異・英雄記 (うな串)
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甲の章
1~2


 長大にして能く勤めて學ぶ者は、惟だ吾と袁伯業のみ 『典論』より

 

 男は周りから距離を置き、ひとり炎の爆ぜる音とくぐもった奇妙な音を聞いていた。

 太陽が西に傾きつつある空をもうもうと昇る煙を見つめる瞳は小石のように無機質で、また同様に小石のように小さい。三白眼である。その眼の下にはうっすらと隈が見える。

 艶のある黒い髪、形の良い眉、高い鼻。青年の容姿は整っており、美貌と表現してもよかったが、人に与える印象は怜悧というより、冷たさだった。それをいっそう際立たせる無機質さと三白眼である。彼はその瞳を閉じた。

 すると、彼の鼻腔に肉が焼け、脂が溶ける臭いが飛び込んできた。

 それを嗅いだとき、彼は空腹を覚え、自己嫌悪に陥りかけたが、すぐに気を引き戻した。

「あ、あの伯業様」

 そんな青年の背中に言葉が投げかけられた。

 蚊の鳴くような小さな声であったが、青年は聞き漏らさず、振り返った。

「ああ、雛里か」

 彼が振り向いた先には、ひとりの少女が立っていた。

 身長はやや低め、長い薄紫の髪を左右で結び、まるで、西洋の魔女のような大きな帽子をかぶった少女である。

「こんなところで何をしていたのですか?」

 雛里と呼ばれた少女がおずおずと尋ねた。

「いや、特になにも」

 伯業は少女の横に行き、答えた。

 伯業は笑みを浮かべた。普段の他人に冷たさを感じさせる貌であることを忘れさせるような優しげな笑みだった。

 人より小柄な雛里と人より長身の伯業が並べば、年の離れた兄弟を通り越して、親子にさえ見えた。

 伯業は、行こうか、と彼女に言った。

 ふたりは、勢いが衰えた火元を背に歩き出した。

 しばらくして、伯業は雛里が自分のことを見ていることに気付いた。

「ん、どうかしたか?」

「あ、あわわ、伯業様が、よく、あんな異臭漂うところにいれたなっておもいまして」

 最後の方は、声が小さくなり、ほとんど言葉になっていないが、雛里が言った。

「ああ、髪と服が焼けた後は、鼻も慣れてか、そこまでひどい臭いはしない」

 彼は、自身が肉が焼ける臭いで空腹感を感じたのを言わなかった。

 ふたりは立ち止まり、火元をもう一度、見た。

 焼かれていたのは大量の死体であった。大量の死体が、焼かれたことにより筋肉が収縮し、蹲った形になっている。中には収縮に負け、骨が折れたり、関節が存在しない場所で曲がり毬のような形をしたものまである。彼が先程まで、聞いていたくぐもった音は死体が折れ曲がる音だった。

 死体を焼くように、進言し、指示したのは、伯業自身だった。

 死体から疫病が出ないようにである。

 伯業―――彼の姓は袁、名は遺、字は伯業。二世紀の中国を生きた人間である。ただ、彼には、前世の記憶と呼んでもいいようなものが、存在した。

 

 

異・英雄記

甲の章

 

1 袁伯業

 

 

 袁伯業は彼自身のことを狂人だと考えている。

 物心ついたときには、彼は自身が異物であるということを理解した。

 それは、なんというか、自身が袁遺であるはずがないという確信を持ったからである。

 彼にとって、袁遺とは、三国志の時代に生きた人物であった。そして、三国志とは、古代中国の歴史であり、自身が何度も読んだ本のことだった。故に、彼は自身が袁遺ではないと、断定した。

 しかし、次の疑問が来た。

 ならば、自分は誰なのだ? 何故、袁遺が三国志の時代の人物だということを知っている?

 彼はそれを思い出そうとしたが、思い出せなかった。

「ああ、自分は記憶喪失なのだ」

 彼は、他人事のようにつぶやいた。

 記憶にはいくつもの種類がある。記憶喪失になったからと言って、いきなり、赤ん坊のように、言葉を失い、立てなくなるなどといったことはない。それは、エピソード記憶と呼ばれる個人的な体験や出来事の記憶が失われたのであって、言葉の意味についての記憶、意味記憶や物事を行うときのノウハウの記憶である手続記憶を失っていないからだ。

 その証左を自身が、三国志やエピソード記憶、意味記憶などの単語を知り、説明できることであった。

 俺は誰だ? それを思い出そうとしても思い出せない。だが、自身が袁遺と呼ばれ、育てられてきたことは覚えている。袁家は三公を輩出した名家で、教育もしっかりしている。そのため、今まで受けてきた儒教的な教育も、その風景も覚えている。

 彼は自身の足元が崩れる錯覚を起こした。

 謂わば、自己の消失だった。

 何故、突然こうなったのか? 彼は考えた。考え考え抜いて、熱が出た。

 彼は世話係によって、寝台に寝かされ、典医に掛かった。結果は、幼い子が突然熱を出す、よくあることと診断された。

 熱は二日で収まったが、熱にうなされる間、知恵熱を出すなんて漫画みたいだなと思った。そして、漫画という言葉を知っていることがおかしくなった。

 この熱で彼は、ある意味冷静になれた。

 突然、こんな状況になったのは、今まで幼く、まだ、物事をうまく考えることができなかったからと結論付けた。もちろん、赤子が物事を考えられないというわけではないし、そのことも知っていた。だが、あえて無視することに、彼はした。でないと、耐えられないからだ。

 次に、これからどうするか考えた。

 自身が狂ったのでなければ、袁遺は従弟である袁術に敗れ、逃亡先で部下の裏切りで殺されるはずだ。それはごめんだった。人はいつか必ず死ぬにしても、そんな死に方は嫌だ。

 歴史を変えるしかない。

 寝台の中で、彼は決意した。

 まずは、状況を整理する。

 自分がいかな知識を持っているかということを確かめておかなければならない。

 そこから、自分が二一世紀に生きていた日本人ではないかという結論を出した。その理由は、二〇〇〇年、特に二〇〇〇~二〇一〇年代の歴史で自分の知っている歴史が途絶えていることとその多くが日本についてのことだからだった。

 その他、自分は歴史や軍事、経済、経営、文学などの造詣が深いらしい。本当に自分は一体なんだったのだ? 彼は自身に呆れてしまった。ただ、同時に自己の消失について、デジャビュを感じた。

 すると、涙が出てきた。

「ああ、俺は、本当に、何を経験したんだ」

 ともかく、彼は行動を開始した。

 武技を磨き、さまざまな知識を吸収し、人脈を作った。

 その過程で、従兄の袁紹に会った。そこで彼は、第二の驚愕を感じた。

 袁紹は女だったのだ。

 彼は混乱した。

 自分の知る限り、袁紹は男のはずだった。だが、女であった。

 彼は理不尽な怒りが自身から湧き上がってくるのを感じた。正直なところ、袁紹に対して、何故、女なのだ。何故、男でない、と怒鳴りたかった。

 しかし、彼は落ち着き、自身より年下の袁紹に挨拶をし、醜態をさらすことはなかった。

 この混乱は、すぐになくなった。

 袁遺は現実家だった。ただ、目の前の現実を素直に受け止めた。

 そのためか、それから数年後、私塾で、女の曹操に会ったとき、彼は動揺することもなく、ああ、彼女もか、とだけ思った。

 その後、袁遺は、様々な人脈と配下を得、河間の張超に推挙され、右中郎将の朱儁のもとで、黄巾党と呼ばれる賊との戦争で部隊をひとつ任せられていた。

 

 

 袁遺は自分の上官の元へと歩いた。そのとき、雛里との出会いが、ふと頭をよぎった。

 雛里とは鳳統の真名である。真名とはこの世界特有の本人が心を許した証である特別な名前らしい。

 雛里とは、袁遺が朱儁のもとに従軍してから、間もなく知り合った。長社の街に行く途中、数人の賊に襲われそうなところを助けたのだった。

 話を聞くと、友達と逸れたらしい。そこで、袁遺は、隊の者に女の子を見なかったかと聞き、彼女の友達探しを手伝った。

 連れは、すぐに見つかった。子供がひとりで歩いていれば、目立つからだ。もっとも、本人たちは子供ではないと否定していたが。

 そのまま、彼女たちを長社の町まで送った。

「ありがとうございました」

 ベレー帽のような帽子を被った少女が袁遺に礼を言った。

 雛里の連れの少女だ。

「いや、気にしなくていい。それよりも、最近は黄巾党と呼ばれる賊が暴れまわっているから、あまり町の外を出歩かない方がいい。危険だ」

 袁遺はそれだけ言うと、部隊に戻った。今日はこの町で宿をとるようなので、早く隊員たちにそのことを伝え、略奪強姦の類の禁止の旨と羽目を外さない限りの飲酒売春の許可を出したかった。

 袁遺は部隊に戻って行った。彼にとって少女たちはもう会うことのない者たちだった。

 しかし、翌日、彼は少女たちに再会した。

 彼女たちが、軍の近くをうろうろしているところを発見したのだった。

 袁遺の頭に様々な可能性が浮かんだ。その可能性が少女たちを無視することを拒んだ。彼は少女たちが間諜であることを考え、腰に佩びた太刀の柄を撫でた。彼の腰の物は長さ三尺二寸。形状は日本刀の野太刀に似ていた。片刃で反りがある。本来なら、この時代にないものだが、彼は気にしていなかった。良質の鋼が使われてはいるが、刃紋に美しさはない。それも気にならないことであった。であるからするに、当然、柄にも鞘にも豪華な装飾品など一切ない無骨な作りである。

 彼は左手を柄の頭に添えながら、ふたりに近づいた。

「なにをしている?」

「はわわっ!」「あわわっ!」

 少女たちは、驚きで飛び上がった。

「すまない。驚かせたかい」

 袁遺は素直に謝った。

「い、いえ、だ、大丈夫でしゅ」

「噛んでいるよ」

「はわわ……」

「それで、何か用があるのかい? 興味本位なら、近づかない方がいい。戦前の軍隊は気が立っているからね。危ないよ」

 袁遺は、自分の顔が、好き好んで子供が近づきそうもない顔であることを知っていた。だから、せめて声色だけでも穏やかなものを作った。

「そ、それは……」

 ベレー帽の少女は、そこで、今まで彼女の後ろに隠れるようにしていた昨日の迷子少女に視線を向けた。小さな声で、雛里ちゃん、頑張って、とも聞こえる。

 促された少女は前に出る。

「あ、あの……」

「うん?」

「な、名前を、お、お教えいただけますか?」

「……姓は袁、名を遺、字は伯業。現在、朱右中郎将様の元で、軍候(二六三〇人の部隊・曲の長)をやっている」

 袁遺は、一瞬、名乗るかどうか迷ったが、そうすることにした。

「袁……」

「ん? ああ、一応、三公を排したあの袁家の一族だよ。もっとも、私は領地も持たず、大した力もないけどな」

「…………」

「…………」

 黙ってしまった少女を袁遺は見つめた。その目は無機質で小さな目ではあるが、決して無感情でも、無気力でもない。確かな気力と感情がある目である。

「わ、わたしの……」

「うん……」

「わたしの……わたしは、姓を鳳、名は統、字は士元。真名を雛里と申します。わたしを、袁家の末席にお加えください。お願いしましゅ」

 そう叫ぶように言って、鳳統……雛里は頭を勢い良く下げた。勢いが付きすぎて、被っていた帽子は地面に落ち、髪は乱れた。

 袁遺は、その落ちた帽子を拾い、土埃をはたいて、鳳統の頭に被せなおした。

 冷静にその動作を行ったかのように見えた袁遺であったが、心中は混乱の嵐が起こっていた。

 彼の三国志の知識で、龐統(鳳統)のことは知っている。後世の歴史家がどのような評価を下し、彼の同僚が彼についていかに評したかを知っている。そして、そこから、どれだけ高い能力を持っているかも予想できた。

「…………」

「…………」

 今度は、沈黙する袁遺を鳳統が見つめる形になった。違いは鳳統の目が、袁遺の無機質な目などではなく、泣きそうになっていることだった。

「あ、あの…………」

 そんな様子に、初めに耐えられなくなったのは、鳳統の連れのベレー帽の少女だった。

「ひ、雛里ちゃんは、昨日、あなたに助けられたことが、すごく嬉しかったんです。それに普段はとっても引っ込み思案で、こ、こうやって、自分から、た、頼むようなことは、殆どないんです。だ、だから……」

「……君の名前は?」

「あ、し、失礼しましたっ! わ、私は、諸葛亮、孔明でしゅ」

「……伏龍と鳳雛か」

 今度はそれほど驚かなかった。目の前の現実を受け止めることは袁遺の特技だった。

「水鏡塾の出身かい?」

「は、はい」

 袁遺は、知識人に対して、礼を失していたことを詫びようと、丁寧な態度をとろうとしたが、やめた。それは、このふたりを余計に慌てさせるだけだと思ったからだ。

 袁遺は鳳統にいろいろ聞きたかった。そして、いろいろ伝えなければいけないような気がした。例えば、何故、自分を選んだのか、ということや、自分はあるひとりを例外に他の袁家(特に袁紹、袁術)とは距離を置き、そのふたりほど権力などないということや現在、自分の立場は官軍のたかが軍候(二六三〇人の部隊の長。官秩比六〇〇石)にすぎないことなど、いろいろあったが、袁遺は黙っていることにした。

 それらのことくらい、今までの会話で鳳統は分かっただろうし、例え分からなくても、自分で袁遺を選んだのだから、その責任くらい彼女に取らせようとしたのだった。その責任を放棄する程度のものなら、かえって罪悪感も感じない。

「あなたの臣下の礼、ありがたくお受けします」

 袁遺は彼女の臣下の礼を受けた。

「あ、ありがとうございましゅ」

 鳳統の目からとうとう涙がこぼれた。

 そんな鳳統に諸葛亮は、よかったねー、と言い涙をぬぐった。鳳統は、それに対し、うんうん、と何度も頷いた。諸葛亮が言ったように、あまり自己主張をしない子のようで、慣れないことをして、普段の倍緊張したのだろう。その緊張の糸が切れ、感極まったのだ。

 鳳統が落ち着くと話は自然と諸葛亮のことへとなった。

 彼女はどうやら、幽州に向かうらしい。そこで、劉備という人物に仕官するつもりだった。鳳統をそれに誘ったが、あまり乗り気ではなく、逆に自ら望んだ主を得れてよかったと諸葛亮は言った。

 袁遺は、一瞬、諸葛亮を引き留めようとしたが止めた。士は己を知る者のために死す、という言葉を知っているからだ。彼女は、自分のためには決して死んでくれない。それに()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()と相性が良くないかもしれないな、とも思った。

 袁遺と鳳統は諸葛亮を見送った。諸葛亮の背中が見えなくなると袁遺は、自分は現在、官軍の一軍候に過ぎない身であること。故、私的な参謀という形で従軍してもらい。空手形ではあるが、領地を手に入れたら、それ相応な地位を鳳統に約束し、改めて、真名を預かった。

 そんな少し前のことを思い出しながら、袁遺は上官である朱儁の元に向かった。

 朱儁は歴戦の強者であった。

 孝廉という郷挙里選の察挙科目の一つで推挙され、その後、交趾で起きた反乱を鎮圧した武功を買われ、諫議大夫となり、黄巾党の討伐には右中郎将に任命され、各地を転戦している。袁遺は張超によって、その朱儁の元に推挙された。

 朱儁は袁遺の上官に当たり、この官軍の大将でもあった。

 袁遺は、朱儁の陣まで行き、幕僚のひとりに朱儁に取り次ぐよう頼んだ。

 幕僚はそれを快く了承した。袁遺はほとんど待たされることなく、朱儁に会えた。

 朱儁は、袁遺とは違い美男子からは、かけ離れた容姿だった。人より広い額に、戦塵に叩かれた浅黒い肌。ぎょろりとした目。高いと言うより大きいと形容した方が正しい鼻。濃いあごひげ。所謂、鍾馗面である。

 そんな朱儁を見て、袁遺は完璧に礼儀作法にのっとって挨拶をした。

 袁遺は朱儁に死体の焼却がすんだことを告げた。すると、朱儁は、少し歩こうか、と言って袁遺を陣から連れ出した。

 ふたりは、陣中を練り歩いた。

 負傷兵たちの様子を見、善戦した部隊を訪れ、賛辞を呈し、兵たちに手を挙げて答えた。

 そんな朱儁の後ろを、袁遺は文字通り影を踏まぬようについて回った。

「伯業、そういえば、管輅の予言の噂について知っているか?」

 突如、朱儁が言った。

「管輅の予言、というと、乱世を天の御使いがどうとか、というやつですか?」

「おお、それよ」

 朱儁が顔だけを袁遺の方へ向け、言った。どう思う、ということらしい。

「眉唾物でしょう」

 袁遺はバッサリと切り捨てた。

「それに、黄巾党なる賊が暴れまわっているとはいえ、世は乱世などではありませんから」

「ふーーむ」

 朱儁はその髭で覆われた顎を撫で、袁遺の返答を咀嚼した。

 朱儁と袁遺の付き合いは長くはない。だが、共に戦い、酒を酌み交わし、語り合ったため、朱儁はある程度、袁遺の為人をつかんでいた。

 袁遺は、彼の従妹の袁紹、袁術とは違う。そのふたりが暗愚の見本のような者たちであるのに対し、儒教的な教養と素行を兼ね備え、かつ、文武に優れた男であった。しかし、この男の朝廷観というものは恐ろしく歪んでいた。その歪み、かの中華史上初の簒奪者・王莽でも並ぶことのできない奸賊であると同時に、史上いかなる忠臣でさえも称賛せざるえないほど尊んでもいるということだ。

 この二律背反の歪みを身に飲んでいる男に朱儁は不気味さを感じていた。

「だが、わしはそうは思わんぞ」

 朱儁が返した。

「つまり、朱右中郎将におかれましては、世が大乱乱世に見えるわけですか?」

「おお、そうよ。民は黄色の賊と銅臭い政治に苦しみ、喘いでおるわ」

「で、あるならばこそ、世は乱世ではないのです。皮肉にもその青銅の異臭漂うものが乱世ではないと証明しているのです」

 袁遺は何の憚りもなく言った。

 つまり、汚職に塗れていようと皇帝の統治下である以上乱世ではないということだ。

 しかし、不遜な物言いである。上官の意見を真っ向から切り捨て、漢朝をものとまで言った。だが、同時に、漢朝が存在する限り、乱世ではないと言ってみせた。これはつまり、どれほど、朝廷権力が弱まろうが、有名無実となろうが、彼は朝廷に敬意を払い、従い続けると言ったのだ。

 この朝廷をものと思うと同時に敬うといった歪んだ朝廷観である。

 袁遺は、謝罪の礼を取った。

 朱儁は、依然とあごひげを撫でている。

 正直なところで、朱儁は袁遺のことが嫌いではなかった。策を弄すのを好みそうな男ではあるが、どこか竹を割ったような素直さがあり、下の者からも慕われていた。官吏に見えるが、同時に将でもあり、武人でもある。少なくとも口だけの頭でっかちではない。

 だが、どうしても、その朝廷観を肯定してやることはできなかった。

 この当時の武将で十常侍のことを疎ましく思っていない者は少数派だった。そして、目の前の青年はその少数派だったのだ。しかも、十常侍から、何の厚遇もされていないにも関わらずだ。袁遺はここで、十常侍と誰か武将が政変を起こす方が嫌だったのだ。その方が大乱乱世が見えてくるからだ。袁遺は十常侍をある意味で必要としていたのだった。それは、まともな憂国の士ではない。やや安っぽい表現をするなら、本当に朝廷を愛しているものなら、今の宦官が牛耳り、賄賂が横行する朝廷を愛することなどできないはずだ。

「ふん、まあ、天の御使いが、眉唾であるというのは、わしも同意見だな」

 朱儁が鼻を鳴らして、大股で歩みだした。その後ろを先程と同じように、影を踏まぬよう、袁遺は続いた。

 その顔は穏やかなものだった。

 袁遺は朱儁のことを良い上官だと思っていた。

 

 

2 威力偵察部隊

 

 

 相手を探し求める軍隊は、斥候を先行させる。

 その斥候には二種類あり、通常の情報収集に専念する偵察部隊と、いざとなれば一戦を辞さない覚悟と規模を持つ威力偵察部隊である。

 袁遺の部隊は後者であった。

 戦慣れした軍隊は、威力偵察部隊を重んじる。

 敵味方双方が互いに敵を探し求めた場合、斥候同士がぶつかり合い、戦闘が開始される遭遇戦が起きる。

 遭遇戦とは文字通り前進していた自軍と敵軍が遭遇し、戦うことを言う。この戦いは、双方に混乱を発生させ、投入した戦力からは考えられないほど得られる成果が低い。特に互いに情報不明のまま戦闘に陥る不期遭遇戦は、この時代だけではなく、過去未来いかなる時代でもそれを望む指揮官というものは存在したことがない。

 そうなった場合、威力偵察部隊は、その混乱の中から情報を持ち帰ることができる。さらに、敵の足止め。また、敵が脆弱だとわかったら、そのまま、撃破し、前進することができる。

 しかし、威力のない通常の偵察部隊ではそうはいかない。

 何も伝えられぬうちに揉み潰され、何も知らぬまま本隊が戦闘に巻き込まれてしまう。この場合、何もわからないのだから、いかなる努力も功をなさず、行き当たりばったりの戦闘になり、損害だけが増え続ける。

 もちろん、威力偵察部隊だからといって、偵察部隊の本分である、敵に見つからずに、敵を見つける、といったことは、原則的に正しいが、物事は常に本分どおりいかないのである。

 先行させている将は高覧である。彼は元々、袁紹に仕えていたが、冷遇されており、それに目を付けた袁遺が引き抜いてきた。もちろん、袁紹からの非難をかわすため、いろいろと手を打った。さらに、高覧だけではなく、彼が持つ三国志の知識と、ここまで生きてきて培った人を見る目で、これはと思う冷遇された人物は袁紹はもとより、袁術の元からも引き抜いている。袁遺軍の武官筆頭の張郃。賊の懐柔と討伐を一手に引き受ける陳蘭と雷薄。袁遺は彼ら全員から信頼を得ていた。余談であるが、全員男である。

 高覧は能力と経験がある。自分の主である袁遺の任務と自分に求められている役割を承知していた。

 二五人の足が速く、且つ、臆病と言われている者を選び、偵察に出かけた。そういった者の方が、偵察部隊に向いているのである。

 そして、彼は偵察部隊の本分を果たしてきた。そう、見つからずに見つける、である。つまり、敵を見つけてきたのだ。

「西南に砂塵。規模からして一万。賊、目視できず」

 高覧は、見てきたことを簡潔にそして、はっきりと伝えた。遠方に靄が見えたら注意せよ。時代を超えた戦場での鉄則だった。

「ご苦労。少し待て」

 袁遺は高覧を待たせ、雛里の方を振り返った。

「どう見る」

 彼は参謀に尋ねた。

 雛里は考え込んだ。ここで、考えたのは、高覧のもたらした情報だけではなく、彼女の立場についてでもだった。

 雛里は参謀であり、軍師ではない。

 元々、参謀と軍師は同一のものと考えてもよいが、この時代の前後からやや趣が異なってくる。軍師は、参謀であり、政務官であり、外交官であり、監察官であり、ときには部隊を率いる指揮官であるようになってきた。今まで帷幕の中で策を巡らし、千里の外で勝利を決していたのだが、軍師も千里の外に出るようになった。つまり、権力の範囲が拡大したのである。これには名士層の取り込みのためなどの理由もあるが、本筋を脱線するため今は脇に置いておく。ともかく、軍師と参謀は厳密には違うということが言いたい。

そして、雛里の立場は参謀である。

 参謀はありていに言ってしまえば、知性と教養と勇気を兼ね備えた道具に過ぎない。何故なら、参謀に命令権がないからだ。参謀は命じられたときにのみ、発言し、構想に必要な手順の立案と作成ができるだけなのだ。普段の行動は制限される。

 何故、袁遺が雛里をその立場に置いたか? そのことは、すぐに出てくる。何故なら、軍の編成は出立したときに、もう完成しているからだ。それを軍旅の途中でいじることを嫌ったのだ。軍師はその巨大な権限から、三〇〇〇にも満たない部隊には強大過ぎた。この場合、大は小を兼ねる、には当てはまらないのだ。

 彼女は、参謀の立場で意見を述べねばならない難しさに考え込んだのだ。参謀は元々、専門の教育を受けた者がなるものだ。その教育は、兵法だけにはとどまらない。ある種、自身を道具とする教育だろう。使われて初めて、意味を持つものは道具と同じである。

「まず、黄巾党と見て、間違いないと思います」

 雛里が言った。声の小ささは相変わらずだが、前のように吃ことは殆どなくなった。

「西南に砂塵なら、援軍の可能性は殆どないでしょう。この辺りで、援軍に来そうなのは陳留の曹操軍と寿春の袁術軍だけです。曹操軍なら北から袁術軍なら東南から来るはずです」

「うん、なるほど」

「もちろん西南方向に官軍がいないわけではありませんが、そうなると、南陽の秦頡軍ですが、これは、まだ、南陽の黄巾党と戦っているはずです」

「ああ、南陽の周辺の黄巾党を率いていた張曼成を討ち取ったらしいが、新たな指揮官を立て、宛城に篭ったらしい」

「ですので、黄巾党と見て、間違いないはずです」

「うん。高覧。ご苦労。よく見つけてくれた。おかげで不期遭遇戦にならずに済んだ。隊に戻り、戦闘準備」

 袁遺は命令を下した。

「はっ!」

 そして、高覧は速やかに実行に移した。

「どこに、陣を敷く?」

「……あの小高い丘がいいと思います」

 雛里が指したのは、少し離れたところにある高所となった場所であった。あそこなら、少なくとも敵の目視が遅れることはない。

 袁遺はすぐに、伝令を出し、丘の上に陣を敷いた。敷き終わると、張郃がやってきた。彼の立場は、この隊の副隊長にあたる。

 長身の男である。長身ということなら、袁遺もそうであるが、袁遺と違って、張郃は威圧感を感じさせる長身であった。角ばった顔は健康そのもので、達筆家によって書かれたような力強い眉毛が特徴的である。

「伯業様」

 その声は、太かった。それに袁遺は応じた。

「うん、我々はこれより威力偵察に入る。一戦をもってして、敵を量る」

「はっ」

「基本戦術は敵が弓の射程に入ったら、雨霰の如く打ち、それを抜けてきた者を槍で叩くか刺す。こちらは、隊列を崩さないようにする」

「いつも通りですな」

「そうだ、ならば―――」

「礫は集めさせております」

「うん、ならばよし。行け」

「はっ!」

 互いに互いの意図が分かっている会話であった。張郃より武人として強い者はこの大陸には両の指では数えられないほどいるが、実戦部隊の指揮官、野戦指揮官としては、袁遺という男の元で戦場をかけたことにより、大陸で五指に入る実力者になっていた。袁遺は、儒教的教養を兼ね備え、その人格と品格で推挙された人物だが、こと戦争行動においては、この時代でこの惑星上、最も実際的な者であった。そんな男に仕えるということは、戦場において、その一挙手一投足、全てが試されていると言って過言ではなかった。

 そんな中で張郃が最も学んだことは『人無遠慮 必有近憂(人遠慮なければ、必ず近憂あり)』であった。孔子の言葉であり、意味は、遠い将来のことを思慮に入れて、思いめぐらす、である。そう言った思考は、指揮官には必須ともいえる思考である。

 張郃は、前線に戻りつつ、主人の横にいる少女のことを考えた。

 主である袁遺の女の好みは知らないが、良くも悪くも戦場に愛妾を連れてくるような男ではない。であるならば、あの少女を連れているのは、彼女が役に立つからだろう。少女―――鳳統もまた、自分たちのように袁遺という男から何かを学び、何かを考えさせられるのだろうか。そして、何かに変わり、何かを変えるのだろうか? いや、変わらないかもしれない。この軍旅には従軍していないあの男のように……

 そんなことを考える張郃の背中を袁遺と雛里は見送った。見えなくなると、袁遺は視線を変え、何かを見つけたようにつぶやいた。

「ああ、砂塵が見えた」

袁遺が西南の方向を見つめた。

彼の視線の先には、土煙が入道雲のように立ち込めていた。

「一万はありそうだ。高覧の見立て通りだな。伝令を出せ。敵の規模は約一万。騎馬はなし。交戦に入る」

 袁遺は本隊に一二人の伝令を送った。ひとりしか送らず、それが途中で途絶えた場合、悲惨な目に合うからだ。

 戦力比は約一対五。厳しい状況であるが、声には焦りはない。兵が劣勢のもとでも焦りを表に出さない指揮官を信頼の対象とすることを知っているからである。それに、自分たちの任務が威力偵察であり、別に相手を殲滅しなくてよい。ならば、隊列を崩されない限り、一瞬で揉み潰されることは、たとえ、戦力比一対五でも余程のことがない限りない。

 黄色の旗と『蒼天已死(蒼天すでに死す) 黄天當立(黄天まさに立つべし) 歲在甲子(歲は甲子にあり) 天下大吉(天下大吉なり)』の文字が見えた。黄巾党のシンボルカラーとスローガンである。

 砂塵がいっそう大きくなったように見えた。

「向こうもこちらを気付いたらしいな」

 袁遺は誰にともなく言った。

「弓兵は打方用意」

 袁遺が命令を下すと、復唱が起きる。

 黄巾党は袁遺の部隊に一直線に向かって来る。まるで獣の群れのようであった。その獣たちが射程距離に入ると、袁遺は号令を下した。

「斉射」

 静かな、しかし、確実に殺意という感情が込められた声だった。その声と同時に、太鼓が乱打され、命令が全隊に伝えられる。そして、風切り音と共に矢が高々と舞った。

 面制圧射撃を受けた黄巾党は多数の死者をだし、その突撃の勢いが消失した。勢いがない状態で、丘の斜面を登り、黄巾党は槍衾の前に次々と刺殺されていく。

 袁遺の敷いた陣形は、正面に槍兵の部隊を置き、その両脇を弓兵と槍兵の混成部隊で固めたものだ。弓兵の射撃で徹底的に相手の勢いを削ぎ、それを槍兵で刺殺(もしくは撲殺)する。集めた礫は騎馬が相手だった場合、馬や乗り手に投げる。それだけでも、落馬を誘発できるからだ。

 部隊は戦闘正面を徹底的に限定し、防御的な戦闘に徹している。

 袁遺はひとりでも多くの将兵を生き残らせようとしていた。

 それは人道的な見地からではない。戦場では兵士は常に不足がちな消耗品である。それに袁遺にとって、後に黄巾党の乱と呼ばれるようになったこの農民反乱は、将たちの試金石だった。後世において将校といわれる地位についている連中と後世で下士官と呼ばれる地位の連中の育成だった。彼らの能力が高ければ高いほど、柔軟な部隊の運用が可能になるからだ

 袁遺は不思議な現象を味わっていた。

 鋼の音色、肉を斬る音、苦痛の呻き、断末魔―――戦場に溢れているだろう音が遠くの喧騒の様に聞こえる。静寂の中にいるような錯覚を起こしていた。

 兵士に戦場とは何か? と聞くと、「孤独と静寂」であると返ってくるのが殆どだという。戦場ではある種の緊張状態により、爆発音も戦友の断末魔も聞こえなくなることがあり、そして、それは階級が上がれば上がるほど、強くなる。当たり前のことだった。階級が上がれば、必然的に同じ地位の人間が減り、最終的にひとりになるのだから、孤独を感じぜぬにはいられない。

 袁遺は、隣で青くなっている雛里を見た。

 戦場に立つのが初めてなのだろう。幼い彼女もまた、この孤独と静寂を味わっているのだろうか?

 袁遺は雛里の手を取ろうとした。孤独を忘れさせてあげたかった。

 だが、やめた。

 彼女が軍師を希望していたからだ。ならば、今、彼のやろうとしたことが、ただ、彼女を甘やかすだけだと感じたからだ。軍師を志すなら、他者から人面獣心とまで蔑まれるまでにならなければいけない。それが政戦両方に大きな権力を持つ軍師の、ある意味、対価といえた。

 彼女にも試金石を用意しなければいけないな。

 袁遺はそう思った。

 袁遺は、その試金石を考えた。こと戦術に関しては、彼女は金剛石の原石のような才である。金剛石を磨き上げるには、同等の硬さを以て磨き上げるしかない。世界で最も硬い鉱石を磨き上げられるものを袁遺は探した。この無理難題に思えることの答えは、意外にすぐ見つかった。

 なんだ、俺がいるじゃないか、未来の戦術を知る俺が彼女を磨き上げるか。

 ある種の自惚れを感じる結論であったが、現実としてこれ以上、最適な試金石はいなかった。

 こんなことを袁遺が考えられたのは戦況が膠着したからだった。

 こうなった場合、指揮官は隊の士気を下げないようにしなければならない。そのために、袁遺がとった行動は、兵に自身が全く動揺していないことを見せつけることだった。戦況が膠着した途端、指揮官が、顔色を変え、おろおろし始めたら、兵は不安に思う。しかし、指揮官が落ち着いていれば、兵も自然と落ち着く。つまり、袁遺に求められていることは、鷹揚に構えていることだった。

 それは袁遺にとって、苦痛ではなかった。

 もともと、どこか達観した部分も持っていたし、本隊を指揮しているのが信頼に値する人物だったからである。

「伯業様!」

 雛里が、袁遺の袖を掴んだ。

 袁遺が雛里を見ると、彼女は自分たちの後方を指していた。

 土煙が見える。

「本隊か」

 朱儁が期待に応えたのであった。

 本隊の先鋒が無防備になった黄巾党の横腹に突っ込んだ。それに続いて、二隊が突っ込む。ただし、先に突っ込んだ隊と違いやや右方向へ。もう片方がやや左方向へ。上空から見ると、まるで黄色の扇が開いていくように見える。見事な敵陣突破と突破口拡張の戦術運動である。

 黄巾党のあってないような隊列は崩れた。そこへ官軍の騎兵が突撃する。それで終わりだった。兵を兵足らしめるのは集団ということであり、それは隊列だった。隊列が崩れると兵は集団から個人へと変わる。集団で最も大切なものは命令だが、個人で最も大切なものは命である。集団で無くなった彼らは命を守るために、逃走し始めた。

 戦闘はあっけなく終結した。

 袁遺は、朱儁に敵の死体を焼くことを進言した。

 儒教において火葬は禁忌である。それを進言したことは袁遺の風聞を悪くする恐れがあったが、疫病の可能性を考えると躊躇はなかった。

 軍人としてある種の実際性を持つ朱儁は、それを許可した。彼は経験的に戦場で疫病が流行することがどれだけ恐ろしいことか理解していた。黄巾党討伐の前の任務が南方の交趾の反乱の鎮圧だったのが、その理解を深いものにしていた。この時代、南は疫病の宝庫である。

 反対する者には、漢朝に逆らうことへの見せしめとして行っていると言って袁遺を庇う約束もした。

 本当は味方の死体も焼きたかったが、それは進言せず、埋めることにした。

 袁遺は、その指揮を承った。

 死体に矢が刺さっていれば、それを抜き、使えるようなら集めさせた。防具を脱がせ、服を剥ぎ、一か所に死体を集めさせる。魚油をかけ、火をつけた。

 火をつけたのは袁遺自身だった。

 炎はすぐ燃え上がり、辺りに悪臭が立ち込めた。

 燃え上がる瞬間、袁遺の目に映った死体の顔がとても清らかなものに見えた。死体から服を剥いでいるときは悪鬼のように目を見開いているものから、苦痛と恐怖に歪んだもの、呆気にとられたものなど様々な死に顔があったが、今は全てが清らかな死に顔に見える。

 袁遺は彼らの冥福を祈った。

 

 

 そして、周りから距離を置き、ひとり、炎の爆ぜる音とくぐもった奇妙な音を聞いていた。

 




補足

・袁遺
 袁紹・袁術の従兄とされる人物。袁術の兄という説もある。
 張超にその人格と才能を絶賛され、朱儁に推挙される。
 曰く、世間に冠絶した美徳と時代を動かす器量を持ち、その誠実さ、邪念のない心は、まことに天が与えたもの。書を網羅し百家を総合し、高所に上ってはよく詩を作り、特に物事を識別しその名を知るという点においては当世に匹敵する者はいない。
 つまり、誠実で器が大きくて勉強家で賦を作るのが上手くて物知りで、特にその知識は現代で最高のものだ、て感じで誉められた。
 まあ、部下に裏切られて殺されるけど。
 曹丕も自身の書物で、父の曹操は、大人になっても勉強する努力家は俺と袁伯業くらいだ、と言っていたと書き残している。
 まあ、反董卓連合のとき、戦わずに酒ばっか飲んでて曹操にガチギレされるけど。

・張超
 袁遺を朱儁に推挙した人。張邈の弟で広陵の太守である張超とは同姓同名の別人。

・人無遠慮 必有近憂
 論語の一説。遠い将来のことをよく考えておかないと、近いうちに災いがあるよ、という意味。

・兵に自身が全く動揺していないことを見せつけることだった
 「士官たる者、死にそうなほどに空腹でも、そのような素振りを見せてはいけない。食事は最後にとること。寒さや暑さでへばりそうなときも、そのような素振りを見せてはならない。怖くてしかたがないときも、そのような素振りを見せてはならない。士官はリーダーであり、兵は士官と同じ感情を抱くからだ」―――湾岸戦争時のアメリカ軍統合参謀本部議長が陸軍兵学校で叩きこまれたこと。


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3~5

3 オーダー・オブ・バトル(前)

 

 袁遺は洗い晒しの手拭いで雛里の髪を丁寧に拭いた。

 この時代、戦場で風呂に入ることはほぼ不可能である。水が普遍的に支給されない状況で、それを大量に使う入浴はもちろん、この時代一般的であった水浴びも難しい。であるが、衛生状態を考え、清潔な手拭いを濡らして体を拭うくらいのことは行えた。

 しかし、雛里は女性である。やはり、男性よりも清潔不潔に敏感である。そのことに対して、袁遺は理解のある男だった。彼は彼女に対して、タライ一杯のお湯を支給した。

 満足とは言えないが、少なくとも、手拭いを水で濡らし、体をてきとうに拭う男たちより、丁寧に髪や体を洗える量だった。

 体を洗い終わった雛里がその濡れた長い髪を拭くのに悪戦苦闘しているのを袁遺が見つけ、乾かしてやることにした。

 袁遺は乱暴にゴシゴシと拭くのではなく、傷めぬよう丁寧に髪を両側から手拭いで抑えるようにして水分を吸い取った。

「痛くないか?」

 袁遺が尋ねた。

「あ、あわわ、大丈夫でしゅ」

 雛里は緊張しきっていた。男性に髪を拭かれるなど経験したことがなかったからだ。

「そうか」

「あ、あの……」

「うん?」

「上手ですね」

「えっ……」

「あわわ、すいましぇん」

 雛里は俯いてしまった。

 袁遺は何かフォローしようかと思ったが、何の言葉も出てこなかった。

 自分でもやりなれている感があったからだ。

 俺は袁遺として生まれる前にもこうやって、誰かの髪を乾かしていたのだろうか?

 袁遺はそう思った。

 相手は誰だろう。恋人だったのだろうか? 子供だったのだろうか? 姉や妹だったのだろうか? いや、もしかしたら、孫だったのだろうか?

 いろいろと考えてみるが詮無いことだった。体が髪の拭き方を覚えているが、誰の髪を拭いたか覚えていない。これに似たようなことを何度も経験したからだ。袁遺は知識を持っていたが、それをどうやって取得したのか、それを何に役立てていたのか、が分からない。

 子供の時分、それがある種の恐怖であった。自身のバックボーンが全く分からない。自分がどこから来て、何者であるのかが分からない。それが怖かった。

 だが、今はどうでもいいことだった。なぜなら、今は自分が立っている場所が分かるからだ。かつて、自身の足元が崩壊する感じを味わった男にとって、自分が立っている場所が分かる、これは安心できることだった。しかし、彼の立っている場所は、安心からかけ離れてはいた。

 袁遺の立っている場所はもちろん戦場だった。

 

 

 会話がなくなったので袁遺は雛里の髪をやさしく拭きながら考えた。

 正史において黄巾の乱。その豫州・潁川方面では始めは官軍を指揮した朱儁が波才に敗れ、長社まで引き、皇甫嵩と曹操の援護を受け、勝利を果たした。

 袁遺は波才に一度も破れずに朱儁を勝利させてやりたかった。もちろん、負けると自分の身にも危険が迫るためだが、それだけではない。

 その理由は彼の人柄にあった。

 朱儁は後世の創作において、義勇軍を率いた劉備をぞんざいに扱い、劉備たちの活躍を見ると自分の功名のため劉備たちを利用しようとするというような傲慢で官の腐敗を代表するような人物として描かれることもあるが、正史においては幼い頃に父を亡くしたため貧しく。そのためか親孝行で義を好み、財に執着しない正反対のような性格である。

 袁遺も朱儁のことは嫌いではなかった。そして、指揮官としては尊敬していた。常に方針は明快で、儀礼的な軍事常識を唾棄すべきものと考えている実際的な人物であった。

「雛里、少し知恵を貸してくれないか?」

 袁遺が唐突に言った。

「あわわ」

 先程まで緊張と恥ずかしさで顔を真っ赤にし、硬直していた雛里が我に返る。

「落ち着け」

 袁遺は柔らかな声で宥めながら、戦略図を引っ張り出してきた。

「俺は黄巾党との戦いの終わりを見ることができない」

 袁遺は地図を広げながら言う。

「黄巾党の指導者たる張角を討ったとしても、もうすでに黄巾の種子といえるものが各地に飛散したと見てもいい。それらを駆逐するのも体制に取り込むのも時間がかかる。雛里は知らないだろうが、朱右中郎将は今を乱世と評した。俺は賛成はしなかったが、漢王朝の力が落ちてきていることは事実だと思う。漢王朝の力がこのまま落ち続けた場合、黄色い種子はどうなる?」

 袁遺は雛里に尋ねた。

「そうなった場合、黄色い種子……黄巾党の残党は広範囲な地域で活動し、反乱を繰り返すと思います。ですけど、漢王朝にはそれを抑える力がありません。ですから、地方の豪族が中心になって自衛のために武装を行う……いえ、野心のある者はそれに乗じて反乱や抗争を無軌道に繰り返すことになると思います」

 雛里の答えに袁遺は満足そうな笑みを浮かべる。さながら、優秀な生徒の回答を聞く教師の様だ。

「俺もそう思う。そうなれば、本当に世は戦国乱世だ。それは嫌だな。愛国心や愛着なんかを抜きにしても自分の生まれた国が亡ぶのは寂しいものだ」

 袁遺はそう言いながらも、

「でも、今は、どうしようもないことだ」

 きっぱりと、それもさっぱりとした口調で断言した。

「で、でも……」

 雛里が何か言いかけたのを袁遺が制した。

「言いたいことはわかるよ」

 そして、優しい口調で続ける。

「でもね、これは諦めないとか頑張るとかそういう問題じゃない。現実に即した解決法をとるしかないんだ。目的地があって、そこを目指して全力で走る。だが、方向が違えば一生目的地にはたどり着けない。しかし、世間では、全力で走ることが大切なんて莫迦なことを言う連中がいる。だけど、俺は違う。目的地と反対方向に全力で走ることに何の意味もないんだ」

 袁遺はだんだんと語気と表情が険しくなったことに気付き、申し訳なさそうに頭に手を当てた。

「まあ、ともかく、知恵を貸してほしいというのは、この大陸の黄巾党を殲滅するためのものではない」

 袁遺は何かをごまかすように戦略図に目線を落とす。

「俺はこの戦で多くの将兵に生き残ってほしいと思っている。善意や人道的なものではない。この戦で培った戦力を多く残したいんだ」

「それは、漢王朝の力がなくなったときのためですか?」

 いつもの冷たい表情をさらに鋭利なまでに冷たくして言う袁遺に雛里は真剣な面持ちで尋ねた。

 彼女は戦術の天才だった。そして、天才であるが故にその才を発揮する場所を求めていた。

 戦争が好きというわけではない。いわば、頭の中で戦場を思い浮かべるのである。想像上の戦場では命は奪われることはない。そこで様々な戦術を試すのだ。そして、天才であるが故に想像上の戦場は現実の戦場にピタリと一致していた。

 そうなれば、やはり、ある願望が生まれてくる。

 現実の戦場で采配を振るってみたい。

 そして、漢王朝が弱体化し、群雄割拠となった戦国乱世で、主君と戴いた人物に天下を取らせる。それは軍師を志す雛里にって最高に采配の振るいがいのある戦場だった。

 だが、袁遺から返ってきた答えは期待のものとは違っていた。

「え?」

「え?」

 心底、意外なことを聞かれたように、袁遺は普段からは想像できないような間の抜けた声を出した。

 そして、それにつられるように雛里も間の抜けた声を出し、互いに顔を見合わせた。

 すると、だんだん袁遺の表情が困惑に満ちてきた。

 彼は心底、困ったのだ。

 正直、本心を偽ろうかとも考えたが、止めた。臣下に嘘をついてはならない場面がある。それが今だと、彼は感じた。

「俺は、死ぬまで漢王朝の臣でありたい」

 歪んた朝廷観を持った男が言った。

「だから、俺は群雄のひとりとなることはない。いや、そもそも、そんな状況、起こしてたまるか」

 史上いかな奸賊よりも不敬で、史上いかな忠臣よりも尊んでいるという矛盾を身に飲む男が言う。

「確かに、今の俺には黄巾党の残党をどうにかする力はないが、後で必ずどうにかする。立った群雄も同様だ。漢王朝を滅ぼしてたまるか。そのための戦力だ」

 このとき、彼の無機質な瞳が雛里に、君はどうするんだ、と言ったような気がした。これでも俺について来るのかと。

 雛里は自然に臣下の礼をとっていた。

 その後、袁遺の知恵を貸して欲しいという言葉通り、最低限の戦闘で今の黄巾党を集団でなくすための方法をふたりで考え始めた。問題を未来に投げたのである。各地に散らばる黄巾党の残党が多くなろうと手元の兵数を多く残すことを袁遺が選択したのだ。

 互いに意見を出し合い。出た意見についてまた考えを巡らせる。

 その最中で、袁遺は雛里について考えた。

 袁遺は、軍師と呼ばれている人間には二種類いると考えていた。

 ひとつは戦場を自己表現の場と捉える者。もうひとつは戦場を囲碁将棋の盤と捉える者。

 両者には大きな違いがある。

 前者はいわば芸術家である。キャンバスに、石材に、木版に、粘土に、自分が感じたものを、自身の感性をそこに表現する。表現するものが戦場に代わっただけの話だ。それに対して後者は技術者である。もしくはギャンブラーと言ってもよいかもしれない。彼らのような者にとって戦場とは命を賭け金にした囲碁将棋である。

 芸術はそれ自体が目的だが、技術は目的達成のための道具に過ぎない。

 技術者型の軍師が戦場での勝利を目的としてその技術を使っている場合はいい。だが、それで満足できなくなったら、どうなるか。将棋盤が戦場から天下に代わるのである。より多くの命を掛け金として、天下を手中に収めるギャンブルにでるのだ。

 主君が軍師に抱く惧れの典型である。

 袁遺にとって雛里がどちらのタイプの軍師なのかということが重要であった。

 前者ならいい。だが、後者なら―――

 そこまで考え袁遺は、心の中で自虐的な笑みを浮かべた。

 『人無遠慮 必有近憂(人遠慮なければ、必ず近憂あり)』か……

 袁遺に忠誠を誓う者の大抵がする思考である。となれば、雛里もすぐにそういう思考をするのだろう。でなければ、こんな実際的な男に仕えることはできない。こういった点でいえば、袁遺はまことに仕えにくい主であった。

 

 

4 狼顧の相の友人

 

 

 袁遺は私塾を出た後、洛陽に遊学した。

 そこでひとりの男と友誼を結んだ。

 やはりというべきか、その友は変わり者であった。

 そして、ふたりの友情もまた傍から見れば怪奇なものであった。

 会えば、挨拶をかわす程度で、特に話し込むこともせず、酒を飲むにしても互いに何も語らず、黙って杯を酌み交わす。しかし、ときたま、互いに憑かれたように一晩中話し込むこともある。

 そして、これは珍しくふたりが話し込んだときの会話である。

 洛陽において袁遺は一族の袁隗の元に身を寄せ、彼の屋敷に間借りをしていた。

 その一室で、書簡と本に埋もれながら生活をしていた。書生のような暮らしである。

「何を読んでいるんだ、伯業」

「ん、君か」

 袁遺は、まるで我が家の如く、勝手に入ってきた友を一瞥するとため息をついた。

「君の訪問はいつも唐突だな」

 袁遺はそう言いながら、読んでいた書簡を投げ渡した。

「論語か」

「ああ、子路について読み解きたくてな」

 そう言った袁遺の周りには論語の『先進編』や『公治長編』などの書簡が転がっていた。その中には『史記』も交じっている。

 それを拾い上げた友を見て、袁遺が口を開いた。

「論語もいいが、史記が一番好きだな」

 袁遺という男は、やはり異端な存在である。この時代、書物を読むことは知識と教養を得るための勉学(もしくは暗記術)であるが、彼はそれらを物語の一つとして楽しんだ。故に、彼にとって、儒教の経書は総典ではなく、ある種の歴史物語に過ぎないのであった。

「太史公(司馬遷の役職)が宮刑を受けて、どんな気持ちで、それを書いたか考えながら読むんだ」

「『伯夷列伝』で、義人である伯夷と叔斉が餓死という惨めな死を遂げることに対して疑問を浮かべていることか?」

 聡い男である。袁遺が言いたいことの輪郭をすぐに理解した。

 これは司馬遷自身が、李陵を弁護したと言う正しい行いをしておきながら宮刑と言う屈辱的な刑罰を受けたことに対しての悲痛な思いが根底にあるのではないかということである。

 しかし、袁遺の真意を正確に掴むことはできていなかった。

「ああ、それもある。だけど、違う」

 袁遺の声にはある種の狂気が宿っていた。

「基本的な事実のみを淡々と書く客観性がどこから来ているのかを考えるんだ」

「客観性?」

「ああ、彼は、宦官として生き恥を晒せないが、史記を完成させるまで死ぬに死ねないとまで言っている。きっと、死にたかったんだと思う。だけど、死ねない。自殺などできない。しかし、自殺によって苦悩と恥辱から逃れることができないと思えば思うほど、苦悩が大きくなる。そうなれば、最終的に彼の心は死んでいく。苦悩も恥辱も使命感さえも死んでいく。そして、最後には、彼は書を残すだけの存在になったんだ。ただ、書を綴るだけの存在。そう思い込む以外に道はなかったんだと思う」

「……」

 このとき、袁遺の瞳はより無機質さを醸し出していた。

「だけど、稿を続けるうちに宦者や閹奴なんて言葉が出てくるたびに苦悩や恥辱が蘇ってくるんだ」

 ふたりは、司馬遷が恥辱と苦悩を思い出し、苦しむ姿が容易に想像できた。

 屈辱を思い出すたびに口から呻き声が漏れる。どうしようもない痛みを超えた名状しがたい衝撃が全身に駆け巡る。その衝撃で奇声を発しながら、のた打ち回る。そして、歯を食いしばりながら、過去の屈辱を耐え、自身の心を殺していくのだ。自分は修史に生きる存在なのだ、と自己暗示をかける。

 それを死んだとされる歳まで九年間繰り返すのだ。なんという地獄の苦しみだろう。

 その司馬遷の姿は袁遺と重なるものがあった。

 自己の消失である。

 彼もまた、苦悩とその痛みにのた打ち回った経験を持っていた。

 袁遺も司馬遷も生と死の矛盾を抱えながら生きる人物である。

 自己の消失(=死)を感じながら、死なぬために爪を研ぎ続ける袁遺。苦悩と恥辱から逃れるための死のために生き続ける司馬遷(上記で司馬遷が宮刑から九年後に死んだとしたが、死期については不明であり、上記のものは諸説ある中の一つである)。

 また、先程まで読み解いていた子路もある種の矛盾の人である。

 子路の性格を一言でいうならば直情径行であり、そういった性格だからこそ、孔子に心酔し、同時に儒教と現実との差に苦しんだ面がある。

「伯業、君は変わっているな。儒教の徒として高い評価を受けながらも、儒教が批判する書も好みだと言う」

「仕方あるまい。自分でも変わり者だと思っているよ。それに自分の好みと世の思想が必ず一致するわけでもあるまい」

「それはそれは―――」

 なかなか危険なことを言う。友はその言葉を飲み込んだ。

 この男は漢が儒教国家であるから、儒教を学んでいる、と言ったのである。世の儒者が聞いたら、絶句するだろう。そんな男が世の儒者から高い評価を受けているのだから。

「さて、ついでに、君の政治観についても聞かせてもらえないかな? 俺は兄弟もいないし、従妹たちは決して優秀とは言えないから、どうもこういうことを語り合える人物が少なくてね。君の様に優秀な姉妹をもっているものが羨ましいよ」

「君の家は三公を四代に渡って輩出した名家じゃないか」

「残念ながら俺や本初、公路の代で、その名家の威光は地に落ちるよ」

「君は変わり者だが、無能というわけではあるまい。一枚皮を剥げば、どうかはわからんが、儒教の徒としても高い評価を得ている」

「ははっ、その才を絶賛されている君にそう言われれば嬉しいが、それは買いかぶりすぎだよ。俺は変人なだけさ」

「そんなことはないさ。それより私はもっと君の儒教観について知りたいんだがね」

「うーーん、まあ、答えるのは構わないが、答えたら俺の質問にも答えてくれよ」

「ああ、もちろんだ」

「別に、儒教に限定する必要はないんだよ。宗教と哲学の境界は曖昧模糊として、明確に分けることができないと思う。だがね、俺はその両方は現実の要求に従って最も適当なものを選べばよい、と考えているんだ。今の世は儒家であることが生きやすいんだ。法家であることが生きやすい世なら、俺は法家になるね」

「……それは、変節漢としかとりようのない発言だな」

「変節というより、機会主義だな」

 袁遺は、どちらもあまり良い意味ではないな、と自虐的な笑みを浮かべた。

 これは、袁伯業の本質を示していた。

 彼は機会主義的であった。もしくは、極端なプラグマティズムである。

「それに俺は立場を変えることを批評する気も恥じるつもりもない。立場を変えることは極論すれば、生存の技法、そのひとつに過ぎない。本当に批評され、恥なのは姿勢を変えることだ」

 袁遺は語気にやや厳しいものを宿して言った。

「さて、答えたんだから、君の意見を聞かせてくれよ」

 袁遺はそう言った。言葉にはどこか素直な響きがあった。

 口を開き、語り始めた友の意見は『史記』のように客観的でありながらも、どこかに発言者の臭いのようなものを感じさせるものだった。

 それを聞きながら袁遺は、相槌を打ち、質問をし、それに対する自身の意見を言った。

 袁遺はこの友人のことを知っていた。八達と呼ばれる優秀な姉弟の中で、最も優れているといわれることも、後代、『晋書』において、内は忌にして外は寛、猜忌にして権変多し、と言われることも。だがしかし、袁遺は後に友が自身の配下になることだけは知らなかった。

 この日、彼らは夜を徹して語り合った。

 光武帝から始まり、光武帝と高祖・劉邦の比較。数奇な運命によって即位した武帝と宣帝のふたりの政策。高祖のもとで処断された功臣。あらゆる規格を統一せんとした始皇帝の治世。七雄と諸子百家。夏桀殷紂と堯舜。ときには冷静な客観性で、ときには剥き出しの嫌悪感を以って、ふたりは語り合った。

 その中で、袁遺は悪戯心から、友に言った。

「君は気の強そうな女性と結婚しそうだな」

 怪訝そうな表情を浮かべる友を見ながら、袁遺は笑った。

 その言葉がある種の呪いとして昇華されたのか、やはりそうなる歴史だったのか。

 彼が袁遺の言葉通り、気の強い女性を娶ったのは、袁遺が官職についた頃だった。冀州河間郡鄚県の県尉(警察の長官の様な職)であった。

「職にもついてないくせに嫁だけもらったか」

 袁遺はそう言いながらも大いに祝福した。何にしても友には幸せになって欲しいと思ったのだ。

 

 

5 オーダー・オブ・バトル(後)

 

 

 翌朝、袁遺は朱儁のもとへ向かった。

 昨日の晩、雛里と話し合い練った策を具申するためであった。

 朱儁の陣につき、彼に面会を申し込んだ。以前同様、殆ど待たされることもなく、袁遺は上官に会うことができた。

「袁伯業、中郎将様に拝謁いたします」

「おお、伯業」

 大丈夫な朱儁は低血圧とは無縁そうで、朝からその鍾馗面は生気で満ち溢れていた。

「朝早くから申し訳ございません。右中郎将様に……」

「そういう面倒な挨拶はいいから、要件を言え、要件を」

 朱儁は手を振りながら、袁遺の言葉を遮った。遮られた袁遺は特に嫌な顔もせずに、切り出した。

「はい」

 袁遺は昨晩、雛里と練った策を朱儁に提案した。

 

 

 昨晩―――袁遺と雛里は、どうすれば、黄巾党が集団であることやできなくするかを徹底的に考えた。

 初めに思い付いた案は黄巾党の核たる張角を殺害するか捕えることだったが、張角は謎の人物で、捕虜の黄巾党もその正体については、いかな拷問でも口を割らなかった。そのため、張角本人が分からないため、この方法をとることはできなかった。

 次の考えは互いにすぐ思い浮かんだ。

「糧を断つか」

 袁遺が言った。

「はい」

 雛里が同意した。

 人間である以上、食料がなくなれば生きることはできない。

 となれば、何万人もの人間の集団である黄巾党が、一日に消費する食料は多いはずだ。それをどうやって集めたか? 決まっている。村々から略奪して集めたのだ。そして、集められたそれは、どこかに蓄えられているはずだった。それを襲い。鹵獲するか、破棄する。雛里はそう結論付けた。

 それを聞いた袁遺が、微妙な表情を浮かべながら言った。

「それだけじゃあ、足りない」

「え?」

 雛里は困惑した。袁遺の意図が分からなかったのだ。

「食料の供給元を断たなければ」

 そんな雛里に袁遺が言った。

「…………それは、村々を襲うということですか?」

 雛里が声を震わせながら言う。そこには怒りや不安、失望など様々な感情があった。

「違う。雛里、君は少し、民を……そうだな、民に甘いんだ」

 袁遺の声はどこか、駄々っ子を諭すような含みがあった。

「甘い?」

「そう、甘い。民は決して弱いだけの存在じゃない。黄巾党だって大半はもとは民だ。民、全てが一方的に搾取されているだけじゃない。そして、搾取される側も足掻く」

 袁遺の顔が厳しいものになっていた。それを自身で感じたのか。袁遺は優しげな笑みを浮かべて、子供になぞなぞを出す大人のように言った。

「俺が、中郎将様に仕える前、匪賊討伐を命ぜられたことがある。陳蘭と雷薄が従臣して間もなくの頃だったかな。今回の黄巾党のように大勢力でもない地方の匪賊討伐だ。兵は七〇〇。兵站も特に問題はなし。だけど、俺はなかなか討伐できなかった。だから、我慢した。時間をかけて情報を徹底的に集めた。そして、俺は何故、こんなに手こずるのかを理解した。何が原因だったと思う?」

「匪賊が民に頼っていたということですか?」

「そう、主に穏健派の連中が。だから、俺は穏健派の連中を排除していった。懐柔したり、殺したりしてな。そうするうちに、残ったのは官軍と虎狼のような賊だ。虎狼は官軍や援助していなかった民だけではなく、援助していた民も襲うようになった。となれば、必然、民衆はこちらを頼る。それで終わりだ」

「…………」

 雛里は何も言えなかった。

 自身が今まで抱いていた幻想を打ち砕かれた気がした。

 彼女の中で民は、ただただ虐げれらていると思っていた感が強い。しかし、現実は複雑だった。民衆は足掻いていた。その足掻きが、例え他者を犠牲にしようが、最終的に自身の首を絞めようが構わない。彼らはそれだけが、自身を救う手段と心から信じているのであった。

「ここ豫州は俺の生まれ故郷だ。幸運なことに郷里の知り合いが豫州の太守や県令をやっていてね。彼らから情報は長社に滞在していたとき集めてある。そこから、黄巾党に襲われていない村は…………」

 袁遺は地図に丸石を置いていく。

「これらだ。この近辺を根城にしている黄巾党及び匪賊を討つ。そうやって補給線を虱潰しに断っていけば、敵の兵站活動が制限されてくる。だがしかし、全軍を動かしては目立つし、時間もかかる。かと言って、細かく隊を分ければ、各個撃破のいい的だ。何か手はないか?」

 袁遺は雛里に尋ねた。

 雛里は考えた。

 こういった場合、指揮官には高い能力が求められる。彼女の主君……袁遺にその能力がないかと問われれば、答えは否だが、袁遺の部隊では兵数が少なく、かつ、兵站能力がない。そんな部隊が各地を転戦するような軍事行動を起こすことはできない。

 しかし、現状、この軍に袁遺の考えを実現するだけの能力と兵力、このふたつを兼ね備えた者を強いてあげるなら、司令官たる朱儁くらいだろう。であるが、彼がこの任につくわけにはいかない。それは全軍をあげるということであるからだ。それでは時間がかかりすぎる。

 それらを理解したうえで、袁遺は雛里に相談したのだった。

「別部司馬殿とその部隊を動かすのはどうでしょう」

「張別部司馬殿の?」

「はい」

「……」

 袁遺は黙ってしまった。

 彼にとって、全く予想できなかった提案であったからだ。

 張別部司馬とは袁遺を朱儁に推挙した張超のことで、草書の達人で、かの張子房(張耳という説もある)の末裔とされている人物だ。そして、別部司馬の役職に就き、この部隊に従軍している。別部司馬とは現代においての別働隊の指揮官(というより本軍に対して別部隊。もしくは方面軍の指令。つまり、史実における漢中方面の劉備軍と荊州方面の関羽軍)と同じと考えていただきたい。

 ただし、この軍役での張超の部隊の役割は、別働隊というより、予備兵力に近い。

 袁遺にとって予想外の答えであったのは、この点である。

 原則的に予備隊は滅多なことで投入されない。何故なら、それは最後の盾であるからだ。そして、優秀な指揮官であればあるほど、予備隊を維持することを心がける。

 その点から言って、雛里の提案は、即決できるものではなかった。

「張別部司馬殿は、戦に明るい人物ではないぞ」

 袁遺は言った。

 かつて張超に草書の手ほどきを受けたため、彼の人柄については知っていたし、指揮官としての彼も見ていた。それ故に、導き出された答である。決して無能ではないが、今回の場合には有能な参謀役と前線指揮官をつけねば、目的を達成することはできない、と袁遺は読んだ。

「伯業様の隊が従軍することができますか?」

 雛里の質問には意味がなかった。彼女が返ってくるだろう答えを知っていたからだ。

「可能だ。右中郎将様を説得することはできる」

 袁遺は、さらに、心の中で、周囲からは疎まれるだろうがね、と続けた。

 だが、よかった。これまで、袁遺は、そう言った声をあらゆるもので黙らせてきた。そして、これからも黙らせるだろう、とも思っていた。つまり、いつも通りということで、これが袁遺という男の生き方でもあった。

 だが、これでひとつの問題は解決された。

 張超は確かに、軍事的に有能であるとは言えないが、そうであるからこそ、戦慣れした者の言うことには素直に耳を傾ける。それが戦場で生き残るために有用であることを知っているからであった。

「それに……」

 雛里が口を開いた。

「ここで予備隊を動かすことは決して、悪い手ではありません」

「何故?」

「…………官軍が現在、力ある地方豪族や地方の太守から、はっきり言ってしまえば、無能と思われています」

「うん、それは俺も知っているし、否定できないとも思う。この黄巾党との戦でも両者には温度差が存在しているからな」

「はい、そんな官軍が予備隊を投入したことを豪族や太守が知ったら、彼らはどう思いますか?」

「官軍のことを、ますます無能と思うな」

「はい。ですが、それ故に、野心ある者は、それを名をあげる機会だと思い奮起するはずです」

「なるほど、つまり、この戦で、将来、敵になりうる者の見極めをしろというのだな?」

「それもありますが、官軍だけでは、この戦を支えきれません。豪族や太守からの協力は必至です」

「まあ、官軍が無能でやる気をなくすような太守は、とっくに逃げ出しているだろうし、豪族は既得権益を守るために必死だ。つまり、尻についた火を大きくしてやろうというわけか。分かった。それで、いこう。具体的に仕上げていくぞ」

 

 

 袁遺の話を聞き終わった朱儁は、苦虫をつぶしたような顔をした。

「……つまり、別部司馬と威力偵察部隊ひとつを本隊から切り離すということか」

「はい」

 気の弱い者なら確実に縮こまるであろう強面を袁遺は流した。

 その態度を見て、朱儁はいっそう不機嫌な表情を作り、鼻を鳴らした。

「そのふたつを失えば、どれほど戦力が低下するか、などと言っても、お前はわしを説得するだけの理由を持ってきたのだろう? 言え」

「はい、単純に別働隊が敵を陽動すると考えていただいて結構です。補給をつぶされるわけにはいかない敵はこちらを狙うはずですから、本隊自体の負担は軽くなります」

「それは戦略的見地からで戦術的には予備隊を切り離すことについての理由にはならん」

「はい、そうでしょう。予備隊については、切り離す以上、必ず再編していただかねばなりません。再編について腹案がありますが、いかがいたしましょう?」

「言え」

「騎兵を八〇〇を予備隊にあててください」

「騎兵を、か……」

「運用の違いですので。前線部隊の兵力が不足し、敵がそちらに一点集中、それに耐えられなくなった場合、その後方に予備隊を投入してください。そして、敵を撃退した後、後方に下がらせる」

「それ故に、機動力と打撃力を有する騎兵か」

「それに、数では黄巾党の方が多いのです。これから何か手を打たねばならなくなります」

「確かにな」

 朱儁は迷った。

 予備隊を投入しても敢行するだけの魅力を持った提案であったためだ。

 袁遺の言う通り、黄巾党の数は朱儁の軍より多く、彼らは徐々に集まってきている。このままでは数で押し負ける。そうなる前に糧を断つのは悪い手ではなかった。

 そう思いながらも、朱儁が決断できない理由は現在の部隊の人材に問題があったからだ。地方の豪族や太守から官軍は無能と言われており、先にふれたように袁遺自身もその評価は的外れなものではないと思っている。実際その通りであった。その中で、袁遺や朱儁、皇甫嵩といった者たちは稀な無能ではない人材であった。

 そして、朱儁にとって、袁遺は、かなり使い勝手のいい人材だった。

 そのため、袁遺が意見具申に来たとき、すぐに取り合うようにしていた。周りからの讒言も取り合わなかった。そう言った声は、袁遺という男を考えれば存外に少ない。推挙された理由が人徳と文学的才能であった所以だった。そして、その残り少ない声も袁遺が殆ど黙らせてきた。

 つまり、数少ない有能な指揮官をここで別行動させるのを朱儁は嫌ったのである。

 しかし同時に、袁遺と同様、こういった別働隊の任務を任せられる人材が袁遺しかいないことにも、すぐに気付いた。

「わかった。別働隊を出す。しかし、そこから先はうまくやれよ」

「ありがとうございます。お任せください」

 命令はすぐに発せられた。

 編成の腹案と具体的な計画も昨晩の内に袁遺と雛里によって練られている。後は袁遺がうまく上官で、かつての恩師である張超を御するだけであった。

 袁遺は、ふと、そのかつての恩師が下した自身の評価を思い出した。

 張超はかつて、袁遺の人徳を絶賛した。それは間違いではなかった。袁遺は人格者である。しかし、戦争において、彼は高潔さのかけらも持ち合わせていなかった。何故なら、そういった人物こそが戦場において求められているからである。でなければ、人に人を殺せと命じることも、人を死地に追いやることもできない。

 戦場で指揮官に求められるのは高潔さではなく、効率性だった。

 いかに自軍の犠牲を減らし、敵軍を多く破るか。それにつきる。

 そのような行為を平気で行う者が人格者であるはずがなかった。しかし、平気で出来る袁遺は人格者だった。

 矛盾である。

 だが、袁遺は、人間なんてそんなものだと思った。

 性善説と性悪説、そのどちらが真理か、などということは、どうでも良かった。人間は善でもあり悪でもあるのだ。

 

 

 袁伯業、自己の消失から、相も変わらず矛盾と共に生きてきた。

 




補足

・朱儁は後世の創作において、
 横○三国志とその原作に当たる吉○三国志。どちらも名作です。

・子路
 子路は字であり、姓は仲、名は由であるが、論語では字で言及されることが多い。季路と呼ぶ場合もある。
 孔子の弟子あり、壮絶な最後を遂げる。
 余談であるが、孔子の弟子の中ではこの子路と子貢が好き。

・彼は、宦官として生き恥を晒せないが、史記を完成させるまで死ぬに死ねないとまで言っている
 任少卿に報ずる書より。名文です。

・内は忌にして外は寛、猜忌にして権変多し
 外見は寛大な人物に見えるが、中身は陰険で、疑り深く陰謀を好む。
 ふつう、顕彰すべき正史でこんなこと書かれるか!?
 一応、感情を表に出さず、臨機応変である、みたいな好意的な解釈もできなくはない……できなくないよな? 無理あるような気もする。

 あっ、今回、補足とは名ばかりで自分の感想しか書いてない。まあ、いいか。



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6~7

6 別働隊

 

 

 袁遺が恩師である張超に最後に会ったのは朱儁の軍勢に従軍した初日であった。それから、それなりの時間が経っている。

 久しぶりに再会した張超は、その風貌にやや神経質な色を見せていた。彼は本来、文士であり、軍人ではない。そのため、幾分かの苦労をしているのだろう。だが、袁遺の予想より疲労の色は少なかった。

「ご無沙汰しております、先生」

 袁遺は拝礼した。

「久しぶりだな、伯業。だが、今は、別部司馬と呼んでくれ」

 答えた張超の声には、やはり、疲れが混ざっていた。

「はっ、失礼しました。別部司馬殿」

「それより、伯業。今、我々のとるべき行動を言ってくれ」

 先生は、疲れてはいないが焦っておられるな……袁遺は、思った。

 声に余裕がなかったのだ。

 無理もない。予備隊の役割をしていた別働隊が実戦に投入されるのは剣呑な事態だからな。

 袁遺は、そうなった原因が自分にあることを棚上げして思った。

 しかし、袁遺の考えからすれば、後代の言葉で士官という立場の人間は、それ相応の苦労をするものだった。

 何故なら、彼らは兵に死ねと命令する立場であるからだ。そういった立場の者は判断能力を残す限りで、苦労しなければならない。それは、兵からの信頼を得るためのものや勝利を掴むための苦労、兵の苦労を抑えるための苦労である。

 そうであるが故に、恩師が判断能力を残している限り、袁遺は張超を下から酷使し続ける。

 勿論、自身は例外ではない。逆に、悲壮とさえ、思われるまで自身を酷使するだろう。

 何故なら、袁遺には食い逃げの趣味などないからだ。

「では、まずは先行部隊を出しましょう。人選は……」

「それは伯業に任せる」

 袁遺が言い終わる前に張超が叫ぶように言う。

 この軍旅の間、張超の胃が痛み続けたのは言うまでもないことであろう。

 ともかくとして、袁遺は実質的な指導権を握り、行動を起こした。

 まず、陳蘭と雷薄を先行部隊として、先発させた。

 このふたりは、前にも触れたとおり、賊の討伐・懐柔を一手に引き受けている。彼らは袁術のもとから袁遺が引き抜いてきたのだった。

 袁遺の頭の中にはこの別働隊で果たすべき目的が浮かんでいた。

 穏健派の黄巾党内で発言力のある者たちを消してしまうことだ。これが作戦目的にあたる。ならば、戦略目的はというと黄巾党の糧道を断つことだ。いわば、後方攪乱である。

 さて……と袁遺は考える。どうやって、黄巾党の穏健派有力者を消すかだ。

 暗殺や正面切っての合戦で消していってはダメだ。時間がかかりすぎる。それに袁遺は心のどこかで、飢えや貧困により仕方なく賊に身をやつした者たちにある種の同情と社会復帰の機会を与えてやりたいと考えていた。そこから導き出した妥協点は、五日かけて投降を呼びかけ、その段階で下った者は重罪を犯した者を除いて放免し、年齢と体力に見合う者は軍に入隊させるということだった。

 その宣伝のための先行部隊であった。

 陳蘭と雷薄は何度か触れたように匪賊の懐柔を一手に引き受けている。袁遺は彼らならば、うまくやるだろうと考えていた。

 彼らふたりは対照的であった。

 陳蘭は風采の上がらない朴訥な男であった。誠実というより愚直とでも言えばいいほどの実直さの持ち主である。対して雷薄は山賊にしか見えない容姿の持ち主で、今も官軍の旗を掲げなければ、飢虎のような賊に間違われてもおかしくない男であった。だがしかし、誠実さと恐怖は交渉事には欠かせない要素である。

 さらに兵の引き際も知り、粘りもある。少数での戦い方も知っている。自分たちが到着するまで事体を悪い方向にだけは転がさないだろうと袁遺は考えていた。

 その後、自身の隊も準備が整い次第、本隊から離脱し、別働隊としての活動を開始した。

「雛里」

 袁遺は傍らに控える参謀格の少女に声をかけた。

「行軍の脱落者は出ていないか?」

「は、はい、今のところは出ていません」

 雛里の答えに袁遺は、そうか、と頷くと黙り込んだ。

 現在、彼の部隊は小休止をとっている。指揮官たる者、兵を無駄に疲れさせるものではない。そういったことからいえば、袁遺が脱落者を気にする理由にはなるが、そのことを把握していない程、彼は無能ではない。彼が雛里に自身の把握していることを尋ねたのは、苛立ったときにする―――分かりきったことをあえて尋ねるといった―――人間の一般的な行動であった。

 何が彼を苛立たせているのか? 雛里にはその心当たりがあった。

 昨晩、袁遺は書簡を燃やしていた。偶然にそれを見かけたのであった。雛里は何の書簡であるのか尋ねた。すると、袁遺は無機質な瞳を冷たくし、今の雛里には関係ないものだ、と言った。そして、それ以上の言葉を拒絶するように、自身の天幕へと帰って行った。

 あの書簡は何だったのかは、雛里はわからない。しかし、あの書簡に記された内容により、自身の主が苛立っているのではないかという確信めいたものが雛里の胸にはあった。

「書簡のことが気になるか?」

 瞼を下ろしたまま袁遺が言った。

「あ、あわわ……」

 いつの間にか自身が深く考え込んでいたことに気付いた雛里は、恥ずかしげに驚いたときの口癖の言葉を発した。

「あれは洛陽にいる部下が届けさせたものだ。社稷の動きを探らせている」

 袁遺は言う。

「良い知らせと悪い知らせがあった」

 袁遺は空を見ながら、言った。

「雛里は張既という人物を知っているか?」

「いえ……」

「姓を張、名は既、字は徳容。涼州に詳しい男だ」

 袁遺はその男を思い出すかのように一度、目を閉じた。

「不思議な男だ。人畜無害という言葉は彼のためにあるのではないかというくらい敵意や悪意がなく、怒りや憤りといったものは彼の前ではすぐに消え、謝られれば許してやろうか、などといった気持になってしまう。彼とは一度しか話したことがないが、信頼のおける人物だと思ったし、また何かの機会に西の土地の話を聞きたいとも思っていた。で、どうやら、この軍旅が終わり、無事、洛陽に帰れれば、機会を設けてくれるようだ。これが良い知らせだ」

「では、悪い知らせというのは……?」

 雛里が恐る恐る尋ねた。

 袁遺は少し考え込み、口を開いた。

「どうやら、都は大分浮き足立っているようだ」

 その声色には、わずかに苛立ちが見て取れた。

「そういった状況になれば、得てして碌なことが起きんし、よからぬことを考える輩も出てくる」

 袁遺は、まったく、と吐き捨てた。

 そんな袁遺に雛里は違和感を覚えた。

 主は嘘をついている。

 都が浮き足立っていることに関しては以前からのことであり、それが今更、悪い知らせとして送られてきた。なおかつ、その今更なことでここまで苛立つような主君ではないと雛里は思ったのだ。

 では、何故、袁遺が苛立ち、嘘をついたか。いろいろな考えが雛里の頭を巡った。

 もしかしたら、もうすでに好からぬことを考えた人間が出てきて、なにか行動を起こしたのではないか。それとも、動かぬ戦況に業を煮やして、都の者が指揮官の更迭を検討し始めたのではないか。

 考えが波のように次々と頭に押し寄せては消えていく。

「ともかく」

 そんな彼女の意識を現実へと引き戻したのは袁遺の声だった。

「戦場と社稷の思惑がずれることは往々にして起こり得ることだ。それについて苛立っても仕方がないな」

 まるで自分に言い聞かせるように袁遺が呟いた。

 そんな主君に対して雛里は言葉をかけることができなかった。その姿にはこれ以上の会話を拒否する雰囲気があったからだ。

「雛里も体は休めておけ。初めての軍旅だ。後からつらくなるし、この先こうやって話をすること自体が億劫になってくるぞ。特に先行させた部隊と合流した後はな」

 袁遺は、隊を見て回ってくると告げ、雛里に背を向けた。

 それから、五分後に袁遺の部隊は行軍を再開した。

 

 

 そんな袁遺の遥か前方を行く集団があった。

 袁遺の出した先行隊だ。

 その中でひとり、顔に苦りきった表情を浮かべる男がいた。

 この先行隊の主将格の陳蘭である。

 彼は袁遺のように整った顔でもなければ、張郃の様に威厳を感じさせる顔でもない。丸顔で良く言えば親しみのもてる、悪く言うなら不器量な風采の持ち主であった。

「おい、隊を率いる者がそんな顔をするな!」

 そんな陳蘭を怒鳴るように(というより完全に怒鳴りながら)、まるで山賊のような男が駆け寄ってきた。

「おぉ、だが、雷薄」

 その山賊のような男がこの部隊の副将格の雷薄であった。

「だがもなにもねぇだろ!」

 おおよそ格上の者に使う言葉ではないが、雷薄本人はこれで陳蘭を格上扱いしているつもりである。

 何故なら、この男、口より先に手が出る質であり、これが格下の者であったなら、とうの昔に殴っている。

「いや、しかし……隊長より先行し、賊の懐柔に手を尽くせと仰せつかって出発したはいいが、降った賊は未だなし。このままでは隊長に合わせる顔がないだろう」

 と愚痴のような本音を陳蘭は口にした。

「何、言ってやがる。隊長も投降の期待は殆どない、と言ってただろうが。官軍がこちらに来たことを賊に知らせるのが最大の目的だともよぉ!」

 これも本人は怒鳴っているのではなく、励ましているつもりであるが、傍から見れば、叱責しているようにしか見えない。

「俺たちは物見でもあるわけだ。そっちの仕事をしっかりやればいいじゃねえか、な?」

 と雷薄は続けるが、陳蘭は、だが……や、でも……という言葉を呻く様に吐き出すばかりであった。

 雷薄は大きなため息をひとつ吐き、思った。

 敵とでも遭遇しないかと。

 陳蘭という男は血の臭いを嗅がないかぎり、度胸の据わらぬ男であった。

 また、それが原因で袁術の元で冷や飯を食わされていたわけでもある。

 もっとも、冷や飯を食わされていたのは雷薄も同じであった。それ故に袁遺の元に移ってきたのであった。

 やることは袁術の元にいたときとほとんど変わらない。匪賊討伐である。

 ただ、戦で死ぬことになるなら、袁遺と袁術、このふたりならば袁遺の戦で死ぬ方がマシである。雷薄はそう思っている。

 だが、まだ死ぬことはできない。少なくとも、主がここで起こすだろう戦に参加するまでは。

 雷薄は心の高ぶりを感じる。

 その高ぶりのままに軍を動かしたかったが、やめる。兵を無駄に疲れさせるべきではない。そのことを体感的に彼は知っているからだ。

 行軍速度はそのままに雷薄たちは征く。

 結局、袁遺たち本隊が到着するまでに降った賊は―――

 

 

「いなかった、か」

 袁遺は本隊と合流した陳蘭と雷薄の報告を聞いて口を開いた。

 今、この場には、袁遺と雛里、張郃、高覧、陳蘭、雷薄がいる。

 その中で陳蘭が顔を真っ青にしながら、冷や汗を流していた。

 何の成果も挙げられなかったことに責任を感じていたし、叱責も恐れていた。さらに袁遺が凍り付いた様な無表情であったからだ。これは、いつものことなのだが、こういった成果の上がらなかった場合、彼のそれは恐怖を抱かせるに十分であった。

「陳蘭、雷薄。先発隊の任、ご苦労。状況を悪転させずによくやってくれた。賊の根城の目星はついているか?」

 袁遺は地図を広げながら、言う。

「は、はい!」

 叱責されなかったものの恐怖がまだ抜けきらない陳蘭は声を上ずらせながら答え、地図に根城を示す石を置いていく。

 袁遺は、しばらくそれを眺めると雛里の方を向き、口を開いた。

「雛里、我々、別働隊の戦略目的は黄巾党の兵站を鹵獲、もしくは破棄すること。また、それらの行動を陽動として本隊の負担を減らすこと。この二点である。それを踏まえて作戦行動を立案しろ」

「は、はい!」

 袁遺から発せられた言葉に雛里は飛び上がらんばかりの勢いで答えた。

 雛里には明確な目的を伝えるだけで十分だと袁遺は考えている。彼女ほどの軍略家なら、とやかく言うのではなく戦域とそこで行うべき方針さえ示してやる方が、彼女の才能を邪魔せずに自由に作戦を立案できると袁遺は確信しているからだった。

 実際、彼女から出された行動案は袁遺の満足するものだった。

 

 

 袁遺たち、別働隊が初めにとった行動は、ここ周辺の賊で最大勢力を誇る軍勢と、彼らを援助している村との間に陣を敷くことだった。

 こうすることによって、村とそこから援助を受けていた賊は分断され、村は前にも述べたように飢虎や餓狼の群れと何ら変わりのない賊に襲われることになるかもしれない。

 そうなると賊軍と官軍、その役割が正反対になるが、この賊は官軍、つまりは袁遺たちを突破し、村を守らなければならない。

 官軍に対して、どのような対応をするか、彼らは揉めた。

 危険だから砦に籠って官軍が去るのを待てばいい。ここら一帯の他の黄巾賊が動いたら、官軍はそれに対処しなければならない。そのときを待てばいい、といった慎重論派と、そんなときが来る前にこちらが餓える。ならば、余力がある今のうちに官軍を追い払うべきだ、という主戦論派が対立した。

 その後、議論を重ねた結果、彼らは砦を出て官軍へと攻撃を仕掛けた。

 その結論に至った要因はふたつ。ひとつは現在この豫州の黄巾軍と官軍の戦いの戦況が互角、もしくは黄巾軍がやや優勢という状況であるということ。そして、ふたつ目は、ただ単純に兵の数が官軍より多いということだ。官軍が四〇〇〇人弱に対して、彼らは八〇〇〇を超える数である。二倍以上の差である。

 もっとも、実際はそれ以上の差がある。四〇〇〇弱という数字は張超・袁遺隊の総数であり、兵站補給部隊などの非戦闘部隊を入れた数である。この時代の原則として、兵站補給は全体の三~四割をあてる必要があるため、実際に戦闘にあたる人数は三〇〇〇にも満たない数字になる。実質、三倍近くの差が存在した。

 数の優位と官軍が、やはりと言うべきか案外と言うべきか、ともかく大したことないという思いから彼らは攻勢に打って出た。

 この八〇〇〇と四〇〇〇(実質三〇〇〇未満)の勝敗はあっけなく付いた。

 両軍が互いを確認できる距離に達したとき、張超・袁遺隊の中から『張』という旗を掲げた八〇〇の部隊が飛び出した。張郃の部隊である。

 張郃と八〇〇名はあまりにも無造作に、そのまま正面からぶつかった。

 八〇〇〇の部隊にたった八〇〇で突っ込む。正気の沙汰ではなかった。

 張郃の部隊はそのまま入り乱れることなく、敵正面に圧力をかける。

 黄巾軍はその命知らずの八〇〇の部隊を包み込もうと左右両翼から襲い掛かるが、それを待っていたように今度は『高』の旗を掲げた五〇〇の部隊が左翼に噛みついた。

 高覧の部隊である。

 鶴翼の羽は広げようとする瞬間が最も脆い。

 延びようとしていた左翼は最悪のタイミングで攻撃を仕掛けられ、訓練に訓練を重ね、統率のとれた部隊からの圧力で逆に窪む。つまりは後退し始めていた。右翼だけが伸びる形になった結果、黄巾軍の陣形が左右に広く伸びるように乱されていた。八〇〇〇の部隊が三つに分断された形になったのだ。

 そして、その後退に付け込むように袁遺が率いる九〇〇の部隊が小さく固まり突っ込んできた。

 その九〇〇は数千の敵を見る間に絶ち割った。

 また、それに呼応するように陳蘭、雷薄の部隊が右翼を牽制し、左翼に圧力をかけていた高覧の部隊が張郃隊に合流し、中央への圧力を強める。

 この時代、というより完全な火力装備化された軍隊が登場するまで、正面切ってのぶつかり合い『戦闘』の段階での死者の数は多くはない。死者の数が増えるのは戦列が維持できなくなった『潰走』の段階である。

 陣形を崩された軍は脆い。

 黄巾党左翼は、練度の高い隊である袁遺隊に散々に叩かれ、統制が失われ、その『潰走』の段階にあった。

 そして、その左翼部隊の混乱は中央と右翼の部隊にも伝播した。この時代の指揮官が最も恐れる潰走の連鎖反応、友崩(この場合、味方が崩れるのを見て崩れる見崩)である。

 黄巾賊は砦に向けで敗走した。

 官軍に討たれる者。混乱し、明後日の方向に逃げる者。味方同士でぶつかり、他の味方に踏み潰される者。意地になって切り結んでいるうちに囲まれ討ち取られる者。彼らの死体は撤退路沿いに長く延びていた。

 砦に入れたのは出撃した兵の七割程度である。

 まだ、張超・袁遺隊より多い数字であるが、一度の敗北で賊軍の士気は低下していた。

 こうなれば、あとは直接戦う必要などない。囲んで騒いでやればいい。敵に強いと錯覚させ、相手の戦意をくじくのだ。

 士気が低くなった砦の中で起きることは、いろいろと想像できる。

 例えば、慎重派が主戦論派に責任を問うているだろうし、徹底抗戦を唱える者と降伏を唱える者で議論が始まるだろう。脱走兵や投降兵が出るかもしれない。その投降兵が指導者の首を手土産に持ってくることもある。

 袁遺たちは熟した果実が落ちるのを待てばよかった。

 実際、二日後に砦から降伏の使者がやってきた。

 この砦に籠る賊たちは、官軍より多い兵力を持ちながら、降伏の憂いを見た。

 それは袁遺が知っていて、彼らが知らなかったことがあったからだ。

 袁遺は、向かい合う軍隊の兵站が同等ならば、大軍の方が有利であるという常識を否定するほど愚かではなかったが、大軍であれば必ず勝てると思うほどおめでたい頭の持ち主ではなかった。有利と勝利は全くの別物である。そして、大軍に兵法などいらない、などということなど決してない。大軍なればこそ、その運用に慎重になるべきなのだ。

 結局のところ、兵の練度差や指揮の差以前にこのことを知っているか知らないかが彼らの勝敗を分けたのであった。

 

 

 袁遺は彼らを許し、従軍を望む者と帰郷を望む者に分け、従軍を望む者たちを雷薄の下につけた。

「これで我々の部隊は八〇〇〇名近くまで膨れ上がったか」

 天幕には、この部隊の首脳陣と言うべき、張超、袁遺、雛里、張郃、高覧、陳蘭、雷薄の七人がそろっていた。

「はい、これでここ周辺の賊よりも多くの兵力を有することになりました」

 雛里が言った。

「このことがこの周辺に広がれば、穏健派の黄巾党が投降してくるでしょう」

「そんなにうまくいくもんかの?」

 雛里の言葉に張超が口を開いた。その声色には嫌味なものがなく、純粋な疑問だった。

「賊共が砦から出てこなくなるだけじゃないのか?」

「それについては何の問題もありません、張超様」

 その疑問に答えたのは袁遺だった。

「我々の戦略目的は黄巾党の撃破ではなく、糧道を絶つこと。また、それらの行動を陽動として本隊の負担を減らすことです。賊共が砦から出てこなければ、ここら一帯の村は、彼らを見限り、見境のない賊共から身を守るため、こちらに協力するはずです。そうなれば、糧道は絶たれ、必然、右中郎将様が相手にしている部隊の糧道がひとつ潰れることになります」

 袁遺は丁寧に説明した。

 張超が納得しないなら、納得するまで何度でも丁寧に、その疑問となりうる部分も説明する構えだった。

 これは袁遺がかつて、草書の手ほどきを受け、また、自身を推挙した張超のことを尊敬し、必要以上に慇懃な態度を取っているのではない。現在の彼らの立場が、名目上の指揮官と実質的な指揮官という、非常に難しい関係にあることからだった。

 袁遺は自分が実質的に全権を握ったからといって、師でもある張超をぞんざいに扱うのは儒教的にも、部隊の士気にも問題があった。このふたりの関係が冷え切った場合、その空気は部隊にも何かまずい雰囲気を漂わせることになる。上司同士がいがみ合っている現場の部下になりたい者などいないのは当然である。そして、逆にその部下の空気をふたりが察し、さらに関係が悪化し、部隊の士気が下がる、といった悪循環に陥る可能性がある。

 それらのことから、袁遺は張超との関係に気を使うし、張超は張超で実質的に部隊の運用をすべて任せている袁遺に、尊大な態度を取るわけにもいかないが、卑屈になるわけにもいかない。威厳を保ちつつも、袁遺に信頼感とある種の敬意を示さなければならなかった。彼もまた下の者たちから見られているのである。実質的に全てを他人に任せ、威張り散らす者も立場が下の者に卑屈になりすぎる者も、いわば、見栄えが良くなかった。軍だけでなく、世間一般的に見栄え(この場合、服装だけではなく、態度、姿勢、表情なども含めて)がある程度は良くないと、案外、無用な反感を買ったりする羽目になる。

 ともかく、彼らはいささか苦労を要する関係にあった。

「うん、そうか」

 張超が納得した様子だったので、袁遺は彼の配下に次の指示を与えていく。

「というわけで、これからは戦闘ではなく、軍を移動させて、戦略的優位を確保していく。雷薄」

「はッ!」

「ここ当分は戦闘がない。今のうちに投降した者たちを鍛え上げろ。少なくとも戦闘中に反抗されないようにしておけ」

「それは酷く恨まれることになりますよ」

 雷薄はその強面をどこか面白そうに歪ませながら言った。

「構わない。反抗されるくらいなら、恨まれた方がマシだ」

「分かりました。散々歩かせておきます」

「そうしろ。私と君を恨ませるのだ。得意だろ、そういうのは」

「はい」

「高覧、五〇〇を率いて先発しろ」

「はッ!」

 高覧には威力偵察を命じる。

「張郃」

「はッ!」

「兵の数は増えたが、全体の質は下がった。初戦の様な連携のとれた用兵はできなくなったと思え」

「はい」

「戦闘正面を限定するように努めて、質的不利をできるだけなくせ。いかな雑兵でも、味方があふれんばかりにいれば、それなりの働きは見せる。それと……いや、ここまで私が口を出す必要がないな。うまくやってくれ」

「分かりました」

「うん、頼んだぞ」

 この部隊で最も戦闘力を持っているのは張郃の隊であり、要でもある。

「陳蘭は張郃の補佐につけ」

「は、はい」

 実戦部隊の隊長格に指示を出し終えると次は、村との交渉のことになる。

「別部司馬殿。私と鳳統を連れ、一度村を訪れましょう」

「村を、か?」

 張超は困惑の色を浮かべた。

「だが、連中は賊を支援していたのだろう、その……」

 大丈夫なのか? とは声にしなかったが、それでも顔には出ていた。

「問題ありません。彼らはきっと歓声を上げ、我々を迎えますよ。自分たちが黄巾党とある種の後ろ暗い取引をしていたことなど一切、匂わせずに。我々もそんな事実などなく、もう大丈夫だ、あの砦の黄巾党は討伐した、安心しろ、と声をかけてやってください」

 袁遺は、いつもの無表情を通り越した無機質な顔で言った。

 事実、官軍が村を訪ねると、村長と何人もの村人が張超たちに集まり、礼を言った。黄巾党が如何に悪辣な集団であるかを訴え、それから救ってくれた官軍を称えた。

 袁遺は何も思わなかった。黄巾党を支援していた事実などないように振る舞う彼らにも。その事実を逆手に取った自身の悪辣さにも。

 彼らが自分たちの命を守るために官軍と穏健派の賊を天秤にかけたように、袁遺もまた守るべきものを盾に使うが如き行為からくる良心の呵責と危険性を天秤にかけただけだった。

 

 

7 寝付き

 

 

 夜、天幕の中で袁遺と雛里は状況を整理していた。

 まずは現在のこの別働隊がどれほどの進軍速度を持っているかの確認であった。今までも何度か言ってきたことだが、軍勢というのは一度散ってしまうと軍ではなくなってしまう。そして、再編成には、ひどく手間がかかり、下手をするとそのまま霧散しかねない。

 であるが故に行軍中は縦列の行軍隊形を組み、歩調をとって進む。もちろん、その歩幅まで定められている。でなければ、軍勢が一日にどれくらい進めるか分からなくなる。すると作戦計画も立てられない。

 そして、軍隊において、動作とは号令に対しての絶対服従の度合いである。今日も行軍中、雷薄の歩調とれ、の号令から、歩調の乱れを叱責する怒号などが響き渡っていた。中々の鬼教官ぶりであった。

「今日一日で進んだ距離はほぼ三十六里(中国では一里=約五〇〇メートル。つまり、約十八キロメートル)か」

 机の上に置かれた地図を見ながら袁遺が言った。

「よく訓練された歩兵が適切な隊列を組んで行軍した場合、一日に六十里(約三十キロメートル)進むことができるが、兵の疲労を考えて四十八里(約二十四キロメートル)に抑えておくべきというが……いや、急場の新兵教育を兼ねた行軍でこれは良くやっていると言っていいのかな?」

 袁遺はそう言って雛里を見た。

「はい、これなら出発前に立てた計画の範囲内に収まると思います。それよりも風紀の維持の方が心配です」

「それは雷薄が上手くやるだろう。あいつは、俺にとやかく言われなくてもそれぐらいはできる」

 と言うより、袁遺は言わなくても、やって当然のことだと思っていた。そして、雷薄はもとより、袁遺と付き合いの長い四人の実戦部隊指揮官たちもそれくらいのことは袁遺に言われずにやらなければ、彼からの信頼を勝ち取れないとも思っていた。袁伯業という男は、後代の言葉で言う将校という立場につく者が能力の出し惜しみをすることを最も嫌う。

「まあ、初戦でまだ体力がある状態と考慮しても合格点だな。だが、戦闘に臨む場合は二十四~二十里(約十二~十キロメートル)までに抑えるから、策を立てるときは、そのことを有意しろ」

「は、はい!」

 袁遺は雛里にそう釘を刺すと次の議題に移った。

「降伏してきた者たちに聞いたところ、彼らは張角を見ていないそうだ」

「元々、黄巾党の活動に便乗した匪賊のようでしたし、それは仕方がないにしても、本隊にいた頃の捕虜たちに聞いても会ったことがないとしか返ってこないのは、いささか気になります」

 袁遺と雛里はふたり揃って首を傾げた。

 ふたりは、あまりに黄巾党の指導者である張角の姿が見えないことに違和感を感じていた。

「こういった場合……」

 袁遺が口を開いた。

「こういった指導者が暗殺等を恐れてか、ともかく姿を隠している場合、首脳部と彼らの手足というべき末端組織に命令を伝え、統率する中堅幹部を排除するのが効果的だが……」

 アフガニスタンで各国の諜報組織が行った手法である。

 袁遺の知ってはいるが、それをどこでどうやって覚えたかわからない知識である。彼にはよくあることだった。

 トップより身の回りを警戒していられず、それなりの能力、教育、経験を要求され、下っ端より数のいない中堅幹部が組織をスムーズに動かしているのだ。彼らを排除することによって、首脳陣は下部組織の統制を失う。

「多くの賊が便乗し立ち上がった者たちばかりですし、組織だった抗争をしている者はそんな多くありません」

「それを含めても、あまりに姿が見えなさすぎる。いや、農民反乱の中期ならばこんなものなのか?」

 この大賢良師を自称する指導者の正体について、彼らは幾度も話し合ったが、結論は一度も出たこともなく、今日もまた同じだった。

 結局、この問題は棚上げされ、彼らは次の議題に移った。

「雛里、俺は穏健派の賊の懐柔には、それほど時間がかからないと思っている。君はどうだ?」

「は、はい。私もそれについては同意見です」

 雛里は答えた。

「うん。すると、我々のその後の作戦計画の大筋を立てておきたい」

「それは降伏した賊がどこまで戦えるかによると思いますが……」

「雷薄なら、少なくとも俺が指示をした戦闘中に反抗されない程度には調練できる。それを基準に考える。というより、戦闘云々は抜きに、本隊との合流時期を見定めたい」

「合流時期…」

「そうだ。今の状態は人数が多いだけの弱兵の集まりだ。下手に戦闘に突入すれば、空中分解しかねない。だが、別働隊の任でいうなら、右中郎将様が戦っている部隊の数を一兵でも少なくするべきなのだ。穏健派が降ったからと言って、早々に合流というわけにはいかない」

「お言葉ですが、我々の任務と兵の練度を考えると、穏健派からなる糧道を断ち、いくつかの小集団の黄巾賊を討った後が最も犠牲の少ない合流時期です。そんなに長く行動を続けることはできません」

「その通りだ。俺が糧道を断つ策を君に求めたとき、最も望んだのが犠牲を少なくすることだ。それに、糧を断つことで任務も達成しつつある、と言ってもいい。雛里の言い分には一分の間違いもないが、それは駄目だ」

「……」

 雛里は、何故と問わなかった。実際的な人物である彼女の主人が理から外れることをするはずがないと思ったからだ。まだ短い付き合いだが、その点において彼女は確信を持っていた。

 彼女は考える。

 袁遺が雛里の提案した時期を却下した理由をではない。彼の満足する答えをである。

 地図に目を走らせ、いくつかの地域に目をつける。

「行動範囲を限定します。本隊と合流にそれほど時間がかからず、かつ、長社に逃げ込める範囲でのみ行動し、私たちと同数、もしくは多い敵とは一度だけ戦い。その後本隊と合流します」

「……なるほど、よし、そうしよう」

 袁遺は少し考え、その案を採用した。現状、それが最も理にかなっていた。

「行動範囲は?」

 袁遺が聞くと雛里は地図でその範囲を示した。

 袁遺はそれについても注文をつけた。

「いや、そんな司隷方面に寄らなくても大丈夫だ」

「し、しかし、兗州方面の黄巾党を考えれば……」

「大丈夫だ。陳留の太守は古い知り合いだが、彼女なら自身の周辺を問題なく抑えている」

 袁遺はどこか懐かしそうな顔で言った。

 陳留郡は豫州との境の近くにあり、その周辺が安全であるなら兗州方面の黄巾党について考える必要はない。

「じゃあ……」

 雛里は指を動かし、ある範囲を示す。

「この鄢陵周辺を行動範囲とします」

「わかった」

 鄢陵は春秋時代に晋と楚が激突した場所でもある。

 これで軍議は終わった。袁遺は雛里を彼女の天幕まで送り(といっても、それほど離れているわけではない)、自身は陣中を見回った。

 あまり寒さを感じない夜だった。

 袁遺の左手は自然に腰に下げた刀にそえられていた。

 陣中には篝火が所々に焚かれ、見張りに立っている者が何人もいる。以前なら、自分の部隊、全ての将兵の顔と名前を憶えていたが、人数が増えて、それが曖昧な者もいる。そういうときに、いらん混乱が起こるものだ。用心に用心を重ねなければいけない。

 彼とすれ違った兵士が挨拶をしてきた。袁遺はそれに鷹揚に挨拶を返す。

 袁遺にとって、県尉の頃から付き合いである下士官の様な立場の男だった。皆からは(のう)(おしゃべりという意味)と呼ばれている男だ。別によく喋るわけではない。話が上手く、聞き上手であるため、彼の周りでは会話が絶えない。それ故におしゃべりという印象を持たれているのだった。

 だから、何も問題ない。

 袁遺は心の中で、そう呟き、見回りを続ける。

 糧秣を管理している天幕の前を通りかかる。

 初戦で黄巾党から鹵獲した食料は思いのほか多く。村にかなりの量を返しても、余裕がある。だからといって、所謂、ギンバイを許すわけにはいかない。

 特に時間をかけて見回る。

 その後も陣中を見て回り、彼が寝床に入ったのは、かなり後のことだった。

 袁遺は寝つきと寝起きに苦労したことは少ない。その少ない例は、戦場から帰ってきた後の少しの間だった。

 まず、寝付けなくなる。そして、眠りが浅くなる。神経が逆立っているのだ。心がまだここを戦場でないことに違和感を感じているようだった。

 次に寝起きである。といっても、目は軍の起床時間前に覚めるのである。ただ、そうやって軍に染まった自分に訳のわからない嫌悪感を感じ、惰眠をむさぼろうとするが、結局眠れず、それどころか、自身に染みついた軍人としての癖が鼻につき始める。例えば、軍靴を履いたときの歩き方、鎧を着たときの体の動かし方、地図を将の目で読んでしまう。自然に陣を配置する場所や敵の伏兵に気を付ける場所を探してしまっているのだ。それら全てに謎の苛立ちを感じる。そして、酷く情けない心持で寝台から這い出るのだった。

 戦場でいいのは、それを感じないことである。実際、袁遺はすぐに寝息を立て始め、ほとんど身じろきせずに寝、起床時間の少し前に目を覚ました。

 衣服を整えようとした袁遺は、ふと、夢を見ていたような気がしたが、その夢が思い出せなかった。

 彼の動きがほんの一瞬止まった。

「まあ、いいか……」

 袁遺は呟き、夢のことを忘却の彼方に追いやった。

 彼が支度を整え、天幕から出たときには夢のことなど、すっかり頭から消えていた。

 

 

 例え、どんな惨めな朝を迎えることになっても、袁遺は生きて戦場から帰還する。どんな悪辣な手を使ってでも。

 

 




補足

・この時代の原則として、兵站補給は全体の三~四割をあてる必要
 後にこの数字はどんどん大きくなる。火器の登場で五割になり、総力戦化、情報を有効活用するための電子装備などで、兵士ひとりを十人で支えている状態である。
 そして、これからも大きくなっていくだろう。
 
・よく訓練された歩兵が適切な隊列を組んで行軍した場合、一日に六十里(約三十キロメートル)進むことができる
 道路の整備状況と部隊の規模による。
 これも年代が進むごとに距離が伸びています。

・鄢陵の戦い
 楚と晋が戦った。晋が勝った。でも養由基すごい。だけど勝った晋の方が有利になった。これだけ覚えておけばいい。


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8 奸雄

 

 

 張超・袁遺隊の進軍目標は、朱儁本隊のそれとは反対の方向になりつつあった。

 本隊は徐々に南西に進み始めていたが、別働隊は北に進みつつあった。また、その規模も膨らんでいる。初戦で周辺で最大の勢力を誇っていた穏健派黄巾賊を撃破、併合した彼らに小規模な賊のほとんどは戦いもせず降伏。総兵力は一万二〇〇〇を超えるところまできていた。

と同時に豫州東にできていた黄巾党の糧道はずたずたに引き裂かれていた。

 別働隊の目的であった黄巾党の兵站を鹵獲、もしくは破棄すること。また、それらの行動を陽動として本隊の負担を減らすこと、の前半の部分をほとんど達成しつつあった。

 となると、彼ら、というより袁遺は一つの決断を迫られていた。

 それは、最初の投降兵と共に行軍した夜に雛里と話し合った、本隊との合流時期である。

 そのことで彼は軍議を開いた。

 天幕には別働隊首脳部の七人が集まっている。

「高覧、雷薄。降伏した者たちの練度はどれくらいのものだ?」

 袁遺は投降した賊をまとめているふたりに尋ねた。

 初めは、雷薄にその任を任せていたが、数が増えすぎたため高覧にも任を与えたのだった。

「苛烈ならざる状況において防戦に耐えうる程度です」

 高覧が切れのいい発音で答えた。雷薄もそれに同意した。

「そうか…」

 袁遺もふたりの行軍や訓練を見ていて、同じ見解だった。

 つまるところ、攻勢に投入するのは、いささか無理がある、ということだった。

「この短い期間で、そこまでの調練、よくやってくれた。ありがとう」

 袁遺は素直にふたりを称賛した。

 全くの本心であった。この短い期間で飢虎となんら変わりない匪賊を少なくとも官軍の旗の元で戦わせられるまで仕上げたのだ。並の者にはできないことだった。袁遺は少なくとも一月はかかるであろうと思ったことを半月で仕上げたのであった。

「では、これからの指針を発表する。我々は鄢陵近辺まで移動し、そこで陽動の任を果たす。なお、移動の際にその征途を邪魔するものは全て叩いてつぶす」

 袁遺はいつもの感情の薄い面持ちで言った。いつもと違う部分があれば、やや強い言葉を使ったことだった。少なくとも彼のあまり好まぬものだった。

 その言葉に事前に相談を受けていた雛里以外が凍り付いた。

 全員が少なくとも糧道を潰したとして、本隊と合流すると思っていたからである。

「伯業様、進言します」

 凍り付いた空気を最初に破ったのは、高覧であった。

「なんだ?」

「攻勢に投入できぬ部隊では、その陽動の任は果たせませぬ。速やかに本隊と合流するべきです!」

 一語一語をはっきりと発音する話し方で高覧は言った。

「この一万を活かす最もよい方法は、本隊と合流し、本隊の厚みとすることです。単独でひとつの戦線を形成、支えるには、今の部隊では力がありません」

 高覧という男は無口な男であった。

 必要なとき以外、口を開こうとしない。そして、口を開いても、無駄なことを一切言わぬ男である。そんな男が今、自分の主人に向かって洪水の様に言葉を浴びせ、調練をした自身の見解を述べ、主人の翻意を促してる。

 陣営に加わった期間が短い雛里は、その様子に驚いていた。

 彼女は高覧がこんな語れる男だとは思ってもいなかった。

 必要なときに必要なことだけをはっきりとしゃべる男は今がまさにそのとき、とその弁舌を振るっていた。

 だが、

「道理である。が、だめだ」

 袁遺はばっさりと切り捨てた。

「何故?」

 高覧が尋ねる。

「確かに我々は穏健派と呼べる黄巾党を取り除き、賊の糧道を潰すことに成功した。もちろん、それが君たち将と兵の献身と奮闘によってもたらされたものだということもわかっている。だが、何の見境もなく村々を襲う餓狼の如き賊が、まだ残っている。そんな連中が、少なくとも集団的に行動できぬようにする必要がある」

 袁遺は、やはり無表情な顔で言った。

 つまり彼が本隊との合流に反対している理由は民衆の身の安全に他ならなかった。

「というより、それは我々のなすべき仕事である」

 それが彼の筋の通し方だった。

 民に身の安全を図るために黄巾党との秘密裏な取引をさせないなら、それをさせない自らが民の身の安全を守る。

 それが袁伯業のやり方であった。

 この場の全員が彼を見た。

 人格者としての面と冷徹な指揮官としての面を持つ袁遺らしい判断だった。

「他に何かあるか?」

 今度は逆に袁遺が皆を見た。

「何もないなら、鳳統。これからの計画を説明しろ」

 彼の参謀が実戦部隊指揮官たちに彼らが定めた計画を説明していく。

 行動範囲を本隊と合流にそれほど時間がかからず、かつ、長社に逃げ込める範囲に限定すること。同数、もしくは多い敵とは一度だけ戦い。その後に本隊と合流。

 袁遺は考える。今、自分たちがいる地域で自分たちと同数もしくはそれ以上の兵力を有しているのは朱儁本隊と向かい合っている波才の軍だけである。もしくはこの近辺の黄巾党を糾合してできる集団であろう。

 そして、この集団こそが我が部隊が戦う相手になるだろう、と袁遺は予想していた。

 また、その出来上がった集団を指揮するのは誰か? それは、彼の予想通りなら、波才の下についているそれなりの地位の者が派遣されるだろう。

 それを叩けば、黄巾党の求心力は落ち、集団的な抵抗はなくなるはずだ。それに朱儁と向かい合う賊からそれなりの地位の者が消えるのは本隊の援護となる。

 問題はその糾合される数がどのくらいまで膨らむかである。だいたい、こちらの二倍近くの数になると袁遺は予想していた。

 また、指揮官となる人物が突然、地から湧いてきた場合であるが、まあ、そんな人物がいるなら、もっと早くにこちらの前に姿を見せているはずだから、あまり有意していないが、戦場では最悪のタイミングで最悪のことが起きるのが常である。そのことは雛里と話し合っておく必要があるな、と袁遺は心に留めておいた。

 頭は思考の海を泳いでいたが、耳は雛里の言葉を一言も漏らさなかった。

 彼女の説明が終わった瞬間、袁遺は言った。

「これらの旨は書簡にして、本隊に送る。張超様、書簡を書いていただけますか?」

 この部隊の名目上の指揮官であり、かつての師に袁遺が言う。

 草書の達人である彼には適任であった。

 すぐに彼は筆を取り、軍の書簡としては立派過ぎるものができた。それはすぐに本隊の朱儁の元へと届けられた。

 四人の実戦部隊の指揮官たちは行軍の準備をしに各々の部隊へと向かっていた。

「わ、わたしは、伯業様にお仕えできて本当によかったと思います」

 ふたりになった天幕で雛里が自身の主人に言った。

 袁遺が民の安全のことを考えていることに素直に感動を示している。それは彼女の美徳であるが、袁遺は珍しく意地の悪い気持ちが芽生えてきた。

「なら、俺が穏健派黄巾党を討つと言ったときは、失望したのか?」

 そう言った袁遺の顔には意地の悪い笑顔が浮かんでいた。感情をあまり表に出さない男であるが、整った顔立ちを持っている。そのためか、その手の笑みがひどく似合っていた。

 袁遺からすれば、雛里が彼女の慌てたときの口癖である、あわわ、と言いながら、謝罪じみた言葉を返してくると予想していたが、それは裏切られた。

「伯業様、お忘れになりましたか? 方針を決めたのは、確かに伯業様ですが、その具体的な作戦を立案したのはわたしですよ」

 思わぬ反撃であった。

 袁遺は、先ほどの意地の悪い笑みより珍しい驚いた顔をし、雛里を見た。

 驚いたが悪い気分ではないな……

 そう思うと、袁遺は腹の底から訳の分からない喜びが湧き出してきた。

「ならば、我々は共犯の関係にあるわけだな」

 心底、嬉しそうな笑顔を浮かべた袁遺が言った。

 

 

 一度命令が下されれば彼の部隊の行動は早い。

 ほとんど時間を要さず、張超・袁遺隊は鄢陵へと進発した。

 そして、その途上で二度、五〇〇名規模の黄巾党とぶつかったが、それは鎧袖一触であった。

 目的地に着いた袁遺は、まず、雛里を連れ、自らが三〇〇の部隊を率いて偵察に出た。起こりうるだろう決戦に備えて、その場所を自らの目で見て決めるためである。

 その後も袁遺は忙しく動き回る。

 雛里と相談し、黄巾党の動きを予想し、いくつもの策を立てておく。それと同時に高覧、雷薄の調練を監督し、そのふたりと張郃、陳蘭を交え、実戦でどれくらいの用兵が可能かを検討する。

 また、張超には敗走した場合、その逃走経路を伝えた。

 狼狽する師に対し、袁遺は無表情な顔をして、言った。

「この部隊で唯一、あなただけが死ぬことが許されぬ人物です」

 袁遺からすれば、この自身を推挙した人物は軍人などではなく、後世に今の文化を伝える文化人であった。軍人が戦場で死ぬのは仕方がないことである。だが、軍人ではない彼が死ぬことは許されない。彼には本来、なすべきことがあるのだ。

「それに勝つ算段があるから戦うのです。負けると分かっていたら、やりません。それが兵法というものです」

 そう続けて師を安堵させた。

 後に、張超は史実通りに十九篇の賦(朗誦のための文)、頌(詩の一種)などを残す。

 それだけではなく、部隊の運営の細かな指示まで出していた。

 例えば、今まで日に一食は必ず、温かい食事を兵たちに提供していたが、今は日に三度、全てが湯気を立てたものを食わせている。

 兵に温かな食事を提供することは彼らの戦闘力に想像以上に大きい影響を与える。

 軍に従軍し、そのことを肌で感じた雛里が袁遺に、何故、今まで三食とも温かな食事を与えなかったのかを尋ねた。

 袁遺は答えた。

「調理の手間を減らすためだ。竈を作り、薪を集め、火を熾すのは重労働だ。今は焼き石を使ったりして、その労力を減らしているが、やり過ぎると鍋に穴が開く。戦が終わったら、穴の開いた鍋を鋳溶かせばいいんだが、戦の途中に開けば、それは酷いことになる」

 雛里は感心してそれを聞いた。

 その他、こまごまとしたことまで、袁遺は動き回った。

 それこそが戦争に勝つための方法であると知っているからだった。

 そんな袁遺のもとに朱儁から伝令がやって来た。

 いや、やって来たというより飛び込んで来た、という方が正確だろう。

 それは別働隊の陣に飛び込むと同時に、馬が潰れ、乗ってきた本人も息が絶え絶えであった。

 彼を迎えた陳蘭が水筒から水を飲ませてやった。

 ぬるくなってしまっているそれを伝令は、一気に飲み干すと、咽た。

 陳蘭は、そんな彼の背を撫でてやり、支えながら、袁遺のもとに連れてきたのだった。

「右中郎将より伝令。黄巾党波才の部隊から五〇〇〇が鄢陵方面に向かった。追撃できず、撃破せよ、とのことです!」

「ご苦労」

 袁遺が言った。その顔はこんなときでも無表情な男であった。

「高覧、三〇〇率いて、偵察に出ろ」

「御意」

 袁遺に命じられると高覧は駆け出した。

 波才の部隊から指揮官が派遣された場合、袁遺はあらかじめ高覧に指示を出していた。

 一戦して敵の規模を測る威力偵察部隊ではなく敵の行動を詳細に監視できる通常の偵察部隊を多数派遣し、この鄢陵に蜘蛛の巣にも似た警報組織を造った。

 袁遺は五〇〇〇が五〇〇〇の内に叩く気はなかった。この近辺の賊たちを糾合させ、巨大化させた後に叩くつもりであった。

 そうするとによって、初めてこの豫州黄巾党の集団的な反乱を止めることができるのだった。

 その後、高覧から上がってくる情報によると、黄巾党は二万まで膨れ上がり、その指揮官は劉辟と黄邵であった。

 袁遺は高覧に帰陣を命じ、彼が部隊を率いて帰ってくると、あらかじめ定めた地点まで移動した。

 そこが決戦の場となるのだった。

 

 

 両軍の単純戦力比は一万二〇〇〇と二万で、1:1.67であるが、黄巾党側は兵站を完全に現地調達、つまり略奪に頼っているため、兵站部隊というものがほとんど存在せず、ほぼそのままの数字が戦場に投入されるが、官軍側、つまりは張超・袁遺隊の実戦部隊はほぼ6割の7000弱になる。

 よって、戦力比は約1:3になり、黄巾党側が攻者三倍の原則を満たす圧倒的な優位になっている。

 しかし、袁遺は雛里と相談し、地形でその差を埋めようとしていた。

 張超・袁遺隊の中備は黄巾党降伏兵を率いる雷薄である。兵は二五〇〇と一番多い数字を握っている。ただし、この軍旅に初めから参加していた正規兵と呼べる者は最も少ない。

 右備は張郃で、一五〇〇。

 左備は高覧、同じく一五〇〇である。

 袁遺の本隊が一〇〇〇。

 陳蘭は予備兵力で五〇〇と一番少ない数字であるが、全てがこの軍に初めから参加している正規兵で練度が一番高い。

 そんな彼らは丘の上に陣取り、高所を独占していた。

 ただ中備の丘は起伏が緩やかで、他と比べると平坦である。そのため、戦闘になれば、ここに敵兵が集中すると考えられている。

 なので、右備、左備は中備を援護しやすいように配置されている。

 言わば中備は蝶番の様なものである。

 つまり、官軍側は右備、中備、左備の五五〇〇が常に戦闘に参加できるが、黄巾党側には幾分かの遊兵ができ、戦力差は1:2くらいまで下がる。数的劣勢にある袁遺が、決戦兵力を増やすために非常に努力していることがわかる。

 また、どこも物資が不足している状態で、現地調達に頼った黄巾党軍は糧秣に不安があり、逆に三食温かい飯を食っている官軍兵とで士気の差があった。そのことが戦闘力に影響するとも、袁遺は考えていた。

 そして、袁遺の予想通り、黄巾党は中備に集中して、襲い掛かってきた。

 

 

 中備。

 雷薄という男にとって、『中備にて全軍を支える』という言葉は蠱惑的な響きを持って、心に迫ってくるものであった。

 彼は、「中黄太己(ちゅうこうたいいつ)」と叫びながら襲い掛かってくる黄巾党よりも匪賊らしい容姿をしていた。

 そんな顔には不敵な笑みが浮かんでいる。

 肝が据わっている彼は向かってくる敵が五倍以上いようが、冷静に間合いを測り、槍を振り上げている兵たちに、

「叩け!」

 と大音声で下知した。

 同時に軍鼓が叩かれる。様々な音が大音量で鳴っている戦場で部隊に下知するためには楽隊と呼ばれる銅鑼や太鼓を鳴らす部隊が必要である。もっとも、雷薄の声は、それを必要としない、と錯覚させるほどの大きさであった。

 雷薄の見立ては正確であった。兵たちの槍は重力に曳かれて、黄巾党先鋒の頭上へと落ちた。

 打撃。運のない者にとっては斬撃。

 ある者は肩や黄色い布を巻いた頭を打たれ、ある者は穂先に切られ、絶叫がこだまする。黄巾党の先鋒隊が乱れる。

「起こせ!」

 また、雷薄の大声が響いた。そして、軍鼓が続く。

 下知に応え、槍は再び振り上げられる。そして、再びの大音声。

「もっかい、叩けぇ!」

 二度目の打撃でも敵の戦列が乱れる。

 そこへ、左右両備からの弓矢の援護射撃が降り注いだ。

 先鋒隊の進撃は止まり、後続が渋滞を起こす。それに雷薄は満足げな笑みを浮かべ、鼻を鳴らし、また、大声で叫んだ。

「ふん、よっしゃあ! 今だぁぁ! もっかい、いくぞ。起こせ!」

 雷薄は下知し続ける。兵たちが倒され、その倒された兵の穴を埋めるだけの人員がいなくなるか、もしくは士気が低下し、戦いを続けることを兵が拒む(所謂、敵前逃亡)まで、彼は叫び続けるだろう。

 繰り返しになるが、雷薄隊と黄巾党の戦力差は五倍以上である。雷薄が隊長なだけに手勢は普通の隊より頑張るかもしれないが、戦力比では先に崩れるのは雷薄隊の方である。

 事実、彼と彼の部隊はこの戦いで二度の大きな危機に遭うのであった。

 しかし、それは仕方がないことである。

 『中備にて全軍を支える』とは、つまりはそういことであり、大きな危険を孕んでいるからこそ蠱惑的であるのだった。

 

 

 本陣。

 張超、袁遺、雛里の三人の目には前線の奮闘が写っていた。

 それに張超は感嘆の声を上げる。

「おお…やれてるじゃないか」

 そう言った顔には喜色が色濃く浮かんでいた。

 確かに、現在、前線は官軍有利に動いていたし、黄巾党側の方が多く死傷者を出していた。しかし、兵数が違うのである。

 そのため雛里は張超のように楽観視など全くしない。袁遺に至っては、中備にのみ限定すればランチェスターの法則的に負け戦をやっている自覚さえあった。

 袁遺の思考は暴走する。

 あー、このままいけば最後に立っているのは、あちらだ。いや、ランチェスターの法則の補給の点を計算に入れれば、違ってくるのか? いや、補給を計算に入れるのは第二法則の方で、第一法則ではどうだった…いや、補給は時間に対する補足だ、関係ない。違う。あ、いや、補給はクラウゼヴィッツの攻撃限界点だったか。それならいいのか? いや、そんなことはどうでもいいんだ。そもそもこちらは三方向から叩いて一騎打ち的状況ではないから、第一法則に当てはめるのは不適当だ。いや、もうどうでもいい。黄巾党共は、全く自軍の損害を考えずに、攻めてきている。確かに、中央に敵が集まるのは予想していたし、それについて手は打った。今、目の前の光景は俺の予想から何一つ外れていない。しかし、焦れる。

 顔はいつもの無表情だ。だが、戦場ではその顔が泰然とした余裕を見せ、何かを超越した雰囲気を漂わせ、兵たちを落ち着かせていた。袁伯業という男には今この状況も彼の掌の上で戦場の全てを見通し必勝の策をめぐらせている、と兵は信じ込んでいた。

 実際のところは袁遺の策は単純なものだった。

 相手の攻勢限界点まで耐えて、陳蘭の精鋭五〇〇で敵首脳部を叩く。

 それだけだった。というより、攻勢に投入できない部隊を抱える彼にはそれ以外の方法を取りようがなかった。

 再び袁遺は思考の海を泳ぐ。

 いっそのこと、黄巾党が、こちらの中央の備えを警戒し、左備、右備のどちらか端から攻めてくればよかったのだ。そうなれば、兵の展開できる範囲は限られている。だが、この様子じゃあ、黄巾賊共は兵を湯水の如く投入するだろう。そうすれば、大きな混乱が起き、こちらが首脳部を叩きやすくなるのに。

だが、現実には、そうなっていない。つまりは、どうしようもないことだった。

 ちなみに、袁遺が黄巾賊を指揮していたならば、左備を集中的に攻めていた。もちろん投入する兵を絞ってである。中央より他部隊からの援護を受けず、左備を崩せば、右備も自然と下がらなければいけない展開が作れるからだ。もっとも、それは兵糧が潤沢にあり、十分な補給を受けられる前提があってこそである。だが、袁遺が兵を率いるということはその点には何の心配もいらなかった。この男の真骨頂は、兵に安心して戦わせるだけの食料と武器を整える兵站能力と脱落者を出さずに兵を進ませる行軍能力であるからだ。

 もちろん、これは無意味な仮定であった。だが、この仮定と同じくらい無意味なものが袁遺の思考の暴走である。といっても、現在、彼には、自分が慌てていないということを兵に示すか、思考を遊ばせるくらいしかすることがなかった。

 そうこうしている内に中備・雷薄隊に一度目の危機が迫ってきていた。

 黄巾党側も焦れてきていたのだ。

 前線の膠着を打破するために、黄巾党の指揮官である劉辟が兵を率いて、前線へと上がってきたのだ。

 効果は絶大であった。

 乱れていた隊列は回復し、黄巾党側に勢いが戻る。

 となると、袁遺は一つの判断を下さなければいけなかった。

 自身が一〇〇〇を率いて中備に向かい、雷薄を援護。雷薄には兵を下がらせ、一度陣形を整わせる。

 だが、袁遺はそれを行わなかった。

 この戦でそうしなければいけない場面は必ず来る。必ず来るが、それは今ではない。

 袁遺の頭に、本当にそうか? 今の余力がある状態で一度下がらせた方がいいのではないか? そんな自問が浮かぶが、それを抑え込む。

 中備では雷薄が今までよりも大きな声を張り上げていた。

 その声は戦場の喧騒を超えて、本陣の袁遺たちの元まで届くほどだった。

 だが、兵を叱咤し続ける雷薄も内心では、焦りを感じていた。明らかに黄巾党の圧力が増したからである。

 そんな雷薄を救ったのは左備の高覧であった。

 

 

 左備。

 この戦いで黄巾党指揮官・劉辟に間違い、もしくは不運があったとすれば、左備に寄り過ぎていたことである。

 高覧はそのことを確認すると、すぐに動いた。

 中備への援護射撃の指揮は、この軍旅に最初から従軍していた最も信頼できる者に任せ、自身は正規兵を中心とした五〇〇を率いて逆落としに突っ込んだ。

 そのことに劉辟は気付くのが遅れた。それが致命的だった。

 突如の左側からの横撃は、それがたった五〇〇名によってもたらされたものでも、回復していた戦列を乱すには、十分なものだった。

 奇襲となった横撃により高覧は自身が斬った三人の返り血で全身が汚れた。

 だが、そんなことを気にしている場合ではなかった。

 というのも、彼が率いている五〇〇、その中の最初から従軍している、謂わば、正規兵が、敵の隙を見つけるとそこへ突っ込んでいった。そして、それに気が付いた他の正規兵が降伏兵を率いて、それに続き、突破口を拡張という戦術運動を行い黄巾党に強引に食い込んでいく。

 まったくもって頼もしい連中である。高覧は素直に感動していたが、それとはまた別の面で冷静だった。後代の言葉で下士官という立場の正規兵に一〇〇名を任せると、撤退地点を確保しておけと命じる。そして、自身も敵陣を切り進む。

 戟で相手の頭を叩き潰す。その横では降伏兵がふたり、喉と腹を刺されて絶命するのが見えた。

 それでも高覧とその部隊は冷静である。高覧を中心に、彼らは暴力の奔流となって暴れた。

 たかが五〇〇名の部隊であったが、左備に寄り過ぎていた劉辟はその奔流と肉薄する羽目になった。

 高覧が劉辟の前に立ったとき、先に動いたのが劉辟であった。

 一閃。

 横なぎに放たれた一撃を高覧は難なく躱す。

 空を切った刃が翻り、袈裟掛けに高覧へと襲い掛かるが、高覧は、その一撃を戟で弾いた。

 弾かれた劉辟は、怯んだ。それが大きな隙となった。高覧はその隙を見逃す男ではなかった。

 戟を劉辟の首へと叩き込んだ。

 柄を握る手に劉辟の頸骨が砕ける感触を感じる。血が噴き出す。首は落ちることがなく、首の半分程の所で刃が肉と骨に食い込み、戟が抜けなくなった。

 高覧は戟を諦め、剣を抜き、叫ぶ。

「敵将は討ち取った! 撤退しろ!」

 高覧は一〇〇名に守らせていた撤退路から左備へと脱出した。

 見事な用兵であったが、突撃した五〇〇名の内、九〇名が死亡、もしくは行方不明だった。

 高覧は確かに敵将を討ち取り、中備の危機を救ったが、それは一時的なものであった。むしろ、黄巾軍は劉辟を失ったことに発憤して、勢いを増したといってもいい。

 中備・雷薄隊の二度目の危機は、一度目の危機のすぐ後に訪れた。

 

 

 中備。

 雷薄隊の限界が見えていた。

 すでに力闘は二時間半にも及び、疲労は頂点に達し、兵たちは立っているだけでやっとであった。

 にも関わらず、今も槍を上げ下げしている。奇跡である。

 その奇跡は声を嗄らしながら兵を叱咤激励している雷薄が起こしたものであった。

「おめぇら! 気ぃ抜くな! 振れぇ! 振れぇぇぇ! 見せろやぁぁ!」

 そんな罵声と何ら変わらない下知を聞くたび、疲れ切り、膝をつく元黄巾賊の兵たちは、

大哥(アニキ)大哥(アニキ)!」

 と狂した声を上げ、隊列に復帰し、槍を振るうのである。

 雷薄の持つ野蛮な陽気とでも言うものが兵たちを狂気へと駆り立てていた。

 それは狂信の黄巾党に何ら負けない狂気であった。

 だが、それも限界であった。

「こりゃあ、だめだ」

 雷薄は思わず呻いた。彼にも、もう余裕はなく、思ったことを考えなしに口にした。それは将ならば、兵の前で言ってはいけない言葉であった。

 その言葉通り、前線が崩れ始めた。

 それを見た雷薄は叫んだ。

「おめえら、下がれ! 撤退し、伯業様に従え!」

 彼は自分の主が、この前線の崩壊の前兆に気付くと同時に行動を起こすことを全く疑っていなかった。であるなら、袁遺は今、前線へと向かっている途中のはずだ。ならば、自分の役目は味方は一兵でも多く生き残らせ、敵は一兵でも多く殺すことであった。

 雷薄は駆けた。

 と、同時に自分に続く者が複数いた。それは彼の言うことを聞かなかった兵たちである。喜ぶことなのか、怒ることなのか、そんな兵は少なくなかった。彼らは雷薄と共に黄巾党軍へと突撃した。

「俺の手勢はよぉぉぉぉ…」

 それに対して、雷薄は叫んだ。

「可愛いじゃねぇかぁぁぁぁ!!」

 それを聞いた兵のひとりが雷薄を追い越し、敵の頭を叩いて砕き、敵に頭を砕かれ死んだ。

 

 

 本陣。

 袁遺は中備、前線が崩れるのが避けられない未来だと感じた途端、叫んだ。

「陳蘭、以後、雛里の指示に従え! 先生はこのことを文書に残してください! 袁遺隊、我に続け!」

 そのまま彼は本陣を飛び出した。

 雷薄の期待通り、袁遺は前線の立て直しの援護に向かったのである。

 袁遺隊が前線に到着したのは、雷薄が駆け出したときであった。

 袁遺は、混乱している兵を収容すると同時に、取り残された兵の救出を行った。

 今この場で、孤立しながらも抵抗している者は勇者で英雄である。そんな者たちを救うことに何の躊躇いもない。もちろん、それには彼自身も参加した。

 救助された者の中には雷薄もいた。

 彼は顔に布を当てていた。その布は血で赤く染まっている。顔を大きく切られたらしい。

「男ぶりを上げたな、雷薄」

 袁遺はわざと明るい声を作り、軽口を叩いた。雷薄には神妙な顔をするより、こういった態度の方がいい。そう判断したのだった。

「伯業様は真似しないでください。その綺麗な顔に傷が付けば、世の女子がお嘆きになります」

 雷薄もそれを察してか、軽口で答える。

「うん、思ったより元気があるな。ならば、私が支えている間に兵を再編しろ。これより、私の指揮下につけ。中備を支えるぞ」

「はっ!」

 雷薄は、まだそんな元気があるのか、と感心するほど、生気に満ちていた。

 だが、それは戦場でアドレナリンが過剰分泌されているだけで、外面通りに取ってはいけないと、袁遺は自身を戒めた。

 袁遺が手勢を使って前線をなんとか支えている間に雷薄は部隊を立て直す。雷薄の手勢は一四〇〇まで減っていた。これは後代の言葉で全滅(全体の四~五割(組織によってこの数字は異なる)が戦闘不能で、組織的な戦闘が不可能になる状態。もちろん、文字通り最後の一兵まで戦い続けた例も歴史上ある)であった。

 それでも中備が突破されなかったのは、命を捨てる覚悟で前線を支えた雷薄と彼に続いた者たち、そして、孤立しながらも抵抗を続けた者たちのおかげであった。

 これで中備は、二四〇〇と数字の上で言えば最初と大きく変わっていないものになったが、一度、疲れ切り、隊列を乱した兵である。二時間半前と同じことができるはずもない。

 だが、それは黄巾党も同じことであった。

 官軍中備の突破という虹を見た黄巾党指揮官・黄邵は増援を前線に送り込んだが、袁遺の救援により、それはできずに終わった。

 その結果、黄巾党側の前線にも混乱が起こっていた。

 互いが救援と増援を送り込んだ結果、もみ合うような乱戦が発生し、双方が混乱したのだった。

 その混乱から官軍側は復帰しつつあった。袁遺の素早い対応の成果である。

 黄邵は悩んだ。今、こちらが有利だが、この混乱を収拾し、もう一度、敵の中央に突進させなければ、こちらが崩れる。

 官軍別働隊がこの近辺で集められた兵糧の殆んどを鹵獲もしくは破棄したため、兵は空きっ腹を抱えて戦っている状態である。一度でも止まれば、もう二度と動けないだろう。

 だが、そんな思いとは裏腹に体は動かなかった。

 何故なら、同じように前線の混乱を収めようと上がった劉辟が敵に討ち取られたからだった。

 怯えているわけではない。だが、自分が同じ轍を踏めば、間違いなく負ける。しかし、今、行かなくても負ける。ならば、行く。

 一度決断すれば、黄邵は素早かった。

 彼は前線へと上がり、混乱の収拾へと乗り出した。

 それを待っていた者がいた。

 本陣の雛里である。

 彼女は陳蘭に命じ、予備兵力を出す。

 本来、指揮権のない参謀ができることではないが、袁遺が本陣を出る前に陳蘭を雛里の指揮下に置き、そのことを張超に文書にして残させた。よって、それが可能となった。

 陳蘭には、そのことに何の反感もなかった。袁伯業という仕えにくい主に対する彼の処世術は、徹底的な服従であった。彼は自分の主である袁遺に、どうやってもこの人には敵わない、という思いを抱いている。そして、この人は腹に一物を持つ人物を絶対に許すはずはない、と確信していた。であるからこそ、彼は徹底的に従う。それも、主に二心など絶対にありえないと思わせるほどに。

 故に、袁遺の指示を受けた雛里は彼の代理人であった。そんな彼女の命令に陳蘭は動いた。

 もちろん、愚直に敵陣に突っ込むような真似はしない。

 陳蘭は、まず、右備の張郃隊の援護を受けられる位置まで移動する。この戦いで一番被害を受けていないのは、予備兵力を除けば、彼の部隊だったから、一番強力な援護を受けれるだろう。

「右が薄いぞ、行けー!」

 彼は敵のわずかな隙を見つけるとそこへ向かって突っ込んでいった。

 それと同時に、張郃隊から、その部分へ矢が放たれ、さらに隙が大きくなった。

 陳蘭は、その不器量な風采からは想像できないような隙のない機敏な動きで、黄巾賊の兵を断ち割っていく。

 彼は冷静だった。黄巾党の後先考えない勢いは確かに脅威だが、微妙なところで統制が取れていない。その隙を上手くついた用兵であった。

「行けるぞー! 押せ! 抜け! 」

 陳蘭は何か効果のありそうな勇ましい言葉を思いつく限り叫ぶ。もちろん、この乱戦の中で部隊全てに聞こえるはずはない、彼は自分自身を鼓舞するためにも叫んでいた。

 彼は自分の部隊がこの戦を決める部隊であることを確信していた。自分がこの部隊を抜き、黄邵を討ち取れば、少なくとも別働隊の戦いは終わる。

「直れ! 見せろ! 行けや!」

 黄巾党指揮官・黄邵は、絶叫し自身に肉薄する陳蘭を見て、部隊を一旦下げる決意をし、どこまで後退するかを確認しようとし、それを見た。

 

 

 黄邵は正史・三国志においては曹操旗下の于禁に討ち取られ、三国志演義では同じく曹操旗下の李典に捕らえられ、処刑されている。

 故、それが彼の目の前に現れるのは、ある意味、必然であったのかもしれない。

 袁遺は中備でそれを見た。黄巾党軍の後方に、はためく旗を。

 それは青地で曹の文字が記されている。

 袁遺はその軍旗を掲げる隊が誰によって率いられているか、知っていた。

 曹の旗を掲げる部隊は黄巾賊を次々と屠っていった。張超・袁遺隊と一戦交えて疲労しているということを差し引いてでも、かの部隊は精強であった。

 彼女の気質をそのまま表したような部隊だ。

 袁遺はそう思った。

 彼は周りを見る。

 部下たちは味方と思われる部隊の出現によって、勝利が転がり込んだことを確信していた。だが、彼らは喜びを表すより、虚脱しきっていた。無理もないことであった。

 袁遺は再び、戦場に視線を移す。

 黄邵が討ち取られていた。

 ああ、あれは確か彼女を慕う姉妹の姉の方だったな。

 なんてことを考えていた。

 黄巾党は集団の体をなしていなかった。

「左備、右備、本陣に伝令を出す。雷薄は治療を受けろ」

 袁遺が言った。

 彼は張郃と高覧に戦後処理を任せると同時に雛里を呼び寄せた。

 援軍に来てくれた部隊の隊長、古くからの知り合いに挨拶に行くためであった。

 最後に会ったのはいつだったか…そんなことを考えていると雛里がやって来た。

「ご無事ですか、伯業様!?」

「大丈夫だ。今から援軍に来てくれた部隊の隊長に会いに行く。雛里も来てくれ」

 そんな会話をしてから歩く。

 少し歩いてから気付いた。彼女が馬でこちらに向かって来ている。

 金色の美しい髪を左右に結びロールを作っている。整った顔立ちからは、知性と品性、そしてなにより覇気を感じる。

 陳留の太守であり、袁遺の従妹である袁紹とは友人の様な犬猿の仲の様な不思議な関係をしている。

 袁遺を助けた部隊の隊長、曹孟徳は不敵な笑みをその美貌に浮かべ、袁遺に言った。

 

 

「余計なことをしたかしら、伯業」

 




補足

・劉辟
 黄巾党の頭目のひとり。
 正史では何度か名前が出てくるが、于禁にやられていたり、曹仁にやらていたりするよくわからない人。同姓同名とする説と名前を間違えたとする説がある。
 演義では高覧と一騎打ちをし、三合以内で倒されている。
 なお、高覧はその後で趙雲にやられて以後出番なし。
 でも、この作品では、ちゃんと出番がある。
 出番が増えるよ。やったね、高覧ちゃん。おいやめろ!

・ランチェスターの法則
 戦争における人員の損害(つまり、自軍の戦闘力)を出す方程式。
 第一法則は弓や槍などの火器を使用しない戦争。第二法則は火器を使用する戦争。
 袁遺はランチェスターの法則的に負け戦をやっている、と言っていたが、実際は、人数が少ないとは言え、三部隊が一部隊を囲んで叩いていたから、そもそもランチェスターの法則に当てはめるには、ちょっと無理がある。まあ、思考が暴走していたからしょうがない、ということにしておいてください。
 てきとうで申し訳ありませんが、本当に詳しく知りたい人は、そう言ったサイトなり本なりを調べてください。

・クラウゼヴィッツの攻撃限界点
 攻撃によって得られる優勢の限界。
 攻撃側は、時間と共に戦果を増やしていくが、同時に戦闘力を減らしていく。
 その原因は、人員の損耗などが挙げられるが、まあ、つまり、攻撃側は始めは有利だが、途中で防御側と有利不利が入れ替わるから、有利なときに講和を結ぶなりして、勝利を確定しろ、て話。

・後代の言葉で全滅
 組織によって割合は異なるが、攻撃側か防御側かによっても異なる。基本、防御側の方が大きな数字になり、攻撃側は小さな数字になる。
 定義づけと演習や作戦を立てるときの目安であり、実際は、その数字を超えても戦い続けられる。だが、攻撃力にしろ防御力にしろ効率性は減少するので、常に同じ戦果を発揮できるとは限らない。



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9~11

9 始皇帝評、もしくは組織論

 

 

「始皇帝が死んだのち、秦が間もなく瓦解したのは必然です」

 袁遺がそう口にしたとき、曹操が顔をしかめた。

 儒教が正学とされる漢帝国とそれを継いだ後漢において法家国家で焚書坑儒を行った始皇帝が高く評価されることはない。その漢帝国自体が秦を倒しできた国であるから、自身を正当化するために始皇帝を暴君と強調する風潮がそれを加速していた。

 そして、その言葉を口にしたのは儒家から高く評価されている袁遺である。

 となると、次に口から出てくるのは、前漢から続くカビの生えた儒家が考える秦崩壊の要因とされる儒教の迫害についてと儒家に媚を売るための始皇帝の批評だろう。

 曹操はそう思い、うんざりした。

 袁遺とは彼女の知り合いである袁紹によって引き合わされた。

 袁紹の従兄であるという彼のことは少しは耳にしていた。優秀な人物であり、努力家であると噂されているためであった。

 だが、どうやらこの男も袁紹同様、莫迦であるらしい。それも袁紹とは違った方向で莫迦なのだ。

 しかし、次に袁遺の口から出た言葉は彼女の予想とは違うものであった。

「始皇帝があまりにも偉大過ぎる故、秦の全ての組織機能を担っていた結果、あらゆる部門が弱体化し、その死に対応する能力がなかったからです」

「……詳しく話しなさい」

 袁遺が曹操に語った内容は後代の言葉でいうところの、組織論や組織科学と呼ばれるものであった。

 組織とは、命令を下部に伝え目的を達成する部門、その部門に適切な助言を与える部門、そして、その二つの部門が誤った方向に行かぬよう監視する部門を持つ。

 始皇帝は高い能力を持っていたが故に、その三つを一身に担った。

 というのも、始皇帝しかり、信長しかり、ナポレオンしかり、この手の英雄にして天才が組織の頂点に立つのが合理的だからである。

 だが、これらの組織は短命なのが常であった。彼ら英雄が死ぬ(もしくは敗北する)と残された組織にその死が原因で起こる混乱を乗り切るだけの力がないからだ。国家に限らず、会社で考えてもいい。偉大な創業者が死んだ後に経営を傾ける会社は少なくない。

 ちなみに、史実の曹操はこれには当たらない。彼の国、魏は所謂、清流派知識人たちが一種の参謀軍団を形成していたので、命令を下部に伝え、目的を達成する部門のライン部門とライン部門に適切な助言を与える部門のスタッフ部門のラインアンドスタッフの組織形態に近い。というより、ラインアンドスタッフが軍隊の参謀組織の働きを参考にして生まれたものである。

「つまり、あなたは、適切な助言を与える部門が大切だと言いたいわけね。高祖を補佐した張良や蕭何のような」

 曹操が言った。

 曹操は袁遺の評価に慎重であった。

 確かに、世の腐れ儒者とは違う始皇帝評を持っているようだが、適切な助言を与える部門が大切だと言いたいわけなら、例に挙げた張良、蕭何の主君である高祖・劉邦が皇帝とはかくあるべしとされている理由のひとつである。つまり、徳のある主君を賢臣が支える、といった構図である。この構図は、後の中華でも永く、理想の君臣の関係として語られる。それをもったいつけて言っただけのことで、そうなると目の前の男は、やはり、ただの莫迦ということになる。

 だが、袁遺は再び曹操の予想を裏切った。

「いえ、違います。それら三つの組織が相互補完しているのが、重要なのです」

 天才がライン部門の頂点に立ち、全権を振るった結果、その天才の死によって組織が崩壊する。

 だが、秀才の集団が強固なスタッフ部門を形成し、強い力を持ったときに起こるのも崩壊である。スタッフ部門はライン部門の命令系統に属されていないため、無責任な暴走を始める。具体的な例を挙げるならば、大日本帝国の大本営(厳密に言うならその参謀部)だ。その結果の太平洋戦争の敗北と帝国の崩壊である。または、戦争の天才(異論がある人もいるかもしれないが戦場では軍神であったことは疑いない)ナポレオンを打倒したプロイセン(ドイツ)参謀本部だ。ナポレオンを敗北に追い込み、その後も普墺戦争、普仏戦争でその有用性を示し続けた結果、力をつけ、首相や国会でさえコントロール不可能になり、それがかの国の第一次世界大戦の敗北の原因のひとつに数えられることもある。

 このスタッフ部門の暴走を史上最も手っ取り早く解決した人物がいる。ソ連独裁者のスターリンであり、その手段とは大粛清である。むろん、スタッフ部門が弱体化したために、独ソ戦の前半で苦戦し、結果としてソ連崩壊につながる。そう考えると荀彧の空箱が事実だとすると、それは曹操なりのスタッフ部門の暴走への対処法という見方もある。

 では、監察部門が肥大化するとどうなるか。それは現代(正確には60年代以降)のいくつかの組織が陥っている状態になる。

 常に監視されることは不信が物事の根底にあり、雇い主から信用されていないと感じる組織構成員のモチベーション、およびモラルの低下を招き、何事も事なかれ主義に陥り、誰もが積極的な行動より保守を第一とする。となると組織自体の行動方針が曖昧になる。結果、何事も非効率化する。これは国家、軍隊、企業すべてに起こりうることだ。

 袁遺が語ったのは、二〇〇〇年以上かけて人類が体験してきたことの要約であった。つまり、天才を頂点とするライン部門の弊害。それを解決するために強化されたスタッフ部門の暴走。そして、それを抑制するためによって起きた監察部門の肥大化の三つである。現在、人類は、この三つの組織のバランスの最適解を見いだせていない。

 もちろん、これらのことをそのまま語ったのではなく、歴史やカタカナ語を使わずに言っている。

 袁遺の話を感心したように聞いていた曹操は、聞き終わった後で、袁遺に言った。

「………どうやら、あなたは世間で言われている人物とは、ずいぶん違うようね」

「良識と常識は全く違う問題ですので」

「良識と常識?」

「良識は、人はどのようにして生きるか。常識とは、人が生きるには一日どのくらいの飯を食べ、水を飲めばいいか、ということ。今の始皇帝の評は良識に偏り過ぎています」

「………」

 曹操は袁遺という男を測りかねていた。

 ただ、

「何故、あなたが儒者から高い評価を受けているか疑問に思うわ」

 という言葉が出てきた。

 袁遺はただ静かに笑っているだけだった。

 曹操は宦官の孫ということで人によっては、邪険な態度を取られることもあったが、袁遺は曹操に対しても丁寧な態度を取っていた。

 彼女は、何故、そういう態度を取るのか、一度、袁遺に尋ねたことがあった。

 彼に言わせるならば、曹操の祖父にあたる曹騰は四帝につかえ、養子を取り、曹家を残すことを許された人物であり、ただの宦官とは違うということであった。そして、曹操にも丁寧な態度をとるのは、袁紹の亡き親は自分の父の兄であり、その兄を父はとても尊敬していたようで、自分もその娘たる袁紹に丁寧な態度をとるのは当たり前で、なら、袁紹の友人の曹操にも同じ態度を取るのは当然のことである。

 曹操はそう言われた。

 いつしか、ふたりも友人と言ってもいい関係になっていた。曹操が自分の真名を袁遺に預けたのだ。

 後年、彼らは、このとき話した始皇帝評というか組織論のことをふたりは覚えているが、何故、始皇帝の話になったのか、ふたりとも覚えていなかった。そして、ふたりで記憶を辿ったが思い出せず、笑いあったことがあった。その後、ふたりは長い間会わず、彼らが再会したのは、この黄巾党との戦いであった。

「余計なことをしたかしら、伯業」

「いえ、援軍、感謝いたします。曹騎都尉」

 

 

10 天に昇る気持ちと地に沈む気持ちを同時に与える感情

 

 

「雷薄、お前、ますます山賊にしか見えなくなったな」

 張郃が雷薄に言った。

 彼の右頬には大きな傷を縫った痕ができていた。先の戦いでできた傷である。

 張郃、高覧、陳蘭の三人が雷薄を見舞いに来ていたのだった。

「うるせぇ! 大体、俺たちの中で顔が自慢になるのは伯業様以外いねぇじゃねぇか!」

 雷薄が、そう怒鳴りながら返すも、彼らの付き合いは長い。これくらいの軽口のたたき合いはあいさつ程度のことだった。

「いや、洛陽にいるあいつも…」

「あの男のことは言うんじゃねぇ!」

 張郃が反論しよう口を出したが、それは軽口を超えた失言となった。

 張郃も、しまった、と思ったが、覆水盆に返らず。場に緊張が走った。

「ともかく、よかったじゃないか。死ななくて」

 それを察した善人なところのある陳蘭が彼らの間に入った。

「ああぁん! それより、おめぇも敵将を討ち漏らしやがって、手柄が取られちまったじゃねぇか!」

 しかし、雷薄の矛先が陳蘭へと向いた。

「い、いや、それはその……」

 陳蘭が申し訳なさそうに小さくなる。こうなると、人の良い陳蘭をいじめているようで、雷薄はバツが悪くなり、話題を変える。

「まあ、いいけどよ。それで、どこの部隊だったんだ、ありゃあ?」

「騎都尉の曹操殿だ」

 高覧が答える。

「曹操………ああ、陳留の太守か」

「そうだ」

「なんで陳留の太守がこんなとこまで出張ってきてんだ?」

「それを今、伯業様が聞いている」

 そうか、と答え、雷薄は自分の頬の傷が痒くなってきたことに気付いた。だが、掻くわけにもいかない。我慢するしかないのだ。

 彼らが別働隊の任務に就いてから感じたことのない穏やかな空気があった。

 実戦部隊の隊長四人は、黄巾賊との戦いで一つの山場を越えたことを実感していた。

 

 

「そう、あなたたちも賊の糧を断っていたのね」

 袁遺が別働隊の今までの経緯を曹操に説明していた。地図には、その経路が示されている。それを曹操の傍らの猫の耳の様な突起がある頭巾を被った少女が熱心に見ていた。

「私たちも似たようなものね」

 曹操が言った。彼女たちもまた、黄巾党の兵站の危うさを感じ、輸送部隊や集積所を襲撃し、糧道を潰していたのだ。

 だが、袁遺は違和感を感じていた。嘘は言っていないが、何かを隠している。

「陳留の周辺の賊を片付けた後、豫州で予備戦力である別働隊が投入されたと聞いて、苦戦していると思い助けに来てみれば、率いているのがあなただったとはね」

「いえ、隊長は別部司馬の張超殿です。私は補佐をしているにすぎません」

 袁遺が訂正したが、曹操は異を唱えた。

「書家として張超の才は認めているけど、将としては話にならないわ。どうせ、あなたが指揮を執っていたのでしょう」

 その言葉に袁遺は困ったような曖昧な笑みを浮かべることしかできなかった。自分の書の師を貶める様な評価を肯定することは袁遺にはできなかった。

 ただ、別働隊が投入されたことを知って曹操が動いたのなら、雛里の策が的中したことになる。それを袁遺は傍らで緊張した面持ちの少女の功績の一つとして記憶に留めた。

「それで、あなたは、これからどうするつもり?」

「別働隊の任務を達成したものとして、右中郎将様の率いる本隊と合流します」

「それじゃあ、豫州の黄巾党平定の目途はたったということね」

「趨勢がこちらに少し傾いた。その程度のことです。まだ、予断が許される状況ではありません」

「あなたは相変わらずね。都のことを何か知っているかしら? 確か、冀州で黄巾党と戦っていた盧植が罷免されたらしいじゃない。賄賂を贈らなかったとかで」

「いえ、初耳です。洛陽には部下がひとりおりますが、別働隊の任を受けてから間もなく連絡が一度来たのみで、古い情報しか持っていません。そのときは社稷が、だいぶ焦れている、と書かれておりました」

「ふーん…」

 曹操は何かを探るような目で袁遺を見つめる。

 それに対して、袁遺は相変わらずの無表情であった。

 曹操は思う。この男の目は、相変わらず、読みにくい。

 小さな瞳の三白眼は、あまりにも無機質だった。

 そのまま袁遺を見ていた曹操が

「伯業、ふたりだけで話せるかしら?」

 と言った。

 袁遺が返事をする前に、曹操の傍らに仕えていた頭巾を被った少女が叫んだ。

「華琳様! こんな男…」

「黙りなさい。桂花」

 それを曹操が諫めた。

 叫んだ少女、桂花―――荀彧は男嫌いであり、主人である曹操のことを敬愛していた。百合の花を咲かせる程に。であるから、そんな主人が男とふたりっきりで話すなど我慢のできることではなかった。

 だが、その相手は袁遺である。この無表情な男は、名門袁家の者であり、世の儒家から高い評価を受けている。そんな男を罵倒しようものなら、面倒なことが起きる。

「伯業、荀彧が失礼したわね」

 曹操が、桂花を黙らせ、袁遺に詫びる。

 彼は、逆に遜り、荀彧の方を向き言った。

「荀と申されるということは、かの『神君』の縁者の方でしょうか。それは、こちらも大変な失礼をしました」

『神君』とは彼女の祖父にあたる荀淑のことである。儒学に精通し、清廉な道を貫いたため『神君』と呼ばれ尊敬を集めていたのである。

 荀彧の家柄は袁遺のそれに、何ら劣るものではない。故、彼女が袁遺に礼を失しても、それほど大きな問題にはならないが、彼女が曹操の部下であるということが問題である。上にも述べたように、宦官の孫ということで、曹操は余計な侮りを受けることもあった。また、彼女自身も官職につく前のやんちゃ、とでもいうべき振る舞いで評価を下げた部分もある(それについては袁遺の従姉である袁紹にも同様なことが言えるが)。であるから、曹家は袁家より下であると見られていた。その下である曹家の部下が、袁家の者を侮蔑するのは両家の確執に発展しかねない。曹操はそれを嫌っていた。いつかは、袁家の者の誰かとぶつかるだろうが、今はそのときではない。彼女はそう胸に秘めている。

 主人に戒められた荀彧は引き下がり、天幕から出ていく。袁遺もまた雛里に、先に部隊へと帰っていなさい、と退出を求めた。

 天幕にふたりだけになり、袁遺が口を開いた。

「曹騎都尉、ふたりで話したいこととは何でしょう?」

 その彼の言葉に曹操は、不機嫌さを隠さなかった。

「伯業、そんな話し方はやめなさい。あなたには真名を預けたはずよ」

「申し訳ない。華琳」

 袁遺の顔は相変わらず無表情であったが、彼の遜った言葉にあった緊張感の様なものが取れていた。

「それでいいわ。伯業……あなた、何か隠しているわね」

 曹操―――華琳はどこか楽しそうに言った。

「それは君も同様だろう、華琳」

 対して袁遺は無表情だ。

「洛陽で何かがあったんでしょう……いえ、何かさせてるのね」

「君たちが糧道を潰しているのは、何か別の目的があったからだ。君の軍師は、何かを割り出すように地図を見ていたぞ」

 ふたりはお互いを見つめる。互いに何かを探り合っていた。

 しかし、ふたりには明確な違いがあった。

 曹操は自身の能力の高さと気高い精神性から、自身が認めた相手との戦いを楽しむ性質がある。対して、袁遺は問題全てを常に原則化できるほど単純化して考える。つまり、曹操にとってこれはある種のゲームであり、袁遺にとってこれは作業であった。

 故、彼らの根底にあるものは全く違うものである。

「ふん、いいわ」

 先に引いたのは曹操であった。

「いいのかい?」

「話さないと決めたら、あなたは絶対に話さないでしょうからね」

「そうか」

 袁遺の表情にわずかに柔らかなものが宿った。

 それは曹操がこの男、袁遺の最も嫌いな部分であった。

「なら、もう行くわ」

 だからと言って、怒鳴り散らすような真似はしない。彼女はその顔を遠ざけるように彼に別れを切り出す。

 袁遺は立ち上がり、姿勢を正し言う。

「曹騎都尉。ご助力、感謝いたします。その旨は右中郎将様にも報告させてもらいます。御武運を」

 彼は礼を取り、天幕から出ていく。

 その後ろ姿を見送った華琳は、昔のことを思い出していた。

 あの顔……

 かつて、彼女は無頼を気取っていたことがある。友人である袁紹にしてもそうだった。彼女たちが何か悪さをするたびに袁遺のあの顔を見た。あの感情をなかなか表に出すことのない男が見せるその顔にあったのは慈愛であった。

 その顔と同じ顔をする者がもうひとりいた。それは彼女の祖父である曹騰だった。

 彼女は祖父のその顔を見るのが好きだった。だが、袁遺がするのは嫌だった。そして、一度、彼女と袁紹が途方もない問題を起こしたときに、袁遺がそれを揉み消したことがある。そのとき、彼に訳の分からない怒りを覚え、八つ当たりしたことがあったが、それでも彼はその顔をしていた。

 だが、今は、かつてほど怒りを感じなくなった。

 それは、彼女が陳留の太守になったときである。袁遺に出仕を求めた。

「華琳。ありがたいが、その話、断らせてもらうよ」

 だが、袁遺は断った。

 彼の才能と能力を高く評価して、必ず役に立つと出仕を求め、断られた。

 普通なら、怒りや悲しみの感情が浮かぶはずだが、華琳の胸にあったのは喜びの感情であった。

 彼の才能と能力は、何の役に立つ?

 自分の覇道においてだ。

 では、そんな彼が自分に仕えず、他の誰かに仕えるか、彼自身が立ったとしたら?

 自分の覇道に立ち塞がるだろう。

 ならば、どうする?

 そんなの決まっている。叩き潰す。

 つまり、彼と戦えるのが嬉しかったのだ。戦い、勝ち、屈服させる。もう二度とあの嫌な顔をさせないために。そして、彼を自分のものにするために。

 曹操と袁遺は友人である。だが、互いにいつか敵対することを確信していた。

 

 

11 鎮圧

 

 

 袁遺は本隊と合流したとき、雛里を伴い主将の朱儁を訪ねた。

 これには大きな意味がある。

 今まで袁遺は雛里を朱儁に引き合わせることはしなかった。これは雛里が軍旅の途中で加わったためであり、また、袁遺と雛里はふたりだけの、いわば内だけの関係であった。だが、朱儁や別働隊の任務時に張超に紹介することによって、雛里は公の意味で袁遺の部下として認められたことになる。また、袁遺がそれだけ雛里を評価したのだった。

「別働隊の任、よくやった」

 朱儁は労った。

「これも全ては張別部司馬殿、そして、将兵の奮闘によるものです。また、自領のみならず、漢朝全ての平穏のために粉骨砕身の働きをする陳留太守・曹操殿の御助力があったからです」

「伯業、それもお前らしいが、こういうときは素直な態度を示すものだぞ」

 そう言いながらも、朱儁は、その袁遺の言葉が謙遜ではなく全て本心であるな、と思っていた。

「だが、曹操は何故、こんなとこまで出張ってきた?」

 朱儁は髭を撫でながら尋ねた。

 その問いに袁遺は困った。見当は何となくついてはいるが、確信があるわけではない。友人(少なくとも袁遺は彼女のことをそう思っていた)を根拠のない推論でその評価を下げるような真似をしたくはない。だが、朱儁は直属の上官である。そんな人物に嘘をつくわけにはいかない。

「これは全く根拠のない私の予想なのですが……」

「わかっている。お前の考えを聞きたい」

 朱儁は袁遺の心の葛藤を見透かしたように先を促した。

「騎都尉殿は、黄巾党首領の張角がこの近辺にいると推測し、糧道を分断することによって、正確な位置を割り出そうとしているのではないでしょうか」

「張角の…」

 朱儁は目を見開いた。

「曹操に能うか?」

 短い、だが、気の弱い者ならそれだけで気を失いかねないような声で朱儁は言った。

「必ずや」

 袁遺はそれを普段と変わらぬ調子で返す。

「ならば、我らは波才に集中するとしよう」

「はい」

 袁遺は雛里を連れ、朱儁の天幕を出た。

「雛里」

 自分たちの部隊に帰る途中で袁遺が雛里に話しかけた。

「あわわ、どうかしましたか、伯業様?」

「うん、鄢陵での戦いについて考えていた。曹太守が来なかった場合、私たちは負けていたと思うか?」

「いいえ、思いません」

 雛里は即答した。

「陳蘭さんは敵大将に肉薄していました。それに黄巾党の兵も疲れ切っていました。援軍のおかげで早期決着できましたが、結果自体は変わらなかったはずです」

 小さな声であったが、力強さがそこにあった。

「……だが、前線では何が起こるか分からない。例えば、流れ矢で陳蘭が討ち死にしていたかもしれないぞ。そうなっていたら、我々は負けていた」

 袁遺は、どうだ? といったように歩みを止め、雛里の方に体を向けた。

「伯業様なら、そうなったとき、どうするかも考えてらしたのではないですか?」

 雛里も、その通りですよね、と言いたげに伯業と向き合った。

「……張郃の部隊を動かしていた。部隊全体ではない。丘の陰に隠れて少数の部隊を動かす。ただし、官軍の旗は大量に持たせて」

 つまり、袁遺は大部隊が援軍に来たように見せかけるつもりでいたのだ。本物の曹操の援軍の出現で黄巾党の心理面に大打撃を与えたように、たとえ偽物でも疲れ切った黄巾党の戦意を挫くことは出来た。

「そうだな。確かに我々の勝ちだな」

 袁遺は素直に認めた。

「はい」

 雛里は優しい穏やかな笑みを浮かべる。

「だが、雷薄の中備で危ない状況が何度かあった。もしまた、同じ様な状況があったら、完璧に決めるぞ」

 袁遺は、そう宣言した。

 鄢陵の戦いの後も投降兵の訓練を続け、攻勢に投入しても隊列を崩さない程度はできるようになっていた。

 それは、つまり、戦いが近いということであり、豫州での黄巾党と官軍の戦いは最終局面を迎えていた。

 

 

 正史において、朱儁、彼の黄巾党との戦いは敗北から始まった。一度敗れたのちに曹操の援護を受け、豫州の黄巾党に勝利し、荊州へと転戦する。

 だが、この外史では袁遺という異物がそれを変えてしまっている。

 未だに朱儁は黄巾党に敗北らしい敗北をしていなければ、豫州の黄巾党は北部で袁遺と曹操に痛烈な打撃を喰らった。

 常に官軍側が優位に戦争を進めている。

 それでも、いや、戦争であるが故に、この豫州の官軍と黄巾党の趨勢を決める戦いは混沌から始まった。その戦の劈頭、それは完全な不期遭遇戦であった。

 過去(2 威力偵察部隊の項)でも触れたが、遭遇戦は、双方に混乱を発生させ、投入した戦力からは考えられないほど得られる成果が低い戦いであるため、戦慣れした指揮官は威力偵察部隊を重んじる。

 もちろん、その戦慣れした指揮官、朱儁は威力偵察部隊を重んじ、その優秀な部隊指揮官である袁遺を高く評価し、うまく使っていた。

 だが、袁遺が別働隊として抜け、再編された威力偵察部隊の指揮官は袁遺ほど能力がなかった。

 その威力偵察部隊が黄巾党と戦闘になったとき、その数やどの方角から来たか等の情報を得られず、ただ、本隊に救援を要請した。

 その報告にもなっていない報告を聞いた朱儁は、まずい、と思った。

 相手の数が分からぬままに、一〇〇〇や二〇〇〇の増援を出し、存外に敵の数が多く、また増援を出す羽目になるのは戦力の逐次投入、つまりは下策中の下策である。であるなら、全軍で押し出すしかない。

 朱儁はすぐに全軍で駆け付けた。

 そして、気付いた。黄巾党にも増援がおり、それは黄巾党・波才の本軍であることに。

 こうして、潁川の戦いは互いに予期せず、始まった。

 

 

 袁遺は五〇〇〇の手勢を率いていた。その手勢は自分が初めから率いていた威力偵察部隊と投降した元黄巾党の兵士である。張超の部隊とはもうすでに別れているため、兵站部隊はなく、完全な実戦部隊だ。

 袁遺は強引に兵を駆けさせる。前進速度は隊列を維持できる限界の速歩であった。そのまま、この乱戦の空白地帯に行くと、手練れた野戦指揮官だけが可能な手際で、部隊の陣形を整え、混乱から脱出する。

 周りでは統率のとれぬ、殴り合いが行われていた。

「これじゃあ、うちの部隊だけが混乱から脱しても、大したことができんな」

 袁遺は思わず、口に出してしまった。

「そうですね」

 雛里もそれに同意した。彼女も、どうするか判断に困っていた。

 他の部隊が、混乱していなければ、自分の手勢で横隊突撃という荒業を敵の突出した部隊に行うのだが、他の部隊が続かないなら、突撃に意味はない。どこかで逆撃を喰らうのが目に見えている。ただ、逆撃を喰らうことを覚悟して、敵が混乱している内に押しまくり、敵の被害を大きくすることも一つの手ではある。

 今この状況で、最も手堅い策は戦線が崩壊しないように防戦に徹し、朱儁がそのうち下知するだろう、全軍の総攻撃か撤退に備えることだ。

 だが、袁遺は、そのどちらも取ることがなかった。

 これは別に袁遺や雛里が天才的な策を思いついたわけではなく、黄巾党のいち早く混乱を脱した部隊が、朱儁の本陣に攻撃を仕掛けたために、その部隊の進軍を防がなければならなかったためだ。

 その黄巾党の部隊は、副将格の彭脱のものであった。

「おお、伯業の隊か」

 本陣へ隊列を維持できるギリギリの速さ(と言っても小走り程度の速さ)で仕掛けてきた黄巾軍に噛みついた袁遺の部隊を見て、感嘆の声を漏らす。

 武働きで頼りになるのは、やはり、あの男の隊だけか。

 朱儁は戦場を見回しながら、思う。

 戦場は混沌としていた。

 黄巾党は四万、官軍側は四万五〇〇〇と官軍側の方が数が多い。だが、不期遭遇戦から始まったことによって、その数的優位を活かせていない。

 朱儁は顎髭を撫で、考える。

 伯業は、確かに優秀な奴だが、過度の信頼を置くわけにはいかん。あいつの部隊が崩れたら、本陣の兵を展開できる場所が無くなり、一旦、全軍を引かねばならない。動くなら今しかない。

「他の手勢と肩を並べ、賊の本陣を目指す!」

 鍾馗面の主将は決断する。

 本陣の床几から立ち上がり、馬上の人となる。

 袁遺が敵部隊を抑えている間に陣形を整えると、一万の自分の部隊を襲ってきた部隊に逆撃をかける。

「左が薄いぞ、掛かれ!」

 朱儁は本領を発揮していた。本来、この男は将を束ねその上に立つより、自身で部隊を率いて戦っている方が、その才能を発揮できる。

 従う士卒もまた、よく訓練された者たちだ。賊を相手に力戦奮闘する。

 さらに、肩を並べている袁遺隊も、この豫州で黄巾党相手に一番過酷な戦いを続けてきた部隊であり、指揮官も戦を知っている。その証拠に、朱儁隊が敵部隊を襲う前に、袁遺隊弓兵部隊は支援射撃を行っている。となれば、同じく戦慣れした朱儁である。その支援射撃の元、部隊を百歩程前進させると、次は自身の弓兵部隊に命じ、袁遺隊を援護する。そして、袁遺隊もまた、百歩程前進する。

 この様な重厚な布陣で迫られた四〇〇〇の彭脱隊は耐えきれなかった。

 黄色い頭巾を頭に巻いた兵は隊長である彭脱の

「戻れ、戻らんか!」

 という声を無視して、逃げ出し始めていた。

 そんな彭脱を視界にとらえた武将がいた。袁遺隊実戦部隊指揮官のひとり張郃である。

「好餌!」

 彼は体格のいい黒い馬に乗っているが、それを両足で締め付け、自分の部隊に下知する。

「槍兵隊は我に続け!」

 その丸太のように太い右腕には槍を持ち、左腕には剣を持っているため、馬を操るのは体重移動だけであるが、見事な乗馬術である。

 張郃は彭脱に接近すると、槍で腹を一突きする。卓越した槍さばきであった。

 胴を貫通し、彭脱の体が持ち上がる。

「名乗られよ!」

 自身の死を悟った彭脱が口角から血の泡を吐きながら、張郃に言う。

 賊の癖に武人の様な男だ、という感想を抱いた張郃であったが、

「あの世で、また」

 それだけ言うと、左手の剣で彭脱の頸を落とした。

 隊長を失った部隊は瓦解した。

 潰走する兵を切り捨てながら、朱儁、袁遺の両隊は敵の大将、波才の陣へと進撃する。いや、その二部隊だけではない。戦場で無秩序な乱戦を繰り広げていた味方部隊も、いつの間にか混乱から脱し、敵本陣へと殺到していた。

 さすがに大将の部隊だけあって波才の部隊は乱れはしていたが、崩れてはいなかった。

 それが彼らの不幸となった。

 不期遭遇戦から始まったことによる混乱と豫州黄巾党との戦いに終止符を打てるとの気負いが多くの兵たちの精神状態を獣のそれに変えていた。

 そんな官軍に襲われた波才の隊は、この時代の『戦闘』と呼ばれる段階では、信じられないくらいの犠牲を出した。『戦闘』の段階でそれだけの被害を出すのだから、必然、『潰走』の段階で出した被害は目を覆うものであった。

 官軍は崩壊する黄巾党に対して、情け容赦ない攻撃を加える。

 虐殺じみた戦闘の中で波才は討ち取られた。

 敵将を討ち取った後も官軍の一部は逃げる黄巾党と団子のようになった状態で追撃し、彼らを文字通り切り刻んだ。

 混乱から始まった戦闘は、終わりもまた混乱と共に締めくくられた。

 豫州黄巾党は壊滅した。

 その戦後処理の最中、曹操が黄巾党指導者、張角を討ち取ったという報告がやってきた。

 それはつまり、黄巾の乱、その鎮圧が完了したことになる。

 

 

 甲の章、了。乙の章へ。




 いつも拙作を読んでいただき誠にありがとうございます。
 補足の前にひとつお知らせがあります。次回の投稿時期についてです。
 甲の章がこの話で終わり、次回から乙の章に移りますが、書き貯めの推敲改訂作業を行いたいため、一週間、時間を取らせていただき、次は8月11日の日曜日の20時に投稿したいと思います。
 これからも、この『異・英雄記』を作者共々よろしくお願いします。

補足

・儒教が正学とされるこの漢帝国
 儒教を国教としたのは武帝だという説が昔は一般的だったが、最近では否定され、新で国教、正学になったとする説が有力視されている。ただ、武帝もしくは元帝の時代あたりに儒者が漢王朝内で力を持ち始めたため、こう表現した。
 まあ、ちょっと古い知識なので、あまり鵜呑みにしないでください。

・ただの宦官とは違う
 曹騰、善玉論である。
 私個人としては、曹騰を完全に善玉として扱うことは出来ないと考えている。
 何故なら、彼は桓帝の擁立を手助けしたからだ。
 後漢で最も横暴な外戚の梁冀に大臣たちが推す聡明とされていた清河王の劉蒜より幼い劉志(桓帝)を即位させることを薦めた。
 後漢が衰退の坂を転がり落ちるのは、桓帝の時代からで、結果論になるが、彼は曾孫の曹丕のために魏帝国成立のレールを敷いたことになる。
 ただし、単なる悪玉(悪役)というより、宮中を巧みに泳ぎぬく、一種の妖怪が私の曹騰のイメージです。
 この桓帝は後に梁冀を殺害するが、梁冀に近かったはずの曹騰は、いつの間にか梁冀と距離を置き、逆に養子をとり、名と財産を残すことを桓帝から許された。
 その他にも、宮中で一度も失敗したことないなどの逸話を含めて、陰謀渦巻く宮中で出世し続けた怪物が私の曹騰像なのですが、恋姫の元ネタのひとつの『蒼天航路』では曹騰が善玉として書かれているので、この二次創作でも善玉として書きました。
 まあ、こんな長々と書いておいて、本編では、これ以降、曹騰について詳しく触れないと思う。


 また、私の拙い文書では読んでいる人にうまく伝わらないと思い簡易ながら地図を作りました。
 ペイントででっちあげたため、州境や町の位置などは、正確ではありません。そのことをご容赦願います。
 皆様の想像の一助になれば幸いです。

【挿絵表示】




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乙の章
1~2


 それは、別名の烏鷺の戦いの通りに、まるで烏と鷺が縄張りを争っているようだった。

 だが、ここには鳥はおらず、それは黒と白の丸い石であった。それらが、縦一尺五寸(四十五.五センチ)、横一尺四寸(四十二.二センチ)の盤の上に並べられている。

 所謂、囲碁と呼ばれる遊戯である。

 ふたつの手が、その石を整地し、勝敗を判定しようとしていた。

「コミを入れても一目半負けたか」

 そう言った男の顔は無表情である。

 あまり感情を表に出さない人物である袁遺は囲碁で負けてもそうであった。

「雛里も強くなった。これは、もう敵わないかもしれないな」

「いえ、そんな……」

 対して勝った方の少女、雛里は恐縮しながらも、どこか嬉しそうに、はにかんだ。

 ここは後漢の都、洛陽の袁隗の屋敷の一室である。

 彼らは黄巾党討伐の任を終え、洛陽にて恩賞の沙汰を待っている間、袁遺の叔父にあたる袁隗に宿を貸してもらっていた。

 そこで暇を潰すために袁遺は雛里を碁に誘った。

 初めは袁遺が白星を積み重ねていた。

 コミと呼ばれる後手の不利をなくすためのハンデキャップを導入し、現代風に変えてはいるが、ルールは大体同じである。

 ただ、袁遺は一八〇〇年先の定石を知っていたために、この時代の人間より恐ろしく強い。

 雛里が局地戦に終始している中で、手割り計算の概念を知っている袁遺は、ただ石の効率のみを追求していた。旧来の碁と近代碁の戦いである。イカサマとまでは言わないが、せこい話である。

 だから、袁遺は雛里にいくつかの定石を教えたところ、勝敗は徐々に逆転し始め、この一局をもって勝ち越されたところである。

「雛里、頼んだ服ができただろうから、散歩がてら取りに行こう」

 袁遺はそう言って、石を片付け始めた。

 

 

異・英雄記

乙の章

 

1 洛陽

 

 

 洛陽についた次の日の朝。

 袁遺は雛里に黄巾党討伐に対する報酬を渡した。

 それと同時に、

「先の黄巾の乱にあたって、君の貢献は大きなものだった。そこで改めて、私の軍師になってくれないか」

 雛里に出仕を求めた。

「は、はい。こちらこそよろしくお願いします」

 元々、雛里から仕官したので、彼女に異論はない。

「うん、それじゃあ、ついて来てくれ」

 袁遺はそう言って、雛里を蔵の前まで連れ出した。

「部屋だけではなく、この蔵も叔父上から借りていてな」

 そう言いながら、彼は蔵のカギを開け、中に入って行った。

 明り取り窓からの光だけでは、蔵全体を十分に照らすことはできないが、あまり物が入っておらず、ガランとした印象であった。

 袁遺は、そんな蔵の中にあった鉄の棒を拾い上げ、床の一部を剥がした。その下から出てきたのは、壺に入った大量の銭だった。

「支度金だ。必ず、全て使え」

 そう言って、雛里に蔵のカギを渡す。

 雛里は今まで見たことのない大金に目を回していた。

 袁遺はそんな彼女を置いて、蔵から出ていく。

 後に雛里が正確にその銭を数えたところ、官位が売買されていた漢王朝で、主人の袁遺以上の官位が買えるだけの金額であることが分かった。

 その後、雛里を洛陽の町へ連れ出し、袁家で使っている仕立て屋まで連れていき、服を二着作らせた。もちろん、代金は袁遺持ちである。

 一着は、官が朝廷に出仕するとき着る服、朝服である。もう一着は、後代の言葉で言えば、パーティードレスであった。

 袁遺は、できるだけ早く作るよう頼み込んだ。

 お得意様の袁家の貴公子の頼みである。職人は、十五日で仕上げさせてもらいます、と請け負った。

 雛里は、できた服を試着している。

 パーティードレスの方は雛里が着ていた服をモデルにしたようで、紫がベースのところや装飾の一部にそれが見て取れた。しかし、服の全体としての印象は、むしろ大人びたもので、雛里が着るとその印象は穏やかながらも、艶やかなものがあった。

「うん、似合っているよ、雛里」

 袁遺が言う。優し気な声色であった。

「あ、ありがとうございます」

 雛里は顔を真っ赤にして、俯いた。

 そんな彼女に袁遺は言う。

「雛里、さっそくで悪いが、明日、その服を着て、友人の家に行くぞ」

 その友人とは、袁遺がこの洛陽に残していた部下のことである。

 

 

 まだ朱儁隊の別働隊として、豫州を駆け回っていた頃、雛里は四人の実戦部隊隊長に洛陽に残してきたという部下のことを聞いたことがあった。

 陳蘭は、その丸く、親しみが持てる顔に困惑の色を浮かべながら答えた。

「そ、その、伯業様が洛陽で遊学していたときの友人だったと聞きました」

 陳蘭は、この軍師候補の少女の質問に困り果てた。

 あの仕えにくい主が部下が他の部下の陰口を言うことを嫌っているのを知っていたからだ。将たちの人間観察は自分の目で十分である、袁遺はそう思っていた。

 であるから、雛里の質問に対しては、客観的な事実のみを答え、彼の人柄には触れなかった。どうしても好きになれない部分を持っていたからだ。

 そして、雛里は陳蘭のその葛藤を正確に読み取った。

 陳蘭自身の個人的感想を聞けないのであれば、客観的な事実のみを聞く方針に転換したのだった。

「では、その方は伯業様にどのような仕事を任されているのですか?」

 この黄巾党の乱では洛陽で社稷の動きを探らせている、と袁遺は言っていたので、所謂、秘密諜報活動を担当していると雛里はあたりを付けていたが、陳蘭から返ってきた答えは予想を裏切るものであった。

 陳蘭は口籠りながら、自分にはよくわかりませんが、と前置きしてから言った。

「伯業様が思い付かれた策を実践するうえで問題になる点を洗い出すことが役目です」

 後代の言葉で言うところの軍事研究である。

 軍事とは実証主義による科学であり、実践できてこそ初めて意味を持つ。そのことを理解している袁遺は自身の友人にして、その才能に信頼を置いている部下に、その手助けをさせたのだった。

 それを聞いた雛里は、自分が得意としている分野と洛陽に残っている件の部下の役目がかぶっていることに一抹の不安がよぎった。

 人間には競争心というものが存在する。同じ分野が得意な者がふたり、同じ主の元に存在したとき、その競争心が良い方向に働けばいいのだが、往々にして悪い方向に働くものである。

 そして、そのふたりの主は、部下が他の部下の陰口を叩くのも許さない人物だ。下手をすれば、とてつもなく悲惨なことになる。

 雛里は、起こるかもしれない面倒な未来に口癖である、あわわ、という言葉が口から洩れた。それに陳蘭は、大丈夫ですか、先生(軍師とは文字通り、軍の師匠であり、先生と呼ばれたりもする)と困惑の色を強めながら、雛里に尋ねた。

 そんな彼女たちの元へひとりの男がやってくる。

 彼女たちは、その男を見たとき、はじめ、賊が陣内に入ってきたのかと思った。

 そう、賊の様な強面の雷薄だった。

 雛里は雷薄にも訪ねた。正直なところ、雷薄のことは少し苦手であった。

「ああぁん、あの男のこと!?」

 その原因は、この乱暴な話し方と声の大きさだった。

「はっきり言やぁ、嫌な奴だな」

「お、おい、そんな言い方はないだろう」

 雷薄の言葉に陳蘭は慌てた。袁遺に一緒になって陰口を叩いていたと思われたくなかったからだ。

「おまえな……」

 雷薄はそんな陳蘭に呆れた。

「そんなんじゃあ、疲れるだけだぞ」

 雷薄は言う。

「確かに、うちの大将に仕えるのはきついわな。楽なことじゃねぇ。だが、楽しくもある。あの人は俺を泥の中から拾い上げてくれた。んで、俺の得意なことをやらせてくれてる。さらに豊かにしてくれる。当面はそれでいいだろう」

「……」

 雛里と陳蘭は黙った。

 この乱暴な男の袁遺への忠誠心と、彼独特の処世の一端を見出したからだ。

 雷薄は、謂わば、諦めを知らぬ運命論者であった。

 先天的なものではない。軍に長く関わることによって作られたものだ。というのも、兵卒から信頼されるために指揮官という立場の人間には様々な方法論がある。手っ取り早いのは、肉体的に優れたことを見せることだ。つまり、部下の危機に際して、身の危険を顧みず、彼を助ける。そんな勇者的な行動を示す指揮官を兵は信頼する。いや、そういった行動を見せなければ、兵からの信頼を勝ち取れないのである。特に、経験の多い古参兵は、指揮官の力量が自分の生死に直結することを知っているため、完全に実力主義の徒である。だから、何かしらの優れたところを見せねばならない。

 もちろん、そんな行動をして生き残れる者は多くはない。その結果、生まれるのが、諦めを知らぬ運命論者である。

 諦めを知らぬが故に最善を尽くし続けるが、運命論者故に死を恐れない。それは戦においてでも、主君に対してでも変わらなかった。主には尽くす、しかし、いつか、用のない猟狗として煮られるときはそのときだ。それが雷薄の考えだった。

「だから、何度でもはっきり言う。あいつは嫌な奴だ。張郃と高覧にも聞いてみな。あいつらも好いてはいないぞ」

 そう言って、雷薄は去って行った。

 実際に、そのふたりに聞いたところ、好まざる部分を持った男らしい。

 張郃は、

「優秀な奴だ。家柄もいい。だが、好きになれぬ部分もある」

 と答えた。

 高覧は、

「実際に、会って判断なされよ」

 と言われ、はぐらかされた。

 結局分かったのは、主の友人であり、好かれておらず、面倒な部分を持つ人間だということだけだった。

 

 

 その日の袁遺の服装は雛里に合わせたものであった。

 青みががった黒の軍袴仕立ての細袴を履き、上には黄蘗色の上衣と薄い灰色の二重廻し風の着物を纏っている。二重廻しには黒と白の色違いの糸が縫いこまれている。この二重廻しのおかげで、上衣の黄色が安っぽく見えず、深みのある印象を与えている。

 雛里の紫の服に合わせた黄色であった。

 道すがら、雛里は袁遺に、今日会う男のことを聞いた。

「あいつとはこの洛陽で出会ってね。気が合い、友人となった」

 袁遺は懐かしむように言う。

「優秀な奴だ。姉妹が七人いて合わせて八人姉弟だ。全員が高い評価を受けているが、あいつは、その中でも飛びぬけて優秀だ。楊俊という男が彼を非常の器と言ったが、それについては俺も同感だ」

 雛里は、あの袁伯業がそこまで高く評価していることに驚愕した。

「だが、嫁をもらったくせに、中々、官職につかず、挙句、俺の部下になりたいと言い出した。望めば、すぐに、どこかの太守になれる男が、部曲(私兵のこと。ただし身分は奴隷に近い)の真似事をしている。おかげで、俺は、あいつの御父上に合わせる顔がないよ」

 袁遺は、やや自虐的な笑みを浮かべた。

「ああ、わざわざ、出迎えてくれたか」

 袁遺の言葉を聞いて、雛里は視線を袁遺から前方に移した。

 こじんまりとしているが、よく手入れされている屋敷の前に一組の男女が立っていた。

 女性は美しい顔立ちをしていた。理知的な光を宿している大きな目、高い鼻、美しい唇、それらがバランス良く配置されている。髪は優雅にうねる長髪で、純度の高い黄金というより陽光というべき金色だ。立ち姿には、どことなく品があった。

 隣に並んだ男も、その女性の隣に立つにふさわしい容姿をしていた。

 目はやや垂れ気味だが、柔らかな雰囲気を感じさせ、悪い印象を与えない。身長は高く、歩いてくる袁遺のそれよりも高い。物腰には育ちの良さからくる気品を感じる。

 ふたりの服は、豪華なものではないが、手入れが良くされており、清潔感を感じる。

「ようこそおいでくださいました。伯業様、武功と無事の御帰還、心よりお祝い申し上げます」

 男が礼を取り、妻もそれに続いた。

「ありがとう。久しぶりだな、仲達」

 袁遺は、友人であり、部下でもある男、司馬仲達に柔らかな笑みを浮かべた。

 

 

 屋敷に招かれた袁遺の二重廻し風の上着を仲達の妻、張春華が脱がせ、預かった。

「姓は司馬、名を懿、字は仲達。以後お見知りおきください」

 典雅な響きをした声で仲達は言った。

「あ、わ、わたしは、姓を鳳、名は統、字は士元。黄巾党討伐の折に袁家の末席に加えていただきました」

 雛里は緊張した面持ちで挨拶を返す。

 仲達は妻を隣に招き、雛里に紹介する。

「妻の張春華です。私ともどもよろしくお願いします」

「あ、あわわ、こ、こちらこそよろしくお願いします」

 緊張の極にある雛里は、やや回らない呂律で答えた。

 袁遺は、久しぶりに彼女の口癖を聞いたな、などと思いながらその光景を眺めていた。

「どうぞ、食事の用意ができております」

 タイミングを見計らい春華が言った。

 案と呼ばれる膳に主食、汁物、主菜などが並べられて出てきた。

 木の器に入れられた羹(所謂スープ)は、コンソメスープとでもいうべき清湯である。濁りなど一切ないそれは実に豊かな味わいである。炻器に乗せられた山クラゲと筍の冷菜、味付けは濃いめであり、添えられている瓜には飾り細工がされている。同じく大きめの炻器には、淡水魚のあんかけから揚げ。あん自体は薄味だが、数種類の香菜が乗せられており、立ち上る湯気が香しい。豚肉の煮物。一度、蒸し、余計な脂を落とした後に素揚げしうまみを閉じ込め、その後濃いめのタレで煮るのだが、タレに使われている酢のおかげでしつこくはない。これにも香菜が使われている。そして、井戸水で冷やされた果物が数種類、並んでいる。

 彼らは、冷めては駄目なものを先に平らげると、自然に言葉が多くなった。

「そうですか、士元殿は、荊州の出身で、あの水鏡先生のところで学ばれたのですか」

「は、はい」

「私は河内郡の出です。その後、洛陽、長安、故郷の温県と移り、また、洛陽に戻ってきました。ですから、この司隷から出たことがありません。よろしければ、荊州について教えてもらえませんか」

 司馬懿は柔らかな物腰である。それが生来のものなのか、鎧ったものなのか、雛里は判断が付きかねていた。

「荊州は大変豊かな土地です。そして州牧の王叡様が党錮の禁によって追放された劉表殿を始めとした清流派の党人の保護に積極的であるため、学問が盛んな土地でもあります」

「王叡殿の良い噂はあまり聞いたことないが、存外に上手く荊州を経営しているのだな」

 口をはさんだのは袁遺であった。

 袁遺の知っている王叡という男は身分が下の者に無礼な態度をとる尊大な性格の持ち主であった。その反動で名士とされる清流派の知識人たちを保護している、と考えられる。

「ですが、黄巾党はそんな荊州でも乱を起こしました。これは、漢王朝の力がそれだけ衰えているということなのでしょう」

 司馬懿のその言葉で場が少し暗くなった。

「お茶をお持ちします」

 見計らったように、春華が言った。

 各人の料理は食べ尽くされている。

 彼女が持ってきたお茶を袁遺は口にする。

 保存状態が良いのだろう、香りが高く、その果物に似た甘い香りを楽しむことができた。苦みがやや強い味についても袁遺の好みに合わせたものだった。

「春華殿、いろいろと骨を折っていただいたようで、感謝します」

 彼は部下のできた嫁に礼を言った。

 今日の料理等の差配は彼女のものだった。

 彼女はそれを謙遜しながらも嫌味にならない程度で受け止めた。その所作は洗練されたものだった。

「ああ、仲達。治書御史様はお元気であろうか?」

 治書御史とは彼の父親である司馬防のことである。洛陽県令、京兆尹(長安を含めた郡の長官)を歴任し、その厳しい性格は有名であった。

「相変わらずでございます。姉上や妹たちも息災です」

 それは良かった。袁遺はそう言って茶を口に含み、口腔で香りを楽しむ。

「伯業様。張既殿が帰還の御挨拶をしたいと申し出ております」

 仲達が言う。

 それは黄巾党討伐の道中に書簡で届けられた約束のひとつであった。

「そうか。では、あちらの都合のいい日を聞いて、整えてくれ。恩賞の沙汰は、まだ時間がかかるようだ」

 袁遺はそう、仲達に命じる。

「彼に初めて会ったのは、私が官職につく前だったな」

 袁遺が思い出すようにつぶやいた。

 そのまま、この日の食事は終わり、袁遺と雛里は帰途についた。

 その道中、袁遺は雛里に尋ねた。

「どういう男であった。仲達は?」

「は、はい……その……」

「君が将に彼のことを尋ね回っていたことは知っている」

「あわわ……すいません」

 縮こまる雛里に袁遺は、怒っていないことを伝え、答えを促す。

「そ、その、物腰の柔らかな才人だと思います」

 彼女の答えに袁遺は心の中で同意した。

「皆が嫌うのが、分からないか?」

「は、はい」

「ふむ……」

 袁遺は考える。

 あの四人が仲達を嫌う理由は分かる。仲達は心の内を隠すのが上手かった。それが不気味に思えるのだ。そして、逆に仲達は自分の考えを全て見通している、と相手に思わせる行動をとることがある。それをそつなく行うのだ。その部分を皆が半ば恐怖心と共に嫌っているのだ。

 ただ、袁遺からすれば違った。

 心の内、全ては読めないが、いくらかは読める。だから、友人になることができたのだった。といっても、無条件で信頼しているわけでもない。むしろ、袁遺は仲達を四人より警戒していた。

 仲達は、才能ある実務者が、常にそうある様に、その思考は常に多面的、相対的である。彼は、物事全ての小さな機微に、喜怒哀楽を感じ、心を動かすが、ある一面では、冷徹な軍師としての思考を止めることは決してない。例えば、袁遺が死んだら、彼は部下としても友としても袁遺の死を悲しむが、同時に、自身の最大限の利益を確保するために、冷徹に行動するであろう。その点が、司馬懿を警戒させているのだった。

 もちろん、袁遺自身にも言えることであるが、立場が違った。もし、袁遺が司馬懿の家臣であったなら、仲達は袁遺の役目を終えたと思ったら、彼を排除するだろう。

 仲達や雛里の様な立場の人間は、范蠡や張良の様にならなければいけない。さもないと、獲物尽きて猟狗煮られる。その未来が待っているからだ。もちろん、例外もある。ただ、その例外のひとつは、皮肉にも史実の司馬仲達である。

「君がこのまま私に付き従うのであれば、彼のまた違った面が見えてくるだろう」

 袁遺は、戦場の指揮官としての顔で言った。

 

 

2 涼州事情(勢力篇)

 

 

 後日、また、袁遺は仲達の家を訪ねた。雛里は伴わず彼ひとりである。

 出迎えてくれた春華に先日の礼を言い、仲達と共に客人を待った。

 やって来たのは小男だった。袁遺、仲達の長身ふたりに囲まれると、それが更に際立った。丸顔で目が細い。だが、それらは悪い印象を与えておらず、むしろ、福々しい恵比須顔だった。

 その顔の持ち主こそ、彼らが待っていた張既であった。

「お久しぶりです、伯業様。このたびは、黄巾賊討伐で多大な武功を挙げられたと聞きました。おめでとうございます」

「ありがとうございます。本日は、先生に涼州についてお聞きしたく、ご足労を願いしました」

「せ、先生などと、お止めください。わ、私は庶民の出で、郡の小役人に過ぎません」

「では、徳容殿。お願いします」

「私にわかることでしたら、何でもお話しします」

 袁遺は少し、考えると

「では、羌族はどうですか。前漢の頃より、漢に何かが起こると背いて叛乱を起こすのが常。黄巾賊のそれに呼応して、何か動きはありませんでしたか?」

 外敵というべき、非漢民族の部族の質問をした。

「確かに、今までならその通りですが、現在の涼州牧の馬騰殿は、大層な女傑で羌族を上手く取りまとめております」

「ほう……」

 その答えを聞き、袁遺は意外な思いだった。正史では、黄巾の乱の年に、馬騰は韓遂と結び、官軍と戦っているはずだからだ。

「馬涼州牧は、どの様な領地経営で羌族を取りまとめておられるのですか?」

 そこから張既が語ったのは、馬騰の領地経営のやり方であるが、それは原始的かつ先進的なものだった。

 涼州にはいくつもの軍閥があり、それを取りまとめているのが馬騰である。張既の話を聞く限り、馬騰は、その軍閥を民主主義的な方法論で取りまとめているらしい。

「なるほど……涼州牧殿は相当な出来物の様ですね」

「全くその通りです」

 袁遺は春華が淹れた茶でのどを潤す。

 会食のときに出されたものとは違い爽やかな香りと苦み、渋みが抑えられたすっきりとした味の茶であった。

「徳容殿は、その軍閥の面々と面識はおありですか?」

「はい、全てが騎乗の達人で、武に優れた者たちです」

「羌族に対抗するためには、やはり、騎馬ですか」

 袁遺は、そう言いながら、今まで黙して話さなかった仲達に目配せする。

「涼州に近い漢中はどうですか、張魯という男が五斗米道と称した鬼道教団を率いています。黄巾の乱の折、洛陽でもその動きに注意するよう主張していた者もおりましたが」

 仲達は自分の気になっていたことを張既に聞いた。袁遺だけでは視点が偏るため、仲達に意見を言わせたのだった。そして、袁遺には、確かに漢中という視点はなかった。

「漢中は、その……」

 張既は言葉を詰まらせた。

 袁遺は始め、漢中について何も情報を持っていないかと思ったが、張既の視線がこちらを向いていることに気付き、思い至った。

「私のことはお構いなく、徳容殿が知っていることをただ述べてください」

 五斗米道は道教の教団であり、道教は老子を教祖として祭りあげている。ただ、祭りあげているたけで、道家には直接関係ない(ただし、影響を受けている面もある)とされる。だから、事実上、土着宗教であり、漢王朝内では好意的にとられていない。そのため、儒家たちと関わりがある袁遺に対し、気を使ったのだろう。ただ、気を使わなければ、いけないということは、漢中はそれなりに栄えている、ということになる。

「張魯は、上手くやっているようでして、漢中はかなり安定しています。ですが、乱を起こそうという動きは今のところ見せてはいません」

 やはり、袁遺の考えを肯定する答えが張既から出てきた。

 袁遺は宗教に対して、一定の不信感を持っている。そのため、漢中については、自分は深く関わらない方がいいと考えた。どうしても色眼鏡で見てしまい、碌な結果を招きそうになかったからだ。

 何気ない様に、袁遺は茶に手を付けた。

 そして、今日のふたつの目的のひとつを口にする。

「そう言えば、董卓という者の噂をここ最近、聞くのですが、どのような人物なのでしょう?」

 自分の知識通りに行くなら、当面の敵になりそうな者についての情報を集めるのが、目的であった。

「彼女には一度会ったことがあります」

 張既が言った。

 彼女、か……やはり、というべきか董卓も女体化しているのか。

 そこまでは、袁遺の予想の範疇であったが、張既の人物評はそれをはるかに超えたものだった。

「儚げで心優しい方でした」

 儚げ……? 心優しい……?

 それは袁遺の思い浮かべる董卓像にはない言葉であった。

 袁遺は衝撃を誤魔化そうと茶に手を付け、口元まで持っていったところで、それが空であることに気付いた。

「持ってこさせましょうか?」

 仲達が尋ねた。

「いや……ああ、いや、すまないが貰えるだろうか」

 断ろうと思ったが、今は考える時間が必要であった。それを稼ぐために貰うことにした。

 新しい茶が来るまで、袁遺は考える。張既が謀られた可能性は、いや、彼の観察眼には信頼を置いている。であるならば、もっと情報が必要だ。

 袁遺は内心、焦っていても無表情であった。

 新しく茶が届けられた。それを一口飲むと、袁遺は探るように言う。

「董卓は文武に優れた人間ですか?」

「う~ん、文武に優れた配下を抱えておりますが、本人については、私も分かりません」

「配下?」

「賈駆という者と華雄という者がそれぞれ、文官と武官の筆頭でしょうか」

「賈駆と華雄、ですか」

 袁遺は頭を悩ませる。

 正直な所、董卓に野心はありますか? と、はっきり聞きたいところであるが、聞けるわけがない。なら、仕方がない、か。

 袁遺は仲達に再び目配せするが、どうやら、彼も、もう聞くことはないらしい。

 であるならば、今日のもうひとつの目的を果たすとしよう。

「徳容殿」

 袁遺は佇まいを正す。

「これはまだ、正式なものではありませんが、私は黄巾党討伐の功として、長安県令の職を得ることになりました」

「それは、おめでとうございます。長安は光武帝が即位されるまではこの国の都でした。そのことを考えれば、要地の県令は大変な栄誉でありますな」

 その恵比須顔に満面の笑みを浮かべながら言われるのは、袁遺の胸に何かめでたい気持ちを抱かせた。これこそが、張既の最大の魅力であった。

「まったくその通り、かような要地を任されるのは身が引き締まる思いです」

「いえ、あなたなら見事にやり果せるでしょう。私にできることがありましたら、微力ながらも、お助けする所存です」

「それは心強い。徳容殿のような人物にそう言っていただけるとは、有り難い限りです」

「いえいえ、そんな、何かありましたら、いつでもお声かけください」

「では、早速」

 今まで浮かべていた微笑を取り払い袁遺は言う。

「どうでしょう。私と共に長安に移っていただけませんか?」

「そ、それは……」

 張既は、まさか、いきなり、そんなことを言われるとは夢にも思わなかったため、言い淀んだ。

「徳容殿は、十六の頃から役人を務めております故、あなたの様な手練れた文官がおれば心強い限りです」

「しかし、いきなりは……」

 袁遺は、その動揺に付け込むように言葉を叩きつける。

「失礼ながら、庶民の出のあなたに、それ以上の出世は望めません。十六より務めていれば、それは私などに言われなくても十分、理解しておられるはずだ」

「……」

 事実だった。張既は自分より経験が浅く、そのうえ能力のない者たちが出世していくのを横目で見ながら、小役人に自分を収めていた。確かに、自分の出世は雲を掴む様な話だ。

「徳容殿」

 今まで黙っていた仲達が口を開いた。

「伯業様は仕えるには大変な苦労がある人ですが、これ以上ないくらい楽しいことですよ、それは」

 それで出仕を受けようと思うのか、袁遺はそう思ったが、

「伯業様、その話、有り難くお受けいたします」

 張既は受けた。

 能力を持つ人間の大抵がそうである様に彼も自身の能力を活かせる場所を求めていたのだ。そして、袁遺にそれを見出したのだった。

 張既は、現在の職があり、その引き継ぎのために長安での合流は遅れる、と許しを乞うた。袁遺は、後ろ足で砂をかける行動は慎むよう、言い、それを許した。

 張既が司馬懿邸を去った後も袁遺は冷めた茶をただ見つめ、物思いに耽った。

 これから起こりうるだろう洛陽での政治的な動向は、一層の注意を払う必要がある。皇帝、宦官、董卓。それら全てを冷静に分析できる者が必要だ。それができるだろう仲達を長安に連れていかず、このまま洛陽に残すか。いや、京兆尹を務めた父のもとで育ったのだ。長安について俺より詳しいはずだ。そんな人間は手元に置くべきだ。で、あるならば、他に洛陽で情報を集める優秀な人物を探す必要がある。誰なら、それに能う……

 様々な人物を思い浮かべる。そして、幾人かの人物にたどり着いた。

 袁遺は傍らに控え、自分の邪魔をしないように黙している司馬懿を見た。

 彼が俺の立場なら、俺と同じ選択を取ったか。いや、愚問だ。必ず取る。だから、こいつは油断できんのだ。情を感じているが、それでも冷徹な面はあらゆることを計算する。そして、その計算された方を選ぶ。

「仲達。至急、会談の場を整えてくれ。もうひとり、会っておきたい人物がいる」

 袁遺は、無表情な顔をより一層、無機質にして、部下に命じる。

 彼がそれを断らないのは知っている。袁遺が彼の立場であったら、断らないからだ。故に、詫びることもしない。彼も詫びないだろうから。

 

 

 それから三日後、袁伯業は黄巾党討伐に対する恩賞として、長安県令の職を授かった。彼は実戦部隊の隊長四人と軍師ふたり、黄巾の乱の最中、降った兵のうち希望する者の中から能力、性格、犯罪歴を加味し選抜した八〇〇名を私兵として引き連れ、長安へと向かった。それは彼にとって何かの始まりとなることであった。




補足

・范蠡
 春秋時代の越の政治家、軍人。越王勾践を覇者にまで押し上げた立役者。
 狡兎死して走狗烹られ、高鳥尽きて良弓蔵る、の人。
 その鮮やかな進退は見事と言う他ない。


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3 長安

 

 

 邙山と伏牛山の間の盆地に長安はある。

 その盆地は黄河から運ばれた黄土により、肥沃な大地であった。さらに渭水、洛水といった河川にも恵まれ、農地用水に困ることはない。

 また、シルクロードの玄関口として経済の中心地でもある。シルクロードの―――戦利品という側面もある―――交易品には西方の屈強な馬、通称、汗血馬があるため、強力な騎馬兵を作る軍事拠点でもある。

 その山に囲まれた天然の要害、肥沃な大地、ふたつの面を持つが故に、この町は前漢の都に選ばれた。そして、強兵を生み出せる経済拠点としての面を新たに備え発展していった。

 時間は流れ、都が洛陽に変わったため政治的には価値が落ちたが、それでも長安は中華の要地である。その証拠に五胡十六国時代にはいくつかの国の首都となり、また唐の時代では首都として世界最大の都市になる。

 そんな都市の県令になった袁遺は、特別なことをしなかった。

 残っていた記録を見る限り、前任者は特に問題もなくこなしていたようだった。ならば、大きく変える必要などない。

 もちろん、何もやらなかったわけではない。いくつかの指針を示し、また、いくつかの政策を行った。

 そのひとつは、賄賂を受け取らないと公言したことだった。清廉であることをアピールしたのだ。

 その他にも、連れてきた実戦部隊の指揮官たちと私兵による治安の強化。救済作物を推奨し、それには税をかけないとした。

 また、『行』という日本の座、欧州のギルドにあたる中国の商会にあいさつに出向いた。この時代、商人の社会的地位は低かった。儒教の教えで、貨幣は人の欲であり、それに関わることは徳を失わせる、としていたからだ。そんな中で、その儒家から評価を受ける袁遺が、わざわざ行に出向くというのは、商人たちからすれば意外なことだった。さらに、 袁遺は、集まった行頭(商人たちの長)たちの前で、

「身共は、孔子の教えを人生の指針にしておりますが、荀子もまた、身共の指針であります」

 と言った。

 荀子は儒家であるが、儒教の祖・孔子とは違い現実に合わせた折衷的な考えであった。もちろん、荀子も法家から批評されてはいるが、天人相関説の否定などで影響を与えたりしている。話は逸れるが、曹操に仕えた荀彧、荀攸は彼の子孫である。

 つまり、袁遺は、自分は儒教的教養を身に着け実践しているが、あなたたち商人に対して、差別的な考えや行動は取らないとアピールしたのだ。そして、儒家に対しても、身共、という対等もしくは目下の者に使う一人称や、法家の韓非子の名前を出さず、あくまで、儒家の荀子を出すことで、自分は儒教的な教えを蔑ろにしていない、とアピールしている。実際、その持って回った言い方は、まさしく儒家のそれだった。

 これらの行動は、漢、及び、後世のいくつかの中華の国家に見られる表向きは儒教の徳治主義を国家理念としながら、実際では法家の法治主義によって国家を運営する、という矛盾をそのまま踏襲した形であった。

 そして、別のところで袁遺は自身の意外な面を見せていた。

 それは、これまで長安に務めている文官に対してである。

 軍人としての、また指揮官としての袁伯業という男は将校と言える立場の人間に対しては冷酷極まりないほどに能力の限界を求める。また、失敗にはいくらかの寛容を見せることがあるが、失態については決して許すことはなかった。

 そんな厳しい男が来る、そう思った文官たちに緊張が走ったが、彼らの前に現れた内政家としての袁遺は文官たちの予想を裏切るものだった。

 袁遺は文官の誰かが失敗しても、それを強く叱責することはなかった。彼は仮託してそれとなく諭しただけであったのだ。

 それは指揮官としての袁遺を知る者からすれば意外でしかない態度だった。

 彼は確かに病的なまでの機会主義の徒である。そのため、儒教が強い漢帝国で生きるために儒家としての衣を着ているが、それは全くの擬態ではなかった。袁遺の政治の基本は寛容であった。

 ただし、汚職は徹底的に弾劾し、朝廷における礼節だけは厳格に求めた。

 そのため、文官は教化され長安の内政は順調であった。

 清廉と寛容、そして、理想と現実の折衷の三つを以って、袁遺は新任地で支持を受けていた。

 そんな中で、左馮翊から張既が合流してきた。

 袁遺の執務室に入ってきた張既は、まず挨拶をした。

「遅着の失礼、お許しください。御噂は聞き及んでおります。見事な手腕を発揮されておりますね、長安令様」

 彼の態度は、完全に部下のそれであった。であるならば、袁遺も上司のそれを取るのに問題はない。

「徳容、まずは合流、感謝する。君には、主に対外交渉でその能力を発揮してもらいたい。この長安で治安の維持と交易の利益を上げようとするなら、涼州やその他非漢民族の協力が必要だ。また、何人かの部下を束ねる立場になるが、上手くやってくれ。君が必要だと思う物は、人であろうが、物資であろうが、銭であろうが使ってくれ」

「あ、あの、何故、そこまで私を評価してくださるのですか?」

 張既は、さすがに、ここまで信頼し、任せられるとは思っていなかった。

 彼の顔には困惑の色が浮かんでいる。彼の様な恵比須顔では、それは一種の愛嬌となっていた。袁遺は、こういうのも顔で得をしているというのだな、と思いながら、彼の疑問に答えた。

「私は君を登用する段階で問題点を数え上げ、利害得失の勘定を済ませた。それでも君を用いることは効果が見えると判断した。故に、君が能力を発揮するにおいて必要なものは揃えるし、その結果が私の計算と違っても、それは私の無能によるものであり、私の責任だ。君は君自身の無能の責任だけ負えばいい」

 張既は自分が求められた理由を完全に理解したと同時に、これから仕えることとなる主の本質の一片を見た。三公を四世に渡り輩出した袁家の出であるだけあって、この男は、政治の世界で、のし上がっていくだけの資質を持っていた。

 また、仕えるのは大変だが、これ以上、楽しいことはないという仲達の言葉も完全に理解した。ただ、張既の心に後悔の念が浮かばなかった、と言えば嘘になる。

 これは大変な主だぞ、それが彼の本心であった。

 

 

 三国志演義において、龐統は劉備に仕えたとき、風貌の冴えなさから閑職の地方県令に回されたが、一か月の間、酒ばかりを飲んで職務放棄し、村人に訴えられた。しかし、その訴えを聞いた劉備によって派遣された張飛に詰問されたところ、溜まっていた一か月分の仕事を半日で全て片付けてしまった。彼には田舎の県令などという仕事は、あまりにも簡単なことだったのである。

 では、この世界の鳳統、雛里はどうかというと、彼女の立場は県令の部下である。長安は田舎ではなく、この時代において大都市だ。故に、忙しく働きまわっているかといえば、そうではなかった。

 そのわけは、彼女の上司の県令がその仕事のほとんどをやってしまっているからだった。わずかに、対外交渉を張既に任せると、内政のほとんどを自分で片付けていた。それは、税の徴収。専売品の監察。流民の受け入れと戸籍の管理。森林の管理といった大きいものからゴミの集積場所と処理の仕方、果ては殺したネズミ十匹を持って来れば銭一枚と交換する、といった小さなものまで、ときには監督、指導まで行っていた。

 もちろん、仕事がないわけではない。

 彼女は募集、または徴兵された兵の訓練の監督が任務であった。

 袁遺は将兵に求めるものとして、兵の脚力、伝達速度、集団襲撃、各階級指揮官の自立性の四つを上げた。

 問題は四つ目の指揮官の自立性である。これには時間がかかる。であるから、袁遺は雛里を訓練の監督の任につけた。実際に指導するのは実戦部隊の隊長の張郃、高覧、雷薄、陳蘭の四人である。この四人は、その自立性が備わっており、四人それぞれがそれぞれの方法論で兵を指揮している。それを参考に彼らの下に就くであろう下級指揮官に教授しろという命令を受けていた。

 といっても、現在の訓練はそこまでいっておらず、兵を走らせたり、行進させている状態であった。であるからして、雛里の主な業務は、訓練の内容を袁遺に報告することであった。

「そうか、訓練は順調の様だな」

 報告を聞いた袁遺は満足そうに頷いた。彼の文机の上には書簡が大量にあったが、乱雑さはなく、整理されていた。

「雛里、君なら言われなくても分かるだろうが、基本は信賞必罰だ。出来る者は褒める。出来ない者は外す。そうやって指揮官の素質を見極めろ」

「は、はいッ!」

 そんなとき、執務室へ仲達が入ってきた。

「失礼します。お呼びでしょうか、伯業様」

「うん、鳳統と共に実戦部隊隊長の四人に意見を求めながら、指揮官育成の計画を立ててくれ」

「し、司馬懿さんにも、文官としての仕事をさせないのですか?」

 雛里が驚きの声を上げる。雛里はてっきり、自分に調練の監督をさせていたのは、仲達を文官として使うためであると考えていた。

「司馬懿も君も、本質としては蕭何というより張子房だ。いや、司馬懿は韓信か。まあいい。今のところ、私の手は足りているし、母方の伝手でひとり知り合いがいる。いざというときは、彼女を招こうと考えている」

 確かに、雛里は軍略家の才があると自負していた。それは親友である諸葛亮も保証している。

「人心を掌握するには、温情主義と厳格主義を時世と相手方によって使い分けることだ。だが、人間というものは自分を守ってくれなかったり、誤りを正す力がない者に対して、従うことは決してない。君たちには、私の政策の裏書になることを期待している」

 マキアヴェッリの考えである。

 さすがに雛里は彼女の主が儒教一辺倒の価値観の持ち主ではないことを知っているため、その言葉には驚かない。

 そして、彼女にとって、袁遺が善政を布いている。それで充分であった。

「司馬懿も分かったな」

「はい」

 司馬懿は礼を取る。優雅で品のある所作であった。

 彼女たちが出ていった後も、袁遺は書簡と格闘する。

「ネズミは今日、二十匹か。子供が遊び代わりに捕らえているな」

 ネズミは不衛生の象徴である。彼らは病原菌の媒介動物であり、また、収穫した穀物を食べる。衛生管理を兼ねて、殺したネズミ十匹を持って来れば銭一枚と交換するという令を出したが、その効果は薄かった。そもそもネズミの繁殖は文字通りネズミ算。一日に一万匹は増えていると考えてもおかしくない。

 だが、黄巾の乱の影響で東から来た流民が難民キャンプの様なものを形成しているのだ。彼らの衛生状態を考えるとネズミから病気が伝播する可能性は低いとは言えない。上は彼らの受け入れから、下はゴミの集積とネズミの駆除で一刻も早く衛生状態を良くしたいため、砂漠に水を撒く様な作業でも止めるわけにはいかない。

 袁遺は次の書簡に目を通す。

「森林の管理は問題ない。だが、救済作物も兼ねて七葉樹(トチノキ)を植えたいところだが、あまり規模の大きいことは、今はできない」

 袁遺は頭を悩ませる。その他にもやりたいことは山ほどある。例えば、渭水の河川整備。洛陽との通信のためには渭水を船で移動した方が早い。それは物の運搬もそうである。ならば、河川整備はそれらを効率よく行うためには必須であった。しかし、それは県令の分を超えた越権行為である。それに金がない。

 問題は金である。

 部隊の編成にしても、そうだ。

 騎兵部隊を編成したいところだが、やはり、金がかかる。

 馬の頭数を揃え、人や戦に慣れるまで訓練するのもそうだが、維持と運用にも莫大な金がかかる。

 騎兵を十全に機能させるのは大変なことである。騎兵一騎の維持費は歩兵十人分に相当する。軍馬は一日、体重の1~3%の餌(だいたい2キロ~6キロ)、それも滋養に優れた穀物を食べる上に水も大量に飲む。そして、食べた後も三、四時間休ませてやる必要があるため、維持と運用には手間が掛かる。それを一〇〇〇、二〇〇〇の部隊単位でやろうものなら、予算はいくらあっても足りない。基本的な問題として、軍馬もやはり消耗品なのだ。

 だが、軍馬は必要であった。

 それは指揮官の騎乗用にである。

 指揮官の騎乗は、一種の見栄えの様なものだった。これは軍において莫迦にできるものではない。階級の上下で、死ねと命ずる者と命ぜられる者に分かれるのだ。乱暴な言い方をするなら、莫迦にでもそれが分かるよう、形式主義的なものが必要であった。

「となると、馬と後は軍事物資を輸送する用の牛も必要だ。買い付けに行かなければいけないな」

 牛は馬より繊細ではない。

 また、牛は軍務で使用していないとき、徴兵されている家に貸し出せば、落ちた生産力が、幾分かマシになるだろう。

 それに難民を含めた移住希望者の数は増えてきている。彼らが人的資源となって、兵力と労働力を高めてくれるはずだ。それには上手く治安を維持し、速やかにこの長安で生活できるようにする必要がある。

「いっそのこと自腹で買うか。父の遺産がまだ残っているが、それも流民の税を肩代わりするために使うしな……」

 税が払えない者のためにそれを肩代わりするのは徳行のひとつである。

 結局、今の自分にできることは人心の安定を図ることである。袁遺はそう結論付ける。

 袁遺は、史実の袁伯業について考えた。

 彼は、確かに自分と同じように長安県令の職に就いているが、反董卓連合の時期では、彼は山陽の太守であったはずだ。いや、そもそも一部の人物が女性になっている世界で、史実ではと考えても仕方がない。だが、今、皇帝が身罷れば、間違いなく漢朝は混乱する。となると、反董卓連合と同じようなことが起こると考えても間違いないはずだ。だが、それで気になるのは張既の董卓評である。いや、如何な人物であろうと権力を持つと豹変することもある。

「漢は滅ぼしたくない……」

 何故だろう。漢が滅びる。そのことに心が騒めくことがある。これは自分が覚えていない前世とでもいうべきものが関係しているのか。それとも、自分が袁遺ではあるはずないと初めて思ったときに感じた喪失感から、何かを失うことに臆病になっているのか。

 それは幾度も考えてきたことだったが、一度も答えが出たことがないものであった。

 袁遺にとって今は仕事に忙殺されている方が、精神が安定している状態だった。

 

 

 部隊訓練の基本は行進である。

 号令と共に歩調を合わせて進むことは、兵の意志と自由を奪う。そして、それらを奪われた兵は服従を学ぶ。服従なき軍隊は軍隊ではなく、故に服従を学ぶ行進は基本となりえるのだった。

 袁遺は自分の目で直接、訓練の成果を確かめるために、練兵場まで来ていた。

 雛里からの報告通りに練兵は順調なようで、行進は行進でも兵たちは次の段階に入っていた。

「いいか、草が生い茂ったところを歩くときは足を引っこ抜くように挙げて、足全体で踏みしめるように歩けよ!」

 雷薄が戦場と何ら変わらない大音声で兵たちに歩き方を教えていた。

 今、長安の兵は行軍の速さと持続距離を伸ばす訓練の段階に来ていた。

「調練は順調なようだな」

 袁遺は傍らに控える武官筆頭である張郃に声を掛けた。

「はい、伯業様。他にも、ぬかるんだ道や逆に乾いた道の歩き方も体に叩き込んでいます」

「戦闘を行わないと仮定して、歩くだけなら日にどのくらい進める?」

「六〇里は行けます」

 張郃は答えた。

「落伍兵は、どのくらいになると思う?」

「長期の行軍訓練を行っていないため、一割くらい出ることは覚悟しなければいけません」

「夜間行軍並の脱落者か」

 袁遺の声には苦いものが含まれていた。

 だが、すぐに、それをかき消し、明るい声と表情で張郃に話しかけた。

「だが、訓練計画そのものは順調だ。よくやってくれている。ありがとう」

「恐縮です」

 答えた張郃の声は硬かった。だが、それは遠慮や緊張から生じた物ではなく、彼の真面目さゆえだった。袁遺もそのことは分かっていた。

 彼らの付き合いは長い。

 袁遺からすれば、最初に配下となった官である。一番付き合いの長い仲達は、張郃が部下となったときは、まだ友人という関係であった。

 以前に触れたが、袁遺の最初の官職は、冀州河間郡鄚県の県尉であった。

 これは、警備を司る官の長である。

 袁遺は、上司である県令を口八丁で丸め込み、賊討伐の募兵を出した。

 それに応じたひとりが張郃であった。

 袁遺と張郃は気が合った。

 張郃は、武張った男でありながら、儒学を愛好していた。

 そのため袁遺は、求めに応じ、儒学の講義をしたことがある。

 この時代、儒学にもいろいろあった。

 そのいろいろを書き始めると今文と古文の違いだとか、今文と古文の対立だとか、それぞれの政治との結びつき方だとか、在野の研究家たちによる経典解釈を以っての綜合的、体系的な理解を目指し始めたとか、鄭玄や何休、趙岐、王弼の名前を出して説明して、注釈の話になったんだから、新注と古注の対立に逸れ、13世紀に成立する朱子学の話に移りそうなので詳しく書かないが、新しい動きが後漢末期から晋にかけて起こった。

 張郃は、いわば最先端の儒教の講義を受けたかったのである。

 袁遺は洛陽で学んだことを張郃に懇切丁寧に教えた。

 張郃は袁遺と言う男に不思議な魅力を感じた。

 この名家の出でありながら、決して高いとは言えない地位に就いた男は儒教を講義しているときは冷静で、ともすれば怜悧な顔からは信じられないほど優しげでさえあった。

 だが、賊との戦いの場での彼は全く違った。

 当時の彼は若い名家の坊ちゃんと侮り、信じない兵たちを率いて賊と戦わなければいけなかったから、統率方法は現在と違った。袁遺は常に兵より十歩先で剣を振り上げ戦わなければいけなかった。その上、戦っている最中、一度も後ろを振り向かず、兵がついて来ていることを疑うそぶりを一切見せなかった。

 その分かりやすい勇者的な行動によって度胸を見せて兵を従わせる方法は、ただのボンボンには決してできることではなかった。

 その後、張郃は袁遺に県尉としての忠誠を超え、袁遺個人に忠誠を誓うようになった。

 袁遺からすれば、乱世における体制の不信感からくる軍閥化への階であったため、決して喜ばしいことではなかったが、張郃ほどの武勇と自分の戦術思想を深く理解している指揮官がいることの有用性に折れ、彼を部曲とした。

 張郃は、ふと思った。

 思えば、あの頃からこの人は……

「どうした、張郃?」

 張郃は袁遺に声を掛けられ、過去との邂逅の世界から引き戻された。

「いえ、ただ、昔とあまり変わっていないな、と思いまして」

「うん……まあ、そうだな。昔から私の軍事行動は急場しのぎに兵を調練してばかりだ。兵に反抗されないよう、行進訓練ばかりしてきたな」

「そうではありません。あなたが昔と変わってない、と思ったのです」

 張郃は否定した。彼には袁遺に対して批評的な意見を言うつもりなどはなかった。

「あなたと初めて会ったとき、あなたは県尉でした」

「うん、そうだったな」

「そして、あなたは先の黄巾の乱で威力偵察部隊を率いる軍候でした」

「そうだ」

「あなたは、軍候となったときに、すぐに軍候と成りました」

「ああ、そういうことか。まあ、そうだな」

 つまり、袁遺は軍候という地位に就いた瞬間から完璧に軍候として機能し始めたのだった。

 普通ならば、環境が変わることに人は戸惑うが、袁遺にはそれがなかった。

 県尉のときもそうであった。

 今まで兵を率いたことがなかった名家の者が、いきなり県尉になれば、例えば部下との距離の置き方、付き合い方に戸惑うはずだが、その素振りを一切見せず、兵を率い、束ね、駆り立てた。

 後もそうである。

 彼は何の戸惑いもなく威力偵察部隊の将校になり、同じ様に別働隊を率いる指揮官となり、今も長安の県令になっている。

 袁遺の地位は変わり、求められるものも変わってくる。それでも彼の本質は何も変わらずにいた。

「私など、大きくなる責任に震える思いです」

「ははははは、何を言ってるんだ。漢の将軍にしろ、くらいのことは言ってくれてもいいんだぞ」

「とんでもない。そんな恐れ多いこと……」

「いや、たとえ、将軍になったとしてもやることは変わらないかもしれないぞ。急場しのぎに兵を訓練するために、ひよっこ共を怒鳴りつけて歩かせているんだ」

 袁遺は笑みを浮かべた。それは常日頃の無機質さを打ち消すほどの明るさがあった。

「そうかもしれません」

 張郃も笑顔で応じた。

 本当にそうかもしれない。この人の本質はそう簡単に変わりそうにないから。

「まあ、なんだ。これからも頼むぞ」

 袁遺は、そう言った。

「はい、伯業様」

 張郃は礼を取った。

 

 

「では、説明してくれ」

 袁遺は、雛里と仲達に向けて言った。

 彼らは袁遺に命じられた訓練計画を作り、それが彼らの主の目に適うかどうか確かめるのだった。

「は、はい。まず、何人かの候補を選びます。これは、実際に訓練を指揮した四人に推薦してもらいます」

 雛里が、やや緊張した面持ちと声で言う。

 雛里と仲達、このふたりの上下関係はかなり複雑なものになっていた。

 一応、雛里が袁遺の筆頭軍師になっている。これは仲達自身が袁遺に進言したことであった。

 曰く、黄巾の乱で手柄を挙げた彼女を筆頭軍師とする方が将兵に示しが付く、ということであった。道理ではある。袁遺はその進言に従った。

 だが、官位で言えば仲達の方が高い官位になっている。

 仲達は、この長安の県尉である。

 これは軍権を子飼の部下に握らせたい袁遺が仲達を県尉に就けるよう働きかけたからだ。

 それは別段の苦労もなく達成された。

 そもそも、この時代で官職を得るうえで重要な名士による人物評で仲達は、『聡明誠実、剛毅果断の大物』、『非常の器』と幾人もの人物に絶賛されている。なのに、今までどこにも仕官しなかった仲達がその重い腰を上げたのである。

 この仲達推挙の動きに多くの人が協力した。

 それだけ、彼は期待されていたのである。

 そのため、行き過ぎて彼をどこかの太守に、などというところまで発展したが、仲達が、これは袁遺との忠義の問題であると、この時代の美徳を持ちだして、袁遺の部下に収まった。

 だが、雛里としては難しい立場である。

 そもそも仲達は、黄巾の乱の折、洛陽で別の仕事を袁遺に命ぜられ動いていた。だから、戦場で手柄を挙げるのは不可能であるし、何より彼は袁遺と付き合いが長い。新参である雛里は、その引っ込み思案な性格と相まって、始めは、この官職が自分より高い同僚兼部下に色々と気を使い、緊張していたが、仲達はそういうことを気にせず、雛里を立てる態度を取っていた。また、その品と落ち着きがある物腰と言動で、雛里としても徐々に彼に接することに慣れていった。

「そして、候補の人に、二〇人の部隊を率いてもらい行軍。目的地で、同じく行軍してきた他の候補者の部隊と模擬戦をしてもらいます」

「なるほど、いい考えだ」

 行軍という行動には指揮官の要領というものが出る。腕の振り、足を上げる高さ。それらを何でも規範通りにすれば、疲労は大きなものになる。だからといって、ダラダラ歩けば、決められた時間までに目的地に着くことができない。手を抜けるところは手を抜く。つまり、要領良くやらなければいけないのである。それは目的地で模擬戦が控えているとなれば、なおさら疲労を抑える必要がある。

「何度かそれを繰り返し、能力を見極めた後で、上官が戦死し、自分に指揮権が譲渡された、という想定の訓練をさせます」

 前線では流れ矢で指揮官が突然、戦死する、といったことは珍しくない。むしろ、日常である。であるなら、これは言うまでもなく有効な訓練であった。

「鳳統、司馬懿。指揮権を下に移譲させ、任務を継続させるために必要な教育はなんだ?」

 袁遺が無表情で言う。

 仲達が雛里を横目で見ると、雛里は微かに頷いた。仲達が答えてもいいらしい。

「思考停止や無批評な前動続行をなくすため。上官が明らかに欠陥がある命令を下したとき、それを意見具申という形で糺さないことを利敵行為であるとして、処罰を行う。それを徹底することにより、考えさせることと意見を言わせることに慣れさせる必要があります」

 その答えに袁遺は満足そうに頷いた。

「では、こちらを」

 仲達は袁遺に書簡を差し出す。

 それには具体的な訓練の予定が書かれていた。

 それは、ありきたりな軍事的儀式ではなく実戦的なものだった。才能あふれる軍略家であるふたりは、決まりきった想定を繰り返すだけでは将兵の気力を削ぐだけであることを肌感覚で理解していた。そのため、内容は指揮所演習から部隊を実働させる野外演習まで多様な状況が想定されていた。

 それに目を通し、袁遺は言った。

「各階級指揮官の選抜と自立性を高める訓練。うん、よく練られている。これを四人の将に指示し、実行に移してくれ」

 袁遺のその言葉に雛里は顔をほころばせた。

 そして、気付かれないように隣の司馬懿の顔も見る。

 彼の表情は変わらず、穏やかで品のあるものだった。

 司馬懿と仕事をし、彼女は彼が皆に好かれていない理由、その一端を見た気がした。

 彼の心の内が全く読めないのである。

 雛里は、その聡明さと臆病さで人の機微には敏感な方であるし、行動をある程度予測できる。それは軍師に求められる能力でもある。

 だが、司馬懿は違った。この男は、その穏やかさや品位で心を分厚く覆っているようで、何を考えているか、全く分からないのである。そして、逆に司馬懿は雛里の心の機微を見通した様な細かな気遣いをよく見せていた。

 それは好き嫌いの問題ではなく、恐怖であった。

「これからは、私も訓練に顔を出す日を増やすことにするよ。模擬戦などは総大将が督戦した方が功名心のある者は張り切るだろうから」

 その言葉に雛里は、この人はそれで休む時間を取っているのか心配になった。

「あ、あの、伯業様。最近、お休みを取られましたか? 長安に着任してから、朝から夜まで働きづめに見えますが……」

 心配、そう思うと言葉はいつの間にか口から出ていた。

「う、うん。大丈夫だ。母方の従姉を呼ぶことにしたんだ。これで少しは余裕ができる」

 その声には、まるで子供をあやす響きがあった。雛里はそれに意味の分からない胸の痛みを感じたが、主が少しでも休めるならと安堵した。

「母方の、ということは何熙の係累ですか?」

 仲達が尋ねる。

 他人の家の親戚関係まで、よく覚えているな。そこまでいくと感心するよ、と袁遺は思いながら、肯定する。

「そうだ。曾孫にあたる」

 何熙は安帝の治世で車騎将軍までのぼった人物である。安帝は現在皇帝の劉宏(霊帝)の六代前(六十年で六人の皇帝が即位している)の皇帝である。

「俺の母の姉妹が何家に嫁入りしている。彼女の父方の従兄が党錮されていたためか、解かれた現在でも官職につけていないが、優秀だ。ただ……」

「ただ?」

「ひどく融通が利かない」

 そう言った袁遺の顔は無表情であるため、言葉に込められている感情が読み取りにくい。

「一度、郷里で会ったことあるが、余裕がない、とでも言えばいいか。まあ、危うい性格だな」

 そう言う袁遺だが、内心では、自分も人のことを言えるような性格でもないけどな、などと自虐的な考えを巡らせていた。

「ともかく、文官の人手は目途が立った。問題は軍の方だ。四人の将に少なくとも八〇〇の兵をそれぞれに率いてもらいたいと考えている」

「……その数の根拠は?」

 司馬懿が尋ねる。彼には、最低八〇〇という理由が分からなかった。

「兵理ではない」

 袁遺が答える。

「むしろ、幼稚な理由かもしれない」

 その言葉と裏腹に袁遺の顔は恥じてはいなかった。

「八〇〇名前後の部隊(後代の言葉で言うなら大隊)を指揮することは野戦指揮官にとって、これ以上ないくらい楽しいことだ。独自性の高い指揮権を有し、かつ、兵が駒や数字の様な抽象的に感じられるわけではない。自身も戦場にあることを感じつつ、指揮を振るうことができる自立性の高い役職だ。彼らは黄巾党との戦いで手柄を挙げた。それに対して、金子などは与えたが、彼らの指揮官としての部分にも何か与える必要がある。つまり、これがそれということだ」

 それは袁遺の欠点からくるものであった。

 彼は他人から吝嗇だと思われることを必要以上に嫌う。

 雛里に対する莫大な支度金の件もその欠点からくるものであった。

 袁遺に経済観念がないわけではない。むしろ、時代的に見れば異常に発達した男である。また、マキアヴェッリの言葉を引用して見せたことからも『君主論』の一節を知らないわけでもない。

 それでも抑えられない悪癖であった。

「黄巾党からの降伏兵で数を膨らませただけではない。正規に訓練された兵を率いさせる。君たちふたりは、それに集中してくれ」

「は、はい」

「はい」

 袁遺の言葉に軍師ふたりが返す。

 

 

 夜、袁遺は雛里に自分が知っている軍略の知識などを教えていた。

「こうして、完全包囲下に置かれ、逃げることもできずに殲滅されることとなった」

 今日は実際に起こった戦いを机上に駒などを使い再現していた。

 紙に書かれた地形では、ふたつの陣営の内、ひとつが敵に包囲されていた。包囲している方の陣営は別働隊の騎兵が敵後方を攻撃している。

 史上最も有名な包囲殲滅戦であるカンネーの戦いであった。

 雛里はカルタゴの名将ハンニバルの手腕が再現された机上を食い入るように見つめていた。

「もちろん、これは理想的すぎる。大将が長い連戦の中で将兵を徹底的に教育し、全軍が完全にひとつの意志のもと統一された状態であった結果で、この極彩色の成功に魅せられて、失敗した例の方が多い。例えば……」

 袁遺は駒を別の形に並べなおす。

「こちらの軍は包囲殲滅を企み、右翼、中央、左翼に騎兵部隊を展開するが、敵は各部隊が独立した形で攻撃してきた。これは敵が複数の部族の連合軍であったためだ」

 机上では駒たちが無秩序な戦闘を行っていた。右翼と左翼は敵を包囲するどころか、それぞれ自部隊より多い敵の攻撃にさらされている。

「結果、この軍は全軍の三分の二を失う敗北を喫した。この手の包囲殲滅戦に失敗した場合、大抵、壊滅的な被害を受けることになる」

 袁遺が説明したのは、カンネーの戦いの約六〇〇年後に起きたハドリアノポリスの戦いであった。

「これらは大秦(ローマ)(後漢書にはローマについての記述がある)の戦だ」

 ただし、ハドリアノポリスの戦いはこれから一八〇年後のことである。

「どう思う、雛里?」

「そうですね……包囲もそうですが、騎兵の後方機動が戦いの帰趨を決したと思います」

「なるほど」

 袁遺は再びカンネーの戦いの最終局面を配置する。

「確かに、包囲された方は、包囲と騎兵の後方からの攻撃で組織的な抵抗ができない混乱状態であったとも考えられる」

「はい、包囲した方は少数ですので、包囲網を突破されれば、逆に包囲されていた可能性もあります」

「そう。結局、数が多い方が有利であることは疑いないことだ。それでも数が少ない方が勝つこともある。だから、我々は兵站も含めた部隊の運用について心を配るべきなのだ」

 雛里は袁遺にとって良い生徒であった。能力的に袁遺を超える部分を多く持つ雛里であるが、彼女は謙虚に、そして貪欲に袁遺の持つ知識を吸収していった。

「あ、あの……司馬懿さんには、このことは言わないのですか?」

 人の良い雛里は、ふたりいる軍師の内、自分だけが主人の知識を独占していることに後ろめたさを感じていた。

「大丈夫だよ。あいつには、昔、話したことがあるから」

 袁遺は、その無表情から出ているとは思えない優しい声で言った。

「それに、俺とあいつがこういった話をすると、話題が別の方向に行ってしまうんだ」

「別の方向?」

「例えば、高祖の功臣と光武帝の功臣どちらが上か、とか。始皇帝と光武帝のどちらが偉大か、とか。いつの間にかそんな話になっているんだ」

 ちなみに、光武帝の功臣の方が上で。始皇帝と光武帝は答えが出ず。ただし、劉邦は、そのふたりより上、という結論を彼らは出していた。

「あまり建設的な話じゃないな」

 袁遺の顔に自虐的な微笑が浮かんだ。

「そ、その……司馬懿さんとは、どのような話をされていたのですか?」

 雛里が言う。

 最近、彼女との会話もこういった風に脱線するようになってきたな。袁遺はそう思いながら答えた。悪い気はしなかったからだ。

「そうだね。過去の皇帝や名将の比較。互いの故郷の話。後、俺の儒教に対する考えとか。ああ、そうだ。一度、職にも就いていないくせに嫁をもらったことをからかったが、逆に結婚していない俺がからかわれたこともあったな」

 袁遺は懐かしそうに、そして、どこか嬉しそうに話す。余談になるが、この時代、結婚していない男は半人前扱いされていた。

 雛里は、こうして袁遺のことを聞きたがった。

「雛里、諸葛先生とは、どんな話をしていたんだい?」

 逆に、袁遺は雛里のことを聞いた。袁遺のことを話したら、雛里のことを話す。そんな約束事が自然とできていた。

「朱里ちゃんとは水鏡先生に教えていただいたことをふたりでおさらいしたり、大陸の危機的な状況にわたしたちが学んだことをどのように活かせるか、とか……あわわ、ど、どうかしましたか、伯業様?」

 雛里は自分の言葉に主が微妙な顔をしていることに気付いた。

「あ、ああ、すまない。その、君たちが、真面目に国の行く末を考えている中で、俺たちは過去の偉人を捻た視点で眺めていただけのことを恥じていた」

 袁遺と司馬懿は、良家の子息である。ノブレス・オブリージュというわけではないが……

「こんな小さな子供たちが、しっかりしているのに、俺たちは何やっていたんだかって思ってしまうな……」

「あわわ、そんなことはありません。伯業様はしっかりされた方です。あと、わたしは子供ではありません」

「ああ、すまない。口に出していたか」

「は、伯業様!」

 雛里は自分が揶揄われいることに気が付いた。ただ、それほど嫌な感じはしなかった。どころか、そういった柔らかな態度を取られることが嬉しかった。公私の公の部分の主は、悲壮と思えるほどに様々なものを背負い過ぎていた。

 だが、この会話も袁遺にとっては公の延長であることに雛里は気付いていた。

 自分の主は、あまり感情を表に出すことがない。だが、兵や文官に接するとき、彼は温顔を作ることに努めていた。自分の無表情が他人に冷たさを感じさせることを知る袁遺は、忠告、諫言を得るため、進言しやすい状態を作っているのだ。袁遺からすれば『貞観政要』の実践であった。雛里は『貞観政要』を知らなかったが(当然である。唐代に編纂されたものだ)、それでも主の意図は分かっていた。これも引っ込み思案な雛里が進言しやすい状態を作っていることが目的であった。

 そのため、彼が本当に自然な笑顔を浮かべることは少ない。

 そのことが雛里の胸に痛みを走らせる。

「ああ、諸葛先生といえば、彼女は劉備という人物に無事仕えられたようで、劉備は黄巾党討伐の折の活躍で現在、平原の相の役職に就いているらしい」

「は、はい。そのことは、わたしも聞いています」

 雛里は嬉しそうな表情を浮かべた。

 袁遺はそんな彼女の様子に目を細めた。

「もうひとつ、騎兵の使い方についての戦術を話しておこう。仲達が最も興味を示した戦術でね。これは騎兵の使い方と伏兵の置き方が重要な要素で……」

 そう言って、袁遺は卓上に新たな盤面を作り始める。

 曹操の騎兵運用と諸葛亮の陣形から着想を得た唐代の名将の戦術が駒によって再現される。

 彼らふたりはその後、夜遅くまで戦術について語り合った。

 

 

 彼女がその胸の痛みの正体に気付くまでもう少し時間が必要であった。

 




補足

・荀子
 この時代の儒教では荀子どころか孟子も経典と見做されていなかった。
 だが、両者ともに漢代の儒者たちに大きな影響を与え、名声を得ていたため、袁遺が荀子の名前を出しても問題はない。

・この時代、儒学にもいろいろあった
 本文に出てきた言葉を簡単に説明します。
 今文とは、漢になって儒教を復活させようしたとき、その書物は始皇帝の焚書坑儒により焼かれたため、経典を暗記していた学者たちに書かせたテキストである。対して、古文は孔子の旧居の壁などから出てきたとされる秦代以前のテキスト(ただし、古文の素性を巡って議論がされていて、割と妖しい書物扱いされることもある)である。内容や字体などが違う。特に後世でもいろいろ影響力がある『周礼』や関羽や呂蒙が愛読していたとされる『春秋左氏伝』は古文にしか見られない。
 古文派の学者は王莽と結びつき、彼の簒奪に協力した。対して、今文は前漢の武帝の御代に一種の御用学問と機能した。その後、讖緯(予言の一種)と結びつき、後漢でも今文派が優勢であった。
 ただ、後漢末期、鄭玄らが古今の垣根を超え、讖緯を含めて広く研究し、『春秋』と『孟子』以外の経典に注釈を入れる。
 このとき入れられた注釈を古注と言い。主に13世紀の宋の時代に入れられた注釈を新注と言う。
 この新注の動きから朱子学が成立していくのだが、それを詳しく書くと、孟子の評価がどうだの、新学、蜀学、道学がどうだの、唐から宋の政治変化、思想と宗教の変化を五代十国時代を通して書かなければいけないので、詳しく知りたい人はネットなり本なりで調べてください。

・『君主論』の一節を知らないわけでもない
 君主たる者、ケチだという評判を恐れてはならない。何故なら、それは金庫を空っぽにするわけでもなく、略奪者にもならずに、統治者を続けていける悪徳だからだ。

・カンネーの戦い
 史上最も有名な包囲殲滅戦。
 ハンニバルは強いね。金融志向だし、カリスマ志向だし、小屋経済のコイン増えるし……はい、civ4が出てきたので懐かしくてやってみたら、ハマってしまいました。だいぶ下手になっていて驚いた。貴族すらやっとでクリアしたぞ。

・始皇帝と光武帝は答えが出ず。ただし、劉邦は、そのふたりより上
 私の偏見と独断です。
 個人的能力より彼のやったことが、中華と後の歴史にどう影響したかという点を重視しています。ですので、人格、能力は光武帝が一番だろう、という人でも荒らしたりしないでください。

・曹操の騎兵運用と諸葛亮の陣形から着想を得た唐代の名将の戦術が駒によって再現される
 やばい奴がやばい戦術をラーニングしやがった。初見殺しのうえに騎馬民族が涙目になってしまう。

・『貞観政要』の実践であった
 名君とされる唐の太宗こと李世民は顔が怖かったため、進言する百官たちが圧倒されないように、必ず温顔で接して臣下の意見を聞いたとされる。


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4~5

4 その日1

 

 

「ほぉ……」

 袁遺は目の前で行われている模擬戦闘の光景に感心したような声を上げた。

 彼はふたりの軍師に宣言したように訓練に顔を出す頻度を増やし、模擬戦闘においては必ず督戦していた。

 今、戦っているふたつの小隊規模の部隊は対照的だった。その原因は指揮官の違いからくるものであった。

 片方の部隊は指揮官の大音声の号令によって、整然たる横隊を組んで前進していた。軍記物から飛び出してきたような精悍さを持っている。

 だが、袁遺が感心したのは、この部隊ではないもうひとつの部隊であった。

 物語の部隊と戦っていた部隊は、悪い言い方をするなら、夜盗の様な部隊であった。

 部隊全員が森や丘の陰に身を隠しながら進んだ。

 そして、相手の側背をついた瞬間に弓兵たちに攻撃を命じた。といっても、訓練なので本当に打つわけではなく、真似事である。その効果については雛里と仲達の軍師陣と実戦部隊の隊長四人が判定する。

 それと同時に小隊指揮官は自身を先頭に突撃を実施した。

 仲達はそれを確認すると大声を上げた。

「そこまで! 一の組みは側背をつかれ、潰走したと見做す!」

 その判定に負けたとされた指揮官は若干不服そうな表情を浮かべていた。

 袁遺は、その気持ちが分からなくもなかった。

 負けた側の指揮官は決して無能ではなく、少し杓子定規なところがあるがむしろ有能な側の人間であった。でなければ、袁遺という実際的な人間に仕えている将たちの眼鏡に適い指揮官に選ばれない。

 今まで散々、述べてきたことだが、この時代の原則として部隊の隊列を最後まで維持している側に勝利が訪れる。

 なので、この模擬戦の勝った側がとったような身を隠し続ける行動は兵を分散させる恐れがあるため、大軍では採用できない邪道な戦術と言えた。

「鳳統、今の部隊運用について、どう思う?」

 袁遺は傍らの雛里に尋ねた。

「は、はい。数の少ない部隊の運用法で大軍では採用できませんが、身を隠し、相手の側背をつく行動は見事なものだったと思います」

「司馬懿、君はどうだ?」

「私も彼女と同意見です」

 つまり、ここにいる三人が同じ評価を下したことになる。

「勝った方の指揮官にいくつか質問したい。兵をまとめたら、私のところに来るように言ってくれ」

 袁遺は仲達にそう命じた。

 仲達が伝令を出すのを見ながら、袁遺は指揮官について考える。

 袁遺の頭の中には、雛里と仲達が選出した指揮官候補者たちの名前と顔、大まかな経歴が暗記されている。特に、今呼んだ者は最も印象強い人物であった。

 史実に名を残した人物であったからだ。だが、袁遺はいきなり指揮官に抜擢するような真似はしなかった。何故なら、能力があるなら訓練を任せている六人のうち誰かが拾い上げるからだった。正式な官職ではないため、この時代特有の儒教的な煩わしさはない。抜擢する六人が袁遺という男の面倒くさいまでの実際的な部分を理解しているため、彼らがそれに囚われることもない。たとえ、その人物が異民族の出身であってもだ。

 命令通りにやって来た指揮官は小柄な少女だった。肌は日に焼けており浅黒く、髪型は耳が完全に見え、額が前髪で隠れないほどに短い。目には獣を思わせる野生的な光を宿していた。ただ、顔の作り自体は悪くなく、それを構成するパーツは全体的に小ぶりで年相応の幼さを感じさせ、ある種の愛嬌となっていた。

 彼女は袁遺と軍師ふたりに礼を取り、口を開いた。

「王子均。拝謁します」

 その声は高く、少女らしいものだった。

 王子均。子均は字で、名は平。つまりは三国志において魏からの降将で蜀軍後期の数少ない名将である王平だった。

「うん、いくつか質問したいことがあるのだが、いいかな?」

 袁遺は柔らかな声で言った。

「はい、何でしょうか、県令様」

 王平は素直に答えたが、目には警戒の色が見てとれた。

 彼女の大まかな経歴も袁遺の頭の中に入っている。

 彼女は巴郡(蜀の東で漢中の南)の蛮族のひとつである板循蛮の出身だった。そのため差別含め色々な苦労があったのだろう、と袁遺は予想していた。

「君は最近、長安に来て、兵の募集に応募して軍に入ったそうだが、どうして応募したんだ?」

「漢中の師君(張魯のこと)のところにいたのですが、合わなくて、色々旅をしていたのですが、路銀がなくなって、軍に入れば食うのだけは困らないから、応募しました」

 今までのことを思い出すように王平は言った。

「……軍での生活はどうだ? 食事は? 訓練はきついか?」

「飯は腹一杯食えて満足してます。訓練はそれほど……旅をしている頃に散々歩き回りましたから、きつくはないです」

 そうか、それは良かった。袁遺は、そう言って少し黙り、聞きたかったことの質問に移った。

「先ほどの模擬戦は見事だった。だが戦場では命令を伝達するためには軍鼓や銅鑼に頼らなければいけない。しかし、戦場では騒音があふれているため、君のとった手段は大軍では採用できないが、その点はどう思う?」

「それは……」

 王平はバツの悪そうな顔で答えた。

「少ない数での訓練でしたので、その、もっと人数が多くなれば、別のやり方にします……」

 王平は怒られると思いながら答えたが、袁遺にとってそれは彼が求めていた答えだった。つまりは各階級指揮官の自立性、それに他ならなかった。

「分かった。模擬戦、本当に見事だった。ところで、君は、自分の率いた二十人、全て覚えているか?」

 袁遺の質問に王平は、はい、覚えています、と答えた。袁遺は、その答えに満足そうに頷き続けた。

「後で、褒美として金子を渡すから、君が彼らに分け与えたまえ」

 王平は、それに恐縮そうに、だが同時に嬉しそうにも頭を下げ、自分部隊に戻っていった。

 袁遺は雛里と仲達に、王平は四人の将の誰の下につけるのがいいか尋ねた。

 ふたりは張郃の名前を挙げた。

 袁遺は、適任だな、と答え、その手続きを含めた書類仕事をするために庁舎に向かった。

 袁遺の仕事量は増加の一途を辿っていた。

 軍の訓練が本格化したことにより、処理すべき案件は増え、足踏みというものを嫌う袁遺は他では考えられない早さでそれらを処理している。だが、限度と言うものがある。早晩、処理速度は落ちるだろう。

 袁遺は庁舎に着くと水を浴び、戦袍から普段の服に着替え、職務に戻った。

 そして、県令室で問題を解決する調べを聞いたのであった。

「何夔と申す者だ! 県令殿からの招きで参った! 県令殿はどちらに!?」

 庁舎の入り口から県令の部屋まで聞こえるほど大きな声だが、凛とした響きがあった。

 彼の従妹がやってきたのである。

 袁遺は、すぐにこちらに通すように命令する。

 現れた従妹は、束ねられている長い黒髪には乱れもなく、着ている服も同様だった。袁遺の面影が見える目は、常に相手に真っ直ぐ向けられている。

 姓を何、名は夔。字は叔龍。史実では、曹操の臣下として頭角を現し、いくつかの太守を歴任し、魏帝国成立後には列侯に封じられた。袁遺とは母方の従妹にあたる。

「久しぶりだな、叔龍」

「はい、伯業殿。遅くなりましたが、長安県令就任、おめでとうございます」

 キレのいい発音である。彼女の性格がそのままでた声であった。

「ありがとう。それで、長安で文官として働いてくれるということでいいんだな?」

「はい、足りぬことの多い身でありますが、粉骨砕身の覚悟で務めさせていただきます」

「うん。長旅で疲れたであろう。部屋は用意させてあるから、今日はそのまま休んでくれてかまわない」

「いえ、このまま仕事をさせて頂きます」

 その言葉は袁遺には予想の範囲内だった。長旅をしてきた割には髪も服も乱れていない。

「では、当分は専売品の監察を担当してもらう。それについての書簡を渡すから、読み、疑問点をまとめてくれ。その後、私が質問に答える」

 そう言って、袁遺が書簡をまとめていると廊下から人が走る足音が聞こえてきた。

「伯業様!」

 足音の主の司馬懿が部屋に飛び込んできた。

 その顔はいつもの温和さがなく、硬い表情であった。長い付き合いの袁遺でさえ見たことがない表情であった。

「どうした、仲達?」

 司馬懿は息を整え、唾を飲み込んだ後に口を開いた。

「……皇帝陛下が崩御なされました」

「ッッ」

 袁遺と何夔が、その言葉を聞き、同時に目を見開いた。

「……ふーー」

 袁遺は一度、息を吐き、心を落ち着かせる。

「司馬懿。鳳統と張既、それに四人の将を集めてくれ。このことを発表し、長安で起こりうる混乱について話しておきたい」

「はい」

 司馬懿が部屋を出ていく。

 袁遺は何夔に向き合い、

「着任早々、大変なことになったな」

 と言った。

 だが、まだ衝撃覚めやらない何夔からの返事はなかった。袁遺にしてはどうでもいいことだった。彼も心に恐ろしい衝撃が来なかったわけではなかった。

 これから数か月、ありとあらゆることが急激に動き出した。

 

 

 まず最初に長安に訪れた影響は、ある軍勢の出現であった。

「宿を貸せ、だと」

 それは雨の日であった。

 見張りの兵が西から軍隊がやって来た、と報告してきたのだ。長安にやにわに緊張が走る。

 高覧が七〇〇の兵を率いて威力偵察に向かい。袁遺はそのうちに手勢を整えた。

 だが、高覧からの報告によれば、それは敵意ある部隊ではなかった。

 それは涼州から洛陽を目指している三〇〇〇の部隊で、率いている人物は董卓であった。

 彼女たちは、この雨であり日も落ちそうなので、長安で一泊させて欲しい、と言ってきたのである。

 袁遺は、一瞬、道を貸したら草を枯らされる、かな、などと面白くもない冗談を考えた。

 彼は董卓の軍勢を長安に入れるつもりであった。三国志演義を知っている人なら正気の沙汰とは思えない行動であったが、袁遺はかつて張既が語った董卓評を確認したかった。それに呂布や劉備を入れるよりマシだろう、なんて莫迦なことも考えていた。

「張既」

 董卓の名前を聞いた袁遺は、彼女と唯一面識がある部下の名前を呼んだ。

「はい」

 福々しい恵比須顔の男が答え、一歩前へと出る。

「君は私に侍り、今から会う人物が董卓本人か確かめてくれ」

「伯業様、それでは!?」

 その言葉を聞いて雛里が叫ぶ。

「うん、董卓軍を受け入れる。司馬懿、何夔、準備を整えろ。最悪、備蓄してある糧秣を出してもかまわない。ただし、油断はするな。私と張既は高覧に合流し、董卓と面会するが、何か怪しいそぶりを見せれば、すぐ、長安に引き返す。万が一に、我々が戻れぬと判断した場合、城門を閉じろ。その後は、鳳統が県令を代行し、街を守れ」

「はい」

「じゃあ、行こう」

 袁遺と張既は馬に乗り、先発している高覧隊との合流を図った。

 袁伯業は名家の生まれである。三白眼ではあるが整った容姿を持ち、文才を絶賛され、黄巾党討伐において軍才があることも示した。官職にも就いている。そんな男であっても劣等感を感じるときがあった。それが馬に乗るときである。

 はっきり言えば、袁遺は乗馬が下手であった。どんな名馬であろうと彼が乗れば、それは駄馬に見えた。名将が颯爽と名馬を乗りこなす、その理想像に真っ向から歯向かっていた。

 厳密に言うのなら、全く乗れないことはない。普通に乗るなら問題はないのだ。ただ、駆けさせるとなると、彼は馬に鞭をくれてやるしか、速く走る方法を知らなかった。故に、今もたいした速度を出していない。

 高覧隊と合流すると手綱を引き、馬を止める。

 張既が颯爽と降りる横で、袁遺は馬を上手く止められず、張既の馬を二馬身前通り過ぎてから止まった。袁遺は慎重に降りる。転げ落ちる様な無様を部下の前で見せるわけにはいかなかったからだ。

「伯業様、あちらです」

 高覧が袁遺と張既を案内する。

 その面持ちには緊張があった。彼は、董卓が主を害するようなら、命に代えても、城まで帰す覚悟でいた。

 騎兵に守られるように軒車(この時代の貴人の馬車)が一台あった。

「長安令・袁遺、拝謁願います」

 袁遺は礼を取る。

 それに反応するように軒車から女性がふたり降りてくる。

 ひとりは眼鏡をかけ、こちらを睨むように見る少女。

 もうひとりは、儚げで品があり、男なら守ってやりたい、と自然に思わせる雰囲気を持った少女であった。張既の話を聞く限り、こちらが董卓か。袁遺はあたりを付ける。

 そのあたりを付けられた少女が口を開いた。

「私は涼州の董卓。字は仲穎です。私たちは洛陽へと向かう途中ですが、この雨です。雨風を凌ぐため、長安への入場を許可していただけないでしょうか? 長安の人たちに迷惑をかける様なことは致しません」

 そう言って、頭を下げた。

 袁遺はさりげなく、横目で張既を見る。

 張既はそれに気付き、わずかに頷く。どうやら、彼の知る董卓であるようだ。

「分かりました。兵舎と庁舎の一部を開放します。どうぞ、お進みください」

「あ、ありがとうございます」

 その後、涼州の兵たちを兵舎に収容し、食事を与える。後代の言葉でいう将校は庁舎に用意された部屋に泊まることになった。

 食事を終えると董卓と眼鏡をかけた少女がお礼を言いにやって来た。

 袁遺は張既と雛里を呼び、従僕に茶の用意をさせた。

「改めてお礼申し上げます。袁遺さん」

 そう言って董卓が頭を下げる。

「頭を上げてください。そのように何度もお礼を言われるほど大した御もてなしではありません。どうか、お気になさらないでください」

 袁遺は丁寧な態度を取るが、それでも目の前の少女に気を許すことは絶対にしなかった。董卓は当面の敵になるかもしれない人物である。

 ほとんどの事象が袁遺の持つ知識から外れているこの世界で史実通りに行けば、などと考えるのは滑稽かもしれないが、それでも袁紹を盟主とした反董卓連合が起こり、董卓が長安に遷都すれば、長安県令である袁遺は殺されることになる。袁紹の従兄の袁遺を生かす理由は何ひとつない。

 袁遺は彼女を見極めようと探りを入れる。

「董殿、洛陽へは、如何な用で行くのですか?」

 その質問に答えたのは董卓ではなく、傍らに控えていた少女であった。

「機密に関わることよ! たかが県令が出過ぎた真似をしないで!」

 立ち上がり、袁遺を睨みつけながら言う。

「え、詠ちゃん……」

 董卓が立ち上がった少女を押し留めようと小さな声を上げる。

「申し訳ありません。出過ぎた真似をしました。お許しください」

 袁遺は陳謝した。機密と言われれば、どうしようもない。

「い、いえ……こちらこそ申し訳ありません」

 董卓はそう言うが、傍らの少女は、まだ袁遺を許していないようで、表情をより一層厳しくして睨んでいる。

 だからと言って、袁遺は特に気にしない。

 雛里は、ハラハラした様子で成り行きを見守っている。張既は袁遺の顔を見ていた。袁遺はわずかに考えると、その意図を察し、小さく頷く。それを確認し、張既が口を開いた。

「董殿、賈殿。お久しぶりです。覚えておられないかもしれませんが、張既です。以前、涼州では大変お世話になりました」

 場にあった険悪な雰囲気を落ち着かせるような声であった。

「お、覚えています。お久しぶりです」

 董卓は控えめながらも柔らかな笑みを浮かべる。賈駆もまた、纏っていた剣呑な雰囲気が薄れていく。

 この自然と場を和ませる張既の気質は、袁遺にとって有り難いものだった。

 張既は、彼女たちと久闊を叙す様にいくつか言葉を交わしていく。

 袁遺はそれを気付かれないように観察していた。

 董卓は、ゆっくりとした話し方で、声も大きくはない。だが、それは愚鈍な印象を与えず、むしろ、穏やかな品を感じさせた。それに返す言葉には、確かな知性と何より他人を思いやる気持ちが読み取れる。

 賈駆についてもそっけない言葉を返しているが、他人を見下した様な厳つさを感じさせない。

 このふたりは案外似た者同士なのかもしれないな、袁遺はそんなことを考えた。

 張既は袁遺にも話を振ってくる。袁遺と董卓、というより賈駆との間を取り持とうとしていた。

 袁遺はそれを有り難く受け取った。交わす言葉自体は少ないが、先ほどまで両者にあった剣呑さは完全に消え失せていた。

 袁遺はタイミングを測り、言った。

「長々と付き合わせて申し訳ありません。旅の途中、おふたりもお疲れでしょう。部屋を用意してありますので、どうかお休みください。何かありましたら、何なりとお申しつけください」

 会話を切り上げ、彼女たちふたりはそれぞれ用意した部屋へと向かった。

 雨は明け方頃には弱くなり、日が昇る頃には晴れていた。

 袁遺は蔵を開け、備蓄していた糧秣の一部を董卓に渡した。

 彼女は断わろうとしたが、袁遺が半ば強引に持って行かせた。糧秣や水の手当ては兵站云々の前に軍首脳部が行うべき最低限の配慮であり、命を懸けて戦わせる兵たちのことを考えると絶対的な義務である。袁遺はそう言った。董卓はそれに納得し、袁遺に、一宿の恩と重ねて礼を言う。

 部隊の先頭を馬で駆る将(あれがどうやら華雄であるらしい)が見事な手綱さばきで先発すると残りの部隊がそれに続く。

 袁遺はその後ろ姿を見ながら、彼女たちが、どこへ行くのか考えた。

 地獄に行くのだ。

 そのことに僅かに同情したが、今、袁遺にできることは何もなかった。

 この道中、董卓の一行は洛陽から脱出した宦官・張譲の一派と皇帝及びその妹と合流し、都に入ることになる。

 それが彼女たちにとっての地獄の始まりであった。

 ただ、もし彼女たちが地獄で苦しんでいるところに悪魔が来て、手を差し伸べたら、彼女たちはその手を取るのだろうか? たとえその悪魔が如何な条件を突きつけようと。

 

 

5 その日2

 

 

 董卓の部隊が長安を発ってから、しばらくして袁遺の元に一通の書簡が届いた。

 袁遺はそれに目を通すと、首脳陣を集めた。

「君たちも少しくらいは耳にしていると思うが、現在の洛陽および漢王朝の状況をまず説明しておきたい。司馬懿」

 袁遺の言葉を受けて、司馬懿が口を開いた。

「陛下が御隠れになられた後、十常侍と大将軍何進とで権力闘争が勃発。何大将軍とその妹で先帝の后であった何皇后は自身の娘である皇太女を即位させます。しかし、十常侍側が大将軍を暗殺し、何皇后を追放した後、暗殺。十常侍が権力闘争に勝利したかに見えましたが、何進の部下であった袁紹が十常侍を急襲し、数名を排除することに成功しましたが、筆頭である張譲が即位した皇帝と妹君を擁し城外に逃れ、予め呼んでおいた董卓軍と合流、洛陽へ入城後、政治の主導権を握っています」

 とんだ機密だったな、と袁遺は嘲りの言葉を胸中で吐き捨てた。

 司馬懿は説明を続ける。

「その後、董卓は何進の軍を吸収し、都で最大の軍事力を擁しています。さらに三公の一つ司空に就きました。これを面白く思っていない袁紹が反董卓勢力を結成しようと動き回っています」

「それについて、都の叔父上から書簡が届いた。私に洛陽へと来て欲しいそうだ」

 袁遺が皆に書簡を見せる。

「そりゃあ、伯業様に袁紹の企みに加われということですか?」

 雷薄が尋ねた。

「いや、叔父上の考えは、はっきりとは分からんが、そこまで短絡的な思考をなさる方ではない」

「反董卓連合を結成するにしても大義名分がなければ諸侯は集まりません。袁紹さんは、そのあたりをどう考えているのですか?」

 今度、尋ねたのは雛里であった。

「彼女たちは董卓が都で皇帝を蔑ろにし、悪政を布いている、ということにするようだ」

「……実際、董卓さんはどのような政治を行っているんですか?」

「汚職した官を取り除き、子飼の部下を高い地位に就けることはせず、広く人材を求め善政を布いてはいるが、上手くいっていない。というのも名士たちが董卓にあまり協力的ではない」

「何故?」

「名士……儒家たちは、漢の影響が薄く騎馬民族の風土が強い涼州出身の董卓に儒教的な教養が足りない、と考えている。それに朝廷内では、いまだ宦官が強い力を持っている」

「どうして?」

 宦官など真っ先に処されていてもおかしくないはずであった。

「朝廷……というより、後宮内での宦官は魔物だ。あれを処理するには激情に任せるか、用意周到にやらねば、なかなか骨が折れる。十常侍で言えば、張譲、封諝、段珪が生き残っている。協力をしない名士、暗躍する宦官、嫉妬する諸侯、乱世を期待する奸雄。あらゆるものが真綿となり、董卓の首を絞めている途中だな」

 袁遺が不快そうに鼻を鳴らす。

 だが、すぐに神妙な面持ちになった。言葉もなく、皆の顔を眺める。そして、小さく息を吐いた後、意を決したように口を開く。

「雛里と仲達には以前、話したが、もう一度言う。俺は乱世を望んだことはない。例え乱がおきても中原で鹿を逐う様な真似はするつもりもなければ、王莽の次に名を残そうとは思わない」

 雛里にとっては黄巾党討伐の軍旅の途中で、仲達にとっては袁遺に仕えるきっかけとなった言葉であった。

「そして、誰かに漢王朝を滅ぼさせるような真似もするつもりはない。俺の従妹である袁紹が反董卓連合なるものを起こし、董卓と洛陽を奪い合えば、都を荒廃させる。そうなれば、漢王朝の影響力はさらに落ちることになる」

 袁遺の表情に怒りの感情が宿る。

「そのため、俺は董卓をというより、漢朝を守るために動く。これに反対なら、俺の元を去ってくれてかまわない。朱光禄大夫(朱儁は黄巾党討伐の功として出世していた)に推薦状を書く。ここにいるより俸禄がもらえるぞ」

 その言葉に誰も否を唱えなかった。

 袁遺は、ほんの一瞬、呆れたような、そしてどこか喜ぶような表情を浮かべた。作られたものではない自然な表情であった。

「ならば、私は叔父上の要請に応え、洛陽へと赴く。高覧、三〇〇を率いて共に参れ。司馬懿も軍師として付いて来い。鳳統は県令を代行し、長安を治めろ。内政については何夔が、治安維持、賊の討伐においては張郃、雷薄、陳蘭がそれぞれ補佐をしろ」

 そこまで言うと、袁遺は張既に向き直り、彼の顔を真っ直ぐ見据え言う。

「張既、君は涼州に行き、馬涼州牧及び涼州軍閥と交渉し、反董卓連合に参加しないようにしてくれ。それが叶わないなら、せめて長安を攻める様な真似をしないよう取り付けて欲しい」

 中々の難題であるが、張既は簡単に頷いた。

「わかりました。すぐに涼州に向かいます」

 この恵比須顔の部下のことを信頼していた。滅多に判断を誤ることはなく、口にしたことは必ず実行して見せるからだった。

 袁遺が洛陽へと進発したのは次の日のことであり、洛陽に付いたのはさらに四日後の夕暮れ前のことであった。

 

 

 洛陽の一等地に構えられた屋敷の主は書見台に『楚辞』を開いていた。

 だが、ただ開いているだけで、真剣に覚えよう(この時代の読書とは娯楽ではなく、教養を身に着けるための暗記術である)としているわけではなかった。彼は人を待っていた。彼の待ち人は甥の袁遺であった。

 袁遺の叔父でこの屋敷の主である袁隗の容姿は男性的な魅力にあふれていた。

 白いものが混じった金髪を撫でつけ、それに乱れはない。大きな目には知性と気力が宿っている。目尻に刻まれた皺は渋みを増すことだけを手伝い、老いというものを感じさせない。そして、彼は外見の魅力そのままに性格と能力も優れていた。

 袁隗は、兄の袁逢(袁術の父親)よりも先に三公となった。そして、その三公の司徒に二度就任している。現在は官職を離れているも、党錮の禁で連座した人々を積極的に中央官界に引き戻したため、清流派人士からの信頼も厚い。

 彼は『楚辞』代表作であり名文である『離騒』を無感動に眺めていると、家令が待ち人の到着を知らせた。

 袁遺は旅塵を落とすため、井戸を貸して欲しいと請うた。

 袁隗は、それを快諾し、茶を入れるよう家令に命じた。

 身なりを整えてきた袁遺は、叔父に挨拶をした。

「叔父上、お久しぶりでございます。袁伯業、只今参上しました」

「案外、速かったな」

 袁隗は言った。彼はもっと時間がかかるものだと思っていた。

 袁遺は長安・洛陽間を強行軍的に駆けてきた。

 強行軍は所謂、長距離マラソンの様なものではない。黄巾党討伐の折に、散々触れたことだが、軍勢は一度、隊列が崩壊すれば、簡単に四散し、再び集めるのは至難の業である。故に、袁遺隊が行ったそれは長距離行軍である。縦列の行軍隊列をとり、歩調を取って、洛陽へと向かった。

 長安から洛陽までの約140キロを四日間で駆け抜けたのは、道の整備状況などを考えるとこの時代の限界に近い。

「まあ、速いに越したことはない。伯業、お前なら耳に入っているだろうが、わしは参内するよう董司空に言われたが、今まで、病気を理由に屋敷に籠っていた」

 袁隗は、そう言って茶に手を付けた。

「なんと! 三公を四代に渡り輩出した袁家に対し、自らが出向くならともかく、呼び出すとは、涼州の田舎者の増長極まりない!」

「伯業、莫迦の真似事はやめろ。それで喜ぶのは本初、公路ぐらいだ。わしをそのふたりと並べるのも、わざと怒らせ、わしの腹の内を探るのもやめろ」

「申し訳ありません」

 袁遺は平伏した。だが、叔父に対し何ひとつ油断をしていなかった。

 袁隗は社稷において政治的魔術を縦横に駆使した袁家最高の出来物である。

「まあよい。それより、お前、本初の企みに加わっているわけではなかろうな?」

「それこそ叔父上と同様にあのふたりと並べられるのは心外です」

 言葉とは裏腹に怒りの感情は全く出ていなかった。これも所詮は腹の探り合いである。互いにのらりくらりと躱すだけであった。

「どうだか、わしは初め、お前が絵図を描いておるかと思ったぞ」

「とんでもございません。そんなことをすれば、洛陽に戦火がおよびます。この都を咸陽と長安の次に並べるようなことを企むなどありえません」

 言った袁遺自身が鼻白む思いだったのだから、聞いた袁隗もそんな思いに駆られたはずだったが、そこは海千山千の怪物であった。彼は袁遺のその言葉に乗った。

「さすが、世の儒者から高く評価される伯業であるな。忠義の心を持っておる。わしも即位したばかりでこのような事態になってしまっている陛下のことを考えると身が切られる思いだ。そのため、明日、参内し董司空に会い、そのことを伝えたいと思う」

「叔父上、それはあまりに危険ではございませんか。袁紹の一族である叔父上を亡き者に董卓がするやもしれません。私の手勢は僅かですが、叔父上ひとりを洛陽から逃がすことは出来ます。もし、叔父上がお望みなら、この命に代えてもこの洛陽から叔父上を脱出させる所存です」

 お互いの腹を探り合う芝居に袁遺は嫌気がさしてきた。こんなところを部下の誰かに見られたら自殺しかねないほどの自己嫌悪に襲われていた。

「いや、伯業。お前の軍才は別のことで見せて欲しい」

「別の……?」

「うむ、董卓はわしをそれなりの地位に就け、清流派人士の協力を得ると同時に袁紹を説得させようと考えているだろう。だが、伯業、本初が簡単に諦めると思うか?」

「諦めませんね」

 そう答えて、袁遺は全ての合点がいった。

 なるほど。つまり、破家報国。そういことか。叔父上、あなたは正真正銘の漢だな。

「だろう。それで伯業、何か考えはないか?」

 核心に迫らず、遠回しに物事を進める政治的な慎重さを持って、袁隗が尋ねる。

「考えはないことはありませんが、嚢中には五朱銭の一枚もございません」

 ここで初めて、袁隗の顔に素の表情が見えた。まさか、いきなり金の無心をされるとは思ってもいなかった。だが、同時に袁隗はこの甥を頼もしく思った。少なくとも、ある程度算段は立てて来ている。それは、ある意味で袁隗の予想通りであった。

「お前の父……わしの弟はお前に期待して財産を残しただろう。あれは、どうした?」

「長安で全て使ってしまいました」

 袁遺はあっけらかんと言い放った。

 結局、袁遺は悩んでいた牛馬を自腹で購入し、さらに戸籍に登録したばかりの流民の税の肩代わりも行ったのだった。

「それについては、何とかする」

「それともうひとつ」

 袁遺の舌の根の乾かぬ内に発せられた言葉に袁隗はさすがに呆れ果てた。

「言え……」

 声にもその呆れが出た、やや疲れたものだった。

「袁家の名声が地に落ちることになるやもしれません」

「構わん、やれ」

 即答であった。これは袁遺には予想外のことであった。少なくとも、もう少し考えると思っていた。

「わしは漢の臣である」

 立派な忠心であったが、こうもはっきり言われると鼻白まずにはいられなかった。

 その袁遺の顔を見て、袁隗は腹の底から笑った。無表情な甥から一本取ってやった気分であった。

 翌日、袁隗は参内し、自身三度目となる司徒の座に就いた。

 そして、袁紹のことについて聞かれると、甥の伯業を交えて話し合いたいと言い、董卓の懐刀の賈駆と合わせて、三人で話し合うことになった。

 

 

 賈駆は怒りに燃えていた。

 自分の親友であり、主である月―――董卓を教養が足りぬ、と協力しない儒家たちに。助けたにも関わらず、宦官の処刑に反対する皇帝に。月に嫉妬して、諸侯を糾合しようとしている袁紹に。功名のためにそれに参加しようとしている群雄に。

 そして、目の前にいる何度呼び出しても、病気と偽って参内しなかった袁隗といつの間にか洛陽に来ている袁遺に。

「さっそくだけど、袁紹を何とかしなさいよ」

 あからさまに苛立った声で賈駆は言った。彼女は洛陽に来てから為すこと全てが上手くいかない。ずっとイライラしていた。

 そんな賈駆の様子を見て、袁遺はこの場での自分の役割を理解した。嫌な役割であったが、仕方がないと覚悟を決め、口を開いた。

「賈駆殿、その物言いは、あまりにも失礼ではありませんか」

「うるさいわね。礼を云々言えば、あんたの従妹はどうなるのよ。ありもしないことをでっちあげて、連合を起こそうとしているじゃない」

「彼女のそれとあなたが礼を欠いたことは別の問題です」

「なんですって!」

 賈駆は立ち上がり、それだけで人を殺せそうな目付きで袁遺を睨む。対して、袁遺はそれを軽く受け流していた。

「伯業、袁紹についてのことは我々袁家の不徳の致すところの次第、賈駆殿の言葉にも一理ある。それに我らが一丸となり、即位したばかりの幼帝を盛り立てていかねばならん中、人の和を乱す言動は慎むべきだ」

 そんなふたりの仲裁に袁隗が入った。

「はっ、申し訳ありません」

 袁遺は袁隗に頭を下げた後、賈駆に向き直り、彼女にも謝罪した。それに対して賈駆は鼻を鳴らしたが、席に座り、一応の所、怒気を収めた。

 袁隗と袁遺が取った手はよくあるものだった。所謂、良い警官・悪い警官の応用である。

 否定的な人間と肯定的な人間に別れ、肯定的な人間と協力関係を結べるのではないかと錯覚させる方法であった。

「まずは人の和ということで、足元を固めることから致そう。儒家や文官についてはわしが抑えられるが、問題は十常侍の生き残りの方だ。彼らが未だに権を有していることが、多くの人士に不信感を与えている」

「し、仕方がないじゃない。陛下が十常侍の処罰に反対しているんだから」

「幼き陛下が自分の意志で仰られているとは思えん。張譲が言わせているのだろう」

 そう言って、袁隗は顎を撫でた。

「伯業、お前に何か考えはないか?」

「手はないことはありませんが、そのためには、いくつかやってもらいたいことがあります」

 袁遺の言葉に袁隗は賈駆の顔を見た。

「言ってみなさいよ」

 それに賈駆がぶっきらぼうに答えた。

「はい、まずは治書御史殿に参内するようお命じください」

 治書御史は司馬防のことで彼は司馬懿の父であった。

「あの方は、忠臣であると同時に気骨の士でもあります。参内はするでしょうが、息女を郷里に帰すでしょう。ですが、息子である司馬懿は私の部下です。勝手に洛陽を離れるわけにはいきません。ですので、その司馬懿を現在空位である左候にお就ください」

「なるほど。伯業、お前、本初と同じことをやるつもりだな。いや、あれより幾分か瀟洒にことを運ぶつもりか」

 宮中の策謀にかけては袁遺以上の能力を持つ袁隗に取って、ここまで聞けば甥の企みを全て理解した。

「袁紹と同じことって……まさか!?」

「結果的に、それが一番効率的ですので」

 何ら無策に宮殿に剣を振り回して乗り込むわけではないが、結局のところ直接取り除くこと以外に手はなかった。

「筋は通るのだな?」

 袁隗がどこか面白そうに尋ねた。

「手材料は揃っています。ですが、後に陛下のお心を慰藉する必要があります」

「それについては司空殿にお頼みせねばなるまい。我々ふたりでは、余りにも生臭すぎる」

 袁隗は賈駆のことを尋ねるように見た。

 賈駆は思った。自分の親友である董卓は全くの善人である。幼く母親を政争で亡くした帝に心を痛めている彼女なら、何の打算もなく皇帝を慰めるであろう。それは董卓の美点であった。

「わかったわ。ボクから頼んでみる」

 恨めしそうな目をしながら彼女は言った。

「それで、袁紹と連合の方はどうするわけ」

 そして、最大の問題点に話は戻った。

 最初に口を開いたのは袁隗であった。

「あやつが諸侯を糾合する動きを見せたとき、わしは思い留まるよう書状を送ったが、聞き入れぬばかりか、自分の命惜しさに董卓の風下についた、と罵倒してきよった」

「公路殿には、書状送ったのですか? 叔父上」

「送ったが、本初には負けん、と息巻いておる。本初を止める気など全くないようじゃ」

 袁紹と袁術はふたりとも見栄っ張りな性格で、互いに張り合っている。

「あのふたりは止まらん」

 その言葉には諦めの響きがあった。

「戦うしかあるまい」

「戦うて言っても、戦力差は絶望的よ」

「伯業、どのくらいになる?」

 袁隗の言葉に袁遺はすぐに頭で算盤を弾く。

「反董卓連合は、二〇万まで膨らむでしょう。対して、こちらは、この司隷で後先考えない根こそぎの動員を行えば、一〇万を超すくらいは集まるでしょうが、これから先、十年単位で生産力が低下することは覚悟しなければなりません」

「戦力比は約1:2か……要害に頼れば、何とかなる数字だな……」

「む、無理よ。一〇万も集めるなんて」

 袁遺の見立てに賈駆が噛み付いた。

 彼女自身も袁遺と同じ数字を弾きだしてはいたが、そんな無理な動員を心優しい董卓が許すはずなかった。下手をすれば、自分の命を差し出しても戦を止める、などと言い出しかねなかった。

 そして、袁遺もそれは分かっていた。張既から聞いた董卓像から、それは何となく想像できることだった。それに動員される地域の中には自分が治めている長安も含まれている。例え、勝って帰っても、そんなことをすれば後の統治に問題が出る。故に、根こそぎの動員は御免だった。同時に、存亡をかけた戦いで、未来を思い、出し惜しみしている自分におかしさを感じていた。

「であるならば、董司空殿が吸収した旧何大将軍の三万。長安で訓練が終了した兵の一万。それに他から急遽、徴兵できるであろう一万で五万を超す程度は集まりますが、都と南方の備えに一万は取られますから、戦場に投入できるのは四万程度でしょうね」

 戦力比は約1:5。攻撃三倍の法則を達成される数字となっている。

 だが、袁隗と袁遺は焦っていなかった。なんとかできるだけの策を持っていたからだ。問題は、それを賈駆にどのようにして、了承させるかだった。

「賈駆殿」

 袁遺の覚悟は決まっている。彼女が断れば、如何な手段を使ってでも目的を達成するだけだ。その覚悟がなければ、わざわざ洛陽に来てはいない。

「その四万の軍権、私に預けてもらえないでしょうか?」

 袁遺のその言葉に賈駆は今までで一番の怒気を発した。

「ふざけないで! あんたに軍権を渡すのは自殺と何ら変わりないじゃない! 何の得があって、そんなことしないといけないのよ!」

 殆んど半狂乱に近い声で叫ぶ賈駆に対して、袁遺は相変わらずの無表情であった。

「得は、董司空と袁紹の戦いという認識から、私と袁紹の戦い、つまりは袁家内での勢力争いという形にすることができることです。そうなれば、都で皇帝を蔑ろにし、悪政を布いているという大義名分が薄れます。連合に参加した諸侯の内、漢室のために立ったという名声が欲しい諸侯は利益と不利益を再び天秤にかけるはずです。そして、その天秤は時間が経つごとに不利益へと傾くはずです」

 連合とはふたつ以上の勢力がひとつの目的のために組織化することであり、参加した全ての勢力に得られる利益が分配されねばならない。であれば当然、関係は利益が限られた勢力にのみ得られる状態になれば、自然と破綻する。酷い話であるが、仕方がないことだった。政治に正誤は存在しても、善悪は決して存在しないのである。

 そして何より袁家の内紛に参加したという風評は決して好ましいものではなかった。

「袁家の内紛に変わったという噂は、洛陽を出た司馬家の者が、袁司徒の持つ人脈によって、あらゆる名士に届けられることになっています」

 汝南袁氏は婚姻外交が有名であり、その人脈は漢王朝内に網の目のように張り巡らされていた。

「それでも……」

 賈駆は首を縦に振ることは出来なかった。

 袁遺がその四万の軍を使って、董卓に刃を向けないという保証はなかったからだ。

「賈駆殿、わしが人質になろう。わしは伯業が親を亡くしてから、これの父親代わりだ。そのわしの生命を無視して、都を手中に収めようとすれば、孝を蔑ろにしたことになる。それはこの男が今まで積み上げてきた評価を失うことになる。この聡い甥は、そのことがどれだけ自分の首を絞めるか、よく知っている」

「……」

 それでも、賈駆はこの提案に乗ることは出来なかった。

 袁隗と袁遺は、賈駆に一度、時間を与えた方がいいと判断し、議題を別のものに切り替えた。

「今は時間がない。まずは生き残った十常侍の問題を片付けてしまおう。賈駆殿もその成否で伯業の能力を確かめてみては、どうだろう?」

 結局、賈駆は軍権の譲渡に判断を下すことができず、司馬親子については袁遺たちの要求通りに行うと確約した。

 袁遺は袁隗の屋敷に身を寄せていた。

 袁隗は袁遺を茶に誘った。断る理由もなく、袁遺は出された茶の香りを楽しんでいた。好みについては、この叔侄は一致している。

「賈駆は受けると思うか?」

 袁隗が尋ねた。

「受けると思いますが、軍事監察を付ける等のことはしてくるでしょう。もし、断られたときは、互いの首が晒されることは覚悟しておきましょう」

「逃げ道は用意しているのだろ?」

 袁隗の言葉に袁遺は意味深な表情で返した。

「叔父上もでしょう?」

 それに袁隗は快活に笑ったが、すぐに影のある表情をした。

「昔、本初にお前は袁家を滅ぼす気か? と説教したことがあったが、結局、お前たちの代で袁家は滅びることになるか」

「我々のどちらかの陣営は生き残れますが?」

 尋ねた袁遺に袁隗は目をむいた。

「反董卓連合が勝った場合、起こるのは乱世だ。あのふたりに乱世を生き残れるだけの器量があるか!? そして、伯業、お前は陳平の言葉を知らんのか?」

 それで袁遺は、この叔父の言いたいことを理解した。

 前漢の功臣・陳平は自身のことを、国のためにやむなく多くの策謀を巡らせたため、死後、子孫が絶えるだろうと予言していて、それは陰謀を多く立てた報いであるとしていた。

 事実、彼の家は絶えた。

 確かに、袁遺は謀略家の自覚があった。司馬家のことと宦官のことで策を巡らせていたのは事実である。そのことに否はない。

 だが、袁遺は今の自分の立場に近いのは晋の将軍・王浚だろうと考えていた。陳平に例えられるのは光栄だが、王浚に例えられるのは屈辱である。つまりは、そういう人物だ。だが、自分の選択ひとつで、長い乱世になるかもしれない。そのことは王浚と共通していた。

 もちろん、王浚の様に帝位を狙うなどということを考えたことはなかった。しかし、袁遺は自分の忠誠心が歪なことを自覚していた。その証拠に、兵権を得れば、自分の両手が漢王朝の細い首を締め上げることができる事実に、袁遺は暗い興奮を感じていた。

 

 

 翌日、司馬防が参内し、息子の仲達が左候の職を得た。袁遺の計画通りであった。

 




補足

・板循蛮
 巴郡の蛮族。
 歴史を紐解いてみると比較的親漢な蛮族である。
 高祖の漢中入りの際に帰順し、関中に侵攻でも先鋒の任を果たす。このとき功績で板楯蛮と号されるようになる。
 その他にも益州で他の蛮族が反乱を起こすと、だいたいは漢の側に味方する。
 ただ、官吏に迫害され、叛乱を起こすようになるが、今までの功績と精強さで彼らを庇う官吏も存在した。

・楚辞
 春秋戦国時代の楚の詩を集めた詩集のこと。
『離騒』は屈原の作で楚辞の代表作である。
 これを読んだ私の感想が、そうか、この時代まだ朕は皇帝専門の一人称じゃないのか、まだ皇帝自体がないから当たり前か、だったので、たぶん私の感性はゴミだと思う。
 後、屈原にしても伯夷と叔斉にしても強烈な愛国心を持つが故に悲惨な最後を遂げるって歴史上、結構あるよね。

・破家報国
 家を破りて国に報いる。
 南北朝時代の北魏末期、漢人の名族の高翼の言葉。
 この言葉により拓跋鮮卑が起こした魏が漢人士大夫からも自分の家門を破ってでも報いる王朝であることが示され、漢民族と非漢民族の意識の変化が見て取れる貴重な言葉であった。
 主の憂いは臣下にとっての辱めであり、主の辱めは臣下にとっての死すべきときである。今、我が王朝は滅亡の瀬戸際にあり、人も神も憤っている。家を破りて国に報いるは、まさにこのときである。

・咸陽と長安
 秦の首都・咸陽に押し寄せた反秦の軍勢はそこで略奪の限りを尽くした。略奪を行わなかった劉邦にしても彼の部下の蕭何が秦の行政文書を根こそぎ持ちだしている。
 新の首都・長安では赤眉軍も緑林軍も略奪を行っている。
 首都はだいたい碌なことにならない。

・王浚
 晋の将軍。
 三国志で例えると袁紹と呂布を合わせたような人。
 名門の王家の出身であるが、母親が賤しい出自であったため、所謂、庶子である。ここが袁紹ぽい。
 八王の乱で活躍するが、略奪などやりたい放題もする。ただ戦闘は滅茶苦茶強い。ここが呂布ぽい。
 八王の乱での活躍で司空に任ぜられ、自分の部隊と異民族の部隊を率いることも許され、大軍を擁するが、その大軍の使ってやることが同僚にケンカを売ること。で、そのケンカを売った同僚に負ける。負けても好き勝手する。袁紹と呂布以下だったわ。すまん。
 この頃から司馬一族はクソだのなんだの言いだして、皇帝にはもっとふさわしい人いるよな~、ここにいる様な気がするな~、と帝位に野心を見せる。これを戒める部下は遠ざけるか殺すかする。
 石勒という五胡十六国時代の英雄のひとりで奴隷から皇帝にのし上がった人物に連戦連勝するが、石勒からの手紙の、王浚さんには敵いませんわ~、帝位にふさわしいのはあなたしかいませんわ~、という言葉を本気にして油断したところを捕縛され、処刑される。ちなみに石勒は負けるたびに以前より多くの兵を率いて戦場に舞い戻ってくるという、ちょっと頭おかしいことをする人。歴史書の彼の項の殆んどは、どのくらいの敵国の民を自領に移した、敵をどのくらい殺した、敵をどのくらい生き埋めにした、である。
 たぶん、王浚がもう少しまともな人格だったら、五胡十六国時代は、あんなに長くならなかった。


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6~7

 書き忘れていたのでここで書きます。
 原作では華雄は元は何進の部下でしたが、この二次創作では初めから董卓(月)の部下になっています。
 このような原作改変が多々あります。そのことをご了承ください。


6 その日3

 

 

「仲達、私は朱右中郎将様の下で件の黄巾党討伐に参加することになった」

 それは、まだ袁遺が黄巾党討伐の任に就く前のことであった。

「それで君に言いたいことが、ふたつあってな」

 袁遺は親友であり、部下でもある司馬懿の家を訪ね、彼に言った。

「此度の軍旅には君は連れていかない。それで、私が戦死したら、いい加減、職に就き、君の良くできた細君に苦労を掛けるな」

 袁遺は意地の悪い笑みを浮かべた。

「そのようなこと仰らないでください。縁起が悪いですよ」

 そんな軽口はふたりの間では昔からよくあることだった。仲達は軽く流した。

「そうだな。それでふたつ目なんだが……」

 そこで言葉を区切り、袁遺は表情を引き締める。

「社稷の動きを見張って欲しい」

 声を潜め言った。

「これは、何ら根拠のないことなのだが、一部の官が黄巾党と内通しているかもしれない」

 袁遺の言葉に仲達も表情を引き締め、問うた。

「一部の官というと?」

 その質問に袁遺は、苦い表情を浮かべる。視線は一度、司馬懿から外され宙を彷徨った。

「あまりにも荒唐無稽であるが、十常侍だ」

 史実において、十常侍の張譲は黄巾党と内通していた。それが王允の告発で発覚したが、張譲はすでに死んだ宦官に罪を被せ処罰を逃れた。そして、逆に王允を免職している。

 曹操や袁紹が女性となっている世界で、袁遺自身の持つ『三国志』の知識がどれだけ通用するかわからないが、それでも気になっていた。

「これに限らず、黄巾の乱の各地域の方面軍指令の更迭の動きなども探ってほしい」

 黄巾の乱で、盧植が賄賂を渡さずに更迭された例がある。もし、自分の所の指令官がそうなり、とんだ無能が上官になるかもしれない。そうなれば、最悪、叔父の袁隗の力に縋ることになるかもしれない。

「分かりました。私にも伝手がいくつかあります。そこから探ってみましょう」

「頼むぞ」

 袁遺は、もう行くと立ち上がった。司馬懿は、無事のお帰りを願っておりますと言い、送り出した。

 だが、袁遺は立ち止まり、何かを思い出したかのように司馬懿に向き直った。

「ああ、言っておくが、最初のあれ、冗談ではないぞ」

 それを聞いた彼は、柔らかな笑みを浮かべ言った。

「伯業、君が世に出れば、私は天下で最も扱き使われる臣になるんだ。そうなれば、誰も官職に就いていなかったことを責める者はいなくなるよ」

「ふっ……そうだな。よく分かっているな」

 束の間、ふたりは、ただの友に戻った。

「じゃあ、行く」

「御武運を」

 その後、軍旅の途中で袁遺は鳳統と出会い、彼女の主となった。そして、彼女と謀り、別働隊の実質的な指揮権を得たとき、司馬懿からの密書が届いた。

 そこには、十常侍・張譲が同じく十常侍・封諝を使い黄巾党に内通しており、その証拠を確保したことが記されていた。

 と同時に張既との再会の機会がもたれることの書簡もあった。内容が内容だけに良い知らせと悪い知らせを一緒に送って来たのだろう。それは仲達なりの諌止だった。怒りに囚われると冷静な判断ができなくなるぞ、彼はそう言いたかったのである。

 だが、袁遺の心のさざ波は治まらず、雛里にそれを見抜かれる結果となる。

 

 

「左都候就任、おめでとう、仲達。県尉から突然の配置転換。いつかの言葉通り、君は本当に天下で最も扱き使われる臣になったわけだ」

 司馬懿は袁遺の謀み通りに宮中及び宮門の警備員の管理と監視、また、宮中内での罪人の移送を担当する左都候に就任した。

「はは」

 袁遺の言葉に対して、仲達は上品に笑っただけであった。

「うん。では、君の姉上の報告を聞かせてくれ」

「はい」

 張既に出仕を求めた日、袁遺は仲達に、ある人物との会談の場を設けるよう、命じた。

 その人物とは、仲達の実の姉である司馬朗、字は伯達であった。

 長安県令として洛陽を離れなければならない袁遺には、都の実情を探る人物が必要であった。

 それで白羽の矢が立ったのが司馬朗であった。

 袁遺が彼女を選んだ理由はふたつ。

 ひとつは、単純に能力と人格であった。

 弟の司馬懿を通じて、司馬朗とも面識があり、彼女の才覚に袁遺は高い評価を置いていた。人格面については才覚より一段上の評価であった。情を持ちながら流されることもなく、厳格さを持っているが人心を顧みないことをしない。彼女なら、冷静な判断と果断な行動をするだろう、と確信していた。

 そして、もうひとつは仲達自身が司馬朗を使う有用性に気付き、また、袁遺の性格を考えたとき、必ず、姉の司馬朗の協力を得るのに弟の司馬懿が全力を尽くすことだった。仕えにくい主である袁遺に対して、この手のことに私情を挟むことは、彼の信頼を損ねることになる。

 あの心優しい姉を陰謀に巻き込むのは、彼女を尊敬する弟としては気が咎めることであった。

 しかし、仲達の思考は相対的であり、政治的要求の前に善悪は存在しない、そのことを知っている。

 仲達は主の望み通りに、姉との会談の場を整え、司馬朗の説得にも力を貸した。

 司馬朗は袁遺の頼みを受けた。

 ただし、彼女も強かであり、条件を出してきた。

 もし、洛陽が危険な状態になるなら、妹たちを故郷に返す手伝いをする。それが不可能な場合、袁遺の任地である長安で保護する。

 そして、自分は漢朝のために働くが、袁遺自身が簒奪を企むなら断る。

 このふたつであった。

 袁遺はその両方を快諾した。

 前者については、望まれれば手伝っていただろうし、後者については、将来、帝位を簒奪したなどと罵倒を受けるのは御免だった。

 こうして、司馬朗は袁遺と仲達が不在の洛陽で諜報活動を行っていた。

 彼女が集め、整理した情報は、袁遺が袁隗と賈駆に会っている間に仲達へと渡った。そして、司馬朗は郷里へと帰って行った。ただし、妹たちは故郷の温県ではなく、長安へと向かった。

 これは温県が予定戦場に近いため、妹たちが戦火に巻き込まれぬようにするためである。そして、司馬朗は郷里の一族も長安へ向かうように説得しに帰郷した。

 袁遺は約束を守り、それについて董卓と賈駆に帰郷の許可は取りつけた。さらに高覧に故郷である温県まで送らせると言ったが、司馬朗はそれを断った。弟の親友であり主には兵力が必要であろうという心遣いであった。

「たとえ後宮の情報であっても、いくらかの賄賂を渡せば、手に入るとは……青銅政治、ここに極まるだな」

 袁遺は無表情であったが、声には幾分かの侮蔑が含まれていた。

 かつて乱世にならぬために十常侍まで肯定してみせた男は、それが乱世の歯止めとならぬと見るや否や手のひらを返した。

 機会主義かつプラグマティズムの徒である袁遺らしいと言えたし、実際に会ったことあるなしに関わらず、政治に関わる者は互いの利益が第一なのだ。メロドラマのセリフや悲恋物の歌の歌詞にありそうな、裏切るくらいなら―――、なんて莫迦な言葉は政治の世界では吐くことは許されない。

「仕方ありません。強力な権力を手にできる宦官は極一部。下級宦官は上級宦官の不満のはけ口として、いじめられることは少なくないと言われております。それに高齢の下級宦官は使えないと判断された場合、追い出され、乞食に身をやつすのが、常です。そんな者にとって金は何に代えても欲しいものでしょう」

 言葉とは裏腹に、司馬懿からは同情の念は感じられなかった。

「まあいい。時間がないため三日以内にけりをつけるぞ」

 袁遺の宣言により、仲達は動き出した。

 袁遺と仲達の企みは、仲達を宮殿警備の管理と監視を担当する職に就けることによって、十常侍への刺客(袁遺自身が担当することになっている)を宮中へと送り込みことだった。

 また、十常侍が余計な警戒をせぬように、わざわざ彼の父親を参内させた後に仲達を都候に就けた。

 世間からすればこの人事は司馬防に対して、息子を人質に取ったように見えるだろう。十常侍もその例外ではなかった。

 仲達はまず、十常侍の封諝に接触した。

 そして、黄巾党内通の証拠があることを教え、取引を持ちかける。

 司馬懿は、かの戯曲の悪魔の―――誰がどう見ても笑っているように見えるが、誰がどう見ても笑っていないように見える―――笑みを浮かべながら言う。

「このままでは貴様は、張譲に見捨てられ、捨て駒として切り捨てられる。我々としては、張譲を排除し、董卓より袁家が有利になれるよう協力すれば、貴様を宦官の筆頭にしてもいい」

 封諝は誘惑に負けた。

 司馬懿の言う通り、張譲は必ず封諝を捨て駒にし、身の安全を図る。それに宦官は先に述べた通り過酷な環境にあるため、出世欲というものが人の何倍も旺盛である。彼は司馬懿の甘言を受け入れた。

 封諝の役目は、十常侍の生き残りの張譲、段珪を誘き出すことだった。

 彼は、司馬懿が内通の証拠を確保していることを餌に、その対応を協議したいとふたりを誘い出した。

 張譲と段珪は誘いに乗った。

 夜半、彼らが呼び出された部屋へ行くと小さな明かりがともされているだけで、封諝の姿は見えなかった。

 不振に思いながらも、彼らは部屋へと足を踏み入れた。

 すると突如、入口の扉が閉まった。

 宦官ふたりは慌てて、扉の方を振り返ると、明かりが消えた。

 暗闇の中、蜀台の傍に立っている影が見えた。その人物が明かりを消したのだった。

 目を凝らし、その人物を確かめようとしたとき、影は踊り、姿を消した。そして、首に熱いものが走るのを感じ、宦官・張譲は、その生を終えた。

 扉を閉めたのは、司馬懿であった。隣には封諝がいた。

 部屋の中から物音がしたかと思えば、急に静かになり、その後、すぐに扉を一定の間隔で叩く音がした。

 それは、予め決められていた合図であった。

 司馬懿は扉を開けた。

 出て来たのは返り血を浴びた袁遺であった。

 廊下の光で、部屋の中の情景が浮かび上がった。

 そこで、封諝が見たものは、奇妙な姿勢のふたつの死体であった。

 それは張譲と段珪のもので間違いなかったが、そのふたつの死体は首が落とされており、落とされた首を抱えるように蹲っている。

 まるで、彼らふたりが自ら望んで、首を刎ねられたような格好だ。

「お怪我はございませんか、伯業様?」

 司馬懿が自分の主に問いかけた。

「大丈夫だ。それより、こいつを頼む。佩剣して宮殿内に入ったなどと、ばれたら、あとで問題になるからな」

 そう言って、司馬懿に自分の得物である日本刀によく似た形状の刀を渡す。宮殿の警備に関する役職の仲達ならば、武器を持っていても、そこまで怪しまれることはなかった。

 袁遺の表情は、たった今、人を殺してきた人間にしては普段通り過ぎた。

 そんな相変わらずの無表情で封諝に袁遺は向き合い、言った。

「封諝殿、協力感謝します。あなたの協力がなければ、あのふたりを葬り去ることができなかったでしょう。この御恩死んでも忘れません」

 袁遺の次の行動は、素早かった。また、今しがた武器を司馬懿に渡したことに封諝は油断していた。

 袁遺は封諝との距離を一気に詰めると、左手で彼の口を塞いだ。同時に、懐から出していた短刀で封諝の腹を刺し、そのまま刃を左右に捩じる。

 封諝は目を見開き、苦悶の表情を浮かべる。

 だが、袁遺の左手によって、声を出すことができない。

 封諝の両手が短刀を突き立てる袁遺の右腕を強く握るが、刃はそれでも宦官の内臓を攪拌するのをやめない。

 やがて、彼の体は糸の切れた操り人形のように倒れた。だが、右腕を掴んでいた封諝の両手はそのままであった。袁遺は左手を口から離すと硬直する前に封諝の指を一本一本広げていく。そして、袁遺は封諝の絶命を確認した。

 袁遺は、死体に向かってもう一度言う。

「あなたが死んでも忘れません」

 その表情は、あまりにも冷たかった。

 袁遺には、約束を反故にした罪の意識など全くなかった。自ら男のソレを切り落とし、権力闘争に身を投じたのだから、こうなる結末は覚悟しておくべきことなのだ。それに十常侍が他人を欺き、殺めて上ってきたのだ。そして、袁遺に同じように欺かれ、殺された。自分たちの番が来ただけだ、それだけのことなのだ。そして、いつか袁遺の番が来る。本当にそれだけのことなのであった。

 こうして、霊帝時代に専横を極めた十常侍は全て死んだ。

 翌日、三人の宦官の黄巾党との内通が発表され、首が晒された。

 

 

「……本当に宮中で直接始末するなんてね」

 そう言った賈駆の声には、呆れ、畏怖、侮蔑、様々な感情が含まれていた。

 宦官誅殺の事後処理に袁遺は司馬懿を連れ、賈駆と面会していた。

「内通の罪を問うても、封諝を切り捨てるだけで残りふたりは生き残りますので、まあ、こうするしかありませんでした」

 後ろめたいことなど何もない様に袁遺は言った。

「それより、まずは董司空と袁司徒に録尚書事を兼任させましょう。それと宦官が重要な地位に就けないよう、法の改正もしなければいけません。でなければ、また、宦官に政治的な主導権を握られます」

 十常侍が専権を振るっていたのは、中常侍と呼ばれる役職が宦官の専任の官職であったからだ。

 皇帝の傍に侍り、様々な取次が可能なこの役職を独占できることは大きな権力を宦官たちに与えることになった。

 袁遺は、その特権を取り上げる必要があると主張した。

 董卓と袁隗を録尚書事に就けるのもその一環であった。録尚書事は、上奏事を掌り綱紀を統括する尚書を束ねる役職である。漢では三公は録尚書事(正式には参録尚書事)を兼ねるのが通常であったが、宦官が中常侍を選任されてから、尚書の仕事である上奏や帝への取り次ぎの業務を独占した。結果、三公は地位だけが高い何の権限もない有名無実の位になってしまったのだ。

 その権限を宦官から取り戻す必要があった。

「分かっているわよ」

 賈駆が怒鳴るように答えた。

 これでやっと滞っていた中央の行政がまともに機能し始める。

「ああ、それと、あの三人のため込んだ財産の没収ですが、私の手勢で引き受けましょうか? 司空殿が都で金持ちの家を襲い、財を没収している、などといった噂を立てられると心外でしょう?」

「……監視をひとり付けるわよ」

 賈駆は袁遺のことを全く信用していなかった。

 むしろ、十常侍の生き残りをあっさり処理して見せた手腕に、さらに警戒を強めていた。

 また、黄巾党との内通の証拠を持ちながら、何も行動を起こしていなかったこともそれを加速させる要因となっている。

 ただ、袁遺からすれば、自分はそれを上奏できる地位になく、叔父に頼っても上奏事を全て取り仕切っている十常侍に握りつぶされ、何らかの報復が予想出来ていたため、仕方がなしに眠らせていただけであった。

「もとより自分の懐に入れるつもりなど一切ありませんが、その方がいいでしょう。隆盛を極めた十常侍の財です。監視のひとりやふたり付けねば、疑いたくなるほど貯め込んでおりましょうから」

 袁遺の言葉通り、接収された財は莫大なものであった。それは反董卓連合との戦費に回されることになる。

「それで、賈駆殿。私に兵権を預けるか、否か。どのような決断を下されましたか?」

 袁遺は先延ばしされていた問題に手を付ける。

「……あんたじゃなくて、他の……例えば、呂布や張遼を主将にして、あんたが軍師や副将をするってことじゃダメなの?」

 賈駆がどこか縋る声で言う。

 彼女自身、それで袁遺が受けるわけがないと思っていた。それに袁家内の争いという形にするためには袁遺を主将に据えるのが適当だとも理解できる。それでも、袁家の一族に軍権を持たせるのは躊躇せざるえなかった。

「でしたら、あなたが主将で、私が副将。その形ならどうでしょう?」

 それを聞いた司馬懿は、表情を変えずに心の中で、この主はエグいことをする、と思った。

 袁遺も司馬懿も賈駆がその条件を受けないことは分かっている。彼女は親友であり、主人である董卓の元を離れないだろう。子飼の部下は全て前線に投入される中で董卓を洛陽にひとり置いてはいけない。袁遺が信用できないように袁隗も信用できないのだ。今は協力しているにしても、いつ、彼が態度を豹変させるか、分かったものではない。

 袁遺は、まるで譲歩した風に提案したが、実際は賈駆を袋小路に追い込んでいるに過ぎない。

 相手が悪い。仲達は賈駆に同情した。

 袁遺の実際的な人物としての面を最も知る仲達は、この仕えにくい主が必要ならいくらでも冷酷になれることを知っていた。

「張既は、張既はどうしているのよ!?」

 賈駆が尋ねた。今の彼女は助かるためならそれこそ藁をも掴むであろう。袁遺陣営で唯一好意的な印象を持っている人物の名を上げた。彼が何かをしてくれるわけではない。それでも何かに救いを求めたかった。

「張既は現在、馬涼州牧殿と交渉しております。袁紹の企みに乗らないようお願いしているところです」

「準備がいいじゃない」

 賈駆は言った。声には明確な侮蔑の色が含まれている。

 それを聞き、仲達は、まだ嫌味を言う元気があるのか、と思った。

「大将だけれど、朱儁ならどう?」

 賈駆の声は荒げてはいないが余裕をあまり感じられない声だった。

「朱光禄大夫殿、ですか。彼の下なら喜んでつきます」

 その言葉に賈駆の表情が明るくなるが、次の言葉にそれは一変する。

「では、董司空に頼み、帝の勅を戴いてください」

「あんた、知ってたのね!」

 袁遺が十常侍の生き残りを始末している間、賈駆は双方の落とし所となる人物を探した。そして、それにふさわしいと思った朱儁にすでに打診していた。

 だが、朱儁は断った。伯業の力量を考えると彼こそが主将にふさわしい、と逆に彼を推薦した。そして、どうしても自分を主将に据えたかったら、帝の勅命を以って据えろ、と言った。

 それは、できないことだった。今現在、洛陽は二頭政治であり、その片方は袁遺を主将に据えようとしている袁隗である。彼が必ず妨害するだろうことが見えている。ここで揉めて反董卓連合の迎撃に間に合わないなどという最悪の事態に陥る可能性がある。彼ら袁家は、洛陽が落とされても命は助かるかもしれない。だが、董卓は確実に殺される。それだけは賈駆にとって許容できるものではなかった。

 賈駆は殺意を込めて袁遺を睨む。

 いっそ、この男を殺してしまおうか。何度もそう思った。だが、それはできない。この男が長安に残してきた部下が主の仇と牙をむくからだった。そうなれば、両面から洛陽は挟まれる。どうしようもない袋小路だ。

「はい、知っていました」

 袁遺の態度は全く悪びれたところがなかった。

 賈駆は追い詰められた様な表情を一瞬したが、それをすぐに消し言った。

「……張遼に監軍使者を兼任させるわよ」

「畏まりました」

「どのくらいの官位が必要?」

 賈駆は冷静であった。一度、決めれば時間がないことは分かっている。勝つための算段を付けるのに手を抜くという考えは一切なかった。

「後将軍でお願いします。黄巾の乱のおり、叔父上が就いていた官職でしたので、縁起を担ぎます。黄巾の乱は勝ちましたし」

「呂布、張遼、華雄、陳宮を部下につけるけど、上手くやりなさいよ。華雄は猪武者なところがあるから気を付けなさい」

「はい、ご忠告ありがとうございます」

「月……董卓と袁隗のふたりから上奏し、後将軍に就ける。こうなったら、死んでも勝ちなさいよね」

「はい」

 その言葉を聞くと賈駆は上奏の準備に向かった。

 袁遺も一度、長安に戻り、雛里たちと合流する必要があったため、その準備をしなければいけなかった。

 洛陽を発つ前、司馬懿が袁遺に尋ねた。

「董卓殿を巻き込むように交渉すれば良かったのではないのですか? 司空殿をこの手の面倒ごとに巻き込みたくないであろう彼女はもっと早く折れていたと思いますが」

「それは流石に彼女に恨まれ過ぎる。人間誰しも触れてはいけない物がある」

 そこまで言うと袁遺は自虐的な笑みを浮かべながら続けた。

「それにしても、ここまで信用がないとはな。これから先のことを考えると思いやられるな」

 袁遺の言葉に仲達は同意した。

 この主従ふたりは反董卓連合との戦いで全てが終わるとは考えていなかった。

 集まった諸侯を撃退した後、分断して叩く。この戦いは、その長い戦いの一歩目に過ぎない。

 

 

7 その日4

 

 

 長安に戻った袁遺は、まず県令代行の雛里から報告を受けた。

「……長安の住人は戦争の気配を感じておりますが、治安に乱れはありません」

「物価、特に食料と生活必需品の値上げはどうだ?」

「行頭さんたちには人心を煽る様な値上げはしないようにお話はしました。今のところ値上げはありませんが……」

 雛里が言い淀んだ。戦争が長引けば、どうなるかは分からないからだ。

「わかった。洛陽に行く前に私からも言っておこう。それで兵の方はどうなっている?」

「は、はい。一万が実戦に投入可能です。それと訓練を終えていない兵が三〇〇〇います」

 一万。訓練が完了し、なおかつ長安の生産能力が平時より少し劣る程度にすむ数字だった。もちろん、長安の人口を考えたとき、無理をすれば三万まで兵員を動員することが可能であったが、それだけの働き盛りの男手を引きぬく反動を想像すると行わずに済んだのが幸いであった。

「広大な長安を守るには、例え一三〇〇〇あっても足りない。中途半端に残すより一万全てを連れていく。訓練を終えていない三〇〇〇でも治安維持には使えるはずだ」

 非情とも言える決断であったが、ときに戦術は如何なる非情をも肯定する、であった。

 そして、袁遺は黙り込んで考える。

 雛里はそんな主を伺う様に見つめる。

「……雛里」

 袁遺は彼女を真っ直ぐ見つめると口を開いた。

「反董卓連合に劉備が参加する可能性がある」

 感情が抑えられた声で袁遺は言った。

「それはつまり、諸葛亮と君が戦うことになるかもしれない、ということだ」

「そ、それは!」

 雛里は声を上げた。普段の彼女からすれば考えられない大きさであった。

「雛里。君が望むなら、反董卓連合との戦いに参加しなくても構わない。長安で県令代行を続けてくれ」

「わ、わたしは……」

 雛里の声にあったのは失望と怒りと悲しみ。彼女は自分の主から、そんな言葉を聞きたくなかった。それはある意味信頼されていないと同義であったからだ。

 冷たい表情で袁遺は雛里に言う。

「もし、君が戦に参加するなら、諸葛亮と戦う覚悟ではなく、彼女を殺す覚悟と彼女に殺される覚悟を持ってもらう必要がある」

 君にはそれがあるのか? 袁遺の小石の様に無機質で小さな瞳が無言の内に問いただしていた。

 雛里には、その問いに対する答えがなかった。

 彼女は親友である諸葛亮―――朱里と別れたとき、彼女と戦うことを覚悟していた。だが、そこまでだった。彼女に殺されることも彼女を殺すことも考えたことがなかった。いや、無意識の内に考えないようにしていたのかもしれない。

 雛里は目を閉じ、思い出す。袁伯業、彼に助けられた日を。彼に付き従おうと決心した日を。

 殺す殺されの覚悟は分からない。それでも、この人に最後まで付いて行こう。その決心だけは揺るいだことがない。

「伯業様。わたしは、あなたの軍師です。最後まであなたに付いて行きます」

 雛里は生涯変わらない決意を口にした。

 

 

 張既を新たな県令代行とした。彼の落ち着き、鷹揚とした気質は、戦の緊張を和らげるはずであると考えからだ。それに涼州との交渉には彼の手腕と人脈が必要であった。何夔を彼の内政面の補佐として付け、残っていた実戦部隊の隊長三人も前線へと投入する。

 一万の兵と軍師の雛里。張郃、陳蘭、雷薄の隊長三人を連れ、洛陽に戻ってきた袁遺は、すぐに後将軍へと任官された。

 本来、儒教的な作法では、一度それを断り、再度任官されたときに受けるのが通例であるが、そんな余裕はなかった。時間はいくらあっても足りなかったからだ。

 任官の後、董卓とその将とで軍議を開いた。

 董卓陣営の董卓、賈駆、華雄、張遼、呂布、陳宮。

 袁遺陣営は袁遺、鳳統、張郃、高覧、雷薄、陳蘭、司馬懿。

 計十三人の参加であった。

 袁遺は董卓陣営の面々に目を走らせる。

 董卓からは不安と緊張が読み取れた。だが、こちらに対する敵意はない。彼女は本当に根っからの善人なのだろう。

 賈駆は警戒こそ緩めていないにしろ、敵意は以前より少なかった。袁遺の策に乗ったのだから、それを成功させるために自身の全能力を注ぎ込もうとしている。その割り切りは称賛に値した。

 華雄は董卓陣営で一番の敵意を袁遺に向けていた。殺意と言ってもいい。これを御せ、というのは中々苦労しそうであった。

 張遼も賈駆と同じ様に警戒はしているが敵意はあまり感じない。ただ、賈駆とは違い彼女からは余裕も感じられる。それが演技にしても、そうじゃないにしても、その胆力は大したものだった。

 呂布からは何も読み取れなかった。もしかして、ただボーっとしているだけなのか。袁遺は判断に困った。

 陳宮は華雄に近い反応であった。だが、敵意は殺気まで昇華されておらず、華雄に比べればマシだった。

 つまり、誰も好意的な反応を示していなかった。

 なのに、やるべきことは多く。時間は少ない。そのうえ、袁隗と董卓、その関係を悪化させないように手段を択ばなければいけなかった。

「軍議を開くわよ」

 賈駆が口を開いた。そして、董卓陣営の将に向かい言った。

「予め言ってあったように袁遺を大将として、諸侯を迎え撃つわ」

 その言葉に華雄の殺気がより一層膨れ上がった。

「袁家の者を総大将として仰ぐことなどできん! 都の袁一族を誅し、その首を掲げて兵を鼓舞し、連合に我らが威を示すのだ!」

 華雄は袁遺を睨みつけながら、叫んだ。

 自分の首が胴と離れる危機にあるというのに袁遺は、いつもの無表情であった。

 ここで殺されるなら所詮自分も謀った十常侍と同じ程度のそれまでの男であっただけで自分の元に来た部下たちの鑑定眼もその程度と覚悟は決めていた。

「華雄さん」

 だが、どうやら首と胴はまだ別れなくてもいいらしい。

 大きな声ではないが、それでもある種の力を持った声だった。

 その声を発したのは董卓であった。

 悲しみが宿った瞳で真っ直ぐ華雄のことを見据える。

 亡国の二文字が点滅しつつある帝国の中枢に座る人間としては欠点ととられかねないほど善人で心優しい董卓は一族を誅滅するなどといった行為を忌憚していた。

 そして、董卓を敬愛し、忠誠を誓っている華雄としては主にそんな顔をさせたくなかった。

 華雄は納得はしていないが、怒気を引っ込めた。

「袁遺さん、華雄さんが申し訳ありません」

 董卓が袁遺に頭を下げた。

「頭をお上げください、董司空。袁紹・袁術と私は従兄。将軍たちに御疑いあるのは無理なきこと」

「ですが……」

「今は軍議を進めましょう」

 袁遺は促した。今は時間がいくらあっても足りないのだ。それにこのまま、うやむやに進めてしまうのも悪くない。

「そうそう、ウチも袁家の者が総大将を務めるちゅうのに思うところがないわけやないけど、今は時間がないし、いきなり殺すちゅうのもな」

 そう言ったのは張遼であった。

 袁遺に対して気を許していないが、軍議を進めることを促す言葉であった。

「ふん、何が軍議だ。どうせ虎牢関に籠るだけだろう。何も話し合うことなどないではないか」

 そう言って華雄が悪態をついたが、袁遺は彼女の言葉を否定した。

「いえ、虎牢関には籠りません。我々は司隷東部を戦域に設定して、そこで戦います」

「ちょ、ちょっと待ちなさいよ!!」

 袁遺の言葉に賈駆が大声を上げた。

「野戦を挑むつもり!? あんた、連合とこちらの兵力差がどれくらいあるのか忘れたの!? 二〇万と四万よ! 負けるに決まっているじゃない!」

「詠の言う通りなのです! いくら呂布殿が天下無双とは言え、その兵力差をひっくり返すのは無理なのです!」

 董卓側の軍師たちが一斉に反論したが、袁遺は無表情な顔で返した。

「野戦で負ける、ではなく、決戦で負ける、です」

「はぁ!?」

 袁遺は、無感動な口調で話し始めた。

「野に出て戦いますが、決戦を挑むつもりはありません」

 決戦とは兵力を限られた戦場に集結させて殴り合う型の戦いである。

「戦域を決めて、そこで運動戦を行います」

 対して、運動戦(機動戦)は決められた戦域で戦うことである。

 決戦が点で勝負を決めるのであれば、運動戦は面で勝負を決めるのである。

 もちろん、運動戦でも、いや、運動戦であればこそ、いくつもの戦闘が発生するが、それらは皆、遭遇戦の形態を取らせるので決定的な意味を持たない戦闘になる。

「そうですね……賈駆殿。二〇万を超える軍勢を行軍させることを考えてください。まさか、二〇万全てに縦列隊形を組ませて行進させますか?」

「するわけないじゃない。偵察部隊を先発させるし、だいたい二万くらいの部隊に分けて進ませるわよ」

 賈駆は答えた。

 もし二〇万の兵士を全て縦列隊形で進めた場合、全てが歩兵で縦列を四つ作ると仮定するとその長さは一二〇キロメートルになる。しかもこれは荷馬車や騎馬兵が存在していないと仮定しているため、実際にはもっと長い長さとなる。

 はっきり言えば、そんな状態でまともな行軍などできない。もし仮にこの計算通りに兵を進ませた場合、最後尾の兵は先頭の兵が出発してから、だいたい四日後に出発することになる。

「そうでしょう。つまり、敵の二〇万を絶対に集結させずに、二万を叩き続けるのです。まあ、二万と言いますが、それだけ集められる諸侯は限られていますので、実際はもう少し少ない数を相手にすると思います」

「……勝てるんですか?」

 董卓が尋ねた。その声には勝利の希望を見出したのか、今までにはなかった微かな明るさがあった。

「勝てません」

 だが、袁遺は斬り捨てた。

「こちらも損害が出ますから勝てませんが、半年から一年の時間を稼ぐことができます。それだけの時間があれば、連合は解散するはずです。二〇万もの兵を養う食料は、そうそう用意できませんから」

「なあ、別に野に出て戦わなくても、それこそ虎牢関に籠って戦っても、時間は稼げるやろう」

 張遼が尋ねた。

「その通りですが、洛陽を攻めるには何も虎牢関だけが道でありません。南には隘路であるが、轘轅関、大谷関(太谷関とも)、伊闕関の三つのうちどれかを通って伊水を渡り洛陽に攻め寄せるという方法もあります」

 袁遺の挙げたルート以外にも、武関から函谷関を通り長安方面から攻めるという手もある。これが董卓陣営、特に賈駆が袁遺を簡単に排除できない理由になっている。

 彼を殺した場合、長安に残る張既が主人の敵討ちと敵対し、連合を引き入れる可能性があるからだ。

「ですが、我々には二方向、三方向から敵を防ぎ続ける兵力がありません。それなら、我々は運動力を常に有している方がいいのです」

「理屈はわかったけど、そう上手くいくんか? 連合が南に別働隊を派遣するちゅう可能性もないわけやないやろ?」

「可能性はありますが、低いと思います」

 袁遺は断定した。

「実は酸棗に集結しつつある連合に使者を送り、私が総大将として虎牢関に入ることを伝え、董司空は暴政など行っておらず、袁紹のすることは天下を乱すだけの無益な行いだと記した書簡を諸侯に届けているはずです。となると、董卓の暴政から洛陽と帝を救うという大義面分は曖昧になるはずです」

「曖昧になったところでどうなるというんだ?」

 華雄が不満そうな声を上げる。だが、今までと違いヒステリックに大声で叫び、軍議の進行を邪魔するものではなかった。

「曖昧になることによって、漢室を助ける忠義の士という風聞から袁家の帝を巻き込んだ権力争いに協力した邪智奸佞の輩という風聞に変わる。まあ、得られるべき名誉が無くなり、得られるものが実だけになります」

 得られる実、つまりそれは―――

「洛陽と皇帝陛下、このふたつが残された実です。袁紹や袁術、いや、群雄の誰もが、連合の内ただひとりがそれを手にすることを是としないでしょう。となれば、連合の誰もが、抜け駆けとなる別働隊を私の代わりに足止めしてくれます」

 所詮、連合とは利で結びついただけの集団であり、その利が限定的であるほど瓦解の速度は自然に早くなる。

「うん? 虎牢関に籠らんのに虎牢関に入った、て書いたんか?」

「ええ、書簡にはちょっとした仕掛けがしてありまして、その方が都合がいいんですよ。まあ、行軍の中継地点として虎牢関には行きますから、まんざら嘘ではありません」

 袁遺は意味深な言葉で張遼の質問に答えた。

 その後、軍議はときたま、華雄が不満の声を上げることはあったが、滞りなく進んだ。

 袁遺の部下である高覧が、三〇〇〇を率いて洛陽南方の守備に就く、ということになった。

 もちろん、三〇〇〇程度で出来ることは限られており、万が一、敵が来た場合、それを洛陽と本隊に知らせることと遅滞戦闘が任務となる。そして、戦闘となった場合、生きて帰れない捨て駒だった。

 命じた袁遺も命じられた高覧もそれは理解していた。

 高覧はそれについて特に否はなかった。本隊にいても危険なのは変わりないのである。

 董卓と賈駆は洛陽に残る。後は全員、野戦へと向かった。

 

 

 出撃する前に袁遺は袁隗に声をかけた。

「お願いがあります、袁司徒」

「お願い? まだ、わしから毟ろうというのか?」

 袁隗は軽口を叩いたが、袁遺の発する雰囲気が異常なものであったことに気付き、すぐ態度を改めた。

「もし、私が負けた場合、全てを私に押し付けけてください。私ひとりに。董卓を裏で操り、皇帝と民を蔑ろにする暴政を敷き、大恩ある叔父上をも騙す。私の名が夏桀殷紂と並ぶようにしてください」

 負けたとき、袁遺は死んでいるだろうから、生きている者にまで汚名を着せる必要はない。自分が全て引っ被って、あの世に持っていくことにする。

 中々の悲壮な覚悟だったが、袁隗は甥の腹の内を全て読めていた。

「負けると考えていない奴が、負けたときのことを口にするか?」

「負けたときにどうするか。それを考えるのが叔父上の仕事だからです。こんなこと進言せずとも、叔父上なら俺が負けた場合、全てを俺に押し付けるはずでしょう?」

 それが政治だからだ。

 政治に善悪は存在せず、ただ正誤のみが存在する。それは連合軍側だけでなく、袁遺たちもそうである。

「だが、叔父上には世話になりました。罪悪感を幾分か取り除いておくくらいの恩返しをしてもいいでしょう。それに叔父上の言う通り負けることは考えていません」

 それが将軍というものだった。

 戦うなら勝つ。それはつまり、負けるなら戦わない、ということになり無駄な戦いを抑えることになる。

 甥の悲壮な覚悟に叔父は軽口で返した。

「わかった。だが、夏桀殷紂と並べるのは、あまりにも酷すぎるので、王莽くらいにしておいてやる」

 袁遺はそれに腹を捩ると、礼を言う。

「うん、それは有り難い。では、行きます」

「武運を」

 袁遺が司徒府を出て、自分の部隊へと向かう道中で仲達と出会った。

「どうしたんだ、仲達?」

 袁遺が尋ねた。

「今、左都侯の職を辞任して来ました」

 仲達は答えた。

 彼は後将軍の参軍として袁遺と共に戦場に行く予定であった。

「目まぐるしく官職が変わって、それをやらせている俺が言うのもなんだが、本当に扱き使われているな」

「そうですね。ですが、長安令から、いきなり後将軍になられたあなたも同様ですよ」

「……おかしな人事を行わなければならず、それがまかり通る。まるで乱世だな……いや、違うか。正真正銘の乱世だ」

 袁遺は吐き捨てるように言った。

「あなたなら、ついにこの日が来た、などとは決して思わないのでしょうね」

 そんな袁遺に仲達が世間話でもするように話しかけた。

 仲達は自分の主の心情を慮った。腹の内を部下に読み取られるのを嫌う男であるが、戦場に行けば、気分が悪くなることしか起きないのだ。ならば、そこへ行く前に幾分か気分が良くなってもらっておいた方がいい。だから、その腹にため込んだものを吐き出させようとしたのだった。

「仲達……」

 袁遺は苦い笑みを浮かべた。

 だが、すぐにそれを消し、友の好意に甘えることにした。

「そうだ。俺は、この日が来たなどと莫迦なことは決して思っていない」

 何度か口にした決意。無論、目の前の友に対しても言ったことがある言葉。

 自分は死ぬまで漢朝の臣でありたい。乱世の群雄になるつもりはない。立った群雄を全て潰す。漢王朝を滅ぼしてたまるか。

 だが、漢朝を救う日を、群雄を潰して回る日を待ちわびたことなど一度もない。

「ついに、この日が来たなどと言うやつは、はっきり言って特大の莫迦だ。そして、そんな莫迦に限って、現実と欲望を直結させたがる。これを飛躍の機会としてのみ捉えてやがる。この連合と俺たちの戦いで起きるあらゆる事象に意図的にか無意識にか目を背け、そのたった一面だけを見ようとする」

「天命という言葉もありますから」

 仲達の言葉遣いは部下としてのそれであったが、発する雰囲気は友としてのそれであった。

 天命とは、天からの命令で、天から人に与えられた使命。宿命などの意味がある。そして、それは儒教において基本的な概念でもあった。

「仲達。この面において俺は君に取り繕うことは一切しない。だから、言う。俺にとって天命とは、足掻いて足掻いて足掻きぬいて、それでもどうにもならない絶対的な事実のことだ。決して、自分の何かを肯定するためのものとは思っていない」

「あなたらしい答えだ」

 仲達は穏やかに、そして心底嬉しそうに微笑む。

 うん、そうかと袁遺は言った。そうですと仲達は答えた。

 ふたりの間にかつての黄巾党との戦に出向く前の様に友としての雰囲気が束の間戻った。

 だが、今回は仲達も戦場に行く。それはそれだけ彼らがギリギリの状況にあることを示していた。

 袁伯業という男の冷徹な部分は、袁紹の策謀を肯定的に捉えていた。

 大多数に利益が分配される場合、ときに悪行、悪徳は肯定される。権力の本質である。

 だが、邪魔者を消し、権力を自身が握るか好ましい相手に握らせる。それは他人に自分も同じ手段を取ってもいいのだと思わせることでもある。手法の是非を棚上げし、権力を握ることに重点を置くのは、まさに大乱乱世に他ならない。

 そして、それは袁遺にも言えることだった。

 彼もまた、十常侍の生き残りを内通の名分があったが、強引な手法で排除したのも事実である。

 それは袁紹と本質的に変わりない。

 だが、袁遺と袁紹、袁術に違いがあるとすれば、あのふたりはそれに賤しい気持ちを何ら持っていないことだった。彼女たちの欲に際限などというものはなく、さらに厄介なことにそれは叶えられて当然だと信じている。

 だから、あのふたりは、いつか自分自身にその手法が降りかかるなどということは考えてもいなかった。

 逆にそれを理解している袁遺にとって、自身に因果が巡ってくるは覚悟のことだった。もちろん、だからと言って何をしても許されるわけではない。結局、そのときが来たときにどのような態度を示すか、その程度の違いであった。

 

 

 袁遺にとって、足掻いて足掻いて足掻きぬいて、それでもどうにもならず、その因果の報いを渋々と受け入れる。その日こそ、ついにこの日が来た、と言える瞬間であった。

 

 




補足

・その長さは一二〇キロメートルになる
 行進長径という言葉がある。
 これは徒歩で行軍する軍勢に必要な隊列の長さのことであり、以下の式を以ってそれを出す。
 兵と兵の間の距離×(人員数÷縦隊の数)+部隊同士の間隔
 実際に計算してみると、
 まず、兵と兵の距離だが、槍などの長物を持つことを考えて、余裕を持って、二メートルとする。
 人員数は二〇万。縦隊は四列。
 部隊同士の間隔は、この時代の中隊にあたる卒(一二五人)でまとまって歩いていると仮定して、中隊間は約五〇メートル空けるのが後代で経験則から導き出された距離である。
 これらを式に当てはめると
 2×(200000÷4)+(50000÷125×50)=120000メートル=120キロメートル
 となる。
 全て歩兵換算であり、騎馬兵、荷駄などは含まれていない。

・殷紂
 殷の紂王のこと。帝辛。
 彼の名前が出て来たのは二度目だが、前回、補足し忘れたのでここで書きます。
 彼についてではなく、殷について。
 殷は周がつけた名前で、商の国名で呼ぶ方が適切だが、この二次創作では殷で統一します。
 また、前漢、後漢も西漢、東漢と呼ぶ方が中国的には正しいのですが、同じくここでは前漢、後漢で統一します。それに加えて万が一に五代十国時代の後漢の話なったときは後漢(五代十国)とします。

・それは儒教において基本的な概念でもあった
 不知命、無以為君子也。不知礼、無以立也。不知言、無以知人也。
 天命を自覚せぬようでは君子ではない。礼を弁えねば、世に立つことは出来ない。是非の判断ができなければ人物の識別ができない。



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8~9

原作では荊州牧の袁術ですが、この二次創作では寿春を本拠地にする揚州牧ということになっています。
それにしても張遼の口調が難しい。関西弁が分からん。違和感があっても霞ファンは許してください。


8 行軍

 

 

 張遼の心中は複雑な気持ちでいっぱいであった。

 自分は兵を率いる指揮官よりも、ただ戦場を駆ける一騎の武人でありたい。彼女はそう思っていた。

 だが、張遼の飄々としていながらも面倒見の良い性格となにより高い能力は彼女に名将の名声をもたらしていた。

 彼女はそれをその性格通り飄々と受け流していたが、まさか、軍事監察の役職である監軍を兼任することになるとは思ってもいなかった。

 張遼は自分が選ばれた……いや、賈駆が自分を選ばざる得なかった訳を理解している。

 反董卓連合の首謀者の袁紹の一族である袁遺に軍を預けるのである。監視役は必要であった。

 問題はその役目を誰にするかであるが、涼州時代からの臣である華雄は駄目だ。彼女の猪武者っぷりと袁遺への敵意を考えると、監軍の役目を超えて揉めるのは目に見えている。

 呂布に人を見る目がないかと言えば、違う。彼女独特の勘で人の気質を見極める。だが、こういった政治向けの事柄を積極的にこなすとは思えない。

 最後に陳宮である。軍師という彼女の立場を考えると一見適任のように思えるが、彼女は呂布のこととなると分別を失うことがある。その点を賈駆は心配したのだった。

 消去法で選ばれた感もあるが、張遼は董卓と賈駆のことを考えると断るという選択肢はなかった。

 そんな張遼のこの軍の総指揮官である袁遺の印象は、中継地点とされる虎牢関に着くまでに二転三転している。

 初めにあったのは、不気味さである。

 十常侍の生き残りを処理して見せた手腕は、謀略家の暗さを感じさせる。黄巾の乱で武功を立てているのも、それを強化するだけだった。

 彼女生来の面倒見の良さから、洛陽にいる董卓や賈駆、一緒に戦場に出ることになった華雄、呂布、陳宮。そして、自分を信じていついて来てくれる古参の兵たちのことを自分のできる限り守ろうとしていた。

 だから、もし袁遺が与えられた兵を以って、董卓たちを害するなら、容赦はしない。そんな気持ちで洛陽を出てきたのだが、行軍の途中で別の気持ちが芽生えてきた。

 その気持ちは、袁遺に対する同情である。

 袁遺に与えられ、彼女もそれに一部隊を率いて加わっている四万の軍勢は雑多な混成軍であった。

 まともなのは董卓が吸収した元何進の配下の呂布の直属部隊。同じく元何進配下の張遼の直属部隊。そして、袁遺の長安の部隊。それくらいである。さらに悪いことに袁遺の連れてきた一万の内、三〇〇〇は高覧が率いて南部に向かっている。また、董卓が涼州から連れてきた三〇〇〇は洛陽に元何進の兵七〇〇〇と一緒に、万が一にも官軍が南もしくは西から攻めてきた場合の備えに残っている。

 それ以外の兵―――例えば、呂布隊と張遼隊以外の何進の兵は練度も士気も低かった。それより、問題なのは泥縄式に徴兵されたばかりの兵だった。彼らは、袁遺が洛陽・長安を往復している間に仲達と高覧に本当に最低限の訓練をされただけである。

 それを行軍中に見ていた張遼は、これを率いて二〇万の敵と戦う。その大将をやらなければならないのは、自分なら御免だ、そう思った。

 いや、戦う以前に四万のまま虎牢関に着けるかもあやしかった。

 落伍兵と逃亡兵が出るのが目に見えているからだ。特に徴兵されたばかりの兵が行軍に耐えられるかは微妙だからだ。行軍速度を弱兵のそれに合わせるわけにはいかない。それに、彼らだけでなく、人間にはその日の体調などがあるのだから、古参兵でも落伍する可能性がある。生き残る力のない者、やる気のない者や運のない者は去れ、ではいけない。それでは軍が崩壊してしまうからだ。

 だが、袁遺はその点に抜かりはなかった。

 まず、兵たちの荷物を殆んど馬車や牛車に積み、持たせるものは武器だけに限定した。武器も積み込まなかったのは、命令が兵を兵足らしめている無形のものだったら、武器は兵足らしめている有形のものだった。それを投げ出したとき、兵は兵でなくなる。

 また、落伍兵収容用の馬車も出し、倒れた者はそれに乗せている。

 ただし、馬車には効果の限界があり、落伍兵全てを拾い集めることは出来ない。故に、兵を虎牢関まで歩かせるために、袁遺は指揮官に脱落の兆候がありそうな兵に付き、励ましてやれと命じた。所謂、将の仁強というやつだ。

 張遼は馬上から、足取りが危うくなっている兵を見つけた。

 声をかけようかと思ったとき、先に動いた者がいた。袁遺の配下・張郃の副将である王平だった。

 王平は兵に話しかける。

 その声は威厳は存在したが、見下したものはなかった。

「お前、槍を貸してみろ」

 肩で息をし、疲れ切った顔の兵士が、恐る恐る彼女に槍を差し出す。

 王平は、その槍を受け取ると、兵の身長との差を確かめる。そして、腰に佩いていた鉈の様な剣で、石突きから四〇センチ程の所で柄を切断した。それに唖然としている兵を尻目に地面に転がっているその四〇センチの棒から石突きの金具を剥ぎ取り、真新しい断面にそれを強引にはめ込み、地面に叩いて押し付ける。

「よし、これでいい」

 王平は、そう言うと槍を兵に返す。

 それをもらった兵は複雑な表情をして、王平に尋ねた。

「これ、勝手に切っていいんですか?」

 彼の胃はストレスでキリキリと痛んでいた。

 こんな風に装備を切ってしまって、他の将に見つかったとき、何か処罰を受けるのではないか。そんな不安を彼は抱えていた。

 王平もその将のひとりであるが、彼女が若い異民族の女性ということが、例えば如何にも歴戦の猛者と思わせる容貌の張郃と違って、彼女を侮らせる要因になっていた。

「よくはない」

 当然である。槍は長い方が有利なのは考えなくても分かること、先に攻撃が届くのは長い槍の方である。

 だがそれでも、落伍されるより槍を短くされる方がマシなのである。

「だけど、処罰の心配なんてしなくてもいい。誰も文句を付けたりしないから。それと槍を肩に当てて歩かず、穂先から自分の腕の半分くらいの長さの所を持って、石突きを引きずって歩きなさい」

「引きずって、ですか?」

「それが一番楽なのよ」

 兵は半信半疑だった。

 一緒に行軍している者の中にそうやって歩いている者もいるが、それはいかにもだらしなく見えた。ただ、実際のところ、そのだらしなく歩く方が疲労が抑えられるのである。ただし、だらしなく見える以外にも問題がある。それでも疲労を抑えることの方が優先だった。

 兵が隊列に戻り、だらしなく槍を引きずり歩いていくのを王平が見届けると他に落伍しそうな兵はいないか探し始めた。

 その光景を見て、張遼は感心していた。

 総大将の意図を完全に理解し、その達成のために必要なことを行う将がいるのは、教育が行き届いている証拠だった。

「いかがなされましたか、張将軍」

 張遼は声がした方に視線を移した。

 精悍な角張った顔はすぐにその男の名を思い出させた。

「張郃やったな。そっちの軍はえらい面倒見がいいなぁ、と思っただけや」

「袁将軍は将で最も恥ずべきことは、兵を落伍させることと考えております。故に将の選抜には行軍をさせてみて、その成果を以って将を用います」

 ただし、王平はその選抜された将の中で別格に袁遺の意図をくみ取っていた。演習時に彼女は兵の疲労を考慮し、実現不可能な手順を規則違反ギリギリに省くことがある。袁遺含めた上層部はそれを黙認していた。軍の訓練に死者を出すことは珍しくもない。それを防ぐために指揮官の裁量に任せるのは間違ったことではない。演習時にそうなのだから、実戦においても彼女は十分その要領の良さを発揮していた。長安に着いてから抜擢された指揮官の中では彼女が一番の掘り出し物だった。

 張遼は感心したような声を上げたが、それはそれであるひとつの疑問が湧いてきた。

「なら、もうちょっと、騎兵を先発させた方がよかったんやない? いくら、連合がまだ酸棗におるからって、こう、もうもうと土煙立てとったら、なんか寄って来そうやわ」

 それが、槍を引きずるうえでのだらしない以外の問題であった。

 大人数が地面に槍を引きずって歩くため、土煙はただ歩くより多くなり、状況が状況なら敵に発見されやすくなる。故に騎兵を一〇騎先発させ、警戒させている。

 張遼は、そこを警戒ではなく、騎兵を中心とした威力偵察部隊を派遣しては、どうかと言っているのだ。

 彼女がこう言っている理由は、警戒と偵察(厳密には違うが、捜索と同義)の違いと彼女の性格からくる好みである。

 警戒は『敵の奇襲を未然に防ぎ、また敵の偵察を妨害し、味方の安全と自由度を確保する』受け身の行動である。対して、偵察は『敵の行動、兵力、施設を探り、状況を明らかにする』積極的な行動だ。

 張遼の好みで言えば、受け身より果断な行動の方を好む。所謂、騎兵将校向きの性格であった。ただし、彼女は騎兵将校としては思慮深かった。騎兵将校の気質を悪く言うなら、考える前に動く、である。

「それについては私が答えます」

 ふたりの会話に割り込んだ人物がいた。

 この部隊の最高指揮官であり、従姉の野望を叩き潰すことになった袁伯業、その人であった。

 それに気付いた張郃は馬上で礼をとったが、張遼はとらなかった。そのことに張郃は怒りを感じたが、主が気にしている風でなかったため、彼はそれを腹に収めたままにした。

「張将軍なら、馬が大喰らいなことは言われるまでもなく分かっているでしょう」

「そりゃあなぁ」

「そんな馬を大量に先発させれば、虎牢関までの道端の草を全て食い尽くしてしまいます。ですが、それを輜重隊や落伍者収容用の馬に出来るだけ多く残す必要があります」

「ああ、そういうことか」

 そこまで言われれば、張遼も理解できた。

 馬は部隊の休憩中にも道端の草を食んでいる。それは人間で言うところのマラソン中の栄養補給(ただし、青草ばかり食べさせると馬が腹をこわす)にあたる。なのに、大量の騎兵を先発させて、その草を全て食べてしまっては、輜重隊の行軍速度が落ちることになる。それはつまり、行軍の日数が延び、それだけ兵を落伍させる可能性が高くなることだった。

 と同時に馬を輜重に利用する場合、秣が必要になり、その秣を運ぶための馬も用意しなければいけなくなる、といった連鎖に少しでも対応できるような苦肉の策であった。

 他にも、街道の半分を完全に輜重隊の馬車専用に使い輸送効率を上げるなどの工夫もしている。

「それで、張郃。脱走兵は出ているか?」

 これを聞くために袁遺はふたりに近づいてきているのだった。

「今のところは出ていません」

「それはよかった。ひとりの脱走兵は十人の脱走兵を呼び、最終的に軍を崩壊させる。引き続き目を光らせてくれ。それと元何進の兵と急遽、徴兵した兵たちの中で体力のありそうな者に目をつけておけ。それを基準に戦闘部隊へ回すか後方の部隊に回すか決める」

 袁遺は抜け目なかった。この行軍で兵の組み分けを行おうと考えていたのだった。

「御意」

「張将軍もお願いします」

「ああ、わかった」

 張遼は、ここまで手抜かりなくやられると可愛げちゅーか、変な余裕を感じておもろないなぁ、と心の中で思った。自分向きではない監軍を兼任させられ、いつもの身軽さを失いかけていた身としては、涼しい顔(袁遺にとってはいつもの無表情)をされることに少し腹が立った。

 だが、その涼しい顔をした袁遺は、よく見ると、どこかおかしかった。

 どこが、と探ると彼女にはすぐに分かった。

 下半身に力が入り過ぎている。

 卓越した騎馬術を持つ彼女には、それが馬に乗り慣れていないか騎乗が下手であるからだと簡単に見当が付いた。

 それにしても力が入り過ぎやろ……

 もう少し力を抜け、と言おうとしたが、張郃が何かを諦めている様な顔をしている。だから、やめた。

 人間、得意不得意はある。戦場で兵の疲労を抑える意味を知っていて、それを実行できる。それは指揮官にとって、乗馬が上手いより必要なことであった。

 実際、戦場に立ってみないと分からないが、今のところは有能な人物と思っていい。張遼は、そう結論付けた。

 不気味な男から哀れな男、そして有能な男。この三つが虎牢関までの道のりでの張遼の袁遺への変化であった。そして、連合と戦うことにより、それら三つがこの袁伯業の評価として正しいものであり、また、あるひとつの要素を見落としていたことに彼女は気付いた。

 袁伯業と言う男は、如何なる策略を巡らせているか分からないほど不気味で、同情を誘うくらい悲壮で、この四万の兵を率いるに何ら問題ないほど有能で、そしてなにより、イカれた男であった。

 

 

 この外史において、十常侍に封諝が名を連ねていることから、正史というより演義寄りの世界と袁遺は考えていた。しかし、この世界において、汜水関とは虎牢関の別名であり、それぞれ独立した関ではない。これはどちらかというと正史寄りである。袁遺はこれを、まあ、一部の武将が女性化した世界であるから、正史だの演義だの考えても仕方ないことだ、として深く考えるのをやめた。

 虎牢関に着いたとき、袁遺は諸将を集めて、軍議を開いた。

「これからの方針を発表する」

 袁遺は諸将を見渡しながら言った。

「陳蘭は偵察部隊として先行しろ。その後ろに呂将軍、張将軍、華将軍、陳宮殿、張郃、司馬懿が続け。君たちは滎陽を通って原武へと向かえ。私と鳳統、雷薄は敖倉、巻に兵糧を運び込む」

「なるほど、適時補給の方法を採るのですね」

 仲達がすかさず袁遺の戦略を読み取った。

 彼が唯一、袁遺と戦略レベルで思考を共有させることができる人物であった。

「ああ、そうだ。司馬懿、温県にある司馬家の蔵を開放してもらうぞ」

「はい」

 司馬懿は軍議に不釣り合いなほどの穏やかな声で返事をした。

 司馬一族は温県の豪族である。つまりは名士だ。

 漢代を通じて、大土地所有が進み、豊農と貧農が生まれた。富農は自作農を圧迫し肥大化、いつしか郷村社会を支配し始めた。これが富農の豪族化である。

 そこから新を打倒し漢を再興した光武帝こと劉秀が誕生することになる。また、その臣下の多くも豪族である。そのため後漢王朝は、豪族の肥大化を規制しようにも規制できない状況であった。

 豪族は零落した自作農を小作人にしていく。また、その中で戦闘に耐えることができる者を部曲として武装する。

 温県は司馬懿にとって、経済基盤と武力基盤であった。

 そこから、経済基盤、すなわち、作物を差し出させたのだった。

「叔父上から、金は無心してある。戦争に勝てば必ず補填はする。であるから、必死になってもらうぞ」

「はい」

 負ければ経済基盤と兵力基盤が破壊尽くされるだろうことが目に見えている仲達は、そのことに異存はなかった。

「滎陽へと向かう部隊の総指揮は司馬懿がとれ」

「ちょっと待て!」

 袁遺の言葉に華雄が噛み付いた。

「何ですか、華将軍」

「何ですかではない! 何故、こいつが総指揮官なんだ!?」

「私の考えを一番理解しているからです」

「何ッ!?」

 袁遺は無表情な顔で言う。

「では、将軍。運動戦において重要な要素は? 適時補給をすると言いましたが、そのうえでどのように軍の編成を決めます? 補給部隊の割合、前曲と後曲はどのように配置する? 予備兵力の数と運用方法は?」

「な……」

 華雄は一瞬、虚を突かれた顔をした。それから顔を真っ赤にして叫んだ。

「そんなことは軍師の考えることだろう!?」

 その言葉を聞いたとき、袁遺は内心で侮蔑の言葉を吐いたが、表情にはそれを出さずに答えた。

「いいえ、将の将たる者が考える仕事です」

 運動戦では以前にも書いたが、起こる戦闘は殆んどが遭遇戦となる。

 これも以前書いたことだが、遭遇戦は参加する双方に混乱を発生させるため、損害が多い割には得られる戦果が少ない。

 であるから、運動戦は奇跡の一撃により敵軍崩壊、大勝利といった形で決着が着くことは全くと言っていいほどない。運動戦はお互いが犯すであろうミスを待ち、それをすかさず利用して優位を積み重ねていく戦いとなる。

 だから、勝った方も何故、自分が勝ったかよくわからないし、負けた方も気付いたら負けていた、という決着のつき方となる。

 この点を理解していない者に兵を率いさせると運動戦では致命的な傷を負うことになる。

「それに彼は私にとっての白起であり、韓信であり、周亜夫だ。この天下で彼ほど戦争というものを分かっている者はいませんよ」

 袁遺が名将の名前を並べ上げたことに董卓側の陣営のみならず、袁遺側で仲達に好意を抱いていない者も閉口した。

 ただ、その古の名将と並べられた仲達本人だけが、袁遺から冷たい切っ先を突き付けられた思いだった。

 何故なら、袁遺があげた三人は大きな武功の割には……いや、大きな武功故に晩年は悲惨以外の何物でもなかったからだ。袁遺は仲達に彼ら三人の下に名前を連ねるなよ、と言っているのだった。

 袁遺と仲達の間にある主従の関係を超越しているが、異常なまでの緊張感を伴った友情は本人たち以外誰も知らなかった。

 

 

9 連合と袁伯業という男

 

 

 袁紹が檄を飛ばし結成した反董卓連合は、参加を表明した諸侯が酸棗に集まったにもかかわらず、未だ虎牢関はおろか、司隷にも攻め入っていない状況であった。

 その原因は袁遺が諸侯に送った書状であった。

 連合は初め、互いが互いの腹を探り合い。何も決められぬ状況であったが、ともかく偵察だけは出そうとなったとき、袁遺からの書状が届けられた。

 書状の内容に袁紹は激怒した。

 それを要約するなら、前半は董卓が暴政を行っていないことや社稷や洛陽の様子であったが、後半は袁紹に対する個人的な誹謗中傷であった。

 彼女の母親の身分が賤しい身分であり、袁紹も庶子であること。事実無根の噂を流し、天下を乱す愚行に非を鳴らし。洛陽にいる袁家の長者たる袁隗の身を危険に晒すことは孝を欠く行いだと訴え。彼女の幼少からの問題行動を羅列し、一々それが如何に愚かなことか書き連ねた。さらに袁家内の序列で言えば、袁紹は袁術の下のはずなのに彼女の檄ではまるで袁紹が袁家の代表のように振る舞うのは傲慢であると、何でも競い合う袁紹と袁術ふたりの関係を煽るようなことも書き。これでもかと袁紹を罵倒する言葉を書き連ねる。『迂闊不通の至り』『無学で無能で欲深で思慮の欠片もない輩』『禽獣でも貴様よりマシ』『良心をすり減らし恥を恥とせぬ小人』『恩も義も知らぬ貴様の様な者が国家を台無しにするのだ』とあらん限りの罵倒を尽くし、最後に、この様な無意味な連合を組むことは天下から後ろ指を指されることになり、袁紹がすべきことは天下を乱した非を皇帝陛下に詫びることであり、彼女がそれを望むなら自分も協力するという言葉で締められていた。

 書状を読み終わった袁紹は甲高い声を上げ、それを投げ捨てた。

 そして、諸侯が自分に非難と猜疑の目を向けていることに彼女は気付いた。

 諸侯の目は、どういうことだ、話と違うぞ、と言っていた。連合に名前さえ連ねておけば天下に体裁は保てるはずだったのに、下手をすれば姦計に加担した逆賊の汚名を着ることなるやもしれない状況になってきた。

「うっ……な、なんですの……」

 場に怨嗟の念が渦巻く状況に袁紹は怯んだ様子だった。

「袁紹さん!」

 そんな中に響いた声は優しさと強さを併せた不思議な魅力を持つ声だった。

 桃色の長い髪。整った容姿。今、その顔には義憤の相を浮かべているが、それでも普段は優しく穏やかなことを想わせる雰囲気が色濃く残っていた。

 彼女は劉備。字は玄徳。平原の相であり、雛里と長社で別れた諸葛亮の仕官先である。

「洛陽では董卓さんが暴政を敷いているんじゃないんですか!?」

 劉備は、この連合で数少ない董卓の暴政から民と漢王朝を助けるためだけに立った諸侯であった。

 そんな彼女からすれば、袁遺の書状の前半に書かれていることは無視できないことである。

「そ、それは……」

 袁紹は言葉に詰まる。

 他の諸侯は言葉を発しない。自分たちの聞きたいことを劉備が代わりに聞いてくれているのだ。邪魔などするはずはない。

「もちろん、その通りですわ!」

 袁紹が叫んだ。そして、続けた。

「董卓は洛陽で専横を働き、都の者は上も下もそのことを嘆いていますわ!」

「で、でも、この書状にはッ!?」

「そんなの嘘っぱちですわ。どーせ、袁遺さんは財か官位で買収されたに違いありませんわ」

 袁紹は、自分の言葉で何か重大なことを発見した気分になり、得意げに続けた。

「そう、きっと何か官位をくれてやると言われて、董卓の犬になり下がったんですわ。あの方は、名門袁家の出でありながら、近頃やっと県令になることができた袁家にとっては恥さらしの様な存在ですのよ。まったく、私のことをこんな罵倒して、あの男こそ欲が深く事実無根のことで他人を中傷する卑怯な輩ですわ」

「……」

 劉備はそれ以上追及することができなかった。

 彼女は袁遺と言う男も洛陽で起きている本当のことも知らなかったからだ。それに彼女は諸侯の中で下から数えた方が早い弱小の存在であった。そんな彼女がこの連合最大の閥の袁紹に噛みつき続けるのは自身や仲間を危うくするだけだった。

 だが、納得できるかどうかは別の問題であった。劉備の心に引っかかるものが残った。

「まずは、さっき言った通り、調査をしてみればどうだ?」

 そう言って、赤い髪をした女性が立ち上がった。まるで劉備と袁紹の間に割って入るようだった。

 彼女は幽州遼西郡の太守、公孫賛であった。

「その書状は虎牢関から来たんだろう? 虎牢関は連合の経路なんだから、偵察は出さなくちゃいけないし、何か分かるかもしれないだろう?」

「あ、それじゃあ、わたしのところで引き受けるよ。朱り……孔明ちゃんも、まずは小さなことから引き受けて様子を見た方がいいって言っていたから」

 劉備が言った。そして、それに公孫賛が乗った。

「私も兵を出すぞ。私の部隊には機動力が高い騎馬が多いから」

 亀の歩みであるが軍議が進み始めた。諸侯がそう思った瞬間、せっかく進んだ亀を持ち上げ、遥後方にぶん投げた奴が現れた。

「待ちなさい! そんなことより先に決めるべきことがあります」

 袁紹であった。

「……なんだよ、その決めることって?」

 公孫賛が呆れた声で言った。

「それは、この連合を率いる総大将ですわ!」

 結局、そこに戻るのか。諸侯たちは苦い気持ちになった。露骨に顔をしかめている者さえいる。

 袁紹は、この軍議が始まってからずっと総大将にふさわしいのは、どの様な人物かと持論を展開していた。いろいろな要素を並べ立てていたが、無意味だった。彼女は自分こそが総大将にふさわしいと思い。自分こそが選ばれるべきだと信じていた。

 それは一概に間違いではなかった。

 彼女は連合で一番多くの兵を引き連れているのだ。大将を最も大なる軍勢を率いる者が務める、それは自然なことであった。その点で言えば、董卓より少ない兵数を引き連れて、総大将に成り果せた袁遺の方が非常識なことだった。

 もちろん、他の諸侯も袁紹が連合の大将に就くのに文句はない。ただ、彼女を大将に推したときに発生する責任が面倒だったのだ。無茶苦茶な任務を押し付けられてはたまったものではない。つまりは、そいうことだった。

 そのため大将に推薦して欲しい袁紹と責任と面倒ごとを回避したい諸侯とで駆け引きが発生し、軍議が停滞した。

 また、そうなるのか。そんな空気が諸侯の間に流れたが、今度は違った。

「そう、敵がこんな書状を送って来ているのに我々は未だ総大将も決められていない状況、これは非常にまずいことですわ」

 袁紹はそう言って、一同を見回す。

「そこで、この袁本初。総大将に立候補しますわ!」

 そして、そう宣言した。

 それを聞いた諸侯は、この変わり身は一体どういうことだ、そう訝しんだ。

 ただ、袁紹と袁遺のことを知る曹操のみが袁紹の豹変の理由を察した。

 袁紹が駆け引きを放り出して自ら総大将に名乗り挙げた理由は、連合と対峙している軍勢の大将が袁遺だからだった。

 袁紹にとって袁遺は、袁術と違い自分と張り合おうとはしない故に取り立てて気に留めるほどではないが、それでもときたま袁遺を高く評価する世間の声が耳に入って来て、謂わば、耳障りな羽音を立てるハエの様な存在だった。

 そんな男が総大将で、もし自分が連合の総大将になることができなかったら……そう考えたとき袁紹は居ても立っても居られなくなった。そして、名乗りを上げたのだった。

 それを理解している曹操は本当にどうしようもない茶番劇を見せられた気分だった。

 袁紹の総大将就任は諸侯から歓迎された。

 それは本心であった。万が一にも負けた場合、総大将である彼女に責任を投げることができるからである。

 袁紹は総大将として改めて、公孫賛と劉備に偵察の命を下した。

 ただし、偵察は偵察でも威力偵察であった。つまり、事実上の先鋒である。

 ふたりは、それに反対したが、袁紹と他の諸侯による兵力差と言う圧力で押し切られた。

 ともかくとして、反董卓連合はやっと、その重い腰を上げたのだった。

 

 

「う~ん……」

 自陣に戻った劉備は袁遺から届けられた書状を見て、唸っていた。

「桃香様、まだ見ているのですか?」

 そんな彼女を呆れたような声がかけられた。

 声の主は美しい長い黒髪を側頭部の片側のみで結んだ女性であった。彼女の名は関羽。字は雲長。劉備軍の武官筆頭にして義妹であった。ちなみに桃香は劉備の真名である。

 この場には他に長社で雛里と別れた諸葛亮。小柄で赤い髪の少女で劉備と関羽の義妹の張飛。水色の髪を持ち、涼しげな雰囲気を漂わせている趙雲。いずれも整った容姿の持ち主であった。彼女ら五人が劉備軍の首脳陣であった。

「袁紹さんと袁遺さん、どっちが本当のことを言っているんだろうと思って」

 劉備は書状から顔を上げ言った。

「朱里、確か平原を出立する前に洛陽に人をやり探らせているのだろう? 何かわかったのか?」

 それを聞いた関羽は諸葛亮に尋ねた。朱里は諸葛亮の真名である。

「それがまだひとりも戻ってきていないんです」

「……それは殺されたということか!?」

 関羽が声を挙げる。

「恐らく……」

「じゃあ、やっぱり、洛陽では暴政が行われているの!?」

 諸葛亮の肯定に劉備が声を荒げた。

「いえ、まだそうと決まったわけじゃありません」

 しかし、諸葛亮はそれを否定した。それに趙雲が補足を入れた。

「左様。暴政を行っている行っていないに関わらず、敵対している連合の間諜を向こうが放っては置かないでしょう」

 彼女の言葉通り、洛陽では激しい情報活動が行われていた。

 間者、間諜、細作、草、素破、乱破、忍。言い方は何でもいいがこの手のスパイを使って行う情報活動には二種類ある。

 ひとつは、敵勢力の情報を集める『諜報』。もうひとつは、敵方の諜報を妨害する『防諜』である。

 その防諜を洛陽では袁遺の叔父の袁隗が自分の手の者で一手に担っていた。

 策を立てているとはいえ、洛陽の備えと南の備えが薄いことは連合に知られない方がよい。それに洛陽に反董卓・袁隗の一派がいないとは限らない。彼らが連合と結んで洛陽で武力決起でもされれば厄介この上ない。そのため、まだ干戈を交えていない軍を尻目に諜報・防諜活動は日に日に激しさを増していた。

「う~ん、やっぱり洛陽に行ってみないと本当のことは分からないか」

 劉備はそう言って、再び書簡に視線を落とす。

「だけど、この袁遺さんって人も酷いよ。いくらなんでも袁紹さんのことを悪く言い過ぎだよ」

 そして、書状の内容に憤慨した。度を越したお人好しの彼女は、無茶な任務を押し付けた人物である袁紹のために怒りを示していた。

 そんな劉備の横から張飛が書簡をのぞき込み、いくつかの単語の意味が分からず困惑していた。

「朱里は確か、この袁遺と言う男に会ったことがあるんだろう? どういう男なんだ?」

 関羽が尋ねた。

 諸葛亮の脳裏に長社で別れた親友の雛里の顔とその隣に佇む長身の男が浮かんだ。

「……そうですね。悪い方ではないはずです」

 諸葛亮は自身の言葉に狐疑した。

 本当にそうなのか? その言葉に自分の私情……いや、願望は一切含まれていないか? 無二の親友である雛里の主が悪人であって欲しくない。そんな願望を一切含んでいない言葉か?

 諸葛亮が自問していたとき、劉備陣営を訪ねてきた者があった。

「おーい、桃香。先発隊のことで相談があるんだけど」

「あっ、白蓮ちゃん」

 それは先ほどの軍議で劉備と袁紹の間に入った公孫賛であった。白蓮は彼女の真名である。

「うん? 今はまずかったか?」

「ううん、大丈夫だよ」

 劉備は皆に、大丈夫だよね、と振り返る。それに劉備軍首脳陣が肯首した。

「そう言えば白蓮ちゃんは、袁紹さんと昔からの友達なんだよね。じゃあ、袁遺さんについても何か知っているのかな?」

「伯業か? 何度か会ったことがあるが、本初ほど長い付き合いじゃないな」

「え、じゃあ、どんな人なの? やっぱり、袁紹さんみたいな人?」

「いや、全然似てないぞ」

「ほう。それは性格がということですかな?」

 趙雲が面白そうに尋ねる。

「性格も容姿もだ。伯業は袁紹や袁術と違って、黒い髪で母親に似たらしい」

「ふむ、では性格の方は?」

「そっちも袁紹と違って、偉ぶることなく。年下の私にも丁寧な態度をとる」

「へーえ。あ、でも、さっき袁紹さんが最近やっと県令になれたって言ってたけど、もしかして莫迦なの?」

「桃香様、その言い方は……」

 関羽が呆れたような声で言う。

「あ、じゃ、じゃあ、仕事があんまりできない人?」

「その言い方もどうかと思います」

「え、えーと、じゃあ……」

「ハハハッ、桃香らしいな。私も詳しくは知らないが、戦は上手いらしい」

「そうなのですか」

 関羽が相槌を打った。

「私塾を出た後、洛陽へ遊学し、その後、冀州の鄚県の県尉に就任したらしい」

「県尉ですか? いくら最初の官職であっても、名門袁家の出としては、高くありませんね」

 諸葛亮が言った。

 そして、彼女の言う通り、それは決して高い官位ではなかった。県尉は県の警備長官というべき役職であった。これは正史・三国志で劉備が初めてついた役職である。劉備は、張純の乱に参加した恩賞として与えられた。このとき、劉備は活躍したとは言えない。負傷した劉備は死体に隠れてやり過ごし、友の車に乗せてもらって戦場を離脱したとされている。そんな劉備に与えられた職であるから、あまり立派な職ではない。

「どうしてそんな職になったか私も分からないが、そのとき、匪賊討伐で活躍したって聞いたから、相当上手くやったんじゃないか」

「黄巾の乱でも大変な活躍だったと聞きます」

 諸葛亮が公孫賛の言葉に続けた。彼女は親友である雛里のことが気になって、調べたのであった。

「だったら、どうして最近になってやっと県令になったのかな?」

 劉備が不思議そうに言った。

「さあなぁ、私が伯業に最後に会ったのは、鄚県とは違う別の冀州の県尉をやってたときだったからな。その後、父親が亡くなって、郷里に籠って喪に服したらしい」

 公孫賛のその言葉に劉備は小さく呟いた。

「袁遺さんが悪い人じゃないなら、洛陽はいったい、どうなっているんだろう?」

 もちろん、その答えは返ってこない。

 その後、話は先発隊の話となり、洛陽と袁遺の話題はそこで打ち切りとなった。

 

 

「面白くないのじゃ!」

 連合の中で一際大きく、無駄なほど華美な天幕で豪奢な着物を着た金髪の幼子が叫んだ。

 彼女は袁術。字は公路。袁遺と袁紹の従妹にあたり、袁家の正統後継者である。

この天幕の中には三人の女性がいるが、その内ひとりが袁術の言葉を受け、口を開いた。

「何が気に入らないのよ、袁術ちゃん」

 気だるげな声を発した女性は孫策。袁術の客将であった。

「あのめかけ腹の娘じゃ! なんであやつが総大将なのじゃ!」

 袁紹に激しいライバル心を燃やす袁術は袁紹の風下に立つのに怒り心頭であった。

「美羽様は総大将になりたかったんですか?」

 袁術の真名を呼び、傍に侍っていた青髪の女性が尋ねた。彼女は張勲。袁術の側近である。

「袁紹が総大将が嫌なのじゃ! それにッ!」

 袁術は袁遺の書状を引っ掴み、続けた。

「これにも書いてある通り、妾の方が袁家の序列は上なのじゃ。なのに袁紹が上の様に振る舞っておるのじゃ!」

 袁術は書簡を振り回し、自分の怒りを表現する。

「その袁遺を私は知らないんだけど、袁術ちゃんの従兄でしょう。教えてくれるかしら?」

 孫策が尋ねた。その表情は得物を前にした虎のそれであった。

「よいぞ。袁遺は袁紹と違って、身の程を弁えた謙虚な奴なのじゃ。それに妾が麗羽にいじめられたら、助けてくれ……じゃなくて、ともかく、身の程を弁えた奴じゃ」

 後半の訂正は置いておいて、謙虚。袁氏一族を袁術と袁紹のみだけしか知らぬなら、袁家には似つかわしくない単語である。

「まあ、最近は会っていないがの」

「そうなの?」

「七乃。袁遺が最後に訪ねてきたのはいつじゃ?」

 張勲の真名を呼び、袁術が問いかけた。

「ええっと、確か、あれは袁遺さんのお父さん。つまり、美羽様の叔父さんの喪が明けたときですね」

 

 

 袁遺は官職に就いてしばらくは冀州のいくつかの県で尉として、匪賊討伐に明け暮れた。

 その生活は父の死によって一旦終えることになる。

 彼は職を辞し、三年、喪に服した。故郷に帰り、父の墓の近くで過ごし、人とほとんど会わず、質素な食事をして過ごした。

 喪が明けた後、袁遺は温県の仲達に会い。そして、次に当時は九江太守であった袁術に面会を求めた。

「袁九江太守に拝謁致します」

 袁遺は礼をとった。

「うむ、久しぶりだな。今日は何の用じゃ?」

 袁術は尊大な態度で従兄を迎え入れた。といっても、彼らにはそれだけの差があった。袁術の初任官は九江太守であり、県尉だった袁遺とは袁家内での序列で大きな隔たりがある。袁遺もそれを理解しているから、年の離れた従妹に常に貴人と接するように対応した。

「この度は亡き父の喪が明けたことをお知らせし、形見分けの品をお持ちしました。お受け取りください」

 袁遺が差し出したのは、金の杯とスライスされた瑪瑙であった。瑪瑙は深い青で所々に星を散りばめた様に黄色が見えた。まるで星空を切り取ったようであった。使い道は、所謂コースターである。

「おお、綺麗じゃのぉ」

 袁術は、それを一目で気に入った。そんな袁術を見てから、袁遺は口を開いた。

「実はひとつお願いがあります」

「うん? なんじゃ?」

「喪が明けたことにより、私も官職に復帰することになりましたが、戦力が足りません。それでお恥ずかしながら、太守様に縋りたいと思います」

「うーーん、つまり、兵をよこせ、と言っておるのか?」

「はい、太守様の部曲(戸籍を持たない私兵)である陳蘭と雷薄のふたりを我が配下として加えたいのです」

 袁遺はそう言って、手と膝を地面につき、頭を下げた。

「陳蘭と雷薄……?」

 袁術には、そのふたりの名前が記憶になかった。

 張勲を呼び、聞いたが、彼女にも覚えはなく、人をやって調べた。

 ふたりとも何でもない者たちであった。

 陳蘭の評価は、胆が小さくいつもオドオドしている。雷薄は粗野で上官に噛みつく様に接する厄介者だった。ふたりの共通点は行軍のとき、兵をダラダラと歩かせることだった。それがみっともなく、やめさせるように上官が注意するのだが、陳蘭は頭を下げながらも決して改善はせず、雷薄にいたっては小莫迦にした態度をとった。

 つまりは、惜しいどころか、熨斗を付けて渡したい厄介な人材だったのだ。

 ふたりは何の問題もなく、袁遺に付いて寿春から去って行った。

 その後、間もなくして、孫堅が死に、孫策が袁術の元に身を寄せ、袁術が揚州の牧となった。

 

 

 その話だけでは孫策は袁遺と言う男を測りかねた。

 袁遺の戦の実力は公孫賛・劉備の威力偵察隊が帰って来てから、再び考える。孫策は、そう結論付けたが、袁術は彼女の常識的判断を意味のないものにした。

「孫策! お主が袁紹の命じた先発隊より先に虎牢関を落としてくるのじゃ!」

 袁術が無茶苦茶な命令を発する。

 それに対して孫策は常識的な意見で反論を試みるが、それは徒労に終わった。袁紹に激しい対抗意識を燃やす袁術に常識は通用しなかった。袁術にとって、自分の願いとは叶えられて当然のことであったからだ。

 孫策は天幕を出て、近くに控えていた軍師の周瑜に命じて周泰を斥候に出した。

 周瑜は何も言わなかった。これが袁術の癇癪であることはわかっている。であるならば、自分の主であり親友は文句のひとつも言ってきたのだろうが、それを受け入れられなかったのだろう。

 袁術の側近の張勲にしたところで、彼女は孫策がいつか必ず袁術の元から独立する、と考えている。そうなった場合、袁術は少なくない痛みを受けることになる。だから、孫策の手勢をすり潰すことを良しとする。もっとも、張勲は袁術のわがままのままに彼女を甘やかしているため、孫策独立抜きに張勲は袁術の戦場では命取りになる感情的な判断を受け入れるだろう。

 孫策と周瑜は手勢を素早く整え、虎牢関へと向かった。

 その途中、孫策は周瑜に話しかけた。

「ねえ、冥琳。袁術の武将で引き抜きたい奴なんている?」

「いや、誰もいない」

 真名で呼ばれた周瑜は答え、どうしたの、と言いたげな顔をした。

「私もいないんだけどね。袁遺はふたり、袁術の元から引き抜いているのよ」

 孫策には悪い予感があった。

 彼女は袁術の配下武将について低い評価しか与えていなかった。

 そんな袁術の元からわざわざ引き抜き、将として用いている。彼らが本当に有能であったら、袁術と張勲に見る目がなかった。ただ、それだけなら、大きな問題ではない。もちろん、袁遺に見る目がない、そうだっても何の問題はない。

 だが、袁遺と言う男が分かりやすい武勇や人柄を重視せず、何か他の……この天下で常人が重きを置いていないことで判断する男であったら……きっと虎牢関で予想外の苦戦を強いられる予感があった。

 そして、彼女の勘はよく当たった。

 ……ただ、今回は、その勘が遅すぎた。

 後方でやにわに騒ぎが起こった。

「何事だ!?」

 周瑜が大声で叫んだ。

 それに兵が慌てた様子で駆け込んで、報告した。

「敵襲です! 敵の旗は呂と張!」

「なんだと!?」

 周瑜が叫んだと同時にふたりの女性が駆け寄ってきた。

 ひとりは孫策の面影を感じさせる容姿を持った女性であった。彼女は孫権。字は仲謀。孫策の妹である。

 もうひとりは妙齢の女性で名を黄蓋。字は公覆。先代の孫堅から仕える宿将である。

「姉様」

「蓮華。祭」

 孫策がふたりの真名を呼んだ。

「策殿」

 祭―――黄蓋が言う。

「後方から敵が攻めて来おった。騎馬部隊で呂布と張遼の部隊。今、思春が防いでおるがいつまでもつか分からん。いったん退がり、隊列を整えられよ」

「わかったわ」

 黄蓋の言う通り、行軍隊形の状態で急襲されたため、組織的な抵抗ができていない。兵を展開できるだけの余裕がある場所まで一旦下がり、隊列を組み直すしかなかった。

 だが、孫策たちはそれをさせてもらえなかった。

 潰走にならず、ある程度の隊列を維持して兵を進めたのは、孫策とその麾下の将たちの軍事的才能と高い能力を示し、江東にその名を轟かせた孫堅の気風がなくなっていないことを知らしめたが、相手が余りにも悪すぎた。

 彼女たちが移動し始めたとき、矢の雨が降り注いだ。

 兵が伏せられていたのだ。

 矢は隊列の真ん中を襲い隊を前後に分断する。

 その分断された前曲に華の旗を掲げた部隊が襲い掛かった。

 華雄の率いる部隊であった。

 彼女は洛陽に来てから溜まった鬱憤を晴らすがごとく暴れ回った。

 さらに呂布と張遼のふたりの騎馬隊の突破力の前に抵抗を続けていた甘寧の部隊は崩れた。

 前後共に完全に隊列が崩された孫策軍は潰走した。

 それを騎馬隊が中心となり、追撃。孫策軍は、その三割を失う大きな犠牲を出した。

 袁遺・董卓の部隊は兵をまとめ、巻へと向かった。

 巻に兵糧を運び込んでいる袁遺たちがいる。そこで彼らと合流するつもりだった。

 巻に着き、司馬懿は袁遺に戦果を報告した。

 袁遺は董卓側の武将を中心にその働きを褒め称えた。

 その後、袁遺と仲達で孫策軍との戦いを振り返った。

「昔、私が話した策だったな」

 袁遺が言った。

「はい、使わせてもらいました」

 そう言った仲達が今回、採用した作戦は袁遺が長安で雛里に話した仲達が最も興味を示した策であった。それは唐代の名将・李靖が得意とした戦術をアレンジしたものだった。

 その戦術とは騎兵の機動力を利用した長距離奇襲戦法であった。

 機動力を活かし、敵の思いのよらぬ方向から奇襲、逃げる方向を正確に読んで伏兵を置き、前後から挟撃する、といった戦法である。この戦法で李靖は敵より兵数が少ない状況で勝利を積み重ねた。

 司馬懿は、その味方からすらも不気味に思われている高い洞察力でこの唐代の名将の策を成功させたのだった。

 また、今回、袁遺が虎牢関にいると見せかけて、敵の進軍路を限定し、その成功率あげた。

「仲達、連合の総大将が袁紹に決まったようだ」

 袁遺は細作から得た情報を仲達に伝えた。

 それに仲達は祝いの言葉を袁遺に送った。

「ああ、それは大変おめでとうございます」

「まったくだよ。本初が総大将にならなければ、書状で彼女を過剰に罵った意味がなくなるからな。これで彼女は、あそこまで罵倒した私の首欲しさに南に行かず東から攻め続けてくれるな」

 それが書状で袁紹を徹底的に罵倒した理由であった。

 人間は今まで自分に従順であった者が歯向かうことは、今まで反抗的であった者が歯向かうことより大きな怒りを示す。そして、袁紹の誇り高いというより高慢な性格は、その怒りをより大きくしていた。

「仲達、本当に見事な戦運びであった」

「恐縮です」

 仲達は恭しく頭を下げた。

 

 

 袁遺の持つ知識の一部を吸収して、この外史の司馬懿は白起、韓信、周亜夫。彼らに並んで何ら問題ないほどの軍事的能力を有していた。

 




補足

・白起であり、韓信であり、周亜夫だ
 白起。秦の名将。兵を率いてから、二四万の首を斬り落としただの、二万を黄河沈めただの、四〇万を生き埋めにしただの華々しいを通り越して、異様と言える戦果を築き上げた。だが、その功績ゆえに多くの人に疎まれ、最終的に主君である昭王から死を賜る。
 韓信。言わずもがなの国士無双。頭韓信であったため、処刑される。説明が雑だが、韓信なんか説明しなくても分かるでしょう。
 周亜夫。前漢・景帝の時代、中央集権を推し進める中央に各地の王が反発、それがきっかけで高祖の子孫同士が争う呉楚七国の乱に発展する。そこで、周亜夫は敵の補給線を徹底的に破壊する戦術で敵を疲弊させ、漢王朝を勝利に導く。その功で丞相に就任するが、景帝と衝突し、死を賜り、絶食死する。

・『迂闊不通の至り』―――
 全て、清の雍正帝が地方文官にあてた手紙の文句から取りました。
 雍正帝は個人的に中華皇帝ではベスト10には入ると思います。まあ、軍事的実績は皆無だけど。後、筆まめで過労死疑惑でコスプレ好きとキャラが立ってる。

・李靖
 唐の名将。中華の外に行って、国をふたつ滅ぼしてくる。まあ、部下に李勣とか薛万徹とかいたし、ゲームなら完全に調整ミスですよ。そもそも、凌煙閣二十四功臣がおかしいし、そこに入ってない奴らもおかしいで唐代の武力インフレは確実に何か間違っている。まあ、旧唐書が歴史書じゃなくてファンタジ―小説なのが原因なんだけどね。
 上に書いた白起、韓信、周亜夫と比べても劣ることのない名将だが、李靖は宰相になった後も常に李世民から信頼され、その名声を損なうことなく天寿を全うする。この点がこの人の一番すごいところ。


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10

いつもご愛読ありがとうございます。
諸事情により、投稿ペースを不定期投稿にさせて頂きます。期間はそんなに空けないと思いますが、ご理解ください。


10 鬼ごっこと駆けっこ

 

 

 孫策が袁遺・董卓の急襲を受けて撤退した。

 その情報は先陣を奪われた形になった劉備・公孫賛軍に意外な形でもたらされた。

「それが曹操さんから流れてきたの?」

「はい、その通りです。桃香様」

 尋ねられた諸葛亮は困惑の色を浮かべながら、答えた。

「どういうことだ、わざわざ情報をこちらに流すなんて? 何かの罠か?」

 関羽も困惑した様に言った。

「ただ、こちらも少し遅れてですが、その情報が斥候から入ってきましたから、罠ではないと思います。曹操さんは野心の塊の様な人ですけど、味方の足を引っ張るようなことはしないはずです」

「じゃあ、どうしてわざわざ情報を流したのだ?」

 張飛が尋ねた。

「おそらく、こちらの力量を探るのが目的ではないでしょうか」

「桃香は新参者だからな。どのくらいの力を持っているか、他の諸侯も気になっているのさ」

 公孫賛はそう言ってから、真剣な表情で続けた。

「それより、これからどうするかだと思うんだけど。敵は虎牢関に籠っているんじゃなくて、城外に出てきたんだろう。威力偵察の目標も変わるんじゃないか?」

「そうですね。虎牢関にいると思われていた敵が野に出てきた。問題は、こちらが敵を全く補足できてなく、敵は酸棗から虎牢関の間に捜索線を張っていればこちらを補足できることです」

「こっちは敵を見つけていないけど、敵はこっちをすぐに見つけられる状況なのだ」

「それに地の利は敵にありますから」

「う~~ん、それじゃあ朱里ちゃん。どうしよっか?」

「そうですね」

 劉備に尋ねられた諸葛亮は、しばらく考え込んだ後、方針を提案した。

「警戒部隊を出しましょう」

「警戒部隊? 偵察部隊ではなくて?」

 関羽が疑問を呈した。

「はい、今は敵の奇襲を防ぐことを第一に考えましょう。敵の規模だけでも持ち帰らなければ作戦の立てようもありませんから」

「そうだな。袁紹の性格を考えると何か手柄を挙げないと、何を言われるか分かったもんじゃないからな」

 やけに哀愁を感じさせる声で公孫賛が言った。

 袁紹と付き合いの長い彼女は、これまでにも袁紹に振り回される経験を何度もしてきたのだ。

「それじゃあ、私の騎兵がそれを務めるよ。足の速い部隊の方がいいだろう」

「うん、お願い。白蓮ちゃん」

 公孫賛がその役割を買って出て、この時代でいうところの中隊である卒(一二五人の部隊)の軽騎兵の部隊を臨時編成し、先発させた。

 その様子を見ながら、諸葛亮は董卓・袁遺陣営の選択について考えた。

 袁遺の元には彼女の親友の雛里がいる。

 鳳雛。そうあだ名される彼女は軍略の天才である。その彼女がこの戦略を考えだしたのか。

 そう考えて、諸葛亮の胸に痛みが走った。

 董卓と袁遺の軍の意図を読もうとするたびに、その攻略法を考えるたびに、敵方に雛里がいる。その事実が否応にも心に痛みを走らせるのだ。

 長社で別れたとき、諸葛亮は親友と敵対することになると考えてもいなかった。

 違う主君に仕えても、かつて私塾で語り合ったように、学んだことを世のために役立て、困窮と悪政にあえぐ庶人を助けるはずだ。そうなるなら、戦わないはずだ。そう思っていた。……いや、違う。そう思いこんでいた。心のどこかで戦う可能性を認識していた。ただ、認めたくなくて、誤魔化していた。

 諸葛亮は、こんな揺れた心では、まずいと精神的な均衡を努めて保とうとした。

 彼女は慎重にそれぞれの部隊の役割を指示していく。

 自分の私情が一切挟まれていないか、それが自分の主である桃香にとって最大限の利益を生むものであるか、絶えず自問する。

 彼女が判断を誤った場合、敬愛する主も共に戦う仲間も信じて付き従う兵も皆が死ぬことになる。

 私情を挟むことなどできなかった。

 雛里が長安で葛藤したように諸葛亮もまた葛藤したのである。

 だが、彼女たちの葛藤とは関係なく戦は進んでいく。

 何故なら、雛里が仕えた男は果断に富んだ人物であり、果断に富んだ故に野戦での運動戦を選んだのである。そして、運動戦で少数の方が有利を保ち続けるには、常に機先を制し続けなければならない。

 故に、戦の進行は加速度的に進んでいく。

 

 

 劉備・公孫賛部隊が警戒部隊を出したように袁遺もまた、偵察部隊を出していた。

 雷薄が兵三〇〇を率いて黄河を左手にして原武周辺を探索していた。

 部隊は騎兵と歩兵の混成部隊である。

 この劉備・公孫賛の出した警戒部隊と袁遺が出した偵察部隊の編成の違いで両者が現在、得ている情報の量と質の差がはっきり見て取れた。

 そして、それはこの両部隊と本隊のその後に大きな明暗を分けることになる。

 先に敵を発見したのは雷薄であった。

 彼は騎兵を子細に観察した。

 まず初めの印象は皆が良馬に乗っていることであった。遠目でそれが分かるほど、馬格が良かった。

 次に騎乗兵が着ている服であった。鎧を着ていない。着物も異様な形に膨らんでいない。

 この時代の鎧は基本的に鉄板、もしくは銅板をつなぎ合わせて作る。鋲打ちの技術も存在しているが、未だ鎧作りへ技術転用されていない。その鎧というより、小さな鉄板を無数に張り付けたタンクトップは遠目からでも目立ち、その上に着物を羽織っても異様な膨らみとなる。それが騎兵からは見て取れない。

 軽騎兵だ!

 雷薄は断定した。

 そして、袁遺という野戦指揮官の実際性のみを煮詰めた様な男の下で指揮官をしている雷薄である。彼はすぐに劉備・公孫賛隊が持つ情報の実情を看破した。

 雷薄は騎兵を三〇騎、伝令として本隊へ走らせた。

「いいか、馬が潰れても構わん。ともかく一瞬でもいいから、この情報を伯業様に届けろ」

 兵は怯えながら、何度も首を縦に振り、走り去った。

 それは伝令に急ぐというよりも、何か猛獣から逃げる様な格好であった。

 だが、仕方がなかった。

 雷薄がその強面に不埒な笑みを満面に浮かべていたからだ。それはさながら、得物を前にした猛獣である。

 そして、雷薄自身も部隊を下がらせ、陣形を整える。

 敵の騎兵部隊も雷薄隊の存在に気付いたからだ。雷薄はそれに備えた。

 だが、劉備・公孫賛の騎兵隊は雷薄隊を襲わず、撤退していった。

 その際、彼らも雷薄と同じように三〇騎を伝令とし、それを先行させ、他は雷薄隊の追撃から伝令を守るような陣形であった。

「くそッ、さすがにむこうも莫迦じゃねぇか」

 雷薄が称賛の様であり未練の様である言葉を吐き捨てた。

 彼らの目的も戦闘ではなく、警戒である。

 三〇を伝令として出して、残りは距離を置いて、雷薄隊とその後方にいるだろう本隊への警戒任務を続けるだろう。

 もし、彼らが攻撃してきた場合、警戒任務すら不可能な損害を与える自信があった。

 いくら向こうの方が多く騎兵を有していても、軽騎兵である。戦闘力は普通の騎兵に比べて高くはない。というより、戦闘力はないに等しい。戦闘力があれば、攻撃したくなり、偵察を疎かにしてしまう。これは後の時代の偵察航空機が武装を付けていない、もしくは極端に制限されていることから、人間から抜けぬ癖の様なものなのだろう。

 だが、距離を置かれるとなると面白くない。こちらの行動が制限されてしまう。

「よし、おめーら! 騎兵用の礫は捨てるなよ。必ず持ってろ!」

 雷薄隊の歩兵たちは騎兵に投げ、落馬を誘発するための手の平大の石を持っていた。

「俺たちは偵察任務を継続する! だが、敵の騎兵がまだこの辺をうろついているかもしれねぇから気を付けろよ! それから騎馬兵。敵の騎馬兵に仕事をさせるなよ。俺たちがあいつらの後ろを取ろうとしていると思わせるぞ。だが、実際には取らねぇからな。敵を精神的に疲弊させるぞ」

 雷薄は有利な状況のうちに腹を括って、さらに優位を積み重ねておこうとした。任務の最優先事項の敵の情報は、もう袁遺に送ったのだ。ここで果敢な行動に出ても、自分の主は文句は言わない。

 雷薄の言葉に一部の兵の顔が青ざめた。

「おいおい、なんだその顔は。恐いのか?」

 雷薄は兵を見渡しながら言う。

「じゃあ、引き揚げるか? そっちの方がおっかねえことになるぞ。今、伯業様があの騎兵とその後ろにいる部隊をぶっ叩きにこっちに向かってる。それを、のこのこ引き返して行って、その途中で会ってみろ。どんな叱責を喰らうか分からねぇぞ。いや、そんな叱責を俺が喰らうハメになったら、てめぇら、許さねぇからな!」

 雷薄の言葉に兵たちは覚悟を決めた。

 敵よりこの強面で声のでかい上官の方が怖かったのだ。

 だが、それでもこの怖い上官の下で戦場を駆ける方が生きて帰れそうである。兵たちは皆、そう思っていた。

 そう思わせることが雷薄の最も優れた資質である。

 

 

 雷薄隊から来た伝令の報告を聞いた瞬間、袁遺は叫んだ。

「出陣だ! 呂将軍、華将軍、張郃は私と共に雷薄の元へ。張将軍、陳蘭、司馬懿は別働隊として陽武方面へ。指揮は司馬懿がとれ!」

「はい」

 仲達は恭しく一礼した。それは戦場に似つかわしくない所作であった。

「ちょ、ちょっと待ってーや。いきなり出陣て、それと別働隊ってどういうことや」

「そうなのです。意味が分からないんですけど!」

 張遼と陳宮が声を上げたが、袁遺は

「将軍は司馬懿から。陳宮殿は行軍中に説明します。時間がありません」

 そう言って強引に出撃準備を進める。

 張郃、陳蘭はすでに自分の部隊の元へ行き、指示を飛ばしていた。特に歩兵が主体の陳蘭は騎馬隊の張遼と距離を話され過ぎぬように、その風采の上がらぬ容姿からは想像できないほど機敏に指示をし、準備を整えていく。

 行軍中、袁遺は陳宮にこれほど急いでいる訳を説明した。

「敵は、軽騎兵のみで構成された部隊を偵察に出しました。まあ、警戒だったのかもしれませんが、敵と遭遇したときに運動力のみを有する部隊を出した。これから考えられるのは敵がこちらの総兵力すら掴んでいない、ということです。掴んでいたら、威力偵察部隊を先行させますから」

 敵の総数を分かっていない状態で威力偵察部隊を出すのは無謀とほぼ同義語である。何故なら、威力偵察部隊を出す前提として前面の敵が対処可能な規模であるということがある。

 そのことを朱儁の元で威力偵察部隊を務めた袁遺は嫌と言うほど理解していた。あのときも、豫州の黄巾党の大まかな数を把握しており、袁遺は本隊からの救援を受けられるギリギリのところでその任務を果たしていた。

 であるが故に虎牢関に籠っていることを前提に―――袁遺にそう誤断させられて―――動いた劉備・公孫賛は危険な状況に追い込まれている。

「そんな状況の軽騎兵の本隊はどんな連中か分かりますか?」

「……貧乏くじを引かされたってことですか?」

 陳宮の回答に袁遺は満足そうな笑みを浮かべた。

「その通り。敵の規模が分かっていない危険な状況なのに偵察部隊に行かされたのは立場が弱い者です。連合の力関係は官位勲等より、兵力が物を言うことが大抵です。つまり、あまり兵がいない諸侯だ。それを叩いて、偵察程度でも危険な任務と連合に認識させる」

「諸侯は、この先に起こるであろう乱世を睨んでいるから、自分だけは兵を損ないたくない。だから、危険な任務には就きたくないし、他人に就かせようとして諸侯同士で争いが起きる。すると連合の崩壊は早くなる、ですか?」

「……はい、その通りです」

 袁遺は感心して言った。

 陳宮は袁遺が劉備・公孫賛軍を叩きたい理由を殆んど見通していたからだ。

「それに我々は、袁司空の任命から、十常侍の排除、私の後将軍拝命、そしてこの戦場に着くまでに貴重な時間を無駄にしたのです。戦場で一番大事なのは兵の命でもなく、金でもなく、時間です。我々がどぶに捨てた時間は、この国の一年分の税よりも貴重だった。だけど、連合はまだ、その時間を無為に過ごしている。その間に有利を積み重ねておきたいのです。それが急な出陣の理由です」

 陳宮も袁遺の意図を理解し、それに賛成だったが、同時に袁遺に性格の悪さを感じていた。有能だけど、絶対こいつは人格に問題がある。そう感じるほど袁遺は連合の犯したミスを拾い上げていた。

 袁遺は馬を走らせる。乗馬は苦手を通り越して嫌いであったが、今はそんなことを言っている場合ではない。

 五万で二〇万を翻弄しなければいけないのだ。そして、袁遺自身が言った通り、戦場で最も大事なものは時間だった。それを節約する早さを持つ馬はある意味で袁遺に今、最も必要なものであった。

 たとえ、馬に鞭をくれ、しがみ付く様な格好で無様を晒していたとしても、袁遺は馬を駆けさせ続けた。

 袁遺たちが雷薄と合流したとき、雷薄は何かを大声で叫び、兵たちに槍でひとつの方向を示させた。

 袁遺は、その意味を理解し、呂布に命じた。

「呂将軍、兵がさす方角の騎兵を!」

「……わかった」

 飛将軍と謳われる呂奉先を先頭に騎馬隊が雷薄隊と睨み合うようにいた軽騎兵一七〇を蹴散らす。

 そして、生き残った一部の兵を捕虜にして情報を聞き出した。

 兵は半ば放心したような状態で言った。

「このまま原武に続く道を見張っていろ、と言われました。本隊は陽武の方へ向かうから、何かあったら伝令を出せと……」

 雷薄との睨み合いの様な対峙から飛将軍の一撃、そして、そこからの生。それは余りにも落差が大きすぎた。気が抜けるのも仕方がないことだった。

「陽武の方に向かったか」

 袁遺は捕虜を後方に移送するよう命令を出してから、呟いた。

 三〇〇の偵察部隊に発見されました、なんて言って酸棗に帰るわけにもいかないので、敵は司隷内に進むしかない。酸棗から洛陽を目指した場合、通る道はふたつ。袁遺たちが駆け上がってきた原武方面と仲達を別働隊に向かわせた陽武方面である。このふたつの道の違いは陽武方面の方が川をひとつ多く越えなければいけないことであった。そのため、陽武方面の方が遠回りとなる。

「よし、敵と同じ道を通って追いかけるぞ」

「へ……な、何ですと!? 追いかける!?」

 袁遺の言葉に陳宮が声を上げる。

「こういった場合、来た道を引き返すのが常識ですぞ」

 陳宮の言う通りであった。今まで通って来た道なのだから、安全が確保されていることになり、進軍速度も自然と上がる。そちらの方が常識的選択であった。対して、袁遺の選択は敵の退路を絶て別働隊と前後から挟撃できるが、危険な道を行かなければいけない。そして、敵に追いつけなければ別働隊が撃破されるだけのハイリスク・ハイリターンな選択である。

「ここで無理をひとつしておけば、後で楽ができる。敵に洛陽への道が全て危険な状態と思わせることができる。先行部隊は雷薄が務める」

 陳宮はそれ以上、何も言うことができなかった。

 確かに兵士の人数、士気、体力に余裕のあるうちに無理をしておけば、後々、楽ができるというのは頷けるし、最も危険な先行隊を袁遺の子飼の部下が務めるのである。そこに文句は言えない。

 それに袁遺が兵に無理をさせ続けるとは陳宮は思っていなかった。

 洛陽から虎牢関への道程で見せた兵を落伍させない手当は、兵を大切にすることが後々に勝利のためになることを理解している証左であった。

 袁遺は先行隊を務める雷薄隊の元へ行った。

 雷薄を始め皆が整列して袁遺を出迎えた。

「雷薄、俺はよくよく運が良いな」

 袁遺は不敵な笑みを浮かべながら言った。

「へぇ~、何故です?」

 雷薄も応じるように山賊の親玉がする様な笑みを浮かべた。

「お前たち雷薄隊は俺の麾下の中で最も命知らずで勇者の集まりだろう。それがこの状況で手元にあるんだ。これを僥倖と言わず、何と言う」

 袁遺の言葉を聞いたとき、雷薄は、そう来たか、と一瞬苦い表情を浮かべてしまった。そして、隊が皆、袁遺と向かい合っている形だから部下にその表情を見られなくて助かった、と思った。

 袁遺と雷薄も長い付き合いである。

 だから、この手の装飾された勇気という偽善と悪徳以外の何物でもないものを使うことを袁遺が恥じていることを理解していた。そして同時に、今、その恥ずべきことを行わなければ、戦果をあげられない故に躊躇なく使ったことも理解した。

 雷薄はそのことに不快感などなかった。

 今、有利を確保しない方が後々に苦労とそれによって訪れる兵の損失があることを簡単に予想できたからだ。それを抑えるためにあらゆる手を使う。戦場で見て来たいつもの袁遺だった。

「なあ、そうだろう?」

 袁遺は雷薄のすぐ後ろにいた兵に話しかけた。

 その顔は普段の無表情からは想像できないほど柔らかな笑みを浮かべていた。

 きっと、詐欺師はこういった顔を浮かべて人に近づくのだろう。

 兵は高揚しながら、叫ぶように答えた。

「は、はい、その通りです!」

 この時代、というより農民が心身共に余裕のない時代、子供の時分から他人はもちろん親にさえ褒められたことがない者が殆んどである。そんな者が畏敬している隊長がさらに尊敬し付き従っている総大将というどれくらい偉いかさえも分からない人間に褒められたのだ。それは初めて体験する甘美な物だった。そして、それをもう一度味わいたくなる。承認欲求を満たすためにときとして人間は、呆れ驚く程の無茶を行うことがある。

「ははは、すごい。頼りにしているぞ」

 袁遺は呆れるほど純粋な兵から好意を絞り出す。自分でなければ殺している傲慢さだ。袁遺は自身を呪った。

 兵たちに表情が見えないようにして、雷薄に話しかけた。

「私の部隊の楽隊を貸す。それで何とかしろ」

 その顔はいつもの無表情であった。

「はい、助かります。でかい音は恐怖と疲れを吹き飛ばし、勇気を生みますから」

 雷薄が言う。

 それが彼がいつも戦場で、でかい声を出して指揮する理由であった。

 雷薄隊を先頭に部隊は出発した。

 彼らがやるのは鬼ごっこである。劉備・公孫賛隊を捕まえれば勝ち。逃げられたら負けのシンプルなルールである。ただ、この鬼ごっこには両部隊の命運がかかっていた。

 

 

 時間を少し巻き戻し、劉備・公孫賛の元に警戒部隊から伝令が届いたところから始める。

 それを受け取った劉備・公孫賛の首脳陣で、いち早く反応を示したのが諸葛亮であった。

「敵の偵察部隊は伝令を送っただけで、陣を組んでその場に留まったんですか!?」

「は、はい……」

 諸葛亮があまりにも大きな声を出したので、尋ねられた伝令は戸惑った様子であった。

 いや、伝令だけではない。この場にいた皆がそうであった。

「どうしたの、朱里ちゃん?」

 劉備が尋ねた。

「はわわ……大変まずい状況です」

「まずいとはどういことだ?」

 続いて関羽が尋ねた。

「敵は偵察部隊にも関わらず、陣を敷いて留まりました。これは、こちらがどれだけ敵の情報を持っているかと、こちらの戦力がどれくらいかを完全に読み切ったうえでの選択です」

 そして、諸葛亮は、袁遺が陳宮に話した内容と同じことを説明した。

 運動力のみを有した部隊が出て来たことから威力偵察部隊を出せないほど情報を掴めていないことを察知し、危険な任務を押し付けられるのは立場が弱い、つまり弱い軍しか持っていないと推測がなされる。

「これは私の失策です。敵が虎牢関に籠るとばかり考えていたから、偵察任務等の小さなことから引き受けて様子を見るよう桃香様に進言したせいで……」

 諸葛亮は頭を下げる。

「仕方がないよ、朱里ちゃん。虎牢関に籠ることは誰も疑っていなかったんだし、それより今はこれからのことを考えよう?」

「そうだぞ、朱里。これからどうするんだ? まさか、逃げるのか?」

 そんな諸葛亮を劉備と関羽が慰めた。

 諸葛亮は頭を上げると引き締めた顔をして言った。

「は、はい。三〇〇の偵察部隊に見つかったから帰るというのは、さすがに許されません」

「じゃあ、迎え撃つのか?」

 張飛が尋ねた。

「……」

 諸葛亮は逡巡する。

 確かに迎え撃てば、こちらが優位だ。

 敵の規模がわからないが、伏兵を上手く使えば、余程の兵力差でない限り勝てる可能性はある。

 だが、敵の偵察部隊がいる。それが厄介だった。

 敵の偵察部隊の指揮官は胆が据わった人物のようで見つかっても、未だに離脱していない。そのせいで伏兵が置きづらい状況であった。

 その偵察部隊を蹴散らそうとすると自軍は敵が向かって来ている場所に行かなければならない。敵の規模が分からない状況でそれはできない。

 そんな中で彼女が出した結論は天然の要害となりうる場所で戦うことであった。

「陽武方面に移動しましょう」

「陽武方面に?」

「はい」

 諸葛亮は意図を説明する。

 それをまとめるなら、

 まずは敵の偵察部隊の補足から逃れ、本隊の行動の自由を取り戻す。

 陽武方面は、陰溝水、官渡水、濮水が交差する天然の要害であり、そこなら兵数が少なくとも十分戦うことができる。

 そして、何より陽武方面の方が兗州への逃げ道が豊富である。

 以上であった。

 劉備・公孫賛隊は諸葛亮の指示に従って行動し始めた。

 偵察部隊には、そのまま敵と距離を取りつつも警戒を怠らず、何かあればすぐに本隊に合流するように指示を出した。

 この時点で諸葛亮は、まさか袁遺が追って来るとは考えていなかった。

 しかし、それは仕方がないことだった。

 陳宮が言ったように来た道を引き返す方が常識である。

 それに諸葛亮は袁遺の持つ兵の規模を把握できていなかったから、まさか連合の五分の一しか兵がおらず、リスクの高い選択をして優位を保たなければならないとは考えられなかった。

 そして、司馬懿の別働隊もそこに理由があった。

 上に書いたように陽武方面には川が多い。陰溝水、官渡水、濮水に囲まれている。

 川は確かに強力な防御線と成り得るが、それは諸刃の刃である。全ての渡河点を抑えようとすると膨大な兵が必要となるからだ。

 川沿いの全域に兵をばら撒き、どこかで優位を奪われて渡河され、兵力が再集結する前に各個撃破される。そんな最悪な結末が訪れるかもしれない。

 だから、万が一に備えて、最も信頼する部下に指揮権を持たせて向かわせたのだった。河川防御の難しさを理解している司馬懿なら最適な防衛方法を選択するだろう。

「それにしても敵は偵察部隊の指揮官でも、こちらの状況を正確に読める者が揃っているのですな」

 行軍の最中に趙雲が言った。

「そうだな。これで難攻不落の虎牢関に籠られていたら、大変なことになっていたかもしれんな」

 関羽が応じた。

「逆ではないでしょうか」

 諸葛亮が口を挟む。

「そんな指揮官がいるからこそ、野に出て戦っているんだと思います」

「どういうことだ?」

「柔軟性と高い行動力を持つ部隊を十全に運用できるような指揮官がいるから、関に籠らず、その能力を活かせる場所で戦っているんじゃないでしょうか」

 諸葛亮の答えは袁遺の行っていることを正確に言い当てていた。

 少なくとも、華雄が袁遺に問われ、答えに詰まっていたことの完璧な回答を用意していた。

 運動戦において重要な要素は、部隊の柔軟性と行動能力であった。

 その点で言えば、劉備・公孫賛隊が不利な状況に追い込まれているのは諸葛亮の能力の問題ではなく、情報を集める時間を浪費して、今更それをしている連合の対応の問題であった。

「そう言えば、朱里。陽武のなんという場所に行くのだ?」

 関羽が尋ねた。方角と距離は聞いているが、その地の名前を聞いていなかったのである。

「官渡です」

 諸葛亮は答えた。

 それは史実において曹操と袁紹が雌雄を決した場所である。

 しかし、その場所に人馬の屍が積み重ねられることは、この劉備・公孫賛と袁遺の戦いでは起きなかった。

 彼らが曹操と袁紹でないからでも、今が反董卓連合だからでもない。

 ただ、そこに劉備・公孫賛隊を入れると不利になる部隊が存在し、そのことに気付くだけの能力を持った指揮官がいたからだ。

 

 

 司馬懿も別働隊の移動の最中に敵の規模とどのくらいの情報を得ているのかと自分たち別働隊の任務について張遼に説明した。

「それは分かったけども、じゃあ、どうするんや? 川全部を見張れるわけやないで?」

「河川の防御で重要なのは主導権です。どこからどこへ渡るか、それを相手に選ばせないことです。逆の立場の話ですが、淮陰侯が魏豹を討ったとき、彼は大量の船を囮として並べ、上流で桶を筏として河を渡りました。そして、主力のいない敵国の首都を攻撃したのです。これは主導権が淮陰侯にあったから彼が勝ったのです」

 司馬懿が例に韓信の逸話を出した。

「今、現在、主導権はこちらにあります。敵はこちらの兵数すら分かっていない状況です。私たち別働隊が戦闘になる場合、敵は三〇〇にも満たない偵察部隊との戦闘をも回避するほど消極的な行動を見せたときです。防御的な戦闘を行うなら、地形を利用するのが上策。陽武方面で少数で戦える場所は、陽武と中牟の間の官渡になります。つまり、我々はそこに敵をいれないように動きます」

 司馬懿の言葉に張遼は逡巡した後、口を開いた。

「敵の目的地とそこに移動する理由は分かった。納得もできる。でも問題は、敵の数やないか? はっきり聞くで、こっちより、どれだけ多い?」

 張遼、陳蘭、司馬懿の部隊の合計は九〇〇〇であった。

「こちらの倍だと予想しています」

 司馬懿は答えた。その声には悲壮感など全くなかった。

「また、あれをやるんか?」

 張遼が言っている、あれとは孫策の軍を叩いた騎馬の長距離奇襲と伏兵を用いての挟撃戦法である。

「いえ、やりません。兗州への退路が多すぎて、敵の退路を正確に読めません」

「じゃあ、どうするんや? 二倍の敵と当たるんはきついで」

「我々は耐えればいいのです」

「耐える? 耐えてどうなるんや?」

 司馬懿は一拍置いてから張遼の質問に答えた。

「袁将軍が敵を後ろから追いかけているはずです」

 司馬懿の言葉に張遼は声を上げた。

「はぁ!? 追いかけるって……普通は来た道を戻って、敵を待ち伏せるのが常識やろ?」

「はい、その通りですが、連合は失策を重ね続けています。時間を浪費し、出て来た偵察部隊は情報が全くない故に過剰に慎重な防御態勢を取ろうとしている。運動戦ではそのことを徹底的に利用するものです。袁将軍は危険を冒してでも、敵の失策に付け込みます」

 張遼は少しの間、考え込むと、天を仰いで叫ぶように言う。

「あ~~危険を冒して敵を追撃する主人と二倍の敵に当たれちゅう部下。あんたら、どっかイカレとるで……けど今は信じたる。二倍の敵だろうが三倍の敵だろうが戦ったるわい!」

「お願いします」

 司馬懿は恭しく頭を下げた。

 袁遺たちの部隊がやるのが鬼ごっこなら、司馬懿たちがやるのは駆けっこである。

 距離とスタート地点は違うが、相手より早く目的地に着かなければいけないのは同じだった。

 この駆けっこ、勝ったのはギリギリで司馬懿たちであった。

 その勝因は地の利と訓練の方針であった。

 地の利は特に説明する必要はない。

 かつて、袁遺は長安でふたりの軍師に兵の脚力、伝達速度、集団襲撃、各階級指揮官の自立性の四つを将兵に求めると言った。

 ここで言う兵の脚力とは兵個人の能力だけを指すのではなく、兵全体の脚力を指す。移動能力と言い換えていいかもしれない。

 例えば、歩き方である。

 ぬかるんだ道を歩くとき、無遠慮に歩けば、弱い表面はあっと言う間に崩れ、後を歩く者は泥の海を進まなければならなくなる。すると隊は遅れる。

 それを防ぐために、ぬかるんだ場所では、つま先から足をつけるように歩いていく。それを体に叩き込むのである。

 これは兵個人としての能力寄りの話であったが、兵全体の話で言えば部隊の方向転換である。

 袁遺という男は陣形を重視していない。

 彼は陣形なんてものは歩兵なら横隊と縦列、それに方円の三つ。騎兵は横隊と縦列、それに逆V字の様な隊列を組めれば十分だと考えていた。

 代わりに運動性を重視していた。

 例えば戦略図で部隊は矢印や凸の様なマークで記されることがある。これは部隊の前方、つまり進行方向を意味するのであった。

 人が隊列を組んでいるわけだから、方向転換には時間がかかる。

 袁遺は横隊、縦隊での方向転換の訓練を徹底的に行っている。

 彼は強い兵より早い兵を求めているのだった。

 そして、その早い兵であるが故に別働隊は劉備・公孫賛隊の意図を挫くことができたのだった。

 司馬懿が劉備・公孫賛隊を補足したのは彼女たちが陽武を過ぎた辺りであった。

 劉備・公孫賛部隊は一万四〇〇〇(劉備五〇〇〇.公孫賛九〇〇〇)。別働隊は九〇〇〇(張遼五〇〇〇.陳蘭・司馬懿四〇〇〇)で戦力比はほぼ1.5倍である。

 この戦いは劉備・公孫賛と張遼・陳蘭・司馬懿の戦いと言うより、張遼と公孫賛、劉備と陳蘭・司馬懿の戦いであった。

 まず、張遼隊が騎馬隊の長所を活かして敵の後方に回り込む機動をした。それに公孫賛が対応する。

 劉備配下の関羽、張飛、趙雲の部隊が陳蘭・司馬懿の部隊に襲い掛かった。

 英傑三人を相手に陳蘭・司馬懿は粘り強い戦いをした。

 戦闘正面を限定するように務めて、防衛的戦闘を行う。

 前線が苦しくなれば、仲達は自分の隊の騎馬兵一〇〇を最もきつい部分の敵の後方に投入した。

 運動防御である。

 実際攻撃させることもあれば、襲うように見せかけるだけのときもある。後方を脅かす(もしくはそう見せる)ことで、一時的に前線の圧力を減らし、崩れかけた隊列を立て直せるだけの余裕を稼ぐ。

 運動防御は弱者がとりうる中で最も有効な戦法であった。だが、同時に限界もある。運動防御は何も解決しない。敵を喰い止めるだけで、劣勢を覆すには至らない。例えるなら、おぼれている人間に対して十秒分の空気を与えるだけで、水から引き揚げることはしないのである。

 張遼隊と公孫賛隊の戦いは、この劉備隊と陳蘭・司馬懿隊の戦いとちょうど正反対であった。

 兵数で劣る張遼隊が公孫賛隊に対して、有利な状況を築いていた。

 兵は将に対して神秘的ともいえる憧憬を抱いてこそ強くなる。張遼の武勇は兵にそれを抱かすに十分であった。その点で言えば、関羽、張飛、趙雲にもそれは当てはまる。つまり、この戦いはお互いの片方の部隊が人知を超えたところにある武勇に対して、堅牢な思考、確かな判断、迅速な行動で対抗している戦いであった。

 張遼を先頭に彼女の兵たちは公孫賛隊を削り取る様に攻撃していく。

 だが、幽州で騎馬民族との戦いに明け暮れる公孫賛も、ただやられているだけではなかった。

 劉備隊が有利と見るや否やその動きを張遼隊を倒すというより、歩兵の援護に向かえないようにするものへと変えた。

 こうなってくると張遼はつらい。無理に突破すると彼女の部隊の隊列が崩れるかもしれない。すると突破したところで有効的な攻撃ができない。

 張遼は歩兵の戦闘を見た。

 そこには美しい黒髪を靡かせ、凶器ゆえに宿る冷たい色気を発露させた青竜偃月刀を操る女性の姿があった。

「あれが関羽か……?」

 張遼は思わず呟いた。

 清龍偃月刀の使い手であり、その強さと美しさの噂は聞いたことがあった。そして、噂通りの……いや、噂以上の腕前であった。

 張遼は武者震いした。

 だが、それは関羽に対してではなかった。

 一度、手合わせしたいと思っていたが、どうやら、それは果たせそうにないらしい。

 何故なら、彼女には劉備隊の後方に砂塵が立つのが見えたからだ。

「ホンマに追いかけて来よったんか……」

 彼女の武者震いは本当に危険を冒して敵を追いかけて来た男に対してだった。

 

 

 行軍中の部隊に軍鼓の音が木霊する。

 それに続いて、その軍鼓の音に勝るとも劣らない大音声が響き渡った。

「オラァァァ! なんだその音は!? 俺の声に負けてんぞ! もっと気合い入れて、デカい音を出しやがれ!」

 雷薄であった。

「苦しいか!? 辛いか!? なら、それを終わらせる方法を教えてやる! 敵に追いつけ! そしたら、もう歩かなくていいぞ!」

 雷薄は兵を叱咤し、歩かせる。ただひたすら先に進ませる。右足を前に出させたら、左足を前に出させる。

 軍鼓の音が大きくなった。

「よーし、いいぞ。その音だ!」

 雷薄の蛮性の陽気は今や袁遺の本隊の最前列を行く自分の部隊全員に伝染する。それは部隊全員に危険な道を進んでいることを忘れさせていた。危険な道でも何でもいい。ただ、敵に追いついてこの苦しみから抜け出したい。追いつけ! 追いつけ! 追いつけ! そんな気迫が部隊全員から感じられた。

 歩くというより、右と左の足を交互に出していた兵たちの内のひとりが歓声を上げた。

 眼前に劉と記された旗を、そしてその向こうの陳という旗を見たのだった。

 歓声は雄叫びとなり、隊全てに広がった。

「おっしゃああああ!! 伝令、敵補足、別働隊と戦闘中、と伝えて来い!」

 雷薄の命令に騎兵が五騎が走った。

 伝令はすぐに各隊に伝えられる。

 袁遺が呂布隊、華雄隊、張郃隊に攻撃命令を下した。

 後ろから大将の劉備が襲われる形になった劉備軍は一気に崩壊した。

 関羽、張飛が大将で義姉の劉備を守るために前線から駆けつけようとするが、混乱する部隊でそれを行うのは難しかった。

 劉旗が揺れる。

 袁遺の隣でそれを見た雛里は心が揺れた。

 あの乱れる劉旗の下には所属する陣営が違ってしまった親友がいるはずであった。

 そう思うと訳の分からない感情が込み上げてきた。喉が渇く。手の先が震えてきた。

 それでも目は戦場を離さない。たとえ、そこにさらに胸を痛める光景しかなくとも。

 劉備隊の歩兵に変化があった。

 動きが鈍い。士気が落ちてきている証拠だ。特徴的な乱れ方をしてる陣形もあった。あれは兵が逃げようとしたとき、起こる乱れ方だ。

 その光景を見て、さらに痛みが走った。そして、雛里は思わず傍らにいる袁遺に叫んだ。

「雷薄さんの部隊を動かしてください!」

 なんで? 自分の耳朶を震わせた言葉に、雛里はそう思った。

「戦闘に参加する必要はありません」

 戦場という音が溢れている場所のため普段より大きな声で話す自分。

「敵の右側面に向かって思いっ切り走らせれば、敵は……少なくとも右翼の兵は横っ腹を突かれると思い心理的衝撃を受けます」

 その自分は今、親友がさらに危機的状況に陥る献策を主に行っている。

 思いと行動、言葉が正反対だ。

 かつて、張郃は雛里を見て、自分たち実戦指揮官のように何かが変わるのか、それとも司馬懿のように何も変わらないのか。そんなことを考えたことがあったが、これが雛里の変化であった。

 彼女は優し過ぎる面を持ち、非情になりきれぬことがあった。

 だが、彼女は軍師だった。それも袁遺という男の下でその全ての才知を揮っている軍師である。だから、軍師の仕事をするのだった。彼女は望んで軍師になったのだから。

 袁遺は伝令を出した。

 雷薄にもうひと仕事してくれ、と言って、敵右側面を突くような機動をするよう命じた。実際、攻撃しなくともよい。勢いよく目立ちながら兵を駆けさせれば、右翼を崩せる。そう伝えた。

 行軍中、危険な道の先頭を征っていた雷薄隊を予備兵力扱いしていたが、それを投入するのが最適な場面が出てきてしまった。若干、心苦しかったが、仕方がなかった。

 雷薄隊は、すぐに命令を実行に移した。

 と同時に、伝令がひとり、袁遺の元に雷薄隊からやって来た。

 伝令は緊張しきって袁遺に雷薄の言葉を伝えた。

「してくれ、とは情けない。何故、しろ、と言いません」

 雷薄の口調をそのまま述べたのであろう。伝令はそれだけ言うと真っ青な顔をした。袁遺からの処罰を恐れている。

 だが、袁遺は雷薄の言葉に彼らしさを感じて嬉しくなった。そして、

「ご苦労」

 と伝令を労い、彼を休ませた。原隊復帰させようにも彼が部隊に戻るまでに全てが終わってしまうからだった。

 雷薄隊三〇〇の投入の効果は驚くほど大きな効果をもたらした。

 横っ腹を突かれると誤解した右翼の兵の大半がわっとばかりに逃げ出した。前後から挟撃されている状況で、さらに右側面を突かれるかもしれないという思いは、敵の心理に大打撃を与え、士気を喪失させたのだった。

 右翼が潰走したことは、劉備隊の全ての部隊に伝染した。そして、劉備隊の潰走は公孫賛隊に伝播する。友崩である。

 勝敗は決した。

 戦後処理の最中、雛里は諸葛亮が討ち取られなかったことを知ったが、特に心が動かなかった。

 彼女にはやるべきことが多すぎた。

 運動戦では各指揮官が柔軟性を維持するために、ある程度の自由度が与えられている。そんな彼らが指揮系統から逸脱しないようにするのは参謀の仕事であり、つまり、彼女の仕事だった。

 袁遺と雛里は、仲達から報告を受けていた。

 それは行軍道程、戦闘推移、人的被害まで及んだ。

「陳蘭隊の被害が大きいです。約六〇〇名の死傷者を出しました。一回の戦闘では異常と言える数字です」

 陳蘭隊は二〇〇〇。原則的に一回の戦闘ででる死傷者の数は、部隊の一割にも満たないのが通常である。少ないと思うかもしれないが、被害が多く出るのは潰走の段階である。

 陳蘭隊の部隊の異常な大きさは関羽、張飛、趙雲の英傑三人を相手にした代償であった。

「わかった。代替兵員を回す。雛里、すぐに書類をまとめろ」

「はい」

 袁遺の命令に雛里が返事をした。

 代替兵員は、呂布隊と張遼隊以外の元何進の兵と急遽徴兵した一万の兵から出されることになる。

 袁遺は虎牢関までの行軍で彼らを甲乙丙の三種類に分けた。体力、年齢、経験などで分けられ、甲が最も質が良く、丙が最も良くない。

 甲種は、そのまま各実戦部隊に振り分けられ、乙種は代替兵員に、丙種は後方勤務となっている。

「追撃、終わったでー」

 そんな中、追撃戦を行っていた張遼と華雄が報告にやって来た。

「ご苦労様です、張将軍、華将軍」

 袁遺は彼女たちを労った。

「ちょうど良かった。各部隊の指揮官に伝達があったので、ふたりも聞いてください」

 袁遺は雛里に、今から言うことを各指揮官に伝達するから書面に残せ、と命じてから言った。

「兵の略奪は、懐に収まる範囲で敵兵の死体からは許可する。公孫賛軍の馬は略奪しても良いが、所持は許さない。この後、巻の町に着いたら、軍司令部が相場の倍の値段で買い取る。以上」

 雛里はそれを書き記すと兵を呼び寄せ、各指揮官に伝達させた。

「ふたりも分かりましたか?」

 張遼と華雄は頷いた。

「あれ? 陳蘭はどうしたん?」

 張遼は、辺りに陳の旗がないことに気付き尋ねた。

 まさか、さっきの戦闘で……一瞬そう思ったが、袁遺は否定した。

「陳蘭は動けなくなったり、隠れている敵兵を捕まえに行きました」

 動けなくなったり、には怪我以外にも自己保存を完全に諦めてしまい自棄になって、座り込んだ敵兵も含まれる。

「それ、どうするんや? まさか殺すんか?」

 張遼があからさまに嫌な表情を浮かべて尋ねた。

「いえ、情報を聞き出した後、後方へ移送し、捕虜にします」

 袁遺の答えに張遼は、そうか、と呟くと安堵の表情を浮かべた。

「司馬懿、君の部隊は、まだ動けるな。偵察に出てもらう」

「はい」

 仲達は自分の部隊に戻っていく。

「私は負傷兵を見舞ってくる。おふたりは自分の部隊をまとめてください。陽武の町へ向かいます。雛里、行軍の順番は、この書簡に書かれた通りにするから、これも各部隊に伝令」

 袁遺は書簡を渡すと治療を受けている負傷兵の元へ行った。奮戦し負傷した兵を称えるのは、士気を維持するうえで常套手段だった。

 そんな男の背中を見送りながら、華雄は張遼に話しかけた。

「なあ……」

「なんや?」

「その……」

 華雄は言い淀んでから続けた。

「中原の指揮官は皆、ああで。中原の戦は皆、こうなのか?」

 華雄の問いかけに張遼は苦り切った顔で答えた。

「いや、絶対あいつらだけや」

 

 

 この後も、敵も味方も、ああいう指揮官に振り回されることとなる。

 




補足
 今回は特にないです。
 相変わらず、地理状況が分からない文章なので地図を作りました。そして、これも前回と同じでペイントでてきとうに描いたので距離や位置などは正確ではありません。特に川は滅茶苦茶てきとうです。あくまでイメージの参考にして、これが全面的に正しいなんて思わないでください。
2019/12/16 地図の一部を修正しました。
2021/10/28 丁の章でも使うため、地図を再び修正。


【挿絵表示】



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11~13

11 伊水を眼下に

 

 

 別働隊として洛陽の南に派遣された高覧と彼が率いる三〇〇〇の部隊は南の三関の中で最も西に位置する伊闕関から東に八里(四キロ)ほど離れた山道にいた。

 伊闕は洛水の支流である伊水と周辺の山に囲まれて狭くなっている土地であり、後漢より前の時代では秦の名将、白起がここで韓と魏の連合軍を破り、二四万の兵士の首を落とすという壮絶なデビュー戦を飾った場所であり、後の時代には、さらに東に進んだ場所で世界遺産である竜門石窟が彫られることになる。

 そんな場所に堅いものが連続して折れる音が響いた。

 全長二十メートルはある針葉樹を切り倒したときに折れた枝の音であった。

 高覧は素早く部隊の兵を確認する。

 誰も怪我をしていない。

「よし、牽引開始」

 高覧の号令に兵たちが動き出した。

 縄をかけ、下士官の役割をしている兵の掛け声に合わせて引っ張る。その際、左右の力が均等になるよう兵たちは注意する。

 その木を兵たちは道に置き、塞ぐ。

 高覧隊の当面の任務は、この作業であった。

 敵が来たとき、道を木で塞ぐことによって、馬や荷車などの進むことを難しくし、その足を遅くすることで時間を稼ぐ。

 伊闕での作業が終わったら、次は大谷関でも同じような作業をする。

 兵たちは長安で袁遺たちによって徹底的に鍛え上げられたため、敵と遭遇しない任務でも弛緩したりしていなかった。

 それでも兵を無駄に疲れさせることを嫌う袁遺の下で将をやっている高覧である。彼は古参の下士官たちに兵が無理をしていないか目を光らさせていた。

 特に若い兵士は経験が少なく、若さゆえに無茶が効き、無理をすることがある。

 戦ってもいない兵に怪我をさせることは袁遺の武将としては失態である。

 袁遺に仕えるということは、戦場において、その一挙手一投足、全てが試されていると言って過言ではなかった。そして、自身の裁量において判断する別働隊の任は、その最たるものである。

 高覧隊のいる山道から伊水の流れが見える。

 その水面は穏やかであった。

 高覧はそれを見て、風がない。今の内に本数を稼いでおきたい、と考えた。風がないと木が倒れるとき、思わぬ方向に倒れるというアクシデントが起きにくくなる。

 再び木が倒れる音がする。

 高覧は再び怪我をした兵がいないか確かめた。

 数を稼いでおきたいが急かせたりはしない。鷹揚に構えて落ち着いていることを部下に見せつける。

 高覧隊は確かに、今のところ戦闘には突入していないが、もし戦闘が始まるとなれば、撤退は絶対に許されず、捨て石とならなければいけない。高覧には敵と実際に干戈を交えている 同僚たちと同じ様な死を覚悟した思いがあった。

 ただ、その思いを今は兵たちに悟らせる必要はなかった。

「牽引開始!」

 今はただ、するべきことをしっかりこなすだけだった。

 

 

12 張邈

 

 

 反董卓連合において、敵の総大将が袁遺であるという事実は諸侯たちに大きな衝撃を与えた。

 連合を呼びかけた袁紹の従兄が敵として現れ、連合の正統性を否定したのだ。諸侯たちからすれば、面倒なことをやってくれた、そういう思いであった。袁遺が余計なことをしたせいで、ただ連合に参加していれば保たれた天下への体裁が吹き飛んでしまったのである。

 だが、諸侯の中でひとり、そんなことに関係なく、ただ袁遺が敵に回ったことに恐怖と悲憤を示す者がいた。

「あ~~、どうして連合に参加してないのよッ!」

 連合の駐屯地の酸棗、その天幕のひとつで遠く虎牢関にいる袁遺に対して恨み言を投げつける女性がひとりいた。余談になるが、この時点で袁遺が野戦を行っていることを知っているのは、曹操、孫策、劉備、公孫賛だけであり、他は虎牢関にいると誤認していた。

 栗色の髪は、前髪は額に垂らして切り揃えられており、後髪は襟足辺りで真っ直ぐ切り揃えられている。所謂、ボブカットだ。目鼻はくっきりとしていて優し気な顔立ちだが、子供っぽくも見える。

 彼女は張邈、字は孟卓。

 反董卓連合に参加する諸侯のひとりで広陵の太守である。そして、袁遺、曹操、袁紹とは旧知の仲であった。

 張邈が袁遺に対して怒りを抱いているわけではなかった。

「あ~~も~~!」

「姉さん、いいかげんにして」

 駄々をこねている様な張邈を叱り付ける声が天幕に響いた。

「だって、景雲(じんゆん)

 景雲(じんゆん)と言われたのは、張邈の妹である張超であった。景雲は彼女の真名である。

 袁遺の推挙人で草書の達人の張超ではない。同姓同名の別人である。

 彼女の容姿から受ける印象は姉と正反対だった。

 姉と同じ色の長い髪を後ろでまとめ、卵形の顔立ちをしている。目鼻がくっきりしているのは姉と同じでその面影が残っているが、受ける印象は姉とは逆で大人びて見える。ただし、常に実年齢より年上に見られる容姿は彼女にとって、ちょっとしたコンプレックスだった。

「だってじゃない」

「でも、相手は袁遺なのよ。袁伯業なのよ。あの恐い男が負けるとこなんて想像できないじゃない」

 彼女が袁遺に抱いているのは恐怖であった。

 ただ、ふたりの関係は決して悪いものではなかった。

 張邈自身は明るく人好きのする性格であり、袁遺自身も屈折し過ぎた部分を持つが協調性が欠落した人間ではない。

 ただ、張邈にはふたりの絶対に敵わないと思うと同時に、絶対に敵に回したくないと思う人物がいた。そのひとりが袁遺だったのだ。

「じゃあ、どうする。何か理由をつけて広陵に帰る? それとも、遠巻きにするだけで戦わない?」

「どっちも無理よ」

 妹の提案を張邈は一蹴した。

「だって、華琳がいるんですもの」

 そう、彼女の恐れているふたりの人物は袁遺と曹操だった。

 敵に回したくない人物が敵対するふたつの陣営に分かれてしまったのだ。

「伯業が負けるとは思わないし、華琳も負けるとは思わないし……あ~~も~~敵対しないでよ! お互いを認め合ってるでしょう! 伯業、あなた、華琳のこと常に立ててたでしょう! 華琳も器大きいんでしょう! 伯業と上手くやってよ!」

「待って、姉さん」

 嘆いている姉に景雲は声を掛けた。そして、立てた人差し指を結んだ口元に当てる。静かにしろということだった。

「張太守。陳留太守が面会を求めています」

 天幕の外から部下が声を掛けてきた。

「姉さん、陳留太守て曹操よね」

 声の方に向けていいた視線と意識を姉の方へ向けた。

 その姉は青い顔をして、震えていた。

「姉さん?」

说曹操、曹操就到( 曹操のことを話すと、曹操がやってくる)!?」

 張邈は青い顔のまま叫んだ。

 

 

「それで、どのような御用ですか、曹太守」

 先ほどまで、あ~~も~~と叫んだり、青い顔で震えていた女性と同一人物と思えないほどキリッとした顔つきで張邈が言った。

 確かに、張邈と曹操は知己であるが、同じ連合に参加する諸侯同士、守るべき礼儀と見せつけるべき威厳があった。

「ああ、そういえば張角を討ったことにより典軍校尉になられたとか。それについて何のお祝いの言葉もありませんでしたから、そのことでしょうか?」

 だが、張邈はすぐにお道化て見せた。

 知己であるが故に最初にそれらを最低限だけ見せておけば十分であった。

「先帝の崩御によってなくなった官職に今更、祝いの言葉を述べるの?」

 曹操もそれを十分理解しているため、砕けた態度で応じた。

「頼みがあってきたのよ」

「頼み?」

 曹操は、ええ、と頷いてから言った。

「あなたは袁術が独断で兵を動かして虎牢関へ攻め入ったことは知っているかしら?」

「あ~~、客将を動かしていたみたいだけど、関に攻め入ったの?」

「いいえ、虎牢関に辿り着く前に董卓軍に強襲されて撤退して来たわ」

「董卓軍? 袁遺は?」

 もしかして、袁遺は戦場に出て来てないの? 微かな希望が出て来たが、曹操の次の言葉がそれを粉砕した。

「さあ、知らないわ。ただ、袁遺の配下の武将もいたみたいよ」

 配下がいるなら、袁遺は絶対に来てるわ。内心、泣きたい気分であったが、張邈はそれを決して表には出さなかった。

「それで袁術とその客将の孫策を庇うのを手伝ってほしいのよ」

「庇う?」

 曹操の言葉から張邈は考えを巡らせる。

 張邈も袁紹の性格を知っている。彼女の性格から考えて、袁術が独断で兵を動かして失敗したことを責めるだろう。規律を保つために、それは必要なことだから張邈としても異存はないのだが、袁術はこの連合で二番目に兵士を抱えている。その上、あの性格である。袁遺が袁紹や袁術の軍と干戈を交わす前に袁紹と袁術がやり合いそうであった。

 つまり、曹操は後代の言葉でいうところのソフトランディングを図ろうとしているのだった。

「分かったわ」

 張邈は快諾した。

「ええ、お願いね」

 曹操がそう答えて会談が終わりそうになったとき、張邈は態度を変えた。

 先程まであった威厳が消え失せたのだった。

 そして、その雰囲気のまま口を開いた。

「それで、ひとつ聞いていい、華琳」

「何かしら、彩雲(さいゆん)

 真名で呼ばれた曹操は、真名で呼んで返す。

「……伯業に本当に勝てる?」

「私が負けると思う」

 曹操が瞳に不敵な光を宿しながら言う。

「思わないけど……伯業も負けると思わないのよね~」

 苦り切った顔で張邈が天を仰いだ。

「それはあり得ないわ。戦えば勝敗は出るものよ。堯と舜、両方が聖人であることはあり得ないの」

「そこは、どんな矛も防ぐ盾とどんな盾も突き通す矛じゃないんだ……」

 張邈は、相変わらずだな、と乾いた声で笑う。

「もうひとつ、いいかしら?」

「何?」

「劉備、公孫賛の方は? 袁術の失敗を許して、ふたりは許しませんは通らないわよ」

「あのふたりは、まだ帰って来てないわよ」

「だって、伯業が負けると思えないもの」

「私以外には、ね。まあ、あのふたりが命ぜられたのは威力偵察。その任務さえ果たしていれば文句は言われないわ」

 曹操と張邈の会談はそれで終わった。

 それを待っていたかのように張超が現れ、張邈に声を掛けた。

「……簡単に協力する、て言うのね」

「あ、盗み聞きしてた? いくら姉妹だからって、それは駄目だよ」

 咎めるというより茶化す様な調子で張邈は言った。

 だが、そんな姉を無視して妹は続けた。

「この連合は単純な董卓の討伐じゃないんだし、もっと駆け引きとかしたらどう?」

「駆け引きしてどうするの?」

「どうするって……」

 張超は呆れた顔をした。

「漢王朝の権威は失墜しつつある。この連合の結果によっては群雄割拠の世に逆戻りするかもしれないのよ」

「まさか、恐れ多くも一天万乗の座を狙えっていうの!?」

「そうじゃないけど、このままじゃあ将来、どこかに攻め滅ぼされるわよ」

「そうならないために彼女の協力に即答したんだけどね」

 張邈は言った。

 彼女は袁遺と曹操を畏敬している。だが、張邈は臆病者ではない。そして、袁遺と曹操に勝てないという判断は感情を徹底的に排して出された結論だった。

 妹を安心させるために張邈は、その考えを口にする。

「私たちの広陵が落とされるなら、誰が攻めて来る? 陶謙? 袁術? 孔融?」

「それは……」

「まず孔融だけど、正直、あの男に戦に負けるようなら生き残れないわよ。黄巾の乱で部下を置き去りにして逃げ出した男だし、孔子の子孫で詩と弁舌が少し人より得意以外なんの取り柄もない男よ。徐州牧の陶謙にしても下手に太守と事を構えて徐州内の太守全てを敵に回したくないから、戦による侵略はしないわ」

 問題は……そう前置きして続ける。

「袁術なんだけど、正直分からないのよね」

「分からないって?」

「袁術が江東、江南にどれくらいの価値を見てるかなのよ。重く見ているなら徐州へ、そうじゃないなら豫州へ行くはずなのよ。で、豫州が欲しいのは華琳もそう。だから、華琳と袁術は必ずぶつかるわ。なので華琳と手を結ぶために彼女の頼みは素直に聞いておいて損はない」

「ちょっと待って、曹操は、いつか戦う相手を庇おうとしているの?」

「そういうことね」

 姉の返答に心底驚いた様な顔をしている張超に張邈は誰もが見とれる様な笑顔で言った。

「けど、仕方がないんじゃないかしら。ここは酸棗だし、それになにより、今、彼女が最も欲しいのは豫州よりも袁遺からの勝利だから」

 所詮、今、袁遺を倒さなければ豫州も天下も手に入らないのだ。

 

 

 劉備と公孫賛の報告を聞いた諸侯の反応は二通りであった。

 ひとつは敵が虎牢関に籠っておらず、さらに威力偵察部隊の情報が正しければ、敵は三万程度の兵力しか有していないことに喜びを示している者。それと、袁遺という男にある一定以上の評価を下しており、あの男が何の策もなしに三万程度の兵数で野戦を行っているはずないと不気味さを感じる者。この二通りであった。

「たった三万の兵しかいませんの?」

 そして、袁紹は前者であった。

 自分は二〇万を超える連合の盟主であり、さらに六万前後の兵を自前で抱えている。そんな自分に比べたら、袁遺はなんてちっぽけな存在なんだろうか。

 袁紹は気分がよくなった。

「伯珪さん、劉備さん。偵察、ご苦労様でした」

 袁紹はふたりを労う。

 そして、議題は曹操の読み通り、袁術の独断専行の話になった。

「さて、袁術さん。勝手に兵を動かすとはどういうことですの?」

「ぴぃッ!」

 触れてほしくないことを袁紹に突かれ、袁術は妙な声をあげた。

「……あ、あれは孫策の独断なのじゃあ」

 目は泳ぎ、声は震える。袁術はてきとうに誤魔化そうとしていた。

「客将のことは主人の責任でありませんこと」

 ここから、せっかく良くなった袁紹の機嫌は急下降していく。

 袁術は孫策に責任を押し付けようとするが、客将の責任は袁術にあるとして袁紹も譲らない。

 それでもなお誤魔化そうとする袁術と感情的に攻め立てる袁紹。

 袁紹からすれば、従兄の袁遺が自分に逆らい敵に回ったばかりであったから、袁術の独断専行は袁遺のそれに続いたように感じたのだった。そのため、連合の総大将の威厳だとか、規律を維持するためだとか、そんな理性的な理由を越えて、ただ自分の中の怒りを袁術にぶつけていく。

 だが、袁術は開き直りの極致にあり、責任転換と自己弁護が頭を支配していた。袁術の中では、そもそも袁紹が総大将をやっていることが間違いであり、負けてくる孫策が悪い、ということになっている。

 このふたりは、かなりの時間をヒステリックな言葉のドッジボールに使うのだが、その詳細は省く。ただ、この光景を袁遺が見たら、書状には、もっと酷い言葉を使えばよかったかな、と思うレベルであった。

 ふたりは、ひとしきり言いあった後、さすがに疲れたか、黙りお互いに睨み合った。

「まあまあ、おふたりとも」

 それを見計らって張邈が間に入った。

「まだ戦は始まったばかりなんですし、いきなり厳しい処罰はどうかと思います」

 張邈は、そう言ったが、本心ではなかった。軍に限らず、体制を維持するためには罰が必要であることを彼女は否定していなかった。

 だが、今はちょっとした演技が求められていた。こう言えば、袁紹はきっと否を唱えるだろうから。

「張邈さん、そういうわけにはいきませんわ。軍と言うのは規律がなければ成り立たないものですわよ」

 そう言った袁紹の声には明らかな疲労の色があった。

「そうねぇ。じゃあ、武功で罪を雪ぐということでいいんじゃないかしら」

 横から曹操が口を挟む。絶妙なタイミングであった。

 いつもの袁紹なら、勝手に決めるなと喚くところなのだが、袁術との口論で疲弊していて、そんな元気はなかった。

 そして、日和見をしていた諸侯も曹操の提案を推した。兵を損ないたくない彼らは袁術が戦線に出てくれるなら、望むところだった。

 その気持ちは劉備と公孫賛が徹底的に叩かれて帰ってきたことを受けて、連合結成直後より強くなっていた。

 特に本陣が襲われ、大将である劉備の救出を大きな混乱の元でやらねばならず、潰走の最中でも激しい追撃を受けた劉備軍は六〇〇〇いた兵の内その六割が死傷、もしくは行方不明だった。自分の軍がそうなっては堪ったものではない。

 袁術は軍議の雰囲気に呑まれ、先陣を切ることになった。

 曹操からすれば、将来敵になるだろう袁術の力を削ぐことができ、諸侯の兵を温存するための駆け引きに、これ以上の時間を浪費せずにすむ立ち回りであった。

 曹操は袁術が袁遺に勝てるとは全く考えていなかった。結果を言ってしまえば、その通りだったのだが、負けるにしてもあんな酷い負け方をするとは考えていなかった。そして、この選択が後に自分の首を絞めることに曹操は気付いていなかった。

 

 

 軍議が終わり、自陣に戻った張邈を妹が出迎えた。

「姉さん、軍議はどうだったの?」

「袁術が先鋒になったわ」

「袁術が……どうして?」

 張超には袁術が自分から言い出したと思えず、怪訝な顔をした。

 そんな妹に張邈は軍議であった一連のことを話す。

「曹操はそこまで考えていたの?」

 姉の話を聞き、張超は戦慄した様子で言った。その声は若干、震えていた。

「もちろん、考えていたんじゃないかしら」

「……ねぇ、姉さん」

 その答えに神妙な顔で張超は尋ねた。

「広陵を落とされるならって話で、もし、曹操が相手だったら、どうなるの?」

「私を泣かせたいの? 伯業が敵に回って大変なのに、華琳まで敵に回すことを考えさせるの?」

 張邈は、姉さん、困っちゃうわ~、なんてお道化た態度をとる。

「真面目に答えて」

 真剣な妹お態度に張邈はため息をひとつ吐く。

「ふぅ……降伏するわよ。伯業と華琳には絶対敵わない。勝てない戦をするほど莫迦なことはないわ」

 張邈は、どこか達観した様な表情で言った。

「そんな簡単に……」

「じゃあ、どうする? 負ける戦に兵を駆り出す? 華琳が広陵に攻めてくるなら、兗州、豫州、司隷の一部と徐州の大半を手に入れた後だけど、それに対抗できる?」

 無理でしょう? 張邈は態度でそう言いたげだった。

「……降伏したら、曹操は、そのまま広陵太守にしてくれるの?」

「してくれないんじゃない。私なら、文武に優れ、忠誠心の塊の様な部下を太守にするわ」

「ええ……なら、なんで降伏するのよ!?」

「もし華琳が天下を狙うなら、降伏した相手から任地を取り上げたままにはしないわ。そんなことしたら、誰も降伏しなくなるわよ。孫子曰く、百戦百勝は善の善なる者に非ず。あの勉強家の華琳なら知らないわけないでしょう。だから、大人しく降伏すれば、代替地を寄こすわよ。私ならそうね……故郷の東平郡の太守か寿張県の県令あたりじゃないかしら」

「民のことは考えなくていいの? 曹操が悪政を行うかもしれないわよ」

「やらないわよ」

「そうやってすぐに曹操を信用して」

 怒る妹を落ち着かせる様な笑みを浮かべながら、張邈は言う。

「信用とかじゃなくて、広陵の地理的価値をわかってるなら、絶対に悪政なんかしないのよ。広陵を有しているということは、江南の喉元に刃を突き付けていると同義なの。悪政を行って、その刃の切れ味を鈍らすような莫迦をする人に広陵を攻めるまでの領土は拡大できないわよ」

 姉の言葉を聞きながら、張超は改めて姉のすごさを実感していた。

 張邈の状況認識、状況分析力は人並み以上であった。

 そして、同時にこの姉をして、絶対に勝てないと思わせるふたりの人物に遅まきながら恐怖を感じていた。

 その内のひとりの袁遺とは敵対してしまっている。

 もしかして、姉が袁遺を過剰に怖がっているんじゃなくて、私が袁遺を過小評価しているのではないか、そんな気持ちに張超はなっていた。

 

 

13 ここで君とダンスを

 

 

 兵は指揮官の気持ちを敏感に読み取る。

 故に指揮官は兵に気持ちを読み取られるような素振りを見せてはならないのだが、袁術は、そんなことをお構いなしに不貞腐れた態度を取っていた。

「麗羽の奴~むぅ~~」

 袁術は言葉にできないほどの怒りを自身の従姉に感じていた。

「なんで、妾がこんなッ」

 ぶつぶつと呪詛の言葉を呟く。

 そんなやる気のない彼女の心境は兵たちに伝染していた。

 袁術軍の足取りは重かった。兵の足取りが重いと行軍速度が落ちるだけではない。歩調を合わせるという行動も緩慢になる。すると隊列も乱れる。隊列が乱れると戦線が長くなる。それはとてつもなく危険なことだった。

「まずいわね」

 それを見た孫策は思わず呟いた。

 袁術の客将である彼女は自分の部隊と共にこの行軍に加わっていた。

「ええ、倦怠感が全軍に広まってるわ」

 それに彼女の軍師である周瑜が肯定した。

「これでは、先発した威力偵察部隊の方も心配だな」

「一応、袁術ちゃんに忠告したんだけどね。御機嫌斜めで嫌味を言われちゃった。袁遺にボコボコにやられたくせにって」

 ここまで言って、孫策は隣にいる周瑜が微妙な顔をしていることに気が付いた。

 孫策からすれば、その袁術に嫌味を言われた云々は彼女の諧謔味からでた自虐だったのだが、周瑜にとって何よりも、つらい批評であった。

 袁遺か彼の軍師かそれとも董卓側から出たのか分からないが、鮮やかな長距離奇襲と伏兵により孫策軍は大きな損害を出す結果になった。軍師として周瑜は責任を感じていた。

「ごめん、冥琳。そんなつもりじゃなかったの」

 孫策は周瑜に謝った。

「謝られる方がつらいわよ」

 周瑜の拗ねた声には、どこか甘えた響きがあった。

 だが、すぐに気を引き締めた声で言った。

「兵の士気もそうだけど、袁術の袁遺への態度も問題だ」

「袁遺への態度?」

 孫策がオウム返しに尋ねた。

「袁術に限った話じゃないけれど、袁遺を侮っている」

「ええ、なんで?」

 孫策は見事な手並みで叩かれたため、袁遺を全く侮っていなかった。

「雪蓮、今から言う指揮官をどう思う。二〇万の敵に三万で野戦を挑む」

「ああ、そういうこと。確かに、戦を知らないと思うわね」

「そうだ。悪いことに袁術以外の諸侯でも、そう思っている者がいる」

「袁紹と袁術の従兄だしね~」

 茶化すような調子で孫策が言った。

「いや、もっと悪い。聞くところによると袁遺は年下の袁紹、袁術に遜った態度を取っていたのだろう。袁紹、袁術に媚を売っている奸佞の輩と見ている者もいる」

 軍議で子供の喧嘩と何ら変わりないものを見せられたのである。あのふたりは確実に袁一族の評判を落としていた。その袁紹と袁術に媚を売っていたのである。良い印象は抱かない。

「やる気がなくて相手を侮っているって、それ最悪じゃない」

 孫策は先行している威力偵察部隊のことを思った。

 しっかりしなさいよ、あなたたちが仕事をしないと全軍が不帰遭遇戦に巻き込まれるんだから。

 だが、孫策の願いとは裏腹に先発隊の士気は低く、そもそも孫策自身も袁術の将たちには低い評価しか与えていなかったのだから、運動戦の本質どころか、任された威力偵察部隊の本質さえも十分に理解していなかった。

 そうなのだから、先行した部隊は何の仕事も果たせなかった。

 

 

 袁遺が出した偵察部隊はその本分を果たしてきた。

 つまり、見つからずに見つける、である。

 袁遺はすぐに全隊に命じ、伏撃態勢を整えさせた。

 袁術軍の先行隊の編成は、後代の言葉で言うなら、連隊にあたり、歩兵二個大隊と騎兵二個大隊からなる。この時代の言葉で言うなら、曲と四つの屯だ。

 その約三〇〇〇名の威力偵察部隊は、完全な伏撃態勢のもとで迎撃され、一時間も掛からず壊滅した。

 袁遺軍は約三〇〇〇の兵を可能な限り引き付け、矢を射掛け、混乱した部隊の横っ腹を襲った。

 襲われた袁術軍からすれば、何かが始まり、何も分からなくなった、と表現するべきだろう。であるから、本隊に伝令を送ることもできなかった。それを指示すべき威力偵察部隊首脳部も兵同様、混乱していたからだ。

 袁術の本隊にもたらされた情報は何とか逃げ延びた兵が悲鳴交じりに言った、敵にやられた、という言葉だけであった。

 逆に袁遺は捕虜から袁術軍の情報を得ていた。

 士気が低く、戦線が伸びている。それを知った袁遺の行動は早かった。

「呂将軍、張将軍。騎兵を率いて、出陣してください。袁術軍が威力偵察部隊の壊滅を知ったら、伸びきった隊列を縮めるはずです。ですが、士気が低い状況で、それを整然と行うのは難しいことです。混乱が起きるのは必須、それに付け込んでください」

「……わかった」

「おう」

 呂布と張遼がそれぞれ頷く。

「陳宮殿。部隊の撤収の時期は、あなたにお任せします。敵に大きな損害を与えようと思わないでください。騎兵の補充は平時でさえ難しいのです。戦時では言わずもがなでしょう。ですから、こちらの損害は少なく。敵に司隷の道は危険だと思わせる程度の襲撃でいいのです」

「分かりましたぞ」

 袁遺は、劉備・公孫賛の追撃戦で陳宮が一定水準以上の能力と見識を有していることを知り、彼女に難しい判断も任せるようになってきた。

 陳宮も自身が認められているということを感じ、袁遺に少しは気を許すようになっていた。ただし、袁遺という男の性格が歪んでいるという認識は改めていない。そもそも彼の性格が歪んでいるのは事実であるから、改めるも何もないのであるが。しかし、彼女は人格はともかく、能力については袁遺とその配下たちを認めていた。

「我々は、騎兵部隊の撤退地点の確保と撤退の援護を行う。華将軍、張郃が前衛。雷薄、陳蘭が後衛だ。司馬懿と鳳統は私と本陣に」

 袁遺軍は行動を開始した。

 袁遺の予想通り、袁術隊は戦列を縮めようとしていたが、上手くいかず混乱が起きていた。

 そんな袁術軍の前衛に張遼と呂布の隊が襲い掛かる。

 彼女たちの攻撃は前衛に限定するなら、大きな損害を敵に与えた。ただし、袁術軍全体には、それほど被害を与えることは出来なかった。

 何故なら、袁術軍の実質的な司令官の張勲は、前衛に遅滞戦闘を命じると彼らを見捨て、軍全体の陣形を整えられる開けた場所に退がったのだった。

 一見、非情に思える張勲の選択であったが、兵理からすれば、何も間違っていない。

 そもそも前衛の役割とは、そういう役割なのだ。

 前衛に徹底的に苦労を背負い込ませることで、後方の自由度を確保する。前衛とは救われる立場ではなく、自身を盾にして全軍を救う立場にある。これは原則論であった。

 もちろん、前衛を見捨てたことで士気に影響が及ぶかもしれない。

 だが、この局面で前衛を助けるために援護の部隊を割いても、その援護の部隊が危機に陥れば、どうするか? また援護を送るのか? じゃあ、その部隊の支援はどうする? と下手を打てば消耗戦に引きずり込まれるかもしれない。

 それは望むところではなかった。

 そしてなにより、敵が戦果拡張を行おうとした場合、混乱した全軍が襲われることとなる。

 前衛を捨てるという判断は、何も間違っていないのであった。

 実は、このとき、この張勲の決断が袁遺に思わぬ危機を与えていた。

 

 

「袁術軍は原武と陽武の中間の丘に陣取った、か」

 袁遺は斥候からの報告をオウム返しで呟いた。

 そして、ほんの少し考えると雛里と仲達に話しかけた。

「それは面白くないな」

「はい」

「まったく、その通り」

 ふたりの軍師は肯定した。

 袁遺からすれば連合は酸棗に留まってくれている方がいいのである。

 だから、張勲が前衛を盾としたように連合が袁術を盾として軍を進めてくることは何としても避けたいことだった。

「だが、会戦(決戦)をするのも面白くない」

 袁遺の基本方針は敵の兵力を一か所に集めないことであり、その点で言えば、会戦の決断は基本方針から外れることになる。

 袁遺は斥候から詳細な地形を聞き出す。そして、腹を括り、諸将を集め、方針を発表した。

「袁術軍を酸棗に追い返す」

 袁遺は基本方針から外れることを決めたのだった。

「……どうやって?」

 袁遺の第一声を聞いた張遼は声に微妙なものを含ませながら尋ねた。

 彼女は袁遺に含むところがあるわけではなかった。ただ、無茶なことを平気で言うこの男に慣れてしまっている自分に呆れていたのだった。

 袁遺と袁術の兵数には大きな開きがある。

 袁術軍は約四万三〇〇〇。当初、五万を超える大軍を有していたが、孫策軍の敗北とこの戦いでの威力偵察部隊への伏撃と前衛への痛打で、その数を減らしていた。

 対して、袁遺は二万八〇〇〇。これは純粋な戦闘員の数である。袁遺と雛里は、司馬懿が孫策軍を強襲している間に兵糧を巻に運び込み、巻と原武・陽武の間に兵站網を張り巡らせた。道の整備状況から移動できる荷馬車と兵の数を計算し、この道ならこの人数で進めと補給部隊が渋滞を起こさないような効率的な補給を可能にし、本来補給に回す兵を実戦に投入できるようにしていた。この戦闘員二万八〇〇〇という数字は袁遺が必死になって、作り出した数字であった。

 そして、袁術軍は高所という有利な地点を確保している。つまり、数と地の利は袁術軍にあった。

 張遼は、ちょっと前までなら、待てとか喚いていたな、と遠い目で過去を振り返った。

「隊列を崩し、中央突破して敵本陣を襲います」

 袁遺が言った。

 一番初めに反応したのは雛里であった。

「黄巾党の乱の別働隊、最初の戦闘の応用ですか」

「そうだ」

 袁遺は答えながら、感心していた。

 戦略レベルになると仲達の方が先に俺の意図を察するが、作戦、戦術レベルでは雛里の方が早く察するか。作戦立案能力は仲達もこの大陸で上から数えた方が早いっていうのに……雛里は完全に、ある境地に達していることになるな。

「詳しく説明する。だが、その前に言っておく。これは連続した局面を絶妙な時機で展開していく作戦だ。想定と違う場合になることは多々ある。各々が冷静さを保ち続け、適切な判断を下さなければならない。いいな」

 袁遺は諸将を見渡す。

 皆が、わかっている、と言いたげな顔をしていた。

 頼もしいな。

 袁遺は思った。

 タイミングが胆となる作戦だ。つまりはダンスみたいなものだ。相手が右足を出したら、こっちは左足を引く。袁遺軍と袁術軍は、あの丘でダンスを踊るってわけだ。転んで無様を見せるわけにはいかない。それがダンスに誘った者の矜持だ。

 

 

 数で勝り、地の利を得ている袁術軍へ袁遺は余りにも単純な攻撃を命じた。

 張郃と華雄に真っ正面から攻撃を仕掛けさせる。

 その後方に雷薄が兵を率いて、遊撃隊の様に控えていた。

 当初、雷薄は自分の配置について、袁遺に反対意見を述べた。

「こんな所に配置されても、遊兵(活用できずにただそこにいるだけの部隊)になるだけですよ」

 常識的な意見だった。それに袁遺も同意した。

「そうなる可能性が高い。だが、張郃隊と華雄隊の仕事は敵の前面を引き付けることで、敵を撃破することではない。ある種、防衛的な戦闘を行わなければならないが、そうなると一番怖いのは、両部隊の間を突破されることだ」

 袁遺は説明する。

「私と董司空の部隊同士、息の合った連携ができるわけがない。だから、互いの部隊の境界線付近の敵を上手く処理できない。互いに、ここまでがこっちの領分で、そこからはそっちの領分だ、と勝手に決めたり、押し付け合ったりするのが目に見えている」

 袁遺の説明に全員が納得した。

「私なら、そこに騎兵を突っ込ませ、部隊を分断する。そして、歩兵で突破口を拡張し、本陣、つまり、私を狙う。そうさせないよう、何とかするのが君の役目だ」

「分かりました」

 雷薄は狂相を歪ませた。

「華将軍、張郃。もう一度言う。ふたりの任務は敵を撃破することではなく、敵を引き付けることだ。ここで兵に無理をさせて丘を登らせても、何の意味もない」

 だが、こんなことを言わなくても、このふたりの部隊が丘を登り切ることは出来なかった。

 何故なら、前線では、孫策隊がいつかのお返しとばかりに暴れていたからだ。

 奇襲と伏兵により、初戦では後れを取ったが、孫策隊の強さは本物であった。

 袁遺は感情を表に出さず、その強さに戦慄した。

 まずいぞ。張郃と華雄がある程度、退がることは想定の範囲内だが、この圧迫……下手に退がらせるとそのまま潰走しかねない。あわよくば、前衛だけでも丘から降ろせるかと思ったが、さすがに無理か。

「張郃と華将軍、それに張将軍の力を信じるか」

 袁遺は呟いた。

 彼が張遼に命じたのは、騎馬の機動力を活かした奇襲であった。

 張遼隊は迂回して袁術軍の右後方を襲う手筈になっていた。

 そして、その方角に砂塵が起こった。

「もう少し遅く来てくれた方が敵前衛を引き付けられたが、まあ、前衛もあの圧力では辛いだろう。これで良しとするか」

 袁術軍は奇襲に対して、新たに戦列を作って対抗した。

 だが、戦の趨勢は袁遺の予想から何も外れていなかった。

「呂布隊と陳蘭隊に伝令。呂布隊へは攻撃の開始を。陳蘭隊は呂布隊の撤退地点を確保しろ」

 袁遺が命令を下した。

 今、袁術軍の戦列は、くの字に折れ曲がる様に伸びている。

 呂布隊は、その繋ぎ目の部分を食い破った。そして、袁術の本陣へと攻めかかる。

 陳蘭隊は食い破られた衝撃に乗じて、突破口を拡張し、そのままそこに居座った。

 袁術軍は混乱の極致にあった。

 本陣を襲われた袁術が前線の部隊に助けに来いと伝令を出すが、それは余計に軍を混乱させるだけであった。

 だが、先に結論を言ってしまうと、これだけ見事な用兵を披露した袁遺軍であっても袁術軍の兵数に致命的な損害を与えることはできなかった。

 それは混乱の中でも統制がとれている孫策隊に起因していた。

 

 

 孫策は前線で指揮をしていた。

 本当は最前線で剣を振って暴れたいのだが、一度、敵に軍が叩かれたため、軍師の周瑜や妹の孫権を筆頭に家臣たち全員に止められたので、仕方なく前線で指揮をすることになった。

 その孫策の目には袁術軍の敗北が映っていた。

「あらら、いつの間にかまずいことになってるじゃない」

 前線にいた孫策は戦の推移を把握していなかった。

 司令部が後方に置かれる理由は、戦場全体を見渡せ、混乱しにくいからだった。

 孫策は、その点を親友であり軍師でもある周瑜に全て任せていた。

「姉様!!」

 そんな孫策の元に妹の孫権が、その軍師の周瑜を伴ってやって来た。

「蓮華! 冥琳! ちょうどよかった。今の袁術軍の状況は?」

「戦列が崩され、中央突破された。袁術の本陣が呂布に襲われている。しかも中央は分断されたままよ」

 周瑜が矢継ぎ早に言った。

「ええ! どうしてそんなことになっているの?」

「袁術軍が袁遺軍に上手く踊らされた」

 周瑜の言葉は、多分に彼女が持つ諧謔味が含まれた表現であった。だが、周瑜のことを理解している孫策は、その言葉だけで、だいたいを理解した。

「上手くやられちゃったってわけね」

「そのことで袁術から伝令が届いています。すぐに救援へ来い、だそうです」

「簡単に言ってくれちゃって!」

 妹から伝令の内容を教えられた孫策は思わず舌打ちをした。

「けど、袁遺には前にも好き勝手やられているから、このまま思い通りにやられるのも癪ね」

 孫策は不敵な笑みを浮かべた。

 孫策隊は前線を離れる。

 部隊の統制はとれており、その動きは素早く、袁遺軍からの追撃はなかった。

 混乱しているとはいえ他の部隊も前線には存在し、丘は優秀な防御線であった。先程まで孫策隊によって、そこから猛攻を受けていた張郃と華雄の部隊には追撃の余力がなかったのだ。

 孫策隊は陳蘭隊を襲った。

 呂布隊を直接攻撃して袁術の本隊を救うより、呂布隊より遥かに弱い陳蘭隊を攻撃して撤退地点を潰すと見せかけ、呂布隊を袁術本隊から退きはがす方が楽であった。

 呂布に付き従っている陳宮もそのことに気付き、袁術の本陣への攻撃を諦め、すぐに孫策隊を何とかしに向かった。

 袁術本陣は呂布隊に蹂躙されたため、それを追撃することはできなかった。

 袁遺も呂布隊を敵中孤立させるわけにはいかなかった。

 ここで呂布隊を見捨てたと思われれば、華雄と張遼がこれからも自分の指示に従うと思えなかったからだ。

 袁遺は雷薄に陳蘭隊の援護に行かせた。

 孫策隊が抜けたことで張郃隊と華雄隊を相手にしている袁術軍の部隊は徐々に押されていた。あと少しで潰走するのが目に見ている。だから、両隊の間を突破される危険性は薄かった。

 戦場に銅鑼の音が響いた。袁術軍の撤退の合図である。

 袁遺も撤退の銅鑼を鳴らした。

 崩壊させられなかったが、与えた損害から考えて、酸棗の連合駐屯地に引き返すはずであった。なら、目的は達した。袁術軍の方が数は多いのである。深入りは禁物だった。

 袁遺軍全体の死者は約二〇〇〇名。対して袁術軍は約六〇〇〇名であった。ただし、孫策隊が最初に叩かれた損害と伏撃と前衛を見捨てた損害を含めると袁術軍は当初の数字から一四〇〇〇人近く、減らしている。

 孫策軍が戦局の最後で袁術の本陣を救わなければ、司令部は完全にその機能を停止し、もっと被害が出ていた。袁遺からすれば、孫策に最後で自分の作戦を台無しにされた形だった。

 しかし、孫策が救ったのは兵員だけであった。

 この戦闘が袁遺と反董卓連合の戦いでの袁術軍、最後の戦闘らしい戦闘であった。本陣を強襲された袁術は、強い精神的衝撃を受け、以降、積極的な戦闘行動をしなくなったからだ。

 これは袁遺にとって意図してなかったことであった。そして、そのことを今現在の袁遺が知る由もなかった。

 そのため、袁遺の胸の内には大魚を逸した悔しさだけが残っていた。

 くそッ、完璧に決めたと思ったが、最後の最後で……いや、完璧ではなかった。想定外の圧力、タイミングのズレ、俺の見通しも甘かった。これを完璧に決めれる軍隊を造らなければいけない。

 袁遺はひとつの決意を固めた。

 

 

 後に袁遺の想定していた軍ができあがるが、そのとき、これを完璧に決めたのは袁遺ではなかった。

 




補足

・諸侯のひとりで広陵の太守である
 正史では張邈は反董卓連のとき、陳留の太守で広陵の太守ではない。広陵の太守は弟である張超だ。
 だが、恋姫では曹操が陳留の太守なので張邈には弟の広陵の太守になってもらい。張超は張邈と共に広陵にいることにした。
 本文でも述べたが、広陵は江南に対して重要な拠点なので、張邈はかなり苦労する未来が待っている。

・君とここでダンスを
 どう見てもカスティリオーネです。本当にありがとうございました。
 いつかアウステルリッツとライプツィヒからもパクるのでナポレオンとか欧州戦史に詳しい人はネタバレしないでください。


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14

生存報告代わりに短い話をひとつ。
11月中に投稿できなくて申し訳ない。


14 割と忙しい後将軍の一日

 

 

 掘り返したばかりの土の臭いが袁遺の鼻腔をくすぐった。

 それは袁遺に苦い思い出を想起させる。

 俺がこの臭いを嗅ぐときは、いつも決まっているな。

 袁遺は心の中でそう思った。そして、表情に出そうになっていた自虐的な笑みを必死で抑え込んだ。

 兵の遺体を前にして、例え自虐であっても笑みを浮かべるわけにはいかなかった。その兵が死ぬ原因を作ったのは間違いなく袁遺自身であるからだ。

 袁遺軍が駐屯地としている巻の一角で戦死者たちの埋葬が行われていた。袁遺はそれに立ち会っている最中であった。

 掘った穴に屍が収められていく。

 この時代の習わしでいえば、遺体は沐浴し、爪を切り、死に装束を着せ、整える。

 これはそれなりに余裕がある家だけではなく、一般的な農民の家でも簡略化されていたが行われていた。

 葬儀とは疫病を防ぐための遺体の処理と遺族と死者の別れを同時に行う儀式である。

 だが、ここは戦場であり、袁遺が選んだ運動戦では一〇〇〇、二〇〇〇の戦死者を一度の戦いで出すことは珍しくない。そのため、死者ひとりひとりに作法通りのことをしてやることはできず、彼らは僅かに顔についた汚れだけを清められ、布で包まれ埋葬される。

 もちろん、戦場でそのまま屍を晒し朽ち果てるか野生動物の食料となる者もいる。

 しかし、だからといって埋葬されるだけ幸運とは一概には言えない。

 撤退の際、遺体が持ち帰られる者は、それなりの地位にある者だけである。袁遺軍で言えば、呂布、張遼、華雄、陳宮、袁遺、鳳統、司馬懿である。官職に就いている、もしくは名士である。そのため、袁遺の部曲の張郃、雷薄、陳蘭が戦死した場合、その遺体は戦場に打ち捨てられることとなる。別働隊の高覧も同様である。

 だから、ここに埋葬されている者は戦傷が原因で巻で亡くなった者である。

 つまりそれは死ぬまでそれなりに苦しんだ者ということであった。

 金臭(かなくさ)い、後代の言葉で言えば仮繃帯所(かりほうたいじょ)で、袁遺はその大部分を看取った。

 そして、袁遺自身で埋葬の指揮を取った。

 これは別に総司令としての責任でも兵への罪悪感からでもなく、死体から疫病が生じることの恐ろしさを一番理解している指揮官が袁遺ということであった。

 だが、ただ命令を守り、先に旅立った兵たちに何の感情も湧かなかったわけでは決してない。

 布で包まれた遺体に土がかけられる光景を見ながら、袁遺は思う。

 あの世があるかはわからない。俺自身が後漢という過去か三国志演義という物語のような世界で袁伯業として生きるようなおかしな状況でいるからな。君たちの死んだ後のことは分からない。だが、もし、あの世なんてものがあるなら、そこに行った後、恨むのは俺だけにしてくれ。俺だけだ。俺だけを恨んでくれ。

 埋葬というより、処理と表現した方がいい作業を最後まで袁遺は監督した。

 その後、袁遺は水を浴び、服を着替えて事務仕事に取り掛かる。

 軍隊とは言わずともわかるように組織であり、その運用において事務的業務は欠かすことができない。

 そして、それを取り仕切るのは総司令官である袁遺の役目である。

 そのため彼は多忙を極めた。

 現に袁遺の目の下には酷い隈が存在した。睡眠時間を削っているのだった。

 もちろん、この手の問題を処理する事務スタッフがいるが、満足と言える人数ではなく、また袁遺は主計科についてすべて把握していないと気が済まない性分であった。そして、何より袁遺には主計業務を取り仕切らなければならない理由があった。だから、袁遺が多忙なのはその代償とも言えた。

 ただ、この手の作業は長安でもそうであったように苦手ではなく、袁遺は滞らすことなく処理していく。

 糧秣や武器、被服などの書類上の数字と実際の数字があっているか確認する。これが違っていた場合、横領を行っている者がいることになる。

 横領は行われていなかったが、問題があった。

 それは靴や草鞋といった履物の消費量が予想より遥に多いということだった。

 兵は恐ろしい早さで履物を履き潰していた。

 しかし、兵を動かし続けることで連合を撃退し続けてきたのだから、それは当然のことである。

 兵も履物への不安感があるようで、倒した敵兵の足から靴や草鞋を剥ぎ取っていた。

 裸足で今までと同じくらいの距離、ペースを歩かせたら、すぐに足の皮はベロベロにめくれるだろう。

 それでも袁遺なら歩かせる。そして、彼の部下の将校、下士官たちもそんな状態の兵を歩かせられるだろう。だが、兵からの恨みと不満を貯めることになる。

 洛陽から送ってもらうしかないか。

 袁遺はそう思った。そして、

「筆頭軍師にまとめた日次報告書をこちらに提出するように言ってくれ」

 と部下に命じた。

 洛陽の董卓と袁隗に送る報告書を書くためだ。

 袁遺はどんなに忙しくとも必ずやったことがふたつあった。

 ひとつは軍を見て回り兵たちに声を掛け、励ましてやること。もうひとつは三日に一回は報告書を洛陽に送ることである。

 それと一緒に履物を送るよう頼む書簡も届けるつもりであった。

 雛里は筆頭軍師として、それなりに忙しい立場にあった。

 彼女の主な仕事は斥候、諜報員の報告、それに各地の親袁隗派の名士からの情報、果ては人々の噂話から敵・味方の位置を絶えず割り出すことである。中には間違った情報も存在するが、様々な情報を照らし合わせることで偽情報をはじき出す。

 それを袁遺に報告する。

 また、作戦家としても非凡なものを持ち、自分で作戦を立ててしまう袁遺が立てたそれに細かな修正を加える。そして、もちろん、袁遺の命令によって作戦を立てることもある。

 同僚である司馬懿もいるが、彼は、かつて袁遺が長安で言ったように張良というより韓信であり、部隊を率いる役目を重視するよう袁遺に命じられている。

 故に仲達の受け持っている情報は姉の司馬朗および彼の故郷である温県の動向のみである。

 そのため、雛里の大きな助けとなっていない。

 このことに雛里は特に何か思うところはなかった。

 司馬懿が命ぜられることは判断の難しいことばかりであり、自分たちの主は面倒なところを持ちすぎる袁遺である。そんな状況で主の満足する結果を出し続けている司馬懿に、むしろ尊敬の念を抱いていた。

 そんな忙しい雛里がわざわざ自分で報告書を持ってきた。そして、彼女の後ろには件の司馬懿が伴っていた。

 ふたりが袁遺に軍礼をする。

 袁遺はそれに軽く手を上げるだけで応え、尋ねた。

「仲達、急ぎの用か?」

「姉からの報告ですが、別段、急ぐものではありません」

 仲達が答えた。

「なら、先に報告書に目を通させてくれ」

 袁遺の言葉に雛里が書簡を差し出した。

「伯業様、日次報告書です」

「うん」

 袁遺はそれを受け取り、目を通す。

 意外、そう、袁遺にとってまったく意外なことに何ら不備がなかった。

 彼の予想では自分のやり方に慣れていない呂布、張遼、華雄のうちの誰かに不備があると考えていたが、それがなかった。

 特に華雄に不備がないのはまったくの予想外であった。

 これは別に華雄を侮っているわけではない。

 この手の報告は将校や下士官の協力が必要となる。

 華雄は涼州で共に戦ったそれらを洛陽に残している。そのため手間取ると袁遺は考えていたのだ。

 もちろん、そう考えていたのだから、何ら手立てを打たないような意地の悪い真似はしない。袁遺は彼女の部隊に自分が長安で鍛えた将校と下士官を付けたのだった。

 だが、華雄がそれを完全に受け入れないとも考えていた。

 華雄が袁遺の息のかかった彼らを監視役として送られてきたと信じない可能性の方が高いと思ったからだ。

 特に袁遺の部下は袁遺自身が指揮官が明らかに誤った判断を下した場合、それを意見具申という形で糺さない限り、利敵行為として処罰するとまで宣言して長安で訓練を重ねたため、ある意味でとてもうるさい部下たちである。華雄が監視役としてとるのも無理はなかった。

 しかし、そんな予想を裏切り華雄は彼らを上手く使っている。

 袁遺が思った以上に器が大きいのか、もしくは単純なだけなのか、はたまた面倒な書類仕事をやってくれるくらいにしか思っていないのか、ともかく存外に双方が上手くやっているようであった。

「ご苦労」

 目を通し終わった袁遺は雛里を労った。

 そして、司馬懿の報告へと移った。

「仲達、君の報告は向こうの部屋で聞く。雛里も来てくれ」

 袁遺は事務スタッフと共に書類仕事をする部屋の奥にある部屋を指した。

 そこは袁遺がひとりになって考えたいときに使う部屋であった。今回のように知っている人数を制限したい情報を話すときにも使う。

 場所を移して仲達は口を開いた。

「まずは温県から情報です。温県の司馬家の蔵の糧秣は全て巻と敖倉に運び込みました」

 仲達に開けさせた司馬家の蔵の食料は、その多さと黄河を渡らなければならないという輸送の条件から、かなり時間が掛かる結果となった。

 食料を敖倉にも運びこんだ理由も敖倉が温県から巻よりも近いということであり、また、巻を放棄する事態になった場合、そこを拠点とするためであった。

「そして、姉からですが、姉は現在、豫州の名士たちに袁司徒の書簡を届け、洛陽の状況や反董卓連合に道理がないことを知らしめる情報工作を行っています」

「そうか」

 袁遺は相槌を打つように呟いた。その声には安堵の色が含まれていた。

 司馬朗の情報工作は袁遺の戦略では重要な役割を持っている。

 連合の正統性を各地で否定して、参加した諸侯が得られる名声をなくし、諸侯たちに分配されるであろう利益を制限する。これによって諸侯の分裂を速めるのが袁遺の狙いである。

「それと河間の張超様についてです」

 司馬懿は袁遺の恩師で推挙人の名前を挙げた。

「温県の信頼できる者に伯業様の命令通りに手紙を届けました」

「手紙?」

 仲達の言葉に雛里が思わず声を上げた。聞かされていないことだったからだ。

「先生は私の推挙人だ。私が勝とうが負けようが何らかの不利益を被る」

 この時代、推挙人は推挙した人物が何らかの失敗や問題を起こした場合、その面子は大きく損なわれるし、責任を取らされることもある。三国志で具体的な例を挙げるならば、曹操の留守を狙い謀反を起こした魏諷を推挙した鍾繇はその責任を取り、魏国の相国を一時、罷免されている。

 だから、連合との戦争に負け、袁隗に頼んでおいた通り悪名が全て袁遺にいった場合、推挙人の張超の面子が傷つけられ、何らかの責任も取らされかねなかった。

 そして、袁遺が勝った場合でも袁紹の本拠地の冀州の豪族である張超に何らかの報復があると簡単に予想できた。

「だから、先生に詫びを入れて、勝つ確率を上げるために冀州で連合の正統性を否定する噂を流し、その後で洛陽へ脱出するようにお願いした。失った家財や家族の世話などは叔父上や朱光禄大夫が援助してくださる。それと仲達」

「はい、黎陽で監営謁者として兵馬を統率している同郷の趙威孫という者に姉上が話を付けてあります。黎陽にまで辿り着けば、彼が冀州から脱出させてくれます」

 黎陽は冀州の黄河の畔にある街であり、兗州や司隷の窓口である。

 袁遺は冀州の地図を頭に思い浮かべた。

 張超の住んでいるのは河間郡の鄚県である。袁遺のキャリアが始まった場所であり、張超と出会った場所でもある。

 鄚県は幽州に近く、黎陽に向かうためには冀州を縦断することになる。その道中で地元の名士に会談しながら、噂を流していけばいい。

 もちろん、全ての名士が話を信じてくれるとは限らない。どころか会ってさえくれない者もいるだろう。漢朝から任命された統治者である袁紹と揉め事を起こしたくないからだ。

 しかし、それでも自領でそんな噂が流れるのは袁紹側からすれば酷く嫌なことだ。揺さぶりくらいにはなる。何もしないよりマシだろう。

「うん、良くやってくれた」

 袁遺は仲達に礼を言った。

 そんな袁遺の内心は苦い思いでいっぱいであった。

 黄巾の乱に続き、ここでも恩師を振り回すことになるのか……しかも、今度は名士、つまり、地方豪族が地方豪族たる土地を捨てさせようとしている。まったく、どうしようもないことだ。そして、それに心を痛めながらも結局は有用性を優先し、心痛む選択をする。仲達のそういったところを警戒しながらも、自分でも彼のような選択をする。いや、プラグマティズムこそ指揮官に求められる資質であり、この点で俺以上の仲達を警戒するのは当然のことか……

 ただ、袁遺と司馬懿には明確な違いがあった。

 袁遺はこのように自分の非道な部分に対して自己嫌悪するが、司馬懿はその手の自己嫌悪を惰弱として完全に切り捨てていた。

 これは袁遺が弱いとか仲達が非情だとか、そういう問題ではない。

 極論、このふたりは、その手の感情の問題は実利からかけ離れたことであると歯牙にもかけてはいない。

 袁遺がこのように悩むのは、知識と経験、そして才能によって無意識のうちに作られた習慣であった。

 ただの戦争指導者ではなく、まともな戦争指導者とは冷酷な命令を下していながらも、その命令が他者に凄まじく過酷な影響を及ぼしているという事実を忘れてはいけないからだ。

 それを忘れた途端、残虐な指導者として歴史に名を残すことになる。

 まともな戦争指導者とは冷酷でありながらも人間味に溢れ、非情な決断を下すことを恐れないが心優しいという矛盾した存在でなければならないのであった。

 それを忘れないために袁遺の良心は自分が行っていることが道から外れた恐ろしいことだと教えているのだった。

 戦争で物事を解決すると決められた時点で、間違っているのは両者であり、たとえ攻め寄せられた側であっても、自分たちだけが良いことをしているということは決してないのである。

 そして、司馬懿が惰弱と切り捨てるのは、悩むことが彼の思考を鈍らせることであると考えているからだ。

 思考全てが多面的な彼は、それを最大限に生かすために思考を鈍らせるであろう要素を切り捨てる。

 このふたりの習慣は、聖人の格言通り、やがて性格へと変化し、今の彼らを作り上げた。

 仲達の報告を雛里と共有し、雛里からの日次報告をもとに洛陽へと送る戦況報告を書きあげた袁遺は、ここまで戦い、敵が戦場に放棄した軍旗も書簡と共に騎兵に持たせて洛陽へと送り出した。

 その後で袁遺は仕事場となっている家屋から離れた。

 文官たちに息抜きをさせてやるためである。

 いるだけでプレッシャーを与える顔と雰囲気を持つ自分がいなくなれば、袁遺と共に働く文官たちは幾分か気が楽になるはずだった。

 

 

 袁伯業という人は実は何人もいるんじゃないか?

 そんな風に巻の陣中の軍属はいぶかしあった。

 上でも書いたように、どんなに忙しくとも袁遺が欠かさなかったのは洛陽への報告と兵はもちろん、馬丁から飯炊きまでを見て回り声を掛け、励ましてやることだった。

 彼らは故郷から離れた苦しいことの多い戦場で常に儒教でいうところの仁に飢えていた。

 そんな彼らに袁遺は優しい言葉をかけてやり、彼らの仕事ぶりを褒めてやる。

 それに兵たちは寒い冬の日に束の間、射した暖かな日の光の様なものを感じるのであった。

 袁遺はどこにでも表れ、そういった声を掛ける。

 だから、兵たちは不思議がったのだ。

 その兵たちがいぶかしあっている現場を実際に見た華雄は複雑な思いを胸に抱いた。

 それは袁遺に対する評価と印象からなる思いであった。

 袁遺とは、華雄の敬愛する主君である董卓を貶めた袁紹の従兄である。だから、はっきり言えば、今も良い印象を持ってはいない。

 しかし、そんな華雄をして袁遺の能力もしくは気質に認めざる得ない所があった。

 袁遺の運動力を重視し、即決即断を以って主導権を獲得する戦い方を華雄は評価していた。華雄は知らなかったが、機略戦と呼ばれる戦術である。

 ともすれば主の董卓(と実際の総指揮官となる賈駆)より袁遺は華雄好みの指揮官であるということだった。

 そのことが華雄を無性に苛立たせた。

 袁遺という男が董卓より評価できる部分を持つという事実が許せなかったし、そう思った自分自身も許せなかったのだ。

 これは何も華雄がおかしいわけではなく、人として当たり前のことだった。

 自分の好きな人にはその欠点に対して甘く、嫌いな人の美点については厳しく。それは大なり小なり人間なら行うことであった。

 これだけなら、それほど華雄は複雑な思いを抱かずに済んだであろう。

 だが、彼女はもっと別の印象も袁遺に対して持っていたのだった。

 あの男は不気味だ。

 華雄は袁遺が自身を追い詰めるように様々な事務仕事を背負い込んでいることを知っていた。その量は袁遺を良く思っていない華雄であっても悲壮と同情したくなる量である。

 だが、疲弊しているはずなのに、袁遺は奇妙な生気に満ちていた。

 妖気と紙一重のそれに華雄は無自覚の恐怖からくる気味の悪さを感じているのだった。

 華雄は袁遺のことを追い出す様に頭を振ると歩調を速める。

 陣中での軍馬への騎乗を袁遺はいくつかの例外を抜いて、基本的に禁じている。

 軍馬の疲労と馬糧の消費を抑えるためだ。

 例外として、その速度が勝敗と生死を分ける伝令と馬の足を鈍らせないための調教、そして、もちろん出撃時には、それが許されていた。

 だから、将の移動の際にも騎乗は許されておらず、歩くしかなかった。

 華雄はそんな風に引き離された愛馬の元に向かう。

 この戦では長安、洛陽から多くの馬の世話をする馬丁が動員されている。

 騎兵の機動力は袁遺のとった運動戦を根本から支えていた。

 その機動力で機先を制し、ときには大きく迂回し、追撃戦で敵に損害を与えたりと勝利をもたらしてきた。

 そんな軍馬のコンディションを保つため、馬丁は餌をやったり、体をマッサージしてやったり、足が鈍らないように駆けさせたりと甲斐甲斐しく世話をしている。

 乗馬が苦手な袁遺であったが、馬のコンディション管理の指示は華雄だけではなく、張遼、呂布も認めるところであった。

 馬は繊細な生き物だ。すぐに腹をこわす。

 だから、巻では青草は一切食べさせず、必ず干し草、そして、その倍の量の麦を与える。飲み水でさえも、腹を壊さないようにぬるま湯くらいに馬丁に温めさせていた。余談になるが馬は一日に少なくとも二〇リットルの水を飲む。それを何千頭分も用意しなければならないため、袁遺は、その苦労に見合った給金を馬丁に支給している。

 華雄が厩舎に着くと、張遼がいた。

 彼女も同じように愛馬の様子を見に来たようであった。

「お、華雄も来たんか」

 華雄に気付いた張遼が声を掛けてきた。

 華雄はそれに、ああ、とだけ返事し、自身の愛馬の元に向かった。

 馬も華雄にすぐに気付いた。草食動物である馬の視界は広い。

 愛馬は柔らかで低い嘶きをした。挨拶である。

 それに華雄は、先ほどまでの苛立った気分が吹き飛んだ。

 その後、しばらく穏やかな時間が流れた。

 馬は何かして欲しいことがあれば、前掻き、という前足で地面を蹴る動作をする。その後に首を振る。

 愛馬の仕草、その意味するところはすぐに分かった。華雄はそれに応え、耳の後ろの辺りを撫でるように掻いてやる。

 それに馬は気持ちよさそうに目を細めた。

 だが、そんな時間は長くは続かなかった。

 華雄が抱える複雑な思いの原因となる男を見つけてしまったからだ。もちろん袁遺のことである。

 彼は馬丁たちに普段の無表情ではなく、穏やかな微笑を浮かべ話しかけている。華雄には見たことのない表情であった。

 腹を壊しているやつはいないか? 腹を壊しているやつはいませんが、調子の悪いやつが何頭かいます。怪我か戦を恐がっているか分かりませんが、普段ならもう少し駆けるところで、駆け足をやめちまうんです。蹄が悪いのか? 蹄は問題ないんですが……まあ、ともかく、少し様子を見た方がいいやつが何頭かいます。そうか、良くやってくれているな。

 そんな会話が自然と華雄の耳に入ってきた。

 華雄の視線は無意識に袁遺を追っていた。

 袁遺は馬丁たちから畏敬の眼差しを注がれていた。

 しかし、やはりと言うか、華雄が感じたのは無自覚な恐怖を伴った不気味さであった。

 現在の袁遺の三白眼、その面積の多い白目の部分は血走っており、その下には隈を作っている。

 それは疲労の色を表すはずであるのに、三白眼、その面積の小さい無機質な小石の様な瞳には明確な力に似た何かがあった。その力に似た何かは、他者に自分の意志を伝え、それを確実に実行させ続けてきた千軍万馬の指揮官にのみに宿るものである。その経験によって形作られた人格的迫力が袁遺の疲弊した雰囲気を吹き飛ばしていた。

 兵はそれに畏怖を感じ、華雄は底気味の悪さを感じるのであった。

 そんな袁遺と華雄は目があった。

 見られていることに気付いた袁遺が近寄ってきた。

「華将軍」

 本来なら華雄は袁遺に対して軍礼をしなければいけないのだが、彼女の中にある袁遺への不気味さがそれをためらわせた。

 袁遺は後将軍であり、その品秩は三品である。対して、華雄は雑号将軍のひとつであり、五品の討夷将軍である。

 董卓は洛陽入りして後、涼州から連れてきた部下に官位を与えはしたが、高位に就けることはしなかった。華雄と賈駆をそれぞれ五品の役職に就けただけで、後は殆んどが九~七品、中には無官の者もいる。

 余談になるが、袁遺は長安令も兼任しており、それは六品である。県令はその治める県の大きさにより品秩が異なり、長安は最高の大県にあたる。中県が七品で小県が八品。また、業務内容は殆んど県令と変わらない相も八品である。ちなみに袁遺が最初に就いた県尉も九品で最も低い。さらに横道に逸れるが、県尉は後の時代でもだいたい最も官位が低い役職である。唐の時代にはこんな逸話がある。詩聖と謳われる杜甫が若い頃、科挙に落第し、職に就くために有力者に詩を送り自分の才を示そうとした。この時代、藩鎮と呼ばれる軍閥が強い力を持っており、官職の人事は科挙試験より彼らの意向の方が重要であった。科挙の完全な成立は宋の時代を待たなければならない。さて、その詩の出来は素晴らしく、元々、書と詩文の天才と謳われていた評価を確固なものとする結果となった。だが、肝心の与えられた職は河西県の県尉であった。唐代での県尉の散位(品秩)は従九位下で最も低い。杜甫は、これならまだ無官の方がマシとそれを辞退した。それほど県尉は低い官位であった。

 それはさておき、袁遺はそんな自分より低い官位の華雄の非礼を責めなかった。

 確かに、彼は長安で朝廷における礼節を厳格に求めたが、それを彼女を含めた董卓陣営の将に求めすぎても何も良いことがないと割り切っていた。

「愛馬の様子を見に来られたのかな?」

 袁遺は謙虚と威厳が同居した声で言った。

「ああ、そうだ」

 それに対して華雄はぶっきらぼうに答えた。

 喧嘩腰でないだけマシ、ただそれだけの態度である。

 だが、袁遺は気にせず続けた。

「涼州で共に戦っていた兵が殆んどいない状況ですが、部隊の指揮で何か不便とはありますか?」

「ふん、報告書を出しているだろう」

「目は通しましたが、あの字は長安で指揮官に抜擢した部下のものです」

「だから、どうした!? そいつにやらせていることに何か文句があるのか!?」

 華雄は怒鳴った。

「いえ、面倒な部隊運用の事務処理をできる部下に任せるのは将軍の特権です。それに何の文句もない」

 袁遺は華雄と正反対の穏やかな声で言った。

 ある一定以上の規模の部隊を率いる将校が部隊のマネジメントを参謀なりのスタッフに任せて、指揮に集中するといった事例は珍しくないことである。

「しかし、彼らは私の子飼の部下です」

 華雄は単純であるが、鈍くはない。故に袁遺の真意をすぐに理解した。

 袁遺は報告書を読みながら懸念していたように彼らを袁遺からの監視役として警戒して、華雄が本音を隠し、部隊運用に支障をきたすことまで隠しているのではないか。そう言いたかったのだ。

 だが、それが華雄の逆鱗に触れた。

「貴様ーー! 私を見くびるな!!」

 華雄は単純な女である。腹にあるものは吐き出すことしかできない人間だ。だからこそ、腹の中に複雑さを抱えてしまったために袁遺に対して軍礼ひとつできない。愚直とも言えた。

 しかし、単純であることは同時に美点でもあった。

「命を懸けて共に戦う部下を疑うようなことはしない!!」

 華雄は叫んだ。

 痛々しいまでの彼女の愚直さは部下に対して、あまりにも無垢な信頼となっていた。

 袁遺は呆気にとられた。

 そして、思わず口から言葉が漏れた。

「ああ、それはすまない」

 その謝罪の言葉は彼の心の底から出たものだった。

 袁遺のまったくの素の言葉であった故に、今度は華雄が呆気にとられることになった。

「…………フンッ」

 そのまま怒鳴り続けるにはあまりにもバツが悪く、華雄は不機嫌さと僅かな困惑の色を顔に浮かべ、厩舎を去っていった。

 袁遺も袁遺でまた、そんな彼女に掛ける言葉を見つけることができず、ただ、それを見送るだけであった。

「華雄はああいう奴なんや」

 そんな袁遺に張遼が声を掛けた。

 彼女も華雄同様、品秩が自身より高い袁遺に軍礼をすることはなかったが、軍監でもある彼女は、単純な品秩の上下で判断できるものではない。

「張将軍も愛馬の様子を?」

 袁遺の質問に張遼は、まあ、そんなところや、と返すと続けた。

「華雄は、ああいう奴やから、そんな気にせんでええで」

「……でしょうね」

 そう言った袁遺の顔を張遼はまじまじと見て、口を開いた。

「むしろ、あんたは怒っとらんのか? 普通に考えれば華雄の方に問題があるで」

 張遼の言う通りである。

 結局、華雄の態度が根本にあるのだから、華雄のあれはほぼ逆ギレに過ぎない。

 しかし、袁遺はそれについて全く言及していなかった。

「怒ってはいませんし、それを指摘したところでロクなことにならないのが目に見えているでしょう」

 袁遺は感情の薄い顔と声で答えた。

「…………」

 張遼は、どこか納得できない様子であった。

 彼女の袁遺に対する印象も華雄と同様に複雑なものだった。

 悲壮なまでに仕事を背負い込み、ここまでの戦争推移だけでいえば、その能力は文句の付けどころがない。そして、今の華雄に対するおかしなまでの器の大きさとそれを吹き飛ばす底が見えない不気味さが混ぜ合わさり、複雑怪奇な印象しかなかった。

 袁遺は張遼のその心根に気付き、変わらずの無表情な顔で口を開いた。

「では、こう言えば納得いただけるか。私があるひとつの絶対的特権を持っていることをあなた方が忘れなければ、どのような態度を示そうが、どのような口の利き方をしようが、別に構わないと考えている」

 その言葉にはあらゆるものを凍らせる様な冷たさがあった。

「特権?」

 張遼は嫌な予感を感じながら尋ねた。

「そう。誤った判断に基づいていようが、なんら死ねと変わらない命令を麾下の将たちに下せるという事実だ」

 確かにそれは一軍を預かる者に大きすぎる重圧と共に与えられた特権の様なものだった。

 その答えに張遼は納得ができた。理解もできた。何なら肯定さえできた。しかし、好意的には取ることができなかった。

「ぶっちゃけすぎやろ、ジブン」

 張遼は乾いた笑いと共に言った。

「だろうな」

 袁遺が返した。

 それを聞きながら張遼は思った。

 まあ、確かに、こうやって砕けた口きける方がありがたいかもしれんな。だけど……

「それは分かったけど、あんた、少しは休んだ方がええで」

 それでも拭いきれない何か粘つくものを感じた張遼は話題を変えた。

「お気遣い感謝します」

 袁遺は丁寧に応じる。

「では、これで」

 そして、袁遺は他の馬丁の様子を見始めた。

 袁遺と馬糞の始末をしている馬丁との会話が自然と張遼の耳に入ってきた。

 ああ、指示通り馬糞は集めて乾燥させているな、ご苦労。あ、どうも……将軍。うん、そこからそこが乾燥しているやつか? はい、そうです。馬糞を乾燥させれば火付けにも使えるし、薪の代わりにもなる。そのまま、しっかりやってくれ。はい、しかし、何ですね。莫迦みたいな量を出して、それを使って莫迦みたいな量の水を温めるんですから、何かよくできていますね。ははは、まったくそうだな。

 そんな会話を聞きながら、張遼は袁遺が休みを取らないだろうと予感していた。あれは細かいことが気になって気になって仕方がない性格だ。たぶん、この戦が終わるまで、あのようにやるのだろう、と。

 張遼の推測は半分は当たりで、半分は外れであった。

 袁遺が事務仕事を必要以上に独占的にこなしているのは彼の性格に起因していることが大きかったが、問題の根本にあるのは董卓側の将との関係であった。

 彼女たちが袁遺を信頼できないように袁遺もまた彼女たちを完全に信頼していなかった。

 そんな彼女たちの首根っこを押さえる手段として食料や被服、代替要員の補充を全部、自分で差配することにした。

 軍隊で糧食の手当て等を差配している者に噛みつきたがる莫迦はいない。

 決して良くは思われないが、効果的ではあった。

 その後も袁遺は厩舎で働く者たちに声を掛けて回った。

 

 

 陣中を歩きながら、袁遺は目と肩と腰に感じた疲労感から自虐的な考えが浮かんでしまった。

 確か、正史では袁遺は酸棗に連合の諸侯のひとりとして集まったはいいが、酒宴をするのみで積極的に戦おうとせず、曹操に叱責されたんだったよな。なのに俺は、なんでこんなことになっているかな……いや、もちろん、自分で択んだからか。それも多くの人を巻き込んで。

 長安で行ってきた統治と父親の遺産との結晶と言える兵馬。友人であり、部下である仲達の実家の備蓄。推挙人である張超の地盤と財産。

 そして、反董卓連合の正統性を否定したことにより袁紹は天下の静謐を乱した逆賊ということになる。それはすなわち袁家から逆賊が出たということになり、洛陽で袁遺が叔父の袁隗に確認し、それを了承されたように袁家の名声が地に落ちる。

 また、袁遺が負けた場合、予め袁隗に頼んだように彼にはとてつもない悪名がかぶせられることになる。

 兵馬に自分のどころか他人の財産に名声、果ては死後の評価まで、この戦に注ぎ込んじまった。それに後悔はない、と言えるが、冬の日に夏の盛りを思い出すように、酒だけ飲んで華琳にキレられる、くらいの立場を、どうも羨んでしまうな。

 そこまで考えて、袁遺はふと思った。

 

 

 そう言えば、三国志演義では袁伯業は反董卓連合では何をやっていたっけ、と……

 




補足

・聖人の格言通り
 思考に気をつけなさい、それはいつか言葉になるから。言葉に気をつけなさい、それはいつか行動になるから。行動に気をつけなさい、それはいつか習慣になるから。習慣に気をつけなさい、それはいつか性格になるから。性格に気をつけなさい、それはいつか運命になるから。―――マザー・テレサ


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15

この作品中に出てくる田豊は英雄譚および革命の真直ではありません。オリキャラです。といっても今のところ名前しか出さない予定ですが……
以上のことをご了承ください。


15 反董卓連合(前)

 

 

 袁遺軍の倍近い兵力を有した袁術が叩きのめされて追い返されたことに連合で一番頭を痛めたのは曹操であった。

「華琳様、連合が酸棗に集結して、もう一か月を越えていますが、その影響が確実に出始めています」

 そう言って、彼女の軍師の荀彧が書簡を曹操に差し出した。

 それを見て曹操は思わず顔をしかめた。

 連合が駐屯している酸棗は、兗州陳留郡に存在する。そして、曹操は陳留郡の太守である。

 自分の領地に二〇万近い規模(当初は二〇万を超えていたが袁遺に叩かれ、今は下回っている)の軍隊が存在しているのである。これが全て自分の軍隊なら大きな問題ではない。だが、殆んどが他人の軍隊であることが問題であった。

 例えば、いきなり別の場所から武器を持った集団が自分の近所の空き地に一〇万単位でやって来たら、どう思うか考えて頂きたい。

 よくて不安に思う。最悪、パニックに陥る。

 乱世に生きる人々だから、平気であるなんてことは絶対にない。逆に、敏感に感じ取る。そうでなければ生き残れないからだ。二〇万の兵がいつ略奪者に変わるか分かったものではない。

 そのことが一番の問題であった。

 二〇万人の一日の食料消費量は莫大である。ひとり当たり少なく見積もっても約一キロ。さらに人間の一〇倍は飲み食いする軍馬もいる。

 それが一か月も対陣しているのである。諸侯の中には本拠地から持ってきた食料の底が見え始めている者もいた。

 では、なくなれば、どうするか?

 結論から言うなら、略奪である。

 孫子にも糧食は敵地にて賄え、と書いてある。

 孫子曰く、敵から奪った食料の価値は自国から持ってきたものの二〇倍に相当する。

 これは自国から長い距離を輸送するより、現地調達で賄う方が労力が掛からないと教えているのだった。

 後世において略奪は問題や益にならない場合が多いと分かったが、この時代、略奪に頼る軍隊は少なくない。後世のその知識を知っている袁遺自身でも黄巾党の乱のとき、黄巾党から食料を奪っている。もっともこれは敵の食料を発つ戦術の一環であったが。

 つまり、現在、連合の諸侯たちが労力をかけずに食料を手に入れようとすれば、司隷もしくは駐屯地の酸棗ということになる。

 だから、曹操は自分の領地で、いつ略奪が起こってもおかしくない状況になっていたのだ。

 曹操が袁紹と袁術をソフトランディングさせた理由もここにある。

 自分の領地で袁紹と袁術に戦をされるのが御免だったのだ。

 それに略奪以外にも問題はある。

 民が不安がるということは、治安を悪化させる。治安が悪化すれば、さらに不安は強くなり、商売や農耕などの日々の営みにも問題が出る。それは生産力の低下。そして、税の減収に繋がる。

 荀彧が渡した書簡には、民の不安が目に見えた形、例えば食料や生活必需品の価格が急激に上昇しているなどの報告書や各地の行政官が太守である曹操に早く二〇万の兵をどうにかしてくれ、という意見陳述書であった。

「桂花、連合は袁遺に勝てるかしら?」

 曹操は、我が子房と高祖に天下を取らせた名軍師と比肩する評価と信頼を与える軍師に尋ねた。

「相手は三万。予備兵力を考えて、どう多く見積もっても五万の軍です。このまま、続けていれば先に音を上げるのは向こうです」

 荀彧の答えは曹操と同じ結論であった。

 袁遺を高く評価する曹操でも、この兵力差をひっくり返すのは無理だと考えていた。半年、どんなに長くても一年後には袁遺軍は軍としての体裁を保つのが不可能なくらい損耗している。

 だが、

「袁遺軍が崩壊している頃には陳留郡はどうなっているかしら?」

「そ、それは……」

「略奪の限りを尽くされ、田畑も村も焼かれ、私の治世は全て灰燼に帰しているでしょうね」

「華琳様……」

 袁遺軍以上に曹操の領地が保たない。

 曹操は連合内で駆け引きをして、無駄な時間を過ごしたことを後悔していた。

 いや、敵が行動力と果断さに溢れた袁遺でなければ、こうはならなかった。虎牢関に籠るなりしていれば、酸棗にこんなに長く留まることはなかったのだ。

「華琳様、それともうひとつ悪い報告があります」

 荀彧が心底、申し訳なさそうに言った。

「いいわ。どんな話?」

 曹操は言った。

「はい。豫州の名士を中心に反董卓連合は袁紹が嫉妬で起こした漢王朝への叛乱である、という噂が流れています」

「そう……桂花、これは伯業が広めた噂だと思う?」

「おそらく、そうだと思います」

 連合の持つ正統性を否定するためだ。連合を董卓の悪政から帝を救う忠義の士から袁紹の嫉妬に乗っかり私利私欲のために徒党を組む賊軍に貶めたいのだ。曹操は断定した。

 後漢で名士と呼ばれる地方豪族が力を持っていることは以前に書いた。

 地方豪族、その字面だけから見れば、田舎の豪農兼武装集団の主に思われるかもしれないが違う。名士は後の六朝時代の貴族の前身であり、ただ単に郷里社会の指導者、支配者というだけでなく、高い文化的素養を持った知識人でもある。

 これも以前に書いたことだが、この時代、名士による人物評はかなり重要であった。

 だから、名士間に悪い噂が流れることは、いくつもの損失がある。

 彼らの協力がなければ、領地の統治も上手くいかない。知識人は人材の宝庫である。彼らを体制に取り込み、官僚として政治に参加させられれば大きな強みとなる。その証拠に史実でそれを大々的にやった曹操が魏呉蜀で最も強大な力を誇った。ただし、魏は彼らが手に負えなくなり、結局、名士である司馬一族に乗っ取られることになる。まあ、そもそも曹操も名士だし、その子の曹丕は漢から帝位を簒奪したわけで、曹一族がやったことを司馬一族が同じようにやっただけの話である。

 ともかく、袁遺が流した噂は連合に参加した者たちにとっては良くなかった。

 特に豫州は袁紹、袁術、曹操の出身地であり、さらに悪いことに曹操の部下の荀彧の出身地でもある。だから、荀彧が曹操に伝手のある故郷の人材を推挙しようとするときに、この噂のせいで曹操を敬遠する知識人が出てくるかもしれなかった。ただ、別に袁遺は曹操の人材発掘に打撃を加えようとしてやったわけではない。袁紹の郷里社会の評判に傷を与えようとしたとき、同じ豫州出身の曹操たちが巻き込まれたのであった。袁紹の本拠地・冀州でも冀州の名士で袁遺の推挙人の張超が噂を流している。

「本当に面倒なことをしてくれたわね。伯業」

 有能だと思っていたが、敵に回せば、これほど厄介な存在だとは思っていなかった。だが同時に曹操の中に袁遺が優秀で強いことに喜びの感情も存在した。

 それでこそ、私が認めた男よ。

 曹操の脳裏に感情の薄い袁遺の顔が浮かんだ。

「……洛陽に放った細作に成果はあったかしら?」

 思い浮かんだ袁遺の顔に、何かバツの悪さを感じた曹操は話題を変えた。

「いえ、未だ洛陽から帰ってきた者はいません」

「そう……仕方がないわ。恐らく、袁隗が手を貸しているのでしょう」

 申し訳なさそうにする荀彧に曹操は言った。

 細作などと呼ばれる特殊技能を持った人間は自立心の強い職人的な気質を備えていた。秘密を扱い騙し騙されの事柄を仕事としている故に、信頼できるのは自分、もしくは極一部の仲間だけという風潮が彼らの中にはあった。

 そんな連中を上手く己の体制に取り込むには結局のところ高禄を以って抱える以外になかった。それには莫大な金が必要である。その点で言えば、大豪族の袁家で漢王朝の顕職を歴任した袁隗は彼らを飼う十分な余裕があった。また、漢王朝内を生き残るための情報収集にそんな者たちがいるという必要性もあり、袁隗は強力で強大な私的諜報組織を有していた。

 余談になるが、この分野は袁遺の苦手分野であった。

 彼が情報の有効性を理解していないわけではない。ただ単に他の袁家―――例えば、袁隗や袁紹、袁術のように顕職についているわけでもなく、広大な領地を持たない故にあの手の特殊技能集団を抱え込む余裕がなかったのだ。そのため、この分野では袁遺は温県の豪族である司馬懿に頼ることが多々あった。黄巾の乱のとき、司馬懿を洛陽に残したのはそういう理由もあったのだった。

「ともかく、今は連合を動かすことを考えるのが先決ね」

 曹操は言う。

 だが、連合で二番目に兵を持つ袁術が追い返されてきたのである。諸侯の腰はさらに重くなるだろう。それを達成するには一筋縄で行きそうもなかった。

 曹操は頭痛がした。

 しかし、意外な所からその援護射撃があった。

 

 

 今、群雄で一番の軍師陣を有しているのは、司馬懿・鳳統を有している袁遺でもなければ、周瑜・陸遜を有している孫策でもない。

 一番は袁紹であった。

 その陣容は田豊・沮授・許攸・郭図・審配・辛評・辛毗と分厚いものになっている。

 だが、この軍師たちは己の力を十全に発揮しているとは言えなかった。

 かつて、雛里がまだ見ぬ司馬懿と得意分野が競合していることに暗澹ある未来を想像したように人には競争意識というものがあり、それを制御する術を学ばなければ一生を台無しにしてしまう恐れもある。そして、それは勉強のできるできないではない。現代でも良い大学を出て責任ある地位にあるいい大人が人間関係において子供じみた感情や行動を見せることが多々ある。

 袁紹の軍師陣においても、それが当てはまり、各々が足を引っ張り合っていた。

 そして、袁紹は軍師たちが起こしているそれに気付いていなかった。

 確かに袁紹には良い意味でも悪い意味でも鈍感なところがあるが、それだけではなく軍師たちも主君にそれを上手く隠しているのだった。つまり、ニコニコ笑いながらも、机の下では足を蹴り合っている状況である。

 それは袁紹がかつてないほどの怒りを込めながら、軍師陣に袁遺軍……というより袁遺撃破の策を立てることを命じた、この状況でも同じであった。

 しかし、軍師たち個人の能力は本物であり、それぞれの主張や思惑が入り混じった策であっても、できあがったものは秀逸な作戦計画であった。

 計画を聞かされた諸侯も、それを認めざる得なかった。

 まず、今までの戦闘から考えて、袁遺軍は巻を駐屯地として、原武・陽武までの道に警戒網を張り巡らせている。

 これは連合を各個撃破するのが目的であり、連合としては兵数で相対的有利を確保して進まなければならない。だが、全軍をひとつの道に集中させれば戦列が伸び渋滞を起こし、それこそ各個撃破の機会を相手に与えてしまう。

 だから、相対的な優位を崩さない程度に軍を分ける。軍師たちの予定は軍をふたつに分けるつもりであった。

 そのふたつに分けた軍を各個撃破しようと出て来た袁遺軍に攻撃された軍は袁遺軍を相手に戦闘拘束を行い、その間にもう一方の軍が袁遺軍の背後に回り包囲、挟撃する。

 策自体は単純なものだが、軍を動かす計画自体が優れていた。

 袁遺が四万の軍を戦場まで動かすのに工夫に工夫を重ねて苦労していたように連合側にも全軍を動かす場合、その手の苦労がつきものだった。そして、連合側は袁遺の約五倍である。必然、袁遺より多くの苦労をしなければならない。

 それを袁紹の軍師たちはやり遂げた。

 秀逸な行軍計画ね。

 曹操は発表された計画を見て思った。

 彼女が思った良い点のひとつは奇襲に対して騎兵を中心とした遊撃部隊を編成していることだ。

 これは運動戦を行っている軍隊の攻撃は有利な状況で奇襲的に行われることが多いということを理解し、奇襲の最大の要素であるショック効果をできるだけ薄くしようとしているのだった。

 諸侯が遊撃隊の存在とその支援を期待できると知っていれば、例え奇襲されても、遊撃隊が来るまで持ちこたえようと精神的に余裕ができる。指揮官の余裕は重要な要素だ。何度か触れたが、兵は指揮官を存外によく見ており、同じ気持ちを抱く。余裕がない指揮官は余裕がない兵を作る。余裕がないということは冷静さがなく、周りと合わせることができず、攻撃も防御も散発的になる。戦力の集中が重要な軍隊でそれは致命的だった。

 もちろん、不満な点もある。

 部隊の先発隊の人選だった。

 曹操軍が片方の先発隊となっている。

 まあ、これはいい。軍が進むのはこちらも歓迎すべきこと。このくらいのことなら目を瞑るわ。だけど、もう一方の先発隊の人選はどういうことよ!?

 曹操は顔には出さず、不快感を感じていた。

 もう一方の人選は橋瑁・劉岱・王匡の三人の軍を合わせた部隊だった。それぞれが八〇〇〇~九〇〇〇の兵を引き連れていて、約二六〇〇〇ほどの部隊となる。

 これは袁紹が後々、敵となる諸侯の力を削ろうとしているのが目に見えていた。

 反感を生み、士気を下げるわよ。これじゃあ……

 先鋒隊は事実上の威力偵察部隊であり、袁遺軍の発見と情報収集、それに遊撃隊および後方の部隊が戦場に到達するまでの時間を稼ぐ役目がある。厳しい状況になるのは目に見えている。となると重要なのは戦意である。

 曹操は袁紹を見るが、その袁紹は発表している計画に酔っていて、それに気が付かなかった。

 確かに計画だけでいえば壮大だった。約9万と9万の部隊による挟撃。曹操としてもこれだけ大規模な作戦に関わったのは初めてである。

 よくできた壮大な計画……ただ、相手が悪すぎた。相手は外線作戦と内戦作戦の概念を理解した相手だった。袁遺は一八〇〇年先の定石を以って雛里を相手に囲碁で勝ったように、一八〇〇年先の軍事知識を以って連合に挑もうとしていた。

 

 

 連合が部隊をふたつに分け、進撃してきた報告を受けたとき、袁遺と軍師たちは即座にふたつの可能性を思い描いた。

「あわわ、読み違えれば大変なことになりますよ、伯業様」

 雛里が主に忠告した。

 それに主の袁遺より張遼が反応する。

「一体、どういう意味や?」

「敵の目的です。それを読み違えた場合、危機に陥るということです」

 袁遺が答えた。

「考えられる敵の作戦目的はふたつ。分けた両軍でこちらを包囲し殲滅する。もしくは、一方の部隊でこちらと拘束戦闘を行っている間に巻……いや、いっそのこと洛陽まで軍を進め、都を確保してしまう。それぞれ対処するための方針が違いますから、読み違えた場合、殲滅させられるか手遅れになるかしてしまうんです」

 危うい状況であるのに話す袁遺の顔は無表情であった。

「どう思う?」

 袁遺は軍師たちの発言を促した。どっちが連合の目的か問うたのだった。

「……先鋒は橋瑁さん、劉岱さん、王匡さんの混成部隊と曹操さんです。前者が原武方面から、後者が陽武方面から進んでいます」

 初めに口を開いたのは雛里だった。

「これらは袁紹さんの後々、敵となる諸侯です。となると、この作戦を立てたのは袁紹さんの陣営ということになります。袁紹さんなら伯業様の書簡によって伯業様の命を狙うはずですから、こちらの挟撃からの殲滅が目的ではないでしょうか」

 袁遺は雛里の意見に納得できた。しかし、不安は拭えない。

 袁遺は敵の目的がどちらであっても基本は内戦作戦で対応するつもりでいるが、彼は内戦作戦が崩壊した例を知っているからだ。

 だが、あまり長く悩む贅沢は袁遺に許されていなかった。長く悩めば将たちに不安を与えるからだ。

「陳宮殿はどう思いますか?」

 時間を稼ぐ意味と自分と近くない人物の意見も聞いておきたかったため董卓側の軍師の陳宮の意見を求める。

「音々も鳳統と同意見なのです。袁紹は後々、敵になりそうな諸侯を消耗させつつ、こちらの殲滅を狙うはずです」

「……司馬懿、君は?」

「同意見です。袁紹の感情云々を抜きにしても、兵理で言えば、洛陽より軍勢を狙うはずです」

 決戦主義か……好みじゃないな。

 袁遺は仲達の答えに心の中で思った。

 戦争を終わらせるには相手の戦争継続の意思を挫くことが肝要である。

 その手段として敵の主力に大損害を与える。

 それは戦闘能力の減少、もしくは喪失に当たるため、敵は戦争の継続を断念せねばならない。理屈は通っているはずだ。

 孫子では敵の企みを挫くのが戦いでは最良とされ、次は敵の同盟関係を壊し、次は敵の兵を倒すことであり、最後に敵の城を落とすこととしている。確かに、軍勢と城(拠点)なら軍勢を撃破することは兵理であった。

「……そうか」

 まだ不安はあるが、軍師たちの意見は覚悟を決めるには十分であった。

 袁遺は連合に放った細作によってもたらされた情報をまとめた書簡に目を通してから言った。

「各個撃破して連合の進軍を止める」

 袁遺は宣言した。

「どうやって?」

 張遼が尋ねる。彼女は、いい加減に袁遺のある意味で華雄以上の積極性に慣れていた。

「おそらく、九万はそれぞれに行軍上に起こるだろう混乱に対して何らかの対策をしているでしょうが、どうしても解決できない問題があります。そこを上手くついて両軍の連携を崩します」

「何だ、それは?」

 華雄が尋ねた。

「後方連絡線が長くなることです。こればかりはどうしようもありません」

 無線はおろか有線電信の発明は約一六〇〇年先のことである。その開発、発達までこの手の問題は軍に付きまとった。

 だが、袁遺はひとつ嘘をついた。どうしようもなくはない。解決手段はあり、それを知っていたが、あえて言わなかった。それはそれで大きな問題が出てくるからだった。

「敵は原武と陽武の二方向の最も広く整備された道を通って、こちらを誘うように進んでいる。張郃。君の部隊は敵の両軍の間の道に進み、敵の先鋒隊同士の連絡を分断しろ」

 袁遺はそう言ってから、地図を示し、言葉を続ける。

「我々主力の強襲予定地点と敵の進軍速度を考えて、両軍の間に潜り込め」

 袁遺は命じた。

 こうすることによって、先鋒隊同士の連絡は後方を通して行わなければならず、その足並みが乱れる。

「御意」

「その間に我々が橋瑁・劉岱・王匡の混成部隊を撃破する」

「その時間を稼ぐために私の部隊は曹操に対して遅滞戦闘を行えばいいのですね?」

 張郃が言った。軍事的常識である。

 だが、袁遺はそれを否定した。

「違う。こちらから曹操軍に対して攻撃を仕掛けてはならない。交戦は徹底的に回避しろ」

「なにーーー!! それはどういうことだ!?」

 それに反応したのは張郃ではなく、華雄であった。

「戦わないだと!?」

 顔を真っ赤にして詰め寄る華雄に対して袁遺はいつもの無表情であった。

「黄巾の乱で私は曹操軍の戦うところを見ましたが、その兵の練度、強さは諸侯の中でも一、二を争います。そんな軍と戦うのは余計な被害を出すだけです。はっきり言って、何の意味もありません」

 彼の声には明確な力があった。他者に自分の意志を伝え、それを確実に実行させ続けてきた者だけが持つことができる力だ。

 華雄は握った拳を震わせているが、それでも言葉を発することができなかった。

 これが袁遺と華雄の違いであった。

 華雄は積極的と言うより好戦的であり、袁遺は積極的と言うより積極性を求められる場面において、それを発揮しているだけであった。負けるなら戦わない。兵理である。

「もし曹操軍と接敵した場合、遅滞戦闘ではなく、ともかく逃げろ」

「……兵を伏せていると思わせる等の動きは?」

 張郃が尋ねた。

 彼は、例えばわざと蜘蛛の子を散らした様に隊列を乱して潰走したように逃げて見せる。ただ見つかっただけで、そのように逃げるのは普通考えられないから、伏兵の所まで曹操軍を誘っているように誤解させることで時間を稼ぐ動きを言っているのである。

 だが、袁遺はそれさえも禁止した。

「いや、曹太守は英明で兵法に通じている。その手の欺瞞に簡単に乗るとは思えない」

 戦場で組織的に逃げるというのは、かなり難易度の高い戦術運動であった。

 よほど手練れた指揮官が兵たちの気持ちを掴んだ下知を下さなければ、それはたちまち潰走と区別がつかなくなる。

 であるから、余計な動きをして曹操軍に付け入られる隙を作るのは愚の骨頂と言えた。

 ただし、袁遺はそのことを張郃にストレートに伝えるわけにはいかなかった。

 そのまま言えば、それ即ち、お前にそれを行うだけの実力がない、と言うのと同義であるからだ。

 張郃のプライドを慮ったときに、そんなことは言えるはずもなかったし、武官筆頭の張郃を雑に扱えば、あの一番長く仕えている張郃でさえこんな扱いか、と他の部下たちの不信を買うことになる。

 だから、あくまで問題は張郃ではなく、曹操が優秀だから、それを行うな、と言わなければならなかった。ただし、袁遺が曹操のことを優秀だと思っているのは事実であり、むしろ、それは過大評価気味でさえあった。

 それに袁遺は、隙を作るような真似をしなければ逃げ切れると判断しており、それは困難な組織的な逃走という任務を張郃ならやり遂げれるだろうと考えている証左でもあった。袁遺は決して張郃を過小評価してはいなかった。

 袁遺は確かに自他共に認める仕えにくい主であったが、決して部下の心情を介さない主ではない。

「分かりました」

 答えた張郃に袁遺は、頼むぞ、と言って続けた。

「我々は橋瑁・劉岱・王匡の混成部隊を撃破した後、急速に戦場を離脱する」

「常に勝てる勝負しかやらん、ちゅうわけか」

「そうです」

「……ひとつ聞いていいか?」

 張遼が言った。字面にすれば普通にしゃべっているようだが、イントネーションは日本で言うところの関西弁である。

「何です?」

「今、どっちが有利なんや? それいまいち分からんのや」

 張遼の問いに複雑な笑みを一瞬、浮かべてから袁遺は答えた。

「正直な話、それは誰にも分りません」

「ええ~どないことやねん」

「それが運動戦ですから。戦争が終わる、その瞬間までどっちが有利でどっちが不利か分からない」

「難儀な戦やな」

 張遼の言葉を袁遺は肯定した。

「ええ、そうです」

 袁遺の表情は相変わらず無表情であった。

「他に何か質問は?」

 彼は皆を見渡し、続けた。

「ないようなら、速く出陣準備を。何しろ敵が来ている」

 声には、ただ事実のみを告げる冷たさがあった。

 

 

 袁遺軍と橋瑁・劉岱・王匡の混成部隊の戦闘は袁遺たちの奇襲から始まった。

 強襲された混成部隊は袁遺の予想より素早く陣形を整えた。だが、その戦闘陣形は決して良い物ではなかった。

「その陣形はまずいだろう」

 誰にも気付かれぬように袁遺は呟いた。

 それが袁遺の三諸侯の部隊の第一印象であった。彼は三諸侯の軍の編成の脆さを読み取った。

 袁遺が袁術との戦いでの張郃隊と華雄隊の防衛的戦闘で違う勢力同士の境界線に気を遣ったが、彼らはそれについての認識が甘かったのである。

「各隊に伝令。呂布隊、張遼隊は相手の諸侯同士の境界を攻撃し、突破しろ。華雄隊は張遼隊の、陳蘭隊は呂布隊の開けた突破口を拡張して前衛を崩せ」

 袁遺の下した命は、すぐに実行に移された。

 呂布と張遼の率いる騎馬部隊は(あやま)たず突破を果たした。そして、華雄隊と陳蘭隊がそれに続いた。

 だが、袁遺の予想していたよりも敵の陣形は乱れていない。三軍内、どこかひとつが潰走とまではいかないが、及び腰になると彼は考えていたのだ。しかし、彼らは予備兵力を投入して軍を支えていた。

「伯業様。敵は全軍で奇襲に際して何らかの対応をしている可能性があります」

 雛里が袁遺に言った。

「なるほど、予備兵力をこんなに早く投入するわけだ」

 以前に述べたが、予備兵力は最後の盾である。故に、それが簡単に投入されることはない。だが、三人の諸侯はそれをあっさりと投入してきた。まるで、ここさえ凌げればいい、といった感じに。

 袁遺は無表情で戦場を見渡したが、内心では苦い思いであった。

 時間がない。すぐにでもこの混成部隊を撃破して離脱しなければ、恐らく奇襲対策に後方に配置された騎兵を中心にした部隊が援護に向かってくるはずだ。そうなれば、曹操の部隊もやって来て挟み撃ちだ。

 そんな袁遺の元に二五騎の騎兵が駆け込んできた。

 張郃隊からの伝令であった。

「伝令、張郃隊、曹操隊軍と接触、撤退します」

「ご苦労。以後、こちらの部隊の指揮下に入れ」

 袁遺は努めて泰然とした様子で言った。だが、内心、面倒なことになった、という思いだった。

「……こちらも予備隊を投入するか?」

 袁遺が軍師ふたりに尋ねた。彼の手元にはまだ雷薄隊が残っている。

「いえ、それは何の意味もありません」

 仲達が即座に否定した。

「そうだな」

 袁遺もすぐに納得した。

 彼とて司馬懿の言いたいことは承知していた。敵の前衛は混乱しており、予備隊に防がれているとは言え呂布隊と張遼隊が敵の本陣に肉薄している。だが、今、予備隊を投入しても敵を完全に崩すことは出来ない。袁遺もそれは分かっているが、自分の中にあった僅かな迷いを断ち切るために聞いたのだった。そして、仲達が袁遺の思った通りの答えを返してくれた。

 ただし、彼の次の言葉は袁遺の予想の斜め上を行くものだった。

「予備隊だけでなく、本隊も予備隊と共に敵に攻めかかるべきです」

 大胆を通り越して危険な進言であった。

 予備隊だけでなく本隊も戦場に投入されるなら、敵を崩せるだろう。もちろん、リスクもある。まず、本陣が危険に晒される。万が一にも袁遺、司馬懿、鳳統の首脳陣が討ち取られた場合、誰も運動戦下の指揮を取れる者がいなくなる。それに袁遺の予定では予備隊は撤退時の支援に回されるはずだった。それがなくなるとスムーズに撤退できなくなる。だが、仲達の提案は効果的だった。それは提案された袁遺も仲達の同僚の雛里も認めることだ。

「雷薄隊に伝令を出せ。相互支援しながら敵本陣を叩く」

 そして、その効果を認めたら、袁遺に迷いなどなかった。

 袁遺隊と雷薄隊は陳蘭が拡張した突破口を抜け、呂布隊と張遼隊と共に予備隊に襲い掛かった。

 強さで言えば、彼らふたりの兵は呂布や張遼の麾下の兵には敵わない。だが、袁遺たちの部隊の戦い方は強いというより巧い戦い方だった。

 袁遺軍の下士官、将校は実戦経験者、それも何がしかの見所がある者で固められている。そんな者たちが長安で雛里、仲達という袁遺と言う複雑極まりない主君の下で軍師をやっている者の立てた訓練をこなし、徹底的に判断力を鍛えられている。敵からすれば悪夢の様な連中であった。

 彼らの什長(二五人の部隊の隊長)が敵の僅かな隙を見つけると兵を率いてそこに突っ込む。それに気付いた卒伯(一二五人の部隊の隊長)が増援を送り込み、それをさらに大きくして突破していく。また、袁遺隊と雷薄隊は交互に支援し合い、両部隊は深く深く敵陣に進攻していく。

 呂布隊や張遼隊が大きな衝撃と共に振り下ろされる槌なら、袁遺隊と雷薄隊は素早く浸み込む水であった。

 三諸侯の最後の盾である予備隊は崩壊した。

 そして、それが橋瑁らの戦意の崩壊でもあった。

 予備隊が窪んだことにより戦場には彼ら本陣の手勢を展開して戦うだけの余地はなくなっており、戦術的常識で言えば撤退して無傷の軍勢を多く残した方が再起を図れる可能性が高かった。たとえここで無理をして手勢をすり減らして勝っても、後に袁紹に攻め滅ぼされる未来しかなかったからだ。

 彼らは撤退の銅鑼を鳴らした。

 しかし、彼らは円滑に撤退することができなかった。

 三諸侯が全員、我先にと動いた結果、混乱が起きたのだ。

 その混乱の中で王匡は貧乏くじを引くハメになる。

 彼は部隊の位置の関係で最も撤退が遅れることとなり、崩れ去った予備隊を突破した呂布隊と張遼隊から激しい攻撃を受けることとなったのだ。

 

 

 それは強さという概念が戦場を疾走しているようであった。

 呂布である。

 体格の良い馬を駆り、人中の呂布と称賛されるその力を存分に発揮していた。

 方天画戟が唸りを上げて翻る度に連合の兵が泉下の人となる。

 歩兵が頭から縦に真っ二つになる。

 戟の長柄の部分で(なぐ)られた騎乗士が(かぶと)ごと頭蓋骨を叩き割られる。

 呂布隊の強さは説明のできない不思議な強さであった。

 呂布を先頭に戦うことは張遼隊と同じであったが、張遼隊が張遼を先頭に部隊全体が一匹の獣の様に戦場を縦横に駆け巡る強さであるのに対し、呂布は隊を率いて強くするというより、呂布がただいるだけで隊が強くなるのであった。

 それは呂布が戦闘で暴れ、敵を蹴散らすから、その勢いに乗って隊が強くなるといった風でもない。人の理解の外にある強さである。説明ができないし、説明をする必要がない、それが呂布の強さであり、戦場での呂奉先そのものであった。

「……フンッ」

 呂布の一撃は、やけに土汚れた歩兵の首を飛ばした。

 その歩兵は落馬した王匡軍の屯長(五七〇人の部隊の隊長)であり、屯長がまるで雑兵の様に討たれたことが王匡軍の混乱の度合いを示していた。

 そんな自軍の窮地を救うため、王匡軍の武将のひとりが名乗りを上げた。

「我は河内の方悦なり!」

 方悦は槍をしごき馬を駆って進み出た。

 呂布がそれに反応する。

 両者は接近した。互いの武器が届く間合いである。

 先に動いたのは方悦であった。

 穂先に反射した陽光が線を引く様に煌めく。

 その瞬間、火花が散った。

 方悦の鋭い一撃を呂布の方天画戟が弾いたのだった。

 方悦は上半身の体勢が崩されながらも、腿で馬体を締めて馬をコントロールし致命的な隙を作らなかった。

 しかし、渾身の一撃を難なく防がれたどころか、弾かれた衝撃の大きさで手に痺れが走る。

 それだけで自身と呂布の絶望的なまでの実力差を理解した方悦は折れそうになる心を気力で何とか支えた。

 もし自分に蜘蛛の糸程度の細い活路が残されているとすれば、それは最後までわずかな望みを捨てぬことだ。

 だが、方悦の勇気はあまりに圧倒的過ぎる武力の前に意味をなさないものであった。

 次に飛来した袈裟掛けに振り下ろされた方天画戟の一撃を方悦は何とか防いだが、それはただ命が取られなかったというだけで、その衝撃を方悦は受け止め切ることができず、体勢が崩れた。馬さえも後ろ脚を震わせている。

 そんな方悦を刺突が襲った。

 その一撃が方悦の分厚い右大腿部を貫通した。戟の穂先は大腿を貫いた後、軍馬のひばらにさえも深く突き刺さった。方悦は串刺しになる。

「おのれ、これしきの……」

 歯を食いしばりながら、痛みに耐えようとした方悦であったが、深手を負った馬が跳ね上がった。

 その瞬間、呂布は戟を引き抜くと方悦は串が外れる形になり、馬上から投げ出される。

 方悦は何とか起き上がろうと踏ん張るも大腿動脈を穿たれ、大量の血液が大地を赤く染めている。それだけの量の血を流せば、筋肉を動かすことができなかった。

 四撃目の呂布の攻撃は方悦の胸に深々と突き刺さった。

「グフッッ!」

 彼は口から吐血する。目は虚ろで、四肢から力が抜けた。

「……陳宮」

 呂布は方天画戟を抜き、戦場では常に近くに侍る軍師に命じた。

「はいなのです!」

 陳宮は敬愛する天下無双の主の意図をすぐに察した。

「雑兵に首級(しるし)を取らせずに、丁重に首を落とすのです!」

 陳宮は配下に命じる。

 それは彼女なりの敬意だった。

 方悦が討ち取られたことにより、王匡軍の混乱はさらに大きくなる。

 その混乱で呂布隊と張遼隊の撤退地点の確保を行っていた袁遺はあることを思い出した。

 そうか、三国志演義では袁遺は呂布に方悦を討ち取られ、混乱した王匡軍を橋瑁の軍と共に呂布から助けたんだった。

 演義通り、王匡軍は混乱の坩堝であった。

 しかし、演義で彼らを助けに来た橋瑁の軍は王匡軍と共に混乱し、むしろ撤退していた。そして、もう一方の袁遺軍は演義とは逆に王匡軍と対決している。

 それは王匡の命運が尽きたことを表していた。

「伯業様、撤退地点の確保はもう雷薄隊に任せて、本隊は撤退に移ってください。これ以上、本隊を戦闘に参加させることは撤退時に余計な混乱を招きます」

 王匡軍の頼りなさげに揺れる二本の赤い旗に王匡の命運を感じていた袁遺に司馬懿が進言した。

 袁遺の本隊は予備隊が行うはずであった撤退の援護を支援していたのだった。

「確かに潮時だな。撤退の銅鑼を鳴らせ!」

 袁遺が命じた。

 袁遺軍は順番に撤退に移っていく。

 撤退する前、袁遺は再び戦場の王匡軍に目をやる。

 そこにはさっきまで確かにあった二本の赤い旗―――大将の存在を示す門旗がないことに気付いた。

 袁紹の軍師たちが組織した騎兵を中心とした遊撃部隊が潰走する軍を発見したときには、もうすでに袁遺軍は撤退の最中であり、それを追撃しようにも潰走する味方が邪魔で追うことができなかった。

 そして、乱戦の最中に諸侯のひとりである王匡が命を落としたことを知った。

 結局、遊撃隊はおびただしい数の人馬の屍の中で呆然とする以外何もできなかった。その屍の内、どれが王匡のものであるか、それを判別することは不可能であった。

 

 

 王平は張郃の副将格に就けられた日から、様々な不安と恐怖を感じていた。

 まず初めは、こんなんでいいんだろうか、という思いだった。

 とりあえず食うために入った軍で、ある日いきなり指揮官候補に抜擢され、いくつかの訓練をこなしていたと思えば、突然、袁遺の筆頭武官である張郃の副将になっていた。もらえる報酬も増えたが、こんなトントン拍子に上手くいっていいのかな、という思いも強くなった。

 彼女と兵たちの関係も悪くない。

 異民族出身ということで反感を買うかと思ったが、それは殆んどなかった。むしろ、妙な信頼を受けていた。その信頼は謂わば、犯罪の共犯者に対する信頼であった。

 以前に話したが、王平は疲労を考えた場合に達成不可能な訓練を処罰にならないギリギリの範囲で省くことがある。袁遺が行軍の速さと疲労に気を遣い、見栄えなどにこだわらないことを知ってからは隊列を維持させた後は殆んど自由に歩かせた。歩調もまあまあとれていれば良しとした。だが、規則を守っているとは言い難いことであった。だから、共犯者に対する信頼である。

 王平は要領が良かった。そして、部下たちはそれを持った上官の下に配属されたことに感謝した。それは軍隊で勇気などより必要とされる才能であった。だから、兵たちはその才能を持った異民族出身少女を助けてやろうと自然に考えた。

 訓練をこなし、長安で匪賊討伐で指揮官として実戦も経験、そして、この反董卓連合との戦いに参加して、王平は思った。

 楽しい。戦争にのめり込んでいる自分がいる。

 同時に、そのことに恐怖した。何かいけないことのように思ったからだ。

 彼女にとって良いことか悪いことか、そんな思いを抱いている者が他に隊にいた。

 王平はチラリと傍らに控える男の顔を盗み見た。

 中肉中背で妙な愛嬌がある王平に就けられた下士官で皆から(のう)とあだ名される男だった。

 彼は読み書きができない王平のために就けられたのだった。もちろん、ただ読み書きができるだけではない。袁遺の軍の中では最も優秀な下士官であった。彼は才能はあるが経験が少ない王平を補佐することを袁遺に言い渡されたのだった。

 王平は今、張郃の命令により警戒任務に出ている。

 連合の両隊の間の道に入った張郃隊の主な任務は横の連絡の妨害と曹操隊の動きを監視することであった。

 前者は一度、橋瑁・劉岱・王匡の混成部隊から出発した伝令部隊を殲滅したことで達成し、時間は稼いだ。後は曹操軍が移動するだろう最短の道で軍が来るのを待ち、それを袁遺に知らせ、逃げるだけであった。

 王平は警戒線を構築することを選択した。

 周囲の地形をうまく利用する。林に散開させて配置。ただし、分隊長に報告できるだけの距離で。丘の稜線に姿を隠し、さらにその後方に王平自身が二個分隊と共に着く。

 初め、彼女はこの分隊も林に伏せさせる予定でいた。その方が警戒線の範囲が大きくなるからだ。

 だが、彼女の下士官がそれを止めた。

「全員配置してしまえば急場に困ります。ある程度のまとまった兵は手元に置いておくべきです」

 言われてみれば、その通りだ。そう思って、王平は素直に従った。

 彼女は自分の経験がこのおしゃべりという意味のあだ名を持つ男に及ばないことを知っていた。経験豊富な下士官の言うことは素直に聞いておいて損はない。

 そこで敵を待つ間に、王平はこれまでのことを色々と考えてしまったのだった。

 彼女は盗み見た下士官の経歴を思い出していた。

 彼もまた自分と同様に戦争にのめり込んでいる者である。

 この下士官が袁遺と知り合ったのは陳蘭、雷薄、高覧より先であった。

 袁遺が鄚県の県尉のときであり、彼が県令を丸め込んで出した賊討伐の募兵に応募したひとりであった。

 彼は農家の五人兄弟の末っ子であった。味噌っかすである。

 だから家を飛び出した。だが、すぐに食うに困り、この募兵に飛びついたのであった。

 幸運なことに彼には才能があった。もちろん、袁遺の下で見出された才能である故に、力の強さといった類のものではない。要領が良かったのである。

 それに目を付けた袁遺は彼に自身の裁量で判断するような役割を任せるようになった。その際に袁遺は彼に読み書きを教えたのだ。読み書きができる方が何かと便利だからである。

 その後、彼は県尉という枠を超えて袁遺を慕うようになっていく。そういった点では張郃と同じであるが、袁遺が喪に服すため故郷に帰ったとき、彼らは違う行動を取った。

 張郃は、そのまま袁遺に付き従い部曲として農耕と訓練に明け暮れた。対して、喃は戦場から離れることを選んだ。

 彼は決意に決意を重ねて、そのことを袁遺に告げた。

 袁遺は喃が拍子抜けするくらいあっさりとそれを承諾した。

 戦場で自分の裁量で判断する役割とは、その判断の如何で兵の命がかかっているということだった。その精神的重圧が並大抵でないことを袁遺は知っていた。そもそも、その頂点にいるのが袁遺であるから、当たり前と言えば当たり前のことである。

 袁遺は彼の希望に応じて、伝手を使って職の世話をしてやった。

 喃は徐州の牧場に勤めることになった。

 といっても、動物の世話が仕事ではなかった。

 彼の雇い主は老人と言ってもいい年齢の偏屈な男であった。

 その老人は幽州まで馬の買い付けに行く。牝馬六頭、牡馬二頭を買い、道中に種付けして、生まれた仔馬を育てる。そして、それを調教して馬商いで生計を立てていた。馬は基本的に気性を穏やかにするため去勢する。だから、また種馬と肌馬を買い付ける。これが老人のサイクルであった。

 老人の道中の護衛。種馬肌馬の買い付けの交渉。飼育、調教の際の諸経費の計算と庶務。そして、調教した馬の売却の交渉。これが喃の仕事であった。

 幸運なことに彼には商才があったようで、老人の牧場は大きくなった。偏屈な老人とも上手くやった。そもそも仕えにくい上司を持つのは初めての経験ではなかったからだ。むしろ、常に自身の能力の限界を求め続ける男よりマシとさえ言えた。

 人も増え、責任も増した。だが、同時にその責任に相応な報酬も得られるようになった。働く男としての充実感もあった。

 順風満帆と言えたが、突如、彼は仕事を部下に教え込むと牧場を去った。

 彼が向かった先は別れたはずの袁遺の元であった。

 喪が明け、仲達に会い、袁術の元へ向かおうとしていた袁遺に幸運なことにその前に会うことができた。

 彼を見た袁遺は無表情な顔に僅かに困惑を宿しながら言った。

「……あのおしゃべりと呼ばれていた男か?」

 それを肯定してから喃は続けた。

「もう一度、あなたの下で働きたいのです」

 袁遺は訳を聞いた。そして、喃はそれを話した。

 お陰様で商いで良い生活ができるようになりました。確かに、つらいこともありましたが、それは戦場でも同じです。ですが、思い出すのです。客や同僚に愛想よく笑っていると隣で並んでいた戦友が腹を刺されて上げる断末魔を。街中を歩いていると敵を待伏せしようと姿を隠しているときに嗅いだ土と草の臭いを。金勘定をしていると敵を刺したときの感触を。鮮明に思い出してしまうんです。

 それを聞いた袁遺は、この男にしては珍しく、部下の前で頭を抱え、困った顔を隠さなかった。

「君は所謂、生まれついての兵隊だ」

 袁遺は言った。

 この世にごく少数存在する天性の兵隊。彼は天から与えられた商才を同じく天から与えられた軍人としての資質で台無しにしていた。

「君は長生きできんぞ。もし、私の部隊が敵に囲まれた場合、君は決して逃げはしない。どころか一歩も退かずに戦うだろう。その代わり、真っ先に死ぬのは君だ」

 かと言って、生まれついての兵隊であることを自覚してしまったこの男は、娑婆で幸福な生活を送れるとは思えなかった。彼は戦場に自分の居場所を見つけてしまったのだった。

 純粋に彼を心配する裏で袁遺の打算的な部分は損得勘定を始めていた。

 おしゃべりという意味の喃とあだ名される男は兵をまとめることに長けている。兵に恐れられながらも恨まれることはなく、兵に好かれながらも嘗められることはない。精神的重圧から一度、戦場を離れたが、袁遺はそれについてもマイナスの査定をしていない。そういった状態で無理に戦場に立ち続けると、揃えられた穂先の脅威や降り注ぐ矢の脅威がむしろ重圧からの解放に思えるようになるからだ。本人はともかく、それに巻き込まれる上司、同僚、部下は堪ったものではない。彼は自分の状態をコントロールできていたのである。

 人非人の腐れ外道めッ! 結局、俺の行きつく先はそんなところだ。

 袁遺は心の中で自分に呪詛の言葉を投げかけた。

 役に立つ。その一事で、使い方を間違えると悲惨な最後を遂げる男を作ろうとしている。傲慢極まりないことであった。

 しかし、口からは喃が仕えてくれることを歓迎する言葉が出ていた。

 役に立つ。つまりは、実利主義であり、袁遺の根底にあるものだった。

 こうして、おしゃべりとあだ名される男は仕えにくい主人の下に戻ってきた。

 ただし、彼の立場は精神的重圧の方が重い将校ではなく、肉体的重圧の方が重い下士官だった。この時代、これらには細かい区分はなく、喃はそれをあっさりと受け入れた。それに彼は同じ兵をまとめるにしても将校より下士官の方が向いていた。

 その大まかな経緯を知らされた王平は、この下士官に自分の未来を見た気がした。

 やるせない思いが表情に現れそうなのを我慢しながら、王平はそれを振り払うように気を引き締めた。

 と同時に林に伏せている分隊から合図が届いた。剣を使って陽光を反射させて知らせるそれは曹操軍の到来を意味していた。

 王平は、伝令に稜線に上手く姿を隠しながら張郃に知らせるように命じた。

 そして、残りの部隊も姿を隠す様にして、撤収に入らせる。

 王平は緊張感の中で確かな充実感を感じていた。

 

 

 まずいな。今、私は戦争にはまっている。

 

 




補足

・ひとり当たり少なく見積もっても約一キロ
 ものすごく雑に計算しています。
 殆んど麦と塩のみので一日に必要な3000キロカロリーを出した計算なので、他の食べ物でやれば数字が変わってくると思う。

・孫子にも糧食は敵地にて賄え、と書いてある
 孫子作戦篇三と四
 糧を敵に因る。
 故に智将は務めて敵に食む。敵の一鍾を食むは、吾が二十鍾に当たる。

・橋瑁、王匡、方悦
 橋瑁、文献によっては喬瑁とも。実際、私が読んだ三国志演義では喬瑁の表記だった。正史では公文書を偽造して反董卓の檄文を作った。袁遺の酸棗での酒飲み友達その1。
 王匡。三国志演義では本文中にあった通り、袁遺にとって活躍らしい活躍をさせてくれた人。王匡が桃園三兄弟の前座の前座。袁遺と橋瑁、それと公孫瓚が前座。そんな感じ。正史では別の場所で董卓軍に軍を壊滅させられている。この物語では彼の死は実は色々と因縁を残すことになる。
 方悦。三国志演義の架空の人物。河内の名将←本当にそう書かれている。まあ、次の文書で呂布にやられているんだけどね。

・警戒線を構築する
 小隊(五〇人くらい)で約一〇〇メートルの範囲が警戒できる。


次の更新がいつになるかは自分でもわかりませんが、気長に待っていただけますと幸いです。



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16

16 反董卓連合(後)

 

 

 行軍の最中、曹操軍は異様な緊迫感に包まれていた。

 彼女たちは酸棗を出発し、州境を越えて陰溝水を渡ろうとしているところである。

 予想では、袁遺軍と戦闘になるなら、この渡河のタイミングであった。

 河は強力な防御線である。それを利用して袁遺が進軍を阻んでくる可能性は十分に考えられた。特に今、戦の主導権は袁遺にあり、連合にない。

 こうなってくると袁遺が虎牢関という天下の城塞に籠ることを択ばず、野に出ることを択んだ理由が曹操には分かってきた。

 主導権を得るためである。

 その証拠に今までの殆んどの戦闘は袁遺が戦う場所と時間を選んでいる。もし、袁遺が虎牢関に籠っていたら立場は逆であった。籠城側は敵が攻めてくるのを待っているだけで、連合側がいつ戦いを仕掛けるかの選択ができた。

 だが、その選択権は袁遺が持っている。

 渡河中に攻撃はなく、曹操軍は無事に河を渡ることができたが、今度は河を渡る後続の部隊のために渡河点を確保し続けなければならない。

 曹操は全部隊に戦闘隊形を組ませる。

 兵の練度は連合に参加する諸侯の中では随一であり、混乱が起きることなく陣形が組まれた。

 今、渡河している部隊は騎兵を中心とした遊撃部隊(公孫賛軍が中心で袁紹軍から騎兵約三〇〇〇の増援を受けている)であり、その部隊が渡河し終わった後に張邈と鮑信の混成部隊が渡る。さらに袁術の部隊が続く予定になっている。

 渡河中の部隊に混乱はないが、それでも規模が規模なだけに歩みは遅い。

 時間がもったいない。今、こうしている間に伯業は連合の動きを掴み、部隊を整え出撃しているかもしれない。

 曹操は焦れた。ただし、それは内心に留められ、表は普段通りの覇気に溢れる英俊である。

 そもそもこれから先、おそらくもっと行軍速度は遅くなるはずであったから、ここで苛立ってはいられない。そう思って気持ちを無理やり切り替えた。

 例えば、この陽武の地は兵を伏せるには最適の地である。

 太古より黄河は氾濫を繰り返してきた。そして、それは支流にも及んだ。

 この黄河の支流が交差する地には、その影響で奇景が作り出されている。氾濫が引いた後、黄土が残り、波の様に起伏した土地になったのだ。

 些か余談になるが、かつて、陽武のすぐ南の博浪沙という場所でその起伏に隠れ、ある復讐者が雇った刺客と共に暗殺を試みた。少し歴史を知っている人なら察したと思うが、その復讐者とは後に天才的な作戦家として名を残す張良であり、狙われたのは巡行中の始皇帝である。もちろん、これは失敗に終わっている。

 それはともかく、奇襲を受けやすい場所でそれを警戒しながら進むのだから、その歩みは必然、遅くなる。

 これは、もちろん陽武周辺の地形による効果であるが、袁遺が劉備・公孫賛相手に無茶をして稼いだ戦果によってもたらされたものでもあった。

 あの大胆というより冒険的な運動で連合側は巻から原武・陽武の間の全ての道が危険なものであると判断していた。

 それはもう一方の九万の軍も同じ認識であり、その行軍速度は曹操の方に輪をかけて遅いものだった。

 原因は先鋒隊の練度の差と混成部隊という点、それに士気の差であった。橋瑁・劉岱・王匡の三人からすれば、明らかに袁紹に使い潰されているようで面白くない。ただ、結局、その士気の低さで袁遺に叩き潰される結果になったのだから、ある意味で自業自得であった。

 そして、橋瑁・劉岱・王匡の三諸侯が叩き潰されている間、曹操軍は張郃隊を追いかけていた。

 曹操に原武方面の軍、その先鋒隊が交戦に入ったという情報は後方から届けられた。

 そこで初めて曹操は横の連絡線が分断されていたことに気付いた。

 急いで袁遺軍の挟撃に向かう最中、曹操軍(の前曲)は自分たちの前を行く二〇〇〇くらいの軍勢を発見した。

 初め、それは横の連絡線を分断し、今は遅滞戦闘を行おうとしている部隊だと曹操と彼女の軍師である荀彧は判断したが、前曲の報告から、その部隊が戦わずに逃げていることを知り、囮の部隊で伏兵が置かれている場所まで誘い込むつもりではないかという思いが芽生えてきた。後代の言葉で言うところのキルゾーン戦術である。

 だが、曹操はその目で実際に敵部隊を見て、その考えを否定した。

 あまりにも整然と、そして素早く逃げているからだ。

 もし敵を、この場合、曹操軍をキルゾーンに誘い込むなら敗走を装うだろうし、あんな風に追撃隊を振り切るような速さで行軍するはずもなかった。

 張郃隊は速いといっても、部隊全員が長距離マラソンの如くに駆けているわけではない。それは殆んど潰走に近い状態であるからだ。彼らは縦隊を組み、隊列が崩れない程度の速さを維持しながら進んでいる。

 となると追いかける曹操軍の前曲(夏候惇の率いる部隊)も同じである。

 彼女の部隊も隊列を維持して張郃隊を追いかけている。

 夏候惇と張郃、互いがそれぞれの勢力の武官筆頭という立場である。このふたりの能力は、それぞれの主の戦争観を如実に表していた。

 もし、夏候惇と張郃が同数の兵を率いて向かい合い、兵站の条件が同じで戦った場合、勝利するのは夏候惇である。同数で向かい合ってそうなのだから、少数で後ろから喰い付かれた場合は、きっと目を覆う結果になるだろう。

 だが、それは夏候惇が追い付ければの話であった。

 部隊の移動速度は張郃隊が夏候惇隊を上回っていた。

 それは兵の足が速いというより、部隊の運動力が高いと表現するものであった。

 以前に述べたが、袁遺軍の部隊の方向転換は早い。

 張郃が右の道を指示すると楽隊は軍鼓のリズムを変え、騎乗士がやにわに走り回り細かく指示をする。

 部隊は瞬く間に隊列を組み直し、部隊の向きを変えた。素早い戦場運動であった。

 曹操は自分の認めた相手との戦いを楽しみ、それを上回ろうとする。対して、袁遺は強いと認めた相手とは戦いを避け、相手が自分より弱くなったときに初めて戦いを仕掛けるのであった。その戦争観が両者の能力にそのまま出ていた。

 曹操は夏候惇に追撃の中止を命じた。

 張郃が逃げている場所が、どこか気付いたからだった。

 張郃は巻に向かって逃げている。このまま、それを追えば、袁遺部隊の包囲からの挟撃は不可能になる。

 だが、曹操がもう一方の部隊と合流したとき、袁遺軍の姿はなく、ただ味方の人馬の死骸と救援というより戦後処理をしている味方遊撃部隊がいるだけであった。

 そして、この戦いで諸侯のひとりである王匡が乱戦の中で散ったことが知らされた。

 

 

 橋瑁・劉岱・王匡の混成部隊を撃破した袁遺の本隊も巻へと引き上げ、張郃と合流した。

 そこで袁遺は司馬懿と鳳統の軍師ふたりを呼び、その知謀を借りようとしていた。

「率直に聞くが、巻を放棄することは可能だと思うか?」

 袁遺の問いかけに軍師ふたりは困り切った顔をした。

「……可能か不可能か、と問われれば、可能でしょう」

 雛里が言った。

「ですが、将の皆さんが納得しないと思います」

「やはりな」

 袁遺も同意した。

 巻の放棄はこれまでの戦闘の勝利と成果を捨てるのと同義であるからだ。

「……理を説いてもダメだろうな」

 袁遺は呟く。

 それに雛里も仲達も何の反応も返さない。

 この手の人間観察の領分を侵されることは、この主が嫌うことのひとつであるからだった。

 今、袁遺の手元に戦の主導権があるのは曹操が考えた通り袁遺が虎牢関に籠らずに野戦に討って出たからであった。

 そのせいで連合は袁遺がいつ隙をついて攻めてくるか警戒しなければならず、隙を突かれた場合、どのように対処するかを考えなければならない。一種の心理戦でもある。

 巻の放棄もそれであった。

 敵の攻勢の出鼻を挫き、主導権がこちらにあることを見せつけたうえで巻を放棄することで、再び敵に考えさせる。

 そうやって主導権を握り続けることが連合相手に負けない、たったひとつの手段であると袁遺は考えていた。

 もちろん、タダで巻を連合にくれてやるわけではない。それなりの代償は払わせるつもりであった。

 だが、それでも将たちが納得するであろうか。袁遺は思考を走らせる。

 俺の子飼の将は納得するかはともかく、必ず了承する。それが軍隊だからだ。だが、董卓側の将はどうだ。彼女たちは謂わば董卓の好意によって借り受けた者たちだ。俺の命令を何でも聞くわけがない。問題は華雄か……いや、張遼だ。彼女は軍監であり、俺の指揮権の埒外にいる存在でもあるわけだ。だが、何としてもやらなければならない。

 袁遺には断固たる意志があった。

 軍の規模で負けているのは絶対的な事実である。連合側の進軍計画はそれを最大限に生かした計画であった。

 消耗戦に引きづり込まれた場合、先に音を上げるのは袁遺である。となると、巻の陥落はそう遠くない出来事であり、陥落するより放棄する方が士気に出る影響は少ない。

 と言っても、本当に我が軍師に聞きたいことは巻が放棄できるかでもなく、その仕方でもない。別のことなんだけどな。もし、軍師たちから何の策も出てこなかった場合はもう少し、巻で粘ることにしよう。

 袁遺は一瞬、自虐の様な複雑な表情をしてから口を開いた。

「……鳳統、司馬懿」

 名前を呼ばれたふたりは主が一瞬見せた表情から、次に出てくるであろう言葉が面倒なことであることを予感して気を引き締めた。

「二万の兵で袁紹の六万の軍を撃破できるか?」

 

 

「どうなりましたか、桃香様?」

 関羽が自分の主に尋ねた。

「うん、すぐに軍を整えてこのまま進むことになったよ」

「やはりそうですか」

 主の言葉に一番に反応を示したのは尋ねた関羽でなく、軍師の諸葛亮であった。

 今、劉備は諸侯の軍議から自陣に帰ってきたところであり、彼女を配下の将と軍師が出迎えたのだ。

 その軍議の場の雰囲気は重苦しいものであった。諸侯のひとり王匡が戦死したのだから当然のことである。

 そんな雰囲気の中で袁紹が作戦の継続を宣言した。

 諸侯はそれを当然のことと受け止めたが、何人かがどこか納得できない思いであった。

 劉備もそのひとりであった。

 何が納得できないか自分自身でも分からない。ただ、これで良いのかという朧げな不安がある。彼女はそれを晴らしたくて、やはりと言った自身の軍師に尋ねた。

「やはりってどういうこと?」

 諸葛亮は、え~っと、と前置きしてから続けた。

「まず、袁遺軍は奇襲的にこちらを攻撃して、痛打を与え、連合の勢力がひとつの戦場に集まる前に撤退するという各個撃破を基本方針に置いている。これは間違いのないことだと思います」

 諸葛亮はそこまで言うと一呼吸置いた。

「この各個撃破という方針を敵が取っているということを頭に置いておいてください」

「うんうん、それで?」

「そして、今、連合に参加した諸侯のうち糧秣の残余に不安がある人たちがかなりいるということです。はっきり言えば、私たちもそうです」

 その言葉に劉備は、あう~、と落ち込んだ声を出した。

「仕方がありません、桃香様。私たちは連合の中でも最も小さな勢力なのですから」

 そんな劉備に関羽は慰めの言葉を掛けた。

「それで、軍師殿。その食料の残りが少ないのと各個撃破が何の関係があるのだ?」

 趙雲が先を促した。

「はい。食料が無くなったら諸侯は……この周辺の住人から徴発を行うことになるでしょう」

 徴発という言葉を苦しそうに口にしながら諸葛亮は言った。

「徴発って食料を無理やり取り上げるってことだよね!? ダ、ダメだよ! それはッ!」

 劉備が大声を上げる。

 彼女は董卓が行っているとされる暴政に苦しむ庶人を助けるために連合に参加したのだ。その庶人から食料等を取り上げることなど絶対に許容できなかった。

「そうなのだ!」

 劉備の義妹の張飛も小さな体を目一杯広げて、それに賛同する。

「ふむ、それに連合は董卓の暴政を憂いて、結成されたのだろう。略奪はその名分を損なうことになるのではないか?」

 趙雲が冷静な意見を言う。

「その通りなんですけど、軍事的に見て一番の問題はそこではないんです」

「では、どこが?」

「連合の二○万近い人員と軍馬のお腹を満たすだけの食料がひとつの村にあるわけが絶対にないんです。特に黄巾党の乱や官の腐敗もあり、余剰物資があるところ自体限られています」

 例え、村中の食料を掻き集めても二〇万人分が集まらないとどうなるか?

「そうなると、軍を餓えさせないために分かれなくてはならないんです」

 そう、それぞれの村で賄えるだけの人数に分かれて進むことになるのだった。

「なるほど、それじゃあ、敵に各個撃破してください、と言っているみたいなものだな」

 関羽が神妙な顔付きをする。

「はい、そうです。さらに問題は敵がやって来ても援軍に行くことができないということです」

 略奪に頼る軍隊はイナゴの様なものである。行った場所の食料を残らず食い散らかす。それはつまり、一度通った場所にはもう食料がなく、二度と通れなくなるということだ。略奪できるものがないということは、餓えるということだからだ。

 袁遺が司馬懿の家の蔵を開かせてでも食料を確保した理由もここにあった。

 略奪に頼った場合、連合を奇襲する道が時間が経てば経つほど読まれやすくなってしまうからだ。

「ですから、袁紹さんは略奪を行わなくてもよい今のうちに連合が有利になるような戦いに袁遺軍を引きずり込もうとしているのです」

「にゃ? それってどんな戦いなのだ?」

 張飛が尋ねた。

「兵力差は圧倒的に連合の方が多いですから、いくら向こうが有利な状況で奇襲的に攻めてくるとは言え、先に軍が壊滅するのは袁遺軍です」

「つまりゴリ押しってことなのだ」

「う~~ん、ゴリ押しとは少し違うかな。ゴリ押しは戦えば戦うほど損害が増えるだけだけど、袁紹さんたちがやろうとしていることは戦えば戦うほどこちらが有利になる戦いだから」

 つまり、飽和攻撃や波状攻撃と言われる戦術である。

 それらは人的資源を効率的に消化する作戦行動であり、ゴリ押しはただ非効率的なだけである。

 実際、この袁紹の軍師たちの作戦は効果的であった。

 袁遺に巻の放棄さえ検討させている。

「それに袁遺軍が駐屯している巻には彼らの食料があるはずですから、それを奪えれば民から徴発しなくて済みます」

 諸葛亮の言葉には慰める様な調子があった。それは主君と自分自身に向けられたものであった。

 しかし、劉備の気持ちの靄が晴れることはなかった。

 彼女の迷いの根本は、この連合に大義があるか否か、ということである。

 今、彼女はそれがあるとは断言できなかった。

 この戦いが董卓の暴虐から漢王朝と民を救う戦いには思えなかったのだ。劉備には、この戦いは袁遺と袁紹の争いにしか見えない。

 もちろん、それは事実である。そして、袁遺自身が望んでそう仕向けたことでもあった。

 だが、劉備にはどうすることもできなかった。

 弱小である劉備の軍は、司馬懿の防御からの拘束戦闘と袁遺の挟撃により開戦当初の半数以下の数字になっている。それに上で述べたように物資も心許ない。漢王朝や民の前に自分たちを守らなければいけない状況であった。

 劉備は無意識のうちに眉が下がった暗い表情をしてしまっていた。

「桃香様、軍議では他にどのようなことが話されたのですか?」

 そんな劉備を慮ってか関羽が話題を変えた。

「あ、うん。亡くなった王匡さんの部隊は王匡さんと一緒に連合に参加した義勇軍の韓浩さんが率いることになって―――」

 他にも部隊の先鋒は曹操は変わらないが、孔伷の部隊が消耗した三諸侯の代わりに先鋒を行うということ等、軍議で決まったことを言っていく。

 劉備の不安は袁遺が恩師に基盤となる土地を捨てさせたことに対する罪悪感と似ている。

 袁遺は洛陽を発つ前、司馬懿に言ったように、それは連合と袁遺たちの戦いで起きるあらゆる事象のひとつであった。

 他にも袁遺が名声を損ねたことも、連合側の曹操も軍が自領に長く留まり、物価が上昇し、民の生活に大きな影響を受けたことも、この戦いで起きた事象のひとつであろう。そして、この事象は連合に関わった全ての人にも起こることであり、劉備にもまだ降りかかることであった。

 だが、当然のことだが、神の身ならざる彼女はそれを知る由もなかった。

 

 

 主の反応は荀文若にとって、まったくの意外でしかなかった。

 進軍を再開した連合で袁遺軍を最初に発見したのは曹操軍であり、その部隊の旗印は『袁』つまりの総大将の袁遺が率いていることを現し、その規模は一〇〇名位と後代の言葉なら中隊規模でしかなかった。

 こちらを誘っていることは、あまりにあからさまである。挑発的でさえあった。

 そしてさらに、そんな部隊に対して先鋒の夏候惇が突っ込んでいったことも知らされた。

「あのバカッ!」

 荀彧は思わず吐き捨てた。

 しかし、曹操は冷静であった。

「凪たちに春蘭の部隊と距離を詰めるように伝令を出しなさい。中軍もそれに続いて距離を詰めるわ。それと後方の公孫賛の遊撃隊と別働隊の孔伷の軍への伝令は少し待ちなさい」

「お、お待ちください、華琳様!」

 荀彧は言った。

「敵の動きからして兵を埋伏しており、そこまで我々を誘き寄せるのが目的のはずです! 先鋒は一旦、敵への攻撃を取り止めさせるべきです!」

 彼女の意見は常識的であった。

 それに総大将を囮にして、敵を釣るという策を荀彧自身が使ったことがあった。その戦いは荀彧が曹操の軍師となるきっかけの戦いでもある。

「伯業は伏兵でこちらを襲おうなど考えていないわよ」

 だが、曹操はあっさりとそれを否定した。

 何故なら、袁遺がそうであるように曹操もまた袁遺の戦争観を理解しているからだ。

「伯業なら、こちらが強く、隙を見せない間は決して戦わないわ。ただ、こちらを誘っているのは確かね」

 曹操はそこまで言うと少し考えてから口を開いた。

「こちらを誘ってどうするか? 桂花、あなたはどう思う?」

 その言葉には自分の軍師を試すような響きがあった。

「……こちらが包囲殲滅を狙っていることを敵は察しているでしょうし、総大将を囮にして、こちらを掻き回して包囲の陣形を乱し、薄い部分を作り、そこを部下たちの部隊で喰い破るつもりでしょうか」

 包囲されるのであれば、自分の有利なように包囲される。袁遺らしいと言えば袁遺らしい主導権の取り方と言えた。

「その可能性があるわね」

 そうなった場合、狙われるのは位置の関係上、袁遺の逃げる先を包囲することとなるもう一方の軍ということになる。

「公孫賛軍と孔伷軍、それと総大将の袁将軍に伝令を出すわよ。敵総大将の袁遺の部隊と接触、追撃する。ただし、敵の他の部隊は発見されていないから、その部隊の奇襲に注意するように」

 曹操は命じた。

 そして、自身の部隊も袁遺の追撃に向かったのであった。

 曹操は袁遺が自信を囮にすることに、如何に袁遺が追い詰められているか、ということを感じていた。

 自身を囮にするのは、あまりにも冒険的過ぎるし、あまりにも危うすぎる。

 おそらく、その自身を囮にするという策は失策成り得る。

 曹操は断定した。

 卓越した用兵家たる彼女は運動戦で、こういった相手が犯したミスを利用して戦うということを肌感覚で理解していた。

 包囲されたいなら、包囲してあげるわ。ただし、簡単にそこから抜けられると思わないことね。

 曹操の胸の内に高まる何かがあった。

 それは好敵手と渡り合っているときにのみ得られる興奮であった。

 

 

「かかれぇ!」

 勇猛と評すべきだろう。先鋒を命じられた夏候惇は袁遺たちを発見すると細かな戦芸を用いることなく、兵士たちを敵勢へと進ませた。

「ふん……」

 それに対して袁遺は呆れた様に鼻を鳴らす。

 それは、あまりにも不自然すぎる敵の総大将の部隊にも関わらず勢いよく突っ込んでいく夏候惇の蛮勇と、そんな三〇〇〇名近い部隊の突撃に、たかだか一〇〇名を超えた数字で矢面に立たされた自分に対して吐かれた悪態であった。

「我に続けぇ!」

 しかし、袁遺には、ただ呆れているという贅沢は許されない。

 彼は素早く兵士たちに命じた。

 その掛け声だけを聞けば何とも勇ましいが、現実は正反対であった。袁遺は尻に帆をかけて逃走を開始したのである。

 その光景に今度は夏候惇が呆れることになった。

 総大将が先頭を切って逃げていくなど、彼女の感性からすれば恥以外の何物でもない。

 だが、乗馬が苦手な袁遺は他人からどう思われているかなどと気にする余裕はなかった。

 彼は自分たちの現在位置の把握と敵との距離、そして、部隊の状況把握をしながら、馬を駆けさせているので精一杯であった。

 部隊全ては騎兵で構成され、その最後尾では雷薄が大声をあげ、部隊を駆り立てている。

 袁遺は進むべき方向を示しながら、腿が釣りそうになるのを必死で堪えていた。

 馬の疲労をできるだけ抑えるために鞍に腰掛けるのではなく、フラップに腿でしっかりとしがみ付いて前傾姿勢を取り、尻を少し鞍から浮かしている。競馬でいうところのモンキー乗りの形に近い。

 クソッ! 腿が釣りそうだ。馬の前に俺の体力が保たないかもしれない。ラクダだ。今すぐに俺の馬とラクダを交換してくれ!

 袁遺は心の中で叫んだ。

 体の構造上、馬よりラクダの方がこの乗り方はやり易い。

 ……精一杯だと思っていたが、こんなことを考えられるのだから、余裕があるのか? いや、それとも開き直っているのかな? まあ、どっちでもいい。

 そんなことを考えながらも袁遺は想定した道を進んでいく。

 彼は自分の一〇〇名くらいの部隊が縦列で進むなら問題はないが、一〇〇〇や二〇〇〇を超えるとたちまち渋滞を起こす道を択びながら進む。

 道は入念に調べ上げたため、間違えることはない。

 また、雷薄の大声が部隊の背中を押しているのか。今のところ隊のスピードは落ちてきていなかった。

 袁遺が目指しているのは巻であった。

 そのことに曹操も何となく気付いているが、取り立てて気にしてはいない。張郃も巻を目指して逃げていたため、袁遺軍ではそういう風に決められていると考えたのだ。

 しかし、巻を目指していることこそが袁遺にとって、包囲を破るための策であった。

 

 

 二万の兵で袁紹の六万の軍を撃破できるか? そう尋ねられた軍師ふたりは、その言葉に袁遺らしくないと思った。

 袁遺の言葉は漠然とし過ぎていた。常に明快な方針と命令を下す袁遺らしくない。

 そして、袁遺自身もそれを感じたのか、謝罪の言葉を紡いでから話を始めた。

「と言っても、これだけじゃあ、あまりにも状況が不透明すぎるか、すまない。だが、私自身もどうなるか、完全に想定することができないのだ」

「伯業様は何をなさるつもりなんですか?」

 雛里が尋ねた。

「敵の分断だな。戦略的でも戦術的でも」

「なるほど、伯業様は薪になるつもりですか」

 先に袁遺の考えを読み取ったのは仲達であった。

 彼の言葉に袁遺は、薪……と一瞬、考えてから、その軽口めいた例えの意味を理解した。

「ああ、そうだ。ははッ、良い例えだ。うん、私は絞にちょっかいをかけに行こうと思っている」

 そして、愉快な声で応じてみせた。

 付き合いの長いだけあって仲達は袁遺好みの表現を弁えていた。

「は、伯業様! それは危険すぎます!」

 絞という単語で雛里も、この変わり者の友人同士の会話の意味が分かり、声を上げた。袁遺がやろうとしていることは、あまりに危険であり、軍師の立場としては諫めねばならなかった。

「伯業様、薪を取りに出た楚の人夫三〇人はどうなりましたか?」

 それは同じ軍師である仲達も同じであった。

「……捕虜になった。ああ、だから、楚の武王と屈瑕(くつか)の例を出したのか。憎らしいくらい良く回る頭だな」

 口ではそう言いながらも袁遺は自分の安否に関してのことでは譲るつもりはなかった。

「だが、私は囮をやめる気はない。逃げる計算も立っている。自分の乗馬の力量を勘定に入れてもな」

 袁遺は自分の作戦計画を軍師たちに話し始めた。

 まず、袁遺自身が雷薄と卒(一二五名の部隊)を率いて、曹操軍と接触する。

 連合はすぐにこちらを包囲しようと動くから、その動きを読んで、筆頭軍師である雛里が率いる別働隊で袁紹軍を攻撃する。

「で、君たちには、その袁紹軍を兗州まで引き返すという判断をさせるだけの損害を与えることができるか? そう言いたいわけだ」

「……まず第一に曹操さんが誘いに乗ってくるでしょうか?」

 雛里が言った。

「乗ってくるだろう。彼女が置かれている状況から、そうせざる得ないはずだ」

 袁遺は即答して続けた。

「この攻勢に失敗し、司隷から追い出された場合、敗走した諸侯が一斉に陳留郡で略奪を開始するのが目に見えている。例え罠だと分かっても、私の首を叩き落として戦争の早期決着を望むはずだ。聡明で野心家の彼女なら、この連合が袁紹の嫉妬によって起こされたものだと分かったうえで連合に参加しただろうし、私が袁家同士の戦いに持ち込みたいということも読み切っている。だから、私の首を刎ねれば、こちらの戦争の継続が困難になることも読んでいる。まあ、この戦争において、張郃と私では命の値段が違うということだ」

 袁遺が死んだ場合、誰がその後の指揮を執るのかが問題になってくる。

 はっきり言うなら、誰も執ることができない。

 董卓側の武将からすれば、袁家同士の戦いということに利があるのだから、袁遺を総大将にしているのであって、それができなくなった時点で、袁遺側の武将に付き従う理由がなくなる。

 そして、それは袁遺側の武将たちも似た様なものである。

 張郃たちは袁遺だからこそ従っているのであって、呂布や張遼まして華雄などに従う理由もない。そもそも彼らは戸籍を持たない部曲である。袁遺の下だから指揮官として振る舞えるのであって、漢王朝の制度で言えば、彼らの身分は奴隷である。国のために戦うという意識自体希薄であった。

 また、雛里や仲達にしたところで、ここまで連合に有利が取れているのは袁遺が大まかな枠組みを考え、自分たちが細かな修正を加えた運動戦であるからこそで、その運動戦のなんたるかを理解していない者に指揮を任せることはできなかった。

 しかし、雛里が袁遺亡き後に総指揮を執ろうにも、董卓側の将が納得しない。仲達に至っては、雷薄を筆頭に張郃や陳蘭も良い顔をしないだろう。このふたりが武将の指揮を取れるのは袁遺の代理だからであり、袁遺が生きていてこそ可能であった。

 結局のところが袁遺軍は袁遺が死んだ瞬間に空中分解してしまう定めである。

 それを理解している曹操は、罠と知りながらも戦争の早期決着のために袁遺を殺す必要があった。

「それに、こちらの策を躱そうにも、一度動き出した作戦計画を変えることができる立場に彼女はいない」

 一度動き出した軍を止めることは大変な労力が必要であり、それを行えるのは総大将の袁紹ただひとりであった。

「それは分かりましたが、伯業様が包囲を抜けられるかは分かりません。仰られた通り、伯業様が討ち取られれば、そこで終わりです」

「分かっているよ、雛里。だから、巻の放棄だ。董卓と私、それに袁紹との関係は曹太守だから見通しているのであって、他の諸侯は違う。もちろん、ある程度は予想は付けているだろうが、袁司徒が徹底的に洛陽の情報を遮断しているために絶対的な確信は持てないはずだ。だから、曹太守と違い私の首の値段を付け間違えるはずだ。いや、私の首より簡単に手に入り、そこそこ価値のあるものを提示しやすい、と言った方がいいかな」

「……それで巻ですか」

 雛里も包囲網の破り方と巻の放棄の意味がつながった。

 他の諸侯が袁遺と董卓陣営の関係を完全に読み取れないなら、袁遺の首を取ったところで戦争終結に至るということは描けない。皇帝の確保か董卓を打倒すまで続くと考えた場合、確かに袁遺の首の価値を低く見積もる。

 実のところ、この関係を張邈もほぼ正確に捉えているのだが、彼女は彼女で袁遺を過大気味に恐れているので、この手の罠には決して飛び込もうとしない。

 他の諸侯が関係を読み取れないのは、袁遺に対しての理解度が原因である。

 曹操と張邈以外の諸侯は、まさか袁遺が漢王朝の存続のみを目的に戦っているなど考えていないのである。

 袁遺が何らかの野心のために董卓の傘下になり、戦っていると考えていた。彼の歪んではいるが深い忠誠心を知らなかったのだ。

 となると戦争継続に必要になるのは兵馬の食料ということになる。

 だから、袁遺は軍需物資のある巻を開け放ち囮として、諸侯をそちらに誘導しようというのだった。

 そのうえで袁紹軍を兗州まで叩き返して、連合を分断する。

 袁紹軍が兗州まで退がった場合、連合をまとめられる諸侯は一時的にとはいえ、いなくなる。

 曹操ならできそうではあるが、袁紹が兗州へと向かった場合、彼女は必然的にそちらに向かうことになるので、やはり、いなくなると言える。

 袁遺は、その間隙を利用して謀略を巡らすつもりであった。

 だが、そのためには軍師ふたりが袁紹軍を兗州に追い返せるかだった。

「それで袁紹を叩き返せるか? 無理な場合、次善の策を講じるつもりだが」

 袁遺は尋ねた。

 彼の言う次善の策は遅滞戦闘を行いつつの焦土作戦であった。ただし、物資の輸送等を考えれば、下手をすれば自軍も餓える可能性が出てくるため、出来れば取りたくない策である。

 軍師ふたりの答えは、できる、であった。

 雛里と仲達は連合の規模と戦意から考え、スムーズに行軍を行うことは不可能であり、後方に行けば行くほど渋滞を起こしていると予想した。

 それは事実であった。

 ふたりは軍を迂回させて、渋滞した袁紹軍、その中軍の横っ腹を突いて、兗州に叩き返すつもりであった。

 確かに渋滞していたのは事実であったが、ふたりの想定外のこともあった。

 それは袁紹軍の行軍速度があまりにも遅かったことだ。

 その結果、中軍の横っ腹を襲うつもりで機動した袁遺軍は袁紹軍の中軍の鼻っ面と対面することになったのだ。

 このとき、雛里は作戦の出だしがつまずいた不安よりも、これだけ袁紹軍の行軍が遅ければ、主である袁遺の包囲が不十分であるということに不思議な安堵感を覚えていた。

 袁遺軍は約二万三〇〇〇、対する袁紹軍は約五万(遊撃隊に一万近くの兵を割いているため、この数字)の戦いであった。ただし、互いに行軍隊形からの戦闘であり、互いが次々と戦場に戦力を投入し陣形を組み上げていく戦いになる。不期遭遇戦だ。

 指揮官に求められるのは鋭い洞察力と即断即決。兵力が劣る袁遺軍の最高指揮官代理である雛里には些細なミスも許されなかった。

 この双方が予期せぬ形で始まった遭遇戦で彼女は、ある証明を行うことになる。

 それは、彼女の小さな体に宿る傑出した戦術家の才能の証明であった。

 

 

 この戦い真っ先に切り結んだのは両軍の騎兵部隊であった。

 張遼隊四〇〇〇と呂布隊六〇〇〇が同じ騎兵を率いている淳于瓊隊五〇〇〇と蒋奇隊四〇〇〇にぶつかった。

 淳于瓊と蒋奇では用兵も武勇も張遼と呂布におよぶはずなく、戦線からはじき出されてしまう。

 しかし、だからと言って雛里に息をつく暇はなかった。

 袁紹軍の後続一万がやって来ているからである。

 そんな状況でも雛里の思考には一切の焦りも油断もない。

 彼女は伝令を素早く走らせる。

「張将軍と呂将軍に、はじき出した騎兵が北から再び攻撃してくるはずですから、それに備えるように! 東からの一万には華将軍の四〇〇〇と張郃さんの四〇〇〇で対処してください」

 雛里の指揮は大胆であった。兵力が足りない袁遺軍には、そうせざる得ない事情がある。

 彼女は地形と袁紹軍の進軍状況、それにこれまでの戦闘推移から、次の攻撃が北と東に集中することを予測して部隊を動かしたのだった。

 たとえ、その結果、南側面が、がら空きになろうともである。

 もし、予想が外れたならば、本陣が襲われることになり、一気に袁遺軍が崩壊する状況であった。

 しかし、雛里の予想は外れなかった。

 袁紹軍の攻撃は彼女が予想した通り、北と東に集中したのであった。

 東からの一万の攻撃を耐える間に、北の騎馬隊同士の再びの戦闘で張遼が蒋奇隊を潰走させ、その最中に指揮官である蒋奇を一刀のもとに斬り捨てた。呂布隊も呂布隊で淳于瓊隊を再び戦線からはじき出し、北の戦線を押し上げ、東の一万の部隊に逆包囲を掛け、戦線の安定を図る。

 だが、戦場の様相は目まぐるしく変わる。

 第二の後続部隊が弱体な南の袁遺軍右翼を襲ってきたのである。

「陳蘭さん!」

 雛里は間髪入れずに反応する。

 兵力が劣勢でも、遊兵になる可能性が高かろうとも、予備隊を必ず作っておくことは彼女が袁遺から受けた影響であった。

 そして、その陳蘭率いる予備隊が、たった今、袁遺軍の危機を救った。

 普段の陳蘭は、おどおどとした胆の小さな男であるが、血の臭い漂う戦場では頼もしいまでの度胸の座り具合になる。

 彼は浮足立ち、逃げ散ろうとしている兵たちの中に騎乗のまま乗り入れた。

 馬は足の骨を折れば、即、命に関わる。

 残り三本の足で自身を支えることができなくなり、蹄葉炎という病を発症する。そして、血液の流れが止まり、激痛に悩まされながら、衰弱死するのであった。たとえ、横たわっていても、地面に接する部分の肌が腐っていくため、結末は同じである。

 そのため、馬は本能的に障害物から逃げる習性がある。

 だから、彼の行動は危険なものであった。しかし、戦場で指揮官自らが勇武を示すのは軍勢を立て直す手段としては有効である。

「引くなぁ! 押せ! 押せぇぇぇ!!」

 陳蘭は大声を発する。

 彼と愛馬は恐怖と本能を剥き出しにして逃げ惑う兵に揉まれた。怯える愛馬を宥めつつ、彼は周囲に向けて叫び続ける。とびきり危険な行為であったが、同時に誰もが認めざる得ない勇気の発露でもあった。

 陳蘭は袁遺に見出された故に、力の強さというよりも要領の良さが長所であった。その要領の良さは兵に好かれる要因となった。だから、彼の行為は、たちどころに効果を現した。

 陳蘭の姿や行為、声に励まされ、兵たちはその場に留まる努力をした。

 その状況の変化を敏感に察した下士官たちは声を上げる。

「隊長を見ろ! お前ら、逃げるなぁぁ! 隊長に恥をかかせるな!!」

 彼らの怒声は努力を決意や義務感といったものに変えた。その場に留まろうとした兵たちは元の位置に戻ろうとしたのである。混乱は瞬く間に回復の様相を見せていた。

 軍隊として基本的な訓練が行き届いているかどうか、その真価は、こうした場面に発揮される。

 この光景は袁遺と彼のふたりの軍師、そして、四人の実戦部隊隊長の長安での努力の成果が花開いた瞬間でもあった。

 南の右翼の戦列が好転する中で、東の左翼と中央でも袁遺軍にとって有利な変化が起きていた。

 袁紹軍の陣形は知らず知らずのうちに後代の言葉で言う鉤型陣というL字状の形になっていたのだ。

 これは淳于瓊隊が呂布隊によって、押し込まれたのが原因で起きたことであった。

 彼の部隊が押されることによって、中央の袁紹軍一万の側面が呂布隊に突かれることになる。それを防ぐために淳于瓊隊を援護する戦列が新たに作られたのだ。鉤型陣はそもそも片翼包囲を防ぐために生まれた陣形である。それがこの場に再現されたのは何らおかしい話ではなかった。

 しかし、鉤型陣には明確な弱点がある。

 ひとつは間隙ができやすいこと。縦と横の戦列が乱れると繋ぎ目となる角の部分に隙間ができるのだった。そして、その角の部分は味方にも攻撃が当たるため、攻撃密度が小さくなる。

 淳于瓊隊がさらに押し込まれることによって、その間隙が袁紹軍にできた。

 そこへ蒋奇を討ち取った張遼が部隊を率いて突っ込んだのである。

 それを本陣で雛里と共に見ていた司馬懿は総大将代理に言った。

「本隊の向きを変えます」

 断定口調であった。

 彼の立場は本隊の戦闘将校である。

 雛里もその言葉と行為の意味は理解している。

「陳蘭隊に伝令。攻勢に移ります、敵中央が崩れるのに乗じて、右翼も戦線を押し上げてください。本隊もそれを援護します」

 数では袁遺軍が劣っている。そのため、どこかで攻勢に移らなければ、いずれ数の差で押し切られてしまう。そして、攻勢に移るなら、このタイミングしかない。

 戦場のさらに東に砂塵が見えた。

 掲げる旗からそれが袁紹軍の二枚看板である顔良と文醜を現していた。

 だがしかし、彼女たちの到着は遅すぎた。

 張遼が敵中央に深く切り込んだため、袁紹軍は大きく後退することを余儀なくされた。

 それに付け込み、中央と右翼でも一気に戦線を押し出す。すると袁紹軍の戦列は混乱し、顔良と文醜ふたりの部隊が満足に展開して戦える余地が戦場からなくなった。戦場の混沌がより一層激しくなる。

 その混沌の中で、呂布が淳于瓊を討ち取り、北の袁紹軍を潰走へと追い込んだ。

 北左翼の袁紹軍の潰走は東中央の袁紹軍へと伝播した。友崩である。

 こうなったら、袁紹軍は総退却に移るしかない。

 司隷―――特に原武・陽武~巻の間は危険地帯と連合の諸侯全てが考えているため、袁紹軍は酸棗まで引き返す。

 おそらく、たった一度きりであろう攻勢に移るタイミングを逃さなかったことが勝利の決め手であり、それを見逃さなかった戦術眼は雛里の才能を確かに表しているのだった。

 袁遺軍の損害は六〇〇〇。対して袁紹軍は一万九〇〇〇。

 遭遇戦ということもあり、戦線が安定するまで、どこも混乱による損害を出し続けたため、双方が大きな数字となっている。

 また、袁紹軍は撤退の際に戦列からはぐれてしまった行方不明者の数も大きかった。敗北した軍は士気が低下する。そうなれば、自棄になり規律を守るという意識が薄くなる。その結果であった。

 遭遇戦で二倍以上の敵を破るという大勝利を挙げた雛里であったが、その顔に喜びの色は薄かった。囮となった主の袁遺ことが気掛かりだったのだ。

 早く伯業様の無事を確かめなければッ……

「司令代行、意見具申いたします」

 そんな雛里に仲達が声を掛けた。

 こちらも大勝利の喜びの薄い戦場に不釣り合いな穏やかな顔表情である。

 その表情から次に発せられた言葉に雛里の顔から感情が消え失せることになる。

 そして、彼女は理解した。何故、彼が同僚から嫌われ、主からも警戒されているのかを。

 

 

 大魚を逸した。曹操の中で怒りが燃え上がる。

 袁遺に追撃を振り切られたのだ。

 袁遺は常に自分たちは通れるが、曹操軍が通れば渋滞を起こす道を選び、曹操軍から逃れようとした。

 だが、もう一方の連合軍が先回りし、袁遺を包囲できるはずであった。

 しかし、もう一方の軍は、袁遺を無視し兵が空っぽであった巻へと殺到していたのだ。それにより包囲に開いた大穴から袁遺は逃げていった。

 そして、曹操が怒りを抱きながら、巻へと入ったときに、その怒りはさらに燃え上がることになる。

 諸侯の兵たちは、我先にと袁遺軍の食糧庫から食料を奪い合っていたのだ。

 食料が少なく、また、橋瑁軍や劉岱軍のように敗北してタガが外れやすい士気の低い兵に潤沢な軍需品を前に我慢しろというのは難しい。だが、それを抑えるのが大将というものであろう。気高い曹操は強い嫌悪感を抱いた。

 さらに曹操軍の後に入ってきた袁術軍も、その略奪に参加したことによって、曹操は怒りを通り越して呆れかえるしかなかった。

 そんな彼女にとって最悪の報告が連合にもたらされることになる。

 袁紹軍が袁遺軍によって敗北し、酸棗まで引き返した。

「今すぐに兵をまとめなさい! すぐに酸棗に帰るわよ!」

 それを聞いた瞬間、曹操は叫んだ。

 敗北した軍が酸棗へと向かった。それはモラルを失った兵が自領へと解き放たれたということであった。恐らく、酸棗でも、この巻と同じ醜態があるはずであった。自領が荒らされている。

 曹操は強行軍で兗州へと引き返していった。

 彼女は焦っていた。絶対に行わせるわけにはいかない自領での略奪が行われていることに。

 そして、その焦りは彼女の隙であった。

 伯業なら、こちらが強く、隙を見せない間は決して戦わない。今、かつて言った曹操の言葉が当てはまらない状況であった。といっても、それを行ったのは袁伯業ではなかったが……

 ただ速さのみを重視する曹操軍の行軍隊形は乱れていた。戦列が伸び、分断しているところさえある。

 そんな軍の横っ腹を『呂』と『張』に旗を掲げる部隊が襲った。

 呂布と張遼の部隊である。

 その襲撃は曹操にとって、まったくの予想外のものであった。

 ここに袁遺軍がいるということは、袁遺の部下たちは袁紹を撃破した後、囮になった主の袁遺の安否も確認せずに、次の敵を求めたということになる。

 それはあまりにも冷酷すぎる。

 だが、袁遺の軍師のうちのひとりは深い情と冷酷な思考を平行して行うことができる人物であった。

 勝利の後、司馬懿は雛里に言った。

「袁紹軍が兗州に向えば、曹操軍は必ずそれを追いかけます。敗残兵たちは指揮官の統制から離れ、無軌道な略奪を行うからです。曹太守は、それをすぐにやめさせたい」

 彼の言うことは雛里も予想できることであった。それに袁遺自身もそういう予想をしていた。

 問題は仲達の次の言葉であった。

「ですから、曹操軍は最短の道を通るはずです。それを待ち伏せし、叩きましょう」

「…………」

 雛里は言葉が出なかった。

 彼女は仲達の言うことが正しいことを理解していたからだ。

 曹操を叩く機会は今しかない。

 そして、ここで曹操軍を叩いておけば、後々、自軍が有利になることも予想できた。

 何より、袁遺がこの手の将校の独断専行を好んでいる。

 だが、雛里は拭い難い不快感を感じていた。

 司馬仲達にとって今は、友人であり、主でもある袁遺も状況を作る一要素に他ならない。

 いや、伯業様もきっと司馬懿さんがご自分が囮であることを最大限に利用することを考えてらっしゃってたのかな。だから、一番、仲達さんと対立するだろう雷薄さんを連れて囮に出たんだ。

 雛里は思った。

 結局、仲達の進言通り、曹操軍を叩くことになった。その方法は長距離奇襲と伏兵であった。

 だから、曹操が軍の陣形を整えようと動いた先には当然の如く兵が伏せられており、前後からの挟撃が成功した。挟撃され、碌な陣形も取れていない状況では如何に曹操軍が精強であっても、それを発揮できない。被害はさらに大きくなる。

 曹操の本隊にも敵が殺到する。

「華琳様!」

 その敵兵を親衛隊の許褚と典韋が主には指一本触れさせぬと奮闘するが、状況は依然不利であった。

 このまま留まって隊形を整えようとすると、ただ損害が増すだけである。それを悟った曹操は自分のプライドが激しく傷つけられることを耐え、馬を走らせ、戦線からの離脱を行う。

 さっきまで袁遺を全軍で追いかけていたのが、今は反対に袁遺軍に追いかけられるハメとなった。

 大きな被害を出しながら、なんとか兗州の陳留郡まで辿り着いた曹操が見た光景は略奪が行われている自分が手塩にかけて治めてきた領地であった。

 しかし、それは仕方がないことであった。

 反董卓連合の事情を完全に読み切ったとき、曹操は名士たちを御す力のない董卓の自業自得として、己が野心のために連合に参加した。

 そして、それは曹操に返ってきた。

 連合に参加することによって起きる事象を読み切れなかった曹操の力のなさにある。

 

 

 ふと、曹操の脳裏に袁遺の無表情の顔が思い浮かんだ。その顔に怒りとも憎しみとも違う名状しがたい思いを曹操は感じた。

 

 




補足

・ある復讐者が雇った刺客と共に暗殺を試みた。
 張良さんさぁ、暗殺の方法が重さ30キロのハンマーを雇った力士に投げさせて車ごと始皇帝を押しつぶすって、さすがにファンキー過ぎない?

・競馬でいうところのモンキー乗りの形に近い。
 これを裸馬でやる騎馬民族は、流石としか言いようがない。後、本文中で袁遺が言ったようにラクダの方が体の構造上、やり易いが、スピードは馬より遅く。また、ラクダは体調を崩すとコブがしぼんでしまい。下手をすれば、馬よりやり難くなってしまう。

・楚の武王と屈瑕の例
 紀元前700年、楚の武王は絞を攻撃して、その城を囲んだ。
 莫傲(副宰相)であった屈瑕は武王にひとつの策を進言する。
 「今、城には物資が乏しく薪さえも困っているはずです。絞には軽率な人間が多く、すぐ図に乗ります。そこで護衛無しで人夫に薪を取りに行かせ、誘ってみましょう」
 絞軍は屈瑕の予想通り、城から出て人夫を捕虜にし薪を奪った。それに味を占め、翌日も同じように護衛のいない人夫から薪を奪おうと全軍が城から出て来たところを楚の伏兵が絞軍を打ち破り、楚は勝利した。
 これは孫子で言うところの『利して之を誘え』。利益を見せて敵を誘え、の好例である。
 あ、ちなみに屈瑕は、この後、調子に乗って、別の国を攻めるときに敵を侮って大敗して、自殺するよ。

・彼女の小さな体に宿る傑出した戦術家の才能の証明であった。
 この戦いはナポレオン戦争のイエナ・アウエルシュタットの戦いのアウエルシュタットの戦いをモデルに色々手を加えて作りました。
 萌将伝で雛里が銀英伝のヤンのパロであろう不敗の魔女っ子と言われていたから、じゃあ不敗つながりでダヴーの戦いを再現したけど、これを現実でやったハゲは、やっぱチートだわ。

 戦況図を作りました。読者の想像の一助になれば幸いです。
 
【挿絵表示】


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17~18

16 反董卓連合(後)に戦況図を付け加えました。
もし、よろしければ、見てください。

あなたにとって、プリンツ・オイゲンといえば、金? それとも銀?
私にとってはプリンツ・オイゲンといえば、チビでブサイクで、もじゃもじゃなカツラ被っているオスマン帝国やフランスと戦った人。
けど、エンタープライズといえば、スタトレなんだよな。
何の話してんだか……


17 春泥の思い

 

 

「こんなに簡単にいくなんてね」

 その声には皮肉めいた響きがあった。

 洛陽の司空府。その一室で袁隗と董卓、賈駆の三人が戦後についての話し合いを行っていた。

 彼女たちの様な内務官僚は基本的に戦争が始まってしまえば、ほとんど手を触れることができない。その割には責任だけを負わされる場合が非常に多い。そのため、彼女たちは戦争の経過について話し合うより、勝った場合と負けた場合どうするか、それを決定するのが役目だった。

 そして、その決定された政策のために漢王朝の重臣や名士たちに根回しを行ったのだった。

 それは、何の問題もなく呆気なく終わった。

 賈駆からすれば、洛陽に来てから、あんなに埒が明かなかったのに、袁隗が間に入っただけで、すんなりと終わったのだ。嫌味のひとつも言いたくなる思いであった。

 これは中華の地域性の問題であった。

 三国志で北と南の気候風土、住民の気質の違いを語られるが、東と西でも違いがある。

 董卓が洛陽で支持を得られなかったことや反董卓連合があれほど大規模になったのも、これに起因する。

 後漢の時代には、『關西出將、關東出相』という言葉と認識がある。『山東出相、山西出將』も同じ意味である。

 訳すなら、関西は将を出し、関東は相を出す、という意味だ。

 この関とは洛陽と長安の間にある函谷関のことであり、この以東と以西では気候や住民性が異なるのであった。この関の西からは優秀な将軍が出て来て、東からは優秀な宰相が出てくる。つまり、地域性と職業適正が関連するという考えである。南船北馬の東西版と思ってもらえばいい。

 だから、西出身の董卓が文官職の最高位の三公に就任するのが、東に勢力基盤を持つ諸侯や名士たちからすれば、面白くないのである。

 確かに連合の根本にあるのは袁紹の嫉妬であるが、諸侯の一部も袁紹ほど大きなものでないにしろその感情を抱いたのだった。

 もちろん、全ての諸侯が嫉妬を理由に参加した訳ではない。

 曹操は名を上げるために。袁術が参加したため参加することになった客将の孫策も名を上げ、独立し易くするという野心がある。劉備や公孫賛は純粋に漢室や民のために参加した。変わった理由として、張邈は曹操と袁遺が参加すると考えて、あのふたりと同じ陣営になるために参加したのだ。彼女は曹操は名を上げるために参加し、袁遺は都の袁一族を助けるため、時機を見て長安から洛陽に侵攻し、一族を救出して長安に立て籠もると考えたのだった。だから、張邈は袁遺の忠誠心の量を読み違えたことに背筋が凍る思いであった。

 そんな董卓と関東の名士たちの間を袁隗が取り持った。

 袁隗にとって、それは得意分野であると同時に彼の最も恐ろしい能力でもあった。

 政治の世界において、あるふたつの重りが天秤の両側に置かれ、そのどちらを重視するか政治家たちは選ぶ。

 ふたつの重りの名はそれぞれ『政策』と『政争』である。

 そして、大抵の場合、政治家たちは『政争』の重りをより多く乗せることを選ぶ。

 しかし、社会は『政策』の方に重りを多く乗せることを望んでいる。

 袁隗の最も傑出した能力は、その『政争』の重りを『政策』の重りに変えることであった。まさしく政治的魔術である。

 というのも『政争』も人間関係のひとつであり、その人間関係において競争意識を制御する術を学ばなければ、一生を台無しにしかねないことは以前にも書いた。

 それは『政争』にも言えることであり、袁隗は政治家たちが目指す目的を勝利から協調に変えることができる。正確に言うなら、協調が不可能と悟るから人は勝利を目指すのである。袁隗は、その協調が可能であると長く人に思わせることができるのであった。

 合理的か否かという視点から見ても、合理的であった。

 協調より勝利を目指した場合、その後に生じた問題全てを自分が背負わなければならない。それは高い確率で勝利で得た利益よりも大きなマイナスになる。そして、いつしか、そのマイナスは決して投げ出すことができない重い背負い荷と化す。

 だが、協調は違う。協調ができれば問題は多くの人が分担して負担することになり、結果として小さなものとなる。

 この『政争』と『政策』、協調と勝利に失敗した例をひとつ上げるなら、宋の新法党と旧法党の対立であろう。

 制度疲労等の様々な要因により赤字へと転落した財政を立て直そうとして新法党の王安石は効果的であるが多くの既得権益から、特権を奪う様な政策を行ったため、旧法党や商人、果ては太后からも反感を買うようになり、政界中枢から駆逐されることになる。その後、実権を握った旧法党も党内で協調することができず、それぞれの出身地や政策、個人的な好き嫌いにより朔党、蜀党、洛党の三つに分裂し、徽宗と蔡京の時代が来てしまう。そして、北方国境線の彼方の草原に戦塵が舞い、北宋の『突然死』が起こるのだが、話が脱線し過ぎたために、そろそろこの話題はここで止めておく。

 話を戻して、袁隗と董卓、賈駆の勝った場合と負けた場合の話し合いとは、この勝利の後に起こる問題についてのことであった。

 洛陽の漢王朝の役人や名士とは協調できたが、袁紹との協調は完全に不可能であるため、袁遺を使って勝利を目指すことになったが、勝利した後に必ず問題が起きる。国家経営や袁紹以外の連合に参加した諸侯をどうするかなど、それら全ては対処方法を間違えれば連合との戦い同様に漢王朝が潰れることとなる問題であった。

「ですが、本当によろしいのですか?」

 董卓が申し訳なさそうな声で袁隗に言った。

「何がかな?」

 袁隗が返した。

「勝った場合と負けた場合、その両方について、です」

 董卓が答える。その瞳には何か芯の強さの様なものがあった。

「負けた場合、袁遺さんに全てを背負い込ませてしまうことは……」

 董卓は語尾を濁らせた。心優しい董卓にとって袁遺に悪い印象はなかった。

 彼は長安で自分たちの軍勢に宿を貸し、食料を分け与えてくれた。それに袁遺からすれば、長安で兗州と司隷の間で行われる連合と董卓軍の戦いを様子見し、その趨勢を見て一気に洛陽を強襲した方が簡単に利益を上げられたはずだった。それなのに彼は家名を破り、従妹の袁紹と戦っている。

 その上、負けた場合、彼の死後の評価まで汚すのは、あまりにも気が引けるのであった。

 親友である賈駆なら、袁家から出たことなんだから袁一族の袁遺に責任を取らせればいい、と言うが、董卓はそれが嫌だった。彼女は袁紹に事実無根の悪名を着せられたのである。それなのに袁遺に事実無根の悪名を着せるのでは、袁紹とまったく同じということになる。

 人にされて嫌なことは人にはしない。善人過ぎる董卓には、それが当たり前のことであった。

「伯業自らが言い出したことだ。司空が気にすることなど何もあるまい」

「ですが……」

「それが伯業なりの敗戦の責任の取り方だ。それに伯業が負けた場合、司空たちは命は助かるが、その官職や位階、勲等は取り上げられることになる。それはそれで代償としては小さくない」

 袁隗の声には大人が子供を諭すような響きが含まれていた。

「では、勝った場合でも司徒は本当に司徒を辞任されるつもりなんですか?」

「それが唯一、先帝の名誉を傷付けずに済み、多くの名士から支持を得られる方法であるからな。それに辞任すると言っても代わりに太傅に就く。そちらの方が位は高いぞ」

 袁隗はお道化たような調子で言う。

 だが、確かに太傅は三公より位は高いが実権などほとんどない名誉職である。そのため事実上の降格に近い。それでも、袁隗の言ったようにそれが唯一、先の皇帝である霊帝の名誉を傷付けず、名士からの支持を取り付けやすい方法であった。何故、そうなのかは後で詳しく話す。

「それより問題は財政と本初以外の諸侯に対して、どのような対応をするかだ。財政は国庫に金があるのが不思議な状態だし、そんな財政で諸侯全てを敵に回すなんてことは不可能だ。それについて、そちらには何か妙案はあるのだろうな?」

 袁隗はふたりを見据えた。

 その眼差しには魔物の巣窟である社稷を生き抜いてきた袁隗だから持てる迫力と強さがあった。

「それについては厳しいけど何とかするわよ」

 袁隗のそれに若干気圧されながらも賈駆が答える。

 しかし、袁隗は強かであった。賈駆には期待はしたが、まったくの無条件で信頼した訳ではなかった。

 もし、彼女たちが効果的な手を何ら打つことができなかったら、伯業を頼ることになるだろうな。そうなると、あの甥はさらに権力を握ることになるか……

 袁隗は、ただ単純に不安と言い切ることのできない複雑な感情が胸の内に広がるのを感じた。それが広がる感触は、ただただ気味の悪いものであった。

 彼は伯業が漢王朝への忠誠やその思い、その決意の言葉を口にするのを何度も聞いたことがある。

 自分は死ぬまで漢朝の臣でありたい。漢王朝を滅ぼしてたまるか。これらの言葉は袁隗はもちろん、袁遺の部下たちも聞いてきた。

 些細な……あまりにも些細なことだが、袁隗にとって、棘となり心に刺さっている違和感があった。

 その違和感の正体とは、袁伯業という男が忠誠心を語る対象が全て漢王朝であり、皇帝と言ったことが一度もないことである。

 皇帝とは天意を受けて(たとえ、そういう建前であっても)即位するのだから、王朝=皇帝と捉えても良い。そういう意味で袁遺も漢王朝という言葉を使っているかもしれない。

 だが、袁隗は素直にそう捉えることができなかった。

 袁隗の気持ちを現代の言葉に意訳するなら、

 袁遺にとって、袁遺自身も袁隗も皇帝さえも王朝というシステムの一部に過ぎず、現帝に問題があれば、それを排して、他の帝位継承者をたてるのではないか。

 という不安であった。

 わしの気のせいか……

 袁隗は自問した。

 彼は確かに練られた人間だが、自分を完璧な存在だと思っていない。いや、練られた人間故に人は間違いを犯すし、人の本質を読み違えたりもすることを承知しているのであった。

 わしの弟で袁遺の父の本質も読み違えた。

 袁隗は、ふと弟のことを思い出した。

 袁隗の弟で袁遺の父親である男は名門袁家の一員としては、あまりに凡庸であったし俗物であった。

 袁隗の弟に政治的才能はまるでなかった。どころか、名士としての責任感でさえも欠けているように思えた。

 彼の長所は人としての情を多く有していることくらいしかなかった。本人は詩家として名を成したいという夢を持っていたが、彼の作る詩歌は凡庸であり、どうもそれで名を成すことは難しそうだった。

 しかし、彼は諦めきれずに足掻いた。

 例えば、遥か西の彼方に行き西域の歌を聞いたという者がいれば、彼を招き、それを聞いた。楚の知る人も少なくなった古い歌を知る老人がいると知れば、それを聞きに行こうとした。高位の役職に就いていないとはいえ名門袁家の者であり、そう易々と旅をすることは許されなかったため、人をやってそれを覚えさせ、汝南の屋敷で演奏させた。

 果ては名士なら読まぬことが誇りとされる稗史雑書の類も掻き集めて読み漁った。

 それらは袁家の財産で行われたため、この行為に眉を顰める者もいたが、袁隗は弟のことが嫌いではなかった。

 凡庸で俗物ではあったが、決して卑しい男ではない。いや、人間という生き物は必ず卑しさを持って生まれてくる。問題は、その持って生まれた卑しさの見せ方、示し方であり、弟はその卑しさの見せ方は気分の悪いものではない。そう思っていた。

 その弟が変わったのは息子が生まれてからであった。

 後に遺と名づけられる袁伯業、その人である。

 袁遺の誕生を彼は心から喜んだ。情なら人一倍有している。彼にとって息子は限りなくかわいい存在であった。

 そして、その息子が稀有な才能の片鱗を見せたときの彼の、はしゃぎ様はすごいものであった。袁遺が成長するにつれて、彼は今まで収集した各地の歌を袁遺のために演奏してやり、様々な書物を袁遺の望むままに見せてやった。

 これが原因かどうか袁隗は判断がつきかねたが、袁遺の詩は典故が多い作風となった。

 幼くして私塾で学び、年上ばかりのそこで、常に主席の座を譲らなかったときなど、親馬鹿の見本の様に振る舞った。

 だが、袁隗からすれば袁遺に多大な才能があることが不安であった。

 袁家の序列というものがあるからだ。

 袁隗自身も兄の袁逢より才能があり、先に三公の司徒となったが、常に兄のことを立ててきた。

 それと同様に袁家の序列で言えば、袁遺より年下の袁術や袁紹の方が上であり、そのふたりは袁遺に比べれば凡庸であった。

 そんな彼女たちに、袁遺は自分同様、大きな才を鼻に掛けず序列を守ることができるか、それを心配したのである。

 しかし、その心配をよそに袁遺は袁術と袁紹のことを常に立て、謙虚な態度を貫いた。

 それでもなお、袁遺に踏み絵を踏ませたくなるのは袁隗という人間の能力の限界であった。

 洛陽に遊学した袁遺に宿を貸した袁隗は時機を見て、袁遺に言った。

「伯業、お前の官職の世話は、わしがしてやろう」

「ありがとうございます、叔父上」

 そう答えた袁遺の感情の薄い顔を袁隗は観察した。

 このとき、袁隗は司徒であり、十常侍ほどではないにしろ強力な権力を誇っていた。そんな叔父に官職の世話をしてやると言われたのだ。普通なら、高位の官位をくれるのか、と色めきたってもいいはずであったが、袁遺は普段と何ら変わらない様子であった。

「冀州の河間郡鄚県の県尉は、どうだ?」

 そして、それは県尉という品秩が最も低い官職を言い渡されても変わらなかった。

「どうだ?」

 袁隗は再び問うた。

「はい、謹んでお受けします」

 礼を言い頭を下げる袁遺に袁隗は、面白くなさそうに言った。

「わしの腹の内を読んだか」

「……どういうことでしょう?」

「とぼけるな。吝嗇だと思ったろう?」

「いえ、無駄がないなと思いました」

「ふん、言いおるわ」

 この手の冗談を介するのは良いことだ。ただ同時に恐ろしくキレる頭だ。こちらの考えを全て見通しおった。まったく、あの弟の息子がこれほどまでとは……

 吝嗇とは袁隗が品秩が最も低い県尉の職を出したことではない。

 袁遺は、おそらく将来、冀州のどこかの郡の太守か冀州刺史に袁紹か袁術を就かせようと袁一族が画策しているのだと予想をしたのだ。県尉として賊の掃除をさせ、袁紹なり袁術の統治を行い易くさせておく。

 袁遺に踏み絵を踏ませながらも、その踏み絵を他の利益と連動させる。だから、袁遺は無駄がないと言ったのである。

 袁隗は甥の本質を見極めようとした。どのくらい時間が掛かっても構わない。袁遺の才能の大きさとそれがどこへ向かうかを見極めなければならない。

 県尉となった袁遺は県令を丸め込んで兵の徴募を行うという強引なところもあったが、それ以外は堅実に職務をこなしていた。

 それは間諜から常に袁隗に伝えられた。

 優秀な奴だ。それが報告を受けた袁隗の甥に対する感想であった。

 袁遺は軍事だけではなく、政治的なバランス感覚も兼ね備えていた。

 その証拠に袁遺は徴募を行う前に、鄚県の名士である張超と親交を持ち、彼に草書の手解きを受けている。

 袁遺が県令を丸め込んで出した兵の徴募には、喃の様な故郷から離れて食うに困って応募したという人物は少なくなかった。

 本来、こういった人物の受け皿は名士であり、小作人や部曲などにするのが普通である。

 だから、袁遺が行ったことは張超のシマを荒らした様なものなのだ。そのために袁遺は先に張超と親交を持ち、それとなく徴募の伺いも立ててから、それを行ったのだった。

 息子が県尉という品秩が最も低い官職に就いたことに父は不満も怒りも示さなかった。

 遺、お前はいつか偉くなるぞ!

 そう言ってただ純粋に喜んだだけである。

 そして、袁遺が賊を討伐したと聞けば、同じように喜び。張超に草書の手解きを受けていると知れば、早く息子の書が見たいと、はしゃいだ。

 彼は父親としては善良であった。

 その後もいくつかの冀州の県で県尉を堅実に勤めあげる袁遺の元に、その善良な父親が亡くなったという知らせが届いた。

 急いで故郷に帰り、父の亡骸と対面した袁遺は、それに縋りついて号泣した。看取ることができなかった不孝を詫び、泣き叫んだ。

 それは儒教の作法でもあったが、袁遺は善良な父の前では、ただの孝行息子であった。そして、亡き父に対して今でも孝行息子であろうとしている。

 袁遺が慣例に従い父の喪に服すとき、袁隗は、その面倒を見てやった。

 考を尽くそうとする親族を助けるのも、儒教的徳行のひとつである。また、それを抜きにしても、弟とその息子への肉親の情であった。

 この弟の死で、袁隗は弟の本質を読み違えいたことを知った。

 儒教は厚葬を良しとする。墓の中には金玉珍宝の副葬品を入れ、壮大な葬式を行い、長い期間喪に服すことを要求する。

 袁遺は喪に服している最中、自分の書いた詩や父の集めた各地の詩歌や小説(この時代では政治や哲学に関係がない低俗な笑い話のこと)を模写して、月に一度、喪が明けるまでの間、墓前で、それを焼いたのであった。

 その過程で袁遺が父に対して一編の詩を読んだことを知り、袁隗はその内容から弟のことを誤解していたことが分かったのだ。

 その詩を意訳するなら、詩に対する煩悩も尽く駆逐され、春の泥となり花を守る心もまたなくなる。筆と硯と親しむのは蝗除けのおまじないの護符を請われるときくらいであった。

 そんな詩である。

 弟は最初に抱いた詩家としての野望も親馬鹿な父としての顔を失っても、袁家の私有地の小作人のために蝗除けのおまじないの護符を書いてやることはやめなかったのである。

 彼は確かに凡庸であった。俗物であった。それでも、ないと思っていた袁家の一員としての責任だけは持っていたのだ。

 その人がどういう人間であったか、それが分かるのは、恐らく本当に最後のことなんだろう。

 袁隗は、この一件でそれを学んだ。

 頭のキレ過ぎる袁遺のことも、その甥のことを思ってくれた心優しい董卓のことも、分かるのは最後の瞬間であろう。そんな確信めいた予感を袁隗は抱いた。

 話し合いが終わり、司空府を出た袁隗をひとりの大きな岩の様な男が待っていた。

 それは袁隗の護衛であった。

 彼に先導され、御車に乗る。

 皮肉なことに、踏み絵を踏まされた袁遺が袁隗の命を助けるように動き、踏み絵を踏ませてまで袁隗が守った序列、その恩恵を受けている袁術と袁紹が袁隗を危機に陥れる様な真似をしている。

 ままならん。

 袁隗は馬車に揺られながら思う。

 そして、心に刺さった違和感の棘がもたらす疼痛とは気長に付き合うことにした。あの甥が父に見せた情は確かに本物であったから。

 

 

18 因縁

 

 

 因縁という黒い感情がある。

 酸棗の地では炊事の煙が、そこかしこで上がっていた。

 袁紹軍の兵たちが食事の準備をしているのだ。

 といっても、本来の袁紹軍の軍律では食事まで、まだ時間がある。

 だが、兵たちには規律を守るという意識自体が薄くなっていた。

 酸棗で略奪を行い、思い思いに煮炊きしている者。何をするでもなく、ぼーっとする者。

 自棄になって、好き勝手にしているか虚無的になっているかの二種類の反応を示す者が殆んどであった。

 そんな中で、ひとりの男が部下を連れて、軍の立て直しに躍起になっていた。

 彼の胸の中には、黒い感情がある。

 袁遺が書簡で罵倒の限りを尽くしたことによって、袁紹は従兄である袁遺へ憎しみと殺意を抱いたが、その前から袁紹陣営で袁遺に憎しみを抱いていた者がいた。

 袁紹の軍師のひとり郭図である。

 彼らの因縁は高覧によって繋がれていた。

 高覧がまだ袁紹の陣営に属していた頃、郭図が最高指揮官としてある匪賊討伐を行ったことがあった。

 その郭図の下に野戦指揮官として高覧が就けられた。

 匪賊討伐といっても、そんな大げさなものではない。

 若者たちが、その有り余る若さ故に愚連隊を気取って暴れ回っている、そんな程度の話であった。本来なら邏卒辺りの仕事で軍隊の出番ではなかった。

 しかし、若さというのはときに恐ろしい程のエネルギーと無謀さを見せるものであり、また若者の中に少し智慧の回る者がおり、どうも子供の悪戯で済ませられない話になってきた。

 そのため、軍隊で少し脅しつけてやろう、ということになったのだ。

 その仕事を与えられた郭図は不満であった。

 彼は自分の才を鼻にかけるところがあり、こんな匪賊討伐以下の仕事はその才には役不足に思えてならなかったのだ。

 それが誰にとってのかは分からないが、ひとつの不幸であった。

 彼の下に就けられた高覧は生真面目であり、与えられた仕事を淡々とこなし、自分を組織の一機能の様に振る舞う男である。

 高覧はやる気のない最高指揮官に兵の前では、その態度を改めるように進言した。

 油断した上官を戒めるのも部下の仕事である。高覧はただ自分の仕事をしただけであった。

 もちろん、そのまま言わず、

「兵は存外に指揮官を見ておりますよ」

 と言外に匂わせた程度であった。上官を真っ向から否定する態度は軍隊では好ましくなない。

 しかし、それが郭図の癇に障った。

 才ある人間が大なり小なりそうであるように郭図にも、他人が自分よりも劣っているという思いがあった。いや、彼の場合、他の人よりも多分に持ち合わせ過ぎていた。

 自分より劣る男が賢しらに差し出がましい真似をしてきた。

 郭図は意地になった。

 だからと言って、愚連隊もどきに後れを取るようなことはなかった。

 だが、上官同士がいがみ合っている部隊の空気は最悪であった。

 その兵たちの欝々しい雰囲気を郭図も感じた。

 そして、郭図は、それを自身への批評としか感じられない男である。

 この軍旅中、郭図の高覧への憎悪は、際限なく分裂、増殖を繰り返した。

 これ以降、高覧は袁紹軍内部での冷遇が始まる。

 それには郭図の讒言があったのは言うまでもない。

 郭図の心境はネズミをいたぶる猫のそれであった。郭図という猫は執念深さと残虐性を持っていた。

 しかし、ネズミは、まったく予想しえない形で猫の爪から逃げていくことになる。

 袁遺であった。

 父の喪が明け、袁術のときと同じように袁紹にも、父の形見分けをして、将ひとりをもらい受けることになったのだ。

 選んだのは高覧であった。彼が冷遇されていることを袁遺は知っていた。

 そして、この国の歴史を紐解けば、讒言の行きつく先は大抵が失意の死である。高覧も、それを理解しているから、袁遺の誘いを受けた。

 だが、袁遺と高覧、そして袁紹の知らないところで問題が起こったのだ。

 獲物を奪われて堪るか、と郭図が反対したのである。

 といっても、郭図の反対自体は問題ではない。本当の問題は、これが原因で袁紹の軍師同士が争い出したのである。

 これも一種の地域間の争いであった。

 郭図・辛評・辛毗は、荀彧・郭嘉・鍾繇らを輩出した豫州潁川郡の派閥であり、田豊・沮授・審配は冀州の派閥である。

 袁紹の軍師陣は、このふたつの派閥で争うことも有れば、派閥内でも争うことがある状況であった。

 もし仮に、自他共に認める仕えにくい主の袁遺が彼らの主であったなら、このどちらの派閥にも属さない許攸も含めて全員を派閥争いで主が受け取る利益を無駄に少なくしたとして粛清するだろう。

 田豊・沮授・審配の冀州の派閥が性格が悪く讒言癖のある郭図への反発から反対した。さらに、同じ潁川郡の出身の辛評・辛毗も冀州派閥に頼らず、冀州の名士と顔をつなぐために冀州の名士とも親交がある袁遺に恩を売ろうと、郭図に反対した。皆が郭図に反対したのだった。

 結局、時間こそ掛かったものの高覧は袁遺の元へと移籍した。

 だが、郭図は、この一件から袁遺を酷く憎悪することになる。

 彼は物事全ての問題を他人に原因を求める男であり、自分に何ら落ち度がないと思うタイプの人間であったのだ。

 だからといって、郭図は袁遺に対して、手出しすることは出来なかった。

 そもそも軍師間の争いは袁紹に秘密裏に行われていたのである。

 袁遺に手を出して、それが明るみに出るのは、さすがの郭図とはいえ、躊躇わざる得なかった。

 そのため、郭図の袁遺への憎悪は時間が経つにつれ、どんどん積み上がっていく。

 そして、この反董卓連合が結成され、その前に袁遺が敵として現れたのだ。

 郭図の憎悪、それを覆っていた蓋が外れた瞬間である。

 だから、袁紹が袁遺を倒す作戦の立案を命じたとき、郭図が最も袁紹の意を汲んだものを制作した。包囲からの挟撃による殲滅である。

 しかし、それは捻じ曲げられた。

 田豊が将来、敵対するであろう諸侯の兵力を削るような布陣を提案したのであった。

 さらには沮授が、そもそも袁遺なんか放っておいて、洛陽を取りに行くという郭図の作戦を根本からひっくり返す計画を出した。

 結局、作戦は折衷案的なものに収まった。

 その結果がこれだ!

 郭図は憎しみの籠った目で、酸棗の自軍の様子を見渡した。

 自制が消え失せた敗残兵の群れだ。軍と呼べる代物ではない。こうなったのも俺の邪魔をした田豊、沮授と袁遺のせいだ! 何が洛陽の確保だ! 何が将来の敵の戦力を削るだ! そんなものは糞だ! 袁遺の首を叩き落とせば、終わる戦争だ! それをッ! それをッ!!

 郭図は呪詛の言葉を心の中で吐き続ける。

 袁遺が少数で勝っていることを不思議に思う奴がいる。評価している奴さえもいる。だが、俺に言わせれば、こんなもの評価に値しない。奴が勝っているのは、連合に参加した諸侯が戦争を望みながらも戦闘を忌避している中で、奴だけが戦闘になることを恐れていないからだ!

 郭図の分析は的を射ていた。

 確かに、郭図の人間性は最低であったが、彼の能力は本物であった。

 袁遺がここまで諸侯に勝利できたのは、三十年戦争によって欧州各国が戦争に疲れた切った中で起こったオーストリア継承戦争や七年戦争でフリードリヒ大王が戦果をあげた状況に似ている。

 これについては、なんで三国志が下敷きの恋姫の二次創作で北宋やら三十年戦争やらオーストリア継承戦争やら七年戦争の話してんだ、こいつ、と思われるので、補足で詳しく書く。

 まあ、つまり、大きな戦争の後で戦うことに嫌気がさしていたときに起こった戦争で、フリードリヒ大王が人口比三〇対一をひっくり返して勝ったのは、本人が才能と運に恵まれたのと戦うことを厭わなかったためだ、ということであり、それが袁遺と酷似している、ということが言いたいのだ。

 もし、袁術や橋瑁・劉岱・王匡にやる気があれば、袁遺が袁紹軍と戦おうと思うだけの戦力を残していなかっただろうし、曹操が自軍の被害をまったく考えずに戦えば、その時点で曹操軍は自軍の壊滅と引き換えに袁遺軍を壊滅させていただろう。これは袁遺が開戦当初の四万を有していて、さらに呂布が自軍にいることを考えれば、曹操軍が正面からの決戦で如何に強いかが分かる。

 なのに、余計な駆け引きを行い袁遺を勝たせて、袁遺は強いだの、才能があるだの言っている諸侯が郭図には滑稽に見えた。

 これは理論先行型の人間の極論であったが、全てが間違いではなかった。

 郭図の見立てでは、呂布や張遼はともかく、他の将たちとその部隊は決して正面戦闘は強くない。

 だが、袁遺を頂点に張郃、雷薄、陳蘭、そして、主戦場には来ていないが高覧は他の武将に比べて、兵を疲れさせず素早く行軍させることができる。だから、主導権を取られて、戦いが袁遺の優位に進むのだ。

 そこから考えられる袁遺軍相手に行うべきことは、真っ正面からの決戦を強要することであり、袁遺が兵を縦横に動かす余地を奪うしかない。

 そして、それは今において他ならない。

 袁遺軍も前線基地を移動したのだ。態勢を整えなければならない。その隙を突く。

 だが、それはできていない。

 酸棗を含めた陳留郡からの徴発を曹操が拒否したためだ。

 袁遺を倒した後で徴発した分は必ず補填する、と主である袁紹を通して提案したにも関わらず、断固として拒否したのであった。

 何が民を思ってだ! この前まで民からの徴発など、どいつもこいつもやっていただろう!

 売官が後漢王朝で一般的だった霊帝の時代、まず金で県令なりの地位を買い。その任地で税を必要以上に徴収し、それでさらに上の官位を買うというのが、よくある出世の仕方だった。だから、反乱が多発し、最終的に黄巾党の乱へと繋がる。

 そもそも、あの女は宦官の孫であり、父親は一億銭と宦官への賄賂で太尉の職を買った濁流派だろうが! それを今更ッ!

 郭図は確かに正しい部分もあった。

 しかし、自分が何らかの高い能力を持っていることを周りに示そうとするあまり、常に他者に攻撃的、対立的に振る舞う人間は決して受け入れられはしない。

 郭公則は、まさしく性格が才能を持て余したという見本のような人間であった。

 

 

 袁遺が連合の追撃を振り切り、敖倉に到着したとき、彼の姿はボロボロであった。

 敖倉の手前で馬が潰れ、地面に投げ出された。そのまま地面を転がった袁遺は大きな怪我はなかったが、泥まみれの格好になった。ちなみに、囮の袁遺隊で馬を潰したのは彼だけであった。

 それでも彼は水を服の上から被ると、予め敖倉に送っていた非戦闘員たちに指示を飛ばした。

「飯を作れ! 私の部隊と主力の分だ。食事を取らせた後は休ませろ。雷薄、君もだ」

「まだ、やれますよ」

 雷薄は言った。

「半日後でも、今と同じ言葉が吐けるか?」

「……休みます」

「そうしろ。文官! 敖倉の軍需品の蓄えをまとめた書簡を持ってきてくれ。それとこの周辺の地図だ」

 袁遺は敖倉を前線基地へと変える作業をしなければならなかった。

 物資と道の整備状況から部隊の移動や輸送が可能な規模を計算する。

 この手の行軍計画を立てさせれば、袁遺は文句なしに有能であった。

 そして、やにわに外が騒がしくなり、伝令が飛び込んできた。

「後将軍、主力部隊が帰ってきました!」

 袁遺は思わず立ち上がりそうになったのを堪えて、努めて冷静に振る舞った。

「報告、ご苦労」

 冷静に、そして毅然に。たとえ、どんな報告がなされようと、そんな態度を崩してはならない。

 出迎えた軍、その先頭にいた雛里の表情から、袁遺は彼女たちが目的を達成したことを知った。

「どうやら目的を達成したようだな。ご苦労、良くやってくれた」

「はい、伯業様もご無事で何よりです」

 袁遺は将軍たちの労いもそこそこに、食事と休憩を勧める。兵にも同様であった。

 雛里と仲達には、自分に細かな報告をしてから、それらを行うよう命じた。

 先程まで、袁遺が戦争計画を立てていた部屋に、袁遺と彼の軍師ふたりが集まった。

 袁遺は茶を従兵に入れさせる。

 茶は多少香りがするくらいの品質だが、戦場では貴重な嗜好品であった。

 それを一口、含んでから、雛里が口を開いた。

「死者と行方不明者は一四七三名。戦闘不可能な怪我人は約四五〇〇になります」

「残存兵力は一万七〇〇〇か。本当に良くやってくれた」

 袁遺が雛里を再び労った。それは、まったくの本心から出た言葉であった。

「それにしても、仲達。まさか、曹太守まで叩くとはな」

「勝手に将兵を動かして申し訳ありません。これは全て私の責任であり鳳司令代行には、一切の責はありません」

「君たちの地位は、自分で考え、動くためにあるのだ。命令を聞くのは兵の仕事で、命令の聞かざるところを考えるのが将の仕事だ。それを問題にするつもりはない。それに、おかげでやり易くなった」

 袁伯業という人間の性格的にも、置かれた境遇的にも面白いところは、これがまったくの本心であるということだ。

 確かに、彼は仲達の相対的に思考を巡らせる部分を警戒してはいた。主君である袁遺がなった囮を最大限に利用したことなど、その最たるものだろう。

 しかし同時に、自分では絶対に曹操相手に、ここまでの戦果をあげることは不可能だということを理解していた。

 だから、袁遺は、その思考が自分のために使われている間は彼の理解者であり、庇護者であらねばならなかった。

 警戒と友情とが袁遺の歪んだ心情の中でかき混ぜられ、袁遺と司馬懿の関係を余人の理解の外へと進ませていく。

「当分は戦いより謀略で優位を作っていく。だから、部隊の主な役目は偵察になるだろう。大まかな行軍計画は制作しておいた。食事と休憩の後に目を通し、改善点を言ってくれ」

「は、はい」

「分かりました」

 雛里と仲達が軍礼をする。

「うん、本当に良くやってくれた。今は、ゆっくり休んでくれ」

 袁遺の労いの言葉を受けると、ふたりは部屋から出て、食事に向かった。

 ひとりになった袁遺は、筆を取り書簡をしたためる。

 その無表情な顔には、僅かに謀略家としての暗さが認められた。

 

 

 結局、袁遺も郭図の性格に文句を付けられるほど立派な人間などでは、決してなかった。

 




補足

・關西出將、關東出相
 パッと思い付く限り、後漢までの関より西出身の名将と関より東出身の宰相を並べてみる。
 将・白起、王翦、李広、霍去病、衛青、耿弇、馬援、班超
 宰相・商鞅、范蠡、管仲、晏嬰、蕭何、曹参
 だいぶ抜けがあると思うが、孫武、孫臏、呉起、楽毅、韓信あたりが入らないから、いまいち微妙だな。まあ、白起、霍去病、衛青がいる時点ですごいんだけどね。それと、異民族討伐で活躍した将が多いのは、やっぱり、そういう土地なんだなって感じ。
 後、霍去病、衛青のふたりは正直、関の真ん中らへんだから、西には入らないかもしれない。ふたりが入らないなら、宰相の方に霍光が入る。


・三十年戦争によって欧州各国が戦争に疲れた切った中で、起こったオーストリア継承戦争や七年戦争でフリードリヒ大王が戦果をあげた状況に似ている。
 さあ、この補足は長いぞ。
 宗教が原因で始まった戦争であるが、ヨーロッパの伝統で各国が介入した結果、何が何だかわからない状況になった三十年戦争。
 え、神聖ローマ帝国が力を持ちそうなの。じゃあ、俺、カトリックだけどプロテスタント側に参戦するわ、とかやらかしたフランスさんはさぁ……まあ、正直な話、割と宗教関係ないじゃんって理由で参加している国も多いよ。
 歴史好きの間では、神聖でもローマでも帝国でもない神聖ローマ帝国と呼ばれている当時のドイツは、この戦争の主戦場になり、人口の60%を失っている。
 普通、三十年戦争に触れるならグスタフ・アドルフとヴァレンシュタインのふたりを細かく説明しなければいけないが、さすがに、それをやると長くなりすぎるので、グスタフ・アドルフが戦術面で、ヴァレンシュタインが組織面で戦争の歴史を大きく進めた、とだけ書いておこう。リシュリュー、テュレンヌについても、リシュリューは絶対王政の基礎を作ったり、常備軍設立の為にいろいろとやった人です。テュレンヌは六人しかいないフランス大元帥のひとりです、くらいしか触れない。
 さて、この三十年戦争の中でオランダの法学者フーゴー・グロティウスが著書『戦争と平和の法について』で、国家間の戦争も個人の喧嘩と同じであり、国家間の法律が必要で、他国の権利を尊重し、相互間の契約(条約)を守らなければならない、という考えを述べた。
 この考えは、スイスの法学者エンメリッヒ・ド・ヴァッテルに受け継がれ、その著書『諸国民の法』の中で国際法について説いたのだが、法学者の理想とは、だいたい現実では実現されないものと相場と決まっている。だが、なんと一時期、ヨーロッパでは、その理想が守られたのである。
 もちろん、これには理由がある。
 ひとつは啓蒙主義が台頭したため。
 もうひとつは、三十年戦争にヨーロッパが疲れていたこともあるが、この後に起きたプリンツ・オイゲンの名を高めることになるスペイン継承戦争で、上に描いたグスタフとヴァレンシュタインが戦争を進化させたため、たった一回の戦闘で恐ろしいくらいの損害を出す様になってしまったのだ。
 プリンツ・オイゲンとマールバラ公が活躍したマルプラケの戦いでは、勝者のマールバラ公は軍全体の約30%を喪失している。
 その他の戦いでも基本的に勝っても30%、負ければ50%の損害を負うことが分かった。
 この時代、ヴァレンシュタインが軍の組織を進化させた結果、傭兵に常に給料を払い続ける常備軍ができていたため、あまり損耗率が激しい戦闘をさせると傭兵が契約を拒否して、別のところに行ってしまうという事態が発生した。
 だから、このときのヨーロッパの君主たちは戦争を望んでいるけど、戦闘を避けている、という状況と啓蒙主義のために、奇しくも法学者の理想が実現したのだった。
 そんなヨーロッパに、ひとりの名君が生まれる。
 それがフリードリヒ大王である。
 ナポレオンとかヒトラーとか頭がアレなヤバい……もとい、何かすごい奴らを信者にもつ、好かれる人には好かれるし、嫌われる人に嫌われるフリードリヒ大王の半生は、これまた長くなるので割愛する。
 まあ、父親に虐待されたり、亡命しようとしたが、親にバレてその手引きをした忠勇な部下を処刑されたりとか、人間は母親と姉しか愛していないとか、何だかんだあって父親に認められ王位を継げたはいいが、一時期、頭お花畑になっていたときに、アンチ・マキアヴェッリズムとか書いて、王になったときに、その書いたことと正反対のことやっちまって、いろんな人に叩かれたとか、いろいろあった人です。
 この人はオーストリア継承戦争と七年戦争を戦い抜くわけですが、本文で書いた通り、軍才もあるし、他のヨーロッパの君主が嫌がっていた戦闘になることを厭いません。
 七年戦争では一六回におよぶ大戦闘を繰り広げている。
 最終的にクネルスドルグで負けたが、ロシア皇帝に自分の信者がつき、プロイセン有利に和平を結べたという強運を発揮した。だが、彼が七年戦争を戦い抜けたのは、戦闘になることを厭わなかったからだ。
 ちなみに、この時代でも勝っても30%、負ければ50%の損害を負う、という原則は当てはまる。
 例を挙げるならツォルンドルフの戦いでは敗者のロシア軍は50%を失い、勝者のプロイセン軍が38%失っている。負けたクネルスドルグでも兵力の48%を失っている。
 つまり、袁遺も被害が大きい運動戦という方法を取りながらも、戦闘することを恐れていないため、戦闘を尻込みする連合相手に有利を取れているということで、この乙の章の反董卓連合戦は、李靖の奇襲戦術とか、ナポレオン戦争とか、七年戦争とかのいろんな戦いを参考にして書いているという、ちょっとした裏話をしたかったわけです。
 後、この七年戦争中にパリに旅行したイギリスの文豪のローレンス・スターンの著書『センチメンタル・ジャーニー』に、こんなシーンがある。
 せっかく、パリに来たのに戦争のせいで物があんまりない。そうやって愚痴るスターンに宿屋の主人が、今、私の国(フランス)とあなたの国(イギリス)が戦争しているんですよ。そんなこと言わないでください、と窘めるのである。
 つまり、戦争とは君主と君主の戦いであり、国と国の戦いではなく、非戦闘員なら自由に国内外を行き来できたのだ。
 啓蒙主義的であり、これこそが、法学者たちの理想である。
 あ、ちなみに、イギリスはプロイセンの資金援助だけして、欧州では、そんなに戦わず、海の向こうの植民地を奪い合いをやっていたよ。なんていうかイギリスって感じ。
 そういえば、七年戦争といえば、ロシアのスヴォーロフが……とか、アンハルトという後のプロイセン参謀部の基礎になった人がいて、とか延々と書き連ねそうなので、もうそろそろ本当にやめます。
 ここまで読んでくれた人は本当にありがとうございます。なお、時間を無駄にしたいう苦情は一切、受け付けませんので、あしからず。


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19~20

19 栄誉なき戦場

 

 

「では、これをふたつの陣営に届けてくれ。姿が見つからない方が良いが、届けて無事に帰れるなら多少は見つかっても構わない。そのさじ加減は任せる」

 袁遺は、ふたりの男に二通の手紙を渡した。

 男たちが人に与える印象は正反対のものであった。

 ひとりの男は、まったく印象に残らないと言うべきか、人込みで見かけたなら、それをこの人と認識できないような影の薄さがある。特徴というものが欠落したパーツのみで構成された顔や身体であった。

 逆に、もうひとりの男は、まさに偉丈夫の見本であった。

 引き締まった身体。髪は結られておらず、雑草の様にぼうぼうと伸ばしている。顔立ちは整っているが、こちらもまた針金のような髭を好き放題生えるがままにしている。しかし、その瞳には粗暴さなどなく、理知的な光を宿していた。

 彼らは袁遺が叔父の袁隗から借り受けた連合の内情を探っていた間諜であった。

 ふたりとも、それぞれの事情から袁隗に仕えたが、以前は江湖の世界でも指折りの実力を備えた猛者である。この程度の仕事は造作もない。

 部屋から出ていく彼らの背を見送りながら、袁遺は自分の企みが、どういう方向に転がるか考えていると彼の思考は果てしない暴走を開始した。

 どうなるかな? 失敗するかな? それは何人の人間が現状の危うさに気付いているか次第になるか。いや、俺も気付いていないかもしれない。もうすでに首にロープをかけられて宙に浮いているのに、まだ、地に足を着けているつもりでいるのかな……

 だとしたら、誰まで道連れにする? 華雄も張遼も呂布も董卓の部下だ。彼女たちは、まあ、無責任だが、洛陽の董卓の元に戻るなり、他の諸侯に仕えるなり、下野するなり、好きにしてもらおう。

 張郃と陳蘭と雷薄も自分で選ばせるか。俺と共に死ぬのと、どこかに逃げて山賊になるのとマシの方を選ばせよう。

 高覧には悪いが、仲達の妹たちを長安から逃がす仕事をしてもらわなければならない。張既か何夔が何か良い知恵を持っていることを期待するか。

 雛里は……

 そこまで考えて、袁遺の思考は一時停止した。

 俺は今、何の理由もなく雛里に死んで欲しくないと思った。いや、そんなことは当たり前だ。できれば誰も死んで欲しくない。俺も死にたくない。だが、だが、それは……

 袁遺らしくなかった。袁伯業という男は善性と悪性が複雑に絡み合って歪んだ性格をしており、そうであるからこそ、冷徹な指揮官と寛容な統治者のふたつの顔を持つことができたのだ。

 そんな袁遺にとって、ほぼ無条件で生存を願うなど気の迷いでしかなかった。

 それだけ精神が疲弊しているのか? 仲達なら、こんなことは……

「仲達?」

 袁遺は思わず親友で部下の男の名を呟いた。

 あいつなら、首に縄をかけられて宙に浮いている俺に付き合う様な真似などしない。だが、今も彼は俺に付き従っている。もしかして、俺はまだ大丈夫なのか……

 ふと、袁遺の視界に処理すべき書類が入った。そして、口元を自虐的なもので歪ませた。

 そもそも俺は最後まで足掻き切ってから死ぬ男だ。こんなことを考えていること自体、気の迷いだ。今はやるべきことをやるしかない。

「それはこれを片付けることだな」

 迷いを断ち切るように声に出して、袁遺は目の前の書類との格闘を開始した。

 

 

 巻の情勢は最悪であった。

 諸侯たちは袁遺軍の物資を奪い。ただ、それを喰い潰すだけで、なんら行動に移ろうとしていない。

 諸侯からの評判は最悪な総大将であったが、少なくとも袁紹は連合を動かすという仕事だけはしていた。彼女には強大な軍事力という背景があり、様々な思惑を持つ諸侯をまとめるには、それを用いるしかなかった。

 しかし、巻には袁紹はいない。彼女の代わりになれそうな袁術には、やる気はなかった。

 今、袁術の興味は好物の蜂蜜水の残りが少ないことであり、戦いから意図的に目を背けようとしている。

 もちろん、全ての諸侯がそんな虚脱しきっていたわけではない。

 劉備も、そのひとりである。

 ただし、劉備軍にも、たるみが、まったくなかったとは言えなかった。

 彼女の軍もまた、六割の死傷者を出す大敗北を経験しているのだ。やはり、士気が低くなるのは致し方ない。

 それを劉備が絶えず声を掛け励まし、関羽や趙雲がどやしつけて、何とか軍律を保っているのであった。

 しかし、それにも限界がある。

 いつしか兵たちはそれに慣れ切り、惰性で受け止めるようになるだろう。

 そうなる前に動かなければならない。

 未だこの連合の大義を見いだせない劉備であったが、虐げられている庶人がいる可能性が僅かでもある限り止まるという選択肢はなかった。

 だから、自分たちと同じように軍律を保っている諸侯と協力できるように動いたのだ。

 まず初めに接触したのは、一度の戦闘もなく、開戦当初に近い兵数を保っている広陵の張邈であった。一度も戦闘がないとはいえ、さすがに行軍で脱落者を出している。

 意外なことに、彼女の軍が最も士気が高く、軍律を保っていた。

 張邈軍は略奪に走るどころか、演習さえ行っている。

 劉備は期待に胸を膨らませながら、諸葛亮を伴い張邈軍の陣営へと向かった。

 劉備と諸葛亮が、その陣営に足を踏み入れたとき、まず、その期待が粉砕されることになる。

 兵たちが地面に座り込んで、話していたからだ。

 武器は手が届く距離にこそあるが、地面に置かれている。

「前進、駆け足!」

 という、やや低いが女性の大声が陣の奥の方で響いた。

 訓練を行っているのは本当だが、それをやっている兵は半数くらいしかいない。

 ここでも兵が、だらけている。

 劉備は暗い思いがした。

 しかし、諸葛亮は別の思いであった。

「桃香様。あれを」

 劉備は諸葛亮が示した方向を見て、自分の認識が間違いであったことを知った。

 兵が立てられていた。もちろん武器は持っている。そんな兵が要所要所にいる。

 哨兵を立てていたのだ。

 行軍を全て規則通りにやらせることは兵に多大な疲労を与えると以前に書いたが、それは部隊の待機でも同じである。

 例えば、全ての兵を整列させ手に武器を持たせて直立させるのは、万端事足りないと褒めるべきなのだろうが、兵に無駄な緊張と疲労を強いていることでもある。だからといって、兵の全てに武器を投げ出させて座り込ませるのもよろしくない。緊急事態に対処できない状態に部隊を置くのは指揮官としては無責任極まりない。

 張邈は、ここが戦場であることを忘れていなかった。

「規律を保つために兵の半分に訓練を課していますが、残りの兵は疲労を抑えるために休ませています」

 諸葛亮が劉備に説明する。

 その説明に合わせて、劉備の視線が張邈の陣営を移動する。

「その休ませている兵も疲労は最低限に、しかし、奇襲を浴びるほど気を抜かせていません」

 劉備の中で一度砕け散った希望が蘇った。

誰何(すいか)!?」

 ふたりの姿を目に留めた哨兵が体ごと向き直って、大声を上げた。それと同時に座っていた兵たちが武器を取り、立ち上がる。

「平原の相、劉玄徳と、その臣下の諸葛孔明です。張広陵太守に面会、願います」

 諸葛亮が応じた。

「失礼しました。ただ今、取り次ぎます」

 そう言って、兵は走って行った。その方向から、張邈は訓練している兵たちの方にいるようだ。

 少し待たされると、兵が戻ってきて、ご案内いたします、と言う。

 案内された先は袁遺軍から接収した小屋であった。そこで劉備と諸葛亮は、張邈と対面する。

「平原の相の劉備、字は玄徳です。こちらは諸葛孔明」

「広陵の太守、張邈、字は孟卓です」

 当たり障りのない挨拶をして、まず口を開いたのは張邈であった。

「それで、劉殿。いったい、何の用でしょう?」

 張邈の態度は丁寧なものだった。本来なら、相と太守ではあまりに身分が違い過ぎる。

「はい、私、このままだとダメだと思うんです」

「ダメ?」

「このまま、ここで何もやらずに、ただ宴会みたいなことをやったり、ボーッと過ごすんじゃなくて、この連合は悪政に虐げられる庶人を助けるために立ち上がったはずです!」

「その本分に立ち返るべきだと?」

 力説する劉備に、張邈は尋ねる。

「はい!」

 力強く肯定する劉備。

「……」

 それに対して、張邈は少しの間、考えてから、

「確かに、その通りですね」

 と言った。

 張邈のその台詞を聞いたとき、劉備の表情が明るくなった。

「このまま時間を無為に過ごすのは、確かに危険なことですね。巻の諸侯を説得して、何か行動を移すべきです」

「そうです。そうです」

 嬉しそうに劉備が頷く。

「となると、必要なものは袁遺軍の情報になりますね」

 しかし、張邈の次の言葉に、劉備の表情は再び曇ることになる。

「ですが、私の軍には精強な軍馬がいません。情報収集の任務には向かないため、それは別の諸侯にやってもらうしかありません」

 それを聞いた劉備は、え、と小さな声を上げ、困惑した表情で傍らに控える諸葛亮の顔を見た。

 諸葛亮と劉備の視線が交差する。

 そして、諸葛亮が口を開きかけたとき、張邈は何かを汲み取ったように、諸葛亮に頷いてみせた。

 張邈と劉備でも身分に違いが有り過ぎるのに、劉備の臣下である諸葛亮が簡単に口を挟むわけにはいかない。そのため許しをもらおうとしたのだが、それを見透かして張邈が許可を与えるように頷いたのだ。

 諸葛亮は決意に満ちた真剣な顔で話し始めた。

「情報収集については分かりましたが、その援護をしていただく必要があります」

「どのような?」

「袁遺軍の指揮官は状況を的確に読んで、常に自軍が有利になるように独断で動ける柔軟性を持っています。それに対抗するためには、どうしても後方からの援護が必要です」

「つまり、後詰として兵を出せと?」

「はい」

 諸葛亮が頷く。

「しかし、袁遺軍の状況は、まったく分かっていないのですよ。総大将である袁公が敗れ酸棗まで退きましたが、その戦いで袁遺軍がどれだけの損害を受けたのかも。囮となった袁遺が、どこに駐屯しているのかも。こんなことを諸葛さんは、言われなくても承知でしょうが、滎陽にいる軍を敖倉にいると読み間違えた場合、偵察部隊もその後詰も壊滅する可能性が高い」

 張邈の言うことは常識的である。

 被害の規模を小さくするために偵察部隊を派遣するのに、その偵察部隊を守るために被害の規模が大きくなるような真似をするのは愚の骨頂だと言えた。

 しかし、諸葛亮の意見も間違いではない。

 諸葛亮の認識では、通常の偵察部隊を出したところで、袁遺軍なら簡単に揉み潰してしまう恐れがある。

 それは諸葛亮自身と劉備軍が味わった苦い経験から出された結論であった。劉備軍は警戒部隊から、軍の規模や連合内の立場を読み取られて、半数以上が死傷する被害を出している。

 なら威力偵察部隊を出すしかなく、そのためには後続の部隊が必要であった。

 結局、情報がないと何もできないのだから、その価値と被害の大きさから損得勘定をするしかない。

 その損得勘定に絡んでくるのが、連合という同盟関係の常識だ。

 以前にも書いたが、連合(もしくは同盟)とは参加した勢力全てに利益が分配されるプラスサムゲームでなければならない。それが利益が一部の勢力にしか渡らないゼロサムゲームや誰も得をしないマイナスサムゲームになっとき、その関係が破棄もしくは破約されるのは、避けられないことだ。ちなみに、その後、同盟していた両者の関係は大抵が険悪なものになる。

 つまり、張邈からすれば、危険を冒して情報を手に入れるという行為がリスクとリターンに合わないと感じているのだ。

 となると、諸葛亮からすれば、張邈の説得においてリターンを増やすかリスクを減らしてやるしかない。

「……ですので、張太守には鮑騎都尉(鮑信)の説得も、お願いしたいのです」

 そして、減らせるリスクとは、数を揃えて諸侯ひとりひとりが受ける被害を少なくする程度のものしかなかった。

「私たちは、公孫太守や袁州牧を説得します」

 袁遺軍に一度敗れたとはいえ、公孫賛軍は強力な騎馬隊を有している。偵察隊の任務には不可欠である。

 また、一度敗れたということは袁術軍も同様だが、彼女の軍は、この巻で一番大きな規模である。協力を得られたなら心強い。

 しかし、そうなれば、そうなるで、別の問題が出てくる。

「では、その軍勢を誰が指揮するんですか?」

 張邈がその問題を指摘した。

 言い出したのは劉備であるが、彼女は連合で最も地位が低く、軍勢の規模も小さい。

 だが、地位と軍の規模で、ふさわしいのは袁術であるが、その袁術にはやる気がない。それに連合の初期に袁術が行った身勝手な行動で諸侯たちからの評判は悪かった。

「簡単な部隊行動基準のみを定めて、後は独自に判断することになると思います」

 総大将がおらず代理が立てられない状況なら、そんな風にそれぞれが動くしかできそうになかった。

「………………分かりました」

 張邈は長い沈黙の後で了承した。

「鮑騎都尉の説得はやってみましょう」

「ほ、本当ですか!?」

 劉備が叫ぶ様な声を出しながら、前のめった。

 その表情は喜色に満ちており、それを見ている者も幸せにする人間的魅力に溢れていた。

「はい。そちらも遼西太守と揚州牧の説得をお願いします。特に揚州牧の軍の規模は、それだけでも精神的な余裕を兵に与えます」

 張邈は頭を下げ、丁寧に言った。

 さらに、ふたりをわざわざ陣営の入り口まで見送った。

 そうして、小屋まで帰ってくると、そこには妹の張超がいた。

景雲(じんゆん)もご苦労様。何もなくてよかった~」

 劉備と会談していたときの固めな雰囲気と口調はどこへやら、張邈は妹に砕けた口調で話しかけた。

「万が一に備えて、景雲に別の部屋に待機してもらったけど、私の思い過ごしだったかな~」

「まあ、いきなり連合を組んでいる相手に斬りかかったりなんて、普通しないわよ」

 姉の態度とは違い張超―――景雲の態度は固い。それが彼女の性分であった。

「うん、そうね」

 張邈が頷く。

「それより、どういう風の吹き回し? あんなに嫌がってた袁遺軍と戦いそうな提案に乗るなんて?」

 景雲の脳裏に、姉が酸棗で袁遺と敵対したことを嘆き、交戦することを恐れていた情景が浮かんだ。

「うーーーん……」

 腕を組み部屋を見渡してから張邈は妹と向き合い言った。

「決して大声を出さないでね。それと見せるのは一度だけ。あなたが見終わったら、燃やすから」

 張邈は懐から一通の手紙を出した。

 しばらく視線を姉の顔と手紙に行き来させてから、景雲はそれを受け取った。

 手紙を読み始めた彼女の眉間にしわが寄る。先に進むごとに手が震え、読み終わったときには青ざめた顔をしていた。

「姉さん」

 景雲は顔を姉へと寄せ、声を潜めて言う。

「これ、袁遺からの手紙じゃない。それにこの内容」

 妹の狼狽に姉の張邈は曖昧な表情をするだけであった。

 手紙の内容は、袁紹に宛てたものとは違い実利的なものだった。

 自分には連合に参加した諸侯全てと敵対する意思はなく、都の袁一族を守るために、身勝手な軍事行動で漢王朝の静謐を乱す袁紹の暴走を止めるために、仕方なく戦ったということ。それを豫州や冀州の名士に説明したこと。そして、似た様な手紙を袁術にも送り、揚州への撤兵を促した。だが、袁術は熱さも喉元を過ぎれば忘れる人物であり、時間が経てば領土的野心を持ち、揚州にとっての楔である広陵を攻めるかもしれない。だから、広陵を守って欲しい。その援助は必ず行う。自分が流した噂によって傷付けられた名誉の回復も必ず行う。最後に、身勝手ながらあなたとの友諠に縋らせて欲しいと結ばれていた。

「つまり、袁術に帰るように言ったから広陵が危ないぞ。だから、テメェーも帰れや。それと二〇万集めて三万だか四万の軍に叩き返されて名士に無能と思われるだろうから、お前が無能じゃないことと危なくなったら五倍以上の軍にも勝った部隊が援護に行くぞって後ろ盾になってやる。だから、大人しく言うこと聞いとけやって感じ」

 張邈が凄みを効かせて話すが、幼く見える容姿のせいであまり怖くない。

 それに呆れているのか自分たちが危険な状況に置かれていることに恐れているのか、景雲は何も言葉を発することができなかった。

「だから、どういう風の吹き回しって聞かれたら、劉備に袁術の動きを探ってもらうため」

 景雲の口が言うべき言葉を探すように形を変える。

「…………姉さんは、なんで連合に参加しようと思ったの?」

 やっとのことで喉から搾り出せたものは、根本的な疑問であった。

「華琳と伯業が参加すると思ったから」

 そんな妹に姉は優しげな表情を作る。まるで妹を落ち着かせようとしているようであった。

「私たちが州牧や太守、県令としていられるのは、その地位にふさわしい治世と漢王朝が任命したという権威。そのふたつを以って民や名士を治めているの。だから、漢王朝の敵という董卓を討つ連合なら参加しておいた方が良い。そうしたら、広陵の政治に参加している名士に言えるでしょう。自分は漢王朝にこれだけ忠を尽くしている。あなた方にもそれを望むって。それに、華琳も伯業も参加するはずだし、あのふたりが組むなら負けはないと思った」

 だから、勝ち馬に乗ろうとしたってわけ、と張邈はカラカラと笑った。

「でも、まさか伯業が敵に回るなんてね。彼なら、董卓軍の主力を連合が引きつけている間に洛陽を強襲して袁一族を保護、後で袁紹や袁術に敵を引き付けていたおかげですって言って、ふたりを持ち上げて実利だけを取ると思ったんだけどね」

 おそらく、彼女の言うそれが董卓と彼女の部下以外の多くの人が利益を得られる選択肢であっただろう。

 しかし、その選択は董卓と連合の争いを袁紹と袁術の争いに代えるだけで、行きつく先は結局、漢王朝の衰退である。なら袁遺は都の袁一族が生き残る可能性の高い方を取った。たとえ、その結果が袁家の家名に泥を塗ることであっても。

「それにまだ、あなたには言ってなかったけど、華琳の軍が伯業の軍に叩かれたの」

「えッ!?」

 景雲が驚愕の声を上げる。

「陳留郡での袁紹軍の略奪をできる限り早く止めようとして、隊列を崩してでも部隊速度を上げた結果、そこを突かれたみたい」

 張邈の声は、ただ事実のみを告げる乾き切ったものだった。

「だけど、たとえ損害を受けていても、華琳なら自領で略奪なんて真似を許すはずがない。袁紹と衝突するのは目に見えている。そうなれば連合は終りね」

「じゃあ、袁遺の手紙に従って帰るの?」

「袁術の出方次第ね。それに約束は約束だし鮑騎都尉の説得をしなくちゃ。あなたは衛茲と共に袁遺軍の残っている兵糧を集めてその量を報告して。部隊を動かすなら兵糧はいくらでも必要よ」

「わかったわ」

 小屋を出ていく妹の背中を見ながら、張邈は自問した。

 面倒なことになっちゃった。全部、私の責任ね。もし私に華琳や伯業くらいの用兵の才能があれば、もう少しマシな状況になっていたかしら?

 だが、彼女は、その羨んだ二人の現状を考えて思い直した。

 片や四世三公の名声をドブに捨てて従妹と殺し合っているし、片や軍を叩かれて自領で略奪が行われている。

 私の方がマシな状況ね。

 だからといって、張邈はふたりがここで終わるとも思っていなかった。

 あのふたりなら、どんなことがあっても這い上がってくる。なら、あのふたりよりもマシな状況にいる自分が生き残れる可能性はあるはずだ。自分にふたりより才能がなくても。

 彼女には連合を抜けるという裏切り行為に後ろめたさも罪悪感もなかった。

 そもそも連合とは利益のために結びついた関係である。なら、利益が得られなくなった時点で、それに固執するのは愚かなことだとさえ思っていた。

 何度でも言うが、政治には善悪などというものはなく、正誤のみが存在する。道徳が現実の要求より上に立つことはない。

 後漢という儒教色が異常に強い世を生きる張邈でも、そのことは嫌と言うほど分かっていた。だからこそ、彼女はここまで生き残ってこれたのだ。

 

 

 え~っと、敵が卑屈な態度を取るときは攻めてくるっていうのは孫子の何篇だったかな?

 これが張勲の主に届いた手紙の感想であった。

「七乃ーーーーーッ!!」

 袁術軍の陣営に袁術の声が響き渡った。

 それを聞いた者たちは、またか、と思った。

 巻に滞陣してから、袁術は事あるごとに張勲を呼びだした。不安で不安で仕方がない袁術は信頼する張勲に我がままを言うくらいしか不安の解消方法が分からなかったのだ。

 それを理解している張勲も普段より甲斐甲斐しく主の世話をする。

 今日は、どんな我がままかな、と袁術の元に向かった彼女は、主が手紙を持っていることに気が付いた。

「美羽様。何ですか、それは?」

 張勲が尋ねる。

「伯業からの手紙なのじゃ、読んでたもれ」

 そう言う袁術を張勲は、

「は~い」

 と袁術が不安がるから普段と変わらぬ感じで答えながらも、袁遺の手紙に不吉なものを感じていた。

 張勲が手紙を読み始める。

 手紙の内容は謝罪と媚と懇願であった。

 書かれている事実は張邈の元に届いたものと大差はない。ただし、文体は地に頭を擦り付ける様なものであった。

 都の袁一族を守るために、身勝手な軍事行動で漢王朝の静謐を乱す袁紹の暴走を止めるために仕方がなく戦ったのであって、諸侯全てと対立するのは不本意であるという内容を袁紹と自分を貶め、これでもかと袁術を持ち上げて書き連ねてある。

 張勲は、これが戦力差五倍以上の敵に挑んだ男が書く文章か、と思った。それぐらい矜持も何もない卑屈な文体であった。

 だが、見過ごせない言葉もある。

 ご丁寧に連合の悪い噂を豫州の名士の間に広めたことまで書いてある。袁紹の故郷とは袁術の故郷でもある。だから、袁術の悪い噂も故郷で広がったということだ。

 それについても謝罪の言葉があるが、張勲からすれば、面倒なことをしてくれたな、という思いである。

 故郷での名士の評判が下がると、任地での名士の評判が下がる。

 すると袁術の揚州での力が落ち、名士たちの間に孫策待望論が生まれる可能性があるからだ。孫堅の残した風評は揚州ではまだ死んではいない。

 これには揚州という地の特殊性があった。

 生態学では中華の淮水(現代なら淮河)の北南に分けられ、それぞれで自然環境も生活様式も異なる。

 北の黄河流域を『オープン・ランド』、南の長江流域を『フォレスト・ランド』という。

 この視点から古代中国を語ってみる。

 『オープン・ランド』とは名前の通り、開けた大地である。

 乾燥しており雨量が不安定で大森林が少ない。だから、華北大平原は見通しが良く、集団の移動が盛んで、その集団間のコミュニケーションも活発である。

 その反対で『フォレスト・ランド』とは、森の大地である。

 高温多湿で雨量も一年を通して安定しているため森林が生い茂る。照葉樹林地帯である。そうであるが故に集団の移動は制限される。

 集団の移動のし易さと雨量の差がふたつの大地に大きな違いを生み出した。

 北は、雨量の多少が収穫に大きく影響し地域格差を生み出す。そして、集団が移動しやすいということは軍を動かしやすいということである。その結果、肥沃な大地を求めて戦うという統一帝国の樹立に繋がった。生態学的に見て、秦漢帝国は『オープン・ランド』が造ったということになる。

 対して南は、安定した雨量が穀物の豊凶に大きな影響も与えず、一定の収穫量を保証する。しかし、高温多湿の森林地帯は集団の移動が難しく、疫病の宝庫でもある。そのため人口は伸び悩む。その結果、『フォレスト・ランド』に発生する集団は、多分に分散的かつ割拠的な性格を持つ。

 揚州からの統一帝国の誕生は朱元璋と彼の大明帝国を待たなければならず、そのためには『オープン・ランド』の気質を持った晋と宋が遊牧民族に中原から叩き出され、『フォレスト・ランド』というニューフロンティアの開発を行わなければならない。

 そんな『フォレスト・ランド』を一時的にでも、まとめかけた孫堅は謂わば揚州のカリスマとして大きな衝撃を揚州の地方豪族たちに残した。

 だから、孫堅がいた頃に力を持っていた豪族たちが、あの頃の夢をもう一度と娘の孫策に肩入れする可能性は袁術の力が落ち具合と反比例する。

 それが張勲には面倒この上ないことであった。

 手紙の終わりの方には、袁州牧には叔父上(袁隗)も期待するところであり、この袁紹の莫迦げた企みが終わった後にお力を借りることになるかもしれません、と中央での躍進が期待できる言葉さえ書いてある。

 張勲は読み終わると袁術の方を見た。

 彼女の主は目を輝かせている。

 それは中央での栄達が見えたというより、本拠地の寿春に帰れるということへの喜びであった。袁術にとって寿春に帰れそうな理由なら何にでも縋りたい心境であった。

「は、伯業がそこまで言うなら、しょうがないの。揚州も統治しなければいけないし、か、帰ってやるかの」

 そう言いながら袁術は、子供が親に欲しいものをねだる様に、上目遣いで張勲を見る。

「ダメかの、七乃?」

「う~~~~ん……」

 張勲は人差し指を唇に当てながら、焦らす様に考えるふりをする。

 彼女は袁遺の手紙の裏にある真意を考えていた。

 まず初めに思ったのが、上の敵が卑屈な――――というやつである。ちなみに孫子行軍篇である。

 こっちを油断させておいて攻めて来る、ということは十分に考えられる。

 だが、張勲は董卓や袁隗、袁遺に袁紹と袁術を同時に敵に回す余裕もないことを理解していた。

 そうなった場合、どちらと手を結び、どちらと敵対するか。張勲は少なくとも袁遺は袁術と手を結び、袁紹との対決を選んだと認識していた。

 その根拠は手紙の内容であった。

 袁紹にはあれだけの罵詈雑言を書き連ねたのに対して、袁術には媚を売っている。普通に考えれば、手を結びたい相手を罵倒したりしないはずだ。

 そして、揚州を統治する勢力が孫家より同じ袁家の方がマシだとも考えると予想していた。

 なら、寿春まで帰るのもアリかな。どうせ、美羽様には戦う気もないし、ここにいれば揚州での袁家の評判が下がるだけで、孫策さんの得にしかならないし……と張勲は思考を巡らせながらも、愛する主がハラハラと自分を見つめる愛らしい姿を堪能する。しかし、それを邪魔する者が現れた。

「ご報告があります。平原の相、劉玄徳殿が揚州牧様に面会を願い出ています」

 

 

「現在、袁揚州牧様はご多忙のため、用件は私が聞きます」

 劉備と諸葛亮に面会したのは袁術ではなく、張勲であった。

 それに劉備は不満であったが仕方がない。張勲に情熱的に軍を動かすことを説いた。

 しかし、張勲はのらりくらりと躱し、言質を取らせず、

「分かりました。揚州牧様にお伝えします」

 とだけ言い、面会を終了した。

 追い返された態の劉備は途方にくれた。

「どうしよう、朱里ちゃん?」

「……そうですね」

 諸葛亮は考える。

 袁術に断られるとなると張邈がそれを理由に及び腰になる可能性が高かった。彼女は会談の最後でも袁術の参戦を要求していた。

「孫策さんと会ってみましょうか」

 諸葛亮が言う。

「孫策さんと?」

「はい、袁術軍で一番強い部隊は間違いなく孫策さんの部隊です。彼女の力を借りられるなら心強いです」

 諸葛亮は荊州の司馬徽の私塾で学んでいたため、隣の揚州の事情にも少しは明るかった。

 だから、孫策が袁術から独立しようとしていることを読み取ることができた。

 となると孫策は名声を上げる機会を望んでいるはずだ。そして、この連合は彼女にとって、その機会であり、今のところそれは達成できていない。なら、協力してくれる可能性がある。袁術(もしくは張勲)も自軍はともかく孫策の部隊なら動かしてくれる可能性もあるかもしれない。

 だが、このとき袁術と張勲はもうすでに帰還の意志を固めつつある状況であり、それを覆すのは不可能であった。それに孫策の軍師である周瑜にも袁遺軍と積極的に戦おうという意思はなかった。

 だから、面会に成功し、孫策と周瑜に兵を動かすことを頼むと周瑜はたった一言で斬り捨てた。

「それは無理だな」

「どうしてですか!?」

 劉備は思わず声を上げた。

「我が主は揚州牧の客将だ。揚州牧の許可なく動くことなどできない」

 まったくの正論である。

「まあ、私はやってもいいんだけどね」

 しかし、孫策が横で茶々を入れる。

 それに周瑜は恨めしそうな眼をして、劉備たちに聞こえるか聞こえないかの声量で、雪蓮っと窘めた。

 それに孫策は悪戯が成功した子供の様な笑顔を浮かべた。

 彼女の言葉は真実であった。

 袁遺軍には一度やられている。そして、袁術軍を崩壊から救うということで少しはやり返せたが、まだまだ足りない。だから、袁遺軍と戦うのはやぶさかではない。

 しかし同時に袁遺軍が強いということも認めており、袁術軍の中の一部隊と言う立場では、袁遺の意図を挫くことは出来ても戦争に勝利することは出来ないという認識も持っていた。ただ、元来血の気が多い性格であるために戦わないのは退屈で、こうやって親友でもある周瑜に甘えるようにからかっているのだった。

「ですが、袁遺軍の現在の情報くらいは手に入れておいた方がいいのではないでしょうか」

 諸葛亮が言った。

「それはそうだが、袁遺軍の戦略とこちらの状況を考えるとそれなりの規模の軍を動かすことになり、統制が取りにくい状況だ。そこはどうするつもりだ」

 周瑜の言葉に諸葛亮は違和感を感じた。

 軍師なら今の状況で多少無理をしてでも情報を得たいと思うのは間違いではないはずだった。なのに、この落ち着き払った態度はどうだ。

 諸葛亮はさぐりを入れる。

「簡単な部隊行動基準のみを定めて、後は独自に判断することになると思います。これなら誰が指揮を執るかで揉めなくて済みますし、どの諸侯が精強か分かるのではないでしょうか」

 孫策軍の強さを見せて名を上げる。それに合致することをあえて言ってみせて、周瑜がどのような反応を見せるか諸葛亮は餌を撒いた。

「ふむ、ひとりの諸侯に全権を渡すのは不可能であるから、それしかないな」

 そして、周瑜の反応はあからさまな無視であった。

 諸葛亮はどこまで踏み込むか悩んだ。

 独立を考えているだろうと踏み込んでも、袁術との関係を考えれば孫策からの不興を買う結果にしかならない。かと言って、弱小勢力である劉備たちが提示できるメリットは少ない。

 そんな苦悩する諸葛亮の主の劉備は軍師とは別の意味で苦い思いであった。

 どこへ行っても駆け引き駆け引きで、何が得で何が損か、そればっかりを気にして話さなければならない。そして、その結果が今の連合の惨状である。なのに未だにそれを続けている。

 庶人のため、漢王朝のために戦う。それだけじゃダメなのかな。

 劉備は思った。

 そして、この駆け引きに飽き飽きしている者がもう一人いた。

「名誉なら、戦わなくても手に入っているんだけどね」

 孫策であった。

 ただし、彼女は劉備とは違い一刀を以って問題を斬り捨てることを選んだ。

「なッ!?」

 周瑜が驚きの声を上げる。

「……どういうことですか?」

 諸葛亮が尋ねた。その声はかすかに震えている。

 周瑜が、どういうことだと言いたげな顔をする。

 孫策はそれを視線で制すると諸葛亮の質問に答えた。

「袁遺が豫州で連合の悪い噂を流しているのよ」

 これだけ言えば、袁術の郷里の評価が落ちることで相対的に孫策が得をするということを諸葛亮は理解した。

 そして、それは諸葛亮と劉備陣営が持っている交渉のカードの意義が消失したことでもあった。

 劉備は場と諸葛亮の雰囲気から何かを察し、縋るように諸葛亮を見るが、諸葛亮は申し訳なさそうに首を横に振った。

 劉備の気持ちが爆発した。

「で、でも、それじゃあ洛陽で苦しむ人たちは!?」

 それが唯一、彼女を動かすものであり、彼女の心の支えだった。

 だが、それさえも消え失せようとしていた。

「大丈夫よ。洛陽で悪政なんて行われていないから」

 孫策が言った。

「えっ……」

 劉備は目の前が真っ暗になった。

「うちの将が洛陽の情報を手に入れて来たのよ」

「できたのですか!?」

 諸葛亮が驚きの声を上げた。

「ええ、各諸侯の細作に袁隗の細作と何が敵か味方か分からない状況だったみたいけど、うちには優秀な将がいるから」

 ねえ、と孫策は周瑜に同意を求めた。

 周瑜は面白くなさそうに肯定した。劉備たちは知らないことだが、周泰のことである。

「その情報によれば、最初期に混乱はあったが袁隗の協力後、問題は連合と戦をしていることぐらいしかないようだ」

 周瑜が孫策の後を継いで説明した。

 劉備は何も言うことができなかった。自分のやってきたことは、ただ争いを起こしただけだということを知ったからだ。

 この戦場には大義もなければ栄誉もなく、敵味方も関係なく参加した者全てが損をしただけだった。

 二日後、袁術が連合からの離脱を宣言し、豫州を通って寿春へと帰って行った。

 劉備にはそれを止めるだけの気力がなかった。

 そして、袁術に続き、巻の諸侯たちは次々と領地へと帰って行った。

 

 

20 葬送

 

 

 袁術を筆頭に領地に帰る諸侯は袁紹のいる酸棗には近づかず、それを避けたが、ひとりだけ真っ先に酸棗に向かった者がいた。

 張邈である。

 彼女は酸棗に着くと一触即発状態の曹操と袁紹に会談を呼び掛けた。

 曹操にしても袁紹にしても、知らない仲ではない張邈の呼び掛けを無碍にはできなかった。

 会談の席に着いたふたりは、そこで巻の諸侯たちが領地に帰ったことを知らされた。

 袁紹は怒り狂った。

 曹操への怒りも忘れたように、真っ先に帰還した袁術を口汚く罵った。

 曹操は複雑ながらも安堵した。

 いくら袁紹の憎しみが強くとも、残っている諸侯が三人では連合は解散であろう。そうなればこれ以上の自領での略奪も行われずに済む。

 袁紹は自分の陣へと戻って行った。軍師と将たちを集めて会議を開くようである。

 袁紹が去ると曹操が口を開いた。

「……それで彩雲(さいゆん)。あなたはどうして戻ってきたのかしら?」

「袁術の行動を総大将に報告するために」

「そう、麗羽に報告ね」

「ええ、そうよ。それでこっちも聞いていい?」

「何を?」

 張邈―――彩雲は真剣な顔を作ってから言った。

「袁遺軍から受けた被害は?」

「……三~四割程度ね」

 曹操は太守にしては破格の二万近い兵力を有していた。特に黄巾党の乱以降、兵の数を伸ばしている。

 彩雲は素早く計算した。まだ一万は切ってないのね。

「袁紹軍の被害は分かるかしら?」

「そちらも三割くらいね」

 となると袁紹軍は約四万の規模になる。

「華琳、私はね。あなたと伯業を天秤にかけに来たの」

「でしょうね」

 曹操は事も無げに言った。

 彼女もまた連合の性質を理解している。だから、裏切った云々を言う気はなかった。

「私の軍は一万前後。もし麗羽が酸棗でこれ以上の略奪を行い、あなたと対決することになるなら、広陵軍はあなたの指揮下に入って戦うわ」

「……彩雲。あなた、戦うことを嫌がっていると思ったけど」

「伯業と戦うのが嫌なのよ。勝てると思えないから。それはあなたも同じ。曹孟徳と戦って勝てると思わないから戦いたくない」

「…………」

「信用できない?」

「いいえ、信じるわ」

「じゃあ、腰抜けだって思ってる?」

「いいえ」

「…………ならいいか」

 彩雲は曹操が沈黙した間に考えたことが分かった。

 袁遺と曹操が戦うとき、彩雲がどのように行動するか考えたのだ。そして、無害であると位置づけた。

 おそらく、彩雲は広陵でそのとき揚州を抑えている勢力と睨み合っているか攻撃を受けている。そのどちらかだろうと曹操は予想した。そして、袁遺も似た様な結論を出したのだろう。そんな確信めいた予感があった。

 それらは彩雲も予想ができたが、口に出さないことにした。

 危惧していた事態は訪れず、袁紹軍は冀州へと帰っていった。

 それは反董卓連合の崩壊を意味していた。

 

 

 諸侯が去った後の巻で袁遺は兵を埋葬した場所に全軍を集めた。

 将校と軍師は喪服の白い羽織を着用し、下士官の立場の者には白いタスキと鉢巻を、兵には鉢巻のみを付けさせる。

 香を焚き、厳粛な雰囲気を演出する。

 命令を聞いて死んでいった者たちを故郷に連れて帰ってやることは出来ない。だから過剰と思えるほどの儀式で送り出して、生き残った者の罪悪感をまぎらわせる。海上での戦いで死体を保存出来ずに水葬を派手に行っていた時代と同じである。ラム漬けにされて持ち帰られたという例外も存在するが。

 将軍たちは皆、戦争の終結を実感し不思議な感情に包まれていた。

 終わったという安堵感と本当に終わったのかという不安が綯い交ぜになって胸を締め付ける。

 そんな中で袁遺ひとりが次の戦いを見据えていた。

 袁遺軍は洛陽へと帰還する。

 その途上、虎牢関で兵を休ませている間に袁遺は軍議を開いた。

「司馬懿。君は兵を率いて高覧と合流し、道を塞いだ障害物の撤去作業を行え」

 袁遺は命じた。

「御意」

 司馬懿が軍礼を行う。

 それを見て、袁遺は張遼に向き合ってから言った。

「張将軍。軍監として彼の別行動を承認していただきたい」

「……分かった」

 張遼は、連合と戦っているときは好き勝手やってたのに何を今更、と思いながらも許可した。

「高覧への命令書を書くから取りに来い」

「はい」

 袁遺は視線を司馬懿から全ての将へと移すと口を開く。

「洛陽までは、もう四〇里(二〇キロ)もない。兵を脱落させないよう気を配ってくれ。彼らは生きて帰れると高揚し元気なように見えるが、辛い戦いを続けてきたばかりだ。無理は効くようで効かない」

 全員がそんなことは言われるまでもなく分かっているという顔をした。

 袁遺の軍を動かすときに求めるものを彼の配下だけではなく、董卓側の将にも浸透してきている。

「では、皆も休んでくれ」

 軍議は終わった。

 司馬懿は命令書を受け取りに袁遺へと続き、他は皆は袁遺の言葉通りに休むことにした。さすがに皆が疲れ切っている。

 袁遺は命令書を仲達に渡すと言った。

「先に褒美を渡しておく」

「褒美?」

 オウム返しに仲達は尋ねた。

「そうだ。高覧に君の指揮下に入るように書いておいた。それと長安には本当に僅かだが私の財産がある。帰還後、私と叔父上が董卓によって殺された場合、高覧とその金で妹たちを守ってやれ」

 仲達は親友であり主である男を見つめる。その顔はいつもの無表情であった。

「……金は全て使ったと伺いましたが?」

「それは叔父上から金をせしめるための方便だ。いざというときに少しは残してある。そして、死んだならそれを使えない。だから、君が使え」

「董卓は、おふたりを殺しますか?」

「賈駆が殺すという可能性もある。それに私は勝手に張邈や袁術と和睦する様な文書も使った。叔父上が私を殺し、知らぬ存ぜぬで通す場合もある。そうなったら、身を守るために先立つものは必要だろう」

 袁遺は紙をもう一枚差し出した。譲渡したことを記したものだった。

「ありがとうございます」

 仲達はそれを受け取った。

 袁遺はそんな親友であり軍師である男に言う。

「だが、もし私が生き残ったら、君は私に扱き使われ続けるぞ」

「それは元より覚悟の上です」

「うん、そうか」

 袁遺は笑った。自然な笑顔だった。

 仲達も同様に笑う。

 彼らは束の間、ただの親友に戻った。

 ふたりには確信があった。

 袁遺が殺されることではない。袁遺は生き残り、袁紹を始め、立った諸侯たちと戦うことになるだろう。そして、勝つごとに袁遺と司馬懿の関係は変わり、最後はどちらかがどちらかを破滅させる関係になるかもしれない。だから、こうやって笑い合えるのは貴重な時間であることを。

 洛陽まで後二〇里という所で仲達は兵を八〇〇率いて高覧と合流すため、軍を離脱した。

 その後ろ姿を軍を停滞させない程度に眺めてから、袁遺は洛陽へと向かった。

 

 

 乙の章、了。丙の章へ。

 




補足

・巻
 ここで書くべきことじゃないかもしれないけど、この袁遺が軍を駐屯させていた地名は『けん』と読みます。『まき』じゃないです。じゃあ、読み仮名ふれよって感じだけど、この話、投稿するかなって、あとがきの所に補足を入力しているときに初めて読み仮名を振っていないことに気付いたから、ここに書きます。

・孫子行軍篇である
 辞を卑くして備えて益すは進まんとするなり。
 相手が遜った言葉を使いながらも、準備を整ているのは進撃する証拠である。

・ラム漬けにされて持ち帰られたという例外も存在するが。
 カクテル、アドミラル・ネルソンの作り方。
 ラムで満たされた樽を用意します。トラファルガー海戦で戦死したホレーショ・ネルソンの死体をそれにぶち込みます。するとあら不思議、イギリスに帰った頃にはなんとラムが空っぽになってました。
 割と有名な逸話だけど作り話のようで、本当はブランデーらしくて、盗み飲みされることなく大切に本国まで運ばれたらしい。
 あ、本当のアドミラル・ネルソンの作り方は自分で調べてください。



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丙の章
1~3


 そこには、ただ手入れが行き届いているだけでも、ただ豪華な調度品が使われているだけでも、ただ古いだけでも醸し出すことができない荘厳さと神聖さがあった。

 それは自分の忠誠心が歪みきっていることを自覚している袁伯業という男であっても、何か特別な気持ちを抱かせた。

 漢の首都、洛陽。その中枢にして中心である嘉徳殿に百官が居並んでいる。

 しきたりに従い文官は東に武官は西に並ぶ。文官の側には袁隗や董卓、朱儁の顔が見える。三日前に荊州より来た使者の顔もある。武官の中には呂布がいる。皆が朝服を纏っている。

「後将軍・袁遺、拝謁致します」

 同じように朝服に身を包んだ袁遺は跪き、言った。

 そして、手を付き頭を下げる。それを三度繰り返す。

 立ち上がり、百官の間を進む。ゆっくり歩くのではなく速足で音を立てずに進み、中程で再び跪き同じように三度、手を付き頭を下げる。

 それを行う袁遺はいつもの無表情な顔である。

 三白眼の瞳は無感情を通り越して無機質で、整った容姿が人に与える印象は怜悧というより冷淡だ。

 しかし、そうだからこそ、この手の儀礼的な所作が袁遺は絵になった。

 さらに進み出て、玉座の前で三度同じ動作をする。

 だが、今度は頭を下げたまま動きを止めた。

 玉座に鎮座し、身体を南に向けている少女が袁遺に声を掛けた。

「お、面を上げよ」

 震えた声であった。

 袁遺はゆっくりと頭を上げる。

 玉座に就いている容貌に幼さを残す少女を袁遺は始めて間近で見た。

 この御方が俺が仕えている皇帝か。

 袁遺は心の中で思った。

 天子は南面す。

 彼女こそが現在の漢帝国に君臨する皇帝であった。

 先帝と何皇后の間に生まれた彼女の名前は劉弁。袁遺の知る歴史では少帝とも呼ばれる人物である。

 三国志演義では暗愚という理由で廃されるが、この外史の心優しい董卓はそれを行ってはいない。袁遺も皇帝から暗愚という印象は受けなかった。また、彼女の代わりに即位することになる劉協も最も皇帝に近い位置で、この場に参加している。彼女の立場は劉弁が廃位後に就いた弘農王だ。つまり、この腹違いの姉妹の立場が入れ替わったのだった。

 袁遺は暗愚さを感じなかったが同時に、建前の天から選ばれた存在にしては、無形の迫力、威厳というものも彼女から感じられなかった。

 彼女から感じられるのは緊張であった。顔は青く引き攣っている。だが、目だけは別の感情を示していた。

 それが分かったとき袁遺は、へぇ、と呟きたくなった。何か面白いものを発見した気分になった。

 陛下は俺に興味を示している。

 皇帝としての義務感と皇帝としての初仕事への緊張と未知のものへの興味。彼女は皇帝であるが、その下には年相応の少女としての顔があった。

 だが、袁遺には素直な反応を示す自由はない。それを理解している彼は無表情な顔をさらに面白みのない真面目腐ったものにして口を開いた。

「臣・袁遺、上奏致します」

 

 

 異・英雄記

 丙の章

 

1 上奏

 

 

 連合との戦いの後、洛陽へと帰還した袁遺がまず行ったのは、叔父の袁隗と共に職を辞し、袁隗の屋敷に引き籠ったことだった。

 その訳は一族の袁紹が反乱を起こし、天下を騒がせた。その罪は九族に及ぶものであり、職を辞して謹慎し陛下の御裁可を待つ、というものであった。

 これは予め袁隗と董卓、賈駆との間で決められたことであり、まったくの茶番である。

 そして、これも予め密約を交わしておいた重臣や洛陽の名士たちが、ふたりの無罪を訴える運動を起こし、袁隗邸を訪れ、ふたりの説得を行った。

 反董卓連合なる賊軍を解散させ、天下の静謐を守った。陛下も温情ある沙汰を下すだろうと袁隗と袁遺が悪くないような空気作りに腐心した。

 もちろん、打算が多く含まれた行為である。

 袁隗の名声と権力に群がろうとすると同時に、都の袁一族を尽く処刑した場合、一番得をするのは董卓である。なら、袁隗という東側に基盤を持つ名士には生きてもらい、董卓一強になる状態だけは避けたいという思惑だった。

 しかし、袁隗たちは、なおも引き籠る。

 名士たちが泣き付いた先は董卓であった。

 彼女に袁隗たちを説得するよう願い出る。これも予め決められたことだ。袁隗が間に入り董卓と都の重臣や名士たちの和解が進み始めている。それを内外に見せつけるために名士たちは董卓に頼ったのだった。

 袁遺が恐れた董卓と賈駆による袁一族の排除が行われるなら、このタイミングであった。反董卓連合という最大の危機が去り、袁遺は用のない猟狗に成り下がっている。

 だが、董卓はそれを行わなかった。

 彼女は袁遺に含むところもなく、そもそも本質的にまったくの善人である。

 賈駆にしても連合は解散したとは言え、討ち取った諸侯はひとりだけであり、五倍以上の軍を叩き返す袁遺の軍事的才能を買っている。また、袁一族を殺したら、完全に都の名士たちの統制がとれなくなる。

 しかし、董卓の説得でも袁隗たちは引き籠る。

 原則としてこの手の問題を裁可できるのは、皇帝ただひとりであるからだ。

 最終的に董卓を筆頭に重臣たちが帝の勅命を戴き、ふたりが許された。

 何とも回りくどい迂遠な茶番劇だった。

 しかし、しょうがない。これは一種の政治的宣伝工作である。

 洛陽内に董卓と名士が和解したことを示し、皇帝の権威が存在することも見せつけた。それは反董卓連合が掲げた大義名分の否定でもある。

 そして、その後のことも宣伝工作の意味合いが強かった。

 そのひとつが袁隗の太傅就任である。

 袁隗は洛陽の名士たちに自分は陳蕃に習うと宣言した。

 陳蕃とは桓帝や霊帝の御世に活躍した人物である。

 名士であり、外戚や宦官、それらと結んだ濁流派人士と対立した人物であった。皇帝の政策を真っ向から否定する気骨の士でもある。ただし、割と生臭いこともやっている。彼は太傅の地位に会ったとき、宦官を取り除こうとして大将軍の竇武(とうぶ)と結び、兵を動かしクーデター紛いのことを起こしたのだ。宦官はこれを異民族討伐で活躍した張奐を使い鎮圧し、宦官の権力がより強化され結果になった。

 細かいことは置いておいて、陳蕃は汚職を取り除き清流派による政治を作ろうとしたのだ。

 だから、先帝の失策も含めて悪いことは全て宦官と濁流派のせいに押し付けるために袁隗は分かりやすい御旗として陳蕃を持ち出したのだった。

 そして、この袁遺の上奏に繋がる。

 帝への上奏を取り仕切る業務を宦官が独占していた。だから、袁隗と董卓が中心となり、それを行うことで宦官の世でないことを内外に知らしめたのだった。

 そのため、上奏に参列した清流派人士の中には、この清流派人士が取り仕切る上奏の光景に感涙する者さえいた。

 また、袁遺の上奏の内容も袁紹との戦いについての報告であった。

 これも宣伝工作である。

 戦の勝ち負けとは、だいたいがはっきりしないものである。

 この反董卓連合との戦いもそうだ。

 袁遺は確かに連合を解散させたが、首謀者の袁紹を討ち取れてはいない。そして、袁遺軍の被害は約五七パーセントと勝ったにしては大きなものであった。

 これを連合側の視点から見れば、董卓を討伐できなかったが、敵の軍を半数以上撃破したという戦果に返ることができる。

 だから、二〇万も集めて負けたと思われたくない袁紹や他の諸侯が地方の名士に上記のことを宣伝して、自分たちの有利なように戦後処理を進める可能性があった。軍事的敗北を政治的勝利で挽回するということだ。

 軍事とは政治という巨大な環の中にあるもので、決して独立したものではない。

 それを行わせないために袁遺を使って帝に勝利であったと上奏する。

 この勝利の上奏は清流派名士が上奏を取り仕切るという重大事と相乗効果を生んで各地の名士に広がるであろう。

 また、その宣伝の一環で反董卓連合は以後、漢の公式な文書では袁紹の叛乱軍と記されることになった。

 だが、袁遺の心は冷め切っていた。文書を読み上げている自分の声でさえ遠くに聞こえた。

「率兵討群凶、戎士貫甲馳」

 それが表に出ているのか彼は無感動な語り口である。

 しかし、それが聞く者に何ら作用しないかは別であった。

 袁遺という男は戦場から帰ってきても、心が簡単に戦場を忘れない人種である。

 だから、今も彼は戦場にいるかのような空気を纏っている。それがある種の凄みとなり、一定以上の教養を持つ者の想像力を掻き立てる。

 帝も固唾をのんで袁遺の上奏を聞いていた。

「陣未成退術、六千兵野平」

 もちろん、これは狙ったものだった。そのため文章には過剰な装飾がなされている。だから、戦場の事実を知る朱儁などは袁遺の事情を理解しながらも、どこか冷めた態度を取っていた。

「虎臣雄烈呂、破匡顕彰功」

 だが、袁遺は違った。朱儁とは理解し合えない。

 確かに彼とは黄巾党の乱のおり、上官と部下という関係であった。仲も良好である。それでも朱儁は理解できない。彼とは黄巾党の乱、その豫州の戦いを分かり合えても、連合との戦いは理解できないのだ。それは参加した者のみが分かり合える。

「陳留生野煙、同盟疑袁紹」

 それに俺が事実を全て伝えれば、ただ俺の命令に従い戦場で骸になった兵たち彼らがどうなるというのだ。巻や敖倉に埋葬された彼らが故郷に帰るのか。戦場に命を意味を考えるなど虚しいだけだ。

「戦征幾人回、白骨露干野」

 いや、違う。これは言い訳だ。俺は今の気持ちを誤魔化したくて、何かもっともらしい言い訳を作っているんだ。くそッ、それこそ彼らへの冒涜だ。

 袁遺は恥じているのだ。

 知り合いの殆んどが袁遺の忠誠心が歪んでいることを指摘する。何故、お前が儒家から高い評価を得ているのか理解できないとも言う。

 まったく俺も同意見だ。そんな俺が宮城で、皇帝の前で、過剰装飾された言葉を並べて勝利を誇っている。まったく恥以外の何ものでもない。厚顔無恥とはこのことだ。

 だが、顔面には何の変化もない。ここで全てを投げ出すほど袁遺は若くもない。ただ、自分が外道の人非人であることを忘れないだけで十分であった。

 

 

「ふふふ……」

 雷薄は顔が緩むのを抑えられなかった。

 ただでさえ山賊と間違われるほどの狂相である。はっきり言えば、善からぬことを企んでいるようにしか見えない。

 しかし、雷薄の同僚たちはそれに慣れ切っていた。一日中、雷薄はこんな様子である。

 それに張郃は、またか、という様な顔をする。高覧は普段と変わらない風である。陳蘭は高覧を一瞬、盗み見てオロオロとし出す。

「お、おい……」

 そして、陳蘭は雷薄を窘める。

 だが、窘められた雷薄はそれでも緩みが治らなかった。

「分かっているけどよ。だって、校尉だぜ。校尉」

 張郃、雷薄、陳蘭の三人は連合との戦いでの活躍により出世していた。

 校尉の品秩は六品、官秩比二〇〇〇石。一万一三四七人を率いる現代で言えば大佐~中将クラスの指揮官である。

 また、張郃が忠義校尉。雷薄が破賊校尉。陳蘭が宣信校尉となっている。

「袁術に仕えていた頃はただの部曲で俺もテメェも疎まれて、酷い扱いだったじゃねぇか。それが正式な官職をもらったんだぜ」

 雷薄が嬉しそうに言う。

 しかし、彼はただ浮かれているだけではなかった。

「それに今のところ、俺たち三人が一万なんて部隊を率いることはないんだ。ならせめて喜ぶくらい、いいだろう」

 雷薄の言うとおりである。連合との戦いで袁遺の手元に残った戦力は一万七〇〇〇。洛陽に残した兵と高覧の別働隊でさらに一万。それぞれが一万規模の部隊を率いるという話どころではない。そのため、司隷で最も余裕がある長安では徴兵が進められている。

「いや、それでも……」

 だが、陳蘭は、別働隊としてひとり連合との戦いで功を上げ損ねた高覧のことを気遣った。

 もっとも、高覧自身はそれほど気にしていない。彼は乱世で昇り詰めていく武将というより、職業的な軍人であった。大して不満を抱かず自分を袁遺軍の一機能とすることができる男である。

「まあ、伯業様は仕えにくい主であるが、決して他人の心情を介さない御方じゃない。そのうち出世の機会を作ってくださるさ。そこで手柄を挙げりゃいいだろう」

 雷薄が明るい調子で言った。

 高覧は頷いた。

 確かに、そうであった。連合との戦いは終わったが、袁紹との戦いは終わったと言えない。また、諸侯だけではなく、賊などが連合との戦いを見て漢王朝の力が弱っていると思い無軌道な反乱を起こすかもしれなかった。嫌でも戦いは続く。

 上機嫌に見える雷薄であったが、心のどこかに酷く冷めている自分を発見した。

 校尉になれたが、俺の出世はここまでだな。そもそも俺が一万の部隊を上手く指揮できるはずがねぇ。二〇〇、三〇〇の部隊を夜盗の様にコソコソと素早く動かすのが得意であって、高所から一万を指揮するなんざ性に合わねぇ。まぁ、校尉はここまで仕えてきたことも含めての大盤振る舞いだな。もし、俺が将軍になれるなら墓の下に入ったときだ。なんだったか、追贈って奴だったか。

 雷薄は同僚の顔を順番に眺めた。

 陳蘭も似たようなもんだ。こいつも将軍って感じの指揮じゃなぇ。まあ、正面戦闘において粘り強い戦をするから俺より出世するかな。

 高覧は将軍になれるかもしれねぇな。だけど、一〇万、二〇万を率いるのは無理だ。せいぜいが二万、三万か。

 張郃、こいつが一番、出世するだろうな。いや、あのいけ好かないやろうか。

 雷薄の脳裏にひとりの男の顔が浮かんだ。主が最も信頼し、最も恐れている男である。

 まあ、いいさ。将校になれただけで俺の人生、上等だ。袁術の部曲か、そこを抜け出して山賊になるかしかなさそうな人生だったんだ。

「まあ、手柄を挙げて出世したら、飲みに行こうぜ。俺たちが奢ってやる」

 雷薄は陽気に言った。

 

 

2 外交

 

 

 上奏の三日前、袁遺たちは最後の詰めに入っていた。

 司空府には、そこの主の董卓と彼女の軍師である賈駆、袁隗、袁遺、雛里が集まっていた。

「では、伯業は後将軍はそのままに洛陽令も兼任させることでいいんだな」

 袁隗が念を押す様に尋ねた。

「ええ、それでいいわ」

 賈駆が了承する。

「伯業、長安令の後任はどうする?」

「張既を推挙します。馬涼州牧との関係を考えると彼が最適です」

 袁遺の答えを聞き、袁隗は董卓側を伺った。

「私もそれでいいと思います」

 董卓もそれに賛成だった。

 董卓たちから最も信頼を得ているのは張既である。なので、すんなりと受け入れられた。

 これで司隷の二大都市を董卓・袁隗陣営で抑えたことになり、足元は固められた。

 しかし、一番の問題は袁紹の動きである。

 それは間者を用いることなく、洛陽にも自然と入ってきた。

「それで、袁紹の新帝擁立の動きにはどうするわけ?」

 賈駆が言った。

 袁紹は本拠地の冀州南皮に帰った後ですぐに行ったのは軍の再編と、この新帝を擁立することである。

 董卓の排除と帝および洛陽の確保に失敗し、連合が解散したのだから、袁紹は逆賊の汚名を着ることになる。

 それを政治的に挽回するために、今の皇帝は幼く董卓の操り人形で、それは天の意志によって選ばれたのではなく、正しい皇帝は他にいると天人相関説を利用することにしたのだ。そして、正しい皇帝となる新帝に劉虞がふさわしいと名士間に派手に宣伝している。

「それについては上奏して、名士の反応を見てから決めた方がいいだろう」

 袁隗が答えた。

「そうね」

 賈駆は同意しながらも、ため息をひとつ吐いてから続けた。

「そもそも現帝を即位させたのは何進とその妹じゃない。そして、何進に最も近かったのは袁紹本人でしょう」

 もちろん、賈駆も袁紹側の狙いは分かっている。しかし、気分の良いものではない。

 ふと袁隗を見ると彼も苦い顔をしている。賈駆にはそれが意外だった。彼のような人間なら政治的に正しいと平然としていると思ったからだ。

「……他に袁紹に何か意図があるの?」

 賈駆が尋ねた。

 それに袁隗は呻き声の様な咳払いをして、袁遺を見た。袁遺はいつもの無表情であった。

「……わしにも恥というものはある。伯業」

「私も恥というものを持っているのですがね」

 袁遺は叔父からバトンを受けて袁紹の真意を話し始めた。

「まあ、つまり、私の持っていないものを持っているあいつがずるいって感情ですかね」

「……」

「……」

 董卓と賈駆は呆れ果てた。いくら何でも幼稚過ぎる感情だ。

 しかし、袁紹にとって、自分の願いとは叶えられて当然のものであると認識していた。そうであるなら、これは当然の帰結である。

「……呆れると言えば、荊州もどうなっているのよ」

 賈駆は一通の書簡を手に取った。

 そこには袁遺と反董卓連合が戦っている間に荊州で起こった事の顛末が書かれていた。

 荊州牧の王叡は反董卓連合に参加することを表明したが、彼が行ったのは以前より不仲であった武陵太守の曹寅への攻撃である。

 正史なら、これが曹寅に露見して彼は孫堅を頼り、孫堅軍が王叡軍を破るのだが、この外史では王叡の身勝手な振る舞いに荊州の名士たちが呆れて彼への協力を拒否したのだ。そもそも荊州で上から数えた方が早い著名な名士のひとりに龐徳公がいる。彼女は雛里の叔母に当たるため、荊州の名士自体がそれほど反董卓の旗色ではなかった。

 王叡は結局、曹寅との戦いに敗れ、最後は溶かした金を飲み、自殺した。

 なんとも呆れる様な顛末である。

 その後、党錮の禁により荊州に移ってきた劉表が臨時荊州牧を務めているから、認めるなり代わりを送るなりして欲しいと使者に書簡を持たせて洛陽まで送って来たのだった。

「まあ、王叡のことは置いておいて、問題は劉表だな。わしは劉表を州牧に就かせるべきだと思う」

 袁隗が意見を述べた。

「でも、荊州は要地よ。豊かな土地に多い人口。できればこちらの信頼できる者に任せたいんだけど」

 しかし、賈駆が難色を示した。

 荊州は前話で述べた『フォレストランド』に当たるが、開けた土地も多く。ある程度の開発がされている。そのため、安定した雨量の恩恵を多くの土地と人が受けられ、かつ人の移動にも困らない。荊州は南では例外的に発達していた。

「だが、劉表は荊州で最大の豪族である蔡一族から妻を娶っている。彼を州牧に推さなければ、荊州最大の豪族を敵に回すことになる」

 地方豪族、つまり名士の協力を得られない厄介さを董卓と賈駆は洛陽に来てから嫌と言うほど味わったため、袁隗の言うことは理解できる。

「それにしても劉表という人は、使者の人選を見ても、かなり強かなようですね」

 袁遺が口をはさんだ。

 荊州で最大の豪族である蔡一族の力を使えるなら、漢王朝に認めてもらわなくても荊州を治めることができる。

 しかし、劉表はそれをやらなかった。

 それをやれば、自分は蔡一族の操り人形ということになり、他の荊州名士と対立する可能性があった。だから、漢王朝から正式に州牧に任命して欲しいのだろう。

 そして、使者も水鏡塾で雛里と共に学んだ韓嵩を寄こしている。

「ふむ。おそらく、袁紹にも使者を送って誼を通じようとしているだろうな」

「でしょうね」

 袁隗と袁遺はそれを当然のものとして受け取った。それが外交というものだ。

「軍事的な見地から意見を言わせてもらえば、新野、最低でも宛まではこちらで確保していなければ、攻め込むにも援軍を送るにも山に阻まれてどうしようもありません」

 荊州に司隷から攻め込もうとした場合、伏牛山脈に行き当たる。二〇〇〇~一四〇〇〇メートル級の山々で構成されるそれを突破するのは難しい。

 となると洛陽方面より緩やかな豫州方面から軍を入れるしかないが、こちらも司隷方面よりマシなだけで山地である。もっとも袁遺たちは豫州を確保していないため、このルートを使うことは出来ない。

「ですから、代わりの者を送って、その者が追い返されるなり、殺されるなりしても攻め込むのは不可能です」

「なら、正式に州牧に任命するしかないわね」

 賈駆が言った。自分たちの信頼できる人間を州牧に就かせるのは諦めたようだ。

 しかし、ひとつ条件を付けてきた。

「でも、あんたの言う通り、新野……いえ、宛はこちらの人間に統治させるように命令するわよ」

 そもそも袁遺が言い出したことであるから、袁遺に否はない。また、袁隗も軍事方面では袁遺を信頼しているため特に注文を付けたりしなかった。

 ただ、袁遺にはそれとは別にやるべきことがあると判断した。

「鳳統、君は韓嵩とは旧知の仲だ。彼女に荊州の情報を聞いてくれ。おそらく劉表も君からこちらの情報を得たいと思っているはずだ。韓嵩はそのための人選だ」

「は、はい」

 雛里が頷く。

「韓嵩にも上奏には参列してもらいましょう。劉表がこちら側に就いたという宣伝にもなります」

「そうだな」

 袁隗が同意した。

「次は河内ね」

 賈駆が言った。

 連合に参加した河内太守の王匡が戦死したため、現在その席は空いている。

「張楊を推挙します」

 そこに董卓は吸収した何進軍の武将のひとりである張楊を座らせようとした。

 張楊は連合との戦いでは洛陽にいて、董卓の部隊の実戦指揮官の役目を果たしていた。余談だが女性である。

「それで構わん」

 袁隗はそれに賛成した。となると袁遺も賛成せざる得ない。

「はい、分かりました」

 しかし、袁遺には含むところがあった。

 河内郡には司馬懿の故郷である温県がある。誰か温県の名士を司馬懿に推薦させ、太守に据えた方が袁遺は影響力を保持できる。

 まあ、ここは引いておくか。

 袁隗・袁遺側の主張ばかり通すのも関係を悪化させるだけであり、それは望むところではなかった。

 これで洛陽の、西の長安を張既が、北の河内を張楊が、南の荊州を劉表が抑えたことになり、問題は東だけであった。

「東ですが、私は曹太守とは手を結ぶべきだと思います。今の戦力では彼女を打倒すことは不可能です」

 曹操は強い。それは司馬懿によって四割の軍を損失しても、領地を袁紹によって荒らされても変わらない袁遺の認識であった。

「だが、曹操は野心家であると聞くぞ」

 袁隗が尋ねた。

 確かに甥の軍事的才能を信じているが、曹操のことを過大評価し過ぎているように袁隗は感じていた。

「野心家なのは認めます。しかし、手を組めるのは今しかないんです。彼女は先の戦いでは敵対した我々と領地で略奪を行った袁紹の二大勢力に挟まれています。司馬懿が曹操軍に手傷を負わせた今、彼女には両方を敵に回すことは不可能です。袁紹と手を結ばれる前に懐柔するのが最善だと考えます」

「袁紹の盾として使い潰す気?」

 賈駆が尋ねた。

 彼女の様子から、曹操を使い潰すのに反対していなかった。むしろ、確認に近い意味合いの質問であった。

「いいえ、違います」

 だが、袁遺は否定した。

「連合が何故、二〇万という大軍でありながら四万の軍に解散まで追い込まれたかは、彼らが、連合に参加した者全てに利益が行き渡るようにする、という基本的なことを理解していなかったからです。ここで曹太守を使い潰す真似をするのは、連合と同じ轍を踏みます」

「じゃあ、どうするのですか?」

 尋ねたのは董卓であった。

「彼女は独力で袁紹と対抗できないので、その支援を行います。また、連合に参加したことによって彼女の風聞が悪くなるようであれば、その回復も手伝います。その間に私は豫州を攻め取りたいと考えているのです」

 西は張既を使い馬騰と結び、東は曹操・袁術・張邈の三人と結んで、相互に監視させ、誰か一人が敵対するようなら、残りふたりがそれを止めるような同盟を組むことを袁遺は画策していた。彼は多方面作戦がどれほど難しいことかを歴史と知識から知っている。だから、敵が袁紹ひとりになるように外交で腐心するしかないと考えていた。

「豫州に進攻するなら思いの外、早くなるかもしれないぞ」

 袁隗が言った。

 会議に参加していた袁隗以外の皆が彼の方を向き、どういうことだという顔をした。

「間者からの情報によると豫州牧の孔伷の体調が悪いようだ。元々、良くなかったのが、連合に参加して悪化したようだな」

 豫州は袁一族の故郷である。袁隗は常に目を光らせていた。

 その情報に袁遺は我が意を得たとばかりに、無表情な顔に僅かに暗いものを宿した。

「各地の賊については何か情報がありませんか?」

 袁遺が尋ねた。

「活発だ。反董卓連合が起きたことで朝廷が強力な統制力を有していないと見られ、その反董卓連合の諸侯も二〇万の戦力を有していたにも関わらず解散に追い込まれて力がないと見られ、各地で黄巾党の残党から無関係の賊も好き勝手やっている」

「では、孔伷の体調が悪いという噂が流れれば、豫州の賊の動きが、より活発になるでしょうね」

「流すか?」

 袁隗が言った。その顔には暗いものがあった。

「やめておきましょう。こちらの軍は再編の途中です」

 攻め込むチャンスを作っても、攻め込むための軍がなければどうしようもない。

「軍の再編はどうなっているのよ?」

 賈駆が尋ねた。

「別働隊の高覧と司馬懿が二日前に帰ってきたばかりで、今、司馬懿に必要な人材を挙げさせています。もうしばらく掛かりますね」

「兵は?」

「長安でさらに流民を中心に八〇〇〇名を徴兵しました。連合との戦いのときに洛陽に残した一万と、その戦いで生き残った一万七〇〇〇。全部で三万五〇〇〇ですが、指揮系統の再構築ができていないため、烏合の衆もいいところです」

 この指揮系統の再構築がくせ者だった。

 ただし、それを理解しているのは、それに参加している袁遺と雛里、仲達の三人だけであった。

 人並み外れた軍才を持つ賈駆であっても、それを理解するのは不可能であった。何故なら、袁遺は今までになかったことをやろうとしているのだから。

 急ぎなさいよ、と急かす賈駆に袁遺は、わかりました、と頭を下げた。

 今、袁遺たちも含めて諸侯たちは次に起こるだろう戦いへの準備期間に入っていた。

 どのように軍を再編するのか。誰と手を組み、誰と戦うことを選ぶのか。それで自分たちの未来を大きく変えることになる。

 その未来を大きく変えることのひとつが青州で起きようとしていたことは誰も気付いていなかった。

 たとえ、青州黄巾党というものを知っている袁遺も例外ではない。そもそも袁遺は、この外史の張角がどういう人物かも知らず、それがどういうことかも分からなかった。

 

 

3 三年の喪(前)

 

 

 春が近いことを感じられる陽の光を浴びながら、三騎の騎馬がゆったりとした速度で道を征く。

 一行は皆、女性であった。

「まったく、華琳様に二度も足を運ばせるなんて。今日も面会を断ったら、タダじゃおかないぞ」

 その中のひとりが忌々し気に言った。

 彼女は長い黒髪と精悍さと美しさを兼ね備えた容姿の持ち主であった。

 名前は夏候惇。この一行の主である曹操の部下であった。

「やめなさい。常識に外れたことをやっているのはこちらよ、春蘭」

「そうだぞ、姉者」

 それを主の曹操と妹の夏侯淵が窘めた。

「華琳様~、秋蘭~」

 ふたりに窘められた夏候惇は子犬の様にシュンとした。

 そんな様子に曹操は穏やかな笑みを浮かべた。夏侯淵も同様である。

 春が近いことを感じ、親愛する部下たちと過ごす時間に幸せを感じていたのだ。

 でも、この感じを彼の前では閉まっておきましょう。曹操は思った。

 今から訪ねる人物は、こういった感情からその身を遠ざけねばならない人物であるからだ。

 その前に会ってくれるかしら? いえ、会ってくれないでしょうね。

 春が完全に訪れたとき、曹操は官職に就く。

 洛陽の北門の警備隊長という、決して高くない官職であるが、彼女はそれを自身の野望の第一歩だと考えていた。

 その前に彼に会っておきたくなったのであった。

 自分でもその理由は分からない。ただ、あの男の顔を見ると分かるような気がする。だから、非礼に値するが会いに行くことにしたのだった。

 そして昨日、彼を訪ねたが、面会を断られた。それでも諦めきれずに今日も再び訪ねるのだった。

 馬を駆けさせて辿り着いたのは、広大な屋敷である。

 その門の前には門番がふたり立っており、その奥にも私兵がいる。この屋敷に住む者が高い身分であることを察せられた。

 曹操はその門番のひとりに取り次ぎを頼んだ。

 内心では追い返されることを予想していた。そのとき、この門番を夏候惇が斬り捨てる前に止めなければならないと覚悟した。さもなければ、官職に就く前に自分の名声が終わってしまう。

 しかし、意外なことに戻ってきた門番は曹操たちを招き入れた。

 曹操は目的の人物がいるという屋敷の奥の庭にある小屋へと案内され、夏候惇と夏侯淵は別室で茶と菓子でもてなされた。

 曹操は歩きながら、庭を眺めた。

 凡庸ね。曹操は思った。

 庭は確かに、よく手入れされていた。そして、所々に南の造形を取り入れ工夫もされているが、全てが小さく纏まり過ぎている。

 もう少し崩すということを覚えれば、面白さを出せるのだけど……

 優れた美的感覚と枠に囚われないダイナミズムを持つ曹操からすれば、何ともつまらぬ庭であった。

 だが、そのつまらぬ庭はすぐ終わった。

 突如、まったく手入れされていない青草が生い茂る地面になったからだ。

 喪に服している人間は現世を楽しんではいけない。自分の身を顧みてはいけない。だから、庭を見て楽しまないようにってとこからしら。あいつらしい。

 曹操は思った。

 案内された小屋は粗末な作りであった。

 門番は案内を終えると一礼して、本来の役目に戻っていく。

 声を掛け、小屋に入ろうとした瞬間、曹操は急に自分の身だしなみが気になった。

 馬に乗ってきたため、服に砂埃がついている。払う。

 次に髪が乱れていないか気になった。しかし、鏡も櫛もない。手櫛で下手なことをやっても、かえって乱れるだけだ。

「ぅうん……」

 曹操は咳ばらいをひとつして心を落ち着かせる。

 何を慌てているのよ、たかが伯業に会うくらいで……

 恥ずかしさとも怒りとも違う訳の分からない感情を抱きながらも、曹操は扉の向こう側にいる人物に声を掛けた。

「入るわよ、伯業」

 曹操が訪ねたのは父親の喪に服している袁伯業であった。

 久しぶりに会った袁遺は少し痩せていた。彼が喪に服して一年半になる。

 無表情な顔は前に会ったときの同じだが、それが与えていた印象が変わっている。昔は冷たさを感じたが、今は枯れた様に感じる。

 親が死んでも平気そうな男と思っていたが、そんなことはなかったのね。曹操は他人を冷血漢扱いしたことを恥じた。

「久しぶりだな、華琳」

 袁遺が言った。

 茶や菓子を用意してもてなすということはしない。曹操もそれは分かっている。袁遺は喪に服しており、簡単に友人に会ったり出来る立場の人間ではない。喪に服している最中、徹底的なストイックさが求められる。小屋の中も文机と寝台しかない。

「ええ、久しぶり、伯業」

 曹操―――華琳も応じた。

「本日はどのような用だろうか?」

「官職に就く前に何となく、あなたの顔が見たくなったの。何故だか分からなかったけど、あなたの顔を見れば分かるような気がした」

「それで、分かったのかい?」

「いいえ」

 華琳は首を横に振る。

「でも、あなたの顔を見て、どうでも良くなったわ」

「それは良かった」

 袁遺は目を閉じ、穏やかな微笑を浮かべた。

 華琳も心の中にあったもやもやが消え失せていた。

 袁遺は姿勢を正し、口を開いた。

「このような場で何だが、任官おめでとう」

「北部尉よ。そんな大仰なことはやめてちょうだい」

「北部尉……」

 袁遺は華琳が就く官職を反芻した。

 華琳は袁遺の表情を観察する。

 北部尉に就くことを聞いた者たちの反応はいくつかの例外を除いて一緒であった。

 何故、そんな低い官職を? 君は四代の皇帝に仕えた大宦官の孫だろう。もっと高い地位を望めたのではないか? という反応である。

 例外としては華琳のやることを信じてくれる夏候姉妹と、

「おーほほほほほ、宦官の孫の華琳さんには相応しい官職ですわね」

 と清々しいまでの嫌味を言った袁紹くらいだった。ここまで、はっきりと言われれば、華琳は袁紹を怒る前に呆れてしまった。

 伯業はどんな反応をするかしら。

 華琳はそれに興味があった。

 しかし、袁遺の反応は薄かった。

 北部尉と確認するように再び繰り返し、君ならどんな職であっても十全にやり遂げるだろうね、と励ましただけだった。

 袁遺からすれば自分が持つ知識と華琳の最初の官職が同じであったから、その驚きが少なかったのだが、華琳がそれを知る由はない。

 ふと華琳の目に文机の上の書簡が入った。

 それに袁遺が気が付き、書簡を差し出しながら言う。

「これは父上が生前に集めた歌や小説だ。それを模写し、月に一度、父上の命日に墓の前で燃やしているんだ」

 華琳はそれを受け取って目を通す。

 確かに伯業の字だ。しかし、この内容は……

「幽霊を騙したり、仙人を莫迦にして殺される話ね。どこで集めたのよ、こんなもの」

 華琳は感心するべきか呆れるべきか悩んだ。

 そんな彼女に袁遺は目を細める。

「あなたは本当に父を慕っていたのね」

 華琳が口を開く。

「正直、あなたが三年も喪に服するとは思わなかったの。袁伯業という男は実利を第一に考え、行動する人物と思っていたわ」

「三年の間、喪に服せば名声を得れる」

 袁遺は無表情な顔で言った。

「けど、三年は長いわよ」

「確かにそうだ。喪が明けた頃、君は私とは比べ物にならないくらい出世しているだろうな。いや、本初もそうだし、公路さえもそうだろう」

「で、三年の喪の名声であなたは、どのくらいの官位を得れるの?」

「私の前の職が県尉であることを考えると、どんなに良くても小県の県令くらいだろうな」

「麗羽が何の職に就くか知っているかしら?」

 華琳が尋ねた。

「知らない。世俗のことはなるべく耳に入れないようにしている」

「南皮県の県令よ」

 初任官では異例な大役であった。さすが名門袁家といったところである。

「すごいな」

 素直に感心するしかなかった。同じ袁家でも自分と違い過ぎて嫉妬する気さえ起きなかった。

 なお、その後に袁術が九江太守という袁紹の上をいく凄まじい初任官を見せることになる。

「華琳、私はもう少し父の喪に服すよ。父のために詩や小説を模写して燃やしていたら、残りの一年半などすぐに過ぎるだろう」

 袁遺は改めて姿勢を正した。

「本来なら、こんなことを言ってはいけないんだろうけど、君と久しぶりに話せて嬉しかった。ありがとう」

 袁遺は頭を下げた。

「ねえ、伯業。あなたはどうして私に会ってくれたの?」

 華琳は自分がここに来たことが非礼であることを理解していた。だから、追い返されても文句はないし、会うことは出来ないと思っていた。

「今朝、小屋の外に出ると地面に霜が降りてなかった。これはもうすぐ春が来ることの証だ。そして、この時期には雨が降ることが多い。もし、君が今日で諦めずに私に会いに来るなら、雨に打たれながら来ることになる。それが申し訳なかったんだ」

「……」

 曹操は言葉を失った。嬉しいような子ども扱いされたようで面白くないような複雑な気持ちを胸に抱えていた。

「洛陽への道中も、どうか気を付けてほしい。君の無事と栄達を願っているよ」

 袁遺は真剣な顔で言った。

「……そう、それじゃあ、そろそろ行くわ。次に会うときは喪が明けてからね」

「うん、気を付けて。門まで送ることができないが、それは許して欲しい」

「いいわ、分かっているから」

 華琳が小屋を出ようとして、ひとつ気になったことがあったのを思い出した。

「そう言えば、あの庭は誰が造ったのかしら?」

「父上だ。叔父上の御厚意で今も父上が設計した通りに整えさせているんだ」

「そう……」

 確か伯業の父親は詩人として大成したいという野望を持っていたというが、あの庭の出来から大成できなかった理由が分かるわね。

 もちろん、袁遺もそれに気付いていた。だが、彼は決してそれを口にしないだろう。だから、華琳も口にしないことにした。

 華琳が帰った後も袁遺は扉を開け放ち、遠くの父が設計した庭を眺めた。

 一年前より青草が生い茂っている面積が増えてきた。

 袁遺は袁隗に頼んで、徐々に庭の手入れする面積を減らしてもらっていたのだった。

 袁隗は喪に服している間、庭を見て楽しまないようにするためだと判断したが、違った。

 袁家の部曲の数が増えている。おそらく、その数が二〇〇〇、三〇〇〇とひとつの部隊を形成できるようになったとき、世は乱世になっているだろう。

 部曲とは零落した貧農で、それがそんな数を出すということは漢の政治機構が機能しなくなるからだ。何も名士は袁家だけではない。おそらく各地の豪族も肥大化し、漢王朝の手に負えなくなるだろう。

 だから、袁遺はその乱世に備えて、いざとなれば馬の食料になる雑草を生やしたままにしている。

「喪が明けたとき、袁家の部曲と小作人はどのくらい膨れ上がっているだろうか」

 そう呟いた袁遺は、ふと華琳とは別の友人の顔を思い出した。

 喪が明けたら、あいつに会いに行こう。何故だか分からないが会いたくなった。きっと華琳と同じであいつの顔を見れば、何故そういう気になったのか分かる気がする。いや、たとえ分からなくても満足できるような気がする。

 その後、華琳は法に厳しい北部尉として洛陽で名を馳せることになる。

 彼女は十常侍のひとり、蹇碩の叔父が夜間北門通過禁止の令を破ったため、それを捕らえ打殺した。

 法家主義でもある華琳にとって当然のことだが、十常侍の叔父に媚びることのない態度は清流派人士たちから評価されることになり、宦官の孫であり濁流派の子であるという風評を消しとばす行為でもあった。

 すぐに、彼女は頓丘県令へと出世し、栄光の階段を登っていくことになる。

 反董卓連合よりだいぶ前の話である。

 

 

 しかし、皮肉にも彼女を栄光の階段から蹴り飛ばすことになる男は、華琳の無事と栄達を願っていると言った袁伯業本人であった。

 




補足

・嘉徳殿
 和帝の時代に建てられ、霊帝が死んだ場所であり、何皇后がいた場所であり、何進が殺された場所。
 皇帝の御所のひとつであるが、ここで政務も行っていたのではないかという説もある。
 私も当時の洛陽の地図を本で見つけて、嘉徳殿の近くに三公府があり、政務を行っていた可能性もあるなと思い。その説を採用することにした。
 だから、嘉徳殿で上奏なんて行わねーよ、という諸兄はお目こぼしお願いします。

・陳蕃
 本編に描いたことを少し補足。
 外戚、宦官が力を持っていた時代の大将軍は、梁冀しかり、何進しかり外戚が就くものだった。
 そして、このときの大将軍も桓帝の皇后の父親の竇武である。
 さらに竇武の娘を皇后にするために陳蕃が色々と手を回していたのだった。
 竇武は外戚故の引き上げがあるため、他者からの嫉妬を躱すのに、自らの身だけではなく一族に慎み深く行いを徹底させた。その甲斐あって、清流派人士からも一目置かれることになる。
 さて、これはまったく根拠がないことだが、彼らが宦官を取り除くことに成功しても、彼らの関係は上手くいかず、新たな火種になっていたと私は思う。
 計画の段階で、一気呵成に進めたい陳蕃と、万全を期すために慎重に事を進めたい竇武で意見が食い違い。そもそも竇武の娘は、宦官全ての誅滅に反対であった。
 それに魏晋の名士たちの動きを見ても、結局、自分たちの既得権益の為に動いているので、対立は免れないんじゃないかと浅学ながら思うのであった。

・幽霊を騙したり、仙人を馬鹿にして殺される話ね。どこで集めたのよ、こんなもの
 『列異伝』という曹丕が著した、もしくは編纂したとも、晋の張華のものであるともいわれる説話集がある。
 現在は散逸していて、全文は分からないが、この曹操が読んだ話はふたつとも現代に残っている話である。
 この説話集は、この外史では中々に数奇な成立の仕方をすることになる。

・いざとなれば馬の食料になる雑草を生やしたままにしている。
 男衾三郎絵詞という鎌倉時代に書かれた絵巻物があるが、その中で鎌倉武士は、庭の草は抜くな、いざというときの馬の餌だ。坊主や乞食は逃げるのが速いから弓矢の練習の良い的だぞ。庭には絶えず生首を置いておけよ、斬りまくれ。軍の陣で琴とか笛とか奏でてんじゃねえ、とか蛮族全開で書かれている。
 まあ、青草を食べさせ過ぎると馬は腹を壊すが、餌になるのは事実です。


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当分、政治とか外交の話が続くと思います。


4 青州黄巾党とそれにまつわる色々

 

 

 反董卓連合の結成と崩壊は、ある種子にとって、水となり、陽の光となり、肥料となった。

 連合の結成は漢王朝の力が落ちていると天下の多くの人に受け取られた。そして、その連合の崩壊は諸侯に力がないと受け取られることになった。

 その結果、かつて袁遺が憂いた黄色の種子こと黄巾党の乱のときに暴れ回った賊の残党が各地で息を吹き返したのだった。

 最も賊が精力的に活動したのは青州である。

 彼らは各地で略奪、誘拐、強姦、放火と暴威を振るう。

 連合に参加した、してないにも関わらず青州の太守や県令たちは、それを治めようとするが、上手くいかない。

 特に連合に参加し、六割以上の損害を出して帰ってきた平原の劉備は、軍を再建することができずにいたため、ここでも壊滅的な被害を軍と任地に受けることになる。

 そして、暴動は青州を飛び出し、冀州や幽州、兗州といった近隣の州に飛び火したのだった。

 一見、無軌道に見える賊の動きだったが、俯瞰的視野で見るとあるひとつの法則性があった。

 黄巾の乱のとき、ただ黄巾党に便乗し乱に参加した者は冀州や幽州に向かったのに対して、黄巾党の乱で黄巾党内部でもそれなりの地位にいた謂わば中堅幹部は兗州に向かったのである。彼らの後ろには同じく、黄巾賊であった者やその家族、また、黄巾の乱以降の政治的混乱で困窮し、流民となった者たちが多くいたため、この法則性に気付ける者は天下にいなかった。

 しかし、漏れることのない企みなどそうそうない。

 ある事実へとたどり着ける糸は、あまりにか細いが確かに存在したのだ。

 

 

「兗州牧・劉岱が青州黄巾軍に討ち取られたようです! 黄巾軍はさらに南下!」

「鮑信殿から救援の依頼が来ています!」

「豫州牧・孔伷が病死したという噂が流れています!」

「司隷方面より、二万の軍勢が東へと進んできます! 旗は司馬、張、高、陳。それに蚩尤旗もあります!」

 曹操の本拠地である陳留に続々と周辺の報告がもたらされるが、曹操は動くことができなかった。

 北を黄巾党に東を董卓・袁隗軍に挟まれているからだ。

 兵を分けて防ごうにも、それが可能な兵も軍事物資もない。司馬懿の一撃と袁紹の略奪のせいだ。絶体絶命であった。

 だから、司馬懿隊からやってきた朝廷の使者は彼女にとって、まさに分水嶺となるものだった。

 使者は女性であった。それも容姿に幼さを僅かに残している。

 しかし、彼女の纏う雰囲気は、その若さを侮らせない理知的な何かがあった。

 やや垂れ気味の目からは穏やかさと気品を感じる。その所作も洗練されており、悪い印象を曹操たちは受けなかった。

「司馬孚が、曹太守に拝謁致します」

 典雅な響きを持つ声で使者は言った。朝廷の使者と名乗る割には、まるで貴人に対して挨拶するような語り口であった。

 使者の名は司馬孚。字は叔達。司馬朗、司馬懿の妹である。

「あなたは朝廷の使者じゃなかったのかしら?」

 曹操が尋ねた。

 彼女の立場は限りなく微妙なものである。

 反董卓連合に参加して負けた。実際のところは引き分けの様なものであるが、その後の袁隗たちの宣伝工作により、負けと変わらない状況であり、逆賊と何ら変わりない立場に立たされている。

 故に司馬孚の態度はおかしなものだった。

「今は袁伯業殿の使者です。曹太守の返答次第で朝廷の使者になります」

「そう……」

 曹操は頷いた。

 この司馬孚の言は今の漢王朝の不安定さを表していた。

 漢王朝は現在、その権威や行政能力などを含めた統治能力の再建中である。

 そんな状況で朝廷の使者が追い返されたり、使者が持ってきた勅命が拒否された場合、それだけでも再建中の漢王朝には致命的な傷になる。

 だから、曹操が勅命を受け入れた場合は朝廷使者で、受け入れなかった場合は朝廷というより袁遺が拒否されたという形に落とし込みたいのだった。

「それで伯業は何て言っているの?」

 曹操は尊大な態度で応じる。司馬孚は今、袁遺の使者なのだから問題はない。

「青州からの黄巾党を鎮圧。及び、逆賊・袁紹が更なる愚行を重ねるようならその阻止を。糧秣の支援もできる限りするとのことです。また、皇帝陛下には亡き兗州牧・劉岱に変わり、兗州牧の地位と建徳将軍の位を授ける意思がございます。さらに陛下は広く人材を求め、兗州内の太守・県令に相応しい人物がいれば、積極的に推挙するようにとのことです」

 司馬孚が言った。

 逆賊の立場にある曹操には破格の条件であった。

 建徳将軍は五品の雑号将軍で将軍の中では決して高い地位ではないが、将軍は将軍である。

 また、兗州内の太守・県令の推挙は事実上の任命権の黙認である。殆んど兗州の人事を好きにできるということであった。

 つまり、地位とか色々くれてやるから、漢王朝の権威を傷つけないように受け取れ、あと袁紹の盾になれってところかしら。

 曹操は心の中で思った。

 彼女の感性では、ここまでの好条件は些か下品であった。爵位で釣っているように感じる。

 しかし同時に、袁遺の誠意というものも感じた。

 袁紹に領地を荒らされたことにより、糧秣に不安があるのは事実である。それに能力主義者である曹操が兗州内で、その才覚を振るうには漢王朝の儒教的価値観が強い制度では足枷になる。

 そして何より、司馬孚が回りくどい駆け引きをせずに、曹操が得となることを言ったのが一番の誠意であった。

 敵の青州黄巾党がすぐ近くまで来ている。となると時間は何よりも貴重であった。

 だから、袁紹の非を鳴らし王朝への忠誠心がどうのこうのと腐れ儒者の様に長々と回りくどく、その下品さを覆い隠す方が貴重な時間を無駄にさせる不誠実なことである。

 それに反董卓連合に参加した曹操と大げさな好条件で和解することは他の諸侯にも宣伝となる。

 もしかしたら、自分たちも良い条件で和解できるのではないかと思わせ、戦いを避けることができたら、諸侯全てを敵に回すことができない董卓・袁隗たちには都合が良かった。

 袁遺のことを理解している曹操は、そのことがすぐに分かった。

「あの二万の軍勢の目的は何かしら?」

 だから曹操にとって、この質問は自分の理解が正しいかの確認であった。

「豫州の孔州牧が病死しました。そのせいで、現在の豫州は大変に混乱しており、賊に対して何ら有効な手立てができていません。そのために袁将軍は別部司馬を派遣し、賊の鎮圧を行います」

「別部司馬? 伯業は?」

「袁将軍は敖倉にて兵站の管理と輸送の指揮を執っておられます。兵站管理や輸送計画の立案、指揮能力は袁将軍が最も優れています。私の兄である司馬仲達が別部司馬として実戦指揮を執っています」

 司馬孚の答えで曹操の頭の中の戦略図に針が打ちこまれ、線が結ばれ始める。

 荊州からの使者が洛陽に向かい、袁遺の勝利の上奏に参加したことは曹操の耳にも入っていた。

 そこから考えると、袁遺は豫州を速やかに確保して荊州への道を繋げようとしていることが容易に分かった。それに豫州は袁隗・袁遺の故郷でもある、影響力は常に持っておきたい。

 曹操への好条件で豫州が手に入るなら、袁隗と袁遺のふたりからすれば、安い買い物であろう。

「分かったわ」

 曹操の佇まいが変わった。

 それを察してか、司馬孚も変える。

「勅命を下す。陳留太守・曹操を兗州牧、建徳将軍に任じる」

「臣・曹操、謹んで拝命いたします」

 恭しく言う曹操であったが、内心、反対のことを考えていた。

 おそらく董卓や袁隗……いえ、伯業と手を結べるのは麗羽を打倒するまでね。

 曹操本人には、これから先も現在の漢王朝に服従するという意思はまったくない。

 といっても、彼女は漢王朝に叛意を持っているわけでもなかった。

 曹操にとって今の漢王朝とは、例えば高祖・劉邦によって成立した時代や文帝や武帝、宣帝が絶対的な権力を揮っていた時代、もしくは光武帝によって再興された時代のものとは違うものだと思っている。

 彼女にとって今の漢王朝とは董卓や袁隗、袁遺によってかろうじて保っているだけのものに過ぎない。

 だから、漢王朝から任命されたというより、董卓と袁隗に任命されたというのが曹操の認識であった。そして、いつまでもそのふたりの風下に立っているつもりなど曹操にはなかった。

 彼女は思う。今の漢王朝は天命を失っている。

 天意や天命を強く意識する曹操にとってそれは致命的なことだった。

 面白いことに曹操はまったくの法治主義的な人間であるのに、この儒教において基本的な概念である天命に重きを置いている。それに対して、法治主義と徳治主義のふたつを時世と相手によって使い分けながらも、その大本は儒教寄りの寛容な袁遺が儒教的な天命を唾棄すべきものと考えている。

 そして、この場合、この時代の一般常識からいえば袁遺の方がおかしいのであって、曹操の方がむしろ普通の感性といえた。

 だが、このふたりは未来に対して同じ展望を持っていた。

 それは、袁遺からすれば曹操がいつかこちらに牙を剥くことであり、曹操からすれば袁紹の盾の役割を終えたら袁遺は必ず曹操を叩き潰すということであった。

 曹操は兵力と領地が回復するまで董卓と袁隗……いや、袁遺と手を組むことにした。

 しかし、いくら有能な彼女でも能力の限界というものがあった。

 大人しく他人の股をくぐることができなかったのだ。

 曹操が司馬孚に言う。

「それにしても、あなたが来たときには酈食其がやって来たかと思ったわ」

 酈食其とは楚漢戦争の時代の人物である。

 劉邦の下で説客として活躍し斉を帰順させたが、和平がなっても韓信が斉への攻撃を止めずに怒った斉王に煮殺された。

 この韓信の行動は、斉が帰順したことを知らずに攻撃したという説と酈食其に斉攻略の功績を取られることを妬んだという説がある。その真相はいまいち分からない。

 つまり、曹操は司馬孚に騙し討ちに来たのかと思ったと嫌味を言ったのだった。一時的にでも膝を屈することに対して、彼女なりのささやかな抵抗であった。

 言われた司馬孚は一瞬目を伏せてから答えた。

「兄うッ……もとい、別部司馬はおそらく、すでに豫州へと進軍したと思います」

「妹を見捨てて?」

 驚いた様な呆れた様な声を上げた曹操に司馬孚は続けた。

「曹太守……あ、いえ、失礼しました。曹州牧が拝命を受けた場合、豫州に進むことなるだろうし、断わり私を害しても袁紹によって領地を荒らされた州牧には黄巾賊と別部司馬の両方を相手にする余裕はありません。なら、兗州ではなく豫州に向かった軍より兗州に向かってくる黄巾賊の方を攻撃するのは目に見えています。別部司馬からすれば、軍を停止させている時間こそが無駄なのです」

 言い終えた司馬孚は、そういう兄なのです、と悟ったような顔をしていた。

 司馬懿にとって囮となった主がそうであったように妹も状況を作る要素でしかない。

 ただし、司馬孚は兄を嫌っているわけではない。彼女は現実家であり、兄の行動を仕方がないと肯定している。また、政治や戦争が関わらないときの司馬懿は心優しい兄であった。

 話を聞いた曹操は司隷から酸棗への帰り道で自分たちに損害を与えた指揮官が誰かを今、知った。

 司馬仲達だ。冷徹なまでに敵味方の状況を読み取れる人間にしか、あの長距離奇襲と伏兵からの挟撃を成功させることができない。

 曹操は心の底から思った。

 欲しい。自分の軍師や将軍にはない冷徹さを持った司馬懿も、兄に見捨てられたと変わらない状況でそれを今の今まで面に出さなかった司馬孚も欲しい。そして、そんな彼らを使いこなす袁遺も。

「私は州牧と別部司馬の双方の戦いが終わるまで、こちらに留まります」

 司馬孚が言った。人質だった。

 曹操は部下たちに命令を飛ばす。

 彼らを手に入れるためには、まず、迫ってきている青州黄巾党をどうにかする必要があった。

 曹操は出撃の命令を飛ばした。

 大軍の黄巾党に対して曹操はすでに対抗するための策を持っていた。

 

 

 袁遺と袁隗が謹慎している間、雛里は主不在の司馬懿邸にお世話になっていた。

 そこで彼女は主である袁遺から与えられた課題に頭を悩ませた。

 その課題とは袁遺軍と反董卓連合の戦いが連合の解散という結果に何故なったのかを分析することであり、また、どうしたら連合が袁遺軍を破ることができたか、その手段を考えることであった。

 これは後に洛陽に帰ってきた司馬懿も同じ課題を出されることになる。

 雛里にとって後半の課題は、ある面において苦痛を伴うものだった。

 何故なら、袁遺が採った運動戦の性質上、袁遺軍を破ろうとすると袁遺の犯した失策を書き連ねなければならなかったからだ。主の批評文を書いている様なものだった。

 もちろん袁遺もそうなることを理解して、雛里にこの課題を与えたのだった。

 戦争というものは双方に必ずミスが起きるものである。

 問題は起きたミスにどう対処するかと同じミスをもう一度しないということであった。

 だから、再発防止として、まずはミスを洗い出す。そのために、こういった課題を与えるのは当然なことであったが、袁遺の度量の試される話である。

 しかし、袁遺が度量を試されるのはまだ続く。

 全ての組織に言えることだが、組織の能力を発揮することにおいて人務は大きな要因である。

 そのことを理解している袁遺は軍の再編において自分の欠点や能力の限界を並べ上げて、それを補う様な組織を作ることにした。この点を弁えねば、組織は大抵、悲惨な最後になるからだ。

 袁遺の欠点は別働隊から帰ってきた司馬懿が並べ上げた。

 司馬懿の袁遺評は容赦というものがなかった。一緒にいた雛里が、袁遺が怒りで仲達を斬り捨てないか心配になるほどであった。

「伯業様は動かれ過ぎです。総大将が囮になるなど本来は愚の骨頂」

 司馬懿は、その囮となった袁遺を最大限に利用した人間である。それなのに袁遺が囮となったことを今ここで弾劾している。確かに度量が必要な状況であった。

 しかし、司馬懿は間違ったことを言っていない。雛里も袁遺が犯した中で一番の失策は自身を囮にしたことであったと思っている。

 袁遺があそこで討ち取られていれば袁遺軍は確実に崩壊していた。だから、次の戦争では袁遺が囮になるといった状況を絶対に作らせてはいけない。そのための意見だった。

 その後も司馬懿が耳が痛くなるような意見を言うのを袁遺は無表情な顔で聞いていた。

 一応言っておくが、袁遺が動き過ぎるというのは運動戦を否定しているのではなく、総大将が動き過ぎると司令部の位置が分かりづらくなり、混乱が起きることへの警鐘であった。

 むしろ、雛里も司馬懿も連合を解散までに追い込んだ一番の要因として敵の物理的な交戦能力を粉砕する決戦(消耗戦)を択ばずに、敵の精神的交戦能力を粉砕する運動戦(機動戦)を択んだことを挙げている。

 まあ、つまり、総司令官が一般の将校にように部隊を率いて動き回るなと仲達は言っているのだった。

 雛里もそれには賛成であった。

 しかし、彼女はそれを口に出すことができなかった。

 袁遺の事情も分かっているからだ。

 袁遺は董卓の外交的失敗を戦争での勝利という形で挽回したことになる。

 董卓が諸侯との関係をもう少しまともなものにしていれば、あれだけ不利な形で戦争に雪崩れ込むことはなかったのだ。反董卓連合の首謀者の袁紹の従兄にあたる袁遺はこの点で董卓を強く責めることもできない。そして、責めても事態の解決には何の寄与もしないから口にしなかった。

 だから、その不利を覆すために袁遺は多少の無茶をしなくてはならなかった。この自身が囮になったことや劉備・公孫賛相手に行った冒険的な部隊機動のことである。

 危険でありながらも、それをやらなければならなかった主の決断を間近で見てきた雛里は袁遺の苦悩が分かる。共感さえできた。

 そしてだからこそ、言えなかった。

 同時に、共に間近で見てきたが袁遺のためにそれを口にできる司馬懿に尊敬と羨望と嫉妬と感謝の念が入り混じった不思議な感情を雛里は持った。

 そんな感情と共に雛里はひとつの決意を抱いた。

 自分の欠点や能力の限界を理解するのはいいが、それだけでは問題は解決しない。

 最も恐ろしいのは才ある人間が陥りやすい、部下を総じて自分より能力が低いと受け取る過ちである。

 雛里もそれが自分の主とは無縁なことだと楽観視していなかった。彼女は自分の主が稀有な軍才をその身に宿していることを疑っていないが、それでも欠点を持たないなどと思うほど愚かではなかった。

 そして、人間は、たいていが欠点を他人に見られることを嫌う。恐れていると言い換えても良い。

 人を率いている者が、この人間の習性を発露した場合、誰もが不幸となる結果が待っている。

 部下の進言を自分の欠点を暴こうとする攻撃と指揮官は受け取るのだ。

 だから、素直にその意見に耳を傾けることはしない。部下の進言の利点ではなく欠点のみを見るようになる。それは防衛的行動であると同時に部下を自分より能力がないと考えているため、進言自体にも価値を見出していないのだ。

 すると、部下はいつしか進言をしなくなる。聞く気のない上官への進言など無駄以外の何物でもない。彼らのやる気や義務感は削げる。

 結果、生まれるのは結成当初は優秀であったはずなのに、いつしか徹底的に基盤が弱体化した崩壊寸前の組織である。

 だから、袁遺がこうやって司馬懿の意見を聞いているのは良い傾向であった。

 そして、自分は司馬懿の様に冷徹になれないが、もし袁遺が部下の進言を素直に聞くことができなくなっても、それでも最後まで諫言し続けよう、それが彼女の決意であった。

「君の意見は分かった、司馬懿。その意見を十分に留意して軍を再建する」

 そう言って袁遺はふたりの軍師が課題に対して自分の意見を書いた書簡を手に取って続けた。

「君たちは連合の解散原因に、その動きが鈍重だったことを挙げているな」

「は、はい。どうしても諸侯の人数が多くなれば意見をまとめるのが難しくなります。それに規模が大きい軍隊を動かすことも大変ですから」

 雛里が答えた。

「私はこの戦争で四万という数を率いてある確信を持った」

 袁遺はふたりの顔を見ながら続ける。

「指揮官が高所から全軍を把握し動かせるのは、どんなに頑張っても五万が精一杯だ。いや、効率的に動かすなら三~四万が限界だろう」

 袁遺が言った数字は、後の時代に経験則から導き出された数字であった。彼は知識としてそれを知っていたが、この反董卓連合で自分で四万規模の軍を指揮し、また連合の鈍重さを目の当たりにして、それが正しいことを自分の体験から確信したのだった。

 それは雛里と仲達にも思い当たるものがあった。雛里は袁遺が囮となり袁紹軍を遭遇戦で、司馬懿は孫策と曹操相手に長距離奇襲で主力を指揮した経験から、それを理解できた。

 そして、袁遺はこの問題が後世でどのように解決されたかも知っている。

「となると必要になるのは、地図と優秀な参謀集団だ。前者は現在あるものと偵察で何とかなるが、後者については今あるものとは別の形を作りたい」

 そのふたつがしっかりと噛み合えば十万単位の軍でも大きな問題なく動かすことが可能だった。

 そして、袁遺が求めているのはプロイセン・ドイツを祖とする近代的な参謀本部を参考にしたものだった。

 だが、かつて袁遺が曹操に説明した通り参謀組織に強力な権力を握らせたときに起こるのは参謀たちの暴走である。それに教育の問題もあり、袁遺が求めているものを完璧に作ることは出来ない。

 それでも、史実の荀彧を中心とする清流派人士からなる曹操の参謀集団とは別の形のものができあがるはずであった。

 袁遺は司馬懿に人材を推挙するように命じた。

 司馬懿のみならず、長安の張既にも同じ命令を下した。

 しかし、この袁遺の参謀集団が完成する前に豫州牧・孔伷が病死し、青州黄巾党が青州を飛び出したのだった。その結果、軍が完全に整う前に袁遺たちは戦争に雪崩れ込むことになった。

 袁遺は司馬懿に実戦部隊の総指揮官を任せ、自分は後方で兵站を担当した。また雛里を仲達の下に就け、袁隗の手の者から上がってくる豫州の情報を処理させた。

 応急処置的な対応であったが、皮肉にも袁遺と仲達、それぞれが最も能力を発揮できる形でもある。

 そんな中で袁遺は仲達に尋ねた。

「曹太守に送る使者だが、君の姉か妹のうちの誰か、どちらがいい?」

「叔達をお送りください。我が姉妹の中で最も誠実な者です」

 誠実さは交渉事には欠かせない要素である。

 仲達は妹を曹操に送ると同時に軍を動かした。

 もたらされた情報から豫州の黄巾の残党がどこに向かっているかが分かり、それを早期補足することが可能だったからだ。

 そもそも司馬懿が主力の総指揮官に命ぜられたのは彼が少数で多数を撃破し得る、ある戦術を得意とするからであった。

 反董卓連合の際、孫策と曹操に行った長距離奇襲と伏兵からの挟撃である。

 黄巾賊の目的地とそのルートが分かっており、上記の通り、使者を送った時点で黄巾党と曹操からの挟撃は防げているなら、素早く行動に移った方がいい。

 豫州の黄巾の残党は兗州へと向かっていたのだった。

 仲達は軍を司隷と豫州と兗州の三つの州境を縫うように進ませる。

 情報から接敵地点を予想すると、張遼に黄巾党の側背をつくようなルートを指示し、黄巾党の逃げるであろう場所に兵を伏せさせる。

 伏兵の主攻面は高覧の部隊が担当した。

 高覧にそれを担当する能力が備わっているだけでなく、反董卓連合でひとり武勲を上げ損ねた彼と、そんな彼に手柄を立てる機会を与えたいと思っている袁遺への配慮であった。

 司馬懿の読みは当たった。

 張遼隊に強襲された黄巾党は隊列を乱しながら、それを整えられる場所へと移動した。

 そんな彼らに矢が降り注ぎ、高覧隊が襲い掛かる。

 正史では黄巾の乱が鎮圧された後も、汝南郡や潁川郡において劉辟、黄邵、何曼、何儀などの頭目が数万の軍勢を擁していたが、この外史では袁伯業という異物のせいで劉辟、黄邵が黄巾の乱の時点で討ち取られている。

 そのため、豫州の黄巾の残党たちの力は、かなり弱まっていた。

 混乱している黄巾党の中で、かろうじて隊列を保っている部隊があった。

 馬上で鉄棒を振り回し、兵を叱咤している者が率いている部隊だ。黄巾賊の残党の頭目のひとり、何曼であった。

 高覧は素早く部隊を動かし、歩兵で攻め立てる。

 黄巾党の反撃は鈍かった。明らかに中級指揮官以上の将校が少ない。

 だが、敵の数が多いため高覧は副官に側方の警戒に当たらせた。包囲されるのだけは防がなくてはならない。

 何曼は自分が前線に立ち兵を叱咤する。でなければ、黄巾党の戦意が保たないのだった。

 敵の指揮官を討ち取るなら、この状況はチャンスだった。

 しかし、高覧は動かなかった。彼は冷静であった。

 後方では張遼隊が黄巾党の陣を背後から縦に切り裂いている。なら、何曼は挟撃を防ぐためにどこかで無茶をしなくてはいけない。動くならそれに合わせて動くべきだった。

 そして、それはすぐにやってきた。

 何曼は、ある程度の損害を覚悟して高覧隊の側面を突こうとしたのである。

 だが、それは達成できなかった。高覧隊の副将が素早く反応し、それを防いだのである。

 無理に部隊を動かしたせいで何曼隊に混乱が起きる。戦列が乱れる。

 そのうち、黄巾党の賊たちは耐えきれずに戦列が崩壊した。

 孤立した何曼に官軍の兵が殺到する。

 何曼は諦めなかった。鉄棒を襲ってきた兵の頭へと振り下ろす。頭蓋骨が陥没し、内圧が瞬間的に高まった頭部から眼球が飛び出した。

 今度はふたりが飛びかかる様に何曼を襲った。

 彼はひとりの喉を突く。兵は死んではいないが、痛みと呼吸が上手くできずにのた打ち回っている。

 もうひとりの兵の側頭部に強烈な一撃を加える。即死だった。

 だが、彼の抵抗はここまでだった。

 さらに襲ってきた兵の胴体を薙ぎ倒したが、別の兵にわき腹を刺される。

「グフッ!」

 口から血が噴き出た。

 動きが止まったところに、さらに兵が殺到した。

 槍の穂先が次々の体へと侵入する。

 何曼は息絶える瞬間、絶叫した。

「仇を討てず、申し訳ありませーーーん!!」

 それだけ叫ぶと彼の体から力が抜けた。

 

 

 何曼が泉下に旅立つと同じ頃、張遼隊により何儀も討ち取られていた。

 こちらも最後まで抵抗して乱戦の中、人馬の群れに揉み潰されるような最後であった。

 彼らの死に様を報告した張遼と高覧の顔に不思議な爽やかさがあった。

 何曼と何儀が兗州へと向かった目的は曹操であった。黄巾党の指導者を討ち取った曹操を倒し、敵討ちを遂げるのが目的だったのである。

 張遼はそういう行動と生き方が嫌いではない。好感を持っていた。

 高覧も似たようなものである。

 だが、そうならそうで問題があった。兗州へと流れ込んだ黄巾党である。

 情報では戦闘員と非戦闘員を合わせて一〇〇万とも言われている。それが曹操憎しで火の玉の様に突っ込んだら、いくらなんでも危うかった。

 司馬懿の頭の中で計算が始まった。

 豫州を確保する目的は荊州への道を確保するためである。

 となると司隷から豫州、豫州から荊州、それに袁家の本拠地である豫州汝南郡の接続点となりうる潁陰(えいいん)(きょ)臨潁(りんえい)あたりはまでは確保しておきたい。

 だが、曹操が撃破された場合、背後が脅かされる。陳留郡は豫州や司隷との州境に存在する郡であるから、補給線や背後連絡線、撤退路が断たれることになるかもしれない。

 それは兵たちに大きな動揺を与える。

 なら、曹操の援護に向かうか。

 司馬懿は軍を見渡した。

 奇襲からの挟撃で常に有利な状況で戦闘を進めたため、軍の損害は少なかった。

 しかし、潁陰、許、臨潁を確保するなら今が一番の機会である。

 それに袁遺が張邈への書簡で、袁術が領土的野心を持ち広陵を攻めることを危惧していたが、それが豫州へと向かう可能性もあった。袁術にみすみす豫州を取られるのは最悪である。

 そこまで考えて、仲達は袁遺が参謀集団を作ろうとしている理由の一端を見た気がした。

 彼は自分の主がとてつもない軍才を持っていることを確信していた。だが、ひとりで考え続ければ疲弊し、その輝かしい才能は枯れ果ててしまうだろう。袁遺の責任ある立場は彼に多大な精神的重圧を与えるものである。それに中国大陸は袁遺ひとりには、いくらなんでも広すぎる。ひとりで大陸の正確な情報を分析しつつ、適切な戦略を立て続け、起こった問題に対処し続けるのは無理だ。

 仲達が雛里に相談しようとしたとき、袁遺からの伝令がやってきて彼の悩みを解決した。

 伝令が持ってきた書簡には、曹操が青州黄巾党を降したことが書かれていた。

 これで気兼ねなく臨潁あたりまで軍を進められるが、それはそれで司馬懿に疑問が浮かび上がった。

 よく黄巾党の指導者である張角を討った曹操に黄巾の残党が降伏したな……

 だが、今はそれよりも豫州の確保の方が先決である。司馬懿は疑問を頭の片隅へと追いやり、軍を進ませる。

 その疑問が解決したのは、臨潁を確保して、そこへ袁遺が兵糧を届けに来たときだった。

「ご苦労、別部司馬。よくやってくれた」

 袁遺は仲達を労った。

 他の将も同様であった。部隊を見て回り、仲達から受けた報告から奮戦した部隊を訪れ、褒め称えた。

 それが終わった後、袁遺は仲達と雛里に曹操がどのように青州黄巾党を撃破したのか説明した。

 曹操が戦場に到着した時点で鮑信はすでに賊によって討ち取られていた。

 彼女は黄巾党の横っ腹に一撃を加える。

 賊の勢いは消失した。彼らの進撃が止まった一瞬の空白に戦場には不釣り合いな者たちが現れた。

 それは―――

「芸人が現れて歌を歌ったのですか?」

 仲達が尋ねた。

 彼にしては珍しく、その顔には驚きと懐疑の色があった。

「ああ、それで黄巾賊が驚き動きを止め、その間に曹太守……あ、いや、曹州牧が投降を呼びかけた」

「それで降ったのですか?」

 今度、尋ねたのは雛里であった。

「そうだ。まるで范蠡の策の様だな」

 春秋左氏伝に曰く、越に攻め込んだ呉王・闔閭の軍に対して范蠡は罪人を集めて呉軍の前で自刎させた。それに驚いている隙に呉軍を攻撃して撃退したのである。この戦いで呉王・闔閭は陣没している。

 それを聞いても仲達は自分の中にある疑問が晴れなかった。むしろ、強まるばかりである。

「伯業様」

 仲達は口を開いた。

 彼が纏う雰囲気に袁遺は眉をひそめた。

「どうした?」

「黄巾の残党の頭目は最後まで抵抗を続け、死の間際に仇を討てなかったことを叫びました。青州から来た黄巾党が簡単に降伏したのが気になります」

「……」

 袁遺は冷水を浴びせられた気分だった。

 一〇〇万の流民を自領に受け入れることが曹操の復活の兆しであるということは考えたが、その一〇〇万という数字の群れをいとも簡単に下したことを、曹操が青州黄巾党を手に入れるのは自分の知る歴史通りだと考え、何の疑問もなく受け入れていた。

 何かあるかもしれない。だが、タイミングが悪い。

 袁遺は右手を軽く上げて、仲達が何か話そうとするのを止めた。

 もし、曹操に人には言えない何かがあるのならば、その曹操と連合の因縁を水に流して支援し、州牧に就けるよう袁隗たちに進言した自分も何か責任を取らなければならない事態となるかもしれない。

 それに黄河の北側には袁紹がいるのだ。それが原因で曹操と袁紹が手を結ぶことになるかもしれない。それは厄介この上ないことである。

「これ以上は洛陽に帰ってから叔父上と話し合うことにしよう。今は青州黄巾党は太平道の信者たちが起こした反乱に便乗しただけだから、張角に対して特に思い入れがないので簡単に降ったということにしておこう」

 袁遺の発する雰囲気には、これ以上の議論を拒む何かがあった。

 司馬懿も、そして、雛里もその間の悪さを感じている。なら、今は袁遺の言った通りにしておいた方が良い。

 その後、袁遺たちは豫州を確保。新たな豫州牧に揚州丹陽郡の太守を務めていた周昕が任命された。

 彼は袁術とは折り合いが悪く、袁術のために彼を揚州から追い出してやったようなものである。

 だが、周昕からすれば太守から州牧への出世でもあるから悪い話ではない。

 さらに袁術には左将軍と安豊侯の位が与えられた。

 列侯は封土を与えられて、その地の民の君主となり、そこの税を自分のものにできる。漢王朝では基本的に劉氏以外が王になることができないため、列侯は通常の人臣が昇り得る最高の爵位である。

 袁術からすれば一族では袁隗にも袁紹にも袁遺にも与えられていない、そんな地位が与えられることは彼女の溜飲を下げた。

 そして、徐州の陶謙は反董卓連合に参加せずに静観を決め込んでいたが、袁術と董卓の事実上の和睦が成立すると彼は洛陽に使者を送り恭順の意を示した。それに張邈との密約もある。

 これで一応、東の安全が確保されたことになる。

 だが、それは所詮、一時的なものである。

 袁術というより、人間にとって幸福を永遠に感じ続けることはできない。

 この列侯の地位も初めは満足できるが、いつかそれだけでは満足できなくなるだろう。

 現代の言葉を使って例えるなら、ガムを噛んでいればそのうち味がなくなり吐き出す。そして、次のガムに手を付ける。

 袁隗と袁遺は、その事実に悟りにも似た感情を持っていた。

 今の状況は媚を売って作った状況である。そして、いずれ彼女たちの欲望が袁遺たちが示した媚態では足りなくなる。それは当然のことであった。人の欲望には際限がなく、袁遺たちがそれに最後まで付き合うことは決してできない。となると、次に起こり得るのは、新たな誰かが示した袁遺たちのとは違う媚に飛びつくか、自分たちで欲しいものを手に入れるかのどちらかである。

 しかし同時に、際限ない欲望を制御する術を学ばなければ不幸な結果となる。際限のない欲望に自分自身がついていけなくなるからだ。

 だが、曹操や袁術の問題を抜きにすれば、黄巾賊の残党を討伐、もしくは体制に取り込んでいる今の状況はかつて袁遺が黄巾党の乱のときに雛里に宣言した通りの状況であった。

「確かに、今の俺には黄巾党の残党をどうにかする力はないが、後で必ずどうにかする」

 袁遺は、この言葉を守った。

 そして、その後に続けた言葉も違えずに守るつもりだった。

 

 

「立った群雄も同様だ。漢王朝を滅ぼしてたまるか」

 




おそらく司馬懿が長距離奇襲と伏兵の策を使うのはこれから先、当分ないと思う。下手すれば、これで最後かもしれない。

補足

・何曼
 豫州で活動していた黄巾の残党のひとり。演義では鉄棒を振るい曹洪と一騎打ちをするが、拖刀背砍の計に嵌って曹洪に斬られることになる。演義では拖刀背砍の計、もしくは拖刀の計という負けたふりをして逃げ、追いかけてきた相手に突如反転して斬りかかるという策が随所に見受ける。理由は分からない。
 あと、この話を書いていた時点で劉辟、黄邵、何曼、何儀の中で何曼だけがウィキペディアに記事がない。マイナー具合ならみんな同じくらいなのになんでだろう? こっちの理由も分からない。

・新たな豫州牧に揚州丹陽郡の太守を務めていた周昕が任命された。
 孔伷の死後、豫州刺史になるのは本当は周昕の弟の周昂である。
 張邈と張超といい、俺は弟が就いた地位に兄を就ける癖でもあるのか?
 正直な話、孫策の揚州制覇を細かく書く気がなかったので、物語の展開上、邪魔になりそうだし、こいつが揚州からいなくなれば袁術も得をするしで、周昕を豫州牧にすることにした。それと、周昕にしても周昂にしても袁術・孫策とは生涯戦い続けたので、この外史でも戦い続けそうだなと思ったのもある。この設定が生かされるかは未来の自分次第なので、未来の俺が何とかしてくることを願っている。


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5~6

5 涼州事情(外交篇)

 

 

 東がある程度の安定を見せ、南への道が開らけた。

 それにともない劉表は宛を董卓・袁隗が指定した人物に統治させることを了承した。

 劉表も情勢の変化から、その方が得だと判断したのだった。

 宛を誰に任せるかで董卓たちは袁遺に相談した。正確には袁遺と雛里にである。

 荊州は雛里の出身地であり、また荊州の名士で人物評の大家である龐徳公は雛里の叔母に当たる。雛里が荊州の名士たちと最も近い立場にあったのだ。そんな彼女が推挙したという事実があった方が荊州名士たちの協力も取り付けやすい。

 しかし、雛里が推挙するということは同時に彼女の主である袁遺の意向が強く反映されるということである。袁隗と董卓もそれを分かったうえでの判断であった。

 袁遺は反董卓連合と戦っているときに豫州で宣伝工作を行っていた司馬朗の名を上げた。

 袁遺の部下の姉への評価は高い。

 司馬朗は本物の善人であり、善人であるが故の欠点以外は全てが美徳のみで構成されている様な人だった。また、袁遺と司馬懿が不在の洛陽での情報収集や連合を解散させた要因のひとつである名士への宣伝工作などでも、能力の高さを証明している。

 東と南が安定したことで袁遺たちの目は涼州へと向けられた。すなわち、馬騰とその他、涼州軍閥である。

 彼女たちは確かに反董卓連合のときには敵対しなかったが、これから先もそうであるとは限らない。

 本来なら、馬騰たちの対策は涼州出身である董卓と賈駆に一任するべきなのだが、袁遺もそれに参加することになった。

 そもそも馬騰に反董卓連合に参加しないように頼んだのは袁遺であった。また、実際の交渉に向かったのも袁遺の部下の張既である。

 そして、一番の要因は馬騰が袁遺との会談を要請したことだった。

 そのことと長安県令の役職の引継ぎの関係で袁遺は長安で張既と話し合いの場を設けた。

「まずは長安令就任、おめでとう」

 袁遺が言った。まったくの本心からの言葉であった。それを表すかのように、その顔は穏やかなものである。

「は、はぁ、ありがとうございます」

 対して、張既は、その福々しい恵比須顔いっぱいに困惑の色を浮かべていた。声にもそれが表れている。

 少し前までの彼は出世など望めぬ郡の小役人に過ぎなかった。

 能力はあった。しかし、その出自は庶民の出に過ぎない。この時代には、生まれの貴賤を問わずに拾い上げ、能力と功によって累進させるという組織上のダイナミズムなど存在しない。良く言えば、伝統重視な組織論で運営されている。それが変わるのは史実でいえば、曹操の求賢令を待たなければならない。

 だから、張既は袁遺の下に移ったが、彼の本心では出世をそれほど期待していなかった。彼が袁遺の下に移った理由は、己の力がより発揮できそうであったからだ。能力に見合うだけの活躍の場が欲しかったのである。

 その点で言えば、長安での仕事は満足のいくものだった。

 馬騰や涼州軍閥との交渉はタフなものではあったが、充実感も得られた。

 そして、彼女たちを連合に参加させなかったことで何かの恩賞はもらえると思ったが、まさか自分が次の長安県令になるとは夢にも思っていなかったのである。

 張既にとって望外の出世は喜びよりも驚きの方が大きく、喜びを示そうにも、どうやって示せばいいのか分からなかった。

 しかし、彼の頭の回転は止まってはいなかった。

「さて、長安の引継ぎや涼州牧を筆頭に涼州の軍閥についていろいろと決めなければならない。まずは長安に連れてきた私の部下についてだが……」

 だから、袁遺の問いに張既はすぐに反応した。

「やはり、皆を連れていかれますか」

「ああ、そうだ」

 袁遺が連れてきた雛里、司馬懿、張郃、高覧、陳蘭、雷薄、何夔。それに、この長安で登用した王平。その他下士官たち。彼らは現在、袁遺が編成している軍の頭脳と脊髄だった。

「それで、人材については何か心当たりがあるか? 無理なようなら、できる限りのことはするが……」

 袁遺は言ってみたが、それほど大したことはできなかった。目ぼしい人材は編成している軍に取られている。

「それと君に言った私の軍の人材の推挙だが、それも忘れてくれ」

 そして、そんな状況で張既から貴重な人材を取ろうとは思えない。

「伯業様、人材については当てがあります。楊阜、胡遵、龐淯、游楚を長安の文官、武官として推挙いたします」

「そうか。当てがあるなら良かった」

 袁遺は胸を撫で下ろす思いだった。

「それでその、伯業様の軍の人材なのですが……」

 だが、口を開いた張既が微妙な表情をする。

 袁遺は、それを紹介できる人材がいない心苦しさが面に出たものだと思った。

「君が優先することは長安の統治と涼州との関係の維持だ。人材は私で解決する。余分なことに気を遣わせたな、すまない」

 だから、袁遺はそう言って詫びたのだが、張既の表情は別の事実から作り出されたものだった。

「い、いえ、そうではないのです。ひとり思い当たる人物がいるのですが、その……」

 張既は慎重に言葉を選びながら続けた。

 何と言いますか。強さを求めている者なのです。はい、強さです。それで少女なのですよ。軍師殿より幼い少女が強さを求めて遊侠の徒と交わったり、ときには鮮卑の中に入って行ったりとするものですから、少しばかし噂になっていたんです。あ、はい、そうです。漢人です。だから、余計に目立つといいますか。私も一度、話したことがあるのですが、父親が羌族の叛乱で不幸にも亡くなったそうで。ええ、おそらく敵討ちのために強さを求めているのでしょう。ですけど、話してみると聡明というか理性的というか……復讐のみに憑りつかれているわけでもなく、何かに迷っているというか……ともかく、一度お会いしてもらえませんか?

 張既の説明を聞いた袁遺口を開いた。

「分かった、会おう」

 その顔は無表情であったが、内心ではその少女に興味を持った。

 袁遺は張既の人間の審美眼に信頼を置いている。そんな張既が人柄を掴み切れない人物に、恐いもの見たさに似た関心が出て来たのだ。

「鮮卑ということは黄河の向こう側か。どこを訪ねればいい?」

 袁遺は尋ねた。

 余談になるが涼州の鮮卑は鮮卑禿髪部や河西鮮卑と呼ばれる部族である。

「おそらく伯業様のことを伝えれば、向こうからこちらに来ると思います。伯業様は反董卓連合……ああ、いえ、袁紹の叛乱軍でしたか?」

 張既は言い直した。宣伝工作により反董卓連合の漢王朝内での公式な呼び方は袁紹の叛乱軍ということになっている。

 どちらでもいいよ。そう言ってから、袁遺は張既に続きを促した。

「ともかく、先の戦いで伯業様は五倍以上の敵を追い返して、軍才を示しました。力を求める彼女なら興味を持ち、あなたに会うと思います。実は鮮卑や羌族でも伯業様の戦いぶりに興味を持っている者が存外に多いのです」

「だろうな」

 袁遺は何でもない風に相槌を打った。

 これは袁遺の自意識が過剰なわけではない。

 騎馬遊牧民なら、それくらいの情報を持っていても何ら不思議ではない。何故なら、彼らは情報の量と正確さが自分たちの生命に直結することを遺伝子の奥底で知っているからだ。

 漢と長い期間戦った匈奴を例に挙げてみる。

 彼らが発生したモンゴル高原は厳しい土地である。

 年間雨量は少なく、気温の年較差、日較差は大きい。冬になれば零下二〇℃を下回る日など珍しくもない。そんな中で彼らは羊などの群れを成して移動する有蹄類の習性を利用して生きている。

 その羊は大人しい動物と思われているかもしれないが、そうではない。群れを乱すことが多い羊を効率良く動かすために選ばれたのが馬という機動性に富む家畜である。

 厳しい自然条件故に決してモンゴル高原の人口は多くない。少ない人口で羊を管理するために、巧みに馬を駆る必要があったのだ。

 羊は厳しい自然条件の中で自生する草を食べ尽くしたら、次を求めて移動する。

 この群れを草が生い茂る場所へと馬を駆って誘導してやる必要があるが、草の生い茂る場所が分からなければ、それはできない。

 だから、彼らはどこに草が生えているかなどの情報を重視する。

 また、一ヶ所に定住して自己完結的な生活を送ることができない彼らは、天幕を立てる木材、狩猟に使うナイフのような金属器類などの日常生産できないものを周辺の民族との交流で手に入れなければいけない。

 つまりそれは、彼らが先天的な商業民族の気質を兼ね備えていることを示していた。

 そして、商業と情報は決して切り離せないものである。

 それは戦いでも同じであった。

 一五歳で即位した武帝は、父祖以来の屈辱を晴らしたいと考えていた。劉邦と冒頓単于が結んだ匈奴を兄・漢を弟として毎年貢物を送る条約があったのだ。

 彼は匈奴の北にいる遊牧民族の月氏に使者を送り、北と南から匈奴を攻撃しようとした。

 その使者に任命されたのは張騫であるが、彼はその途上で匈奴に囚われてしまう。

 月氏の領地までいくためには匈奴領を通り抜けねばならないから、仕方がないことであった。

 張騫は厳しい追及に自分の目的が月氏の領地に行くことだと吐いてしまう。

 それを聞いた匈奴の王、軍臣単于は激怒した。

 月氏は匈奴の北にある。今どうして漢の使者をそこへ行かせられようか。もし我々が漢の南の越の国へ使者を送ったら、漢はどうして許すだろうか。

 匈奴は漢の南に越という国があり、漢と越の関係が決して良好なものでないことを知っていたのだった。

 それと同じように騎馬遊牧民族たちは、現在の漢のできことを詳しく知っていたのだ。

 漢と言うより、古来より中華にとって北方の騎馬民族が常に仮想敵となるように、騎馬民族も中華に起きた王朝は常に仮想敵だった。

「うん、じゃあ、よろしく整えてくれ」

「はい」

 張既は恭しく頷いた。

 そして、話は馬騰のことへと移った。

「馬涼州牧は私に会って、どうしようというのだ?」

 袁遺が尋ねた。

「馬涼州牧の王朝への忠誠心は本物です。それで伯業様のことを見極めようとしているのです」

 張既はそれから、もちろん伯業様の忠誠心も本物です、と慌てて続けた。

 と言っても、ふたりの忠誠心には大きな違いがあった。

 馬騰の忠誠心は悪く言えば泥臭いものであったし、袁遺の忠誠心は歪んでいた。

 馬騰は漢王朝のために死ぬことができる。しかし、袁遺の様に権謀術策を駆使し、また戦場では巧みな運動戦で連合を解散に追い込み、対袁紹の同盟を締結させる真似は出来ない。

 だが、袁遺の忠誠心は上司であろうが、部下であろうが、叔父だろうが、友人であろうが歪んでいることを誰も否定しない。中には嫌悪感に近いものを抱かれてさえいる。

「つまり、涼州牧がこちらを攻めないかは私次第ということか」

 袁遺からすれば微妙なところだ。彼は多くの人が感じる忠誠心の歪みを自分自身でさえ感じている。

「正直に答えてくれ。涼州牧も私の忠誠心が本物だと思うか?」

 袁遺の問いに張既は即答した。

「難しいでしょうね」

 上段からの一撃にも似た答えだった。

「難しいか」

 だが、袁遺は気にしない。聞きたいのはお世辞より真実である。

「ですが、涼州牧がこちらを攻めることはないと思います」

「何故だ?」

 袁遺は尋ねた。

「恐れながら、伯業様を信用できなくても、董司空を信用しておられます」

 確かに、袁遺の忠誠心を疑い、袁遺を斬ったところで困るのは董卓である。

 袁隗が袁遺の殺害を許さない。となると、また洛陽の名士と協力できなくなる。

 それくらいの事情は馬騰も分かっている。

 もちろん、それだけでなく、曹操、袁術、張邈との和睦は全て袁遺がやったようなものだし、荊州の名士との協力は袁遺の軍師の雛里の力に頼らざる得ない。せっかく安定した東と南の状況が全て水泡に帰す可能性まである。

「では、馬涼州牧は私に会って、どうしたいのだ?」

「馬涼州牧は理屈や利益という前に、まずは人と人ということを重視しているのです」

「人と人、か」

 あまりにも感覚的過ぎるが、袁遺にも理解はできる。泥臭くはあるが、好ましい感覚だった。

「では涼州牧とは、どこで会談することなる?」

「はい。馬涼州牧は、自らが出向くとおっしゃられました。会談の場所も、こちらにお任せすると」

 そう言われた袁遺は考える。

 会談の場所を袁遺に選ばせるのは度量が広いのか、誠意の表れなのか。もしくはその両方か。ともかく、選べと言われたので、有り難く選ばせてもらう。

「では、長安の渭水の北側、秦の首都の咸陽があった場所と伝えてくれ」

「昔、渭城県があった所ですね」

 秦が倒れ、楚漢戦争に勝った劉邦は咸陽の対岸に長安を建設し、そこを前漢の首都とした。

 その後、咸陽は渭城県となるが、後漢の時代に長安県に吸収されることになる。

 渭城は唐の時代に『詩仏』と称される王維(おうい)の、君に勧む 更に尽くせよ 一杯の酒を、で有名な『渭城曲』で読まれた場所である。唐の時代には西を旅する人をここまで送り、その駅舎で一泊して送別の宴を張る風習があった。

 謂わば、渭城は西の玄関口であったのだ。

 馬騰との会談場所が決まり、伝令が馬騰の元へと走った。

 それにともない洛陽の董卓と賈駆も、その会談に参加することになり、彼女たちも長安に来ることになった。

 董卓が馬騰に反董卓連合に参加しなかったことに対して礼を言いたいと言い出したのだ。

 袁遺は、それについて董卓と馬騰の問題であるから口出しするつもりはなかったし、董卓が会談に参加した方が、むしろ良い結果になるだろうと考えたため喜んで承諾した。

 彼は董卓と賈駆、および馬騰が来るまで、長安県令の引継ぎ業務を張既と共に進めた。

 彼らふたりにとって、この手の書類業務は苦ではなく、得意分野である。だから、それはすぐに終わったが、袁遺には別のやらなければならないことが残されていた。それは面倒な宿題の様なものであった。

 

 

「南山、南山……」

 袁遺は琴の絃を爪弾きながら、長安の南東にある名山の名前を呟いた。

 終南山(しゅうなんざん)は天下の名山である。

 道教の発祥の地ともいわれる。

 さらに道教だけではなく、後の時代では仏教の僧も南山で修業を積んでいる。それに世捨て人や隠者といわれる者たちが籠った場所でもある。といっても、これは隠者のふりをすると名声が上がり、仕官の道が開かれるということで、あまり良い意味で使われない。

 もちろん、宗教的なことを抜きに景勝地としても有名であり、古来いくつもの詩で読まれてきた。

 しかし、袁遺は長安令に就任して以来、忙しくて、南山のことを詩で読む暇がなかったのだ。

 そして、南山の近くにありながら(距離でいえば一五キロくらい)、詩をひとつも読まなかったことは袁遺の詩家としての評価に傷を付けるものだった。

 だから、夏休みの宿題を最後の日にやる小学生の様に、突貫工事で詩をひとつでっちあげようとしているのだ。

 だが、良い詩が思い浮かばない。

 どころか、古来より主君の意を得らずして、南山に帰臥せんとした者は大勢いるが、部下に仕事をするなと言われて南山に送られそうになるのは私くらいだな、という他人に聞かせたら、余計に評価を下げるような詩しか出てこない。

 時間は過ぎてゆくし、やらなければならないことも出てくる。

 董卓の出迎えである。

 彼女が初めて長安を訪れたときとは違い、今は司空である。それ相応のことをしなければならなかった。

 道を掃き清めさせ、香を焚き、楽隊を配置して出迎えの準備を整える。

 董卓の一行が現れると楽隊が一斉に奏で始めた。

 管楽器を中心に編成された楽隊で、まず初めに鳴らされたのは()という楽器で、低い音を発した。空気が大きく揺れる。

 続いて編鐘(へんしょう)や銅鑼が打たれ、簫と呼ばれるパンパイプ型の楽器が吹かれる。それに大小の琴が伴奏をつける。

 袁遺と張既は軒車から降りてくる董卓に恭しく拝跪した。

 朝廷における礼節を厳格に求めたのは袁遺自身であり、それを率先して守らなければならない。

 その後も、儀礼的な出迎えを行い。馬騰との会談について打ち合わせを行ったりで、袁遺が再び詩を考える時間が取れたのは日が沈み始めた頃だった。

 若干の気疲れを感じた彼は、庁舎の庭の四阿に琴を抱えて出てみたが、やはり良い詩は浮かばない。

 頭は空白で、指はただ徒に絃を弾くのみである。

 この時代の詩―――賦は基本的に音楽の伴奏を付けて、読むものであった。

 また、儒教では琴は君子の修練の重要な道具である。それだけでなく、道教でも宇宙と感応して、気を整える呪術的な作用があるとされている。

 だが、今の袁遺にはただの手慰みの道具に過ぎない。

 彼は無意味に南東にある終南山に、その無機質な瞳で視線を注いでいるだけであった。

 そんな袁遺は自分に近づいてくる何者かの気配を感じた。

 意識は瞬時に切り替わり、左手はゆっくりと腰の太刀へとむかった。できる限り自然な動きで気配の方へと体の向きを変える。

 袁遺が捉えたのはこちらに向かってくる董卓の姿であった。

 袁遺は慌てて跪き、礼を取る。

 今度は、それに気付いた董卓が慌てる番だった。

 彼女は足を速めて袁遺へと近づき、

「お止めください、袁将軍」

 と自ら彼を起こした。

 そして、袁遺と董卓は四阿で向かい合って座るが、会話はない。

 元来、董卓は主張の激しい人間ではない。だから、言いたいことを言い出せずにいた。

 袁遺も司空である董卓が黙ったままなら、自分から口を開いても失礼になると話すことはない。

「一度、ちゃんとお礼を言いたかったのです」

 それなりに時間が経ってから、董卓は呟くように話し始めた。

「お礼、ですか?」

「はい」

 董卓は肯首すると姿勢を正した。

 袁遺もそれに倣う。

「反董卓連合のとき、お助けいただきありがとうございます」

 そう言って、董卓は頭を下げた。

「お止めください、司空殿。あれは袁紹が起こした我が一族最大の恥です。本来なら、私の首は謀反人の一族ということで晒されてしかるべきです。それが、こうやって生きていられるのも司空の御尽力あったからこそです」

 袁遺は捲し立てた。

 そんな袁遺に対して董卓は、頭を上げ、力とも決意とも違う何かが宿った瞳で袁遺を見据えた。

「それでも、あのとき私の味方をしてくれたのは、あなた、ただひとりでした」

 董卓にとって諸侯が連合を組んだとき、ただひとり自分に味方した袁遺は一筋の光だった。

 袁遺は別に董卓を助けようとしたのではない。漢王朝のために動いたのだ。それでも、董卓が背負わされるはずだった汚名を被り、連合を解散させ、董卓の名誉の回復まで行っている袁遺に純粋な感謝の念を彼女は抱いていた。

「……あなたの感謝の念、有り難くお受けします」

 袁遺は言葉を選びながら言った。

 彼は別に董卓の部下ではない。共に皇帝の臣下である。だから、部下の様な言葉を使いたくはなかった。

 それを聞いた董卓は、はい、と優し気な声で頷いた。

 そして、彼女は袁遺に真名を預けた。

 名誉に関わることなので袁遺は素直に受け取った。

 再び会話がなくなった。それでも互いに別れるという選択を取ることができない余韻の様なものが場に漂っていた。

「……琴を弾いていたのですか?」

 董卓が脇にあったそれに気付いて言った。

「ええ、詩を作ろうとしたのですが、どうも良い詩が浮かばなくて……」

 袁遺は語尾を濁しながら答える。

 よろしければ、一曲弾いていただけませんか、と董卓は言った。拙いものでよろしければ、と袁遺は答えた。

 互いにこの余韻に似た何かに相応しいのは、これではないのかと思ったのだ。

 袁遺の右手の指が琴の上から二番の絃に添えられた。キーで言うところのGである。

 袁遺が奏で始めた曲を聞いたとき、董卓は懐かしさを感じていた。

 彼が選んだ曲は、かつて父親から聞かされた西域の曲であった。

 董卓は、それを生まれ故郷の涼州で聞いた。羌族だったか胡族であったかは忘れたが、彼らが故郷を思って故郷の言葉で歌っていたのだ。それが琴によって爪弾かれる。

 彼女は聴覚の記憶から涼州の風景や匂い、空気その物を想起していた。

 袁遺は左手の押し引きの強さで音階を調節する。彼もまた、父親のことを思い出していた。その決して上手いとは言えないが、息子への思いだけは否定できない演奏を。

 思い出すものは違っても、胸にあったのは互いに郷愁だった。

 董卓は目を瞑り、心地良さそうに旋律に身をゆだねた。

 西の空気を宿す調べは、日が沈むまで優しく鳴り響いた。

 

 

 ふたりの女性がそれぞれ、馬を駆って来た。

 馬の体格は遠目で見ても立派であった。それを颯爽と乗りこなしている。

 袁遺は思わず見とれてしまった。それほど見事な騎馬術である。

 董卓と賈駆、張既は懐かしそうな顔をした。

 ひとりが少し前を駆けている。

 前のひとりは髪を後ろで結んでいる。ポニーテールだ。容姿は優れている。強さと純粋さと優しさを感じさせる目はクリッとして愛らしい。プロポーションも良く、健康美を体現していた。

 後ろのもうひとりは妙齢の女性だ。ストレートの長い髪をその下部で纏めている。こちらも容姿に優れている。鼻筋は通っている。唇は薄めだが、そのささやかな紅色は爽やかな凛とした美しさがあった。

 袁遺に張既が耳打ちをした。

「前を行くのが涼州の錦と誉高い馬超殿です。その後ろが馬涼州牧です」

「さすがの操馬術だな」

 袁遺がそれに小声で応じた。

 彼女たちは袁遺たちの少し前で手綱を引き、馬を停めた。

 馬から降り、袁遺たちへと歩いてくる馬騰たちに董卓は、にこりと心底嬉しそうな笑顔を浮かべた。

 お久しぶりです、馬騰さん、と董卓が話し始め、馬騰もそれに応じ、彼女たちは久闊を叙し始める。

 袁遺は黙って、それを見守った。

 しばらくして、彼女たちの話が終わると馬騰は袁遺の方へと身体の向きを変えた。

 袁遺は礼を取り言った。

「後将軍・袁遺、馬涼州牧に拝謁致します」

「馬騰、字は寿成。噂は伺っているよ、袁将軍」

 袁遺からすれば、意外といえば意外だが、馬騰の声には敵意や警戒心というものを感じさせなかった。

 隠しているのかな、袁遺はそう思って試したくなった。

「お恥ずかしながら、悪名を垂れ流しております」

「その悪名を関東の諸侯にも押し付けているんだろ」

 袁遺の諧謔に馬騰は明るく返した。

 もっと武張った人柄かと思ったが、流石、涼州を纏めているだけはあるな。袁遺は感心した。諧謔を解するのは余裕を持った人間でなければできない。それに袁遺が反董卓連合相手に使った自分が戦うことで連合の大義名分を無くすという策も知っていた。

「あたしは馬超。字は孟起。よろしくな、袁将軍」

「涼州の錦に会えるとは光栄だ」

 袁遺がそう言うと馬超は照れくさそうにした。

「徳容も久しぶり」

 馬騰が袁遺の傍らに控える張既にも、挨拶をする。

「お久しぶりです、涼州牧」

 張既は福々しい笑顔で応じた。

 それぞれが挨拶を済ますと、董卓が、あちらに席を用意してあります、と言った。

 野宴というには簡素だが、それでも一席が設けられていた。

 礼儀として、それぞれが一杯、飲み干した。長安と同じ京兆尹の新豊から買い求めた酒である。新豊はこれより後の五胡十六国時代に酒所として有名になり、数々の詩で新豊の酒は旨いと読まれることになる。それを思わせる味であった。

 飲み干したとき、馬騰の表情が一瞬だけ変わった。

 袁遺はその表情を以前どこかで見たような気がした。正確には、その表情を見て感じた思いを以前どこかで感じたという方が正しい。

 どこで……

 袁遺は顔に出さないように記憶の糸を辿った。何故か、董卓に琴を披露したときの情景が思い浮かんだ。何故と考え、分かった。

 運が良いだけで片付けられない何かであったが、袁遺は否定した。自分が嫌いな天命に近いものであったし、父親の愛情というには照れ臭かった。

 だが、袁遺は馬騰が何故、自分に会うことにしたか、その輪郭を捉えた気がした。

「……本当に噂はいろいろ聞いているよ、袁将軍」

 ポツリと馬騰は話し始める。

「勤勉であることも、長安令としての働きっぷりも徳容から聞いている。今も軍を再建しながら、東に西にと動き回ってることも」

 馬騰の瞳には強さがあった。

「だから、時間がないことも十分に理解しているよ。そんな手間を取らせない」

「お気遣い感謝します」

 袁遺は頭を下げた。

「私はただ、家の名誉を捨て、一族と殺し合うことを選んだ男が何を考えているか知りたかったの」

「信じてもらえないかもしれませんが、漢王朝の利益のためです」

「信じてもらえないという自覚はあるんだ?」

 馬騰が言った。

 からかう風でも、責める風でもない。袁遺の何かを覗き見ようとしていた。

「はい。本来なら私は叛乱を起こした袁紹の一族ということで首が晒されていなければならない人間ですから」

 本心からの言葉であった。

 袁遺自身、自分の袁紹と戦うという選択によって、おかしな状況と立場に置かれていることを自覚していた。

「将軍の言う、漢王朝の利益って?」

 馬騰に問われた袁遺は、身内の恥を晒す様な話で申し訳ありませんが、と前置きしてから続けた。

「もし、私が袁紹の企みに乗った場合、おそらく今よりひどい状況になっているはずです。董司空は負けていたと思いますが、勝った連合は戦後処理の段階で諸侯たちが揉めます。少なくとも袁紹と袁術のふたりが確実に揉めることだけは天地にかけてもいい」

 袁紹、袁術、袁遺と主だった袁家の者たちが敵に回ったため袁隗を始めとした洛陽の袁家が処刑されるのは自然な流れで、それを行うと完全に董卓は洛陽の名士とは協力ができなくなり、内に多くの敵を作ることになる。

 また、董卓は関の東西から連合と袁遺に挟まれているため、軍をどちらか一方に集中することができない。

 董卓は負けていただろう。そして、負けても長安には袁遺が居座っているため、涼州に逃げ帰るのも難しい。董卓は処刑されていただろうが、それで平和が訪れるとは限らない。

 洛陽では諸侯たちによる戦後処理で揉めるのが目に見えている。

 となると今度は連合に参加した諸侯が武力を使って争うことになる。時代は群雄割拠の世に逆戻りだ。

 漢王朝は完全に形骸化する。

 それくらいのことは馬騰にも分かっている。

「私もひとつ伺ってもよろしいでしょうか?」

 袁遺が馬騰に言った。

「……何?」

「私のことが信じるに値しないなら、涼州牧殿はいったい、どうするおつもりですか?」

 袁遺の問いかけに馬騰は表情を変えなかったが、口を湿らせるように、もう一杯だけ酒を飲んだ。

「それなんだよね、将軍」

 馬騰は困っているとも迷っているとも違う調子で言った。

 彼女の心の底にあるものは娘の馬超でも、付き合いがそれなりにある董卓たちでも分からなかった。ただ、袁遺だけがおぼろげながら理解していた。

 馬騰には、袁遺が信用できないとしても、その対処方法に具体的なプランがなかった。

 せいぜいが涼州の守りを固めるくらいである。

 例えば、袁遺は信用できない。いつか必ず漢王朝に仇なす、と言ってこの場で袁遺を斬り捨てても、上で述べた様に袁隗と董卓の関係が壊れるだけだ。それはつまり、董卓と洛陽の名士たちの関係が壊れることも意味する。さらに、曹操や袁術、張邈との関係も悪くなるだろう。

 そして、馬騰は自分が洛陽の名士たちを纏めることができると考えていなかった。曹操たちとの同盟もそうである。

 余計に漢王朝を混乱させるだけであり、その後始末を董卓に押し付けるだけだった。そんなことは出来ない。そのくらいの分別を彼女は持っていた。

 それを理解しながらも馬騰には、袁遺と会談し、彼がどういう人間かを掴まなければならない事情があった。

 彼女にとって幸か不幸か、その事情を袁遺は何となくだが理解していた。

「私が言っても信頼できないと思いますが、涼州に不利益になるような真似はしません。あるとすれば、袁紹と戦うときに援軍を頼むくらいです。それ以外は致しません。私は漢朝の臣です。ですから、同じ漢朝の臣として、これまで通りの涼州牧としての責務を果たすことを望むだけです」

 そう言って、袁遺は頭を下げた。

 馬騰以外の、この場の者が、それで馬騰が納得するとは思っていなかった。

 しかし、馬騰は違った。

 彼女は、袁遺に心の内を見抜かれたことを今、理解したのだ。

「そう、会えて良かった」

 馬騰は言った。

 その顔には何かを悟ったような表情をしていた。

 会談は、馬騰と袁遺以外が腑に落ちないような顔をして終わった。誰もが想像しえない幕切れだった。

 袁遺は、馬に乗り遠ざかる馬騰と馬超の背を見送りながら思った。

 馬騰は長くないな。どれくらい保かな。まあ、自覚しているようだから、思ったより長くないかもしれない。

 袁遺は乾き切った感情で、馬が立てる土煙で姿がおぼろげになった馬騰たちを眺めた。

 馬涼州牧、流石の器量だな。あれくらいの器量が父にもあったら、父はもっと幸せになれたのかな……

 袁遺は父親のことを思い出した。彼の父親は死に近づくにつれ、詩家としての野心も子への愛情も失っていく、最後に残ったのは袁家の一員としての責任感であった。それを袁遺は喪に服している三年間、父との思い出や、父の残した各地の詩歌や小説、父親の自作の詩を読みながら、感じていた。

 彼が官職に就く前、史記から司馬遷の苦悩と葛藤を読み取った様に父の残したものから父親の思いを読み取っていた。

 そして、馬騰の顔を見たときに、それを思い出したのだ。父親の心情に触れた気がしたときの思いを。

 ただし、袁遺の父親と馬騰では袁遺が思った通りに器量というものが違う。

 馬騰は母親として、涼州牧として、漢王朝の臣として生きて死のうとしていた。

 なら、馬騰にはあれでいい。涼州を治め、非漢民族を抑え、袁紹と手を組まない。できれば、袁紹と戦うときに兵を出してくれる。それだけでいい。漢王朝を敬い、涼州の平和を乱さない。それさえやれば、馬騰は背後を脅かすことはないだろう。今の袁隗・董卓の二頭体制を破壊しても漢王朝の息の根を止めるだけと彼女は理解している。漢王朝を自ら滅ぼす真似は決してしないだろう。

 袁遺と馬騰は互いに死ぬまで漢王朝の臣でありたいと願っていた。

 しかし、皮肉にも今、瀕死の漢王朝を救っているのは、その忠誠心が歪みきっている袁遺だった。それは馬騰自身も理解していることだった。

 

 

「翠! 袁伯業をどう思った?」

 馬騰は馬を駆りながら、隣を行く娘に声を掛けた。翠は馬超の真名である。

 疾走と表現しても問題のない速度であったが、彼女たちふたりには、ちょっと駆けている程度のものだった。

 母親に問いかけられた馬超は、少し悩んでから答える。

「なんて言うか、理屈っぽい中原の儒者って感じかな……あたしは、あんまり好きじゃないなぁ~」

「そう」

 その答えを聞きながら、馬騰は思った。

 政治には疎いが、人としては真っ直ぐ育った。

 母親としては嬉しいことだったが、不安でもあることだった。自分の死後、娘は中原で起こっている諸侯たちの争いに巻き込まれても、乱世を生き切ることができるのだろうかと。

 馬騰は袁遺の予想通り、病魔に侵されていた。医者にも見せたが、手の打ちどころがないと言われた。原因も分からないと言われた。自分は長くはない、そんな確信めいたものがあった。

 それを袁遺に読み取られた。噂以上のキレ者だ。だけど、私も好きじゃない。

 しかし、会ってみて心が軽くなった面があった。

 袁伯業という男は、おそらく自分が涼州牧の職務を全うしている間は決して、涼州や娘には害をなさないだろう。あれは歪んでいるが、漢王朝に尽くそうとしている。でなければ、連合が結成したとき、董卓に味方なんてしない。野心があるなら、やりようなどいくらでもあったはずだ。

 馬騰の頭の中には、自分が袁遺の立場で天下に覇を唱えるなら、袁遺がとった行動よりもっと利益率の高い行動を簡単に二、三個、思いついた。

 しばらくは、涼州は平和だ。

 馬騰は軽くなった心の表れか、馬の駆ける速さを上げようとした。

 しかし、寸でのところでやめた。

 もう少し、娘と駆けよう。そう思ったのだ。こんな時間は、もう何度もあるとは限らない。

 天候も良く、顔に当たる風が心地よい。そんな中を娘と駆ける。

 幸せだ。馬騰はしみじみと思った。

 この外史で袁伯業という異物は多くの人の運命を狂わせるが、馬騰においては良い変化をもたらしていた。

 彼女が亡くなるまでの決して長いとは言えないその期間、馬騰は幾度と小さな幸せを感じながら、穏やかな時間を過ごすことになる。

 

 

6 酔夢

 

 

 袁遺が長安に行く前に、高覧は豫州での黄巾の残党との戦いでの功で張郃たちと同じく、校尉の地位が授けられた。

 そして、雷薄が言った、手柄を挙げて出世したら、飲みに行こうぜ。俺たちが奢ってやる、という約束が果たされることになった。

 陳蘭は真新しい服に身を包んでいた。

 校尉になり金も入り、では少しそれなりの格好をしてみようと服を仕立てさせたのだった。

 しかし、意気揚々と着込んだはいいが、どうも様にならない。服に着られているような感じがする。

 伯業様を参考にしたのが、失敗だったか。陳蘭は思った。彼は以前に主が着ていた服を見て、ああいうのを着ればいいのかと思って仕立て屋に頼んだ。

 袁遺が着ていたのは細袴とゆったりとした上衣に二重廻し風の上着である。彼が着れば遊び人風ではあるが、軽薄さはなく品があり、洒脱な着こなしに見えたのだ。しかし、実際に自分が着てみれば、なんだかチグハグな印象を受ける。

 しまった。参考にする相手を間違えた。俺と伯業様じゃあ、顔の作りが違い過ぎる。陳蘭は絶望にも似た思いを抱いた。

 そして、参ったな、と陳蘭は慣れないことをやった気恥ずかしさに、約束の店まで速足で向かったのだった。

 人目が気になり、きょろきょろと辺りを見回してしまう。戦場では勇敢であるが、そこから離れると彼は気の小さな男だった。連合との戦いで手柄を挙げた将のひとりだぞ、と偉ぶることができない。

 彼の忙しなく動いていた視線が、見知った顔を捉えた。

 雷薄であった。

 青や黒の糸で渦巻のような模様が刺繍がされている浅紫色の着物をまとっていた。首元には赤色の、腰には赤と黄色の派手な飾り布を巻いている。

 どう見ても喧嘩を売る相手を捜して生きているような輩にしか見えない。校尉なんだから、もうちょっとまともな格好をしろと思うと同時に、自分と違って様になっている。それを認めたとき、陳蘭の顔面の温度が上昇した。

 よく見ると雷薄は似たような人種の若者に挨拶をされていた。そして、それに鷹揚に返している。

 雷薄も陳蘭に気付いたようで、おう、と軽く手を挙げてきた。

「おう、今の連中は何だ? 兵か? それともまさか昔を思い出して、若さと力を持て余した奴と徒党を組んでるんじゃないだろうな?」

 陳蘭も挨拶を返すと尋ねた。

「はん、まさか。そんなことしねぇよ。見覚えはねぇが、どうもなんか、それ風の輩に見えたんだろう」

 その答えに陳蘭は心の中で激しく同意した。

 堂々と肩で風を切って歩く雷薄に、陳蘭は失敗したなという思いが強くなった。

 彼らが向かったのは何でもない居酒屋であった。

 もうすでに張郃がいた。

 料理は注文しておいたぞ。張郃は言った。

 おう、と挨拶とも相槌とも区別のつかない返事を雷薄はした。

 最後に来たのは高覧であった。別に彼が遅れてきたわけではない。張郃たちが今日の主役である高覧を待たせないために早く来たのであった。

 料理もすぐに来た。

 特別な店でもないため、料理は別段豪華なものではない。

 強いて上げるなら、肉体労働者である軍人である彼らだから、肉料理が多いこととゆで卵があることだった。ゆで卵は高覧の好物だった。

 それぞれが椀に酒を注ぎ、乾杯する。

 とりあえずは、腹の虫を収めるため、まずは料理にかぶりつく。

 肉料理は二種類。両方とも豚肉だった。甘辛く煮た煮豚と軽く茹でた後に焼き、山椒を振りかけた焼肉である。

 それらを(ピン)に挟んでかぶりつき、酒で流し込む。二個、三個と食べると、次第に口数が多くなる。

「それにしても、陳蘭。お前ずいぶんとめかしこんだな」

 張郃の言葉に陳蘭は咽た。

 おいおい、どうした、と心配する張郃をよそに雷薄は、さてはてめぇ、似合わないことしたって照れてるな、と陳蘭の本心をついた。

 陳蘭は咳払いをしてから、酒を一気に煽った。恥ずかしさも一緒に流し込もうとしたのだ。

 ちなみに、張郃と雷薄の服装は地味過ぎず派手過ぎない着物だった。ただし、彼らが着ればそれが何かの制服に見える固さがあった。

「まあ、雷薄の格好よりマシだぞ」

 張郃が雷薄を茶化した。

 長い付き合いだ。このくらいの軽口の叩き合いは皆、慣れたものだった。

「まあ、俺も昔は金が入ったら、良い服を着ようとか旨いもんを喰おうと思ったが、いざ手に入ったら、何したらいいか分かんねぇんだよな」

 雷薄は言いながら、椀が空いていた高覧に酒を注いでやる。固ゆでの卵を食いながら、やっている高覧の椀は口を付けたところが黄色く染まっていた。

 次に自分の椀を満たしながら、雷薄は言う。

「つーか、高い酒ってのは、どんなんだ?」

「挏馬酒じゃないか」

 張郃が答えた。

「挏馬酒?」

 陳蘭はオウム返しに尋ねた。

「俺も知らん。なんだそれは?」

 雷薄も興味津々という風に言った。

 挏馬酒とは馬乳酒のことだ。『漢書』礼楽志によると馬乳酒は匈奴から漢に伝えられ、漢の上流階級で好まれたらしい。漢の時代に限らず昔の中国では馬乳酒には解毒作用があると考えられていた。だから、味やアルコール度数だけでなく、薬としても珍重されていたようだ。

 やや余談になるが、『漢書』は前漢の歴史をまとめたもので、後漢の和帝の時代に完成した。儒教的な思想が強く反映され、張郃はかつて袁遺から受けた儒教の講義で『漢書』の解説を受け、挏馬酒のことを知っていたのだった。

「ふ~ん、つまり北狄の酒か」

 挏馬酒の説明を張郃から受けた雷薄は興味なさげに言った。上手そうに感じなかったのだ。そして、豚肉にかぶりつく。品種改良がされていないため、この時代の豚肉は硬い。だから、茹でて軟らかくするが、その分、脂が抜ける。しかし、それでも肉を食うという満足感を味わえた。

「にしても、偉くなったら何かが変わると思ったが、何も変わんねぇな。相変わらず、兵たちを怒鳴っている」

 雷薄は酒を呷る。その顔は赤かった。酔いが回ってきたようだ。

「兵の弛緩が酷い。てめぇらのところはどうだ?」

「うちも似たようなもんだ」

 陳蘭が答えた。

「こちらもそうだが、まあ仕方がない。まともな訓練をした兵は少なく、最低限の訓練だけを施した後に、あの激戦だ。後方に下がれば緩む」

 張郃が酒を舐めながら言う。こちらも顔は赤い。

「おそらく、伯業様は順次、長期休暇を兵たちに与えるはずだ。でなければ、全てのことを惰性でこなされ、どうにもできなくなる」

 ふん、と面白くなさそうに鼻を鳴らして雷薄が杯を傾けた。目は座っている。

 そして、卵の殻を割っている高覧にむかって言った。

「てめぇも何か言うことはないのか!?」

 高覧は手元から顔を上げた。顔色は変わってないが酔っている。この中では彼が一番、酒に弱い。

「面白れぇ話でも愚痴でも何でもいいから何かないのか? 酒のつまみになりそうなのだよ」

 高覧は聞いているのか聞いていないのか分からないほど反応が薄い。完全にできあがっている。

 陳蘭は、おいおい大丈夫かと心配になったが、次に高覧の口から出た言葉に別の意味で心配することになる。

「……伯業様と筆頭軍師殿は、できているのであろうか?」

 張郃と雷薄は呆気にとられた顔をした。陳蘭は酒を噴出す。

 陳蘭が咳き込む横で、張郃と雷薄は爆笑していた。高覧は卵の殻剥きに戻った。

「あはははは!! なんだそりゃ、確かに面白れぇ、笑える話だ」

 涙を浮かべながら雷薄は高覧の背中をバンバンと叩く。それに卵の殻が飛び散って、高覧は不機嫌な顔をした。卵の殻を手で集めて一ヶ所に纏める。彼が酔ったときにやる癖の様なものだった。

「はははは……あーー、で、実際どうなんだ?」

「おい!」

 陳蘭が慌てた。意外なことに彼がこの中で一番、酒に強く、彼だけが正気を保っていた。

 それに雷薄と張郃がさらに笑い声を上げる。高覧は卵を頬張った。

 彼らは閉店まで店に居座り、飲んで話して笑った。

 彼らはひとつの真実に気付いていた。

 連合は解散したが、戦争は終わっていない。そして、次の戦いは遠くない未来である。その戦いが始まったとき、彼らは戦場に行くことになる。そこで彼らは今日の楽しさが酔夢に思える日々を過ごさなければならない。

 

 

 袁遺が帰ってきたのは、この宴から二日後だった。四人の実戦部隊の指揮官は、それで軍師殿とはどうなんですかとは、もちろん聞けなかった。しかし、帰ってきた主が、また小さな女の子を連れているのを見て、まさかな、と思ったのは、各々の秘密であった。

 




補足

・渭城曲
 渭城曲は正式には『送元二使安西』。別離の際に詠われる詩歌である。
 昔、中学か高校かは忘れたが、漢文の授業で習ったけど、今の中高生も漢文の授業で習ったりするのかな?

・数々の詩で新豊の酒は旨いと読まれる
 南北朝時代の庾信の『春賦』や渭城曲の作者である王維の『少年行』など。

・董司空は負けていたと思いますが
 もし、連合が追い払われて、袁遺が敗れた場合、史実と同じように袁紹と袁術がそれぞれの派閥に分かれて戦って、三国志みたいな状況になる。

 あと、鮮卑につていは次の次くらいで詳しな説明をすると思う。


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7~8

7 天水の美将

 

 

 少女は復仇で生涯を燃やし尽くすには、あまりに理知的過ぎた。しかし、復讐の炎を消す術を持たなかった。

 彼女は豪族の出だった。家は天水の四姓と呼ばれるほど力を持っていたが、父は羌族の叛乱鎮圧に従軍し、そこで戦死した。そして、母親の腕ひとつで育てられた。

 少女の胸には、いつか父の仇を、そんな思いがあった。

 だからだろうか、力を求めた。

 武技を磨いた。兵法書を読み漁った。遊侠の徒と交じり、ときには鮮卑とも交流を持った。

 確かに、力は手に入れたと思う。

 少女ながら、彼女に勝てる者は鮮卑内でも殆んどいない。元が豪族の家の子であるから教養もある。

 しかし、自分が何をすればいいのか分からなくなった。

 仇を討つといっても、父親を殺した相手を捜して殺せばいいのか? それともまさか、羌族を皆殺しにすればいいのか?

 彼女は生まれや育ち、人種も違う色々な人々と関わることで、様々なことが見えてきた。

 自分が関わった鮮卑の中に漢人に家族を殺された者がいた。反対に、鮮卑に夫を殺された漢人の未亡人もいる。おそらく、自分が復讐を果たそうとしている羌族の中にも漢人に肉親を殺された者がいるだろう。

 少女は怨讐と共に生きる虚しさを感じていた。

 少女の聡明さは単純に生きることも、自棄になることもさせてくれなかった。

 だから、大きな夢を見ることもできない。

 私の父親を殺したのは羌族ではなく戦だ。漢も羌も鮮卑も争わなくてもいい世を作るために力を使おうとは思えなかった。あまりに非現実的すぎる。

 彼女は知識と経験から、遊牧騎馬民族の社会形態を理解できた。

 反乱や、それによって起こる略奪行為は遊牧騎馬民族にとって大きな意味を持ち、簡単に切り離せる問題ではない。

 彼女の心は乱れていた。

 復讐など忘れて母親に孝行をして過ごせという自分がいる。復讐を忘れるな、もっと力を、もっと強くなれば何かを果たせるという自分もいる。そして、現実の自分はどちらもできていない。

 そんなとき、以前に一度だけ会ったことがある小柄な男が、ある話を持ってきた。

 小柄な男のことはよく覚えている。あれほど敵意や悪意がない人間とは初めて会った。名を張既といったことも覚えている。

 そんな彼が自分を主に推挙したいと言ってきた。

 少女は張既の主の名を聞いたことがあった。中原で起きた大戦で、四万の軍で二〇万の軍を追い返した指揮官の名前だった。

 会おうと思った。

 ともかく会おう。会って話を聞こう。もしかしたら、強くなれるかもしれない。何かが変わるかもしれない。

 それに、その主君のことを知りたいと思った。

 彼女も豪族の出である。だから、家名の重さや価値を分かっている。その家を破ってでも戦うことを選んだ男。彼が何故、戦うのか知りたかった。

 少女は馬を駆って、長安へと向かった。

 長安は初めてだった。

 一二ある門のうちのひとつ、その門番に自分の姓名を明かし、張既に会いに来たことを伝えた。

 少し待たされた後、長安に入城できた。庁舎の場所を教えてもらい、そこへと向かう。

 道すがら、長安を見て回る。人が多く活気がある。耳に入ってくる言葉は聞きなれた涼州の訛りや西の訛り、それに聞きなれない東の訛りがあった。

 黄巾の乱の折、中原から南や西に逃げた人が多いと聞いていたが、西に逃げてきた大部分がこの長安に定住したんだな。少女は思った。

 それは黄巾の乱以降の県令の手腕を表すことであった。

 喧騒が大きくなった。

 その方向に少女は視線を向ける。人だかりができていた。

 気になったが、小柄な彼女には、人だかりの中心が見えそうにない。どこか登れるものでも探すかと思ったとき、その人だかりが割れ、見たことのある顔の男と三白眼が特徴的な男が現れた。

 見たことある顔は張既であった。目が合う。すると、彼が口を開いた。

「おお、会えて良かった。あなたの到着を知った伯業様が出迎えようと庁舎から出たのはいいが、民に囲まれてしまってな。入れ違いにならなくて良かった」

 そう言った張既の顔には何とも言えぬ愛嬌があった。思わずこちらも良かったと言わせる愛嬌だ。

 だが、少女はそれ以上に、張既が言った伯業様という単語が気になった。

 じゃあ、この張殿と共にいる人が袁伯業様……

 少女は三白眼の男を見上げた。

 その特徴的な瞳の小ささと無資質さが荒涼な大地で砂塵に吹かれている小石を思い出させた。

 男が礼を取り、口を開いた。

「漢の後将軍、洛陽の令、袁伯業です。賢士に会うことを待ちきれずに、こうして参上しました」

 袁遺の丁寧な挨拶は古来より中華にある賢人に対する礼であった。

 少女も返礼する。

「天水冀県の姜維、字は伯約と申します」

 

 

 姜維と名乗った少女を袁遺は仔細に観察した。

 小柄な背丈と幼い顔立ち、張既が言った通り雛里より幼く感じる。

 小顔で切れ長の目、高く通った鼻筋、涼やかな口元。全てが将来、凄まじい美人となることを約束しているようだった。

 声には幼さを侮らせない凛々しさがある。

 街中では落ち着いて話せないということで、一同は庁舎へと向かった。

「本日は足をお運びいただき、ありがとうございます」

 袁遺はそう言って、上座に姜維を座らせようとしたが、彼女はそれを辞した。

 そして、上座や下座ではなく、両方が対等になるよう左右に向かい合って座る形となった。

 彼らはまず、儒教の話になった。

 姜維は、この時代の著名な在野研究家の鄭玄の儒教観に強い関心を持っていた。

 彼女の知識は若い頃、洛陽に遊学した袁遺が舌を巻くほどだった。漢の影響が強くなく、騎馬民族の気風が濃い涼州でのみ勉学したとは思えない博識ぶりだった。

 姜維の熱っぽく語る様子に袁遺は、この熱量が後漢末期から晋にかけて、儒教を変化させたものなんだな、と思った。

 以前にも話したが、この時代、儒教にも変化があった。

 姜維だけでなく、多くの儒者たちも変化へと向かうエネルギーを持っていた。

 それは反儒教的な曹操も同じである。

 彼(この外史では彼女)が与えた影響から、儒教と、老子と荘子、所謂『老荘の思想』を融合させた玄学が生まれる。

 まあ、袁遺自体は、後漢の儒教の大きな特徴である讖緯説が、朱子学成立前夜の北宋の時代に讖書は漢代に捏造されたものでデタラメであり、こんなものを経典の解釈に参照しているのは間違っているとひっくり返されることを知っているから、冷めた目でこの変化を見つめている。現代でも、孔子の思想を語るに讖書を排除することが本流である。

 そして、話は反董卓連合のことになった。

「将軍は、一体どこまで想定なされていたのですか?」

 姜維が尋ねた。

 先程までの熱っぽさは消え、冷静な面持ちだった。

「どこまでとは?」

「始めから今の状況を……連合を解散させて、宣伝工作や反董卓だった諸侯を懐柔して、反袁紹の巨大勢力を誕生させることを考えていたのですか?」

 袁遺は少し考え込んだ。そして、言葉を選ぶように慎重に話し始める。

「確かに、連合を解散させた後は宣伝工作や切り崩し工作によって、董司空や袁太傅が有利なる状況にしようとは考えていました。だが、全てが想定通りに進んだわけではありません。そもそも戦争というのは、ただ敵を倒したり、追い払ったりすれば終わるというものではないでしょう。戦後処理というものがあります」

「それを考えるのは将軍の役目ではないのでは?」

「そうですが、私の選択した作戦で、どのように連合が解散するか、その過程を描けた者が私と部下の男のふたりしかいませんでした。袁太傅には……当時は袁司徒でしたが、ともかく、叔父上には話しましたが、それでも完全に理解しておられなかったので、私の意向が強く反映する結果となったのです」

「確かに、描くことが困難な新しい戦術だったと思います」

「いえ、違います」

「えっ?」

 姜維が驚いた。

 そんな彼女に袁遺が嘯いてみせる。

「私がやったことは徹底的に連合の関係性を崩壊することで、それは孫子でいうところの『交を伐つ』です。袁太傅は袁紹が連合結成の動きを見せたとき、それを戒める書簡を送りました。しかし、袁紹は聞かなかった。これは孫子でいうところの『謀を伐つ』が失敗したということです。ですから、私は次善の策となる敵の同盟関係を破壊することを選択したのです。発想の出発点自体は新しいものではありません」

「ということは、連合の敗因は同盟関係の維持……相互利益に気を配れなかったことだと?」

 袁遺はそれを肯定した。

「それが一番の敗因だと思います」

 だが、それは戦場での行動というより、戦闘が始まる前の袁遺の書簡や豫州や冀州での宣伝工作、洛陽の情報を渡さないための諜報活動が重要になってくる。

 それらの重要性を姜維は分かっているが、彼女の求める何かとは別の問題な気がした。

「しかし、将軍は連合の関係を崩すために、名門と名高かった家名が泥にまみれることになりました。あなたは家名を犠牲にしてまで、どうして戦ったのですか?」

 奇しくも馬騰と同じ質問を姜維がした。

「漢王朝の利益のため」

 袁遺は即答する。その答えもまた馬騰にしたものと同じだった。

 漢王朝のため、ではなく、漢王朝の利益のため。その言い回しは姜維の生まれ持った気質からすれば、好みではなかった。

 しかし、この言葉の先に袁遺の何かがあると予感した。

 彼女は一歩、踏み込む。

「漢王朝の利益のためなら自分の家が破れてもかまわないと?」

 その質問に、袁遺は首を縦に振った。それから続けた。

「正直なところ、私はまだ戦争が終わっていないと思っています」

 戦争が政治という巨大な環の中に含まれるとすれば、あの敖倉から酸棗の間で起こった戦いも董卓と袁紹の政治的対立の一部である。そして、その対立は未だ解消されておらず、宣伝工作や諸侯の切り崩し工作などが行われている。董卓と袁紹の戦いは、終わっていないといえば終わっていない。

 それは姜維にも理解ができる。

「では、その戦いの中で名誉を回復する機会があると、将軍は考えておられるのですか?」

「まさか、無理でしょうね」

 袁遺の顔は無表情だった。

「私が今、生きているのは、それが多くの人にとって利益になるからだ。分配される利益が多くの人に行き渡るとき、悪徳、悪行はときに肯定される。権力の本質だ。しかし、一族の中から逆賊を出た。まあ、私が色々と動いて逆賊にしたのですが、ともかく、逆賊の一族ということが一生、付いて回るでしょう」

「余計に何故、戦うか分からない。無礼を承知ではっきり言ってしまえば、連合に参加し司空を討った方が、あなたにとって得になったはずだ」

「そうでしょうね。しかし、それをすれば、漢王朝は衰退の坂をさらに加速を付けて転がることになる。おそらく連合に参加した諸侯の中には、すでに衰退の坂を転がり切ったように見える者もいたはずだ。だが、今は、あの戦争に参加した全ての者が傷付き、それを癒す時間を必要としている。そして、こちらに付き、その傷を癒すことを選んだ諸侯は、その衰退したと思っている漢王朝を嫌でも敬わなくてはならない」

「傷……この場合、軍や物資、領地の損耗や被害だけではなく、あなたの宣伝工作によって傷付けられた名誉を回復するためですか」

 姜維は言った。袁遺は優等生の回答を聞く教師の様な顔をする。

 連合に参加した諸侯は逆賊・袁紹の企みに乗った者というレッテル(半ば真実)を袁遺の宣伝工作によって貼られたわけだ。そして、そうじゃないことを現在、皇帝と王朝のシステムを握っている袁隗・董卓に保障してもらっている状況だった。となると、皇帝や王朝を蔑ろにすると、その保証の価値はなくなるから、敬わなければならない。

「それなら、確かに王朝の権威は復活したと言ってもいいかもしれませんが……」

 自分を、そして家を犠牲にしてまで王朝に報いる。見上げた忠誠心である。

 しかし、この人にはそれだけでは片付けられない何かがある。姜維は思った。

 そして、その何かは人柄を掴み損ねている袁遺自身から示された。

「おそらく、私とあなたの間で大きな齟齬が生じているようだ」

「齟齬?」

「姜殿、あなたは私が戦う理由を聞きたかったのですね」

 確認する袁遺に、姜維は肯首した。その顔は何を当然のことを、と言っていた。

「それは申し訳ない。私が答えたのは目的なのです」

「目的……」

 姜維は目の前の男が空恐ろしくなった。

 理由と目的では天と地の差がある。

 袁遺は利益のために戦ったのではなく、起こった戦いで利益が出るようにしたのだ。

 姜維は思った。

 おそらく、この人と私とは戦に対する意識の立脚点が違う。この人は戦が正しいことか悪いことか、好きか嫌いか、必要か不要か、その全てを通り越したところにいる。

 事実だった。

 袁遺も戦争は悪いものだと思っている。なくなった方が良いと思っている。

 しかし、根絶しようとは考えていなかった。生きていれば必ず出くわすもので、天災に近い事象として受け取っていた。

 その出くわした戦争で、利益をあげることを考えているのだ。

 謂うならば、戦争の飼い慣らし方、もしくは戦争の最も有効な活用方法を考えているのだった。

 同時に袁遺は平和主義ではない。

 これも戦争を悪しきものと考えるのと同じで、平和は素晴らしいものだと思っている。尊いものだと思っているし、長く持続されるべきものだと思っている。しかし、それが主義になることは決してない。

 戦争が主義で、どうにかなる問題だと考えていない。

 どころか、戦争が政治の一部である以上、主義の対立で争いが起き、最終的に戦争に結びつく可能性があるものだとさえ思っている。

 真に危ういのは、自分はこうだと決めつけることだ。

 姜維は知らないことだが、袁遺がかつて仲達に語ったことがある。

 俺は立場を変えることを批評する気も恥じるつもりもない。立場を変えることは極論すれば、生存の技法、そのひとつに過ぎない。本当に批評され、恥なのは姿勢を変えることだ、と。

 袁遺からすれば、平和主義というものが立場であり、平和を愛することが姿勢だった。

 ただ、この立場と姿勢が混同されて他人に受け取られ、袁遺の忠誠心には他人に忌憚される何か重いものがへばりついているように感じられるのだった。

 姜維は見てはいけないものを見た気分になった。

 彼女は悩んでいた。

 復讐に生きることも、戦争をなくすという大きな夢を見ることもできない。なら、袁遺が示しているものは何かを変えるきっかけだったのではないか。

 姜維にとって、袁遺のそれは希望の光に見えた。

 袁遺のやっていることは難しいことである。

 しかし、姜維の聡明さは、その難しいことこそ怨讐と夢想の間に囚われている自分にとって妥協点になりうることを理解していた。

 だが、その光は目が潰しかねない光量を持っていた。

 なのに、自分は袁遺()に惹かれている。

 危険は常に蠱惑的な魅力を持っている。誘蛾灯に惹かれる羽虫の様に姜維は口を開いた。

「将軍、非才の身でありますが、自分をあなたの下で国事に尽くさせてもらえませんか?」

 その言葉を噛みしめるように頷いてから、袁遺は返した。

「そのお言葉、忝い。どうか、お力を貸していただきたい」

 それを聞いた姜維は礼を取り、言った。

「姜維、字は伯約。真名は若蘭(じゃくらん)。どうか真名でお呼びください、伯業様」

 将来有望な天水の美将が臣下の礼を取る中で、袁遺のまったくの悪癖としか言いようのない部分が、蠢動していた。

 姜維……いや、若蘭の危うい真っ直ぐさは何に起因するものだろうか……若さか、それとも生来のものか。真っ直ぐな故に迷うというのは人として好感の持てる態度だが、指揮官としては暴走の恐れがある。

 戦争に善悪も好悪も必要さも考えない男である袁遺でさえも、戦争に突入するときは、それが勝てる(負けない)戦争という前提を忘れていない。

 だが、あまりに真っ直ぐ過ぎると、それを忘れて暴走する可能性がある。

 袁遺は姜維が部下になった瞬間から、彼女の能力の運用方法を冷徹な思考で考えていた。

 とりあえずは、張郃の下につけて、どれくらいのものか見極めた後だな。

 彼の欠点が鎌首をもたげた。

 もし、彼女が望んだものが俺から得られないとなったとき、果たして、どうなるなのかな……

 袁遺の人より小さな瞳は相も変わらず無機質であった。

 その後、袁遺は若蘭を伴って、洛陽へと帰還した。

 そして、皆に姜維を紹介し、まずは張郃の下で袁遺軍の軍法を学べ、と言った。

 その預かった張郃を始め、高覧、雷薄、陳蘭の四人が袁遺の顔を何か微妙な表情で見ていたが、その意味するところを袁遺は分からなかった。

 

 

8 ふたりでお茶を

 

 

 袁遺が豫州の黄巾の残党討伐や長安に行っている間、洛陽令を代行していたのは、彼の従妹である何夔だった。

 袁遺は洛陽の県令室で、彼女が自分の不在の間にやったことの報告を受けていた。

「指示通り、警邏を兵にやらせています。そして、五日後に長期休暇を取らせ、今は四組目が休暇に入ったところです」

 何夔の報告に袁遺は頷いた。

 反董卓連合とは文句なく激戦だった。

 激戦は将兵を肉体的にも精神的にも大きく疲弊させる。

 だが、いきなり休みを与えても疲弊した心身、特に心の面は回復しない。

 弓矢飛び交い、剣と槍が交差する前線と銃後(銃がない時代におかしな表現ではあるが)のギャップに付いて行けず、心をさらに荒ませることがあるからだ。

 だから、徐々に戦場から遠ざけてやる必要がある。

 訓練や警邏の任務は、謂わば日常へのリハビリだった。

 もちろん、それだけではない。

 何夔が新たに書簡を提示した。

「こちらが人の出入りの状況です。戦闘が終わったことで流民が都に入ってきています」

 袁遺軍と反董卓連合との戦闘が終わり、その後の宣伝工作では董卓・袁隗の方が袁紹より優勢だった。

 袁紹陣営が画策した新帝の擁立は未だ成功していない。それどころか、劉虞が強い拒否を示していて、破談寸前である。

 その結果、あの戦いは袁遺が勝ったように四海の人々に受け取られた。

 そして、税を納めることができず、耕作地を捨てて他へ移ることを選んだ流民たちは、自分たちを守ってくれるだけの強いところに行こうとして、董卓・袁隗の陣営へと向かったのだった。

 人口が増えるのは喜ばしいことだが、それが労働力や経済力になるまでは大変な苦労がある。

 そのひとつに、流民は少しでも空いた場所があれば、そこに勝手に住み着くことがある。

 彼らは空き地があれば、掘立て小屋のようなものを勝手に作る。すると、人が人を呼んでスラム街が形成される。人が集まれば、その上に立とうとする者が出てくる。顔役のようなものが生まれ、新たなに力を持つ者が出てくる。

 それは洛陽令という統治者にとっては、邪魔者以外の何もでもなかった。

 それに新たな権力者が袁紹や他の反董卓・袁隗の者と手を結べば、獅子身中の虫を飼うのと同じである。危険すぎることだった。

 だから、兵を警邏に導入して、新たな権力者誕生の目を早期に摘み取ろうしているのだ。

 袁遺は書簡に目を通しながら尋ねた。

「火事や病気などの問題は出たか」

「いえ、それらはありませんが、喧嘩や窃盗といったものは一日に一回は起こっています」

「そうか」

 それくらいなら日常の問題だし、それを悪化させないようにするのが為政者の仕事だった。

「命じておいた洛陽の市場の調査は?」

「こちらに」

 何夔が新たな書簡を差し出す。

「これは調査の結果をまとめたものですが、食品や日用品、その他の流通状況の詳細はこちらの書簡に」

 そして、かなりの量の書簡を示した。

 袁遺は簡潔にまとめられた報告書に目を通す。

 流民が増えた影響で、市場にも色々な変化が起きる。

 そのひとつとしてフクロウが売られ始めた。

 いきなり増えた人口に対処することができなくなり、今までは食べなかったが、食べられそうなものを捕まえて来て市場で売りさばいているのだ。

 これ自体は問題ではない。

 どの時代にも目敏い者が儲けになりそうなことに手を出してみる、ということがある。これもそうだった。

 例を挙げるなら、女真族(のちの金)に中原から叩き出された宋は紆余曲折の末、杭州(臨安)に腰を落ち着けるが、北からの大量に流れ込んだ人の口を賄うため、その初期は市場に蝙蝠、フクロウ、蛇などが大量に並んだ。それが文化として根付いたのか、現在も南の方では日本人の感覚からすればゲテモノ喰いに思える食材が並んでいる。

「長安のようにやっても、上手くいかないだろうな」

 洛陽は流石に首都だけあって、増えた人口圧を受け止める余力がある。

 しかし、市場の品や活性は、前の任地の長安に比べれば貧弱だった。

 長安には、肥沃な大地があり、交易の拠点となりえる。さらに黄巾党の乱からも離れていたため、そこまで土地や人心が荒れておらず、統治しやすい条件が揃っていた。

 だが、洛陽は違う。交易の拠点となりえるが、それはあくまで国内の話であり、長安の様に西域との交易は見込めない。また、耕作地は広くない。さらに反董卓連合との戦いで、その柔らかな下腹に酷い打撃を受けている。

 それに漢王朝の経済状況自体が良くなかった。

 制度の問題だった。

 現代の言葉で言えば、現在の漢王朝は構造的財政赤字を抱えている。

 赤字には二種類ある。

 ひとつは循環赤字。

 これは景気の好不況によって生じる赤字である。

 循環赤字は景気刺激策によって解消される。

 現代なら減税や国債の発行あたりだろう。戦争という手もあったが、現在ではコストの増加や交際情勢、民衆の感情などの問題で用いるにはリスクが有り過ぎる。

 もうひとつは構造的赤字である。

 これは例えば、国家が一〇〇の税収を生み出すには、一一〇の支出が必要という状況だ。

 そして、この一一〇を九九に抑えることができない。一〇〇を得るには一一〇を払わなければいけない社会構造になっているのだ。こういう場合、予算を削減するのではなく、体勢を削減、つまりは効率化するしかない。

 だが、それは難しい。

 何故なら、今の漢王朝にとって削減されるべき既得権益層とは名士だからだ。

 それをすると名士の協力を苦労して取り付けたのが、水泡に帰す可能性がある。すると反董卓連合前の情勢に逆戻りだ。

 となると次に目が向けられるのは、軍であるが、それも袁紹との対立状態が続いている現在の状況で、軍の縮小をするのは自殺行為である。

 なら、一〇〇を一二〇に増やしてやらねばらないが、一〇〇で頭打ちの状況で、それをやるためには増税しかない。

 しかし、どんな政治体制下の納税者であっても、増税を喜ぶ者はいない。おそらく、景気は冷え込み、税収がさらに落ち込むという本末転倒な状況を招くだろう。

 そして、不況の状況では既得権益層はますますそれにしがみ付く。まったくの悪循環だった。

 だが、今は体制の縮小か増税かの二択しかない。最悪かより最悪かの選択である。そして、この場合、より最悪の方は……

 袁遺は、ため息をつきたくなったがやめた。

 何の解決にもならないし、部下の前である。

 それに、これは県令の領分ではなく、董司空と賈駆のやることだな。まあ、いざというときの準備くらいはしておくか。

「ご苦労、良くまとまっている。ありがとう」

 袁遺は何夔を労った。事実、彼女のまとめた書類の出来は良かった。

「また、私が不在の場合は県令代理を任せることになる。私がいる間は市場の動きをまとめてくれ」

「分かりました。それと増税を行った場合、どれほどの影響が出るかの試算も行います」

 何夔は言った。袁遺の思考を読んだのである。

 彼女も現在の漢王朝の財政の危うさを報告をまとめたときに感じ取った。そして、現状で打てる手は増税しかないという結論に達していた。

 また、袁遺も同じ結論に辿り着き、董司空に増税の提案をする可能性も考えたのだった。

 そのためには説得力のある資料を作らなければならない。

「うん、頼む」

 袁遺は言った。

 正直なところ、思考を読まれたのは不快であったが、今はそれだけの能力を持っていることが頼もしい。

 袁遺は従妹である何夔の顔を見た。

 目付きの鋭さに彼の、そして母の面影を残す。また、仕事に対して真面目すぎるところも共通点だった。

 遺伝かな……まあ、それは置いておいて、将来的にはもっと大きな役目を任せられるな。

 そのためには今の難局を乗り越えるしかない。

 袁遺は洛陽を離れていた間の分を取り戻すように仕事に打ちこんだ。

 しかし、そのことでひとりの少女が心を痛めることになる。

 

 

 洛陽のどちらかといえば、郊外寄りの住宅街に袁遺の家はあった。

 いつまでも袁隗の屋敷に間借りするわけにもいかず、洛陽県令に就任したのをきっかけに国より屋敷が与えられたのだった。

 実は、もっと良い場所の屋敷を与えられる予定だったのだが、袁遺はそれを辞退した。その理由を分かったのは袁隗しかいなかった。

 ともかく、袁遺がそうなのだから、彼の部下たちも主より良いところに住めるはずがなく、袁遺の屋敷の近くに同じく小さいが家が与えられた。

 筆頭軍師の雛里もそうである。

 そんな彼女は今、自分の屋敷の台所で料理にいそしんでいた。

 使用人がいないわけではない。

 しかし、袁遺には自分の作ったものを食べて欲しかった。

 雛里は袁遺をお茶に招いたのである。

 その発端は袁遺の仕事ぶりにあった。

 長安でも、反董卓連合の陣内でも、そうであったように袁遺は良くいえば勤勉、悪くいえばワーカホリックだった。

 それは洛陽の県令になっても変わらない。むしろ、加速度的に酷くなっていた。上で書いたように何夔に任せていた分を取り戻すためである。

 さらに軍の編成もしなければならない。

 もちろん、雛里や仲達もそれに参加しているが、袁遺の頭の中にあるものを形にしようとしているのだ。やはり、彼が中心である。

 この作業で雛里は、ひとつ失敗をした。

 袁遺と雛里は制度上、必要な書類を制作していた。

 夜遅くまで、その作業をやっていたのだが、日付が変わったあたりで雛里は眠ってしまった。

 袁遺ほどではないしろ彼女も多忙であった。疲労も溜まっている。

 雛里が気付いたときには、もう朝で書類は全て完成していた。自分には上着が掛けられている。

 袁遺は雛里が疲れていることを知っていたし、何より安心しきって小さな寝息を立てる彼女の寝顔を見ると起こす気も失せた。

 しかし、雛里は申し訳なさでいっぱいであった。

 彼女は謝るも、袁遺は気にしないように言うだけだった。

 正直なことを言えば、雛里の気持ちには袁遺の行為に対して、嬉しい気持ちもあった。

 それが表に出たのか、彼女は袁遺に聞こえるか聞こえないかのギリギリの声量で、起こしてくれても良かったのに、と甘えた声で怨じてみせた。

 だが、喜んでばかりもいられない。さすがに主を休ませた方が良い。洛陽に不在であったといっても、サボっていたわけではない。だから、同僚の司馬懿に相談したところ、彼もそれに賛成した。

 そして、半日の休みを袁遺に取らせることにしたのだった。

 仲達が袁遺がやるべき軍の編成の仕事を行い、雛里が寝てしまったお詫びに料理を作って袁遺を招くことにした。

 袁遺には雛里にしても華琳にしても、妙な甘さを見せることがある。

 それは意中の女性に愛想を振りまくというより、孫を甘やかす祖父といった風だった。

 今回もそれである。

 雛里に強く休むように言われた袁遺は普段の無表情さはどこへやら、

「分かった、分かった。それじゃあ、ご相伴に与ろうかな」

 と泣いた子供をあやす調子で言った。

 さて、主を迎えることに雛里は気合を入れて、その準備に取り掛かる。

 彼女は袁遺の謹慎中、司馬懿の家にお世話になっていた。

 そのとき、家の主人の司馬懿は高覧と共に別働隊として任務にあたっていたので、司馬懿の妻である張春華にお世話になった。

 彼女は芯の強い人でありながら、穏やかで優しく、人見知りの雛里でもすぐに仲良くなれた。

 その袁遺とも付き合いの長い同僚の妻から、主の嗜好や自分の知らない料理を教えてもらったのだ。

 料理は苦手ではない。荊州にいたころは同塾の諸葛亮たちとお菓子を作り、お茶をした。

 だが、袁遺に食べてもらえると思うと今まで感じたことのない緊張があった。同時に喜びに似た期待も緊張以上にある。

 大方、料理が仕上がった頃、袁遺がやって来た。

「は、伯業様、本日はお越しいただきありがとうございます」

 雛里がそれを出迎えた。彼女の胸は高鳴っている。

「こちらこそお招きありがとう」

 袁遺は常日頃の無表情を忘れさせるような柔らかな表情で返した。

 席に案内され、茶や料理が運ばれて来る。

 茶は袁遺の好みに合わせたものだった。

 果実のものとも、花のものとも例えられる甘い香り。苦みは強いが後味は甘さを感じる芳醇な香りと味の茶だ。

 値は張るが、かつて袁遺から渡された莫大な支度金がまだ残っている。もらい過ぎの思いがあったので、主に返すつもりで奮発した。

 料理は饅頭と(ピン)に何かを挟んだもの。饅頭は中身がそれぞれ違う。

「美味しそうだな、それじゃあいただこうかな」

「ど、どうぞ」

 袁遺はまず饅頭を手に取る。蒸されたばかりだから、まだ温かい。

 饅頭の中は甘い餡だった。

「美味い」

 袁遺は無意識のうちに呟いた。

 それを聞いた雛里は顔をほころばせる。

 袁遺はもう一口齧り、味わう。

 甘味と柑橘類の風味が口腔内に広がるが、何の餡か袁遺には見当がつかなかった。

「橙か何かの香りがするけど、他にも色々入っているな。これは何の餡だ?」

「それは蓮容餡です」

 雛里が答えた。

「ああ、蓮の実(種子)か」

「はい、それに春華さんから頂いた金柑をお酒で煮詰めたものを刻んで、煮汁ごと餡に練り合わせたんです」

 つまり、金柑の甘露煮である。

 金柑の爽やかな香りのせいか、ねっとりと甘い餡だがしつこさを感じさせない。

 袁遺はお茶を飲む。苦みが強いお茶なので甘いものとよく合う。舌に残った甘さが洗い流される。

「じゃあ、次はこっちのを食べようかな」

 次に取った饅頭は口に運んだときに鼻腔をくすぐった香りで何の饅頭かすぐに分かった。

「……桃包(タオバオ)、桃の饅頭だな。桃の良い香りがして、こっちも美味いよ」

 本来なら甘みの強い餡であるが、雛里の作ったものはそれほど強くない。甘みというより桃の風味を楽しむという趣向だった。

「こっちの(ピン)は何かな?」

 饅頭から目先を変えて、薄く焼いた小麦の料理である(ピン)に手を伸ばす。

 袁遺は、これを先の反董卓連合との戦場でも食べたが、そのとき食べたものは生地に何かを練り込んだりも、何かを挟んだりもしない小麦粉に塩を加えて焼いただけのものであり、腹が膨れる以外何もない味気ないものだった。

 だが、雛里が作ったものは戦場で食べたそれとは違い、芳ばしい香りが食欲をそそるものだった。

 そして、食べてみると予想を超える味だった。

 表面はパリッとしていて、中はもっちりしている。また、豚肉のミンチを炒めたものが包まれていて、さしずめ中華風ミートパイだ。

「肉にしっかりとした塩味がついているな。甘いものを食べた後に塩気の強いものが、また嬉しいな」

「それは(かい)(保存のために塩漬けにされた肉)を叩いて炒めたものを包んでみました」

 塩気が甘さとは違った趣で茶と合い、気分が変わり、また甘いものが食べたくなる。饅頭の中身も、それぞれ別のものが包まれているようで、それも楽しみだ。

「雛里、どれもとても美味しいよ。今日はありがとう」

 その袁遺の言葉に雛里は胸がいっぱいになった。

 そして、それが溢れ出したかのように顔が緩み、自然と笑顔になる。

 えへへ、と笑う雛里に、袁遺もまた目を細める。

 人通りが少ない場所にあるため、静かだ。

 静かであるが、ふと雛里は思った。

「そう言えば、何故、伯業様はもっと良い場所の屋敷を断ったのですか?」

「あ、ああ、それは……」

 袁遺は言い淀んだ。

「あ、言いにくいことであれば別に」

「いや、まあ、そのなんだ……与えられる予定だった屋敷の近くに、叔父上が愛人を囲っていてな……もし愛人に会いに行く叔父上に遭遇したら気まずくて……」

 と最後の方は、恥じるように声が小さくなる。

「あわわ」

 雛里が顔を真っ赤にしながら、いつもの口癖を言った。

「今、言うことじゃなかったな。申し訳ない」

 そう言った袁遺の顔には、この男にしては本当に珍しく照れからくる赤みがさしていた。

 雛里は思わず、まじまじと見つめてしまった。夏の日に雪を見た気分だった。

 それに気付いた袁遺は意図的に拗ねた顔を作る。

 雛里が申し訳なさそうに、あわわ、と言った。袁遺は柔和な表情をして、いいよ、と返した。

 今度は、からかわれたことに気付いた雛里が拗ねる番だった。

 袁遺が笑った。それにつられて雛里も笑う。

 問題が山積みの状況であったが、今は穏やかな時間が流れていた。

 そして、この穏やかさが、ほんの一瞬のものであることを袁遺と雛里は理解していた。

 だから、惜しむように大切にこの時間を味わう。

 だが、この時間を破壊する出来事は、すぐにでも起ころうとしていた。

 

 

 北方で、戦塵が舞おうとしている。

 




補足

・略奪行為は遊牧騎馬民族にとって大きな意味を持ち
 結論から言うと略奪行為は、遊牧民の指導者の権威と民たちの結束を強化するための儀式である。
 匈奴や鮮卑を例に詳しく説明する。
 騎馬遊牧民が略奪の対象にしたのは人民、穀物、そして畜獣である。
 人は情報を聞き出したり、農業や製鉄業に従事させていたようだ。匈奴ではロシアのバイカル湖の南にあるイヴォルガ城塞址から、その痕跡が発見されている。
 穀物は家畜の食料および拉致した漢民族の食料として消費され、遊牧民族はあまり食べなかったようである。
 そして、略奪品の中で最も重視されたのが畜獣である。
 まずは遊牧経済における再生産活動の恒常化である。
 家畜との有機的な結合によって生活が支えらている彼らにとって人口の増大や不意の天災による家畜の喪失に常に備えておかなければらない。
 また、馬を売買していた形跡もあり、馬を略奪するということは、その商品価値を高めると同時に中華の軍事力を削るという一石二鳥の効果があった。
 これらの略奪品の分配方法が騎馬遊牧民族にとって大きな意味を持っている。略奪品の分配の差配は君長や王の権利である
 『史記』に曰く、匈奴では、攻戦で斬首や捕虜を得た者は一卮の酒を賜り、取得した鹵獲品がそのまま単于より与えられるとある。
 また、ユーラシアの騎馬遊牧民族のスキタイでも同じであった。ヘロドトスの『歴史』には、戦場で殺戮した敵の首級を持ってくると王より酒が与えられ、略奪品の分配に与ったとあり、洋の東西を問わずに、遊牧民族国家にはそういった性質を持つ。まあ、スキタイの起原はアジア系の遊牧民族という説が現在では有力視されているため、元を辿れば、両者は同じ民族ということになるが、これは余談に過ぎる。
 話を戻して、確かに敵の首級を上げるという個人的な武勇が称賛されたとしても、略奪戦は集団戦である。ひとりで大量の家畜や捕虜を獲得するのは不可能だ。
 そこで重要になってくるのが指揮官の軍事的才能であり、その指揮官とは君長や王である。
 民は指導者に他の部族による略奪の防衛、牧草地の確保、遊牧経済再生産の為の略奪の指揮などを求めたのである。
 指導者はそれができるだけの強さを見せねばならず、それができないと思われれば、その座が追放されるので、略奪をやめることができない。


 あ、今回も前回と同じで、涼州の人と話して、飯食って終わった。もう少し構成を考えないといけないな。まあ、次回はガラリと話が変わるので許して欲しい。



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後編は明日か明後日に投稿します。
また、あとがきの部分に簡単な地図を載せますが、距離や位置などは正確ではありません。イメージの参考程度で、これが地図として正確だとは思わないでください。
それと地図にはこの話のネタバレがあります。ご注意ください。


9 北方に戦塵が舞って―――(前)

 

 

 河北に燻っていた火種がとうとう燃え上がった。

 幽州牧の劉虞を新帝に擁立しようと動いていた袁紹であったが、その劉虞自身が乗り気ではない。

 というより、劉虞は董卓と袁紹の争いに巻き込まれること自体が御免だった。

 しかし、だからといって、どちらにも肩入れしないでいることが無理であることも劉虞は理解していた。

 中立を保つということは、独力で自立性を維持しなければならない。それは軍事的にも経済的にも誰にも頼れないということである。

 それは不可能だった。

 幽州の生産力や幽州内の太守との関係、また、北方の非漢民族である鮮卑、烏桓との関係を考えれば、そこから生じる問題、その全てを独力で解決するのは不可能である。

 では、どうするか、と考えて劉虞の選んだ道は董卓・袁隗の側に付くことだった。

 劉虞には皇帝に尽くす忠心はあっても、自分が帝位に就く野心はない。なら、現帝を握っている陣営に付くのは当然の帰結だった。

 彼は洛陽へ田疇を使者として送った。

 田疇は勇猛な食客二〇人を選ぶと、彼らと共に洛陽へと向かった。

 袁紹の領地の冀州を通るわけにはいかず、并州を通ることになったが、并州は今日の黄土高原である。

 黄土が風に吹き上げられて、目も開けられない砂塵の中を進むことになる。また、夏には一回の雨で年間降水量の三割に当たる量が降り、大規模な地滑りを起こすことが多々ある。これに関しては時期ではなく、その心配はなかったが、逆に川の流量が少なく、渇きを堪えながら進み、ときには草を掘り起こしその根の水分を啜って、渇きを癒した。

 それほどの苦労をして進む田疇であるが、洛陽に辿り着く前に戦火は幽州に燃え広がっていた。

 

 

「もーーー我慢なりませんわ! 劉虞さんは帝位に……いえ、わたくしと、あの目付きの悪い男のどっちに付く気ですの!?」

 戦火の起こりは袁紹の我慢の限界からであった。

 劉虞との交渉が難航している間に、彼女の耳には袁遺が曹操や袁術といった反董卓連合に参加した諸侯を寝返らせたことや、連合に参加せずに情勢を見守っていた者たちが次々と董卓・袁隗の体制を支持し始めたことが入ってきた。

 自分はやることなすこと上手くいかないのに、何故あっちは順調に事が運んでいる。

 その原因を袁紹は他人に求めた。

 袁遺が、董卓が、袁隗が、劉虞が、自分の邪魔をしている。

 袁紹の中で怒りが燃え上がる。怒りという炎を持つ溶鉱炉は不純物を取り除き、恐ろしい強度と切れ味を持った殺意という名の刃を作った。

 そして、彼女はそれを振るうことに何の躊躇いもなかった。

 袁紹の軍師たちもそれを肯定した。

 初めに口を開いたのは好戦的な郭図であった。

「ここまで時間を掛けるのは敵対行為以外の何物でもない! もはや劉虞と手を取り合う余地はなし!」

 郭図の人間性は最悪である。

 讒言癖があり、残忍で執念深く、他人を見下している。

 しかし、その能力には光るものがあったし、彼の言は事実だった。

 宣伝工作で後れを取っている袁紹陣営は速やかにそれを挽回しなければならない立場にある。それなのに返答を渋るということは攻撃と取られても仕方がないことだった。

 他の軍師も郭図の意見に賛成した。袁紹の軍師の中で最も慎重派である田豊さえも攻撃には賛成であった。

 ひとりの男が郭図に続いて発言する。

「袁遺が曹操や袁術を懐柔したことを考えますと我々の背後を脅かすために劉虞や公孫賛にも手を回している可能性は十分に考えられます。そして、戦の要訣は先制にこそあります」

 怜悧な顔付きの男である。その声も外見を裏切っていない理知的な落ち着きのあるものだった。

 彼の名は沮授。冀州広平郡の出身である。

 袁紹の軍師陣の仲は最悪で、特に冀州派閥と豫州潁川派閥で争っている。そして、冀州派閥の沮授に対して、郭図は豫州潁川派閥である。

 いくら主の袁紹に、その対立を軍師たちが隠しているとはいえ、同じ意見を主の前で言うことは珍しかった。

 それだけ劉虞への予防戦争は重要なことだった。

 いざ、袁遺と実戦になったときに後ろから攻められたら堪ったものではない。その脅威を取り除く機会は袁遺が軍の再編成を行っている今だった。

 それに呂布や張遼の部隊のような強力な騎馬部隊が反董卓連合において大きな活躍をした。

 だから、彼女たちに対抗するために、こちらも強力な騎馬部隊を作らなければならない。そのためには良馬の生産地である幽州を抑える必要がある。

 軍の再編は兗州から帰ってきてから進め、途中、青州黄巾党が冀州に流れ込んでくるというアクシデントもあったが、兵の規模は五万まで回復している。先の戦いの損耗率でいえば、袁紹軍は袁遺軍よりも小さな数字だった。それと冀州の人口の多さにより、立ち直りは袁遺軍よりも早かった。

 後は兵站さえ整えれば、戦争へと雪崩れ込める。

 そして、冀州は豊かな土地である。多少の無理をすれば、すぐに解決できる問題だった。

 袁紹は顔に場違いなほどの明るさを宿しながら宣言した。

「幽州に侵攻して劉虞を討ちますわよ!」

 その声には自覚のない傲慢さが溢れていた。

 侵攻は電撃的だった。

 劉虞を新帝に戴こうとする行為から、一八〇度変容して劉虞を討とうとするのである。変容は急激なほど良い。何故なら、変容が急な場合、今までのやり方で得ていた支持者を失うより先に新しい支持者を獲得できるからだ。

 このマキアヴェッリの考えとその効果を軍師たちは知識と知らずとも、肌感覚で理解していた。

 冀州と幽州の州境にある易の城塞から軍を進発させ、幽州涿郡を一気に制圧。そこで物資の徴収を行った後、幽州牧の治府がある広陽郡葪へと軍を進め、葪の城を包囲した。

 

 

 幽州の冷たさと砂塵を含んだ風が劉虞の頬を打った。

 劉虞。字は伯安。徐州東海郡郯県の人である。

 後漢を再興した光武帝の長男・劉彊の末裔であり、つまりは皇族である。

 細長い顔の持ち主で、黒髪は年の割には半白になっていた。常に悲しげに見える表情を浮かべている。別に悲哀を友としているわけではない。生まれ付きそういう顔なのだ。

 だが、今はその常に悲しんでいるように見られる顔でよかった。そんな思いが葪の城、その城壁に立ち、城を囲む袁紹軍を見ていると頭に浮かんだ。

 袁紹軍五万が城を取り囲んでいる。

 劉虞には人徳はあっても、武の人ではない。それは彼自身も自覚している。

 だから、この五万をどうにかできる自信などなかった。

 もちろん、だからといって何も手を打たなかったわけではない。

 籠城の準備を進めつつ使者を派遣し、ふたつの勢力に援軍を頼んだのであった。

 ふたつの勢力のうちひとつは漁陽太守の鮮于輔(せんうほ)である。

 鮮于輔は漁陽郡の出身で劉虞の従事であったが、国人からの信頼が厚い彼を太守に推挙したのだった。

 また、彼の元には劉虞に心服する烏丸族の蘇僕延(そぼくえん)と、その配下の烏丸族七〇〇〇騎の騎兵がいる。鮮于輔の手勢と合わせれば、その規模は二万二〇〇〇。

 もうひとつの勢力とは公孫賛である。

 正史では劉虞と公孫賛の関係は最悪であった。

 使者の殺害や物資の略奪等の末、彼らは武力衝突へと発展し、最終的に公孫賛が劉虞を殺害する。彼らの争い原因は公孫賛が劉虞を妬んでいたためとされているが、この外史の公孫賛―――白蓮は欠点に成り得るくらいのお人好しだった。その性格故に両者の関係は悪いものではない。

 劉虞が徳によって北方の異民族を統治し、それでも抑えられないときは公孫賛が麾下の白馬義従を率いて武によって抑えるというアメとムチを使い分ける体勢で北の異民族問題に対処していた。

 少し北方の異民族についても触れておこう。

 今まで何度か名前を挙げてきた匈奴はこの時代、北匈奴と南匈奴に別れており、かつて漢を弟として君臨していた強国の面影はない。

 特に南匈奴は騎馬遊牧民族らしささえ失っており、農業に従事している者もいる。話は逸れるが、時代が進むにつれて、南匈奴は漢人地主の小作人になる者や中央権力者の奴隷に身をやつす者など窮乏を極めていくのだが、皮肉にもこうやって中華の内へ内へと入り込むことで五胡十六国時代の原因となる。事実、五胡十六国時代の英雄のひとり石勒は奴隷の身分から皇帝にまで成りあがった。彼は南匈奴に服従していた小部族の出身である。後はその石勒が仕えていた劉淵なども匈奴系である。

 では、北匈奴は精強さを保っていたかといえば、そうではない。彼らはかつて従えていた烏丸や鮮卑に手痛い反撃を喰らっている。

 烏丸(もしくは烏桓)も鮮卑も元は同じ部族の東胡である。匈奴との戦いに敗れて烏丸山に逃げたのを烏丸、鮮卑山に逃げたのを鮮卑という。

 特に鮮卑は桓帝の時代に檀石槐が、かつての匈奴の版図をまるまる切り取り、隆盛を誇った。

 だが檀石槐の死後、鮮卑は分裂し、いくつかの指導者がそれぞれの集団を率いているという状況である。

 漢はそんな異民族たちに『夷を以って夷を制す』の方針を取った。例えば、鮮卑が叛乱を起こしたら、その叛乱鎮圧には必ず烏丸を従軍させ、逆に烏丸の叛乱には鮮卑を従軍させた。また、同じ部族同士を戦わせることもあった。そうやって、彼らがひとつにまとまるのを防いだのである。

 だから、劉虞が親漢の異民族を治めて、公孫賛が反漢の異民族に対処するという図式ができたのだった。

 話を本筋へと戻して、公孫賛は劉虞の要請を快諾した。

 部下からの反対もない。

 彼女たちは袁紹が劉虞の次に自分たちを標的にすることを分かっていたからだ。

 なら、劉虞と協力できるうちに袁紹を叩いておいた方が良い。

 それに、もし劉虞が袁隗・董卓と結べたなら、反董卓連合での戦いで捕虜になった兵たちの返還交渉の窓口になってくれることも期待できた。

 使者の魏攸はこの後、烏丸や鮮卑の元を回り、公孫賛が不在の間は遼西郡に手を出さないようにすると確約した。

 魏攸の人望は厚く、それは異民族にもそうであった。彼がいるところには異民族も侵入しないといわれるほどである。

 遼西の守りに兵を割かれることなく、公孫賛は二万の兵を動員することができた。

 また、劉虞が幽州牧になって以来、倹約に努めていたため葪の城には食料や油などの物資は豊富だった。

 人心も落ち着いていた。彼は民に好かれていたし、部下の程緒も民を見て回り、民心の慰撫を行っている。程緒もまた人望厚き人だった。

 だから、鮮于輔と蘇僕延の二万二〇〇〇と公孫賛の二万の軍を待ちながら、劉虞は一万六〇〇〇の兵と共に城に籠るという状況で、数の上なら袁紹軍五万と親劉虞陣営五万八〇〇〇で戦力比約1:1.16と劉虞たちの有利となっていた。

 だが、籠城戦の常に変化する状況に対応し続ける自信が彼にはなかった。

 鮮于輔、遼西太守殿。早く来てくれ!

 劉虞は縋る様に心の中で叫んだ。

 泣きたい思いだったが、いつもの物悲しそうな顔がそれを隠していたため、兵に胸の内を気付かれずに済んでいる。

 そんな彼の近くに控えていた兵が叫ぶように言った。

「袁紹軍がおかしな動きをしています!」

 その言葉に劉虞は驚き、自分も目を凝らして袁紹軍の陣を観察する。

 遠すぎてよく見えないが、山の様なものができている。そして、その山に人が群がっている。何だと思い、さらに目を凝らすが、やはりよく見えない。

「ありゃあ、穴を掘ってるんじゃないか……」

 近くにいた兵が呟いたのが劉虞の耳に入った。

 確かに、そうだ。兵が穴を掘っている。坑道を作り、城壁の下を潜る気か!?

 劉虞はそう思ったが、さらに敵の陣を子細に観察すると別の考えが浮かんだ。

 よく見れば、あの山のような土を押し固めているんじゃないか……じゃあ、あれは陣を強固にしているのか……?

 袁紹軍の行っているのは後代の言葉で言えば野戦築城であった。土地に工事を施し、陣地に防御力を付加することである。

 袁紹軍の兵たちは地面を掘り起こし、壕を作くる。その作業で出た土を盛り、押し固めて土塁にする。木を切り出して逆茂木にする。

 その様子に劉虞は袁紹軍が長期戦を覚悟していると推測した。

 そして、それはまったくの間違いであった。

 袁紹の軍師たちは劉虞の推測とは逆のことを考えていた。すなわち早期決着である。

 劉虞は敵の意図を読み間違えたが、それは些か仕方がないことだった。

 彼は戦に明るい人物ではなかったし、それになにより、袁遺と戦ったことで袁紹軍に起こった変化を天下で最初に見ることになるという不運もあった。

 しかし、劉虞は袁紹軍の意図を正確に読み取ったとしても、効果的な手を打つことはできなかっただろう。そして、劉虞は彼自身の力のなさに対する代償を払わなければならなかった。

 

 

 二〇万も集めたに関わらず四万の軍に解散に追い込まれ、また直接戦闘でも半数以下の兵に潰走させられた。

 敗北も敗北、大敗北であったが、その事実を袁紹の軍師陣は冷静に受け止めた。

 袁遺に対して異常な憎しみを燃やす郭図でさえも、連合を解散させた要因を考え、袁遺の戦術を研究した。それこそが袁遺を殺すために必要なことだと思っているからだ。

 この袁遺の戦術の研究を袁紹の軍師の中で最も熱心に行ったのは沮授であった。

 袁遺が行った複数の相手に挟まれた状態で主導権を握ろうとする戦術と自分たちが行った相手を複数の部隊で包囲して主導権を握ろうとする戦術、後代の言葉で言うなら内線作戦と外線作戦を比べて、彼はひとつの仮説を立てた。

 内線作戦と外線作戦とでは内線作戦の方が有利である。そんな仮説だった。

 その沮授が、この幽州攻めでの筆頭軍師である。

 本来の序列でいえば田豊がその地位に就くはずなのだが、彼女は留守を任されている。

 董卓や曹操といった黄河の対岸に敵対勢力に備えながら、行政を取り仕切れるのが彼女しかいないからだ。

 沮授は反董卓連合のときに雛里がやっていたように、細作や斥候、人々の噂話から、漁陽と公孫賛が軍を動かしていることを知った。

 特に漁陽の動きはすぐに察知できた。

 そのわけは烏丸の風習によるものだった。

 彼らは内は争いを裁け、外は外敵を防ぐ勇敢壮健な者を大人(酋長)に選び、その大人が人を集めるときは木に刻み目を入れたものを『落』の間に回す。

 『落』とは烏丸の最小社会組織のことで放牧地で一ヶ所に立った二、三戸のテント、だいたい二〇人前後の集団であり、その上には落が二〇個ほど、だいたい四〇〇人前後の『邑落』というのがある。

 この『落』にしても『邑落』にしても、ただの氏族集団の寄せ集めと捉えてはいけない。

 少数で多くの羊などの動物を管理する遊牧騎馬民族の生活を考えると、家族をもとに人々のつながりを組織化したものと考えた方がよい。戦場に投入されれば、ひとつの部隊としてそのまま機能する。

 また、烏丸は文字を持たない。諸説あるが、文字を持つ遊牧民族は南北朝末期から唐にかけて一大帝国を築いた突厥が最初である。

 そのため、大人から呼び出しがあると烏丸は大騒ぎになる。だから、その動きは分かりやすい。

 また、公孫賛も幽州で一番の戦闘力を持つ諸侯だ。その動きを幽州に進攻して以来、劉虞の動きと同等に警戒していた。

 公孫賛たちが動いているなら、袁紹軍の数の優位は消し飛んだことになるが、沮授は冷静だった。

 何故なら沮授にとって今の状況は、仮説を立証するための絶好の機会でもあったからだ。

 彼が立てた策は袁遺が反董卓連合でやったことと同じである。

 つまり、劉虞たち五万八〇〇〇を合流させずに各個撃破する。

 葪から漁陽は約一四〇里(七〇キロ)、また遼西郡の郡治所の陽楽県は約四六〇里(二三〇キロ)離れている。親劉虞軍勢が葪に到着するまでに各個撃破する時間差は十分に存在する。

 沮授は軍議で自分の考えを述べた。

 袁紹軍の軍師間にある対立から、反対意見が(特に潁川郡出身の軍師たちから)いくつか挙げられたが、沮授の

「袁伯業にできて我々にできぬなどということはあり得ません!」

 という挑発的な言葉に軍師たちよりも袁紹が大きく反応した。

「その通りですわ!」

 彼女は叫びながら立ち上がった。

 そして、彼女の将や軍師たちを睥睨しながら続ける。

「あの男より、わたくしの軍が、わたくしが劣っているなどということはあってはならないのですわ! おやりなさい、沮授さん!」

 気焔を吐いたような言葉だった。

 では、その勢いのままに袁紹軍が行動を開始したかといえば違った。

 袁紹軍がまず初めに行ったのは劉虞が目撃した野戦築城である。

 袁遺の戦術とは運動戦であり、運動戦での野戦築城とは主に寡兵で敵をよく防ぐために用いられる。

 袁紹の軍師たちは、袁遺を分析することでその有用性に辿り着いた。

 もっとも、兵力の差を地形によって補うのは別段、珍しいことでもない。その地形を人工的に作り出す野戦築城へと辿り着くのは決しておかしなことでもなかった。

 土塁が完成し、陣地にある程度の防御力が付与された時点で葪に一万の兵を残し、残りの四万(戦闘員二万四〇〇〇、兵站部隊一万六〇〇〇)が、漁陽から南下してくる鮮于輔と蘇僕延の二万二〇〇〇の撃破へと進発した。

 なお、葪の包囲を継続する一万には袁紹軍の二枚看板の顔良と軍師の辛毗が残った。

 万が一でも葪の包囲が破られることになったら、敵中で孤立することになる。それだけは絶対に避けなけれならないため、それなりの実力者が残らなければならなかった。

 そして、この状況の変化に劉虞は、どうすればいいのか分からず籠城を続けるという選択肢をとるしかなかった。

 劉虞より自由を与えられて袁紹軍四万は北上する。

 袁紹軍は急いだ。

 相手に烏丸族がいるので、濕余水を上手く使って敵を向かい打ちたかったのだ。

 騎馬民族の強さのひとつにパルティアンショットがある。

 これは馬上で後ろ向きに矢を放ちながら、敵と一定の距離を保ち続ける一撃離脱戦術のことである。遊牧民族国家のパルティア王国の名前が由来であるが、パルティア固有の戦術ではなく、騎馬遊牧民族なら殆んど行った戦術である。

 これを封じるためには敵が自由に馬を動かす余地を奪うしかない。

 つまり、敵が濕余水を渡ったところで戦いを仕掛け、川を背にさせる作戦だった。

 もちろん、パルティアンショットを封じただけで勝負が決するわけではない。そのことは袁紹軍の軍師たちも分かっている。だが、敵の強みを潰すことはやっておく必要があることも理解していた。

 この判断と行動は、袁紹軍にとって良い方向へと事態が動いた。

 蘇僕延が派遣した先遣隊が北上する袁紹軍を発見し、その数を蘇僕延に報告した。

 それを聞いた蘇僕延は悩んだ。

 袁紹軍がこちらに向かって来ているということは葪は落ちたのか? 劉虞殿はどうなった? いや、四万の敵が向かって来ているなら、まずい。

 殆んどが騎兵で構築された蘇僕延の軍に鮮于輔の軍が付いて行けず、両軍の距離が離れている。七〇〇〇で四万を相手にするのは難しい。

 蘇僕延は軍を停止させた。

 鮮于輔軍との合流を待ちつつ、斥候を放ち葪の様子を探った。

 軍を停止させていた時間は一日であったが、その一日は袁紹軍を予定戦場に到着させ、鮮于輔・蘇僕延軍に背水の陣を強いることになったのだ。

 ただし、袁紹軍にも問題がなかったわけではない。

 確かに敵に背水の陣を強いたが、そこに到着するまでに強引に兵を駆けさせたため、彼らには大きな疲労があった。対して、軍を停止させ休息を取っていた蘇僕延軍の強力な騎兵部隊は人馬ともに体力、気力が充溢していた。双方の要素がこの戦いにどのような影響を与え、どのような結果をもたらすか。

 この外史の未来で、濕余水・沽水の戦いと呼ばれる戦が本格的に始まろうとしていた。

 

 

 この戦いでひとり、並々ならぬ功名心を逸らせている男がいた。

 その男の名は麹義。涼州西平郡の出身で羌族の戦法を知りぬき、部隊の兵たちもまた精強であった。

 俺こそが両軍の命運を握っている。俺の活躍次第で勝ち負けが決まるのだ。

 麹義の顔が欲望や野望といったもので輝いた。まさしく戦場で隣にいて欲しい男の見本の様だった。何故なら功名心を支えるのは戦場で起こり得るあらゆる困難に立ち向かい、打破しようとするバイタリティであるからだ。

 また、そんな気力がなければ麹義の任せられた任務は達成できなかった。

 空から戦場の地形と両軍の陣形を見てみると鮮于輔・蘇僕延軍の後方北側六里(約三キロ)には濕余水があり、後方への撤退は出来ない。

 そして、このとき両軍は奇しくもまったく同じことを考えていたのだ。

 両軍は精鋭の騎兵を互いに左翼に配置し、敵右翼を包み込むように攻撃しようとしていた。

 そして、その精鋭騎兵―――蘇僕延軍と対峙ている袁紹軍最右翼の部隊こそ麹義の部隊だった。もちろん麹義だけではなく、彼の後方にも部隊は控えている。それでも敵と一番初めにぶつかるのは彼の部隊だった。

 麹義隊の総数は一八〇〇。そのうち八〇〇は盾と槍を持ち、残りの一〇〇〇は弩を装備している。

 麹義はその兵たちをふたつの部隊に分け、それぞれに密集隊形を取らせた。指揮官、楽隊、伝令などはその密集隊形の中央に配置する。そして、全員が盾の下に小さくなって、そのときを待った。

 麹義隊に敵騎兵の存在を感じさせた最初の要素は雷のような馬蹄の響きと、それによってもたらされた地面が揺れ動いているという錯覚だった。

 次に北狄特有の奇声の様な掛け声が蹄の音と地響きに加わった。

 肉声が聞こえる所まで敵騎兵が迫っても麹義隊の兵たちは待った。恐怖や緊張が彼らになかったわけではないが、肉体も精神もそれらの影響を受けていない。兵たちは常日頃、騎馬民族の戦い方を熟知する麹義に、騎馬集団突撃の最大の武器が何かを教え込まれていた。

 騎馬集団突撃の最大の強さは心理的衝撃の大きさだった。

 馬という動物が自分に目がけて疾走してくる。その恐怖が、印象が、最大の武器だった。

 だから、麹義は訓練で兵たちに言う。

「実際、騎兵は自分たちがしっかりと防御態勢をとっていれば、突撃はそんなに威力を発揮しない」

 麹義は陽気な口調で兵たちに言う。

「だが、恐怖で隊列を乱すから威力を持つんだ。敵が、騎兵が強いんじゃない。俺たちの弱さが敵を強くしているんだ」

 事実である。

 馬は基本的に臆病で障害物を避ける習性があるため、がっしりと組まれた隊形に突撃させるには高い難易度を誇ると同時に得られる戦果も少なかった。もちろん歴史上、戦果をあげたいくつかの例外もあるが、殆んどが実行した側が常識を超え得る何かを持っていたからで、やはり例外は例外である。

 それを事あるごとに麹義は兵に言い聞かせた。

 その効果が今、発揮されていた。

 突撃を開始した蘇僕延軍の狙いは、ふたつに分けられた麹義の隊の間を突破して、状況によって、中央への側面および後方への攻撃か敵本陣に対して強襲を行うことだった。決して袁紹軍右翼を正面から叩き潰そうとしていなかった。この点で言えば、蘇僕延軍は常識的である。

 そして、麹義隊が待っていたときが訪れた。それは彼我の距離が四〇メートルを切ったときだった。

「迎撃!!」

 麹義の命令に間髪入れずに軍鼓が連打される。それを聞いた各部隊の長が命令を下し、下士官が兵をどやしつける。

 小さくなっていた麹義隊は突如立ち上がり、盾をしっかりと保持した。そこから槍を向かって来ている敵騎兵へと突き出す。その槍の柄舌には赤や黄色などの色とりどりの派手な飾り布が靡いていた。

 馬の目からは今まで小さく固まっていた塊が突如動き出し、何かよく分からないものを突き出してきたように見えた。一応、補足しておくと馬は色を認識できない。だから、派手な色どりは馬というより味方の兵士たちを鼓舞するためだった。噛み砕いて言えば、派手な色をしているから何か効果も高さそうだ。兵たちはそう思った。鰯の頭も何とやらである。

 元来臆病な動物の馬は恐怖を感じた。足が鈍る。

 そこへ両部隊の弩から箭が放たれ、蘇僕延軍へと降り注ぐ。

 十字砲火(クロスファイア)……いや、火薬を使った兵器ではないから横矢掛かりである。

 限界まで引き付けて放たれた一〇〇〇発の箭であったが、その命中率は二割に届かなかった。それでも騎兵の勢いは完全に消滅していた。

 そうなっては間隙をすり抜けても、後方に控えていた部隊に蘇僕延軍の騎兵たちは簡単に討ち取られてしまう。

 麹義の知恵と胆力が蘇僕延軍を充実した気力、体力を上手くいなした。

 蘇僕延軍と袁紹軍右翼の戦闘は完全に膠着していた。

 

 

 対して、袁紹軍の鮮于輔軍右翼への攻撃は徐々に効果を挙げつつあった。

 ひとりの猛将の活躍が大きな要因である。

「てりゃーーーーー!!」

 緑の髪をした少女が、右に左にと大剣を振るう度に血飛沫が高く吹き上がる。

 袁紹軍の二枚看板、そのうちのひとりの文醜であった。

「そりゃッ!」

 すれ違いざまの一撃を騎兵に喰らわせる。頭蓋を甲ごと割られた兵がふらふらとよろめいた後にドッと落馬した。

 文醜と彼女の隊を中心に鮮于輔軍右翼に圧迫を加える。

 鮮于輔は右翼へ予備兵力を送って戦列を支えるが、それは崩壊を先延ばしにするだけで、状況の打開には寄与しなかった。

 逆に蘇僕延軍の右翼への間隙突破が完全に失敗したことと敵右翼への攻撃が有効に働いていることを確認すると、沮授は主の袁紹に中央の軍を押し出し一気に戦いを決めることを進言する。

 袁紹はそれを是とした。

「やっ~ておしまいなさい!」

 袁紹は中央に高笑いと共に下知する。

 軍鼓が連打され命令が中央の軍に伝えられる。攻勢に移った袁紹軍の中央の部隊は鮮于輔軍に圧迫を加える。

 勝負を決するには十分な力だった。

 鮮于輔軍が潰走する。

 沮授がここまで温存しておいた予備兵力を出し、追撃を命じた。

 その様子を小高い丘に敷かれた本陣から袁紹は見た。

 そして、思った。

 これですわ! これこそがわたくしにふさわしいものですわ!

 袁紹は自分のものになった勝利、その光景に高揚していた。

 連合のときは諸侯がわたくしの足を引っ張ったため、袁遺なんかに後れを取りましたが、これこそが本来の実力で、わたくしの征く道は勝利で飾られているべきですわ!

 

 

 葪を囲う顔良と辛毗の元に吉報と凶報が同時に届いた。

 吉報はもちろん主力が濕余水で鮮于輔・蘇僕延軍を破ったことである。

 損害は三〇〇〇と十分に戦闘力を保った状態である。

 そして、凶報というのが公孫賛軍が想定を超える速さでこちらに向かって来ているということだった。

 馬車を使って兵量を輸送する場合、通常は二〇〇キロメートルが限界である。

 これ以上は荷車を引く馬のための秣が移動中に全て消費してしまうため不可能だった。以前に書いたことだが、道端の草を食べさせてすまそうにも、それは不可能だ。馬は大食いであっという間に食べ尽くす、そして青草ばかり食べさせれば腹を下す。

 だから、袁紹軍の軍師たちは二〇〇キロ前後の地点で公孫賛軍が略奪なり何なりで(主に馬の)食料の集めるため、その進軍が一時停止すると考えていた。

 だが、そのことで劉虞の配下の魏攸が手を打っていた。

「細作からの情報によると公孫賛に援軍を頼みに行った魏攸が、その道中の土垠で部下に公孫賛軍の糧食の手当をさせていたようです。その分、糧秣の準備や輸送で楽ができたためにこの速さだったようです」

 幼い少女が言った。

 黒くふんわりとした髪を二つ結びにしている。背は小柄で丸顔、目はクリッとし、年相応の背格好だった。

 だが、彼女はただの少女ではない。

 彼女の名は辛毗。袁紹軍の軍師であり、その頭には知謀が詰まっている。

 放っていた斥候や細作、人々の噂から導き出したことを説明する辛毗の言葉に、深い青色の髪を持つスタイルのいい女性が一々相槌を打った。

 この女性が袁紹軍の二枚看板のひとり顔良だった。

 辛毗の言葉を聞き終えてから、顔良は口を開いた。

「じゃあ、これからどうするの? 紅々(ほんほん)ちゃん」

 紅々は辛毗の真名である。

 辛毗―――紅々は地図を示しつつ言う。

「我らが主の率いる主力がここ()より約四〇里(二〇キロ)離れた場所にいます。これは今の我が軍の一日で移動できる距離と同じです」

 正確に言うなら、葪から濕余水は約二五キロ。そこから三キロ離れた地点で戦闘が行われた。

「公孫賛軍は、無終の南西辺りです。距離で言えばだいたい一五〇里(七五キロ)です」

「それじゃあ、麗羽様が帰ってくる前に公孫賛さんの軍がこちらに来ることはないんだね」

 顔良が安心したような声色で言った。

「ですが、葪を包囲しつつ公孫賛軍を相手にするのは、たとえこちらの方が兵が多くても難しいことです」

 そう言いながら、辛毗は地図を睨む。

 そして、ひとつの考えが浮かんだ。

「意見具申します」

 その考えは常識外れではあったが、辛毗に躊躇いはなかった。ある思いが彼女の背を押していた。

 沮授は好きじゃないけど、ひとつだけ良いことを言った。袁遺にできて私たちにできないことはない。

「葪の包囲を解きましょう」

 

 

「葪の包囲を解いている~~~~!!」

 袁紹が絶叫した。

 少し前、葪を囲んでいる軍から伝令が来た。

 その伝令は予備の馬を何頭も連れ休まず駆け、馬が潰れたら予備の馬に乗り換えるということを行い急いでやって来た。

 葪で何か異変があったのかと、ざわつく首脳陣に辛毗が書いた書簡が渡された。

 そこには公孫賛軍の情報と顔良と辛毗が独断で葪の包囲を解いている最中で、準備が終わり次第、主力と合流すること、それにその理由が記されていた。

 それを見て袁紹は思わず叫んでしまったのだ。

「何を勝手なことしてやがりますの!」

「しかし、これは案外、良い手かもしれませんよ」

 沮授が袁紹に言った。

 それから、この書簡に書かれてある通り、と前置きしてから続けた。

「公孫賛軍の位置から到着にはまだ時間があり、主導権を確保するためにはこの時間を使うしかありません」

 書簡には包囲していた戦力と主力が合流して戦力を厚くした方がいい、と書かれていた。

 確かに鮮于輔・蘇僕延軍との戦いで被害を受けたし、戦力が増すのは喜ばしいことだ。

 そして劉虞にそれを追撃されても、公孫賛が援軍に来るまで時間がまだあり、その間に劉虞を撃破すればいい。むしろ、城から引きずり出すことができる絶好の機会だと辛毗は説明している。

 それに城を囲まれている劉虞には外の情報は入ってき難い。公孫賛軍の接近と城を囲っていた軍の移動を結びつけ、戦場の全体図を読み取ることができない。

 また、不明な確信で城から打って出れるほど劉虞には積極性がなかった。そんな積極性があったなら、涿郡に袁紹軍が侵攻した時点で野に出て遅滞戦闘を行い、援軍到着までの時間を稼いでいただろう。

 他の問題もその積極性が関連していた。

 城を出た後の劉虞軍が袁紹軍の冀州への背後連絡線を遮断するという問題も存在したが、沮授はそれは大きな問題ではないと思っていた。

 糧秣は現地調達(徴収・略奪)も併用している袁紹軍には補給路を分断されることが即、破滅に繋がるわけではない。もちろん、長期化すれば危ういが、当分は大丈夫だった。

 冀州への撤退路を断たれるという点では心理的圧迫を加えられるが、その心理的圧迫を耐えることができれば、逆に劉虞に心理的な攻撃を加えることができる。

 撤退路を遮断した劉虞軍を無視して公孫賛軍に全力で当たる袁紹軍を劉虞が見たら、彼はどう思うか。

 劉虞の性格からして焦る。

 自軍はただ戦場で遊兵と化しているのではないか? 袁紹軍と戦った方が公孫賛軍の援護になるのではないか? そもそも葪を空けていて大丈夫なのか?

 そうやって悩んで結局、背後連絡線の遮断を自ら取り止める可能性が高かった。

 それに、もし仮に遮断され続けても、倍近い戦力で公孫賛軍と戦えるというメリットもあった。

 だから、背後連絡線については気にする必要はなかった。

「伝令を出し合流地点を指示しましょう」

「どこで合流するつもりですの?」

 袁紹が尋ねた。

「ここから二〇里(一〇キロ)先、濕余水と沽水の合流地点付近で。河を防御に利用します」

 沮授が答える。

 反董卓連合の際にも述べたが、河川を防御線とすることは難しい。全ての渡河点を抑えようとすると膨大な兵が必要となるからだ。そして、川沿いの全域に兵をばら撒き、どこかで優位を奪われて渡河された場合、兵力が再集結する前に各個撃破される可能性が大である。

 だから、河川防御ではともかく兵数が多ければ多いほどいい。

 沮授は案外と言ったが、本心では城の包囲に残した軍とこのタイミングで合流できることが本当に有り難かった。しかし、日頃の対立から手放しにそれを表すことができなかった。沮授は冀州の出身で辛毗は豫州潁川郡の出身であり、派閥というものがあった。まさしく、彼の人としての限界である。

 しかし、袁紹は未だにどこか納得しかねた様子だった。部下の独断専行を是とすることができない性格だったからだ。

 そんな袁紹に文醜が声を掛けた。

「何、むすっとした顔しているんですか、麗羽様?」

 その声はどこか楽しげだった。

「あなたこそ、なんで楽し気ですの?」

「だって、斗詩と肩を並べて戦えるんですよ。それに何て言うかな~~」

 文醜は腕を組んで考えるように言葉を選ぶ。

「こう、手持ちのものを全部注ぎ込んで大きく賭けるって感じがして良いんですよね~~」

 彼女は薄い目に大きく張るような博打を好むところがある。そんな彼女からすれば、独断で囲みを解いて主力と合流し、沽水を大きく使っての河川防御は大きな賭けのように思えた。

 実際のところはギャンブル性は薄いのだが、文醜の可笑しな素直さが袁紹にとって清涼剤となり表情が和らいだ。

 そして、軍は移動を開始した。

 沽水は主力から約二〇里(約一〇キロ)、葪からは約六〇里(約三〇キロ)、葪から部隊は無理をすれば一日で合流できる距離である。

 事実、顔良と辛毗は多少の脱落兵を出しながらも三〇キロを一日で踏破し、本隊との合流を果たした。

 劉虞からの追撃もなかった。

 囲みを解かれた彼が最初に行ったのは偵察隊を出すことだった。

 劉虞は袁紹軍の行動が自分を城から引きずり出すための罠だと思ったのだ。それを確認するために偵察隊を派遣したのだ。

 この偵察隊が鮮于輔・蘇僕延軍の壊滅と袁紹軍が沽水に布陣したことを持ち帰るのに費やした時間は一日、独断専行によって稼がれたこの一日は戦争の帰趨を左右するものだった。

 この一日で袁紹軍は再編し、河川防御の体制を整えた。

 

 

 濕余水・沽水の戦い、その後半の幕開けである。

 




補足

・漁陽太守の鮮于輔
 鮮于輔が漁陽太守になるのは本来なら公孫賛が死んだ後であるが、この外史で劉虞の幽州就任から少ししてという設定です。
 

 今回も簡単な地図を作りましたが、いつも通り不正確さの塊のような地図です。あくまでイメージの参考にして、これが全面的に正しいなんて思わないでください。
 また、この話のネタバレが含まれます。まだ本文を読まれていない方はご注意ください。

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10

10 北方に戦塵が舞って―――(後)

 

 

 沽水は漁陽郡に住まう人にとって重要な河である。

 世界で最初に水力渾天儀を作った張衡(ちょうこう)の祖父の張堪(ちょうかん)が後漢の初めに漁陽太守を務めたとき、彼は沽水を農地用水として多くの稲田を作り、その栽培方法を民に教え、彼らを富ませてやった。それ以来、漁陽郡に住む人々の口を賄う重要な農地を支えている。

 その沽水に臨み、公孫賛は対岸を睨むように苦い視線を送った。

 友人の袁紹と戦う。その予感は反董卓連合に参加したときからあった。だから、戦うことに戸惑いや躊躇いはない。

 だが、このタイミングで戦うとは思っていなかった。

 公孫賛は、てっきり袁紹軍は葪を囲んでいると思っていたのだった。

 袁紹軍が沽水の対岸に布陣している、そのことを公孫賛が知ったのは軍議の席でだった。

 軍議が始まり、まず口を開いたのは痩せ気味という以外は特徴の捉えづらい男だった。あと少し目鼻立ちがはっきりしていれば人目を引く様な好青年に見えるだろうが、彼の顔は魅力のない平凡な顔立ちだった。

 男の名は関靖。公孫賛の配下のひとりである。

「各地の噂によると袁紹軍は鮮于輔・蘇僕延の軍を濕余水の周辺で撃破した後、沽水に布陣したようです。これについては斥候が対岸で確認しました」

「規模は?」

 公孫賛が尋ねる。

「五万くらいのようです」

 関靖が答えた。

「五万だと? どうなっているんだ。劉虞は? 葪の城は落ちたのか?」

 次に尋ねたのは妙齢の女性だった。名を厳綱。

 厳綱の声には力があった。経験によってのみ宿るであろう重みだった。

「分かりません。戦死したとも、健在だとも……ともかく情報が錯綜しています。ただ、我々が土垠に着いたとき、魏攸殿が残していった者からの情報だと、囲まれてはいるが健在だったようですから……」

 関靖は語尾を濁しながら答える。

 この場の共通認識として、たとえ劉虞がすでに討たれていたとしても軍を引くという考えは公孫賛陣営にはなかった。

 ここで退くということは袁紹軍に休息を与えることで、兵を休めたら袁紹は必ず再び攻めてくる。なら、遠征と連戦の疲れがある今の内に袁紹を叩いておいた方がいい。そう公孫賛たちは思っていた。そして、その認識は正しかった。

 問題はどうやって袁紹軍を撃破するかである。

 そのことで、まず関靖が口火を切った。

「軍を大きく迂回させるのはどうでしょうか?」

 沽水の遥か上流を迂回して、沽水と濕余水を越えて袁紹軍を側面奇襲する。河を二度越えなければならない地点は袁紹軍の警戒も緩い。それと並行して囮の部隊で陽動攻撃を仕掛け、袁紹軍の目をそちらに向ける。

 それに対して厳綱から反対意見が上がった。

「そんな時間をかけなくても、袁紹軍の兵の薄い所を複数捜して、そこを一気に突破すればいいだろう」

 厳綱の意見は河川防御の問題点を突いたものだった。

 河川防御では渡河点を全て抑えようとすると、どうしても兵力薄い部分が出てくる。そこから渡河を許し、再集結の前に各個撃破される可能性があった。

 関靖と厳綱の意見にはそれぞれの性格が大きく反映されており、またそれぞれが問題を持っていた。

 関靖は慎重な性格である。

 彼はそうであるが故に劉虞がまだ健在と仮定して、その劉虞軍を抑えるための兵力をまだ袁紹軍が持っていると考えていた。つまり、目の前の五万以外にも兵がいると袁紹軍を過大評価したのだ。

 だから、厳綱の案のようにまともに敵の河川防御に付き合うのは危険と考え迂回案を持ちだしたのだった。

 対して、厳綱は公孫賛軍の中でも最も武闘派だった。年を重ねても戦意は衰えるということを知らない。だから、全てを独力で解決しようとしている。

 彼女は劉虞の野戦指揮官としての能力に疑問を持っていた。

 幽州に住まう者として劉虞の人徳や為政者としての能力にケチをつけるつもりはない。公孫賛軍の糧秣の手当てを部下に整えさせたことから戦争について全く無能だとも思っていない。しかし、実戦指揮官としては信頼できるほどの実績がなかった。

 だから、劉虞が健在だろうがそうでなかろうが何の関係もなかった。なので、劉虞の存在を勘案に入れていない。そのため、袁紹軍の別働隊という可能性も頭にない。

 そして、双方が抱える問題とは同じことだった。

 いや、関靖と厳綱だけではない。公孫賛軍全てがある問題に嵌っていた。

 軍は目的を定めて、その達成を目指して行動する。

 だが、中にはその目的を達成することに縛られ、敵の目的を考慮に入れることを忘れてしまうことがある。

 戦争や軍では決して珍しくないことだった。どころか世の中に独善的に振舞うことを何ら恥と思わない人間の少なくないことを思えば、軍に限った話ではない。

 公孫賛軍は目的達成に向かっているようで、その実は自分たちが設定した中でグルグルと回っているだけであった。

 ふたりの作戦は袁紹軍が河川防御に固執することを前提に立てられていた。

 しかし実際のところ、袁紹軍は河川防御に固執していなかった。河川防御とは言うまでもなく手段であり目的ではない。不利になれば袁紹軍はあっさりと軍を引くだろう。

 それが公孫賛軍の陥っている状況だった。

 ただし、これは関靖や厳綱、公孫賛の能力の問題だけではなく、袁紹軍が全軍で沽水に布陣したからこそできた状況であり、公孫賛側のみを責めることはできない。

 公孫賛は厳綱の策を選択した。

 公孫賛……いや、白蓮は知らなかったが、この選択には意味があった。しかし、その意味を知ることは決して彼女にはできなかった。それはそうだ。正史において関靖の策を選んだために公孫賛が袁紹に敗れたなど、後代の歴史学者の一意見に過ぎない。そして何より、その道を選んだ先もまた破滅である。

 自分たちが嵌っている状況に誰も気づかないまま公孫賛たちは戦闘へと流れ込んでいくのだった。

 

 

 その日、厳綱にとって、ひとつの小さな幸運とひとつの大きな不幸があった。

 小さな幸運とは、沽水が増水はもちろん、荒れてさえいなかったことである。水温も冷たくはあったが、渡河の最中に低体温症になるほどでもない。馬もこれくらいなら嫌がったりしないだろう。

 水深は歩兵で言えば腰に届かないくらい、騎兵で言えば腹に水面がつかないくらいである。

 厳綱は部隊に渡河を命じた。部隊の規模は七〇〇〇。

「まずは押せ」

 明快な命令である。後のことはそのときになってから考える。そんな意味が含まれた言葉だった。

 水が跳ねる音、白馬の嘶き、軍鼓の響き、兵たちの声、金属同士がぶつかり合う独特の甲高い音。戦場音楽、その前奏曲ともいえる音と共に厳綱隊は渡河を行う。

 敵が兵を集める前に素早く守備隊の突破を果たすためには、何よりも速さが優先であった。

 その点で言えば、公孫賛隊は精強であった。

 これが練度の足りぬ軍であったならば、物資が流されたのだの、どこに行ったかさっぱりわからない部隊などが出て来て、指揮官はその対応に追われ渡河の段階で、まるで一戦を交えたような疲労感に襲われているだろう。

 しかし、厳綱の部隊は混乱もなく、その半数が対岸へと辿り着いた。

 だが、そのとき、厳綱たちに箭が降り注いだ。

 最前衛の兵が一〇人ばかり倒れる。

「落ち着け!!」

 動揺が広まる前に、戦場に一喝が響く。

 厳綱のものだった。

 各中級将校たちにも突然の攻撃に驚きはない。すぐに厳綱の意図を察し、兵の動揺を抑えにかかる。

 半ば渡らしめて之を撃つ。河では敵を半数渡らせてから、敵全軍の状態が整っていないときに攻撃した方が良い、など兵法の基本中の基本である。この攻撃は予想の範疇であった。

 どころか、厳綱は冷静だった。

 箭の数は一〇〇〇くらい、距離と直線的に飛んできたことを考えると弩か。なら、敵はどう多く見積もっても二〇〇〇。十分、今の戦力で対応できるな。

 飛んできた箭の数と受けた被害の数から敵の規模を推測して、即座に決断を下した。

「突撃隊形を取れ!」

 号令はすぐに、軍鼓によって軍へと伝えられる。

 騎兵は素早さこそを身上としている。弩に次の箭を番える隙に隊列を整えた。といっても、数は多くない三個中隊規模である。

 そんな騎兵たちに厳綱は命令を下す。

「突撃!」

 言葉が発せられると同時に騎兵たちは駆けだしていた。

 公孫賛軍、その最大の特徴は白馬義従と呼ばれる烏丸族の中から、特に騎射の上手い兵士を選び、白馬に乗せた精鋭たちである。

 乗り手が乗り手なら、馬も馬である。

 全ての白馬は馬格が良い。それが疾走する姿は勇壮のただ一言だった。

 だが、対峙する部隊もまた豪胆な指揮官と兵たちだった。

 その疾走する騎兵相手に陣を乱すこともなく、可能な限り引き付けてから、箭を放った。

 一〇騎以上の騎兵が倒れる。

 即死した者。箭の負傷と落馬の痛みで苦しむ者。

 その光景を厳綱は、枝から外れた木の葉が地に落ちるといった自然現象を眺める様な面持ちで見た。もしくは数学の計算結果を見るのに近い感覚で受け取った。

 兵に死ねと命令する立場を得た者からすれば、目の前の光景は戦場では日常である。少なくとも、そうであると信じ込まなければ人としての何かを保つことができなかった。

「おい、あれはどこの部隊だ?」

 厳綱が傍らの幕僚に尋ねる。その調子はまるで世間話でもするようであった。

 それに幕僚のひとりが、たなびく旗の『麹』の字を確認して答えた。

「おそらく、麹義の部隊ではないでしょうか」

「ふーーん、麹義か」

 平坦な声で厳綱が呟いた。別に不機嫌になったわけではない。二〇〇〇に満たない数で七〇〇〇の軍を喰い止めている敵の手腕に感心したのだった。

 

 

 厳綱が散りゆく兵士に乾いた感情を持っていたのと同様に、彼女たちと対峙している麹義もまた同じ感情を抱いていた。

 河の近くであり、農水地に利用されているため、それが決壊せぬようにある程度整備されている。緩やかながらも傾斜が作られ土手になっているのだった。それは馬を疾走させるには、決して良いとはいえない地形である。

 だが、そんな場所で公孫賛軍の兵たちは実に巧みな操馬術を見せ、硬く陣形を組んだ麹義隊に騎射を行った。

 麹義隊の兵の数人に矢が当たる。

 絶命した者はいなかったが、痛みでのた打ち回り、陣形を崩した。

「陣の破れをふさげ。負傷兵は後ろに退げろ」

 麹義は、まるで簡単な雑用でも頼む様な調子で命じた。

 今のところ、こっちが有利だ。麹義は自分の命令が実行される光景を見ながら思った。

 事実だった。

 麹義隊は厳綱の部隊に対して優位を獲得していると言って間違いなかった。

 弩兵は前衛の盾と槍を持った兵に守られ装填することができるし、その前衛の兵も絶命した者はともかく、負傷した者が治療を受けるところを見て、自分も負傷をしたときにそれが受けられると期待することができた。

 これに対して、厳綱の兵は馬上で全身をあまねく晒していた。

 彼らの頼れるものは確率という名の幸運だけだった。

 そして、傷を負った者は泥にまみれながら、のたうち回り泣き叫ぶぐらいしかできなかった。

 精神的な優位があるうちに、敵の先に渡河した隊を叩いておきたい。

 麹義は超然さと傲慢さが混じった表情で仁王立ちして、戦場を眺めながら思った。

 彼と彼の兵に与えられた命令は『別命あるまで可能な限り抗戦を継続すべし』だった。

 周囲に展開している部隊が合流するまでの時間を稼ぎ、合流した後に渡河した敵を囲んで叩くという考えに基づいて下された命令だった。

 それは現場の指揮官にかなりの裁量が委ねられた命令でもある。抗戦の方法や撤退の時期まで指揮官が選択することができた。

 袁紹軍は河川防御を選択したが、決して河川防御に固執しているわけではなかった。

 だから、前線の部隊とその指揮官は固守を命じられていない。不可能と判断した場合、後方に退がることを許されている。

 それを援護するための対策も行われていた。

 司令部の命令を待っていたら手遅れになる場合にいくつかの区画に分けて軍師を配置し、その軍師の指揮下に後代の言葉で言うところの二個大隊規模の部隊を付けている。その部隊で撤退の援護を素早く行う。また、敵に突破された場合は、その穴埋めを行う役目も負っていた。

 ただし、戦闘中の部隊を後退させることの難易度は高い。殆んどが部隊を後退させた途端に、それは後退から敗走へと変わる。

 そのため、指揮官たちがそれぞれ得意な抗戦方法を選択できるような自由度を与えたのだった。

 得意な戦術で戦い、できるだけ敵に損害を与えて、後退できるだけの抵抗力を維持する。

 例えば、これが袁遺軍の張郃であったなら、遊撃戦を選択し運動防御を絡めながら敵を足止めしただろう。

 そして、麹義の選択は陣地防御だった。

 麹義の選択は正しかった。

 彼の部隊は精強であったが、袁遺の臣下たちの部隊ほどの柔軟性はない。なら、このまま地形に拠って抗戦を続けるしかなかった。

 麹義は兵に無情に近い感情を抱いたように自分自身にも、ある種達観の領域に入りつつあるものを抱いた。

 この優位はどれほど保つかな……

 公孫賛軍は少なくない出血をしながらも決して崩れようとしなかった。

 か弱かった中隊規模の騎馬兵は続々と後続が加わり大隊、連隊規模まで膨れ上がる。号令の度に攻撃を加える兵の数は増え、自陣へと放たれる矢の数も増えた。

 損害は今のところまだ公孫賛軍の方が多かったが、いずれは数の差で揉み潰されるだろう。

 時間だ……

 麹義は思う。

 勝敗を分かつのは兵の練度でもなければ、指揮官の能力でもない。ただ、時間のみがそれを決する。援護の部隊が来る早さによって、その戦力増加に対する兵の士気の上がり方も変わる。早ければ早いほどいい。だが、それを加えても、どんなに保って半日そこら……その間に軍が集結できるかだ。幸い、俺の隊の近くには顔良殿と文醜殿の隊がいる。なら、下手に退くことを考えるよりも陣地に依って長く抗戦を続けた方が生き残る可能性が高いだろうな。というより、接敵した場所が悪過ぎた。こんな真正面から接敵すれば、逃げるなんてことは不可能に近い。

 思考を巡らせる麹義の足元に一本の矢が突き刺さる。

 彼はそれに一瞥をくれると、兵たちに聞こえるよう叫んだ。

「下手くそがッ!! そんなもので俺が殺せるか!!」

 麹義の顔には不敵な笑みがあった。まことに楽し気で快活さに溢れている。

 それは兵たちにとって、勇気づけられることだった。

 さらに、兵たちの士気を上げることが起こった。

 後方に砂塵が見えたのだ。

「味方が到着したぞ!」

 兵のひとりが歓喜の声を上げた。

 沸く兵士たちとは対照に麹義の目には、自分にとって最悪のことが写っていた。

 厳綱の部隊の渡河が完了したのである。

 ここから、どれだけ持ち堪えられ、どれだけ敵に損害を与えられるかだな……

 麹義は自分と自分の部隊が死線を彷徨っていることを静かに確信していた。

 

 

 麹義隊と厳綱の部隊がぶつかったことと、また別の箇所でも公孫賛軍が渡河を試みたことも、すぐに袁紹軍の本陣に知らされた。

「どうしますの?」

 その報告を受けて、袁紹は本陣付きの軍師である沮授に尋ねた。

「麹義隊の周辺の部隊はすぐに麹義隊に合流し、敵を撃破。公孫賛の方は事前に決めた通りに、そのまま別命あるまで可能な限り抗戦を継続せよ、と命じてください」

 沮授が答える。

 そして、布陣図を眺める。

 この沽水周辺の地図の上に、配置した部隊に見立てた駒が置かれている。

 沮授の頭の中で戦争の推移、それについての計算が始まっていた。

 麹義隊の近くには袁紹軍の二枚看板である顔良と文醜の部隊がいる。その打撃力から考えると麹義隊が両将軍の部隊が来るまで敵を拘束できたら、一挙に敵を揉み潰す公算が高い。それに、あそこの区間を担当している軍師の辛評も手堅い仕事ができる軍師だ。麹義隊を援護するのも、そつなくこなせるだろう。問題は……

 沮授は目線を公孫賛軍の渡河地点に移す。

 その区画を担当している軍師は郭図だった。

 沮授の脳裏に暗い発想がチラついた。

 固守を命じる。おそらく苦戦を強いられるだろう。そこで戦死してくれればいい。たとえ死なずに部隊を退いても軍令違反で処罰できる。

 暗い、あまりにも暗い考えである。

 だがしかし、沮授の中でその暗い考えの肯定化が続いた。

 間違いなく郭図は今、自分がこの遠征で田豊殿の代わりに筆頭軍師の地位いることを妬み、引きずり降ろそうとしてくる。田豊殿が留守を守るときは自分が筆頭軍師を務める、そんな前例ができてしまったんだ。あの男にはそれが我慢できないだろう。だから、これは予防攻撃だ。今、自分たちが行っているのと同じだ。袁遺との戦いになったとき、後ろから攻められたら困るから劉虞を討つ。それと同じだ。これには奴も賛成した。いや、一番初めに奴が言い出した。だから文句なんてつけさせない。

 不健全な思考を走らせながらも、沮授は踏みとどまった。下手なことをすれば負けるからだ。

 だがしかし、未練があった。その未練と共に暗く粘ついた思考の海を泳いでいた沮授を現実へと引き戻すものがあった。

「劉虞軍については、何か分かっていませんの?」

 袁紹の問いかけである。

 沮授は落ち着いた理知的な表情と声で主の問いかけに答える。

「後方一四里(約七キロ)に偵察部隊を派遣しましたが、劉虞軍の姿がありませんでした」

 先程まで暗いことを考えていたことを思わせるものなど何ひとつない態度だった。

「こちらを今すぐに襲撃しようとすれば、一〇里(約五キロ)……どんなに遠くても一四里以内の距離にいるはずです。ですから、劉虞軍に攻められても致命的な時機で襲われることはないでしょう」

 このとき、劉虞は斥候の情報から袁紹が公孫賛軍を沽水で迎え討とうとしていることを知って、軍を整え沽水へと向かっている最中であった。

 劉虞の行動は遅すぎた。

 しかし、そのことで劉虞を攻めるのは酷だった。公孫賛が到着していない状況で一万六〇〇〇で野戦に打って出るのは野戦指揮官としての能力の不足を自覚している劉虞にとっては、できない決断であった。むしろ、独断で葪の包囲を解き本隊に合流した辛毗の判断を褒めるべきだった。

 公孫賛と厳綱の渡河から時間は経過したが、戦況は徐々に袁紹軍の有利に傾いていた。

 それが最初に目に見える形になったのは厳綱と麹義が対峙している場所でだった。

 

 

「やるな~~」

 厳綱は思わず唸った。

 麹義隊が予想以上に粘り強く抵抗したのだ。

 自分の部隊全ての渡河が完了した後、一旦、陣形を整えるために突撃を中止させたが、麹義隊もその間に増援を自分の部隊に取り込み、陣形を組み直した。

 増援といっても一〇〇〇名くらいである。それほど大きな問題はないと厳綱は考えた。

 だがしかし、麹義は驚嘆に値する粘りを見せ、最初の渡河が完了した一部の部隊の突撃から合わせた都合七度の騎兵突撃に耐え、弾き返した。

 そして、攻撃の度に小さくなっていくとはいえ、未だに陣形を保っているのもまた驚愕を通り越して尊敬さえも厳綱の胸に抱かせた。

 だが、厳綱は勇将と精兵の何たるかを戦場で示し続けている敵の将兵に素直に賛辞を送れる立場にない。

「敵の両翼に援軍が、右翼に『顔』、左翼には『文』の旗。顔良と文醜、袁紹軍の二枚看板です!」

 幕僚のひとりが叫んだ。

 更なる援軍の到着で兵数差が逆転し、一気に不利へと追い込まれた。このままでは包囲され沽水へと叩き落とされてしまう。

 それを悟った厳綱は乾坤一擲の勝負に出た。

「完全に包囲される前に敵の中央を突破する! 楽隊よ! 突撃の太鼓を鳴らせ! 我に続け!!」

 厳綱を先頭に彼女たちはひとつになり、麹義隊へと向かって疾走した。

 彼女たちの誰ひとりとして恐れを抱いていなかった。

 敵中央―――手負いの麹義隊を突破すれば敵の右翼か左翼の後ろを取ることができ、戦況は再び厳綱の有利になる。そのことを分かっていた。

 突撃の際の騎兵は、鞍上が酷く揺れる。そんな状態で彼らは剣や槍、戟で馬や自身を傷付けぬように独特の姿勢をとる。

 尻を軽く浮かせる前傾姿勢で、得物を持った腕は肘を折り、柄を肩に押し付ける。不自然で、お世辞にも格好良くない姿であるが、戦場で騎兵の活躍を見たことがある者にとっては暴力が匂い立つようだった。

 嘶きと地響きを戦場に轟かせ、泥を巻き上げながら騎兵たちは疾走する。

 麹義隊から矢が放たれる。

 援軍が来たことにより弩による直線的な軌道の箭だけではなく、弓による曲射も加わっている。

 厳綱隊の前衛が六騎倒れる。

 厳綱自身には掠めもしなかった。

 彼女はただ麹義隊、その向こうを見据えた。あの向こうには勝利がある。

 常識や戦術を無視して厳綱たちは麹義隊へとぶつかった。

 両軍の陣形が乱れる。

 だが、もう陣形などどうでもいい。前方の敵を揉み潰しさえすれば、そこには勝利があるはずだった。

 八度目の騎兵突撃の前に麹義隊はとうとう崩れた。

 潰走する麹義隊の兵士たち。辛うじて統制を保って後退することができたのは、隊長である麹義の周りの四〇名ほどの兵士のみであった。

「征けーーーーー!!」

 厳綱は叫んだ。穂先で潰走する麹義隊の先を、勝利があるだろう丘の先を示しながら声が枯れんばかりに叫んだ。

 騎兵は敵を蹴散らしながら、疾走する。

 だが、丘の先にあったのは勝利でなく、布陣が完了した袁紹軍の増援だった。

「―――――ッ!!」

 厳綱隊のその光景を見た兵たちが声にならない驚愕の呻きを同時に上げた。

 その袁紹軍の増援から矢が一斉に放たれる。

 先程まで、あれだけ戦意に満ちていた厳綱隊は一瞬にして士気が喪失した。

 新たな敵の攻撃で止まった騎兵と、その敵の存在を知らない後ろから来た騎兵とで渋滞が起こる。

 そこへ矢が降り注ぐ。

 悲鳴と怒号が交差する中で死者が量産される。

 厳綱は部隊を纏めようとして、辺りを見渡し、それを見つけた。

 『麹』の旗を掲げ、小さく纏まった四〇ほどの部隊が自分に向かって弩を構えていたのである。

「あ……」

 小さく声を上げた厳綱に四〇発の箭が放たれる。

 厳綱の体にいくつかの衝撃が走る。ほんの一瞬の浮遊感から、今度は背に大きな衝撃を受けた。視界が一瞬、ブラックアウトする。

 撃たれた、と厳綱は思った。

 ぼやけたままの視界。嗅覚に訴えかける土の香りと血の臭い。痛みと熱を身体のいたるところで感じる。

 身体に力が入らない。彼女には見えなかったが、彼女の身体に刺さった箭の数は四発。そのうち一発は胸に深々と刺さっている。また、愛馬にも二発の箭が刺さっており、そのうち一発は額を撃ち抜いていた。馬は即死だった。

 厳綱の身体からは血液が大量に流れ、大地を真っ赤に染め上げる。もう僅かな命だった。

 徐々に混濁する意識の中で彼女は、どうやって部隊を掌握しようか考えていた。

 しかし、何も分からない。

 ただ意識が闇へと沈んでいく。

 その日、厳綱にとって、ひとつの小さな幸運とひとつの大きな不幸があった。

 大きな不幸とは今日、彼女が戦死することであった。

 そして、彼女の主である公孫賛にも苦難が降りかかるのだが、その生涯をここで終える厳綱には知る由がなかった。

 

 

「厳綱の部隊を撃破しました」

 伝令からの報告を袁紹が聞いたとき、彼女は満面の笑みを浮かべた。袁紹の中で、敗走する鮮于輔・蘇僕延軍を見たときに感じた興奮が蘇ったのだった。

「厳綱が戦死した後、残兵を顔良隊と文醜隊が両翼から包囲殲滅しました。損害が軽微な両部隊は本陣へと合流するために進軍中です」

「良くやりましたわよ!」

 袁紹は明るい声を上げた。

 それから、顔良隊と文醜隊、それに厳綱の攻勢に耐え続けた麹義隊への褒美を確約した。

 その様子を見た沮授は思った。

 この人のこういうところは本当に美点以外の何ものでもないな。

 部下の功に対して大げさに反応してみせ、戦いの最中でも褒美を惜しまないことは士卒の士気を大いに高める。

 袁紹はそれをまったくの無計算で行っていた。

 こういったときの主は本当に人の心を明るくする。世間で冀州牧は無能だと噂する者もいるが、少なくとも、この一点がある限り我が主はまったくの無能ではない。

 それは袁遺にはない袁紹の長所だった。

 特に袁紹が置かれている状況で素直に明るい反応を示せるのは無神経なまでの豪胆さが必要だった。

 袁紹は今、危険な状況の只中にいた。

 公孫賛に対して展開した部隊(規模は二個大隊)は早い段階で後退した。

 だから、損害は軽微であったし、その後に郭図が素早く撤退の援護と周辺の部隊を指揮下に組み込み、公孫賛軍を相手に遅滞防御戦闘を行ったため軍を集結させることができた。

 この郭図の働きは素直に称賛に値した。

 これが並の指揮官だったら遅滞戦闘を行えていなかっただろうし、並以下の場合、援護するはずであった部隊と共に潰走していただろう。郭図はただの性格が悪いだけの男でないことを戦場で証明していた。

 だがしかし、それでも限界がある。

 郭図が公孫賛軍を支え切れなくなる前に軍を集結させ、公孫賛と戦わなければいけない。

 現在の袁紹の公孫賛に割り当てている兵数は約八〇〇〇。これは遅滞戦闘を行っている郭図の手勢も合わせた数である。はっきりいえば、心許ない数字であった。

 そんな状況だから、合流してくる両部隊の士卒の士気を上げるようなことを言うのは当然といえば当然であるが、豪胆さが要求されることだった。

 しかし、公孫賛が絶対的に有利という状況でもない。

 公孫賛の兵数は袁紹と手元の兵とほぼ同数の八〇〇〇弱。兵力で袁紹の正面戦力に勝っているとはいえなかった。

 それに何より公孫賛軍は袁紹軍の意図を未だに勘違いしている。それは判断ミスに繋がることだった。

 事実、公孫賛は判断ミスを犯すことになる。

 

 

 公孫賛は遅滞防御戦闘を行う敵部隊に、顔にまとわりつくハエの様なしつこさとウザったさを感じた。

 渡河の後の彼女は一〇〇〇名規模の部隊とぶつかった。

 その部隊はしばらく抵抗を続けると公孫賛軍の攻撃の切れ目に乗じて後退を始めた。

 公孫賛はそれを追撃する。

 後ろから強力な騎兵突撃を受けた部隊は一気に潰走寸前まで陥る。

 その部隊を救ったのは件のしつこい部隊だった。

 郭図の部隊である。

 郭図隊は公孫賛の部隊の横っ腹に縦隊突撃を仕掛け、追撃の足を止める。

 その隙に潰走寸前であった部隊は公孫賛の攻撃から脱し、また別の部隊の援護が受けられる場所まで移動し、隊列を整えることができた。

 その後は相互支援しながら、公孫賛相手に遅滞戦闘を行っていた。

 敵を潰走に追い込むまで、あともうひと押し足りない状況が続いた公孫賛は自分から見て敵の左側後方に新たな砂塵を発見した。

 袁紹の部隊だった。

 耐えきられたか……

 公孫賛は眼前のしつこい部隊に、とうとう袁紹の本軍が到着するまでの時間を稼がれたことに歯噛みする思いだったが、その砂塵の規模で徐々にわかる敵の規模から、その思いを改めた。

 やってきた袁紹の手勢が想定よりもかなり少なかったからだ。

 公孫賛はそれを自分たちの作戦が上手くいっているから起こった事だと結論付けた。袁紹軍を河川の防御陣から押し出して、その戦力が集まる前に袁紹の本軍を戦場に引きづりだすことができた。そう思ったのだ。

 確かに、目の前の事象は袁紹が戦力が完全に揃う前に公孫賛相手に戦闘を仕掛けねばならない状況であるが、公孫賛の作戦が上手くいったから眼前の光景が作り出されたということは決してない。そうやって、これまで一連のこと全てが公孫賛に誤断を起こさせる要因となっていく。

 だから、公孫賛が見事な用兵を披露しても、それは勝利に結び付けづらい。

 公孫賛は郭図の部隊と袁紹の手勢が完全に合流する前に大きく陣形を乱すことを選択した。

「関靖、騎兵一〇〇〇を率いて、敵の右側面に大きく回り込め!」

 公孫賛は関靖に命を下す。

 公孫賛の狙いは袁紹軍の両部隊に大きな間隙を作ることだった。

 郭図は側面(袁紹たちから見れば左側面)を突かれないように部隊全体を左に移動しなければいけないが、それだと袁紹の本隊との間に大きな間隙ができることになる。そうなると今度は右側面に危機が訪れる。もしくは袁紹の左側面を脅かされる。

 また、部隊が左に移動しなくても左側面を突くことができるので、それはそれで問題はない。

 問題を挙げるとすれば、逆に敵が公孫賛と関靖との間にできた間隙に突っ込んでくることだが、遅滞戦闘の部隊の騎兵の少なさから、それは大した脅威にならない。

 この公孫賛側の動きに郭図は左へと動かなかった。ただ新たな戦列を作って対応した。

 その戦列を関靖が襲った。

 それだけではなく、公孫賛も郭図隊の正面に襲い掛かり、押し込みにかかる。

 郭図隊は押されに押されたが、袁紹の救援が間に合い、何とか潰走せずに済んだ。

 戦場は一時的に膠着状態になるが、公孫賛軍が明らかに優勢であった。

 にも関わらず、袁紹軍は戦況を変える手を何ら打たなかった。

 公孫賛はその意味を考えた。

 予備戦力で崩れかけの郭図隊を支えるなりしてやらないと郭図隊は崩れて袁紹は左翼から一気に崩壊する。なのに袁紹はそれをやらない。何か予備隊を出せない理由がある。

 金属同士がぶつかり合う甲高い独特な響く音。馬の嘶き。軍鼓の音。兵たちの怒号、悲鳴、断末魔。それら戦場音楽が聞こえなくなるくらいに集中して公孫賛は考えた。

 そして、出した結論は『袁紹軍は厳綱隊に対して予備兵力を温存している』だった。

 まったくの誤った結論である。

 この時点で厳綱隊は壊滅していた。

 しかし、公孫賛はその前提からして間違っていたのである。

 だから、どんなに堅実な思考を積み重ねても誤った結論にしか辿り着かない。

 袁紹軍が河川防御が固執するという思い込みから、袁紹軍の遅滞防御を交えた計画的撤退を自分の力で敗走に追い込んでいると勘違いし、厳綱隊が健在であると誤断して敗着となる命令を公孫賛は下した。

「予備隊を投入だ! 敵右翼を崩して、一気に袁紹の本隊を叩くぞ!」

 数分後、公孫賛の手元にあった予備隊が投入された。これで彼女の周りには直接護衛兵力である一〇〇ばかりの兵しか残っていなかった。

 予備兵力の投入は戦場に劇的な変化を生んだ。

 郭図隊がとうとう崩れたのである。

 歓喜に沸く公孫賛軍は袁紹の本隊の後方に大きな砂塵が巻き上がっていることに気付いた。

 公孫賛はそれを厳綱隊が敵を突破してやって来たのだと思った。

 彼女は叫んだ。

「厳綱隊だ! これで本初を挟み撃ちにできるぞ!」

 さらに沸く公孫賛陣営だったが、それはやがて悲鳴へと変わった。

 護衛のひとりが大きな声で叫んだ。

「あ、あれは厳綱隊ではありません! 顔良と文醜、敵です!」

「……」

 公孫賛は言葉が出なかった。

 何故なら、公孫賛は自分が正しい判断を下し続けていたと信じていたからだ。

 しかし、その実はただ自分が勝手に設定した状況の中でしか意味を持たないことに持てる全ての努力を傾けていただけで、現実では事態の好転には何ら寄与しないことであった。

 それを公孫賛は理解できなかったし、また、手元に残された兵では顔良と文醜の隊に対して有効な手を打つことができなかった。

 

 

「行くぞ、斗詩!」

「うん、文ちゃん!」

 文醜と顔良は互いに先頭を切りながら、公孫賛隊の無防備な横っ腹へと鋭く切り込んでいった。

 戦況は瞬く間に逆転する。公孫賛軍は一気に瓦解した。

 沮授はそれを眺めて、一息つきたくなった。

 その理由は勝利の喜びからでも、緊張からの解放からでもない。彼は先程まで主の袁紹から苛立った声を浴びせられていたのだった。

 原因は予備戦力の投入である。

 袁紹は崩れそうな郭図隊に対して予備隊を出して、援護するように命令を何度も下そうとしたのだ。

 しかし、その度に沮授が予備隊は劉虞に備えて手元に温存するようにと押し留めたのだ。

 それを繰り返すうちに自分の言うことを聞かない沮授に袁紹は不機嫌になっていた。

 だが、そんな袁紹も今は上機嫌な顔で状況が好転した戦場を見ている。

 それに沮授の判断が正しかったことが、もうすぐ証明されるのであった。

 公孫賛の部隊は混乱の極致にあった。

 そんな状況でふたつの砂塵が遠くで起こり、部隊が戦場にやってくることを予感させた。

 ひとつは辛毗が約三〇〇〇の手勢を率いて袁紹の本隊に合流を目指していた。

 そして、もうひとつは劉虞の軍であった。

 沮授は冷静な声で言った。

「予備隊を出して劉虞軍の前衛を防いでいる間に辛毗と合流しましょう。公孫賛の方も、もうすぐ片が付きます」

「伯珪さんも劉虞さんもまとめてやっておしまいなさい」

 袁紹が戦場には不釣り合いな明るい声で答えた。

 その後、戦場は沮授の言葉通りに推移した。

 予備隊が劉虞軍の前衛を防いでいる間に辛毗と合流を果たし本隊の厚みが増した。そして、公孫賛軍を敗走に追い込んだ顔良が公孫賛を追撃して、文醜は劉虞軍に襲い掛かった。

 正面からの戦闘に必要な堅牢な思考、確かな判断、迅速な行動、それらが劉虞に欠けていた。

 だから、戦況はどんどん劉虞が不利なものへと傾いていく。戦列は乱れ、組織的な抵抗ができていない。

 劉虞軍が潰乱するには、それほど時間を要さなかった。

 軍が崩壊する中で劉虞は僅かな手勢と共に逃走を開始した。

 彼が目指した先は本拠地の葪ではなく、并州だった。

 葪に帰ったとしても、袁紹軍が冀州に帰るまで持ちこたえるのは不可能で、それなら命が危険だった。だから、并州を通り、洛陽の董卓・袁隗の元に身を寄せる算段だったのである。

 そして、もうひとり本拠地へ帰ることができずに逃げ延びることになる人物がいた。

 公孫賛のことである。

 彼女が戦場から離脱するときにも、また、公孫賛軍の将がひとり、泉下の人となった。

 

 

 顔良隊に後ろから喰い付かれ逃走の足が止まりそうになったとき、公孫賛を救ったのは関靖とその擦り減った手勢であった。

「我々が防いでいる間にお逃げください!」

 関靖は戦塵で薄汚れた格好で叫んだ。

 彼への世間の評価は低かった。関靖は酷吏(法家主義の厳罰的な役人)であり、上には謙るが雄大な計略がない小人というのが世間の評価だった。

 そんな関靖を公孫賛は粗略に扱わなかった。

 世間は公孫賛は小人を寵愛すると噂したが、公孫賛は気にしなかった。彼女は底抜けの善人である。関靖だけではない、袁紹にも劉備にも趙雲にも態度を変えるなんてことは決してしなかった。 関靖はそんな自分の主を尊敬した。恩を感じた。

 そして、その恩に報いるときは、まさに今だった。

 彼は手勢と共に顔良隊へと突っ込んでいった。

 公孫賛は、そんなことはやめろ、と叫んだが、誰も聞かなかった。

 負けはしたが、善人である主を活かすために彼女の手元に残った兵たちが顔良隊へと向かっていく。

 公孫賛はそんな彼らを止めることも、彼らと共に行くこともできなかった。そのどちらも彼がは望んでいないからだ。

「……すまん」

 それだけを絞り出す様に呟くと公孫賛は馬を駆けさせた。

 関靖たちはその命を以って、主が逃げる時間を稼いだ。

 公孫賛はその後、同じように逃げていた劉虞と合流し洛陽を目指すことになる。

 この濕余水・沽水の戦いは、予備隊を出すタイミングを間違えて負けた軍と予備隊を温存して、ここぞという場面で投入して勝利した軍。城に籠って主導権を逸し敗れた軍と野を駆け回って主導権を握り続けた軍の戦いであった。

 袁紹軍はこの戦いの成果を天下に宣伝した。

 袁遺がやったことは特別なことではなく、連合との戦いは他の諸侯が袁紹の足を引っ張ったために袁遺が勝ったように見えているだけで、袁紹軍は弱くはないと。

 その宣伝は効果があった。

 冀州や幽州の名士たちが袁紹に靡いたのだ。

 また、この袁紹の勝利に各勢力の軍師たちは、それぞれが行っていた袁遺の戦術の研究をさらに加速させることになる。

 ただ、この宣伝は知らず知らずに袁紹軍自身の首を絞めていた。

 未来で、内線作戦と外線作戦では内線作戦の方が有利であるという結論を出した軍事研究家がいる。

 それはスイス人の軍人、ジョミニである。

 彼は著書の『戦争概論』でそのことを述べた。

 しかし、現代では内線作戦と外線作戦には有利不利はないとされている。

 これは鉄道や電信の開発を抜きにしてもそうである。

 ジョミニと同じ時代のドイツ(プロイセン)の軍人であり研究家(哲学者とも言えるかもしれない)クラウゼヴィッツも内線作戦と外線作戦に有利不利がないとしている。

 袁紹とその軍師たちの不幸はふたつ。

 ひとつは袁遺の勝因は有利な内線作戦を取ることができ、さらに諸侯が袁紹の足を引っ張ったからだとしたい袁紹陣営は、外線作戦との有利不利がないことを公に口にし研究することができなくなったことだ。

 有利不利がないことが分かれば、結局、袁遺の能力によって勝たれたことになり宣伝の意味がなくなる。

 この幽州での勝利は彼女たちにとって枷ともなったのだ。

 そして、もうひとつはジョミニのこともクラウゼヴィッツのことも内線作戦と外線作戦のことも知っている男が敵にいるということだった。

 だが、幽州を征し勝利に酔っている袁紹もその配下もそのことを知らなかった。

 それに、この戦いで命を散らせた兵たちにとっては、そんなことはどうでもいいことかもしれない。

 

 

 北方に戦塵が舞って、人馬の屍が積み上がる。

 




補足

・張堪が後漢の初めに漁陽太守を務めたとき
 後漢書には張堪と名前がよく似た張湛という人物の列伝もあるから注意して欲しい。自分もこの話を書いてるときに、このふたりを間違えて、なんかおかしいぞ、と資料の再確認でかなりの時間を無駄にした。
 いや、張堪と張湛を調べる人がどのくらいいるかはわからんが……
 あと、この張堪が稲田を作り民を富ませてやる逸話は後漢書だけではなく、水経注にも載っているが、日本語版がないから読みたい人は原文を頑張って訳して。

・ジョミニとクラウゼヴィッツ
 ここで言いたいことは、確かにジョミニの内線作戦の方が有利という説は否定されたが、ジョミニ自身が優秀な軍人で参謀で研究家であることは否定できないし、『戦争概論』は後の軍事学に大きな影響を与えた名著である。
 そして、ジョミニとクラウゼヴィッツ、『戦争概論』と『戦争論』、それらのどちらが優れているとか優劣を付けたいわけではない。
 この二点は誤解しないでいただきたい。
 蛇足ながら、このふたりとその著作について軽く触れておく。
 両者はそれぞれナポレオン戦争に参加した実戦経験も参謀将校としての軍務も豊富で、将軍そして貴族に列せられた人物である。
 このふたりはナポレオン戦争での体験や戦史の知識で軍学書を書くことになるが、両者のスタンスには大きな違いがあった。
 ジョミニは科学的方法論を軍事学に導入し、戦争の普遍性を抽出しようとした。
 対して、クラウゼヴィッツは哲学、特にドイツ哲学の方法論を以って戦争とは何かと語ったのである。
 そのためか、『戦争論』はとにかく読みにくい。
 正直な話、私は『戦争論』を読破していない。二度挑戦して二度とも挫折している。それに読破は諦めて、興味のあるところをつまみ食い的に読んだのと解説本を読んでそれで済ませている。たぶん、似たような経験をした人は決して少なくないと思う。
 本当に軽くだが、これ以上はナポレオン戦争とか普仏戦争とかの話を長々とやりそうなので止めておきます。興味のある人は自分で調べるなりしてください。


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11~12

11 転がる。

 

 

 劉虞と公孫賛を蹴散らし、幽州を手に入れた袁紹の次の動きも素早かった。

 彼女は南皮に帰ると兵を僅かな期間だけ休ませ、すぐに三万の兵を率いて青州との州境を越え、平原への侵攻を開始した。

 侵攻の理由は沽水の戦い以降、姿をくらませている公孫賛と親しい劉備が彼女を匿っていると難癖をつけたのである。事実無根であった。このとき、公孫賛は劉虞と共に洛陽へと向かっている。

 その理不尽な侵略に抵抗する術を劉備は持たなかった。

 反董卓連合で袁遺と司馬懿に叩かれ、その後も青州黄巾党の略奪を受けた彼女の軍と領地はズタボロであった。劉備の手元には野に出て軍を動かすことも、城に長期間籠りつづけるだけの物資も戦力もなかった。

 平原は瞬く間に陥落し、劉備もまた河北から叩き出された。

 さらに袁紹は并州の上党郡を抑え、南匈奴を外交で上手く手懐け、晋陽で賊を集めて一大勢力を誇っていた張燕の孤立化を図り、并州への影響力を確保する。

 黄河以北を事実上、手中に収め、袁紹はこのとき雄大であった。

 そして、このことが事態を動かすことになる。

 

 

 江陵、かつては荊州城と呼ばれた南郡の郡都は水の都市である。

 東西六三〇〇キロ、滔々たる長江は三峡こと瞿塘峡(くとうきょう)巫峡(ふきょう)西陵峡(せいりょうきょう)の三つの峡谷を越えた江陵の辺りで、その流れを峡谷の奔流から穏やかな大河のそれへと変化させる。そして、洞庭湖(どうていこ)を経て江南、最後に大海へゆったりと続いていく。

 恵まれた東西の水運と中華の北から南を貫く縦貫道。江陵は水陸の十字路だった。

 その十字路には中華の内外の物産が集まる。そして、もちろん物産は自分で歩いてくるわけではない。諸方の商人が人足を雇い運び込むのである。物と人が集まる場所は通商交易の拠点として発展し、富と繁栄をもたらす。

 そんな江陵の城でふたりの男女が碁を打っていた。

 男は大きな体格であった。座っていてもそれが分かる。

 彼こそが荊州の主たる劉表である。

 その容貌には威厳があった。

 顔の作り自体には厳つさはない。むしろ、顎のほっそりとした優し気な品のある顔つきである。

 だがしかし、男のぴしりとした姿勢や眼光の鋭さには思わず姿勢を正してしまいそうな何かがあった。

 特に今は、僅かに眉間にしわが寄せられた苦い面持ちであることが、それに拍車をかけた。

 対して、劉表と向かい合う女性は、衆道趣味あるいは肉欲の対象が下に突き抜けすぎている男以外の目を奪う美貌と肢体の持ち主だった。濡れた様な髪が艶めかしくうねっている。

 こちらは劉表と違って涼し気な様子だった。

 彼女は蒯越。字は異度。

 劉表を荊州牧に押し上げた立役者のひとりであり、劉表の参謀格である。

 といっても彼女は、例えば袁遺における雛里の様に作戦の立案や修正、部隊指揮と軍事方面で活躍するようなタイプの参謀ではない。

 蒯越は権謀術数に長けた謀臣だった。

 彼女は劉表が荊州を掌握するのに邪魔な荊州の名士や劉表の様に事情があって他所から流れてきた人士をその知謀と弁舌を以って懐柔、ときには排除してきた。

 彼らの対局は中盤戦に差し掛かっていた。

 そこで劉表が手を止めたのだ。

 劉表と蒯越は対局を数え切れないほど重ねてきた。だから、お互いの実力や癖は分かっている。

 囲碁の中盤は基本的に今ある利益を確定するように打つか将来を見据えて広く打つかの二択である。

 その方法として自分の弱い石を守るように打つとか相手の弱い石を攻めたり、相手の大まかに囲っているところを攻めるなど色々あるが、それは置いておく。

 劉表は考える。これまでの戦績はほぼ互角、ただ中盤に確定地を重視する打ち方(前者の打ち方)の方が若干、勝率が良い。なら、今回もそうやって打つか……

 碁笥に手を入れたまま、石をつまんでは離し、つまんでは離す。その度にカチャカチャと石が音を立てる。劉表の考えているときにやる手癖だった。

 その思考は別の人物の登場によって中断させられる。

「……お邪魔でしたか?」

 声を掛けたのは蒯越の姉の蒯良だった。

 その風貌には妹の面影があった。

「気にせずともいい。報告か?」

 蒯良の方に顔を向けて劉表が言った。芯のある良く響く声だった。

「はい、襄陽より早馬が来ました。袁紹が河北を征したようです」

「そうか」

 劉表は答えた。そして、視線を再び碁盤に移した。

 その報告は劉表にとっても蒯越にとっても想定の範囲内だった。強いていうなら予想よりも少し早い程度である。

 そもそも彼らが現在、江陵にいるのもそれに絡んだことだった。

 荊州の州都は襄陽であり、普段はそこで政務を行い過ごしている。

 正確にいえば、荊州の州都は武陵郡(ぶりょうぐん)漢寿県(かんじゅけん)であったが、前荊州牧・王叡と武陵太守・曹寅の戦いのせいで荒廃し、未だ治安も良くないため劉表は独断で襄陽に州治を移すことにした。

「では、数日中に襄陽に戻るか。袁紹からの使者が来そうだ。異度は江陵にしばらく残ってくれ」

「はい」

 蒯越が答えた。

「それと袁紹に敗れた劉虞と公孫賛が洛陽へと入りました。ふたりは袁隗・袁遺の叔侄(しゅくてつ)によって厚く迎えられたようです」

 その報告に劉表は間髪入れずに反応した。

「どのように? 何か官職が与えられたのか?」

「まず公孫賛の方ですが、中郎将に任命され、先の連合と袁遺の戦いで捕虜になった者たちを中心とした部隊を率いることを許されたようです」

 中郎将は秩禄比二〇〇〇石。平時は宮殿を守り、戦時では戦車や騎兵である中郎を統率する官職である。

 反董卓連合に参加して袁遺や董卓と敵対しながらも、袁紹に敗れ領地も地位も失った公孫賛からすれば、まったくの好待遇であった。

「劉虞については三公のひとつである太尉に任命されたようです」

「太尉、か……だが、韓嵩の報告によれば軍事は袁遺が殆んど取り仕切っているのだろう。なら、お飾りの太尉か」

「おそらくそうではないでしょうか。袁紹との戦いで劉虞に活躍があったとは決して言えませんから」

 蒯良が答えた。

 袁紹の宣伝工作によって、濕余水・沽水の戦いの推移は広く天下に知られている。

「しかし、三公は三公だな」

 劉表は碁石を手遊びしながら呟いた。碁石を手の内で転がす。

 しばらくして白のそれを碁笥の中に戻し、蒯越に尋ねた。

「このふたりへの厚遇の意味が読めるか、異度?」

「はい」

 蒯越は即答した。

「幽州に残る反袁紹の勢力に対しての宣伝でしょう」

 その答えに劉表は頷いた。彼も同意見だったのだ。

「劉虞は烏丸や鮮卑に広く慕われております。北狄を使って袁紹の背後を脅かそうとするときに劉虞は大きな意味を持ちます」

 蒯越は袁遺・袁隗の意図を正確に読み取っていた。

 袁遺が西は馬騰から南は劉表、東は曹操、袁術、張邈と広い範囲で親董卓・袁隗の勢力を作ったのに対して、袁紹は黄河以北を征して勢力をさらに大きなものにした。

 それによって、両者の戦略が少し修正されることになる。

 ここから先は両者が両者の外縁を侵し合う戦いとなったのだった。

 袁遺からすれば、袁紹の外縁である幽州、并州の反袁紹の勢力と結んで背後を脅かし、自分たちの方に投入できる戦力を減らしにかかる。

 袁紹も同じように董卓・袁隗の外縁である涼州、荊州、揚州、徐州の反董卓・袁隗もしくは現在の州牧たちに叛意を持っている者と手を結び、袁紹の方へ軍を投入できなくする。

 そうやって、お互いがお互いの決戦兵力を削り合う戦いだった。

「となると我々の問題は揚州だ」

 劉表が平坦な発音で言った。

「揚州の勢力にとって長江の上流である荊州は防衛上、抑えておきたい土地だ。それが肥沃な大地で多くの人口を抱えているとなるとなおさらな」

 船の戦いでは上流と下流なら、上流を取っている方が有利である。

「そして、揚州を治めている袁術が袁紹と手を結び、こちらを攻めてこないという保証はない。揚州の人口から推測して、十分な留守の守りを残して荊州攻めに動員できる兵数は五~六万」

「荊州全土を征服するには足りない数字です」

 蒯良が口を挟んだ。

「ああ、そうだ。荊州全土を征服するならまったく足りない。古の故事の通りなら六〇万は用意しなければならないな。だが、町ひとつ城ひとつならどうだ?」

「それなら、十分に陥落する可能性がありますね」

 蒯越が答えた。まるで他人事のような口調だった。

「そうだ。私が荊州牧になってから荊州では、まだ一度も戦がない。だから、戦いの最中で何が起こっても不思議ではない」

 蒯越も蒯良も、たかが城ひとつくらいとは言わなかった。

 ふたりは袁術が五万を率いて攻めて来た場合、どうなるかを頭の中で試算してみた。

 現在、荊州の対外用に備えられている兵は六万。この六万は現代風に言うなら緊急展開軍(ラピッド・デプロイメント・フォース)である。

 ただし、その三分の二は水軍であった。

 荊州では水軍に力を入れ、州内の重要な(しん)(渡船場)を防衛できる程度の陸軍しか持っていなかった。

 そうなっている原因はふたつ。

 ひとつは劉表軍の方針が地政学でいうところの海洋国家のそれに近いからだった。

 限られた予算および人的資源を水運という巨大な網目状の線を守れる水軍に回し、陸軍はその線の中にある津という点の防衛が行える戦力を維持できるだけに留められていた。シーレーンを重視した戦略である。

 もちろん、この六万だけでなく荊州の豊かさをもってすれば、さらに五万の歩兵が徴兵可能だったが、それが行われるのは防衛戦に限られる方針であった。

 劉表はその方針こそが荊州の豊かさが最も発展する方法と信じていたし、そのような政治を行うことが侵略戦争よりも自分たちに得になることだとも思っていた。

 ここまで読んで中には、複数の州と隣接している荊州は大陸国家に近いだろうと思われる人もいるかもしれないが、荊州の州境は殆んどが河であり、上でも述べた様に荊州内も多数の河がある。そのため兵の移動や物資の輸送には船を使う。それは海洋国家の一面である。だから、この劉表の方針と戦略は間違いではない。

 話を本筋に戻す。

 しかし、そんなきれいごとのみが理由ではない。ドロドロとした面倒な事情もあった。

 それがふたつ目の理由である。

 現在、その陸軍より大きい水軍を統括しているのは劉表の妻の兄である蔡瑁だった。

 妹の威光で選ばれたわけではない。蔡瑁には水軍指揮官として水準を越えた能力が備わっている。

 そして、この蔡一族の軍事力も劉表を荊州牧へと押し上げた要因だった。

 だから、劉表は蔡一族に気を遣い陸軍に予算や人的資源を大きく回せなかった。

 また、この蔡一族への忖度が町ひとつ城ひとつ奪われてはいけない原因にもなっている。

 戦争になった場合、司令官には間違いなく蔡瑁が選ばれる。

 その蔡瑁が負けて街を奪われたら、反蔡一族の名士たちが蔡瑁を政治的に攻撃することも間違いなかった。

 そうなっては蔡一族の軍事力を拠り所のひとつとしている劉表の立場も危うい。

 そのことを分かっている蒯姉妹は口を挟まない。

「そして、揚州から細作が放たれるなら、最も人の出入りが激しいこの江陵だ。異度、当分はここで、その才能を振るってもらうぞ」

 劉表たちが江陵にいたのは防諜のためだった。

 表向きは市場の視察ということで江陵にやってきて、裏では防諜の工作員を配置していた。

「御意」

 蒯越が恭しく礼を取った。

 荊州は絶妙なバランスの上で平穏を謳歌していた。

 そして、そのバランスは劉表によって保たれている。

 確かに、妻の蔡氏や義兄の蔡瑁に気を遣っているが、同時に蔡一族のみに力がいかぬよう劉表は細心の注意を払っていた。

 洛陽に使者を派遣し、皇帝から正式に荊州牧の地位に任命されたのもその一環だった。

 このバランス感覚こそが蒯越が劉表に従う理由であった。

 彼女が目指しているのは荊州の平穏である。

 そして、その平穏をもたらすには劉表のバランス感覚が必要だった。

 先祖元来、荊州に根を張り続けた名士や党錮の禁、黄巾の乱などで流れてきた名士たちの力の均衡を保てるのは彼だけだった。

「袁術といえば、客将に孫策がいたな……」

 そう呟いた劉表の表情にほんの一瞬暗いものが宿った。

 彼は袁紹が袁遺の外縁を侵すために孫策と結び、その独立を後押しした場合どうなるかの勘定をすぐに済ませた。

 袁術など比較にならないほど危険な隣人が誕生することになる。

 劉表は一瞬のうちに、孫策暗殺に行き着く謀略を三つほど思いついたが、胸の中に留めた。

 それを実行に移すのは董卓・袁隗陣営の袁紹の工作に対する反応を見てからでも遅くない。

 そんな劉表に蒯越が言った。

「孫策には使い道がありますよ」

「ふん、そうか」

 劉表は真意の分かりづらい顔で応じた。

「そう言えば、琦はどうしている?」

 それから、話題を一緒に江陵へと連れて来た息子の劉琦へと移した。

「御子息は伊籍殿と共に市場の方で税収について、現地の官吏から説明を受けています」

 蒯良が答えた。

 謂わば、官房学の実地研修みたいなものだった。

 そうか、と劉表は頷いた。

 劉表は暗殺という手段に何の後ろ暗さも感じていなかった。

 戦で攻め滅ぼすのと、どのくらいの違いがある。

 劉表は心の中で吐き捨てた。

 戦いたい者同士が勝手に戦っていればいいのだ。こちらもこちらの得意な方法でやらせてもらう。ただそれだけだ。恥るつもりも後悔するつもりもない。そして、できれば反省もしたくない。世の中には戦争よりも後悔よりも楽しいことが多くあって、人生には同じ様にやらねばならないことが多くある。そして、人生は短すぎる。

 そう、人生は短い。劉表は最近そのことを強く意識するようになってきた。

 年のせいか最近はちょっとのことで調子の悪さを覚えるのが、その原因だった。

 しかし、それは年のせいだけではなかった。

 劉表は若い頃、党錮の禁により霊帝からの追及を受ける身となった昔から親交のあった張倹の逃亡を助け、自らも追われる身となった。

 その逃亡生活では様々な苦労があり、かなりの無理もした。その最中で前妻も亡くしている。

 そして、その無理が劉表の身体を蝕んでいた。

 

 

 孫伯符は母である孫堅の死後、袁術の客将という立場であるが、その武勇、器量、覇気、どれをとっても客将で生涯を終えるものではなかった。

 そして、本人にも母がそうであったように自分も天下を狙うという野望を、まるで子供が無限に広がる将来に対して希望を抱く様に持っていた。

 そのためには、まず袁術から独立を果たさなければならないが、その独立計画は思いもよらぬ方向へと進み始めていた。

 そのことを意識し始めたのは袁紹から届いた書簡が原因であった。

「孫殿の江淮一帯での名声、威光は袁術を凌ぎ、また、その袁術は愚鈍であり州牧には相応しくなく。かの者がその地位にあることは上は天から下は民の怒りを買うことであり、孫殿こそが揚州を治めるにふさわしい云々、つまりは我々を袁術から独立させて揚州の安定を崩して董卓・袁隗の背後を乱そうとしている」

 周瑜が書簡を片手に言った。

 袁術の本拠地にである寿春の孫策に与えられた屋敷、その庭の四阿には孫策、周瑜、黄蓋、陸遜の四人が集まっていた。

 酒と肴が整えられ、庭には白芷(びゃくし)や芍薬などといった花が咲き誇っていた。陽気も良く、酒を楽しむならこれ以上の日はないという日和だった。

 客将が昼間から酒など……と言う者もいなかった。寿春全体がそういった浮かれた雰囲気の中にあったのだ。

 主の袁術自体がそうであるからだ。

 反董卓連合を抜けて、本拠地の寿春に帰ってきた袁術はしばらくの間ご機嫌だった。何の楽しいこともなかった連合から、やっと帰ってこれた開放感からだった。

 そうこうしている内に洛陽から使者が来て、左将軍と安豊侯の位が与えられた。

 列侯、袁術はその言葉が持つ甘美な響きに酔いしれた。

 袁隗も袁紹も袁遺も封じられていない人臣が昇り得る最高の爵位、それに自分が就いた。袁術はまさに天にも昇る気持ちだった。

 彼女は家臣たちに安豊侯と呼ばれるために気分が良くなった。揚州内に公布される書類の自分の名前の頭に安豊侯という文字が躍るたびに頬が緩んだ。

 袁術を彼女独特の方法でかわいがっている張勲などは、

「よ、さすが美羽様! 安豊侯様! ボコボコにやられたのに、ここぞというところで連合を裏切って列侯にまで出世するんですから。もう、項伯も驚きの節の曲げ方ですね!」

「そうじゃろ、そうじゃろ。ハハハハハ!」

 というコントの様な事を主従でやっていた。

 だが、孫策からすれば、上が緩んでいることは宴会に託けて部下を集め、独立について話し合うことが容易にできてありがたかった。

「ふーーん、それで袁紹の企みに乗った方が良いと思う?」

 孫策は杯を傾けながら、周瑜と陸遜、ふたりの軍師に尋ねた。

「乗らない方がいいな」

 周瑜が答えた。

「おそらく揚州中の袁術に不満を持つ豪族たちにも似た様な書簡をばら撒いているだろう。袁紹陣営からすれば董卓・袁隗に揚州や徐州、荊州を警戒させて兵を割かせ、あわよくば袁遺がそれらで起きた問題を解決しに軍を動かしている間に黄河を越えるくらいにしか考えていない」

「つまりは独立に動いたとしても袁紹は特に何もしてくれないってわけね」

 そう言うと孫策は酒を呷った。

 元々、袁紹の援助なんか期待していないとは言え、ただ利用されるだけでは面白くない。

「いえ~~袁紹さんにも使い道はありますよ」

 口を開いたのは緑の髪を持ち、小さな丸眼鏡を掛けた胸の大きな女性、陸遜である。

「どんな?」

 孫策が尋ねた。

「袁紹軍がいるから、董卓・袁隗の陣営が兵を動かすのを躊躇する可能性があります」

 陸遜の言葉に周瑜が続いた。

「そうだな。もし袁紹がいなかったら、袁紹の防波堤となっている曹操も袁遺と轡を並べて我々を討ちに来るなんてことになるかもしれないな」

「それは厄介ね」

 本心だった。孫策も反董卓連合で曹操の兵を見た。よい兵たちだった。

 そして、袁遺軍に手痛い一撃を喰らっていても、その精強さを疑っていなかった。孫策たちにしても似たような一撃を喰らっている。

「そういえば、あの奇襲と伏兵を行った指揮官は誰じゃった? 曹操を襲ったときは袁遺は逃走の途中のようじゃったから、袁遺がやったのではないのだろう?」

 黄蓋が酒を飲みながら尋ねた。

「あ、確認しました」

 陸遜が答えた。

「司馬懿という人物でした。彼は豫州の黄巾の残党を同様の戦術で撃破しています」

「司馬懿、ね」

 孫策は杯を口に運びながら思った。こんなはずじゃなかったと。

 彼女は反董卓連合で自分の力を見せつけ風評を得て、それを大きな追い風にして一気に独立するつもりでいた。

 なのに、反董卓連合では思っていた風評は得られず、逆に手痛い損害を受けた。袁遺の宣伝工作の結果、袁術の評判が落ちたのが不幸中の幸いである。

 そして、揚州へ帰ってきても独立計画が袁紹と董卓・袁隗という二大勢力の戦いに巻き込まれている。

 こんなはずじゃなかったと再び思う。

「ともかく、独立の時機は袁紹と袁遺の干渉を受けない時期だ。それに袁紹が他の州でも不満を持つ者を焚き付けているのは間違いない。それを袁遺がどう対応するかも見ておく必要がある」

 そう言った周瑜に孫策が尋ねる。

「袁遺の対応といえば、袁遺が反董卓連合との戦いで行った戦術の研究は進んでいるの?」

 袁遺の戦術の応用の様な事を行って袁紹軍が劉虞・公孫賛を撃破して以来、いくつかの諸侯の間で袁遺の戦術の研究が盛んに行われていた。孫策陣営もそのひとつである。

「ええ、進んでいるわ」

「本当は私も手伝いたいんですけど、冥琳様がやらせてくださらないんですよ」

 陸遜が抗議の声を上げた。

「お前に手伝わせたら、大変なことになるだろう」

 陸遜は優れた書物から新たな知識を習得していると性的興奮を覚えるという奇癖がある。

 そのため周瑜のまとめた書簡に陸遜が発情してしまって大変なことになった。未来の知識を持つ袁遺が立てた作戦を雛里と司馬懿という軍才豊かな者たちがブラッシュアップしたものを稀代の軍師である周瑜が研究しまとめたのだ。ある意味で極上の兵法書となりえるだろう。仕方がないと言えば仕方がない。

 杯を干した孫策に黄蓋が瓶を差し出した。

 孫策はそれを受けたが、瓶の酒は杯の半分ほどのところでなくなった。

 これでかなりの量の酒を乾したことになる。空いた瓶がそこら中に転がっている。

「これだけ飲めば、普段なら冥琳が小言のひとつくらいこぼすだろうに、今日はどうしたのじゃ?」

 黄蓋が新たな瓶を取りながら、周瑜に言った。

 確かに飲み過ぎである。常人なら潰れていてもおかしくない飲酒量だ。

「そろそろ酒盛りをできる雰囲気ではなくなりそうなので、今日のところはうるさいことは言わないことにしたのです」

 そう言って、周瑜も杯を傾ける。

「ん? どういうことじゃ?」

「袁紹が河北を征したのに袁術がこのまま黙っているとは思えないということです」

 周瑜の言葉通りのことが起ころうとしていた。

 

 

 袁術は金杯を満たしている蜂蜜水を一気に呷った。

 大好物のそれを堪能し束の間、気分が良くなったが、手の内のくすみが目立ってきた金杯を見て、すぐに機嫌が悪くなった。

 そのくすみが、あることを思い出させた。

 袁紹が河北四州を平らげた報告が入ってきた。

 袁術は地図を持ってこさせ、自分の封土となった安豊県と袁紹が手に入れた四州を比べた。自分の封土は袁紹の四州に比べれば雀の涙だった。次に自分が収める揚州と比べた。揚州は猫の額だった。

 すると、あんなに嬉しかった列侯が急に何の価値もないように思えてきた。

 袁術は悶々とした。

 ここで、いつもの袁術だったら、袁紹と同じようにする―――つまり近隣の地に侵攻して自勢力の拡張を行う―――と言い出しただろうが、それはそれでひとつの恐怖が蘇ってきた。それは巻と酸棗の間で袁遺と戦って、呂布に本陣を襲われ危うかったときに感じた恐怖だった。

 どこかを攻めてまた袁遺がやって来たら……

 袁術の背筋に冷たいものが走った。あんなことはもう二度と御免だった。

 しかし、袁術の嫉妬と渇望は収まらない。

 袁術は甘やかされて育った。だから、彼女は欲望を制御する(決して抑制ではない)方法を学ばなかった。

「七乃ーーーーーッ!!」

 そして、袁術の欲望は総和されるのではなく総乗される。だから、恐怖といえど欲望を制御できない。

 袁術は最も信頼する部下を呼んだ。

 七乃なら自分の願いを叶えてくれるという雛鳥が親鳥に抱く様な無垢で無智な信頼と共に。

 

 

 七乃―――張勲が袁術から言われたことを要約するなら、袁紹が自分より広大な領地を持っているのはずるい。自分も袁紹より広い領地が欲しい、であった。

 張勲は表面上はいつもの笑みを浮かべたまま、内心では困っていた。

 袁紹のように徐州や豫州、荊州に侵攻した場合、それは袁遺が苦心して作った対袁紹の勢力を壊すことになる。間違いなく袁遺が鎮圧にやってくる。

 そして、張勲は戦で袁遺に勝てるなどと思っていなかった。

 反董卓連合のとき、二倍近い兵数のうえに有利な高地に布陣したにも関わらず、分けも分からないうちに崩壊寸前まで追い込まれたのだ。あのとき、孫策の救援が間に合わなければ、袁術と共に張勲も呂布に討ち取られていただろう。

 もし袁遺と戦うなら、その矢面は絶対に孫策にやってもらわなければならない。

 張勲はそう言う結論に思い至ったが、それは孫策にとって幸運なことだった。

 孫策の有用性を見出した張勲は孫策の排除することに躊躇いを覚え、孫策陣営の暗躍する余地を残してしまう。

「とりあえず、洛陽に気付かれないように兵を少しずつ集めましょうか」

 張勲の言葉に袁術が顔を輝かせた。

 自分の願いが叶い始めた、そう思ったのだ。

 だがしかし、無限に総乗される欲望の行きつく先は自壊である。

 無限の欲望なんてものに自分自身が付き合うことができなくなるからだ。

 

 

12 微妙な問題

 

 

 洛陽、司空府には重い空気が漂っていた。

 そこには董卓、賈駆、袁隗、そして袁遺の四人がいる。

 董卓は申し訳なさそうな表情を浮かべていた。

 賈駆も同様の思いを胸の中に持っていたが、袁遺を睨んでいた。

 袁隗の面持ちは冷静であった。一歩引いて、董卓たちと袁遺の成り行きを見守るようだった。

 そして、袁遺はいつもの無表情である。

 賈駆は袁遺が持ちこんだ書簡を片手に言った。

「……確かに良くできてるよ」

 その言葉には隠しきれない負の感情があった。

 賈駆はかつて袁隗に言ったように財政の立て直しに取り組んだ。

 彼女が目を付けたのが塩と鉄であった。このふたつの専売制の復活を目論んだのだ。

 はっきり言えば、良くある手段だった。

 古くは斉の桓公を覇者に押し上げた管仲の塩の専売に始まり、漢の武帝も外征で逼迫した財政を再建するために行っている。さらに新の王莽も行っているが官の不正が多発したため酷く評判が悪かった。

 ただし、『塩鉄論』からも分かるように漢代では常に議論を呼ぶ政策である。

 今回も議論を呼んだ。

 儒者が「国家が民間と利益を争うことは不徳なことである」とこの手の国家による流通経済への介入の是非でよく言われる文句を付ける。

 もちろん、それだけではなく中には理のある反論もあった。

 後漢では四代目である和帝の時代に塩鉄専売制は廃止されている。後漢書和帝紀に曰く「罷鹽鐵之禁、縦民煮鋳」―――塩鉄の禁止をやめ、民は(塩を)煮る(鉄を)鋳造するをほしいままにする。

 そして、そこから塩鉄税を取り、その徴税業務を郡国、つまり地方に移管した。

 地方に塩鉄税の収入がいく結果になったが、地方官の俸禄を半銭半穀にすることにより中央への田租(田地に課された租税)の転漕を増加させた。

 だから、賈駆がやろうとしていることは地方の権益を削ることであり、各地の反発を呼ぶのは必至だった。

 それを袁紹という大きな敵がいる状況でやるのは、時期尚早なことだと反対しているのだ。権益を削り過ぎると彼らが袁紹側に寝返るかもしれない。一理ある。

 賈駆の塩と鉄の専売制案は一時頓挫した。それでは財政の立て直しができない。

 そんなとき、袁遺が財政再建についての意見書を持ってきたのだった。

 洛陽令の領分ではないが、後将軍として遠征する金がありませんでは困ると、ひとつの意見としてそれを持ち込んだ。

 余談になるが、このとき袁遺は軍の再建を終えていた。いくつかの問題も残っていたが、糧秣の手当てと金の問題さえ解決できれば十分に実戦に投入可能だった。

 袁遺の持ち込んだ案に話を戻す。

 それは市租などの商業関連税を中心に税率を引き上げものだった。ただし、生活必需品を扱うような零細商人は手厚い保護を行う。

 この増税によってどれだけの影響を民が受けるかもの試算も出ていた。何夔の仕事だった。その試算を信じるなら民が離散しない限界であった。賈駆はその数字に説得力を感じた。自分の感覚と一致したのだった。

「良くできているけど……」

 だが、問題点も存在した。

「それに伴い地方官の治績は十常侍の専横により荒廃した田畑の回復の度合いによって評価する、か……」

 それが問題点だった。

「まずいですか?」

「まずくはないけど……」

 賈駆が答えた。

「微妙な問題ね……」

 以前にも書いたように売官が行われていた時代には任地で税を必要以上に徴収し、それでさらに上の官位を買うというのが、よくある出世の仕方だった。その結果、税を払えない民が耕作地を捨てて流民になったり、溜まった不満が爆発し黄巾の乱へと発展した。

 つまり、その放棄され、荒れた田畑の回復を地方官にさせようというのだった。

 一見すれば理が通っている。それに田畑の回復には農民の手が必要なため、必然的に売官が行われていたときのような滅茶苦茶な不正もできない。何故なら、民に逃散されれば田畑の回復もできないから評価も上がらず出世もできない。

 だが、これは地方豪族―――名士たちの不満を貯め込むことでもある。流民化した者たちの落ち着き先は大抵が名士たちの私有地の小作人であるためだ。

 名士たちからすれば自分たちの所に来る労働力が減るわけである。

 しかし、彼らも表立って不満を口にしたりしない。

 当たり前だ。自分の所の小作人が増えることを望み、漢王朝に悪政を大声で求めるなど自分たちの名声を傷付けることである。これも以前に話したが、この時代は名士間の評判は重要なことである。それが傷付くのは損しかなかった。ここが賈駆の塩鉄の専売制と大きく違うところだった。

 これらのことは袁遺も賈駆も分かっている。

 では、それを踏まえてどんな問題が起こるのかと問われれば、賈駆は答えることができなかった。

 即叛乱を起こすほど名士たちは短絡的ではない。

 それにこの評価基準に反対しようにも袁隗が陳蕃に倣うと太傅に就任して以来、反宦官の動きを良しとする風潮があるため、反対することは下手をすると濁流派の汚名を着せられるかもしれないから声を上げにくい。

「大きな問題ではないかもしれないけど、小さな不満を貯め込むことになるわよ。それが袁紹を肯定的に取るかもしれないし……」

 現在の袁紹の支配体制は一言で表すなら、力による支配だった。

 漢王朝の反逆者という立場にある袁紹は自身の権力を儀礼主義で鎧うことはできない。だから、力に依るしかなかったが、同時に儀礼主義にはある種の煩雑さがある。そのため賈駆や袁遺がこうやって頭を悩ませていることは袁紹には彼女に力がある限り無縁なことだった。

 そのある種の単純明快さが名士たちの目に眩しく映るかもしれなかった。

「袁紹に付け込まれると?」

 袁遺が尋ねる。

「そこまでは言わないわよ。だから、微妙な問題なのよ」

 名士の特性上、彼らは名声に縛られる。だから、この手の名声に関することにはその動きが鈍くなる。

 賈駆は眉間にしわを寄せて唸った。

 彼女は自分の中にある不安が何か分からなかった。

 袁遺の持ってきた案は良くできていた。問題もあったが、そんなに大きな問題でもない。それでも賈駆の胸の内には不安が渦巻いていた。

 その不安の正体が何か気付けないのは彼女のプライドと良心が邪魔しているからだった。

「……太傅はどう思われますか?」

 董卓が言った。

「名士の動きに一番お詳しいのは太傅です。意見をお聞かせください」

 それに賈駆たちの議論を見守っていた袁隗が口を開く。

「伯業の案はそう悪いものではないと思う。もちろん問題もなくはないが、大きな声で反対しづらいものだ。名士が大きく反対して、例えば先のような連合を組むなんて武力に訴えることにはならない」

 それから袁隗は一呼吸おいてから言った。

「真に問題があるとすれば、塩鉄の専売制にしろ、地方官の評価基準の見直しにしろ、袁紹という存在が問題を複雑化していることだ」

 そこまで言ってから、袁隗は声色を変えた。

「伯業、そのことを分かっているか?」

 何かを掴んだ男のみが宿らせることができる力がそれにはあった。

「はい、太傅」

 袁遺は答えながら、袁隗の内心について思考を巡らせた。

 袁紹のせいで問題が常に複雑化され余計な制限を加えられる。まったくの無駄なリソースを使わさられている状態だ。そんな状況を一刻も早く打開―――袁紹を取り除くことこそが事実上軍権を握っている袁遺の仕事であった。だから、この意見書の提出は本来の仕事ではない。

 だが、軍を動かし続ける資金がなければどうしようもない。その点を汲んで今回は間に入ってやるから、速やかに袁紹軍を撃破しろ。

 そんな意味のものを言外に含ませていた。

 叔父上に貸しをひとつ作ったかな? 袁遺は思った。

 袁隗も自分が含ませたものをこの聡い甥が読み取るだろうと断定して董卓へと向き直った。

「司空、伯業の意見には見るべき点が多々ある。検討してみてはどうだろうか?」

 袁隗の言葉を受けて董卓は賈駆に視線をやった。

 賈駆は苦い表情で頷く。その後で董卓は袁隗と袁遺に視線を移した。

「袁将軍、貴重な意見ありがとうございます」

「ありがとうございます、司空」

 袁遺は頭を下げた。

「司空、地方官の評価についてだが、これは陛下に詔勅を発していただかなくてはならない。その儀についていくつか相談がある」

 袁隗が言った。

 権威付けのためには儀式的な手順が必要であった。

 そして、それは今度こそ袁遺が口出しできる問題ではなかった。

 袁遺は退室の旨を口にする。兵の訓練の様子を見てくると言った。

 彼は退室する前に頭を下げた。

「出過ぎた真似をしてしまいました。お許しください」

 それは董卓と賈駆、ふたりに向けられた言葉だった。

 

 

 退室する袁遺の言葉を賈駆は素直に受け止めることができなかった。心に正体の分からぬ、わだかまりが残っている。ただ、それが袁遺によってもたらされたことだけは理解していた。

 袁遺の意見書には人口の多寡と農耕に適した土地、それらの各地の違いを考えて人口や農地の比率、前年比、さらに住民の定住具合などの要素を勘案した評価の基準も作ってあった。

 これも良くできている。そのまま使えそうね。

 賈駆は目を通して思った。そして、心の中のわだかまりがより一層大きくなる。

 話は詔の文書の草案と布告の時期などの事務的な話に移る。

 文書の草案については袁遺の推挙人であり、袁遺が袁紹と戦ったため土地を追われ洛陽へとやって来た張超に任せることになった。

 私有地と多くの家財を捨てさせたということもあり、洛陽に張超が来てから何かとそれに対して報いるように董卓たちは取り計らっている。同時に彼は草書の達人で文才豊かであるため適切な人選でもあった。

 余談になるが、張超は現在、洛陽の南宮東観で史書の編纂に参加している。後にこれが『東観漢記』となるが、本来なら張超は『東観漢記』の編纂に関わらない。これも袁遺という異物がもたらした影響だった。

 その話の最中でも賈駆の表情にはほんの僅かの曇りが見えていた。

 賈駆自身には理解できない原因によってもたらされたそれであったが、袁隗はきっちり見通していた。

「……伯業が怖いか?」

 董卓が小さく、えっと声を漏らす横で賈駆は表情を万華鏡の様に変化させる。

 何を……と怪訝な表情を浮かべたが、すぐに袁隗の言葉から自分の胸に痞えていたものの正体に賈駆は気が付いた。その瞬間に賈駆はある意味で醜態を見られたことと自分でも気付けなかった心の動きを読まれたことに恥ずかしさと怒りを覚えた。顔が熱くなるのを感じる。

 立ち上がり、衝動に任せて何かを叫ぼうとしていた彼女は固まった。

 目の前の男はそんな風にぞんざいに扱うことが許されない立場の人間だったし、その男が浮かべている自分自身さえも突き放した様な表情に、冷水を浴びせられた様に感じた。

 賈駆は拳を無意識のうちに握り込んでいたことに気付き、それを解いた。

 そして、董卓が心配そうにこちらを見ていることにも気付いた。

「大丈夫だから……」

 賈駆はそう言いながら腰を下ろした。

 だが、顔から熱が引かない。しかし同時に背筋が凍るような冷たさも感じていた。

 そうだ、ボクはあの男を恐れている……

 わだかまりの正体は袁遺への恐怖だった。

 反董卓連合が崩壊した理由は今まで散々述べてきたが、連合を組むことによって生じる利益が参加した諸侯全体に行き渡らなかったことである。

 それは現在の漢王朝にも当てはまることだった。

 袁隗と董卓の協力体制は漢王朝の存続と立て直しにおいて必要性と利益があると双方が認識しているから結べている。

 だが、袁隗たちが受け取る利益が少なくなっていないか? そんな疑問が賈駆の中で無意識に芽生えてきたのだった。

 今まで、戦争と外交は袁遺が中心になって行っていた。そして政治は董卓と賈駆が中心になって行うはずであった。

 しかし、いきなり財政の立て直しで躓いた。

 そして、袁遺の助けが入った。

 もしも、この一件で袁隗や袁遺が董卓や賈駆を司空とそれを補佐するに相応しいだけの能力を有していないと受け取ったら、董卓や自分自身がどうなるか。それを考えると恐ろしくなった。

 今の漢王朝には無能はおろか平凡な人物でも政治の最高責任者を任せる余裕はない。間違いなく排除される。

 それには確信があった。何故なら、軍事でも同じだからだ。

 もし袁遺が無能や並の指揮官であったら、彼を排除し自分がその代わりを務める気で賈駆はいた。

 だが袁遺は並外れて有能であったため、それは行わなかったが、果たして自分たちは袁遺や袁隗たちに有能と思われているだろうか。こんな風に助けられた自分が。政治も袁遺に任せた方が良いと思われていないか。

 そんな恐怖と恥と怒りが心中を支配する賈駆に袁隗が口を開いた。

「今、伯業が最も恐れていることが分かるかな?」

「……」

「遠征軍の司令が最も恐れていることだ」

「何でしょうか?」

 董卓が尋ねた。

 袁隗はそれに賈駆に視線をやった。

「……讒言ね」

 賈駆にも袁隗の言いたいことが分かった。

「そうだ。自分が遠方にいる間に陛下に讒言を吹き込まれることを伯業は最も恐れている。遠方にいる自分は弁明ができず、知らぬ間に窮地に立たされるからだ」

 これは自分にも言えることだが、と前置きして袁隗は続ける。

「特に伯業は従妹の本初が朝敵として黄河の対岸に大戦力を築いているという格好の狙い目まであるからな」

 袁隗は賈駆が袁遺に与えることができる利益の一例を示していた。

 讒言から袁遺を庇い、洛陽を留守にしている彼を罷免や処罰から救ってやる。確かに袁遺はそれを利益だと思うし感謝するだろう。

 また、袁遺が遠征を行わなくてよい立場になったときとは敵がいなくなったときであり、それはつまり袁遺が用のない猟狗になったときでもある。だから、双方が提供できる利益の消失でもあるから一時しのぎでもない。

 賈駆は袁隗を見た。

 彼の表情は先ほどと変わらず自分自身さえも突き放した様な醒めた感じがあった。

 賈駆は、なんで自分にこんな助言をしたのかと尋ねなかった。

 これも袁隗の提供できる利益のひとつなのだろうし、名士や重臣たちの間を取り持っている袁隗の仕事のひとつだった。袁隗は自分のやるべきことをやっている。賈駆にはそれが理解できた。そして、思った。朝廷で生き残るということはこういことだと。

 ならやってやる。賈駆は思った。それこそが董卓を生き残らせることだから。

 

 

 袁遺が洛陽城外の演習場へと到着したとき、張郃の部隊が訓練を行っているところであった。

 人工的に土を盛り上げ、小高くなった場所で自分の部隊の訓練の様子を見ていた張郃は主君である袁遺に気付き礼を取ろうとしたが、それを袁遺は片手を挙げて制した。

 袁遺は張郃の横に並ぶ。

「補給部隊とその護衛が襲われるという想定の訓練です」

 張郃が袁遺に状況を説明した。

 編成された張郃の部隊は六〇〇〇。通常の内訳は実戦部隊が四二〇〇、兵站部隊が一八〇〇だった。後代の言葉で言うなら旅団である。

「兵站部隊の詳しい内訳を」

 袁遺が言った。厳しい教師が生徒に復習の度合いを試すような調子だった。

「輸送車両が四〇両。現在は道幅に二両並べる余裕がないと想定しているため馬車は一列で進ませています。馬車五両ごとの前後に騎乗士をひとり配置、その五両の真ん中の馬車には弩と弓矢を装備した兵士をふたり荷台に潜ませてあります。その周りを一二〇名の歩兵と六〇名の騎兵に守らせています。馬車を横に二両並べずに一両のみのため行進長径が長くなったので、実戦部隊の騎兵の一部を護衛に回しました。人員は非戦闘員六〇〇名と護衛名一四六四になります」

 張郃は袁遺の問いにスラスラと答えた。

 おそらく現在の中華で最も兵站の管理と輸送に秀でた袁遺の下で長年指揮官をやって来た男である。袁遺が今まで兵站輸送で取ってきた護衛方法を学び、それに自己流の工夫も加えていた。袁遺自身はアメリカがベトナム戦争で行った護送船団(コンボイ)方式とナポレオンの輜重大隊の編成から着想を得ている。

 袁遺は張郃の答えに無表情な顔を崩して、満足そうに頷いた。

 輸送部隊を控えていた騎兵隊が襲った。

 その部隊は張遼と彼女の麾下の兵たちである。凄まじい速さだった。

 だが、護衛兵たちも素早く対応し、馬車を守っている。

「おッ」

 袁遺が思わず声を上げた。

 護衛部隊の騎兵の中でひとり、目立つ働きの人物がいたからだ。若蘭―――姜維だった。鮮卑族仕込みの騎乗術は張遼隊の騎兵たちに勝ることはあっても劣ることはなかった。

「伯約はさすがですね。騎乗術は卓越していますし、指揮にも光るものがあります。要領もいい」

 袁遺は要領がいいという言葉にのみ、そうかと相槌を打った。

 張郃はそれにこの人は相変わらずだなと思った。

 しばらくして、張郃は傍らに控えていた楽隊に訓練終了の銅鑼を鳴らす様に命じた。

 護衛部隊は馬車襲撃の報を聞きつけた戦闘部隊が到着するまでの時間を稼ぐのが目的であった。

 戦闘は終結し、医療部隊が負傷者を見て回る。張郃は輸送車両の損害を確認していた。

 袁遺は丘の上で先程の戦闘を思い出していた。

 兵の仕上がりは良い。十分に満足のいくものだ。ただ、俺が満足する程度の練度ということは……

 そこまで考えると、袁遺は視界に張郃が戻ってきたことを捉えた。

「被害を受けた車両の数と被害の規模です」

 張郃が書簡を差し出した。

 袁遺が受け取って目を通した。大した規模ではなかった。

「張校尉、戦闘を行わないと仮定して君の部隊は一日にどのくらいの距離を進める?」

 袁遺が尋ねた。

「兵站に問題がなく先の連合との戦いのような手厚い脱落対策が受けられるなら、六〇里(三〇キロ)~六四里(三二キロ)は可能です」

「よし、良い仕上がりだ。ご苦労」

 袁遺は張郃を労い、一呼吸おいてから続けた。

「では、例えば孫策の部隊と平野で決戦するとしたら、どうだ? 勝てるか?」

 張郃は達筆家によって書かれた様な力強さを持った眉を下げながら答えた。

「こちらが敵の三倍の戦力なら……もしくは敵が後ろでも向いていれば……」

 苦いものが含まれた声であった。

 袁遺はそれを聞きながら思った。

 そうだ、俺が満足するということは正面戦闘という点なら、例えば孫策や華琳は絶対に満足しない水準なんだろうな……まあ、好みの問題だ。正面戦闘が強い部隊より一日に三〇キロ以上歩ける旅団規模の軍の方が俺の好みだ。

「まあ、微妙な問題だ。忘れてくれ。君は本当に良くやってくれている。これからも頼むぞ」

 袁遺は言った。

 

 

 袁遺たちが再び戦場に赴くときは近かった。

 




補足

・項伯
 項羽の叔父。
 鴻門の会で劉邦を助け、劉邦の父が項羽に煮殺されそうになるのを助け、楚漢戦争末期に項羽から離反して、漢の封爵を受け、姓を劉氏に変える。
 中々の節の曲げ方だよな。

・塩鉄論
その名の通り、前漢の塩と鉄の専売制を巡る議論をまとめた書物。この時代の社会や経済、外交の実態を知る資料としても有用である。

・和帝の時代に塩鉄専売制は廃止されている
 実はこれ以降の後漢の塩鉄の専売制について良く分かっていない。
 というのも、この和帝の記述以降、後漢書では塩鉄の専売制についての記述が全くと言っていいほどないからだ。
 一応、関羽が塩の密売をやっていたという逸話もあるが、それは伝説の域を出ていない。後は蜀で諸葛亮が塩の専売を行っている程度であり、後漢末期がどうであったかいまいち分からない。
 だから、この時代でも塩鉄の専売制は行われていないと考えました。
 何か後漢末期の塩鉄専売制について見落としがあればご指摘ください。



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13~14

 原作では、春蘭の部隊の将として、名前だけ出て来た韓浩ですが、この二次創作ではガッツリと捏造が入っていて、ほとんどオリキャラです。ご了承ください。
 あと、この二次創作では、鼻血軍師がそんなに鼻血出さない……


13 分進合撃

 

 

 青州黄巾党を取り込んでから、曹操は精力的に内政や軍の編成を行った。

 まずは投降した黄巾党の中から精兵を三万選び自軍に編入し、残りは兗州で陳留郡以外の王朝の腐敗によって放棄された農地で農耕をさせた。

 そして、彼女は人材を求めた。

 元々、彼女は人材には貪欲なところがあったが、反董卓連合が解散して以降、それはさらに強いものになっていた。

 また、いきなり陳留太守から兗州牧になったということもあり、人材が明らかに不足しているという切実な事情もある。

 特に、曹操の軍師の荀彧は内政、軍の編成と袁遺の戦術の研究、黄河以北の袁紹に対する防衛線構築、それに各地の諜報活動の指示と完全にオーバーワークであり、このままでは潰れることが目に見えていた。

 だから、広く軍師となる人材を曹操は求めた。

 多数の応募と荀彧の推挙により、多くの才人が集められた。

 いくつかの課題で意見を書かせ、その中で見識が広いと思った人物と面会し、曹操自らが言葉を交わし、ふたりの腹心として共に大業をなせる人物を曹操は得た。

 程昱と郭嘉である。

 もちろん、他にも多数の武官、文官を登用したが、中には数奇な運命で曹操に仕えることになる者がいた。

 その人物とは韓浩である。

 彼女は反董卓連合に義勇軍を率いて河内太守の王匡と共に参加した。

 そして、王匡が戦死した後、彼の残存部隊を率いたのだが、連合は解散してしまう。

 韓浩は何とか兵たちを故郷に帰してやろうとするが、王匡の死、連合の解散、乏しい食料と軍律が緩む条件下での行軍は厳しく、その足取りは重く、多くの脱落者を出す。

 やっとの思いで兗州の延津までたどり着き黄河を越えようとするが、黄巾の残党などの賊が跋扈しているため足止めを喰らう。そんな韓浩たちを打ちのめす情報が彼女たちの耳に入った。

 新たに張楊が河内太守に任命された。

 董卓側の人間が河内太守の座に就いたという事実は、反董卓連合に参加した王匡の残存兵に大きな衝撃を与えた。董卓に逆らった自分たちは故郷に帰れないかもしれないと絶望の淵に叩きこまれたのだ。

 韓浩はそんな兵たちを励まし、自棄になって暴徒化することを何とか防いでいた。

 そんな彼女たちを救ったのは新たに兗州牧に就いた曹操だった。

 韓浩が兗州にいることを聞き、その名声を知っていた曹操は夏候惇を派遣して韓浩を招いた。

 面会し、彼女の事情を聴いた曹操は袁遺に使者を送り、故王匡軍の兵の河内帰還を叶えてやった。

 それに感激した韓浩は率いていた義勇軍共々、曹操に仕えることになった。

 ただし、韓浩は複雑な思いだった。

 彼女と共に連合に参加した王匡は戦死した。だから、敵だった袁遺は王匡の仇であるはずだった。その仇と手を結んでいる人物に仕えることになった。これでは仇を取ることができない。

 韓浩は曹操に感謝しているし、その聡明さや君主としての態度に尊敬の念も持っていた。そして、袁遺にも恨みはない。ただ、王匡の仇を取らぬことは没義道な行為ではないかと、義侠心から韓浩は小さな疼痛を感じていた。

 この韓浩の思いが解消されるには、そんなに時間を要しないのだが、当然そのことは誰も分からない。

 ともかく、袁紹軍の南進の壁としての役割を担わされている曹操は急務であった自軍の強化を着々と成し遂げつつあった。

 曹操に徐州の事変が伝えられたのはそんな状況下であった。

 

 

 曹操が新たに軍師として登用した郭嘉と程昱に命じた仕事は対袁紹の防御線の構築であった。

 彼女たちは曹操に仕える前から面識があり、見分を深めるために共に天下を回っていた。

 ふたりは軍を配置しつつ、同じように文官の募集に応募して曹操に仕えることになった棗祗(そうし)の屯田制の案を受け入れ、兵たちに屯田を命じた。その他にも防備を整え、袁紹領に細作を放ったりと、いろいろ取り組んでいたのだが、徐州に異常ありという報告が入ってきた。

 それについて協議するために曹操は定陶(ていとう)に荀彧と郭嘉を集めた。

「徐州で叛乱が起きたわ。桂花、詳しい状況を」

 曹操に命じられて桂花―――荀彧が続けた。

「下邳郡太守の笮融が彭城の薛礼と組んで、陶謙からの自立を宣言して徐州で暴れ回ってます。笮融は以前から兵糧輸送などの物資を奪って自立の機会を窺っていたようです」

「それに対して徐州牧の陶謙はどのような対応を取っているの?」

「それが何も。ただ(たん)城の守りを固めて城に籠ったきりです」

「じゃあ、徐州で笮融に対して動いている軍はいないの?」

「広陵太守の張邈が兵一万を率いて出陣しています。都からの援軍が来るまでの時間を稼ごうとしているようです」

 荀彧の報告に曹操は、そう、彩雲が……と小さく呟いた。そして、心の中で思った。やっぱり、私や伯業相手以外とは戦うのね。

「これは徐州の豊かな土地である下邳、彭城、広陵を押さえられたために如何に徐州牧といえども大量に兵を動員することができなかったということです」

 荀彧が補足する。

 広陵の太守である張邈は陶謙寄りというより、袁遺寄りである。

「で、問題はこれに袁紹が呼応して南進してくるかどうかね」

 そう口にしつつ曹操は視線を郭嘉の方へ向けた。

「あなたはどう思うかしら、稟」

 その視線は稟―――郭嘉を試すような挑発的なものだった。

「はい」

 郭嘉はそれを真っ正面から受け止めて口を開いた。その気概こそが曹操が郭嘉の最も気に入っている部分であった。

「袁紹の南進の可能性は低いと思います」

「何故?」

「放った細作からの情報によると、袁紹が軍を黄河に集めるなどの渡河の動きを見せているといったことはありません。しかし、董卓・袁隗側が笮融の鎮圧に手間取った場合、その限りではなくなります」

 郭嘉は一呼吸置いてから続けた。

「鎮圧に時間を掛ければ掛けるほど各地の袁紹から叛乱や独立、寝返りを唆された勢力が一気に動き出すはずです」

「……でしょうね」

 曹操も郭嘉の意見に賛成だった。荀彧も異を唱えなかった。

「間違いなく鎮圧には伯業が出てくるわね……」

 曹操は脳裏に、あの無表情な顔を浮かべながら、地図で洛陽から徐州の下邳、彭城周辺までを指でなぞった。

「洛陽から徐州まで行軍するとしたら、どのくらい掛かるかしら?」

「軍の規模にもよりますが、普通の軍なら一月は掛かります」

 郭嘉が答えた。

 洛陽から徐州の下邳、彭城周辺までは約四八八キロ。それを陸路で移動しようと思えば、二度の糧秣の補給をしなければならない。以前にも書いたが、馬車で兵量を輸送する場合、二〇〇キロの地点で馬の秣が無くなってしまうからだった。軍の規模が大きければ大きいほど、その時間は長くなる。

 これは郭嘉のみならず、殆んどの諸侯やその軍師たちが一月は掛かると予想していた。

「一応、風が鄄城(けんじょう)で袁紹の南下に対しての対策を取っています」

 郭嘉が言った。風とは程昱の真名である。

「そう、風には念のため続けさせなさい」

 曹操は命じながらも心の中で袁遺が速やかに笮融たちを鎮圧するだろうと考えていた。根拠はない。ただ確信があるだけだった。

 

 

 徐州の変事はすぐに洛陽にも伝わり、袁遺に笮融討伐の詔が下される。

 彼が事実上の全権を握っている軍の数は反董卓連合との開戦当初の五万にまで回復していた。

 袁遺はそのうちの半分である二万五〇〇〇を率いて出陣することになった。

 その内訳は張郃隊六〇〇〇、高覧隊五〇〇〇、雷薄隊五〇〇〇、陳蘭隊五〇〇〇、本隊は四〇〇〇である。張郃隊には王平と若蘭―――姜維が将校として所属している。雛里、司馬懿は袁遺の本隊にいる。また、それぞれが独自に補給できるように兵站部隊が加わった数字である。

 出陣前の袁遺に賈駆が話しかけてきた。

「あんたなら言わなくても分かっているかもしれないけど、時間は掛けられないわよ」

 時間を掛け過ぎて袁紹や各地の反董卓・袁隗勢力に攻めるには今だと思われてはいけない。むしろ、素早く鎮圧してプレッシャーを与えなければならなかった。

「はい、分かっています。それより……」

「分かっているわよ、糧秣の手当てと張邈の褒美についてでしょう。両方ともあんたの言う通りにしておいたわ」

 賈駆の言う糧秣の手当てと張邈の褒美とは、前者は税の前払いという形で各地の太守、県令から糧秣を徴収できるよう許可を取ること。後者は軍を動かした張邈への配慮だった。

「ありがとうございます」

 袁遺は頭を下げた。

「別にいいけど、本当に霞……張遼や呂布じゃなくてもいいの?」

 賈駆が尋ねる。もし彼女が鎮圧の指揮を任された場合、このふたりの騎兵の機動によって早期決着を狙うからだった。

 だが、袁遺はそれを否定した。

「騎兵は大飯喰らいですから―――」

「そんなの分かっているわよ! どうしても糧秣の特に秣の量が増えるから、それほど進軍速度が上がらないって言うんでしょう。それでもあのふたりの部隊の方が速いでしょう?」

 普通なら賈駆の言う通りであったが、再編した袁遺の部隊では事情が異なった。

 もっとも、そのことを今、賈駆に説明している時間がなかったために袁遺は、

「董司空の手元にも動かせる部隊があった方が良いでしょう。それなら私の将ではなく、張将軍や呂将軍の方が良いのでは?」

 とだけ言った。

「それはそうだけど……」

 賈駆は袁遺の言い分を納得しながらも、腑に落ちない様子だった。

 そして、袁遺がこれからやることを目にしたとき、賈駆は逆に腑に落ちながらも、納得することができなかった。

 袁遺は自分の予想を遥に超える速さで笮融を討伐してしまうからだった。それは賈駆にとって、自分は袁遺に敵わないと突き付けられたように感じた。

 

 

 袁遺が、この洛陽~徐州の彭城までの道程で行ったのは分進合撃による戦略的な展開だった。

 展開とは所要の時期、場所に部隊が良好な状態で到着し、作戦、戦闘に最適な状況と態勢をとることであり、戦略的なとはそれを点である戦場ではなく、もっと大きく広い戦域で行うことである。

 そして、分進合撃とは軍を一本のルートで行軍させるのではなく、分散して複数のルートで機動させた後に集まって敵を攻撃することである。

 だから、袁遺もそれぞれの旅団を五つのルートで進ませた。

 しかし、分進合撃が体系化されるのはオーストリア継承戦争や七年戦争あたりであり、袁遺の部下たちがそれを行うのは当然初めてであった。

 なら混乱が起きるはずであったが、彼らに大きな混乱はなかった。

 何故なら、彼らがやるべきことは今までも袁遺に求められてきたことだからだ。兵を疲れさせず、脱落させず素早く進ませる。袁遺が常に部下の将校に求めていたことだったし、特に付き合いの長い四将はそれができるからこそ校尉にまで出世ができた。

 だから、起きた問題に対しても彼らは素早く対処した。それだけの部隊運用能力と柔軟性が備わっている。

 もちろん、彼らの能力を越える事態も起きたが、それを対処する準備も袁遺は用意していた。

 それが参謀団だった。

 その一例を見てみよう。

 この軍旅で最も長い距離の行軍を行ったのは張郃の旅団であった。

 彼らは早々に司隷から豫州へと入り、符離から徐州に進攻して張邈と合流すると笮融たちに思わせるのが目的だった。

 そんな張郃の旅団に数十騎が近づいてきた。

 それに一番初めに気付いたのは、旅団の先頭を行く威力偵察部隊であった。

 隊長は王平で、本隊から約二〇〇メートル先を行く。さらにその先二〇〇メートルには下士官ひとりと二〇名の兵が先行し、ふたり一組の斥候を交代で二〇〇メートル先に出している。また、威力偵察部隊の左右三〇〇メートルのところに下士官一名と兵四名が斥候に出ている。

「参軍(将軍の幕僚)の司馬季達であります! 張校尉はいずこに!?」

 騎乗の一団のひとりの女性が大声を上げた。

 彼女は司馬馗。司馬防の三女で、司馬懿の妹である。

 それに兵のひとりが、あちらですと応じた。

「忠義校尉殿」

 司馬馗が張郃を見つけて、礼を取った。その所作に彼女の兄である男の面影を見つけながら、張郃も応じる。

 彼らは行軍中のため、並走して話す。

「問題はありませんか?」

 司馬馗が尋ねた。

「ある」

 張郃は答えてから、声量を落として続けた。

「予定通りに進んでいるが、このままでは、たた目的地に到着できるというだけで戦闘力は極端に低下する」

 如何な張郃でも能力の限界があった。五つのルート中で最も長い道のりを進まなければならないのである。無理は生じる。

 張郃はそれを素直に告げた。袁遺がそうすることを望んでいるからだ。

 トップにとって必要なのは率いている組織が有している本当の能力を把握し続けることであり、『上手くいかないこと』や『やれるだけやった現状』を明確に伝えないことこそ、袁遺が許さないことだった。

 そして、司馬馗たちはただの伝令ではなく、参謀である。問題を解決するために本隊から送り込まれてきたのだ。

 分かりました、と司馬馗は答え、一緒にやって来た部下からいくつかの書簡と地図を受け取り、何かを照らし合わせる。それから地図を示しつつ、口を開いた。

「陳の町に、二頭立ての馬車が二〇両、確保してあります。それをお使いください。ただ―――」

「分かっている。ただ、今日中に陳に到着しなければ、予定より遅れると言いたいのだろう?」

 張郃が言葉を遮った。袁遺の下で将校をやっているのである。それくらいの計算はできる。

 張郃は前途に光がさした様な気がした。

 二頭立ての馬車二〇両が手に入るなら、いくらでもやりようがある。おそらく三分の一は馬の秣を運ぶために使うが、残りは兵の荷物や疲れた兵自身を乗せてやることができる。かなりの楽ができるはずだ。今日中に陳に着かなければならないのは確かにつらいが、行った先で楽ができることを兵に伝えてやれば、彼らの気分も変わる。

「助かった。それで君たちの方は問題はないか?」

 今度は逆に張郃が尋ねた。

 袁遺によって、やってきた参謀の要求には可能な限り応えろと厳命されていたからだ。

「元気な馬を一〇頭、融通してください」

 司馬馗が言った。

 彼女たちはそれぞれの担当の部隊と本隊を往復したり、ときには町へと先回りして糧秣を整えるといった仕事を行っている。

 そのため、空馬を何頭も引き連れて、馬が潰れたら乗り換え、潰れた馬を食料にして動き回っている。

 張郃は分かったと言って、兵站将校を呼び、司馬馗の望むように整えさせた。

 このような光景は、それぞれの旅団でも見られた。

 高覧にしろ、雷薄にしろ、陳蘭にしろ、彼らは将校や下士官と起こった問題に対処する。それでも無理なことが生じた場合、袁遺によって権限を与えられた参謀たちに相談し、解決を図る。それでも無理な場合、袁遺が他の部隊に指示して全軍の足並みを揃えさせた。

 重要なのは共通する目標に、全軍が同じタイミングで到達することである。

 だから、袁遺の本隊、その参謀本部には各地を移動する参謀から情報がひっきりなしに入ってくる。

「高校尉の手勢が兗州から豫州へと入りました。これで全ての部隊が豫州に入りました!」

「杼秋での糧秣の補給の準備が整いました!」

「張広陵太守は徐州の僮あたりに軍を駐屯させているようです!」

「笮融軍は現在、下邳周辺に駐屯しています!」

 報告の度に地図の上に色のついた石が置かれ、兵糧や馬の数が用意されると書簡にそのことを記し、参謀たちに情報共有される。

「糧秣に問題はないな」

 袁遺は報告を聞き、地図を見ながら呟いた。

 この軍旅が始まって以来、袁遺は常にそのことを気にしていた。

 今まで彼は馬車限界を越えない二〇〇キロの範囲でしか戦争をやったことがなく、今回のような五〇〇キロ近い戦域で戦争を行うのが初めてだったからだ。

 これまでのような方法で糧秣を補給し続けることはできない。

 だから、袁遺はやり方を変えることにした。

 まず初めに思い付いたのは船を使うことだったが、すぐに不可能な思い付きだと破棄した。

 開封が首都で水路が整備されていた宋の時代ならともかく、後漢末期ではそこまで河川が整備されていない。河がつながっているいないの問題ではなく、堰や閘などの水位の違う場所を進ませるための堤や水門がないからだ。

 そこで袁遺が採ったのはハンニバルやカエサル、テュレンヌ、ナポレオンが行った方法であった。

 後方連絡線の維持を同盟者に任せる方法である。

 袁遺はそれぞれの旅団に三~四日分の食料を持たせて、行軍の途上の町で細かく補給を行うことにした。

 全軍二万五〇〇〇の補給を一ヶ所で行うには時間もかかるし、必要量が手に入らないかもしれないが、四〇〇〇~六〇〇〇なら何とかなる。親董卓・袁隗勢力の地域を通るため各個撃破される心配もない。

 税の前払いとして、食料や秣、金を各地の県令、太守から徴収する。

 また、税を納める必要がない郡国の中には自ら進んで、食料や軍需物資を差し出すところもあった。

 もし、袁紹に漢王朝が打倒された場合、各地で王に封じられている劉氏は、その地位を失うことになる。保身のためには袁遺に負けてもらっては困るという事情があった。

 将の献身と参謀の頭脳、そして、それらをここまで作り上げた袁遺の執念が軍勢を加速させ、多くの諸侯が一月近くは掛かると予想していた徐州まで、半分の十五日足らずで到着した。一日平均約三三キロという速さだった。

 張郃が符離(ふり)、袁遺が杼秋(ちょしゅう)、雷薄が(しょう)、陳蘭が(しょう)、高覧が()と全部隊が豫州と徐州の州境の近くに到着した。

 袁遺は、そこから張郃の旅団を徐州へと進ませ、張邈軍に合流させようとした。

 これは笮融への欺瞞だった。

 笮融はまさか、こんなに早く袁遺が到着するとは考えておらず、その注意を張邈へと注いでいた。

 そんな中で突如出現した六〇〇〇の軍に彼は驚いた。笮融はその六〇〇〇の軍の正体を確かめようと、さらに下邳の南に注意を払うことになる。

 だが、このとき袁遺ら四つの旅団は、まだ合流せずに素早く笮融の軍の北側に回り込んでいた。

 袁遺は高覧、雷薄、陳蘭の旅団に笮融軍を背後から攻めるよう、伝令を送ろうとしたが、それを雛里が止めた。

「お、お待ちください。ここは予定戦場の少し手前で一旦、三将と合流しましょう」

 雛里の進言に袁遺はいつもの無表情で返した。

「確かに、君がいるからそれもいいが、これからもっと大きく広い戦域で戦うことになるだろう。各旅団長に大きく権限を渡して戦わせることもやっておきたい」

 ふたりの考えの違いは参謀団と分進合撃のナポレオン方式かモルトケ方式かの違いである。

 雛里はナポレオン方式であった。

 雛里の戦術レベルでの指揮や策、その才能と能力は現在の諸侯の中でも匹敵する者を探すのが難しい程である。だから、全軍が彼女の駒として自在に動けば、恐ろしい軍となるだろう。それが証明されたのが、反董卓連合のときの袁紹軍との戦いである。雛里は常に先手を打ち、敵の思惑を尽く封じ込め、遭遇戦で二倍以上の敵を打ち破るという大戦果を打ち立てた。

 だから、全軍を駒とするために戦場の手前で戦力を合一する。

 そして、このナポレオン方式では参謀は頭脳ではない。

 参謀は総指揮官の手足として、情報収集や命令伝達、事務処理に従事することになる。それは些か袁遺の作り上げた参謀団の持ち味を殺し過ぎるきらいがある。

 対して、袁遺のモルトケ方式は参謀本部が全軍の頭脳として全体構想を策定し、各軍団に派遣された参謀が軍団長を補佐する。分進合撃もナポレオン方式と違い、戦場で戦力を合一する。

 若干、言葉遊びにもなるが、こちらは各軍団に命令(オーダー)を下すというより、任務(ミッション)を与えるといった感覚である。

 もちろん、こちらにも問題がある。参謀統帥に陥りやすく、統帥権を与えられるも責任は薄く、最終的に参謀の暴走を招く。

 どちらも一長一短であるが、この場は袁遺の案のままで行くことにした。

 雛里もこれから、もっと大きく広い戦域の戦争を経験するだろうという予感はあった。

 ただし袁遺は、

「今回はこうするが、君の言う通りの戦場手前で集めてからの合撃も必ず起こる、そのときは頼むぞ」

 と雛里へのフォローも忘れなかった。仕えにくい主の袁遺でも、それくらいの心遣いはできた。

 そして、笮融は袁遺の策に嵌った。

 彼は張郃と張邈の合流を防ごうと軍を動かし、その後ろから高覧、雷薄、陳蘭の三人の旅団に襲われた。

 笮融の軍は一瞬にして崩壊した。

 彼らの誰もが何が起きたのか分からなかったのだ。後になって考えれば、後方から敵に襲われたと簡単に分かることでも、意識を向けていた場所とはまったく違う所から攻撃されたのである。虚を突かれたとはまさにこのことであった。

 パニックは瞬く間に広がり、軍の統制は笮融の手から離れた。というより、笮融も薛礼もパニックに陥り兵と共に逃げ惑った。そして、彼らはその混乱の中で命を散らした。

 この戦争は、戦った時間よりも降伏して来た兵たちから、その事実を聞き出す時間の方が掛かったくらいだった。

「参ったな、笮融と薛礼の死体を見つけるのは難しそうだ」

 その報告を聞いた袁遺は頭を抱えた。

 冗談を言ったのかなと思った雛里だったが、その顔がいつもの無表情だったため、本気で言っているようだった。

 そして、この戦争の結果を聞いて同じように頭を抱える者たちが多数存在した。

 それは各諸侯の軍師たちである。

 何故なら、袁遺が行った作戦はどう見ても外線作戦―――相手を複数の部隊で包囲して主導権を握ろうとする戦術―――だったからだ。

 軍師たちは反董卓連合の戦いや袁紹の劉虞・公孫賛討伐の戦いで内線作戦―――複数の相手に挟まれた状態で主導権を握ろうとする戦術―――の方が有利という前提で研究を進めていたのである。それが引っ繰り返された。

 始めから研究のやり直しだよ! 皆が異口同音に思った。

 ただし、袁紹陣営だけが、その研究に遅れることになる。政治的な理由により内線作戦の方が有利と固執してしまったからだ。

 袁紹たちは袁遺の勝因を簡単に背後を突かれて呆気なく潰走した笮融の無能に求めた。

 それが将来、袁紹陣営に大きな災いとして降りかかることになる。

 

 

 笮融を撃破した袁遺は下邳へと入城した。

 そこには笮融が貯めこんだ物資があり、袁遺はそれを接収した。そして、その量を調べる。

 彭城の方にも陳蘭とその旅団が参謀を引き連れて、同様のことをしている。

 その物資は、豫州のいくつかの町に運び込まれることになった。これで、もしまた再び豫州を通って進軍しなければならないときは、そこから糧秣を補給することができる。

 袁遺はすぐに輸送計画の立案を参謀たちと始める。参謀団ができたことで、その効率は以前よりも格段に良くなった。

 その作業の最中、張邈が下邳へと向かって来ていることを知った。

 袁遺はすぐに城門の外まで行き、彼女を出迎える準備をした。

 張邈が軍を引き連れてやって来た。彼女が馬に跨って先頭だった。

 袁遺はそれを確認すると礼を取り、跪いた。今度は張邈がそれに気付き、急いで馬から降り、駆け寄って袁遺を抱え起こした。

「お止めください、袁将軍」

 旧知の仲であるふたりだが、互いに守るべき礼節がある。そのことを弁えた態度だった。

「いえ、張太守には先の袁紹の叛乱軍との戦で命を救われております」

 袁遺が言った。張邈が袁遺の書簡の通りに連合を抜けて帰ったことを言っているのだった。

「それにこの度は笮融と薛礼の叛乱に兵を動かし、彼らの足止めを行って頂きました。そのおかげで私は功を上げることができました」

 袁遺は大げさに張邈を持ち上げた。

 これも書簡に書いた約束の履行だった。

 現在、袁遺という存在はひとつの重みを持っていた。

 太傅であり清流派名士からの信望の厚い袁隗の甥にして、二〇万の軍を四万で破り軍才を示している。今回の笮融討伐でも武名をまた上げるだろう。

 そんな男が丁寧な態度で接するだけで、張邈は周りから一目置かれることになる。

 もちろん、甘い汁を啜ろうとしてやってくる者もいるが、それを排除するくらいのことは張邈ができると袁遺は信じていたし、それくらいできないなら何をやっても生き残れない。そして、それは袁遺の無能ではなく張邈の無能であり、その無能の責任を取るのは袁遺でなく張邈自身である。

 袁遺と張邈は並んで歩きながら、そう言えばあのときはこんなことがあったと昔話に花を咲かせ、久闊を叙す。

 互いが親友であり尊敬し合っていることを(事実ではあるが)大げさに演出する。

 下邳城の一室に酒宴の準備がなされ、袁遺は雛里と仲達を、張邈は妹の張超を伴って席に着いた。

 そこで両者の雰囲気が変わった。

「さて、もういいかしら?」

「ああ」

 張邈の問いかけに袁遺が相槌を打った。

「久しぶりね、伯業」

「うん、久方ぶりだ、彩雲」

 ふたりの間には先ほどまであった、わざとらしい大げさな感じが消え失せ、極めて自然な空気がそれに変わった。

「改めて礼を言わせてくれ、君が笮融を足止めしてくれたおかげで大勝利を上げることができた、ありがとう」

「ただ遠巻きにしていただけだけど、素直に受け取っておくわ」

「うん、そうしてくれ。その方がやりやすい。私は洛陽に帰った後で、君たちに功があったと上奏するつもりだ」

 袁遺の視線は張邈―――彩雲から妹の張超―――景雲に移動する。

「それで、ひとり、この下邳を任させる人材を挙げて欲しい。笮融の空けた席に座らせることになっている。根回しはすんでいる。ああ、もちろん、君の息の掛かった者をだ」

「袁紹が青州から西進して来たときの防波堤として?」

「それもあるが、揚州に対してもだ」

「彭城の方は?」

「司空が適切な人材を置いてくださるはずだ」

「そう、分かったわ」

 彩雲は袁遺の狙いを看破した。

 徐州と豫州の境である彭城・下邳一帯を信頼できる者に任せて袁紹の西進を防ぐ。そのために、徐州の豊かな土地である下邳、広陵を専有させることで力を蓄えさせ、戦力を強化する。それが袁遺の考えだった。また、袁遺が全てを決めてしまうと董卓というより賈駆の立場がないので、彭城の方は董卓側に人選を任せることにした。

 彩雲はしばらく考えると、やおら口を開いた。

「それじゃあ、下邳には私が行くから、後の広陵太守は妹に任せるようにしてもらえるかしら?」

「ちょ、ちょっと、姉さんッ!? ……じゃなくて、太守」

 姉の口から出た言葉に妹の景雲は驚きの声を上げた。

 それに対して姉はどこかのんびりしたような声で返した。

「あ、別にそんな風に畏まらなくていいから。いつも通り、いつも通り」

 それを受けて景雲は袁遺たちの顔色を窺ったが、彼らは別段、気にする風でもなく、泰然としていた。

 逡巡の後で、それならいつも通り行かせてもらうと景雲は口を開いた。

「…………姉さん、そんないきなり決めるんじゃなくて、広陵の皆と相談して決めた方がいいんじゃない?」

「大丈夫、大丈夫。皆、あなたなら文句は言わないから」

 事実だった。

 この姉妹、容姿は似ているものの、姉が幼く見えるのに対して、妹は大人びて見えると人に与える印象は正反対であった。

 それと同じように名士たちから受ける評価も似ているようで、正反対である。

 双方ともに人徳ありと評価されているが、姉はその清廉な人柄で尊敬を集めているのに対し、妹は才知や能力ある人物にはその年齢、身分こだわらずに謙虚に接することから、名士たちは張超のために報恩を尽そうとする。

 簡単に表すなら、姉が敬われているのに対して、妹は可愛がられている、と言ったところか。

「だから、いつも通りやればいいから。実務のことは袁綏(えんすい)に、軍のことは臧洪(ぞうこう)に、名士間の問題については趙昱(ちょういく)を頼れば、上手く治めることができるから」

「姉さん」

「あ、ただし、衛茲は連れていくから」

 彩雲は、じゃないと私の人手が足りなくなるからとカラカラ笑った。

 景雲は小さな声で、姉さんは……と呟き、呆れた様でありながら、眩しいものを見る様な表情をした。そして、意を決したように続けた。

「分かった、広陵の方は任せておいて」

 姉にそう言うと、今度は袁遺へと向き直った。

「そのようによろしく整えください、袁将軍」

 そして、頭を下げる。

「分かりました、お任せください」

 それに袁遺は丁寧に返した。

「それじゃあ、少しは赤い顔と酒臭い息をしておかないとまずいわね」

 その様子を見届けた彩雲が盃を掲げた。袁遺もそれに続く。

 ふたりとも痛飲することはなく、本当に酒宴をやったと偽装する程度に抑えた。

 そして次の日、彩雲たちは引継ぎの準備をすると広陵へと帰っていった。

 袁遺は当然、それを見送った。

 張邈と袁遺のやり取りは徹底的に理性的であり打算的であった。

 それこそが今この場で最も誠実なことだからだ。

 互いの利益を第一に考え、相手にとっての自分の価値を高める。生き残りをかけて動いている両者にとって最も必要なことであり、相手を思えばこそ行うことだった。

 その後、袁遺は物資の輸送計画と帰りの行軍予定を立て終わると、司馬懿と高覧の旅団、それに参謀数人を下邳と彭城に次の太守が赴任するまで、そこを統治させるために残して、洛陽へと帰っていった。

 徐州の問題が片付いた中で、次の問題が起こっていた。

 その始まりはひとりの女性の罪悪感からだった。

 

 

14 劉皇叔

 

 

 袁遺、人生で二度目の上奏は洛陽へ帰還してすぐに行われた。

 徐州での笮融との戦いを帝に報告して、皇帝が功あった者に恩賞を下すための奏上であった。

 そういった意味では宣伝目的として行われた前回の奏上とは違い、今回こそが本来の上奏の役割である。

 ただし、一番の違いはひとりの人物がそれに参列していることだった。

 その人物とは劉備、反董卓連合のときは連合側で参戦し袁遺たちと戦った人物である。

 そんな彼女が皇帝の叔母―――皇叔として、上奏に参加している経緯を知るには、袁遺が洛陽を留守にしている間のことを語らなければならない。

 

 

 彼女が義妹の関羽や張飛、軍師の諸葛亮、それに趙雲と僅かな供回りで洛陽へとやって来たのは、袁遺が出陣して割とすぐだった。

 劉備と旧知の仲だった公孫賛が彼女を引き入れたのだった。

 袁紹に敗れた公孫賛は打算が含まれているとはいえ、袁遺たちの好意によって中郎将の地位にあった。

 公孫賛は自分が幽州の反袁紹戦力と結ぶために利用されていることは分かっていたが、それについて反感や不満を抱かなかった。

 董卓や袁隗、袁遺の事情も理解できるし、打算的な面があるとはいえ助けてくれたことは感謝している。そして何より、彼女には反董卓連合に参加したという負い目があった。

 そう負い目、劉備たちを引き入れたのも負い目からだった。

 袁紹に領地を追われた劉備から、助けてほしいと頼まれた。

 劉備が難しい立場にあることは公孫賛も簡単に分かった。

 反董卓連合に参加し、董卓や袁隗、袁遺と敵対した。その後で袁紹に攻められたのである。彼女はふたつの巨大勢力と敵対したことになる。そんな劉備を匿うことは、その両者を敵に回すのと同じ意味であった。だから、董卓・袁隗勢力で立場を得た公孫賛に取りなしてもらうのが、一番の逃げ道だった。

 公孫賛はそれを承諾した。

 袁紹に自分を匿っていると難癖をつけられて攻められた友人に負い目を感じたからこそ、劉備たちを助けようと思ったのだ。

 このとき、最も頼りになりそうな袁遺は徐州へと軍を率いて出陣したため、その協力を得られなかったが、共に幽州から逃げて来た劉虞の協力が得られた。

 劉虞も袁紹との戦いで公孫賛に兵を出してもらった恩返しに協力したのである。

 劉虞はすぐに袁隗と董卓に話を持ちかけた。

「……本当に、この劉備は中山靖王の末裔なの?」

 賈駆が尋ねた。

 劉備の処遇について董卓と賈駆と袁隗で話し合うことになったのだった。

 そして、賈駆と袁隗は劉備の一番の問題は中山靖王の末裔と自称していることだと考えた。

 もし、それが本当なら受け入れる以外の選択肢はない。

 現在、董卓・袁隗が袁紹より有利な点のひとつに大義の大元の漢王朝と帝を抱えているというのがある。

 そんな状況で皇帝の血筋の劉備を保護しないのは劉氏を蔑ろにしていると取られて、自分たちの優位を捨て去ることになる。

「中山靖王の末裔かどうかは分からないが、属尽としていくつかの税が免除されていたようだ。それは確認できた。宗族に連なる者というのは疑いようがない」

 袁隗が言った。

 属尽とは皇帝の子孫ではあるが、代を重ねるごとに疎遠なった宗族のことを指す。宗室の名簿から外れてはいるが、兵役などの一部の税の免除の特権も持っている。

 袁隗と賈駆の中で劉備という人物の評価は高くなかった。

 腕の立つ将とあの雛里と並び称された軍師を抱えている、人望があると噂される人物。それが両者の認識だった。

 仕方がないといえば、仕方がないことだった。劉備に限らず、反董卓連合に参加した諸侯の中には袁遺に解散に追い込まれたせいで、実際の実力よりも過小評価されている者がいる。劉備もそのひとりだった。

 だから、袁隗と賈駆は劉備を受け入れることにした。

 もっとも、劉備が皇帝の子孫であること。公孫賛と劉虞にさらに貸しも作れること。劉備だけ反董卓連合に参加したことを理由に受け入れを拒否すれば、曹操や袁術、張邈といった他の連合に参加したが、今は親董卓・袁隗の立場にある人から―――もしかしたら、いつか連合に参加したことを罪に問われるのではないかという―――不信感を買うことなどを考えると劉備を受け入れる以外の選択肢がなかった。

 劉備たちは洛陽へと入城した。

 劉備を受け入れるとは、ただ入城させ、衣食住を与えてやることではない。彼女の名誉を回復させてやる必要がある。

 その一環として劉備は皇帝に謁見することになった。

 劉備の血筋を怪しむ者もいるが、皇帝に謁見して、その血筋だと正式に認められれば、劉備の評価もあがるだろう。

 袁隗と賈駆、最大の誤りは劉備の人柄を過小評価し過ぎたことだった。

 この謁見以来、皇帝は劉備を気に入り、何事につけても皇叔と慕うようになったのだ。

 劉備には人を惹きつける何かがあった。その何かが劉弁を惹きつけた。

 そして、劉弁が無意識のうちに味方を求めていたことも、劉備を慕う原因でもあった。

 漢王朝の反逆者という袁紹が黄河の向こう側で大勢力を誇っている。

 その袁紹は同じ漢王朝の血筋を引く劉虞や劉備を攻め、その領地を奪った。自分もいつか袁紹に攻め滅ぼされるのではないか、そんな恐怖を幼い皇帝は感じていた。

 彼女は袁隗のことも董卓のことも信頼していないわけではない。ただ、彼らにない安心感を、劉備の言葉に、雰囲気に、笑顔に感じたのだった。

 劉備の立場は一夜にして変わった。董卓・袁隗と袁紹の両方と敵対したため、どこの勢力にも頼ることのできなかった流浪の身から、最も皇帝から頼られている者という立場になったのだ。

 この皇帝と劉備周りのことを董卓は仕方がないと思った。

 陛下の不安も分かるし、それが安らぐのが一番だ。董卓は心優しかった。

 袁隗は先手を打った。

 皇帝から信任厚い反董卓連合に参加した宗族の血を引く者。それが董卓・袁隗の二頭体制に不満を持つ者にとって、どれだけの求心力を持つかを考えた。そして、誰が劉備側に付かれた場合、自分たちにとって致命傷となるか考え、その者の取り込みにかかった。

 ひとりの人間の負い目から始まったことは、どんどんと形を変えて人々に大きな影響を与えていく。それは洛陽のみならず、黄河の向こう側にも伝わり、ある害意が乗ることになるのだった。

 袁遺が徐州の賊を討伐し、洛陽へと帰還の途上にあることが董卓たちに伝わったのは、そんな状況下のときであった。

 日数でいえば、袁遺が洛陽を出立してから二十一日後、笮融を討ってから六日後のことである。

 通常なら、信じられない早さの討伐である。

 その早さが各地の袁紹に誑かされた者たちが連鎖的に独立するという状況を防いだ。彼らからすれば理解不能な早さであったから、迷いが生じたのだった。もしかしたら、自分も簡単に鎮圧されるのではないかと。

 しかし、これを評価しない者がひとりいた。より正確に言うなら、評価できないのだった。

 

 

 その人物が洛陽にいる幾人もの運命を狂わせることになる。

 




補足

・下邳郡太守の笮融
 正史・三国志の孫策伝では笮融は下邳国の相となっているが、184年に下邳王劉意が死亡したのを契機に下邳国が廃止、下邳郡となったので下邳太守にしました。
 後、豫州と徐州の間のところには郡国が多いんですが、それが廃止されているかどうか微妙なところはバッサリ郡国ではなくなったことにしています。

・堰や閘
 川は全てが同じ水位というわけではない。高い所もあれば低い所もある。
 堰は堤のことである。水位が違う川の一帯に土盛りを設けて、船を曳航して土盛りの上を強引に超えさせるのだが、これは船底を傷めるうえに時間が掛かった。
 閘は水門のことである。それで水位ごとに区切りをつけて、船を次第に水位の高い所に移すのである。現在でも用いられている方法である。
 始めは堰の方が多かったが、北宋末期から閘の数が増え始め、南宋の頃には逆転していたようだ。

・袁綏、臧洪、趙昱
 袁綏、広陵の人。張超の家臣。正史では広陵太守の張超が反董卓連合に参加しているときに広陵の実務を取り仕切っていた。
 臧洪、広陵の人。張超の家臣。正史・三国志に伝がある。詳しくはそれを読んで欲しいが、ひとつだけ言っておくと、反董卓連合のとき、酸棗に集まった諸侯は天に董卓討伐の誓いを立てるのだが、その役目を臧洪することになった。
 彼は祭壇で皿を手に取って血を啜り、天に誓いを立てる。
 それを要約すると、兗州刺史・劉岱、豫州刺史・孔伷、陳留太守・張邈、東郡太守・橋瑁、広陵太守・張超の五人は正義の兵を糾弾して、力を合わせて董卓を討つと宣言するのである。
 あれ、山陽太守も酸棗に集まっていたはずなんだけどな……おかしいな……
 趙昱、広陵の人。この人は張超の部下ではなく、張超の次の広陵太守。笮融に殺される。だけど、この二次創作では張邈の部下ということにしました。
 この三人、たぶん、これ以降、本編で出番がないと思うから、補足で補完しておきます。

・13 分進合撃
 この戦いはナポレオン戦争のウルム戦役と普墺戦争のケーニヒグレーツの戦いを参考に書きました。
 両方とも分進合撃について取り上げられることが多い戦いですが、実は両方とも補給の面で失敗した作戦だったんですよね。
 ウルム戦役は途中途中で補給を試みたけど、市井のパン屋にビスケット口糧の作り方が分からないって言われて長旅用の堅パンの調達が上手くいかなくて、ベルナドットやマルモンに司令部を当てにするなと警告してました。
 ケーニヒグレーツの戦いも補給が上手くいかず、略奪が横行。普仏戦争でも補給が上手くいかない場面があり、書籍の中にはモルトケの補給術は理屈倒れだという痛烈な批判もあります。
 だから、補給の面ではあまり参考にしていません。
 補給の面ではイエナ会戦以降のナポレオン、それと本文で書いたようにハンニバルやカエサル、テュレンヌが行ったものの良いとこ取りですね。

 それと今回も地図を作りました。
 いつもの!
 で通じればいいのですが、初見さんに優しくないので―――距離や位置などは正確ではありません。イメージの参考程度で、これが地図として正確だとは思わないでください。

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15

すいません、今回は少し短いです。


15 楽毅を亡命させ、伍子胥を殺し、西門豹を野に追い、長平に二〇万も生き埋めにし、信陵君を殺し、斛律光を殺し、袁崇煥を殺したもの

 

 

 徐州の叛乱だけに注目すると、この互いの外縁を侵し合う戦いは袁紹が圧倒的に有利であるように見えるが、その実は違う。

 幽州や并州では劉虞や公孫賛を受け入れた成果が出ていた。

 袁遺は、まず袁紹に靡かなかったことから外交で孤立化された張燕と細作を使って接触し手を結ぶ。そうしておいて、今度は幽州の烏丸や鮮卑を劉虞の威光を使って動かし北辺に圧力を掛ける。

 彼らの戦い方は基本的に張燕が攻められそうになれば幽州と并州の境で暴れ、それを鎮圧しに袁紹軍がやってくれば逃げ、他の場所で暴れるという戦法である。

 そのせいで袁紹は張燕を完全に潰すことができず、さらに幽州に想定よりも多くの兵を割かなければならなかった。

 だから、袁紹軍の中にはふたつの意見があった。

 ひとつは田豊や沮授が主張する意見で、袁遺軍が黄河を渡り攻めてきたところを迎え撃ち、冀州内で袁遺軍を破る作戦。もうひとつは郭図が主張する、戦場をとっとと敵地の黄河以南に移す作戦である。

 両者の言い分には、それぞれ筋が通り、納得できるところがあった。

 田豊と沮授の作戦は上記のように幽州にそれなりの兵を配置しなければならないため、兗州の曹操を一気に揉み潰すだけの軍勢が確保できない。それに徐州の手際から見て袁遺が素早く動けることを考えると曹操を潰す前に合流される可能性が高い。だから、自分たちから攻め込むのは難しいと考えたのだ。

 現在、袁紹が動員可能な兵数は一四万~一七万であるが、北方の異民族と張燕のせいで常に幽州・併州に八万の軍を待機させていなければならない。

 そのため仮に曹操領に攻め込むとなると動員できる人数は一〇万にも届かない。曹操の軍勢は五万近く(ただし無理な動員を行えば、さらに大きな数字になる)なので、攻者三倍の原則を考えれば些か心もとない数字である。

 それに、この軍師ふたりは解決すべき問題は袁遺とその軍であると考えている。

 袁遺が反董卓連合を解散に追い込み、その戦いの中で傷付いた諸侯が漢王朝(実質的に董卓・袁隗)に従っているから漢王朝の権威が復活してきたのだ。

 つまり、各地の諸侯は別に漢王朝を敬っているのではない。袁遺が怖いのだ。

 だから、袁遺とその軍さえ叩けば、袁遺の作った反袁紹の同盟は瓦解し、再び宿った王朝の権威は消し飛ぶことになる。

 なら、内に誘い込んで確実に袁遺と軍勢を仕留めるべきだと、ふたりは考えていた。

 対して郭図は、それは曹操を高く評価し過ぎていると言う。

 郭図は曹操の能力を侮っているのではない。人格を否定しているのだった。

 曹操は野心の塊のような人物であり、王朝に対する忠誠心もなく、袁遺と手を結んでいるのは利益があるからでしかない。離間工作の隙は十分にある。

 だから、曹操を攻めるにはその部分を攻めればよい。

 曹操は反董卓連合のときに受けた領地や軍のダメージを回復するために袁遺と手を組んでいる。なら、曹操の軍勢と決戦をするのではなく、騎兵部隊とその援護の部隊を複数派遣し、略奪などで土地を荒らし、曹操に袁遺と手を組んでいることにメリットがないと思わせる。連合で袁遺がやったように同盟関係を壊す作戦である。

 両者には利点があるように欠点も存在する。

 まず、田豊と沮授の迎え撃つ案であるが、そもそも自領に敵を入れるということはそれだけで脅威である。

 郭図の案では、袁紹軍は一度曹操領で略奪を大規模に行っているため、曹操が感情的になり利益を度外視して袁紹と敵対し続ける可能性もある。また、離間工作は時間が掛かることである。

 しかし、現実はどちらの案も採用されることがなかった。

 というのも袁紹が、袁遺はもちろんのこと、自分を裏切って袁遺と手を結んでいる曹操にも殺意を持っているため曹操と手を結ぶという選択肢はなく、敵が攻めてくるのを待つというのも御免だった。だから、別の案を考えろと軍師たちに命じたのだった。

 田豊も沮授も郭図も頭を抱えたが仕方がないと割り切った。言い出したら聞かない主である。

 そんな状況で、劉備が洛陽へと入り、皇帝に皇叔と気に入られていることが黄河を越えて、袁紹陣営にも伝わった。

 当然、袁紹の軍師のひとりである郭図の耳にも入った。

「劉備がな……」

 郭図の声と表情にはあからさまな侮蔑が含まれていた。

 彼の劉備の評価は低い。

 綺麗事ばかり言う偽善者で、平原を攻めたときは鎧袖一触であった。徳を売りにしているようだが、反董卓連合に参加しながらも、董卓の庇護下に入るのが徳かと鼻で笑いたかった。

 だが、郭図の表情が変わった。

 彼の頭の中で計算が始まり、劉備に新たな価値を見出したのだ。

「ああ……皇叔か。皇叔、皇叔、なるほど。では皇叔に認められた祝いを送らねばならないな」

 郭図は笑う。口元の歪みには邪悪さが滲み出ていて、目の輝きは残虐性を宿していた。

「劉皇叔には是非とも喜んでいただきたい」

 郭図は子飼の細作を呼んで、ある噂を青州で流す様に命じた。流言工作である。

 主である袁紹に相談することなく、独断で動いたが、郭図は何も憚る様子はない。これが成功したとき、袁遺が苦しむ。その一点が郭図を突き動かしていた。

 それに失敗したとして、自分たちには何の被害もない。やっておいて損のない工作だった。

 噂はすぐに広まった。言葉は恐ろしい。ときに馬よりも早く人々の間を駆け巡る。

 そして、その噂にある種の信憑性が宿ったのは、袁隗と賈駆が読み違えた劉備の人器によるものだった。

 

 

 袁紹陣営がそうであるように、董卓・袁隗陣営も袁紹について話し合われていた。

 後将軍府には、その主の袁遺、彼の軍師の雛里と司馬懿、それに賈駆と陳宮、さらに話し合いで出た必要事項を記録する主簿の男もいた。

 主簿の男は楊俊。字は季才。司隷河内郡獲嘉(かくか)県の出身であり、司馬懿が袁遺に人材を挙げるように命じられたとき、最初に名を上げた人物だった。

 楊俊は名の通った人物鑑定家だった。彼はかつて司馬懿を「非常の器」と評し、それによって司馬懿は名士間での声望を得た。司馬懿はそのことに恩を感じていたのだった。

 楊俊は反董卓連合が起こると、洛陽周辺にいるのは戦に巻き込まれると考え、付近の住民を連れて山に逃げた。

 また、反董卓連合と袁遺の戦が終わった後も各地で賊が跋扈したときに誘拐され、奴隷として売られた者を家を傾けてでも救済した。

 そんな楊俊を仲達は推挙した。

 名を上げるきっかけを作ってくれた恩返しという訳ではなかった。楊俊に才能があり、主の袁遺の役に立つを計算してからだった。

 それに恩返しなら、よりにもよって仕えにくい袁遺の下になんか推挙はしない。

 余談になるが、この楊俊が奴隷から救った王象も袁遺の下で参謀として推挙された。

 楊俊は筆に墨を浸しながら、袁遺たちの話を聞いていた。

 当然、彼は知らなかったが、袁紹陣営と似たようなことが焦点だった。

「鮮卑や烏丸、それに張燕さんのおかげで、現在、袁紹軍はかなりの兵力を幽州・并州に割かねばならない状況です」

 雛里が地図を示しながら、集まった皆に言う。

「袁紹軍が対黄河以南に動員できる兵力は多く見積もっても一〇万です」

「それで、こちらはどのくらい動員できるのよ」

 賈駆が尋ねた。

「こちらは五万。それに曹兗州牧が同じく五万。さらに現在、長安の張既さんが馬涼州牧と戦になった場合は援軍を送ってくれるよう交渉を行っています」

「ほぼ同数ね」

 史実なら袁紹と黄河を挟んで睨み合ったのは曹操であるが、袁遺という異物がそれを変えてしまったため、あらゆることに影響が及んでいる。

 袁紹陣営でいえば、劉虞と争い、追い落としたために鮮卑や烏丸と対立してしまっている。

 そして、董卓・袁隗陣営でいえば、洛陽や長安は荒廃していないし、徐州で虐殺も起きていない。涼州や荊州、揚州も表面上は恭順の意を見せている。

 だから、両者の動員できる兵数の差は殆んどなかったし、なんなら、董卓・袁隗側の方が多かった。

 しかし、多いと言っても、

「冀州に攻め込むには心許ない数字ね」

 であった。

 賈駆は続けた。

「それに曹操と涼州牧の援軍とこっちの混成軍でしょう。統制を取るのも難しいよ。最悪、反董卓連合のときにあんたがやったことをやられるわよ」

 つまり、袁遺がやったように内線の利を活かして、決戦を避けて敵兵力を一ヶ所に集めずに各個撃破する作戦である。実際に袁紹は内線作戦で劉虞と公孫賛を破っている。

「なら、袁紹を迎え撃つ作戦しかないのです」

 陳宮が言った。

「黄河を渡らせて城塞や要害で戦いながら疲弊させ、こちらの懐に誘い込んだ後で袁紹軍を叩くのです!」

「で、でも、曹操さんは陳留を袁紹軍に荒らされたことで、私たちと手を結びました。そのことを考えると……」

 雛里は反論しながらも語尾を濁した。

 再び領地が荒らされると裏切るかもしれないとは口にしづらかった。他人を何度も人を裏切る変節者呼ばわりは気が引けた。

 しかし、彼女の主はそんなことを気にせず踏み込んで切り捨てた。

「兗州が彼女の許容範囲を超えて荒らされた場合、曹州牧は確実に裏切る。それは間違いない」

 そう言った袁遺の顔に賈駆と陳宮は侮蔑を込めた視線を浴びせた。

 だが、袁遺は気にしなかった。曹操に裏切られたくなかったら、彼女にとって利益のある存在で居続けることこそが誠意である。

「じゃあ……どうするのよ?」

 賈駆は袁遺のそういう実際的過ぎる所に呆れながら、尋ねた。

「そうですね……」

 袁遺は考えた。

 問題は袁紹の兵数である。それを何とかしなければならない。といっても、真っ正面から戦うのではなく、弱い所から切り込むのである。

 冀州の人口、名士との関係、兵の動員、それを考えたとき、袁遺にひとつの戦略が見えてきた。

「……鳳統、司馬懿」

 袁遺が軍師ふたりの名を呼んだ。

「は、はい」

「何でしょう、将軍」

 ふたりが応じる。

 袁遺は、今から私の言うことで間違っていると思うことを言ってくれ、と前置きしてから話し始めた。

「袁紹が二〇万近い大軍を有しているのは人口の多い冀州を領地としているからだ。まず、これは間違いないな」

 雛里は、うんうんと頭を縦に振った。司馬懿は、間違いありませんと言う。

「その二〇万の割合だが、冀州の名士たちの部曲(私兵)の割合は決して少なくないはずだ。そうだな」

 軍師ふたりは再び肯定した。

 賈駆や陳宮にしても何を当然なことをという顔をしている。

 この時代、地方豪族が零落した流民を取り込み、小作人や私兵としたことは以前に書いた。そして、その地方豪族が誰かに仕えたりするときに、その私兵を率いて仕えるといったことがよくあった。実際に正史・三国志で、某誰々、兵と共に誰々に従ったみたいな感じの文章が多々見受けられる。

 それに領地の急激な拡大のせいで、名士―――地方豪族に頼らなければ兵士の供給が追い付かないという事情もあった。

「攻撃するなら、ここだな」

「冀州の名士たちに離間工作を仕掛けるの!? 上手くいくわけないでしょう!」

「そうなのです! そんなに上手くいくなら、反董卓連合のときの宣伝工作でもっと多くの名士が裏切っていたはずです!」

 賈駆と陳宮が語気を強めて反論した。

 実際に反董卓連合のとき、冀州の名士で明確に親董卓・袁隗だったのは袁遺の推挙人である鄚県の張超くらいである。

「これも利益の問題です。黄河を渡り、冀州へと攻め込みます。その際に軍をふたつに分けます。私の軍と兗州牧の軍に」

 袁遺が地図の上に色のついた石をふたつ置いた。

「一方は鄴から廮陶(えいとう)と鉅鹿方面に進軍し、もう一方は甘陵と青州と州境付近から進軍して、両軍は南皮を目指します」

「ちょ、ちょっと、待ちなさいよ! 両者の距離が離れすぎているわよ。最も離れたところでは二〇〇里(一〇〇キロ)近いじゃない。こんなの各個撃破してくださいと言っているものでしょう!」

 賈駆が叫ぶように言った。

 確かに一理あった。確実に袁紹軍よりも少ない数に分かれることになる。

「雛里、仲達。私の意図が読めるか?」

 袁遺はそんな賈駆を無視して、自分の軍師ふたりに問いかけた。

 雛里は、えっと……と考えたが、仲達はすぐに返した。

「敵戦力の南方誘出ですか?」

「そうだ」

 袁遺が頷いた。そして、続けた。

「その先は?」

 各個撃破のチャンスと敵を誘い出すのが目的なら、袁遺は何を狙っている。皆がそこから先を考えた。

 反董卓連合のときの連合のように一方が戦闘拘束している間に、もう一方が背後を突く作戦は袁遺と曹操、両軍の距離が有り過ぎるため違うとすぐに否定できたが、なら何を目的としているか分からない。

 袁遺の意図に一番先に辿り着いたのは司馬懿だった。彼だけが袁遺と戦略レベルで思考を共有できる。

 だが、それに気付いたとき司馬懿は彼にしては珍しく顔を歪めた。恐怖と羞恥が彼の心を襲っていた。

 今度はそれに気付いた袁遺が困惑の表情を浮かべる番だった。

「どうした?」

「己が至らぬことを恥じておりました」

「…………ああ! そういうことか。いや、そんなつもりはなかったんだが……」

 袁遺は連合との戦いから帰ってきた雛里と仲達にふたつのことを命じた。反董卓連合解散の原因の分析と連合の立場から袁遺を破る作戦を立てることである。

 司馬懿は、袁遺のやろうとしていることに思い至ったとき、同時に自分の分析と作戦が不十分であることにも思い至ったのだ。袁遺のやろうとしていることは、反董卓連合のときの袁遺の作戦に対するカウンターとして働いていた。自分の立てた作戦よりも効果的で、被害も少なく、確実性もある。

 司馬懿は、返ってきた試験の答案に悲惨な点数が付けられている落第生の気分だった。

 ただ、袁遺自身には司馬懿や雛里を責めるつもりはない。そもそも自分は未来の戦史を知っているからこの作戦に至れたので、それを知らないふたりには立てられなくても仕方がないと思っている。

 だが、そんなことを知らない仲達にとってはそうではない。

 軍師とは文字通り、軍の師である。それが師となりえないなら、仕事を果たせていないことであり、袁伯業という男がそんな軍師を許すはずがないと思えたのだ。

「まあ、気にするな」

 と袁遺は司馬懿に言ったが、袁遺が自身の案を説明し始めると雛里も司馬懿と同じところに至り、表情を曇らせる。

 賈駆と陳宮は同じ軍師としてふたりに同情した。袁遺の戦略家としての能力は奇貨である。そんな男に仕える苦労は並大抵ではない。

 そして、楊俊はただ己が職務を果たした。

 袁遺は矢継ぎ早に参謀部の作業を指示する。

 曹操や馬騰の援軍に作戦を指導するために派遣する参謀の人選、進軍経路と進軍計画の作成、兵站計画、離間工作の人選等々、楊俊はそれらを書簡に記録して、後に参謀部で具体的な計画を立案して、袁遺に確認を取る。

 真面目に仕事をこなす楊俊であったが、彼の頭に、とんでもない所に来てしまったなという後悔の念が一瞬でも浮かばなかったかと問われれば、否定できなかった。

 反董卓連合から続く、袁紹と董卓、そして袁遺の因縁が決着に向けて速度を上げて動き出していた。

 ただ、その速度は誰よりも純粋に、そして愚直に乱世の終結を目指している少女には優しくないものだった。

 後将軍としての仕事が一段落しても袁遺に一息つける時間はない。次は県令としての仕事が待っている。

 県令室で仕事をする袁遺に、袁隗からの遣いが言伝を持ってやって来た。

「明日、陛下が狩りを行うため、将軍にも必ず同行して欲しいそうです」

 

 

 洛陽の北宮の南東、永和里(えいわり)歩広里(ほこうり)と呼ばれる一角は身分の高い者の大邸宅が立ち並ぶ洛陽の一等地である。

 そこに劉備は居を与えられた。

 劉備がその屋敷を見たとき、

「こんなすごい家、見たことないよ」

 と漏らしたのを諸葛亮は聞いた。

 諸葛亮も今まで住んだことのないような広く豪奢な屋敷だった。

 義妹の関羽や張飛のみならず、諸葛亮や趙雲も劉備からこの屋敷に部屋を与えられた。それでも空き部屋はまだまだあった。

 だが、そんな豪邸を与えられても劉備には喜ぶ様子がなかった。

 劉備は皇帝に呼ばれて参内するとき以外は、洛陽の街を見て回った。諸葛亮も一緒に行くこともあった。

 そこには、都という言葉から連想されるような華やかさは鳴りを潜めていたが、人々には活気があり、反董卓連合の大義名分である悪政によって苦しむ民の姿も荒廃した街もなかった。

「やっぱり、嘘だったんだ」

 劉備が悲しそうに呟いたのを諸葛亮は聞き逃さなかった。

 劉備はそれを目にして、董卓が暴政など行っておらず、袁紹の言い分がまったくのデタラメであり連合に大義がなかったことを心の底から実感したのだった。そして、おそらく悔いているのだろう。袁紹の姦計に乗って、ただ徒に争いを起こしたことを。

 劉備は、苦しむ庶人を助けたい、ただそれだけの思いを抱き、歩んできた。

 目の前の光景はそれに小さくない傷を与えるものだった。

 諸葛亮は劉備が皇帝に呼ばれている間、ひとりで市場に出てみた。前漢では長安、後漢では洛陽の周辺に全国から物産が集まる市場がある。

 そこにどのくらいの物と人と金が集まっているかを見ることで、洛陽の現在の状況が見えてくるはずだと孔明は思った。

 そして、実際に見てみると諸葛亮の予想以上の賑わいであった。

 量だけではない。荊州や揚州の南のものから、涼州を通って西域から運ばれてきただろう物産もあった。かなり広くから運ばれてきている。

 それだけ、親董卓・袁隗派の諸侯が多いということだった。

 小柄な諸葛亮は人込みにもまれながら、市場を見て回り、集まっている物産を調べ上げた。

 そして、あることに気付いた。

 西の物産は、涼州からのものは多いけど、益州のものは殆んどない。

「……董卓さんと袁隗さん……ううん、袁遺さんの影響が薄いのはやっぱり、ここかな?」

 諸葛亮は呟いた。

 彼女は洛陽からの脱出を計画していた。

 このまま洛陽に留まっていると彼女の主である劉備に害が及ぶことになる。

 彼女はこれから洛陽では皇叔としての振る舞いや働きを求められる。だが、それは劉備が叶えようとしている理想とはかけ離れたものだった。

 間違いなく、桃香様はそれを受け入れない。諸葛亮は考える。

 そして、その劉備が受け入れなかった未来を思い描くと諸葛亮は背筋が凍る思いだった。

 この洛陽で劉備の理想を劉備の望むようなやり方で叶えようと思うと政治、軍事、外交、人事、その全ての主導権を劉備が握らなければならない。

 それは朝廷の多くの人を敵に回すことになる。

 いや、内だけではなく、外にも敵を作ることになる。

 曹操や袁術などは反董卓連合のときに袁遺に負けたから、大人しく朝廷の下についているのである。それに袁紹に唆されて叛乱や独立を企んでいる者たちも、袁遺がその第一波を素早く鎮圧したため、笮融・薛礼に続かず大人しくしているのである。

 そんな状況で袁遺から軍事権を奪ったら、あっという間に叛乱・独立を呼び、袁紹に勝利をくれてやるようなものだった。

 今は董卓や袁隗、袁遺とは争わず慎重に時期を待って、いつか袁遺さんの影響の薄い場所で自主と独立を確保する。それが諸葛亮の考える最善の手だった。

 劉備の思いを叶えるために今、出来ることは耐えることだった。

 依るべき土地もなく、軍も失い、資金もない。一時は名声さえも失ったが、それは洛陽に来てから回復しつつある。しかし、それは董卓と袁隗によって与えられたものだ。自前で獲得しなければ意味を持たない。

 諸葛亮は主のために洛陽で、生き残りをかけて足掻いていた。

 彼女は賑わう市場を後にする。

 屋敷に帰ると劉備に、明日、狩りに行くことになったと伝えられた。

 劉備も劉備で現状に思うところがあり、最近どこか落ち込んだようだった。

 それを引きずって皇帝に会ったからだろうか、劉弁は劉備に元気がないと心配した。

 劉弁は宴を催してみたり、劉備を励まそうとした。突然の狩りもその一環だった。

 

 

 洛陽にほど近い原野に、勢子の脅し声が響いた。

 今回の狩りは巻狩である。

 巻狩は原野を大勢の勢子が取り巻いて、潜んでいたウサギや鹿を追いこんだところを馬に乗った主人が矢で射止める狩りである。

 勢子の包囲網がだんだんと縮まるにつれ、前方にウサギや鹿が飛び跳ねているのが見え隠れするようになる。

 大きな鹿が荊棘から飛び出してきた。

「あ! あれを射よ」

 それを見た皇帝が叫ぶように命じた。

「はい」

 そう言って馬を駆けさせたのは董卓―――月だった。

 月はその小さな背格好と儚げな風貌からは想像できないような巧みな馬操術で、鹿の急所を狙える位置に着ける。そして、馬が跳ね、その四肢が地面から離れたタイミングで素早く矢を放った。

 月の一撃は見事、鹿の喉笛を引き裂いた。

 その腕前に感嘆の声が起こった。

 また、草むらから先程にも負けない体格の鹿が飛び出してきた。

 今度は袁遺の番だった。

 しかし、袁遺の騎射は、月とは比べ物にならない拙さだった。

 人馬一体とは決して言えない、ちぐはぐな騎乗姿で獲物を狙いやすい位置に着ける。矢を番えて、弦を引き絞っていると馬は勝手に明後日の方に馬首を返した。袁遺はそれに慌てて、馬をコントロールしようと腿で馬体を締め上げるが、意図とは反対に馬は嫌がり体を捻った。

 このままでは獲物が逃げると袁遺は矢を放つ。だが、矢はふらふらと力なく見当違いな方向へ飛んだ。

 鹿はまた別の草むらに隠れてしまった。

 その様子に失笑が起きた。

 さらに、無理な体勢で矢を放った袁遺が落馬しそうになり、必死で体勢を立て直そうとしている様子に失笑が大きくなった。

 袁遺は落馬せぬように必死で、嘲笑の的になっていることを気にしている余裕はなかった。そして何より、こうやって道化の真似事をするのが、今日、袁遺が呼ばれた最大の理由だった。

 皇帝が狩りに行きたいと言ったとき、袁隗は大丈夫かなと思った。

 この幼い皇帝が狩りどころか、騎射の経験さえも浅いことを袁隗は知っていた。

 だから、皇帝より騎射が下手な者を用意して、皇帝を良い意味で目立たなくする必要があった。ただし、下手な振りをする者ではない。そんなことはすぐバレる。本当に下手な者でなければならなかった。

 袁隗は丁度いい人材をすぐに思い付いた。甥の袁遺だった。あの男の乗馬の才能のなさは神懸かり的である。そして乗馬が苦手だから、狩りに出ようなんてことはしないため、騎射については言わずもがなだった。

 袁遺にとって騎兵とは率いるものではなく、運用するものだった。

 共に敵に突撃するのではなく、コンディションを整え、投入するタイミングを見誤らないことこそを仕事としていた。

 しかし、そういう意識のために道化役をやる羽目になったが、その苦労は報われていた。

 その証拠に、次に現れた鹿は皇帝が手ずから三度まで射ったが、中らなかった。しかし、劉弁は、まあ、落馬しかけていた袁伯業よりマシかな、と気にも留めなかった。

 また、劉備を始め、他の狩りの参加者も矢を外しても特に気にしなかった。皆が皆、袁遺に比べれば何ともないなと思っていた。

 しかし、中には、どう反応すればいいか分からず、困惑している者もいる。

 袁遺がただの乗馬の下手な者であれば、笑い者にすればよかったが、袁伯業という男は軍事、内政、外交にと八面六臂の活躍で崩れかけた漢王朝を支えている人物である。

 慎重な者は、ここで袁遺を笑い者にすれば後々、袁遺から恨みを買うことになるのではないかと笑わずに、失敗した瞬間に顔を背けて、見ていない振りをした。

 もちろん袁遺には、鹿を連れて来て、これが馬か鹿かと尋ねる様な真似をしているつもりはない。この巻狩が何事もなく終わってくれれば、それでよかった。

 醜態を晒すという役目を終えた袁遺は、隅の方で邪魔にならぬように大人しくしていた。

 袁遺はいつものと変わらぬ無表情で辺りを見渡す。月がまた得物を射ていた。視線を別の場所に移すと見覚えのある顔があった。直接会ったのは、ずいぶんと前になるが、その顔を忘れていなかった。

 向こうも袁遺に気付いたらしく、近寄ってくる。見学だけで狩りには加わっていないようで、徒歩だった。

 袁遺は馬から降りて、礼を取った。

「御無沙汰しております、諸葛先生」

「……こちらこそ、お久しぶりです、将軍」

 諸葛亮だった。

「こうしてお話しするのは長社で別れて以来ですね」

「そうですね」

 挨拶を交わしながら、袁遺は思った。ただ世間話をしに来たわけじゃなさそうだと。

「一度、先生にいろいろ伺ってみたいと思っていました。今の王朝に必要なものや戦術についてご教授願います」

 探り半分、知的好奇心半分の言葉だった。

 諸葛亮の胸の内を探ると同時に、あの諸葛孔明の叡智に触れてみたいという思いが袁遺にあった。

「はわわ、とんでもないです。将軍が神算鬼謀を縦横に駆使していることは四海に広く知られております。私が言えるようなことは何もありません」

「雛里が言っていました。先生の才覚はかの楽毅、管仲に勝るとも劣らないと。私はその両名に敵いません」

 袁遺の言葉を聞いた諸葛亮は、小さく、親友の真名を呟いた。

「雛里ちゃんは人を評価するとき大げさに評価するから……」

 哀愁にも似た感情が籠った声だった。

「雛里ちゃんは元気ですか?」

「はい」

 袁遺は頷いた。

 お互いの顔を見ず、視線は狩りの様子に固定されていた。

「雛里とは一度も会っていないのですか?」

「はい、忙しそうなので」

「時間を作ります」

「はわわ、そんな悪いです!」

 大きな歓声が起こった。見れば、劉備が兎を射止めていた。皇帝が嬉しそうに手を叩いている。

「もう終わりですね」

 袁遺が言った。

 勢子の輪は小さくなり、獲物は軒並み狩ったか逃げてしまった。

「先生、機会を設けます。不躾ながら、雛里と会われた方が良いと思います。私も先日、友と話しましたが、こういう時代です。次にお互いが無事で話せる保証はありません。会えるとき、話せるときを大切にした方がいいと思います」

 諸葛亮は袁遺の顔に視線を移した。その顔は長社で別れたときの様な無表情だった。

「はい、そうします」

 孔明は柔らかな笑みを浮かべた。

「袁遺さんとも、いつか」

「楽しみにしています」

 諸葛亮は袁遺の傍を離れ、袁遺は再び馬に跨った。

 劉備の元に向かいながら諸葛亮は思った。

 雛里ちゃんと会うことを勧めたのは大きな戦が近いからかな。袁遺さんって人は、冷徹そうに見えても本当は優しい人かもしれない……ううん、きっとその両方なんだ。冷徹で優しい人。でも、大きな戦が近いということは袁紹さんとの戦のはずだから、こっちにとっても悪いことじゃないはずだよね。北の脅威が消えて動きやすくなるのは私たちだけじゃなくて、独立を考えている孫策さんや野心の塊の様な曹操さんもそうだし。

 諸葛亮は、袁遺が袁紹に勝つことを前提に進めていることは間違いではないと確信していた。袁遺と袁紹ではものが違う。

 そして、脱出を目論みながらも袁遺とした約束は社交辞令でも嘘でもなく、彼女の本心だった。

 劉備の理想とは、諸葛亮と袁遺はひとつのテーブルで茶を飲みながら語り合える世界だからだ。いや、諸葛亮と袁遺だけではない。董卓も曹操も孫策も仲良く茶を飲み、話せる世の中。

 しかし、この約束は果たされることはなかった。

 この数日後、洛陽にある噂が広がり始める。

 袁紹は平原で未だに人気のある劉備を恐れている。彼女が兵を率いて黄河を渡り、平原に攻め上れば平原の者は皆、劉備に味方し大変なことになる。対して、袁紹は袁遺のことを恐れていない。袁遺の戦い方は全て見通しており、対処しやすいと思っている。

 かつて劉備が治めていた平原から洛陽へと流れてきた噂だった。

 確かに、劉備は平原を追われたが、彼女はそこで善政を行っており、民たちは劉備を好いていた。

 そのため、袁紹に支配されることを良しとしない民たちが、心の底からそうなることを願いながら、噂について話し合ったのだ。

 その結果、噂には信憑性が宿った。

 郭図が放った言葉という刺客である。

 

 

「やっぱり、噂は袁紹さんの策謀なのかな、詠ちゃん」

 司空府、その主である月が親友であり、軍師である賈駆に尋ねた。

 月の耳にも噂は入ってきている。

「間違いなくそうだと思うよ。大昔に秦が、流言で趙の老練な廉頗(れんぱ)を更迭させて、経験が浅く口だけな趙括(ちょうかつ)を総大将にして破った策あたりの猿真似ね」

「……詠ちゃん、伯業さんはどうなるのかな?」

 不安というものが凝縮された様な声色だった。

 もし策が成功した場合、軍権は袁遺から劉備に移ることになる。そうなると袁遺の立場はまずいものになるだろう。

 月は心の底から袁遺の身を案じていた。

 だが、賈駆はそれが面白くなかった。財政の立て直しのときに感じた様に、袁遺は自分たちを脅かす存在でもある。それなのに月は真名まで預けて、袁遺に気を許し過ぎている。

「……軍権を奪われても、劉備はそれを維持できないから、必ず袁遺に返ってくるよ」

 それが表に現れた様な複雑な響きの声だった。

「本当?」

「考えてみて、袁遺が誰も予想できないような速さで笮融・薛礼を討ち取ったから、誰もこのふたりに続かず大人しくしているのよ。それなのに袁遺を更迭して、劉備に軍権を預けるとなると、各地で第二、第三の笮融・薛礼が現れるわよ。そして、劉備では袁遺みたいに素早く討伐なんて絶対にできない」

「でも、劉備さんの配下は一騎当千の強者が揃っているって言うし、軍師の諸葛亮さんだって、あの鳳統さんと並び評される軍師だよ?」

「劉備が袁遺の代わりになって、袁遺の部下たちが良い顔しないはずよ。それに今、こっちには新たに兵を徴募する余裕もない。なら、良い顔をしない袁遺の四人の校尉から部隊を取り上げて、関羽や張飛、趙雲を代わりの隊長にするに決まっているわよ。そうなったら、袁遺もさすがに黙ってなくて、自分の部曲を引き揚げるよ」

「袁遺さんの部曲って、そんなに数は多くないはずだよね?」

 董卓が尋ねた。

「正確には分からないけど五〇〇~七〇〇人くらい。けど、問題は数じゃない。その殆んどが兵を束ねる立場の人間ってことなの」

 後代の言葉で言うなら、下士官や下級将校のことである。

「袁遺の強さはそういった立場の人間の判断能力が異様に高いってことなのよ。袁遺の部曲の伍長(五人の班の班長)は他の軍の卒伯(一二五人の部隊の隊長)に匹敵するくらいの判断力で、卒伯は軍侯(二六三〇人の部隊の隊長)に、軍侯は校尉に、校尉は将軍に。だから、袁遺は軍をそれぞれ独立して動かすことができるの。そんな者たちがいなくなったら、劉備に袁遺の真似なんて絶対にできないわよ」

 事実だった。例えば雷薄が校尉で出世の限界を感じた様に、袁遺の部曲たちは求められているものの水準の高さを当たり前のものとして受け取っていた。その意識の高さこそが運動戦に必要な部隊の行動能力と柔軟性を生み出していた。

 そして、そんな部曲を袁遺から取り上げるなんてことは絶対にできない。何故なら、部曲は名士の所有物である。それを取り上げられるということは名士から強い反発を生むということだった。となると、状況は反董卓連合のときに巻き戻ることになる。

 それに賈駆は、劉備に軍権を渡すこと自体が反対だった。

 確かに、袁遺に恐怖心を抱いている部分もあるが、それでも袁遺は反董卓連合のときに敵対はしなかった。それどころか、連合を解散に追い込んでいる。そのことを賈駆もさすがに感謝していた。

 対して、劉備は連合に参加した側の人間だ。それに連合では袁遺に負け、連合から平原に帰れば袁紹にも負けた。そんな奴に軍権を預けるなんてできない。

「だから、問題は劉備が軍権を握っている隙を突かれて、漢王朝が滅ぼされないかってことね。そもそも劉備が軍権を欲しがらなければ……ううん、陛下がこんな噂を信じなければ、問題はないんだけどね」

「それは……」

 賈駆の言葉に月が表情を曇らせる。

 司空として皇帝に接する機会が多い月は皇帝が劉備を異常に気に入っていることを知っていた。おそらく、劉弁の耳にこの噂が入れば、彼女は喜んで袁遺から軍権を取り上げ、劉備に渡すだろう。

 皇帝は袁遺という将軍がどれくらい優秀であり異質であるか、まったく理解できていない。

 彼女が皇帝に即位してから、事実上の軍の最高司令官はずっと袁遺だった。だから、袁遺が基準であり、将軍とは皆が袁遺くらいできると考えていたのだ。

 現在の漢王朝は軍事の最高責任者にも、政治の最高責任者にも無能どころか平凡な人間を座らせる余裕はなかった。

 しかし皮肉なことに、その漢王朝の玉座に就いている者はまったくの凡庸な人間だった。

 それはきっと、董卓にとって不幸なことであったし、袁遺にとって不幸であり、劉備にとっても不幸なことで、何より劉弁自身にとっても不幸なことだった。

 

 

 言葉は恐ろしい。ときに剣よりも容易く人を殺す。

 




補足

・前漢では長安、後漢では洛陽の周辺に全国から物産が集まる市場がある。

 前漢および後漢では、地方農村部ならびに地方都市において生産されたものは「郷市」「里市」「交市」などで取引され、各郡県治所の市場に集積され、最終的に京畿の市場に転漕されていた。
 ただし、後漢末期、董卓や李傕、郭汜の暴政のせいで洛陽・長安周辺は荒れ果て、それは見る影もなくなる。
 それが反董卓連合以降も見られるのも、ある意味袁遺の影響という設定である。


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16

なんか、こう色々長くなってしまった。申し訳ない。


16 愚者の足掻き

 

 

 どんよりと曇った空、湿気を多く含んだ空気が持つ独特の身体にまとわりつく感覚と匂いで、雛里は雨を予感した。

 そして、そんな今にも雨が降りそうな空模様に雛里は自身の心の内を重ねた。

 彼女も今、洛陽に流れる噂を知っていた。

 袁紹は平原で未だに人気のある劉備を恐れている。彼女が兵を率いて黄河を渡り、攻め上れば平原の者は皆、劉備に味方し大変なことになる。対して、袁紹は袁遺のことを恐れていない。袁遺の戦い方は全て見通しており、対処しやすいと思っている。

 間違いなく袁紹陣営が、雛里の主である袁遺から軍権を取り上げようとするために流した噂であった。

 そんなことは雛里も分かっているが、同時に噂、流言の恐ろしさも分かっている。

 一体、言葉は名臣、功臣、良将をどれほど失意に突き落としたか。どれほど殺してきたか。

 そして、不信感も彼女の中でより大きくなっていく。

 袁遺の軍権を受け取るだろう劉備の軍師は、共に同じ師の下で学んだ親友の諸葛亮である。その聡明さは知っているし、誰よりも評価している。彼女の戦略家としての能力は袁遺、司馬懿に匹敵すると雛里は思っている。

 そんな諸葛亮が袁遺から軍権を取り上げることの危険性を理解できないとは思えない。

 しかし、諸葛亮は何も動かない。雛里が諸葛亮なら、自分や公孫賛との伝手を使って袁遺と早期に接触し、劉皇叔に袁紹の流言に乗るつもりはないと弁明している。

 それがないということは劉備は袁紹の企みに乗って、袁遺から兵権を奪取しようというのか。そして、兵権や漢王朝を維持できると思っているのか。

 朱里ちゃんなら、絶対に楽観的に考えない。

 雛里は考える。

 朱里ちゃんは軍権の奪取なんて望まない。きっと劉皇叔の回復した名声を傷付けずに、洛陽から脱出して、董司空や袁太傅……ううん、伯業様の影響が薄い益州で独立を果たそうとするはず。

 もし雛里が劉備の軍師であったなら、諸葛亮と同じ策を取っていただろうし、もし共に仕えていたなら、諸葛亮に賛成していた。

 問題は伯業様が何を考えているかだけど……

 物事は一面だけ見ていても仕方がない。雛里は視点を自分の主の方に移した。

 袁遺は噂について、いつもの無表情で参謀部や将や兵たちの前で、

「噂に惑わされず、職務を全うして欲しい。動揺は袁紹に付け込まれる隙になる」

 と言っただけだった。

 そして、袁遺は皆に範を示す様に、後将軍として参謀部が作った袁紹との戦争計画を確認し、何かあれば指示をし、また、洛陽令として政務をいつも通り行っているだけだった。

 だから、雛里も与えられた執務室で、ひとり、軍の進軍計画を立案しているところだった。

 伯業様なら漢王朝にとって最も利益となることを選択するはずだけど……

 雛里は思考を走らせるが、袁遺がどんな手を打つか読めない。利益となるなら劉備に軍権をあっさり譲りそうだし、逆に利益とならぬなら劉備を全力で排除しそうでもある。

 この場合、劉備に軍権を譲っても利益はない。

 しかし、排除するといっても、どのように行うか雛里は読めなかった。

 劉備を政治的、軍事的に完全に関わらせないようにするにしても皇帝をいかに納得させるか。それが問題だった。

 自分ならと、いくつかの策略を並べてみるが、雛里には妙案が思い浮かばなかった。

 だが、この手の策略を主の袁遺は得意としている。雛里には思い付かない手を取ることは十分に考えられた。

 そう思った雛里の脳裏によぎったのは晒された三つの首だった。

 袁遺は、張譲、封諝、段珪の宦官三人を葬っている。同じ様に劉備たちの首を並べる可能性を雛里は否定できなかった。

 雛里の鼓動が速くなる。呼吸は浅く、背筋に冷たいものが走る。雛里の中で冷徹で残酷な理性と愚かな温情からなる良心がせめぎ合っていた。

 もし、袁遺が諸葛亮を殺したとき、雛里は今まで通り袁遺を敬愛して仕えることができるかどうか不安であった。

 しかし同時に軍師としての部分が、もしそうなったときの袁遺を肯定的にとらえていた。

 劉備は反董卓連合に参加している。その過去を水に流して受け入れたのに袁紹の企みに乗るのなら、それは裏切り行為でしかなかった。劉備が袁紹の味方をするなら、殺すことも視野に入れなければならない。

 思考の海を漂っていた雛里の意識を現実へと引き戻すものがやって来た。

「士元殿、相談したいことがあります。よろしいでしょうか?」

 扉の向こうから声が掛けられた。典雅な響きを持つ声だった。

 雛里はすぐにその声の主が誰か分かった。

「仲達さん、どうぞ」

「失礼します」

 司馬懿が扉を開けて入ってきた。

 穏やかな物腰で、上品な雰囲気を漂わせている。彼も普段と変わらなかった。袁遺の言葉を忠実に守って、職務に邁進していた。

「それぞれの勢力に指示する行動基準について、進軍計画とのすり合わせを行いたいのですが、よろしいでしょうか?」

 仲達が言った。

 彼は冀州へと攻め込んだ際、幾人かの参謀たちと共に曹操の軍へと派遣され、作戦指導を行うことになっている。そこで曹操軍に与える任務は今、雛里が立てている行軍計画と重要な関係があった。

「わかりました」

 雛里は司馬懿に気付かれないように気を引き締めた。

 ふたりはある共通の意識を持っていた。

 袁遺は大まかな構想は示している。それを煮詰めていくのがふたりの、そして参謀部の仕事であるが、司馬懿と雛里は袁遺の構想から優れた部分を読み取り、自分の軍略、その血肉としようとしていた。

 各諸侯やその軍師が袁遺の戦術を研究しているが、最もそれを精力的に行っているのは、その袁遺本人の軍師たちであった。

 ある程度、話がまとまったところで、雛里はふと漏らした。

「伯業様はいったい何を考えていらっしゃるのでしょうか……」

「……さあ、私にはわかりかねます」

 司馬懿がそれを拾った。

 雛里は司馬懿の顔に視線を移した。

 穏やかで気品ある顔である。しかし、それが鎧われたものであることを雛里は理解している。

 そして、袁遺の意図がわからないと言ったことも嘘であることも理解している。

 君主たる者、自分の真意を全く理解しない者を嫌うが、同時に自分の真意を全て理解する者も嫌う。

 何故ならば、主の真意を全て見通している者の言葉は主の言葉と同等の価値を持つようになるからだ。

 ここで司馬懿が雛里の質問に答え、それが正しかったとき、雛里はまた袁遺の真意がわからなかったときに司馬懿に尋ねるようになる。

 それはもう司馬懿の言葉を袁遺の言葉と受け取っていると同義である。

 そうなれば、袁遺は司馬懿のことも雛里のことも絶対に許さないだろう。

 だから、司馬懿は嘘をついている。雛里は断定した。

「もう二度と伯業様の胸の内を尋ねるような真似はしません。それに口外も致しません。ですから、お教えいただけないでしょうか?」

 しかし、雛里は食い下がった。

 その理由は自分でもわからない。親友が関わっているからだろうか。袁遺のことを心の底から心配しているからだろうか。わからないが、いてもたってもいられないのだった。

「士元殿、袁紹陣営が流した噂が陛下の耳に入らないようにする策は何かありませんか?」

 穏やかな声だった。

 しかし、雛里には槍の穂先を突き付けられたような気がした。

「……ありません。人の口には戸が立てられません」

 それが答えだった。口外しないと気を付けても、絶対に袁遺の耳に入らないという保証はなかった。

「そ、それでも……」

 それでも雛里は引き下がることができなかった。その目には決意の光があった。

「わかりました。士元殿、もし私が答えたら、私の質問に答えていただけますか?」

「は、はい!」

 雛里は即答した。何を聞かれることになっても構わない。

 仲達は視線を窓の外に移した。

 空模様は相も変わらず、雨が降りそうだった。

 そして、口を開き話し始めた。

「伯業様、そして袁太傅は、おそらく劉皇叔に軍権が渡ることを阻止するのを諦め、できるだけ素早く取り返すことにしたのだと思います」

 雛里はそれを一言も聞き洩らさないとばかりに真剣な面持ちで聞いた。

「陛下に皇叔討伐の命を出させるでしょう」

「やっぱり、皇叔の殺害も視野に入れておられるのですね。でも、討伐の勅命なんでどうやって?」

「皇叔に軍権が移れば、各地で叛乱、独立が起こるのは目に見えています。すると彼女はそれを討伐に行かなければならない。皇叔が洛陽を空けたときに、宦官なりに劉備に野心ありと陛下に吹き込ませる。遠方にいる皇叔は弁明もできず、陛下の心に不信感が育つことになる」

「へ、陛下は皇叔を気に入っておいでですが……」

「陛下が皇叔に軍権を委ねるのは、武帝が衛青(えいせい)霍去病(かくきょへい)を登用するのと同じだと思いますか?」

「そ、それは……」

「噂がなければ、陛下は気に入っているとはいえ劉備を登用しようとは思わないでしょう。つまり、そこに確固たる意志も堅牢な思考もないのです。おそらく、あるのは不安でしょうが、ともかく意思がないということは、また別の流言飛語に惑わされることになるでしょう」

 皇帝批評にも取れる司馬懿の言だが、それに雛里は頷けた。

「反董卓連合にしても、今回の袁紹陣営の流言しても皇叔は董司空にも伯業様にも何もしなかった。いえ、むしろ、おふたりの不利になることをしている」

 劉備に罪はない。

 しかし、反董卓連合が起きたとき、董卓にはいったい何の罪があった? 袁遺が軍権を取り上げられようとしているのは、いったい何の過失があってか?

 罪も過失もない。あるのは悪意と謀略だけだった。

 繰り返して言うが劉備に罪はない。だが、劉備はその悪意と謀略に乗った側の人間である。

 なら、これは劉備に因果が帰ってきただけの話かもしれないが、雛里の良心が反論することを求めた。

 だが、言葉が出てこない。口の形が無意味に変わるだけだった。

 そんな雛里に、司馬懿は今までにないほど優し気な表情を作って言った。

「安心……できるかどうかわかりませんが、私の言葉に反感を抱くのは正常なことです。やられたらやりかえすというのは不健全なことですから。そして、おそらく伯業様もそう思っているはずです。ああ、いや、伯業様ならもう少し自虐的な表現をしているかもしれませんね」

「え……?」

「品のない表現で申し訳ないが、伯業様の今回の皇叔への対応は、漏れそうだから便所に駆け込む程度の意味しかありません。それなのに自分たちだけが良いことをしていると信じられるはずがありません」

 そして、自虐的に口元を一瞬だけ歪ませてから続けた。

「危機が迫った状況で、伯業様や太傅……いや、伯業様に効果的な進言をできていない私も含めての愚かさと限界から生み出された足掻きでしかなく、他の手段を考えるほど賢くなかっただけです」

 袁遺ならば、こう表現するだろう。

「人の世などは所詮、無限に近い愚かさとほんの僅かな気高さのみで構成されているんだ。その愚かさを少しばかり増やしたところで、何をどうだと言うのだと開き直っている。厚顔無恥とはまさにこのことだし、他人に侮蔑されて当たり前だな」

 司馬懿の視線は未だ窓の向こうを捉えたままだった。雨はまだ降っていない。

「ただ、あなたがそういう反応を取るということは董司空も同じような反応をするのでしょうね。劉皇叔に何の罪がと。そして、太傅なり伯業様にこう返される。後将軍の軍権が取り上げられるのは何の罪があってと」

 雛里は月のその先の行動を簡単に予想できた。自分と同じだ。反論しようにも言葉が見つからず、結局黙ってしまう。そして、おそらく董卓側の武将も同じような反応だろう。

 司馬懿は、話を戻しましょうと言ってから続けた。

「軍を一時的に掌握するとはいえ、皇叔は伯業様以上の信頼を兵から得られない。兵が最も信頼し尊敬する指揮官は、自分を生きて戦場から故郷へと連れ帰った指揮官です」

 その点だけはどうやっても、劉備が袁遺に敵わないことだった。

「それに太傅なら劉太尉を抱え込んでいるはずですから、太尉として皇叔の軍権に圧力をかけることもできる。どんな汚れた手段であっても名分さえ立てば、伯業様はあっという間に兵権と軍を取り戻すでしょうね」

「問題は、兵権を取り戻すまでの時間と叛乱・独立の規模ということですか?」

 司馬懿は首を縦に振った。

「愚見ながら、これが私の予想です。外れているかもしれないし、そもそも皇叔が袁紹の企みに乗らねば何の問題もないのですが……」

 だが、雛里は思った。仲達さんの予想はおそらく当たっていると。そして、親友の顔を思い浮かべた。

「さて、今度は私の質問に答えて頂けますか」

 思考の海を漂っていた雛里の意識を仲達の言葉が現実へと引き戻した。

「何でしょう?」

 雛里は姿勢を正した。

「伏龍先生についてです。なんでもその才は管仲・楽毅に比するとか」

 雛里は仲達の言葉を肯定した。親友の力量を疑ったことはない。

 先程まで、ずっと視線を窓の外へと向けていた仲達のそれが雛里を正面からとらえた。

「では、そんな伏龍先生は伯業様や太傅の考えを見通せると思いますか?」

「それは……できると思います」

 ほう……とため息とも取れるような声を司馬懿は漏らして、続ける。

「それでは、伯業様と太傅の意図に気付いているなら、諸葛先生はどのような手を打ってくると思いますか?」

 陰謀の香り漂う話題でも、その声からは品の良さが感じられた。

 だが、雛里にとって今はその上品さが何よりも不気味で恐ろしかった。

「……考えられるのは、この洛陽から逃げ出すことです」

 雛里は誤魔化すことができなかった。司馬懿の洞察力に嘘を見破られるのではないかと雛里は怖かった。

 それに雛里は、尋ねている司馬懿が諸葛亮が採るべき策を予想できないとは思えなかった。

「それも、できるだけ回復した名誉が傷付かないように。そして、伯業様の影響が薄い益州辺りで立て直しを図るのではないでしょうか」

 だから、正直に答えた。

「なるほど……」

 仲達は少し考え込んでから、改めて口を開いた。

「私も同意見です。劉皇叔の最終目的が何であれ、野心を捨てきれないなら、洛陽で伯業様から軍権を奪おうとするより、地方で独立した方が楽なはずです」

 彼は穏やかで品がある様子でまっすぐ雛里を見据えて言う。

「だがしかし、私とあなたが読めているということは、間違いなく伯業様も諸葛亮の意図を読んでおられる。そうなると、おそらく……」

「洛陽から脱出したい皇叔陣営と逃がしたくない伯業様で争いが起こる?」

「……どうでしょう?」

 司馬懿は曖昧な笑みを浮かべた。

 雛里の胸にあった暗澹たる思いが強くなった。

 彼には自分が見えていないものが見えている。雛里はそう思った。

「ただ、伯業様はすでにお示しになりましたよ」

「何を……?」

「噂に惑わされず、職務を全うして欲しい。つまりは、そういうことです」

 主が口にした命令を、そのまま言う司馬懿に雛里は言葉を飲み込んだ。

 本当は、それってどういう意味ですかと尋ねたかったが、司馬懿の放つ雰囲気はこれ以上、語ることを拒否していた。

 ただ、窓の外に視線を再び移して、

「雨が降ってきた」

 ポツリと呟いた。

 

 

 同じ頃、皇帝・劉弁は宦官に尋ねた。

「近頃、袁紹が玄徳を恐れているという噂があるが、それは本当か?」

 噂好きというのはどこにでもいる。それはもちろん皇宮もそうである。宦官や女官たちの中で、そういった趣味な者が、こんなに楽しいことはないとひそひそと話し合うのである。

 そして、雛里の言った通り、人の口には戸が立てられない。噂はいつしか必ず皇帝の耳に入る。

「はい、そのような噂があるようです」

 宦官は答えた。

 聡明な宦官だった。

 皇帝のそれは一見質問であったが、その実はただ同意を求めているだけである。

 それを聞いた劉弁は破顔した。そして、心の中で思った。

 桃香に軍を与えて袁紹を倒してもらおう。

 このときの皇帝の心理は司馬懿の言った通りだった。

 確かに彼女は軍権を劉備に与えようと思ったが、その理由は寵愛からではなく、袁紹が恐れているという噂が根拠だった。

 劉弁は不安なのだ。

 彼女の人生で安定と呼べる時期はとても少ない。黄巾党の乱、反董卓連合、黄巾の残党の蜂起、袁紹の河北統一、徐州の叛乱と常に叛乱と戦が続いていた。それは漢王朝が亡国の縁に立たされているということである。

 漢が滅んだら自分はどうなる。それを考えると劉弁は心が散り散りに乱れた。

 秦の子嬰(しえい)は、項羽に一族もろとも殺された。新の王莽は殺された後に体を八つ裂きにされた。孺子嬰は更始帝に殺されたし、その更始帝も赤眉軍に殺された。漢が滅びたら、自分もきっと殺される。嫌だ、死にたくない。

 不安で不安で仕方がない彼女は、ともかく何かをやりたいのである。

 何か漢が滅びない手を、何か自分が生き残ることをやっているという実感が欲しいのだ。だから、彼女は劉備に軍を渡そうとする。

 そこには論理的な思考は一切なかった。例えるなら、溺れてパニックに陥った者が、意味もなく手足をバタバタと動かしているようなものである。

 しかし、劉弁はそれこそが自分が生き残るための最良の手段だと信じていた。いや、信じ込んでいた。

 だから、酷く厄介だった。

 皇帝という絶対権力者が最良と信じ込んで、分別を失っているのである。止められる者はいなかった。

 袁遺にも劉備にも時間はなかった。

 

 

 劉備の志の出発点は、困っている人たちを助けたい、ただその思いだけであった。

 だから、董卓が洛陽で幼帝を傀儡として悪政を行い庶人を苦しめていると聞いたとき、彼女は連合に参加することにした。

 だが、実際は董卓は暴政を行っておらず、連合は袁紹を中心とした東側の諸侯の嫉妬と野心によって起きた茶番劇だった。

 そのことを知ったとき、劉備は後悔した。

 劉備は袁術ほど鈍くもなければ、曹操ほど冷酷でもない。

 事実無根の罪を信じて、連合に参加して攻撃した董卓や袁隗に助けを求めることを恥じていたし、申し訳ないとも思った。

 しかし、それでも……それでも消えないものが彼女の中にあった。

 困っている人たちを助けたい、その思いだけは消えなかった。そして、それを為したいと思った。

 劉備は領地も軍も失った。皇叔といわれているが、何か権限があるわけでもない。

 劉備は思う。

 確かに、自分は愚かだった。考えが足りず、ただ感情の任せるままに連合に参加して、罪なき人を陥れる様な真似をした。乱世を深める様な真似をした。

 だけど、他の人は?

 袁術は連合を混乱させるようなことをやって、そこからはまともに戦わず、さらに連合を一番に抜けて連合を崩壊させる要因を作った。

 しかし、彼女は列侯に取り立てられた。

 曹操も似たようなものだ。連合に参加しながらも、兗州牧、建徳将軍の官位が授けられた。

 彼女たちと自分の違いはなに? 袁遺と知り合いなこと? 兵を多く持っていること? それとも運?

 劉備は、思いだけではだめだと誰かに言われたような気がした。

 そんなときだった。その噂を耳にしたのは。袁紹が劉備を恐れていて、劉備が軍を率いることを警戒していると。

 もちろん、これが袁紹側の策であることを劉備はすぐに理解した。袁紹が自分を恐れる理由なんてどこを探してもない。

 同時に、あんなに自分のことを気に入っている陛下なら、もしかしたら噂を信じて軍権を渡してくれるかもしれないとも思った。

 そして、もし皇帝から軍権を与えると言われたら、劉備は受けようと思った。

 現状、劉備は飼い殺し以外の何ものでもない。それは劉備にとって望んでいないことだったし、苦痛だった。自分は豪奢な生活をするために戦ってきたのではないと心が叫んでいた。

 しかし、それを仲間に打ち明けたとき、ひとり血相を変えて異を唱えた。

 諸葛亮だった。はわわ、という口癖から叫ぶように言った。

「か、考え直してください! 噂は袁紹陣営の流言です! 洛陽でいざこざを起こして南下の足掛かりにしようとしているんです!」

 驚きと憤慨と恐怖と忠義、孔明自身でも、どのくらいの感情が込められているかがわからない声だった。また、その表情も同様である。

「……でも、私、このままじゃダメだと思うの」

 一瞬、諸葛亮の剣幕に怯んだ様子だった劉備だったが、自分の思いを伝えるように真っ直ぐ諸葛亮を見据えて口を開いた。

「私は贅沢な暮らしがしたくて義勇軍(仲間)と一緒に立ったわけじゃないの。だから、このまま何もせずに過ごすなんてできないよ!」

 劉備が言った。

 周りを見れば、関羽も張飛も趙雲も劉備を諫める様子はなく、むしろ似たような心境であることが読み取れる表情だった。三人も劉備同様に、飯の美味い監獄に容れられている如きこの現状を打破したいと思っていた。

 彼女たちは劉備の考えに共感して劉備と共にいる。その点は諸葛亮も同じである。

 しかし、三人は諸葛亮に比べれば近視眼的であった。さらに三人は袁遺の武将のことを過小評価し過ぎていた。

「確かに、袁紹の流言であるが、それがわかっていれば十分に対処ができるのではないか?」

 関羽が言った。

 三人の中で特に関羽が袁遺の将を過小評価していた。

 仕方がないと言えば仕方がない。関羽にしろ、張飛にしろ、その武勇は万の兵に匹敵する(万人敵)。張郃ならともかく陳蘭や雷薄など、関張のふたりならば、一撃で斬り捨てるだろう。彼らは関羽と張飛からすれば雑兵に毛の生えたような存在にしか思えない。

 だから、雑兵にできることが自分たちにできないとは思わない。

 しかし、諸葛亮は違う。

 笮融の討伐のときに袁遺とその配下の将や軍師、参謀がやってみせた―――洛陽から徐州までをただ行軍したのではなく戦略的に展開した―――ことの異常性を理解している。

 袁遺は戦場で部隊に戦闘隊形を取らせるかのように、洛陽から徐州という四八八キロ離れた戦域でそれをやってみせた。

 そんな真似は劉備軍はおろか曹操軍も孫策軍も不可能だった。

 ただし、諸葛亮はそのことを今ここで言うつもりはない。問題はそうではないのだ。

「そうじゃないんです。軍権を握れば殺されますよ!」

「殺されッ!」

 剣呑な言葉にその場の皆が息をのんだ。

「どうやって?」

 趙雲が尋ねた。

 彼女は比較的落ち着いた顔をしていた。性格によってもたらされた余裕であった。

「袁遺さんから桃香様へと軍権が移れば、各地で独立や叛乱が起こるはずです。それを討伐するために都を空けている間に宦官なり何なりを使って、陛下に皇叔に野心ありと吹き込み、桃香様の討伐の勅命をいただくはずです」

 雛里の予想通り諸葛亮は袁遺と袁隗の企みに気付いていた。

「そ、そんな……けど、陛下と私は―――」

 陛下と私は仲が良いから、それに類する言葉を吐こうとしていた劉備を遮って諸葛亮が言った。

「桃香様、私たちは反董卓連合に参加したんですよ。そのことを突けば陛下と桃香様の信頼にひびを入れることは十分にできます」

「……」

 重苦しい空気が場を支配した。

 諸葛亮以外の者も納得がいったのだ。

 それに諸葛亮は各地の独立・叛乱を袁遺ほど素早く討伐できないことをわかっているから、陛下に吹き込む内容も予想できた。

 劉備は反董卓連合に参加しました。あの袁紹と同じなのです。それに軍権を得た劉備はだらだらと軍を動かすだけで、賊を討伐しません。劉備は賊が陛下を討つのを待っているのです。そして、その後で陛下に成り代わり帝位に就く気です。

 軍事的知識のない劉弁はそれを鵜呑みにするだろう。

 袁遺は常識外れの速度で徐州での叛乱を鎮圧したのである。その異常性を理解できない皇帝は、袁遺より遅い劉備を見て不信感を抱くはずだ。

 そもそも、まともな知識があるなら袁遺から軍権を取り上げるなんて判断は絶対にしない。袁遺から軍権を奪うということは万里の長城を壊すに等しいことである。

 そして、その讒言から劉備を庇ってくれる人はいないだろう。

 劉備の皇帝との面会は袁隗によって整えられたのである。そのおかげで皇叔と認められたのだ。なのに、袁隗の甥の袁遺を追い落とすことは袁隗の顔に泥を塗るようなことである。

 それは親袁隗派の名士が多い洛陽では致命的な袁隗への裏切りだった。

 事実、軍事には疎いが政治的嗅覚は鋭敏な劉虞は、劉備の動きが鈍いと見るや否や袁隗に接触し、自分には劉備と共謀して軍権を奪取するつもりはない、と立場を鮮明にした。また、劉備を招き入れるきっかけを作ったことを謝罪した。

 お飾りの太尉であることを自覚しているが、たとえお飾りはお飾りでも太尉である。軍事関係の政争に巻き込まれた場合、酷いことになるのは目に見えている。

 だから、劉虞は立場を鮮明にして、北方の異民族を動かすという価値が自分にあるうちに劉備を引きこんだことの失策を手打ちにしておいた。

 そのため、公孫賛から頼まれて、劉備の洛陽入りのきっかけを作ってくれた劉虞が讒言から劉備を庇う気はなかった。

 結局、反董卓連合に参加したことによって受けた汚名は回復されつつあるが、そんなものは董卓と袁隗によって与えられたものだ。

 袁隗たちがその気になれば、容易く吹き飛ぶ風評である。

「お姉ちゃんは何も悪いことをしてないのに、そんなのひどいのだ!」

 張飛が叫んだ。

 義姉の関羽も言葉には出さないものの憤りを隠していない。

「董卓さんは何も悪いことをしていないのに連合に攻められて、袁遺さんも何も悪いことをしていないのに軍権を取り上げられようとしています」

 諸葛亮が言った。

 そのどちらも始まりは袁紹によるものだったが、劉備はどちらにも加担した。

 ならば自業自得だったし、そもそも善悪など容喙しようのない問題だった。

 しかし―――

「で、でも、ずっとこのままは嫌だよ……」

 劉備は諦めきれなかった。

 噂を聞いたとき、諸葛亮はこうなることを簡単に予想ができた。そして、それを利用しようと思った。

「……桃香様、ひとつだけ手があります」

 どんなに考えても、それしか手がなかった。

 劉備が大人しくしても、いつか必ず限界が来る。なら、破滅を先延ばしにするのではなく、どんな手を使っても洛陽から脱出するしかない。それをわかっていたから、ある程度の準備を進めてきたが、こんなに早く実行する羽目になるとは諸葛亮は思ってもいなかった。

 諸葛亮も袁遺たちと同じだった。

 自分の限界の中で足掻くしかなく、いくつかある愚かな選択肢から最もマシなものを選ぶしかない。

 どんなと劉備が尋ねた。

 それに諸葛亮が返す。

「噂に対して私たちが何も動かなければ、白蓮さんや劉太尉が焦るはずです。おふたりの厚遇は現在の戦況や外交状況が最も見えている袁遺さんの意向が強く反映されたものです。だから、袁遺さんが失脚するとおふたりの立場も怪しくなります」

 ふたりの尽力で劉備は洛陽へと入ることができた。それなのに諸葛亮は恩を仇で返そうとしている。

「ですので、おそらく白蓮さんが桃香様に袁紹陣営の策に乗ることを思い留まる様に説得に来るはずです」

「白蓮殿なら十分考えられますな」

 趙雲が漏らした。

 お人好しの公孫賛なら、袁紹にやられたところを助けてくれた袁遺や、劉備を助けるのを協力してくれた劉虞に害が及ぶことにならないように動くはずという確信が、この場の皆にあった。

「そのときに洛陽脱出の手引きを頼んでください」

 そして、お人好しだからこそ劉備を死地に追いやる真似もできない。袁遺や劉虞に害が及ばず、劉備も死なないような選択肢を間違いなく取る。

 諸葛亮の提案を聞き、劉備は苦しそうな顔をした。友人であり恩人である公孫賛を巻き込むことを苦悩しているのだった。

 しかし、諸葛亮は良心を痛めなかった。というより、そんな余裕がなかった。

 諸葛亮は劉備が苦悩しながらも自分の策略を選ぶことを予想できた。友人を巻き込むくらいなら―――と引くことができるなら、もっと早い段階で納得して大人しくしているはずだ。

 ふと、諸葛亮の脳裏にひとりの少女の顔が思い浮かんだ。

 雛里ちゃん……

 劉備が友人が不利になるようなことをしなければならなかったように、諸葛亮もまた雛里が不利になることをしなければならない。

 劉備は諸葛亮の予想通りに彼女の策に乗った。

 そして、これも予想通りに公孫賛が訪ねて来て劉備に、

「まさか袁紹の企みを利用しようとか考えてないよな?」

 と尋ねた。

 公孫賛の顔はあからさまに不安の色を帯びていた。

 諸葛亮はそれを見たとき、公孫賛の方は問題がないと思った。

 その不安を上手くコントロールしてやれば、こちらの頼みを飲ませることができると冷徹な軍師の思考を巡らせていた。

 窓の外を見れば天から雨粒が落ちてきて、ポツリポツリと地面を濡らしていた。

 

 

 雨は明け方には止んだ。昨日、雨が降ったのが嘘のように感じる晴天が顔をのぞかせていた。雨が降ったことを思い出させるのは、ぬかるんだ地面くらいだった。

 その泥を巻き上げて、軍装に身を包んだ男共がぞろぞろと歩く。

「いいか、あれが雲台だ」

 その男たちを率いて先頭に立つ公孫賛が声を張り上げ言った。

 それに兵たちはポカンと口を空けて、高所に作られた壮麗な建物を見上げた。おのぼりさんという風である。

「あそこには世祖(光武帝)と共に漢の再興に尽力した二十八人の将の像が描かれている」

 公孫賛は続けて言う。所謂、雲台二十八将のことである。

 兵たちは圧倒された様に、はぁ~とため息の様な感嘆の声を漏らした。

 余談になるが、雲台の隣の東観では袁遺の推挙人である張超も参加している史書『東観漢記』の編纂が行われている。

「次は九龍門前で嘉徳殿を拝むぞ。皇帝陛下のお住まいだ」

 その言葉に兵たちの間に歓声が沸いた。そして、ぞろぞろと動き出す。

 そんな兵たちに気付かれないように公孫賛はため息をひとつ吐いた。

 緊張感が彼女の中にあった。

 公孫賛は袁遺の手によって、平時は宮殿を守り、戦時では戦車や騎兵を指揮する中郎将の官職にある。

 一緒に逃げて来た劉虞が太尉の官位を手に入れたが、事実上の軍務、軍政を袁遺が取り仕切っている様子を見たとき、公孫賛は自分の中郎将も形だけの任官かと思った。

 しかし、予想に反して兵の補充は行われるし、後将軍府から参謀などのスタッフがやって来て、部隊の編成にも協力してくれている。

 それは飼い殺しではなく、まともな扱いだった。

 袁遺が、袁紹との戦いで人員はいくらあっても足りない状況で、飼い殺しにする部隊に兵を回すなどという無駄なことをする男でないと公孫賛は思っていた。

 となると、自分にも活躍の場が与えられるのではないか。そんな期待が彼女の中にはあった。

 それは事実であった。

 軍事が苦手で皇族として厚遇されることが半ば約束されている劉虞と違い。公孫賛の出自は決して高貴とは言えず、それなりの地位を与えて飼い殺しにしておくのでは満足しない。

 それなら、いっそのこと部隊を編成して戦いに出せば、飼い殺しを避けるために、また、現在の漢王朝での出世を求めて懸命な働きを見せると予想した袁遺の人事だった。彼らしいといえば彼らしい。

 ただし、それは劉備には適用されなかった。

 彼女は皇族であり、戦場で万が一のことが起これば、とてつもなく面倒なことになるのが目に見えている。

 もしかしたら将来的に、劉備と袁隗、董卓、袁遺は互いに何らかの折り合いをつけることになったかもしれなかったが、郭図の流言がそれを許さなかった。その点でいえば、彼の策略は効果的に漢王朝内を破壊していた。

 話を公孫賛に戻して、彼女はその補充された新兵に洛陽の宮城内を案内しているのだった。

 主に長安で募集された元流民が多い新兵の中には初めて洛陽に来たという者が殆んどである。

 平時は宮殿を守る中郎将の部隊の兵がそれではよろしくないと、こうやって案内しているのだが、別の目的が彼女にはあった。

 彼女が案内している新兵の中には劉備が平原から共に逃げて来た兵たちが含まれていた。

 

 

 公孫賛が件の噂を聞いたとき、それを一笑に付した。こんな見え見えな策に桃香が引っかかるわけないだろう、と。

 だが、すぐに本当にそうかと思い直した。

 桃香―――劉備はときたま、とんでもないことを平気ですることがある。まさか、今回もと考えて、公孫賛は背筋に嫌な汗が流れた。

 劉備を無理を言って受け入れてもらったのは公孫賛自身である。それなのに、劉備が結果的に袁遺から軍権を奪う様な真似をすれば、受け入れた董卓や袁隗は良い面の皮である。いや、説得に協力してもらった劉虞にも迷惑を掛けることになるかもしれない。

 公孫賛は、いてもたってもいられなくて、劉備の屋敷へと向かった。

 もし、皇帝の寵愛を受けていることを笠に軍権の奪取を考えているなら、莫迦なことはやめろと言ってやりたかった。これは袁紹の策略で、それに乗ることは劉備を平原から叩き出した袁紹に利することで、劉備を受け入れた袁隗、董卓を害することだと。

「まさか袁紹の企みを利用しようとか考えてないよな?」

 だから、尋ねられた劉備が表情を曇らせたとき、公孫賛は思わず声を荒げてしまった。

「ば、莫迦なことは考えるな!」

 それに劉備は顔を伏せて言った。

「でも、白蓮ちゃん。このままじゃあ……」

「どうだって言うんだ!」

 感情に任せて叫ぶ公孫賛であったが、次の劉備の口から出て来た言葉に固まることとなる。

「このままじゃあ、わたし、殺されちゃうよ……」

「え……」

 それは公孫賛にとって、まったく予想外の言葉だった。

 混乱し、その言葉の意味を咀嚼するように立ち尽くしている公孫賛に対して、諸葛亮が一歩前に進み出て言った。

「桃香様は陛下に寵愛されています。それが袁紹陣営に利用されることになりましたが、今回、大人しくしていても、間違いなく今後また似たようなことが起きます」

「似たようなことって……?」

 公孫賛は思わず尋ねた。呻く様な声だった。

 諸葛亮は公孫賛を真っ直ぐ見据えて口を開いた。

「反董卓連合に参加した野心の塊の様な曹操さんや好き勝手した袁術さんが、どうして今、大人しく朝廷に従っているか分かりますか?」

「それは軍を叩かれ、連合が解散したからだろう」

「そうです。そして、その軍を叩きのめしたのは袁遺さんです。つまり、彼女たちは袁遺さんが強いから従っているのです」

「だけど、それがどうしたんだ!? そんなことは私も分かっているし、だから、伯業から軍権を取り上げる様な真似をするなって言っているんだ!」

 公孫賛は声を荒げた。

「そうです。だから、もし陛下が桃香様に軍権を与えると仰られただけでも、大きな衝撃となるのです」

 対して、諸葛亮の声は凄みさえ感じさせるほど冷静であった。

「皇帝は袁遺の軍才の価値を分かっていない。皇帝の劉備への寵愛は凄まじいものだ。袁遺さんのことを恐れている諸侯どころか、四海の人々はそう思うでしょう。同時にそれは袁伯業の失脚の方法を天下に知らしめるようなものです」

 つまり、諸葛亮の言う似たようなこととは、袁遺という障害を取り除くために劉備が今後も流言のダシにされる可能性が高いということである。

 そして、その攻撃ならぬ口撃を受ける袁遺が劉備の存在そのものを害と受け取り、殺してでも排除する可能性も高いということだった。

 諸葛亮の予想は正確だった。

 例えば、袁術陣営の張勲などの袁遺に戦では絶対に敵わないと思っている者たちは、この方法に間違いなく飛びつくだろう。

「じゃ、じゃあ、桃香が陛下を説得して伯業を守るなりすればッ!」

 公孫賛は反論を試みた。

「それもいけません」

 しかし、それは諸葛亮に即座に否定される。

「その役目は今まで董卓さんのものでした。だから、桃香様がその役目を奪ったら、董卓さん側の恨みを買い、結局、身を危うくします」

「……董司空と会ったことあるけど、そんなことで恨む様な人物ではなかったぞ」

「確かに、董卓さんは良い人のようですが、状況が状況です」

 諸葛亮は、いいですかと前置きして続ける。

「今の漢王朝は袁隗さんの人脈、董卓さんの人格、袁遺さんの才覚の三つが絶妙な均衡を保つことで成り立っています。その均衡を崩すことは大変危険なことです」

「……袁紹に付け入られる隙を生むから?」

 それに諸葛亮は、そうですと返しながらも内心ではまったく別のことを考えていた。

 そもそも皇帝の権威というものは連合を崩壊させ、その後も各地の反乱を鎮圧した軍事力と儒教という儀礼主義によって辛うじて保たれているのが現状である。

 そして、前者は袁遺の才覚であり、後者のそれで力を持っている清流派人士を取り仕切っているのは袁隗である。

 董卓の立場を奪っても、劉備は絶対に袁遺や袁隗と上手くつき合えない。将来的に劉備は袁遺失脚のダシにされることが見えているからだ。

 となると、袁遺や袁隗を追い落とす必要があるが、そうなれば皇帝の権威自体が消し飛ぶことになる。

 それは劉備にとっての現在の洛陽での最大の武器の消失である。

 はっきり言うなら、自分の死刑執行書にサインするが如く行いだった。

 そのことを諸葛亮は公孫賛に言わなかった。ともかく全てが袁紹の策略のせいで劉備を含め、袁遺や袁隗、董卓、そして漢王朝が危機であると公孫賛に思わせた方が良いと諸葛亮は考えていた。

 実際に、諸葛亮の目論み通りだった。

 声を荒げていた公孫賛は黙り込んでしまった。

 諸葛亮はそれを見て思った。白蓮さんは桃香様の命を見捨てるという選択は決してできない。

 そして、劉備にひとつ頷いて見せた。

 それを受けて劉備が口を開き、公孫賛に洛陽からの脱出を手伝ってほしいと切り出した。

 

 

「兵の方々を洛陽の城外に連れ出してください。その後はこちらで何とか致します」

 昨日諸葛亮に言われたことが公孫賛の中で嫌になるくらい鮮やかに蘇った。

 その言葉通りに新兵に劉備の手勢を混ぜ、新兵教育に託けて、北宮から南宮、そして洛陽城外の演習場へと彼らの連れ出しているが、時間が経つにつれ、公孫賛の胸の中で割り切れない感情が育っていった。

 確かに、劉備たちが危ない状況にあることが理解できた。そして、洛陽脱出の手伝いも了承したが、今思えば、あの場の雰囲気に乗せられたという気持ちにもなってきたのだ。

 それを表すかのように、足取りが重いのは地面がぬかるんでいるせいだけではなかった。

 新兵の案内に託ける案は諸葛亮から出たものであり、それを聞いたとき、公孫賛はひとつの疑問を呈した。

「もし、不信に思われて止められたら、どうするんだ?」

 諸葛亮が、それに答えた。

「そうなったときは、強気に出てください」

「強気に~?」

 公孫賛は訳が分からないと問うような表情を浮かべた。

「はい、ともかく強気に。袁遺さんの名前を出すのも効果的だと思います。袁将軍の許可は取っている、とか」

「ちょ、ちょっと待て!」

 諸葛亮の答えに公孫賛は慌てた。

「そんなことをしたら、その場は切り抜けられるだろうけど、後で伯業に何をされるかは分からないぞ」

「大丈夫です」

「はぁ!?」

 公孫賛とは対照的に諸葛亮は落ち着いた理知的な声で返した。

「袁遺さんは必ず話を合わせてくれますし、白蓮さんを庇ってもくれます」

「……どうして?」

「袁遺さんという人が実際的かつ理性的な方だからです」

 諸葛亮は袁伯業という男の戦争指導者としての力量や心構え、あり方を高く評価していた。袁遺なら、感情に囚われず、何が今の状況で最善かを間違いなく判断する。ある意味で、これ以上ないくらいの信頼であった。

「今は確かに桃香様が袁遺さんの不利益を生む存在になっていますが、それは袁紹さんの策略によってです。さらに言えば、袁遺さんたちが戦っているのは桃香様ではなく、袁紹さんとです。だから、袁遺さんは、袁紹陣営の背後を脅すのに有益な劉虞さんや白蓮さんにとって有益な存在であろうとして、自身への多少の不利益には目を瞑り。ある程度の道理のないことも飲み込みます」

 政治的な人間関係を諸葛亮はこの場で誰よりも承知していた。

「……それは分かったけど、そっちは大丈夫なのか?」

「はい、大丈夫です」

 そう答えた諸葛亮の目を公孫賛は忘れることができなかった。

 いや、諸葛亮だけではない。その場にいた関羽も張飛も趙雲も、そして、今、自分が引き連れている劉備の兵たちのそれも忘れることができなかった。

 皆の目は幽州の沽水で自分を逃がすために散っていった関靖やその手勢と同じ目をしていた。

 きっと、あいつらは桃香のためなら命を投げ出すんだろうな……

 公孫賛は関羽たちを関靖や自分のために散っていた者たちと重ねてみていた。そうしたら、今更やめるなんていう選択肢は消え失せていた。

 もう関靖たちのような者たちが出てくるのは嫌だった。

 結局のところ、公孫賛―――白蓮という人物は底抜けな善人であった。

 しかしそれでも、公孫賛の心に引っかかるものがあった。

 自分のやることは分かった。だけど、そっちはどうするんだ? 公孫賛は諸葛亮に尋ねた。

「私たちは市場に向かいます。荊州の商人に伝手がありますから、そちらにお願いして荊州に行こうと思います」

「……そうか」

「はい。騒ぎが収まるまで、あっちで大人しくしています」

 諸葛亮が言い終わると劉備が公孫賛の手を取って、口を開いた。

「白蓮ちゃん! 本当にありがとう!」

 劉備は笑顔だった。瞳に涙がたまっていて、泣きそうだった。歪ではあったが、これ以上ないくらい美しい笑顔だった。

 そのとき、公孫賛は聞くことができなかった。

 じゃあ、騒ぎが収まった後は何をするつもりなのかと。

 幸いなことに、公孫賛は誰にも呼び止められることがなく、洛陽の城外に出ることができた。

 洛陽の城外にはひとりの商人風の男が公孫賛たちを待ち構えており、公孫賛の前に拝跪して言った。

 中郎将様に拝謁致します。伏龍先生から言伝を預かっております。どうかこのまま陽渠へとお進みください。

 (きょ)とは人口の水路のことであり、陽渠は洛陽の東に掘られ、洛水へとつながっていた。以前に書いたことだが、後漢では洛陽の周辺に全国から物産が集まる市場がある。その市場に物産を転漕するための水路であった。

 劉備の兵たちはそこで船へと乗り込み、洛陽を旅立った。

 公孫賛は無事に劉備の頼みを成し遂げた。

 

 

 雛里が袁遺に仕えてから短くない時間が経過し、その無表情を通り越した無機質な顔に怖さを全く感じなくなったが、このときばかりはその表情に恐怖を感じずにはいられなかった。

 昼前、皇帝・劉弁は劉備に参内するように使者を送った。

 もちろん件の噂のことであり、劉備に軍権を与え、袁紹を討伐するように勅命を下すつもりだった。

 だが、皇帝の前に劉備は現れなかった。

 使者は劉備の別れの挨拶が書かれた練絹を持って来た。

 その文面は突然、そして何の挨拶も言わずに去る非礼を詫び、何故このようなマネをすることになったかが記されていた。

 書状を要約するなら、現在流れている噂は袁紹の策略であり、劉備が洛陽に留まると王朝と皇帝にとって害となる。故に、このような形で陛下の元を去ることを許して欲しい。また、噂に惑わされず、これまで通り袁遺に任せれば袁紹を討伐できる、と書かれていた。

 それを読んだ劉弁は悲しそうに少し休むと言って、嘉徳殿の奥に引っ込んだ。

 その一部始終と文面は当然、袁隗や董卓、袁遺に伝えられた。そして、それ以外の洛陽の朝臣の耳にも自然と入った。

「鳳統、司馬懿。君たちも噂……ああ、新しい方だ。皇叔の噂だ。知っているな」

 袁遺は洛陽県令室に呼びだした軍師ふたりに尋ねた。

「はい」

「存じております」

 当然、雛里と仲達も聞き及んでいた。

「どんな風に伝わっている?」

 袁遺が尋ねる。その顔はいつもと変わらぬものだった。感情が薄い顔をさらに際立たせる無機質な三白眼。

「……その、劉皇叔が洛陽を出ていった、と」

 雛里がおずおずと答えた。

「詳しく。どんな噂が流れている?」

 袁遺がさらに尋ねる。

 この男、とかく人の陰口というものを嫌う。そのことを軍師ふたりはよく知っていた。

 なのに今、その陰口じみたものもある噂を言えという。

 袁遺は軍師たちに何かを求めていた。

 雛里は逡巡した。

 こんなとき、袁伯業という男は仕えにくい主であった。

 袁遺は自分の腹の内を過度に読まれることも嫌う。

 ここで賢しらに袁遺の内に踏み込み過ぎて、主の逆鱗に触れるのは将来、身を危うくすることである。

 ともかく匙加減が難しかった。

「色々とあります」

 答えたのは仲達だった。

 袁遺との付き合いも長く、この手の洞察力は雛里が今まであって来た誰より優れている彼からすれば、袁遺の求めていることを完璧にこなせた。

「無稽な噂が殆んどですが。例えば、伯業様が軍権を取られることを恐れて暗殺しただの。劉備は袁紹陣営の細作であっただの。ああ、中郎将(公孫賛)が何やら妖しいことをしていたというものもあります」

「確かに無稽なことだ」

 袁遺は平坦な発音で言った。

「だが、中郎将に悪い噂があるのは今の時期にはまずい。少なくとも軍では、その噂に関しては口を閉じさせろ」

「は、はい!」

「分かりました」

 主の命令に軍師ふたりが応じた。

 この三人が知る由もなかったが、諸葛亮の読み通りに袁遺は公孫賛を庇っていた。

 劉備脱出の後始末を押し付けられた格好だ。

 それをいつもの無表情で淡々とこなす主に雛里は恐怖を持ったのだった。

 あの無表情の下には、どんな感情があるんだろう? 怒り? それとも、もっと怖いもの?

「……あ、あの、伯業様」

 雛里は声を上げ、尋ねた。

「劉皇叔はどうするのですか?」

 本心で言えば、雛里は劉備というより諸葛亮のことの方が気になっていた。

 それに袁遺は荒野に転がる小石を思わせる小ささと無機質さを持つ瞳で雛里を真っ直ぐ見据えながら、答えた。

「皇叔については、袁紹を殺した後で考える」

 その答えと今までの袁遺とのやり取りで、雛里は主の真意と司馬懿が見えていたものをはっきりと理解した。

 噂に惑わされず、職務を全うして欲しい。袁遺が口にし、司馬懿が繰り返した言葉。そこに込められた意味とは、もし劉備が洛陽からの脱出を決行した場合、それを防ぐのが不可能に近いから、敵を袁紹に絞るという取捨選択であり、ある意味で袁遺の敗北宣言であった。

 袁遺は、劉備側が自分や袁隗が手を出せないものを組み合わせれば洛陽から確実に脱出できることに気付いていた時点で、劉備をどうこうすることを諦めて、本来の敵である袁紹の討伐に自分と部下のリソースを割くことにした。

 劉備はともかく、彼女の軍師の諸葛亮なら、袁遺から軍権を取り上げることのリクスとリターンが合わないことを正確に読み取って、袁遺の軍権は侵さない。

 諸葛亮が袁遺の力量や理性を信頼していたように、袁遺もまた諸葛亮なら現実が見えているはずだと信頼していた。

「私と叔父上は石碏(せきしゃく)にならなければならない」

 彼らしいことに大義親を滅すの故事を引用しながら、袁遺は宣言した。同時に心の中で、本当は王導(おうどう)の方が適切なんだけど、東晋の人物を挙げるわけにもいかないからなと呟いた。

 それに雛里は袁遺と劉備(および諸葛亮)の対決という嵐が去ったことに僅かに安堵した。

 しかし、この嵐は問題が先送りされるたびにその規模が大きく、そして破滅的になるという予感が雛里の中にはあった。

「ともかく袁紹だ」

 袁遺が言葉通りに袁紹との因縁に決着を求めて冀州へと侵攻したのは、三週間後だった。

 

 

 はぁ、と安堵のため息を誰かがこぼすのを諸葛亮は聞いた。

 誰のものかは分からなかったが、少なくとも諸葛亮自身のものではないことだけは確実であった。

 それがこぼれたのは船室であった。そこには諸葛亮以外には劉備、関羽、張飛、そし、趙雲がいた。

 商船である。その船団は洛水を進んでいた。

 そして、船が陽渠から洛水へと移ったことを知らされたときに、ため息はこぼれたのだった。

「陽渠から洛水へと無事に入ることができたということは、董卓さんや袁隗さんはこちらを追ってこないということですから、追っ手や妨害の心配はなくなりました」

 船に乗る前から何度か話したことを、諸葛亮は改めて言った。

 船で逃げる場合、最後の関門は陽渠の出入り口で待ち構えられることだと説明していたのだった。

 それに一行は明るい表情を浮かべた。

 特に、劉備は、

「はぁ~~、よかったよ~」

 と嬉しそうな声を上げ、笑みを浮かべた。

 それを見た関羽たちの表情がいっそう柔らかなものとなる。

 しかし、諸葛亮だけは緊張の面持ちを解くことができなかった。

 洛陽から脱出したはいいが、さらに厄介な問題と将来的に直面することが分かっていたからだ。

 袁遺というより袁隗は劉備を完全に皇族として扱っていた。だからこそ劉備は軟禁どころか露骨な監視下にもおかれなかった。

 いくら反董卓連合に参加したとはいえ、皇族として認められた劉備を雑に扱えば、皇族を蔑ろにするのは袁隗・董卓に野心があるからだと世間から思われ、今まで築いてきた大義名分や正統性を損なうことだった。

 そして、だからこそ将来、それが活きてくる。

 近い未来、劉備が袁遺や袁隗、董卓と対決することになった場合、劉備自身に大義名分がなかったのだ。

 いや、劉備だけではない。他の野心ある諸侯にとってもそうである。

 となると、天下という極彩色の夢を諦めきれない諸侯が採る手は袁紹と同じだった。

 彼女が反董卓連合を結成したときと同じように言いがかりをつけて攻め込むしかない。

 そのとき、劉備や諸葛亮自身はどうするのか。

 事実無根であった反董卓連合に参加したことを後悔した劉備に、諸葛亮はまた同じ轍を踏ませるつもりかと自問した。

 だがしかし、袁紹(より正確に言うなら郭図)の流言のせいで劉備という存在は袁遺にとって非常に不利益なものになってしまった。劉備と袁遺の間で何らかの衝突は必ず起こり得る。

 なら、自衛の力は持っていなければならない。

「それで、朱里ちゃん。これからどうするんだっけ?」

 思考の海を泳ぐ諸葛亮の意識を突如、現実へと引き上げる者があった。

 主である劉備の声だった。

「は、はい」

 諸葛亮は口を開く。

「この商船団にも関係がある黄承彦さんの所で一旦お世話になります」

 黄承彦とは沔南(べんなん)(沔水の南)の名士である。

 彼は荊州で最も諸葛亮を評価している名士であった。黄承彦は諸葛亮の才覚に惚れ込み、もし孔明が男性であったら娘を嫁にやりたかった、とまで言った。

 だから、今回の洛陽からの脱出劇でも黄承彦は快く諸葛亮の手助けをした。

 自分の息のかかった商人の商船を使わせたのである。

 襄陽周辺の名士にはある特徴がある。

 それは自家の池の所有していることだ。『晋書』山簡傅に曰く、荊土豪族,有佳園池―――荊州の豪族は良い庭や池を持っている。

 この池は遊宴の場としても利用されていたが、魚が養殖されていたようであり、それを襄陽の都市などの市場に販売していたようだ。

 また、襄陽周辺の民は萬山(まんざん)峴山(けんざん)の沢が禁漁区に指定されていたため、この養殖された魚か沔水で漁業権を持っていた者が獲った魚を購買することを余儀なくされていたようだ。余談になるが、この禁が解かれるのは晋の大安二年(西暦三〇三年)に鎮南将軍・都督荊州諸軍事・荊州刺史として劉弘が赴任するのを待たなければならない(『晋書』劉弘伝)。

 というわけで、襄陽付近の豪族はその魚を売りさばくために商人とは大なり小なり気脈を通じている。

 そして、黄承彦の妻は襄陽で最も力を持っている蔡一族の者である。それはつまり、劉表・蔡瑁の義理の兄にあたるということだった。

 これも公孫賛と同じである。

 背後の荊州で揉め事を起こしたくない袁遺は、たとえ黄承彦のことをつきとめても責めることはしない。諸葛亮はそう考えた。そして、その通りにことは運ぶ。

「そっか……」

 劉備が小さな声で言った。

 劉備の立場は望む望まぬに関わらず大きく変化していた。

 たとえ実現しなかったにしても、皇帝が袁遺から軍権を取り上げ、劉備に与えようとしたという事実は大きな意味を持っていた。

 袁遺に勝てないと思っている者たちは必ずこのことを利用しようとする。そうなると、また劉備は策略に翻弄されることになる。

 袁遺が苦しむから、ただその一点で郭図によって行われた謀略は確実に多くの人の運命を狂わせていた。

 まるで呪いであった。

 

 

 そして、この呪いは郭図の死後も袁遺や劉備を苛むことになる。

 




補足

・石碏と王導
 石碏は春秋時代の人物である。
 彼の仕えていた衛の君主である桓公は弟の州吁によって殺害され、衛の君主の座を奪われる。
 石碏は州吁の非道を許せず、陳の桓公と謀って州吁を捕らえ殺した。
 この州吁の側近には石碏の息子である石厚がいたが、石碏は亡き君主の殺害に息子が関わっていることを知ると息子をも殺す。
 君臣の大義を全うするためには、父子の情も捨てなければならない。
 後の史家は石碏のことを大義親を滅すとはこのことかと称えた。

 王導は司馬氏の晋に仕えた人物であり、東晋の立役者でもある。
 宰相として数多くの人材を推挙し、華北から逃れてきた名士と江南の名士の対立を防ぎつつ、東晋の基盤を確立する。
 しかし、従兄で大将軍である王敦が叛乱を起こすことになる。
 これは王導の一族が力を持ちすぎるのを警戒した元帝が王導の政治力を排除しようとしたことに不満を持ってのことだった。
 この叛乱の最中、元帝は死去して明帝が即位する。
 そして、しばらくして王敦もまた病で帰らぬ人となり、叛乱は鎮圧される。
 反逆者の一族として王導も処刑されそうになるが、明帝は
「王導は大義のために肉親の情を捨てた。したがって爾今十代の後まで罪を許そう」
 と王導を罰しなかった。
 その後、王導は司徒として政務を続け、東晋を支える。
 その死後、丞相の位が追贈された。
 後世、東晋の簡文帝に禅譲を迫ろうとした桓温に対し、諸葛亮や王導のようになれ、と諭す例に出された。
 皇帝を補佐した忠臣として諸葛亮と並べられたのである。


 あと、荊州、特に襄陽周辺の名士の特徴は己の章でまた詳しくやると思う。
 そこまで書くのにどのくらいかかるのか……


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17~19

丙の章で一番、書きたかった話だった。

あとがきの部分に、今回も簡単な地図があります。
地図としては正確ではなく、あくまでイメージを補うためのものだと思ってください。
また、地図にはこの話のネタバレが含まれておりますので、ご注意ください。


17 ライヘンバッハ・プラン(前)

 

 

「俺が兗州牧の兵じゃなくてよかったって、心の底から思ったよ」

 袁遺は軽佻浮薄な軽口を隣に佇む司馬懿にのみ聞こえる声量で吐き出した。

 それを受けて、司馬懿も軽口で返す。袁遺同様の声量であった。

「同感です。あなたの軍師である方がマシだと思えるくらいです」

「ははッ」

 その答えに袁遺は小さく笑った。

 自分が仕えにくい主であることの自覚はあるし、司馬懿を扱き使っているという自覚もあった。

 そして、今も司馬懿の手によって六〇〇〇名以上の死傷者を出した曹操軍に司馬懿自身を作戦指導の参謀として送り込もうとしていた。

 兗州陳留。曹操の本拠地に袁遺は軍師である司馬懿と数名の参謀、そして護衛兵力として姜維が率いる騎兵を中心とした部隊と共に冀州侵攻の作戦説明のためにやって来ていた。

 陳留で曹操たちに出迎えられたとき、怨嗟こそ渦巻いていなかったが、決して心の底から歓迎されているわけではないことを袁遺一行は感じ取った。

 だが、袁遺はそんなもの歯牙にもかけず、曹操と二、三挨拶を交わしてから切り出した。

「そちらの軍の状態を確認させていただきます」

 曹操軍が自分の立てた計画通りに動けるか知るための確認だった。

 袁遺たちは陳留の街から少し離れた軍事演習場へと案内された。事前に書簡を送っていたため、準備はすっかり整えられていた。

「放てーーーッ!」

 雄黄色の髪で眼鏡を掛けた女性―――于禁の号令と共に二〇〇〇程の軍勢が一斉に引き絞った弓を放った。

 風切り音と共に矢が空に吸い込まれるように高々と舞う。

 矢は十度放たれた。

 袁遺はその放たれるまでの時間を心の中で数えていた。

 約一分。その発射速度は熟練兵のそれだった。

 演習場に次の号令が響いた。

「掛かれッ!」

 于禁の部隊の背後から別の軍勢が駆け出た。得物は槍である。そして、その動きは機敏だった。

 兵たちは指揮官たちに命ぜられた場所で何度か槍を振り下ろす、もしくは突く動作を行う。ふたつの違いはそれぞれ指揮官の好みの差だった。効果で言えば、振り下ろす(叩く)方が効果的とされている。

 それに続いて控えていた後続の部隊が突撃動作に入る。ただし、別の進路を取ってだ。

 後続の部隊はふたつに分かれ、片方は最初の部隊の右方向に角度をつけて進み、もう片方は左方向へ同様の運動を行った。敵陣突破と突破口拡張の戦術運動である。

 兵たちは傷が目立つ女性の隊長―――楽進の指揮を受けながら、洪水の様に突撃する。

 袁遺はこの戦術運動を黄巾党との戦で朱儁が行っているのを見たが、かつての上官のそれより兵の速度は上で、なおかつ隊列の乱れもなかった。

 これは朱儁と楽進の差というより、兵の練度の差である。

 ここまでの精強さと統制を得るには想像を絶する過酷な訓練が必要だった。

 故に、冒頭の感想という名の軽口が吐かれることになる。

 于禁と楽進でここまで凄まじいならば、彼女たちより曹操に長く仕えている夏侯姉妹の部隊など、その強さを考えるのでさえ袁遺は嫌になってきた。

 味方なら頼もしいと言えるかもしれないが、華琳はいつまで俺の味方であってくれるかな? それに俺は味方に、ここまでの精強さを求めていないし、当然、敵にもそうだ。世の中、なかなか上手くできてないよな。

 しかし、彼はそれを表に出さず、曹操へと向き直って言った。

「兗州牧殿の軍の精強さには感服しました。陛下がこれをご覧になられたら、袁紹討伐の成功を確信して、さぞお喜びになるでしょう」

 大きく、そして良く響く声であった。

「陛下のご威光あってこそです」

 曹操は謙遜してみせた。

 双方、極めて政治的意図が多分に含まれた態度だった。

 では、軍議をしましょうか。袁遺が切り出した。

 

 

 陳留の城、その一室に曹操は自分の軍師三人―――荀彧、郭嘉、程昱―――を集めて、袁遺と司馬懿に紹介した。

 それを受けて、袁遺も司馬懿を彼女たちに紹介する。

 そのとき、彼女たちの視線が鋭くなったのは、過去の因縁からだったが、袁遺も司馬懿も受け流した。

 袁遺は曹操に口調は普段のものでいいと前置きしてから、話し始めた。

「我々の戦力は五万。それに馬涼州牧が西涼の錦と名高いご息女に一万の兵を率いさせて動員することを約束してくれました。その一万は現在、洛陽へと向かっている途中です」

「錦馬超を引っ張り出してきたの」

 曹操が声を上げた。

 袁遺はそれを肯首する。正確に言うなら、馬超の従妹の馬岱も副将として参戦している。

「そちらは事前に言っていた五万の動員は可能ですか?」

「問題はないわ。そうでしょう、文若?」

「はい」

 字で呼ばれた荀彧が答える。

「五万の軍の糧秣および黄河を越えるため船も延津に確保してあります」

 予定では袁遺および馬超の軍は洛陽から、曹操軍は延津から黄河対岸の司隷河内郡へと渡り、そこから冀州へと侵攻することになっている。

 このとき、晋陽の張燕も南下して冀州に進攻することになっているが、これは牽制以上の意味はなく、どんなに進軍しても州境辺りで退却すると予想されている。

 ここまでは曹操陣営の皆が納得はできたが、次の段階で懐疑の色が浮かんだ。

「冀州進攻の後は、兗州牧の軍は甘陵、青州との州境周辺から袁紹の本拠地南皮を目指してください。我々は鄴、鉅鹿郡、安平国と南皮を目指します。涼州軍は戦略予備として後方に温存します」

 袁遺が軍を大きく分けることを口にしたとき、曹操軍の軍師たちの反応は洛陽の後将軍府で賈駆たちがしたそれと同様だった。

「よろしいでしょうか、後将軍」

 荀彧が言った。言葉使いこそ丁寧であったが、棘があり、心根にある嫌悪感を誰もが感じる響きだった。

「どうぞ、荀殿。金言は常に歓迎するところです」

 しかし、袁遺はそんなものなど感じないように応じた。

「それでは……軍を分けるのは非常に危険です。袁紹軍が我々の迎撃に動員する兵数はおそらく八万~一〇万。各個撃破される恐れがあります」

「分かっています。敵にそう思わせるのが狙いなのです」

「袁紹軍をこちらに誘き出すにしても、これだけ距離があいていれば、危険と言いたいのです!」

 荀彧の声色に苛立ちが混じった。

 彼女は男性嫌いのところがあり、かつ男性を見下している。

 しかし、袁遺軍には反董卓連合のときに手痛い一撃を喰らっているし、連合自体は袁遺に振り回され続けた挙句、解散にまで追い込まれている。

 だから、袁遺を無能だと侮っていない。

 むしろ逆で、袁遺の意図が敵戦力の南方誘出にあることまでは読めても、そこから先、袁遺が何をしようか読めない自分への苛立ちを袁遺にぶつけているのだった。

 だが、袁遺がその狙いを説明しても苛立ちは晴れるどころか、より一層大きくなっただけだった。

 この作戦の説明中、殆んど言葉を発さずに袁遺と自分の軍師の発言を興味深そうに聞いていた曹操は袁遺の説明を聞き終わった後で口を開いた。

「いいでしょう。その策でいきましょう」

 その言葉を聞いて袁遺は、表情にほんの僅かな穏やかなものを宿して言った。

「よかった。ところで曹公、ふたりだけで話せるでしょうか?」

 黄巾党討伐のときに曹操が切り出したように、袁遺が言った。

 違いがあるとすれば、今度は荀彧が反対の声を上げなかったことだった。

 軍師たちは部屋を後にし、袁遺と曹操のふたりっきりになった。

「それで何の用かしら、伯業?」

「華琳。袁紹からの調略はあったか?」

 袁遺の言葉に曹操―――華琳は声色に不機嫌なものを混ぜながら答えた。

「なかったわ。疑っているの?」

「そうではないが、俺が袁紹なら真っ先に君を自陣営に引き込む」

 事実、足元の洛陽を固めて袁遺はすぐに彼女と結んだ。

「反董卓連合での非礼を詫び。媚び、煽て、脅し、宥めて、賺す。あらゆる手を打って、何としてでもやり遂げる」

 それはそれだけ袁遺が曹孟徳のことを評価しているということで、彼女からすれば悪い気はしなかった。

「それは光栄なことだけど、分かってないわね、伯業。何としてでもやるのが袁伯業なら、絶対にやらないのが袁本初よ」

「……それもそうか」

 袁遺は僅かに口元を歪めた。

「けど、惜しいことをしたかしら。調略があったことにして、もう少しそちらから、ふんだくってやってもよかったわね」

 華琳は軽口を叩いた。

「ああ、用というのはそれだ」

「どういうこと……?」

「今回の戦には董司空も参戦する。総大将は彼女ということになるが、配置は馬超軍と同じで予備隊だから全軍の指揮は俺が執る」

 董卓の参戦は極めて政治的な理由によってだった。

「そして、戦功第一も彼女になる」

 前漢では高祖から景帝の御世の前半まで、丞相は元勲が務めるという不文律が(呂氏の専横中は微妙ではあるが)あった。楚漢戦争で戦功第一の蕭何、楚漢戦争でも活躍し、冒頓単于との戦いでは謀略により高祖の命を救い、さらに呂氏一族を滅ぼして劉氏を守った陳平、呉楚七国の乱で漢を勝利に導いた周亜夫などである。

 景帝の御世後半にそれは否定されたが、袁隗と袁遺はその故事を持ちだして董卓の司空の立場を固めようとしているのだった。

 これは袁遺が経済の立て直しのときに口を出したため、今回の件でバランスを取ろうというのだった。

 もちろん、それだけではない。

「あなたはそれでいいの?」

 華琳が尋ねた。

「俺と叔父上は反逆者の身内で、袁紹を倒したところで罪を雪ぐという側面が強い。絶対に戦功第一にはできない」

 となると、董卓が参戦しなかった場合、曹操軍が戦功第一となるが、それはそれで董卓側も袁隗・袁遺側も面白くない。

 涼州や荊州、曹操や袁術、徐州をまとめ、張燕や北方の騎馬民族を使って袁紹の側背を脅かし、徐州の叛乱を素早く鎮圧してこちらの混乱の芽を早期に摘み取り、劉備(というより諸葛亮)にいいように利用されたことに耐えた。ここまでやったのに、一番おいしい所を曹操とその配下に持っていかれるのでは堪ったものではない。

 ただし、曹操に何も与えないわけではない。利益を行き渡らなくして反董卓連合を解散させたのは袁遺自身である。今度は自分がその轍を踏むつもりはなかった。

「君には冀州の地と費亭侯の地位が陛下から与えられる。もちろん、兗州はそのままだ。誰か他に州牧の地位は渡すことになるが、都督兗・冀州諸軍事として両州を治める」

「……条件としては悪くないわね」

 袁紹の冀州は最も人口が多く、肥沃な大地だった。それを手に入れることは決して悪い話ではなかった。

 それに費亭侯、つまりは列侯である。また、華琳の亡き祖父・曹騰がかつて列せられていた場所(兗州泰山郡費)でもある。祖父を敬愛していた彼女からすれば、同じ場所で列侯に封じられるのは他の場所で報じられるよりも意味があった。

 戦功第一という名誉は渡さないが、袁紹が収めていた肥沃な大地と祖父と同じ封土で列侯という実を与える形である。

「それにしても伯業、あなたはもう勝った気でいるのかしら。確かにあなたの策は良いものだったけど、気が早いんじゃないかしら?」

 意地の悪い笑みを浮かべて華琳は言った。

 袁遺はそれに怪訝な顔をして返す。

「当然だろう。勝てると思ったから攻め込もうとしているんだ。と言うより、もしかしたら負けるという状況で冀州に攻め入る余裕など現在の漢王朝にはない」

 それはあまりにも鮮明な軍指揮官としての姿勢、その表明であった。

 戦争をするからには負けてはならない、というのは信念以前の常識である。

 これは油断や慢心などではない。裏を返すなら、負けるのならば戦わないということである。即ち無駄な争いを抑えることである。

 反董卓連合との戦場に赴く前、袁隗の前でも宣言したことであり、袁遺の本質であった。

 そして、この本質によって、冀州侵攻の戦略は立てられていた。

 その戦略に動員される軍の概要を簡単ながら示しておく。

 

 鉅鹿郡方面侵攻軍

 総兵力五万(実戦要員三万 兵站等の非戦闘部隊二万)

 大将   袁遺

 軍師   鳳統(筆頭軍師)

      陳宮(呂布隊軍師)

 実戦指揮 呂布

      張遼

      張郃

      高覧

      雷薄

      陳蘭

 参謀は楊俊、王象など三〇名が袁遺の参謀本部で部隊運営やそれぞれの部隊に作戦指導として派遣されている。

 他の主だった将の名前を挙げるなら、王平、姜維は張郃隊に所属している。

 また、張超が対外交渉役として従軍している。

 

 清河国(清河郡)方面侵攻軍

 総兵力五万(実戦要員三万五〇〇〇 兵站等の非戦闘部隊一万五〇〇〇)

 大将   曹操

 軍師   荀彧

      郭嘉

      程昱

 実戦指揮 夏候惇

      夏侯淵

      許褚(大将護衛兵力)

      典韋(大将護衛兵力)

      楽進

      李典

      于禁

 袁遺軍から司馬懿を筆頭に九名の参謀が作戦指導のため派遣されている。

 他の主だった将の名前を挙げるなら、韓浩は夏候惇隊に所属している。

 

 戦略予備

 総兵力一万八〇〇〇(戦闘要員一万三〇〇〇 兵站等の非戦闘部隊五〇〇〇)

 大将   董卓(名目上の総大将)

 軍師   賈駆

 実戦指揮 馬超     

      馬岱(馬超軍副将)

      華雄

 司馬馗など五名の参謀が作戦指導として馬超軍に派遣されている。

 また、河内郡太守の張楊が兵站部隊を担当している。

 

 以上、総兵力一一万八〇〇〇

 

 袁遺軍と曹操軍の戦闘要員と非戦闘要員の比率の違いから双方の戦争観の違いも感じられるが、それは置いておいて、その陣容は反董卓連合ほどとは言わないが、分厚いものとなっている。強大な戦闘力を有していると言っても、何ら過言ではない。

 しかし、この戦争の妙は、この大軍の運用方法にあった。

 

 

18 幸せな選択

 

 

 幽州漁陽郡安楽県。袁紹が鮮于輔と蘇僕延を撃破した場所の近くであるが、その付近で私有地を持つ地方豪族の王松は客人によって、ある決断を迫られていた。

「あの後将軍が軍を率いて、黄河を越えました。王殿も兵を率いて将軍の元へ馳せ参じるべきです」

 よく響く張りのある声だった。

 その声の主を見たとき、まず、その胴の長さに目が引かれる。

 まるで竹だった。

 さらに首は太く。顔は細い。

 本当に竹に手足が生えているような男だった。

 彼の姓は劉。名は放。字は子棄。幽州涿郡方城県の出身である。

 劉放の祖先を辿れば漢の武帝に辿り着く。つまりは皇族であった。

 孝廉となったが、世が乱れたために王松に身を寄せたのだ。

「なあ、しかし、劉殿。それは少しおかしいのではないか?」

 王松は弱った声で言った。

「劉殿は私が、袁紹に攻められた劉虞殿の救援に行こうとしたとき、必死に止めたではないか」

 袁紹と劉虞が戦ったとき、この王松は劉虞の救援に向かおうとした。

 幽州に住まう者なら劉虞を助けるのは当たり前だと思ったのだった。劉虞の人徳によるものであった。

 だが、この客人の劉放は同じ皇族であるのにもかかわらず、それを止めたのである。

 それなのに、今度は袁紹と戦う袁遺を助けに行けと言う。無茶苦茶だと王松は思った。

「劉虞と袁紹が戦ったとき、どう考えても劉虞に勝ち目がなかった。劉虞に味方すれば、王殿は殺されていました。何故、恩あるあなたが死ぬのを見過ごすことができましょうか」

 劉放はしれっと言った。

「先ごろ、天下の諸侯が反董卓連合などという似非の大義を掲げて騒乱を起こしました。そんな中で袁公ひとりだけが道を違いませんでした。そして、天子の御言葉をかしこみて罪ある者を討伐し、向かうところ勝利があるのみです。そんな人物が河朔(かさく)を掃蕩しようと黄河を渡ったのです。大勢は決したも同然」

 立て板に水と流れるようにしゃべる劉放だったが、王松には不安があった。

「王殿。早く駆け付ける者には幸せがありますが、後から従う者にあるのは破滅のみです。それこそ一日が終わる前に馳せ参じるべきなのです」

 王松は劉放の弁にほんの僅かな下品さを感じ取っていた。

 劉放は悪人ではない。劉虞のときも本当に自分のことを思って止めたのだということも分かっている。そして、今も本当に自分の得となることを言っていることも理解している。

 だが、彼の言には自分の賢さを他者に売り込もうとしている素浪人じみた品のなさを感じるのである。

 この男の言を信じて大丈夫かな。そう思うが、王松には袁遺が勝つのか袁紹が勝つのか分からなかった。

 劉放は王松の反応が鈍いと見るや否や、さらに舌を回転させる。

「袁遺軍には冀州河間郡鄚県の名士で彼の推挙人である張超がいるようです。将軍は恩師の旧地を奪還するつもりです。自身の沽券と恩人のことを考えますと相当の覚悟があるはずです」

 王松はそれを聞きながら思った。

 そういえば、劉虞殿の救援を取り止めたときも、この男の弁舌に丸め込まれたんだったな。

 王松の心は劉放の意見に傾いていた。

 彼は流されることに不安を感じながらも、結局はこの客人の言うことに従うのだった。

 しかし、不安とは反対にこの選択の向こうには、劉放の言う通り幸せがあることを王松は知る由もなかった。

 

 

19 ライヘンバッハ・プラン(後)

 

 

 董卓・袁遺が曹操、馬超の軍を率いて冀州へと侵攻してきたことを知らされたとき、袁紹陣営は袁遺の読み通りの動きをした。

 袁紹とその軍師たちは袁遺軍が北の趙国、鉅鹿郡方面へと、曹操軍が東の清河国(清河郡)へと進路をとったことを知ると各個撃破の好機と受け取った。

 彼女たちには自信があった。幽州で劉虞と公孫賛を撃破したときに手に入れた自信が。

 ただ、田豊のみが慎重な対応を提案した。

 曰く、袁遺が軽々(けいけい)と兵を分けるという愚策を講じるはずがない。こちらを誘っている可能性が高く、何か策があるはずだ、と。

 だが、それは袁紹によって却下された。

「一体どんな策があると言うんですの!?」

 田豊はその問いに答えることができなかった。

 このとき、田豊に味方してくれる軍師はいなかった。

 何故なら、あまりに反応が鈍いと袁紹軍に味方している并州や幽州、青州の名士や異民族が敵対する可能性があった。いや、并州や幽州、青州だけではなく、冀州の名士の中にも出てくるかもしれない。

 彼らの多くは袁紹の武威によって従っているのだ。弱気なところを見せられなかった。

 結局、田豊は留守役が命ぜられ南皮に残ることになった。また、辛評も兵站管理のために南皮に残る。

 袁紹たちは八万の軍を率いて南下、まずは魏郡と趙国の郡境付近にいた袁遺軍へと目標を定めた。

 しかし、予定戦場へと到着したとき、袁遺軍の姿は影も形もなかった。

 斥候を出し、その真相を調べたところ袁遺軍は袁紹軍の到来を知ると全軍で後退したのだった。

 その追撃に移ろうとするが、袁遺は軍を複数の部隊に分けて後退しているため、部隊の編成に手間取った。

 そうこうしている内に、袁紹の元に曹操が魏郡を抜けて清河国(清河郡)へと入ったことが知らされた。

 無視できる問題ではなかった。袁紹はすぐに目標を曹操軍に切り替える。

 だが、こちらも袁遺軍と同じであった。

 予定戦場へとついた頃には曹操軍はすでに後退している。あまつさえ物資の一部を放棄してまで、その足を速めていた。

 事ここに至って、袁紹軍の軍師たちは袁遺の策が何かを理解した。

 袁遺は戦闘を徹底的に避けるだけで、袁紹軍の各個撃破の戦略を根本から破壊しにきたのだ。

 袁遺軍にしろ、曹操軍にしろ、撃破出来ずに逃げられた場合、もう一方の軍は無視できないほど袁紹領に進攻することになる。

 だが、そちらを撃破しに向かえば同じ様に後退し、その間にもう一方の後退した軍がまた進軍を始める。

 すると、同じことの繰り返しだった。ただ領土がじわじわと削り取られる。

 そして、領土が奪われるということはその土地の名士の信頼を失うということだった。

 名士を名士足らしめているのは名声だが、地方豪族を地方豪族足らしめているのは私有地に他ならない。

 袁紹は力に依る支配を行っている。だから、こうやって為すすべもなく領地を侵食されている今の状況は、名士たちに袁紹には自分たちの土地を守る力がないと受け取られることだった。

 軍師たちに遅れてそのことに気付いた袁紹に味方していた名士たちは櫛の歯が欠ける様に、袁紹の元を離れていった。

 当然、自分たちの部曲を引き連れてである。

 袁紹軍は一戦も交えぬうちに兵をみるみる減らしていくことになる。

 だが、上記のことに袁紹自身が気付いていなかった。

 彼女はヒステリックな声を上げる。

「どうなってますの!? 私は負けていませんわ! あの目付きの悪い男とちんちくりんの曹操さんは逃げているばかりじゃありませんの!!」

 袁紹にとって、まことに始末の悪い戦いだった。内線作戦がまったく機能せず、勝ったのか負けたのかわからぬうちに、ただ領土と味方の名士を失っていく。

「どうなってますのーーー!!」

 袁紹の絶叫が虚しく響いた。

 

 

「ええーーーい! 何だ、これは!?」

 曹操軍でも袁紹と同じように声を上げる者がいた。

 夏候惇である。

「逃げてばかりで、まったく戦わん! これではつまらないではないか!」

 両目(・・)に怒りの炎を宿し、叫ぶ。

 袁紹と雌雄を決すると気合を入れて冀州へと侵攻したにもかかわらず、ここまで戦闘がない。肩透かしを喰らった気分だった。

 夏候惇の声に猫の耳の様な頭巾を被った少女が反応する。

「うるさいわね。何度も何度も同じことを叫んで。少しは黙ってなさいよ」

 荀彧だった。

「何ーーーーーッ!」

「何よ!」

 両者はいがみ合う。

 その光景を離れて見ている少女たちがいた。

 楽進、于禁、李典の三人であった。

「荒れているな。春蘭様も、桂花様も」

 腰まで届く美しい銀の髪を編み込み束ねた少女がポツリと言った。その少女の肌には幾条もの傷跡が見て取れた。楽進である。

 そして、それに応じたのは雄黄色の髪で眼鏡を掛けた少女であった。于禁である。

「春蘭様は戦いがなくてイライラしているし、桂花ちゃんもなんだかよく分からないけどイライラしているの」

「そやな~、春蘭様がイラつくのは、まだ分かるねんけど、桂花がなんでイラついてんのかは分からんねん」

 肌面積の多い大胆な服装の少女が言った。李典である。

 ただ、上司がイラついている以上に分からないことが彼女たちにはあった。

「実は、ウチ、今の状況がよく分からんねん。進んで、後退して、進んでるだけやろう。イライラはせんけど、どないなっとんねんって思うわ」

「沙和もなの~」

「それは私も同じだ。冀州に攻め込むとなったとき、激戦になると思っていたんだが……」

 三人は頭を悩ませる。

 もちろん、事前に説明は受けているが、そのときは戦わないことが上手くいくのかと半信半疑だった。

 そして、それがこうやって目の前に現実のこととして表れても、未だに信じられなかった。

「どうかしました?」

 そんな彼女たちの前にひとりの少女がやって来た。

 身長はやや低め、長い金髪でその頭の上には人形のようなものを乗せ、飴を咥えている。

「あ、風ちゃん」

 于禁が言った。

 風は彼女の真名であり、その姓は程。名は昱。字は仲徳である。

 曹操の軍師のひとりだった。

 同じ軍師ならば、桂花―――荀彧が苛立っている原因とこの状況が分かるのではないかと三人は程昱に疑問をぶつけた。

「あーー、桂花ちゃんが苛立っているのは仕方がないことですよ。風も軍師として思うところがありますから」

「軍師として?」

「そうですよ」

 李典のオウム返しに答えて、程昱は続ける。

「華琳様は反董卓連合解散の後に、袁遺さんの戦い方を研究するように風たち軍師に命じました。その一環として、風たちは反董卓連合のとき、どうすれば袁遺軍に勝てたかということを考えたのです」

 それは袁遺が自分の軍師の雛里や司馬懿に命じたことでもある。

「そして、袁遺さんが今やっているこの作戦こそが、最も反董卓連合のときに効果的な作戦であるのです。実際に今の戦いは反董卓連合と似た状況でもあるわけですから」

「どういうことですか?」

 楽進が尋ねる。その声には驚愕の色があった。

「こちらは袁紹軍より多い兵数を揃えて、軍を分けて敵を挟んでいますね。そして、袁紹さんたちは総数では多い敵相手に各個撃破を狙って動いています」

「そう言われれば、そうやな」

「もし、反董卓連合が袁遺さん相手に、今やっている戦闘を避けることをすれば、きっと袁遺さんも困ったと思いますよ」

 もっとも司隷東部と冀州では地形が違うという点があった。

 司隷東部が黄河の氾濫が支流にも及んで、残留した黄土により起伏の激しい土地になっていることは前にも書いた。

 そして、この冀州、正確に言うなら現在の北京付近から黄河までは、ひたすら見晴らしの良い平原である。

 中国史において唐代の安禄山(あんろくざん)、遼の太宗(耶律徳光(やりつとくこう))、金の太宗(呉乞買(ウキマイ))、明の永楽帝、清の順治帝、そして日中戦争の日本軍は北京付近から黄河までを一気に蹂躙している。それほど動きやすく見晴らしが良いのだ。

 その違いから、反董卓連合のときの袁遺軍は察知されにくく、今回の袁紹軍は見つかりやすいということもある。だが、それでも連合がこの戦闘を避けるということを思い付いていれば、袁遺はもっと苦労する羽目になっていただろう。

「ところで、三人の部隊で犠牲は出ましたか?」

 突然、程昱が話題を変えた。

 楽進たちはお互いの顔を見合わせた。皆が突然の話題変換に怪訝な表情を浮かべている。

「いません。そもそも戦闘自体が殆んどないのですから。せいぜい後退するときに物資の一部を放棄したくらいです」

 やがて、楽進が皆を代表するように口を開いた。

「それも連合ができなかったことのひとつです」

「どういうことなの~?」

 程昱は、風はまだ華琳様に仕えていませんでしたが、と前置きしてから言う。

「連合では袁紹さんが後に敵になりそうな諸侯を損耗させようとしたために、先鋒の動きが鈍くなりました。それと同じように勝つためとはいえ、被害が大きくなりすぎれば、華琳様も馬超さんも良い顔はしないはずです。だから、こうやってひたすら損害が出ない策を採用したんだと思いますよ」

 程昱は袁遺の凄みというものを感じていた。

 彼女は華琳から、主が冀州と費亭侯の地位が与えられることを聞いたし、董卓側への配慮も聞いた。

 それに、作戦に参加した曹操軍や馬超軍に損害ができるだけ出ないようにするという心配りも見た。

 同盟関係において袁遺ほど誠実な人間は間違いなくこの大陸にはいない。

 ただ、殆んどの人間が楽進たち三人と同じように袁遺の誠意をただ呆気に取られて眺めているだけで、その誠意に報いようとしないだろう。袁遺にとって、この天下とは不実な人間の集まりのようなものだ。

「それで、桂花ちゃんが苛立っているのは反董卓連合を勝たせるための最適解をよりにもよって、連合を解散させた袁遺さん本人の手によって示されたのが原因です」

「皮肉な話やな」

 李典が言った。

 それに程昱は声を変え、頭の上の人形を揺らした。

「まあ、嬢ちゃんがイラついているのは曹操の大将が最も欲していたものを袁遺が提示してみせたことで、軍師として、そして、女としての嫉妬心がムラムラと沸いてきたってことだな」

「コラ、宝譿。ムラムラではまるで桂花ちゃんが発情しているようじゃないですか」

 そうやって、腹話術で漫才のようなことをやり始めた。

 それに楽進たち三人は乾いた笑いを上げるだけだった。

 

 

 ネタにされた桂花―――荀彧は苛立ちながらも主である華琳に面会した。

 彼女にはさらに苛立たせることがあったのだ。

「華琳様、袁紹に仕えている妹の荀諶から、兗州牧様に口利きをして欲しいという書簡が届きまして……」

 荀彧は語尾を濁らせながら言った。

 つまりは、袁紹から曹操に鞍替えしたいというわけで、早い話が裏切りである。

 荀彧からすれば、身内の恥を晒しているようなものだった。

「構わないわ。荀彧・荀攸・荀衍・荀諶・荀悦は、現代まったく匹敵する者がいない。潁川郡では有名な話よ」

 華琳は人材には貪欲だった。

「それだけではなく、何人かの袁紹の臣下も華琳様や袁遺に取りなしと欲しいと……」

 荀彧はかつて袁紹に仕えていた。そのときの縁を頼ってやってくる者がいたのだ。

「構わないわ。皆、受け入れてやりなさい。伯業からも名士は受け入れるように言われているわ。ただし、蔵を開いて食料を提出するという条件のもとでってね」

 それが袁遺の馬車限界後の糧秣の調達の仕方だった。

「それにしても、あなたでそれほどの口利きの依頼が来たなら、袁遺のところには、もっと多くの依頼が来ているんでしょうね」

 事実だった。

 袁遺の推挙人で冀州出身の張超の伝手を使って、多くの名士たちが恭順の意を示していた。

 袁遺は恩師に、どうぞ先生のお好きにと言って、彼らの生殺与奪の権を任せた。反董卓連合のとき、張超を粗略に扱った名士に対して報復したいなら、させようというのだった。

 もっとも、張超は報復など行わなかった。このままいけば、旧地は間違いなく回復するし、今回のことで名声と冀州の名士たちに多大な借りを作ることができた。それで十分だった。

 また、張超の元だけではなく、司馬懿や雛里の元にもこの手の類の者らが来ていた。

 司馬懿なら、彼のことを『聡明誠実、剛毅果断の大物』と評した人物評の大家である崔琰(冀州清河郡東武城(とうぶじょう)県)など、雛里ならば、共に水鏡塾で学んだ崔州平の実家(冀州安平国安平県)の一族である。

「沈没する船からネズミが逃げていくようね」

 華琳が口元に皮肉気な笑みを浮かべた。

「それで桂花、次の伯業の手が読めるかしら?」

 その言葉に荀彧は前のめるように返した。

「はい、もちろんです。華琳様!」

 程昱の言う通り、戦術のことで袁遺に後れを取ったが、もう二度とそんなことはないという気概が込められていた。

「間違いなく、馬超を動かすはずです」

「そう。それじゃあ、伯業はもっと皮肉な光景を私たちに見せるつもりね。麗羽にとってはさぞや屈辱なことになるでしょうね」

 そして、華琳もその気概を持っていた。

 ふたりの脳裏に国士無双と謳われた名将の戦術が浮かんでいた。

 ただし袁遺は、ふたりが思い浮かべた約四〇〇年前の戦いではなく、約一六〇〇年後の戦いから、この作戦の着想を得ている。

 もちろん、この主従が知らないことである。

 

 

 後に袁遺はこの戦いについて尋ねられた。

「早々に出陣したことは袁紹の明らかな失策でしたね」

 その言葉に袁遺は優し気な声で諭す様に答えた。

「違うよ。袁紹軍の本当の失策は華琳の軍に逃げられた後、もう一度、私の軍を補足しようとしたことだ。袁紹たちは華琳に逃げられた段階で南皮で本拠地決戦に切り替えるべきだったんだ」

「そうですか……私には袁紹たちにはまったく戦術眼がないように思えましたが……」

 袁遺は質問者に苦笑を浮かべるだけだった。

 この未来の話は置いておくとして、袁遺の言葉通り、袁紹たちはこの戦争を敗北へと導く選択をする。再び、袁遺軍を補足しようとしたのである。

 袁遺軍はすでに魏郡、鉅鹿郡を突破して、安平国まで進攻していた。

 このとき、袁遺軍は一時占領した土地の守りに兵を割き、その数を三万まで減らしていたが、名士とその部曲に逃げられた袁紹軍も開戦当初の半数以下の三万四〇〇〇と、似たような数だった。

 それでも袁遺は戦わずに、後退した。

 袁紹は再び袁遺軍の補足に失敗したのだ。ここで彼女たちは本拠地決戦へと方針の転換を図ったのだが、遅すぎた。

 馬超と董卓だった。

 時間を巻き戻し、馬超の動きを洛陽へと着いたところから説明する。

 彼女は母親に命ぜられて、従妹の馬岱と共に騎兵一万と共に洛陽へと向かった。袁遺たちの援軍のためである。

 出立の前に馬超は母の馬騰に、

「袁遺の戦い方をよく見て来なさい」

 と言われた。

 洛陽への道中は張既が糧秣を各地で整えていたため何の苦労もなく、物見遊山気分で進むことができた。

 そして、洛陽に着いたら袁遺や董卓から手厚い歓迎を受けた。

 酒宴が開かれ、袁遺自らが接待役を務めた。

 翌日、後将軍府で彼女は馬岱と共に作戦の説明を受けるのだが、一度目の説明ではまったく理解ができなかった。

「私の軍と兗州牧の軍の二手に分かれ、敵戦力の南方誘出を行います。その後、計画的撤退と兵力優位を活かして敵が択るだろう内線作戦の崩壊を狙います。一応、補足しますと、この計画的撤退とは敗走ではなく、後退を戦術運動として攻勢作戦の一部に取り入れ、戦略規模で実施するものです」

 馬超には辛うじて袁遺と曹操の軍を分けるぐらいのことしか理解できなかった。

 馬岱も似たようなものだった。

「そ、その……袁将軍、悪いんだけど、もう一度説明してくれないか」

 袁遺は少し考え込むと、分かりましたと答えて言い直した。

「私と兗州牧の軍を二手に分けます。この両軍は間違いなく袁紹軍より少ない数となり、袁紹たちにとって各個撃破の機会に見えるはずです。こうやって、まずは敵を誘き出します。ここまではいいですね?」

「お、おう」

「次に撃破しにやって来た袁紹軍に対して、両軍はそれぞれ戦闘を避けることを徹底します」

「逃げていいの?」

 尋ねたのは馬岱だった。

「構いません。その間にもう一方の軍は進みます。これを無視できない袁紹軍がそちらに向かったら、同様に撤退。両軍がこれを徹底することで袁紹の領土を徐々に侵食していくことになるでしょう」

 袁遺が地図と駒を使って説明する。

「私の軍と兗州牧の軍の距離が空き過ぎているんです。袁紹は決戦を避けられた場合、どちらかの軍を止めることができなくなる」

 馬超は理解できたが、今度は信じられなかった。逃げているだけなのに、そんなにうまく敵の領土を奪うことができるものなのかと。

「え~~と、それじゃあ、あたしたちは何をすればいいんだ?」

「まずは兗州牧軍の後方で待機を。もし前軍が袁紹軍に補足されそうになるなら、騎兵の速さを活かして、袁紹軍の背後を狙う様な動きをしてください。そうやって撤退の隙を作ります。運動防御という奴です」

 ちなみに、袁遺軍のこの役目は呂布隊と張遼隊がやることになっている。

「それはなんとなく分かるけど……」

「これは前衛の崩壊を救う重要な任務です。それともうひとつ、全軍を勝利に導く重要なものが―――」

 そうして説明を受けて冀州へと侵攻したが、馬超は狐に抓まれた様な日々を過ごした。

 袁遺の言う通り、逃げているだけで袁紹の領土を掠め取っていくのである。自分の知っている戦場とは違うものがそこにあった。

「お姉様~、叔母様に袁遺の戦いを見て来いって言われたんでしょう。どうやって報告するの?」

 隣で馬岱が声を上げた。

「どうやってって……」

「だって、このままじゃあ袁将軍は逃げてばっかりだったけど、袁紹の領土を奪いましたって報告することになるよ。大丈夫? 怒られない?」

「じゃ、じゃあ、それ以外なんて言えば良いんだよ!?」

「そんなの蒲公英に言われても分からないよ」

 蒲公英は馬岱の真名である。

 まいったな、と頭を悩ませる馬超の耳に怒号のようなものが風に乗って入ってきた。

「逃げてばかりで、あの腰抜けは一体何をやっているんだ!!」

 華雄の声だった。かなりの距離があるが、それでも聞こえてくる。

 またか、と馬超は思った。

 華雄は冀州に進攻して以来、ああやって袁遺を罵っていた。

 自分を戦闘には出さず、なおかつまともに戦わない袁遺に腹を立てているのだ。

 かなり口汚く罵るのだが、その度に董卓や賈駆に窘められた。しかし、華雄は態度を改めるどころか、より一層の悪態をつくのであった。

 馬超にはその気持ちが分からなくもなかった。

 袁遺は策を弄し過ぎていて、一本気な武人たちの気質には合わないと感じる。

 しかし、同時に馬超は戦闘がないことに安堵している自分を発見していた。

 いくら漢王朝のためだとは言え、中原のごたごたに巻き込まれて、兵たちが傷付き倒れ、縁の薄い地で骸を晒すのはやり切れなかった。

 だから、袁遺がおかしなことをやっているなとは思いながらも、決して華雄のように袁遺を罵ったりはしなかった。

 そんな予備兵力の役目が訪れた。

 参謀の司馬馗が馬超たちの前に来て拱手して、叫ぶように言った。

「後将軍より伝令。急ぎ、河間郡と渤海郡の郡境まで進軍し、袁紹が本拠地帰還する場合は妨害せよ! そうでない場合は曹操軍と合流して南皮を包囲せよ!」

 それが馬超たち戦略予備部隊に与えられたふたつ目の任務であった。

 馬超たちは騎馬の機動力を以って、南皮への最短ルートを塞いだ。

 これにより、袁紹は本拠地決戦をも封じられたのである。

 もっとも、敵の主力を引き付けている間に後方に回り込むなど、古来から兵法の基本とされていることだ。

 例えば、楚漢戦争のとき、ちょうど袁遺軍が通って来た魏や趙で、韓信が魏豹相手や、かの有名な背水の陣でそれを行っている。

 袁紹軍は馬超軍の突破を諦めた。

 何故なら、馬超軍の後方には曹操軍が迫ってきており、自軍の後方を袁遺軍が追いかけて来ている。このままいけば、袁紹たちが反董卓連合のときにやろうとした前後からの挟撃による包囲戦に陥るからだ。

 自分たちがどんなに苦労しても成し遂げられなかったそれを袁遺はいとも簡単にやろうとしている。袁紹と軍師たちは歯噛みした。

 結局、袁紹軍は本拠地への帰還を諦め、幽州への前線基地の役割を果たしていた易へと目的地を変えたのだった。そこには食料と幽州防衛の兵がいる。

 しかし、本拠地を捨てた時点で、冀州の名士の殆んどが泥船に付き合う気なしと袁紹を見捨てた。それにより、袁紹の手勢は一万ほどになってしまった。

 この冀州侵攻で袁遺は、一八一三年に第六次対仏大同盟がナポレオン相手に取った作戦から着想を得ている。

 連合軍はナポレオンは戦場では軍神であり、彼が率いる本軍には絶対に勝てないということを認識して、本軍との正面衝突を避け、部下の軍団を叩くことにしたのだ。

 これをライヘンバッハ・プラン(トラッヘンベルク・プランとも)と言う。

 ナポレオンは本軍は勝つが部下が負けるためにその尻拭いを行い続け、消耗戦に引きづり込まれた。最終的に一四回の戦闘の内一一回も勝利を上げながら、後方の首都パリが降伏して敗北、一回目の退位を行うことになる。

 袁遺はこのプランをさらに推し進め、名士つまりは地方豪族の心理と袁紹の体制を勘案に入れて、戦わないという戦略を確立したのだった。

 袁紹は力に依る支配を行っているため、力がないと名士たちが離反する可能性が高い。

 その名士―――地方豪族相手に揺さぶりをかけるなら、地方豪族を地方豪族足らしめている土地を占領するのが有効と判断したのだ。土地を抑えるということは、名士の首根っこを抑えるということである。

 袁遺は反董卓連合のときに袁紹と諸侯の関係を破壊したように、今回は袁紹と名士の関係を破壊したのだった。

 

 

 流れる景色を見ていると、もしかしたら走馬灯というのもこういう感じなんだろうか、と袁遺は思った。

 冀州河間郡の景色は袁遺にとって懐かしいものだった。彼はここから官吏としての道を歩み始めたのである。

 全ての事情を知る者からすれば、袁伯業という官吏の最初期は袁家の……特に袁紹のためにその才能を使い潰されたようなものである。後に冀州へと赴任する袁紹のために袁遺は冀州のいくつかの県で県尉を務め、賊の討伐に明け暮れた。

 袁遺は青春の最後を冀州の血風の中で過ごした。

 そして、彼は戻ってきた。まるで成長した稚魚が生まれた川を遡上するように。

 目的も在りし日と同じである。賊の討伐。漢朝に仇為す者を討つためだ。

 袁遺は曹操軍と馬超軍を合流させた後、両軍に南皮を囲うように命じた。囲うだけで攻撃は控えさせ、全権を司馬懿に委任して、自分は軍を率いて袁紹の追撃へと進発する。

 華雄がそれについて反対の声を上げたが、対処は董卓と賈駆に任せた。

 曹操は大人しく従った。彼女は袁遺が最後の仕上げをどのように行うか見たかったのだ。

 袁遺は部隊を分けて、袁紹を追撃した。分進合撃である。

 彼の手元には、袁紹を見限った名士たちからの降伏の手土産代わりの情報があった。袁紹がどこに向かっているか、ほぼ正確に捉えていた。

 いや、情報だけではない。後方連絡線の安全も確保され、残した守備部隊も本隊に合流。名士たちから糧秣を半ば自発的に接収して、全軍が飽食できるだけあった。

 問題は何もなかった。

 袁遺は将、そして参謀たちに命じる。

「袁紹軍を易水で補足、撃滅する!」

 袁紹の首を手土産にしたいと目論む者たちを警戒して、袁紹軍の動きは鈍かった。十分に補足できると袁遺は確信していた。

 ひとりの人間の意志のもと、軍は暴力の奔流となって袁紹軍へと押し寄せた。

 

 

 袁紹はそれを易水に浮かぶ小舟の上で見た。

 砂塵だった。戦場では遠くで巻き上がる靄は敵の襲来を意味していた。

 袁紹は叫んだ。

「袁遺が来ましたわよ! 殺しなさい! あの男を殺しなさい!」

 そして、岸の方へ戻るために船から飛び降りようとする。

 袁紹の袁遺への殺意は凝り固められ、本人でさえもどうしようもなくなっていた。

「や、やめてください! 姫!」

「そ、そうだぞ、危ないって!」

 それを顔良と文醜が必死に止める。

 こんな小さな舟であるが、やっとの思いで見つけて何とか袁紹と僅かな護衛兵力を乗せりことができたのである。

 顔良と文醜は主人の身の安全を守るだけで精いっぱいであった。

 ふたりは分かっていた。袁遺を殺すことも、袁遺軍に勝つことも、それどころか、未だに岸に残り、袁遺軍と川に挟まれた友軍が助かることも、それらのどれもが不可能であるということを。

「殺しなさい! 袁遺を殺しなさい!」

 ただ、袁紹の怨嗟の絶叫のみが響いた。

 

 

 岸に残された袁紹軍で最も粘り強く戦ったのは麹義だった。

 密集して堅陣を組んで、絶望に抗う。助かる見込みはない。あまりにも無意味な闘争を続けるのは麹義と兵たちの意地以外の何物でもなかった。

 彼らの正面には二本の『張』の将旗が風に靡いている。

 張郃と張遼の部隊だった。

「おお、噂に聞く張遼の騎馬隊か。相手にとって不足なし」

 麹義は場違いな快活な笑みを浮かべた。

 麹義隊は沽水で厳綱の騎馬隊を相手にしたときのようにはいかなかった。

 張郃が堅く組まれた陣形に対して、騎馬隊が思うように損害を与えられないことを知っていたからだ。損害を与えるなら、歩兵部隊の援護が必要である。

 密集した麹義隊に矢が降り注ぐ。張郃隊のものだった。

 麹義隊は密集し堅く組まれた故に機動力はなく、また地形的有利もない。良い的だった。反撃も張郃隊より兵数が少ないため効果が挙げられない。

 だが、麹義隊は崩れなかった。

 どんなに陣形が小さくなろうが兵たちは逃げ出すことはなく、抵抗し続けた。

 張郃にしろ、張遼にしても敵ながらと尊敬したが、悲しいことに抵抗力は低下していた。

 張郃は横隊による歩兵突撃を敢行した。

 陣形を崩さないような早歩き程度の速歩であったが、数の差は絶対的なものであった。

 麹義隊はそれを正面から受けた。

 怒号と悲鳴が交差し、血飛沫が舞った。

 麹義隊の皆が張郃隊を止めるのに全力になった結果、側面が無防備になる。

 そこへ張遼隊が突っ込んだ。

 それで終わりだった。

 陣形は崩れ、隊長の麹義も戦死した。

 張遼隊は、その勢いのまま麹義隊の近くの部隊へと襲い掛かった。

 

 

 袁紹軍の中で最も不運だったのは審配の部隊だった。

 彼らは『雷』の旗を掲げる部隊と弓矢で応酬し合った。

 しばらくすると、その部隊の中からガラの悪そうな男が押し出て来て、耳をつんざくばかりの大声を上げた。

「おい! おめぇら! おめぇらの大将は逃げちまったんだろう!? なら、これ以上、抵抗しても無駄だろうが! とっとと降伏しろ!」

 乱暴な言葉使いだった。

 しかし、審配部隊の兵たちには、これ以上ないくらい魅力的なものに感じられた。

 彼らは死にたくなかった。

「悪いようにはしねーからよ! 逃げた主君に義理立てしても、しょうがねぇーって!」

 兵たちは攻撃の手を止めた。中には持っていた弓や槍を捨てた者さえいる。

 兵、下士官、将校、誰もが審配が降伏すると言うのを待っていた。

 審配がすぐにそう言えなかったのは、羞恥心が邪魔をしたからだった。

 ここですぐに降伏してしまったら、これからの人生で自分は笑いものにされるのではないか。そう考えると何も言えなかったのだ。

 彼は意味もなく自分の足元を見つめた。

 そこには当然、何もない。

 次に空を見上げた。

 曇っていた。僅かに陽の暖かさを感じた。だが、何の意味もない。

 最後に、兵たちを見た。

 皆が自分に怨嗟の視線を向けていた。

 審配は慌てた。

 そこに、もう一度、向かい合った敵部隊から品のない大声が響いた。

「おめーらは良く()ったよ! 伯業様にもそう言ってやっから、あっ」

 声は途中で途切れた。

 そして、兵たちは突如、首を左の方へと向けていた。審配もそれに倣う。

 移動した視線の先には『張』の旗を掲げ、疾駆してくる騎馬隊があった。

「あーーあーーあーー! こりゃもうダメだ! おい、こっちも攻撃だ!」

 再び、向かい合う部隊から矢が飛んできた。

 審配隊には抵抗する気力は残されていなかった。

 審配は敵の隊長を恨んだ。

 確かに、一度、乱戦になった部隊を止めるのには並大抵じゃない労力が必要なことは分かっている。味方にまで余計な被害が及ぶことは珍しくない。だけど、投降を呼びかけたのなら、最後までやり通して欲しいと思った。

 兵たちは審配を恨んだ。

 審配が早く投降の旨を口にしていれば自分たちは助かった。自分たちは彼に殺されたと思った。

 審配隊は壊滅した。

 審配は馬に踏み潰され死んだ。兵の多くは易水に叩き落とされ溺死した。

 最後まで抗った部隊も早くに諦めた部隊も結局は碌な目に合わなかった。

 

 

 反対に袁紹軍の中で最も幸運だったのは辛毗の部隊だった。

 辛毗は部隊を指揮して、『高』の旗を掲げる部隊の攻撃を耐えた。

 彼女はその部隊の隊長を知っていた。

 かつて袁紹軍にいた高覧である。

 彼の手堅い用兵には一目置いていた。

 そして、その用兵術はさらに磨きが掛けられていた。

 高覧隊は統制の取れた恐ろしい圧力で、辛毗隊を河へと突き落とそうとしてくる。

 反撃の機会を見つけようにも、そんな隙はどこにもなかった。

 後ろの河が近くなる。

 それを確認したとき、辛毗は易水に浮かぶ小舟を発見した。主の袁紹が逃げるために使用しているものだった。

 小舟はもう豆粒くらいの小ささだった。

 主はもう逃げ切れる。これから先のことは分からないが、少なくとも易水で捕らえられることはない。

 袁紹に対しての自分の役目は終わったと辛毗は思った。

「降伏する!」

 毅然とした声で辛毗は言った。

「抵抗をするな! 武器を捨てよ!」

 なら、最後まで付き従ってきた兵たちに対しての責任を果たすべきだと思った。無駄死にはさせない。

 しばらくして、高覧隊からの攻撃は止んだ。

 辛毗は部下に自分の首に縄を掛けさせ、さらに後ろ手に縛って、高覧隊の前へ歩み出た。

 それをかつて見た顔―――高覧が直々に向かい出た。

「降伏を受け入れて下さり、感謝します」

 辛毗は言った。その声のどこにも敗者であることを示す響きはなかった。

「貴殿の決断に敬意を表します」

 高覧が堅い声で応じた。

 辛毗は易水で生き残った、ただひとりの袁紹軍の軍師であった。

 

 

 そして、袁紹軍の中で最も袁遺を憎んで死んだのは郭図だった。

 雛里は攻撃を袁紹軍の右翼に集中させた。

 彼女の狙いは単純だった。右翼に意識と戦力を集中させた後に、左翼を襲う。ただそれだけである。

 しかし、雛里の目論みは外れることになる。

 右翼への攻撃だけで袁紹軍は壊乱状態になったからだ。

 これには袁遺も呆気にとられた。

 雛里は作戦を変更して、左翼を突く予定であった陳蘭隊を予備兵力として温存、同じく呂布隊を袁紹軍の中央へと投入した。

 呂布隊の突撃はダメ押しの一撃となった。

 易水に取り残された袁紹軍は消え去った。

 残ったのは軍とは言えない、統制を失った烏合の衆だった。

 沮授は混乱の最中に兵に討ち取られた。

 そして、最後に残った郭図は呂布隊の突撃、その圧力によって河へと叩き落とされた。

 同じ様に叩き落とされた兵や下士官、将は大勢いた。

 郭図は足掻いた。

 手足を動かし、水面に顔を出す。

 その顔は憎悪で歪んでいた。

 絶対に袁遺を殺す。

 こんな状況でも郭図は袁遺への憎悪を忘れていなかった。いや、むしろ、それを生きる糧としていた。

 そんな郭図に上流から何か大きなものが転がり流れてきた。

 それは彼と同じように易水に叩き落とされ、溺死した馬の屍だった。だが、郭図はそれを理解できずに、馬であったものとぶつかり揉まれながら、易水の流れに飲み込まれた。

 身体が回転する。息ができない。水を大量に飲んだ。

 それでも、それでも彼は思った。

 殺す! 絶対に殺す! 袁遺を殺す!

 郭図は自分が生きているのか死んでいるのかさえも分からなかった。

 ただ、袁遺を憎んだ。心臓が動く限り、袁遺を恨み続けた。

 死ね、袁伯業! 死ね! 死ね! 死ね!

 

 

 この易水で、袁紹軍の首脳部は壊滅したと言っても過言ではない。しかし、袁紹の悲劇は終わっていなかった。

 




 乙の章11~13の補足で、いつかアウステルリッツとライプツィヒからもパクるのでナポレオンとか欧州戦史に詳しい人はネタバレしないでくださいって書いてたけど、ライプツィヒからパクれたのは約一年四か月後だった。アウステルリッツをパクるのは何年後になるんだろう。
 丙の章は何とか三が日が終わるくらいまでには完結させたい。
 
 いつものように、不正確さの塊のような地図を作りました。あくまでイメージの参考にして、これが全面的に正しいなんて思わないでください。
 また、この話のネタバレが含まれています。まだ本文を読まれていない方はご注意ください。

【挿絵表示】


補足

・韓信が魏豹相手や、かの有名な背水の陣でそれを行っている。
 魏豹のは前にも書いたが、韓信は大量の船を囮として河に並べ、その上流で桶を筏として河を渡って、主力のいない首都を攻撃し、魏を征服した。
 背水の陣も趙軍は河を背にした漢軍を殲滅の好機と考え、城の兵総出で出陣したが、逃げ道のない漢の兵が必死で戦い、攻めあぐねたので、退却したところ、漢の別働隊に空になった城を奪われていた。
 この話で参考にしたナポレオン戦争の諸国民の戦いでも、ナポレオンが敵を追撃している最中に別の部隊がパリを陥落させている。
 このパリを防衛していたマルモンはナポレオンと長い付き合いで、ナポレオンの手によって公爵にしてもらったのに、パリで降伏して裏切ったため、ナポレオンを激怒させた。まあ、部下が裏切ったから、マルモン自身も裏切らざる得なかったという面もあるが。

・ライヘンバッハ・プラン
 本編でも書いたが、ナポレオン本軍との直接戦闘を避けることを根幹においた戦略。
 プロイセンのグナイゼナウ、元大陸軍でスウェーデン王太子のベルナドット、オーストリアのヨーゼフ・ラデツキーの誰かが立てた作戦だと言われている。
 ナポレオンに攻撃された軍は後退するが、他の軍はそのナポレオンの背後連絡線へ向かって攻撃するため、ナポレオンは敵の追撃を取り止め、自身で後方連絡線を守るか部下を派遣しなければならないが、部下はだいたい負ける。
 ロシア遠征でベテランの兵や下士官、将校を大量に失った大陸軍にはかつての力がなかったのである。
 まあ、それでも勝つナポレオン本隊は本当におかしい。
 三日で150キロを行軍して敵を撃破した後に、また移動して別の敵を撃破するとか。後退に遅れた敵軍をたった一度の会戦で、その三分の一を撃破するとか。本当に戦場では軍神と表現するしかない。
 そんなのとまともに戦うな、という話ですよ。

 易水については次回に解説します。


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20~21

20 袁本初

 

 袁伯業という男は辛毗の想像以上に、測りかねる男であった。

 袁紹の従兄故に彼とは面識はあったし、その目付きの悪い冷たく整った顔を覚えていたが、そのとき袁遺は年下ではあるが袁家の序列は上の従妹に平身低頭、徹底的に遜っていたために、辛毗はその真の為人というものを知ることはできなかった。

 だが、辛毗は降伏して彼に対面し、やっと袁遺の心の内、その一端を見ることができた。

 投降した辛毗は縄を解かれ、袁遺のいる本陣へと連れていかれた。

 そこでは文官と思わしき者たちが忙しく動き回っていた。

 その奥に袁遺はいた。

 辛毗は進み出て、跪き言った。

「辛毗、後将軍に拝謁致します」

「先生、面を上げてください」

 優し気とまで言える声色で返ってきた。

 辛毗は袁遺と対面する。

 そこから先程の優し気な声が出たとは信じられない冷たい顔があったが、辛毗はそれが自分の記憶と一致する袁遺の顔だった。

 あまり変わっていないな、と彼女は思った。

「あなたと部下に危害を加えぬことを皇帝陛下に忠を尽くす後将軍として誓約します」

 その言葉に辛毗は手をついて頭を下げた。

「ご厚情に感謝いたします」

 型通りであるが、辛毗は袁遺がここまで自分に丁寧な態度を取る意味を考えた。

 だが、答えは出なかった。

 袁紹の行先にしろ、他の情報にしろ、そんなものはとっくに他の投降者が袁遺に売り払い、それなりの見返りを受けているはずだった。自分の才覚を買っていると自惚れることもない。というより、できなかった。あれほど見事なまでの戦略を見せられたのだ。劉虞・公孫賛との戦いで高くなった鼻はへし折られている。

 答えが出ないまま、辛毗は袁遺に尋ねられた。

「それで、辛先生。あなたは私に何をお望みかな?」

「…………質問の意図が分かりません、将軍。むしろ、あなたが私に何かをさせたいのではないのですか?」

「私はこれから、いろいろ私に買ってもらおうと商品を持ってくる者たちから、安く買い叩かなければなりません。ここで焦って高く買ってはもったいないでしょう」

 袁遺の口元に諧謔的な皺が僅かに刻まれた。しかし、その声には陰がなかった。

「なるほど、確かに将軍は高い買い物をする必要はありませんね」

 そこには理性によって裏付けされた勝者の余裕があった。

 袁遺は易水で袁紹を討ち取れなかったが、今の状況は熟した果実が落ちるのをただ待てばいいだけであった。

「そうです。だから、あなたが郷里に引き籠りたいと言えば、私はどうぞと言います。漢王朝に仕えたいと言えば、それなりに扱き使うだけです」

 辛毗は豫州潁川郡の出身である。その名士を粗雑に扱わなかったというだけで、袁遺はこれからの豫州統治において、潁川派閥の名士から協力を得られ易くなる。それはつまり、潁川派閥で最大の名士である曹操に仕える荀氏への牽制でもあった。

 袁遺は曹操が天下を諦めたとは、まったく思っていない。

「あなたに仕えたいと言えば、どうなりますか?」

 辛毗が言った。

「それはやめておいた方がいい。私の人使いは相当に荒い。特に将や軍師の」

 袁遺の口元に刻まれた皺はさらに深くなる。

「あなたの部下がいいです。後将軍」

 辛毗は礼を取った。

 彼女は勝ち馬に乗ろうとした。

 だが、それだけが理由ではない。袁遺の下でこの男が持つ軍略を全て吸収したいと思ったのだった。辛毗という軍師が持つ柔らかな執念だった。

「そうか、分かった」

 袁遺の態度や声から先程のまでの鷹揚さが消えた。

「では、袁紹の逃亡先、并州・幽州にどれだけの軍を展開しているか、南皮の蓄えと人員の数を言え」

 仕えると言った瞬間から袁遺は辛毗を完全に部下として扱っていた。

 袁遺は働き回っている参謀のひとりを呼び止めた。

「紙と筆を持って来い。そして、彼女の言うことを書き止めろ。ああ、それと筆頭軍師も呼んで来い」

 呼び止められた参謀―――王象は主の言う通りに、雛里を呼んできて、筆に墨をひたした。

「逃亡先は易の城です。幽州への前線拠点となっています。并州・幽州には約七万の軍を展開していましたが、将軍が安平国まで進攻した頃には脱走兵が相次ぎ、その数を半数まで減らしたという報告が入ってきました。以後は不明です」

 辛毗は話し始める。

 自分は試されている、と辛毗は思った。

 おそらく、このいくつかの情報を袁遺はすでに掴んでいるが、自分が本当のことを言っているかどうか確かめるために聞かれていると彼女は推測した。

 その推測は事実であった。

「南皮には兵が一万ほどと、糧秣が馬車一万四〇〇〇台分の蓄えがありましたが、迎撃に向かうのにかなりの量を使用したため、三分の一程度しか残っていないでしょう」

 馬車一万四〇〇〇台分は馬車限界範囲を八万の軍勢が余裕をもって行動できるだけの量である。

 袁紹軍は敵が未来の知識を持つ袁遺でなければ、内線作戦を成功させるだけの用意をしていた。

「……そうか」

 袁遺は考え込んだ。

 その間に、辛毗の証言が参謀たちによって情報共有される。

「雛里」

 袁遺は彼の軍師に問いかけた。

「現在の状況で袁紹を追いかけた場合、易を落とせるか?」

「恐れながら、難しいと思います」

 雛里が答えた。

「攻城兵器が足りません。調達できそうなのは盾と梯子と後は大きな木を槌代わりにするくらいで……楼を造ったりするのは難しいと思います」

 袁遺は侵攻当初、念のために司隷河内郡から攻城兵器を持ち込んだが、袁紹軍が内線作戦を取ってきた段階で進軍速度を上げるために後方に置き去りにしている。

「辛佐治。南皮には攻城兵器はあるか?」

「あります」

「では、先に南皮を落として攻城兵器を手に入れ、それを使って易を落とす」

「伯業様、曹操さんや馬超さんの軍と合流しても、南皮を落とすには……」

「分かっている。考えがある」

 袁遺は雛里の言葉を遮りながら、視線を辛毗の方に移した。

「最後にもう一度だけ聞いてやる。俺は将や軍師の特に能力評価という点では、過酷以外の表現をしようもない態度で臨むぞ。君たちは兵に死ねと命ずる立場だ。そう扱われて然るべきだ」

 袁遺の視線が辛毗を射抜くように鋭くなった。

「それでも、俺に仕えようと言うんだな」

 その目は三白眼である。瞳は小石の様に無機質で、同様に小さい。

「……降将相手にずいぶんお優しい対応ですね」

 そう言った辛毗の声は震えていた。

 降将か……とつまらなそうに呟いてから、袁遺は続けた。

「お互いに忠誠の対象が異なっていただけだ。ただそれだけの話だ。あそこで君が降伏しなければ、兵と君は易水の底で骸になっていた。ああ、確かに降伏の恥辱を受けずに済むかもしれない。誇りは守れる」

 そして、袁遺は不快そうに吐き捨てた。

「だが、俺は自分の誇りや名誉のために兵を無駄死にさせるなど、趣味じゃない。だから、君の決断に俺は敬意を払うよ」

 袁遺の―――彼の表現を借りるならば―――趣味という奴に、辛毗は諸手を上げて賛同することはできなかった。確かに兵を無駄死にはさせたくなかった。しかし、袁遺ほど割り切って考えられない。恥と思う気持ちが心にへばりついている。

 だが、たとえ再び選択を迫られている身であっても一応主君相手である、可能な限り好意的な言葉を返した。彼女は礼節を弁えていた。

「そう言ってもらえると自分としては気が楽になりますが、世間では……本流ではない意見ではないでしょうか」

「そうだ。で、どうするんだ?」

 敬意、か。辛毗は思う。

 他者への敬意、儒教でいうところの礼や仁にあたる。こんな儒教的に受け入れられない趣味というものを言っておきながら、同時にとんでもなく儒教的な面を持っている。

「袁将軍、どうか私のことは真名の紅々(ほんほん)とお呼びください」

 袁遺は矛盾した、酷く難しいところを持つ男である。こういった主に仕えるのは並大抵の苦労ではない。だが、紅々にとって、たったひとつだけだが、仕えるには十分な理由があった。

 彼の丁寧な態度は辛毗への敬意だった。他者へ敬意を払うことができる。その一点で紅々はこの面倒な男に仕えようと思った。

 何故なら、敬意とはその人間の実績と信頼によって構成されるものである。そこを評価できるできないということは品性の問題だった。

「わかった。では、紅々、ひと芝居打ってもらうぞ」

 そう言ってから、袁遺は大声で続ける。

「張郃と陳蘭を鄚県に駐屯させろ。万が一の袁紹の南下に備えさせつつ、北方の情報を集めろ。張先生も鄚県の旧地に残し、そこを中心に防衛力を確保。残りは南皮を囲んでいる友軍に合流」

 張郃は鄚県の出身であり、袁遺と共に賊討伐に明け暮れた過去を持つ。陳蘭は予備隊として兵力が温存され、最も被害が少ない隊だった。

「袁紹軍の軍旗は集めさせてあるな」

 その一言で紅々は何をやらされるのか察した。

 尊敬できる面も持っているが、やはりこの新しい主は性格が歪んでいる。彼女は思った。

 

 

 この時点では、余談の域を出ないが、後に多くの人にとって意味を持つことが起こった。

 南皮への行軍の最中に袁遺軍へと合流した軍があったのだ。

 それが幽州の地方豪族の王松の軍である。

 軍といっても、総勢は二〇〇〇に届かない数字である。それに袁紹軍との戦いはもう殆んど終わったと言っても過言でない状況であった。

 袁遺軍の将や参謀の多くが、今更なにをしに来たんだ、と王松の到着を受け取ったが、袁遺は違った。

 王松の手を取って、袁遺は礼を言った。

 もうすでに大勢が決した状況で参陣したことに、歓迎されるとは思ってもいなかった王松は逆に当惑した。

 そんな王松に劉放が耳打ちする。

 それをそのまま王松は叫ぶように言った。

「天下の逆賊を討つために一命を賭す所存。袁将軍におかれては、よろしくこの松に采配ありたい!」

 袁遺はそれに、助言した奴は頭がキレる奴だなと思った。

 確かに、彼らは全てが終わりつつあるときに来たが、幽州の勢力で最も早く袁遺に合流したのは彼らだった。

 そんな彼らが、ともかく恭順の意をすぐに示したことは先例と成り得る。

 これから先の幽州勢が到着したら、彼らに倣い、まずは袁遺に対して恭順の意を示し、采配つまりは指揮下に入るということだった。

 それは袁遺にとって、何かをやるにしてもやり易くなるということである。

 王松というより劉放は、安く買い叩きたい袁遺に高く自分を売りつけることに成功した稀有な例となった。

 もっとも、袁遺には自分が吝嗇であると他人に思われることを過度に嫌う悪癖があったため、劉放の才能が全てを成し遂げたとは言えない。

 ただ、王松が運を持っていたということは紛れもない事実であった。

 

 

 袁遺たちが南皮に着いたとき、真っ先に司馬懿が袁遺に駆け寄って来た。

「状況が変わりました。伯業様」

 そして、袁遺にのみ聞こえるような声で言った。

「どういうことだ?」

 行軍の途中、伝令によって知らされた状況は袁遺が望んでいたものだった。

 曹操・馬超の両軍で南皮を囲んで攻撃はせずに、せいぜい恐怖を煽るような言葉を兵たちに叫ばせたくらいである。

「兗州牧の陣営に許攸が投降しました」

「許攸が?」

 袁遺は当然、それがどのような人物か知っていた。

 許攸は正史や演義では官渡の戦いで袁紹軍を裏切り、曹操に袁紹軍の兵糧の集積場所を教え、曹操軍勝利の大きな要因を作った男である。

「荀殿に書簡で兗州牧への口利きを頼んだそうですが、こちらに投降してから、彼女が易で幽州方面の軍を統括していたことが分かりました」

「それじゃあ……」

「易はおそらく空っぽです」

 瞬間、袁遺の目の前が真っ赤になった。俺は何のために南皮に来た。

 これは戦場どころか、あらゆる状況で起こり得る伝達上の手違いであった。

 袁遺はまずいと思った。冷静さを欠いている。

 だから、彼は心を落ち着けるために自分好みの冗談を言った。

「一応、聞いておくぞ。許攸は荊軻になりに来たという可能性はないか?」

 司馬懿はそれに乗った。

「風蕭々として易水寒し。壮士ひとたび去って復た還らず。なるほど、あなた好みだ。ですが、その可能性はありません」

 袁遺はその言葉に口元を歪めた。

「伝令を鄚県の張郃に出せ。周囲を探索させろ。馬は何頭潰してもかまわん。ともかく、急がせろ」

「すでに出してあります」

 司馬懿は応じた。袁遺の要求に先回りした形だが、彼にそれを誇る様子はない。全権を委任されたのだ。起きた問題に対して何も手を打たずに、袁遺の指示を待っていたら、それは主の信頼を失うと同義だった。

「それ以外の南皮の状況は書簡の通りです」

「では、とりあえず南皮を落とす」

 袁遺は曹操や董卓たちがいる幕舎へと向かった。

「伯業」

 そこで一番に曹操―――華琳が袁遺に話しかけてきた。

 その表情は微かに曇っていた。

 袁遺は丁寧な態度で応じた。

「曹州牧、ご無事で何よりです。司馬懿から報告は受けました。私は司馬懿に全権を委任しましたが、南皮から反撃を受けずに、この状況まで持ちこめたのは州牧と幕下の臣の功績です」

 袁遺は伝達の過誤を取り上げなかった。

 それも袁遺なりの供給できる利益であった。

「そう……」

 そのことを華琳はすぐに理解した。

 次に袁遺に話しかけたのは董卓―――月であった。

「御無事で何よりです、袁将軍」

「そちらこそ、司空」

 挨拶を返す袁遺の目が曹操の軍師、郭嘉の姿を捉えた。

 彼女は目を輝かせていた。

 この場には袁遺が残して行った参謀たちが作り上げた近代的な参謀本部に近いものがあったからだ。

 現在の兵力、兵站。その展開状況をひとつの所に集約し、そこで一括処理して誰にでも分かりやすい形で表示するなど、過去の世界史で行われたことはない。はっきり言えば、どんなに早くても約一六〇〇年後の出来事である。

 だが、この一六〇〇年後の光景が袁遺の分進合撃、さらに言えば、広範囲での運動戦を支えている。

「郭殿、そんなに面白いですか?」

 袁遺が尋ねた。咎める風ではない。ごく自然な感じだった。

「……はい。興味深いです」

 それに郭嘉は逆に警戒した。

 だが、袁遺からすれば、これが見られて、もし真似されても問題はなかった。

 というより、できないのだ。

 参謀教育がどのような過程で形成されてきたかを知らなければ、これは作れない。

 袁遺は思う。

 見たままのこれを再現しても、行きつく先は悪名高き『シュリーフェン・プラン』がせいぜいだな。つまりは、まあ、専門バカの集まりだ。

 空気を換えたのは華琳であった。

「それで、これからどうするつもり?」

「まずは南皮を落とします。袁紹の本拠地を陥落させたということを宣伝しつつ、袁紹捜索を有利なものにします」

 袁遺が言った。

「何か考えがあるの?」

 華琳が尋ねる。

「あります」

 そう言って、袁遺は幕舎を出た。それに皆が続く。

「辛毗、雷薄」

 袁遺がふたりを呼んだ。

 雷薄は左手で馬を一頭、曳いている。右手には縄を持っていた。

 さらにその後ろに『辛』と書かれた旗を持った兵士がひとりいた。

 辛毗は袁遺の前まで来ると、その黒い髪をふんわりと結んでいた髪紐を解いて、いきなり地面に転がった。

 皆が驚くのに構わず、辛毗は転がる。

 髪は乱れ、身体中が土埃で汚れる。

 その後で、雷薄は持っていた縄で辛毗を縛り上げた。

「馬に乗るのを手伝ってやれ」

 袁遺が命じた。

 辛毗が馬に乗せられるのを見て、華琳は察した。

「そういうこと、趣味が悪いわね」

「……そんなことはご存知でしょう?」

 袁遺はいつもの表情で返した。

 

 

 辛毗の乗った馬を雷薄は曳いて、南皮へと向かって行く。その後ろには旗を持った兵が続く。

 そして、曹操軍の兵たちに道を空けさせ、東側の城壁から三〇〇メートル手前で一旦、止まった。矢の射程距離ギリギリのところである。

 城からの攻撃はなかった。だが城壁で守備をしている兵が何やら動き出すのが分かった。

 彼らはさらに少しずつ距離を詰める。

 二六〇メートル、当たり所が悪くない限り大した怪我を負わない距離だった。それでも攻撃はない。城壁の上にどんどん人が集まってくるのが分かった。

 二〇〇メートル、矢の有効射程ギリギリである。攻撃はない。

 一八〇メートル、攻撃はない。この時点で、味方の軍師が馬で曳かれていることに南皮の者たちの殆んどが気付いていた。

 一五〇メートル、辛毗が、姉がいますと言った。攻撃はない。それは向こうも辛毗だということを確信したということだった。

 一〇〇メートルの地点で、雷薄は歩みを止めて叫んだ。

「聞け! 袁紹はお前たちを見捨てて逃げたぞ! 軍は易水で壊滅! 幽州、并州、青州全てこっちに降った! もうお前たちを助ける者はいない! 降伏しろ!」

 人の肉声が辛うじて聞こえる距離であったが、雷薄の声の大きさと城壁の兵たちの意識が雷薄たちに集中していたために、雷薄の放った言葉は守備兵たちへと届いた。

 城壁の上で動揺が広がっているのが、雷薄たちはおろか、その後ろにいる袁遺たちにも手に取るように分かった。

 袁遺は間髪入れずに次の手を打つ。

 易水で棄てられていた袁紹軍の将たちの軍旗を兵に掲げさせて、南皮に籠る者たちに見せつけたのだった。

 袁紹軍の二枚看板である顔良と文醜の軍旗。濕余水・沽水の戦いで名を上げた麹義の軍旗。そして、軍師たちのもの。

 城壁の上で言い争う様な喧騒が聞こえる。敵の罠だという者と俺たちはもう終わりだと悲観する者が言い争っているのだった。

 突如、東側の城門が開き、ひとりの女性が馬に跨り出て来る。

「姉です」

 辛毗が雷薄にだけ聞こえるような声で言った。

「妄言を弄すな!」

 辛毗の姉―――辛評が一喝した。

「嘘じゃねぇ!」

 雷薄が不敵な笑みを浮かべながら、言い返す。

 全てが真実ではない。だが、事実も含まれている。故に嘘に説得力ができる。

 辛評はボロボロの姿で馬上で晒されている妹に、どこか縋る様な視線を送った。

 だが、妹は悲しそうに首を横に振り、悲痛の色を宿した声を喉が裂けんばかりに発した。

「易水で、軍は全滅! 袁公が今どこにいるのか分かりません! 幽州からも袁遺軍に合流しようと軍が南下してきています!」

 それだけ言うと、辛毗は項垂れた。

 嘘は言っていなかった。易水で軍は消滅したし、袁紹はもうすでに逃げ出している。幽州からも王松がやってきた。

 雷薄がそれを受け継いで叫んだ。

「降伏しろ! そうすれば命は助ける! 南皮の民にも手は出さねぇ!」

 さらに後方で兵たちが続いて、降伏しろと一斉に声を上げる。

 雷薄たちは陣へと引き返す。

 袁遺はそれを見ながら、皆に言った。

「南皮が降伏した場合、入城する兵力は余計な混乱を避けるために絞る。今のうちに人選を。それと兗州牧、戦いが終われば南皮や付近の商人が軍相手に商売をしようとやってくるはずです。その商いを管理する人員を出してください。涼州軍の方は私のところの司馬馗にやらせます」

「わかったわ」

「お、おう、よろしく頼む」

 曹操と馬超が言った。

「高覧、辛毗が戻って来たら、彼女の案内で行政書類および外交文書を全て抑えろ。司馬懿も参謀を連れて、それに参加しろ。どんなに小さな走り書きも見逃すな」

「分かりました」

「御意」

 司馬懿と高覧が答えた。かつては袁紹軍に仕えていた高覧である。南皮の地理には明るかった。

「雛里は南皮陥落の宣伝工作の用意」

「は、はい」

 次々と指示を出す袁遺だったが、それに華雄が冷淡な嫌味を浴びせた。

「ふん、ちゃんと降伏するんだろうな」

 董卓と賈駆はそれに慌てたが、袁遺はいつもと変わらぬ無表情で返した。

「ちゃんと落ちますよ」

 その言葉通り、翌日、南皮は降伏した。

 辛評が降伏の使者を務めた。

 その口から、田豊は降伏の恥辱にまみれることを良しとせず、自害したことを知らされた。

 またひとり、袁紹軍の軍師が泉下の人となった。

 

 

「すごいな。南皮の雄壮華麗さは洛陽より上だ」

 袁遺は呟いた。

 袁遺、董卓、曹操は部下を連れて、南皮の街中を突き進み、袁紹の臣下たちの邸宅の前を通り、そして袁紹の居城までやって来た。

 そこで見た南皮は、北が近いことを感じる胡人の風雅を漢風に繊細で華やかに整え、取り入れていた。

 袁紹が天下を征した後は、この城を天下の都にしようとする袁紹陣営の壮大な気概を感じられた。

 袁遺だけではなく、優れた美的感覚と革新的な精神性を持つ華琳であっても、南皮には心を揺さぶられた。

 だが、その佳麗な都市は袁紹の手を離れ、袁遺の手の中にあった。

 その事実を多くの人が理解していた。この戦いで袁遺は強大な名声と武威を手に入れた。袁遺は怪物となりつつあった。

 しかし、袁遺は笑顔のひとつも見せずに、いつもの無表情であった。

 その顔に明確に喜色が浮かんだのは、袁紹の居城に入り、司馬懿と対面してからだった。

 司馬懿は部下に大量の書簡を持たせて、袁遺の元にやって来た。

「伯業様。袁紹が各地の諸侯と交わした書簡を確保しました」

 その言葉に袁遺は暗い喜びを宿した笑みを一瞬、浮かべた。

「どうやら、朝廷の臣下も密通していたようです」

 そして、司馬懿もその穏やかで品のある雰囲気でも隠せない陰謀家としての臭いを発していた。

 この主従、十常侍の一件でも分かる様に、陰謀を好む気質がある。

 袁遺は実の叔父から、その気質故に家を滅ぼすと言われた。また、司馬懿とは正史で『内は忌にして外は寛、猜忌にして権変多し(外見は寛大な人物に見えるが、中身は陰険で、疑り深く陰謀を好む)』と書かれる男である。

 ふたりの脳裏には瞬時に多くの策謀が描かれる。

 だが、袁遺にはその陰気とバランスを取るような軍師がいた。

「お、お待ちください、伯業様。世祖(光武帝)が王郎を倒し河北を征したとき、王郎と臣下が内通していた書簡を手に入れましたが、その文書に目を通すことなく、諸将の前で焼き捨てました」

 雛里である。

「…………」

 袁遺はひとつの故事を思い出していた。

 袁一族を倒した曹操もこうやって、臣下と袁紹の密通の証拠を手に入れたのである。

 そして、曹操は光武帝と同じことをしたと言われている。もっとも陳寿も裴松之もこれは真実ではなく、本当は魏史趙儼(ちょうげん)伝に書かれている通り、人をやって記録を調べたとしている。

「つまりは、河北四州を手にしていたときの袁紹は強大であり、その袁紹と密かに通じるのは仕方がないこと。そして、戦争が終わった今、それだけの数の者を取り調べ処分を下すのは別の争いを生むことだから、俺に度量を示せ、と?」

 袁遺が面白くなさそうに言った。まるで、玩具を取り上げられそうな子供の様だった。

「御明察です」

 雛里は頭を垂れる。

「俺は袁紹に負けると思わなかった」

 それに袁遺は子供が駄々をこねるように返す。不貞腐れた声だった。

「御再考を」

 雛里は更に深く頭を下げる。

「……仲達」

 袁遺は書簡に未練がましそうな視線を送りながら言う。

「それを董司空のところに持って行け。そして、今あったことを説明して君と賈駆殿ふたりの指揮の下で、それを目立つところで焼き捨てろ」

「はい」

 司馬懿は先程まで袁遺と同じように謀略を巡らそうとしていた事実などないように、部下を連れて董卓たちのところへと向かった。

 袁遺はその背中を見届けた後で、言った。

「ありがとう、雛里」

 それからしばらくして、鄚県に残してきた張郃から、伝令がやって来た。

 曰く、袁紹とその将を捕まえた、と。

 

 

 袁紹の確保は余りにも呆気ないものだった。

 彼女たちが易に着いたとき、袁紹と顔良と文醜のほかは両手で数えられるくらいの兵しか残っていなかった。さらに悪いことに、易には兵もいなければ、兵糧もなかった。

 ここに駐屯し、幽州の軍を統括していた許攸は、一戦もしないのに、ただ土地と兵を失い逃げてくる袁紹に見切りをつけて逃げ出したのである。

 兵たちもそれに倣い。軍需物資を奪って逃げていった。

 食料がない袁紹たちは、それを手に入れようと近くの村へと向かったが、そこで村人に捕らえられることになる。

 村人は袁紹たちと知って捕まえたのではない。敗残兵が夜盗の真似事をしに来たと思ったのだった。

 その村の周辺の地方豪族の部曲(私兵)も動員された。

 皮肉にも部曲は易にあった袁紹軍の物資であった弩を持っていた。易から逃げ出した兵が盗んだそれを地方豪族に売って、金や食料に換えたのだった。

 いかな顔良や文醜と言っても、数の差や逃亡の疲労や空腹でどうしようもなかった。

 それから数日後、鄚県の張郃が放った調査隊によって、この夜盗が袁紹であることが発覚し、彼女たちは南皮へと送られた。

 そして、袁遺たちと対面した袁紹は袁遺に向けて、呪詛の言葉を吐いた。

「死ね! 袁遺」

 連合を結成するほど嫉妬していた董卓や、その経緯(いきさつ)から恨んでいた曹操には目をくれず、袁紹は袁遺に飛びかかろうとした。

 だが、縄で拘束され、さらにその両脇を兵が固めている。

 袁紹は顔面から地面へと倒れ込み、取り押さえられる。

「このッ! 袁家に寄生するように生活していた男の息子の癖に! 何であなたが私を見下ろしてますの!」

「黙れッ!」

 兵が持っていた棒を振り上げたが、袁遺がそれを止めた。

「やめろ」

 そして、普段の彼からは考えられないほど、慈悲深い表情と声で言った。

「私と本初殿の袁家内の序列に大きな差があるのは事実だ。そして、下の私が彼女に出来ることはもう、好きなだけ私を罵倒させてやることと、立派でもなければ大きくもない墓をくれてやることしかない」

 その言葉に袁紹の感情が爆発した。

 彼女は喚いた。袁遺を呪うように。袁遺も、その父も、彼にまつわるあらゆることを辱めた。

 声が枯れても叫んだ。その形相はこの世のものとは思えなかった。曹操も董卓もそれから目を背けている。袁遺はただ、いつもの無表情でそれを正面から見据えていた。

 血を吐いても従兄を罵倒し続けた。それこそが袁紹に残された武器だった。袁遺以外の誰もが耳を塞ぎたくなった。だが袁遺は、普段と何も変わらない様子であった。

 やがて、喉は潰れ、声にもならない空気が抜ける音だけが袁紹の口から発せられる。

 袁遺は立ち上がった。

「言葉にできなければ、もう意味はない」

 そして、腰の太刀に手をやった。

 長さは三尺二寸。片刃で反りがある。本来なら、この時代にない日本刀の野太刀に近い形状であった。袁遺はそれを気にしていなかった。三国志なら存在しないが、同じく後漢末期に存在しない青龍偃月刀がある三国志演義の世界ならおかしくはない。

 鯉口を切って、抜刀する。良質の鋼が使われてはいるが、刃紋に美しさはない。それも彼は気にしていない。

 袁遺は兵をどけて、袁紹の背中を右足で押さえつける。

 袁紹は抵抗するが全く体が動かない。袁遺自身でも信じられないくらいの力が内から湧き上がっていた。

 刀を上段に振り上げる。

 袁紹は声にならない空気が擦れる音を未だに発していた。

 袁遺は刀を振り下ろす。

 彼の技量は本物だった。袁遺は過たず第三頸椎と第四頸椎の隙間を刃を入れた。早業だった。

 首を刀で落とす場合、刃の根本から切っ先までを使い、第三頸椎と第四頸椎の間を斬らなければ簡単に首は落ちず、斬られる者は酷い苦痛を味わうことになる。

 そして、完全に首を落とすことなく、皮一枚を残す。

 やがて自重によって、首は飛ぶことなくその場に落ちた。

 袁遺はその首を無感動に眺めて言った。

「晒せ」

 当時の決まりでは処刑した遺体は晒すことになっている。史実で董卓の遺体が長安に何日も晒されたのはこの決まりがあったからだ。

「伯業ッ!」

 曹操―――華琳が立ち上がり声を上げた。

 彼女が苦しそうな表情をしている意味を袁遺はしばらくの間、理解できなかった。

「…………あっ」

 だが、ようやくその意味を悟り、彼は視線を月の元へ移した。

 董卓―――月も察して、首を縦に振った。

「袁紹は自害した。遺体は丁重に扱え」

 自害ならば、遺体は晒さなくともいい。こうやって戦ったが、華琳と袁紹は友人同士であった。これは華琳が友人にできる最後のことであったのだ。

 ここに反董卓連合から始まった董卓と袁紹の因縁は決着した。

 ただし、世が治まったかと問われれば、その答えは否であった。

 その証拠にひとつの戦いを終えた袁遺を激怒させる報告が南からもたらされることになる。

 

 

 袁遺は司馬懿に命じた。

「幽州を平定しろ。独立を考えている者は漢民族、非漢民族を問わずに叩き潰せ」

 張遼、高覧の部隊が司馬懿の指揮下に入った。

 また、張郃の部隊から王平と姜維を独立させ、この幽州遠征に部隊の隊長として参加させる。彼女たちは張郃の下でその実力を示し、一部隊を預けるに足りる人物だということを証明したのだった。

 そして、降ってきた辛毗や王松の元から招聘した劉放を始めとして参謀団もその人員が増員された。

 彼らが幽州を征伐している間に袁遺は南皮で態勢を整えて、洛陽へと帰還する。

 その整えるべき態勢の中には、并州からやって来て傘下に入った張燕とその配下たちを振り分ける仕事があった。その数は十万単位で骨の折れる仕事であった。

 さらに、袁紹に最後まで付き従った顔良と文醜の処刑も含まれていた。

 彼女たちは主に殉じることを望んだ。

 袁遺は抗(生き埋め)の決定を下した。その指揮も自分で取る。

「伯業様、ひとつお願いがあります」

 司馬懿が言った。

「何だ?」

「幽州遠征では降ってきた北方の騎馬民族を指揮下に入れ、中原に連れ帰る許可をください」

 司馬懿の言はまっとうなものだった。

 例えば、光武帝が上記の王郎と戦ったときに烏丸突騎が精鋭として活躍したのを皮切りに、公孫賛の白馬義従、そして、史実の曹操も北方遠征で烏丸族を下して、その配下としている。

 それだけ、北方の騎馬民族は騎兵として強力であった。

「ダメだ。命令だ、北方の騎馬民族を指揮下に入れて、中原へ連れ帰ることは許さない」

 だが、袁遺はそれを拒否した。

「は……しかしッ」

「聞こえなかったか。命令だ」

 袁遺は司馬懿の言葉を遮る。

「……」

 司馬懿は黙った。

 袁遺が命令を盾に自分の意志を押し通すという軍隊の基本をどこか嫌っていることを彼は知っていた。袁遺は反董卓連合の囮の件のように必ず理由を示して、相手を納得させる努力はする。

 それが命令の一言で斬り捨てた。

 これ以上踏み込むのは、身を危うくすると司馬懿は思った。

 袁遺が拒否した理由は、こうやって中華の内側に入ってきた胡人が後に五胡十六国時代の原因のひとつとなるからだった。

 もちろん、それは司馬懿には分からない。

「では、こちらに降った崔殿の推挙した人材を指揮下におきたいと思います。その許可を」

「崔琰か……」

 崔琰は人物評の大家であり、正史でも多くの人材を曹操陣営、ひいては魏に推挙した。

「構わない」

「ありがとうございます」

 司馬懿が頭を下げた。

 このとき、司馬懿が登用した人物は幽州涿郡涿県出身の孫礼であった。

 後に彼は司馬懿の下で大きな仕事をしていくことになる。

 

 

 出発前であるが、この遠征の結果を先に言ってしまえば、司馬懿は簡単に幽州を制圧する。

 騎馬民族のいくつかの独立を試みる集団が抵抗したが、司馬懿はそれを難なく跳ねのけた。

 司馬懿は、騎馬民族が得意としているパルティアンショットを逃げる方向を正確に読んで伏兵を置き封じ込めた。騎兵で長距離奇襲する必要もない。

 遊牧民たちは少し攻めに回れば、勝手に逃げていく。しかし、それが彼らの必勝の戦法だったのだ。

 だが、それが通じない相手が現れた。本来ならこれから四〇〇年先に李靖によって突厥が喰らうはずであった衝撃を袁遺のせいで、この時代の騎馬民族が喰らうハメになった。

 司馬懿は、行く先々で勝利を積み重ねていくことになる。

 

 

 その情報が伝えられたのは、ある意味でタイミングが悪かった。

「孫策が寿春を奪い、袁術が行方不明、だと……」

 袁遺はその文書を読み上げた後、この男にして本当に珍しく声を荒げた。

「勝利を台無しにしやがって!」

 そして、書簡を投げ捨てた。

 壁にぶつかった書簡は紐が切れてバラバラになる。

「仲達! 幽州遠征の出発は一日遅らせる! 先に呂将軍の部隊を黄河の南に帰す!」

 袁遺は参謀部へと向かう。呂布隊の行軍計画を立てるためだった。

 所詮、今の袁遺にとって、ひとつの戦いの終わりとは次の戦いの始まりに過ぎなかった。

 

 

21 三年の喪(後)

 

 

 その年は夏の盛りは過ぎても日差しは強く、まるで夏が忘れられないようだった。

 そんな中を歩くと肌を容赦なく焼く日差しによって、汗が滝のように流れるが、袁遺は不思議な爽快感を感じていた。

 喪に服している間、ずっと小屋に籠りきりだったのだ。こうやって歩いて汗を流すという行為が久しぶりで、倒れるまで歩き回りたかった。

 温県は首都・洛陽から北東に七五里(約三三キロ)しか離れていないが、鄙びた雰囲気を漂わせていた。民家が疎らだからだ。

 だが、おかしく聞こえるかもしれないが、民家が疎らということはそれだけ人が多いということであった。

 何故なら、前漢の武帝の時期に農法に大きな変化が起こった。所謂、代田法である。

 耦犂(ぐうり)(牛二頭引きの(すき))や播種用農器具のような大型農具を中核として耕す方式に変わったのだった。

 この結果、今まで夫婦ふたりでせいぜい一八二アールを耕していたのを、その四倍~六倍の広さを耕せるようになった。そのために、民家を直線距離で五〇〇メートル近く離さなければならなくなったのだ。つまりは人が多ければ多いほど耕作地は増えて、さらに民家が疎らになる。

「これはきっと、多くの収穫が望めるんだろうな」

 袁遺は呟いて歩く。

 目的地の四阿が大きくなってくるにつれ、袁遺の耳に琴の音が入ってきた。

 どこかで聞いたことがあるが、その曲を袁遺は思い出せなかった。

 なんとか、聞き覚えのあるメロディーラインを口ずさみ、記憶を探る。

 そして、気付いた。

「ああ、高山流水か……しかし、酷い演奏だな」

 左手の押し引きが悪かった。強く押し過ぎているために音が外れている。

 その上、右手の動きからは自信のなさが表れている。ともかく失敗しないようにやっているためテンポが滅茶苦茶だった。

 そう言えば、あいつ、琴と詩文の才能はからっきしだったな。

「悪いけど、これで泰山も大河も想像できないな」

 そう呟いて、思い直した。

 いや、この演奏で高山流水って分かるってことは、それはそれで故事の通りなのか。

 袁遺は苦笑した。

 音色に誘われるように、袁遺は貯水池につきだす様に建設された四阿に向かった。

 こんな日に四阿なんて、と袁遺は思ったが、水辺に近いためか心地よい涼風が頬を撫でた。

「仲達」

 琴の音が途絶えた。

「伯業か」

「ああ、久しぶりだな」

 袁遺の無表情な顔に温かなものが宿った。

「座ってくれ」

 司馬懿が言った。

 ああ、と袁遺は応じながら腰を下ろした。

「屋敷の方に行ったら、奥方にこちらだと言われてな。恐縮していたよ。色々そつなくこなす君なら、屋敷で待っていると思ったんだが」

「それは悪かった。文をもらったが、にわかに信じられなかった」

「ん? どういうことだ?」

 袁遺が首を傾げた。

「君なら、あと三年は喪に服すと思っていたんだ」

 仲達が答えた。

「何故?」

 袁遺は仲達がそう思う理由が分からなかった。

「君ほどの才人が冀州で県尉として転戦するのは思うに、君の従妹がそこに赴任するからだろう。だから、君は年は下だが序列は上の従妹のために露払いをさせられた」

「……ふん」

 袁遺は肯定とも否定とも取れるように鼻を鳴らした。

 しかし、友はそれを肯定と受け取った。

「そして、従妹は南皮の県令になった」

「まあ、そうだな」

「このままいけば、君はまたその従妹のために使われるんじゃないかな」

「……どうだろう」

 袁遺は、はぐらかした。

「だけど、別の従妹が九江太守になった。そして、その従妹同士は仲が悪いんだろう?」

「ああ」

 袁遺は肯定した。

 それに仲達は上品に笑った。しかし、今その上品さには畏敬を呼び起こすものが含まれていた。

「なら、用心深い君のことだ。将来ふたりがぶつかることを考えて、見極めると思ったのさ。どちらが勝ちそうなのかとね。それを見極めるなら、三年だろうが六年だろうが、君は喪に服すさ」

「……はは」

 袁遺は乾いた笑いをこぼした。

 本心を言い当てられていた。

 喪に服している最中、訪れた華琳が言った。正直、あなたが三年も喪に服するとは思わなかったの、と。

 確かに、袁遺は父を敬愛していた。しかし、そんな袁遺でも三年は長いと思う。それは現代の感覚だった。

 だが、袁紹と袁術の趨勢を見守れるなら、司馬懿の言う通り三年くらいどうということはない。

 何故なら、史実の袁伯業は袁紹と袁術の争いに巻き込まれて命を落とすのだ。そこはいくら慎重になっても、なり過ぎることはない。

「ははははは、しばらく会わないうちに、また恐ろしくなりやがったな、仲達」

 そして、袁遺は理解した。何故、自分が喪が明けたら司馬懿に会いたくなったのかを。

 すると、妙におかしくなった。

「さすがだよ、仲達。俺は君のような友を持てて幸せだ。君に比べたら、俺はなんと友達がいのない奴か」

 華琳は俺と会っても、何故会いたくなったか分からなかったが、俺は仲達に会って、何故会いたくなったか分かったよ。袁遺は思う。

 怪訝な表情をする司馬懿に袁遺は尋ねた。

「ところで、君の家の田畑が増えていたようだが、部曲の数も増えているんじゃないか?」

「ああ、そうだよ」

「袁家もそうさ。その様子を喪に服している最中、見ていて思ったんだ」

 袁遺は遠い目をして言った。

「何と?」

「このままじゃあ、漢王朝は滅びるなって」

 部曲とは零落した農民である。

 農民が零落するのは税が払えないからだ。売官のせいで本来のものより多くの税が取られている。

 となると、逃げだす農民が多くなれば、ひとりの負担が大きくなり、また農民が逃げだす。まったくの悪循環だ。加速度的に漢王朝の財政基盤は弱体化していく。

 そして、それは農民叛乱の芽を育てていることでもあった。

 さらに、地方豪族が零落した貧農を取り込んで肥大化し、漢王朝をも超える力を持つようになるだろう。

「そうだね」

 司馬懿はあっさりと同意した。

「滅びないものはないさ」

「ああ、そうだ。だけど、滅びないように足掻いてもいいだろう?」

「その通りだ」

「だから、俺は出世がしたくなった。出世をするためには袁紹と袁術、そのどちらかの下にはつけないだろう。それで見極める必要がなくなった」

 袁遺が言った。

「出世?」

 司馬懿が顔を歪める。

「袁家の序列は?」

「さっき、君が推測しただろ。袁紹と袁術はいつか必ずぶつかる。そのときに、そんなものは崩壊する」

「出世して、どうするんだ?」

 司馬懿が尋ねた。

「言ったろ。漢王朝を救うんだ。それができる地位にまで俺は駆け上がりたい」

「いつか出現するだろう朝敵を討ち果たす?」

 袁遺は司馬懿の言葉を鼻で笑った。

「まさか。朝敵を打倒すのは当たり前のことだ。そんなことが救うことかよ」

 そして、袁遺はこのふたりの関係と未来を大きく変える言葉を口にする。

「古来より国が社会秩序を維持する規範として、礼、楽、刑(法)、兵(軍隊)を使ってきた。儒家は礼と楽を重視し、法家は刑(法)、兵(軍隊)を重視した。俺はそれらを規定し、補足する。そして、それを実際に施行するときの細則も創る」

 つまりは律令制と格式だった。

「給田法、それに伴い戸籍も作り直す。現在の官制を改め、内朝を基盤に三つの省と六つの部を作る。人材登用の方法も変える。地方に人材を挙げさせるのに郷品を作る。品だけでは一部の名士に要職を独占される恐れがあるから、同時に班も作る。太学に準ずるものを各地に作り、そこで学べば品が上がることとする。それが進めば将来、人材は国が大々的に試験で発掘することになるだろう」

 袁遺が口にしていることは地方の権限、権益を徹底的に削り、絶対的な中央集権を作り上げることだった。

 それは将来、名士と絶対に対立することであった。

 歴史を俯瞰的に眺めれば、後漢は三つのものに蝕まれる。

 ひとつは外戚。ひとつは宦官。ひとつは肥大化した名士である。

 そういった点で言えば、宦官の孫で皇帝の義父(外戚)で名士の曹操は演義で悪役になるのも仕方がない。

 そして、中華の王朝の交代は、肥大化した地方豪族(名士や貴族、軍閥)が現在の王朝を打倒する。もしくは、異民族に滅ぼされる。武周という特殊な例もあるが、基本的にこの二種類だ。

 袁遺は現在の漢王朝にある前者の流れを喰い止めようとしている。

 だから、そのうえで最大の障害になりそうな司馬懿に会いに来たのだった。

 司馬仲達という男は袁遺が最も信頼し、最も恐れている友人であった。

 袁遺はある意味で正気ではなかった。彼は友情と野望や忠義をも超えた妄執の間で心を乱していた。

 邪魔になるなら司馬懿をこの場で殺しそうだった。だが同時に司馬懿と対立するくらいなら、これら全てを投げ捨てて、今まで得た小さな名声を利用して、故郷で詩文を教え、日々の糧を得る生活を送りそうでもあった。自分でも自分が分からない。

「驚いたな。信じられない」

 仲達は言葉とは裏腹に穏やかな表情で言った。

「何が?」

 袁遺が尋ねた。

「愛国という感情が、この天下に実在したことが」

 

 

 丙の章、了。丁の章へ。

 




丙の章完結記念として活動報告に参考文献を示します。興味のある人はどうぞ。
次の投稿は一月の後半になる予定です。

補足

・荊軻
 始皇帝を暗殺しようとして失敗した人物。
 彼は易水の畔で、風蕭々として易水寒し。壮士ひとたび去って復た還らず、という詩を詠んで、決死の覚悟を示した。
 その志の高さを後世では多くの人が称えることとなる。
 まあ、自分は司馬光と同じ意見ですけどね。正直、あれは丹の個人的な恨みの暴走感がある。

・シュリーフェン・プラン
 第一次世界大戦のドイツのフランス侵攻計画。
 フランスぶん殴って倒した後に、ロシア殴って勝とうぜ。フランスとロシアの間にある国は道路だぜって話。二面作戦がダメな方向に極まった感じの計画。
 参謀教育を怠ったていうか、間違えたっていうか。参謀部の暴走の最たる例として語られることが多い。軍事の専門家たちが本当に軍事のことしか考えなくて、政治とか外交とかを殆んど考えなかったか都合よく考えすぎてしまったって評価である。
 一応、再評価する部分や色々な論争もあるみたいだけど、自分はそんなに詳しくないので、そちらに興味がある人は自分で調べてください。

・孫礼
 魏後期の武将、政治家。演義では諸葛亮のやられ役の一人。正史では蜀方面軍にはそんなに関わりがなかった。
 この二次創作では崔琰に推挙されたことにしたが、正史では崔琰は孫礼を高く評価しただけで、推挙はしていない。
 その点はご注意ください。
 辛毗や王松のように対諸葛亮の人材は、とりあえず司馬懿の元に集める。

・代田法
 始めは限られた極一部の地域だけだったが、徐々に広まったという説もある。二〇〇三年に漢の時代の冀州魏郡でその跡地が発見された。

・高山流水
 中国の古琴の曲。
 または春秋時代の故事。
 琴の名手の伯牙が泰山を思いながら弾けば、友人の鍾子期は泰山が浮かぶようだと言い。大河を思いながら弾けば、大河が浮かぶと言う。
 そこから、真の友人を指す言葉でもある。

・袁遺が口にしていることは地方の権限、権益を徹底的に削り、絶対的な中央集権を作り上げることだった。
 基本的に、南北朝時代、唐、宋、明などの良いとこ取り。詳しくは物語の歩みと共に書いていくつもりです。


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丁の章
1~2


年末年始の予定が変わったので、少し早く投稿します。次の投稿日は未定です。
甲の章~丙の章の誤字脱字の改訂作業も行わないとな。


 手の内にあった一掴みの麦は、もうすでに手の平に張り付いた、いくつかの粒でしかなかった。

 洛陽の一角のこじんまりとしているが、よく手入れされている家、その家主である司馬仲達は一本しかない庭の木に背を預け、その陰の中にいた。

 彼と同じ木陰の中には竹で組まれた長椅子の上に何冊もの本が開かれ、陰干しされている。

 仲達の目線は少し前の地面に撒かれた麦を啄む雀に注がれていた。

 心地よい風が司馬懿の頬を撫でた。枝が揺れる。影も揺れる。

 幽州を制圧し、洛陽へと戻った司馬懿を袁遺は労い、数日ゆっくり休むように言った。

 司馬懿はその休日で本を干すことにした。久々に家へと帰り、何ともなしに手に取った書物に黴が生えていたからだ。

 司馬懿は本を陰干しながら、その近くに麦を一掴み持って、腰を下ろした。そして、それをときたま地面に撒きながら、寄ってくる小鳥を眺めていた。

 ふと、司馬懿は自分に近づいてくる気配を感じた。その方向に首を向ける。

 そこにいたのは整った顔立ちの陽光の様な金の髪を持った女性―――司馬懿の妻の張春華だった。

「子供っぽいことをなされてますね、旦那様」

 張春華が優し気な声で言った。

 司馬懿はそれに、視線を鳥の方に戻して答えた。

「こうでもしないと忘れてしまいそうだからね」

「何をです?」

「見なさい。君が寄って来たというのに、雀は逃げずに未だに麦を啄んでいる。普段ならすぐに飛び立つが、こうやって麦を啄んでいても無事だったから慣れてしまったんだ」

 司馬懿はさらに残りの麦を地面にばら撒く。ほんの僅かの麦であったが、それでも雀はすぐにそれに飛びついた。

「食べるのに夢中だ」

「人は欲のために死に、鳥は餌のために死ぬ、ですか?」

 張春華は中国の古いことわざを口にした。

 聡い妻はすぐに夫の言いたいことに気が付いた。司馬懿は雀を通して、自分自身を見ようとしていた。

「またすぐに、私は洛陽を離れることになると思う」

 司馬懿は言った。

「伯業様は袁紹を討伐したが、恩賞は与えられなかった。罪を雪ぐという面があるから仕方がないが、主が恩賞を与えられなかったのに、私が受け取るわけにはいかない。色々とやることになる」

「ですが、使用人を雇う分くらいはもらってきてください」

 春華が言った。

「どうかしたか?」

 司馬懿は妻へと顔を向けた。

 現在、夫妻は老婆の使用人をひとり雇っている。春華も家事は行うし、生活は慎ましかった。ひとりで十分であった。

「子が、できました」

 それを聞いて、司馬懿は弾かれた様に立ち上がった。

 長椅子にぶつかって、それが倒れ、本が地面に散乱する。

 それに雀が驚き、飛び立ち逃げていく。

 だが、仲達はそんなことを気にも留めない。

 ただ、妻を強く抱きしめた。

 そして、ふと、あの夜を思い出した。冀州侵攻の前に別れを覚悟しての、秘めやかで深い交わりだった。

 春華も夫の背中に腕を回す。

「大丈夫だ……」

 司馬懿は何かに言い聞かせるように呟いた。

 

 

異・英雄記

丁の章

 

 

1 言葉よりもなお響いて

 

 

 天下は怪物となりつつある男の不可解な沈黙に怯えていた。

 袁遺が冀州で袁紹を討伐していたとき、南では孫策が袁術から寿春を奪っていた。

 張勲は袁遺が冀州で袁紹と雌雄を決すると聞いて、これを絶好の機会だと捉えた。

 彼女は袁遺の元に呂布や張遼、張郃、曹操旗下の夏候惇や夏侯淵、さらに涼州の馬超といった勇将、猛将が揃っているとはいえ、敵地に進攻して袁紹とぶつかれば、大きな損害が出ると思ったのだった。

 だから、兵を集めて、さらなる領地の拡大を考えた。

 冀州の奥深く、下手をすれば幽州まで袁紹が抗戦すれば時間の経過は袁術と張勲の味方になるのは間違いなかった。

 そして、袁遺ではなく袁紹が勝ってもいい。

 徐州と豫州を切り取りさえすれば、傷付いた勝者には十分に対抗できる。

 しかし、その集めた兵は孫策がすでに懐柔した者たちだった。

 寿春の城は孫策の息のかかった者たちに占拠された。

 袁術と張勲は全てを捨てて逃げ出した。後に、孫策が意図的に逃したという噂も流れたが、その真偽は不明だった。

 そして、孫策は張勲が呼んでいた他の兵のうち、従わない者を討ち、従う者を吸収した。

 孫策は悲願の独立を果たしたのだった。

 だが、ここで孫策、そして張勲にとって大きな誤算があった。

 冀州では戦わずに土地を侵食していくという戦略が展開されていたのだ。袁遺軍の損害はないに等しかった。さらには呂布隊が南下を開始した。

 孫策というより、周瑜の予定ではすぐに長江を渡り、江南の地を平定するはずであったが、急遽それを中止して防衛を固めた。

 張勲も周瑜も袁遺を過小評価していたと責めるのは酷であろう。袁遺という存在が異質だった。

 呂布隊は豫州汝南郡平輿県に駐屯した。

 さらに後方では袁遺の本軍と馬超軍も黄河を渡河中であり、曹操軍も鄴の城まで来ているという情報が孫策の元に入ってきた。

 この時点で四海の多くの人が思った。

 孫策はすぐに討伐されるだろうと。蛮勇に頼り、まったく焦った蜂起を行ったと。

 だがしかし、多くの者の予想を裏切り、袁遺は軍を退いた。

 呂布隊と陳蘭隊を司隷河南伊中牟県に残して、他は洛陽へと帰還した。また、馬超と馬岱は涼州へと帰っていった。

 その後、司馬懿が幽州より帰還し、今度こそ孫策を討伐すると思われたが、袁遺はまったく動かなかった。

 

 

「本初の埋葬は無事に終わった」

 重厚な声である。

 それを発した男はその声の主に相応しい人物だった。

 白いものが混じる金の髪を撫でつけ、隙なく佇む。目には意志と理性、そして知性を宿した光がある。その目元の皺は老いではなく、威厳を他者に感じさせた。

 太傅の袁隗である。

「ありがとうございます、叔父上」

 その袁隗と向かい合う青年が言った。

 青年は特徴的な目の持ち主だった。

 瞳が小さい三白眼で、その小さな瞳は無機質な小石を想起させた。砂に帰るまでを荒涼とした大地で砂塵のみを友として過ごす様な小石を、である。

 青年は袁遺。漢の後将軍、洛陽の令。そして、自分の従妹を破滅させた男だった。

「逆賊の墓だ。掘り起こされ、辱められる可能性がある。故に、場所は極一部の人間しか知らない」

 中華に死ねば仏という価値観はない。

 中華史上最高の英雄と評される岳飛を謀殺した秦檜の例を見るように、死後も罪は許されない。

「所在がバレぬように、お前もその墓に近づくことを禁じる。いいな?」

「はい。彼女も私には来て欲しくないでしょう。生涯、近付きません」

 袁遺は頷いた。

 袁遺にとって袁紹はもはや過去のことだった。

 そして、彼には過去に構っている余裕などなかった。

「まあ、本初のことはどうでもいい。陛下もすっかり、お忘れになられた。今は孫策だ」

 袁遺、いや、漢帝国には西で孫策という新たな敵が出現した。

「それについてはお時間を戴けますか?」

 袁遺は常日頃の無表情な顔で言う。

「間違っても陛下が孫策討伐の勅命を下さないようにして、まず孫策とは話し合いで、落としどころを探ってください」

 謂わば、外交チャンネルを開けということだった。

「公路の旧臣で、そのまま孫策の幕下に入った者とは接触した」

 袁隗が答えた。

 そして、そのまま袁遺の無表情な顔を探るように見つめた。

 別に袁遺は不機嫌なわけではない。自然と感情の薄い顔になるのだった。

「どうかしました?」

 袁遺が尋ねた。

「…………いや、お前はわしを責めることができるぞ」

 袁隗が言った。

 袁隗は内外の諜報を担当している。彼の間諜には江湖でも名を馳せた凄腕が揃っていた。

 それでも今回、張勲と孫策に出し抜かれた。

「責めません。そもそも叔父上の手の者の多くは袁紹の冀州に集中していました。全土を見張るには、中華は広すぎます」

 事実である。

 反董卓連合のときは基本的に洛陽で防諜に多くの人員を割いたが、今回は冀州に多くの人員を割いていた。

 もし袁紹ではなく、袁術に多くの人員を割いていたら、袁隗たちは張勲と孫策の謀略に気付いていただろう。

 優先順位の問題だった。

 更に言うなら、張勲は謀略という点では有能であった。

 そして、孫策の将の周泰が陰からそれを手助けしていた。

 周泰は連合に参加した諸侯の中で唯一、主の元に洛陽の情報を届けた細作でもある。

 少ない人員では厳しかった。

「それで、本当に次は孫策ではなく、曹操の方に人員を集中するのか?」

 袁隗が尋ねた。

「ええ、お願いします」

 袁遺は小石の様な瞳をより一層、無機質にして答えた。

 四海の多くの人が思った疑問―――何故、袁遺は孫策を攻めなかったか。その答えはそこにあった。

 確かに、彼は冀州で袁紹相手に芸術的と評してもいいような勝利を手に入れたが、その成果を全てが自分の戦略によってもたらされたものだと欠片も思ってはいなかった。

 あの勝利は外交や諜報、そして、将兵と参謀の献身がなければ、達成できなかったと信じていた。

 だから、袁遺は冷静だった。

 あのとき、南皮から強行軍で黄河を渡った。そんな状況で自軍より精強な孫策軍に勝つのは苦労すると思った。

 もちろん作戦はあった。

 袁紹相手にやったように大軍の利を活かして戦闘を避け、寿春に孫策軍を押し込んでやればいい。

 まだ独立して日も浅い孫策は、城内をまとめ切れていない。裏切りが必ず起きて、落城は目に見えていた。

 だが、袁遺はそれができなかった。

 彼が恐れたのは、曹操がそのタイミングで自軍の背後を突くことだった。

 俺はあまりにも綺麗に勝ち過ぎた。袁遺は思う。

 半数以上の兵を死傷させた反董卓連合のときとは違い、今回は戦闘自体を徹底的に避けたため死傷者は殆んどでなかった。そのうえで土地を全て占領し、敵軍を壊滅させた完璧な勝利だった。

 それに多くの人は畏怖を抱いた。

 確かに、恐れられるほど強い力は争いを抑止する。

 しかし同時に、恐怖は争いを生む。

 古代アテネの歴史家で、ペロポネソス戦争に将軍として参加した経験を綴った『戦史』の著者のトゥキディデスは、その著書の中で戦争が起こる原因を挙げた。

 それが経済的利益、相手への恐怖、戦争に名誉を求める、この三つの内のどれか、もしくは全てである。

 曹操が袁遺を脅威と思ったなら、勝利の機会を絶対に逃さないという確信が袁遺にはあった。

 袁紹が消え去った今、曹操が野心を捨てぬ限り、袁遺という存在は曹操の拡張において障害でしかない。

 仕方がないが、外交上の関係などそんなものだ。

 散々述べたことだが、両者の利益が大事であり、一方が得をするゼロサムゲームや誰も得をしないマイナスサムゲームのなったとき、両者は争うようになる。

 その点で言えば、袁遺からしても曹操は利益を生み出す存在ではなくなった。

 袁紹の盾としての役割を終えた曹操の強大な軍事力は危険でしかない。その力を削る必要があった。

「今の孫策を討てと言われれば、二か月の準備期間を頂ければ討てます。しかし、背後を曹操に突かれたら、間違いなく負けます」

 袁遺が地図を広げて言った。

 曹操は、あの華やかな南皮ではなく、鄴で政務を行っている。

 兗州と連絡が取りやすいからとしているが、袁遺はすぐに黄河を越えるためだと考えていた。

「曹操は表面上こちらに恭順の意を示しているのだろう。なら、曹操を先鋒に孫策を攻めればいいのではないか?」

 袁隗が地図を見ながら尋ねた。

「それも恐ろしいのです」

 袁遺が切り捨てた。

「曹操と孫策が手を結んだ場合、豫州で合流され、そこで決戦を強いられる。まともな正面決戦では曹操軍に勝てません。少なくとも彼我の兵数が三倍以上なら、やってみる価値もありますが……そんな動員はできません」

 袁遺と曹操の両者は、冀州遠征を終えても、兵の数を増やすのをやめなかった。

 袁遺は孫策討伐のためと、降ってきた張燕の麾下の黒山軍を関中の地に移住させた。そして、兵士の適性があった者には訓練を、その適性がないと思われた者には屯田を行わせている。

 対して、曹操は領地になったばかりの冀州を安定させるには抑止力となる軍が必要で、広大な冀州には今の兵数では足らないと、元青州黄巾党の中から兵を募っている。

 やや余談になるが、曹操は諸侯の従来のやり方である名士の部曲を取り込むという方法を行わなかった。

 彼女はそれが袁遺には通じないと先の冀州征伐で学習した。

 そういった名士との関係を考えた外交や工作をさせれば、袁遺は仙術の様な手練手管を繰り広げてくる。仙術には対抗できない。

 そのため、自分だけの私兵と成り得る兵を元黄巾賊に求めた。

 それは史実でもそうである。

 もちろん、手に入れたばかりの冀州で大規模な徴兵をできないという他の要因もあるが、その結果、豊かで人口の多い冀州を手に入れた割には兵の数は増えていなかった。

 袁遺と曹操、双方の兵力は約一〇万ずつと拮抗していた。

「だが、反董卓連合のときのように、曹操や孫策をこちらに引き込んで、時間を稼いで追い返すなんて真似も無理だぞ」

「分かってます」

 黄巾の乱、反董卓連合と、漢帝国の柔らかな下腹と言える司隷東部は大きな打撃を受けた。

 その傷が癒えつつある中で、もう一度そこに戦火が広がれば、漢帝国の財政は崩壊する。

 というのも、現在の帝国の経済は南に依存しつつある状況だった。

 反董卓連合の戦いの被害が比較的少ない荊州や揚州からの税や物流は漢帝国にとって欠かすことのできないものだった。

 それなのに、孫策の独立によって揚州からの税が途絶え、戦争を恐れて人や物の流れが滞っている。そんな状況で、荊州からの物流にも支障をきたすことは致命的だった。

 しかし、それは曹操も同じである。

 やはり彼女にしても揚州からの物流が止まったのは痛手であった。

 また、反董卓連合、青州黄巾党の南下、そして袁紹の侵略に備えることで兗州は疲弊していたし、さらに(被害自体は少ないが、両軍合わせて約二〇万の軍が動き回ったため疲弊した)冀州の立て直しには兗州で儲けた財を投入している。

 司隷東部が戦場になった場合、そこに隣接している陳留郡は反董卓連合のときのように軍が駐屯する。

 となると、やはり、経済が止まる。

「何夔が計算しました。七〇日以上、司隷東部近辺が戦場になれば、ふたつの組織を財政破綻させた莫迦がふたり生まれることになります」

 袁遺は書簡を差し出した。

「彼女の置き土産です」

 何夔はこの仕事を最後に、青州の東莱郡に太守として赴任した。彼女は袁遺にとって唯一の有能な従妹であった。

「……頭が痛い話だな」

 袁隗は書簡を片手に、苦い表情をした。

「それに曹操を打倒するにしても大義名分がありません」

 確かに、曹操は邪魔になった。利益も生み出さない。

 だからといって、それを攻め滅ぼせば、袁遺、ひいては漢王朝の声望が地に落ちる。

 袁遺は天下の皆が袁遺流の誠実さを理解しているとは思わなかった。だからこそ、袁遺は反董卓連合や冀州で勝利を挙げることができた。

 間違いなく四海の人々は袁遺の横暴と捉えるだろう。それは徳を失う。

「そっちは何かあったんだろう?」

「はい。司馬懿が言うには青州黄巾党の降り方が怪しい、と。それを調べる人員も出していただけませんか?」

 袁紹という強大な敵がいたときは、袁遺はそれに目を瞑ったが、袁紹が消えた今、曹操打倒に利用できるカードとして使おうとしていた。

「分かった」

 袁隗が重厚に頷いた。

「それと荊州牧の動きも。孫策という敵が出現したのです。こちらとの距離を縮めようとします」

「敵の敵は味方というやつか」

 袁遺の言葉に袁隗が間髪入れずに反応した。外交の基本である。袁隗くらいになれば、すぐに察する。

「はい、そうです。その対応は名士に顔の利く太傅がお願いします」

「それも分かったが、曹操や孫策が先に攻めて来た場合はどうする?」

 袁隗が尋ねた。

 現在、漢帝国が展開している軍は首都洛陽の防衛戦力と中牟県の呂布と陳蘭の部隊だけである。あとは軍とは言えない治安維持のための警察組織と并州から降伏して来た張燕の元黒山軍を新兵として訓練しているくらいであった。

 今、曹操と孫策のどちらかに先制奇襲された場合、危険なことは軍事畑ではない袁隗にも分かることだった。

「大戦が終わったばかりで将も兵も疲れていますし、五万、一〇万の軍を即時展開できる状態を維持し続ける費用もありません。ですから、七〇日以内に決着をつけます」

 戦時の国家と軍、その首脳部にとって将兵をいかに休息させるかという問題は常に重大なものだった。この問題を軽視した国家は自分の死刑執行書にサインしているのと同じことだった。

 そのことは袁隗にも理解できたが、問題はそうではなかった。

「……その方法を聞いているんだが」

 袁遺はその言葉に困惑の色を僅かに浮かべて返した。

「具体的なものは相手が攻めてこなければ言えませんし、その……叔父上に戦略目的を説明したところで……」

「わしには理解できん、と」

 袁遺は慌てた。

「ああ、いえ、おそらく叔父上だけでなく、司空や賈駆殿も。もしかしたら、鳳統も私の意図を察することはできないと思います」

「……どういうことだ」

「今は言えません。まずは秘することが第一です」

 袁遺は言葉を選びながら続けた。

「ともかく、相手を少しでも疑心暗鬼にしておきたいんです。孫策との外交もそのひとつです」

「……わかった。お前に任せる」

 袁隗は退き下がった。

 これで会談は終わりだった。

「では、自分は将軍府に。やることがありますので」

 そう言って袁遺は立ち上がり、拱手した。

 袁遺は将軍府へと歩み出したが、突如、立ち止まり、口を開いた。

「そう言えば、公路殿の所在は分かりましたか?」

「いや、まだ不明だ」

「……そうですか」

 そして、今度こそ袁遺は出ていった。

 周りに人がいないことを確認した袁遺は、ポツリと呟いた。

「やけに簡単に退いたと思ったら、そういうことか。こっちが退いたから、そっちも退けよ、か」

 袁遺は自虐的に口元を歪ませた。

「まあいいか。いくら俺でも、ふたりとも殺したくないからな」

 

 

 曹操―――華琳が撤退する袁遺軍を見たとき、その矜持が酷く傷付けられた。

 彼女は袁遺が退いた理由を瞬時に理解した。

 伯業は私が背後を突くことを警戒した。

 華琳は袁遺に心の内を見透かされたような気がした。

 彼女は軍を鄴まで移動させたが、ずっと自分を誤魔化していた。

 この移動は万が一にも兗州に戦火が及んだとき、自分が手塩に掛けて治めてきた領地を守るためだと。

 だけど、分かっていた。自分自身にも気付かれないように静かに息を殺して、袁遺軍を壊滅させる絶好の機会を待っている自分がいることを。

 思い返してみれば、華琳は間違いなく袁遺軍を後ろから奇襲しようとしていた。

 何故か? 今の袁遺に勝つにはそれ以外の手がないと思ったからだ。

 そして、袁遺軍の撤退を見たとき、思った。読まれた、もしかしたら伯業には勝てないの、と思ってしまった。

 そんなことを考えた自分が許せなかった。

 曹孟徳は勝たなければいけない。何者にも負けてはいけない。何故なら、それが曹孟徳だからだ。

 その執念にも似た気概は、彼女の軍師たちにも伝播していた。

 華琳が冀州の鄴に移ってから、荀彧が州牧として兗州を統治することになった。

 華琳に敬愛以上の感情を抱いている荀彧からすれば、主と離れ離れになることはこの世の終わりの如きことだった。

 だが、華琳に兗州を任せられるのはあなたしかいない、と言われ、さらに当分は鄴と陳留と洛陽を行き来きすることになるからと説得されて、涙を流しながら、州牧の地位に就いた。

 その兗州陳留の城に華琳と三人の軍師―――荀彧、郭嘉、程昱―――が集まっていた。

 華琳は洛陽からの帰り道に陳留へと立ち寄り、軍師たちを集めて大きく変化しつつある状況について話し合った。

「それで桂花。孫策の動きは?」

 曹操が桂花―――荀彧に尋ねた。

 彼女は地図を指差しながら、答える。

「孫策は現在、九江郡を支配下においたっきり、防備を固めるだけで動こうとしません。おそらくは袁遺の東進を恐れて、他の郡への侵攻ができないと考えられます」

 荀彧の言う通り孫策陣営の頭には、袁遺が考えられない速度で洛陽から徐州まで軍を展開してみせた記憶があった。

 単純な直線距離では寿春は徐州より近い。下手に遠征に出て、その間に袁遺軍が素早くやって来たら、一気に寿春は陥落する。

「そのことで、孫策さんが秘密裏にこちらと接触してきました~」

 そう言ったのは程昱だった。

「それで、孫策はなんて言っているのかしら?」

 華琳が尋ねた。

「このままでは袁遺によって曹殿も滅ぼされる。今は手を組み、天下を二分しようと」

「はっ、同盟という点では伯業の方が孫策より上ね」

 華琳はそれを笑い飛ばした。

「細かい条件はこれから詰めていくとしても、揉めるのが目に見えている。それでは、こちらの利益を何も提示していないと同じじゃない」

 そして、吐き捨てた。

 仮に袁遺を打倒せたとしても、曹操陣営と孫策陣営が揉めるのは明々白々だった。

 華琳の故郷の沛の譙と寿春はあまりにも近過ぎた。

 緩衝地帯が殆んどない、その距離は彼女にとっては絶対に許容できないものだった。

 もし曹操と孫策が戦い、譙が戦火に包まれた場合、彼女の故郷での評価は落ちる。故郷での評価の落ちることの面倒さは袁紹を思い出せばよかった。彼女はそうなるように仕向けた従兄の手によって、泉下へと送られた。

 譙の守りを考えれば居巣、どんなに考えても合肥までは抑えておきたかった。

 袁遺が冀州を丸ごと譲ったような大胆な譲歩を行う余裕が、孫策陣営にはないという切実な事情があった。

 しかし、華琳とその軍師たちは袁遺と対決するという予想には同感であった。

 かつては董卓・袁隗と袁紹という強大な敵に挟まれた結果、その片方と手を結んだのである。

 だが、袁紹が滅びた今、いつまでも手を取り合ってという気など、華琳にはさらさらなかった。

「問題は単独で袁遺相手に勝てるかだけど、それについてはどうかしら?」

 華琳は挑発的な視線を、自分の軍師たちに送った。

「勝算だけで言えば、十分にあります」

 答えたのは郭嘉だった。

「しかし、問題はそれ以外です」

 そして、書簡を華琳に差し出し、続けた。

「反董卓連合の戦場になった辺りの疲弊が大きく、我々の戦いが長引けば物の流れが止まり、商人は潰れ、庶人は日々の生活さえもままなくなります」

 曹操陣営もまた、袁遺と同じ結論に辿り着いていた。

「戦場で袁遺軍を壊滅、もしくは降伏させて勝利する場合は七〇日以内、洛陽を陥落させて勝利する場合は五〇日以内で達成しなければ、勝っても華琳様が手に入れるのは空っぽになった国庫と荒廃した土地だけです」

 華琳は書簡に目を通す。

 そこに書かれた予想には説得力があった。

「それは伯業も同じでしょう」

「そうです。となると、お互いの採るべき手は、たった一度の会戦で全てを決する大決戦ですが、それだと袁遺に勝ち目はありません。百度やれば百度、我々が勝ちます」

 郭嘉のそれは慢心ではなかった。

 お互いに限られた場所に兵力を集中して殴り合う戦い―――決戦では袁遺は曹操に何をどうしようと勝てない。兵の精強さが違う。

 それは袁遺も認めるところだった。彼の軍師たちもそれを認めるだろう。

「それなら絶対に伯業は決戦を望まない」

 曹操が言った。

 郭嘉はそれを肯首する。

 持てる戦力を一ヶ所に集中して、一度の会戦で全てを決する決戦は双方がそれを望まない限り、余程の手違いを犯さない限りは決して実現はしない。

 決戦に引きずり出せば、必ず勝てる。

 しかし、袁遺は勝てないなら戦わない。その基本を突き詰めたのが、あの冀州遠征での戦略であり、勝利だった。

 そんな男を如何に決戦に引きずり出すかだった。

「ですが袁遺は、例えば反董卓連合のときのように我々の先鋒を各個撃破し続け進軍を停止させ、時間を稼いで我々が撤退するのを待つこともできません」

「その前に、袁遺側の蔵の金がなくなる。そして、私も寒貧になるわね」

「華琳様と袁遺さんだけじゃなく、漢帝国もそうですよ」

 程昱が言った。

 華琳は柔らかく笑い。そうね、と相槌を打った。

 だが、すぐに表情を引き締め、地図を睨むように見つめた。

 伯業なら、どうする……

「華琳様、こういう策ではないでしょうか?」

 口を開いたのは荀彧だった。

「袁遺が我々の足を止めている間に、別働隊が洛陽から水路で河内郡を通って、こちらの背後に出る。冀州は幽州の異民族を動かして牽制しておき、その間に并州の兵も加えて一気に兗州を落とす」

 敵の主力を足止めしている間に別働隊で敵の本拠地を落とす、といったことは古来より軍学の基本である。事実、袁遺はその応用を冀州で見せた。

「壮大な策ね」

 華琳は言った。

「壮大過ぎるわ。伯業はそんな策を採らない」

 しかし、彼女は切り捨てた。

「伯業は発想に奇抜な部分があるものの、作戦自体は恐ろしく単純化されたものよ」

 華琳は友人で、今や最大の敵となった男を深く理解していた。

 袁伯業という男は問題は原則化できるほど単純化して考え、解決を図る。

「では、華琳様。こちらも単純化して、機先を制しますか?」

 郭嘉が言った。

 華琳はすぐに、その意図を察した。

 戦争の要訣は先制にこそある。

 反董卓連合を思い返しても、酸棗で諸侯同士が駆け引きをして時間を浪費しなければ、その結果は変わっていたかもしれない。一か月という時間をドブに捨てても、袁遺軍に五〇パーセント以上の損害を与えたのだ。

 正面から戦えば間違いなく袁遺に勝てる。奇襲で準備が整わない袁遺を攻撃して、袁遺に何か策を弄する余裕を与えない。

 袁遺も漢帝国どころか曹操領も財政破綻させるわけにはいかない。

 何故なら、勝ったところで財政破綻した領地を立て直すのは勝者だからだ。少しでもマシな状況で兗州と冀州を手に入れたいところだった。

 だから、破綻する前に軍を揃えて曹操陣営の望む決戦に乗って来る。

 というより、華琳は心の中でそれしかないと思っていた。だが、同時に疑い、恐れている自分もいる。

 何故、伯業は先制奇襲の危険がある状況で、何もしてこないの?

 確かに、孫策という存在は厄介だ。財政破綻の危機もある。そして、袁遺ほどでもないが華琳も、奇襲的に彼女を撃滅した場合、天下が袁遺を非難することは理解している。

 しかし、それらのどれもが先制奇襲の危険性ほどではない。奇襲されれば袁遺は一気に崖っぷちまで立たされる。

 彼女が華やかな南皮で政務を行わず、鄴で行っている理由もそこにあった。

 もし、袁遺が先制奇襲に走った場合、南皮では対応に遅れ、兗州失陥の恐れがある。

 そうなれば統治して日の浅い華琳では、冀州で徹底抗戦を行うことはできない。敗北は必至だった。

 伯業も先制奇襲が最善の手のはず……それでも何故、動かないの? それとも、伯業には思い付けて、私には思いつけない策があるの?

「……まずは周りを固めるわ」

 華琳は内に抱いた恐れを振り払うように、軍師たちに指示を出した。

「風は孫策側との交渉を続けなさい。向こうは二大勢力を上手く操ろうとしているわ。そのことを逆手に取ってやりなさい」

「御意」

 風―――程昱は答えた。

 難しい交渉であったが、手はいくつかあった。

 確かに孫策が占拠した寿春は華琳の故郷に近かったが、それ以上に袁遺の故郷にも近かった。いかな袁遺といえど、譲歩には限界がある。そこを誤れば、孫策は外交的孤立に追い込まれる。武器はそれだった。

「桂花は、このまま兗州を統治なさい。戦になれば陳留郡が兵站基地になるわよ」

「はっ」

 荀彧が拱手した。

「凛は、具体的な作戦を立てなさい。あなたの才が伯業に劣らないことを、この曹孟徳に示してみよ」

「はい」

 凛―――郭嘉は華琳の挑発的な言葉を真っ正面から受け止めた。

「私は并州と幽州の牽制を行うわ」

 そのための策は、すでに華琳の中にあった。

 そうだからこそ、華琳はあまり気の進まない権謀術策渦巻く都まで足を運んでいるのだった。

 曹操軍は静かに、しかし、素早く動き出した。

 このとき、華琳が戦争を決意した要因を、上記のトゥキディデスの三要素に求めれば、後ろふたつになる。

 袁遺の脅威を感じた。そして、だからこそ、彼女は名誉を求めた。

 袁遺に勝って、曹孟徳は曹孟徳であろうとしていた。

 

 

 周瑜は一七度目の敗北を味わい、親友の夢を台無しにした。

 夜半、寿春の一室で彼女は、地図と駒を使って机上演習を行っていた。

 状況は最悪より少しマシ程度、袁遺と曹操が轡を並べて揚州へと侵攻、その兵数は冀州侵攻で動員された一〇万を想定している。

 対して、孫策は二万。

 その二万は周瑜の頭の中の戦場で、幾度も蹂躙されている。

 周瑜はその美貌に厳しいものを走らせた。

 袁遺と曹操が兵の徴募と訓練を続けていることは、もうすでに入って来ている。現実にそれが起これば一〇万では済まない。倍の二〇万は間違いなく動員される。一〇万で負けていては話にならない。

「それに袁遺は四万で二〇万に勝っている」

 周瑜は呟いた。その声には苦悩の色があった。

 単純な戦力比は袁遺と同じである。それでも勝てないのはつまり、足りないのは兵力ではなく、それ以上に袁遺と自分の差ではないのか。

 彼女は思った。雪蓮の夢だけは潰させない。

 それは余りにも悲痛な心の叫びだった。

 そのためには絶対に袁遺と曹操が手を組むのは避けなければならない。

 彼女も袁遺と曹操の手切れが近いことは理解できた。

 まずは逆説的に考える。何をやれば袁遺と曹操は再び手を取り合うか?

 周瑜は地図のふたつの地点に目をやった。

 汝南と譙である。袁遺と曹操の故郷、ここを攻めたとき、ふたりは間違いなく再び手を組む。

 汝南が攻められれば、譙の危険度も跳ね上がり、その逆も然りだった。

 正史を知っている人からすれば、皮肉な話である。

 孫呉は幾度となく揚州を北上して合肥を攻めたが、その度に撃退された。

 しかし、今、孫策は合肥どころか寿春まで抑えている。

 だが、それ以上攻めようとすれば、破滅は必死だった。これでは寿春を抑えている優位が何も発揮できない。

 周瑜の視線は汝南と譙に注がれたままだった。

 袁遺はそれを狙っているのか?

 彼女の頭に疑惑が湧いてくる。

 現在、袁遺は不思議な沈黙を保っている。

 確かに兵の徴募や訓練を行っているが、展開している軍は中牟県に駐屯している呂布隊と陳蘭隊、それに洛陽の防衛部隊くらいだった。全軍が即座に動ける状態ではない。

 こちらが動くのを待っているのか?

 周瑜は疑心暗鬼の中にいた。

 あの戦場でただの一度も主導権を失ったことがない男が、敵に先制の隙を見せている。あからさまな誘いにしか思えなかった。

 こちらを攻撃に誘い出して、同じ朝臣ということを利用した袁曹の同盟を延長する気でいるのか?

 周瑜は袁遺の手が読めず、動くことができなかった。

 彼女は歯痒かった。

 長江の向こうの江南の地は現在、混沌としている。

 揚州牧の袁術が消え去ったことで、孫策派と袁隗・董卓派、それにどちらにも属さない独立を考えている派閥で争っている。

 さらに荊州からは劉表が、徐州からは張邈・張超姉妹が細作を送って宣伝工作や諜報活動を盛んに行っている。

 時間の経過は絶対に孫策にとって有利に働かない。

 それでも動けない。袁遺や曹操がどう動くか分からない状況で、二万の戦力を割いて江南へと渡るなど絶対にできない。

 今の状況は、親友であり主である孫策が袁術の客将をしていたときよりも歯痒かった。

 周瑜はやっと地図から顔を上げた。

 ふと、窓の外を見れば、そこには満月と満点の星空があった。

 周瑜はそれに誘われるように、窓を開けた。

 冷たい夜気を孕んだ風が彼女の頬を撫でたが、幾度となく重ねた想像上の敗北で茹だった頭には心地よかった。

 何とはなしに動かした視線が、城壁の上の人影を捉えた。

 その人影が誰のものか、周瑜はすぐに察した。

 その影の動きを絶対に見間違えることはなかった。

 主であり、親友である孫策だった。

 何をと思えば、足は自然と城壁へと向かっていた。

 

 

 孫策はただ何とはなしに星へと手を伸ばした。

 彼女がいるのは寿春の西の城壁の上だった。頭上には大きな満月と満点の星空が広がっている。

 幼い頃、彼女はその星を掴めると思った。

 だがしかし、星は決して掴めなかった。

 それと同じように天下も簡単に獲れると思った。三尺の剣一本と親友である周瑜さえいれば、自分の覇は天下を覆うと。

 そしてもちろん、天下は未だ獲れていない。

 それどころか、やっとの思いで袁術から独立できたかと思ったら、いきなり最大の危機に直面している。

「広いなぁ、天下は」

 孫策は言葉をこぼす様に言った。

 しかし、その声色には悲観的なものは一切含まれていなかった。

 それは彼女の生来の母譲りの強さと主君としての責任感がもたらしたものだった。

 孫策はふと、人が近づいてくる気配を感じた。

 すぐに、その正体を察した。その息遣いや足運びは彼女にとって半身といえる人物のものだった。

「こんな所にどうしたの? 冥琳」

「そっちこそ、こんな所で何をやっているのよ?」

 呆れたような声を孫策は返された。

「別に~ただ、天下は広いなぁって」

 その答えに周瑜は怪訝な顔をした。

 それに孫策は、くすくすと笑う。

「冥琳」

 だが、彼女はすぐにそれを切り替えた。

「袁遺と曹操がぶつかるのは間違いないのよね」

「ええ、すでに両者は互いが邪魔な存在としか思ってないわ」

 周瑜は断定し、続けた。

「袁遺からすれば曹操の強大な力は脅威でしかなく、曹操からすれば袁遺は自勢力の拡張の障害でしかないわ」

 それを聞いた孫策は頷き、尋ねる。

「じゃあさ、ふたりがぶつかった場合、どっちが勝ったら、私たちにとって得なの?」

「曹操ね」

 周瑜は即答した。

「今の漢帝国は袁遺、袁隗、董卓という三本の足を持った鼎で煮えたぎっている油の様なものよ。袁遺が勝った場合、曹操は油の中に放り込まれるだけだけど、曹操が勝った場合、その油は天下に撒き散らされるわ」

「つまり、纏まりつつあった天下が乱世に逆戻りってわけね。そうなったら、こっちも動きやすくなる」

「そうだ。そして何より、曹操はその油をかぶって大火傷してくれるかもしれない」

 その言葉に孫策は、それはいいわ、と明るい笑い声を上げた。

 だが、その笑いは自虐的な意味のものへと変わる。

「けど、それじゃあ、曹操と手を組めないわね」

 孫策の言葉に周瑜の眉が下がった。

「ええ、それは曹操と一緒に油をかぶりに行くようなものね。そして、自分たちだけに油がかからないように動けば、反董卓連合の二の舞になるわ。袁遺はそういった関係性の隙を見逃さない男よ」

 曹操と手を組んだ場合、お互いがお互いに損害を押し付け合うのが目に見えていた。

 そのことが原因で反董卓連合が解散したのは分かっている。

 しかし、曹操と孫策は妥協し合うには余裕がなかった。

 同盟が解消された後、殆んどの場合、関係が険悪なものになるのは歴史的によくあることだった。

 袁遺と曹操もその例のひとつになろうとしている。

「袁遺とは手を組めないかしら」

「……」

 周瑜は親友の言葉に固まった。

 

 

 このとき、周瑜の心は恐怖にも似た感情に支配されていた。

「無理よ」

 堅い言葉を周瑜は吐き出した。

 そして、捲し立てるように続けた。

「袁隗や袁遺の一族である袁術を追い落として独立したのよ。彼らが許すはずはない」

「けど、袁遺はそんなこと気にしないように思えるけどね」

「たとえそうだとしても、こちらに不利な条件をいくつも突き付けてくるわよ。蓮華様や小蓮様を人質に出すよう言ってくるかもしれないし、長江以北の地は絶対にこちらに渡さないわよ」

 周瑜の心を支配していた恐怖に似た感情の根源はふたつ。

 ひとつは袁遺と手を組めば、孫策の天下の芽は間違いなく絶たれるということだった。

 そして、もうひとつは、たとえ天下への野心を捨てた先にあるものも、やはり孫策にとって望んでいるものとは、まったく別の未来だという事実であった。

 正直なところ、周瑜は親友が今も天下に頑なに拘っていないことを薄々気が付いていた。

 孫策は江南の地さえ安全に治めることができれば、中華の大地全てを手に入れようとは考えていない。

 しかし、江南の地を安全に治めるためには長江の上流の地である荊州も手にいれなければいけない。船の戦いにおいて上流と下流では前者の方が有利であることは言わなくても分かるだろう。戦争になった場合、荊州を抑えていなければ孫策軍は常に不利を強いられることになる。

 荊州が肥沃で人口も多いことを抜きにしても、防衛上、必須の地であった。

 そこの支配を劉表から奪い、なおかつ袁遺を味方につけるためには当然、劉表より袁遺に得を示さなければいけなかった。

 そして、孫策陣営にはそれに見合うだけの利益を示すことができなかった。

「……そう」

 孫策は言った。その顔は優し気である。

 まるで周瑜の心中を慮っているようであった。

 いや、周瑜は完全に心の内を見透かされたと断定した。

「当分は防備を固めつつ、外交で袁遺と曹操が手を組まないように仕向けるのが最善よ」

 そして、曹操に勝って欲しい。できれば多大な損害を受けて。

 策とは言えない、天運に身を任せるが如き行動だった。

 孫策は東の方へと視線を向けて、呟いた。

「それじゃあ、母様への報告は当分できそうにないわね……」

 言の葉を風が吹き上げた。

 風は西から東へと吹いていた。ちょうど、孫堅の墓がある方向であった。

 

 

2 袁術

 

 

 名門袁家に生を受け、一時は河北四州を手にしていたことを考えれば、袁紹の墓は粗末なものだった。

 袁遺の言葉通り、大きくもなければ立派でもない。当然、金玉珍宝の類も副葬されなかった。

 ただし、漢王朝の反逆者として考えた場合、袁紹はひとつだけ恵まれていた。

 喪に服し、御霊を守る者がいることだった。

 袁術だった。

 香を焚き、未だに従姉が死んだことを信じられないような顔で墓を見つめ、そしてその下に眠る袁紹を思っていた。

 確かに、彼女は袁紹のことを好いてはいなかった。

 互いに張り合う性格でもあり、また何と言うか、両者の巡り合わせが悪く、袁術は袁紹を天敵として捉えていた。

 だがしかし、彼女は袁紹の死を望んだことはなかった。

 そして、その袁紹を殺したのが同じく従兄の袁遺だということも信じられなかった。

 袁術にとって袁遺とは顔は怖いが決して悪い印象を持つ従兄ではなかった。

 袁紹と袁遺は敵対したが、それでも袁術は袁遺が袁紹を殺すとは思っていなかった。自分が袁紹を好いてはいないが、その死を望んでいないように、袁遺もまた同じだと、ごく自然に思っていたのだった。

 しかし、これらは袁術の言い訳が多く含まれていた。

 確かに袁術は袁紹の死を望んでいなかったし、袁遺が袁紹を殺すとは思わなかったが、袁術には別の衝撃が心の中にあったのだ。

 だから、殺害の事実を知ったとき、彼女は七乃―――張勲に震える声で尋ねた。

「ど、どうして伯業は麗羽のことを、こ、殺したんじゃ? れ、麗羽は伯業にそんなに嫌なことを、し、したんじゃろうか?」

 それは孫策に領地を追われ、都の袁隗の所へ身を寄せようとしていた最中でのことだった。

 尋ねられた張勲は正確に袁術の心の内を見通した。

 正確に言えば、袁術が真に恐れていることは袁遺が袁紹を殺したことではない。袁遺が敵対した従妹を殺したということだった。

 袁術は袁遺が冀州に遠征中、その留守を狙って軍を動かして領土を拡張しようとした。紛れもなく袁遺への敵対的行動である。

 それを袁遺に知られたとき、自分も殺されるのではないかと、袁術は恐れているのだった。

 袁紹が袁遺に酷いことをしたから、袁遺が袁紹を殺したのであって、袁遺は自分のことを、たとえ領土拡張を行おうとした事実があっても殺さないと袁術は心の底から信じ込もうとした。

 だが張勲は、それをあっさりと裏切った。

「そうですね。袁紹さんが袁遺さんの敵になったからですかね」

 張勲の答えに袁術は、ピィッと奇声を上げた。そして、震えだす。

 袁術を独特の可愛がり方をしている普段なら、張勲は袁術をわざと怖がらせて、その姿を愛でるのだが、このときばかりは違った。

 張勲は袁伯業という男が、そんな甘い男でないと考えた。

 袁遺は自分の賢さを鼻には掛けず、韓信の股くぐりの如く年下の袁紹、袁術に遜った態度を取り続け、ついには袁家の序列という檻から出たのである。

 そんな男なら袁術を殺すのではなく、利用するだろう。

 袁術を全面的に押し出して、客将であったのに主である袁術の領地を奪うという孫策の不義を大々的に宣伝する。

 そうやって、孫策との戦いを有利なものとする。反董卓連合や袁紹との戦いでみせた手段である。

 しかし、袁遺は孫策を倒したとしても、袁術には揚州を決して渡さないだろう。

 当然のことだった。袁遺の留守を狙って背後から刺そうとしたのである。反董卓連合のときのような広大な土地と強大な軍事力を失った袁術に譲歩する理由はまったくない。

 利用されるだけ利用されて、使い捨てられるのがオチだった。

 そうなると予想した張勲は愛する主を袁遺の元へと行かせることは絶対にできなかった。

 だから、脅しつけるような形で言ったのだった。

 震える袁術に最後に残った幸運は、彼女の叔父が袁遺ほど実際主義的な人間ではなかったことだった。

 張勲の前に袁隗の手の者だという男が現れて告げた。

 大人しくしているなら、身の置き場所くらいなら用意していやる。

 袁隗にとって姪にできる最後のことだった。

 張勲はそれを飲んだ。

 ふたりに与えられたのは故郷から少し離れた場所にある小屋であった。

 その近くには秘密裏に埋葬された袁紹の墓がある。

 大人しく袁紹の御霊を守れということだった。

 絶対に袁遺はそこには近付かないというお墨付きももらった。

 袁術は張勲が意外に思うほど大人しくしていた。

 それほど、袁紹の死が衝撃的だったのだ。

 食料や生活費は月に何度か袁隗の遣いと名乗る者が届けに来た。食料の中には蜂蜜が欠かさずに含まれていた。

 月日は流れ、あるとき、届けられる荷物の中にふたつの珍宝があった。

 ひとつは、くすんでしまったが在りし日は輝いていたことを思わせる金杯。もうひとつは星空を切り取ったような瑪瑙だった。

 それが届けられた意味を袁術は分からなかったが、今となってはそんなこと、彼女にとってどうでもいいことだった。

 孫策に領地を盗られてから十数年後、袁術は体調を崩した。

 そして、ある夏の日の盛りに生死の境を彷徨った。

 袁術は長年、自分に付き従った張勲にか細い声で言った。

「蜂蜜水が飲みたい」

 張勲は主を助け起こし、金杯に注いだ蜂蜜水を袁術の口元へ運ぶ。

 袁術はそれを弱弱しく口に含んで、小さく喉を鳴らした。

 そして、彼女は満足したような穏やかな表情をして、眠る様に息を引き取った。

 

 

 この正史より少しマシという最後こそが袁隗が姪にしてやれたものだった。

 




補足

・中華史上最高の英雄と評される岳飛を謀殺した秦檜の例
 岳飛、多くの中国人にとって『ぼくのかんがえたさいきょうのえいゆう』状態にある南宋の名将。
 秦檜、そんな岳飛を謀殺した佞臣。岳飛の廟の前に縛られた姿の銅像が立てられ、参拝客に唾とか吐かれる。
 興味のない人はこれくらいの認識で大丈夫です。
 以下は私の趣味全開の補足。興味のない人は読まなくて大丈夫です。
 皇帝が万里の長城の向こう側に連れ去られて滅びるという屈辱的な幕引きであった北宋。
 その後、宋は江南の地に拠って南宋を再興するが、女真族(後の金)によって奪われた故地と皇帝の奪回を思う人々は多くいた。
 その希望を一身に背負ったのが岳飛である。
 現代では政治的な判断がなかったと批評されることもありますが、それでも名将であったことは間違いないと思います。
 淮水から北の地を奪われた南宋は良馬を調達するのが難しく(一応、大理国から馬を輸入していたようだが、その時期や量などの詳しいことは分かっていない)、金の重装騎兵に重装歩兵で対抗しようとするが、その多くは失敗に終わる。
 だが、そんな中で岳飛はそれを成し遂げる。
 これ割と意味わかんないことやってんだよな。金は後々モンゴルにボコられるから、過小評価されることもあるが、このときの金の重装騎兵は、マルムーク重装騎兵と世界の騎兵のツートップって感じだし。
 そんな精強な金の重装騎兵を破り、勝ち続ける岳飛を謀殺することなるのが、秦檜である。
 秦檜が金から送られてきたスパイ説とか、そもそも故地を全て取り返すのは不可能に近いから講和を結ぶという現実家説とかはおいておく。
 それでも無実の罪で岳飛を処刑したとされ、後に岳飛の名誉が回復されたから、秦檜とその妻、他の岳飛を陥れた佞臣の像は岳王廟に設置され、廟の参拝者に唾を吐きかけられたり、ゴミを投げつけられたりしている。今はもう禁止されたが、それでも唾を吐く人は後を絶たないって聞いたことがある。曖昧で申し訳ない。
 ただし、秦檜の評価についてはともかく、この人物の面白い所は明らかに天命を得ていたとしか言えない点があることだ。
 秦檜はこの後、南宋で宰相として強大な力を持って行くのだが、その過程で自身の派閥を作る。
 その派閥作りが南宋にとって、どちらかといえば有益に働くのだった。
 晋でもそうだが、北からやって来た士大夫と南にいた士大夫の争いが起きる。それを秦檜が派閥を作ることで皮肉にも争いは小さくなった。
 おそらく秦檜はそれを狙ってはいない。ただ、自身の私腹を肥やすことと南宋の実利が、天命を得たと表現しかしようのない偶然の下で連結したのだった。
 もちろん、反秦檜の者もいる。その代表は朱子学の生みの親の朱熹の父親である。
 それでも、南宋への害という点では、その後の韓侂冑、史弥遠の方が南宋にとって間違いなく害悪である。
 まあ、正直、自分も岳飛が故地を奪回できたとは思えないですけど、じゃあ、岳飛の英雄視は間違っているかと問われれば、別に英雄視してもいいと思う。
 岳飛にしても、秦檜にしても、本当のことはもう誰も分からないわけで、残された記録を見て、各々が楽しめばいいんじゃないかと思います。
 かなり話が脱線しましたが、これ以上は本当に蛇足にあるので終わります。
 でも、ぶっちゃけた話、南宋の武将で一番好きなのは岳飛じゃなくて、孟珙です。


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3 北府と西府

 

 

 数日の休暇を終え、司馬懿が後将軍府に出頭して、まず最初にやったことは芝居がかった演説であった。

 袁遺に昔から仕えている者たちだけではなく、張遼たち将軍や冀州遠征の後に仕えた孫礼など新参者たちも多くいる場で()ったことを要約するなら、

「先の袁紹との戦いで自分の働きの及ばざることは、後将軍に頭を上げられぬ次第である。よって自分の兵法を改め、将軍に兵法を学びたい」

 というものだった。

 それに袁遺は、

「仲達の赤心はまったくもって大したものだ」

 と高く、大きく、よく響く声で褒め言葉を発した。

 この光景は広く天下に流布された。

 そして、大多数の人間が反董卓連合の戦後処理と同様な宣伝工作と受け取ったのだった。

 つまり、孫策という新たな敵が出現したことに対して、袁遺の軍才を誇示し、揚州の地方豪族や北来の名士たちを味方に付けようとしていると考えたのだ。

 だが、物事が良く見える一握りの者たちは別の捉え方をした。

 荊州からやって来た蒯越もそのひとりだった。

 煌びやかな美貌と男の目を奪う四肢の持ち主の彼女は、その光景を将軍府で実際に目撃した。

 そして、呆れながら思った。

 よくやるわね、このふたり。

 彼女は袁遺という人間が置かれている状況を冷静に分析できていた。

 袁遺と曹操の手切れの時期が近いということは、少し聡い者なら簡単に読み取れることである。

 だからといって、袁遺が曹操に対する態度を少しでも変えれば、四海の人々は袁遺の変化を詰るだろう。見よ、武功を挙げた袁伯業の増上慢を、と。

 それに関連して曹操に備えるために軍を動かそうものなら、袁遺は曹操を使い捨てたと非難するだろう。

 袁遺はそんな人間の非難を避けようとしていた。それがこの茶番であった。

 この後、司馬懿は兵法を学び直すということで、司隷や豫州、果ては荊州の宛で、新兵の訓練を行うことになる。

 参謀を引き連れて各地で行うそれは、後代の言葉で言うところの参謀旅行のようなものである。

 参謀旅行とは、戦場になりそうな場所を予め訪れ下見をし、作戦立案に役立てる行為であった。

 その後で、司馬懿は函谷関の近くで行っている元黒山軍の訓練に合流することになっている。

 袁遺と司馬懿は、これからの戦争準備となり得るものを全て忠義という膜で覆ってしまおうとしていた。

 袁遺は曹操と戦う瞬間まで良き同盟者と世間から思われなければならなかった。変容は急激に行うべきである。そうすることによって、やり方を変えて支持者を失うより前に新たな支持者を得るからだった。

 そのための茶番であった。

 ただし茶番であったが、この主従の演技は演技と思えないものだった。事情を知らぬものが見れば、本当に麗しい主従の絆と思えるくらいの名演である。

 双方とも名門の血筋であり、この手の政治的欺瞞は幼い頃から飽きるほど見てきたし、ふたりともこういった態度を要求されるのは初めてのことではなく、やり慣れている。

 そして、彼らは別にこういう茶番を嫌ってはいなかった。そのことを感じたからこそ、蒯越は呆れたのだった。

 しかし、彼女は袁遺たちを非難しなかった。

 同盟を延長したいなら、自分が相手にとって有益であることを示すべきなのだった。むしろ、無益な存在となったのに、一方的に利益を貪ろうとする方がよっぽど不誠実で恥知らずな行為である。

 蒯越が洛陽に来たのも、その利益に関わることだった。

 彼女の主である劉表は孫策が独立すると孫策の敵になりそうな陣営に接近した。具体的にいうなら、袁隗・董卓陣営と曹操である。

 そのふたつの陣営の揚州からの人の流れが少なくなると予想した彼は、荊州の商人に北との商売を推奨した。その道中の護衛を荊州軍で行う力の入れようである。

 これは両者の減少した物流を補おうというのだった。

 さらに、揚州の南に住む原住民の山越族に接近する。

 南の土地の性質上、そこに割拠する勢力は多分に分散的になる性質がある(乙の章19 栄誉なき戦場を参照)。

 だから、山越族もいくつかの勢力に分かれている。

 その中で最も大きな勢力と接触し、彼らに漢王朝への朝貢を行わせた。

 基本的に中華の帝国は周辺諸国に対して冊封体制を敷いている。

 冊封体制とは簡単にいうと天子と周辺部族が名目上の君臣関係を結んで行う外交のことである。

 例えば、史実の卑弥呼が魏の曹叡(そうえい)から親魏倭王の爵号を金印と共に封じられたのがそうである。

 この山越も印綬が授けられ、冊封体制に組み込まれる。

 その目的は孫策の背後に親漢の勢力を作るということであった。

 袁遺は袁紹相手に鮮卑や烏丸を使って、その背後を脅かし続けることで敵兵力の分散を謀った。

 そのための騎馬遊牧民との仲介は劉虞が行ったが、劉表は対孫策においてその役目を担おうとしていたのである。もちろん、これは劉表の価値を高める行為である。

 これは余談になるが、現在、劉虞は太尉の職を辞し幽州へと戻り、燕王に封じられた。

 話を戻して、劉表と蒯越の外交感覚は袁遺と近いものだった。

 それくらいの感覚でなければ多くの州に隣接し、中華の水陸の十字路の荊州を保ち続けることはできない。

 蒯越は山越族の朝貢を見届け、まずは司空である董卓とその軍師である賈駆に面会した。

 この会談は蒯越が先の戦いの勝利に対する祝辞を述べ、董卓たちが荊州の様子を聞くなど、社交辞令に終始した。

 次に蒯越が面会したのは袁隗であった。

 ここでも社交辞令な会話が交わされたが、袁隗は蒯越の望んでいることを見通した。

「甥の伯業にも、どうか荊州のことを聞かせてやってもらえないだろうか?」

「はい、喜んで」

 そうやって、蒯越は件の茶番を目撃することになる。

 

 

 後に袁遺は蒯越のことをこう回顧する。

「私は遠征や政務で多くの人物に会い、その任地の情勢を尋ねてきたが、蒯異度ほど情勢を簡潔に分かりやすく伝えた者はいなかった」

 その言葉通り、袁遺は将軍府に招いた蒯越との会談は両者にとって良い意味を持つものになった。

「まずは将軍、冀州での戦勝まことにおめでとうございます。将軍の度量の大きさは過去の如何なる君子にも勝ることでしょう」

 蒯越が最初に口にした言葉に、袁遺は思わず顔を緩めそうになった。

 彼は目の前の女性が借りを借りだと思える人物であることを、その言葉で察したのだった。

 袁遺(と袁隗)はかつて、劉表が袁紹とも誼を通じようとしていると断定したが、それは事実であった。

 袁遺はそれを非難するつもりはない。むしろ当然のことだと受け取っていた。

 そして、袁遺が南皮を占領した後に、彼は雛里の進言に従って―――未練を持ちながらも―――袁紹と諸侯の外交文章を焼き払った。

 そうやって劉表の二股を表に出さず不問にしたことを劉表陣営は借りと受け取ったのだった。

 蒯越はそのことを袁遺と司馬懿がやったように賛辞という隠れ蓑を使って、袁遺に示して見せた。

 袁遺からすれば、報われたような気分になったのだった。世の中には自分に近い価値観を持った人間が少しはいてくれるもんなんだな。

 と同時に、彼は臣下に恵まれたことを心の底から実感した。これは、まさしく雛里の手柄だ。

「とんでもございません。私は先人に比べられるような徳などない小人に過ぎません」

 そして、袁遺は抜け目なかった。即座に借りを取り立てに動いた。

「それに比べれば、劉荊州牧は山越にも広く慕われております。この度の朝貢には陛下も大層お喜びの御様子です」

 事実だった。

 儒教の教義のひとつで、天と人は密接な関係にあり互いに影響し合うという考えの天人相関説というものがある。

 そこでは天変地異などの災害は天子の徳がないから起こるとされる。

 そして逆に天子の徳を表すものとして、例えば瑞獣(ずいじゅう)の出現などがあるが、この朝貢する周辺部族の数も多ければ多いほど徳があるとされている。天子の徳により―――中華思想的に―――文化程度が低いとされている蛮族が教化され、従属するという理屈である。

 だから、即位から叛乱が続く現帝・劉弁にとって、この朝貢は自分を肯定するように感じられたのだった。

「全ては陛下の徳が世に行き届いているからです」

 蒯越は上品に応じた。

「例えば、交趾にも?」

「……はい、もちろん」

 袁遺の問いに蒯越は一瞬その意味を考えたが、すぐに先ほどと変わらない様子で返した。

「交趾の士燮(ししょう)もすぐに朝貢に参上するでしょう」

 袁遺は山越だけではまだ足りぬと、さらにその背後にある交州に割拠する士燮をも自陣営に引きこむことを劉表陣営に要求したのだった。

 もちろん、袁遺はいくら借りを取り立てているとはいえ、劉表側に対して協力をしないわけではない。

「それは素晴らしい。荊州牧は南を鎮る要ですね」

 その言葉通り、袁遺と袁隗が働きかけ、劉表に鎮南将軍の位が授けられた。

 それは南蛮についての白紙委任状が授けられたに等しい。劉表からすれば動き易くなる。

 そして、袁遺は蒯越が最も欲していた一言を口にした。

「それにしても、陛下の徳が四海に隅々まで届いているというのに叛乱を起こす輩がいるとは、まったくもって嘆かわしい」

「孫策のことですね」

 蒯越が応じた。

「はい。その通りです」

 袁遺はやや芝居がかった口調で続ける。

「孫策は南の袁紹のような輩です。そのような逆賊とは同じ天を頂くことはできません」

 袁遺が孫策との対決姿勢を宣言することこそ、最も劉表陣営が求めていたものだった。

 劉表が最も恐れている事態は、袁遺が曹操の背後を牽制するために孫策と手を結び、両者が接近することだった。

 そうなれば、荊州に危機が訪れる。荊州の首脳部は断定した。

 袁遺は、常にその相手にとって何が利益かを念頭において外交を行う。それこそが外交においての誠実さであることを劉表たちも理解している。

 そして、現在、孫策にとっての利益は独立の正統性と揚州の安全の保証である。

 後半の揚州の安全性は長江の上流に位置する荊州に大きく関わることだった。

 もちろん、孫策が荊州を手に入れたら、その力が強大になり過ぎ、袁遺ひいては漢王朝にとって脅威になる。

 そのことを考えれば、孫策との交渉は難航しそうであるが、劉表たちの頭には袁遺が袁紹を倒すために曹操に冀州を丸ごと譲るという譲歩を示したことがあった。

 今、奇襲的先制を以って曹操を攻めた場合、曹操は一気に崖っぷちまで追い込まれるのは間違いなかった。

 そのために袁遺は孫策相手に大胆な譲歩を行い、早期に曹操を挟撃する大勢を作る可能性を劉表たちは否定できなかった。

 孫策が接近する前に袁遺に接近しなければならなかった。

 だから、袁遺がここで孫策との対決姿勢を口にしたことは、蒯越ひいては劉表にとって万金に値するものだった。

 また、袁遺からしても経済的に南に依存しつつある状況で、劉表との関係を切るわけにもいかない。だから、あえて口にしたのだった。

 しかし同時に、袁遺にとって別の問題が浮上していた。

 まいったな、荊州との外交は叔父上に任せるはずだったんだがな……

 袁遺は自分に様々なものが集中し過ぎていると感じていた。

 様々なものと言っても仕事のことではない。むしろ、彼は今までの雛里とのやりとりでわかるようにワーカホリックで仕事が集中することを悩まない。

 袁遺が思っているのは権限やイニシアチブであった。

 何でもかんでも袁遺が決め過ぎることは、董卓側からすれば決して気分の良いものではない。

 だがしかし、荊州と孫策の問題は軍事力が鍵となるものであり、軍を掌握しているのは袁遺である。どうしても彼が中心となってしまう。

 どこかで、何とかしないとな……

 内心で、そう思いつつも袁遺は決して表に出さずに言った。

「荊州のことをお聞かせ願いませんか?」

 蒯越は上品に笑って、話し始めた。

 

 

 このとき、袁遺の懸念通り、董卓というより賈駆の中で恐怖心が育っていた。

 それはかつて思った、袁遺にとって本当に自分たちは必要なのかという恐怖だった。

 現在の袁遺は諸侯にとって怪物となりつつあるが、賈駆にとっても怪物となりつつあった。

 ひとつ歴史から例を挙げてみる。

 楚漢戦争の戦功第一である蕭何は、晩年の高祖に疑惑の目を向けられることになる。

 長年にわたって関中を守り、民衆からの信望が厚い蕭何がその気になれば、いとも簡単に関中を掌握できる。

 韓信を始めとした元勲たちが次々と叛乱を起こす中で、劉邦は疑心暗鬼に囚われた。

 後世、多くの人が、この劉邦の疑心暗鬼に対して蕭何さえも疑うのかと言い。逆に自分の評判を下げてまで、猜疑の目から逃げた蕭何の保身を褒め称える。

 だがしかし、賈駆には劉邦の気持ちが痛いほど分かった。

 袁遺は蕭何と同じように関中で人望を得ている。

 袁遺が長安令であった期間は決して長いとは言えないが、その間の統治は善政を行い。流民を定着させ、西域との交易に力を入れ、長安を発展させた。

 そして、現在の長安令の張既は袁遺の推挙によってその地位に就いており、政策自体も袁遺の路線を継承した形だ。

 また、現在の役職の洛陽令でも目立った功績こそないが、それでも急遽、流入した流民たちの定着を素早く行い。大きな混乱を作らなかった。

 この関中の二大都市の民たちは袁遺の治世を忘れていない。

 更に袁遺はこういった都市の治世のみならず、財政の立て直しの一環で示した見識から国家経営といった大きな規模の政治能力も兼ね備えている。下手をすれば、董卓・賈駆よりも明確な構想を持っているようにさえ、賈駆には感じられた。

 それに名士からの評判も董卓より袁遺の方が遥に良かった。特に文人からのそれは比べ物にならないくらいだった。今まで積み上げてきたものが違う。

 その上、軍事的才能は賈駆を凌ぐ。

 彼女の中には冀州侵攻で袁遺の戦略を読み取れなかったという苦い記憶があった。

 董卓は袁紹討伐の戦功第一を袁遺から譲られるような形で今の地位を固めたが、では、自分を遥にしのぐ軍才の袁遺が他の戦いで戦功第一になれば、どうなる?

 間違いなく袁遺は、董卓と賈駆を凌ぐ地位に就く。

 民もそれを望むだろう。名士も皇帝に、董卓と賈駆より袁遺の方が政務を担うに相応しいと推挙する。誰もが、董卓や賈駆より袁遺は素晴らしい治世を行うと信じるはずだ。賈駆自身でさえ、人望も政戦の能力も袁遺に敵わないと思っている。

 そして、董卓も本心から喜ぶだろう。

 だが、董卓や賈駆の身は安全だろうか?

 古来より、失脚した者の最後は悲劇的なものばかりだ。下手をしたら殺される。

 恐怖が賈駆の心を支配していた。

 もちろん、賈駆にはその恐怖を抑える理性も働いていたが、その理性が別の問題を告げているのだった。

 それが華雄であった。

 この涼州から共に董卓に仕える同僚は、袁遺の冀州での戦略を気に入らず、事あるごとに袁遺を批判していた。

 曰く、戦いから逃げる腰抜け。小細工を弄するだけの卑劣な輩。従妹を破滅させた同族殺し。

 賈駆や董卓がどれだけ戒めても、華雄はその口を閉じることがなかった。

 彼女がここまで袁遺を口汚く罵ることの理由を説明するなら、袁遺への失望からくるものだった。

 華雄は反董卓連合のとき、袁遺の戦略を高く評価していた。その積極性は董卓や賈駆より自分好みだと思い、自己嫌悪に陥るくらいだった。

 そして、連合を解散させて董卓を守ったことで、袁遺を見直したとさえ思っていた。

 だが、敬愛する主である董卓を侮辱した袁紹との雌雄を決する戦で、袁遺がとった戦略は華雄が評価し、好みであったものとは正反対のものだった。

 華雄は裏切られたと思った。深く失望した。

 彼女は腹に思いを貯めるということができない。思いは吐き出さずにはいられないのだ。

 だから、華雄は袁遺を罵倒する。

 賈駆には華雄の気持ちが理解できた。

 しかし、多くの人が華雄の暴言を冷めた目で見ていたし、元何進の配下で今は董卓の武将である張遼でさえも好ましいとは思っていなかった。

 それを放置していることは袁遺に対して攻撃を行っていると何ら変わりないことだった。

 袁遺の利益となっているかさえも微妙なのに、華雄に袁遺を罵らせている。これは明確な害である。袁遺が董卓と自分を排除しようとしても、何の文句が言えるのだと理性が賈駆自身を責め上げていた。

 現在の漢王朝は袁隗の人脈、董卓の人格、袁遺の才覚の三つが絶妙な均衡を保つことで成り立っていた。

 しかし、変化は徐々に微かな足音を立てながら、彼らに近づいて来ていた。

 

 

 今まで使者として幾人かの人物と接見したけど、この人が別格に政治が上手いなぁ……

 司馬懿の妹の司馬孚は劉表に鎮南将軍の位を授ける使者として、荊州の襄陽を訪れ、そこで数日を過ごして、そう思った。

「勅命を下す。荊州牧・劉表を荊州牧はそのままに鎮南将軍に任じる」

「臣・劉表。謹んで拝命いたします」

 その儀式と評してもいいやりとりが交わされた襄陽の広間には、名だたる名士が参列した。

 中原での争いから荊州へと逃げて来た者たちが、それだけ多いということだった。

 そのことを司馬孚がさらに強く実感したのは、その儀式の後だった。

 彼女たち都からの使者は劉表から壮大なもてなしを受けた。

 荊州の水運を使い各地より集められた山海の珍味が卓に並んだ酒宴もそのひとつであるが、司馬孚にとって最も印象に残ったのは名士たちを交えた意見交換の場だった。

「さあさあ、どうぞ。こちらにお座りください」

 劉表は大騒ぎして、司馬孚を自らが手を引いて彼の隣に座らせた。

 そして集まった名士たちにも、その調子で言い放った。

「先生方、それでは始めましょうか」

 劉表の言葉を口火に、名士たちから様々な意見が飛び出してきた。

 主題は孫策についてどのような対応を取るべきかだったが、百家争鳴とはまさにこのこと。ここまで意見が異なるものが飛び出してくるのか、と司馬孚は驚嘆した。

 しかし同時に、司馬孚の中には冷めた目でそれを見つめる面があった。

 これは劉表の壮大なパフォーマンスであった。

 劉表と董卓・袁隗陣営が接近したと天下に知らしめることで孫策に圧力をかけようというのである。

 事実、このことを知った九江郡の一郡しか確保できていない孫策陣営は、荊州の水軍力が袁遺という陸軍力の後ろ盾を手に入れて長江流域に押し出した場合、全包囲される危険性を認識することになる。それは江南の地での求心力が低下することでもあった。

 そして、袁遺に対しても劉表は自分が益のある存在だとアピールしているのだった。

 さらに、劉表のそれは外だけではなく、内のことも考えられていた。

 党錮の禁や黄巾の乱などで中原から荊州へ逃げて来た名士の中には、再び中央に返り咲く野心を未だに捨てきれない者もいる。

 そんな名士たちは、今この場で必死に自分が如何に優れているかを都からやってきた者たちに示そうとしていた。

 劉表からすれば、彼らへのガス抜きであった。また仮に、これで中央へ召還された場合、その名士は劉表との縁が武器となり中央と荊州を繋ぐ役割を担うはずであった。それは劉表からしても悪いことではない。

 人間って面白いなぁ……自分を売り込むという手段であっても、人によってここまで違うものを取るのか。

 司馬孚はそれを見て、心の底から思った。

「袁将軍の軍才は古今稀に見る奇才であります。袁紹を打倒した戦略など天才のそれですな。たとえ古の白起、韓信であっても敵わないでしょう! いわんや、孫策など相手になりましょうか!」

 ある者は司馬孚を通して袁遺に気に入られようと、歯の浮くような美麗賛辞を並べて媚を売った。

 その佞言を伯業様に伝えても、確実に侮蔑されるだけだ、と司馬孚は思った。当然、彼女はそれを言葉どころか態度にさえも出していない。

 それに対して、他の儒者が反論した。その声にはまったく余裕というものがなかった。

「見識の狭き愚か者め! あれは袁紹とその配下が愚かなだけであったこと! ただ逃げるだけなら誰でもできるわ!」

 そして、儒者は自分の戦略を捲し立てるように叫んだ。自分の戦略なら孫策に独立の隙も与えぬくらいの早さで袁紹を討伐できると豪語した。

 袁紹の軍師である郭図もそうであったが、自分に能力があるところを示そうと常に他者に攻撃的、対立的に振る舞う人間は決して受け入れられはしない。

 それに軍事とは実証主義に基づく科学である。重要なのは考え着くかではなく、実行したかである。

 司馬孚も内心で、そのことを突いていた。

 紙上に兵を談ず。どこにでもこういう輩はいるんだろうな。それに誰にでもできるまで単純化することが、どれほど重要なことか理解できないのか?

 もちろん、中には利のある意見を述べる者もいた。

 豫州と荊州、双方から揚州に圧力をかけようとするとその最前線は豫州なら汝南郡、荊州なら江夏郡になる。

 だが、そのふたつは桐柏山脈と大別山脈によって分断されている。この山脈が北の寒波の侵入を防ぐために、中華の北と南では気候が変わるのであった。

 その断たれた連携を補うために江夏~江陵~襄陽~宛~豫州へと迅速な伝達を可能とする整備を進めなければならないという意見である。

 その意見には司馬孚も大いに頷くところだった。

 玉石混交の討論会を終え、司馬孚は洛陽へと帰還した。そして、袁遺にそのときのことを報告した。

 袁遺はそれを非常に興味深そうに聞き、最後にこう尋ねた。

「劉荊州牧について、君はどう思った?」

「内に外にと、ともかく目幅が利く男だと。特に荊州内の在来の名士と北来の名士の均衡を保たせているのは見事と言う他ありません」

 答えた司馬孚は、ふと劉表の顔を思い出した。

「ただ……」

 名士たちの話を聞く司馬孚を劉表は穏やかな表情で眺めていたのだ。

 あれは穏やかであったが、内ではこちらのことを探ろうとしていた。司馬孚はそう思った。

 そして、そのことが彼女に兄である司馬懿のことを思い出させたのだった。

 確かに、劉表は今まで使者として接見した人物の中で別格に政治が上手いけど―――

「……兄上より怖くはありません」

 その言葉に袁遺は、いつもの無表情を崩して言った。

「君の兄上の様な奴が何人もいてもらったら困るよ」

「それは……私も同感です」

 そして、ふたりは噛み殺すような苦笑を互いに浮かべた。

 

 

「なあ、おたくら、ここらで珊瑚獲りの名人がいるっていうけど、知らないかい?」

 その声に網を繕っていた漁師たちは一斉に顔を上げた。ここは揚州会稽郡の海沿いにある漁村であった。

 そして、漁師たちは一様に怪訝な顔をする。

 声の主である男は、ここら一帯の者ではなかった。

 服装は江南風と取れなくもないが、自分たちが着ているそれより余程しっかりしていた。言葉の訛りも自分たちとは違う。明らかによそ者だった。

「驚かせたかい。俺は怪しいものじゃないんだ。ただ、うちの領主様が都に貢物をなさると言うんで商人たちに珍宝を集めて来いと仰られた。で、うちの店の旦那は珊瑚だって言って、ともかく、でけぇ珊瑚を見つけて来いと俺たちに命じられてな」

 男は柔和な笑みを浮かべて、改めて問いかけた。

「それで知らないかい? 珊瑚獲りの名人?」

「……いや、知らねぇ」

 漁師のひとりが、ぶっきら棒に答えた。

「本当かい?」

「嘘ついても仕方ねぇだろ!」

「いやいや、それが商人たちが競って品を集めてるもんで、金をばら撒いていろんな所で口止めしてんだよ。ここに珍しい物なんてないと言えってな」

「そんなことは知らねぇ。初めて聞いた」

 漁師の顔には怒りの色が浮かび始めていた。

 それを察した男は詫びた。

「ああ、そりゃすまねぇ、悪かったよ。じゃあ、ここら辺では何が獲れるんだい?」

「ボラさ」

 先ほどまでとは別の漁師が答えた。

「ここら辺の海は急に深くなっていてな。そこに魚がいるんだけど、余程でけぇ網と大人数じゃねぇと取れないんだ。だから、俺たちは、海っていうより海と河が交わるところでボラを獲ってんだ。だけど、下手な魚より美味いぞ」

「本当かい?」

「ああ、本当だ」

 漁師は自慢するように頷いた。

 それに男は辺りを見回すと、声を潜めて言った。

「ありがとう。それじゃあ、もうひとつ頼みがあるんだ」

 男は懐から袋を取り出し、その漁師に握らせた。

「もし他の商人が来て、俺と同じことを尋ねたら、何も教えないで欲しいんだ」

 漁師は袋を開いて驚いた。その中身は彼が見たことないような大金だったからである。

 男は他の漁師たちにも袋を握らせる。

「江南の領主様は競って都に贈り物をしようとしているんだ。だから、何でもいいから誰も持っていない物を贈ろうと必死なんだよ。きっと俺みたいな商人はいっぱいやって来るから、黙っていてくれよ。頼んだよ」

 男の言葉に漁師たちは大きく頷いているが、内心では正反対のことを考えていた。もし、また商人がやって来たら教えてやろうと、そして黙っていると言って、また大金をもらおうと。

 黙っていろと言われたのに、揚州では地方豪族たちが都に贈る品物を物色しているという噂が、欲望という風に乗って加速度的に広まっていた。

 その影に隠れて他のことも動いていることは殆んどの人間が知る由もなかった。

 

 

 漁師たちから離れると男の雰囲気が一変した。

 先ほどまで浮かべていた柔和な笑みは消え失せていた。代わりに商人にしては鋭過ぎる表情が浮かんできた。人としての地金が剥き出しになっている。それは肉体的にも精神的にも甘さという要素を削ぎ落した様な冷たいものだった。

 囲まれている。男は直感した。

 かなり前から広く包囲されていた。それが徐々に狭まって、今やっと気が付いたのだ。自分の生命が危険な状態にあることに。

 男は頭の中でこの周辺の地形を思い浮かべた。このまま河に沿って歩けば草木が鬱蒼と生い茂る場所があったはずだ。そこに入れさえすれば自分が生き残れる可能性が幾分かは高まるはずだ。

 男の身体から汗が噴き出す。それは揚州の気温のみが原因ではない。

 森林へと入っても汗は止まることなく、全身を冷たく、重く濡らしていた。それでも喉のみが焼けた様な酷い渇きを覚えている。

 男は他の葉擦れの音に紛れて自分の立てた音を分からなくするといった技術を披露するが、追跡者を撒けない。どころか、包囲の輪がさらに小さくなることを感じた。

 右手方向から微かな葉擦れの音が聞こえた。

 男は短剣を忍ばせてある懐へと手をやって、そちらに振り返った。

 そこには誰もいなかった。

 呼吸が速くなる。喉は渇きを通り越して、痛みを感じていた。草木の臭いが吐き気を催すくらい強く鼻に付いた。葉擦れの音が全て敵の動きに聞こえる。

 木を背にして、呼吸を整えようと試みるが上手くいかない。彼の心は恐怖に支配されつつあった。狭まる包囲から敵の数がこちらの十倍近いことを感じたのだった。そんな数の敵と向かい合って勝てる自信は彼にはなかった。

 しかし、男は自暴自棄になるつもりは毛頭なかった。そうであるからこそ、江湖の世界で生き残ってこれたのだ。

 現在の揚州では、孫策陣営が劉表や張邈・張超の送り込んだ細作を何とか駆逐しようと静かで激しい暗闘が繰り広げられていた。

 この張邈の手の者である男は、押し寄せる絶望に喘ぎながらも、孫策の派遣した気配はするが姿なき追跡者を躱そうと森林を歩き続けた。

 ただ、追跡を振り切るどころか、その気配はどんどんと強くなっていく。

 極限状態にある中、恐怖という原初的な感情を理性や能力といった後天的に獲得したもので男は必死に抑え込んでいた成果がやって来た。

 森林でいくつも発生していた葉擦れの音から自分を狙って近づいてくる刺客が起こしたそれを聞き逃さず、突如の背後からの一撃を防いだ。

 短刀が走る。体が交差し、血飛沫が舞った。

 男の身体に傷はない。自分の短刀の刃が赤く濡れている。相手の血液だった。

 致命傷ではない。男は手ごたえから断定した。

 敵は木々に紛れて姿を隠している。

 草木の臭いを掻き消す様に、血の臭いが立ち込めた。

 男の耳に軽い跳躍の音が入った。

 すぐに男はその方向を振り向くが、素早く動く影しか捉えることができなかった。

 同時に、反対の方向からも攻撃が飛んできたことを察した。

 男は体を無理に捻り何とか、その一撃を躱すが、先ほど跳躍音がした方から自分の頭を抱え込むように首に足が巻き付いてきた。

 それはあまりにも軽い感覚だった。

「ていッ」

 そして、可愛らしい女の子の声のすぐ後で、耳を塞ぎたくなるような鈍い音が響いた。

 同時に男は呼吸ができなくなる。男は苦しむ。何も分からなかった。

 彼は自分が少女によって頸骨を折られたことを理解できずに、もがいた。

「周泰様、申し訳ありません」

「怪我は大丈夫ですか?」

「腕を軽く斬られただけです。問題ありません」

 そんな会話など耳にも入らず、男は苦しみ、揚州の森林の中でその生涯を終えた。

 

 

 司馬炎が魏より禅譲を受けて建国した晋は永嘉(えいか)の乱によって一時的に滅び、司馬睿(しばえい)が建康で皇帝に即位して復活することになる。

 この建康とは、三国時代なら建業、後漢なら秣陵のことである。

 東晋には西府と北府と呼ばれる軍の駐屯地があった。

 このふたつが建康ひいては江南の地の守りの要であったのだ。

 では、この西府と北府がどこであったか?

 西府は荊州の江陵である。

 以前にも書いたが、長江の流れはこの江陵の辺りで峡谷の奔流から穏やかな大河のそれへと変化する。ここは船戦を行う場合、最上流となるのだった。優位な上流を敵には渡せなかった。

 北府は時代によって変わるが、徐州の広陵である。ちなみに、それ以外は同じ徐州の京口。

 ここは江南、それも建康の対岸である。対岸に敵がいて、常に首都を窺っているという状況は東晋政府からすれば何としても避けたかった。

 このふたつを現在この外史で統治しているのは、前者は劉表であり、後者は張邈の妹である張超(袁遺の推挙人の張超とは同姓同名の別人)である。

 そして、孫策という敵の出現に対して劉表が董卓・袁隗陣営と接近したように、自分たちの土地が江南にとってどういう意味を持つか知っている張超とその姉である張邈も董卓・袁隗……いや、袁遺とさらに接近することになる。

 

 

「参りました。細作を五人送れば、帰ってくるのは三人ですよ。彩雲(さいゆん)様」

 そう言ったのは、背の高い女性である。身長は一七〇センチ後半はあった。女性にしては高い。そして、反対に声は女性にしては低かった。

 彼女は衛茲。張邈の配下であった。

 それに対して、答えたのは栗色の髪を丸みがあるように整えた髪型で、目鼻はくっきりとしていて優し気な顔立ちの女性であった。彼女が衛茲の主君である張邈である。

「孫策はお忙しいようね」

 張邈―――彩雲は余裕さえも感じられる声だった。

 徐州の下邳、その郡治所でふたりは揚州に放った細作からの情報を整理していた。

 衛茲は、そのようですね、と相槌を打って続けた。

「先月まで送った細作は上手くいけば五人全てが、悪くても四人は帰ってきましたが、今は三人。孫策が揚州に対して力を入れてきたということです」

「山越族の朝貢、董卓・袁隗と劉表の更なる接近、それに揚州の名士たちが競って漢王朝に恭順の意を示そうとしているという噂。伯業の東進の危険性がある余裕のない状況で、孫策がそれらを無視できず間諜を江南に向かわせたということは、それだけ彼女が江南の地に重きを置いているってことか」

 彩雲が言った。

 彼女の幼ささえ感じさせる容姿からは想像できないくらいに、張邈の内面は醒めきっていた。

 手勢の犠牲だろうが何だろうが、全てが彼女にとって状況を作る要素でしかなかった。

「おそらく孫策の手の者はさらに数を増すはずです。このままでは分が悪うございます。何か大きく仕掛けては?」

「うん」

 彩雲はまとめられた情報に目を落としたまま頷いた。

 衛茲からは、それに集中しているように見えたが違った。彼女は内心では衛茲の言葉に同意していた。

 だが、別の面も彩雲には見えている。袁遺と曹操、彼女が絶対に敵わないと思うふたりの友人が決別のときを迎えようとしていることだった。

「伯業に頼まれたのは宣伝工作だけじゃないんだよね」

 むしろ、宣伝工作の方がおまけであった。彩雲が袁遺に頼まれて細作を動かした目的は、宣伝工作を隠れ蓑に揚州の沿岸の地形を調査することである。

 彩雲は袁遺と接近するために、それを請け負った。彼女は袁遺が借りを借りだと思える人物であることを知っていたからだ。この借りはいつか必ず返してもらえる。

「もう少し受け身でいこうか」

 彩雲が顔を上げながら言った。

 衛茲はそれに頷きながらも、ひとつの問いを投げかけた。

「袁将軍は何を考えておられるのでしょうか?」

「きっと洛陽にいなきゃ見えてこないことだと思うよ」

 衛茲は彩雲の口元が僅かに歪んでいることに気が付いた。

 それは彩雲の内心が、言葉とは正反対であることを現していた。

 

 

 袁遺と曹操、そのふたりと友人だからこそ見えるものがあった。

 




補足
 今回は特になし。

 丁の章でも使うから乙の章の地図を描き直そうか悩み中(覚書)。


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4~5

4 中牟県

 

 

「あそこで将軍は袁紹軍と戦ったのですね」

 凛とした声をやや熱っぽくして姜維―――若蘭(じゃくらん)は言った。

 それに袁遺は、いつもの無表情とやや皮肉気な声で返した。

「正確には俺は逃げていただけで、実際に指揮を執ったのは雛里だな」

 司隷河南伊、巻と陽武のやや巻寄りの場所は、かつて雛里が不期遭遇戦で二倍以上の軍に勝つという快挙を成し遂げた戦場であった。

 六日前、司馬懿は兵法を学び直すという名目で荊州の宛へと旅立った。

 それは荊州との連携強化というのが最大の目的であったが、その途上、袁遺が参謀団と姜維とその部隊を引き連れて、同行した。

 そこで部隊を実働させてみて司馬懿に兵法を教えるということをやってみせたが、それは事実上、予定戦場の下見であった。

 洛陽令としての仕事があるため宛まで同行することはできず、司馬懿とは別れたが、その帰途でも戦場となりえる場所には足を運んだ。

 そして、その度に袁遺は、

「詩を詠みたいから、大休止を命じる」

 と言って、部隊を停止させた。

 天下を欺くための嘘だった。

 その間に、画工に命じて地形を絵にして残す。参謀たちは手勢を使って必要となるだろう距離などを測り、記録する。

 袁遺は若蘭を伴って、残留した黄土が作り出した瘤に上って辺りを見回した。そこから雛里の才能が輝いた戦場が見えたのだ。

 若蘭は冀州の戦いの後に、張郃の部隊から独立し幽州遠征に参加した。洛陽に帰って来てからは袁遺の指揮下に入り騎兵部隊の隊長職にあった。戦場では袁遺の親衛隊兼予備隊の役割を担うことになっている。

 彼女はそのことを喜んだ。

 もともと若蘭は袁遺の戦略に興味を持ち、彼に仕えることになったのだ。袁遺の傍に侍り、それを間近に見られる役職は彼女の望むものだった。

 袁遺も若蘭の才能を認め、戦術レベルに留まらず、作戦、戦略レベルのことを教えるようになっていた。

「運動戦では戦術的に要求されていることと戦略的に要求されていることが大きく乖離することがある」

 袁遺は若蘭に、戦場という点ではなく、もっと大きな戦域という面で考えろ、と命じて続けた。

「例えば、右翼が敵に攻撃を加えていても、左翼では防戦一方、後退を余儀なくされている状況だ。戦術的には左翼に増援を送るべきだが、戦略的にはさらに右翼に戦力を投入しなければならない場合がある」

「その場合、左翼側はどうすれば?」

 若蘭が尋ねる。

「野戦築城だ」

 袁遺が答えた。

「土地に工事を施すことで陣地に防御力を付加する。そうやって、寡兵で敵を喰い止める。それが無理なら、自軍の後方に敵が潜り込まなければ後退してもいい」

 その言葉に若蘭が言った。

「つまり、かつての逃亡中であった伯業様は左翼で、雛里様が指揮していた軍が右翼というわけですね」

 それに袁遺は優等生を見る教師の様な顔をした。

 若蘭は袁遺の意図を理解し、過去の事例からそれを示して見せたのだ。

 あのとき、袁紹とその軍こそが連合を連合足らしめていたものであり、連合の弱点であった。戦略的に攻める箇所はそこである。

「だからと言って、叛乱軍の陣形を乱すために御自身を危険に晒すのはいかがなものかと思います」

 若蘭は咎めているというより心配しているといった風だった。

「軍師ふたりにもきつく言われたよ」

 袁遺は洛陽に帰ってから軍師たちに挙げさせた自身の失策とそれに対する批評を思い出した。

「だが、あの戦いは準備期間も外交努力もなかった。幾分かの無茶をしなければならなかった」

 袁遺は遠い目をした。

 若蘭の頭脳は得た情報から現状の分析に掛かっていた。

 袁遺と司馬懿が予定戦場として下見をしている場所は司隷東部である。ここが戦場になる場合、その敵は位置的に曹操しかあり得ない。孫策が仮想敵なら豫州が主戦場となるはずだった。

 しかし、曹操が相手だと袁遺がどのような戦略を立てるか、若蘭には見当がつかなかった。

 彼女も曹操軍の兵卒の精強さを理解していた。それに数では互いに一〇万前後の動員が可能で、兵数で大きく上回ることができていない。つまり、決戦ではその兵の質の差で絶対と言っても間違いなく勝てないことも分かっていた。

 そういった点で言えば、兵の質では孫策軍も精強であるが数は二万前後。五倍の差があり、むしろ袁遺側が有利であった。

 伯業様は運動戦では寡兵で敵を防ぐために野戦築城を用いると仰られたけど、曹操軍がその野戦陣に対して真っ向から攻撃してくるとは思えない。そもそも、わざわざ野戦築城をしなくとも虎牢関に籠る方が十分に強固な防御力を得れる。それでも野に陣を構える理由が何かあるはず……

 若蘭は考える。

 今までの伯業様の戦運びを考えると、主導権をこちらが握って曹操軍に野戦陣と正面から対峙しなければいけない状況を作る。きっと、それが虎牢関に籠らず、野に陣を構える理由だけど……それが主導権にどうやって繋がるんだろう?

 しかし、彼女にはそこから先の採るべき作戦を思い付けなかった。

 それに彼女には経済的視点が欠けていた。

 七〇日以内に戦争を集結させなければ漢帝国と曹操は互いに財政破綻を起こす。だから、ただ陣に籠って攻撃を耐えているだけではいけない。曹操軍を撃滅する必要があった。

 ただし、その視点を欠いていることで若蘭を責めるのは酷だった。この手の経済状況を一介の騎兵将校である彼女が知る由もなかった。

「騎馬隊を率いる者の目からすれば、この地形はどう映る?」

 思考の海を漂っていた彼女を袁遺が現実へと引き戻した。

「いや、地形だけではない。地面はどうだ。馬を駆けさせ易い状態か?」

「地形は決して良いとは言えません。こんなに波打っているようでは突撃の勢いが削がれます」

 若蘭は連続する瘤を示しながら言う。

「地面は草原が一番ですけど、ここは土がむき出しです。そのような場合は人間と一緒です。砂状でも泥濘でも動き難いです」

「踏みしめられる方がいいが、あまりに硬すぎると困る?」

「その通りです」

 若蘭は肯首した。

「……分かった」

 そう言うと袁遺はいつもの無表情で東北の方角を見つめた。

 しばらくの間、微動だにしなかったが、ゆっくりと袁遺の右手が顎を撫でた。そして、口を開いた。

「涼州の地面はどうだったんだ? 馬は気持ち良く駆けていたのか?」

 袁遺は優し気な声で若蘭に尋ねた。

「そうですね……」

 若蘭の脳裏に一瞬、故郷の風景が浮かんだ。胸に愛郷の念が去来する。

「故郷の冀県は馬を駆けさせるには、それほど良い場所ではありませんでした。けど、安定の地は駆けていると心地よかったです。私も馬も」

 姜維の切れ長の目は、まるでその風景を見ているかの様に優しく細められた。

「徳容(張既の字)に聞いたことがあるよ。安定の西部から姑臧(こそう)辺りは涼州で最も広い緑地だとね。あれは……そうだ。彼と初めて会ったときだ。涼州のことを尋ねてね。弋居(よっきょ)では鉄が採れるとかいろいろ教えてもらったよ」

 袁遺が懐かしそうに言った。

 余談になるが、五胡十六国時代、このオアシス地帯に依っていくつかの国がそこを首都とする。

「徳容が話すとその緑地はまるで楽園の様に聞こえたよ」

「想像がつきます」

 若蘭が張既を懐かしむ様な柔らかな笑みを浮かべて言った。

 現在の長安令の張既は福々しい恵比須顔で、自然と周りを和ます気質があった。反董卓連合のときは涼州へと渡り、その気質と人柄で築いた人脈を使い、涼州の軍閥が連合側に回ることを防いだ。

「良い所ですよ。機会があれば是非行ってみてください。案内します」

 若蘭の言葉に袁遺は、その無表情な顔に僅かな影を落としながら答えた。

「いや、私は行かない方がいいかもしれない」

「え……」

 若蘭が、どうして、といった悲しい顔をする。

 袁遺はそれを慰める様に優しい声色で言った。

「今の私は赴く場所全てで大地を血で染め上げ、死体の山を作る。そんな良い場所を真っ赤に染め上げるのは忍びない」

 若蘭には主のいつもの無表情が悲しげなものに見えた。

「では、全てが終わった後に絶対に行きましょう。将軍が戦う必要がなくなった後で必ず!」

 若蘭が叫ぶように言った。普段の若年を侮らせない理知的な雰囲気は影を潜め、年相応に見えた。

「…………そうだな。全てが終わった後で必ず。うん、そのときは案内を頼んでもいいか?」

「はい」

 満面の笑みを若蘭は浮かべた。

「では、それまでは戸を出でずして安定を知る、か」

「戸を出でずして天下を知り、窓を窺わずして天道を見る。老子ですね」

「御名答」

 場が柔らかな雰囲気に包まれた。これが戦場の下見であることが忘れられた様だった。

 確かに若蘭―――姜維は袁遺の戦略に興味を持って仕えることになったが、仕えている内に彼女は袁遺に亡き父の面影を見るようになっていた。

 袁遺にしても、そんな若蘭をかわいく思っていた。彼は雛里や華琳にも見せることがあるように、ときたま孫に接する祖父の様になる。

 だが、その雰囲気はすぐに壊された。

「袁将軍、必要な測量が終わりました」

 参謀の辛毗がやって来て告げた。

 袁遺から柔らかなものが削ぎ落されるように消え、常勝将軍として完全に機能し始めた。

「ご苦労。では行軍を開始する。次は巻と敖倉の間だ」

「はい!」

 袁遺は戦いに備えなければならず、現状においてふたりの約束は夢物語に過ぎなかった。

 

 

 首都・洛陽の防衛戦力を抜かせば、董卓・袁隗陣営で唯一即時展開が可能な状態の軍は中牟県に駐屯している呂布と陳蘭の部隊である。

 そして、その両部隊を事実上、統率していたのは呂布の軍師である陳宮であった。

 袁遺はこの両部隊を中牟県に駐屯させるときに、陳宮に命を下した。

「主力の集結が成るまで、敵を担当防衛地域に足留めせよ」

 誤解の余地がないほど明確な命令であった。

 それを思い出しながら、陳宮は中牟の城壁の上に立った。

 城壁は真新しい部分と古びた部分の色合いがはっきり分かれており、一見するとチグハグな印象を受けた。陳宮が中牟県に駐屯するとすぐに城壁を調べ、崩れそうな場所を補修するように命じたのだった。

 空は快晴で、遠くには砂塵が起こるのが見える。

 騎兵を中心とした呂布隊七〇〇〇名が訓練をしているのだった。

 この時代の価値観からすれば異常なまでに機動を重視する袁遺と違い、呂布隊が行っているそれは、むしろ正面戦闘に重きを置いた密集隊形の維持のための訓練だった。

「恋殿はさすがですな~ここからでも兵気が漲っているのが分かりますぞ」

 陳宮は敬愛する主を褒め称えた。その顔には喜色が溢れんばかりに浮かんでいる。

 決して順風とは言えない賈駆とは違い、陳宮と袁遺は良い関係を構築するのに成功していた。

 反董卓連合で陳宮は一定以上の能力と見識があることを示した。

 袁遺はその能力を評価して、判断の難しいことも陳宮に委ねるようになった。

 袁遺という人間の将や軍師の評価基準が過酷以外の言葉で表現できないことを思えば、陳宮にとってそれは大きな自信になった。また、陳宮を認め、敬意さえ払ている袁遺の印象も少しは改善した。

 反董卓連合のときは有能であるが性根が歪みきった男というものだった袁遺の人間性の評価は、あれでなかなかマシなところもあるといった程度に変化していた。

 もっとも、袁遺の敬意というのは彼なりの払い方であった。

 陳宮は命令の『敵』が誰かを考えた。

 中牟県の位置からすると、それは曹操ということになる。孫策なら豫州に駐屯するはずであった。

 現在、曹操軍はふたつに分かれている。

 ひとつは曹操と共に冀州の鄴にいる軍集団。もうひとつは曹操がかつて治め、現在は彼女の軍師である荀彧が政務を行っている陳留の軍集団である。

 そして、陳留と中牟県が直線距離で約八〇里(四〇キロ)であることを考えれば、陳留に駐屯する軍を最も警戒する必要があった。

 だから、陳宮は陳留郡を探るための細作の増員を袁遺に要求した。

 すると、袁隗の手の者である細作がすぐに派遣されてきた。

 それ以外の必要なものも催促すると、同じ様に言った通りの数が送られてきた。

 軍馬であろうが、兵糧であろうが、参謀であろうが、内政官であろうが、測量士や画工といった特殊技能を持った人間であろうが、袁遺は何も言わずに整えた。

 たったひとつだけは断られたが、それでも袁遺からの余計な口出しは一切なかった。

 それに陳宮は思った。

 袁遺はねねのことを信頼しているのです。

 陳宮が敵の足留めが可能であると判断したのなら、それに必要と言ってきた物は何も言わずに可能な限り整えてやるのが、任せた者の責任の取り方である。それが袁遺の考え方であったし、敬意の払い方でもあった。

 その中で唯一、断られたことは呂布隊と共に駐屯する陳蘭隊の帰還を取りやめることである。正確に言うなら、陳蘭と王平を交代させて、陳蘭を函谷関の付近で行われている調練に教官として参加させるということだった。

 陳宮は陳蘭のことを高く評価していた。

 この風采の上がらない男は、何かにつけて要領が良く。軍務上、陳宮の目の届かないところに風貌からは想像できない、実に行き届いた対応をしているのだった。

 それに陳蘭は兵たちにも慕われている。要領が良く、無茶なことを言わない指揮官を兵たちは好いているのだった。

 しかし、戦場では意外なほどの度胸を発揮する。陳宮もそのことを反董卓連合で袁紹軍と戦ったとき、陳蘭が味方右翼を支えたという事実から知っていた。

 そして、この陳蘭の帰還も彼の人柄を表す話として、陳宮の記憶に留められることになる。

「先生、代わりにやってくる王子均は私と比べ物にならないくらい優秀な者ですよ」

 陳蘭はそう言って、主と陳宮の間に入ったのであった。

 結局、陳蘭は王平が到着次第、中牟県を離れることになった。

 だがしかし、陳蘭の帰還は陳宮の意気込みに水を差すものではなかった。

 陳宮が兗州の陳留郡からの敵を足留めする方法を考えたとき、手はひとつしかないと思った。

 袁遺軍の兵卒は曹操軍や孫策軍に比べると弱兵である。

 そんな中で、張遼と呂布の麾下の、何進に仕えていた頃からの最古参兵たちだけが、辛うじてその両軍と渡り合えるだけの精強さを持ち合わせていた。

 つまりは、呂布を中心とした呂布隊の強さを存分に引き出し、輝かせることのみが曹操軍に対抗しえる手段だと陳宮は信じた。

 そして、その呂布隊を最も輝かせることができるのは、この天下において自分だとも彼女は思った。

 今となっては遥か昔、黄巾の乱の折、袁遺は雛里がどういうタイプの軍師か考えたことがあった。芸術家タイプか技術者タイプかである。

 この中牟県の防衛を任せられた陳宮は前者の芸術家タイプだった。

 陳宮はまるで詩や絵画、彫刻で呂布の強さを表現するように、戦場でそれを表現しようとしているのだった。

 そして何より、陳宮本人も呂布という題材で、その強さを表現することは他者より抜きんでているという自負がある。

 陳宮は天から祝福を受けているような気がした。

 ねねは幸せですぞ! 恋殿の強さを示す、ただそれだけに全力を尽くせばよい。恋殿の軍師としてこれ以上の幸せはありませんぞ!

 陳宮は小さな体を目一杯広げて、手を天に掲げた。そして、力の限り拳を握り込んだ。まるで、授けられた天意を取りこぼさないようにしている様だった。

 

 

5 戦略

 

 

 悪いときは、事態がどんどんと悪い方向に転がることがある。

「いい加減にしなさいよ! そんなくだらないこと勝手にやりなさいよ!」

 このときの賈駆も、その負のスパイラルに嵌っていた。

 彼女は叫んだ後で、その耳朶を振るわせた声が自分の口から出たことを信じられないような顔をした。

 司馬懿が幽州から帰還する少し前から、曹操は洛陽へ足繁く通った。

 そして、曹操は董卓や賈駆に面会を求めて、冀州統治の相談をしていたのだった。

 その大部分は、そんな些細なことを、と人に思われるような問題ばかりだった。そのくせ、重要な問題は独断で行い、事後報告するのが当たり前だった。

 賈駆は曹操の意図を察していた。

 曹操の欲しいのは事実上の白紙委任状である董卓と賈駆の好きにしろという言葉だった。

 それを与えると曹操の動きに掣肘を入れづらくなる。曹操が信用できない状況で、それを与えることは絶対にできなかった。また、曹操もそれが簡単に与えられるとも思っていなかった。

 だから、彼女はわざと董卓と賈駆を苛立たせようとしていた。

 賈駆もそれは分かっていた。分かっていたのだが、彼女は我慢できずに叫んでしまった。

 曹操の弁舌が巧みということもあった。彼女は丁寧な態度を取りながらも、針小棒大にくだらないことををまるで重要事の様に賈駆たちに相談した。

 その態度が賈駆の神経を逆なでした。

 だが、賈駆が耐えられなかったのは、何よりも時期が悪かった。

 袁遺が功を立て名声を得たから、賈駆も主であり親友である董卓に大きな功を上げさせる必要があった。袁遺によって与えられたものではない。賈駆と董卓自身の能力によって打ち立てた功績が必要だった。それでこそ、袁遺や名士たちに董卓の必要性を分からせることができた。そして、賈駆自身に巣食う不安を取り除くことができる。

 それなのに曹操は、相談する必要もない些細なことを仰々しく伺いを立ててくる。賈駆は時間を無駄にしているような気がした。

 賈駆は苛立った。

 そして、現在、洛陽を離れている袁遺のことが思い浮かんだ。

 今こうやって無駄な時間を過ごしている間にも、袁遺はさらに武功を立てる準備をしている。

 そう思うと言葉は自然と口から出ていた。

 場に沈黙が流れた。

 曹操の口が一瞬、満足げに歪んだ。

 賈駆は放心に近い表情を浮かべていた。

 董卓は賈駆の非礼を詫びようとするが、先に曹操が口を開いて詫びの口上を述べ、素早くその場を後にした。

 曹操は欲しかった白紙委任状を手に入れた。これは明らかに賈駆の失策だった。

 悪いときは、事態がどんどんと悪い方向に転がることがある。

 曹操と入れ替わる様に袁遺が洛陽へと帰還したことが知らされた。

 

 

 参謀旅行から洛陽へと帰還した袁遺は、すぐに董卓によって呼び出された。

「後将軍・袁遺、董司空に拝謁いたします」

 袁遺は司空府で拝跪して言った。

「面を上げてください、将軍」

 董卓の声は暗かった。

 袁遺は頭を上げる。

 そして、見えた董卓の顔も声と同様であった。横に並ぶ賈駆のそれは董卓に輪をかけて暗かった。

 それだけで、袁遺は大まかなことを察した。

 華琳、か……

 董卓の謝罪から始まった説明は袁遺の予想を肯定していた。

「司空」

 袁遺は頭を下げた。

「曹都督の非礼、まことに申し訳ありません。責は彼女に対袁紹の最前線を担わせると推挙した私の不明にあります」

 彼は董卓たちが自らに非があると認めていることを察すると先手を打って謝罪した。

 袁紹が河北に健在であった頃、曹操との協調路線に舵を切ったのは袁遺である。曹操との手切れの時期が近い今、その方針に対して責任を袁遺に求められては堪ったものではない。より正確に言うなら、曹操との協調路線に踏み切ったことの責任はいずれ必ず取らなければならないが、それは決して今であってはならない。少なくとも、曹操を倒した後である。

 それに董卓は慌てたが、賈駆は袁遺の心の内を読んだように言った。

「それじゃあ、聞かせなさいよ。あんたはいったい何を考えているの? 曹操とどうやって戦うつもり?」

 賈駆自身、何度も考えた。それでも曹操に対しての戦略を形成できなかった。

 七〇日以内に勝たなければ、漢帝国の国庫が空になり、国が亡びる。

 しかし、兵の精強さが違うため決戦で勝つという目算も立たない。

 ならば天下の城塞である虎牢関に籠ることも考えたが、籠城で耐えたところで然したる意味はない。

 完全に手詰まりに陥っていた。

「回りくどいかもしれませんが、一から説明させてください」

 袁遺が言った。

 それに対して賈駆が何か言うよりも早く董卓が、お願いします、と丁寧に応じた。

 袁遺は、地図はありますかと尋ねた。

 賈駆は、用意してあるわと言い、それを広げた。

「曹操が攻めて来た場合、七〇日以内に敵軍を撃破します」

 袁遺は、かつて袁隗に説明したときと同じような言葉から始めた。

 時代に関係ない戦争の原則だが、作戦を計画する際に必要となる基本的な情報が四つある。自軍の作戦意図。自軍の戦力および配置。敵軍の作戦意図。敵軍の戦力および配置である。

 袁遺が口にしたのは『我々は何をなさなければならないのか』という自軍の作戦意図であった。まずはこれを決めないと動きようがない。

 次に必要な情報とは敵の戦力および配置である。

「現状、曹操は軍をふたつに分けています」

 袁遺は地図のふたつの地点を示した。ひとつは冀州の鄴であり、もうひとつは兗州の陳留である。曹操の現在の本拠地とかつての本拠地である。

「兵の移動や集められている物資の状況から考えて、この二地点にはそれぞれ約五万が集結していると参謀部は結論を出しました」

 敵兵力を掴んだのならば、次は敵軍が何を目的としているかである。

 袁遺は作戦立案において、この分析に最も注意を払った。

 敵の戦力を掴んだところで、それをどのように扱うかを読み間違えれば、全てが無意味となるからだった。誤断は確実に敗北に繋がる。

 出した結論は、曹操が決戦を望んでいる、だった。決戦になれば、絶対と言ってもいいくらい袁遺軍に勝ち目はない。

 そして、袁遺も経済的諸問題から決戦はともかく野戦には応じなければならないことも理解していた。

「曹操軍は決戦により一撃での戦争終結を考えている可能性が高いです。そのためにはこちらの準備が整う前に先制侵攻を行うはずです」

「そうなれば、こっちも経済的な問題から時間を掛けられないから、それに乗らざる得ない」

 賈駆が相槌を打つ様に言った。

「そうです。となると、曹操軍はある程度の幅と奥行きがある大軍を展開できる場所を戦場に選ぶのは間違いない」

 袁遺の言葉に賈駆は地図に目をやって、即答した。

「巻から敖倉の間」

「はい」

 黄河とその支流の氾濫が作り出した起伏の激しい地帯と、敖倉とその背後の山岳地帯、黄河の支流が官渡水と汴水に分岐する地の間こそ、袁遺の睨んだ曹操の予定戦場だった。

「その場合、曹操軍からすれば、中牟県に居座る呂布軍は酷く面倒な存在となる」

 袁遺側の準備が整う前に素早く司隷河南伊を通打、制圧しなければならない曹操軍は、鄴の軍と陳留の軍が一度合流してから司隷に攻め込むという時間的余裕がなかった。

 鄴の曹操本隊が南下をすると同時に陳留の荀彧の支軍が本軍の側面警戒を行いつつ、予定戦場での合流―――つまりは、分進合撃を行わなければならない。

 しかし、袁遺軍に曹操軍の様な兵の精強さがないのと同じように、曹操軍には袁遺軍の様な柔軟な機動性がない。袁遺の様に旅団規模に分けて進ませることができず、必然、袁遺軍より進軍速度が遅くなる。

 袁遺はそれを説明する。

「……つまり、呂将軍に陳留の軍を足留めしてもらって、その間に袁将軍が曹操本軍を叩くということですか?」

 それを聞いて、董卓が尋ねた。

 相手の戦力を集中させずに、こちらは戦力を集中して分断した敵を叩く。反董卓連合に袁遺がやった戦法である。

「それは無理よ」

 否定したのは賈駆だった。

「全軍が洛陽で臨戦態勢なら可能だけど、今は軍を休ませてるし函谷関の付近で訓練を施している兵もいる。全員を一度集めないとだめだから時間がなくて、それはできないよ」

「その通りです。それに加えて二倍程度の軍では、決戦では曹操の本軍には勝てません」

 袁遺が言った。

「二倍の袁紹軍に将軍の軍師である鳳統さんが勝ったと聞きましたが……」

「あれは袁紹の軍だったからです。曹操軍には二倍程度の有利では正面戦闘では絶対に勝てません」

 袁遺は断定した。

 董卓と賈駆は半信半疑の様子であった。そして事実、袁遺の曹操への評価は常に過大評価気味である。

「それにむしろ狙いは曹操の本軍ではなく陳留の支軍です」

「陳留の軍をどうしようって言うのよ?」

「それを支点にして敵の戦略の崩壊を狙います」

「……どうやって?」

 賈駆は、にわかには信じられなかった。

 だが、袁遺に冀州で戦いを避けることで戦略的優位を築くという魔術的な手法を見せつけられているために信じざる得ない。

「具体的なことは言えません。実際に敵が攻めて来たとき、状況に合わせて行動することになると思いますし、私がやりませんので」

「はぁ!? どういうことよ!? それじゃあ誰がやるって言うのよ!?」

 大声を上げる賈駆に対して、袁遺は極めて落ち着き払った声で返した。

「司馬仲達が」

 袁遺の脳裏にひとつの情景が浮かんでいた。

 

 

「こうして、完全包囲下に置かれ、逃げることもできずに殲滅されることとなった」

 袁遺は司馬懿が仕えてから、彼に自分の知る戦例を教えるようになった。司馬懿には父が西からやって来た人から歌や話を集める道楽によって知ったと、その出所を誤魔化した。

 机上に駒などを使い再現しているのは、史上最も有名な包囲殲滅戦であるカンネーの戦いであった。

 後に袁遺に仕えることになる雛里もそれを長安で教えられることになる。

「……芸術としか表現できませんね」

 ため息をこぼす様に司馬懿は言った。

 主が再現した戦いをもう一度、味わうように駒を見つめたまま考え込んだ後、司馬懿はやおら口を開いた。

「ひとつ尋ねてもよろしいでしょうか、伯業様」

「……ああ、構わない」

 長年、友として付き合ってきたふたりであったが、今は主従という関係である。司馬懿はすぐに袁遺に部下としての態度で接したが、袁遺には珍しいことに未だにそれに対して微かな違和感を感じていた。それだけ、司馬懿という男は袁遺にとって特別な友人であった。

「この戦争……ポエニ戦争でしたか」

 司馬懿はポエニという言葉を発音しづらそうに言った。

「最終的な勝者はどちらだったのですか?」

 袁遺は、その言葉に虚を突かれた様な顔をした。それから、僅かに口元を歪めると答えた。

大秦(ローマ)だ。そう、この見事なまでに包囲殲滅された方が最終的に勝利した」

 それから袁遺は説明した。

 カンネーの戦いの後でローマは一時期採っていた持久策を再び採用し、カルタゴ本国からの増援であるハンニバルの弟のハシュドゥルバルとその軍を撃破し、さらにはカルタゴの勢力圏であるアフリカ大陸を攻め、ハンニバルとカルタゴ本国の切り離しを図ったこと、そして―――

「最終的にザマと呼ばれる土地でハンニバルはカンネーとは反対に敵中央を突破することができず、両翼を騎兵に包囲され負ける。漢の五年のことだ」

「漢の五年……垓下の戦いがあった年ですか」

「そうだ。垓下の戦いの二か月前にザマの戦いだ」

 西ではローマを震え上がらせたハンニバルが敗北し、東では西楚覇王・項羽が敗れた。東西の大国のその後を決定づける戦いは共に紀元前二〇二年に行われた。実に運命的な話である。

「つまりは、この戦争は主要戦域が大秦(ローマ)から徐々に別の場所に移って行ったということですか」

「そうだ」

 同じ話を聞いても雛里と司馬懿の能力の違いが、その後の会話の発展を違うものへとしていた。

 雛里は戦術的な方向へと発展し、司馬懿は戦略的な方向へと発展した。

「ある人物が残した言葉がある。勝敗を決する決定的戦域とは、どのようなときでも―――」

 袁遺はその後、アルキダモス戦争やガリポリの戦いについて司馬懿に語って聞かせた。

 両者とも主要戦場と軍の展開において大きな課題を戦史に残した戦いである。

 

 

 袁遺は懐かしい光景に若干の未練を感じながらも目の前の董卓と賈駆に告げた。

「司馬仲達なら必ずやり遂げます」

 対袁紹の戦略を袁遺が発表したとき、司馬懿は主の命令で行った反董卓連合解散の原因の分析と連合の立場から袁遺を破る作戦が不十分であったと恥、そして恐怖した。軍師とは文字通り、軍の師である。それが師となりえないなら、仕事を果たせていないということであり、袁伯業という男がそんな軍師を許すはずがないと思えたのだ。

 袁遺は司馬懿という男が同じ轍を二度と踏むはずがないと確信していた。

 仲達のことだ。どこかであのときのことを教訓として活かせることを俺に示そうとするはずだ。じゃないと俺から信頼を得られないと考える。自分でも仕えにくい面倒な主だと思うが、仕方がない。俺も二度と同じ失敗をしないために、連合との戦いから帰って来て、仲達の罵倒のような批評を聞いたんだ。フン、仕方がない。

「分かったわ。それじゃあ任せるよ」

 賈駆が言った。

 彼女は袁遺の考えがまったく分からなかった。

 だが、賈駆も司馬懿と同様に、袁遺の戦略を読み取れなかったという事実がある。その苦い思い出によって、賈駆は袁遺に戦争のことで強く出ることができなかった。

 そして、董卓は―――賈駆からすれば非常に危ういと思うほど―――袁遺を信頼しきっていた。

「それじゃあ、もうひとつ聞くけど……」

 賈駆が話題を変えた。

 袁遺は、何でしょうと穏やかに応じた。

「公孫賛はどうするの?」

「……もちろん、中郎将として戦いが起これば、それに参加してもらいます」

 賈駆の問いに袁遺は不快に類する記憶が呼び起こされた。だが、それは表に出さず、常日頃の無表情で答えた。

 袁紹の討伐後、燕王として幽州に戻った劉虞と違い、公孫賛は中郎将のまま都に留まった。

 公孫賛本人は再び遼西郡の太守に就くことを望んでいたが、公孫賛が率いている部隊の後任が定まらないという理由から、現在も中郎将のままだった。

 だがしかし、公孫賛の幽州への帰還は大きな障害を持っていた。

 朝廷の中枢にいる幾人かの者は彼女が劉備の洛陽脱出に手を貸したという噂が真実であると直感していた。

 それは反董卓連合に参加しながらも、袁紹によって幽州から追われた公孫賛を助けた董卓・袁隗陣営からすれば明確な裏切り行為であった。

 もしまた劉備を軸に策略が起きたとき、公孫賛は自分たちではなく劉備のために動くのではないか、その疑惑が公孫賛を目の届かないところで自由にさせることを董卓・袁隗陣営の首脳陣たちに躊躇わせていた。

「おそらく、今までにない激戦が起こると思います。そこでの中郎将の活躍を私は期待しています」

 袁遺は言った。

 つまりは公孫賛に対する踏み絵だった。彼女自身で自分が益のある存在だと示して見せろ。その機会を与えることが劉備脱出の後始末をさせられたが、袁紹の背後を脅かすのに役立った公孫賛への袁遺なりの礼の仕方だった。

「…………それも任せるよ」

「はい」

 できれば公孫賛が賢いことを望みながら、袁遺は頷いた。

 いざとなれば、手を汚すのは袁遺だった。

 

 

「子均殿じゃないか、洛陽に戻っていたの?」

 袁遺と共に洛陽へと帰還した若蘭は、後将軍府で王平を見つけ思わず声を掛けた。

 若蘭と王平は共に張郃隊にいたことがある。だからといって、特別仲が良いわけではない。その証拠に若蘭は王平には真名を預けていないし、王平の真名も知らなかった。

 しかし、年齢が近いためか自然と話すことが多かった。

 王平は文字が読めなかった。知っている文字の数は自分の名前を抜かせば、両の手の指で事足りる程度だった。

 それでも、言っていることは道理に適っており、人に読んでもらった書物の大略を掴み、論じては要旨を捉えていた。

 王平は特に史記や漢書の歴史書を好んだ。

 彼女は若蘭に漢書の内容について質問をした。

 漢書は儒教的価値観が強く反映されている。そのため、それに馴染みの薄い王平には首をかしげざる得ない記述もあった。それについて尋ねていたのだ。

 漢の風土が薄い涼州の出身であっても、若蘭はこの時代の著名な在野研究家の鄭玄の儒教観に強いを関心を持ち、その知識量は袁遺さえも舌を巻くほどだった。

 対して、若蘭は王平に彼女が旅をして見てきたものを尋ねた。

 蜀の難所と名高き桟道、五斗米道という鬼道集団が統治する漢中の様子、それらのことを聞いていると若蘭は昔、鮮卑や遊侠の徒と交わり強さを求めていたときのことを思い出した。

 幽州遠征に伴って、ふたりは張郃の旅団から独立し、話す機会は減ったが、それでも会えば話に花が咲く。

「昨日、戻って来た。だけど、また出なくちゃならない。今度は中牟県」

「それじゃあ、行き違いか」

 それに王平は肯首しながら、話題を変えた。

「そうだ、張校尉も洛陽に戻ってるよ」

 張郃はふたりにとって、かつての直属の上官である。

「何でも郷里の儒者を推挙したのが称えられるとかで、一旦呼び戻されたんだ」

 王平はそれが腑に落ちないようだった。

 彼女が長安周辺の地で部隊長として訓練に参加していたときは、空気が戦場のそれの様に痛いくらいに肌をチリチリと焦がしていた。まったくの戦争状態に感じられた。

 だが、洛陽に来てみれば、その感覚は嘘のようになくなっていた。自分がこれから中牟県に行くことでさえ、どこか信じられなかった。

「儒者の推挙が、どれだけすごいことか分からないけど、こんなときに校尉を呼び出してもいいのかな?」

 王平は、ポツリと漏らした。

 だが、若蘭からは別のものが見えていた。それは伯業様の擬態だ。彼女は直感的に断定した。

 この認識の違いは彼女たちの儒教的な教養の差だった。

 俯瞰的な視野で眺めると、この時期の袁遺は『徳』を求めていた。

 『徳』、たった一文字、音にすれば二音。実体のない、あやふやなものだが、それこそが天下を制するうえで必要不可欠なものだと袁遺は知っていた。

 中華に限らず、歴史上の多くの王朝、帝国が儀礼主義(宗教的なものも)によって自身の権力を鎧ってきたかを考えれば、その必要性は簡単に理解できる。

 いや、袁遺にはもっと身近な例があった。

 自身が破滅させた従妹の袁紹である。政治的宣伝工作に敗れ、儀礼主義で自身の権力を鎧うことができなかった彼女は力に依る支配に頼った。

 確かに、力がなければどうしようもないが、力だけでもどうしようもない。

 そのことを袁遺に突かれて、袁紹は破滅した。

 袁遺と曹操の衝突が避けられなくなった今、前にも述べたが、袁遺は天下から曹操を使い捨てたと思われてはいけなかった。

 それは『徳』を失う。

 主に名士たちにそう思われないように、袁遺は擬態を要求されていた。

 以上は俯瞰的な視野で眺めた場合で、実際、若蘭はここまで踏み込めていなかった。だがそれでも、袁遺が大義名分を重んじていることは理解できた。かつて長安で宣伝工作の重要性を袁遺に説かれている。

「でも、張校尉が称賛を受けるのは良いことでしょう」

「それはそうだけど」

 かつての上官が何らかの栄誉に浴するなら、ふたりは素直に喜べた。張郃は彼女たちにとって尊敬できる上官であった。

「時間はある?」

 若蘭は王平に尋ねた。

 王平は、あると答えた。

 お茶にでも付き合ってくれない。若蘭は言う。

 王平は笑顔で応じた。

 てきとうな店に入って、彼女たちは茶と甘味を楽しんだ。

 そこでも王平は戦時の臭いをまったく感じなかった。

 しかし、中牟県に赴任すると、それは一変した。長安の近くで訓練していたときは比べ物にならないくらい、前線の雰囲気が中牟にはあった。緊急展開可能な軍と訓練中の軍の違いだった。

 

 

 現在の中華はマーブル模様の様に平和と戦時が入り混じっていた。

 




補足

・黄巾の乱の折、袁遺は雛里がどういうタイプの軍師か考えたことがあった。
 甲の章3  オーダー・オブ・バトル(前)を参照。

・勝敗を決する決定的戦域とは、どのようなときでも―――
 第一次世界大戦中、イギリスの海軍大臣であった(後の英国首相である)ウィンストン・チャーチルが彼自身の行動方針として書き残したものの中のひとつ。
 勝敗を決する決定的戦域とは、どのようなときでも、その地において決定的な勝敗が決せられる戦域を指す。これに対して主要戦域とは、主要な軍隊や艦隊が展開される戦域を指す。主要戦域が必ずしも常に決定的戦域となるわけではない。
 この言葉の通り、ガリポリの戦いを英国(というよりチャーチル)は第一次世界大戦で決定的戦域にしようとした。
 だが、一九世紀以降ヨーロッパの列強に対して敗戦を重ねてきたヨーロッパの病人と蔑まれたオスマン帝国を甘く見た結果、ガリポリの戦いはイギリスおよび連合軍の敗北に終わり、チャーチルは海相を罷免される。
 このガリポリの戦いがチャーチルの思惑通りに行っていれば、第一次世界大戦はもっと早くに終結していたという研究もある。
 そうなればチャーチルの言葉通り、ドイツとフランスが戦う西部戦線でもなく、ドイツとロシアが戦う東部戦線でもなく、トルコで第一次世界大戦の帰趨が決せられることになっただろう。
 そうなれば、海外投資の減少、軍需産業以外の産業の減退、アメリカと日本の台頭、ロシア革命やアイルランド民族運動などが起きなかった、もしくはその発生が遅れたため、イギリスはもう少しだけ覇権国家でいられた可能性がある。

 アルキダモス戦争については戊の章でペロポネソス戦争含めて詳しくやることになると思う。


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6 軍師たち

 

 

 郭嘉は一抹の不安を拭い去ることができなかった。

 彼女は自分の主である曹操―――華琳が、これから起こる戦争を究極的に自分対袁遺の戦いであると感じ取っていると直感していた。

 それは華琳の外交方針に強くにじみ出ていた。

 洛陽で賈駆から冀州経営の白紙委任状にも等しい好きにしろという言葉を引き出してから、華琳はまず并州の匈奴と接触し、独自の外交チャンネルを形成した。

 納得できない并州牧から苦情が寄せられた。明らかな越権行為である。

 それに華琳は、賈駆から許可を取っていると押し切った。

 挑発的、挑戦的といえる越権行為である。

 そして実際に、華琳は漢王朝から咎められることを恐れていなかった。

 というのも、以前にも述べたが、彼女にとって現在の漢王朝とは董卓や袁隗、袁遺によってかろうじて保っているだけのものに過ぎない。

 だから、反董卓連合直後の頃ならともかく、軍事力が回復した今では董卓や袁隗、袁遺の風下に立っている気など、さらさらないという認識をごく自然と持っていたのだ。

 ただし、同時に冷静な計算も行われていることが、華琳を覇王気取りの禹歩舜趨の輩に終わらせなかった。

 今、最も警戒しなければならないのは袁遺からの奇襲的な先制攻撃である。

 だが、本当にそれは袁遺に可能なことなのか? いや、そもそも本当に袁遺にその気があるのか?

 細作を派遣して調べたところ、袁遺軍で即時展開できるのは―――町々の軍レベルではない警察組織を抜かせば―――中牟県の呂布と王平の部隊くらいである。それ以外の部隊は訓練中、もしくは再編中である。

 はっきり言えば、先制奇襲など不可能だった。

 それならば、袁遺軍の侵攻は恐ろしくない。

 ここ最近の、とかく風聞に気を遣う袁遺の様子を見るに、この越権行為を理由に兗州、冀州へと袁遺が侵攻するとなると、間違いなく迂遠な手続きを踏むはずだった。

 まずは官を派遣し、華琳に并州の越権行為を問いただす。

 華琳は当然、強硬な態度で臨む。

 となると、袁遺は軍の動員を行いつつ詔を受け、洛陽を発つことになる。だが、それより先に自軍の準備を終え、万全の態勢で迎え撃つ自信が華琳にはあった。

 その自信を肯定するかのように、朝廷は并州牧の陳述に対して、調査するとだけ伝えると事実上この件を黙殺した。

 華琳の読み通りだった。

 また、孫策陣営との接触も細心の注意を払いながらも、強気な外交態度で臨んだ。

 孫策は袁術からその地位を奪う様に独立した。

 一応、袁術は袁遺が冀州に遠征している隙に他州に攻め込もうとしていた、父祖の旧地を回復するなどの名分を宣伝しているが、誰もが正統性を認めていなかった。

 袁術の非を鳴らしているが孫策自身は漢王朝に臣下の礼を取るわけでもなく、父祖の旧地と言いながらも奪った九江郡と孫家には何の所縁もない。孫策には何の大義名分もなかった。

 そのため、孫策側との接触には細心の注意を払い、その事実を誰にも覚られないようにする必要があった。

 華琳が治めている冀州の名士たちは、袁遺ひいては漢王朝に降ったのであって、華琳に降ったのではない。彼らを治めるには大義名分が必要である。賈駆の失言と事実上の黙認という一応の名分がある越権行為ならともかく、敵対勢力との接触という利敵行為は名士たちからの評判は間違いなく悪くなる。それは冀州統治にとって大きな問題であった。

 そのため、接触は慎重に慎重が重ねられ、謀略が練られた。

 曹操陣営も、董卓・袁隗陣営が多くの細作を自分たちに回していることを、その正確な数は分からなかったが感付いていた。

 その目を欺くために必要な労力だった。

 そして、その労力の大部分は華琳の軍師である程昱によって担われた。

 

 

「お初にお目にかかります、陸伯言です」

 丸眼鏡を掛けた、薄い緑色の髪の女性―――陸遜が口を開いた。

「まずは、この様な恰好であることをお許しください」

 彼女は商人風の着物を纏っていた。赤紫の羽織は、ところどころ錦糸が擦れる様に縫い込まれている高級品である。それと陸遜の隙のない穏やかな雰囲気とが、彼女を商いが成功している大商人に見せていた。

「いえいえ~、こちらの事情を汲んでのことですから、お気になさらず」

 それに程昱は如才なく応じる。

「私は費亭侯より今回の交渉で全権を与えられた程仲徳です。以後お見知りおきを」

 力の抜けた調子で程昱は言う。

 両者は豫州沛国譙県で会談した。譙県は曹操の故郷である。

 譙は孫策という敵が出現したことで、戦火に晒される恐れが出てきた。そのため、程昱は主の曹操に進言した。

「故郷とそこに眠る先祖の墓を守るのは孝に当たります。物資を故郷に送って、孫策の西進に備えるのはいかがでしょう」

 曹操はそれを受け入れ、その物資の輸送の指揮を程昱に任せた。

 こうして、程昱は譙に赴いたが、同時に孫策の軍師である陸遜も寿春から商人に化けて秘密裏に譙へと向かった。

 物資の輸送は曹操陣営と孫策陣営の会談のための隠れ蓑だった。

「以前にもお伝えした通り、我が主・孫策は費亭侯と手を結び、袁遺と対抗することを望んでいます」

 やや間延びした口調で陸遜が言った。

「それについて費亭侯は、孫殿が具体的に何をやってくれるのかを非常に気にしておりました」

 程昱は尋ねる。

 曹操からすれば、孫策という陣営は袁遺と手を結ばれると厄介だが、手を結ぶとなると問題がいくつも付きまとう面倒な存在であった。

 袁遺と手を組まれた場合、袁遺という策謀に長けた男が孫策をいかに利用するかということを考えなければいけない。そして、対応を考えさせられているということは、後手に回っているということであり、敵に主導権を奪われているということだった。それは間違いなく良くない。

 しかし、孫策と手を組んでも、その旨みは薄かった。

「はい~、孫策様は袁遺の故郷である汝南に攻め込むと仰られております」

 場違いなほど、にこやかに陸遜は答えた。

「故郷を侵されることは体面に関わりますから、袁遺さんも迎え撃たなければなりません。袁遺軍を引きずり出すことができます。費亭侯は背後から袁遺軍を攻撃してください」

「それはそれは……」

 一聴すると悪くない作戦に聞こえるが、程昱は冷静にその作戦の困難さを看破していた。

 孫策軍は味方としては、まったくと言っていいほど頼りないのである。

 それは孫策軍が弱いと言うより、孫策たちの置かれている状況が悪過ぎた。

 孫策は荊州の劉表と下邳・広陵の張姉妹という敵を抱えてしまっている。

 程昱はひとつの噂話を思い出した。

 その出所は劉表陣営であると程昱はあたりを付けていたが、袁遺が孫策のことを南の袁紹と扱き下ろしたというのである。

 その言葉通りに、孫策の状況は袁紹と酷似している部分があった。

 孫策は二万の兵を抱えているが、その全てを袁遺との戦いに投入できなかった。袁遺の反対側の徐州には張邈と張超がいる。常に背後に備えて軍を割かなければならなかった。投入できるのは一万程度である。

 如何に孫策軍が精強と言っても、豫州に攻め込むには一万は心許ない数字であった。

 豫州牧である周昕は軍事方面で派手な功績はないが、それでも戦意が欠けた男ではない。豫州の人口から考えると一〇万の軍を動員して防衛に当たり、袁遺に策を弄するだけの時間を稼ぐだろう。陸遜が言う、後背を突く作戦は決して成功率が高いものではない。

 こちらと袁遺さんを争わせて、両者を疲弊させようとしていると考えるのは穿ち過ぎですかね……

 程昱は考える。

「悪くはありませんが、こちらにも策がありますので」

 その言葉は強がりでも相手を試しているのでもなく、事実だった。

 曹操には孫策に頼らなくとも独力で袁遺を打倒せるという自負がある。

「さすがは費亭侯ですね。あの袁伯業が恐れているだけのことはあります」

 穏やかに追従する陸遜であったが、このとき両者の中ではひとつの心理戦が展開されていた。

 程昱と陸遜は、ここまでのやり取りで両陣営の外交方針を正確に掴んでいた。

 曹操陣営からすれば、孫策と手を結ぶ旨みがない。

 上で挙げた様に独力で袁遺と渡り合えるという事実もあるが、経済的な諸問題も関わっていた。

 過去にも触れたことだが、揚州と曹操の故郷である譙が近過ぎるという問題がある。緩衝地帯(バッファーゾーン)がまったくない。

 袁遺との戦いが終わった瞬間に曹操と孫策は争うことになる。

 それは袁紹との戦いが終わった瞬間、双方が互いの利益を害するようになった袁遺と同じであるが、ここでも孫策は荊州の劉表と下邳と広陵の張姉妹という敵を抱えているという点が問題になってくる。

 この両者は孫策陣営にとって大きな障害となっているので、孫策と敵対した場合、袁遺がやったように両陣営を利用し孫策に対して有利を得たい。

 しかし、曹操と以前から親交があり、その勢力の規模から曹操に頼らなければいけない張邈たちとは違い、劉表と上手く手が結べるかが問題であった。

 現在、曹操は―――董卓・袁隗陣営もそうだが―――経済的諸問題を抱えている。

 袁遺に勝ったからといって、それは解決しない。

 むしろ、孫策陣営の提案に乗れば、豫州にまで戦争の傷痕を残すことになる。

 そうなれば、経済状況はさらに逼迫し、南への経済的依存がさらに強くなるだろう。

 劉表にとって敵である孫策と手を結んで、劉表にとって味方である袁遺と戦うのは、確実に劉表陣営からの心証は悪くなる。

 孫策は怖いが曹操も信用できないと思われれば、現在の経済的支援が縮小される可能性は高かった。孫策に対抗できる程度の力はあって欲しいが、大きくなりすぎても困ると経済的な枷を嵌められるのだ。

 だから曹操側の外交方針は、孫策に袁遺とは絶対に手を結ばせずに、こちらとも敵対させないという適度な距離を保つものだった。

 そして、程昱は孫策側も自分たちと同じような方針でこの会談に臨んでいるという確信に近い予想を立てた。

 袁遺と曹操の疲弊は孫策に時間的余裕を与える。

 その得た時間で孫策が何をするか、問題はそれである。

 程昱は脳裏にふたつの可能性を描いた。

 ひとつは江南の地へと進軍し制圧する。もうひとつは徐州への侵攻である。

 前者は長江という天然の要害があり、影響力の濃い故郷を基盤として態勢を立て直す。これで寿春が袁曹のどちらに対しても橋頭堡となり、両者の喉元に刃を突き付けている状況になるだろう。

 対して、後者は袁遺が作った孫策包囲の一角を崩すことである。徐州の張姉妹さえ取り除けば、孫策は今よりは動きやすくなる。

 そのどちらも袁遺と曹操の戦いには関係ないものである。

 妥協点はここですね。程昱は思った。

 袁遺という強大な敵がいる状況で、曹と孫、両者は手を取り合うでもなく争うでもない、距離を取るという選択肢を選んだ。

 曹操は孫策という不安要素を気にせずに袁遺と対決することができ、孫策(そして、それ以上に周瑜)にとって、袁遺と曹操が轡を並べて攻め込んでくるという最悪の状況は避けられた。

 もっとも、これは華琳に袁遺に勝つことができるという強力な自負があってこその強気な選択であった。

 

 

 このふたつの外交から郭嘉は華琳の強気な態度が袁遺を意識したものだと感じ取った。

 そして、それは間違いではなかった。

 華琳―――曹孟徳には解決しなければならない問題があった。

 それは反董卓連合のときに軍を叩かれ、一時的にでも董卓・袁隗体制の下についたという事実であった。

 曹操は天下を手中に収め、乱れた世を正すのは自分であるという天命を感じている。この天命は他の名士たちにも、そう思われなければならない。曹孟徳しかこの乱世を治める者はいないと。そう思われてこそ曹操の天下取りが正統性を帯びることになる。

 だが現在、彼女の将や軍師の極一部しか曹孟徳に乱世の終焉を見出していない。

 天下の多くの人間は袁遺に、それを見出している。

 儒家からの高い評価とこれまでの戦争で証明してきた軍事的才能、互いの利害を絶妙に調整する外交手腕、それらを使って積み上げてきた功績がもたらす袁遺の個人的な権威を曹操は上回らなければならなかった。

 それ故に挑戦的な強気な態度をとっているのだった。

 そこには曹孟徳の思想や美意識を見ることができる。

 彼女の中には(例えば儒教という)儀礼主義を用いて自身の権力を正当化するという考えがない。曹操は軍隊や刑罰というむき出しの力だけで、それを獲得できると考えている。

 自分が英雄と認める者たちを倒して、倒して、倒して……覇王として君臨する。

 そのために現在この大陸で最も畏敬されている袁伯業という男を打倒さなければならない。かつて一時的にでも膝を屈してしまったという不名誉を雪がなければならない。

 ターゲットにされた袁遺からすれば迷惑な話であろう。袁遺という人間の感性や認識、知性からすれば、曹操のそれはホメロスの叙事詩の精神性に近い。集団の中で抜きんでた名誉を手にするために互いに競い合う。そうした競争(アゴン)の精神など、袁遺の好む表現で言うなら、まったくもって彼の趣味ではなかった。叙事詩に耽溺する国家指導者など碌な存在ではない。強大な敵を脅威ではなく功業を生み出す試練として捉え、無益な疲弊を国家にもたらすのだった。

 郭嘉はここまで深く曹操と袁遺の心理を読み取ったわけではないが、それでも曹操と袁遺の間に存在するズレを感じ取っていた。

 それは袁遺の戦術を研究したからであった。対袁遺の戦略を計画することになった郭嘉には必要なことだった。

 反董卓連合、徐州遠征、冀州遠征、これらの袁遺の戦略を分析して郭嘉は袁遺が運動戦を重視していると断定した。

 彼女は思う。

 袁遺は決戦に重きをおいていない。どころか、無意味なことだとすら考えているかもしれない。

 何度も述べてきたことだが、決戦は戦力を一か所に集中してその一点で勝敗を決めてしまう戦いである。

 対して、運動戦は面で戦う。決められた戦域で相手の意図を挫き、こちらの意図をより多く達成して相対的な有利を築く。反董卓連合や冀州遠征でその運動戦の特性は色濃く出ていた。

 だから郭嘉は奇襲により相手の準備が不十分なうちに、こちらが望む決戦を袁遺軍に強要するつもりでいた。

 まずは、本軍。

 鄴から予定戦場である巻と敖倉の間の平野は約二〇〇キロ。軍の規模と途中に黄河を渡ることを考えても、どんなに遅くとも出発から一〇日くらいには到着できる計算であった。

 そして、陳留の支軍は、その本軍の側面援護である。

 現在、中牟県には袁遺軍の中で唯一、即時展開可能な呂布隊と王平隊が駐屯している。これが遅滞戦闘を行ってくる可能性が高い。時間を稼がれるのはまずかった。

 だから、支軍は中牟県の軍を抑えるのが当面の任務で、時機を見て本軍に合流する予定であった。

 やや余談になるが、この支軍は軍師の荀彧が事実上の指揮を執り、武将では夏侯淵、李典たちがいる。

 素早く司隷東部を抜けて袁遺軍と雌雄を決するこの作戦を考えている間、郭嘉はともかく袁遺について考え続けた。だから彼女には分かる。袁遺は曹操が望むような英雄同士の戦いなど絶対に行わない。

 郭嘉はそのことを主に言うべきか迷った。

 だが、言えなかった。

 曹操―――華琳が袁遺との戦いを心底楽しそうにしていたからだ。

 勝てばいい。勝ちさえすれば、華琳様が袁遺よりも強いと。華琳様こそが天下を統べるにふさわしいと四海の人々に示せる。主君と戴いた人物に天下を取らせるという、軍師にとっては采配の振るいがいのある戦場ではないか。郭嘉はそう思って、言葉を飲み込んだ。

 だが、彼女は一抹の不安を拭い去ることができなかった。

 

 

 一抹の不安という点では、孫策の軍師である周瑜も同じであった。

「―――というわけで、現状、曹操さんが敵に回る可能性は低くなったと思います。それと、間違いなく曹操さんたちは董卓・袁隗……いいえ、袁遺さんとの全面対決の準備段階にあります」

「良くやってくれたわね、穏」

 寿春の城、その一室で孫策と周瑜は穏―――陸遜から譙で行われた話し合いの報告を受けた。

 陸遜を労った孫策以上に、周瑜は心の中で陸遜を称賛していた。

 袁遺と曹操が手を組む。現在の孫策陣営の軍師としては、これ以上恐ろしいことはなかった。

 それが回避できたのだ。陸遜の働きは孫策陣営の壊滅をまぎれもなく防いだのだった。

 孫策は明るい声色で続けた。

「疲れたでしょう、穏。ゆっくり休んでちょうだい」

 それに陸遜は、は~~いと間延びした調子で応じ、何かを心得たように自分の屋敷に帰っていった。

 曹操陣営との接触……いや、それを含めた孫策の外交状況を正確に把握しているのは孫策本人を抜かせば、周瑜と陸遜のみであった。

 今回の譙での会談は孫策陣営内でも秘密裏に行われた。

 曹操と孫策の接近が天下に知れ渡ることは曹操陣営にとって害しかない。曹操に袁遺の打倒を願っている孫策陣営からすれば、曹操にとって利にならぬことはするべきではなかった。

 もっとも、曹操と袁遺の戦いが―――曹操の勝利で―――終わった場合、曹操との関係は一気に険悪なものとなる。そのときに、今回の会談の噂を流し、劉表に曹操への不信感を植え付けるつもりであった。

「曹操の方は何とかなったけど、袁遺……いいえ、袁隗の方はどうするの?」

 陸遜が去った後で、孫策が口を開いた。

「今はこのまま交渉を引き延ばすしかないわね」

 それに周瑜がやや沈んだ声で応じた。

「それなら、こっちもみんなには内緒ね」

 孫策の独立の早い段階で、袁術の滅亡後、孫策に鞍替えした寿春の地方豪族を通じて袁隗が接触してきた。

 曰く―――速やかに九江郡を明け渡すなら孫策には呉郡太守の地位を用意し、主だった配下にもそれなりの地位を与えるとのことだった。

 袁隗の話を聞いたとき、孫策の勘が罠だと告げていた。

 そして、周瑜も真っ先にその危険性を進言したのだった。

 主だった配下に与えられる官職には江南の地を遠く離れた洛陽へと赴かなければならないものもあり、他にも孫策と同等である太守の地位もある。

 これは、はっきり言うなら孫策陣営の解体であった。

 有力な配下や一族を孫策から物理的に遠ざけたり、もしくは孫策と同等の地位に就けることで君臣の境界を曖昧にする。

 例えば、孫策と―――廬江太守を打診されている―――周瑜のふたりの間では、たとえその地位が同等になろうとその友情や信義、忠誠が揺らぐことはないが、周りは違う。独立独歩、割拠的な性格を帯びる揚州の気質を考えたとき、地方豪族たちは孫策と周瑜を同等の力を持っていると見做すだろう。そうなれば、孫策の揚州での求心力が自然と落ちる。

 それに思い至ったとき、周瑜は目の前が真っ赤になった。袁隗と自分との孫策の評価の差が大きいことに怒りを覚えたのだった。

 もちろん、袁隗は孫策を侮っているわけではない。

 姪である袁術を追い落として寿春を占拠したのである。袁一族としても恥をかかされたが、現在の漢王朝の体制に反旗を翻す行動でもある。それを不問に付すというのである。譲歩したと間違いなく言える。

 それに孫策陣営の解体にしても孫策を恐れての行動である。侮られていることは決してないが、それでも譲歩の結果が太守か、と周瑜は怒りでこぶしを固めた。

 だが、周瑜の軍師としての部分が震えるほどの怒りの裏で冷静に計算を行っていた。

 親友であり、主である器量がたかだか太守に見積もられたことの責任の一端は自分にあると彼女は自覚していた。独立から今まで、何ら有効な手を打てていない現状がその値をつけさせたのである。それは軍師である周瑜自身の不手際でもあった。

 袁隗が孫策を低く評価するのは、それだけ袁遺を高く評価しているということである。袁遺なら必ず孫策を打倒するということが根底にあるからこその見積もりだった。

 そして、周瑜は事実として袁遺を脅威と認識している。怒りに任せて徒に戦をしていい相手ではない。戦うためには戦略をしっかりと定めて戦わなければならない。

 周瑜にとって幸いなことに、親友であり主君である孫策もまたその点を理解していた。

 低い評価に腹が立ったが、今のわずか一郡を抑えただけで、劉表や張姉妹という敵に囲まれ、将来のことを考えれば信ずるにはあまりにも危うい曹操のみが味方という状況で袁遺と戦うのは圧倒的に不利である。

 そんな中でふたりのとった行動は程昱が予想した通り、袁遺と曹操がぶつかっている間に江南の地を制圧し、そこに勢力基盤を移すことだった。

 そうすれば、攻めは寿春を橋頭堡とし、袁遺、曹操の両者の故郷への侵攻を容易にする。そして、防御は長江という天然の巨大な堀が袁遺か曹操か、その勝者の南下を防いでくれるだろう。

 だから、袁遺との戦いを先延ばしにすることを考えれば、この袁隗の勧告のことは身内にも秘密にする必要があった。

 何故なら、その内容を知れば、間違いなく妹の孫権、孫尚香をはじめ臣下たちも、侮られていると怒りを覚えるだろう。

 古くから孫策に付き従っている臣下たちならよいが、袁術から独立後になし崩し的に従っている者たちが、そんな風に侮られているのに袁遺との戦いを先送りにする孫策を弱腰だと感じ、見限る恐れがあるからだった。また、江南で風見鶏を決め込んでいる地方豪族にも弱みは見せるべきではなかった。

 秘密を守るためには秘密を知る者を限定するべきである。わずかに陸遜のみにそれを明かして、程昱との会談に赴かせたのだった。

 そして、陸遜は曹操と袁遺の衝突が間違いないという情報を持って帰ってきた。

 周瑜は、これで安心して江南に侵攻できると思った。江南を制圧して、今の不安定な状態から脱出できると。

 だがしかし、周瑜の心中に一抹の不安が芽吹いていた。

 その脳裏に袁遺が冀州遠征で見せた魔術的手腕が蘇った。

 もしも、袁遺の軍事的才能が陸の上のみに限定されるものでなかったら……もし、あの男が水上でも異常な存在であったら……

 周瑜は願った。

 曹操が袁遺に勝つことを。そして、袁遺の頸を刎ね飛ばすことを。

 ともすれば、江南制圧の成功よりも強く袁遺の敗北と死を願っていた。

 

 

「曹孟徳との戦争でいかな利益が上がるか、私はそれを考え続けてきた」

 袁遺の口から零れる様に発せられる言葉に雛里は耳を傾けた。その表情は、一言も聞き漏らすまいとした真剣なものだった。

 今、後将軍府には雛里と彼女の主である袁遺しかいなかった。

 袁遺の周りには『毛詩』『楚辞』や洛陽で詩家たちが詠んだ詩が書かれた書簡が山のように積まれていた。雛里の周りに積まれているのは、袁遺とその参謀たちが計測してきた司隷東部―――巻や敖倉付近―――の地形をまとめた書簡であった。

 宛へと行く司馬懿と別れて洛陽に帰ってきてから、袁遺は雛里と彼女の下につけられた参謀たちに測量してきた地形にどのような工事を施せば強力な防御力を得らるか考えろと命じた。謂わば、野戦陣の設計である。

 そして、袁遺は洛陽令として働く以外は儒教の経典や詩を読み漁り、ときたま―――

「下見長城下 尸骸相支柱」

「傳告後代人 以此爲明規」

 と詩で感じいる部分をため息を零す様に呟くのだった。

 そんな日を四、五日過ごすと袁遺は、一日の仕事を終え帰って行く参謀たちの中で雛里のみ残るよう命じて口を開いた。

「部下の中では君と仲達のみに、話しておこうと思ったんだが……」

 そう前置きして、曹孟徳との戦争でいかな利益が上がるか、私はそれを考え続けてきた、と袁遺は言った。

 利益―――袁遺の戦争観で最も重視していると言っても過言ではない要素である。雛里もそのことは十分に理解していた。

「……それは野心の塊の様な曹操さんが天下を狙い、現在の秩序を壊すことが目に見えていますから、その秩序を守るために戦うのではないんですか?」

 雛里は尋ねた。

 それに袁遺は肯首した。

「そうだが、それ以外の利益もないか考えてみた」

「……あったのですか?」

「あった」

 袁遺の顔はいつもの無表情であった。特に小さく無機質な瞳がそれに拍車をかけていた。

「曹孟徳自身だ」

「えっ……」

 雛里は小さく言葉を漏らすと、袁遺の顔を凝視して尋ねた。

「それは……どういう……?」

「才能だよ、彼女の。彼女の才能が漢王朝にとって有益なんだ」

 雛里は思う。確かに曹操は陳留太守のときから善政を行っていると評判であり、その軍の強さも主の袁遺が常に警戒し続けるほどだ。能力、才能という点では文句のつけようがない。しかし―――

「……確かにすごい才能ではありますが、大きな権限を預けるのは今回のように武力衝突に発展する危険が常に付きまとうのではないでしょうか……?」

 曹操が天下という極彩色の野心を捨てぬ限り、叛乱の危険があった。

「権限は与えない」

 だが、袁遺は雛里の心配を斬り捨てた。

「君の言う通りだ。彼女の野心は彼女の政治や軍事といった能力の魅力を台無しにし、損なわせる。特に私はどうしようもないくらい猜疑心とは縁が切れない男だ。だから、彼女のその手の才能は魅力というより脅威にしか感じない」

 その無表情な顔に嫌なくらい似合う冷たい言葉だった。

「私が利益になると思ったのは彼女の詩文の才能だ」

「詩文の……」

 そうだ、と袁遺は頷き、書簡を片手に話し出した。

「文化は力となる。地方に割拠する群雄と正統性を競うにも、内に対して自分の権力を正当化するにも役に立つ」

「……その……曹操さん以外にも優れた詩家の方は大勢いると思います。それこそ伯業様自身もそのひとりのはずです。曹操さんでなければならない理由があるのですか?」

 雛里は尋ねた。

「一言でいうと、我の強さだ」

「我……?」

「そう、我だ」

 後漢後期、詩の世界でひとつの流行があった。それは五言の楽府を真似て作品を作ることである。

 五言とは一句が五字からなる詩のことである。そして、楽府とは前漢の武帝の時代に設立された民間の歌を収集し記録する役所のことであり、いつしかその集められた歌がその役所名をとって楽府と呼ばれるようになった。

 例えば、陳琳の『飲馬長城窟行』は同名の楽府を下敷きに労役によって離れ離れになった夫婦の悲哀を書いている。

「現在の主流は誰の者とは分からない普遍性を詠むことに対して、曹操は具体的な情景に対して自分の心情を詠むんだ。それが一種の力強さとなっている」

 普遍性を詠むのが一般的な世界では、過剰な感情が噴出したような詩を詠むためには強大な自我を持つ必要がある。曹操にはそれがあった。

 個性の自覚からくる力強い表現―――後世で『建安の風骨』と称される作風である。

「それは俺には無理だ。俺の詩は典故を多用し、相手の知識や想像力に任せる部分が多い。彼女ほどの力強さはないよ」

 典故とは古典の故事を引用する修辞技法である。隠喩とも言う。

 四言律詩でも、五言律詩でも、七言律詩でも、ともかく漢詩は一句の字数は限られている。そこで有名な人物や場所、出来事を詩の中で言及することによって、その故事を読者に想起させ、詩の世界に奥行きを与えるのだった。

 それは読者の知識量に頼る面があるし、力強さというよりも構成の巧みな繊細な作風である。

 そう言った袁遺の顔に僅かながら感情が浮かんでいた。それは袁遺が一瞬見せた文人・袁伯業としての表情だった。

「ここ最近いろいろと詩を詠んだが、乱世の影響か……ともかく悲愴感と不思議な力強さが同居する詩が多い。このままいけば彼女を先頭に詩の世界が大きく変わる。それは新しい価値観の創造だ。文学が大きな文化力を持つことになる」

 雛里はその創造された文化力を袁遺がいかに使うかは分からなかったが、袁遺のこれまでの名士の対応や外交の巧みさを考えれば、また上手く物事を運ぶだろう。しかし、軍師として絶対に確かめておかなければならないことがあった。

「曹操さんの持つ利益は分かりましたが、曹操軍は強敵です。曹操さんを手に入れるために策を捻じ曲げるわけにはいきません」

「分かっている。勝つことが第一だ。ただ君と仲達には私がいきなり彼女の首を跳ね飛ばす気がないことを知っておいてほしい」

 袁遺は口元を僅かに歪ませて続けた。

「勝利しても、皇帝を擁するこちら側に弓を引いた彼女を助命するだけでも面倒なことが多くあるだろうからね」

 

 

 荊州の劉表には内憂外患がある。

 外患とは孫策である。

 その危険性については、これまで何度も触れてきたため、ここでは語らない。

 内憂とは後継者問題であった。

 劉表にはふたりの息子がいる。

 長男はもうすでにこの世を去った先妻の陳氏との間に生まれた劉琦、次男は後妻である蔡氏との間に生まれた劉琮である。

 家の存続と繁栄を考えれば、多くの子をもうけなければならないが、跡継ぎの資格を持つものが複数存在した場合、いくつもの問題も発生した。長男よりもその下が優秀な場合などが、その例である。頼りない長男よりも優秀な次男以下に家を継がそうという働きが必ず出てくる。

 何故なら、そこには組織につきものである派閥争いが絡んでくるからである。現状において不遇をかこっている一派が、盛り返しを期待して弟の下に集まるのであった。

 劉表の後継者問題もその典型であった。

 長男の劉琦側についているのは他所から流れてきた儒学者を中心とした名士であり、次男の劉琮を推しているのは彼の生母である蔡氏の一族を中心とした襄陽の名士であった。一応、劉琦派にも荊州在来の名士もいれば、劉琮派にも外から流れてきた儒学者がいるが、それは例外の範囲に収まるものである。

 つまりは、この兄弟の争いとは荊州で最大規模の地方豪族である蔡一族と、その蔡一族に反感を持っている名士の対立であった。

 これまで劉表はその争いをなるべく穏やかな手段で収めようとしていた。

 その様子に両派閥の人々は、劉表を優柔不断な人物だと噂した。

 劉琦派は儒教の倫理観で考えるなら跡継ぎは長男であると言い立てた。劉琮派―――特に妻である蔡氏は、あなたが今の荊州牧の地位にあるのは我が蔡一族という後ろ盾があってこそであり、当然その後は自分が産んだ子が継ぐべきと憤慨した。

 だが、本当の劉表はかなりの名業師である。

 でなければ、内では在来の名士と他所から移ってきた名士が対立し、外では群雄が割拠する状況で、荊州という兵家必争の地を治めることはできない。

 しかし今、状況が変わり、劉表に事を穏便にすましている余裕がなくなったのだった。

 外患である孫策にぶつけようとした駒のふたつである袁遺と曹操の対決が近い。

 劉表はこのふたりがぶつかることを政治的な必然だと断じていた。

 利益によって結びついたふたつの勢力が、お互いに何ら利を生み出さない存在になったとき、その関係が険悪となるのは外交では基本的なことである。何ら不思議なことではない。

 しかし、袁遺と曹操がぶつかっている間に孫策が自由に動けるのが問題だった。

 劉表やその参謀たちは、孫策は揚州に侵攻すると予想していたが、それでも万が一、荊州に来た場合、非常に厄介だった。

 蔡瑁の立場をもう少し安定させなければならない。劉表はそう思った。

 以前にも触れたが、孫策(以前の仮想敵は袁術であった)が攻めてきた場合、迎え撃つのは劉表の義兄である蔡瑁になる。

 孫策軍の規模を考えると荊州全土を占拠されることはあり得ないが、戦況が不利になるとその責任を蔡瑁に求めて、反蔡一族の名士たちが政治的に攻撃するのは確実であった。

 そうなっては蔡一族の軍事力を拠り所のひとつとしている劉表の立場も危うい。蔡一族のみが力を持つのは困るが、力を失っても困る。

 さらに面倒なことに、自分の子供たちが後継者争いに乗り気ではないことだった。

 長男である劉琦は義理をよくわきまえた孝行心に富んだ人物であるが、病弱であり、自分の思惑や器量を超えた後継者争いに心身ともに疲弊していた。

 次男である劉琮も聡明な面を見せているものの、その年齢はまだ十四歳と決して成熟した大人とは言えず、自分の意志というより母である蔡氏が強く望んでいるために仕方がなくリングに上がらされたという状態だった。

 奇怪な政治的位置に立たされた劉表はひとつの決断をした。

 その心理状態は焦った故の開き直りのそれであったと言える。劉表は思った。今のようなときには、普段では絶対に打たない窮地のときの一手を打つ必要がある。

 そして、ひとたび決断すれば、劉表の行動は早かった。

 彼はすぐに自身の謀臣である蒯越を呼び出した。

 蒯越は能力もさることながら、劉琦派、劉琮派のどちらにも属していないのだった。

 

 

「なかなか思い切った考えでございますね」

 襄陽の城の一角にある書見の間で、蒯越は呟く様に言った。

「いろいろと考えたが、これしかないような気がしてきてな」

 答えた劉表は顎のほっそりとした優し気な顔に、どこかとぼけた雰囲気を漂わせていた。

「それに、この密謀を異度の他の誰に話していいものか見当がつきかねた」

 蒯越はその言葉に、苦笑にも似た顔をした。劉表の腹芸に感心しながらも、呆れていたのだった。

「そこまで主に見込まれたからには是非もありませんが、それでもご長男をこの荊州から追い出す先鋒を務めるのは心が痛みますね」

 劉表が打とうとしている一手とは、長男である劉琦を遊学という名目で洛陽へと送ることであった。

 劉琦は、ありていに言ってしまえば人質である。

 しかし、下手に荊州にいるよりも安全であった。経済的に荊州に依存しつつある漢王朝で、劉琦の扱いはかなり手厚いものになるのは間違いない。

 と同時に、荊州から追い払われることでもあるから、劉琦は後継者レースからほぼ脱落したとみなされるだろう。

「琦は恨まん。琦には琮を蹴落とそうという気力がない。悲しいかな。それだけの才能がないことも、支えてくれる賢者もいないことも自覚しておるからな」

「言葉は悪いですが、ご長男についている方々は荊州に勢力基盤を持たない故に逆転を狙っている方々ですから、弟君についておられる方に比べえると、どうしても頼りなく思えますね」

 蒯越は劉琦自身への言及を避けながらも相槌を打った。

 劉琦は確かに荊州から追い出されるが、劉表は劉琮を正式な後継者だと内外に発表するつもりはなかった。後継者争いを一時的に劉琮優勢に傾け、相対的に蔡一族の立場を強化する。

「問題は都の方だ」

「…………都に、奇貨居くべし、とでも考える輩がいると」

 奇貨居くべし―――秦の宰相であった呂不韋が、趙で人質となっていた秦の公子(後の荘襄王)を目にしたとき、呟いたとされる言葉である。公子とは、太子以外の王族の男を指す用語である。

 これは珍品だ。仕入れておこう。その言葉通りに、呂不韋はこの公子を援助し、とうとう秦の王位に就け、自身は一国の宰相の地位に上るのであった。

 つまりは、強大な富と力を持った者が劉琦を傀儡として、荊州を事実上支配するのではないかという懸念であった。

 呂不韋は始皇帝が失脚させたが、劉表は自分の息子にそのような力がないことを知っている。

「それは袁伯業が力を持っている間は大丈夫です。こちらが利益ある存在のうちは、袁遺は決してこちらの不利益となることは致しません。自分が利益がある存在だということを必死に示すために、そのような輩は排除するでしょう」

 蒯越が続ける。

「どころか、こちらの事情を荊州牧が思う以上に読み取ってくれます。本心で言えば、袁遺と曹操、そのどちらが勝っても畢竟あなたからすればどうでもいいということを」

 その言葉に劉表は重々しく頷いた。

 劉表と蒯越、この主従の関係に無理にでも近似値を求めるなら、袁遺と司馬懿のそれに近い。

 劉表は蒯越の能力を高く評価し必要としているが、同時に警戒もしている。

 何故なら、劉表は蒯越の行動原理を完全に理解しているからだった。この点が袁遺・司馬懿との相違点だった。

 蒯越の行動原理とは荊州の平和、それに尽きた。

 前荊州牧の王叡が行った利己的な闘争と、その結果としての敗北の末に混乱した荊州を治めるために劉表に力を貸したのも、後継者争いでも両派閥に属していないのも、それが理由であった。

 話は逸れたが、劉表は蒯越の審美眼に信頼を置いている。彼女がそう言えば、袁遺という男はそういう男なのだろう。

 そして、劉表からすれば袁遺と曹操、その戦いの勝者はどちらでもよかった。究極的に言えば、袁遺と曹操は孫策にぶつけるための駒でしかない。

「念のために馬騰とも誼を通じておく必要があるな」

 劉表が呟いた。

 涼州の馬騰は漢王朝に対して忠誠を誓っているため、現在は皇帝と都を抑えている袁隗・董卓と友好的な関係であった。

 だから、袁遺と曹操の戦いで勝者が曹操であった場合、馬騰は決して曹操に良い印象を抱かないだろう。敵の敵は味方の理論で、曹操の背後を脅かすために孫策が馬騰と接近する可能性があった。そのため、曹操と馬騰の仲介役になることを劉表は望んでいた。

 また、曹操と友好な関係を築けなかった場合でも馬騰は曹操を牽制する役割に使えるので、やはり誼は通じておいて損はない。

「今、洛陽から袁遺が参謀の一団を派遣して通信網の整備をさせています。その一団が、宛に着くはずです。その帰りにご長男を同行させましょう。私もお供し、都で袁遺、袁隗、それに董卓と話をつけて戻ってまいります。伝令を宛に出して、その旨を伝えます」

「頼むぞ。わしは琦に話しておく」

「お任せください」

 蒯越は恭しく一礼した。そして、いろいろと準備がありますので、と断り、退出した。

 

 

 蒯越の表情は平素と変わらないものだったが、内面は乾ききっていた。

 袁遺、曹操、孫策、袁隗、董卓、馬騰―――荊州の安定のためには彼らをどのように使えばいいか、謀略家としての彼女が全てのものを状況を作る事象と処理し、冷徹な判断を下そうとしていた。

 そして、彼女は己の主である劉表でさえ、荊州の安定のための事象のひとつとして捉えていた。

 蒯越の思考を現代風に意訳するなら―――

 何故、劉表はこのタイミングで後継者問題にメスを入れたのか、であった。

 蔡一族の立場を強化することの重要性は理解できる。劉琦が洛陽へと赴くことで享受できるメリットも分かる。

 しかし、袁遺と曹操の戦いの結果を見てからでも遅くはないはずだ。それでも、このタイミングでなければならない理由があるのか。

 蒯越は思考を走らせる。

 今、司馬懿を筆頭とした参謀団が洛陽から荊州へと向かっている。

 目的は表向きは対孫策のために都と荊州の通信網の整備と両者が親密な関係ということをアピールし、孫策側に圧力をかけることである。だが、真の目的は曹操との戦争で予定戦場となる地点の下見である。その表向きの目的の親密さのアピールをより強いものとするために参謀団が向かってきているタイミングで、劉琦の洛陽入りを決断したのか。

 蒯越は一瞬そう考えるが、即座に否定した。理由としては弱過ぎる。

 つまり、利という問題ではなく、もっと劉表個人の問題で決断されたということだ。蒯越は断定する。

 そして、たどり着いたのは劉表の健康問題であった。

 荊州のほんのごく一部の人間だけが、劉表が体調の悪さを感じていることを知っていた。

 その原因は加齢と若い頃の逃亡生活での無理である。

 劉表様は自分の死期が思っていたより早いと悟った。だから、今、後継者問題にひとつの区切りをつけにいった。でも、自分の口で後継者を宣言するのではなく、洛陽へと送ったのは万が一、荊州が危険にさらされたとき、兄弟の片方が生き残れるようにするというより、迷いがいまだ断ち切れずに濁したというところが、あの人の人としての限界だったのかしら。

 蒯越は心の中で呟いた。

 彼女の中で計算が始まっていく。

 このままいけば、荊州でも最大の力を誇る蔡一族が後ろ盾の劉琮が後継者となるはず、では、劉琦派がどのくらい足掻く? 劉琮派は現在の親董卓・袁隗の方針を継承するのか? 曹操が勝者となった場合、都を手中に収めた後で都にいた劉琦をどうするのか? 孫策の動きは?

 だが、それらは劉表の死期によって全てが変わってくる。

 蒯越は思考の方向転換を行う、劉表が死ぬまでにやらなければいけないことを整理することにしたのだった。

 主の死の要素をも、ひとつの要素ととらえる思考は、まさしく冷徹な謀略家としてのものだった。

 

 

 劉琦・蒯越の一行が襄陽を発ったのは、その二日後であった。劉表は、その見送りには出てこなかった。

 




補足

・「下見長城下 尸骸相支柱」「傳告後代人 以此爲明規」
 前者は陳琳の『飲馬長城窟行』の一節。本文に書いた通り、同名の楽府を下敷きに労役によって離れ離れになった夫婦の悲哀を詠んだ歌。
 後者は阮瑀の『駕出北郭門行』の一節。孤児について詠んだ歌。テーマは漢楽府の『孤兒行』と似るが、『駕出北郭門行』は五言形式の雑曲歌辞で、『孤兒行』は雑言形式の相和歌辞。このあたりに建安期における楽府制作の新傾向の一斑を見ることができる。

・先妻の陳氏との間に生まれた劉琦
 劉琦の母親が陳氏とされているのは演義でであり、正史では記述されていない。
 一応、お気を付けください。


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7~8

7 御者をした日

 

 

 男は()を使って藁をかき集めた。

 彼の鈀を持つ太い腕は日に焼けていた。顔も日に焼けている。その顔には精悍の一言で片づけられない強さがあった。それは男に宿る強い意志力によって醸し出された強情さがもたらした壮気だった。

 男は顎に垂れた汗を手でぬぐった。手は土埃と垢で黒く汚れた。

 荊州南陽郡新野県と宛県の間にある村で、男は生を受け育った。

 貧しい家だった。父親を早くに亡くした。ともかく楽な暮らしではなかった。

 男はそんな生活から抜け出したかった。だから苦学して学士となったが、生来の吃音のせいで幹佐(文書を扱う各部署の補佐官)になることができず、水稲田を運営する稲田守叢草吏(とうでんしゅそうそうり)となった。

 役人になったはいいが生活は楽にならず、やっていることも昔と変わらず農作業である。

 そんな男が救いを求めたのは、己の才能であった。確かに自分には吃音癖がある。しかし、才能は誰にも負けない。そう信じていた。

 彼は高い山や広い沼地を見つけると軍営を置くにはどこが最適か測量し、簡単な地図を作った。

 周りの人間の多くがそれを嘲笑したが、男は気にしなかった。彼は自分が持って生まれた才能を信じていたし、必ずこの苦しい生活から抜け出すと決心していたからだった。

 だがしかし、ときは流れても出世の機会は一向にやってこなかった。

 その間に、黄巾の乱と呼ばれる農民反乱が起こり、霊帝と諡された皇帝が崩御し、その皇帝死去の混乱の中で涼州の董卓が権力の中枢に上り詰め、それに反発した関東の諸侯が連合を結成し大きな戦乱が起きた。

 男は思った。世が乱れるのは当然だと。

 彼は水稲田の運営を通して、税が払えず流民と化す庶人の実情を見ていた。

 ただし、男が冷静な観察者であったかは別であった。

 彼は続けて思う。能力や実績ではなく、儒教的な徳目でさえもなく、官位を得るために必要なのは賄賂の多寡だ。それで世が乱れないはずがないだろう。

 その思いの根底には自身の恵まれぬ現状への嘆きがあった。生来の吃音のせいで下級も下級な役職に就くことになり、そこから脱出することもできない日々。

 男の能力はその自尊心に何ら恥じることのないものだった。

 流民が増え田畑が放棄される中で、彼の管理する稲田は荒れることがなかった。彼は職務を全うし続けたが、評価はされない。出世することがない。出世するのはいくら流民を出そうが税を多く搾り取り、それで官位を買う者たちである。男が嘆くのは当然のことといえば当然のことであった。

 しかし、乱世は男にも変化をもたらした。

 董卓と関東の諸侯たちの戦いは董卓が勝利したが、その勝利からしばらくして、都から、地方官の治績は田畑の耕作の度合いによって評価する、という通告が来た。

 この通告は司隷・兗州・豫州・荊州・徐州・揚州・涼州の七州に発布されたが、厳密に守られたかと言えば、答えは否である。

 例えば、当時は袁術が治めていた揚州では殆ど守られていなかった。

 そして、この荊州でも混乱の度合いが大きく劉表の目と手が届きにくい南部(桂陽郡や零陵郡など)では、ほぼ有名無実と化していた。

 だが、男の新野県ではそれが守られることになる。

 劉表の影響力の強い地域であるということだけが、その理由ではなかった。

 一番の理由は、新野の隣の宛に都から赴任してきた司馬朗だった。

 彼女から都に、通告を守っていないなどと伝えられたら、面倒なことになると思った劉表は、とりあえずは宛の隣の新野で業績を調査したところ、この男の功績が発覚したのだった。

 男は徴税官の職を得た。

 しかし、それは建前の上だけであった。引き続き水田の管理もやらされ、俸給は上がったが職務自体は大きく変わることがなかった。

 むしろ、上司や同僚からのやっかみを買う結果となり、風当りは前よりも悪くなったと言えた。

 男の汗と埃に汚れた顔を中天にある太陽が照らした。

 男はその太陽を忌々し気に睨みつけた。彼の人生で日の光とは栄光を表すものでなく、自分を照りつける厳しさの象徴であった。

 ふと、作業をする人夫たちを縫う様に自分の上役が何やら慌ててやって来ていることに、男は気が付いた。

「艾が、艾が拝謁いたします」

 男は拝跪して迎えた。

 上役の表情が一瞬、小馬鹿にした様に歪んだ。男の吃音癖に反応したのだった。

 それから上役は、神経質な声色でまくしたてた。

「おい、すぐに県治所に行け! ご子息が来ていて、御者がいないんだ!」

「はぁ……」

 男は分けが分からず、間の抜けた声を上げてしまった。

 それは上役の過敏になった神経を逆なでするには十分であったようで、さらに早口で言葉を吐き出し続けた。

 男はなんとか理解しようとした。口早に放たれる単語を拾い集める様に聞き取り、整理したところ、その意味がやっと分かった。

 襄陽から州牧の長男が洛陽へ向かうために新野までやってきたが、長男の乗っていた馬車が事故にあった。

 幸いにも、長男には掠り傷ひとつなかったが、御者が負傷してしまい。男にその代わりの白羽の矢が立ったということだった。

 畑仕事の次は御者かよ。嫌がらせだな。男は内心で吐き捨てながらも、これ以上、上役を刺激しないように立ち上がり、県治所へと向かった。その顔は能面を張り付けたように無表情であった。

 しかし、男は気づいていなかった。乱世が深まり、あらゆる因果が絡み合った結果、彼が望んでいた飛躍の機会がこのような形でやってきたことを。

 

 

 司馬懿の劉琦の第一印象は覚束なさだった。まるで己の運命を悟った蜻蛉(かげろう)の様だ。身なりは良いが線の細い青年を見て、司馬懿はそう思った。

 荊州からの一行を先頭で出迎えたのは、司馬懿の姉であり宛県令の司馬朗であったが、出迎えられた劉琦は形ばかりの挨拶をするだけである。自分がどのような政治的意図で洛陽へと向かうことになったか、それをまったく理解できていない様子であった。理解しているなら、その気力のなさを隠すくらいの努力はするものである。

 しかし、それが悪い印象に繋がったわけではない。

 これもひとつの処世の道だ。司馬懿は断じた。

 害のない無能ほど安心できるものはない。老荘的な考えである。司馬懿自身が有能過ぎる故に主に警戒されている人物であるため、所謂『無用の用』というやつの効能は痛いほど分かった。

 その影の薄い劉琦の代わりに、一行を差配していたのは司馬懿も見覚えがある人物であった。

 蒯越である。

 司馬懿の耳にも、自分の主である袁遺が彼女―――特にその能力―――に賛辞を送ったことは入っている。

 事実として、彼女の対応は如才ないものだった。

 ひとつの例として、司馬懿の表向きの任務である洛陽~荊州の情報網の整理で、南陽郡や南郡に張り巡らされた水上交通路について尋ねれば、まったく言い淀むことなく簡潔明瞭に答えを返すのである。

 だが、司馬懿がこの一行で最も才能を持つと思ったのは、蒯越ではなかった。

 

 

 たとえ、通信網の整備が建前の任務であろうと、司馬懿は手を抜くわけにはいかなかった。

 宛や荊州に危機が迫ったとき、今回、調査した事が役に立つというのは事実である。

 そのため、当然のことながら宛周辺の地形なども調査したのだが、その調査した場所をうろついている怪しい男がいるという報告が司馬懿にもたらされた。

 司馬懿は参謀数人と宛の兵を引き連れて、現場へと向かった。

 そこには日に焼けた立派な体躯の男がいた。

 おまえは誰だ。何をしている、と兵が男に強い語気で尋ねた。

 男は平伏したが、そのとき手に持っていた書簡が落ちて広がった。

 その書簡には、この周辺の地形と、そこにどのように軍営を敷くかが記されていた。

 参謀のひとりが息をのむ音が、司馬懿には聞こえた。

 書簡に記されていた図は、理に適っていた。

 そして、男の行っていることは戦争の準備行動に他ならない。細作か、と数人の参謀に緊張が走ったのだった。

 しかし、司馬懿には別の物が見えていた。

 司馬懿は、男の身元を尋ねた。

 男からは、自分は役人であるが、今は劉琦の御者をしているという答えが返ってきた。

 司馬懿はそれにひとつ頷くと、邪魔をしたな、と言って、引き上げようとした。

 それに参謀のひとりが、よいのですか、と尋ねるが、司馬懿は、あの陣はそういうものではない、と返した。

 だが、司馬懿の言葉は男の矜持を傷付けた。

「わ、私の陣立ての何が悪いというのだぁ!?」

 男は立ち上がり叫んだ。顔が怒りで歪んでいる。頭に血が上り、怒りが全てを支配し、我を忘れているようであった。

 これを司馬懿の失策であったと考えるのは些か酷であろう。男が人並外れた激情の人物であった。

 男の態度に兵たちの武器を握る力が強くなったが、司馬懿は冷静であった。

「始め、私たちは君を孫策が放った細作かと思ったが、君の書いた陣立てを見て誤解だったということに気が付いたのだ」

 司馬懿の言葉は典雅な響きを持っていた。

「私は陣立ての良し悪しを言っているのではない。君の陣は理に適ったものだが、明確な陣営の色がない」

 司馬懿は孫策陣営と言ったが、内心ではその他の陣営も思い浮かべていた。曹操や劉表である。

 曹操なら袁遺に勝利をした後を見据えて調査している可能性があり、劉表なら後の関係悪化を考慮して、いつでも宛を取り返せる用意はしている可能性があった。

 しかし、曹操との対決を決意していることは袁遺の体裁上、秘密であるし、同様に現在の友好関係を四海に示さなければならないことを考えれば、劉表を疑っているとは口にすべきではない。

 そのため、司馬懿は孫策の名のみを出したのだった。

 だが、孫策にしろ、曹操にしろ、劉表にしろ、男が書いたような陣を敷いて宛を攻撃する必要がない。

 孫策ならば、彼女が荊州に攻め入るなら江夏方面からであり、宛や新野周辺を調べるにしても、わざわざ軍営を敷くための図など書くことはない。

 曹操軍ならば、宛は―――袁遺がそうしたように―――劉表との外交によって手中に収めるはずであった。

 そして劉表であるが、劉表軍の主力は水軍であり水陸両軍の連携が重要である。となると軍営はもっと淯水(いくすい)付近に敷くことになる。

 そのことから、男の書いた軍営は理に適った素晴らしいものであるが実戦的というより、趣味的、修練的なものである。

 だから、司馬懿は男を細作でないと断じたのだった。

 男が発していた激しい怒気が、一瞬で霧散した。その表情も先程まで怒りで歪んでいたことが嘘であるようだった。

 それに司馬懿は、ほう、と感心した。冷静であると思い、さらに言葉を交わしたくなった。

「もう少し陣立てを見せてもらえないだろうか?」

 司馬懿が尋ねると、男は首を縦に振った。

 司馬懿は、参謀部に命じた。

「もう少し、宛の南西を調べておきたい」

 そして、調査にむかった参謀部の中に激情家の男が混じることになった。

 調査の間、男の日に焼けた顔には子供のような輝きが浮かんでいた。

 袁遺という異物のせいで異常なまでに発達した参謀部である。男の戦術家としての好奇心が強く刺激されたのだ。

 司馬懿はそんな男に、この地形をどう見ると、尋ね。ときには、いくつかの戦略的な条件を付けくわえて、男を試すとも、導くともした。

 男から返ってくる答えは、どれも理に適っていた。そして、男は決して机上だけの狭い視野の持ち主ではなく、作戦レベル、戦略レベルで物事を考えることができる人物であった。

 司馬懿は男の能力の高く評価しながらも、一点どうしても気になる面があった。

 男の言葉の端々に野心を感じるのだった。

 つまりは、都からやってきた司馬懿に自身の才能を示し、出世の足掛かりにしようとしている。

 それはいいだろうと、司馬懿は思う。才能に見合う野心を抱くことを攻められる筋合いはない。

 しかし、司馬懿が感じる男の性格は難物だった。

 才能に付随する傲岸さを感じる。純粋なところもあるが、それは同時に無神経さの表れでもある。忍耐強さもあるが、それは強情さによって支えられた意志力である。

 人付き合いという点において、それらは障害でしかない。

 性格が歪んでいる。司馬懿は思った。

 性格面の歪みは、彼の主であり親友である袁遺も持っているが、袁遺はどうしようもない面倒くささを宿すものの同時に人格者の面も持ち、なおかつそれを自覚しているため、意図的に社交性を損なわないようにしている。また、名士として儒教的徳が要求されるという問題から袁遺は徹底的な擬態を行っているため、性格の歪みを知っているのは彼と近しい一部の人間だけである。

 だが、この男はどうだ。

 激情家、能力に裏付けされているが人からの反感を買いそうな自信、先程に見た劉琦とは正反対だ。自身の能力を信じて、道を開こうとする。悪いことではない。だが、白起や韓信の最後を思えば、この吃音症の男の有能さは彼自身を傷付ける有能さであろう。

 司馬懿が男の有能さとその危うさを考えているのは、彼の能力を買って掾(属官)として中央に招こうと考えているからだった。

「……君は、どのくらい出世したいのだ?」

 司馬懿は、ポツリと尋ねた。

「しょ、将軍に。い、一軍を率いる将軍に」

 答えた男の顔は輝いていた。

 希望というより野心だな。司馬懿は思った。

 そんな司馬懿に男は続けた。

「も、もし、将軍にしていただけるなら、私は火の中に飛び込めと言われても従いましょう」

 その言葉に司馬懿は、顔に僅かに悲しみの色を宿して口を開いた。

「いや、君はそうならぬことを願っているべきだ」

 男は司馬懿の言葉に呆けた顔を返した。その意味を分かっていない様子であった。

「まあ、追々、分かっていけばいい。とりあえずは、君を掾として洛陽に招こう。いいかな?」

「は、はいッ!」

 その後、司馬懿は蒯越に、

「御長男の御者をしている吏を掾として、洛陽に召喚したいのです。よろしいでしょうか?」

 と尋ねた。

「……よろしいですが、御者はどのような人物であったでしょうか?」

 蒯越は司馬懿に尋ねた。蒯越の言葉にはほんの僅かに困惑の響きがあった。

 それに司馬懿は、彼です、と男を示した。

 男は蒯越の前で拝跪して、口を開いた。

「と、鄧艾、字は士載であります」

 

 

8 司馬仲達

 

 

 宛を発つ前、仲達は県令である姉の司馬朗を訪ねた。

「姉さん、いろいろお世話になりました。私たちは洛陽へと発ちます」

「仲達、体に気を付けなさい」

 司馬朗は弟に優し気な声で言った。

 司馬朗の容姿は整っていた。肩で揃えられた繊細な黒髪。弟や妹の面影がみられる垂れ気味の目には練られた精神性を教える輝きがある。

「それと、張さんにもよろしく。特に体を大事にしなければいけないときですから」

「はい、姉さん」

 仲達は、品良く微笑んだ。

 その様子に司馬朗も温かな微笑を浮かべるも、すぐに真剣な顔をして弟のことを真っすぐに見つめた。

「仲達、ずっと聞いてみたかったことがあったの……」

「何ですか、姉さん」

 仲達の声は素直な響きを持っていた。

「……どうして、あなたは伯業君に仕えようと思ったの?」

 

 

「愛国という感情が、この天下に実在したことが」

 司隷河内郡温県、司馬家の私有地、その貯水池につきだす様に建設された四阿で司馬懿は父親の喪が明けた袁遺と久方ぶりに再会を果たした。

 それは晩夏ながら暑さが和らがない年だった。

「ほぉ……つまり、君には愛国という感情がないと」

 袁遺の声には司馬懿を非難する色は一切なかった。

「では、何があるのかな?」

 しかし、司馬懿は友人の声色から剣呑さを感じずにはいられなかった。狂気一歩手前のものがそこにはある。

「一言で表すには、どんな言葉がいいかな……儒教精神に基づく名士としての責任を果たす、そんな感じなんだけどな」

「経世済民」

「世を(おさ)め、民を(すく)う。なるほど、それはいい」

 司馬懿が言った。あるかないかの品の良い微笑を浮かべている。

 『経世済民』―――世を経営し、民を救済する。その言葉が歴史に記されたのは東晋の頃、葛洪の『抱朴子』の中であるが、経世という言葉も、済民という言葉も、それ以前から存在する。

 この袁遺の言う漢王朝を救うと、司馬懿の考える経世には大きな隔たりがある。

 名士は郷里社会の指導者という側面を持つ、世の乱れは郷里社会にとって害でしかない。

 だから、郷里社会の構成員―――民は指導者に世の平穏を求める。そして、指導者はその求めに応じ、指導者たることを示さなければならない。

 経世のために名士たちは、乱世を治めるに足る人物に力を貸す。

 これは例えば、修身・斉家・治国・平天下といった儒教的道徳観のみの行動ではない。政治力学や名分論も大きく絡んでいる。

 だが、真にその根底にあるのは『家』である。郷里社会の指導者という立場を維持し、それを子に繋げ、家の祭祀を保つ。名士(そして、後の士大夫層)が最も重視することである。

 袁遺の視線は司馬懿に注がれていた。

 そしてまた司馬懿も、親友の小石を思わせる小さく無機質な瞳の中にいる自分を見つけていた。

「……官職にも就かず、半ば隠者となっている私の言うことだから、信じていないかな」

 司馬懿の声は穏やかであった。

「そうではない。まあ、現状は汚職はあるが、乱世であると言えないからな……」

 袁遺は言葉を濁した。

 迷いだ、と司馬懿は思った。伯業には迷いがある。

 司馬懿も袁遺が自分に会いに来た理由を今は察している。

 名士たちが乱世を治めるに足る人物に力を貸したとき、その人物は名士たちの中心人物として名士の利益を守る存在にならなければならない。

 袁遺はまず、その中心人物にならなければならない。名士たちから協力なくしては、彼の立場を安定させることはできない。

 しかし、袁遺と名士たちは必ず衝突することになる。

 司馬懿は袁遺の能力に確信に近いものを持っている。彼ならば必ず望んだ地位まで駆け上がる。そして、今、宣言したように給田法の施行、戸籍の再編、官制の改革を行うだろう。

 だが、それは名士たちの権益を削ることである。

 名士たちは袁遺を間違いなく見限る。

 そのとき、司馬懿がその後の中心人物になると考え、さらに中心人物となり自分と対決すると感じて、司馬懿に会いに来たのだった。

 だがしかし、袁遺は友情と妄執に似た愛国の間を彷徨っている。

 今日、伯業に会えて本当に良かった。司馬懿は心の底から思った。今の様に郷里に籠っていれば否応なしに袁伯業という強大な力に押し潰されるだけだ。

 仲達の中には、名士たちの中心になる気も、袁遺と対決しようという思いもなかった。袁遺が司馬懿を高く評価するように、司馬懿もまた袁遺を自分では敵わないと思うほど高く評価している。

「では、私が君に仕えたいと言えば、私の言葉が本心だと証明できるだろうか?」

「仲達……」

 袁遺の顔には日頃の無感情さがなく、困惑の色が広がっていた。

 司馬懿はそんな様子にかまわず、袁遺と向き直り、姿勢を正して口を開いた。

「袁公、私は本心より申したのです。犬馬の労をも厭いません」

 そして、深々と頭を下げた。

 たとえ袁遺の表情が見えずとも、司馬懿は袁遺の中で行われている計算と葛藤が手に取るように分かった。

 伯業、君は私の言う、君の表現を借りるなら経世済民と君のやることが究極的に相反することだと知りながらも、君に仕官しようとしている私を訝しんでいるだろう。だが同時に、わざわざ私の郷里まで会いに来るほど警戒している私の有用さについても考えて、利害得失の勘定を行ってもいるはずだ。それなら―――

「……先生、頭を上げてください」

 畏まった声が司馬懿の頭上に降り注いだ。

 それに応じて、司馬懿は頭を上げる。声の主である袁遺は無表情な顔をしていた。しかし声は真剣そのものだった。

「私は天下に大義を示そうにも、非力で、徳が浅い愚か者でございます。どうか、先生のお力で蒙を開いていただきたい」

 今度は袁遺が頓首した。

 この国で古来より繰り広げられてきた賢人と、それを迎える主人のやり取りである。

 そして、司馬懿にとって生き残るための重要な鍵であった。

 袁遺の儒教観は確かに歪んでいるが、それでも秩序化を図るに礼を重んじている。

 そのことから司馬懿は、臣下の礼を取り、袁遺第一の功臣にして忠臣という評判を内外から集める。そして、出現した朝敵を討ち果たした後で、袁遺に兵と指揮権を返上して隠居を願い出るつもりであった。

 少なくとも、今の―――古来よりの礼を守り自分に額づいている―――袁遺なら兵を取り上げる代わりに財物を与えて、隠居を許すだろう。

 そうすれば司馬懿と似た様な立場である、袁遺の下についた部曲(私兵)を多く抱える名士たちも自然と司馬懿に倣わざる得ない。

 結果、袁遺は望んでいた名士たちの力を削ることができ、司馬懿も身の安全が買えるのであった。

 何故なら、袁遺は兵権を失った名士たちを安心させる必要がある。それなのに最初に兵権を返上した司馬懿を粛清しては―――次は自分の番ではないのかと―――名士たちの不安を煽ることである。

 国や地方を動かす官吏の供給源、その最も大きなパイを占めるのが名士たちということは事実である。だから、袁遺は名士たちと対立し続けるわけにもいかない。妥協点を探らなければいけないのだ。その妥協点こそが司馬懿の身を守るものであった。

「我が君」

 司馬懿は袁遺を抱き起した。それから改めて臣下の礼を取った。

「どうか大業をなしてください。臣も、己が力を必死に尽くします」

 袁遺も姿勢を正して、それに応えた。

「私が大業をなしたときは、必ず先生の忠心に報いてみせます」

 このとき交わした言葉の軽重を、司馬懿は知ることができなかった。

 私は本当に伯業の目的のために自分の全てをかけられるのか? 伯業は将来も今と変わらないのか? 私たちは戦わずに済むのか? 今、私たちが口にしている言葉は所詮、薄汚い政治的欺瞞に過ぎないのではないか? 政治、その言葉さえ付けば、あらゆる非情、あらゆる非道が棚上げされ、自身が肯定されると思い込んでいる下種に、私たちはなってしまったのではないのか?

 迷いだ。司馬懿は思った。私も伯業と同じで迷っている。

 思考を多面的、相対的に行う司馬懿には、この迷うということが珍しかった。

 袁遺がそうである様に、彼にとっても袁伯業とは特別な友人であるのだった。

 

 

 仲達は、あの晩夏の暑さを感じたような気がした。

「理由はいろいろあります。一言で言い表せませんが、一番の理由は私と伯業は百年生きても一度巡り合えるかどうかの知音であったからです」

 仲達は誤魔化した。

 姉も、弟が全てを語ることを憚っている心情を読み取り、それ以上の言及を避けた。

 しかし、仲達が袁遺のことを親友だと思っていることは事実であった。

 そして、敵が友であることは両立することも事実である。互いに互いのことを深く知り合っているからこそ強敵になり得るのだった。

 仲達は未だ確信が持てていなかった。百年生きても巡り合えるかどうかの知音が、千載に一遇の強敵にもなってしまうのかを。

 あれから月日が流れたが、今でも仲達は名士の中心となって袁遺と対決するなど、ごめんであった。袁遺と戦って勝ち、その後、名士たちの権益拡大のために陰謀を巡らし続ける。そんな未来など、想像しただけでも震えがくるほどの不快感を感じた。

 だが、仲達は死にたくない。都にいる妻と生まれてくる子供を、厳格な年老いた父を、目の前の心優しい姉を、聡明な妹たちを、家族を死なせたくない。

「姉さん」

 仲達は司馬朗を正面から見据えて、口を開いた。

「私はもう行きます。姉さんも体にはお気をつけて」

 彼の表情は普段と何ら変わりない、嫌みのない品の良いものだった。

 

 

「お久しぶりです。その後はいかがでしょうか? 何かお困りのことはないでしょうか?」

 同僚である司馬懿の妻であり、かつて袁遺が謹慎中にお世話になっていた張春華が懐妊したことを知らされた雛里は、すぐに主の袁遺と共に祝いの品を下げて司馬懿邸を訪れて言祝いだ。

 それ以来、仕事が忙しくて春華を訪ねてはいなかったが、彼女の夫の司馬懿が荊州へと旅立って家を長い間あけているため不安ではないかと思い、ちょうど時間に余裕ができたので、土産を見繕って司馬懿邸へと向かったのだった。

 春華は柔らかな笑み浮かべながら雛里を出迎えた。そして、雛里が差し出した土産にも丁寧に礼を言った。

「お優しいお心遣い、ありがとうございます。皆様のおかげで、健やかに日々を過ごせています」

 春華は使用人に命じて、お茶の準備をさせた。その若い女性の使用人を雛里は初めて見た。

 それからふたりは、他人が聞いたら他愛無いと思う話をした。しかし彼女たちからすれば、それは貴重な時間であった。

「袁将軍も、夫が荊州に旅立った日から、着物や珍しい果物など大変な品を毎日欠かさずに人に届けさせてくれます」

 彼女は恐縮しているようであった。

 それを聞いたとき、雛里は主の悪癖が出たと思った。

 袁遺は過度に吝嗇と思われるのを嫌う悪癖がある。となると、その贈り物の価値や量は推して知るべしだった。

「ですが、少し懐かしくもなりました。私が司馬家に嫁いだときも、あの方は司馬家よりも、私の実家よりも多くの祝いの品を持ってきてくれました。名門である袁家の力を誇示しているのかと初めは思いましたが、礼を失してしまったかと、あの無表情の顔を崩して夫の前で小さくなったのを思い出しました」

「伯業様にはありますよね。そういうところ」

 小さく笑った春華につられるように、雛里も小さく笑った。

 

 

 春華はまだ膨らんではいないお腹を撫でていた。まるで今の話をそこで育っている子供に聞かせている様だった。父とその一番の親友の話を。

 




補足

・鈀
 鈀はT字状の武器である。その柄頭には九~一二本の鉄製の突起物が付けられている。
 元々は中国の南北朝時代(四二〇~五八九年)にできたとされている農具であり、その用途は地面をならしたり、藁や稲の穂を集めるためのものであった。
 しかし、明代に倭寇との戦いで、船体にとりついた敵を叩き落すのに有効であったため武器として使用されることになる。
 もちろん、この後漢末期にはない農具、武器であるが、青龍偃月刀しかり、蛇矛しかり、明代の武器がよく登場するという『三国志演義』特有のお約束に基づいて登場させた。
 そして、最初の経歴が農政家から始まった鄧艾の武器をそれにした。まあ、マッセナが石鹸カッターを持っているみたいなものである。

・修身・斉家・治国・平天下
 身を修め、家をととのえ、国を治めて、天下を平和にする。『礼記』大学の一節。
 つまり、天下を平和にするには、知識人たち、ひとりひとりの言動から気を付けろということ。


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短めです。


9 直前

 

 

 オルドスを巻くように黄土台地を浸食しながら南下する黄河は、渭水と合流すると直角に東へ折れ曲がる。

 この黄河が東へと流れを変えた辺りにかつて函谷関があり、その以西を関中と呼んだ。

 だが、都が洛陽へと移されると函谷関の名は穀城県にある関に移された。その地形は左右は一〇丈(約一八メートル)にもなる絶壁となっており、車一台がようやく通れる幅しかないという防衛するには最適なものである。

 その函谷関を越えた新安の地で、袁遺軍の訓練が行われていた。

 袁紹勢力の消滅後、晋陽周辺に割拠した張燕とその配下の黒山賊は袁遺に降伏した。そして、袁遺は黒山賊を関中の地に移住させ、その中で兵士の適性があった者をこの地に集め、軍事訓練を施したのだった。

 そこに司馬懿が参謀団を連れて乗り込んできた。彼は、宛から劉琦たちを連れて洛陽に帰還した後すぐに、袁遺に命じられて訓練地へと向かった。

 司馬懿が袁遺から命じられたのは軍の動員であった。ここに駐屯している一〇万の兵を洛陽に移動させ、作戦目的に適した様に編成する。

 余談になるが、これは後の近代軍隊に必要不可欠である要素―――ある規準を以て編成された部隊を国家が管理して軍事力の有効活用をはかる―――であり、この種の軍事システムが本格的に運用されたのは世界史を見渡しても一八世紀以降である。袁遺は意図していなかったが、彼が必要とする軍の機動性や柔軟性を追求した結果によって生じた偶然の産物であった。

 もっとも、その偶然の産物の近代的軍隊が袁紹と彼女に従った豪族とその私兵というような封建的な軍隊組織に勝ったというのは近代軍事史でよく見られた構図でもある。

 しかし、近代国家の軍隊の兵士に必要な愛国心(あるいは自分が所属する共同体に対する帰属意識)に類するものを元黒山賊は持ち合わせていない。彼らは袁遺という巨大な軍才に従っているのである。

 この事実が袁遺の後半生に自己矛盾を起こさせ、その矛盾を解消しようとさらに歪んだ自己矛盾に陥らせることになるのだが、それはあまりにも本筋から脱線するので話を元に戻す。

 新安に到着した司馬懿は、まずは訓練の成果をその目で確かめ、その後で諸将を集めた。

「袁将軍から、洛陽へと移動するように命令が下されました」

 司馬懿が言った。

 それを聞いた諸将は、司馬懿の言葉の奥にある意味を察した。袁遺、もしくは敵は戦端を開こうとしている。

 諸将の雰囲気があからさまに変わった。誰もが開戦に精神を高ぶらせているという風ではない。この中で最も好戦的である華雄でさえ、顔をしかめた。

「軍師殿」

 張郃が、まるで皆を代表するように口を開いた。その声色は硬かった。

「率直に申し上げます。兵の練度は袁将軍の望む水準には達したと確信していますが、敵を選ばないと言えるほどのものではありません」

 張郃は言葉を濁したが、司馬懿は張郃が何を言わんとしているか理解できた。

 曹操と戦端を開くことは袁遺の体裁の関係で秘匿されていることである。そのため、張郃はあえて曹操と明言することを避けたのだった。

 そして、張郃が言いたいのは、匪賊程度や数で圧倒的に勝っている孫策軍ならともかく、数ではほぼ互角かつ質では圧倒的に負けている曹操軍を相手にするのは問題外であるということだった。

「……華将軍、将軍の意見を聞かせてもらえますか?」

 司馬懿は華雄に水を向けた。

 この中で最も袁遺に対して好意的ではなく、かつ好戦的で御しにくいのが華雄である。そんな華雄の反応を司馬懿は知りたかった

 華雄は、ふんと鼻を鳴らしぞんざいな態度で答えた。

「今の状態で戦うなら、私ひとりで戦った方がマシだ」

 それに司馬懿は丁寧に礼を言い、張郃に話を向けた。

「張校尉。それならば、徐州遠征を再現できますか? この一〇万の兵たちに一日六六里(三三キロ)を駆けさせることができますか?」

「伯業様の望む水準には達したと、私は言いました、軍師殿」

 袁遺配下の将校たちに決して好意的に思われていない、それを表す様な答えが司馬懿に返ってきた。

「分かりました。袁将軍は運動戦で全てを解決すると考えています。兵の質の差は、軍の機動と野戦築城で補うでしょう」

「軍の機動……」

 諸将の誰かが呟いた。

 声はひとつであったが、全員の脳内に冀州での戦いが蘇っていた。

 その中で、袁遺の直属の配下は思った。あの主なら兵の質をひっくり返す、と。

 それに対して、袁遺を好意的に思っていない者―――華雄は露骨に不快感を表に出した。彼女は冀州での戦略を臆病者のそれと批評していたし、冀州から帰ってきてからも何かと袁遺を罵倒している。今回もまた小細工を弄すのか、と内心で吐き捨てていた。

 ふたつの反応の中で司馬懿は指示を飛ばした。

「そのためには、ここの一〇万の兵を洛陽へと移す必要があります。ここまでの道中で手配りの大半を済ましてきました。第一陣は張将軍の隊から、次に陳校尉―――」

 まずは隘路である函谷関を出なければいけない。その後に、分進して各隊が洛陽を目指す。

 各部隊は後代の言葉で言うなら、増強旅団(約九〇〇〇名)にあたる。その規模の部隊を複数、遠距離で運用が可能なことは袁遺の軍にしかない強みであった。

 一〇万の軍が東進を開始した。

 しかし、その動きは曹操に一歩遅れたものであった。

 

 

 なるほど、確かに何かある。

 自分が放った細作から上がってきた報告に目を通したとき、袁隗はそう思った。

 彼の手元には三人の旅芸人の軌跡があった。

 司馬懿が怪訝に思った、黄巾賊の残党一〇〇万の前に現れたという三人の女歌手を細作を使って調べ出したのは袁遺が冀州より凱旋した後からであったが、それでも多くの情報が集まった。

 何しろやっていることが目立つのだ。観衆の前で踊って歌う。人気もあるようで、かなりの人も集まる。

 彼女たちの活動範囲には確かに奇妙なところがあった。

 陳留周辺から兗州全体に、そして冀州へと、まるで曹操の勢力圏の拡大と同じ様に広がっていた。

 間違いなく曹操と無関係ではない。曹操が組織した民に娯楽を与え不満の解消、兵の慰問を目的とした芸能集団だろうと、袁隗は直感していた。

 そんな芸能集団が張角の仇を取るために猛った黄巾の残党一〇〇万を止められるとは思えない。

 おそらくは黄巾党の重要人物であったのではないか、ならば使えると、袁隗は考えた。

 彼も甥の袁遺と同様に、名分もなく曹操を攻め滅ぼせば声望が地に落ちることを理解している。何か口実を見つけるか、曹操に手を出させなければならない。その点で、彼と甥は曹操に手を出させることを選んだ。

 こちらが件の三人組を疑っていることを匂わせれば、彼女たちが曹操にとって探られて痛い腹なら過敏反応を起こすはずだった。袁隗の見るところ、袁遺が過大評価気味に曹操のことを有能だと思っているが、曹操もまた袁遺に一目を置いている。だから、この三人の存在が公にできないものであった場合、袁遺がそのことに気付いたと暴発して、全てを有耶無耶にするために戦争に雪崩れ込むはずであった。

 そうなれば、後は戦争に袁遺が勝つだけであった。

 だがしかし、この調査の報告を聞かされた袁遺の反応は些か鈍いものだった。

「わしの読みは外れているか?」

 袁隗が尋ねた。

「……いえ、間違いなく叔父上の読み通りに事は運ぶでしょう。彼女は、ともかく戦いたがっていますから……」

「では、なんだ? 何がある?」

 袁隗の口調には詰問でもする様な厳しいものがあった。彼は自分の甥が何か企んでいることを察したのだった。

「率直に言いますと、曹孟徳の裁断権をいただきたいのです」

 袁遺の言葉を聞いたとき、袁隗の眉がほんの一瞬、不快そうに動いた。

 そして、袁隗は平坦な発音で言葉を吐き出した。

「訳を言え」

「七〇日以上、司隷東部近辺が戦場になれば、漢王朝と兗州・冀州の両方の資金が干上がることは以前に説明しましたね」

「言った」

 袁隗が鼻を鳴らす様に応じた。

「曹孟徳も間違いなく、そのことには気が付いています。私には彼女を打ち倒す算段は付いていますが、唯一どうしようもないのはこの点なのです」

「……勝てるが、七〇日以上かかると?」

「いいえ、私の思惑通りにいけば、一五日以内に勝てます。ですが、勝ち目がないと彼女が悟り、なりふり構わずに籠城で時間を稼がれた場合は七〇日が経つかもしれません。そうなる前に降伏を促す必要が出てきます」

「つまりは曹操が腹いせに、こちらを道連れに破滅させると?」

「十中八九はあり得ません。彼女は自分の美意識に殉じるでしょう。ですが、追い詰められた人間を信じることは、私にはできません。万が一があり得ます」

 袁隗の質問に袁遺は間髪入れずに答えた。

 しかし、甥の言葉が果たして本心から出ているのか袁隗は迷った。おそらく真実も含まれているだろうが、曹操の裁断権を欲して持ち出してきた言い分であろう。

 と同時に、袁遺の言は傲慢甚だしいものだった。

 袁遺の立場は曹操の推挙人にも等しい。彼が曹操との協調路線に舵を切ったからこそ、反董卓連合に参加した曹操は兗州牧や建徳将軍へと上り、通常の人臣が昇り得る最高の爵位である列候にまでなったのだ。

 だが、曹操が間違いなくこちらに牙を剥きつつある。

 推挙人は推挙した人物が何らかの失敗や問題を起こした場合、責任を取らされる。となると、袁遺はそういう立場にある。

 本来なら袁遺は速やかに曹操を打倒し、戦いの終結と曹操の頸を以て自身の不明を詫び、許しを請わなければならないのだ。裁断権を寄こせなど傲慢以外の何物でもない。

 袁隗の胸の内を透かした様に袁遺は口を開いた。

「叔父上。もちろん、私は責任を逃れようなどとは考えていません。曹孟徳に勝った後で、私のことを罷免してください」

 袁遺の無機質な瞳が袁隗を真っすぐ捉えていた。

「位階、勲等を取り上げ、庶民の身に落としてください」

 名士(そして、後の士大夫層)にとって、庶人に落とされるということは最大級の屈辱であった。

「……傲慢だな、伯業」

 袁隗は不機嫌さを隠さずに続けた。

 袁隗の不機嫌の根本は考えたくないことを考えたからだった。

 彼の頭脳はすぐさま計算を始めた。

 現在の状況を考えれば、袁遺を罷免するのは危険極まりなかった。あまりにも予断ならない南の情勢が、かろうじて安定しているのは袁遺の軍才あってこそである。罷免したところで間を置かず、すぐに復帰することが目に見えている。袁遺自身もそれを確信して罷免しろと言い出したのだ。傲慢極まりない。

 そんなことは誰でも分かると続けてから、袁隗、彼の知性の高さ故の諧謔性がある事実に気付いたのだった。自分たちが皇帝と戴いている人物こそが、その誰にでも分かることが分からない人物であるということに。

 これ以上は不敬に当たる、と反射的かつ無意識に袁隗は思考を停止した。

 そして、計算の再開と、その方向性の転換のために感じた不快感をその外に吐き出した結果の言葉であった。

「…………分かった。曹操の裁断権は何とかしよう」

 間を置いて、袁隗は重々しく口を開いた。

「司空の方は問題ないだろう。お前を危ういほど信用している。賈駆も司空に任せよう。他の有力な名士はわしが何とかする」

「ありがとうございます」

 袁遺は頭を下げた。

「だが、お前は罷免されることになるぞ」

「当然ですね」

「ただし、お前の持っている仮節鉞はそのままだ」

「なるほど……」

 仮節鉞とは仮節と仮黄鉞のふたつからなる。

 仮節の『節』とは旗のことであり軍律違反者への執行権を表し、仮黄鉞の『黄鉞』とは(まさかり)のことであり軍事上における独断行動権を表す。そして、そのふたつの頭に付く『仮』とは、本来ならこのふたつの権限は皇帝が持つものであるが、それを一時的に皇帝から借りるという意味がある。

 このふたつは袁遺が冀州侵攻に際して与えられ、馬超と曹操を指揮する法的根拠となっていた。

 つまり、後将軍という肩書はなくなるが指揮権はなくならないという奇妙な状態に袁遺は置かれることになる。

 これは南で軍事的異変が起こった場合でも、袁遺をすぐに軍司令官として状況に介入できる余地を残したのだった。

「恥知らずなことですがもう一点、司馬懿にも仮節鉞が陛下から賜れますよう取り計らってください。曹孟徳との戦いでは、彼の別動隊の働きが戦局を決するはずです」

 甥の言葉を聞いた袁隗は、ふんと鼻を鳴らした。

 袁遺はそれを肯定と受け取った。

「……勝算はあるのだな? いや、お前は勝算があるから戦うのだな」

 袁隗が言った。その声は険が取れた、諧謔味のあるものだった。

「はい、そうです。そしておそらく、曹都督も同じことを考えていますよ。必ず勝つ、と」

「なるほど、戦いがなくならないわけだ。どちらも戦えば勝てると思っているのではな」

 

 

 事実は袁隗と袁遺の予想の斜め上をいった。

 彼らが不信に思った女芸人たちが、まさか黄巾党の首魁とされていた張角とその妹たちであるという可能性など全く追っていなかったのである。

 袁隗と袁遺があわよくば開戦の口実になる程度の認識で突いたそれが、露見すれば曹操にとって致命的なものだったとは、いくら彼らが有能であっても予想のしようがない。

 だがしかし、袁隗と袁遺の目論見は一応の成功を得る。

 何故なら、曹操の戦意は弓から放たれた矢の様に袁遺という的を射ぬくだけという段階にあったからだ。

 袁遺と袁隗が上記の密談を交わしていたとき、司馬懿が函谷関を越えて新安を目指している途上であった。

 同じ頃、曹操―――華琳は冀州の鄴で、(陳留に残してきた以外の)将や軍師の前で作戦計画を伝えていた。

「全軍を挙げて司隷東部を早期に突破して、袁遺が小細工を弄する前に決戦を強要する」

 華琳の持つ、美意識、戦争観、そして袁遺への思いが軍事行動として結晶化したような作戦計画であった。

「そして、袁遺を倒し、洛陽を押え、天下に我が曹の旗をなびかせる!」

 強い言葉であった。これは作戦計画ではなく、諸将を奮い立たせるために用いたものだった。

 無論のこと効果は抜群だった。華琳に天下を、太平の世を見ている将たちは示し合わせた様に歓喜の呻きを漏らした。

 この力強い宣言の直後から、曹操軍の攻勢作戦が開始され、袁隗がその手勢を使って流した―――洛陽が兗州、冀州で活躍している歌芸人を怪しんでいるという―――噂が、華琳の耳に届いた頃には、曹操軍は華琳の号令の下で司隷東部に進軍するところまで来ていた。

 だから華琳は、

「そう……張三姉妹に気付いたのは流石ね。だけど、もう遅いわ」

 と、意に介さなかった。

 彼女にとって、そんなことはどうでもよかった。

 冀州から帰ってきて袁遺に脅威を感じたことも、孫策のことも、自分が理想と信じる覇王として天下に武威を示すことさえもどうでもよかった。

 華琳の中にはただ喜びがあった。

 彼女はずっと待っていた。袁遺と戦うときを。そして、勝ち、屈服させるときを。

 華琳の胸が昂った。昂りは、号令を待ち居並ぶ五万の軍を目の当たりすると否応もなく増す。

「聞け、三軍の兵たちよ!」

 その昂りを吐き出すように、華琳は叫んだ。覇気に満ち溢れた声だった。

「この戦いは、我が存亡を決するに非ず! お前たちの栄辱を決める戦でもない!」

 華琳は言葉を切った。

 兵たちは主君から出るであろう次の言葉をしわぶきひとつせず待っていた

「これから先、一〇〇年の歴史を決める戦いである!」

 華琳は―――彼女の愛用の武器である戦鎌―――絶を掲げる。

 それに呼応するように兵たちも剣を、槍を、戟を掲げた。

「出陣の軍鼓を鳴らせ! 総員、出立せよ! 我らが威光を地の果てまで轟かせるのだ」

 連打される軍鼓の響き。兵たちの喊声。軍馬の嘶き。華琳はそれらを一身に受ける高揚感の中で、愛しい恋人に囁く様に、甘く優し気な声で言った。

「征くわよ、伯業」

 

 

 袁遺、曹操という共に有能な戦争指導者に率いられた両軍の接触の前に、このふたつの勢力が行った兵力動員とその配備を俯瞰的な視野で眺めておく必要がある。

 何故なら、それらは彼らが置かれている状況に対して可能な限り努力を払った結果であり、袁遺と曹操の戦争観が色濃く表れるからである。

 まずは曹操陣営から始める。

 曹操軍はふたつに分かれている。

 冀州の鄴から出発する曹操が率いる本軍と、兗州の陳留から出立する荀彧が総指揮を執る支軍のふたつである。兵力は両軍ともに五万。

 曹操軍の作戦目的は決戦での袁遺軍主力の殲滅。

 作戦目的を達成するために、本軍および支軍の当面の方針は以下のようになる。

 1、本軍は迅速に司隷へと侵攻。

 2、支軍は現状、唯一展開している袁遺軍の呂布隊の無力化。

 3、陽武、原武に存在する主要交通路の突破および確保。

 4、巻近辺での両軍の合流。

 

 曹操軍の編成は以下の通り

 本軍

 総兵力五万(実戦要員三万八〇〇〇 兵站等の非戦闘部隊一万二〇〇〇)

 大将   曹操

 軍師   郭嘉

      程昱

 実戦指揮 夏候惇

      許褚(大将護衛兵力)

      楽進

      于禁

 

 支軍

 総兵力五万(実戦要員三万五〇〇〇 兵站等の非戦闘部隊一万五〇〇〇)

 大将   荀彧

 実戦指揮 夏侯淵

      典韋

      李典

 

 これに対して袁遺軍の状況は次の通りである。

 袁遺の動員は曹操軍に比べて大幅に遅れている。唯一、中牟県の呂布隊が出撃可能であった。

 作戦目的は曹操勢力の誘出撃滅。

 そして、当面の方針は以下の通りになる。

 1、可及的速やかな兵力動員。

 2、呂布隊は遅滞戦闘を行い敵を防衛担当地域に足止めする。

 

 袁遺軍の現状の編成は以下の通り

 呂布隊

 総兵力二万二〇〇〇

 

 隊長   呂布

 軍師   陳宮(実質の総指揮官)

 麾下武将 王平

 

 この中牟県の呂布隊以外の編成は行われてはいないが、動員可能な残り兵数は一〇万であるため兵数の上では袁遺軍は曹操軍を上回っている。

 だがしかし、曹操とその軍師たちの計画した袁遺の準備が整う前の奇襲的先制攻撃は達成できたと言っても過言ではない。

 つまるところ、名士間の声望のために曹操に先制を許した袁遺と、その声望を力によって獲得しようとする曹操であり、そうであるが故に、曹操は正面から決戦で袁遺を叩き潰すことを選び、袁遺は運動戦で相手の意図を挫き、こちらの意図をより多く達成して相対的有利を築くことを選んだ。

 それは彼らの置かれた状況や戦争観のみならず、性格に起因する割合も少なくなかった。

 曹操は自身の能力の高さと気高い精神性から、自身が認めた相手との戦いを楽しむ性質がある。対して、袁遺は問題全てを常に原則化できるほど単純化して考える。それが如実に戦略に現れている。

 そして、戦争が勝利を目指して行われるなら、どちらが正しいのかはこれからの戦いが証明してくれるはずであった。

 

 

 袁遺と曹操の戦いの幕が上がった。

 




補足

 特になし。

 乙の章で使った司隷東部の地図を新しく作り直しました。例にも漏れず正確ではなく、大まかな位置を読者にイメージしやすいようにするのが目的です。ご了承ください。

【挿絵表示】


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10~11

10 驃騎将軍

 

 

 曹操が軍を起こしたことは袁遺の体面を傷付けることであった。

 そのことを表すような政争が洛陽にて一瞬だけ起こった。現状に不満を持つ名士たちが曹操討伐の主導権を取ろうと動いたのである。

 何もこんなときに、と言うのは間違いである。これは水が高い所から低い所に流れる様に、当然の政治力学であった。袁遺の力が小さくなれば、その小さくなった分だけ誰かの力が大きくなるというのは権力の自然現象である。

 だがしかし、救いはあった。弱体化した漢王朝の中にもまだ、最低限押さえるべきところは押さえている人材が残っていた。曹操の強さを恐れ、それに対抗できるのは袁遺しかいないという大局的な視野を持っている者たちである。そして、そんな彼らを取りまとめることができる袁隗がいたことである。

 袁隗は短時間で各派閥の折衝を行い、魔術的としか言えない手腕で甥に新たな栄達をもたらしてやった。

「袁遺を驃騎将軍に任じる」

 文官、武将が居並ぶ嘉徳殿に、皇帝の声が響いた。

 驃騎将軍、その位は三公に次ぎ、大将軍が外戚によって占められていた後漢からすれば、武官職の最高位と言ってもいい。

 皮肉なことだった。かつて袁遺のその巨大な才を警戒して最も品秩が低い県尉に就けた男が、今度はその才を頼って武官職の最高位に就くよう働きかけたのである。

 もっとも、袁隗と袁遺、双方には何のわだかまりもない。あのときは、そうした方が周囲が納得し便利であったからそうしておいたと、ある意味でプラグマティズム極まる考えであった。

 それに、袁遺はこの戦争の勝利と共に、その輝かしい役職は罷免されることになるため、彼にとってはそれほど喜ばしいことではなかった。

 そして、それを表すかのように、慌しく物寂しい任官となった。

 何しろ曹操はすでに軍を進めているのである。壇を設け、吉日を選び、上は大臣、将軍から下は吏、兵を堵列させて厳かに任命している時間はない。袁遺はすぐに召喚され、驃騎将軍の位が授けられたのだ。袁遺にしても、この時代の通例である一度それを断り、再度任官されたときに受けるといった礼節を行うこともできなかった。

「臣、謹んで拝命いたします」

 袁遺の声は無感動なものであった。

 皇帝は拝跪する袁遺に小さく頷くと、緊張した面持ちで唾を飲み込み口を開いた。

「袁遺に命を下す。乱を鎮めよ!」

「畏まりました」

 袁遺は平伏しながらも、皇帝・劉弁の微妙な言葉のニュアンスに気付いていた。どうやら、叔父上と董司空は俺の望み通りにやってくれたらしい。

 曹操を討て、ではなく、乱を鎮めよ。これは曹操に価値を見出した袁遺の意向が大きく働いた証左であった。

 後は、勝つだけだな。

 袁遺はいつもの無表情で思った。

 

 

「張将軍の部隊に大休止を命じろ!」

「陳校尉の部隊の編成が整いました!」

「孫徳達殿の部隊、ただいま参着!」

「高校尉より急使!」

 洛陽城外に張られた巨大な天幕の周りには幾つもの篝火が灯されていた。さらにその周りを姜維の手勢三〇〇〇が配置につき、緊急事態に備えている。そこへ東西から駆け込み、散っていく伝令の数は増える一方であった。袁遺軍の動員と情報収集が開始されていたのだった。

 天幕の中は、参謀たちによってある種の指揮センターが設置されていた。

 天幕の中央には巨大な机が置かれ、その上には大きな地図と無数の図表がある。出陣、到着した部隊があれば、それに対応した色付きの石が地図に置かれた。司隷東部の各地に蓄積された物資の量もすぐに参照できるようになっている。そういう風に、流れ込んでくる情報が次々と記録され、誰の目にも簡単にわかるようにしていくのだった。

 袁遺は驃騎将軍の任官式が終わると董卓、賈駆のふたりと共に、その天幕に合流した。

「状況は?」

 袁遺は参謀部を取り仕切っている自身の軍師である雛里に尋ねた。

「只今、集まった軍勢は三万九〇〇〇になります」

 その答えを受けて、董卓―――月は讃嘆の声を漏らした。賈駆にしても驚きが顔に出ていた。兵の動員は彼女たちの予想以上に順調であったのだ。

 ただし、参謀部を作り上げた男にとっては違った。袁遺にとってはそうなるように作った参謀部である。当然のことだった。

 事実、この情報処理・指揮センターというべき施設が機能を発揮しているからこそ、曹操軍に後れを取った兵力動員を巻き返しているのだった。

「五万までには、どれほどかかりそうだ?」

 袁遺が、常日頃の無表情で尋ねた。

「司馬懿さんがどれほど早く御手当なさるかによります。早ければ朝には、遅れれば……明後日までかかると思います」

 雛里が答えた。

「仲達は?」

 袁遺が再び尋ねた。

「まだです。御命令の通り、兵の動員の指揮を妹の季達(司馬馗)さんに任せて、こちらに合流するように伝令は送りましたが、未だ到着していません」

「うん、そうか。分かった」

 袁遺は視線を地図に移したが、図表と地図を見比べて情報を確認した後で突然、顔を上げて命じた。

「指揮は副将に任せるように言って、姜維を呼んで来い」

 しばらくして、姜維が不安そうな顔をしてやってきた。

「将軍、何か御不興を……」

「ああ、違う」

 袁遺はその冷たさを感じさせる顔に意識的な穏やかさを作って、天幕で作業する参謀たちを示しながら続けた。

「よく見て、学んでおけ」

「は、はいッ!」

 姜維―――若蘭は幼さを残した顔を紅潮させて返答した。

 いずれ彼女がここを動かすことになるやもしれない、という意味が込められた言葉だったのだ。

 そのとき、天幕の外がやにわに騒がしくなった。

 それを追いかけるように取り次ぎの声が聞こえた。

「司馬仲達殿、御参着!!」

 来たか、と袁遺は声に出さずに思った。

 天幕に入ってきた司馬懿は、真っすぐに袁遺の元に向かって来た。そして、拝跪しようとしたが、袁遺はそれを止めた。

「挨拶はいい。それよりどれくらいの手勢を連れてきた?」

「一万二〇〇〇。今は休止を命じてあります」

 事務をとるふりをしながら、ふたりのやりとりを見守っていた者たちからどよめきにも似た喜びの声が漏れた。

 袁遺は満足そうに頷くと続けた。

「仲達、俺は驃騎将軍になったよ」

「それは、おめでとうございます」

「ああ、ありがとう……それで、ひとつ聞く。私はどうやって曹孟徳に勝とうとしていると思う?」

 司馬懿は間髪入れずに答えた。

「戦略的優位を築き、それを利用して戦場での敗北を避ける。これ以外ないのではないでしょうか」

「流石だ、仲達」

 若蘭が、賈駆が、曹操が、荀彧が、郭嘉が、程昱が、周瑜が―――多くの者が知恵を絞って、それでも答えを得れなかった袁遺の戦略を司馬懿は即答した。

 曹操という袁遺が恐れ続けた強敵との直接対決を前にして、彼にとって最大の幸運は自分と戦略レベルでの思考を共有できる司馬懿という男を部下に、そして友に持てたことだった。

「では、君の役目が何か分かっているな?」

「はい」

 司馬懿が深く頷いた。その顔は剛毅にも典雅にも見えた。

 それを確認して、袁遺は月に向き直った。

「お願いします、司空」

 はい、と月は答え、真剣な面持ちで司馬懿の前に立った。

 その後ろにはいつの間にか、朝服をまとった廷臣がふたり控えていた。その廷臣たちは、片や旗を手に持ち、片や戉を手に持っていた。

 司馬懿もその意味を察した。

 月は凛とした声で、司馬懿に言った。

「司馬懿、皇帝の命により、節を授与する」

 旗を持った廷臣が前へ進み出た。

 司馬懿はそれを拝跪して迎えた。

 続けて、月が言う。

「皇帝の命により、鉞を授ける」

 今度は戉を持った廷臣が進み出た。

「皇帝の命により、司馬懿を鎮軍大将軍に任じる」

 最後に月が虎符を差し出した。

 虎符とは銅製の虎の形をした割符である。兵士を発するとき、その指揮権の証として天子より割符が渡される。

 そして、鎮軍大将軍は驃騎将軍、車騎将軍、衛将軍に次ぐ二品の将軍職である。

「臣・司馬懿、謹んで拝命いたします」

 これで司馬懿は二品の将軍職、仮節鉞と主と殆ど同等の権力を与えられたことになる。自分のことを警戒している袁遺が、このような待遇を自分に与えるのは土下座以上の意味を有していることを司馬懿は即座に理解した。

 この六時間後、司馬懿は編成が完了した五万の軍を率いて東進を開始した。

 その主だった将は、張遼、陳蘭、孫礼、鄧艾、公孫賛であり、主だった軍師・参謀は辛毗、劉放である。

 ほぼ同時刻、東の中牟県では荀彧が率いる曹操の支軍が確認された頃であった。

 

 

11 人中の呂布

 

 

 主君である曹操が鄴から軍を発した報せを受けた荀彧は、すぐに全権を任せられた支軍を率いて州境を越えて司隷に侵攻した。

 目標は中牟県である。そこには現状、唯一の展開している袁遺軍の呂布隊が駐屯している。その規模が二万二〇〇〇であることも細作により掴んでいる。この部隊が後方破壊や本軍の側面を脅かさないように無力化するのが、支軍の当面の目的であった。

 中牟県には出陣してから二日後に到着する予定であった。

 この段階で、支軍には二つの選択肢があった。戦うか否かである。

 戦術的に言えば、戦うべきであった。中牟県と陳留の距離を考えれば、この城を放置しておくことはできない。後方連絡線を断つなどの攪乱をされる恐れがあるからだった。

 しかし、任務からすれば野戦築城を行い、一万ばかりの兵を警戒部隊に残して、後は陽武・原武周辺へと北上するべきだった。その方が戦略目的に合致する。

 後者を選択した場合、曹操軍にとって憂懼となるのは呂布である。

 人中の呂布と謳われ、化け物じみた伝説を幾つも持つ猛将である。放置した場合、後の禍根となるという一抹の不安があった。

 その問題をさらにややこしくしたのは、その呂布が率いる騎兵部隊が城を出たという情報が行軍の途中に入ったことである。中牟の城を見張らせていた細作が、夜陰に乗じて騎馬隊が城外に出たのを目撃したというのだ。その後の行方は細作が振り切られてしまったために不明であったが、呂布隊が野に出たことを知れたことは荀彧たちにとって意味あることだった。

「……掎角の計か?」

 同じように報告を受けた夏侯淵が声を上げた。

 掎とは足のことであり、角とは頭の角のことである。鹿を捕らえるとき足と角を同時に取ることから転じて、ふたつの部隊が相呼応しながら戦う戦術のことである。今回の場合、中牟の城が攻められるのであれば、城外の呂布隊が曹操軍の背後を襲い、反対に呂布隊が襲われるのであれば、城方が曹操軍の背後を攻めるということである。

「いいえ、違うわね」

 だが、荀彧が否定した。

「逆襲を行えるだけの将兵を袁遺がそんな多く抱えているとは思えないわ」

 籠城戦で城方が城門を開いて打って出る逆襲は、練達な指揮官と勇猛かつ冷静な兵士が揃ってこそ初めて成功する。そうでない場合、殆んどが出撃させた手勢を磨り潰されて終わるだけであり、最悪、開けた城門から敵が雪崩れ込んでくるという事態にも発展しかねない。

 荀彧は、袁遺軍には逆襲を行えるだけの兵は数少ないという推測を立てていた。

 呂布隊がこちらの背後を襲うことはできても、城に残った兵たちではこちらを襲っても十分対処できるどころか、逆に殲滅できるという自信が荀彧にはあった。

 そして、それは事実である。袁遺軍の兵は判断も良く、素早く動けるが、精強さや勇猛さという点では曹操や孫策の兵に劣る。

「普通に考えれば、こちらの進軍を遅れさせるために襲撃をかけてくるはずだけど……」

 しかし、荀彧の予想は外れた。中牟への道中で呂布隊の奇襲に遭うことはなかったのだ。

 それが支軍の将たちを惑わせた。この状態で放置策を採用していいのかと。

 だが、支軍を預かる荀彧には迷いはなかった。

 彼女は曹操軍の基本方針と作戦目的を深く理解し、そのために何を行わなければならないかを分かっていた。そして、彼女の主君である曹操も荀彧ならばと信頼して、殆んどフリーハンドな指揮権を与えていた。信頼できる軍師に一軍を任せて、本軍を援護させ最終的に戦略目的を達成するというのは、袁遺と曹操の両軍の共通するところであった。

「陣地を設営して一万の兵を残したら、後は陽武へと向かうわよ」

 荀彧は迷いなく宣言した。彼女は放置策を選んだ。

 宣言された将たちはおずおずと疑問を呈した。

「大丈夫なのか? 城を放置して」

 尋ねたのは夏侯淵であった。

「今の段階では問題ないわ。気を配るべきは城を出た呂布ね。私たちのすべきことは華琳様の本軍と袁遺が決戦できるようにすることよ」

 荀彧は言う。そのためなら自分たち支軍はどれほど被害を受けてもかまわない、と。

「袁遺が用意できる兵数はおそらく一〇万。華琳様の本軍の二倍だけど、兵の質を考えれば華琳様が負けるわけないわよ」

 その言葉は華琳に心酔している女性のそれではなく、冷静な軍師としてのものであり、事実であった。決戦で戦争の趨勢を決するなら、たとえ二倍の兵力を揃えようと袁遺に勝ち目はなかった。袁遺も自覚していることである。

「警戒すべきは行軍中の本軍の側背を呂布の騎馬隊が襲うことよ」

 曹操軍にとって唯一の敗北は、行軍中に奇襲されたことにより起こった。

 戦闘準備をしていない状況で背後から襲われれば、いかな二倍の敵を破る力を持っていても、それは発揮できない。

 あの苦い体験をもう一度しないために、荀彧は本軍の側背を守るために北上を選択したのだった。同時に、それは曹操に袁遺と堂々の決戦をさせてあげるための選択であった。

 荀彧も主である曹操―――華琳が戦略、戦術的な意義を越えて、心の底から袁遺との戦いに思い焦がれていることに気付いていた。戦術的に正面決戦こそが最も勝算があること以前に、華琳は袁遺を自身の手で降したいと血を滾らせているのだ。

 荀彧は敬愛する主の心をそこまで奪う袁遺に嫉妬の炎を燃やしたが、慕う主の本懐を遂げさせてあげたいとも思った。

 それに、政治的に考えても華琳様自身の手で袁遺を打ち倒してもらわなければならないから……

 荀彧は心の中で、どこか自分を納得させるように呟いた。

 袁紹を倒した後、治めることになった冀州に不安があった。

 冀州の名士は袁遺の戦略によって袁遺ひいては漢王朝に降ったのであり、華琳が降したのではない。だから、袁遺と敵対した今、冀州の名士たちが大人しくしているはずがなかった。例えば、袁遺の推挙人である鄚県の張超などが留守にした冀州で反曹操勢力になることは確実であった。また、風見鶏を決め込んだ名士たちでも、袁遺との戦いが不利なものになれば袁遺に対して言い訳を作るために反曹操に鞍替えすることは自明の理である。

 いや、冀州の名士だけではない。兗州の陳留郡以外の地域の名士たちも曹操の下にあるのは袁遺の斡旋により、兗州牧となったからだ。袁遺が勝つと名士たちが思えば、兗州の大部分の失陥もあり得る。

 だから、華琳は袁遺を打倒して自身の力を四海に示さねばならなかった。

「真桜、堀と土塁と柵を備える一万の軍の陣を構えるのにどれくらいかかるかしら?」

 荀彧が李典に尋ねた。真桜は李典の真名である。

「そやね……」

 李典はしばらく考え込んだ。

 彼女は発明が好きで曹操軍において兵器開発を任されており、率いる部隊も戦闘工兵部隊である。中牟県で城攻めも想定して、支軍へと配属されたのだった。

「どんなに急いでも一日がかりの仕事になりそうやわ」

 前工業時代であるから、穴を掘るだけでも時間がかかる。そもそも後代ではひとり用―――深さ二メートル、縦七〇センチ、横一メートル―――の塹壕(タコツボ)をスコップのみを使って掘るのでも二〇時間はかかるとされている。そして、今回は部隊全体を囲う堀とさらに柵である。ともかく時間のかかる作業であった。

「わかったわ。木材の切り出しは他の部隊にやらせるから急ぎなさい。秋蘭は万が一、敵が作業の妨害に来ることに備えて部隊を展開して」

 荀彧の選択はこの時点(・・・・)では最良の選択であった。

 事実として籠城側の作戦計画を立てた陳宮にとって、荀彧の選択は想定した中でも最も嫌なものだった。

 しかし、荀彧にも落ち度がなかったわけではない。袁遺側には曹操本軍の側背を脅かそうとする意思は一切なかったことである。

 そして、そのことが呂布という常識外れの武力と結びつき、戦況を混沌としたものに変えていくのだった。

 

 

 呂布を城外に出す。そのことを陳宮から告げられた王平は夏侯淵と同じ言葉を口にした。

「掎角の計……というやつですか?」

 王平が即答したことに陳宮は素直に感心した。文盲と聞いていたが、意外と学があるのです。陳蘭の代わりに来ただけのことはありますな。

 しかし、陳宮はそれを否定した。

「呂布隊の古参騎兵ならともかく、新兵である元黒山賊たちでは城から打って出れば返り討ちどころか、そのまま落城する恐れがあるのです」

 そして、続けた。

「理想は敵がこちらのことを過小評価して、攻城戦を行って時間を浪費してくれることですが、相手もそこまで馬鹿ではないのです。警戒部隊を残して北上するに決まっているのです。だから、まずはこちらを放置したら危ないと敵に思わせるのです」

 彼女たちの袁遺から与えられた任務は敵の足止めである。それなのにまるっきり曹操軍に無視されては、それを果たせない。

 つまり、呂布が野に出るのは、この城と呂布勢二万二〇〇〇を荀彧に必要十分な程度にうっとうしく思ってもらうためであった。

 そのことを考えれば、荀彧が即座に放置策を採用したのは陳宮にとって頭の痛い問題であった。

 呂布は精鋭七〇〇〇の騎兵を連れて夜陰に紛れて中牟の城を出た。これを曹操の細作が見つけたのであった。

 陳宮は中牟の城に残ったが、呂布は自分を慕う軍師に言われた。

「曹操軍にひと当てして、恋殿こそが最強であることを敵に知らしめてください」

 彼女たちの付き合いは長く、互いに信頼し合っている。それだけに、呂布は自分の部隊のやるべきことを理解した。

 呂布隊は進路を南にとり、さらにそこから東へと向かう。大きく回り込んで曹操の支軍の後方を突こうとしたのだった。

 呂布は個人の武において最強なのは間違いないことだった。超人的、超常的と評して差し支えないだろう。

 だからといって、呂布は自分の力を過信してはいない。どころか、究極の域に達した武人としての感覚が、曹操軍と自分の部隊の力の差を察していた。

 奇襲からの急速離脱しかないと、呂布は断じた。

 獲物の後ろをとって一気に襲い掛かり、一撃を入れる。呂布隊の動きは、まるで肉食獣が狩りをする様だった。

 呂布は偵察に行かせた斥候から、曹操軍が陣を建設していることを知った。

 それから呂布は、どこか小動物を思わせる可愛い仕草で空を見上げた。雲は少なく、太陽がはっきりと東の空に見えた。

 そして、たった一言だけを呟いた。

「……征く」

 あまりにも短い言葉であるが、董卓に仕える以前から共にする古参兵たちからすれば、それで充分であった。

 呂布隊は強襲を開始した。狙いは敵の最も脆弱な部分である作業中の工兵たちであった。

 曹操軍に動きがあった。工兵隊を守るように部隊が展開されたのだ。良く訓練されていることがわかる素早さだった。

 だが、曹操軍の動きは呂布隊には予想通りのものだった。

 呂布隊の右翼と左翼にはそれぞれ二〇〇〇の部隊が配置されている。その両部隊が展開中の曹操軍の両側面を襲った。両部隊の目的は拘束戦闘であった。

 曹操軍の陣形が変わる。両翼に戦力を送ろうとしていた。

 直卒である中央の部隊の先頭を駆けていた呂布は、その動きを見逃さなかった。

 方天画戟を馬の鞍に挿むと、同じく鞍に挿んでいた弓を取り出し、矢を番えた。

 呂布の天性としか言いようのない戦術眼は、曹操軍の陣形変換の際の隙を見逃さなかった。

「……あそこ」

 誰に言うでもなく呟いた呂布の目は三〇〇メートル先の、二本の棒のようにしか見えないふたりの兵士を捉えていた。

 その兵士たちは部隊と部隊の切れ目となる兵士たちであった。

 馬が大きく跳ね、その四肢が地から離れた瞬間、呂布は矢を放った。

 放たれた矢は過たずに、兵士の頸に突き刺さった。

 愛馬の脚が大地に着いた瞬間、呂布は次の矢を番える。再び馬が大きく跳ねると同時に呂布は矢を放った。

 矢はまたも兵を射ぬいた。二本の棒は倒れた。

 そして、そこが突破口であった。

 呂布は僅かに愛馬の馬体を足で締め上げた。

 それだけで長年、戦場を共に駆けた赤い体の馬は乗り手の意思を理解して、方向を変えて速度上げた。

 隊長が進行方向を僅かに変えたことを呂布隊の面々はすぐに察して、指揮官に続いた。瞬時に対応できるだけの厳しい訓練を重ね、実戦を潜り抜けてきていた。

 呂布を先頭に呂布隊はそこへ雪崩れ込んだ。彼女たちは部隊の切れ目に打ち込まれた楔となった。

 地響きが状況を動かす実感となっていた。力強い躍動感が騎兵の神経を高ぶらせる。

 突破を果たした呂布隊は作業中の工兵とその建造物を襲った。兵士たちを斬り殺し、矢来を引き倒して、工兵の成果を台無しにする。

 しかし、曹操軍は流石だった。突破された守備隊は混乱から素早く脱して、大勢して呂布隊の騎兵へと向かって来た。

「ここまで……」

 呂布は馬首を返した。

 曹操軍の両翼に拘束戦闘を仕掛けていた部隊が、呂布が中央突破をした段階で彼女たちの撤退地点の確保に動いていたため、呂布隊はそこから脱出を図ったのだった。

 呂布隊が向かったのは中牟の城であった。

 城方も城門を開け、呂布隊を大歓声と共に迎え入れた。

 敬愛する主君である呂布の活躍を城壁から見ていた陳宮は、軍師の本分を忘れて喝采の声を上げてしまった。

 恋殿こそ、天下無双ですぞーーーッ!

 だが、呂布隊が城に戻ってくるのを確認すると、興奮は霧散し冷静な軍師としての思考が始まっていた。

 呂布を出迎えて、その部隊の被害をすぐに確認する。

 死者、行方不明者、および戦闘不可能な重傷者の数は約四〇〇名。一度の戦闘、それも奇襲であったことを考えれば多いと言えたが、呂布隊の戦闘力はまだ十分に保てていた。

 しかし、それでも陳宮はもう一度、今のような強襲を行おうとは考えていなかった。だから、呂布隊を中牟の城に引き上げさせたのだ。

 彼女は確かに主君が天下無双であることを疑っていないが、曹操軍を過小評価していなかった。中牟の背後にある袁遺の本軍を戦略的な意味で曹操軍は重視していたからこそ、その意識が西へと向かい奇襲が成功したのだと考えていた。

 ただし、やはりと言うか陳宮は、あの敵の陣形の隙を見逃さずに強襲する手腕にしても、こちらの損害を小さいものにして引き上げる判断にしても流石は恋殿ですぞ、と心の中で主君への賛辞を惜しんではいなかった。

 陳宮は考える。

 ここからは心理戦ですぞ。もし、この奇襲で曹操軍がこちらを放置するには危険と過大に評価をしたならば、放置策を強硬策に方針を変えるはずです。反対に、城に籠った騎兵など恐くないと侮って城攻めを行ってくれてもいいのです。籠城戦なら、少なくとも半月の時間を稼ぐことはできますぞ。もし……もし、敵が放置策の方針を変えなくても、ともかくは作業中の陣地を荒らして時間は稼いだのです。

 事実として、陳宮は曹操軍が停止している貴重な時間を稼いだ。

 だがしかし、陳宮は荀彧の心理を読み間違えた。その曹操への献身性によって支えられた不撓の精神を過小に評価したのだった。

 

 

 荀彧にとって、呂布の強襲は血が煮立つほど屈辱的なものだった。

 呂布隊の接近に気付いたとき、東の原が雲のような砂塵と一体になり消えた。呂布隊が太陽を背に突撃してきたために、曹操軍の将兵たちの視界は大幅に制限されていた。砂塵の中から矢が飛び、剣光が煌めいた。そして、作業中の兵を守るために展開した部隊の第一陣が食い破られ、第二陣も崩され、部隊は突破された。

 部隊はすぐに統制を取り戻し呂布隊へと攻めかかったが、建設途中の陣地は滅茶苦茶にされ、呂布隊は取り逃がすという結果になった。

 そんなことは―――袁遺軍よりも精強であると自負する―――曹操軍において、絶対にあってはならない光景であった。

 だが、

「方針は変えないわ。たとえ、呂布がそこにいようと中牟の城は放置よ」

 荀彧は方針を変える気などまったくなかった。

 彼女は確かに怒りに燃えた。爪を掌に喰い込ませて握りこぶしを作り中牟の城を忌々し気に睨めつけたが、その軍師としての冷静な部分は呂布の襲撃が作戦にどのような影響を及ぼすかの計算を行っていた。

 荀彧が弾き出したのは、一日の遅れであった。

 その遅れは曹操軍にとって致命的なものではないと楽観視できるものではなかった。

 敵は奇略と果断に富んだ袁遺である。そんな野戦指揮官に小細工を弄される前に決戦を強要するのが曹操軍の基本方針のため、少しの遅れも許容できるものではなかった。

 だからこそ、怒りを発散させる以外の意味を持たない強襲策に方針を転換するなど絶対にできなかった。

 荀彧は李典に野戦築城の再開を命じた。

 荀彧……いや、支軍全体には、もう二度とあのような奇襲を許してなるものかという緊張が漂っていた。

 あの呂布の奇襲は、呂布隊の機動や突破口拡張の戦術運動、さらに呂布の撤退のタイミングの判断が優れていた等のこともあるが、支軍全体の意識が袁遺の方(西)に向かっていたのが隙になったという自覚が曹操軍にはあった。

 そんな曹操軍の軍中に威勢のいい、後代の言葉で言えば関西弁が響いていた。

 李典であった。

 彼女は明るく、兵たちを励ますように工兵たちの作業を指揮しながら見回った。ときに、声をあげて笑い、肩を叩いたり、作業を手伝うこともあった。士気を保つには、指揮官がその場に身を置くことが必要であった。

 そして、その甲斐はあった。

 呂布の奇襲によって曹操軍が負った損害は死者約三〇〇名、負傷者は約一五〇〇となり、全軍の割合から考えれば小さな数字であった。だが、被害の多くは李典の工兵隊であったため、作業効率は大幅に落ちると荀彧は予想を立てた。

 しかし、実際には作業効率の落ち幅は荀彧の予想より遥かに小さいものであった。当然、李典の献身の結果である。

 工兵たちの作業は夜を徹して行われ、陣地は翌日の昼前には完成した。

 荀彧は一万の兵をそこへ残すと、後は北上を開始した。

 陳宮にとっては、最悪の選択肢を取られたことになる。

 しかし、北上の最中で荀彧、そして、曹操にとって予想外の報告を聞くことになったのだった。

 司馬懿の率いる軍が洛陽を発ち、司隷東部へと向かっているという報告であった。

 それは荀彧に(現在は冀州を越えて兗州に入り、司隷を目指している曹操本軍にも)、大きな衝撃を与えることであった。

 司馬懿の軍勢の正確な規模を曹操軍はまだ掴んではいないが、それでも、この手の戦力の各個投入は曹操軍の常識では絶対に行わないことである。そのことは、曹操軍が大軍の展開できる幅と奥行きがある戦場で決戦を選んだことが証明していた。

 だが、袁遺はそれを行ってきた。

 そして、それを率いるのは、あの司馬懿(・・・・・)である。曹操軍にとって、その名は忌々しい過去に直結するものであった。曹操軍に緊張が走ったのは無理からぬことであろう。

 当然として、本軍の側面を守ることが主任務である荀彧が率いる支軍の作戦が、司馬懿勢の撃破になったことは言うまでもない。

 

 

 司馬懿と荀彧、互いに主から五万の軍勢を預けられた軍師ふたりが武力衝突に至るまで二日の時間があった。

 




捕捉

 特になし

いつもの感じの地図は毎回、載せておきます。

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12~13

基本的に後はもう減るだけ。


12 袁曹、死すべし

 

 

 ひとつの動きは派生して、次の動きを誘発する。

 袁遺と曹操、両雄ついに激突、その報は瞬く間に大陸各所に影響を及ぼした。

 曹操が軍を起こしたのと呼応するように、寿春の孫策もまた軍を発した。

 といっても、孫策は曹操に味方するために西へと向かったのではなく、その反対の東南―――揚州へ進軍した。

 それ自体は袁遺と曹操の戦いの趨勢を動かすものではないが、孫策の動きは、徐州の張姉妹や荊州の劉表にとっては袁曹の戦いよりも重要なものであった。

 事実として、下邳の張邈は友人ふたりの戦いよりも孫策の動向と揚州の情勢に耳目を注いでいた。

「はっきり言って、情勢は我々にとっては良くありません。孫策の江南攻略は順調そのものと言っていいでしょう」

 徐州下邳郡、その郡治所である下邳県の城の一室で長身の女性が言った。

 衛茲である。細作からの情報をまとめて張邈に報告しているのだった。

 孫家が江南の地に帰ってくる。その効果は絶大だった。親孫家派は鼓舞され、混沌としていた揚州の情勢を一変させた。

 それに対して、彼女の主君である張邈が口を開いた。

「まあ、良くはないけど想定の範囲内ね。こちらが気を付けなきゃいけないのは、孫策が広陵に矛先を向けるかどうかだから」

 張邈の妹である張超が太守を務める広陵は江南の地にとって喉元にあたる。そこを抑えていることは地理的に江南に対して有利となることであった。

「それに悪い知らせだけじゃなくて、良い知らせも入ってきたわ」

 張邈は嬉しそうに一通の書簡を衛茲に差し出した。

 拝見します、と断ってから衛茲は書簡に目を通した。

「……何夔?」

 書簡の差出人の名は衛茲にとって心当たりのないものであった。

「伯業の従妹でね。今はそこに書いてある通り、青州の東莱太守をやっているの」

 それを察したように張邈は補足した。

「管承という長広県の海賊を説き伏せて降伏させ、その一味を吸収した、とありますが……」

 衛茲は考えた。袁遺は江南の水軍に対抗するために、この海賊を使おうというのか? 馬鹿な、相手になるわけがない。

「……役に立つのですか?」

 思わず口に出た。しまった、と衛茲は思ったが、張邈はまったく気にしていないように返した。

「伯業にも考えがあるのよ。それは聞いているし、本当にそれが役に立つかはこれからわかるわ」

 張邈の表情はどこか達観したものだった。

「伯業と華琳の軍では兵の質はまったく違うわ。圧倒的に華琳の軍の方が上よ。それでも、もし伯業が華琳に勝ったなら、孫策や江南に対しても上手くいくわよ」

「……彩雲様」

 衛茲は張邈―――彩雲の表情の下にある心の動きを理解した。

 張邈は友人ふたりの内、そのどちらかを失うことを覚悟しているのだった。

 

 

 だが、真に影響を受けたのは司隷東部や陳留西部の町々の住人であろう。

 袁遺の妄執と曹操の野望に巻き込まれた彼らの受けた影響は過酷としか言いようがなかった。

 反董卓連合との戦いで袁遺が司隷東部―――特に陽武、原武、巻―――を作戦の梃子の支点にしてしまったために荒廃してしまった。

 戦後ある程度の復興支援を受けたが、その傷は癒えたとは言えない。

 そして、ここに来て袁遺と曹操の決戦である。傷は癒えるどころか大きくなる一方である。

 そのことを自覚している袁遺と曹操の両陣営は、行軍中に乱暴狼藉の類を一切禁止して少しでも町の被害を抑えようとするが、それでも戦争は人々を不安にさせ、日々の営みに暗い影を落とす。

 農民は軍に怯えて畑を耕すのも気が気ではない。商人も流通が止まり、仕方がなく物の値段を上げるが、それが庶人の不安をさらに煽ることになる。

 そして、行軍速度を上げるには地元住民の協力は不可欠である。

 道の状況を聞き、ときには案内を頼み、また人足として雇入れて(もしくは徴発して)物資の輸送の手伝いをさせる。

 事実として、袁遺はこの戦争の後半で金と食料をばらまいて農民を集めて、作業をさせている。

 しかし、庶人たちは軍に対して表立って反抗的な態度をとるわけではなかった。肚の底で、袁遺も曹操もこの地上から消えてしまえ、とふたりの人間によって引き起こされた惨禍を呪うのだった。

 

 

13 陳蘭

 

 

「状況が状況でなければ、なかなか興味深い体験ですな」

 参謀の劉放が言った。

 声も表情も、どこかとぼけたものであったが、司馬懿の洞察力は劉放の底意を完全に読み取っていた。

 この胴が長く、首が太くて顔が細い竹の様な男は、自分の能力を示そうと些か下品に見栄を張ることがある。今回もそれであった。

 だがしかし、司馬懿はそんなことは表には一切出さずに丁寧に応じた。

「何がだろうか?」

 確かに司馬懿は鎮軍大将軍という顕職に就いたが、袁遺の臣であるというのは自他共に認めることである。

 そして、劉放もまた袁遺の臣である。それなのに劉放をあまりにぞんざいに自分の部下扱いしすぎては、増長したなどと誹謗されるのは分かり切ったことだった。彼は同僚たちに決して好意的に思われていないことを自覚していた。

 司馬懿は出世したからこそ、身を慎まねばならなかった。

 何故なら、彼の仕える主とはひどく面倒な一面を持つ男だからである。

「これから先、曹操軍がどのように動くかが、まるで曹操軍の軍議に参加してきた様に簡単にわかることがです」

 劉放は虚栄心がにじみ出た面持ちで言った。しかし、曹操軍の行動が容易に予測できるのは事実であり、司馬懿幕下の参謀たちも同じであった。

 間違いなく曹操軍は、支軍には本軍の側背を警戒させつつ、巻周辺で両軍の合流を果たして、巻の西の平野で袁遺に決戦を強要するだろう。

 それに対して、司馬懿軍は積極策に打って出ることができなかった。

 洛陽を出てから司馬懿軍は分進して東へと進んだ。

 それから二日後の夕方、司馬懿軍は汴水(べんすい)を越えた所で合流を果たした。

 この段階で、早馬が袁遺本軍の編制が完了し進発したことを報せてきた。

 しかし、現状は相変わらず曹操軍が優勢である。

 司馬懿からすれば袁遺本軍を戦力の勘定に入れることができず、また中牟の城の呂布隊からの助力もあてにできない。

 あまりに苦しすぎた。下手なことをすれば味方の状況をさらに悪くしてしまう。

 確かに劉放の言う通り、敵の行動を正確に予想できながらも打てる手が殆んどないというのは―――当事者でなければ―――なかなか興味深い状況であろう。

 つまり、彼の虚栄心の下にあるのは不安であった。それを何とか取り繕っているのである。

 司馬懿は劉放のそこに面白みを感じた。自分のことを棚に上げるようだが、あまり良い性格とは言えない、この劉放という男にはしぶとさの様なものを感じる。その点は大したものだ。

「なるほど。だが、何もしないというわけにはいかない。軍議をするから、諸将を集めてくれ」

 司馬懿の言葉に劉放は大げさに拱手して応じた。

 それも劉放なりの虚勢であった。

 そして、集められた諸将も劉放と大なり小なり同じであった。極端に悲観していたわけではないが、並の思い付きでは勝てそうにない戦をしなければならないと苦悩していたのだ。

 その様子に司馬懿は逆に安心した。例えば、張遼や公孫賛の袁遺の家臣とは言い難い立場にある者から積極的な攻勢論が飛び出た場合、鎮軍大将軍という立場を笠に着て命令という言葉で服従させなければならない。それはそれでまた、増長と取られかねない。

 司馬懿はそれをさらに確かめる様に、しばらくは諸将から方針について尋ねられても、曖昧な笑みを浮かべて彼らを煙に巻いたのだった。

「なぁ……あれはできないんか?」

 しびれを切らした様に張遼が言った。その声にはどこか懇願するような響きがあった。

 張遼の言う、『あれ』とは長距離奇襲と伏兵による挟撃作戦であった。この戦法でかつて曹操軍に大きな被害を与えている。

 しかし、司馬懿は首を横に振った。

「おそらくは無理でしょう。荀彧の軍勢の目的はそれを我々にさせぬことであり、下手なことをすれば状況をさらに悪くしかねません」

 司馬懿の声は、状況に不釣り合いなほど典雅なものであった。

「なら、どうするんや?」

 張遼は焦れた声で再び尋ねた。

「まずは中牟の呂布軍と連絡を付けて、運動戦を行って曹操軍の行動を遅延させましょう」

 司馬懿の答えは常識的なものだった。袁遺・曹操の実働戦力差があまりにもありすぎるため、この手の防御作戦を取らざる得ない。

 後代の言葉で言えば、戦争のイニシアティブは今のところ曹操軍が握っていた。

「全てを決するのは時間なのです。伯業様の本軍が戦場に到着すれば兵の総数はこちらの方が上になり、作戦の幅が広がります。そのため時間はこちらの味方なのです」

 と言っても、司馬懿は具体的なプランを示すことができなかった。袁遺と司馬懿の戦略は組み木の様なものである。そこに運動戦の難しさが絡まって、袁遺と司馬懿にしか全容を理解できなかった。

 司馬懿にとって幸運だったのは、諸将の多くがは袁遺と司馬懿を信じて戦うしかないと腹を括っていたことだった。

 しかし、袁遺の家臣でもなく、反董卓連合から袁遺と共闘してきたという仲間意識もない、中途半端な立場にある公孫賛は少数派に属することになる。

 あるいは彼女に自分の微妙な立場を理解する政治感覚があればよかったのだが、現状は彼女の政治感覚を越えていた。

 そして、何より公孫賛は善人過ぎた。

 彼女は立場によって人に態度を変える人間ではない。だからこそ、かつて袁遺が袁術や袁紹の下であったときも、彼に対して何か含むような態度や馬鹿にしたような態度を取ったことはなかった。

 それが美徳であることは間違いない。

 しかし、袁遺は強大になり過ぎた。本人の望む望まないに関わらず、周囲に凄まじく影響を与える存在になってしまった。

 そのような立場からすれば、公孫賛の態度は袁遺と彼女自身にとって害をなすものに変わってしまったのだった。

 元を辿れば負い目から始まったそれは、またここで公孫賛に破滅の階段を上らせることになるが、当然、そのことに彼女は気づいていない。

 司馬懿勢はさらに官渡水を下るように東へと進んだ。

 この段階で荀彧が率いる支軍が中牟に一万ほどの部隊を残して進軍を再開し、陽武周辺にいることを知った。

 報告を受けた司馬懿は参謀たちに厳命した。

「ここからは時期が大事だ。進軍は早すぎても遅すぎてもいけない。参謀部は進軍速度の掌握に全霊を注いでもらいたい」

 この日、軍が進んだ距離は約五六里(約二八キロ)であった。

 さらに翌日、空がまだ暗い―――現代で言うところの―――午前四時頃から司馬懿は全軍を進発させた。

 袁遺と曹操、両軍の本格的武力衝突は目前であった。

 

 

 荀彧が司馬懿勢の出現を知ったのは中牟を発った翌日であり、司馬懿と同じタイミングでお互いの動きを掴んだことになる。

 彼女は司馬懿勢を捕捉したことに素直に安堵した。あの男を自由にさせると、また奇襲攻撃を仕掛けられるという危惧があったからだ。

 司馬懿の動きは荀彧の支軍を迂回して中牟へと向かい、残してきた一万の警戒部隊を撃破、そのまま呂布隊と合流しようかというものだった。

 そのまま曹操の本軍の後方に入られてはいけない。荀彧は直ちに司馬懿勢の撃破を決意した。

 彼らが中牟の城と連携できる位置に進んでからだと、対応はひどく面倒になる。

 絶対に袁遺の本軍が戦場に現れる前に司馬懿勢を撃破して、曹操の本軍の側背の安全を確保しなければならない。

 そうなると問題は、司馬懿が果たしてこちらの攻撃に乗ってくるかだった。

 間違いなく乗ってこないわ。荀彧は思った。

 常識ある指揮官であったなら、絶対に逃げるはずであった。

 数は確かに荀彧の方が一万ばかり少ないが、兵の質が絶対的に違うのだ。一万の差程度なら問題にならない。

 それに敵は機動力なら、この大陸で並ぶものはない袁遺軍であり、ここまで袁遺軍は曹操軍相手に決戦を避け続けてきたのである。今回もそうであろう。

 ともかく急追しなくちゃ、と思った荀彧はあらゆる意味で期待を裏切られることになる。

 支軍は来た道を戻るように南下した。とにかく駆けた。袁遺軍が例外的なだけで、曹操軍の行軍速度は決して遅いものではなく、むしろ速い。

 南西方向に約二時間ほど行軍した後、官渡の南西一六里(約八キロ)の辺りで捕捉できると荀彧が確信したとき、信じられない光景を目にすることになる。合戦向きの陣形を敷いている司馬懿勢を発見したのである。

 荀彧は一瞬、我が目を疑った。

 それから、怒りがふつふつと沸いてきた。

 こちらをなめているの!?

 ここで司馬懿が戦闘隊列を敷いている理由を荀彧はひとつしか考えつかなかった。

 急追撃でこちらの陣形が乱れている隙に一斉攻撃を仕掛けて、勝利をもぎ取ろうとしている。

 並の軍ならそれは間違いではないだろう。だがしかし、最強を自負する(それは客観的にも事実である)曹操軍には無謀でしかない。

 そっちがその気ならやってやるわよ。荀彧は全軍に命じて、戦闘隊形をとらせた。

 こっちの実力を見せてやるわ!

 

 

 司馬懿は荀彧の追撃を自分の望む形(・・・・・・)で振り切れないと感じた。

 荀彧の率いる支軍は来た道を戻るような形でこちらを追ってくる。それは事前に道の状況を知り、なおかつ安全が確保されているのだから、その進軍速度は自然と上がる。これは以前にも書いたことだ。

 司馬懿は仕方がなく時間を稼ぐために、戦闘を決意したのだった。

 だが、その戦いは一方的なものになった。

 司馬懿は本陣を置いた滞留した黄土が作り上げた丘の上でそれを見た。

 司馬懿と荀彧の両軍の戦いが開始されてから二時間が経過したが、終始、荀彧側が圧倒し続けた。

 曹操の兵は強過ぎた。

 張遼の部隊はかろうじて耐えているが、他の部隊は何度も突き崩されそうになる。

 その度に司馬懿は、公孫賛の騎馬隊を使って―――敵の後方に機動力のある部隊を投入する、もしくは投入すると見せかけて、前線の圧力を一時的に軽減する―――運動防御を行い、崩れかけた部隊が後方に下がる隙を作った。そのまま陣形を整えさせ、その間は別の部隊を投入して戦列を支えさせるという数的有利を生かした戦法を取っていたが、それはただひたすら耐えるだけの戦いである。

 対して、荀彧の軍の将兵は、反董卓連合での奇襲の借りや、呂布隊の奇襲の借りを返さんとばかりに猛攻を加えてくるのだ。

「鎮軍大将軍、そろそろ……」

 自軍の、後代の言葉なら参謀長にあたる軍師の辛毗が司馬懿に耳打ちする様に言った。

 彼女は、そろそろ全軍を押し出して攻勢に移るか、あるいは総撤退を決断しなければ、進むことも退くこともできなくなります、と司馬懿に―――特に後者の―――決断を促しているのだった。

「…………」

 しかし、司馬懿は天を仰ぎ見る様に佇んでいるだけで、何も答えなかった。

 その間にも状況は自軍にとって不利になる一方であった。

 司馬懿勢の戦い方は曹操軍とは対照的だった。

 基本的に守りながらも、隙を見つければ突っ込み、まずければ退くといった、ある意味で合理的な戦い方をしていたが、全軍が死兵にでもなったかのように突進してくる荀彧勢が相手であってはどうにもならない。

 なおも天を見続けた司馬懿は、やおら口を開いた。

「撤退する。中郎将を呼んできてくれ」

 公孫賛はすぐに参上した。

 このとき彼女は、また運動防御かと思ったが、司馬懿の口からそれ以上に過酷な言葉が飛び出てきた。

「中郎将、我々は撤退を決断しました。どうか、殿軍をやってもらえないだろうか?」

「え……」

 司馬懿の言葉に公孫賛は固まった。

 当然のことだろう、あのような者たち相手に―――味方の撤退を援護する―――殿を務めるなど、生きて帰れる望みはゼロに近かった。死ねと命ぜられたも同然である。

 だが、司馬懿は冷酷だったのではない。むしろ、その反対で公孫賛に機会を与えたつもりだった。

 公孫賛にはある嫌疑がかかったままだった。

 彼女は劉備の洛陽脱出に協力したが、もしまた劉備を軸に策略が起きたとき、劉備のために動くのではないかと洛陽の首脳部に疑われているのだ。

 その疑いを晴らすのは、ここしかなかった。ここで命がけの殿を成功させて功を立てねば、袁隗や董卓や賈駆が、そして何よりも袁遺が公孫賛を疑い続けるだろう。

 仮に殿で命を落としたとしても、それはそれで幸せである。

 このまま疑われ続けると、いつか必ず袁遺によって殺されることになるだろう。袁遺という男は絶対にやる。だからこそ、司馬懿は彼を恐れているのだ。

 殿で命を落とせば名誉の戦死であるが、疑われて死ぬのは内通ということであり不名誉極まりないことである。

 しかし、公孫賛はそのことを気付いていなかった。

 そして、不幸なことに司馬懿と彼女には時間がなかった。

「分かりました。では、結構です。もう一度、運動防御を。その後は戦場より離脱し、中牟の城を目指してください」

 司馬懿が残酷であったなら、それはこの瞬間であろう。彼は公孫賛を見捨てたのだった。

「鄧艾」

 司馬懿は自身が宛で拾ってきた男の名を呼んだ。

 鄧艾は拾われた頃と、あまり変わっていなかった。

 日に焼けた黒い顔には強情さが表れた不思議な強さがあった。手には相変わらず、鈀を持っている。それを武器としているのであった。

 違いがあるとすれば、腰に剣を佩いていた。

 しかし、その剣は粗末なものだった。柄頭の塗は剝げ、鞘も傷だらけである。

 そのためか、変化はあまり良い印象を与えるものではなかった。

 だが、彼は一部隊を任され、その部隊は予備戦力として温存され続けていたのだ。

「殿軍として、陳校尉の指揮下に入れ」

「お、お任せください!」

 鄧艾は即答した。

 危険な任務にも係わらず、彼の顔は野望にてらてらと輝いていた。ここで殿を成功させたということが、どれだけ大きな軍功となるのかを彼は知り抜いていたのだ。こういう人間こそが、神経をどこかに置いてきたような精神状態にある連中相手に殿をやってのけれるのであろう。

「劉参軍、陳校尉に伝令を出せ、鄧艾と共に味方の撤退を援護せよ。君はそのまま陳校尉の部隊に参謀として校尉を助けよ」

 もしくは、劉放のように不思議なしぶとさを感じさせる男か、あるいは陳蘭のように猛り狂った曹操軍よりも恐ろしいものを持っている男でなければならない。

 陳蘭は確かに曹操軍も恐ろしいが、それよりも主である袁遺の方が恐ろしいのである。

 ここで殿を断れば、たとえ生きて帰ったとしても袁遺から何らかの叱責があると恐怖したのだ。彼は袁遺が負けるなどという思考はまったく行っていない。それほどの恐怖の対象なのである。

 陳蘭の部隊の兵力は六〇〇〇、鄧艾率いる予備隊は二〇〇〇、合計八〇〇〇と司馬懿勢の約六分の一の兵力が殿に投入されたが、曹操軍の強さを思えば、それでもまだ不安であった。

 司馬懿は最も混乱している孫礼の部隊を攻撃する曹操軍の後ろに公孫賛の騎馬部隊を投入した。

 僅かの間だけ、孫礼隊に掛かっていた圧力が緩む、その隙に孫礼は前線を離脱した。

 もちろん、曹操軍はそれを追撃しようとしたが、陳蘭隊と鄧艾隊がそれを防いだ。

 次に司馬懿の本隊、最後に最も強力な戦闘力を有する張遼隊が戦線を離脱していった。

 その都度、追撃しようとする曹操軍に陳蘭・鄧艾の両隊は夜叉の様に暴れ狂い、それを阻止した。

 

 

「追撃よッ!」

 司馬懿の軍勢が退却に移ったのを察知したとき、荀彧は叫んだ。

 戦争の主導権を完全に自軍が握ったことを今、確信したのだった。

 荀彧は、司馬懿が必敗が見えていた会戦に打って出た理由を時間稼ぎだと断じた。そして、それは遠からぬことであった。

 同時にそれは、袁遺の本軍がそれだけ弱いことも示していた。ならば、叩くなら今しかない。

 それを安心して行うには、司馬懿という耳障りな音を立てる羽虫を今ここで叩き潰しておく必要があった。

 だがしかし敵の殿軍が見事に、こちらをあしらい、敵の大半に十分な距離を稼がせたのである。

 荀彧にとって誤算であったのは、逃げ延びた司馬懿勢が向かっている先であった。

 彼らは東へと向かっているのだ。

「東って……呂布と合流する気……」

 荀彧は思った。やはり、あれはうざったい羽虫だ、と。

 司馬懿はまだ曹操軍に対しての遅延行為をあきらめていないということだった。その行為は曹操軍にとって、羽虫に顔の周りを飛び回られる様なものである。

「前線の夏侯淵に伝令、敵の殿を徹底的に叩いた後で、行軍隊列を整えるわよ」

 命を受けた夏侯淵も、司馬懿の軍勢を完膚なきまでに叩きのめす必要性を理解していたが、敵の殿に存外に粘られていた。

 敵の将が中心となり兵を叱咤激励し、隊列を維持しているのだった。

 状況が一時膠着した。

 だが、それは敵の殿を素早く殲滅したい曹操軍と、味方を逃がすことに成功し自分たちも離脱したいが、曹操軍の猛攻のせいで部隊を後退させた瞬間にそのまま敗走になりかねず防御戦闘に徹するしかない殿軍のため、後者が一方的に不利な膠着状態である。

 時間を掛ければ、殿軍がそのうち崩れるはずであったが、その時間を荀彧たちは掛けることができなかった。

 だから、夏侯淵は蛮勇ともいえる方法でその解決に乗り出した。

 彼女は麾下の部隊の精鋭中の精鋭三〇〇〇を選んだ。

「功名を残すことを喜ぶな! 死して武名をかかぐることのみを喜べ!」

 そして、凄まじい鼓舞と共に、自らが率いて敵へと突撃した。

 精鋭だけあってその隊列には毛程の乱れもなかった。僅かに青黒く光る鎧が一斉に動き、乾いた音を立てる様は、どこかこの世のものとは思えない光景であった。

 戦意の低い軍ならば、相対するだけで合戦の勝負がついてしまうかもしれない。

 それでも、殿軍は耐えた。

 しかし、終わりはすぐだった。

 精鋭たちは大地が震えるほどの雄叫びと共に敵に突っ込んだ。

 凄まじい圧力である。敵の部隊は潰走寸前であった。

 夏侯淵の目は、戦列を支えようと前線まで出張ってきて、声を張り上げている敵の隊長の姿を捉えていた。

 そして、彼女にとってそれは獲物が必殺の間合いに入ったということである。

 夏侯淵は矢を弓に番え、引き絞った。

 ふと、彼女は敵の隊長と目が合ったような気がした。その目は驚きに満ちていたように思えた。

 夏侯淵は矢を放った。

 当たったな、と夏侯淵は矢が自らの手を離れた瞬間に確信した。

 彼女の確信通りに、矢は敵将の頭を射抜いた。

 敵将が落馬する姿と共に、味方の歓声を夏侯淵は背に受けていた。

 

 

「あッ……」

 陳蘭は思わず声を上げてしまった。

 矢を番え、それを自分に向けている敵将と目が合った気がしたのだ。

 その瞬間、彼は思った。自分はこれから、あの矢に射抜かれて死ぬのだ、と。

 数秒の後、衝撃が体に走った。

 そこで彼の意識はブラックアウトした。

 ただ、同僚とかつて交わした言葉を思い出していた。

「おめぇはどうすんだよ? おめぇも袁術の従兄の袁遺って奴に誘われたんだろう」

 それはまだ、彼と雷薄が袁術に仕えていたときであった。

 現状に不満を持ちながらも日々を過ごしていた頃、突如、袁術の従兄である男に自分に仕えぬかと誘われたのである。

 遥か昔のことであるが、彼にとっては己の転換点となったときでもある。簡単に忘れることはなかった。

 陳蘭は迷っていた。

 このときの袁遺は無官である。父の喪に服すために官職を辞したといっても、その前の官職はたかが県尉に過ぎない。対して、自分が部曲(私兵)として仕える袁術は太守である。地位という点では、袁術に軍配が上がる。

 袁術の人柄について陳蘭は良く思っていないが、袁遺についても不明な点が多かった。

 このとき、袁遺は県尉としてそれなりに活躍したという程度で、その―――異常な実際性と複雑な性格、未来の知識によって支えられた―――巨大な軍才を認めるのは僅かに司馬懿と曹操、それに張邈の幾人かの友人のみである。陳蘭が判断を付けることができなかったのは仕方がなかった。

「……お前はどうするんだ?」

 陳蘭は迷いが表れた声色で雷薄に尋ねた。

「袁遺のとこへ行く」

 雷薄は即答した。

「袁術のとこに居ても仕方がねぇ。俺のことを評価して、来いって言ってくれてんだ。こっちよりマシな扱いをされるだろう」

 雷薄は賊の様な強面に似つかわしい、牙を剥くような笑みを浮かべた。

「はぁ……」

 陳蘭は自分が嫌になった。あるいは雷薄の決断の速さを羨んだ。

 彼は戦場で血の臭いを嗅げば勇敢であるが、そうでないときはむしろ優柔不断な性格であった。

 陳蘭は迷った。分かりやすい武勇もなく、得意なことは夜盗の様に部隊を素早く動かすくらいしかない自分は残っても出世や良い扱いは期待できない。しかし、袁術という巨大な組織に属することは、長い物に巻かれている安心感を与えてもくれる。

 結局、陳蘭が答えを出せたのは袁遺を再び前にしたときだった。

「それで、私の所に来てくれるのだろうか?」

 と袁遺に尋ねられたとき思わず、はい、と答えてしまったからだった。

 陳蘭は袁遺を前にして断ることができなかったのだ。

 袁遺は仕えるには酷く難しい人物であり、危険なことや面倒なことも多かった。それでも、彼は袁遺の下で戦場を駆けたことに一度の後悔もない。

 それは今、死の際を彷徨っても変わらなかった。

 陳蘭は意識を取り戻した。しかし、意識ははっきりとしない。

 ただ、自分は死ぬのだということが直感できた。

「は……伯業、様……」

 彼は主の名を呟いた。

 朦朧とする中で、彼は思ったのだ。袁術の下から移ってきて良かったと。

 ふと、彼は自分が仰向けに倒れていることに気付いた。よく晴れた青空を見ていることに気付いたからだ。

「綺麗……だ…………」

 陳蘭は最後にそう思って泉下へと旅立っていった。

 陳蘭の死によって戦線は崩壊した。

 鄧艾と劉放が掌握できた僅かな数だけが戦場を離脱できたが、殆んどの将兵は曹操軍によって討ち取られてしまう。

 だがしかし、陳蘭の稼いだ時間は曹操軍にとって絶対に与えてはいけない時間であった。

 

 

 この戦争の転換点は両軍がぶつかっていない空白の時間にこそあった。

 




捕捉

・青州の東莱太守をやっているの
 正史では長広太守であるが、長広郡は二七七年の晋の時代に東莱郡から独立して立てられたため、何夔は東莱太守としました。ご注意ください。


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14~15

甲の章8を書いたときから、書きたい話だった。


14 転換点

 

 

 状況は大きく変化した。

 司馬懿勢が投入され、荀彧が率いる支軍はそれを撃破しようと動いた。

 この段階で戦争は袁遺の意図している『運動戦』の色が濃くなってきた。

 何度も説明してきたことだが、敢えてもう一度述べると、運動戦(機動戦)は決められた戦域で戦うことである。

 運動戦でも、いくつもの戦闘が発生するが、それらは皆、遭遇戦の形態を取らせるので決定的な意味を持たない戦闘になる。

 そのため、運動戦は奇跡の一撃により敵軍崩壊、大勝利といった形で決着が着くことは全くと言っていいほどない。運動戦はお互いが犯すであろうミスを待ち、それをすかさず利用して優位を積み重ねていく戦いとなる。

 だから、勝った方も何故、自分が勝ったかよくわからないし、負けた方も気付いたら負けていた、という決着すらあり得る。

 そして、司馬懿がこの状況下でとった行動は、戦略的な目的において行われた運動戦として最良の事例となるものであった。

 

 

 陳蘭の命を代償(このとき、陳蘭が死んだことを知るのは主だった将、参謀でいえば、鄧艾と劉放のみである)にして、曹操の支軍の執拗な追撃を振り切った司馬懿は中牟の城へと向かった。

 早馬を発して、そのことは中牟の城内にも伝えてある。

 司馬懿勢が中牟の城に到着したのは、その日の午後三時であった。

 それに呼応するように、城内にあった呂布隊二万が城門を開いて出撃したのである。

 彼らはすぐに陣形を整えると、荀彧が野戦陣に残していった一万の警戒部隊へと襲い掛かった。

 中牟の城にあった攻城兵器も持ち出され、火矢も射掛けられた。野戦陣を灰燼に帰す勢いの攻撃であった。

 総兵力は約六万、想定していたよりも遥かに多い数に殴り掛かられた一万の部隊は抵抗むなしく、戦闘開始から約二時間で壊滅した。

 この段階で僅かに九〇〇名にまで数を減らした殿軍(陳蘭の死後、指揮権は鄧艾へと引き継がれた)が、姿を現したのである。

 その後方には雲の様に立ち込める砂塵が見えた。荀彧率いる支軍である。

 司馬懿は殿軍を中牟の城に収容すると同時に、再び合戦の準備を整えた。

 彼は状況がまずくなれば、手勢がすぐに中牟の城に逃げ込めるような位置に陣を敷いた。

 そして、呂布隊には進軍の準備をさせた。

 ここから先起こったことは、曹操の支軍にとっては信じられないことであった。あるいは悪夢だった。

 中牟の城を視界に捉えたとき、その状況に彼女たちは愕然とした。

 自分たちが築いた野戦陣地は廃墟と化し炎上、その周辺には『呂』の旗を掲げた呂布隊二万が展開しているのだ。

 さらに、その呂布隊が東へと進軍したとき、愕然はパニックへと変わった。

 呂布隊は兗州へと逆侵攻を行ったのである。

 曹操軍は動員できるだけの兵を司隷侵攻に動員したため、留守に残してきた兵は少ない。呂布の侵攻を防ぐことは不可能である。兗州の陥落が曹操の支軍全体にちらついていた。

 直ちに追撃すべきである。

 だが、追撃できない。前面に展開した司馬懿の軍勢を無視できないのである。

 もし、支軍が司馬懿軍に背後を見せて、呂布隊を追いかければ、その背後が襲われる。最悪、呂布隊が引き返してきて前後から挟まれることになるやもしれない。

 また、仮に司馬懿が襲ってこなくても追撃案には問題があった。

 支軍の作戦目的は曹操本軍の側背を守ることである。

 それなのに、司馬懿勢三万八〇〇〇(殿と会戦の損害を差し引いた数)を自由にさせれば、間違いなく彼らは本軍の側背を脅かすだろう。

 さらに最悪なのは、呂布を追うにしても、本軍を守るにしても司馬懿軍を撃滅しなければならないのに、荀彧たちはそれさえもできなくなったことである。

 問題は時間であった。

 時刻は夕暮れ。日は地平線へと沈み、夜が訪れる時間である。

 

 

「桂花、今すぐ攻撃すべきだ!」

 夏侯淵は荀彧にそう進言したが、その提案は即座に撥ねつけられた。

「無理よ! もう夜なのよ!」

 お互いに万を越えた軍勢同士の夜間会戦など、この時代の軍事組織が持つ能力の埒外である。

 混乱し闇雲に兵を減らすだけで、戦果が上がるとは思えない。受け入れられる案ではなかった。

「では、どうするのだ!?」

 焦った声を上げる夏侯淵に荀彧は何も言うことができなかった。

 司馬懿勢の撃破と呂布隊の撃破を行わなければならないのは夏侯淵以上に荀彧も理解している。

 だが、そのどちらかを行おうとすれば、戦況を悪くしてしまうことも彼女は理解していた。

 結果、荀彧は自分たちの戦闘力に絶対の自信を持ちながらも動くことができなくなったのだ。

 皮肉なことだった。この日の昼まで司馬懿軍が感じていた、敵の行動を正確に読めても、打てる手が殆んどないという状況を今度は荀彧たちが味わっていた。

 荀彧は顔を真っ赤にして思った。

 どうしてこうなったのよ。戦争の主導権は自軍にあったはずなのに……それなのに……

 まるで仙人にでも騙されたようだった。

 手の内にあったものが、いつのまにか司馬懿の手中に収まっている。仙術でも使われたようだ。

 たった数時間、相手を自由に行動させただけで、自軍の戦略が崩壊させられていたのである。

 彼女は泣きたい思いだった。

 自分と、何よりも敬愛する曹操を、袁紹とその配下と同様に、袁遺と司馬懿の天才を表すためだけの存在にしてしまったのだ。

 

 

 司馬懿が称賛される理由はここにある。

 彼は半日の間、兵を歩かせただけで敵を無力化してしまったのだ。

 それどころか、圧倒的な戦略的優位を築いたのである。

 呂布隊は殆ど無人の兗州の各地を次々と制圧し、曹操軍の兵站線を壊滅させるだろう。

 呂布隊を実質的に指揮する軍師の陳宮にはその自信があった。

 陳留郡は長い間、曹操が治めていたため簡単には落ちないだろうが、他の郡は違う。あれは袁遺によって与えられたに等しい。そこを落としていって、陳留を包囲する。

 それと同時に兗州陥落の噂を流して、冀州の親袁遺の名士たちを鼓舞し、風見鶏を決め込んだ名士たちをこちらの味方につけて、曹操本軍を孤立させる。

 そうなれば、曹操は完全に戦略目的が消失する。袁遺は決戦を行わずとも、曹操軍が自滅するからだ。

 後は袁遺に任せればよかった。

 袁遺が曹操を交渉の場に引きずり出して、外交で勝利するだけだったのだ。

 つまりは、この戦争の勝敗を決定する戦場は今、司隷東部から兗州、さらに言うなら冀州へと移ったことになる。

 かつて袁遺に聞かされた第二次ポエニ戦争やガリポリの戦いから、司馬懿は主力同士がぶつかり合う戦場で勝敗が決定しない場合があることを理解し、その状況を作り出したのである。

 もちろん、陳蘭隊という大き過ぎる犠牲も払ってしまった。

 陳蘭だけではなく、彼の麾下の袁遺軍の機動力や柔軟性を支えていた下士官や下級将校を多く失ったのである。彼らと同様の能力を持つ者を再び育成することを考えれば、その損害は大き過ぎた。

 だがそれでも、そうしなければ負けていたのである。誰もがそのことを理解していたが、問題は司馬懿だった。

 彼は自分が好かれていないことを知っている。自分が大功を立てたことを妬んだ者が、司馬懿が陳蘭を死に追いやったと袁遺に讒言するやもしれないと、司馬懿は思った。

 巨大な功績は、同時に自らを傷付ける刃となる。その例は歴史上、洋の東西を問わずに無数に転がっている。

 そういった思いを司馬懿が巡らせてしまうほど、彼の作戦は大成功を収めたのであった。

 

 

15 破釜沈船

 

 

「本気ですね、あれは。兵気が漲っています」

 対陣する曹操軍をざっと眺めた姜維―――若蘭が言った。その声は緊張を感じられる硬いものだった。

「当然だ。そうなるように動いた」

 袁遺は決めつけるように言った。

「破釜沈船だよ」

 その顔はいつもの無表情であった。

 彼らは敖倉にほど近い野に陣を敷いた。

 そこは黄河が氾濫し、それが引いた後に残された黄土が、まるで波打つような地形を作っている。

 その瘤を利用して、袁遺は野戦陣を構築した。

 事前に測量し、どのような陣地を敷くかは計画済みであり、資材の手配も済ませてある。

 人員についても近くの村々で金や食料、さらに輸送用の牛などを惜しげもなくばら撒いて人を集めた。

 作業は事前の準備と人海戦術により、一日で終わった。

 その陣地に北から、高覧、華雄、雷薄、張郃の順に配置されている。当然、それぞれの部隊には参謀が派遣され、作戦の補助を行う。

 彼らの前面には堀と矢来が備えられていた。これがあるとないとでは防御力が格段に違う。

 その後方には袁遺と参謀団がいる本陣が置かれ、その近くには若蘭が率いる予備隊が配置されている。

 予備隊から前線までの道はある程度の整備がされ、馬が駆けやすいようにもなっている。

「どうなさるのです?」

 若蘭が尋ねた。

「耐える」

 袁遺は言い切った。

「ここで耐えていれば、向こうは必ず崩れる」

 袁遺は司馬懿がどのように動いたかをすでに掴んでいる。戦略的優位が自分にあることも理解している。ならば、その優位を利用して戦場での敗北を避けるのが最善であった。

 ここで曹操軍に地形や堀や防柵などの障害物と戦わせて消耗させるのである。まずいことになれば逃げてもいい。ともかく本軍を壊滅されなければ何とかなるのだ。

 余談になるが、この段階で袁遺たち本軍は陳蘭の死について知らされていない。支軍の司馬懿もそれを知ったのはこの段階であり、彼は士気に係るからと、緘口令を敷いたのである。司馬懿の判断は正解であった。

「問題はあるか、雛里?」

 袁遺は本軍の参謀長にあたる雛里に尋ねた。

「いえ、問題はありません。御卓見です」

 この陣は彼女が設計したのであり、耐えれる自信があった。

 そうか、と頷いた袁遺の顔に柔らかなものが宿った。

 それから彼は、雛里に口を開いた。

「雛里、覚えているか? 黄巾の乱の……そう、朱光録太夫(当時は右中郎将)に君を初めて紹介した後だ。私は君に尋ねたよな、曹太守が来なかった場合、私たちは負けていたと思うか、と」

「覚えています」

 雛里は懐かしい気持ちになった。あれから随分と時間が経ったが、やっていることはあのときとそれほど変わらない。戦場を動き回って有利を作り、弱兵を抱えて有利な地形に拠って耐える。

「もちろん、伯業様がその後に言った言葉も覚えています」

「もしまた、同じ様な状況があったら、完璧に決める」

 袁遺は再び、その言葉を口にした。

「雛里、俺は勝つよ」

 袁遺は口元を僅かに歪ませて言った。

 そして、対陣する曹操軍を睨みつける様に体を向きを変えると、誰にも聞こえない様な声で、もう一度呟いた。

「華琳、俺は勝つよ」

 

 

 曹操―――華琳は自分の戦略が完全に崩壊したことを察した。

 荀彧に任せた支軍は司馬懿に出し抜かれて、本領が侵されている。決戦予定地であった巻の平野に到着しても、もはやそれは何の意味もないことであった。袁遺は絶対に決戦に乗ってこない。その必要などないからだ。

 しかし、不思議と清々しい気分であった。

 袁伯業はこうでなくてはならない。その才、その強さ。そうであるからこそ、私は伯業を打ち倒したいのだ。

「華琳様」

 郭嘉が思いつめたような表情で口を開いた。

 今回の作戦を立案した彼女は責任を感じているのだった。

「撤退を御命じください。本軍はまったくの無傷です」

 と同時に、軍師としての責務を果たそうとしていた。

「反董卓連合以降に華琳様が治めることになった兗州の郡は、おそらく袁遺に降るでしょうが、陳留は違います。陳留の民たちは華琳様の善政の報恩を忘れてはおりません。未だに抵抗を続けれているでしょう。そこに籠るのです」

「陳留に籠って耐え、時間を稼ぎ、敵の金が尽きるのを待つ?」

 華琳の問いに郭嘉は肯首した。

 袁遺と曹操の経済状態は決して良いものとは言えず、この戦争が長引けば財政破綻を起こすことは何度も触れてきたことだ。

「その前に、袁遺は和平を結ぼうとするはずです」

 郭嘉はそれを人質にしようと言っているのだった。

「つまり、勝つのではなく、より良い和睦条件を引き出すために戦えと言うの?」

「はい」

 郭嘉は肯定した。

「その交渉は風に任せてください~」

 それを受けて、同じく軍師である風―――程昱がいつもの調子で言った。

 その変わらない様子が、今は頼もしいものだった。

「それは、曹孟徳のやり方ではないわ」

 しかし、華琳は撥ねつけた。

「私は天下を平らげるために立ったの。伯業に膝を屈して、僅かな土地を得るために立ったわけではないわ」

 それに郭嘉と程昱は、困った様な、しかし、どこか嬉しそうな表情を浮かべた。

「では、敖倉付近の袁遺の野戦陣に攻撃を仕掛けますか?」

 撤退しないなら、選択肢はそれしかなかった。

 袁遺の本軍を壊滅させる。それさえできれば、司馬懿の―――曹操軍の感覚からすれば遊んでいる様な―――運動戦によって立たされた窮地から脱出できるはずだった。

 郭嘉にしても、程昱にしても、主がこの選択をすることは初めから分かっていた。

 それでも敢えて、撤退論を出したのは、それが軍師の務めでもあるからだった。

 曹操本軍は、軍をさらに西へと進め、袁遺の野戦陣へと接近した。

「悪くない陣ね」

 その陣を一目見て、華琳はポツリと漏らした。

 黄土によって作られた丘に陣取り、ひとつの陣がまた別の陣とうまく連携できるようになっている。

 だが、同時にその攻め方も彼女の脳裏に湧き出ていた。

「狙うなら、華雄の陣だけど……」

 袁遺軍の陣は北から、高覧、華雄、雷薄、張郃の順に配置されている。この中で最も連携が取れないのは、付き合いの長さやその性格から華雄である。

 しかし、華雄の陣を狙ったとき、その他の陣に側面を晒すように野戦築城は行われている。

「狙いは端ですね」

 郭嘉が言った。

 端の部隊は少なくとも中央に攻撃を仕掛けるより、他の部隊からの支援が少ない。それに、片方を崩せれば、もう片方も自然と下がらなければいけない展開が作れるからだ。

「張郃の陣です」

 ここで彼女が同じく端である高覧の陣を外したのは、隣に華雄が配置されているからである。

 この中で最も歩兵同士の殴り合いに長けている華雄は、高覧隊に危機が迫れば臆することなく逆襲を行ってくるはずであった。

 逆襲という戦術は、それを仕掛ける側にも小さくない損害がある諸刃の刃であるが、無謀に近い勇猛さを持つ華雄はそれを気にしていなかった。

 しばらく敵陣を眺めていた華琳はその視線を切ると、諸将に命を下した。

「春蘭は張郃の部隊を攻めよ。凪はその隣の雷薄隊を攻め、沙和は別命があるまで待機せよ」

 つまり、春蘭―――夏侯惇が主攻で、凪―――楽進が助攻、沙和―――于禁は予備兵力である。

 主攻とは主力によって行われる攻撃であり、助攻とは主力に対する支援攻撃である。この場合、雷薄隊の攻撃が夏侯惇にだけ集中しないように、雷薄隊を牽制攻撃するのが任務となる。

「御意!」

 三人の将は短く答えた。そこから自分のやるべきことを理解していることが窺えた。

 華琳はそれに満足げに頷いた。

 それから、絶―――愛用の大鎌―――を掲げて檄を飛ばした。

「各員、奮励努力せよ! 袁伯業を打ち倒し、共に勝利を謳おうではないか!」

 全軍から雄叫びが上がった。

 

 

 曹操軍に軍鼓の連打が響き渡った。前進の合図である。

 怒号や鯨波がわき起こり、馬の蹄や歩兵たちが駆ける低音が地面を揺らすように響いた。

 華琳と軍師たちは攻撃に際して、何か搦手を使うことはなかった。

 例えば、防御線の迂回戦術などの誰でも思い付きそうな手段を用いなかったのである。

 これは別に、袁遺を正面から打ち破りたいと、如何にも華琳らしい戦争観によるものではない。袁遺相手に多少の小細工を行っても、それに対して袁遺がどのような手で対処してくるか分かりかねるところがあったからだ。

 もし、時間に余裕がない今の状況で泥沼の消耗戦にでも引きずり込まれれば、曹操軍は立ち枯れてしまう。

 部隊が敵陣の約三〇〇メートル手前に達したとき、敵陣から矢が放たれ始めた。

 それに夏侯惇は声を張り上げた。

「怯むな! 進め!」

 ここで盾、あるいは轒轀車(ふんおんしゃ)(左右と頭上を守るため壁と屋根がついた人力の車、謂わば古代の装甲車)などで身を守りながら進むことは自殺行為であった。

 何故なら、そのように素早い動きができない歩兵は馬で側面に回られれば、手もなく崩れてしまうからである。

 それに三〇〇メートルは余程運が悪くない限り、当たっても致命傷とならない距離である。

 といっても、敵の殺傷は副次的なものであり真の目的ではない。真の目的は敵から行動の自由を奪うことであり、所謂、制圧射撃である。

 身動きが取れず、武器さえも構えることができない兵は死体と変わらない。

 だから少なくとも、ここで射竦められてしまっては話にならない。

 盾を使用するなら、敵陣を有効射程距離(二〇〇メートル以内、ただし今回は敵が高所を取っているため、もう少し近づく必要がある)に捉えてからである。

「続けーーーッ!」

 夏侯惇は自らが先頭になり叫んだ。

 そして、曹操軍の兵たちは勇猛であり、精強であった。

 敵の射撃など気にせずに彼らは駆けた。その勢いは凄まじいものだった。手前の空堀などないかのように斜面を駆けあがり、防柵に取りついた。

 柵と堀のあちらこちらで戦闘が発生する。

 夏侯惇隊に少し遅れて、楽進隊も雷薄隊への牽制攻撃を開始した。

 怒号と悲鳴が交差し、血飛沫が舞った。

 死者が量産され始める。

 

 

「防柵の外には決して出るな!」

 張郃は叫んだ。

 その健康的な角ばった顔には、夏侯惇隊の猛攻を受けても焦りの色はなかった。

 高所の利と、空堀と防柵が、精強な曹操軍となんとか戦えるようにしていた。

 矢を射掛け、敵が近づけば野戦築城の際についでに集めた子供の頭くらいの大きさの岩を投げつけ、敵が柵に取りつくならば槍で刺殺した。

 一方の夏侯惇隊も防柵を有効射程距離に捉えた弓兵たちが、盾の陰に隠れて射撃を開始した。

 双方で、兵士たちが射的の的の様に倒れていく。

 張郃の予想以上に柵の内側にいた自軍にも損害が出た。野戦築城の規準を兵士たちを守るより、敵の突破を防ぐことに重点を置いたためであった。

 張郃の頬をかすめる様に矢が飛び去り、後方の地面へと突き刺さった。

 前線では流れ矢など日常茶飯事である。張郃は気にせずに、思考を巡らせた。

 間違いなく、戦闘の焦点はここだ。今は双方共に余裕があるが、戦略的に不利な曹操軍はどこかで無理をしてくるはずだ。その無理をどうにかすれば、敵は崩れる。そして、一度崩れれば終わりだ。

 張郃の考えていることは事実であった。得難い特質である精強さや粘り強さは、一度でも崩されれば取り返しのつかないことになる。

 訓練の違いである。

 袁伯業が、勝てそうにないなら逃げるということを平気で行える人物のため、彼が作り上げた組織も自然とそうなっている。

 それは今の様な、戦略的に有利で壊滅させられなければ、どうとでもなる状況で凄まじいアドバンテージとなる。

 そして、その曹操軍が無理をするときが来たのだ。

 指揮官のひとりが独断で、張郃隊と雷薄隊の境界を大きな損害を覚悟して突破を試みたのである。

「矢の雨を降らせろ!」

 張郃はすぐに命じた。

 雷薄隊でも同様の動きがあった。

 だが、それに呼応して、突破を援護しようと夏侯惇隊も楽進隊も攻勢を強めたのである。

 その動きはさらに戦場全体へと広がっていく。

 このとき、突破を試みた部隊の掲げる旗には『韓』の文字が記されていた。

 

 

「後詰を出せ!」

 華琳が叫んだ。

 彼女は歴戦の大将らしく、戦闘の焦点がどこにあるか察知したのだ。

 すぐに伝令が走り、于禁の部隊が夏侯惇の援護へと向かった。

 

 

「予備隊を投入する! 姜維に張郃を援護させろ!」

 ほぼ同じタイミングで袁遺もまた予備兵力の投入を決意していた。

 袁遺と華琳、ふたりは戦場の南に発生した戦闘がもたらす可能性を的確に予想できたからこそ、増援を送り込んだのだ。

 姜維隊が張郃隊へと駆け下りていくのを横目に袁遺は、戦場全体を見渡した。

 大きな喚声が右翼と相対する敵から上がった。

 于禁隊が戦闘を開始したのである。

「曹操軍も予備兵力を投入したか……」

 袁遺はそのタイミングに面白みを感じた。

 皮肉なことだな、華琳。お互いにお互いを知っていなければ、ここまでタイミングが合うことはないぞ。

 激戦が展開されている戦場の南で状況が大きく変化した。

 夏侯惇隊の一部が、陣の内側に浸透することに成功したのだ。

「『韓』の旗……おそらくは韓浩の部隊ではないでしょうか!」

 参謀のひとりが叫ぶように言った。

「王匡と共に反董卓連合に参加した韓浩か」

 これもひとつの数奇な運命であろう。

 反董卓連合が解散した後に曹操に仕えることになった韓浩は袁遺に恨みはなかったが、彼女は義侠心から王匡の敵討ちを願っていた。

 その機会が、この戦いであった。

 それ故の果敢な行動である。

 しかし、それは成し遂げられずに終わる。

 袁遺が投入した姜維隊六〇〇〇が突破に成功した韓浩隊に襲い掛かったのである。

 そのため、韓浩はそれ以上、戦果を拡大することができずに壊乱させられてしまったのだ。

 韓浩はその混乱の中で戦死した。

「状況が良くなってきましたね」

 姜維の活躍を袁遺と共に見ていた雛里が口を開いた。

 事実であった。

 張郃対夏侯惇の戦いは初めは両軍合わせて一万七〇〇〇程度の戦いであったのが、袁遺と華琳が増援を送りあった結果、三万以上の兵がもみ合う乱戦となってしまった。

 その中で袁遺軍は戦闘正面を限定し、防衛的な戦闘に徹していた。

 いかな袁遺軍の弱兵でも周りに味方が溢れんばかりにいれば、それなりの働きをするのだった。

 対して、曹操軍は逆に混乱の度合いを強めていた。

 雷薄隊に牽制攻撃を行っていた楽進隊が、南で行われている激戦に引っ張られる様に右へとずれ続けているからである。

 曹操軍の戦線は混み合い、少しづつ統制が取れなくなってきていた。

 袁遺もまた、少なくとも自分に不利でなくなってきたことに気付いていた。

 

 

「押せぇ!」

 夏侯惇は鬼も逃げ出すような形相で手勢を叱咤した。

 彼女は袁遺軍とは反対に状況が悪化しだしていることを戦場の空気から、肌感覚で理解していた。

 その劣勢を跳ね返すために夏侯惇は最前線で自ら剣を振り戦いながら、部隊を指揮していた。

 だがしかし、戦闘正面が混み合い過ぎているため、効果は発揮できていなかった。

 それどころか、不運が彼女を襲った。

 混戦が彼女の死角となった。

 流れ矢が彼女の左の目に、ぶつりと突き立ったのである。

 夏侯惇はそのまま落馬した。

 周りの兵たちは悲鳴に似たうめき声をどよもした。

 すぐに、兵たちが夏侯惇を抱き起そうとしたが、彼女はそれを制して、自らの力で立ち上がり、叫んだ。

 その声は戦場に響き渡った。

「天よ! 地よ! そして、兵たちよ! よく聞け! これは父の精、母の血だ。棄ててなるものか!」

 そう叫んで、夏侯惇は眼球ごと矢を引き抜いた。

 それから、その左目を飲み込んだのである。

「私がこうして立つ限り、戦線は崩れさせん! 征け、兵士たちよ!」

 曹操軍から大歓声が起こった。

 夏侯惇の勇気ある行動に前線の兵たちは奮い立ち、勢いを取り戻した。

 しかしそれは、虚しい蛮勇であった。

 

 

 夏侯惇が左目を射られたことを聞かされたとき、華琳は思わず床机から立ち上がった。

 その後の左目を食べるという剛勇な行動に安堵したが、しかし、戦況は最悪なものに変わってしまっていた。

 確かに兵たちの士気は上がったが、それは勢いがあるだけで微妙な統制が取れていない。勢いが衰えたとき、軍は崩壊することになるだろう。

 前線の軍を掌握し、統制のとれた攻撃をしなければならない。

 一度、引き上げさせ、陣形を整える……?

 華琳は考えたが、すぐに自ら否定した。

 一度引き上げてしまえば、負けてしまう。戦略的な意味では勝負はもうついている。ここで退けば、兵士たちの戦う意思は喪失してしまう。

「絶影を引きなさい。出るわよ」

 華琳の言葉に、本陣がどよめいた。

 確かに、総大将自らが前線を掌握するしか、もう方法はなかったが、それでも必ず勝てるわけではなかった。

 しかし、危険すぎるからと華琳を止めることができる者は誰もいなかった。

 華琳は覇気に満ち満ちていた。

 

 

「駄目だよ、華琳。それは駄目だ」

 曹操本隊が動いたのを察知したとき、袁遺は小さく呟いた。

 まるで祖父が可愛い孫に言い聞かせるような響きの声だった。

 だがしかし、次に出てきた言葉はいつもより感情が欠落した様な声であった。

「……雛里、これで勝負を付けてきてくれ」

 袁遺が示したのはひとつの箱であった。

 雛里は箱を開けずとも、その中身が予想できた。

「一〇〇名ほどお借りできますか?」

 だから、すぐに尋ねた。

 それに袁遺は満足げに頷いてから続けた。

「好きにしろ」

 本陣の兵士を一〇〇名ほど連れて出ていく雛里を見送ってから、袁遺は再び戦場を眺めた。

 『曹』の牙門旗が靡くのがはっきりと見えた。

 袁遺はそれを見ながら思った。

 仲達、今ここに君がいなくて本当に良かったと思ったよ。じゃないと、また君に俺の心の内を見透かされて、死にたいくらいの自己嫌悪に陥っただろうな。仲達、俺は勝ったと思うよ。華琳に勝ったと。そう思ったら、友人を蹴落とした自分を恥じて、彼女を心配するように取り繕ってしまった。どうしようもないな。従妹さえも破滅させた男が今更何を……自分じゃなきゃ殺したいほどの傲慢さだな。

 袁遺は勝利を確信していた。

 華琳の出撃は確かに意味あるものであったが、同時にそれは兵たちの緊張を極限に高めるものだった。

 そして、戦場を後方から冷静に見渡せる者が消えたということでもある。

 袁遺は本陣よりそれを見た。

 その瞬間、周りの参謀たちが歓喜の声を上げた。

 彼らも勝利を確信したのだ。

 そして、次は前線の将兵たちが気付き、最後に、曹操軍が気付いた。

 東に―――曹操軍の後方に靡く『司馬』の軍旗に。

 袁遺軍も、曹操軍でさえ、それは司馬懿の軍勢だと勘違いしたが、袁遺は知っていた。

 あれは司馬懿軍ではなく、雛里と一〇〇名の兵士たちである。彼女たちが司馬懿の旗を掲げて、司馬懿勢に化けたのだ。

 普段ならば、袁遺の参謀や将たちも、曹操軍も気が付いたであろう。

 しかし、緊張を限界まで高めていたために思いがけないことでパニックが広がったのだ。

 後で冷静になって考えれば分かることでも、ひとたび均衡が崩れれば何をしても元には戻らない。

 曹操軍は一部を残して、壊乱した。

 ひとり冷静な袁遺は、勝負を決めた軍師に心の中で語りかけた。

 

 

 雛里、君の言った通りだ。あのとき、華琳が来なくても、俺たちは勝っていたな。

 




捕捉

・呂布隊は殆ど無人の兗州の各地を次々と制圧し、
 中牟県に陳宮を置いたり、名前だけでも掎角の計を出したり、曹操が留守の隙に呂布と陳宮に兗州を攻撃させたり、正直な話、この章の彼女たちの行動は正史と演義からすごい影響を受けてます。

・破釜沈船
 項羽が鉅鹿の戦いの前に、炊飯の釜を壊し、帰るための船を沈めて出陣したことから死を覚悟しての戦いのことを示す。背水の陣とほぼ同義。

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16

16 覇道の果てに……

 

 

 自らの出陣を決意したとき、曹操―――華琳はそれが成功を収めると信じていた。

 前線へ赴いた華琳を兵は歓呼の声で迎えた。

 血を流し死が見えている兵でさえも歓声の輪に加わっていることに気付いたとき、華琳は勝利を確信した。

 曹孟徳とはそれほどカリスマであったのだ。

 だがしかし、その歓声は数十分後に悲鳴へと変わったのである。

 自軍の後方に『司馬』の軍旗が見えたとき、華琳でさえ司馬懿の軍勢が現れたと誤断した。

 司馬懿ならあり得ると、一瞬でも思ってしまった。それほど、司馬懿の反董卓連合での長距離奇襲や今回の戦略的優位を築いた機動は衝撃的であったのだ。

 華琳はすぐにその幻影を振り払ったが、兵たちはそうではなかった。

 彼らはその旗を見た途端、パニックに陥り壊乱した。

 最強と信じた曹操軍はまるで灰の山が風に吹き飛ばされる様に、華琳の手元から消え去ってしまった。

 彼女の軍が最強であったのは間違いない。まともに戦えば、灰山の様に消し飛んだのは袁遺軍であっただろう。

 しかし、戦えなかった。華琳が望んだ袁遺と雌雄を決する血戦など起こりもしなかった。蚊帳の外で勝敗は決まってしまい、それでも袁遺の頸を取ることに逆転の望みを託したが、地形と障害、そして何より根本的な戦略的不利によって最後の望みさえ断たれた。

 華琳と彼女の軍の首脳部は四散する兵たちを押しとどめようと動いたが、手元に残った兵は彼女が旗揚げをした頃より付き従っている最古参兵を中心とした四〇〇〇名程度であった。

 華琳がこの戦争で最も衝撃を受けたのは次の瞬間―――袁遺軍の様子を見たときであった。

 自軍が四散する中で、その四散する曹操軍に一撃も加えず築いた野戦陣地に、なおも袁遺軍が籠り続けたのだ。

 攻撃を加えるなら絶好の機会である。しかし、袁遺は動かない。

 それは決戦で勝敗を付けることは絶対にないという袁遺の意思表示に他ならなかった。

 華琳と軍師たちはその四〇〇〇と共に黄土が残留してできた丘の上に拠り、そこで隊列を整えた。

 だが、それ以上のことを華琳たち首脳部は行うことができなかった。

 今更、荀彧が率いる支軍と合流しても手遅れである。

 合流したとて、結局は支軍と一緒に司馬懿の軍勢によって行動が制限されるだけである。

 その間に袁遺の本軍が自由に動き回って、戦況がどれほど酷いことになるか想像もつかない。

 では、自分の矜持のために袁遺に最後の文字通りの血戦を挑もうにも、それは数分前の繰り返しである。

 相手にするのは袁遺ではなく地形と障害物であり、それらに磨り潰されるだけであった。

 勝利どころか、華琳が望んだ英雄的な戦いも、そしてその果てに倒れることさえもなかったことに、彼女は衝撃を受けたのだった。

 ふと、華琳の耳に夏侯惇の苦しそうな息遣いが入った。

 左目を負傷した夏侯惇は、この丘の上に着いた瞬間に倒れたのであった。

 無理もないことであろう。その傷は重傷であり、本来なら立っているだけでやっとのはずであった。

 その後、夏侯惇は朦朧とする意識の中、熱にうなされて苦しそうにしている。

 華琳は無意識のうちに下唇を嚙んでいた。

 戦ったことに後悔はない。しかし、夏侯惇を失うことには心が怯えていた。

 華琳が夏侯惇を見つめていると、やにわに兵たちが騒ぎ出した。

 すぐに華琳の元に兵が駆け込んできた。

「袁遺軍が軍使を寄こしました」

「…………会おう」

 華琳は言った。しかし、威厳を正すのに僅かな時間を要していた。

 軍使は懐かしい人物であった。

「司馬孚が、拝謁致します」

 反董卓連合後、袁遺と手を組むときに使者としてやってきた女性が再び華琳の元に現れたのだ。

「それで何の用かしら?」

「はい、驃騎将軍が曹公と直に話すことを望んでおられます。両軍の間に天幕を設け、そこを交渉の場とする御意向です」

「驃騎将軍……ああ、伯業は出世したのだったわね」

 華琳は、はぐらかす様に言った。

 彼女の心には迷いがあった。

 今、袁遺に会うことにバツの悪さを感じていた。

 会談の内容は考えるまでもなく降伏勧告だろう。曹孟徳に降伏の道はない、と華琳は心の中で吐き捨てたが、だからといって、どうすることもできなかった。

 戦いの中で散ろうにも、地形と障害に磨り潰されるのは彼女の望む戦いではない。

 しかし、袁遺に会い、英雄同士の戦いをなどと()ってみたところで意味などないだろう。

 袁伯業という男は英雄同士の戦いなどに何の価値も見出していない。

 だが、それでも袁遺には会わなければいけないように華琳は感じた。

「……分かったわ」

 華琳は、わきまえた様に答えを品良く待っていた司馬孚に、絞り出したような声で言った。

「随員は?」

「護衛と文官、合わせて五名」

「分かったわ。ここから一里(約五〇〇メートル)先の所で」

「二里」

 司馬孚は応じた。

「一里半」

 華琳は譲歩した。

 司馬孚が陣中を去ろうとしたとき、以前と同様に華琳の悪癖とでもいう様な―――プライドの高さからくる―――揶揄を司馬孚にぶつけた。

「それにしても伯業は、私がそこで彼を襲おうと考えないのかしら」

「驃騎将軍は、曹公はそのようなことをなさる人物ではないと、仰られていました」

「……そう」

 華琳の心にいっそのこと、その信頼を裏切ってしまおうかという邪な考えが一瞬浮かんだ。

 その後、怒り狂った袁遺軍に戮殺されてしまうだろうが、それでも敵と矛を交えて戦い頸を刎ねられて戦場の屍となるという、乱世の奸雄らしい死を迎える方法はそれしかないのではないかと、華琳は思ったのだ。

 しかし、それは曹孟徳のやり方なのだろうか。もし華琳が反対の立場であったなら、そのような行いを侮蔑していただろう。

 華琳は迷っていた。

 彼女はあるときを境に自身が、そして多くの人間が思い描く覇王として振舞ってきた。

 だがしかし、その覇王は自分を覇王扱いしない―――まるで孫でも扱う様な―――男によって葬り去られつつあった。

 長年、彼女の一面であったものが削ぎ落とされた喪失感が華琳自身を苛み、深い深い迷いの底へと突き落としていた。

 

 

 華琳は袁遺との会談に程昱を連れて行き、郭嘉は残り―――決してありえないが―――有事に備えるよう命じた。

 また武将は許褚を連れて行き、他三名は古参兵を連れて行くことにした。

 兵の人選は程昱に任せられた。

 彼女は屈強かつ活力に溢れているように見える兵士たちを選んだ。

 そして、その人選の最中の程昱を郭嘉が尋ねてきて口を開いた。

「問題は袁遺が何を考えているかです」

 郭嘉が言った。

「戦いの終結が第一でしょうね。こちらが四〇〇〇しかいないと言っても、その四〇〇〇が死に物狂いで戦えば被害は甚大なものになりますし、桂花ちゃんの軍がまだ健在です。これ以上余計な被害を出さないために、最後は交渉で締めたいのではないでしょうか」

 程昱もそれに応じて、いつもの飄々とした雰囲気の中に僅かな厳しさを宿していた。

「となると、どこまで袁遺から譲歩を引き出せるか……」

 郭嘉は考え込んだ。

 袁遺という人間は測りかねるところがある。

 戦争観や外交方針は実際性と合理主義の塊のような男である。

 だが、合理性からは遠い存在である儀礼主義的な儒教の徒としても名高い。酷い矛盾を抱えた様な男だ。

 交渉相手としては、これ以上ないくらい厳しい人間である。

「華琳様の命や将兵の命は当然として、どれだけのことが許されるか……」

 華琳を生かすにしても、再び群雄として立つことができないくらいに曹操陣営は解体されるだろう。

「いえ、問題はもっと別のところにあるかもしれませんよ」

「別の……? この敗戦で名士から完全に見放されてしまうことですか?」

 袁遺に解体されずとも、袁遺に挑戦し敗れたことで華琳の名士間の評判は地に落ちたのは間違いない。名士の取り込みは難しくなる。

 もちろん、袁遺が主流派となったとき、そこから零れ落ちた者たちを引き込み反対勢力を作るといったこともできなくはない。

 だが、それは天下の不平家、天下の欲深者を糾合するということであるが、華琳という人間が持つ潔癖な部分がそういった人間を毛嫌いしている。華琳は力で人を従わせる強さはあっても、それこそ袁遺の様な他人の欲に頭を下げる弱さを持っていない。

 華琳は彼らを取りまとめられないだろう。

 曹孟徳の天下の目は完全に潰えてしまったと言って間違いはない。

 しかし、程昱が言っているのは、そういうことではなかった。

「華琳様が何を望んでいるかです」

 程昱の言葉に郭嘉は、はっとした。

 敬愛した華琳が覇王らしい(もしくは奸雄らしい)死を望むのであれば、交渉自体が無意味である。

「もし、華琳様とここで最後の一兵まで戦ったら、桂花ちゃんに恨まれますかね?」

 程昱が郭嘉に尋ねた。

「恨むでしょうね」

 郭嘉は首を縦に振った。

「ここで華琳様と一緒に玉砕しようものなら、泉下に行っても恨まれ続けるでしょう」

 そして、どこか皮肉気な笑みを浮かべた。

「風、戦に負けるにしても、戦に勝つのと同等の力が必要ですね」

 その言葉は軍師・郭嘉の貪欲さであった。

 彼女は負け戦という無常の境地に立った今、その境地を貪欲に味わっていた。

 軍師の性としか言いようがない。

「風、私はたとえ不忠者と言われても、華琳様に死んで欲しくありません」

「それは風も同じですよ、稟ちゃん」

 程昱は天に手を伸ばして続けた。

「風は今でも華琳様が日輪だと思っているのです」

 程昱はかつて程立と名乗っていた。

 しかし、華琳に仕えることになる少し前に、日輪を支え持つ夢を見たため、名を程昱に改名したのである。

 華琳に仕えたとき、夢で支え持った日輪はこの人だと、程昱は思った。この人こそが、この大陸に強く暖かな光を届ける太陽だと。

「袁遺さんに負けてしまいましたが、華琳様にはきっと、まだやれることと、やらなければいけないことがあるような気がするんです」

「風……」

 だが、その思いとは裏腹に軍師たちふたりは、自分たちにできることが殆んどないことを直感的に理解していた。

 自分たちの主、曹孟徳とは自分の進む道は自分で決める。そういった性分の人間であることを嫌というほど分かっていたからだ。

 

 

 袁遺が選んだ随員は参謀の楊俊、護衛として姜維と彼女の麾下の三名の兵であった。彼の軍師である雛里は本陣に残り、万が一の事態に備えている。

 天幕は袁遺軍が設営し、その後に曹操軍の護衛が異常がないかを確かめた。

 双方の納得がいったところで、袁遺は天幕の中へと入った。

 華琳はすでにいた。そして、入ってきた袁遺を強烈な視線で睨みつけてきた。

 袁遺はそれを受け流す様に、拱手した。

「曹公、お久しうございます」

 華琳からの返礼はなかった。ただ、その視線がさらに鋭くなった。

 それはまるで彼女の矜持が未だに敗北を拒んでいるようだった。

 取りつく島もない様子でも、袁遺は続けた。

「会談の願いをお受けいただき感謝します」

 そう言って、頭を下げた。

 その様子は、どちらが勝者で、どちらが敗者か分からないものだった。

 事実として、この場の華琳以外の者は袁遺の態度に困惑した。

 勝者の余裕を通り越した卑屈さに、冷静に袁遺の腹の内を見通さなければならない程昱でさえも例外ではなかった。

「曹公、あなたは勇者です。それは私も認めることです。しかし、これ以上の戦いは無意味です。どうか、降伏を。あなたの生命はもちろん、将兵の生命も、私の命と名誉にかけてお守りします」

 華琳はそれさえも無視して、口を開いた。

「媚び、煽て、脅し、宥めて、賺す。あらゆる手を打って、何としてでもやり遂げる。あなたが言った言葉だったわね」

 冀州侵攻前、袁遺が陳留で華琳に言った、華琳を自陣営に引き込む決意の言葉であった。

「伯業、あなたはまだ私に利用価値を見出したからこそ、そこまで卑屈な態度でいるのでしょう。私は、あなたが見出した私の価値を聞きに来たの」

 華琳は真っすぐに袁遺と向き合ったまま言った。

「分かった」

 話はそれからだ、という華琳の態度に袁遺は頷き、慇懃な態度を取り去って答えた。

「参軍、持ってきた書簡を」

 楊俊から受け取った書簡を華琳に示しながら、袁遺は続けた。

「それはこの戦いが人々の営みにどれくらいの影響を与えるか試算したものだ。君が治めていた兗州、冀州の数字は正確とは言えないが、それほど乖離したものでもないはずだ。ともかく、まあ、酷いものだ」

 それに目を通す華琳の表情に暗いものが差した。

 戦争に栄誉を求める彼女にとって、それはそのヒロイズムが取り剥がされ、残されたどうしようもない現実であった。

 黄巾の乱、反董卓連合、そして今回の袁曹の戦いは司隷東部と陳留郡にあまりにも大きすぎる戦禍をもたらした。

 田畑は荒れ、物流が止まり、人心は荒んだ。

 それはつまり、税収の減少と治安の悪化を表す。

「……もちろん、戦後のことは考えていたわよ」

 書簡から顔を上げた華琳が絞り出したような声で言った。

「何となく想像がつくよ」

「なら、言ってみなさい」

 袁遺の言葉に華琳が過剰に反応した。

 彼女は何から何まで見透かしたような態度を取る袁遺に反感を抱いたのだった。

 今までの袁遺なら一歩引き、華琳に謝っただろう。しかし、このときは違った。

「君が兗州を中心に行っている軍屯を……」

 袁遺は、そこで言葉を切った。それから皮肉気に口元を歪ませて、続けた。

「私に勝ち、手に入れる予定であった司隷や、その他の州へと広げていくつもりだったんだろう? それ自体は悪くないが……」

「悪くないけど何だって言うの!?」

 華琳は噛みつく様に怒鳴った。

「それは国の決済手段を穀物、あるいは布帛で行うことであり、銭の信用と価値を下げることだ。物価の異常な上昇を呼び起こすことになる」

 袁遺自身、深くは語らなかったが、華琳の政策自体は優れたものである。

 彼女の政策は後の戸調制度の原型のひとつにあたるもの(詳しくは補足で書くが、それ自体は前漢の時代から存在するものであり、全てを曹操の功績であると決めつけるのは明らかな間違いである)で、歴史的にも意義深いものである。

 ただし―――

「私が孫策なら、それを失策とするだけの考えがある」

 後漢末から六朝時代、そして隋唐の経済政策という未来の知識を持つイレギュラーが全てを台無しにしていた。

「…………」

 華琳は言葉を発することができなかった。何ら反論の術がなかったのだ。

 袁遺が失策にするだけの考えがあるというなら、失策となるだろう。

 それは華琳がこの戦で失った、袁伯業という人間が持つ―――才能と能力と、何よりも実績に基づいた―――無形の迫力であり、権威であり、カリスマである。

 それらを手に入れるために彼女は戦い、そして敗れ、永遠に失ったのだ。

「……なら、あなたは私に何を求めているの?」

 戦争にも勝ち、政治能力でも華琳が見えていないものを見ることができる男が求めるものが、華琳には分らなかった。

「君の文才を」

 袁遺が答えた。

 彼の頭の中にはひとつの詩歌があった。

『三都賦』という詩がある。

 作られたのは晋が魏より禅譲を受けて間もなく孫呉の命運も尽きかけた三国志の終わり、当然この外史では未だ影も形もない。

 作った人物は左思という山東地方出身の人物である。

 この三都とは蜀の成都、呉の建業、魏の鄴の三都市のことである。

 その詩の内容は、西蜀公子、東呉王孫、魏国先生なる三人の人物がそれぞれの国を自慢し合うのである。

 西蜀公子が蜀の自然の素晴らしさや産出する珍品の多さを語り、それに対して東呉王孫は蜀にはない海の雄大さやベトナムから入ってくる真珠の美しさや大きさを自慢し、さらには聖帝とされる舜や禹は北方の生まれだが生涯を南方で終えているのは、南方の美しい風土に魅了されたからだと、西蜀公子を嘲笑しながら魏国先生を牽制する。

 黙ってふたりのお国自慢を聞いていた魏国先生はおもむろに口を開くや、蜀呉のふたりに痛烈な一撃を食らわせる。

 そもそも世界の中心とは中国(中原)であり、その周辺は訳の分からぬ言葉を話す蛮夷と決まっている。蜀呉の自然がいかに素晴らしかろうが、所詮は蛮夷の地である。聖人の伝統を以て人徳の君が治める中原には敵わない。魏は漢の命運が尽きた後を受け、天命によって天下を治め、今度は天命が尽きて晋に天下を譲った。立派なことではないか。それに比べれば、蜀はすでに滅び、呉の滅亡もそう遠くないことである。

 これを聞いた西蜀公子と東呉王孫のふたりは、その通りでございますと、正統王朝である魏と、それを受け継いだ晋を讃えるのだった。

 一見すれば、晋のプロパガンダにも思える詩であるが、この詩が完成するまでに左思は一〇年の月日を費やした。

 何故なら彼は実際に三国を訪れ、その土地の様子を住人に聞き回ったという綿密な取材の元に書かれたのだ。

 文化は社会を映す鏡である。

 故に詩から蜀や呉が豊かな自然と豊富な物産という経済基盤に恵まれていたことが見えてくる。

 これは後漢末期から続く政治的混乱や董卓銭といった経済的失策、さらには長い戦乱によって中原の地が荒廃し、人が戦乱を避け、あるいは税が払えず耕作地を捨てて流民と化して南へと移っていたために蜀呉の地が発展したのだった。

 一方、それでもなお名士の中では文化的、精神的、正統的な優位は北である中原の地にあったということもまた見えてくる。

 もちろん、この外史では例えば銅屑と何ら変わりない董卓銭など影も形も存在しない。

 しかし、上記で述べた様に短期間のうちに大きな戦争が連続して司隷東部と兗州陳留郡を襲ったため、そこを領土としていたふたつの勢力の経済はその荒廃に引きずられるように悪化した。

 事実として、袁遺と曹操の戦いは長引けばお互いに財政破綻を引き起こす恐ろしい経済状況で行われた。

 黄河流域の経済は正史ほどではないが、衰退したと言っても間違いはない。

 だからこそ、文化である。

 五胡十六国時代、江南の地には北から移ってきた晋を初め、宋、斉、梁、陳、と五つの王朝が割拠したが、前述の通り経済的成長の著しい江南の土着の新興層が力を持ってくる。

 彼らは手に入れた富を自らの投資である教育と自らを主張する新たなるスタイルの芸術確立へとつぎ込み、華北からやってきた名士たちと共に六朝文化(孫呉~陳の六つの王朝)を築いていく。

 文化は突然生えてくるのではなく、新興勢力が手本としたのが『三都賦』で詠まれたような優位のある北方の文化である。

 袁遺はこれから大きくなってくる南の経済力を念頭に置きながら、それに対抗する力は文化しかないと考えているのであった。

「文化は兵馬よりも強い力となるときがある。私は君の文才は一〇〇万の兵馬に勝ると思っている」

 

 

 袁遺からすれば最大級の賛辞であったろう。だが、それを受けた華琳の表情は硬いものだった。

「……もし、私があなたを拒絶したら?」

「拒絶してどうする? ここで戦場の露と消えるか? 陳留に戻ってお互いが財政破綻を起こすまで戦い続けて、全てを本当にどうしようもなくするか?」

 華琳からすれば、そのどちらも選ぶことができなかった。

 戦場の露に消えるにしても、それは地形と障害に磨り潰されるだけである。また、財政破綻を引き起こして袁遺だけならまだしも、民草に余計な苦しみを味合わせるつもりなど彼女には毛頭なかった。

「私を苦しめたいなら自殺しろ。そうすれば、君の将兵の中の主に殉じようとする者たちとの戦いで、私はまた酷い苦労をすることになる」

 将兵が自分に殉じることもまた華琳の望みではなかった。

「郷里に引き籠ると言うなら、孫策がいる状況ではだめだ。君の故郷の譙と揚州が近すぎる。君と孫策に手を結ばれれば面倒だ。揚州の問題をどうにかするまで、悪いが軟禁させてもらう」

「揚州の問題が片付いた後ならいいの?」

「私が君に求めるのは文才だ。君の感情が噴出した様な詩だ。そんな詩を詠む者が私に利用されるからといって、筆を折るのか? 無理だろう?」

 袁遺の言葉を華琳は内心で苦々しくも肯定した。

 彼女にとって詩作とは名士の嗜みではなく、感情の爆発である。

 あらゆる出来事で感じたことが言葉となり内より湧き出てくる。

 袁遺の言う通り、詠みたくないから止めると言って、止められるものではない。

「君が人の心を震わせるものを作れば、それで私の目的も達成できる」

 そう言って、袁遺は口を閉じた。

 そして、その三白眼で華琳を正面から見据えていた。まるで、君はどうすると言いたげな様に。

 華琳が敗北を自覚したのは、この瞬間であった。

 彼女はいかなる選択肢を選ぼうが自分が歩んできた、彼女が歩まなければならないと思ってきた覇道が途絶えたと思ったのだ。

 それは彼女にとって敗北であった。

「………………将兵に危害を加えないと約束しなさい、伯業」

 長い沈黙の末、やっとのことで絞り出した言葉に軍師である程昱や護衛の許褚たちは息をのんだ。

 それは事実上の降伏宣言である。

「約束する」

 袁遺は頷いた。

 すぐに華琳と袁遺は荀彧、司馬懿の両名、そして兗州と呂布に停戦の伝令を送った。

 

 

 荀彧軍はまったくの想定外である中牟の城攻めを行っていた。

 日暮れという時間的制約のために司馬懿軍との会戦も呂布隊の追撃も断念しなければならなかった荀彧率いる支軍は、夜明けとともに司馬懿軍の無力化のために、彼らの籠る中牟の城へと攻撃を仕掛けた。

 だがしかし、呂布隊に兗州への逆侵攻を許してしまったために、中牟を可及的速やかに陥落させなければならない荀彧軍は無理な力攻めを行わなければならず、被害の割には効果は薄かった。

 戦えば戦うだけ戦力をすり減らし、本来の作戦目的から離れていくことを荀彧は自覚しながらも、それでも止めることはできなかった。

 本軍が望まぬ野戦陣に対して攻撃を仕掛けた様に、支軍もまた主と同じ轍を踏まされていた。

 そんな状況で曹操本軍からの伝令がやって来たとき、荀彧は全てを察して天を仰いだ。

 彼女は華琳に心酔しているが、それでも軍師としての残酷なまでの冷徹さが、この戦略的不利な状況で主が袁遺本軍を破ったなどと楽観的な発想をすることができなかったのだ。

 伝令役は程昱だった。

 そして、荀彧たち支軍の首脳部たちは程昱の口から華琳が袁遺に降伏したことを聞かされたとき、皆が涙を目に浮かべた。

 城攻めは中止され、自軍の敗北が知らされた兵士たちの反応も似た様なものだった。

 中には剣を地面に叩きつけて、人目を憚らずに号泣している兵さえもいる。

 

 

 兗州の最後まで抵抗した街も支軍と同じ様な顛末を辿った。

 呂布隊の侵攻を知った兗州の郡の殆どは、すぐに呂布に降伏した。

 華琳が長年、治めていた陳留郡の酸棗の街でさえも抵抗らしい抵抗を見せなかった。

 だが、そのことで酸棗の街を攻めるのは酷であろう。

 酸棗は反董卓連合の駐屯地となり、さらには袁紹軍から手酷い略奪を受けたのである。

 華琳はその略奪から酸棗を守ることができなかった。彼女が己の野心のために袁紹の嘘に乗って連合に参加し、酸棗の街を戦に巻き込んだのである。その点で言えば、先に裏切ったのは華琳である。

 しかし、それでも陳留の街だけは呂布に対して門を開くことはなく、最後まで抵抗を続けたのだった。

 陳留の街が門を開いたのは華琳と袁遺の使者から停戦命令を受けてからだった。

 ここに華琳―――曹操と袁遺の戦いは終結したのだった。

 それは華琳が鄴を発ってから一六日目のことであった。

 

 

 袁遺の想定より二日長引いたことが、ある意味で華琳の意地であったのかもしれない。

 




捕捉

・彼女の政策は後の戸調制度の原型にあたるもの
 董卓銭が後漢の貨幣経済を破壊したため国家的決済手段として銭の公的流通が殆んど停止した中で、曹操は徐々に銭以外の決済手段を模索し始め、官途の戦いから四年後の建安九年(西暦二〇四年)九月にある布告を出した。
 その布告によれば、田租として一畝に四升を取り立て、戸税として絹二匹と錦二斤を差し出さしむのみにして、その他を勝手に徴収することは許さない。郡国の太守、相はしっかりと監察し、豪族に隠匿することがある一方、弱き民に二重に税をかけることになきようにせよ(『三国志』魏書武帝紀裴松之注)。
 これによって田租・更賦を中心とする漢代税役体系が公令=戸調制に統一されたという説がある。
 ただし、これが布帛が国家的決済手段としての最初の例ではない。
 そもそも中国には太古より男耕女織(一般的に男は農耕、女は機織を本業とする)とう社会通念があった。
 これは『礼記』や『周礼』の親桑について書かれた項目(ただし、皇后が自ら養蚕する親桑(親蚕)が実際に行われたのは儒家思想が浸透した漢代以降)や戦国期の秦の睡虎地秦簡『秦律十八種』から見ることができ、布帛の生産を推奨する風潮があった。
 また、前漢元帝の御世に儒家官僚の貢禹が「農桑」奨励策の一環として、官営鋳税と銭による交易の停止と、布帛と穀物の租税祿賜を提案したことがある。
 これは布帛が交易に向かないとの理由で、賛同が得られず採用されなかったが、布帛を決済手段とする考えは前漢の時代からあった。
 そして、布帛が国家の決済手段として使われた実例が歴史に残っているのは前漢の武帝の時代からである。
 武帝の塩鉄専売制は塩鉄と布帛が(もちろん金銭でも可能だが)交換できた。
 また、これは以前(丙の章12)でも触れたが後漢では地方官の俸禄を半銭半穀であったが、居延漢簡には俸禄が布帛払いであった例も散見する。
 さらに、この曹操の布帛課税が戸調のみ限らず、戸調以外にも租布があったという説があるため、本文でも書いた通り、これが戸調制度に影響を与えたであろうが、曹操をその創始者とするには論争があり、浅学無知の徒である作者には判断できない部分があることを御了承願いたい。
 話を曹魏の経済政策に戻すが、五銖銭はその後で文帝(曹丕)の時代に再び鋳造されることになるが、銭が信用を取り戻すことはなく穀価の高騰を招き、再び鋳造を取りやめる。
 しかし、やはり布帛は民間の交易には不便ということで明帝(曹叡)の時代にまたまた鋳造される。
 この後の晋も中原の地は貨幣経済の復活と整備に奮闘することになるが、それは北魏、西魏、北周を得て、南の強力な経済を組み込んだ隋や唐の誕生まで続くことになる。


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17~18

丁の章完結記念短編も同時投稿


17 処世の道

 

 

 戦争の終結後、袁遺は司馬懿勢と合流し、そこで初めて陳蘭の死が袁遺の本軍に伝わった。

 その事実は勝利の喜びを吹き飛ばすほどの衝撃を―――特に陳蘭と付き合いの長い者たちに―――与えた。

 袁遺でさえ、その例外ではなかった。

 司馬懿本人の口から陳蘭の死を聞かされた袁遺の顔には何の表情もなかったが、それが常日頃のものとは全く違うことが司馬懿は理解できた。

 普段の彼なら、目から大粒の涙を零す雛里を気遣っただろうが、その余裕さえもなかったことが何よりの証左であった。

 陳蘭に殿を命じたのは司馬懿本人である。だから、もちろん司馬懿も陳蘭の死を心より悼んでいた。

 しかし、司馬仲達という男の思考は多面的、相対的であり、悲しみながらも袁遺という仕えにくい主の別動隊の指揮官の責務を果たすために冷静に報告を行っているのである。

 袁遺自身もそのことを分かっていた。そうしなければならない必要性も。

 袁遺たちには時間がなかった。

 驃騎将軍の官を帯びることになった袁遺であるが、曹操を推挙したという責があり、洛陽の帰還をもってその位を返上して謹慎することが決まっている。

 謹慎の身では大っぴらに軍を指揮することはできない。

 そして、曹操という敵は倒したが、袁遺にはその戦後処理や孫策という敵がまだ残っている。

 その処理や孫策に対する戦略を司馬懿や雛里に指示しておける時間は限られていた。

 ただし、指示にも仕方というものがある。

「鎮軍大将軍のおかげで私は勝つことができました。この喜びは言葉に尽くせません」

 袁遺は努めて朗らかな声で言った。

 この袁曹の戦争で司馬懿率いる支軍の功績は大きい。司馬懿は大きな武功を立てた。

 そんな司馬懿を袁遺は雑に扱うことはできない。

 雑に扱えば他の臣下から、功を立ててもその程度の扱いしか受けられないのかと、不信を買うことになるかもしれないからだ。

 そして何より、袁遺と司馬懿の人間性を抜きにしても、主君と功臣の間には余人の理解の及ばない緊張感が存在するものである。

 この主従もその一例に過ぎなかった。

 だから、そのことを理解している司馬懿も卒なく応じた。

「全ては驃騎将軍の教えがあったからです」

「そう、それをもう一度、思い出していただきたいのだ。私が以前に語らせてもらったポエニ戦争やアルキダモス戦争、ガリポリの戦い……その中で特にアルキダモス戦争のことを」

 袁遺は地図を広げながら続けた。

「雛里もよく聞いてほしい。孫策は私が曹公と争っている間に江南へと軍を向けたようだ。となると問題は河だ。長江は言うに及ばず、淮水、さらには現在はこちら友好的な関係にある劉荊州牧が押さえている漢水。これらの河川に戦力を置き、それぞれが助け合えば、江南の地は鉄壁となる」

 袁遺は地図を指し示した。

「そして、歩兵の精強さも孫策軍に分がある。だが、こちらに優位性が全くないかと問われれば、そうではない。良馬の産地はこちらが全て抑えているため騎兵の質はこちらが上だろう。そして何より、人の数では揚州一州よりこちらの方が多いのは当然であり単純な兵の動員数ならこちらが圧倒的に上だ。総合的に見れば陸上戦力ではこちらが有利だと言える」

「なるほど、そういうことですか」

 司馬懿が口を開いた。

「……あわわ、どういうことでしょう?」

 司馬懿との能力の違いにより、アルキダモス戦争について聞かされていない雛里が尋ねた。

「一方が陸上戦力に優れた、もう一方が水上戦力に優れたふたつの勢力―――つまりは、こちらと孫策のことだが……雛里、君が孫策ならどのような戦略方針を取る?」

 袁遺が逆に尋ね返した。

「……水軍で江南の地にこちらを入れさせないようにしつつ、寿春を中心に淮水を使って水軍と歩兵や騎兵の陸上戦力と連携させて、伯業様の故郷である汝南への侵攻を画策します。汝南へは侵攻してもいいですし、状況によってはそれを囮にすることも考えます。最悪なのは今回の曹操さんの様に、こちらを自由にして戦略的にどうしようもなくされることです。だから、伯業様の体面に係る故郷への攻撃を匂わせることで、こちらの動きを制限しようと思います」

「悪くはない」

 雛里の答えに袁遺は満足気な声で言った。

 司馬懿もそれに同調するように品良く頷いた。

「では、それに対して我々はどのような戦略を取ればいいと思う?」

「漢水を抑え、なおかつ強力な水軍を擁している劉表さんや江南の対岸である広陵の張邈さんと張超さんと連携して、まずは上流から孫策水軍に圧力を掛けます。それからこちらと孫策軍の一番力の差がある騎兵が有利な状況と場所を作るために今回の様に軍を動かして、そこで孫策軍の陸上戦力を壊滅させるのはどうでしょう」

「雛里、それだ。私が言いたいのは、そのような戦略を絶対に採用してはいけない(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)ということだ」

「あわわ!? どういうことでしょう、伯業様?」

 雛里は驚きの声を上げた。

「雛里、先程、私が言ったアルキダモス戦争とは、強力な陸上戦力を持ったスパルタという国と、水軍……正確には海軍であるが、ともかく強力な水上戦力を持ったアテナイという国の戦いのことだ」

「今の私たちと似た様な状況ですね」

「そうだ。そして、この戦争ではお互いが自国の長所を生かして勝とうとした」

「それで、どうなったんですか?」

「そのような方法では勝てずに、戦争は長期化した。そして、一〇年戦った後に双方が気付いた。強力な陸上戦力を持つ国と強力な水上戦力を持つ国が戦ったとき、戦争に勝つには相手の陣営が得意としている分野でいかに賢明に戦うか学ぶ必要があったと。そこから、スパルタなら水上戦力強化のために船の数を増やし、アテナイは陸は籠城して時間を稼ぎ、海で艦隊決戦をする戦略から正反対のスパルタとの陸上決戦を計画した。結果は戦略の転換を先に成功したスパルタが勝利した」

 このペロポネソス戦争の最初の十年の戦争をスパルタの大王の名を取ってアルキダモス戦争と呼ぶが、これは古典的なランドパワーの国家とシーパワーの国家の衝突であり、この戦争は現代でもランドパワーの国家とシーパワーの国家の戦争となったときの研究事例に取り上げられている。

「つまりは、こちらも孫策軍の水軍に勝つ必要があるということですか?」

 雛里が尋ねた。

「勝てれば、それに越したことはないが、必ずしも勝つ必要はない。水上の戦況がこちらが有利となればいいのだ」

「つまりは、今回と同様に戦わずに優位を築く考えを驃騎将軍はお持ちということですか?」

「それについては、既に徐州の張太守に話してある」

「広陵の地理的有利を使うということですか?」

「そう、広陵は江南の喉元の様なものだからな」

 そう言ってから、袁遺は改めて雛里と司馬懿に向き直って続けた。

「そのためには、やはり陸上戦力の力も不可欠だ。だから、雛里は洛陽へと帰還はするが、すぐに軍を率いて兗州に駐屯してもらう。太傅(袁隗)に良いように整えてくださるように頼んである。おそらくは都督兗州諸軍事として兗州の政治と軍事を統括してもらうことになる。鎮軍大将軍は洛陽にて私が謹慎の間、軍政を取り仕切ってください」

「は、はいッ!」

 雛里は頷いたが、司馬懿は違った。

「伯業様、よろしいでしょうか?」

「何だろう、将軍?」

「兗州へは、どうか筆頭軍師ではなく私を駐屯させてください」

 司馬懿の言葉に、雛里は小さく、えっ……と呟いてから、袁遺と司馬懿を窺うように交互に見渡した。

「今回、私が率いた支軍をそのまま兗州の駐屯軍とする方が編成の手間がかかりません」

「……しかし、将軍……奥方のことがあるのでは……」

 今回の人選は袁遺の私情と言えば私情であった。

 司馬懿の妻の張春華は現在、妊娠している。兗州の駐屯がどれくらいの長さになるかわからない中で、夫婦が離れ離れになるのは不安であろうと慮っての人事だったのだ。

 ただし、能力の点において雛里が司馬懿に劣っているということはない。雛里の戦術家、作戦家としての才能と能力は袁遺や司馬懿をも凌駕している。

 雛里でも十分にその務めを果たせるだろう。

「伯業様、是非、私に」

 司馬懿は頭を下げた。

 そんな司馬懿を見ながら袁遺は思った。つまりは、人質か……

 袁遺が謹慎するのである。その間の行動に少しでも不審点があれば、袁伯業という男の猜疑心は強くなる。

 そして、司馬懿はただでさえ袁遺に―――その能力の高さ故に―――警戒されており、また決して周りから好かれていないことも自覚している。

 そのために、身重の妻を半ば人質として、兗州への駐屯を志願したのだった。

「わかりました」

 袁遺は頷いた。

 

 

 報告が終わり袁遺の天幕を出るとき、司馬懿は袁遺の顔を盗み見る様に窺った。

 そこには先程まであった張り詰めた様なものが消えていた。

 それを認めたとき、司馬懿の鋭敏過ぎる頭脳は殆ど反射的に袁遺の心の内を読み取っていた。

 伯業様は陳蘭が死んで心から悲しんでおられる。そして、それを押し殺して私に臨まれた。

 司馬懿は亡き陳蘭に羨望にも似た感情を抱いた。

 彼は考えた。

 もし、私が死んだとき、伯業様はどのような反応をなさるだろうか……きっと、周りに狂ったのではないかと思われるほどの痴態を見せるだろうな。泣き喚き、周りに当たり散らす。ああ、きっとそうだ。だが、それは私が死んだことで彼が安心してしまったからだ。友人が死んで安心したことを恥じて、それを周りに悟られないように演じる狂態だ。

 だが、それは仕方がないことだとも、司馬懿は思った。こういう風な思考をしているからこそ、そう思われるのであって、それはつまり自業自得であった。

 司馬懿が自分の天幕に戻ってみると、衛兵から鄧艾が面会を求めていることを知らされた。

 司馬懿はすぐに来るように命じた。

「艾が、艾が拝謁します」

 鄧艾はすぐにやって来た。

「何かあったのだろうか?」

 司馬懿が典雅な響きを持つ声で尋ねた。

「い、いえ、問題は特にありません。ただ、驃騎将軍はどのようなことを仰られたのかと……」

 鄧艾の言は、どこか要領を得ないものであり、何かを探っているようでもあった。

 司馬懿は、瞬時に鄧艾の意図を察した。

 そして、呆れた。純粋さと、その裏返しである無神経さを持っている男だと思ったが、ここまでとは……

「君に話せることではない」

 司馬懿が答えた。

 鄧艾の顔に失望の色がはっきりと浮かんだ。

「君に話せることを話そう」

「何でしょう?」

「驃騎将軍は功には報いる御方だ」

 司馬懿は、鄧艾が自分の殿を成功させた恩賞がどれくらいのものかを探りに来たのだと断定した。

 そして、それは鄧艾の心中を看破していた。

 鄧艾という男の野心の強さとその危うさを、司馬懿は彼を宛で拾ったときから感じていたが、それを再認識した形であった。

「だから、少し待て」

「……鎮軍大将軍の力でどうにかできませんか?」

 鄧艾は、なおも食い下がった。

 それだけ彼は自分の能力に自信があった。そして、それは決して己惚れたことではない。

 彼は死んだ陳蘭と殿を務め、陳蘭亡き後はその指揮を引き継ぎ、最後まで殿の任を果たしたのだ。もし、殿の任を果たせなければ、荀彧の支軍に司馬懿勢が捕捉され、中牟の呂布隊と合流できなかったかもしれない。そうなれば、勝敗がどうなっていたかもわからない。

 鄧艾からすれば当然の要求だった。

 しかし、司馬懿はそこにこそ危険性を見出したのであった。

「それは絶対にできない」

「な、何故です!?」

「……もし私が驃騎将軍に、君を校尉や将軍にするよう推挙したら、君は私は感謝するだろうか?」

「もちろん、感謝します!」

 鄧艾が大声を上げた。

 だが、司馬懿から返ってきた答えは冷や水を浴びせる様なものだった。

「では、伯業様と私、どちらへの感謝の方が大きい?」

「…………」

 鄧艾は言葉を失った。彼も司馬懿と同じ思考へと行き着いたのだ。

「君は兵理に長けているが、処世術には疎い。それではいけない。大きな才は自分を傷付けるときがあり、大きな功は破滅をもたらす場合がある」

 鄧艾に投げかけた言葉は、同時に司馬懿自身をも諭すものだった。

 

 

18 華琳

 

 

 曹操陣営がその後にどうなったのかを、些か時間軸を無視して説明していく。

 まずは軍師の三人である。

 袁遺は曹操―――華琳に、兗州統治をスムーズに引き継ぐために曹操側から戦後処理を行う人材を要求した。

 初め袁遺は、曹操が冀州へと行っている間、兗州を統治していた荀彧を指名したのだが、荀彧本人の強烈な拒否により袁遺は代わりを推薦するように華琳に言った。

 相も変わらず名分を気にしなければならない袁遺は、荀子の子孫であり祖父が神君と呼ばれて清流派人士にも強い影響力を持つ荀彧を粗雑に扱うことができないため折れたのだった。

 最終的に郭嘉がその任を負うことになった。

 郭嘉本人が、是非にと願い出た。

 袁遺との戦争計画の殆どは郭嘉が手掛けた。負けてしまったが、できるなら最も綺麗な形で終わらせたいと、司馬懿と共に兗州へ赴くことになった。

 その役割を断った荀彧は、洛陽へと赴くことになった主の華琳に同行することを望んだ。

 袁遺は、洛陽の荀家と所縁のある者の家で、ほとぼりが冷めるまで謹慎することを条件にそれを許した。

 そして、程昱は軍師を引退すると言って故郷へと帰った。事実、彼女はその後、軍略や策謀について語ることは一切なく、門を閉ざしてその生涯を終えた。

 武将たちの中で華琳と最も付き合いの長い夏侯惇と夏侯淵の姉妹は荀彧と同様に華琳に同行するとを望んだ。

 そして、こちらも同様に漢建国の功臣である夏侯氏の子孫である夏侯姉妹の頼みを断ることができなかった袁遺は、荀彧と似た様な条件で許可したのだった。

 その他武将たちは、程昱と同じ道を選んだ。

 曹操の護衛を務めた許褚と典韋、主に新兵の訓練を担当していた楽進、李典、于禁はそれぞれの故郷へと戻ることになった。

 故郷に戻ったと言っても、その生活が華琳に仕える以前のものに戻らなかった。彼女たちの動向はその地の役人や郷村指導者たちによって監視され、何か不穏な動きがあればすぐにでも軍が動くようになっている。

 そんな彼女たちを庇うのも、兗州統治に協力することになった郭嘉の仕事でもあった。

 そして、曹操陣営の中で最も悲劇的な結末を迎えたのは―――まったくの不本意ながらかつての黄巾党の乱の首謀者となった―――張三姉妹であった。

 その事実を袁遺や袁隗は知る由はなかったが、それでも黄巾党の重要人物と目星をつけ、この袁遺と曹操の開戦の口実のために情報工作が行われて噂を流した。

 噂は三姉妹の耳にも入っており、彼女たちは華琳の敗北を知ると同時に、生き残るために身を隠そうと逃亡したのだった。

 しかし、逃亡は失敗に終わった。

 噂を流した袁隗の手の者が、張三姉妹の動向を逐一監視していたのだ。

 彼女たちの置かれた状況がまずかった。

 華琳は赴任したばかりの冀州で民衆の慰撫政策として張角たちに街々を回らせており、開戦当初、彼女たちは土地勘がなく、なおかつ曹操の統治が十分に行き届いていなかった冀州にいたのだ。

 もっとも、華琳が彼女たちにしてやれることはもうすでに何もなかった。

 戦いに敗れた華琳とその首脳陣にとって、黄巾党の首魁を討ち取ったと漢王朝と世間を欺き匿っていたという事実は身を危うくすることだった。

 華琳はただただ願った。張三姉妹が無事に姿を隠すことを。

 しかし、その願いは空しく、張角、張宝、張梁の三人は冀州の地で誰に知られることもなく、袁隗の手の者によってその生涯を閉じ、黄巾党首魁・張角という存在は今度こそ完全に闇へと葬られた。

 そして、この三姉妹の存在が明るみになる糸口であった、元黄巾党である通称『青州兵』は青州へと帰り、解散した。

 だが、中には自ら望んで袁遺へと降った者たちもいた。

 それは最後まで華琳に付き従った最古参兵たちであった。

 彼らの投降に―――袁遺と司馬懿以外の―――袁遺軍の面々どころか、曹操軍も驚きを隠せなかった。

 驚く華琳に袁遺は言った。

「彼らはあまりにも長く兵士でいすぎたのだ。そして、負けて兵士以外の自分にならなければいけないことに恐怖した。だから、後ろ指をさされることを覚悟して私に降るのだ」

 華琳はそれにただ目を伏せた。

 覇王の軍勢は敗れたとき、覇王は覇王たるをやめることができたが、残された兵士たちの中でそれをやめることができない者たちもいた。

 しかし、彼らにしてやれることも華琳には何も残っていなかった。

 

 

「何故、私は負けたのかしら、伯業?」

 華琳が言った。

 やらなければいけない処理を終えると、軍は洛陽へと帰路に着いた。

 その道すがら、袁遺と華琳は徐々に話し込むようになった。

 初めは、二言、三言、言葉を交わすだけであったが、虎牢関を越えた辺りでは夜が更けるまで語り合った。

 華琳の声には、憑き物が落ちた様な不思議な素直さがあった。

 袁遺は思った。彼女は変わったな……いや、遠い昔、彼女と出会った間もない頃に戻ったようだ。

「時期が悪かった。冀州の統治が不十分な段階で戦争を行うべきではなかったな」

「けれど、あなたはそんな時間など与えてくれなかったでしょう?」

「当然だ。袁紹を倒した時点で、君の袁紹の南下の壁という役割を失ったんだ。利用価値がなくなり、いつこちらに牙を剥くかわからない君を放置しておくわけないだろう。だが、俺は軍隊と法の剝き出しの暴力だけで権力を正当化できると考えていない。軍を動かすにも、それなりの大義名分が必要だ。だから、君は何か別の利用価値をこちらに示すとか、もしくはこちらに牙を剥く気はないと示すなりして、俺の拳が振り上がらないようにすればよかったんだ」

「あなたの前に進み出て皆の前で頭を垂れろ、と」

 華琳は鼻で笑ってから続けた。

「それは曹孟徳の道ではなかったわ」

 そんな華琳に袁遺は口元を意地悪そうに、僅かに歪めていた。

「泰山を小脇に抱えて北海を飛び越えるという言葉を知っているかな?」

「『孟子』梁恵王章句。腐れ儒者みたいなことを言わないでちょうだい」

 応じた華琳の表情はどこか楽しげであった。

 ふたりの―――多数の死者を出し、両人にとっても大き過ぎる傷を負わせあったにしては―――さっぱりとした態度は、優秀な軍指揮官に共通する割り切りの良さに起因するものだった。

 ただし、その割り切りの良さを常人が非情さに感じることを理解している袁遺は決して多くの人の前では、華琳とこのように会話をすることはなかった。

「では、何故、あなたは勝ったのかしら?」

 華琳が再び尋ねた。

 それに袁遺はたっぷりと考え込んでから、ぽつりぽつりと語り始めた。

「作戦規模での話なら、勝敗を決めたのはこちらの支軍の機動だ。即ち、司馬仲達と荀文若の差であったと言えなくもないが……それひとつにすべての因果を集約するのはあまりにも莫迦げている」

 戦争とは政治という巨大な環の中に属すものであり、決して独立したものではない。

「兗州や冀州の名士たちが君に靡いていたら、俺の戦略はただ徒に兵を分散させただけの愚策だ。あの機動が勝利の要因となり得たのは、それまでの名士に対してのこちらの政治的態度があったからだ」

「…………つまり、あなたが私より上だったということ?」

 華琳が零した言葉の響きには、自分を負かした者への口惜しさが宿っていた。

 しかし、それは決して嫌悪を宿したものではなかった。

「正確に言うなら、名士たちは曹孟徳より太傅(袁隗)・司空(董卓)の方が自分たちに利益をもたらす存在だと判断した、というところだ」

「あなたは……」

 袁遺の言葉に華琳は呆れた様な声を漏らした。

 袁遺は、華琳ならそういう反応をするよな、と思った。

 彼女の中には董卓の腹心である賈駆を出し抜いたという記憶がある。

 そのせいで華琳の行動に対して掣肘を入れずらくなった。明らかな失策であり、袁遺の足を引っ張るものであった。華琳の感覚からすれば、庇い立てできない無能のである。

 だが、袁遺は袁隗・董卓の二頭政治という形を崩す気はなかった。どころか、袁隗・董卓本人たちよりもその形を守ろうとしていた。

 反董卓連合との戦いより、それを名士たちに宣伝し支持を受け続けてきたのだ。なのに、それを崩せばその支持を失う可能性があった。

 もちろん、袁遺には目的がある。

 そして、その目的のためには袁遺は強大な権力を握らなければならず、その結果、今の二頭体制の形を変えねばならないかもしれない。

 だがしかし、今は権力を握るどころか―――軍の命令権は保持したままであるが―――驃騎将軍の職を罷免される立場である。陰口めいた批評は控えるべきだった。

 結局、袁遺と曹操の大きな違いは名士たちへの態度であり、その違いが双方の―――袁遺が運動戦を選択し、華琳が決戦を望んだという―――戦略に如実に表れたのだった。

「もっとも、作戦や戦術に議論の余地がないかと問われれば、答えは否だ。お互いが命令文書を開示して作戦の準備段階から戦争終結までの軍の証言を集めれば、新たな問題点や可能性が見えてくることは間違いない」

 後代の言葉で言うなら、軍事研究である。

「……そう、それは興味深いわね」

 そう言った華琳の表情は、どこか諦観した様な色を宿していた。

 彼女も、そして袁遺も、その軍事研究が決して行われないことであることを理解していたからだ。

 華琳の軍は袁遺によって解体された。そして、袁伯業という人間性を考えたとき、かつて曹操軍であった者たちに、自分たちは曹操軍であったと思わせるような軍が再びまとまる可能性があることを行うなど決してない。

 国家という制度や、それに付随する形の軍という制度が未熟も未熟なこの時代で、華琳の将兵たちがひとつの軍となっていたのは個人的な忠誠心であり、それを前提とした仲間意識である。それを思い出させるようなことをするほど、袁遺は寛容な人間ではない。

 だから、それを理解しているふたりにとって、この話は夢物語のようなものである。あるいは、過去―――ふたりが何のしがらみもなく議論をして知的好奇心を満たしていたということ―――を追体験しノスタルジーを感じる行為に他ならない。

 曹孟徳は覇王という衣を脱ぎ捨て、確かに昔の華琳に戻ったかもしれない。

 しかし、戻らないものは確かにある。

 

 

 洛陽へと帰還した袁遺を待っていたのは、袁隗からの弾劾であった。

 文武百官が招集され朝議が開かれ、その場で袁隗は皇帝に自らの甥の不明を上奏したのであった。

 曰く、能力的に、そして人格的に相応しくない者を過分な地位に推挙した。それは漢王朝にとって害となることであり、その不明は許しがたいものである。

 相応しくない者とは当然、曹操―――華琳のことを指しているのだが、その割には華琳が兵を挙げたことには一切触れずに曖昧に濁している。

 袁隗の弾劾は彼女の挙兵を有耶無耶にするために行われた政治的パフォーマンスであった。

 だがしかし、袁隗の剣幕はあまりにも真に迫るものであった。

 皇帝は袁遺が叱責される様子を居心地悪そうに玉座から見ていた。彼女はまるで自身が叱責されているように感じて、ともかく早くこれが終わることを心の底から望んでいた。

 また、参列した者の中には、袁隗が華北から中原が定まったことにより袁遺を獲物尽きた猟狗として排斥しようとしているのではないかと本気で勘繰る者さえいた。

 袁隗の演技はそれほどのものだった。

 袁隗の上奏が終わると、皇帝・劉弁はすぐに命を下した。根回しは済ませてあるため当然であった。

「袁遺の驃騎将軍の官は取り上げ、謹慎を命じる。ただし、今までの功績を斟酌し位階勲等はそのままにする」

 こうして袁遺は予定通りとはいえ、中央官界から一時姿を消したのだった。

 

 

 勝者であった袁遺が弾劾を受け消えたのとは反対に、敗者であった華琳は朝服をまとうことになった。

 もちろん、都督兗・冀州諸軍事、建徳将軍の官職は罷免され、費亭侯の爵位は返上した。

 代わりに与えられたのは文書作成を職務とする主簿である。

 列侯と通常の臣として位人臣を極めたことを考えれば、途轍もない転落であるが、勝ったはずの袁遺が驃騎将軍を罷免され謹慎の身であるため何か異を唱えることもできなかった。また、その気もなかった。彼女は自分を敗者だと思っている。

 華琳は東観に上がることになった。

 東観とは修史の史料庫が置かれた場所のことであり、史書『東観漢記』の編纂が行われている。

 余談になるが、かつて袁遺と袁紹の戦いに巻き込まれた袁遺の推挙人の張超が洛陽へと避難してきたとき、この史書編纂に参加していた過去がある。

『東観漢記』(こう称されるようになるのは後の時代である)を編纂するのは蔡邕や馬日磾など錚々たる文人たちが名を連ねている。

 華琳は自分が何故、送り込まれたかを袁遺から直接聞いたわけではないが直感的に理解していた。

 東観の文人たちは儒家思想が強い面々であり、特に蔡邕は霊帝の鴻都門学設置に反対した。

 鴻都門学というのは霊帝の治世に設置された書や画、詩に優れた者たちを集めて、教育を行う場である。現代の感覚からすれば美術学校であるが、後々、鴻都門学出身者たちが尚書や侍中(いずれも皇帝の傍に侍る役職)に抜擢されたことから見て、皇帝直属の政策スタッフ養成所という側面が強い。

 この鴻都門学は当時や後世での評判はすこぶる悪く、腐敗政治の典型例であったとされている。

 その理由は鴻都門学出身が党錮の禁で追放された清流派名士たちに代わって、中央のみならず地方官に任命されたからである。清流派名士たちからすれば、儒教的徳目ではなく皇帝の気に入られたからという理由で、地位を横からかすめ取られたようなものである。

 これは儒家の嫉妬とするのは間違いである。党錮の禁こそが腐敗政治の典型例であり、悪手中の悪手であることは間違いない。

 しかし、鴻都門学は儒教一尊の後漢において文芸という才にスポットを当てた、謂わば、曹操の唯才政策の走りであるとも言える。鴻都門学出身者の多くは家柄の低い者たちであった。

 華琳もまた鴻都門学に対しては悪い感情を抱いていない。

 と同時に、蔡邕の文才も彼女は認めている。

 つまり、華琳はこの新旧の文学界をひとつにまとめ、さらに次の段階へと推し進めることこそが袁遺が自分を東観へと送り込んだ理由だと直感したのだった。

「面白いわね」

 華琳は愉快そうに鼻を鳴らした。

 彼女は思った。

 確かに、覇王にも、そんなことも考えず無邪気に袁遺と語らっていた日々にも戻れない。だけど、進むことができる。

 後世で『建安の風骨』と称される新しく力強い風の音は、すぐそこまで来ていた。

 

 

 丁の章、了。戊の章へ。

 




捕捉

・この戦争は現代でもランドパワーの国家とシーパワーの国家の戦争となったときの研究事例に取り上げられている。
 2016年米海軍作戦部長の海上における優位性維持のための構想

・『孟子』梁恵王章句
 斉の宣王に道徳によって王となる王道政治のことを尋ねられた孟子は答える。
「泰山を小脇に抱えて北海を飛び越えるという言葉を知っておりますか。他人に対して、私はそんなことできませんと言えば、これは本当にできないことです。しかし、老人のために按摩してあげよと言われ、私はできませんと応じれば、それはできないことではなく、しないことなのです。要するに王様が真の王となりえないのは泰山を小脇に抱えて北海を飛び越えるという類のものではなく、按摩をしない類のものなのです。我が家の老人を労わる心持ちを拡張させて、他家の老人にも及ぼし、我が家の幼児をかわいがる心持ちを拡張させて、他家の幼児にも及ぼせば、天下は掌の上のように動かすことができます。『詩経』に、我が妻に礼を正し、兄弟に及ぼし、家族国家を治めるとあるのはこの思いやりの心持ちを以って、他人の上に置くことを言ったに過ぎません」
 不可能なことと意欲しないことをふたつの比喩を以って、諭しているのである。
 また、この王道政治の対話を表面だけ見れば、空想的、理想的に見えるかもしれない。しかし、当時は学者、商人のみならず農民も高い流動性をもち、善政が敷かれているという噂を聞くと集団でかなり遠い外国にも移住することが多かった。
 この国境を越えた人民の集団的移住の自由さの上に立って王道政治が形成されたのである。そのため、一概に空想的、理想的だと退けるのは間違っている。

・蔡邕
 本来の歴史なら董卓の死後に王允によって殺害されるが、この外史では生き延びて『東観漢記』の編纂を続けているという設定です。
 もちろん、蔡文姫も左賢王に拉致されてません。
 


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丁の章完結記念短編

 西暦二五年に光武帝・劉秀によって再興された後漢はある三つの病魔に侵されることになる。

 ひとつは外戚。

 後漢王朝は短命の皇帝が多く、跡継ぎを残さないまま崩御することも珍しくなく、結果として幼帝が非常に多く即位した。

 その幼帝の代わりに実質的に政治を行ったのはその皇帝の母親―――つまりは皇太后とその一族である。

 その中でも梁冀は最も力を持った外戚であった。

 彼は自分の意に添わぬ皇帝を毒殺し他の幼帝を擁立する、玉座さえ左右する力を持ったのだった。

 しかし、皮肉にもこの幼帝―――桓帝によって梁冀は誅殺されることになる。

 このとき、没収された梁冀の財産は国家の租税の半分ほどあり、また連座して死刑になった一族、免職になった一族を合わせれば三〇〇人を超え、朝廷が一時的に空になったことも梁一族の力の強さを表すことだった。

 だが、梁冀―――外戚という病魔を取り除いた後漢王朝はすぐに別の病魔に侵されることになる。

 この梁冀の誅殺に皇帝の手足となり動いたのが宦官だった。

 この宦官こそが第二の病魔である。

 去勢され子孫を残すことがなく一代限りの存在である彼らが、桓帝により養子を取ることを許されると、宦官は世襲貴族の様相を呈していく。

 宦官は皇帝の身の回りの世話だけでなく皇帝への上奏を取り仕切る職を独占し大きな力を持ち、賄賂等の汚職を行っていくことになる。

 この宦官の汚職を名士―――儒教的徳目により名声を獲得した地方豪族が弾劾すると、宦官は弾劾した名士たちを逆に禁固刑(公職追放)に処した。

 こうして腐敗政治が加速する中で、天候不良等の天災が重なり民は疲弊し、全国で反乱が続発した。

 その中でも最大の農民反乱が黄巾の乱であるが、この話はそれより少し前、とある男が父の喪が明け、官職に復帰してからしばらくしてからの話である。

 

 

異・英雄記

丁の章完結記念短編

 

 

 軍営は煙ぶるような霧雨の中にあった。靄がなければ、見渡す限りの沼沢に、その間を縫う様に稲田が広がる水郷地帯の風景が見えただろう。豫州の潁水と揚州の淮水の合流地点、豫州汝南郡と揚州九江郡と揚州廬江の間には中華の北と南の風土が混ざり合った風景が存在していた。

 軍営の主、袁遺は地図を前に規矩と書簡を手にしていた。

 袁伯業、その顔には人に冷たさを感じさせる表情があった。顔は整っているが、作り物じみた無表情に近い顔である。特に、その瞳は小石のように無機質で、また同様に小石のように小さい。三白眼である。この眼こそが冷たさを感じさせるのであった。

 対して、その袁遺と共に地図を見つめる男が与える印象は袁遺と正反対であった。品のある暖かさ、その物腰からは育ちの良さを感じさせる。

 男の名は司馬懿、字は仲達、袁遺の軍師である。

 袁遺は視線はそのまま地図に向けたまま口を開いた。

「やはり、賊の討伐だけならどうとでもなる。純粋な戦術上の話なら、前の方が辛かった。穏健な賊が民を抱え込んでいたときだ。だが、今回はただ討伐すればいいという問題ではない」

「仰る通りです」

 司馬懿が同意した。

 袁遺が、この豫州と揚州の境界付近まで部隊を率いてきた目的は賊の討伐であったが、袁遺が派遣されるまでには複雑な事情があった。

 この潁水と淮水付近の水郷地帯には、ある賊の村塢(そんお)がいくつか存在する。

 村塢とは、賊の山林叢沢に立地した簡単な障壁を巡らしただけの集落であり、その他にも『営』や『塁』という風に呼ばれたり、史書に記されたりする。

 この賊は武力でもって河川の農業用水の利権を主な収入源としていた。

 しかし、やり過ぎたため討伐の軍が差し向けられることになったのだが、この賊の村塢はふたつの州、三つの郡に跨っていたために、問題が発生した。

 このとき、揚州廬江郡太守はこの賊に対して恩信を行おうと接触を持っていた。

 恩信とは、賊を撫順して平定する、恩徳や信義等を媒介として官吏と賊を結び付ける方法である。

 この恩信は後漢の時代に賊だけではなく―――匈奴や鮮卑、烏丸といった―――夷人に対しても多く行われてきた。

 というのも、後漢前半から中期にかけて基本的に郡国の都尉は廃止され、常備兵も原則配置されなかった。

 これらが変わるのは後漢後期からであり、州刺史の権力が強化された州牧が設置されたのも、この一環である。ただし、州牧設置は劉焉が自分が地方で独立するために提案したという側面もある。

 そして、恩徳や信義をもとに賊を教化するのは儒教的であり、清流派名士の典型的な平定方法であったのだ。

 恩信はまとまりかけていたのだが、それと同時に揚州九江郡太守である袁術が賊討伐の軍の派遣を決定したのである。

 袁術も太守であるが、彼女は後漢最大の名門である袁家の一族である。財力や囲っている私兵の数は、そこらの名士や太守とは比べものにならず、なおかつ、それを自由に動かせる。

 この報に、廬江太守の交渉は台無しになった。賊が騙し討ちされたと怒りを露わにしたのだ。

 廬江太守からしても、顔に泥を塗られたに等しい。

 だが、袁術にはそんなことどうでもいい。賊を討伐しようとして何の文句を付けられる所以があるのかと、廬江太守に怒りの矛先を向けた。

 これは賊が複数の州や郡に跨って活動していたからこそ起きた問題であった。

 この剣呑な状況に対して、一番困ったのは三つの郡のうち残された汝南太守である。

 問題が大きくなり、何らかの責任を取らされたら堪ったものではないと、ある人物に助けを求めたのだ。

 それが袁術の叔父にあたり、汝南郡で最大の名士であり、そのとき司徒の地位にあった袁隗である。

 袁隗はすぐに袁術を宥めすかしてこの問題から手を引かせると共に、廬江太守にも同様に賊の問題は汝南郡で処理をするが、功績は廬江太守と汝南太守になるように朝廷に働きかける、決して悪いようにはしないと事態の収束に動いた。

 それに廬江太守は渋々ながらも、三公のひとつである司徒に悪いようにしないと言われれば仕方がないと、手を引いたのだった。

 そして、残された賊という問題は、このとき袁家にその才能を半ば使い潰されるように使われていた袁遺が解決することになった。

「ただ討伐するのではなく、可能な限り廬江太守の顔を立てるために恩信の形が残らなければならないが、こんな湿地帯に長く対陣すれば、疫病が流行る。そうなれば最悪だ。せめてもの救いは陳蘭と雷薄に土地勘があったことだな」

 袁遺が言った。陳蘭と雷薄は以前、袁術の下で部曲として仕えており、九江郡の地理には明るい。

「となると、九江郡から攻め入って、賊に打撃を与えた後、降るように交渉しますか?」

 司馬懿が尋ねた。その声には典雅な響きがあった。

「ダメか?」

「いえ、それが最良でしょう」

「なら、分かっているな」

「はい、そのためにはこの沼沢地に複数ある村塢が互いに連携しないように分断する必要があります」

 司馬懿は間髪入れずに答えた。

 このふたり、こと戦略面の能力は同等であり、思考を殆ど共有できる稀有な存在であった。

「それが君の仕事だ」

 袁遺が頷いた。

 それから、ふと何かに気付いたように続けた。

「ああ、後ひとつ良いことがあった。司徒殿(袁隗)から軍資金は十分にもらってきた。まあ、当然と言えば当然だな」

 司馬懿はそれに嫌みのない笑みで返した。

「それは重畳ですね」

「ああ、君にとっては他家の金だ。存分に使え。貧乏たらしい戦争ほど情けないものはないからな」

 袁遺は口元を皮肉気に歪めた。

 

 

 袁遺の率いる部隊の総数は約二五〇〇。この時代の軍単位でいうなら曲、後世の言葉で言うなら連隊にあたる。

 袁遺は複数の偵察部隊を派遣して、この水郷地帯に存在する賊の村塢を調査した。

 その偵察部隊の中で、最も鮮やかに敵の村塢を見つけてきたのは雷薄であった。

 雷薄が率いるのは、一二五名の威力偵察部隊である。

「賊は自分たちの討伐部隊が派遣されたことは掴んでいるだろう。間違いなく警戒しているはずだ。気を付けろ」

 雷薄は口元に凶悪な笑みを刻みながら、野蛮ではあるが陽気な声で袁遺に返した。

「任せてください! ここらは俺の庭みてぇなもんです」

 雷薄の容姿は、これから戦うであろう賊よりも賊らしいものだった。その顔には放埓な笑みがあった。

 俺の庭と豪語したように雷薄隊は湿地に足を取られることなく順調に進み、沼沢の隙間に作られた稲田を挟んで敵と対峙した。

 敵の総数は分からない。

 部隊に緊張が走るが、雷薄は冷静な命を部隊に下した。

「おめぇら、声を揃えて叫べ。まずは威嚇だ」

 雷薄隊は命じられた通りに、鬨の声をあげた。

 それに対抗するように、賊と思わしき集団からも鬨の声が返ってきた。

 雷薄はそれを聞いて断定した。

「むこうは一〇〇もいねぇな…………となると、あれは偵察部隊か。よし、てきとうに襲い掛かるか」

 雷薄はどちらが山賊かわからない判断を下したが、その真意は理性に裏付けされたものであった。

「攻撃だ! むこうの規模から考えて敵は偵察だ。こちらが突撃すれば、すぐ逃げ出す! それを追っかけて敵の本隊なり寝座なりを見つけて報告すりゃあ仕事を果たしたことになるだろう!」

 敵は雷薄の読み通りの動きをした。

 喊声をあげて突っ込むと、賊は蜘蛛の子を散らした様に退散したのだ。

 その後、逃げた賊を追跡するように部隊を進め、賊の村塢を発見したのだった。

 雷薄はそれを袁遺に報告し、激賞を受けたのだが、内心では不安が渦巻いていた。

 彼が発見した村塢は決して大きくなく、防御施設も土塁くらいだった。

 村塢の規模は当然ながら建設者の権力の多寡によって変化する。そこから考えれば、そこに籠る賊の規模も見えてくるが、問題はその立地であった。

 土塁の周りは川と湿地だらけである。そんな場所で力攻めを行おうなら、無駄な損害を積み上げるだけである。

 雷薄は袁遺の下に移って来たばかりである。そのため、まだ袁遺の為人を掴み切れていなかった。そして、前に仕えていた袁遺の従妹は無能であった。お調子者で、思慮の欠片もない、どうしようもない愚物だったのだ。その袁術と同じ一族であることが、若干の不安を雷薄に抱かせていたのだった。

 俺を買ってくれているのはありがたいが、力攻めとか言い出さなければいいけどな、と雷薄は考えていた。

 だが、袁遺は雷薄の心の内を見透かしたように集まった指揮官たちの前で宣言した。

「無理攻めは私の趣味ではない」

 袁遺は地図を示した。地図には判明した賊の村塢を表す石が置かれている。

「敵の主要な村塢は三つ。多く見積もってそれぞれに一〇〇〇規模の賊がいる。つまり、我々は自軍より多い敵に三方向から囲まれているという状況だ」

「それは愉快な状況ですね」

 雷薄が茶々を入れた。

「ああ、まったくだ」

 袁遺は無表情ながらも声はいつもよりわずかに高く、雷薄の茶々を面白がって受け入れた。

 袁遺がこの敵に三方向から囲まれているという状況でとった作戦は内戦作戦であった。

「こちらが村塢のどれかひとつを攻撃すれば、間違いなく他の村塢から援軍が来て我々の背後を襲うはずだ。その援軍を叩く。つまりは敵を合流させずに各個撃破する」

 司馬懿、陳蘭の部隊が陽動として雷薄が発見した村塢に攻撃を仕掛け、その村塢を助けに来た別の賊を袁遺、張郃、高覧、雷薄の主力で撃破する。

 後に、天下の諸侯相手に袁遺が見せた内戦作戦の原型は、兵を素早く動かせる指揮官たちと自分とほぼ同等の戦略家としての能力を持った軍師である司馬懿が揃った時点で完成していたのだった。

 

 

 司馬懿・陳蘭の別動隊七〇〇は、雷薄が発見した村塢を攻撃した。

 賊の村塢の周りは雷薄の報告通り、川や沼に囲まれた湿地帯である。

 川の深さは腰の高さまであり、さらに泥に足を取られれば、人の助けを借りなければ泥から足が抜けぬ程である。近づくことすらままならない。

 だから、まず司馬懿は周辺の村々から小舟を相場の倍の値段でかき集めた。

 司馬懿は、袁遺が吝嗇だと思われること過度に嫌っているという悪癖を知っているため、存分に使えと言われて遠慮すれば、逆に不興を買う結果になることを理解していたのだった。

 兵を小舟に乗せ、泥の上には伐り出した板を敷いて足場を作って、少しでも動きやすくしたのだが、それでも気休め程度の効果しかなく、司馬懿隊の陽動である攻撃の効果は陽動にしても低かった。

 それでも司馬懿は、

「あまり無理をさせないよう」

 と鷹揚に実戦指揮官である陳蘭に命じた。

「状況によっては攻撃を中止し、部隊を動かすことになります。深入りしすぎて後退に支障をきたさないように」

「はい!」

 陳蘭は硬い声で答える。

 陳蘭は丸顔で良く言えば親しみのもてる、悪く言うなら不器量な風采の持ち主であった。

 頼りなく見えたが、その実、彼は有能であった。司馬懿が細かな指示をしなくとも、十分に行き届いた現場指揮をやってみせた。

 旗を大量に立て湿地に群生する葦を兵士に揺れさせて兵がいる様に装い、敵に兵を分散させていることを悟られないようにした。ともかく前線を周り常に兵たちに接し、司馬懿が現場に出て、あれこれと対処しなければならないという状態は作らなかった。

 彼は理解していたのである。袁遺が選んだ戦略は最良ではあるが、途轍もない才能と情熱と冷静さを持っていなければ達成することが不可能だということを。

 陳蘭は思った。

 少なくとも、自分ならこんな選択はできない。この村塢の陽動攻撃に兵を割かれた状態で、さらに敵が二方向から押し寄せてくる可能性があるのだ。普通なら、身動きが取れない、どうしようもない状況に陥るはずだ。しかし、伯業様は平気で部隊を動かしている。自分とはモノが違う。

 同時に、彼は自分の上官につけられた男のことを思った。品は良いが、底知れぬ不気味さを感じさせる男のことを。

 そして、司馬殿も伯業様と同じものが見えている。伯業様を真の意味で救えるのは彼しかいない。

 だからこそ、陳蘭は司馬懿が他の村塢の賊の動きと袁遺本隊の動きにのみ注力できるように、現場を十全に掌握していたのだった。

 陳蘭はこの戦いの結果、袁遺には絶対に敵わないと心の底から思うようになり、徹底的な服従が彼の処世術となる。

 

 

 袁遺本隊と攻められた村塢を助けるために出てきた賊との戦いはお互いの発見から戦闘までに長い時間の経過があった。

 湿地や川が点在する土地のために、お互いが兵力を満足に展開して戦う場所が限られていたからである。

 この瞬間、この戦闘で主導権を得るのは先に部隊を展開した側になった。何故なら、先に展開できた側が、態勢未完の相手に襲い掛かることができる。如何に厳しい訓練を重ねて優れた戦闘力を持っていようと行軍隊形では、それを発揮できない。

 賊軍には地の利があった。ここら一帯は彼らの縄張りである。袁遺軍にも雷薄という地理に明るい男もいたが、やはり全体が慣れている賊の方に利があった。

 対して、袁遺側の有利は兵の練度が段違いということだ。行軍の速度、部隊展開の速度は訓練によってしか獲得できない。そして、袁遺という野戦指揮官はそれをこの時代の感覚からすれば異常なほど重視する。

 地の利と練度、その戦いは練度に軍配が上がった。

 袁遺隊が先に戦闘隊形を整えたのである。

 袁遺は、張郃に態勢未完の敵の前衛部隊を蹴散らすように命じた。

 張郃は袁遺の筆頭武官の立場にある。彼が最も古くから袁遺に仕えている。角ばった顔には達筆家によって書かれたような力強い眉毛があり、威厳に満ち溢れていた。

「突撃!!」

 張郃は麾下の兵に下知する。その声は太かった。

 鎧袖一触、張郃隊は瞬く間に敵の前衛部隊を戦線から弾き出した。

 そして、張郃隊はそのまま敵前衛部隊を追撃する。

 袁遺は手元に残っている高覧と雷薄の部隊に、未だに行軍隊形のままである賊への攻撃を命じた。

 高覧、雷薄の両隊が斉射を開始する。

 賊も行軍隊形のまま、何とか反撃しようとするが、その効果は薄かった。

 やはり行軍隊形では、戦闘力を発揮できない。

 賊は何とか乱戦に持ち込もうと白兵戦を仕掛けるが、前衛部隊を全滅させた張郃隊が側面から襲い掛かってきた。

 賊の長く伸びた行軍隊形はあっという間に、張郃隊によってズタズタに引き裂かれた。隊列が完全に崩壊し、潰走し始める。

「伝令を出せ!。張郃と高覧は敵を追撃しろ! 雷薄は偵察だ!」

 袁遺は伝令を走らせる。

 確かに賊軍をひとつ潰したが、まだ賊は残っている。素早く捕捉、撃破しなければならない。

 しかし、袁遺にはひとつ幸運な要素があった。

 司馬仲達という存在である。

 袁遺が敵より兵の総数で劣っているにも関わらず、簡単に兵を分けることを決断できたのは、袁遺と同等の戦略眼を持つ司馬懿がいたからこそであった。

 袁伯業という男は主に持つなら、これほど面倒な人物はいない。特に、軍師や指揮官に対する評価基準は過酷以外の言葉で表現できない。

 そんな袁遺に別動隊を任されたのである。ただ包囲しているだけでは袁遺からの信頼を失うことを司馬懿は理解していた。

 司馬懿は斥候や司馬家で囲っている細作、さらには人々の噂から戦場の敵味方の位置を把握しようと努めていた。

 そして結果、袁遺本隊よりも早く最後の村塢から出撃してきた賊軍を捕捉したのだった。

 その情報はすぐに袁遺に伝えられた。

「でかしたぞ、仲達」

 袁遺は満足気に頷いた。

 袁遺本隊はすぐに司馬懿の情報を元に進軍を開始した。

 

 

 袁遺に撃破された賊の中には追撃の手を逃れ、救援に行くはずであった村塢へと逃げ込もうとした者たちもいた。

 司馬懿はそれに、

「逃げ込もうとする者を討つ必要はない。ただし、こちらに危害を加えるようなら容赦はしないように」

 と自軍に命じた。

「良いのですか?」

 司馬懿の命令に対して、陳蘭がやや困惑気味に尋ねた。

 逃げ込もうとする賊を討てと言われれば簡単に討てる。村塢の周りは湿地や川に囲まれており、簡単に逃げ込めないのだ。それに今、村塢は囲まれており、籠城側は下手に逃げて来た賊を受け入れて開いた門から敵が雪崩れ込んでくるかもしれないという不安があり、スムーズに敗残兵を収容できるとは思えない。賊を村塢に接近させた後、矢で射殺せる算段が高かった。

「良いのです。それより逃げ込めなかった賊に降伏を促してください。降伏した場合、決して危害を加えないように」

 しかし、司馬懿は穏やかな声で命じた。

 賊は村塢に逃げ込めた者と、湿地に足を取られ泥まみれになりながらもがいているうちに、村塢が危険を感じて門を閉じたため逃げることができなかった者がいた。

 そんな賊を陳蘭が兵を率いて、降れ、命は助ける。故郷に帰ることも許すし、望むなら兵士として入隊させてやる、と説いて回った。

 殆んどの賊が降った。

 降った賊を使って、司馬懿は村塢に対して降伏を促した。

「援軍が敗れたことは逃げ込んだ賊によって村塢に伝わった。おそらく動揺しているでしょう」

 降った賊たちが、降伏したこと、決して罪には問われず、命は助かることを村塢に大声で叫んでいるのを聞きながら司馬懿は陳蘭に説明した。

「そこへ降伏が許されたということが伝われば、いざとなれば降伏しようと考える者が村塢でも出てくる。別に全ての賊がそう思わなくてもいい。仲間がやられたことで憤る者も出る。起こってほしいのは、考えの違うもの同士の不和だ」

 人の思想や信念が完全に一致するということはない。そして、その差異が大きければ大きいほど不和を呼び、村塢の亀裂となる。

 これが司馬懿が逃げて来た賊を討たなかった理由である。

 それを聞いて、陳蘭は思った。

 この人は気品に溢れているが、陰謀を飼い慣らすことができる人だ……

 後に司馬懿は、その二面性のある冷徹さや洞察力の高さやそれを利用した作戦や策略を駆使することから張郃、高覧、陳蘭、雷薄に司馬懿は恐怖の裏返しとして嫌われることになるが、それはこの瞬間にも見られていた。

 

 

 司馬懿の情報を元に袁遺軍は賊軍の捕捉に成功した。

「面倒だな」

 賊を確認すると、袁遺は誰にも聞こえないように呟いた。

 賊は陸上戦力だけでなく、五隻の小型船が陸上戦力を先行するように並行する川を進んでいた。

 船から一方的な射撃を側面に受けることは間違いなく、最悪、後方に兵を送り込まれる可能性もあった。

 そうなる前に敵の陸上戦力を突破しなければならない。

 先行していた雷薄隊が川沿いに小さな丘があり、今なら丘を確保できるがどうするか、と袁遺に指示を仰いできた。

 雷薄は冷静だった。一見すれば、高所は戦術上の要地であるが、今はそうではない。

 袁遺軍の戦術目的は敵の突破である。

 丘を確保し、そこに主力を置いても、川沿いであるため船からの射撃を受け、逆に側面警戒のための平地に配置した軍が突破される可能性が高かった。

 袁遺軍の理想は丘に少数の兵を配置し耐えている間に、平地側の主力が相対する賊を突破して、敵の後方に出て丘の部隊と残りの賊を挟撃することである。

 まるで砂丘の戦いだな……

 袁伯業という未来の知識を持つ異物の脳裏に、三十年戦争の残り火であるひとつの戦いが過った。

 砂丘の戦いの勝者であるイギリス・フランス軍と似た状況であるのは敵である賊軍であり、袁遺軍はむしろ敗れたスペイン軍に状況が酷似している。

 そのことを理解したとき、袁遺は、ふと思った。

 相手はただの賊であり、歴史上六人しかいないフランス大元帥のひとりテュレンヌではない。気負う必要などないが……まあ、勝てるなら歴史は変えられるという願掛け程度に考えて、やるべきことをやるか。

 袁遺には確かに未来の知識はあるが、未来の思い出はない。物心がついたとき、自分が異物であると理解した。歴史や軍事、経済、文学などの知識はあれど、それをどのように学んだのかを思い出せないのである。

 そんな中で思ったことが、ひとつあった。

 自分の知る袁遺という歴史上の人物は従弟である袁術に敗れ、逃亡先で部下の裏切りで殺されるはずだ。人はいつか必ず死ぬにしても、そんな死に方は嫌だ。歴史を変えるしかない。

 それでも、袁遺は歴史は変えられるという証明だ、などと気負ってはいなかった。彼という人間の精神構造は現実家だった。そんな証明などと意気込まずとも、目の前の敵を倒さねければ危険であるということだけで十分であった。

「雷薄に伝令だ。丘を占拠しろ。それと高覧に私の元に来るように伝えろ」

 袁遺は感情の薄い声で命じた。

 一時間後、両軍は展開を完了し、対峙した。

 袁遺は雷薄隊と高覧隊を丘の上に配置し、その側面である平地側には張郃隊を配置した。

 対して、賊軍は丘の麓側の兵を薄くし、平地側の兵を厚くしている。

「前進!」

 袁遺の号令と共に太鼓が一定のリズムで連打される。

 それに雷薄隊と高覧隊でも軍鼓が連打され、両隊が前進を開始した。

 それに呼応する様に、賊軍でも平地側の部隊が前進を開始する。

 常識的に考えるなら(・・・・・・・・・)、両軍の狙いは同じであろう。即ち、お互いに厚くした部隊で敵の薄い部隊を突破して、敵の背後を突く作戦である。

 前進する雷薄隊と高覧隊を丘の麓の賊が阻もうとする。さらに、川の小型の軍船から矢が放たれた。

 そして、ほぼ同じタイミングで張郃隊もまた前進する賊を止めようと干戈を交えていた。

 戦場が一時的な膠着状態となる。

 しかし、雷薄隊と高覧隊が徐々に前方の敵部隊を押し始めていた。反対に、敵を受け止めた張郃隊はそのまま敵を止め続けている。

 練度の差であった。袁遺の訓練は部隊の機動力に重きを置いているとはいえ、賊に後れを取るほど正面戦闘力が弱いわけではない。それが表れているのだった。

 そして、袁遺の作戦は敵部隊の正面突破という常識的な考えに基づいたものではなかった。

「よし、いいだろう。後退の銅鑼を鳴らせ」

 袁遺の命令によって銅鑼が叩かれる。

 それに合わせて今度は張郃隊が徐々に徐々に後退し始めたのだ。

 下手をすれば、この後退は敗走になりかねなかったが、張郃と下士官たちの指揮により張郃隊は耐えた。

 賊の丘の麓の部隊は雷薄隊と高覧隊に押されているのに対して、平地の部隊は張郃対の後退に引きずられるように前進した結果、この両部隊の間に大きな間隙ができたのだ。

 それを見逃す袁遺ではなかった。

「高覧隊を動かす軍鼓だ!」

 今まで叩かれていた太鼓のリズムが変わった。

 すぐにその変化に反応して、高覧は部隊を率いて逆落としに、その間隙へと飛び込んだ。

 典型的な鉄床戦術である。

 そのまま高覧隊は張郃が相対する敵の側背を攻撃する。

 決定的な一撃であった。張郃隊と高覧隊に挟撃される形になった賊の戦列が崩壊した。

 その戦列の崩壊は雷薄隊が攻撃している賊にも伝染した。潰走の連鎖反応である友崩である。

 勝敗は決した。

 援軍がふたつ共、壊滅させられたことを知った村塢は降伏を申し出たのである。

 袁遺は、廬江太守が提案しようとしていたのと同じ条件で彼らの降伏を許した。

 こうして、政治的な混乱のせいで紆余曲折あったが、この賊は討伐されたのであった。

 

 

 西暦二五年に光武帝・劉秀によって再興された後漢はある三つの病魔に侵されることになる。

 ひとつは外戚。ひとつは宦官。そして、地方豪族である。

 村塢に依るような人は元々、農民であったが、税が払えず逃げ出し仕方がなしに賊に身をやつしたという者も少なくない。

 この様な人々を地方豪族―――名士が小作人や部曲(私兵)として取り込み、肥大化し最終的に皇帝を越える力を持ち、漢王朝は滅びる。そして、魏、呉、蜀の三つの国が興るのである。

 

 

 しかし、この外史には袁遺という異物がいる。

 




捕捉

・砂丘の戦い
 砂丘の戦いは三十年戦の残り火ともいえるフランス・スペイン戦争の戦いのひとつである。
 1658年、テュレンヌ率いるフランス軍一万八〇〇〇は艦隊三隻を伴う英国軍三〇〇〇と共に南オランダのスペイン領ダンケルクに立て籠もるスペイン軍三〇〇〇を包囲した。
 その救援のためにドン・ジュアン将軍率いる騎兵六〇〇〇、歩兵八〇〇〇、それにイギリス反乱軍の二〇〇〇をスペインは派遣した。
 そのことを察知したテュレンヌは歩兵六〇〇〇(その内一〇〇〇は英国軍)を包囲に残すと、スペインの迎撃に向かった。
 戦場となった地形は本編と殆ど同じで海岸と平地に挟まれた丘があり、その戦場全体を見渡せる丘は砲兵が置き去りにされることを覚悟したスペイン軍が確保した。
 しかし、その砂丘は英国艦隊の艦砲の射程範囲内である
 攻撃にあたってテュレンヌは四つのパターンを考えた。
 ①こちらが砂丘側に大兵力を置き、平地側を少数にする。対して、敵が砂丘側を少数にし、平地側を厚くするパターン。
 ②こちらが砂丘側に大兵力を置き、平地側を少数にする。対して、敵も砂丘側を厚くし、平地側を少数にするパターン。
 ③こちらが砂丘側に少数の兵を置き、平地側を厚くする。対して、敵も砂丘側も少数にし、平地側を厚くするパターン。
 ④こちらが砂丘側に少数の兵を置き、平地側を厚くする。対して、敵が砂丘側を厚くし、平地側を少数にするパターン。
 この中でフランス軍にとって最良なのは④である。艦砲射撃で砂丘側の部隊が耐えている間に、平地側の大部隊で敵の将数を討ち、砂丘の敵の背後を取る。
 スペイン軍にとっての最良は③の状態で、平地側の部隊が敵の正面突破に成功することである。
 そして、両軍にとって最悪なのは②である。これでは戦線が膠着してしまう。
 残された①であるが、これは両軍ともに突破が容易であるが、ややフランス軍にとって不利である。
 テュレンヌはここまで考えて、ひとつのことに気が付いた。スペイン軍は基本的に平地側を突破する方が得であるということだ。
 テュレンヌはその利で敵を釣って、最終的に自軍が有利になるように仕向けたのだった。
 両軍の配置は、フランス軍が砂丘の麓に歩兵二〇〇〇、平地側に歩兵三〇〇〇と騎兵三〇〇〇。予備兵力として騎兵六〇〇〇と歩兵一〇〇〇。
 スペイン軍は砂丘に歩兵一〇〇〇、平地側に歩兵五〇〇〇と騎兵二〇〇〇。予備兵力として騎兵四〇〇〇と歩兵二〇〇〇。
 つまりは③、スペイン軍にとっての最良のパターンとなったが、これはテュレンヌの思惑通りであった。
 戦闘が始まりと、テュレンヌは予備兵力の騎兵から三〇〇〇を割いて、砂丘へと向かわせる。
 砂丘側のスペイン兵たちは苦戦を強いられ、また、スペイン軍は実は砂丘側がフランス・イギリス軍の主攻面だと思い、ここに予備隊を全て投入してしまうが、これこそがテュレンヌの罠であった。
 テュレンヌは敵が予備隊を投入したことを知ると、自軍の残りの予備隊を平地側に投入したのだ。
 これによって、スペイン軍の平地側の部隊は崩れ、スペイン軍は退却を余儀なくされた。
 フランス・イギリス軍の死傷者は約四〇〇(全体の二.七パーセント)に対して、スペイン軍は戦死者一〇〇〇、捕虜五〇〇〇、行方不明者二〇〇〇と全軍の五〇パーセントを失う大敗北であった。
 この戦いはテュレンヌが自軍の主攻面を相手に悟らせずに、相手を自分の意図する通りに行動させ、主導権を握った戦いである。
 
 本編では袁遺は部隊の精強さでもって主導権を取り続けたが、丁の章が全体的に正面決戦では絶対に勝てない相手に、戦略でもって勝利するということを書き続けていたため、逆に正面決戦でもって勝つ戦いというものを書きたかったから、こういう風な短編を書きました。
 それでも、袁遺が軍の柔軟性や機動力を以って戦術でも有利を作っているあたり、結局、そういう話が俺の好きなことなんだろうな、とも思った。


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戊の章


後半戦


 主が去った驃騎将軍府は閉鎖されることなく軍師である雛里が取り仕切っていた。

 確かに袁遺は驃騎将軍の官職を罷免されたが、指揮権や独断行動権、人事権は残っているからである。皇帝がそれを取り上げなかった以上、袁遺本人が返上しない限り何人もその権利を侵すこともできず、驃騎将軍府は主不在のまま動いていた。

 そして現在、その驃騎将軍府が行っていることは先の戦いで戦死した陳蘭の葬儀の準備であった。

 袁遺と曹操の戦争終結から洛陽へと帰還するまで、雛里はいくつかの指示を袁遺から受けていたが、洛陽へと着く直前に命じられたのが陳蘭の葬儀であった。袁遺に古くから付き従い、校尉に上り詰めて全軍の勝利のために危険な任務を請け負い、そこで散ったのである。その献身に相応しい葬儀を整えよ、と。

 夏侯淵と陳蘭の殿軍が戦った場所には多くの屍が野晒しとなって、もうすでに腐敗が始まっており、そのどれが陳蘭か判別することができなかった。そのため、香木を彫って彼の像を作りそれを棺に入れ埋葬することになった。

 さらに、陳蘭の功は上奏され、揚威将軍が追贈されることになる。揚威将軍は四品の雑号将軍である。

 この上奏は呂布が董卓に働きかけたために行われたのであり、袁遺や雛里、袁隗の意思が働いたものではなかった。

 中牟で陳蘭は途中までであるが呂布と共に曹操の侵攻に備え、その実力は呂布の軍師である陳宮も認め、その人柄と能力を好ましく思っていた。そのため、この上奏の事務的な手続きは陳宮が殆んど請け負ったのであった。

 また、洛陽に戻ってきてすぐに司馬懿と共に兗州へと向かった張遼も、出発前に董卓に陳蘭の追贈を頼み込んでいた。

 彼女は同じ司馬懿が率いた支軍に属し、陳蘭の殿を見送った人間である。味方のために殿を引き受けることを義侠と受け取り好感を抱き、陳蘭に報いるために董卓に掛け合ったのだった。

 陳蘭の墓は洛陽の南に建てられた。

 葬式には雛里や張郃、高覧、雷薄、王平、姜維、呂布、陳宮を始めとした多くの将兵、軍師、参謀が白の喪服をまとい集まった。

 いや、それだけでなく、陳蘭とは生前なんの関わりもない文官の姿さえあった。

 彼らは陳蘭が袁遺の部下であり、袁遺と誼を通じるために葬儀に参列した者だったのだ。

 そのことに雛里は、たとえ謹慎中であっても自分の主の影響力が衰えるどころか、増すばかりであることを理解したのだった。

 確かに、華北から中原は定まったが、南―――揚州、そして益州の地で更なる問題が発生していたのである。

 その解決のためには袁伯業の才が必要不可欠であり、その問題を解決するたびに袁遺の力がさらに大きくなることを皆が知っているのだった。

 袁遺が謹慎中、中華の南でふたつの大きな勢力の地殻変動が起こった。

 ひとつは孫策が長江を渡り秣陵や故郷の呉あたりを制圧し、そこに基盤を移して江南の地に割拠したのである。

 もうひとつは、劉備が劉璋から益州を奪ったのであった。

 

 

異・英雄記

戊の章

 

 

1 西蜀

 

 

 洛陽を脱出した後、劉備は諸葛亮の伝手で荊州の名士である黄承彦の元に身を寄せ、荊州の名士たちと交流を持った。

 洄湖周辺に本拠を置く楊氏一族の楊儀や、先祖が光武帝の侍中であり(ただし、それが事実であったか疑わしい)襄陽の北に広大な私有池を持つ習氏一族の習禎、さらには襄陽郡宜城県の名士である馬家の四女と五女である馬良、馬謖姉妹たちである。

 諸葛亮の名士人脈で今まで劉備が袁遺や曹操に明確に劣っていた名士間での声望の獲得に注力していた頃、益州から望外な申し出があった。益州の主、劉璋が劉備を迎え入れるというのだ。

 若干、時間を遡って益州の情勢を説明する。

 まだ霊帝の御世の頃、悪政や天災により民が耕作地を捨て流民となり、各地で賊が跋扈して治安が悪化する中で、とうとう後漢最大の農民反乱である黄巾の乱が起こる。

 これにより各地の地方官の支配力が弱体化するので、州刺史の権力を強化した州牧を置くべきであると上奏する者があった。

 それが前漢の魯恭王・劉余の末裔に当たる劉焉だった。

 彼は中央の混乱を避け、地方で独立することを画策して、州牧設置の上奏を行ったのだった。

 この上奏は受け入れられ、彼は天子の気があるとされた益州へと赴任する。

 劉焉が赴任したときの益州は黄巾賊が各地の県令どころか、益州刺史であった郤倹さえも殺害し、益州を混乱の坩堝としていたのだ。

 劉焉はその混乱を抑えるため、流民から兵を募集した。

 この募集で集まったのが東州兵である。

 彼は東州兵と地元の名士の協力で益州を手中に収めた。

 そして、張魯という宗教指導者に目をつけ、張魯を漢中に派遣し漢中と司隷を繋ぐ峡谷の橋を切り落として、独立を謀ったのである。

 この独立は成功した。漢王朝は劉焉に対して、どのような対策をすればいいか協議していた段階で、霊帝が死去したのである。劉焉どころではなくなった。

 その後、董卓が洛陽へと入り、反董卓連合が結成された。さらに董卓・袁隗の二頭体制の成立と袁遺が反董卓連合を解散させ、袁紹との戦争に突入していき、益州は放置されたままだった。

 しかし、独立を果たして間もなく、劉焉はこの世を去ることになる。

 その劉焉の後を継いだのが、息子の劉璋であった。

 だが、劉璋の代になると劉焉の頃から存在していた問題が大きくなった。

 それが東州兵と益州名士との対立である。

 これは何度か触れてきたが、この時代、名士が部曲(私兵)を大量に抱えて強い力を持っていた。

 それに対抗するためには、君主にとって自由となる兵力を持つことだった。例えば、曹操の青州兵もこれにあたる。

 つまり、東州兵とは劉焉の君主権力の象徴であった。

 故に、東州兵は益州名士に対して傲慢に振舞うし、益州名士たちは東州兵のことを苦々しく思う。

 そして、劉璋は事態を治めることができなかった。

 さらにそれは漢中にも飛び火し、張魯が独立を宣言し、劉璋に対して侵攻を開始したのだ。

 このふたつの問題を解決するために張松、法正、孟達たちが劉璋に劉備を益州に迎えることを献策したのだった。

 劉備には、ある噂があった。袁紹が袁遺より劉備を恐れ、現帝が劉備に兵権を与えようとしたという噂である。

 このとき、袁遺は袁紹を滅ぼし、その隙をついて独立した孫策も簡単に制圧するのではないかと思われていた時期である。

 その袁遺から軍権を取り上げて劉備に与えようとした。それはつまり、それほど皇帝は劉備を信頼している証左であった。

 霊帝の御世と違い、今は袁遺が反董卓連合の戦後処理である宣伝工作と連合に参加した諸侯の離間工作、さらには袁遺自身の武威によって王朝の権威は復活しつつあるのだ。皇帝からの信頼が厚い劉備がいることは決して悪いことではない。

 それに劉備の元には智謀の士や豪傑が多いという噂もあった。戦争においても役に立つ、と進言したのである。

 郭図の置き土産が、多くの人間の運命を狂わせた瞬間であった。

 劉璋はこの献策を受け入れた。

 だが、張松たちはすでに劉璋を見限っており、劉備を劉璋の代わりに益州の主に据えるために彼女を呼び寄せようとしているのだった。

 張松は益州の名士であるが、他の益州名士―――例えば、黄権、王累たち―――に比べれば力が弱く、法正、孟達は共に司隷扶風郡の出身で益州内に確固たる基盤がない。

 つまり、この三人は劉備を新たな益州の主に担ぎ上げ、今の権力構造を逆転しようとしたのだ。

 しかし、使者としてやって来た張松に、

「劉季玉に代わり、益州をお治め下さい」

 と蜀の地図を献上されても劉備は困惑する一方であった。

 それでも何とか、

「劉季玉殿は私の同族であり、攻めたりいたさば、天下の人々からの誹りは免れません。どうして、そんなことができましょうか」

 と劉備が礼を失せず返せたのは、荊州で名士たちと交流を重ねたからであった。

 そして、このときの劉備は本心から劉璋から蜀の地を盗ろうなどとは考えてもいなかった。

 だが、彼女の義妹たちは違った。

 関羽も張飛も蜀の地を取れと劉備に勧めたのである。

 あるいは、それは荊州に来て以来、名士たちとばかり交流を持っていた劉備に対しての義妹たちからの反発だったのかもしれない。

 関羽や張飛のような義侠に生きる人間にとって、儒教的徳目を身に着け、それを実践している名士たちとは相容れぬ部分があった。

 その名士と交流を深める劉備に義侠の心を忘れたのではないかという怒りと取り残されたような寂しさをふたりは感じたのであった。

 しかし、戦になれば自分たちが必要とされ、義姉(あね)の関心が自分たちに帰ってくるのではないかと思い、蜀攻めを勧めたのである。

 また、趙雲も言葉にはしなかったが、反対もしなかった。だが、内心では蜀攻めを望んでいることを劉備は直感した。

 彼女たちにとって荊州にいても、洛陽にいたときと同じであった。志のために立ったのに、そのために動けないなら、どこにいようと変わらないのである。

 当然、こういったとき最も頼りになる諸葛亮にも相談したのだが、諸葛亮からは、

「それは私が決めることはできません。桃香様御自身が決めてください」

 と返されただけであった。

 以前ならともかく、今の劉備なら諸葛亮がそう言う理由も分かる。

 君主と名士の関係とは、そういうものだからである。

 何かの目的のために主君をいただき、武力や知恵や財、兵、人脈などで君主を助け、その代わりに主君は臣下の利益となる。

 張松、法正、孟達たちは劉備を主君に選んだのである。そして、主君となるかを決めるのは劉備だけの権利であり、諸葛亮が容喙できる問題ではない。

 劉備は自分を下から突き上げる力を感じた。

 あるいはその力は時流と呼ばれるものであろう。

 ひとりの人物が権力の座から転がり落ちようとしている。このタイミングでなければ、劉備のような兵力を持たない者にチャンスは巡ってこなかったであろう。

 さらに劉備にとって追い風となったのは、法正という存在であった。

 法孝直という女性はどこか冷淡な雰囲気をまとっていた。

 顔立ちは良い。整って小ぶりな細面とすっきりとしたラインを描く肢体。しかし、彼女は人に好かれることが殆んどない。その原因は彼女が醸しだしている。どこか斜めに構えた冷淡な雰囲気のせいであった。それが多くの人にとって鼻に着くのだ。

 だが、彼女の頭脳は明晰であった。

 始め、張松と孟達は巨大な軍才と抜群の外交手腕を持つと噂の袁遺を新たな益州の主に担ぎ上げようとしていた。

 しかし、法正はそれに反対した。

 蜀の地で唯一彼女だけが、中原の冷静な分析ができていたのだ。

 法正は看破していた。袁遺と曹操の対決が近いことを。

 彼女も袁遺と曹操がお互いに何ら利益を生み出さない邪魔な存在になったと考えられる人間であり、両者がぶつかることは避けられないと分析した。

 そのため、法正が張松と孟達を中原の勢力は益州にかまっている時間などなく当てにできない。当てにできない者に蜀取りを進めても、情報が外に漏れるだけの危険な行為であると説得して、担ぎ上げる相手を劉備としたのだった。

 結局、劉備はこの流れに乗ることを選んだ。

 彼女も関羽たちと同じであった。このまま何もせずに、過ごすことができなかったのだ。

 劉備の益州奪取は上手くいった。

 荊州を出発するときでさえ、交流を持った荊州名士である楊儀や習禎、馬良、馬謖が協力を申し出た。

 楊儀と馬謖は部曲を引き連れて益州まで同行し、その道中の糧秣も提供してくれた。

 さらに習禎と馬良は荊州に残って物資の輸送や中原の情報収集を行った。

 二〇〇〇の部隊を率いて益州入りと劉備が何とか格好のつく形で荊州を出発できたのは、荊州名士の力によるものだった。

 もちろん、問題はあった。

 始めは劉璋も劉備を歓迎して宴を開き、その後で劉備は張魯に備えて葭萌関へと駐屯したのだが、張松の不注意から益州強奪の企てが露見してしまい。張松が処刑され、劉璋との武力衝突に発展した。

 戦いは終始、劉備が優勢であった。

 益州の民が劉備に味方したからである。

 さらに、黄忠、厳顔、魏延などの武将も戦いはしたがすぐに劉備へと降った。

 死ぬまで戦ったのは張任と彼の下にいた東州兵のみであった。

 最終的に、劉璋が降伏して劉備は益州の主となった。

 時流に乗った者が得ることができる勢いだった。

 

 

 一年にして集落となり、二年にして邑となり、三年にして都と成った。だから成都という。

 益州の州都である成都城は二重の城壁で守られている。

 外郭は五里(約二.五キロ)四方の規模で、東西南北それぞれに二門、合計八門の城門を持つ。その外郭の内、やや西寄りに二里(約一キロ)四方の内郭がある。この内郭に益州の新たな主である劉備の居城がある。

 その居城の軍議の間に劉備の文武百官が集まっていた。

 主である劉備とその臣下たちの視線は諸葛亮に注がれていた。

「臣・亮、只今、漢中より戻りました」

 諸葛亮は劉備の前で跪いた。

「ご苦労様、それでどうだったかな、朱里ちゃん」

 劉備の声は、その下に何の感情があるのか読みにくいものだった。

「申し訳ございません。張魯さんは和平には応じませんでした。どうやら弟の張衛が強く反対したようです」

 諸葛亮は頭を下げた。

 益州を手に入れた後、劉備はふたつのことをすぐに実行した。

 ひとつは、諸葛亮と法正の献策を受け入れて、劉璋と違った厳格な法を施行したことである。

 これは劉璋の権力が弱く、名士や東州兵が好き勝手したため民もまた法を軽んじていた。そのために、厳格な条例によって、官吏や民に法の順守を徹底し恩威を並び施し、節度をわきまえさせ、功罪を厳正にするためである。

 ふたつ目は張魯との講和であった。

 そのために、諸葛亮は使者として漢中に赴いたのだった。

 このふたつは劉璋が解決できなかった問題である。それを劉備が解決すれば、彼女の力を益州内に示すことができる。

 前者は効果を上げつつあるが、後者は諸葛亮の報告通り上手くいかなかった。

「やはり戦しかありません。桃香様! 張魯など討ち果たしてみせましょう!」

 諸葛亮の報告に武官の側に並ぶ、ひとりの少女が勇ましい声を上げた。

 その黒い髪に白いメッシュが特徴な武官の名は魏延。字は文長である。益州を手に入れる戦いで劉備に降り、それ以降、劉備を心酔している。

「この馬鹿者が!」

 そんな魏延に、横に並んでいた妙齢の女性が拳骨を喰らわせた。

 その女性は厳顔。かつては魏延の上官として劉備と戦い、その後で魏延と同様に劉備に降った老将である。

「軍師殿の報告の途中であろう。余計な口を挟むな!」

 厳顔に怒鳴られた魏延は、シュンと小さくなった。

 そして、その様子を微笑ましそうに見ている厳顔と同じくらいの年頃である女性が黄忠である。

 この三人が益州での戦いの途中に劉備軍に投降した主な武官である。

「ですが、桃香様。焔耶さんの言う通り、戦は避けられません」

 諸葛亮が言った。焔耶は魏延の真名である。

 その言葉に武官たちから歓声にも似た声が漏れた。

 だがしかし、この場の幾人かはそれに顔を曇らせたか、もしくは冷めた視線を送った。

 劉備も、そのうちのひとりであった。

 彼女にとって、この光景は昨晩に予言されたものだった。

 

 

 諸葛亮が漢中から成都に帰還したのは、日も沈みかけた時間であり、劉備にはすぐに報告するが百官を集めて大々的な報告は明日に、ということになった。

 諸葛亮は、法正を伴って劉備の元に参上した。

 それに劉備は怪訝に思いながらも、諸葛亮の報告を聞いた。

「申し訳ございません。張魯さんは和平には応じませんでした」

「そっか……」

 劉備は諸葛亮の報告に心底残念そうな顔をした。

 彼女は武力衝突を忌憚し、話し合いで解決できないかを模索して諸葛亮を漢中に派遣したのだった。

 それに対して―――特に武官側から―――弱腰であるという意見もあったが、諸葛亮と法正を始めとした文官たちの賛成もあって実行した。

 しかし、失敗に終わってしまい、後は武力を以って解決するしかなくなった。

 そのことに劉備は心を痛めて、顔を曇らせたのだった。

「このままでは戦は避けられませんが、そのことでお話があります」

 諸葛亮は真剣な面持ちで、劉備を正面から見据えた。その迫力は、かわいらしい諸葛亮から発せられているとは思えないほどだった。

「戦になった場合、漢中を制圧できる算段は十分にありますが、問題はその後です」

「その後?」

 劉備はオウム返しに尋ねた。

「漢中の張魯さんがいなくなれば、涼州の馬騰さんや袁隗さん、董卓さん、そして袁遺さんとの関係が間違いなく悪化します」

「どうしてッ!?」

 劉備は声を荒げた。

「常識として、隣接する勢力は対立します」

 答えたのは法正であった。彼女の言うことは地政学的にも事実である。

「で、でも、私は仲良くしたいと思っているよ!」

「まあ、私たちもそういう話をしに来たんですよ」

「えっ……?」

 法正の後を受けて、諸葛亮が口を開いた。

「桃香様、馬騰さんや袁遺さんとの関係が悪化するのは常識論だけではなく、そうなることによって得をする勢力がいるからです」

「…………もしかして、孫策さん?」

 劉備は莫迦ではない。孫策と袁隗・董卓陣営が対立関係にあることを知っている。そして、示唆されれば自ずと、諸葛亮、法正の言いたいことに辿り着くことができる。

「はい。孫策さんの敵―――つまり、袁遺さんたちの後ろを脅かすためには、私たちと袁遺さんたちに接近されては困ります。それに思い出してください。何故、私たちが洛陽から脱出しなければいけなかったのかを」

「孫策さんが袁紹さんみたいに、私たちを利用しようとするの?」

 劉備は袁紹の―――正確に言うなら、郭図の―――流言によって、皇帝から寵愛されていることを利用され、袁遺と対立することを余儀なくされた。

 諸葛亮が知恵を絞り何とか無事に洛陽を脱出できたが、噂とその噂を皇帝が信じたという事実は人々の心に残った。劉璋も、皇帝から寵愛されていたということで劉備を益州に招いたのだった。

「私たちが袁遺さんと手を結んだと思えば、その仲を引き裂きにくることは間違いありません。そして、袁遺さんと対立すれば、漢中の地は戦略上の要地です。そこを抑えている私たちと袁遺さんの関係は悪化し続けます」

 諸葛亮は断言した。

「…………えっと、それじゃあ、ふたりは何が言いたいの? そういう話ってどういうこと?」

 劉備の視線は定まらず、諸葛亮と法正を往復した。迷いと不安が表れた動きであった。

「言ったでしょう、袁遺たちと仲良くしましょうという話です」

 答えたのは法正であった。

「えっ?」

「断言します。袁遺と戦になった場合、勝ち目は殆どありません」

 法正の声には普段のどこか斜めに構えた様なスレた響きはなく、真剣そのものだった。

「益州の将兵は当てにできません。戦になれば勇ましいことを言うかもしれませんが、そんなものは半ば呆けた老人が、わしの若い頃は―――と自慢げに話す戯言(たわごと)と同じです」

「えーと……」

 法正のあまりにも容赦のない強い言葉に困惑する劉備だったが、それを諸葛亮がフォローした。

「反董卓連合の解散後、各勢力が袁遺さんの戦い方を研究したのを覚えていらっしゃいますか? その結果、袁紹さんは袁遺さんのように複数の敵に挟まれた状態で劉虞さんと公孫賛さんを各個撃破しましたよね。曹操さんの陣営も袁遺さんと戦うために研究したのは間違いないと思います。ですが、蜀の地は水には錦江、山には剣閣の要害があり、中原の地と離れています。袁遺さんの戦い方を直接見るどころか、正確に伝わってさえいないのです。だから、研究しようにもできなかったのです」

 益州の将兵は謂わば軍事研究において中原に後れを取っているのだった。

 そして、そのことに気付いている人物自体も益州では少数だった。法正のような戦を避けて中原の地から移ってきた者や中原の名士と付き合いがある者以外は、袁遺軍の強さというものをまったく理解していない。

「曹操軍の兵士は間違いなく精強でした。ですけど、勝ったのは袁遺さんです。そして、私たちの兵士は曹操軍の兵よりも精強さで劣っています。おそらく、袁遺軍の兵よりほんの少しだけ強い程度か、悪くすれば同等です。そして、指揮官の指揮能力では圧倒的に負けています。それなのに、袁遺さんの強さを理解できないまま戦っても、あっけなく負けるだけです」

「それじゃあ、袁遺さんと戦わないように張魯さんを攻めちゃダメってこと?」

 劉備が尋ねた。漢中の戦略的価値を劉備はあまり理解できなかったが、袁遺に勝てないなら言い方は悪いが張魯を盾にしろ、とふたりが献策していると思ったのだ。

 だが、返ってきた答えは劉備の想像の斜め上をいくものだった。

「いえ、漢中は絶対に確保しなければいけません。張魯さんの問題は絶対に解決する必要があります」

 あるいは、強欲極まるものだった。

「つまり、袁遺さんを納得させて漢中を手に入れ、できれば孫策さんも孤立させないということをやらなければいけないのです」

「ええ~~~!! そんなことをできるの!?」

 劉備は驚愕の声を上げた。それに返ってきたのは法正の冷めた様な声だった。

「それほど難しいことではないですよ」

「ええッ!」

 劉備の口から拍子抜けした様な声が飛び出た。

「な、何かいい考えがあるの?」

「私たちにはありません」

「えっ、それじゃあ、誰が……?」

「董卓か袁隗か袁遺か……まあ、本命は袁遺ですが、洛陽の誰かが漢中の件は上手く整えてくれますよ」

 法正は事もなげに言い放った。

「……で、でも、袁遺さんたちと仲良くすれば孫策さんが良く思わないんでしょう?」

「だからと言って、勝ち目のない戦に巻き込まれるのも嫌でしょう。それに、孫策は敵を作り過ぎてます。孫策と一緒に天下の嫌われ者になるなんて冗談じゃない。ですが、孫策を孤立させるのも悪手です。まあ、孫策陣営も孫策陣営で、自分たちが倒れれば袁遺の矛先はそちらに向く、とか何とか言って、エサをねだる野良犬の様にこちらが何もしなくてもむこうから接触してきますよ」

 法正の口元には冷笑にも似た歪みがあった。

 劉備は法正の言葉を咀嚼する様に考え込んだ。それから、ゆっくりと口を開いた。

「孫策さんが倒れれば、袁遺さんは本当に私たちの所に攻めてくるのかな?」

 その質問に、諸葛亮と法正の視線が交差した。

「名分と必要性があれば」

 答えたのは諸葛亮だった。

「桃香様は皇叔、つまりは皇族です。戦うには相応の大義名分が必要です。戦場という、どんな不測の事態になるか分からない場所で、もし桃香様が戦死なされた場合、皇族殺しの汚名を被ることになります。それが許容されるだけの大義名分を、です」

 その声は真剣そのものだった。

「大義名分……」

 劉備は呟いた。

「……その、劉璋さんから益州を奪ったことは大義名分になるのかな?」

 そして、尋ねた。劉備にとって同族から益州の地を奪ったことは、わだかまりとなっていた。それが劉備という人間の愚かしさと魅力であった。

「なりません」

 しかし、そんなことはお構いなしに法正は断言した。唐竹割りの様な答えだった。

「一応、張魯のことで洛陽に使者を送るときに私から袁隗、董卓に書簡で益州奪取の正統性を説明します。ですが、そんなことしなくても、むこうも分かっていると思いますよ」

 法正の後に、諸葛亮が続けた。

「それに孫策さんが倒れれば状況も変わります。荊州の劉表さんからすれば、袁遺さんの強さは孫策さんという敵がいれば心強いが、その敵がいなくなれば恐ろしいものです」

 情勢が変われば、外交方針も変わる。

 袁紹という敵を前にすれば、袁遺と曹操は手を組んだ。

 特に袁遺は、曹操を兗州牧にし、建徳将軍にし、都督兗・冀州諸軍事にし、費亭侯にさえした。袁紹を討伐するために冀州に進軍したときでさえ、曹操軍に被害がないような戦略を立てた。

 曹操もまた、袁紹の南進の盾の役割を全うした。

 袁遺と曹操は良き同盟者であっただろう。

 だがしかし、袁紹が倒れると両者はすぐにお互いを打倒するために動き出し、最終的に袁遺が曹操を倒した。

 これは外交上、当然の出来事であった。

 彼らが良き同盟者であったのは、お互いに利益があったからである。

 しかし、袁紹という敵が消えたことで、お互いが不利益な存在となったからこそ、彼らは戦うことになったのだ。

 この事実は袁遺と劉表にも当てはまることであった。孫策という敵がいなくなれば、彼らの関係も変化する。

「ですから、孫策さんが倒れても即、開戦となることはありません。孫策さんが倒れた後は、劉表さんがこちらと接触してくるでしょう。桃香様も劉表さんも宗族に連なる者です。皇族という立場をうまく使って立ち回ることになります」

 諸葛亮は断言した。

 その言葉を聞いて、劉備は覚悟を決めた様な顔をした。

「うん。それじゃあ、どうすればいいかな?」

 それに法正が

「まずは明日、文官、武官の前で桃香様の考えを改めてお聞かせください」

 と返した。

 法正の顔には悪だくみを楽しむような、意地の悪い笑みがあった。

 

 

「では、米賊(五斗米道に対する蔑称)を攻めるにあたって皇帝陛下に上奏しましょう」

 飛び交っていた武官たちの勇ましい言葉は、法正の発せられた言葉によって水を打った様に静まり返った。

 だが、それはほんの一瞬のことで、すぐに法正に対する罵声が溢れかえった。

 その殆どは、法正の提案は董卓や袁隗、袁遺の風下に着くことであり惰弱なものだと、彼女を臆病者扱いしていた。

 しかし、その騒ぎは法正の次の言葉によって、またすぐに沈静化される。

「私は董卓や袁叔侄の話などしていない。皇帝陛下に邪教を祭祀する輩を討伐すると上奏し、義を正そうとしているのです。それとも、皆々様は何か皇帝陛下を蔑ろにしようというのですか?」

 皇帝に叛意があるのか、と問われれば、罵詈雑言を吐いていた者たちも黙るしかなかった。

 その沈黙の中で劉備が口を開いた。

「みんなには、これだけは知っていてもらいたいの」

 その表情は真剣そのものであり、真摯に集まった者たちの心に訴えかけていた。

「私が故郷の幽州で愛紗ちゃんや鈴々ちゃんと兵を挙げたのは、困っている人たちを助けたい、ただそう思っただけだった。贅沢な暮らしや出世のためじゃないの」

 劉備の言葉に関羽と張飛がどこか懐かしそうな顔をする。

「それに私の家は、中山靖王の末裔だと言われているの。だから、陛下や漢王朝を蔑ろにするつもりはないし、みんなにもして欲しくない」

 劉備は、ピシリと言い切った。

 それは劉備の生の感情であった。

 そして、そうであるからこそ、法正の鼻に着く正論よりも武官たちの心を打ち、自然と彼女たちの頭を垂れさせた。

 正論が常に受け入れられるとは限らない。むしろ、正論故に反論を封じられた者たちはより大きな反感を抱く。そんな人間の機微がわからないほど、法正や諸葛亮は人間的に未熟ではなかった。故に、ただ劉備に自分の思いを述べさせたのだった。

 それに、実際に王朝を蔑ろにしないと口に出すことは張魯の問題が片付いた後にも、意味があった。

 劉備たちが漢中を手中に収めると、その北西に羌族とも接触することになる。これは新たな問題であった。

 そして、現在、羌族を抑えているのは涼州の馬騰であるが、彼女は漢王朝への忠誠心が厚いことで有名である。つまりは張魯の討伐を漢王朝を通して行うことは馬騰に羌族対策で協力を要請しやすくなるということでもあった。

 漢中攻めは、皇帝に上奏してから行うことが正式に決められた。

 洛陽へは許靖を代表として、十数人の文官、武官が派遣されることになった。

 許靖の汝南許氏は三公を三代続けて輩出した名門であり、許靖自身は中原の乱から逃れるために、この益州へ劉璋の代にやってきた。そのため、中央の名士とも交流があり、使者の代表としては適任であった。

 軍議が終わった後、諸葛亮はそれとなく法正へと目配せをした。法正のみに悪役をやらせたことを謝罪したのだった。

 法正もまた、その意をすぐに汲み取り、気にするなと態度で示した。

 劉備の皇叔という立場の利用や皇帝への上奏を考えたのは諸葛亮自身であったが、劉備の生の感情を以って武官たちを納得させるということを策謀したのは法正であった。

 参謀、軍師として諸葛亮にはできないことをできる法正という人間は諸葛亮の欠点を補っていた。

 性格的には馬の合わない部分もあるが、それでも盟友といえる関係を築けている。

 諸葛亮にとって、この蜀の地に来て最も幸運であったのは法正に出会えたことであった。

 

 

 麗らかな日和の昼下がり、洛陽は穏やかな雰囲気であった。

 黄巾の乱から続いた中原での戦は、袁遺と曹操の戦いを以って一段落したことが表れた様であった。

 だがしかし、そんな心地よい陽気の中で袁遺はまったくもって無様な状況にあった。

 彼は荷馬車に積まれた大型の衣装箱の中で女の着物に埋もれながら丸くなっていた。

 馬車が地面の出っ張りに乗り上げ揺れるたびに衣装箱も飛び跳ね、袁遺は体を箱の底に打ち付けていた。

 謹慎の身である彼が何故、こんな状況であったかは彼の叔父が原因であった。

 袁遺は自分の屋敷で謹慎していても、袁隗の細作の手によって孫策や劉備といった敵となりえる勢力の情報や洛陽の情勢が手元に集まっていた。

 しかし、今回、細作たちは情報を伝えるのではなく、袁隗から言伝を預かってきた。

 曰く、直接会って相談したいことがあるため、この者たちの指示に従え。

 袁遺は謹慎中の身である。当然、大手を振って歩けるわけがない。秘密裏に会談するためには策を弄するしかなかった。

 袁遺は細作たちに、任せると、鷹揚に頷いてみせたが、こうまで痛い思いをするハメになるとは考えていなかった。

 辛い時間をいつもの無表情で耐えていた袁遺に開放のときが訪れた。馬車が止まったのである。

 しばらくして、箱が持ち上げられる感覚があり、おろされるとすぐに箱から出された。

「ここはどこだ?」

 袁遺は尋ねた。

 商人に化けた細作から返ってきた答えに、袁遺は表情に出さず驚愕した。

 かつて、反董卓連合を解散させてから袁遺が洛陽へと帰還したとき、袁遺に屋敷が与えられることになった。

 袁遺は与えられるはずであった最初の一軒を断り、別の場所を希望した。その理由は、与えられる予定だった屋敷の付近に袁隗が愛人を囲っていたからだった。愛人の元に通う叔父を目撃するハメになるのは、さすがの袁遺といえども気まずい。故に、断ったのだった。

 しかし、今、袁遺がいる場所は、その叔父が愛人を囲っていると思っていた屋敷であった。

 袁遺は直感した。愛人は今回の様な秘密裏に会談するための嘘、つまりはカモフラージュであり、俺は叔父上の掌で踊らされたに過ぎなかったのか、と。

 袁隗は三公である司徒に三度就任した男であり、社稷において政治的魔術を縦横に駆使してきた一種の怪物である。この偽りの愛人邸でも何度か密談が交わされていたとみて間違いはない。

 となると、細作たちは愛人への贈り物を運んできた商人に化けて、俺をここまで運んできたのか、と袁遺はひとりで納得した。

「どうぞ、こちらで身支度を御整え下さい」

 袁遺は袁隗に会う前に小さな一室に案内された。そこには女中がいて、櫛や鏡が用意されていた。

 そこで女中に手伝わせて髪と服の乱れを直すと、今度こそ袁隗の元へと案内された。

「袁遺、太傅に拝謁いたします」

 袁遺は拝跪した。

「ご苦労であったな、伯業」

 袁隗が重厚な声で言った。

「茶か酒か用意させる、どちらがいい?」

「茶ですね」

 袁遺は頭を上げて言った。遠慮のない答えだった。

「謹慎中の身ですので、万が一、何かあったときに酒臭い息をさせているのはまずいでしょう」

 茶はすぐに用意された。この叔侄の好みである芳醇な香りとやや強い苦みの茶であった。

 その茶を一口すすると、袁隗は書簡を袁遺に差し出した。

「益州を劉璋から劉備が奪ったことを知っているな」

「はい」

 袁遺は頷いた。

「その劉備の使者がやってきた。その書簡はその使者が持ってきたものだ。法正という人物から、わしと董司空への親書だ」

 袁遺は、拝見しますと断ってから、書簡に目を通した。

「……劉皇叔は益州を奪ったのではありません。劉季玉が益州を自ら棄てたのです。皇叔はその益州を拾ってさえいません。我々益州に住まう者が皇叔を益州の主と戴いたのです、か」

 典型的な後漢末期の君主権力の弱体化と名士勢力の台頭がそこにあった。

 劉璋では自分たちに利益をもたらさないと名士たちに見切りを付けられ、劉備が劉璋の代わりに選ばれたのである。名士たちが自分たちの主君を選んだのだ。乱世の習わしというより、この時代独特の価値観である。

 そして、この親書はその宣言に他ならない。

「劉備は不思議な人物だな」

 袁隗がポツリと言った。

「劉表のときと同じだ。劉備を益州の主と認めなければ、益州の名士たちを敵に回すことになる。だから、こちらも認めざる得ないだろう。しかし、劉表はそれを自分で選んだが、劉備は法正にやらせた。莫迦なのか、器が大きいのかわからん」

 それに袁遺が返した。

「大器であることは間違いないと思いますが、莫迦というより君主権力と名士に対する理解度が低いのでしょう」

 袁遺は思った。理解度が低いことは一概に悪いことではない。高いが故に俺は仲達を疑い続けている。

 袁隗は、そうか、と鼻を鳴らすと、茶をすすった。それから、口を開いた。

「伯業、お前を呼んだのは、これを持ってきた使者が張魯の討伐を上奏したいと言ったきたことだ。そのことでお前の意見を聞きたい」

「張魯の討伐……」

 袁遺の口元が僅かに引き攣った。

 彼にとって、それは難しい問題であった。

 漢中の戦略的意義は益州に攻め入った場合の橋頭堡であった。それを劉備に抑えられることは益州征伐の可能性の芽を摘まれたに近い。特に益州のもうひとつの橋頭堡になりそうな場所は劉表が抑えており、相応の理由がない限り軍が荊州を通過することを劉表は良くは思わないだろう。許可できることでなかった。

 しかし、孫策という敵が東にいる状態で西に新たな敵を作るのは下策である。漢中を劉備に渡し、そこを緩衝地帯(バッファーゾーン)にするのもひとつの手であるが、それは消極策でもある。

 頭を悩ませる袁遺に、袁隗が言った。

「賈駆も戦略上、非常に難しい判断のため、お前の意見を聞きたいと言ってきた」

「…………そうですか」

 袁遺は問題がさらに悪い方向に転がったと感じた。

 彼は賈駆が自分に対して恐れを抱いていることを理解している。ここまで、彼女は袁遺に自分の有用さをいまいち示せていないのだ。現在の漢王朝は軍事の最高責任者にも、政治の最高責任者にも無能どころか平凡な人間を座らせる余裕はなかった。そんな中で有用さを示せていないのは、董卓や賈駆にとって今の地位を失う可能性するあった。

 それなのに、袁遺に助力を求めてきた。

 袁遺は重荷を背負わされたように感じた。あまりに政治的にも、戦略的にも難しすぎることだから、責任を俺に負わせるために問題を俺に投げたな。

「劉備が皇叔でなければ、ここまで頭を悩ませずに済んだのですがね」

「袁紹の厄介な置き土産だ」

 袁隗が皮肉気に口元を歪ませた。

「……漢中は皇叔に差し上げましょう」

 袁遺が言った。

「いいのか?」

「皇叔は孫策と違って、漢王朝を敬う態度と現在の体制を容認する姿勢を見せて、こちらに筋を通そうとしています。仕方がありません。ですが、こちらも最大限それを利用します。手始めに鎮軍大将軍の下にいる公孫賛を呼び出してください」

 袁遺はいつもの無表情で言った。

 

 

「いつかの意趣返しではありませんが、今度は皇叔に公孫賛のために些かの不利益を我慢していただきます」

 




捕捉

・許靖
 一族から三公を四人、そのうち三人は三代続けて輩出した名門の生まれであり、従弟には曹操を『治世の能臣、乱世の奸雄』と評価した許劭(許子将)がいる。
 この許子将は原作の真・恋姫†無双では怪しい占い師になっているが、この二次創作ではそんなことはなく名士であり、人物批評家という設定です。
 まあ、本編には関係ありませんが、一応、補足しておきます。


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2~3

 

2 漢中

 

 

 頬を打つ風が幽州の風景を公孫賛の脳裏に思い出させた。

 黄土台地の砂塵が舞う乾燥した空気が幽州のそれと似ていたのだ。

 公孫賛は今、渭水の畔にある上邦に一五〇〇の兵を率いていた。

 そこから難所として名高い蜀の桟道を越えようとしていた。

 蜀の桟道は関中と漢中を結ぶ細い糸の様な街道で、秦嶺山脈の深い渓谷沿いに切り開かれている。

 秦嶺山脈は標高三七六七メートルの太白山を筆頭に二〇〇〇メートル級の山々が聳え立つ、それに浸食性の地形のために渓谷は深く、関中と漢中を厳然に分かっていた。

 桟道とは渓谷の崖際に木の杭を打ち込み土台とし、その上に木の板を敷き詰めて道としたり、あるいは谷にかかる橋や岸壁を穿って作った道である。

 だが、蜀の桟道は劉焉が張魯に命じて焼き落とさせた。

 そのため通行不可能に思われていたが、その実は桟道の一部が復旧されていたことが分かったのだった。

 発見したのは長安令の張既であった。

 彼は涼州の地勢に明るく、また馬騰を始めとした涼州軍閥に顔が利くため、袁遺によって長安令に抜擢された。

 そして、劉備が益州の地を奪ったことで彼の重要性はさらに増すことになった。劉備と対立した場合、涼州の馬騰を始めとした軍閥や羌族、鮮卑といった異民族が劉備に靡かないよう、その外交手腕を期待されていた。

 洛陽で主の代わりに軍を取り仕切る雛里は、袁遺の指示が出る前に張既に西の情報を集める様に依頼した。

 その結果、張魯が羌族と接触していたことが分かったのだ。

 当然のことだろう。劉備、というより諸葛亮と法正が上奏を行う目的として馬騰の協力を得て、羌族を抑えようとしたように、漢中を治める者には羌族はひとつの問題である。

 その羌族と接触するために使っていた道を張既が発見したのだった。

 それが西から大回りに祁山を通って漢中に入るルートである。

 史実では諸葛亮が第一次北伐、および第四次北伐で通ったルートである。

 余談になるが、演義では史実で行われた五度の北伐が、第四次北伐を二度の北伐に分けているために北伐が六度行われたことになっている。そのため、この祁山ルートは演義では第四次北伐ではなく、第五次北伐に通ったことになっている。

 何故、公孫賛が諸葛亮の通った道を逆に辿ることになったか、それはある意味で因果応報であった。

 曹操との戦争が終結後、公孫賛はそのまま司馬懿の麾下に入り兗州に駐屯した。

 しかし、洛陽へと帰還が言い渡された。

 突然のことであったが、公孫賛はホッとした。

 何故なら、彼女は陳留で居心地の悪さを感じていたからだ。他の部隊の兵たちの公孫賛を見る目は明らかに侮蔑に近い感情が込められていたのだった。

 司馬懿麾下の将兵たちは知っていた。公孫賛が荀彧の支軍相手に殿の命を躊躇し断ったことを。

 そして、公孫賛の代わりに殿の任を引き受け、その命を犠牲に司馬懿勢を脱出させ勝利に貢献した陳蘭との対比で、公孫賛は臆病者と白い目で見られていたのだった。

 それから解放されることに公孫賛は安堵したが、洛陽で新たに命じられたのはまったくの予想外なことであった。

「総大将として劉皇叔と共に漢中を攻めよ」

 皇帝の命令―――勅命であった。断ることは許されない。

 公孫賛は混乱を抱えたまま、いつの間にか彼女と同様に兗州から呼び出されていた劉放を参謀として洛陽を発ったのだった。

 

 

 張魯討伐の上奏を受けて、劉備の体裁は早急に整えられた。益州牧の位が送られたのだ。さらには、漢中征伐に成功した暁には左将軍の位も送られることが、内々に決まっていた。

 ただし、全てが劉備の願い通りにことが運んだのではなかった。

 劉備の上奏は確かに受け入れられ、張魯討伐の詔が下されたが、その総大将は劉備ではなかった。

 上記の通り、総大将は公孫賛であった。

 しかし、総大将と言っても公孫賛の手勢は一五〇〇程度であり、名目上のだけのことであった。かつて袁遺が袁紹打倒のために冀州へと侵攻したとき、その総大将を董卓が務めたに近い。

 あのとき、袁遺は一族の者である袁紹の討伐は罪を雪ぐという面が強く、そのため功の部分が曹操に集中することを嫌って董卓を名目上の総大将に添えた。

 今回の公孫賛の総大将抜擢の目的もおおよそ同じであった。

 劉備……というより、諸葛亮と法正が董卓や袁隗、袁遺、さらには馬騰との対立を避けるために上奏したことを袁遺は逆手に取って、漢王朝による討伐という面をより濃くしたのだった。

 漢中を攻め落としたのは劉備ではなく漢帝国、漢中の民は劉備の民ではなく漢帝国の民である。そういう意識を漢中の民や各地の名士たちに思わせるのが目的であった。

 そして、その役目に公孫賛が選ばれたのは彼女が劉備の洛陽脱出に手を貸したという事実があったからだ。

 さらに言うなら、そのことを袁遺は不問にしている。

 袁遺は公孫賛を総大将にすることで、あのときの借りを返せと無言の内に促しているのだった。

 ただし、それは劉備ではなく諸葛亮に対してである。

 洛陽脱出に際して、諸葛亮は袁遺なら感情に囚われず何が今の状況で最善かを間違いなく判断すると信頼し、袁遺もまた諸葛亮ならリスクとリターンを正確に読み取って自分の軍権は侵さないと彼女を信頼した。

 だが、今回のことは歪な信頼関係となった。

 諸葛亮は、たとえ謹慎中でも袁遺なら必ず漢中攻めを許可すると信頼し、袁遺もまた諸葛亮ならこちらの意を必ず読み取ると、その能力を信頼した。そう、そちらが要求を飲まないなら公孫賛に対して処分を下す、という真意を。

 袁遺にとって公孫賛とは、司馬懿の命じた殿の任を躊躇し、代わりに陳蘭が殿を務めたときから、最早、心を砕く存在ではなくなったのだった。

 公孫賛が袁紹に敗れて洛陽にやってきて以降、袁遺は彼女に報い続けた。反董卓連合に参加したことを許して受け入れ、中郎将にし、劉備の脱走に手を貸したことに目をつむった。

 もちろん、それは無償の善意ではなかった。公孫賛という存在が袁紹の背後を脅かすのに役立ったからである。

 しかし、事態は公孫賛の政治感覚を越えてしまった。自分が袁遺にとって無益な存在になったというのに、その意味をまったく考えなかったのだ。彼女は董卓、袁隗、袁遺の不信感を拭う努力をしなかった。

 その結果がこれである。故に因果応報と言えるだろう。

 ただし、公孫賛以外の人間がその因果に抗おうとしていた。

 

 

 諸葛亮が職務を切り上げ自宅に帰ってきたときには、更深といえるような時間帯であった。

 彼女は帰るなり、使用人に茶を所望した。ともかく喉が渇いていた。

 諸葛亮は通常の職務の他に憤慨する武官たちを宥め賺すのに追われた。

 総大将を公孫賛が務める、そのことを報らされると、武官たちは横やりを入れて手柄を盗みに来たと憤慨したのだった。

 そんな武官たちに諸葛亮は、益州奪取以前の将たちには、

「公孫賛さんには袁紹軍によって平原の地を追われたときには朝廷に口利きをして助けられ、さらには洛陽脱出にも協力していただきました。その恩を返すのは今ではないでしょうか」

 と公孫賛への恩返しという名分を持ち出して宥め、黄忠、厳顔、魏延たち益州で劉備に仕えた者たちには、主君である劉備に頼んで彼女の口から、

「漢王朝を蔑ろにしないことは、たぶんこういうことを受け入れるのも含まれると思うの。それに朱里ちゃんが言うには白蓮ちゃん……じゃなくて、伯珪ちゃんの大将は名前だけで戦力としては充てにできないみたい。だから、頼りになるのは今まで張魯軍と戦ってきた紫苑さん、桔梗さん、焔耶ちゃんの力なの。いろいろ思うところがあるかもしれないけど力を貸して」

 と宥めた。

 諸葛亮は降将の心理を看破していた。

 降将は意識的にも無意識的にも活躍の場を強く求めている。負けて降ったのである、それはつまり古参の将よりも劣っていると新たな主に取られかねない。降将たちはその挽回の機会を求めているのだ。

 諸葛亮の見たところ、劉備に心酔して役に立とうと躍起になっている魏延はもちろん、黄忠、厳顔の老将もその例外ではなかった。むしろ、老将であればこその自尊心を君主である劉備を使うことでくすぐったのであった。

「ふぅー……」

 諸葛亮は昼間のことを思い出すと疲れが増したような気がした。

 それを振り払うように、彼女は運ばれてきた茶碗に手を伸ばした。両手で茶碗を包み込むように持ち、口へと運ぶ。茶の香りと温かさに癒されるような気がした。

 だがしかし、束の間の癒しは突然の来客によって終わることになる。

「法孝直様が訪ねてまいりました」

「…………すぐにこちらに通してください。それとお茶の用意も」

 現れた法正は普段のどこか斜めに構えた様な雰囲気をまとっていた。夜分遅くに申し訳ない、と頭を下げたが、あまり申し訳なさそうには見えなかった。

 法正は出された茶を片手に、まるで世間話でもするように話し始めた。

「武官たちの御守を全部、あなたに任せてしまって申し訳ない。私の性分では怒りを収めるどころか、火に油を注ぎそうなので」

「いえ、孝直さんにはもっと辛い悪役をやってもらっていますから」

「いや~、そう言ってもらえれば助かります」

 法正は茶碗を傾け、喉を潤した後で続けた。

「しかし、袁伯業という人の外交姿勢はもっと誠実なものだと思っていました。それは私の見込み違いだったのでしょうか?」

 法正の疑問を諸葛亮は当然のことだと思った。袁遺のやっていることは劉備の利益を減らすことだ。今までの袁遺の外交姿勢からすれば異例だろう。

 だが、諸葛亮は何の迷いもなく法正の問いに答えた。

「いえ、見込み違いではありません。袁遺さんは誠実な方です。ただ、同じだけの厳しさを併せ持った人なんです」

 諸葛亮の言葉は何の偽りのない本心であった。彼女はその誠実さに頼って洛陽から脱出したのである。

 そして、その結果、公孫賛が漢中攻めの総大将を務めることになってしまっているのだ。

「なるほど……諸葛さんの見立てには信を置いてますよ。となると、私には分からない損得が袁遺と桃香様……ああ、いや、桃香様にはその手の損得勘定なんてできないから諸葛さんとの間にあったのか」

「そこが桃香様の良い所でもあるんですよ」

「もちろん、褒めたつもりですよ。桃香様はその手の損得勘定が苦手ですが、そのことを自覚して下の者に任せる度量がある。度量も自覚もないならともかく、度量も自覚もあるのだから、中傷されるいわれもない」

 法正は残っていた茶を乾した。

「まあ、そんなことはどうでもいいんです。宜しければ、あなたと袁伯業の間にどのような貸し借りがあったのか、お教えいただけないでしょうか」

 諸葛亮は迷った。外交において、味方さえも欺いて信頼関係を構築しなければならないときもある。だが、法正を欺けるとは思っていなかった。

 迷いに迷い、諸葛亮は洛陽脱出の経緯をありのまま話した。欺けないなら胸襟を開くしかなかった。また、諸葛亮の人間性の表れでもある。

 しかし、同時にそれは最大の障害を作ることと同義でもあった。

 話し終わった諸葛亮は姿勢を正し、法正へと深々と頭を下げた。

「孝直さん、今回の件は全て私に任せてもらえないでしょうか」

 全ての事情を理解したとき、法正ほどの謀略家なら、自分と袁遺の両方を上手く出し抜くことができると諸葛亮が確信しているからだった。

「…………そこまで賢いと損な生き方をすることになりますね。諸葛さん、それはそれで苦しい道ですよ。むしろ、ここで公孫賛を楽にしてやってはどうです」

 法正の返答に諸葛亮は自分の確信が間違っていなかったことを知った。

「私が魏延や厳顔、黄忠を焚きつけますよ。益州の武将の力を見せるのはここしかないとか言って。そして、独断に近い形で漢中を速やかに制圧して、公孫賛を介入させずに戦を終わらせます。こうすれば、四海の人々は桃香様が張魯を倒したと思うでしょう。その後、使者を派遣して皇帝に勝利を上奏する。これで、外交上の主導権を握れるでしょう。当然、責任は私が取ります。どうぞ、諸葛さんと桃香様で私の処遇をお決めください」

 法正は口元に皮肉気な笑みを浮かべて続けた。

「という、私の腹の内を読みましたか、諸葛さん? まあ、当然ですか。私の考え通りにいけば、公孫賛は間違いなく殺されます。総大将が戦が終わった後にノコノコとやってきたなんて、そんなものは総大将なんて言えないですからね。処分の理由には十分です。そうなることがわかっていたら、諸葛さんは絶対に私の好きにさせませんか」

 法正の問いに諸葛亮は答えず、頭を下げたままだった。

「ですが、諸葛さん。袁遺にとって公孫賛はその程度の、こちらから利益を吸い上げるエサの役割さえ期待していない切り捨てた存在になったということですよ。今回は生き延びても次また何かあったら、どうせ使い捨て以下の扱いをされるだけです。ならいっそ、今回で楽にしてやるのが慈悲というものですよ。諸葛さんが気に病む必要などありませんよ。公孫賛が無能であっただけの話で、無能の責任は本人が取るべきなんですよ」

「いえ、違います」

 諸葛亮は頭を上げた。そして、真っ直ぐに法正を捉えたまま続けた。

「公孫賛さんの命という問題ではないんです。時期と戦略の問題です」

 諸葛亮は、はっきりと言った。

「おそらく孝直さんの言う通りにしても、袁遺さんは公孫賛さんの無能故の結果として、桃香様や私を責めないでしょう。孫策さんという敵もいることですし。ですが、袁遺さんからの信頼を失うことになります。桃香様が益州を手に入れてから日が浅い、今の状況で袁遺さんを敵に回すことは戦略上の失策になるんです」

「そうですか……わかりました。諸葛さんにお任せします。ですが……」

 法正はそこで言葉を切った。

 だが、諸葛亮は法正が何を言いかけたかわかっていた。

 これから先も公孫賛は劉備(と諸葛亮)に対する脅しの道具として袁遺に使われ続けるだろう。

 そして、いつか必ず劉備も諸葛亮もそれに付き合い切れなくなる。そうなると、公孫賛は袁遺によって殺されることになる。

 公孫賛は、あの洛陽で諸葛亮自身によって巻き込まれ、破滅へと追いやられたのだ。

 それなのに、諸葛亮は公孫賛を見捨てた。今回、公孫賛を助けるのも結果論であり、これから先はその限りではないと、法正に宣言したに等しい。恩知らずで、恥知らずの人面獣心の外道の極み、いくら罵倒されてもされ足りないだろう。

「諸葛さん、信頼してますよ。その証としてどうか、私のことは真名で呼んでいただけますか」

 しかし、諸葛亮に与えられたのは罵倒よりも心にくるものだった。

 公孫賛を見捨てて、君主の利益となる道を行くことを選んだなら、最後までその道を行け。絶対に情にほだされるな。信頼しているよ、と。鞭を打たれたに等しい。

「はい、私のことも真名の朱里と呼んでください」

 なら、甘えたことは言っちゃだめだ。諸葛亮は思った。

「はい、朱里さん。私のことは茨花(ちーふぁ)と」

 

 

 十日後、劉備軍は漢中へと侵攻した。

 その先鋒は黄忠、厳顔、魏延と劉備の言葉通り、地理に明るい元劉璋軍の者たちであった。

 彼女たちは漢水沿いに北上し漢中盆地の西の玄関口といえる陽平関を目指した。

 それと同時に、別動隊である張飛率いる部隊が米倉山へと向かい、関羽が率いる部隊が西漢水を北上した。張飛隊には法正が、関羽隊には劉備軍に降った黄権がそれぞれ派遣され土地勘のない張飛と関羽を助けている。

 米倉山は定軍山の裏手に連なる山で、その名が示す通り糧秣貯蔵庫が置かれている。また、西漢水を北上すれば祁山へと辿り着き、公孫賛軍と合流することになる。

 張飛隊と関羽隊は張魯軍の兵站を脅かすことと公孫賛との合流が目的ではあったが、同時に張魯軍分断のための陽動も彼女たちの任務であった。

 それに対して、張魯軍の動きは鈍かった。

 張魯の弟で軍権を任されている張衛は戦意に溢れていたが、例えば袁遺軍の様に別動隊を各個撃破して回る運動戦を展開したわけでもなかった。

 張衛が採った策は陽平関を始めとした防御施設に兵力をばら撒き、その場その場で籠城戦を行うことであった。

 しかし、それは援軍のない劣勢側にとって決して上策といえることではなかった。

 また、張魯の心が降伏に傾いていたため、張衛を積極的に支援しなかった。

 結局、戦は兵力差により陽平関が陥落した段階で張衛の主張する抗戦を退けて、張魯は降伏した。

 ただし、張魯が降伏を申し出た相手は劉備ではなく公孫賛であった。彼は報復を恐れて因縁があり戦ってきた旧劉璋軍が多くいる劉備軍にではなく、漢王朝に降伏して庇護を求めたのだ。

 張魯の処遇は諸葛亮と劉放の話し合いの末、張魯とその家族を中原へと移送し、五斗米道信者の中で同行を希望する者も移住を許可することになった。

 この移住は五斗米道という民間宗教が中華全土に波及し、後の道教の隆盛につながるのだが、当然、諸葛亮も劉放もそんなことは知る由もなかった。

 そんな未来のことより、この張魯討伐により、劉備は予定通り左将軍の位に就き、左将軍府を開いた。

 これは前の益州の主であった劉璋が成し得なかったことであり、それを成した劉備の権威を高めた。また、錦の御旗の下で張魯を討伐したことにより正統性も手に入れた。

 だが、この成功の陰で、その反動と言える歪みが発生していた。

 

 

3 歪み

 

 

 洛陽の南門を出てしばらく歩いたところに陳蘭の墓はある。

「今じゃあ、もう誰も来なくなったな」

 雷薄はポツリと呟いた。

 彼も当然、葬儀には参加し、埋葬されるのも見届けた。そのときは弔問客であふれかえっていたが、今では訪れる人も殆んどなく、どこか物寂しかった。

 墓の前にはもうすでに張郃と高覧がいた。ふたりとも手には酒瓶を提げていた。

 雷薄も手に持っていた酒瓶を掲げてみせる。

「酒ばかりになったな」

 張郃が言った。

「まあ、いいさ。あいつは俺たちの中で一番、酒が強かった。これくらい平気で飲み干すさ」

 雷薄が笑ってみせる。

 三人は墓前に持ってきた酒を供えた。

「たくッ、てめぇはおっ()んで簡単に将軍になりやがって、こっちは面倒なことになってんだぜ」

 雷薄の乱暴な口調とは裏腹に、その声はどこか哀愁を宿していた。

 

 

 劉備の張魯討伐の直後、ひとつの問題が浮上していた。

 それは曹操の叛乱鎮圧の論功行賞をどうするかであった。

 本来なら総大将を務めた袁遺が皇帝に諸将の功を上奏して、その功に相応しい褒賞が与えられるのであるが、肝心の袁遺が洛陽へと帰るなり弾劾され罷免されたために上奏が行われず先送りされたのだった。

 しかし、信賞必罰は軍隊の基本である。命を懸けて戦った将兵に報いなければ、士気の低下を招く。速やかに恩賞を与えなければいけない。

 賈駆の胸には、この論功行賞においてひとつの強い決意があった。

 それはこの論功行賞をきっかけに董卓の権威を高めることであった。

 こんな逸話がある。

 前漢の功臣・陳平がまだ無名の頃、祭りで宰領役になった際には祭肉を迅速、公平に分配して名声を高めたが、彼は以下のことを漏らした。

「天下を与えられたなら、この肉の如くたちどころに裁いてみせるのだがな」

 後に陳平は丞相となり、言葉通りに天下を裁くことになる。

 そして、彼の漏らした言葉は宰相の役割を端的に表している。

 肉を公平に分配するとは、決して一律均等に分配することではない。貧富、貴賤、長幼の次序を斟酌して、差等を設けて分配し、その差等に村人たちが不満を抱かなかったことである。

 これは、郷里社会の狩猟や祭祀、即ち経済と礼節にわたる分配の原則であり、一歩踏み込めば財政的物流における均輸、調均などの国家の財務運営や王朝儀礼の実践原則となり、究極的には陳平のつぶやきに見る様な天下を統治する天下均平の理念となった。

 論功行賞も同じである。

 武功に応じて、それに相応しい褒賞を授与する。

 これを董卓の主導で行うことによって、賈駆は董卓の影響力を強めようとしていた。

 賈駆の決意の背景には、袁遺が謹慎したにも関わらず、その影響力が弱まるどころか強くなる一方なことに対する恐怖があった。

 また、董卓も論功行賞には意欲的だった。

 といっても、彼女の場合は賈駆の様な権力論が背景ではない。まったくの善意からだった。

 劉備が張魯を討伐して左将軍の位に就いたのだが、その左将軍より高位に就いている者は袁遺と董卓、その両方の麾下の中では司馬懿のみであった。

 反董卓連合から長い間、激戦に次ぐ激戦を戦ってきた将兵、参謀が劉備より、下手をすれば孫策より低い地位にいる事実に董卓は心を痛めたのだった。将兵、軍師、参謀の献身に公正な官位と俸禄で報いたいと心の底から願った。

 だが、その無垢な願いは叶わなかった。

 袁遺に驃騎将軍府を任された雛里が慎重な論功行賞をと、提言したのだった。

 現在、軍では論功行賞とは別の問題が発生していた。

 陳蘭隊の壊滅は陳蘭の死という悲劇を招いたが、同時に彼の麾下であった経験豊富な下級将校、下士官を大量に失うことでもあった。

 彼らの高い能力が袁遺軍の柔軟な機動を可能にしていた。それを失ってしまっては軍の再編はやむを得ない。

 そんな中で、ただ官位をばら撒かれたら軍の再編に支障をきたすため、仮の処置として官位ごとに金銭を褒美とし、後日、改めて正式な論功行賞を行うことを雛里は提案した。

 ただし、与えられた金銭を遊資とするようなことはせず、すぐに使うことを厳命するよう重ねて献策した。

 現在の漢王朝の経済状況は決して良好とは言えない状態が続いている。それでも投下すべき資本が決してないわけではないので、雛里の提案は経済の活性化、内需拡大策の一策でもあった。

 雛里の提案は賈駆にとって、とうてい受け入れられるものではなかった。董卓の威信を示すことができない、平凡な論功行賞である。

 しかし、雛里も譲ることができない。

 袁遺に驃騎将軍府を任されたのである。主の不在の間に、彼が作り上げた軍からその最大の強みであった柔軟性や機動力の高さが失われ、骨抜きにされてしまうなど、留守を任された者として絶対にあってはならない。

 雛里は普段の彼女からは想像できないほどの、強硬な態度を見せた。

 このふたりの対立は論功行賞を最悪のものとしてしまった。

 論功行賞が折衷案的なものとなったのだ。

 校尉以上の者たち―――例えば呂布や張郃たち―――には官位を、後代の言葉で言うところの下級指揮官たちには金銭を恩賞とすることにした。

 だがしかし、袁遺麾下の張郃、高覧、雷薄たち三人は示し合わせたように、自分たちには将軍職という重責に耐えられる能力はなく過分な恩賞でございます、と与えられるはずであった将軍職を辞退して、金銭を恩賞として要求した。

 これはこの時代の―――最初はそれを断り、再度任官されたときに受けるという―――礼儀ではなく、彼らの本心であった。

 三人は袁遺の留守を預かる雛里に対して取り計らってくれるように頼み込んだ。

「軍師殿、何とかなりませんか」

 驃騎将軍府を訪れた三人を代表するように、張郃が言った。

「将軍職は確かに名誉ですが、我々に将軍職が勤まると思えませんし、何より伯業様が不在の状況で恩賞を受けるなど……」

 彼らが将軍職を辞退しようとしている理由、その根本は自分たちは袁遺の部下であるという強い認識であった。

 袁遺軍において、将軍職に求められる役割とは後将軍時代の袁遺のそれであり、曹操との戦争時の司馬懿のそれであった。

「我々には伯業様のような……例えば、複数の分散した部隊を参軍たちを使って掌握し続ける様な作戦指導力はありません。それなのに将軍などなれば……」

 張郃はその達筆家によって書かれた様な力強い眉を曇らせながら、続けた。

「軍師殿もご存じでしょう。我々が主と戴いた方が、将……兵に死ねと命じる立場にある者に対して、どれほど厳しい態度で臨まれるかを」

 もちろん、張郃が例に出したような分進合撃が可能であることが将軍になるための条件ではない。

 現在、分進合撃が行えるだろう指揮官を各陣営で探したところで袁遺と司馬懿しかいないだろう。

 だからと言って、例えば呂布が将軍失格かと問われれば答えは否である。彼女の騎兵指揮官としての能力は一級品である。

 また、張郃本人の野戦指揮官としての能力も一級品である。個人的な武勇で張郃を上回る将は現在の中華にも多数いるだろうが、指揮能力や部隊機動の速度や柔軟性においては現在の中華で確実に五本の指に入る。

 その能力は袁遺という戦争指導者の下では個人的な武勇に比べても、遥かに貴重な資質である。

 客観的に見れば、将軍の資格は十分にあるだろう。

 しかし繰り返すが、張郃たち三人には袁遺個人の部下という意識が強過ぎた。袁遺の―――過酷過ぎる―――評価基準こそが絶対であったのだ。

 そして何より、袁伯業は猜疑心とは無縁になれない男である。

 そんな主が謹慎中の間に自身の権力が拡大するような真似をすることを許すはずがない。袁遺の猜疑心は大きくなり、将来の禍になると三人は考えたのだ。

「我々には将軍という官位は重過ぎるのです」

 雛里にも、彼ら三人の気持ちが痛いほどわかった。それを叶える様に結局、三人には彼らの望み通りに金銭が与えられた。

 この論功行賞は賈駆にとっても、雛里にとっても最悪の形で幕を閉じることになる。

 賈駆は企んでいた董卓の威信を示すことなどできなかった。

 呂布、張遼、華雄はそれぞれ前将軍、右将軍、後将軍となったはいいが、将軍府を開くにあたって人材が不足していた。

 そして、その人材を賈駆は用意することができなかった。

 仕方がないと言えば仕方がない。

 賈駆と彼女の主である董卓は名士人脈がなく、また中原の目ぼしい人材は袁遺と曹操が反董卓連合解散後に、自身や部下―――主に、司馬懿と荀彧―――の人脈を総動員して、もうすでに搔き集めてしまった。旧袁紹軍の名士たちも似た様なものである。

 賈駆は曹操の旧臣の中で董卓・袁隗体制下の漢王朝に仕えることを良しとせず野に降った者たちの登用すら考えたが、既の所で留まった。

 彼らが素直に召喚に応じるかは別に、ひとつの問題があった。

 袁遺が一時的に中央官界から離れているのは曹操を過分な地位に推挙したというのが建前である。

 本来なら、曹操は漢王朝への叛乱の罪で頸を落とされているべきであるが、彼女の文才を利用したい袁遺が全てを有耶無耶にするために問題点をすり替えて、自分が謹慎するという荒業を繰り出したのだ。

 その結果、曹操は命は助かったが、名士間の評価は地に落ちた。

 それに引きずられて元曹操麾下の文官武将の評価も、かなり低いものになってしまったのだ。

 それなのに、元曹操麾下の人材を登用して、万が一にでもその者が何かを起こせば、わざわざ登用した賈駆、ひいては董卓の威信は間違いなく今以上に失墜する。さらに今回、袁遺が官位を返上して謹慎したのだ。登用した賈駆と董卓もそれに倣わなくてはいけないだろう。袁遺には孫策という最高の名誉挽回の機会があるが、賈駆たちにはそれがない。そうなれば、政治生命の終わりだ。

 そんなリスクを冒せるほど、今の賈駆には余裕がなかった。

 だが、任官したはいいが、将軍府が開けませんというのも話にならない。

 賈駆や董卓だけでなく、軍全体の威信に係わる。

 そのため、賈駆と論功行賞で対立した雛里が、賈駆を助けなければならなくなった。

 袁遺麾下の参謀たちをスタッフとして各将軍府へと派遣することにしたのだった。

 結果、この論功行賞は董卓の影響力の限界をまざまざと天下に見せつけられることになってしまった。

 そして雛里の方も、多くの人材を呂布たちの将軍府に派遣したために深刻な人手不足に陥ったのだった。

 人員を補給しようにも参謀の育成には時間がかかる。また、その教育には未来の知識を持つ袁遺が不可欠である。

 雛里は事態が自分の能力の限界を超えたことを悟った。

 彼女はすぐに袁隗を通じて謹慎中の袁遺へ秘密裏に指示を仰いだ。

 袁遺の下した決断は軍全体の縮小だった。

 陳蘭隊壊滅のために失った下級将校や下士官、そして今回の論功行賞のため足りなくなった参謀の手当てがつかないなら、曹操との戦争に動員した規模(約一一万)までの回復を諦めて、軍が袁遺の求める能力を発揮できる規模で再編することにしたのだった。

 その規模は八万前後、孫策を相手にするには些か頼りない数字である。

 賈駆と雛里、双方が妥協した結果、お互いの思惑は悉く外れ利益をもたらさないどころか、大きな傷を負うことになった。

 この論功行賞は、多くの人の将来に暗い影を落すことになる。

 

 

「あの猪が後将軍になれんなら、ホンモノの猪だって後将軍になれるぜ」

「おいッ」

 張郃が雷薄の軽口を嗜めた。

 猪とは華雄のことを指す。

 彼女は冀州遠征以降、袁遺の戦略や作戦どころかその人格さえも批評し続けている。

 そのことを董卓や賈駆がやめるように嗜めるが、華雄は態度を改めようとしない。

 それを董卓麾下である呂布や張遼でさえも白眼視しているが、やはり主を馬鹿にされている袁遺麾下の者たちは腹に据えかねる。だが、袁遺がそれに対して董卓に抗議をしないため、雷薄たちも口を慎んでいた。

 しかし、今回の論功行賞で賈駆が晒した醜態が雷薄に思わず我慢の限界を越えさせた。雷薄たちにもそのしわ寄せがきていた。

「言わせろよ」

 雷薄は座った眼で続けた。

「あれに後将軍の働きができると思うのか? ああッ! 後将軍の働きってのは、つまり伯業様がやってきたことだ。それと同じことがあの猪にできると思ってんのか?」

「伯業様を基準に考えれば、漢王朝が始まって以来でも後将軍になれるのはほんの一握りだ。今なら鎮軍大将軍(司馬懿)以外いないだろうさ。だから、伯業様と同じでなければ後将軍になれないというのは無茶な話だ」

 宥めるような口調で張郃は答えた。

 それに雷薄は噛みついた。

「無茶じゃねぇ。そうじゃなきゃならないように伯業様が変えちまったんだ。今の軍で無能が将軍を務められるか。作戦を理解して、戦況を正確に読んで、何かやらかしちまったら即刻それを修正し、参謀の手綱を握って、ときには独断で動くことを厭わない。それができない奴が将軍になったんだ。尻拭いをさせられるのは俺たちだぜ」

「それは……」

 張郃は言葉に詰まった。雷薄が全面的に正しいことを理解していたからだ。

 雷薄の言う通り、袁遺が多くのことを変えてしまった。

 袁伯業という未来の知識を持つ異物が軍の全権を握っている限り、ただ勇猛さを誇っているだけの武辺者は軍にとって無用どころか害になる場合があった。

 張郃の様子には雷薄はもう一度、陳蘭の墓に向かい合って言った。

「だから、こいつは良い命の懸け方をしたよ。無能の尻拭いのためじゃなくて、勝つために命を懸けたんだ」

 張郃は背を向ける雷薄に何の言葉もかけることができなかった。

 高覧は黙して何も語らなかった。

 彼は自分を軍の一機能として振舞える人物である。華雄の能力を云々するのはその機能外のことである、と弁えているようだった。

 雷薄がもう一度言った。

 

 

「良い命の懸け方だよ」

 




捕捉
 特になし。


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4~5

4 牽制艦隊戦略

 

 

 袁遺と曹操の衝突と殆んど同時に、孫策は長江を渡り江南の地へと侵攻した。

 孫策軍の勢いは炎が原野に燃え広がる様な凄まじいものであった。瞬く間に秣陵や故郷の呉を制圧する。

 この段階で袁曹の戦いは袁遺の勝利で終結した。僅か一七日間の戦いであったが、それと同じ期間で孫策が故郷周辺を制圧できたのは、彼女の軍の規律が整然としていたのが大きかった。

 孫策は略奪を一切禁じて、降伏する者は寛大に受け入れた。さらには従軍希望者がひとりでもいれば、その家の賦役を免除し、従軍を希望しない者には強制しなかったために、江南の人々は孫策のもとに雲の如く集まったのだった。

 孫策軍は会稽を制圧した後、動きを変えた。

 袁遺と曹操の戦いの勝者である袁遺に備えるために、寿春に末妹の孫尚香と宿将の黄蓋を派遣した。

 そして、残った孫策たちは呉や会稽の地方豪族の取り込みにかかった。呉なら朱氏、張氏、顧氏。会稽なら虞氏、魏氏、孔氏、賀氏たちである。

 この地方豪族の取り込み工作から江南の地の状況や特性が色濃く見えてくる。

 江南の地が気候条件から、そこに発生する集団が多分に分散的かつ割拠的な性格を持つことや、開発が進んでいないことは何度か触れてきた。

 このニューフロンティアを開発するために地方豪族は強力なリーダーシップを持つ人物を必要としていた。

 江南の開発とは、先住民にあたる山越との戦いでもあった。山越は春秋戦国時代の越の国の人々の末裔というのが定説である。

 江南の地に漢民族が流入し開発が進むと、この越族の生活境界線を侵すようになり、争いが起きてきた。

 この戦いは地方豪族にとっては重要なことであった。

 土地を開発して自分の生産力を上げるだけではなく、戦いに勝って山越族を農奴や部曲(私兵)としたのだ。

 そのため、古来より中華では文官と武官なら文官の方が貴ばれるのに対して、この時代の江南の地では人狩り戦争ができる武官の方が強い力を持ったのだった。

 事実として、華北の地方豪族より江南の地方豪族の方が割拠的になりやすいという地理的な特性を抜きにしても領主化が進んでいた。

 つまり、孫策の軍事的才能を地方豪族たちは求めたのであった。

 かくて、孫策の武力と呉、会稽の地方豪族とが結びついて、孫策を頭とする豪族連合に近い軍事政権が誕生したのだった。

 そして、この孫策政権には中央の混乱を避けて江南の地に移住してきた江北の名士たちがブレーンとして参加した。具体的な名を挙げるなら、張昭、張紘たちである。

 孫策は足場を固めることに成功した。

 だが、その足場から一歩でも外に出れば、そこは袁遺と劉表が作った包囲網の中であった。

 

 

 袁紹の滅亡から袁曹の開戦まで、曹操が袁遺との戦いに備えるため孫策と秘密裏に手を握りながらも将来を見越して接近しすぎなかったように、袁遺もまた曹操との対決に備えながら間違いなく起こるであろう孫策との対決にも備えていた。

 改めて触れるが、複数の敵に包囲された状態で主導権を握ろうとする行動を内戦作戦、逆に敵を包囲した状態で主導権を握ろうとする行動を外線作戦という。

 今回の場合、袁遺と劉表は外線側であり、孫策は内戦側である。

 そして、外線側にとって重要なのは敵の背後となる対角線上にも自勢力を配置することである。

 袁遺もその基本に沿って、孫策を取り囲んだのであった。

 孫策が本拠地を移した呉郡の長江を挟んだ対岸の広陵には張超(袁遺の推挙人の張超とは同姓同名の別人)がいる。さらに、その背後である下邳には張超の姉の張邈がいた。

 広陵に親袁遺勢力がいることは、孫策にとって本拠地の外廓防衛地帯がなく喉元に刃を突き付けられている様なものだ。

 ただし、広陵の戦力自体はそれほど数の多いものではない。

 一応、水軍もあるが、その数は大型船四隻と小型船が二六隻の合計三〇隻である。

 だが、この三〇隻は戦略上重要な戦力であった。特にこの軍船が配置されている場所(・・・・・・・・・・・・・・)が戦略の妙であった。

 この揚州の北の対角線である南には山越族、そして、交趾の士燮がいる。

 劉表が山越族の中で最大の部族や士燮に朝貢を行わせ、冊封体制に組み込み、対孫策の一角とした。

 冊封体制とは天子と周辺部族が名目上の君臣関係を結んで行う外交のことである。

 そうしておいて、劉表は山越族に武器や食料を供給し、彼らを支援した。

 その劉表は江夏に六万の軍と大小合わせて合計四五〇隻の軍船を派遣した。

 この六万の兵と四五〇隻は劉表にとって、かなり余裕のある数字であった。劉表には後、五万の軍と三〇〇隻の軍船、さらには民間の商船約二五〇隻(戦闘任務ではなく主に輸送任務)の補充兵力があった。

 水軍(海軍)というものは陸軍以上に、増強が難しい。水上戦力というのは商業力と産業力に依存するものであり、たとえ軍事的に必要であっても、自国の経済力で賄える規模以上の水上戦力は持てないのである。一〇〇〇隻を超える水軍力は荊州の経済力の強さを表していた。

 その水軍は江夏の防御だけではなく、揚州廬江郡への侵攻を孫策に匂わせる動きさえ行った。

 もし廬江が劉表の手に落ちれば、劉表が九江郡に対して圧力をかけることができるようになり、寿春の袁遺への橋頭堡という価値が落ちる。孫策からすれば無視できない。

 西の劉表の対角線上の東の親袁遺勢力は海上の勢力であった。

 袁遺と曹操の戦いの開戦前後、袁遺の従妹であり青州東莱郡の太守である何夔が、長広県で海賊行為を行っていた管承とその一味を説き伏せ帰順させた。

 袁遺はその管承に揚州の沿岸で海賊行為を行わせたのであった。

 揚州の沿岸の地形や潮の流れ、水深などは張邈や劉表の細作が宣伝工作を隠れ蓑にして、あらかじめ調査していた。

 管承は呉郡の―――現在の中国では埋め立てられ、上海市となっている―――海域で民間の漁船や商船、海岸付近の村々を襲った。

 そして、管承は呉の軍船に対しては、その姿を認めるなり徐州、青州方面へと逃走した。

 これらは全て孫策が軍を一か所に集中させないためのものだった。

 孫策は自分の利益のためにも、また地方豪族の求めに応じるためにも南へと拡張しなければならないが、長江の向こう側の寿春にも現在、兗州にいる司馬懿勢に備えるために兵を配置しなければならない。水軍も六万の兵と四五〇隻の軍船という大軍を動員した劉表に備えるのみならず、管承率いる海賊や本拠地の対岸すぐに存在する張超に備えるため分断されている。

 さらに、袁遺はこれまでの戦争および外交の成果で、その外縁に孫策の味方になりそうな勢力を殆ど叩き潰していた。

 北の鮮卑や烏丸、匈奴、遼東の公孫康は司馬懿の北方遠征で軒並み叩かれ、残った部族も劉虞が抑えている。

 西に目を向けても涼州の馬騰は漢王朝に叛いた状態になっている孫策を明確に非難し、逆に敵対関係にある。

 最後に益州の劉備であるが、これは少し例外である。孫策は使者を劉備の元へと送って接触を図っていたが、劉備は董卓・袁隗の方に接近した。だからと言って、劉備は孫策とは敵対しなかった。使者の遣り取りは続いている。

 しかし、劉備はその遣り取りで常に孫策に自制を訴え続けた。曰く、戦いではなく話し合いで解決しよう、と。

 事実として、劉備は話し合い―――外交で袁隗・董卓陣営と一旦の折り合いをつけた。

 孫策はそれに対して劉備に漢王朝との仲介を頼んだが、その動きは劉備までも敵に回すわけにはいかないための形だけの要請であった。

 つまり、袁遺は戦略的優位を作り上げたのだった。

 

 

 戦略的に絶望的な状況であっても、孫策と周瑜はそれでも戦争での問題解決を考えていた。

 はっきり言ってしまえば、彼女たちは孫策の手による天下の統一を半ば諦めていた。袁遺と曹操の戦いで袁遺が勝った時点で、孫策の天下の目はほぼなくなったのである。もし曹操が勝っていれば、まとまりかけていた天下が再び乱れ、孫策にも天下の目が出ただろうが、袁遺が勝ち、反董卓連合直後の様な多数の群雄が割拠することなく孫策は孤立してしまった。

 孫策は江南の地で満足することを選んだのだが、そのためにはいくつかの譲歩を袁隗・董卓側から引き出さなければならなかった。

 まずは揚州の安全のために、張超がいる広陵は絶対に確保しなければならない。また、広陵の確保は長江のみならず淮水も防御線として利用することが可能になるため水軍力の強化にもつながる。

 さらには、荊州の江夏および長沙を手に入れて、そこを外廓防衛地帯にしたかった。

 また揚州の豪族を手懐けるために、いくつかの特権を漢王朝に正式に認めさせる必要があった。

 そのひとつが現在、劉表が持つ南蛮・山越政策の白紙委任状に等しい鎮南将軍の位である。

 揚州の豪族が孫策に求めるのは南への拡張であり、天下ではない。山越に対して人狩り戦争を行うには、山越が冊封体制に組み込まれていることは不都合だった。劉表が持つ鎮南将軍の位を手に入れて、孫策が対山越の全権を手に入れるしかなかった。

 そして、揚州各地の人事権も孫策には必要であった。

 江南豪族の領主化を表すものとして、孫策は取り込んだ地方豪族に対して『奉邑』を与えていた。

 ひとつ、あるいは複数の県が、ある地方豪族の『奉邑』になると、その豪族は県の上級役人を自由に指名でき、そこから上がる税収も自由に使うことができたのである。

 まさしく領主化が極まった様な制度である。

 この『奉邑』制度を続けるにしろ、さらに推し進めて屯田制に移行するにしても、江南の地の領主化傾向を考えれば人事権、任命権が必要であったし、さらに言えば、現在の漢王朝の税制にも完全に従うことができなかった。

 だが、譲歩を引き出すためには問題が多すぎた。

 張姉妹や劉表が納得するはずがない。特に劉表は現在の疲弊した漢王朝の経済を支えているのである。彼を無視してまで、江夏と長沙、そして鎮南将軍の位を取り上げることは袁隗・董卓にもできないだろう。

 それを表すかのように、孫策が寿春を袁術から奪って以来続いている袁隗との交渉は難航していた。孫策が江南の地を手に入れても、相変わらず孫策には呉郡太守の地位を用意し、主だった配下にもそれなりの地位を与える、と袁隗はまったく譲歩しないのであった。

 孫策側も、寿春と指呼の間である袁隗、袁遺の故郷である汝南を襲うと匂わせて脅しかけてみたが、それでも袁隗は袁家の地が荒らされれば必ず孫家の地に報復すると強気の態度を崩さなかった。

 この問題を解決するには、やはり戦争しかないと、孫策と周瑜は結論付けた。戦争を仕掛けて、優位な状況で―――敵にこちらの条件を呑ませて―――講和する。それ以外ないと。

 だが、上記のように戦略的に孫策は不利である。戦争という手段もまた問題が多い困難な道であった。

 

 

「張超の軍船が高郵県にいる……?」

 周瑜がポツリと呟いた。

 しばらくの間、彼女は考え込むと、やにわに顔色を変えた。その様子は、どう見ても剣呑なものだった。

 呉の城の一室の中央には巨大な机が置かれ、その上には揚州を中心とした地図があった。地図には各軍を表す駒が配置され、地図の周りにはいくつもの書簡が積まれていた。

 孫策軍の参謀室の様なものである。

 その部屋には周瑜と孫策だけがいた。

 戦争を決意しながらも、そのことを知るのは孫策軍の中で孫策と周瑜のみであった。

 現在、孫策にとって最大の障害である袁遺は謹慎の身である。そのことは孫策の耳にも入っていた。

 だが、孫策が攻勢に出れば、それを大義名分として袁遺の謹慎が解かれ討伐の軍を起こすことが目に見えていた。

 だから、現在は袁遺という優秀な指揮官がいない状況で、一撃を加えることができる絶好の機会である。その一撃の予兆を敵に悟らせないため、戦争の決意と時期と場所はぎりぎりまで味方にさえも秘匿にしておく必要があった。

 そして、その一撃は絶対に失敗の許されないものであった。

 失敗し、どこかの方面が不利な状況で謹慎を解かれた袁遺と戦争になれば、その失敗が孫策を破滅させる傷になりかねない。

 この先制攻撃を行う場所は戦争の帰趨さえも決めかねない重要な選択であった。

 周瑜は、その一撃を広陵へと加えるつもりでいた。喉元に突き付けられている刃を振り払うためであった。

 そのために、周瑜は広陵の張超軍とその背後の下邳の張邈軍について細作を送り調べた。

 そして、張超軍の軍船が高郵にいることを掴んだのだった。

 高郵県は広陵郡の郡治所がある広陵県の北に位置する県である。ふたつの県は中淩水によってつながっており、中淩水は長江へと流れ込む。

「……確かに、おかしなとこにいるけど、それがどうしたの?」

 周瑜の様子に孫策が怪訝そうに尋ねる。

「…………予定を変更する必要があるかもしれないわ」

 答えた周瑜の声は僅かに震えていた。

「高郵に軍船がいることが敵の失策ではない限り、こちらは上陸作戦を取ることができないかもしれない」

「どういうこと?」

 孫策の問いを受けて、周瑜は地図を示した。

「張超の軍船が高郵にいるのは、船戦を避けるためよ。敵はこちらが錨を下ろして、兵を上陸させている船が自由に動けない状況で攻撃を仕掛けると思うわ」

 孫策の水軍と張超の水軍では、水兵の力量は圧倒的に孫策軍の方が上である。

 だが、錨を下ろし自由に動けない状況では、より強い艦隊であっても、より弱い艦隊に慈悲を請わざるを得ないのだった。

 もちろん、先に張超の軍船を艦隊決戦で壊滅させてから広陵に上陸するということもできない。広陵を無視して徐州の内側へと遡上し続けるのは、あまりにも危険な行為であった。

 また、孫策軍は張超の軍船三〇隻を上回る軍船を動員できるが、やはり江夏の劉表軍―――六万の兵と四五〇隻の軍船―――に備えるために軍を割かざるを得ず、高郵に敵船を封じ込めつつ、広陵を陥落させるために十分な兵を上陸させる軍船の動員はできなかった。

「敵の失策って可能性は?」

 孫策は尋ねたが、その声には諧謔的な響きがあった。

「ないわね。高郵に軍船を配置したのは、間違いなく袁遺の策よ」

 周瑜は断定した。

「この戦略的に優位を作った状況で、相手の戦術的意義を無意味にしてくる。これはまさしく袁遺の手管よ」

 彼女は状況と戦略の節々に袁遺の癖の様なものを感じていた。

 そして、それは事実だった。実際には実力を発揮しないが戦略上無視できない牽制艦隊がある限り、当の艦隊が如何に弱体でも孫策軍は広陵上陸を諦めざるを得ないという着想はイギリスのトリントン伯が一六九〇年に侵攻してきたフランスにビーチー岬海戦で敗れた後に行った作戦や、同じくイギリスのケンペンフェルトが一七七九年にイギリス侵攻を見せていたフランス・スペイン連合艦隊に対して行った作戦から袁遺は得ていた。

 この牽制艦隊戦略は孫策軍の戦略に大きな影響を与えた。孫策軍の武器である水軍が戦略上ではまったく意味をなさなくなったのだ。

「じゃあ、広陵じゃなくて、どこを攻めることにする?」

 孫策が尋ねた。

「……………………寿春から豫州へと侵攻するしかないわね」

 周瑜はたっぷりと考え込んでから答えた。

「汝南に?」

 孫策が言った。

 汝南は袁隗、袁遺の故郷である。

 名士(そして後の士大夫)にとって、家の祭祀を保つことこそが最重要である。

 だから、故郷が焼かれる、特に先祖の墓を荒らされることは名士間での評判に大きな傷をつけることになる。

 そのため、孫策は汝南に侵攻することで―――曹操との戦争に見られるように―――決戦を避けてくるだろう袁遺に決戦を強要するのかと尋ねたのであった。

「汝南も、もちろん選択肢のひとつだけど、本命は潁陰、許、臨潁あたりよ」

 だが、周瑜は袁遺が決戦に乗ってこないことも見据えていた。

 袁遺は反董卓連合との戦いで連合に勝つために宣伝工作で袁紹を逆族にして、家名が傷つくのも恐れなかった男である。

 今回も故郷を見捨てるとも考えられた。

「潁陰、許、臨潁あたりを抑えれば、袁隗・董卓陣営と荊州を分断することができる。現在、袁隗・董卓陣営は荊州の経済力に財政面で大きく依存している状況にあるから、分断すればむこうは干上がり、戦を続けることが不可能になる。そこで講和を持ちかけるわ」

 いかな袁遺とて軍資がなくては戦争は続けられない。

 さらに、潁陰、許、臨潁への侵攻は決戦を避けてくる袁遺軍に決戦を強要しようとして失敗した曹操軍の二の舞にならずに済む作戦でもあった。

「ただ、問題もいくつかあるわ。潁陰、許、臨潁あたりまで戦線が伸びれば、その分、補給に苦労することになる。それに袁遺軍八万と豫州軍を相手にすることを考えれば、相当無理な動員をしなければならない」

 孫策軍の動員とは、地方豪族が部曲を率いて従軍するということである。

 しかし地方豪族にとって、この孫策と袁遺の戦争に大きな旨みはない。繰り返しになるが、彼らにとって重要なのは南への拡張である。そのため決して士気が高いとは言えない。

「どのくらい?」

「……最低でも一六万。袁遺との戦いに一二万を投入して、残りの四万は劉表と張超、張邈の備えに」

「それは相当な無理ね」

 一六万。その数は孫策の軍と揚州の地方豪族が抱える私兵、成人男性を急遽徴兵して、やっと到達する数字である。

 成人男性の徴兵は経済を疲弊させる。彼らは社会で最も多くの仕事をこなしている年齢層である。はっきり言って、後先考えない根こそぎの動員が必要であった。

「それに、急遽かき集めるわけだから、中には訓練が十分ではない兵も出てくるわ」

「それは問題ね」

 孫策が言った。

 だが、言葉とは裏腹にその表情には覇気があった。どころか楽しげでさえある。戦意が削がれている様子はない。

「動員にはどれくらいかかるかしら?」

「ひと月で必ず」

 戦略的に不利な孫策陣営にとって時間が経てば事態が好転するということはない。時間は彼女たちの味方ではないのだ。最悪なことは先制攻撃が行えずに袁遺の謹慎が解かれ、あの常勝将軍が万全の状態で揚州へと攻め入って来ることである。行動へ移すならば、むしろ事態がさらに悪いものになる前に移らなければならなかった。

 

 

5 荊州学

 

 

 孫策陣営が盛んに動き回っているのに対して、その孫策陣営の消滅をこの天下で最も願っている陣営は孫策の輪をかけて動き回っていた。

 その陣営とは劉表陣営であり、その動きは孫策陣営が武力に訴え出ようとするのとは正反対の動きであった。

 

 

 遠く秦嶺山脈より源を發した沔水(べんすい)は襄陽の県城の西北でまず檀溪水を合わせる。沔水はさらに東流し、樊城の南を通過し、続いて大きく南に曲がる。この沔水が彎曲するときに流れはいちじるしく速度を減じ、土砂が堆積され、ここに三つの砂洲が形成されるのである。この場所を宛口といい、北方より淯水(いくすい)が流れ込む。淯水を遡れば現在、司馬懿の姉の司馬朗が県令を務めている宛へと至る。宛口とは宛に至る入り口という意味である。

 沔水は宛口を過ぎても南流し、白沙曲を過ぎる。『曲』とは河流が屈曲する地形のことである。曲で水速が衰えるので土砂が堆積し、砂洲ができるのである。この砂洲は魚梁洲と呼ばれていた。

 その魚梁洲を目指して一艘の小舟が沔水を進んでいた。

 小舟には櫂を取る童子風の少年と、その主であろう妙齢の女性が乗っていた。

 魚梁洲は広大である。

 荊州襄陽の名士であり人物評の大家である鳳徳公の庵と、さらには小さな畑があった。鳳徳公は自らが田土を耕し、琴を爪弾き、書を読み、悠々と隠遁の日々を過ごしていた。

 この魚梁洲の西の対岸には鳳氏の本拠があり、東の対岸にも高名な人物鑑定家が居を構えていた。

 その人物鑑定家こそ小舟に乗る女性であり、姓は司馬、名を徽。字は徳操。豫州潁川郡の出身であるが、戦乱を避けて荊州にやって来た。そこで鳳徳公の支援を受けて、水鏡と号して私塾を開いた。この私塾で雛里と諸葛孔明は、かつて机を並べていた。

 小舟が魚梁洲へと着いたとき、鳳徳公は小さな畑で雑草を毟っていた。司馬徽はその姿をすぐにみとめた。

 鳳徳公もすぐに司馬徽に気付き、目を細め、手を軽く上げた。

 それに司馬徽は礼を取った。彼女は鳳徳公に対して姉に仕えるが如く接していた。

 鳳徳公は司馬徽の十歳年上であったが、彼女から実際に受ける印象はもっと老成したものだった。

 彼女は隠士である。欲や執着といった魂の脂身が抜けきって、己を大気と同質にしたかの様であった。事実、州牧の劉表に執拗な辟召を受けたが、決して承服していなかった。

 劉表の辟召を断ったのは司馬徽も同じであったが、彼女は姉事する鳳徳公ほど浮世の執着を捨てていなかった。私塾を開いたのが、その証拠である。自らの理想が実現しないとき、後進の育成に乗り出すことは、儒教の始祖・孔子以来の儒家の伝統である。

 今回の魚梁洲訪問もこの私塾を開いたからこそ、起きたことだった。

「実は州牧殿から、友好のための使者たちを益州に派遣するが、その一団に加わって欲しいという親書を戴きまして。それで、その一団に加わろうかと思い。出立前の挨拶をと、本日は立ち寄らせてもらいました」

 司馬徽が言った。

 現在、司馬徽の教え子である諸葛亮が益州の劉備の下にいる。

 彼女は劉備からの信頼も厚く、軍師として益州の政治や軍事に大きな権限を持っている。その諸葛亮と縁のある司馬徽を使者たちの一団に加えて、あわよくば誼を通じようと劉表は考えていた。孫策と劉備が手を結ばないようにするためである。また、将来的にも劉備と誼を通じておくことはいろいろと役に立つ。

 そして、司馬徽自身もそのことには気が付いていた。

 だがしかし、たとえ気付いていても司馬徽は劉表の企み通りの行動をするつもりであった。

 何故なら、それこそが最も荊州の平和に寄与するからである。

 この今まで招聘を断っておきながら、突如、仕官はしないものの劉表の意に沿い、使者のひとりとして益州へと赴こうとする姿勢は彼女が修め、そして門下たちに教授してきた荊州学という学問に基づいての行動であった。

 当然、この時代の学問であるため荊州学とは儒学の一種である。

 この時代、儒学に大きな変化があったことは今までに何度か触れてきたが、改めて書く。

 鄭玄らの在野の研修家たちが中心となり、経典解釈を以っての綜合的、体系的な理解を目指し始めた。特に『周礼』『儀礼』『礼記』の三礼(三つの内で最も重要視されたのは『周礼』)により諸経を体系化したのであった。

 対して、荊州学は戦乱によって誕生した儒学である。

 戦乱を避け、保身を主眼に置いて荊州へと流寓してきた者が主であったために様々な学問を修めた名士、学士たちが流入してきた。司馬徽もそのひとりである。

 彼ら他所から流れてきた儒家と劉表に招かれて荊州での学問振興に尽力した宋忠、さらには鳳徳公(龐徳公)のような地元有力者が自由に接触し合う中で、その総合化、統一化が行われ、新しい理念に基づく学術活動の末に荊州学は産声を上げたのであった。

 その大きな特徴はふたつ。

 ひとつは老子の思想を取り入れたことである。

 もうひとつは、鄭玄が三礼を中心に据えたのに対して、荊州学は『春秋左氏伝』を中心に据え、鄭玄が讖緯思想も研究したのに対して、それを迷信だと否定し論理的かつ合理的思想を展開したことである。

 それぞれが中心においた三礼と『春秋左氏伝』を比較してみると、両者が何を重視したかが見えてくる。

 『周礼』は周王朝の政治制度、特に官位制度について記されたものであり、戦国期以降の儒者が理想とする制度としてきたため、後世で改革の後ろ盾として、とかく引用されてきた。

 『儀礼』は周の階級制度は王・諸侯・卿・大夫・士であるが、その中で士に関する風習(特に仕来り、つまりは礼儀)について書かれたものである。

 『礼記』は周から漢にかけての儒者が政治・学術・習俗・倫理などあらゆる分野に及ぶ記録の集積であるが、そもそも礼記とは、礼に関する注記という意味であり、礼が中心にある。

 つまりは『礼』を以って、秩序化を試みたのである。

 対して、『春秋左氏伝』は紀元前七〇〇年頃から約二五〇年間の魯国の歴史について記されたものである。

 朱子学の祖である朱熹は九経の『春秋左氏伝』『春秋公羊伝』『春秋穀梁伝』の三つを「左伝は史学、公・穀は経学」と述べた。

 史学とは読んで字の如く歴史の学問のことである。経学とは、経書には聖人の心が込められていると信じ、それをとらえることを最終目標とする学問である。つまり朱熹は『春秋左氏伝』を歴史書と評価したのだ。

 当然、約一〇〇〇年後の南宋の人物である朱熹の評価など、当時の荊州の知識人たちは知る由もないが、歴史書だからこそ荊州学は鄭玄のそれとは違い論理的かつ合理的思想であり、乱世の学問なのである。

 荊州学派は戦乱の春秋時代を書いた『春秋左氏伝』には乱世を治める具体的な規範を多く含んでいると確信し、『礼』ではなく人間中心の合理的な経典解釈を行ったのである。

 これは余談になるが、『春秋左氏伝』は古文にしか見られない。

 古文と今文については以前に語ったが、古文は孔子の旧居の壁などから出てきたとされる秦代以前のテキストであり、今文とは漢になって儒教を復活させようとしたとき、その書物は始皇帝の焚書坑儒により焼かれたため経典を暗記していた学者たちに書かせたテキストである。

 では、荊州学は古文派の学問であるかといえば、そうではない。

 宋忠と共に中心的役割を果たした綦毋君(きぶくん)がいる。彼は徐州琅邪郡の出身で春秋公羊伝に精通した今文派の学者である。広陵太守の張超に仕えている趙昱に公羊学を教えている。

 つまり、荊州学とは古文派と今文派の対立を越えて、乱世を終わらせようとした学問である。

 司馬徽の行動も、この行動規則に沿っている。今、荊州と益州が接近することが乱世の終結に大きく関わると彼女は考えたからこそ、使者の一団に加わろうとしていた。

 それに対して、鳳徳公はあるかないかの微笑を浮かべて言った。

「あら、それは気を付けて。蜀といえば難所で有名ですから」

 隠者とはいえ、彼女もまた荊州学の成立に関わったひとりである。司馬徽の行動の変化の意味を十分に理解していた。

 そして、益州にいる諸葛亮もまた荊州学を修めた人間である。

 事実、司馬徽は益州で諸葛亮に袁遺と孫策の戦いが袁遺勝利に終わった場合のプランを聞かされることとなる。

「ところで、何か雛里からの便りはありますか?」

 司馬徽は話題を変えた。荊州の平和という点において、諸葛亮よりも重要な立場にいる元教え子について尋ねた。

「本宅に、手紙は欠かさず送っているようだけど、私は見ないようにしているのよ」

 鳳徳公は曖昧な表情を浮かべて答えた。

 雛里と鳳徳公の関係は決して悪いものではないし、鳳家は荊州の中では劉表派というより袁遺派、ひいては現在の漢王朝派ということになる。

 だが、鳳徳公個人は自身を隠者として、あまりにも陰謀渦巻く中央官界には距離を置いていた。

「そうですか……」

 そのことを理解している司馬徽は、どこか寂しそうにしながら、それ以上、尋ねることをやめた。

 しかし、彼女の中にはひとつの確信があった。雛里も諸葛亮と同様に荊州学を修めた人間であり、この乱世を終わらせるために学んだことを使っているだろうという確信が。

 

 

 袁曹の戦いの勝者が袁遺であったことは孫策陣営にとって最悪の結果であったのに対し、劉表陣営にとっては最良の結果であった。

 劉表は南の経済力と荊州で培われた学術を以って、天下を操ろうとしていた。

 その手法は曹操が勝利者であった場合、何の意味もなさなかっただろう。曹操―――華琳には、敵対勢力は武力で以って押しつぶす以外の選択肢は基本的にない。

 だが、勝者は袁遺である。そして、袁遺と渡り合うにはその手段は有効であった。

 袁遺は少なくとも今の段階では名士からの支持を必要としていた。そして、この荊州学を作り上げたのは名士たちである。何の大義名分もなく荊州を攻めれば、名士たちから支持は得られない。

 劉表とその首脳陣の一部は、これまでの袁遺の動きからその事実に気付いていた。

 そして、洛陽の情勢も劉表に味方した。

 雛里と賈駆に生じた、論功行賞に端を発した対立と妥協の末に、洛陽ではともかく人材が足りなかった。

 劉表はその空白にこの荊州学を生み、学んだ名士たちを送り込んだ。

 例えば、杜畿(とき)もそのひとりである。

 杜畿、字は伯侯。司隸京兆尹杜陵県の出身である。孝廉に推挙され、さらに漢中の丞となったが、天下が乱れると官を捨てて荊州に移り住んだ。

 杜畿は洛陽に戻ると河東太守に任命され、単身、河東郡へと赴き、そこで善政を行う。

 彼は河東郡の情勢が落ち着くと学校を開き、自らが教鞭をとり住民の教化に努めた。

 このとき、河東出身の楽詳という学者が杜畿によってとりたてられるのだが、楽詳は後に儒宗(儒学の大家)と評されるまでになる。

 杜畿の他にも邯鄲淳(かんたんじゅん)隗禧(かいき)なども中央官界に戻り、名を成していく。

 こうして荊州学派は中央官界でも無視できない存在になっていくのであった。

 ただし、劉表にとって当面の脅威は孫策である。

 だから、劉表は中央官界へと向かう名士や帰郷する名士たちに孫策の脅威を洛陽や各地の儒者に伝えてくれるように頼んだ。反孫策のキャンペーンである。

 彼らはそれを引き受けた。事実として、荊州の名士たちの殆どは孫策に対して全く好感を抱いていなかった。戦乱を避けて荊州へと移ってきたが、袁術、そして孫策はその荊州にさえ乱を起こし、再び自身の生活を壊す可能性のある存在だった。

 と同時に、劉表は秘密裏に袁遺の官界復帰を袁隗や董卓に訴え出た。

 これは袁遺に速やかに孫策を討つように依頼しているのと同義である。

 現在の南に頼った経済状況では劉表の訴えを無視するどころか、まだ時期ではないと誤魔化すことさえ簡単ではない。

 袁隗や董卓たちも決断を迫られていた。

 

 

 次の戦争の跫はもうすでに各陣営に響いていた。

 




捕捉

・ビーチー岬海戦
 一六九〇年、フランスがイギリス侵攻を試み、トゥールヴィル伯が率いる七五隻の艦隊とイギリス・オランダ連合艦隊五六隻がイギリス南部の英仏海峡に突出したビーチ岬で激突した。
 イギリス海軍を率いるトリントン伯ハーバート提督は当初、この海戦には反対していたが、当時ウィリアム三世とイギリスを共同統治していたメアリ女王の勝算を問わずに直ちにフランス艦隊と会戦せよ、との命令に従い、戦った。だが、フランス軍艦を一隻も沈められずに、一五隻の損失を出し、味方のオランダ艦隊を見捨ててテムズ川河口へと撤退した。
 しかし、勝者のフランス艦隊はイギリス侵攻を諦め、フランスへと帰港した。
 味方を見捨てての撤退は問題視され、トリントン伯は軍法会議にかけられる。
 トリントン伯は軍法会議でこう弁明した。
 曰く、実際に実力を発揮しないが戦略上無視できない牽制艦隊が存在する限り、フランスはあえて上陸を試みないであろう。
 これは正しい考えであり、正しい判断であった。実際、フランス側は風下の海岸に錨を下ろして上陸作戦を展開している最中に、イギリス艦隊に攻撃されることを恐れて作戦を断念したのである。
 トリントン伯は無罪となったが、二度と艦隊を率いることはなかった。

・イギリスのケンペンフェルトが一七七九年にイギリス侵攻を見せていたフランス・スペイン連合艦隊に対して行った作戦
 このとき、フランスはイギリス戦艦より巨大で高速な戦艦八〇隻を揃え、スペイン艦隊はフランス船ほど高性能ではなかったが、それでも六〇隻の主力艦を用意することができた。
 それに対してイギリスのリチャード・ケンペンフェルトはフランス・スペイン連合艦隊との直接対決を行わない牽制艦隊戦略を採用し、西方海上に牽制艦隊を備えた。
 フランスとスペインはこれに対して慎重になり過ぎたことや意見の統一ができなかったためにイギリス侵攻を断念した。

 地図を作りました。この話のネタバレがあります。また大まかなイメージを掴むためのもので正確なものではいことを御理解ください。


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6~7

6 寓話的帰結

 

 

 袁遺と曹操の戦争終結後、兗州に駐屯することになった司馬懿軍の駐屯地は山陽郡昌邑県であった。

 山陽郡昌邑県が曹操以前の州治所であったということもあるが、位置的に豫州と徐州の両方と連携が取りやすいという理由からであった。

 袁遺は、この段階では戦略的の比重を水軍力に置いていた。強力なランドパワーを持つ国家と強力なシーパワーを持つ国家の戦争において、いかに相手が得意とする分野で賢明に戦うかが重要であることを彼は知っていたし、その賢明な戦い方こそが牽制艦隊戦略である。

 そのため、徐州の張姉妹との連携のために司馬懿を兗州へと派遣したのだった。

 これは些か余談となるが、袁遺が司馬懿を豫州ではなく兗州へと駐屯させたことに、彼の戦略観が如実に表れていた。

 もし袁遺と曹操の戦争の勝者が曹操であった場合、彼女は豫州へと軍を駐屯させていただろうし、戦争終結からかなり早い段階で揚州への侵攻を企図していただろう。

 この袁遺と曹操の違いは彼らの戦争観の違いと兵の質の差であった。

 正面戦闘において無類の強さを誇った曹操軍ならば、豫州に駐屯して孫策軍と開戦しても、問題なく決戦を行えただろう。

 だが、袁遺軍は違った。袁遺は孫策軍と真正面から決戦を行って勝てると思っていない。どころか決戦自体を無意味なものとさえ考えている。

 だから、陸上の防御作戦においては豫州全体を戦域とする運動戦を彼は想定しており、そのために孫策軍と距離を取ることで司馬懿勢が自由に動き回る余裕を与えたのである。

 そして、司馬懿に与えられた自由は殆どフリーハンドに近かった。

 彼は都督兗州諸軍事として兗州の軍事どころか民政も掌握する立場であり、皇帝から節と鉞を賜り、執行権と独断行動権も持っている。また、才能と声望、今までの実績を加味すれば袁遺不在の状況では徐州の張姉妹や豫州牧である周昕にも影響力を発揮できるだろう。となると、自身の三万五〇〇〇の軍に加え、豫州九万と張邈の軍八〇〇〇、張超軍九〇〇〇(水軍を合わせた数)と、主である袁遺さえも指揮したことのない大軍を操ることができる。

 だが、司馬懿からすれば、その大軍の指揮権を有していることは白刃を素手で握っている様な心境と同義であった。何かを間違えれば指が飛び、剣は地面へと落ちる。

 影響力の行使、その匙加減を間違えると司馬懿は望まないにもかかわらず、袁遺の持つ君主権力への挑戦者としての立場に名士たちから押しやられる可能性があった。

 袁伯業という主は、そうなった部下を決して許すことはない。

 しかし、対応を間違えて対孫策戦線を致命的な戦局にしてしまえば、それはそれで袁遺に許されないだろう。

 司馬懿は軍団指揮官として望み得る限り最高の自由を手にしたが、素直に喜んでいられる立場になかった。

 ここが袁伯業の仕えにくい所であったし、張郃たちが将軍職を断った理由でもある。袁遺は必要な力を司馬懿に与えたが、その力の使い方を少しでも間違えることを許さない。

 そのことを司馬懿が袁遺の臣下の中で最も理解していた。それを理解できない者に袁遺はここまでの権限を与えない。

 もっとも、そのために司馬懿は兗州に来てから心休まる日々はなかった。

 そんな司馬懿にとって、現在は上記の通り袁遺軍全体の戦略は水軍力に比重を置いたものであり、その戦略は功を奏しているため、独断で袁遺の戦略を大きく変えることがない状況は幸運なことであった。

 だが戦況以外のことで、司馬懿個人にはあまりにも大き過ぎる出来事が起こった。

 

 

 来客の報せを司馬懿が受け取ったのは、昌邑県の州治所の執務室であった。彼は豫州牧である周昕に派遣する参謀への指示をまとめているところであった。

 周昕には汝南郡を中心に軍を展開するよう指示する予定であり、その防衛計画は参謀と共に作り上げた。

 汝南郡は主である袁遺の故郷である。そこを焼かれると、袁遺の評判が台無しになる可能性があった。先祖代々の祭祀を守ることが、名士としての最重要課題であるからだ。袁遺の影響力が小さくなれば、孫策との戦いが不利となる可能性がある。

 司馬懿は行っていた軍務を中断して、自らがその客を出迎えた。客とは面識があった。

 客は司馬懿自身が出迎えにやって来たことに驚いたような顔をし、慌てて跪こうとしたが、司馬懿が素早くそれを制した。

「長文殿、どうか、そう畏まらずに」

 温雅な声と表情で、司馬懿は言った。

「しかし、貴殿は今や鎮軍大将軍・都督兗州諸軍事・兗州牧。礼を守ることが即ち秩序を守ること。貴殿がかつての友誼をお忘れでなかっただけで、十分でございます」

 長文と呼ばれた客は、それでも畏まった態度を崩さなかった。

 だが、司馬懿も譲らなかった。彼は茶を用意することを命じつつ、自ら手を引いて、客を自分の執務室へと案内した。

 司馬懿を訪ねてきた客は陳羣(ちんぐん)、字は長文である。豫州潁川郡の出身である。

 陳家は名家である。特に陳羣の祖父である陳寔(ちんしょく)は清流派人士であり、潁川名士からも深い尊敬を受けていた。陳寔が亡くなったとき、その葬儀には三万人も集まったほどである。

 ただし、清流派であるが故に高位の官には就けなかった。

 陳寔は宦官の専横を批評したために党錮刑(公職追放)を受けることになる。世に言う党錮の禁である。党錮の禁は黄巾の乱勃発を契機に解かれる。

 その陳寔の孫である陳羣もその才や徳を多くの人物鑑定家たちに絶賛された。

 司馬懿と陳羣が出会ったのは洛陽であった。陳羣は洛陽へと留学してきたのだった。袁遺が県尉となって間もない時期であった。

 陳羣の才や徳の高さは名士間に鳴り響いており、彼と誼を通じようと幾人もの名士が門を叩き、また、陳羣も高名な人物を訪ねた。

 司馬懿と陳羣との出会いは偶然のものだった。

 その日、司馬懿は―――現在は驃騎将軍府で参軍(参謀)の任に就いている―――楊俊と共に辺譲を訪ねていた。

 辺譲(へんじょう)は兗州陳留郡出身で、若い頃から弁論と文才に優れ、その作の章華賦は司馬相如の如くと評された。その才を聞いた何進が徴召(皇帝による招聘)と偽って呼び寄せ、自分の令史とした。

 彼は楊俊の師匠であったため、その縁で『非常の器』と高く評価した司馬懿を師匠へと引き合わせている最中に、陳羣もまた辺譲を訪ねてきたのだ。

 それ以来、彼らの交流は何とはなしに続いたが、司馬懿が郷里の温県に帰ると、直接顔を合わせることは絶え、これは久方ぶりの再会であった。

 茶を片手にお互いが、それぞれのことを語り合った。

「しかし、皮肉なことになりましたな、仲達殿」

 陳羣が言った。言葉遣いはかつて交流があったころのものへと自然と戻っていた。

「当時、出世栄達に何の興味も示さずに、官職にも就かず隠士然としていた貴殿が鎮軍大将軍・都督兗州諸軍事・兗州牧とは」

 彼の声には過ぎ去った年月の重みがあった。

「仕えるべき人物を見つけることができたのです。そして、その方に大業を成していただくために働いた結果です」

「袁公、か……」

 陳羣は茶碗を傾けた。

「貴殿を動かす程の人物だ。余程の傑物なのだろうな」

「伯業様と長文殿は同じ豫州の出でしょう。いくらかの評判は聞かなかったのですか?」

「もちろん、当時から袁公は優れた人物だと名高かったが、まさかここまでの人物であったか、というのが正直な気持ちだ。まったく、人を見る目がなかったと顔から火が出る思いだよ」

 陳羣は自虐的に苦笑した。

「自己弁護をするわけではないが、仲達殿は東平の相であった李瓚(りさん)殿のことはご存じだろうか?」

「かの登龍門のご子息のことでしょう」

「そう、その李瓚殿だ」

 登龍門とは成功に至るための関門という意味の言葉であるが、その語源は党錮の禁あたりの時代である。

 この政治が腐敗した中で清廉潔白を貫き、悪逆な宦官に抵抗した李膺(りよう)の名声は高く、多くの人士が彼に面会を求め交流を望んだ。しかし、李膺は天下の名士でなければ会わないと決めていた。故に李膺に高く評価されれば、その名声は全国に轟き、「龍門に登った」といわれたのだ。これが登龍門の由来である。

 李瓚はその李膺の息子である。

「彼が亡くなる直前、息子たちにこう言ったそうだ。今に世の中は乱れるであろう。天下の英雄の中で曹操に過ぎる者はいない。張孟卓(張邈)はわしとは交流がある、袁本初(袁紹)はそなたの母方の親戚ではあるけども決して彼女たちを頼るな。必ず曹殿に身を寄せよ、と。しかし、その曹操は貴殿の主に敗れた。袁公の力量を見誤ったのは、決して私だけではないということだ」

 司馬懿は、その言葉に曹操が名士たちからの支持を失ったことを確信した。

 あの戦いで司馬懿は一軍を率いて勝利に大きく貢献したが、その勝利は薄氷を踏む思いで得たことを誰よりも知っていた。少なくとも、ある段階までは敵の行動が容易に予測できるが、それに対して打てる手が殆んどないという状況が続いていた。そして、その状況から脱するためには陳蘭とその麾下の部隊という大き過ぎる犠牲を払わなければならなかったのである。

 だが、それでも世間の目から見れば、袁遺と曹操の評価には絶対の壁ができてしまったのだ。

「今、李瓚殿のご子息たちは兗州で胥吏をしている者もいれば、故郷に帰った者もいますよ。伯業様が曹殿と停戦の条件として将兵、官吏の助命を約束しましたから」

「なんだ、知っておられたのか。それならそうと言ってくれればよかったものを。貴殿もなかなか意地が悪い」

「それは失礼しました」

 司馬懿は頭を下げた。

「ところで、お噂では周豫州牧が柘県の県令や州の別駕(筆頭官吏)として長文殿を招聘しようとしたが、貴殿は断られたとか」

 司馬懿が突然、話題を変えた。

 仲達は陳羣の心の内を探っていた。出世した者の前に交流が絶えた知人が突然、訪ねてくる場合、官職の世話をしてくれと頼みに来たと相場が決まっているからだ。そして、頼られれば世話をしなければならないのが、名士としての義務である。それを怠ると評価を下げ―――武官としての位人臣を極めた仲達には関係ない話であるが一般的には―――悪評が跳ね返って将来の出世を妨げることになる。

 もし官職の世話を頼みに来たのなら、州吏や県令程度ではなく、もっと上の官位を求めているのか、と司馬懿は勘繰った。

「長文殿ほどの人が未だに野にいることは、漢王朝にとって大きな損失です。我が主は今は謹慎中の身でありますが、陛下をお助けする人材を広く求めております。よろしければ、私の方から謹慎が解かれれば、すぐにでも伯業様にご推薦したいのですが、いかがでしょう?」

「お心遣い、感謝します。しかし、袁公について、もっと話をお聞かせください」

「なんでしょう?」

 司馬懿は応じた。

「噂では、地方官の治績は十常侍の専横により荒廃した田畑の回復の度合いによって評価するとの布告は袁公の発案だとか」

「さあ、私はその手の政治に関わっていませんので、申し訳ないが、存じ上げません」

 司馬懿は言葉を濁した。この評価基準が微妙な問題であることは以前にも書いたが、そうであるが故に主の評判を落とすかもしれないことを司馬懿は肯定することができず、明言を避けた。

 だが、陳羣は司馬懿の言葉の響きの違和感から、それを肯定と受け取った。

 そして、姿勢を正して言った。

「仲達殿、どうか推挙の話、お願いしてもよろしいでしょうか。私にもできそうなことがありました」

「できそうなこと?」

「はい、どうやら袁公は物事を変えることができる人物であったようで、私は現在の郷挙里選を消し去りたいのです」

 そう言った陳羣の目は座っていた。

 仲達には陳羣の気持ちが理解できた。だが、それを口にしなかった。きっと陳羣は、それは本当の理解ではない、と言うだろうからだった。

「穏やかじゃないことを仰られる。郷挙里選を消し去って、どうするというのです?」

「それをずっと考えてきましてね。代わりに別の制度を作ろうと思います」

「別の?」

「はい、名づけるなら『九品官人法』とでもしておきましょうか」

 陳羣が言った。

 

 

 その制度を掘り下げるには、この時代の人材発掘制度を掘り下げなければならない。

 そして、後漢の人材発掘制度―――郷挙里選を掘り下げると、この時代の名士が抱えていた屈折が見えてくる。

 郷挙里選をかみ砕いて説明すれば、地方の高官や有力者がその地方の優秀な人物を中央に推薦する制度である。

 この郷挙里選は四代皇帝・和帝から徐々に機能しなくなる。

 まずは外戚が、次に宦官が郷挙里選を私物化したのであった。

 外戚と宦官がどのように後漢王朝で力を持ったかは、これまで幾度か述べたために、ここではその詳細は省くが、国政を私物化した外戚、宦官は郷挙里選において自身の一族や知り合いを推薦するように地方官に圧力をかけたのである。

 そして、それを良しとしない名士たちは宦官の専横を弾劾するが、宦官は弾劾した名士たちを逆に禁固刑(公職追放)に処した。今まで散々述べてきた党錮の禁である。

 党錮の禁は知識人たちに漢王朝への大きな不信感を植え付けた。

 その不信感を抱いた人物のひとりに、郭泰がいる。

 郭泰は上記の李膺に高く評価された人物で、李膺よりも年下であったが、友人と遇された若き人物鑑定家である。

 この郭泰、かつて官吏となることを勧められたが、それを断った。曰く、天が滅ぼそうしているものを支えてることはできない、と。また後に、宦官に抵抗した陳蕃、竇武が処刑され、さらに一〇〇名以上の清流派人士が鉤党(悪い派閥づくり)の誣告を受けて処刑され、それに連なる七〇〇余名が公職追放された。第二次党錮の禁であり、処刑された者の中には李膺の名も含まれている。

 郭泰はこれに慟哭した。優れた人々がここに果て絶えた。国は亡びるだろう、と。

 この新を間に挟んで約四〇〇年続いている漢の滅亡を彼に予期させたのは、党錮の禁によって植え付けられた不信感によるものだろう。

 後漢王朝に絶望し、官吏の道に進まなかった郭泰が向かった先は後進の育成である。前話でも書いたが、儒教の祖である孔子が自身の理想が実現しないと悟ると、諸国を周遊し後生を育成したように、これは儒家の伝統である。

 社会もこれを歓迎した。地方を回る郭泰の車には面会を求める地方豪族たちの名刺が山と積まれたのである。

 後漢王朝に不信感を覚えていたのは郭泰のみならず、多くの清流派人士も感じるところだったのだ。

 こうして清流派知識人たちの間で流行したのが、お互いを評価し合う人物鑑定であり、その人物評価によって名声を得て誕生したのが、名士である。政治腐敗が進んだ中で、この名士間での名声は名士たちに官位より貴ばれたのであった。

 さて、時代は進み、外戚も宦官もその力を失い、この名士たちの時代がやってくる。史実なら曹操の台頭であり、曹魏政権の成立である。

 魏王朝初代皇帝である曹丕が即位すると、あるひとつの法が施行されることになる。

 それが郷挙里選に代わる人材発掘制度の九品官人法である。

 この法は各郡に人材推薦を任務とする中正官を置き、人材をランク付けして推薦させる人材発掘制度である。ランクは最高一品官から最低九品官までの九等であった。

 漢の官僚を新王朝である魏に吸収することを当面の目的に施行されたが、その後も一般の官吏を登用するのに用いられた。

 しかし、郷挙里選が外戚や宦官に私物化されたように、この郷挙里選は名士―――地方豪族に私物化される。

 九品官人法、その名目上は徳行主体の人事基準から能力主体の基準へと移行するためであったが、実際には地方の力関係がそのまま郷品に反映された。

 そして、この法が決定的に名士たちに私物化されるのは、中正官の上に権限の強い州大中正が置かれたことである。

 州大中正の制により、家柄だけで高位高官が約束され、名士は世襲の貴族へと変貌していく。

 そして、魏王朝は亡び、晋王朝へと交代するが、貴族は貴族のままであった。

 この王朝が滅亡して皇帝家が代わっても、貴族は次の王朝でも変わらず貴族であることは君主権力を弱体化させ、国家の分裂性を高めることであった。

 名士たちは今まで批判し、弾劾してきた外戚、宦官と同じ存在になってしまったのだ。まさしく、怪物と闘っていた者が、その過程において自らが怪物になるという寓話的帰結だった。

 九品官人法、史実でそれを作ったのは陳羣であり、州大中正を設置したのは正始の政変で魏の朝政を支配した司馬懿である。

 

 

 司馬懿が、改めて袁遺に紹介することを約束すると、陳羣は帰っていった。

 彼は豫州潁川名士の取りまとめ工作にいそしんでいた。

 豫州潁川郡には著名な知識人が多い。そして、今までその潁川グループの中心にいたのは曹操に仕えていた荀彧であったが、彼女は先の戦いで失脚した。その間隙に、陳羣は滑り込もうとしていた。

 陳羣が潁川グループを掌握することは袁遺にとって利益となる。

 現在、謹慎中の袁遺の復帰運動を潁川名士たちで行おうとしていた。

 また、上記のように、袁遺は孫策との戦いが防衛戦争となる場合、豫州を戦域に設定して運動戦を想定しているため、豫州の名士―――特に今までは曹操を支持していた名士―――が孫策に敵対的行動をすると、防御作戦がやりやすくなる。

 君主と名士の関係とは、何かの目的のために主君をいただき、武力や知恵や財、兵、人脈などで君主を助け、その代わりに主君は臣下の利益となる関係である。

 陳羣が袁遺に九品官人法の成立と施行を頼むためには、袁遺の利益とならなければならない。

 だが、司馬懿は陳羣と袁遺の利益が最終的には相反するものになると予感していた。

 彼の脳裏に、あの晩夏の暑さが蘇った。

 あの晩夏の四阿で、袁遺が、人材登用の方法も変える。地方に人材を挙げさせるのに郷品を作る、と言っていたのを司馬懿は覚えていた。そして、その後、品だけでは一部の名士に要職を独占される恐れがあるから、同時に班も作る、ということも。

 陳羣の九品官人法は、陳羣の望んだ形には絶対にならない。司馬懿は断定した。だが、そうなると、陳羣や彼を支持する名士たちは袁遺を切り捨て、司馬懿を彼らの利益代表者に担ぎ上げるはずであった。

 司馬懿はその鋭敏な頭脳で、そうなったときの未来を考えた。

 彼の脳内では、ひとつの頸が刎ね飛んでいた。

 果たして、その頸は自分の頸であったか、袁遺の頸であったか、司馬懿自身にもわからなかったが、彼にとってはおぞましい未来でしかなかった。

「……全ては党錮の禁から始まったな」

 司馬懿は陳羣の胸の内を読んでいた。

 司馬懿の陳羣に対する印象は、この時代の典型的な名士であった。

 陳羣は学識の豊かさはもちろん高潔で道義を重んじ、誇り高い。だが同時に、他人にも儒教的な高潔さや誠実さを求め、道徳を汚すような行いをする人物を許さない、ある種の傲慢さを持っていた。その傲慢さはこの時代の名士なら誰でも持っていた傲慢さに根差したものでもあった。それは知識人として、また郷里社会の指導者として『家』を連綿と続けてきた自負である。司馬懿も―――本人の性格の歪みという面もあるが―――例外ではない。

 であるが故に、陳羣にとって公職追放の憂いは、彼の人間としての誇りを粉々に砕いた。

 そして、名士たちが高位高官を代々受け継ぐような九品官人法へと辿り着いたのである。儒教的な徳を身に着けた名士こそが、朝政を司るに相応しいという清冽な傲慢さのもとに。

 

 

 司馬懿が職務に戻ろうとすると、洛陽から書簡がもたらされた。

 仲達がそれを開き、内容を読むにつれて、その品の良い顔に興奮の赤みが差した。

 彼の妻である張春華が出産し、男子が生まれたことが書簡には記されていたのだ。書簡は雛里が代筆したものだった。

 書簡が書かれたのは十二日前のことで、母子共に健康であるらしかった。

「生まれたかッ……」

 震えた声で司馬懿は言った。喜びが腹の底から湧き上がってきた。

 だがしかし、同時に自分が父親になったという実感を得ることができていなかった。そして、都督兗州諸軍事の責務など投げ捨てて、今すぐに洛陽へと帰りたいという気持ちも湧いてこなかった。

 酷い父親だ。司馬懿は自虐的な笑みを浮かべた。彼の場合、それさえも品がある微笑に見えた。

 仲達は筆を執って妻に手紙を書き始めた。

 その途中に、司馬懿はふと手を止め、別の紙にただ一文字、書きつけた。

 師、と―――

 

 

7 東観

 

 

 洛陽の郊外寄りの住宅街にある袁遺の屋敷は、こじんまりとしたものだった。

 そこに袁遺は籠り、謹慎の期間を過ごしていた。

 といっても、袁遺は何もしていないわけではなかった。彼の部屋の調度品は品の良い華やかなもので調えられていたが、そこかしこに書簡が山積みとなり、乱雑としていた。

 袁隗の手の者たちから洛陽の情勢や孫策の動き、味方である各州の動きは袁遺の手元に入ってくる。

 現在、袁遺にとって興味深い情報は―――親友である司馬懿に男児が誕生したという私的なものを抜かせば―――東観の様子であった。孫策に関しては謹慎中の身である故に、表立って動くことができず、打てる手が限られているために敢えて捨て置いている面がある。

 東観は洛陽の南宮、光武帝と共に漢の再興に尽力した二十八人の将の像が描かれている雲台の隣にある修史の史料庫である。

 今まで何度も触れてきたが、そこでは史書『東観漢記』の編纂が行われている。

 現代では散逸したため、全容を知ることはできないが、その評判は決して芳しいものではない。

 唐の劉知幾の『通史』に曰く―――同時代史であるためにさまざまな制約を免れ得ず、複数の著者の記述の寄せ集めである。

 後漢の四代皇帝である和帝の時代から劉弁・劉協まで百年以上が過ぎたのである。社会情勢は大きく変わった。

 編纂され始めた時期の『東観漢記』は漢の復活である後漢の無謬性を証明するような記述が多いが、現在の蔡邕が中心となっている部分は後漢の制度を後世に残そうとするような、名士たちが党錮の禁によって予感した後漢の終焉を看取ろうとするような記述が多い。

 特に蔡邕は、宦官の専横を直諌したために宦官の恨みを買い。冤罪で叔父と共に処刑されかける。

 叔父は民衆の前で頸を刎ねられるが、蔡邕を哀れんだ宦官のひとりが彼のために訴え出て死は免れ、家族と共に流刑に処された。翌年、大赦を受けたが、その後も宦官といざこざが起こり、揚州へと身を隠した。

 身を隠すこと十二年、この期間に蔡邕は十意(正確には十志であるが、志は霊帝の一代前の桓帝の諱であるために、同じ意味である意を用いている)を書きあげた。これは後に『後漢書』の八志の原資料となる。

 志は制度志のことで、後漢の礼儀、祭祀、暦、官職、地理、車服などの国制をまとめたものだ。

 揚州でこれを書きあげる蔡邕が、後漢の滅亡を予感するだけの絶望を味わったことは想像に難くないだろう。

 蔡邕は霊帝の死後、実権を握った董卓が名士たちの信頼を得ようとする一環で尚書に任命され、洛陽へと帰還した。彼は袁隗が董卓に協力する前から、董卓に手を貸していた数少ない名士であった。

 しかし、大多数の名士たちは董卓に協力せず、蔡邕は袁紹の反董卓連合結成の動きが見えると、董卓の政権は長くなく洛陽へと戦禍が広がると思い、非常に目をかけていた王粲(おうさん)に蔵書を託した。

 王粲、字は仲宣。兗州山陽郡高平県の出身で、曾祖父の王龔(おうきょう)、祖父の王暢(おうちょう)が共に司空にまで至った名門の家系である。

 彼は戦を避けて、荊州へと向かうつもりであった。故に、蔡邕は後漢の制度がどのようなものであったかと自身の詩を後世に残すために王粲に蔵書を託したのであった。

 だが、袁隗が董卓に協力するようになると状況は好転し、戦禍は洛陽どころか、その東辺を扼する要衝である虎牢関にさえ及ばなかった。

 それでも、名士たちの脳裏から漢王朝の滅亡の可能性が消えることはなかった。事実、袁紹と内通していた朝臣もいた。

 そんな絶望感の残り香が色濃く匂う、統一性のない雑駁な史書の編纂作業に加わることになったのが、曹操―――華琳である。

 彼女の参加は『東観漢記』の欠点を更に大きくするものであった。

 華琳も漢の滅亡を予感していた。だからこそ、黄巾の乱より袁遺に敗れるまで権謀術策を駆使し、戦い続けてきたのである。

 しかし、蔡邕たちの記述は華琳の感覚からすれば、耐え難いものだった。めそめそと泣く様な記述である。辛気臭いの一言であった。

 華琳と蔡邕は激論を戦わせることとなる。

 その戦いは、彼女にとって味方の少ない戦いであった。

 東観は儒者の巣窟であり、後漢の硬直化した儒教観を唾棄すべきものと考えている華琳とは水と油の連中である。また、袁遺がその身を犠牲にして曖昧にしたとはいえ、漢朝に弓を引いたことで華琳の名士間の声望は地に落ちている。

 華琳を支持する名士は、冀州遠征時に袁遺に降った陳琳を始めとした少数の華琳の文才を評価する文士たちだけであった。

 それでも彼女は退くということはなかった。ここで素直に頭を下げれるなら、どこかで袁遺に頭を下げていた。

 そんな曹操の風向きが変わったのは、劉表の送り込んだ荊州学派が洛陽で影響力を持ち始めてからだった。

 蔡邕に蔵書を託された王粲が荊州から帰ってきた。

 それが幸運なことであったか不運なことであったかは王粲本人にもわからないだろうが、彼は荊州で荊州学に触れた。

 洛陽へと帰還した王粲は真っ先に蔡邕に会いに行き、蔡邕の下で『東観漢記』の編纂に加わるのだが、あろうことか王粲は華琳の味方をした。

 荊州で荊州学に触れてきた王粲は、荊州人士の乱世を終わらせるために新しい学問を生み出し、研鑽するという情熱を胸いっぱいに吸い込んできたのだ。そんな彼からすれば、いくら恩があるとはいえ蔡邕たちの記述は死んだ子の歳を数える様なものだった。

 また、華琳と王粲を繋いだのは、蔡邕たちの儒教観に対する疑問だけではなかった。文士たちが新しいスタイルの詩を作ろうとする動きでもあったのだ。その中心が曹操の文才である。

 東観での風向きが変われば、華琳の評価も変わる。そして、その変わる方向は袁遺の望む方向であった。

 袁遺は漢王朝を存続させたい。それは蔡邕も同じだろうが、袁遺は漢王朝を存続させるために、その制度を大きく変えようとしていた。それに対して蔡邕たちは制度の変更を認めない保守派であった。この点が、この時代特有の硬直化した儒教観である。

 袁遺が革新者(保守的な名士からすれば破壊者)なら、蔡邕は旧い価値観の集積者であった。歴史的に見て、この二者は決して単独では歴史に現れず、常にお互いがお互いの影のように現れる。

「しかし、蔡尚書に対する態度を見ると、華琳は相変わらずだな」

 袁遺は苦笑した。華琳が変わらずに、自身の美意識に殉じていることに呆れつつも安堵感を覚えていた。漢王朝に弓を引いた立場にあるのに、そんなことがなかったように振舞っている。だが、自分に負けて萎らしくなる華琳など見たくもない。

 ただ、同時に彼の大き過ぎる猜疑心は華琳の影響力が徐々に大きくなっていくことに、敏感に反応していた。華琳、文学に限らず芸術家は、その死が悲運であればあるほど、その作品は実力以上に評価される。だけど、君ほどの文才だ。君の作品にそんな下駄を履かせる必要はないだろう。だから、決して俺に手を汚すような真似をさせないでくれよ。

 袁遺は頭に過った薄暗い策謀をかき消すように、東観の現状を多少の誤差はあれど、ほぼ自分の想定の範囲内に収まっていると結論付けた。

 

 

 袁遺が孫策の動きに対して余裕を持って構えているのとは対照的に、驃騎将軍府の留守を預かる雛里は過敏にならざるを得なかった。

 雛里の手元に集まってくる寿春の情報は、はっきり言えば常軌を逸していた。長江の寿春・秣陵間を行き来する軍船、商船の数が増え続ける一方なのである。それだけ、人や物資が寿春に集められているということである。

 雛里と参謀部が推定したところ、その数は一〇万を超える。そのうえ、未だ増え続けている。揚州全てから人を集める勢いである。孫策は根こそぎの総動員を行っていると結論付けた。

 それが明らかになるにつれ、孫策の討伐は反董卓連合、袁紹、曹操に勝ってきた袁遺しかいないという袁遺復帰論が名士間で湧き起こった。特に、ここ最近、荊州から帰ってきた名士たちは盛んに孫策の脅威を宣伝し、漢王朝の反孫策の風向きをより強いものにしていた。さらには、戦場になりそうな豫州の名士たちも袁遺の復帰運動を行っている。

 となると、留守を任された雛里は袁遺が復帰次第すぐに動けるように準備を整えておかなければならない。

 もちろん袁遺からの指示はあったが、当面は司馬懿に任せるため、洛陽・兗州間の連携をしっかり保つくらいしかなかった。仕方がなかった。袁遺が謹慎の身である間、表立って動けず、受け身にならざるを得ない。

 それでも、将軍府はやにわに忙しくなった。

 しかし、その忙しさの中で、雛里は一抹の不安を覚えていた。

 袁遺の影響力は謹慎したにもかかわらず大きくなる一方である。その勢いは袁伯業本人でさえ制御できなくなるほどではないかと思うほどであった。まるで濁流にでも飲まれている様である。

 

 

 雛里は思う。もしかしたら、伯業様が登っているのは栄光の階段ではなく、破滅の階段かもしれない、と。

 




捕捉
・劉知幾
 唐の時代の歴史研究家。前漢の宣帝の末裔であるとされる。
 漢は亡びたけど、なんだかんだ劉邦の血って唐まで残ったんだなって、感慨深くなる。


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