ですが……肩を作るのを手伝ってもらえませんか?」

 

「……!」

 

 そして野崎が発したこの言葉に近藤だけでなくベンチにいた全員が驚いた。

 

「……ええ! いきましょう!」

 

 スコアブックをベンチに置いた近藤が準備を整え野崎と共にブルペンへと向かっていくと、雨音を切り裂くようなストレートの捕球音が響いていた。

 

「信じて……いるんですね」

 

 初瀬がぽつりと溢すように言ったその言葉に皆が心の中で頷くと、沈黙が振り払われていった。

 

(そうか。分からなくたって試合が続くと……信じて準備する。言葉じゃなく行動で示してみせたのね)

 

 野崎の行動を受けて活気を取り戻したベンチを見て彼女を野球部に入ってからだけではなく、共にドッジボールをしていた小学生時代のことも知っている倉敷はどこか一歩後ろに引いて皆に合わせていた彼女と今の彼女の違いを感じ取り、穏やかな微笑を浮かべていた。

 

(……そういえば、翼と東雲さんは?)

 

 試合の続行を信じて身体を冷やさないようにストレッチをする中野の手伝いをしながら、河北は周りを見渡したが翼と東雲の姿はそこには無かった。

 待機の通達が届いてからベンチ裏に来ていた2人は周囲に誰もいないことを確認して話し始める。

 

「試合が続行されるか、続行されないか。それはもう天に委ねるしかないわ。今出来ることを……しましょう」

 

「今出来ること……?」

 

「……有原さん。今日の貴女はいつもの貴女じゃない」

 

「それは……分かってる」

 

「いいえ、分かってないわ。苦しそうな表情は消えた。けどその後の貴女は……真剣な表情だけをしていた」

 

「……そう、かも」

 

「シニアの時の私なら……それを良しとしたでしょう。真剣勝負の場で、真剣さ以外など不要だと。……けど貴女はあの時、私の中の当たり前を……壊した」

 

 2人の脳裏にシニアの大会で対戦した時のことが蘇ると、東雲は翼を腕の中で挟むように壁に手をついていた。

 

「貴女が私のことを完璧な人だと特別視して違ったように、私も貴女のことを……分かっていたつもりだったみたいね。貴女はどんな試合であっても、笑顔でいるものだと……そう思っていたわ」

 

「………いつもは考えなくても、野球やってるだけで楽しくて、自然に笑ってるんだ。けど今日は全然気持ちが上がりきらなくて……」

 

 なんとか笑ってみせようとする翼の不格好な笑顔を見ないように視線を逸らした東雲は壁から手を離すと、背を向けたまま話を続けた。

 

「私に……相談してくれないかしら。それが直接の原因じゃなくても、どうして貴女がこうなったのか、知りたいわ」

 

「……ありがとう。頼らせてもらうね」

 

 翼は自分が解決することが出来ないでいた悩みの元となった椎名家の三姉妹との食事会でゆかりに告げられたことや小学生時代に対戦したことを包み隠さず話した。

 

「椎名ゆかりさん……同じクラスだから名前は知っているけど、なるほどね」

 

「……?」

 

「気になってはいたのよ。有原ゆいという名前は……姉と一緒の食事会という言葉でその訳は分かったわ。有原ゆいと椎名じゅり……貴女達の姉は一時代を築き上げた黄金バッテリーじゃない」

 

「そうだよ。私の自慢のお姉ちゃんなんだ。勿論みさお姉ちゃんも」

 

「…………私は椎名ゆかりさん、彼女の気持ちが少し分かるかもしれない」

 

「本当!? 教えて……!」

 

「ええ……構わないけれど、貴女には……その気持ちは分からないかもしれないわ」

 

「……それでも知りたいんだ」

 

「……分かったわ。それを話すにはまず私のこと……貴女にも話したことが無かった、私がプロを目指そうと志した理由を伝える必要があるわ」

 

「ええっ!? 確かにそれは気になってたけど……どうして今?」

 

 背を向けて話を聞いていた東雲がゆっくりと振り返ると鋭い眼光で射抜くように翼を見つめて、こう言った。

 

「私が兄へのコンプレックスを抱いていた。それがプロを目指そうと思った大元の理由だからよ」



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One for all, All for one

完成遅くなって申し訳ない。加筆修正完了しました!


「東雲さんの……お兄さん?」

 

「ええ。私には兄が3人いるの」

 

「そうだったの!?」

 

「そしてその内2人はプロ野球選手で……末兄も大学野球で好成績を残していてプロ入り確実と言われているわ」

 

「それは凄いね……。野球一家、だね」

 

「そうね……。父も社会人野球をしていたし、まさに野球一家だわ。私も野球を始めたのは兄の影響があったから……」

 

(……同じだ。私もお姉ちゃんにキャッチボールに誘われたのがきっかけで……野球を始めたんだ)

 

 僅かに身長の低い翼に目線を合わせるように僅かに下を向いたまま話していた東雲はさらに下を向くと、その視線の先にある左拳はいつの間にか強く握り締められていた。

 

「兄たちと私の野球を比べることはない、私は私の野球を……そう思って野球を続けてきた。けどいつしか野球中継で兄がヒットを打つ姿や活躍する所を見るだけで……胸が締め付けられるようになった」

 

 その拳を自身の胸に押し付けるようにしばらく当てた東雲は結んだ唇を解くと再び射抜くような目線で翼を見つめた。

 

「私より遥か先を進む兄の存在を感じる度に、私自身の行く末が不安になった。兄たちと私は関係がない……何度自分にそう言い聞かせても、どこかで兄の遠い背中が浮かんでしまったのよ」

 

兄妹(きょうだい)だから……?」

 

「そう……なのでしょうね。意識しないようにするには、あまりにも近すぎた。兄妹や姉妹というのは……どうしても比較してしまうものなのだと悟ったわ」

 

「姉妹……あっ」

 

「椎名じゅり……ゆかりさんの姉である彼女は輝かしい実績を残している。貴女の姉と一緒にね。だからこそゆかりさんはその姉と……比較されたはずよ」

 

「そっか……。椎名さんがあの時……私に『好きなことをいつのまにか好きって言えなくなる』って言いながらすれ違った時。凄い寂しそうな顔をして何かを見てたんだ。あれは……椎名さんのお姉さんを見てたんだ」

 

 翼の脳裏にこびりついていたゆかりの寂しげな表情。その視線の先に映っていたものと告げられた言葉が東雲の指摘によって翼の中で繋がっていった。

 

「はっきりさせておきたいことがあるわ。有原さん。貴女は姉と比べられなかったのかしら?」

 

「……比べられたよ。お姉ちゃんと“同じ”優勝だって言われて、自慢のお姉ちゃんと一緒だって、色んな人から褒められて……。それが凄く嬉しかったんだ」

 

「……でしょうね。貴女と私と……そして彼女では残してきた結果が違う。当然比較もその結果に即したものになる……。だから言ったのよ。貴女には彼女の気持ちは分からないかもしれないと」

 

「そんな……」

 

 東雲はシニアの大会で対戦した翼に敗れ、その翼が全国優勝を果たしたことを知っていた。そのため翼がそう答えるであろうことを予測しており、それを聞いた翼は悄然としていた。

 

「貴女はさっき小学生時代に対戦した時に椎名さんが野球を好きじゃなくなる何かをしてしまったのかもしれないと語っていたけど……私にはそうとは思えなかったのよ。心当たりが無いというだけでなく、私は貴女と対戦した後、悔しさはあったけれど……同時にどこか嬉しくもあった。私と同じ女性でもここまで本気でやっている人がいるのだと……」

 

「東雲さん……」

 

「野球を続ければもう一度対決できると感じた。少なくとも貴女が里ヶ浜で野球部を新設したことを知るまではそう信じていたわ。……だからこそ一度だけ貴女に、それも大差ではなく接戦で敗れたと知って、それだけで野球が好きでなくなるというのは不自然に感じたのよ」

 

「そっか……確かにそこは少し考えすぎちゃったかも」

 

「……とはいえ、私も彼女の気持ちは少ししか分からないわ。私は兄とは性別が違ったから比較も……期待も、さほどされなかった。彼女がどういう比較をされて、どんな気持ちを抱いたのか……とてもじゃないけど分からないわ」

 

 そういうと東雲は視線を翼から外し、彼女の横に足を動かす。横から翼の視線を感じながら、対面する壁の一点を見つめるようにして東雲は言葉を続けた。

 

「彼女が貴女にそんなことを言った理由はこれで分かったでしょう」

 

「……私が野球を続ける限り、お姉ちゃんと比較されて、いつか椎名さんが経験した気持ちと同じ想いを私が抱く……そういう意味だったんだね」

 

「少なくとも彼女はそう思ったのでしょうね。……これで、いいんじゃないかしら?」

 

「え?」

 

「彼女に貴女が直接何かしたわけでもなく、伝えられた言葉の意味もはっきりした。これ以上、この出来事を引きずらずに切り替えていけばいいのよ」

 

「……それは……」

 

「……何かしら? 言っておくけどそんなことを言ってきた以上、彼女が貴女に介入されることを望んでいるとは思えないわ」

 

「そうかもしれない。けど……椎名さんと対戦したあの試合。私も、思ったんだ。凄い女の子だなって! これからも野球を続けていれば、また会えるかなって……そう思ってたんだ」

 

「そういえば明條との練習試合で緩急の話題が上がった時、スローボールを使ってきた厄介なピッチャーのことを溢していたわね。貴女の脳裏には彼女のことがずっと残っていたというわけ。私のことは覚えてなかったくせに……」

 

「お、覚えてたよ。すぐにピンと来なかっただけで……」

 

「それに貴女はほぼ初対面にも関わらず酷いことを言われたのよ? たとえ、彼女が本当にそうだと思ったとしても……。……?」

 

 東雲は強い視線を感じて振り返ると翼が不思議そうに自分のことを見ていた。

 

「……東雲さん。バッティングセンターで会って、初めて話した時のこと覚えてる?」

 

「……………」

 

 その言葉を受けてバッティングセンターで互いに競い合った後、「貴女、野球はもう“遊び”なんでしょ」「もう一度対決するものと思っていたのだけど“野球ごっこ”を始めるなんて」と言葉をかけて去っていったことを思い出した東雲は黙秘権を行使した。

 

「お節介かもしれない。けど、これからずっと競い合っていけると思ったあの試合からずっと会えなくてもおかしくなかった椎名さんと、折角再会出来たんだ。それにあの寂しそうな表情……放っておけないよ」

 

「お人好しね。何をするつもり?」

 

「……東雲さん。どうしたらいいと思う?」

 

「相変わらず考えなしね。……まず彼女が経験したことは彼女自身しか分からないわ。貴女がそれを無理に理解しようとするのは諦めなさい」

 

「…………分かったよ」

 

 閉じていた口を開き、問いかけた言葉を受け止めるように頷いて返事を返した翼を見た東雲は人差し指を自分に向けた。

 

「私が兄とのコンプレックスに悩んだように、貴女もここまでの野球人生は常に順風満帆だったわけではないでしょう。……河北さんに聞いたわ。貴女、全国優勝した後に野球を一度辞めたそうね」

 

「……うん」

 

「なら何故貴女は野球を続けようと思ったのか……その一番の理由は何かしら?」

 

「それは……」

 

 人差し指と共に問いを突きつけられた翼は目を閉じて今までのことを思い出すと、ゆっくり目を開き、東雲の目を正面から見つめるようにして答えた。

 

「野球が好きだからだよ」

 

「そうでしょうね。私たちはこの半年間で貴女がどれほどの覚悟を持ってその想いを抱いているかを知っている。けど、彼女はどうかしらね。彼女にとって貴女は野球をやめようと思ったことがない、好きというだけで続けていられるお気楽な人間と映ったんじゃないかしら」

 

「あっ! あの時、椎名さんの質問に私が嘘をついたから……」

 

「それは大きいでしょうね」

 

「な、なんとかして今からでも……」

 

「一度抱いたイメージは容易く消えないし、今から本当のことを言っても遅いと思うわ。貴女はただでさえ説明が下手だし……」

 

「うっ……そうだけど。でも、伝えたいんだ。あの時私は自分が野球が好きだっていう気持ちを見ない振りしてた。けど、野球を避ければ避けるほど、野球が好きだって気持ちが湧いてきて……。ともっちが逃げてたその気持ちに気づかせてくれた。だから……なんて言うのかな。椎名さんが言っていた状況にもし私がなったとしても、好きなものは好きだって言える気持ちだけは、この胸に抱きしめていたいんだ」

 

「それは……今の貴女に何があっても野球を続ける覚悟があるからよ。けどね貴女の説明どうこうじゃなく、それは今の彼女に聞き入れられるものではないと思うわ。貴女は先ほど野球を続ける一番の理由を語ったけど、野球を続けたい理由は一つではないはずよ」

 

「うん。東雲さんや皆と一緒にもっと上を目指したいとか……一杯あるよ」

 

「覚悟には今まで貴女が野球で積み上げてきたものが全て込められている。言葉で伝えるのは私でも無理ね。……それでも、貴女が彼女にそれを伝えたいというのであれば。野球そのものを見てもらうことでしか、語れないんじゃないかしら」

 

「……! 椎名さんに私たちの試合を見てもらう……?」

 

「そうよ。プレー一つにもその人が野球に込める想いは顕われる。貴女の野球への姿勢、覚悟を彼女に示す……そうすることでようやく先ほど貴女が語った言葉を聞き入れてくれるんじゃないかしら」

 

「……前に対戦した時の椎名さん、本当に楽しそうに野球してたんだ。それが好きなことを好きって言えなくなるくらい追い込まれて、辞めたって。きっと本当に辛かったと思うんだ。でも私は椎名さんじゃない……気持ちを分かち合えない。私に話したのも、まだ椎名さんの中で解決してないからだと思うんだ。もし、そのモヤモヤを少しでも減らせられるなら……私に出来ることは全部やりたい!」

 

「なら——」

 

「翼っ! 東雲さん! やっぱりここにいた……」

 

 ベンチ裏に2人を探しにきた河北が小走りで向かってくると、矢継ぎ早に興奮気味の口調で彼女たちに伝える。

 

「雨が弱くなってきたよ……! 試合再開だって!」

 

「ホントに!? 良かったぁ……」

 

 そして翼はその事実に崩れ落ちるようにして心から安心すると目の縁に滲むように浮かんだ涙を拭い、東雲も安堵の吐息を漏らしていた。

 

「すぐに再開するから、2人も早く戻ってね!」

 

「うん!」

 

「分かったわ」

 

 2人にそのことを伝え終えた河北が先にベンチに戻っていくと、翼も立ち上がりその後を追おうとするが、一度東雲の方に振り返った。

 

「東雲さん、相談に乗ってくれてありがとう。おかげで整理がついたよ」

 

(惜しむらくは有原さんの不調の直接の原因は悩み自体では無いことね。ただそれでも……プレーに想いは顕われる。迷いがあるのとないのでは大きな違いだわ)

 

「……ごめんね。前に私が一人で全部何とかしようとしないでって言ったのに、結局抱え込んじゃって」

 

「全くよ。けど、だからこそ抱え込もうとしてしまう気持ちも分かるわ。それがロクな結果に繋がらないこともね。……やるべきことは決まった。そのための道も今繋がった。後は……目の前のことに集中しましょう」

 

「うん!」

 

 東雲が一歩を踏み出すとその横をついていくように翼も一歩を踏み出した。ベンチへと続く道を横並びで歩いていくと、翼は東雲の横顔を覗くようにして話しかける。

 

「……ね。東雲さん」

 

「何?」

 

「東雲さんはどうしてあそこからプロを目指そうと思えたの?」

 

「ああ、そっちの話は途中だったわね。……私はそれまで兄たちと私を比べないようにしてきた。けど、それはどこかで兄から逃げていたことに気づいた。だから、ありもしない逃げ道を探すのをやめたのよ」

 

「……向き合ったんだね」

 

(……強いなぁ。東雲さんは。あの日屋上でプロを目指すと伝えられて、私は東雲さんを完璧な人だと特別視するようになった。完璧じゃなかったけど、そう思っちゃったのは東雲さんの芯の強さに惚れていたから……なのかな)

 

「有原さん。肝に銘じておくといいわ。たとえ周りからどんな影響を受けようとも、自分の道を決めるのは、他の誰でもない自分自身なのよ」

 

「そう……だね。覚えておくよ」

 

「ただ……」

 

「……?」

 

 東雲の顔がゆっくりと振り向かれ、厳しさを纏うような横顔を覗き込むようにして見ていた翼はその穏やかな表情に驚いた。

 

「貴女と会って少し変わったのは、自分の道を選択するために誰かを頼るのは悪いことでは無いということかしらね」

 

「……うん!」

 

 そして通路の出口にたどり着いた2人はミットを持ってグラウンドへと出ていく。暗雲は白雲へと変わり、勢いの落ち着いた弱い雨が彼女たちを迎え入れた。

 

「あー……だるぅ。枕が恋しい……。このまま終わりで良かったのに」

 

「寝ぼけたこと言ってないで、しっかりして。試合再開だよ」

 

「はぁ……分かってる。しゃーない。じゃあ指示を送るわ」

 

 ベンチに座る中条は腕を上に伸ばしてあくびを挟むと、集まった部員たちに指示を送っていた。

 

「バットを振らなければ、あのピッチャーは自滅する」

 

「え……?」

 

 足場を念入りにならす倉敷を寝ぼけ眼で見つめた中条が指示を送ると、6回の表の攻撃が始まった。右打席には3巡目の1番打者が入っていく。

 

(2打席目は外に外れたチェンジアップを振らせて三振に取った。けどこの打席はコースのコントロールが甘いチェンジアップは決め球にせず、見せ球として使いましょう)

 

(分かったわ)

 

 鈴木のサインに頷いた倉敷が一息挟んでからボールを投じると、鈴木は目を見開きながらミットを下に向けてワンバウンドしたボールを収めた。

 

「ボール!」

 

(珍しいな……このピッチャー、コントロール良い印象だったけど)

 

(う……)

 

(指に引っ掛かったのかしら? 見せ球としては弱いかもしれないわね。ここは7割ではなく……)

 

 さらに続く全力ストレートが6分割のインコース低めを狙って投じられると内に大きく外れたボールをバッターは両足を引くようにして見送った。

 

「ボール!」

 

(……! 倉敷先輩の様子がおかしい……!)

 

 2回目の守備のタイムが取られるとマウンドに集まっていく里ヶ浜内野陣を見て、中条はほくそ笑んでいた。

 

「あのピッチャー、ストレートの力は無かったけどコントロールの精度はかなり高かった。けどここまでそれだけの精度で投げ続けて、この中断。試合が再開するまで時間が空いたこの状況で……そのレベルの集中を保つなんて無理無理」

 

(……よく気付いたな。明菜は部員のこともよく見て声かけてるけど、相手のこともしっかり見てるんだよな……。……!?)

 

「明菜。あれ……!」

 

「……ふーん。確かに準備してたやつはいたみたいだけど、代えるんだ」

 

 球審に選手交代が告げられ、頬杖をつく中条の視線の向けた先では野崎が投球練習を始めていた。足場の感覚を確認して一球一球丁寧に確認するようにボールを投じる様をファーストから見ながら、倉敷は先ほどのことを思い出す。

 タイムが取られ倉敷は空を仰ぐように見上げていた。すると小雨が目に入る。濡れたユニフォームの袖でそれを拭った倉敷はファーストから向かってきた野崎に話しかけていた。

 

「この試合……最後までエースとして投げ抜くつもりだった。けど、自分でも分かる。指先の感覚がさっきよりブレてるって」

 

「倉敷先輩……」

 

「この雨の中、アンタはずっと準備してた。ここは……任せるわ」

 

「……はいっ! 任せてください!」

 

(……任せて下さい、か。変わったわね……野崎)

 

 倉敷が横から見るその顔つきにも変化を感じ取っていると投球練習が終えられ、鈴木がマウンドまで駆け寄ってくる。

 

「ストレートのコントロールを一通り確認したけど、いつもと大きな変わりはないわね」

 

「はいっ」

 

「雨が降る中、2ボール0ストライクからの登板。ここは厳しいコントロールは要求しないわ。あなたの1番の武器であるストレートの力で抑えましょう」

 

「分かりました! しっかり腕を振ります」

 

 はっきりと返事をする野崎を見て鈴木は一度戻ろうとしたが、打ち取るビジョンの共有のためにコミュニケーションを積極的に取ろうと心がけていたことを思い出し、もう一つの考えも伝えた。

 

「それと……相手の高波打線。長打は少ないけどチームで繋ぎ、チャンスをモノにする勝負強い打線よ」

 

「はい。ちゃんとミーティングで聞いていました!」

 

「そうね……互いにそのことは頭に入っている。けど私はキャッチャーとして5イニング座って、新たに気付いたわ」

 

「なんでしょう?」

 

「相手の打線には……途切れるポイントがあるわ。そこを突きたい」

 

「……!」

 

 続けて語られた鈴木の考えに野崎は頷くと、鈴木がキャッチャーボックスに戻っていき、野崎はやる気に満ちた表情で1番バッターと対峙した。

 

(指示は際どいコースに手を出して助けず、入れに来たボールを狙え……。2ボール0ストライクだ。甘いところきたら思い切って振るぞ)

 

(このカウントから入れるボールは当然狙われる……。けれどこのカウントから厳しいコースをつくのは野崎さんのコントロールだと難しい。だから要求は……これよ)

 

(一つ目の……ストライクゾーンの低めを狙うサインですね。四隅はまだまだですが、この低めは近藤さんに付き合ってもらって大分狙えるようになりました。あの夏大会から、変われたことを……)

 

 振りかぶっていた夏大会と違い、振りかぶらずに。オーバースローではなくスリークォーターで。無駄を減らした新たな投球フォームを安定させるために投げ込んできたことが彼女の脳裏によぎると、左足が踏み込まれボールが投じられた。

 

(低め……くっ)

 

 真ん中低めへと投じられた勢いのあるストレートに振ろうとしていたバットが止まると、鈴木のミットにボールが収まった。

 

「ストライク!」

 

(ピッチングで証明したい……!)

 

(この状況での登板できっちりと低めに……。手のひらの痺れる感覚はストレートの球威によるものだけではないわね……!)

 

「ナイスボールよ、野崎さん! その調子でいきましょう!」

 

「はいっ!」

 

(先発と違ってコースには決まってないけど、この速さで低めに決まるのは厄介だぞ……。どうする?)

 

(まだカウントはこっち有利。慌てて難しいボールに手を出すくらいなら、甘いコースに絞りなさい)

 

(そうだな。際どいコースは捨てで良い。その代わり低めでも真ん中付近に来たら次こそ振るぞ)

 

 ベンチからのサインを確認したバッターがバットを構え直すと、次のボールが投じられる。真ん中低めやや内寄りに投げられたストレートにバッターはそのバットを振り出した。

 

「ストライク!」

 

(1球目でタイミングを見たつもりが、これでも振り遅れた……!?)

 

(ち……先発ピッチャーとタイプが違う分もあるとは思うけど、あのピッチャーのストレートは思った以上に速いってことか……)

 

 ストライクゾーンに入っていたストレートに振り遅れた1番バッターはバットを振ったタイミングからストレートのタイミングを計るように思い出しながら、バットを短く持って構え直した。

 

(これで平行カウントに持っていくことが出来た。キャッチャーとして、まだボールに投げられる分、心理的には四隅を要求したくなるところ。けどここは欲はかかずに徹底的に低めを突きましょう。ただし……)

 

(二つ目の低めのサイン……ですね)

 

(このバッターはストレートにタイミングがまだ合っていない。大きく外れなければ追い込まれているし振ってくれるはず)

 

(高波の切り込み隊長として簡単にやられるわけにはいかない。速い分、捉えれば強く跳ね返るはずだ。まずはアジャスト優先!)

 

 バッターの様子を窺いながらサインの交換が終えられると野崎は投球姿勢に入り、ボールを投じた。

 

(さっきよりもう少し早く振る。……! 低めの際どいところ。いや、迷うな!)

 

(タイミングを合わせてきた……! けど、低めギリギリの良いところに決まってる!)

 

 先ほど見たタイミングに合わせて振った時より、バットを振ったタイミングを基準に振られたスイングは正確さを増しており、この低めのストレートにタイミングが合うと打球が放たれた。

 

「ファースト!」

 

(芯を少し外したか……!)

 

 低めのストレートに上手く合わせたが球威に押されるようにして放たれた打球は一、二塁間ややファースト寄りに転がり、倉敷はこのボールに反応して足を動かしていた。

 

(打球スピードはあるけど、これなら届く! ……!?)

 

 足を動かして打球に回り込んだ倉敷がこのボールを収めようとしたが、下に向けたミットの外側に打球が当たり、弾いてしまった。

 

「倉敷先輩! まだ間に合います!」

 

「く……。お願い!」

 

 ベースカバーに走った野崎に対してボールを素手で拾った倉敷はその体勢のまますぐに送球を行った。少し外野側に逸れたこの送球を野崎は長いリーチを伸ばして掴み取ると一塁を駆け抜けるように踏み、バッターランナーもベースを駆け抜けた。

 

「……アウト!」

 

(……倉敷先輩は野崎さんと違ってスタメン発表後も投手としての練習が中心で、ファーストの守備練習にはほとんど時間が割けなかった。ただでさえ雨で荒れているグラウンドの守備をこなすのは簡単じゃないかもしれないわ)

 

(しまった。ギリギリアウトになったから良かったけど、あの打球を弾くなんて……)

 

「倉敷先輩! ワンナウトですよ。声出していきましょう!」

 

「……!」

 

「ワンナウトー! まいちん、今は気にしなくていいのだ。アウトはアウトなのだ!」

 

「そうですよ! ナイスリカバリーです! ワンナウトー!」

 

「……悪いわね。すぅ……ワンナウト! 次はファンブルしないわ」

 

 倉敷は切り替えるように息を大きく吐き出すと帽子を被り直し、自分に活を入れていた。

 

(最近は先頭バッター出してばかりだったので、まず一つアウト取れて良かったです。……ですが、まだワンナウトですよね。……!)

 

 野崎が先頭バッターを打ち取れたことに安堵しながら、次のバッターへの集中を高めようとした時だった。高波が攻撃のタイムを取り、打席へと足を踏み出そうとした2番打者がネクストサークルへ向かおうとした3番打者のもとに集まると中条が何かを伝えている様子が窺えた。やがてタイムが終わると気怠そうに中条がベンチに戻っていき、2番打者が右打席へと入る。

 

(このタイミングでのタイム……意図が読めないわね。ただこちらとしてはランナーがいない以上、目の前のバッターに集中すればいいわ)

 

(一つ目のクロスファイヤーのサイン……分かりました!)

 

(あの選手の守備位置は……よし、いける)

 

 互いの考えが交錯する中、投球姿勢に入った野崎が左足を踏み込むとバッターの取った構えに目を見張った。

 

(バント……!?)

 

(させない!)

 

(……! しまった。セーフティか!)

 

 東雲が一歩目を踏み出したタイミングよりワンテンポ遅れて倉敷が地面を蹴ると投じられたストレートにバッターは狙いの方向に転がすようにバットの向きを調整する。

 

(中条キャプテンの指示通り、狙いは……ファースト!)

 

(く……アタシが野崎の足を引っ張ってたまるか! ……!?)

 

 キン、と短い金属音がグラウンドに響くとボールは打ち上がった。

 

「ファースト!」

 

「分かった!」

 

 倉敷はブレーキをかけるように減速すると落下地点に合わせるように2歩、3歩と踏み出し、高く打ち上がった打球をキャッチしにいく。

 

「アウト!」

 

(ふぅ……。イージーフライではあるけど、とりあえずツーアウトね)

 

(セーフティの懸念が抜け落ちていたわね……。しっかり頭に入れないと。けど、低め一辺倒を避けたのは正解だったわね)

 

(……なんて角度のクロスファイヤー。芯の下に当てるようにしたかったのに……)

 

 想像より内に食い込む角度のストレートに面食らった2番打者はバットを拾い上げると、芯より根本のミートポイントの狭い場所を見つめながらベンチへと帰っていった。代わるように3番打者が左打席へと入っていく。

 

(あの子でもバント合わせきれないのか……。あたしはどうするかな。ファースト狙いしようにも、セーフティは簡単じゃない上にやったばかりで警戒されてるだろうし……)

 

 右足のかかとを上げるようにして投球に備えるバッターにボールが投じられると真ん中低めやや内寄りに決まったストレートをじっくり見るようにして見送った。

 

「ストライク!」

 

(速いし、左のあたしにとっては見えづらいなぁ。これを引っ張ってファーストに強い打球を飛ばすのは難しい。無理にファーストをこじ開けるのは危険か。……じゃあどうするかな。意表を突いてもう一度走り打ち(スラップ)を狙ってみるか?)

 

(初球は見てきたか……。ノーステップ打法は足を上げる動作を短縮する分、速球には対応しやすい。野崎さんの低めのコントロールも安定しているし、ここは……)

 

(二つ目のクロスファイヤーのサイン……。左バッターにとってはアウトコースに決まるボールですね)

 

(待てよ。走り打ちが仮に成功したとしても、得点圏にランナーがいないと明菜は……。盗塁も初回のを考えると警戒されてるだろうし、今投げてるのは走りにくい左の速球派だ。初回より盗塁は決めにくいぞ……)

 

 サインの交換が終えられると野崎が投球姿勢に入り、アウトコースを厳しく狙ってストレートが投じられた。

 

(なら、狙いを無理に上げてでも……!)

 

(振ってきたわね……!)

 

 ノーステップで踏み込んだバッターがアウトコース真ん中に投じられた際どいコースのストレートにバットを振り出すと、バットの先で捉えられたボールがレフト方向へと上がった。

 

「……!」

 

(東雲さんの後ろ……けど、届くか際どい! それに真後ろに下がりながら捕りにいく必要がある……!)

 

(どうだ! フェアになれば足を生かして二塁まで行ってやる……!)

 

「有原さん、任せたわ! 岩城先輩はカバーに!」

 

「分かった!」

 

「おう!」

 

(……! 東雲さんが指示を……。確かに岩城先輩がダイレクトで捕るには浅い。東雲さんはダイビングキャッチには行きづらい体勢。横から向かえる有原さんが一番このボールにチャレンジしやすい……!)

 

 指示を出した東雲は打球を追いかけるのをやめると翼がミットで打球を弾いた場合を想定してファールゾーンへ向かい、岩城は翼が打球に届かなかった場合を想定してカバーに入ると、翼はレフト線にふらふらと上がった打球を懸命に追いかける。

 

(外を流した分、打球がスライスしてる。打ち上がった打球だけど届くかはギリギリ。……! 2人がカバーに入ってくれてる! なら……跳ぶんだっ!)

 

 打球の軌道がレフト線ギリギリへと落ちるように曲がっていくとその落下点に向かって一直線に走っていた翼はダイビングキャッチをしにいった。そして翼の身体が地面へと落ちると、一塁を回ったバッターランナーはミットに収められたボールが目に入った。

 

(ノーバウンド? それともワンバウンドか? あの体勢からなら二塁は間に合う……!)

 

「……アウト!」

 

(……! ダイレクトで追いついたのか……!?)

 

「届いた……」

 

「何を不思議そうにしているの、有原さん」

 

 この打球に伸ばしたミットでダイレクトキャッチに成功した翼が呆然としていると、東雲が手を伸ばしていた。その手を体重を預けるように掴んだ翼が引っ張り上げられると、東雲はため息をついた。

 

「確かに今日の貴女はボールに対する反応がワンテンポ遅れている。だからといって今まで練習で身につけたものが無くなるわけじゃないわ。今のスライスしていく軌道に惑わされずに落下点へと一直線に向かっていたのがその証拠よ」

 

「そっか。この調子でも……私に出来ることはあるんだ」

 

「もし無かったら新田さんに代えているわ」

 

「ということは……私ならやれるって信じてくれてたんだね」

 

「…………調子に乗らないで頂戴」

 

「あ! 待ってよー!」

 

 手を離してベンチへと帰っていってしまう東雲。その後を追うように翼も投手板の上にボールを置いてからベンチへと帰っていく。その様子を見て野崎が微笑んでいると、その隣に倉敷がやってきていた。

 

「ナイスピッチ。ボールカウント悪いところから渡しちゃったけど……三者凡退。これ以上ない内容だったわ」

 

「ありがとうございます。この試合……私には何が出来るのかってずっと考えていたんです。そして倉敷先輩のピッチングを見て……エースとしてチームを引っ張っていこうとしているのが分かりました。だからもし私に出番が回ってきた時には、その意思を継いで私がチームを引っ張るんだって……」

 

「……なるほどね」

 

 そう語る野崎の顔を見て一瞬表情を緩めた倉敷だったが、視線をベンチに向けた後に真剣な眼差しを野崎へと向けた。

 

「ただ、まだ試合は終わってないわ。残りのイニングも頼んだわよ」

 

「はい! ……あ、でももし試合が延長になったら倉敷先輩がマウンドに上がることも……」

 

「それはなさそうね」

 

「えっ?」

 

「後は頼んだわよ」

 

 6回の表が終了し、6回の裏の里ヶ浜高校の攻撃は9番から。金髪をヘルメットに収めた彼女はバットを手に準備投球をするピッチャーのことを見つめる。

 

「どうやら緊張はなさそうですね」

 

「アタシを誰だと思ってるんですか! 緊張なんて全くしてないですよ」

 

(……そういえば逢坂さんは元々、天才子役だったと聞いた覚えがあるな)

 

「それはそれで問題ですね。適度な緊張というのも必要ですから」

 

「なっ……!」

 

(うー! 初日の練習の時から思ってたけど、やっぱりこの人とは合わないわ!)

 

 選手交代の役割を担う東雲の指示によって9番に入っていた倉敷の代打として任されたのは逢坂だった。次の1番バッターである九十九から話しかけられた彼女は緊張している様子は見られなかったが、代わりに会話していくうちに頬を膨らませていた。

 

「それに舞台の緊張と、試合での緊張というのは異なるものでは?」

 

「ふっふーん。アタシはどんな場面でも落ち着けるように、イメージトレーニングはかかしてないんですー。むしろチームのピンチを颯爽と救うヒーロー……ヒロイン? の役割はアタシのためにあるので、望むところですよ!」

 

「そうですか。それは良かったです」

 

 すると投球練習が終えられ、それをずっと見ていた逢坂は一度九十九の方に顔を向けた。

 

「今日の守備だけでも九十九先輩が凄いのは実感してますけど……アタシ、負けませんから! いつか、アタシが先輩を追い抜いてスタメンになる! 今のうちに覚悟しておいて下さいね」

 

「……!」

 

 九十九がその言葉に大きく目を見開くと逢坂は球審に呼ばれてバッターボックスへと向かっていく。

 

(負けない、か)

 

 勉学でもスポーツでも完璧と言われつづけていた九十九はその言葉に新鮮さを覚えていると、知らず知らずのうちに口角が少し上がっていた。

 

「よろしくお願いしまーす!」

 

(代打か……)

 

 右打席へと入っていく逢坂にキャッチャーが目を配ると逢坂は意気揚々とバットを構える。

 

(立ち位置は少し左寄りだな……)

 

(形は代打だけど気持ちは4番打者のつもりでいくわ! 狙いは内からさらに食い込んでくるっていうストレート!)

 

(左に寄ってる分、内は窮屈にならずに対応しやすいかもな。初球は様子見で外にスライダーだ)

 

(了解。あと2イニング、抑えてみせる!)

 

 1球目が投じられるとアウトコースに投じられたボールに逢坂のバットが止まり、キャッチャーはミットを外に動かす形でスライダーを捕球した。

 

「ボール!」

 

(外に大きく外れたな……そうか。こっちだって中断で間が空いた分、やりづらいんだ)

 

「楽に! 肩の力抜いていこう!」

 

 キャッチャーからの掛け声に頷いたピッチャーはボールを受け取ると息を大きく吐き出していた。

 

(元々アウトコースのコントロールが良いわけじゃないんだ。今のコントロールで厳しいところ突いて見逃し狙うよりは、振らせていこう)

 

(分かった。インコースに……)

 

(来た! インコースのストレー……)

 

 続く2球目がインコース真ん中へと投じられるとこのボールのシュート回転する軌道を予測して逢坂はスイングの始動に入った。

 

(少し遅……ストレートじゃない!?)

 

(シンカーを引っ掛けろ!)

 

 足を踏み込むタイミングで違和感に気付いた逢坂がスイングの軌道を腰の回転を使って変えると、体幹がブレなかったことでスイングが泳がずにバットが振り切られた。沈んでいくシンカーの球の中心、その僅か下をバットの芯で捉えた打球はサードの頭上へと放たれる。

 

(これは……!)

 

 サードはこの打球を見上げると手を伸ばしても届かない高さで越えていったボールを見送り、バウンドして転がっていく打球をレフトが収めると、一塁を少し回った逢坂はベースへと戻っていった。

 

(内へと食い込む軌道に対応しやすいよう腕をたたまれたか……! スイング崩せたと思ったけど真っ直ぐ伸びるストレートがない分、内に変化する軌道に張られてたんだ……。だから修正が間に合ってしまった)

 

「あ、逢坂さん。ナイバッチ……!」

 

「ありがとう茜ちゃん! 狙いとはちょっと違ったけど、身体が反応してくれたわ。……後は任せたわよ!」

 

「へ……? あっ!」

 

「任せるにゃ!」

 

 宇喜多が不思議そうな顔をして後ろを振り向くと代走が告げられ、里ヶ浜ベンチから中野が向かってきていた。すれ違いざまに片手でハイタッチした2人が入れ替わると、中野が一塁ベースについた。

 

(よく打ったにゃ! 出番を信じて身体を温めておいた甲斐があるってもんだにゃ!)

 

 九十九に自慢げな表情を向けながらベンチへと帰っていった逢坂が祝福されているのを目に入れながら、中野はグラウンドの地面を足で軽く叩く。

 

(そんなに状態は良くないにゃ。とっさにベースに戻ろうとした時に、足を取られる可能性もある……。よし、決めたにゃ)

 

 中野が足場を確認している間に九十九が右打席へと入っていく。

 

(どうするあおい? 貴重な同点のランナーだ。送れというならバントするよ)

 

(あおいの中で作戦はもう立ててあるのだ。九十九、なかあや、サインは……これなのだ)

 

 ネクストサークルに座る阿佐田からサインが送られるとプレーが再開され、キャッチャーはこれまでの打席と変わらずにバットを平然と構える九十九を見上げた。

 

(送らないのか? そういえばこのバッター、1番打者だけあって足があったな。強行策でもダブルプレーにはならないって判断か? 右打ちの可能性もあるな……)

 

(代走で出てきたから警戒したけど……このランナー、そんなにリード広く取らないな。こっちとしては神経使わない分、助かるけど)

 

(さっきのシンカーはストライクを取りにいくシンカーだった。このバッターは2打席目でそのシンカーを引っ掛けて内野ゴロにしてる。コントロールは気になるけど、ここは低めの際どいところを攻めてもらうよ)

 

(はいよ。ゴロなら当たり次第では足が速かろうとゲッツー狙えるしな)

 

 サインの交換が終えられるとピッチャーは中野に気を配りながら一旦ボールを長く持つと、クイックモーションからシンカーを投じた。真ん中低めから内に変化しながら沈む軌道は僅かに低めに外れ、このボールを九十九はバットを振り出すことなく見送った。

 

「……ボール!」

 

(そんなにはっきり外れたボールじゃないぞ? ……まさか)

 

 2球目が投じられるとインコース真ん中に投じられたストレートが内へと食い込んでいく。このボールも九十九は手を出さずに見送った。

 

「……ストライク!」

 

(さすが。内に際どくストレートを投げ込むコントロールはこの場面でも安定してるね。そして多分、出てる指示は……待球だったんじゃないか? こっちが考えすぎてボールカウント悪くするのを待ってたはずだ。問題はこっちがストライクを取ったことでサインが変わるかどうか……)

 

(……ここでサイン変更なのだ)

 

(まだ私は待球のままだが……)

 

(これはまた……大役を仰せつかったにゃ)

 

 互いに思考を読み合う中、阿佐田とキャッチャーからそれぞれサインが送られると、ピッチャーは再びボールを長く持つ。

 

「リーリーリーリー……」

 

(タイミングはあのピッチャーをずっと一塁コーチャーとして見てる宇喜多に任せるにゃ。ワタシのすべきことは……)

 

(さっきのストレートの軌道に合わせて……シンカーを!)

 

「……! ごぉー!」

 

(一瞬でも速く、一歩目を踏み出すことにゃ!)

 

「なっ……」

 

(あのリードで走った!? エンドラン……? いや、これは……!)

 

 インコース真ん中から低めへと沈んでいくこのボールの上を九十九が大きく空振り、沈む軌道をすくうように捕ったキャッチャーが立ち上がると二塁ベース目掛けて送球を行った。低めの軌道で投げられたこのボールを収めたセカンドがスライディングしてベースに滑り込む中野にタッチすると、判定が宣言される。

 

「セーフ!」

 

(よし……! 間に合ったにゃ!)

 

(単独スチールですって……!? 失敗すれば、同点のランナーを失うんだぞ……)

 

「今のボール、ストレートでは無かったですね」

 

「そう見えたね。多分沈んでたと思うよ、小也香」

 

 第一試合を終えてからスタンドに残り、今日の試合を観戦していた清城高校の面々は今のプレーについて話し合っていた。

 

「変化球だと結構変わるの?」

 

「変化球はキャッチャーミットに届くまでストレートより0.2〜0.3秒遅れると言われています」

 

「それにキャッチャーとしてはボールが高い方がスローイングの動作に移りやすいんだ。低めだとどうしてもワンテンポ遅れちゃうの」

 

「そうなんだ〜。でもびっくりだねぇ。あのリードで走ってくるとは思わなかったよ」

 

「……前に里ヶ浜と練習試合をしていた時、彼女が大きくリードを取ったことを覚えていますか?」

 

「覚えてるよぉ。凄いリード広げてたよね」

 

「あれは帰塁の意識を強めることで、ピッチャーにプレッシャーをかけられるリードだったのです。今回はリードを広げなかった分、帰塁は強く意識する必要はなかった。そのため次の塁への一歩目を速く踏み出せたのではないでしょうか」

 

「なるほど……。リードを抑えてても、その分スタートが速く出来るんだ。リード狭いからって盗塁が無いってわけじゃないんだね」

 

(なかあや、よく決めてくれたのだ。けど代わりに九十九が追い込まれちゃったのだ……ここは)

 

(右打ちか。分かったよ。君が初回に語っていた勝負師はセオリーを知る、ということの意味もね)

 

(スリーバントは無さそうか……。ランナー三塁に行かしたくはない。これで……)

 

(インコース低めに今度は……!)

 

 1ボール2ストライクから投じられた4球目は先ほどと同じようなインコース低めへと向かっていく。このボールに始動を溜めた九十九は右方向へと放とうとバットを振り出した。

 

(……! これは……スライダー!?)

 

(そのまま前で捌け!)

 

 投じられたのはバットの先に当たるように中へと変化していくスライダー。内への変化に備えた分前で捌いてしまうことを九十九は感じたが、既にバットを振り出しており、さらに引きつけるのは難しかった。

 

(……かくなる上は!)

 

(スイングを……止めた!?)

 

 振り出したバットを止めるように力を込めた九十九のスイングが弱まっていくとバットの先に当たったスライダーはピッチャーの正面に弱い当たりで転がっていく。

 

(く……振るのを諦めて、左方向に打つのを無理やり避けたか!)

 

「ピッチャー!」

 

(三塁でアウトにしてやる!)

 

 このボールに対して前に出たピッチャーがこのボールを拾うと身体を三塁方向へと向けた。

 

「にゃにゃにゃにゃー!」

 

(……! もうあんな位置に!?)

 

「ファーストに!」

 

「くっ……!」

 

 当たりが弱く、目に見えない程度の水溜りが点在するグラウンドで転がるボールにピッチャーが追いつくのに少しの時間を要した。三塁近くに来ている中野は刺せないと判断したキャッチャーの指示でピッチャーがサードへの送球を諦めるとファーストへと送球され、九十九はアウトになった。

 

「悪いね、あおい。あれが精一杯だった」

 

「いやいや、よく進めてくれたのだ。後は任せるのだ」

 

 1アウトランナー三塁となり右打席には阿佐田が入っていく。

 

(代走で出てきたあのランナーの足は速い。となれば警戒しないといけないのは、スクイズだ)

 

 そしてキャッチャーの指示で内野陣が前進してくると外野陣も前に出てきていた。

 

(……あおいが出すサインはこれなのだ)

 

(……! 今阿佐田パイセンが自分自身に対してサインを送ったにゃ……)

 

 そして初球が投じられると中野はスタートを切らずに投球を見守る。するとピッチアウトで外の高めに大きく外されたボールが彼女の目に映った。

 

「ボール!」

 

(なかあやの足なら、この前進守備でスクイズしても間に合う可能性はあるのだ。たださすがに一点リードで超前進守備は取れないから、警戒して外してきたのだ)

 

(2番バッターだ……バントが苦手ってことはないはず。……! 踏み込んできた……?)

 

 すると阿佐田が外ギリギリまで踏み込む構えに変わり、キャッチャーは大きく目を見開いた。

 

(このバッター、初回にアウトコースから中に入るストレートを打ってるからか。……でも、それは内を捨ててるって言ってるものだ。バントだってやりづらくなる。得意のインコース真ん中にストレートを!)

 

(分かった)

 

 投じられた2球目はインコース真ん中へのストレート。このボールを阿佐田は見送った。

 

「……ボール!」

 

(……! 少し内に外れた……)

 

(あのピッチャーは5回と3分の1を、途中から雨が降ってる状態で投げてきた。疲れはあるはずなのだ。そしてこの踏み込んだ構え……内に攻めれば、ピッチャーにとってはデッドボールがどうしてもよぎるはず。しかもあのピッチャーのストレートはシュート回転。どうしたって、神経使わざるを得ないのだ)

 

(しまったな。さっきと同じでこっちがボールカウント悪くするのを待ってるのか……? なら、まだ仕掛けてこないはずだ。この構えだと多少真ん中に入っても打てないはず。今のボールより中に……)

 

(ここはストライク取らないとな……)

 

 ピッチャーが3球目を投じようとした瞬間だった。彼女の目にスタートを切る中野とバントの構えを取る阿佐田が映った。

 

(スクイズ……!)

 

 とっさに投じようとしたストレートを外に大きく外すと、これがキャッチャーのミットに収まった。

 

「ボール!」

 

「な……」

 

 バットを引いた阿佐田にピッチャーが驚くと、慌てて三塁に視線を向ける。すると中野はスタートを切るフリをしただけで、すぐにベースへと戻っていた。

 

「小也香。あれは……」

 

「私たちが練習試合で里ヶ浜に仕掛けた策ですね。しかし、今まで対戦した中で里ヶ浜がああいった連携を必要とする揺さぶりをしてきた覚えはありません。……恐らくあの練習試合の後から実践的な練習を多く取り入れたのでしょう」

 

(やられた。3ボール0ストライク……こうなったら開き直ろう。このカウントなら無理せず見てくるはず)

 

 4球目に投じられたシンカーが真ん中からインコースの低めへと沈んでいくと、踏み込んでいる分窮屈なスイングを強いられる阿佐田は、その状態でフルスイングを敢行した。

 

「ストライク!」

 

(ここで振ってきた……! 今のは合わなかったけど……そうか。外野を前進させてるから、甘い球を捉えて長打にするつもりだったんだ)

 

(入れにいくわけにはいかないか……)

 

(打てる手は全て打ったのだ。さあ、どうくるのだ?)

 

 3ボール1ストライクから投じられた5球目はインコース低めから真ん中へと入っていくスライダー。踏み込んだ構えのまま、阿佐田はこのボールを見送った。

 

「……ボール! フォアボール!」

 

(く……長打を避けるために低めを要求したとはいえ、低めに外れたか……!)

 

 阿佐田はバットを転がすように置いた瞬間、キャッチャーからは見えないように表情筋を動かして笑うと一塁へと歩いていった。

 

(阿佐田パイセン、結局最初に自分に出した待球のサインを解除しなかったにゃ……。あの空振りも振る意思があると相手にアピールするものだったのにゃ)

 

(1アウトランナー一塁三塁……みんなが繋いでくれた)

 

「翼!」

 

「は、はい! なんですか?」

 

「後ろにはウチらがいるんだ! 後のことは任せて、気合いをぶつけてこい!」

 

「……分かりました!」

 

 ネクストサークルから打席へと向かおうとする翼にベンチから岩城が声をかけると、その間にいた東雲も静かに頷き、翼は気合いを入れた様子で右打席へと入っていった。すると外野は定位置に戻り、内野は中間守備へと変わっていく。

 

(気合い……ね。なら、空回ってもらおうじゃない。初回と同じくスライダーを打たせて、内野ゴロゲッツーを狙おう)

 

(そうだな。今日このバッターは当たりはまあまあだけど、どっちもショート正面に飛んでる。そういう日は1日ずっとダメなもんだよ)

 

(今日のつばさの調子。大きくは前に出てないファーストとサード。そして九十九とあおい自身に出した待球によるバッテリーの焦れ。……ここ、なのだ!)

 

(……!)

 

 サインを了承するようにヘルメットのつばを触った翼が右打席へと入る。そして地面をならしている間、翼は自身の胸で響く鼓動が激しくなっていくのを感じていた。

 

(今、私が打席に立っていられるのはこんな私でも東雲さんやみんなが信じてくれているからだ。その期待に応えたい……!)

 

 そしてバットが構えられると、ピッチャーがしばらく間を置いた。

 

(次はあの4番だ……。このバッターに繋がせるわけにはいかない。抑えてやる……!)

 

 短く息を吐き出し、投球姿勢に入った瞬間だった。三塁ランナーの中野がスタートを切った。

 

(またフェイクか!? いや……違う!)

 

(これは……初球スクイズ!?)

 

 横から腕を身体の前に出すようにした瞬間、バントの構えを取る翼を見て、ピッチャーはとっさに外す判断をした。

 

(外した!)

 

(外された!?)

 

 外のボールゾーンにボールが投じられると中野はそのままホームへと突っ込んでいく。

 

(届いてっ!)

 

 託されたスクイズのサインを実行すべく翼はジャンプすると右手をバットから外し、遠いボールに向かって左腕を伸ばしてバットを当てにいった。

 

(届く……!? けどヘッドが下がってる! これは……打ち上がる!)

 

(絶対に……繋いでみせる!)

 

(手首を返した!?)

 

 インパクトの寸前、翼が左手首を返すと投じられたボールにバットが当てられた。ボールの上側を捉えた打球はホームベース付近に叩きつけられるようにバウンドして転がっていく。

 

「フェア!」

 

 外のボールの勢いに押されるように当てられて放たれた打球はホームベースの前でバウンドするとファースト方向へと向かっていく。

 

(バウンドが高い分、転がる勢いが弱い! ファーストは前には出ていたけど……)

 

「よくやったにゃ! 後は任せるにゃ……!」

 

 転がった打球を横目に瞬足を飛ばす中野とこのボールをファーストが収めたタイミングを見定めたキャッチャーは送球方向の指示を行った。

 

「……一塁に!」

 

「……! ……分かった!」

 

「中野さん! ノースライ!」

 

 地面に胸から叩きつけられるように落ちた翼が一塁へと向かうが、一塁ベースカバーに入ったセカンドへと送球が行われて翼はアウトになった。その間に飛ばされた東雲の指示に応じるように中野がホームベースを踏む。

 

「あ、有原さん! 同点だよっ!」

 

「茜ちゃん……! 良かったよぉ……」

 

 一塁ベースを駆け抜けた翼が後ろを振り返ると中野のホームインの瞬間は見れなかったが、代わりにそれを目にしていた宇喜多が話しかけると翼は思わず安堵感から涙目になりながらも、小さく笑った顔が涙と共に溢れるように出てきていた。

 

「帰ってきたにゃー!」

 

「中野さん……おかえりなさい! 本当に凄い走りっぷりでした……!」

 

 同点のホームインを踏んだ中野は翼より少し先にベンチに戻ると称賛の嵐を受けていた。初瀬も興奮気味に同点に喜んでいると、秋大会のスタメンが決まった後に中野に言われたことを思い出していた。

 

「スタメンはもちろんその試合の中心なんだにゃ。けどベンチにはベンチの役割があるんだにゃ。どっちの役割も勝つためには大事なことなんだにゃ」

 

(本当に……そうですね)

 

 初瀬がその言葉の意味を実感していると、高波は守備のタイムを取ってマウンドに集まっていた。

 

(くそっ……。ここでスクイズかよ。しかもスライダーの握りだったから、大きくは外せなかった……!)

 

「……やられたね。けど、まだ同点だ。ここで切るよ!」

 

 そしてピッチャーの落ち着きを取り戻すように内野陣が声をかけていくと、守備のタイムが終えられた。

 

「……!」

 

 東雲がキャッチャーが立ったままであることに眉をひそめると、プレーが再開されピッチャーからボールが投じられた。

 

「ボール。フォアボール!」

 

(敬遠か……)

 

(このバッターは抑えられる気がしない……。次の5番で勝負よ)

 

「ふぅ……よし! 行くぞ!」

 

 一球一球ボールが外される様をネクストサークルから見ていた岩城はその間に何度も深呼吸を挟むと、東雲が一塁へと歩いていったのを見て立ち上がった。

 2アウトランナー一塁二塁。左打席の前まで来た岩城は二塁にいる阿佐田へと目を向けた。

 

(宿舎の前で……ウチら先輩が後輩を引っ張っていくと誓った! あおいはチャンスメイクで、伽奈は守備で、舞子はピッチングで……ウチもやるぞ!)

 

 気合いを入れた様子で「よろしく頼む!」と大声を出しながら左打席へと入った岩城は最後にもう一度深呼吸を挟んでからバットを構えた。

 

(2アウトでランナーは迷わずスタートを切る。ランナーが一塁にいるし、パワーのあるバッターだから長打警戒シフトを取るか? それに次のこっちの攻撃は明菜に回る。もう一度あの弾丸ライナーで突き放して……待てよ。明菜が……先頭バッター?)

 

(……? 何を考え込んでるんだ?)

 

 外野に指示を送ろうとしたキャッチャーが考え込むと、少しの時間を挟んで指示が送られた。

 

(外野が前に出てきたのだ……。あおいを還さないつもりなのだ? 確かに残り1イニングでの逆転を防ぎにいくのは考えられる策なのだ)

 

(内も混ぜるつもりだけど、リーチの短いこのバッターには外中心だ。初球はまずシンカーを……外低めの際どいところ狙ってもらうよ。この場面、入れにいくのはまずいからね)

 

(何が言いたいかは分かってる。これ以上、点を許すわけにはいかない。それにこのバッターは選球眼ある方じゃないし、ストライクだと思ったら振ってくれるはずだ。だからこそ思い切って際どいところ狙ってやる!)

 

(ウチの狙いは2打席目と同じでいく……!)

 

 サインの交換が終えられピッチャーが投球姿勢に入ると、岩城は大きく外に踏み込んだ。

 

(狙ってたか? けど、さっきそれで届かなかったんだ。……!)

 

(ウチには夕姫のようなリーチや翼のようなバットコントロールはない。だが……気合いだけなら誰にも負けん!)

 

 そして最初から浮かせている右手の小指だけでなく、続けて薬指も浮かせると、さらに中指までもバットから浮かせてスイングの始動に入っていった。

 

(無茶だ……! 右腕の支えが揺らげば、左腕にどれだけパワーがあろうと伝わりきらない!)

 

「どっ……りゃあああ!」

 

 外に逃げながら沈んでいくシンカーに対して残った2本の指を支えにバットを振り出した岩城は足を低く沈み込ませるようにして低い体勢となり、身体の軸が斜めにながら左腕を押し込むと、バットが振り切られた。無理な体勢からのフルスイングで岩城はそのまま背中から地面へと倒れる。そして届いたバットから放たれた打球は左中間方向へと上がっていた。

 

(当てたか……!)

 

「レフト!」

 

(このだんちょーの打球……いつもより勢いが弱いのだ!)

 

 二塁ランナーとして走り出した阿佐田は岩城の放った打球にいつものような荒々しい勢いを感じず、焦りながらこの打球から目を切って懸命に足を動かしていた。

 

「捕れっ!」

 

「越えて……!」

 

「止めろ!」

 

「伸びて!」

 

 両ベンチからグラウンドに声援が届く最中、前進していたレフトは懸命に後ろに下がりながら、落ちてきたボールに向かってミットを伸ばして飛びついた。そして……ミットの僅か先をボールが越えていく。

 

「抜けたーっ!」

 

(な……!)

 

 バウンドした打球は点々と外野に転がっていき、その間に二塁ランナーの阿佐田がホームインした。そしてセンターが外野フェンスより前でこの打球に追いつくとホームに向かって送球が行われる。

 

(く……)

 

 しかし2アウトで迷わずスタートを切っていた東雲は送球が届くより先にホームを踏み、キャッチャーはこのボールを前に出て収めた。

 

「岩城先輩! バックです!」

 

「なっ……!?」

 

 二塁にたどり着いていた岩城は送球間の進塁を狙って三塁へ向かっていたが、河北の指示に反応して慌てて反転した。しかし足元のぬかるみで一瞬遅れた反転になると二塁ベースへと滑り込みながら手を伸ばした。

 

「アウト!」

 

「くぅー……不覚!」

 

 低い送球が届き、岩城の伸ばした手に触れるようにミットが当てられると戻りきれなかった岩城はアウトに取られた。

 

(……今の打席……。シンカーは要求通り来ていた。あのバッターには届かないはずのコース……。それを無理やり届かせた。そこまでは……いい。その代わり無茶をした分、打球に伝えられるパワーは半減するはず。そして……確かに半減していたんだ。けど外野を前に出してしまった分……半減していても、僅かに越えられてしまったんだ)

 

 岩城をアウトにしたもののキャッチャーの顔色は晴れることなく、そのまま高波ベンチへと戻っていった。

 

「あおいも見たかったのだ! 打球が越えるところ……ナイバッチなのだ!」

 

「はっはっは! 本当にギリギリだったが……越えて良かったぞ!」

 

「それは同意しますが……あんな打ち方して怪我はしてないですか?」

 

「ちょっと一瞬痛みはあったが、平気だ!」

 

「怪我がないのは何よりです。でも、あまり無茶はしないで下さい」

 

「む……だが今のは無茶しないと届かなくてだな……」

 

「まあ、確かにそうですが……怪我はしない方向でお願いしますね。とりあえず今は……ナイスバッティングでした。……永井さん。いいかしら」

 

「は、はい。なんですか?」

 

「2点リードで迎えた最終回……ここは守備交代をしたいと考えているの」

 

「あ、中野さんと代わるんですね。分かりました……! 中野さん、後はお願いします!」

 

「任せておけにゃ!」

 

「それと……秋乃さんは……」

 

「……! こっちだよ。りょー!」

 

「貴女には永井さんと交代でファーストに入ってもらうわ!」

 

「わかったー! がんばる!」

 

 6回の裏の攻撃が終わり、7回の表。逆転して2点リードで迎えた里ヶ浜はセンターに中野が、ファーストに秋乃が入り、守備を固めて守りきる姿勢を見せる。

 

「2点差か……」

 

「ごめん。明菜。私の判断ミスで……」

 

「それはもういい。それより……代打、出す?」

 

「だ、出せるわけないじゃない……キャプテンのあなたに」

 

「そ……分かった。じゃあ行ってくる」

 

 そして右打席には4番の中条が入っていった。その中条に対して投じられた初球は真ん中低めのストレート。これを打ちにいった中条だったが、遅れたタイミングでのスイングになり空振りを取られる。

 

(やはり……中条さんの極端なバッティングスタイル。それは状況によっては大きな武器になる。けど……大きな弱点にもなる。初回の盗塁を防いで、2回の先頭バッターとして迎えて抑えられた時と4回のあのストレートを柵越えした中条さんはあまりにも違いすぎる)

 

 続くストレートが真ん中低めやや外寄りに決まると中条は再びバットを振ったが、遅れたタイミングでのスイングにになり再び空振りを取られる。

 

(そう……高波打線の途切れるポイントはここ。だからこそ先程の回、三者凡退で終えたかった)

 

(明菜のスイングなら当たれば飛ぶんだ……! 明菜が打てば、チームの雰囲気もがらりと変わる。お願い……奇跡でもなんでもいい。当たって!)

 

 高波キャッチャーが祈るように両手を握ると3球目が投じられた。

 

(カウントに余裕はある……アウトローの四隅よ。……低いかしら。……!)

 

 アウトローに投じられたストレートは低く外れていたが、中条はこのボールにバットを振り出していた。そして……キャッチャーミットの捕球音が響いた。

 

「ストライク! バッターアウト!」

 

(はぁ……。実力勝負の試合で奇跡なんて起こらない。そんなことは分かってたはずなのに……。バットを振る振らないじゃない。もっと、根本的なとこ……)

 

「明菜! 私たち、まだ諦めてないよ。最後まで諦めないで!」

 

「え……。……分かった」

 

 ベンチへと帰った明菜が声援を飛ばすと、続く5番バッターへの初球はコントロールの安定している低めのストレート。このボールにバッターが思い切って縦に振り出したバットは芯より根本側の部分で捉えられた。二遊間をふらふらと越えていく打球に中野が突っ込んでいく。

 

(ダイレクトで……いや、これは……上手く内野との間に落とすように打たれてるにゃ。届かない。確実に捕るにゃ!)

 

 このボールに全速力で向かっていた中野だったが上手く間に落とされた打球に無理はせず、ワンバウンドしたところを確実に捕球した。

 

(あの5番……またヒットを。そうか……中条さんは敬遠されるデータも多かった。敬遠された後にも脅威となる5番打者を配置するという意図のあるオーダーだったのね。インコースじゃなくとも低めを詰まらせて上手く落とされた……やられたわ)

 

「野崎さん。切り替えましょう! 一つずつアウトを取っていくわよ!」

 

「はい!」

 

 続く6番打者が右打席に入るとインコース真ん中に投じられたストレートが内に外れ2球目、真ん中低めやや外寄りに投じられたストレートにバットが振り出された。

 

(今度こそあの一二塁間を抜く!)

 

(低めではあるけど少し浮いてる……!)

 

 このストレートに逆らわず右方向に打ち返した打球に反応した阿佐田が飛びついてミットを伸ばしたが、その先を抜けていった。

 

(1打席目より打球が速いのだ……!)

 

(よし! ……! ライトが三塁に投げる?)

 

 一二塁間をゴロで抜いたバッターランナーが一塁ベース手前まで入るとライトがサードへと視線を向けているのに気づき、ベースに膨らむように入ると一塁ベースを蹴って二塁を狙った。

 

(サードは間に合わない。……あおい。君なら狙っているだろう?)

 

「……! バック!」

 

「えっ!」

 

(あおいのことをよく分かってるのだ!)

 

 バッターランナーがベースを蹴った数瞬後、ボールを捕った九十九は迷わず阿佐田のもとへと送球し、このタイミングでバックの指示が送られた。届かない打球に飛び込んで一塁に寄っていた阿佐田は立ち上がりながらこのボールを収めると、すぐさま反転した。

 

「こむぎん!」

 

「……!」

 

 オーバーランしたランナーが慌てて帰塁するとタッチが行われ、判定が下された。

 

「……アウト!」

 

(しまった……! このぬかるんだ地面だと勢いの乗った走塁を急には止められなかった……)

 

「これが『あおい99』なのだ!」

 

「そのネーミングだけはなんとかして欲しいけどね」

 

「……今のセカンド、届かないのは分かってて飛びましたね」

 

「みよ、そんなの分かるの?」

 

「アタシからすればちょっとわざとらしい演技ですよ。すぐに立ち上がらなかったのもランナーを油断させるためです」

 

「へー……」

 

「それより高波のランナー、気になるわ。確かに夏の対戦の時も強打の代わりに走塁はどちらかといえば雑だったけど……」

 

「1点差なら無理はしなかったでしょうね。この回で2点返さないといけないプレッシャーが焦りとなって顕われたわね」

 

 次の対戦相手を見定めるように試合が終わってからスタンドで観戦していた明條学園の面々が話していると、右打席に入った7番打者に2ボール1ストライクからインコース低めへとボールが投じられた。

 

「ストライク!」

 

(くっ……手が出なかった。クローズドスタンスだと振っても間に合うかどうか……)

 

(ミットが流れる……さっきはそれでボールにされてしまったように感じるし、気をつけないと)

 

「……最後まで崩れずいきなさい!」

 

「……! キャプテン……はい!」

 

 この内への角度のあるストレートに自身のクローズドスタンスを諦めようとした7番打者へ中条から声援が送られると、再びクローズドスタンスでバットが構え直された。

 

(カウントを取るのにクロスファイヤーを多く使ったし、ここは……これで決めましょう。相手はこのボールのデータは持ってない。ストレートしか投げていない状態では、対応するのは無理だわ)

 

(……! パームボール……ですね)

 

 2アウトランナー三塁。カウント2ボール2ストライク。野崎はミットの中で手のひらで包むようにボールを握ると投球姿勢に入り、パームボールを投じた。そのボールは真ん中低めのストライクゾーンへと落ちていく。

 

(どうして崩れず、なのか。そうだ……雨の中断の時、キャプテンが言ってた。目の前のピッチャーがブルペンでストレートじゃない、低めに落ちる遅い何かを投げているって。クローズドスタンスは……溜めを作れるから、追い込まれた場面で崩してはいけなかったんだ!)

 

(そんな……溜められた!?)

 

(チェンジアップ……? いや、落ちてきてる。……ここだ!)

 

 このボールに対してストレートに惑わされず溜めを作ったバッターは引き付けて変化を見極めるとバットを振り出し、球威のないパームを捉えてファーストの頭上へと放った。

 

「とりゃー!」

 

「……!」

 

 この打球に守備交代で入っていた秋乃が足首をバネのようにしならせて垂直方向にジャンプするとファーストミットを伸ばし、着地した。

 

「アウト!」

 

「やった……!」

 

 長いファーストミットの先に収まった打球は着地の衝撃でも溢れず、アウトの宣言がグラウンドに響いた。

 

 里ヶ浜と高波ベンチから対照的な表情で選手が出てくるとグラウンドで列を作って向かい合うように並び、球審から4対2で里ヶ浜高校の勝利が宣言される。

 

「両校、礼!」

 

「「ありがとうございました!」」

 

「……ねえ、そこの……」

 

「中条さん……? 」

 

 試合が終了し、翼は中条に話しかけられると、少し驚いたような表情を見せた。

 

「……負け惜しみっぽいから言わないつもりだったんだけど……やっぱ言う。正直初回のあんたのプレー見て、勝ったと思った」

 

「そうだったんですか……!?」

 

「だってチームを支えるキャプテンがあれじゃ、勝てるものも勝てないし」

 

「うう……そうですよね」

 

「けど、それは私も同じだった」

 

「え……?」

 

「One for all, All for one。1人はみんなのために、みんなは1つの目的のために。高波の打線の強みは勝負強さ。そのために繋ぐ打線の意識が重要だった。……私は周りのことは見えてても、私自身のことは見えてなかったかもしんない」

 

「……私も、今日似たようなことを思いました。他の人に抱え込まないでと言っているのに、私自身が抱え込んでいたことに気づかなかった」

 

「……あんたは試合の途中で気づいたのね」

 

「はい。チームメイトのおかげで」

 

「……はぁ。……なんか惨めになってきた」

 

「ええ!? そ、そこまではさすがに思わなくても……」

 

「そう? ……あーあ。負けた負けた。一回寝て、気持ちの整理つけて、またやり直すわ。オフの時間一杯あるし」

 

(私も整理した気持ちを彼女にぶつけて、信じた道を……進もう)

 

「はい。そうしたら……また試合で戦いましょう!」

 

「えー……やだ。同じ相手とやるのだるい」

 

「ええっ!?」

 

「冗談冗談。今度はお互い、枷を取っ払った状態でやろ」

 

「……はい!」

 

 こうして中条が背を向けると翼も反転して歩き出す。すると逢坂がベンチ前でスタンドに向けて人差し指を向けているのに気づいた。

 

「わぁ……綺麗な虹だね!」

 

「へっ? あっ、本当……綺麗ね」

 

 いつのまにか雨が止んでおり、空に浮かぶ虹に2人とも感嘆の吐息を漏らしていた。

 

(アタシが指を刺したのは虹じゃないけど、勝利の後に見る虹は格別ね)

 

 虹に見とれていた逢坂が東雲の催促で帰り支度を整えるよう指示されると、一度スタンドにいる大咲みよに視線を移した後、ベンチに入っていった。

 

「変性意識状態?」

 

「ええ……あなたがさっき言っていたトランス状態はその代表格よ」

 

 高波高校のOGはスタンドから出て、球場の外へと出ていく後輩たちのもとに向かっていると、前キャプテンがぽつりとこぼした言葉にもう1人が反応していた。

 

「前にアドレナリンが脳に行き渡るとエンドルフィン・ドーパミン・ノルアドレナリンといった物質も同時に出てくるって話はしたわよね」

 

「ああ……なんか疲れや痛みを和らげてくれるってやつか」

 

「そういう効果もあるんだけど、これらは脳内麻薬と呼ばれていて多幸感を抱かせる作用があるの。勿論、過剰に摂取しなければ達成感とか、そういう時の感覚に近い程度で済むんだけど……」

 

「……0から100に一気にアドレナリンが流れる変則的な明菜の『ゾーン』は私たちの想像のつかないような快感があるってこと?」

 

「恐らくね。さっきのトランス状態って言葉を聞いて、もしかしたらと思ったんだけど変性意識状態は宇宙との一体感を感じさせる……などといったその人の世界観を一変させるほど強烈なものなの」

 

「強烈な快感を無意識に求めて、抜け出せなくなってるって感じか……。どうするの?」

 

「手はあるわ。日常生活から少しずつ変えていけばいいのよ」

 

「変えていけるかなあ……?」

 

「大丈夫よ。明菜は……責任感の強い子だからね。きっと変えていけるはずよ」

 

(そして身体にもチームメイトにも負担のかかる形じゃない。新しい『ゾーン』の入り方も……模索していけるといいわね)

 

 高波OGが外へと出て周りを見渡すと、何やら騒がしい里ヶ浜高校と、落ち込んだ様子の高波高校が目に入り、2人は高波高校のもとへと歩いていくのだった。

 

「ね……寝不足ですか!?」

 

「ええ。寝不足の典型的な症状が出ています。それが原因では?」

 

 試合後、万が一身体の調子を崩している場合のことを考えて看護学校を志望する九十九が診察をしていると、翼の寝不足が判明していた。

 

「で、でも……ちゃんと冷たい水で何度も顔洗って目を覚ましました! それにいつもより念入りにウォーミングアップも!」

 

「……有原さん。交感神経は休めるべき時に休めないと、働くべき時に働いてくれないんですよ」

 

「こーかんしんけー……ですか?」

 

「……今日の試合、ボールに対して反応が遅れていたのでは?」

 

「うっ! そ、そうです……」

 

「それは神経が休まらなかったことで脳への伝達が普段より遅れてしまったことや、アドレナリンの分泌がいつもより抑えられて集中力の低下を招いたからでしょうね」

 

「アドレナリン……こう、気合いが入るとアドレナリンが迸るって言いますよね」

 

「あおいも同じようなことを言っていましたね。ええ、そうです。なので十分な休息を取るようにして下さい。今日は疲れた状態で神経を酷使する形になったはずですから、しばらくは安静にするといいでしょう」

 

「はーい……」

 

(そっか……。気持ちが上がってこなかったのは、そういうことだったんだ)

 

 やがて診察が終わるとスタンドから降りてきた天草がちょっと疲れた表情で里ヶ浜のところに来ていた。

 

「もー、みんな試合が終わったら一斉に出口向かいすぎでしょ……」

 

「天草さん」

 

「おー、東雲さん。それにみんなも。勝利おめでとう」

 

「ありがとう。貴女もあの絵でコンクールで入賞出来るといいわね」

 

「えー。あの絵を出すかどうかはまだ決めてないよ?」

 

「でも貴女はあの絵が気に入っているんでしょう?」

 

「そーだけど、良い子ちゃんな絵を求めがちなコンクールの審査員に理解できるかなぁ」

 

「出来なければ、審査員の見る目が無かったということでいいじゃない。私はあの絵、素直に綺麗だと思ったわよ」

 

「おおー、ありがとう。んー……そっか。絵は人次第で色んな解釈があるのが楽しいのに、わざわざ人の好みに合わせて描くのはわたしには合わないか。……ありがとっ! なんかすっきりしたよぉ」

 

「どういたしまして」

 

「東雲さーん! 次の試合っていつだっけ?」

 

 天草が天真爛漫な笑顔で東雲に礼を言っていると、九十九の診察を終えた翼がやってきた。

 

「4日後の水曜日よ。それがなに?」

 

「椎名さんを誘ってみる!」

 

「ああ……そうね」

 

「え……椎名さんって同じ里ヶ浜の生徒だよね?」

 

「知ってるの?」

 

「んーん。知らないけどぉ……。試合見にくるのは無理じゃないかな」

 

「えー! なんで?」

 

「みんなは大会だし、テスト終わったのもあって公欠みたいだけど……私たちは普通に授業あるよ?」

 

「「あっ……」」

 

「そうね……さすがに私たちの都合で休めとは言えないわね」

 

「そんなー……」

 

「落ち込むことはないわ。三回戦は土曜日。勝ち上がって誘えばいいじゃない」

 

「そう……だね」

 

「ん? なんの話?」

 

「逢坂さん。貴女今までどこに……」

 

「ごめんごめん。大黒だ……大咲みよに結局絡まれちゃって。それよりなに話してたの?」

 

「次の試合を椎名さんに見せかったんだけど、授業があるから見せられないんだ……」

 

「へー、ゆかりちゃんかぁ……」

 

「あら、知ってるのね」

 

「まあねー。ほら、アタシって顔広いし」

 

「行きましょう有原さん」

 

「ちょ、待って待って! それならアタシいいアイディアがあるんだけどなー」

 

「え! 教えてー」

 

「どうしようかなー。龍ちゃんが意地悪したから秘密にしちゃおうかなー」

 

「…………なによ。2人ともその目は」

 

「誠意を見せてもらわないとねー」

 

「もらわないとだって!」

 

「……じゃあ、貴女には帰ってから伝える予定だった情報を先に伝えるわ」

 

「お、情報売買とは……龍ちゃんも悪よのお」

 

「せめて情報交換と言って。……次の明條戦のオーダーだけど、“対左投手”のオーダーを組む予定よ」

 

「そっか……ふむふむ……どういうこと?」

 

「分からないなら紛らわしいリアクションをしないで頂戴。野球のセオリーでは左打者は左投手を打ちづらいとされている。だからオーダーを右打者で固める、という意味よ」

 

(……ということはアタシにもチャンスが……!)

 

「よく分かったわ龍ちゃん! じゃあアタシの情報だけど……」

 

 こうして情報交換が行われ、逢坂の情報に翼と東雲が納得すると里ヶ浜のバスがやってきた。このまま観光した後、夜行バスで帰るという天草とここで別れると、バスが宿舎に向かって出発する。

 

「でも本当に勝ててよかったね。……翼?」

 

 隣に座る河北が翼に話しかけると返事が返ってこず、不思議そうに翼の表情を覗き込んだ。

 

「もぅ……だらしない顔だなぁ」

 

 出発して間もなく眠りに落ちた翼の緩んだ表情を見て、河北はしょうがないなぁという風に微笑むのだった。




裏話としては今回の翼と東雲の会話を前回のラストに入れて試合が再開するところで区切る予定でした。今回もですが前回も想定より文章量が多かったことで、今回に回す形になりました。目算が甘いことが多いので、もう少し上手いこと配分できるようになりたい。

来週はスキップで、次回は2週間後でお願いします。


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虫時雨に包まれて

加筆修正完了しました!


 高波高校との試合の翌日。試合の疲れを癒すべく里ヶ浜高校女子野球部はこの日を休養日としていた。各々が自由気ままに過ごす中、逢坂と初瀬は近藤のことを探していた。すると小腹が空いた時用のお菓子を互いに交換している新田と永井の姿が目に入る。

 

「あー。咲なら野崎と一緒に出掛けたよ。買い出しついでに用事を済ませてくるから遅くなるって」

 

「そうですか……」

 

「残念ねー。恋愛小説トークしようと思ったのに」

 

 所在を聞いた二人が残念そうにため息をついていると小気味の良い着信音が鳴った。それに気づいた逢坂が携帯端末を取り出すと届いていたメッセージに顔を輝かせた。

 

「翼ちゃーん!」

 

「なーに?」

 

「アタシの覚えてた通りだったわ! ゆかりちゃんもサッカー部の大会で公欠だって!」

 

「そっか……! それで、もう一つの方は……」

 

「あー。NINE(ナイン)のID交換したいって話? 『良いけど……』だって」

 

「そ、そっか」

 

 ゆかりの返事から気乗りしていないことを察した逢坂は彼女の声色を真似るようにしてそれを伝えると、翼の表情を窺うように覗き込んだ。

 

「何があったのかは知らないけど……アタシが代わりに言おうか?」

 

「ありがとう。けど……私の口から直接伝えたいんだ」

 

「んー……分かった。あ! あと今日は試合があって忙しいみたいだから、何かあるなら夜にしてって」

 

「うん! 分かったよ」

 

 逢坂に元気よく返事を返した翼は窓に近づいて空を見上げると、今頃試合会場へ向かっているであろうゆかりに思いを馳せるのだった。

 

 ——ガタンゴトン。電車に揺られ、野崎は窓の外の景色に目を向けていた。しかしビルやマンションが次々と流れる光景は今の彼女が見ているものではなく、彼女は憂わしげな表情を浮かべていた。

 

「野崎さん。次の駅で降りますよ」

 

「あ…………はいっ」

 

 近藤に話しかけられ野崎は我に返ると、自分でもその返事のたどたどしさを感じていた。

 

(ふぅ……。今からこんな感じでは、近藤さんに迷惑をかけてしまいますね。あら……?)

 

「近藤さん、それは……」

 

「これですか? 昨日の試合のスコアブックです」

 

 外に目を向けていた時間は長く、その間に近藤が取り出していたものに野崎はようやく気がつき、この移動時間を活用してスコアブックを確認していた近藤に驚いた。

 

「実は昨日私ならどうリードするかなと考えながらスコアブックをつけていたんです。強打の高波相手に7回5被安打2失点の内容……。もし私がマスクを被っていたら被安打の数も……そして失点もこの程度では済まなかったと感じました」

 

「そ、そんなことは……」

 

「いいんです。私は中条さんの第二打席を始めとしてそれを強く感じましたから。けど、こうして比較する一つ一つの判断が私の勉強にもなったんです」

 

「近藤さん……」

 

「私はまだ目の前のバッターに合わせてリードをするのが精一杯です。ですがこうして学んでいって……いつかもっと全体を見てみんなを引っ張っていけるような、そんなキャッチャーになりたい」

 

「……なれますよ。近藤さんなら」

 

「ありがとう。……これはね、野崎さんのおかげだよ」

 

「え……?」

 

「紅白戦が終わった後、あれがその時点での私たちの全力だったと認めさせてくれた。だから、全力でやってもなお足りなかったものを自覚することが出来たんです」

 

「そう……だったんですね」

 

「うん。あなたは……前に進む勇気をくれた。それはあなた自身、前へ進もうとする勇気があったから」

 

「あ……」

 

 その言葉に野崎は自身の名前である夕姫(ゆうき)は勇気のある強い子に、そして勇気を分けてあげられる優しい子に育ってほしいという想いを込めて名付けたと両親に聞いた時のことを思い出した。

 

「……高坂さんの容態がどんな状態なのかは分かりません。それに私は彼女のことをよく知らない。けど……あなたのことはよく知っているわ」

 

「近藤さん……」

 

「昨日の話を聞く限り、きっとあの肘は軽い怪我では済まないと思うの。彼女が受けるショックは私には計り知れない……。だけどあなたなら……前に進む勇気を分けてあげられると思うんだ」

 

「私が……。……はい!」

 

 力強く返事する野崎の表情を見た近藤は頷くと、開くドアの音をバックにスコアブックを鞄にしまい、野崎と共に電車を降りて病院へと向かうのだった。

 やがて病院にたどり着いた彼女たちは面会簿に記名して名札をつけ、エレベーターで高坂のいる階へと向かっていた。そして目的の階にたどり着いた野崎は開閉ボタンの『ひらく』を押して車椅子に乗っている患者を優先して降ろすと、端に寄っていた近藤と共にその階へと足を進めた。独特な消毒液の匂いを鼻に感じながら、目的の病室へと向かっていく。その途中だった。不意に野崎が病室とは逆方向へと振り向いた。

 

「野崎さん?」

 

 そんな野崎に釣られるように近藤も振り向くとその先にあったのはデイルームと呼ばれる談話室。そこで向月高校のキャッチャーと高坂が何かを話している様子が窺えた。

 

「……アタシもアンタのこと信じるだけで、何もしてあげられなかった」

 

「馬鹿じゃないの……。アタシが肘の痛みを隠してたのが、どう考えても悪かったでしょ」

 

「それは反省して欲しいけどね。でもそれは……アンタ一人に背負わせすぎたんだよ。あの子のことも、互いに話題にするのを避けてた」

 

「…………そうね」

 

「昨日の試合さ、清城のバッテリーには信頼し合うだけじゃない何かを感じたんだ。きっとそれは……アタシたちに足りなかったものだと思う」

 

「何かってなによ」

 

「言葉にするのは難しいんだけど……任せっきりにするんじゃなく、腹を割ってその時その時の気持ちを分かち合う覚悟、かな。……あのデッドボールの後、アタシはタイムを取るべきだったんだ」

 

「アタシがマウンド寄っていかれるの嫌いなの、知ってるでしょ」

 

「知ってる。でもあの時アンタが抱えていたものをアタシは分からずに勝負した。だから最後の決め球で……迷いが生まれたんだ」

 

「……確かにね。勝負で迷った時点で、つけ込まれる隙を与えていた……」

 

「ねえ、椿。アタシは……なりたいよ。アンタと全国No.1のバッテリーに。アンタはどうなの?」

 

「……その答えは……」

 

 やがて二人の会話が終わると離れて病室の前で待っていた野崎と近藤のもとに彼女たちがやってきた。

 

「教えやがったわね……クソキャッチャー」

 

「はは……教えた方が良いと思ったからよ。来てくれてありがとう。アタシはここでおいとまするよ」

 

 そうして彼女が去っていくと暫しの静寂の後、野崎が口を開いた。

 

「こ、高坂さん……! 肘は……?」

 

「……はぁ。“また”全治3ヶ月よ」

 

 高坂は自身の右肘を固定するように巻かれた包帯に目を向けてため息をつくと、その言葉に野崎は一瞬戸惑ったが、次第に安堵した表情へと変わっていった。

 

「全治3ヶ月……ということは、ピッチャーは続けられるんですね……!」

 

「アンタたちにとっては……続けられない方が良かったかもねぇ?」

 

「……そんなことはありません。それに高坂さんがピッチャーを出来なくなったら、あの時の……あなたを超えるという約束も果たせなくなりますよ」

 

「……ふん。言ってくれるじゃない」

 

 そう返事をした野崎に少し笑った高坂は隣にいる近藤が気になりそちらに視線を向けた。睨んでいるようにも感じられる目つきに近藤はドキッとする。

 

(私がいると気兼ねなく話せないかな)

 

「野崎さん。下で待ってるので終わったら来てください」

 

「わ、分かりました」

 

 近藤はそう言うとエレベーターで下に降りていき、残った二人は先ほどのデイルームへとやってきた。

 

「また全治3ヶ月……ということはやはり、あそこにある総合病院に通っていたんですね」

 

「その言い草だと気付いてたみたいね」

 

「はい……。ただ疑問なのですが、今から3ヶ月というと夏大会の前に肘を痛めたんですか?」

 

「違うわ。アタシが肘を痛めたのは8月の夏大会決勝戦よ」

 

「それだと……3ヶ月経っていないのでは」

 

「そうね。保護期が過ぎた回復期……つまりアタシの肘は症状は収まったけど、完治には至ってない。そういう段階だった。それでもシュートの球数制限さえ守れば、問題は無かった。守れば……ね」

 

「どうして……守らなかったんですか?」

 

「……ついてきなさい」

 

 そう言うと高坂は椅子から立ち上がり、野崎がその後ろをついていくとたどり着いたのは奥にある換気用の窓の前だった。その窓を通してリーリーという松虫の鳴き声がひっきりなしに聞こえており、静寂に包まれた病室とのはっきりとした違いを野崎に感じさせた。

 

「あそこにうるさい鳴き声を出してるやつが一匹いるでしょ。アイツはなんで鳴いてるんだと思う?」

 

「え? それはどういう……」

 

「………」

 

 何も答えない代わりに「いいから」と言わんばかりの目線を向ける高坂に野崎は戸惑いながらも、質問の答えを探ることにした。

 

「そう……ですね。オスがメスへのアピールをするために鳴くというのを聞いたことがあります」

 

「そういうやつもいるだろうけど……あれ見て」

 

「あれというと……紅葉した大きな木がありますね」

 

「あれは桜の木らしいわ。そしてこの病院で最も大きい樹木でもある」

 

「そうなんですか!? 桜といえば春のイメージがありますが、紅葉した桜も綺麗ですね……」

 

「……。あれはね……縄張りを守るために鳴いてるのよ。あのアオマツムシってやつは毎年好物の桜の葉を求めて住み着くらしいけど、普通なら夕方ごろから鳴くらしいわ。だからこんな昼から鳴くのは珍しい」

 

「確かにあまり昼にマツムシの鳴き声は聞きませんね。涼しくなってきた時間に聞こえてきて、風流だと感じますから」

 

「そう? ……アイツは何がなんでもあの頂を他のやつに譲りたくないのよ。アタシも……そうだった。たとえ羽根を痛めても鳴き続けるのを止めるわけにはいかなかった。それが球数制限を破った理由よ。全く……治るのに時間がかかったくせに、一瞬で壊れるものね」

 

「高坂さん……」

 

 そう語った高坂は自嘲するように笑うと桜の木を背にして歩き出し、こぼすように呟いた。

 

「でもアタシは……負けた」

 

「それは高坂さんの肘が限界を迎えたのが原因で、高坂さんのせいでは……」

 

「やっぱりアンタは甘いわね。その限界を見極められなかったのはアタシ自身なのよ。……なによ。そんな顔して。アンタ、昨日の試合見てたでしょ?」

 

「はい……」

 

 松虫の鳴き声が遠く小さくなっていくと、デイルームに戻った二人は椅子に座り直し、一拍置いて話を続けた。

 

「なら当然見てたわよね。あのランニングホームランを」

 

「6回の高坂さんの打席……ですね」

 

「そうよ。けどあの走塁は……最悪のワンプレーだった」

 

「どういうことですか……?」

 

「スタンドにいたアンタは分かんなかったかもしれないけど……ホームに突っ込む時、コーチャーはストップの指示を出していたのよ」

 

「そうだったんですか……。確かにそれは止まるべきだったのかもしれませんが、結果的にはセーフでしたし、最悪と言うには……」

 

「最悪よ。そんな場当たり的な結果論で良しとしていたら、今は良くてもいつかは痛い目見るわ。もしコーチャーの判断が間違ってるならプレーの後、指摘する。けどランナーとしてダイアモンドに出たら、コーチャーの判断を信頼すべきなのよ」

 

「え……」

 

「何?」

 

「いえ……その、高坂さんの口から信頼という言葉が出るとは思わなくて……」

 

「……あ? 喧嘩売ってんの?」

 

「め、め、滅相もないです! ただ、夏大会前の向月との練習試合での高坂さんの部員への態度を思い出してしまって……」

 

「ああ……三軍の試合ね。当然よ。あれはアイツらがまだ信頼されるだけの実力が無かったんだもの。単なるレフト前ヒットを後逸したやつもいたでしょ」

 

 野崎はその試合のことをよく覚えていた。特にそのエラーをしたレフトを交代しようとし『向月に下手な選手はいらないの』と告げる高坂をベンチから見ていた野崎はそのことが強く印象に残っていた。

 

(私はあの時……すごく冷たい人だと思いました。けど、あれは今考えると……)

 

「あれは……信頼するために、必要な実力を一軍以外にも求めたということだったんですか?」

 

「当然でしょぉ? ポロポロ溢すやつを信頼できる? 口だけじゃなく……心から」

 

「……それは……確かに本当の信頼ではないのかもしれませんね」

 

「ふん……だからアタシはエラーが嫌いなのよ。信頼を裏切る行為だから。そしてそんな行為を……アタシはしたのよ」

 

(……先日『エラーなんてものはないのが当たり前』と高坂さんは語りました。私はそれを投手には関係ないと言わんばかりの言葉だと感じました。けど、そうでは無かったんですね。実力を信頼しているからこそ、エラーしないということを前提にしていた……)

 

 コーチャーの静止を無視したプレーを思い出して鬼気迫る高坂の表情を見て、明條との練習試合の後にそう語られたことを思い出した野崎はその話の後に向月への勧誘を受け、その時の高坂は平常心を失っていたことを思い出した。

 

「もしかすると……余裕が無かったのかもしれませんね」

 

「ちっ、そうかもね。あの試合、今思い出すと途中からアタシは周りが見えてなかった」

 

(さっきクソキャッチャーに言われた通り……か)

 

 しばしの時間を置いて高坂が落ち着きを取り戻したのを見計らい、野崎は聞こうと思っていた本題をここで問いかけた。

 

(肘の容態が最悪の事態を免れ、前に同じようなリハビリをしていることもあってか、肘の怪我によるショックというものは近藤さんが心配していた程には大きくないように感じます。ですが……)

 

「あの……試合が終わった後、どうして私に謝ったんですか?」

 

「あれか……」

 

(そうね……。アンタには話さないといけないわね)

 

 その問いかけに苦さと諦めが混じったような顔を浮かべた高坂は観念したように話し出した。

 

「アンタはね。あまりにも似てるのよ……」

 

「似てる……。あ……キャッチャーの方が話していた同じボーイズリーグ出身のですか?」

 

「アイツそんなことまで話したの?」

 

「ええ……。この前の夏大会で投手生命を絶たれて、野球部を辞めてしまったと聞いています」

 

「……そうよ。過度の投げ込みがたたって肩を壊したのよ。アタシはね……そいつの代わりを無意識のうちにアンタに求めていたのよ。アンタに指導したのもアイツにしてやれなかったから……」

 

「そう……だったんですか?」

 

 野崎が驚きながら問いかけた言葉に高坂が首を縦に振ると、暫しの沈黙が彼女たちに乗しかかった。

 

「……それでも謝ることはないと思いますよ」

 

「そんなことはない……! だってアタシはアンタのことを、アイツだと思って、自己満足で教えていたってことよ……!」

 

 静寂を破った野崎に高坂は机に勢いよく左手をついて怒涛のように反論すると、それに対して野崎は静かに首を横に振った。

 

「確かに重ねていた部分はあったのかもしれません。ですが……私のことを高坂さんはきちんと見ていましたよ」

 

「なんでそんなことが言えるのよ……!」

 

「聞いた話だと……その方はコントロールの良いピッチャーでしたよね。でも私はお世辞にもコントロールの良いピッチャーではありませんでした。もし、私を彼女だと思って自己満足で教えていたら……上手くなれなかったと思います」

 

「あ……」

 

(……アイツに必要なのは下半身の筋肉に負荷をかけて鍛えることだった。けど野崎にはそれが優先して必要なわけではなかった……)

 

「キャッチャーの方も私がその方に似ていると言っていました。どうしても重なってしまうのは仕方のないことだと思います。けど高坂さんは私のことをしっかり見てくれた。だから……私は気にしていませんよ」

 

「…………」

 

 身体を乗り出して至近距離で刺すような視線を向ける高坂の目を真っ直ぐに見て返したその言葉に高坂が困惑と安堵の混じった表情を浮かべると、再び座り直した。

 

「それに、覚えていますか? 私が四隅の練習をしていた時に焦らずにじっくり時間をかけて身に付けるしかないと言ってくれたことを。きっとそれは同じように投げすぎで、肩を壊さないようにと……そういった心配もしてくれたのだと思います」

 

(……そう言ってくれるのは嬉しいけど、アイツとアンタはそういうところが……似てるのよ)

 

 野崎の言葉に心のつかえが取れるような感覚を一瞬覚えた高坂だったが、不意にそんな野崎と彼女が重なって見え、顔を背けてしまう。

 

(夏大会で投手生命を絶たれたその投手。この大会で肘を痛めてまで投げ続けた理由。高坂さんが余裕が無かったのはきっと彼女が関係していますよね……)

 

 毅然とした態度が崩れた高坂を見て野崎は心の中で決断すると再び高坂に語りかけた。

 

「……肩の容態はどうなんですか?」

 

「最後に聞いた話だと……リハビリで日常生活に支障がない程度には回復したけど、ピッチングどころか送球もままならないくらいには酷いわ」

 

(そんなに……。確かにそれは投手生命を絶たれたということになってしまいますね)

 

「その方とはボーイズリーグから一緒にやっていたんですよね」

 

「そうよ。前に少し話したけど、アタシと同じ時期にピッチャーを始めたの」

 

「肩を壊された後……どんな話をされたんですか?」

 

「……話してない」

 

「えっ?」

 

「話せるわけ……ないじゃない。今更アタシがアイツに何をしてやれるっていうのよ」

 

(そんな……。私と重ねるほどその方のことを気にしているのに、話すことが出来ていないなんて……)

 

 険しくもどこか追い詰められたような高坂の表情を見てこれ以上の追求に戸惑いを覚えた野崎だったが、先ほどの決断を貫くように話を続けた。

 

「ですが……ずっと野球を一緒にやっていた高坂さんと話くらいはしたいと思っているのではないでしょうか」

 

「さあね? アタシはアイツに必要なトレーニングが何かを分かっていたけど、アイツ自身の手で道を開くことを期待して言わなかった。むしろ恨んでて話もしたくないかもね……」

 

(……後悔、しているんですね。ですが……)

 

「……高坂さん。私がシャドウピッチングで無駄のあった投球フォームを安定させてしまいそうだった時のことを覚えていますか?」

 

「急になに? ……覚えてるわよ」

 

「もし、ですよ。もしあの時偶然あなたと会わずにその投球フォームが身について、身体に余計な負荷がかかって故障してしまったとしても……他の誰かを恨むことはないと思います」

 

「……!」

 

「それどころか……高坂さんに限らず、他の誰かに聞くという選択をしなかったことを、ずっと……後悔してしまうかもしれません」

 

「まさか……アイツがアタシに話してこない理由は、アタシがアイツに話しかけない理由と同じで……!?」

 

「きっと、後悔してるんだと思います。どんな理由があれ、チームにも……そして高坂さんにも自分の選択で迷惑をかけてしまったと」

 

「違う! だってアタシが……! アタシが…………」

 

 とっさに反応した高坂が興奮気味に立ち上がったが、次第にその声が尻すぼみに弱まっていくと、やがて口が閉じられ、唇が強く噛みしめられていた。野崎は一度落ち着かせるように高坂を座らせると、自動販売機からカフェオレを二つ買ってその内一つを高坂の前に置いた。そして固定されている右肘を見てその缶の蓋を開けると、それを飲んだ高坂が少し落ち着いたのを見ながら座り直した。

 

「一度……話してみませんか?」

 

「……はっ。今のアイツと話しても過去の古傷を抉るだけよ」

 

(きっと……それが先に進めない一番の理由なんですよね。その方がピッチャーが出来ない以上、もう前に進むことが……。何か……ないんでしょうか)

 

 野崎は自分が野球を始めてからこれまでの記憶を必死に探る。すると……一つの記憶に思い至った。

 

「野崎さんは今ピッチャーとしての練習が中心ですが、ベンチに置いておくにはもったいないバッティングの成績を残していたのでファーストでの起用になりました」

 

 紅白戦が終わった後のスタメン発表でピッチャーの練習をしていた自分がファーストで起用された時のことを思い出した野崎は恐る恐る高坂に問いかけた。

 

「あの……その方はバッティングはどうなんでしょう?」

 

「……悪くはないわよ。外野で起用するか試されたこともあったわ。……ま、アタシの方がバッティングの成績良かったし、打での起用は結局ほとんど無かったけどねぇ」

 

「それならその……野手、としての道は残されているのではないでしょうか?」

 

「野手、ねぇ……」

 

(無い話ではないと思うのですが、思ったより反応が薄いですね……)

 

「アンタ……バッティングのことしか考えてなかったでしょ。守備はどうするんのよ」

 

「守備……あっ! 送球……」

 

「そうよ。左肩で投げるのは無理……右で投げようにも左利きのアイツには簡単な話じゃないでしょ」

 

「で、ですが……」

 

「それに……」

 

「……?」

 

「アタシたちは名門向月よぉ? 野手の層だって厚い……。左肩のディスアドバンテージを背負って、勝ち残れっこないわ」

 

「…………! ど、どうして……」

 

(……? どうしてってなによ。……!?)

 

 下を向いた野崎の顔を覗き込むように見た高坂は流れ落ちる涙に気付いて目を丸くした。

 

「どうして……そんなことを言うんですか。私が、野崎夕姫が高坂椿から学んだ一番大切なことは……」

 

 これまでの指導が次々と流れるように浮かび上がってくる中で、最も大きく浮き上がったのは最初に高架下で出会った日の出来事だった。

 

「やる前から限界を自分で作って諦めてしまうことの……馬鹿らしさ、ですよ」

 

 涙で潤んだ瞳は怒気を含むように力強く見開かれ、高坂の瞳を突き刺すような視線で見つめていた。

 

「……!」

 

 対して高坂はその視線と共に突きつけられた言葉を受けて黙り込むと、少しの時間を挟んで大きなため息をつき、口を開いた。

 

「アンタの……言う通りよ」

 

「……高坂さん。私には……今のが本心であったとは思えません」

 

「……そう、ね。アンタに野球を教えたのと同じ。どれだけ御託を並べても、奥底にあるのは格好のついた理由じゃない。ただ……怖かったのよ。今からの野手転向は茨の道。アイツが断る可能性もある。けどそれ以上に……また間違った選択をして後悔することが、怖かった」

 

 左肩を押さえて悲痛な声を上げる彼女の姿や、もうピッチャーをすることは出来ないと聞いた時のショックが、彼女の記憶に強く刻まれており、それが震えとなって現われてきていた。

 

「その方が断るかどうか……そればかりはその方次第です。彼女のことをよく知らない私が言えることはありません……ですが」

 

 震える左手を一回り大きい手のひらで包むように握った野崎は驚いたように見てくる高坂に穏やかな笑顔を向けた。

 

「高坂さんなら、大丈夫です」

 

「どうしてそんなことが言えるのよ……」

 

「あなたは知識の無い私に多くの的確な指導をしてくれました。私は指導者としてのあなたの実力をよく知っているんです。だからそれを……信頼することが出来るんです」

 

「あ……」

 

 強烈に刻まれた記憶を包み込むように高架下での特訓で野崎が成長した日々が鮮明に思い出されていく。すると震えは次第に収まっていった。

 

「……!」

 

 それを確認した野崎が手を離すと高坂は急に立ち上がって背を向け、飲み干したカフェオレをゴミ箱に捨てると、換気用の窓の方へと歩いていく。すると先ほど一匹だけで大きな鳴き声を出していた松虫がいつの間にか群れをなして共に鳴いているのを目にしながら、小さく鼻を鳴らした。突然のことに戸惑いながら少し遅れてついていった野崎は鳴き声に紛れて聞こえてきたその音に足を止める。二人はしばらくの間、窓から合唱のように聴こえてくる虫時雨に包まれた。やがて高坂が振り向くと伝えられた短い言葉に野崎は顔を(ほころ)ばせたのだった。



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逢魔が時に刻む影

「ゆかちゃんー!」

 

「わっ!? もー、急に飛びついたらびっくりするじゃん」

 

「ごめんごめん。でも勝てたのが嬉しくてー。それに私もゆかちゃんにアシスト出来たしさ!」

 

「あれは良いオーパーラップだったね! クロスも合わせやすいところに来てたよー。それが決勝点になって勝てたしね」

 

(ただそれで調子に乗って後半のロスタイムでも上がり過ぎちゃってたのは良くなかったけど……ま、いっか)

 

 里ヶ浜女子サッカー部は初戦を1-0で制して宿舎へと帰ってきており、急に飛びついてきた友人にゆかりは驚きながらも互いに勝利の喜びを分かち合っていた。するとその友人がゆかりがNINE(ナイン)を起動していたことに気がつく。

 

「あれ? 誰かと連絡ー?」

 

「うん……ちょっと野球部の子と話すことがあってね」

 

「え……?」

 

「ちょっと待っててね。すぐに終わらせてくるからさ。パパパーっとね」

 

「……わ、分かったー」

 

 そう言うゆかりの背をぎこちない微笑みで見送った彼女は以前ゆかりが野球部のグラウンドの方を見つめていたような気がしたことを思い出していた。

 

(ゆかちゃん、昔野球やってたんだよね。あれは懐かしかったからつい見てた……だけだよね? でも野球部と話すことって……)

 

 彼女が離れていくゆかりにとっさに手を伸ばすと、扉が閉じられてその後ろ姿が見えなくなってしまう。すぐに戻ってくると理解しつつも彼女にとってはそれがとても嫌なことが起こる前触れのように思え、寂寞の思いを抱くのだった。

 

(さーて、何の用かなー? もう翼と話すことなんてないと思ってたんだけど)

 

 玄関口から外へと出ていったゆかりは『今電話大丈夫?』と送信するとすぐに返ってきた『大丈夫だよ!』という返信を見てNINEの無料通話機能を使い翼に電話をかけながら宿舎裏の壁を背にした。電話をかけたゆかりだったが、鼓膜に響く呼び出し音がそのまま鳴り続けても構わないとも思っていた。しかしそんな思いとは裏腹に呼び出し音はすぐに消え去る。

 

「あっ! もしもし、椎名さん?」

 

「そだよー。で、早速本題だけど……なんであたしが公欠中なの聞いてきたの?」

 

「あ、あのね。私たち水曜日から第二試合なんだけど……良かったら見て欲しいんだ!」

 

「……へ? そのためにわざわざここちゃんを通して連絡したの?」

 

「うん……!」

 

 翼の言葉に頭が追いつかないというふうにポカンとした表情を浮かべたが、少し考え込むと切って捨てるような言い方で答えた。

 

「無理だよ。そこまでめっちゃ遠いし、あたし達も木曜に第二試合あるから見に行けるわけないじゃん」

 

「あ……! そうじゃなくって、ええと……」

 

「……?」

 

 容量を得ない翼に戸惑っている間を挟み、携帯端末から少し離れた翼の「そうだった!」という声が微かに聞こえ、ゆかりは翼の近くに誰かがいて補足を入れたことを察した。

 

(誰かいるんだ。ま、いいけどさ……)

 

 周囲を見渡し誰もいないことを確認したゆかりは再び携帯端末に耳を預ける。

 

「テレビで見て欲しいんだ!」

 

「テレビ……? 高校女子野球って二回戦放送するほど認知度あったっけ?」

 

「いや、無いかなぁ……面白いのに。でも二回戦の相手は明條学園っていうところで……」

 

「明條……ここちゃんに聞いたことある。芸能人をいっぱい輩出してるとこだよね」

 

「うん! そこの部員の企画で、明條が出る試合だけは生放送してくれるんだって!」

 

「なるほど……だから公欠かどうか確認したんだね。授業あったらさすがに堂々と生放送見るわけにもいかないからね〜」

 

 逢坂伝いに聞いた情報を嬉しそうに話す翼の言葉にゆかりは納得しながらも顎に人差し指と親指を当てるようにすると、翼の声色が変わり恐る恐るといった様子で問いかけていた。

 

「それで、その……見て欲しいんだ。私たちの野球を」

 

「…………どうしてあたしに?」

 

「それは……あの食事会で野球を辞めたことを椎名さんのお姉さんを見ながら寂しそうな顔をして言ったから……。きっとまだ野球に未練があるのかなって」

 

「……あはっ。そっかぁ……」

 

(有原翼……やっぱりあなたにはあたしのことは分からないよ。だって、あの時あたしが見てたのは……あたしのお姉ちゃんじゃないからね)

 

「……いいよ。試合前日は軽く身体動かすだけでほとんど休養日みたいなものだから暇だし、折角だから見てみる」

 

「本当!? ありがとう……!」

 

「その代わり……一つだけいいかな?」

 

「な、なに?」

 

「確か言ったよね。今は秋大会の優勝目指して頑張ってるって……。あれはその場限りの出任せじゃないよね?」

 

「うん! 本気だよ……!」

 

「じゃあさ。その試合生放送するくらいだから、事前にキャプテンインタビューくらいあるよね? その時に言ってよ。目標は優勝だって……」

 

「……分かった!」

 

(これで新設野球部だからって逃げ道は消えて、優勝を目指す以上ゆいさんと比べられる。そしていつか翼もあたしと同じ気持ちになる……その時が見られるなら、見てもいいかな。あなたの野球を……)

 

 提案を承諾した翼の力強い返事を聞いてゆかりはかすかな冷笑に似た奇妙な笑みが唇の端に浮かぶと、その瞳には地平線に沈んでいく夕日が映っていた。

 

「それにしても運が良かったねー」

 

「え? なんのこと?」

 

「あたし達が一回戦勝ってなかったら、公欠じゃなくなるから見れなかったってことだよ」

 

「あ、そっか……! 確かにそれは気付いてなかったけど……でも椎名さん達なら勝てると思ってたよ」

 

「えー? 野球部とグラウンドも違うし、あたし達の実力なんて分かんないでしょ」

 

「みさお姉ちゃんが言ってたんだ! 『強かったー! それにこれからもっともっと強くなれる可能性を秘めてるよ』って」

 

「……でもさー。みささん達との試合1-3で負けたんだよ」

 

「大学生と高校生のフィジカルの差があったし、最後の3点目は残り時間考えると攻めるしかないところでのカウンターだったから、実際にはそこまで大きな実力差があった訳じゃ無かったって言ってたよ」

 

「……ふーん……。強くなれるってのは?」

 

「あれ? みさお姉ちゃんは椎名さんがそれに気付いてるみたいだって言ってたんだけど……。確かラインがどうって言ってたような……」

 

(……ラインの上げ下げの判断か……)

 

「……そっかー。そう言ってくれるのは嬉しいなぁ。あたし達も頑張るからさ、翼達も頑張ってねー」

 

「うん! 椎名さん達も大会頑張って! 一緒に勝ち上がっていこう!」

 

「おー。じゃ、切るねー」

 

 そう言ったゆかりは電話を切るとツーツーという音を聞きながら背にしていた壁へと振り向くと、自らの影にしばらく目を落としていた。やがて顔を上げたゆかりは宿舎の中へと戻っていく。すると待っていた友人から早速話しかけられた。

 

「ねー、ゆかちゃん。なんの電話だったの?」

 

「水曜日に二回戦が生放送されるみたいだから見てーって」

 

「そーなの?」

 

「うん。ま、折角だし見ようかな。ここちゃんとか凄くアピールしそうだなあ……」

 

(私の……気にしすぎだったのかなー?)

 

 いつもと変わらず屈託なく話すゆかりに彼女は抱いていた嫌な予感が和らいでいくと安堵に近い感情を覚えたのだった。

 

「くしゅん!」

 

「大丈夫ですか?」

 

「へ、平気よ。きっと誰かがアタシの噂をしてるんだわ。人気者は困るわね〜」

 

(待ってなさいよ大黒谷! ピッチャーになるのは間に合わなかったけど、この試合だけはスタメン入りしてアンタを返り討ちにしてやるんだから……!)

 

「……あら? 二人とも自主練ですか?」

 

「あ、おかえりー。遅かったわね」

 

「私たちも買い出し手伝った方が良かったでしょうか……?」

 

「大丈夫よ。ね、野崎さん」

 

「はい……!」

 

「なんか良いことあったみたいね」

 

「そのようですね」

 

 逢坂と初瀬が宿舎前のスペースで素振りをしていると野崎と近藤が買い出しから帰ってきていた。

 

「あれ、でも今日って休養日じゃなかった?」

 

「といってもアタシ達はそんなに疲れるほどは動いてないからさー。それに、昨日龍ちゃんの“対左投手”のオーダーを組むって発表があったでしょ? あれでアタシ達右打者はやる気いっぱいなのよ」

 

「私も中野さんに背中を押される形で……。『少しでもコンディションを上げておくんだにゃ!』って言われて、今出来ることをやろうかなって」

 

「あ、今の綾香ちゃんの声真似似てたわね!」

 

「そうでしたか? えへへ……」

 

「そうそう。試合にがっつり出てたみんなは今日は身体を休めるのに専念するーって言ってたけど、茜ちゃんはランニングに行ってたし、智恵ちゃんも壁当て出来るところ探してくるって言って、美奈子ちゃんはそれについて行ってたわよ」

 

「なるほど……皆さん気合いが入っているんですね」

 

「近藤さんも、もしかしたら起用があるかもしれませんね」

 

「ううん……勿論、準備を怠るつもりはないんだけど。対左投手のオーダーって言っても、ベースはやっぱり一回戦のベストメンバーのオーダーだと思うから、右打者の鈴木さんと入れ替える理由はないと思うな」

 

「そっかー……和香ちゃんも頑張ってるもんね。あ、それと明日と明後日は近くの運動場借りて練習するって」

 

「運動場を借りるのは元々予定していたみたいですが、今の皆さんの調子を改めて確認したいと言っていました」

 

「分かったわ。でもそう言うってことは、有原さんと東雲さんオーダーをどうするか悩んでいるみたいね」

 

 しばらくの間その場で話し込んでいた四人だったが初瀬が荷物を持ったままの二人を気づかい、話を中断して荷物を四人で分担して宿舎へと運んでいくのだった。

 

「悩んでいるみたいね」

 

「ええ……」

 

 やがて夜になり翼と東雲は一室を使って話し込んでいると、ノックしてから鈴木がその部屋へと入ってきた。

 

「スタメン決めを任せた身としてはオーダーに口を挟むつもりはないけれど、ただ不思議なのよ」

 

「どういうこと?」

 

「ベストメンバーとして選んだ9人の内、7人は右打者だもの。そこまで深く悩むようなことはないと思うのだけれど……」

 

「最初はそうかとも思っていたわ」

 

「けどねー。ファーストとライトをどうしようって話になって……」

 

「確かにライトは右打者が複数いるし、倉敷先輩を先発とするならファーストは左打ちしかいないから悩みどころかもしれないけど……」

 

「有原さん、貴女相変わらず説明が下手ね……」

 

「そ、そうだった?」

 

 有原の説明に呆れるようにおでこに手を当てながら東雲がため息をつくと、鈴木の方に振り返って話を続けた。

 

「まず前提として前に有原さんのお姉さんに協力してもらって、うちのバッターの対左投手のデータを取ったわよね?」

 

「ええ……記録したのは私だもの、覚えているわ。左バッターの成績は軒並み右バッターより落ちていて、左打ちだけどサウスポーに強い例外的なバッターはいなかったわね」

 

「そう……わざわざ対左投手のオーダーを組む一番の理由はそこよ。けど優勝を目指す上で次の明條戦で最も考慮すべきなのは、清城対界皇の勝者と三回戦で当たる点。界皇はもちろん、向月と界皇に勝って清城が上がってきても激戦が予想されるわ。そして三回戦は二回戦から中二日……明條との試合でエースの倉敷先輩に疲労が強く残れば、勝ち目はかなり薄くなってしまう……」

 

「一回戦も5イニングを投げ切っていることを踏まえると、この二回戦で倉敷先輩を先発させるのは望ましくないということね。もっと言えば、登板を避けられたらベストだけど……」

 

「それは試合の状況を見て判断するわ」

 

「そうね。ただそうなるとファーストで悩むのはおかしくないかしら? 倉敷先輩は右打ちよ」

 

「……守備よ」

 

「……なるほど。倉敷先輩はエースとしてピッチングの練習に集中してもらった分、ファーストの守備には不安があるということね」

 

「新入部員が入って人数に余裕が出た分、倉敷先輩はピッチャーに専念してもらおうってことになってたしねー。それに……」

 

「別に言ってもらって構わないわ」

 

「……?」

 

 翼が言いづらそうに振り向き、東雲が淡々と答える様子を鈴木は不思議そうに見ていると再び翼が説明を続けた。

 

「先発は東雲さんの予定なんだ」

 

「えっ、野崎さんじゃなく……!?」

 

「野崎さんは練習試合でフルイニング投げている分特徴を掴まれているかもしれないからリリーフに回ってもらうわ。そして先ほどのは倉敷先輩や野崎さんよりピッチングが未熟な私が投げる分、守備に不安を残したくないということよ」

 

「……そ、そうだったのね」

 

(けどそうなるとファーストの問題は振り出しに戻ってしまうわ。ファーストだけ対左を諦めるか、もし対左を徹底したいのであれば……手がない事はないけれど)

 

「他のポジションは決まっているのかしら?」

 

「ええ、ほとんど決まっているわ。後はファーストとライトを決めれば、自ずとオーダーは完成するわよ。それが悩ましいのだけれどね……」

 

「なるほどね……」

 

 その答えが腑に落ちた鈴木は二人の邪魔をしないよう部屋から出ていくと、翼と東雲はその後もオーダーを話し合ったが結局その場では決まらなかった。そして二日後の夜。二人は運動場での皆の調子を鑑みてオーダーを決めると、翼の口からオーダーが伝えられ、そのオーダーに皆が大きく驚いていた。

 

「わー! すっごくいれかわったねー!」

 

「凄く入れ替わった? ……ああ。そうかもしれないわね」

 

 秋乃の言葉が引っ掛かったようにオーダーを確認し直した東雲はその意味を理解すると、合点がいったように頷いたのだった。やがて明日に向けてのミーティングが終わり解散となると、ちょうど帝陽学園の面々が帰ってきたところで宿舎前で乾が指示を飛ばす様子が見受けられた。

 

「——するように。バッテリー斑はすぐにミーティングを始めるぞ」

 

「えー、少し休ませてくれよ……」

 

「身体に疲労を残させるような真似はしない。だが反省点を洗い出すには試合後が最も鮮明に思い出せる。この時を逸する訳にはいかない」

 

「ははは。分かってるよ。ちょっと言ってみただけだって……ん?」

 

(どうやらあの様子だと勝ったみたいね……。ただ何か違和感が……ひゃあ!?)

 

「わあ!?」

 

 するとその様子を扉を少し開けて見ていた鈴木は何を見ているのか気になった翼が肩に手を乗せるようにして覗き込んだ重みに耐えきれず、二人とも外に倒れ込んでしまった。

 

「……里ヶ浜高校の者か」

 

「あははは……どうも」

 

「もう、翼ったら……」

 

 申し訳なさそうに差し出された翼の手を掴んで鈴木が恥ずかしそうに立ち上がると、乾の鋭い眼光が突き刺さる。

 

「覗き見とはあまり趣味が良くないな」

 

「す、すいません……」

 

「ごめんなさい……」

 

「無論同宿舎での会話、聞かれたところで文句は言わないさ。だが礼儀は重んじるべきだ」

 

「「は、はい……!」」

 

「ケイ。口調変えるの忘れてるよ」

 

「はっ……! こ、こほん。失礼……私としたことが。とにかくこれからは気をつけて下さい」

 

「「分かりました……」」

 

(……なるほど。どうやら丁寧な口調は外行きに作っているもので、先ほどのが素の口調というわけね)

 

 こうして帝陽学園が帰ってきた宿舎が大勢の部員で賑やかになる中、その賑やかさに紛れるようにスタメン入りを果たした部員たちは明日の試合に向けて最終調整に励むのだった。

 

「オーダーは特に変わりはないわね」

 

「鉄壁高校との試合と同じように先輩が先発で4イニング、アタシが3イニング投げる感じですか?」

 

「その予定だけど、試合の進行次第で変えるから頭に入れておいてね」

 

「分かった」

 

「はい!」

 

 そして同時刻、明條学園も宿舎内でキャプテンからオーダー発表が行われ、エースと大咲にピッチャーとしての心構えを作れるように起用法が伝えられていた。

 

「出来れば予定通り分業して、三回戦に余力を残したいんだけどね……」

 

「問題は誰が先発してくるかですよね。練習試合で投げてきたあのサウスポーか」

 

「あっちもエースを登板させてくるかもしれないわよね」

 

「そうなると弱るなー。サウスポーの方はあの試合3得点止まりとはいえチャンスは作れてるイメージがあるけど、エースの方はあの強打の高波を結構抑えてたしうちの打線で何点取れるか……」

 

「そう弱気になる事はないと思うわ」

 

「どうして?」

 

「夏の高波は中条だけじゃなく、ほとんどのバッターに神経を使わされるような怖さがあった。それだけ打線が繋がる恐怖を感じさせられた……。けどあの試合の高波はそういう恐怖を感じられなかった」

 

「新チームになって打線が上手く噛み合ってなかったってこと?」

 

「多分ね……」

 

「それなら良いんだけど……うちは打線が課題だからね。ただ誰が先発してきても3点は取るぞーって気持ちは持っていきましょ!」

 

「はい!」

 

(待ってなさい。逢坂ここ……! 今度こそアタシ達がアンタ達に勝つ!)

 

 キャプテンの檄に部員全員の返事が重なるように響くと、大咲は拳を握りしめ明日の試合への思いを募らせていくのだった。

 

「調子はどう?」

 

「高校に入る前から私は先発完投型の投手でしたし、大会での連投も慣れています。問題ないと思いますよ」

 

「今日軽く投げてもらったけどボールの質は落ちてなかったよ」

 

(心配があるとすれば結局球数を抑えられなかったこと……それがどう響くか、かな)

 

「そっか……」

 

 清城高校が泊まる宿舎では明日の試合に向けての最終調整を終えた神宮寺が早めの休息を取ろうとしていた。

 

「後は当日のボールの精度ですね……」

 

「うん」

 

「……あのさ、神宮寺さん。あまり無理しないでね」

 

「……? どういうことですか?」

 

「向月の高坂さんみたいにはなって欲しくないんだ……」

 

「ああ……そういうことですか」

 

 試合後に肘を押さえていた高坂を思い出した神宮寺はその言葉の真意を汲み取ると右腕を見つめた。

 

「明日の相手はあの界皇です。無理をしなければならない場面も出てくることでしょう……」

 

「え……」

 

「ですが……」

 

 そしてその視線を心配そうに見つめる同級生に向けると真剣な面持ちを崩さずに自らの胸の内を打ち明けた。

 

「清城の投手は私1人です。私が壊れてしまったら、その時点で敗北したも同然……。もし無理を必要とする場面が来るのであれば、どうすべきか相談することにします」

 

「神宮寺さん……」

 

「……小也香なら大丈夫だよ。名門清城の復活のために無理はしても、無謀なことはしないから」

 

 あの試合から抱き続けていた不安を思い切って伝えた彼女は二人の返事を受け止めると、心から安堵したように笑みを零した。

 

「そっか……分かった! 花、マウンドでは神宮寺さんをよろしくね」

 

「任せて!」

 

 こうして清城高校が早めの休息を取ろうとしていた頃、その対戦相手である界皇高校は明日の試合への最終ミーティングを行なっていた。

 

「向月との試合では4回……いえ、正確に言うなら3回の高坂さんの打席が境目ね。ここまではスライダーやシュートを低めに集めて打ち取る配球なのに対し……」

 

「そこからはフルカウントになる事も度々あるし、高速スライダーも多く投げるようになって、代わりに浅いカウントではスライダーを温存する傾向がありますね」

 

 それぞれの部員に纏められた資料がコピーして配られており、キャプテンのレナの言葉を相良が引き継いでいた。

 

「そうね。この後半のピッチングが彼女本来のものと考えて良さそう」

 

「キャプテン。復習はいいから明日に備えて早く対策伝えた方がいいと思うんですけど」

 

「釣れないなぁ……。ちゃんとデータは頭に入ってる?」

 

「当然なんですけど。先発としてバッターも神宮寺のデータもしっかり叩き込んでるんですけど」

 

「頼もしいわね。じゃあ北山監督と相談して立てた方針を伝えるわ」

 

 エースの鎌部の催促を予期していたのか余裕を崩さずにレナは全体に目を向けるようにして方針を伝えた。

 

「スライダーを捨てましょう」

 

「えっ……どうして捨てると!? ウチらなら捉えられるけん!」

 

「大和田、落ち着いて」

 

「相良〜。ばってん……」

 

 1番バッターとして神宮寺の決め球を捉える気満々だった大和田は不満げに顔を膨らませるとそれを相良が宥めていた。そんな二人の様子を微笑みをたたえて見ながらレナは話を続けた。

 

「スライダーを捨てるのは勿論その変化量の鋭さもあるけど、一番の理由は緩急よ」

 

「どういうことですか?」

 

 大和田を宥めながら相良が代わりにその意図を聞くと、レナは先ほどの資料に目を向けさせた。

 

「まず打たれるリスクを承知で低めに変化球を集めていたのは私たちとの試合に向けて球数を抑えていたからと考えても良いと思うわ。そんな彼女達が私たちとの試合でも同様の作戦を取るとは思えない。つまり本来のピッチングである……ここからが参考になるわ」

 

 先ほど少し話題に出た区切れ目となる3回の高坂の打席からその前を切り離すように線を引いて見せたレナはそれ以降の内容に目を向けさせた。

 

「向月は高速スライダーに苦戦させられているようで、実際には高速スライダーで打ち取られた打席はそう多くはないわ。コントロールがバラけているのもその一因ね」

 

「なるほど……実際にはストレートとスライダーで打ち取られるものが多いですね。それにスライダーは高速スライダーとの違いからか、タイミングが合っていないものが多い」

 

「だから緩急……でもそれなら“緩”の方に狙いを絞るという手もあると思うんですけど」

 

「それは考えたわ。けど超高校級の変化でコントロールも良いスライダーに全員狙いを絞るのは凡打も増えてしまうし、それに彼女のストレートはそれ自体の力では私たちにとっては苦になるものじゃないと思ったからよ」

 

「確かに全国No.1ピッチャー、高坂椿に標準を合わせた私たちにとってはまだ1年生である彼女のストレートはそう打てないボールではないでしょうね」

 

「…………」

 

「そう不満げな顔をしないでください」

 

「別に……私が全国No.1ピッチャーって呼ばれるべきなんて言ってないんですけど」

 

「今思いっきり言ったけん……! はうっ!?」

 

 本人は小声で話したつもりで零した言葉を聞いた鎌部は左手の人差し指を伸ばして大和田の頬を突っついた。

 

「うぅー。何も言っとらん。何も言っとらんかったとー!」

 

 容赦なくグリグリと侵入してくる人差し指に屈した大和田がようやく解放されると短くため息をついた鎌部は何事も無かったかのように先ほどの話に戻った。

 

「ビデオ見る限りだとシュートは並の変化だったし、ストレートのスピードが苦にならないなら引きつければ対応できそうなんですけど」

 

「高速スライダーは厄介そうですが大きく外れるものやど真ん中に入るものも多いみたいなので、緩のスライダーを捨てることで後半の向月のように対応出来るかもしれませんね」

 

「相良ー! なんで助けてくれんとー!」

 

「先輩の顔は立てるものだよ。……でも大丈夫ですか? 相手がこちらが急のタイミングにのみ絞っていると分かれば、当然逆手に取られてしまうのでは」

 

「その場合、彼女はあるリスクを負わなければならない……。それが神宮寺小也香の弱点よ」

 

「弱点……ですか?」

 

「……なるほど。神宮寺の緩はスライダーのみ、こっちが緩を捨てていることに気づいたとしても決め球であるはずのスライダーを連投する以外に道はない。ピッチャーにとって最もやりたくない行為なんですけど」

 

「ええ……その場合、決め球に目が慣れてくるわ。だから第一の方針は緩のスライダーを捨てることなの」

 

「そして相手の出方を伺って、もしスライダーをゾーンに集めてくるようなら方針を変えるというわけですか」

 

「一辺倒の攻めならウチらには通用しないけん! あ、そうだ! キャプテーン!」

 

「どうしたの?」

 

「この方針はいつも通り4番は免除と?」

 

「ええ、そうね。相手に方針を簡単に気づかせない意味もあるけど、それが界皇の4番の特権だから」

 

「よかねー! ウチもいつか4番になりたいけん!」

 

(大和田は足の速さ考えると上級生になっても1番にいて欲しいんじゃないかなあ……)

 

 途端に目をキラキラと輝かせる大和田に言いづらそうに相良が頬を掻いていると、その後の方針や細かい確認が行われてお開きになった。すると鎌部は真っ先にミーティングルームから出て行ってしまう。

 

「うーん。鎌部先輩、今日ちょっとおかしかったけん」

 

「そうだね」

 

「鎌部さんは高坂さんと直接投げ合える機会を待ち望んでいたからね……。戦う前に向月が敗れたことにやり切れないものがあるのかも」

 

 外へと出ていった鎌部はベランダ前の通路まで来ると月明かりに照らされて、胸元にかけているロケットペンダントを開いた。中に入っているのは彼女が憧れている藤原という先輩と一緒に撮ったツーショットの写真だった。その写真を見ながら夏大会決勝戦で自分と同じ学年ながら自分が敵わなかった藤原と堂々と投げ合う高坂の姿を思い出す。

 

(なんで勝手に負けてんの……納得いかないんですけど)

 

 大きく息を吸い込んで胸の中に巣食うイライラを吐き出すように長く強く息を吐き出した彼女はロケットペンダントを閉じると、寝室に入りながら首からそれを外して枕元に置き寝支度を整えた。

 

(確か清城は高坂からヒットを2本打った。なら私はそれ以内に抑えてやるんですけど……!)

 

 イライラの代わりに胸に焼き付けるように誓った鎌部はそのまま眠りについた。

 

 こうして清城高校・界皇高校・明條学園・里ヶ浜高校は二回戦当日を迎え、それぞれの想いを胸に球場へと向かっていくのだった。




良ければ里ヶ浜がどんなオーダーを組んだか考えてみてねー。


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ゴールデンエイジの輝き

「そろそろ試合が始まる頃ね……」

 

 緊急ということで会場に近い小さな病院に運ばれて肘の経過を見ていた高坂は以前から世話になっている総合病院へと移動することになり、向月の捕手に荷物を持たせて病室を後にしていた。

 

「どっちが勝つと思う?」

 

「順当にいけば界皇でしょうね」

 

「まあ、総合力でいえば界皇だろうね……。けどアタシ達との試合みたいに清城が得意の投手戦に持ち込めば分からないかも」

 

「それはどうかしらね。界皇も爆発的な打線に隠れがちではあるけど、投手戦が苦手なわけじゃないわ」

 

「夏の決勝で無失点リレーされただけによく分かるね……」

 

 そんな話をしながらエレベーターに乗り込んだ二人が静かな空間に身を委ねていると、同乗した一人の患者が途中の階で降りていって二人きりとなり、再びエレベーターが下降して行く。すると沈黙を破るように高坂が口を開いた。

 

「ただ……」

 

「ん?」

 

「アタシ達が抑えられた理由……その原因の一つはあのスライダーにあるのは界皇も分かったでしょうけど、もう一つの原因に気付かなければ清城にもチャンスはあるかもねぇ」

 

「ああ……確かにね。その原因をスライダーとの緩急差によるものだと思ってしまえば、うちの二の舞になるかもしれないな」

 

 そしてエレベーターを降りた彼女たちが病院から一歩外に出ると静かな秋の日光が彼女達を照らし、高坂は眩しそうに左手で軽く目を覆った。

 

「でもちょっと意外だった。アタシ達に勝った清城と因縁のある界皇の試合だし、椿なら無理言っても見に行くかと思ったよ」

 

「今は他の奴らに構うより、やるべきことがある。それだけよ」

 

 こうして高坂が遠くに小さく見える球場に背を向けた頃、その球場では球審の「プレイボール!」という宣言が響き、界皇の先攻で試合が始まっていた。

 

(界皇は伝統で地元のボーイズリーグ出身の選手が多い。一年ながら1、2番を張っている大和田さんと相良さんもその流れを汲んだ二人。同じ一年でも油断は禁物。内を中心に攻めて、最後は外のスライダーを振らせにいこう。サード、念のためセーフティ警戒お願いします)

 

(了解)

 

(まずはインコース低めにストレート……そうですね。界皇の特徴の一つは初回得点率の高さ。特にこの大和田さんを出してしまうと得点までの流れをスムーズに作り上げてきます。公式戦のデータが少ない私たちのデータを取ろうと見てくるうちに、ストライクを先行させた方がよいでしょう)

 

(サインは……分かったと。1番バッターに求められるのは今後のバッターへ繋がる情報収集。ばってんボールを見極めるだけが情報収集じゃなかとよ。あたしがチームの指針になるけん! まずはミーティングで決めた通り……)

 

 界皇の三塁コーチャーがサードが半歩前に出てくるのを視界に収めながら、コーチャーボックスから投手のクセを探ろうと神宮寺を見つめていると、首を縦に振った彼女が投球姿勢に入り腰を右向きに捻って浮かせた左足を二塁ベース方向に向ける。すると前側に体重移動しながらその左足を前足として踏み込もうとした直前にある違和感を覚えていた。

 

(グローブがまだ三塁方向(こっち)に向いてる。随分左肩を入れるんだな。そんな体勢からリリース出来るの?)

 

 右打席へと入った大和田に神宮寺が前足を踏み込んで右腕を振り切りこの試合の幕開けとなる1球目のボールを投じると、インコース低めへと投じられたストレートに対し大和田はスイングの始動へと入った。

 

(神宮寺の“急”はストレート、シュート、高速スライダーの3つ。第一に確かめるべきは……一番早くミットに届くストレートに振り遅れないかどうか!)

 

(初球から振ってくる!? けど、少し振り遅れて——)

 

 ——キィン。快音と呼ぶには鈍さの混じった打球音が振られたバットから響くと、放たれた打球は右中間方向にふらふらと上がっていた。

 

(あそこから振り負けずに打ち返した!?)

 

「ライト!」

 

「……届かない、か……!」

 

 セカンドのはるか頭上を越えていった打球が失速しながら落ちてくると、ライトは無理に突っ込むのをやめてワンバウンドしてから再び落ちてくるところを狙い、確実にこのボールを捌こうとする。

 

「……! 二塁狙ってるよぉ!」

 

「えっ……! わ、分かった!」

 

 確実に捕ろうと打球に対してやや後ろで構えていたライトがセンターの指示で前に出てワンバウンドしたボールをジャンプしてミットを上に伸ばしながら捕球すると、一塁ベースを大きく回った大和田は一塁コーチャーのバックの指示に反応して戻っていった。それに気づいたライトがファーストに送球を行い、タッチが行われる。

 

「……セーフ!」

 

「ふぃー。危なかぁ……」

 

(うっそでしょぉ……。あの打球で二塁狙う?)

 

(むー。データによるとレフトとライトは捕球判断が甘めだって話やけん、隙をついてみたんけど……惜しかったと。ストレートも思ったよりは詰まらされた。ばってん神宮寺のストレートのスピードもスピン量もあたし達なら対応出来る範疇やけん)

 

(ヒットにされましたか……ボールに力が乗った感覚はあったのですが)

 

(今日の小也香のストレートは向月戦と比べるとやや荒れ気味、体力はなんとかなっても三振率の低い向月相手にずっと神経を張り巡らせた精神的な疲れが残っちゃったかな……。それでも振り遅れたと思ったのに、スイングスピードが予想以上だった。やっぱり小也香が言ってた通り……)

 

 神宮寺のストレートに信頼を寄せている牧野は要求より僅かに中に入ったとはいえ低めに投じたストレートを難なく打ち返されたことへの驚きを顔に浮かべながら、先日のミーティングのことを思い返していた。

 

「界皇高校の強さの秘訣?」

 

「ええ……界皇高校は毎年圧倒的な実力を持つチームを作り上げています。勿論今年も……」

 

「んー? 一杯練習してるからなんじゃない?」

 

「毎年って話だから、設備が充実してるからとかじゃないかなぁ。シニアの強いところとか、大体設備しっかりしてたし……」

 

「私は……ええと。名のある強豪だから単純に運動神経が良い人が集まりやすいんだと思うな」

 

 部員が様々な意見を出していくとやがて出きったところで神宮寺が再び口を開いた。

 

「強さの理由は一つではないと思うので、皆さんがおっしゃったことも正しいと思います。なのでこれはあくまで私の意見なのですが……界皇高校は黄金の成長期を逃さないシステムを完成させているからだと考えています」

 

「黄金の……成長期?」

 

 聞き慣れない言葉に部員から疑問の声が上がると神宮寺はその疑問に答えるべく、グラフを拡大コピーしたものをホワイトボードに貼り付けた。

 

「これはアメリカの医学者兼人類学者のスキャモンが発表した『スキャモンの発育曲線』と呼ばれるグラフです」

 

「そのグラフは何を表してるの?」

 

「このグラフは20歳時点での人の発育状態を100%とし、一般型・神経型・生殖型・リンパ型の4系統に分けたそれぞれの発達の仕方を表したものです。そしてこの4系統のうち神経型は運動神経に大きく影響するとされています」

 

「運動神経って生まれつきで決まるイメージがあるけど……それだけじゃないんだね」

 

「……あれっ。神経系ってこのグラフだよね?」

 

「ええ。そうですよ」

 

「で、ここが100%の線だから……えっ? 12歳くらいでほとんど100%になってるじゃん……!?」

 

「そう。この5歳から12歳ごろまでが神経系の発達が著しい時期。この時期は今のように理性で行動を分析するのではなく、感覚で動作を覚えられることからスポーツの技術を習得しやすい年代とされています。そして……この一生に一度の時期はこう呼ばれているのです。“黄金の成長期”(ゴールデンエイジ)、と」

 

「ゴールデン……エイジ」

 

「け、けど私たちにだってゴールデンエイジがあったわけじゃない。全員じゃないけど、何人かスポーツをやってた人もいるし……」

 

「……! さ、小也香。そういえば界皇って地元のボーイズリーグ出身が多いって……」

 

「そう。加えてボーイズリーグは中学生だけでなく、小学生の部もあります」

 

「私たちが清城として動き出したのはもちろん高校に入ってから。だけど界皇は小学生の時から動いて……ゴールデンエイジに設備や環境の整ったボーイズリーグで多くの練習をこなさせることで運動神経を鍛えに鍛えた選手が入ってくるシステムを作り上げてるってこと?」

 

「ええ……。あくまで私の考えですが」

 

 思い起こしながらキャッチャーボックスに座り直した牧野は2番バッターとして右打席に入って地面を見上げながら、その様子を窺っていた。

 

(漠然と挑んでも勝てない。なら、しっかり意識するんだ。お兄さんに憧れて小学生の時から野球に打ち込んできた小也香のゴールデンエイジの輝きを私が引き出すんだって! ……! バントの構え……)

 

(手堅い作戦と言うべきか、それとも構えだけなのか……ですね)

 

(サインは……1ストライクになるまで待て。北山監督は大和田にチャンスをあげたんだ。行けたら行ってもいい青信号(グリーンライト)の指示を貰ってる大和田に……しっかりやりなよ)

 

(分かっとるよ相良。あたしの足でプレッシャーをかけてや……っと!)

 

「セーフ!」

 

 牧野からのサインを受けて神宮寺の牽制球が投じられ大和田が頭から帰塁すると伸ばした手がタッチより先にベースに触れてセーフの判定が上がっていた。

 

(ばりばり警戒されとる……)

 

(まあ、夏大会だけでも5試合分データを取られてるんだ。当然大和田の足は警戒するよね)

 

「セーフ!」

 

 ボールが投げ返されリードを広げ直した大和田に再び牽制球が投じられると、今度も反応してしっかり塁に手を伸ばした大和田はセーフとなっていた。

 

(しつこかー……)

 

(……リードは変わらず、ですか)

 

 神宮寺は自分の感覚より半歩分二塁側に踏み出している大和田のリードを注視していたが、二度の牽制球を受けても狭まることのないリード範囲を見て慎重になっていた。

 

(あまりランナーを警戒させすぎてもピッチングに集中出来なくなる。無難に送りバント……足の速さを生かして盗塁……相良さんは堅実なバッティングが持ち味だから初回からエンドランでもおかしくない。……小也香、これでいこう)

 

(高速スライダーを高めにですか……。なるほど、相手がどんな作戦を取っても簡単にやらせないというわけですね)

 

 牧野からのサインを受けてピッチングに意識を向け直した神宮寺はそのリードに納得して頷くとセットポジションに入り、そのまましばらく間を置くと一度大和田に顔を向けてから前に向き直った。

 

(警戒されてるのは厄介やけん。ばってん……今の二回の牽制で間合いは掴んだと!)

 

(えっ……小也香はまだ足を上げてな——!?)

 

「スチール!」

 

(……!? くっ……!)

 

 ファーストからの声に僅かに目を見張りながらもセットポジションからクイックモーションに入った神宮寺はインハイにボールを投じた。

 

(ストレートか? この構えからならボールの軌道がよく見え……えっ。曲がった!?)

 

「ストライク!」

 

 バントを解きながらボールの軌道を目に焼き付けようとじっくり見ていた相良は視界から逃れるように真ん中高めへと曲がっていく高速スライダーに目を丸くすると、捕球音と共にスムーズに前へと踏み出した牧野は二塁に送球を行った。セカンドがベースに入り低めにコントロールされたこの送球を受け取って大和田の足にタッチにいく。

 

「セーフ!」

 

(は、速いわね〜)

 

 タッチより早く二塁に到達していた大和田はベースを踏むようにして立ち上がるとしてやったりという表情を浮かべていた。

 

(今の……小也香のモーションが盗まれた?)

 

(送球しやすい高めへのスピードボール。牧野さんの送球も低めに来ていました。ただ私が投げると決めたタイミングで走られてしまった分……間に合ったようですね)

 

(ピッチングは集中が必要やけんの。足を上げてなくても投げようとしていたら、無理に中断なんて出来んのは分かってたとよ)

 

(さすが大和田。足の速さもさることながら、今のタイミングで走れる走塁技術……あれで一か八かじゃないんだからピッチャーにしたら溜まったものじゃないでしょ。……ん?)

 

 頼もしい味方の走塁に相良が思わず口角を上げていると、神宮寺が息を吐き出してから集中した面持ちで前を向いて牧野のサインを待っているのが目に映った。

 

(ショックだっただろうに……タフなピッチャーだね。これが向月に通用した精神力か。北山監督、このチャンスは絶対に逃してはいけませんよ)

 

 界皇ベンチを力強い目で見つめる相良に気づいた北山が頷くと、次のサインを受けた相良は再びバントの構えを取った。

 

(またバントの構え……今度こそ送りバントだと思うけど、あのランナーなら三盗も警戒しておかないと。三塁は二塁より送球距離が短いとはいえ、このバッターが反則にならない範囲で右打席に立っていれば投げる前に一歩横に動かなくちゃいけないことも頭に入れて……)

 

(インハイのストレート、可能なら先ほどの高速スライダーのコースに合わせる形ですね)

 

 やがてサインの交換が終わると神宮寺は今度はほぼ溜めを作らずにセットポジションからクイックモーションに入り、インハイにストレートを投じた。

 

(また高速スライダーか? ……いや、これは……ストレート!)

 

 目線と水平になるような高さに構えたバットを崩さずにその目でボールを追っていた相良は先ほど曲がり始めたタイミングでの軌道の変化を感じ取れなかったことからとっさにストレートと判断すると、膝を衝撃のクッションにするようにしながらバットを合わせた。

 

(良し!)

 

(打球が上がらなかった! それどころかこれは……)

 

「サード!」

 

「分かった!」

 

 三塁線に放たれた打球は勢いが完全には殺されておらず転々と転がっていくと神宮寺が処理するには間に合わないと判断した牧野の指示によってサードが捌き、ファーストへの送球が行われて相良はアウトになった。

 

「上手い……サードを前に出す送りバントだね」

 

「二塁ランナーもバントに合わせて流れるようにスタートを切っていたわ……あれは刺せないわね」

 

(神宮寺さん……)

 

 里ヶ浜高校の面々はこの試合をスタンドから見守っており、河北は東雲と隣に座る翼の会話を聞きながら、マウンドに立つ神宮寺を心配そうな眼差しで見つめていた。

 

(ここからクリーンナップ……初回から流れを持っていかれるわけにはいきません。ここで食い止めます!)

 

(さきがけ女子との試合のように、初回で一気に流れを作るのは界皇の必勝パターン。ここで止めよう!)

 

 その神宮寺が牧野と視線を交わすと互いに頷き、右打席へと向かってくる3番バッターを迎え入れた。

 

(内野は……前進させてくるか。外野はほぼ定位置。無理はしすぎないってわけだな)

 

(このバッターはスイングの荒々しさに反してデータによると右方向へのバッティングが得意。たとえ打ち取られた当たりでもランナーを進めてくるくらいには器用なバッター……)

 

(……界皇の情報は彼女たちもある程度手に入れてるはず。それがネット上に有志の方がアップした映像からのものだとしても、試合数の多い私達二年生のデータを取るには十分でしょう。となれば外の甘いところには来ないわね)

 

 ネクストサークルに座るレナが不敵な笑みを浮かべながらグラウンドの光景を見守っているとバッテリーのサイン交換が終わり、神宮寺がセットポジションに入った。するとリードを取る大和田が神宮寺の目に入る。

 

(先輩のためにもこっちにも神経使ってもらうとよ)

 

(……大和田さんを先頭バッターとして出した場合の得点率の高さもピッチャーとして実際にマウンドに立つと頷けますね。ですがどちらにせよ牽制に入れるサードが前に出ている今、開き直らせてもらいますよ)

 

 大和田から目線を切って神宮寺は3番バッターへの集中を高めていくとクイックモーションに入り、ボールを投じた。投じられたボールはインコースの低めへと向かっていく。

 

(やっぱり外は避けてきた! 悪いけどアンタたちの得意な投手戦は早々に断ち切らせてもらうよ! ……!)

 

 スイングの始動に入ったバッターが前足を踏み出すと、このタイミングで僅かなボールの変化を感じ取った。

 

(シュート!?)

 

(よし。ストライクからボールになるシュートを振らせた!)

 

 既に前足を踏み込んでバットを振り出していた3番バッターはバットを止めることは出来ないととっさに判断すると、内に曲がる軌道に反応して可能な限りバットの軌道を修正する。するとバットの芯よりボール1個分内側にボールが当たった。

 

「っらぁ!」

 

(あれだけ差し込んでバットを振り切った!?)

 

「ショート!」

 

(さすがに浅い……これじゃあ捕られたらタッチアップは出来んと)

 

 ボール球を詰まりながら打ち返した打球はショート後方へと飛んでいった。外野方向に反転しながらショートが必死に追い縋る中、大和田はリードを保ったままこの打球の行方を見守った。

 

「届けっ……!」

 

 打球が落ちてくるタイミングでショートが飛びつくようにジャンプしてミットを伸ばした。すると……その僅か先で打球がバウンドする。

 

(くっ……)

 

 やがてこのボールをセンターが収めると一塁を少し回ったバッターランナーがベースに戻っていくのを目にしながら、唇を噛んでいた。

 

「先制……あの神宮寺さんが初回から点を取られるなんて」

 

「今の場面、内野ゴロでのホームインを警戒して内野を前に出すのは間違いではないわ。守備もミスらしいミスは無かった。界皇の打撃力が正面から神宮寺さんを上回った大きな1点ね……」

 

(でもまだ1点。挽回は出来る……はず! だから踏ん張って!)

 

 打球を落ちたのを確認してスタートを切った大和田が悠々とホームインし、界皇に1点が入った。神宮寺を今までの対戦から好投手として認めている里ヶ浜が動揺する中、河北は動揺しながらも神宮寺にエールを送っていた。

 

(今のはインコースだけじゃなく、最初からタイミングを“急”に絞ってなかったら越えなかったかもな……。まあ、それでも繋げて良かったよ)

 

 ボール球に詰まらされながら打ち返した一塁ランナーは少し痺れを覚えながらバッティンググローブを外して安堵していると、やがてランナーとしての準備を終えて信頼の眼差しを右打席へと向かうレナへと向けていた。

 

(今の打席、恐らくインコース狙いを読んだ上でストライクからボールになる球で誘いに来たのよね。キャッチャー……牧野さんだったわね。彼女のリードは警戒しておきましょう)

 

 悠然とした態度で打席に入ったレナと目線が合った牧野は恥ずかしそうに目を逸らすと、マウンドに佇む神宮寺に目を向けた。

 

(小也香……もちろん点をあげるつもりは無かっただろうけど、あのミーティングでゴールデンエイジを万全に生かした界皇との差を覚悟させたのはこういうこともあり得ると思っていたから。小也香は予め心構えを私達にさせてくれてたんだ。ショックを引きずってる余裕は無い……界皇の波に飲み込まれるわけにはいかないんだ)

 

(草刈レナ……。広角に鋭い打球を打ち分けてくる隙のない4番打者。ここでコントロールを乱すわけにはいきません。集中し直しましょう……!)

 

(この回打ったのはストレートとシュート……心理的には避けたくなるところかしら?)

 

 レナがバットを構えて神宮寺の投球を待っていると高鳴る鼓動を鎮めた神宮寺がセットポジションに入り、1球目となるボールを投じた。

 

(際どい……)

 

 アウトローの際どいコースへと投じられたスピードボールにレナのバットが止まると牧野の捕球音が響いた。

 

「……ボール!」

 

「良いコースに来てるよ!」

 

 アウトローに決まったストレートは外に少し外れてボールとなったが、牧野の掛け声に神宮寺は軽く頷きながらボールを受け取る。

 

(今のコースからシュートでストライク狙える?)

 

(……このバッター相手に先ほど打たれたシュートをストライクに投げるのは少し怖いですね)

 

(そっか。じゃあ……)

 

(良いストレートね。一年でこれなら三年までしっかり土台作れば……ああ、つい考えちゃうわ。ウチに欲しかったって……。けど、集中しないとね。確か向月との試合だとバックドアの配球も積極的に使っていたから、警戒しておこうかな。……!)

 

 2球目となるボールが投じられるとインコース真ん中に投じられたボールにレナは目を丸くするが、スイングの始動に入るとこのボールを前で捌かずにギリギリまで引きつけた。

 

(……曲がる?)

 

 やがてバットが振り出されると真ん中のコースを打つように振り出されたバットの先にボールが当たり、打球は一塁方向のファールスタンドへと入っていった。

 

「ファール!」

 

(……今のが高速スライダーなんだ。思ったよりキレが凄いわね)

 

(いきなり合わせてきた……でもまだ合ってるわけじゃない。もう一球いくよ)

 

(分かりました。先ほどより気持ち低めに……)

 

 3球目。再び高速スライダーが投じられると内のボールゾーンからインコース低めやや真ん中寄りのストライクゾーンへと入っていく。するとこのボールに対して今度はレナは前で捌くようにバットを振り出すと快音が響き渡った。

 

(えっ……)

 

 レフトへと伸びていく打球に神宮寺は目を見開きながら振り返ると、打球はポールの横を通り過ぎていった。

 

「ファール!」

 

(少し……前で捌きすぎたわ。キレがいい分コンマ1秒の遅れが命取りになる以上、やむを得ないけどね)

 

(も、もう高速スライダーを完璧に……)

 

(コントロールの不完全な高速スライダー、たとえキレが良くても真ん中付近に入れば名門の好打者にとっては甘いボールというわけですか……)

 

 神宮寺の脳裏に向月の4番にも高速スライダーを完璧に捉えられたことがよぎると、一度心を落ち着かせるようにロジンバッグを手に取った。

 

(1ボール2ストライク。仕留め損なったことで追い込まれちゃったな。でも今の当たりを見て高速スライダーはさすがに投じづらくなったわよね。そしてこの回ストレートとシュートを打たれていて、なおかつまだ投げていないあのボールは追い込む前は温存する傾向がある決め球。狙わせてもらうわ……スライダー!)

 

(小也香。次は……)

 

(ええ……。このバッターは球数を使ってでも抑えましょう)

 

 ロジンバッグを放った神宮寺は牧野のサインにしっかり頷くと指先についた粉を適度に吹き飛ばしてから投球姿勢に入り、4球目となるボールを投じた。

 

(先ほどと同じコース? ここから入るとすれば高速スライダーだけど……合わせるほどのコントロールは無いはず。……!)

 

 3球目と同じく内の低めやや真ん中寄りのボールゾーンに外れたスピードボールに少し意表を突かれながらレナは身体を引いて見送ると、内に曲がったシュートが牧野のミットに収まった。

 

「ボール!」

 

(厳しく内をついてきたわね。そしてここまでのリード、内のスピードボールを意識させる配球になってるわ。そうなればスライダーを投じるとすればコースは……)

 

 サイン交換の間に素早く頭の中でここまでの配球を整理したレナが次に来るボールを予測すると5球目が投じられる。するとレナが外へと踏み込み、さらに身体の開きを抑えていた。

 

(……! 踏み込んで来た)

 

(やはりコースは外。先ほどの高速スライダーの軌道から予測してこれは……アウトローの四隅へと曲がるスライダー!)

 

 真ん中低め僅かに外寄りに投じられたボールにタイミングを崩されなかったレナは自身が予測したボールの変化に合わせるようにバットを振り出すと、スライダーが変化して外へと曲がっていった。

 

「ストライク! バッターアウト!」

 

 スライダーは外のボールゾーンを通って牧野のミットに収まると、球審の宣言が上がり、レナは3秒ほど呆然として動きが止まっていた。

 

(高速スライダーより、さらに変化量が大きい……! しかも今のは本当にギリギリ外れる軌道だった。追い込まれてからこれほどの変化量のボールをここまでコントロールされるのはたまらないわね。それに……)

 

 止まっていたレナが動き出すと牧野に挑戦的な眼差しを送ってから界皇ベンチへと戻っていった。

 

(3番バッターの打席(さっき)と同じだったのね。狙いを読んでそこへのボール球で誘われた……4球目のあからさまに内に外したシュートも外のスライダーを狙わせる仕掛けだったんだわ。その読みをする牧野さんと要求に応えた神宮寺さん……面白いわね。私もこのままじゃ終われないな)

 

「4番のキャプテンを抑えた……! 神宮寺さん、凄いよ! これで清城にも流れが戻ってくるね!」

 

「いえ……まだね。清城に流れが戻ってくるとすればそれは後続を断ち切った時よ」

 

「そっか……。……! えっ……!?」

 

 2アウトランナー一塁になり右打席に入った5番バッターへの初球だった。ど真ん中からインコース真ん中へと変化していくシュートが捉えられた快音に河北が振り返ると打球は左中間へとグングン伸びていった。後退守備をとっていた外野がそれを追いかけていくとフェンスにダイレクトで当たったクッションボールの跳ね返りを予測していたセンターがこの打球を捌いてバックホームを行った。すると三塁付近まで来ていた一塁ランナーがベースを回ったところで足を止めてボールはワンバウンドで牧野のミットに収まり、バッターランナーは二塁まで進んでいた。

 

「……草刈レナに集中力持っていかれたわね。よっぽど神経使わされたみたい」

 

 倉敷がそう呟くとそれを裏付けるようにタイムを取った牧野がマウンドへと駆け寄って間を取っていた。

 

「少し甘くなるとこれですか……恐ろしいですね」

 

「本当にね……。でも跳ね返りが強くて一塁ランナーが還らなくて良かった。ここで切ろう!」

 

「はい!」

 

 やがてタイムが終わると牧野がキャッチャーボックスに座り直し、左打席へと入った6番バッターを見上げた。

 

(ここは絶対点をあげたくない場面。初球から使っていこう)

 

(分かりました。膝下に……)

 

 そのバッターへの初球。真ん中低めへと投じられたスライダーが内に切れ込んでくるとストレートのタイミングで踏み込んだバッターはこれを空振った。

 

「ストライク!」

 

(初球から……!?)

 

(界皇のバッターにしては珍しく盛大な空振りだった……。ストレートを決め打ちしていたのかな? なら……)

 

(……! インハイの少し内に外れるストレートですか?)

 

 牧野から次のサインが送られると神宮寺はどちらに首を振るか、少し迷っていた。

 

(今日のストレートは力はありますが、コントロールが荒れ気味な自覚はあります。インハイは一歩間違えば長打になるリスクも……しかし牧野さんもそれは分かっているはず)

 

(ストレートに力はあるし、よほどゾーンに入らなければそうは打てないよ。それにこのバッターは夏大会だと8番だったけど、低めをすくうのが上手かった。6番には少なくてもあと二回は打席が回ってくる……スライダーを見せすぎるのは危ないんだ。分かって、小也香)

 

(……良いでしょう。コントロールが荒れてるなりに、入りすぎないようコントロールしてみます。その分大きめに外れても勘弁してください)

 

 逡巡の末に神宮寺は首を縦に振るとセットポジションに入り、今度はその首を横に動かして二人のランナーを見た。

 

(これ以上失点はさせません。私は私なりに磨き上げてきたこのストレートを……精一杯投げ込んでみせます!)

 

 クイックモーションから2球目を投じた神宮寺のストレートはインハイへと向かっていた。このボールに対してタイミングを速いボールに合わせていたバッターはバットを振り出すと、右投手から左バッターへ投じた角度のある軌道から内に外れていたことへの反応が遅れてこのボールをバットの根本側で打っていた。鈍い金属音が響くとほぼ同時に牧野は立ち上がりながらマスクを外すと反転してバックネット前のフェンスへと向かっていく。やがて強いスピンのかかった打球が落ちてくると牧野はフェンスに飛び込んで捕球しにいった。

 

(牧野さん……!)

 

「……アウト!」

 

「よ、よかった……」

 

 減速しては間に合わないと判断して飛び込みとっさに回転して背中でフェンスにぶつかる衝撃を抑えた牧野はミットの先で掴んだボールが溢れなかったことに安堵していた。

 

「私よりあなたの方が無理をしますね。……怪我はありませんか?」

 

「わ、私は大丈夫だよ」

 

「良かった……。見事なキャッチでした」

 

「小也香も良いストレートだったよ」

 

 神宮寺が差し出した手を取って立ち上がった牧野は素朴な笑みを浮かべると神宮寺も思わず釣られるように微笑を溢すのだった。

 

(1点止まりか……。まあ、1点あれば十分なんですけど)

 

 3アウト目が取られたことで1回の表の界皇の攻撃が終わり、その裏の清城の攻撃が始まろうとしていた。投球練習をする鎌部を見ながら1番バッターが準備を整えると、確認するように神宮寺に問いかけた。

 

「ねえ、本当にあの方針でいくの?」

 

「はい。鎌部さんは高坂さんに次ぐ実力を持っていると言われている投手です。無策で挑んでも攻略は難しいと思われます」

 

「それは分かるんだけどね……。結構勇気のいる策だからさ」

 

「一人以外は全員『低めに来たボールを捨てる』だもんねー」

 

 やがて鎌部の投球練習がラスト1ボールになると切れ味鋭くフォークボールがホームベースに突き刺さるようにワンバウンドし、キャッチャーのミットに収まった。そして鎌部は打席へと向かってくる1番バッターを見ながら立てた目標を思い出し、堂々とした振る舞いで打席に入ってくるバッターを迎え入れたのだった。




調べた限りだと大和田と相良が右打ちなのか左打ちなのか分からなかったので、どうすべきかめっちゃ迷いました。
迷った末に二人の画像を見て界皇高校は引き手の手首にリストサポートをつけているのでは?と結論付けて両者とも右打ちとさせて頂きました。二人の情報が公表されて違ったらごめんね。


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闘志を静かに燃やして

加筆修正完了しました! お待たせして申し訳ない。


「清城ファイトー!」

 

「まだ試合は始まったばかりだ! こっから返していけー!」

 

 一回の裏が始まり右打席へと入った1番バッターを迎え入れた鎌部は途切れなく聞こえてくる声援を耳にしてふてぶてしい笑みを浮かべていた。

 

(二戦続けてのジャイアントキリングを期待して球場は清城の味方? 笑わせないで欲しいんですけど。その高校の応援団でもなければ応援する奴は弱い側に頑張って欲しいから声援を送る……私には清城へのその声援が界皇が王者であることの裏付けにしか思えないんですけど)

 

 地面をならしながら慣れない声援に後押しされるように士気が高まった1番バッターが気合いが入った顔つきでバットを構えると、一笑に付すようにロジンバッグを放った鎌部の茶色がかった黄髪が揺れた。

 

(かつての名門、今は古豪の清城……今のうちに下克上の夢を拝んでおけばいいんですけど。ジャイアントキリングなんてやられる側が油断するから起こる……高坂もそうだったはずなんですけど。じゃなければアイツが負けるはずが……)

 

 思わずボールを必要以上の力で握りしめてしまったことに気づいた鎌部はそんな自分を落ち着かせようと息を深く吐き出すと、球審のプレー開始の宣言に反応するようにして刺すような視線でキャッチャーを見つめてサインを待った。

 

(んー。こりゃあ……肩に力が入ってるな。表情もちょっと固い。こういう時は……)

 

(ストレートじゃなく変化球から? ま、いいですけど……)

 

(よし。リードに意固地にならないのがあの子の良いところだからね。そしてストレートじゃなく変化球のコントロールも自信を持っているからこそ、いきなり変化球から入れる。見せてやりなよ千秋。清城は少なからず全国No.1(ナンバーワン)投手(ピッチャー)の高坂より千秋の方が落ちる、って構えてるはず。もしそんな甘い考えがあったとしたら……この一球で砕いてやればいい)

 

 首を縦に振った鎌部を確認したキャッチャーは静かに足を動かすと、鎌部の気持ちを後押しするようにミットを力強く構えた。

 

(低めをとことん捨てるって指示には驚かされたけど、低めより高めの方が目の高さに近くて打ちやすいボールだ。甘いボールを逃さないって意味でも、案外セオリーに即した指示なのかもね)

 

 1番バッターがベルトの高さを意識するようにしながらバットを構えていると鎌部が投球姿勢に入った。両腕を振り被らずに左足を引いて浮かせるとスムーズな体重移動から前へと踏み込み、オーバースロー気味のスリークォーターの投球フォームで腕が振り切られ、指先からリリースされたボールはすっぽ抜けたようなスピードでホームへ向かっていく。

 

(えっ!?)

 

 意表を突かれたバッターの動きが止まるとボールは弧を描いて要求したアウトローのコースで構えていたキャッチャーのミットへとすっぽり収まった。

 

「ストライク!」

 

(初球カーブか……! 今のは低めを捨ててなくても手が出なかったな……)

 

(入りは上々だね。千秋もどうやら今ので上手く余計な力が抜けたっぽいな)

 

(ふぅ……さきがけ女子相手には結局3人にしか投げなかったけど、この試合はきっと長いイニング投げることになる。なら、やることは決まってるんですけど)

 

(もう投げるの!?)

 

 返球を受け取ってから出されたサインに迷わず頷いた鎌部がすぐに投球姿勢へと移ると2球目が投じられ、高めのボールに絞っていたバッターはインハイへと投じられたボールにバットを振り出した。するとバットは通過したストレートの残像を捉えるようにして空を切る。

 

「ストライク!」

 

(くっ、テンポが速いな……。それにストレートが速く感じた。カーブとの緩急差にやられたのもあるし、ストレート自体のスピードも速い! この感じだと高坂よりは遅いけど……神宮寺さんよりは速いってところか。……名門のエースナンバーを任されたピッチャーってのは本当にとんでもない奴らばかりで困るわね)

 

 ストレートを待っていたもののカスリもしなかったことに冷や汗がじっとりと肌にしみたバッターだったが、想像を超えるような実力を持っている相手だということをミーティングで想定していたこともあり、覚悟を決めるとテンポの良い投球に備えて早めにバットと気持ちを構え直した。

 

(当てにいっちゃだめ……狙いを絞って、振るならしっかりバットを振り切る! 打てれば良し。打てなくてもそれが鎌部へのプレッシャーになるはずだ。やれることをやろう!)

 

(高坂相手にやったように球数を使わせてくる作戦はあり得るんですけど。だから3球で……終わらせてやるんですけど!)

 

 返球を受け取った鎌部は素早く人差し指と中指でボールを挟み込むとそのまま投球姿勢に入って手首のスナップをきかせずに腕を強く振り、リリースされたボールがインコース低めへと向かっていった。

 

(……ストレート……? ……!)

 

 追い込まれていたこともありこのボールに手を出しそうになったバッターだったが低めを捨てるチームの方針からそれを思い留まる。するとボールはストンと真下の方へ落ちるように変化してホームベースにバウンドしてからキャッチャーミットに収まり、その軌道を見たバッターは思わず目を丸くしていた。

 

「ボール!」

 

(落ちた!? これが鎌部の決め球(フォークボール)……。途中までストレートと同じ軌道に見えたし、曲がり始めも遅かった。低めを捨ててなかったら間違いなく空振りしてたな……)

 

「ちょっと龍ちゃん! 今のなに……?」

 

「今のはフォークボールね……」

 

「フォークボール!?」

 

「なによそんな大声出して……」

 

「あ、いや……なんでもないわよ?」

 

(入部の時にアタシに屈辱を与えてくれたあのボール……!)

 

 スタンドで驚きのあまり立ち上がって大声を出した逢坂を怪訝そうに見つめる東雲だったが、大した事情ではないだろうと推測して解説を続けていた。

 

「フォークはストレートと同じような軌道で打者の近くで急激に落ちるボールで、空振りを取るボールとして使われることが多いわ。追い込まれた場面でバッターはよく見たわね……」

 

「ふーん……空振りを取れるボールかあ。いいわね。でもなんでフォークなんて名前なの?」

 

「フォークボールは人差し指と中指の間で挟んで握るのだけれど、その握り方が飲食に使うフォークに似ていることが由来とされてるわ」

 

「そうだったのね……!」

 

(じゃあアタシが食器と間違えたのも仕方ない話ね!)

 

「ここから見る限りだとスピードも出ているわ……。あの鎌部という投手、握力も強いみたいね」

 

「……? 握力が強いとボール速くなるの?」

 

「さっき言った通りフォークは挟んで投げるボール。これでスピードを出そうとするには両サイドから挟む力を強くしなければ、力が加わらないでしょう?」

 

「そっか……! 握力が大事なのね」

 

「フォークは投げ方の都合で握力の消耗も激しいから、フォークを投げるなら握力のトレーニングは最重要事項と言っても過言ではないでしょうね」

 

「へぇ……そっかあ。分かったわ……!」

 

 その話を聞いた逢坂が見つめるようにした自分の手を閉じて強く拳を握りしめていると、グラウンドではバッテリーのサイン交換が終わろうとしていた。

 

(見た? ……いや、手が出なかっただけか。千秋、次は……)

 

(見るだけなら誰にも出来るんですけど。もし、見極めてるなら……これを打ってみて欲しいんですけど!)

 

 そして4球目が投じられるとアウトローに向かっていくストレートにバットが止められ、球審のコールが響いた。

 

「ストライク! バッターアウト!」

 

(やっぱり手が出ない……。どうやら見極めているわけではなさそうだな)

 

(今のが低めのストレートの軌道か……。それに四隅にビシバシ決めてきた高坂ほどじゃないけど、全部厳しいコースに決まってる。こういうピッチャーを打ち崩すのは骨が折れそうね……)

 

 見送り三振に取られたバッターはアウトローに決まったストレートに息を呑むと打席から離れていき、すれ違いざまに2番バッターに情報を伝えてベンチへと帰ってきた。そしてベンチにも今の打席の情報を伝えていると、不意に一人の部員がフォークの軌道に疑問を持つ。

 

「それにしてもなんでフォークってあんなに落ちるんだろう? ベンチから見てても分かるくらい落ちてたよ」

 

「ああ、それなら……前の試合でフォーシームが浮くように感じるのは揚力によるものだと確認しましたね?」

 

「うん」

 

「一般的なフォークは回転がほぼ無い投げ方をするのです。そのため揚力が殆どはたらかず、重力をもろに受けて沈む。それがあの落ちる変化に繋がるわけですね」

 

「なるほどー。そうだったんだね。……! みんな、あれ……!」

 

「……!」

 

 その疑問が解決すると応援に戻ろうと部員の目線がグラウンドに向いた。するとセンターとライトは定位置のままだが、レフトに入っているレナが前へと出てきているのに気付く。この時左打席に入った2番打者に対してアウトローのストライクゾーンにカーブが決まり2球目、再びカーブがアウトローに投じられると今度は低めに外れてボールとなっていた。

 

(徹底したアウトコース攻めか? アウトコース打つのは苦手じゃないけど……)

 

 そして3球目が投じられると真ん中高めに投じられたボールに始動を溜めたバッターはストレートならカットに移る覚悟で外へと重心を移しながらバットを振り出した。するとアウトハイへと変化するシュートに合わせるようにバットが振られ、レフト線に打球が上がった。

 

(よし! レフト前ヒットもら……えっ!)

 

 すると前に出ていたレナが右前へと一歩目を踏み出して走り出し、この打球が落ちてくるところで正確に落下地点へと入ってミットを構えた。そして難なく打球が収まるとミットが掲げられる。

 

「アウト!」

 

(レフトが前に出てたのか……? しまったな。ランナー出てなかったから、外野の位置あんまり気にしてなかった……)

 

(やっぱりな。前の試合でもそうだったけど、このバッターは合わせるのは上手い。けど、合わせるだけで終わるなら打たせて取るのはそう難しいことじゃない)

 

(よし……このバッターに球数使わされなかったのは好感触なんですけど)

 

 続く3番バッターが右打席に入るとインコース低めに投じられたストレートを見送り0ボール1ストライク。2球目としてアウトハイにカーブが投じられるとバッターはややぐらつきながらも、このボールに手を出した。すると打ち上がった打球はほぼセンター定位置への凡フライとなり、センターフライで3アウトとなった。

 

(一回戦ではボール球に手を出すのも多かったからな。こういうバッターはストライクからボールに外れる変化球を振らせるのが一番だ)

 

(三者凡退。まずは……ですけど)

 

「あっさり攻撃が終わっちゃったね……」

 

「先制された回の裏だけあって、反撃に移れなかったのは清城としては痛いわね……」

 

 ネクストサークルに座っていた神宮寺は立ち上がってベンチへと下がりバットをしまうと、牧野と共に話しながらマウンドへと向かっていった。

 

「……分かりました。あなたの読みに乗りましょう」

 

 そして牧野がキャッチャーボックスに戻り準備投球が終えられると2回の表が始まり、7番バッターが右打席へと入っていく。

 

(さっきの回、気になることが2つあった。1つ目は界皇のバッターが浅いカウントから手を出してきていること……。初球から振るバッターも多かった。ストライクを積極的に打つにしては、ボール球を振るバッターもいたし……一人ならともかく殆どが早打ちしてるのは気になったな)

 

 コースだけ指定するサインを送った牧野はインコース低めの位置でミットを構えると神宮寺は神妙な面持ちでそのミットを見つめていた。

 

(牧野さん、これは危険な賭けですよ。反撃に移れなかったうちがこの賭けに失敗すれば、一気に取り返しのつかないことになります。ただ……最初から無いのかもしれませんね)

 

(ん……? 神宮寺ってこんな力感の無い投球フォームだったか?)

 

 そして投球姿勢に入った神宮寺は緩い腕の振りでそのままボールを投じた。

 

(な……!?)

 

(リスク無くして勝利を掴める道なんてものは……!)

 

 高めに打ち出すように投じられたボールは放物線を描いてインコース低めへと落ちていく。バッターはこのボールに対して手を出そうとしたがスピードボールのみに絞っていた意識から下半身の動きを止めてしまっており、バットを振り出せないままボールはインコース低めに構えられたキャッチャーミットへと収まった。

 

「……ストライク!」

 

(スローボール……!?)

 

(……やっぱりそうだったんだ。2つ目は6番バッターで感じた違和感。スライダーを大きく空振ったのもそうだけど、2球目に投じたストレートは要求よりさらに内に外れていたんだ。それにも関わらず打ってきた。それが起こり得るのは……1つ目の疑問点を踏まえるとスライダーを捨てて速球に絞っていたから。早打ちだったのは追い込まれてスライダーを投げられるのを避けていたんだ。……というのはあくまで推測。草刈さんは追い込まれてスライダーを狙ったように見えたし、確信は無かったよ。けど……)

 

(今のスローボール。はっきり言って界皇のバッターなら楽に長打に出来るボールでした。特別な意識でも無い限り……)

 

「今のって……チェンジアップ?」

 

 近藤が今のボールに疑問を抱いていると東雲、鈴木、翼がそれに答えていた。

 

「いや……チェンジアップというのは打者のタイミングを外すために、ストレートと同じ投げ方で遅く投げる変化球のことよ」

 

「あれはタイミングを外そうとせずに最初から力を抜いて投げたから……」

 

「スローボール、だね」

 

「どうしてそんなボールを……?」

 

「どうしてだろう……うーん」

 

「……分からないわ。遅いボールを見せることが目的にしても、ゾーンに投げるのはあまりにリスクが高すぎるもの」

 

 続く2球目が投じられると真ん中低めからアウトコース低めへとスライダーが変化していき、バッターはバットを止めてその軌道を目で追っていた。

 

「……ストライク!」

 

(なるほど……これは厄介だな。ただ追い込む前にスライダーを使ってきたってことは作戦がバレたか? しまったな……無理やりにでも初球バットを振っておくんだった。サインは……?)

 

(方針に変更なしよ。相手がスライダーを多投してくれば、目が慣れて決め球として使えなく出来る。それにゾーンに集めてくるなら対応のしようはあるもの。だからここは……)

 

(速球にタイミングを合わせたままか……。まあ、清城に神宮寺レベルの2人目はいないだろうしな。目先のことよりチーム全体で対応するのが優先だよな)

 

(小也香。もう一球スライダーをアウトローのストライクゾーンに……。これで三球三振だよ。……えっ)

 

 ボールを投げ返した牧野がゾーンへのスライダーを要求するサインを送ると、数瞬の後に神宮寺は首を横に振っていた。

 

(確かに速球系に絞られているというのは納得できます。しかし絞ったから打てるということではないでしょう。特にストレート……多くのピッチャーが軸に置いているボールです。しかしコースまで特定されているならともかく、タイミングを絞れば打てるなら全員がそうしています。そうはならないのはストレートという球種が最も見極めに使える時間が少なく、正確に捉えるのが難しいからです。……牧野さん。私はこのストレートという球種を誇りを持って磨き上げてきたつもりです)

 

(……小也香)

 

 首を横に振ってから真っ直ぐに瞳を見つめてくる神宮寺に牧野はしばしの間悩むと、再びサインを送った。

 

(ありがとうございます)

 

 首を縦に振った一瞬だけ口元を緩めた神宮寺はミットの中で縫い目に指先を引っ掛けるようにしてボールを握ると、真剣な眼差しで牧野が構えたミットを捉え、投球姿勢に入りボールを投じた。

 

(……! スライダーじゃない! もらっ……いや、外れてる!)

 

 インハイに投じられたストレートは牧野の要求した僅かに高めに外れる軌道からさらに浮いており、外れることを察知したバッターはストレートのタイミングで踏み込んで振り出したバットを止めにいった。

 

「……ストライク! バッターアウト!」

 

(くっ! スイングを取られたか……)

 

「小也香! ナイスボール!」

 

(ふぅ……今日はストレートが暴れますね。しかしちゃんと通用してくれました。たとえスピードやスピン量で劣っていても、私が積み上げてきたものは無駄では無かった……)

 

 牧野から掛け声と一緒にボールを受け取った神宮寺は一度帽子を外して額の汗を拭うと、帽子をかぶり直しながら充実した表情で周りから聞こえてくるワンナウトの声出しを聞いていた。

 

「どうした? あんな外れたストレート振らされて」

 

「悪い……」

 

「大和田の話だとそんなに苦労するスピードじゃないんだろう?」

 

「うん。ただ……」

 

「ただ?」

 

「思ったよりこう……ボールが“来る”ような感じがする」

 

「そりゃースローボールとスライダー見せられて緩急差があったからだよ。じゃ、行ってくる」

 

「う、うん。お願いね」

 

 ネクストサークルから立ち上がり7番バッターと会話を交わした8番バッターが得意げな表情でバッターボックスへと向かっていく。

 

(スライダーを捨てる方針はまだ継続してるんだ。少なくとも1巡回るまでは解除しないだろう。なら、緩急なんて関係ない。スライダーだったらすっぱり諦めるくらいで、割り切って構えてれば良いんだ。さすがにもうスローボールは無いだろうしな)

 

(スライダーはあくまで決め球として使うとして……相手が速球系に絞ってる状況でどうしようか。……そうだ。こんな状況だからこそスライダー一辺倒じゃなく、リードで工夫していくのが大事なんだ)

 

 そしてバッターが右打席へと入りバットを構えると神宮寺が投球姿勢に入りボールを投じた。

 

(低い……それに内に外れてるか? ん!?)

 

 バッターはインコース低めに投じられたスピードボールにバットが止まると、ボールは鋭く真ん中低めへと切れ込んでいき、些か呆気に取られた。

 

「……ボール!」

 

(少し低かったね。でも入れにいくより全然良い!)

 

「良い高さに来てるよ!」

 

 神宮寺は牧野の声に目で応えながらボールを受け取ると次に送られたサインに頷いた。

 

(ふーん。今のが高速スライダーか……。あれのコントロールが良ければいくら界皇(うち)でも苦労するだろうね。まあ、ストライク取るにも安定しないなら気にすることはない。ストレートのタイミングで待って引きつけてストレートならそのまま、シュートなら変化量が並だし引きつけた分対応出来る。高速スライダーだと空振るだろうけど、まあストライクカウントに余裕あるしな)

 

 高速スライダーの残像を消すように頭の中でストレートとシュートを強くイメージしてバットを構え直したバッターへ2球目が投じられた。

 

(高さはいいけど少し要求より中に入ってる……!)

 

(まだだ。前で捌かず引きつけて…………ストレート! このままいけっ!)

 

 アウトコース低めやや真ん中寄りに入ったストレートに反応したバッターは少し引きつけてからバットを振り出した。すると芯で捉えられた打球が逆らわずに打ち返され、一二塁間へと転がっていく。

 

(高速スライダーを意識すると思ったのに迷わず打たれた!?)

 

「ファースト!」

 

「ああ!」

 

 鋭く弾き返された打球に牧野が驚きながら指示を送るとスピードに乗って転がる打球にファーストが飛びついた。すると長いファーストミットの先にギリギリ引っかかるようにして辛うじて捕球することに成功する。

 

(ちっ。捕ったか!)

 

「カバーの小也香に!」

 

「神宮寺さんお願い!」

 

 飛びついたファーストは一塁とは逆方向に倒れ込む体勢となっており、ミットからボールを取り出しながら倒れた体勢のまま身体を一塁方向に開いて走り込む神宮寺の先、一塁ベースの上を狙って送球を行った。少し高めに浮いたこの送球を腕を伸ばして捕球した神宮寺はそのまま一塁ベースの左側を踏むようにして駆け抜け、一瞬遅れてバッターランナーが右側を踏んで駆け抜けた。

 

「アウト!」

 

(守備に助けられたな……! 次の打席はヒットにしてやる!)

 

 一塁審判の判定に盛り上がるように2アウトの声出しをする清城ナインを背にして苦虫をすりつぶしたような表情で8番バッターが去っていくと次の9番バッターである鎌部が右打席へと向かっていく。

 

(あのスローボールから察するに、全部とは言わなくても一部はこっちの方針に当たりをつけてるはずなんですけど。なのに比較的安全なスライダーに安易に頼らない……)

 

「ふふ……」

 

 そして打席へと入った鎌部は空気が漏れ出るように笑うと神宮寺の目を真っ直ぐ見つめてバットを構えた。

 

(面白いんですけど! 正直、高坂と投げ合えなくてイライラしてたんですけど、それがどうでも良くなるくらいには……!)

 

(王者界皇のエース、鎌部千秋ですか……。先ほどベンチやネクストサークルから見ただけでも、彼女のボールに込める意思は感じられました。一球一球、魂を込めて……たとえ狙われていても勝負出来るボールを投げ込んでやろうというあなたの思いを)

 

 応じるようにその目を射抜くように見つめた神宮寺が投球姿勢に入ると、インコース高めへとボールが投じられた。

 

(ストレート! もらったんですけど!)

 

 このボールにストレートのタイミングで左足を開くようにして踏み込んだ鎌部は前で捌くようにしてバットを振り出した。すると鈍い金属音と共に放たれたフライを少し下がった位置でサードが収める。

 

「アウト!」

 

(しまった……シュートだったんですけど)

 

(よし……前のめりになってたし、2アウトだから思い切って長打を狙うと思ってたよ)

 

(あなたが先輩を外に外れたカーブを打たせて取ったように、私も内に外れる釣り球であっても……魂を込めて投げさせていただきましたよ)

 

(……やってくれるんですけど)

 

 静かに去っていく神宮寺の横顔を見ながらまんまと思い通りに打たされたことに悔しさを覚えながら鎌部もベンチへと戻っていき、2回の表が終了した。そして2回の裏、投手と打者が入れ替わる形でこの二人が再び対峙する。

 

(4番か……。ただ4番っていっても薄弱な打撃陣の中でだ。ピッチャーってのは身体能力高いやつがやるポジションだし、高校野球じゃ珍しくない。あれだけのピッチングが出来るんだ……打撃練習に回せた時間はそう多くないだろう? 初球は……って千秋? おーい……)

 

(はっ……)

 

 先ほど打ち取られたこともあって神宮寺に対して意識が向いていた鎌部にキャッチャーは拳でミットを鳴らして気づかせると、嘆息を挟んでサインを送った。

 

(切り替えてよ。……なんて器用な性格じゃないのは知ってるから、初球はここにね)

 

(感謝するんですけど)

 

 そのサインに頷いた鎌部がボールを投じるとインコース高めに投じられたストレートは内に外れており、神宮寺は近くを通るこのボールを顔を引くようにして見送った。

 

「ボール!」

 

(ピッチャーへのインコースは気を使うからあまり投げたがらないものですが……)

 

(驚いてるみたいだけど、さっきのシュートだって振ってなきゃそのくらいの近さ通ってたんですけど)

 

(肝が座ってるな……。身体は引かずに顔だけ引いたか。まあ、少しでも意識に刺さればいいさ)

 

 そして2球目が投じられるとアウトコース真ん中に投じられたボールは外に外れており、このボールに対して神宮寺のバットが止まった。するとボールは外から切れ込むようにしてキャッチャーが構えていたミットへと収まる。

 

「……ストライク!」

 

(くっ、バックドアで入ってくるシュートですか……。次は何を……)

 

 高さこそ低めに決まりきっていないものの外枠にボールが触れにいくような軌道で収まったシュートに神宮寺は表情には出さないものの驚嘆していた。

 

(内外で揺さぶっていくよ)

 

(了解なんですけど)

 

 続けて3球目が投じられると一度神宮寺の身体へと向かうようにしてから弧を描いてカーブがインコース低めへと曲がっていく。神宮寺はこのボールを足を止めて見送った。

 

「……ストライク!」

 

(今度はフロントドアで入ってくるカーブですか……)

 

(出し惜しみは無しだ。ここで4番を切って、流れを持っていくよ)

 

(フォーク……ま、それでもいいですけど)

 

 少し迷った鎌部だったがこのサインに頷くと4球目が投じられる。アウトコース低め、やや真ん中寄りの高さに投じられたボールに神宮寺はバットを振る構えを見せたものの、バットが止められると見送られたボールはバウンドするスレスレで少し上に向けられたキャッチャーミットへと収まった。

 

「……ボール!」

 

(今のを見た……? 普通追い込まれたら振るだろう)

 

(生意気なんですけど……)

 

(今のがフォークですか……。確かにストレートとの見極めは簡単ではないですね)

 

(……ん。そうそう。そのサインが欲しかったんですけど)

 

 フォークを見送られた動揺が少なからずある中キャッチャーから送られたサインに満足げに頷いた鎌部が5球目を投じると、インコース真ん中へとボールが向かっていった。

 

(……ストレート……!)

 

 ストライクゾーンに入ってると感じた神宮寺は追い込まれていたこともありこのボールにバットを振り出すと、バットの根本側で捉えられた打球はピッチャーに向かって勢いなく転がっていった。歯を軋ませるようにしながら神宮寺が一塁へと走っていくと、この打球を鎌部が難なく捌いて神宮寺は余裕を持ってピッチャーゴロに打ち取られていた。

 

(私としてはさっきの仕返しをしてやりたかったんで、こっちの方が良かったんですけど)

 

(シュート……そう来ましたか。気の強い方ですね)

 

 今度の勝負の軍配は鎌部に上がり、神宮寺はしてやったりという表情を浮かべる鎌部を無言で見つめてからベンチへと戻っていった。そして続く5番の牧野が1ボール2ストライクから投じられたアウトローへのストレートを見送って三振に取られると、6番バッターが1ボール1ストライクからアウトハイのストレートを打ち上げて浅いレフトフライに取られ、3アウトでチェンジになった。

 

「界皇優位のムードね……」

 

「で、でもまだ一点差だから神宮寺さん達にもチャンスはあるよね!?」

 

「勿論よ。清城は神宮寺さんが抑えているうちに反撃の糸口を掴みたいところね」

 

 2回の裏が終わり、3回の表。ここで界皇は打順が一巡して1番バッターの大和田が打席に向かおうとしていたが、その前にベンチ前で今後の方針の確認が行われていた。

 

「方針に変更は無し、やね?」

 

「ええ。彼女がスライダーをゾーンに集めてきたら方針を変えるつもりだったけど、この内容ならスライダーは捨てのままで良いわ。相手はストレートが配球の軸になってきているから、それを頭に入れていってね」

 

「分かったと!」

 

 北山監督の指示が全員に伝えられると大和田が右打席へと向かい、バッターボックスの中に入ると意気込むようにバットを構えた。

 

(さっきあたしが打ったのはインコース低めのストレート。ストレートを投げるにしてもそこには来んはずと)

 

(一巡して思ったのは下位もスイングスピードが速かったけど、上位はさらに速い印象があった。スイングスピードが速いってことはよりボールを引きつけて打てるということ。そうなると引きつけてから合わせて流しやすいアウトコースは簡単には使えないかな……)

 

(そこは……)

 

 大和田を見上げて様子を窺いながらサインを送った牧野は首を縦に振った神宮寺を見るとプロテクター越しに胸を叩くような動作を見せてからミットを構えた。

 

(インコース低め……!? いや、ここから曲が——)

 

「ストライク!」

 

(ストレート!? くぅー、裏をかかれたけん!)

 

 投じられたストレートが構えられたミットに収まると、牧野はミットを通してストレートの感触を覚えながら、少なからず動揺が見受けられる大和田を見上げて次のサインを送った。

 そして2球目、ボールは再びインコース低めへと投じられた。

 

(また!? 同じ手は2度も……いや、違うと!)

 

 インコース低めへと投じられたストレートに対して始動に入った大和田だったが、前では捌かずに引きつけると足を踏み込むところでバットを止めてこのボールを見送った。するとシュートが内のボールゾーンで構えられた牧野のミットへと収まる。

 

「……ボール!」

 

(見ましたか……引っかけてくれると助かったのですが)

 

(危なかったとー。けど、慌てることはなかとよ。このスピードのストレートなら少し引きつけられるけんね、ストレートを多少詰まっても内野と外野のあいだに落とすくらいの気持ちで構えてれば誘い球には引っかからんと!)

 

 3球目が投じられるとそのコースに大和田は目を見開いた。

 

(ど真ん中!? ……分かったと!)

 

 ど真ん中に投じられたスピードボールに意表を突かれた大和田だったが、外へと踏み込んでバットを振り出した。すると外へと変化した高速スライダーが捉えられ、快音と共に弾き返された。

 

「くっ!」

 

 すると神宮寺がとっさの反応で左横を抜けようかという打球にミットを伸ばすと強烈な捕球音が内野に響いた。

 

「アウト!」

 

(うっ! よく捕ったけんね……。せっかくコントロールが甘い高速スライダーと読み切ったとに)

 

(打球が飛んだ位置が偶然ミットを伸ばしやすい場所だったから捕れましたが、今の当たりはセンター前に抜けてもおかしくありませんでしたね……)

 

(大和田さんに高速スライダーを投げたのはこれが初めてなのに。やっぱり上位は一層気を引き締めていかないと……)

 

 ピッチャーライナーでアウトに出来たことに清城バッテリーが安堵していると続く相良が打席へと入ってくる。そしてサインの交換が終えられると投じられたボールはアウトコース低めへのストレートだった。

 

(……外に外れてる!)

 

 スイングの始動に入って打てる体勢を作った相良だったが外に外れることに気づいてバットが止められると牧野のミットが外に動く形でこのボールを捕球していた。

 

「ボール!」

 

(荒れ気味ながら、それでも丁寧に投げて甘いところにいかないようにしてるんだ。これを生かしていこう)

 

(……うーん。確かに見た限り大和田の意見と同じでスピードが鎌部先輩レベルで速いようには見えない。ただ、どうも気になるんだよな。ストレートの評価がまちまちなのが……)

 

 このボールを見送った相良はストレートを打つように踏み込んだタイミングが間違っていないと感じながらバットを構え直す。

 

(……北山監督はストレートが配球の軸になってるって言ってた。けどそれは必ずしもストレートを狙えということじゃない。ピッチングの肝は相手に意識させるボールを一つ作ること。そうすることで他のボールが並であっても、意識させられたボールに引っ張られて打てないボールと化す。ここで狙うのは高速スライダーかシュート……)

 

 一度サインに首を振ってから次のサインに頷いた神宮寺を見ながら相良が考えを纏めると神宮寺が投球姿勢に入った。

 

(高速スライダーはさっき大和田に痛打されたし、ボール先行のカウントで信頼出来るコントロールは無い。ここはシュートに狙いを絞る!)

 

(今のストレートのコースに合わせるように……!)

 

 そしてボールが投じられるとアウトコース低めに投じられたスピードボールは外に外れていたが相良は外に大きく踏み込むとコンパクトにバットを振り出した。

 

(狙い通り……!)

 

(バックドアのシュートに迷わずバットを……!?)

 

 ——キィィィン。芯で捉えられたボールが快音と共に放たれると打球は神宮寺の頭上を越えて外野の芝へと落ち、2回バウンドしたところでセンターが捕球して、相良は一塁を少し回ったところでベースに戻っていった。

 

(上位にはシュートは通用しないの……!?)

 

(シュートが並って評価だけはみんな一緒だったからね。でもストレートを意識しながら打つには確実性に欠ける。それにこれで少しはシュートが投げにくくなったはずだから、今度はストレートを前で捌きやすくなりますよ)

 

 意表を突いて要求したバックドアのシュートを打たれた牧野が愕然としている中、相良は界皇ベンチの方へと目を向けて強かな表情を浮かべていた。

 

「牧野さん!」

 

(小也香……うん。分かった。ここからはクリーンナップ。引きずってはいられないよね)

 

 返球を受け取りながらそれ以上言葉をかけずに真っ直ぐと見つめてくる神宮寺に牧野も頷くと、右打席へと向かってくる3番バッターを迎え入れるようにキャッチャーボックスへと座った。

 

(さっきこのバッターにはボール球のシュートをヒットにされてる。高速スライダーで……けどこのバッターのデータを考えるとアウトコースの甘いところに入ったら危険なんだ。……まだ2回目の打席なのに選択肢が狭められていく……界皇の打線がプレッシャーをかけてきているんだ。けど……負けない!)

 

(そうです牧野さん。その目をしている限り、私達から勝機が失われることはありません)

 

 一分の隙も見逃さないようにバッターの立ち位置やグリップの握りを牧野がその目に映す中、界皇ベンチからサインが送られていた。

 

(……! そのサインは……)

 

(エンドランか。相良に単独スチールは難しいし、相手の野手陣を揺さぶる意味でも良いんじゃないか。……そうだ。気をつけておかないとな……)

 

 そして清城バッテリーもサインの交換を終えると神宮寺は数秒の間を置いてセットポジションからクイックモーションに入った。

 

(今っ……!)

 

「スチール!」

 

(……!)

 

 ファーストの声を聞きながら神宮寺がボールを投じると、バッターがスイングの始動に入ろうとする。すると双方が驚いていた。

 

(いや、これは……エンドラン!?)

 

(身体に向かってくる! これは……スライダーか!? くっ、この……!)

 

 膝に向かうように投じられたボールに身体を引きかけたバッターだったが下半身に力を込めてそれを留まるとバットが振り出された。すると荒々しいスイングがインコース低めのストライクゾーンへと入ってくるスライダーの上を掠るように当たり、フェアゾーンへと打球が跳ね返された。

 

(セカン……いや、カバーに向かってる! ここは……)

 

「ファースト!」

 

「分かった!」

 

 ボテボテの勢いで放たれた打球がセカンド・ファースト・ピッチャーのトライアングルの間へと転がっていくと、二塁ベースカバーに入ろうと動いていたセカンドを見て牧野が即座にファーストに捕球指示を送った。打球の勢いは弱くファーストがこれを右前に出るようにして捕ると一塁のカバーに入った神宮寺へと送球が行われてバッターランナーはアウトになった。

 

(息つく暇もなく仕掛けて来ましたか……)

 

(何とか進塁打にはなったか。うちは今スライダーを捨てる方針だけど、方針ってのはチームの意識の軸になるもので意固地になって貫かなきゃいけないもんじゃない。エンドランは盗塁より万全なスタートが切れないし、バッターは最低限打球を転がさないといけない。フライやライナー、そして空振りは以ての外(もってのほか)だ。スライダーであっても転がす意識を予めしといて良かったよ。本当はセカンドの横を抜いてやりたかったんだが……あんな角度のフロントドアで来るのはさすがにびっくりしちまった)

 

「後は頼んだよ」

 

「任せて」

 

 3番バッターが複雑な表情を浮かべながらすれ違いざまに後を託すと、レナが右打席へと向かっていく。

 

(2アウトで迷わずスタートが切れるし、このバッター相手に外野は前に出せない……。定位置勝負でいこう)

 

(さっきの打席で全ての球種は見せてもらったわ。みんなが作ってくれたこのチャンス、絶対に物にさせてもらうわよ)

 

(次の1点がどちらに入るかでこの試合の流れは変わるでしょう。清城の流れへと持っていくためにも、ここは是が非でも抑えさせて頂きます)

 

 2アウトランナー二塁、界皇の追加点のチャンスの場面でレナがバッターボックスへと入るとグラウンドに走る緊張感が一層と高まっていった。

 

(歩かせてもきついけど、ここはボールカウントも目一杯使うくらいの気持ちでいこう。初球は……)

 

(分かりました。甘く入らないようにしなくては……)

 

(ここは難しく考えずに軸になっているストレートに標準を合わせるわ。迷わないよう多少厳しくても打ち返す気持ちで、ただし外れたボールを無理に振りにいかないよう……)

 

 サインの交換が終えられ、神宮寺は一度二塁ランナーの相良の方を振り向いてからクイックモーションに入ると、投じたボールはアウトコース低めへと向かっていった。

 

(際どいけど、ストライクになるストレート。これをライトオーバーに持っていくイメージで……!?)

 

 アウトコース低めに投じられた四隅近くへのボールに踏み込んだレナはストレートの軌道を予想してバットを振り切ったが、左肩の前にバットが来ても空を切る感触しかなかったことに驚いて、キャッチャーミットの位置を確認した。

 

「ストライク!」

 

(キャッチャーミットは外のボールゾーン。ということは……高速スライダーだったのね。コントロールの甘い高速スライダーがあれほどの精度で来るとは思わなかったわ。恐らく半分は厳しいところを狙って投げた結果、運良く厳しいコースへ来た……)

 

「小也香! 良いところ来てるよ。その調子でいこう!」

 

 外に外れた位置で収まったボールを確認したレナは投げ返されたボールを受け取った神宮寺に目を移すと、その落ち着きのある表情から一瞬寒心に耐えない思いを抱いた。

 

(もう半分はこの局面でさらに集中を高め、いわゆる超集中状態(ゾーン)に入ってるってとこかしら? 良いピッチャーね……けど、臆するわけにはいかないわ。ここは牧野さんとの読み合いで勝負させてもらうわよ)

 

(高速スライダーが良い位置に決まった……! ストライク先行出来たけど欲はかかないで、次がボールになっても良いんだからここは思い切って厳しいところを狙わせてみよう)

 

(分かりました。兎にも角にも中に入らないようにするのが第一ですね)

 

(牧野さんのリードは向月戦とこの試合を見る限り、一球前のボールの残像を生かす傾向があるわ。たとえばシュートの変化前の軌道に合わせて今度はストレート、のように。先ほどの打席では連投した高速スライダーを捉えたし、そのリードをしてくる可能性はある。けど合わせる球種がシュートだと真ん中へ入る軌道になるから、狙いは……アウトローのストレート! それも……)

 

 そして神宮寺が投球姿勢に入るとリリースの瞬間指先に研ぎ澄まされたような感覚を覚えながらストレートが放たれた。コースは……アウトコースの低め。

 

(よし! ここに来て四隅に入るか入らないかの精度で……!?)

 

(神宮寺さんなら牧野さんの要求に応えようと厳しいコースに投げ切ってくる!)

 

 このボールに対して迷わず左足をバッターボックスギリギリまで踏み出し内側に捻るようにして軸足としたレナは鋭い腰の回転でバットを振り切った。

 

(なっ……!?)

 

 渾身のストレートを放った神宮寺はグラウンドに響き渡る金属音にハッとしながら身体を反転させると、打球はライト線にライナー性の当たりで飛んでいた。

 

(抜かせるか……!)

 

(……! 突っ込む気だ。届く……?)

 

 ほぼ真横に向かって走り出したライトはそのまま減速せずにライト線に切れるか切れないかというボールに飛び込んだ。すると……白い粉が舞った。

 

「フェア!」

 

「……!」

 

 伸ばしたミットの先でバウンドしたボールはライト線として引かれた白い粉を舞い上げるとそのまま勢いよくファールゾーンへと逸れるように転がっていき、それを見た神宮寺は力が抜けそうになる感覚をこらえてホームのベースカバーへと向かった。

 

(くぅ……。あれは多分回り込むのも難しかったと思うけど……打球が遠い!)

 

 外野側のファールゾーンのフェンス下の壁に跳ね返ってフェアゾーン近くまで戻ってきた打球にカバーに向かったセンターがようやく追いつくと中継に入ったセカンドへと送球を行った。

 

「三塁に!」

 

 二塁にいた相良が悠々とホームインするのを横目に牧野が三塁への送球指示を出すと、それを背にボールを受け取ったセカンドが反転しながら送球を行う。そしてサードが送球を胸の高さで受け取った瞬間、レナの伸ばした足が三塁ベースに触れ、その後にタッチが行われた。

 

「セーフ!」

 

(やられましたね……)

 

 相良のホームインが認められたことで界皇に追加点が入り、スコアは2-0となる。ショックを受けた様子の神宮寺に一度守備のタイムを取って間を挟もうとする牧野を見ながら、レナはバッティンググローブを外していく。

 

(読み勝てれば打てると思ってた……けど、打球が思ったより上がらなかったな。バットがボールに……押し込まれた?)

 

 しかしその表情は貴重な追加点を上げられたことへの喜びと僅かな違和感への疑問が混じっていた。するとマウンドに集まった内野陣の一人に神宮寺が左肩を叩かれた音でハッとするように顔を上げ、タイムが解かれるとランナーとして神宮寺に注意してリードを広げていく。

 

(私たちが大差で勝利することが多い理由の一つは相手に流れを一切引き渡さずに圧倒することで、相手の心が折れてしまうことがあるから……。けど、どうやら……この試合に限ってそれは無さそうね)

 

 そしてサードランナーとして神宮寺が息を吐き出して集中した面持ちを保つ様が良く見えたレナは少し嬉しそうに笑うと、自身も気持ちを引き締め直すように真剣な表情に戻っていった。

 

(このバッターはさっき中に入ったシュートを長打にした。だからシュートは見せ球として使うよ)

 

(なるほど……分かりました)

 

 バッテリーのサイン交換が終わり、神宮寺がレナと視線を交わすようにランナーの動きを確認すると、前を向いて投球姿勢に入った。

 

(振りかぶった……!?)

 

(2アウトランナー三塁だから開き直ってバッター勝負ってことね。……!)

 

 腕を振りかぶり、上げた左足をセカンドベース方向に向ける神宮寺を見ながらレナはリードを広げていくと、投球の寸前まで彼女のグローブが自分の方を向いているのに気がついた。そして投じられたボールがインコース高めへと投じられるとスイングの始動に入ったバッターはバットを止めて内のボールゾーンへと曲がるシュートを見送り、ボールとなった。

 

(左肩をあのタイミングでも入れているということはギリギリまで身体の開きを抑えているということ。それに上げた足が二塁方向に向くということは体重移動で足より尻の方が先に出る、いわゆるヒップファースト……。これも身体の開きを抑える効果がある。ということは……)

 

 そしてレナからその動作を再び確認するように見られながら腕を振りかぶって2球目を神宮寺が投じるとアウトローに投げられたストレートがややバットの先で捉えられて弾き返される。

 

「センター!」

 

「ギリギリじゃん……! カバーお願いねぇ!」

 

「わ、分かった!」

 

 右中間ややセンター寄りに飛んだフライ性の打球を反転してセンターが追いかけていくと、ボールの落ち際へと飛び込んだ。

 

「アウト!」

 

(届いたぁ……! 最後ちょっと失速してくれたからなんとか届いた。それに……神宮寺さんや花があんなに頑張ってるんだもん。守備で支えてあげないとね)

 

「今の……得意の左中間に運ぼうとしましたね?」

 

「あ、ああ……上手く打ったと思ったんだけどな」

 

(やはり……身体の開きが抑えられているということは、それだけリリースの瞬間を遅れさせてギリギリまでボールを持てることになる。特に彼女のストレート……思えば向月のバッターも差し込まれ気味の打球が多かった。スライダーとの緩急差によるものかと思ったけど……そういうことだったのね。彼女はコンマ1秒の溜めを作れる……“球持ちの良さ”があるんだわ)

 

 打ち取られたバッターに問いかけたレナはその答えを聞くと、不敵に笑いながらベンチへと戻っていくのだった。



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背番号1が歪まぬ限り

 界皇の2点リードで迎えた3回の裏。右打席に入った7番バッターはインコース低めのストレートを見送った後、続けて投じられたインコース真ん中のストレートを振りにいったがボールの下をやや遅れたタイミングでバットが潜り0ボール2ストライクと追い込まれていた。

 

(内ばっかだぁ……しかももれなく速いストレートのおまけつき。もう少し始動を早くして、感覚より上振るイメージで振らないと当たんなそう……ボール見れる時間が少なくなるしそういうの苦手なんだよねぇ)

 

(このバッター、高坂から決勝打を打ったからな。一応警戒してたんだが、所詮下位打線か?)

 

(と思ってたら得意の外に来た……! っとと……)

 

 そして3球目にアウトコース低めへと投じられたフォークがワンバウンドしてからキャッチャーミットに収まると、振り出そうとしたバットが思い出したように慌てて止められボールのコールが為された。

 

(また見た?)

 

(フォークって回転がほとんどかかってないって本当なんだね。縫い目がくっきり見えたよ。でも見極め出来ても低めに高い精度で決まったボール打ち返すのは簡単じゃないし、ここは方針通り……ってやばっ!?)

 

 4球目として投じられたインハイのストレートに一つ前のアウトローへのフォークを少なからず意識していたバッターは反応が遅れると、振り出したバットは空を切っていた。

 

「ストライク! バッターアウト!」

 

(ぐぬぬ……。高さ絞っててもストレートがこう速いと厳しいなぁ)

 

 振り遅れる形で空を切ったバットを7番バッターがその場で無念そうに見つめていると、球審からベンチへ帰るよう注意を受けて渋々バッターボックスに背を向けて歩いていく。そんなマイペースさに呆れながら界皇のキャッチャーはここまでの清城の攻撃を経てある違和感を抱いていた。

 

(2イニング終わったところで予想はしていたが、こいつら……低めを捨てているのか? 真ん中から上の高さしか振ってないし、そうでもないとフォークがここまで見送られる理由は無いはず……)

 

 そんなキャッチャーの目に意気揚々と右打席に入る8番バッターが映ると、少し考えた後に鎌部へサインを送った。

 

(このバッター、一回戦は空振りばっかで何が得意で何が苦手なのかイマイチ判断しづらかったんだよな。けど、もし全員が低め捨ててるっていうなら……)

 

(下位は球数抑えたいんで、パパッと終わらせたいんですけど。……膝下のストライクゾーンにストレート、それで問題ないと思うんですけど)

 

 ストライクを要求するそのサインに鎌部が満足げに頷くと、ボールが投じられる。するとバッターがスイングの始動に入った。

 

(よっしゃ! 得意のコース……!)

 

(なっ……)

 

 そして振り切られたバットから快音が響き渡ると、キャッチャーは慌てた様子でマスクを上げ、開いた視界でレフト方向にぐんぐんと伸びていく打球を捉えた。

 

「レフト!」

 

(これは……!)

 

 バットがボールを捉える瞬間に背筋が凍る感覚を覚えて反転して走り出したレナは快音に反応するように走りながら首だけ後ろに振り向くと、その打球の軌道に目を見開いてボールから目を切り、トップスピードに乗って予測した位置へと向かっていた。

 

(入れ……!)

 

(恐らくフェンスダイレクトの打球。突っ込まずに跳ね返りを確実に捕球する手もあるけど……ここはトライする価値はあるわ!)

 

「はっ!」

 

 打球を背にしてフェンス間際へと来たレナは身体の向きをそのままに減速することなくフェンスに向かってジャンプし、右足でフェンスを捉えて飛び上がると共に身体の向きを内野方向へと変え、目を切っていた打球を捉えて予測した位置との誤差を修正するようにミットが伸ばされると、その次の瞬間には先に地面に触れた左足の膝を曲げることで衝撃を和らげて着地する彼女の姿があった。そしてレナは短く吐息をついてから立ち上がると、ミットを高々と掲げる。

 

「アウト!」

 

「うっそ……!?」

 

 少しでも先の塁を狙うべく二塁手前まで来ていたバッターランナーは三塁を狙うべきかとレフト方向に視線をやった瞬間に響いたコールに一瞬理解が追いつかず思考が止まるほど驚いていた。

 

(予想との誤差が腕を伸ばして届く範囲で良かったわ。やっぱりこのくらいの飛距離の打球だと正確に予想したつもりでもブレるものね)

 

 内心の焦りを全く表に出さずに不敵な笑みを浮かべてレナがボールを内野に戻すと、バッターランナーが悔しそうにベンチへと戻っていく。

 

「すまん! バットが少し下に入った……! 折角、ウチだけ低めを捨てる方針から外してくれたのに不甲斐ない……!」

 

「……恐らくスピン量の差ですね。鎌部さんのストレートは私たちの予測する軌道より僅かに上を通るのでしょう」

 

「そうなんだ……けど惜しかったよ! 切り替えていこう!」

 

 そしてベンチに入って勢いよく頭を下げた彼女を牧野が慌てて手を差し伸べるようにして顔を上げさせて元気づけていた頃、このバッティングをスタンドから見ていた明條のエースの表情が不機嫌なものとなっていき、それに気づいた後輩が話しかけていた。

 

「先輩……もしかして体調悪いんですか?」

 

「ん……? ああ、いや、そうじゃなくて……」

 

「……清城との練習試合のことを思い出してたのよね?」

 

「まあ……そうね」

 

「その試合のことだったらよく覚えてます! 8番で、初めてスタメンとして試合に出れたので……! 確かまだ新チームが始動したばっかりだったこともあって、お互いに打線が噛み合わなくて……あっ!」

 

「そうそう。どっちも得点出来ずに終わりそうだったところであのレフトの子……練習試合の時は7番打ってたかな? その子に少し中に甘く入った膝下へのストレートをソロホームランにされちゃったのよね」

 

「う……」

 

 終わりが見えてきたところで投じた角度のあるストレートをすくい上げるようなアッパースイングで打ち返され、打球をレフトスタンドに入れられて清城との練習試合を0-1で負けてしまったことを今の打球を見て思い出してしまった彼女は冴えない表情を浮かべていた。

 

「す、す、すいません! 嫌なこと話させちゃって……!」

 

「……気にしないで。大丈夫だから」

 

「そうそう! 気にしなくても大丈夫よ」

 

「アンタは少しは気にして」

 

「私の扱い、酷くない?」

 

(先輩達、仲良いなあ……)

 

 萎縮する後輩に対して結んだままの唇にかすかな笑いを浮かべたエースは慣れたようにキャプテンをあしらうと、泣くフリをするキャプテンを見て後輩は微笑ましいものを感じていた。やがて何事もなかったように平然とキャプテンがエースへと話しかける。

 

「大丈夫よ。あの時はまだ内へのコントロール甘かったけど、あれからクロスファイヤーの練習いっぱいしたでしょ?」

 

「……まあね。もし三回戦で当たるようなことがあったら、今度は抑えてやるわ」

 

「その意気よ!」

 

「ちょっとちょっと先輩達ー? 気合い入れるのはいいですけど、次の相手は里ヶ浜ですよ」

 

「分かってるって。モヤモヤをすっきりさせただけよー」

 

 エースの右隣に座る友人のさらに右隣に座っていた大咲が口を挟むと、エースの左隣に座っていたキャプテンが少し身を乗り出すようにして大丈夫だということを伝えるように親指を立てるジェスチャーを送っていた。

 

「みよちゃん、凄いやる気だね。なんかオーラみたいなものが見えそう。ゴゴゴ……! ってやつ」

 

「そりゃあアタシはアイドルだもの。オーラくらい出まくってるわよ」

 

(アイドルのオーラがゴゴゴ……! なのか……?)

 

「それに里ヶ浜には4失点の借りがあるし、今日こそ! ってのはあるわよ。そしてなにより……!」

 

(逢坂ここに今度こそ勝つ! ……っていうかアイツ、試合出れるんでしょうね? 前に『アタシの実力に恐れ慄きなさい』とか言ってたくせに、一回戦は代打だったじゃない。大丈夫なんでしょうね……? 一回戦終わった後聞きにいったら『アタシは秘密兵器なのよ!』とか言ってはぐらかすし……)

 

 9番バッターが右打席に入っていくところでグラウンドから視線を外した大咲はこの試合をどこかで見ているであろう逢坂を探すように他のスタンドへと目を向けたのだった。

 

「くしゅん! うー……また誰かがアタシの噂をしてるのね。人気者は困っちゃうわ」

 

「逢坂さん……よく今のプレー見た後でそんな呑気なことが言えるわね」

 

「なによー。今の、いわゆる一か八かなプレーじゃないの?」

 

「……恐らく、捕れる確信は無かったと思うわ。本当にギリギリだったもの」

 

「ほらー! それって龍ちゃんがアタシにダメって言ってたやつでしょ!」

 

「違うわ。私は確実なプレーだけをしろと言った覚えはないもの」

 

「むー、なにが違うかよく分かんないわ! ね、翼ちゃんもそう思うでしょ?」

 

「えっ?」

 

「どうなのかしら?」

 

 一方の里ヶ浜は後ろに座っていた逢坂から立ち上がりながら急に振られて戸惑う翼が左隣に座る東雲に睨むような目つきで詰め寄られているところだった。

 

「えっとね。今のは捕れなくても、確実にいっても変わらなかったっていうか……」

 

「……? なんで?」

 

(言いたいことは分かるけど、説明を省きすぎね……)

 

「クッションボールを待って確実に処理したとして、あの深い位置で捕球したら二塁打を防ぐのは難しいのは分かるわね?」

 

「う、うん。けど今の捕り損ねてたら……」

 

「捕り損ねていたら?」

 

「も、もしかすると三塁打……なんならランニングホームランになってたかもしれないじゃない?」

 

「それは難しかったと思うよ。センターがカバーに向かっていたし……」

 

「クッションボールに嫌われてセンターから離れるように転がったとしても、草刈レナ自身すぐに追える体勢を取っていたから、レフトからサードへの送球距離の短さを考えれば二塁を蹴っても刺せたはずよ」

 

「た、確かに……。つまりあのレフトはそこまで判断して、あんなプレーをしたってこと?」

 

「そう考えるのが妥当でしょうね」

 

 今のプレーが自分と同じように目立つ派手さを優先したものだと考えていた逢坂は二人の意見に開いた口が塞がらない様子だった。

 

「……で、でも確か九十九先輩も清城との練習試合の時に似た感じで今のバッターの打球をキャッチしましたよね?」

 

「おや、よく覚えていましたね」

 

(……そういえばアタシもあのバッターに膝下のストレートを持っていかれたっけ)

 

「いつでも出番来てもいいようにベンチからじっくり見てましたから!」

 

「ですが私と彼女のプレーは似て非なるものですよ。あの時私は鈴木さんの外野後退の指示を受けて予め下がっていましたし、打球の弾道も今のものより低く、フェンスにぶつかる衝撃で落球する恐れこそありましたが、直接飛びついてキャッチ出来る高さでしたから」

 

「……! そういえばさっきフェンスを蹴ってたような……」

 

「ええ……そうしないと届かない高さだったのでしょう。それに予め下がらずに今の打球に追いつくには判断の遅れ、プレーの遅れ、どちらの遅れも許されなかった。確実な捕球でなくても、あれを捕れるほどの守備範囲の広さというのは見事という他ないと思いますね」

 

「ぐぐ……そうなんですね」

 

(守備で目立つっていうのは、そういうことなのかも……)

 

 九十九のプレーと比較して今のプレーの凄さを痛感した逢坂はライトを守るきっかけとなった夏大会での宇喜多の好守備が脳裏をよぎると、悄然として座り込んでいた。

 

「そして清城にとって痛いのは追加点を上げられた回の裏の攻撃で、反撃の狼煙になったかもしれない長打を摘まれたことね……」

 

「そういえば試合始まった時は清城の声援が多かったのに、今はまちまちだね」

 

「清城寄りだった球場の雰囲気を変えるほど、試合の流れは今界皇に大きく傾いている……。それだけこのイニングの草刈レナの攻守にわたる活躍は大きかったわ」

 

 翼が周りを見渡すと彼女の右隣に座っている河北の声援をのぞけば、他の観客は雰囲気に呑まれたように積極的に声援を送れなくなっているのが見受けられ、里ヶ浜部員は試合の流れがもたらす影響の大きさを体感するのだった。

 グラウンドでは0ボール1ストライクからインコース低めに投じられたフォークが低めに外れ、見送られてボールの判定が出されているところだった。

 

(まさかフォークにクセがあるんじゃ……いや、迷ったら相手の思う壺だ。ヒットは打たれてないんだ。このままのリードでいくよ)

 

(重心を後ろにおいて、セカンドの頭を意識して……)

 

(キャプテンに助けられたとはいえ、さっきのバッターへのボールは入れにいってしまったんですけど。球数を抑えることと油断することは違う……一回戦で言われた慢心に溺れないように気をつけるべきだったんですけど)

 

 そして3球目が投じられると、アウトコース真ん中へとカーブが弧を描いて変化していく。

 

(もう油断はしないんですけど……!)

 

(よし。上体を残せた……!)

 

 タイミングを崩すような遅いカーブに体勢を崩さなかったバッターはそのままボールを引きつけてバットを振り出すと、芯より少し下を捉えた打球はセカンドの頭を越えていった。

 

(これは落ち……なっ!?)

 

「アウト!」

 

(し、しまった……! ライトが予め前に来ていた? 王者界皇が下位打線の私に合わせてわざわざシフトを敷いてくるなんて……)

 

 ライナー性の打球に前に出ていたライトが追いつき、胸の高さで捕られて3つ目のアウトが成立し、バッターは悔しさと驚きが混じったような表情でベンチへと戻っていった。

 3回の裏が終わり、4回の表の界皇の攻撃は6番バッターから。左打席に入った彼女に内に外れたストレート、そのコースに合わせてストライクゾーンに入るように変化したシュートが共に見送られ1ボール1ストライク。3球目のストレートがアウトコース低めの厳しいコースへと投じられるとここでバッターがスイングに入り、詰まった当たりで打球が放たれた。

 

「レフト!」

 

「うおおおっ! ……っとと!?」

 

 浅い当たりにレフトが猛然と突っ込んでいったが、失速するように落ちていった打球が彼女の前でバウンドすると慌てた様子でミットを下向きに差し出し、バウンドしたところを前に落とすような形で抑えるとそのボールが拾い上げられてレフト前ヒットとなった。

 

(今のを打ちますか……。四隅というほど外枠には沿っていませんでしたが、浮かないようにはしたのですが……)

 

(レナさんの言う通りだ。確かにこのピッチャーのボールは球持ちが良い。身体の開きを抑えているから、リリースポイントを普通より前に持ってこれるんだ。レナさんが提案した対策は二つ……一つはこちらがボールを打つポイントを前に持っていって、差し込まれないようにすること。けど神宮寺のストレートは前で確実に捌けるほどは遅くないし、変化球投げられたらまず対処出来ない)

 

 そして右打席に入った7番バッターがバントの構えを取るとインハイにストレートが投じられ、このボールにスムーズにバットが合わされると一塁線に勢いの殺された打球が転がった。この打球をチャージをかけていたファーストが処理すると二塁への送球を諦めて、一塁ベースカバーに入ったセカンドへと送球が行われて1アウトランナー二塁となった。

 

(もう一つは打つポイントを変えずに詰まらせて打つ方法。さっきまでも詰まらされていたけど、普通に捉えたつもりで詰まるのと、予め詰まることを予想して振るのじゃ全然違う……。それに清城のレフトとライトは幸い捕球判断が甘い。逆方向に詰まらせて内野と外野の間に落とすように打てれば、ヒットになる可能性は十分にある。……まあ、定位置ならの話だけどね)

 

 1アウトランナー二塁となり8番バッターが右打席に入ると、二塁ランナーは牧野の指示で前に出てくる外野を確認してリードを広げていく。

 

(3点目はやれないってわけか。けどこっちもさっきの打席の借りがあるからな。繋がせてもらうぜ)

 

(このバッターはさっきの打席アウトローのストレートをファーストゴロ。ただ当たりはヒット性だった……。小也香、初球は……)

 

(ええ……。ランナーを動かしてくる可能性も否めませんし、入りはそれが良いでしょう)

 

 バッテリーのサイン交換が終わるとセットポジションの投球姿勢に入った神宮寺が二塁ランナーに一度目をやった後、前を向いてしばらくの間静止した。そしてクイックモーションに入った神宮寺がボールを投じるとアウトハイに投じられたストレートは高めにボール2個分外れており、見送られてボールとなった。

 

(これが思ったよりボールが来るとか言ってたストレートか。けどあたしはさっき打った時、そんなに違和感なかったんだよね。……おっと……!)

 

 2球目が投じられると身体に向かってくるように投じられたボールがストライクゾーンに向かって変化していき、軽く腰を引いて見送られたスライダーはインコース低めに構えられたミットに収められた。

 

「……ストライク!」

 

(変化量もさることながら、決まったコースもいいな。確かにこれに全員狙いを絞るのは得策じゃないかもね……あたしはやっぱりストレートを狙わせてもらうよ。相性も良いみたいだしね)

 

(あいつは元々上から打球の球威を抑え込むようにして右方向に転がすバッティングが得意だからな。外野の位置よく確認して、突っ込めそうならいけるよう準備しておこう)

 

(……スライダーは決め球として使いたいから、ここは他のボールを一球挟みたい。どのボールを、どのコースに投げるか……)

 

(ここはボール球を振らせる手もありますが高速スライダーは元からコントロールがブレやすく、今日はストレートが荒れ気味。……牧野さん)

 

(……うん。これでいこう)

 

 送られたサインに神宮寺が首を振ると、次のサインも横に振られ、牧野は少しの間を挟み、今の状況と神宮寺の心情を鑑みて3回目のサインを送った。すると神宮寺が頷き、牧野も意を決した様子でミットを構えた。そして3球目が投じられる。

 

(これでどうですか……!)

 

(アウトロー……! いける!)

 

 アウトコース低めに投じられたボールにスイングの始動に入ったバッターは外へと大きく踏み込んでバットを振り出す。すると違和感を覚えたバッターが振り出したバットの軌道を中へと修正し、芯より上を捉えた打球がフェアゾーンへと跳ね返された。

 

(外から中に入ってくるシュートだと!?)

 

(やった! 僅かに低めに外したシュートを振らせた!)

 

 二遊間方向へと転がっていく打球に両者の表情の明暗が分かれると、この打球を捕るべくセカンドが走り出した。

 

(牽制に備えて二塁寄ってたし、これは追いつける! ……!?)

 

(くっ!?)

 

(三塁いける!)

 

 すると神宮寺が左足に当たりそうな軌道で転がってくる打球に反射的に反応してミットを差し出すと、ピッチャー強襲の形でボールが弾かれた。それを見てピッチャーの捕球に備えてリードを保って打球の行方を見守っていた二塁ランナーが三塁へと走り出す。

 

(う……)

 

 弾かれた打球は一二塁間方向へと軌道を変え、セカンドがブレーキをかけるように反転してこの打球を拾った頃には二塁ランナーは三塁に到達し、バッターランナーも一塁を駆け抜けていた。

 

(ちぇ、してやられたよ。けど悪いな神宮寺。どうやら試合の流れがあたしを後押ししてくれたみたいだ)

 

 ヘルメットに手をやりながら一塁ベースへと戻ってきたバッターランナーは一本取られたと悔しそうにしながらもタイムを取ってマウンドへと駆け寄る牧野と神宮寺をふてぶてしい面構えで見つめる。

 

「申し訳ありません。折角打ち取った当たりを……」

 

「しょうがないよ。転がった位置が悪かったから……。それより1アウトランナー一塁三塁で9番バッターの鎌部さん。界皇はどんな手で来るかな」

 

「……やはり頭によぎるのはスクイズでしょうか。界皇は強打のイメージはありますが、バントが必要な場面ではしてきますから」

 

「うん。私もここはスクイズ有りの場面だと思う。いつもならバントのしにくいインハイを攻めたりするけど……さっき7番バッターに送られた時あっさり決められたのが気になるんだ」

 

「バットの動かし方もスムーズで、まるで予想されていたようなバントでしたね。……いえ、実際に予想されていたのかもしれませんね」

 

「どういうこと?」

 

「打線が一巡して多くのバッターが上手く打たされた、苦手なコースを突かれたなどの声を漏らしていました。それは過去のデータから傾向を探られたのかもしれません」

 

「けど、今の清城のデータはそんなに多くないような……」

 

「ええ。だから試合数の多い界皇に情報戦では有利だと、私達は思い込んでいたのかもしれません。夏大会で出番の無かったバッターがいることを考えると、今の大会の一回戦……向月との試合データを高い精度で分析された。そう考えて良いのではないでしょうか」

 

「そっか……。情報戦といえば帝陽が有名だけど、それに匹敵する界皇も力を入れているよね。ということは……私達の配球もある程度読まれてるかもしれないって言いたいんだね」

 

「そうです。バントに対してインハイのストレートで打ち上げさせるのは私達が好んで用いる手……向月との試合でも使いましたから」

 

「そうなると今まで通りのリードばかりじゃなく、新しいリードを模索しないとだね」

 

(……里ヶ浜との練習試合でリードが読まれていたことを知って、私なりに色々勉強してきた。それはこういう時に小也香の力になりたいと思ったからだ!)

 

「ねえ、小也香。ちょっといいかな……?」

 

「なんでしょう?」

 

 やがてタイムが終えられると鎌部が右打席に入り、プレーが再開される。

 

(初球のサインは待て。相手の出方を伺いたいのは分かるんですけど、ちょっと消極的すぎる気もするんですけど)

 

 1アウトランナー一塁三塁、清城の取った守備陣形は中間守備。じりじりとリードを広げていく三塁ランナーを目で制した神宮寺はクイックモーションからボールを投じた。

 

(……!)

 

 真ん中高めに投じられた高速スライダーが外へと変化していくと、高めに外れたこのボールを牧野が中腰で捕球する。

 

「ボール!」

 

(高すぎなんですけど。スクイズを意識してるのか知らないけど……もしそうなら、スクイズを防ぐのに重要なのはファーストストライク! コントロールの安定しない高速スライダーから入ったのは悪手なんですけど。……!)

 

 続けて待つサインを受けた鎌部は次に投じられた外へと大きく外されたボールに目を見開くと、ストレートが立って構えられた牧野のミットに収まった。

 

「ボール!」

 

(ピッチアウト……。まあ、ストライク取りに来るところを狙ってスクイズはありだけど、ここでその読みが外れた代償は大きいんですけど)

 

 2ボール0ストライクとバッター有利のカウントになり、鎌部は内心ほくそ笑んでいた。神宮寺にボールが投げ返され、再び間が長く置かれると、ここで神宮寺が三塁に牽制球を投じた。

 

「セーフ!」

 

(次のカウントこそスクイズで来るんじゃないかと思ってるのが伝わってくるんですけど。ま、ピッチャーとして気持ちは分かるけど……)

 

 しかし三塁ランナーは余裕を持って帰還し、返球を静かな表情で受け取る神宮寺を見て鎌部は実際には不安が募っているのが透けて見えるように感じられた。そして3球目が投じられる。

 

「……!」

 

「ボール!」

 

(またピッチアウト……満塁策? いや、あり得ないんですけど。満塁にすれば守りやすくなるとはいえ、私を歩かせれば満塁で上位を迎えることになるんですけど)

 

(3ボール0ストライク……あまり経験したことのないカウント。牧野さんのリード傾向からも私の投球スタイルからもかけ離れているので、慣れない緊張がありますね)

 

(……ここね)

 

(……! 了解したんですけど)

 

 3球目も外されたがランナーは動きを見せず3ボール0ストライク。ここで変更されたサインを把握した鎌部がバットを構えると、神宮寺も再びボールを長く持ち、静寂がグラウンドに満ちていった。

 そして神宮寺がクイックモーションに入った。その瞬間だった。

 

「「ランナースタート!」」

 

(……! 来ましたか……!)

 

 両コーチャーの指示に合わせるように三塁ランナー、一塁ランナーが共にスタートを切り、サードとファーストのコールを聞きながら神宮寺が足を踏み出すと、ボールが投じられた。

 

(歩かせるわけにはいかない場面。もらったんですけど! ……!?)

 

(読み勝った!)

 

(なっ……3ボール0ストライクからピッチアウト!?)

 

 立ち上がった牧野がアウトハイに大きく外されたストレートに対してミットを構えると、投じられたコースに気づいた鎌部がとっさに飛びついてバットを伸ばしていた。しかししっかりと外されたストレートにバットが届かず、牧野のミットにボールが収まったことに北山は信じられないような表情を浮かべていた。塁を飛び出した三塁ランナーは牧野が外に大きく出ている僅かな隙を突くようにそのままホームへのスライディングを敢行すると、捕球後迷わずホームに腰を落とすように動いた牧野はこのスライディングに対してホームで構える形でタッチを行った。

 

「アウト!」

 

「よしっ……!」

 

 タッチを行った牧野はコールを背に立ち上がって二塁を見ると一塁ランナーは二塁を少し蹴ったところでベースへと戻っていく。

 

(や、やってくれたんですけど……!)

 

(読み違えたわね。一回戦の傾向だとこういうリードは無かったから……)

 

(上手くいきましたね。……正直、このまま歩かせて満塁になるのではないかと不安でいっぱいでしたよ)

 

 界皇、清城の両陣営の落胆や安堵の混じった感情がグラウンドで渦巻くように漂う中、立ち上がった鎌部は打席へと入り直し、鋭い眼光を神宮寺に向けた。

 

(けど、まだ終わってないんですけど! カウントもこっち有利、神宮寺にもプレッシャーはかかってるはずなんですけど)

 

(3ボール1ストライク……。入れにいってはいけず、外れても厳しくなるカウント。ここは……ええ、そうですね。使うべきでしょう)

 

 2アウトランナー二塁となったことで内野は定位置へと戻り、外野は少しだけ前に出てくる。牧野から送られたサインに納得するように神宮寺が頷くと、鎌部へと5球目が投じられた。

 

(……! 身体に……!?)

 

 膝へ向かうように投じられたボールに鎌部はとっさに身体を大きく引くと、フロントドアの形でインコース低めに構えられた牧野のミットへと収まった。

 

「……ストライク!」

 

(当たると思ったボールがストライクゾーンに……とんでもないキレなんですけど)

 

(身体を大きく引いた……これは外に決まれば打てない!)

 

(これで決めましょう)

 

 6球目が投じられるとスライダーを捨てて速球系に絞っていた鎌部はタイミングを崩されてバットが止まり、真ん中低めからアウトコース低めへとスライダーが変化して、牧野のミットに収まった。

 

「……ボール! フォアボール!」

 

(なっ!)

 

(……しまった。少し低い……! 3ボール0ストライクからの組み立ては小也香は慣れてないから、それが微妙なズレを生み出したんだ……!)

 

(……釈然としないけど、フォアボールはフォアボール。後は上位に任せるんですけど)

 

 決め球として投じたスライダーはボール半個分低く外れ、ボールのコールが響いた。鎌部が渋い表情で一塁へと歩いていくと、神宮寺は今のボールへの後悔ごと消すように首筋につたう汗を拭い、右打席へと入ってくる大和田を迎え入れていた。

 

(この回無失点に終わったらなーんか嫌な感じやけん。貪欲にいかせてもらうとよ)

 

 2アウトランナー一塁二塁へと変わり、打順が上位に回ったこともあって清城は内野をライン際に寄せ、外野を下げて長打での一塁ランナーの帰塁をさせないような守備陣形を取った。

 

(スクイズは阻止できたんだ。方向性は悪くないはず。このバッターは一打席目で膝下のストレートをライト前に、二打席目でアウトコース真ん中の高速スライダーを鋭いピッチャーライナー……これでどう?)

 

(……なるほど。いつもは低めに投じるこのボールを高めに……)

 

 そしてサインの交換が終えられると神宮寺は投球姿勢に入った。すると大和田が取った構えに神宮寺は胸を刺されたように心臓がドクンと跳ねたのを感じた。

 

(セーフティバント!?)

 

(警戒が甘いとよ〜。……! これは……スライダーと!?)

 

 インハイに投じられたボールは内に大きく外れておりそのコースにびっくりした大和田だったが、球速からスライダーであることを予想すると、想定した変化にバットを合わせ、三塁線へと打球を転がした。

 

(しまった。セーフティが頭から抜けてた……!)

 

 三塁線に転がる打球とこれを前に出て捕球しにいくサード、そして駿足を飛ばして走る大和田のそれぞれの位置を見渡した牧野は意表を突かれながらも指示を送った。

 

「間に合わない! 見送って!」

 

「分かった!」

 

(くぅー……スライダーのキレに合わせるのが精一杯で、方向が狙いよりぶれたと! 切れないで欲しか……!)

 

 転々と転がる打球をサードが見送ってから追うようにすると、やがて三塁ベース手前で勢いの落ちたボールが止まり、三塁審判の判定が響いた。

 

「フェア!」

 

(な……ライン上で止まった!?)

 

(転がせたのは実力でも、切れなかったのはラッキーやね……。まあ運も実力のうちと!)

 

 ボールが三塁線上に乗ったところで完全に静止し、サードがこのボールを拾って神宮寺へと投げ渡す。大和田が打球がフェアゾーンにとどまったことに安堵する中、清城ナインは嫌な流れをひしひしと感じていた。

 

(今のはセーフティを警戒し忘れた私の責任だ……。ここで断ち切らないと。相良さんはパワーは界皇の中では無い方だから、ここは定位置でバッター勝負でいこう)

 

 2アウト満塁となり右打席には2番の相良が入っていく。相良は清城野手の位置を確認してからバットを構え、神宮寺も集中した面持ちで彼女のことを見ていた。

 

(……考えようによっては大和田さんの盗塁を考えなくていい状況です。開き直ってこのバッターを抑えましょう……!)

 

(……さっきの3ボール0ストライクからのピッチアウトといい、インハイへのスライダーといい、一回戦ではやってなかった手を打ってきた。これじゃあデータを鵜呑みするのは危険……とはいえ、“本質”は変わらないはずだ。2アウト満塁の場面、鎌部先輩をフォアボールで出してしまったことも考えると、押し出しが頭をよぎらないわけがない。ここは初球ストライクが欲しいはずだ。問題はなにでストライクを取りに来るか……)

 

 一度首を振ってから次のサインに神宮寺が頷くと、相良も頭の中で考えを整理し終えた。そして息を吐き出してから神宮寺がセットポジションに入ると、互いの視線が思惑と共に交錯し、やがてボールが投じられた。

 

(鎌部先輩、大和田とスライダーを3球続けた状況だ。ピッチャーとしては4球続けるのは不安があるはず。高速スライダーはコントロールに不安が、シュートはさっきの打席で打ったばかり。となれば……ストレート。外野を下げてないけど、一応私はさきがけ女子戦で長打を打ってるし、大和田の足を考えれば長打のリスクがある内は投げにくいはず。デッドボールのリスクもあるしね……つまり)

 

 神宮寺が足を踏み出すと同時に外へと身体を動かしていた相良がストレートのタイミングで踏み込むと投じられたアウトローのストレートへとバットが振り出されていた。

 

(初球は外のストレートってことだ!)

 

(踏み込まれた……!?)

 

 ——キィン。外のストレートを流すようにしてバットが振り切られると芯で捉えられた打球が一二塁間へと転がり、全ランナーがスタートを切った。

 

「セカンド!」

 

「任せて……!」

 

(確かに球持ちが良いストレート……けど、これなら……!)

 

 牧野の指示を受けてセカンドが外野の方へと下がりながらこのボールを捕りにいくと、意を決したように外野の芝へと抜けようかという打球に飛びついてミットが伸ばされた。すると、身体が外野に流れるような形でこの打球を辛うじて捕球することに成功していた。

 

「一塁に!」

 

「えいっ!」

 

 立ち上がる時間は無いと判断して身体を起こしたセカンドは腰の捻りを使って送球を行うとやや勢いの無い送球をファーストが足を伸ばしてすくうように受け取り、相良も一塁を駆け抜け、一塁審判の判定が響いた。

 

「……セーフ!」

 

(うっ。セーフですか……!)

 

(やっぱりね。2アウト満塁で近くの塁でアウトを取れば良かった場面だ。同じセカンドを守る身としてはもう少し予め深く守って、今みたいな打球も身体の前で捕れるように出来たと思うよ)

 

 相良がセーフになったことで三塁ランナーのホームインが認められ、界皇に3点目が入る。一塁へと戻った相良はバッティンググローブを外しながら、守備のタイムでマウンド付近に集まったセカンドを見つめながら今のプレーに対して淡々と考察をしていた。

 

「ごめんね神宮寺さん……」

 

「謝らないで下さい。抜けていたらもう1点入っていましたし、助かりました」

 

「で、でも……」

 

「……折角ですし、今私が感じていることを伝えさせていただきます」

 

「えっ?」

 

(あ……昨日、言ってたことだ。無理をする時は相談するって……)

 

「情けないことに先ほどから私は怖いのです。界皇という大きな力の奔流に飲み込まれてしまうような、そんな感覚に先ほどから襲われています」

 

「そ、そうだったの? 凄く堂々としていたし、全然気づかなかったけど……」

 

「その理由は……弱みを見せればそこに相手が流れ込んできそうで、怖いから。表面上だけでもポーカーフェイスに徹しないと、相手の放つプレッシャーに屈してしまいそうなのです」

 

「神宮寺さん……」

 

「先程の回の攻守で流れを作り上げた草刈レナ……正直この流れのまま彼女を迎えれば、私も平常心を保つのは難しいかもしれません。だから……支えていただけませんか?」

 

「……分かった。先輩が揺らいでたらあなたも心配よね。……ふぅ。よし! 切り替えた! いつでも支えるから。大船に乗ったつもりで挑んで!」

 

「……ありがとうございます」

 

(小也香。私もあなたのことを支えるよ。……このバッターで流れを止めるんだ!)

 

 やがてタイムが解かれると3番バッターが右打席へと入っていく。ネクストサークルに座るレナに一瞬視線を向けた牧野はすぐに視線をバッターへと移した。

 

(大和田なら単打で還ってこれる。ここは大振りはしないぞ)

 

(構えが少しコンパクトになった気がする。……相良さんにはストライクから入ったところを狙われた。怖いけど……ボールから入るよ)

 

(分かりました)

 

 そして初球が投じられるとインハイに投じられたスピードボールに対してバッターが入っていると判断して引きつけてからバットを振り出そうとしたが、内に変化する軌道に気づいてとっさにバットが止められた。

 

「……ボール!」

 

「スイング!」

 

 内に外れるシュートが見送られ、牧野がスイングを主張して球審から一塁審判へと確認が行われた。

 

「……ノースイング!」

 

(危な……内にまあまあ外れたシュート。この場面でボールから入ってくるのか)

 

(スイングしてくれたら良かったけど、これでいいんだ。ここはリードのセオリー通り……)

 

 そしめ2球目が投じられると真ん中低めからアウトコース低めへとスライダーが変化していき、バットが振り出されることなく見送られた。

 

「……ストライク!」

 

(スライダーか……結構際どかったな)

 

(界皇のクリーンナップは入れにいったボールじゃ打ち取れない……。1ボール1ストライク。バッティングカウント。……さっきからストレートは引きつけて、逆方向に流すように打たれてるものが多い。それを防ぐには……これだ。インコース低めにストレート! それも厳しく……いくら界皇のバッターでもこれを引きつけて打つのは簡単じゃないはず)

 

(見送られてボール先行になると厳しいですが……しかし厳しいコースへの攻めが必要な場面というのは分かります。今私がやってはいけないのは中途半端な覚悟で投じること……あなたのリードを信じて投げ抜いてみせます)

 

(神宮寺さん……セカンドから見るあなたはとても物怖じしているようには見えないわ。背番号1が真っ直ぐと張っていて、それが私たちを支えてくれる柱のようで……けど、神宮寺さんだって不安なんだ。なら私も支えてもらってばかりじゃいられない。その柱を私たちが支えてあげられたら、神宮寺さんも私たちもきっと、もっと————)

 

 ——キィィィン。膝下へと投じられたストレートが引きつけて打ち返されると打球は神宮寺の足下を抜け、二遊間へと転がっていった。そしてこの打球が外野へと抜けようかというところで……セカンドが両足を滑らすようにして回り込み、このボールを捕った。そして曲げた左足を地面につけるようにしてボールを取り出し、右腕を少し引いてからその反動で二塁へと送球を行うと、二塁ベースについたショートがボールを受け取り、相良もベースへとスライディングで足を伸ばし、判定が下された。

 

「……アウト!」

 

(今より前に進める……!)

 

(あのセカンド、今度は投げる瞬間に二遊間寄りに動いていたな……。インコース低めのストレートを一二塁間方向に強くは打てないから、そっちをケアしておくって考えか。……粘られたな。この流れのまま差を広げておきたかった)

 

 この回3点目を取った界皇だったが、ベンチへと戻っていく鎌部・大和田・相良は満足からは程遠い様子だった。対して清城はこの回点を入れられた悔しさはあるものの、満塁のピンチを最小失点で留められたことで希望が繋がった様子で互いに声を掛け合い、裏の攻撃への士気を高めていた。

 

(野球は一人では出来ないけど、チームの柱は一人でもなれるといったところかしら。……けど、どうやらうちのエースにも火がついたみたいよ)

 

 ネクストサークルから立ち上がったレナはホームから戻ってきた鎌部と並ぶようにベンチへと戻っていくと、その横顔を見て挑戦的な眼差しを清城ベンチへと送るのだった。

 

 そして4回の裏が始まろうという頃、里ヶ浜高校はここで次の試合のウォーミングアップのためにスタンドから出ていこうとしているところだった。

 

「初瀬」

 

「は、はい!」

 

「練習はしたけど、公式戦は初めてでしょ。最後に確認しておくわよ」

 

「よろしくお願いします!」

 

 倉敷に誘われて初瀬が少し緊張した様子で彼女についていくと、他の部員も次々と立ち上がって歩き出す。すると最後まで残っていたのは河北だった。そんな彼女に翼が話しかける。

 

「ともっち! 行こう!」

 

「翼……」

 

 神宮寺のいる清城ベンチを心配そうに見つめる河北に翼は少し困ったような表情を浮かべると、翼も一度そちらに視線を向けた後、河北に手を差し出した。

 

「私も……出来たらまた神宮寺さん達と戦いたいよ。でもそれは私達が勝たないと出来ないからさ。だからまず目の前の試合に集中しよう!」

 

「……うん。そうだね! よーし! 行こう!」

 

 その手を掴んで引っ張り上げてもらった河北は翼と共に歩き出すとグラウンドに背にしたまま決心を固めていた。

 

(神宮寺さん。神社での約束……覚えてるよ。神宮寺さん達も頑張って! 私もその約束を果たせるよう……今日の試合を精一杯頑張るから!)

 

 そして河北は誓いを胸に引き締まった表情でスタンドからの出口へと足を踏み出すのだった。



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幕切れまで一筋の糸を

目算が甘くて伸びてしまい申し訳ない。ようやく完成しました!


「方針を変える?」

 

「低めを捨てる方針は3つの狙いを持って立てましたが……その内の2つ。低めの厳しいボールを捨てて高めの甘いボールにアジャストしやすくする、低めに外れるボール球を振らないことで球数を多く投げさせる。これらの狙いは上手くいってませんでしたから」

 

「でも、肝心なのは3つ目の狙いだってミーティングの時に確認したような……」

 

「ええ。なのでその狙いだけは続行出来るような方針に変更しようと思います」

 

「分かった。それでこれからどうするの?」

 

 4回の表が終わったところで牧野と神宮寺はこれから取るべき作戦を相談していた。そして現在の方針から別の方針へと変更することに牧野が納得すると、神宮寺はベンチにいる皆へと呼びかける。すると皆の視線が神宮寺へと集まった。

 

「ここまでの投球を見ると鎌部さんのストレートを除いた持ち球はデータ通りシュート・カーブ・フォークの3つのようです。この内シュートとフォークは速球系……ストレートとの見極めも難しい。ですがカーブはその独特な弧を描く軌道からも見極め自体は可能なボールです」

 

「ということは……」

 

「はい。彼女の中で唯一緩急の緩に当たるカーブ……これに狙いを絞りましょう」

 

「なるほど……カーブはタイミングを外されたり、体勢を崩されると空振りや凡打を招きやすい。けど予め待っていれば他の球種に対応が難しくなる代わりに、遅い分軌道の予測もしやすいから捉えられるかもしれないね」

 

「ウチはどうする? 低めを捨てる方針からは外してもらったけど、それなら高いボールが苦手なウチでも参加出来るぞ!」

 

「お願いします。チーム全体で鎌部さんにプレッシャーをかけ続けましょう」

 

「おう!」

 

 こうして神宮寺の口から全員に方針が共有されると、4回の裏が始まり1番バッターが右打席へと入った。

 

(カーブ打ちの基本は重心を後ろに置いて無理に引っ張らずセンター返し。ここまでこっちの攻撃は三者凡退続きなんだ。流れを変えるぞ……!)

 

 身体の前で握ったバット越しに鎌部を見て士気を高めたバッターがバットを構えると、そんなバッターを見て鎌部も気合いが入り思わずボールに込める力が強くなっていた。

 

(ここから2巡目。8番の打席は気になるけど1巡目の攻撃で清城は低めにほとんど手を出さなかった。……千秋、初球はここにカーブを。ついでに上手く肩の力を抜きなよ。さっきの神宮寺のピッチング見て気合い入ってるのは分かるけど、余計な力はボールのキレを悪くするだけだ)

 

(……分かったんですけど)

 

 サインを受けた鎌部は息を軽く吐き出してから投球姿勢に入りボールを投じた。放たれたボールは弧を描いてアウトコース低めへと曲がっていく。

 

(いきなり来た! もらっ……いや、外れてる!?)

 

 カーブを待っていたバッターはこのボールを引き付けてからスイングの始動に入ると、その軌道が外へと外れていることに気づいてバックスイングの段階でバットを止めてこのボールを見送った。

 

「……ボール!」

 

(よく見たな。要求通り少し外に外れてたのに。……それとこのバッター、今バットを振ろうとしたな。1巡目のように低めを簡単に見送ってくれるとは思わない方がいいか)

 

(……今日は指先の感覚が良すぎるくらいには良いんですけど)

 

(一打席目と同じ入りかと思ったら、今度は少し外れてた……。それにここまでヒットを打たれてないのにボールから入る慎重さ、相手に油断は無さそうだな……)

 

 テンポ良くサインの交換が終えられ2球目、3球目と続けてインハイにストレートが投じられると、見送られたボールはどちらも際どいコースに続けて決まりカウントは1ボール2ストライクとなった。

 

(くっ。今の手を出してみても良かった? ……いや、ダメだ。このスピード差じゃカーブもストレートもなんてやれる余裕は無いし、それに相手は緩急をつけるためにカーブを使う必要があるんだ。迷うな……神宮寺さんが言ってたようにチーム全体でプレッシャーをかけるんだ)

 

(2球目の反応が悪かったから続けてみたけど見てきたか。まあ、こう際どいところに千秋レベルの速さのストレートが決まると手は出しにくいかもね。後はフォークを低めに外して……えっ)

 

 ここまでスムーズにサインを交換してきた界皇バッテリーだったが送られたサインに鎌部は首を振っており、一度ここで投球のテンポが落ち着いた。

 

(……じゃあシュートをストライクからボールに外して……)

 

(違う……ここはボール球を費やしたくないんですけど)

 

(……まさか)

 

 戸惑いながらも続けて送ったサインにも首が振られ、キャッチャーは少し考えた後、ある事に思い至りサインを送る。すると鎌部はそれに頷いた。そして4球目が投じられる。インコース真ん中に来たこのボールにバッターはバットを止めた。

 

(……変化が始まるポイントはここか!)

 

 その軌道を目に焼き付けるようにしてバッターがフォークを見送ると、ボールはインコース低めに構えられたキャッチャーミットにバウンドせず収まり捕球音をならした。

 

「……ストライク! バッターアウト!」

 

「えっ……」

 

(フォークをストライクゾーンに投げてきた……!?)

 

(フォークは回転がほとんどない。つまり力の無いボールだ。いくら千秋のフォークにキレがあっても、フォークをストライクゾーンに投げるのはリスクが高い。……ここまで低めギリギリを突けなければ)

 

 ストライクゾーンを通過したフォークをバウンドする寸前の高さで捕球したキャッチャーはその精度に思わず身震いしてから、鎌部へとボールを投げ返す。それに対して鎌部はさも当然とも言いたげに自信の浮かんだ表情でボールを受け取った。

 

(手が出ないのか相手はあんまりバットが振れてない。それなら思い切って低めギリギリを狙って投げ込むくらいやってやるんですけど)

 

(いくら千秋でもこの絶妙な高さを狙うのは難しい。確信があって投げたわけじゃないのは私には分かる。なのにあんな自信満々で……けど、そうだよな。千秋は変わったんだ……)

 

 キャッチャーは鎌部に「ナイスピ!」と声をかけてから野手陣と共にワンナウトの声かけを広げながら、界皇に入学して鎌部と初めて出会い練習でバッテリーを組むことになった時、彼女は今のような威風堂々とした態度とは程遠く、「けど……」と口癖のように言っておどおどしていたことを思い出していた。

 続く2番バッターが左打席に入るとインハイのストレートが見送られてストライクとなり2球目。投じられたカーブがインコース低めへと曲がっていく。

 

(……よし、カーブだ。これを……!)

 

(上体を残されたか……!)

 

 ストライクゾーンの際どいところへと曲がってくるカーブに対して始動を溜めたバッターが軌道に合わせるようにバットを振り出すと、芯で捉えられた打球が二遊間方向へとゴロで放たれる。

 

(……捕れる!)

 

 ややセカンドの相良寄りに放たれたゴロを二塁ベース近くの深さで逆シングルの体勢で捕球した相良はすぐ様送球に移ると、ファーストの前でワンバウンドしたスピードのあるボールがすくいあげるようにファーストミットに収められた。

 

「アウト!」

 

(アウト!? センター前に抜けたと思ったのに……)

 

(このバッターは引き付けてからバットを合わせるのが上手いのが特徴だ。鋭い打球が来るとしたら二遊間だと思ってたよ。……それでも届いたのはギリギリだったけどね)

 

 一塁ベースを駆け抜けたランナーはアウトにされたことに驚きを隠せずその視線を相良に送ると、その相良は今のプレーで落ちた帽子を拾ってついた砂を払い、ランナーを背にして短く吐息を吐き出してから帽子を被り直していた。

 2アウトになり右打席に3番バッターが入ると少しバットを短く握って構える。

 

(3点ビハインドでこっちは出塁無しでもう4回の裏なんだ。ここで上位が三者凡退はシャレにならないぞ……!)

 

 初球として投じられたシュートがインコース真ん中のストライクゾーンから内のボールゾーンへと変化するとバットを出す振りをしてバットが止められ、2球目として投じられたフォークがインコース真ん中から低めへと落ちるとバッターはこれを同じようにして見送った。

 

「……ストライク!」

 

(あれ入ってるのか……)

 

(千秋くらいの投手でも普通1試合を通して投げれば失投が0なんてことはそうそうない。それだけピッチングには集中力が必要なんだ。けどここまでのコントロールは完璧だ……。そんなに神宮寺に刺激を受けたのか?)

 

(この試合でアイツを超えてやるんですけど……!)

 

 カウントは1ボール1ストライクとなり3球目。投じられたのはカーブ。

 

(来た……!)

 

 真ん中やや低めの高さからアウトコース低めへと曲がっていくカーブに左足を上げて溜めを作ったバッターはその左足を踏み込んでバットを振り出すとライナー性の打球が放たれた。

 

「ほいっ……と!」

 

「……!?」

 

 ショートに入っている大和田が二遊間方向に足を少し動かすと右足を踏み込んで上に向かってジャンプし、頭上を通過しようとする打球にミットを伸ばしていた。そしてジャンプの衝撃を膝をクッションにするようにして難なく抑えた大和田はミットを掲げる。

 

「アウト!」

 

(なんてジャンプ力なの……。それと打球がちょっと低かった? 上手くタイミングは合ったしショートの上は超えると思ったのに……)

 

(一打席目と同じようにストライクからボールになるカーブで打たせて取れた。こういうタイプのバッターは得意なんですけど)

 

 低めに外したカーブを短く持ったバットの先で捉えた打球は大和田の守備範囲に飛び、3つ目のアウトのコールが響いていた。狙い通りの結果に満足したように鎌部はベンチへと帰っていく。

 

(この嫌な流れの理由の一つは攻撃時間の差……。こちらの攻撃の短さに対して界皇の攻撃はあまりにも長い。それが私たちの心を蝕み、焦りを呼ぶ。……鎌部さんがフォークでストライクを取る選択をしたのは恐らくその差を顕著にして、ピッチングを攻撃のリズムに繋げるため。……正念場ですね)

 

 ネクストサークルに座っていた神宮寺が目の前で三者凡退を見届けるとベンチへと戻りミットを持ってマウンドへと向かった。そして準備投球をしながら高鳴っていく鼓動を落ち着かせていくと、やがて試合は5回の表に入り先頭打者のレナがバッターボックスへと向かう。するとレナは打席に入る前にスコアボードを見上げてから右打席へと入った。

 

(……ここで手を緩めてはダメね。4番として、神宮寺小也香……あなたという柱を揺らがせる一撃を打たせてもらうわ。あなた達ならここで4番を抑えることの大きさは分かっているはず。なら、この打席で必ず決め球のスライダーを投じる。たとえ一球であっても、それを捉え損ねたらお終いだと思って……狙わせて貰うわよ)

 

 そして投じられた初球は真ん中低めからインコース低めへと曲がっていくシュート。これがバットを出さずに見送られると僅かに低めに外れてボールとなった。

 

(見た? そんなに大きく外れてたわけじゃないのに……)

 

(ふぅ……。ストレートを狙っていたら思わず引っ掛けてしまいそうな軌道ね)

 

 冷静に見送ったレナを見上げながら牧野は次のサインを送ると神宮寺は少しの間を挟んでからそれに頷いた。

 

(アウトローの厳しいコースにストレート……先ほどツーベースを打たれたボール。甘く入ったら持っていかれますね……)

 

(さっきの見送り方は多分今はストレートを狙ってないんだ。これも見てくるならストレートを軸に組み立てよう)

 

 先ほどの打席で投じた渾身のストレートを痛打されたことが脳裏によぎった神宮寺は首筋に滲む冷や汗を袖で拭ってから投球姿勢に入るとアウトローを狙ってストレートを投じた。

 

「……!」

 

 するとレナがスイングの始動に入り左足を踏み込んだ。しかし腰の回転が途中で止められてバットが止まると、見送られたストレートはボール1個分外に外れ、牧野はキャッチャーミットを外に動かすようにして捕球した。

 

「ボール!」

 

(狙いすぎましたか……)

 

(……スライダー待ちの今のタイミングで振っても、振り遅れるわね。けどこれでボールが2つ先行したわ)

 

(今振ろうとしたけど止めた……まさかさっきのシュートも今のストレートも見送ったのは、外れていたから? レナさんはもう小也香のボールを完全に見極めて……)

 

 2ボール0ストライクとなり、不敵な笑みを浮かべながらレナはバットを構え直す。牧野はそんな捉えがたいレナの本心を探りながら、一度ネクストサークルにいるバッターを横目で見た後、意を決したようにサインを送った。

 

(5番だって好打者……歩かせて痛いのはこっちだ。ここは内からフロントドアで入ってくるスライダー! 合わされてもファールになりやすいし、ここに見せられれば外も生きてくるはず)

 

(なるほど……分かりました)

 

(……狙いは変えない。スライダー……一打席目で高速スライダーの軌道に合わせて空振り三振に取られた時、その変化量は私なりに確認したわ。恐らく高速スライダーはスライダーよりスピードを重視してサイドスピンの量が落ちている。それでも並のスライダーほどは曲がっていたわ。そして彼女のスライダーは私が打ちたいポイントでは……)

 

 頷いた神宮寺は人差し指と中指をボールの外側で揃えるようにして握り、3球目を投じた。すると牧野の要求通りボールゾーンから切れ込むようにスライダーがインコース低めのストライクゾーンへと曲がっていく。

 

(高速スライダーよりボール2つ分外! スライダーの軌道に線で合わせず、予測したところを点で振り抜く!)

 

(タイミングが合ってる……!?)

 

(待たれていたというのですか……! しかし線で合わせるだけではファールに……)

 

 このスライダーに対し、レナはバットを振り切った。

 

(……そんな……)

 

(なんですか……この澄み切った打球音は……)

 

 響いた快音は余韻を残すようにグラウンドからスタンドに流れて段々と弱くなっていくと、唖然として打球を見上げる牧野と神宮寺をよそにレナはバッターボックスから出て歩き出す。

 

(ボールを点で打つということは、少しでも予測やスイングにズレがあれば即打ち損じに繋がる。だからこそ両者にズレが無かった時……)

 

「嘘だろ……」

 

 高く打ち上がった打球を追っていたレフトは外野フェンスの前まで来ると身体の向きを変えずにさらに先を飛んでいく打球を見て、信じられないような表情を浮かべていた。そして打球がようやく草地に落ちてくると、快音の余韻を味わうかのように静まっていたスタンドが一斉に歓声で包まれた。

 

(生きた打球が生まれるのよ)

 

 打球はポールから少し離れたフェアゾーン側を通過し、スタンドインしていた。レナは歓声に包まれながら一塁ベースを踏み、悠々とダイヤモンドを回っていく。すると二塁ベースを回ったところで神宮寺の姿が目に入った。

 

(……見事なスライダーだったわ。けど、ボール先行のカウントからストライクを取ろうと少し中に入ったわね。それがフロントドアを打ち返す窮屈さを僅かに軽減してくれた)

 

 神宮寺から目を切って三塁ベースを回ったレナが開いた口が塞がらない様子の牧野を横目にホームを踏むと球審のホームインの宣言が響き、界皇の4点目が認められた。

 

「この回で一気に崩しましょう」

 

「ああ。決め球のスライダーを打たれて動揺してるだろうしな。レナが作った隙は逃さないよ」

 

 そして一塁側の界皇ベンチへと帰る際に5番バッターと言葉を交わしたレナはベンチからの祝福を受けた後、プレーが再開したグラウンドを背にバットやヘルメットを片付けていた。

 

(タイムを取らなかったわね。どうやら牧野さんの動揺も大きそう。界皇はこの隙を逃す打線じゃない……ここまでかな)

 

 今のバッティングを見た大和田が4番への憧れを募らせて興奮気味に話しかけると、レナは彼女と話しながら少し時間をかけて道具をしまい終えた。するとこのタイミングで球審のコールが聞こえてきた。

 

「……ストライク! バッターアウト!」

 

「え……!?」

 

 振り返ったレナの目にインコース低めで構えられた牧野のミットと腰を引いた様子の5番バッターが映る。

 

「今の……フロントドアで入ってくるスライダーでしたよ」

 

「な、なんですって……!?」

 

 今の打席を見ていた相良が見送り三振に取ったボールを告げると、レナはその言葉に大きく動揺していた。

 

「小也香! ナイスボール!」

 

(牧野さんも見事なリードでしたよ。この回……共に乗り越えましょう)

 

 先ほどのホームランの後、彼女達は言葉を交わしていなかったが、互いに向月との試合で高坂にランニングホームランを打たれた後のことを思い出していた。今グラウンドでは神宮寺が声かけと共にボールを受け取りながら、冷たい手のひらを温めるかのように彼女からのボールを握り、続く6番打者を左打席に迎える。

 

(……! 解除のサイン。いつもは既に出ているサインを解除するサインだけど今はサインは受けていない。これは今回予めミーティングで共有していた……スライダーを捨てる方針を解除するってことだ。北山監督は神宮寺がさっきのレナさんの一撃に構わず、これからもスライダーを投げ込んでくると読んだのか)

 

 サインを受けた6番打者はその意図を汲み取るとバットを構えた。そしてカウントは1ボール1ストライクとなり3球目。アウトハイに投じられたストレートが打ち上がると少し押し込まれたような打球が三塁側ファールゾーンへとバウンドしてファールとなった。そして4球目として投じられたシュートが今のストレートの軌道に沿うように向かっていくとそこから外のボールゾーンへと変化していく。バットを振り出したタイミングでそれに気づいたバッターはこれに辛うじてバットを止めると、カウントは2ボール2ストライクとなった。

 

(スライダーはまだ投げてない。そろそろ来るか……?)

 

(……このバッターは低めをすくうのが得意。なら……)

 

(……懐かしいですね。ストレートを中心に追い込んで、ホームベースの中心から離れるスライダーで仕留める。前の私たちに戻ったような配球です)

 

 そして5球目が投じられると真ん中高めやや内寄りからスライダーが変化していく。このボールに対してタイミングを合わせたバッターはバットを振り切った。

 

「任せて!」

 

(あ、あそこから内のボールゾーンに……!?)

 

 予測した軌道よりさらに食い込んできたスライダーをバットの根っこで打ち返した打球は打ち上がり、アピールしたファーストがファールゾーンで構えてキャッチして2アウトとなった。

 

(くそ……。ここまで見れたスライダーは最初の打席の1球目だけ。しかもストレートを打とうと振ったから軌道が上手く把握できなかった。せめてもう一球見れていれば……)

 

 目測を誤ったバッターが悔しそうにベンチに戻っていくと、グラウンドとの境になる柵を掴むレナの手が震えているのに気付いて顔が上げられた。

 

「私たちは……いえ、もしかしたら向月も……見誤っていたのかもしれないわね。彼女の最大の武器はあのスライダーでも球持ちのあるストレートでもなく……どんな時でも立ち上がれる精神力にあるんだわ。きっと何があっても成し遂げたい……強い目標があるのね」

 

「精神力……ですか。確かに今の打席、甘いボールは一球も来ませんでした」

 

「……」

 

 バッターがレナの言葉に同意するように頷いているとネクストサークルに向かえるよう準備を進めていた鎌部はそのやり取りを聞いて去年の夏大会直前の合宿での出来事を思い出していた。

 

「鎌部。次カーブね!」

 

「け、けど私カーブは……」

 

「あれ? 投げられたよね?」

 

「ええと投げられますけど……その……期待には添えないと思うので」

 

「それは見てみないと分からないからさ! とりあえず投げてみて。右バッターのアウトローを狙うイメージでさ」

 

「は、はい……」

 

 レギュラー入りしたピッチャーとキャッチャーでグループを作りブルペンでの投げ込み練習が行われる中、背番号20をつけた鎌部は上級生のみで周りを囲まれて萎縮しながらカーブを投じていた。

 

「っと……」

 

 すると外に大きく外れてしまい鎌部はたたでさえあまり良くない顔色が青ざめていくとキャッチャーから声をかけられた。

 

「うーん。キレは悪くないんだが、ちょっと外れすぎだな」

 

「そ、そうですよね……けどカーブのコントロールは元々こんな感じで」

 

「そっか。じゃあ藤原のカーブを少し参考にしてみたら?」

 

「え……け、けど」

 

「良いよね?」

 

「ああ、構わないよ。で……どんなシーンだっけ?」

 

「あ、えと……右バッターのアウトローを狙って、だったと思いますけど……」

 

「あー。違うんだ鎌部。そうだな……じゃあ1点リードで7回の表、2アウト満塁でカウント2ボール2ストライク。ここでカーブが外れるとランナーがオールスタートを切ってくるけど、入れにいってヒットを打たれたら逆転されるシーンで」

 

「点取られた後?」

 

「ん、そうだな……この回1点取られて後続の攻撃ってことにしとこうか」

 

「了解! じゃ、ちょっと待っててね……」

 

(……? ブルペンでの投げ込みなのに、ボールを長く持ってる?)

 

 セットポジションに入りボールを長く持った藤原がクイックモーションからカーブを投じると弧を描いて曲がったボールがアウトローの際どいコースへと収まっていた。

 

「……ストライク、だな。高さもコースもギリギリだ」

 

「凄い……」

 

「参考になった?」

 

「す、すいません。凄いのは分かったけど、私が学べるものは……」

 

「んー、そっか。じゃあそうだな……。鎌部は1試合投げ切るのに一番大事なものはなんだと思う?」

 

「それは……決め球だと思います!」

 

「お、決め球と来たか。それはなんでかな?」

 

「1試合通して相手に意識をさせ続けられる決め球……それがあれば、最後まで相手を抑えることが出来ると思ったからです」

 

「……なるほど。それも面白い考えだね」

 

 鎌部の答えに意外そうにする藤原だったが、明るくなった表情で答える彼女に投手としての信念を感じると、少し悩んでから話を続けた。

 

「鎌部の決め球はフォークだったよね?」

 

「はい! フォークだけは自信あるんです!」

 

「他の球種はどう?」

 

「カーブは自信ないけど、ストレートはまあまあ……です」

 

「釈迦に説法かもしれないけど、握力の消耗が激しいフォークだけで1試合組み立てるのは難しいよ。その様子だとカーブはまだ実戦で投げてなさそうだけど……少なくともストレートは多く投げてるよね」

 

「はい……。ストレートで追い込んで、後はフォークを振らせるというのが多いです」

 

「そっか。でも一番大事だと思ってる決め球を自信を持って投げられるってのは良いと思うよ」

 

「あ、ありがとうございます……!」

 

「ただ最後まで相手を抑えるって言ってたけど……鎌部はさ、全ての試合で完封出来る?」

 

「それは……えっと、そのつもりで投げますけど」

 

「うん。点をやらないつもりで投げるのはいいね。ただ鎌部は今まで失点した試合もあるよね」

 

「はい。沢山ありますけど……」

 

「悲しいかな。ピッチャーってのは相手の攻撃に対して何度も何度も投げるから、ヒットを打たれることがあるのは当たり前だし、失点だってしちゃうことはあるんだよね。ま、失点は何度しても気分の良いもんじゃないけど……。鎌部、わたしが1試合を投げ抜くのに必要なのは、“自信”だと思うんだよね」

 

「自信……ですか? その……ちょっと、ざっくりしているような」

 

「そ、自信ってざっくりしたものだからさ……結構揺らいじゃうんだよね。失点した時とか、決め球を痛打された時とか……」

 

(失点した時……あっ!)

 

 自信という藤原の答えに困惑していた鎌部だったが、先ほど藤原がシーンを確認してカーブを投じていたことを思い出し、今の説明と繋がるような感覚を覚えていた。

 

「ピッチャーやってると時間を巻き戻したくなることって一杯あると思うんだ。けど、試合は進む一方だからね。といってもその場で切り替えるのは簡単じゃない。だからわたしは実践練習じゃない時でも色んな状況、カウントで練習して自信を持つようにしてるんだ。やってきたから投げられるんだぞって感じでね」

 

「そ、そうだったんですね。やっぱり先輩は凄いです。けど私は……」

 

「……わたしたちのいる界皇はさ、名がある分部員も多いでしょ。だからベンチに入る人より、スタンドで応援する人の方が多いし、その中には最上級生……3年生もいる」

 

「……はい。私も……メンバー発表の時それを凄く痛感しました」

 

「この背にある番号は重いよ。……わたしね。一年の時、あなたと同じようにベンチ入りして……夏大会決勝の最終回でリリーフしたんだ。一点差で勝ってる場面でね。けど追いつかれちゃって……それを切り替えられなくてフォアボールを出したところで降板」

 

「先輩……」

 

「藤原……」

 

「あれから色々考えて、思ったんだ。この背番号をしょってマウンドに立つ以上、このチームの中で……一番の自信家になってやろうってね」

 

「そうだったんですね……」

 

「自信がないボールがあるなら今のうちに一杯投げておいた方がいいよ。そのカーブも……あ、それと『けど』ってすぐ言っちゃうのは直したほうがいいよ。自分の自信を奪っちゃう言葉だからね」

 

「けど……あっ!」

 

「口癖はそうすぐには消えないか。じゃあ、そうだなあ……『ですけど』って足すのはどう? それなら自信が垣間見えていいんじゃない?」

 

「……ちょ、ちょっと恥ずかしいですけど。そうしてみるんですけど」

 

「いいね。鎌部、いつかあなたがチームで一番の……あ、でもわたしも負けたくないな。じゃあ二番目以上の自信家になった時。その時には……決勝の最終回であなたにリリーフしてもらおうかな」

 

 ——キィン。金属音に導かれるように鎌部は顔を上げると外野に打ち上げられた打球はやがてほぼ定位置で構えるライトのミットへと収まり、3つ目のアウトが宣言されていた。

 

(くっ。追い込まれてスライダー来る前に打ちにいったら、高速スライダーに合わせるだけになった……)

 

「自信家……」

 

「……? どうかした?」

 

「……いえ、なんでもないですけど」

 

 手に持っていたヘルメットをそのまま置いた鎌部は代わりにミットを手に取りながらベンチへと下がっていく神宮寺を見てそう呟き、不思議そうに見てくるレナにふてぶてしく笑って返すとマウンドへと上がっていった。

 

(この大会で私は全国No.1の自信家になってやるんですけど。あの自信の塊のような高坂椿にも、そして……勿論アンタにも負けないんですけど)

 

 4番バッターとして右打席に入る神宮寺を射抜くように見つめた鎌部はボールを投じるとインハイへのストレートは内に外れ、神宮寺は顔を引くようにして見送り、同じように鋭い視線を鎌部へと返してきた。

 

(延長に入らなければこちらの攻撃は残り3イニング。4点を返すにはこの回で私が打ち取られるわけにはいきません)

 

(……引かないって感じなんですけど。なら……)

 

(カーブ……! それもこれは……肩口から入ってくるカーブ(ハンガーカーブ)!)

 

 自分の身体に向かうように投じられたボールに対してカーブを意識していた神宮寺は上体を残すと中へと曲がってくる軌道に合わせるようにバットを振り抜いた。するとレフト方向へと放たれた打球にレナがその足を動かすが、自身から逸れていくような軌道に追いつけずに足を止めた。

 

「ファール!」

 

(し、しまった……。今のはストライクゾーンには入らず、内に外れていた……!)

 

(残りイニングが少なく、相手がビハインドで打席に入ったシーンでは普段なら落ち着いて見極められるボール球も打つ意識が強い分手を出してしまいやすい……想定通りなんですけど)

 

 続くシュートがインコース真ん中から内のボールゾーンへと外れて見送られると、4球目のストレートが見送られてインコース真ん中、内に厳しく決まってストライクとなりカウントは2ボール2ストライクになる。

 

(さて……これだけ内に厳しく見せたんだ。ここはフォークをアウトロー……ゾーンギリギリを狙ってもらうよ)

 

(はなからそのつもりなんですけど)

 

(やはりシュートもストレートもスピード、コントロール共に質が高い……。ここはカーブを……!?)

 

 そして投じられた5球目のフォークがアウトコース真ん中からアウトコース低めへと落ちていくと、神宮寺のバットが止まってこれが見送られた。

 

「……ストライク! バッターアウト!」

 

(は、入っているというのですか……)

 

(高さだけじゃなく、コースも外ギリギリ……この試合最高の一球だ)

 

「ナイピ!」

 

(当然……なんですけど)

 

 アウトローの四隅を通すような精度で投じられたフォークに神宮寺は背筋に冷たいものが走る感覚を覚えながら、唇を固く噛み締めてベンチへと戻っていった。

 そして5番打者は1ボール2ストライクからアウトローのフォークで見逃し三振に取られると、続いて左打席に入った6番打者は0ボール1ストライクからアウトローに投じられた際どいカーブを逆方向に打ち返していた。

 

「……!」

 

 際どいコースに投げ切れた感覚があった鎌部は目を見開くと打球は前進してきたレナが身体の重心を落とすように滑り込んでキャッチし、レフトライナーで3アウトとなった。

 

(う……なんてこった。カーブに狙いを絞ってるのに、こうもヒットが出ないのか)

 

「……カーブが狙われてる感じがするんですけど」

 

「かもな」

 

「かもなって……気付いてたんなら言って欲しかったんですけど」

 

「確信が無かったんだよ。他の球種に反応してるバッターもいたしな。ただ1巡目でほとんど低めに手を出さなかった清城打線が2巡目で低めのカーブに手を出すようになってきた……。だから他の球種と違ってカーブは念のためゾーンに入れにいかせなかったんだ」

 

「ふーん……ま、抑えられたからいいですけど」

 

「……ねえ。ところで気付いてる?」

 

「……? なんのことか分からないんですけど」

 

「あ、気付いてないならいいんだ」

 

(ここまで完全試合ペース……。ただあまりそれを意識して崩れてもらっても困るからな。このままの調子で頼むよ)

 

 そして6回の表の界皇の攻撃。8番バッターは初球打ちに打って出た。

 

(スライダー解禁のサインは出たけど、速球中心で追い込んでスライダーのスタイルは変わってない。なら狙うは変わらず……ストレートだ)

 

(振ってきた……! けどこれは膝下の厳しいコースに決まってる!)

 

 インコース低めに投じられたストレートにバッターは縦に振るようにバットを振り出すと、芯より外側でミートされたボールは一二塁間へと打ち返され、セカンドがこの打球へと飛びついた。

 

「うっ……!」

 

 しかし伸ばしたミットの先を打球が抜けていき、ライト前ヒットとなる。

 

(強い打球を飛ばすコツは内のボールは引っ張り、外のボールを流すこと……このバッターはセオリーに当てはまらないということなのですか)

 

(悪いな神宮寺。どんな好投手にも相性の悪いバッターってのはいるもんだ)

 

 ノーアウトランナー一塁となり9番バッターとして打席に入った鎌部はバントの構えを取った。

 

(ここは簡単にバントをやらせるわけにはいかない……!)

 

(ええ。やらせはしませんよ)

 

(くっ!?)

 

 投じられたアウトハイに曲がる高速スライダーにバントの構えを崩さずに合わせにいった鎌部だったが、ストレートを予測していた分反応が遅れて空振る形になった。二塁へ進塁する意識があったランナーは逆を突かれるような形で一塁ベースに戻ると牧野の送球がファーストへと届き、タッチが行われる。

 

「……セーフ!」

 

(危な……! しっかり当ててよね!)

 

(つ、次は決めるんですけど)

 

(今のでアウトにしたかったな。……次は)

 

(もはや出し惜しみはしていられませんね)

 

「……!」

 

 次に投じられたアウトローへのスライダーにバットが合わされると打球は一塁線に転がっていたが、すぐにファールゾーンへと逸れていった。

 

「ファール!」

 

(外に逃げすぎなんですけど……! ……!)

 

(スリーバントですか。下手に打たせるより、スリーバント失敗の方が痛くないということでしょうか)

 

(スリーバントはファールになったらその時点でアウト。鎌部さんは今、フェアゾーンに転がさないとって意識が強まったはず)

 

(奇遇ですね。私もそれを投じたいと思っていました)

 

 そして投じられた3球目がインハイへと投じられると鎌部は先ほどのようにファールゾーンに逸れないようバットを合わせる。するとボールはさらに内へと食い込んでバットの根本寄りのポイントに当たった。

 

(しまっ……! シュートだったんですけど……!?)

 

「小也香! 二塁に!」

 

「はい!」

 

 この打球がピッチャー正面に転がると捕球した神宮寺が反転して二塁カバーに入ったショートへと送球を行い、一塁ランナーはアウトになった。

 

(これはまずいんですけど……!)

 

(させるかぁ!)

 

(……! っと、お願い!)

 

 二塁ベースへと伸ばされた勢いのあるスライディングが一塁に向かって直線的に踏み出すポイントと交錯すると感じたショートは左に一歩動いてから送球を行う。

 

(どうだ!?)

 

 ベースにスライディングの勢いが吸収されて止まった一塁ランナーが振り向くとファーストミットに収まったボールと一塁ベースを駆け抜けた鎌部の姿が映る。そして一塁審判から判定が下された。

 

「……アウト!」

 

(くっ。少し送球は遅れさせたけど、転がったところが悪すぎたな……)

 

「切り替えなよ鎌部!」

 

「……! ……分かったんですけど」

 

 肩を落としてベンチへと戻る鎌部に小走りで追いついた8番バッターが背中を軽く叩いて先にベンチへと戻っていくと、つかえが弾き出されたように鎌部も前を向いてベンチへと入っていった。

 これで2アウトになり、ランナー無し。右打席へと入った大和田へのカウントも1ボール2ストライクとなり、投じられたスライダーが真ん中低めやや内寄りからアウトコース低めへと曲がっていく。

 

(……ここ、と!)

 

(なっ……!)

 

 すると僅かに低めに外れていたスライダーをすくうように打ち上げた大和田の打球はレフト前に落ち、突っ込みそうになったレフトは慌てた様子でミットを上に伸ばしてワンバウンドしたボールを捕球していた。

 

(さっきセーフティした時、軌道は把握したけんね。おおよそだったけど、上手く打てたと)

 

(先ほどのプレーでランナーが無くなったのは良いのですが、これで大和田さんに走られてしまう……)

 

(界皇はもう速球系に絞るのをやめたのかな……? それにまた初球で走ってくるかも)

 

 2アウトランナー一塁となり相良が右打席へと入る。神宮寺はボールを長く持つと牽制は挟まずにクイックモーションに入った。

 

(2アウト……下手にランナーを意識しすぎるより、ここはバッター勝負!)

 

「スチール!」

 

(やっぱり走ってきた! 一番送球しやすいアウトハイのストレート。刺してみせ——)

 

(大和田の足を意識すれば自然と速球中心のリードになる。ならそれを生かすことこそ……次のバッターの役目!)

 

 アウトハイのストレートにタイミングを合わせた相良がバットを振り出すと、流し打ちで放たれた詰まり気味の打球はライトの前へと落ちた。

 

(ナイバッチやけん相良!)

 

 スタートを切っていた大和田はその駿足を飛ばして三塁へと到達し、相良も一塁を少し回ったところでベースに戻っていくと中継のセカンドにボールが戻され、これで2アウト一塁三塁になった。

 

(ノーアウトからのダブルプレーがあったというのに、このしぶとさ……。ピッチャーとしてはたまりませんね)

 

(……あんたは良い投手だよ。でも私からするとやっぱり一年だ。打席にいるのは私なのに、ネクストにいるレナに意識が少し向いちゃってる。ここで考えることなんて一つしかない……さっきホームランを打ったレナに回すわけにはいかない、でしょ)

 

「ファール!」

 

(くっ……)

 

 そして右打席に入った3番バッターが追い込まれても粘りを見せて2ボール2ストライクから高速スライダーを一塁ベンチ方向へのボテボテのゴロにしていた。

 

(なんでこんな振り切ったスイングでしっかりカットが……)

 

(彼女も界皇のクリーンナップを任されたバッター……そのフルスイングの裏には確かな技術の裏付けがあるというわけですか)

 

 牧野からの掛け声を受けながら神宮寺は乱れた息を整えて9球目となるボールを投じるとインコース低めにスピードボールが向かっていき、バッターは前足を踏み出そうとする寸前で僅かなボールの変化を感じ取りバットを止めて見送っていた。

 

「……ボール!」

 

(ストライクからボールになるシュートか……一打席目と同じ手は食わないよ)

 

(見ましたか……)

 

(6球目から4球速球系を続けたんだ。小也香。ここは一番信頼の置けるアウトローへのスライダーで勝負しよう!)

 

(ええ。これで決めましょう!)

 

 フルカウントとなり10球目。一塁ランナーの相良がスタートを切る中、投じられたスライダーがアウトコース低めへと曲がっていく。するとこのボールに対して外に踏み込んだバッターは振り出したバットを……止めにいった。

 

「……ボール!」

 

「スイング!」

 

 球審のボールの判定に対して身体の前に出るか出ないかという際どいところで止められたバットを見て牧野がスイングを主張すると、一塁審判に確認が行われた。

 

「……ノースイング!」

 

(フォアボール……!)

 

(変化量の大きい小也香のスライダーは体力が落ちるとコントロールがブレやすいんだ。でも外れても振らせられると思っての選択だったのに……)

 

(ふう……止められたのはギリギリだったな。けど、ここで無理に私が決めなくてもいいんだ。後ろには……信頼の置けるやつがいるんでね。……繋いだよ)

 

 相良が走り出した足を止めて進塁権に応じるよう歩き出すと、バッターもバッターボックスを出て歩き出し、その途中でネクストサークルから立ち上がったレナに拳を突きつける仕草を見せた。

 

(……任せて)

 

 拳を合わせるようにレナも軽く拳を突き出すとバッターランナーは一塁へと歩いていく。ここで3回目の守備のタイムを取る清城を見たレナは一度目をつぶって、可能な限り心を落ち着けていった。

 

「大丈夫? 神宮寺さん」

 

「体力という意味でもこの状況がという意味でも……かなりきついですね」

 

「今のうちに少しでも息整えておいてね」

 

「はい」

 

「牧野。ここは勝負しかやりようないと思うけど……抑えられる算段はある?」

 

「……えっと……」

 

(ここまでの打席、レナさんは高速スライダーもストレートもスライダーも捉えてきている……正直、小也香の言う通りかなりきついな。……けどここまで来たらきつくてもなんとかするしかないんだ)

 

「あの……ここまでのレナさんの打席を見て気付いたことはありませんでしたか? 些細なことでもいいんです」

 

「気付いたことかあ……」

 

「前評判通り。いやそれ以上かな……。広角に長打を打ち分けている印象あるね」

 

「ボールが低くてもお構いなしに打ってくるもんね。普通低めに決まったボールをあそこまでポンポンと長打には出来ないよ」

 

「……! そっか……そうだったんだ」

 

「何か思いついた?」

 

「……はい!」

 

「そっか。じゃあリードは任せた! 後のことは私らに任せて、精一杯勝負しておいで」

 

「分かりました!」

 

「……ありがとうございます」

 

 やがてタイムが解かれるとレナが目を開いて右打席へと入っていった。6回の表、2アウト満塁。スコアは界皇のリードで4-0。ピッチャーもバッターもうるさいくらいに高鳴る心臓の鼓動を収めていくように静寂の間が続くと、とうとう神宮寺が投球姿勢に入った。

 

(……! アウトハイ……ストレート!)

 

 そして投じられたアウトハイへのストレートにバットが振り出されると快音がグラウンドに響き渡った。流された打球がライト方向へと飛んでいくと、フェアゾーンから逸れるように変化していった打球はファールグラウンドのフェンスへと衝突する。

 

「ファール!」

 

(……今のは入っていた。コースも凄く厳しかったわけじゃない。ただ……高めから入るとは思わなかったな)

 

(やっぱりそうだ。ここまでの配球は一打席目、アウトコース低めのストレート・ど真ん中の高速スライダー・インコース低めの高速スライダー・インコース低めのシュート・アウトコース低めのスライダー。2打席目、アウトコース低めの高速スライダー・アウトコース低めのストレート。3打席目、インコース低めのシュート・アウトコース低めのストレート・インコース低めのスライダー。……広角に長打に打ち分けてくる前評判と一打席目の高速スライダーを打った大ファールで、気付かないうちに長打の打ちにくい低めばかりの配球になっていたんだ。でも……低めをつくだけじゃこのバッターは抑えられない。……!)

 

 サインの交換が終わり投じられた2球目はアウトハイへの高速スライダー。これが外に大きく外れると神宮寺が目を見開く中、牧野がこのボールに飛びついた。

 

「ボール!」

 

(いけると!? ……!)

 

 三塁ランナーの大和田がそれを見てスタートを切ろうとするが、レナが左手を伸ばして静止しているのに気付いて足を止めると、キャッチャーミットの先に引っかかるようにして捕球されたボールを見てベースへと戻っていった。

 

(……助かります。牧野さん)

 

(スライダーでコントロールのずれがあるんだ……ただでさえ制御しづらい高速スライダーがこうなるのは考えてたよ。それでも投げないわけじゃないと思わせたかった。次は……)

 

(……怖いコースですが、いいでしょう。このバッターに安全なコースというのは無さそうですから)

 

 そして3球目が投じられるとインハイに投じられたスピードボールにレナがバットを振り出した。

 

(ストレートに差し込まれないよう前で……。……!)

 

 すると手首が返され、レフト方向に放たれた打球は大きくフェアゾーンからは逸れていき、ファールとなった。

 

(シュートか……。そのまま振っていたら凡フライね)

 

(今のは良いコースにいったのですが、それでも引っ掛けてくれませんか。……! アウトローにスライダー。それもこれは一打席目で仕留めた時の、僅かに外に外すものですか)

 

(狙いより外れてもいいよ。思い切って狙って!)

 

(……分かりました)

 

 投じられた4球目はスライダー。このボールにレナは少しタイミングを崩されながら外へと踏み込んだ。

 

(……外れてる!)

 

 すると振り出そうとしたバットが止められ、見送られたスライダーがキャッチャーミットに収まった。

 

「ボール!」

 

(要求よりボール1個分外に外れた。でもこの終盤のきつい体力で小也香はよく投げてる)

 

(……! ここでそのサインですか……!)

 

(さっきはスライダーを狙ってホームランにしたけど、狙わずに打つのは難しいし、追い込まれた場面だと意識しないわけにはいかないわね……。……! またインハイ……!?)

 

 5球目として投じたコースはインコースの高め。そしてこのボールに……レナはバットを振り切った。

 

(ストレート……!)

 

 ——キイィィィン。響く金属音と共にランナーは一斉にスタートを切る。高く高く打ち上がった打球はあっという間に内野を越えていき、この打球を追うセンターは必死に走りながら遥か高く上がった打球を見上げた。

 

(た、高い……)

 

(これは……)

 

 センターが打球を見上げている間に一塁ベース手前まで来たレナはベースを回ろうと膨らんだ際に自分の放った打球を視界に収めた。

 

(……高すぎる。高低を織り混ぜ、スライダーとの緩急差、対角線への配球、一瞬シュートに備えた身体、そしてそこに……球持ちの良いストレート。バットが押し込まれたのね……けれど、それでも私は振り切ったわ)

 

(お、落ちてこない……! 嘘でしょ……!?)

 

 未だ遥か高く上にある打球に焦りながらセンターがさらに下がっていくと身体の向きを内野方向へと変えながら、一歩、二歩と下がっていく。そして……彼女の背中が外野フェンスへと触れた。

 

(違う……先ほどの澄み切った打球音とは)

 

(え……!?)

 

(これは……打球が死んでいる!?)

 

 打球は前へ進む力を失ったかのように急激に下へとグングン落ちていく。そしてセンターは外野フェンスに背中を触れたまま、後ろにのけぞるようにミットを伸ばした。

 

「……アウト!」

 

 打球は外野フェンスを越える僅か手前の位置に落ち、センターが伸ばしたミットに収まっていた。

 

(……やられた。芯を……外されていたんだわ)

 

「小也香、やったよ……!」

 

「やりましたね……!」

 

 ホームベースカバーまで来ていた神宮寺に興奮気味に牧野が話しかけると神宮寺も珍しく興奮した様子でそれに答えていた。そして盛り上がる清城ナインと共にベンチへと戻っていく。3アウトチェンジだ。

 

「キャプテン。あんまり気にしないで欲しいんですけど。元はといえば私のバント失敗が流れを止めたと思うんですけど」

 

「鎌部さん……」

 

 ベンチに戻ってきたレナにマウンドへと向かう鎌部が声をかけると、ベンチに入ったレナは一度両手で頬を叩く。その音にベンチにいたメンバーが驚く中、レナはミットを持ってレフトの守備へと向かっていった。

 

「ストライク! バッターアウト!」

 

(ここに来て、フルのストレートを連投……!?)

 

(清城の下位打線は一年だけあって、力押しに弱いな。ただ次のバッターは膝下のストレート持っていってるからな……ここは)

 

 6回の裏、清城高校の攻撃は先頭の7番打者がインローのストレートを見送って1アウト。続く8番に投じられた初球は……カーブ。

 

(よっしゃ! 来た……!)

 

(かかった! ボール球に食いついたぞ!)

 

 真ん中低めからアウトコース低めに外れるカーブをすくいあげるようなアッパースイングで打ち返した打球は左中間へと伸びていく。やがてこの打球が落ちてくるとセンターが外野フェンス手前で走りながら捕るランニングキャッチにより捕球していた。

 

「ったぁー……捉えたと思ったんだが」

 

(馬鹿な……低めに大分外れてたぞ。それをあそこまで……。もしかしたらこの8番バッターは鎌部にとって、相性の悪いバッターかもしれないな。……が、もうこのバッターには打席は回らせないさ)

 

(う……カーブだけど外に外れてる)

 

(このバッターは基本に忠実なタイプだ。引きつけてセカンドの頭を意識して打ってる感じだし、外は見せ球でいい。球数も上手く抑えられてるし、最後は……力で抑える)

 

「ストライク! バッターアウト!」

 

(くっ……。上位にはフォークで、下位にはストレートか……!)

 

 カーブが外れ2ボール2ストライクから投じられたストレートがインコース高めに決まり、見逃し三振。6回の裏の清城の攻撃が終了した。スタンドで見守る観客がざわめき出す中、7回の表。

 5番打者がフロントドアで入ってくるスライダーに線で合わせるように振り出すとあえて詰まらせて押し出すようなバッティングでショートの頭を越えて、左中間手前に落ちるレフト前ヒットで出塁していた。続く6番打者で界皇はエンドランを仕掛け、バッターはサードゴロに倒れたが一塁ランナーが二塁に進む。そして7番打者が1ボール2ストライクから外低めのスライダーで空振り三振に取られ、2アウトランナー二塁。ここで神宮寺の制球が乱れて3ボール0ストライクとなり、バッテリーは敬遠を選択した。

 そしてタイムを取ってマウンドに駆け寄っていた牧野がキャッチャーボックスへと戻ってくると9番バッターの鎌部が打席に入る。

 

(……良かった。今の体力無くなってきた小也香に対してここで代打を出されると結構厳しかった。ここは細かいコントロールはいいから、ボールの力で抑えよう)

 

(さすがに界皇としても鎌部さんを代えるわけにはいかないというわけですか)

 

(舐めないで欲しいんですけど。ここで追加点を……上げてやるんですけど!)

 

 ストレートを続けて1ボール1ストライクとなり、投じられたスライダーは外に外れていたが鎌部が振らされたことで1ボール2ストライク。4球目として投じられたインコース真ん中へのボールに鎌部はストレートのタイミングで振り出していた。

 

「ストライク! バッターアウト!」

 

(ち……ど真ん中への高速スライダーだったんですけど)

 

 鎌部は今までの打席からこの変化を感じ取ってバットを振り出していたが、バットの僅か先をボールが通過していき、空振り三振に取られていた。

 

(キレで無理やり空振りに取った……というところですね)

 

 こうして7回の表が終わり、7回の裏。円陣を組んで気合いを入れた清城から先頭の1番バッターが出てくる中、スタンドは異様な緊張感で包まれていた。

 

(方針は解除。最後の狙いは上手く出来たはずだからね。……私は向月との試合でも結局塁に出れなかった。この試合でも塁に出れなかったら何のための1番打者よ! 絶対に出る!)

 

 そして初球が投じられるとフォークが切れ味鋭くアウトコース低めへと落ちていく。

 

「ボール!」

 

(相変わらず見てきたか……。まだカーブ狙いか、それとも低め捨てるのに戻したのか。どちらにせよ今までフォークからのストレートには対応出来てないんだ。ストレートでストライク取るよ)

 

(了解なんですけど)

 

 続けて投じられた2球目はアウトローへのストレート。このボールにバッターはバットを振り切ると、弾き返された打球は二遊間へと転がっていった。

 

(な……!?)

 

(私らが低め捨てたりカーブ狙いをしていたのは、低めにほとんど投げられるフォークと、ストレートとの見極めをこの試合の内にするためだ! 今のはストレートだと分かったよ……!)

 

「大和田!」

 

「分かっとるよ!」

 

「……!」

 

(捕ったのか!? くそっ。間に合え!)

 

 二塁ベースを通過したところで打球を逆シングルで捕球した相良は一塁を背にした体勢のままグラブトスを刊行すると走り込んでいた大和田がそれをミットで受け取り、取り出したボールをファーストへと送球していた。そしてファーストの捕球とほぼ同時にバッターランナーが駆け抜けた。

 

「……セーフ!」

 

「やった……!」

 

(くっ。同時セーフを取られたか……)

 

 一塁審判の判定はセーフ。そのコールと、掲示板に記されたヒットの表示に静寂に包まれていたスタンドが一斉に湧き上がっていた。

 

(ち……振り切った分、打球にトップスピンがかかって捕球位置が少し深くなったんだ。もう少し前で捕れれば……って)

 

「鎌部先輩。す、すまんとー。折角のパーフェクトゲームが崩れてしまったけん」

 

「パーフェクトゲーム?」

 

「あっ。大和田、何言って……」

 

(気負いすぎないように皆そのことを話題にするのを避けてたのに……!)

 

「……ああ。そういえば。確かに惜しいことしたんですけど。……ただ私の狙いはハナから2被安打以内……とりあえずは気にしてないんですけど」

 

「ほっ。良かったけん……」

 

(本気で気付いてなかったんですか……!? 途中まで気づかないことはあっても、最終回はさすがに意識してると思ってたのに……)

 

 飄々とした鎌部の態度に相良が度肝を抜かれていると、その様子を見てキャッチャーは少し安堵しながら声の出てきた清城ベンチの方を横目で見る。

 

(ストレート狙いか……? いや、だけど一球目のフォークをああも平然と見送れる理由はなんだ。…………まさか2巡かけてフォークとストレートの見極めに当てたんじゃないだろうな)

 

(ふう……3つ目の狙い、ストレートとフォークの見極めが上手く出来て良かったよ。ただそれまでも高めの甘い球やカーブを打って崩す算段だったからな……正直3巡目が7イニングになるとは思わなかった)

 

 そして2番打者が左打席へと入ってくるとバッテリーの選択したボールはフォーク。それがインコース低めのストライクゾーンへと入ってくる。

 

(……! フォークの軌道に合わせて振ってる……!)

 

 落ちてくるフォークに合わせるようにバットが振られるとボールの右側面を掠るように打たれた打球はそのままキャッチャーの横を抜けていってファールとなった。

 

(どうする……。なら外にカーブを……)

 

(ん……違うんですけど。そのバッターの特徴を考えると外に遅いボールは危ないんですけど)

 

(首を……そうか。外にカーブはまずいか。……狙われていてもまだ千秋のコントロールは落ちてないんだ。さっき打たれたストレートは安易にストライクを要求してしまった。……インハイに厳しくせめてこい!)

 

(そ……こっちが怖気付くことはないんですけど。分かっていようがいまいが……打てないボールを投げ込んでやればいいんですけど!)

 

(……! くっ!?)

 

 インハイのストレートに反応したバッターだったが、振り出したバットはタイミングが遅れて空を切ってしまう。

 

「ストライク!」

 

(7回に来てまだこれだけのストレートを……なら)

 

(カット打法に変えてきたか……)

 

 追い込まれたバッターは外へと大きく踏み込む構えへと変更するとバットを短く持ち直していた。そして3球目として投じられたインハイのストレートを軽く振って当てるようにし、バックネットのファールとしていた。

 

(嫌なバッターなんですけど……。ただ……手はあるんですけど)

 

(身体に……!? うっ、これは……!)

 

 4球目として投じられたボールが膝へと向かっていくと外に踏み込んでいた分、デッドボールの衝撃を和らげようととっさに腰を引いてしまい、内へと切れ込む変化に勘付いたものの腰が引けてバットを振り出せずに見送った。

 

「……ストライク! バッターアウト!」

 

(シュート!? しまった……)

 

(向月との試合データは全部目を通した……アンタの弱点はそこなんですけど)

 

 2番バッターが見逃し三振に倒れ、スタンドからはため息が漏れ聞こえてくる。

 

(まだ1アウトだ……繋ぐぞ)

 

(先輩……お願いします)

 

(点差は4……まだ繋いでいけば分からないんだ。きっと私まで繋いでくれる。私も繋げるように準備しておこう……!)

 

 ネクストサークルに神宮寺が座り、ベンチでは牧野が準備を進めている中、3番バッターがサードの守備位置をさり気なく見てから右打席へと入った。そして……その初球。

 

(セーフティ……!? しまった。要求したのはサードの前にバントしやすいインロー……!)

 

 3番バッターの取った構えにキャッチャーは目を見開くと、インコース真ん中からインコース低めの際どいところへとフォークが落ちていき、この軌道を見極めたバッターは三塁線へと打球を転がした。

 

「くっ……!」

 

 すると意表を突かれたサードはスタートが一瞬遅れ、必死に前へと出てくる。

 

「……! ピッチャー!」

 

(えっ! 千秋!? なんでもうその位置に……まさか、セーフティを読んでいたの!?)

 

 するとサードより早く三塁線に沿うように転がる打球に鎌部が追いつくと、前へと突っ込んでいったサードが足を止めて三塁ベースのカバーに戻る中、鎌部は下半身に力を込めてボールを拾う際の沈み込む動作をこなすとファーストへと送球が行われた。

 

「……アウト!」

 

「アウトだって……!?」

 

(3番は高坂の化け物シュートを勢いを殺して転がせるほどのバント巧者、そして清城は理由はどうあれここまでうちの広い守備範囲にヒット性の当たりを阻まれてる……セーフティを仕掛けてくる可能性はむしろ高いと思ってたんですけど)

 

「ごめん、神宮寺さん……後はお願い!」

 

「ええ……最後まで諦めずいきましょう」

 

(神宮寺小也香……この試合の幕を閉ざすラストバッターとしては相応しいんですけど)

 

 2アウトランナー二塁となり右打席に神宮寺が入っていく。

 

(終わらせませんよ。今の打席もストレートとフォークとの見極めが出来ていた……ここまでやってきたことは決して無駄ではないはずです)

 

 この打席に全神経を集中させるような真剣な面持ちに鎌部は満足そうに笑うとロジンバッグを放り投げ、セットポジジョンに入った。

 

(アンタが速球系に絞られてもストレートを続けたように……私だってそう易々と打てるストレートは投げないんですけど)

 

 投じられたストレートがインコース低めの際どいところへと向かっていくと神宮寺は振り出そうとしたバットを止めてこれを見送った。

 

「……ボール!」

 

(……ストレートのスピードにも慣れてきました。ボール球を簡単に振らせられるとは思わないことです)

 

(気に食わないほど冷静なんですけど。なら、打てるもんなら打ってみればいいんですけど……!)

 

(インハイにストレート……!)

 

 2球目のインハイのストレートに対して神宮寺が振り出したバットはボールの芯より下を捉えると打球は低い弾道でバックネットへと突き刺さった。

 

「ファール!」

 

(バットが下に入った……。これが全国レベルのピッチャーのストレートのノビ……)

 

(……ストレートに意識を向けさせられたかな。千秋、これでフィニッシュだ)

 

(ん……分かったんですけど)

 

 捉えた位置を確認するようにバットを見つめた神宮寺を見てキャッチャーはほくそ笑むように笑うとサインを送り、それを受けた鎌部が3球目となるボールを投じた。

 

(またインハイ。今度こそ……!)

 

(残念だけど、それはストレートじゃないんですけど……!)

 

「……!」

 

 インハイのストレートのノビに応じるように振り出された神宮寺のバットは根っこに当たる部分でボールを捉え、打球は高く打ち上がった。

 

(し、しまった……! シュート……!)

 

(よし! これでゲームセットだ!)

 

 打球は神宮寺の後方へと上がり、キャッチャーがマスクを取って追いかけていく。そしてバックネットの前まで来たキャッチャーが打球を見上げてミットを上に構えた。

 

(擦った分スピンがかかって落ちてくる! これは捕れる……!?)

 

「ファール!」

 

 打球はキャッチャーの目測とはずれてスピンの影響が大きく及ぶ前にバックネットへと当たり、ファールとなった。

 

(……! か、風……!?)

 

(ちっ、運が良いんですけど……)

 

 上空に上がっていた打球は風に後押しされるように流されていき、ゲームセットの確信を持っていたキャッチャーは焦燥感を覚えていた。

 

(風は確かに少し吹いていましたが……このタイミングで強くなるとは。助かりましたね……)

 

 大きく息を吐き出した神宮寺はバットを構え直すと、集中は切れていなかった。

 

(ふん……それでも、追い込んだんですけど。内を続けた今……これに手を出さずにいられるとは限らないんですけど!)

 

 4球目として投じられたボールがアウトコース低めへと向かっていく。神宮寺は外へと踏み込みバットを振り出そうとしたところで、このボールの正体に気づきバットを止めていた。

 

「……ボール!」

 

「スイング!」

 

「ノースイング!」

 

(……よく見たんですけど)

 

(辛うじて止められましたね……。これまでの打席で見極めを怠っていたら振らされていたでしょう)

 

(なら……さっきの打席で仕留めたボールだ。低めギリギリを狙ってフォークを投げてこい。この妙な流れを一気に断ち切るぞ!)

 

(……続けてフォーク。今風は私からバッターボックスに向かって吹いてる。フォークは投げる方向と逆方向の風が吹いていた方が落ちが良い。この風ならストレートという選択肢もあると思うんですけど……。まあ、それでも決め球……投げてやるんですけ……!?)

 

 そして5球目を鎌部が投じようとした瞬間だった。キャッチャーが早期決着を望んで要求したフォークの連投。それが……フォークという球種の最大の弱点をさらけ出す結果となった。

 

(ま、まずいんですけど……!)

 

(この力の無いボールは………!)

 

 アウトコース真ん中の高さへと投じられたのはスピードの無いボール。試合も終盤になってここまでフォークを投げ続けた鎌部の握力は弱くなっており、それが……“すっぽ抜け”に繋がっていた。そしてこのボールの正体にいち早く勘付いた神宮寺はバットを振り切る。するとグラウンド中に鋭い金属音が鳴り響いた。打球は左中間へとグングン伸びていく。

 

(や、やられたんですけど……)

 

(……まだよ!)

 

(草刈レナ……!?)

 

 この打球を追いかけていたレナはグラウンド上の誰よりも早く打球に起きていた変化に気付いていた。目を切ってレナが打球を追っていく中、周りもそのことに気づき始める。

 

(か、風で……打球が押し戻されている!)

 

「届かせる……!」

 

 外野フェンス上の金網の上まで登ったレナは右手で金網を掴みながらミットを可能な限り伸ばした。そして——その僅か先を打球が越えた。

 

「つ、ツーランホームラン……」

 

 牧野がぽつりと呟いたのとほぼ同時だっただろうか。スタンドから一斉に飛ばされた歓声がグラウンドを包み込んでいく。

 

「……やられた、わね」

 

 金網から飛び降りて着地したレナはダイヤモンドを周る神宮寺を見ながら、歓声に埋もれるように小さく呟いていた。

 

「ホームイン!」

 

「小也香……!」

 

「これで2点差……決して返せない点差ではありません。後は、お願いします」

 

「……うん」

 

 喜んでばかりはいられないと少し緩んだ自分の表情を引き締め直した牧野は、ここで守備のタイムを取った界皇内野陣を見つめていた。そこに伝令が送られていく。

 

「監督……鎌部を交代させますか?」

 

「ブルペンに気持ちの準備はさせておいて。けど、ここはまだ……」

 

 そして伝令の言葉を聞いた鎌部が驚いたような表情でこちらを見てきたのが分かった北山は静かに頷くと言葉を続けた。

 

「エースを信じればいいわ」

 

 タイムが解かれ、試合が再開される。途切れ途切れだった清城の応援はいつのまにかひっきりなしに聞こえるようになり、鎌部はそんな声援に囲まれるようなマウンドである言葉を思い出していた。

 

(1試合投げ切るのに一番大事なもの……)

 

 右打席に入った牧野に投じたインローへのストレートに対して振られたバットはタイミングが遅れて空を切っていた。すると牧野がバットを短く持ち直す。

 

(7回でこれだけのストレートを……。点差は2点。大きいのは狙わなくて良いんだ。しぶとく食らいついていこう)

 

 続けて投じられたボールがインコース低めに向かっていき、牧野は短く持ったバットで小回りの効くスイングの始動に入ると、振り出したバットを止めて内に切れ込んだシュートを見送っていた。

 

「ボール!」

 

(焦らないで……チャンスは必ず来る!)

 

(まだ2点差ある……というよりはもう2点差しかないというべきか。特にあの相性の悪い8番まで回れば何が起きてもおかしくない。……フォーク……要求するべきか? けどさっきのことを考えると……。……! 首を振った?)

 

(風もタイムの間に収まって強い風は今のところないんですけど。ストレートは意識されてるし、一辺倒でいくとコンパクトに合わされる可能性はあるんですけど)

 

(……恐れずいくべきか)

 

(当然なんですけど)

 

「……!」

 

 3球目として投じられたボールがインコース真ん中からインコース低めへと落ちていくと、ストレートとの見極めが出来た牧野はこのボールを見送った。

 

「……ストライク!」

 

(……! ここに来て低めギリギリに……。それにすっぽ抜けがあったから避けてくると思ってたけど、フォークも投げてくるんだ)

 

(……千秋。これでどう?)

 

(……そのサインが欲しかったんですけど)

 

 少しキャッチャーが考えてから出されたサインに鎌部は内心満足げに頷くと心の中で今の状況を復唱するようにしてから投球姿勢に入り、ボールを投じた。

 

(これは……!?)

 

 まずストレートに振り遅れないように、フォークが来て入っていたらカット……そんな風に構えていた牧野は一瞬投じられたボールへの理解が遅れるとボールは弧を描いてアウトコース低めへと曲がっていく。

 

(か、カーブ……!? しまった。スイングが止まって……は、外れて……!)

 

 このカーブに対して上体を残せず身体の軸が揺らいだ牧野のバットが止まると、緩やかな軌道で曲がったボールはほとんど動かなかったキャッチャーミットへと収まった。

 

「……ストライク! バッターアウト!」

 

 そして球審の宣言が響くと牧野の表情に痛恨の念が浮かび、スタンドからのどよめきがグラウンドを満たしていった。

 

「……整列です。行きましょう」

 

「神宮寺さん……」

 

 試合が終わる瞬間までベンチから声援を送っていた神宮寺はその宣言に時間にして2、3秒ほど空を見上げるとそう声をかけてグラウンドへと足を踏み入れた。そしてそんな神宮寺に引っ張られるように他の部員もグラウンドへと出ていくと、両校の部員が向かい合うように並び、4対2で界皇高校の勝利が宣言された。

 

「両校、礼!」

 

「「ありがとうございました!」」

 

「神宮寺さん。……また会いましょう」

 

「ええ。今度は……負けません」

 

「ふふ……楽しみにしてるわ」

 

(高坂さん以来だったな……。全打席勝負してくれたのは)

 

 レナに握手を求められた神宮寺はそれに応じると必要以上に話はせずにグラウンドを後にした。そして荷物を纏め終え、三塁側ベンチから裏の通路へと出ていった時だった。緊張の糸が途切れたように身体が疲労を強く感じ出し、足がふらつく神宮寺を牧野が支えるように歩いていると、次の試合で三塁側ベンチを使うために待機していた里ヶ浜とばったり会う形となる。

 

「……河北さん」

 

「神宮寺さん……」

 

「……申し訳ありません。貴女と神社で交わした約束は果たせませんでした」

 

「ん……そっか。残念……だけど。その表情を見れば分かるよ。やらないと後悔しちゃうようなことは、全部やり切れたんだよね」

 

「ええ」

 

「約束は果たせなくても……込めた気持ちは変わらないからさ。だから私もこの試合、神宮寺さんに負けないくらい頑張るよ」

 

「……ありがとうございます」

 

 河北の言葉にそう神宮寺が呟くように返事をすると清城野球部はベンチ裏から去っていった。

 

「……翼、頑張ろうね」

 

「うん……! 私たちも、神宮寺さん達に負けないくらい頑張ろう!」

 

 そして彼女達と交代するように里ヶ浜野球部が三塁側ベンチへと足を踏み入れると、一塁側ベンチにも明條学園の姿が見えていた。

 こうして界皇高校と清城高校の試合は4対2で界皇高校の勝利という幕切れとなり、試合の熱も冷めやらぬ中、明條学園と里ヶ浜高校の試合という新たな戦いの幕が上がろうとしていた——。




来週はスキップで、次の更新は再来週でお願いします。


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目立ちたいワケ

(どきどき……)

 

「3・2…………」

 

(あれ? 1は——)

 

「『大咲みよのタッチアップ☆フォーユー』!」

 

(わっ!?)

 

「さぁ、今日も球場からお届けしています! 『タッチアップ』のセンター、大咲みよです! みんな、前の試合は見てくれたかな? 今日から見始めたよって人も、この試合を通して少しでも女子野球に興味を持ってくれたら嬉しいな。……さてさて。試合前に今日の試合の対戦相手、里ヶ浜高校のキャプテンにお越し頂きました! お名前をどうぞ!」

 

「あ、あ、有原翼です!」

 

 秋大会二回戦、明條学園対里ヶ浜高校。その試合開始前に翼は大咲の隣でキャプテンインタビューを受け、慣れないテレビカメラに向かって震えた声で答えていた。

 

(緊張してるわね……。まずは簡単な質問から入ってほぐしていくか)

 

「有原さんのポジションはショートでしたよね?」

 

「えっ」

 

「……?」

 

(ど、どうしよー!? まだオーダー表交換前だし……)

 

 ぐるぐる目になりながら頭の中を整理しているうちに里ヶ浜ベンチから飛ばされた東雲の鋭い視線が頬に突き刺さる感覚を覚えた翼は意を決したように返事をする。

 

「は、はい! 普段はショートを守ってます!」

 

「ですよねー! 良かった。間違えちゃったかと思った。アタシもショートなんです! 同じ一年生ショートとして今日はよろしくね!」

 

「えと……よろしくお願いします!」

 

 少し大袈裟に胸を撫で下ろす仕草を見せた大咲は溌剌とした明るい声で主導するように語りかけると次第に翼の緊張もほぐれていった。そんな二人のインタビューの様子を見ていた鈴木はスタッフの手際が良いことに気づいていた。

 

「そういうことだったのね」

 

「ん? どうしたにゃ?」

 

「……ちょっと気づいたことがあって」

 

「何に気づいたんだにゃ?」

 

「前に明條と練習試合をした時、球場での試合とテレビカメラでの撮影を希望してきたでしょう?」

 

「ああ……そういえばそうだったにゃ。そのために球場を借りる費用も負担してくれたんだったにゃ」

 

「あれは今思えば予行練習だったんだわ」

 

「なるほどにゃ。実際にやってみてよく分かったけど、大会の試合進行は本当に速いんだにゃ。あの撮影は生放送らしいし、不備がないように色々確認していたんだにゃ」

 

 少人数のスタッフで手際よく進められていく撮影を見ながら二人が前の練習試合で提示された条件と関連づけて納得していると、翼へのインタビューも簡単な質問は終えられ佳境に入っていた。

 

「里ヶ浜は夏の大会では二回戦で敗れたという話でしたが……ずばり! この大会の目標は?」

 

「……! 目標は……」

 

 声の震えは既にどこかへと消え去り、はきはきと大咲の質問に答えていた翼は場が盛り上がってきたところで満を辞して切り出されたこの質問を聞いて心臓が跳ねるように波打つのを感じた。そして挟んだ一瞬の間に入学した里ヶ浜高校で野球を再び始めてからのことが脳裏に流れると、自身に向いたカメラを真っ直ぐに見つめて言い放った。

 

「優勝です!」

 

「……優勝ですか! 高い目標ですね! アタシ達もそんな里ヶ浜に負けないよう頑張ります! 最後に握手を……」

 

「はい! ……!」

 

(さっきの界皇の試合を見てなお優勝が宣言出来るのは褒めてやるわ。けどアタシだって……一試合でも多く勝ち残りたい理由があるのよ! 練習試合では負けたけど、今日は負けないわよ……!)

 

(痛たたた……! わ、悪いこと言っちゃったのかな? ……でもそれが東雲さんや皆と立ちたい頂だから……どれだけ険しい道のりでも、一試合一試合(一歩一歩)勝ち進むんだ!)

 

 思わず握りしめる力を強める大咲とそんな彼女に驚きながらも優しく、されどしっかり握り返す翼。そんな二人を映すレンズ越しにゆかりはこの映像を泊まっている宿舎のテレビを通して見ていた。

 

(ついに優勝を宣言したね。さっきゆいさんの妹ってあのアイドルが触れてたし、これであなたも……比べられるよ。……さっきの目……)

 

「みよちゃんは試合の準備に入るのでここからはこの番組では『実響(じっきょう)ちゃん』でおなじみ、ワタクシ実浦響(みうらひびき)がお送りします!」

 

 二人の握手でインタビュー映像が締められて画面が切り替わり、実況アナウンサーの声が聞こえてくる中、ゆかりは先ほどの翼が優勝宣言の時に見せた目が気になっていた。

 

(前に試合した時のみささんと同じ目をしていたな……)

 

「ねー、ゆかちゃん」

 

「ん、なにかな?」

 

 試合前日ということで身体を休めている里ヶ浜サッカー部員、同じ里ヶ浜高校ということで興味を持って見ている者がゆかりの他にもおり、そのうちの一人である友人に話しかけられたゆかりはハッと顔を上げた。

 

「野球のルール分からないから、分かんないところあったら解説してー!」

 

「いいよー。どどーんとゆかりさんに任せなさい。これでもチュリオーズの試合は欠かさず見てるんだから」

 

「ああ……チュリオーズってプロ野球球団でも最弱の……」

 

「違うんです先輩! 今シーズンは5位と0.5ゲーム差まで迫ったので、来年はいけるはずなんです!」

 

(……確か5位も今年は首位のファンタジーズと20ゲーム差は離れていたような……)

 

 そんなこんなで周りとなんてことのない会話をしているうちにやがて試合開始の時間が迫ってきた。

 

「——続いて後攻、里ヶ浜高校。先発は東雲龍、今大会初登板です。キャッチャーは鈴木和香。そのバックを守る内野は……」

 

「お。そろそろ試合始まるねー!」

 

「そだねー」

 

「ファースト有原翼、セカンド河北智恵、サード阿佐田あおい、ショート新田美奈子。そして外野は……」

 

(……! あれ、ファースト……?)

 

 少し談笑して気が抜けていたゆかりはその言葉に違和感を覚えてテレビに意識を戻すと、続けて告げられた言葉に大きく驚くことになった。

 

「レフト九十九伽奈、センター永井加奈子、ライト宇喜多茜。以上のスターティングメンバーでいよいよ試合が始まります!」

 

「えっ! ここちゃんは……!?」

 

 ゆかりは目を見開くと整列する両校の選手の中にいる逢坂を見ながら、翼と電話した後に逢坂と交わしたNINEのやり取りを思い出していた。

 

《ここちゃん、ちょっといい?》

 

《どしたのゆかりん?》

 

《ここちゃんは……どうして野球を始めようと思ったの?》

 

《あれ? 前に話さなかったっけ。エース兼4番としてチームを率いて優勝して……ってやつ》

 

《……野球って凄く怖いよ》

 

《え?》

 

《時々勝ったり負けたりすることを楽しむレベルなら頑張って欲しい。でも、もっと上を目指すと怖くなってくるんだ》

 

《才能があっても、たくさん練習してもたった一球で色んなことが変わっちゃう。誰かと比べて自分のことが嫌になる……そんなことばっかりだよ?》

 

《……やだなー。いきなりどうしたの、ゆかりん〜?》

 

《ここちゃんはあたしの友達だよ。友達のことが心配だから……だから、あたしは本気で心配してる》

 

《……うん。分かった。じゃあ、アタシも本気で話す》

 

《アタシね。無いんだ。今まで自分の力で何かしたり、何かを決めたり。そういうことが一度も無いの》

 

《え? でも、子役で活躍して……》

 

《うん。演技には自信あるよ。アタシも向いてるって感じてた。でもね……》

 

《きっかけは赤ちゃんの時に親が応募したからだし、演技だってよく知らないおじさんの指示通りに覚えたセリフを言ってただけかもしれない》

 

《それに芸能界から離れることになったのも……ママが事務所とお金のことでケンカして……》

 

《……急にごめんね》

 

《そう……だったんだ》

 

《だからね。アタシ、欲しいんだ。自分の力で掴んだ何かが……》

 

《だから4番エースでチームを率いてなんて……?》

 

《うん。だってそれって、ママの力とか全然頼らずに自分の力でやり遂げたってことになるでしょ?》

 

《そしたらきっと、芸能界に戻る話もやらない理由を並べるんじゃなくて……やりたい理由を見つけられると思うから》

 

《……って、もー。何真面目に語ってるんだろ! 恥ずかしいなー。女優はこういうの表に出しちゃダメなのに》

 

《ここちゃん……。ううん、話してくれてありがと》

 

 チャット形式で交わした会話が脳内でスクロールするように流れたゆかりは宇喜多の肩に手を置いてからベンチに戻っていく逢坂を目で追っていた。するとカメラ外へと消えてその姿が見えなくなってしまう。

 

(ここちゃん……)

 

 そして宇喜多を含めた守備陣がグラウンドへと散っていき、それらがカメラに収められるとプレーボールの宣言がグラウンドに響き渡った。

 

(さーてと里ヶ浜は後攻を取ってきたか……高波との試合でも後攻で勝ってるから、そこら辺が理由かな?)

 

 右打席に入った1番バッターが髪を結ったマウンド上の東雲が少し硬い表情で息を吐き出す様を見ながらバットを構えていると、この試合の幕開けとなる1球目が投じられた。

 

「ボール!」

 

 真ん中高めに投じられたストレートに低めを要求した鈴木はとっさの反応で上にミットを伸ばすようにして捕球し、これが高めに外れてボールとなる。

 

(スピードはみよと同じくらい……。ただみよより背が高い分、少しだけリリースポイントが高いかな)

 

(肩に余計な力が入ってるわね。……無理もないわ。東雲さんは公式戦では初めてのマウンドだもの。ここは肩の力を抜くために……)

 

(ふう……そうね。……ん)

 

「東雲さーん! ストレート走ってるよ! その調子でガンガンいこう! 後ろは任せて!」

 

(有原さん。……高波戦とは大違いね。そうだったわ。試合中、賑やかすぎるくらい積極的に声をかける……それが貴女だったわね)

 

 ファーストからの掛け声に東雲がそちらを向いて頷くと翼も屈託なく笑い、2球目。投じられたカーブに虚を突かれたバッターのバットが止まると弧を描いてアウトコース低めに構えられたミットに収まった。

 

「……ボール!」

 

(少し外に外れた……けど、今のは要求したところには来ていたわ。上手く力を抜けたようね)

 

(今の入ったかと思った……ちょっと外にズレてたのかな。けどこれで2ボール0ストライク。厳しいコースに手を出す必要はないか。もし私なら次は……)

 

 そして投じられた3球目は真ん中低めのストレート。これにバッターはバットを振り出した。

 

(タイミングが合ってる……!)

 

(ビンゴ! 狙わせすぎると自滅させちゃうし、大雑把に低めのストレートで来ると思ったわ!)

 

 低めに投じられたストレートは低めギリギリではなく真ん中よりやや下という高さに投じられており、これが打ち返されると三遊間へと打球が転がっていった。サード寄りに放たれた打球に阿佐田が追い縋っていく。

 

「抜けたー! 打球は三遊間を抜け、レフト前ヒット! 明條学園、ノーアウトからランナーを出しました!」

 

(ふぅ。余裕を持って抜けると思ったのにちょっと追いつかれそうだったわね)

 

「ぐぬぬ……」

 

 反応良く動き出した阿佐田だったが伸ばしたミットの先を打球が抜けていき、ノーアウトランナー一塁。続く2番打者が右打席へと入るとバントの構えを取っていた。

 

(明條のオーダーは練習試合から変わってない。このバッターは近藤さんの話だとバントがかなり上手い。それに野崎さんのボール一つ分高めに外れたスピードのあるストレートを見極めていた。今の東雲さんにはバントをさせない、というのは難しいかもしれないわ。それに……)

 

(……! 分かったよ!)

 

(キャプテンの指示は送りバント……。はい! 任せてください!)

 

 一塁ランナーがじりじりとリードを広げる中、背になる一塁ランナーを気にしながら東雲はボールを長く持った。

 

(大丈夫よ。……来て!)

 

(……行くわ!)

 

 そして東雲はクイックモーションに入り、ボールを投じた。一塁ランナーは投げられてから少しだけリードを広げながら、そのボールの行方を見守る。

 

(アウトコース真ん中……バントしやすいコースだ。ここはセオリー通りファーストに捕らせる!)

 

 バントの構えは崩れずに投じられたストレートに合わされ、コン……という音と共に勢いの抑えられた打球が一塁線へと転がされた。

 

「任せて!」

 

(……! ファーストが激しくチャージを……!)

 

 バントに合わせるように一塁ランナーがスタートを切る中、鈴木からチャージのサインを出されていた翼は猛ダッシュで前進していた。そんな翼に焦燥感を覚えながらバッターランナーも一塁目掛けて走り出す中、翼がこのボールをミットに収める。

 

(刺せる……かもしれない。けど際どすぎる!)

 

「一塁に!」

 

「ともっち!」

 

「うん!」

 

 二塁への送球に備えて共にチャージをかけた東雲が送球コースを妨げないようしゃがむと鈴木は一塁への送球を選択して指示を出した。その指示に応じるように翼が一塁ベースからフェアゾーン側に逸れた送球を行うとベースカバーに向かった河北は身体の前に送られた送球を難なくミットに収めてから一塁ベースを踏む。

 

「アウト!」

 

 河北がベースを踏んでから数瞬後にバッターランナーが駆け抜けてアウトのコールが為されると河北は二塁側へと向き直り、一塁ランナーがベースを大きく飛び出してないことを確認してから東雲へとボールを戻した。

 

「送りバント成功! 明條、初回からチャンスを作りました!」

 

(刺せるかは微妙なところだったし、二塁へ投げれば両ランナーがセーフになる可能性もあった。初回ということを踏まえれば今のは無理をすべきでは無かったわ。良い判断よ、鈴木さん)

 

「ともっち! スムーズにカバー入れてたよ!」

 

「ありがとう! 翼も送球捕りやすいところに来てたよ!」

 

「和香ちゃんも早めの指示助かったよ!」

 

「ええ。この調子でいきたいわ」

 

「東雲さん! まずこれでアウト一つ目! 一つずつ取っていこう!」

 

「そうね」

 

(初先発ということで浮き足立っていたところはあったけど、まずアウトを一つ取れたことで少し落ち着けたようね)

 

 1アウトランナー二塁となり、3番打者が右打席へと入っていく。

 

「明條はここからクリーンナップに入ります! 里ヶ浜バッテリーはこのピンチに対してどう立ち向かうのでしょうか!?」

 

 バッターが地面をならしている間、鈴木は一瞬ベンチでこの試合の記録を取っている近藤へと目を向けると、それに気づいた近藤は頷いた。

 

(このバッターはバットの先で大きく円を描くような、ドアスイングって呼ばれるバットの振り方をする。だから練習試合と同じように内を攻めれば、スイングが大きい分バットが遅れるはずです!)

 

 近藤の意図を汲み取った鈴木が前に向き直ると、地面をならしおえたバッターは既にバットを構えていた。するとその姿を見て鈴木は違和感を感じる。

 

(……! このバッター……バットを短く持った? 前の練習試合では普通に持っていたはず……)

 

(バットを短く持てばバットの先で描く円も当然小さくなる……。ドアスイングの隙を小さくしようという試みでしょうね)

 

 事前に共有していた情報から東雲がバットを短く持つ意図を察すると鈴木も同じ考えにたどり着いた。

 

(バットを短く持てば外に届きにくくなる。なら……)

 

(外へのスライダー……)

 

 鈴木から送られたサインは外低めの際どいところを狙うスライダー。このサインに対し、東雲は迷わず首を横に振る。

 

(……!)

 

(ここで弱気になれば相手の思う壺よ。バットを短く持っても内に弱く、外に強いというのはそう簡単に変わるものではないわ。どうやら立ち位置も大きくは変えてないようだし、この場面は強気にデータ通り攻めればいいわ)

 

(……バットが描く円が小さくなっても外から回り込むようなスイング自体は変わってない、か。そうね……もう少しで得意なところに投げさせてしまうところだったわ)

 

 そして続けて送られたサインに今度は首が縦に振られると一度二塁ランナーに目をやってから東雲はボールを投じた。

 

(うっ!)

 

「ストライク!」

 

 投じられたインコース真ん中のストレートにバットを振り出したバッターだったが、ミートポイントの狭いバットの内側の上をボールが通過し、空振りでストライクを取られていた。

 

「バッテリー、ここは強気に内を攻めてきます!」

 

(インコースの特打ちはしたんだ……。色々試して、外への対応を捨てずに内を打つためには、立ち位置は変えずにバットを短めに持つのが一番だった。今くらい厳しくこられるとつらいけど内を執拗に攻めてくるなら、中に入ったボールが来れば苦手でもなんとか打ち返してやる!)

 

 内に投じられたボールに打ちづらさを感じながらも捲土重来のチャンスを窺ってバッターがバットを構え直すと2球目が投じられた。

 

「ボール!」

 

 再びインコース真ん中に投じられたストレートは内に大きく外れて1ボール1ストライクとなる。

 

(東雲さんは内に曲がる変化球を持っていない……。ここは押せ押せで行くわよ)

 

(分かったわ)

 

 そして3球目。インコース低めに投じられたストレートはやや中に入っていた。

 

(いけっ!)

 

 このボールに対してバッターが思い切ってバットを振り出すと金属音と共に打球は東雲の足下へとライナーで放たれた。

 

「くっ!」

 

(これは届かない!)

 

 右足の横を抜けようとする打球に東雲が左手のミットを伸ばしたがその先でバウンドし、二塁ランナーがスタートを切る中、打球はそのまま二遊間へと転がっていく。

 

「ショート!」

 

「おっけー!」

 

(この打球……思ったより勢い無くない? なら……)

 

「一塁に!」

 

 二遊間へと走っていた新田は速い打球を走りながらミットを伸ばして捕るつもりだったが、打球の勢いが想定より遅いことに気づくと二塁ベースの横まで足を動かしてこの打球の正面に入り、腰を落としての捕球に成功していた。駿足を飛ばして三塁ベースへと向かう二塁ランナーを見てタッチプレーでのアウトには厳しいと判断した鈴木が一塁への送球を要求すると、新田の送球は翼の構えた位置から少し逸れたが、翼は右足をベースに触れたまま左足の位置を変えてこの送球を受け取った。

 

「アウト!」

 

(ちぃ……詰まらされた)

 

 バッターランナーは余裕を持ってアウトになり、痺れたような感覚を覚えながら一塁側の明條ベンチへと帰っていく。

 

「美奈子ちゃーん! ナイスフィールディング!」

 

「逢坂……ありがとー! この調子で頑張るよー!」

 

 里ヶ浜ベンチから飛ばされた声援に新田が応える。その声援の主はこの試合が始まってからずっとグラウンドとの境になる柵に手をついて応援していた逢坂だった。

 

「…………」

 

 そしてその声援を送った逢坂は今の新田のプレーを見て、昨日のミーティングでオーダー発表が行われた後の出来事を思い出していた。

 大咲との因縁を意識して明條との試合はなんとしてもスタメンに入ってやると意気込んでいた逢坂はスタメンを外れてしまったことにショックを受けていた。そこに東雲と鈴木の会話が聞こえてくる。

 

「秋乃さんの言う通り、一回戦と比べて守備位置が大きく入れ替わったオーダーになったわね。ファーストを有原さんに任せるのは予想はしていたけど、それでも意外だったわ。東雲さんはファーストの守備を軽視せず、守備にも比重を置くべきとしていたでしょう?」

 

「ええ……だから話し合いだけでは決められなかったわ。運動場で有原さんの調子を見て、ファーストの守備をどれだけこなせるか確認しないことにはね。一回戦の不調もあったし……」

 

「なるほどね……。一番調子を見たかったのはファーストの有原さんの動きだったのね」

 

「そうよ。もし無理そうならファーストだけは対左を諦めるつもりだったけど、ショートでの動きに比べると見劣りするとはいえ十分に動けていたのが確認できたからこのオーダーにしたのよ」

 

「ちょっとちょっとー! 有原だけじゃなく、この新田ちゃんのことを褒めてちょうだいよー!」

 

 すると二人の間に割って入るように腕を伸ばした新田が突入してきた。

 

「前に鈴木さんには少し話したけど私は相手のヒットゾーンを減らすために一人一人の守備範囲の広さ、確実性も含めてそれを重要視しているわ」

 

「ふむふむ……つまり?」

 

「貴女と逢坂さんは入部当初、派手なプレーを好んで守備に無駄が多かったでしょう?」

 

「……!」

 

「そういえばそんな注意何回かされたっけ」

 

「何十回としたわ。実戦で必要な判断を出来るようにするには、まずそれを頭に入れた上で練習で身に染み込ませるしかない。貴女は貴女なりに指摘を受けて、少しずつ必要なプレーが出来る様になっていった。あの紅白戦がその証拠よ」

 

「んと……平たく言うとわたしは東雲に認められるくらいには守れるようになったぞー! ってこと?」

 

「……まあ、平たく言えばそうね」

 

「この照れ屋さんめー!」

 

「……有原さん。やっぱり明日のオーダー……」

 

「わー!? ちょっとちょっとー!」

 

 調子に乗った新田が東雲の頬を突っつくと額に怒りマークを浮かべた東雲が有原にオーダーの変更を提案しようとし、それを新田が必死に止めようとしていた。そんな様を横目に一連の会話を聞いていた逢坂は紅白戦での後逸を思い出しながらぽつりと言葉を漏らした。

 

「……そっか。そうだよね。目立つって……そういうことだよね」

 

 前日の出来事を思い出し終えた逢坂は顔を上げるとグラウンド上で交錯するように上げられる2アウトのコールに合わせるようにベンチから声援を送っていた。するとある人物と目が合い、逢坂は気まずそうな表情を見せた。

 

「2アウトランナー三塁となり、4番として打席に向かうのはみよちゃ……大咲みよ! 初回から迎えた山場、どんなバッティングを見せてくれるのでしょうか!?」

 

(逢坂ここ……)

 

(う……大黒谷。怒ってる……?)

 

(ふん……)

 

 ネクストサークルから打席へと向かってくる際に逢坂と目が合った大咲はそっぽを向くように視線を逸らすと右打席に入っていった。

 

(アンタが出てこないなら、それでもいい。その代わり……この球場(舞台)をアタシの独壇場にしてやるわ!)

 

 キッ、と睨むように東雲へと視線を向けた大咲はバットを構えるとその様子を後ろから鈴木が分析するように窺っていた。

 

(確かに逢坂さんと構えが似ているわ。ただこのバッターは内外や高低で苦手なコースが分かってない。注意すべきは小柄な身体に似合わずホームランを打てるほどの長打力があること。ここは厳しく攻めるべき場面だわ)

 

(内外野定位置で勝負……。浅い当たりでも1点の場面。初回から失点して流れを持っていかせるわけにはいかないわ。打たせない……!)

 

 セットポジションに入った東雲はリードを取るランナーが視界に入りながらも目の前のバッターへの集中を優先して高めていくとボールを投じた。

 

「ボール!」

 

(打てないスピードじゃない……。際どいボールを振らされなければチャンスは来る!)

 

(見られた……。確かにこれは外れすぎね)

 

 インコース真ん中に投じられたストレートが大きく内に外れ、2球目。アウトコース真ん中に投じられたストレートだったが、これも大咲は見送った。

 

「……ストライク!」

 

(また見た? 狙いは何……?)

 

(今のは外の際どいところに来た……。こういうのは追い込まれるまでは手を出さない! 甘く入ったボールを一撃で仕留める!)

 

 バットを振ってこない大咲を怪訝そうに見つめる東雲にここでカーブのサインが送られる。そのサインを受けた東雲は握りを変えながら、ストライクゾーンをホームベース上に映し出すようにイメージしていた。

 

(私は変化球のコントロールはまだまだ……。ここまでストレートは見られているし、もしかすると変化球に狙いを絞られているのかもしれない。となれば浮かないようにしないと……)

 

 映し出されたストライクゾーンのインコース低め、真ん中低め、アウトコース低めの列を強く意識した東雲が投球姿勢に入ってボールを投じた。

 

(……! 低すぎる……! プロテクターで……いや、慌てず……!)

 

「ボール!」

 

(走れるか? ……!)

 

 三塁ランナーが大咲が伸ばした手の静止を受けてスタートを自重するとワンバウンドしたカーブはミットの中に収められていた。

 

(助かるわ……。半年前までは変化球自体捕れなかったけど、今の貴女はキャッチャーとして頼もしいわよ)

 

 2ボール1ストライクとなり後逸での失点を免れた鈴木は高鳴っていく心臓の鼓動を落ち着かせながらリードを組み立て直すと次のサインを送った。

 

(三塁には駿足のキャプテンがいるのよ。ワンバウンドしたカーブは怖すぎでしょ。ストレート甘く来たらもらう!)

 

 サインを受けた東雲が頷くと4球目が投じられた。コースはアウトコース真ん中。

 

(甘い! もらった! ……!)

 

(そのまま引っ掛けて……!)

 

(曲がった!?)

 

 中に寄った軌道のボールに絶好球と判断して踏み込んだ大咲がバットを振り出すと僅かな変化を感じ取り、手首を返さずにそのままバットを振り切った。するとバットの先で流されて打ち上げられた打球は大きくスライスして逸れていき、ファールスタンドへと入っていく。

 

(このピッチャー、スライダーが投げられたのね……)

 

(今のは手首を返していれば平凡な外野フライ……今ので仕留められなかったのは痛いわね。けど追い込んだ……)

 

 今まで投じられた球種がストレートとカーブのみだったことから想定外の変化に大咲は驚いていた。打球がファールになる間に一旦打席から離れた大咲は少しだけ時間を使ってから打席に入り直す。

 

(追い込まれたから際どいコースはカットね……。けど狙いは同じ。カーブもスライダーも変化が大きいわけじゃない。甘いところにきたら打ってみせる!)

 

 そして5球目となるストレートがインハイの際どいコースに投じられると大咲はバットを振り切らずに軽く当てるようにし、打球はバックネットへと突き刺さった。

 

(今のは打ちにいったら多分詰まらされたわね……。ちょっと窮屈な振りになったし、当てるのでやっとだった)

 

(今のも対応されるのね……。このバッター、焦りを感じない。場慣れしているとでも言うのかしら……)

 

 6球目として投じられたのはカーブ。今度は外に大きく外れ、大咲もバットを出さずに見送ってボールとなる。

 

「これで3ボール2ストライク、フルカウントになりました! 次が勝負の一球となるでしょうか!」

 

「カーブか……。あれは他の球種より遅くて変化量が多い分、コントロールが予想以上につけづらいのよね」

 

(倉敷先輩……?)

 

 倉敷が零した言葉に野崎が不思議そうに見つめる中、バッテリーのサイン交換が終わり7球目が投じられた。

 

(プレッシャーかかった場面でここまで2球も大きく外れてるカーブは無い。ストレートかスライダー……)

 

 アウトコース低めに投じられたボールの正体を探る中、大咲はストレートのタイミングで踏み込むと、バットを振り出した。

 

(……スライダー!?)

 

 そして外のボールゾーンへと変化していくスライダーに反応してとっさにバットが止められると球審からボールのコールが上がった。すると鈴木からのスイングの主張を受けて、一塁審判に確認が行われると判定が上げられた。

 

「ノースイング!」

 

(振らせられなかった……!)

 

「あっと! 判定は覆らず! 里ヶ浜、フォアボールで塁上にランナーを増やす結果になりました!」

 

(ふん……フォアボールか。打てるなら打ってやりたかったけど……ふふっ)

 

「タイム!」

 

「なっ……?」

 

 一塁まで歩いた大咲はここで攻撃のタイムを要請すると呼び寄せた伝令に小声で何かを伝えた。その伝令は三塁ランナーにいるキャプテンに伝言を伝えていく。その様子を近くで見た阿佐田は顎に手を当てて相手の狙いを探っていた。

 

(……ちょっと待つのだ。確か……そう、あおい達との練習試合。アウトカウントは違ったけど、あおい達も初回の一塁三塁の場面でタイムを取ったのだ。あの時は一塁ランナーのともっちを二塁に進めるために、三塁ランナーのこむぎんにスタートを切ってもらうフリをしてもらうことでディレードスチールを匂わせたのだ)

 

 やがて伝令がベンチへと帰っていきタイムが終えられると、5番バッターが左打席へと入っていきプレーが再開される。

 

(……あるいは本当にディレードスチールを仕掛けてくる可能性はあるのだ。2アウトということは一塁ランナーをアウトにすれば3アウトでチェンジ。その分三塁ランナーのホーム突入への警戒が弱くなるからなのだ。……!)

 

 阿佐田が頭の中を整理しているとボールを持っていた東雲が一塁ランナーの大咲のリードに目をやっており、その視線に促されるように阿佐田もそれに気がついた。

 

(リードがめっちゃ大きいのだ!?)

 

 一塁ランナーの大咲は不敵に笑いながらリードを大きく取っており、阿佐田は自分の中にある確信を深めていった。

 

(これみよがしなのだ……。勝負師の勘、なのだ。明條は必ずここで何かをしかけてくるのだ!)

 

(……もし一塁ランナーがスタートし、鈴木さんが二塁へと送球して三塁ランナーがスタートするとして、こちらの対応策としてはカットマンを配置すること。セカンドがボールを受け取る前にショートがベースの前で構えておくことで、走った三塁ランナーを刺すことが出来る。ただショートは新田さん……基礎が固まったとはいえ、このプレーは簡単じゃない。ならこちらもそれを簡単にやらせるわけにはいかないわ)

 

(確かにこのリードは大きすぎる……。もしかすると牽制でアウトを取れるかもしれないくらいには。……一球、試してみましょう)

 

 鈴木から牽制のサインが出されるとそれに頷いた東雲はすぐには牽制を行わずにセットポジションに入ってボールを長く持った。そして相手の虚を突くようにプレートに軸足となる右足をつけたまま、軸足のかかとを上げると同時に身体を回転し始め、左足で地面を蹴ろうとした、瞬間だった。

 

「しのくも! こっちなのだ!」

 

「え……!?」

 

 三塁ランナーがスタートを切り、阿佐田は珍しく大声を上げた。そして……それに驚いた東雲の足が、止まった。

 

「あ……」

 

 阿佐田の口から吐息のような小さな声が漏れる。そして、その僅か1秒後。球審が声を上げた。

 

「ボーク!」

 

「こ、これは……牽制動作を途中で中断してしまいました! 全ランナーにボークによる安全進塁権が与えられます!」

 

(し、しまった……!)

 

 東雲の背筋に冷たい感覚が走る中、一塁ランナーの大咲はしてやったりという顔を浮かべながら二塁に、三塁ランナーはホームへと進んでいった。

 

「ホームイン!」

 

(……みよ。確かに“この作戦”を使うかもしれないというのは聞いていたし、練習もした。けど……それは先発が私達との試合で投げてきた左投手(サウスポー)だと予想していたから。……もしかして、少し焦っている?)

 

 対してキャプテンは得点への喜びと大咲への僅かな不安が混じりながらホームを踏むと、後で話をすることを心に決めてベンチへと帰っていった。

 

「これは……フォースボーク……!?」

 

「え? え? ゆかちゃん、何が起こったの? かきーん! って打ってないのに点入っちゃったよ!」

 

「今のはボークっていって……えっと、説明難しいんだけど。ボークはピッチャーの反則行為のことね。今の場合だとプレートを外さないで一塁に投げようとしたよね?」

 

「うん」

 

「二塁に投げる時は例外なんだけど、プレートを外さないで一塁や三塁に投げる場合は偽投……投げるフリはしちゃダメなんだ」

 

「それがボークっていう反則に取られたってこと?」

 

「そうそう。ボークに取られるとさっきアナウンサーも言ってたけど、全ランナーが一個ずつ進めるんだよね。それで三塁ランナーが一個進んだから点が入っちゃったんだねー」

 

「うえー……運が悪いね」

 

「……いや、わざとだよ」

 

「えっ?」

 

「プレート外さずに一塁に投げる時は必ずそのまま投げないといけないから、牽制に入った時から三塁ランナーがスタートを切ることで一塁に投げてる間にホームに突っ込んじゃえってのがフォースボークなんだ。今回みたいにピッチャーが途中で牽制を止めちゃっても成功だね」

 

「えー! そんなこと狙ってできるの!?」

 

「うーん。ただトリックプレーの部類で、しかも使われる時は左投手相手に使われることが多いんだ」

 

「なんでー?」

 

「三塁ランナーが背になって見えないし、左投手だとプレート外さずに牽制するのが多いからねー。多分右投手に仕掛けるよりはそっちの方がまだ成功すると思うよ」

 

「ほえー。じゃあよく成功させたねえー」

 

「うん。よっぽど一塁ランナーの人が上手く視線を集めたんだろうね」

 

「なるほどー。ゆかちゃん、よく知ってるねー」

 

「あはは……実はチュリオーズが得点力不足を解消するために一時期多用したのが話題になったから知ってたんだ。苦肉の策って意味合いの方が強いんだけどね」

 

「ふーん。じゃあもしかしたらさー、明條ってところも——」

 

 ゆかり達が話している間に里ヶ浜はここで1回目の守備のタイムを取っていた。阿佐田が青い顔をしてマウンドに集まっていく中、この試合の様子をスタンドから見ていた先の試合の勝者、界皇高校の面々も口々に感想を漏らしていた。

 

「——得点力不足。明條が初回から右投手相手にフォースボークを仕掛けたのは得点力の自信の無さの裏返しなんじゃないか?」

 

「なるほどー。それはあり得るけんねー」

 

「それに今のは一塁ランナーも上手く視線を引きつけたとはいえ、成功したのはピッチャーの経験不足が明るみに出たからなんですけど」

 

「……確かにね。私もみんなの言う通りだと思うわ。今のフォースボークは私も少し強引だった気がする。下位ならともかく、5番バッターだったものね。……ただ」

 

「……? ただ、何ですか?」

 

「明條がこういったトリックプレー……もっと言うなら派手で目立つプレー。そういったプレーを積極的に用いるのは……ある特別な理由があるのよ」

 

「……なんでそんなことをレナさんが……?」

 

「相良相良」

 

「大和田? なんで小声で……」

 

「実は一回戦が終わった後に聞いたんやけど、キャプテンは大咲みよの大ファンらしいけん」

 

「ええ? いや、そんな……本当に?」

 

(ふふ……さて、試合はまだ始まったばかり。これからどんな展開を見せてくれるのかしら。期待してるわ。明條学園……そして里ヶ浜高校にもね)

 

 王者が次の試合の相手を見定めるようにスタンドから見守る明條学園対里ヶ浜高校の試合。里ヶ浜高校にとっては初回からあまりにも予想外の形での失点を喫する波乱の幕開けとなったのだった——。




明條との練習試合を書いてからもうとっくに半年経ってるってことに凄く驚いた。


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思い込みの落とし穴

予定より遅くなり申し訳ない。ようやく完成しました!


「し、しのくも……ごめんなのだ。あおいが大声を出したせいで……」

 

「……謝らないで下さい。私が慌てて初歩的なミスを犯してしまったのがいけなかったんです……」

 

「ちょ、2人とも……」

 

(ふふ……出だしからリスクを負った甲斐があったわね。里ヶ浜は今揺れている……)

 

 初回からボークにより明條に先制点が入り、なおも2アウトランナー二塁の場面、里ヶ浜は守備のタイムを取ってマウンドに集まっていた。大咲は塁上から青い顔をした阿佐田や下を向く東雲や慌てた様子の新田を見て人の悪い笑みを浮かべていた。

 

「ストーップ!」

 

(……!)

 

「翼……」

 

「反省は後で! まだ得点圏にランナーいるよ! 気合いを入れて、ここで切ろう!」

 

「……そうね。私としたことが現状が見えていなかったわ」

 

「うむ……その通りだったのだ。すぅ……はぁ。……よし! あおいパワーチャージ完了なのだ!」

 

(ふん……キャプテンが立て直したか)

 

「その通り! 有原、今良いこと言った! わたしが言いたかったのもそれ!」

 

「新田さん……そういう合いの手はいいから」

 

「河北、冷たっ!?」

 

「あはは……。よーし、抑えるよ!」

 

「ちょっと待って。この5番について再確認しておくわ」

 

 翼のフォローに乗るように合いの手を入れた新田に河北がツッコみ、重く突き刺さるような雰囲気が和らいだところで鈴木からバッターの確認がされるとタイムが終えられようとしていた。

 

「……じゃあアタシのこと信用してないから、フォースボーク仕掛けたわけじゃないってことね」

 

「そうそう。これなら2点目のチャンスも残るじゃない?」

 

「……ん、分かった」

 

 そして里ヶ浜のタイムを利してネクストサークルにいる背番号1をつけた5番バッターにフォローを入れに来ていた明條のキャプテンが散っていく内野陣に気付いてベンチへと戻っていくとバッターが左打席へと入っていき、プレーが再開された。

 

(頼みますよ先輩……)

 

(野手は定位置か……)

 

(追加点を防ぐために……ここは打たせて取りましょう)

 

(誘うのね……分かったわ。高さは気をつけないと……)

 

 鈴木からのサインに頷いた東雲はセットポジションに入ると、リードをじりじりと広げる大咲を鋭い眼光で制してからクイックモーションでボールを投じた。

 

(膝下……もらった!)

 

(……! 守備が……)

 

 ——キィィィン。インコース低めに投じられたストレートが鋭く弾き返され、振り切られたバットが背中側まで回ると、スピードのある打球が低い弾道で一塁線を襲った。

 

(ぎりぎり……! 届いてっ!)

 

(なっ!? 一塁線切れるか切れないかの打球、定位置にいたファーストに捕れるはずは……!)

 

 一塁ベース手前でバウンドした打球が一塁ベースを抜けたところで翼が横っ飛びで飛び込み、ミットが伸ばされる。すると次の瞬間、翼の身体が宙に浮いた姿勢のままファールゾーンに叩きつけられた。

 

「フェア!」

 

「一塁に! 落ち着いて!」

 

(捕られた……!?)

 

 ミットの先で捕球されたボールを見てバッターランナーは目を見開くと一塁ベースを駆け抜けようと必死に足を動かしていた。対して翼は崩れた姿勢から低い姿勢へと体勢を整えると、身体を反転させて一塁ベースに向かって送球の構えを取った。

 

(一塁に近い左バッターとはいえ打球が鋭かった分、間に合うわ! ……!?)

 

「翼っ!」

 

(ともっち!?)

 

 ベースカバーに向かっていた東雲に合わせるように送球しようとした翼の目に一心不乱にカバーに走る河北の姿が映り、一瞬迷いが生じて送球が僅かに遅れた。

 

(間に合えっ!)

 

(危ない……!)

 

 東雲が急ブレーキをかけてマウンド方向へ離れるようにジャンプすると送球は一塁ベース手前で河北が受け取り、その後河北がベースを踏むとランナーもベースを駆け抜けた。

 

「……アウト!」

 

「間一髪アウトです! 里ヶ浜、ここは最小失点で踏ん張りました!」

 

(ふう……思ったよりギリギリのプレーになってしまったわね。……えっ)

 

「アウトか……」

 

 3アウト目の成立に鈴木が安堵の吐息を漏らしていると一塁側に意識を向けていた鈴木は三塁ベースを回っていた大咲が足を止めるのに気づき、その目を丸くしていた。

 

(……危なかった。2アウトで迷わずスタートが切れたこともあって、ホームを突こうとしていたのね。今の打球でバッターランナーがセーフになるのはこちらのプレーがごたついた時だった……油断大敵ね)

 

 そうして気を引き締め直した鈴木はベンチへと戻っていく大咲から目を離すと里ヶ浜ベンチへと身体を向けた。すると近藤の姿が目に入る。

 

(近藤さんが練習試合で感じたことを詳細に纏めたノートを作ってくれて、本当に助かったわ。今のバッターがあの試合で放った打球はいずれも右方向への鋭い打球だった……。恵まれた体軀(たいく)を生かして多少強引でも踏み込んで引っ張るプルヒッターだという情報があったから、東雲さんが投球モーションに入ってから守備を右にシフトさせる強気な作戦が取れたわ)

 

 練習試合でキャッチャーとして近藤が感じたデータによってリードのしやすさを感じていた鈴木がそのことを思い出しながら歩いていると、彼女の後ろを追いかけるように他の内野陣もベンチに戻っていた。

 

「ともっち」

 

「なーに?」

 

「あのさ……緊張してる?」

 

「えっ!? な、なんで……?」

 

「いつものともっちに比べて……周りが見えてなかったから、かな。東雲さんの方が少しだけ早くカバーに入れそうだったし、避けてくれなかったらぶつかってたと思うよ」

 

「そうだったの……!?」

 

「……そうよ」

 

(……私から言おうと思っていたのだけれど、貴女から言うのね。確かに今のプレーは視野が狭くなっていたわ。おかげで有原さんの送球タイミングが遅れて、あわやセーフになっていた……)

 

「ご、ごめん……ベースを踏む前にボールをしっかり捕ることばっかり意識がいって、東雲さんのこと確かに抜け落ちてたかも……」

 

「一緒に深呼吸しよう! すー……はぁ」

 

「すー……はぁ」

 

「あ! わたしも一応やっとこうかなー」

 

(それで緊張が解けるといいけれど。……どうやら河北さんと、新田さん……そして宇喜多さん。今大会初スタメンに抜擢された独特の緊張があるみたいね。……新田さんはいまいち緊張感があるのか分からないけど)

 

 東雲は深呼吸しながら歩く3人を横目に外野で靴紐を踏んで転び永井に引き上げられる宇喜多を視界に捉えると僅かな不安を抱いてベンチへと足を踏み入れるのだった。

 

「ゆかちゃんゆかちゃん」

 

「ほいほい。なにかね?」

 

「さっきあのファーストの人がボール捕ってたけど、空中で捕ってそのまま外出ちゃったらファールってやつにならないの?」

 

「あー、ならないよ。ついでに言うと捕った時の身体の位置は全然関係ないね」

 

「へー。外で足ついててもファールじゃないの?」

 

「じゃない……かはボールの位置が大事だね。んと、一塁と三塁ベースを越えてフェアゾーンでバウンドしたらそっからはファールじゃないのは分かるよね」

 

「うん」

 

「じゃあベース越えてファールゾーンでバウンドしたらファールなのはいいとして、今みたいに空中で捕った時は触れた瞬間のボールの位置がフェアゾーンかファールゾーンにあるかなんだ」

 

「そうなんだ!」

 

(今のプレー……守備全体が右方向に動いてたから捕れたってするには打球が切れるか切れないか、本当にギリギリの位置すぎた。……やっぱあるのかな。残酷な……才能の差、ってやつがさ)

 

 明條の投球練習が終えられ1回の裏の里ヶ浜の攻撃が始まろうとする様子がテレビに映し出されてアナウンサーの実況が聞こえてくる中、ゆかりの脳裏には姉と比較されるようにかけられた言葉が反芻するように響くのだった。

 

「まず上手いこと先制出来たからさ。ここはエースとしてビシッと抑えて頂戴ね!」

 

「プレッシャーかけるわね」

 

「そっちの方が好きでしょ?」

 

「分かってるじゃない。腑抜けたリードしたら、許さないから」

 

「望むところ!」

 

 投球練習の後マウンドに発破をかけにいったキャッチャーが先ほどの打席を引きずった様子のないエースを見て安心すると、キャッチャーボックスへと戻っていき、1番バッターが右打席へと入っていった。

 

「よろしく頼むのだ」

 

(高波との試合では2番に入っていた阿佐田が今日は1番か……。よく出塁してたし、ネクストにいる九十九も進塁打を打つ技術に信頼があるから入れ替えたってところかな)

 

 地面をならす阿佐田を見ながら打順が入れ替わった理由を考察するキャッチャーに対して阿佐田の方は左拳に息を吐き出しながらさりげなくサードの守備位置を確認すると、バットが構えられてプレーが開始された。

 

(初球はコースは甘くなってもいい。まず大雑把に低めを狙ってストライク先行で行きましょう)

 

(分かった)

 

 そしてサインの交換が終えられると投球姿勢に入ったエースは狭いステップ幅で足を踏み込み、オーバースローの投球フォームから左腕が振り切られ、投げ下ろされたストレートがホームへと向かっていく。

 

(……! バント! セーフティか!)

 

(奇策には奇襲で返してやるのだ……! ……ぬっ!?)

 

 低めに投じられたストレートにバットが合わせられると阿佐田はバットから伝わった感触に違和感を覚えながら走り出した。

 

「任せて!」

 

(あおいはサードの前を狙ったはずだ。だが……)

 

 大きく跳ねた打球が落ちてきたところをマスクを脱ぎ捨てたキャッチャーが捕球すると一塁へと送球が行われた。

 

「アウト!」

 

(くっ……やられたのだ。想像以上に角度のあるストレートにバットが上に入りすぎてしまったのだ……)

 

「ね、狙いは良かったと思いますよ!」

 

「はせまり……」

 

 先ほどの守備を挽回しようとセーフティバントを仕掛けた阿佐田だったが、狙い通りのバントが出来ずにアウトに取られる。そんな彼女の心情を察した初瀬は一塁コーチャーボックスから声をかけていた。

 

「……サードはセーフティに無警戒だった。悪くない手だったでしょ」

 

「まいちん……」

 

 そしてベンチに帰っていく時に三塁コーチャーボックスから倉敷に声をかけられた阿佐田は顔を上げてベンチへと入っていった。

 

(2人の言う通りなのだ……。仕掛けは必ずしも良い方向に転がるとは限らない。けどそこで気持ちが折れたら勝負師の名折れなのだ!)

 

 バットとヘルメットをしまった阿佐田が切り替えてグラウンドに声援を送ると、膝下のストレートを見送った九十九は続けて投じられた膝下のストレートも見送っていた。

 

「……ボール!」

 

「今度は低めに外れました! これで1ボール1ストライクです!」

 

(あおいは早仕掛けのバッティングスタイルだ……。だがその積極的な姿勢が出塁率に繋がるのは紅白戦でも証明されている。その分私は2番ではあるが、まずやるべきことは今までのように今日のピッチャーの状態を見極めることだ)

 

 キャッチャーからボールが投げ返されるとピッチャーが投球姿勢に入り、足を踏み込んだ。

 

(あの短いステップ幅、そしてオーバースロー……このピッチャーの特徴として無視できないのが、リリースポイントの高さだ。ただでさえ長身の彼女が短いステップによって身体を沈み込ませることなく、かつ真上から投げ下ろすように投げてくる……! ……!)

 

 そしてボールが投じられるとすっぽ抜けたような遅い球速で弧を描いて曲がって膝下に収まり、九十九はそれが上から降ってきたように感じられていた。

 

「……ボール!」

 

(うっ。入ってないか……)

 

(ストレートの角度もきついが、このスローカーブ……球速差以上に変化の角度が厳しい。これは左バッターに打たせるのは酷だ……対左投手のオーダーを組んでまで対策するのも納得だね)

 

(今日のスローカーブは良く曲がってる。ただ……そのせいでちょっとコントロールに苦しんでるみたいね。なら……)

 

(このピッチャーの決め球はアウトローへのスローカーブとインコースへ厳しく投じるクロスファイヤー……。だがカウントは2ボール1ストライク。バッティングカウントで私が狙うべきは……)

 

 4球目が投じられるとアウトローへとスピードのあるボールが向かっていった。すると九十九はこのボールに対して踏み込んでバットを振り出していた。

 

(内に比べて外へのストレートのコントロールはそれなり、後はこの高低の角度についていければ……!)

 

(ついてきた……! けど……)

 

 そして振り出されたバットの先でボールが捉えられると、すくうように弾き返されたフライ性の打球は内野の頭を越えていき、センターがこの打球を取ろうと前方へと走り出す。

 

(今のは低くはあったがコースは比較的甘かった。それなのに芯を外した……!?)

 

「アウト!」

 

(そうか……。今のはシュート。シュート自体一般的に大きく変化する球種ではないが、この手応えは本当に変化が微量みたいだ。恐らく確実に外へ寄らせるための保険のようなものか……)

 

 センター前に落ちようかという打球だったが九十九の狙いより滞空時間が伸びたことが仇となり、センターがこの打球を走りながら追いつく形で捕球していた。

 

(現時点でのピッチャーの調子は内は厳しく、低めにはほどほどに突いてくるが、外は甘くなる可能性あり。ただしシュート変化に気をつけるべきといったところか。スローカーブはまだ1球しか投げていないから、判断が難しいな)

 

 ネクストサークルにいる翼に九十九が情報を伝えていくと、入れ替わるようにして3番バッターの翼が右打席へと入っていった。

 

(スローカーブかあ。普通のカーブより遅い分、曲がりが大きいから、コントロールがつけにくいんだっけ。もし今日コントロールの調子悪いとかだったら、速球にタイミング合わせられるんだけどなー。……!)

 

 そんな翼に投じられた初球はインコース真ん中へのストレート。内に厳しく投げられたボールに翼はバットを出せずに見送った。

 

「……ストライク!」

 

(うっ! 厳しい……。これは簡単には打てないよ。せめて待ってないと……)

 

(……今の……。なにか違ったような)

 

 初瀬が今の投球を見て僅かに違和感を覚える中、続けて投じられたシュートは外に大きく外れて1ボール1ストライクとなった。

 

(球速は夕姫ちゃんの方が少し速い……。けど夕姫ちゃんはスリークォーターで身長も多分あのピッチャーの方が高い。だから上から下への角度は夕姫ちゃんより凄い……!)

 

 そして3球目となるボールが投じられると真ん中からインコース低めへとスローカーブが変化していく。

 

(なんとか溜めるんだ……!)

 

(ふふ……そうやって何人もタイミングを合わせようとしてきたよ。けど大体結果は……)

 

「ファール!」

 

 上体を残そうとする翼だったが崩されてこのスローカーブを前で捌いてしまい、芯の上を叩いて放たれたゴロは里ヶ浜ベンチ横にあるフェンスへと衝突してファールとなる。勢いよく跳ね返るボールを見て、エースは顔つきこそ平然を装っていたが内心ではその鋭い当たりに驚いていた。

 

(……今の少し中に入ったとはいえ、タイミング的に空振りしてもおかしくなかった。さすがにクリーンナップだけあって一筋縄ではいかないみたいね)

 

(うー。追い込まれちゃった。何で来るかな……?)

 

 1ボール2ストライクとなりセンターから逆方向に意識を向けてバットを構え直そうとした翼だったが、1球目に投じられた内への厳しいストレートを思い出し、悩んだ末にバットが構えられた。そんな翼を見上げたキャッチャーからサインが送られると、4球目となるボールが投じられた。

 

(……!? す、スローカーブ……!)

 

(よし! 体勢を崩した! コントロールも良いとこ……!)

 

 ボールゾーンからアウトローのストライクゾーンへと変化していくスローカーブに翼は沈んだ左足に力を込めて踏ん張り、ぐらついた体勢のままバットを振り切った。

 

(……! あんな体勢から合わせた!? なんてバットコントロール……)

 

(へえ、やるじゃない。でも残念。打球が低い!)

 

「はっ!」

 

 放たれた打球はショート横へのライナー。この打球に素早く反応した大咲は跳びながらミットのポケットで捕球すると華麗に着地してミットを掲げた。

 

「アウト!」

 

(うっ! やられたぁ……!)

 

「あっと。当たりは鋭かったですがこれはみよ……選手の守備範囲内! 明條、初回に先制点を奪い裏の攻撃を三者凡退に抑えました!」

 

(やはり点の取られた方が良くなかったわね。ここは守備でリズムを作って攻撃に繋げるしかないわ)

 

 そんな大咲のプレーを見届けてネクストサークルから立ち上がった東雲はベンチへと戻り準備を終えると投手として2回の表のマウンドへと上がっていった。

 

「ストライク!」

 

(良い感じで力みが抜けている……。どうやら上手く切り替えられたようね)

 

 右打席へと入った6番バッターへの初球が低めに際どく決まり、鈴木は受け止めたボールから東雲から初先発の力みが取れたことを感じ取っていた。それを裏付けるように2球目としてアウトローに投げた低めに外したスライダーをバッターが引っ掛けてセカンドゴロで打ち取ると、続くバッターは2ボール2ストライクからのカーブをすくいあげるように打ち上げてセンターフライで打ち取られていた。

 

(先発がサウスポーじゃないのは私に取っては朗報かな……っと!)

 

(なっ!)

 

 しかし左打席に入った8番バッターに1ボール0ストライクから投じたアウトローのストレートを打ち返されて三遊間をライナーで抜かれ、これがレフト前ヒットとなり明條に2アウトからランナーを出される。

 

(対右投手の打率買われて元々2番打たせてもらってたんでね。今のはちょっと浮いてたし、逃さないよ)

 

(こちらも三者凡退といきたかったけどそうはいかないようね……)

 

 三者凡退を逃した代わりに右打席へと入った9番バッターをスムーズに打ち取りたい里ヶ浜バッテリーだったが、3球で1ボール2ストライクと追い込むものの変化球のコントロールが乱れフルカウントとなってしまう。

 

(クイックに入ると変化球のコントロールが乱れ気味ね)

 

(ストレート狙いのサイン……。分かりました!)

 

 そして東雲がクイックモーションに入った瞬間に一塁ランナーがスタートする中、膝下の大雑把なコースに投じられたストレートが打ち返された。

 

「ほっ!」

 

「アウト!」

 

 この打球に判断よく一歩目を踏み出した阿佐田が三塁ベース側に足を動かすと上に向かってジャンプを行い、自身の頭上を越えようかという打球を捕ったことで3アウト目が成立していた。

 

「一気に追加点とはいかなかったけんねー。里ヶ浜、守備は良かと」

 

「ピッチャーもなんとか低めには集めてるからな。単打は出ても長打は簡単には出なさそう」

 

「……どうやら里ヶ浜もそれは同じみたいなんですけど」

 

 その裏の里ヶ浜の攻撃。4番に入った東雲がフルカウントまで粘り、6球目。インコース真ん中の厳しいコースへと投じられたクロスファイヤーに差し込まれ気味に振り出されたバットは芯より内側でボールを捉えると、左中間方向へのレフトフライとなり1アウト。続く永井が初球からアウトコース低め中寄りに入ったストレートを打ち上げ大きな当たりのセンターフライに打ち取られ、6番として打席に入った新田が1ボール1ストライクから投じられたクロスファイヤーを空振り、4球目として投じられたアウトローへのスローカーブにバットが止まり見送り三振に取られ、3アウトチェンジとなった。

 

「私たちと清城の試合でもそうだったけど、こういう試合展開になった場合キーになるのは……“次の1点”。これがどちらに入るかで流れは大きく変わるわ」

 

 互いに2回は無得点で終わり、スタンドから見守るレナがそう呟く中、この回の先頭バッターである明條のキャプテンが右打席へと入っていった。

 

「……ストライク!」

 

(カーブが良いとこ決まったか……)

 

 真ん中からアウトコース低めへと曲がったカーブが低めギリギリに決まり0ボール1ストライク。ここで東雲はワインドアップポジションではなく、クイックモーションからボールを投じた。

 

(……! 速い!?)

 

 インコース真ん中に投じられたストレートに差し込まれたバッターの打球が打ち上がると、鈴木はマスクを外しながら後方に2歩下がり、落ちてきたボールをキャッチしにいった。

 

「アウト!」

 

(タイミングを外すためのクイックモーションか……!)

 

 想定より差し込まれてしまった原因に気づいたバッターは一杯食わされたといった表情でベンチへと戻っていくと、2番バッターが右打席へと入っていく。すると彼女の取った構えに東雲は怪訝な表情を浮かべた。

 

(バント? ランナーはいない……予告セーフティ? そんなことはないと思うけど……)

 

(前の練習試合では極端な守備シフトを取ったところをプッシュバントで抜いている……ここは気にせずバッター勝負でいきましょう)

 

(みよちゃん……特訓の成果、出してくるよ!)

 

(バントの技術があるあの子が夏大会でベンチ外れて、新チームで最初8番を打ってたのは単純に打率が低いから……。違うか。低かったから、ね)

 

(バットを引いてきた……! これはバスター打法!)

 

 バントの構えを取ったバッターは東雲が投球モーションに入るのに合わせるようにバットを引いてヒッティングの構えに切り替えた。

 

(バスターは引く動作の分振り遅れやすいから、ボールに対して最短距離で叩くコンパクトなスイングが求められる。だからこそ普通に振るとトップの位置がぶれたり、身体が前に突っ込んだりしてたあの子にとって一番必要な技術だった)

 

(スライダー!)

 

(……! タイミングが合っている……!)

 

 真ん中低めからアウトコース低めへと変化していくスライダーに対し、バッターは構えからトップの位置までバットを引いてきた軌道を辿るようにしてスイングを行った。するとグラウンドに金属音が響き渡り、打球は東雲の頭上をライナーで越えてそのまま二遊間を抜けていき、永井がこのボールを収めてセンター前ヒットとなった。

 

「やった……! やったよみよちゃん……!」

 

「ナイバッチ! 練習通りに出来てたわよ!」

 

(そしてバスターを身につけたからこそ……あの子のバントはもっと輝けるのよ。けどその前にこの回で……!)

 

 3番バッターが右打席へと入っていくと嬉しそうな友人を見て穏やかに笑っていた大咲は表情を引き締め直してネクストサークルへと向かっていった。

 

(ここは上手く低めのスライダーを引っ掛けさせて、ダブルプレーを狙いたいわ)

 

(変化球からね……)

 

 そしてこのバッターに投じた初球はスライダー。これがインコース低めから真ん中低めへと変化していくと鈴木は想定より低めに外れたスライダーをミットを上に向ける形で捕球していた。

 

「ボール!」

 

(本当だ。キャプテンの言った通り、クイックだと変化球のコントロールが荒れ気味だ……となれば初回の攻めを考えれば)

 

 続く2球目が投じられると、ボールはインコース低めへと向かっていく。

 

(少し中に入った……!)

 

(内のストレートで来る! 同じようなボールで続けて打ち取られてたまるかっ!)

 

 ——キィン。膝下のボールに振り出されたバットが身体より後ろのポイントでボールを押し出すように振り切られると、打球はライト方向への浅いフライとなって放たれた。この打球を河北は見上げるようにして下がりながら追いかけ、宇喜多は前進しながら近づいていく。

 

(……落ちる!)

 

(この打球、やはり詰まっている! 宇喜多さんのところまでは届かない……!)

 

「セカンド!」

 

「……! 捕りにいくから、フォローお願い!」

 

「う、うん!」

 

 一塁ランナーがスタートを切る中、鈴木の判断で指示が飛ばされると打球が落ちてきたところで河北が飛びついてダイビングキャッチを試みた。

 

「うっ!」

 

 しかし伸ばしたミットからボール2つ分先に打球がバウンドすると、高くバウンドしたボールが落ちてきたところでカバーに入っていた宇喜多がこのボールを収めた。

 

(えと、三塁は……間に合わなさそう……)

 

 そしてボールが新田に戻されると判断よくスタートを切っていた一塁ランナーは三塁手前まで来ており、新田は三塁への送球を諦めて一塁ベースを踏んでいるバッターランナーをちらっと見てから東雲へとボールを戻した。

 

「くそう……! あともう少しで届いたのに……!」

 

「惜しかったよともっち!」

 

「うう……次は捕るよ!」

 

「1アウトランナー一塁三塁! チャンスを広げました! そして続くバッターは4番、大咲みよ! 明條、追加点のチャンスです!」

 

(打つ……!)

 

(大丈夫かな、みよちゃん。さっき初回の攻撃が終わった時にキャプテンから焦ってないかって聞かれてたけど……。みよちゃんは平気だって言ってた。でもキャプテンの勘の方が正しいんだったら……原因は多分、練習試合の時に負けたくないって言ってた……あの人だ)

 

 三塁ランナーはベースを踏みながら振り返って里ヶ浜ベンチの方に目をやると初回からグラウンドとの境になる柵に身を乗り出しながら声援を送っている逢坂の姿を捉えていた。

 

(無理もないよね……。だってみよちゃん、大会の組み合わせを見た時からリベンジ出来るかもって凄く楽しみにしてたもん……)

 

 三塁ランナーは視線をグラウンドに戻すとキッ、と睨むように東雲を見つめる大咲の表情がどこか無理をしているように感じられた。そんな大咲を見て出そうになった言葉を慌てて閉じるように唇を噛み締めた彼女はランナーとしてリードを広げていくと大咲と似たような目つきでボールを持つ東雲を見つめるのだった。

 

「里ヶ浜は中間守備を取りました! さぁ、この判断が吉と出るか凶と出るか!」

 

(初回のように歩かせては大量失点の恐れもある……。とはいえここは追加点を取らせるわけにはいかないわ。抑えてみせる……!)

 

(初球は……膝下の際どいコースを狙って!)

 

 そして東雲がセットポジションに入ると、里ヶ浜守備陣の脳裏には先ほどの一塁三塁の場面で仕掛けられたフォースボークが頭によぎった。

 

(……一塁ランナーはそれなりにリードを取っているわ。牽制をすべきかしら……?)

 

(この際、一塁ランナーは無視ね。気にしすぎても相手のペースにハマるだけよ。バッター勝負でいきましょう!)

 

(……! 分かったわ)

 

 胸を叩くような動作を見せてからキャッチャーミットを構えた鈴木を見て東雲は一塁ランナーを意識から消すとクイックモーションへと入り、ボールを投じた。インコース低めに投じられストレートは厳しいコースに決まり、大咲は振り出そうとしたバットを止めてこれを見送った。

 

「……ボール!」

 

「良いコース来てるわよ!」

 

(惜しい……少しだけ内に外れたかしら。けど、厳しいコースを攻めれている。このボールは生かせる!)

 

(良いストレート投げてくんじゃない。けど振り負けてたまるもんですか……!)

 

 続く2球目も膝下に投じられると大咲は振り負けないようボールを前で捌いた。すると引っ張られた打球はフェアゾーンから大きく逸れて転がっていき、ファールとなった。

 

(しまった。スライダー……! 振らされてカウントを稼がれた……!)

 

(今のはちょっとみよちゃんらしくないな。このスライダーは低めに外れてたよ……)

 

 そして3球目が投じられると今度はアウトローへのスライダー。これは外のボールゾーンからさらに外へと変化していく形となり、大咲もこれはバットを出さずに見送ってボールとなった。

 

(これで2ボール1ストライク。……入れにきなさい!)

 

(東雲さん。ここは強気に行くわよ。たとえ外れててもボールの力で振らせましょう)

 

(スライダー2球で布石は打ったわ。……思い切って狙う!)

 

 4球目が投じられるとコースはインコースの高め。際どいコースを狙って投じられたストレートは僅かに高めに外れていたが、大咲はバットを振り出しており、下を擦ったような打球はそのままバックネットへと突き刺さった。

 

「ファール!」

 

(くっ! ここでストレートか……)

 

(今のは……仕方ないかな。手を出したくなるような高さだったし)

 

「里ヶ浜バッテリー、追い込みました! カウントは2ボール2ストライク。バッテリーとしてはフルカウントにはあまりしたくない場面。次が勝負の一球となるでしょうか!?」

 

(キャプテンにはフリーのサイン受けてるけど……追い込まれたんだ。仕方ないからここは犠牲フライで良い。最悪なのは内野ゴロでゲッツーに取られること。ストレートに力があろうと外野までは持っていく!)

 

(……! そのサインは……)

 

 鈴木から出されたサインに東雲は内心驚きながら、考えを巡らせて首を縦に振った。

 

(先ほどからクイックでの変化球が荒れてるのは自分でも分かってるわ。当然鈴木さんもそれは分かっているはず。それでも要求してくれた。……ピッチャーの練習を再開させてから、変化球を打てるようになった秋乃さんや逢坂さんにも投げて、コントロールは私なりに気を付けてきた……)

 

 そんな東雲がボールを握ると三塁ランナーから目を切った彼女はクイックモーションへと入った。

 

(低めを意識しすぎたり、慣れない実戦で考えすぎていたわ。自分がやってきたことを信じて練習通りに……投げ込む!)

 

(……! か、カーブ……!)

 

(よし……! 良いところに来ているわ!)

 

 腕が振り切られると、投じられたボールは弧を描いて大咲から離れるようにアウトローへと曲がっていく。このカーブに大咲は体勢を崩されるとそんな体勢で踏ん張りながら、すくいあげようとバットを振り出した。するとグラウンドに金属音が響き、打球が放たれる。

 

(くそっ。打球が低い……!)

 

 自身の狙いより打球を上げられた感触が無く、一瞬焦りを覚えた大咲だったが、鋭く放たれたライナー性の打球を見てその焦りは消えようとしていた。

 

(球際の打球、捕れるようになるために今まで一杯練習してきた……。大事なのは一歩目!)

 

(……! ともっち……!)

 

 中間守備を取ってセカンドベース寄りに構えていた河北が二遊間方向、セカンド寄りに放たれたライナーに反応すると素早く一歩を踏み出してスピードのある打球へと懸命に飛びついた。

 

「アウト!」

 

(やった……!)

 

(なっ!)

 

(ま、まずい……!)

 

「あっと! みよ選手の打球はセカンドライナーです! そしてこれは……抜けたと思った一塁・三塁ランナーが共に塁を飛び出しています!」

 

「ともっち! 慌てなくて大丈夫! こっちで刺せるよ!」

 

「分かった!」

 

 東雲が一塁ランナーへの警戒を切っていたことでリードを着々と広げていた一塁ランナーは大きく飛び出す形になってしまい、それに気づいた翼が一塁ベースに入りながら河北へと声をかけていた。

 

(気づいて……!)

 

(みよちゃん? …………!)

 

 その声を聞いた河北は慌てて送球するのをやめると崩れた体勢をしっかり立て直し、ブレーキをかけて戻る一塁ランナーを見ながら丁寧に翼の構えたミット目掛けて送球を行った。

 

(ふう。なんとか切り抜けられたわね。……え?)

 

 河北の送球が間違いなく翼のミットへと向かっていることを確認した鈴木はそれに安堵していると三塁ランナーが三塁へと戻らずにホームベースを踏んだことに驚いていた。

 

(抜けたと思ってそのまま突っ込んできたのかしら……?)

 

「アウト!」

 

 そして河北の送球が一塁ランナーの帰塁より余裕を持って早いタイミングで翼のミットに届くと一塁ランナーのアウトが成立していた。

 

「ライナーゲッツーです! 明條、追加点のチャンスを逃しました! 対する里ヶ浜は好守が光りました! 見事なセカンドの好プレーです!」

 

「東雲さん。最後のカーブ良かったわよ」

 

「ありがとう。自分でも良い感触だったわ」

 

「ともっち、ナイスキャッチ! 今のは動き出しが早かったよ」

 

「ありがとう! 今のは自分でも考える前から、足が動いてて……」

 

「それはともっちが、球際の打球を捕れるようになろうと練習を頑張った証拠だよ!」

 

「そう……かな。えへへ……そうだといいな」

 

「やるのだともっち! あおいもうかうかしてられないのだー」

 

「わたしもうかうかしてられないなー」

 

「え? なんで新田さんが?」

 

「ほら、二遊間を組む相棒としてだね……」

 

 そして内野陣もベンチへと足を進めていく。すると急に翼が白線の前で足を止めた。少ししてそれに気づいた他の皆が不思議そうな表情で翼のことを見つめる。

 

「どうしたの?」

 

「えっと……なんか、もやもやしてて……」

 

「もやもや?」

 

「……多分、なんだけど。さっきともっちが打球を捕った時、サードランナーの人もそれを見ていた……ような気がするんだ」

 

「確かに……あのサードランナーは気になったわ。けど、やはり抜けたと思ったんじゃないかしら?」

 

「そうなのかな……?」

 

「どっちにしろあそこまで飛び出してたら戻れないからって割り切りだったんじゃない?」

 

「んー……そう、だったのかな」

 

 皆の言葉を受けて段々と見たものに自信が無くなってきた翼に、頭の上で疑問符を浮かべた新田が話しかけた。

 

「サードランナーって全然気にしなくても良いんじゃない? だってほら、守備練習の時満塁でショートゴロ打たれた時の練習良くしたけどさ、ゲッツー取れればサードランナーをアウトに出来なくても点入らないじゃん?」

 

「確かにそうなんだけど……なにか違くて……」

 

「……違う点があるとすれば、新田さんが言ってるのは進塁義務のあるフォースプレーの話というところかしら」

 

「へ? 今のもフォースアウトってやつじゃないの?」

 

「違うわ。だってライナーで打球を捕ったのだから、進塁の義務はないでしょう?」

 

「そー言われれば、そっか。じゃあ何プレーになるの?」

 

「その場合ランナーに帰塁義務が発生するからアピールプレーになるわ」

 

「そうなんだ。なんか同じだと思ってたよ」

 

「……アピール……プレー……? …………!! そうよ! 今のはアピールプレー……!」

 

「ちょ、急にどしたの? 今のがアピールプレーだってのは東雲が言ったんじゃん」

 

「……! 東雲さん、まさか……」

 

 急に焦ったような表情を浮かべる東雲に新田は困惑していると、鈴木も何かに気づいたように驚きながら話しかけていた。

 

「ええ。有原さん、まだそこを出ないで頂戴」

 

「えっと……うん、分かったよ!」

 

「……? 一体どうしたのでしょうか? 里ヶ浜、3アウト目が成立したのにも関わらず、ベンチへと戻っていません。これは……有原選手がマウンドに置かれたボールを拾いました。何をするつもりでしょうか……?」

 

 アナウンサーもその光景を不思議そうに見守る中、ボールを持った翼は三塁ベースを踏むと、続いて三塁審判に向かって何かを伝える。すると審判が右手で拳を作り肘から先が地面と垂直になるように上げて、アウトのジェスチャーをしていた。

 

「れ、レナさん。一体何が起こっているんですか……?」

 

「……出来たら自分で気づいて欲しかったな」

 

「え?」

 

「明條はね……罠を仕掛けたの」

 

「罠……ですか? どんな……」

 

「爆弾よ。気づかず爆発していれば……明條に“次の1点”が入っていた。そんな爆弾がね」

 

「えっ……!?」

 

 不思議そうにする一年部員にそう告げたレナはベンチへと帰っていく里ヶ浜とスコアボードに3回の表の明條の得点が0と刻まれたのを見て、この試合はますます面白くなりそうだと感じたのだった。



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踏み出した一歩の向き

今回から投稿形式を週に一度、更新できそうな日の午後8時9分に投稿する形へと変更することにしました! 以前の形だと更新きてせっかく開いても完成してないことがあるという辺りが良くないと感じたためこの形式を取ることにしました。事前に伝えられれば良かったんですが、事後報告の形で申し訳ない。

平日よりは休日のほうが時間が取りやすいため、恐らくは休日更新の方が多くなるかと思いますが、今後ともよろしくお願いします!


「ゆ、ゆかちゃん……一体何が起こったの?」

 

「……分かんない」

 

「あっと! 責任審判がマイクを取りました」

 

「失礼します。只今(ただいま)のプレー、一塁に転送されたアウトよりもホームインの方が早かったです。しかし里ヶ浜高校からのアピールがあったため、得点を認めずチェンジと致します」

 

「んー? アピールってなんのこと?」

 

「ホームインの方が早かった……それに得点って言ってるし、多分三塁ランナーがアウトだってアピールしたってこと、かな……?」

 

「えー? でも、それってアウトを4つ取ったってことー? 野球って確かアウトを3つ取ったら交代なんだよね?」

 

「うん……」

 

(そう……三塁ランナーにわざわざ触れなくても、アウトは3つ取ったんだ。後はサササッとベンチに帰ればいい。……目の前で起きたことが……理解、出来ない)

 

「……! 資料、ですか。…………お待たせしました! 只今のプレーの補足ですが——」

 

 3回の表が終了し、里ヶ浜高校の守備陣がベンチに引き上げていく様子をテレビを通して見たゆかりは先ほど目の前で起きた光景に困惑しながら、アナウンサーの説明を静かに聞いていた。

 

「ねえねえ。さっきのあれ、なんだったの? まだよく分かってないんだけど」

 

 時を同じくして里ヶ浜ベンチでは新田が先ほどのプレーの真意について不思議そうに聞いていた。その疑問にベンチの皆の視線が集まる中、東雲が口を開く。

 

「そうね……。新田さん、あなたがもしサードランナーで打球がダイレクトで取られた時に塁から飛び出していたらどうするかしら?」

 

「そりゃー戻るよ。戻らないとアウトになっちゃうじゃん」

 

「その通り。その感覚は間違っていないわ。なら飛び出したサードランナーをアウトにしたい時は?」

 

「簡単じゃーん。三塁に投げればフォースアウト……じゃないんだっけ。アピールアウトってやつに出来るんでしょ?」

 

「そうね。三塁ベースを踏んで、ランナーがアウトであるとアピールする必要がある。これらを踏まえて聞くけれど……飛び出したサードランナーが帰塁義務を果たさずホームに進み、守備側が三塁に投げなかったらどうなるかしら?」

 

「え? えっと……戻らないで、しかも投げない? ……あれ?」

 

 テンポ良く東雲の問いに答えていた新田だったが、この問いに対して考え込むと知恵熱が出そうになる感覚を覚え、近くにいた人物を頼った。

 

「……は、初瀬ー! どうなるの?」

 

「わ、私ですか!? そうですね……。サードランナーはアウトにならない、ということになるのでしょうか……」

 

 急に振られて困惑する初瀬だったがこれまでの問いから推測される答えを恐る恐る口に出してみると、その答えに東雲は頷いていた。

 

「えー! そうなの? でもそれって帰塁義務ってやつを無視してるんでしょ?」

 

「けれど守備側がアピールしない限り、それを指摘することが出来ないのよ。それがフォースプレーとアピールプレーの大きな違いね」

 

「そ、そうなんだ。でも普通はそんなことしない気がするけど……」

 

「そう……普通はしない。けど今回のケースはどうかしら?」

 

「え? 今回のって……」

 

「確か……1アウトランナー一塁三塁の場面で大咲さんの打球がセカンドライナーになりましたね。そして両ランナーが飛び出していて、河北さんはより近い一塁でランナーをアピールアウトに取りました。3つ目のアウトが取られたので皆さんベンチに帰ろうとして……。……!」

 

「……あれ。それって……サードランナーが、アウトになってない?」

 

 先ほどのプレーの情報を纏めていた初瀬がその目を見開くと、状況を改めて客観的に聞いた新田は思ったことを呟き、その言葉に話を聞いていたほとんどの者が息を呑んだ。

 

「そして今さっき審判も伝えていたけれど、一塁での……3つ目のアウトよりホームインの方が早かった。もしあのまま私たちがベンチに戻っていれば、明條に追加点が入っていたはずよ……」

 

「ま、まじで……?」

 

 説明を受けてようやく事情を飲み込んだ新田は背中を冷たい汗が伝うのが分かった。同様に衝撃を受けた初瀬も眼鏡の縁に触れながら混乱する頭の中を整理していくと、残った疑問が浮かび上がってきた。

 

「……驚きました。まさか、そんなことが。……ですが、この回明條に点は入りませんでした。皆さんは一体どのようにしてそれを防いだんですか? 今の話だと3つ目のアウトを三塁で取るしかないように思えますが……」

 

「そう……取ったのよ。3つ目のアウトを三塁でね」

 

「え……? しかし先ほど3つ目のアウトは一塁で取られていましたが……」

 

「3つ目のアウトを取った後、有原さんが三塁を踏んだわよね。あれで私たちは擬似的に4つ目のアウトを獲得したことになるわ」

 

「え、ええと……でも1イニングにおけるアウトの個数は3つまでですよね」

 

「そうよ。だから……」

 

 東雲はここで翼に目配せすると、その意図を汲み取った翼が引き継ぐように初瀬の質問に答えた。

 

「さっき東雲さん達に言われてボールを持って三塁を踏んだ後に審判の人に言ったんだ。これを3つ目のアウトにして下さい! って」

 

「えっ……! つ、つまり3つ目のアウトを置き換えたということですか……?」

 

「そんなこと出来るの?」

 

「出来るわ。リトルシニアでやっていた時、犠牲フライでサードランナーが還った後他のランナーが走塁死して3アウトになったのだけれど、サードランナーの離塁が早かったのをアピールして、それを第3アウトにしてもらったことがあるもの」

 

「ほえー……そうなんだ」

 

「知りませんでした……。あの短い時間でそんなやり取りが行われていたんですね。……それにしても不思議ですね。フォースプレーやアピールプレー自体は特訓を始めた時に既に教えていただいたルール、そんな基本的なプレーが今になって牙を剥くなんて……」

 

「……そうね。頭で考えれば確かに違いはあるけど、その2つのプレーは身体にとってはどちらも塁を踏んでアウトにするプレー。練習や試合で多くのアウトを取るうちに一々考えることをしなくなっていった……。はっきり言ってあのプレーで1点が入るとは私も認識していなかったわ。改めてルールに向き合ったからこそ気づくことが出来た」

 

 ランナーが進まなくてはいけない時はタッチせずとも先の塁を踏めばアウトに出来る、ランナーが戻らなくてはいけない時もタッチせずとも前の塁を踏めばアウトに出来る。東雲の言葉を聞いた初瀬は野球部に入って二週間ほど経って打球を処理出来るようになった辺りから、そんなことを繰り返し考えながら身体を動かし、ルールを把握して身に染み込ませようと練習を重ねていったことを思い出していた。

 

「けどアピールの権利が残るのは今の場合、投手及び内野手(私たち)がファールラインを越えるまで。とてもじゃないけど普通だったら気づくより早く、ベンチまで戻っていたでしょうね。……聞かせて、有原さん。貴女はどうして……立ち止まったのかしら?」

 

「……ずっと引っかかってたんだ。明條学園が鉄壁高校と一回戦で戦った時に仕掛けたピックオフプレーが」

 

「ああ……確かにあれでトリックプレーに注意する必要があるとは思ったけれど、引っかかることがあったかしら?」

 

「あの時守備が右にシフトしていたのに、ショートにいた大咲さんが定位置まで戻ってた。シフトを敷いた時は周りとの距離感が気になるはず、同じショートとしてそう感じるところがあったのに、それがまるで当然のことだと思わされた……」

 

(……脇役にばかり選ばれた大黒谷が主役を食うほどの演技を見せれたのは、視線誘導が上手かったから。仕草やセリフ、目の動きでアイツは演技の焦点を変えるのが得意だった……)

 

 先日の試合を思い出しながら語る翼の言葉を聞いて脳裏に子役時代のことがよぎった逢坂はベンチから見てきた大咲の一つ一つのプレーが演技と同じで丁寧に積み上げられた動作から成り立っていると感じられていた。

 

「フォースボークを仕掛けられた時もそうだった。あれだけリードを広げていたのに、牽制を誘われているとは思えなかった。不自然なはずなのに自然に感じちゃう……それが、なんていうか……もやもやになって出てきたんだと思う」

 

「……なるほど。河北さんが捕球した時にサードランナーがそれを見ていたような気がするという違和感がそれらのトリックプレーを見た際の違和感と同じようなものだった。頭で分かっていなくても、そんな既視感が貴女の足を止めさせたのね……」

 

 先ほど急に翼が足を止めた理由が気になっていた東雲は彼女の説明に納得していると、明條の準備投球が終わろうとしていた。慌ててバッターの準備を整えた河北が先頭バッターとしてグラウンドに向かおうとする。

 

「あ、あのっ……!」

 

「……? 初瀬さん?」

 

「皆さんに伝えたいことがあって……あのピッチャーのことなんですが——」

 

 初瀬に声をかけられた河北が足を止める。視線が集まる中、初瀬は気づいたことを皆に伝えると、明條の準備投球が終わり、3回の攻撃が始まった。

 

(……みよも少し変わったな。アタシが入った頃なんて生意気ばかり言う奴だったのに)

 

 ロジンバッグを放ったエースは右打席へと入ってくる河北へと目を向けながら先ほどのベンチでの出来事を思い出していた。

 

「みよちゃんごめん! 私がもうちょっと自然にホームに行けていたら……」

 

「……しょうがないわよ。今のプレーばかりは狙ってやれるもんじゃないから練習してないし、こういうプレーがあるって知識だけ入れてたからね。よく走ってくれたわ」

 

「……う、うん……」

 

 里ヶ浜が第3アウトの置き換えを行うのをベンチから目にしたサードランナーは大咲のように自然なプレーが出来なかったことに責任を感じていたが、大咲はそれを宥めていた。

 

「それに今の場面、犠牲フライも打てなかったアタシが悪いのよ」

 

「あら。珍しく謙虚ね」

 

「アタシなりに4番には思い入れがありますから」

 

(4番か……。しかもみよはアタシの背にあるエースナンバーまで狙ってる。アタシはどうなんだろう。この背番号に思い入れと言えるものを込めれているのかな)

 

 実力で4番打者を任されたことを誇りに感じている大咲を見ながらエースは自分の背中の方に首を向けながら考え事をしていると、ちょうど責任審判の説明が終わったところだった。

 

「みんな! 元々あの打球をセカンドに取られた時点で正攻法じゃ得点出来なかった! その上で仕掛けた策も阻まれたけど、元々0のところが0になっただけ、気落ちすることはないわよ! 仕掛けて損はないけど、もし成功したら相手の士気を下げられる。キャプテンで言うところの逆プロデュースってやつなんだから!」

 

「みよ……そうね。追加点を上げられなかっただけで、こっちがまだリードしてるよ! 気を引き締めていこう!」

 

「はい!」

 

「先輩! 守備は任せてください。しっかり守り抜いてみせます!」

 

「ああ。頼りにしてるよ」

 

(この野球部もアタシが入った頃と比べると色々変わったな。明條は芸能人を多く輩出してることもあってか、個性の強いやつが多い。そんなやつらが互いに影響しあって、少しずつ変わっていってるんだ。……アタシは、変われてるのかな)

 

 先ほどの出来事を思い返しながらエースが投じたスローカーブが弧を描いてアウトローへと向かっていき、これが見送られてストライクとなった。

 

「打席の河北選手はタイミングが合わないのか、手を出さないまま2球で追い込まれました。さあ、バッテリーは3球勝負に打って出るのか!?」

 

(落ち着くのだともっち。練習試合の時の傾向からして、一球遊び球を混ぜてくるはずなのだ)

 

(はい!)

 

「ボール!」

 

 投じられたスローカーブが今度は外に外れると河北は慌てて手を出すことなく見送り1ボール2ストライクとなった。

 

(外に集めたし、これで仕留めようか)

 

(分かった。胸元の厳しいところを狙って……!)

 

 投じられた4球目はインコース真ん中、内に厳しく攻めたストレート。このボールに河北はバットを振り出した。

 

(……! 対応した!?)

 

(本当に来た! これを……センター返しだ!)

 

 振り出されたバットがこのストレートを弾き返すとフライ性の打球が二塁ベースを越えてセンターの前へと向かっていく。

 

「任せてください!」

 

「みよ! お願い!」

 

(うっ! 読んでたのに、打ちたいポイントより後ろで打たされた! 振り遅れたんだ……!)

 

 詰まった当たりがふらふらと落ちてくると反転して外野へと走り出していた大咲がバウンドするすれすれのところを狙って遠い打球へとダイビングキャッチを試みた。

 

「アウト!」

 

「ああっ……!」

 

 外野の芝まで出てきた大咲のミットの先に引っかかるように打球は収まり、里ヶ浜ベンチからは思わず溜め息が漏れ出ていた。

 

「ともっちナイストライ! 惜しかったよ!」

 

「うん! 次こそは……! あ、それと初瀬さんの言った通りだったよ!」

 

 そんな雰囲気を切り替えるように翼が手を叩くと、顔を上げたまま戻ってきた河北に声をかけていた。そして代わるように8番バッターとして鈴木が右打席へと入っていく。

 

「……ボール!」

 

(ちょっと内に外れたか……)

 

 内に厳しく投じられたストレートが見送られると、三塁コーチャーボックスからそれを見届けた倉敷は心の中で頷いていた。

 

(注意して見ないと分からないくらいの差だけど、クロスファイヤーを投げるときだけリリースポイントが低い。あのピッチャーはオーバースロー……けど、真上から投げ下ろすのって実際にやってみるとかなり難しい。あのピッチャーは普段それが出来ているけど、内に厳しく狙おうと横の角度を意識して、少しだけ腕の振る角度が横にズレてるんだわ……)

 

(……もし間違っていたら、皆さんに迷惑をかけてしまうかもしれない。言い出すのが怖かった……。けどこの試合私に一塁コーチャーを任せてくれた。そんな皆さんの期待に応えようと一歩踏み出して……そうしたら迷わず受け入れてくれた……。……嬉しかった)

 

 自分の気づいた違和感を信じて動く皆を見て込み上げるものを感じる初瀬だったが、そんな自分に気づくと首をブンブンと横に振って目の前の光景へと集中し直すのだった。

 

(……そういえば麻里安ちゃん、翼ちゃんがバントのことで分かりにくい説明をした時、実際にやってるところを見てコツを理解してたっけ。観察力……かぁ。……アタシは何が出来るんだろ。この試合、チームのためにアタシが出来ることって……あるのかな)

 

 この試合が始まってからグラウンドとの境になる柵のそばでベンチから声援を送り続けていた逢坂は一塁コーチャーとして動く初瀬を見ると、柵を掴む手が自然と強くなっていた。

 

(分かっててもクロスファイヤーをヒットにするのは簡単じゃない。なら狙いはスローカーブ! 内に厳しくストレートが来ないと分かっていれば……!)

 

 グラウンドでは2球目として投じられたスローカーブが膝下のストライクゾーンへと投じられており、このボールにタイミングを合わせた鈴木は体勢を崩さずに始動を溜めるとバットを振り出した。するとバットはボールの上を叩くように捉え、打球は鈴木の目の前で大きく跳ねるように放たれた。

 

(これでもバットが上に入るの……!? なんて角度……!)

 

(ちぃ! 厄介なとこに……!)

 

 芯を捉えた感触が無かった鈴木は驚きながらも一塁へと向かって走り出すと、高くバウンドした打球は二遊間のちょうど中間へと向かっていた。

 

(捕れる!)

 

(先輩!?)

 

 その打球がピッチャーの頭を越えようというところでエースが右腕を真上へと伸ばしていた。すると打球が落ち始めたところで伸ばされたミットの先で掴み取るように捕られたボールが一塁へと送球される。

 

「アウト!」

 

(くっ、内野安打にするどころか余裕で……?)

 

 一塁ベースを駆け抜けることに集中していた鈴木は早いタイミングでの送球に驚きながらベンチへと帰っていくと、その際にネクストサークルへと向かう阿佐田とすれ違った。

 

(あのピッチャーの高身長(じらふっぷり)に阻まれたのだ……。抜けてればいやーなところに行ってたのになのだ。……!)

 

(うう……ここまでノーヒット。どうしよう……茜に打てるのかな)

 

「あかねっち!」

 

「……! は、はい!」

 

 すると阿佐田は打席へと向かう宇喜多の足取りがおぼつかないことに気付いて声をかけると、表情筋を柔らかく動かしてチェシャ猫にも負けないようなニカッとした笑いを見せた。

 

「後のことは任せて、あかねっちらしく挑んでいけばいいのだ」

 

「師匠……分かりました!」

 

 そんな阿佐田を見た宇喜多は両手を胸の前で構えながら元気よく返事を返すと右打席へと入っていった。すると外野が前に出てくるのが目に入る。

 

(う……飛ばす力無いって思われてるのかな。ほんとに無いけど……。でも……師匠曰く、茜は土台がブレなくなってきてる……みたい。やってきたことを信じて……)

 

 アウトコース低めに投じられたシュートをバットを出さずに見送るとこれがストライクになり2球目。先ほどよりリリースポイントが低くなったのに気づいた宇喜多は思い切ってバッターボックスギリギリまで左足を引いた。

 

(……! 読まれたか!?)

 

(今の茜がストレートに合わせるだけだと、ボールの勢いに押されちゃう。引っ張るんだ……! そのためには届きにくい外じゃなくて、内っ!)

 

(……! 引っ張る意識が強くて……ちょっと振るタイミングが早すぎるのだ……!?)

 

 立ち位置を左に寄せたことで角度の窮屈さを軽減した宇喜多は膝下に厳しく投じられたストレートにバットを振り出した。すると振ったタイミングが早く、宇喜多の狙いより前のポイントで捉えられ、バットは芯より先でボールを打ち返していた。

 

「サード!」

 

(うっ! バットは振り切れたけど、あんまりボールに力が……)

 

(ライナーか? いや、打球がフックしてる! 思ったより伸びてこない……ワンバウンドで処理だ!)

 

 三塁線に放たれた打球はフェアゾーンに沿うような軌道からファールゾーンへと逸れるようにフック回転がかかって曲がってきており、サードはダイレクトでの捕球は難しいと判断すると三塁ベース後方でワンバウンドでの捕球に備えた。対して打球を放った宇喜多は上手くボールに力が伝わらなかった感覚に焦りを覚えながらも一塁ベースを駆け抜けようと懸命に足を動かしていた。

 

(切れるか……? ……えっ!?)

 

 逸れていく打球に合わせるように位置取りを整えたサードは落ちてきた打球がファールになると感じていた。すると次の瞬間、その目は大きく見開かれた。

 

「……! 宇喜多さん、二塁狙えます!」

 

「えっ!? う、うん……!」

 

 打球のバウンドに反応するように初瀬から指示が飛ばされると駆け抜けることに集中していた宇喜多は打球の行方が分からず驚いたが、指示に従うように一塁ベースに対して膨らんで入るとそのまま一塁ベースを蹴って二塁に向かった。すると視界の左隅で打球がサードとキャッチャーの間のファールゾーンを点々と転がっている様子が感じ取れた。

 

(な、なんで……?)

 

「私の方が投げやすい! 任せて!」

 

「お願いします!」

 

 ワンバウンドした打球に備えた体勢を取っていたサードと、まさか捕球に行く必要があると思っていなかったキャッチャーは反応が遅れていた。スピードが弱まっていく打球にややサードの方が早く追いつけそうだと互いに判断したが、二塁への送球を考えると体勢的にキャッチャーの方が早く送球出来ると考えられ、サードがブレーキをかけるとキャッチャーミットを下に向けてすくうようにボールを捕ったキャッチャーから二塁へと送球が行われた。宇喜多も足からのスライディングで二塁に滑り込む中、送球が足の高さに届いてタッチが為された。

 

「……セーフ!」

 

(や、やった……!)

 

「なんとツーベースヒットです! 里ヶ浜、2アウトからチャンスを作りました! それにしても打球がなんとも予想外な動きを見せました。まさかこれは狙ったのでしょうか!?」

 

 二塁へと滑り込んだ宇喜多の足の方がタッチより一瞬早くセーフになり宇喜多は胸を撫で下ろすと、先ほどの打球の軌道が気になった。するとそんな宇喜多の耳に阿佐田の高笑いが聞こえてくる。

 

「くっくっく……よくやったのだあかねっちよ! ベースに当てて軌道を変えることで相手を翻弄する必殺打法、『すぴにんぐたーとる』を見事使いこなしていたのだ!」

 

「ええっ!?」

 

(も、もしかして……打球が直接ベースに当たったの? それに必殺技って……あれ、本当のことだったんですか……!?)

 

 打球は進行方向から見て三塁ベースの左下の角に直接当たっていた。ベースにダイレクトで当たったことでその時点でフェア、さらに跳ね返るようにサードとキャッチャーの間に転がった打球に守備は虚を突かれる結果になっていた。

 

(そんなわけないでしょ! バッティングピッチャーが投げてる時にベースの辺りを狙う練習して当たることがある……くらいなら分かるけど、実戦でしかも意図的に軌道を変えられるわけない。偶然よ!)

 

 大咲がその言葉を間に受けた様子の宇喜多を見てその背中を睨みつけると、右打席に入った阿佐田は地面をととのえながら口元に手を持っていって思わず笑みを溢していた。

 

(ま、偶然なのだ。けど運を掴めるのは挑戦者のみなのだ。流されるままに打つんじゃなく、あかねっちなりの狙いをもって打ったからこそこの結果に繋がったのだ。それにあかねっちだって今の打球は予想外だったのだ。それでもはせまりのコーチを受けて迷わず二塁を狙ったあかねっちと、戸惑った相手。二塁到達への本当の勝負の分かれ目はそこなのだ。……さて)

 

 地面をならしおえた阿佐田は宇喜多から相手ピッチャーへと視線を戻すと、今度は勝負師としての不敵な微笑みをたたえていた。

 

(ここで打てなかったらあおいは師匠も勝負師も失格なのだ! ……今あおい達がこのピッチャーに合わせられてるのは、はせまりの見つけてくれた違いのおかげ。けど、キャッチャーもそろそろ警戒してくるはずなのだ。上手く潜り抜ける必要があるのだ)

 

(チームでストレートに狙いを絞ってるのか? ……いや8番はスローカーブを打った。それにここからようやく2巡目だし、チーム単位での策は仕掛けてない気がする。……とりあえずスローカーブを低めに、外れてもいいから厳しくね)

 

(点はやらない……! ここで切る!)

 

「2アウトランナー二塁。里ヶ浜は打順が一巡して1番打者の阿佐田選手へと回りました! 明條はこの場面、外野を前に出して……ファーストとサードもやや前に。これは1打席目に仕掛けたセーフティへの警戒でしょうか!」

 

 里ヶ浜にとってはこの試合初めてのチャンス。明條にとってはこの試合初めてのピンチ。阿佐田とピッチャーは互いに高鳴っていく心臓の鼓動を感じながらもそれを表に出さず。そんな状況で一球目が投じられた。

 

(これがスローカーブ……!)

 

 阿佐田にとっては初めての体験となるスローカーブに対し、ぐらついた体勢から振り出されたバットは途中で止められると、真ん中低めへとボールが収まった。

 

「ボール!」

 

(要求より低く外れちゃったか。仕方ないか……この試合初めてのクイック、しかもコントロールしにくいスローカーブだもんね。バッターはどうかな……打ち気なら高めのストレートを打ち上げさせる?)

 

(ストレート? 違う。遠慮しないで)

 

(ん、そっか。ごめんごめん)

 

 サインに首を振られたキャッチャーは苦笑いしながらサインを変更すると、首を縦に振ったピッチャーが投球姿勢に入る。

 

(クイックのリリースポイントはどうやらそこ……。セットポジションとそんなに変わらないのだ。これならきっとチャンスは来るのだ)

 

 続けて投じられたアウトローのストライクゾーンへのスローカーブに阿佐田のバットがフルスイングで振り切られると、大きな空振りとなってストライクとなった。

 

(外野の頭越え狙いか? なら高めは危険ね……)

 

(うーん……ちょっと、大袈裟な空振りな気もするけど……)

 

 サインが交換される間に大咲がこのスイングに僅かに眉をひそめると3球目、アウトローを狙ってボールが投じられると阿佐田は振り出したバットが身体の前に出ないように途中でスイングを止め、シュート回転がかかったボールが流れて外のボールゾーンへと動かされたキャッチャーミットに収まった。

 

「……ボール!」

 

(見極めてきたか……)

 

(引っかけてくれたら良かったんだけど)

 

(ふぅ……ただでさえ高低の角度がきついのに、飛ばしにくい外に絞っても望み薄なのだ。それならやっぱり確実に来る内に狙いは絞る。ただ悠々と見逃したら外でストライク取れると思われていいことないのだ。……布石は打ったのだ。後は…………来たのだ!)

 

 ピッチャーが4球目の投球姿勢に入ってボールを投じるとクイックモーションでも同じようにリリースポイントが下がったのを感じ取った阿佐田はそれに合わせるようにバットを短く持ち直して、インコース真ん中へと厳しく投じられたクロスファイヤーを打ち返した。

 

(なっ……またクロスファイヤーを……!)

 

「サード!」

 

(ちょっと詰まったけど振り切ったのだ……!)

 

 宇喜多に続いて厳しく投じたクロスファイヤーを打ち返されたピッチャーが驚きを見せる中、ゴロで放たれたやや勢いの弱い打球は三遊間ややサード寄りへと転がっていった。2アウトで宇喜多が迷わずスタートを切り、阿佐田もこの打球を目で追いながら走り出すと、三遊間へと足を動かしたサードが横っ飛びでこの打球に食らいついた。

 

(届かなくても外野には抜かせない。深くてバッターは刺せないかもしれないけど、止めてみせる! ……なっ!)

 

「痛っ……!?」

 

「あっ! こ、これは……抜けた打球が二塁ランナーに当たってしまいました!」

 

 ミットに収められずに転がっていったボールは深いポジションへと走っていた大咲のミットに収まることなく、宇喜多の左足のすねへと当たり、三塁ベース後方を抜けて白線を越えていった。

 

(ふん、お粗末ね。ランナーが打球に当たったらその時点でアウトよ!)

 

「走るのだあかねっち!」

 

「……! は、はい……!」

 

(だから無駄だって……)

 

「フェア!」

 

「えっ!?」

 

 痛みを堪えて走り出す宇喜多に呆れた眼差しを送っていた大咲だったが審判の判定に驚くと、一瞬遅れて飛び込んだサードの後ろを走り抜けてボールを追いかけていった。

 

(フェ、フェア? 打球は……アタシ達のベンチの前まで転がる! こ、これは……いける!)

 

「回って!」

 

「……! バックホーム!」

 

 転がっていく打球が三塁側ベンチの前までいくと予測した倉敷は三塁コーチャーとして宇喜多をホームへと向かわせる。その指示に合わせるように宇喜多は三塁ベースに対して膨らんで入り、ベースを蹴ってホームへと向かっていった。

 

(有り得ない! あれがフェアなはずがない。けど今はとにかく……。……! 逢坂ここ……!)

 

(大黒谷……)

 

(くっ、今はアンタに構ってる暇はないのよ!)

 

 三塁側ベンチ前との境になる柵に跳ね返って勢いの収まったボールはそこに止まると、ようやく打球に追いついた大咲はその柵の手前にいた逢坂の姿が目に入り、それを振り切るようにすぐさまホームへと振り向いて送球を行った。足から滑り込む宇喜多の背中を僅かに追い抜くように届いたボールはキャッチャーの目の高さでミットに届くと、キャッチャーはこのスライディングに対してミットを落としてブロックをしにいった。すると球審の判定が響き渡る。

 

「セーフ!」

 

(くっ!?)

 

(ま、間に合った……!)

 

「……! セカン!」

 

「えっ!?」

 

 ホームのカバーに入っていたピッチャーからの指示に反応するように視線を二塁方向に向けたキャッチャーは阿佐田が二塁へと向かっていることに気づくとブロック後に宇喜多を避けるように立ち上がって送球を行ったが、セカンドにボールが届くより一瞬早く阿佐田がスライディングで伸ばした足が二塁ベースに届いていた。

 

(ふっふっふ。強かなることあおいのごとし、なのだ)

 

「ど、同点ー!」

 

「追いついた……!」

 

「ちょ、ちょっと待ってください! 今のは守備妨害です! あの子が打球に当たったし、それにアタシだってそのままボールが抜けていれば捕れる位置にいました!」

 

 1点が入ったことに沸き立つ里ヶ浜ベンチだったが、そんな声を遮るように大咲が審判に対して宇喜多の守備妨害を主張していた。

 

「それはどうかな? なのだ〜。まず他の内野手が捕れるかどうかっていうのは、捕りにいった選手が最初にいた位置から一歩も動かずに取れるとこに打球が飛んだ時と、トンネルしちゃった時しか関係しないのだ」

 

「なっ……! け、けどあの子は打球に当たったのよ!」

 

「確かに打球に当たったらアウトなのだ。……それが本当に打球だったら」

 

「どういう意味よ……!」

 

「み、みよ……ごめん。あたし……ミットの先で掠ったみたい」

 

「えっ!? そ、そうだったんですか……!?」

 

(そう……ほんのちょーっとだけ、打球の軌道が変わっていたのだ)

 

 走りながら僅かな軌道の変化に気付いた阿佐田はようやくサードからそのことを知らされた大咲の驚いた表情を見て、にやりと笑っていた。

 

「内野手が触れたボールにまでランナーに避けるのを課すのは酷だから、この場合は例外としてアウトにならないのだ。もっともあかねっちが故意に打球に当たったと主張するなら話は別なのだ……?」

 

(……気づかなかった。あの子と重なってそこまでは見えてなかった……! ……それにあの子がわざと当たってないことなんて、目の前で見たアタシには分かりきってる……!)

 

「く……主張を取り下げるわ……」

 

(それにホームへの送球も、あの深い位置からすぐ様投げても正確な送球なんて難しいし、タイミングもあれは……間に合わなかった。しかも一瞬アイツに気を取られてバッターランナーの方を見るのを怠った……。アタシは……キャプテンの言う通り、焦ってるっていうの……?)

 

 正式に認められた1得点がスコアボードに表示されると、里ヶ浜ベンチからは同点に追いついた喜びの歓声が上がっていた。

 

(師匠……ありがとうございます。茜がすぐに走れたのは、師匠が声をかけてくれたおかげ……ランニングを始める時にいつもかけてくれた掛け声と同じだったから、とっさに身体が動いてくれました……)

 

 そんな里ヶ浜ベンチに足を引きずりながら帰ってきた宇喜多が祝福されると、一番に出迎えてくれたのは鈴木だった。

 

「あなたもこれで、初めてを手に入れられたわね。……おめでとう、宇喜多さん」

 

「……うんっ! ありがとう……!」

 

 そう声をかけられた宇喜多はあどけない笑みを溢すと、そんな宇喜多の嬉しそうな表情を見て鈴木も優しげな笑みを浮かべたのだった。




ハチナイ3周年おめでとうございます!


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選んだ道に意味があるなら

 3回の裏、2アウトランナー無しからの連打で里ヶ浜に1点が入り同点へと追いついた場面。さらに阿佐田を二塁ランナーとして迎え、ピンチが続く明條はここでキャッチャーがタイムを取り、マウンドへと駆け寄っていた。

 

(くっ、追いつかれた……)

 

「あんまり気落ちしないで。たまたま不運な当たりが続いただけで……」

 

「偶然……本当にそれだけだと思ってる?」

 

「ん……ちょっと違和感はあるかな」

 

「ねえ、クロスファイヤーが狙われてるんじゃないの?」

 

「その可能性はあるかもね……。ただ痛打した当たりは無かったから、探りを入れたいな」

 

「分かった。……!」

 

「どうしたの?」

 

「ほら、あっちのブルペン。練習試合の時に投げてきたサウスポーがベンチから出てきた……」

 

「エースの倉敷は準備する様子はない……というより三塁コーチャーとして起用してるってことは、この試合出来たら登板させたくないのね。こっちのリードが広がれば出てくるかもしれないけど……」

 

「こっちも4回終わったところでリードしてたらみよと代われるよう準備させてたように、エースは休ませたいんでしょ。……これ以上点はやらない。そして今のピッチャーとあのサウスポーを崩して……引っ張り出すわよ」

 

「オッケー。それでいきましょ」

 

(良かった。同点に追いつかれてがっくり来てるかと思ったけど、エースを温存されるのが癪に触って負けん気剥き出しね)

 

 引きずった様子のないエースを見て安心したキャッチャーは彼女の提案した目標に同意するように拳を握り、親指を立てて上に向けると、キャッチャーボックスへと戻っていった。

 

(九十九〜。繋いでくれなのだ! いつもとポジションも打順も違うけど、『あおい99(ナインティナイン)』の力を見せてやる時なのだ!)

 

(……同点に追いついたとはいえ、浮かれてはいられないな。この回4人中3人が初瀬さんの得た情報をもとに確信を持ってクロスファイヤーを狙い打った。しかし……打ち取られた河北さんだけでなく、ヒットにした宇喜多さんやあおいだって決して良い当たりでは無かった)

 

 そんな中、阿佐田は二塁から九十九のことを期待の眼差しで見つめると、九十九はそんな視線や背中で感じるベンチのイケイケムードに対してあくまで冷静さを保つように(みどり)色の瞳で静かに目の前のピッチャーのことを見つめていた。

 

(宇喜多さんの当たりはベースの角に当たらなければサードゴロだった。それにあおいだって内野がセーフティ警戒で前に出ていなければサードに捕られていただろう。無論その守備を承知で打った以上ヒットには違いないが……大事なのは外野まで抜けていないという点。クロスファイヤーは決め球として用いられることも多いだけあって、分かっていてもそうは打てないんだ。その上でどうするか……私は打ちにいった3人より力負けしない自負はある)

 

 ピッチャーから目を離し定位置で構える守備陣を確認した九十九は目をつぶると、この回の攻撃を映像として思い返した。そして取るべき策を決断した九十九はゆっくりと目を開いていくとバットを構えた。

 

(初球は内に厳しく……か。ただしストライクには入れずにね。分かったわ)

 

(これならバッターの様子もよく見れる。この1球でバッターの狙いを探って……。……!)

 

(……牽制のサイン!)

 

 ピッチャーがセットポジションに入りキャッチャーがさり気なく内へと移動していた時だった。強かにリードを広げていく阿佐田が目に入ったキャッチャーから牽制のサインが送られると大咲が二塁ベースへと向かい、それに反応した阿佐田もとっさについていくようにベースへと戻っていき、振り返ったエースから牽制球が投じられた。

 

「セーフ!」

 

(ちょこまかと動いてくれちゃって……!)

 

(ふっふっふ。こっちの方にも神経使ってもらうのだ)

 

 タイミングは少し余裕を持ってセーフ。細かな動きでリードを取る阿佐田に対してタッチしにいった大咲はそれを目障りに感じながらピッチャーへとボールを投げ返した。

 

(ベース上からピッチャーに揺さぶりをかけるつもりか……あおいらしいな。隙が出来たら逃さず打てということだろう)

 

「先輩! 牽制球はもっとピシッとお願いします!」

 

「分かった」

 

(……ん? どうしてわざわざ回り込んだのだ?)

 

 ピッチャーに投げ返されたボールを見てまた揺さぶりをかけていこうとベースから少し離れた阿佐田は後ろからセカンド側を通って一度ピッチャーに少し近づいて声をかけた大咲が定位置へと戻っていくのに目を奪われると、その耳に初瀬の切迫した声が聞こえてきた。

 

「バック!」

 

(えっ!?)

 

 その声を聞いてとっさに阿佐田が地面を蹴って飛び込み左手をベースに伸ばすと、大咲が戻る間に少しずつ近づいていたセカンドも初瀬の声とほぼ同時に急加速して走り出し、牽制球を膝の高さで受け取ると身体全体を落とすようにしてタッチしにいった。

 

「…………セーフ!」

 

(あ、危なかったのだ……!)

 

(ちっ。セーフか……惜しいわね)

 

 タイミングはかなり際どく、タッチされた阿佐田自身もコールを聞くまでアウトにされてしまったのではないかと背筋に寒気が走っていた。

 

「は、はせまりー! 助かったのだ!」

 

(あおいとしたことが……全然気づかなかったのだ。いつの間にかセカンドどころかピッチャーからも視線をずらされて……)

 

(アタシの動きでセカンドからショート側へと時計回りに視線を誘導してやったけど、あのコーチャーの指示とリードを大して取ってなかったのに救われたわね。……ま、アンタもどうやらプレーに演技を混ぜるタイプみたいだけど……アタシに敵うと思わないことね。じっとしてなさい)

 

(ぐぬぬぬ……)

 

(珍しいな……あおいが相手のペースに呑まれるなんて)

 

 大咲に虚を突かれた阿佐田がリードを取る範囲を狭めるのを見て意外そうな表情を浮かべた九十九がバットを構え直すと、ピッチャーがクイックモーションに入り短いステップからボールを投じた。

 

「ボール!」

 

(このピッチャー、牽制はそれなりだがクイックは速いな……元からステップ幅が短いせいもあるだろう)

 

(悠々と内へのストレートを見送ってきたか……。理由は? クロスファイヤーを狙っていなかった? 1球目だから見てきた? それともこの角度のストレートをボール球とすぐに見極めきれた?)

 

 ボールを投げ返したキャッチャーは内へ鋭く投じられたストレートをバットも振り出さずに見送った九十九を見上げると次のサインを送った。

 

(予め内のストレートに絞っていたから……冷静に見極められたのかも。この回クロスファイヤーを集中的に打たれているしね……。なら外ね。今ので強く見せられたし、内を意識しているなら慌てて手を出せば凡打になるわ)

 

(外か……分かった。次のバッターにはさっき良いとこいったスローカーブに上手く合わされてる。こいつで打ち取る……!)

 

(……このピッチャーのクロスファイヤーがここまで驚異的な理由は、プレートの立ち位置がこちらから見て極端に右に寄っているからだ)

 

 出されたサインに頷いたピッチャーは一度視線を二塁へと向ける。すると大咲が二塁ベースに向かって走った。

 

(……! また牽制なのだ!?)

 

 それに気づいた阿佐田も追い抜かれないように身体を二塁へと向けて戻っていくと、大咲は途端に身を翻して定位置へ戻るよう足を動かした。

 

(今です先輩!)

 

(なっ)

 

 急な方向転換に意表を突かれた阿佐田が急には止まれないまま前へと振り向いたピッチャーがクイックモーションへと入るとボールが投じられた。

 

(それは内へ角度をつける武器にもなるが、外のストライクゾーンへと投げる時には外から中へと入るように投じなくてはいけない。恐らくそれが外のストレートのコントロールが大雑把になりがちな理由……狙いは1打席目と同じく外のストレート! たとえシュートだとしても変化は微量、前で捌ききる!)

 

 低くなっていないリリースポイントを見て内への厳しいストレートはないと判断した九十九は外に投じられたボールへと反応していた。そしてアウトコース低め中寄りに投じられたストレートにバットが振り出されると、バットの芯より僅かに内側で捉えられた打球が放たれた。

 

(腰を引かずに踏み込まれた!?)

 

(今のはストレートか? 打球が低くなった……!)

 

(くっ!?)

 

 放たれた打球がセンター方向に向かっていくと、ピッチャーは頭上を抜けようとするこのボールに咄嗟に右腕を伸ばしていた。するとミットの先から強烈な音が響く。

 

(弾いた!)

 

(止めた! 一塁間に合うか……!)

 

(うっ。これは三塁狙うのは難しいのだ)

 

「ピッチャー! 一塁に!」

 

 収まったかのようにも見えたボールは勢いが鋭く、咄嗟に伸ばしたミットでは抑えきれずに前へと弾かれるように溢れていた。三塁を窺った阿佐田がピッチャーとキャッチャーの間に転がるボールを見て自身が取っていたリードの短さも踏まえて二塁に戻っていくと、ピッチャーが自分から転々と逃げるように転がっていくボールを左手で直接拾い上げた。そして右回りで身体を反転させると右足を一塁方向へと踏み出して送球が行われ、九十九も懸命に足を動かして一塁を駆け抜けた。

 

「……セーフ!」

 

(よし!)

 

(うっ。同時セーフに取られたか……?)

 

「わー! かな、はやーい!」

 

「伽奈! ナイスランだ! いいぞー!」

 

 送球が届いたタイミングと九十九が一塁を踏んだタイミングはほぼ同時、そんな中で一塁審判が下した判定はセーフだった。ゆっくりと減速して足を止めた九十九が短く息を吐き出すと三塁側にある里ヶ浜ベンチから元気の良い歓声が聞こえていた。

 

(くそ……打球は外野に抜けてないのに。それなのに相手の攻撃を断ち切ることが出来ないなんて……)

 

 そんな歓声が同点に追いつかれてから度々聞こえていたピッチャーはこの押せ押せの雰囲気に嫌な感じを覚えながらファーストからボールを受け取ってマウンドに戻ると、右打席へと入ってきた翼へと目を向けた。

 

(このピッチャーに練習試合の時はノーヒットに抑えられて、この試合もヒットの気配が最初は全然無かった。でも初瀬さんがクセを見つけてくれて、ともっちや和香ちゃんがチャレンジしていって茜ちゃんが初ヒットを打ってくれて……皆がここまで繋いでくれた! 私も東雲さんに繋げるんだ……!)

 

 地面をならしおえた翼は身体の前でバットを上げると、小さく「よしっ」と呟いてからバットを構えた。

 

「さぁこれで2アウトランナー一塁二塁となりました! 里ヶ浜が勝ち越し点を上げるか! 明條は同点で踏みとどまっておきたいところです!」

 

(……コースに関係なくストレートに絞っているだけなのかな? けどストレートに絞られたくらいでそう簡単に打たれるようなボールじゃない。リードが読まれてる……? いや、クロスファイヤーを習得したのは夏大会後だし、クロスファイヤーを交えたリードが出来るようになったのも勿論そこから。練習試合での8人分のデータとここまでのピッチングだけでリードが読まれてるとは……)

 

(……やけに悩むわね。……シュートを外の際どいとこに? いいけど、そこ狙うのは得意じゃないわよ)

 

 間を置いて出されたサインに頷いたピッチャーは二塁ランナーの阿佐田を一瞥してセットポジションに入ると、視線の先に立つ九十九をそれとなく気にしながら投球姿勢へと入った。

 

(リリースポイントは普通……に見える。でも横から見るのとバッターボックスから見るのは印象ちょっと違うかも。この一球は待ってみよう)

 

 指先からボールが放たれるとアウトコース真ん中へと投じられたボールがシュート回転して外のボールゾーンへと曲がっていく。このボールが見送られるとキャッチャーはミットを外に動かしながら捕球した。

 

「ボール!」

 

(んー、いけない。私の迷いが伝わっちゃってるかも。……けど外のシュートのコントロールは元々こんなもの。……ヒットにされてるのはストレートだけなんだ。もっとスローカーブ混ぜていこう! 何を狙われているにしろ緩急で揺さぶって、自信持ってる決め球で仕留めよう)

 

(今のシュートは見るのに集中してたら気付けるけど、変化量が小さすぎて打ちにいった時には分からないかも……)

 

 ボールが投げ返されるとサインの交換が終えられ2球目が投じられる。

 

(リリースポイントはさっきと同じ! 内に厳しくは……えっ!)

 

 投じられたスローカーブが真ん中やや内寄りからインコース低め内側のボールゾーンへと変化していくと、翼の振り出したバットは曲がってくるボールから右上の位置で空を切っていた。

 

「ストライク!」

 

(そっか。スローカーブを内に投げる時は下がらないんだ。ストレートを内に厳しく投げる時だけ意識して肩が入っちゃうのかな)

 

(ストライクゾーンに要求したのに内に外れたか。右バッターへの膝下のスローカーブは空振りを取りやすくていいんだけど、あのプレートの位置から投げると角度つきすぎてコントロールしづらいみたいなのよね。とはいえそれは織り込み済み……空振ったってことはやっぱりストレートに張ってる?)

 

 空振りに取られた翼はピッチャーに手を向けながら踏ん張って荒れた地面をならすと、ボールを投げ返したキャッチャーはそんな翼を見ながら狙いを探っていた。

 

(まだ1ストライク。もう一球チャレンジしてみよう)

 

(それなら出来ればスローカーブを決め球として使いたい。このバッターには1打席目で低めギリギリに収まるストレートは見せてない。コースは厳しくなくていいから、低めを狙って!)

 

(分かった。今日は低めの制球は良い。その証拠に長打性の打球だってまだないんだ。自信持って……投げる!)

 

(うっ、待ってる球じゃない! 際どいし手を出しちゃだめ……!)

 

 投じられた3球目は真ん中低めやや外寄りへのストレート。低めギリギリへと投じられた角度のついたストレートが見送られてキャッチャーミットに収まると、球審のコールが響いた。

 

「……ストライク!」

 

(追い込まれた……!)

 

(よしよし。後は……ん?)

 

 ストライク先行で追い込めたことにキャッチャーが気を良くしながらボールを投げ返すと翼が立ち位置を後ろに下げていくのが目に入った。

 

(追い込まれたから少しでもボールを長く見ようってことかな? でも後ろで立てば立つほどスローカーブの変化の幅は大きくなる。内に外して、外低めのスローカーブで仕留めよう……!)

 

(内に外すストレートか。ならアウトローへのスローカーブが決め球のパターンだ。間違ってもストライクに入れないよう……)

 

(狙いは変えない。けど追い込まれたから、狙いと違ったらカットしなきゃ。そのために下がったんだ!)

 

 1ボール2ストライクとなり4球目、サインに頷いたピッチャーがあまり間を置かずに投球姿勢へと入るとボールが投じられた。

 

(リリースポイントが下がった! ってことは内に、ストレート! 当たって……!)

 

 インコース真ん中やや低めに投じられたストレートは内に外れていたが、このボールに対して翼は振り遅れ気味に腕をたたんでバットを振り出した。

 

(むっ……!?)

 

 翼は振り切らずにこのボールに合わせるとバットはボールの右上を掠るように当たり、キャッチャーは逸れた軌道に即座にミットの位置を左下へと動かしてキャッチしにいった。

 

「ファール!」

 

(あ、危なかったぁ……!)

 

(ちぇっ、届く前にバウンドしちゃったか)

 

 打球はノーバウンドで捕りにいったキャッチャーの前でバウンドし、ミットの上を越えていく。球審のファールのコールを背に翼は地面をならしながら、焦る気持ちを落ち着かせていった。

 

(スローカーブを待ってる状態だとこのクロスファイヤーは打つどころか、カットも難しい。けど、クロスファイヤーは初瀬さんのおかげで来るタイミングが分かる! タイミングが分かれば厳しくてもバッターボックスの後ろに立って当てにいくだけなら、なんとか……)

 

 クロスファイヤーが外れていたことに焦りを覚えながらも、なんとかカット出来たことに安堵しつつ、地面をならし終えた翼は次の投球に備えてバットを構え直した。

 

(今のは内に外れてた。あれをカット出来るのは内に意識がある証拠! 仕留めるよ……!)

 

(分かってる。軌道のイメージはこう……アイツは内に決めるのは下手なのにそこに決められるのは変わってるとか言ってたけど、アタシからすればそこのが決めやすい。こっから外に弾くように投げれば……ボールはそこへと吸い込まれていく!)

 

 アウトローに構えられたミットを確認したピッチャーが投球姿勢に入っていく。

 

(リリースポイントは普通! クロスファイヤーは無い……!)

 

 投じられた5球目は外のボールゾーンへとすっぽ抜けたかのように遅いスピードで向かっていくと、やがて弧を描いてアウトローへと変化していった。

 

(来た!)

 

(左足は上がってるけど、身体が止まってる。このまま見逃し……じゃない! けどこれは溜めすぎ!)

 

 上げられた左足がついに踏み込まれたのを見てキャッチャーは既に曲がり始めたスローカーブには間に合わないと感じていた。

 

(……今!)

 

 そしてバットが上から振り出されると軸足の右足がつま先立ちになり、腰が回転していく。

 

(……! 腰が……キャッチャー(こっち)側に回った?)

 

 スイングとは逆方向に捻られた腰を見てキャッチャーが不可解な面持ちになると、バットはそのまま振り切られた。

 

(なっ!)

 

(えっ!?)

 

(よし!)

 

 バットはボールの芯から僅かに左下を捉え、バッテリーが目を見開いている間に打球は目にも留まらぬ速さで一二塁間をライナーで抜けていった。

 

「バックホーム!」

 

(……打球が速すぎる! ホームは間に合わない!)

 

「ストップ!」

 

「ととっ……」

 

 二塁ランナーの阿佐田はこのヒットで還ろうと三塁を回ったところで倉敷の制止を受けてブレーキをかけるとホームの方を見ながら三塁へと戻っていき、ライトからの返球がキャッチャーへと届くのを目にしていた。

 

(とうとう外野に打球を抜かれた……!)

 

「ライト前ヒットで繋ぎました! これで2アウト満塁となります!」

 

「今のは……ツイスト打法……」

 

「何それー?」

 

「……5円玉持ってる?」

 

「へ? う、うん。持ってるけど……」

 

 テレビを通して見ていたゆかりがぽつりと漏らした言葉に彼女の友人が反応すると、実況の声を聞きながらソーイングセットを取り出し、5円玉を糸を結んで垂らしていた。すると5円玉が糸が張るように持ち上げられる。

 

「ここがバットのトップ、最初に構えられてるとこね。で、これがスイングだと思ってね」

 

「ふむふむ」

 

 持ち上げられた5円玉から指が離されるとゆかりが(つま)んだ糸の部分を中心とした振り子になって揺れていく。その様子を興味深そうに見つめる友人にゆかりは彼女に糸と5円玉を渡して先ほどと同じように持ち上げさせた。

 

「えーと……ボールペンでいいや。もう一回やってみよー」

 

「……? やってみよー」

 

 ゆかりが振り子の中心となる部分から少し下にボールペンを入れると、友人が不思議そうにしながら5円玉から手を離した。すると途中で糸がボールペンに引っかかり、先ほどより加速して5円玉が下から上へと上がっていった。

 

「わ! 速くなったー!」

 

「さっき翼が腰をスイングとは逆に回転させたのが、今のボールペンのブレーキなんだよ。腰を逆回転させて、ヘッドを走らせたんだ」

 

「へー! 不思議だね。ブレーキをかけてるのに加速するなんて。……でも腰を逆に回してたの? 全然分からなかったけど……テレビ越しだし」

 

「一瞬だったし、あたしもさすがにはっきり見えたわけじゃないよ。ただ……あの時と同じ打ち方だったから」

 

「あの時?」

 

(腰を逆回転させるのはもう一つ意味がある。前に突っ込みたくても身体の中心の腰が逆に回るなら突っ込みたくても突っ込めない。だから身体の開きを抑えて引きつけて打てて……遅い(スロー)ボールに対応しやすい。そして反発力の弱い遅いボールでも、ヘッドスピードが増すから流し打ちで強い打球が打てる……ってことだったんだよね)

 

 ゆかりが友人から身体で顔を隠すようにして溜め息をついていると、グラウンドでは右打席に入った東雲に対して2ボール1ストライクからシュートが投じられていた。

 

「ストライク!」

 

(これで2ボール2ストライク。けどこのバッター、この打席でまだバットを振ってない……待球のサインでも出てたのかな)

 

(有原さんがわざわざ決め球のアウトローのスローカーブを狙い打った理由……それは有原さんがもう1人の4番を務めたから。この投手の決め球はそのコースへのスローカーブと内への厳しいストレート。先ほど痛打されたスローカーブと、まだ詰まった当たりしか打たれていないクロスファイヤー……この場面クロスファイヤーを選択するはず。4番なら……それを狙って一撃で仕留めてみせろと、そう言っているのでしょう……!)

 

 5球目として投じられたのはこの打席初めてとなるクロスファイヤー。インコース真ん中、内に厳しく投じられたこのストレートに対して東雲は左足を後ろに引いて身体を開き、腕をたたんで振り出されたバットがボールを捉え、弾き返した。

 

(迷わず対応された!? ……まさか、キャッチャー()ピッチャー(あの子)のどっちかにクセが……?)

 

(くっ、切れて……!)

 

 放たれた打球はレフト線へのライナー。この打球をレフトが下がりながら追っていくと、やがて打球が落ちてきた。

 

「フェア!」

 

(やっぱり東雲さんは打ってくれた……!)

 

(まずい……!)

 

「バックホーム!」

 

 フェアゾーンに落ちた打球が外野の奥深くまで転がっている間に2アウトで迷わずスタートを切っていた里ヶ浜のランナーが続々とホームに還ってくる。ようやくこのボールに追いついたレフトは深い位置から中継の大咲へとボールを投げ渡した。

 

(せめてこのランナーだけは……!)

 

(絶対に還るんだ……!)

 

 既に三塁ベースを蹴っている翼を目にしながら大咲がホームへと送球するとキャッチャーへと送球が届き、スライディングで正面から突っ込んでいた翼とのクロスプレーとなった。

 

「セーフ!」

 

(やった……!)

 

(うっ!? タッチの差で間に合わなかったか……!)

 

 東雲なら打ってくれると信じて好スタートを切っていた翼の足の方が一瞬早くホームに届き、球審からセーフのコールが為されていた。スタンドからは溜め息とそれを打ち消すような勢いの歓声が上がる。

 

「打った東雲選手は2塁まで到達しました! 走者一掃のタイムリーツーベースです! これで里ヶ浜はこの回だけで4得点。明條に3点リードする形になりました!」

 

「東雲さーん! ナイバッチー!」

 

(……貴女もね。有原さん)

 

 ホームへと還った翼が嬉しそうに二塁ベースにいる東雲に手を振るとそんな翼を見て東雲は微笑を浮かべていた。

 

「帰ってきたのだー! あかねっち!」

 

「おかえりなさい……!」

 

「ふっふっふ。この流れもあかねっちが生み出したのだ!」

 

「ありがとうございます。……うっ!」

 

「あかねっち!? ……!? 足が……」

 

 ベンチに座って声援を送っていた宇喜多は帰ってきた師匠を出迎えようと立ち上がろうとした。しかし立ち上がることが出来ずに座り込んでしまう宇喜多を見て、阿佐田は慌てて彼女のユニフォームをめくり左足のすねの辺りを確認する。すると青紫色に腫れた足を目にして言葉を失っていた。

 

(今のは前足を開くことで内へと切れ込む軌道に対応しやすいオープンスタンス……。私も高波との試合で試してみたけど、身体の開きが早くてスイングの力が逃げてしまった。見た目ほど簡単ではないわ。クロスファイヤーも、あの精度が続くなら正直私たちがヒットにするには厳しいボールだった。けど紅白戦で野崎さんのクロスファイヤーにことごとく対応していた東雲さん……彼女なら打てると思っていたわ。これであのピッチャーのコントロールが乱れるかもしれない)

 

 ブルペンにいる鈴木は自身とのバッティング技術の差を感じながらもここでクロスファイヤーを捉えられたことは次の打者にも繋がると思い、ピッチャーの方に視線を動かした。すると同じくピッチャーの様子を見ていたキャッチャーが異変を感じて守備のタイムを取っていた。

 

(いけない……!)

 

「大丈夫!?」

 

「……また1イニングで4失点も……」

 

(また? ……あっ。夏大会の高波高校との試合。あの試合もリードしてる状況から中条の満塁ホームランを浴びて……1イニングでの集中失点で負けたトラウマが蘇ってしまったのね)

 

「だ、大丈夫よ! これから取り返していきましょう! ねっ、みんな!」

 

「はい!」

 

「……」

 

「……うーん」

 

「えっと……」

 

(うっ。反応が芳しくないな。……無理もないか。私たちは得点力不足が課題で……新チームになってから“4点目”が入ったことがないんだ。まるで高波との試合で追いつかなかった4点目が呪いになってるみたいに……。だからこの試合追いつくビジョンが……見えてない)

 

「……4点目、ですか」

 

「みよ……?」

 

「確かにアタシ達はこのチームに入ってから4点目が入ってない。だから高波にリベンジしてその壁を越えようとした。里ヶ浜が上がってきたことでそれは叶わなくなった……。けど、それだけのことです」

 

「えっ」

 

「相手が里ヶ浜に変わっただけです。……部に入った時言いましたよね。アタシは殻を破るためにここに来たって」

 

「ああ」

 

「なら4点目が取れないなんて殻は……この試合で破ってやればいいんです!」

 

「みよ……そうだな、悪い。ちょっと弱気になっちまった」

 

「先輩は一度ライトで頭冷やしてきてください。アタシが投げます!」

 

「……お願い」

 

(……知らなかった。アタシが入部したのはみよより後だったから……。そういえば何か宣言をしたって聞いたっけ)

 

「分かった。……選手交代お願いします。ショートがピッチャーに。ピッチャーはライトに回って、ライトがショートに入ります」

 

(みよ。ここは踏ん張って!)

 

 守備のタイムが終えられると大咲の投球練習の後、プレーが再開された。右打席には永井が入っていく。

 

(この人は練習試合の時は打てなかったけど、先発の人と比べるとボールが速くない。ストレートに絞って打ち返すんだ!)

 

(このバッターはさっき初球打ちで大きな当たりを打ってる。……ちょっと危険だけど、こういう打ち気なバッターには……!)

 

(分かりました! アウトハイにストレートを……!)

 

(打てる!)

 

 大咲が投じた初球はアウトハイへのストレート。これに永井がバットを振り出すと、バットはボールの下に入りながらも振り切られた。

 

(ああっ。高めのボール球だった……!)

 

(よしっ。打ち取っ……!? うっ。飛んだところが……!)

 

(げっ。あんな当たりで……)

 

 上がった当たりは内野を越えてフラフラとライトの前へと落ちてくる。この打球に対してライトは前に出てきていたが、ノーバウンドでの捕球は難しいのがサードコーチャーの倉敷にも分かった。

 

(2アウトで東雲は迷わずスタートしてる。けど浅いか? ……いや、あのライトの送球は練習試合の時逸れてた。いける!)

 

「回って!」

 

(回したか!)

 

「バックホーム!」

 

(殻を破ればいい、か。簡単に言ってくれるよね。……けど、少しでも変わりたいのは……アタシだって同じなんだ)

 

 ライト前にポテンヒットの形で落ちた打球がバウンドして大きく跳ねたところを前にジャンプしながら長身を生かして上から押さえ込むように捕ったライトは勢いそのままに踏み出すとバックホームを行った。するとレーザービームのような送球がホームへと向かってくる。

 

(前はノーバウンドで送球がばらけてた。でもワンバウンドで確実に投げれるようになったじゃない……!)

 

「アウト!」

 

(くっ!)

 

(……しまった。ライトの強肩を考えれば、送球が確実に届けばあの浅い当たりはアウトだった。無理をするべきじゃなかったのね……。宇喜多や河北はいつもこんな難しい判断を瞬時に……)

 

 スライディングより早くワンバウンド送球がホームで構えるキャッチャーのほぼ正面に届いたことで東雲がブロックされてアウトになり、倉敷は己の選択を悔いると共に難なくコーチャーをこなしていた2人がいかに難しいことをしていたのかを肌で感じていた。

 このアウトで3アウトとなり、明條はようやく里ヶ浜の攻撃を断ち切れたと少し疲れた面持ちでベンチへと帰ってくる。

 

「みよ」

 

「先輩。ナイスバックホームでした」

 

「ありがと。ねえ、みよは……どうして野球を選んだの?」

 

「突然ですね」

 

「そうかもね。けど、知りたくて」

 

「……野球を選んだのは、子役時代にオファーを受けて当時全く知らなかった女子野球に触れたのがきっかけです」

 

「……それだけ?」

 

「大した理由には聞こえませんか?」

 

「正直ね」

 

「でも選んだ理由なんてそんなものですよ。アタシはそれでもっとみんなに女子野球のことを知って欲しいと思ったんです」

 

「……そうだったのね」

 

「アタシも聞いていいですか? なんで先輩は読者モデルになろうと思ったんです?」

 

「……分からないのよ。アタシの家は堅かったから新作の服やメークを試す体裁が欲しかったとか、たまたまオーディションの募集を目にしたとか、そのくらいのきっかけしか思い浮かばない。どうしてもやりたかった理由が思い浮かばないのよ」

 

「そうなんですね。……でもそれでいいじゃないですか」

 

「どうして?」

 

「絶対にやりたいことがないなら、アタシ達には色んな道があったはずです。そんな多くの道からアタシは野球アイドルの道を、先輩は読者モデルの道を選んだ。一杯ある選択肢の中から自分の意思でその道を選んだ……それってきっと凄いことだと思うんですよ」

 

「自分の意思で……決めた。……そっか。そうかもね」

 

 エースは大咲のその言葉を聞くと胸にずっとつかえていたものが溶けて身体に染み込んでいくような感覚を覚えていた。

 

「みよは……しっかりしてるね。ちゃんと自分の考えを持っていてさ」

 

「えっ。先輩こそしっかりしてるじゃないですか。ほら、前に先輩この世の全ての四字熟語を掌握しているなんて言われていたんですよ」

 

「いや、四字熟語ってそんな良い意味ばっかじゃないけど……」

 

「あははっ。アタシも同じこと思いました」

 

「何よそれ。……ふふっ」

 

 大咲につられるように笑みをこぼした彼女が立ち上がりバットを引き抜いてグラウンドに向かおうとすると、ちょうど出口の部分で立ち止まって振り返った。

 

「……そうだ。みよ、アンタにエースナンバーはやらないよ」

 

「先輩がやるつもりなくても奪い取ってみせますよ」

 

「やれるものならね。……で、アンタが座る4番も……アタシが頂いてみせるわ」

 

「……望むところですよ」

 

 バットの先を向けられた大咲は少しの間意外そうな表情を浮かべていたが、すぐにその眼差しを挑戦的なものへと戻して、返事を返していた。

 

《里ヶ浜高校、選手の交代をお知らせします。ライト、宇喜多さんに代わりまして逢坂さん——》

 

「えっ!?」

 

 ちょうどその時に流れたアナウンスにやや素っ頓狂な声を大咲が漏らすと、彼女の目には里ヶ浜ベンチから準備を整えた逢坂が顔を俯かせ、黒髪の先輩に話しかけられながら出てくる様子が映っていた——。




スコアボード

    1 2 3 4 5 6 7
明條  1 0 0
里ヶ浜 0 0 4

ソーイングセットにチャコペンは入ってないよという証言を知人から頂いたので、チャコペンが入ってた部分をさりげなくボールペンへと変更しました。
自分のソーイングセットのイメージを伝えたところ、「それは家庭科の裁縫セット」と言われました。


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小さな足跡は道標になって

 逢坂がグラウンドへと足を踏み入れる少し前、永井が打席へと向かっていった頃。里ヶ浜ベンチでは慌てた様子の阿佐田を落ち着かせた九十九が宇喜多の足の容態を見ていた。

 

「打撲ですね。走塁の際、ほとんど減速していないボールに当たってしまったのが原因でしょう」

 

「うう……すまないのだ。あかねっち」

 

「だ、大丈夫です……! ただの打撲ですから……」

 

「……宇喜多さん、立てますか?」

 

「……は、はい」

 

 ベンチに座っていた宇喜多は右足を地につけるとおずおずと左足を伸ばし、立ち上がった。

 

「無理はせず、痛かったら言ってください」

 

「……い、痛くないです」

 

「……左足に体重が乗っていませんね」

 

「うっ……」

 

「普通に立てますか?」

 

「えっと…………ひうっ!」

 

「……やはり厳しいですか」

 

 そっと左足に体重を乗せた宇喜多の身体が跳ねるようにして体勢が崩れると予め支えられる位置取りをしていた九十九が彼女を支え、左足にこれ以上負荷がかからないよう阿佐田と協力して彼女の身体を浮かせて再びベンチに座らせた。

 

「打撲というのは刺し傷や切り傷のような外出血が見られないことから軽視されがちですが、皮下組織が大きなダメージを受けていたり、骨折というケースも考えられる損傷です。気力でどうにかしようというのはおすすめ出来ません」

 

「こ、骨折してるんですか……?」

 

「見た限りでは分かりません。ですが熱や腫れがあり皮膚が青紫色に変わっていることから内出血が起きているため、その可能性は考慮したほうが良いでしょう」

 

「うう……」

 

「……あかねっち。無理はしない方が良いのだ」

 

「師匠……」

 

「たとえ骨がピンピンしてたとしても、ここで無理したらきっと長引いちゃうのだ。あおいはあかねっちにそんな辛い思いはして欲しくないのだ……」

 

(……そうか。以前の捻挫であおいは……)

 

 宇喜多と正面から向き合い、阿佐田は真剣な表情で自分の正直な気持ちを吐露する。その言葉に九十九が清城との練習試合の時に告白された悩みを思い出していると、言葉を受けてから一度考え込むように顔を下げていた宇喜多がゆっくりと顔を上げ、阿佐田の目を真っ直ぐ見つめて答えた。

 

「分かりました。この足で無理してもきっとみんなの足を引っ張っちゃうと思うし……師匠の言う通りにします」

 

「……うん。それが良いのだ」

 

(あかねっちはこの試合が公式戦で初めてのスタメンだったのだ。本当は下がりたくなんてなかったはず……)

 

 笑顔を取り繕ってそう言った宇喜多をそっと引き寄せた阿佐田が彼女の頭を優しく撫でているとグラウンドから金属音が響き渡った。その当たりに2人はグラウンドへと目を向けたが、ホームへと突入した東雲がブロックされてアウトになり、ベンチへと戻ってくる。

 

「伽奈先輩! 氷嚢(ひょうのう)と包帯借りてきました!」

 

「……! 氷嚢?」

 

「東雲さん! 実は……」

 

 九十九に頼まれて医務室から手当てに必要なものを借りていた逢坂が帰ってくると、彼女の発した言葉で東雲もすぐに異変に気づき、翼から事情を聞いていた。

 

(チェンジか……。急がなくては)

 

 逢坂から包帯を受け取った九十九は宇喜多の左足を適度に圧迫するようにして手際良く巻きながら、周りを見渡して阿佐田に指示を飛ばすと、それに応じるようにして阿佐田は邪魔にならないように奥の方に置いておいたバッグを持ってくるとベンチに置き、その上にタオルを乗せた。

 

「何をするつもりなんですか?」

 

RICE(ライス)処置です」

 

「へ? ら、ライス……?」

 

「宇喜多さん、巻き終わりました。後は患部に氷嚢を当て、このタオルの上に足を置いて下さい。氷嚢は20分当てたら一旦外して、間を置いて断続的に冷やして下さいね」

 

「は、はい。ありがとうございます」

 

 阿佐田が準備する間に包帯を巻き終えた九十九は困惑する逢坂をよそに宇喜多を横に寝かせると、そっと左足をバッグの上のタオルに乗せた。

 

(……お米……?)

 

「RICE処置は4つの処置の頭文字を取って名付けられた応急処置方法のことで、RICEはRest(安静)Icing(冷却)Compression(圧迫)Elevation(挙上)を指します」

 

「……そ、そうなんですね。……あの、最初の3つは分かるんですけど、挙上(きょじょう)ってなんですか?」

 

 考えを見透かされたかのようなタイミングで解説をされた逢坂が動揺しながら質問していると、東雲も翼から事情を聞き終え、考え事をしていた。

 

(交代の選択肢は2つ。逢坂さんにそのままライトに入ってもらうか、九十九先輩にライトに回ってもらって岩城先輩にレフトに入ってもらうか。……二塁から見えた大咲さんのピッチングはやはりエースよりは落ちるように感じた。となれば彼女がマウンドに上がり続ける方がこちらにとっては望ましい。つまり警戒すべきはその逆……)

 

「挙上とは患部を心臓より高い位置に保つことです。血液が心臓に向かって流れる。つまり患部に血液が流れにくくなることから、腫れや痛み、内出血を抑止する効果があります」

 

「な、なるほど……」

 

(……あおいも知識として、そういうのがあるのは漠然と知ってるのだ。けど実際目の当たりにすると慌てちゃって……こういう時、九十九みたいにスムーズに対応出来るよう、もっとちゃんと勉強しとかなくちゃなのだ……)

 

 宇喜多の腫れた足を発見して頭が真っ白になってしまった阿佐田は九十九の冷静かつスムーズな対応を実際に見て、捻挫で苦労した経験からももっと真剣に向き合おうと感じ始めていた。

 そんな中、考え込んでいた東雲が顔を上げると交代してもらう選手へと声をかけにいく。

 

「……逢坂さん。宇喜多さんに代わってライトに入って頂戴」

 

「えっ!? あ、アタシ?」

 

 交代のことが頭から抜け落ちていた逢坂は急にそう言われて大きく驚いていた。

 

「でも……」

 

 そして宇喜多の方へと振り向くと、申し訳なさそうに頬をかく。

 

「逢坂さん……。清城との練習試合の時、言ってくれたよね。選ばれた人は選ばれなかった人の分まで頑張るものだって」

 

「あ……」

 

「茜も……逢坂さんがこの試合、絶対に出ようと張り切ってたのは知ってたんだ。だからスタメンに選ばれた時、逢坂さんの思いも受け止めて頑張ろうって……そう思ったの」

 

「そうだったんだ……」

 

「そんな逢坂さんだから、託せるよ。茜の分も……頑張って欲しい」

 

「……! わ、分かったわ。茜ちゃんの分も……頑張ってくる!」

 

 宇喜多の力強い眼差しに押されるように頷いた逢坂はミットを手に、ずっと越えられなかった柵の横を抜け、グラウンドへと足を踏み入れたのだった。

 

「茜ちゃん! 後のことは任せて!」

 

「貴女が起点となって作った流れ……無駄にはしないわ」

 

(アタシは……茜ちゃんの思いを背負えるの? ライトのポジションをやるって決めた時から、ずっとアタシは……茜ちゃんの背中を追ってばかりだったのに。しかも、それに気づいたのはこの試合のオーダーが発表された後……)

 

「逢坂さん」

 

「ひゃいっ!?」

 

 言葉とは裏腹に宇喜多の言葉に応えられる自信があまり無かった逢坂は顔を上げながら出て行った翼や東雲とは対照的に顔を俯かせてしまっていた。そんな逢坂に話しかけた九十九は並行するようにして一緒に外野へと向かっていく。

 

「手短に話します。私は一年の時に生徒会に入って以来、運動部の適正審査を担当してきましたが、今までどの部にも入ろうとは思いませんでした」

 

「な、なんですかいきなり。……そりゃ生徒会が忙しかったからなんじゃ?」

 

「確かに生徒会との掛け持ちは大変ではありますが、出来ないことはありませんでした。事実今はその状態を維持出来ていますし、会長……能見先輩にも折角だから入ってみてはと勧められたこともあります」

 

「じゃあなんでですか?」

 

「単純なことです。多くの運動部に審査をして、ほとんどのスポーツが初体験であるにも関わらず、即戦力として捉えられました」

 

「へ……?」

 

(急に何を言うかと思ったら……自慢じゃない!)

 

「それなら良いじゃないですか。入っちゃえば」

 

「……それはつまり、経験の浅い私に実力で排除される部員がいるということです」

 

「……! でも、それは……仕方ないんじゃないですか」

 

「けれど私はそこまで思い入れがあったわけではありません。それなのにその人を押し除けてまで入り込む、そういう気にはなれなかったのです」

 

「………」

 

「しかし私にも野球をやりたい理由が出来ました。だから私はここにいます。……そしてあなたも理由は違えど、やりたい理由があってここにいるはずです」

 

「そうですけど……」

 

「高波との試合の時に言いましたね。私を追い抜くから覚悟をしておけと」

 

「い、言いました。先輩には負けたくないんです!」

 

「ならあなたも覚悟を決めることです」

 

「……! 覚悟を……」

 

「……どうやら話せるのはここまでですね。後はあなた次第です」

 

「あ……」

 

 ライトに向かう逢坂と並行するように歩いていた九十九は外野まで出てきたところで方向を転換してレフトへと向かっていく。

 

「ふふふ、なのだ」

 

「……? どうしたんだい?」

 

「なんでもないのだー」

 

 サードからその様子を見ていた阿佐田が遠いライト側から回り込むようにやってきた九十九に対してにやにや笑っていると、そのライトには外野へと向かう短い時間の間に言われた言葉を反芻するように思い出しながら逢坂が到達していた。

 

(うう……いくら時間がないからって言いたいことずばすば言ってくれちゃって! なんでもお見通しみたいに言われて……黙ってるアタシじゃないわ。やってやるんだから! ……でもそっか。アタシも覚悟を決めないと。アタシは今、ここに立ってるんだから……!)

 

 そしてライトの定位置から鈴木の指示に促されるようにライト線側に数歩歩いたところで外野の芝を踏み締めると、その顔を上げた。

 

「ばっちこーい! ライトはアタシに任せなさい!」

 

 彼女の腹から出した声がホームまで聞こえてくると、4回の表の先頭バッターとして出てきたエースが左打席へと入っていく。

 

(守備位置をまた右に、今度は予め寄せてきたか。どうやらプルヒッターってことがバレてるみたいね。でもそんなに極端なほどじゃない。強い打球を飛ばせれば抜けるわ。……このピッチャーの球種はストレート・スライダー・カーブ。スライダーとカーブは左バッターのアタシにとっては中に入る球だ。アタシが引っ張りに強いバッターだと分かってるなら、この2つを簡単には使えないはず。初球はストレートに張る! それも引っ張って強い打球を飛ばしやすい内を避けてくると読んで……!)

 

(……! 読まれた……!?)

 

 やがてサインの交換が終えられ東雲がボールを投じると、アウトローへと投げ出されたストレートにバッターは踏み込んでいた。そしてバットが振り切られると捉えられたボールはライト線へと放たれる。

 

(しまった! あの長いリーチ、外はむしろ腕を伸ばしやすい分、バットを思い切り振り切られてしまった……!)

 

(いきなり来た! アタシの課題は守備。龍ちゃんは目立ったプレーも堅実なプレーもどっちかだけをすれば良いわけじゃなく、必要な時に必要なプレーをするのが大事だって言ってた。でもアタシはまだそこらへんの感覚がよく分かってない。だから……!)

 

「逢坂さん! フェアになるよ!」

 

「分かったわ!」

 

 ライナーで放たれた打球に逢坂はダイレクトでのキャッチに向かうか、回り込んで捕球するか、その選択に一瞬悩んでいた。

 

(茜ちゃんなら、どうするか。アタシは茜ちゃんのプレーなら一杯見てきた。そのプレーを追いかけるのよ……。……! これは……龍ちゃんとカーブ打ちの特訓をした時の……!)

 

 今まで見てきた打球の中で似ている軌道をとっさに思い出した逢坂の目にその時の宇喜多の動きが映し出されると、逢坂はその背中を追うようにして打球に対して回り込んでいく。

 

「フェア!」

 

(……! 茜ちゃんは……打球を身体の正面で捕れる体勢に入ってる! けど……!)

 

 勢いよく跳ねた打球に対して追っていた宇喜多のイメージが捕球体勢に入ったところを目の前で見た逢坂はとっさにミットを前へと伸ばしていた。すると身体をファールゾーン側へと向けた体勢で伸ばしたミットが打球を掴み取った。

 

「二塁に!」

 

(やっぱり見様見真似じゃ茜ちゃんには及ばない。けど、今はこれが精一杯。足りない分は……肩で補う!)

 

「てやっ!」

 

 ボールを取り出しながら反転して送球の体勢に入った逢坂が二塁へと送球を行うと、勢いのある送球が二塁カバーに入っていた新田のミットへと届いた。

 

(よっしゃ! アウトだ……って、一塁に戻ったんだ)

 

 一塁を蹴ったランナーは送球を見てやや慌てた様子で一塁へと戻っており、スライディングに備えていた新田は切り替えて送球しようとしたが、判断よく戻っていたランナーを見て間に合わないと感じ、送球を中断していた。

 

「ナイスプレー! その調子でいこう!」

 

「勿論よ!」

 

(ツーベースいけると思ったんだけど、良い肩してるじゃない)

 

(代わったところに飛ぶとは言うけれど、本当によく飛ぶものね。……まだぎこちないけれど、逢坂さんなりに工夫しているのは分かるわ。今はその守備を信じて、私は目の前のバッターに集中しないと)

 

「……ねえ、みよちゃん。あの人の守備、あんな感じだったっけ。前に対戦した時は同じライトとして、その……」

 

「別に遠慮しなくていいわよ。アイツの守備はちょっと一か八かなところはあったわ。……ただ逢坂ここってやつはまず本番に恐ろしく強い。そして……良い手本と自分を比べて、修正するのが上手いのよ。昔からね……」

 

「そうなんだ……」

 

(みよちゃんなんだか嬉しそう。気にしてないって言ってたけど、やっぱりあの人と戦いたいって心のどこかで思ってたんだ)

 

「キャプテン! ここはどうしますか?」

 

「そうね……。攻撃のチャンスはあと4イニング。ここは慌てて積極策に出ずに……」

 

(送りバントか……相変わらず堅実ね)

 

「……明條は伝統で堅実な野球だけを貫いてきたチームだった」

 

「それは知らなかったんですけど。あんまりそんなイメージはないんですけど」

 

「もうトリックプレーのイメージが強いけん」

 

「そうだな……。ただ細かいプレーを見るなら、そんな伝統も感じますね。ほら、ファーストストライクでバントを決めましたよ。スムーズに送りバントを決めると攻撃のリズムが生まれますよね」

 

 積極的なシフトは取らずにストライクからボールになるスライダーでファールゾーンへと転がさせてカウントを稼ぐのを狙ったバッテリーだったが、見送られて1ボール0ストライク。一転してインコースを突いたストレートをピッチャー前に勢いを殺して転がされ、送りバントが成功し1アウト二塁となっていた。

 

(そんな伝統に変化が訪れたのは大咲さんが入ってからだった。そして彼女は女子野球そのものを定期的にアピールしている。これらを考えれば……あのトリックプレーの意味を察することが出来るわ。……もっとも、理由は一つじゃないかもしれないけどね)

 

 レナがぽつりと漏らした言葉に界皇高校の面々が反応する中、グラウンドでは右打席に7番バッターが入っていき、明條がチャンスの場面を迎えていた。

 

(得点が動いた回のすぐ後は試合が動きやすいとはいえ、折角逆転したところで点を返されたら相手に追いつく希望を与えてしまう。ここは抑えきらないと)

 

(このバッターはさっきは追い込んでからカーブを打ち上げさせた。ここは初球カーブを外に外して、今度は見せ球として使いましょう。手を出してくれたら儲け物ね)

 

(分かったわ)

 

(さっき打たされたカーブ。バットが下に入りすぎたけどタイミングは合ってたんだ。狙うぞ!)

 

 そしてそのバッターへの初球。投じられたカーブにタイミングを合わせたバッターは前足を踏み込んだ。

 

(外れてる!? ……止まんない。そのままいけっ!)

 

(よし。バットの先!)

 

(……! いや、振り切られた分嫌なところにいってるわ)

 

 アウトコースに外れたカーブにバットが振り切られると打球はライト方向へとフライ性の当たりで放たれていた。

 

「……セカンド!」

 

「逢坂さん! 私、飛び込むからフォローお願い!」

 

「わ、分かったわ!」

 

(これは……さっきの回も似たような打球があった! 茜ちゃんはボールからこれくらい下がった位置に……でも、もう少し前にいれば智恵ちゃんが捕れなかった時にボールの上がりっぱなを捕れるような。……いや、ここは茜ちゃんの動きを参考にする!)

 

 河北が打球を見上げるようにして追いかけ続けていると、逢坂は宇喜多のイメージと自身を重ねるように落下地点より余裕を持って後ろに位置取った。

 

「あっ!?」

 

「……!?」

 

 この打球が落ちてきたところに河北がダイビングキャッチを試みると惜しくもミットの中には収まらず、先に掠るような形となり、ボールの軌道が変わった。

 

(……そっか。突っ込みすぎてたら、このボールに対処出来ない!)

 

 急に変わった軌道に対して逢坂は驚きはしたが、大きく跳ねた打球が落ちてきたところを難なく収めていた。その間にハーフリードを取っていた二塁ランナーが三塁へと進み、バッターランナーは一塁ベースを少し回ったところで止まっていると、逢坂は前進していたこともありそのまま内野までやってくる。すると三塁への送球が逸れたら二塁へと進もうとしていた一塁ランナーも戻っていき、東雲にボールが投げ渡された。

 

「惜しかったわよ智恵ちゃん!」

 

「さっきより良いスタートが切れたのに、あとちょっと……! ……でも、フォローありがとう!」

 

(……正直、ベンチから見てる分にはなんてことのないプレーに見えてたわ。けどこうして茜ちゃんのプレーを追ってると感じる……。一つ一つ丁寧に対応してるんだって)

 

 逢坂はダイビングキャッチで際どいボールを捕球したりなどは凄いプレーだと感じていたが、普通にこなされている守備を見ても凄いと感じたことはほとんど無かった。派手でほとんど起こらないビッグプレーに対して、それらの守備は1試合中幾度となく行われているため、なんとなく自身も“普通”にやれば出来るものだとどこか思っていた。

 

(……もっと知りたい。茜ちゃんが、みんなが、何を考えて……どう動いてるのか)

 

 今のプレーはスタンドから見て歓声が湧くようなビッグプレーでは無かった。しかし、逢坂はそんなプレーに胸が高鳴っていくのを感じていた。

 

(こちらにミスは出ていない。それだけに……嫌な流れね。1アウトランナー一塁三塁。確実に送りバントでランナーを進めてきたなら、考えるべきは……スクイズ)

 

(恐らく東雲さんも同じ考えね。ここは1点返しつつ、一塁ランナーを二塁へと進めてもうワンヒットで追加点が狙えるスクイズはありの場面。けど3点差……極端な前進守備を敷くのは躊躇われるわ)

 

(きゃ、キャプテン。す、スクイズなんて無理ですよ……! そんな小技がいけるなら2番から8番に落とされなかったし……)

 

 里ヶ浜バッテリーがスクイズを警戒する中、左打席の前でベンチからの指示を待つ8番バッターはスクイズのサインが出されるのではないかと内心焦っていた。

 

(……げっ! そ、そのサインは……)

 

 そしてサインを受けたバッターは顔を引きつらせるとヒッティングの構えを取らず、バントの構えを取った。

 

(最初から構えた? ……明條はこの試合多くのトリックプレーを仕掛けている。この構えで警戒させることで、ボールカウントを悪くさせる狙い……かもしれないわね。あるいはこのままスクイズもあり得る。……こうしましょう)

 

(インハイのストライクゾーンにストレート。……相手が何を仕掛けても打ち上げさせれば、ランナーを走らせる作戦を封じることは出来る。……ここは貴女の判断に委ねてみるわ)

 

 極端な前進守備を取らずに里ヶ浜は中間守備を選択した。そんな中、サインの交換が終えられると東雲がセットポジションに入った。すると東雲が一度プレートを外してから一塁へと牽制を行う。

 

「セーフ!」

 

「東雲さん! ナイケン!」

 

(まず一試合に2回のフォースボークは有り得ない。ただあれのせいでプレートに足をつけたままの牽制はやりづらくなってしまった。とはいえ3回のように無警戒も危険すぎる。ここは牽制死は狙いづらくなるけど、プレートを外した牽制で一塁ランナーの動きを抑えましょう)

 

 ボールを投げ返された東雲は再びセットポジションに入ると今度は長い間を挟んでいた。そして投げる直前一瞬三塁ランナーに目を向けてから、クイックモーションへと入った。

 

「ランナースタート!」

 

「走ったのだ!」

 

(スクイズ! 打ち上げなさい……!)

 

 翼と阿佐田の声が響くと、一塁ランナーと三塁ランナーが走り出していた。右投手の東雲は三塁ランナーの動きが目に入りながらも、鈴木の要求通りインハイのストライクゾーンへと力のあるストレートを投げ込む。するとバッターはそのままバントの構えを崩さなかった。

 

(……! これは!)

 

 投じられたボールとバットが縦に並んだ瞬間、鈴木はチャンスだと感じ取った。そして次の瞬間、ボールはバットの上を通過するようにして鈴木のキャッチャーミットに収まった。

 

「ストライク!」

 

(挟殺プレーに持ち込める!)

 

 ボールを捕った鈴木はすぐさま三塁へと足を向けた。

 

「こっち!」

 

「えっ!?」

 

 すると三塁ランナーはボールがキャッチャーミットに届く前からホームに背を向けており、鈴木は三塁への送球は間に合わないと感じると新田の声に反応するように足の向きを二塁へと戻して送球を行った。するとベース前でワンバウンドした送球が新田のミットへと収まり、スライディングで滑り込んできたランナーにタッチが行われる。

 

「……セーフ!」

 

(や、やられた……! これは偽装スクイズ! スクイズ失敗と思い込ませることで、その間に一塁ランナーを進塁させるトリックプレー……!)

 

(くっ。サードランナーはしのくもが投げるのに合わせて数歩ダッシュしただけだったのだ……)

 

 三塁を確認したロスが響き、判定はセーフ。この回堅実にランナーを進めた明條のスクイズを警戒していた鈴木はその裏をかかれたことにショックを受けていた。

 

「どんまい! 今のは仕方ないよ! まだ点入ってないよー! 切り替えていこう!」

 

「そうね。新田さん、ボールを」

 

「う、うん! 頼んだ!」

 

(……ピッチャーが引きずってないのよ。私が足を引っ張るわけにはいかない。……ここからは相手の策を全部警戒するつもりで……! 3点差……満塁策で同点のランナーを出すわけにはいかないわ。ここは……)

 

 明條の作戦がはまり、1アウトランナー二塁三塁。3点のリードでこのピンチを迎えた里ヶ浜。点差、打順、ボールカウント、それらの情報を踏まえて鈴木はどうするべきか考え込むのだった——。



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抱いた気持ちに困惑して

 秋大会2回戦。明條学園対里ヶ浜高校の試合も中盤に差し掛かり、4回の表。スコアは1-4となり、3点のリードを得た里ヶ浜だったが、偽装スクイズにより一塁ランナーの進塁を許し1アウトランナー二塁三塁のピンチを迎えていた。

 

「鈴木さん、悩んでいますね……。難しい判断を要求されているみたいですね」

 

「そうね……。ここは悩みどころだと思うわ。どの選択を取っても、絶対は無いもの」

 

 考え込む鈴木を里ヶ浜ベンチから心配そうに初瀬が見つめていると、そんな彼女と話しながら近藤は自分がグラウンドに立っているつもりで自分ならどうするか考えていた。

 

(前までの私なら目の前の失点を防ぐための前進守備しか頭に無かったけれど、鈴木さんとの差に向き合った今は彼女の考えていることが少し分かるようになったわ。2点目をあげたくは無いけど、3点のリードを考えればより取られたくないのは3点目だと考えてるのね。……それを踏まえた上で私なら、どうするかな。ゴロでの進塁を考えて前進守備を敷くと強打に対応しづらくなって、しかも河北さんと美奈子が二塁から離れる必要があるから——)

 

(——セカンドランナーがリードを広げやすくなるため、単打を打たれた場合3点目が入りやすくなってしまう。……決めたわ!)

 

「里ヶ浜、外野はやや前に、内野は定位置に着きました! 0ボール1ストライクの場面、次の一球に注目が集まります!」

 

(そーきたか。さてと、さっきはスクイズ得意じゃないのにそのフリなんてさせられたけど今度は…………へぇ。りょーかいっと)

 

 中間守備を取っていた内野が一塁ランナーの進塁を受けて定位置へと戻っていく様を確認してからベンチからのサインを受け取った8番バッターはヘルメットのつばを掴むとピッチャーの方へと振り向き直し、バットを構えた。

 

(けど簡単に点をやるつもりはないわ。まだスクイズの可能性は残ってる。この守備位置ならピッチャーの正面にさえ転がらなければランナーは還れるもの。仕掛けてくるとしたら追い込まれる前、スリーバントは避けてくるはずよ)

 

(……そうね。ここは慎重に行きましょう)

 

 鈴木からサインを送られた東雲はその意図を汲み取りながら頷くと、セットポジションに入り、三塁ランナーの方に目をやった。対する三塁ランナーはそれとなく三塁ベースに近づいて牽制死を狙う阿佐田を警戒しながら、リードを少し取っていく。

 

(スタートは切らず、転がったコースで三塁ランナーの判断に任せるセーフティスクイズも視野に入れた方がいいわね。だからこそここは……一球外す!)

 

「ボール!」

 

(動きは無しか……)

 

 外の高めに大きく外されたボールはランナー・バッター共に動きを見せずに見送られ、1ボール1ストライクとなった。

 

(……セーフティスクイズだとしてもバッターはバントの構えに移る、少なくともその素振りはあるはず。スクイズは無い? ……いや、決めつけるのはまだ早いわ)

 

(もう一球外すのね)

 

「ボール!」

 

(また外してきたかぁ。これで2ボール1ストライク、次は入れてくるかな)

 

 続けて同じようなコースに外されたボールはリプレイのように見送られると、鈴木はボールを投げ返しながら大した動きも見せずに見送ったバッターの様子を窺った。

 

(……もしかしてこちらがボールカウントを悪くするのを待ってる? 3ボールになれば、心理的にストライクを取りたくなる。そこを狙っているのかもしれないわ。次はストライクを取りましょう)

 

(膝下に……スライダー)

 

(三塁ランナーを還す手として犠牲フライを狙っている可能性もあるわ。ストレートだと思って振れば、伸びのない打球にさせられるはずよ)

 

(……分かったわ。それで行きましょう。……ふぅ)

 

 1ボール2ストライクになり4球目。ストライクを要求するサインに心臓の鳴るペースが早くなっていく感覚を覚えた東雲は小さく息を吐き出してからセットポジションに入ると、時間をかけて丁寧にストレートの握りをしてから人差し指と中指をボールの外側にずらし、ボールを投じた。

 

(よし。コントロールしきれた!)

 

(入ってる!)

 

(振ってきた……!)

 

 クイックでの変化球のコントロールがばらつき不安を抱いていた東雲だったが、投じられたボールは要求通りインコース低めのストライクゾーンへとコントロールされていた。するとこのボールにバッターは身体を開き、スイングの始動に入っていた。

 

(……! 横に叩くようなスイング! 犠牲フライ狙いじゃない!?)

 

(そんなに厳しいストレートじゃない。もらった!)

 

 スイングに入り膝下に投じられたボールから目を切ったバッターは追っていた軌道の延長を予測してバットを振り切った。

 

(んがっ!?)

 

 振り切られたバットからキュイン、と金属音が鳴ると打ち返された打球はファーストに向かって弱い勢いで転がっていく。

 

(だあっ! スライダーだった?)

 

「ゴー!」

 

(走ってきた! タイミングは…………!)

 

 三塁コーチャーの指示で三塁ランナーがスタートを切ったのに気づいた鈴木は前にダッシュしてくる翼と三塁ランナーを見比べるようにして指示を送った。

 

「……翼! ホームは間に合わないわ!」

 

「……! 分かったよ!」

 

 打球の勢いが弱く、定位置で構えていた翼が捕球するには時間がかかると判断した鈴木は頭の上で腕をクロスさせてバツを作りホームへの送球を止めさせた。その指示を受けた翼は腰を落としてボールをミットで拾い上げるように捕ると横を通り抜けようとするバッターランナーに直接タッチしてアウトを取った。

 

「ホームイン!」

 

 しかしその間に三塁ランナーがホームを踏み、明條に2点目が入った。

 

(……出来ればヒットで繋ぎたかったけど、まぁ最低限か。それにしてもここで一転してフリーのサインとはね。色々仕掛けたから相手が警戒しすぎるところを突ければってところか。私が小技苦手なのもあるだろうけどねぇ)

 

(くっ……。前進守備なら……)

 

 タッチされたバッターランナーは塁上にいたランナーがそれぞれ進塁したことを確認してホッと一息つくとベンチへと帰っていく。点差を2に縮め、明條ベンチは息を吹き返したかのように盛り上がっており、そんな相手を見て鈴木は自分の選択に臍を噛んでいた。

 

(和香ちゃん……)

 

「タイムお願いします」

 

「タイム!」

 

 そんな鈴木に気づいた翼が2回目の守備のタイムを取ると里ヶ浜内野陣がマウンドへと集まっていく。

 

「……難しいな。キャッチャーって」

 

(今まで見たり、体験してきたほとんどの試合でもそうだったわ。キャッチャーの判断次第で同じ打球でも結果はがらりと変わってしまうことがある。……それがキャッチャーの難しさであり、そして責任でもあるのね)

 

 今目の前で起きたプレーだけでなく、明條との練習試合で相手キャッチャーが前進守備を取らなかった結果、ゲッツー崩れの1点が入ったことや、先の高波戦で相手キャッチャーが外野を前に出した結果、岩城の当たりが長打になったこと、そして自分や鈴木の判断で起きてきたことを思い返した近藤は改めてキャッチャーに求められることの重大さを感じていた。

 

「ごめんなさい。慎重になりすぎたわ……」

 

「そんな……和香ちゃんだけのせいじゃないよ!」

 

「そうよ。一人で責任を感じないでちょうだい。全員が貴女に同意して選んだ結果よ」

 

「二人とも……」

 

「それに確かに点を取られたけど、打てる手は打った上での失点だもの。あのバッターには先ほどアウトローのストレートを捉えられてレフト前ヒットにされていた。強打を考えれば内野を前に出しづらいし、インコースの変化球で勝負する判断も納得出来た」

 

「ほえー……外したりしてスクイズ読んだりしてるのは分かったけど、そんな所まで気配ってたんだ」

 

「そう……みたいだね」

 

 僅かな間で色々な情報を鑑みて作戦を立てていた鈴木に新田と河北が驚いていると、タイムの時間が残り少ないことに気づいた東雲が翼に視線を送り、翼の「ここで切ろう!」という掛け声に皆が応じてタイムが終えられた。

 

(……そうね。偽装スクイズに気付かなかったことで気負い過ぎていたわ。私1人で試合が決まるわけじゃないのに。……東雲さん、初球は……)

 

(カーブは良いけど、内の低めに外すんじゃなく……)

 

(ん……なら、外の低めに。……ストライクゾーンへ入れてみましょうか)

 

(それが良いわ。さっきの打席を見るにこのバッターはストレートに絞っているように思えた。1年生の9番バッター、変化球を打つ技術に自信がない可能性は十分に……ある!)

 

 サインの交換が終えられると右打席に入った9番バッターに対して1球目が投じられる。弧を描いて真ん中から外低めへと曲がっていくカーブにバッターの足が止まると、鈴木は僅かに要求より外へと外れたこのボールをミットに収めた。

 

「……ストライク!」

 

(良いとこに決まったわね。……もう一球、同じ球を。バッターは完全にタイミングを外されていたわ)

 

(追い込まれるまではストレートに狙いを絞って……えっ!)

 

「ストライク!」

 

 続けて投じられたカーブにバッターの足が再び止まるとアウトローに構えられた鈴木のミットに収まり、2ストライクとなった。

 

(変化球を続けてゾーンに入れてきたか)

 

(……! そのサインは、次も変化球で来るってことですか? うう……なら、とにかくタイミングを合わせないと)

 

 キャプテンからのサインを受け取ったバッターに3球目が投じられる。

 

(……! ストレート!?)

 

「ボール!」

 

(慌てて3球勝負に出ることは無いわ。前にそれで痛い目にあったこともあるしね。ここはセオリー通り、内に速い球を見せてから……)

 

(う……カーブ……!)

 

 内へ外されたストレートが見送られ、4球目。今度は外の低めへとカーブが曲がっていくと、低めに外れてるかどうか際どいこのボールにバッターは食らいつくようにバットを出した。

 

「ショート!」

 

「オッケー!」

 

(あ、合わせただけ……!)

 

(けどもたつけば還れる……!)

 

 緩いカーブに合わせるようにして放たれた打球はショートへのゴロ。三塁ランナーがスタートを切る中、打球に反応した新田が前へと出て行く。

 

(こーいうのはミットで突いちゃったりしやすい。だからまずはしっかり捕って……足の向きちゃんと変えて……投げる!)

 

 ダッシュして打球に近づいた新田は打球の前で減速して腰を落とすとミットに力を込めて掴むように捕球してから足の向きをファーストへと向け、送球を行った。

 一塁を駆け抜けようとする全力疾走を左側に感じながら、翼は少し高くなった送球に合わせるようにしてボールを受け取ると、一塁審判の判定が響いた。

 

「アウト!」

 

(やられた……!)

 

「新田さん! ナイスフィールディング!」

 

「へへーん! そうでしょそうでしょ!」

 

 バッターランナーの一塁到達より余裕を持って送球が届き、3アウトチェンジ。このイニングでの2失点は避ける形で、里ヶ浜は明條の攻撃を退けたのだった。

 もう1点に期待を乗せていた明條ベンチからは嘆息が漏れ出ると、大咲が手を叩いた。

 

「1点返したんだから、悪くないわよ! それより切り替えて! この回点取られたら意味ないんだから!」

 

「そ、そうだね……! 分かったよ」

 

 大咲の言葉を受け、戻ってきたバッターランナーも含めて皆が守備への士気を高めていく。

 

「先輩たちも! 早くいきましょう!」

 

「あ、ごめんごめん。すぐ行くわ」

 

「もー、キャプテンがいないと投球練習出来ないんですから急いでくださいね!」

 

 打順が回ることを考慮して防具を外していたキャッチャーがそう答えると、エースはそんな彼女の防具の装着を手伝いながら話を続けた。

 

「それで、さっきの……クロスファイヤー投げる時にアタシたちのどっちかにクセがあるかもしれないって話だけど。アンタは長いことキャッチャーやってるけど、アタシはまだ始めて半年程度……クセがあるとしたら多分アタシよ」

 

「ん……そっか。じゃあそうだとして、次の攻撃の時にブルペンで確認しましょうか。……そうなら、私が絶対に見つけてみせるから」

 

「お願い」

 

 やがて防具がつけられると2人ともグラウンドへと散っていき、投球練習が終えられ、4回の裏の攻撃が始まった。6番バッターとして新田が右打席へと入っていく。

 

(よーし。守備も良い感じにいけたし、ここはイケイケで打っちゃうよー!)

 

(1点取ったとはいえ、流れはまだあっちね。ここで点をやれば、せっかくの反撃ムードも鎮められてしまうわ。……負けるわけにはいかない)

 

 マウンドに上がった大咲はスタンドからこの試合を映すテレビカメラへと一瞬目をやると、この放送を取り付けるまでに色々手を回して、ようやく枠を獲得したときのことを思い出していた。

 

「大咲くん。君がだいぶ前から動いていたこともあって、枠は取れたよ」

 

「ありがとうございます!」

 

「ただし……」

 

「……?」

 

「大会の放送を流すのは、君のチームが勝ち抜いている間だけだ」

 

「……! ……もし負けた時は?」

 

「君の番組、『大咲みよのタッチアップ☆フォーユー』の総集編を流したり……といったところだね」

 

「……なるほど。理由は……アタシたちの戦わない試合の放送枠が取れなかった理由と同じですね」

 

「そうだ。今人気急上昇中のアイドルグループ『タッチアップ』のセンターが出ている。その理由で視聴する者は十分いるだろうからね。事実、放送の無かった夏大会でも多くのファンが君の出る試合のみを目的にスタンドへと訪れていた」

 

「……ありがたいことです」

 

(ちっ。界皇や向月、小河原や帝陽レベルの試合を映せないと女子野球の凄さを伝えるには影響力が薄い……。けど、予測はしてた。どっちにせよ話題性が無ければ、広がるものも広がらない。そのための手は打ってある。その上で、一試合でも多く勝ち残る必要がある……!)

 

 負けるわけにはいかない理由を思い出して奮起した大咲が投じたストレートに対し、新田の振り出したバットは下に入っていた。打球は打ち上がり、ゆっくりと落ちてくる。

 

「アウト!」

 

「むむむ……打てると思ったんだけどなー」

 

 セカンドフライに打ち取られた新田は悔しそうにベンチへと戻っていくと、その途中で河北へと話しかけていた。

 

「あのさ。最初に投げてた人は上から下にボールが来る感じだったじゃん?」

 

「そうだったね」

 

「でもさ今投げてる人ちょっとちっちゃいし、投げるとこも低い気がするからさ。なんかこう、下から上にグンって伸びてくる感じがする。しかもさっきの人は右から左に来る感じだったけど、それも逆になっててめちゃ打ちづらいよ」

 

「……! そっか、参考になったよ。行ってくる!」

 

(ボールは先発の人より遅いと思ってたけど、そっか……なにも考えずにいくと最初に投げてた人との違いでやられちゃうんだ。左右も上下も反転してるイメージでいこう!)

 

 新田のアドバイスを聞き入れた河北が右打席へと入っていく。すると地面をならす間、一瞬ベンチの宇喜多へと視線を向けた。

 

(宇喜多さん。夏大会で、私たちだけスタメンから外されちゃったよね。悔しかったよね。だから、今日の試合2人ともスタメンに選ばれたことが凄く嬉しかったんだ。あの時、腐らなかったから今があるんだって思えたから。……宇喜多さんは結果を残した。私もただ選ばれただけじゃなく、結果に繋げたい!)

 

 そしてピッチャーの方へと視線を戻すと気合いを入れてバットが構えられた。

 初球として投じられたストレートが真ん中高めに外れると、浮き上がるような感覚を意識していた河北はこれを見送り、2球目。投じられたスローカーブがアウトローへと曲がっていくと、これに河北は合わせてライト線へと打球を放った。

 

「ファール!」

 

(うう。惜しい!)

 

(スローカーブに合わせてきたか……)

 

 打球はファールゾーンでバウンドしたが、しっかりミートされたことに警戒感を強めながらキャッチャーが次のサインを送ると、3球目が投じられた。

 

「ボール!」

 

(ちょっとボールが上ずってる。リズムを崩しかけてるのかも。こういう時は変化球で力を抜かせるのが一番ね)

 

 アウトハイに投じられたストレートは高めに外れ、4球目。インコースのボールゾーンから切れ込むようにスローカーブが曲がっていくと、河北はこれをバットを止めて見送った。

 

「……ボール!」

 

(よし! しっかりボールが追えてる……!)

 

(少し低めに外れたか……)

 

 3ボール1ストライクとなり、5球目。アウトコース真ん中にストレートが投じられる。

 

(入ってる!)

 

「ストライク!」

 

(うっ。振り遅れた……!)

 

 ストライクゾーンへと投じられたストレートにバットを振り出した河北だったが、スローカーブとの緩急差で振り遅れていた。

 

(これで決める!)

 

(食らいつくんだ!)

 

 振り遅れないよう河北がバットを短く握り直すと6球目が投じられた。ボールは大咲が得意とするインハイへのストレート。

 

(際どい!)

 

 このボールに合わせるようにバットが振り出されると、ボールの下を掠るように当たり、スピードの乗った低い弾道の打球はバックネット下のフェンスへと当たった。

 

「ファール!」

 

(これでいい……まずは振り遅れないようにするんだ!)

 

(くっ、渾身のストレートを……ならこれでどう!?)

 

(……! スローカーブ!)

 

 7球目として投じられたのはスローカーブ。これがアウトコース低めへと緩やかに変化していくと、河北はバットを振り出したが、途中でそのスイングを止めにいった。

 

(外に外れてる!)

 

「……ボール!」

 

(なっ!)

 

「スイング!」

 

 アウトコース低めに投じられたスローカーブは僅かに外に外れていた。球審からボールのコールが上がると、キャッチャーの主張で一塁審判へとスイングの確認が行われ、コールが響いた。

 

「ノースイング!」

 

「選びました! 里ヶ浜、1アウトからフォアボールでランナーが出ました!」

 

(やった……!)

 

 ノースイングの判定に心臓がドクン、と跳ねるような感覚を覚えた河北はゆっくりと一塁へと歩いていく。そして一塁ベースを踏みしめると込み上げてくる気持ちを示すように拳を強く握っていた。

 

「ともっちー! ナイセン!」

 

「河北さん……! な、ナイセン……!」

 

 公式戦での初めての出塁に喜ぶ河北にベンチから声援が送られ、河北は花がパァッと咲いたような笑顔を見せたのだった。

 

(くー、粘りやがってぇ……!)

 

「みよ、切り替えて!」

 

「分かってます!」

 

 1アウトランナー一塁になり、右打席には鈴木が入ってくる。すると鈴木はバントの構えを取った。

 

(得点圏にランナーを送れれば、次は逢坂さん。ここは黒子に徹する!)

 

(……ボールに力はあるのよね。なら、もう一回得意のインハイに投げ込んできなさい!)

 

(はい!)

 

 そして1球目が投じられると、コースはインコースの高めのストライクゾーン。このボールにバットが合わされると、軽い金属音と共に打球は上げられた。

 

「ピッチャー!」

 

(くっ、上げてしまった。けど勢いは抑えた……!)

 

(捕れる!)

 

(うっ、まさか……捕る!?)

 

 ピッチャー前に上げられた打球は勢いが殺されていたが、大咲はこの打球の落ち際へと飛び込んでいた。

 

「バック!」

 

「……!」

 

「アウト!」

 

(うっ、進められなかった……。……!)

 

「はっ!」

 

 ダイビングキャッチを刊行した大咲は体勢を大きく崩していたが、万全でないにしろすぐに送球体勢へと移り、ワンバウンド送球を行なっていた。

 

「……セーフ!」

 

(あ、危なかった……)

 

 初瀬の指示を受けて塁に戻っていた河北は間一髪のタイミングで戻ることができ、危うくダブルプレーに取られかけたことに冷や汗をかいていた。

 

(これよ……。みよが最初に野球部に入った時、なんて生意気な1年生なんだろうって思った。けど口だけじゃない、そんなみよのプレーに魅入られちゃったのよね……)

 

 見事な身のこなしに味方であるキャプテンも目を見開いていると、大咲はセーフの判定に僅かに眉をひそめながらも指で2の形を作り、「ツーアウト!」と周りに声をかけていた。

 

「ランナーは進まず、2アウトランナー一塁。打席には先ほど守備交代で入った逢坂選手が入ります!」

 

(来たわね。……前の試合はアンタを意識しすぎて崩れた。あくまで頭は冷静に、けど心は熱く……!)

 

(……さっきから大黒谷を見ていると、なんか……心の奥から気持ちが湧き出てくるような感じがするわ。……これは……この気持ちは……なんだっていうのよ。……羨ましい、ような気がする……)

 

 右打席へと入ってくる逢坂に大咲は闘志を燃やしながら、努めて意識しすぎないようにしていると、対する逢坂は地面をならしながら向かい合う大咲に対して羨望の感情が湧き出てくるような感覚に陥っていた。

 

(……ええい! 今はそんなこと考えてる場合じゃないわ。ダブルプレーにならなかったから、まだ智恵ちゃんは塁に残ってるのよ。絶対に打つ!)

 

 考え込む自分を振り払うように首を二度大きく横に振った逢坂は地面を力強く踏みしめると、対峙する大咲の目を見つめてバットを構えたのだった。



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輝く太陽は明星を照らす

(前の試合の時はスローカーブをスリーベースに出来た。同じように打てれば……!)

 

 4回の裏、里ヶ浜の攻撃。フォアボールで出た河北を一塁に置き、2アウトながら追加点を狙って打席へと入った逢坂はやる気に満ちた眼差しでマウンドの大咲を見つめながらバットを構えていた。

 

(……まずはボールから入って、狙いを探ってみる?)

 

(良いですね。それでいきましょう。……前の試合はアイツの演技にかかってやられた。まずしっかり投げ込むのに集中して、それからアイツの狙いを見抜いていせる)

 

 そんな逢坂の視線を感じながらキャッチャーのサインに頷いた大咲は逸る気持ちを落ち着かせるようにボールを長く持つと、一瞬河北の方に目をやってからクイックモーションへと入り、ボールを投げ込んだ。

 

(速い! スローカーブじゃない……!)

 

 重心を後ろに置いて構えていた逢坂はインコース高めに投じられたこのボールを速球だと判断すると振り遅れ気味にバットを振り出していた。すると途中でスイングが止められ、見送られたボールがキャッチャーミットへと収まった。

 

「……ボール!」

 

(ふぅ……)

 

(高めに外したストレートを見送ったか。スイングを止めたのはボール球だったから、かな。だとしたらボールがよく見えている証拠……)

 

(……確かに際どいとこには投げれなかったけど、そんなあからさまに外したわけじゃないわ。そうやすやすと見極められてたまるもんですか。……先輩、スローカーブは待ってください)

 

(あらら。じゃあ、もう一球インハイに外れるストレートは? コース絞ってるのかもしれないし、これにバット出そうとするなら外中心で攻めるプランで)

 

(……ボールカウント2つ先行させるのは嫌ですね。それに高めはコントロールミスでゾーンに入った時が怖いです。アタシの知る逢坂ここなら、絶対に長打を狙って来ますから。……言いましたよね。逢坂ここは太陽みたいなやつなんだって)

 

(首を振って、空を見上げた? ……太陽? ああ。このバッターは太陽みたいに自分が一番輝く主役であることに拘りを持ってるって話をされたわね。なら低め中心でいきましょうか)

 

(それが良いですよ。ストレート狙ってても、低めで無理に長打を狙うならこっち有利ですから)

 

(ふふん。相手も迷ってるみたいね。大黒谷のやつ、アタシの出す威圧感に押されてるんじゃないの? ……! またストレート!?)

 

 時間をかけてサインの交換が終えられると大咲の指先からストレートが放たれる。続けて投じられたストレートに対して逢坂は意表を突かれながら先ほどと同じようにしてボールを見送った。

 

「ストライク!」

 

(う……)

 

(……膝下の大雑把なコースだ。なのにまたバットを止めた? ……もしかしてさっきのは見極めてたわけじゃなくて……)

 

 1ボール1ストライクになり3球目。今度はアウトローの大雑把なコースにストレートが投じられると内を意識づけられ、かつスローカーブを待っていた逢坂は反応が遅れてバットを振り出せないままこのボールを見送った。

 

「ストライク!」

 

(やばっ……! 追い込まれちゃった……!)

 

(どうやらスローカーブ狙いっぽいわね。……ああ、そうだったわ。アンタが長打狙いなら、練習試合で長打にしやがったスローカーブはまさに狙いどころってわけ)

 

(……ただ問題は追い込まれて、狙いを変えてくるかってところね。ストレートで上手くカウント取れたからって、このまま簡単にストレートを入れにいくと痛い目見るかも)

 

(スローカーブを外に……)

 

(ようやく来た!)

 

 4球目として投じられたスローカーブが逢坂の身体から離れるように外の低めへと曲がっていく。逢坂はこのボールに対して身体の軸を崩さずに踏み込むとバットを振り切った。するとバットの先で弾き返された打球は右方向へと高々と打ち上がり、そして落ちてくる。

 

「ファール!」

 

(しまった。全然外に外れてたじゃない……! あんなボール球無理に打ったから、打球も全然飛ばなかったし……)

 

(低めに速球系が2球続いて焦点を下に向けられていたここっちにとって、あの高く打ち出すようなスローカーブは一瞬視界から消えた感じがしたはずなのだ。タイミングは合ってたけど、それで見極めの判断が遅れちゃってたのだ……)

 

 ネクストサークルからの阿佐田の視線を背に、内野側のファールスタンドでバウンドした打球を見ながら逢坂はスイング後に反動でバッターボックスからはみ出した足を元の立ち位置へと戻すとバットを構え直した。

 

(今のスイング見るにゾーンに入れてたら持ってかれてたかもね。身体が崩れてなかったし、タイミングが合っていたもの)

 

(追い込まれたバッターってのは、大体はストレートにタイミングを合わせて待つ。振り遅れちゃどうしようもないからストレートを打つ構えを取って、変化球でタイミングをずらされたとしても身体の前にボールがあるからなんとかする余地が残るってこと。でもアンタに、それは出来ないでしょ……)

 

(どっちで来る? ……アタシはどっちにも対応するのは難しい。最初から最後まで、ストレートを捨ててない演技を貫きつつ、スローカーブを捉えきる!)

 

 そして5球目が投じられた。

 

(……! 内の……ストレート!? なんとか当てないと……!)

 

 インコース低めやや真ん中寄りの高さに投じられたストレートに逢坂は意表を突かれながらとっさに腕をたたんでバットを振り出した。

 

「ストライク! バッターアウト!」

 

(しまった……!)

 

 しかしバットはボールの軌道から逸れた位置を通過し、ストレートがキャッチャーミットに心地良い音を立てて収まると、球審のコールが響いた。

 

(やっぱりね。狙い球以外のボールに対してファールで逃げる、カットの技術はアンタにとって……地味なものだった。打つことばかりに気がいって、カットの練習なんてしてこなかった。だから一辺倒に狙い球を絞り込むしか手が無かったんでしょ)

 

(アタシの演技が……大黒谷に見抜かれた……!?)

 

「みよ、ナイスピッチ!」

 

 3アウト目が成立したことで明條ナインがベンチへと下がっていく。そんな中、ショックを受けた逢坂は打席に立ち尽くしていた。

 

「逢坂さん、切り替えて! 攻撃のことを守備に引きずったらダメだよ!」

 

「……! わ、分かったわ!」

 

(……そうね。アタシは茜ちゃんの代わりに出てるんだ。それに恥じないプレーが出来るよう、集中し直さないと……!)

 

 一塁から走ってきた河北が声をかけていくと、逢坂は顔を上げてハッとした表情を浮かべ、ベンチへと戻っていった。そして掛橋先生に心配され大丈夫だと答えている宇喜多を目に入れると、ベンチから出る前に一度息を吐き出してからグラウンドへと足を踏み入れた。

 4回の裏が終わり、5回の表の明條学園の攻撃。打順は1番から。キャッチャーを務める彼女は防具を外しながら、同じくキャッチャーを務める後輩へと話しかけていた。

 

「悪いけど、ブルペンで待機しといてもらえないかな」

 

「え? そ、それは良いですけど……誰の肩を作るんですか?」

 

「肩を作るのが目的じゃないんだ。少しの時間でいいから、エース(あの子)のピッチングを横から見たいの。頼める?」

 

「は、はい!」

 

(この回、打順の関係で下手したら様子は見れないかもしれない。けど少しでも時間が空いたら、見れるよう手は打っておかないとね)

 

 そして防具を外し終えた彼女がヘルメットを被りグラウンドへと出ていくと、右打席へと入りバットを構えた。

 

「ストライク!」

 

(カーブを外に外して、同じく外にスライダーを入れてきたか……)

 

 東雲が投じたボールは2球とも見送られ1ボール1ストライク。一度首を振った東雲は鈴木に対してサインを送ると、3球目の投球姿勢に入った。

 

(クイック! ここだ……!)

 

(……! 東雲さんの踏み込みと同時に踏み込んだ!?)

 

 ランナーはいないがタイミングを外す目的でクイックモーションに入った東雲はインコース低めにストレートを投じた。対するバッターは同調するように同じタイミングで足を踏み込むとバットを振り出す。

 

(うっ!?)

 

 すると打ち返された打球が東雲の足元へと放たれ、とっさに伸ばしたミットも間に合わず、マウンド後方でバウンドした打球はそのままスピードの乗ったゴロになって二遊間を抜けていきセンター前へのヒットとなった。

 

(ふぅ、上手くタイミング合わせられたね。悪いけどその小細工は二度は通用させないよ)

 

(やられたわ……)

 

 返球を受け取った東雲は汗を拭い、気持ちを引き締めるように右打席へと入ってくる2番バッターを刺すような眼差しで見つめた。するとそのバッターはバントの構えを取った。

 

「明條、2点差の場面ですがここは確実に送りバントのようです!」

 

(さて……今こそバスター打法の真価を発揮する時よ)

 

「しっかりお願いね!」

 

「みよちゃん……うん! 任せて!」

 

 バッターとしての準備を進めながら大咲がベンチから声援を送ると、2番バッターは内野手の守備位置を集中して確認していた。

 

(本当に……送りバントなのだ?)

 

(……よし)

 

 里ヶ浜内野陣の脳裏には先ほどの打席で行われたバントの構えからヒッティングに移るバスター打法がよぎっていた。

 

(ヒッティングの可能性があるなら高めは危険ね……)

 

(そうね。後は……バントでもヒッティングでも簡単にやらせないボールを投げ込むわ!)

 

 そんな中でバッテリーのサインの交換が終えられると、東雲がクイックモーションへと入りボールを投じた。するとバントに備えてファーストの翼とサードの阿佐田が前へと出ていく。

 

(……! バスター!)

 

(突っ込んじゃダメなのだ……!)

 

 するとヒッティングの構えに移るバッターを目にして阿佐田と翼がブレーキをかけた。

 

(ここだ!)

 

(えっ!)

 

(またバントの構えに戻ったのだ!?)

 

 そのタイミングで再びバントの構えを取り直したバッターはアウトコース低めへと曲がっていくスライダーにバットを合わせながら、自身の身体の重心を一塁側へと傾けた。するとコン、という音と共に転がされた打球が三塁線へと転がっていき、バッターランナーはスムーズに一塁へのスタートを切った。一度足を止めた阿佐田は慌てて再び走り出すとこのボールをミットですくうように捕り、一塁へと送球を行った。

 

「……セーフ!」

 

(し、してやられたのだ……!)

 

 際どいタイミングではあったが、判定はセーフ。バスター打法を警戒するあまりセーフティバントを決められてしまったことに阿佐田は悔しさをあらわにしていた。

 

「ナイバン!」

 

「や、やった……!」

 

(普通、あんなややこしい動作を挟めば正確なバントなんて難しいわ。アタシがやっても多分勢いの分プッシュバントになっちゃうでしょうね。そんなバント技術とバスター打法、その2つがあれば相手を翻弄するには十分よ)

 

「さあ、追いつくわよ!」

 

 顔を綻ばせるバッターランナーに声をかけた大咲は意気揚々とネクストサークルへと向かっていく。そして右打席に入り送りバントの構えを取る3番バッターを目にしていると、後ろから5番を務めるエースに話しかけられていた。

 

「ねえ。ちょっといい?」

 

「どうしたんですか?」

 

「前から気になってたんだけど……入部した時に何を宣言したの?」

 

「ああ。それですか……。一つはアタシが本気でここに野球をやりに来た。芸能活動のついで感覚でやるつもりは無いってことです」

 

(それはアイツも、そういう奴が入ってきたって言ってたっけ……)

 

「もう一つは……明條の伝統のことです」

 

「伝統……」

 

「明條は今まで堅実な野球が売りでした。けど、アタシは……それを一緒に変えていって欲しいって頼んだんです」

 

「今の……トリックプレーを混ぜた野球に? でも、そんなこと新入部員に言われて納得する……?」

 

「最初は猛反対でしたよ。今のキャプテンも言った時はちょっと怒ってましたね。トリックプレーは見た目は派手だけど、実力の伴わない誤魔化しのプレーだって」

 

「アイツは結構根が真面目というか、そういうとこあるからね……。それでどうしたの?」

 

「アタシが軽い気持ちで言ってるんじゃないってことを分かってもらうために、実力を見てもらいました。走攻守、全てです」

 

(みよは一年生で唯一の夏大会レギュラー抜擢だ……。アタシが入ったのはそのやり取りの後だけど、実力は認められたってことか)

 

「どうしてそこまでトリックプレーに拘ったの?」

 

「理由は三つです。一つ目は堅実一辺倒だと戦術があまりに読まれやすいから。二つ目は……キャプテンの指摘も、そんなに間違ってないんですよ。アタシはプレーに見た目の派手さを求めたんです。……テレビを通してアタシたちの試合を放送してもらえるようになった時、一つ話題となるものが欲しかった」

 

「じゃあアンタも……トリックプレーは実力の伴わないプレーだと思ってるの?」

 

「いいえ、違います。それが三つ目の理由……トリックプレーには野球のルールが詰まってるんです」

 

「野球のルール……」

 

「仕掛けるにも、防ぐにも……野球のルールをよく知ってないといけない。基本的なプレーから、細かいケースまで。だからきっと、いつか……遠い先かも知れないですけど、評価してもらえると思ったんです。アタシたちがどれだけ野球を本気でやっているかってことを……」

 

「みよ……。……!」

 

 話し込んでいると響いた金属音に2人とも意識をグラウンドへと戻した。するとインコース真ん中に投じられたストレートに合わせられたバントはやや強い勢いでサードへと転がっていた。

 

(ちょっと強いか!?)

 

(さっきの借り……返してやるのだ!)

 

「……三塁に!」

 

 打球の勢いは強すぎるという程では無く、鈴木は一瞬判断に迷ったが阿佐田のスタートの良さを考えて三塁への送球を指示した。

 

「にたっち!」

 

「はい!」

 

「他の塁は間に合わない! 捕ることに集中して!」

 

「分かった!」

 

 ショートから三塁へのカバーに走っていた新田に阿佐田から振り返り様のジャンピングスローで送球が行われる。二塁へのカバーに入っていた河北から走塁状況を把握して指示が出されると三塁ベースを踏んだ新田は少しフェアゾーン側に逸れた送球へと足を伸ばしながら食らいつくようにミットを伸ばし、二塁ランナーもスライディングで滑り込んできた。

 

「……アウト!」

 

「よっしゃ!」

 

「新田さんナイスカバー! 阿佐田先輩もナイスフィールディングです!」

 

「お任せなのだ〜!」

 

(しまった。ランナーを進められなかった……! あのショート……確か、練習試合の時にはカバーに向かう塁を間違えてたのに……)

 

 バッターランナーは翼の声かけを横で聞きながら、送りバントのサインを実行出来なかったことに顔をしかめていた。

 

「……先輩」

 

「何?」

 

「ランナーが進んでたらアタシが……とは思ってました。けどここは先輩に頼むことにします。殻を破る一打を」

 

「……!」

 

(殻を破る……アタシたちが超えられなかった4点目の壁を、アタシに?)

 

「……一つ良いことを教えてあげます。サウスポーは左バッターにチェンジアップをあまり投げないんですよ」

 

「そうなの? けど、今投げてるのは……。……!」

 

 大咲の言葉に里ヶ浜のブルペンに目をやったエースはその意図を汲み取ると、少しの間考えを整理し、大咲の目を見つめて答えた。

 

「……分かったわ。やってみせる」

 

「お願いしますね」

 

 エースの返答に満足そうにした大咲は右打席へと入っていくと、一塁・二塁にいるランナーと外野手の位置を確認してからバットを構えた。

 

(みよ、アンタは……太陽みたいなやつだ。人の目を引きつけ、自分を目立たせる、そういうことが出来る。出来るのに……自分から輝けない星を照らして、力強く光らせてくれる。……アンタの目を見つめるのは眩しかったけど、それ以上に心が熱くなったよ)

 

 ネクストサークルに座ったエースは大咲のことを見つめる。そして大咲がバットを短く持っていることを確認すると、拳を握る力が自然と強くなっていくのを感じていた——。




1話の投稿日が丁度一年前で、もうそんなに月日が経ったのかと驚きました。これからも頑張っていきます。


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憧れと羨望の先に

 5回の表、明條の攻撃。2対4と里ヶ浜に2点リードされている明條はノーアウトランナー一塁二塁から送りバントでランナーの進塁を狙ったが、里ヶ浜守備陣の好連携で三塁フォースアウトに取られ、ランナーが入れ替わる形で1アウトランナー一塁二塁となっていた。チャンスを広げられなかったことに明條側応援スタンドからは嘆息が漏れ出ていたが、4番バッターがネクストサークルから立ち上がりバッターボックスへと向かっていくと、その背中に溜め息を吹き飛ばすような大声援が送られていた。

 

「みよちゃーん! 打ってー!」

 

「お願いー!」

 

 応援席の多くを満たすアイドル『大咲みよ』のファンが思い思いに彼女のことを応援していた。必死に声援を送る者、両手を合わせて握り祈るようにする者、固唾を呑んで彼女の背中を見つめる者。そんなファンの思いを背に感じながら大咲は右打席へと入っていく。

 

「聞こえるでしょうかこの声援! ワタクシのいる実況席にも熱気が伝わってきます。さあ、ホームランが出れば逆転の場面。どんなバッティングを見せてくれるのでしょうか!」

 

(……予想はしてたけどやっぱり外野を下げてきたわね。当然といえば当然か。里ヶ浜にとっては同点のランナーを還したくないでしょ。そうなると下手に長打を狙うより、ここは繋ぐ。……さっきの打席、追加点を叩き込めれば試合の流れを一気にこっちに持ってこれたのに、アタシは4番の役割を果たせなかった。なのにこのチャンスも潰すわけにはいかないわ)

 

 外野が全員後退していくのを確認した大咲は塁上のランナーを目にしながら息を吐き出すと、短く持ったバットを構えて投球に備えた。

 

(バットを短く持ったわね。ただそれでも長打の可能性は捨てきれない。このバッターは前の練習試合でホームランを打っているし、ここは低めの変化球で……)

 

(スライダーをアウトローの際どいところね……。分かったわ。ここはゴロを打たせてゲッツーを狙う……!)

 

 一度二塁ランナーの方に目をやった東雲は二塁ベース寄りに守ってゲッツーシフトを敷く河北と新田を確認すると、自身の中で狙いを明確にしてからクイックモーションに入り、ボールを投じた。

 

(……低い!)

 

「ボール!」

 

 アウトローに投じられたスライダーにバットをピクッと反応させた大咲だったが、低めに外れていることを見極めてこれを見送ると球審からボールのコールが上がった。

 

「良い高さに来てるわ!」

 

(……要求より低い。けど浮かないように慎重になってるのは伝わるわ)

 

(……このピッチャーは初回から全力投球を続けてきた。だから一度は立て直したクイックでの変化球のコントロールも、疲れによって乱れてきてるわ。それでも一塁二塁の場面、低めには集めてくる。さっきゲッツーに取られたカーブが甘く入るのを狙っても良いんだけど……ここは欲張らないわ。アタシの狙いは、あくまでシンプルでいい)

 

 東雲に声をかける鈴木を横目にバットを構え直した大咲も自身の中で狙いを明確にすると、次に投じられたボールへとバットを振り出した。

 

(詰まってもいいから引きつけて……センターから逆方向に打ち返す!)

 

(……! 打球が上がった!?)

 

 アウトロー、僅かに中に入ったストレートにバットが合わされるとライト線にふらふらと打球が上がっていた。ファーストを守る翼の頭上を越えた打球は前に出てくる逢坂のさらに前へと落ちてくる。

 

「ファール!」

 

(ち……詰まらせすぎて、押し込まれた分打球がスライスしたか……)

 

 外のストレートを流した打球はフェアゾーンから逸れていくように曲がっていき、ファールとなった。

 

(危うくヒットだったわね。今のコースはそこまで悪くはなかったのに、打球を上げられた。球威が少し落ちてきている……)

 

(追い込まれるまで取っておきたかったけど、そうも言ってられないようね。東雲さん、アウトローへのカーブを……。これでカウントを稼いで最後は内で勝負よ)

 

(さっきの打席で打ち取ったボールね。分かったわ)

 

 走り出していた大咲がバッターボックスへと戻り地面をならし終えると、里ヶ浜バッテリーのサインの交換も終えられて3球目が投じられた。

 

(カーブ! この体勢のまま引きつけるのよ……!)

 

(上体を崩せていない……!?)

 

 ボールを引きつけて打てるように重心を後ろに置いていた大咲はアウトローのストライクゾーンへと自身から逃げていくように曲がっていくカーブに対して始動を溜めると、外へと踏み込んでカーブの軌道に対して線で合わせるようにバットを振り出した。すると捉えられたボールは右中間方向へと放たれた。

 

(……! や、やばっ……!)

 

 この打球に対して逢坂は鋭く響いた金属音に反応するように身体を外野フェンスへと向けていた。しかし、目にした打球の軌道が河北の頭上を越えたところで早くも失速していたことに気付くと慌てて反転して打球に向かって走り出していた。

 

(二塁いける!)

 

 一塁ベース手前まで来ていた大咲は走りながら予め下り目に位置していた逢坂の動きが悪いのが目に入ると、ベースに対して膨らんで入り、二塁へと向かった。

 

「……! みよ、戻って!」

 

「えっ!」

 

(短くバットを持ってた分、バットの先で打ってた……! から……回り込まないで前に……!)

 

(加奈子ちゃん!?)

 

 大咲が一塁ベースを蹴って二塁に向かったのとほぼ同じタイミングで、大きくワンバウンドして落ちてきた打球を永井が上に構えたミットで捕っていた。

 

「加奈子! 三塁無理! 一塁狙って!」

 

「わ、分かった!」

 

 打球の滞空時間が長く、また後退守備を取っていた影響もあって一塁ランナーの三塁への進塁と、二塁ランナーの本塁への進塁を防ぐのは難しいと感じた新田は永井に一塁をオーバーランした大咲を狙う指示を送っていた。大咲も一塁コーチャーからの指示を受けて急ブレーキをかけて戻り一塁ベースへと頭から滑り込むと、永井からの送球を塁上で受けた翼が大咲の腕へとタッチする。

 

「……セーフ!」

 

(あ、危なっ……!)

 

 際どいタイミングだったが、僅かに大咲の手がベースに触れる方が早くセーフとなった。翼はタッチ後すぐに他の塁を確認すると、既にホームを踏んだ二塁ランナーと、三塁ベースを少し回ったところでベースに戻っていく一塁ランナーを目にしていた。

 

「タイムリーヒットです! 明條、一点差まで追い上げました!」

 

「うう……せめて刺したかったな」

 

「加奈子ちゃん……」

 

(予想外だったわ。あのセンターは打球に対して回り込みすぎる癖があったはず。それが頭に入っていたから二塁いけると思ったのに……)

 

 辛うじて一塁に戻った大咲は狙い通りのバッティングで繋げたことに手応えを感じながらも、練習試合の時とのセンターラインの守備の違いをも感じており、その認識を改めていた。

 

(……ただ、これで一点差。次は左バッターの先輩。ここは……よし。代えてきたわね)

 

「里ヶ浜、ここでピッチャー交代のようです。今投げていた東雲選手がサードに入り、サードを守っていた阿佐田選手がセカンドに、河北選手に代わる形で野崎選手がマウンドに上がります」

 

(ここまで、か……。……うん。やることはやれたんだ。胸を張ってベンチに帰ろう!)

 

 その交代が告げられると、野崎がブルペンで準備しだしてから覚悟を決めていた河北は先ほど最後になるであろう打席で今持てる全てを出し尽くせたことや、守備も今出来ることはやれたという確信を胸に秘めて、翼や新田、ブルペンから向かってきた野崎に後は頼んだよと声をかけてからベンチへと戻っていった。

 

(ともっちさん。……任せてください)

 

(みよの言った通りだ。左のアタシに回るところで、サウスポーがリリーフしてきた)

 

 野崎の投球練習を遠くから見たエースはストレートにタイミングを合わせて素振りをしていると、やがて投球練習が終えられバッターボックスへと入っていった。1アウトランナー一塁三塁。三塁ランナーが還れば同点の場面。里ヶ浜は内野を中間守備とし、外野は再び後退させていた。

 

(……冷静ね。ここで無理して前に出てくれれば、リリーフしたばかりのサウスポーが一気に崩れてくれるかもしれないのに。……ここはあなたに任せるわ)

 

(フリーのサインか。分かった)

 

 ベンチからキャプテンのサインを受け取ったバッターは先ほど大咲にかけられた言葉を思い出しながらバットを構えた。

 

(サウスポーは左バッターにチェンジアップをあまり投げないか……。それはつまりストレートに狙いを絞っていいってことだ)

 

(練習試合で最後に投げたあの変化球。あれはチェンジアップ系のボールだった。どんな風に握ってるか知らないけど、一般的なチェンジアップは利き手側に沈む軌道になる。だから左対左では緩いボールが内に入る変化になり、空振りにしにくい上に長打をもらいやすくなるから、あまり投げない。プルヒッターの先輩なら尚更のこと……)

 

 牽制に気をつけながら大咲はリードを広げていくと、その間に里ヶ浜バッテリーのサイン交換が行われていく。

 

(野崎さんのパームは倉敷先輩のチェンジアップと違って、包むように握るから、変化はほとんど真下へと落ちる。空振りを取るボールとして、申し分ないわ。だからこれを決め球にして、ストレートでカウントを稼ぎましょう。このバッターは引っ張る傾向があるけど、リーチが長い分外に届く。なら長いリーチを逆手に取って……)

 

(内に……全力投球、ですね。分かりました!)

 

(野崎さんの武器はやはりストレートよ。たとえ相手が何を狙っていたとしても、球威で捻じ伏せ、追い込んだら外のパームで仕留める!)

 

 サインを受けた野崎は力強く頷くと、縫い目に指を引っ掛けるように握った。そして数秒の沈黙がグラウンドを支配したのちに、ボールが投じられた。

 

(ストレートだ。迷うな!)

 

(初球から振ってきた……!)

 

 大咲からのアドバイスを受けてストレートを狙うのに迷いが無かったバッターは内の真ん中へと投じられた全力ストレートに反応し、バットを振り切っていた。すると金属音がグラウンドに響き渡った。

 

(うっ! が、外野に……!)

 

(……今度こそ大きい!)

 

 野崎がライトへと振り返ると逢坂が懸命にこのフライ性の打球を追っていた。すると逢坂はあることに気付く。

 

(……え……。あ、アタシ……茜ちゃんと重なってる!?)

 

 逢坂はこの打球に既視感があり、浮かび上がった宇喜多のイメージと追う自分が重なっている感覚を覚えていた。

 

(……球威に押し込まれた。入らない……)

 

「あっと! ホームランもあり得るかという打球でしたが、これは上がりすぎたでしょうか……!」

 

 上に上にと伸びていった打球は次第に勢いを失って落ちていく。すると外野フェンス手前へとやってきた逢坂は既視感の正体に気がついた。

 

(……そうだ。これは、アタシが憧れた。スタンドから見た……夏大会の時の、茜ちゃんだ)

 

 落ちてきた打球に逢坂は飛びついた。すると身体が外野フェンスに弾かれ、地面へと叩きつけられる。

 

「アウト!」

 

 身体を外野フェンスにぶつけ、地面に叩きつけられながらも、逢坂は掴み取ったボールを決して離さなかった。

 

「逢坂さん、二塁に!」

 

「……!」

 

 この打球を正確に見定めていた大咲と、念を入れて三塁ベースで留まっていた三塁ランナーがそれぞれタッチアップしていく。体勢を大きく崩していた逢坂は立ち上がって、永井の指示に応えるように二塁へと送球を行った。

 

「セーフ!」

 

 大咲のスムーズなタッチアップと、外野フェンス付近から二塁への送球距離の長さもあり、大咲はボールより早く二塁にたどり着いていた。そして……

 

「ホームイン! 明條、犠牲フライで同点に追いつきました!」

 

 三塁ランナーが悠々とホームを踏み、明條のスコアボードに4点目が刻まれた。スタンドからは割れんばかりの歓声が響き渡る。

 

(……そんな……)

 

「野崎さん、切り替えて! ……これは私の渡した状況が悪すぎたわ。けど、ここで逆転される訳にはいかないの」

 

「東雲さん。……分かりました!」

 

 そんな歓声の中で東雲が野崎に声をかけていると、逢坂は今のプレーの衝撃で落とした帽子を永井に渡されて被り直していた。するとスタンドからの歓声がはっきりと聞こえてくる。

 

「あの速いストレートをよく外野に持っていったぞ!」

 

「ライトもナイスキャッチ!」

 

「よく溢さなかったな!」

 

「みよちゃんもナイランー!」

 

 その歓声の一部だけを聞いても熱気を帯びているのが逢坂には感じられた。夏にはその歓声を自身もスタンドから送り、そして憧れたことを思い出す。

 

「……そうだったんだ……」

 

「え?」

 

(アタシは……あのプレーを見て、目立つのが羨ましいんだって思ってた。けど……違った。アタシが本当に憧れたのは、人の心を動かしていたこと……。アタシも、人の心を動かしたかったんだ。それが……アタシが見つけたかった、女優をやりたい理由……)

 

 今のプレーの一つ一つにスタンドの観客が胸を躍らせ、湧き上がる様子を外野から感じた逢坂は自分の胸の内に秘めていた気持ちに気がついていた。

 

(だから……大黒谷が羨ましかったんだ。アイツのプレーを見ていると心が動かされた。……ちょっぴりだけど。アイツなりの信念がそこにあったから、心を動かされたんだ。それが悔しくもあって……そして羨ましかったんだ)

 

 その気持ちに気がついた逢坂はどこか悔しさも覚えていたが、そんな悔しさも認めると、胸の奥につかえていたものが心に溶けていくような感覚を覚えたのだった。



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一度後ろを向いて、前を向いて

(外野フライとはいえ……我ながらよく打ち返せたわ。ストレートに絞ってたのと、クイックで投げて球速が普段より落ちたみたいだから前で捌けたわね。……みよがタッチアップで二塁に進んだし、単打で還しにくくするためにここもクイックで来る。仕留めておきたいところね……)

 

「お帰り!」

 

「ナイス犠牲フライ!」

 

「……ありがと」

 

 同点に追いつく犠牲フライを放ったエースがマウンドに立つ野崎を見つめながら戻っていくと、スタンドから沸き立つ大歓声に驚いてからベンチへと入っていった。

 ベンチに入った途端、待望の4点目に喜びを露わにする仲間に囲まれ称賛の嵐に襲われると、彼女は真っ直ぐな賛辞にはにかんだ様子を見せた後、微笑みを零していた。

 

「盛り上がってるところごめんね。すぐブルペンに来てちょうだい」

 

「ん……分かった」

 

 キャプテンが急いだ様子で囲いの外から話しかけてくると、その意図を察したエースはヘルメットとバットをしまい、彼女からミットを受け取ってブルペンへと向かっていった。

 

(……マウンドに上がっていきなり点を取られたのは、正直悔しいです。ですが……反省は試合の後にしましょう。今は、目の前のことに向き合わないと……!)

 

 一方マウンドに立つ野崎はリリース直後に犠牲フライを放たれ、同点に追いつかれてしまったことにショックを隠せない様子だったが、東雲に声をかけられてハッとすると、帽子を被りなおして気を引き締め直し、右打席へと入ってくる6番バッターへと目を向けていた。

 

「2アウトになりましたが、なおもランナー二塁。勢い乗ってこのまま明條が勝ち越し点を挙げるか? それとも里ヶ浜が同点で踏ん張るか? 目が離せません!」

 

(思えばここと練習試合をした時もみよが初回にスリーランを打ったのに、結局4点目を入れられなかった。高波との試合から続いていた4点目の枷が、私たちの限界を決めるように妨げになって今まで続いていたんだ。けど、その枷は外された! 私も続いてみせる……!)

 

(……まずい流れね。ここでの勝ち越し点は渡してはいけない1点だわ)

 

(……! ここで……外野を前に出すのね)

 

 里ヶ浜ベンチからこのピンチを見守る近藤はここまで後退守備が続いていた外野が鈴木の指示で前に出てくるのを目にしていた。

 

(試合そのものに出れなくても……試合から学ぶことって多いな。その一つ一つをここから応援しながら、一つでも多く学んでいかなきゃ)

 

 そんなことを考えながら近藤は岩城を始めとして声を出す周りの皆に負けないくらいの声量でグラウンドに声援を送った。

 

「野崎さん。2アウトです! バッター集中で、ここで切りましょう!」

 

(はい……! お2人に付き合っていただいて、新しく投げ込めるようになった……このボールで!)

 

(このピッチャーのストレートに振りまけないよう、気持ち早く……!?)

 

 近藤からの声援を受けた野崎はセットポジションからクイックモーションへと入り、ボールを投じた。野崎の速球に振り遅れないよう踏み込んだバッターがこのボールにバットを振り出すと、開いた身体の前を通過しようとするバットのかなり先にあるボールへ腕を伸ばすようにして上体が突っ込む形でバットは空を切っていた。

 

「ストライク!」

 

(しょ、初球からチェンジアップか……!)

 

(よし。完全に体勢を崩せたわね。……野崎さん、次はここに)

 

(落ち着け……私たちは先発をこのサウスポーって予想してたんだ。打つイメージを一番固めてたピッチャーだ。練習試合で変化量の大きいこのチェンジアップを投げたのは最後の一球、高波との試合でも最後の一球しか投げてなかった。そうそう連投はしてこないはず!)

 

 インコース低めのストライクゾーンで構えられた鈴木のミットに遅い球速で山なりに落ちてきたパームボールが収められると、完全にタイミングを外した空振りを取れたことに鈴木は口角を上げていた。対するバッターは大きく空振ってしまったことに焦りを感じると、一度息を吐き出して間を挟んでからバットを構え直していた。そして鈴木から出されたサインに首を縦に振った野崎から2球目が投じられる。

 

(狙い通りストレートだ! 振り遅れるな……!)

 

 真ん中低めへと速いボールが向かってくるのを感じたバッターは今度こそと意気込んでバットを振り切った。するとバットはボールの上を潜り、キャッチャーミットが心地良い捕球音を鳴らす。

 

「ストライク!」

 

(2つ目の低めのサイン通り、ストライクゾーンに入れにいかないよう低めに投げられました……!)

 

(上手くボール球を振らせられたわね)

 

(しまった! 低めに外れてたか! 速球に振り遅れないようにと始動を早めたから、見極めが甘くなったんだ……。……まずいな、追い込まれた。何で来る? 1球遊ぶのか、それとも3球勝負か? 球種は……? くっ、練習試合の時は選択肢がストレートだけだったから、タイミングを合わせることだけに集中出来たってのに……)

 

(バットを短く持ち直したわね。スタンスも心なしか狭くなったわ。……3球目はここにお願い)

 

(分かりました!)

 

 低めギリギリを狙うイメージで投じられたストレートはボール2個分低く外れていたが、バッターはこのボールに手を出しストライクとなっていた。0ボール2ストライクとなりここまでバットに当てられていないことからバッターは空振り三振を頭によぎらせながらバットを構え直すと、鈴木はそんなバッターのことを観察しながら次のサインを送った。そのサインに頷いた野崎から3球目が投じられる。

 

(うおっ!?)

 

 インハイへと投じられたストレートはコースは僅かに内に外れ、かつ高めに外れており、このボールをバッターは身体を引きながら見送った。

 

「ボール!」

 

「良いボール来てるわよ!」

 

「はい! ありがとうございます!」

 

(くっ、速いな。今のは振らせるつもりで投げたのか? それとも見せ球なのか? ……簡単にこのチャンスを潰すわけにはいかない。どんなボールでも食らいつくぞ!)

 

(……! 1ボール2ストライクから……ストライクを要求するサイン、ですか……! 際どいところをついていくという手もありますが……)

 

(下手にボール球を多くして相手にボールに慣れさせることはないわ。コントロールが武器の倉敷先輩なら丁寧にコースを突く選択も十分あるけど、あなたにはあなたの強みがある)

 

(……行きます!)

 

 1ボール2ストライクとなり、4球目。出されたサインに僅かに戸惑いを覚えた野崎だったが、その首を縦に振ると一度二塁ランナーの大咲の方に目をやってから投球姿勢へと入った。

 

(早く振りすぎるな……。……! ストレート! この、コースは……!)

 

 足が踏み込まれボールが投じられると、このボールに対してバッターは始動を溜めた分を補うようにコンパクトにバットを振り出していた。

 

「ストライク! バッターアウト!」

 

(アウトロー……!)

 

(や、やりました……!)

 

 アウトコース低め、やや中に入った大雑把なゾーンに投じられたストレートに短く持たれたバットが泳いだ体勢で振られると、バットの先を通過していったボールは軌道に合わせるように調節された鈴木のミットに収まっていた。

 ピンチを切り抜けられたことに野崎は小さく拳を握ると、3アウト目が成立したことで皆と共にベンチへと帰っていく。

 

「チェンジアップは結局最初の一球だけやったねー」

 

「最後チェンジアップで勝負する選択肢もあったはずだけど、あくまでストレート勝負で来たか。バッターの遅いボールへの意識を突いた良い配球だな」

 

「ストレートそのものにも自信がありそうやねー」

 

 スタンドから見守る大和田と相良が話している間に攻守が交代し、5回の裏の里ヶ浜の攻撃が始まった。先頭バッターとして右打席に入った阿佐田は投じられた初球にフルスイングで応じる。

 

「ストライク!」

 

(随分大きく空振ったわね……ストレート待ちだった?)

 

(……怪しい。バットの振りが大袈裟すぎる)

 

 真ん中から逃げていくスローカーブに対してフルスイングで大きく空振りした阿佐田に、キャッチャーからボールを投げ渡されたマウンド上の大咲は訝しんでいた。

 

(……先輩、続けてスローカーブを投げたらバッターの思う壺です。今のはスローカーブを待ってないと思わせるために、わざと大きく空振ったんです)

 

(首を振ったのだ。なら……)

 

(……! ストレートにタイミングが合ってる!?)

 

 ——キイィィィン。インハイに投じられたストレートが打ち返されるとライナー性の打球がサードの頭上を越えていく。打球はバウンドすると勢いよく転がっていき、レフトのミットに収められると、それを見た阿佐田は一塁を少し回ったところでブレーキをかけて一塁へと戻っていく。

 

(ふふふ、なのだ。さっき塁に出た時のプレーであのアイドルの演技力があおいを上回ってるのは分かったのだ。ならそれを踏まえて読み合えばいいのだ。あおいは勝負師として演技力で負けてても、駆け引きで勝てればそれでいいのだ)

 

(くそ……やられたわ。今のは誘われていた……!)

 

(それに先発との違いで戸惑いがちだけど、このピッチャーは野手上がりってこともあってボールの質はやっぱり先発と比べると劣るのだ。つばさかしのくもなら、きっと捉えてくれるのだ。だからここは……)

 

 ベンチから一斉に飛ばされた「ナイバッチー!」という掛け声を聞いて嬉しそうにしながら阿佐田は大咲の方を見ると、やがて決心したように右打席の前で立つ九十九にサインを送った。

 

(送りバントか。あおいにしては堅実な手だが、次の1点の重要性を考えれば妥当な作戦だろうね)

 

(バントか……。内野、前に。ここはやらせたくないわよ)

 

 サインを確認し右打席へと入った九十九がバントの構えを取ると、明條内野陣がバントを警戒して前へと出るシフトを取った。

 

(先発と違ってこのピッチャーは下から上へと伸びるようなイメージで備えよう。そして恐らくコースは鈴木さんに投じた……インハイだ。まずは上げないよう……!)

 

 投じられたインハイのストレートにバットが合わされるとコン、という音と共にボールがフェアグラウンドへと転がった。

 

(二塁で……!)

 

「みよ、無理よ! 一塁に!」

 

「うっ。は、はい!」

 

 打球はピッチャーの前に転がったが勢いがしっかり殺されており、二塁で刺そうとした大咲だったが、キャッチャーの指示で一塁への送球が行われるとバッターランナーの九十九はアウトになり、1アウトランナー二塁となった。

 

「九十九〜。ご苦労様なのだー」

 

(……あおい。ご苦労様は目下の者への労いの言葉だよ。後で説明しておかないと……)

 

「ナイスバントです!」

 

「後はお願いします」

 

「はい! ……!」

 

「おっと。明條、ここでピッチャー交代のようです」

 

(うむむ……ここでエースをマウンドに戻してきたのだ)

 

 ピンチを迎えた明條はここで大咲をショートに下げ、ライトを守っていたエースを再びマウンドへと上げていた。その様子に目を見開いた翼は、投球練習が始まるとタイミングを取りながらプレーの再開を待った。

 

「ランナーが得点圏に進んだらエースをマウンドに戻すことにしていたのかもしれないわね」

 

「なるほど! そうかも……」

 

「あのピッチャーは一度マウンドから下ろしたとはいえ……今のところ外野へのヒットは私たちしか打てていないわ。このチャンスは逃したくない……。アウトローへのスローカーブとインコースへの厳しいストレート、先ほど私たちはその2つの決め球を狙い打ったけど、ここは早めに勝負しても良いかもしれないわね」

 

「分かったよ。……行ってくる!」

 

 ネクストサークルまでやってきた東雲と話しながら自分の中で狙いを定めた翼が右打席へと入っていく。

 

(九十九先輩によるとこのピッチャーは外の速球のコントロールが甘い。もし甘く入ったら、迷わず打ちに行こう! 区別しにくいシュートを投げてくるかもしれないから、無理に引っ張らず流し打ちで……変化量が小さいから金属バットの芯なら流せば問題なく打ち返せるはず!)

 

(一度マウンドから離れたからすぐに集中をし直すのは難しいわよね。ランナーもちょこまか動いているし、まずは外に一球外しましょう。振ってくれたら儲け物ね)

 

(分かった)

 

 塁上から揺さぶりをかける阿佐田を目にしたキャッチャーは外に際どく外すサインを送った。そのサインを了承したエースは大咲を警戒して足が止まった阿佐田を一瞥すると、クイックモーションに入りボールを投じた。

 

(……! しまっ……)

 

 外の際どいコースへと投じようとしたストレートが中に入り、そのことに気づいたバッテリーの背中に悪寒が走った。その次の瞬間、鋭い金属音がグラウンドを満たすように響き渡った。

 

「ら、ライト!」

 

(しまった……! 中途半端に際どいところ狙わせたのが裏目にでた……!)

 

(やった……! これは上手く捉えられた……!)

 

 フライ性の打球があっという間に内野を越えていくとこの打球を背にライトが走りながら下がっていく。

 

(3回のあの走塁……みよちゃんは庇ってくれたけど、あの時もう少しスムーズに出来ていれば、試合の流れは全然違ってたはずなんだ。けどもうあの時には戻れない……だから、今この瞬間に……!)

 

「……! 阿佐田先輩、バックです! タッチアップに切り替えてください!」

 

「わ、分かったのだ!」

 

(えっ!?)

 

 この回から倉敷に代わり三塁コーチャーとして入った河北が指示を飛ばすとハーフリードを取っていた阿佐田が二塁へと戻っていく。走塁に集中していた翼はその指示に大きく驚いていた。

 

(……かかったわね。あの子の演技に)

 

 中継の位置取りをするセカンドの代わりに二塁のベースカバーに向かった大咲は、背走をやめて前へと向き直りミットを上に構えるライトに目をやると、打球がライトの位置まで来た瞬間、その構えをやめて再び背走を始める彼女の姿が映っていた。打球はライトの頭上を大きく越えたところでバウンドし、ワンバウンドでフェンスに当たって勢いよく跳ね返ってくる。

 

「えっ……。あっ、ゴー!」

 

「あっと! 映像を通して見る限りではライトを大きく越えていた打球でしたが、ランナーはスタートを切れていません!」

 

 河北は想定外のことに驚きながら阿佐田に指示を送ると、打球を見ていた阿佐田自身もしてやられたという表情を浮かべながら走り出した。やがて跳ね返ってきたボールが拾い上げられると中継のセカンドへと送球が行われた。

 

(……捕られると思って足を緩めてくれはしなかったか。ま、そりゃそうね……)

 

 全力疾走で走っていた翼は中継にボールが戻されたのとほぼ同時に二塁へと到達していた。その様子を見た大咲は頭の上でバツを作って二塁への送球をやめさせると、ボールを受け取ったセカンドはそのままホームへと送球を行った。

 

(うっ……これは無理なのだ)

 

 ほとんどタッチアップと同じ要領で走り出した阿佐田はホームへは突っ込むことが出来なかった。キャッチャーのミットにボールが届くと、三塁ベースを少し回ったところで様子を窺っていた阿佐田は三塁へと戻っていく。

 

「これは驚きの事態です! ランナー二塁からツーベースが放たれましたが、ランナーは還れず! どうやらライトが捕球体勢を取ったことで、捕れると思い込んだコーチャーがタッチアップの指示を送ったようです。ここに来て明條のトリックプレーが炸裂しました!」

 

(し、しまった……!)

 

 河北がライトの守備の意図に気づくとその顔が青ざめていく。

 

(さ、さっきの回で全て出来ることはやったと思って……まだ試合は終わってないのに、集中が切れちゃってたんだ。だからライトの体勢で誘導されて……選手としてはもうプレーに参加出来なくても、まだチームのためにやれることはあったのに……私のバカ!)

 

「ともっち。切り替えるのだ。確かに今のはやられたけど……チャンスは続いてるのだ。今みたいなことを繰り返さないためにも、ともっちもあおいもこれからのプレーに集中しなきゃなのだ」

 

「あ、阿佐田先輩……。……はい!」

 

 心情を察した阿佐田が自分自身への戒めも兼ねて三塁ベースを踏みながら河北に話しかけると、その言葉に河北は一度自分の頬を両手で挟むように叩き、はっきりと頷いた。

 

(……助かった。けど、今の一球はまずかったわ。中途半端なボールになった……なんのためにマウンドに帰ってきたのよ……!)

 

 キャッチャーからボールを投げ返されたエースは歯を噛みしめながら今の失投を悔いていた。

 

(……ランナー二塁三塁か。ここはあの子を一度落ち着かせる意味でも、守りやすくする意味でも……)

 

「キャッチャー、立ち上がりました。どうやらここは満塁策のようです」

 

「フォアボール!」

 

 続いて打席へと入った東雲に対し、明條バッテリーの選択は敬遠。はっきりと外されたボールが4球キャッチャーミットに届くと、東雲は一塁へと歩いていく。

 

(ま、満塁……!)

 

「さあ、1アウト満塁となり、打席には永井選手が入っていきます!」

 

 大きなチャンスの場面で打席が回ってきた永井は緊張した面持ちで右打席へと入っていった。

 

(かなかな。サインは……こうなのだ)

 

(こ、細かい指示ですね。犠牲フライ……ただし、狙いはインコースのストレート。……そうだ。このピッチャーにはクロスファイヤーを投げる時にリリースポイントが下がる癖があったんだよね)

 

(このピッチャーの決め球は高い精度で決まっちゃうと簡単には打ち返せないけど、かなかなのパワーなら来ると分かっていれば振りまけないはずなのだ)

 

(分かりました!)

 

 具体的な指示を送られたことでやるべきことがはっきりし、身体の硬さが取れていく感覚を覚えた永井はバットを構えた。

 

(さあ、落ち着いたよね。……頼んだわよ)

 

(……ああ。分かってる)

 

 明條バッテリーもサインの交換が終わり、エースがセットポジションに入った。走る緊張が静寂となってグラウンドを包み込んでいくと、その静寂を破るようにエースが投球姿勢へと入った。

 

(……! リリースポイントが下がった。インコースのストレート、打ち返すんだ!)

 

 ボールを投じる瞬間、リリースポイントが下がったことに気づいた永井はストレートのタイミングで踏み込むとバットを振り切った。すると、バットの先で捉えられた打球は高く打ち上がる。

 

「インフィールドフライ!」

 

「ああっと、インフィールドフライが宣告されました。永井選手の打球はセカンドフライです!」

 

(そ、そんな……タイミングはあったけど、ボールが中に入ってこなかった。外の……ストレート)

 

 高々と打ち上がった打球が落ちてくると、定位置から少し下り目に位置取ったセカンドが捕球する。

 

(……まさか。リリースポイントのこと……気づかれたのだ?)

 

(受けているだけじゃ気付きにくかったけど……ブルペンで横から見たらはっきりと分かったわ。クロスファイヤーの時だけ角度を意識しすぎて、リリースポイントが下がっちゃってるんだって)

 

(全く……アンタ本当に性格悪いわよね。ならアタシは意識して同じような高さで投げてみるって言ったのに、ただ直すだけじゃ旨味が無いって……わざとリリースポイントを下げて外に投げさせるなんてね)

 

(こんなのは一回やれば向こうも警戒するから、一回限りの策だけどね。出来ればゲッツーにさせたかったけど……振りを見るにフライを狙ってたのかな? 仕方ないか)

 

「——だからもう癖は当てにしない方がいいかも。うう……ごめんね」

 

「ドンマイドンマイ! 後は新田ちゃんにどーんと任せなさい」

 

 ランナーは変わらず満塁のまま、2アウトで新田が右打席へと入っていく。

 

(……こーなったら、狙いは一つ。甘く入ったら打つ。考えすぎも良くないっしょ。とにかくバットしっかり振って、タイミング合わせる! ……!)

 

 新田への初球として投じられたのはインコースへの厳しいストレート。リリースポイントが下がらずに投じられたボールに新田は手が出ずに見送った。

 

「……ボール!」

 

(ら、ラッキー……)

 

(悪くないけど、ちょっとボールがぎこちないな。小手先の感覚でリリースポイントの微調整をしてるんだ。リズムも乱れちゃうか……。……満塁だ。ボールカウントを悪くして押し出しはまずい。ここはシンプルにいきましょ)

 

(低めに全力投球……それだけ?)

 

(あなたの高低の角度がつくストレート、それが私たちのピッチングの軸よ。それを信じて投げ込んでちょうだい)

 

(……分かった)

 

 サインの交換が終えられ、2球目。低めを意識して投じられたストレートはアウトコース低め、やや中寄りへと向かっていた。追い込まれるまではバットが届くところに来るストレートに張っていた新田はバットを振り出す。するとバットはボールの上を捉え、弾き返した。打球は三遊間へと転がっていく。

 

(抜けてっ!)

 

(打球が速い! 届け……!)

 

 全ランナーがスタートを切る中、スピードの乗った打球に深い位置で大咲が飛びついた。するとミットの先で掴み取るようにボールが収められる。

 

(捕った!? けど、その体勢じゃ……あっ!? そ、そうだった……!)

 

 自身も経験したことのある体勢の悪さに一塁への送球は難しいと思った新田だったが、身体が大きく三塁方向に開いていた大咲は三塁へと送球を行っていた。翼がスライディングで三塁に滑り込んでいく中、判定が下された。

 

「アウト!」

 

 満塁であったためタッチプレーではなく翼が塁に触れるよりも一瞬でも早くベースを踏むサードに送球が届けばアウトになるフォースプレーであったことが災いし、際どいタイミングではあったがアウトの宣言が上がっていた。

 

(……あのバッター、練習試合の時も思ったけど結構器用にバットを合わせてくるのよね。それだけに勿体ないわ。練習試合でもインコースのボールを右方向に打ち返していたけど、右バッターの場合インコースは左に、アウトコースは右に打ち返す方が打球に伸びが生まれる。今のはアウトコースのを無理に引っ張ったから、ボールの伸びを失わせてしまっていたわね。だからみよが打球に追いつけた……あのバッター、もう少し広角に打ち分けられると嫌なバッターになるかも)

 

 満塁のピンチを凌いで安堵したキャプテンは一塁を駆け抜けて悔しがる新田を見ながらベンチへと帰っていった。

 攻守が交代し、6回の表の明條の攻撃は7番から。満塁のピンチを凌いだことで得点への意欲が高まっていた明條だったが……

 

(……! チェンジアップ!?)

 

 ストレートを軸とした配球で追い込まれた7番バッターへの決め球として投じられたパーム。ゾーンに入る甘いパームではあったが、完全にタイミングを外したボールになり、大きな空振りで三振に取られていた。

 

「明條は……ここにきて上位と下位の打力の差が明るみに出てきたな」

 

「今まではあの8番が打ってたから、打線の途切れを無くしてたけん。ばってん……」

 

 アウトハイのストレートに押されて打ち上がった打球はファールゾーンで構えた東雲のミットに収められ、2アウトになっていた。

 

(うー……サウスポーのボールだけはどうしても慣れないよぉ)

 

 左対左が里ヶ浜に有利に働き、8番バッターをサードへのファールフライに打ち取ると、続く9番打者は全力ストレートに振り遅れる形で空振り三振になり、明條の攻撃はあっさりと三者凡退で終了した。

 

(……この回、打席が回ってくる)

 

 6回の裏になり、7番に入った野崎が打席へと向かっていく中、ベンチでバッターとしての準備を進める逢坂は考え事をしていた。

 

(延長に入んなきゃ、これが最後の打席。……いや、延長がどうとかじゃなく、これが最後の打席だって思っといた方がいいわよね。……今のアタシに何が出来るかな。ホームランとか……打てれば最高なんだけど、結局練習でも打てたことは無いのよね。大黒谷たちだって、そうなんだろうな。さっきのライトのトリックプレーだって、あんなのとっさにやって、捕れると思い込ませたとしても、その後の処理にもたつくに決まってる。練習でやってないことは誰だっていきなり出来たりはしないんだ。……アタシがやってきたこと。その中に答えを探すしかないんだ。アタシは……やってきたことを全部認められているのかな。アタシは今まで目立つことに囚われて、守備だって大事なものを見落としていた。……なら、攻撃だって。何か……見落としているのかもしれない。それを……知りたい)

 

 高鳴る鼓動を感じながら逢坂は今までやってきたことを思い出すように目を瞑った。野球を始めて2ヶ月弱、翼や東雲に比べると決して長い期間では無かったが、それらが凄く密度の高いことのように今の逢坂には感じられていた——。




ちょっとごたついて時間が取れないので、次話の更新は8月17日の月曜日でお願いします。いつも通り20時9分に投稿する予定です。


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選び抜いた徒道

「体力大丈夫ですか? 先輩が投げるのは4イニングの予定でしたし、良ければまた得点圏にランナー行くまではアタシが……」

 

「6回に来て同点だからね……。こうなると後攻めのあっちが有利だし、ここはエースに任せなさい。……展開次第ではあっちもエースを出してくるみたいだしね」

 

「……! そういえば……途中まで三塁コーチャーをやってたのに、いつの間にか……」

 

 4対4の同点のまま迎えた6回の裏、里ヶ浜高校の攻撃。マウンドに向かうエースを追うように話しかけた大咲は促されるように相手ブルペンへと視線を移すと、先程の回から肩を作り始めている倉敷の姿が映った。

 

(鉄壁高校と試合した時は空に雲がかかってて気温も程よく低かったし、雨が降る前に試合が終わったから湿度もさほど問題なくてプレーしやすかった。でも今日は違う……雲一つありやしない。さっきアタシも投げた時に感じたけど、グラウンドは日差しが嫌になるくらい強く降り注いでる。これじゃあどうしても体力の消耗が激しくなる……!)

 

 相手ブルペンから視線を外した大咲は秋にしては高くなっている気温を恨めしむように晴天を睨みつけるようにして見上げた。眩しさからとっさに右手で日光を遮りながら言いにくそうに口籠る大咲を見てエースは少し考えた後、僅かに口角を上げて言葉をかけた。

 

「心配してくれるなら……そうね、次の回で点取って。出来るでしょ?」

 

「えっ」

 

 さも当然のことのように告げられた言葉に大咲は素っ頓狂な声を漏らしていた。

 

(それは……確かに延長に入らずに試合を終わらせられればベストだけど。先輩も5イニングの許容範囲内で収まるし)

 

「随分……無茶を言いますね。まだこっちはあのサウスポーからヒットも打ててないのに」

 

(でも……)

 

「出来ない?」

 

「やってやろうじゃないですか」

 

(アンタならそう言ってくれると思ったわ。頼んだわよ、うちの4番。……そしてアタシはエースだ。果たすべき役目は当然……!)

 

 驚いた顔をすぐに取り消してふてぶてしく笑ってみせた大咲を見て穏やかな表情を見せたエースはマウンドに辿り着きボールを拾い上げると、真剣な面持ちになってボールを投じ、投球練習を始めたのだった。

 

(そういえばこの方が初めてだったんですよね。私が初めて対峙した左投手……あの時はボールの見えづらさに驚きました。特にあのピッチャーはプレートの右端から投げることもあって、背中からボールが急に現れたように感じたのを覚えています)

 

 そんな投球練習を遠くから見つめる野崎は、初めて対戦した左投手のボールの軌道に違和感を覚えたことを思い出していた。

 

(ですが岩城先輩の提案で左投手の対策をすることになって、翼さんがお姉さんへの協力を取り付けてくれて……。私なりに少しずつ違和感を埋めていきました。今でも決して得意というわけではありません。右投手に比べると、やはり打ちづらいです……。ですが、多くの打席が回って低い打率になってしまうとしても、協力してくれた皆さんのためにもこの一打席だけは結果に繋げたい……!)

 

 一度練習のイメージを思い出すように素振りをすると丁度投球練習も終わり、7番バッターとして野崎が左打席へと入っていく。

 

(ちょうど里ヶ浜の攻撃も7番から……こっちも三者凡退で終わらせて、次の回に勝負をかけたいね)

 

(いきなりか……出鼻を挫いてやるってわけね)

 

 野崎がバットを構えると、ボールが投じられた。

 

(……! スローカーブ……!)

 

 視界の隅から入ってくるようなスローカーブに対して上げた右足が揺れてバットが止まると、緩く大きな曲がりで真ん中やや内寄りのコースからアウトコース低めへとボールが変化していき、ミットに収まった。

 

「ストライク!」

 

(タイミングが測りづらいですね……。……! ストレート……!)

 

 バットを構え直した野崎に次のボールが投じられる。アウトハイへと投じられたストレートにバットを振り出した野崎だったが、振り遅れる形でバットは空を切っていた。

 

「ストライク!」

 

(スローカーブとの球速差もあるだろうけど……そんな前に立ってたら、ストレートそのもののスピードについてくのも簡単じゃないよ)

 

(もう少し早く振らないと……けど、追い込まれてしまいました。幸いスローカーブは一度スイングを溜めても、なんとか間に合うはずです。ストレートの方にタイミングを合わせて……)

 

 3球目。一度首を振ったエースは次のサインに頷くと、短いステップ幅で踏み出し、オーバースローの投球フォームから投げ下ろすようにボールを投じた。

 

(膝下のストレート……! 前よりは見えてます!)

 

 インコース低めの際どいところに投じられたボールにタイミングを合わせた野崎がバットを振り出した。するとバットの芯より内側に当たったボールはゴロとなって大きく一塁線から逸れていった。

 

「ファール!」

 

(今のは……少しですが、変化したのでしょうか。以前より振り遅れなかった分、なんとかファールに出来ました)

 

(練習試合と同じようにシュートを引っ掛けてくれたら助かったけど……そうは問屋が卸さないか。なら……これはどう?)

 

(スローカーブ! ……低い!)

 

「ボール!」

 

(スローカーブは通常のカーブより球速が遅い分、変化量は大きくなるけど、スピードの遅さ故に正確な見極めもしやすくなるわ。打席の機会が来るかは分からなかったのに、ミーティングで纏めた情報がしっかり頭に入っているわね。野崎さんらしいわ)

 

 インコースから真ん中低めへと外れるスローカーブにバットを止めた野崎をネクストサークルから見た鈴木は落ち着いて打席に立っている彼女に感心していた。

 

(……やるわね。なら、ここで決め球よ)

 

(分かった。このボールは右バッターに投げれば抉りこむ形になるけど、左バッターには逃げていくボールになる。バットは届かせない。これで……空振り三振よ!)

 

(背中から来るようなこのピッチャーのボールを見極めるには、一度身体を開く必要があります。しかし完全に開いてしまうと内ならともかく、外にボールが来たらバットが届きません。だから右足を上げて身体を少し開いて、来ると思ったコースに右足を踏み込む。それが練習で私が掴んだ左投手の対策です!)

 

(タイミングは合わされたか! けど、完璧に決まった! いくらあなたのリーチでもこれは届かない!)

 

 5球目として投じられたストレートはアウトコースギリギリに向かっていた。プレートの右端から放たれたクロスファイヤーはその名に恥じないような鋭角な角度で、構えられたキャッチャーミットへと向かっていく。このボールに対して外に踏み出した野崎は、バットを振り出していた。

 

(届いてください……!)

 

(……!? そうか。このバッターが振り遅れるリスクを承知で前に立ったのは……!)

 

 構えられたキャッチャーミットの位置より中側を狙って振り出された野崎のバット。するとバットの芯でボールが捉えられ、快音がグラウンドを包み込んだ。

 バットから伝わる得も言われぬ感触に彼女自身も驚きながら野崎はその足を懸命に動かしていく。

 

(ま、まだ落ちてこないのか……!?)

 

 身を翻してボールを追うレフトだったが、その頭上を伸びのある打球が越えていく。バウンドした打球はフェンスに当たり跳ね返ってくると、ようやく追いついたレフトが拾い上げ、二塁へと向かって送球が行われた。

 

「セーフ!」

 

(や、やりました……!)

 

「夕姫ちゃん。ナイバッチー!」

 

「うおおぉ! よく打った!」

 

(やられた……! クロスファイヤーが完全に外へ逃げ切る前を捉えられた……!)

 

(くっ、ノーアウトからツーベースを打たれたか……)

 

 送球が届くより早く野崎が二塁へと到達し、ツーベースヒットとなった。その打撃結果に里ヶ浜ベンチも盛り上がりを見せる。すると準備万端といった様子で中野が東雲に話しかけていた。

 

「東雲! 準備は出来てるにゃ!」

 

(代走……確かに出したいところだけど、出たのはピッチャーの野崎さん。この試合、延長も視野に入れる必要がある。しかも野崎さんはまだヒットを許していない……)

 

「……ここは代走は送らないわ」

 

「うぬぬ……分かったにゃ」

 

(代走は送らないのね。なら、ここは私が確実にランナーを進めないと)

 

(バントか。このバッターはさっきの打席で送りバントに失敗してる。ここはランナーを進めずにアウトを取りましょう)

 

(分かった)

 

 ノーアウトランナー二塁となり、8番バッターとして右打席に入った鈴木は送りバントの構えを取っていた。そんな鈴木に対して1球目が投じられる。

 

(くっ!?)

 

 インコースを鋭角に抉るように投じられたストレートにバットの根本へと差し込まれる形になった鈴木は狭い部分でバントする形となり、ボールを捉えられず、打球は打ちあがっていた。

 

「ファール!」

 

(あ、危なかった……)

 

 後方へと打ちあがった打球はそのままバックネットに当たり、ファールとなった。そのことに安堵しつつ、鈴木は再びバントの構えを取り直す。

 

(今度こそ絶対にランナーを進める! ヒットを打てなくても、チームに有利な状況を作ってみせる……!)

 

(和香ちゃん……)

 

 ネクストサークルに座る逢坂が鈴木の迷いのない目に惹かれるものを感じていると、2球目が投じられた。ボールは再びインコースを厳しく突いたストレート。

 

(さっきも私は内のボールをバントし損ねた。やっぱりここは内一辺倒で来たわね。初瀬さんとのバント特訓は私自身、基礎に立ち返る良い機会だった。このボールを……芯より先で!)

 

 バットの根本へと向かってくるストレートに対して鈴木は目線をぶれないようにしながら、バットを手前へと引いていた。するとコン、という音と共にボールが転がっていく。

 

「サード!」

 

 バントを警戒して一歩前に出ていたサードが打球を処理しようと前へと出てくる。バントに合わせて走り出した二塁ランナーの野崎の動きとサードの守備を見ながら、キャッチャーはタイミングを見計った。

 

(バントの勢いを殺された! これは……三塁は間に合わない、か!)

 

「一塁に!」

 

 三塁でタッチアウトを狙いたい焦りを必死に抑えてキャッチャーは冷静に一塁への送球を指示した。その指示に応じるようにサードがファーストへと送球を行うと、バッターランナーの鈴木は余裕を持ってアウトに取られた。

 

(お、送れたわ。良かった……)

 

 アウトになった鈴木はベンチへと戻っていくと、その際身体から力が抜けていくような感覚を覚えており、今の打席にどれだけ自分が緊張していたかというのを実感していた。

 

「……和香ちゃん。ありがと」

 

「えっ?」

 

「おかげで……思い出したわ。アタシに足りなかったものを」

 

 ランナーが進んで1アウトランナー三塁。鈴木にすれ違い様にそう告げた逢坂はそのまま右打席へと向かっていく。

 

「内野、前に!」

 

 このピンチに明條はキャッチャーの指示で内野が前に出てくる。そんな内野陣を見ながら、三塁コーチャーの河北が野崎へと話しかけた。

 

「夕姫ちゃん。靴紐がほどけかけてるよ」

 

「えっ。あ……気付きませんでした」

 

「タイム!」

 

 タイムがかけられ、野崎が靴紐を結ぼうとしゃがんだところで近づいた河北が小声で話しかけた。

 

「夕姫ちゃん。私、精一杯判断するから……スタートするべきか、戻るべきか。だから、信じて欲しいんだ」

 

「ともっちさん。……はい。勿論ですよ」

 

「ありがとう」

 

 先程の回ライトのトリックプレーに騙された河北は汚名返上すべく、三塁コーチャーとしての責任を果たそうと必死だった。そんな彼女の声色から覚悟を察した野崎は優しく返事をすると、プレーが再開された。

 

(絶対三塁ランナーは還さない……!)

 

(アタシは前の練習試合のスタメン陣の中で唯一このサウスポーと対戦してない。まずは……ボールを見よう)

 

(みよから聞いたこのバッターの性格を考えれば、スクイズは恐らくない。なら初球はセオリー通り、ヒットにしにくいコースから入ろう)

 

(夕姫ちゃんは中野さんみたいに駿足ってわけじゃない。内野も前に出てるし、打球をよく見定めよう……!)

 

 互いの考えが交錯する中、三塁ランナーを一瞥したピッチャーはボールを投じた。アウトローへと投じられたストレートを逢坂はバットを出さずに見送る。

 

「……ボール!」

 

(少し低かったか……! けどボールは悪くない!)

 

「良い高さよ。その調子で攻めていきましょう!」

 

(分かってるわ。外野も少し前に出してるし、ここは高めに入る甘いボールは厳禁でしょ)

 

(なに今の角度……これがみんなが言ってた、角度のあるストレート。本当に上から降ってくるみたいじゃない)

 

 僅かに低めに外れてボールとなったが要求通りのボールにキャッチャーは手応えを感じており、対する逢坂はそのストレートの角度に驚いていた。

 

(ヒットを打つには早い話、横にバットを振る必要があるわよね。けどこのピッチャーのボールは上から下に、特にスローカーブはこれ以上の角度で……つまり、空振りしやすいってことになるのかな)

 

 ボールが投げ返されると、今度はしばらく間を置いてから2球目が投じられた。ボールはインコースの低めへのストレート。逢坂はこのボールにバットをピクッと反応させたが、そのままボールを見送った。

 

「……ストライク!」

 

「ナイスボール!」

 

(このピッチャーのボールを無理にすくいあげても、きっとアタシのパワーじゃ浅い外野フライになる。かといってこれだけコースに決まったストレートをバットを横に振って打ち返せるかは微妙……まだいまいち軌道が掴めてない。一打席で見極めきれる自信は……ない。なら、アタシの狙いは一つ。球速が遅くて見極められる可能性のあるスローカーブ……!)

 

 この2球で長身から放たれる低めのストレートは簡単に合わせられないと感じた逢坂はスローカーブに照準を絞ってバットを構え直した。そして3球目が投じられた。

 

(んっ!?)

 

 一転してインハイを突いてきたストレート。顔の前を通過するような軌道に逢坂は思わず身を引いてこのボールを見送った。

 

「ボール!」

 

(よし! 身体を起こした!)

 

(将来の大女優の顔にぶつける気……!? って前にもこんなことがあったわね。確かあれは清城との練習試合の時……)

 

 そして4球目が投じられた。外に大きく外れるようなコースへと投じられたボールに逢坂は迷わず外へと踏み出した。

 

(なっ、踏み込んだ!?)

 

(前のボールの残像で次のボールのコースが入ってるのに、外れてるように見えさせられることがあった。これは……外からストライクゾーンに入ってくる! けどまだよ。龍ちゃんとの特訓を思い出すのよ! カーブは身体が前に突っ込んじゃったら打てない……!)

 

 そして外へと投じられたスローカーブが緩く大きい曲がりで変化していくと、アウトローの際どいコースへと向かっていた。

 

(まだよ……まだ……今!)

 

 足を踏み込んだ状態でバットのトップを崩さず、そのまま始動を溜めた逢坂は溜めた分を解放するような腰の回転でバットを振り出した。

 

(このバットの動きは……!)

 

 トップから振り下ろすように振られたバットに気づいた河北はバットがスローカーブを捉えようとする瞬間とほぼ同じタイミングで声を張り上げた。

 

「ゴー!」

 

 ——キイイイィン。響き渡る金属音に乗って三塁ランナーの野崎はスタートを切った。

 

(叩きつけた!? くっ、抜かせない……!)

 

 スローカーブの軌道に合わせるように上から下に振られたバットから放たれた打球はすぐさま強く地面に叩きつけられていた。その打球がバウンドして大きく跳ねて上に伸びていくところを、ピッチャーが長身を生かして掴み取るように捕りにいった。

 

(なっ!?)

 

「みよ、バックホーム!」

 

「は、はい!」

 

 打球は伸ばしたミットの先を越えてそのまま上へと伸びていくと、やがて失速して下へと落ちてくる。ピッチャーの後ろに回り込んだ大咲はこのボールが落ちてきたところをジャンプして捕ると着地と同時にホームへと送球を行った。

 

(還ってみせます!)

 

(やらせない!)

 

 ホームにボールが届くと、スライディングで滑り込んできた野崎とのクロスプレーになった。そして球審からの判定が響き渡る。

 

「……セーフ!」

 

「くっ」

 

 その判定に苦い表情を浮かべながらすぐにキャッチャーは一塁へと送球を行った。

 

「……アウト!」

 

(アタシはアウトか。けど……やったわ)

 

 際どいタイミングだったが、僅かに送球が早く届きバッターランナーの逢坂はアウトになった。しかしその顔には笑みが浮かんでおり、自分がアウトになったことを意に介している様子はなかった。

 

「……有り得ない……」

 

 大咲は送球した後、立ち上がるのを忘れて逢坂のことを信じられないものでも見るような表情で見つめていた。そしてそんな彼女と全く同じ言葉を、テレビを通して見ていたゆかりも漏らしていた。

 

「……有り得ない……」

 

「えっ? どういうこと?」

 

「今のここちゃんのバッティングは明らかに狙ってた。でも目立ちたがりやのここちゃんがそんな身を呈するようなバッティングをするなんて……少なくともアタシの知ってるここちゃんじゃ、絶対にしない……」

 

 友人の変遷にゆかりも大きく驚いていると、当の本人は里ヶ浜ベンチへと帰って、野崎と共に部員から祝福の嵐に包まれていた。

 

「逢坂さん。さっきのことだけど……どういう意味だったのかしら」

 

「ほら、紅白戦の最初の打席の時に和香ちゃんがアタシに声をかけてくれたでしょ。あれを思い出して……。今アタシが目立つことに囚われて、見逃していたことに気付けたんだ」

 

「そうだったの。……嬉しいわ」

 

 するとグラウンドから金属音が響き渡り、続いて捕球音が響いた。阿佐田がスローカーブを打ち返した当たりはピッチャーライナー。3アウトとなって6回の裏の里ヶ浜の攻撃は終わった。

 

「みよ、ごめん……」

 

「……先輩、思い出しませんか? 前の練習試合も一点差で負けてる状況で7回の表、キャプテンからの攻撃だったんです」

 

「あ……そういえば」

 

「ピッチャーもあの時と同じなんです。“舞台は整った”。そう考えましょ」

 

「……そうね。今度はあの時と同じ結果にはしない」

 

 7回の表、明條学園の攻撃は1番を務めるキャプテンから。円陣を作らせてチームに檄を入れたキャプテンは気合いの入った眼差しで右打席へと入っていく。

 

(このピッチャーのなにが厄介って球威だ……。少しでも芯を外したらボールの力に持ってかれちゃう。ここまでの攻めを見るに、初球はまず低めだ……。高めなら球威に押されて上げちゃうかもしれないけど、低めならいける!)

 

(セーフティバント!?)

 

 低めに集めると読んでヒッティングの構えからバントの構えへと移ったバッターは真ん中低めやや内寄りに投じられたストレートにバットを合わせると、サード方向へと転がったボールを横目にスタートを切った。

 

「サード!」

 

(意表を突けた! 間に合う……!)

 

 ストレートが低めにきたこともあり上手くボールを転がせたバッターランナーはその駿足を飛ばして一塁を駆け抜けた。

 

「……アウト!」

 

(えっ!?)

 

 一塁を駆け抜けたバッターランナーはその判定に驚くように振り返ると、ジャンピングスローの余韻で砂塵を舞わせる東雲の姿を捉えた。

 

(まだ野崎さんからヒットを打てていなくて、この回点を返さないと負ける状況。足の速い1番打者の選択として、セーフティバントはあり得ると思っていたわ)

 

 セーフティバントを予想していた東雲は万全のスタートを切っており、意表を突いたと感じたバッターランナーの思うほどのリードは取れず、アウトとなっていた。

 

「東雲さん、ナイスプレー! ワンナウトー! 後二つ、しっかり締めよう!」

 

 ファーストベースから足を伸ばして送球を受け取った翼が野崎へとボールを投げ返すと、指を1の形にして皆を鼓舞していく。

 

「東雲さん、ありがとうございます」

 

「当然のことをしたまでよ」

 

(そうは言いますが、凄い汗ですね……。いけるところまで投げて体力を大幅に消耗した上で、あれだけの守備を。5回まで投げて頂いたおかげで私はまだ余力が残っています。東雲さんが必死に繋いでくれた投球を……無駄にはしません!)

 

 東雲の体力の消耗は激しいことが野崎には感じて取れた。気丈に振る舞い、いつも通りの守備をこなす東雲の姿を見た野崎は感じ始めていた腕の疲労も和らいだような気がしていた。

 

(みよちゃんだ。みよちゃんに回せばきっと何とかしてくれる。だからここはフォアボールでもなんでもいい。とにかく塁に出るんだ!)

 

(今のを見てセーフティは無い。もし仕掛けても翼や東雲さんならアウトに出来るはず。となればストレートで押していきましょう。……野崎さん、連戦のリリーフの疲れもあるでしょうけど)

 

(全力投球を出来るだけ低めに……ですね。分かりました!)

 

 ランナーが出ずに1アウトになり2番打者が右打席へと入っていくと、先ほどまでの打席と同じようにバントの構えを取っていた。そんなバッターの様子を見定めた鈴木はバスター打法で来ると読むと全力投球のサインを送った。それに頷いた野崎は投球姿勢に入り、右足を垂直方向に上げるとそのまま振りかぶらずに右足を踏み出し、リリースする寸前まで縫い目に触れるようにしていた指先からストレートを放った。

 

(甘く入ってる。当たって!)

 

 ヒッティングに切り替えたバッターはバットを引いてきた軌道を辿るようにバットを振り出した。投じられた真ん中低めやや中寄りのストレートがキャッチャーミットへと唸りを上げるように向かってくると、スイングが最後まで振り切られ、その後ろで強烈な捕球音が鳴った。

 

「ストライク!」

 

(速い……! さっきからストライク先行で来てるから、フォアボールは狙えないかな。ならコンパクトに振って、まず当てないと……)

 

 振り遅れる形で空振りとなったバッターはバットを短く持ち直し、少しでもボールに振り遅れないようバッターボックスの一番後ろまで下がって投球に備えた。

 

(なんとしても当てようというわけね。……野崎さん)

 

(え!? ここで……四隅のサインですか?)

 

(このバッターは野崎さんの速球についていけてないわ。なら早く振ろうとして見極めは甘くなる。多少外れたとしても手を出してくれる可能性は十分にあると思うわ)

 

(……分かりました! 四隅もあれだけ練習してきたんです。思い切って狙ってみます……!)

 

 追い込んだ後に振ってくれたら儲け物という形で投げることの多かった四隅のサインが来たことに目を丸くした野崎だったが、覚悟を決めて首を縦に振ると、胸の前でミットを構えた。高架下にある9分割された的を思い出し、投げるイメージを頭の中に染み込ませるようにした彼女の指先からボールが放たれる。

 

(膝下!)

 

 インコース低めを厳しく狙って投じたボールはコースはストライク上だったが、高さが僅かに低めに外れていた。しかしストレートのタイミングに合わせるのが精一杯だったバッターはそのことに気づく間もなくバスター打法で振り出したバットでボールを打ち返していた。

 

「ショート!」

 

(き、来たあ……!)

 

(しまった。ショートゴロ……!)

 

 放たれた打球はショートへの弱いゴロ。バッターが焦りを覚えながら走り出す中、新田は懸命に前へと出てくる。

 

(まずしっかり捕って……あっち向いて、投げる! ……! やばっ。ちょい逸れた……!?)

 

 ミットでボールを突かないように気をつけながら捕球の直前で減速した新田はボールをミットに収めると、ボールを取り出しながら一塁ベースへと足の向きを変えて、送球を行った。すると送球を少し焦ったのか、身体を開いて投げたボールは足の向きからは右へと逸れてしまった。

 

(届く!)

 

 このボールに翼は一塁ベースから離れるとミットを伸ばして送球を受け取り、目の前まで来ていたバッターランナーに直接タッチを行った。

 

「アウト!」

 

(ああっ……!)

 

「さ、サンキュー有原!」

 

「ドンマイ! 今のはしっかり投げても間に合うよ。落ち着いていこう!」

 

「お、おっけー……」

 

(投げようとした瞬間ランナーが目に入ったのか、少し動きがぎこちなくなったわね。あのバッターは右打者で足もさほど速くはない。おかげでタッチアウトに出来たけど、慌てる場面では無かった。……やはり初めての公式戦、試合の締めとなるかもしれない瞬間は緊張してしまうみたいね)

 

「周りをよく見て! あなた一人で守っているわけじゃないわよ!」

 

「東雲……」

 

 もう少し逸れていたらエラーという送球に固くなってしまった新田だったが、東雲に言われて視界がバッターの方にばかり向いていたことに気づき、周りを見渡した。すると歓声に紛れていたが永井からも声が送られていたことに気づいた新田は肩にのしかかる重みが薄れていくような感覚を覚えていた。

 

「さぁ、2アウトだよ。声出していこう!」

 

「つ、ツーアウトー! ばっちこーい!」

 

(……まずいな。経緯はどうあれ2アウト目が取られて、いよいよあっちのムードだ。このままだと飲み込まれる……!)

 

 そんな新田に翼が声をかけると新田を中心に里ヶ浜守備陣が勢いづくように声が出始める。そんなムードに圧迫されるような思いを抱きながら3番バッターが右打席に入っていった。

 

(対戦してきて……確かに里ヶ浜は良いチームだと思うよ。けどうちだって負けないくらい良いチームだ。こんなところでは終わらせない……!)

 

 地面をならしながら一塁側明條ベンチの方を見つめたバッターは息を深く吐き出すと、引き締まった表情でバットを構えた。

 

(野崎さんの球威なら……このバッターのドアスイングを詰まらせるには十分。インコースを攻めていくわよ!)

 

(はい!)

 

(ここまで私にはずっと内だ。バントの時まで内で来られたし、このキャッチャーは私が内が打てないと思ってるに違いない。……先発のピッチャーの球威でようやくセカンドの頭をギリギリ越えるヒットを打てたんだ。確かにこのピッチャーの内は……打てないかもね)

 

 そして3番バッターへの初球。野崎は鈴木の要求通り内へストレートを投じた。

 

(なら……内を外にする。それしかない!)

 

(えっ!?)

 

 ネクストサークルに座る大咲が驚いた表情を見せる中、バッターはバッターボックスギリギリまで身体を左へと動かし、内へと抉るように投じられたストレートを真ん中から外のポイントにするようにしてドアスイングでバットを振り抜いた。鋭い金属音と共に放たれた打球はあっという間に内野を越えていく。

 

(届いて……!)

 

 センターへと放たれた当たりに永井は後ろに下がりながら必死に追いすがっていくと、落ちてきた打球に追った体勢のままミットを伸ばして捕りにいった。

 

(ああっ……!)

 

 しかし打球は伸ばしたミットの先でバウンドした。永井は捕りにいったことで体勢をふらつかせながらも、体勢を立て直してこのボールを追っていく。やがて外野フェンスに跳ね返ってきたボールが拾い上げられると、迷わず中継に向かっていた新田へとボールを戻した。すると新田まで届いた送球を確認したバッターランナーは二塁を少しだけオーバーランしてすぐにベースを踏み直した。

 

「ナイバッチ!」

 

「繋いだー!」

 

(……先輩のあの立ち位置は外のボールを強く打てる強みを残しながら内に対応出来るように練習したスタンス。それを……崩した。アタシたちになんとしても繋ぐために、築いてきたスタンスを崩してでも、目の前の出塁に拘ってくれたんだ……)

 

「明條、ここでツーベースのランナーが出ました。そして打順は4番……大咲みよ選手に回ります!」

 

(この土壇場で大黒谷か……)

 

 2アウトランナー二塁となり、拳を握りながらネクストサークルから立ち上がった大咲がゆっくりと右打席へと向かってくる。逢坂は鈴木の外野前進の指示を受けて前に出ながら、彼女のことを意識していた。

 

(あの時と同じ轍は踏まない……!)

 

 歓声を背に打席へと入った大咲は射抜くような視線で目の前のピッチャーを見つめると、バットを構えたのだった。



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ヒロインは……

(この試合に負けたら、苦労してようやく取り付けられたテレビ放送もここで切られる。それだけじゃない……。アタシたちのチームはようやく殻を破って、大きく変わり始めた。……ここはまだ終わりじゃない。終わりになんか……させるもんですか!)

 

「負けないでー!」

 

「お願い……!」

 

「みよちゃん、打てるよ! 落ち着いてボール見ていこう……!」

 

「あなたの思うように振ってきて! 防具着けて待ってるからね!」

 

 一点差で負けている明條にとっては点が入らなければ最終回となる7回の表、2アウトランナー二塁の場面。スタンドからの切実な声援がより一層激しさを増す中、スタンドだけでなくベンチからの仲間の必死の声出しも背に大咲は右打席へと入っていった。

 

(後が無くなった相手チームの攻撃は鬼気迫るものを感じます。高波との試合もそうでした……。最後のアウトが遠くに見えます。あの時は結局守備に助けられての決着でした。私に……抑えられるでしょうか)

 

 早々に2アウトまで追い込んだもののツーベースヒットを放たれた野崎は、一回戦で高波との試合でも先頭バッターの中条をリズム良く三振に取った後連打を浴びてピンチを迎えてしまったことを思い出しており、その表情は冴えないものだった。

 

(うぅ……凄い声援なのだ。思わず守ってるこっちが気圧されるような、そんな迫力があるのだ。……ん?)

 

 明條の決死の応援に阿佐田は思わず身を竦ませていると、そんな野崎の表情が目に入った。

 

「ゆっきー。リラックスリラックスなのだ〜。一回深呼吸しとくのだー」

 

「は、はい!」

 

(助かります阿佐田先輩。上手く間を取ってくれたわ。今のうちに私も考えを整理しておかないと。…………よし。初球はこれでいきましょう)

 

 阿佐田のアドバイスで野崎が息を吸ってゆっくりと吐き出すと幾分かは落ち着いた様子だった。彼女が自分のペースでプレートに戻ったところで鈴木はサインを送ると、そのサインに頷いた野崎が投球姿勢へと入った。

 

(どう来る? ……! いきなりチェンジアップ! けどこれは……)

 

 投じられた初球はパームボール。これが外に大きく外れると、見送られてボールとなった。

 

(前の練習試合ではこのボールに空振り三振に取られてゲームセットになった。キャッチャー、澄ました顔して揺さぶってくれるじゃない……!)

 

(野崎さんのパームはまだ大雑把に低めに投げるのが精一杯。外野も前に出しているし、ここは見せ球として使って……)

 

(一つ目のクロスファイヤーのサイン、ですね。分かりました。こちらのサインはストライクを狙って……!)

 

 ボールが投げ返され、2球目。鈴木はさりげなく立ち位置を内へと動かすと投じられたインコース真ん中へのストレートを構えたキャッチャーミットで受け止めるように収めた。

 

「ストライク!」

 

(……先発した右投手との錯覚か? 先輩のクロスファイヤーとはまた違ったきつさを感じるわ。……!? また同じ球!?)

 

 続いて投じられた3球目はインコース真ん中やや低めへのストレート。これに反応した大咲はバットを振り出した。

 

(くっ! 差し込まれた!?)

 

 振り出したバットはストレートを弾き返したが、打球はフライ気味のライナーとなって一塁側ファールゾーンへと飛んでいく。鈍い当たりが響いた瞬間、不安の溜め息がスタンドから漏れ出たが、フェアゾーンから大きく離れた打球に捕球は不可能と考えた観客は静かにその打球を目で追っていた。

 

(……! 嘘でしょ!?)

 

「すいません! そこ空けて下さい……!」

 

 同じように捕球は難しいと考えていた明條のキャプテンは驚いていた。打球はふらふらと吸い込まれるように一塁側の明條ベンチへと向かっていたが、その打球に反応良く走り出していた翼がすぐそこまで迫っており、打球に当たらない程度に避けようとした明條の部員は慌てて離れていた。

 

(捕るっ!)

 

(翼さん!?)

 

 明條ベンチ手前まで来た翼はベンチ前の柵の手すりにお腹を預けるようにしてファールグラウンドに右足を残したまま左足を浮かせて身体を伸ばし、上から落ちてくるような軌道ですぐそこまで迫っていた打球へと左手にはめたミットで懸命に掴み取りにいった。

 

(うそ……)

 

 明條キャプテンは思わず目を見開いた。勢いで傾く身体を右膝を柵に当ててなんとか堪えた翼はバランスを持ち直して両足をファールグラウンドにつけると、彼女のミットの中にはボールが入っていた。

 

「ファール!」

 

(えっ!?)

 

(うー、やっぱり。ちょっと打球の軌道が変わったのは気のせいじゃなかったんだ。多分ベンチの上の横壁、あそこの角のところに先に当たっちゃったんだ)

 

 届くかどうかギリギリの打球と思っていたミットの先より手前側での捕球になったことに違和感を覚えており、審判のファールの宣言に納得していた。

 

(た、助かった……)

 

(やるわね。アタシの打球に捕球が認められるギリギリまで食い下がってきたか)

 

「夕姫ちゃんごめん! アウトに出来ると思ったんだけど……」

 

「い、いえ! ナイストライでした!」

 

 明條キャプテンが思わず冷や汗を掻く中、翼が悔しそうに内野へと戻っていく。諦めずに打球を追った翼の挑戦に三塁側のスタンドを中心に拍手が送られていた。

 

(……そうでした。私のボールの力だけで抑える必要はないんです。後ろではこんなに頼もしい皆さんが支えてくれているのですから。今は鈴木さんのリードに精一杯応えられるようなボールを投げ込むことだけ考えましょう)

 

 今の翼のプレーで必要以上に気負っていた自分に気づいた野崎は硬くなっていた表情が和らいでいくと、背中で皆の声を感じながら、前へと向き直った。

 

(先輩と違ってあのピッチャーはスリークォーター。オーバースローより横から投げてくるから右から左への角度がつく上に、球速も先輩より速い。だから差し込まれたってわけね)

 

 打ちづらさの要因を分析しながら大咲はバットを構え直した。そんな彼女の構えを見上げるように窺いながら鈴木は意を決して野崎へとサインを送る。

 

(……! それは……)

 

(大丈夫。布石は打ってきたわ。ただし入れにいくんじゃなく、厳しく狙っていきましょう)

 

(……分かりました!)

 

 そして4球目が投じられた。

 

(……! なっ、決め球も……クロスファイヤー!?)

 

 インコース低めの際どいコースへと投じられたストレート。このボールに大咲は虚を突かれていた。そしてバットを振り出すことが出来ずに見送られたストレートが鈴木のミットへと収まると、その威力で鈴木のミットが流れていた。

 

「……ボール!」

 

(くっ。今ので決めたかったのに、ミットが流れてしまったわ。ボールが通過したゾーンは変わらないけど、ここまで流されてしまうと審判に与える心証は大きく変わってしまう。折角ここまでの打席を布石に、内を攻めたのだけど)

 

(ここまでアタシへの決め球は必ず外だった。多分練習試合でホームラン打ってやったのが効いてると思ってたんだけど……危うくやられるところだったわ。ゾーンを広く意識しないと……)

 

(本当は3打席目の彼女の打席は外を中心に攻めて内で仕留めるつもりだった。決め球の前に打たれたことでそうはいかなかったけど。彼女は今、どっちの意識が強いかしら? ……内に野崎さんのスピードのあるストレートを3つ続けた。なら、ここは……)

 

(またストレート! ……!)

 

 投じられた5球目はストレート。これがアウトコースへと向かっていくと、内に備えるように左足を引こうとした大咲は焦りを覚えていた。

 

(タイミングは合ってる。このっ……!)

 

(スイングを崩した。空振り三——)

 

 泳いだスイングに鈴木は三振の確信を得たが、その手にストレートの衝撃を感じなかったことに驚いていた。

 

「ファール!」

 

(やらせない……!)

 

(なっ。あ、当てた……!?)

 

 腰が引けるような体勢から無理やり上体を外へ伸ばすようにしてバットを振った大咲の打球はボテボテのゴロとなって一塁側ファールゾーンへと転がっていた。無理なスイングで振った大咲はスイング後、バランスを崩して前から崩れ落ちたが、砂を軽く払うと再びバットを構え直していた。

 

(……あれはアイドルの大咲みよじゃない。格好とか、プライドとかかなぐり捨てて、何がなんでも食らいついてやるって……。子役時代からよく知ってる、アタシがライバルとして認めた大黒谷美代子だ。アイツはそういうの表に出さないって思ってたけど、それだけ本気で野球に懸けているってことか……)

 

「……」

 

 ライトから見つめる大黒谷の姿に思うところがあった逢坂は声出しも忘れて目の前で起こっている景色に集中していると、6球目が投じられた。真ん中高めに投じられたストレートに大黒谷はバットを振り出していたが、スイングを途中で中断してこれを見送っていた。

 

「ボール!」

 

(高めの釣り球、野崎さんのボールも良いところに来ていた。この土壇場でなんて集中力をしているの……)

 

(フルカウントに持ってこれた。アタシをフォアボールで出せば、ただで逆転のランナーを出すことになるわよ)

 

「……試合を見ながら、聞いてちょうだい。特に一年生はしっかり聞いて」

 

「草刈キャプテン?」

 

「私たちはこれまで先制して差をつけたまま勝利を掴むことが出来たから、最終回をビハインドの展開で追うことは無かった。けどこれから先、勝ち進むにつれてそういう展開になることもあり得るわ。追う側も追われる側も不安や焦れに襲われ、積み重ねてきた自信の層が問われることになる」

 

「自信の層……ですか」

 

「そうよ。今は大会中だからこうして連戦の日々が続いているけど、私たちが野球に占める時間の多くは練習。試合、特に本番は練習に当てた時間に比べると本当に一瞬の出来事……けどその一瞬に力を集約させられるよう、私たちは厳しい練習に耐え抜いてきたわ」

 

「本当に北山監督の練習は容赦なかと……」

 

「ふふ、確かにね。けど、だからこそ私たちは自信の層を厚くすることが出来る。追い込まれ、プレッシャーを感じることもある。最後のバッターになるかもしれない、不安に直面しなければいけないこともある。そんな時は……今までの練習を思い出して。練習は嘘をつかないわ。自分がやってきたことに偽りが無いなら、迷いは捨て去れる」

 

(……『チーム一の自信家を目指しなさい』って藤原先輩は言ってくれた。その考えは私たちの世代にも引き継がれているんですけど)

 

 スタンドで界皇のチームメイトにキャプテンのレナがそう伝えていると、大黒谷への……ラストボールが投じられた。投じられたのはパームボール。これがアウトコースの低めへと落ちていく。

 

(……それを……待ってた……!)

 

(ここまでストレートを続けたのに、タイミングが……崩し切れてない!?)

 

(まずい! アタシと同じだ。アタシと違うのはストレートはなんとか当ててカットしてたとこ、アイツの狙いはハナから練習試合で仕留められた……!)

 

 大黒谷の表情から逢坂が危機感を覚えたのも束の間、上から下へと落ちてくるパームの軌道に合わせるように大黒谷がアッパー気味に振り出したスイングはボールの芯から右の部分を捉え、打球が放たれていた。

 

「ライト!」

 

(……! あ、アタシのところに来た……!)

 

 二塁ランナーが迷わずスタートを切り、打った大黒谷も走り出す中、前進守備を取っていた逢坂も打球に反応して走り出す。

 

(アタシはチェンジアップが利き手側に沈むと読んで、微調整して振った。けどこの感触は……!)

 

 一塁を目指しながら大黒谷は打球を視界に収めた。打球は内野をライナーで越えていくと、ライトを守る逢坂の正面へと向かっていた。

 

「これは……ライト正面! ギリギリ届きそうだ! 明條、万事休すかー!?」

 

(逢坂さん……!)

 

 三塁側里ヶ浜ベンチからこの打球が描く放物線を横から見る形になった宇喜多は逢坂の守備範囲と打球の落下地点を予測して危惧を抱いた。

 

(ライトライナー。アタシがダイレクトで捕れば……アイツの打球をアタシが捕れれば……。もう、打球はすぐそこ。迷ってる暇はない。迷うくらいなら……!)

 

(止まった!?)

 

 スピードに乗って走っていた逢坂だったが、ダイビングキャッチを試みず、急ブレーキをかけていた。

 

(……! ボールが急に下に落ちて……この打球、見覚えがある。小麦ちゃんの……ってことは)

 

 するとライナーで逢坂に向かうように放たれた打球は強いドライブ回転によって逢坂の目測より早く地面に向かって落ちてきていた。そしてバウンドすると逢坂から右方向に逃げるように跳ねていき、それを読んでいた逢坂は身体を右に向けて一歩踏み出すようにしてこの打球をミットに収めた。

 

「ここっち!」

 

「はい!」

 

 そしてボールが中継に入った阿佐田へと送られると、ボールを受け取った阿佐田は身を翻してランナーの状況を確認する。すると送球は行わずに野崎へとボールが投げ返された。

 

「ライト前ヒットで繋ぎました! しかし浅い当たりと、里ヶ浜の前進守備が功を奏したか、2アウトで迷わず走り出したランナーも還れず! これで2アウトランナー一塁三塁となりました!」

 

(危なかったわ。もし飛び込んでたら、届かなかった……。迷うってことは自信が無いってこと。自信が無いってことは一か八かのプレーになるわ。アタシは今、茜ちゃんの代わりに立ってるのにそんなプレーするわけにいかないもの。ダイビングキャッチで勝負を決めたヒロインってのも惹かれたけどね……)

 

 3回目の守備のタイムを取って敷くべきシフトを相談する内野陣を横目に逢坂はベンチの方に振り返った。するとベンチの奥で横になっている宇喜多が秋乃の肩を借りて柵の近くまで来て、精一杯の声援を送り出していた。

 

「宇喜多さん。安静にしないと……」

 

「ご、ごめんなさい。けど、せめて今だけは……茜も一緒に戦いたいんです」

 

「だいじょーぶ! こむぎが足痛くないように支えるから!」

 

「……分かったわ。けど、無理はしないでね」

 

「はい……!」

 

 そしてそんな里ヶ浜ベンチの様子は逢坂だけでなく、内野陣も気づいていた。

 

「勝って茜ちゃんに勝利をプレゼントしましょう!」

 

「うむ! あかねっちが怪我したから負けたなんて言わせないのだ!」

 

 タイムが終えられ、それぞれのポジションに選手が散っていく。

 

(打つ……!)

 

 エースナンバーを背負う明條の5番打者が左打席へと入っていった。里ヶ浜が内外野共に定位置に着いたことを確認すると、バットが構えられる。

 

(初球は……これよ。ストライクゾーンに入らなくてもいいわ。さっきの打席は明らかにストレートを待っていた。このボールは見せておく必要がある……!)

 

(はい!)

 

(こういう時に奇襲をかけられるよう練習したフォースボークだけど……焦って初回にもう使ってる。一試合に2回決められるような作戦じゃないわ。ここは頼みます。先輩!)

 

(さっきは球威に押されて上がっちゃったけど、タイミングは掴んでる。今度は振りまけな……!?)

 

 投じられた初球はパームボール。低めを狙って投げられたこのボールは早くも曲がり始めてホームベースにバウンドする形になったが、完全にストレートのタイミングで張っていたバッターは早いタイミングで空振っていた。

 

「ストライク!」

 

「野崎さん、ナイスボールよ!」

 

「鈴木さんもナイスキャッチです!」

 

 ボールがバウンドしたことで後逸を窺った三塁ランナーだったが、無事ミットに収めた鈴木がボールを投げる体勢を取ると慌ててベースへと戻っていった。

 

(ブレーキがかかるチェンジアップとしか思ってなかったけど、今のはパームボールの握り。……ちっ、外に逃げないわけだわ。一般的なチェンジアップの握りで投げてなかったんだから。あの握りじゃ真下にしか落ちない)

 

 先ほど真芯を捉えるつもりで振った大黒谷は思うような変化にならなかった理由に気付いて顔をしかめていたが、すぐに切り替えるとボールを受け取った野崎への意識を高めていた。

 

(クイックはやめたみたいね。まあ、左だからアタシは決めつけで走りにくいし、2アウトだから妥当か。けどあの特徴的な握りが見えたら走ってやるわ……!)

 

(さっきの大咲さんの打席ではストレートで仕留められないことに焦れて、パームをゾーンに投げさせてしまったわ。けどもう迷わない。あくまで野崎さんの決め球はストレート。パームは見せ球に留めて……!)

 

(……落ち着くのよ。パームの連投はそうそうない。追い込まれるまでは狙いは変えるな……!)

 

 そして2球目。野崎の足が垂直に上げられ、大黒谷は包み込むような特徴的な握りが見えないことからスタートを自重すると、足が踏み出されてボールが投じられた。

 

(来た!)

 

(前に踏み込んだ!?)

 

 やや高めながらアウトコースに厳しく投じられたストレート。このボールにバッターは前へと踏み出していた。

 

(アタシの狙いはアンタに打たれたクロスファイヤー! これをボールが外へ逃げ切る前に……打ち返す!)

 

(新しい投球フォームにして、磨き上げてきたストレート。鈴木さんも自信を持って要求してくれました。クイックもやめて、今投げられる最高のストレート……これで勝負です!)

 

 ——キィィィン。前へと踏み込んで振り出されたバットがボールを捉え、金属音と共に打球が放たれた。

 

(……投げ勝っている!)

 

(……! 伽奈先輩、まさか……!?)

 

 放たれた打球はレフト線へのフライとなって内野を越えていく。全ランナーが走り出す中、定位置にいた九十九がこの打球に向かって前に走り出していると、ある可能性が逢坂の脳裏によぎっていた。

 

(さっきアタシは予め前にいて捕れなかった。これを……ダイレクトで捕る気!?)

 

(くっ、落ちろ……!)

 

(あのバッターはデータによればプルヒッター、外のボールでも多少強引に引っ張ってくる特徴があったはず。この打球は流したんじゃない。球威に押されて、詰まらされたんだ。詰まった打球は滞空時間が……長くなる!)

 

「はっ……!」

 

 打球がスライスして外に流れていく軌道の落下地点を狙って九十九は飛び込んだ。

 

(……凄い……)

 

 届かない。そう思った逢坂だったが、ダイレクトで掴み取られたボールを見て、素直に凄いと感じていた。

 

「アウト! アウトです……! 明條、あと一点が遠かった……! レフトの九十九選手のファインプレーにより、ゲームセットです!」

 

(負けた……)

 

 懸命に走り二塁を回ろうとした大黒谷はアウトのコールを聞いて、身体中に込められていた力が急に抜けていくような感覚を覚えていた。

 

「……くそっ……!」

 

 そして一度空になったような心に湧き上がってきた感情が爆発したように膝をついて思わず地面を叩いた。

 

(大黒谷……)

 

 外野から整列のために戻ってきた逢坂はそんな彼女の様子を見て非常に驚いていた。

 

「…………」

 

(……アイツなら、一人で立ち上がれる。何よりアタシの手助けなんて大黒谷は求めてない……)

 

 驚きながらも彼女に手を差し出そうとしたが、それを思い留まった逢坂は彼女の後ろをただ通過していった。

 

(……負けちゃったか)

 

「……さあ、みんな整列よ」

 

「キャプテン……」

 

「ほら、急いで! 相手を待たせちゃダメよー」

 

「は、はい!」

 

 明條のキャプテンはアウトのコールを聞いた瞬間、天を見上げた。やがてその顔を下ろすと皆に声をかけ、一番にベンチから外へと出ていった。

 

「……また1点が届かなかった。なんで、たった1点なのに……」

 

(……その問いに答えるのは簡単だけど、でも今は)

 

「ほら、立って」

 

 一塁を踏んだエースは自身がヒットを打っていれば届いた点差ということもあり大きなショックを受けていた。そんな彼女にキャプテンは手を伸ばすと、力一杯引き上げて立たせた後に手を離した。

 

「試合は対戦相手がいるから成立する。その相手への礼が終わるまでは試合は終わらない。あなたが今抱えてるものも……試合の後で、ね?」

 

「……ああ。分かってる……」

 

(よし。後はみよ……あら)

 

 自分の足で整列に向かったエースを見たキャプテンは最後に二塁の方に振り向いたが、既に立ち上がって整列に向かう彼女の姿を見て目を丸くしていた。

 

(…………悔しいわよね。悔しくないわけない。私だって……。頑張ったから負けても仕方ないなんて思わない。けど、だからこそ……あなたは立ち上がった。悔しいから、もっと前に進むために……)

 

「両校、礼!」

 

「「ありがとうございました!」」

 

 互いの礼がグラウンド上で交錯すると、キャプテンは翼に握手を求め、翼もそれに応じてキャプテン同士の握手が行われた。そんな彼女たちを包み込むような拍手で、試合は締められたのだった。

 試合が終わってしばらくの時間が経ち、里ヶ浜高校は荷物を纏めて球場の外へと出ていた。

 

「二人ともお疲れ様」

 

「ほんとに疲れたよ咲ー」

 

「わたしも……明條が派手なプレーをするから、なんかそわそわしちゃって」

 

 崩れるようにじゃれて倒れかかる新田を近藤が受け止めていると、永井も今日の試合は暑さも相まってか疲れた様子だった。

 

「でも二人とも、前の練習試合の時と違ってノーエラーだよ」

 

「わたしは危なかったけどねー」

 

「確かに危なかったところはあったわ。……貴女たち二遊間は特にね」

 

「うっ! 私も……だよね」

 

「あれ? 河北はなんかミスしてたっけ。わたしは最終回やっちゃいかけたけど……」

 

「初回のやつ……だよね」

 

「そうよ。貴女たち2人は結果エラーにならなかったけど、危ないプレーがあった……それは忘れないようにして欲しいわ。次に出るときのためにもね」

 

「「はーい……」」

 

「反省も大事だけど……それでもノーエラーは凄いと思うな。そこは胸を張っていいと思うよ」

 

「だよね!」

 

「全く……貴女って人は」

 

「あはは……でも頑張ったところも褒めて貰えると嬉しいのは分かるよ」

 

「……今度から気をつけるわ」

 

「ところで……宇喜多さんは大丈夫?」

 

「えと……まだ痛い、かな。でも九十九先輩が言うには多分二週間程度で腫れは引くって。念のために掛橋先生と野崎さんと一緒にこれから近くにある病院に行ってくるね」

 

「先生は分かるけど……夕姫ちゃんも?」

 

「なんでも病院の場所を知ってるって……もしかして前に行ったことがあるのかな?」

 

「そ、そうなんじゃないかな。とにかく、大事に至らなそうで良かったわ」

 

「あ、ありがとう近藤さん」

 

「どうしたの咲。そんなに慌てて」

 

「そ、そんなことないわよ? それより今日の試合、初瀬さんに助けられたわよね。あのピッチャーのクセを見抜いたりして」

 

「い、いえ。そんな……たまたまですよ」

 

「……そんなことないよ。初瀬さんが、レギュラー決め終わってからコーチャーのこと聞いてきて……丁寧に目の前のことを頑張ったから気付けたんだよ」

 

「そうだよ! だから自信持って!」

 

「は、はい……! ありがとうございます!」

 

「茜、師匠に安静にした方が良いって言われてて……茜もそうした方がいいと思うから……次の試合も初瀬さんに一塁コーチャー、お願いしたいんだ」

 

「……分かりました! 精一杯やらせていただきます!」

 

 試合の興奮が冷めやらぬ中、里ヶ浜部員は帰舎後の反省会を待たずに互いを労いながら、良かった点や反省点を洗い出していた。

 

「……アタシ、やっぱり伽奈先輩が気に入りません」

 

「また突然ですね」

 

「あんなカッコいいプレー……本当はアタシがやりたかったんですから」

 

「なら機会が来たらやれるように、これからはもっと守備に注力すべきですね」

 

「むぐ……言われなくても分かってますー」

 

 九十九に難癖をつけていると正論を突きつけられて逢坂は頬を風船のように膨らませていた。すると、来訪者の存在にいち早く気づいた。

 

(大黒谷。……目の下が赤くなってる……)

 

「有原さん。これ、受け取ってもらえますか? ファンがこの大会のために私たちに送ってくれた千羽鶴なんですけど……」

 

「は、はい! 受け取らせていただきます……!」

 

 圧倒されるような量の千羽鶴に緊張しながらも翼がキャプテンとして大咲からそれを受け取ると、その手に感じた重さは千羽鶴によるものだけではない気がしていた。

 

「……今日はみよ達の負けです。けど、みよ達へこたれてませんから! また勝負して下さいね!」

 

「もちろんです! また精一杯戦いましょう!」

 

 翼に千羽鶴を託した大咲は明るくそう言い放つと背を向けてゆっくりと歩き出した。すると逢坂の横を通るところで歩みを止めないまま話しかけた。

 

「また1からやり直すわ。アタシは止まったりしない」

 

「分かってる。アタシも、アタシの道を進んでみせるわ」

 

「ふん……なら、アンタは先に進んで見てきなさい。高校女子野球でもトップと名高い界皇高校の野球を」

 

「見るだけじゃない。越えてやるわ」

 

「実力差があっても?」

 

「だから諦めるなんて、そんなのつまらないでしょ」

 

「相変わらずね。……安心したわ」

 

 通り過ぎる僅かな時間で交わした会話。その内容に満足したように笑った大黒谷はそのままこの場を去っていった。

 こうして秋大会2回戦、明條学園対里ヶ浜高校の試合は4対5で里ヶ浜高校の勝利によって幕を閉じた。

 

 ——その翌日。

 

「……もしもし」

 

「大咲くんかね? 朝早くから失礼」

 

「いえ……大丈夫です。それで用件はなんでしょう?」

 

「実はだね……秋大会の放送枠の件なんだが」

 

「ええ。分かってますよ。アタシ達が試合に負けたから、大会の放送はそこで中止に……」

 

「その予定だったが……実は反響が予想以上に大きくてね。特に3回の表の君達が仕掛けた策を防いだケースが珍しいらしく、これが取り上げられたことをきっかけにどうやら注目が集まってるみたいなんだ」

 

「本当ですか!? ということは……」

 

「ただ視聴率(すうじ)がネックでね。兼ねてから懸念していたように君が敗れたことによって、『タッチアップ』のセンターが出ているという理由での視聴が望めないのはやはり痛い」

 

「うっ……やっぱり、そうですか……」

 

「と思っていたんだが、染矢くんが案を出してくれてね」

 

「染矢さん……ってプロデューサーの方ですよね」

 

「ああ。確かに君の所属する明條が敗れた……その影響はあるだろうが、君を響くんと一緒に実況解説という形で参加させるという方法であれば低下を抑えられるという案だった。これに加えて先程の注目を考慮すると、総集編を流すよりは大会の放送を継続した方が良いだろうという結論に至ったよ。後は君の返事次第だが……やってくれるかい?」

 

「も、もちろんです! やらせていただきます!」

 

「君ならそう言ってくれると思ったよ。詳しい連絡はまた——」

 

(トリックプレーには野球のルールが詰まってる。アイツらがあのプレーを防げたのも、ルールを知ってたからだ。……それが評価して貰えるのはもっと先のことかと思ってたのに……!)

 

 電話が切られ、静寂が場を満たす中、大黒谷は震える拳をぎゅっと強く握りしめたのだった——。




次話は一週間空けて、再来週の投稿とさせていただきます。


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色なき風が楓を揺らしていく

女の子の可愛らしい表情の代表格として照れ顔が挙げられるが、個人的には膨れ顔を推していきたい。


(……ゆかちゃん。途中からほとんど解説してくれなくなっちゃったなー)

 

 明條学園と里ヶ浜高校の試合が終了した頃、宿舎のテレビを通して試合を見ていたゆかりは放送が終わるのとほぼ同時に立ち上がっていた。彼女の友人は先ほどまで隣で座って一緒に見ていたゆかりの背を見上げるようにして見つめる。

 

「……野球部って夏の大会は二回戦で負けたんだっけ」

 

「あー、そういえばそうだったねー。サッカー部と一緒で夏が初めての公式戦で、二回戦までいけたところも同じだったから一時期話題になったよねー」

 

「へ……あっ、そんなこともあったねぇ」

 

「……?」

 

(どうしたんだろ。ちょっとビックリしてた? 独り言のつもりだったのかなー)

 

「あ、キャプテン。走り込みいってきていいですか?」

 

「ゆかちゃんランニング行くの? 私も行くー!」

 

「ん。いいけど明日試合なんだし、無理しちゃダメよ。程々にね」

 

「私がついてるから大丈夫ー!」

 

「いや、あなたが勢いに乗ったら止まれないから心配なのよ……。よろしくね、ゆかり」

 

「はーい」

 

「むー……」

 

 意気揚々と胸を張った彼女だったが、心配そうな表情を浮かべたキャプテンに頬を膨らませると、ランニングに向かうゆかりの背を追って共に宿舎から出て行った。

 

「んー、そろそろ休憩挟もうか」

 

「はっ……はっ……そ、そうだね……」

 

「大丈夫? サイドバックはスタミナも大事だよー」

 

「はぁ……ふぅ。自信……あるんだけどねー。ゆかちゃんが凄いんだよ……軽くって言っても午前中も身体動かしたのにー」

 

 ランニングを始めてからしばらくの時間が経ち、まだ余裕が残っているゆかりに対して彼女は肩で息をしていた。そんな彼女に気づいたゆかりの提案で二人は木陰を探して、一度休憩を挟む。

 

「ふぅ……今日、あっついねー」

 

「最近涼しかっただけに余計にね」

 

 雲一つ無い青空から降り注ぐ日照りが一帯を照らしており、木陰に入った彼女達は手を団扇がわりにして仰いでいた。

 

「明日もこんな感じなのかなー?」

 

「んーと……平気じゃないかな。天気予報で今日が夏みたいに暑いだけだって言ってたよ」

 

「そっか。良かったー。明日の相手、夏負けちゃったとこだもんね。良いコンディションでぶつかりたいもん」

 

「……そうだねー。お、そうこう言ってるうちに風吹いて来たよ」

 

「涼しー……わっ」

 

 ほとんど風が吹いていなかったこともあり暑さを強く感じていた二人は吹き始めた風で幾分か楽になっていた。そんな中、急な強風で舞った楓の葉が飛んできて、驚いた彼女はとっさに目をつぶる。すると楓が貼り付くように彼女の額で受け止められ、舞った砂利が目に入らないようにとゆかりが背中で風を遮ったことで、恐る恐る目を開けた彼女の手に収められた。

 

「ふう……急に風強くなったね」

 

「あ、ありがとー」

 

「どういたしまして。およ? 楓かー……紅葉の季節だもんねえ」

 

「綺麗だねー」

 

「そうだねえ。そういえばお姉ちゃん……あ、じゅり姉のほうね。お姉ちゃんが綺麗な楓の葉を押し葉にして、本読む時のしおりにしてるんだ」

 

「へー! お洒落だね! もしかしてわざわざ手作りで?」

 

「そうそう。じゅり姉は結構優柔不断でさ、占いとか花言葉とかよく気にするんだよね。それもあって楓はお気に入りみたい」

 

「そうなんだー。楓の花言葉って何かなー?」

 

「よく聞かされたから覚えてるよ〜。楓の花言葉はね、『大切な思い出』だよ。……お姉ちゃんにはぴったりだね」

 

「大切な……思い出……」

 

 その言葉を聞いた瞬間、彼女は胸に抱いていた嫌な予感がおぼろげなものから鮮明なものへと変わっていくのを感じていた。

 

(もしかしてゆかちゃんは野球にまだ思い入れが……? 昔やってたのは知ってるけど、本当はまだ野球を続けたかったとしたら……)

 

 楓越しに野球部のグラウンドを見つめていたことや、ゆかりが翼と連絡を取った時に自身から離れていってしまうような気がしたことを思い出した彼女は今のゆかりの屈託のない笑みを見ても安堵を覚えることが出来ずにいた。

 

(そういえば……私、ゆかちゃんに一杯相談に乗ってもらってるのに、ゆかちゃん自身のこと……全然知らない。今何を考えて、何を感じてるのか……全然分からない……)

 

「そろそろ休憩終わりにしよっか」

 

「……う、うん」

 

(き、聞かないと。こんなに何も知らないままじゃ私……ゆかちゃんの友達だって、胸を張って言えないよ)

 

「あ、あのさ!」

 

「どしたの?」

 

 背を向けて走り出すゆかりに彼女は焦燥感を覚えると、一度大きく深呼吸を挟んでから走り出し、声をかけた。

 

「ゆかちゃんにとって野球は……大切な思い出なの?」

 

「あたしにとっての野球かあ。……どうしても聞きたい?」

 

「……聞かせて欲しいよ」

 

「そっか。……んん……ま、いっか。今日はなんか誰かに話したい気分なんだ。さっきあの試合を見たせいかな……」

 

「……!」

 

 彼女は今ゆかりを追い越して、あるいは隣に並んでゆかりの表情を窺うことも出来た。しかし背中越しに聞こえたゆかりの声色はいつもとさほど変わらないように感じられたのにも関わらず、その表情を見ることが怖く感じられ、そのまま返答を待っていた。

 

「……でも分かんないや」

 

「えっ。どういうこと?」

 

「あたしにとって野球が大切な思い出なのか……あたしにとって野球はなんなのか……。自分でももうよく分からないんだ」

 

「そんな……どうして?」

 

「理由は……はっきりしてるかな。あたしはずっと野球から逃げてきたから……。向き合うのが怖くて、逃げ道をずっと探し続けてきたら……元々進んでた道がどこにあったか、分からなくなっちゃった。きっとそういう理由だと思う」

 

「ゆかちゃん……で、でもほら。チュリオーズの試合見てたりはするんだよね」

 

「ん……そうだね」

 

「じゃあまだ……野球が好きだって気持ちはあるんじゃないかなー?」

 

「……多分、ね。あたしは今でも野球が好きだと思う」

 

「うー……じゃあ、その……野球部に入りたいなー、とか思ってたり……?」

 

「それはないかな」

 

「どうしてー?」

 

「まずあたしは元々野球の次にサッカー好きだったし……それに」

 

「それに?」

 

「……なんでもない。それが一番の理由だよ」

 

(……。ゆかちゃん、気付いてるのかな。今走るペースが上がったこと……)

 

 彼女はゆかりの背中が遠くなっていくように感じていた。そしてその原因がゆかりが無意識の内にペースを上げたからであることは、一緒に走っていた彼女にはよく感じられていた。彼女もペースを上げるとゆかりから離されないよう必死に追いかけていく。

 

「さっきの、野球から逃げてきたって……どういうこと?」

 

「……プレッシャーだったんだ。あたしにとっての野球はあたしが気付いてないうちから、誰かと比べられる野球だった」

 

「比べられる……ゆかちゃん運動神経抜群だもんねー」

 

「……そんなことないよ。あたしなんか全然才能ないし」

 

「えー? そんなことないことないよー。半年以上ずっと一緒にやってるから分かるもん。ゆかちゃんは元々運動神経凄いし、練習も全然手を抜かないしで、見たことなくても分かるよ。野球もきっと凄く上手かったんだろうなーって」

 

「……ありがと。でもあたしより凄い人なんて一杯いるんだよ」

 

「んー、いるかもしれないけどさ。ゆかちゃんが凄い! ってのは変わらないと思うなー」

 

「……! ————」

 

(……? 今、なにか小声で呟いた? 『みんながそう考えてくれたら、あたしはきっと……』?)

 

「……ふー。久しぶりに吐き出してすっきりしたよ」

 

「えっ。でもまだ聞きたいことが……」

 

「宿舎に帰ってからまた聞くよ〜。さ、ペース上げるよー」

 

「あっ、待ってー!」

 

 振り向いたゆかりの表情がいつもの屈託のないものとはまた違うが、確かにすっきりしたように感じられて、彼女は少し安堵を覚えていた。ペースアップしたゆかりについていこうと慌てて自身もペースを上げると、風も先ほどより強く感じられるようになった。逆風の中、前へと踏み込んだ彼女は手にした楓の葉を持っていかれないようにしっかり握ると、ゆかりの背中を追っていくのだった。




久しぶりに試合無しの回。何かしらの勝負の後、続けて勝負だとちょっと息が詰まる感じがするなと思ったので、この話で一気に次の試合! といくよりは一旦落ち着いて丁寧にいきたいという結論に。
とはいえ次話は34話からずっと続いていた水曜日から日が進む(はず)。
色々触れつつ、次の次あたりの話で試合が始まるような感じでやっていく予定です。


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山から谷間へと

出落ち注意。


来た来た来た来たぁー!……はぁ……眠くないのにだるぅ……

 

 高波高校キャプテン、中条明菜。秋大会に敗れた彼女たちは練習の日々を送っていた。上げられたトスに昂った彼女が大声を上げながらバットを振り出すと、快音と共に放たれた鋭い打球が目の前に設置されたネットのポケットに突き刺さり、そして見る見るうちに声量が下がっていった。

 

「急に生活習慣を変えたから、身体が順応しきれてないのよ」

 

「キャプテン」

 

「元、ね。今はあなたがキャプテンでしょ」

 

「……そうだった。今は私が……。私がキャプテン……ふふ……ふふふふふ……!」

 

「きょ、今日は随分乱高下が激しいわね」

 

(無理もないか……。明菜は身体が寝た状態から極度に興奮することでゾーンに入ることが可能になった。ただその代償として自律神経のバランスが乱れた状態に身体が慣れてしまった。今、生活リズムを元に戻すということは、それに逆行するということだもの。……それでも)

 

「トスバッティング……打撃の基礎を固めるにはいい練習ね」

 

 元キャプテンである高波OGが様子を見にくると中条を良く知る彼女からしてもその不安定さはいつも以上だと感じられていた。そんな中、彼女が周りを見渡すと中条だけでなく他の部員もトスバッティングの練習に励んでいるのが見受けられた。

 

「里ヶ浜に負けてからみんなで話し合いました。キャプテンが主導して私たちが負けた原因を徹底的に探ったんです」

 

 中条とパートナーを組む部員がカゴから取り出したボールをバットを構え直したタイミングで放る。今度は芯を外してワンバウンドで鈍くネットを揺らした打球を横目に彼女はOGの方へと振り返って、静かにそう告げていた。

 

「そうね。誰かのせいにしても仕方ないもの。同じ過ちを繰り返さないためには逃げずに向き合って、そこから学ぶ……それが本当に大事なことよ」

 

「はい。キャプテンも次勝つためにもこの負けを無駄になんかさせないと言ってました」

 

「あー、きつぅ……ほら次っ!」

 

「あ、はい!」

 

 話に気を取られかけた彼女の意識が中条の一声によって呼び戻されると身体の向きが元に戻り、トスバッティングがペースを落とすことなく続けられていく。そしてそのペースを維持したまま話も続けられた。

 

「ふっ! ……まず負けた原因の一つは私が得点圏にランナーがいない時、身体が寝た状態で打てるはずがないこと。私の打席が潰れるだけじゃなく、チームにまで負担をかけてた」

 

「……明菜の驚異的な得点圏打率を生かすために、明菜の前にチャンスを是が非でもつくらなければいけなくなった。つまりあくまで点を取るための手段に過ぎなかったのに、いつのまにかその手段がみんなに課せられた重荷になってしまったってことね……」

 

「正直、私はこの生活習慣を変えるつもりはなかった。最初は怠惰で偶然見つけたものかもしれないけど、それを直してしまうことで……もうチャンスで今までのように打てなくなるんじゃないかと……怖かった。けど、それでみんなに迷惑かけてちゃ意味ない……!」

 

(……明菜はあの0から100に沸騰するような異常なゾーンで想像出来ないような快感があったはず。それを二度と味わえないかもしれない状況に自ら身を置くってことはその快感と同じレベルの虚脱感を感じてるはずよ。……それでも今、明菜は必死に変わろうとしている)

 

 高波OGが中条の表情を覗くと非常に辛そうな風に見て取れ、その理由は体力的なものだけではないと感じられていた。

 

「それに……大きな原因がもう一つありました。あの試合で私たちは5安打2得点、強打が売りの私たちにしては物足りない結果です。2得点もキャプテンの犠牲フライによるもの……持ち味の勝負強さを封じられたのはキャプテンだけじゃなく私たちにも理由があると考えたんです」

 

「確かに……明菜の特徴を生かそうとした影響もあるかもしれないけど、5安打は私たちにとっては少ないと言っていい数字ね」

 

「はい……。”強打の高波“、この称号に私たちは自惚れてしまったんだと思います」

 

「どういうこと?」

 

「この称号を築き上げてきたのは……私たちの世代じゃありません。先輩たちの世代です」

 

「得点圏にランナーがいない時、繋ぐ意識が無かった私が当然のように凡退してもそれを補って余りある打線、それがこの新チームにも引き継がれていると思い込んだ……。過信した……! 私たちには強打という強みがあるって……疑わなかった」

 

 二人にそう言われ、高波OGは彼女自身が一部となって築き上げた高波の打線を思い返した。後輩たちにプレッシャーをかけまいとする心意気とそれを実現出来る確かな地力を彼女たちは持っており、その上級生が作り出した波に伸び伸びと自由に振らせてもらっていた下級生の打線も乗って大量得点に繋がるケースが多かったことからいつしか周りから“強打の高波”と評されるまでになっていた。

 

「なるほどね。もしかしたら私たちのフォローも足りなかったのかもしれないわ」

 

「……それは違う……。先輩がこんな私にキャプテンマークを託したのは、そのことに私たち自身が気付かないと意味がないことが分かってた……!」

 

「そうだったんですか?」

 

「……そうよ。練習中にうたた寝したり、得点圏にランナーいないとバットも振らなくなった明菜をキャプテンに指名するのは反対も多かったわ。けど、それをきっかけにあなたたちに自覚して欲しかったの。世代が変われば、目指す野球の形も同じままじゃいられない。あなたたち一人一人が今の高波というチームを築き上げていくんだってことをね」

 

「…… One for all, All for one。1人はみんなのために、みんなは1つの目的のために」

 

「きゃ、キャプテン? どうしたんですか……?」

 

 打球をネットに突き刺した中条がぽつりと漏らした言葉にパートナーは彼女のイメージと合わないフレーズと感じたようで目を丸くしていた。

 

「先輩がキャプテンマークと一緒に託してくれたメッセージ。その時はよく分からなかったけど、里ヶ浜に負けた時に……足りなかったものに気付くきっかけになってくれた」

 

「そうだったんだ……」

 

 バットを振り切った体勢で右腕の袖口につけたキャプテンマークを見据えた中条は一度目をつぶると、最後の打席で見た光景を可能な限り思い出してから目を開け、実際にバッターボックスに入っている時のように地面をならしてからバットを構え直した。

 

(明菜は元々チャンスに強いバッターだったけど今の得点圏打率7割9厘と比べてしまうと一般的なものだったわ。けど、その時は得点圏にランナーがいなくてもまるで打てないわけじゃなかった。……まずは原点回帰、ね)

 

 上げられたトスに合わせて中条が静かにスイングに入ると、芯でボールが捉えられ、低く強い打球がネットに突き刺さっていた。

 

「数あるバッティング練習の中でトスバッティングは遠くに飛ばしたり速い打球を打つことじゃなく、正確に打ち返すことを目的にした練習。今の明菜にとって、一番必要な練習かもしれないわね」

 

「はい。……それに私たちの強みは、やはり打にある。けどそれは今までのようにはいかない。またこうして基礎から全員で見つめ直して、新たな“強打の高波”を一から築き上げていくしかない……!」

 

「私もみんなもキャプテンに賛成しました。過信を捨て去るためにも、今の自分たちの現状を受け止めて、そこから前に進もうって」

 

「よく分かったわ。だから今は全員基礎的な練習メニューを中心に取り組んでいるのね」

 

 周りを見渡した高波OGは部員それぞれが一つのスイングにしても流れで雑に入らず一球一球集中して振っている様子を見て、全員が同じ目的を見据えて練習に励んでいることを感じていた。

 

(心配で様子を見に来ちゃったけど、余計な心配だったみたいね)

 

春こそ見せつけてやる……! 強打の高波の真骨頂をーっ! ……あー、喉痛い……

 

 そしてそんな部員をキャプテンとして自分なりのやり方で引っ張る中条を見た高波OGは安堵の笑みを漏らすと静かにその場を離れ、ベンチにノートを置いていた。

 

(後は身体に負担をかけずに『ゾーン』に入る方法……その模索のヒントになってくれたら良いんだけど。……私に出来るのはここまでね)

 

 高波と里ヶ浜の試合が終わってから医学部を志望する彼女なりに調べ上げたフロー理論についてのノートを置いた高波OGは中条につられるように声を出して練習に励む後輩たちの姿を視界に収めながら、その場を去っていくのだった。

 

 高波のように秋大会のトーナメントから敗れ、次に向かって動き出しているチームは他にもいた。

 

「ぎゃっ!?」

 

「結ー! 腰が高いよ! もっと落として!」

 

「わ、分かったー!」

 

 さきがけ女子高校のグラウンドではシートノックが行われていた。ファーストを守る芹澤は放たれたゴロを弾いてしまい、気を取り直して次に放たれたゴロをやや不格好な体勢でキャッチしていた。

 

「足が動いてないよー。ほら、見てて」

 

 交代して入ったもう一人のファーストが次に放たれたゴロに対し、足を動かして打球の正面に入り、綺麗に捕球する。

 

「わぁ……もう、肉離れは大丈夫みたいだね」

 

「大会の時は心配かけちゃったね。もう平気だよ。……って、それよりほら」

 

「う、うん。……あれっ!?」

 

「うーん……足動かすのに意識向けすぎてまた腰が浮いちゃったね。それだと一歩目が遅くなっちゃうよ」

 

「ごめーん。次こそ気をつけるから……!」

 

(うぅ。秋大会でも初回にエラーしちゃったし、こりゃスタメンには入れなさそー……。……はっ、いけないいけない。こんな調子じゃ、あの練習試合の二の舞になっちゃうよ)

 

「そういえばさ、今日二回戦を突破した里ヶ浜って私たちと同じ新設の野球部なんだって」

 

「え!? そうなの……!?」

 

(凄いなあ……。……待てよ。同じ条件であたしたちは一回戦負け続き……もしかしたら里ヶ浜を偵察すれば、何か分かるかも。……あたしの練習時間は減っちゃうけど。どうしよう……)

 

 同じポジションを守る選手との差を強く感じた芹澤はシートノックで打球が飛んでくるたび、揺れ動く思いを胸に抱くのだった。

 

 そして同日、朝のうちに会場近くの小さな病院を後にした高坂はようやく以前から世話になっている総合病院への移動を完了させていた。高坂の分の荷物も持っていたキャッチャーはやや疲れた表情をしている。

 

「まずは安静にしておきなさいよ」

 

「分かってるわよぉ」

 

「本当にー?」

 

「なによ。信用できないって言うの?」

 

「信用させてくれなかったのはあなたでしょ。今度は信用させてよね」

 

「……分かったわよ。まずは治すことに専念し——」

 

「椿ちゃんっ!」

 

「……!?」

 

「ごめんね。椿ちゃんに迷惑をかけた私が今更来ても迷惑だと思うけど、また肘を痛めたって聞いたから……」

 

「…………馬鹿ね。本当に」

 

 向月キャッチャーと高坂にとってはボーイズリーグの時から共に野球をやってきた少女が病室を訪ねてきた。そしてそんな彼女の発した言葉を聞いて高坂は深くため息をつくと、左手でそばに来るようにジェスチャーを送った。

 

「肘は全治3ヶ月、ちゃんと治るわ」

 

「……よ、良かったぁ……」

 

 肘の容態を聞いた瞬間、安堵感から膝から力が抜けていくようにへたりこんだ彼女に高坂はそのまま左手を伸ばした。

 

「アタシは……あんたと沢山話すことがある。付き合いなさい。……アンタもね」

 

 その言葉に目を見開く彼女に対して、向月キャッチャーはそれを待ってたとばかりに頷くのだった。

 

 そのほぼ同時刻、会場近くの病院から宇喜多と掛橋先生、そして野崎が出てきていた。

 

(高坂さん、もうあちらの病院にいかれてしまったのですね)

 

 既に病室を後にした高坂の行動の早さに驚きながらも、その行動力と以前の会話から高坂が自分と重ねていた彼女とのコンタクトを取るであろうことを推測し、上手くいくよう祈るように空を見上げていた。

 

「先生もこの前紅白戦で審判やった時に打球が当たってね。硬球って当たるとこんなに痛いんだってなったから、大事に至らなくて本当に良かったわ」

 

 電車に乗り込み、宿舎の近くの駅まで向かっていると掛橋が胸を撫で下ろしながらそう言った。

 

「痣を見た時はどうしようかと思いました……。折れていたらと思うと心配で……」

 

「2人ともありがとうございます。それに応急処置が適切だったから、二週間程度で治るって……帰ったら九十九先輩にもう一度お礼言わなきゃ」

 

「ふふっ、そうですね」

 

「それと師匠の打球に当たっちゃったのは、茜の注意が足りなかったと思うから、そこは気をつけなきゃ……」

 

「怪我の危険もありますもんね……」

 

 ほとんど軌道が変わっていない打球に当たってしまったのは自分の不注意からだという自覚があった宇喜多は目をつぶるようにして反省していた。するとちょうど宿舎の最寄駅へとたどり着く。

 

「さ、いきましょう」

 

「はい。……宇喜多さん」

 

「あ、ありがとう野崎さん」

 

 固定した足をかばうように立とうとする宇喜多は野崎の手を借りて立ち上がると駅へと降りていった。

 

「打球に当たる結果にはなりましたが、それはとにかく点を返すんだっていう強い気持ちがあったからだと思います。その気持ちはあの後、皆さんにも伝染していったように感じました。その気持ちは、きっと誇っていいものだと思いますよ」

 

「……そっか。うん。そうかも。……ありがとう!」

 

「ふふっ。どういたしまして。……あ!」

 

「……? どうしたの?」

 

「今日の試合に備えて、夕ご飯を食べてから寝るまでの間、皆さん宿舎の外でバットを振って自主練されていたことを思い出しまして。恐らく明日あたりもそうなると思うので塩分を取れるよう、おにぎりの具材を買い出しておこうかと」

 

「……えっ。あ、野崎さん……その、それは

 

 この時、宇喜多の脳裏に体験会で野崎から貰ったはちみつレモンが砂糖の入れすぎによって異様に甘かったことがよぎった。

 

「足のこともありますし、先生は宇喜多さんについていてあげてください。それでは……」

 

「……行っちゃったわね」

 

「だ、大丈夫かな……?」

 

 こうして野崎と途中で別れた二人は宿舎へと帰ってきた。すると、里ヶ浜が借りている部屋の前で翼と鈴木がある人物と話をしているのが目に入った。

 

「え……? 帝陽の……乾さん?」

 

 同じ宿舎に泊まっている帝陽学園。そのキャプテンを務める乾ケイが何かを話しながらファイルされたプリントを渡す様子が二人の目に入った。

 

「どうして……界皇高校のデータを私たちにくれるんですか?」

 

「それは私の口から話すつもりはない。……この資料をどう使うかは君たちの自由だ。では、失礼する」

 

「あ……」

 

 そうして資料を渡し終えた乾は宇喜多と掛橋とすれ違い、自分たちの部屋へと戻っていく。資料を渡された翼と鈴木も彼女の背中を呆然と見つめていると、その姿が見えなくなり、困惑が混じった沈黙がその場に残ったのだった。




水曜日、終わらず。


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涼しい夜風と温かいおにぎり

 宇喜多と掛橋が宿舎へと戻る少し前、里ヶ浜女子硬式野球部の借りる部屋がノックされた。

 

「茜ちゃん?」

 

「帝陽の乾だ。少し良いだろうか?」

 

「あ、はい!」

 

「翼、私も行くわ」

 

 試合後の疲れを取ろうと身体を休めていた翼たちは病院に寄っていた宇喜多らが帰ってきたのだと思っており、突然の乾の訪問に驚いていた。慌てて向かう翼の背を追うように鈴木も立ち上がると、扉を開けて二人は部屋の外へと出ていった。

 

「突然すまないな」

 

「い、いえ。大丈夫です!」

 

「……それで、何の用事ですか?」

 

「わ、和香ちゃん!」

 

 鈴木が翼についてきたのは単純に乾の用事が気になったというのもあったが、宿舎へとやってきた初日に里ヶ浜の情報を探られてしまった経緯から警戒していたという理由が大きかった。そのため警戒するあまり挨拶を挟むことなく不躾に尋ねてしまった鈴木を翼が驚きつつ窘めていると、そんな鈴木に対して乾は声を荒げることもなく微笑を浮かべた。

 

「……ふ。そう話を()くことはあるまい。まずは2回戦の突破おめでとう。心より祝辞を申し上げる」

 

「ありがとうございます!」

 

「……ありがとうございます。……あの、口調が……」

 

「む……すまない。どうもまだ慣れていなくてな」

 

(……まだ慣れていない、ということはつい最近始めたということ。彼女が新チームのキャプテンを任されたことを踏まえれば、あの一般的な丁寧口調は他のチームに素を漏らさないようにするヴェールのような役割を持っているのかもしれないわ)

 

「あの。私たちは年下ですし、そのままで大丈夫ですよ」

 

「……?」

 

「……そうか、悪いな。その言葉に甘えさせてもらうとしよう」

 

(よし)

 

 何故わざわざそんな提案をしたのだろうと不思議そうにこてんと首を(かし)げる翼に対し、その提案を乾は難なく受け入れ、鈴木は手応えを感じていた。

 

「それで用件だが……界皇高校に関する情報提供をさせてもらえないだろうか」

 

「え……! いいんですか?」

 

「ちょ、ちょっと待って翼」

 

(貴重な情報をわざわざ提供するということは……当然、何かしらの見返りを求めているはずだわ)

 

「……その提供を受ける条件はなんですか?」

 

「条件? 必要ないさ。我々は情報交換ではなく、情報提供をすると言っているのだから」

 

「「えっ……!?」」

 

 タダで情報を渡すと言う乾に二人は困惑した表情を浮かべる。そんな二人に対し、乾は左肩から下げている鞄の中からファイルを取り出してその中にある一枚のプリントを見せた。

 

「新設の貴校では集められる情報にも限度があるだろう。それに界皇と実戦でのデータも無い。この通り我々は公式試合だけでなく、練習試合を含めた過去の試合のデータも収集している」

 

「わ……凄い量ですね!」

 

「それに情報も細かいわ……」

 

 厚いファイルに、一枚のプリントからでも分かる情報の綿密さ。それらは二人に中野から聞いていた帝陽学園のデータ分析の力の入れようを実感させるには十分だった。

 

「どうだ? 悪い話ではないと思うが?」

 

(……確かにその通りね。だからこそ……不気味だわ。なんの対価もなしにこれだけの情報を貰えるなんて……)

 

「……少しだけつば……キャプテンと話す時間を貰っても良いですか?」

 

「構わないさ」

 

 喉から手が出るほど欲しい情報を前に鈴木は生唾を飲み込むと乾から離れたところで翼と小声で話し始めた。

 

「どうしたの和香ちゃん?」

 

「悪い話じゃないどころか、あまりにも良い話すぎるのが気になったのよ。なにか罠のような……」

 

「んー……でも、帝陽が私たちに罠なんて仕掛けるかな?」

 

「……そうなのよね。その必要性は感じられないわ」

 

「どうして乾さんが味方してくれるのかは分からないけど……私はこの話受けていいと思う! 界皇に勝つために、少しでも多く情報が欲しいからさ」

 

(確かに……乾さんが言っていたように私たちは今、界皇高校の情報が不足しているわ。ここまでの2試合を踏まえると……仮に罠であったとしても)

 

 翼の言葉を受けた鈴木は今大会の里ヶ浜の試合を思い出していた。初戦の高波高校との試合では相手エースがシンカーを投げるという情報を持っておらず、攻略に苦労したこと。二回戦の明條学園との試合では一度練習試合をしたのもあって、相手エースの特徴から事前に対左のオーダーを組んだり、守備面でもドアスイングの3番バッターへの対応を始めとして情報を持っていたからこそ有利に進められたこと。それらを思い出した鈴木は翼の決断に頷いて、乾のもとへと戻ってきた。

 

「話は纏まったか?」

 

「はい! お話、ありがたく受けさせていただきます!」

 

「そうか。良い判断だ」

 

 返答に満足したように乾は不敵な笑みをもらすと、翼に界皇高校のデータが詰まったファイルを手渡した。

 

「ありがとうございます!」

 

「ありがとうございます」

 

「明々後日の試合、楽しみにさせてもらうよ」

 

(……私たちが話を受け入れたこの一瞬、油断があるなら私たちにデータを渡した理由。その断片くらいは見えるかもしれないわ。ここは一か八か直接……!)

 

「どうして……界皇高校のデータを私たちにくれるんですか?」

 

「それは私の口から話すつもりはない。……この資料をどう使うかは君たちの自由だ。では、失礼する」

 

「あ……」

 

(丁寧口調を剥がしたくらいじゃ油断まで剥がせない、か。理由を探るのを諦めていない可能性を考えて、警戒されていたようね……)

 

 直接的な切り込みにも動じず、乾の紫色を帯びた赤い瞳で見つめられてその真意を見抜かれたような感覚を覚えた鈴木は彼女が『不測の事態が殆ど存在しない』とされる広い視野を持っていることを思い出し、その十全十美な振る舞いに圧倒され、帰ってきた宇喜多と掛橋とすれ違って去っていく彼女の背中を呆然と見送ったのだった。

 

「お帰りケイ。どうだった?」

 

「問題なく渡せた……が、随分警戒されていたよ」

 

「まあ、いきなり情報を渡すって言われてもびっくりするよね」

 

「それと以前の警告を覚えていたようだな。自分の部の内情を話さないよう細心の注意を払っていた。それどころか私から逆に少しでも情報を引き出そうとしていたよ」

 

「へぇ……でもケイなら大丈夫だったでしょ?」

 

「ああ。警戒心をやや態度に出し過ぎていたからな」

 

「それで、どう? ケイから見て里ヶ浜はどれだけ善戦すると思う?」

 

「……善戦か。確かに里ヶ浜の不利に違いはないだろう。だが……」

 

「……?」

 

 自分たちの部屋に帰ってきた乾は顎に親指と人差し指を添えて考え込むと、まるで自分の目の前に電子的なデータが開かれていくように頭の中にある両校の情報を解凍していった。

 

「……ふむ。私たちが渡した情報以外にも、次の試合里ヶ浜が優位に立てる点もあるな」

 

「えっ。そうなの?」

 

「界皇は今までの傾向からして準決勝と決勝にエースを先発させるだろう。加えて二回戦の清城戦でエースの鎌部は完投している」

 

「……そっか。じゃあ三回戦、準々決勝で投げさせるとしても、リリーフで短いイニングでってことになるね」

 

「だろうな。対して里ヶ浜はエースの倉敷を二回戦の明條戦で登板させていない。スタミナは十分あると考えて良いだろう」

 

「なるほどねー。けど界皇は鎌部以外にも二人ベンチ入りしてるピッチャーがいるし、層の厚さを考えるととんとん……というかその二人も好投手だしなぁ」

 

「ああ、望みとしては微々たるものだろう。だが、里ヶ浜はこの一戦の勝率を僅かでも上げているのは事実だ。それに野球では打率や盗塁成功率……様々な確率が絡まりあっているが、必ずしも確率の高い方に転ぶとは限らない。それは勝率も同じさ。所謂(いわゆる)……勝負はやってみないと分からない、というやつだな」

 

「……ケイらしいね。自分たちの有利な方に確率を上げながら、その確率をあくまで確率として捉えて、決して過信しないってところがさ」

 

「当然だ。たとえ確率の低い事態が起きたとしても、それが不測の事態であってはいけない。我々の、帝陽の目指すデータ野球は全てを予想する野球だ」

 

「……そうだね。それに今回の取り引きもその予想をより深めるための、情報収集だったね」

 

「ああ。そのためにもまず明日の試合を制し、我々も明々後日の試合に赴くことにしよう」

 

 こうして帝陽から里ヶ浜に情報提供が行われ、次の日。明條戦の疲れを取ろうと休息を取っている部員たちが集められ、界皇戦に向けてミーティングが行われていた。

 

「というわけで次の試合は大会前に決めたベストオーダーに戻します。先発は倉敷先輩にお願いします」

 

「任せて」

 

 翼の口からスターティングメンバーの発表が行われ、各々が試合に対して心構えを整えていく中、先発に指名された倉敷は気合いが入った様子だった。すると翼の隣に立つ東雲が何かを思い出したように話しかける。

 

「野崎さん」

 

「はい?」

 

「あなたの打順はロングリリーフの可能性も考慮して7番に下げていたけど、次の試合は打順を5番に上げるわ」

 

「えっ!? は、はい。分かりました」

 

「つまり次の試合、野崎は投げるとしてもショートイニングってことね」

 

「そうです。野崎さんはこれまでの2試合、イニングを跨いでリリーフをしていますから。それに勝ち抜いた場合は準決勝の先発を野崎さん、決勝の先発を倉敷先輩に任せたいと思っているんです」

 

「……なるほどね。分かったわ。それならアタシは次の試合、完投するつもりで投げるわよ」

 

「お願いします」

 

「ミーティングはこれで終わりよね。……鈴木、ちょっと付き合ってくれる?」

 

「あ、ちょっと待ってください。近藤さん、あなたもこれに目を通しておいて」

 

「昨日帝陽から渡された界皇のバッターの情報……。分かりました。全部見ておくわね」

 

「お待たせしました。行きましょう」

 

 倉敷に呼ばれた鈴木は手早くコピーした帝陽の資料の中からバッターの情報をピックアップしたものを近藤に渡すと、待っていた倉敷に追いついて部屋を出ていく。全員に配られた相手ピッチャーの情報だけでなく、バッターの情報も受け取った近藤は意気揚々とデータに目を通していくのだった。

 そして日は落ち、夕食もとうに済ませた里ヶ浜部員たちは揃って宿舎の外で素振りを行なっていた。

 

「河北ー。その、昨日はバタバタしてて言えなかったけど……ありがとね」

 

「えっ!? 急にどうしたの……?」

 

「ほら、紅白戦終わった後さ……わたし自信失いかけてたじゃん?」

 

「ああ……凄いうなだれてたよね」

 

「あの時励ましてくれたのとさ。一回戦終わった後壁当てに連れてって跳ね返ってくるボールで、打球の処理の基本を確認させてくれたじゃん。……あれでさ、その、昨日の試合わたしなりに頑張れたからさ。だから……ありがと」

 

「どういたしまして。……あのね。私さ、翼と二遊間を組むんだって頑張ってきたから……余計に新田さんのことが気になってたんだ」

 

「えっ」

 

「あ、最初は悪い意味でだよ。サボるし……」

 

「う……ごめん」

 

「……でもね。あの時の練習試合で新田さんのことがちょっと分かるようになって、昨日また二遊間を組んで……思ったんだ。私、新田さんと二遊間を組めて良かったよ」

 

「河北……」

 

「またこれからも一緒に頑張っていこうね!」

 

「お……おお! やってやろうじゃん!」

 

 心地良い素振りの音が響く中、その合間を縫うように河北と新田は話をしていた。近くで話している二人以外には素振りの音で掻き消えて聞こえてないその会話に、二人は顔を自然に綻ばせたのだった。

 

(昨日の打った時のイメージは……こう、ね!)

 

 同じく素振りをしている逢坂は昨日の試合のイメージを呼び起こしながら、トップから振り下ろすようにスイングをしていた。やがてそのスイングが自分で納得いく感触を得られるまで振られると、一度小休止が挟まれる。すると、隣でバットを振っていた初瀬が何かを呟いているのが聞こえてきた。

 

「次は……レフトの草刈さんは守備範囲も広くて肩も強いから進塁の判断は慎重に……」

 

 帝陽の提供したデータの中から守備に関する情報を受け取った初瀬は目を通した内容を思い出すように呟きながら、バットを振っていた。

 

(麻里安ちゃん。そっか、一塁コーチャーとしてみんなの役に立とうって頑張って覚えてるのね)

 

 覚えた情報に抜けはないか懸命に確認する初瀬の必死な表情を見て逢坂は身が引き締まるような思いを覚えていた。そんな初瀬を邪魔しないよう心の中でエールを送った逢坂はそのまま周りを見渡してみる。すると秋乃の姿が目に入った。

 

(小麦ちゃん。……!? やけにすくいあげる感じで振ってるわね)

 

 すると秋乃の極端な振り方に逢坂は目を見開いた。周りのほとんどが自分のスイングを確かめ、安定させるように横薙ぎに振っているように見えるのに対し、秋乃はスイングの始動に入りながらも我慢するように体勢を維持してから、下から上へとすくいあげるようにバットを振っていたのだ。

 

(……そういえば、翼ちゃんに素振りをする時は頭の中で打つボールやコースをイメージして打てって言われたっけ。アタシも今、そうやってるし。きっと小麦ちゃんも何かイメージがあるのね)

 

 そのスイングに秋乃なりのイメージを感じた逢坂は初瀬だけでなく秋乃からも刺激を受け、素振りを再開させて自分なりのイメージで再びバットを振るのだった。

 やがて素振りを始めて1時間くらい経った頃。永井はハッとした表情で周りを見渡していた。

 

(……き、聞こえてない? 良かったあ……お腹の音聞こえてなかったみたい。……お腹空いたなあ……)

 

 永井は赤くなった顔を冷ますように夜風に当たりながら、水分補給を挟んだ。2試合連続スタメンで出ていた彼女は普段と比べて大きくカロリーを消費しており、また夕食を食べてからかなり時間も経っていた。それ故にお腹が空いてしまうのは、ある意味仕方のないことでもあった。

 

(うう。水分だけだとお腹タプタプになっちゃうよ。こういう疲れた時は水分だけじゃなく……塩分も欲しいなあ)

 

 そんな彼女の願いがあったからだろうか。

 

「みなさーん! お夜食の準備が出来ましたよー!」

 

(あっ! 手伝おうと思ってたのに、乾さんのことでビックリしててすっかり忘れてた……)

 

 肩を休めるために素振りには参加していなかった野崎がラップを敷いたトレイにおにぎりをのせてやってきた。皆の素振りを座りながら見守っていた宇喜多がその声にハッとする中、素振りに集中していたみんなも次々と彼女のことに気がついていく。そして……その大多数の部員があることを思い出していた。

 

(合宿のカレー……)

 

 夏大会前に行った合宿、最後の宿泊日の夕食の担当は野崎だった。その時に出されたカレーは見た目こそ美味しそうではあったが、東雲に「美味しくないわ」とド・ストレートに評されるほどの代物であった。そのため休息を取ろうと野崎のもとにやってきたほとんどの部員の足はつい止まってしまっていた。

 

「ありがとう野崎さん……! 本当にありがとう……! いただきます!」

 

「わー! 見た目もおいしそーだね! いただきまーす!」

 

 しかしその出来事は夏大会前に起こっていた。そのため秋から入った新入部員はそのことを知る由も無かった。足を止めなかった6人の部員が次々と敷かれたラップで包むようにしておにぎりを手に取っていく。次の瞬間、おにぎりを口に含んだ彼女たちに衝撃が走った——。




二話前の後書きで今話あたりに試合始まる予定と書きましたが、惜しくも予定通りにはいかなかった。区切りどころは迷ったんですが、考えた末にここがベストだなと思いまして。次回は試合入るところまでは行きたい。

追記:投稿日の21:37分にラスト付近の表現を少し変更させて頂きました。


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星に願いを

「おおっ! 美味いぞ!」

 

 一点の躊躇もなくおにぎりにかぶりついた岩城は口をモグモグさせると、快活な笑みを浮かべながら嬉しそうに野崎に向かってそう伝えていた。

 

「ま、まさか……野崎の料理が? 小学生の時からの悪い癖だったのに……」

 

「……いや、そうとも限らないんじゃないかな」

 

「どういうこと?」

 

「忘れたかい? 以前の合宿でも岩城さんは野崎さんのカレーを美味しそうに食べていたことを」

 

「あ……そうだったわね」

 

 怒涛の勢いで美味しそうに食べ進める岩城を見て倉敷は野崎の気を遣いすぎてしまう性分から料理においても余計なことをしてしまう癖が直ったのかと思ったが、九十九の言葉を受けて落胆の吐息を漏らしていた。

 

「ゆっきーのおにぎりを食す他の5人の有りや無しやはあっちを見ればすぐに分かるのだ!」

 

 おにぎりを手に取った6人の部員のうち岩城を除いた5人。そのうちの1人を阿佐田は指差した。

 

「我が野球部一の食のスペシャリスト……かなかな! かなかななら、正確なジャッジが出来るはずなのだ!」

 

「……確かにね。永井さんは野球部に入る前『おいしいものクラブ』を自称し、食べ歩きをしていたという。彼女の舌に間違いはないだろう」

 

 阿佐田が指差す先にいたのは岩城にも負けず劣らずの勢いで今にもおにぎりにかぶりつこうとしている永井。彼女に足を止めた部員たちの注目が集まると、そんなことは露知らず目の前のおにぎりしか見えていない永井は訴えかける空腹に応えるように口を開き、三角に握られたおにぎりの一角を崩した。

 そのまま目を輝かせて咀嚼する永井を阿佐田たちが固唾を飲んで見守っていると、突然衝撃が走ったように永井の目が見開かれた。

 

「これは…………!?」

 

(だ、ダメか……!)

 

 そんな永井の反応を見た阿佐田たちは僅かに抱いていた期待が露と消えていくように感じられていた。

 

「鶏レバー入りカレー風味のおにぎり……! おいしいっ!」

 

(な……何っ!?)

 

 だからこそ満面の笑みへと変わっていく永井を見て大きな驚きを覚えたという。

 

「お米のほのかな甘みと、カレーのスパイスと、絶妙な塩加減が混じり合って噛む度に口の中に広がってくる……! 中に入ってるレバーも一口サイズで食べやすくて、くさみも全然無い……むしろ塩胡椒が効いてて、お米との相性も抜群……!」

 

 見た目からカレー風味であると当たりをつけていた永井はサプライズのように飛び出したレバーに虚を突かれていたが、噛めば噛むほど口の中に幸せが広がってくるように感じられていた。そんな彼女が美味しそうに一口、もう一口と食べ進めて幸せを噛み締めていると、それを見たみんなは固唾ではない唾を思わず飲み込んでいた。

 

「スパイスと千切りにされたバジルが食欲をそそって……ああ……!」

 

 食べ進めていくうちに永井は目をつぶって視覚を閉ざし、味覚に集中するようになっていた。すると彼女の心の中にF1カーにのる自分自身の姿が浮かび上がっていく。

 

「もうわたし完食(ゴール)まで止まれない……!」

 

 そこからはもう無我夢中という表現が相応しく、まさしく我を忘れて食べ進めていく。そして最後の一粒が喉を通った瞬間、彼女の心にチェッカーフラグを横目にゴールインしたビジョンが映し出されていた。やがてその目が開けられるとまるで完走した永井を祝福するかのように他のみんなが駆け寄ってくる。

 

「あ、あおいにも一つ頼むのだ!」

 

「ワタシも欲しいにゃ!」

 

「わっ……!? みなさーん。落ち着いてください。ちゃんと人数分ありますので……!」

 

 否。彼女たちはおにぎりを求めて駆け寄ってきたのだ。我先にと雪崩れ込むみんなに野崎は慌てて一列に並ぶように伝えながらも、嬉し笑いをこぼしていた。

 

「およ? 加奈子のはカレー系なんだ。わたしのシャケとパクチーのおにぎりだよ。ごまも振ってあってめっちゃ美味い!」

 

「小麦もみなこと同じのだー。ん〜、いい匂い!」

 

「アタシはミントとパイナップルのおにぎりね。ヨーグルトも入ってるのかな? 美味しいし、美容にも良さそう!」

 

「あ、私も逢坂さんと同じですね。最初は組み合わせに驚きましたが、食べてみると爽やかでとても美味しいです!」

 

「ウチのは……。……とにかく美味しいぞ!」

 

「岩城先輩のは永井さんと同じおにぎりみたいですね」

 

「そうか! はっはっは!」

 

(妙ね……野崎ならパクチーとミントとバジルを満遍なく入るようにすり潰しそうなものだけど)

 

 元気よく列に並ぶ後輩たちを優しく眺めるように少し後ろについていた倉敷は先におにぎりを食べ始めた6人の会話が耳に入ると、僅かに違和感を覚えていた。

 

「惜しむらくは人数分ぴったりなことかな。せめてもう一個……いや、二個……! 全種類制覇……!」

 

「おー! かなこが燃えてるー!」

 

「三つは少し多いですね……夕食も頂きましたし」

 

「そうだよー。この時間に食べすぎると太るよー」

 

「ううっ。最近たくさん運動してるから大丈夫だもん」

 

「あはは。確かに。加奈子はけっこー動いてるもんね。そういえばちょっとスリムになった?」

 

「えっ! 本当に……!?」

 

「いいなー加奈子ちゃん。アタシももう少し痩せたいわ」

 

「逢坂さんが……意外ですね。既に十分痩せられているように見えますが……」

 

「それが実はね、子役時代には縁が無かったジャンクフードを気に入っちゃって、よく食べるようになって……その反動が来ちゃってるのよねー」

 

「そうだったんですか……」

 

「麻里安ちゃんはどうなの?」

 

「私は元々少食で……ただ本を読んでばかりで運動はしてこなかったので、普通くらいだと思います」

 

「そっかー。じゃあアタシたちの中で一番痩せてるのは小麦ちゃんかもね」

 

「えへへー。褒められちゃった」

 

「あと結構咲もシュッとしてるんだよねー」

 

「あれ? そういえば咲ちゃんは……?」

 

「そーいえば見当たんないね。まだ読んでるのかな?」

 

 先に食べ始めた部員たちが次々と食べ終えていき、残る初瀬が最後の一口を食べ終えた時だった。

 

「おかわり欲しい人ー?」

 

 縁側から顔を覗かせた近藤がサンダルを履いて降りてくると、おにぎりを乗せたトレイを手に素振りを中断したみんなのもとにやってきた。

 

(……そういうこと。そういえば近藤は『鉄人』っていう中華料理屋の娘だったわね)

 

 野崎と同じくエプロンをつけた彼女を見て倉敷は先ほど感じた違和感に対する答えへのおおかたの目星をつけると、胸のつかえが一つ取れたような気がしていた。

 

 今から約1時間前。鈴木に渡された界皇の打者の資料を念入りに読みふけっていた近藤はふと顔を上げると、読んでいる間に他の部員が何処かへと出ていったことに気がついた。集中している近藤の邪魔しないようにとあえて声をかけずにという他の部員の配慮からだったが、状況が把握しきれない彼女は一度部屋を出て外を覗ける縁側まで出ていこうとした。すると縁側まで出る前に曲がり角を曲がってすぐ、座って何かを見守っている宇喜多が見えるとバットのスイングが重なり合って聞こえてきていた。

 

(そっか。みんな素振りをしてるのね。……そうだ。なにかお夜食でも……材料もっと買っておくんだったなあ。お米はまだあったはずだから、早炊きするとして……塩おにぎりくらいなら作れるかな)

 

 奇遇にも野崎と同じく塩分を取れるようにおにぎりを作ろうと近藤は宿舎の台所へと足を運び、そこで野崎と顔を合わせていた。すると野崎はちょうど一つ目のおにぎりを作り終えたところだった。そのおにぎりに対して近藤が抱いた印象は二つ。一つは見た目が良いということ、そしてもう一つは彼女の料理人としての鼻が微かな違和感を感じていたこと。見た目が美味しそうなだけに彼女は迷ったが、最後には自分の料理人としての感覚を信じてそのおにぎりを味見させてもらった。すると……

 

「しよっぱっ……!」

 

「疲れを取るには塩分を摂ると良いと聞いたので……」

 

 宇喜多が懸念を抱いたように野崎は必要以上におにぎりに塩をつけてしまっていた。あまりのしょっぱさに近藤はたった一口だけで参ってしまう。しかし、それでも彼女は二口目を口にした。

 

(うっ……。これは……そっか、塩のついている場所が偏っている部分があるのね。今食べた部分は……甘い……)

 

「あ、あの……近藤さん。美味しくなければ無理はなさらないでください……」

 

 野崎は彼女なりに工夫して作っていたつもりではあったが、食す近藤の表情を見てお世辞にも美味しいと言えるものではないことを察していた。しかし、そんな野崎の言葉に近藤は首を横に振った。

 

「……野崎さん。私はこの世で一つだけ苦手なものがあるの」

 

「そ、それは……?」

 

「それは……出された料理を残す人よ!」

 

「こ、近藤さん……!」

 

 近藤は食べるのを最後までやめなかった。彼女は料理人の娘としても『おいしいものクラブ』の一員としても舌に自信がある方だった。そんな彼女にとって食べたものの味を言葉にすることができなかったのは後にも先にもこの時だけだったという。

 

「……シャケ、レバー、パイナップル。入っていた大きな具はこの三つね」

 

「は、はい。そうです」

 

「この具にまぶされた緑色の粉は……?」

 

「ミントとパクチーとバジルをすり潰したものです。以前はミントとパクチーの二つをすり潰したんですが、微妙な香りと不評だったのでそれならばとバジルを足してみました」

 

(なんで……?)

 

「……あとどうして砂糖も塩と同じくらい多めに振ってあるの?」

 

「しょっぱいのが苦手な方がいるといけないと思って……」

 

「……そう。分かったわ。さぁ、やるわよ野崎さん!」

 

「て、手伝っていただけるんですか?」

 

「勿論よ。ビシバシいくからそのつもりでね!」

 

「は、はいっ! ありがとうございます!」

 

 野崎への質問を終えた近藤は素早くエプロンを身につけていた。その瞳には危機感から来る闘志が浮かび上っている。

 

「まずはレバーを一口大に切って、しっかり洗って!」

 

「分かりました!」

 

「その間に塩をひとつかみと水をたっぷりボウルに入れてと……レバーを漬けるわ」

 

「えっ。大丈夫なんですか……?」

 

「こうしないとレバー独特のくさみが残って、他の食材にも移ってしまうし、全体の味が落ちてしまうのよ」

 

「なるほど……そうだったんですね」

 

「のんびりしてる暇はないわよ。次!」

 

「はいっ」

 

 こうして野崎と近藤は共同でおにぎりを作り始めた。料理経験が豊富な近藤は自分が料理の中心となる作業を担当して野崎には単純作業を頼むという選択肢もあった。しかし近藤は野崎に作り方を丁寧に教えていき、あくまで彼女が主体となって料理を推し進めるようにしていた。そのため作業時間は多くかかっていた。

 

「待って野崎さん。ご飯に直接塩をつけるんじゃなく、こうやって手に塩水をつけて握るのよ。そうすれば味が均一に広がっていくから」

 

「わ、分かりました!」

 

「力はいらないわ! ご飯はぎゅっと潰すように握るんじゃなく、ふわっと包み込むように!」

 

「は、はい〜!」

 

(近藤さん……こういう姿は普段はあまり見られないので少しびっくりしました。料理のことになると妥協せず、かなり熱く語られるんですね)

 

(ふう……まさかこんなところで美奈子におにぎりの握り方を教えた経験が生きるとは思わなかったわ)

 

 こうして紆余曲折を経てついに今外に出ている人数分のおにぎりは完成したのだった。再びお礼を伝えられた近藤は「どういたしまして」と微笑むと野崎を送り出し、永井を始めとしておかわりが必要な部員もいるだろうなと考えて残ったご飯分のおにぎりを作り、今それをトレイに乗せて持ってきたのだった。

 

「倉敷先輩」

 

「野崎?」

 

 そんな近藤にも部員が並び始めると、野崎の方に並んでいた部員の方にはおにぎりは配り終えられていた。野崎は一度縁側に座る宇喜多におにぎりを渡してから、倉敷の方にやってくる。

 

「どうぞ」

 

「……ああ。ありがと」

 

 トレイに乗った最後の一個のおにぎりを手に取った倉敷はそのおにぎりをぼおっと見つめていた。

 

「……何かあったんですか? 帰ってきてから表情が冴えないですが……」

 

「気遣わせて悪いわね。ちょっと界皇のデータ見て不安になってたのよ。アンタも見たでしょ?」

 

「はい。鈴木さんに目を通しておいて欲しいと言われて……」

 

「さきがけみたいに下手したら試合が終わる頃には二桁得点を入れられてるかもしれない。データだけ見ればそんな可能性も十分あり得ることだと思うと、正直ね……アタシは本当に界皇の打線を抑えられるのかって考えちゃって」

 

「倉敷先輩……」

 

「……けどこれ見てたら、少しはそんな不安も和らいだわ」

 

「えっ?」

 

「一人で何もかも全部やろうとしなくていいってね。紅白戦の時に鈴木に言われたこと思い出したわ」

 

「……そうですね。一人だけじゃなく、二人の力でバッターに立ち向かえば勝機はあると思います」

 

「そうね。けど、それだけじゃないわ。後ろにはアンタがいてくれる」

 

「……!」

 

「それがどれだけ心強いか……。おかげでアタシは目の前のことに全力を注げるわ」

 

「私も……ですか。……そうですね。私も前に頼れる先輩がいてくれるから、引っ張られるように力が出せる。そう思います」

 

「……久しぶりに思い出したわこの感覚。アンタとドッジボールをやってた時以来ね……」

 

 近くの座れる場所に腰を下ろした二人は夜空を見上げながら話していた。

 

「アタシは料理詳しくないけど……レバーとかは分かりやすくそうだし……確かパイナップルやシャケも疲労回復を助けてくれるんじゃなかったっけ」

 

「あ、はい! その通りです!」

 

「さっきこれ見てたら不安が和らいだっていうのはアンタのその気遣いが分かったってのもあるのよ。……はい」

 

「えっ! 私のは最後に残ったので大丈夫ですよ!」

 

「大人気すぎてもう無いみたいよ」

 

「ええっ!? ……その……いただきます」

 

 鶏レバー入りカレー風味のおにぎりを半分食べたところで差し出してきた倉敷に野崎は戸惑ったが、既に近藤のトレイからおにぎりが無くなってしまったことに気づくと、途端に思い出したかのようにお腹が空いていた。倉敷の伸ばした手から申し訳なさそうにおにぎりを受け取った野崎は早速一口かじった。

 

「美味しい……」

 

「ふふっ、良かったわね」

 

 近藤の手を借りて自分の手でも作ったおにぎりを口にした野崎は思わずそう呟いていた。そんな野崎を見て倉敷は微笑を浮かべると、見上げた夜空は一筋の流れ星によって彩られていた。

 一波乱あった夜が明け、金曜日。この日は午前中に近くの運動場で基本的な動きを確認するだけで練習は終えられ、午後からは休養となっていた。夜になり昨日行った自主練も明日に疲れが残らないよう禁止され、ミーティングで最終確認が行われるとそれぞれ明日に向けての思いを抱きながら眠りについたのだった。

 ——そして日が昇り三回戦当日。岩城が閉じていたカーテンを明けていき、差し込む日差しと岩城の声で寝ぼけ眼が次々と開かれていった。

 

「ふわぁ……翼、おはよー」

 

「んん……おはよー、ともっち」

 

「今日はよく眠れた?」

 

「うん! ばっちし眠れたよ! 今日は頑張るぞー!」

 

「朝からうるさいわ有原さん……その元気は試合が始まるまで取っておきなさい」

 

「あ、おはよう東雲さん。分かったよ! あー……早く試合したい!」

 

「焦らなくても今日の第一試合だからすぐよ……」

 

「そういえば翼、試合が始まる前に呼ばれてるんだっけ?」

 

「うん! 大咲さんがインタビューしておきたいから、試合前に少し時間を作って欲しいって!」

 

「そっか。またテレビカメラで緊張しないようにね」

 

「ちょ、ちょっとー! あれはだって急に始まるから——」

 

 特に大きなトラブルもなく朝を迎えた里ヶ浜女子硬式野球部。賑やかな翼に引っ張られるように、ある種の期待感のようなものが部全体を包み込んでいた。

 

(翼もみんなも、もう少し緊張して声出ないかと思ってたけど、思ったより元気だね。昨日のミーティングでの翼の締めの言葉のおかげかな)

 

 昨日のミーティングが終わった時、明日に迫った試合に向けてキャプテンから意気込みを話すことになり、急に振られながらもみんなの目を見て正直な気持ちを伝えた翼の姿を河北は思い出していた。

 

「えーと……みんな! 今まで厳しい練習をやってきたよね。それは試合で野球を本当に楽しむために必要なことだって、東雲さんや和香ちゃんと話し合ってそう思ったから、厳しくしてきたんだ。でもね、もう少し……よく考えてみたんだ。どうして私は野球を楽しいと思うんだろうって。厳しい練習をして、ぶつかり合ったりもして、辛いことも、苦しいことも、0じゃないのかなって……」

 

「翼……」

 

「……有原さん」

 

 慣れないながらも自分の感じて、考えてきたことを翼はみんなに伝えていく。

 

「それでも楽しいって思えるのは……きっと、私たちに可能性があるからなんだと思うんだ」

 

「……もう少し詳しく説明出来るかしら?」

 

 言葉が完全にまとまりきってはいない様子の翼を見て、東雲が横から彼女のフォローを入れると、翼は必死に胸の内にある言葉を引っ張り出してきた。

 

「えっとね。きっと私たちは全員可能性を持ってるんだ。けどそれは同じ大きさじゃなくて……人によっては小さかったり、大きかったり。それを人に比べられることもあるんだと思う」

 

「……そうかもしれないわね」

 

(私も兄のことを気にしないようにしながら、どこかで私と兄の持つ可能性を比べていたのかもしれない……)

 

「けど、その可能性はずっと同じじゃないと思うんだ! 練習をしたり、試合をして経験を積んだり……そうすることで自分の中の可能性を大きく出来るんだと思う! 自分の中の可能性を少しでも広げたいから、甘やかされずに厳しく野球に打ち込みたかったんだと思う!」

 

「……そう、だね。うん。私もそうだと思うよ、翼」

 

 視線を河北に移して叫ぶように絞り出した言葉に河北も頷くと、翼も頷き、一度深呼吸を挟んでから最後の気持ちを絞り出した。

 

「一度負けた相手に勝てるようになった! 今まで不可能だったことが出来るようになった! 私が野球を楽しいと思う一番の理由は……そんな出来なかったことが、頑張って、出来るようになったときの……達成感なんだって、そう思うんだ!」

 

 河北から新入部員の方へと視線を動かしながら、翼は一人一人の目を見つめていく。そんな翼の言葉に部員全員が頷いた。

 

「だから明日は……精一杯楽しもう! 私たち全員の可能性で、王者界皇に……挑戦しよう!」

 

 全てを伝えきった翼に部員全員の心強い返事が返ってくる。それはもちろん思い出した河北自身の返事も含まれていた。やがて思い出した河北の目が開かれると、ちょうど岩城が目の前のカーテンを開き、窓からは今日の試合を期待させるような晴天の日差しが差し込んできたのだった——。




今回は後書き長めです。

【更新ペース関連】

試合入るところまで行く目算でしたが、試合当日までとなりました。今回は料理知識調べるのにリソースを割きすぎたのかもしれません。ただ適当な知識で料理を語りたくなかったので、慎重になったのは後悔してないです。でも一応日曜目安更新なのに平日にずれ込むことが多いのは申し訳ないです。けどこれを月曜目安にするとさらに奥にずれそうな気がしてるので、しばらくはこのまま日曜目安でやっていこうと思います。

【本文関連】

前話のラストを21:37分に追加修正しました。誤字脱字を除いた修正部分は足を止めなかった6人の部員についてです。最初は具体的に誰が足を止めたと書いていたんですが、そこを人数のみの表記と変えさせてもらいました。
前回あそこで区切った意図は野崎の料理で衝撃が走った部分に考察の余地を残したかったからです。最初は具体的に書く方が考察に繋げやすいと思い書いたんですが、考えが変わり人数のみの提示の方が面白くなりそうと思ったので変更させていただきました。

①合宿での出来事を新入部員は知らない。②新入部員の数=6人

説1.足を止めなかった6人は全員新入部員であり、走った衝撃は良くない側のやつである。

③アニメ9話の描写からしても岩城が足を止める理由はない。
④ ③を前提とすると、新入部員が全員駆け寄ると1人多い。⇒新入部員の中で1人だけ駆け寄らなかった人物がいる?⇒近藤を除く新入部員はこの場にいる描写がある。近藤がいて駆け寄らなかった可能性は捨てられないが、3話のちょっとしたおにぎりの話・近藤は料理屋の娘・野崎ともバッテリーを組んで親交が深いなどの描写から、近藤が何かした可能性がある。

説2.足を止めなかった部員は近藤を除く新入部員と岩城。近藤が何か手を打っていれば、走った衝撃は良い側のやつかもしれない。

というようなそれぞれの受け取り方が出来るよう変更をさせていただきました。これはそういう考え方にならなきゃダメとかそういうことではなく、詳しく考察はせず次がどうなるか待ってみたり、あるいは全く違う説が出てきても良いと思います。この場においては、そういう風に考察できる余地を残したかったということです。
いわゆる叙述トリックのようなものに挑戦するのはこれが初めてで、個人的にはワクワクしながら書いてました。

長々と書いてしまいましたが、読んでいただいた方ありがとうございました。


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向日葵の花は咲かねど

「大会の放送続けさせて貰えることになったんだって?」

 

「良かったじゃない!」

 

「先輩……それにキャプテン」

 

 秋大会二回戦、明條対里ヶ浜の試合の翌日。大咲のもとに届いた一本の電話は明條が勝ち抜いた場合に出ることになっていた試合の放送枠のみという制限はあったが、秋大会の放送続行を許可するものだった。吉報を知った明條の二人が大咲のもとにやってくると、特に入部当初から大咲が動いていたことを知っているキャプテンは本当に安堵した様子だった。

 

「はい! ありがとうございます。これも先輩達が協力してくれたおかげで……」

 

「まあ、協力はしたけど……アタシたちがやったことはそこまで大したことじゃない」

 

「何よりあなたが頑張り続けたからよ。……だって夏大会で高波相手に一回戦負けした時、あなたが受けていた評価は……」

 

「アイドル活動のついでのお遊び野球。野球少女ってイメージ戦略のためのアピール……だっけ。……本質から外れたつまらない評価だったわね」

 

 明條のエースは“アイドル大咲みよ“に向けられた圧力にも近い世評を思い出すと、かつて自分が大勢の人々から遠巻きに高嶺の花として見られたことも連なるように思い出していた。

 

「……ええ。でもアタシはいつか……きっと、分かってもらえると思ったんです」

 

「そう……こいつの言う通りアンタは折れずに徹頭徹尾自分を貫いた。それがどれだけ大変か……」

 

 それらを身勝手な期待だと思いつつもその圧力から逃れられず期待される偶像(アイドル)を演じていた彼女は大黒谷美代子が大咲みよというアイドルを演じるにあたって曲げなかった意志を羨ましく、そして素直に凄いことだと感じていた。

 

「だからアンタ自身が認めてあげて。これはアンタが掴み取った成果だって」

 

「……!」

 

(アタシが……?)

 

 そんなエースの言葉を目を丸くする大黒谷。掛けられた予想外の言葉に戸惑っていると少しだけ驚いた様子のキャプテンと目が合った。

 

(……びっくりしたな。私が思ってるよりあなたはみよのことを……よく見ていたのね)

 

 その表情がすぐに柔和な微笑みへと変わるとキャプテンは大黒谷の目を見つめたまま、それ以上言葉を添えることもせずにただ頷く。すると二人の先輩の真っ直ぐな視線に少し照れながら大黒谷が浮かべた表情はいつも自信満々な彼女にしては珍しくあどけなさの残る屈託のない笑顔だった。

 

「……大咲さん?」

 

「……!」

 

 そんな2日前の出来事を目をつぶって思い出していた大黒谷に声がかけられた。その声にハッとするように我に返った大黒谷は待ち合わせをしていた人物が到着したことに気付くと即座に気持ちを切り替えて目を開いた。

 

「わっ、すいません。ぼーっとしてました! 来てくれてありがとうございます。……草刈レナさん」

 

「全然良いのよ。あなたに会うのが楽しみで予定より早く来ちゃったわ」

 

 大咲が目を開いた先にいたのは界皇高校の主将を務める草刈レナ。既に界皇のユニフォームに身を包んだ彼女はそよ風で揺れる長い白髪を押さえながら、悠然と立っていた。

 

「わぁ……! 嬉しいです! あ、もしかしてアタシのファンだったり……」

 

「……ええと、ごめんなさい。あまりアイドルは詳しくないの」

 

「あはは。そうですよね。なら尚更私の名前を憶えててくれたのは嬉しいですよ。直接対戦したこともないのに……」

 

「光るものを持っている選手のことはどうしても目についてしまうの。それと……同じ道を歩いていると思える人のこともね」

 

「同じ道……ですか?」

 

「ええ。私たちのことを見つけようとしている人。女子野球を……もっと広く知らしめたいと思っている人のことはね」

 

「……! 草刈さんも……?」

 

(……そういえば聞いたことがある。界皇高校の強さの秘訣の一つは海外チームとの親善試合を行っているからだと。けどそれはもしかしたら、実力の向上以外にも……)

 

「……そうか……そうだったんですね。思い出しました。全国に高校女子硬式野球部が出来るきっかけを作ったのは確か……」

 

「ええ。1995年に女子高生が硬式のボールで海外のチームと初の親善試合を行った……それが新聞に取り上げられたことで、国内で女子高生の全国大会を開こうという流れが出来たわ。30年前は一校も無かった参加校も段々と増えてきた……。そうした流れを途絶えさせないためにも、毎年親善試合を行なって新聞に取り上げてもらっているわ」

 

(確かにその影響もあってか、近年参加校は上昇傾向にある。……それにアナログな手段だけど、新聞の記事はその場で見られるだけでなく、歴史を紡いでくれる。少しでも興味を持って、調べよう! ってなったときにこれほど変遷が分かりやすいものはないわ……。……いたんだ。アタシ以外にも、違う歩き方だけど同じ道を歩いてる人が)

 

 レナの告白に目を見開いた大咲はその告白が示す意味に胸の膨れるような心地良さを感じたのだった。

 

「それと……。……いえ、これはまだ早いわね」

 

「……? なんのことですか?」

 

「私たちも親善試合での交流で初めて聞いたことなのだけど……今、新しい流れが生まれようとしているの。それに私たちも協力の意思を示しているのだけど……まだ決まったわけじゃないから、今は話さないでおくわ。目標というのはあまり喋りすぎると叶わないと言うでしょう?」

 

「は、はぁ……いまいちピンと来ないですけど、そういうことならそこは深く聞かないでおきますね。じゃあ早速ですが、今日の試合に向けてインタビューをさせてもらってもいいですか?」

 

「ええ。いいわよ」

 

 そしてその後10分近い時間をかけてインタビューが行われ、熱心な大咲の質問にレナは落ち着き払った堂々たる態度で答えていった。

 

「では最後の質問ですが……そんな厳しい練習で培われた界皇の強みを一言で表すとしたら?」

 

「……揺るぎない“自信”よ」

 

(自信と来たか……)

 

「……ありがとうございました!」

 

「ふぅ、これで良かったかしら?」

 

「ええ、これでバッチリです! 里ヶ浜との試合……実況はアナウンサーの響さんが担当するので、アタシは調べた情報と今のインタビューを元に解説をさせてもらいますね」

 

「お願いするわ。確か両校のキャプテンに聞くと連絡があったのだけど……里ヶ浜のインタビューはこの後に?」

 

「はい!」

 

「それじゃあ、私も待たせてもらってもいい?」

 

「え……?」

 

「インタビューの邪魔はしないわ。その前に少しだけ……話がしたいの」

 

(……試合前だから下手に会わないほうが良いと思って時間ずらしたんだけどな。まあ、有原さんの方が嫌なら大人しく下がってくれそうだし……)

 

 大咲は意外そうにしながらもレナの頼みを許諾すると、二人は翼の到着を待った。

 

(……あれはこの前里ヶ浜と試合してたアイドルの子。なんでそんなところ——!?)

 

 球場の外の目立たないところではあったが、そんな二人に気付いた少女がいた。偶然目について足を止めていた彼女はさらなる人物の到着に気づくと、とっさに物陰に隠れていた。

 

「はあっ、はあっ。大咲さん、お待たせっ……て、えええええっ!? 界皇のキャプテンさん!?」

 

「初めまして、有原さん。草刈レナです」

 

「あ、あ、有原翼です! 初めまして!」

 

(有原翼……!? なにもここに来なくても……!)

 

「ふふ、今日はよろしくね」

 

「こ、こちらこそよろしくお願いします!」

 

「大咲さんのインタビューで知ったのだけど、あなたあの有原ゆいさんの妹さんなのね」

 

(……!)

 

 物陰に隠れた少女はその言葉を聞いて眉をピクッと動かした。

 

「あ、はい! そうです!」

 

「私もね、野球をやっている妹がいて……でも私のことを追ってばかりで視野が狭くなってるの。だから勝手に妹とあなたを重ねちゃって……」

 

「わ、私とですか?」

 

「ええ。ゆいさんが大輪の花だとしたら、あなたはまだ芽吹いたばかり。だけど試合を見て分かったわ。あなたは大輪の背を追って影に隠れず、伸び伸びと野球をやってることが。だから妹もあなたのようになってくれればって……ついね」

 

(お姉ちゃんは……姉はそう思うかもね。けど妹からしたら……)

 

「そうだったんですね……。私は、周りにも恵まれてたのかなって思います」

 

「……なるほど。野球をする環境か……参考になったわ。ごめんなさいね、どうしても一度あなたと会って話をしておきたかったの。……今日の試合、改めてよろしくね。楽しい試合にしましょう」

 

「はい!」

 

 レナが差し出した右手に気づいた翼は同じく右手を出してその手を握り、見上げるように目を見つめて元気よく返事をした。そんな翼に満足そうな表情を浮かべたレナは手を離してその場を去っていく。

 

(……草刈さんから見て有原さんは光るものを持っている選手だったってわけね)

 

 そんな二人の会話を黙って見守っていた大咲は草刈が試合前の時間を割いてまで有原に会いに来た理由を察すると、切り替えて有原に対してインタビューを行なったのだった。

 

「じゃあこれで最後! そうやって話し合って厳しくすることにした練習で築かれた里ヶ浜の強みを一言で表すとしたら?」

 

「……限りがない“可能性”です!」

 

(……なるほどね。練習試合との違いを感じたアタシ達にとっては、なんとなく分かる答えだわ)

 

「……ありがとうございました! これでインタビューは終わりです。試合頑張ってくださいね!」

 

「はい! 明條の分も精一杯戦ってきます!」

 

(……ようやく行ったか)

 

 こうして翼のインタビューも終わり、隠れていた少女は息を吐き出して姿を表に出すと、選手用の入り口へと向かっていった翼とは違ってスタンドへ通じる入り口へと入っていった。

 

(わぁ……ベンチ入り出来なかった部員達がこんなに整列して並んでる。これがあると強豪校って感じがするよねー)

 

 スタンドへと出た彼女は大勢の界皇の応援団を見て思わず感嘆の吐息を漏らしていた。

 

(確か界皇って地元のボーイズリーグ出身が多いんだっけ。そんな幼少期から野球をやってると……ゴールデンエイジって言って、運動神経が鍛えられやすいんだよね。そんな磨かれた運動神経をこれほどスタンドに溢れさせるほど、選ばれた選手はより才能がある奴らなんだ。……有原翼、あなたの言う可能性とやらで……そんな才能のある奴らに敵うと本気で思ってるのかなぁ)

 

「……あはっ」

 

 彼女が物思いにふけっている間にグラウンドでは界皇の守備練習も終わり、里ヶ浜・界皇の双方の部員が向かい合って整列していた。すると球審の礼に合わせるように両校の挨拶がグラウンドに響き渡り、後攻の里ヶ浜がそれぞれのポジションへと散っていく。そして倉敷の投球練習が終えられると、界皇の応援団の声援を背に1番打者の大和田が右バッターボックスへと向かっていった。

 

(確かこいつは一年ながら、選球眼と足を武器に1番に上り詰めたんだったわね。……いくわよ、鈴木)

 

 腰を浮かせて構えられた鈴木のキャッチャーミットを目にした倉敷が投球姿勢に入ると、そのミットを目掛けてボールが投じられ、試合の幕が切って落とされたのだった。



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見出したビジョン

(大和田沙智(さち)……夏の大会でも全ての試合で1番打者を務めていた一年生遊撃手(ショート)。小柄ながら正確な選球眼と足の速さを武器に高い出塁率を記録していて、ついたあだ名が『切り込み隊長』。この試合、大和田さんの出塁をどれだけ抑えられるかにかかっていると言っても過言ではないわ)

 

 ヘルメットから覗かせる菖蒲(あやめ)色の髪を揺らしながら地面を整える大和田を鈴木はキャッチャーボックスから見上げ、彼女の情報を復習するように思い出しながら様子を窺っていた。青い眼を輝かせ愛嬌のある微笑を口元に(たた)える彼女は鈴木にどこか余裕のある印象を抱かせる。そうして観察しているうちに地面をならし終えた彼女がバットを構えると、球審のプレイボールの宣言が球場に響き渡った。

 

「さぁ準々決勝第一試合、界皇高校対里ヶ浜高校。今、戦いの火蓋が切られました! 実況は実響(じっきょう)ちゃんでおなじみ、ワタクシ実浦(みうら)(ひびき)と!」

 

「『タッチアップ』のセンター、大咲みよでお送りします!」

 

「……始まりましたか」

 

 三日前に界皇に敗れ、既に地元へと帰っていた神宮寺。二試合連続完投による疲労を心配した牧野から今日は肩に負担がかかる練習を禁止された彼女は清城高校にある男子野球部と兼用のトレーニングルームで下半身を鍛えながら、ラジオでこの放送を聞いていた。

 

(7回14被安打3四球4失点。それが界皇戦での私の投球内容。……誇れるような数字ではありませんが、牧野さんのリードやバックの守備も含めて、あれがあの日私たちに出せる全力だったと今でも胸を張って言えます。それだけ界皇の打線は強力でした……)

 

 自分たちの試合と同じようにこの試合も界皇の先攻で始まったことを知った神宮寺の脳裏に三日前に味わった界皇打線の恐ろしさが鮮明に蘇っていく。心に残る印象的なシーンがフラッシュバックのごとく展開され、鳩尾が冷えるような恐怖感が込み上げてきた神宮寺は一度練習を中断し、ペットボトルの蓋を開けて乾いた喉を潤した。

 

(しかし全力で挑んだからこそ、不足していた様々なものが課題となって浮かび上がってきました。二度とこのような思いをしないためにも私たちはこの負けを無駄にはしません。……ですが敗れた私たちとは違って河北さんたちにはまだチャンスが残っている。貴女(あなた)たちが部を作ってからここまでどれだけの努力を傾注してきたか、私は近くで感じてきました。少しの時間でも練習に充てたいため球場で直接応援は出来ませんが、ここから里ヶ浜の勝利を信じていますよ)

 

 同時に悔しさも水のように胸に流れ込んだ神宮寺はその思いも糧にせんとばかりにトレーニングを再開させると共に、陰ながら里ヶ浜を応援するのだった。

 

(……いくわよ、鈴木)

 

(さーて、どう来るかなー? どんな球でも打ち返してやるけんの!)

 

 マウンド上の倉敷はロジンバッグを放り、滑り止めの粉が少し多めについた指先に軽く息を吹きかけて飛ばすと、投球姿勢に入った。左足を引いて両腕を振りかぶると、左足を浮かせ右足を軸に腰を右向きに捻り、左足で踏み込んで地面を右足で蹴りながらほぼ真上から振り下ろすようにしてボールが投じられ、彼女の三つ編みで纏められた赤髪が宙を舞った。

 

(ストレート……もらった!)

 

 投じられたのはインコースの高め。ベルトより高いコースに投じられたボールに大和田は初球から積極的にバットを振り出した。

 

(食いついた! ……!?)

 

 腰を浮かせてミットを構えていた鈴木は要求通り僅かに高めに外されたストレートとスイングに入った大和田を見てバットが下に入り、また内に厳しく投じた分差し込めると確信していた。しかしスイングと並行して脇を締め肘をたたんだ大和田が上から押さえ込むようにしてストレートを捉えた光景が眼前に映し出されたことに目を見開いた。

 

(よし! 打ち返してやったと!)

 

 手に伝わる芯で捉えた感触と三塁線へと放たれたライナーを目にした大和田は意気込み通り打ち返せたことに勝ち誇るような笑みを見せながら走り出す。

 

(打球が速い! くっ……!)

 

 定位置で守っていた東雲はとっさに反応して身体を三塁ベースからやや外野寄りの方向に反転させながら懸命に足を動かすと、鋭く放たれたライナーへと飛びついてミットを伸ばした。すると宙に浮いた身体が地面に叩きつけられ、彼女は指先に込める力をさらに強くしていた。

 

「……アウト!」

 

(なっ!?)

 

 三塁審判が東雲のミットを確認すると、ミットの先ギリギリに引っかかるように掴み取られたボールはこぼれずに収まっていた。響くアウトのコールに、長打を確信し一塁を回ろうとしていた大和田は耳を疑うほど驚く。

 

「し、東雲さん……! ナイスキャッチ!」

 

(当然……と言いたいところだけれど。今のは我ながらよく届いたわ。それほどの打球だった……)

 

 腕を伸ばした状態で地面に伏す形になった東雲はミットに収まっていたボールを見て、その体勢のまま気付かれないよう小さく安堵の吐息を漏らすと、翼からの掛け声に反応するようにユニフォームについた砂を払いながら立ち上がり、いつものように強気な表情を見せていた。

 

「ほう……よく捕ったな」

 

「抜けてたら二塁は勿論、下手したら三塁まで行かれてたかもね」

 

 スタンドから観戦する乾を含めた帝陽学園の面々は今の捕球に感心し、周りの観客と同じように拍手を送っていた。

 

「けど今のはちょい高かったんじゃないか? そう球速があるようには見えないけど……大和田は見極めを誤ったのかな」

 

「……いや、恐らく大和田は今のが外れていたことは分かっていたはずだ。彼女の選球眼は中々のものだからな。だが彼女は……ボール球であっても打てると判断したら積極的に振っていくきらいがある」

 

「確かに結構初球打ちしてくる印象はあるけど……ボール球も振ってたのか」

 

「もっともそう判断しただけあって、それがそのままヒットになるケースも多いがな」

 

「今のもヒット性の当たりだったしな……」

 

「だが、やはりストライクゾーンのボールを打つよりは打率は落ちている。そして彼女がボール球に手を出したデータのみに絞ると、最も打率が低いのは今投じられたインハイだ。低めは上手く転がしてきて内野が止めても足の速さで内野安打にされる場合も多い」

 

「ボール球に手を出したデータのみか……それは元々のデータが豊富にないと参考に出来るだけの数にならないな」

 

「ああ。どうやら我々が提供したデータを生かしての判断と考えて良さそうだ。つまり今の一球は無造作にも見えるが、実際には緻密な考慮の末の選択と言えるだろうな」

 

(……しかし打ち取れる確率が高いからといって必ずしもアウトに取れるわけではない。インハイは打率が低い代わりに長打率の最も高いコースだ。里ヶ浜のバッテリーは長打の可能性をどの程度頭に入れていただろうか……)

 

(今、大和田さんは予めインハイを待っていたわけではなかった。手を出せばポップフライになると思ったのに……)

 

 口を尖らせてベンチへと帰っていく大和田を目で追いながら、鈴木はボールが投げられてからの大和田の対応に強い焦燥感のようなものを覚えていた。

 

「鈴木!」

 

「……! は、はい!」

 

「声出していきなさい。ワンナウトよ」

 

「あ……わ、ワンナウト!」

 

「ワンナウトなのだー! まいちん、後ろは任せるのだー!」

 

(ハナからそのつもりよ。相手はアタシより速い神宮寺のストレートすら苦にしなかったチーム……そう上手く事が運ぶとは思ってないわ。空振りだってそうは狙えない。それでもリスクはあるけど、打たせて取ることは出来る)

 

 東雲からボールを受け取った倉敷は鈴木に声出しを促すと、広がっていくワンナウトのコールに囲まれながら、この試合をエースとして任された以上不退転の覚悟で臨むことを心に決めていた。

 

(……そうよ。ワンナウト……まずは21個のアウトの内の1つを取った。良い当たりを打たれたとしてもこうして地道にアウトを積み重ねていくことが大事なんじゃない)

 

 声を出しているうちに気持ちが落ち着いてきた鈴木は頭の中を整理してからキャッチャーボックスに座り直した。

 

「もー、また初球から手を出して……1番なんだから少しは見てってよね」

 

「だって打てそうやったし……後は任せた!」

 

「しょうがないなぁ……」

 

 帰ってきた大和田にネクストサークルから気さくに話しかけた2番打者が代わるようにして右バッターボックスへと入った。

 

(相良(さがら)吉乃(よしの)。大和田さんと同じ地元ボーイズリーグ出身で夏大会では主に2番打者を務めていた一年生二塁手(セカンド)。小柄な大和田さんと比べれば体格は大きいけれど、界皇スタメン陣の中ではまだパワーは無い方ね。ただ金属バットのしなりを利用したバッティングが得意で、外野を前に出すとそこを突かれる。さきがけ女子もそれにやられたわ……ここは定位置で勝負ね)

 

(守備は……動いてないな。さて、わたしにはどう来るのかな?)

 

 地面をならしおえた相良は杜若(かきつばた)色の髪の下から覗かせる水色の瞳で相手の守備位置を確認してからバットを構え、マウンド上に佇む倉敷へと目を向けて投球に備えた。

 

(さっきの打球で一瞬データを疑いそうになったわ。けど、もう迷わない!)

 

(分かったわ)

 

 鈴木から送られたサインに頷いた倉敷が投球姿勢に入ると、相良に対して1球目のボールが投じられた。

 

(真ん中低め……際どいな)

 

 投じられたのは真ん中低めへのストレート。このストレートに対してストライクかボールか判断に迷った相良はバットを出さずに、そのままボールを目で追うようにして見送った。

 

「……ストライク!」

 

(……! 入ってるのか。どうやらコントロールが良いってのは本当みたいだな)

 

 ストライクゾーンの低めの枠を掠るように通過したと見た相良は球審の判定を聞いていささか呆気に取られると、目の前のピッチャーのコントロールを認めながらバットを構え直した。

 

(そこは……。……分かったわ)

 

 投げ返されたボールを受け取った倉敷は次のサインに僅かに目を見張ると、首を縦に振って投球姿勢へと入った。そして2球目が投じられる。

 

(……!? また……真ん中低め!?)

 

 続けて同じようなコースに投じられたストレート。このボールに相良はバットを出すことが出来なかった。

 

「……ストライク!」

 

(くっ……)

 

(大和田さんが初球から手を出した場合、相良さんはボールを見てくることが多い。特に大和田さんがアウトになった時はそれが顕著だわ。恐らく大和田さんの代わりに情報を引き出す役目を負うのと、続けて早打ちでアウトになるリスクを嫌ってのこと……強気にストライクを続けたのは正解だったわ!)

 

(真ん中低めはコースを意識しなくていい分、低めギリギリを狙いやすい。焦って手を出せば打ち取れる可能性も高いし……ここまでは上手くいってる。後はどうやって仕留めるかね)

 

(慌てるな……確かこのピッチャー、チェンジアップがあったな。わたしまで簡単にやられるわけにはいかないぞ)

 

 0ボール2ストライクとなり、バットを構え直した相良に3球目が投じられた。

 

(また真ん中低め!? ……いや、低い! 手を出すな!)

 

 三度(みたび)同じようなコースに投じられたストレートに相良は追い込まれていたこともあってバットを振り出した。しかし先ほどまでのボールより低いことに気づいた彼女はスイングを途中で止めてこのボールを見送った。

 

「……ボール!」

 

(……よく見たわね)

 

(ふぅー……誘い球か。やってくれるね)

 

 低めに外させたボールを振らせたかった里ヶ浜バッテリーだったが、狙い通りにはいかず1ボール2ストライクとなる。

 

(けど、これは想定内よ。倉敷先輩、次はインハイに……ただし先ほど大和田さんに投じたのとは違って)

 

(高さは肘辺りを狙うのね。分かったわ)

 

(ここが最もバットの遠心力が働きにくく、金属バットのしなりを利用する相良さんが苦手とするポイント。これで勝負よ)

 

(……! インハイ……! 入ってる!)

 

 4球目。3球真ん中低めを続けた里ヶ浜バッテリーは一転してインハイへのストレートで勝負に打って出た。やや虚を突かれた相良はとっさにバットを振り出す。

 

(んっ……!?)

 

 このストレートに僅かな違和感を覚えながら相良が振り出したバットはボールの下を捉えていた。打ち上がった打球に反応するように鈴木はキャッチャーマスクを外しながら反転する。しかし、その足はすぐに止まった。

 

「ファール!」

 

(う……)

 

 打球はそのまま一直線にバックネットに当たっていた。球審のファールのコールに勝負に出た鈴木は顔をしかめる。

 

(……なるほどな。カットで逃れるか)

 

 乾がノートにメモをしながら相良が狙ってファールを打ったことを推察していると、グラウンドでは今のスイングで荒れた足場をならしながら相良が考えをまとめていた。

 

(インハイに来たのは驚いたけど、4球続けて真ん中低めは無いとは思ってた。ただ今のストレート……速く感じたぞ。……そうか。3球目までのストレートは抜いて投げてたんだ。今のが恐らく、全力のストレート! あっぶないなあ……カットしにいったから良かったものの、打ちにいってたらさすがにやばかったよ)

 

 苦手なコースに加え、3球目までの7割ストレートと今の全力ストレートの球速差も使って相良を打ち取ろうとした里ヶ浜バッテリー。しかし無理には打たずカットされ、その目論見を躱されてしまっていた。3球目までのストレートが倉敷にとっての全力のストレートだと思い込み、正直遅すぎると感じていた相良はそのことを戒めるように一度ヘルメットを軽くバットで叩くと、先ほどまで浮かべていた落ち着いた表情から打って変わっていたずらっ子のような笑みを見せてバットを構え直した。

 

(まだ手はあるわ。今の全力ストレートを生かしてアウトローに……)

 

(分かったわ。狙ってみる)

 

 倉敷はそんな相良の表情を不気味に思いつつ鈴木のサインに目をやると、そのサインに応じるようにミットの中で握りを調整してから5球目を投じた。

 

(チェンジアップ……! ようやく来たね!)

 

(うっ……!? 崩せてない!?)

 

 追い込まれてからチェンジアップを警戒して重心を後ろに置いていた相良は上体を突っ込ませることなく、緩急の効いたこのボールを引きつけていた。そのことに鈴木が気づいたのも束の間、アウトコース低めやや中寄りに投じられたチェンジアップに振り出されたバットがボールの芯を捉えて弾き返した。

 

(は、速いのだ……!)

 

 倉敷の左足のすぐ横でバウンドした打球に反応よく踏み出したセカンドの阿佐田だったがスピードのあるゴロに追いつくことは出来ず、打球はそのまま二遊間を抜けていき、センター前へのヒットとなった。

 

(わ……!? 凄いボールの勢い。ここまで転がってきたら普通もっと減速してるのに……)

 

 ほとんど正面に転がってきたゴロだったが、打球のあまりの勢いにセンターの永井は右膝を突いた状態で確実に捕球しており、ミットから抜け出そうと暴れんばかりの勢いで回転するボールに驚いていた。

 

(やられたわ……もう少し内を突くべきだったかしら。……いや、それは結果論ね。切り替えないと……)

 

(少し甘く入ったけど、低めの良いところにはいってた。それなのにこれか……やっぱり一筋縄じゃいかなそうね)

 

 1アウトランナー一塁となり、3番バッターが右打席へと入った。先ほどの相良も1年生にしては体格が大きい方ではあったが、身体の厚みを感じさせる2年生の体格は守る里ヶ浜により威圧感を覚えさせる。

 

(相良さんは大和田さんと違って足が速いわけじゃないわ。無警戒はまずいけれど、警戒しすぎるのも良くない。ここはバッター集中ね)

 

 そんな3番バッターの様子を見上げるように窺った鈴木は努めて冷静に今の状況を整理するとサインを送った。そのサインを受け取って頷いた倉敷は相良の方に少しの間に目をやると、前を向いてクイックモーションでストレートを投じた。コースはインコースの低め。

 

(打てる!)

 

 ベースの上を通過し、キャッチャーミットに収まろうかというボールをフルスイングで振り出されたバットが捉えた。

 

(……!)

 

 鋭い金属音にハッとするように倉敷は振り返ると、ライナーで放たれた打球はファーストの野崎が伸ばしたファーストミットの先を優に超えていくのが見えた。

 

(う……)

 

(いや、これは……)

 

 着地した野崎は背筋が凍るような感覚を覚えたが、打球を追っていた九十九は対照的に安堵したように足を止めた。

 

「ファール!」

 

(ちぃ……ちょっと溜めすぎたな)

 

 打球はライト線からファールゾーンへと逸れていきファール。打ったバッターも途中からその確信を得たようで足を止めていた。

 

(……ファールか。助かったわ。たださっきから打球のスピードが速いわね……)

 

(このバッターはアウトコースの方が打率が高く、また右方向への進塁を意識した打球が多い……。ただインコースが苦手というわけじゃない。それは分かっていたつもりだったけど……)

 

「お、サンキュー」

 

 投げ捨てられたバットを拾って戻ってきたバッターに渡した鈴木はお礼の言葉に会釈で返してから座ると、次に投げるボールを慎重に検討する。

 

(特徴的には明條の3番バッターに似ているけど、彼女と違ってインコースを苦にしないのはトップの位置から最短距離でボールを捉えているから。俗に言うコンパクトなスイングだけれど彼女はそれをフルスイングで実践している。王者界皇のクリーンナップに恥じない巧打者だわ……インコース一辺倒は危険ね)

 

(アウトコース低め、外に少し外して……)

 

(最低限相良は進めてやらないとな。その上で私も塁に出れたらベスト……)

 

 互いの考えが交錯する中、2球目が投じられた。

 

(遠いか? いや、私のリーチなら届く!)

 

(振ってきた……! ボールは要求通り外れてる。……打球は……!)

 

 外にボール1つ分外されたストレートにバッターは大きく外に踏み込むとバットを振り出した。フルスイングで振られたバットが芯より僅かに先でボールを捉えると、鈴木は右方向に放たれた打球の行方を目で追った。

 

「あっと! 一、二塁間を真っ二つだ! ファースト、セカンド共にこれは届きません!」

 

(くっ、ヒットにされた!)

 

 ゴロで放たれた打球は一、二塁間を抜けると外野の芝に乗っても勢いを落とさず転がっていく。キャッチャーマスクを上げて視界を確保した鈴木は一塁ランナーの相良が打球に触れるのを避けるため僅かに減速を挟んでおり万全の走塁には至ってないことに気づいた。

 

(九十九先輩の反応も良い! ここは……)

 

「三塁に!」

 

(三塁か。なら……)

 

 鋭く転がってくるゴロに正面から突っ込んでミットで拾い上げるようにして捕った九十九は迷わず身体を三塁方向に向けると、送球を行なった。

 

「ノーカット!」

 

「分かった!」

 

 ショートを守る翼は中継位置に入っていたが好送球と判断した鈴木からの指示でカットに入らずボールを見送った。すると送球はワンバウンドして三塁につく東雲のミットにランナーに対してタッチしやすい体勢で収まった。

 

(うーん。当たりが良すぎたね。ま、しょうがないか)

 

(無理はしてこなかったわね)

 

 しかし一塁ランナーは二塁を少し回ったところでコーチャーの指示と自分の判断を合わせて足を止めていた。東雲が送球を逸らさず受け取ったところで、諦めたように二塁へと戻っていく。

 

「ふーん……ランナー一塁の時にボール来たら迷わず三塁に投げればいいんだ」

 

「あ……それだと一塁ランナーが三塁来れる時にバッターランナーに二塁を狙われちゃうかも……」

 

「あー。そういえば清城との練習試合でそんなことがあったような……」

 

「今のは当たりが強かったし、一塁ランナーも速い人じゃなかったから……」

 

「そっか。一塁ランナーが三塁に進むのを防げればバッターランナーも二塁には行けないから、だから今の場面は迷わず投げられたのね」

 

「そうだと思うよ。……でも、珍しいね。逢坂さんが九十九先輩のプレーを参考にするなんて」

 

「アタシはノックとかは捕れてる方だと思ってたし、守備は大丈夫だと思ってたけど、そういう守備の判断がまだまだだってことは思い知らされたから……」

 

「逢坂さん……」

 

「だけど伽奈先輩に直接指導してもらうのはなんか癪に障るし……見て盗んでやることに決めたのよ」

 

「うん。それが良いと思うよ。茜もフライの間の取り方とか、九十九先輩をお手本にして、少しは上手くなれたと思うから……」

 

 ベンチから今のプレーを見ていた逢坂と宇喜多はそんなやり取りを交わしたのだった。

 

(外が得意とは思っていたけど、ボール球を打たれた……。ボール球だって安全とは限らない。覚悟はしていたけど、あれを軽々とヒットにされるのはさすがにショックね……)

 

(セカンドとショートはゲッツーシフトを敷いて二塁ベースに寄って、ファーストは牽制に備えて一塁ベースに寄って守っていた。一、二塁間が広く空いてたんだ。外を流してあの辺りに転がせばヒットになりやすいと思ってたから思い切れたし、その位置なら最悪捕られても相良は二塁に進めると思ってたよ)

 

 相良の三塁への進塁は防いだものの、ボール球を打たれてヒットで繋がれてしまい鈴木は氷を胸に当てられたように肝を冷やされていた。打ったバッターが得意げな表情を見せる中、彼女の見つめる先ではネクストサークルから出てきた4番打者がゆっくりと右打席へと向かっていた。

 

「さあ、1アウトランナー一塁二塁となりまして打席に向かうのは界皇高校のキャプテンを務める草刈レナ! 界皇、先制のチャンスです!」

 

 威風堂々とした王者の風格を漂わせ、白髪を揺らしながら一歩また一歩と歩を進めるレナ。彼女の歩みがまるで心臓の鼓動のように響き渡る。

 

「よろしくお願いします」

 

 柔らかい物腰でただ一言、球審と鈴木に向かって呟いたレナは地面をならすと悠然とバットを構えた。

 

(こいつが草刈レナ。全国でも選りすぐりの巧打者か……。初回から点はやれない! 抑えてみせる!)

 

(……今は目の前のバッターに集中しないと。広角に打ち分ける技術を持っていて特別苦手らしいコースは見当たらなかった。どのコースも全体的に打率が高く、また真ん中付近の甘い球はほとんど逃さない。強いていうならアウトローが全体に比べるとやや低め、ただし打率としては十分に高いわ。ここは……キャッチャーの腕の見せ所よ)

 

(……分かったわ)

 

(内野は定位置……ゲッツーシフトは取らず、目の前のアウトを優先したのね。外野は少し下り目……越せないことはないわね。ここは極端なシフトは取らず、バッター勝負に出ようということかしら。……!)

 

 初回からピンチを迎え緊張の面持ちになる里ヶ浜守備陣。鈴木の指示でそれぞれの位置へと動き終えると、倉敷が投球姿勢に入りボールを投じた。インコース真ん中に投じられたストレートは内に外れており、レナはこれをバットを出さずに見送った。

 

「ボール!」

 

(……想像していたよりは速いかな。きっとこれが全力のストレートね。対応出来ないスピードではないけれど……ピッチャーの指にかかった生きたストレートは易々とは打てないわ。チャンスを作ってくれたみんなのためにもここは4番としてものにしないとね)

 

(まずは内に強く見せられた。次は……)

 

(……このリードは……)

 

 2球目。二塁ランナーの相良が目を切った倉敷は集中するようにコースをイメージすると、今度は7割の力でストレートを投じた。

 

(インロー……際どい!)

 

 膝下の厳しいコースに投じられたストレートにレナは無理に手を出さず、これを見送った。

 

「……ストライク!」

 

(良いピッチャーね。このピンチの場面で長打の危険が高い内を恐れずに攻めてくる。今のは恐らくコントロール重視のストレート……この二つのストレートの球速差には気をつけておかないと)

 

 1ボール1ストライクとなり3球目。再び倉敷は7割の力でストレートを投じた。

 

(高……いや、外れてる!)

 

 一転して高めをついたボールに浮いたと判断して足を上げたレナだったが踏ん張ってバットの振り出しを止めると、インハイに投じられたストレートは枠からボール2つ分高いところを通過し、立って構えられた鈴木のミットに収まった。

 

「ボール!」

 

(釣られないか……)

 

(んー……さすがやね。あのピッチャーのストレートはなまじっか打てそうやけん。つい手を出したくなるんやけど……)

 

(焦れてバットを出したくなるところに高めか。嫌な配球をしてくるわね。けどこれでボールがまた先行したわ。歩かせて満塁にはしたくないだろうし、コントロールの良いこのピッチャーなら3ボールにするのは避けてくるはず……)

 

 ベンチから声援を送る大和田が憧れの4番の姿に感嘆の吐息を漏らす中、次にストライクを取りに来ると読んだレナは静かに意気込んでバットを構えた。そして2ボール1ストライクからの4球目。

 

(インロー。……!)

 

 膝下に投じられたボールにレナは足を上げると、まだボールが遠くの位置にあることに気づいた。

 

(チェンジアップ……!)

 

 不安定な体勢をとっさに保ちながら肩の開きを出来るだけ抑えたレナは足を踏み込んでバットを振り出した。すると放たれた打球はフェアゾーンから大きく逸れていく。

 

(よし!)

 

(……ストライクじゃない。低めに外されてた……!)

 

「うおおおっ!」

 

「ファール!」

 

 レフトの岩城がこの打球を懸命に追っていったが、落ちてきた打球はファールスタンドへと突き刺さるように入っていき、岩城はこれを急ブレーキをかけて見上げるようにして見送った。

 

「くぅ……捕れなかったか! だが舞子! 追い込んだぞ! その調子で頑張れ!」

 

(相変わらず外野からでもよく響く声ね。分かってるわ。何がなんでも抑えてやる)

 

(倉敷先輩のチェンジアップはコースはまだ不完全でも高さはコントロール出来るようになってきた。低めに外したチェンジアップ、この場面ならいかにこのバッターでも振らせられると思っていたわ)

 

(まさか釣り球を続けてくるなんてね。やられた……けど、フェアゾーンに打ち返せば外野フライだった。チャンスは残したわ)

 

 3ボールになるかもしれないリスクを背負ってボール球を投じた里ヶ浜バッテリーに振らされてしまったレナは内心やられたと思いつつも、残ったチャンスへと集中力を注ぎながらバットを構え直した。

 

(厳しい要求ですが……これでお願いします。この要求の通りに投げるのは難しいと思いますが、これくらい厳しく攻めましょう)

 

(……やっぱりそっちか。分かってたわ。紅白戦で有原に似たようなリードをしたことがあったから、そのビジョンは……アタシにも見えていた)

 

 2ボール2ストライクから5球目。鈴木から出されたサインを待っていたように頷いた倉敷は投球姿勢に入ると、足を踏み込んだ。

 

(二回戦休ませてくれたおかげか、今日は肩が軽い。今日なら狙える気がする……四隅を全力投球で……!)

 

 ボールを投じる瞬間、倉崎は指先に妙に鋭く研ぎ澄まされた感覚を覚えると、その指先にギリギリまで吸い付くように縫い目を触れさせたボールが今投じられた。

 

(……!? ここでアウトコース……!)

 

 執拗に内を続けられたレナはアウトコース低め、四隅からはやや中に入りはしているがかなり厳しく投じられた全力ストレートに対してある予感と共に背筋に冷たいものが走ると、焦りを覚えながら踏み込んでバットを振り出した。

 

(差し込まれる……!?)

 

(どうだ……!?)

 

 ——キィィィン。バットの芯より先で捉えられたボールは一塁線へと放たれた。

 

(止めてみせます!)

 

(ファーストライナーか!?)

 

 低いライナーとなって放たれた打球に野崎は横っ飛びで飛びついた。それに反応した一塁ランナーはダブルプレーを危惧して一塁ベースに向かってスライディングで戻っていく。

 

(ああっ……!)

 

「フェア!」

 

「ファーストが伸ばしたミットの僅かに先を抜けたーっ!」

 

(な……!?)

 

(あれを打ち返した……!?)

 

 打球は野崎の伸ばしたファーストミットの先を無情にも抜けていくと、一塁審判のフェアの判定に一塁ランナーは立ち上がって再び先の塁へと向かっていく。

 

(……ダメだ……。ホームは間に合わない!)

 

「サード!」

 

(サードか! 先ほどより余裕はない。スムーズに……!)

 

 二塁ランナーの相良は一塁ランナーと違い距離があった分リードを広げて、捕られたら帰塁するという形を取っていた。それに加えて下り目に位置していた外野とライト線を沿うように転がる打球を考慮して鈴木はホームは間に合わないと判断し再び三塁への送球を指示する。身体をライト線に向けながら自身から逃れるように転がるゴロに辛うじて追いついた九十九は反転して三塁へと送球を行った。

 

(ととっ……)

 

 一旦一塁ベースに戻りながらそれでも二塁へと到達して三塁を目指した一塁ランナーだったが、ホームへではなく三塁にボールが来たことにやや慌てた様子で二塁にスライディングして戻っていった。

 

「二塁ランナー、今ホームイン! 界皇先制! 4番の草刈レナにタイムリーヒットが生まれました!」

 

「キャプテン、ナイバッチ!」

 

「……ええ」

 

 先の塁が詰まり二塁を狙えなかったレナは一塁ベースへと戻ると、コーチャーに声をかけられる。彼女はそれに応えながらも、視線は倉敷の方へと向いていた。

 

「順当に界皇の先制かー」

 

「……順当だと?」

 

「え? ど、どうしたのケイ? 今、見事に草刈が持ち前の広角打法で打ってみせたじゃないか」

 

「ああ。見事にな。だが余裕は無かった」

 

「どうしてそんなことが?」

 

「ファーストが牽制に備えて一塁寄りに守っていたんだ。一塁線のヒットゾーンはかなり狭くなっていた。追い込まれた状態であそこを狙って打つのはいくら彼女でも至難の業だ」

 

「そりゃ……そうか。もう少しで捕られそうだったもんな。じゃあなんであんなところに……」

 

「リードも踏まえれば……草刈レナは差し込まれたのだろう」

 

「それはちょっと難しいんじゃ……あのピッチャーの球速じゃ、界皇のバッターを差し込むなんて」

 

「だから言っている。今、彼女は本来余裕を持って捌ける球速のストレートに対し、打球に角度をつけるのを諦めてただ強く叩くことしか出来なかったんだ。それでもヒットにしてみせた所は見事という他ないが、里ヶ浜バッテリーには彼女を十分打ち取るだけのビジョンがあった……」

 

「むむ……新設校だとばかり思ってたけど、さすがに三回戦まで勝ち残ってきただけのことはあるみたいだな」

 

「ああ。だが今の勝負は界皇に転んだ。これがどう影響するかだな。勝負にいった結果、打たれることもある。重要なのはむしろその後の流れを断ち切れるかどうかだ」

 

 界皇の先取点で盛り上がるスタンドの中、乾は静かにその後の流れを見定めるようにグラウンドを見下ろしていた。するとホームのカバーに入っていた倉敷がショックを受けている様子の鈴木の背を叩いたのが目に入った。

 

「先輩……」

 

「なんて顔してるの……」

 

(……正直アタシもショックだ。はっきり言って、あれを打たれるとは思わなかった)

 

「す、すいません。私がこんな……」

 

「……いや、いい。アンタもショックだったのは痛いくらい分かってる。だからこそ……」

 

「……?」

 

「一人だけでショックを受けるより、二人で受けた方が半分で済むでしょ」

 

「……! ……ふふっ、そうですね」

 

「さあ、いくわよ」

 

「はい!」

 

 秋大会三回戦、界皇高校対里ヶ浜高校。その幕開けは界皇の4番打者、草刈レナの先制タイムリーという形で始まった。全力を注いだ投球を打たれショックを受けていた二人だったが、先輩の倉敷が声をかけると、鈴木は負担が和らいだように微笑みを見せていた。そして尚も迫るピンチに二人は顔を上げてそれぞれの場所に戻るのだった——。



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覚悟を抱きしめて

今週時間取れないのが続いて、更新ずれこみまくってしまい申し訳ない。
次週の更新はスキップで、次回の投稿は11月1日でお願いします。


 界皇に初回から先取点を許し、尚も1アウトランナー一塁二塁のピンチ。試合の勢いを物語るようにスタンドからは界皇の応援団の声援や統率のとれた演奏が響き渡っていた。

 

「うげ……なんかいきなりやばくない?」

 

「球場が揺れてるような気がするわ……」

 

「なんと言いますか……圧倒されてしまいますね」

 

「ガンガンドンドン! って感じだねー」

 

「うぅ……」

 

「うちは応援団ないんだっけ……。アタシという応援しがいのある美少女がいるのに」

 

「いや、一応岩城パイセンが応援団を名乗って活動してはいるにゃ。一人しかいないから部ではないみたいだけどにゃ」

 

(岩城先輩か……。三日前の明條戦の時は先輩が対左オーダーでベンチだったからずっと大声でグラウンドに声援を送り続けてくれて、私たちもそれに引っ張られたっけ……。……よし)

 

 試合開始当初は段々と試合の雰囲気に慣れてきた新入部員たちも率先してベンチから声援を送っていたが、今は界皇の怒涛の勢いに押されてベンチは静かになってしまっていた。彼女達と同じように河北も気迫に押されていたが、二回戦の時にスタメンに選ばれて緊張していた所に岩城の背中を押してくれる心強い声援を受けてその緊張が和らいだことを思い出すと、一度息を大きく吸った。

 

「すぅ……フレーッフレーッ! 里高ファイトー!

 

「か、河北?」

 

 突然岩城にも劣らぬほどの大声を張り上げた河北。普段どちらかと言えば大人しい方である彼女の行動に隣に立つ新田だけでなく、ベンチにいる皆が呆気に取られていた。

 

「ほら新田さんも。こんな時だからこそ、ベンチが声出していこう!」

 

「お……おぉ! が、がんばれー! 負けんなー!」

 

(……そうですね。試合の中心はスタメンの方でも、ベンチにはベンチの役割がある……)

 

 河北の行動に釣られるように界皇の大応援団に負けじと里ヶ浜ベンチからも再び声が出始めた。そんな変化を目の当たりにした初瀬はかつて中野に言われた言葉を思い出すと、一歩前に出て腹の底から声を出していた。

 

「ま、まだ初回です! 十分に返せるチャンスはあります。ここは落ち着いて最小失点で切り抜けましょう……!」

 

(たとえグラウンドに共に立てなくても、一緒に戦うことは出来る。お、大声を出すのは恥ずかしいですが……少しでも力になれるのなら)

 

 自分の声援がたとえ一滴の水だとしてもそれがいずれ大きな流れに繋がると信じ、初瀬は精一杯の声量で応援を続けるのだった。

 その頃グラウンドではホーム付近にいた倉敷がマウンドへと戻り、それを見た界皇の5番打者がゆっくりとバッターボックスへと向かっていく所だった。

 

(……そう、初瀬さんの言う通り落ち着くのよ。周りを良く見て……)

 

 倉敷に声をかけられ幾分かショックが和らいだ鈴木はベンチからの声援もよく聞こえていた。彼女が周りを見渡すとベンチだけでなくグラウンドでも翼を中心に声が出され、声を掛け合うことで今の状況に向き合っている様子が目に入った。

 

「……ワンナウト! 一つずつアウトを取っていきましょう!」

 

 そして自身も声を出すことで現状に対する意識を共有しながら、鈴木は守備隊形の指示を出していった。

 

(外野は……下がった。うん。それで良いと思うわ。一塁ランナーの草刈さんは足もあるし、この5番バッターには長打力があるもの。単打での失点を恐れて外野を前に出してその上を越されたら、草刈さんまでも還ってきてしまう)

 

 岩城・永井・九十九が後退していく様子を声援を送る皆の後ろからスコアブックをつけながら見ていた近藤はその判断に頷いていた。

 

(左中間を狭めた様子は無いな。……初球だ。レナの一打のショックが抜けないうちに、一撃で仕留める!)

 

 相手の守備位置を確認した5番打者が右打席に入り、バッターボックスの一番前で構えるとプレーが再開された。その初球、膝下に投じられたストレートに対してバッターは積極的に打って出た。すくいあげるように放たれた打球はライナー気味のフライとなって左中間へと向かっていく。

 

(長打性の当たりだけど、外野は下がってた。ここは安全に……)

 

「ハーフ!」

 

 内野を悠々と越えていった打球を見上げたコーチャーから指示が出され、一塁・二塁ランナーが共にハーフウェイまでリードを広げる。

 

「……よしっ! ウチに任せろ!」

 

「アウト!」

 

(なっ……追いつかれた!?)

 

 反転して深々と放たれた打球を追っていた岩城だったがこの打球が落ちてきたところで共に追っていた永井に声をかけながら振り向くと落ちてくるボールに合わせて立ち位置を微調整し、キャッチに成功していた。

 

「ふむ。先制点を許して浮き足立つところに初球打ちか。狙いは悪くなかったが……里ヶ浜バッテリーは落ち着いていたな。迂闊にストライクを取らずに低めのボール球から入り、それをすくいあげさせた。あれでは柵を越えない限り長打シフトの網にかけられるだろうな」

 

 捕球に合わせてハーフウェイまでリードを取っていたランナーが元々いた塁に戻っていくと、岩城は中継に入った翼へとボールを送り2アウトランナー一塁・二塁となった。投球から一連のプレーをスタンドから見ていた乾は双方の思惑を考察する。

 

「絶妙に手を出したくなるところに来てたからね〜。けど界皇も甘いなあ。予め外野は下がってたんだ。あの球速のストレートなら上手く合わせて、外野と定位置の内野の間に落とす手もあっただろうに」

 

「選択肢としてはあっただろうな。だが中途半端なバッティングをして勢いづかせるよりは、持ち味の長打力で勝負に出たんだろう。現に彼女は今大会だけでも一回戦のさきがけ女子・二回戦の清城共に後退守備を取った外野を得意の左中間打ちで抜いている」

 

「へぇ、なるほどね。確かに下がってた割には余裕なかったかも。でもそういうデータがあったなら、レフトとセンターを寄せても良かったかもね」

 

「……いや、それはどうかな。私はそれには反対だ」

 

「なんで?」

 

「例えばレフト線に今のような打球が上がったとしよう。打球距離が長ければ逸れも大きい……シフトによって開いた差を埋められずフライアウトに取れないリスクは少なくない」

 

「うーん……まあ、そうとも言えるね」

 

「定位置というのも数あるシフトの一つだ。それがよく敷かれるのはあらゆる打球に対する順応性があるシフトだからと言っていいだろう。それを動かすにはリスクも伴う。確かに彼女は左中間打ちが得意だが、果たして今の場合負うべきリスクかどうか……?」

 

「……そっか。外野を下げて、低めのボールをすくいあげさせてフライを打たせたからな。たとえ左中間に飛んでも、レフト線でも、それ以外でも。十分取れる見込みはあるってことだな」

 

「そういうことだ」

 

(そういう意味では今の守備位置を指示していたキャッチャー……鈴木と名乗っていたか。彼女は長打警戒で下げはしたが、左右の位置関係は崩さなかった。大和田に長打を打たれかけた影響もあるか……? 慎重な選択をするようになったな)

 

「ナイスボールです! 次のバッターで切りましょう!」

 

「ありがと。後ろは任せるわ」

 

「はい!」

 

 翼から投げ渡されたボールを受け取った倉敷は一呼吸挟んでから前へと向き直った。

 

「惜しかったね」

 

「ちぃ……もう一伸び足りなかったよ。後は頼んだ」

 

「ああ。任せときな」

 

(先制はしたけど、ダメ押しが欲しいとこだ。ここはしつこくいこう)

 

 打ち取られたバッターと言葉を交わした6番バッターが左打席に入っていくと、今の状況を鑑みてどうすべきか頭の中で決めてからバットを構えた。

 

(このバッターは低めをすくうのが得意だわ。反面高めは球威に押されて打ち上げがち……ただ先輩は球威がある方じゃない。そう簡単に打ち上げてくれるかどうか。……倉敷先輩)

 

(厳しい要求ね。入れにいくなってことか。フォアボール出せばランナーが三塁に進んじゃうけど、入れにいって打たれてもダメ。まったく……ピッチャーってポジションは頼られ甲斐があるわよね)

 

 そんなバッターの様子を見上げながらデータを思い出した鈴木は現状と照らし合わせながら考えると、サインを送った。鈴木の要求に倉敷は改めて界皇のバッターの厄介さを感じながらも、鈴木がそんな厳しい要求を遠慮なくしてくれることにどこか嬉しさも覚えていた。

 そして一度二塁ランナーへと振り返った倉敷は定位置へと戻った外野も視界に収めると、視線を前に戻して投球姿勢に入りボールを投じた。

 

(内のストレート……ギリギリだ。無理するな!)

 

 インコース真ん中に構える鈴木のミットを目掛けて倉敷はストレートを投じた。要求に応えるようにそのコースに投じられたストレートにバッターは浅いカウントから無理するべきではないと判断し、これを見送る。

 

「……ボール!」

 

(少し内に投げすぎたか……)

 

「その調子です!」

 

 際どく投じたストレートに対し、球審の判定はボール。上がったコールに眉をひそめる倉敷に鈴木はボールを投げ返しながら声を掛けた。

 

(要求したのは全力のストレート。外れることは想定内……これを次にどう生かすか)

 

(……確かにイメージ通りには投げれてる。ここは鈴木の要求に応えることだけ考えるわ)

 

(さほど速くはない……が、良いコースだ。こういうピッチャーは空振りがあまり取れない代わりに打たせて取りにくるのが定石。簡単に打たされないようにしないとな)

 

 1ボール0ストライクから2球目。振り抜かれた腕から投じられたストレートはアウトハイへと向かっていく。

 

(外……少し遠いか?)

 

 このストレートもバッターは見送ると、構えられた鈴木のミットはほとんど動かずに心地良い捕球音をならした。

 

「……ストライク!」

 

「ナイスボールです!」

 

(よし。今度は全力投球が良いところに決まったわ)

 

(……入ってたか。ゾーンを広く使ってきたな。……次は?)

 

 1ボール1ストライクとなり3球目。

 

(また高めにストレート!? 舐め……んなっ!)

 

 投じられたのはインハイへのストレート。このボールに対してバッターは初めてスイングの始動に入っていた。右投手から左打者への内角へと角度のついたストレートに対し、身体を開いてバットが振り出される。

 

(……! 少し遅……!)

 

 ——キイィィン。快音と共に放たれた打球はライトへの大飛球となって打ち出された。しかし、バッターは走り出さずにその場に留まって打球の行方を見上げていた。

 

「ファール!」

 

(しまった……打たされたか。今のが遅いストレート。球速差が僅かで気付くのが遅れたな……)

 

(よし。上手く追い込んだわ。けどここは焦らずに……)

 

(分かってる。仕留め損なったら水の泡よ。慎重に……)

 

 1ボール2ストライクから4球目が投じられた。

 

(膝下のストレート。……外れてる!)

 

 インコース低めに投じられたストレートに追い込まれていたバッターはスイングの始動に入ったが、外れていることを感じ取ると足を踏み込むと同時にバットを止めてこれを見送った。

 

「……ボール!」

 

(今のよく見たわね……)

 

(際どいところには投げ切れたけど、高さもコースも少しずつずれたか……7割でもさすがに四隅を完璧に決めきるのは難しいわね)

 

(今度も遅いストレートか。このピッチャーの速い方のストレートは、さほどきついスピードじゃない。そっちに標準合わせていれば、後は少し溜められればこっちも合わせられそうだ。だからまずは油断して振り遅れないように……)

 

 見送られたストレートがボールとなり、2ボール2ストライク。バットを構え直したバッターをマスク越しに窺った鈴木は倉敷にサインを送った。

 

(……! ここで勝負か。分かったわ)

 

(ここまでボールを散らしてきた。ゾーンを広く使って最後は……)

 

 そのサインに倉敷が頷くと短く吐息を吐き出した後にセットポジションに入る。

 

(フルカウントになったら走ってくる。集中して……)

 

 彼女の身体にはうるさいくらい心臓の鼓動が響いていた。吐息を吐き出してもそれが収まることは無かったが、その目は揺るがず鈴木のミットを捉えていた。そして足が踏み出され、5球目が投じられる。振り切られた腕から放たれたボールにバッターはスイングの始動に入った。

 

(……!? ボールが来てない! 溜めろ……!)

 

 バッテリーの選択はアウトローのストライクゾーンへのチェンジアップ。振り切られた腕や警戒していた速いストレートとのギャップにバッターは慌ててボールが来るまで耐えようとする。

 

(くっ、粘れ……!)

 

(体勢が崩れた!)

 

 それでも遅いストレートよりさらにスピードが抑えられたチェンジアップに完全には溜めきれず、バッターは崩れた体勢からボールに食らいつくようにバットを振り出した。するとアッパー気味に振られたスイングはボールの芯より上を捉えた。

 

「打った! しかしこれはボテボテのゴロだ!」

 

(い、いや……これは……!)

 

 放たれた打球は三遊間へと転がっていき、バッターランナーを含めた全ランナーがスタートを切った。

 スピードがさほど乗っていないように見えるゴロだったが、ショートの経験がある大咲はこれを見て焦燥感を覚える。

 

(うっ。まずい……!)

 

 同様にショートを守る翼も危機感を覚えていた。打球自体は崩されたスイングから芯を外されさほど勢いよく放たれなかったが、上を強く擦ったような当たりがトップスピンとなって地面を何度も蹴るように打球を加速させていき、また転がったコースも里ヶ浜にとっては悪かった。

 

(抜かせない。後ろを信頼して投げてくれた倉敷先輩のためにも……止める!)

 

 翼はこの打球に対して浅い位置での捕球は難しいと判断し、三遊間へと走りだした瞬間に向いた身体の方向は外野に寄っていた。そして眼前に迫った打球に対し、翼は内野と外野の境目のラインを目掛けて飛び込んだ。

 

「バックだ!」

 

(むっ……!)

 

(あの体勢じゃ一塁も二塁も間に合わない……なら、有原さん!)

 

(東雲さん!)

 

 力の入りにくいミットの先で地面に押さえ込むようにして辛うじて打球を止めた翼は飛び込んだ勢いで流れる身体を膝を地面につけて抑えながら、ボールを拾い上げて上体の力だけで既に三塁ベースへとついた東雲に向かって送球を行った。オーバーランしたランナーは送球より僅か前に聞こえたコーチャーの声に反応するようにとっさに頭から滑り込み、ベースに手を伸ばした。

 

「……セーフ!」

 

(くっ、さすが界皇ね。ホームへ還るためにスピードを出していたのに、抜けたと決めつけずにしっかりと戻れるようにしていた。……気落ちしている場合じゃないわね。そんな相手だからこそ、ここでの大量失点は絶対に避けないといけない)

 

「有原さんよく止めたわ。抜けていたら失点は免れなかった」

 

「うん。なんとか止められたよ」

 

「助かったわ有原」

 

「転がったところは悪かったけど、しっかり打ち取った当たりだったので、ギリギリ追いつけました! その調子でいきましょう!」

 

「分かった」

 

(……内野安打にはされたけど、悪くなかった。あの速い打球じゃなく、今のは上手く打ち取れていた。このピッチングを最後まで貫く……!)

 

 マウンドに上がる前から決めていた不退転の覚悟を揺るがずに貫き、広がったピンチに狼狽することなく、倉敷は右打席へと入ってきた7番バッターを見つめた。

 

(ボーイズにいたからあまり知らないけど、あのサードとショートはシニアでは名の知れてる奴らしいね。今のプレーも普通なら止めれれば上出来だ。サードだって打球の方を追いたくなっただろうに、あのショートが止めると判断してベースについたんだ。三遊間は抜きにくいかもしれないな)

 

 そのバッターへの初球はチェンジアップ。これは外に外れ、バッターも悠々と見送った。

 

(む……確かに外れてるけど、随分余裕があるのだ。そんなに大きく外れたわけでもないのに、身体の軸がピーンとしてたのだ)

 

 2球目、6分割のアウトローを目掛けて全力のストレートが投じられる。

 

(外でストライクを取りに来た。これを……確実に転がせ!)

 

(くっ。コンパクトに合わせられた!)

 

「打ったー! 打球は一、二塁間へと転がっていきます!」

 

(うっ。まずいです……!)

 

 先ほどのゴロとは違いスピードの乗ったゴロに野崎は慌てて打球に反応して、一歩踏み出した。

 

「任せるのだ!」

 

「……! はいっ!」

 

(なっ、セカンドがもうそこに!)

 

 バッターが打球を打つ直前に一、二塁間へと走り出していた阿佐田は野崎を制しながら打球を追うと、やや深い位置だがこの打球を正面でキャッチしていた。そして一塁ベースに戻った野崎に対して送球が行われ、バッターランナーも懸命にベースを駆け抜けた。

 

「アウト!」

 

(くっ……やられた)

 

 打球の勢いが速かったこともあり、バッターランナーは余裕を持ってアウトになった。

 

(ふふん。なんか右方向を狙ってる感じがしたのだ。あおいを舐めちゃいけないのだ)

 

 そんな相手バッターの背を見ながら阿佐田はしてやったりという表情でベンチへと帰っていく。

 

「ふぅ……助けられたわ阿佐田」

 

「今のもどう考えても打ち取ったゴロだったのだ。まいちんこそナイスコントロールだったのだ! あそこに投げ切ってくれたおかげであおいも守りやすかったのだ〜」

 

「そう……それなら良かったわ。これからも頼りにしてるわよ」

 

「おお……仮入部した時は阿佐田さんなんて言ってたまいちんから全幅の信頼を得ちゃったのだ」

 

「そこまでは言ってないわよ」

 

 阿佐田の好守もあり、スリーアウトチェンジ。辛うじて一点止まりで初回の界皇の攻撃は終了した。

 

「じゃ、千秋。行ってくるよ。……まだ拗ねてんの?」

 

「別に……拗ねてなんてないですけど」

 

「拗ねてるじゃん……」

 

(まだ清城との試合で、高坂椿の投球内容を越えられなかったって思ってるのか。パーフェクト手前までやっといて、相変わらずプライドの高いやつだぜ)

 

「……はぁ。もっとあたいみたいに柔軟に考えなよ。一回戦で負けた投手より、優勝したチームのエースの方がどう考えても全国No.1ピッチャーでしょう」

 

「……それとこれとは別なんですけど」

 

(……確かに藤原先輩と対等に投げあった高坂椿は凄いさ。けど、だからって……なんであいつばかりを見る。あんたの競争相手は……目の前にいるだろ。……あたいのピッチングを突きつけて目を覚まさせてやる)

 

 長かった一回の表が終わり、一回の裏。界皇ベンチからは2番手のピッチャーが鎌部に背を向けると眉をつりあげながらマウンドへと向かっていた——。

 



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一球に懸けた想い

「やはり界皇は1番手(エース)の先発を避けて、2番手をマウンドに送り込んできたか」

 

「ケイ、あのピッチャーの特徴は?」

 

 一回の表が終了し、マウンドには界皇の先発を務めるピッチャーが上がっていた。ミディアムの橙髪は毛先が外側に跳ね、緑色の眼を蔵する目はつり上がっている。そんな彼女は毛先を荒々しく揺らして踏ん張る足場を整えながら、視線の先は自分たちのベンチに向けていた。

 

「一番の特徴はやはり……あれだろうな」

 

 足場を確保した彼女は鼻を鳴らすと、目を逸らしてプレートに足をかけた。そして目の前でキャッチャーが捕球の準備を整えたことを確認すると、両腕を振りかぶり、オーバースローの投球フォームから腕を振り切ってボールをリリースした。

 ——パアァァン。唸るようなストレートがキャッチャーミットへと飛び込むと、乾いた捕球音が鳴り響いた。

 

「最高球速はエースをも越え、あの全国No.1ピッチャー高坂椿にも匹敵すると言われるほどのストレートを有している」

 

「そりゃ溜まったもんじゃないね……」

 

(……が、そんな豪速球がありながらも彼女はエースに選ばれなかった。里ヶ浜はその欠点を突けるか。……そしてその欠点を突かれた時、どう対応してくるのか。あるいは対応しきれないか。存分に見させてもらうぞ)

 

「あおい。あのピッチャーの情報はちゃんと頭に入っているかい?」

 

「ばっちぐー、なのだ! ……九十九」

 

「なんだい?」

 

「あのピッチャーを長くマウンドに立たせれば立たせるほどこっちは不利になるのだ。いつにも増して1番・2番を任されたあおい達の責任は大きいのだ」

 

「ああ。その通りだ」

 

(良かった。気楽に考えがちなあおいだが、この初回の攻撃の重要性は十分に理解しているようだ。そしてピッチャーの情報もきちんと頭に入っている)

 

「……だが必要以上に気負うことはないさ」

 

「なぬ?」

 

「慎重になりすぎてもあおいの良さは薄れてしまう。あおいはあおいらしく勝負していってくれ」

 

「けどあおいのパワーじゃ、あのストレートに力負けしちゃうかもなのだ……」

 

「もしそうなったら、その穴は私が埋める。それが『あおい99(ナインティナイン)』だろう?」

 

「……!」

 

 投球練習が続けられ一定のリズムで捕球音がグラウンドに響く中、九十九から掛けられた言葉に阿佐田は目をまん丸くさせていた。

 

「……むう……急にそういうこと言うのはずるいのだ」

 

「いつもあおいには言われてばかりだからね」

 

「むむむ。九十九も言うようになったのだ」

 

(……確かに九十九の言う通りちょっとばかし気負いすぎてたみたいなのだ)

 

 阿佐田は丸くさせていた目を閉じると息を大きく吸い込み、脱力するように腕をだらんと下げた体勢でゆっくりと吐き出した。そして投球練習のラストとなるストレートの捕球音を合図に、バットを頭の上に持ち上げるように伸びをして目をカッと開いた。

 

「行ってくるのだ!」

 

「師匠ファイトです……!」

 

 歩き出した阿佐田にベンチから宇喜多の声援が飛ばされると、阿佐田は振り向くことなく歩いたまま腕を真っ直ぐ横に出し、親指を立てて上に向けた。そんな彼女を後ろから見た河北の目にはいつも以上に背番号4が逞しく映った。

 

「初瀬さん。行こう!」

 

「わ、分かりました!」

 

「河北さんと初瀬さんも頑張って……!」

 

「うん!」

 

「宇喜多さんの分も精一杯やってきます……!」

 

 阿佐田を追うように河北がベンチから出ていくと、打撲で足を負傷している宇喜多の代わりに一塁コーチャーとして初瀬も共にコーチャーボックスへと向かっていった。

 

「しまっていくわよ!」

 

(……今日の入りはどんなものかな)

 

 投球練習を終えて全体を引き締めるように声を出したキャッチャーが座ると、右打席に阿佐田が入っていく。速球を意識して少しでも対応が間に合うようバッターボックスの一番後ろに位置取った阿佐田を一瞥したキャッチャーはどちらかといえば今大会初登板となるピッチャーの調子の方を気にしていた。

 

(バッター小せえな……)

 

(さてと……打席ではどんくらい速いのだ?)

 

「プレイ!」

 

 阿佐田がバットを構えると球審からインプレーのコールが上げられた。それを合図にピッチャーは振りかぶるとキャッチャーミットの位置を大雑把に捉えて腕を振り切り、右手の指先からボールを解き放った。

 

(ぬぬっ!?)

 

(力入りすぎだ……!)

 

 投じられたストレートはゾーンに構えられたミットからは程遠く、高めに大きく外れていた。阿佐田がこのボールを見送るととっさの反応でミットを上に動かしたキャッチャーはミットの先でストレートを押さえ込んだが、捕球音は今ひとつ響かなかった。

 

「ボール!」

 

「楽に!」

 

(帝陽から貰ったデータ通りなのだ。ずばりこのピッチャーは立ち上がりの遅い投手(スロースターター)! 投球練習でもど真ん中に投げてた時はキャッチャーミットが良い音してたけど、それ以外はあんまりピリッとしてなかったのだ。それだけコントロールが荒れてるってことなのだ。それに……)

 

(スライダー? エンジンかかるまではストレートでいかせてくれよ)

 

(変化球で力抜いてもらおうと思ったのに……千秋と違ってリードに意固地になっちゃうんだから。……まあ、いいか。立ち上がりの悪さを突いてフォアボールを狙ってくるのはある程度予想がつくし)

 

(そ。甘くていいならストライク狙えないってことないんだから……後はストレートで捻じ伏せてやればいい!)

 

 変化球を要求するサインに首を振ったピッチャーは次に出されたサインに頷くと、投球姿勢に入って2球目を投じた。

 

(速いことには違いないけど、ストレートもまだ乗り切ってないのだ。今ならコースを絞っていれば……!)

 

(振ってきた!?)

 

 今まで体感してきた中でも間違いなく速い方に分類されるストレートだったが、阿佐田は意を決してバットを振り出した。するとど真ん中からやや低めに投じられたストレートを阿佐田はバットを押し込まれるような感覚を覚えながらもゴロで弾き返していた。

 

(なにっ!?)

 

「おにぎりパワー炸裂なのだ〜!」

 

「セカンド!」

 

 コースは絞っていたが積極的に振り出したスイングがいきなりストレートを捉えたことに阿佐田自身も驚きながら一塁へと走り出す。

 

(……アジャストはされてるけど、球威で押し勝ってる!)

 

 一、二塁間へと転がっていくゴロをセカンドを守る相良が追いかけていく。するとそれなりにスピードが乗っていたゴロは転がっていくにつれて見た目で分かるほど減速していっていた。しかし転がったコースは丁度ファーストとセカンドの間とも言える場所で、打球も完全には死んでいない。際どい打球に向かって相良は走る身体の前にミットを突き出した。

 

「はっ!」

 

(うっ。捕られたのだ!)

 

「いきます!」

 

 反応良くスタートを切っていた相良は走りながらこの打球に追いついた。その勢いも収まらぬ中、捕球からワンステップで投げられたボールは構えられたファーストミットへと向かっていく。すると阿佐田も懸命に足を動かして、一塁ベースを駆け抜けた。

 

「……アウト!」

 

「相良か……あの選手は夏大会でも守備を買われてスタメン入りしたほどだ。そう容易くは抜かせてくれないだろうな」

 

 ファーストミットはほとんど動かされず、また捕球位置も深くなる前に捕れたことが界皇にとっては功を奏し、阿佐田の懸命の走りも実らずワンナウトとなった。

 

「くう……一昨日のおにぎりじゃさすがにパワー不足だったのだ……」

 

「あおい。どうだった?」

 

「速いけど、今はなんとかなる速さなのだ。それとストライクとボールははっきり分かれてるから、心配してたよりは見極めやすかったのだ」

 

「……なるほど」

 

 ネクストサークルから立ち上がった九十九はすれ違いざまに阿佐田から話を聞くと、右打席へと入っていきバットを構えた。

 

(打ち取るには打ち取ったが、まさか浅いカウントから打ってくるとはな)

 

(くそ……あたいのストレートがいきなりヒットにされかけるなんて)

 

(バッティングセンターのようなもんだな。例えばさほど経験のない人が実力の及ばない球速のストレートのゲージに入っても、コースはおおよそ真ん中にくるからそのあたりにバットを出しておけばたまに痛烈なピッチャー返しが打てるなんてことがある。……弱ったな。このコントロールだから初見の相手は大体フォアボールを期待して追い込まれるまでは見てくることが多いんだが。こうなると安易に甘いコースに投げさせるわけにはいかなくなるぞ)

 

 1番打者ながらスピードのあるストレートにも臆さず振っていた阿佐田のバッティングを考え、キャッチャーは九十九に対しても警戒を深めていた。

 

「ボール!」

 

(……速いな。確かにあおいの言う通りまだ万全ではないように見えるが、それでも厄介なスピードだ)

 

 初球、ストレートが外に大きく外れてボール。そのスピードをバッターボックスに立って改めて感じた九十九はバットを少し短く持ち直すと2球目が投じられた。

 

(……! 高い!)

 

「ボール!」

 

(……球威はありそうだが、全体的にボールが高いな)

 

 2球目は高めに大きく外れてボール。真ん中付近を避けて構えたキャッチャーは浮いてしまったボールに頭を悩ませていた。

 

(そこまで厳しいコースに構えたわけじゃないが……コントロールの苦労してる立ち上がりにあれこれするもんじゃないな。……仕方ない。コースは甘くて良いから、出来るだけ低めに抑えてくれ)

 

(ん……分かったよ)

 

 キャッチャーはミットを真ん中に構えると右手を下に向けて押し込むようなジェスチャーを送った。その意図を汲み取ったピッチャーが頷くと3球目が投じられる。

 

(入ってる。これでどうだ……!)

 

(このバッターも振ってきたか……!)

 

 指先から暴れるように球威のあるストレートが放たれるとボールは真ん中やや低め内寄りへと投じられていた。このボールに対し九十九は短めに持ったバットを振り出す。

 

「ストライク!」

 

(くっ、これでも振り遅れるのか……)

 

 速球に合わせようとバットを振り出した九十九だったが、振り遅れる形で空振りを取られていた。九十九はイメージしていたタイミングと実際のストレートのタイミングのズレを振ってみた感触をもとに頭の中で修正すると、バットを構え直した彼女に4球目が投じられた。

 

(……ここか!)

 

(……! こいつ……!)

 

 先ほどとほぼ同じようなコースに投じられたストレートに再びバットが振り出される。すると先ほどよりタイミングのあったスイングはボールの下を捉えた。

 

「ファール!」

 

(よし! これでいい! 追い込まれてからでは合わせられるか不安だった。厳しいコースでないならば、当てるイメージは掴めたぞ)

 

 打球は低い弾道でバックネットに突き刺さりファール。九十九はバットから確かな手応えを感じていた。

 

(確かにコースは甘かったけどそう楽に当てられるボールじゃないぞ)

 

「追い込んだよ! 集中して!」

 

「……!」

 

(当てたって言ってもバットは振り切ってない。本当に当てにいったって感じだ。これじゃあなたのストレートは打ち返せない)

 

(集中か……分かったよ。まずここで一つ三振取るぞ……!)

 

 キャッチャーから投げ返されたボールを受け取り、掛けられた声で2ボール0ストライクから一転して追い込んだことに意識が向いたピッチャーは気を取り直すと、5球目を投じた。真ん中やや高め内寄りに投じられたストレートに九十九は食らいつくようにバットを振り出す。

 

「ファール!」

 

(粘るな。けどいつまでついていけるかな)

 

 今度は打ちあがるような弾道でバックネットに打球が当たりファール。ストレートについていく九十九にキャッチャーは感心しながらも、長くは持たないと判断して同じようにミットを構え、6球目が投じられた。真ん中やや高め外寄りに投じられたストレートに九十九は僅かにスイングを泳がせながらも、ボールの下を捉えた。打球は再び打ち上がり、今度は一塁側ファールスタンドへと入っていく。

 

「ファール!」

 

(空振らねえ……! 澄ました顔で同じようなタイミングで淡々と振ってきやがる!)

 

(ふぅ……当てるのがやっとだ。やはりこのピッチャーは速い。だがあおいの分もここは……!)

 

「ファール!」

 

 7球目として投じられた真ん中高めへのストレートも九十九はバットに当てると打ち上がった打球はバックネットに当たり、ファールとなった。そして8球目。スイングの始動に入った九十九は真ん中高めに投じられたストレートに対し、バットを止めた。

 

「ボール!」

 

(このバッター、浅いカウントから手を出してきたから1番と同じで打ちに来てるのかとも思ったけど、これは……明らかにフォアボールになるまでゾーンに来たボールをファールにするつもりだ。どこかで空振ると思ってたけど、このままじゃ……先に潰れるのはこっちだ)

 

(……! ち……分かったよ)

 

 3ボール2ストライクとなり9球目。投じられたボールに九十九はストレートのタイミングで踏み込んだ。

 

(……!)

 

(バッターはストレートに張ってる。スライダーはとてもじゃないけどタイミングが合わない! ……!)

 

 界皇バッテリーの選択はスライダー。ストレートに対してタイミングを合わせるのが精一杯だった九十九はこのボールに全くタイミングがあっていなかった。外低めに投じられたスライダーはホームベースの前でワンバウンドし、キャッチャーは大きく跳ねたボールを身体で押さえ込むようにして前に落とした。

 

「ボール! フォアボール!」

 

(なっ!)

 

(ふぅ……今のはスライダーか。危なかったな。タイミングは完全に外されていた)

 

(うー、だからエンジンかかるまではストレートでいかせてくれっていつも言ってるじゃんか……)

 

 大きく低めに外れていることを感じ取った九十九のバットはしっかり止められていた。少しでもゾーンに寄っていたら振らされていたであろうことに九十九は内心焦りを覚えながらも、表には出さず涼しい様子で一塁へと歩いていった。

 

「九十九ー! よく出てくれたのだー!」

 

 一塁へと到達した九十九はベンチから阿佐田の声援が聞こえると大きな仕草は見せなかったが、僅かに口角を上げていた。

 

(九十九先輩、ナイセンです! ……よし、私も続くぞぉー!)

 

 1アウトランナー一塁となり、右打席には3番打者を務める翼が意気揚々と入っていった。

 

(クリーンナップの前にランナー出しちゃったな。さて、どうするか……)

 

(あのバッターは結局打つ気は無かったんだ。慎重になりすぎだぜ……!)

 

(確か情報によるとこのピッチャーはあまりクイックが上手くない。ただあの球速だからな……簡単には走れないか)

 

(今、ワンバウンドしたスライダーはさすがに投げてこないはず。甘いストレートに絞って打とう!)

 

 翼がバットを構えるとキャッチャーはそんな翼の様子を窺って慎重に初球の入りを模索する。

 

(……念のため高めは避けとくか。ボールでも良いから低めに来て)

 

(また慎重に入るのか……。さっきはそうやってボールカウント悪くしたっていうのに……!)

 

 サインの交換が終わるとまるで睨み付けているかのような鋭い眼光に射られた翼は驚いたが、負けじと気合いを入れた眼差しで投球を待った。

 

(打ちに来ようが粘りに来ようが、あたいのストレートで……捻じ伏せてやる!)

 

 ワインドアップポジションと比べて小さく振りかぶったピッチャーは足を踏み込むと、鬼神の如き形相でボールを投げ込んだ。

 

(なっ……!)

 

(高い!)

 

 ——キィィィン。キャッチャーが慌ててミットを上に伸ばしたがボールが収まることはなく、翼が振り出したバットは真ん中高めに投じられたストレートを捉えていた。放たれた打球にピッチャーはハッとしたように振り返った。

 

(……軽いわ。一球が、軽い)

 

 振り返った先にいるレフトのレナの視線は冷たくピッチャーに注がれていた。そして……彼女の頭上を打球が越えていく。

 

「……ホームラン……?」

 

 スタンドから見ていたゆかりがぽつりとそう漏らした。その直後、柵を越えて奥の草地で打球がバウンドし、スタンドから割れんばかりの歓声が響き渡った。

 

「え……」

 

 一塁を回った翼はその歓声に驚いていた。そして二塁に来たところでベースについていた相良がそこを空けたのを見て、ようやくはっきりと目を切った打球の行方を理解した。

 

「は……入ったー! 逆転のツーランホームラン! 里ヶ浜はこれが今大会初ホームランです!」

 

「や……やった……!」

 

(そんな……バカな)

 

 本当に嬉しそうに拳を上げる翼とは対照的にピッチャーは呆然としていた。するとその目にある人物がベンチから出てくるのが映った。

 

(ち、千秋……!?)

 

(……はぁ。だらしないんですけど。あんたのピッチングはそんなもんじゃないんですけど。なのにそんな体たらくをいつまでさらす気……?)

 

 界皇ベンチから出てきた鎌部がブルペンで肩を作り始めるのを目にしたピッチャーは一度ミットから左手を抜いて両手で自分の頬を叩いたのだった——。



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残心の構えを

先週更新できず申し訳ない。
年末も近づいてきて、段々時間が取れなくなってきました。そのため週一ペースでの更新はきつくなってきたのが現状です。なので今年の末までは週一更新から隔週更新へと変更させていただくことにしました。
ペースは遅くなってしまいますが、引き続き頑張って書かせていただくので、今後もよろしくお願い致します。


「ホームイン!」

 

 一回の裏、里ヶ浜高校の攻撃は阿佐田がセカンドゴロに倒れるも、その後九十九が粘りフォアボールで出塁。次打者の翼が初球打ちで放った打球は柵を越えていき、ホームランとなったのだった。そして今、九十九に続いて翼もホームを踏み、里ヶ浜の2得点が正式に認められた。

 

「有原さん。やりましたね」

 

「まさか入っちゃうとは思わなくて……自分でもびっくりです。けど九十九先輩がフォアボールで出てくれたおかげで、入りが甘くなるのを狙えました!」

 

「私が粘っている間にもボールが浮いてきていましたしね。しかしそれを逃さず、一撃で仕留めたのは見事でした」

 

「ありがとうございます!」

 

(……あの目は……)

 

 ホームで待っていた九十九と共に翼がベンチへと戻っていくと、帰り際に東雲とハイタッチを交わした後、沸き立つチームメイトに囲まれて一緒に喜びを分かち合う様子がスタンドから窺えた。そしてホームランを打てた翼の喜びが他の部員にも広がっていくのをゆかりは感じていた。するとゆかりはかつて小学生の時、仲間やチームのことをまるで自分のことのように喜び、あるいは落ち込んだことを重ねるように思い出していた。

 

(あたしも昔は……あの目をしていた?)

 

 そんな記憶が蘇ったゆかりは一昨日のサッカーの試合が脳裏によぎっていた。夏大会で一点差で敗れた相手、リベンジを果たすべく挑んだ試合だったが、夏大会で同点ゴールを上げたゆかりは徹底マークされ、守備ではラインの裏を徹底して狙われ、完封と言える試合内容で敗北を喫していた。

 

「ゆかちゃん、ごめん……。私が、裏取られて。そこから、一気に……チームも崩れちゃって……」

 

 試合終了のホイッスルが鳴り、彼女の友人が膝をついて途切れ途切れにゆかりに謝っていた。そんな彼女へとゆかりは手を差し伸べると、かつてバッテリーを組んでいたキャッチャーに対してしたように声をかけようとした。

 

(……え……)

 

 しかし、ゆかりは言葉に詰まってしまった。話しかけようという意思はあるのに、喉から声が出ることを身体が受け付けてくれなかった。そのままでいると、やがて友人が伸ばした手を掴んだ。それを受けたゆかりは引っ張り上げるようにして身体を引き起こそうとする。だが、彼女の身体をゆかりは持ち上げることが出来なかった。

 

「……私、絶対夏のリベンジをするんだって……そう思ってたのに。こんな、何も出来ずにやられちゃうなんて。悔しいよ……」

 

「………………」

 

 下を向いたままもう片方の手で何度も目を拭う友人を見つめるゆかり。強く握られたままの手からは震えが伝わり、そして重く感じられていた。

 キィン、と響いた金属音にハッとするようにゆかりは現実へと引き戻される。いつの間にか視線は里ヶ浜ベンチから自分の手のひらへと移っていた。

 

(あたしも負けて悔しかった。そのはずなのに……)

 

 ゆかりが指に力を込めると拳が握り締められた。見えなくなった手のひらに爪が食い込むほど、強く。

 

「ボール! フォアボール!」

 

(くっ!)

 

(よし!)

 

 グラウンドでは東雲が短く持ったバットで速球に食らいつき、ファールで粘ってフォアボールで出塁していた。

 

「初回なのにもう2個目……ホームランのショックがあるのかもしれないけど、このままズルズル崩れちゃうとやばいんじゃない?」

 

「……いや、どうかな。今の打席、低めに大きく外れるボールこそあったが簡単にストライクを取りにいったボールは無かった。3番と同じように力任せに入れにいくと危ないことが分かっていたように思えたな」

 

「言われてみれば、10球くらい粘られてたのに不用意なボール無かったね」

 

「あの速球相手に粘ったバッターを褒めるべきだろう。問題はこのバッターへの入りだな」

 

「さっきはフォアボールの後の初球を狙われたからね〜」

 

 東雲が一塁へと到達し、5番打者を務める野崎が左バッターボックスへと入った。

 その初球。野崎は思い切ってストレートのタイミングを想定して踏み込むと、積極的に打って出た。

 

(よし、良いボールだ!)

 

 リーチの長い野崎の内を突くようにサインを送ったキャッチャーは大雑把ながらインコース低めへと投じられたストレートを見て口角を上げると、バットを振り出した野崎は差し込まれる形でこのボールを弾き返していた。

 

「サード!」

 

「はいよ!」

 

(うっ!? 切れてください……)

 

 バットの根元近くでストレートを打ち返した野崎は手に痺れを覚えると、三塁線を転がるゴロがファールラインを越えてくれるよう祈りながら一塁へと走り出した。

 

(どうだ……?)

 

 マスクを上げたキャッチャーはすぐさま全体を見渡す。切れる前に捕球出来る、どん詰まりの打球でゴロに勢いがない、一塁ランナーのスタート判断が良い。一瞬の間に多くの情報を目に入れると、すぐに指示を送った。

 

「一塁に!」

 

「はっ!」

 

 指示を受けたサードはゴロがファールラインを割る前に追いつくと迷わず一塁へと送球を行い、野崎も一塁ベースを全力で駆け抜けた。

 

「……アウト!」

 

(うう……甘く入ってくると思ったのですが、厳しいストレートでした……)

 

 一塁ベースに近い左バッターの野崎であり、打球も勢いが弱かったことから内野安打になる可能性は十分にあったが、捕球から送球に素早く移ったサードの好守備もあってサードゴロでアウトになった。

 

(あの豪速球はやはり易々とは捉えられないわね。けど、結果的に二塁には進めた……。試合の流れはまだこちらにあるわ。点はいくら取っても取りすぎということはない。単打でも還ってみせる……!)

 

 この間に二塁までたどり着きベースを少し回って様子を窺っていた東雲がボールを受け取ったファーストの視線を受けて戻っていくと、ピッチャーへとボールが投げ渡された。一度塁上で落ち着き、現状を整理した東雲は貪欲に追加点を狙う姿勢を見せる。

 

「ランナーが進んで2アウトランナー二塁となりました。里ヶ浜、追加点のチャンスです!」

 

「よし……ウチに任せろ!」

 

「その意気です! 会心の一撃を期待していますよ!」

 

「ん……おお!? 雫!? 来てくれたのか!」

 

「はい! 今日は私が声を張る番です。ファイト!」

 

「はっはっは! 雫の応援があれば百人力だ!」

 

「バッターラップ!」

 

「おわっ! す、すまない!」

 

 岩城が剣道部の大会の応援に来てくれたことの返礼も兼ねて、紅白戦のサポートをしてくれた塚原が頭にハチマキを巻いてスタンドまで駆けつけてくれていた。そんな彼女に気付いて闘志にさらに火がついた岩城は球審に急ぐよう言われて、慌てて左バッターボックスへと入っていった。

 

(いつもは応援する側のウチが応援されるってのもいいもんだな! 体の奥底からパワーがみなぎってくる!)

 

 溌剌とした表情を浮かべて岩城がバットを構えると一球目が投じられた。

 

「うおっ!?」

 

 スイングの始動に入り足を上げた岩城は内に大きく外れたストレートに気づくと、後ろに倒れる形で見送った。

 

「ボール!」

 

(あおいによるとストライクとボールがはっきりわかれてるんだったな。ストライクゾーンにストレートが入ってきたら迷わず振るぞ!)

 

(これだけはっきり外れてるストレートに倒れたか。タイミングの取り方に幅がないタイプのバッターだな)

 

 尻餅をついた岩城が立ち上がってバットを構え直すと2球目が投じられた。アウトコース真ん中へと向かっていくボールに岩城は上げた足を踏み込むと、フルスイングでバットを振り出した。

 

「どりゃあああ!」

 

 先ほどの内に大きく外れたストレートが意識に残っていたこともあり、振り切られたバットの先をストレートが通過していった。

 

「ストライク!」

 

(たっはー……速いな!)

 

(……すげースイングだな。まともに打たれたら外野を越えられるかもしれねえ)

 

(タイミングの取り方に幅がないのは足を上げてるからだ。その分、前後の体重移動でスイングにパワーが乗ってるな)

 

 ボールを受け取りながら定位置にいる外野とリードを広げる東雲の方にピッチャーが振り返り、少し間が空いてから3球目が投じられた。

 

(遠い!)

 

「ボール!」

 

(まだまだ荒れてるな……。さすがに3ボールにはしたくない。どうするか……)

 

 今度はストレートが外に大きく外れ、2ボール1ストライク。ボールが先行する中、キャッチャーはどうするべきか思案を重ねる。

 

(……ちょっと怖いが、これでどうだ?)

 

(……! けど、それはさっき……。……分かったよ。今後こそ投げ込んでやる)

 

(まだ1ストライクだ。空振ってもまだ後がある。振り切るぞ!)

 

 サインの交換が終わり、4球目が投じられた。真ん中付近に投げられたボールに岩城は足を上げてスイングの始動に入る。

 

「どっ……!?」

 

(ストレート……じゃない!?)

 

(コースは甘い! 岩城先輩、踏ん張ってください……!)

 

 投じられた球種はスライダー。

 

「……りゃあああ!」

 

 真ん中やや内寄りから岩城の身体へと向かうよう曲がっていくボールに、タイミングを外された岩城は食らいつくように踏み込んでバットを振り切った。

 

(よし、打ち取った!)

 

(くうぅ……! 待ち切れなかった。不覚!)

 

 スライダーの上を擦るようにして放たれた打球はそれなりの勢いで一、二塁間へと転がっていくと、セカンドを守る相良が難なく追いついて一塁へと送球が行われた。

 

「アウト!」

 

(足を上げる打ち方はパワーを生み出すにはいいかもしれないけど、タイミングの微調整はしにくい。曲がりの小さい変化球には合わせきれないと思ってたよ)

 

 岩城がセカンドゴロに倒れ、3アウトチェンジ。打ち取られた岩城は悔しそうにベンチへと戻っていく。

 

「良美、思い切りの良いスイングでしたよ。残心の心構えで、相手の反撃に備えていきましょう!」

 

「おお! 分かったぞ!」

 

 しかし悔しそうな表情は塚原の檄もあって即座に切り替えられると、気を引き締め直して守備へと向かっていた。

 

「せ、先輩。肩作れてないんじゃ……」

 

「まだ今は必要ないんですけど。……あのままズルズルいかなかったのは褒めてやるんですけど」

 

「千秋……。ちっ、憎たらしいけど……あんなピッチングじゃ何を言われても仕方ねえや」

 

(あたいのピッチングを突きつけてやるどころか……目を覚まさせられたのはあたいの方だ)

 

 一方の界皇ベンチではマウンドから帰ってきたピッチャーにブルペンから後輩キャッチャーと一緒に戻った鎌部が挑発とも取れる軽口を飛ばしたが、対するピッチャーは顔を顰めながらもそれに対する反論はしなかった。

 

「くそっ、高坂椿よりあたいの方を向かせようとしたのに。結局は千秋……あんたの無言の檄に救われちまった」

 

「ふん……。私は確かに高坂のことを気にしているんですけど。ただそれは対戦相手のことを見ていないわけではないんですけど」

 

「ち……」

 

(清城の時にしろ千秋は高坂椿を意識しながらも相手を見て戦っていた。対戦相手のことを見誤ったあたいにあれこれ指図される謂れはないって言いたいわけか……。振り向かせたいなら、まずあたいが対戦相手のことをよく見ろと)

 

「……どうやら、目は覚めたみたいね」

 

「キャプテン……。……はい」

 

「慢心を抱いて相手を舐めるのはやめなさいといつも言っているのは相手への礼儀もあるけれど。見下すような戦い方では敵の刃が研ぎ澄まされていれば、気づいた頃には斬られてしまうからよ」

 

「……分かりました。すみませんでした」

 

「分かればいいのよ。良い経験になったわね……と言えるよう」

 

 レフトから戻ったレナが諭すように語りかけると、先ほどの鎌部とのやり取りもあってピッチャーは素直に反省をしていた。その様子に頷いたレナは、ピッチャーから視線を外してベンチ全体に一言を浴びせた。

 

「まずはこの回で追いつきましょう」

 

「はい!」

 

 部員全員がその一言に覇気のある返事を上げると、無言で見守っていた監督は微笑を浮かべた。

 グラウンドではファーストの守備についた野崎が界皇ベンチから上がった返事に気づくと、彼女らの顔を見て喫茶店で最後に高坂が浮かべた表情を思い出していた。

 

(こちらが一点リードしているのに……負けるとは微塵も思っていないように感じられます。強豪校ならではなんでしょうか……圧倒的な自信、それがひしひしと伝わってくるようです)

 

 彼女たちから伝わる自信を前に気圧されそうになる野崎だったが、自分たちの積み上げてきたことを信じて声を張り上げた。

 

「皆さん。落ち着いていきましょう。練習でやってきたことを出していけば、大丈夫です!」

 

「夕姫ちゃん。うん! さぁ、声出していこー!」

 

「おおー! なのだー! あおいのところに打たせるのだー!」

 

「まずは1アウト取りましょう!」

 

 一点リードで二回の表の守備を迎えた里ヶ浜は守らないと、と全体的に身体に余計な力が入っていた。しかし野崎を起点とした声出しで緊張がほぐれていくと共に、強張っていた身体も段々とやわらいでいった。

 

(……ふぅ。打順は8番から……確か、速球打ちとバントが得意なバッター。大丈夫。特徴も頭に入ってる。……抑えてみせる)

 

 倉敷はこのまま失点しなければ勝てるという状況から特に緊張が顕著に表れていたが、周りを仲間の声出しに囲まれて肩に力が入っていたことに気づくと、深呼吸をして余計な力を逃していった。

 そしてレナの一言で気合いが入った面持ちの8番バッターが右打席へと入り、2回の表が始まったのだった——。



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危険な選択肢

 二回の表、界皇高校の攻撃は8番から。右打席に入っていくバッターを見上げ、鈴木は情報を頭の中で整理していた。

 

(このバッターは球速のある投手相手には高い打率を残しているけど、軟投派投手は苦手としていたわね。思えば今大会でも清城戦では当たっていたけれど、さきがけ女子戦では繋がる打線の中で奮っていなかった。相性は悪くないはず……)

 

(里ヶ浜スタンドの応援が大きくなった気がするな。そういえば二回戦でもこんなことがあった。神宮寺が最終回にツーランを打った時だ。向月を破った清城があたしたち相手にもジャイアントキリングを観客に期待されたっけ。その時の試合を見てた奴らもそれなりにいるだろうな……今度は里ヶ浜に期待ってわけか。清城の奮闘が里ヶ浜に味方してる……? だとしたら勢いに乗らせたらさすがにやべえ。キャプテンの言う通りこの回で追いつかねえとな……ここは下位から良い流れ作らせてもらうぜ)

 

 初回とは違い活気付く里ヶ浜のスタンド。バッターは地面をならしながら、自分たちの応援団にも劣らないほどの盛り上がりに二回戦で味わった空気感を重ねて感じ取っていた。やがて地面がならし終えられると一度腕を伸ばした先にあるバットを見つめ、グリップを握る手に力を込めてからバットが構えられた。

 

(低めぎりぎり……ボールか?)

 

 真ん中低めへと投じられたストレート。低めギリギリにコントロールされたボールにバットが止められると、鈴木のミットはほとんど動かずにストレートを受け止めた。

 

「……ストライク!」

 

(……入ってたか。低めのストライクゾーンを掠めてった感じだ。良いコントロールしてやがるぜ)

 

「ナイスボールです!」

 

 鈴木が声をかけながらボールを投げ渡すと倉敷はそれを頷きながら受け取った。

 

(いきなり点取られたけど、すぐに九十九達が逆転してくれた。打線に応えるためにもまず先頭バッターをしっかり切るわよ……!)

 

(あたし達みたいな速球の対策をしてる強豪相手にはあえて球速の遅い投手をぶつけてくるところもある。このチームはエースが元々そうだったみたいだけど……普段から高坂レベルのストレートを意識して練習してる分、このくらいのストレートには慣れてねえんだよな。といってもみんなは慣れないなりに、球速が遅い分見極めて捉えてるけどさ。あたしは正直苦手だぜ……。けど苦手だとか言ってられねえ。こういうやつ出てくるたびに打ち取られてたら、あたしのレギュラー危ねえんだよ……!)

 

 賑やかな声援が上がるスタンドとは対照的にグラウンドが緊迫した空気で包まれる中、2球目が投じられた。

 

(同じコース!?)

 

(反応した! そのまま振って……!)

 

 再び真ん中低めに投じられたストレートにバッターはスイングの始動に入った。

 

(……! 外れてるか!? くそっ、止まん……ねえや!)

 

 低めに外れていることに気づいたバッターだったが振り出したバットは止まらず、そのまますくい上げるようにしてボールを打ち返した。高く打ち上がった打球はレフト方向への大きなフライとなって伸びると、上空を切り裂く間にファールラインを越えていった。

 

(ふう……ファールか。……!?)

 

 打席から少し出たところでファールゾーンへと飛ぶ打球に足を止めたバッターはその視線の先で大声を張り上げながら打球を追う岩城に目を見開いた。

 

「うおおおお!」

 

(スタンドには多分届かん! 絶対に追いつくぞ!)

 

 定位置にいた岩城から見て右の後方、ファールゾーンの深い位置に放たれた打球を彼女は懸命に追っていく。やがて打球が落ちてくると落下地点を進行方向の先に捉えた岩城は全力疾走で得た勢いそのままに真っ直ぐダイブした。そしてミットを伸ばした姿勢のまま身体を地面に擦らせた岩城の勢いが収まると駆け寄ってきた三塁審判によって判定が下された。

 

「アウト!」

 

(くっ、捕られたか……! 外れてるからとっさにファールにしようと思ったんだけどな。ストレートのスピードが無い分、打球に力を乗せきれなかった……)

 

「良美! ナイスガッツです!」

 

「おお!」

 

(さきほどチャンスで凡退してしまいましたが……しっかりと攻守の切り替えが出来たみたいですね。思えば以前良美はピンチを迎えることのある守備こそ特に応援が必要だと言っていました。切り替えて次のプレーに全身全霊を注ぐ意識というのを、良美は潜在的に持っているのかもしれません)

 

「舞子ー! 後ろにはウチらがついてるからな! 大船に乗ったつもりで投げ込めー!」

 

(大船にしては危なっかしいけどね。でも、頼りにしてるわよ)

 

 立ち上がった岩城は飛び込んだ勢いでユニフォームについた汚れをものともせず、腹から声を出しながらボールを思い切り投げた。力み過ぎて届く前にバウンドしたボールを受け取った倉敷は遠くにいる岩城と目を合わせると、前へと向き直る。

 

(あたいが取られた点だ……。あたい自身がホームを踏んで追いつくぞ)

 

(この9番は帝陽から貰った資料でも参考になる程の打席データが無かった。とはいえピッチャー……ここはデータが無くても、上手くリードを組み立てられれば決して抑えられないバッターではないはず)

 

(分かったわ。アウトハイに……全力のストレート!)

 

 右打席に入った9番バッターに対して6分割のアウトハイ目掛けてストレートが投じられた。するとこのボールに対してバッターは思い切りよく踏み込む。

 

(ストレートか。このくらいっ!)

 

(うっ!?)

 

 そのまま振り出されたバットがストレートを捉えると流し打ちで打球が放たれた。ライト線に飛ばされた打球が野崎の見上げる先を越えていくと、鋭い当たりに倉敷は焦った表情で振り返る。

 ライトを守る九十九がその打球の行方を見定めると、ダイレクトでの捕球は諦めて回り込むように追っていく。すると九十九がまだ打球の軌道の延長線上に入る前にボールが地面にバウンドした。

 

「……ファール!」

 

(……危ないな。今のはフェアなら長打にされていただろうね)

 

(ちっ、流し過ぎたか……)

 

 打球は僅かにライト線から逸れてファール。長打性の当たりがファールになったことに九十九が一息つくと、同じように倉敷も安堵していた。

 

(ふぅ……ストレートの力だけじゃ、やっぱり抑えきれないってわけね。いきなり上手く合わせられた。そんな悪いとこいったわけじゃないのに)

 

(……助かったわ。けど、いきなり振ってきたわね。どうやらかなり打ち気のようね)

 

(一発で仕留めたかったな……。だが、悪くはねえ。このくらいの球速ならあたいでもついていける!)

 

(次は……インコース低めに、7割の力でストレート。厳しく狙う!)

 

 走り出していたバッターが打席へと戻り、2球目。膝下に厳しく投じられたストレートにバッターは再びバットを振り出し、鋭いゴロで弾き返した。しかし引っ張った打球はフェアゾーンからは大きく逸れ、ファールとなる。

 

「先輩! もう少し引きつけると!」

 

(くっ……そうだな。今のはボールが少し遅かった。インコースだから引っ張っちまったが、センター方向に返すイメージの方が良いかもしれねえ)

 

(次は……)

 

(そこね。ストライクには入れず、けど外しすぎず……投げ込む!)

 

 3球目。同じく7割程度の力を込めてインコース低めにストレートが投じられると、追い込まれていたバッターはバットを振り出そうとする。

 

(……いや、低い!)

 

「ボール!」

 

 しかしスイングが止まり、これが低く外れて1ボール2ストライクとなった。

 

(同じコースかと思ったけど、ちょい外れてたな。8番打者(あいつ)もそれを振らされてやられたって言ってた。つまり偶然じゃなく、狙ってやってるんだ。あたいとは違うタイプだが、中々嫌なピッチャーだぜ)

 

(今のは大きく外したわけじゃなかった。けど見てきたわね。……ここは)

 

(インハイの四隅に全力ストレートの要求か。けどボールでも良いってサインが出たわ。厳しくいけばそれで良いけど、中に入るくらいならボールになった方が良いってことね)

 

 鈴木のサインに倉敷が力強く頷くと4球目が投じられた。

 

(くっ……際どい!)

 

 インハイに投じられたストレートに一瞬反応が遅れたバッターはとっさにバットを振り出した。すると差し込まれ気味に僅かに高めに外れていたストレートの下を捉え、打球が高々と打ち上がる。

 

(……これは……)

 

 立ち上がりながらマスクを上げて反転した鈴木だったがその足がすぐに止まると、打球はバックネットを越えてスタンドへと入っていった。

 

(ふー……危なかったな。今のは速い方か。なんとか対応出来たぜ。無理に引っ張ろうとしなければ当たらない速さじゃない。際どいストレートはとにかくカットして、少しでも甘く入ったらもらう!)

 

(前に飛ばしてくれたら助かるのだけれど……そう簡単には打ち取られてくれないようね。なら……)

 

(……! なるほどね……分かったわ)

 

 意表を突かれながらもファールで逃れられたことに安堵の吐息を漏らしたバッターは集中を途切れさせずにバットを構え直す。球審からボールを受け取り倉敷へと投げ渡した鈴木はキャッチャーボックスに座り直すと、そんなバッターの引き締まった表情を見上げてからサインを送った。そして5球目。

 

(……!? ボールが……来ねえ! ……このっ……!)

 

 スイングの始動に入ったバッターがアウトコース低めに投じられた球種がチェンジアップであることに気づくと、タイミングを崩されながら踏ん張り、バットを振り出した。

 

「ストライク! バッターアウト!」

 

(しまった! ストレートを意識し過ぎた……!)

 

 しかしそれでも振り出すのが早く、ボールが来る前にバットが空を切った。その光景に倉敷は思わず拳を強く握る。

 

(よし……! 今日初めての三振!)

 

「ナイスピッチです!」

 

 喜びを露わにする倉敷と同調するかのように鈴木も思わず笑みを溢すと、自然と声を張ってボールを投げ渡していた。

 

「どんまいやけん! どうやった?」

 

「沙智もストレート打ったから分かると思うが、ストレート自体は大した速さじゃないし、チェンジアップとの球速差も凄え落差があったわけじゃねえ。ただああも良いコースに二種類の速さのストレートを散らされるとな……どうしても意識が向いちまう」

 

(やっぱり厄介なのはあのコントロールやけんね。ここまで甘いボールは全然なかと。際どいボールを打たされるのと、緩急を使った攻めは注意しないとあかんね)

 

「なるほど……分かったと!」

 

「2アウトにしちまったけど頼んだぜ。切り込み隊長!」

 

「任せるけん! リードされたまま先輩をマウンドには上がらせんよ!」

 

 2アウトとなりここで一巡して打順はトップの大和田へと回る。ランナー無しで迎えた打席だったが大和田の表情に陰りは見られなかった。右打席へと入りバットを構えた彼女が浮かべた微笑みはどこかこの逆境をも楽しんでいるかのような印象を里ヶ浜バッテリーに抱かせた。

 

(大和田か……さっきは打ち取ったとはいえ、良い当たり打たれてる。どうする、鈴木?)

 

(……初球は外しましょう)

 

(ん……分かった)

 

(このピッチャー、バッター毎に攻め方が結構違うけん。さっきあたしは初球から打っちゃったから……まずは様子見させてもらうと。……!)

 

 倉敷が投じたボールは外に少し外れるチェンジアップ。そのボールを大和田は目を見張りながらバットを振り出すことなく見送り、球審のボールのコールが響いた。

 

(むー……いきなり遅い球から入ってきたと。確か7番打者(先輩)もこの入りやった。あたしにも同じように攻めてくるなら、次はアウトロー……?)

 

(界皇スタメン陣の中では最も小柄な大和田さんの一番確率が高い出塁方法はストライクやボールを問わず、低めを上手く転がしたヒットだったわ。……低めは慎重に使うとして……)

 

(なるほどね。対角線になるコースに……全力のストレート!)

 

「……!」

 

 2球目となる全力のストレートがインコースの高めに投じられると大和田は身体を起こすようにしてこれを見送った。

 

「ストライク!」

 

(あちゃー……違ったと。速いストレートで来るとは思っとったんけど……)

 

 待っていたコースと真逆とも言えるボールに大和田は一瞬意外そうな表情を浮かべてから体勢を戻すと、挑戦的な笑みを湛えながらバットを構え直した。

 

(続けて見たわね。積極打ちの大和田さんならそろそろ振ってくるはず……)

 

(もう一球、インハイに全力ストレート。けど一打席目と違って高めに外すんじゃなく……)

 

(これなら押さえ込むように捌けばファールになる可能性が高い。もし捉えるポイントが後ろになれば差し込んで打ち取れる。これで勝負にいきましょう!)

 

 倉敷がサインに頷くと鈴木が腰を浮かせてミットを構え、そのミットを目掛けて再び全力投球が投じられた。

 

(インハイ……!)

 

 投じられたストレートに反応した大和田はスイングの始動に入った。

 

(……外れてる!)

 

(なっ)

 

 しかし大和田はそのままバットを振り出さずに足を地につけると、内に外されたストレートが鈴木のミットへと収まった。

 

「……ボール!」

 

(誘い球やね。打てそうやったし、振っても良かったけど……一打席目はそれで打ち取られたと。ここはしっかりボール球は我慢するけん)

 

(振り出したバットを止めたんじゃなく、目で見送られた……! これが大和田の正確な選球眼ってやつか……)

 

(見られた……いや、彼女なら見極められるかもしれないとは思っていたわ。けどそれでも彼女なら積極的に振ってくると思った……だから振ったらこちらに有利になる選択をしたのだけれど、裏目に出たわね……)

 

 振らせたかった里ヶ浜バッテリーにとっては嫌な見送られ方となり2ボール1ストライク。ボールカウントが先行する中、鈴木は次に要求するボールを慎重に思案する。

 

(今のが一番速いボール。コースもはっきり外れていたわけじゃなかったわ。それを見送られたということは……これ以上ボール球を混ぜてもカウントを悪くするだけかもしれないわ。それなら……ストレートの緩急を使いましょう)

 

(9分割のインコース低めに7割のストレート……2球速い球を続けた後だし、有効ね。分かったわ)

 

 少しの間を挟んでから鈴木のサインが送られると、そのサインに倉敷も納得して首が縦に振られた。そして4球目が投じられる。

 

(膝下、入ってる! ……これは……遅い方と!)

 

(……! 引きつけられた……!)

 

 ——キィィィン。快音がグラウンドに響き渡った。

 

(うっ、届かない!)

 

 打球は翼の見上げる先を越えていくと定位置から後ろに走り出している永井から僅かにレフトに寄った場所でバウンドした。点々と転がっていく打球を永井は必死に追いかけると、外野フェンスに跳ね返って勢いをほとんど失ったところでようやく追いついた。

 

「サードだ! 急げっ!」

 

「は、はいっ!」

 

 岩城の指示を受けて永井は深い位置から三塁に目掛けて送球を行った。送球は三塁の手前でワンバウンドし、東雲はちらっと大和田の位置を確認した後、諦めるように前に出て跳ね際を確実に押さえた。

 

(ふー、上手く打てたと!)

 

「な……なんと、スタンディングトリプルです! これは速い!」

 

 駿足を飛ばして二塁をも蹴った大和田はスライディングを挟むことなく三塁へと到達していた。まさしく電光石火の速さを見せつけた大和田に、スタンドはどよめきに包まれる。

 

(なんて足……あれで三塁にいかれるなんて)

 

(足もそうだけど、上手く打たれてしまった……。低めを転がしてくるなら万が一打たれても単打止まりだと思ったのに、完全に緩急を見極めて長打にされてしまったわ)

 

(大和田の選球眼はコースだけじゃなく、ストレートの速さの見極めも鍛えられてるよ。まあ、大和田に限った話じゃないか。うちは優勝を目指してるからね……全国No.1ピッチャー高坂椿のフォーシームとゼロシームの見極めの対策をしてる成果が出たってところかな。さて、わたしも続かないとね。……絶対にこの回で追いつくんだ)

 

 大和田のスリーベースヒットにより2アウトランナー三塁となり、一転してピンチを迎えた里ヶ浜。右打席へと入った相良はこの場面でも楽しそうに笑う大和田と目が合うと思わず表情を和ませたが、バットを構えた彼女は表情はさほど変わらずとも真剣な眼差しを相手に向けていた。

 

(切り替えるわよ、鈴木。スリーベースを打たれてもこのバッターさえ抑えればいいんだから)

 

(倉敷先輩。……そうですね。このバッターに集中……。……!)

 

「……! ……まさか……」

 

 プレイが再開され、対峙する里ヶ浜バッテリーも点を与えさせまいと相良への集中を募らせようとする。しかし彼女たちの視界に入った人物がそう易々とはさせなかった。

 

(相良〜……頑張ると! あたしも精一杯やるけん!)

 

 それは三塁ランナーの大和田。リードを広げる彼女を見て里ヶ浜バッテリーに一抹の不安がよぎった。

 

(……早々ないとは思うけど。もしかして……ホームスチール、なんてことないわよね)

 

(どうやら倉敷先輩も同じ考えね……)

 

 先ほどの駿足を見せつけるようなスリーベースヒットから隙をついて本塁に走ってくるのではないかという予測が倉敷の頭に浮かんでしまっていた。そして彼女の向ける視線の先を見て鈴木も同様の考えに至る。

 

(……たとえ走って来なくても、意識しながら投げさせられるのはきついわ。……仕方ないわね。2アウトだけど、振りかぶらずに。そして……)

 

(……分かったわ)

 

 鈴木から指示が送られ、東雲が三塁ベースに寄って守ると大和田もそのリードを狭めていく。

 

(助かるよ大和田。よし……後はわたし次第だな)

 

(これでクイックで投げれば簡単には走れないわね。……行くわよ、鈴木)

 

(はい。まずは……)

 

 そして1球目。セットポジションからクイックモーションに入り、ボールが投じられた。

 

(チェンジアップか。これは外れてる!)

 

「ボール!」

 

(大和田への入りと同じか……次は?)

 

(……! さっきこいつに打たれたのは……なるほど。裏をかくわけね)

 

 外にはっきりと外されたチェンジアップが見送られ、2球目。

 

(……!? また……!)

 

 再び投じられた緩いボールがアウトコース低めやや中寄りへと沈んでいく。このボールに対し足が止まった相良はそのまま無理に振り出すことはせず見送った。

 

「ストライク!」

 

「ナイスボールです!」

 

(よし……上手く入れられたわ)

 

(さっき捉えたボール、しかも同じコースか。けどこれまでチェンジアップを2球続けてきたことはなかったからな。今のは読めない……けどさすがに3球は続けないだろうな)

 

(もう一球裏をかいても、チェンジアップの球威を考えれば対応されてしまう可能性が高いわ。ここはコントロールを使って……)

 

 1ボール1ストライクとなり、3球目が投じられた。

 

(ストレート! ……際どい!)

 

 アウトコース低めに7割の力で投じられたストレートは高さ・コース共にギリギリのコースに向かっていた。一瞬迷いが生じた相良はそのままバットは振らずにこのボールを見送る。

 

「……ストライク!」

 

(……よし!)

 

(振れなかった……いや、あれだけ際どいコースだ。追い込まれるまで手を出さないのはそう悪い判断じゃない。ただ今ので2ストライクか……)

 

 際どいコースに決まったストレートに対し、球審が下した判定はストライク。双方の表情の明暗が分かれ、これで1ボール2ストライクとなる。

 

(さっきわたしはヒットを打ってるし、2アウトだから打って返すしかない。……本当にそうなのか? ……草刈キャプテンは相手を見下すような戦いはするなと言った。それは自分でも気付かないうちに見落としをするからだと。……今、わたしがこいつらを“見て”……なにか出来ることはないのか?)

 

(さっきとは違って外を3つ見せられた。これなら今度こそ……)

 

(インハイ、肘の辺りの高さに全力ストレートね。相良が最も苦手とするポイント……そこに……投げこむ!)

 

 そして4球目が投じられた。

 

「……! なっ……!」

 

(切れることを恐れるな。クイックで投げたボールなら狙える。わたしの技術ならそれが出来る!)

 

 クイックモーションから倉敷は指先に力を込めてインハイにストレートを投じた。すると彼女が取った構えに目を見開く。

 ——コン。軽い金属音と共に打球が転がった。

 

(スリーバント!? しまった……!)

 

「東雲さん!」

 

(くっ……!)

 

 三塁線、ライン際に転がった打球に東雲が走り出す。その横を走る大和田は東雲より少し先を走り抜けていく。

 

(ホームは無理ね。ボールは……切れない! 一塁で刺すしかないわ!)

 

 猛ダッシュで打球に近づいた東雲はミットで拾い上げるように捕ると右足で踏み込んでジャンプし、そのまま一塁へと送球を行った。そして送球が足を伸ばす野崎のミットへと届くと、ほぼ同時に相良も一塁ベースを駆け抜ける。

 

「……セーフ!」

 

(うっ……!?)

 

 一塁審判の下した判定はセーフ。そしてそれが意味するところは……

 

「相良ー! ナイスバントと!」

 

「大和田もナイラン!」

 

 大和田の本塁到達が認められ、界皇に同点となる2点目が入ったということだった。

 

(……や、やられた……。まさか界皇が浅い回から、こんなリスクのある手を使ってくるなんて……)

 

「……相良は守備を買われて夏大会スタメン入りしたというのは話したな」

 

「へっ? あ、ああ……」

 

「だが彼女は足を評価された大和田とは違い最初は下位打線での起用だったんだ。けれど、アイディア溢れるバッティングが評価されてな……ボーイズ時代に大和田と1番・2番を組んでいた経験もあって大会中に打順が上がったんだ」

 

「ああ……だから主に2番打者を務めていたなのか」

 

「そういうことだな。里ヶ浜はサードがベースについていたからな……しかもスリーバントは想定外だっただろう。際どいところに転がされると、刺すのは難しいだろうな」

 

「けどファールになったらその時点でアウトだ。折角のチャンスもふいにしちまう……中々リスキーだぜ」

 

「……そこが界皇の、彼女たちの強みかもしれないな。リスクのある選択肢を自信を持って敢行することが出来る。それだけの経験を積んできた自負があるんだ」

 

「私たちも気をつけねえとな……」

 

「そうだな」

 

(……同点か。しかし里ヶ浜は気落ちしている場合ではないな。何故ならここから界皇はクリーンナップに入る。さて、見ものだな……)

 

「タイムお願いします!」

 

 リスクを負ったセーフティバントにより同点に追いつかれた里ヶ浜。さらに先ほど連打を浴びたクリーンナップを迎え、翼が一度目の守備のタイムを取ると、皆それぞれの表情でマウンドに集まっていくのだった。



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勝機へと費やして

年末も近づいてきましたね。このタイミングで覗けばあるというのが好きなので、出来れば毎回日曜のいつもの時間に投稿してといきたいのですが難しくて、ぐぬぬとなってます。
次の2週間後の更新ですが、年跨ぐ前には投稿したいと思ってます。理想は27日。

年明けたら1月10日(目安)からまた週一更新に戻してやっていきます。それでは。


「……ごめんなさい。セーフティへの懸念が抜け落ちていたわ……」

 

「東雲、顔を上げなさい。ここにいる誰一人として相良のセーフティを予見してたやつはいなかった。……そうでしょ?」

 

「悔しいけど、私も読みきれなかったわ」

 

「それは……そうかもしれませんが」

 

「東雲さん……一人で背負わないで。もし今のプレーに責任があるなら、それは私たち全員の責任だよ」

 

「有原さん。……そう、だったわね」

 

(一人で抱え込んでもロクな結果にはならない……。私たちはそのことを身をもって味わったものね)

 

 2アウトランナー三塁から仕掛けられた相良のセーフティバントに意表を突かれて一瞬スタートが遅れてしまった東雲はそのことを悔いているのが見てとれた。だが東雲が顔を上げると他の皆も同様にまんまとやられてしまったことを後悔しており、その上で先を見つめているのが彼女にも伝わった。

 

「今のは……相手の、アイディア溢れる見事なプレーでした。なら、私たちもそれに負けないくらいの良いプレーで応えましょう!」

 

「その通りなのだ! みんな、ちょっと耳を貸すのだ。今のプレーがあおいの勝負師魂を刺激したのだ」

 

 阿佐田が口元をミットで隠しながら思いついたことを伝える。するとその内容に思わず揃って目を大きく見開いていた。

 

「……どうなのだ?」

 

「なるほど……確かにあのバッターはインコースを苦にはしないですが、ヒットゾーンのデータでは思い切り引っ張った打球は少なかった。内のボールもショートの頭に打ち返すような意識で打ち返しているようでしたし……その作戦はありかもしれませんね」

 

「明條との試合でしたように投げてからっていうのはどうかな?」

 

「……いえ、それはやめた方がいいわ。さっきの打席で打たれたヒット、ボール球だったのに打球が速かったでしょう? 対応しきれない可能性が高いわよ」

 

「そっか。分かったよ!」

 

「後ろは頼んだわ。特にそっちには強いのが飛ぶかもしれないから」

 

「はい! 任せてください!」

 

「どんとこいなのだー!」

 

(この作戦はアタシのコントロールミスが命取りになる。信頼して託してくれたみんなの為にも、投げきってみせる!)

 

(……! これは……?)

 

 タイムが解かれて散っていく内野陣を見て右打席へと入った3番バッターは不思議そうな表情を浮かべていた。

 

(内野が予め全員右にシフトしてる。……いいのか? 三塁線がぽっかり空いてる。このくらいの球速のストレートなら狙えないことは……。……!)

 

 バッターが全体的に定位置から右側へと動いて構えた内野陣を訝しんでいると、倉敷がクイックモーションからボールを投じた。すると投じられたコースにバッターは目を見張りながらこのボールを見送った。

 

「……ボール!」

 

「その調子です!」

 

(アウトロー……それもかなり際どいとこだ。私は外は得意だけど……)

 

 アウトコース低めに投じられたストレートは僅かに外に外れており、ボールの判定が上がる。

 

(む……)

 

 次のボールが再びアウトコース低めの際どいところへと決まると、これもバッターは手を出さずに見送った。

 

「……ストライク!」

 

(……そういうことか)

 

 今度はストライクゾーンの隅を突くように決まったストレートをバットを振りだすそぶりもなく、じっくり見たバッターは腑に落ちた様子でバットを構え直していた。

 

(この打席……きっと外の、それも入るか入らないかのギリギリのところにしか来ないな。その球を打たせてシフトの網にかけるのが里ヶ浜の策なんだろう)

 

(先程の打席は初球から振ってきたから、今度はボール球から入ったけどバットを振らずに見てきた。このシフトに慎重になっているようね。だから2球目はストライクを要求して、それが上手くいった。問題はここから……2球続けて見てきたんだもの、そろそろこちらが外の出し入れだけで勝負してくる確信を得たはず……。けど、このシフトを敷いている以上裏をかいて内に投げるリスクは高すぎるわ。倉敷先輩の球速もこのバッターは苦にしていないようだし……)

 

 1ボール1ストライクとなり、ボールを受け取った倉敷はすぐには投球姿勢に入らず、プレートから足を外した。

 

(ふぅ……ギリギリを狙うのも楽じゃないわね。けど、これでいい。アタシの一番の武器はコントロール。それを生かすためなら、要求は厳しければ厳しいほどいい!)

 

 一度間を挟み気を引き締めた倉敷は再び前を向くと、鈴木からのサインを待った。

 

(バッターがどう来るかは意識しておいた方がいいわね。ヒットゾーンのデータを考えれば恐らく……)

 

(内野の頭を越えやすいアウトハイは来ないだろう。外野はほぼ定位置にいるしな。まあ2アウトのランナーいるから、下手に動かした外野を抜けば即一点だ。さすがに外野は動かしづらいだろうね。となるとアウトロー……そこに来るなら踏み込んで三塁線を狙ってみてもいいが……)

 

 それとなく三塁線を見たバッターは視線を倉敷に戻す。すると倉敷が首を縦に振った。

 

(多少甘く入ってくればいいけど、このピッチャーのコントロールは中々だ……引っ張るのが得意じゃない私が無理に狙っても、そう易々とは抜かせてくれないだろう。なら……自信のある方でいかせてもらうよ!)

 

(アウトコース低め……。鈴木のミットを良く見ろ! 出来れば、じゃない。絶対に、そこへ投げ込む!)

 

(二人とも凄い気合いが入ってるな。……勝負は一瞬で決まる。わたしも気を抜かずに走ろう)

 

 頷いた倉敷がよこした鋭い眼差しと、獲物を見つけたような獣のような眼光を帯びる3番バッターを見て相良はごくりと唾を飲み込んだ。そして倉敷の視線が外れると彼女の足が踏み込まれ、ボールが投じられた。

 

(やはりアウトロー! これを……!)

 

(振ってきた……!)

 

 アウトコース低めに投じられたストレートに対し、バッターはこの打席で初めてスイングの始動に入る。バックスイングからフォワードスイングへと移るステップで左足をバッターボックスギリギリまで踏み出し、内側へと捻って軸足とすると、鋭い腰の回転から繰り出されるフルスイングが空を裂き、そしてボールを捉えた。

 

(速い! けれど捕ってみせます!)

 

 一塁ランナーの相良がスタートを切る中、打球は目にも留まらぬ速さのライナーとなって一塁線を襲った。右寄りに守っていた野崎は自身の頭上へと放たれた打球に反応すると、飛び上がって懸命にファーストミットを上に伸ばした。そして野崎が着地して後ろに一歩二歩と下がると、一塁審判からコールが上げられた。

 

「アウト!」

 

(やられた……! 強い打球は飛ばせたけど、思ったより上がらなかった。この感触……してやられたよ。今のは2球目のストレートより、ボール一個分ってところか……低く外されたボール球だったんだ)

 

 一塁に向かって走り出したバッターランナーがファーストミットの先で掴み取るように捕られたボールを目にすると、減速しながら思い通りに打たされたことに気づき、悔しそうに唇を噛み締めた。

 

(や、やりました……!)

 

「野崎、ナイスキャッチ!」

 

「倉敷先輩もナイスボールでした……!」

 

 倉敷が野崎のもとに興奮気味に駆け寄ってくると勢いそのままにミットが重ね合わされ、二人の顔には自然と子供の頃のようにプレーの喜びがそのまま表情に浮かび上がっていた。

 

「レナ、わりぃ。繋げなかった」

 

「今のは相手を褒めるしかないわね。ひとまず追いつけたのだから、守備に集中しましょう」

 

「おう」

 

 ファーストライナーが成立したことで3アウトチェンジ。2回の表が終了し、裏の里ヶ浜の攻撃は7番の永井から。

 

(このピッチャーってほとんどストレートを投げてくるんだよね。それなら……)

 

(初回は情けないピッチングをしちまった。けどあたいはまだマウンドに立ってる……。なら、やることは一つしかねえ!)

 

(えっ!?)

 

 ストレートのタイミングを想定して踏み込み、バットを振り出した永井。しかし振り出したバットは空を切り、後方で捕球音が響いた。

 

「ストライク!」

 

(は、速い……! ストレートだと思って振ったのに、それでも全然振り遅れちゃってる……)

 

 投じられたストレートは想定よりも速く、永井は完全に振り遅れてしまっていた。

 

「ストライク! バッターアウト!」

 

(うう……当たらなかった)

 

(このバッター、最後まで振り切ってきたな。……けど、警戒しすぎたか。バットがボールの下に入ってる……ストレートについてこれてない証拠だ)

 

 フルカウントからストライクゾーンに投じられた真ん中高めのストレートに空振り三振に取られてしまい、1アウト。

 

「ストライク! バッターアウト!」

 

(しまった。手が出なかったわ……)

 

 2ボール2ストライクからインコース高めに投じられたストレートに鈴木は手を出せず見逃し三振で凡退し、2アウト。

 

(低い! ……!?)

 

「ストライク! バッターアウト!」

 

(入った!? なんて伸び上がってくるような軌道なの……)

 

 フルカウントからアウトコース低めに投じられたストレートを倉敷は外れていると判断して見送ったが、球審の判定はストライク。

 

「なんと三者連続三振です! 圧巻のピッチングを見せつけました!」

 

(よし……!)

 

(むむむ……まずいのだ。ピッチャーだから9番に入ってるけど、まいちんは本来ならクリーンナップに入ってもおかしくないのだ。これはもう、あおいが一打席目で味わったピッチングとは別物だと思った方がいいのだ。ストレートの威力も、そして……コントロールも)

 

 倉敷が見逃し三振に倒れたことで3アウトとなり、ネクストサークルにいた阿佐田は相手ピッチャーの調子が上がっていることをひしひしと感じ取りながらベンチへと戻っていった。

 

「初回乱れたからどうなるかと思ったけど、三人で捻じ伏せたね」

 

「ああ……彼女は立ち上がりの遅い投手(スロースターター)だが、回が進むにつれ段々とギアを上げていくタイプだからな。本来彼女の調子が上がってくるのは3イニング目あたりだが……」

 

「初回に2番と4番がかなり粘ったからなー。その分球数投げさせられたから、浅い回でも調子が上がってきたんだな」

 

「そういうことだな。ただ……三人で終わらせたのにこの回も球数は多かったのが気になるな」

 

「まだ完全には調子が上がってないんじゃない?」

 

「それもあるだろう。だが……一番の理由はキャッチャーだ」

 

「キャッチャー?」

 

「ああ。際どいところに構えすぎなんだ。それでカウントが悪くなって、勝負にいかざるを得なくなっている。初回のピッチングでベンチから指示があったのかもしれないが……ピッチャーはずっと全力投球が続くわけではない。慎重にいくのも大事だが、それと同じくらい相手を呑んでかかることも必要だ……。彼女も悪いキャッチャーではないが、界皇は層が厚いからな。夏までは3年生バッテリーが引っ張ってきたこともあって、そういった判断がまだ甘い」

 

「なるほどね」

 

(そしてそれがあのピッチャーのもう一つの欠点にも繋がっている……。恐らく里ヶ浜もそのことを分かっているはずだ)

 

 2回の裏が終わり守備についていた界皇がベンチへと下がっていく中、バッターとして打席に立っていた倉敷もようやくベンチに戻ってきていた。

 

「鈴木」

 

「はい。なんでしょう?」

 

 8番バッターとして出ていた鈴木もレガースはつけていたが、まだプロテクターから上をつけ終えておらず、準備を進めていた。そんな鈴木に倉敷はバッターとしての装備を外しながら話しかける。

 

「続けながら聞いて。今日の試合のスタメンが発表された後の話……覚えてるわよね」

 

「……覚えてます」

 

「なら、アタシが言おうとしてることは……分かるわよね」

 

「……投げるんですね」

 

 そして話しかけられた鈴木は一昨日のミーティングの後のことを思い出していた。

 

「ミーティングはこれで終わりよね。……鈴木、ちょっと付き合ってくれる?」

 

「あ、ちょっと待ってください。近藤さん、あなたもこれに目を通しておいて」

 

「昨日帝陽から渡された界皇のバッターの情報……。分かりました。全部見ておくわね」

 

「お待たせしました。行きましょう」

 

 倉敷に呼ばれた鈴木は近藤に資料を渡すと、共に部屋を出ていく。彼女に連れられて宿舎を後にすると、二人は近くにある河川敷まで足を運んでいた。

 

「倉敷先輩? どうしたんですか?」

 

「他のやつにはあんま聞かせない方がいいと思ってね……。正直に言うわ。あのデータを見て……アタシに界皇の打線を本当に抑えられるのかって、不安になったのよ」

 

「先輩……」

 

「だから……やれることはやっておきたいのよ」

 

「投げ込みをするつもりですか? でも試合は明後日……」

 

「分かってるわ。10球でいい……もう一度試して欲しいボールがあるの」

 

「確かに10球なら影響は無いと思いますが……一体何を?」

 

「……カーブよ」

 

「……! カーブですか……。しかし、前に野崎さんと一緒に東雲さんに教えてもらった時は……」

 

「投げられなかったわね。アンタのミットの届くところには……」

 

「……もし投げることで先輩の不安が少しでも取り除けるなら、付き合いますよ」

 

「悪いわね」

 

(倉敷先輩は最初にピッチャーとして試しに投げてもらった時、ストレートをいきなりストライクゾーンに投げられた。そしてチェンジアップも浮いてはいたけれど、これもすぐにストライクゾーンに投げることが出来た。でも……)

 

 倉敷の頼みを聞き入れ、キャッチボールを挟んでから鈴木は座ってキャッチャーミットを構えた。そして倉敷が十分な距離を取って離れると丁寧に確認するようにボールを握り、いつものように振りかぶってボールを投じた。すると鋭く曲がったボールがとっさに立ち上がった鈴木のミットの上を越えて、河川敷の坂に直接当たって跳ね返ってくる。

 

(カーブは変化のキレはあるのだけれど、何回か試してもあの倉敷先輩のコントロールでも私の届くところにはほとんど来なかった)

 

 跳ね返ってきたボールを拾い上げ、ボールが投げ返される。次に投げられたボールはかなり手前でバウンドしてしまう。そしてその次と投げられていくも鈴木のミットにはボールは届かなかった。

 

(東雲さんに変化球を教えてもらったのは清城との練習試合の前……。けど届くところに来るとは限らないこのボールは賭けに近かったし、ペースを乱す恐れもあった。だからあの練習試合では要求しなかった)

 

 4、5、6球目もコントロールはバラバラで鈴木のミットには収まらなかった。

 

(けどその変化球練習の時カーブみたいに曲がらなくても、タイミングを外せるチェンジアップを私が伝えた。その時は握りが安定しなかったけれど、倉敷先輩が自主練で自分に合う握りを見つけてきた。そしてチェンジアップは最初からストライクゾーンには……つまり私の届くところには投げることが出来た)

 

 7……8……9……とボールが投げられていく。最初のように大暴投というほどではないが、これらも鈴木のミットからは離れて後ろへと抜けていった。

 

(まずコントロールの効くチェンジアップの練習を始め、コントロールのひどいカーブは短い期間では修正がかけられないと思ったから、秋大会が終わってから春大会までの長いオフシーズンで調整すると二人で相談して決めたわ。だから紅白戦ではカーブの選択肢は最初から外して、チェンジアップをどう生かすかという点を意識して配球を考えた……。勿論この秋大会も。……!)

 

 そして10球目。切れ味鋭く曲がったボールがアウトコースのストライクゾーンへと落ちていく。そのボールに反応した鈴木はミットが流れながらも、辛うじて捕球していた。

 

「10球中、1球か……」

 

「……先輩には申し訳ないですが……やはりカーブを使うのは難しいと思います。せめてボール球でも届くところに来ないと……」

 

「……そうね。悪かったわね、鈴木。こんなことに付き合わせて……」

 

「いえ……それは構わないですよ」

 

(……倉敷先輩、相当不安を感じているようね。確かに界皇の打線は恐ろしい。さきがけ女子戦では5回コールド、そしてあの神宮寺さんから14本ものヒットを打っている……。先発としてマウンドに上がる倉敷先輩にかかるプレッシャーは相当なものね)

 

「……1球……」

 

「え?」

 

「ランナーがいない状況でなら、1球だけ投げるのはアリかもしれません。たとえ外れても、このボールを相手に意識させることが出来れば……」

 

「……なるほど。確かに、それなら最悪入らなくてもいいってわけね」

 

「はい。ただあまり外れると効果はないかもしれませんが……」

 

「それでもいいわ。やれる手は全て打ちたい。今アタシに出来る全てのことを費やしたいの」

 

「……分かりました。では1球だけ、機を見て投げることにしましょう」

 

(それで倉敷先輩にかかるプレッシャーを少しでも和らげさせられるのならば。それにこのカーブの存在を頭に入れさせられたらストレートも生きてくるのは違いないのだから)

 

 そのことを思い出した鈴木はヘルメットをつけながら、ミットを手にした倉敷へと話を続けた。

 

「カーブを印象づけるためにも、まずはストレートを中心に配球を組み立てます」

 

「カーブは追い込んでから?」

 

「カウント次第で変える予定ですが、追い込んでからが一番効果的だと思っています」

 

「分かったわ」

 

(まずはストレートに集中ってわけね。これが甘く入れば、カーブを見せることもできない。ましてやバッターはあの……)

 

「……気合い入れていくわよ」

 

「はい!」

 

 互いに準備を整えると声を掛け合って二人ともグラウンドへと足を踏み出した。倉敷は帽子を力強く被り、鈴木はヘルメットをつけてそれぞれのポジションへとついた。

 

(三者凡退で良いリズムを作ってくれたわ。打線もそれに応えないとね)

 

 そして右打席には界皇の4番を務めるレナが入っていく。静かにバットを構える彼女から、里ヶ浜バッテリーはただならぬ威圧感を覚えていた。

 

(さっきの打席はアウトローの四隅に決まった全力投球を打たれた……。倉敷先輩、初球は……)

 

(内の低め、少しだけ低めに外して全力投球。ボール球だからって安心するな。肩はまだ軽い……このバッターに対しては一球一球決め球のつもりで投げ込む!)

 

 振りかぶった倉敷は投げる瞬間に指先に力を込めてボールを投じた。力の乗ったボールがインコース低めへと向かっていく。

 

(入って……いや、外れてる!)

 

「……ボール!」

 

(見たか……)

 

(今のは速い方ね。遅い方と比べると僅かだけれどコントロールがアバウトになる。この見極めはしっかりさせてもらうわ)

 

(要求通りには来てるわ。これなら厳しくストライクゾーンを突くことも出来る……)

 

(入れにいったら一巻の終わりよ。厳しく、けど腕もしっかり振り切って……!)

 

(……!)

 

 投じられた2球目もインコース低め、レナは先ほどの打席で感じた差し込まれるような勢いを感じながらも、バットを振り切った。

 

「ファール!」

 

(力のこもったボールね。それにコースも厳しかった。普段なら浅いカウントでは手は出さないけど、このピッチャーの場合そうすると簡単に追い込まれちゃうわ。厳しいコースでもここは振って、調整して合わせてみせる!)

 

 ボールの上を叩いたボールはそのまま勢いよく後方のフェンスまで転がっていき、ファールとなった。バットを振り切ったレナは今の感触を思い出すように一度目を閉じると、ゆっくりと目を開いてからバットを構え直した。

 

(倉敷先輩のストレートは今のが上限の球速。これ以上の力押しは出来ないわ)

 

(7割のストレートを、四隅より少しだけ内に……。これも厳しい要求ね。けど……!)

 

(……ここ!)

 

 3球目もインローへと投じられたストレート。このボールに対してレナは一拍置いてからバットを振り出した。すると捉えた打球がライナーとなってレフト線を襲う。

 

「……ファール!」

 

(あ、危ない……! 今のはフェアになってもおかしくなかったわ)

 

(もう少しだけ溜めたかったな。けど、それだけさっきのストレートが良かった……ただ私のミス、というだけで片付けては足元をすくわれるわ)

 

(……肝が冷えたわ。けど、追い込んだ……!)

 

 僅かにファールゾーンへと逸れたライナー、一歩間違えれば長打という当たりに倉敷は薄氷を踏む思いを抱きながらも、受け取ったボールを握りしめた。

 

(このピッチャーにはチェンジアップがある。引っ掛けさせられないように注意して……。……! ストレート!)

 

 4球目がインコース高めに投じられるとこのボールにレナはスイングの始動に入った。

 

(……高い!)

 

「……ボール!」

 

 振り出したバットを止める形でボールが見送られると、高めに外れていたストレートにボールの判定が上がった。鈴木がスイングを主張したが、一塁審判に確認が行われると球審の判定通りノースイングとされる。

 

(さっきの打席はボール2つ分外したボールを見られたけど、今度はボール1つ分。それでもバットを止められた……。なんてバッターなの)

 

(……倉敷先輩)

 

(……! 分かったわ……!)

 

(先ほどの打席はインハイを挟んだ後はアウトローの速いストレートだったわね。ヒットにはしたけど……今度はどう来るかしら。追い込まれている以上、どんなボールが来たとしても食らいついていくしかないわね)

 

 2ボール2ストライク。倉敷は上がる心拍数を感じながらミットの中で握りを確認していた。

 

(外れてもフルカウントになるだけ。鈴木もそれを考えてここで要求してくれたはずよ。落ち着いて……。そして、集中するのよ。……! 鈴木……)

 

(大丈夫です……。上を抜けていく大暴投以外は身体を張ってでも止めてみせます)

 

 鈴木は構えを少し変えて、両ひざを立てて腰を浮かせ、ミットをど真ん中に置いて大きく構えるようにしていた。そんな鈴木を見て倉敷は肩に入り過ぎていた力が抜けていくような感覚を覚えていた。

 

(……投げてみせる、というより。……投げられる……)

 

 気づいたら倉敷は振りかぶり、足を踏み込み、腕を振り切っていた。

 

(高めのボール球?)

 

 ボールは真ん中高めに向かって投じられていた。すると人差し指と中指で押し込むようにして投げられたボールは縫い目にかかっていた中指に引っ掛かるように強い回転がかかっており、軌道に変化を与えていく。

 

(……違う!?)

 

 投じられ、ホームに向かうボールは次第に下向きの変化を始めていた。ボールを引きつけていたレナはこの曲がり始めの変化に反射的に反応すると、バットを振り出す。ボールはそのまま高めに外れた位置から割れるようにストライクゾーンへと入っていくと、鈴木はミットの位置を上に上げて捕球しにいった。その直後。

 ——シュイン、と強く擦るような金属音が響いた。

 

「……! ファースト!」

 

「はいっ! ……あ……」

 

 打球は高く打ち上がっていた。恐ろしいほどの回転がかけられたボールは次第にスライスしていき、そしてバウンドした。

 

「ファール!」

 

「……! な……」

 

 一塁側フェンスを越え、打球はファールスタンドで高くバウンドした。その光景に倉敷は動揺を隠せなかった。

 

(この試合、1球だけ投げるカーブ。いくら界皇の4番だって決まりさえすればこの変化にいきなりついていけない。そう思ってたのに……)

 

(あ、当てた……。完全に高めに外れているボール球にしか見えなかったはず。そこから下に大きくドロップして入る倉敷先輩のカーブを……。しかもカーブを持っている情報なんて知るはずがないのに。彼女は今、曲がり始めの僅かな変化と……バッターとしての本能だけで初見の変化球をファールにしたというの……!?)

 

(……危なかった……。低めに決まっていれば、当てられなかったわ。ほとんど真ん中に入っていたから、なんとか当てられた。高めのボール球と決めつけなかったのが幸いしたわね)

 

 フェアゾーンには入らないボールを見上げていたレナはファールのコールを聞くとバットを構え直した。しかし、泰然と構えているように見える彼女も今のキレの良い変化球に心の中では驚いていた。

 

(……それでも予定通りカーブの軌道を見せることが出来た。カーブが頭にある今なら……初回に打たれたボールも今度は対応出来ないかもしれない)

 

(アウトローの四隅に……全力投球)

 

 当てられはしたが当初の目的の一つであるカーブを意識させることは達成したと考え、鈴木は初回に紙一重の差で打たれたボールをもう一度要求した。それに倉敷は頷くと、投球姿勢に入りボールを投じた。

 

(アウトコース真ん中……また変化球?)

 

(えっ……!?)

 

(……いや……ストレート!)

 

 力を込めて投じられたストレートは真ん中の高さ、コースもアウトコースではあったが中に寄っていた。このボールを変化球を警戒しながら引きつけたレナはストレートと判断すると自身より後ろのポイントでストレートを捉え、バットを振り切った。

 

(……! し、しまった……!)

 

 倉敷がハッとした表情を浮かべて振り返る中、ライナーで放たれた打球は後ろを向いて走る九十九の頭を越え、ライトフェンスにダイレクトで当たった——。




後書き。

書くか迷ったんですが、探すのも大変かと思って書くことに。

7話で倉敷がチェンジアップのことを説明する際に、野崎が東雲に教えてもらった球種である「カーブやスライダーも投げられなくて」と言ったすぐ後に倉敷が「カーブみたいに曲がらなくてもタイミングを外せるこのボール」とカーブのみをピックアップして、みたいに曲がると形容したのは今回のような経緯があったことが理由です。

直接的な伏線としては2回戦の明條戦が始まったばかりでカーブに反応したことが挙げられますが、こういうちょっとした小ネタのようなものもあったという紹介でした。


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頼り、頼られて

(流した打球だというのになんて鋭いんだ……! これは高波の中条さん並の弾丸ライナー! 予め大きく下がっていないと、とてもじゃないが追いつけない!)

 

 定位置より少し下り目で構えていた九十九だったが、後ろを向いて走る自身の頭上を今にも越えようかという打球に背筋に冷たいものが走る感覚を覚えながらフェンスから距離がある位置で足を止めた。すると打球はライトフェンスにダイレクトで当たったかと思うと、次の瞬間には鋭く跳ね返ってきた。

 

(跳ね返りも強い! だが……!)

 

 深追いせずにブレーキをかけた九十九は跳ね返りを予測した位置取りをしており、フェンスに跳ね返った後地面にバウンドして高く跳ね上がった打球に合わせて足を動かし、スムーズな捕球に成功していた。

 

「二塁です!」

 

「分かりました!」

 

 長打性の当たりながら捕球までの時間がそう長くはなかったため、一塁を蹴ったレナはまだ二塁から遠い位置にいた。永井の指示を受けて九十九が振り向きざまに右腕を振り抜くと、間にいる阿佐田は送球をカットせずに流し、二塁ベースカバーに入った翼が腰の高さで受け取った。そしてスライディングで滑り込んできたレナに向かってミットが落とされ、タッチが行われる。

 

「……セーフ!」

 

(思ったより危なかったわね。ただ、それでも間に合う確信はあったわ)

 

(九十九先輩の守備も良かったけど、外野を越えたのにこんなにギリギリになるなんて。それだけ打球が速かったんだ……!)

 

 タッチより僅かに早くレナの伸ばした足がベースに触れ、判定はセーフ。ツーベースヒットを放ったレナは一息つくと、自身の目論み通り二塁を奪えたことに安堵と自信が混じったような微笑を浮かべた。

 

「タイム!」

 

(あら、キャッチャーがタイムをかけたわね。確かにこのピッチャーにしては甘いコースが続いたわ。ここまでミスらしいミスが見えなかった里ヶ浜の僅かなもつれ……逃さず、仕留めましょう)

 

「さっきの打席もそうだったけどまた長打性の当たり……今大会、草刈は当たってるね」

 

「ああ……新たにキャプテンを任され、一層風格が出て来たな」

 

「ノーアウト二塁で次は5番か。長打のあるバッターだし、ここで連続で長打なんか打たれたら一気に大量得点の流れになるかも」

 

「それも考えられるが……先程は長打を狙って打ち取られている。同じように打たされるとランナーの進塁も危うい」

 

「あー、そうだったね」

 

「それにまだ同点だからな……。ここで一気に打ち崩しにかかるか、確実性の高い作戦でまず勝ち越し点を狙うか。チーム内で意識の統一を図る必要はあるだろう」

 

「確かに。打順も下位に向かっていくし、どっちかにしろって言われたら難しい判断かもね」

 

「どちらにも利はあるからな。だが……」

 

(界皇には北山監督がいる。高い指導力と、冷静な試合眼を兼ね備えた名将だ。対する里ヶ浜は市立の新設校……。この点において両者の差は歴然としている。そろそろ試合も中盤に入る……その差が目に見えて現れる頃かもしれないな)

 

 監督の助力無しに選手同士で話し合い取るべき策を決めてきた里ヶ浜に対し、それだけでなく監督からのバックアップを受けている界皇。グラウンド上では目立たないものの、ここまでの試合展開を見て乾は二つのチームの無視できない違いを感じ取っていた。

 

(くそっ! この試合、エースとしてマウンドを任された以上はどれだけ速い打球を打たれようと、アタシのピッチングを貫くと……そう決めていたのに……!)

 

(……倉敷先輩)

 

 タイムを取ってマウンドへと駆け寄っていく鈴木。視線の先にいる倉敷の表情からは今の失投のショックが痛いほど伝わっていた。

 

(私の厳しい要求に倉敷先輩がどれだけの集中を要しているのか。そこへの考えが足りなかったのかもしれないわ。最初にカーブを試合で使いたいと言ったのは倉敷先輩……それだけあのカーブに手応えを感じていたのよ。それがいきなりついていかれたのだから少なからず……いや、確かな動揺があったんだわ。そんな状態で四隅への全力投球。……完全な集中は難しかったのだと今なら分かる。出来ることなら先に気づくべきだったわ。けど……)

 

「先輩」

 

「……ごめん、鈴木。アンタの要求に応えられなかった」

 

「確かに今のは失投です。しかし、失投をしないピッチャーはいないんです。それは当然のことだと分かっていたはずなのに、知らず知らずのうちに先輩が失投をしないと、半ば押し付けてしまった……」

 

「けど……アタシはサインに頷いた。それを受け入れた以上今のは……」

 

「はい。今のは二人のミスです」

 

「……!」

 

 倉敷は目を見開いた。それは鈴木の言葉によるものだけではなく、打たれたことの悔しさを滲ませながらも、目は真っ直ぐと倉敷の目を捉えていたからだった。

 

「……ですが、そのミスを踏まえて私たちはまだ界皇と向き合わなくてはいけません。もう一度、ここから立て直しましょう。決して楽ではない茨の道かもしれませんが、挫けそうな時は私を頼ってください。少しでも通れる道を広げてみせます」

 

(……そうだ。アタシは何を、焦っていたの。界皇打線に不安を感じていたのは確か……だからその不安を一球だけ投げるカーブの成功に押しつけていたのかもしれない。アタシにとって、空振りを狙えるボールはそれほど大きい存在だった。けど、一昨日野崎たちからアタシは何を感じた? 一人だけで何もかも全部やろうとしなくていいと……。あの頃とは違う。もうアタシの居場所をアタシの力だけで守る必要なんて……ない)

 

 ピッチャーというだけでなく、エースを任されたことは倉敷にとって大きな意味を持っていた。しかしその居場所を守るために、本人も気付かぬうちに視野が狭くなってしまっていた。だが強く踏み込んで自分のもとに飛び込んできた鈴木の想いを受け止めた倉敷は、大事なことを見落としていたのに気が付いた。

 

「……まったく、悪いクセね。あの時といい、九十九の時といい……。けど、おかげで目が覚めたわ」

 

 一度そっぽを向いて自嘲するように笑った倉敷、しかしすぐに鈴木の方に向き直った彼女の表情は憑き物が落ちたようだった。

 

「こんなことが二度と無いようにはっきり宣言しておくわ。もうアタシは、自分だけの世界に逃げたりしない。辛い時も嬉しい時もアンタ達と全部を受け入れてやる」

 

「先輩……」

 

 遠慮なく心の内を曝け出した倉敷に鈴木は驚きながらも、同時にどこか嬉しさも覚えていた。

 

「やるわよ、鈴木」

 

「はい!」

 

 視線が交わり互いにその目に宿った信頼を受け取ると、鈴木がホームへと戻っていき、タイムが解かれた。右打席へと入って地面をならすバッターを倉敷はロジンバッグを片手に警戒する。

 

(……? なに……足?)

 

 すると鈴木がバッターの足元を指差しているのに気がついた。その指に誘導されるように倉敷は視線を下げていく。

 

(……ん。足というより、立ち位置……? ……そうだ。このバッターはかなり前のポイントで打球を捌いて、左中間を抜くのが得意だったわ。けどさっきの打席と違って、今アイツが立ってるのはバッターボックスの一番後ろ! 鈴木が伝えたいのはこのことね……)

 

 すると整えている足場の位置がバッターボックスギリギリまで下がった場所であることに倉敷は気づいた。そしてバッターの準備が整いバットが構えられると、鈴木からサインが送られてくる。

 

(本来のバッティングスタイルを崩した立ち位置、そこにどんな意図があるのか。今はまだ掴めないわ……。だから初球はボール球でどう動いてくるのか探りましょう)

 

(膝下にストレートを低く外すのね。さっきはそれでレフトフライに打ち取れた。けど今は立ち位置が違う……同じように打ち取られてくれるとは限らない。様子を見るためにも、アタシは中途半端にストライクに寄せないようにしないといけない……!)

 

 出されたサインに倉敷は少し考えてから頷くと指先に十分に滑り止めの粉がついたことを確認してロジンバッグを軽く横へと放り、一度二塁ランナーの方に目をやってから投球姿勢に入ってボールを投じた。

 

(む……)

 

「ボール!」

 

「その調子です!」

 

 インコース低めに投じられたストレートは要求通り低めに外れていた。バッターはこれにバットをピクッと動かしたが、振り出さずに見送ったことでボールの判定が上がる。

 

(内の低めは嫌いじゃない、が……監督からのサインは右方向にゴロ打ち)

 

 倉敷へとボールが投げ返されると、バッターは先ほどの打席と同じように後ろへと下げられた外野を確認しながらバットを構え直した。

 

(まず第一に進塁打を狙えってことだ。これは絶対……けど、分かってますよ。それだけじゃない。ゴロで内野を抜ければ、あの外野の位置ならレナはホームに還ってこれる)

 

(今度はアウトローのストライクゾーンにストレート。ストライクが欲しいけど、どう来るか分からないし、入れにいくのもダメ。そのためのコントロール重視の7割ストレート……厳しく攻めてみせる!)

 

 ボールを受け取った倉敷が頷くと2球目が投じられた。すると鈴木のミットを目掛けて投じられたストレートはほとんど彼女の構えたところへと向かっていった。

 

(だからここはいつものバッティングは封印だ。後ろに下がってボールを見極めて、外にきたボールを確実に流して転がす! ……よし、これは……ストレート!)

 

(振ってきた……!)

 

 反射的に前で捌きたくなる衝動を抑えて始動を溜めたバッターはアウトローに投じられたストレートにバットを振り出した。

 

(転がった!)

 

 監督からバッターに出されたサインが頭に入っていた二塁ランナーのレナは打球が放たれた瞬間、スタートを切った。

 

「はっ!」

 

(くっ……捕られたか!)

 

 一、二塁間へと放たれたゴロは十分にスピードはあったが、打球に反応して動き出した野崎が届く範囲内だった。捕球した野崎はすぐに三塁の方へと投げられる体勢を取る。

 

「一塁に!」

 

「……! 分かりました!」

 

 しかし好スタートを切っていたレナを刺すのは難しいと判断した鈴木の指示を受けて野崎は送球を中断すると、ベースカバーへと走る倉敷を制して一塁ベースを踏み、バッターランナーをアウトにした。

 

(ちっ、進塁打にはなったけど抜けなかったか。失投したばかりだってのに良いコースに投げ込んできたな。おかげで野手の届くところに飛んじまった。……まあ、仕方ないか。レナに投げた変化球を混ぜられると厄介だったからな……その前に仕掛けたのは悪くなかったはずだ)

 

(ランナーを進められてしまった……。けど、あのバッターを内だけで抑えるのは難しかったわ。それにあれ以上ボールカウントを悪くすれば、その分ヒットを打ちやすくするだけだった。……ここは切り替えるしかないわね)

 

「内野、前に!」

 

 1アウトランナー三塁となり、続く6番打者が左打席へと向かっていく。すると鈴木の指示で内野が前進守備を取った。

 

(サインは……了解です)

 

 里ヶ浜の守備隊形を見た界皇ベンチからサインが出され、バッターもそれを確認するとバットが構えられた。

 

(スクイズの可能性はある……けどここは下手にボールカウントを悪くするより、守備で防ぐことを考えるわ。このバッターには先ほどヒットは打たれているけどあくまで内野安打で、アウトローのチェンジアップで崩して打ち取った当たりだった。……今度はチェンジアップから入りましょう)

 

(……なるほど。今度はチェンジアップを見せ球にストレートで勝負するってわけね)

 

(……北山監督の意図はハッキリしてる。ここは私がアウトになってもいい……)

 

 ジリジリとリードを広げるレナを倉敷が目で制し数秒の間が流れると、倉敷が投球姿勢へと移りボールを投じた。

 

(その分、私の役目を果たすことに集中出来る……!)

 

(初球から……! けど、これは低く外したボール球。上手く振らせた……!)

 

 アウトコース低めへと投じられたチェンジアップは低く外されていたが、このボールにバッターはバットを振り出していた。

 

(塁に出ることを度外視していいなら……外野フライくらいなら打ってみせる!)

 

(なっ……!)

 

 金属音が響き渡り、自身のはるか上を勢いよく通過していった打球に倉敷は身に目には見えない強張りの波が走ったのを感じた。

 

(低めに外したボールを……すくいあげられた!?)

 

(飛距離はどうだ……?)

 

(……十分!)

 

「ゴー!」

 

 定位置から下がった位置で永井が高く打ち上がったフライを収めると、三塁ベースに一度戻ったレナがスタートを切った。

 

「えいっ……!」

 

 ボールを取り出した永井は迷わず力一杯ホームに向かって送球した。

 

(……くっ)

 

「ホームイン!」

 

 しかし鈴木がその送球を受け取った時には既に駿足を飛ばしたレナがホームを踏んでおり、刺すには至らなかった。

 

(確かにあのバッターは低めをすくいあげるのが得意。だから慎重に低めに外したのに、それをああも容易く十分な距離の犠牲フライにされるなんて……)

 

 ホームインが認められ、界皇に勝ち越し点となる3点目が入った。レナのツーベースから僅か3球で入った得点に、里ヶ浜部員らは思わず落胆していた。

 

(あっさり……点が入っちゃったな)

 

 多少受け取り方は違えど、皆そのような思いを抱いていた。

 

「……やられたわね」

 

「はい……」

 

「けど……これも全部受け入れるしかない」

 

「……! ……はい!」

 

 ホームのカバーに入っていた倉敷が鈴木に声をかけると、その言葉に鈴木も表情を引き締めて返事をしていた。その様子を見ていた守備陣もバッテリーの気迫に呼応するかのように、「ツーアウト!」「ここで切りましょう!」と声を出していった。

 

(点をこうも簡単に取られたのは正直、悔しい。情けなさで心が焼かれるようだわ。……けど、自惚れるな。いつこの回の攻撃が一点で終わった? 2アウトランナー無しだろうと界皇はそこから貪欲に得点を狙ってくるに決まってる。アタシはまだ折れるわけにはいかない……!)

 

(全部受け入れて……そうですね。……3球で、というのはいくら界皇でも早打ちな気がするわ。何か原因が……。……! もし、原因があるとすれば……カーブを嫌って早めに勝負に出たのかもしれないわ)

 

 そして7番バッターが右打席へと入ってくる。その表情は勝ち越し点を上げた界皇の勢いを示すかのように強気だった。

 

(このバッターはゴロ打ちが得意。一打席目もゴロで一、二塁間を抜きに来たわ。……もし、このバッターも早めに仕掛けてくるのなら)

 

 そのバッターへの初球はインコース高めの7割ストレート。するとこのボールにバッターはバットを振り出した。

 

「ファール!」

 

(くっ!)

 

 打球はストレートに押されるように後方へと打ち上がり、そのままファールとなった。

 

(今のは高さもコースもボール1個分外したボール……さすがにこれは打つのは難しいわ。……やはり……)

 

「ファール!」

 

 2球目として投じられた低めに外されたチェンジアップにも手が出され、サード方向へのゴロが大きくフェアゾーンから逸れてファールとなった。

 

(しまった……続けてボール球を振ってしまったわ。落ち着け……こうなったら何が来ても対応出来るように……)

 

 バットが短く持ち直されると3球目。インコース低めに7割ストレートが投じられるとこれも低めに外れ、バッターは振り出したバットを止める形で見送ってボールとなった。

 

(ここは……これでどうですか?)

 

(……分かったわ)

 

 そして4球目。倉敷は振りかぶると腕を振り切り、投げる瞬間に指先に力を込め、精一杯のストレートを投じた。

 

(真ん中高め! ついにあの変化球が……あっ!?)

 

「ストライク! バッターアウト!」

 

(よし!)

 

 真ん中高めに投じられた全力ストレートは高めに外れており、バッターがそれに気づいたのはバットを振った後だった。

 

(ボール球だけで三振が取れた……。こんなこともあるのね)

 

「鈴木、ナイスリード」

 

「倉敷先輩も……特に最後のボールは力強い、重いボールでした」

 

「不思議と力が湧いてきたわ。おかしいわよね。点取られたってのに……」

 

「……いえ、点を取られた後でもこんなボールが投げられるから……だから倉敷先輩は私たち、里ヶ浜のエースなんだと思います」

 

「……ありがと」

 

 スリーアウトチェンジ。3回の表の界皇の攻撃は里ヶ浜から1点のリードを奪ったところで終了した。そして攻守交代。3回の裏の里ヶ浜の攻撃は1番打者の阿佐田から。

 

「……ボール!」

 

(やっぱり……最初に立った時とは別物なのだ。しかも外野が前に出てる……高めで攻めて、パワーの無いあおいをアウトに取ろうって算段なのだ)

 

 真ん中高めに僅かに外れたストレートに手が出ず、1ボール0ストライク。阿佐田はこのピッチャーのストレートが先ほどの打席とは伸びもコントロールも段違いに感じられていた。

 

(これをゴロにして叩くのはちょいと厳しそうなのだ……。……けど、もしかしたら……)

 

(セーフティ! そうやって崩しに来るのは慣れてる!)

 

(さすが界皇! チャージが早くて助かる……のだっ!)

 

(なっ……!)

 

 2球目としてアウトハイに投じられたストレートに阿佐田はバントの構えを取ると、すぐさまファーストとサード、それに続くようにピッチャーもチャージをかけた。するとピッチャーは自身から見て左側へと勢いよく放たれたボールに意表を突かれながらブレーキをかけてミットを伸ばす。

 

「相良!」

 

「えっ!」

 

(作戦成功なのだ!)

 

 鋭くチャージをかけたファーストの代わりに一塁のカバーに向かっていた相良はファーストとピッチャーの間を抜けて自分の方に転がってきたボールに気づくと、慌てて方向転換してボールを収めた。

 

「あっと! これは一塁への競走になったぞ!」

 

(絶対にセーフにしてみせるのだ!)

 

(させない!)

 

 阿佐田は一塁ベースを全力疾走で駆け抜け、相良はベースの側面に向かってスライディングで滑り込んでいた。そして阿佐田は勢いのついたスピードを走る足を段々と落ち着かせて止め、相良はベースに勢いを吸収させるようにしながら体勢に無理が生じないよう膝を曲げると、両者が同じタイミングで一塁審判へと目をやった。

 

「……セーフ!」

 

(う……セーフか!)

 

(ふぅ、危なかったのだ。セカンドに取らせたのに、中々シビアなタイミングだったのだ。けど、勝負はあおいの勝ちなのだ! あのピッチャーの速いストレートをプッシュで押し出すのはしょーじき、厳しかったのだ。けどあれくらいの勢いがあれば芯に当てるだけでプッシュと同じ感じになると見たのは間違いじゃなかったのだ!)

 

 ギリギリではあったが勝負を制したことに阿佐田は自信満々の笑みを浮かべると、続く九十九にサインを送った。

 

「ファール!」

 

(うっ、これは転がすのも楽じゃないな……)

 

(送りバントとなると勢いを殺さなきゃなのだ。あのなんでもそつなくこなす九十九でも難しいのだ……!?)

 

(あたいはクイックがあんまり得意じゃない。けど、その分ストレートの勢いは落ちにくい……。送りバントはさせない! ストレートでねじ伏せる!)

 

 サイン通り送りバントを試みた九十九だったが、ストレートの勢いに押されて転がったボールは一塁線を逸れてファールになってしまった。

 

(2ストライクにされるとまずいのだ。バントの構えをしてれば同じように力でバント失敗を狙ってくるはずなのだ……)

 

(む……分かった。ここはまずフェアゾーンに転がすぞ……)

 

「ランナー走った!」

 

(スチール!? いや、これは……バントエンドラン!)

 

 再び投じられたストレートに九十九は必死に食らいつくと辛うじてボールを転がした。しかし勢いはさほど抑えきれず、ボールを捕ったファーストは二塁でのフォースアウトを狙おうとする。

 

「一塁に!」

 

(エンドランで先に走ってた分、さすがにうちの内野でも刺せない……!)

 

 キャッチャーからの指示を受けてファーストはベースカバーに入ったピッチャーへボールを投げると、バッターランナーの九十九はアウトに取られた。

 

「1アウトランナー二塁! 里ヶ浜、チャンスを作りました! そしてここで打席には先ほどホームランを打った有原選手が入ります! おっと? ここで界皇はタイムを取りました!」

 

「……なにしにきたの、千秋」

 

「伝令に決まってるんですけど。内野は下り目に、外野も前に出ず定位置で……」

 

「ここはまずあのバッターを抑えることに注力しろってわけか……」

 

「そういうことなんですけど。あと、二塁ランナーにも注意……もしかすると走ってくる可能性はあるんですけど」

 

「確かにあたいはクイック上手くはねえが……」

 

「それとあの3番は1回戦でピッチアウトされたボールにスクイズを決めてるんですけど。それほどの技術があるから、ここはリスクを負ってもランナーを三塁に進めてくる可能性があるんですけど」

 

「……分かったよ。気をつける」

 

 ベンチから北山監督の指示を伝令という形で鎌部が伝えると、それに発奮されたようにピッチャーの目つきが鋭くなった。

 

(先輩たちが作ってくれたチャンス……打つぞぉー! ……うっ!?)

 

「ストライク!」

 

(ギアがさらに上がったのだ……!? つばさでも振り遅れて……)

 

 インハイに投じられたストレートに翼は初球からバットを振り出したが、そのタイミングは一打席目とは違って遅れ、さらにボールの下を振ってしまっていた。

 

(よし……今日一番のストレートだ!)

 

(ぜってぇ打たせねえ!)

 

(凄い気迫……私も負けない! ……!? 阿佐田先輩、そのサインは……!?)

 

(今の感じだとストレートに合わせきれてないのだ。でも、これならもしかするとなのだ)

 

(……確かに今なら決められるかも。……分かりました!)

 

 阿佐田から出されたサインに翼は少し頭の中を整理してからヘルメットのつばを掴んで了承する。そしてセットポジションに入ったピッチャーに阿佐田がジリジリとリードを広げていくと、ピッチャーも目をやり、しばしの沈黙がグラウンドに流れる。

 やがてその沈黙が破られる瞬間が訪れた。

 

「ランナー走った!」

 

(本当に走ってきた!)

 

(いや、これは……もう一度バントエンドラン!?)

 

 アウトコース低めに投じられたストレートに翼はバントの構えを取ると、とにかく勢いを殺すことに集中してそのままバントをした。するとゴッ、という音と共にふわりと上がったボールが三塁線に放たれた。

 

(打ち上がってるけど……落ちる! これは決められた……。2アウトにしてでもランナーを三塁に進めて、4番勝負か!)

 

「一塁に!」

 

「バントエンドラン成功です! 今、サードがボールを拾って一塁へと——」

 

「……! い、いや……違います!」

 

「えっ?」

 

 実浦アナウンサーが驚きの声を漏らす中、実況席からサードがボールを投げる瞬間の阿佐田の動きを見た大咲はその目を大きく見開いた。

 

(これは……里ヶ浜のトリックプレー!)

 

(もらったのだ!)

 

(なっ……三塁を蹴った!?)

 

 後ろに下がっていたサードが地面へと落ちてコロコロと転がるボールを捕球し、一塁へと投げる瞬間、阿佐田は三塁ベースに対して膨らんで入るとそのままベースを蹴ってホームへと向かっていた。

 

(……しまった! バントエンドランじゃない! これは……スクイズだ!)

 

「バックホーム!」

 

「……! やらせるか!」

 

 サードの送球は止まらず、既に一塁へとボールが投げられていた。するとすかさずファーストが打球に向かって前に出て、収めたボールをホームへと投げ返した。

 

(よし、ストライク送球だ!)

 

(うっ、送球が早いのだ! なんとか回り込むのだ……!)

 

 ホームで構えていたキャッチャーに送球が届くとその手前まで来ていた阿佐田は頭から飛び込み、回り込むようにして滑り込んでホームベースへと手を伸ばした。

 

(ランナーを追うな。ここだ!)

 

 するとキャッチャーが身体を反転させながらホームベースに叩き落とすようにミットを押さえ込み、阿佐田が伸ばした手にミットが触れた。

 

「……アウト!」

 

(うっ、間一髪間に合わなかったのだ……!)

 

(ギリギリだな……けど、そう簡単に点はやらないよ)

 

「先輩、ナイスプレーです! よく間に合いましたね」

 

「ああ……さっきの伝令であのバッターがスクイズしてくるかもしれないって頭に入ってたからな。とっさに身体が動いてくれたよ」

 

「な、なるほど……」

 

 ファーストの好プレーに相良が嬉しそうに寄ってくると、ファーストは一塁ベースへとたどり着いた翼に聞こえないようにミットで口元を押さえながら相良にそのプレーが出来た理由を伝えた。

 

(うー、防がれちゃったか……)

 

(内野が下がってたからその分あおいはリードを広げやすかったし、サードもボールを拾うのに時間がかかったのだ。だからその隙をついてホームを突ける……狙いは悪くなかったはずなのだ。けど、界皇の守備はあおいの想定以上だったのだ……)

 

(もしランナーがワタシだったら……。くぅ……そんなこと言ってもしょうがないけど、こんな時に打撃スランプを嘆くことになるなんてにゃ。……その分、代走で出た時には存分に足でチームに貢献してやるにゃ!)

 

「有原選手はどうやら内野安打の記録のようです。ですが2アウトになってしまいました!」

 

(勝ち越し点を上げられた回の裏の攻撃……このまま簡単に倒れるわけにはいかない!)

 

(得点圏にランナーがいなくなったのは助かったぜ。このまま4番も抑える!)

 

 4番の東雲が右打席へと入ると、ピッチャーは速球を連投した。その速球に東雲も振り遅れてしまっていたが、バットを短く持って食らいついていくと3ボール2ストライクになった。

 

(なんて速球。バットを振り切ることが出来ない……)

 

(また粘られたか。けどここまでストレートで押したんだ。最後はタイミングを外そう)

 

(分かった。スライダーを……アウトコース低めに!)

 

 フルカウントからの8球目。バッテリーはアウトコース低めへのスライダーで勝負に打って出た。

 

(来た! ストレートはカットでとにかく当ててスライダーを叩く! このピッチャーのスライダーは神宮寺さんのように変化が大きいわけじゃない。ストレートとのギャップに惑わされなければ……打てる!)

 

(少し崩せたけど……粘られた!?)

 

 ——キィィィン。東雲は体勢を崩しながらもスライダーに食らいつき、腰を落とした状態で弾き返した。

 

「あっ!」

 

「アウト!」

 

 しかしライナーが飛んだ位置は運悪くセンター真正面。難なくキャッチされてしまい、3アウトになってしまう。

 

「ナイスボール。良いコース来てたよ」

 

「ああ……投げ切れたし、空振りに取れると思ったんだがな」

 

「あのバッターはこの後も警戒が必要だね」

 

 センターライナーに打ち取られた東雲は唇を噛むようにしてベンチへと戻っていく。

 

「東雲さん、当たりは良かったよ!」

 

「ええ……今は我慢の時間ね。粘り負けはしないわ。食らいついていくわよ」

 

「うん!」

 

 塁に出ていた翼と共に東雲はベンチへと戻ると、帽子を力強く被った。二人とも里ヶ浜にとって良くない流れになりつつあることを肌で感じていた。しかし、そんな時こそ気持ちを強く持つ……単純だが、諦めないことが大事だということも分かっていた。

 

「さぁ、行こう!」

 

 翼が腹から声を出すと、東雲だけでなく全員に声が届いた。この試合初めて回の終わりに界皇にリードを許した不安を皆、心に抱きながらも、前を歩く翼と東雲に引っ張られるようにグラウンドへと出ていくのだった——。




今年の投稿はこれにて終わりとなります。
去年から読み続けてくれている方も今年から読み始めてくれた方も、ご愛読頂きありがとうございます。来年もよろしくお願いします。

どうぞ良いお年をお迎えください!


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バッテリー

明けましておめでとうございます!


 4回の表の界皇高校の攻撃が始まった。打順は8番から。右打席へと入ったバッターはバットの先を見つめるようにしてゆっくりと息を吐き出していた。

 

(さっきの打席は結局打たされちまった。あれだけ気合い入れたのに空回りさせられたんだ。チームはリードしてるけど、あたし達下位打線がブレーキになってなければもっと余裕を持った展開に出来てたのに……)

 

 息を吐き出しきったバッターは視線の先をスコアボードへと移す。3回を終え、里ヶ浜には得点2・ヒット3が刻まれているのに対し、自身の属する界皇には得点3・ヒット6が刻まれていた。

 

(……でも、それはあたしたちに油断があったからじゃない。このバッテリーがそれだけの手を打ち、実行してきてるんだ。ここまででそれは良く分かった……それを認めた上で、どうするかだ)

 

 僅かなリードを広げるべく、バッターは視線を倉敷へと落とすと暫しの考慮の末にバットを構えた。

 

(さっきは真ん中低めに入れた後、次の真ん中低めに外したストレートでレフトへのファールフライに打たせて取ったわ。……ここも真ん中低めの際どいところから入りましょう。バッターにとっては先ほど打たされた嫌なボール……焦って手を出せば、この高さなら内野の捕球範囲に飛ぶ可能性が高いわ)

 

(その高さに決まれば簡単にヒットには出来ないし、外れても良いってサインも出た。カーブを意識してるのか早打ちになってるって鈴木は言ってたし、気持ちボール球にするつもりで低めを突いてく……!)

 

 鈴木が手を地面に向けて押し出すようなジェスチャーを送ると、倉敷はそれに頷いてから投球姿勢に入りボールを投じた。すると要求通り真ん中低めに投じられた7割ストレートをバッターは振り出すことなく見送った。

 

「……ボール!」

 

(……外れてくれたか)

 

(しびれるくらい枠ギリギリのところに……ほんの少し低かったけど、この高さならそうは打てないわね)

 

「その調子です!」

 

(今はコースより高さに集中……バックを信じて打たせて取りにいく!)

 

 僅かに低めに外れてボールとなったものの、要求に応えてくれた倉敷に鈴木はその意識を肯定するように声をかけながらボールを投げ返した。声とそのボールを受け止めた倉敷はストライクゾーンの枠の低めのラインを強く意識して振りかぶった。

 

(あたしがこの手のピッチャーに振り回しても、打たされるのがオチ……。ここはなんでもかんでも振りにいくんじゃなく、予め振るコースを絞っておく! ……! また真ん中低めか……)

 

「……ストライク!」

 

「ナイスボールです!」

 

 続けて真ん中低めに投じられた7割ストレートが再びしっかり低めに決まると今度はストライク。バッターは続けて真ん中低めに来たことに内心驚きを覚えながらも、努めて表情には出さずにバットを構え直した。

 

(続けてバットを振らなかったわね……。何が狙いかしら? 二つとも低めの良い高さに決まったから無理してこなかったのかもしれないわね。追い込まれるまではある程度浮いたボールに絞るのは定石……なら、ここはもう一球低めで追いこんでおきたいわ)

 

(さすがに三連続で真ん中低めは避けるのね。今度は……)

 

(インローか……!)

 

 3球目として投じられたボールはインコース低めへの7割ストレート。高さを重視して投じられた分、中へと少し寄っていたボールだったが、このボールにもバッターはバットを振り出すことはなかった。

 

「……ストライク!」

 

(うっ……)

 

(よし、取ってくれた!)

 

 際どい高さだったがストライクの判定が上がり、1ボール2ストライク。あっさりと追い込まれたバッターは一瞬顔を顰めるとそれを誤魔化すようにヘルメットへと手を伸ばし、位置を調整して間を置いた。

 

(問題はここからね……。何か狙いを変えてくるかもしれないわ。……一球全力のストレートを挟みましょう。内に厳しく……外れても振ってくれるかもしれません。カウントが有利なうちに思い切って狙ってみましょう)

 

(インコース真ん中に全力ストレート。低めに目付けしてるところで、7割との球速差も使ってそこで勝負か。入れにいくな……アタシの球威だと内のボールに合わせられたら長打にされてもおかしくないわ。むしろインコースを攻める気持ちで……!)

 

(追い込まれちまった……けど、追い込まれたからって焦って打ちにいけばそれこそ相手の思うツボだ。じたばたしたってしょうがねえ……コースはこのまま絞る! ……! インコース……!?)

 

 1ボール2ストライクとなり、4球目。今度はストライクゾーンの枠の内のラインを強く意識して倉敷は全力投球を投じた。するとバッターは振り出すことが出来ずにボールを見送り、鈴木は少しミットを内に動かし心地良い捕球音をならした。

 

「……ボール!」

 

(……ふうぅ……。危ねえ……)

 

(惜しい! 球速差が効いたのかしら。上手く内への反応は遅らせられたけど、少しだけ逸れたわね。ただ全力投球ならこれはむしろ想定内。外れても次のボールへの布石になるわ)

 

(分かってる。界皇のバッターには下手に入れにいくほうが危ないって。力で捩じ伏せられるならそれも勝負。けど、アタシの球威じゃそれは勝負にならない。ならこの一球一球のコントロールこそがアタシにとっての勝負!)

 

 インコースを厳しく突いたストレートは僅かに内に外れてボール。外れはしたものの際どいコースを攻め切ったボールにバッテリーは手応えを感じ、バッターは対照的に焦燥感を覚えていた。

 

(……落ち着け……。バッターってのは3割打てれば好打者だ。このピッチャーはみんなからの情報を纏めると9分割で投げ分けてくるくらいの意識を持った方が良い。と言ってもど真ん中はまず来ないだろう。本当にど真ん中ならさすがにこの球速だ……反射的に打てる。なら一球につき賭けが当たる確率は8分の1でそれを3回以上は試せる。3回でも当たる確率は3割を超える……そこまで分の悪い賭けじゃないはずだ。そう決めて打席に立った以上、最後まで貫く!)

 

 バッターは内に決まったストレートから離れるように下がっていきバッターボックスから一旦出ると、ヘルメットをバットを乗せるように叩いて焦りで混乱する頭の中を鎮め、再び打席へと入り直してバットを構えた。

 

(アイツの顔……1点リードしてるのに、むしろリードされて後がないようだわ。でも余裕が無いというよりは……そうだ。アタシはピッチャーとして何回か感じてきた。試合終盤、何としても追いついてやるという相手の気迫を……。それほど今のアイツからは絶対に打つという強い気持ちを感じるわ)

 

 打席に入り直したバッターの鬼気迫った顔つきを目にした倉敷は背筋が凍る感覚を覚え、気を引き締めると構えられた鈴木のミットを見つめた。

 

(アタシも気持ちでは負けない! アウトコース低めに7割ストレートを……さっき内を攻めたように、この外も逃げるんじゃなく……攻める!)

 

(勿論この計算は張ったコースに来たボールを必ずヒットに出来ねえと成り立たねえ。だからそこに来たら……打つんだ! 必ず打ってやる……!)

 

 そして倉敷が投球姿勢に入り、4球目が投じられた。

 

(構えたところにドンピシャ……! ナイスボールです!)

 

(……来た! アウトロー……!)

 

(……!?)

 

 アウトコース低めに厳しく投じられた7割ストレートが鈴木の構えたミットへと一直線に向かっていく。しかしミットとボールの邂逅を妨げるように振り出されたバットが間に割って入った。

 

(踏み込んで打ち返された!?)

 

(ライナー! 速い!)

 

 踏み込んだバッターはボールを思い切って引っ張ると打球は三遊間へとライナーで放たれていた。ややショート寄りに放たれた打球に翼は横っ飛びで食らいつき、ミットを伸ばす。

 

(うっ!?)

 

 しかし打球は伸ばしたミットの先を抜けていき、外野の芝でバウンドした。勢いよく転がっていく打球を岩城が収めると、バッターは一塁から少し回ったところで止まり、ベースへと戻っていく。

 

(くっ、良いとこに決まったのに打たれた……!)

 

(ふぅ……。普通コースを一点張りするのは追い込まれるまでだ。狙いと違ったら簡単にアウトを献上しちまうからな。だがどんなボールも対応できるようにって構えると満遍なくコースを意識する分、厳しいコースに決まるとヒットにするのは難しくなる。今のボールなんかいい例だ。アウトローに絞ってたからなんとかヒットに出来たけど、そうじゃなきゃカットだって出来たかどうか……)

 

 自信を持って投げ切ったボールを打たれ悔しそうな表情を浮かべる倉敷をちらっと見たバッターランナーは彼女を背にし、バッティンググローブを外しながら賭けが上手くいったことに安堵の吐息を吐き出していた。

 

(アウトコースのボールをレフト前に……私も8番バッターの型破りなバッティングには苦労させられました。……先発ピッチャーというのは体力を後半に残すためにも下位打線相手には力を抜いておきたいところ。しかし界皇は下位打線であっても息もつかせぬ攻撃を展開してきました。下位から上位へと線として繋がる怒涛の攻撃に……耐えられると良いのですが)

 

 ラジオからの実況を聞いた神宮寺は自身も経験した界皇打線の驚異的な繋がりが脳裏にフラッシュバックされていき、連なるように一抹の不安が浮かび上がっていた。

 

「ここから見ても良いボールいってますよ! その調子でガンガンいきましょう!」

 

「……そうね。分かったわ」

 

 翼に声をかけられた倉敷は彼女を通してボールを受け取ると、帽子を外して額の汗を拭い、打たれた悔しさを切り替えるように帽子を被り直した。

 

(助かるわ翼。……倉敷先輩は球威がある方じゃない。だからコースに決まっても、1試合に何本かはこういうヒットが出てしまう。大事なのはヒットにされた後、どうするか……。先ほどの回、界皇はチームで進塁を意識したバッティングをしてきた。次は9番のピッチャーであることも踏まえると恐らくこの回も……。……やはり)

 

 続く9番打者が右打席に入るとバントの構えを取った。その様子を見上げた鈴木は案の定送りバントで来ると考え、どうするべきか考え込む。

 

(下手にヒッティングに切り替えられると厄介だわ。ここはバントをやらせましょう。ただし……)

 

(チャージをかけるんですね。分かりました!)

 

(転がさせて、二塁でのフォースアウトを狙うというわけね。とはいえ二塁でのアウトと決めつけては危ないわ。正確なフィルダースチョイスのためにも、タイミングには細心の注意を払わないと)

 

 結論を出した鈴木は野手へとブロックサインを送り、そのサインを受けた野崎と東雲は心の中で頷いた。

 

(次に倉敷先輩は……)

 

(低めのストライクゾーンに全力投球ね。コースの指定が大雑把なのは、細かいコントロールよりボール自体の力が重要ってこと。少しでも打球の勢いを強くするためにも……腕を思い切り振り抜く!)

 

 出されたサインの意図を汲み取った倉敷は力強く首を縦に振るとセットポジションに入り、ランナーの方をチラッと見た。小さくはないが刺せるほど大きくもリードを広げていないランナーを確認した倉敷は視線を前に戻すと、そのままクイックモーションに入り、低めに力強いボールを投げ込むことだけを意識してストレートを投じた。バント警戒で少し前に出ていた二人は、まず東雲が先にダッシュし、続いて投球とほぼ同じタイミングで野崎がダッシュをかけている。そしてボールを投じた倉敷は野崎に続こうとしたが、その足は驚きと共に止められた。

 

(速い! これは変化球じゃないな。これを指示通り……ゴロで打ち返す!)

 

(まずい!)

 

(えっ……!)

 

(バスター!?)

 

 バントの構えを解いたバッターにチャージをかけた二人が慌ててブレーキをかけようとする中、真ん中低めやや内寄りに投じられたストレートが低い弾道で打ち返された。

 

「……っ!?」

 

「あ、危ない!」

 

 すると弾き返された打球がちょうどバウンドしようかという地点に反応よく前に出た東雲の足があり、それが目に入った鈴木は声をあげていた。

 

(げっ。横を抜こうと思ったのに正面にいっちまった……!)

 

(捕る! ……うっ!?)

 

 足へと向かう打球に反射的に避けそうになるのを抑え、東雲は必死でミットを下へと伸ばした。しかし通常より大幅に前に出た上に、ブレーキをかけた状態で万全の捕球体勢には至らなかった東雲がこれを捕ることは出来なかった。

 

「翼! カバーに!」

 

「……! 分かった!」

 

 それでもとっさに伸ばしたミットは外側で打球に触れていた。僅かに軌道が変わった打球は東雲の足から逸れていくと、減速して三遊間へと転がっていった。バント時の二塁フォースアウトを想定して二塁ベースに足が向いていた翼は鈴木の指示を受けて反転し、打球を追いかけた。するとミットに触れた分打球の勢いが落ちていたこともあり、深い位置でミットに収めることに成功する。そしてボールを捕った翼は身体を翻しランナーの状況を確認した。

 

(う……ダメだ。間に合わない!)

 

 しかし追いつくのに時間を要したこともあって一塁ランナーは既に二塁に到達していた。バッターランナーも一塁ベース手前まで来ており、翼は無理に一塁に投げることはせず完全に身体を二塁に向けると、送球の隙を窺っていたランナーはそれに気づいてベースへと戻っていく。

 

(しまった……。まさかピッチャーにバスターをさせてくるなんて。界皇といえどもさすがに堅実な手で来ると思ったから、片方だけじゃなく二人にチャージをかけさせたのに……完全に裏目に出てしまった)

 

(確かにアイツはさっきの打席も良い当たりは打ってた。ボールのスピードを苦にはしてなかったからこその強気の策か……やられたわね)

 

「東雲さん。大丈夫!?」

 

「ええ。平気よ。足には当たらなかったわ」

 

 ランナーがベースに戻るのを見届けた翼は一目散に東雲のもとに駆け寄る。空いた三塁ベースに戻っていた東雲は翼の方に足を伸ばして見せ、それを確認した翼は本当に大事に至らなかったことが分かり安心していた。

 

「そこの……ちょっといいか?」

 

「はい?」

 

 すると二塁にたどり着いたランナーが話しかけてきた。翼に意識が向いているところで不意に話しかけられた東雲はやや素っ頓狂な声で返事をする。

 

「悪かったな。あいつも足を狙ったわけじゃねえんだ。許してやってくれねえか」

 

 話しかけてきたランナーの指差す先では打ったバッターが申し訳なさそうに胸の前で手を合わせていた。

 

「……何かと思えば。別に謝らなくていいですよ。今のは不用意なチャージをかけたこちらのミスですから」

 

「……そ。なら良かった」

 

 その様子を一瞥した東雲は一塁に向けて軽く手を挙げて構わないことをアピールすると、話しかけてきたランナーにも謝罪の必要は無いと伝えて背を向けていた。

 

(硬球が至近距離から身体に向かってくるのは、想像以上に怖えもんなんだがな。それでも捕りにいって、しかも謝られたのがむしろ気に食わなかったみてえだ。気が強いサードだな……そういうやつは嫌いじゃねえけどな)

 

「これでノーアウトランナー一塁・二塁となりました。打順は1番の大和田選手へと戻ります! 界皇、これは願ってもない追加点のチャンスです!」

 

 そして9番バッターが一塁ランナーとしての準備を終えたところで、右打席に大和田が入っていった。

 

(……! また……)

 

 すると大和田もバントの構えを取り、その光景に鈴木は目を見張った。

 

(送りバントでアウトカウントを1つ犠牲に二塁・三塁の状況を作るのは定石だけれど……またバスターで来るかもしれないわ。……チャージはかけづらいわね。なら、ここはどちらで来ても打ち上げさせたいわ)

 

(……! インハイの四隅を狙って全力投球……いきなり?)

 

 鈴木からの出されたサインに倉敷は眉をひそめる。そして倉敷は少し考えた末に首を横に振った。

 

(え……)

 

(鈴木、落ち着いて。確かに相手がどんな手で来るかは分からない。けどいきなりそこまで厳しいコースに、しかも全力のストレートだとボールになる可能性も高い。大和田は選球眼が良い……ボールなら恐らく見られるわ。今の状況でボールを先行させるのはまずいわよ)

 

(……確かにまずい要求だったかもしれないわ。厳しく攻めなくてはいけない場面というのもある。けど、厳しく攻めるばかりでは下手をしたらこちらから崩れてしまうわ。……もしかして……それが狙いで揺さぶりをかけている?)

 

 首を振られ鈴木はいささか呆然としていたが、途端にハッとした表情を浮かべると次のサインを送った。そのサインに倉敷は今度は首を縦に振ると、投球姿勢に入りボールを投じた。するとアウトハイの大雑把なコースに全力のストレートが決まり、大和田はこれをバットを引いた状態のまま見送った。

 

「ストライク!」

 

(バットを引いてきた……ということは)

 

(うっ……しまったと)

 

「送らないのかな?」

 

「サインの変更はあるかもしれないがな。大和田の選球眼なら今のはストライクだということはすぐに分かったはずだ。送りなら見逃す必要はない。バスターにしても振ろうとする素振りも無かった……。バントは構えだけで、カウントを有利にするための揺さぶりだったのだろうな」

 

(カウントを悪くすれば後手に回ることになり、里ヶ浜にとってはそれだけ不利になる。この場面、ストライクから入れたのは大きいぞ)

 

(あらら……やられたね。大和田はもう少し小細工が上手ければいいんだけど)

 

(うう……だって待球のサインが出てたんやもん。でもストライクを簡単に見逃しちゃったのはまずかったと〜。挽回してやるけん! サインは……よし! 待球が解除されたと!)

 

(送りバントに変えてくるかしら。バントの構えは解いたみたいだけど……。……1ストライクの場面、送るならここは確実に送っておきたいところよ。失敗の確率が上がるセーフティ気味の送りバントは私ならさせないわ。……なら)

 

(ここでそのサインってことは……鈴木はヒッティングで来ると読んでるのね。アタシもそう思うわ。行くわよ……)

 

 0ボール1ストライクとなり2球目。投球姿勢に入った倉敷は膝下を狙って思い切り腕を振り切った。

 

(もらっ……!?)

 

 振り切られた腕とは対照的に抜かれたボールにストレートのタイミングで踏み込んだ大和田はとっさに踏ん張ったが、ボールがホームベースに到達する前にバットが振られて空を切った。

 

「ストライク!」

 

「ナイスボールです!」

 

(チェンジアップはストレートと同じくらい腕を振り切ってこそ相手もギャップに惑わされる。練習を始めた頃は力が入りにくいから、つい腕の振りが緩くなっちゃうことがあったけど……もう大丈夫。自信を持って投げ込めるわ)

 

(しもた……。前のめりになってしまったと。このピッチャーは速くないけど、前で捌くと振らされちゃうけん。落ち着いてセンター返しを意識しないとやね)

 

 倉敷が鈴木からの掛け声と共にボールを受け取ると3球目。アウトコースに7割ストレートが向かっていく。

 

(……低い!)

 

「ボール!」

 

 このボールを引きつけた大和田は外れていると判断して見送ると、その判断通り低めに外れて1ボール2ストライクとなった。

 

(倉敷先輩、今こそ……!)

 

(……そうね)

 

(しっかり見極めて打ち返すと……!)

 

 そして4球目が投じられた。

 

(……!? インハイ……!)

 

(四隅を狙った全力ストレート……さっきは首を振ったけど、追い込んだ今なら……!)

 

 鈴木の要求はこの打席が始まって最初に送ったサインと同じもの。すなわちインハイの四隅を全力のストレートで狙うものだった。

 

(……際どか! 振らなきゃ……)

 

 見逃すには際どく、大和田はこのボールを振りにいった。すると僅かに差し込まれたポイントでボールが捉えられ、そして弾き返された。打球は倉敷の横を抜けていくと、そのまま二遊間へと転がっていく。

 

「任せるのだ!」

 

 すると身体を外野方向に向けながら阿佐田がセカンド寄りに放たれたゴロに追いすがり、逆シングルでの捕球を試みた。

 

(三塁は……ちょいと厳しいのだ)

 

「つばさ!」

 

「はい!」

 

 辛うじて阿佐田はミットの先で掴み取るようにして打球に追いついた。だがギリギリの捕球に加えて逆シングルのきつい体勢もありすぐには投げられず、バランスを整えるように一歩二歩と挟んでからボールを取り出し、腕が下がった状態のまま手のひらで押し出すようにして二塁へと投げた。

 

「アウト!」

 

「夕姫ちゃん!」

 

 二塁ベース手前でボールを受け取りベースを踏んだ翼はその勢いのままベースに向かってスライディングをする一塁ランナーをジャンプして躱しつつ、一塁へと送球を行った。

 

「セーフ!」

 

(これでも刺せないかぁ……!)

 

 一塁はほんの少し余裕を残してセーフ。ダブルプレーを狙えると思った翼はその足の速さに改めて驚いていた。

 

(くぅ……抜けなかったと。センター返しにはなったけど変化球も打てるように引きつけた分、少し差し込まれてしまったけん)

 

 一塁を全速力で駆け抜けた大和田はダブルプレーに取られなかったものの、目論見通りセンター前ヒットとはならず悔しそうに唇を曲げていた。

 これにより1アウトランナー一塁・三塁となり、右打席に相良が入っていく。

 

「大和田に送らせなかったのは彼女の足ならそう簡単にはダブルプレーに取られないからだ。それに……」

 

 牽制球が送られたが難なく大和田がベースに戻ると倉敷にボールが投げ返される。それを受け取った倉敷はセットポジションに入るとしばらく間を空けてから、クイックモーションへと移った。

 

「走りました!」

 

(やっぱり来たか……!)

 

 アウトハイの大雑把なストライクゾーンに全力でストレートが投じられると相良が振り出したバットは空を切り、ストライクとなった。

 

(……間に合わない!)

 

 捕球した鈴木はスムーズにスローイングの動作へと移ったが、瞬足を飛ばして走る大和田の位置を見て刺せないと判断し、送球を中断した。

 

「クイックやスローイングへの移行は悪くない。が、それでもあのピッチャーの球速とキャッチャーの肩だと、全国でも一二を争う大和田の二盗を刺すのは難しいだろうな……」

 

「それに三塁ランナーもいるし、二塁には投げにくいよね」

 

「ああ、そうだな。……これで1アウトランナー二塁・三塁になった。これは大和田が送りバントを決めた場合と同じ状況だ」

 

「そういえばそうだね」

 

「だから界皇は強攻策(ヒッティング)を仕掛けたんだ。堅実な送りバントより打撃機会を一打席分増やせるからな」

 

「なるほどね……」

 

 大和田の盗塁が決まったことで1アウトランナー二塁・三塁となり、里ヶ浜の内野陣はここで前進守備を取った。

 

(余裕あったね。援護の空振りは必要なかったかな? まあ、ストライクに来てたし関係ないか)

 

(先程相良さんがセーフティを仕掛けたこともあってか、内野の警戒も厳しいわね。ボールが先行したカウントにならないとスクイズは厳しいわ。なら、その警戒を逆手に取りましょう)

 

(ゴロ打ちのサインですか。分かりました! 内野が前に出てる分対応も遅れる。強いゴロで抜くんだ!)

 

(やはりセオリー通り一塁ランナーを走らせて、内野ゴロゲッツーを無くしてきたわね。けど大和田さんが一塁に出た時点でそれは読んでいたわ。刺せなかったけれど、代わりにストライクは取れた……。これを生かしていきましょう)

 

(アウトハイへの速球の入りはさっきの大和田の打席とおんなじだ。同じ手が来るとは限らないけど、膝下にチェンジアップを投げてくるか?)

 

 互いの思惑が交差する中、2球目が投じられた。

 

(……! チェンジアップ……だけど、低い。振らされるな!)

 

「……ボール!」

 

(……よく見たわね)

 

(危ない危ない。ゴロ打ちっていってもあれじゃあまともには打てないね。ボテボテならボテボテで突っ込めるかもしれないけど、内野前に出てるし抜くこと意識して……)

 

 膝下に投じられたチェンジアップは低めに外れてボール。際どい高さだったが相良はこれを冷静に見極めて1ボール1ストライクとなった。

 

(次はどうくる……?)

 

(……なら、これでいきましょう)

 

(それは……アイツの苦手なコースね)

 

 そして3球目が投じられた。

 

(……! 入ってる!)

 

 インコースの高めに投じられた全力のストレートに相良はバットを振り出した。するとバットはボールの上を捉え、そのまま勢いに押されるように後方に転がっていった。

 

「ファール!」

 

(くっ、前に打ち返せなかったか……)

 

(一打席目はこれを決め球にしたけど、カットで逃れられてしまった。なら考え方を変えてカウントを稼ぐ球として使って……)

 

(カウントに余裕があるうちに、アウトコース低めの四隅を7割ストレートで狙うのね……)

 

 肘あたりの高さに投じられたストレートを相良は上手く捌けず、球審からファールのコールが上がった。狙い通りカウントを稼いだ鈴木は球審から受け取ったボールを倉敷に投げ渡すと迷わず次のサインを送る。

 

(さっきの大和田の打席はアウトハイからインローの対角線を突いてから、アウトローからインハイへの対角線を突いた。今度はインハイからのアウトローで勝負ってわけね。……伝わってくるわ。この対角線の配球はアタシのコントロールを最大限生かせるようにしてくれてるって)

 

 そして倉敷もそれに迷わず頷き投球姿勢に入った。

 

(カーブがまだ投げられないに等しいアタシにとって、アウトローへのストレートは実質的な決め球。投げ切ってみせる……!)

 

 足が踏み出され、腕が振られ、放たれたストレートが構えられたキャッチャーミットへと向かっていく。

 

(アウトロー!? くっ、転がせ!)

 

 一瞬反応が遅れた相良は際どく投じられたストレートに足を踏み出すとバットを振り出した。するとボールの芯より上を捉えた打球は今度は前へと弾き返された。

 

「ゴー!」

 

「野崎さん!」

 

「はい!」

 

(抜かせません……!)

 

 三塁コーチャーの指示で三塁ランナーがスタートを切る中、一二塁間へと放たれたゴロに前に出ていた野崎が身体の向きを変えて打球を追い、右手に嵌めたミットを伸ばした。

 

(……ダメだ。抜けない。打ち取られた!)

 

 ゴロの勢いはさほど強くなく野崎がこの打球へと追いつき、間を抜くつもりだった相良は芯を外されたことにほぞを噛んだ。

 

「バックホーム!」

 

(野崎さん。ここよ!)

 

 ゴロ打ちが頭に入っていた三塁コーチャーは強いゴロが野手の正面にいった場合は自重しようと考えていたが、緩いゴロが間にいったためスタートの判断をしていた。その指示に従いホームへと突っ込んでくるサードランナーに対し、鈴木はマスクを外しながらバックホームの指示を出すと体勢を低くしてキャッチャーミットを構えた。

 

(分かりました! 低めに……!)

 

 打球に追いついた野崎はホームに向かって身体を開くと、そのミット目掛けて送球を行った。

 

(ストライク送球! ナイスボールよ……!)

 

 するとスピードのある送球が鈴木が構えていた三塁寄りの低い位置に届いた。そして鈴木は既に全速力を乗せたスライディングでホームに突っ込んで来ているランナーに対し、捕球体勢のまま左腕を伸ばしてタッチに移った。その一瞬後、ランナーの足がキャッチャーミットと触れ、鈴木はスライディングの勢いを抑えるように懸命に力を込めた。

 

(……ぐっ!?)

 

 タイミングが際どく万全の体勢を取る時間が無かったこともあり、鈴木の左腕は弾かれるように押し返されると、体勢に無理が生じた鈴木は後ろに倒れて尻もちをついてしまった。

 

(……際どいタイミングとはいえ、足がホームに届く寸前にタッチされちまった。だが……)

 

 そして滑り込んだランナーは勢いそのままにホームベースに辿り着いたが、実際に触れられた彼女はタッチされたタイミングがホーム到達より僅かに早かったことが分かっていた。すると彼女はスライディングの勢いが収まったところで、鈴木の方に視線を移した。

 

(……何!?)

 

「……アウト!」

 

 すると鈴木のミットが上に掲げられ、それを確認した球審から三塁ランナーのアウトが宣告された。

 

(後ろに倒れながらも……ボールだけはこぼさなかったのか)

 

 必死の形相で受け取ったボールを離さなかった鈴木を見て三塁ランナーは観念したように立ち上がるとプレーが止まったことを確認してから手を伸ばした。

 

「ナイスプレー」

 

「……! あ、ありがとうございます」

 

 その手を掴んだ鈴木を引っ張り上げると三塁ランナーは界皇ベンチへと戻っていった。

 

(今のはコーチャーのミスじゃない。里ヶ浜のプレーに一瞬でも淀みがあればセーフだった。良いトライだった……今のは相手のプレーを褒めるしかないな)

 

「タイム!」

 

(ん……なんだ?)

 

 続く3番バッターが今の一連のプレーを整理してから頭の中を切り替えてネクストサークルから向かおうとした時だった。掛けられたタイムに驚いた表情を浮かべると、界皇ベンチから一人の部員が伝令として走ってきた。

 

(このタイミングでタイム……? 一体何をする気かしら)

 

(何をする気かは知らないけどツーアウトよ。あまり気にしすぎないで、バッターを打ち取ることを考えた方が良いわ)

 

「鈴木! バッター集中でいくわよ!」

 

「……! 分かりました!」

 

 内野間で今の一連のプレーに称賛の声が上がり、また「ツーアウト!」と声が掛け合われる中、界皇がかけた攻撃のタイムを不審に思う鈴木だったが、倉敷の言う通りこちらはバッターを打ち取ることに集中すべきだと考えると自身も全体に向かって声を出してからキャッチャーボックスへと座った。

 やがてタイムが終わると、右打席へとバッターが入っていく。ランナーが入れ替わって2アウトランナー一塁・三塁になり、三塁ランナーとして塁に立つ大和田が目に入った倉敷だったが、深く気にすることはせずにバッターの方へと視線を移した。そして投球姿勢に入ると、ボールを投じた。

 

(アウトロー。これは……速い方か!)

 

 6分割のアウトコース低めに投じられたのは全力のストレート。これを引きつけたバッターは逆らわずに右方向へとボールを打ち返した。しかし、鋭い打球ではあったもののフェアゾーンからは逸れてしまう。

 

「ファール!」

 

(速いストレートと遅いストレート。この二つの見極めは中々厄介だ。とはいえ速いストレートも打てる球速……見極めに徹せれば、打てないことはない。そのための練習も積んできたしな……。だがこのピッチャーにはチェンジアップと、さらにあの落ちる変化球がある。そこにあのコントロールだ。このままじゃそう易々とは絞り込めない)

 

 捉えたが切れていく打球にバッターは眉をひそめると、一度深呼吸を挟んでからバットを構え直した。

 

(このバッターはアウトローのストレートを的確に捉えてきている……多投は危険ね。中途半端に外したボール球も一打席目のように打たれてしまうかもしれないわ。なら……)

 

「ボール!」

 

(高めに外してきた……。何が狙いだ?)

 

 2球目として投じられた7割ストレートは真ん中高めに外れてボール。鈴木はボールを投げ返して座ると怪訝な表情を浮かべるバッターを見上げた。

 

(こちらには落ちるカーブがある、ということを思い出してもらうわ。4番の草刈さんに投じたようにあそこからでもストライクゾーンに落ちてくる。そして一瞬でも迷えば……)

 

(インハイに全力のストレート……。こいつはセンターから右方向に打ち返す打球が多いし、インハイのボールをその方向に打ち返すのは一瞬の遅れで平凡な当たりへと変わる。……分かったわ。やってみる)

 

 そして出されたサインに倉敷も意図を汲み取って頷くとセットポジションに入った。

 

(……信じますよ。北山監督)

 

 するとバッターは先程伝令を通して監督から伝えられたことを思い出していた。

 

「あの落ちる球は投げてこない? どうして……?」

 

「さっきキャプテンに投げた一球以降ずっと投げていないのが気になる、と」

 

「それは確かにそうだな。だが投げるタイミングが無かっただけかもしれねえぜ?」

 

「監督はそれがずっと気になっていたみたい。キャプテンに投げたのは追い込んでから。つまり追い込んだ後の“決め球”だからなのかと見ていた」

 

「それは有り得そうだな。上から下への変化は空振りを取りやすいし、キレも良かったしな」

 

「けどこの回だけで3回もバッターを追い込んだのに一球も投げてこなかった。これって不自然じゃない?」

 

「……言われてみれば。とても温存なんて言ってられる状況でもなかったしな……。……分かった。カーブは頭に入れないでおくと伝えてくれ」

 

 そして思い出したバッターに3球目が投じられた。

 

(……速いストレート!)

 

(なっ……!?)

 

 ——キィィィン。インハイに投じられた全力ストレートが捉えられ、弾き返された。

 

(よし!)

 

 センター方向にグングンと伸びていく打球と手に伝わる芯を捉えた感触にバッターは手応えを感じながら走り出した。打球はそのまま永井の頭上を越えていくと、ワンバウンドで外野フェンスに当たった。

 

(ナイバッチと!)

 

 この瞬間、三塁ランナーの大和田のホームインが認められた。そして尚も一塁ランナーの相良が貪欲に本塁生還を狙って懸命に走っていた。

 

(さらにもう一点取って突き放すぞ!)

 

「バックホーム!」

 

 二塁を蹴った相良がそのまま三塁を蹴ろうとしているのが分かった鈴木は大声でバックホームを指示した。

 

(さっきの回の犠牲フライ……。わたしはあれを刺せなくて、勝ち越し点を簡単にあげちゃった。どれだけ頑張っても、遠くて刺せなかったのかもしれない。けどあんなにあっさり点を取られたのは……なんだか、凄い悔しかった。だから今度こそ……!)

 

 外野フェンスからほとんどまっすぐ跳ね返ってくる打球を収めた永井は身体の向きをホームに変えると、足をホームに向かって真っ直ぐ踏み出し、精一杯の送球を送った。

 

(先輩。指示を……!)

 

 相良が三塁を蹴るより永井がボールを投げたタイミングの方が早かった。しかし永井の捕球位置は深く、コーチャーは送球次第ではタイミングが際どくなると判断した。そして送球の瞬間と近くまで来ていた相良を見てコーチャーは判断を下して指示を送った。

 

「……ストップだ!」

 

「……!」

 

 その指示に従うように相良は三塁ベースを少し回ったところで止まると、送球は内野に来てからワンバウンドし、そしてホームで構えていた鈴木は自身より三塁側に少しだけ逸れながらも予め立っていた位置から届く送球をミットに収めていた。

 

「加奈子ー! ナイスバックホームだ!」

 

「あ、ありがとうございます!」

 

(刺せたわけじゃないけど……突っ込むのを止めさせたのは、良かったよね)

 

 相良が止まったことでさらなる追加点は阻止し、そのことに永井はひとまずの安堵を覚えていた。

 

「コーチャーが止めたか」

 

「ああ。良い送球も来ていたからな。とはいえツーアウトで相良のスタートも迷いが無かった。もし突っ込ませていたらかなり際どいタイミングになっていただろうな」

 

「突っ込ませても悪くなかったってことか」

 

「そうだ……だが、止める判断が悪手というわけではない。あの送球がもう少し逸れていれば良かったが、十分な位置に来ていたからな。無理せずストップをかけ、次のバッターに託すのもコーチャーの仕事だ」

 

(それにこの回は一度走塁死が出ている……。積極的なトライとはいえ、1回の攻撃で二度の走塁死はあまり出したくないものだ。コーチャーとしては回しにくかったのもあるだろうな)

 

「タイムお願いします」

 

「タイム!」

 

 相良の生還は阻止したとはいえ三塁ランナーの大和田のホームインは防げなかったため、界皇に4点目が入った。バックホームを受け取った鈴木は一度間をおこうとタイムを取り、マウンドへと駆け寄ってくる。

 

「……打たれたわね。完璧に」

 

「すいません……。打ち取れると思ったんですが」

 

「アタシも鈴木も納得して投げたボールよ……。今のが打たれたなら仕方ないわ」

 

(アタシより……鈴木の方がショックが大きいみたいね)

 

(カーブを布石にした配球。決して悪くはなかったはず……。なのに迷わず打たれてしまうなんて)

 

「鈴木。アンタはさっき言ったわね。挫けそうな時はアンタを頼ってくれって」

 

「はい」

 

「ならアンタが挫けそうな時はアタシを頼りなさい。……言ったでしょ。辛い時もアンタ達と全部を受け入れてやるって。だからアンタが辛いなら、その気持ちもアタシは分かち合いたいのよ」

 

「倉敷先輩。……ありがとうございます」

 

「礼はいいわ。それよりあのバッターをどうするかを決めるわよ」

 

 二人は次のバッターに目を向ける。悠然と佇む界皇の4番打者、草刈レナを。

 

「……倉敷先輩はどうしたら良いと思いますか?」

 

(こういう時の判断は基本的に知識のある鈴木が主導になって決めてきた。けど、鈴木は……アタシを頼ってくれた)

 

「今がどうしても1点のリードを守らなきゃいけない場面なら歩かせて次のバッターで勝負よ。けど、実際は追加点を入れられてアタシたちは追わなきゃいけない立場。界皇に傾いてきている流れを引き戻すためにも、4番と勝負して抑えるべきだと思うわ」

 

「なるほど……。……分かりました! 勝負でいきましょう」

 

 自分を頼る鈴木に倉敷も自分の考えを素直に伝えると鈴木もその考えに賛成し、二人は頷き合った。

 

「さぁ、タイムが解かれました! 追加点が入り、尚も2アウトランナー二塁・三塁! キャッチャーは……そのまま座りました! どうやら勝負のようです!」

 

(際どいところをついて、カウントが悪くなったら歩かせることも考えられるわ。……簡単に手を出して相手を助けないようにしないとね)

 

「……ボール!」

 

 右打席へと入ったレナに投じられた初球は膝下への7割ストレート。厳しく投じられたものの低めにボール1つ分外れ、見送られたことでボールとなった。

 

(やはり……。……!)

 

 2球目として投じられたのはチェンジアップ。これがアウトコース低めに決まると、タイミングを少し崩されたレナは無理に振り出さずにこれを見送った。

 

「……ストライク!」

 

(歩かせることを頭に入れて際どいコースを突く時はボール気味に投げ込むもの。けどストライクに入れてきた……。……このピッチャーの最たる特徴はコントロール。それを生かして……相手バッテリーは勝負に来ている!)

 

 見送られたチェンジアップが低めぎりぎりに決まり、ストライクとなった。このボールを以ってレナは相手が逃げるつもりではなく、攻めてきていることを感じ取った。

 

(……! 地面をならした。打席に入ってからまだバットを振っていないのに? ……どうやら、打ちにくるみたいね。この試合、もうカーブは投げられない。そしてそれを布石にしたボールも打たれた。その理由はまだ掴めてないわ……。けど、このバッターは唯一カーブを経験している! その残像だけは決して消えていないはず!)

 

 打席に入った時にならした地面を再びならしたレナに気づいた鈴木は考えた末にサインを送り、ミットを構えた。

 

(ボール球……このバッターはあまり外し球に手を出してこない。けど、それは鈴木も十分承知のはず。なら……)

 

 倉敷がそれに頷くと3球目が投じられた。コースは……真ん中の高め。

 

(高いわ。……いや、まさか……)

 

 すると高めに外れた7割ストレートにレナはスイングの始動に入る。しかしスイングは途中で止められ、見送られた。

 

「ボール!」

 

「スイング!」

 

 ボールの判定を上げた球審に鈴木はレナがバットを振ったと主張した。それを受けた球審から一塁審判へと確認が行われる。

 

「……スイング!」

 

(よし! 追い込んだ!)

 

(……やられたわ。落ちる変化球は投げてこないと頭では思っていたのに、打ち気になっていたのもあって身体が反応してしまった……)

 

(……そうか。さっきはあの反応速度でカーブをファールにされたけど、それが仇になることもあるのね)

 

 スイングが認められたことで判定はストライクとなり、カウント1ボール2ストライク。中途半端に振り出してしまったことをレナは反省し、バットを構え直した。

 

(さらにボール球。内に外すのね。……さっきの回、ボール球だけで三振が取れたことがあった。……アタシはボール球は安全な逃げ球として考えてたわ。けど、全然違った。ボール球でも打たれることはあるし、こうして攻めるために使うことも出来る)

 

 4球目が投じられると、インコース高め肘あたりの高さに7割ストレートが向かっていく。

 

(……外れてる。振らされてはダメ……!)

 

「……ボール!」

 

 内にボール1つ分外れたストレートにレナのバットが止まると、球審からボールの判定が上がった。

 

(やはり簡単にはボール球に手を出してはくれないわね。けど、これは見せ球……。打つ手は全て打ちました。これで……勝負にいきましょう!)

 

(三度目の正直ね。分かったわ……投げてみせる!)

 

(落ちる変化球に惑わされてはダメ。けどこのピッチャーにはチェンジアップもある。遅いストレートだからと前で捌くのも危険……引きつけてボールを見極めて打ち返すのよ。こういった時こそ、基本に忠実に……!)

 

 カウント2ボール2ストライクとなり、グラウンドには勝負の時を予感させるような緊張感が走っていた。

 

(……アタシと鈴木は一学年違うこともあって、まだどこか遠慮があったのかもしれない。特にアタシの方が、頑張ってるこいつらの足を引っ張っちゃいけないと思い過ぎてた。けどこうしてアタシが鈴木を頼り、鈴木もアタシを頼ってくれる)

 

 投げ急がず、次のボールに集中するように倉敷は間を空けた。やがてその静寂を打ち破るように足が踏み込まれた。

 

(……それが……バッテリー!)

 

 リリースの瞬間、指先に力が込められ、ボールが放たれた。

 

(……! 速い!)

 

 ボールのスピードを感じ取ったレナがそれが全力で投じられたストレートであることに気づくのに時間はかからなかった。そして投じられたコースに反応して足を踏み込むと、懸命にバットを振り出した。ボールは鈴木の要求に応えるようにアウトコース低め、四隅を突くように向かっていった。そして……そのボールがバットの先で捉えられ、弾き返された。響き渡る金属音にワッ、と観客の歓声が上がる。打ち上がった打球はライトへと伸びていく。

 

(ナイスボール……。倉敷さん)

 

 やがて上に伸びていった打球は力を失うように失速すると、ほとんど定位置で構えていた九十九がこれを捕球しにいった。

 

「……アウト!」

 

 そして九十九のミットに打球が収まると、打球が放たれた時以上の大歓声がグラウンドを包み込んだ。

 

(……この打席は完敗ね。こちらだけでなく、あちらもあくまで配球のセオリー通りに。見せ球や緩急を用いて最後のアウトローを生かしてきた。ストレートもそのリードに応えるような……力強いボールだったわ)

 

 一塁を回ったレナは自身のアウトが宣言されるとヘルメットを外して空を見上げた。そして視線を下ろすと喜びを分かち合うバッテリーに微笑を漏らし、ベンチへと戻っていくのだった。




永井が頭で考えずにホームへ真っ直ぐと踏み出してバックホームをしたのは第一に練習の成果ではあるのですが、根っこの部分としては1話で倉敷にされたキャッチボールのアドバイスが生きているという理由もあります。


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ターニングポイント

「ストライク!」

 

 4回の裏、里ヶ浜高校の攻撃は5番の野崎から。2ボール1ストライクからアウトコースに投じられたストレートが見送られると、高さは真ん中に近かったものの外いっぱいに決まり球審からストライクの判定が上がっていた。

 

(ボールが先行しちゃったから入れにいくのは危険かと思ったけど、これも見たか。手が出ないからフォアボールを狙ってるのか?)

 

(速い……。しかも先ほどからほとんど狙ったコースに決まっています。速球を狙ったコースにコントロールすることがどれだけ大変なのか……私はそれをよく分かっているつもりです)

 

 野崎はキャッチャーの体勢が崩れることなくボールが収められたことを確認すると前へと向き直った。

 

(凄い……素直にそう思います。ですがあの時感じたように……怖いとは感じませんでした。球速が高坂さん並だと聞いていましたが、そこまでは同じでは無かった。そこに……少しだけですが、安心しました)

 

 その視線の先には呼吸が乱れ始めているピッチャーの姿があった。

 

(帝陽から頂いたデータではこの方は立ち上がりが悪く、そして調子が上がってきてからも慎重にコースを突いてくる傾向がありました。そのためスタミナの消耗が激しい……だからチームで意図して球数を使わせれば、尻上がりに上がってきた調子も必ず下がってくる時が来るはずです)

 

 そしてバットが構え直される中、キャッチャーから送られたサインにピッチャーは首を振っていた。

 

(この打席タイミングを計りながら、球数を出来るだけ使わせられるようにボールを見てきました………。ですがまだピッチャーの方は好調を維持しているようです。私は九十九先輩や東雲さんみたいにカットの技術はありません……。それなら、打って繋げたい。もし私が投げていれば、ここまで振らないバッターだったらゾーンで勝負したい。それも……)

 

(さっき打ち取った——)

 

(先程打ち取られてしまった——)

 

((インローで!))

 

 そして次に出されたサインに頷いたピッチャーはボールを投じ、野崎は先程完全に詰まらされた膝下へのストレートに張ってバットを振り出していた。すると次の瞬間、一打席目より内に厳しく投じられたストレートがやや鈍い金属音と共に弾き返された。

 

(何っ……!?)

 

 自身の頭上を越えていく打球にピッチャーはハッとした表情で振り返り、内野を越えていく打球を目で追っていった。

 

(上げてしまいました……! 落ちてください……!)

 

 想定通りのコースに来たストレートを打ち返したものの、それでも速く厳しいボールに詰まり気味のフライを放ってしまった野崎は打球の行方に願いを託して懸命に一塁へと走っていく。

 やがて打球はふらふらと落ちていくと駿足を飛ばして追いかけていた大和田も追いつかないと判断して足を止め、センターがこの打球を捕りにいった。

 

(……くっ、ノーバンは無理か!)

 

 ギリギリまで打球に追いつこうとしていたセンターだったが無理なダイビングキャッチはせずに減速すると、ワンバウンドした打球を確実に収めた。

 

「お、落ちた……?」

 

「野崎さん。落ちましたよ!」

 

「本当ですか! 良かったです……」

 

「あんなに速いストレートをよく打ち返しましたね……!」

 

「ええ……。自分でもそう思います」

 

(高坂さん……大会で勝ち進むたび、あなたの凄さというのが改めて身に染みて分かってきます。ですが、そんなあなたを超えようと私は決意しました。だから……かもしれません。自分より凄いピッチャー相手でも臆せず挑めるようになれたのは)

 

 ヒットになったことを聞いて野崎は安堵するように胸に手のひらを当てると、心の中に芽生えた強い芯を掴むように拳を握りしめて顔を上げた。

 

(九十九でも転がすので精一杯のストレート。だんちょーにバントは難しいのだ。ここはヒッティングでいくのだ!)

 

(よし! 分かったぞあおい!)

 

 ノーアウトランナー一塁となり、ベンチからのサインを受け取った岩城は意気揚々と左打席に入っていった。

 

「永井さん。ちょっと待って」

 

「へ……? ど、どうしたの?」

 

「一打席目のスイングは良かったわ。あれだけ速いボールだから当てにいきたくなるかもしれないけど、今の貴女に合わせてヒットにする技術はない……。この試合、最後までそのスイングを貫いてちょうだい」

 

「は、はい! 分かりました! 精一杯振ってくるね……!」

 

 永井を呼び止めた東雲は彼女にアドバイスを送ると、そのアドバイスを受け止めた永井は顔に浮かんでいた迷いが消え、吹っ切れた表情でネクストサークルへと向かっていった。

 1ボール1ストライクからの3球目、低めに外れたスライダーがアウトコースに投じられる。

 

「……! うおおおお!」

 

 すると岩城は投じられた高さを判断した瞬間、必死に踏ん張ってバットを止めにいった。

 

「……ボール!」

 

(さっきはスライダーを打たされてセカンドゴロでチャンスを潰してしまった! また同じように打たされたら間違いなくダブルプレーにされてしまう! だから低めは捨てる!)

 

(これに手を出してくれたら楽なんだけど、簡単に同じ手には引っかかってくれないか)

 

 インコース低めに外れたストレート、アウトコース低めに入ったストレート、アウトコース低めに外れたスライダーと3球続いて見送った岩城。すると4球目として投じられたボールについにバットが振り出された。インコース高めに投じられたストレートに岩城は半ば大根切りの要領でバットを振り切った。

 

「ストライク!」

 

「たっはー……」

 

(なんてデタラメなスイングだ……。こんなに伸びのあるストレートのさらに上を振るなんて。この調子じゃストレートには合わないだろう)

 

 2ボール2ストライクとなり、ボールを投げ返したキャッチャーは振り出したバットの軌道がかけ離れていたことから再びインハイへのストレートを要求した。

 

(ふー……今のは高すぎたか。夕姫もバットが下に入っていた。速いストレートは伸びが凄い! 普通に打っても伸びについていけん! だがこうやって上から段々と振る位置を下げていけば……いつかは当たるはずだ!)

 

 そして投じられたストレートに岩城は再びバットを振り出す。

 

「……!」

 

 キャッチャーは目を見張った。その理由は要求通りインハイに投じられたストレートに振り遅れると感じた岩城のバットが左腕の押し込みでその差を埋めてボールの上を掠っていたからだった。僅かに軌道が変わったボールをキャッチャーはとっさの反応で捕りにいくが、ほとんど減速しておらず、ストレートが予告なく急に落ちたような打球はキャッチャーミットの下を掠り、そのままバウンドして後方へと勢いよく転がっていった。

 

「ファール!」

 

「ち……悪い! 捕れなかった!」

 

「しゃあねえ。気にすんな!」

 

 捕球出来ていれば三振だったところを捕れず申し訳なさそうにしながら新しいボールを投げ渡すキャッチャーだったが、ピッチャーは気にするそぶりもなくボールを受け取ると切り替えるように伝えてから次のサインを待ち望むように視線を送った。

 

(今ので決められなくても次で決めればいい! あたいのストレートはスピードに合わせるのも簡単じゃねえが、当たったとしても簡単に打ち返せる球じゃねえ。千秋の決め球がフォークなら、あたいの決め球はストレートだ! 追い込んでから投げれば相手を必ず仕留める……そういうレベルでこのボールを磨いてきた!)

 

(……分かったよ。最初から迷うことは無かったんだ。それがあなたの一番の持ち味なんだから)

 

 ストレートに合わせてきている岩城に対し際どいコースへのスライダーが頭によぎっていたキャッチャーだったがピッチャーからの視線を受け取ると、固さが取れた笑みをこぼしてサインを送っていた。そしてそのサインに満足したように頷いたピッチャーは力の限り腕を振り切ってボールを投じた。

 

(外! 届くぞ!)

 

「どりゃああああ!」

 

 アウトハイに投じられたストレートに対して岩城はグリップエンド一杯に持ったバットを身体全体に巻き付かせるようなフルスイングで振り切った。

 

「打ったー! これは……大きいか!?」

 

(……いや……)

 

 高く打ち上がった打球に一塁ランナーの野崎は少し飛び出して様子を窺ったものの、やがてその足は一塁ベースへと向けられた。

 

「くうう……」

 

(やられた! ボールの力にバットが押し込まれてしまったぞ……!)

 

 バットは振り切れたものの岩城の手に伝わった感触は良くなかった。その手応えが示すようにレフト線に大きく打ち上がった打球の軌道が段々とファールゾーンへと逸れていく。

 

(結構打球が深いですね。タッチアップいけるかもしれません)

 

「初瀬さん。スタートの合図お願いします!」

 

「は、はい! 分かりました!」

 

 深い位置へのファールフライに一塁ベースに戻った野崎はベースの端を踏み、タッチアップを試みようとしていた。やがて高く上がっていたフライが落ちてくるとフェンスを背にするようにして構えていたレナが前に小さくジャンプするようにしてミットに収めた。

 

「ゴー! ……!」

 

 万全のスタートを切ろうと集中する野崎の代わりに初瀬はレナの動きに注視し、捕球のタイミングを見定めてスタートの合図を送った。するとそのままレナの動きを追っていた初瀬は着地から乗せた勢いのまま送球体勢に移る彼女の姿を見て、ある情報を思い出していた。

 

(『レフトの草刈さんは守備範囲も広くて肩も強いから進塁の判断は慎重に』……!)

 

「ば、バック!」

 

「えっ……!」

 

 帝陽から提供されたデータの中から守備に関する情報を受け取り、それを必死に覚えた初瀬は足を踏み込んだレナを見て瞬間的にその情報を思い出すと、次の瞬間にはとっさに野崎へと帰塁の指示を送っていた。タッチアップを成功させるべく二塁への走塁に集中していた野崎はその指示が予想外だったようで指示からワンテンポ遅れたタイミングで慌ててブレーキをかける。そして飛び出していた野崎は帰塁しようと一塁ベースに足を踏み出す。と、同時に二塁で構えていた相良に矢のような送球が届いていた。胸のあたりの高さでボールを受け取った相良はすぐさま淀みなく一塁へと送球を行う。

 

「野崎さん、頭から!」

 

 素早い連携を目にした初瀬の指示で野崎は足ではなく頭から滑り込み、ベースへと手を伸ばした。

 

「セーフ!」

 

(惜しいな。あと少しでも戻るのが遅ければ刺せたんだが)

 

「ほっ……。初瀬さん。助かりました」

 

「……い、いえ。間に合って良かったです」

 

 ベースに手が触れてからすぐに腕にタッチが行われ、辛うじて戻られたことに野崎は安堵し、礼を言いながら立ち上がった。

 

「……?」

 

 呆気に取られた様子の初瀬を不思議そうに思った野崎は周りを見渡すと、彼女だけでなく里ヶ浜のベンチやスタンドも同じように呆気に取られて静まり返っているのに気がついた。

 

「……なんて奴だ。確かにレフトフライで一塁からタッチアップは簡単に狙えない。しかし中断して一塁へ戻ったランナーに対して間一髪のタッチプレーに持ち込むなどと……」

 

(それほど……完璧な二塁への送球だった。表の攻撃で自身が抑えられ、先頭バッターが出塁し里ヶ浜の反撃の狼煙が上がった。しかしそれを消し去るように……たった一度のプレーで空気を変えてしまった)

 

 やがて静寂を保っていたスタンドがざわつき始める。先ほどのレナの送球は見ていた者にとって呼吸も忘れるほどの驚きを与えていた。

 1アウトランナー一塁となり、右打席には永井が入っていく。東雲のアドバイス通り下手に当てにはいかず、バットを振り切る永井。しかし豪速球に掠ることも出来ず、1ボール1ストライクから低めに投じられたストレートにも振り遅れる形で空振ってしまう。

 

(スライダーも手だが、ストレートに振り遅れてるバッターに下手に遅い球を投げたらタイミングが合っちまう。ここは迷わずストレートで捻じ伏せろ!)

 

 インハイで構えるキャッチャーにニヤリと笑ったピッチャーはそのミットを目掛けてストレートを投じた。

 

(当たっ……てぇ!)

 

 内に投じられた豪速球。ただひたすらにバットを振り切ることにのみ集中していた永井はのけぞることなく、バットを振り切った。

 

(当てたか! だが……)

 

「アウト!」

 

「ああ……」

 

 打球は高く高く打ち上がり、強烈なバックスピンがかけられたフライにキャッチャーが落下地点を予測して立ち位置を調整すると、ボールが収められ永井はキャッチャーフライでアウトになった。当たりはしたものの、完全に打ち取られてしまったことに永井は落胆した様子でベンチに帰っていく。

 

「落ち込むことはないわ。あの速球は私や有原さんでもそうは打てない。それでも貴女はやれることをやり切ったのだから」

 

「東雲さん……。……うん!」

 

 繋げなかったことへの悔しさは残るものの、東雲の言う通りだと感じた永井は顔を上げ、次もこのバッティングを貫こうと決意した。

 

「ストライク! バッターアウト!」

 

「くっ……」

 

 続く8番の鈴木は2ボール2ストライクからインコース真ん中へのストライクゾーンへと投じられたストレートに短く持ったバットで懸命に食らいついたが、それでも振り遅れて空振り三振になってしまった。

 

「スリーアウトチェンジ! 里ヶ浜、先頭バッターを出しましたが一塁から進めることが出来ませんでした!」

 

 これにより4回の裏が終了し、攻守交代。5回の表の界皇高校の攻撃は5番から。右打席へと入った彼女は外野の位置を確認するとバッターボックスの一番前に立った。そして膝下に僅かに外れたストレートが投じられると、彼女は初球から打って出た。打球は左中間へのライナー気味のフライとなり、岩城は後ろを向いて走り出し懸命にミットを伸ばした。しかし、僅かに届かず。

 

「くそぉ……!」

 

(う……ついに左中間を抜かれた。低めに外したのに……)

 

 ミットを伸ばしたがボールを収められず、岩城は体勢を立て直して打球を追った。そして追いついた岩城の返球が内野に届く頃にはスライディングをすることなく、二塁へとバッターランナーが到達していた。長打警戒で下がっていた外野を越されてしまったことに、倉敷は手のひらを見つめて唇を結んでいた。

 

「柵は越えなかったけど、長打シフトにかからなかったね」

 

「初回と一つ違うことがあるとすれば……ピッチャーの球威だ。この試合、界皇は三者凡退で倒れた回は一度としてない。そんな中で彼女は一杯一杯で投げている……」

 

 左打席に入った6番を追い込んだバッテリーは低めギリギリのチェンジアップで勝負に打って出た。しかしバッターは少し体勢を崩したものの、踏ん張ってすくいあげるようにこれを打ち返した。

 

(チェンジアップも……!?)

 

(カットして分かった……ストレート自体の力が落ちてきてる。チェンジアップは緩急差を使う球種だ。だが今のストレートとの緩急なら十分に対応できる!)

 

 打ち上がった打球に二塁ランナーはハーフリードでその行方を見守る。すると前へと走る九十九はミットを下に向けてバウンドの跳ね際を捕球した。その確信を得た瞬間に二塁ランナーはスタートを切ると、三塁で刺すのは不可能だと判断した九十九は中継の阿佐田へとボールを投げ返した。

 

「ノーアウトランナー一塁・三塁となりました! 界皇、再びチャンスを迎えます!」

 

「タイム!」

 

 ピンチを迎えた里ヶ浜は2回目の守備のタイムを取り、内野陣がマウンドに集まっていく。

 

「……分かってるわ。アタシのボールの力が落ちてきていることくらい」

 

「倉敷先輩……」

 

「けど……アタシの心は折れてないわ。前までのアタシだったらここで交代してたと思うけど、夏大会が終わってからランニングを増やした甲斐はあったみたい。ボールのコントロールだってまだ出来る」

 

「ええ。要求通りに来ています。ヒットが続きましたがどちらも紙一重……。打ち取れる算段は十分立ちます」

 

「うん! 二人がそういうのなら、任せるよ!」

 

「そうね。野崎さんに交代も考えていたけれど、そういうことなら反対はないわ。ただ確認として、この回で大きく崩れたら交代。そうでなくても次の回からは野崎さんに上がってもらいます」

 

「分かったわ。そう言ってもらえるとこの回で全力を出し尽くせる。……後ろにアンタがいてくれるんだから」

 

「倉敷先輩……はい! 後のことは任せて、先輩の精一杯の投球を見せてください!」

 

「後ろにはあおい達がいるのだ! がんがん打たせて取るのだ!」

 

「ありがと。……気合い入れていくわよ!」

 

 タイムが解かれ、倉敷は体力は苦しいものの、それを苦にも感じていないような顔つきでボールを投げ込んだ。そして1球目の際どく突いたボールが外れると、2球目が投じられる瞬間に一塁ランナーが走った。

 

(盗塁……いや、違うのだ!)

 

 二塁へのベースカバーに意識が向いた阿佐田だったがバッターがヒッティングを刊行しようとしているのをいち早く感知すると二塁ベースとは逆側へと走り出した。すると打球は一、二塁間にゴロで放たれ、阿佐田は横っ飛びで飛びつき、ミットを伸ばした。

 

(あのセカンドまた……!)

 

 中間守備を取っていた阿佐田は深い位置でミットの先で掴み取るように捕っていた。しかしゴロが放たれた瞬間ホームに走り出した三塁ランナーを刺すには遠く、またエンドランで走り出した一塁ランナーも刺すことは出来なかった。やむなく一塁へと送球すると、一打席目と同じようにセカンドゴロでバッターランナーはアウトになった。

 

「5点目ー! 界皇、さらに追加点を入れました!」

 

(くっ……エンドランで来たか。よく止めてくれたわ。5点目か……結局、点を入れずに抑えられた回は無かったわね。……でも)

 

 スコアボードへと振り返った倉敷は0のない界皇の得点ボードを見て自らの力不足を思い知らされたような気がしていた。しかし、鈴木の方へと振り返った倉敷の集中はまだ途切れてはいなかった。

 

「ストライク! バッターアウト!」

 

(くそ……今度は賭けたコースに来なかった!)

 

 1アウトランナー二塁となり8番バッターが右打席へと入る。残る力を振り絞り倉敷がストレートを投じると、アウトローに決まったストレートをバッターは見送り、見逃し三振となって無念そうにベンチへと戻っていった。

 

「はあっ!」

 

(スピードが落ちてきてる……。もらった!)

 

 そして9番のピッチャーが右打席に入ると1ボール1ストライクから投じられた膝下のストレートが芯で捉えられ、弾き返された。

 

「アウト!」

 

(……! 今度は捕られたか……)

 

「東雲、ナイスキャッチ!」

 

「倉敷先輩こそ……ナイスコントロールでした」

 

 消耗したスタミナの中で膝下の厳しいコースへとコントロールされたストレートを弾き返した打球はサード真正面に飛んでいた。スピードのある打球だったが、これを難なく東雲は捕ってみせる。スリーアウトチェンジだ。

 

「ねえ、東雲……次の回代わるのはいい。けど、この打席……アタシに立たせてくれないかしら」

 

(……秋乃さんに代打を頼もうと思っていたけど、倉敷先輩の打力は本来クリーンナップレベル。本人がいけるというのであれば)

 

「お願いします」

 

「……! 任せて」

 

 5回の裏、里ヶ浜の攻撃は9番から。早くも追い込まれた倉敷だったが、高めに外れたストレートを見送り1ボール2ストライク。

 

(……アタシだけじゃない。コイツも……ボールの力が落ちてきている。絶対に……打ってみせる!)

 

 4球目。アウトローに投じられたストレートに倉敷はバットを振り出した。するとボールが捉えられ、打球が一、二塁間へとライナーで飛んだ。そしてファーストが飛びつくと、そのミットの先を越えてライト前ヒットとなった。

 

(よし……!)

 

「……どうやら里ヶ浜は狙い通り、あのピッチャーのもう一つの弱点を突けたようだな」

 

(だが里ヶ浜のピッチャーもここで交代のようだ……。そうなると、ここから試合を左右するのは“控え選手”の動きだ。この試合がどう転ぶかは彼女達にかかってくるだろうな)

 

 乾は体力の落ちてきたマウンド上のピッチャーの様子や一塁へと到達した倉敷に代走が送られるのを見下ろしていた。その鋭い眼差しはまるでこの試合の大きな変わり目を捉えているようだった。



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意地はストレートに

(うろちょろ……すんな!)

 

(牽制!)

 

「バック!」

 

 5回の裏、ノーアウトランナー一塁。マウンド上で息を荒げる界皇の先発ピッチャーはセットポジションに入ったまま間を置くと、一度一塁へと目をやり、ゆっくりとキャッチャーの方に視線を戻した。すると虚を突くように素早く振り向き、一塁へ牽制球を投じた。

 

「セーフ!」

 

(よし……。前は先の塁ばかりに目が向いてたけど、今は多少ぎこちないとはいえピッチャーの動きに注意を向けれてるにゃ。初瀬の指示にも反応出来てるし、それが出来ていれば簡単に刺されたりはしないにゃ。紅白戦で刺されちゃったのを随分気にしてたみたいだったからにゃ……秋乃は)

 

 ライト前ヒットで出塁した倉敷の代走として出た秋乃。振り向くピッチャーと初瀬の指示に反応して一塁ベースに頭から滑り込むとファーストから腕にタッチされたが、その時点で彼女はしっかりとベースに戻れていた。

 

(えーと、この後は……そうだ!)

 

 一塁ベースに両手を突くようにしながら足でベースを踏み、立ち上がった秋乃は初瀬の指が差す方を見る。指はピッチャーのミットを差しており、それを見た秋乃はボールの現在地を頭に入れていた。

 

(そうだにゃ……。牽制されたあとボールがどこにあるのかを確認するのも大事だにゃ。塁に戻った時に一旦ボールを見失うからにゃ……迂闊に塁から離れるのは危険なんだにゃ。それに秋乃だけじゃなく、初瀬もコーチャーとしての仕事をしっかりこなせてるんだにゃ。紅白戦のあとに河北や宇喜多に聞いたことをメモに取って、念入りに予行練習してたからにゃ〜。真面目にこつこつとやってきた成果なんだにゃ)

 

 何気ないワンプレーではあるが、そこに至るまでの彼女らの努力を分かっていた中野はベンチから二人を見て何度もうんうんと頷いていた。

 

(いつもならワタシが代走に出てるところにゃ。けど東雲は秋乃を代走に送った。その狙いは明確にゃ……。次の回にマウンドに上がる野崎の代わりにファーストに……つまりそのまま守備につかせる気なんだにゃ。けど守備だけじゃなく、代走として出た以上はワタシの分も足を生かして頑張って欲しいにゃ……!)

 

 そしてボールを持つピッチャーを見ながらベースから離れてリードを広げる秋乃に中野は期待の眼差しを送るのだった。

 

「ストライク!」

 

 バックから「三点差あるとよー!」「バッター集中でいきましょう!」と声が上がり、それを聞いたピッチャーは無理に秋乃に固執せず初球を投じた。すると真ん中低めに投じられたストレートに対して阿佐田が振り切ったバットは空を切り、ストライクのコールが為されていた。

 

(間違いないのだ……。このピッチャーのストレートは落ちてきてるのだ。ただ当てにいってもあおいのパワーだと一打席目みたいに押し込まれちゃう……空振りを恐れず振り抜くしかないのだ!)

 

(こいつにはさっき奇策でやられた。警戒したいところではあるが、下手に球数を費やすのもきつい。みんなもさっきの打席は頭に入ってる……奇策なら守備に任せる。ヒッティングなら……パワーの無いバッターだ。変化球に合わされるくらいだったらストレートで押すぞ!)

 

(また低めだけのサインか。あたいの体力を考えてあれこれと策を巡らすより、コースを意識せず低めにストレートを投げることに集中しろって言ってるのか。……なら、そうさせてもらうぜ。後ろには頼り甲斐がありすぎるほどの奴らがいるしな。打たれることは恐れねえ!)

 

 空振って崩れた体勢を立て直す阿佐田の目にピッチャーの姿が映った。肩で息をし始め、目に見えて体力が落ちてきているのにも関わらず、その目に宿る闘志は燃え上がっているのが阿佐田にも目を通して感じ取れた。中途半端な気持ちでは打ち返せない、そう思った阿佐田は意を決した様子でバットを構える。

 そしてゆっくりと間がとられると今度は牽制が挟まれることなく、ボールが投じられた。

 

(ストレート! とにかく振り切るのだ……!)

 

 速いスピードに反応した阿佐田は本能的にストレートと読み、足を踏み込んでバットを振り出した。

 すると真ん中低め、先ほどより外に寄ったストレートの芯から左上に逸れた箇所をバットが捉え、阿佐田は懸命に振り切った。しかしその手応えは薄く、顔には焦りが浮かび上がる。スピードのあるボールにズレた目測は芯を外し、振り切ったバットの力が十分に伝わりきらず、打球はボテボテのゴロとなって転がっていく。

 

「セカン!」

 

「はい!」

 

(まずいのだ……!)

 

 打った阿佐田はダブルプレーの可能性を頭によぎらせ、それを避けるべく一塁へと必死に走り出した。

 

(あおいはアウトにされてしまうか……。だが、あれでは二塁に投げられないだろう。進塁打にはなりそうだ)

 

 ネクストサークルから打球の行方を見守る九十九は勢いの弱いゴロに加えて二塁を背にした体勢での捕球になることを考慮し、界皇が一塁でのアウトを確実に取りに来ると予想した。

 

(大和田……いくよ!)

 

(……来る!)

 

(なっ……! まさか二塁に投げるのか!?)

 

 しかしその予想は外れ、打球に判断よく突っ込んだ相良は捕球から素早く身体を二塁方向に反転させながら送球を行った。

 

(馬鹿な。あの体勢からの送球ではショートの位置を確認する暇は無かったはず。それなのにショートが走り込む位置にピンポイントで送球が向かっている……!?)

 

 二塁ベース上から少しショート側に逸れたところへと向かう送球に、大和田は最初からそこに来ることが分かっていたように走り込んでおり、その光景に九十九は珍しく目を皿のようにして驚いていた。

 

(色んな厳しい体勢からゲッツーを狙う練習は数えきれないほどやってきたけん! 後はそれを実践で……出し切るだけと!)

 

「秋乃さん、二塁いきました! スライ!」

 

(……!)

 

 初瀬は送球からすかさず指示を送ると背中から聞こえてきた指示にとっさに反応するように秋乃は足から滑り込み、走り込んでボールを受け取った大和田はその勢いを殺すことなく二塁ベースを踏んだ。

 

「……セーフ!」

 

(間に合った! ……!)

 

 ほぼ同時に両者がベースに触れると、僅かに秋乃の方が早いとセーフの判定が上がった。そのことに秋乃は安堵すると、その瞬間には既に一塁へと送球が送られていた。

 

(うっ!?)

 

「アウト!」

 

 二塁を踏んだ大和田からついた勢いをそのまま乗せた送球が一塁へと届くと、眼前で届いた送球に阿佐田はベースを駆け抜け、天を仰ぐようにして減速していった。

 

(ふぃー……バッターランナーは刺せたと。けどこの子、速か〜! でも足ではあたしも負けんよ!)

 

 目論見通り阿佐田は確実にアウトに出来たことに、一息つく大和田。しかしギリギリのタイミングとはいえセーフにしてみせた秋乃の駿足に驚いている様子だった。

 

(秋乃は足の速さだけならチーム1にゃ。それに阿佐田パイセンが打ってからのスタートも良かったにゃ)

 

「秋乃ー! その調子にゃー!」

 

「うん!」

 

(凄い……これが全国レベルの二遊間。私もいつかきっとあんな連携を……いや! 絶対に出来るようになるんだ! 翼を追いかけるんじゃなく、堂々と並び立てるセカンドを目指すんだ……!)

 

「……九十九、後は頼んだのだ」

 

「ああ」

 

(3点差……ピッチャーが崩れてきているこの回で差を縮めたいところだ。後ろには有原さんや東雲さんがいる……。必ずしも私の手で秋乃さんを還す必要はない。それよりも……)

 

「ボール!」

 

 1アウトランナー二塁となり、右打席へと入った九十九に1球目が投じられる。すると真ん中高めに投じられたストレートに九十九はバットの振り出しを止めて見送り、これが高めに外れてボールとなった。

 

(くっ、また涼しい顔で……)

 

(打ち気に逸っていたら今のは振らされていたかもしれないな。しかし打席に立ってみればよく分かる。先ほどバントした球より球速は落ちている……。ここまで2打席立ってボールのスピードにも慣れてきたところだ。冷静になれば……見極めも不可能ではない。辛うじて、だが)

 

 なんとか振り出しを止められた九十九はあくまで表情を変えることなく、バットを構え直した。その様子にピッチャーは一打席目の粘りを思い出すと、苛立ちを募らせていった。

 

「バック!」

 

「……!」

 

 すると河北の指示に反応するようにとっさに二塁へと牽制球を送った。少し上擦った送球が頭の高さに届くと、二塁ベースにスライディングした秋乃の足に落とすようにしてタッチが行われた。

 

「……セーフ!」

 

(あ……危なかったぁ! ヒットで還れるようにって、リードを広げすぎちゃった!)

 

「ともえー! ありがとー!」

 

 今の指示が牽制に対する注意ではなくリードを広げすぎた彼女への注意であることが分かった秋乃は塁上から礼を伝えると、河北は親指を立ててそれに応えた。

 

「ボール!」

 

「落ち着いて! 抑えていこう!」

 

「あ、ああ……そうだな」

 

 ボールを受け取ったピッチャーがすかさず2球目を投じると大きく高めに外れ、九十九もこれはバットを振り出す素振りなく見送ってボールとなった。体力の消耗に加えて精神的にも落ち着きを失っていることに気づいたキャッチャーがボールを投げ返し冷静になるように声をかけると、受け取ったピッチャーは頷いて一度深呼吸を挟んだ。

 

(そうだ……落ち着け。ランナーに惑わされるな。あたいの球速とあいつの肩なら三盗は大和田レベルでやっと勝負になるくらいだ。それより、バッターに集中を……)

 

 そして呼吸を十分に整え、構えられたキャッチャーミット目掛けて3球目を投じた。アウトコース真ん中に投じられたストレート、これがストライクゾーンで構えられたキャッチャーミットに真っ直ぐ向かっていく。

 

(これを見逃してはダメだ!)

 

 バッター有利のカウントとなり入れに来るボールを狙っていた九十九はバットを振り出した。すると鋭い金属音と共に放たれたライナーが一塁側ファールスタンドへと入っていく。

 

「ファール!」

 

(もう一拍早めないとフェアゾーンには打ち返せないな……これでも見極めに要する時間を最小限にしているつもりなんだが。倉敷さんはよくヒットにしたものだ……)

 

 ストレート自体は確かに落ちてきているものの、それでも元々が圧倒的に速いこともあり、今のストレートもそう簡単に打ち返せるボールではないことを九十九は感じ取りながらバットを構え直した。

 

(今のは……カットじゃねえ。打ちにいって芯近くで捉えてのファールだ。くそ……そう来るとストライクを取りづらいぜ)

 

(……さっきまで打ち気らしい打ち気は無かった。でも振りにくるなら……何もゾーンで勝負しなくても振らせてストライクを取ればいい。二塁ランナーもいるしな……)

 

(……! そうか……分かったよ)

 

 2ボール1ストライクとなり、4球目が投じられた。

 

(……! ストレートじゃない……)

 

 投じられた球種はスライダー、これが九十九から逃げていくように曲がっていくと外低めの際どいコースを通過し、ミットに収まった。

 

「……ボール!」

 

(なっ、振らなかった!?)

 

(ここでスライダーか……危なかったな。だが、私は打席に立った時から秋乃さんを還すことより、あおいの分も出るのが狙いだ。しかし一打席目のように不安定ならともかく、今の彼女は私に打ち気が無ければストライク自体は簡単に取れただろう。だからこそ工夫が必要だった。体力の消耗に加えたもう一押し……秋乃さんが二塁にいる今、“タイムリー”のプレッシャーを感じて投げさせられれば……そう思った)

 

 スライダーは僅かに外に外れてボールとなった。そのことに内心安堵しつつ、九十九はまるで見極めていたかのように平然とバットを構え直す。

 

(3ボールになっちまった! くっ。今のストレートじゃ球速差が効いてないのか……? あたいのスライダーは変化量が大きいわけじゃない……ゾーンで勝負するのは危なすぎる。ストレートで勝負しかねえ!)

 

 そして対峙するピッチャーは対照的に闘志を剥き出しにした顔でボールを受け取り、投球姿勢へと入った。膝下へのストレートを投じる瞬間、彼女の脳裏に先ほど不利なカウントからストレートを捉えてファールにされたことが頭をよぎり、僅かなリリースのずれを生み出した。

 

「……ボール! フォアボール!」

 

(……よし!)

 

(うっ! しまった……)

 

(悪くはないコースに来たけど……低めに抑えすぎたね)

 

 膝下に投じられたストレートを収めたキャッチャーミットは心地よい捕球音を鳴らしたものの、低めに外れていた。フォアボールが宣告され九十九は一塁へと歩き出すと、ベンチの阿佐田と目が合った。

 

(君の進塁打が無ければ生まれなかったフォアボールだ。勿論秋乃さんの走塁のおかげでもあるけどね)

 

(躊躇いなく振っていけたのは後ろに九十九がいてくれたからなのだ。もし失敗しちゃっても、その穴をこうして埋めてくれるって……信じてたのだ)

 

 視線を交わしたのはほんの数秒、里ヶ浜ベンチから飛ぶ歓喜の声援の中で九十九も阿佐田も言葉を発しなかった。だが2人とも同じタイミングで表情筋を緩ませていた。

 

「タイムお願いします」

 

「タイム!」

 

 1アウトランナー一塁二塁となったところでキャッチャーはタイムをかけるとマウンドへと向かっていった。

 

(体力がきついところでのフォアボールだ。精神的にも来るものがあるだろう。一旦間を置いた方がいい。……!)

 

 するとピッチャーの体勢が崩れ両膝に手がつかれ、さらに近くまで来たことで絶え間ない呼吸音が届き、キャッチャーは目を見開いた。

 

(そこまで体力を消耗していたのか……。ボールはベストでは無かったけど、十分な球速や球威はまだあった。だから1番バッターだって打ち取れたし、2番バッターも振り遅れていた。けど、それは体力が尽きかけている中で気力で投げていたんだ……)

 

「はぁ……はぁ……。代えるなよ……」

 

「……!」

 

「せめてあの3番だけは……あたいが仕留める」

 

(……そうか。ここまで気力で投げ切ったのは……)

 

「今日の試合……あの3番に打たれっぱなしだからか」

 

「…………そうだよ」

 

 キャッチャーの言葉に苦虫を噛み潰したような顔をしたピッチャーだったが観念したように肯定すると、目を見据えてこう言った。

 

「あいつはあたいが抑えてみせる」

 

「……正直、外から今の状況を見たら体力が尽きたあなたに続投させるのは得策とは思えないわ。意地を張らずに先手を打ってリリーフを仰ぐのが妥当よ。けどね……」

 

 ピッチャーは視線を落とすと胸に軽く当てられた拳を不思議そうに見る。

 

「1年の夏でレギュラーに入った千秋。私たちが最上級生になったらエースはあの子だって誰もが言ってた。けど、あなたは諦めなかった。いや、今もなお諦めてない……。自分が一番だって意地をずっと貫き続けて、力に変えてきたのを私は知ってる」

 

「……!」

 

 タイムが終えられ、右打席に翼が入っていく。胸元を手で押さえるピッチャーは激しい心拍音と温もりを感じると、プレーの再開に伴い投球姿勢へと移り、ボールを投じた。

 

(フォアボールの後の初球を……狙う!)

 

 ——キィィィン。膝下に投じられたストレートが打ち返され、金属音が響き渡った。

 

(……重い。そう……その一球よ)

 

 振り返った先にいるレナの表情をピッチャーはどこか温かく感じられた。そして……ほぼ定位置で構える彼女のミットに打球が収まった。

 

(やられた……!)

 

「アウト!」

 

 翼の放った打球はレフトフライ。ランナーもタッチアップ出来ず、2アウトランナー一塁二塁となった。

 打った翼と投げ切ったピッチャーの両者の表情の明暗が分かれる。しかし翼はすぐに顔を上げて里ヶ浜ベンチへと戻っていった。

 

「後はお願い!」

 

「ええ。任せてちょうだい。……!」

 

 ネクストサークルから立ち上がった東雲はすれ違いざまに翼から後を託され、絶対に打ってみせるという気概を持って打席へと向かう。すると告げられたピッチャー交代を、続投と考えていた東雲は意外そうに聞いていた。

 

「……わりぃな。こんなピンチの場面で」

 

「いえ……先輩のピッチング、わたしが引き継ぎます!」

 

「気持ちは嬉しいが、お前にはお前のピッチングがあるだろ。肩肘張らずお前のピッチングでぶつかってこい!」

 

「は、はい!」

 

 息が荒れ、辛そうな先発ピッチャーだったがマウンドに上がった3番手の後輩ピッチャーに声をかけると、ベンチに帰るまでは情けないところを見せまいと気丈に振る舞い、スタンドからの拍手の中堂々と歩いて帰っていった。

 

「……お疲れ。まあまあ良いピッチだったんですけど」

 

「まあまあかよ……」

 

「先発ピッチャーは頭から最後まで評価される……エースを目指すなら当然のことなんですけど」

 

「ち……そうだな。分かったよ」

 

 そして彼女がベンチに戻ると代わりに上がったピッチャーの投球練習が始まった。

 

(あのピッチャーはさきがけ女子との試合で先発したピッチャー。持っている球種はスライダーとカーブにシンカー。球速はレギュラー入りしている3人の中では最も遅い……けれど)

 

 その様子をデータを思い出しながら遠くから注意深く見つめる東雲。するとサイドスローの投球フォームから投じられたストレートが構えられたコースに勢いよく収まる。それを目に焼き付けるように見た東雲は改めて気を引き締めるのだった。



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激流の行く先

 5回の裏、3点差を追う里ヶ浜は2アウトランナー一塁二塁の場面で4番の東雲に打順が回る。守る界皇は先発ピッチャーをここで下ろし、3番手のピッチャーを代わりにマウンドへと上げた。

 

(我慢の時間帯を耐え忍んで、ようやく巡ってきたチャンス。絶対に逃さない……打ってみせる!)

 

 東雲が新たなピッチャーのタイミングを計っていると、やがて投球練習が終わりキャッチャーがマウンドへと駆け寄っていく。すると東雲はその二人から視線を外してスコアボードを見上げた。初回以降得点が入っていない里ヶ浜に対し、毎回チャンスを作り得点を刻んでいる界皇。じわじわと差を広げられながらも、倉敷が粘り強く投げ、全員が守備で食らいついてきたことを思い返す。

 そうしているうちにプレーの再開が近づいてくると、東雲は肩に力が入っていることに気づきマスコットバットを手に取った。バットの重さを感じながら一度だけスイングを行う。下半身を使いバットを振り切った彼女は上半身から適度に力が抜けたことを感じ取ると、自身のバットを手にし、右打席へと入っていった。

 

(りょー……打って!)

 

(東雲さん。お願いします)

 

 塁上に立つ秋乃と九十九は期待のこもった眼差しを送る。しかし、それに東雲は気付いていない。なぜなら打席に入った時から、既に打つことにのみ精神を集中させていたからだった。そのことに気づいた2人は彼女への期待を募らせながら、見習うように自分の走塁に意識を向けてリードを広げていく。

 

(無駄な力みを感じさせない自然な構えだ。この大事な場面でも固くなる様子はないね)

 

 バットを構えた東雲を見上げたキャッチャーはその様子を窺い、警戒心を強めると、ピッチャーの方に視線を移した。

 

(少し固いけど、投球練習で受けた限りボールは良かった。いきなりのインコースでも……平気だよね)

 

(はい。分かりました! ……ベンチやブルペンからバッターのことは見てきました。リリーフで上がる心構えはわたしなりにしたつもりです。このバッターに甘いボールは禁物。けど、必要以上に大きく見てはダメ……)

 

 サインが送られると、いきなり内を攻める要求に対してピッチャーは迷わず頷き、冷静にランナーのリードを目で牽制してからクイックモーションへと移る。小さく足を上げ、そして踏み込むと、身体の横から急に現れるようにサイドスローの投球フォームで右腕が振り切られ、ボールが投じられた。

 

(出どころが見づらい……。……!?)

 

 リリースに一瞬反応が遅れた東雲はそのすぐ後に目を見張り、顔だけでなく身体を後ろに引いた。すると目の前を通過したストレートが予め構えられたキャッチャーミットに吸い込まれるように収まった。

 

「ボール!」

 

「オッケー! 腕振れてるよ!」

 

 インハイに決まったストレートは高さもコースもずれてボールのコールが為された。しかしキャッチャーはそんなことを意に介する様子もなく、ピッチャーに声をかけながらボールを投げ返す。

 

(今のはコントロールミスではなさそうね。あれだけハッキリと外したんだもの……見せ球と考えて良いわ。ピンチでのリリーフでボール球から入ってくるなんて大胆ね。それにストレートも球速自体は先発したピッチャーの方が断然速いでしょうけど、十分速く感じられる。豪速球というより、気づいたらすぐそこまで来ていた……そんな感じだったわね)

 

 予想はしていたものの、実際に打席に立ってみると先発ピッチャーとの軌道の違いもあり、東雲は少なからず戸惑いを覚えていた。

 

(さすが次期エースと謳われているだけのことはあるわね。球速もコントロールも及第点以上のものを持っているわ。だからこそこんな場面でもボール球から入ってこれた。けど、落ち着くのよ。その選択はこちらにとってチャンスにもなり得る)

 

 鎌部らの世代が引退したら次のエースは彼女に間違いない、噂として聞いていた評価に同意せざるを得ないものを感じた東雲だったが集中を切らすことはなくバットを構え直した。

 

(ストライクを取りに来るところを狙う……!)

 

(先輩には先輩の、わたしにはわたしのピッチングがある……。今までやってきたことを出せばいいんだ!)

 

 2球目が放たれると、東雲はリリースされた瞬間に外へと向かうボールの軌道を予測した。しかしそれと同時に身体の動き出しにブレーキがかかってしまった。

 

「ストライク!」

 

(くっ……。内にあれだけ外したんだもの。外に来るというのは頭にあった。けれど……)

 

(外いっぱい……こういうとこはホント痺れるよ)

 

 アウトコースギリギリに決まったストレートに、初球で内に強く見せられた東雲は身体がとっさに遠いと反応してしまい、バットを振り出すことが出来なかった。

 

「悪くないよ! 絞っていこう!」

 

(有原さん。……そうね。ここで焦ってしまえば、それこそ向こうの思う壺だわ)

 

 ベンチからの翼の声援が送られ、さらに他の皆からも精一杯の声援が飛ばされる。共に戦う仲間の声援に応えるべく、東雲はあくまで打席に入った時と同じようにバットを構えた。

 

(内外で揺さぶってみたが、構えは崩れないか。なら……)

 

(はい。分かりました)

 

 まずは狙い通りの展開になったことに確かな手応えを得たキャッチャーだったが、東雲への警戒は崩さずに、かつピッチャーの良さを引き出せるようにと頭の中で検討を重ねてサインを送った。そのサインに頷いたピッチャーは二度秋乃の方へと振り向き、ピンチを背負っている緊張感を保ちながら、投球姿勢へと移った。そして指先からすっぽ抜けたと見紛うような球速の遅いボールが東雲の背中に向けて放たれたかと思うと、中へと切れ込むように曲がっていく。

 

(カーブ! ……! 入ってない……!?)

 

 背中からゆっくりと曲がってくるボールを感知した東雲はとっさにバットを振り出そうとする。しかし、ボールの軌道が低めに外れることに僅かに遅れて勘づいた東雲は振り出したバットを止めにいった。

 

「……ボール!」

 

 前のめりにならずに重心を後ろに置いていた甲斐あり、振り出されたバットは身体の前に出るより早く止められると、勘は見事に当たって膝下に投じられたカーブは少し低めに外れ、ボールのコールが上がっていた。

 

(今のを見るか……)

 

「良いとこ来てるよ!」

 

 低めに外させたカーブを振らせるつもりだったキャッチャーはその目論見を外され苦い顔をする。しかしすぐに切り替えてピッチャーに声をかけた。

 

(バッティングカウントだ。振ってくる可能性は高い。けどボール球を同じように見られて3ボールにされたら流石にまずい。なら……)

 

(分かりました! 大丈夫です……狙えます!)

 

 ボールが先行した場面で送られた厳しい要求を呑んだピッチャーは秋乃に一度目をやりながらミットの中で握りを調整すると、今度はさほど間を空けずに投球姿勢に移った。

 

(外! 今度こそ……!)

 

 リリースされた瞬間に東雲はボールが外へと向かうことを感じ取ると右足の位置は崩さずに左足を大きく中に踏み込むクローズドステップで体重移動を行う。

 

(かかった!)

 

 投じられたボールはベースの中寄りに向かうような軌道から段々と逸れていく。そしてキャッチャーは少し早く踏み込んだ東雲に対し、獲物が網にかかる感覚を覚えていた。

 

(……! ストレートじゃない!)

 

 踏み込んだ東雲はまだ遠くにあるボールのスピードからストレートを選択肢から瞬間的に排除すると、肩の開きを僅かに遅らせてからバットを振り出した。すると外の低めへと向かっていくスライダーがバットの芯よりやや先で捉えられた。

 

(これでどう!?)

 

(なっ。スライダーについていった!?)

 

 右足が前に出て身体が捻られた分、身体の開きが抑えられたことでスライダーにタイミングを合わせきり、さらに踏み込んだことでミートポイントが近くなりボールを長く見れたことでスライダーの変化に対応していた。その光景にキャッチャーは獲物が網を突き破る感覚を覚えると、打球はまさに網を突き破ったかのような勢いでピッチャーに襲いかかっていった。

 

(抜か……せないっ!)

 

 自身の右脇腹を襲うような打球に、センター前へのタイムリーヒットを本能的に許すまいとピッチャーは左手に嵌めたミットを差し出した。

 

(うっ!)

 

(止められた!?)

 

「大和田、あっちだ!」

 

「任せるけん!」

 

 ピッチャーが差し出したミットは鋭い打球を弾き、ボールは三遊間方向に転がっていく。センター前に抜けようかという打球を止められたことに東雲は焦りを覚えながら懸命に一塁を目指し、打球が放たれた方向に走り出していた大和田は死角に転がったボールを相良の差した指の向きに応じて迷わずその方向に反転し追いかけていく。

 

(私が出るか……?)

 

(転がったところが悪い! あそこからじゃ一塁も二塁も間に合わない!)

 

「大和田! 捕ったら三塁にトス!」

 

「分かったと!」

 

「……!」

 

 サードは三塁へのカバーに入るか捕球に向かうかで迷いが生まれたが、全体を見渡したキャッチャーの指示が素早く飛ばされると、駿足を飛ばした加速で捕球に向かう大和田のトスを受けられるようカバーに入っていった。

 

「スライ!」

 

(間に合えっ!)

 

 追いついた大和田は軽くすくうような動作でボールをサードへと投げると、秋乃は背中から来るボールより早く三塁に触れようと河北の指示に反応して足から滑り込んだ。

 

「……セーフ!」

 

(ほっ……)

 

(アウトにしてやれなかったか……)

 

 サードは足を伸ばしてトスを可能な限り早く受け取ったが、秋乃の足が勝りセーフの判定が上がった。

 

(むー……さすがにあそこからフルスピードは出せなかったと。迷わず三塁に全速力で走れるこの子には追いつけなか〜)

 

 秋乃の足にも負けない自信がある大和田だったが、反転からのスタートでは及ばず、拗ねるように唇を尖らせていた。

 

「東雲さん、ナイバッチです! よくスライダーに合わせましたね……!」

 

「ええ……なんとか打ち返せたわ」

 

(欲を言えば内野を抜きたかった。それが出来なかったのはサイドスロー特有の外へと逃げていくスライダーの変化に加えて、その前の一瞬身体に向かってくるようなカーブのせいで踏み込みが僅かに甘くなり、ほんの数ミリ芯を外されてしまったから……。……それでも繋ぐことは出来た。後は……託したわよ)

 

(油断は無かった……スライダーも良いところに投げられた。打ち取れると思ったのに、対応してくるなんて……。……気を引き締め直さないと)

 

 ピッチャーは今のプレーで落ちた帽子を拾い、軽くはたいて砂を落とし、息をゆっくりと吐き出してから帽子を被り直した。そして東雲がバトンを渡したバッターを真っ直ぐ見つめた。

 

(2アウト満塁。倉敷先輩のヒットから皆さんが繋いだチャンス……)

 

 野崎はバッターボックスに入る前に内野を見渡す。そうすることで全ての塁に1人ずつランナーがいる状況を実感すると左打席へと入りバットを構えた。

 

(私も打って繋いでみせます……!)

 

(点は絶対に入れさせない……。王者界皇の誇りを胸に、必ず抑えてみせる!)

 

 対峙した二人は互いに腹をくくった。ピッチャーはプレッシャーをものともしないように、野崎はプレッシャーに向き合いその上で自分の力を出せるように。

 

(初球は……ここに。浮かせちゃだめよ……)

 

(甘いボールも、甘えも許されない。ここに立つ以上、甘えを跳ね除けて……厳しさで相手を圧倒してみせます!)

 

(膝下のストレート……! 打てる!)

 

 投じられた初球はインコース低めへのストレート。右のサイドスローから放たれたボールを左バッターの野崎は見えやすく感じ、目を切った彼女は見極めたボールの軌道を予測してバットを振り出した。するとバットはボールの斜め上を掠り、打球は左打席後方でバウンドして転がっていった。

 

「ファール!」

 

(想像より内に切れ込んできましたね……。右のサイドスローの経験は高波との試合だけです。あの時のイメージから修正して合わせないと……)

 

 1回戦で対戦した高波のピッチャーはストレートにシュート回転がかかっており、加えて球速の遅い軟投派であったため、野崎は今のピッチャーの内に伸びてくるストレートにイメージが追いついていなかった。そのことは野崎自身頭に入っており、それでも対応しようと振り出したバットは僅かに外を叩く結果になった。しかしバットに当たったストレートからストレートの軌道をより明確に理解した野崎はそのイメージを頭に入れてからバットを構え直した。

 

(よし……さすがのコントロールと度胸だ。しっかり低めギリギリに投げられたね。これは簡単には打てない……とはいえ、左バッター相手に内でストライクを取るのは長打の危険も高い。ここは……)

 

(今度はボールにするんですね。その狙いは勿論わたしの持ち味、サイドスローならではの広く内外を使ったピッチング。この後のためにも、厳しく……!)

 

(また内に。……いや、外れてます!)

 

「ボール!」

 

 2球目はインコース真ん中へのストレート。内を厳しく突いたストレートを野崎はしっかりと見極めて見送り、これが内に外れてボールとなった。

 

(クロスファイヤー……私も右バッター相手によく投げますが、自分で体感するとこんなにも角度を感じるんですね。けど、今のでストレートはよく見れました。奥に伸びる、というよりは横に伸びてくるような……上から投げるのとはまた違った伸び方をしてくるんですね)

 

 身体の横から投げられ、自分の胸前を通っていった角度のあるストレートに野崎は意識をより強めた。しかし……それはバッテリーの狙いでもあった。

 

(遠い……)

 

 3球目として放たれたボールは野崎の目に外に大きく外れているように映った。しかし、やがて弧を描き曲がってくるカーブは右下のストライクゾーンを捉えていた。

 

(カーブ! ……うっ……!)

 

 決して速さはないカーブの軌道に気づき、野崎はバットを振り出そうとした。だが、その足は既に止まってしまっていた。

 

「ストライク!」

 

 膨らんで曲がるように収まったカーブ、先ほどのストレートが少なからず意識に残っていた野崎からは実際以上に外に大きく打ち出されたように感じられ、身体が無意識のうちに見送る構えに入ってしまっていた。

 

(う……やられました。あんな外から入ってくるなんて……)

 

 手が出なかった野崎は心が内側に引っ張られるような強い気後れを感じたが、自分を制するように口元を引き締めてバットを構え直した。

 

(野崎さん……覚えているわよね。今なら帝陽から貰った情報が生きるわ。貴女のリーチなら……届くはずよ)

 

(この方は左バッター相手には1ボール2ストライクのカウントから決め球のシンカーでアウトコース低めの厳しい場所を狙うケースが多い……。しかもそのシンカーは左バッター相手にはほとんど打たれていませんでした。中途半端ではダメ……思い切って!)

 

(最後まで油断はしません。この場面で厳しいコースに投げ込めてこその決め球……!)

 

 1ボール2ストライクとなり、4球目。ピッチャーは中指と薬指で挟むようにしてボールを握り、親指でボールの下側を支えながら人差し指と中指を狭い縫い目にかけると投球姿勢に入った。そして手のひらを下側に向け、中指と薬指の間から抜かれたボールがホームベースへと向かっていく。

 

(少し高い……打てます!)

 

(踏み込まれた!?)

 

 アウトコースながら真ん中に寄った高さに投じられたボール。これに野崎は迷わず外に踏み込み、外に沈みながら逃げる軌道を想定してバットを振り出した。大きく踏み込んだ野崎にキャッチャーが驚きの色を示す中、ピッチャーは自信を持って投じた決め球の行く末を鋭い眼差しで見守った。そして……弾き返された打球がフェアゾーンへと飛ばされた。

 

「サード!」

 

(打ち取った……!)

 

(そんな……!?)

 

 バットはボールの上を捉え、打球は叩きつけられるようにバウンドした。野崎は想定外の打球に強い衝撃を覚えたが、打球からすぐに目を外して一塁を駆け抜けることに意識を向けた。

 

(打ち取ったが……高く跳ねたせいで、勢いがない。バッターランナーは左だ……一塁で刺せるか? ……いや、サード正面の打球だ。一番刺しやすいのは……)

 

「ホームで刺すぞ!」

 

「……! 分かった!」

 

(絶対に還るんだ……!)

 

 高く跳ねた打球が落ちてくると2バウンド目の跳ね際を抑えたサードは指示に従ってホームへと送球を行った。キャッチャーはホームベースへと足を伸ばしながらその送球を前で受け取りにいくと、秋乃はベースに真っ直ぐ足で滑り込んだ。

 

「アウト!」

 

(……! 間に……合わなかった)

 

 送球がキャッチャーミットに収まったのは秋乃がスライディングの体勢に入った瞬間とほぼ同時だった。すぐに秋乃の身体が勢いよくホームに滑り込むが、しっかりと受け止められたボールと踏まれたホームベースにフォースアウトの判定が上がった。

 

(……やられた……わね。高波のピッチャーのシンカーはシュート回転するストレートの軌道に合わせた、いわば横回転を重視したシンカーだった。けど今のは下回転を重視した大きく沈むシンカー……いわゆるスクリューボール。しかもストレートに近いスピードで沈んでいたわ。初見で左バッターが打つのは不可能に近い……だからこそ、左バッターにはほとんど打たれたことがなかったのね。映像資料は無かった……対応するのは厳しかったわね)

 

 一塁から見えたシンカーの変化に東雲は驚きを隠せず、高さもコースも厳しいところへ投じてみせたピッチャーを恨めしそうに見た。大和田と相良の1年生コンビに両肩を挟まれながらちょっと困ったようにベンチに帰っていく彼女の背を見た東雲は目線を外すと、その先では一塁を駆け抜けた野崎がうなだれていた。

 

(の、逃してはいけない……チャンスだったのに)

 

「……」

 

 あまりのショックの受けように東雲はかける言葉に迷いながら彼女の手を引き上げてベンチに連れて帰ってくる。

 

「す、すいません……。私が打てていれば……」

 

 茫然自失としていた野崎がハッと我に帰ると絞り出すような声でみんなに向けて謝った。

 

「夕姫ちゃん……。野球にたらればがあったら、きっとみんなやり直したくなることばっかだよ。でもね……」

 

 満塁のチャンスを逃してしまったショックを露わにする野崎に翼はこの回レフトフライで打ち取られてしまったことを思い出したが、それでも笑うとピッチャー用のミットを野崎に差し出した。

 

「やり直しが効かないから、今の一瞬一瞬に全力を懸けて頑張れるんだって思うな」

 

「翼さん……。……」

 

 彼女の言葉を聞いた野崎は一度目をつぶった。野球を始めてから何度もやり直したくなることがあった。それが時に辛い重荷になることがあったが、自分の弱さを受け入れて頑張り、皆で全力を懸けて戦ってきた日々を思い出した彼女は目を開く。何も言わずに頷く翼に向けた野崎の表情にもう陰りは無かった。

 

 ——キイィィン。快音が響き、野崎の足元を打球が抜けていく。野崎が低めに投じたストレートを打ち返した大和田が走り出す中、飛びついた翼が伸ばしたミットの先を打球が抜けていく。

 

(ふぃー……左なのは厄介やったけど、問題なく打ち返せたと)

 

(界皇は……野崎さんの球速を苦にしていない……! まずいわね……)

 

 低めによく抑えられたストレートながら鋭く弾き返された打球に鈴木は苦い表情を浮かべる。

 ノーアウトランナー一塁となり2番の相良が右打席に入ると、牽制球が投じられたが大和田はなんとか余裕を保って帰塁していた。

 

「いいよーゆうき! こーいん矢のごとしだよー!」

 

(そうですね……。放った矢のように時間は戻ってこないんです)

 

(うーん……さすがに左で速いピッチャーやと、簡単には走れんね)

 

 足を真っ直ぐ上げる野崎に牽制と投球に移るタイミングの違いをいまいち掴めていない大和田がスタートを自重する中、一球目が投じられた。

 

(大和田がいるからチェンジアップは投げづらいよね。ストレートで来る。狙いは……一つ!)

 

(バント!)

 

(セーフティ?)

 

 アウトコース低めに投じられたストレートに相良はヒッティングの構えからバントの構えへと移った。それに気づいた秋乃と東雲が前に出てくる中、相良はバントの構えのままバットを引き、勢いをつけて押し出した。

 

(えっ!?)

 

 押し出すようなバントから放たれた打球が勢いよく転がっていくと秋乃はとっさに横に飛びついたが、その先を打球は抜けていった。そのことに気づいた阿佐田は打球を収めるとベースカバーに入った野崎に向かってボールを投げたが、ボールが届くより僅かに早く相良が一塁ベースを駆け抜けた。

 

「セーフ!」

 

「あ、阿佐田先輩と同じ手で……」

 

(……あおいはプッシュじゃなく、芯に当てて転がしたのだ。界皇の内野のチャージの速さとピッチャーの球威もあってそれだけで抜けた……。けどこの相良ってやつは、そんなに激しいチャージじゃない内野を狙いがぶれやすいプッシュで正確に抜いてきたのだ……。あおいより上だと言わんばかりの、大人しい顔してとんだ負けず嫌いなのだ……!)

 

(やられた借りは返さないとね……)

 

 相良のプッシュバントが決まり、ノーアウトランナー一塁二塁となった。右打席に入った3番バッターに内に厳しく投じたストレートが内に外れると、2球目としてアウトローを狙って投げようとした瞬間、秋乃と翼が声を上げた。

 

「走ったよ!」

 

「ランナースタート!」

 

「……!」

 

「……ボール!」

 

 アウトローに投じられたストレートが低めに外れ、鈴木は迷わずスローイングに移りバッターの後ろを通して三塁へとワンバウンド送球を行った。低めに収まった送球を受け取った東雲は大和田の足にタッチにいく。が、際どいタイミングながらセーフの判定が上がった。東雲は二塁の方にすぐ送球出来る体勢に移ったが、続いて相良も二塁に到達していた。

 

(ととっ。さすがに三盗はギリギリやったけん。けど左ピッチャー相手なら二盗より三盗の方がスタートを切りやすか)

 

「ここでダブルスチールが決まるか……イケイケだね」

 

「……野球には色んな格言があるが、多くの者に刻まれるのは『ピンチの後にチャンスあり』だ。ターニングポイントを制し、いま試合の流れは……完全に界皇にある」

 

「……ボール! フォアボール!」

 

 3ボール1ストライクから膝下に厳しく投じたストレートは少し低めに外れてしまった。これによりフォアボールが宣告され、空いた一塁に3番バッターが歩いていく。

 

(ノーアウト満塁……! しかも、次のバッターは……)

 

 塁が埋まり界皇の4番バッター、草刈レナが歩いてくる。グラウンドを踏みしめる一歩一歩は声援に掻き消されほとんど聞こえなかったが、守る里ヶ浜にとってはまるで心臓に直接響くように重く感じられていた——。




スクリューをパワプロの影響で左ピッチャーが投げるシンカーのことだと思っていた時期がありましたが、これは意外と早くそうじゃないなと気づけました。一説によるとスクリューを投げる代表的なピッチャーの多くが左だから、そういうイメージが先行したんだとか。


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傾いたままの天秤

(ルナ……あなたは私ばかりを見るけど、今日の試合だけでも界皇のみんなや相手にだって見るべきものが多くあるわ。……視野を広げられれば、あなたはもっと高みを目指せる)

 

(お姉ちゃん……)

 

 フォアボールをもぎ取り一塁に歩いていく3番バッターから無言のバトンを視線を交わして託されたレナはそれに頷くと、界皇側のスタンドを見上げた。群衆に紛れてどこかで応援しているであろう自分の妹にレナは想いを馳せ、そんな姉の姿をルナはスタンドの出入り口の壁に背中を預けながら見つめていた。

 

(けど、高みを目指すのはあなただけの専売特許じゃないのよ。私も止まってあなたを待つつもりはないわ)

 

 微笑を浮かべたレナはスタンドから目を離すとグラウンドへと視線を移し、ネクストサークルから出てバッターボックスに向かっていく。レナにとってその一歩一歩はさらなる高みへと上り詰めるための道を踏みしめているように感じられた。

 

「今、草刈選手が右打席に入りました! ノーアウト満塁、逃げ場はありません! 里ヶ浜は中間守備を取るようです。果たして勝利の女神はどちらに微笑むのでしょうか!?」

 

(ここで大会でも指折りのバッターを迎えるなんて……女神どころか悪魔に魅入られてるくらいよ。けど、アンタたちはアタシたちに勝ってそこに立ってるのよ。悪魔だろうと神だろうと振り払って、自分たちの力でピンチを切り抜けてみなさいよ!)

 

 映像を通して大咲が思わず拳を握り締めながら力のある眼差しで見守る中、ついにレナのバットが構えられた。

 

(考え得る限り最悪の状況ね。……残りイニングを考えれば、ただでさえ遠い点差を広げてしまうわけにはいかないわ)

 

 守備隊形の指示を出してからキャッチャーボックスに座った鈴木はレナのことを見上げた。その目に映ったレナからこれまでの3打席でも感じた隙のなさを改めて感じ、慄然として手足がすくむような気持ちになる。だがそれを一番に感じているのは対峙するピッチャーであると考え、倉敷にしたように彼女のことも支えたいという使命感にも似た強い思いから顔を上げて野崎に向き合った。

 

(押し出しは絶対に避けたいわ。ただ、入れにいくのはあまりに危険すぎる。……初球はここよ)

 

(いきなり厳しい要求ですね。ボールで良い、というサインも無し。つまり甘いコースにいっても危険ですが、ボールを先行させてしまうのも危険……それほどの瀬戸際にまで追い込まれているのだと、危機感がひしひしと伝わってきます)

 

 出されたサイン、切迫した鈴木の表情。それだけでどんな心構えで投げなくてはならないのかが伝わった野崎は緊張感のある面持ちでしっかり首を縦に振ると、すぐには投球に移らず、周りを見渡した。この回自分が出してしまったランナー、そしてそれぞれの守備位置で熱の入った気迫で打球に備えている内野陣、それらを目に焼き付けるようにして見た野崎は前に向き直り鈴木が構えたところを狙ってクイックモーションからボールを投じた。

 

(満塁……しかもフォアボールを出した後。手が届くところに来たら——打つ!)

 

 アウトコース低め、厳しく四隅を狙って野崎が投じたストレートはコースはほとんど外いっぱいだったが、高さは狙いより少し高めにズレてしまっていた。すると一瞬を刈り取るようなレナの鋭いスイングがボールを捉えた。ライナーでライト方向に伸びていく軌道に野崎は焦りを浮かべながら振り返る。

 

(…………大丈夫だ。これは……切れる)

 

「ファール!」

 

 ギリギリまで追いかけていた九十九は届かぬ打球に確かな動揺を覚えたが打球の軌道が段々と逸れていくのに気づき、ライナーが辛うじてファールゾーン上に入ってからライトポール際の柵を越えていくことに安堵していた。

 

(少し高かったとはいえ……外ギリギリの十分良いコースに決まったストレートよ!? それをあそこまで飛ばすなんて……)

 

(た……助かりました。ですが今の球をあそこまで飛ばされてしまうと……投げにくいですね……)

 

(良いポイントで打てたと思ったのに、外に投げられたボールの力に少し押し込まれてしまったわ。球速だけならまだしも、左でこれほどのストレートを投げてくるピッチャーは……あまり経験がないわね)

 

 一塁へと走り出していたレナが戻ってくるとバットを差し出した鈴木に礼を言いながら受け取り、地面を軽く整えてからバットを構えた彼女は野崎を見ながら不敵な笑みを浮かべていた。

 

(アウトコース高め……高めに外して……)

 

「ボール!」

 

(簡単に見送られた……!?)

 

 2球目としてアウトコース高めに投じられたストレートは要求通り高めに外された。際どく外したというよりはストレートの力で振らせようとした外し方ではあったものの、十分に振らせる算段の立つストレートを慌てて振り出すことなく見送られ、鈴木の背中に冷や汗が滲む。

 

(うん。見極めは出来ているわね。後はストレートの軌道にスイングを微調整して合わせられれば……)

 

(……慌ててはダメよ……。また四隅を突く手もあるけど、野崎さんのコントロールを考えれば満塁で四隅の多投は自滅を招いてしまう。けど今ので高めにストレートを見せられた……)

 

(……! なるほど……)

 

 出された要求に納得して頷いた野崎は慎重にボールを握ると、投球姿勢に入りボールを投じた。

 

(高い!)

 

 内に投じられたボールをベルト付近の高さに感じたレナは身体を開く。

 

(狙い通り……!)

 

(……! これは……!?)

 

 ストレートより高く打ち出される軌道からレナは浮いたストレートと錯覚したが、ボールは山なりに落ちてきていた。まだボールが遠くにあることに気づいた彼女はとっさに踏ん張り、引きつけようとする。

 

(くっ!)

 

(体勢が崩れた!)

 

 しかし球速差のあるパームボールに対して踏ん張りはいつまでも維持できず、レナは打ちたいポイントより前でこのボールを捉える形になった。レフト方向へと放たれたフライ性の打球は大きくフェアゾーンから逸れていく。

 

(空振りとはいかなかったけど、上手くファールを打たせられたわ。……えっ)

 

 打球は外野側にあるスタンドに入り犠牲フライにもならなかったことに鈴木が安堵したのも束の間、フライは最上段でバウンドし鈴木は息を呑んだ。

 

(崩れた体勢でも芯で捉えてあそこまで飛ばすなんて……。今のは空振りを取れてもおかしくはなかったのに。このバッターからは……三振を取るのは難しいかもしれないわ)

 

(……待ちきれなかったわ。私もまだまだね。それに今のは縦に落ちていたみたいだけど、インコースに投げた分私にとっては斜めに切れ込んできていた。今のを捉えてフェアゾーンに打ち返すには……)

 

 レナは目を瞑り今のボールを捉えるイメージを固めていく。

 

(イメージは出来た……けど、追い込まれてしまったわ。監督からのサインは相変わらず無し……独断で決めるしかないわね。大和田さん……前にそのことを羨ましがっていたけど、意外と大変なのよ)

 

 いかなる場合でも4番打者へのサインはフリー、というのが界皇の部内では周知の事実だった。そのため4番を任されるとチームの中心打者としてどうするべきか常に考えなくてはならない状況へと追い込まれることになり、レナも成功ばかりではなく時にサインが欲しくなることがあったが、北山監督はたとえ失敗しても彼女に考えさせてきた。

 目を開いたレナはちらりと三塁ランナーの大和田を見てから、バットを構える。

 

(でも私がいるうちは誰にも譲る気はないわ。だって……ここから見る景色は限りなく広がっているんだもの)

 

(これまでの打席も追い込むところまではいっているわ……。けど、そこから打ち取るまでが遠い……。それでも……打ち取るしかない。そのために出来ることを……!)

 

(はい! 内の遅いボールを振らせたばかりです。いかにこの方が凄いバッターでも……外のストレートを打つのは簡単じゃないはず。けど初球と違って、外れても良いというサインが出ました。つまりストライクを取れれば理想的ですが、まずは厳しく攻めることを優先して……!)

 

 4球目。投じられたストレートにレナは判断を迫られる。

 

(アウトロー……)

 

 アウトコース低めに向かうストレートをレナはスイングの始動に入りながら見定めた。

 

(……遠い!)

 

 足が踏み込まれたがバットは振り出されなかった。そして見送られたストレートが鈴木のミットに収まると乾いた捕球音が響き、その判定を待ち望むように一瞬声援が途切れた。

 

「……ボール!」

 

(う……狙いより外に外れてしまいました)

 

「野崎さん、良いボール来てるわ!」

 

「え……あ、はい! ありがとうございます!」

 

 厳しくコースを狙って投げられたストレートは外に外れていた。四隅を突ききれなかったことを残念そうにする野崎に声をかけた鈴木は抱いた好感触を伝えるようにサインを送る。

 

(……これでいい! 振ってくれれば最高だったけど、野崎さんのコントロールを考えれば外れることは想定内よ。……ここまであえてストレートは外に集めてきた。この、決め球のために)

 

(……! ……分かりました。そこに……投げ込んでみせます)

 

(満塁で一番やってはいけないのは中途半端に当てにいくこと……。ボールを見極めて、振るならしっかり振り切る。こういう時こそ、基本に立ち返るのよ……)

 

 2ボール2ストライクとなり互いに緊張感に身を包みながら方針を定めていく。時間にして数秒程度、されどどちらも十分に意を決した。静寂を破り、5球目が投じられる。

 

「……!」

 

(これは……!?)

 

 バッテリーの選択は内を厳しく突いたストレート。胸元を抉るような角度で放たれたボールはインコースギリギリに向かっていく。

 ——バンッ。渾身のストレートがキャッチャーミットの中で暴れる。期待以上の力で投じられたボールに押し込まれた鈴木は懸命についていくと力を逃すように左腕が引かれ、ボールは溢れずに収まった。

 

「…………ボール!」

 

「えっ……!」

 

 外れているという判定に鈴木は思わず驚きの声を漏らして球審を見上げた。彼女にとっては際どくもストライクゾーンを掠めたように感じられたストレート、これ以上無いボールだと心から感じていたからこその行為だった。

 

「……っ……」

 

 感情に任せて抗議してしまいそうな衝動を彼女はなんとか抑え込んだ。判定が出るまでの微妙な間が彼女の心に引っ掛かり、食い込む。しかし満塁でフルカウントになってしまった現状に向き合わなければならないというキャッチャーとしての理性が勝り、野崎の方に振り向いてボールを投げ渡した。

 

(……今のはボールになっても、ストライクを取られてもおかしくなかった。それほど際どいコース。……なのに、バットが出せなかった……)

 

 レナは表情にこそ出さなかったが、大きな衝撃を受けていた。見極めて見送ったのではなく、バットを出すことが出来なかった。ノーアウト満塁で迂闊に当てにいけないという理由もあったが、打つつもりでバットを出せなかったのは本人にとってはやはり衝撃的だった。

 

(夏大会で高坂さんのシュートに手が出なかったことを思い出すわ。……!)

 

 するとレナはマウンドに立つ野崎から高坂の面影を感じた。野崎が彼女からコーチを受けたからか、今の胸元へのクロスファイヤーが彼女のシュートを彷彿とさせたからか、全国レベルの彼女から発せられる威圧感と同じものを感じ取ったからか。少なくともレナにはその理由は分からなかった。ただ一つだけ反応を示した。

 

(……やっぱり4番は譲れないわね)

 

 彼女の表情が明るい期待に彩られる。しかし、野崎に向けられた眼差しは変わらず真剣なままだった。

 

(これも外れてしまいました……。出来れば今ので決めたかったのですが……)

 

(野崎さん、落ち着くのよ。界皇は4番にスクイズをさせるチームじゃない。その上で次は——)

 

(……! ……分かりました! 今、投げられる最高のストレートを……)

 

(今のは良いストレートだったわ。けど、さっきはボールカウントに余裕があった。3ボールの今……果たして同じように厳しく攻められるかしら?)

 

 ノーアウト満塁、3ボール2ストライク。崖っぷちに立たされた里ヶ浜バッテリーは次に投げるボールを慎重に検討する。鈴木から出されたサインに野崎は今の状況を鑑みて、頷いた。

 野崎がセットポジションに入ると、ランナーが張り詰めた顔でじりじりとリードを広げていく。塁が埋まっているためフォースプレーが発生する状況であり、チャンスを一瞬にして失う危機感をそれぞれ抱いていた。守る里ヶ浜も内野外野を問わずピンチをなんとか好機に変えようと大量失点を背にした背水の陣で挑む。

 こうして緊張感がピークに達した、その瞬間にボールが投じられた。

 

(一打席であのクロスファイヤーを攻略するのは難しいわ。下手なゴロを打てない今なら尚更のこと。だから……同じように攻められたら私の負け。心構えはさっきと同じ……ボールを見極めて、振るならしっかり振り切る……!)

 

 振り切られた腕から放たれたストレートが通過する空気を切り裂くようにしてホームに向かっていく。

 

(良いストレートよ! あれだけのストレートを内に投げられた後は踏み込みにくいはず。低めへの全力投球でゴロを打たせる……! ……!)

 

 バッテリーの選択は内外のコースは意識せず、低めを狙って思い切り投じた全力のストレート。このボールに対し、レナはバットを振り出した。

 

(えっ……)

 

 音を置き去るようにして野崎の頭上を打球が越えていく。遅れるように響いたのは……澄み切った打球音だった。永井が足を止め、その見つめる先にあるスコアボード下のバックスクリーンに打球が当たる。

 

「……は……入りました! 満塁ホームランです……! 草刈選手はこれで3試合連続ホームランとなりました!」

 

 勝負はまさに一瞬だった。その一瞬の出来事に置いていかれたように呆然として打球を見守っていたスタンドが、一斉に湧き上がる。

 

(そん……な……)

 

 グラウンドを包み込む歓声が野崎にホームランを打たれた現実を突きつけた。今起きた出来事がすぐには受け入れられない様子の守備陣の中で、あまりの出来事に野崎は体勢を崩し両膝を手で押さえる。

 

(……お姉ちゃん)

 

 歓声を受けながらダイヤモンドを周る姉をルナは見続けたまま、昨日見に行くことを電話で伝えた時に聞いた内容を思い出していた。

 

「もう切っていい? 一応伝えただけだから……」

 

「久しぶりに声を聞けたんだし、もう少し話したいな。……そうだ。ルナには伝えておこうかしら」

 

「……? 何を?」

 

「親善試合をした時にアメリアさんから聞いたのだけれど……。もしかすると春に高校女子硬式野球の国際大会が開かれるかもしれないの」

 

「……! 国際大会が……?」

 

「ええ。といってもまだ確定じゃないんだけど。女子高生が硬式のボールで海外のチームと初めて親善試合をして30年……ようやく女子野球の輪が広がろうとしているの」

 

「……そうなんだ。でも……」

 

「……?」

 

「あたしの目標はお姉ちゃんだから」

 

「……ルナ。あなたは野球をしていて……どんな時が一番楽しい?」

 

(急に……なに?)

 

「……そういうお姉ちゃんはどうなの」

 

「私? 私はね……。自分の想像を超えていっちゃうような……そんな野球の世界が見れた時が一番楽しいわ。自分自身のプレーも含めて……ね」

 

 無邪気に告げられた姉の言葉を思い出したレナは、ホームを踏んでスタンドを見上げた彼女と偶然目が合った。距離があり、またグラウンドの一選手と雑多なスタンドの一人では見やすさが違うこともあってか、レナはルナに気づかずに先にホームを踏んだランナー達に囲まれて界皇ベンチへと戻っていった。

 

(お姉ちゃんには一体……どんな世界が見えているんだろう)

 

「ホームインが認められ9点目が入りました! これで点差は7に広がりました……! しかもまだノーアウトです!」

 

(……アタシ達を苦しめたあのサウスポーがまさかここまで打たれるなんて……)

 

(……私達も6回に満塁で草刈さんに回りました。センターフライに抑えられたから……4点で収まった。もし打たれていたら……あの時感じていた以上の恐怖が、襲いかかってきたに違いありません。……いえ、今マウンドに上がっている彼女に……)

 

(勝負は決したか。ピッチャーが崩れてしまっては勝負にならな——)

 

 4人のホームインが認められ、さらにノーアウトのまま5番バッターが右打席に向かっていく。すると青ざめていた野崎が普段からは想像も出来ないような歯を食いしばるような仕草を見せると、今にも崩れそうな膝に力を込めて立ち上がり、心配そうにする翼からボールを受け取った。スタンドから見ていた乾はその光景に目を見張る。

 

(……驚いたな。一人で立ち上がってくるとは思わなかった。だが……)

 

 膝下に投じられたストレートにバットが振り出される。すると内に厳しく攻められたストレートにバッターは差し込まれ、芯から内側でボールが叩きつけられた。

 

「フェア!」

 

(ちっ……! 満塁ホームランの後だ。気の抜けたストレートが来たら叩いてやるつもりだったのに……!)

 

 放ってすぐ目の前でバウンドした打球にバッターは心の中で舌打ちしながら走り出す。前に出た鈴木は上に構えたミットで落ちてきた打球を収めると、そのまま一塁にボールを投げた。

 

(さっきのクロスファイヤーをミットを流されずに捕れていれば、全く違う結果になっていたかもしれない……。……あっ!)

 

(キャッチャーが崩れたままではな……)

 

 足の向きを一塁側へと整えずに捕球した体勢からそのまま投げられた送球は浮いてしまった。そのことに鈴木も気づいたが、時すでに遅し。手元から離れたボールを動かす術はなかった。

 

「とりゃー!」

 

 抜ければ二塁到達は免れない送球に秋乃は足首をバネのようにしならせて垂直方向にジャンプすると懸命にミットを伸ばした。すると長いファーストミットの先に送球が引っかかり、溢れそうになるボールを指に力を込めて掴むと、そのまま一塁ベースに着地した。

 

「セーフ!」

 

(うっ!)

 

 二塁への進塁は避けられたものの送球を止めるために精一杯ジャンプするしかなかったため、隙を突くようにバッターランナーが一塁ベースを駆け抜け、その後秋乃がベースを踏んだことでセーフの判定が為された。

 

「た、タイムお願いします!」

 

 慌てた様子で翼が3回目の守備のタイムをかけた。それに伴い、内野陣がマウンドに集まっていく。その中でも鈴木の足取りは特に重かった。

 

(……やっぱりね)

 

 スタンドから一連の光景を見ていたゆかりはため息をついた。それが吐息だったのか嘆息だったのか、彼女自身分からなかったが。

 

「……ごめんなさい」

 

「どんまいだよ! 切り替えていこっ」

 

「……そうね……切り替えないと」

 

 エラーを詫びる鈴木に気にしないようにと翼は努めて明るく返事をしたが、鈴木の表情は変わろうとする彼女の言葉とは裏腹に暗いままだった。

 

「……和香さん。中学生の時……辛くなった時にするおまじないの話をしたことを覚えていますか」

 

「え……ええ、覚えているわ」

 

「和香さんは自信がないのをごまかすのが苦手だからと言ってくれましたが……。逆だったんです。自分に自信を持てたらっていつも願ってばかりだった。だから強さの拠り所を持っているあなたを……羨むことしか出来なかった」

 

「野崎さん……」

 

「高校生になって、一緒の野球部に入って、和香さんとバッテリーを組むことになって……。そんなあなたの強さを少しでも分けてもらえるんじゃないかって、きっと心のどこかで願ってたんです。でも夏大会の2回戦で……崩れたまま、立て直せなかったまま負けて……」

 

「けど、あれも今と同じような私のエラーから……。私が崩れて、あなたを崩してしまった」

 

「そう……でしたね。あそこからフォアボールを連発して、入れにいったボールを打たれて……。お互い、立ち直れなかった。あの日ほど自分の弱さを恨んだ日はありませんでした。変わりたいと思った……ようやく願いが、思いに変わったんです」

 

(今の私の拠り所はあの練習試合でわがままを貫いて掴み取った、前の自分から変われたという証。……そしてもう一つ……)

 

 一瞬だけ野崎は里ヶ浜ベンチにいる近藤を見た後に、視線を元に戻す。すると左手を伸ばして鈴木の右手を握りしめた。突然のことに鈴木はキョトンとする。

 

(和香さんの拠り所に……私が……!)

 

「私を……信じてください!」

 

「……! 野崎……さん。…………ええ! 信じるわ」

 

 中学生の時の彼女からは絶対に聞けなかった自信のこもった言葉に鈴木はとても驚くと、見張った目は平静を取り戻していく。そして返事と共に、握られた手が握り返された。

 

(優勝候補相手にここまで……よく頑張ったじゃん)

 

 最後に円陣を組んでキャプテンの掛け声で士気を高め直した彼女らを見てゆかりは信じられないものを見るような目つきになる。

 

(7点差になったんだよ。なのになんで……)

 

 グラウンドに広がる光景にゆかりはただ愕然とする。特に彼女が見ていたのは翼だった。バッテリーの会話を見守った彼女は最後にキャプテンとして場を引き締めると、タイムが解かれた後も負けているチームとは思えないほど東雲と共に声を出しあっていた。それは外野にも伝わり、岩城を始めとして出ていなかった声が再び出始めていく。

 

(なんで……諦めてくれないの)

 

 プレーが再開され、6番バッターが左打席に入る。するとバッターは監督からのサインを受け取った後、バントの構えを取った。

 

(送りバント?)

 

(揺さぶりでしょうか……? 和香さん、私なら大丈夫です。どんな揺さぶりでも……耐えて投げ抜きます)

 

 バントの構えに戸惑いを覚えるバッテリー。しかし鈴木はすぐに野崎へサインを送ると、野崎は力強く首を縦に振った。

 

(良くない流れを止めるためにもまずアウトを一つ取って落ち着きたいわ)

 

 鈴木のミットが構えられると野崎の右足が垂直に上がり、やがて踏み出されてボールが投じられた。投じられたストレートがインコース高めに向かっていくと、バッターはそのままバントの構えを崩さなかった。

 

(見えづら……あっ!)

 

(けど、アウトは……ランナーを進めずに……)

 

 背中から入ってくるような軌道に目測を誤り、バットはボールの下に入った。打ち上がった打球は球審を越えていき、マスクを取った鈴木は落ちてくる打球に向かって懸命に飛び込んだ。

 

(とる!)

 

「アウト!」

 

 伸ばされたミットでボールが掴み取られた。捕った鈴木は立ち上がり送球体勢を取ると、タッチアップを窺っていたランナーが一塁ベースにしっかり戻っていく。

 

「ナイスキャッチです……!」

 

「野崎さんもいいストレートだったわ! その調子でいくわよ!」

 

「はい!」

 

 1アウトランナー一塁となり、右打席に7番バッターが入った。初球膝下へのパームが内に外れると、次に投じられた膝下へのストレートが少し中に入っていたが、手が出なかったのか見送られて1ボール1ストライクとなった。

 

(まだ1ストライクだ……。外に来るまで待つぞ。今度こそ……)

 

 投じられた3球目はアウトハイへのストレート。このボールにバッターは脇を締めてスイングの始動に入った。

 

(あのセカンドの横を抜く!)

 

 そして大きく外に踏み込みバットを振り下ろすと、打球はゴロとなって一、二塁間に放たれた。一塁ランナーが走り出す中、セカンド寄りに放たれたゴロに阿佐田は横っ飛びで飛びついた。

 

(止めてゲッツーに……くうっ!)

 

 しかしストレートを捉えて弾き返されたゴロの勢いに追いつくことはできず、打球はそのまま右中間へと転がっていく。この打球に九十九が追いつくと、一塁ランナーは二塁を回っていた。すかさず送球が三塁に放たれると、低い送球を中継の位置にいた翼はそのまま流し、ワンバウンドしたボールを受け止めた東雲は滑り込んできたランナーにタッチにいく。

 

「……セーフ!」

 

(敵ながら良い判断ね。バッターのゴロ打ちを頭に入れた……良いスタートを切られてしまったわ)

 

 先に足がベースに触れ、セーフの判定が上がった。1アウトランナー一塁・三塁となり、8番バッターが右打席に入っていく。

 

(このバッターは速球打ちが得意だったわね。そうなると前進守備は取りづらいわ)

 

 鈴木は内野を極端には前に出さず、二塁経由でのゲッツーを取りやすい守備隊形を指示した。

 

(さっきの送りバントでランナーを進めさせなかったのは大きかったわ。今の走塁を見るに、きっと還られていたもの。……送りバント……? そういえば、なぜ界皇は7点差でそこまで慎重な策を……。この試合、送りバントなんて一度もしてこなかったのに……)

 

 キャッチャーボックスに座った鈴木はいつもより長く思案を重ねた。そしてようやく顔を上げると野崎にサインが送られる。そのサインに野崎は驚きつつ、頷いた。投球姿勢に入った野崎の足が踏み込まれると、東雲は走り出したサードランナーに気付き、声を上げた。

 

(なっ!?)

 

 バントの構えに移ったバッターは目を大きく見開いた。伸ばしたバットの先を通過したストレートが、立って構えられたキャッチャーミットに収まる。

 

「アウト!」

 

 スタート良く走り出していた三塁ランナーは急ブレーキをかけて背を向けたが、その背中に鈴木が伸ばしたミットが触れられ、アウトが宣告される。その間に一塁ランナーは二塁へと進み、2アウトランナー二塁となった。

 

(初球……ピッチアウトだと!? まさか、スクイズが読まれた……!?)

 

(………危なかったわ。ギリギリで……気づけた。界皇の狙いを……)

 

(くそ……挽回してやる。ストレートはこのくらい速い方が得意なんだ)

 

 2球目がインコースに投じられるとバッターは足を開き、ストレートに振り負けずに打ち返した。

 

「ファール!」

 

(しまった……! 打ち急いじまった……)

 

(やはり野崎さんのストレートについてきたわね。けど、今のは内に外したストレート……さすがに打ってもファールにしかならないわ)

 

 0ボール2ストライクとなり3球目。真ん中高めに投じられた全力のストレートをバッターはバットを止めて見送った。

 

(またストレートを外してきたか……。簡単に振らされないようにしないとな。甘く入ってくるまで粘るくらいの気持ちで……って思ってたら!)

 

 4球目が投じられると真ん中付近に入ったボールにバッターはバットを振り切った。するとバットの下を潜るように曲がったボールはワンバウンドして鈴木のミットに収まる。

 

「ストライク!」

 

(なにっ!?)

 

 浮いたストレートを捉えたと思ったバッターは独特の変化で落ちていったパームに驚くと、その変化を見失いバウンドしたことに気づく前に背中にタッチされた。

 

「アウト! スリーアウトチェンジ!」

 

(やられた……。さっきの高めに外したストレートは撒き餌だったんだ……)

 

 さらなるピンチを脱せたことに野崎は安堵の吐息を吐き出す。同様に息をついていた鈴木と目が合うと、二人とも少し照れたように笑ったのだった。

 

「夕姫ちゃん。ナイスボール! 和香ちゃんもナイスリード! さあ、この調子で攻撃も盛り返していこう!」

 

(なんで諦めないかな。お姉ちゃんと比べられることの意味が分かってないのかな。あたしだって、お姉ちゃんと比べられなければ………。比べられる……誰に? 今、あたしは……誰に比べられてるんだろう)

 

 翼の姿を見ていたゆかりは彼女の目を見ると、不意に身体が硬直した。

 

(小学生や中学生の時と違って今の部員には比べられてない。じゃあ誰に……)

 

 するとこの試合が始まる前にルナがレナを追ってばかりで視野が狭くなっているという話を聞いたときに、自分が感じたことを思い出した。

 

(お姉ちゃんは……姉はそう思うかもね。けど妹からしたら……)

 

 そのことを思い出したゆかりは胸がちくりと痛んだ。傷んだ箇所を手で押さえながら、彼女は一つの結論に至った。

 

(今、あたしは……お姉ちゃんや翼を自分と比べてる……? まさか比べてるのは……他の誰でもないあたし自身……)

 

 6回の表が終わり、ベンチに帰ってきた鈴木は東雲と目を合わせると、スコアブックを書いている近藤に話しかけた。

 

「近藤さん。準備してちょうだい」

 

「えっ! でも……東雲さんがどういう交代をするかはまだ……」

 

「分かるわ……一度だけこんな事態を想定した采配が振るわれたことがあったもの」

 

 乱れた息を整えながら鈴木はスコアブックを受け取ると、近藤の目を見据えた。

 

「後は……お願い」

 

「……! ……分かりました!」

 

 そして近藤も彼女の目を真っ直ぐ見つめて返事をしたのだった。

 

(どうやら……逢坂を代打に送るようだな。データでは里ヶ浜に入った新入部員のうち、打に期待が持てるのはスタメンに入っている永井と彼女くらいだからな……)

 

「それにしても界皇は9点も取ってるのになんでスクイズ仕掛けたんだろうね。普通に振ってくると思ってたよ」

 

「難しい話ではないさ……。界皇は確実にもう1点欲しかったんだ」

 

「確実に……? どういう意味?」

 

「コールドゲームだ」

 

「コールドゲーム……あっ! 6回7点差コールド……!?」

 

「そうだ……。もう1点あればコールドで終わる確率……すなわちエースを休ませたまま試合を終わらせられる確率が上がる。だから界皇は送りバントまでして、この追加点に拘ったんだ」

 

「なるほど……そうだったんだ」

 

(恐るべきは……外させたキャッチャーか。この状況で初球からスクイズを読まれる確率はかなり低い……。北山監督もそう思ったのだろう。それでもはっきり外させたのは……界皇の狙いに気づいたんだ。満塁ホームランの動揺が残る中で……見事だ)

 

 乾が心の中で鈴木に敬意を表する中、ついに6回の裏、7点差を追う里ヶ浜の攻撃が始まるのだった——。



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あの時した選択、これからする選択

 6回の裏、7点差を追う里ヶ浜の攻撃は6番打者の岩城から。

 

(この回1点も取れなかったら、そこで試合終了……か)

 

 バッターボックスの前で岩城はこの攻撃の重要性を噛みしめるように目を瞑ると大きく息を吸い、そして目を開くと同時に「よろしく頼む!」と腹から気合いの入った大声を出し、左打席へと入っていった。

 

(このバッターは足を上げて打つんだったな。タイミングの取り方に幅が無い反面、当たればさっきの打席みたいに飛ばす力がある……)

 

 右手の小指が浮くほどグリップエンド一杯に持ってバットを構えた岩城をキャッチャーは見上げると、彼女の特徴を思い出しながらサインを送った。そのサインに頷いたピッチャーは少し硬い表情を和らげるように息を吐き出すと投球姿勢に入った。

 

(あたしがこの回を0で抑えたら、鎌部先輩は準決勝に体力を温存できる。絶対に抑えるんだ!)

 

 足が踏み込まれ身体の横から出てくるようにして右腕が振り切られると、ボールはインコース低めへと向かっていく。

 

(入ってる! よし……!)

 

 真っ直ぐにストライクゾーンへと向かう軌道と感じた岩城は迷わずバットを振り切った。

 

「ストライク!」

 

(なっ……。ボールが消えた!?)

 

 岩城が目を切った辺りでボールは死角へ飛び込むように変化していくと、内のボールゾーンで構えられたキャッチャーミットに収まっていた。ストレートの幻影を捉えるように振った岩城は狐につままれたような顔になる。

 

「ナイスボール!」

 

(さすがのコントロールだね。左バッターへのスライダーは向かっていく変化だから甘く入ると持ってかれやすいけど、これなら安心して使えるよ)

 

(入ってるように見えたんだが……曲がったのか! もう少しボールをよく見ないとだな……)

 

 ゾーンに入っていると感じて身体の前で捌くように早めにバットを振り出した岩城はボール球を振らされてしまったことを悔しそうにしながら、バットを構え直した。そんな岩城に投じられた次のボールは真ん中低めに向かって放られた。

 

(これは……!)

 

「ふんぬ……!」

 

 弧を描いて曲がってくる遅いボールをカーブと勘づいた岩城は振り出そうとしたバットを踏ん張って必死に止めにいった。するとその読み通りカーブは岩城の足下に向かうように曲がっていく。

 

「ボール!」

 

(ふぅ……)

 

(見たか。振り出しが慎重になったな)

 

 インコース低めに投じられたカーブは要求通り低めに外れてボールが宣告された。真ん中に来たボールに慌ててバットを出さずに止められたことを岩城が安堵していると、キャッチャーは1球目より慎重になったバッターの様子を感じながらボールを投げ返した。

 

(右のサイドスローは左バッターにとっては軌道が見えやすいからな……。見極めに徹されると、下手なボール球はカウントを悪くするだけか。なら……)

 

(……! 任せてください。厳しくゾーンを突くコントロールはわたしなりに磨いてきましたから……!)

 

 厳しいコースを要求するサインを待ち望んでいたかのように頷いたピッチャーは集中した面持ちで3球目を投じた。

 

(アウトハイ! ……入ってる……か!?)

 

「おりゃあ!」

 

 投じられたストレートが外からゾーンを捉えるように入ってくる。アウトコース高めにボールが投じられたことはすぐに分かった岩城だったが、慎重に見極めをして判断に少し時間を要してからバットを振り出した。

 

「ストライク!」

 

(しまった。振り遅れてしまったぞ……!)

 

「良いとこ来てるよ! その調子!」

 

 ただでさえ速さのあるストレートに一瞬とはいえ判断に迷ったのが仇となり、振り遅れる形でバットは空を切ってしまった。追い込まれた岩城はバットの先をヘルメットの上に持ってきて頭を抱えるようにし、どうすればいいのか思い悩む。するとベンチから阿佐田が狙い球を絞るサインを送ったことに気がついた。

 

(2ストライクで……? あっ、そうか! 確かこのピッチャーは左バッター相手に1ボール2ストライクになった時、アウトローの際どいコースを狙ってシンカーを投げることがほとんどだったな!)

 

(どうもだんちょーには相性が悪いタイプのピッチャーみたいなのだ。だからここは来る可能性が高いシンカーに賭けるのだ!)

 

 そのサインの意図を理解した岩城はバットを下ろしながら頷くと、いつものようにバットを構えた。

 

(東雲によると、このピッチャーのシンカーは1回戦のピッチャーに比べて下に鋭く沈むんだったな……だが、その分横の曲がりは小さいと聞く)

 

 打席に向かう前に東雲が全員に伝えていた情報を思い出しながら投球に備える岩城。対峙するピッチャーは自信に満ちた心持ちで投球姿勢に入ると、頭の中でボールの軌道をイメージしながらボールを投じた。

 

(よし、イメージ通り! ……!?)

 

 ピッチャーは描いたイメージと実際に描かれた軌道が重なる感覚を覚え、仕留めた確信を得た。しかし迷わず外に大きく踏み込んだ岩城が目に入り、確信に疑念が混じる。

 

(つまり曲がり方は違っても、曲がりの大きさはあまり変わらないはずだ! なら、この打ち方で……打ち返せる!)

 

 岩城は最初から浮かせていた右手の小指だけでなく、中指と薬指をもバットから浮かせると、残った2本の指を支えに振り出した。

 

(まさか……届く!?)

 

「どっ……りゃあああ!」

 

 岩城は体勢を低くし、身体の軸が斜めになりながら離れていく沈んでいくスクリューにバットを届かせようとする。不安定な体勢ながら足腰を踏ん張らせて最後に力のある左腕が押し込まれると、フルスイングでバットが振り切られた。

 

(どうだ!?)

 

(うそっ……! また左バッターに当てられた……!?)

 

 懸命に伸ばしたバットはボールを芯で捉え、弾き返した。その光景にピッチャーは目を開きながら、打球が放たれた左中間へと振り返る。その顔には焦りが浮かんでいたが、すぐに安堵で彩られた。

 

「アウト!」

 

「あ……」

 

 打ち上がった打球に外野を越えていく勢いはなく、追いついたセンターが難なく捕球していた。響くアウトのコールに岩城は一塁を回ったところでしばしの間立ち尽くす。しばらくして岩城は一塁ベースをちらりと見た後、震える拳に力を入れるようにしてベンチへと戻っていった。

 

「センターフライです! 捉えたように思えた打球でしたが、伸びが足りませんでした!」

 

(バットを届かせるために右腕の支えを犠牲にしたみたいね。その分、捉えはしたけど打球にパワーが伝わりきらなかったんだわ。でも今のはコントロールも良かった。あの精度で決められるんなら、先輩のスローカーブ並に左バッターにはエゲツないわね……)

 

「……すまん、加奈子! あとは頼む!」

 

「岩城先輩……」

 

 すれ違い様に声を掛けられた永井はベンチへと戻っていく岩城の背を目で追うと、球審からの次の打者を促す声に振り向いた。その顔には先ほどまで浮かんでいた恐れは無く、覚悟を決めた顔つきで右打席へと入っていった。

 

(やれるだけ、やるんだ。沢山のことは出来ないけど、わたしにやれることをやるんだ!)

 

(さっきから左バッターが良いところに決まったスクリューを打ち返してる。ヒットにはされてないし、心配しすぎかな……。けどあの子が追い込んでから投げたスクリューを左バッターに打たれた覚えはほとんどない。むしろ三振に取れることの方が多いのに。……一応、試してみようか)

 

(……! スクリューから入るんですね)

 

(もしこれにもついてくるようだったら、少し使い方を考えないとね……)

 

 左バッター相手に使うことの多いスクリューを要求されて少し意外に思ったピッチャーだったが、特に躊躇する訳でもなくサインに頷き、ボールを投じた。

 

(膝下……入ってる! これを振り切って……!)

 

「ストライク!」

 

(えっ! ボールが……そんな位置に!?)

 

 振った位置より見てわかるほど低い位置で捕球されたボールに永井は少なからず戸惑いを覚えると、対照的にキャッチャーは今の空振りに頷くようにしてからボールを投げ返した。

 

(だよな。杞憂だったか。それどころかここまでバットが離れてるなら、もう一球投げてみるか?)

 

(……ベンチから見ていた限り、このバッターもさっきのバッターと同じようにバットを思い切り振ってきます。今見たスイングもパワーがありそうでした。わたしは球威があまり無いから、内を続けるのはちょっと怖いです……)

 

(ん……そっか。ならここはセオリー通り、対角線を突こう)

 

(アウトハイにストレートを少し外すんですね。分かりました!)

 

(サイドスローのストレートは見た目以上に横に流れるわ。騙されて振ってちょうだいよ……)

 

(まだ1ストライク。届くところに来たら……)

 

 一度横に振られたピッチャーの首が今度は縦に振られると2球目が投じられた。ホームに届くまでに内から外へと横切るようにストレートがアウトコース高めに構えられたキャッチャーミットに向かっていく。

 

(迷わずバットを振り切るんだ!)

 

(よし! 手を出した!)

 

 このボールに対し永井は投じられてからバットが届くと感じた瞬間、スイングを止めることは考えずに踏み込んでバットを振り切った。するとバットの芯より先でストレートが捉えられ、弾き返された。

 

(打ち取った……! ファーストフライだ!)

 

 外に外したストレートを打たせたピッチャーは綺麗とは言えない金属音が響き、フライアウトに取った喜びを露わにして後ろに振り向いた。

 

(えっ!?)

 

 しかし自身の想像より先にある打球を目にし、驚きを隠せなかった。

 

(くそっ、届かねえ……)

 

 下がって打球を追っていたファーストは自分を越えていく打球を足を止めて見上げると、前に詰めてくるライトに後を託した。やがてフライ性の打球が落ちてくると、ライトが頭の上に構えたミットで押さえ込むようにして捕った。

 

(お、落ちた……? それとも捕られた?)

 

 足の遅い永井はようやく一塁に到達すると、ライトに掴み取られたボールを見て不安げな表情になった。

 

「ナイバッチだー! 加奈子!」

 

「……! よ、良かったあ……」

 

 打球は内野と外野の間の落ちるとワンバウンドしたボールを押さえ込むようにしてライトが収めていた。バットの先で捉えた上に一切の迷いなく振り切った永井は手に痺れを覚えていたが、それよりもヒットで出れたことの喜びの方が優っていた。

 

(彼女はコントロールのある変化球で揺さぶりをかけてスイングを崩すピッチャー。そんな相手に自分のスイングを最後まで貫いた貴女の勝ちよ。……点差を考えると出来れば永井さんに残って欲しい気持ちもあるけど、次の1点はあまりに重要過ぎるわ)

 

「……中野さん!」

 

「任せるにゃ!」

 

 点差は7と遠いが、東雲はコールドゲームの成立が迫っていることや反撃のためにもまず1点を入れることを考えて代走を送った。

 

(わたし、少しは二人みたいに頼れる人に……なれたかな)

 

 永井はブルペンで野崎のボールを受けている近藤や労いの声をかけてくれている新田をさりげなく見ると、小さくとも確かな自信を胸に顔を上げてベンチに戻っていった。

 

「後はお願いします……!」

 

「永井の分も精一杯やってくるにゃ!」

 

 気合いを入れた様子で出てきた中野が手を上げると、それに気づいた永井も手を上げた。そして二人がすれ違う瞬間にパンッ、と心地よい音が響く。

 

(アタシも加奈子ちゃんに続くわ……!)

 

「おっと、里ヶ浜はさらに選手を交代するようです。8番の鈴木選手に代わり、逢坂選手が代打に送られました! 一矢報いようという里ヶ浜の気迫が感じられますね!」

 

「一矢報いるだけで終わらずに、最後まで諦めず食らいついてくれるとみよは思います〜」

 

「そうですね! 奮闘に期待しましょう!」

 

(絶対に打ちなさいよ。逢坂ここ……! 打たないと承知しないわ!)

 

(みんながあれだけ頑張ってるのに、ベンチで応援することしか出来なかったのはもどかしかったわ。ようやく巡ってきた出番。今打たなきゃいつ打つって言うのよ!)

 

 一塁につく中野を横目に逢坂が右打席に入っていく。そしてバットを見ながら息を吐き出すと、肩に入りすぎていた力が適度に抜けていくのを感じながらバットを構えた。

 

(ストレートは加奈子ちゃんのパワーでやっと内野を超えた……。芯で捉えれば良いんだろうけど、アタシも横から伸びてくるストレートなんて初めてだし……)

 

 初球、クイックモーションから膝下へのストレートが投じられる。これがストライクゾーンに入っていると判断した逢坂はバットを振り出した。

 

「ストライク!」

 

(やっぱり見づらいし、打ちにくそうね)

 

(空振ったか。引っ掛けてくれた方がゲッツー狙えていいんだけどな。まあ、ストライク取れるに越したこともないか。じゃあ次は……ん。なら入れるんじゃなく、低めに外すか)

 

(はい! それなら……)

 

 ストレートの軌道にバットが合わず、1ストライク。逢坂は初めて経験するサイドスローの軌道に戸惑いながらも、顔には出さずにバットを構え直した。そんな逢坂に対して膝下のボールを引っ掛けさせてダブルプレーを狙いたいキャッチャーだったが、ピッチャーに首を振られて一度サインを変更してからミットを構えた。

 

(高さには気をつけて……)

 

(またストレート! ……いや低い!)

 

「ボール!」

 

「スイング!」

 

 再び膝下に投じられたストレートは要求通り低めに外された。このボールに対して逢坂はバットを出そうとしたが、途中で振り出されたバットが止められた。しかし止めたタイミングが際どくキャッチャーからバットが身体の前に出たというアピールがされ、一塁審判に確認が行われた。

 

「……ノースイング!」

 

(あっぶな……! またあの時みたいに取られるところだったわ)

 

 あたかも平然とした顔つきのまま、内心穏やかじゃない心境で逢坂はバットを構え直す。スイングが認められず1ボール1ストライクになり、キャッチャーは次の要求に少し悩んだ。

 

(スライダーは決め球にしたい……。ストレートを続けたんだ。緩急をつけるか)

 

(分かりました! アウトコース低めに……)

 

 少し間が空いてから送られたサインに頷いたピッチャーは一塁ランナーに目をやる。

 

(やっぱり7点差だから走って来ない。盗塁失敗したらそこで終わりだし、ランナーを溜めたいんだ。ならこっちはあまり気にしすぎずに……バッターを打ち取る!)

 

 リードを大きく取って揺さぶりを仕掛ける中野だったがピッチャーはあまり意に介さずに投球姿勢に移ってボールを投じた。

 

(ようやく来たあ……!)

 

(なっ。軸がブレてない……!?)

 

 ストレートを狙う演技をして実際にはカーブにのみ照準を絞っていた逢坂は弧を描く変化にギリギリまで始動を溜めると、溜めた分を解放するような腰の回転でバットを振り出した。

 

(これを……転がす!)

 

 カーブの曲がる先を予想して逢坂がトップから振り下ろしたバットは鋭い金属音を響かせた。

 

(しまった! 広く空いてる一二塁間に……!)

 

 弾き返された打球は勢いに乗って一二塁間に転がっていき、内を中心に配球していたキャッチャーはカウントを気にしてゾーンに要求したことへの後悔に苛まれた。牽制に備えて一塁に寄っていたファーストは打球に一歩踏み出したが、その足を止める。

 

(やった! アタシもヒットで繋げ——)

 

 ユニフォームが地面に擦れ、砂煙が舞った。その光景を目にした逢坂は焦りが背筋を走る。

 

(二塁は……)

 

(こっちは間に合わんよ!)

 

 判断良く一歩目を踏み、一二塁間を抜けようかというゴロをダイビングキャッチで掴み取った相良は二塁のカバーに走った大和田が頭の上で両腕を交差しているのを立ち上がりながら確認し、すぐさまボールを送球に備えて塁に戻っていたファーストに送った。

 

(間に合って……!)

 

 懸命に足を動かした逢坂は無我夢中で頭から滑り込み、ユニフォームを汚しながら必死の形相で一塁ベースに手を伸ばした。

 

「アウト!」

 

(そんな……)

 

 決死のヘッドスライディングも界皇の淀みのない連携に及ばず、正確な送球がファーストミットに収まり逢坂のアウトが宣告された。その宣告が重くのしかかるように逢坂はベースを見つめて両手をつく。

 

「逢坂さん……。ま、まだ終わってませんよっ」

 

「……! 麻里安ちゃん……。…………そうね!」

 

 そんな逢坂に掛ける言葉を失いそうになった初瀬だったが力を振り絞るようにして声を掛けると、その言葉に力を分けてもらうように逢坂は立ち上がり、ベンチに戻っていった。

 

(悪くない足やけど、足の速さだけだったら相良はゲッツーを狙えたと。それが出来なかったのはリードを大きく取ってたから……あれは揺さぶりだけじゃなく、ゲッツーを少しでも取りにくくするためやったけん。おかげでチャンスを残されてしまったと)

 

 相良が無理なゲッツーを狙わずバッターランナーを確実にアウトにしたのを見て大和田は安心しながら腕を下ろす。そして足から滑り込んできた中野のちょっとした工夫に気づくと、気は抜かずに守備位置へと戻っていった。

 

(なんで捕るのよ……! 普通なら今のは抜けてるでしょ……!)

 

「これで2アウトになりました。里ヶ浜は次が最後のバッターになってしまうのか!? ……みよちゃん?」

 

「あ……えっと、次のバッターは左打ちですからあのシンカーを打つのは難しいかもしれません。なのでそれ以外の球を追い込まれるまでに狙いたいですね」

 

「おや……本当ですね。先ほど代走で出場し、その後はファーストを守っていた秋乃選手ですが……今、左打席に入りました!」

 

(……?)

 

 ネクストサークルから向かう途中、逢坂に声を掛けられた秋乃はそれに力強く頷くと、バッターボックスに入っていった。自分でもビックリするくらい心臓の音がうるさく体に響く。

 

(……小麦、緊張してるのかな。緊張……してるかも。でも、みんなの声はよく聞こえてる)

 

「打てるよー! 秋乃なら絶対打てるってー!」

 

「そうだ! ウチもそう思うぞ! だから自信を持っていけー!」

 

 グラウンド全体を見回すようにしながら地面をならす秋乃。外野が定位置にいることも、内野も定位置にいることも、彼女には不思議とよく見えていた。声援も一つ一つがよく聞こえていた。新田のも岩城のも、それ以外の多くの声援も彼女の耳に届いていた。

 

(このどきどきは……悪いどきどきじゃないのかも。みんなに期待されて……それに応えたいって身体が言ってるんだ!)

 

(守備を見る限り右利きだと思ってたが……左打ちなのか)

 

(定位置か……そうだよね。7点差でみんなが防ぎたいのは大量失点。コールドは狙いたいけど、そのために外野は前に出せないか。仮に打たれても単打で終われば、次の攻撃に繋げにくいもんね。……でも、打たせるもんか! このバッターで……終わらせる!)

 

 2アウトランナー二塁。ピッチャーから警戒されながら中野がジリジリとリードを広げていく。やがて通常より半歩分リードを広げたところで足が止められるとしばらく睨み合いが続き、そして目を切ったピッチャーが投球姿勢に移った。

 

(遠い!)

 

 低く投じられたボールが遠くに見え、秋乃は見送る構えに入った。

 

(えっ!)

 

 曲がってくるボールに驚きながらもバットは振り出せず、アウトコース低めに構えられたキャッチャーミットが乾いた捕球音を鳴らした。

 

(ギリギリ入ってる! 審判、取ってくれよ……!)

 

「……ストライク!」

 

「よし! いいぞ、その調子でいこう!」

 

「はい!」

 

(うー……あんなに曲がるんだ。びっくり……。スライダーだよね今の。気をつけなきゃ……)

 

 想像以上の変化に戸惑いながら秋乃はバットを構え直す。見送りに徹したことで彼女は今のスライダーの変化はイメージとして掴めていた。そんな彼女に2球目が投じられる。

 

(また外。今度は遠くない。打てる! ……! また、曲がってくるかも……)

 

 アウトハイに投じられたボールに秋乃はバットを振り出した。しかし振り出したバットの先をストレートが無情にも通過していく。

 

「ストライク!」

 

(しまったあ……! ストレートだった……)

 

(今、ストレートに振り遅れたように見えたな。まだあの子が投げるボールに慣れてないなら下手に球数を費やすよりは……3球勝負だ! 外れてもいいから、思い切り狙ってこい!)

 

(はい!)

 

(まだだ! 落ち着いて……ボールをよく見るんだ。今のも見えてたのに、さっきのスライダーに身体が備えちゃった。見たままを……打つんだ!)

 

(頼むにゃ秋乃。打ってくれにゃ……!)

 

 秋乃が打つことを信じて中野が三度(みたび)リードを広げると、ピッチャーの足が踏み込まれ、腕が振り切られた。

 

(内! 際どい!)

 

 インコース高めの四隅を思い切って狙ったストレート。外れる確証を感じなかった秋乃はすかさずバットを振り出した。すると巻き込むような金属音が鳴り、打球は高く打ち上がる。

 

(うっ……)

 

 自分の視界の外へと放たれた打球に秋乃は焦りの色を浮かべる。

 

(打ち取った……?)

 

(……内のストレートで差し込んだ分、球威に押されている! これは……落ちない!)

 

「ファール!」

 

(ほっ……)

 

 マスクを外してフライを追っていたキャッチャーだったが、見上げた打球は落ちてくる気配を見せず、高く打ち上がったままバックネットに当たった。そのことに秋乃が吐息をつくと釣られるように里ヶ浜ベンチからも吐息が漏れた後、再び声援が送られる。

 

(うう……なんとか当たったよ。もう少し早く振らなきゃだけど、これ以上早くすると変化球が打てないよ……)

 

「良いボール来てるよ! 腕も振れてる!」

 

 球審から渡されたボールをキャッチャーは投げ渡すと、ピッチャーは試合終了の間際から勝負に戻るように受け取ったボールの感触を確かめて集中し直そうとする。

 

(膝下の四隅をスライダーで狙えるか?)

 

(すいません……ちょっと一球、ボール球で間を置きたいです)

 

(あまりバッターに時間は与えたくないが、仕方ないか。ならこれで……)

 

(大きく外すんですね。分かりました)

 

 カウントは0ボール2ストライクのまま、4球目が投じられた。

 

(外、際どい!)

 

(しまった。少し中に入った……!)

 

 ピッチャーに焦りが浮かぶ中、アウトハイに投じられたストレートにバットが振り出された。するとおっつけて弾き返された打球は吸い込まれるように三塁側ファールスタンドへと入っていった。

 

「ファール!」

 

(ふぅ。大きく外すつもりが、意図せず厳しいとこつく感じになっちゃったな)

 

(うー。今のは少し外れてた……)

 

「秋乃さん! それで良いのよ!」

 

(りょー……うん! 分かった!)

 

 少し不満げな表情になる秋乃に一際鋭く東雲の声が聞こえ、秋乃は安心したようにバットを構え直した。

 

(追い込まれてからは多少外れていても際どければ振ってファールにするのは良い判断よ。……それもバットに当ててこそ出来ること。最初は高めが全然打てなかった貴女が打てないのが悔しいからと意欲的に練習を重ねた。しかも今ファールにしたのは貴女が最後まで苦労していた内と外の高め……。胸を張りなさい。今の貴女はそれだけのバッターなのよ)

 

(コントロールが乱れたな。……もう一球、今度こそ大きく外そう)

 

(焦っちゃダメだ。カーブを内に……)

 

(遅い球! ん……外れるっ!)

 

「ボール!」

 

 投じられた5球目はカーブ。遅い球に少しビックリした秋乃だったが弧を描いて曲がるボールが早めにストライクゾーンから逸れていくのを感じて見送ると、目論見通り内に外れてボールのコールが為された。

 

「……アウトコース低めへのシンカーだな」

 

「え? ああ……確かそういうデータが上がってたんだっけ」

 

「それもある。だがそれだけじゃない……。少なくとも追い込んでからのキャッチャーのリードは粘られても、シンカーの布石になるように配球されているように思える」

 

「そうかも……。でも里ヶ浜にデータ渡したなら打てるかもね」

 

「……どうだろうな。ここまで二人の左バッターがコースの分かっているシンカーをヒットに出来なかった。あのピッチャーのシンカーはそれほどまでに左バッターを仕留められる力のある決め球なのかもしれない……」

 

「来るのが分かっていても……打てない球」

 

 カウント1ボール2ストライク。秋乃がネクストサークルを見ると阿佐田から狙い撃ちのサインが送られており、秋乃はそれに頷いてバットを構えた。

 

(よし。コントロールは落ち着いたね。じゃあ……仕留めよう)

 

(はい……! これで今度こそ……お終いです!)

 

(打って繋げるんだ! 絶対に! ……そのためには)

 

 ピッチャーは首を縦に振り、自信を胸にセットポジションに入った。中野が先ほどまでと同じように半歩分リードを広く取る。ピッチャーはそれを必要以上に意識することなくクイックモーションに移ると、腕を振り切って中指と薬指の間からボールを抜き、狙い通りのコースにコントロールしてみせた。

 

(完璧なコースだ。このバッターのリーチじゃ届かない!)

 

(これだぁー!)

 

 アウトコース低めから四隅へと厳しく落ちるように投じられたスクリュー。このボールに対して秋乃はバッターボックスの外ギリギリに、加えて……前に踏み込んだ。

 

(なっ!? まさか……)

 

 ちょうどバッターボックスの角に当たる白線に踏み込んだ秋乃はそのまま足を沈み込ませた体勢を維持し、下から上へとすくいあげるようにバットを振り切った。

 

「いっ……けぇー!」

 

 バットの内側で捉えられたボールはレフトに向かって放たれた。振り出す確信を得た瞬間に走り出した中野に続くように秋乃も走り出す。

 

(キャプテン!)

 

 放たれた打球に対しレフトを守るレナは迷わず前に走り出した。スクリューを弾き返されたピッチャーはホームのベースカバーに向かいながら、彼女の守備に期待を募らせる。

 

(これは……強烈なスピンがかかっているわ)

 

 フライ性の打球へと突っ込むレナはボールの曲がり始めが早く、下向きに加速するように落ちてくる軌道に気付いていた。

 

「中野さん!」

 

「分かってるにゃ!」

 

 膨らみながら三塁に差し掛かった中野がベースを踏んだ頃、打球は落ち、ややセンター方向に軌道を変化させて跳ね上がった。

 

「落ちたあー!」

 

(……刺す!)

 

 フライの軌道から変化を予測したレナは不規則な打球をホームに向かって前進した勢いを維持したままジャンプして収めるとそのまま踏み込んでホームに送球を行った。

 

「回り込むのだ!」

 

(このホームを踏むために、全員がそれぞれに出来ることをしてきたにゃ。ワタシがその頑張りを届かせて見せるにゃ……!)

 

 中継に入ったサードが低い送球をそのままカットせずに流すと、矢のような送球はワンバウンドでホームに届こうとしていた。秋乃のバットを拾った阿佐田が送球を見て右から回り込むようにジェスチャーを送ると、中野はそれに応じるように走塁の勢いを保ったまま頭から滑り込み、右から回り込んでホームに手を伸ばした。次の瞬間、ボールを受け取ったキャッチャーが身体を反転させながらミットを落としてタッチをする。

 

(どうだ!?)

 

 中野の手に確かにタッチしたキャッチャーはその際どいタイミングに、カバーに入っていたピッチャーと共に球審の判定を待った。するとすぐさま判定が下される。

 

「……セーフ!」

 

(届いたにゃ……!)

 

 タッチより一瞬早くベースに手を触れた中野はその正確な判定を聞いて胸を撫で下ろした。その後キャッチャーがすぐに送球体勢に移ると、レナの低い送球に下手に突っ込めなかった秋乃が一塁ベースに戻っていく。

 

「やった……。打ったよー!」

 

「秋乃ー! わたしは信じてたぞー!」

 

「小麦ちゃーん! 凄い……凄いよ! ナイバッチー! 中野さんもナイラン!」

 

(今の打ち方は……そうだ。間違いない! 一昨日の素振りの時に見た……)

 

(バッター、よく打ったな……。確かに前で捌けば曲がり切る前には打てるさ。それでさえシビアな感覚が必要なのに、あの子のスクリューは完全にアウトローに決まっていた。バッターのリーチだと大きく踏み込んだ体勢を我慢してキープ出来ないと、軸がブレて打つどころじゃないぞ……)

 

(良かったあ……打てたよー。小麦はパワーが無いから……低めに落ちてくるボールに線で合わせても、ふつーのフライになってアウトになっちゃう。だからそのまま合わせるんじゃなくて、たまに打てるギュルギュルの打ち方を狙って出来るようにって……本当に、打てて良かった……)

 

「打ったね……シンカーを。今のは狙って打ったヒットだよ」

 

「……正直、私も予想外だ」

 

「ケイが……?」

 

「素直に認めるしかない……。この打席に限れば、私も同じリードをしていただろう。あのピッチャーのシンカーはたとえ好打者相手でも自信を持って投げ込めるボールだ。それが……まだ今大会打撃機会の無いバッターに打たれるとはな」

 

「ビックリしたよね。あんなに足速くて守備も良い動きしてたから。高めのボールへの振りが少しぎこちないからさすがにかと思ってたのに、今のは良い振りだったよ」

 

「……そうか。なるほどな。あのバッターは……」

 

(ようやく分かった。アタシ達は里ヶ浜と練習試合をしたからあの子のバッティングを知ってる。特にアタシは投げてやられっぱなしだったからね……。大会の練習用に撮影したあの試合の映像を分けてもらって、2回戦の対策をしたからよく覚えてる。けど……そうよ。それ以外の打撃データは無かったわ。つまりあの子の特徴に気付けるのは、練習試合をしたところだけ……)

 

(……彼女なら打てる可能性はあると思っていました。私も低めに決めた良いボールを打たれてしまいましたからね。その後の打席でようやく気付きました。彼女が低めのボールを得意とする……ローボールヒッターであることに)

 

 里ヶ浜に待望の3点目が入り、中野を迎え入れたベンチは大騒ぎと言っても過言ではないほど喜びに溢れていた。

 

「……気持ちは分かるけれど、まだコールドゲームを逃れたに過ぎないわ」

 

「……そうだね。この勢いで追い上げよう!」

 

 少しの間は同じように喜び特に秋乃のヒットを嬉しそうにしていた東雲だったが、しばらく経ちそろそろプレーが再開されそうになると引き締め直すように声をかけた。そして翼もみんなに声をかけた後、率先して応援に移ると東雲に打順を指摘されて慌ててバッターとしての準備を整えにいった。

 

(こむぎん達が掴み取った1点……これをただの1点で終わらせちゃダメなのだ。そのためには……つばさやしのくもに繋ぐことなのだ)

 

 バッターボックスに向かう阿佐田は九十九と目を合わせると互いに同じタイミングで頷き、真剣な顔つきで右打席に入った。

 

(あと一球で……ゲームセットだったのに)

 

「ボール!」

 

(む……)

 

(あの一球は……打たれちゃダメだったのに)

 

「ボール!」

 

「力抜いて!」

 

 ワンバウンドしたカーブをキャッチャーが身体を張って止めると、後逸を窺っていた秋乃はベースに戻っていく。

 

(あの一球は……完璧に決まっていたのに)

 

「ボール!」

 

(左バッターにほとんど打たれたことがないスクリューが……こんな時に完璧に打たれるなんて!)

 

「ボール! フォアボール!」

 

(……ラッキーなのだ)

 

 秋乃を早々に追い込んでからあと一球で試合終了かという状況が長く続き、さらには左バッター相手に強い自信を持っていたスクリューを完璧に決めたのにも関わらず、打たれてコールドゲームの成立しない6点差にされてしまったことは彼女にとって衝撃的であり、集中の糸は既に切れてしまっていた。なんとか立て直そうと声をかけるキャッチャーだったが、あれだけ自信を持っていたコントロールが乱れてしまい、ついにはストライクを取れないまま阿佐田をフォアボールで出してしまった。

 

(……監督)

 

(そうね。出来れば立て直して欲しかったけど……これ以上は後手に回ってしまうわ)

 

「鎌部さんを呼んできて」

 

「わ、分かりました!」

 

 北山監督は5回に2番手ピッチャーがマウンドに上がってから本格的に肩を作り始めた鎌部をブルペンから呼ぶよう指示を出すと、さらに選手を通して球審にピッチャー交代を告げた。

 

(交代……。鎌部先輩を、休ませることが出来なかった)

 

「……さっきの回満塁のピンチを凌いだのは良かったですけど、点取られた後の崩れ方がそれじゃエースからはまだ程遠いんですけど」

 

「は、はい……」

 

「失点することも決め球を打たれることもピッチャーをやる以上、当たり前。大事なのは打たれた後なんですけど」

 

「うう……その通りです」

 

「……なんてね」

 

「えっ?」

 

「今のは藤原先輩からの受け売りの言葉なんですけど。実際にやるのは簡単じゃない……気の遠くなるような想定を重ねた練習の末に、ようやく自信という形になるものなんですけど。去年……秋大会準決勝、帝陽戦。延長に入ってリリーフの粘り合いに負けてサヨナラを許した私から言えることは一つ。今抱いた気持ちを忘れるな。悔しさだけじゃない。自分への不甲斐なさからの怒り、自分のボールが信じられなくなる感覚、全てを忘れずに向き合え……私から今言えるのはそれくらいなんですけど」

 

「鎌部先輩……」

 

 普段どちらかと言えばあまり多くを話す方ではない鎌部はつい熱が入ってしまって恥ずかしがるようにそっぽを向くと、思い出したように再び声をかけた。

 

「……ああ、もう一つ。この試合のことは心配しなくていいんですけど」

 

「えっ? どういう意味ですか?」

 

「あの時の界皇に藤原先輩がいたように……今の界皇には私がいる。……それ以上の説明は要らないと思うんですけど?」

 

「は、はい! 勉強させていただきます!」

 

 そこには自信家の鎌部千秋がいた。ふてぶてしい笑いがなんとも彼女のことを象徴していた。

 プレーが再開され、右打席に入った九十九にボールが投じられた。クイックから投げられたストレートだったが、インハイに決まったこのボールに九十九は振り遅れていた。

 

(球速だけなら先発したピッチャーの方が速いはずだ……。当たらないはずはない)

 

(ランナー背負っての登板なのに、いきなり良い球来たね。……そっか。これも……想定してたもんね)

 

 投じられた2球目は膝下へのシュート。これを九十九は打ち返したが、三塁方向のボテボテのゴロになってしまう。

 

「ファール!」

 

(危ない……。なんてキレの良いシュートなんだ……)

 

 登板からたった2球で追い込んだ鎌部。次に出されたサインにも当然のように頷くと、投球に移る前に二塁に牽制球を送った。河北の帰塁の指示に合わせて秋乃がベースに戻ると、際どくもセーフの判定が上がる。

 

(ちぇ、少しリードを取りすぎだと思ったんですけど)

 

(危なかった……。あやかみたいにはまだうまく出来ないや)

 

(ランナーを見る余裕もあるのか……それでも繋がなくては。このピッチャーは去年の始めまでは決め球はほとんどフォークだったと聞く。しかし、次第に他の球種も使用するようになったらしい。先ほどのピッチャーのようにカウント次第で……という情報も特にない。だが、一番に警戒しないといけないのはやはりフォークだろう。ストレートと同じようなスピードで落ちるボールだ……振らされないようにしないと)

 

 そして3球目が投じられたコースは再び膝下。スピードのあるボールに九十九は少し引きつけてからバットを振り出した。

 

「ストライク!」

 

(くっ)

 

 九十九はボールがバウンドしてから捕球されたことに気づくと、振り逃げを試みて一塁へと走り出した。だがボールをしっかり捕球したキャッチャーは落ち着いて一塁に投げ、一塁審判からアウトのコールが上がった。

 

(しまった……今のは、フォークだったじゃないか……)

 

(頭に入っていても手が出てしまう……それが私のフォークなんですけど)

 

(……1点止まりですか。結局私たちは2打席をかけてようやく何人かがストレートとフォークを辛うじて見極められるようになりました。彼女を抑えで使われた場合……攻略はかなり難しいかもしれません……)

 

 スリーアウトチェンジ。エースの登板で里ヶ浜の反撃のムードは一変し、6回の裏の攻撃が終了した。流れを絶ってしまったことに九十九は言いようのない悔しさが込み上げてきていたが、阿佐田に背中を叩かれると、共にベンチへと帰りミットを手に取った。

 

(6点差か……。そうなると私たちが勝つには当然7回の裏で6点は返す必要がある。となれば……)

 

「……逢坂さん。準備は出来てるわね」

 

「勿論よ!」

 

 守備につけるよう心構えをしていた逢坂に東雲は頷くと、そのまま選手の交代を詳細に告げた。

 

「おや、先ほど代打で出た逢坂選手はそのまま守備に……ライトにつくようです。そしてライトを守っていた九十九選手はセンターに……そして中野選手に代わって入る近藤選手がキャッチャーを務めるようです」

 

(6点差……しかもエースが登板したことを考えると、この回1点でも入れられたらそれはもう、勝ち目が無いと言っていいかもしれない)

 

「表情が硬いですよ」

 

「え? そう……かな」

 

「一度深呼吸をしませんか? 私もしたいと思ってたんです」

 

 野崎の提案で近藤は二人で一度大きく息を吸い、吐き出した。

 

「近藤さん。私のことも、そして頑張ったあなたの事も信じてください」

 

「野崎さん……」

 

(野崎さんのことは勿論信じてるわ。けど……そうね。あの紅白戦から私なりに、色々考えるようになったわ。どれだけのことが出来るようになったかは正直分からない。それでも自分の頑張りを信じて、今日の試合に全て……出し切ろう)

 

「ええ。そうするわ。……行きましょう!」

 

「はい!」

 

 最後に野崎の左手と近藤の右手が重ね合わされると以前よりも硬くなった手のひらをお互いに感じながら、手を離してプルペンからグラウンドに出ていった。

 

「みんな! 声出していこう!」

 

(……前にここちゃんに言ったように、あたしはある程度のところまで勝ったり負けたりを楽しめれば良いって思ってた)

 

 1点返したものの遠い点差に息を呑むみんなに翼はキャプテンとして、というよりは彼女という一人の選手として声をかけていた。そんな彼女がゆかりには楽しそうに見えた。

 

(思ってたのに……。一昨日の試合で、負けた時。あたしは声をかけられなかった。あたしは誰かと比べられるのを恐れて、先に自分を誰かと比べて……比べられまいと必死になって、いつからか“あの目”が出来なくなったんだ)

 

 ゆかりは自分の手のひらを見つめる。そこには爪が食い込んだ痕が残っていた。

 

(全力で取り組むことが怖かった。それで比べられるくらいならって思ってた。でも……だからかな。あの時、きっと本気で悔しいとは思えてなかった。あの子も含めてみんな……誰とも比べずあたしのことを信じてくれてたのに。あたしは、よりにもよってあたしが一番嫌いな誰かと比べることで……みんなを裏切っちゃったんだ)

 

「あはっ……」

 

 そしてゆかりはいつだったか、姉から言われた言葉を思い出した。

 

「ゆかりは……笑うのが下手だね……」

 

(そんなことない。って突っぱねたっけ……)

 

 浮かべた笑いはゆかり自身には見えなかったが、きっと今の自分は上手く笑えていないという気がしていた。

 

(ピッチャーだからって……舐めないで欲しいんですけど!)

 

(振ってくる! けど、よく低めに決まってる……!)

 

 先頭バッターとして右打席に入った鎌部に対し近藤はいきなり四隅で厳しく攻めるのではなく、まず紅白戦でしたようにストレートの球威を生かして低めのストレートで攻め立てた。するとまず低めギリギリに入ったストレートを鎌部はじっくり見送り1ストライク、次のストレートに鎌部はバットを止めて見送り低めに外れて1ボールになる。そして3球続けて投じられたストレートが真ん中低めやや外寄りに向かっていくと、鎌部はタイミングを合わせてバットを振り出した。

 

(うっ。ボールの力に押された……。切れるな!)

 

「ライト!」

 

 弾き返された打球はライト線にふらふらと上がっていた。その打球に近藤はライトに捕球指示を出すと、逢坂が懸命に前に迫ってくる。

 

「ここー! 切れるよー! 飛び込めー!」

 

「……! 分かったわ! ……たあっ!」

 

 ストレートの力に押された打球がフェアゾーンから逸れていくのがファーストにいた秋乃から見えた。彼女からの指示が聞こえた逢坂は無理に飛び込んで後逸するのは避けようとセーブしていたリミットを解放するように飛び込んだ。

 

(放さない……絶対っ!)

 

 伸ばしたミットの先に乗っかるように収まった打球を掴み上げるようにして逢坂はそのまま身体を滑り込ませる。そしてやってきた一塁審判が彼女のミットを確認すると、判定が下された。

 

「アウト!」

 

(ふふ……さすがアタシ、なんてね)

 

(捕ったか……。切れても届かないと思ったんですけど)

 

 溢れることなく収まったボールに逢坂は自信ありげな表情で安堵する。そしてみんなからキャッチや判断を褒める声に照れながらも秋乃に礼を言ってからライトに戻っていくと、九十九からも今のはよく届いたと褒められ、複雑ながらも今はそれを素直に受け入れていた。

 

「1アウト! 内野、セーフティ警戒!」

 

 まず1つ目のアウトを取れたことに安心した近藤だったが気は抜かずにキャッチャーとして声を張り、大和田の駿足を警戒してバントに気をつけるよう内野に指示を出した。

 

(高さは悪くなか。けどコースが甘か!)

 

(パームが……!?)

 

 低めに決まったストレートが見送られ1ストライク、インハイに厳しく投じたストレートが大和田の見極め通り内に外れて1ボール。そして投じられた3球目のパームに大和田は少しぐらつきながらも踏ん張ると、中に甘く入ったパームを捉えた。痛烈なライナーは今にも翼の頭を越えようとしている。

 

(抜かせないっ!)

 

「アウト!」

 

(えっ!?)

 

「ああっ! 捕った! 捕りました! 抜ければ長打は間違いないという打球でしたが、ジャンプ一番!」

 

 左中間に突き進むライナーを遮断するようなジャンプで飛んだ翼は打球を掴み取った。届くか微妙な打球に翼は手に伝わった衝撃と着地してから確かに収まったボールを見て、「やった!」と素直に喜びを露わにしていた。

 

「翼さん! ナイスキャッチです……!」

 

「ありがとう夕姫ちゃん! あと1つ!」

 

「はい!」

 

(そうだ……。倉敷先輩のチェンジアップと違って野崎さんのパームは高さはともかく、まだコースが安定してないのよね。けど今のが有原さんが届く低い弾道になったのは緩急が効いていた証拠! それにこれで2アウト……!)

 

(……神宮寺にしたように里ヶ浜のピッチャーも対策は練ってきた。けどキャッチャーが変わったことで、配球も変わった。このキャッチャーは強気な感じがする。その違いが厄介だな。……なら)

 

 2番打者の相良が右打席に入る。するとベースに覆い被さるようにして構えた。

 

(これは……)

 

(確かこのピッチャーは先発と違って、外のコントロールはそこまでだったはず。この構えなら外は真ん中だ。少しでも甘く入ればあたしなら持ってけるよ。……じゃあ、どうするか。キャッチャーじゃなく、基準がピッチャーに移れば……)

 

 その相良への初球、近藤の要求は胸元へのクロスファイヤー。すると相良はボールが投げられる前にバットを短く持ち直した。

 

(えっ……! 読まれた!?)

 

(当然内に投げてくる!)

 

 窮屈な体勢ながらも内に投げられたストレートを短く持ったバットの芯で的確に捉えた相良が放った打球は三遊間を鋭くゴロで抜いていき、レフト前ヒットになった。

 

(2アウトになったからって攻撃を休めるつもりはないよ)

 

(やられたわ……。けど、落ち込んでいる暇はないわ)

 

「2アウト! 近いところで!」

 

 2アウトランナー一塁となり、3番打者が右打席に入ってくる。

 

(このバッターはさっきの打席でフォアボール。清城との試合でもそうだったけど、この人は粘って次の草刈さんに繋げてくることが多い気がする。得意なコースは外……外はボール球にするとして、初球はやはりストライクを先行させておきたいわ。……野崎さん)

 

(一つ目の……ストライクを取るクロスファイヤーのサインですね。分かりました)

 

(今日の試合、外の甘いところには徹底して来てない。データが取られるのは珍しいことじゃないけどね……。確かに私は外の方が得意だよ。けど……)

 

(振ってきた……!)

 

 インコース真ん中のストライクゾーンに投じられたストレートにバッターは初球からバットを振り出した。するとやや詰まった当たりながらも打球は二遊間を越えてしっかりセンター方向に弾き返された。

 

(回れるか……?)

 

(三塁はいかせない!)

 

 この回からセンターを守る九十九が距離間隔の掴みにくい正面に放たれた打球に判断良く前に出ると1バウンドしたボールが再びバウンドしようかというところをすくいあげるように捕り、すかさず三塁に送球を行った。すると二塁を回った相良はコーチャーの指示で二塁に戻っていく。

 

「おお……良い動きなのだ! よく動けてるのだ!」

 

「ああ、自分でもそう思うよ。あおいのサードと同じで、夏大会が終わってから練習した甲斐はあったね」

 

 詰まった打球を捕れないかと追い縋っていた阿佐田と九十九は短く会話を挟んでからそれぞれのポジションへと戻っていく。

 

(……回してしまったわ。このバッターの前に切りたかったのに。ここは一旦……)

 

「タイムお願いします」

 

「タイム!」

 

 次に迎える草刈を前に近藤はタイムを要求し、マウンドへと駆け寄っていった。

 

(良いタイミングのタイムよ。先ほど野崎さんは彼女に満塁ホームランを打たれたんだもの。私たちはもう全員が集まれる守備のタイムは使い切ってしまった……。後は貴女たちで乗り越えるしかないわ)

 

「野崎さん。正直今私は一杯一杯で……あまり多くのことを話せないわ。けどね。私は野崎さんなら彼女を抑えられると思うわ」

 

「近藤さん……」

 

「さっき一つだけ伝え忘れたわ……。キャッチャーとしてはまだまだ足りないどころだらけの私だけど、それでも私のことを信じて」

 

「はい! 勿論……ですよ」

 

 野崎は先ほどの打席でレナに打たれた満塁ホームランが本当にショックだった。しかしあのバッターの凄さは痛いほど感じながらも、不思議と投げることは嫌だとは思わなかった。心に引っ掛かりがない、そんな感覚を彼女は感じていた。

 そんな野崎はキャッチャーボックスに座った近藤が構えたキャッチャーミットを見つめると、ボールを投じた。

 

(……! クロスファイヤー……)

 

 近藤の要求通り胸元に厳しく投じられたストレートをレナは見送った。すると威力のあるボールを親指で押さえ込むようにして捕り、ボールの力が伝わるミットをそのまま右腕で支えきった。

 

「……ストライク!」

 

「……!」

 

(入ってるのね……)

 

「野崎さん、良い球来てるわ!」

 

 内に厳しく決まったストレートにストライクの判定が上がり、レナは少し目を見張った。そして警戒心を強めるように構える彼女に投じられたのはパーム。タイミングを合わせようと踏ん張るレナだったが、これは内に大きく外れており、そのまま見送って1ボール1ストライクとなった。

 

(えっ……良いんですか)

 

(大丈夫よ。高ささえ間違えなければ)

 

 そして3球目が投じられた。

 

(えっ!?)

 

 そのボールにレナは意表を突かれた。続けて投じられたパームはアウトコース低めの際どい高さに収まり、ストレートに張っていたレナはタイミングが合わずにバットを振り出せなかった。

 

「……ストライク!」

 

(チェンジアップを続けてきた……!?)

 

(野崎さんのパームは確かにまだ不安定。けど、野崎さんが投げる球の多くはストレート……ここまでもバッターは基本的にストレートに張って、パームは最初から狙っていなかったように思える。野崎さんのストレートはそれだけ相手の印象に残っているのよ。特にパームはほとんど続けて投げないから、その次はストレートと張られやすいわ。……勝算はあったとはいえ、ちょっと賭けだったけどね)

 

 少し危なかっしい感じを自分で覚えながらも上手く狙いを外せて追い込めたことに近藤は手応えを感じながら野崎にボールを投げ返す。

 

(1ボール2ストライク。カウントに余裕はあるわ。草刈さんの打率が落ちるアウトローを厳しく狙うのも手だけど……。私は野崎さんと組んでいて感じたことがあるわ。サウスポーが投げるボールは左から投げる分、強く力を込めるとボールが右にいきやすい。外に投げたボールが右に逸れると中に入っちゃう……コントロールに自信がない野崎さんは入らないように厳しくと、結局アウトローはベストのストレートよりは落ちている気がするわ。コントロールもつけにくそう。けど……内のストレートは右に逸れても、ボール球。力を入れて思い切って狙いやすいんだって……それが今の貴女の一番のストレートだと思うの)

 

(2つ目のサイン。クロスファイヤーを……厳しく、ですか)

 

 レナを追い込んだ近藤は実際にはそこまでの時間ではないが、過ごしてきた時間を感じるように長く考え込んでいた気がしていた。そして彼女から送られたサインに野崎はしっかり頷いた。構えられたミットが野崎の瞳に大きく映り、そこに野崎は力の限りのストレートを投じた。

 

(外じゃない……内に! けど、当ててみせる……!)

 

 内に投じられたストレートにレナは先ほどの打席でも感じたような感覚が走ったが、経験した軌道に身体が本能的にバットを振り出していた。するとバットは内の狭いポイントでボールの下を掠った。僅かに変わった軌道に近藤はとっさにミットを上に伸ばす。するとミットの上を掠って通過したボールは……キャッチャーマスクの金属部分に当たった。跳ね上がったボールは近藤の頭を越え、すぐさま落ちてくる。そのボールを近藤は反時計回りに倒れ込むようにしながらミットを伸ばし、掴み取った。

 

「……ストライク! バッターアウト!」

 

(……今のを捕った? 後ろに落ちてくるボール。しかも一瞬の出来事……なぜ、あの一瞬で後ろに落ちてくると確信したの? ……!)

 

 辛うじてバットに当ててファールで逃れたと思ったレナだったが、今目の前で起きた光景に現実とは思えないほど驚いていた。するとレナは前へと振り向く。そこには頭で判断するより早く、とっさに指をボールの位置に向けていた野崎の姿があった。それを見たレナは観念したように微笑を浮かべると、ベンチへと戻っていく。後ろでは二人が喜びを分かち合う声が聞こえていた。

 

「空振り三振に切って落としました! これで……界皇の得点ボードに初めて0が刻まれたことになります!」

 

 7回の表を無失点で終えた里ヶ浜、6点差に挑む7回の裏が始まった。

 

(うわっ!?)

 

「ボール!」

 

 先頭バッターの翼に投じられたのはインハイへのシュート。目の前に食い込んでくるボールに翼は身体を仰け反らせる。

 

(うー……厳しく攻めてくるなあ)

 

(油断はしないんですけど。そっちがそうしたように今度はこっちがキャプテンを抑えて……私たちが勝つんですけど)

 

「ファール!」

 

(しまった……打たされちゃった)

 

 2球目は肩口から入ってくるカーブ。これに始動を溜めきれなかった翼は早くボールを捌くと大きくフェアゾーンから逸れたゴロになった。慎重に翼がバットを構え直す中、投じられた3球目を翼は僅かに外に外れていると感じ、見送った。

 

「……ストライク!」

 

(バックドアで入ってくるシュート……しかもコースギリギリ! 凄い……全国にはこんなピッチャーがまだまだいるんだ。でも諦めない! 追い込まれたから構えを変えて……)

 

(遊び球はいらないよね。……仕留めるよ)

 

(膝下からフォークを……落としてやるんですけど!)

 

 1ボール2ストライクからインコース低めのストライクゾーンの高さからボールゾーンへと落ちていくフォーク。これを翼は左足を上げた体勢のまま始動をギリギリまで溜め、解放するかしないかのタイミングで見送る判断をした。

 

「ボール!」

 

(……あ、危なかった……。手が出るところだった。でもこれを簡単に振らされちゃダメなんだ……)

 

(見た?)

 

(……かなり始動を溜めてたんですけど。仮に見極められても、あれじゃバットは間に合わないんですけど)

 

 そんな翼にあまりに引きつけ過ぎていると感じた鎌部は5球目を投じた。再び投じられたフォークがアウトコース低めに落ちてくる。すると翼は上げた左足をようやく踏み込み、さらに軸足の右足がつま先立ちになると、腰がスイングとは逆方向に捻られた。

 

(なっ)

 

 すると予想を超えてヘッドスピードが増していくのに気づいた鎌部は嫌な予感が走った。その予感は現実となり狙い通りストライクゾーンの低めギリギリに投じたフォークが捉えられ、右方向に鋭く弾き返された。

 

(あれは……ツイスト打法!)

 

 ゆかりが放たれた低い弾道の打球の行方を追うと飛び込んだファーストの先を抜けたところでボールはバウンドする。

 

「フェア!」

 

(しまった……。フォークは力の無いボール。ストライクゾーンに入れにいくのは相手が見に徹している時だけだと決めていたのに、読み違えたんですけど……)

 

 勢いのある打球に深い位置でライトが追いつくと二塁に送球が行われたが、ボールが届くより翼が滑り込んだ足が二塁ベースを踏む方が早く、ツーベースヒットが認められた。ボールが鎌部に投げ返されると、塁に立つ翼はヒットを打てたことを嬉しそうにしながらも、すぐベンチに向かって「さぁ、ここから反撃しよう!」とあくまで諦めない姿勢を見せ、東雲もそれに頷き右打席に入っていた。

 

(このピッチャーはある時期から、フォークを多投するスタイルを変えている。その分、配球は読みづらい……けど一つ割合が多く増えた球種があった。それはカーブ……ほとんど投げていなかったそれを次第に精度よく投げるようになったわ。有原さんがフォークを捉えた今、狙うは……)

 

(諦めない、なんて。簡単なことだと思ってたのになあ……)

 

 ゆかりはため息をついた。そのため息が吐息なのか嘆息なのか、そして誰に対するものなのか。もう彼女はそれが分かっていた。

 そしてグラウンドでは東雲がアウトローに厳しく投じられたカーブを捉え、ライトとセンターの間に落ちるヒットにしていた。落ちる確信を得ていた翼は迷わずホームまで還り、5点差にまで迫った。

 

「……甘かった?」

 

「いや、どっちも……良いところに決まってたよ。慰めとかじゃなく、本当にね……」

 

「それは分かってるんですけど。私も良いところに投げた感覚はあったんですけど。……ただピッチャーってのは良いところに投げても打たれることはあるし、悪いところに投げても打ち取れることはあるんですけど。……まったく、本当に厄介なんですけど」

 

(中々藤原先輩のようにはいかないんですけど。けど……私は私なりに、色々考えてきたんですけど。先輩はピッチャーたるもの自信家であれと言った……それは私も賛成ですけど、少しだけ私流に変えても許されるなら……ピッチャーはふてぶてしくあれ、なんですけど)

 

「もうアイツらには回らない。今日はとりあえず……気にせず後を抑えるんですけど」

 

「それはいい。私も、全員に失点させちゃったからね……これ以上はゴメンだと思ってたんだ」

 

 キャッチャーと言葉を交わして今やるべきことを見つめ直した鎌部は5番の野崎に対してボールを投じる。ストレートに振り遅れた野崎は今の彼女から高坂から感じたのと同じような恐ろしい感覚を覚えていた。しかし、それでも立ち向かおうと0ボール2ストライクから振り出されたバット。アウトローの四隅を突くように投げられたスピードボールは野崎のバットから逃れるようにシュート回転していく。そして芯を外して打ち上がった打球が落ちてくる。

 

「アウト!」

 

(うっ……)

 

 打球はサードへのファールフライ。これが難なく捕球され、1アウト。

 

「ストライク!」

 

(いきなりフォークだと!?)

 

 続く岩城には初球からフォーク。外寄りに投じられたこのボールが低めに落ちていくと、これを岩城は振らされてしまった。

 

「ストライク!」

 

(くぅ……。追い込まれてフォークが来る前にと思ったんだが……)

 

 決め球のフォークを嫌って早めに仕掛けた岩城だったがそれが仇になり、続けてボールゾーンに落ちたフォークを振らされてしまう。そして3球目がアウトハイに投じられた。

 

(高めだ。フォークはない! 振り切れ!)

 

「おりゃあああ!」

 

 アウトハイに投じられたストレートに岩城は力の限りのフルスイングで振り切った。そしてボールはその上を通過し、立って構えられたキャッチャーミットに収まった。

 

(しまった……! 釣り球……!)

 

(本当に決め球のバリエーションが多い……。けど、まだ終わりじゃない! 強がりじゃない……だって後ろには逢坂さんと小麦ちゃんがいる。二人とも私たちの中ではバッティングに慣れるのが早かった。それにその後ろは上位打線。私が繋げれば、まだチャンスがある!)

 

「ストライク!」

 

 7番打者として右打席に入った近藤はインハイのストレートに振り遅れる。そしてバットを短く持ち直した彼女に再びストレートが投じられた。

 

「ストライク!」

 

(お願い……。終わらせたくない……)

 

 アウトハイに投じられたストレートにバットが届かず、2ストライク。

 

(当たって……!)

 

 膝下に投じられたスピードボールに振り出されたバットは……空を切った。ワンバウンドしたフォークを収めたキャッチャーは素早く近藤の背中にタッチをし、最後のアウトが取られた——。

 

「両校、礼!」

 

「「ありがとうございました!」」

 

 両校の部員が向かい合うように並ぶと、9対4で界皇高校の勝利が宣言された。グラウンドから拍手が飛ばされる中、レナに握手を求められた翼は顔に力を込めたまま手を握った。

 

「……試合が始まる前、二人にインタビューをしました。お互い厳しい練習の末に培われた強みを聞いて、界皇は『揺るぎない自信』、里ヶ浜は『限りがない可能性』と答えました。それは全然違うものに聞こえたけど、今の試合を見て思ったんです。可能性は自信という花を咲かせる種なんだって。私たちにはまだまだ可能性が沢山あって、その一つ一つが大きな自信に繋がるものなんじゃないかって。きっとそれは男子のものだけでも、女子のものだけでもなく。挑戦する人がみんな持ってるものなのかなって……思いました」

 

「みよちゃん。……そうですね。お互い上を目指して挑戦した両校に……今は心よりの拍手を送りましょう」

 

 試合が終わり、また次の試合の準備が始まる。新しく試合を見にきた者もいれば、去る者もいる。スタンドの出入り口まで来たゆかりも、また球場を去ろうとしていた。

 

「……椎名さん。ですよね」

 

「あなたは確か剣道部の……」

 

「塚原です。応援に来ていたんですね。私はこれから激励の言葉を送りにいこうと思うのですが……良ければ一緒に来ませんか?」

 

「……今日は……遠慮しておきます。今のあたしには……掛ける言葉がありませんから」

 

 握手を終えてベンチへと足を向けた翼はキャプテンとして我慢していた涙が一気に溢れ出ていた。いくら拭いても、涙はとめどなく溢れ出ていく。それは翼だけではなかった。そんな翼を見たゆかりは塚原の誘いを断ると、球場を後にしていた。

 

「……どう? データを渡した甲斐はあった?」

 

「ああ。そのまま弱点を突ききれるか、対応してくるか……。対応するならどんな対応なのか……よく分かったよ」

 

「そっか。良かった」

 

 宿舎に帰った帝陽は乾が直々に収集した情報を共有しようとしていた。

 

「これで全部? いやー……沢山取ったね」

 

「ああ。見るべきところが多かったからな」

 

「あれ? まだノートあるみたいだけど……」

 

「これか。これは……この大会では必要ないさ」

 

「そう? なら良いけど……」

 

 渡すべきノートを全て渡した乾は廊下に出た。すると慌ただしく支度をまとめる音が聞こえてくる。トーナメントにおいての負けが意味するところを感じながら、乾は外に気分転換にでも出ようかと思った。すると鈴木とばったり会った。偶然かと最初は考えた乾だったが、その様子から部屋から出た自分を追っていたのだと気づく。

 

「会えて良かったです。あの……良ければこれを受け取ってくれませんか? 顧問の電話番号で、野球部の連絡先なんですが……」

 

(……敗北したその日に、逞しいものだな)

 

「受け取ろう。といってもうちは先までスケジュールが詰まっているからな……大会が終わっても練習試合を組める保証は出来ない」

 

「はい。分かっています。ですが、もし機会があれば……お願いします」

 

「……ああ。また機会があれば会おう。今度はお互いマスクを被った状態でな。鈴木和香よ、その機会が来ることを楽しみにしているぞ」

 

「え……!?」

 

(さらばだ。若き芽よ。また会える日まで)

 

 鈴木から連絡先をもらった乾は背中を向けて去っていく。名前を呼ばれた鈴木が驚いて固まっていると、彼女からは見えなかったが乾は嬉しそうに笑っていた。

 

 界皇との試合が終わり、数日後。野崎は高架下でいつものように投げ込みをしていた。

 

「アンタ、大会の疲れはもう取れたの?」

 

「あ……高坂さん! はい! しばらくは身体が重かったですが……」

 

「そりゃあね。で、なにをしてるのよ」

 

「え……あっ。これは……」

 

「言ってみなさいよ」

 

「その……しゅ、シュートの練習を……」

 

「……はぁ。そんなところまでアイツに似なくていいのよ」

 

 高坂はため息をつきながら固定している右腕に響かないように慎重に上から降りてくる。

 

「アンタに最後のアドバイスよ」

 

「え……まさか、シュートを……」

 

「馬鹿言ってんじゃないわよ。誰が自分の決め球をやすやすと教えるもんですか」

 

「うう……すいません。そうですよね」

 

「いい? アンタはね。あまりに野球を知らなすぎるの」

 

「野球を知らない……確かにそうかもしれません」

 

「ピッチャーってのはその出来次第で試合を大きく変える……。アンタもそのことは大会を通してよく分かったでしょ」

 

「……はい」

 

「全てを背負うピッチャーはチームで1番、野球に詳しくなきゃいけない……。それだけはアタシの中で変わってないわ。知りなさい、野崎。野球を……。そうね。まずはストレートについてちゃんと知りなさい」

 

「ストレートを……ですか?」

 

「そうよ。どうしてストレートが浮くように感じるのか。細かい原理までちゃんと調べるのよ。そうすれば、そんな明らかに投げれてないシュートよりは……ましなシュートが投げられるかもね」

 

「……はい! 分かりました! ……あの。最後のアドバイスというのは……」

 

「……忙しくなるのよ。もうアンタに構っている時間はないの」

 

「そ……そうなんですか」

 

「だって……元ピッチャーのくせに、向月の外野のポジションを獲得しようなんていう馬鹿がいたからね。そいつに時間使ってやらなきゃいけないのよ」

 

「あ……。……良かった、ですね」

 

「ん……」

 

 続けて放たれた言葉に野崎は心から安心すると、そんな野崎に高坂は小さく返事をした。すると高坂は珍しく戸惑った様子で、野崎に再び話しかけた。

 

「……あのね」

 

「はい。なんですか?」

 

「前にアンタを向月に誘ったじゃない」

 

「は、はい。ありましたね……」

 

「でもアイツのことは関係なく。今アタシは——」

 

 ——パァァァァン。高架下に電車の音が響き渡った。その音に口を開いていた高坂はしばらく唖然としたが、突然吹き出すように笑った。

 

「こ、高坂さん? すいません。今の音で聞こえなくて……」

 

「ふふっ。そう……。……そうね。なら、もう一度言ってあげる。アンタが向月に来なくて良かったわ」

 

「ええっ! それはどういう……」

 

「だって。きっとアンタはアタシと仲間でいるより……」

 

 高坂は道を上りながら左手だけで器用に袋から棒のついた飴を取り出し、一番高いところに立った。

 

「ライバルでいたほうが面白いからよ!」

 

「……! ……そうですね。私もそう思います! いつかあなたに追いついて……そして追い越してみせますから!」

 

「良い返事ね。でも勝つのはアタシたち、全国No.1(ナンバーワン)バッテリー……よ」

 

 野崎の返答に満足そうにした高坂は飴を咥えると、そのまま背を向けて去っていった。そんな高坂を見た野崎はまだ遠い位置にいる彼女を追い越せるよう頑張ろうという思いを胸に抱いたのだった——。

 

 ちょうどその日の翌日。授業後の翼にNINEで一つのメッセージが届いていた。

 

『楓の木の下で待ってる。練習の前に……来てくれないかな』

 

 明條戦後に送ったメッセージから途切れていたゆかりからのメッセージに翼は走って向かった。場所はすぐに分かった。ひまわりグラウンドから見える大きな楓の木。その下でゆかりは待っていた。

 

「……や。急にごめんね」

 

「全然いいよ! それよりどうしたの……?」

 

「……あのね。前に翼に好きなことが好きって言えなくなる日がくるって言ったことがあったでしょ」

 

「……うん」

 

「あれの意味分かったんだ。あたしはさ。すごい姉を持った同じ立場の翼とね、あたしを比べてたんだ。だから……姉と比較されて、そんな日が来てない翼を見て……翼をあたしに近づけようとしたんだ」

 

「そう……だったんだ」

 

「謝って許されるようなことじゃないかもだけど……ごめんね。界皇との試合を見てさ、あたしも少しは自分の分からなくなってきた部分が分かってきたんだ」

 

「そっか。ん……いいよ。謝ってくれたし、私も改めて野球のことを考える良い機会になったからさ」

 

「……優しいね」

 

(その優しさがちょっと眩しいくらいだよ……)

 

(椎名さん……)

 

 翼はそんなゆかりの告白を聞いて、二つのことを思った。まずは明條との試合の後も自分たちの試合を見てくれたこと。そして自分には分からないが、彼女がずっと気にしていた何かがようやく一つの答えを出そうとしていること。翼は一瞬、野球部に誘おうかと考えた。しかし相談した時に東雲に言われたことを思い出すと……一つだけ問いかけた。

 

「椎名さんは……これからどうしたい?」

 

「これから……?」

 

「うん。椎名さんが今までどんなことをどんな思いで選んできたのか……それは分からないけどさ。でもこれからのことなら……私でも聞けるから」

 

(これから……かぁ。考えたことなかったな。でもみんなを裏切っちゃったあたしにこれからなんて……。……ん)

 

「ちょっとごめんね。……え……」

 

 振動に気づいたゆかりは携帯端末を取り出した。サッカー部の友人からの一件のメッセージ。そこにはただ一言『待ってるよ』と書いてあった。

 

(……そっか。まだ、こんなあたしでも……これからがあるんだ)

 

 ゆかりはしばらく目を瞑り、考えた。そして……自分で道を選んだ。

 

「あたしは……サッカー部で頑張るよ。今までよりもっと」

 

「……そっか。うん。良いと思うよ! 応援してる!」

 

 翼は少なからず一緒に野球をやりたい気持ちもあった。しかしゆかり自身が選んだ答えを否定することだけはしたくないという気持ちのほうが強かった。翼は彼女の答えに元気いっぱいの声で力強く頷いた。そんな翼を見てゆかりは笑った。翼は初めて今の彼女の笑顔を見た。そんな気がしていた。

 ゆかりは楓の木の下から出ていく。そしていつも練習しているサッカー場へとやってきた。するとそこで待っていた友人からある一つの物をプレゼントされた。それはまだ真新しい楓の葉を押し葉にして作ったアクセサリーだった。




これにて第2章完結となります。

次回の更新は一旦間が空きそうです。現在の予定では3月7日〜13日の週。何か変更があったら、小説あらすじの『二期来て欲しい』って書いてあるところの下に書いておきます。


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最終章 物語の終わり
汗を流してすっきりと


 界皇との試合からしばらく経った日の昼休み。その日図書委員として過ごしていた初瀬は受付として座りながら本を読んでいた。

 図書室を利用する生徒はなにも本を読む者ばかりではなく、勉強をする者もいた。その多くは受験を控える3年生、そして試験期間が終わった今では少し珍しく数名の野球部員も見受けられる。目的は違えど、静かな空間を共有している時間が初瀬は好きだった。なんとなく周りを見渡すと友人同士で集まり何かの作業をしているグループが目に入った。初瀬はそれをずっと眺めることはせず穏やかな微笑を浮かべると、この空間に浸るように本に視線を落とした。

 

「締め切りが迫ってるにゃ……。猫の手も借りたいにゃー!」

 

 そんな空間を引き裂くような声が自習スペースから聞こえてくる。

 

「呼ばれた気がするのだ。ちょっと行ってくるのだ」

 

「……あおい。頼んできたのは君の方だろう」

 

「にゃふん……。だって覚えることがいっぱいでちょーきついのだ」

 

「一つ一つ覚える必要はないさ。そうなる道理を理解すれば自ずと頭に入ってくるよ」

 

「むむぅ……頑張ってみるのだ。早速ここの説明を頼むのだ」

 

「お安い御用さ」

 

 本にしおりを挟んだ初瀬はざわつく生徒を横目に自習スペースへと向かっていく。するとそこでは予想通りの人物が予想通り頭を抱えていた。

 

「……中野さん。興奮すると周りが見えなくなるのは知っていますが、図書室では静かにお願いします。それが続くとまた能見先輩に怒られてしまいますよ……?」

 

「ひいっ……!? こ、今後はこのようなことがないように精一杯気をつける所存ですにゃ……!」

 

「混乱しすぎです……」

 

(あの説教の効き目はかなりあったみたいですね……。こうして中野さんを嗜めるのも久しぶりな気がします)

 

「今日はどうしたんですか?」

 

「それが大会中は記事が更新できないから、その分次の記事は増量するって宣言しちゃってたのをすっかり忘れてたんだにゃ! おかげでピンチだにゃ……」

 

「ああ……なるほど、そういうことですか」

 

(無理もないかもしれませんね。大会中、色々なことがありましたから……あっ)

 

「それなら今回の大会のことを書くのはどうでしょうか?」

 

「さすが初瀬にゃ! 実はワタシもそう思って取り掛かってたんだけど……人手が足りないんだにゃ〜」

 

 中野は言い終えるや否や期待の眼差しを初瀬に向けた。勿論初瀬もそれに気づいた。眼差しだけでなく、その意味もすぐに。

 

「構いませんよ。お手伝いします」

 

「ホントかにゃ!? いや〜、助かるんだにゃ」

 

 初瀬は迷わず協力を申し出た。以前中野が話してくれた締め切りへの拘りを覚えていたこともその理由の一つだったが、なによりも困っている友人の頼みだったからだ。

 二人は分担して作業を進めていく。時に集中し、時に相談しながら。初瀬はふと中野の顔を見つめる。いつもの調子の良い彼女とは違い真剣そのもの、それでいて楽しそうに見えた。そんな中野に目を細めていると顔を上げた彼女と目があった。不思議そうに何か相談したいのかと聞いてくる彼女に初瀬は恥ずかしそうになんでもないと答えるのだった。

 

「後は……そうだにゃ。この3回戦の後、大会がどうなったのかを補足として入れておいた方がいいかにゃ」

 

「ここまで読んでくれた人は確かに気になるところかもしれませんね」

 

 協力して作業を進めた甲斐もあって順調に記事が仕上がってきた頃、初瀬はテレビを通して見た決勝戦のことを記事にまとめるためにも、その全容をまず思い出していた。

 

(準決勝を5-2で制した界皇。あの身も凍りつくような打線が……まさかあそこまで抑えられるなんて思いませんでした。それだけでも凄く驚いたのに、あの7回の出来事は……それ以上に印象的でした)

 

 決勝戦、界皇対帝陽。奇しくも去年の秋大会準決勝と同じカードになった試合は帝陽が3人のピッチャーからそれぞれ1点ずつ奪い、さらに6回の裏終了時点で界皇打線は得点を上げられずにいた。

 7回の表、界皇はここで外野に下げていたエース鎌部を再びマウンドに上げる。2アウトランナー一塁・二塁で乾を打席に迎え、カウントは3ボール2ストライク。投球と同時にランナーが走り出す中、バッテリーはインハイを厳しく攻めたストレートで勝負に出た。フォークが頭にあり低めを意識していた乾は一瞬虚を突かれながらも、バットを振り切る。放たれた打球は外野深くまで飛ばされるも、レナが掴み取りレフトフライ。最後は力で押し切り、ピンチを凌いだ形になった。

 しかし帝陽バッテリーも頭を切り替え、7回の裏の界皇の攻撃は早くも2アウトランナー無し。9番の鎌部に打順が回る。監督に直談判してそのまま打席に立った鎌部の打球は意地で内野の頭を越えたようなセンター前ヒット。後1つアウトを取られたら即終了という状況から打線が繋がり、1点を返して尚も満塁という状況でレナに回した。そして2ボール2ストライクからアウトローに投じられたスライダーはストライクゾーンから外のボールゾーンに変化させようという乾の要求通りにはいかずフルカウントになるのを嫌って僅かに中に入り、振り切られたバットから放たれた打球が走者一掃のツーベースとなって、決勝戦……そして大会は幕を閉じた——。

 

(最終回の界皇は……とても追い込まれたチームには見えませんでした。不安や焦り、それはきっととてつもなく大きかったはずです。なのに誰一人迷いを見せませんでした)

 

 界皇の厚い自信に、一部始終を見ていた初瀬は圧倒されるばかりだった。それは見ていた時だけでなく、内容を纏めている今も強く心の中に残っていた。

 

「いやー、助かったにゃ。まさかこの量が昼休み中に終わるとは思わなかったんだにゃ。ありがとにゃ〜」

 

「どういたしまして。けどこれだけ早く終わったのは中野さんの書くペースがかなり速かったからだと思いますよ。私、ビックリしました……」

 

「初瀬に試合の状況を分かりやすく纏めてもらったからにゃ。おかげでスムーズに書けたんだにゃ」

 

「それは良かったです。幸い2回戦からはコーチャーとしてグラウンドの空気をより感じられましたから。…………」

 

(前に中野さんが言っていたようにスタメンだけでなく、ベンチも勝つために必要な役割があることは今回の大会で良く実感出来ました。ですが同時に、グラウンドを区切る白線が私には遠く感じられました。今回の大会……私以外はその白線を越えて、選手として皆さん戦っていましたから……)

 

 出番の長さに差こそあれ初瀬以外の部員は選手としてグラウンドに立ち、各々が練習の成果を出していた。特に同じ時期に入った部員らも活躍していたことが初瀬にとっては嬉しくもあり、そして取り残されたように感じられていた。

 

「……初瀬。練習の後、時間は空いてるかにゃ?」

 

「えっ? あ、はい。空いてますよ」

 

「そりゃ良かったにゃ。今日のお礼をしたかったからにゃ」

 

「お礼なんて……気にしなくても大丈夫ですよ」

 

「まあ、実はお礼も兼ねてワタシも行きたいんだにゃ。付き合って欲しいにゃ」

 

「あ……そういうことでしたら行きたいです!」

 

「決まりだにゃ。良いところに連れていってあげるにゃ!」

 

「い、良いところ……? どこですか?」

 

「ふふふ……百聞は一見にしかず。見てのお楽しみだにゃー」

 

 中野は妖しく笑うと連れていく場所の詳細は教えず、記事の原稿を纏めて教室へと帰っていった。

 

(あの小説のように歓楽街に……なんていうのは期待のしすぎですね。けど……)

 

 そんな中野の誘いに少し戸惑いを覚えた初瀬だったが、胸に抱いた期待感が身体に染み入るように段々と広がっていき、その時が来るのを楽しみに午後を過ごしたのだった。

 

「あ、そうだにゃ。制服には着替えず、そのまま来て欲しいにゃ」

 

「え……運動用のジャージで良いんですか?」

 

「動きやすい格好の方が都合がいいんだにゃ」

 

「わ、分かりました」

 

「じゃあお先に失礼するにゃー」

 

「お疲れ様でした」

 

「二人ともお疲れー! また明日!」

 

 練習が終わり、みんなが着替え始めたところで初瀬は中野に連れられて部室を後にしていた。

 

「皆さん、今日の練習は声が出ていましたね。少し敗戦のショックも和らいできたのかな……って感じがしました」

 

「それと……また同じような悔しさを味わわないためには、試合だけじゃなくまさに今頑張らないといけないって気づいたんだろうにゃ」

 

「中野さん……」

 

(……そっか。新入部員じゃない中野さんは夏の大会で……)

 

 話しながら並んで歩いていると、『鉄人』の暖簾が見えてくる。それを見た初瀬は以前のようにここで打ち上げをやるのかと一瞬思ったが、動きやすい格好をする必要が無いことにすぐ気づいた。その推測通り中野はそのまま『鉄人』を通り過ぎていく。

 

「特に近藤はそう思ったんだろうにゃ」

 

「近藤さん……確かに今日は特に声が出ていましたね。本人は何でもないとおっしゃっていましたが、先日までは凄い落ち込まれていたのに……」

 

「最後のバッターになってしまったからにゃ……。自分のせいで負けたと思い詰めてたんだろうにゃ」

 

「そんな。近藤さんだけに責任があるわけないのに……」

 

「その通りだにゃ。けど本人にとっては……そうじゃなかったんだろうにゃ」

 

「中野さん……?」

 

「……ワタシも……そうだったからにゃ」

 

(どういう……あっ!?)

 

「まさか、中野さんも……」

 

「あはは……そうだにゃ。夏の大会の最後のバッターはワタシだったんだにゃ」

 

 そう告げた中野は頬をかきながら笑った。レギュラーから外れた時でも見せなかった彼女の苦々しい笑いは初瀬にとって衝撃的だった。

 

「そう……だったんですね」

 

「しばらくは練習に来るたびにそのことが頭によぎって……全然練習に身が入らなかったにゃ。それでも9月になって、初瀬たちが来て……もうそのことは吹っ切れたと……自分では思ってたんだけどにゃ」

 

(吹っ切れたと思っていた……? ……もしかして……)

 

「中野さんが打撃スランプに陥ったのは……」

 

「多分……そういうことだったんだろうにゃ」

 

 中野は歩きながら天を仰いだ。彼女の青竹色の瞳に日没から間もない透明すぎるほどの青い空が映る。前に一度同じような青空を見て自分の好きなように塗りつぶせたらいいのになんて思ったことを思い出し、澄んだ空気にくすぐられるようにひっそり笑うと、視線を下ろして初瀬に向けた。

 

「だから近藤のことはそれとなく気にしてたんだけどにゃ。ワタシの出る幕はなかったみたいだにゃ」

 

「確かに新田さんが気に掛けてたようですが……」

 

「それと永井もにゃ。意外だったけど……新田じゃなく永井が先導して励ましていたみたいだったにゃ」

 

「永井さんですか……。大会を経て、なんだか堂々と物事を話すようになりましたよね」

 

「初瀬もそう思ったかにゃ。ワタシが遠くから三人の話を窺ってた時、近藤も永井を見て驚いていたように見えたにゃ。どんな話をしていたかは分からないけど……」

 

「今日の近藤さんの様子を見る限り……三人にしか分からない何かがあるのかもしれませんね」

 

「そうかもにゃ……ちょっと羨ましいんだにゃ」

 

 中野は寂しげな表情を浮かべたかと思うと、すぐに表情が切り替わった。せわしない顔の変化を初瀬は不思議そうに見ると、まるでいたずらを思いついた子供のような顔をした中野と目があった。

 

「……? どうしたんですか中野さ……わっ!?」

 

 すると途端に初瀬は手を掴まれ、走り出した中野に引っ張られた。急なことに体勢を崩すも、引っ張る中野の手が支えになり、二人は一緒に走り出した。

 

「ど、どうしたんですか……!?」

 

「いやー、急に走りたくなっちゃったにゃ。目的地までこのまま走るにゃ!」

 

「ええっ!?」

 

 満面の笑みを浮かべながら先を走る中野に初瀬は驚きながらもついていく。強い力で握られているわけではなかった。そんな手を初瀬は眼鏡のレンズの中央に捉えると、しっかり握り返した。中野の手のひらは硬く、そしてとても温かった。

 

「着いたにゃ!」

 

「ここは……」

 

 走り出して3分ほど経った頃、中野がもう一方の手で見えてきた目的地を指差した。指につられるようにその店の看板を見た初瀬はようやく彼女が連れてきたかった場所の名を理解する。

 

「バッティングセンター……」

 

「そうだにゃ! 初瀬は来たことあるかにゃ?」

 

「いえ、無いですね。どんなところかもよく分からないです……。中野さんは来たことがあるんですか?」

 

「一度だけあるにゃ。ささっ、入った入ったにゃ」

 

 握った手をそっと外した中野は初瀬の背中を両手で押すと、初瀬は押されるがままに入り口に近づいた。すると自動ドアが開き始め、初瀬は後ろにいる中野をチラッと見てから自分で足を踏み出して店の中に入っていった。

 

「わぁ……」

 

 すると視界に色々なものが飛び込んできた。ガラス張りの壁で区切られた空間。その中にある防球ネット越しに見えるゴムマットに勢いのあるボールが当たり、空振った男性が外にいる友人に「ドンマイドンマイ」と声をかけられている。別のケージでは一人で来ているのだろう男性がピッチングマシンから発射されたボールを次々と打ち返している。その他にも色んな客が、多種多様にバッティングセンターという空間を味わっていた。

 

「楽しそう……。こういう場所なんですね」

 

「だにゃ。初瀬もやってみるにゃ」

 

「はい! やってみたいです……!」

 

 知らない土地を探検する冒険家のように初瀬が周りを見渡している間に手際よくケージの中に入って高さと球速を設定した中野が出てくると、購入していたコインを初瀬に渡した。そのコインを受け取った初瀬は胸を高鳴らせてケージの中に入っていく。

 

(えっと……このバットを使うんですね。こちらの機械は……あ、ランプがついてる。中野さんがやっておいてくれたんですね。ここにコインを入れて……)

 

 ケージに入る前に他の客がどうやっているのかを見ていた初瀬はそれを参考にしてコインを入れた後、すぐにバッターボックスに入ってバットを構えた。するとガコンという音が響き、外から聞いているよりも大きく聞こえた音に彼女はビックリした。少しすると何かを巻くような音が継続的に聞こえてくる。初瀬はバットを構えたまま自分の入ったケージと同じ番号が記された場所にあるピッチングマシンからボールが来るのを待った。やがてボールが放たれたのだが、いまいちタイミングを掴めていなかった初瀬は思わずボールを見送ってしまった。

 

「速くないですか……?」

 

「にゃはは。人が投げてるわけじゃないから、いつ投げてくるかタイミングが掴みにくいんだと思うにゃ。よく見れば打てるはずにゃ!」

 

「わ、分かりました!」

 

(もう少し遅く設定した方が良かったかにゃ? ……いや、今の初瀬なら打てるはずにゃ)

 

 投げてくる瞬間に意識を強めた初瀬は1球空振った後、次に放たれたストレートにバットを掠らせていた。

 

「見るのに意識が向いてて、バットのトップが崩れてるにゃ〜」

 

「あ……そうでしたね。振り出すまではこのまま……」

 

(皆さん当然のようにやられていますが、バットを構えた体勢をそのまま維持するのは中々難しいんですよね……)

 

「……あともう一つアドバイスにゃ! バットを構えたら後は……『しっかり気合いを入れて打つ』! だにゃ!」

 

「気合い……ですか?」

 

「そうだにゃ。ワタシのメモにもそう書いてあるにゃ」

 

「……分かりました!」

 

(最初はトップを維持するのが正直、キツかったです。ですが今は少しは形になってきたんじゃないかと思います)

 

 さらに中野から受けた二つのアドバイス。後者のアドバイスを意外そうにしながらもそのアドバイスを受け入れた初瀬はバットを構え、トップの位置を維持したままボールに備えた。

 

(そうだ……トップだけじゃなかった。この体勢を維持するのは、目線をブレさせないためでもありました。そのために大事なのは下半身)

 

 初瀬は同じくボールに合わせるのが遅かった鈴木の提案によりバント特訓を始め、さらに逢坂と協力してやっていた片手キャッチの特訓や体幹トレーニングで下半身は以前より安定感を増し、ボールのスピードにも段々と目が慣れてきていた。そして紅白戦の最後の打席で養ってきた芯で捉える感覚をヒッティングで味わった。地道な積み重ねの末にその成果が徐々に出てきていた。

 

(沢山、練習してきたんです。絶対に……打ってみせます!)

 

 足りないピースはただ一つ。自分がやってきたことに対する自信だった。見極めたボールの軌道に気合いを乗せてバットが振り出されると、芯で捉えた打球は綺麗な放物線を描いた。

 

「打てた……」

 

「今のはセンター前ヒットだったにゃ。初ヒットどんな気分にゃ?」

 

「えっと……気持ち良いです……!」

 

 ボールを芯で捉えた感触の爽快さ、今まで築いてきた練習が実を結んだ達成感。色々なものを感じた初瀬は中野の問いに自然とそう答えていた。そんな彼女を見て中野は自分のことのように嬉しそうに笑った。

 

「……あの、中野さん」

 

「んー……何かにゃ?」

 

「ありがとうございます」

 

「……なんのことかにゃ。ワタシはただお礼に連れてきただけにゃ」

 

「ふふっ。そうでしたね」

 

「さーて、ワタシも打つかにゃ」

 

 初瀬に礼を伝えられた中野はとぼけたような表情で隣のケージへと入っていった。すると初球からタイミングを合わせてヒット性の当たりを放った。そんな中野に初瀬は驚かず、さすがだなと思っていた。負けじとバットを振る初瀬。隣のケージとは異なり続けてとはいかなかったが、こちらのケージからも心地よい金属音が断続的に響いていた。

 バッティングセンター内はうるさくはなかったが、機械の音やバットの金属音や応援の声などで静かな空間とは程遠かった。だがそんな空間を共有している時間を初瀬は好きになれそうだと感じていた——。

 



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変わりだした景色の中で

(前のワタシは知らず知らずのうちにボールから目を切るのが早くなってたんだにゃ。軌道を見極めて……)

 

 中野と初瀬がバッティングセンターに行った日の翌日。バッティング練習で東雲がアウトローに投じたストレートを左打席に立って引きつけた中野は三遊間への鋭いゴロを放っていた。

 

(よし……この感覚だにゃ。焦って前のめりになる必要なんてどこにもなかったんだにゃ)

 

 次に膝下へと投じられたカーブも身体を突っ込ませることなく引きつけた中野はセカンドの頭上を越えるライナーで打ち返す。

 

(力任せでもなく、かといってボールの力に押し込まれているわけでもない。来たボールを素直に打ち返している……良いスイングね)

 

(ふぅ……段々調子が上がってきたんだにゃ。けど……)

 

 打ち終わった中野はセンターに入っていた永井と入れ替わる。するとアウトハイに投じられたストレートに踏み込んだ永井が捉えた打球はいきなり中野の頭上を越えていき、バウンドして奥の茂みへと転がっていった。

 

(大会を全試合スタメンで出場した永井……。どうやらその経験は大きかったみたいだにゃ。ワタシも負けてはいられないにゃ)

 

 続けて飛ばされた打球が左中間にライナーで向かっていくとレフトで守る岩城にカバーに走ってもらい、中野は飛び込んだ。するとバウンドするスレスレで打球が掴み取られる。

 

(しかしまあ……よく飛ばすもんだにゃ)

 

 かなり深い位置での捕球になり、自分じゃ中々飛ばせない打球に中野は改めて永井のパワーの凄さを噛み締めていた。

 

「東雲さん。あの……わたしも変化球を混ぜてもらってもいいかな」

 

「……! ええ。構わないわよ」

 

(大会でわたしは芯を外してばかりだった。特にストレートはよく投げてもらっていたのに。ピッチャーはあの手この手で芯を外させに来るんだ……。そのためには練習の時からもっと色んなボールを経験して、もっと色んなことを考えなくちゃ)

 

「お疲れ〜。良い感じじゃん」

 

「うん。まだ逢坂さんみたいにはいかないけどね」

 

 大会で芯を全然捉えられなかった永井は対峙した一人一人のピッチャーを思い出し、そして次こそは芯で打ち返してみせようと模索しながらバットを振っていた。そんな彼女のやる気を感じ取った新田が代わって右打席に立つと、負けじとバットを振り出す。

 

(わたしはまだ変化球もってのは難しいけど……ストレートならなんとか!)

 

 膝下に投じられたストレートを新田は器用に捉えると、弾き返された打球は一二塁間へと転がっていく。

 

「おっと残念! そこはあおいなのだ〜!」

 

「げっ!」

 

 しかし深い位置に下がりながら阿佐田がミットに収めた。そして送球練習も兼ねて一塁の野崎に難なく送球を行った阿佐田は新田に指を向けて言い放った。

 

「甘いのだにたっち! ミルクと砂糖マシマシのコーヒーくらい甘いのだ!」

 

「苦いの飲めないだけじゃん!?」

 

(気持ちは分かります……じゃなくて)

 

「新田さん。気づいているか分からないけど、貴女はボールを捉えるセンスは高いのよ」

 

「およ? 言われてみればそうかもしんない。でもそんな褒めたって出るのはヒットだけだよ〜?」

 

「……ただし打ち返す方向が気まぐれなのよ」

 

「と言いますと?」

 

「インコースに来たボールは引っ張り、アウトコースに来たボールは流すと打球に力が乗るのよ。けど貴女の打球はそのセオリーを無視することが多いから伸びを失ってしまいがちだわ……だから今の抜けそうな打球も阿佐田先輩に追いつかれてしまったのよ」

 

「そうだったんだ……」

 

「勿論全部その通りに打ち返すのは難しいけど、基本的にそう打ち分けられると打率も上がるものよ。貴女なら練習すれば広角に打ち分けられるようになるんじゃないかしら」

 

「まじで!? そう言われたらやる気にならないわけにはいかないっしょ! 甲殻(蟹ちゃん)打ち出来るように練習してみますか!」

 

(……新田さんのボケに一々突っ込んでいたら日が暮れてしまうわ。けど貴女なら意識して練習すれば次第に身につけられると思うわよ。そのためには……)

 

「いきなり打ち分けるのは難しいと思うから、まずは出来るだけ外に集めてみるわ。貴女はそれを流して打つのに集中してちょうだい」

 

「りょ!」

 

(咄嗟に判断して打ち分ける練習は外を流し内を引っ張る感覚が染み付いてからね。それより私はピッチングに集中しないと……。大会でのピッチングは試合を壊しはしなかったけど、お世辞にも良い内容じゃなかったわ。今のピッチャー陣の負担は倉敷先輩と野崎さんにかかりすぎている。頑張らないといけないわ。……私たちが)

 

 秋大会2回戦を先発として4回と3分の1を投げてマウンドを降り、自責点4を負った東雲はその成績を好ましく思っておらず、ピッチャーとしてもっと頼られるだけの実力を身につけたいと考えていた。そのためにバッティング練習であっても雑に投げず、一球一球の感触を確かめるように投げていた。そしてこの練習は新田だけでなく自分の内外の投げ分けにも繋がると考え、より一層のやる気をみなぎらせる。外に丁寧に集め、その感覚に頷きながら視線を一瞬ブルペンの方に向けた。

 そしてそのブルペンでは鈴木と近藤が座り、それぞれ一人ずつピッチャーと組んで練習をしていた。

 

(フォームは崩しちゃダメ。足もいつもと同じように踏み出して……投げる!)

 

「とっ……!」

 

「……やっぱりカーブはコントロールしきれないわね」

 

「こればかりは投げ込みを続けて、少しずつ制御出来るようにしていくしかないですね。焦らずにいきましょう」

 

「そうね」

 

(今は鈴木のミットに届かせるのも難しいけど、必ずコントロール出来るようにしてみせる。ストレートにも負けないくらいにね)

 

 倉敷は鈴木にアドバイスされたことを思い返しながらカーブを投じたが、ストライクゾーンから大きく離れてバウンドしてしまう。しかし倉敷に焦りはなく、代わりに決意があった。

 

「おやおや〜? そんな調子じゃ、アタシがエースになる日もすぐ来そうですね!」

 

「面白い冗談ね」

 

「ぶーぶー。軽く流しましたね〜!」

 

 さらにプルペンでは少し前から投手陣の仲間入りを果たした逢坂が近藤と組んで投球練習をしていた。

 

(野崎さんと違って逢坂さんはなんていうか……自由奔放ね)

 

「逢坂さーん! おしゃべりは程々にして、今は投げ込みに集中してー!」

 

「分かったわ咲ちゃん! 舞子先輩、よく見ててくださいね!」

 

「一球くらいは見てあげてもいいけど」

 

 近藤に嗜められた逢坂は横にいる倉敷へと向けていた身体の向きを戻し、盛られた地面の上にあるプレート代わりのラインを踏んだ。そして教えられた通りに縫い目に指をかけたことを確認してから左足を浮かせて、軸となる右足で全体重を支えた。倉敷が一旦投球を中断したことで同じように逢坂を見ていた鈴木は彼女が入部してすぐピッチャーを希望した時のことを思い出す。

 

(コントロールの肝は下半身が安定していること。逢坂さんに試しに投げてもらった時、コントロールがバラバラだったわ。それだけ体幹が弱かった)

 

 右向きに腰が捻られると、そのすぐ後に前へと体重移動が行われて左足が踏み込まれた。そして身体の横から腕を振り切るサイドスローの投球フォームからストレートが放たれると、近藤はミットを上に動かして捕球した。見届けた鈴木は彼女がライトを守ることになってからもピッチャーとしての活躍を諦めずにトレーニングを続けていたことを改めて感じ取る。

 

(それと他の練習でもそうだったけど、逢坂さんはある程度数をこなすとコツを掴んで形にするのが上手いわね。投球練習を始めて一週間。なのにもう肩が早く開かなくなったわ)

 

 大会が終わり、検討していた逢坂のピッチャー起用を試すにはちょうど良いタイミングということでつい一週間前に逢坂は東雲に投球指導をしてもらいながら練習を始めていた。しかし最初は足を上げてから体重移動をし、足が着地するまでの間に、腰や肩が回転してしまって身体が開いていた。投げた本人も上手くボールに力が伝わっていないことは感じていたが、自分では身体が開いているかどうかあまり分からないようで、協力を得て何回も調整を重ねていた。

 

「どうですか! アタシのボール!」

 

「スピードはアタシよりあるわね」

 

「でしょでしょ!」

 

「でもエースを語るのはまだ早いわね」

 

「えー! どうしてですか!?」

 

「今、近藤は低めに構えてたでしょ」

 

「う……まあ、そうでしたけどぉ……。一応アタシなりに狙ったもん……」

 

 胸を張った逢坂だったが、低めにボールを制御出来ないでいることを見抜かれると目を泳がせた。そんな逢坂を見て倉敷は前に視線を戻す。

 

「……鈴木。真ん中低めにストレートいくわよ」

 

「あ、はい。分かりました」

 

(うー! なによ! 見せつけるつもり……!?)

 

……リリースの瞬間をよく見てなさい

 

「えっ?」

 

 鈴木にミットを構えさせて投球姿勢に入った倉敷は前にいる二人には聞こえないような小さな声を出し、その言葉に逢坂はキョトンとした顔になる。ピッチングの始動に入り出した倉敷にとっさに逢坂は言われた通りにリリースの瞬間に集中した。そして投じられた全力ストレートが真ん中低めに決まる。その捕球音を聞いて振り向いた逢坂は低めギリギリに収められたボールを見ると、かつてキャッチボールのやり方を教えてもらった時と同じような感覚を覚えた。逢坂が少しの間硬直していると、投げ返されたボールを受け取った倉敷がチラッと彼女のことを見る。

 

「……近藤が待ってるわよ」

 

「あっ! さ、咲ちゃん! いくわね!」

 

「うん。いつでも大丈夫よ。遠慮せずにどんどん投げてね」

 

「分かったわ!」

 

(咲ちゃんのミットをよく見て……)

 

 その言葉で我に返った逢坂は投球姿勢に入って低めに構えられた近藤のミットを見つめると、足を上げた。先ほど倉敷がボールを投げる瞬間を見て逢坂は二つのことに気づいていた。一つは倉敷がボールをリリースする寸前まで指先で触れるようにしていること。そしてもう一つは自分が思っているよりリリースポイントが前では無かったことだった。足を踏み込んだ逢坂はその二つの点に注意して見よう見まねで投げてみた。すると近藤は少しミットを動かしたものの、低めに構えたまま投じられたボールを収めた。

 

(低めにいった……!?)

 

「ナイスボール! 今のは良かったわよ。感覚忘れないうちにもう一球いきましょう!」

 

 逢坂は低めに制球しようとするあまり、リリースポイントを少しでもホームベースに近づけようとしていた。その結果ステップ幅が広くなりすぎてしまい、上半身を捻る余裕を失って今度は腰をあまり回転させられず、折角安定した下半身の力を腕に伝えきれていなかった。

 

(しかもストレートの力もさっきより上手く乗った気がするわ)

 

 その結果腕の力に頼った投球になり、コントロールの低下のみならず、彼女の持ち味であるボールの勢いをも落としていた。

 近藤に投げ返されたボールを受け取った逢坂はキャッチャーから受ける鼓舞に心地良さを感じながら低めを狙う投球練習を続けていく。倉敷のように精密にはいかずコントロールがバラけるものの、逢坂は先ほどまでより低めを狙いやすくなった感触を得ていた。

 

(投げやすい……! これってやっぱりそういうこと……よね)

 

……アドバイスありがとうございました

 

「ん……」

 

(今のアタシじゃまだこの人には敵わない……けど、アタシの目標は変わらない。絶対に追い抜いてみせるんだから! そのためには今は一球でも多く……!)

 

 小さく伝えた逢坂の礼に振り向かず相槌を打った倉敷はカーブを制御する練習を続ける。その背中が大きく見えた逢坂は掲げた目標の高さに喜びをほほに浮かべると、手元のボールを見つめてからしっかり握った。少し重く感じたそのボールを投げ込むとキャッチャーミットから響く捕球音が先ほどより不思議と耳に響いたのだった。

 

 しばらく経ち、グラウンドで行われていた打撃練習が終わったところで一旦休憩が挟まれた。

 

「あかねっち〜! 足はもうなんともないのだ?」

 

「わっ、師匠。今のところは大丈夫です。思い切り動いたりしても痛くならないので……完全に治ってくれたみたい」

 

「良かったのだー。万が一また痛み出したらすぐあおいに言うのだ!」

 

「は、はいっ。その時は隠さず言うので……えと、その……近いです」

 

「おっと。こりゃ失敬なのだ」

 

 大会で足を痛めた宇喜多だったがここ数日の練習でも痛みがぶり返してくることはなく、一時は痛々しく紫色に染まっていた足が綺麗な肌色になっているのを至近距離でしゃがみながら確認した阿佐田は距離を指摘されて離れると、胸を撫で下ろしていた。

 

「けどこの後のシートノックは覚悟しておいた方が良いのだ。今日はつばさじゃなくてしのくもが打つみたいなのだ。鬼なのだー。情けも容赦もないのだ〜」

 

「………。あの、師匠。後ろ……」

 

「後ろ?」

 

「もっと厳しくしましょうか?」

 

「にょわああっ!?」

 

 後ろを振り向いた阿佐田は額に怒りマークを浮かべているような東雲の顔が目の前にあり、飛び上がって驚いていた。

 

「あははー。ちょ、ちょっとした冗談なのだ。大丈夫! あおいはしのくもの優しさを知ってるのだ!」

 

「……そうですね。阿佐田先輩だけ厳しくするなんてことはしませんよ」

 

「ほっ……」

 

「やるなら全員厳しくします」

 

「ひえっ……」

 

(まあ、元々今日からそうする予定だったけれど。チームの失点を減らすためには守備の底上げもしていきたいもの)

 

 多少気にはしたものの、宇喜多をちょっとビビらせようとした阿佐田なりのジョークなのは分かっていたので別に東雲は怒っていなかった。代わりにちょっとした仕返しをすると、阿佐田はなんとも情けない声を漏らして頭を抱えていた。それを見た東雲は満足した表情で去っていくと、荷物と一緒に置いていたクーラーボックスをこちらに持ってくる近藤が目に入った。

 

「あ、東雲さん。これ良かったら使って。お父さんに言って貰ってきたの」

 

「これは……?」

 

「氷よ。そろそろ11月だし要らないかなって思ってたけど、運動した後のみんなの汗が凄かったから持ってきたの。うちは飲食店だから、もし良ければこれからも持ってくるわ」

 

 これまでやかんに入れた水を紙コップに注いで水分補給を行なっていたが、皆の運動して火照った身体にはぬるく感じられていた。小さな不満で部費を使って対処する問題ではなかったが、それを見かねた近藤は父に話をして氷を分けてもらって来たのだった。

 

「ありがとう咲ちゃん!」

 

「助かるわ。あまり部費に余裕がないから、こういうのには手が回らなくて」

 

「部費ぃ……」

 

「ああ。部活後に話そうかと思っていましたが、ちょうど良いので伝えておきますね」

 

「へっ?」

 

 近藤の配慮に喜んだのも束の間、東雲により部費のことを思い出した有原は元気がしぼんでいく。すると九十九に話しかけられ、有原はすっとんきょうな声を上げた。

 

「その部費ですが、先日生徒会で審議した予算案がちょうど今日承認されまして。野球部の部費は増えることになりましたよ」

 

「部費っ……! 増えるんですか!? やったあ……! 九十九先輩、ありがとうございます!」

 

「いえ、決まりは決まりですから。審議はあくまで公平に行わせていただきました」

 

「ありゃっ。そうだったんですね」

 

「以前の審査から部員も倍近くに増えましたし、夏と秋の大会での実績も考慮すれば自然なことだと思いますよ」

 

「そっかあ……! えへへ。それって、私たちの頑張りを認めてもらえたみたいで嬉しいですね」

 

「……なるほど。そういう風にも取れますね。それほど有原さん達の進歩が目覚ましかったのでしょう」

 

「勿論その私たちの中には九十九先輩も入ってますよ!」

 

「おや……これは一本取られましたね」

 

(あ……笑った。九十九先輩、表情はあまり変わらないけど。こんな風に笑うこともあるんだ)

 

 微笑を浮かべた九十九の顔にはそれ以上の変化はなかったが、有原にはその顔がとても嬉しそうに見えた。固い表情が多いと思っていた九十九が柔らかい表情を見せてくれたことが有原にとってなんだか心地良かった。

 

(部費が増えるのはありがたいわね。使い道はおいおい考えるとして……)

 

 冷えた水で一息ついた東雲はボールの入ったカゴを持っていくと練習再開を告げた。

 

「7回の表、1点リード。1アウトランナー一塁・三塁! 内野中間守備、外野少し後退!」

 

「あれ? なにキョロキョロしてんのー?」

 

「美奈子ちゃん。ランナーを確認してたんだ」

 

「ランナー? 内野組(わたしたち)がランナーやるのはもうちょい後じゃなかったっけ?」

 

「あ、そうじゃなくてランナーの足の速さを確認してたんだ。試合でも打たれる前に頭に入れておかないと、いざって時に大変だからさ」

 

「そっか。実戦に近い練習って言ってたけど、そういうとこもなんだ」

 

「だね!」

 

(この前出た試合じゃエラーはしなかったけど、最終回とか危なかったんだよね。練習の時にそういうとこに気を配っとくのって実は結構大事かも。守備も有原の方がまだ全然上手いし、そういうのを真似してみるところから始めようかな)

 

 練習が再開されるということでとりあえず守備位置についていた新田だったが、漠然とつかずに細かいところまで集中している有原を目にすると、納得して同じようにランナーを見渡した。すると東雲が放った一球目のノックが二遊間に転がってくる。

 

(ゲッツー狙える!)

 

「河北!」

 

「任せて!」

 

 新田は追いつけるかどうかギリギリのところに放たれた鋭いゴロに飛びついてなんとかミットに収める。一塁ランナーが宇喜多、ノックと同時に走り出すバッターランナーが永井とそこまで足が速くはないことが頭に入っていた彼女は腕を振り上げるようにして二塁に送ると、タイミング良くベースについた河北がボールを受け取ってから落ち着いて一塁の倉敷に正確な送球を送り、ダブルプレーを完成させた。

 

(ピッチャーに集中して欲しいって言われてたとはいえ、大会の時は迷惑かけたわ。カーブの制球だけじゃなく、ファーストの守備もしっかりやれるようにならないと)

 

「良い判断よ。けど練習だけじゃなく、試合でもその動きが出来るようにね」

 

「褒めたと思ったら厳しっ!? でも……そだね」

 

 厳しい評価に新田はちょっと困ったように頬をかきながらも河北と目を合わせて共に頷いた。

 先ほどと同じシチュエーションに戻り、放たれた次のノックは軽く当てるように転がされたセカンド正面への弱いゴロ。この打球に河北と交代で守備についた阿佐田が突っ込んでくる。

 

(スタートが早い……!)

 

(この当たりじゃゲッツーはギリギリすぎるのだ。なら……)

 

「すずわか!」

 

「はい!」

 

 走り込んだ阿佐田はミットで突かないようにボールを掴み取ると、送球しづらい前屈みの体勢から軽くジャンプするようにしながらバックホームを行った。三塁ランナーの中野がホームへと足から滑り込んだが、正面の打球だったことに加えて阿佐田の一歩目が早かったこともありタッチアウトとしていた。

 

「阿佐田先輩! ナイスプレーです!」

 

「ふふん、なのだー!」

 

(やっぱり凄いなあ……。なんであんなにスタートが早いんだろ。前にコツがあるって言ってたけど、よく分からなかったんだよね。どういうことなのか分かれば少しはスッキリするのかな……)

 

 軽やかな守備を見せた阿佐田に河北は少しモヤモヤした感情を抱いていた。彼女なりに打球への一歩目を意識して練習してきたことで、それでも埋まらない差に何かしら秘密があると感じられていたからだった。

 

「くぅー。やられたにゃ……」

 

「中野さんも良いスタートだったのに、あれでも刺されるんですね……」

 

「送球も逸れなかったからにゃ……。内野の動きが良いとランナーは走りにくくて困るにゃ」

 

「なるほど……守備が良い印象を相手に与えられれば、躊躇しやすくなって走塁に牽制をかけられるんですね」

 

「だにゃ。走塁は思い切りも大事だから、そう思わせられれば大きいにゃ」

 

(そうなんですね。相手チームにそう思わせられるだけの動きが出来るようになりたいな。……いえ、なりたいだけじゃダメですよね)

 

 三塁ベースに戻ってきた中野と話した初瀬は理屈で守備の一面を理解すると、それに準じた目標が生まれ、達成しようという心意気が芽生えていた。

 

「おっ、これは……。初瀬、よく見てて欲しいにゃ」

 

「何をですか……?」

 

「近藤の身体の向きと、ワタシのホームの入り方だにゃ。……それっ!」

 

 すると次に放たれたノックが左中間に飛んでいき、中野は初瀬に話しかけてから捕球を確認してタッチアップを行った。横に動く形でフライを収めた岩城はバックホームを行うと、中継に入った有原の見上げる先を越えてボールが内野に返ってくる。

 

(送球が逸れた!)

 

(……! どうやら逸れたみたいだにゃ。もらったにゃ!)

 

 岩城のバックホームはホームベースから三塁方向に逸れていた。近藤がミットを伸ばしてノーバウンドで届いた送球を受け止め、中野へのタッチにいこうとしたが、頭から滑り込んだ中野は彼女とは逆から回り込んでおりタッチは間に合わなかった。その後、二塁への送球が行われたが、隙をついて滑り込んだ宇喜多へのタッチもセーフになる。

 

「……近藤さん。今のは何が悪かったのか分かったかしら」

 

「えっと……そうね。一つ思ったことはあったけど……」

 

「遠慮せず思ったことを言っていいわ。せっかくの練習なんだもの」

 

「わ、分かったわ。今のは外野が下がった位置でのバックホームでランナーが中野さんだったから、逸れた時点で刺すのは難しかったと思うの。逸れたのは仕方ないとして、一番悪かったのは送球が高かったこと……かな?」

 

「その通りよ。なんでも自分のせいと背負い込まずに、そうやって原因を見極めることもキャッチャーには大事だと思うわ」

 

「そうかもしれないわね。……岩城先輩。送球は中継が取れる高さでお願いします!」

 

「悪い! 次は気をつけるぞ!」

 

「それとまずはワンバウンドで練習しましょう! 岩城先輩の場合、ノーバウンドで逸れるケースが多いですから」

 

「分かった!」

 

 岩城の送球は中継に入った有原にはとてもカット出来ない高さに投げられており、それに目ざとく気づいた宇喜多は一塁からタッチアップを成功させていた。指摘された岩城が申し訳なさそうにし、気合いを入れ直すように声を張る中、阿佐田の親指が弟子の好走塁を褒めるように立てられ宇喜多の顔が喜びと照れで赤く染められた。

 

「何をしたか分かったかにゃ?」

 

(中野さんはタッチアップしてから一度も振り向いていないから、送球がどこに来るかは分からなかったはず。なのに逆から回り込めたのは…………)

 

「少しでもボールが逸れたら、キャッチャーは身体の向きを変えて調整するから……その動きをよく見れば、逆を突くことが出来るということですか?」

 

「正解だにゃ! 身体自体を動かすこともあるけど、タッチプレーなら捕ってからタッチにいきやすいように身体の向きを変えてくることが多いから、そこに気を付けておくと良いにゃ」

 

「なるほど……! 勉強になります!」

 

 そんなこんなで練習は黄昏時まで続けられた。仕上げのベースランニング10周を終えた順からベンチで身体を休めていく。

 

「お〜。みんなお疲れだねえ」

 

「あら……天草さん。グラウンドに来るなんて珍しいわね」

 

 するとそこに美術部の天草がやってきた。息が乱れた様子の皆を見て牡丹色の目を見開いていると早めにベースランニングを終えた東雲が彼女に気づいた。

 

「やあやあ。ちょっとお礼を言いにきたんだよお」

 

「お礼?」

 

「コンクールにあの気に入った絵を出してみたらってオススメしてくれたでしょ? そしたらなんとねえ……最優秀賞に選ばれたんだあ。審査員って良い子ちゃんな絵を求めてるって思ってたけど……分かってくれる人っているんだねえ」

 

「最優秀賞……!? 凄いわね。おめでとう天草さん」

 

「こちらこそありがとねえ」

 

「クルー。キュッキュー」

 

「ルーちゃんも褒めてくれてるの? ありがと〜」

 

「あら……そういえば秋乃さんはどこに?」

 

「小麦ちゃんなら奥の茂みにボール拾いにいったよー」

 

「終わったばかりなのに元気ね……」

 

 小さな体に秘める底無しの体力に思わず感心する東雲だったが、外野の奥の茂みを思案顔で見つめた。

 

「あそこでロストしてしまうボールも多いし、練習の効率も落ちるからなんとかしたいわね」

 

「そうだね〜。……草抜き同好会復活させる!?」

 

「さすがに現実的じゃないと思うわ」

 

「そっかぁ。でも、確かになんとかしたいね。フェンスの跳ね返りの処理とかも練習出来ないもんね」

 

「といっても簡易式の外野フェンスでも高いのよね……。いくら部費が増えたといっても手が出ないわ」

 

「うーん……」

 

「ぜは……ぜは……。そ、それなら……防球ネットを設置するのは……どうかしら……」

 

 二人が悩んでいるとそこにようやくベースランニングを終えた鈴木が息も絶え絶えにやってきた。

 

「範囲結構あるけど……張れるかな?」

 

「問題ないわ……。ぜは……。リトルリーグの時にも……張れたもの……」

 

「リトルリーグ?」

 

「このグラウンド、昔和香ちゃんがいたチームのなんだ」

 

「そうだったのね」

 

「ええ……」

 

 有原が説明している間に水を飲んで一息ついた鈴木はベンチに座り込みながら話を続けた。

 

「ふぅ……。ポールとフェンスネットを購入すればいいから値段もそこまで張らないはずよ……。等間隔に設置したポールにネットを差し込んでいけば簡単に張れるわ……子供の私でも張れたもの」

 

「なるほど……それは良いわね」

 

(そういえばリトルリーグの時に和香ちゃんは用具の手入れをしてたって、お兄さんが言ってたっけ)

 

(あそこにネットが張られるのかあ。奥にある自然が網目で人工的に区切られて見えるのは、パズルのピースみたいで良いかも。ん〜。インスピレーションが湧いてきたあ……!)

 

 こうして鈴木の提案で増えた部費の使い道が決まった頃、秋乃は小さな彼女が遠目では見えなくなってしまうくらいの茂みの中でボール拾いをしていた。

 

(探検みたいで楽しいな〜。……んんっ?)

 

「ガチオーラが半端ない感じの子は体力もある……と。いやー……それにしても怖そうな子だなあ」

 

「え〜? そんなことないよー。りょーはね。厳しいけど、優しいんだよ〜!」

 

「へー! 意外〜! …………」

 

「……?」

 

「うわあああ!? 見つかったー!」

 

「ええええっ!? 誰にー?」

 

 すると赤みがかかった髪の少女と遭遇した。これが秋乃とさきがけ女子高校のキャプテンを務める芹澤(せりざわ)(むすび)の初めての出会いだった。



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スタート地点はもう遠い

「あっちの1年中野球のこと考えてそうな子は?」

 

「つばさはねー。よく声かけてくれるよー!」

 

「……えっと。じゃ、じゃあ里ヶ浜ってどんな練習してるの?」

 

「打ったり走ったり守ったり投げたりだよー!」

 

「……そっか……」

 

(偵察ってバレてないのは助かったけど、細かい情報話してもらうのは無理かー)

 

 秋乃と芹澤が初めて出会った日の翌日。この日も偵察に来た芹澤はそのことに気づいていない秋乃と茂みに潜みながら話し、情報を聞き出そうとしたが、早々に諦めていた。

 

「ていうか小麦、よくあたしが今日も来てるって分かったね」

 

「違うよー。ボール拾いに来たらまたむすびのこと見つけたんだよー」

 

「そうだったんだ。進んでボール拾うなんて偉いなー」

 

「えへへー。でもこうやってボール探すの探検みたいで楽しいんだよ」

 

「あー。分かるなー。昔こんな感じのところで秘密基地作ったりしたよ。生い茂ってて隙間とか無さそうなんだけど、奥の方にスペースが空いててさ。みんなで色々持ち寄ったなあ」

 

「いいなー。楽しそー!」

 

(素直だなあ小麦は。さっきはそれを利用して情報を……なんて思っちゃったけど)

 

 話が弾む二人。その後も話を続けていると芹澤が通っているさきがけ女子高校のことを秋乃が知りたがった。屈託なく訪ねてくる彼女に芹澤は先ほど利用しようとしたことに心が痛み、代わりというわけではないがそれに答えていた。

 昔からの友人たちと高校に入る前の春に甲子園を見に行き、凄く感動したこと。

 今いる部はずっとあった訳ではなく、そのことがきっかけで高校に入ったら野球部を作ろうと皆で決めて出来た部であること。新しく作った野球部というところに秋乃が有原たちと同じだと言うと、芹澤はその言葉に少し困ったように笑いながら「そうだね」と答えた。

 

「最初は楽しかったんだ。でもね……続けていくうちに実力の差、みたいなのが出てきちゃってさ。夏はファーストの子が肉離れで離脱しちゃって結果的には出ることになったけど……前も今もあたしキャプテンなのに補欠なんだ。笑っちゃうでしょ?」

 

「笑わないよー。小麦ね。界皇との試合スタンドから見てたんだよ。むすびも、他のみんなも、最後まで頑張ってたのはおんなじだもん」

 

「……小麦はそういう風に言ってくれるんだ。ありがと」

 

 秋乃の返答に少し肩の荷が降りた様子の芹澤。しかし彼女の顔は秋乃にはまだ悲しそうに見えていた。

 

「むすびは……野球好き? 小麦はね。みんなと頑張ってるうちに好きになって、もっともっと上手くなりたいなーってなったんだ」

 

「うん。好きだよ。大好き」

 

「そっかあ。良かった! あ、もうきゅーけー終わりだ! 急がなきゃ! また明日ねー!」

 

「また明日ー……って明日も来るかは分からないけどね」

 

(ありがとう小麦。励まそうとしてくれて……。でもね。好きなだけじゃどうにもならないことってあるんだ……)

 

 野球が好きだという芹澤の返答に安心した秋乃は皆が次の練習の準備をし出したことに気づいてグラウンドに戻っていった。急いで走り出した彼女は芹澤の表情に陰りが残っていたのには気づけなかった。

 さらにその日の翌日。結局芹澤は偵察に出向いていた。茂みの中から各選手の特徴やこなしている練習をノートに取っていると、いつものように秋乃がやってきた。彼女たちは談笑を交えながらボールを拾っていく。

 

「はい。これあたしが集めた分」

 

「ありがとー! ……あ、そうだ」

 

「どうしたのー? 何か忘れ物?」

 

「むすびも来るー? 一緒に練習しよ!」

 

「ええっ!? そりゃまずいってー。…………あたし他校の生徒だし」

 

「小麦は嬉しいよー?」

 

「あたしも嬉しいけど迷惑かけちゃ悪いしさ。それに……」

 

「……?」

 

「……や、なんでもない。ほら、行っておいで」

 

「う、うん……」

 

(下手っぴなあたしが少しでもチームの役に立つためにって、同じ新設の野球部の偵察に来てるけど。本当は練習で下手なとこが見られるのが嫌なのかも……。だって今誘われた時、練習させてもらえるわけないとか、そういうことより……小麦にあたしが下手なところ見られたくないってのが一番に来た……)

 

 秋乃に練習に誘われて身体が強張った芹澤。拾ったボールを秋乃が持っていき、茂みに一人残った彼女はふと今そこにいることが怖くなった。

 それから芹澤はしばらくひまわりグラウンドに来なくなった。

 

「むすびー。今日もいないのー?」

 

 急に消息を絶ってしまった友人に寂しさを覚え、秋乃は繰り返し茂みを覗くようになった。そうして2週間が過ぎた頃、里ヶ浜は紅白戦を行おうとしていた。

 

「申し訳ありません。急な用事が入ってしまいまして……」

 

「大丈夫ですよ! 気にしないでください! いつも私たちに合わせてくれて、本当に感謝してます!」

 

「そう言って頂けると助かります」

 

 電話を通して塚原と話す有原。やがてその会話の終わりを示すように、ピッという電子音が響いた。

 

「やっぱり来れないのね?」

 

「うん。そうみたい……どうしよっか」

 

「助っ人でも呼べれば良いけど……今から来てくれる人に心当たりはないわね」

 

「翼、ゆいさんに頼めないかな?」

 

「ゆいお姉ちゃんは今海外で武者修行してるんだー」

 

「あ、相変わらずスケールが大きい人だね……」

 

 野球部は総勢17人。塚原が急用で来れなくなったことで紅白戦には1人足りず、彼女たちは困っていた。誰か助っ人を呼べないかと考えたが、この紅白戦を実践的な試合としたい彼女たちにとって誰でも良いというわけにはいかなかった。

 

(……あっ! そうだ!)

 

(秋乃さん?)

 

 すると何かをひらめいた秋乃が一か八か動いてみた。

 

「むすびー! いるー!?」

 

「あ、小麦。よく分かったね。久しぶりー。元気だった?」

 

 すると彼女が探した茂みの中に芹澤がいた。いつものようにノートを持っておらず、秋乃が来てくれたことを歓迎するように両手が振られる。

 

「元気だけど、むすびが会いに来てくれなかったからちょっと寂しかったよー」

 

「あはは……ごめんね。ちょっとあたしも練習で忙しかったからさ。今日も練習して……色々あってね。ちょっとヘコみ気味なんだ」

 

「しょんぼりなのー? 小麦でよかったらお話聞くよー」

 

「ありがと。じゃあお言葉に甘えちゃうね。……小麦はさ、他の人と一緒にノック受けてて、辛かったりすることない?」

 

「んー……無いよー。一人より、みんなと練習してる方が楽しい!」

 

「そっか……」

 

(小麦、守備上手いもんね……。こっから見てるだけでもすっごい良い動きしてるし)

 

「何があったのー? 誰かに酷いこと言われたの……?」

 

「言われてないよ。みんな優しいんだ。あたしがエラーしても、誰も責めたりしない」

 

「良かったー! じゃあどうしてー?」

 

「あたしなりにね。みんなと同じメニューこなしてるつもりなんだけどね。一向に上手くならなくて……みんなの役に立ちたいのに、立てない自分が……情けなくなっちゃったんだ」

 

「むすび……」

 

 芹澤はここ2週間彼女なりに練習に打ち込んだが、それでも上手くなった手応えを得られなかった。励ましてくれる仲間の優しさが痛いほど身に染みていた。

 そんな芹澤の話を聞いた秋乃は落ち込んでいる彼女を励ましたかったが、元々守備が得意な彼女には気の利いた言葉は浮かなかった。だから秋乃は今まで自分が見てきたことを伝えることにした。

 

「あのね。サードにまりあがいるでしょ?」

 

「んー……ああ、文学少女って感じの子か。ノック受けてるね。……おおー。上手く捌くなあ」

 

 紅白戦を始める想定でノックを受けて身体を温める部員の中から秋乃は初瀬を指差した。それに釣られるように芹澤が初瀬を見ると、腰を落として構えていた彼女は足を動かしてゴロの正面に入り綺麗に捕球していた。さらにノーバウンドで投じた送球が逸れずにミットに収まる。一連の守備を見ていた芹澤は感嘆の吐息を漏らしていた。

 

「まりあはね。9月に小麦と一緒に入った新入部員なんだけど……最初はボールが全然捕れなくて苦労してたんだ」

 

「えー!? 嘘ー……だってあんなに上手いじゃん!」

 

「嘘じゃないよー。それでね。最初の練習の日から、終わった後に特訓をしてたんだ!」

 

「初日から!? 見かけによらず根性あるね……」

 

「それで捕れるようになったんだけど、でも少しで。まだギリギリのは捕れなかったし、正面に来てやっと捕れるかもだったの。だからね。特訓を続けて……ちょっとずつ、出来ることを増やしていって。今はすごいけど、すぐに上手くなった訳じゃなかったんだよ。バウンドさせない送球があんな風に投げられるようになったのも、11月に入ってやっと出来るようになったの」

 

「そうだったんだ。あんな上手い子も、すぐに成果が出たわけじゃなかったんだ。……そっか。うん……ありがとう! 元気出たよ!」

 

「本当に!? 良かったあ」

 

「……話は済んだようね」

 

「あっ。りょー!」

 

 秋乃の伝えたいことがしっかり伝わった芹澤は少し勇気を分けてもらったような気がしていた。するとそこに様子を窺っていた東雲が現れる。

 

「わわっ。ガチオーラ半端ない子……!」

 

「……喧嘩を売っているのかしら」

 

「ご、ごめんなさい。あたし昔から正直なところが取り柄で……!」

 

「正直に言うべきでない時があるのを理解することね」

 

「気をつけます……」

 

「秋乃さんの様子がおかしいかと思えば、貴女が原因だったのね」

 

「えー。小麦、変だった?」

 

「最近、やけにここにボールを拾いにいきたがっていたのと……その頻度が、防球ネットを張り出した後も変わらなかったからよ」

 

「そっかあ……」

 

「それより貴女、名前は?」

 

「芹澤結です……」

 

「芹澤さん。貴女は秋乃さんから情報を引き出すのが目的で近づいたのではないでしょうね?」

 

「……最初はそのつもりでした。小麦は良い意味で素直でしたから。無理でしたけど、利用しようとしたことは反省してます。だって小麦は良い子で、あたしの話も笑わずに相談に乗ってくれて……。そんなに長く会っていたわけじゃないけど、大事な……友達だと思ってます」

 

「小麦もー!」

 

「そう。……それなら良いわ。ところで秋乃さん。さっき有原さんが電話した後、何か思いついてここに来たように見えたのだけれど」

 

「あっ! そうだったー! ねえ、むすびー! 試合手伝ってー!」

 

「良いけど……審判とか?」

 

「ファーストお願い! 一緒に試合しよ!」

 

「ええっ!? そりゃ、あたしは普段からファースト守ってるけど……」

 

(……本来なら他のチームの選手を交えた紅白戦というのは有り得ないけれど。試合をする機会を逃したくはないわね……)

 

「……私からもお願いするわ。貴女さえ良かったら、協力して欲しいの」

 

「そ、そんな。今のあたしには協力なんて言ってられるような実力なんて。あたしは下手っぴで……あ」

 

 練習どころか紅白戦の参加をお願いされるとは(つゆ)ほども思っていなかった芹澤は大きく驚いた。秋乃だけでなく東雲からも頼まれた芹澤は自分に務まるのかと不安になり、卑下して断ろうとした。しかし、秋大会で戦ったレナに言われた言葉がよぎる。

 

(……あたしはお世辞にも上手くはない。けど、断ることはない……のかな)

 

「……わ、分かりました。あたしで良かったら、喜んで!」

 

「本当に!? やったー!」

 

「感謝するわ。このままどうしようかと困っていたの」

 

(これで良かった……んだよね)

 

 正直なところ芹澤は今の自分の実力に自信を持てていなかった。だが先ほどの秋乃との会話で、これも少しずつ上手くなるための経験と捉えることが出来た。そして向こうから誘ってくれたのに過ぎた謙虚で断ることはないという結論に至ったのだった。

 

 こうして倉敷と野崎を先発とした紅白戦が始められた。

 すると1回の表、立ち上がりのコントロールの乱れを突かれた野崎は1点を失い、尚も2アウトランナー三塁のピンチを迎えていた。これ以上点は上げまいとボールカウントが先行しても低めに集めていくと、低めに外れたストレートを振ってしまった逢坂の打球はさほど強くない勢いで一二塁間に転がっていった。

 

「あっ!?」

 

 しかし逆シングルで取ろうとした芹澤は処理を焦って打球を弾いてしまった。

 

「任せて!」

 

 だが良い位置にいた河北が弾いたボールを収めると一塁に走る野崎の少し先に送るようにボールを投げて逢坂をアウトに取り、次の失点は許さなかった。

 

「た、助かったあ……。いきなりごめんね」

 

「他のチームの試合にいきなり一人で参加させられたら、緊張するよね。というか私も絶対しちゃうし……。だからあまり気にしないで!」

 

「うう……ありがとう。実はさっきから緊張しっぱなしで」

 

 ファーストの秋乃とは勿論敵のチームで知らない人ばかりに囲まれて緊張していた芹澤は河北にフォローしてもらって気持ちがほぐれていた。

 裏の攻撃を立ち上がりからコントロール良く投げ込んだ倉敷が高めのボールも混ぜつつ要所要所で低めに投じたボールを打たせてゴロアウトを重ね三者凡退で抑えきる。すると次の回の野崎もコントロールはまだピシッとはしなかったが、鈴木がボールを先行させないよう大雑把に低めに集める形でストレート中心の配球でリードし、フライアウト1つ・三振2つの三者凡退で切って落とした。

 2回の裏、先頭の東雲がヒットで出塁すると野崎が送りバントで進めて1アウトランナー二塁。得点圏にランナーを進められても慌てることなくバッターに集中した倉敷はストレートを散りばめて永井を追い込み、膝下へのチェンジアップで勝負に出た。体勢を崩されながらも遅いボールに食らいついてバットを振り切った永井だったが、バッテリーの目論見通り低めに僅かに外したボールを打たされた形になり、打球の伸びが足りずレフトフライに倒れた。

 

(追い込まれてから変化球も警戒したのは良かったけど、振らされちゃった。もっとボールの見極めを正確に出来るようにならないと……!)

 

「あ……芹澤さん。思い切って追い込まれる前に打ちにいっても良いかも。今日の倉敷先輩、いつも以上に厳しいところ突いてくるから」

 

「いつも……がどんな感じか分からないけど、そうなんだ! 狙ってみるね」

 

 すると打順が芹澤へと回ってくる。急遽試合に参加した彼女にベンチから緊張をほぐすように声援が飛ばされ、芹澤はくすぐったいような表情を見せてから右打席へと入っていった。

 

(守備よりはまだバッティングの方が自信あるし、このチャンス打つぞー!)

 

 声援に乗せられるように気合いを入れて芹澤がバットを構える。そんな彼女への初球はインハイへの7割ストレート。

 

「うわっ!?」

 

「ボール!」

 

(ビックリしたあ。じっとしてても当たらなかったっぽいけど、避けちゃった)

 

 これが内に外れると芹澤は思わず大きく下がって見送った。大袈裟に避けたことを照れるように打席に入り直した彼女に次のボールが投じられる。

 

(遠いかな……?)

 

「ストライク!」

 

(えっ! うそ……入ってるんだ。さっきのドーナツ沢山食べそうな子が言ってた通り、凄いコントロール。確かに追い込まれたらヤバい!)

 

 アウトコース低めに放たれた7割ストレートがストライクゾーンから離れたように見えた芹澤だったが、実際は9分割の外低めを通過してストライク。先ほど永井が言っていたことの意味を肌で感じると、アドバイス通り追い込まれる前に仕掛けることにした。

 

(このピッチャー、速い感じはしないし。あたしでも打てないことはない! 多分! チェンジアップは怖いけど、思い切って届きそうなところに来たら、ストレートのつもりで振る!)

 

(……さっき加奈ちゃんからアドバイスを受けていたわね。仕留めたチェンジアップは警戒されているかもしれないわ。倉敷先輩、ここは……)

 

(分かったわ。コースより低めに抑えることを意識して……)

 

 1ボール1ストライクからの3球目。投じられたボールが真ん中低めへと向かっていく。

 

(届く! いけっ!)

 

 迷わず芹澤が振り出したバットは真ん中低めギリギリに投じられた全力ストレートを力強く打ち返した。

 

「センター!」

 

(よっし! ちょっと振り遅れちゃったけど、打ち返せた!)

 

 捉えられた打球はあっという間に二遊間を越えて外野までぐんぐん伸びていき、芹澤は手応えを感じていた。

 

(させないにゃ!)

 

(えっ!?)

 

 フライと言うには低い弾道の打球を内野に背を向けながら中野が追っていく。すぐに自身に迫りそのまま越えてしまいそうな打球に中野はランニングキャッチを試みた。

 

「ととっ……!」

 

 すると勢い余ってフェンスネットにぶつかってしまうが慣れたグラウンドということもあって頭には入っており、背中から倒れて衝撃を抑えると、ミットを上にあげた。

 

「アウト!」

 

(うっそー……今の捕る?)

 

(ふぅ……最近の永井のおかげでこういう打球を処理するのにも慣れてきたからにゃ)

 

(思ったよりパワーのあるバッターだったわね。情報が無かったから慎重に高さを抑えておいて良かったわ)

 

 芹澤のセンターフライによりスリーアウトチェンジ。無失点に抑えた中野たちが盛り上がっている一方、得点できなかったチームもムードが下がることなく、戻ってきた芹澤のバッティングを讃えていた。

 

「どんまい! 惜しかったね。今のは中野さんを褒めるしかないよ」

 

「うー……そうだね」

 

「ほら! 一回打ち取られたくらいで落ち込んでる暇なんてないよ。まずは守備に集中しよ!」

 

「わ、分かった! 頑張るよ!」

 

(大人になったら美人になりそうな子、思ったよりぐいぐい引っ張ってくれるなあ。でも、その通りかも!)

 

 河北にミットを手渡された芹澤は気合いを入れ直して守備についたのだった。

 すると試合は投手戦の様相を呈してくる。コントロールが落ち着いてきた野崎はパームを交えながら時には厳しく、時には力のあるボールを大雑把に投じて得点を許さなかった。一方の倉敷はというと、低めの制球が中心ではあるが高めも含めた四隅を積極的に使ってバッターに的を絞らせなかった。

 

「ストライク! バッターアウト!」

 

(やられたあ……!)

 

 芹澤の2打席目は追い込まれるまでに決めきれず、アウトローに投じられたチェンジアップにタイミングを外されて空振り三振に取られていた。

 

(やはり秋大会が始まる前と比べてチェンジアップの制球が良くなっている気がするわ)

 

 近藤は大会前に投げてもらった時よりコースを狙えるようになっていることに頼もしさを覚える。最近ストレートだけでなく変化球の制球も拘って練習している倉敷もまだ成果の出ないカーブに対し、チェンジアップは成果が出始めていることを感じており、充足した感情を覚えていた。

 

(しまった……!)

 

「アウト!」

 

 回は進み、6回の裏。先頭バッターとして打席に立った芹澤は今度はチェンジアップを見せ球にアウトハイを突いたストレートを打ち上げさせられてしまい、ファーストフライに倒れた。

 

(うう……結局ノーヒットか……)

 

 すると7回の表、体力が辛くなってきてもまだ余力が残っている野崎は序盤のような三振は取れないものの、低めのストレートを打たせて取り2アウトランナー無しの場面を迎えていた。そして右打席に立った阿佐田に対しても真ん中低め外寄りにストレートを投じ、これに力負けした阿佐田の打球は一塁線へのゴロになった。

 

「あっ!」

 

 これまで周りのフォローもあってエラーを記録せずにきた芹澤だったが、一塁ベース手前でバウンドする前に捕るかバウンドした後ベースの後ろで捕るかの判断が中途半端になり、ゴロをファールゾーンに弾いてしまった。慌ててベンチ近くまで転がったボールを自分で拾いにいくが、その隙を強かについた阿佐田は二塁まで到達していた。

 

「うう……ごめーん!」

 

「いえ。気にしないで下さい。私も夏大会で同じようにエラーしてしまったこともありますし……」

 

(大事なのはその後……)

 

(野崎さん。これで終わりという打球をエラーされても、動じていないわ。……頼もしくなったわね。タイムをかけようかと思ったけど、いらないわ)

 

 すると次に右打席に立った有原に対し、鈴木は初球から甘く入れば長打の危険もあるインコースへのストレートを要求した。そのサインに迷わず頷いた野崎はボールを投じる。エラーの動揺が大きく出るであろう初球に狙いを絞っていた有原はこのボールにバットを振り出した。

 

「アウト!」

 

(詰まらされた……!)

 

 厳しく投じられたストレートに詰まった打球は浅いレフトフライ。打ち取られた有原は悔しそうでもあり、野崎の気持ちを強くぶつけられたようで嬉しそうでもあった。

 7回の裏、そのピッチングに鼓舞されるように先頭バッターの九十九が一塁線に鋭いゴロを放った。秋乃は駿足を飛ばして深い位置での捕球を目指す。すると辛うじて打球に追いつけそうだった。

 

(捕ったらすぐ一塁に投げなきゃ……あっ!?)

 

 しかし送球の焦りから伸ばしたミットは打球を収めきれなかった。その場に落ちるように転がるボールを慌てて拾った秋乃は一塁に入った倉敷に合わせるが、九十九の足が勝りセーフの判定が上がった。

 

(小麦でもエラーしちゃうことあるんだ……)

 

「ごめん!」

 

「仕方ないわ。今のはギリギリのプレーだったもの。それより切り替えて」

 

「うん!」

 

(それに今のはあたしがスタミナを気にして、ストライクを取りにいってしまった。九十九にそこを狙われた……反省するべきところがあったのはあたしも同じ)

 

 ノーアウトランナー一塁。1点差を追う彼女達にとっては是が非でも追いつきたいチャンスに右打席に立った河北はバントの構えを取った。

 

(前の紅白戦でも九十九先輩を送ろうとしたことがあったな。あの時は打ち上げて送れなかった。打球が上がっても上がらなくても、まずは勢いを殺して転がすことを考えるんだ!)

 

 インハイに投じられた全力ストレートにも動じず河北は当てたポイントがバットの芯より内側ながらも、勢いを殺してピッチャー前に転がした。

 

(転がされた! 倉敷先輩が捕れるけど、勢いが殺されてる。これじゃあ足の速い九十九先輩は刺せない!)

 

「一塁に!」

 

「ふっ!」

 

「アウト!」

 

 ファーストやサードに捕らせるような高い技術のあるバントではなかったが、九十九の足を考えれば勢いさえ抑えられればたとえピッチャーに処理されても二塁は間に合わないという河北の判断は正しかった。近藤の指示で倉敷はファーストに送球し、河北はアウトになるも送りバントが成功して1アウトランナー二塁になった。

 

「ナイスバント〜。絶妙だったじゃん」

 

「ありがと。絶対に追いつこうね!」

 

「もち!」

 

 このチャンスに右打席に立ったのは新田。彼女に対して倉敷は今の球威を気にして慎重になり、2ボール1ストライクとボールが先行する。

 

(狙いは1つ……外の入ってるストレート)

 

 投じられた4球目はアウトコース高めへのストレート。バットを出そうとした新田だったが、振り出す前に止めてこれを見送った。

 

「……ボール!」

 

(あっぶな! 今の狙って高めに外した感じ? 咲ったら誘ったな〜!)

 

(美奈子なら絶対振ると思ったのに……。でも倉敷先輩のコントロールなら、悪くない選択だったはず。次のバッターは東雲さん……これ以上のボール球は投げられないわ。アウトコース低めに7割ストレートを……)

 

(それしかないわね)

 

 高めに外されたストレートを新田は我慢して見送り3ボール1ストライク。後が無くなったバッテリーはアウトローへのコントロール重視のストレートを選択した。

 

(待ってました!)

 

 外に張っていた新田はストレートを捉えると、右方向にゴロで強く打ち返した。

 

(うっ……これは、ギリギリなのだ!)

 

 打ち返される前にそれとなく一二塁間に寄っていた阿佐田だったが予想以上に鋭い打球に焦りを覚えながら飛びついた。

 

(げっ)

 

(ふぃー……寄ってなかったら絶対追いつけなかったのだ)

 

「アウト!」

 

 際どい打球だったが、ここは阿佐田の守備が勝った。ミットの先で掴み取ったボールを取り出しながら立ち上がり、三塁の方をチラッと見てから一塁に送球が為されて新田はアウトに取られる。阿佐田は試合中なので少し迷ったが、折角の当たりを止められ唇を尖らせる新田を見て彼女を指差し言い放った。

 

「にたっち! 今のは辛かったのだ! ファミレスでこっそり仕込んだタバスコを味見した時くらい辛かったのだ!」

 

「へっ?」

 

(確かに咲相手にわたしも仕込んだことがあるけど、ノーダメージだったなあ……じゃなくて。どういうこと?)

 

「……阿佐田先輩なりの気遣いなんでしょう。捕られてしまったけど今の貴女の打球は良かったわよ」

 

「ホントに!?」

 

「ええ。少しずつ練習の成果は出ている。落ち込むことはないわ」

 

「べ、別に落ち込んでないし……」

 

「そういうことにしておくわ。それと……貴女が外に絞った意図は分かってるわよ」

 

「……!」

 

 ネクストサークルから出てきた東雲は新田と会話を交わすと右打席に入り、地面をならす。今のセカンドゴロで三塁に進んだ九十九を視界に収めた彼女は肩から余計な力を抜くように息を吐き出すと、バットを構える。

 

(たとえ抜けなくても進塁打を放つ意識が芽生えたのは嬉しいわ。これで2アウトランナー三塁。二塁と違い浅いヒットでも、些細なミスで進塁しても同点。自ずとかかるプレッシャーは増しているわ)

 

(正念場ね)

 

(コントロールだけでは抑えきれないかもしれない。倉敷先輩、体力はきついでしょうけど……)

 

(……! ワインドアップポジション……)

 

 ランナーは三塁にいるがホームスチールは無いと踏み、2アウトということも踏まえて倉敷は腕を振りかぶった。セットポジションと比べて時間のかかる投球動作に九十九がリードを広げていくのが右投げの彼女の目に入ったが、バッター勝負に意識を向けていた倉敷は意に介することなく足を踏み込んでボールを投げ込んだ。体力を振り絞って膝下に投じられた全力ストレートに東雲のバットが振り出される。

 

「ストライク!」

 

(速さ以上の凄みを感じるストレート……。体力はもうほとんど残っていないはず。倉敷先輩は……気力で投げている)

 

 空振りした東雲は気を引き締め直してバットを構えた。すると次に投じられたインハイへの内に外された7割ストレート、アウトハイへの高めに外された7割ストレートにも引っ掛からずに見送り、2ボール1ストライクとなる。

 

(今の2球は遅いストレート。そろそろ速いストレートが来るかしら。……!?)

 

 腕が振り切られて投じられた4球目はチェンジアップ。全力のストレートを警戒していた東雲は速いタイミングでバットを振り出してしまう。

 

「ストライク!」

 

(ボールが先行したカウントで変化球を……。今までの近藤さんならストレートをゾーンに要求していたはず。やられたわね……。追い込まれてしまったけど、瀬戸際に立っているのは相手も同じ。最後まで食らいつくわ)

 

 東雲は意識を切り替えて打席の立ち位置を下げ、速球であっても見れる時間を増やし、チェンジアップを簡単に振らされないようにした。2つの空振りで追い込まれてもチャンスを託された身として強い気持ちを保つ東雲に、味方としては頼もしいが対峙するバッターとしては厄介だと倉敷は感じる。

 

(東雲さん相手にはフルカウントになる前に勝負にいきたいわ。倉敷先輩、ここでもう一度……全力のストレートを)

 

(そのサインを待っていたわ)

 

 近藤なりのリードに倉敷はしっかり首を縦に振ると、投げ急がずに縫い目に指をかけながら次の一球への集中を高めていく。そして心が熱く、頭が冷静になった瞬間。投球姿勢に入り、腕を振り切ってボールを投じた。

 

(アウトロー!)

 

 アウトコース低めに投じられた全力ストレートに対し、とっさに振り出されたバットが弾き返した打球が右方向にライナーとなって放たれる。

 

「とりゃー!」

 

 そしてファーストの頭上を越えようかというライナーに秋乃は足首をバネのようにしならせて跳ね上がり、伸ばしたミットは鋭い打球を掴み取った。

 

「アウト!」

 

(やった……!)

 

 ゲームセット。結局初回の1点が決勝点となり、1-0で試合の幕が閉じられた。苦しいピンチもあったが投げきり、無失点で抑えきれたことに倉敷は小さくガッツポーズを取って喜びを表現した。

 

(……参ったわね。追い込まれてあんなストレートを投げ込まれてしまったら、素直に流すので精一杯よ)

 

 出来ることはやり尽くしたがそれでも崩せなかったことは東雲に自分の打力をもっと高めたいという気持ちを抱かせてはいたが、今は素直に投げきった倉敷への賞賛で一杯だった。

 試合の終わりとして互いのチームが一列に並び、球審を務めた掛橋先生の「礼!」が響くと、互いに「ありがとうございました!」と言いながら頭を下げた。今日はこれで練習終了となり、解散したみんなはベンチへと戻り一度休憩を挟んでいく。

 

「お疲れ、近藤」

 

「お疲れ様でした! 最初から最後まで凄かったです……!」

 

「何言ってんの。アンタのリードがあったからでしょ。確かしばらくは逢坂とバッテリー組むのよね?」

 

「ええ。逢坂さんが登板する時はマスクを被るように言われてます」

 

「アイツのことも今日みたいに引っ張ってあげてね」

 

「はい!」

 

 倉敷が今日の試合でバッテリーを組んだ近藤に話しかけた頃、野崎も鈴木に話しかけていた。

 

「和香さん。お疲れ様でした」

 

「お疲れ様。負けてしまったのは残念だけど、今日のピッチングは良かったわよ。特にストレートがいつもより伸びていたように感じたわ」

 

「本当ですか!? 嬉しいです」

 

(図書室で調べた限りでは、ストレートはフォーシームとも呼ばれていて……縫い目が最も通過して空気の流れを受けやすいフォーシームは揚力が働きやすい。ストレートがどうして浮くように感じるのかが分かったおかげで、投げる時にイメージしやすくなった気がします。高坂さんはこのことを伝えたかったのでしょうか……?)

 

 結果として負けてしまったが、投球内容は悪くなかったと鈴木は感じていた。手応えが少なからずあった野崎はそのことをちゃんと言葉で伝えられ、嬉しさと安堵が混じったような笑みを浮かべた。

 

「小麦ー。最後凄かったね!」

 

「ありがとー。ねえ、むすびもこの後練習していく?」

 

「あれっ。確か今日はこれで練習終了だって……」

 

「自主練だよ〜」

 

「あー、そういうことかあ。でも結構疲れちゃったしなあ……。小麦は何の練習するつもりなの?」

 

「守備練習! りょーやつばさにノックしてもらうの!」

 

「えー? 小麦あんなに守備上手いのに?」

 

「今日エラーしちゃったから……」

 

「でも最後ファインプレーでミスを帳消しにしたじゃん。そんなに気にしなくても……」

 

「気にする。だって……もっと上手くなりたいもん」

 

「……! 小麦……」

 

 グラウンドに戻っていく小麦の背中はそんなに距離があるはずないのに、芹澤の目には遠くにあるように映った。

 

(小麦……だけじゃない。みんなまで……。……なんであたしは気づかなかったんだろう。同じ新設校で勝ち残る里ヶ浜と一回戦負け続きのうちの違いを偵察に来たのに。実践的なのが多い気はするけど、普段の練習量はうちとそんなに変わらない。けど里ヶ浜は……みんな自主的に残って練習しているんだ。もっと……上手くなりたいから)

 

 規定の練習が終わっても残って自主練をする里ヶ浜の面々。最初から全員がそうしていたわけではなかった。初瀬の特訓をきっかけに段々と残って練習する人が増え、今は全員が残って練習するようになったのだった。

 

(さっき試合前に聞いた小麦の話……あの時、気付くべきだったのかな。練習をこなしていたら次第に上手くなる、ってことだけじゃない。上手くなりたくて貪欲に練習したってことを……。そこまで頑張る理由は……)

 

「……あっ。むすびー! 一緒にやる?」

 

「うん!」

 

 自主練に参加したいという芹澤をみんな快く受け入れ、ノックが再開された。するとしばらくしてから野手より長く休憩を取っていた倉敷や野崎もファーストとして合流する。

 

「ねえ、ちょっといい?」

 

「は、はいっ」

 

(わっ、雨の降る裏路地で子犬撫でてそうな人に話しかけられた。何の用だろう……?)

 

 すると倉敷が芹澤に話しかけた。そのことに驚いたのは芹澤だけでないようで、ファーストを守る他の2人も興味深そうに聞き耳を立てていた。

 

「確かアンタ、さきがけ女子の子よね」

 

「そうです。キャプテンやってます!」

 

「聞きたいんだけどさ、秋大会の界皇との試合……初回に6失点した後。1点ずつしか取られなかったでしょ。あたしはあの打線が少しでも気持ちが乱れてたら抑え切れないことを知ってる……。気持ちが切れてもおかしくないのに、なんであそこまで戦い抜けたの?」

 

「……そのことですか。ん……小麦もいるし、いっか。それは前に界皇と同じくらいのチームと練習試合した時のことを繰り返さないようにしようって思ったからなんです」

 

「界皇レベルのチームと練習試合を……」

 

「あはは……といっても戦ったのは三軍なんですけど。そこと戦った時、打ち込まれちゃって凄い点差がつけられちゃったんです。しかもあたしがエラーしちゃって……その時、黄色いクルクルの人に凄いバカにされたのがきっかけかな」

 

(界皇と同じくらいのチームにいる黄色いクルクルの人……。も、もしかして……)

 

 他の二人はまだピンと来ていない様子だったが、一緒に聞いていた野崎は黄色い髪でツインテールの先が巻いている人物がすぐに浮かんだ。

 

「向月の高坂さん……ですか?」

 

「およ? よく分かったねー。そうだよ。向月の三軍と試合してたんだ。さすがの向月でも三軍の試合相手には困ってるみたいでさ。あっちから来て試合申し込んできたんだ」

 

「アンタ達もやったのね……」

 

「えっ。小麦たちも……?」

 

「秋乃はまだいなかったわ。高坂は有原の握手もシカトするし、失礼なやつだったわね」

 

「そうですよね! あたしも試合始まる前に握手しようとしたら無視されました!」

 

(……確かに高坂さんはいささか失礼なところがあって、そこは悪いところかもしれません。ですが高坂さんは言われる側が何か悪いことをしていなければ、酷いことは言わないはずです……)

 

「その……もしかしたら、ですけど。先に向月に対して酷いことをしてしまったのではないでしょうか……?」

 

「ゆうき!?」

 

「……うん。その通りだよ。さっき言った通りエラーしたんだけど、あたし達は……ヘラヘラ笑ってたんだ。ボロボロに負けてたから諦めちゃってたんだよ」

 

「……その姿勢は良くないわね。どんな実力差があっても、諦める理由にはならないわ」

 

「はい……。今はあたしもその通りだと思います。こーさかって子に馬鹿にされた後、ちょうど三軍に調整のために降りてきたサウスポーの子に……あれ?」

 

「どうしたんですか?」

 

「いや、そういえばその子に似てるなーと思って」

 

「えっ……!?」

 

(もしかして……)

 

 似ていると言われた野崎の頭にある人物がよぎる中、芹澤はその人物に言われたことを告げた。

 

「それでその人に『すみません! すみません! 椿ちゃんの失礼な物言いは本当に申し訳ないです……。けど、言った内容はその通りだと思います。勝負の場に出ているのにそんな態度を取られるのは試合と、そして名門向月のことを舐めているってことですよ』って言われてね……」

 

(少し引っ込み思案だけど、芯の強い(かた)……)

 

「突きつけられてさすがに目が覚めたよ。あたし達は努力が足りないのを認めたくなくて誤魔化してただけだったんだ。そんなんだから勝てるわけなんてなかったんだって。だからあたし達はあの大敗した練習試合からもっとトレーニングを積んで、最後まで諦めずに戦おうって思ったんだ」

 

「なるほどね。だから界皇相手にあれだけの点差がついても、気持ちを切らさずに全力を尽くせたのね」

 

「はいっ! 正直絶望的だったんですけど、諦めるのは界皇にも……勝つためにトレーニング頑張ってきたあたし達自身にも失礼かなって思ってガッツで戦いました! ……けど一回戦敗退が続いて、さすがに落ち込んだんです。キャプテンとしてあたしは選手じゃなく、チームを支える方に回った方が良いんじゃないかって。でも今日ここに来てよかった……」

 

「どうしてー?」

 

「小麦たちのおかげで気づけたんだ。好きって気持ちだけじゃどうにもならないことはあるけど……好きって気持ちが上手くなるための第一歩なんだって、そう思えたから!」

 

「そっか! 小麦もね。野球好き! だからもっともっと頑張る!」

 

「よーし! あたしも負けないぞー!」

 

 こうして自主練は日が暮れるまで続けられた。ノックを弾いてしまうことの多い芹澤だったが、下手なところを見られるのが嫌だとはもう感じず、周りのプレーも参考にしてそのミスを一つずつ減らしていきたいと思ったのだった。

 

「みんなお疲れ! 芹澤さんも!」

 

「あ、キャプテンさん」

 

「キャプテンさんなんて……有原でいいよー」

 

「じゃあ有原さんもお疲れ様! 今日は色々ありがとね!」

 

「こちらこそありがとう! もう日が暮れちゃったけど大丈夫?」

 

「あ、大丈夫だよ。距離はあるけど電車で1時間くらいで帰れるから」

 

「そっか、良かった。それでね。相談なんだけど……今度うちと練習試合しない!?」

 

「大歓迎です! 練習試合してくれるところ少なくて困ってて……」

 

 有原が期待を乗せるように両腕をくの字に曲げて近づき練習試合の申し込みをすると芹澤も願ったり叶ったりと迷わず受け入れた。それを聞いた秋乃は翠色の瞳を輝かせた。

 

「えっ! むすびのとこと試合するのー!?」

 

「うん。もっと色んな相手との対戦経験を積みたいって東雲さんと話してたんだ」

 

「やったー! むすびと試合、楽しみー!」

 

「あたしも! 試合までにたっくさん練習してくるからね!」

 

 こうして里ヶ浜とさきがけ女子の練習試合が行われることが決まった。まだ日程は決まっていないが秋乃も芹澤もその日を楽しみにし、野球が好きな気持ちを競い合うように、彼女たちはそれぞれの場所で練習に励むのだった——。



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勇往邁進

 秋も深まり、紅葉して綺麗に赤く染まった楓が今は落ち葉となって学校からひまわりグラウンドに向かう道を彩り出した。慣れ親しんだ道の変化を楽しむようにして通ってきた彼女たちは今日も練習に励む。少しずつでも上手い自分に変わっていくために。

 

「りょー!」

 

 一塁線に鋭く放たれたゴロを左手に嵌めたミットを伸ばしてベースの後ろで掴み取った秋乃はそのままミットを押し出すようにしてグラブトスを行う。送球としては強くはなかったが近い距離で緩やかな軌道のボールを受け取ったピッチャーの東雲が一塁ベースを踏み、ノックと同時に走り出した中野をアウトにしていた。

 

「秋乃さん、良い動きだったわ。今みたいにバッターの足が速くて近い距離ですぐに送球が必要なら、グラブトスは最適と言っても良いわ。コントロールが難しいから無茶は禁物だけど、出来るに越したことはないわよ」

 

「えへへー。褒められちゃった」

 

「最近、特に気合いが入ってるわね」

 

「むすびのチームと試合出来るのが楽しみなんだよー。身体がボーッと燃えてて、やるぞーってなってるの!」

 

(個人的な理由もあるみたいだけど、練習試合が刺激になっているようで良かったわ)

 

 やる気を出しているのは秋乃だけではなかった。大会が終わり、足りなかったものを埋めようと練習を重ねる彼女たち。しかしすぐに成果が出るようなものばかりでなく、遠く大きな目標を追いかけている状態だった。それが近い日に行われる練習試合で練習の成果を出し切り勝つという目先かつ明確な目標が生まれ、高い士気を保って練習に取り組めていた。

 

「咲ちゃん、今の良かったんじゃない!?」

 

「うん。高さも球速も完璧だったわ。このボールがずっと来たら無敵ね」

 

「無敵……!? アタシに相応しいわね。もう一球いくわよ!」

 

 ピッチャーの練習を本格的に始めて1ヶ月が経った逢坂。最初は思うようにいかないことばかりだったが、近藤に協力してもらって投げ込みを続けていくうちに少しずつピッチングが改善されていくのが分かった。ミットに良いボールを投げ込むたびに得も言われぬ快感が押し寄せる。今の彼女はエースになるという目的だけでなく、ピッチャーそのものの魅力に惹かれていた。

 

「……そろそろ逢坂さんも変化球の練習を始めても良いかもしれないわね」

 

「えっ!?」

 

 逢坂がストレートを30球ほど投げ込んだ頃。ショートバウンドで跳ね上がったカーブをミットに収めきれず、プロテクターに当てて前に落とした鈴木がボールを拾いながら、様子を見て言おうと思っていたことを提案した。

 

「投げても良いの!?」

 

「土台のストレートがしっかりするまではって話だったし、私も良いと思うわ。最初に比べたらだいぶ良くなったもの」

 

「やったー!」

 

「何を投げさせるのかは決まってるの?」

 

「いえ、まだですね」

 

「はーい! はいはーい! アタシ投げたかったボールがあるの! 可愛いアタシにピッタリの名前も考えてたんだから!」

 

「ちょ、ちょっと逢坂さん。勝手に決めちゃ……」

 

「……良いんじゃない。変化球は投げる本人とのフィーリングもあるから、とりあえず試してみれば」

 

「さっすが舞子先輩! 話が分かりますね!」

 

「へえ、そうなんですね……。そういうことなら、逢坂さんの感覚に合わせるのが良いのかも」

 

(サイドスローに相性の良いカーブやスライダーを試してもらおうと思っていたのだけれど……確かに倉敷先輩の言うことにも一理あるわね)

 

「そういうことなら……どんなボールが投げたいのかしら?」

 

「よくぞ聞いてくれました! アタシが投げたいのは……」

 

 逢坂は一歩踏み出して言葉に合わせるように大仰な身振りをすると、最後は満面の笑顔にピースサインを添えて発表した。

 

「プリティボールよ!」

 

(プリティ……? そんな球種、あるわけない……わよね?)

 

「……いや、聞きたいのは命名した方じゃなく一般的なものよ」

 

(良かった。そうよね)

 

(アタシだったら絶対付けないネーミングね……)

 

 改めて正式な球種を逢坂が伝えると、鈴木は少し不安げな表情になった。だが倉敷の言う通り兎にも角にも試してみようということになり、逢坂がそのボールを投げてみる。しかし思うような変化にならなかった。他のボールを試そうという話になるが、逢坂は諦めなかった。その熱意に負けて、模索が行われる。色々試していくうちにリリース時にストレートより手首を上方向に立てる方が投げやすいことが分かった。また握り方も工夫して少しずつ変えられていく。最終的に最初はボールの下側を支えていた親指を横側に持っていった。その際、僅かに人差し指と中指の位置にもズレが生まれる。そうしてようやく投げられたボールが予想以上の変化をし、彼女はこのボールをハイパープリティボールと名付けたのだった——。

 

 各々が課題に向き合い、充実した練習の日々を過ごしていった。そしてさきがけ女子との練習試合を明日に迎えた土曜日。里ヶ浜は秋大会を終えてから初めて清城との練習試合を行っていた。彼女たちをひまわりグラウンドに招いて行われている試合は先発した野崎が初回の立ち上がりを突かれて神宮寺と牧野の連続タイムリーで2失点を喫していた。

 

(くっ……。してやられましたね)

 

「アウト!」

 

 5回の表、追加点のチャンスを迎えていた清城だったがクロスファイヤーを見せ球に外低めに投げられたパームにスイングが泳いだ神宮寺がピッチャーゴロに倒れて攻撃が終了する。5回の裏、野崎のピッチングに応えようとする打線だったが、温存していた高速スライダーを中心としたリードに切り替えた牧野の機転と神宮寺の力投の前に得点を上げられず。試合は双方チャンスを作るも互いのピッチャーが粘りを見せて初回以降得点が入らずにいた。

 

(クロスファイヤーで仕留めるために、浅いカウントでは外に集めてくるはず……!)

 

(しまった。読まれた!?)

 

 6回の表、鈴木のリードを読み切った牧野が外のストレートを流してライト線を抜くツーベースで出塁すると、次のバッターがセカンドゴロで倒れる隙に三塁へと進んだ。

 

(クロスファイヤー!)

 

 1アウトランナー三塁のチャンスに右打席に入った7番バッターが内のストレートを弾き返す。

 

(だあっ。ホームラン打とうと思ったのに……)

 

(還れる!)

 

 内のストレートに詰まらされながらも外野へと運んだフライは駿足の牧野には充分な飛距離があった。両投手の粘り合いの末、次の1点を手にしたのは清城。犠牲フライにより入った3点目の大きさは否応なく感じられた野崎だったが、気持ちを切り替えて後続を断ちこれ以上の点は許さず。しかし追加点の勢いは断ち切らせんとばかりに裏の攻撃を神宮寺が三者凡退で抑えきる。

 

(膝下……際どい! 手を出さなきゃ……!)

 

 7回の表のマウンドに上がったのは倉敷。慣れないリリーフだったがコントロールが大きく乱れることもなく、先頭バッターをサードゴロに打ち取る。左の速球派の野崎との違いに戸惑うバッターはなんとか対応しようとバットには当てたが、厳しいコースを打ち返した打球は野手の届くところに飛んでいた。調子良く次のバッターをアウトハイに外したストレートを打たせてライトフライに抑えた倉敷はさらに左打席に迎えた2番バッターを早々に追い込んでいた。

 

(このままリズム良く裏の攻撃にいかせない。その方が神宮寺さんも抑えやすくなるはず……)

 

「ファール!」

 

 しかし追い込まれてから短くバットを持ち直し外に踏み込んだ構えに変更したバッターが軽く振ったスイングで際どいボールをファールにしつ続け、粘りを見せていた。それならばとインハイに投じられた全力ストレートも対応され、バックネット方向へのファールとされる。

 

(その手はもう食わないよ。これとチェンジアップに気をつければ、バットに当たらないことはない。粘ってるうちに甘く入ろうもんならいただくよ……)

 

(……2アウト、ランナー無し。インハイのボールも振らせられた。貴重な実戦の機会……試してみましょうか)

 

(……! ……分かったわ。投げ込んでみせる)

 

 2ボール2ストライクからの8球目。鈴木が両手を広げてからど真ん中にキャッチャーミットを構えると、倉敷は息をゆっくり吐き出し、意を決して投げ込んだ。

 

(甘い!)

 

 真ん中付近に放たれたボールに振り出されたバットは空を切った。

 

(えっ……!?)

 

「アウト!」

 

(ふぅ……投げ込めたわ。今はコースも考えずにワンバウンドさせるのが精一杯ね)

 

 投じられたカーブが縦に落ちるように曲がるとホームベースを過ぎたところでバウンドしたボールを鈴木はミットを下に向けるようにして押さえ込み、ボールを見失ったバッターの背にタッチして最後のアウトを取った。倉敷はまだストレートのようにとはいかないがひとまず思ったように制御出来たカーブに手応えを感じると、鈴木と言葉を交わさずにミットを重ねたのだった。

 

(来たっ。外のストレート!)

 

 7回の裏、里ヶ浜最後の攻撃。最終回に来てもスタミナの残る神宮寺に2アウトランナー無しと追い込まれていたが、疲れによる微妙なコントロールのずれに苦労して3ボール1ストライク。右打席に立つ新田は思い切って外のストレートに絞ると、これが見事に的中した。捉えた打球は一二塁間に転がっていく。

 

「抜けたーっ!」

 

(よっしゃ……!)

 

 勢いのあるゴロは飛びついたセカンドの先を抜けていき、ライト前へのヒットになった。ベンチから「ナイバッチー!」と揃えて飛ばされた掛け声に新田は拳を上げながら大きな達成感を味わっていた。

 

(外れてる……いや、入ってくる!)

 

(……! 反応された!?)

 

 続いて右打席に入った永井に投じられた初球は外からバックドアで入ってくるシュート。これに反応した永井は見逃すことなくバットを振り切った。すると痛烈な打球音が響き渡る。

 

(嘘でしょお……。そんなに伸びる!?)

 

 センターに向かって真っ直ぐと伸びていった打球は追いかける彼女の頭上を越えていき、バウンドしてすぐフェンスネットに当たった。衝撃が吸収されて転がる遠いボールにようやく追いついたセンターは二塁へと送球を行った。足の速くない永井だったが、定位置にいたセンターが処理するには時間がかかる打球だったこともありタッチプレーに持ち込まれずに二塁を陥れた。そして……

 

「加奈子ー! ナイバッチ!」

 

 2アウトで迷わずスタートを切れた新田がホームに到達し、里ヶ浜は1点を返した。自分の走塁より永井のタイムリーを喜ぶように頭の上で両手を大きく振る新田に、永井は照れながら右手を振ったのだった。

 

「やはり易々と終わらせてはくれないようですね」

 

「うん。けど、まだ2点差あるよ。ランナーはあまり気にせず、バッター集中でいこう!」

 

「ええ。全力を尽くし、最後のアウトを奪い去りましょう」

 

 ホームのカバーに入っていた神宮寺が牧野と僅かな時間言葉を交わすと、マウンドへと戻って汗を拭い帽子を被り直した彼女の目に怯えはなく、迎え撃つ側ではあるがまるで挑戦者のような不屈の精神を抱いていた。

 鈴木の代打に送られた有原に投じられた初球はアウトコース真ん中へのストレート。これが外に外れると2球目として投じられたボールに有原はバットを振り出す。

 

「ファール!」

 

(しまった……! シュートを振らされちゃった……)

 

(追いかける側というのは打ち気が逸るもの。ボールが先行していれば尚更……。有原さんほどの好打者といえど、振ってくれると思っていましたよ)

 

 ストライクゾーンからボールゾーンに変化していく膝下のシュートを振らされてしまい1ボール1ストライク。二塁ランナーはさほど意識せず、神宮寺は次の一球に力を込めてボールを投じた。

 

(うっ!)

 

「ストライク!」

 

「ナイスボール!」

 

 神宮寺が投じた全力のストレートが決まったのは先ほどシュートが投げられたのと同じ膝下。振らされたことがよぎって迷いが生まれた有原はこれを見送ってしまい、ストライクのコールが上がった。

 

(やられた! 手を出せなかった……)

 

「どんまいよ翼ちゃん! 次に集中よ!」

 

(ここちゃん。……うん!)

 

(……牧野さん。焦らずいきましょう)

 

(……! ……分かったよ。小也香)

 

 宇喜多の代打としてネクストサークルに座る逢坂から声をかけられた有原は集中した面持ちでバットを構え直した。彼女の顔つきや構えを見た神宮寺は一度牧野のサインに首を振る。その意図が伝わった牧野は別のサインに切り替えてミットを構えた。

 

「ファール!」

 

 インハイに投じられたストレートは僅かに高かったが見逃す余裕はなく、有原がとっさにバットを振り出して放った打球は高く打ち上がったのちにバックネットに当たりファールとなった。

 

(まだストレートに力がある……さすが神宮寺さん)

 

(……今度こそ、仕留めよう)

 

(ええ。決めてみせましょう)

 

 1ボール2ストライクから5球目が投じられた。外に投じられたボールに有原はバットを振り出す。

 

(……! スライダー! 届いてっ!)

 

 投じられたのはスライダー。それに気づいた有原は食らいつくようにバットを伸ばす。

 

「ストライク! バッターアウト!」

 

 しかし一見入っているが、その実ボールゾーンにまで変化した曲がりの大きいスライダーは有原のバットの先を通過し、バウンドするかしないかのスレスレで構えられた牧野のミットに収まった。最後は自身の決め球を理想的なコースに投げ切った神宮寺に軍配が上がり、ゲームセット。

 

「礼!」

 

「ありがとうございました!」

 

 3対1で清城の勝利が宣言され、対面して並びあった両校の部員が互いの健闘を称え合うように大きな声で礼を発して練習試合は幕を閉じた。

 そして大会を経て互いに積もる話もあるだろうということで、近くのアミューズメント施設で打ち上げが行われることになった。

 

「改めてお疲れ様。神宮寺さん」

 

「河北さんに有原さん。お疲れ様です」

 

 目的地に向かう道中で河北と有原が小走りで神宮寺に近づき、話しかけた。それに気づいた神宮寺が止まって待つと、追いついた彼女たちと共に歩き始める。

 

「お疲れ! 最後はやられたよ! 今度やる時はリベンジするからね!」

 

「楽しみにしています」

 

「それにしても本当に凄かったよ。ベンチから見てても、前より凄みがあったっていうか……」

 

「そう見えましたか。……今回の大会河北さんとの約束を果たせなかったのは残念でしたが、向月と界皇と公式戦を行えたことは良かったと思っています」

 

「えっ! 清城の組み合わせ、大変なところだなって思ってたけど……」

 

「確かに大変でした。しかし彼女たちと真剣勝負を行ったことで、名門の高みがどれほどのものなのか。それを突きつけられたような気がしたのです」

 

「そっか。名門清城の復活が神宮寺さんが廃部寸前の野球部を復活させた理由だもんね……」

 

「ええ」

 

 三人で話していると、着物を纏って千歳飴を手にしている小さな子供とすれ違った。

 

「里ヶ浜と初めて試合をした日がついこの前のようにも感じられます。しかし時が流れるのは早く、もうこんな時期です」

 

 そんな子供を目で追った神宮寺は胸の奥に秘めた使命感をより強く感じていた。

 

「掲げた目標の高さはよく分かりました。ならばそこへ邁進するのみです」

 

「神宮寺さんらしいね」

 

「だね!」

 

 彼女の決意を聞いて、二人は同じ感想を抱いていた。

 

「私たちも頑張らないとね! まずは明日の試合から!」

 

「明日は別の高校と試合をするのですね」

 

「うん! さきがけ女子とやるんだ。……あ、そうだ! 良かったら、清城のこと紹介するよ!」

 

「よろしいのですか? 確かに試合相手は不足しているのですが……」

 

「大丈夫だよ! あっちも試合するところ少なくて困ってるって言ってたし、それに前に明條のこと紹介してくれたお礼!」

 

「ではご厚意に甘えさせていただきます」

 

「分かった! 明日話を通しておくね」

 

 そうして話しているうちにアミューズメント施設に辿り着いた。カラオケ・ボーリング・ゲームセンターなど複数の娯楽を備えており、それぞれが行きたい場所に分かれて行動することになった。

 

「……だから外に投げるとしても低めに外してゴロを打たせるのに使うのが有効だと思ったわ」

 

「なるほど……。確かに小也香のシュートはスライダーほどの変化はないし、バックドアで使うのは控えた方が良いのかも。アドバイスありがとうございます」

 

 鈴木と牧野はゲームセンターに向かいながら、キャッチャーとして気づいた意見を交換しあっていた。

 

「……野崎さんの軸になるのはストレートですから、立ち上がりが悪いとどうしても狙われやすいと思うんです」

 

「そうね……。大会ではリリーフ中心の起用になったから、とにかく経験を積ませていきたいわ」

 

「それが良さそうですね。……あ、それとあの曲がりの大きいチェンジアップは緩急を使って空振りを狙える球で良いと思うんだけど、ストレートに絞りにくくなるシュートやカットボールみたいな球種があると相手はもっと嫌かも」

 

「……確かにね。ありがとう。考えてみるわ」

 

 相手チームから見た情報というのは貴重で、お互いに耳を傾けてその言葉を真摯に受け止めていた。すると彼女たちの耳に楽しそうな音楽が聞こえてくる。

 

「花〜。ゲームセンターに来たことないって前に言ってたよね?」

 

「うん。私の地元、こういう所無かったから……」

 

「じゃあまずは直感的に出来るゲームから紹介するよお! ほら、こっちこっち!」

 

 息抜きも兼ねているのだからたまには目一杯遊ぼうと友人が牧野を誘った。手を引かれ牧野たちが連れてこられたのは縦長のスクリーンに1〜25までの数字が始まるごとにランダムに配置され、それを小さい順にタッチしてそのタイムを競い合うものだった。

 

「うーん。どう……かな?」

 

「おー! 初めてにしては速い方だよお」

 

「ほんとに? やったぁ……!」

 

 最後の数字に触れると掛かった時間が表示された。そのタイムに友人が目を見張ると、牧野は微笑みをこぼして無邪気に喜ぶ。次に友人が全体をぼんやりと見るようにして次々と押していき、さらに速いタイムを出していた。すると一緒に来たみんなで競い合う流れになる。隣にいた阿佐田が勝負の匂いを嗅ぎつけて飛び込んでいく中、抜きんでたタイムを出した彼女の動きを注視していた九十九は腑に落ちた様子だった。

 

「なるほど。周辺視野ですか」

 

「え?」

 

「周辺視野……ですか?」

 

「ええ。視野は中心視野と周辺視野に分けられるんです」

 

 彼女がポツリと漏らした言葉に、我先にと挑戦しにいくみんなの様子を後ろから窺っていた河北と鈴木が反応した。初めて聞いたような反応をした後輩二人に九十九はどう説明したものかと思案する。

 

「……そうですね。では……視野というのは目を動かさずに見える範囲を指すのですが、彼女たちは数字を目で追っていますよね」

 

「ええと……確かに目で追ってますね」

 

「ですが、普通はそうするのではないのでしょうか?」

 

「ほとんどそうしているみたいですね。ただそれは……目を動かさずに見る一点を固視点と言うのですが、固視点を中心に約三十度の範囲が中心視野と呼ばれていて、この範囲で見ると解像度が高く細部まで判別しやすいからなのです」

 

「つまり判別しやすい範囲に数字を捉えるために目を動かしているわけですか」

 

「ええ。周辺視野は逆に解像度が低く大まかな動きの判別になるのですが、中心視野を除いた範囲を捉えているので……」

 

「そこで捉える力が優れていれば、目で一々追わなくても良いってことですか?」

 

「そういうことですね。実際、速いタイムを出された方は一点を見つめたまま目を動かしていませんでした」

 

(あの子はセンターの……。なるほどね。以前の試合で漏らしていた秘密というのはこのことだったのね)

 

 九十九の話を聞いて清城のセンターに初見のスライダーに反応されてスリーベースヒットを打たれたことを思い出した鈴木はようやく合点がいったようだった。すると三人の前から歓声が上がった。

 

「うそ……私と同じタイム!?」

 

「ほほう。あおいと引き分けとはお主も中々やりおるのだ」

 

「悔しいなあ。これだけは自信あったのにぃ……。やりこんでた口ですか?」

 

「初めてやったのだ。結構面白かったのだ!」

 

「えっ……!」

 

(引き分けじゃない。初めてで同じなら、やりこんでた私の負けだ……)

 

 競い合っていたみんなが上げた歓声は速いタイムを叩き出した阿佐田によるものだった。同タイムを出された女の子が悔しそうにする中、先ほどの九十九の話を聞き今の光景を見ていた河北は不意に閃いた。

 

「あっ! そっか……! あれってそういうことだったんだ!」

 

「あれ……ですか?」

 

「気がつくと打球が飛ぶところにいる阿佐田先輩が不思議で、前に聞いたことがありましたよね。確かその時の答えが……」

 

「ボールが投げられてからホームベースの方をぼんやり見ると、飛ぶ場所が分かる瞬間がある……でしたね。なるほど。今のを見るにあおいは周辺視野が優れているようですし、中心視野で判断している者より素早く判断を行えるというのは、言われてみれば道理な話ですね」

 

「そうですね……! 九十九先輩、周辺視野って鍛えられますか!?」

 

「ええ。勿論。動体視力のように眼の機能は鍛えられますよ」

 

「そうなんですね! やった……!」

 

 他のみんなの挑戦が落ち着くと、彼女もそのゲームをやってみる。最初にやった牧野より遅いタイムに一瞬落ち込んだが、同時にそれは彼女のやる気にも繋がった。

 

(やっぱり。これじゃあぼんやりと見て守ろうとしても、出来ないはずだよね。でもそれなら鍛えよう! 同じように1〜25が書かれた紙を用意して、翼に協力してもらってランダムに並べてもらうんだ。目を動かさずに小さい順から判断する練習をやっていこう! 最初は今みたいに遅いだろうし、すぐに何とかなるものじゃないかもしれないけど……)

 

 河北は神宮寺の横顔をチラッと見ると、拳を握り締めて顔を上げた。

 

(邁進するのみ! よぉーし……やるぞー!)

 

 抱いていたモヤモヤは消え去り、河北は晴れやかな表情を浮かべたのだった。

 

 そして翌日。何度か来ている芹澤の案内でさきがけ女子の部員がひまわりグラウンドへと到着した。再会に喜んで両手を振る秋乃に同様に嬉しかった芹澤も両手を振ると、ハッとした表情を浮かべてわざとらしく咳払いをして仕切り直し、キャプテンとしてみんなに号令をかけた。

 

「れ、礼っ!」

 

「よろしくお願いします!」

 

 グラウンド入りする前に一列に並んださきがけ女子がややバラバラながらも元気よく挨拶をすると、里ヶ浜も挨拶を返して彼女たちを迎え入れたのだった。

 

「そっかあ。むすびはベンチなんだ……」

 

「うん。あたしなりに上手くなりたかったからさ。自主練とかやり始めたんだけど……みんなも一緒にやりだしちゃったんだよね。勿論嬉しかったけど」

 

 一回戦負けが続いていた彼女たちは何かを変えなくてはいけないと感じ始めていた。そんな中でキャプテンである芹澤が始めた自主練に触発され、他の部員も自主練を始めるようになったのだった。

 

「ううー……そうなんだ」

 

「でもそのおかげか最近少しずつ上手くなってきてるって、あたしだけじゃなくてみんなもそう感じてきたんだ。だから……なんていうのかな。スタメンに選ばれなかったのは残念だけど、悔いは残さなかったよ」

 

「そっか。むすびがそう思うなら、小麦ももうしょんぼりしない!」

 

「そうそう。小麦は元気な方が似合ってるよ。けど、今日は勝って自信つけさせてもらうつもりだから! 覚悟してよ〜?」

 

「うん! 小麦たちも精一杯勝ちにいくよー!」

 

「望むところ! じゃ、またあとで!」

 

 試合前に話をする秋乃と芹澤。相談を受けていたとはいえ今日の試合を楽しみにしていた分、芹澤がスタメンを外れたことを秋乃は残念そうにしていた。だが芹澤の気持ちを正直に伝えられ、秋乃も元気を入れ直した。そして互いに勝利への姿勢を見せると、背を向けてそれぞれのベンチへと戻っていったのだった。

 

「みんな、集まって! オーダー発表するよ!」

 

 秋乃がベンチに戻ってくると有原がみんなに声をかけていた。全員が集合したことを確認した有原はオーダー表を広げ、それを読み上げる。

 

「1番ファースト、秋乃小麦!」

 

「はーい!」

 

(久しぶりの1番だ! むすびたちとの試合、気合い入れるぞー!)

 

「2番センター、中野綾香!」

 

「はいにゃ!」

 

(心臓がドキドキしてる……落ち着くにゃ。練習でしてきたことを出せばいいんだにゃ)

 

「3番ショートは私、有原翼です。そして4番……」

 

 有原に期待の眼差しを送る者がいた。すると発表しようとした有原と目が合った。

 

「ピッチャー、逢坂ここ!」

 

「……! はい!」

 

(来たあ……希望通してもらえた! 翼ちゃんが昔から慣れてる3番を希望してたのもあるかもだけど、チームの4番を任せられると思ってくれなきゃ選ばないわ。エースで4番として活躍してやろうじゃない!)

 

「5番ライト、九十九伽奈!」

 

「はい」

 

(……! 伽奈先輩が後ろ……!?)

 

(秋大会では1番や2番での起用でしたが、5番ですか。足の速い秋乃さんや中野さんをそこに起用したことも踏まえると、より繋がる打線を模索しているのでしょうね。私はクリーンナップとしての仕事を果たせるよう尽力しましょう)

 

「6番セカンド、河北智恵!」

 

「は、はいっ!」

 

(翼とスタメンから二遊間を組むなんて久しぶりだな。でも練習では翼の動きにもついていけるように意識してやってきたんだ! 緊張はしちゃうけど……精一杯今出来ることをやろう!)

 

「7番レフト、岩城良美!」

 

「おう!」

 

(紅白戦以来の実戦だな。ウチは伽奈に比べると守備がまだまだだからな……紅白戦と同じく、この試合も守備を大事にしていくぞ!)

 

「8番キャッチャー、近藤咲!」

 

「はい……!」

 

(逢坂さんは初先発だし慣れないことも出てくるはず。私がしっかり支えになってみせるわ)

 

「9番サード、初瀬麻里安!」

 

「……はいっ!」

 

(……鼓動が身体に響いてくる。でも、不安のせいでは無い気がします。これは……期待、かもしれません)

 

「一塁コーチャーは宇喜多さんに、三塁コーチャーは倉敷先輩にお願いします」

 

「はいっ」

 

「分かったわ」

 

「逢坂さん。この試合、私はリリーフに回るわ。だから今日は後のことを気にせず投げてちょうだい」

 

「任せて! 龍ちゃんの出番無くしちゃうくらい頑張っちゃうんだから!」

 

 東雲が逢坂に声をかけ終えると、キャプテンとして伝えるべきことを全て伝え終えた有原は頬を両手で軽く叩いた。表情が和らいだ有原は河北と東雲と肩を組むと、ベンチメンバーも含めた全員で円陣が作られる。

 

「みんな! 試合、楽しんでいこう!」

 

 有原の言葉に全員がそれぞれの言葉で返事をした。言葉こそ十人十色だったが、混ざり合った返事は不思議と心地よく響いていた。

 

「みんな! ガッツでぶつかっていくよ!」

 

「おー!」

 

 さきがけ女子も円陣を作っていた。芹澤の号令に合わせて腹の底から声を出した彼女たちは気合いの入った鋭い眼差しを里ヶ浜に向ける。

 

「プレイボール!」

 

 こうして里ヶ浜とさきがけ女子の練習試合の幕が切って落とされたのだった。



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皆で綴った物語

「さあ! しまっていこう!」

 

 後攻のさきがけ女子、選ばれた9人の選手がグラウンドに散った。ピッチャーの投球練習も終わり、キャッチャーの全体を引き締めるような声が響き渡る。

 

(いつもの河川敷とは全然違う……。うー……緊張する……)

 

三菜(みな)、表情硬いよ! リラックスリラックス! 声出していこう!」

 

「……! 結ったらベンチからあんなに大声で……でも、その通りか。すぅ……今日もいつもの感じでいくよ! 後ろの皆、今日もよろしくね!」

 

 さきがけ女子のピッチャー、三菜は慣れないマウンドに緊張を隠せなかった。だがベンチからでもよく聞こえてくる芹澤の元気な声に励まされて自身も声を張ると、打って変わってスッキリした表情になった。

 

(むすびもベンチから戦ってるんだ! よーし、負けないぞー!)

 

「よろしくお願いしまーす!」

 

 その光景を見た秋乃はたとえ芹澤がグラウンドに立っていなくても、さきがけ女子というチームと対戦する以上は芹澤も含めた全員と戦うということであると感じた。すると闘争心が湧いてきた秋乃は元気いっぱいの声を出して左打席へと入っていった。

 

(結がこの子は低めがちょー強い! って言ってたな)

 

 事前に芹澤から聞いておいた里ヶ浜の情報を念頭に置き、三菜は投球姿勢に入った。スリークォーターの投球フォームから右腕が振られ、ボールが投じられる。

 

(わっ!?)

 

「ボール!」

 

(あんまり速くはないにゃ。秋乃なら……)

 

 投じられた初球はストライクゾーンから高めに外れた。大きく外れたボールに秋乃も手を出さず、ボールのコールが上がる。

 

「力入ってるよ。楽にいこう!」

 

「わ、分かった!」

 

(低めいかないように意識しすぎちゃった。足速いらしいし、フォアボールで出しちゃったら本末転倒だよね。立ち上がりからあまり考えすぎない方がいいか……)

 

 低めを警戒するあまり乱れたコントロールに三菜は一度頭をリセットするように息を吐き出すと、今度は狙いを大雑把にしてボールを投じた。

 

(あっ!)

 

(真ん中! 打てる……!)

 

 するとほとんど真ん中にボールが入ってしまった。甘く入ったボールに秋乃は逃さずスイングの始動に入る。

 

(んっ……!?)

 

 ドライブ回転のライナーを放とうとバットを振り切った秋乃だったが、一二塁間に放たれたゴロに違和感を覚えながら走り出す。

 

「三菜! カバーに!」

 

「うんっ!」

 

(届けっ……!)

 

 一塁側に寄った鋭いゴロにファーストは食らいつくように飛びついた。すると長いファーストミットの先に引っ掛かるようにして打球が掴み取られる。駿足を飛ばして走る秋乃に対し、ファーストが起き上がりながらピッチャーへと軽く右腕を振ってボールを送る。すると秋乃とボールを受け取ったピッチャーがほぼ同時のタイミングで一塁ベースを踏んだ。

 

「……アウト!」

 

「ああっ。惜しい!」

 

 際どくもさきがけ女子の連携が僅かに勝り、秋乃はファーストゴロに倒れた。

 

「ナイスファースト! まずはワンナウトー!」

 

(ありがと! 結の分も頑張るよ!)

 

「ワンナウト! この調子でガンガン打たせていこう!」

 

 芹澤の声援を受けたファーストは親指を立てると同じように声を張る。幸先よくワンナウトを取ったこともあり、さきがけ女子は全体から声が出ていた。

 

「うー。止められちゃった」

 

「惜しかったにゃ。あっちも中々良い守備してるにゃ」

 

「そうだね! あやか、後はお願い!」

 

「任せるにゃ!」

 

「中野さん! ボールをよく見ていきましょう……!」

 

「打てるよー! 気合いで負けずにいこう!」

 

「こっからよ! アタシまで回せば何かが起こるわ!」

 

 声量で言えば里ヶ浜も負けていなかった。心強い声援を背に中野は左打席に立ち、バットを構えた。するとサードが前へと出てくる。

 

(この2番はバントが上手くて足も速い。セーフティは警戒しとかないとね……)

 

(構わないにゃ。打って出てやるにゃ! けど、まずはボールのタイミングをしっかり計るにゃ……)

 

「ストライク!」

 

(……リリースが思ったより遅いにゃ)

 

「ボール!」

 

(その分タイミングが掴みづらいけど、やっぱりボールは速くないにゃ。見極めてしっかり芯を捉えるにゃ……!)

 

 インハイ、インローと投げられたボールをどちらもバットを出さずに見送った中野。投じられた3球目に、2球目から外に絞っていた彼女はバットを振り出す。アウトロー、高さこそ大雑把だが外にしっかり投げられたボールを中野は前のめりにならずに引きつけ、左方向にライナーで打ち返した。

 

(うおっ!?)

 

 サードが頭上に放たれたスピードのあるライナーにとっさにミットを伸ばす。

 

「アウト!」

 

(にゃっ!? くぅー……少し引きつけすぎたかにゃ)

 

 上手くミートして弾き返したものの、サードの伸ばしたミットに打球は収まった。ミットを下ろして中を確認したサードは捕球出来たことに安堵の吐息を漏らす。

 

(……ついてないわね。セーフティ警戒で前に出ていたことで打球が上がり切る前に捕られてしまったわ)

 

「惜しかったですね。あと少し……」

 

「だにゃ。狙いは悪くなかったはずにゃ。そのあと少しを掴むためにも、このバッティングを貫いてやるにゃ」

 

(焦りはないみたいですね。練習でしてきたことを……信じているんですね。私も、そうしようと思います)

 

 ——キィン。響いた金属音に話していた初瀬と中野が振り返ると、2アウトランナー無しという状況から思い切って長打を狙っていた有原が少し甘く入ったボールをフルスイングで打ち返し、レフトへの大飛球を放っていた。

 

(……追いつける!)

 

「アウト!」

 

(ううー。あとひと伸び足りなかったかあ……!)

 

 大きく飛ばされた打球だったが最後僅かに失速し、レフトが追いついた。一塁を回ったところで有原は足を止めると、手応えは悪くなかっただけに悔しそうにベンチへと戻ってくる。

 

「あとちょっとでホームランだったわね!」

 

「うん。少し芯を外しちゃったみたい」

 

「ドンマイよ! けど、落ち込んでる場合じゃないわ。なんたってこれから、将来里ヶ浜を背負って立つエースの初登板なんだから!」

 

「あはは……そうだね! よし! みんな、行こう!」

 

 三者凡退に倒れた里ヶ浜だったが落ち込んだ気持ちを守備に持ち込まずに、有原の一声でグラウンドへと踏み出した。

 

(……慣れ親しんだマウンド。なのに、こうして立つと全然違う舞台みたいだわ)

 

 投球練習を行う逢坂は不思議な感覚を味わっていた。緊張、不安、期待……色々思いついた言葉も逢坂にとってはしっくりこなかった。

 

「あと一球!」

 

「ふっ!」

 

(……少しボールが浮き気味だけど、腕は振れてるわね)

 

「逢坂さん。今日までよく頑張ってきたわね」

 

「なーに? 急にどうしたの咲ちゃん」

 

「だって前の紅白戦でもピッチャーはまだ早いって上がらせてもらえなかったけど、それでも不貞腐れずに投げ込んできたじゃない。受けたキャッチャーなら誰だって今思うわ」

 

「もう……アタシの形容に頑張ったとか努力とかはNGよ! キュートで完璧、それがアタシなの! ……でもずっと付き合ってくれてありがとね」

 

「ふふっ。どういたしまして」

 

 投球練習を終えてマウンドに駆け寄った近藤は逢坂と言葉を交わす。長い会話ではなかったが、それだけで十分だった。二人はそれぞれのポジションにつき、相手を待ち構える。

 

「いやー、持ってかれたかと思った。今日はコントロール乱れ気味だなあ」

 

「あんたのコントロールはいつもあんな感じでしょ」

 

「何を〜!」

 

「あははっ。まあまあ。三人で抑えたじゃん。際どいところ頑張って狙ってるのもベンチから見てて分かったよ」

 

「でしょー?」

 

「はいはい。調子に乗らないの」

 

「よーし! 行ってくる! 応援頼んだよ!」

 

「まっかせといて!」

 

 一回の裏、さきがけ女子の攻撃。守備の勢いに乗るように攻撃も元気な声援が飛ばされる中、ファーストを務める1番打者がバッターボックスに向かっていく。

 

(投球練習見る限りだとスピードは速いけど、コントロールはそんなに良くないタイプかな。後は打席で確かめよう)

 

 右打席に入り、バッターがバットを構える。すると逢坂は多くの視線が自分に集まってくるのを感じていた。バッターだけでなく、近藤だけでもない。敵味方入り乱れた視線が彼女に向けられる。

 

(……最高!)

 

 そんな状況で彼女は口角を上げると投球姿勢に入った。左足を上げて右足一本で全体重を支えても揺らぐことなく、右向きに腰を捻り前側に体重移動を行なって左足を踏み込んだ。体重移動で溜めた下半身のエネルギーを腕に、さらに右手の指先からボールに伝え、サイドスローの投球フォームから力の乗ったストレートが放たれる。

 

「ストライク!」

 

(……! 横から見てるより速く感じるな……)

 

 真ん中高めと甘めのコースながら勢いのあるストレートが決まり、様子見に徹していたバッターは想定を越えるボールに驚きながら、イメージの軌道修正を行った。

 

「ナイスボール! けど、もう少し抑えていきましょう!」

 

(自分でもビックリするくらいのボールがいっちゃった。でも咲ちゃんの言う通り浮いちゃったわね)

 

 指から伝わった感触は良かったが、低めに投げようと思ったのに反して浮いたボールを反省した逢坂は近藤が手のひらを地面に向けてから構えたミットを見て、試合前に言われたことを思い出していた。

 

(この試合、構えた場所に正確に投げ込もうとしなくていい。低めにボールを集めることだけ考えて投げて欲しい。頭の上を越えていくボール以外は全部止めてみせる……だったわね)

 

 そして逢坂はミットはあくまで参考程度に、練習でやってきたように低めを狙ってボールを投じた。

 

(……! 低め……際どい!)

 

「……ボール!」

 

「良い感じよ! その調子!」

 

(これで良いのね)

 

 コースが真ん中に寄りながらも低めの良い場所に決まったストレートは僅かに低く、ボールの判定が上がる。ミットのポケットで受け止めた近藤はボールを投げ返しながら今のストレートを肯定するように声をかけた。

 

(今の逢坂さんが高めと低めを器用に投げ分けるのは難しいわ。それに初先発……あれこれと要求するより、一つだけ指針となるものがあれば良い!)

 

(また低め……!)

 

「……ストライク!」

 

 次に投じられたストレートも低めの良い場所に決まり、今度はストライクの判定が上がった。追い込まれたバッターは思案しながらバットを構え直す。

 

(ただでさえスピードのあるボールだ。こうも低めに決められちゃヒットは簡単には打てないな。となれば……)

 

 1ボール2ストライクからの4球目。コースは大雑把ながらストレートが三度(みたび)低めの際どいところに投げられると、バッターはバットを振り出した。

 

(当たれっ!)

 

「ファール!」

 

 バットの先に当たった打球は近藤の右横を抜けてバウンドし、転がっていった。

 

(……ふぅ……。なんとか当たったな。出来るか危ういけど、良いとこに決まったのは打ちにいこうとしちゃダメだ。際どいところはカットしにいく)

 

(良いとこにいったのに当てられた……。1番を任せられるだけあって、簡単に三振を取らせてくれないってわけね)

 

 納得のいくストレートをファールされた逢坂はバッターに対して警戒心を強めながら低めを狙ってボールを投じた。

 

(これは……低い!)

 

「ボール!」

 

(う……低めにいきすぎたわね)

 

 バッターに対して慎重になった逢坂はストレートの高さを抑えすぎてしまい、これが見極められて2ボール2ストライクとなった。

 

(これでいい。こうしているうちに……来た!)

 

(あっ。少し浮いちゃった……!)

 

 投じられた6球目は先ほどまでと比べると際どい高さにいかず、低めではあるものの浮き気味だった。粘りながら甘いボールを待っていたバッターは好機を逃さず打ち返すつもりでバットを振り出すと、ストレートを捉えて弾き返した打球はセンター前に落ちてヒットとなった。

 

(しまったぁ……。粘り負けた……!)

 

「ドンマイドンマイ! ヒットは仕方ないよ!」

 

(翼ちゃん。……そうね)

 

 中野からボールを受け取った有原が声をかけながら逢坂にボールを投げ返す。その言葉に平静を取り戻した逢坂は出来る限り切り替え、次のバッターに目を向けた。

 

(バントね……)

 

(ここは素直に送ってチャンスを作ってくると思うわ。逢坂さんはまだクイックが上手くない。下手なことをして盗塁やエンドランを仕掛けられるよりは、やらせましょう)

 

(……! ……正直、バントはさせたくないわ。けどアタシを見てきた咲ちゃんが低めに投げろって言うことは、まだアタシにそこまでする余裕はないってこと……。認めるしかないのね。アタシの今の力を)

 

 バントの構えを取る2番バッター相手に近藤は野手へのチャージのサインを出さず、逢坂に変わらず低めを狙うようサインを送った。そのサインに逢坂は首を縦に振り、要求通りにストレートを投げ込む。

 

(低めだ……転がせる!)

 

 低めに来たストレートが素直に転がされると、近藤の指示で前に出るのを中断した秋乃に向かって逢坂が送球を行う。

 

「アウト!」

 

「ここー! 捕りやすいところ来たよー!」

 

「ふふーん! でしょでしょー!」

 

 送りバントが成功し、1アウトランナー二塁。犠打という形ではあるがまずは1つ目のアウトを取れたことに逢坂は内心安堵していた。

 

「チャンスだよー! ものにしていこー!」

 

「おう! 任せとけ!」

 

 ベンチからの声援に力強く返事をして3番バッターが左打席へと入った。ピンチを迎えた逢坂はとにかく低めを狙ってストレートを投げ込んでいく。

 

「……ボール!」

 

(クイックとはいえスピードは十分あるな。簡単に低めの際どいやつを打たされちゃいけねえ……。辛抱強く待つんだ。ボールが浮く瞬間は必ずある……!)

 

 2ボール1ストライクのカウントから4球目。本人としては変わらず低めを狙って投じたが、ストレートが僅かに浮いていた。

 

(……打ち返せっ!)

 

(振ってくる! けど、十分低いコースに来てるわ……!)

 

 それほど甘くはない高さのストレートに、バッターは振り出すか一瞬迷ったものの有利なカウントで少しでも甘く入ったら打とうと決めており、迷いを振り払ってスイングが行われた。

 

「レフト!」

 

「うおおおおお!」

 

(くっ、上がっちまった。落ちろ!)

 

「ランナー、ハーフで待機!」

 

「分かった!」

 

 鈍い当たりで放たれた打球はレフト方向への浅いフライ。懸命に前に出てくる岩城と落ちてくる打球をハーフリードを取った二塁ランナーが見つめる。

 

(落ちる!)

 

(くっ! 届かないか!)

 

 詰まった打球に届かないと判断した二塁ランナーがスタートを切ると、その読み通り岩城の前で打球がワンバウンドした。急ブレーキをかけた岩城はバウンドした打球をミットを上に伸ばして捕り三塁に投げようとしたが、初瀬が頭の上で腕を交差させているのを見て送球を中断した。一塁に到達して尚も進塁の隙を窺っていたバッターランナーは一塁ベースへと戻っていく。

 

「ナイバッチー!」

 

「チャンス広がったよ! 先制点貰っちゃおう!」

 

 レフト前ヒットにより1アウトランナー一塁三塁。攻めるさきがけ女子にとってはチャンスが、守る里ヶ浜にとってはピンチが広がる形になった。

 

「打ち取った当たりだったよ! 切り替えていこう!」

 

「う〜……分かったわ!」

 

(逢坂さんは大丈夫そうね。頑張って現状に向き合おうとしてるわ。このピンチ……中間守備を敷きましょう。初回から前進守備を敷くのは大量失点のリスクも大きいし、低めに集めてゴロを打たせて二塁経由でのゲッツーを狙うわ!)

 

 近藤の指示で外野は定位置に、河北と有原は二塁ベースにやや寄り、秋乃と初瀬は投球と同時にベースの前に出る心構えでランナーを牽制するようにそれぞれのベースの近くについた。

 

(どうするかな。……ピッチングも見ないと決められないや。相手がどう出てくるのか見てから決めよう)

 

 チャンスをモノにしようと思案する4番バッターだったが、出方を窺うことにして右打席に入りバットを構えた。そんな彼女に対し逢坂はヒリヒリする緊張感を肌で感じながらボールを投じた。アウトローに投じられたストレートをバッターは手を出さずにじっくり見つめる。

 

「……ボール!」

 

「オッケー! 良いところ来てるわ!」

 

(……速いけど、当たらないことはないか? でも当てにいったらまずいかな。ゴロを打つにしても、間を抜けるくらい強いゴロを打つんだ!)

 

 低めに投じられたストレートは外に外れてボールのコールが為される。見送ったバッターは今のストレートを思い返すようにしながらバットを構え直した。

 

(点は絶対上げないわ! そのために低めでも入れにいっちゃダメ。練習した通り、腕を振り切るのよ……!)

 

 三塁にいるランナーが何度も視界に入り、その度にピンチである実感が強まってくる。もはや初先発の緊張よりも相手に点をやりたくないという負けん気が上回っていた。振り切られた腕から放たれたストレートは真ん中低めにいった。負けじとバッターもバットを振り切る。

 

「ストライク!」

 

(く……! 当たんないか……!)

 

 高めと違い目から遠い低めに加え、下手なゴロを打てない状況から振り切られたバットは空を切った。当たると思っていたバッターは感触の無さに体勢が崩れると、持ち直しながら気合いを入れるようにヘルメットにバットを軽く当ててから構えた。

 

(……!)

 

(振り遅れてる。この調子……で!?)

 

「……! 走りました!」

 

「走ったよ!」

 

 カウント1ボール1ストライクからの3球目。左足を浮かせた逢坂の目に走り出した三塁ランナーが映った。

 

(えっ!? まさか、スクイズ!?)

 

 そして近藤はバントの構えを取った4番バッターに目を見張った。そんな中、低めに投げることに集中していた逢坂はとっさに外すことは出来ずにボールを投げ込むと、一塁・三塁ランナーがそのまま止まらず先の塁に突っ込んでくる。

 

(絶対転がす!)

 

 ——コンッ。内寄りの低めに投じられたストレートにバットが合わされると、三塁線にやや強くボールが転がされた。

 

「はいっ!」

 

 投じられた瞬間にベースの前に出た初瀬がそのまま前に出てくる。

 

(これは…………間に合わない!)

 

「一塁に!」

 

「分かりました!」

 

 打球に勢いがあった分、初瀬がボールを捕るまでに多くの時間はかからなかったが、予め前に出ていなかったことに加えて三塁ランナーの足も速く、見定めた近藤は一塁への送球を指示した。捕球前に指示が送られたこともあって落ち着いて一塁への送球を意識できた初瀬はベースに戻った秋乃にノーバウンドで送球を行う。

 

「アウト!」

 

「先制点ー!」

 

「ナイバン!」

 

 バッターランナーはアウトになったが三塁ランナーがホームへと到達し、さきがけ女子に1点が入った。ホームへと還った彼女とスクイズを決めた4番を大盛り上がりのベンチが迎え入れる。

 

(ふぅ……わざわざ自分からスクイズのサイン出したんだ。決められてよかったよ)

 

(やられた! 4番がスクイズなんて考えてなかったわ。……サードランナーは1番バッターでセオリー通り足が速かった。しかも低めに集めていたからバントで転がされやすかった。警戒が……足りなかった)

 

(……やはり色んなチームと試合をするのは大事ね。こうして4番でも形に拘らず得点をもぎ取ってくるチームとの対戦経験は今まで無かったもの。ただ心配なのは……逢坂さんね)

 

 スクイズの間に一塁ランナーも二塁へと進み、尚も2アウトランナー二塁とピンチが続く。想定外のスクイズに守備陣の動揺が見られる中で逢坂は今までの試合を思い出していた。

 

(……大黒谷もこんな感じだったのかな。聞けばあの時の試合が初先発だったらしいじゃない。エースを目指して一歩目からつまづいて……)

 

 明條との練習試合。戦っていた時はそこまで気にならなかったが、初回の最初の失点から大きく崩れた大黒谷のことを思い返す。逢坂は今なら大黒谷の気持ちが分かる気がしていた。

 

(時を戻したくなる。信じたくない現実。……目の前に広がっているのはそんな光景)

 

 試合は止まらない。右打席に5番が入っていく。押しつぶされるような声援が彼女を後押しする。ランナーがリードを広げる。内野がそれぞれの言葉で自分に声をかける。逢坂の目と耳は些細なことでも感じ取っていた。

 

(良い流れだ。ここは一気に叩く……!)

 

 試合の流れを一気に手繰り寄せようとバッターは貪欲に追加点を狙っていた。そんな彼女に対して逢坂がストレートを投じると、バッターは積極的にバットを振り出した。

 

「ストライク!」

 

(何っ!?)

 

 失点のショックから甘くなるところを狙って振ったバッターだったが、低めの際どいところに投じられたストレートにバットが空を切ると、近藤のミットから力強い捕球音が響いた。

 

(逢坂さん……!)

 

(そんな光景に舞子先輩たちは立ち向かってた。アタシはそれを見てきた……)

 

 逢坂はこれまでの試合、失点のショックがあっても闘志を消さないピッチャーの姿をライトやベンチから見ていた。

 

(エースになる気持ちは消えちゃいないわ。それはアタシが舞子先輩たちを超えないと絶対になれない夢。夢を夢のままじゃ終わらせない!)

 

「……鈴木に聞いたんだけど、アイツは入部した時ピッチャーを志望したらしいわね。それもエースになるんだって」

 

「私も聞きました。それに断られてからも、皆が目指すからこそ4番でエースになりたいと譲りませんでした。きっとそれはこれまでも、そしてこれからも変わらないのでしょうね」

 

「……少し羨ましいわね。アタシは最初からピッチャーを、野球をやりたいと思って始めたわけじゃなかった」

 

「そう……ですね。私も少し羨ましいです。……でも嬉しくもあります」

 

「そうね。強力なライバルの登場……ね」

 

「ええ!」

 

 グラウンドに金属音が響いた。辛抱強く低めに投げた逢坂のストレートに振り出されたバットは芯を外し、ボテボテのゴロがセカンド真正面へと転がる。

 

「アウト!」

 

 河北が落ち着いて捌き、3つ目のアウトが取られた。打ち取られたバッターはしてやられたという表情でベンチへと戻っていく。

 

「ふー……。智恵ちゃん、ありがと!」

 

「これくらいは任せて! 逢坂さんもナイスピッチ!」

 

「でも、点取られちゃったわ。もー、なんで取られちゃうのよー!」

 

「わっ。どうしたんですか。先ほどまであれほど堂々と投げていたのに……」

 

「それとこれとは話は別ー! やっぱり悔しいー!」

 

「……私も悔しいわ。まだまだ力不足なんだって思わされたもの」

 

「咲ちゃん……」

 

「だからこの試合、一緒に足りないものを埋めていきましょう」

 

「一緒に…………。そうね。頑張りましょ!」

 

「ふふっ。頑張るって言葉はNGじゃなかった?」

 

「あっ……! えっと、それはぁ……」

 

「冗談よ。転んでもただでは起きないってところ見せてやりましょう!」

 

「そうね! やってやろうじゃない!」

 

 内野陣に囲まれてベンチに帰っていく逢坂は打って変わって失点のショックを露わにしていた。近藤に話しかけられ、良い具合に悔しさをモチベーションに繋げられた彼女は気持ちを引き締めて4番バッターとして右打席に立った。

 

(……ここまで低めだけじゃなく、出来るだけ外に集めてきたんだ。内は打てない。思い切って投げてきて)

 

(お! ようやくか。コントロールはあんまり考えず、内に……全力で!)

 

「……!」

 

 1ボール2ストライクからの4球目。内に投じられたボールに逢坂は虚を突かれながら肘をたたんでバットを振り出した。

 

(対応された!?)

 

(少し詰まらされた……! 落ちてっ!)

 

 インコース真ん中に投じられたボールを逢坂はとっさの反応で打ち返した。三遊間ややショート寄りにふらふらと上がった打球をサードとショートが追いかける。

 

(追加点入れられなかったんだ。代わりに守備で活躍してやる!)

 

「アウト!」

 

(ぐぬぬ。捕られたかあ……)

 

 内野を越えて外野側へと出てきたショートが一か八か飛び込んだ。すると伸ばしたミットにボールが収まっており、逢坂はショートフライに倒れる。

 

(……本当に一回戦負け続きのチームなのかしら。ここまでの攻守を見る限り、基礎的な部分がしっかりしているわ。こんなチームがいたなんてね……)

 

 声を掛け合いショートのカバーに入れる位置取りをしていたレフトに目をやり、東雲はさきがけ女子というチームに素直に驚いていた。

 

「ファール!」

 

(粘るなあ……)

 

(ここまでのピッチングを見る限り、逢坂さんと同じく出来るだけ低めに集めようとしているようだ。打たせて守備でアウトにしようというのだろう。ならば……)

 

「ファール!」

 

(また……!)

 

「ボール!」

 

(低めは打たされないようにし、浮いてきたボールを打ち返そう。逢坂さんだけやられるのは……不公平ですからね)

 

(あっ! しまった……!)

 

 3ボール2ストライクからの9球目。後がなくなり高さが甘くなったボールを九十九は見逃さなかった。外の真ん中に投じられたボールを打ち返した打球はセンター前へのヒットとなる。

 

「ナイバッチです!」

 

「ウチらも続くぞー!」

 

(思ったよりバットの先に当たってしまったな。だが、どんな形でもヒットはヒットだ。チームとしても初ヒットで楽になればいいね)

 

(うー……伽奈先輩はヒットか。あの人、当然のように打つわよね……)

 

 逢坂が九十九のヒットになんとも言えぬ感情を抱く中、九十九と右打席に向かう河北へと阿佐田からサインが送られた。

 

(送りバント……ですか? 阿佐田先輩にしては珍しく堅実……)

 

(あおいからのメッセージだね。慌てて強攻策を取る必要はない。まずは1点を返して同点に追いつくことが、勝負に勝つ鉄則だと言うんだろう?)

 

「ピッチャー!」

 

「はいっ!」

 

 サイン通り河北がバントで転がした勢いの抑えられた打球を三菜が処理する。二塁で刺すのは難しいと判断したキャッチャーの指示で一塁に送球が行われ、河北はアウトに取られた。

 

(よしっ。練習試合でもやってきたことを出せた……!)

 

「ともっち、ナイスバント!」

 

「ありがと!」

 

「岩城先輩! おいしいところ持っていってください!」

 

「後はよろしくお願いします!」

 

「任せておけ!」

 

 2アウトランナー二塁になり、左打席に岩城が立った。傍目から見てもやる気をみなぎらせている彼女にキャッチャーは外れても良いから低めに投げるよう要求する。

 

「ストライク!」

 

(えっ!?)

 

 すると低めにそれなりに外れていたボールにバットを出した岩城はフルスイングで空振った。

 

「たっはー……」

 

「ボールよく見ていきましょう!」

 

「うてるよー!」

 

「おお!」

 

(随分荒いバッターだな。ならまともにゾーンに投げる必要はない)

 

(同じ感じで、外れるなら外れちゃってもいいのね)

 

「ぐおお……!」

 

「ボール!」

 

「スイング!」

 

「……ノースイング!」

 

 投じられた2球目も同じように低めに外れ、何とか踏ん張って見送り1ボール1ストライク。

 

(バッターも考えながら振ってるからな。そう簡単に振ってはくれないか。なら今度は高さだけじゃなくコースも厳しいところ狙おう。際どいところいけばよし。外れても振ってくれるかもだ)

 

(りょーかい!)

 

(初めて投げるここのためにも、点は早めに返してやりたい! 届くところに来たら打ち返すぞ!)

 

 二塁にいる九十九をチラッと見た三菜が投球姿勢に移ると厳しいコースを狙ってボールを投じた。すると要求通り膝下の際どいところにボールが向かっていく。ストライクかボールかは微妙なところだったが明らかなボール球には見えないこのボールに岩城は叫びながら思い切ってバットを振り出した。

 

「おっ……!」

 

(捉えられた!?)

 

 次の瞬間、グラウンドに痛烈な金属音が響き渡った。バットを振り切って大きなフォロースルーを残しながら岩城が好感触を得ると、外野へと伸びていく打球にキャッチャーは信じられないような表情を浮かべていた。そんな中、内野に背を向けたライトが懸命に打球を追いかける。

 

(……まだ……伸びるのか!?)

 

 打球はライトの頭上を越えて尚も伸びていき、フェンスネットへと直撃した。

 

「抜けたー!」

 

(お見事です。岩城さん!)

 

 ツーアウトで迷わずスタートを切っていた九十九が返ってくるには十分すぎる当たりだった。さらに打った岩城自身も二塁へと到達する。

 

「打ったぞー!」

 

「せーの……ナイバッチー!」

 

 失点をすぐ様取り返すタイムリーツーベースに全員が声を揃えて声援を送り、岩城は拳を力強く掲げた。

 

(なんてデタラメなスイングだ。三菜の低めに決まったボールをあんなに飛ばすなんて……)

 

「……切り替えよう! 今のは気にするな! ボールは良かったよ!」

 

「……分かった!」

 

 味方がせっかく先制してくれた点を取り返されてしまった三菜は落ち込んでいたが、キャッチャーの励ましを受けて頷くと、右打席に入った近藤を早々に追い込む。近藤もなんとかしようと食らいついたものの、1ボール2ストライクからの5球目。膝下に投じられたボールに振り出されたバットが掠るも、キャッチャーミットの内側で捕球されて三振となり、勝ち越し点を上げることは出来なかった。

 

「タイミング掴んできてたわね! 次の打席でやり返してやりましょ!」

 

「逢坂さん。……ええ、そうね」

 

「さ、行くわよ!」

 

「うん!」

 

 近藤にとってこの回先頭バッターとして打席に立ち打ち取られた逢坂にも悔しさが生じたことは想像に難くなかった。そんな逢坂が張り切ってレガースの取り付けを手伝うとグラウンドへと出ていき、近藤もキャッチャーとして足を踏み出した。

 

 2回の裏、さきがけ女子の攻撃は追い込まれた先頭バッターが外寄りの低めのストレートを流したものの浅いライトフライに倒れ、続く7番バッターが初球打ちに打って出ると思い切りが勝りレフト線を抜いたツーベースとなった。

 

(浮いただけで簡単に長打を打たれたわ。低めに投げるのって、思った以上に大事なのね)

 

 8番バッターが右打席に立つと低めに丁寧にボールが集められる。外れるボールもあったものの、バッターの見極めも全てが正確ではなく2ボール2ストライクと追い込んだ。そしてラストボールも低めへと投じられ、打ち返された打球はファースト正面へのゴロ。

 

(……来るわよ。初瀬さん)

 

「三塁に!」

 

「まりあ!」

 

 右方向へのゴロならスタートを切ろうと思っていた二塁ランナーが迷わずスタートを切ると、素早く前に出た秋乃から三塁へと送球が行われた。

 

「アウト!」

 

(しまった! 決め打ちしすぎた……)

 

(くー……小麦、やるなあ)

 

(……強いて言うならさき女は走塁が少し甘いようね)

 

「小麦ちゃん、ナイスロー! 麻里安ちゃんもナイスタッチ! 良いとこでボール受けれてたよ!」

 

「うん! ナイスプレー!」

 

「へへー」

 

「本当ですか? 良かった……」

 

 不用意に進塁を狙ってしまった二塁ランナーが三塁でのタッチプレーでアウトになった。三塁に良いボールを送った秋乃と早めに送球を察知してタッチしやすい立ち位置を確保していた初瀬の好プレーが褒められると、二人は照れ笑いを見せる。

 

(二塁にいたランナーをアウトにしてくれた……。すっごい助かるわ)

 

 1アウトランナー二塁のピンチが一転して2アウトランナー一塁へと変わり、逢坂は気持ちが楽になるのを感じていた。そして右打席に立った9番バッターが1ボール1ストライクから低めながら少し浮いたストレートに合わせると、内野と外野の間にふらふらと落ちてくる打球に走り込んだ中野が腰を落として滑り込み、腰の横に置くようにしたミットでバウンドさせず掴み取った。

 

「アウト!」

 

「ナイスキャッチ!」

 

「よく届きましたね……!」

 

「9番だし、逢坂も頑張って低めに集めてたからあまりでかいのは無いと踏んでたからにゃ。届くと思ったにゃ」

 

(投げて初めて分かった。守備が良いってことがピッチャーにとってどれだけ頼もしいかって。……うう。今思うとアタシの守備はピッチャーにとってハラハラするものだったのね。それは反省するとして……これだけ心強い守備が後ろにいるんだから、届くところに飛ぶようアタシも低めに集めていくわ!)

 

(今ので打順が一周した……。頃合いかもしれないわね)

 

「逢坂さん。ちょっといい?」

 

「どうしたの?」

 

「あのね——」

 

 こうして2回の裏が終了し、3回の表の里ヶ浜の攻撃は9番の初瀬から。

 

「ストライク!」

 

 右打席に立つ初瀬は初球は手を出さずにボールをよく見た。

 

(……?)

 

「ナイスボール!」

 

 中心から外れたキャッチャーミットの捕球位置に違和感を覚えながら初瀬は次のボールにバットを振り出す。

 

「ストライク!」

 

(もう少し溜めていいのかな。不安ですが……今のでも振るのが早かった気がします)

 

 振ったことでよりタイミングが分かった初瀬はスイングスピードを考えて僅かに迷いが生じるが、自分の感覚を信じてボールを待った。

 

「ボール!」

 

 膝下に投じられたボールは低めに外れ、これを初瀬は振り出しを溜めて見送った。

 

「見えてるにゃー。その調子にゃ!」

 

(確かに……今までで一番良く見えているかもしれません。後は、イメージした軌道にスイングを合わせられれば。いや、合わせてみせます!)

 

(カウントはこっち有利だ。慌てないで……低めを打たせる!)

 

 1ボール2ストライクから4球目が投じられた。

 

(よしっ! 良いコースだ!)

 

 狙い通り膝下に厳しく投じられたボールにキャッチャーが口角を上げる中、初瀬はタイミングを計っていた。

 

(1……2の……3!)

 

 掴んできたタイミングで、イメージしたストレートの軌道に線で合わせるようにして初瀬はバットを振り出す。

 

(えっ!?)

 

 しかし芯で捉えた感触は返ってこなかった。打ち返された打球はサードへの平凡なゴロ。難なく処理されて初瀬はサードゴロでアウトになった。

 

「中野さん……」

 

「バットは振れてたにゃ。あんまり気に病むなにゃ」

 

「あ、はい! 私も最後までこのバッティングを貫こうと思っています。ただそれとは別に相談したいことがあって……」

 

「ほほう。聞かせてほしいにゃ」

 

「あのピッチャーのストレートなんですが……少し、変化しているような気がするんです」

 

「えっ! 本当かにゃ……!?」

 

「い、いえっ。確信はないんです。イメージした通りに振れたんですがその通りに来なかった気がするのと、キャッチャーの方がポケットで捕球出来ていなかったので……」

 

「……確かに言われてみれば、捕球音が逢坂と比べて寂しいにゃ。球速のせいだと考えていたけどにゃ。……!」

 

(うっ。でも力一杯走るんだ!)

 

 アウトローのボールを打ち返した秋乃だったが、ショート正面への弱い当たりのゴロとなる。ショートが捕ってから足の向きを一塁に向けてボールを投じると、秋乃は全力疾走で一塁ベースを駆け抜けた。

 

「……セーフ!」

 

(うわあ。やっぱり小麦速いなー。……って感心してる場合じゃないでしょあたし!)

 

「どんまいどんまい! 今のはしょーがないよ! 三菜も打ち取った当たりだからね! 切り替えていこー!」

 

 打球の勢いが弱かったのが幸いして今度は送球より秋乃の駿足が勝った。友人の足の速さに思わず唸っていた芹澤だったが、すぐにメガホンを手に取ってチームメイトに声を掛けた。

 

(秋乃が得意の低めであんな当たりを……。……初瀬は確信が無いからワタシにだけ話したんだにゃ。もし違ったらチームを混乱させちゃうからにゃ。……よし!)

 

「……分かったにゃ。ワタシが確かめてみるにゃ!」

 

「お、お願いします!」

 

 そして中野が左打席へと入っていく。その目には僅かな情報でも見逃すまいという鋭さがあった。

 

(……! また1アウトから送るのか? 里ヶ浜は結構堅実な戦術を取るんだな)

 

 中野はバントの構えを取った。ランナーに進塁されることより2つ目のアウトを取ることを優先したさきがけ女子は内野をそれほど前に出さずにバントに備える。

 

(むー。させるのか。2アウトでも二塁に進まれたら、あの子足速いから単打で還られそうなんだよね……。バント自体はさせても失敗させるか、二塁で刺したいな)

 

 そんな中野に対し、ボールを投じた三菜は思い通りのバントをさせまいと力が入りすぎてしまった。大きく外に外れたボールを中野は姿勢はそのままにバットだけ引いて見送った。

 

「ボール!」

 

「楽に!」

 

(この構えなら軌道を追いやすいと思ったけど、今のは遠すぎて分からなかったにゃ)

 

(やっば。外しちゃった……! カウント悪くさせたくないし、後のことは考えないでやらせちゃおう!)

 

 続いて投じられたボールはアウトコース真ん中やや低めのストライクゾーンに放たれていた。これを中野は同じように見送る。

 

「ストライク!」

 

(今のはどう見てもストライクなのに、なんでバットを引いた……?)

 

(……もしかすると、外に曲がったかもしれないにゃ。……もう少し見てみたいにゃ)

 

(仕掛けても面白いけど、バントのサインを送ってないのになかあやは構えたのだ。何か考えがなきゃしないはず……あと一回泳がせてみるのだ)

 

(苦手なコースだったのかな。じゃあ内の方に投げてあげるから……今度こそ送ってよね!)

 

 三度(みたび)バントの構えを取った中野に対し今度は内にボールが投じられた。先ほどより目に近いボールを中野はバットを引きながら見極める。

 

(……! こっちに曲がった?)

 

「……ボール!」

 

(あっ! しまった……)

 

(そうか。揺さぶりをかけてるのか……)

 

「三菜! 気にしないで思い切り投げ込みなさい!」

 

「わ、分かった!」

 

(2ボール1ストライク。ピッチャーはストライクを投げるのに集中したいはずなのだ)

 

(……!)

 

(分かったにゃ)

 

 中野は今度もバントの構えを取った。マウンドの三菜はするのかしないのかハッキリしない彼女にやりづらさを覚えていたが、キャッチャーの言う通りあまり意識しないようにし、足を浮かせた。

 

「ごぉー!」

 

(えっ!?)

 

(バントエンドラン? いや、これは……スチールか!?)

 

 すると宇喜多の声と同時に秋乃がスタートを切る。足を踏み込んだ三菜はとにかくストライクゾーンへとボールを投げ込むと、中野はギリギリでバットを引いて見送った。

 

(今度は沈んだ……かにゃ?)

 

「ストライク!」

 

(くっ!)

 

 真ん中低めに決まったボールをキャッチャーはミットを傾かせて捕ると二塁へ送球を行い、受け取ったショートが滑り込んでくる秋乃にタッチを行う。

 

「セーフ!」

 

(やった!)

 

(ここで足を使ってきたか……嫌なところで仕掛けられたな)

 

 秋乃の駿足もさることながら宇喜多のスタートさせたタイミングも良く、キャッチャーの送球がワンテンポ遅れたこともあってセーフの判定が上がった。

 

(ナイススチールにゃ。これでフォースアウトは無くなったにゃ。今ワタシの中にある仮説が正しければ、みんなに伝える必要があるにゃ。だから試してみるにゃ……)

 

(しまったぁ。盗塁が頭からすっぽり抜け落ちてた……。ええい、追い込んだんだ。打ち取ることに集中!)

 

 秋乃が二塁に進んだものの2ボール2ストライクとなり、三菜はヒッティングの構えを取った中野をなんとしても抑えようと低めにボールを投げ込んだ。

 

(えっ!?)

 

(勢いがつきすぎないよう、芯をあえて外すのがバントのセオリーの一つ。けど、ここは芯に当てるつもりでやるにゃ!)

 

(スリーバント!?)

 

 投球動作に入ってから中野はすぐにバントの構えに移ると、投じられたボールの軌道に真っ直ぐ合わせるようにバットに当てた。すると前に打球が転がる。

 

(間違いないにゃ。今のは外に沈んだにゃ……!)

 

 バットの芯から左下にずれた部分にボールが当たり、勢いの弱い打球になる。中野は確信を得ながら一塁へと走り出した。

 

(三塁タッチプレーは……ギリギリすぎるか。けど、セーフティはやらせない!)

 

「アウト!」

 

 ピッチャーを制して目の前に転がったボールをキャッチャーが処理すると三塁の方をチラッと見てから一塁へと送球が行われた。いかに中野の足が速くともこの精度のバントでは間に合わず、アウトのコールが為された。

 

「翼! よく聞くにゃ。あのピッチャーは普通のストレートは投げてないにゃ」

 

「えっ! そうなの……!? どういう変化だった?」

 

「左右に加えて、沈むこともあったにゃ。ただ共通して曲がり始めが遅くて、変化量は小さかったけどにゃ」

 

「それってもしかして……ムービングファストボール……かな?」

 

「そういう球種があるんだにゃ?」

 

「詳しくは知らないんだけど、そういうボールがあるって聞いたことがあるよ」

 

「バッターラップ!」

 

「あ、はい! 行きます!」

 

 球審に呼ばれた有原は中野から伝えられた情報を頭に入れてバッターボックスへと向かっていき、中野はネクストサークルに向かう逢坂に手短に情報を伝えてから急いでベンチへと戻った。

 

「やっぱり初瀬の言った通りだったにゃ!」

 

 全員を集めた中野はあのピッチャーのボールが小さく不規則な変化をしていたことを伝える。

 

「……なるほどね。まず曲がり始めが遅いのは球持ちが良いからだと思うわ」

 

「球持ちが良いってどういうことですか?」

 

「ピッチャーの手からボールが離れるのが遅いということよ。球速が上がったり、変化の曲がり始めをバッター側に近づける効果があるわ。だから相手に変化を悟られづらくなるわね」

 

(そういえばリリースが遅いって思ったにゃ。速く感じなかったからあまり意識してなかったけど……)

 

「もっともそれは振る時の話で、普通振った後は変化したことが分かるものだけれど。問題はそれがムービングファストボールというストレートのスピードに近く、変化量が小さい球種であること。曲がり始めが遅くて変化の幅も小さいなら、それが変化球だと気づけなくてもおかしくないわね」

 

「そうだったんだ! なんか、ストレートを上手く打てないなーって思ってたんだ!」

 

 秋乃だけでなく他の皆の多くが上手く芯を捉えきれない感覚はあったようで、各々今の話を聞いて頷いていた。

 

「うーん。ウチはあまり違和感無かったぞ……」

 

「先ほども言った通りムービングは変化量が小さいので、金属バットの芯の広さに加えて岩城先輩のスイングスピードで生じた誤差を打ち消したんじゃないでしょうか。実際、外野まで弾き返していた人は他にもいましたし……」

 

「そうか。うーん……ウチはあれこれ考えるのは得意じゃないからな。いつも通り振り切ってくるぞ!」

 

(岩城先輩の持ち味は思い切りの良さ。どちらに転ぶにしても、その方が良いでしょうね)

 

「あの……東雲さん」

 

「どうしたの野崎さん?」

 

「ムービングファストボールが速球に近いスピードで小さく不規則に変化することは理解できたのですが、どうしてそのように変化するのかがいまいち分からなくて……」

 

「……私もピッチャー専門ではないから、詳しいことまでは分からないけれど。少なくともあのピッチャーはフォーシームの握りでは投げていないのでしょう」

 

「フォーシーム……1回転する間に縫い目が4回通過するボールですね」

 

「あら……意外ね。なら、フォーシームがどうして伸びるように感じるのかも分かるかしら」

 

「はい。縫い目が最も通過して空気の流れを受けやすいので、揚力が大きくなるからだと……」

 

「……驚いたわ。その通りよ。ムービングファストボールは端的に言えば、揚力の小さいボール……不規則な縫い目の通過や回転軸のずれでそういった変化をするのでしょう」

 

「なるほど……変化球といえばタイミングを外したり、変化でバッターを惑わしたりというイメージがあったのですが、そういった変化するストレートのような球種もあるんですね」

 

「ええ。こういったボールは速球とも変化球とも捉えられるだけに、貴女にとっては分かりにくかったかもしれないわね」

 

(特別な腕の使い方をしたり、パームのような特別な握り方をしなくても投げられる変化球……。……! もしかしてこれを応用すれば、ストレートと同じように投げてもシュートのように変化させることが出来るんじゃ……!?)

 

 フォーシームの原理を理解した上で今の話を聞いた野崎の頭の中におぼろげながら自分が求めるボールのイメージ像が浮かび上がってきた。思いついた球種が俗にツーシームと呼称されていることを彼女が知るのは、もう少し先のことだった。

 

(外に曲がった!)

 

(今から振り出すのか!?)

 

 2ボール1ストライクからの4球目、外低めに投じられたボールが僅かに高く浮き、有原は上げた左足をかなり引きつけてから踏み込むと、軸足の右足がつま先立ちになって腰をスイングと逆方向に捻り、ヘッドスピードの増したバットでボールを捉えた。鋭い打球が右方向へとライナーで放たれる。

 

(このっ……!)

 

「アウト!」

 

(捉えたけど、捕られちゃったかあ……!)

 

(有原さんでもギリギリ……。あの球の正体が分かっても、見極めがしづらいのであれば対策は取りにくいかもしれないわね)

 

 変化の曲がり始めを見極めて芯で捉えた有原だったが、放った打球はファーストがとっさの反応で横っ飛びで掴み取った。勝ち越しのチャンスを生かせず、有原は残念そうにベンチへと戻っていく。

 

「……っ!」

 

「あんな当たりよく止めたね! ……? どうしたの?」

 

「……いや、もう抜かれたと思ったから自分でもビックリして腰抜けちゃってさ」

 

「あはは。もー、しっかりしてよー」

 

 ファインプレーを見せたファーストが手を突いて立ち上がると、声をかけたチームメイトと共にベンチに戻っていき、3回の表が終了した。

 

「ふっ!」

 

 3回の裏、先頭バッターとして右打席に立つ1番がしつこく攻められた低めのボールを上手く捉えて弾き返す。

 

「ファール!」

 

(くっ……)

 

 膝下のストレートを足を開いて捌いたものの三塁ベースから大きく逸れたファールとなると、バッターは歯を食いしばる仕草を見せてバットを構え直した。

 

(そろそろ逢坂さんの低めのストレートに慣れてきたみたいね……)

 

(このピッチャーはコントロールはそんなに良い方じゃなさそうだ。いきなり高めのシビアなところは突かれないだろう……。狙いは1打席目と同じで良いはずだ。……ほら、早速来たっ!)

 

 1ボール2ストライクとなり4球目が投じられた。真ん中付近に投じられたボールに、浮いた球を待っていたバッターはチャンスとばかりにバットを振り出す。

 

(えっ!?)

 

 捉えた。そう確信したバッターはバットから芯の感触はおろか、掠った感触すら伝わらないことに肩透かしを食らった。

 

「ストライク! バッターアウト!」

 

(嘘でしょ。……! どうして、ミットがそんなに低い位置に。……まさか落ちたのか。馬鹿な。ストレートと大差ないスピードだったぞ)

 

 真ん中の高さに放たれていたはずのボールが低めに傾けて構えられたミットの先に収まっており、バッターは悪い夢を見ているんじゃないかと目を疑った。

 

(き、決まったあ……! アタシのハイパープリティボール!)

 

 投じた逢坂は要求通りのボールを投げ込め、さらに初めての三振を取れたことに思わず拳を握って喜んだ。そんな彼女に近藤は子を見守る親のような笑みを浮かべながら、以前変化球を習得するために模索した時のことを思い出していた。

 

「もー! なんで落ちないのよ。アタシのプリティボール!」

 

「フォークボールは回転数を抑えることで、空気抵抗を大きく受けて下に落ちるボールなのよ。サイドスローの逢坂さんだと、横回転がかかりやすいから落ちてくれないんだと思うわ。やはり別の球種にしてみたら?」

 

「アタシはこれが投げたいのー! それに回転がかかるっていうのが理由なら、かからないようにするまでよ!」

 

 逢坂は人差し指と中指でボールを挟み、親指でボールの下側を支えながら何回か投げ込んだが、どれも思うように落ちてくれなかった。別の球種を提案されるが、この時のためにハンドグリップを使って握力を鍛えていた逢坂は諦めることだけは嫌だった。苦心しながらも投げ込む彼女の熱意に押され、鈴木と受けていた近藤が協力して改善案を出した。試して、けれどダメで、それでも諦めることなくトライアンドエラーが繰り返される。そうしてようやくシュート回転を抑えこめる握り方と手首の向きを確立していった。

 

(……これで……どうっ!?)

 

(速い! 投げ損ね……えっ!?)

 

 逢坂が投じたボールはストレートと同じくらいのスピードがあり、近藤もその想定で捕球しにいく。すると次の瞬間、近藤の足元近くでバウンドしたボールがそのまま後ろに転がっていき、逢坂と近藤は何が起きたのかと呆気に取られていた。

 

「今のはまさか……SFF(スプリット・フィンガー・ファストボール)……」

 

「スプ……?」

 

「通称スプリットはフォークボールの一種で、通常のフォークより落下量が少ない代わりに球速のある変化球よ。今の逢坂さんのボール……ストレートに近い速さだったけれど、確かに落ちていたわ」

 

 横から投球を見ていた鈴木は近藤と同じようにストレートに近いボールと考えていたボールが近藤のミットの下へと潜るように落ちたことに目を見開いていた。

 

「ってことは……」

 

「投げられた……!?」

 

「ええ。おめでとう逢坂さん」

 

 逢坂の指は元々長い方ではなく、シュート回転をかけづらくする握りを模索しているうちにボールを挟む人差し指と中指の位置が浅めになった。その結果落下の幅は小さいものの、ストレートに近い速さのフォークボールが放たれたのだった。

 想定していたのとは少し違うが、逢坂にとっては速さを保ったまま落ちるというのは想定以上のことで、ようやく落ちる球を投げられた喜びと相まって感無量だった。

 

(ふふ。嬉しそう。私も嬉しいわ。……だけど)

 

 逢坂が喜びを露わにしている間に後逸したボールを拾いにいった近藤は思わずにやける顔を引き締めて、彼女に声をかけながらボールを投げ渡した。

 

「逢坂さん! まだ終わりじゃない……そうでしょ?」

 

「……! ……そうね! むしろここがスタート地点! どんどんいくわよ!」

 

「ええ!」

 

(たまたま投げられただけで満足しちゃダメ! コツを掴んできたうちに、モノにするの! 絶対SFF(ハイパープリティボール)を完全に投げられるようになってみせるんだから!)

 

(あれだけのスピードで落下するボール。確実に相手にとって脅威になるわ。そんなボールもキャッチャーが逸らしては意味がない。まずは止められるように。そして絶対捕れるようになってみせる……!)

 

 その後の投球練習で次第に逢坂がスプリットを安定して投げられるようになっていき、スピードを保ったままほとんど真下に落ちるこのボールは後ろに逸らしやすく捕球に苦労したことを近藤は思い出し終えた。

 ミットの中に収まるボールを取り出し、少しの間見つめた近藤は逢坂に声をかけて投げ渡す。

 

「ナイスボール!」

 

「咲ちゃんもナイスキャッチ!」

 

「ありがとう! さぁ、1アウトよ! この調子で抑えていきましょう!」

 

(逢坂さんのハイパー…………スプリットはストレートと比べるとコントロールがかなりばらけているわ。けれど……)

 

(ストレートか? ……くっ!?)

 

 アウトハイに投じられたスプリットが2番バッターに弾き返されるとセカンドへの弱いゴロとなった。河北はこれをミットで突かないようにして捕球すると、焦らず一塁方向に足を向けて送球した。

 

「アウト!」

 

「オッケー! ナイスプレー!」

 

(遠くて判別が難しい低めは勿論、1巡目で低めにストレートを集めたことで万が一高めのストライクゾーンに入ってもスプリットとストレートの見極めは簡単には出来ないはずよ)

 

(低めの際どいストレートだけでも厄介なのに、どうやら落ちる球を投げてるみたいだな……。低めは簡単に振れないぞ)

 

 左打席に入った3番バッターが低めのボールへの積極性を失うと、逢坂は最初から伝えられていた通りどちらの球種も低めに狙って集める。外れてボールになることもあったが2ボール2ストライクと追い込み、さらにしつこく低めにボールが投じられた。

 

(入ってる! いや、落ちる球だったら外れて……)

 

 そしてこのボールに対してバッターは振るのを躊躇してそのまま見送った。

 

「ストライク! バッターアウト!」

 

(しまった!)

 

(よし! ストレートによってスプリットが生きているように、スプリットがあるからあれだけ投げた低めのストレートでも決め球として使えたわ……!)

 

 見逃し三振により3アウトチェンジ。3回の裏を三者凡退に抑えたバッテリーは顔を見合わせて笑うと、一緒にベンチへ戻っていった。

 

(芯を捉えるつもりで振り切れば、多少芯を外しても良美先輩みたいに打ち返せるはず……!)

 

 4回の表、先頭バッターとして打席に立った逢坂は膝下のボールに対してバットを振り切り、外野まで打ち返した。

 

「アウト!」

 

「うっ……」

 

 しかしすくいあげた打球はほとんど定位置でレフトが捕球し、フライアウトに取られる。

 

(アタシのスイングスピードじゃ、外野の頭を越すのは難しいのね……)

 

 芯を外されながらも弾き返した逢坂だったが狙い通りに外野を越すことは出来ず、突きつけられた力不足に唇を結びながらベンチへと戻っていった。

 

「ファール!」

 

(くっ、また……)

 

(言われてみると僅かに変化している感じがするね。だが幸いにも球速はさほどない。ファールで逃れることは可能だ)

 

(落ち着け……。ファールにされても、ヒットを打たさなきゃいいんだ)

 

 アウトコース低め、ストライクかボールか際どいコースに投じられた良いボールだったが、九十九はこれを一塁側ファール方向に軽く転がすようにして逃れた。追い込んでからも簡単には仕留めさせてくれない九十九に焦りを感じたピッチャーは一度間を置くように深呼吸を挟んでから、低めを狙ってボールを投じた。

 

(また低めか。この動くボールを前のめりに捌いてしまっては、引っ掛けてしまい平凡なゴロが関の山だろう)

 

 引きつけて振り出したバットがボールの上を叩くと高いバウンドになり、立ち上がったキャッチャーが打球を収める。

 

「ファール!」

 

(これもファールにしたか。けど、今のはフェアになりそうな感じもあった。相手だってきついんだ)

 

「悪くないよ!」

 

 キャッチャーは膝下に投げられたボールに窮屈なスイングになりながら逃れた九十九を見て、ボールについた砂を落としてからピッチャーを鼓舞するように声をかけて投げ渡した。

 

(恐らく彼女のピッチングは低めにムービングを集めることでゴロアウトを量産するスタイルなのだろう。初めに後ろに声を掛けていたのも、守備の負担が大きい自覚があるからこそか)

 

(澄ました顔しちゃって……いつまでも粘れるとは思わないでよね!)

 

 互いに決して余裕が無い中での粘り合いが続き、2ボール2ストライクからの8球目。

 

(あっ……!)

 

(来た!)

 

 先に調子を乱したのは三菜の方だった。低めを狙って投げたボールが真ん中近くに入る。九十九はこのボールを引きつけると、変化を完全に見定めることは出来なかったがバットを振り出し、そして流し打ちで打球を放った。鈍さと鋭さ、ちょうどその中間のような乾いた金属音が響く。外野へと身体を翻して追っていたファーストが後ろに追った体勢のまま、落ちてきた打球を掴み取ろうと飛びついた。

 

「フェア!」

 

 伸ばしたミットは届かずファーストがその体勢のまま地面に落ちると、ライト線に放たれた打球はライン際に落ち、フェアの判定が響いた。やがてライトが打球を収めると、九十九は一塁を少し回ったところでベースに戻っていく。

 

(浮いたボールを素直に流すことが出来れば、ムービングで芯を外しても内野と外野の間に落とせるとにらんだが……上手くいって良かった)

 

「う〜……ナイバッチです! 伽奈先輩!」

 

 ベンチから逢坂の声援が聞こえ、九十九は一瞬意外そうな表情を浮かべた後、微笑を漏らした。

 

「……痛っ……!」

 

「……!」

 

 そんな中、グラウンドではアクシデントが起きていた。先ほど飛びついたファーストが起きあがろうとすると、その顔が苦痛で歪み、心配そうに集まってきたチームメイトの一人が肩を貸してベンチまで連れてくる。

 

「大丈夫!?」

 

「……ごめん。大丈夫じゃないっぽい……」

 

 ベンチから飛び出した芹澤ももう一方の腕に肩を貸すと、彼女を椅子に座らせる。すると彼女がふくらはぎの辺りを押さえたのに気づいた。

 

「まさか……また肉離れに……」

 

「うん……。再発しちゃったみたい。ごめんね、迷惑かけて」

 

「そんな! 迷惑なんて……。それよりどれくらいひどいの?」

 

「心配しないで。このまま安静にしとけば痛みは引くと思うから。結、あとはお願いね」

 

「えっ。……あ……そっか。……分かった! 代わりは出来ないかもだけど、あたしなりにやってくるよ」

 

「うん! ここから応援してるよ」

 

 怪我をした彼女の代わりに芹澤が急遽ファーストの守備に向かっていく。芹澤のことを見送った彼女は横を向き、息をゆっくり吐いて力を入れていた表情を崩した。

 

「無茶は良くないのだ」

 

「えっ……! ちょ、こっち里ヶ浜のベンチじゃないですよ……!?」

 

「練習試合だしお堅いことは言いっこなしなのだ〜」

 

 するといつの間にか阿佐田がベンチ横に来ており、まさかそんなところに人がいるとは思わなかった彼女は凄く驚いていた。

 

「それで? どれくらい痛いのだ?」

 

「……いや、そこまで酷くは……」

 

「あんな顔しておいて今更隠しても無駄なのだ。ほら、横になるのだ」

 

「う…………分かりました」

 

 阿佐田に指摘された彼女は気まずそうな表情を浮かべると、少しの間を置いて頷き、ベンチに横になった。阿佐田は近くにあったバッグを拝借して怪我をした足の位置を高くする。

 

(……確か打撲と違って肉離れの時は……)

 

 ドクンドクンと身体全体に響く鼓動を抑えて、出来る限りお気楽な表情のまま阿佐田は肉離れの悪化を防ぐための道理を辿ると、先に彼女にビニール袋を手渡した。

 

「安静にしたまま、これで患部を冷やすのだ。痛みがひどくならないよう、そのままキープするのだ。目安は30分以上なのだー。その後にこの包帯で患部を固定して、また安静にしておくのだ」

 

「は、はい。分かりました。ありがとうございます」

 

(痛いのは変わらないけど、少し楽になった気がする……)

 

 氷を詰めて縛ったビニール袋を簡易的な氷嚢として用いて阿佐田はアイシングの処置を施した。しばらくすると毛細血管の収縮に伴い、内出血が抑えられていく。

 

「ラ、ランナー走った!」

 

(スチール! ……!? エンドランか……!)

 

 阿佐田に一旦攻撃の指示を託された鈴木のサインにより里ヶ浜はエンドランを敢行した。九十九が走り出す中、右方向に転がそうとバットを振り出した河北の放った打球は芯を外されたためそれほど強い勢いではないが、一二塁間へと転がっていった。

 

「うっ……」

 

「あたしに任せて!」

 

「お願い!」

 

 九十九の動きに釣られて二塁に向かったセカンドは遠い打球に追いつけそうになく、芹澤が必死に打球を追いかけた。

 

(間に合った……!)

 

「三菜っ!」

 

「うん!」

 

 ギリギリで芹澤が打球へと追いつくと、走り出していた九十九は刺せないだろうと判断していた彼女は迷わず一塁への送球を選択した。すると三菜は彼女の送球をタイミング良く受け取ってベースを踏む。

 

「……アウト!」

 

(アウトかあ……。進塁打にはなったけど、私も残りたかったな……!)

 

(抜けなかったけど、エンドランとしてはいい打球だったのだ。見事なチームバッティングだったのだ)

 

「……凄いなあ。やっぱり小学生来の付き合いだけあって、息があってるや」

 

(ん……?)

 

 横になっている彼女がぽつりと漏らした言葉に阿佐田は既視感を覚えていた。

 

「……もしかして、酷くなる前から隠してたのだ?」

 

「えっ……!? ……ど、どうしてですか……?」

 

 二塁に進んだ九十九とベンチへと戻っていく河北を捉えたまま、阿佐田は彼女に話しかけた。すると彼女からは酷く狼狽した返答が返ってくる。

 

「……いや。なんとなく……なのだ」

 

「……参りましたね。なんでも分かってしまうんですか……?」

 

「なんでもは分からないのだ。ただ二つだけ言わせて欲しいのだ」

 

「一つだけじゃなく、二つですか」

 

「あおいは欲張りなのだ。看護師さんとしては、焦る気持ちを抑えてまず完治させて欲しいのだ。そして……あえて先輩としては、追いつけ追い越せでファイト! なのだー!」

 

「追いつけ追い越せ……」

 

 阿佐田とは先ほど会ったばかりでお互いよく知らない者同士だったが、彼女は自然とその言葉の意味を自分の立場に置き換えて受け取っていた。

 

(……そっか。置いていかれることを……恐れなくていいんだ)

 

「……あの。ありがとうございました。完全に治るまで安静にしたら……また競争に参加しようと思います」

 

「うむっ。お互い頑張るのだ〜」

 

 痛みも和らいできて表情から曇りが無くなった彼女を見て阿佐田は穏やかに笑ったのだった。

 

 2アウトランナー二塁のチャンスでフルスイングを貫いた岩城だったが打ち気を利用され、最後は高めの釣り球を振らされて空振り三振に倒れた。これにより4回の表が終わり、逢坂は4番としての役目を果たせていないことを深く受け止めていた。しかしベンチを飛び出してマウンドに足を踏み入れると、スイッチを切り替えてエースという役に集中していく。

 

(守り合いね。さっきの回は三振が2個も取れたわ。この回もバンバン三振奪って、チームを勢いづかせてみせるんだから!)

 

(このバッターはスクイズで点を取ったけど、低めのストレートには合ってなかったわね)

 

(さっきはゲッツーの危険があったけど、今回はランナー無しだ。思い切っていかせてもらうよ)

 

 そして右打席に入った4番バッターに対し真ん中低めやや外寄りにボールが投じられた。

 

(うん。良い高さに来てるわ!)

 

(このピッチャーの軸は低めのストレートだ。落ちる球もあるし、浅いカウントから絞って……打つ!)

 

 際どく低めに投じられたボールに対し、低めを待っていたバッターはスプリットとの見極めはハナから捨てて、ストレートのつもりでバットを振り切った。

 

(えっ……!?)

 

 良い高さにストレートを投じられた感触があった逢坂は芯で捉えられた打球があっという間に内野を越えていったことに信じられないといった様子で振り返った。

 

(弾道が低い。追いつける……!)

 

 右中間に伸びていくライナーがすぐにでも自身の先へ抜けようとするところを九十九はジャンプして断ち切りにいく。すると未だ勢いの収まらないライナーがミットに突き刺さる感触を覚えた。

 

「アウト!」

 

(えっ! あれを捕られた……!?)

 

(伽奈先輩……!)

 

(ふぅ……なんとか捕れましたね。逢坂さんがあれだけ低めに集めているんだ。たとえ捉えられても野手の届くところに飛びやすい。私たちは一つでも多くアウトにしてみせよう)

 

 一瞬の遅れで長打になるところを好判断でアウトにしてみせた九十九。そんな彼女に逢坂は頼もしさとやきもちを半々で抱いていた。

 

(……時々あの人に勝てないんじゃないかって、そう思わされることがある……。……ふふっ)

 

 そんな彼女からの返球を逢坂は満面の笑みで受け取った。

 

(嬉しいじゃない。エースで4番を目指すのがアタシの一番の目標だったのに。それと同じくらい譲れないものが出来ちゃった)

 

 右打席に立った5番に対して放ったストレートが低めに外れると、次に投じられたスプリットは思いとは裏腹に高めへと浮いてしまった。

 

(ストレートはさっきから良く低めに集まってる。高くきたら落ちる球に張る! 変化は厄介だけど、球威の無いボールだ。多少芯を外しても……内野くらいは抜ける!)

 

(……!)

 

 インハイから真ん中へと落ちていく軌道のスプリット、これがバットの芯から少し下で捉えて弾き返された。打球は逢坂から見て右横を抜けて勢いを保ったまま転がっていく。

 

(ギリギリ……けど届くっ!)

 

(翼ちゃん!)

 

 そのまま二遊間を抜けようかという深い位置で有原が横っ飛びで伸ばしたミットの先に引っ掛けるようにして止めた。しかしさすがに先すぎて掴むことは出来ず、前に落とした形になる。

 

「お願いともっち!」

 

 打球が遠く全力で飛びつくしかなかった有原は思い切り体勢を崩したが、身体が地面に擦れながらもとっさの反応で落としたボールを素手で掴み、すぐさま軽く腕を振った。

 

(……! トスのタイミングがシビアすぎる。これじゃあさすがに……えっ!?)

 

「任せて!」

 

 全く間を置かずに敢行されたプレーに加え、それほど崩れた体勢からでは定位置のセカンドには到底届かなかった。近藤からしても苦肉のトスに見えたが、有原がトスをする前に動き始めた河北はまるで彼女が最初からそこに投げることが分かっていたかのようにボールを受け取って一塁に送球を行った。

 

「……アウト!」

 

(嘘だろ……!? 今のは当たりだけじゃなく、飛んだコースも良かったのに……)

 

 かなり際どいタイミングではあったが、秋乃が足を伸ばして受け取ったこともあり、送球が届く方が一瞬早かった。一塁を駆け抜けたバッターランナーは何が起こったのかと、思わずチームメイトに聞くほど驚いていた。

 

「翼、よく止めたね……! ナイスプレー!」

 

「ありがとう! ともっちもナイスプレーだったよ!」

 

 有原に手を伸ばした河北が彼女を引っ張り上げると、二人が同時に上げたミットがハイタッチをするかのように一瞬重なり合った。

 

(これまでもそういう所はあったけど、最近は一段とカバーに入るのが上手くなってるのだ。あおいはあんまり周りに合わせるプレーが得意じゃないから、見習っていきたいのだ)

 

(今のはさっきと違って甘いとこいっちゃった……。本当に良くアウトにしてくれたわ。あと1アウト……だけど、コントロールには気をつけなきゃ)

 

 右打席に入った6番バッターに対し甘く入らないよう慎重になった逢坂は低めに外れるボールが増え、3ボール1ストライクになる。

 

「楽に! 打たせていきましょう!」

 

「わ、分かったわ!」

 

(……打たせていく……そっか。三振を奪うことが全てじゃないのね。バックを信頼して投げ込む……それも大事なんだ)

 

 近藤にかけられた言葉で吹っ切れた逢坂は思い切って低めの大雑把なストライクゾーンにボールを投じた。

 

(コントロール苦しんでるんだ。低めのストレートで来る!)

 

 すると有利なカウントから狙い球を絞っていたバッターが真ん中低めやや内寄りに投じられたストレートを痛烈な当たりで打ち返した。

 

(正面にいっちゃった! けどこれは捕れない!)

 

(止めてみせます!)

 

 目にも止まらぬ速さで放たれた打球はちょうど初瀬の目の前でバウンドする。彼女に考える余裕は無かった。とっさに膝を落として体勢を低くし、ミットを下に向ける。するとミットの付け根で弾かれたボールは彼女の胸に当たり、前に落とされた。

 

(投げなきゃ。一塁に……!)

 

 硬球の痛みをこらえて一歩前に出た初瀬は右手でボールを拾い上げると、慌てずに足を一塁方向に向けてからノーバウンドで送球を行った。

 

「アウト!」

 

(……マジか。弾いたらセーフになると思ったのに……)

 

(今のは身体で押さえ込んだから前に落とせたわね。以前のように腰が引けていたら、身体に当たっても遠くに転がったでしょう)

 

 身体を張って目の前に落とした甲斐もあり、少し余裕を残してバッターランナーのアウトが宣言された。

 

「大丈夫!?」

 

「だ、大丈夫です」

 

「本当に……?」

 

「だって頑張ってる逢坂さんの力になれましたから。痛みなんか吹き飛んじゃいました!」

 

「……! 麻里安ちゃん……なんて健気なの……!」

 

 逢坂が心配そうに駆け寄ってくるが、息が乱れてきた彼女の支えになれない方がよっぽど胸が痛いと初瀬は気丈に振る舞った。

 

(多くのバッターは右で打つ。だからこそサードは引っ張った強い打球が飛びやすいわ。けど初瀬さんは特訓でボールへの恐れを少しずつ克服してきた。強い打球にも揺るがぬ闘志、自覚はないのかもしれないけど貴女はそれを自分で築き上げたのよ)

 

 そんな初瀬に東雲はブルペンから信頼に満ちた眼差しを向けるのだった。

 こうして4回の裏が終わり、5回の表。先頭バッターとして打席に立つ近藤は追い込まれてからも粘っていた。

 

(やっぱりそうよ。このピッチャーには空振りを取れるような決め球はないんだわ)

 

 キャッチャーとしての視点で三菜の弱点を突き、不恰好ながらも近藤は粘り続けた。

 

「……ボール! フォアボール!」

 

(よしっ……!)

 

(うっ、根負けした……)

 

 ストライクゾーンに近いボールは全てファールで逃れながら近藤はボールを選び、集中力を最後まで保った彼女に軍配が上がった。ムービングを攻略してヒットを打てないまでも、狙い通りフォアボールでの出塁に成功する。

 

(近藤さん、お見事です……! ……! 私も続いてみせます!)

 

(送るのか? ……いや、また揺さぶりやエンドランかもしれない。迂闊に決めつけは出来ないな……)

 

 続いて打席に立った初瀬はバントの構えを取った。そんな彼女にさきがけ女子の内野陣はあまり前には出ずに、あくまでバントは可能性の一つとして警戒する。

 

(最後までボールを良く見て……!)

 

 真ん中低めに投じられたボールに対して腰を使って体勢を低くした初瀬はバットとボールを同時に捉えながら、外に変化していくムービングの軌道にバントで合わせた。

 

(今度は素直に送ってきたか……!)

 

「ファースト!」

 

「はいっ!」

 

(焦るな……落ち着いて、まず捕る。それから足の向きを変えて……)

 

 転がされた打球はファーストに向かっていった。前へと出た芹澤は得意ではないバント処理に練習で意識したことを頭の中で反覆しながら捕球の寸前に姿勢を低くしてミットを下に向けた。

 

(二塁は……間に合わないか!)

 

「一塁に!」

 

「分かった!」

 

 キャッチャーの指示に合わせて芹澤は一塁に足を向けると、カバーに入ったセカンドに送球を合わせた。

 

「アウト!」

 

(ナイスバント! 余裕で二塁に来れたわ)

 

 これにより初瀬はアウトに取られたが、上手い具合にファーストに捕らせた送りバントにより近藤は悠々と進塁を果たした。

 

「「ふぅ……」」

 

「「えっ」」

 

 練習の成果を出せたことで少し気が緩んだのか安堵の吐息が漏れ出た初瀬と芹澤。驚いて顔を上げると目が合い、二人の顔は見る見るうちに赤くなっていった。

 

(わー……なんかちょっと恥ずかしいな。あ……この子、小麦が話してた特訓少女の子だ。紅白戦の時は別のチームだったからこんなに近くで見たのは初めてかも)

 

「バント絶妙だったよ。凄い上手いね!」

 

「えっ、本当ですか? そんな風に言ってもらえるなんて……練習を続けてきて良かったです」

 

「練習……そっか」

 

「……?」

 

「そこ! 私語は慎むように」

 

「「は、はい!」」

 

(きっとバントも元々上手かったわけじゃなかったんだ。急激に上がったりしない自分の実力にやきもきしながら……それでも練習を続けたんだ)

 

 慌てて戻っていった初瀬がベンチで褒められているのを見ながら彼女が辿ってきたであろう一筋縄ではいかない道を想像する。するとおぼろげながら自分の前にもそんな道が広がっているのが見えた芹澤は頬を叩いて気合いを入れたのだった。

 

(チャンスだ! 打つぞー!)

 

(さっきは打ち取ったけど低めにいっちゃったんだよね。低めに集めるのも難しいけど、低めに投げないってのもそれはそれで難しいんだよなー)

 

 1アウトランナー二塁となり打順は上位に戻る。この試合初めて塁上にランナーを置いて迎えた打席にやる気をみなぎらせて秋乃がバッターボックスへと入り、バットを構えた。

 

(ここから3巡目だ。使っていこう)

 

(……! いきなりか。ちょっと待ってね……)

 

 キャッチャーから出されたサインに三菜は頷くと、少し時間を多めに使ってから投球姿勢に入りボールを投じた。

 

(あ、やばっ!)

 

(えっ!?)

 

 しかしコントロールが大きく乱れ、スピードのあるボールが秋乃に向かっていった。秋乃はこれに驚きながらも、反応して後ろに避ける。

 

「デッドボール!」

 

「小麦、大丈夫!?」

 

「うん。へーきだよ! 掠っただけだから」

 

「良かったー……これ以上怪我する人出てほしくなかったからさ」

 

 ボールは判断よく下がった秋乃のユニフォームに掠った。危険なボールを投じてしまったピッチャーが帽子を取って頭を下げると、秋乃は安心させるように大丈夫だと伝えて一塁へと向かっていく。するとキャッチャーがここで一度タイムを挟んだ。

 

「心構えが出来てなかったね」

 

「……やっぱ分かる?」

 

「分かるよ。あれだけ投げ方がぎこちなかったらね」

 

「ううー……ごめんね」

 

「ま、投げ分けが大変なのは分かってるつもりだから。それより次のバッターにも初球からいくよ。デッドボールの後だし、入れにいったら狙われるからね」

 

「プレッシャーかけないでよ〜」

 

「何言ってんの。うちのエースは三菜なんだから。プレッシャーに打ち勝ってもらわないと」

 

「そう言われると……分かったよ。やってみる!」

 

 そしてタイムが終わり、中野が左打席に入っていった。

 

(1打席目は良い当たり出来たにゃ。あの感じで引きつけて打ち返すんだにゃ……!)

 

 願ってもない好機に中野はムービングを引っ掛けないように意識しながらバットを構える。

 

(私は元々関節や手首が柔らかくて、ナチュラルに投げる球が動く……。だからある意味誰でも投げられるこれが、投げられなかった。でも今は……!)

 

 そんな中野に対して三菜は腕を振り切り、ボールを投じた。

 

(外真ん中! ショートの頭上を意識して……打つにゃ!)

 

 中野はこのボールを引きつけると、流すようにして打ち返した。

 

(振り遅れた!?)

 

 放たれた打球はショート横へのスライス回転がかかったライナー。中野は僅かに差し込まれた感触に驚きながらも走り出す。

 

「アウト!」

 

(えっ!?)

 

 鋭い打球に二塁を飛び出した近藤だったが、飛びついたショートが打球を収め、慌てて急ブレーキをかけて二塁へと頭から戻った。

 

「アウト! アウトー!」

 

(しまった……!)

 

 近藤が伸ばした手が二塁に届くより早く送球が届き、アピールアウトに取られた。これによりライナーゲッツーが成立し、3アウト。反射的に飛び出してしまった近藤はそのことを悔いながらベンチへと戻っていく。

 

「ごめんなさい。折角のチャンスを……」

 

「それを言うならワタシもにゃ。……やられたにゃ。今のはムービングじゃなかったにゃ」

 

「えっ……!? そうだったの?」

 

「間違いないにゃ。今までのボールと違って伸びがあったにゃ。投げたのは十中八九……ストレート」

 

「ストレート……。スピードもそこまであるようには見えなかったけど、私たちはずっとムービングに慣らされてきた……」

 

(私たちがスプリットを温存していたように……相手もこの3巡目で温存していたストレートを使い始めたのね)

 

 こうして5回の表が終了し、5回の裏は7番バッターから。ストレートとスプリットを投げ分けて順調に追い込んだバッテリーは決め球にスプリットを選択した。

 

(えっ!? ボールに勢いが無い!?)

 

(失投! もらった!)

 

 緩いボールが真ん中付近に入り、バッターは逃さずこのボールを叩いた。飛び込んだ中野の先を越えた打球をカバーに入った岩城が抑えて内野に返すが、タッチプレーに持ち込む前にランナーは二塁へと到達した。

 

(やられた……また7番に長打を打たれちゃった)

 

(すっぽ抜けね。無理もないわ。逢坂さんは頭からここまでずっと全力投球を続けているもの。そろそろ握力が落ちてきてもおかしくないわ。とはいえ初先発の逢坂さんにペース配分を求めるのは酷というもの……。それより体力がキツい場面でのピンチでどれだけ投げられるかね)

 

 ノーアウトランナー二塁となり、右打席に8番バッターが入るとヒッティングの構えを取った。

 

(送りは勿体ない……。ヒットで繋ぐぞ。ただ最低限ランナーは進められるように、一二塁間をゴロで抜きにいく!)

 

(そろそろ体力も限界ね……ボールの力も落ちてきているわ。高めに投げたら持っていかれてしまうかも。低めに集めていきましょう!)

 

(分かったわ! 踏ん張ってみせる……!)

 

 肩で息をし始めた逢坂はそれでも低めを狙って全力投球を続ける。そして1ボール1ストライクからの3球目。外を待っていたバッターがアウトローに投じられたストレートを右方向に打ち返した。

 

(どうだ!?)

 

「とりゃー!」

 

 一二塁間への鋭いゴロに反応良く踏み出した秋乃が飛びつくとミットのポケットに打球が収まった。

 

(う……)

 

 すると二塁ランナーは三塁へは走り出せず、慌てて二塁ベースに戻っていった。それを見ながら立ち上がった秋乃は自分の足で一塁ベースを踏み、バッターランナーをアウトにする。

 

(しまった……行くべきだったか? さっきの失敗で躊躇しちゃった……)

 

 2回の裏の走塁死がよぎった二塁ランナーは、先ほどと違い野手の正面に放たれた打球ではなかったもののスタートを切ることが出来なかった。これにより里ヶ浜はランナーを進めずにアウトを1つ取り、続く9番バッターの三菜が右打席に入る。

 

(……そうか! スプリットは投げられないんだ!)

 

(打ち返された!? ボールは……!?)

 

 低めに良くストレートを集めていた逢坂だったがバッターは思い切り良くバットを振り出し、今度は一二塁間をゴロで破られる。ゴロが身体の正面に来るように位置を調整した九十九が素早く返球すると、二塁ランナーは三塁を回ったところで足を止めて戻っていった。

 

「タイムお願いします」

 

「タイム!」

 

 すると一塁で止まった三菜がタイムを申請した。タイムがかけられたのを確認した彼女はベースから離れていくと、次の1番バッターへと耳打ちをした。

 

「スプリットは投げてこない? 確かにさっきの落ちる球の失投から投げてないね」

 

「握力がもう限界来てるのか。それかランナーいる状況では投げられないかだね」

 

「あ、そっか! 逸らしたらランナー進んじゃうもんね」

 

「うん。だからここはストレートに張っても良いと思う!」

 

「分かった! ありがと、三菜!」

 

「どういたしまして。頼んだわよ、キャプテン!」

 

 そしてタイムが終わり彼女がベースに戻っていくと、怪我をしたファーストの代わりに1番に入った芹澤が右打席へと入った。

 

(ストレートだけならあたしも打てるかも……)

 

(……きつい……。練習でこれくらいの球数は投げてきたはずなのに。段違いに疲れてる……。これが試合で投げるってことなのね)

 

 募る疲れに押し潰されそうになる逢坂。そんな彼女は芹澤がバットを構えたのを見ると、滴る汗を拭い、力を振り絞ってボールを投じた。真ん中低めのストライクゾーンに投じられたストレートに芹澤はバットを振り切る。

 

「ストライク!」

 

(うっ! 振り遅れた……)

 

(……! ここ一番でボールの力が戻った……!)

 

「ナイスボール!」

 

 バットは空を切り、逢坂のボールを受け止めた近藤は彼女を見上げて目を見張った。少しして軽く頷いた近藤は後押しするように声をかけてボールを投げ渡す。

 

(……打てるかも、なんて気持ちじゃダメだ! ストレートだけでも抑えられたっておかしくない! 状況をしっかり考えなきゃ。5回の裏、同点で1アウトランナー一塁・三塁! スプリットが無いなら、今まで通り低めにストレートを集めてくる! あたしがするべきなのは……)

 

 ストレートに振り遅れた芹澤はこの打席が自分だけのものではないと思い直すと、チームのために自分が何を出来るのか、何をするべきなのか、彼女なりに考えた。

 

(絶対に打たせないん……だからぁ!)

 

 そして打席の一番後ろに下がった芹澤に逢坂が渾身の力を込めてストレートを投じた。インコース低めに放たれたストレートにバットを短く持ち直した芹澤はこのボールをすくいあげるように打ちにいく。

 

(ヒットなんて欲張らない! 犠牲フライを……打つんだ!)

 

 ——キイィィィン。振り出したバットから快音が響き、高く打ち上がった打球は外野まで伸びていった。

 

(うっ。大きい……?)

 

「逢坂さん。カバーに!」

 

「……! うん!」

 

 打ち返された打球に逢坂は力が抜けそうになるが近藤の指示でバックホームに備えて本塁のカバーへと向かった。

 

(ちょっと詰まらされた……! 飛距離は……?)

 

(……十分! 還れる!)

 

「ゴー!」

 

「うおおおおおおっ!」

 

 定位置から数歩下がったところで岩城が捕球するとコーチャーからゴーサインが出された。岩城の叫びを背に、三塁ランナーがスタートを切る。

 

(よし! 投げた!)

 

 同時に岩城がバックホームするのを見て一塁ランナーもスタートを切った。

 

(咲ちゃん。どうするの……?)

 

 二人のランナーがスタートを切り、さらに岩城から放たれたボールの行方と視線が左右に動く逢坂。そんな中、近藤は判断を下した。

 

「……カット!」

 

「オッケー!」

 

 近藤の指示が飛ばされ、カットに入った有原は低い送球を受けると素早く二塁へと送球を行う。

 

(しまった……!)

 

 目の前で行われたプレーに一塁ランナーは突っ込めば三塁ランナーの生還より先にアウトになると危惧して急ブレーキをかけて二塁に背を向けた。すると三塁ランナーが本塁にスライディングで滑り込んでから、ボールを受け取った河北から一塁ランナーの背にタッチが行われた。

 

「アウト!」

 

「やっちゃった……。結、ごめん!」

 

「ドンマイドンマイ! 勝ち越しは出来たから、そっちに気持ち切り替えていこう!」

 

(う〜……やるなあ里ヶ浜。バタバタしちゃうところなのに、プレーが冷静だったよ)

 

 芹澤の犠牲フライによりさきがけ女子に勝ち越し点が入った。同時に芹澤のフライアウトと一塁ランナーのタッチアウトにより3アウトチェンジ。勝ち越せた嬉しさとその後のチャンスを摘み取られたことへの脱帽を抱いて芹澤たちはベンチに戻っていった。

 

「岩城先輩! 良い高さに来てましたよ!」

 

「そうか! はっはっは! ウチなりに守備を大事にしようと思っていたからな! 練習通りに出来て安心したぞ!」

 

 バックホームが浮かずにカット出来る高さに来ていたことを褒められた岩城は照れを隠すように大笑いしていた。5回の裏の終了に伴い彼女たちもベンチに戻ってくる。

 

「あのタイミングではホームでは刺せなかったわね。一瞬の判断で難しかったと思うけど、見事だったわ」

 

「ありがとう。鈴木さんのアドバイスで背追い込まずに色んなことを見極められるようにしてきたからかな。迷わなかったわ」

 

(キャッチャーの指示は一瞬の遅れで守備に淀みを生んでしまう……本当に頼もしくなったわね。私も……負けていられないわ)

 

 情報量の多いプレーにも迷わず判断を下した近藤から成長を感じた鈴木は密かに対抗心を燃やすのだった。

 

「はあっ……はあっ……」

 

「お疲れ様、逢坂さん。次の回からは私がマウンドに上がるわ」

 

「……! ……分かったわ」

 

「落ち込むことないわ。初登板で5回2失点なら、立派な成績よ」

 

「……龍ちゃんが言うならそうなのかもね。けど、今日はかなり守備に助けられたわ。一歩間違えばもっと失点してたかもって……それがアタシの素直な感想。まだまだ沢山課題があるって、そう感じさせられたのよ」

 

「……そう」

 

(本人がそれを認識しているのは……頼もしいわね)

 

「さあ、行きなさい」

 

「えっ?」

 

「何を不思議そうな声を出しているの。次のバッターでしょう」

 

「あれ? てっきり龍ちゃんがいくと思ったんだけど……」

 

「あくまで私が代わるのはピッチャーとしてよ。……それとも代打を出して欲しいのかしら」

 

「い、行く! 行くに決まってるじゃない!」

 

(より打線が繋がるオーダーを模索する中で……私がリリーフに専念するとはいえ、貴女は4番として選ばれたのよ。ベンチに下がるまでは、4番として堂々と打席に立ちなさい)

 

 6回の表、里ヶ浜の攻撃は有原から。ネクストサークルに慌ててバッターとしての準備をした逢坂が座る。

 

(……ストレート!)

 

 スイングを溜めた有原は曲がり始めを感じないボールをストレートと判断し、ツイスト打法で打ち返した。その読みは当たり、打球は一二塁間のちょうど真ん中を抜けてライト前ヒットになった。すると逢坂が打席に向かう前に有原がタイムをかける。

 

「ここちゃん、体力は大丈夫?」

 

「平気……って言いたいけど、ギリギリ。けど打席には立てるわ!」

 

「そっか、良かった! それでね今ストレートを打ったんだけど……多分逢坂さんには低めのムービングで攻めてくると思うんだ」

 

「翼ちゃんがストレートを打ったから……?」

 

「それと相手のピッチャーも疲れてきてるからさ……ダブルプレーを取りに来ると思うんだ」

 

「なるほどね。向こうは内野ゴロを打たせたいってことか……分かったわ!」

 

 話し終えるとタイムの終わりが近づき、有原は一塁へと戻っていった。良い感じに間を置けた逢坂は息を整えると右打席に入る。

 

(言われてみればセカンドとショートが二塁に寄ってるわ。アタシも翼ちゃんの言う通り低めの動く球で来ると思う。でもすくいあげても良美先輩みたいにはいかない……)

 

(次は今日2本ヒット打ってる5番だ。ここでランナーを無くしておこう!)

 

(了解!)

 

 そんな逢坂に対して三菜が投球姿勢に入り、足を踏み込んだ。

 

(なら……!)

 

 そして真ん中低めにボールが投じられると逢坂は後ろから勢いをつけるようにステップし、打席の一番前に踏み込み、振り出したバットが身体より前でボールを捉えた。かなり前へと体重がかかったが、下半身は揺らぐことなく、バットが振り切られる。

 

(なんだ!?)

 

 すると弾き返された打球はサード後方へとふらふらと上がり……そして落ちた。ハーフリードを取っていた有原が二塁へと進み、そして逢坂自身も一塁へとたどり着いた。

 

(やったわ! 思い切り前で打てれば、曲がっちゃう前に打てると思った……! 球速もそんなに速くなかったし、出来るとは思ったけど……打てて良かった……)

 

(低めのムービングを前のめりに捌いてはいけないと思いましたが……そんな手がありましたか。私には到底思いつきませんでした。お見事です)

 

 一塁ベースに立ち喜びを露わにする逢坂に九十九は感心し、自分も続こうと右打席へと入っていった。

 

(ヒッティングか……だろうな。こっちも正直その方が怖い)

 

 堅実にいくならば送りバントという手は考えられたが、阿佐田は今日調子の良い九十九にヒッティングのサインを送っていた。キャッチャーも送りバントでは来ないと考え、打ち取るための策を考える。

 

(どっちも打たれたのは追い込んでから粘られて、ボールカウントが悪くなってから甘く入ったボールだ。なら無駄なボール球は使わず早めに追い込もう)

 

(ストライクを狙うのね。今打たれたばかりでちょっと怖いけど、私にはそれしかないんだ。思い切って……!)

 

(む……)

 

「ストライク!」

 

 九十九に対しての初球は膝下へのムービング。コースはそれほど厳しくないが、引きつけて流すには難しいコースに九十九は手を出さずに見送り、ストライクのコールが上がった。

 

(やはり打つなら外だ。外に浮いたボールを流す……シンプルだがランナーも二人いるし、それが無難だろう。……!)

 

 するとストライクの確保を優先して投じられた2球目が九十九の狙い通り、アウトコース真ん中に来る。

 

(引きつけて流す! ……うっ!)

 

 このボールを引きつけて流した九十九だったが、想定より僅かにボールに振り遅れた感触があった。打球はファーストを守る芹澤の真正面へと転がっていく。

 

「二塁に!」

 

「そのつもり!」

 

(まずい!)

 

 キャッチャーは迷わず二塁への送球を指示すると芹澤もその通りにボールを二塁に送り、さらに一塁ベースへと向かう。

 

「アウト!」

 

(くうっ……)

 

「キャプテン!」

 

 息を切らせながら走る逢坂だったが余裕を持ってアウトになり、さらに一塁へとボールが送られた。九十九は焦りを覚えながら必死な面持ちで駿足を飛ばし、一塁を駆け抜ける。

 

「……アウト!」

 

(わっ! 速……ギリギリじゃん。前に混ぜてもらった時に小麦がやってたやつ練習しといて良かったあ……)

 

 一塁ベースの側面に触れるようにして精一杯足を伸ばした芹澤のミットに送球が届いたタイミングが九十九がベースを踏むより僅かに早く、一塁審判からもアウトのコールが為された。

 

(やられた……。ストレートは頭に入っていたが……微妙な球速差に対応しきれなかった)

 

「すいません、逢坂さん。折角広げたチャンスを潰してしまって」

 

「もー……何を謝ってるんですか。打ち取られるたびそんなことしてたら、アタシたちなんて何回謝る必要が出てくると思ってるんですか!」

 

「それは……」

 

「ほら、ベンチから一緒に応援しますよ! まだ攻撃は終わってないんですから!」

 

「……ええ、その通りですね」

 

 九十九がダブルプレーに取られたが、その間に有原は進塁し2アウトランナー三塁となった。そして次のバッターがベンチからの声援を背にして打席へと向かっていく。

 

(ともっち……!)

 

(残り2回……勝つためにもこのチャンスは逃せない! 絶対翼をホームに還すんだ!)

 

 このチャンスに打順が回ってきたのは河北。打席に入る前に一度三塁ランナーの有原を見ると、真っ直ぐ見つめて無言のエールを送っていた。そんな彼女に河北は頷くと一度大きく息を吸って吐き出してから右打席へと入っていった。

 

「……ボール!」

 

 その初球、投じられたストレートが低めに外れると河北はこれを落ち着いて見送った。

 

(今のがストレートかな……? 正直見分けはつかなそう……なら、どっちが来ても打ち返せるようにしなきゃ。引っ張りはムービングの餌食……)

 

 次に投じられたのはムービングボール。これが膝下に投じられると河北は引きつけてバットを振り出す。

 

「ストライク!」

 

「良いよ! 腕振れてる!」

 

 軌道に合わずバットは空を切る。それでも河北は迷った表情を見せずにバットを構え直した。

 

(ランナーが三塁にいるんだ。慎重に……でも腕は振り切って!)

 

(流し打ちはストレートに押されて餌食になる……)

 

「……ボール!」

 

「オッケーオッケー! 際どいところ攻めれてるよ!」

 

 アウトローに投じられたムービングボールは外に外れてボールの判定が上がった。キャッチャーの鼓舞を聞きながらボールを受け取ったピッチャーは息をゆっくり吐き出す。

 

(ボールが先行した……。打つならここだよ!)

 

(2ボール1ストライク。届くところに来たら打つ!)

 

 そして4球目が投じられた。コースは真ん中低め。

 

(来た! センター……返しだっ!)

 

 ほどほどに引きつけられると河北のバットが振り出された。すると打球は三菜の横を抜けて転がっていく。

 

(届け……!)

 

 そして二遊間を抜けようかという打球にセカンドが飛びついた。

 

「抜けたぁーっ!」

 

(やったあ……!)

 

 ムービングを打ち返した打球は決して鋭い当たりではなかったが、的確に二遊間を抜いていった。打球をセンターが収めると有原がホームベースを踏み、河北は一塁を少し回ってから戻って思わず両拳を握りしめていた。

 

(信じてたよ。ともっち!)

 

 ホームを駆け抜けた有原が河北に向かってウィンクしながら親指を立てた。タイムリーヒットを讃える声援も嬉しかったが、河北には有原が自分を信じてくれていたことが伝わっており、その信頼に応えられたことが何よりも嬉しかった。

 

「どっりゃあああ!」

 

「ストライク! バッターアウト!」

 

「くぅー! また三振かー!」

 

 続いて打席に立った岩城は一度大ファールを見せたものの、最後は外に外れたストレートを振らされて空振り三振に倒れた。

 攻守交代し、6回の裏。里ヶ浜は逢坂をベンチに下げて東雲をマウンドに送る。

 

(高め……!)

 

 すると低めのストレートに目が慣れていた先頭の2番バッターはインハイのストレートを打ち上げさせられ、浅いセンターフライに倒れた。

 

(カーブ! 溜めろ……!)

 

 しかし次に左打席に入った3番バッターにボールゾーンからアウトコースのストライクゾーンへと曲がるカーブを引きつけて打ち返され、二遊間を抜くセンター前ヒットを打たれる。

 

(私の投げられる変化球はカーブとスライダー……どちらも左バッターに向かっていく球。対左のピッチングは今後の課題ね……)

 

 これにより1アウトランナー一塁となると、今日ノーヒットの4番が意地を見せた。追い込まれながらも外低めへと投じられたスライダーに食らいつき、一二塁間を抜いていく。ボールを収めた九十九が三塁に送球するが一塁ランナーの足が勝り、1アウトランナー一塁三塁となる。内野陣が中間守備を取る中、東雲はここまで逢坂が粘って抑えてきた失点を広げさせまいと厳しいコースを突き続ける。

 

「……ボール!」

 

 しかしチャンスの場面、バッターも際どいコースに簡単に手を出さず、連続した厳しい攻めは結果として3ボール1ストライクというカウントを生み出した。

 

(……東雲さん)

 

(……! ……分かったわ)

 

 そんな彼女を支えるように近藤はサインを送った。それに東雲が頷くとバッターに5球目が投じられた。

 

「走りました!」

 

(よし! これは決まる!)

 

 さきがけ女子の作戦はスクイズ。三塁ランナーが走ると、バッターもバントの構えへと移行していく。

 

(えっ!?)

 

 しかしバッテリーの選択はピッチアウト。大きく外に外されたストレートにバッターは目を見張り、遠いボールに思わずバットを引いてランナーに声をかけた。

 

「ば、バック!」

 

「えっ!?」

 

「ボール! フォアボール!」

 

「初瀬さん!」

 

「はいっ!」

 

「アウト!」

 

 バッターはフォアボールで出塁したものの、飛び出した三塁ランナーはベースに戻ったところを近藤からのボールを受け取った初瀬にタッチされてアウトに取られた。

 

(近藤さん、良い読みだったわ。先行したボールカウントと、さきがけ女子というチームの戦術を俯瞰して読み切ったわね。……それにバッターの判断も甘かった。ランナーがスタートを切っているのなら、どんな形でもバットには当てないとこうなってしまう)

 

(しまった……。見送るべきじゃなかったんだ。転がせないまでも無理矢理当てるくらいは出来たんじゃないか……)

 

 2アウトランナー一塁二塁となり、6番バッターが右打席に入る。すると初球として低めに投じられたカーブにバッターはタイミングを外されて空振った。

 

(さっきのピッチャーは緩急は使ってこなかったから調子狂うな……。なんとか対応していかないと……)

 

 すると次に投じられたのはインハイへのストレート。少し反応が遅れたバッターはこれに振り遅れる形で空振りとなる。

 

(くぅ……インハイに来たか。追い込まれちまった。けど簡単には打ち取られないぞ。ストライク近くに来た球はしっかり振ってくんだ)

 

 そして短くバットを持ち直したバッターに3球目が投じられた。

 

(入ってる。3球勝負か……!)

 

 アウトローに投じられたボールに反応したバッターはバットを振り出した。

 

「ストライク! バッターアウト!」

 

(スライダー……!)

 

(私の課題はコントロール。それも外の出し入れをどれだけ出来るかが命題だったわ。とりあえず今のピッチングは……合格点を上げてもいいかしら)

 

 狙い通りストライクゾーンから外のボールゾーンへと変化していくスライダーを振らせ、空振り三振により3つ目のアウトを取った。思い描いたピッチングが出来たことに東雲は確かな手応えを感じていた。

 

「ファール!」

 

 最終回。7回の表の先頭バッターとして打席に立った近藤は先ほどと同じようにフォアボールでの出塁を試みて粘っていた。

 

(外のムービングで体勢が崩れた……これで仕留めるよ)

 

(ほいきた!)

 

(インコース……うっ!?)

 

 九十九にしたように近藤に対しても無駄なボール球は挟まず、追い込んだバッテリーは0ボール2ストライクと有利なカウントで外低めのムービングを投じ、近藤はこれを体勢を崩して辛うじてファールで逃れる。しかし次に投じられたインコース真ん中へのストレートに反応が遅れた近藤は差し込まれてしまい、打ち上がった打球をキャッチャーがファールゾーンで落ち着いて捕球した。

 

(やられたわ……。粘るだけじゃなく、そこからヒットに持っていく技術を身につけないとダメね)

 

 目の前で捕られたボールに近藤は悔しさを覚えながら、今の自分に足りないものを受け入れてベンチへと戻っていった。

 

(……ランナー無し、ですか。バットに当たった後ならともかく、今の私にはストレートとムービングの見極めは出来ないでしょう……)

 

(ランナー出せずに2アウトまでいかれると厳しいにゃ……頼むにゃ、初瀬)

 

(9番か……さっきは上手く送りバント決められたからな。内野、一応セーフティ警戒しといて)

 

(了解)

 

 1アウトランナー無しになり打順は9番の初瀬へと回った。ベンチからの声援と中野からの期待の眼差しを背に、初瀬はバッターボックスへと歩いていく。

 

(粘ってフォアボールを選ぶ技術も、ミートポイントを大きく前にするほどの体幹もありません。ですから……狙いはセンター返し。河北さんがやっていたように、どちらのボールでも打ち返せるようにすること。それが私が出せる答えです)

 

 9番という立場から自分の前に立つ8人のバッターの挑戦を初瀬はよく観察していた。それぞれがそれぞれのやり方で挑んだ攻略。その中で自分に最も合うと感じた攻略法を選び、頭の中でするべきことを鮮明にした彼女は右打席へと入っていった。

 

(ボールをよく見て……。……低い!)

 

「……ボール!」

 

 初瀬は自分でも不思議なくらい落ち着いていた。アウトコース低めに投じられたムービングは僅かに低く、初瀬はこれをバットのトップを維持したまま見送った。

 

(やはりムービングには慣れてきたか? 三菜の体力を考えるとシビアなコースの投げ分けは難しい。ここは厳しいコースで攻めるよりは……ストレートの力で抑えるよ)

 

(……! 分かった!)

 

(今のは……見えていたと思います。自分の目を疑うことなく信じられました。後は……)

 

 そして2球目が投じられた。インコース真ん中と大雑把ながら力が込められたストレート。このボールに対し、初瀬はスイングの始動に入った。

 

(見えた軌道にバットを合わせて……!)

 

 自信を持ってトップから振り出されたバット。それが最後まで振り切られると、中野はそのスイングに既視感を覚え、初瀬の手には芯を捉えた感触が伝わっていた。放たれた打球は綺麗な放物線を描き、そしてセンターの前へと落ちる。

 

(打てた……!)

 

 一塁ベースを踏みしめた初瀬は隠すことなく喜びをほほに浮かべていた。中野を始めとして盛り上がるベンチの声援を聞きながら、初瀬はヒットを打って塁に出ることがこれほどまでに心が沸き立つのかと感じていた。しばらくしてヒットの余韻が残る中、初瀬は出来るだけ心を落ち着かせて集中した面持ちになる。ここが終わりではないことは彼女自身よく分かっていた。

 左打席に入った秋乃に対してバッテリーは低めが強いという情報は承知の上で、2打席目で打ち取っていることや内野ゴロを打たせてゲッツーを狙いたいという思いから低めにムービングを集めた。

 

(打てるっ!)

 

 真ん中低めに入ったムービングを秋乃は強く叩いた。すると打球は一塁線へと放たれ、初瀬は一塁ランナーとして走り出す。

 

(すっごい回転かかってる! これは……ベースの前じゃ捕れない!)

 

 放たれた打球は強烈なトップスピンがかかって加速するように転がっていく。秋乃が駿足を飛ばして一塁に向かう中、芹澤はベースの手前でバウンドした打球をベースの後ろで止めるように飛びついた。

 

(と、届いたっ!)

 

 牽制に備えてベースの近くで守っていたことや、判断よく飛びついたこともあり、ファーストミットの先にボールは収まっていた。逆を向いた体勢から二塁への送球は厳しかった。捕った芹澤は地面に膝をつけると再び飛びつき、かたや秋乃は全力疾走で駆け抜けるように、それぞれお互いから見て一塁ベースの右側へと突っ込んでいった。

 

「……アウト!」

 

「やったあ!」

 

「うー……! やられたあ!」

 

 互いに全力を出し尽くした結果、この勝負は芹澤の守備が勝った。互いに素直な感情を露わにすると二人は顔を見合わせて笑った。

 

(中野さん……!)

 

(初瀬……。ワタシは嬉しかったと同時に勇気付けられたんだにゃ)

 

 2アウトランナー二塁と変わり、打順は中野に回った。中野はバッターボックスに入る前に二塁の方を見る。先ほど中野が初瀬に向けていた視線を、今度は初瀬が中野に向けていた。その眼差しを受け取った中野は左打席に入り、バットを構えた。

 

(さっきはショートライナーゲッツー……とはいえ、いきなりストレートに対応された。ランナーも二塁に進んだし、体力はきついだろうが……)

 

(分かってるよ。厳しいコース突いていく!)

 

(ワタシがさっき振り遅れながらもストレートを打ち返せたのは言ってしまえば本能みたいなもんにゃ。けど厳密に言えば……。……ムービング!)

 

「……ボール!」

 

 低めギリギリを狙ったムービングが沈んでいくと、これが低く外れてボールになる。際どいコースで元から無理をする気はなかった中野だったが、一つ儲けた気分で次の投球に備えた。

 

(……ストレート!)

 

「ファール!」

 

 次に投じられたのはアウトローへのストレート。これが流し打ちで打ち返されると、サードの頭上を越えた打球はレフト線を逸れてファールとなった。

 

(外は上手く打ってくるな……内はどうだ?)

 

(やっぱりにゃ。ほんの少しだけど、ストレートとムービングの球速差を感じられるにゃ……。……ストレート!)

 

「ボール!」

 

 インコース真ん中に厳しく投じられたストレートは内に外れてボールのコールが上がる。見送った中野は確信を得ながらバットを構え直した。

 

(ストレートならその通りに。ストレートじゃないなら……)

 

(悪くないコースには来てる。このまま内を攻めよう!)

 

(分かった。流し打ちは……させない!)

 

 そして4球目がインコース低めのストライクゾーンへと投じられた。コースは決して甘くはなかった。

 

(ムービングだと確信できれば、ギリギリまで見極めに徹せられるにゃ! ……内に沈む……!)

 

 中野はギリギリまで引きつけると変化の曲がり始めから軌道を予測し、バットを振り出した。すると膝下のボールが素直に打ち返され、セカンドの頭上を襲う。初瀬が走り出す中、セカンドが精一杯ジャンプして捕球しにいった。

 

(越えます……絶対に!)

 

 打球から背を向けて走る初瀬はその行方を見ることは出来なかったが、何度も見てきた彼女の打球の行方を想像するのは難しくなかった。

 

「越えたっ!」

 

「急げ! バックホームだ!」

 

 セカンドが伸ばしたミットの先をライナーが越えていき、右中間へのヒットになる。キャッチャーがバックホームの指示を送ると、ライトがそれを意識しながら捕球しにいく。

 

「回れっ! ホームいけるよ!」

 

(はい!)

 

 三塁ベースに膨らんで入った初瀬は倉敷の指示を受けると、そのまま勢いを保って三塁を蹴り、本塁へと突っ込んでいった。ライトからもバックホームが行われる。

 

(……! 身体の向きが……!)

 

 すると初瀬の目に身体の向きを変えるキャッチャーの姿が映り、初瀬は頭から滑りこんだ。三塁方向に逸れた送球を受け取ったキャッチャーは身体の向きを戻しながらタッチしにいく。

 

「……セーフ!」

 

 しかし送球の逸れを確信し、キャッチャーのタッチとは逆から回り込むように滑り込んで伸ばした初瀬の手がホームベースに触れる方が早かった。球審から里ヶ浜の勝ち越しを告げるセーフの判定が為され、ベンチから歓声が上がる。

 

(中野さん。……やりましたね!)

 

(初瀬……良い走塁だったにゃ。よくやったにゃ!)

 

 ホームにたどり着いた初瀬、タイムリーヒットを放った中野。二人は視線を交差させると嬉しくて笑い合った。

 

「走ったよ!」

 

(スチール……じゃない! エンドランか……!)

 

 2アウトランナー一塁となり中野が走り出すと、有原はアウトローのムービングを捉えて右中間へとライナーを放った。

 

「アウト!」

 

「捕られたかあ……!」

 

 勝ち越されても状況を冷静に捉えて外野は予め下がっており、センターにカバーに入ってもらいながら一か八か飛びついたライトが打球を掴み取った。貪欲に追加点を狙って捉えた当たりだっただけに、有原は悔しそうな表情になる。こうして3つ目のアウトが取られ、7回の表が終了した。

 

(膝下! もらった……!)

 

(なっ!?)

 

 7回の裏、さきがけ女子の攻撃は7番バッターから。すると思い切り良く初球打ちに打って出た彼女の打球はレフト線を抜いてツーベースヒットになった。

 

(……しまったわ。そうだったのね。あのバッターは恐らく引っ張るのが得意なプルヒッター。あまり球数を使ってない分、気づけなかったわ……)

 

「ナイバッチ! まずは同点に追いつこう!」

 

「いけるよー!」

 

 表の攻撃で遂に逆転を許すような形になったさきがけ女子だったが諦めた者は一人もいなかった。正念場にチーム全員の声援が飛ばされる。ノーアウトランナー二塁となり、8番バッターはこれまでの打席から右打ちではなく送りバントを選択した。里ヶ浜も迂闊なチャージはかけづらく、サードの前に転がされたボールを初瀬が一塁に送り、1アウトランナー三塁となる。

 

「内野! 前に! 守り抜きましょう!」

 

「おー!」

 

「周り良く見て声出していこう!」

 

「東雲さん楽にね! 打たせていいよ!」

 

「後のことは任せて下さい……!」

 

 守る里ヶ浜もピンチを迎えながらも声は良く出ていた。互いに声を掛け合い、守備の間隔を迂闊に空けないようにしながら、彼女たちの攻撃を凌ぐ士気を高めていった。

 

(ストレー……いや、スライダーか!)

 

 右打席に入った三菜は低めによく集める東雲に苦労したものの、自分が取られた点を取り返そうと食らいついていった。すると2ボール2ストライクからアウトローにスライダーが投じられると、三菜は体勢を崩しながらも芯で捉えて弾き返した。

 

「アウト!」

 

(うっ……越えなかったか)

 

 最後まで東雲は低めに投げきった。低めのスライダーに上手く合わせた三菜だったが、打球は内野を越えることはなく秋乃の正面へと放たれた。前に出ていた秋乃だったが反応よくミットに収め三塁の方に向くと、ランナーは慌てて三塁ベースへと戻った。

 

「小麦ちゃん! ナイスキャッチ!」

 

「2アウトよ! あと1つ取りましょう!」

 

 2アウトランナー三塁。両者の声援が飛び交う中、芹澤が打席に入った。

 

(絶対打つ! ……!)

 

 芹澤は守備位置の変化に気づいた。里ヶ浜は彼女のパワーを警戒し、2アウトということもあって三塁ランナーの牽制にも備えず、内野手全員が後ろに下がって守っていた。

 

(最後まで油断はしてくれないってわけね。上等じゃん!)

 

 彼女たちを見てますますやる気が燃え上がった芹澤はバットを構えた。

 

(カーブ!?)

 

「ストライク!」

 

 そんな彼女の打ち気を察した近藤の要求はカーブ。これにまんまとタイミングを外された芹澤は早いタイミングで空振ってしまう。

 

(そうきたかあ……!)

 

 まさしくしてやられたという表情を浮かべる芹澤。しかしやる気まで削がれることはなく、バットが構え直される。

 

「……ボール!」

 

(三菜はスライダー打たされたんだよね。こんなギリギリのスライダー打っても、深く守ってる内野は抜けないよ。外れてて良かった)

 

 アウトローに厳しく投じられたスライダーだったが、芹澤は手を出さずに見送り、これで1ボール1ストライクとなった。

 

(外に変化球2球続いたってことは……そろそろ来るかな。内にストレート。まだカウントに余裕あるし……張る!)

 

(低めに集めましょう。浮かなければ、守備網にかけられるわ)

 

(分かったわ。インコース低めに……ストレート!)

 

 振り切られた腕から投じられたストレートがインコース低めへと向かっていく。するとタイミングを合わせた芹澤はバットを振り切った。

 

「サード!」

 

 捉えられた打球は三遊間へと勢いよく転がっていった。走りながらゴロを視界に捉えた初瀬は考える間もなく飛び込んでキャッチしにいった。

 

(捕った! けど、位置が深い。打球が速かった分有原さんのカバーも間に合わない……!)

 

(捕られた……!? だけど、まだだ!)

 

 三塁ランナーがホームに向かい、打った芹澤は周りの声で捕られたことを悟るが諦めずに一塁へと全力疾走する。

 

(届くと……思っていました。だから……!)

 

 ダイビングキャッチで飛びついた初瀬はその体勢のまま着地はせず、左膝から地面に落ちて胸が地面に叩きつけられないように浮かし、左足を伸ばして立ち上がった。そしてすぐさま送球がファーストへと送られる。

 

(……! これなら……!)

 

 初瀬はとっさにワンバウンド送球を選択していた。一塁ベースから足を伸ばした秋乃がバウンドのタイミングに合わせるようにしてミットをすくいあげると、芹澤も一塁を駆け抜けた。

 

((判定は……!?))

 

 打った芹澤も投げた初瀬も受け取った秋乃も、この場にいる全員が一塁審判の判定を固唾を呑んで見守った。

 

「……アウト! アウトー!」

 

 判定はアウト。三塁ランナーのホームインは認められず、試合終了(ゲームセット)となった。一塁を駆け抜けた芹澤は思い切り悔しそうに天を見上げる。

 

「勝った……?」

 

「やったにゃー!」

 

「わっ……」

 

 センターから一目散に駆け寄ってきた中野が喜びのまま抱きつくと初瀬は倒れてしまう。

 

「大丈夫かにゃ!?」

 

「だ、大丈夫です。なんだか……急に力が抜けてしまって」

 

「それだけ集中してたんだにゃ。本当によく頑張ったにゃ。……さっ、まだ最後の挨拶が残ってるにゃ」

 

「はい!」

 

 中野が伸ばした手を掴んだ初瀬は引き上げられ、共に列に並んだ。本塁を挟むように両チームが整列すると、球審から3対2で里ヶ浜の勝利が宣言された。

 

「礼!」

 

「「ありがとうございました!」」

 

 そしてお互い最後まで戦い抜いた相手への尊敬と感謝を込めて、力一杯の礼がグラウンド上で交差したのだった。

 挨拶が終わると芹澤はキャプテン同士有原と話してから初瀬の方へとやってきた。不思議そうにする初瀬に芹澤は手を伸ばす。

 

「ありがとっ」

 

「……? こちらこそありがとうございました」

 

「あははっ。あたしたちもたっくさん力つけてくるからさ。またその時はリベンジさせてね!」

 

「はい! その時は是非手合わせお願いします……!」

 

 芹澤に握手を求められた初瀬はそれに応じると、再び試合の約束を交わし、お互いその時までにまた己を磨こうと思ったのだった。こうしてさきがけ女子との練習試合は幕を閉じ、初瀬と中野は帰路に就いた。二人は帰り道で試合の良かった点、反省点、興奮したこと……色んなことを話し合った。

 

「あ……中野さん。ちょっと本屋に寄っても良いですか?」

 

「構わないにゃ」

 

 まだまだ語り合いたいことがあったが、二人は一旦本屋へと足を運んだ。そこまで長い時間はかからなかった。中野がカメラの構図の雑誌を読んでいると、初瀬はすぐに購入を終えていた。雑誌を本棚に戻した中野は色のついたビニール袋の外からでも多くの本を買ったことが分かった。

 

「そんなにお気に入りの本が見つかったのかにゃ?」

 

「……ええ。きっと、どれもお気に入りの本になると思います」

 

 二人は本屋を出るとまた色んなことを話し合った。するといつもの分かれ道にたどり着く。多くのことを話しても話し足りない二人だったが、今日はずっと話せるような気もしていた。また明日会えるから、と今日のところは解散となり、それぞれの道を通って家に帰っていった。

 そして自分の部屋に入った初瀬は夕食までまだ時間があることを確認すると、机に向かい合った。机の引き出しから本を取り出す。それは随分書き込まれた日記だった。

 

(やっぱり。今日の分で……埋まっちゃうかな。もしかすると余白が狭すぎるかも。フェルマーの気分ですね)

 

 残り少ないページを確認した初瀬は早速文章を綴り始めた。嬉しいことが多くあった彼女は湧き上がってくる想いを書き連ねていった。するとやはりと言うべきか、この日記は今日の分で埋まったのだった。書き終えた初瀬は折角だからと1ページ目から読み始めた。

 

「ふふ……皆で綴る物語、ですか。本当にそうでした……」

 

 今日書いた量にも劣らないほどの初日に書いた文章を読んでいった初瀬は締めとして書かれた言葉に今までのことをよぎらせながら微笑を漏らしていた。そしてその記憶を鮮明にするように次のページ、また次のページへと読み進めていく。やがて読み終えると、ちょうど夕食の時間だった。初瀬は過ぎていく時間の早さを感じながら、椅子から立ち上がる。

 

(この物語はここで終わりですね。色んなことがあったな。これからも私たちは沢山の物語を綴っていくことになる……そう考えると、凄く楽しみです)

 

 初瀬は読み終えた日記を閉じると引き出しではなく、本棚にしまう。すると厚い背表紙が目に入り、初瀬は嬉しそうに笑った。背表紙には彼女が手書きで記した『始まりの物語』というタイトルがつけられていた——。




これにて『皆で綴る物語』完結となります。
アニメを見て心を動かされ、今日まで書かせていただきました。それほど魅力があったと今でも思っています。手短ですが長く書くのも野暮かなということで、13話や二期に期待しつつこの辺で。
ご愛読ありがとうございました!


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