【祝・完結】 月姫 弓塚さつきルート MELTY BLOOD ~memory of Rhododendron~ (風海草一郎)
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プロローグ&第一章 始動

 初めての連載小説です。少しでも楽しんでいただけたら超嬉しいです。


追加パッチ「弓塚さつきルート」を起動しますか?

 はい   いいえ

 

 ――はい

 

…………………………起動を確認できませんでした。

 

 ――はい

 

…………………………起動を確認できませんでした。

 

 

Now hacking…………

 

……………………「弓塚さつきルート」がアップデートを実行しました。「月姫 アペンドディスク」を起動します。

 

Now loading………………

 

 〇

――八月初頭

 

 都市圏人口集中によるドーナツ化現象の例に漏れず、すっかり元気を無くしたベッドタウンの典型例である我らが三咲町。

 交通量は一時間あたり平均五台。電鉄使用者推定平均百人前後。

 この情報からどれだけ町や人々の活気が無いかはお察しだ。そこに摂氏三十八度の暑さが加わればなおさらだ。いっそ頭蓋の中まで蕩けてしまいそうだ。

 

 ――その夏、あまりに息苦しい暑さから、窒息するサカナみたいだと誰かが言った。

 

 街を歩いていたら、そんな台詞とすれ違った。おかしな話もあるものだと、と独りで笑う

 打ち上げられたならまだしも、水槽の中でサカナは窒息などするだろうか?

 

 ……しばしの黙考。

 

 そして「ああ」と独り合点がいったように声をあげた。

 放置された熱帯魚。

 腹部を見せて浮かぶ死体。

 濁った水。

 緑色の水槽。

 パクパクと口を動かす死んだサカナ。

 

「なるほど巧い例えだ」

 

 この鬱屈した閉塞感と、出口の無い緩やかな停滞はまさしくそれだ。

 灼熱の空気は一息吸えば肺を焼き、道路に立ち昇る蜃気楼は信号機のシルエットを大きく歪ませる。

 往来には人っ子一人おらず、死んだ街に一人取り残されたような錯覚に囚われる。

 

 そういった意味で、町は深海に沈んだ古代都市じみていた。

 つまり、自分はその死んだ街で目的も無く揺蕩う魚だ。生きていようといまいと変わりなく、死んでいようがいまいが大差は無い。まさに生きながら死んでいる。

 

 まったくおかしな夏だった。

 人気はあるのに人はおらず、無人のプラットホームには幾ばくかの人を乗せた電車がサカナたちをどこかへ輸出入するのを繰り返す。

 ショッピングモールは大盛況、凶悪な太陽光を嫌うのかサカナは近くの茶店へ避難。

 ああ、つまるところ、

 

「サカナが元気なのは建物(ハコ)の中だけなのか」

 

 ただし、連日の猛暑はサカナたちをハコへと誘いだす根本的な原因ではなかった。

 

「――聞いた? 昨日公園でさ、また誰かいなくなったんだって――」

「――それって噂の吸血鬼殺人ってやつ? うわ、まだ終わってなかったんだねアレ――」

 

 また、そんな話し声が聞こえてきた。いつすれ違ったのか、数人の女の子が楽しそうに噂話に花を咲かせていた。

 

 ――吸血鬼。

 

 あまりにも非日常で幼稚な噂話。一時の話のタネになるかどうかもあやしいものだ。

 しかし、遠野志貴はそれらを一笑に付す事は出来なかった。

 ここ三咲町には吸血鬼と呼ばれる人ならざるものが確かに存在する。もっとも、見境なく吸血を行う輩は志貴とアルクェイドによって、既に存在ごと抹消されている。先ほどの噂も、かつての事件に尾ひれを付けて焼き直しされたものだろう。

 

そう志貴は納得しようとすると、さらなる会話が志貴の耳にずかずかと入り込む。

 

「――アレだろ。ほら、ちょっと前にもいたじゃんか。猟奇殺人っての? 無差別に女を殺してまわってた殺人鬼がさ――」

 ――そう、その人物はもう死んだ。

「――知ってる知ってる。戻ってきたんだろ、ソイツ。聞いた話だけどさ、機能も路地裏でバラバラ死体が――」

 

 ――だからそれは終わった話なのだ。

 

 意味など無いと理解しつつも、彼らの会話を胸中で否定する。しかし、臓腑の奥底から溢れだす濁りのような焦燥は、徐々に志貴の否定を薄弱なものへと変えていった。

 

 それが、遠野志貴が一人で街を歩いている理由だった。

 

 曰く、あの殺人鬼が帰ってきた。

 曰く、被害者は残らず血を抜かれていた。

 曰く、殺人鬼は死神のような吸血鬼だった。

 

 とうに風化し、忘却の彼方へと追いやられたはずの一年前の事件。

 しかし、吸血鬼の再来などあり得ない。

 なぜなら、彼を殺したのは自分だからだ。完全に、完璧に、完膚なきまでに殺したはずだからだ。

 第二、第三の吸血鬼が現れるわけがない。

 

 そのはずなのに、噂はとどまる事を知らず人口に膾炙する。志貴が記憶の底へ沈めと願う気持ちに反比例するかの如く、異様とも言えるほどに噂は広がっていった。

 噂は徐々に輪郭を作り、命を吹き込まれ、やがて一人歩きする。

 

 昨日は公園で。

 今日は路地裏で。

 名も知らぬ誰かが死んだという。すると、明日は学校で誰かが死ぬのだろうか?

 誰かが、誰かが、誰かが。

 

 ――誰かが死ぬのだ。

 

 暴走する扇動的な噂はさらにセンセーショナルな噂を生み、今では誰も彼も夜には出歩かなくなってしまった。そんなところまで一年前と瓜二つ。

 窒息するような猛暑。

 人通りが絶えた街並。

 

 そして、何より不思議な事に。

 

 ――町では、猟奇殺人など起きてはいなかった。

 

「うっ……」

 

 直射日光にあてられたのか、数歩よろけて手近な壁に手をついて。おあつらえ向きに自動販売機がある。脱水防止も兼ねて少し休憩しよう。

 そう思い、小銭を取り出そうとして、ふと気づく。

「あっちゃあ、財布が……。ついてないなー、最近特に」

 呟いてから、自分の独り言に思わず苦笑が漏れた。そう、「ついていない」はこの夏の流行語大賞をぶっちぎりの独走一位だった。

 

 運が悪い。

 不安が的中。

 裏目ばかり出てしまう。

 暗剣殺だかなんだか知らないが、ここ最近はちょっとした事故続きだ。

 

 かく言う自分も教科書を三日連続で忘れたり、琥珀さんの怪しい実験を覗き見してしまって緑色のクスリを打たれたり、アルクウェイドの食事にうっかりニンニクを混ぜてしまったり、先輩の下着を漁っているところを見つかって夜通し逃げ回ったり、小さな不幸は枚挙に暇がない(最後は自分が悪いのだが)。

 

 うだるような猛暑にたるみ切っている……という事ならばよくある話で済むのだが、それは自分だけに当てはまる事では無いらしい。

 抜けているようで鋭いアルクェイドや優等生のシエル先輩、非の打ちどころの無い秋葉や料理マスターの琥珀さんまでミスを連発する始末。

 

 ここまで偶然が続けば気味が悪いというか、つまり、

 

「――それは偶然ではなく必然では?」

 

 すれ違いざまに、また誰かの言葉。しかし、先程のはしゃいだ声音とは打って変わって、抑揚の無い怜悧な声だった。

 

「――――――――」

 

 後ろで誰かが振り向く気配を感じ、志貴も何となくそれに倣う。

「――――――失礼」

 

 見知らぬ少女は素っ気なくお辞儀をすると、踵を返して去っていった。

 

「……驚いた。三咲町で外国人とは珍しい」

 

 顔をよく見る暇は無かったが、かなり整っていたのは間違いない。利発そうな瞳の上には形のいい眉が並び、意志の強さが窺える。それに反するようにどことなく影を孕んだ、陰陽入り混じる顔立ち。年の頃は十六か十七。大人びた雰囲気がするので、ひょっとしたら自分より年上なのかもしれない。そして、帽子から覗く紫色の三つ編みおさげもこれまた珍しい。

 

「いや、外人って点は珍しくもないか。それならアルクや先輩もそうだ」

 

 もっとも、それ以外は珍しい点だらけの人達だけどな。と志貴は付け加える。

 志貴はすでに彼女の姿が見えなくなった方角を、名残惜しそうに見つめる。

 なぜ、自分は後ろ髪を引かれているのだろう?

 疑問は数分後、あっけなく氷解した。

 

「ああ、なんだ」

 

 答えは簡単。丸二日も当て所なく街を徘徊して。ようやく最初に「誰か」が視認できたのが、今の少女だったのだ――

 

「……おうっ…………」

 

 再び立ち眩み。

 ……まったく、本当に。

 

 今年の夏は性質(タチ)の悪い夢のようで――――

 

 



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第二章 失踪したクラスメイト

とりあえず出来ているところまで投稿します。


 キーンコーンカーンコーンと二限目の授業終了兼、昼食を知らせる合図であるチャイムによって志貴の意識は現実に引き戻された。

 遠野志貴は現在、絶賛補修中だった。貧血から早退のコンボで出席日数不足に悩まされる事は無くったが、以前として志貴の学力は低空飛行を続けていた。

 

 いけないいけない。また、ぼうっと窓の外を眺めている間に補習授業が終わってしまったらしい。前方を見ればびっしりと板書された黒板には早くも、教師による黒板消しが侵略を始めており、あっという間に文字列は姿を消した。

 

 一文字たりとも書かれていない。という点では自分のノートも似たようなものだ。開始五分で集中力を切らした志貴のノートはいっそ清々しいまでの純白だった。

 

「ふう……」

 

 志貴は諦めてノートを閉じるとカバンにしまう。この調子では補修終了後のテストは絶望的だろう。場末の二流進学校とはいえ、補修のテストでさえコケたならいよいよ留年が現実味を帯びてくる。

 

「なーにシケたツラしてんだよ遠野!」

 

 バン! と背中を叩かれ、アンニュイな気分を吹き飛ばされた。声の主など見なくともわかる。こんなガサツな挨拶をするのは有彦以外に心当たりがない。

 

「補修なんざ真面目に受けなくたってヘーキヘーキ! 要は最後のテストに合格すりゃいいんだからよ。まあ、何度も受けてりゃいつかは合格できるさ」

 

 志貴の前に回り込んだ有彦はニカッと白い歯を見せた。

 

「お前はいいかもしれないがな。俺はそう何度も受けられないんだよ」

「ああ、秋葉ちゃんのコト? なるほどそりゃ大変だ」

 

 余裕綽々な有彦に対して志貴は重苦し気な溜息をついた。留年しないギリギリの出席日数で調整している不良学生こと有彦と違い、自分にはそんな真似は許されない。

 

 ただでさえ「秋葉、俺、補修を受けなきゃいけなくなったんだ」と伝えたら鬼の形相のような笑顔(おかしな表現だがホントにそう見えた)を向けられたのだ。これで留年などしようものなら折檻されかねない。秋葉は「これでは夏の旅行に支障が――」とぶつくさ言っていたが、なってしまったものは仕方が無い。毎朝背中に突き刺さる秋葉の視線をあえて無視して、今日も補修にやって来たのだ。

 

 遠野家の用途不明の地下室を思い出すとぶるりと背中が震えた。そんな志貴の苦悩などお構いなしに有彦はカラカラと笑いかける。

 

「とりあえずせっかくの半ドンなんだし、どっかメシでも食い行かねえ? 駅前に新しいラーメン屋が出来たらしいぜ」

「むう、ラーメン屋か」

「いいじゃねえか、行こうぜ」

 

 秋葉に隠れて行った単発バイトのおかげで、懐事情的には少し余裕がある。あるが――

 

「なあ、お前らさ、あの吸血鬼事件ってマジだと思う?」

「あー、去年あったなそんなの。でも、ぶっちゃけ一年前ので飽き飽きだわ。今時、吸血鬼なんて深夜番組でも取り扱わないネタだろ」

「そうそう。それに根拠の無い噂だろ? 実際誰か知ってるやつが居なくなったわけでもないんだし」

 

 ピクリ、志貴の動きが止まった。知らずに半眼となり、後方のクラスメイトたちの会話に耳をそばだてる。

 

「あれお前ら知らねーの? 最近出るってこんなに噂になっているのに? まあ、こん中であのコと一緒のクラスだったの俺だけだったし」

「何だよ何だよ。気になるな。まさか吸血鬼事件に巻き込まれたのがウチにいるってのか」

「マジで!? 全然知らんかったわ!」

「あくまで噂なんだけどよ。ウチのクラスのアイドルだったコで名前は――」

 

 ――ガタン!

 

 下世話な好奇心に膝を浮かせていたクラスメイトは息を呑み、音の発生源へと視線を送る。

 

「おい、遠野?」

「……悪い、有彦。ちょっと用事が出来た」

「あ? どういうこと? おい遠野? お~~~~い?」

 

 怪訝そう有彦を尻目に、志貴はさっさとカバンを肩に担ぎ、ツカツカと廊下の奥へと消えていった。

 不快でたまらない。

 自分でもなぜここまで憤慨するのか分からない。

 あの三人の会話があまりにも低俗だったから?

 

 違う。あんなものは昼間のワイドショーに比べればまだ可愛いものだ。そもそも彼女と自分はそこまで親しくはなかった。ただ一年生の時にクラスメイトだっただけだ。

 

 それではなぜ?

 

 この激情の正体は?

 

 後方から有彦の声が聞こえるが、志貴の意識は全ての雑音を遮断していた。志貴の胸中を占めるのはたった一人のクラスメイト。

 

 彼女の名は弓塚さつき。

 

 昨年に失踪し、そのまま行方不明者になっている一人の少女の名だ。

 



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第三章 邂逅

 日中の焼けつくような日差しを放つ太陽がしばしの休息を取り、黒い空に銀箔を張り付けたような月が鈍く照らす。

 

 最近の遠野志貴は補修帰りに深夜徘徊をするのが日課となっていた。件の吸血鬼騒ぎに加え、失踪した元クラスメイトの噂とくれば徘徊の頻度も上がろうというものだ。屋敷を抜け出した言い訳として有彦のじいさんが先週で三回ほど亡くなったが、あと二回は使えるだろうか。

 

 一年前までは部活帰りの学生のショートカットコースや、ホームレスのたまり場だったこの公園も、ある事件以降深夜の人通りは皆無と言ってよかった。

 熱気と芝生の匂いを孕んだ風が吹き抜け、汗でワイシャツの張り付いた肌にわずかながら清涼感を与えてくれる。

 

 静寂。ただただ静粛に清閑とした広場に志貴は一人佇む。

 

 半日がかりで街を歩いてみたが、収穫は無し。やはり一年近くも前に失踪した人物を当てもなく歩いて探し当てるのはほぼ不可能だろう。

 

「当てどなく、か」

 

 言って、志貴は自嘲気味に呟く。

 本音を言えば、当ては全く無いわけではない。

 毎夜うなされた悪夢の現場。

 吸血鬼によって彩られた、おぞましい鮮血劇場。

 心に沁みつき、薄れる事は決してないケガレ。

 

「……行ってみる、か? 路地裏に」

 

 ネロの使い魔に殺されかけ、シキとの共有感覚によって刻みつけられた血生臭い記憶。

 時計の短針と長針はどちらも十二を指ししている。いつのまにか日付が変わってしまったようだ。

 

 心当たりはソコだけだ。しかし、あの惨状を思い出すだけで足が鉛のように重くなり、心臓の鼓動は早鐘を打つ。

そこへ行けと命ずる本能は異様なほどの高ぶりを見せるが、行くなと押さえつける理性が全身を硬直させる。

 

 何とか気合いを入れ、路地裏へ向かおうとした矢先、

 

「――困りましたね。あなたがあちらへ足を運ばない可能性は二十二パーセントほどあったのですが、こちらの方がでてしまいましたか」

 

 朝、見かけた異国風の少女が立っていた。

 

「君は今朝の……」

「計算内とはいえあまりに遅いのでお迎えに上がりました、遠野志貴」

 

 何で俺の名前を? と聞くより早く、少女は懐に手をやり、

 

「時間が惜しいので拘束させていただきます。あなたのスペックからして手加減は出来ません」

 

 夜色に溶けるように黒く、街灯を鈍く反射で輝かせる殺傷武器――拳銃らしきものを取り出した。

 

「ちょっ――――」

 

 志貴の困惑を受け流すように頭をふると、それにならったおさげが一尾、軽やかに舞う。

 少女の会話は一方通行だ。志貴の意志などハナから考慮していないように、冷徹に告げる。

 

「念のため言っておきます。――死なないでくださいね?」

 

 ――ヒュン! と何かが空を斬る音と共に、少女の身体は弾丸のように地面から発射された。

 

 〇

 

 深夜の公園に破砕音と金属のぶつかり合う音がしばらく響き渡る事五分、趨勢は決した。

 一見、合理の塊じみた整合性の動きで志貴を圧倒していた少女だったが、次第に押され始めたのだ。

 

 少年の動きは常人が後天的に習得出来る武術、格闘技のそれではない。まるで捕食者として生まれ落ちた生物の、本能に赴くままの殺人技術。

 肉眼では見切れぬ細さ紐らしき武器による挟撃を、志貴は野生動物を遥かにしのぐ直感で躱し、はじき、受け止める。ならばと少女がバレルによる銃撃を試みれば、視線から狙いを先読みし、銃口が定まる前に死角に移動する狡猾さ。

 

 数多の並列思考により導かれた計算をことごとく覆す、驚異的な成長速度。

 否、これは成長しているのではなく、本性が剥きだされたと見るべきか。

 

「……はっ!」

 

 少女は両手で武器を振るい、足技を織り交ぜるが――練度が低い。蹴り足を戻す際に重心がぶれる。

 少女の武術は未熟だ。技術は闊達、コンビネーションは精緻。およそ人間が振るう武術の技量は最高峰と言えるだろう。

 

 しかし、それだけに違和感が残る。少女の体術は杓子定規過ぎて、人間なら誰もが持ちうるクセというものが無さすぎる。まるで教本の内容を丸写ししたような不自然な精密さだ。

 

 志貴は一瞬の隙を逃さず少女の足を払い、馬乗りになると、両膝で相手の腕を制し組み伏せる。

 

「がっ……!」

 

背中を地面に打ちつけ、苦悶の表情を浮かべる少女の喉元にナイフを突きつけ、詰問する。

 

「――――で? 襲ってきた理由くらいは教えてくれるんだろうな?」

「計算以上です。再演算は間に合っていたのに、数値の振り分けを間違えましたか」

 

 薄皮を裂くほどに肉薄したナイフを前にして表情一つ変えず、少女は感嘆の声を漏らす。

 ナイフをまるで意に介さず、その遥か先を見つめるような少女に志貴は片眉を上げた。

 志貴は問いを重ねようとして口を開きかけると、少女は衝撃の一言を口にした。

 

「素晴らしい、その腕ならば真祖を殺害できたのも頷けます」

「な…………っ!」

 

 ――ドクン。

 

 その言葉に志貴の心臓が震撼し、ナイフを握る手が自然と緩む。

 

「――動揺しましたね?」

 

 瞬間、志貴の背中に衝撃が走る。つま先で背中を蹴られると、前のめりに地面に手をつく。さらに腰が浮いてしまったところを少女はブリッジして、背筋力によって志貴を全面に跳ね上げた。

 

「やってくれる!」

 

 志貴は両手で着地しバク転。着地に使用した右足を軸に素早くターン。振り向くと同時にナイフを眼前に構え、迎撃態勢を取る。見れば少女も既に体勢を立て直すと引き金を引く。

 

 ドオン! という音と同時に志貴の左を巨大なエネルギーが駆けていった。髪がハラリと地面に落ちる。あと数センチずれていたらと思うと、全身が総毛立つ。

 

 もとより、少女の瞳にはひどく昂らせてくる何かがあった。それはかつて感じた興奮より幾分劣るものの、吹き出るような嗜虐心を煽る何かが。

 肌がひりつくような緊張感。聞こえるのは互いの呼吸音と荒く収縮を繰り返す鼓動の音。

 全身が怒張する性器にでもなったかのように陶然とする。

 

 ――コロセ。

 

 ――ドクンドクン!

 

 先程よりひときわ強く、全身が震撼する。

 

 ――コロセ、コロセ。

 

 視界が赤いペンキで塗りたくられたように、真紅に染め上げられる。

 

 だめだ、この誘惑に乗ってはだめだ。

 

 この声に呑まれれば俺は俺でいられなくなる。俺はあいつになる。

 

 今宵は妙だ。悪い予感が真実となるように、タガが外れやすい。万力で締め付けられた頭蓋は悲鳴を上げ、痛みに反するように思考はクリアとなる。

 

 あの細く華奢な首を捩じ切りたい。手足をもぎ取り、芋虫同然となった肢体を心ゆくまで犯したい。

 

「ぐっ、あっ……!」

 

 

 ――コロセ、コロセ、コロセ、コロセコロセコロセコロセコロセコロセコロセコロセコロセコロセコロセコロセコロセコロセコロコロコロコロセセセセセセセ!!!!

 

 

「お、ま、え」

 

 眼鏡を外し、少女の身体を凝視する。

 そこへ走る無数の線と複数の点。

 すう、と目が細まり、少女の一点を注視すると、凶刃に殺意を込めた。

 

 そうか、そんなにも。

 

 ――――そんなにも殺して欲しいのか――――!

 

「――――――――――――――――――――!!」

 

 志貴は声にならない叫びを上げると、地面を蹴る。日本武道のすり足とは似て非なる、地面を滑るような変則的な動き。その様はさながら獲物に飛びかかる地蜘蛛のごとく。下から飛びかかるように振るわれる白銀は殺意を帯び、首筋へ吸い込まれようとして――

 

「――――だめえ! 遠野クンッ!」

 

 突如として現れた闖入者に、志貴は体ごと弾き飛ばされた。

 

「なんッ……?」

 

 右肩に押しかかった衝撃を殺しきれずに志貴はたまらずもんどりうった。転がる最中にあちこちぶつけた痛みに堪らず志貴は顔を顰める。

 

 しかし、そこに意識を割いている場合ではない。

 

 志貴の耳に飛び込んできた声には聞き覚えがあった。

 成長途中の乙女特有の幼さを残す、少女らしさの抜けきらない声。

 志貴は恐る恐る、自分が衝撃を受けた方角へ向き直る。

 

 それは志貴の通う高校の制服を纏った少女だった。よれたワイシャツの上には薄汚れたクリーム色のセーター。すこしくすんだ野暮ったい指定のスカート。おさげがよく似合う、どことなく小動物さを残した顔。

 

「――弓塚さん…………?」

 

 弓塚さつきが月光に射通されるように立っていた。

 

 〇

 

 ――ゴトン、と取り出し口に落下した炭酸飲料を三つ手に取り、それらを胸に抱えた志貴はベンチに座った二人の少女に缶を二つ差し出した。

「ありがとう」とさつきと少女は礼を言って遠慮がちにプルタブを引っ張ると、炭酸の抜ける子気味良い音が響く。

 

 志貴も倣って缶を開け、ごくりと小さな喉を鳴らして飲料を流し込むと、ようやく少し落ち着いた。

 

「それで? いきなり襲ってきた君は一体何者なんだ? 目的は? 弓塚さんもどうしてこんなところにいるんだ? 今までどうしていたんだ?」

「ええと、どこから話したらいいかな……」

 

 疑問を連続で投げかける志貴にさつきは伏し目がちに口ごもる。

 

「遠野志貴、そう矢継ぎ早に聞いてはさつきも混乱すると思いますが」

「あっ、ああ。ごめんごめん。俺も焦り過ぎたよ」

 

 少女のフォローに志貴はハッとすると、目下のところ最も疑問に思っていた事を口にした。

 

「君は一体誰なんだ? 俺を殺す事が目的ではなかったようだけど、どうしてあんな事を?」

「これは失礼しました。まだ名乗っていませんでしたね。私の名はシオン。シオン・エルトナム・アトラシア。アトラス院に名を連ねる錬金術師です」

「錬金術……? じゃあ君はシエル先輩が言うところの魔術師なのかい?」

 

 志貴は自身の拙い魔術関連の知識を総動員するが、シオンと名乗る少女は首を横に振った。

 

「あなたの言う錬金術は西洋錬金術であって、私たちのそれとは根本的に異なるものです。まあ、それは今回の本筋からは逸れるので脇に置いておきましょう」

 

 少しだけ不愉快さを声に滲ませるシオン。一緒にするな、とでも言いたげだ。

 シオンは言葉を一旦区切ると、のどを湿らすために缶へ口をつけ、小さく息を吐く。そして意を決したように志貴を真っ直ぐに見つめる。

 

「単刀直入に言います。私たちは死徒と呼ばれる存在です」

「ッ!!」

 

 死徒、という言葉に志貴は頭蓋が殴られたような衝撃を受けた。一瞬で全身の筋肉が強張り、本能が再び戦闘態勢に移ろうとする。

 

「落ち着いてください!」

 

 ピシャリ! と語気を強めたシオンに、志貴は冷や水を浴びせられるように停止する。張りつめていた空気が一気に弛緩する。そしてクリアになった思考はシオンの言葉に引っ掛かりを覚えた。

 

「私たち? 私たちだって? それって――」

 

 志貴が急いで視線をさつきに移す。さつきは両目を手の平で覆い、指を開くと、

 

 ――隙間から真紅の目を覗かせた。

 

 志貴は驚きに目を剥いた。見間違えるはずもない。熟したトマトよりも赤く、透き通るような赤い瞳。それは間違いなく志貴と呼ばれる異形の特徴だった。

 なぜ? という疑問と同時に納得もした。三咲町は一年前にネロ・カオスや遠野シキが起こした事件によって、見つかるはずのない大量失踪者を生み出していた。

 

 それと同時期に行方をくらましていれば、おのずと答えは絞られる。

 

「そうか、君はシキに」

「うん。夜の街を歩いていたらさ、がくんといきなり力が抜けちゃって。……そこから先はあんまり覚えていないんだ。 ただただ苦しくて、陽の光が痛くて。人の首筋を見たら襲いたくなっちゃうなんてさ、笑っちゃうよね」

 

 あははは、とさつきは笑うが、志貴は口を一文字に引き結び、否定も肯定もしなかった。

 血が滲みそうなほど拳を固く握りしめ、沈黙を選ぶ。

 それはかつて、自分と存在を共にしていたシキの決して消えない罪の残滓。

 互いにうつむく二人に、シオンは続ける。

 

「これで分かったでしょう、遠野志貴。幸い、私たちは吸血衝動に呑まれてはいません。今はなんとか耐えられていますが、それもいつまで持つか。私たちには時間が残されていない。是非ともあなたにはご助力をお願いしたいのです」

 

 懇願するシオンに志貴は小さく頷く。

 

「助力って……、具体的にどうしたらいいんだ?」

「簡単な事です。志貴には私たちと真祖との橋渡し、つまりアルクェイド・ブリュンスタッドと対話の席を設けて欲しいのです」

「アルクェイドと?」

 

 志貴は両眉を上げると、脳裏に能天気な金髪の美女、アルクェイド・ブリュンスタッドの姿が思い浮かべられた。確かに、吸血鬼絡みの事については彼女以上の適任はいないだろう。

 しかし、それならば直接彼女を探し出せばいいはずだ。なぜ、自分を経由するのか。疑問をシオンに投げかけると、彼女は僅かに頬を赤くし、言いにくそうに答えた。

 

「それは……あなたが真祖の『寵愛』を一身に受けている人物だからに決まっているでしょう」

「ハア――――!?」

 

 驚愕が口をついて出た。ただし、声の発生源はシキではない。さつきのほうだ。

 

「どどどどど、どういう事シオン!? 寵愛ってナニ!? 遠野くんと真祖って人が!? そんな事、ひとことも聞いてないよ!? 説明してよ!!」

「がっ、さつき……! は、激しすぎです!!」

「弓塚さんストップストップ!」

 

 がくがくと残像が見えるほどシオンの肩を揺さぶるさつきに、シオンは目を回す。みかねた志貴に止められると、我に返ったさつきはぱっと手を離した。

 はあはあ、と荒い息をついたシオンは服装の乱れを直すと、ごほんと咳払い。

 

「と、とにかく。真祖と最も親しいあなたを交渉材料に使えばもしやと思ったのです。治療の確立には生きた吸血鬼のデータが、しかも出来れば死徒ではなく大元の真祖……現存する最後の真祖の王族、アルクェイド・ブリュンスタッドのデータが望ましいのです。しかし、気高き真祖が一介の死徒である私たちの頼みなど聞いてくれるはずがない。だからあなたに真祖との交渉役を頼みたい。それに吸血鬼化の治療法が確立すれば、吸血衝動を抑える方法も見つかるかもしれません。それはあなたの妹にとっても有益な事では?」

「――よく知ってるなオマエ。喋り過ぎはどうかと思うぞ」

「あっ……」

 

 一瞬、感情を失った瞳を向けられて、シオンははっとする。乾いた砂のような志貴の表情は固い。

 

「も、申し訳ない。私とした事が少し配慮に欠けていました。先ほどの非礼は詫びます」

「いいよ。俺も大人気なかった」

 

 深々と頭を下げられて、志貴もこみ上げてきた黒い物を飲み込むしかない。

 それにさ、と志貴は続ける。

 

「俺も正直、一人では限界を感じていたんだ。街を騒がせている噂の吸血鬼について、アルクェイドなら何か知っているかと思っていたんだけど、マンションにはいないし」

「……真祖は姿をくらませていたのですか」

「ああ。あのお姫様の気まぐれっぷりには慣れているつもりだけど、会おうとすればなんやかんや会えていたんだけどな」

 

 シオンは何か考え込んでいる風だったが、志貴はさして気にした風ではない。

血統書付きのネコのようなプライドの高さと、野良猫のごとき自由奔放さに振り回されるのは慣れているといった事だろうか。

 

 シオンは「噂の一部は真祖……? いやしかし」とぶつぶつ呟いていたが、何かの考えに至ったようで、志貴に提案をしてきた。

 

「遠野志貴、やはり私たちは手を組むべきと提案します。情報収集は私の管轄、バックアップがあればこの街すべての人間の思考を読み取れます。それならばあなたの探す噂の吸血鬼も見つかるかもしれません。ですのであなたは――」

「アルクェイドを君の目の前に連れてくればいいんだろ?」

 

 シオンの言葉を志貴は引き取り、シオンは驚く。

 

「……では、協力していただけるのですね?」

「ああ。どうにも俺一人じゃ埒が明かないみたいだしな」

 

 志貴は無理矢理笑顔を作ると、すっと手の平を差し出した。

シオンは眼前に突きだされた手に取惑いの色を浮かべながらも――恐る恐る手を伸ばした。志貴の手がシオンの手に触れると、少し強張るが、やがて力強く握り返して来た。

 

「感謝します、遠野。これで私たちは同じ目的を持つ同士です」

「――志貴」

「え?」

「だから俺の名前。これから協力する仲間同士になるんだから、お互い名前で呼び合おうよ。いちちフルネームじゃ面倒だし他人行儀だ。俺も君の事はシオンって呼ぶから」

「――――」

 

 シオンは言葉を失い、僅かに顔を赤くする。

 シオン、それは自分の名前、この世に生を受けてから己と共にあった証明記号。アトラスでは侮蔑と畏敬を込めて呼ばれ続けてきた忌み名。

 自分の名に誇りは持っている。没落したとはいえエルトナムは貴族。しかし、その一族に名を連ねる事により不随するものの重さと恐ろしさは十分に理解している。

 いつも自分の名を呼ばれるたびに、小さな棘が食い込む錯覚に見舞われた。

 

 しかし、志貴の言葉に疼痛は感じない。

 彼が敵意の無い底抜けのお人好しだからか?

 それもあるだろう。

 しかし、根本的な理由はそこではない。

 つまり結局は、

 

「ありがとう。あなたがいてくれるなら心強い。そ、その……志貴」

 

 ――単に同年代の異性に名を呼ばれるのが新鮮なんだ。

 

 二人は見つめ合う。しっかりと結ばれた手に互いの体温を感じながら、微笑を浮かべた。

 

「……志貴」

「うん」

「……志貴」

「うん?」

「志貴」

「いやだから、分かったよ。大丈夫だって」

 

 さすがに見目麗しい少女に何度も改まって呼ばれるのは志貴も恥ずかしいらしい。付き合いたてのカップルが照れを残しながら名前を呼び合うようで、互いに含羞を帯びた笑みを浮かべる。

 

「……あのー、そろそろ私もいいかな? というか二人共いつまで手を握り合ってるのかな?」

 

 すっかり忘れ去られていた存在、弓塚さつきが遠慮がちに声をかけてきた。二人は即座に手を離すと、気恥ずかしそうに視線を逸らす。その思春期特有の甘酸っぱさにさつきはハァァァァァァァァァァァァ……、と盛大に溜息をついた。

 

「ふふふふ、まるで私なんて居ないもののように二人の世界に浸って……。ええ、ええ、私なんてどうせ日陰者の脇役キャラだもんね……。クラスメイトの私より、今日会ったばかりのシオンはもう遠野くんと握手できるくらい親密だもんね……」

「さつき!? こ、これはその……!」

 

 ずーん、とベンチのひじ掛けに全体重をかけて落ち込むさつきに、シオンはフォローに回ろうとするが、さつきには届かない。膝に『の』の字を書き始めたさつきは完全にやさぐれていた。

 

 しばらくすると、そんな事で落ち込んではいられないとばかりに、さつきは空元気で立ち上がると、志貴に向き直る。

 その瞳にはどことなく怯えや躊躇いが浮かんでいるものの、何かに勇気づけられたような意思が宿っていた。

 

「ずるいよ遠野くん、私だって――」

 

 と言いかけて、さつきの膝はガクンと力を失う。そのまま地面に倒れ込みそうになるのを志貴は咄嗟に抱える。両腕にかかる衝撃が想像よりずっと軽い事に志貴は驚き、さつきの顔色を窺う。ひどく血色が悪い。それに肌もやつれている。

 

「弓塚さん!? 大丈夫か!?」

 

 何かの発作か、それとも吸血鬼特有の症状か。志貴がさつきに尋ねると、

 

 ――ぐぅぅぅぅぅぅぅぅ~~~~

 

 という音で返答が帰ってきた。

 

「…………………………」

「…………………………」

「…………………………」

 

 空気が凍る。志貴の手は硬直し、さつきは耳まで赤くし、シオンは顔を背けるように銀箔の月を見上げている。

 さつきの赤面具合から見て、年頃の少女が鳴らしてはいけない音が腹部から鳴ったようだ。

 

 志貴は何度か口を開閉するも、止まる。しょせんは、自他共に認める女心の理解度ゼロな朴念仁。気の利いたセリフを思いつくはずもない。

 

「あー、よかったウチくるか? 琥珀さんに無理を言えば何か作ってくれるかもしれないからさ」

「………………………………………………………………うん」

 

 さつきは蚊の鳴くような声で頷いた。

 

 

 



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第四章 悩めるナイムネ

 


 遠野秋葉は不機嫌であった。

 

 浅上女学院(通称浅女)と呼ばれる冷たい揺り籠の中でも、冷徹、冷酷、冷血人間の名を欲しいままにする彼女は、己の機微をコントロールする能力は幼いながらも一級品だと自負している。

 

 事実、大抵の事ならば眉一つ動かさず冷静に処理する秋葉であったが、その彼女が唯一、心をかき乱す存在があった。

 

 何を隠そう遠野志貴である。戸籍上は実兄であるものの、実際は血の繋がらない兄。非常さを叩きこんでくる遠野邸の中で、自分に暖かさをくれたヒト。

 

 遠野秋葉は兄を愛していた。

 

それも家族ではなく異性として。

 

 来たる日のために毎日手入れを欠かさない艶やかな黒髪も、水すら弾く磨き上げられた珠のような肌も、鈍感な兄には一切意味を為さなかった。

 自分に魅力が無い。とは思いたくない。純粋培養箱入りお嬢様製造機である浅女でも自分と並ぶ美貌を持つものなど片手で足りるだろう。

 

 勇気を振り絞って追いかけてみれば孤独癖のあるカレは、あっちへフラフラ、こっちへフラフラ。求めれば求めるほどすり抜けていく兄に、秋葉は言いようのない不安を覚えていた。

 

 いつか、何も言わずに風のように去って行ってしまうようで。

 

 秋葉はかぶりを振って弱気な考えを振り払う。らしくない、欲しい物は力尽くでも奪うのが自分のモットー。無駄に乳がデカイだけのカレーやあーぱー吸血鬼に愛しいヒトを渡してなるものか。少々の胸の薄さなど愛の深さでカバーすればよい。

 

 未だにあの二人が兄に粉をかけている事には甚だ不愉快ではあるが、彼女たちのために兄が深夜に出かける事は減っていた。その事を喜んでいたというのに、すぐコレである。

 秋葉は壁時計に目をやると、既に一時を回っていた。いくら明日は学校が休みとはいえ、無断で学生が出歩いていい時間ではない。

 

 高級そうな絨毯の上をうろうろと意味も無く歩き回り、時折つま先はカツカツと床を叩いて十六ビートを刻む。

 

「……秋葉様。志貴様のご帰宅でしたら私が確認いたしますので、今夜はもうお休みください」

 

 実に三時間近く、後ろで一言も発さずに佇んでいた少女――翡翠が秋葉に就寝を促した。

 クラシカルなメイド服に身を包んだ翡翠の勧めを秋葉は断る。

 

「そういうワケにもいかないのよ翡翠。いままで兄さんの悪癖にはずっと目をつむってきたけれど、もう限界よ。いい加減、遠野家の長男としての自覚をもっていただくためにも、今日という今日はガツンと言ってやらないと気が済まないわ」

 

 苛立たしげに階段の手すりを指先でトントンと叩きながら、まなじりを吊り上げる秋葉に、翡翠は控えめに志貴を弁護した。

 

「秋葉様、志貴様にもきっと事情があるのです。明日、理由を聞けばよいではありませんか。いくら明日はご予定が入っていなくとも、健康によくありません。後の事はどうか私にお任せください」

「よくないわ。あなたがそうやって兄さんを甘やかすからあの人は調子に乗るのよ」

「秋葉様……」

「秋葉様、翡翠ちゃん。お話し中申し訳ございませんが、噂をすれば志貴さんがお帰りになられたようですよ」

「ッ! 本当なの琥珀?」

 

 秋葉は声のした後方を振り返ると、そこには割烹着を着た翡翠の双子の姉、琥珀がにこやかに報告をしてきた。

 秋葉は待ちわびた人物の帰宅に顔を輝かせるが、すぐに引き締める。が、どうしても緩んでしまう。明日は久々の休日だ。埋め合わせと謝罪を兼ねて、どこかへ二人きりで遊びに連れて行ってもらおう。当然、兄に拒否権は無い。

 

 秋葉は二人に見えないよう、こっそりとほくそ笑むと、明日の予定をアレコレと考え始める。ちなみに兄を叱るという考えは既に薄れていた。なんだかんだと秋葉も翡翠の事は言えなかった。

 

 しかし、琥珀の一言が真空管の突き刺さった爆弾のスイッチに触れた。

 

「それが秋葉様、志貴様はどうやら女性をお連れしているようなんですよ。それも二人」

 

 ビキリ、と秋葉のこめかみに青筋が浮かんだ。

 

 女性……?

 じょせい……?

 ジョ・セ・イ?

 

 私がこれほど気を揉んでいる間に……?

 

「あららー、しかもお二人共かなりの美人さんですねー。一人は志貴さんの通われている学校の制服を着られていますし、もう一人の異国風な方も同い年くらいでしょうかー? 両手に花なんて志貴さんやりますねー」

「姉さん……! わざとやっているでしょう……!」

 

 秋葉周辺の空間が蜃気楼で歪み、髪は燃えるような赤色を帯びている。荒れ狂った血潮は体中を全力で駆け抜け、燃えるように熱い。

 そんな秋葉を尻目に、モニターを見つめる琥珀は喜色満面。爆心地へナパーム弾を撃ち込むより激しく、燃料を投下する。

 

「あらら、志貴さんったらお姫様だっこまで。やーん、彼女も照れていますがまんざらでもなさそうですねえ」

「ふーん……」

 

 みしり、という音とともに、秋葉の手から木片が零れ落ちた。先ほどまで握りしめていた階段の手すりを秋葉が握りつぶしたのだ。

 残った木片を投げ捨てると、秋葉はゆらりと身体を玄関へ向け、歩いて行く。殺気のこもったその歩みは止められないと、翡翠は本能で悟った。

 琥珀が開けた鉄製の門扉はもはや地獄への入口。

これから主人の身に降りかかるであろう災難を想像して、翡翠は重く目を閉じた。

 

 

 帰宅した志貴を出迎えたのは一人の鬼だった。

 さすがに客人の前で血を覚醒させる事はしないものの、全身から迸る殺気は熱を帯び、志貴の肌をチリチリと焼いた。

 

 そこで志貴も抱きかかえたクラスメイトと傍らのシオンを見ると、ようやく自身の迂闊さに気が付いた。

 

「秋葉、これには事情が――」

「結構です」

 

 志貴の弁解は怒気の籠った一言に遮られた。

 

「あらあら。あらあらあらあらあらあらあら兄さん。こんな夜分遅くまで、遊び歩いていた挙句、女性を連れてご帰宅とはいい身分ですね」

「……あの、秋葉。もしかして怒ってる?」

「いいえ、ちっとも。兄さんの悪癖は今に始まった事ではありませんし、そんな事でいちいち目くじらを立てていたら身が持ちませんから。兄さんも年頃ですから外に女性の十人や二十人。おほほほほほほほほ。あらやだ私ったら」

 

 自分で話していくうちにボルテージが上がり、歯ぎしりの音が大きくなる秋葉。どう考えても怒っている。

 志貴が弁明を続けようとしたその時、首にかかっていたさつきの手がだらりと下がった。

 

「弓塚さん?」

「さつき!?」

 

 志貴が疑問の声を挙げ、シオンはさつきの側へ駆け寄る。さつきの頬は赤く染まり、呼吸が荒くなる。苦悶の表情から漏らされる吐息は、重く、沈み込むようだ。

 

「琥珀!」

「はいはいただいまー」

 

 秋葉の即断に琥珀は応え、さつきのもとに駆け寄りバイタルサインのチェックを始めた。

 琥珀の細く白い指がさつきの橈骨付近に埋まり、脈拍を測る。

 

「うーん、脈も速いしお熱もありますね。これはちょっと別室で休ませましょう」

「あ、ああ分かった! 俺の部屋でいいか!? 弓塚さん、ちょっとごめん!」

 

 志貴はさつきをお姫様抱っこの要領で抱えると、自室への階段を駆け上がろうと足に力を込める。すると、さつきは微かな声で志貴に何か囁いた。

 

「――――た」

「え? 何? 弓塚さん」

 

 志貴の耳に届く前に口から零れ落ちる声は頼りなく不鮮明だ。志貴はなんとか聞き取ろうと顔を近づけ、さつきの声を拾おうとする。

 さつきは今にも消え入りそうな声で囁いた。

 

「――――お腹すいた」

 

 〇

 

「美味しい! これ美味しいよ遠野くん! あっ、琥珀さんも急にお食事を作ってくれてありがとうございます」

「私からも礼を言います琥珀。実に数か月ぶりの文明的な食事……! ああ、やはり食事とはこうでなくとは! 人とはこうであるべきでは!?」

「お二人共ありがとうございます。ありあわせの食材で作った簡単なものですけれども、お二人にそこまで喜んでいただけるならば私も作った甲斐があります」

 

 目前に並べられた料理を勢いよく平らげていくさつきとシオンに、琥珀は笑顔を絶やさない。よほど空腹だったのか、年頃の少女にギリギリ許される程度の節度を守りつつ、暴飲暴食を繰り返す姿を、志貴と秋葉はじぃっと見つめていた。

 

 結局、さつきの体調不良は一時的なものらしく、小康状態と先程のような発熱と悪寒を繰り返しているのだとさつきは言った。食事を摂れば多少はマシになるとのシオンの言により、さつきとシオンは琥珀に手料理を振る舞われていた。

 

 二人の食事の仕方はすさまじく、お嬢様らしきシオンは所作こそ美しいが速度が尋常ではない。運ばれた料理がまるで手品ように消えていき、どうしても背後にガツガツといった効果音が聞こえてきそうだ。

 

 飢えた肉食獣が久方ぶりに捕えた獲物を胃袋に収める時は、きっとこのような光景なのだろうな、と志貴はどうでもいい感想が浮かんだ。

 

「しかし、すごい食べっぷりだね二人とも。そりゃ琥珀さんの料理は絶品だけどさ、そんなに美味しい?」

 

 志貴のつぶやきにさつきはゴキュ! と喉につまらせ、シオンから手渡されたコップの水を勢いよく飲み干すと、向日葵が咲くように顔を輝かせた。

 

「うん! こんなに美味しいのは初めてかも! お父さんに連れて行ってもらったレストランより美味しいなんてもうなんなのコレ! すごいよすごいよ! 最近じゃ期限切れのネコ缶やネズミばっかりだったから余計に美味しく感じるよ!」

「…………そうか。それはよかった。好きなだけ食べてくれ」

「あららー、お二人共苦労されてるんですねえ」

 

 何やら聞き捨てならない単語がさつきの口から漏れた気がするが、志貴はあえて深く追求はしなかった。志貴は黙って二人を見つめる。

 食堂内にしばらく二人の咀嚼音のみが響き続けた。

 

「――当然、どういう事か説明していただけますよね兄さん」

 

 二人が食事を終えて、琥珀が食後のお茶を運ぶと秋葉が口を開いた。

 紅茶の入ったカップをソーサーに置き、秋葉は腕を組む。その表情は言外に「少しでも嘘を言ったら許さない」と書かれている。緊急事態に食事を提供する事は出来ても、歓待は出来ないらしい。

 

「その、彼女は実は病気で……」

「嘘を言わないでください兄さん。先程琥珀が体を診察したところ、人間ではありえない体温だったそうですよ」

「…………」

 

 志貴は先程までのさつきを思い出すと、思い当たる節があった。

 死徒は生命活動を未だ続けてはいるが、人間のソレとは大きな隔たりが存在する。さつきの体温はまるで体内が燃えているような熱を持っていた。人間ならばとうに死亡しているだろう。

 

 吸血鬼は人を遥か凌駕した膂力を得た代償として、エネルギーの消費が桁違いに多く通常の食事では追い付かない。とうにガソリンの切れた車を無理矢理動かそうとすれば、車体にガタが来るのは当然と言えた。

 

 黙秘を続ける志貴に、いい加減痺れを切らした秋葉は核心に触れる。

 

「彼女たちは吸血鬼でしょう。よりにもよってなぜウチに? 私に始末を任せたいわけではないでしょう?」

「ばっ! そんなワケないだろう!! 彼女は俺の元クラスメイトだ! 危険じゃない!これには深い事情があるんだよ秋葉!」

「ですからそれを説明して下さいと言っているんです!」

 

 互いにギャーギャーと言い争いを続ける二人は、徐々にヒートアップ。志貴の素行にまで追求を始めた秋葉は、志貴の下手な言い訳など聞きはしない。シオンとさつきも一応は止めに入るのだが、頭に血の登った秋葉は「部外者は黙っていて下さい!」と言い放ち、外界からの横槍を完全にシャットアウト。口角泡を飛ばす勢いで志貴を責め立てる。

 

「大体ですね! 兄さんは体が弱いのに遅い時間に一人で出かけるわ荒事に首を突っ込んで帰って来るたびにボロボロになっているわで一体全体、何を考えているんですか!? もう少し遠野家の長男としての自覚を持って下さいと何度言ったらわかるのです!」

「今はそんな事関係無いだろ!? 第一、吸血鬼騒ぎだけじゃなくて――」

「言い訳は結構です! そういった事は全て私の仕事です! そんな事をしている暇があるなら、学校の勉学に励むなり経済学を学ぶなり時間を有効に使ってください。兄さんの帰宅が遅くなるだけで私が一体、どれだけヤキモキしているとお思いですか!? この間なんて兄さんの上着から女性の香がすると翡翠が言っていました。またぞろ、低脳金髪と何かされていたのですか!? 兄さんの節操無し!」

「それはもっと関係ないだろ! お前、ここぞとばかりに言いたい放題――」

 

 ――ヒュン。

 

 言い争いを続けようとした二人の動きが急に制止する。物理的な拘束ではなく、脳から筋肉へ伝わる信号が遮断されたような感覚。

 

 自身の身体が鉛へ変貌したような重さに、志貴と秋葉は抵抗虚しく指先さえ動かす事は出来ない。いくら動けと命令しても、筋肉はギチギチと悲鳴をあげるだけで、他者から強制的に服従されるように、主の命令を無視した。

 

「乱暴な制止ですがご勘弁を。二人共、頭は冷えましたか?」

 

 努めて冷静な口調でシオンは言うと、右手を微かに振った。

 

「うおっ?」

「きゃっ!」

 

 小さな風切り音と共に、全神経を拘束されたような硬直が解かれ、志貴と秋葉は前のめりに倒れる。その志貴は咄嗟に秋葉を受け止めた。

 

「あれ、動く?」

「あなた一体……。それに今のはどうやって」

 

 志貴の腕から離れた秋葉はシオンの腕を睨みつけると、そこで志貴も気付く。シオンの腕周辺に僅かに光を反射している。通常ならば視認出来ないだろうが、光具合からそれが糸状のものだと辛うじて理解できた。

 

「シオン、それは」

「我がエルトナム家の秘技、エーテライトと呼ばれる疑似神経です。もとは医療用の技術ですが応用すれば、対象の神経を乗っ取り自由を奪う事も可能です」

 

 シオンはエーテライトを束ねると、手の中で弄びながら軽く説明をする。

 

 エーテライト。

 

 それはエーテルと呼ばれる架空要素で編み上げられた疑似神経で、他者の神経への介入を可能とする。介入したエーテライトは脳髄からは情報を、魂からは思考法則を読み取る。

 

 ――それは魂のハッキングとでも言うべき悪魔の所業。

 

 他者が長い年月をかけて研鑽し清廉した知識、技術、全てを対象に気付かせることなく根こそぎ奪う。道徳とは無縁の錬金術師たちでさえ眉を顰める異端の技術。いかに倫理、道徳、美学に反していようが極めて合理的なモノ。

 

 それこそがエーテライトだとシオンは言った。

 

「ええ!? あっ、そう言えばあの時何か妙な斬撃を使ってくると思ったら、それだったのか!」

「ますます聞き捨てなりませんね。あなた、兄さんを襲った挙句、死徒の身でありながらよりにもよって遠野家に協力を求めるのですか?」

 

 図々しいのは承知の上です。とシオンも頷く。

 

「ですが、私とさつきもまだ人の血を吸わずにいられている。私は確かに吸血鬼ですが、それでも見境なく人を襲う死徒たちと一緒にされるのは心外です。まだ、何か手があるかもしれないのです。私がまだ私でいられるうちに私は諦めたくないのです」

「うん、私もシオンも体は吸血鬼になっちゃったけど……。まだ、心までは吸血鬼になりたくないの……」

「うっ……」

 

 秋葉は言葉に詰まる。心の奥に染み込むソレは既視感か親近感か、二人の姿に自分を重ねてしまった秋葉は怒りを一時飲み込む。

 

「秋葉、重ねてお願いします。私たちは真剣に吸血鬼化の治療法を探しています。もしこれが実現すれば、魔を狩るあなたがたの負担も減るはずです。それに」

 

 シオンは一息置くと、絞り込むように告げた。

 

「それを応用すれば、吸血衝動を抑える方法が見つかるかもしれません」

 

 秋葉の血は一瞬で沸騰し、紅く染まった髪は文字通り怒髪天をつく。憤怒を目に滾らせた秋葉はシオンの胸倉を掴むと、そのまま壁に叩きつけた。志貴とさつきが制止するが、秋葉の勢いは止まらない。

 

「――――あなたに何がっ!! 他者の思考は読めても、気持ちまでは読めませんか錬金術師!! もう我慢なりません、見逃して差し上げますから私の目の前から消え失せなさい!!」

 

 全身から噴出する殺気を叩き付けられて、全身が粟立つ。秋葉がその気になれば、死徒の身体といえど、一瞬で蒸発する。もし眼光が物理的に干渉できるのならば、シオンの身体をいとも容易く貫いていたことだろう。

 

 しかし、シオンは臆する事も憤慨する事も無く、

 そっと、首を絞め挙げている秋葉の手を包んだ。

 

「――知っています。その辛さは誰よりも知っているから」

「――――――――――――」

 

 秋葉は瞠目し、呆けたように口を開く。そして俯くと、だらりと腕を下げた。

 志貴は秋葉の肩に手を乗せると、諭すように呟く。

 

「もういいだろ秋葉。俺はシオンに協力したい。シオンの研究はきっとこの先、罪もなく犠牲になった人を救えるかもしれないし、今まで犠牲になった人も多少は報われるんじゃないかな」

 

 志貴の問いかけに秋葉は答えず、小さく漏らした。

 秋葉には離れで行われている場景が思い起こされていた。割烹着をはだけさせ、蒸気した肌を露わにした琥珀。その柔らかな肌に歯を立てる自分。そして自分は――

 

「……知っていたんですね。兄さんは」

「……ああ、けっこう前から」

「……そう。そうですか」

 

 志貴は秋葉の肩を抱き寄せると、秋葉は頼りなさそうに体重を預けた。

 細く、繊細で華奢な体躯だ。遠野家という社会的地位のある家を守るための重圧、内に潜む鬼と戦う日々。いかに気丈に振る舞う秋葉と言えど、己を取り巻く境遇はやすりのように心と身体を摩耗させていった。

 

 秋葉は無言で志貴の胸に顔をうずめると、やがて小さく肩を震えさせた。

 さつきは状況が全く飲み込めていない様子だったが、沈黙を選ぶ。

 屋敷の中には時折もれる嗚咽のみが聞こえる、静かな時間が流れて行った。

 

 〇

 

 パシャリ、手酌の水で顔を洗うと、弾ける飛沫が水面を小さく叩く。

 立ち込める湯気は白く、肌という肌が潤っていく感覚に飲み込まれる。

 

「何という贅沢な水の使い方……。湯に浸かる事で血行を促進し、疲労回復の効果まであるのですか」

 

 ほう、と感嘆の息をもらすシオンは再び湯を掬うとパシャパシャとすり込むように顔にかけた。

 湯船に浸かる肢体は暖かく包み込まれ、僅かな浮遊感と共に体中の汚れと疲れが洗い流されていく。

 

 シオンとさつきの居住環境(ダンボールハウス)の現状を知った秋葉は顔を青くし、遠野邸の露天風呂を開放してくれていた。シオンは最初断ったが「淑女はいつでも身体を清潔にする義務があるのです」という秋葉の強引な勧めによって、シオンはお言葉に甘える事にした。

 

 顔を半分まで沈め、マーライオンから流れ出るお湯を眺めていると、背後から扉の開く音と二人分の足音が聞こえてきた。

 

「うっわー、すっごい広いお風呂!! 温泉に来たみたいー!」

「弓塚さん、喜んでくださるのは嬉しいのですが足元にお気をつけて」

「うわとと、ごめんごめん」

 

 はしゃぐさつきと、悠然とした秋葉も浴室にやってきた。二人は軽く体を洗うと、しずしずと湯船に入ってきた。二人共細い体つきのせいか、浴槽に立つ波も随分と小さいな、とシオンは全く関係無い思いを浮かべた。

 

 二人はシオンの側にやってきて、湯の心地良さにしばらく身を任せる。

 さつきはタオルを頭に乗せ「あー、生き返るー」と年寄り臭い声を漏らし、秋葉は優雅に長い黒髪を撫でつける。

 

「お風呂なんて久しぶりー……。今まで、深夜の公園でドキドキしながら水浴びするくらいしか出来なかったもんねーシオン」

「さ、さつき。それは恥ずかしいから内緒にしておく秘密……」

 

 シオンが顔を赤らめているのは湯のせいかはたまた、秋葉には判別が出来なかった。

 ゆったりとした時間が流れ、三人は思い思いの姿勢でリラックスタイム。いままでは忙しくて濡れタオルで体を軽く拭くくらいしか出来なかったので、老廃物が流れて行くこの感覚は天にも昇る気持ちだった。

 三人の肌がすっかり桜色に染まり切った頃、秋葉が唐突に口を開いた。

 

「ところであなた、ええと、弓塚さんでしたか。あなたが着てらした制服は兄の学校の制服だったと記憶しておりますが、兄さんとはどういったご関係ですか?」

「ふえっ!? わ、わたし!? ええと、その、遠野君とは中学校から同じ学校で、高校の時もクラスメイトのなった事があって、あの、そのあのその!」

 

 かなりの狼狽振りを見せるさつきに、秋葉は『私の』兄さんセンサーがギュルギュルと反応しているのを感じ取った。この錯乱具合、間違いない。あの天然女たらしな朴念仁のことだ。またどうせ八方美人の優しさで可憐な乙女を無意識に堕としたに違いない。

 

 秋葉は内心で深々と溜息をつき、多少の同情を含めながら秋葉はさつきのしどろもどろなエピソードに耳を傾けた。

 

 中学二年生、ある冬の日、体育倉庫に閉じ込められた事。

 それは一月上旬の部活終わりで、日の短い真冬の季節ではすっかり太陽が沈んでしまう時間帯。

 

 バドミントン部の練習で使用した用具を片付けようとて、体育倉庫に全員で入ったのが間違いだった。

 もともと、立てつけが悪く、半端な閉め方で毎年一人は閉じ込められるのは、先輩たちから代々語り継がれてきたある種の伝統だった。なので、閉める時は必ず、一人は外で待機させるというのが鉄則だったのだ。

 

 しかし、その日は私含めて気が緩んでいたのかもしれない。早く作業を終わらせたいので、あろうことか全員が室内に入り片付けを行っていたその時。

 突然拭いた強風で扉が勢いよくしまり、その錆びついた重低音とそれに続くガチャリという音は、皆が忘れていた心配を現実のものにした。

 

 最初は全員、誰かが助けてくれると楽観視していた。しかし、時間が経ち、下がる気温と一向に人の訪れる気配の無さに、徐々に焦りが生じていた。

 焦りが恐怖へと変わるのにそう時間はかからなかった。意固地に自分達を閉じ込める扉を蹴り飛ばす暴力的な音をバックコーラスに、さつきは寒さと空腹にただ震える事しか出来なかった。

 

 とうとう、後輩の一人が泣き出した。「私たち、このままお腹すいて死んじゃうのかな。寒くて死んじゃうのかな」と。

 

 そんなの知らないよ。と私は言いたかった。後輩は私に何か安心出来るようなセリフを言って欲しいらしく、しきりに話しかけてきたが私は「そうだね」とか「大丈夫だよ」などの気の抜けた返事をするだけだった。

 

 私は自分が泣き出さないようにするだけで精一杯だった。

 弓塚先輩は大人びていてかっこいいと後輩たちは言う。

 うううん、私は必死に背伸びをしているだけ。

 弓塚は聞き分けが良くて素晴らしいと先輩たちは言う。

 うううん、ホントは弱いから仮面を使い分けるのが上手いだけ。

 

 本当の私など弱くて、どこにでもいる平凡な女の子だ。勝手な勘違いをしないで欲しい。

 

 ぎゅっとジャージのズボンを握りしめて耐え続ける。涙腺はもう決壊寸前。もはや勝手に持たれたイメージなど投げ捨てて、みっともなく泣き喚いてしまおうか。

 

 じんわりと視界が滲んだその時、扉の向こうから声がした。

 

「――中に誰かいるの?」

 

 その声に私はハッとした。

 この柔らかくも芯の強い、温かな声はクラスメイトの遠野志貴クンだ。「見て分からないのかあああああああっ!」と怒鳴り散らすバドミントン部の主将の声に怯むことなく、遠野クンは冷静に二言三言言葉を交わす。

 

「内緒にしてくれるなら開けられる」

 

 と聞こえた。どうやって? 私が思うより早く、すっと扉に真っ直ぐな線が走った。

 金属製の分厚い扉はまるでバターのように切り裂かれ、派手な音と共に倒れた。

 

 木枯らしが倉庫内に流れ込み、一瞬、身体が縮こまる。しかし、それも一瞬の事で久しぶりの外はすっかり夜なのに明るく見えた。

 

 皆が歓喜の声を上げ、我先にと外へ飛び出す。細かい事はどうでもよかった。

 

 私たちは助かった。

 

 遠野クンが助けてくれた。

 

 それだけでもう十分だった。それ以上はきっと私の頭がパンクしてしまう。

 わらわらと出ていく女子部員を眺めながら、なんでもない事のように佇む彼に、私はお礼を言おうと近づいた。

 

「あの……」

 

 言葉が上手く出てこない。そういえば喉もカラカラだった。上手く回らない舌を懸命に動かし、何とか感謝の気持ちを伝えようとするも、言葉は詰まって出てこなかった。

 すると、私に気が付いたらしい遠野クンがこちらにやってきて、微笑んだ。

 

「寒かっただろ。早く家に帰ってあったかいお風呂に入るといいよ」

「えっ、あの私……」

「ご両親も心配してる。寄り道せずに帰るんだよ」

 

 自分の言いたい事だけ言うと、話は済んだと言うように、遠野クンは背中を向けて、白い息を吐きながら去って行った。

 私は彼の消えた方角をしばらくぼうっと眺めていた。

 

「――っていうのが私と遠野クンの馴れ初めなんですけど……。あれ、秋葉さん? シオン? どうしたのそんな顔して?」

 

 さつきが思い出話を語り終えると二人は――微妙な顔をしていた。

 秋葉は腕を組んで、複雑そうに眉根を寄せ、何か考え込んでいる。

 シオンは薄く目を閉じ、何かに呆れるように天井を仰いだ。

 

「くっ、何それ羨ましい……! そんな一生忘れられないような甘酸っぱいエピソードなど私には一つも……っ!」

「ええ? 確かに絶対忘れられないけれど甘酸っぱいかなあ? それに遠野クンは多分……」

「はい、恐らくさつきの事をクラスメイトだと認識すらしていなかったと思われます」

「あっ、シオンもやっぱりそう思う? そうだよね……遠野クンってそういうところあるもんね……。高校のクラスで一緒になったとき、『初めまして』なんて言ってきたんだよ……?」

「やはり志貴は心の機微にまったくもって愚鈍です」

「それについては完全同意いたします」

 

 さつきは肩を落とし、秋葉は嫉妬を表情から消して同情の念を浮かべた。やはり彼女は自分と似ていると思った。

 自分と似た人間を前にした時、ヒトがとる行動は二つに一つ。

 徹底的に嫌うか、好きになるかのどちらか。

 

 秋葉にとっては自分から兄を奪おうとする輩など殺しても許さない。しかし、この二人はどうか。

 己の本心を素直に告げられず、いくつもの仮面で周囲を欺き己の弱さに嘆く者。

 絶望的な状況ながらも、諦め悪く困難に立ち向かおうとする者。

 

 秋葉はしばし無言で二人を眺めると、やがて観念したように湯船から立ち上がる。

 

「分かりました。お二人は事が終わるまで、いいえ気のすむまで屋敷に居てくださって結構です。私もお二人に協力します」

 

 秋葉の言葉にさつきは驚き、シオンもどういった心境の変化か、と目を丸くしていた。

 

「それは嬉しいけど本当にいいの? 私たち……だよ?」

 

 さつきはあえて言葉を濁すが、秋葉は笑う。

 

「ご心配なく、私も似たようなものです。それに――」

「それに?」

 

 女王様じみた悠然としたポーズをとる秋葉。

 

「それにお二人は何だか仲良くなれそうな気がします。低脳吸血鬼やカレー臭い法衣女よりよほど」

 

 それだけ言うと、ザバリ、と秋葉は湯船から上がり、出ていきそうになる。無駄のないプロポーションと、そこからしたたり落ちる雫が何とも美しい。

 その魅惑的なヒップにかかる黒髪と、そこに隠された白い背中に同姓のさつきですら唾を飲みそうだった。

 秋葉は浴室の扉に手をかけ、振り向いた。

 

「ですがこれだけは肝に銘じておいてください。兄さんに何かあったら絶対に許さないと」

 

 秋葉はそう言い残し、扉を静かに閉めて去って行った。何やら話声がするので、琥珀か翡翠のどちらかが待っていたのかもしれない。

 

 残された二人は、示し合わせたように顔を合わせ。

 

「愛されてるねえ、遠野クン」

「ええ、とても。さつき、あなたの恋路はとてつもない茨道のようですよ」

「うう、頑張ります……」

 

 ここが風呂場で本当に良かったとさつきは思う、頬を伝うしょっぱいものは、きっと汗だと誤魔化す事が出来たのだから。

 



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第五章 残滓の悪夢

 寒くて痛くて不安で苦しくて独りぼっち。

 

 夜の街は冷たく、無口な他人は流れるだけで、私は群衆に埋もれる誰か。

 ふらりと入った路地裏で膝を抱え、私は独りじっと耐えていた。

 

 ずっと弱い自分が嫌いだった。

 

 私は器用な子だった。相手の求めるままに仮面を作り変え、その人の望む事をしていればいつの間にかクラスのアイドルなんて呼ばれるようになった。

 

 だけどそれは弱い私を隠すための嘘、幻想、擬態だ。

 

 両親も学校も、自分を閉じ込める社会のルールも何もかも面倒で鬱陶しい煩わしい。

いっそ全部無くなってしまえ。

 

 そう思っていたら本当に無くなってしまった。

 

 そこで私はようやく気付いた。

 

 あれほどやかましかった社会のルールも、お節介に過ぎる両親も、みんなみんな弱い私を守っていたという事に。

 常識、と呼ばれる枠組みの中で、普通、というレールに乗っている事がどれだけ奇跡的な事なのか、馬鹿な私はすべてを失わなければ気が付けなかった。

 

 ちっちっち、と小さなネズミが目の前を走る。私は常人離れした動きでそれをなんなく捕獲し、ぞぶり、と歯を立てる。

 油や泥で薄汚れた毛が舌に触れ、ドブのような異臭が鼻をつくが、もう慣れっこだ。少し歯に力を込めて、血で喉を潤す。

 

「ん……」

 

 ぷはあ、と息をついてさつきはようやく一息ついた。これで少しはましになるだろう。

 火傷に唾を塗るような、何の解決にもならない一時の気休め。それでも、確かに抑えた。

 

「吸うもんか。絶対に吸うもんか」

 

 さつきはねずみをアスファルトに放り投げるとよろよろと立ち上がり、ごみ箱を漁ろうとする。

 

 ――足りない。

 

 ――足りない足りない足りない足りない足りない足りない、圧倒的に足りない!

 

 ー何が?

 

 愚問に過ぎる。

 

 私はとっくに壊れてて、人の尊厳なんて微塵も残っていなくて、私ですら上手く言えないひどく曖昧な一線をぎりぎりのところで踏みとどまっている。

 それでも、それでも私はその一線を守り続ける。

 

 日々壊れていく私の心が恐い。もう、ネズミや犬猫の血で誤魔化すのも難しい。

 私が私でいられるのは一体、あとどれくらいなのか。

 

「――志貴クン」

 

 無意識に最も信頼できるひとの名前が零れた。

 

「――志貴クン、志貴クン、志貴クン」

 

 会いたい。彼に会いたい。

 ピンチの時は助けると、彼は言った。

 他愛の無い口約束。だけど、志貴クンなら何とかしてくれそうな気がした。

 

 ――ドクン!

 

 彼の顔を思い出した時、私の心臓は一際強く跳ね上がった。彼の優し気な目元が、屈託の無い笑顔が、ふとした時に見せる優し気な表情が、コマ送りのように脳内へ映し出される。

 

 ――破裂する!

 

 身体の中から、小さな火種が爆発し誘爆し、内部から崩壊していくような激痛。胸を掻き毟り、のどを絞めて抗うも、湧き上がる衝動は全く怯む気配はなく、むしろ勢いを増す。

 

「うぐあああああっ! があああああああっ!」

 

 ガンガン! と手足をむやみやたらにバタつかせ、コンクリートの外壁を、アスファルトの地面をえぐり、破壊する。

 

 ――痛い。

 ――痛い痛い。

 ――痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛いなんてものではない!

 

 とたん、酸っぱいものがこみ上げて、げえげえ吐いた。今朝がた口に入れた、半消化体の残飯がぶちまけられる。

 

 頭蓋へ直接電極を打ち込まれ、高圧電流でショートさせられた脳は割れるように痛む。

 激痛をこらえながらのたうちまわり、吐瀉物を全身に隈なく塗りたくるとようやく衝動はおさまった。

 

 痛くて寒くて情けない。こんな醜態を晒してまで生きている意味があるのか。

 涙を零しながらも、私は立ち上がる。

 

 暴れ過ぎた、あれだけ騒げばいかに人気の無い路地裏といえど、人が来る可能性がある。そう思った矢先に、

 

 

「――君、こんなところで何をしているんだい」

 

 

 最悪な場面にその人は現れた。

 年の若いサラリーマン風の人は、汚れた私の格好を見て、心配そうにこちらを見ていた。

 何でもないです、と私は言おうとして彼の顔を視界に収める。

 

「――――あ」

 

 それがいけなかった。

 彼は平凡な顔立ちだった。短く切りそろえた短髪で黒縁眼鏡からは優し気な瞳が覗いている。

 

 そして何より。

 

 ――志貴クンにどこか似ていた。

 

「――――――――――――」

 

 考えるより先に体が動いていた。彼が恐怖を浮かべるより早く、私の身体は動き出し、喉笛に喰らいつこうとして。

 

 ――ピン、と全ての自由を奪われたのだ。

 

 まるで体が何かに縛り付けられたかのように動かず、吸血鬼の膂力をもってしても動かない。サラリーマン風の彼は、私の異変を察したものの、私への恐怖心が勝ったらしく、一目散に逃げ出した。

 

 代わりに、一つの人影が現れ、ネオンの毒々しい光に照らし出された。

 最初は黒ずくめかと思ったが違った。夜では分かりにくいが、全身紫で随分と目立つ格好だ。エキゾチックな香りのする彼女は腕を振るう。

 

「それ以上いけません。あなたはそちら側へ行ってはいけない」

 

 それが私とシオンの出会いだった。

 

 私たちは色々な事を話し合った。自分の過去や境遇、いかにして吸血鬼になったのか。

本音を言うと、錬金術や魔術などシオンの取り巻く環境の事を完全に理解しているわけじゃない。それでも、私と同じような立場で同じ苦しみや悲しみを分かち合える友達が出来たのが嬉しかった。

 

 シオンは色々と教えてくれた。私よりずっと長く、吸血衝動と闘ってきたらしく、何とか吸血衝動を誤魔化す方法や、人に見られず行える街での生き延び方もシオンから学んだ。

 シオンと過ごした日々を思い出していく中で、私はこれが夢なのだと気が付いた。

 これは吸血鬼と化した私とシオンの思い出。あの時シオンがいなければ、私はとっくに一線を越えていた。

 

 私はまだ大丈夫、私はまだ――

 

 その時、私の世界はぐにゃりと歪んだ。

 

 テレビの砂嵐じみたノイズがいっぱいに広がり、足元が溶けて奈落に落ちていくような感覚。感覚はひどく頼りなく、夢の中で夢を見るよう。

 

 瞬間、視界がクリアになった。

 

 舞台は同じ路地裏。空には満天の星空。吹き抜ける夜気。

 ただ一つ違うのは、

 私が、人間の血を吸っていたというコトだけだった。

 

 首筋に吸い付いた唇から、艶めかしく濃厚な鮮血が喉を流れ、それに反比例するように人間からは体温が消えていった。

 よく見れば、その人はさっき逃げて行ったサラリーマン風の男だった。

 口を離し、名残惜しそうに私は口元の血を袖で拭う。

 

 私は恍惚の表情を浮かべ、薄く微笑む。

 無造作に投げ捨てた人間は、灰となって風に流され消えていった。素質が無かったのだろう。今夜は外ればかりだ。

 

 一息入れようと、さつきはアスファルトに腰を下ろすと、びしゃりとスカートが濡れた。

 スカートを濡らしていたのは血液だった。

 その赤黒い液体は地面一杯に広がり、周囲の壁も血飛沫が飛び散り悪趣味な現代アートのようだった。

 

 見渡せばそこは一つの地獄だった。手足を無造作にもぎ取られ、脳漿をぶちまけ、首を捩じ切られ、十人十色の殺され方をしている。

 

 ――これは私がやったのだろうか?

 ――当然だ。他に誰がいる。

 内なる私が律儀に答える。

 そして私はくつくつと肩を震わせた。

 ――ああ、なんだ

 ――私はとっくに――

 

 〇

 

「――うぐあうっ!?」

 

 叫びと共にさつきはベッドから跳ね起きた。はあはあと荒い呼吸を繰り返し、両手を見る。綺麗な手だった。血の残り香も無い、見た目だけなら何の変哲も無い少女の手だ。

 

「はあ……」

 

 安堵の息とともに、ぐっしょりと全身が濡れているのに気付いた。翡翠と名乗るメイドさんが用意してくれた寝間着は汗を吸い、ずっしりと重い。

 

「またあの夢かあ……」

 

 元から吸血衝動を無理矢理抑えているだけに、先程のような夢を見る事はたびたびあった。しかし、ここ最近頻度が上がっている。

 ちらり、とさつきはベッド脇のテーブルに置かれた血液パックに視線を投げる。

 秋葉から「どうしても我慢出来なくなったら」と渡されたものだ。

 

 シオン曰く、死徒は肉体の崩壊を防ぐだけなら200ml程度必要だと計算していた。

 視線の先にあるのはきっちり200ml。シオンの計算が正しければあれでしばらくしのげるだろう。

 震える手を伸ばしかけ、やめた。

 さつきは後悔を断ち切るように、部屋を後にした。

 

 ジャーと水道から出される水をコップになみなみ注ぎ、さつきは一息に飲み干した。

 冷水の清涼さが内臓から冷やしてくれるようで、少しだけ落ち着いた。

 コップを流し台に置くと、部屋にもどろうとした時、目の前に志貴が現れた。

 

「弓塚さん。起きてたんだ」

 

 やあ、と軽く片手を上げる志貴は寝間着で、さつきは中々見られない志貴の姿にどきりとした。志貴は戸棚からコップを取り出し、さつきと同じように水を汲んだ。

 

「こんな時間にどうしたの? あっ、俺と同じか。そうだよね。他にキッチンへ用は無いもんな。つまみ食いなんて考えるのは俺くらいだろうし。というか秋葉や琥珀さんに起こられるもんな」

 

 すでに流しに置かれていたコップを見つけた志貴は、苦笑しながら水を口に含む。

 ごちそうさま、と誰も居ないのに律儀に礼を言う志貴が何だかおかしくて、さつきは暖かくなった。

 

「それじゃ、俺はもう部屋に戻るよ。弓塚さんも速く戻った方がいい」

「ええっ、あっ、う、うん……」

 

 さつきは早々に立ち去ろうとした志貴だが、さつきの脳裏に一つの考えが浮かんだ。

 これは二人きりで話すチャンスなのでは?

 そう思った瞬間、さつきは志貴の寝間着の裾を掴んでいた。

 

「も、もうちょっと話そうよ遠野クン! せっかく偶然会えたんだし!! このまま寝るなんてすごく勿体ないよ!!」

「そう? それなら少し話そうか」

 

 志貴はさつきの勢いに押され、テーブルに備えられた適当なイスに腰を下ろした。さつきもそれに倣い、対面するかたちで着席する。

 それじゃ何から話そうか、と気軽に志貴は笑い、さつきは浮足立っていた。

 いざ何かを話そうとすると、咄嗟に話題など思い浮かばない。

 

「遠野クンは何かご趣味は!?」

 

 盛り上がらないお見合いで無理矢理話題を探すようになってしまった。当の志貴も戸惑いながらも律儀に答えた。

 

「趣味は……しいて言うならナイフ集めかな。ナイフの鋭い刃先とは光を鈍く反射する輝きとかちょっと興奮する」

「ナイフ集め! うんうん、すごくいいと思うよそれ!」

 

 志貴の異常性の片鱗が垣間見えるセリフも、興奮したさつきにはさしたる問題ではない。むしろ、ナイフを恍惚とした表情で眺める志貴クンも素敵! と妄想に拍車がかかっていた。

 テーブルの上で組んだ指をもじもじとさせながら、さつきは拙くも次々と話題を振った。

 

それは他愛の無い、毒にも薬にもならぬ話ではあったけれど、さつきが志貴と同じ学び舎で過ごした日々のように眩しい時間だった。

 

 そしてさつきは本題に入る。

 

「その遠野クン、突然なんだけどさ、……覚えてる? 私たちがまだ中学二年生だったころに体育倉庫に閉じ込められたのを遠野クンが助けてくれた事」

「え? そんなことあったっけ?」

 

 志貴は記憶の糸を手繰るように首を傾げた後、一考するが、海馬でのサルベージ結果はあまり芳しくないようだ。閉じた瞼にしわが寄るも答えが出ない。

 さつきは志貴のそんな態度に相好を崩し、思わず吹き出してしまった。

 

「ぷっ……! あははははははははははははははは!」

「なっ、何だよそんな大笑いして。俺、何かおかしな事言ったっけ?」

「ううん。遠野クンらしくていいなって思っただけ。そうだよね、遠野クンにとっては何でもない事だよね。それって、とってもすごい事なんだよ」

「ご、ごめん。本当にわからないんだ」

「いいのいいの」

 

 さつきは顔の前で手を振って、目端に滲んだ涙を指で救う。

 少しだけ悲しかったが、喜びのほうが勝っていた。

 

 ――そうだった。私はこんな人だから好きになったんだ。

 

 決して目立つ風貌ではないけれど、いざという時に何でもないように現れ、飄々と去って行く風のようなヒト。

 

「わたしね、こうやって遠野クンとこうして話せたらいいなって、ずっと思ってたんだ」

「……何言ってるんだ。話なんてこれからいつでも出来るだろ」

「……うん、だよね。私は吸血鬼なんてものになっちゃったけど、これが治ったらまた学校で話せるかもね。あ、でも私はもう退学になっちゃってるか」

「……」

 

 志貴は空席になった机を思い出し、顔を曇らせる。教室の一番左の窓際、そこが彼女の席だった。

 

 主を失った小さな城は所在なさげに佇み、風を孕んだカーテンはその上をそっと撫でるだけ。ぽっかりと開いた穴は、どうしようもなく彼女の不在を物語っていた。

 志貴の陰鬱な表情とは裏腹にさつきの表情は晴れやかだ。憑き物が落ちたように両手でガッツポーズをした。

 

「だいじょーぶだよ! 私はまだ生きてるんだから。退学くらい、吸血鬼になっちゃった事に比べたら全然平気! 私には心強い友達も出来たし、遠野クンにだってまた会えたもん!」

 

 さつきは仮面ではなく、巣の笑顔で本心から口にした。

 言葉は空元気でも、それはいつか必ず本当になる気がした。

 

 ――私は弱い。ただ、要領が良かっただけだ。

 

 臆病者が小利口に立ち回ってきただけで回りに勘違いされてきただけだ。

 

 ――それでも私にはこんな弱い私を助けてくれる人がいる。

 

 それだけでさつきは幸せだった。

 じんわりと胸の奥が暖かくなり、さつきは立ち上がる。時計の短針は二時を過ぎている。そろそろベッドに戻らなければさつきはともかく志貴には差し障りが出るだろう。

 

「そろそろお開きにしよっか。付き合ってくれてありがとう遠野クン。また、こうやって話していいかな」

「俺で良ければよろこんで」

 

 即答する志貴にさつきは笑い、志貴は立ち去ろうとする。先に部屋に戻ろうとする志貴の後ろ姿をさつきは見送る。

 

 そこで、さつきの視線は一点に吸い込まれる。

 

 短く切り揃えられた髪と寝間着の間にある、やや色白な首筋。

 

 

 ――どくん。

 

 

「――――――――――――――――――ッ」

 さつきは咄嗟に目を逸らし、口元を抑えて顔を伏せる。

 

 荒く漏れそうになる息を押し殺し、小さく腹式呼吸。

 落ち着け、落ち着け、おちつけ、オチツケ。

 ひゅう、ひゅう、と指先から小さく音が漏れる。気付かれたか、とさつきが上目遣いに志貴のいた方向を見ると、幸いにも志貴は姿を消していた。

 

 さつきは安堵の息を吐くと、かぶりを振った。

 ようやく、最近はこれといった吸血衝動も無かったのに。

 

 今夜はおかしい、志貴とその他の人では滾る激情が桁違いに大きい。

 私は彼が欲しいのだ。異性を欲し、まぐわい合うは生命としての定め。それが性交ではなく吸血という行為にすり替えられたのが『吸血鬼』と呼ばれる生命体だ。

 

 そこでさつきは一つの重大な解に至る。

 つまり吸血衝動は。

 ――意中の相手への想いが募るほど大きくなるのだと。

 

 

「上手くいったようですねさつき。やはりあなたはやれば出来る子です」

「過保護ですねシオン。まあ、私も人の事は言えませんが」

 

 渡り廊下を潜り抜け、あてがわれた部屋に向かうさつきを眺めながら、シオンは微笑み、秋葉は唇を尖らせた。秋葉は薄いネグリジェでシオンも貸し出された色違いのお揃いだ。

 もしさつきが志貴を襲おうものなら、一片の慈悲もなく殺害するつもりだった秋葉はシオンを薄く睨む。

 

「で、聡明なあなたの事ですから何か保険はかけていたのでしょうが、そのエーテライトとやらを刺せば吸血衝動を抑えられるんですか?」

 

 秋葉の質問にシオンはまさか、と首を横に振った。

 

「それで抑えられるのならばとっくにやっています。エーテライトに出来るのは神経へのハッキングによる行動の制限や操作、後は思考を読み取るだけです。さつきは志貴を襲いたい気持ちをきちんと自分でコントロール出来ていました」

「……ちょっと待ってシオン。思考が読めるですって?」

「はい、そう言いましたが」

「じゃあ、あなたは兄さんの思考も読めるっていうの?」

「造作もありません」

 

 シオンは努めて冷静に、淡々と答えるが秋葉には何か背徳的な欲求が沸き上がっていた。

 

 ――もしそれを私が使えるようになれば、兄さんのあんな事やそんな事が……

 

 秋葉はしばし黙考し、がしりとシオンの手を掴んだ。

 その双眸は新しいオモチャを買い与えられた子供と、生贄を前にした悪魔が混在するような綺麗に濁った瞳だった。

 

「シオン、そのエーテライトの使い方をご教授してくださらない? 出来れば明日からでも」

「……何やら不穏な事を考えているようですが、対価としてはお安い御用です。志貴にもいい薬になるでしょうし」

 

 シオンはポケットからエーテライトを取り出すと、秋葉に手渡した。秋葉は興奮さめやらぬようで、軽く鼻歌を歌いながら、自室へ戻っていった。

 志貴はまた秋葉に逆らえなくなる要素が一つ増えた事を知るのは、少し後のお話であった。

 



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第六章 噂を推察

 アブラゼミとクマゼミは季節的にどちらが先に鳴きだすのだろうか。

 喫茶店に避難しようとしていた大学生風の男に刺したエーテライトからの情報によれば、クマゼミは七月下旬で、アブラゼミは八月上旬に鳴きだすらしい。ならば、街路樹の下を歩く人々を聴衆に、ミーンミンと喧しい大合唱を続けているのはアブラゼミか。

 ――四番停止

 雑念から無駄な事に思考を割いてしまった。

 昨夜久しぶりに見た悪夢が尾を引いているのだろうか。

 全て中身を抜かれ、飲みつくされた人間で埋め尽くされていた川。そこに流れる真紅のせせらぎを浴びる様に飲む自分。そこに現れたソレは、飲む以上の血液を両目からこぼし、泣き笑いする吸血鬼。

 ぐらり、と地面が揺れて、シオンはよろめく。手近な街路樹に手をつき、はあはと荒い息をつく。ポケットから取り出したハンカチで滝のように流れる汗を拭うと、容赦なく照り付ける太陽を思わず恨めしそうに睨みつけた。

 夢の中と同じように今日も暑苦しい。手で作ったひさしから覗く太陽の高さから考えて、時刻はまだ昼過ぎといったところだろう。

 シオンはアルクェイドの元へ書置きをしにいった志貴や、いまだ日差しには弱いさつきとは別行動をとり、『噂の吸血鬼』とやらが出る街を徘徊していた。

 信憑性が皆無だというのに、皆が心のどこかでその存在を恐れ、当然の事のように認められている。街の人々は誰もが悪い予感を抱いている。ならばヤツが姿を現すのも時間の問題だろう。

 情報の誤差を修正するためにも、シオンはエーテライトと分割思考をフル稼働させ、情報を収集する。

 ――一番思考。赤く長い髪をした女が深夜に徘徊している。

 ――これは秋葉のことだろう。無視して構わない。

 ――二番思考。金髪赤目の美女が人を素手で切り裂いていた。

 ――真祖の可能性がある。位置情報を記憶しておく。

 ――三番思考。学生服の男がナイフで人を刺していた。

 ――誰の事だろう? 吸血絡みではない通り魔殺人事件だろうか。

 ――四番思考。夜中、公園の噴水で水浴びをする少女のホームレス達が出ている。

 ――カットカットカット!

 シオンは流れ込んできた情報を無視するように、エーテライトの接続と分割思考を一時停止する。

「やはり、昨日の今日では大して情報の変化はありませんか」

 シオンはやや落胆したように呟くと足を止める。

 もとより、実入りの少ない探索になる可能性のほうがずっと高かったのだ。やはり、噂が具現化するには今少し時間が必要だと分かっただけでも収穫だ。

「……そろそろ時間です。もどりますか」

 シオンは踵を返して、遠野邸へ歩を進めた。

 ここでしくじるわけにはいかない。このような些事で計画を台無しにしてなるものか。

 ――そう、だって私は

「私はそのために来たのですから」

 

 〇

 

 アルクェイドのマンションから志貴が帰宅すると、いつものように翡翠が出迎えてくれた。

「お帰りなさいませ志貴様。居間に冷たいお飲み物をご用意したのでお召し上がりください。カバンは私がお部屋へお持ちいたしますので、どうか志貴様はおくつろぎください」

 最初は鉄面皮だと思っていた翡翠も、最近ではすっかり表情が読めるようになった。こちらを心配してくれている時は微かに眉尻が下がる。

普段ならばカバンなど自分で運ぶのだが、慢性貧血持ちにはここ最近の日差しは確かに堪える。翡翠の言葉に甘えて志貴はカバンを渡すと、翡翠はうやうやしく受け取り、階段を登って行った。その後ろ姿が浮足立って見えるのは、滅多にやらせない仕事を任されたからだろうか。

 志貴が居間に向かうと、すでに先客が居た。

「シオン、帰ってきたのか。弓塚さんは?」

 シオンはアイスティーを優雅に飲みながら涼しい顔。かちゃり、とカップをソーサーに置くと、ニーソックスに包まれた足を組み替える。元が怜悧な美人であるだけに、こういった仕草は理知的な美しさを引き立てる。志貴は少しだけ心拍数が上がった。

「ええ、つい先ほど。さつきは昼間動くのが厳しいので今は眠っています。私も志貴が帰宅しようとしていたので早めに切り上げて帰ってきました」

「? 俺の事を見ていたのかい?」

「……いいえ。これのおかげです」

 シオンはすっくと立ち上がると志貴の目の前に立ち、右腕を志貴の額を指さす。

「……? ゴミでもついてた? そういえば額には妙な違和感があったような気がしてたけど」

 志貴は額をパッパと払うと、微かに抵抗があった。肉眼では視認できない紐状のものがある。

「勝手だとは思いましたが……。志貴には昨晩からエーテライトを接続し続けていました」

「エーテライトってあの? 何だってそんな事を。何か意味があるのか?」

「私はエーテライトは思考や記憶を読み取ると伝えましたが、それはエーテライトの役割のごく一部です。私がエーテルライトでバックアップすれば各神経のリミッターを解除することによって一時的に貴方の戦闘力をバックアップ出来ます。もし、あなたが噂の吸血鬼に襲われた場合、私が側にいなくともあなたの手助けになるはずです」

 つながりを確かめるようにシオンはエーテライトをつまむと、指先で転がす。

 志貴はシオンの周到さに一驚し、肩を竦めた。

「なんだかドーピングみたいだな……。というか、何もそこまでしなくても。いくら何でもちょっとばかし大げさ過ぎやしないか?」

「いいえ、私たちが探し求めるものを考えればこれでも不十分なくらいです。どれだけ備えていても足りないという事はありません。何かの際の保険とでも思っていて下さい。思考を読まれるのが不快だというのならば、極力、貴方の思考は読み取らないようにするので我慢してください」

 シオンはエーテライトを取る気はないらしい。シオンの気迫に志貴はやや鼻白み、志貴は不承不承といった具合に頷いた。

 志貴は額に残る違和感が、シオンとの繋がりを証明しているのだと考えるとそう悪い気はしなかった。

「……分かったよ。シオンなりに俺の事を気遣ってくれたんだろ? ならありがたく受け取っておくよ」

「…………ええ。ぜひ」

 シオンが少しだけ寂し気な表情を浮かべている理由が志貴には分からなかった。

 志貴がその事を尋ねようとすると、遮るようにシオンが約束の一件を切り出す。

「ところで志貴、真祖とのコンタクトの件はどうなりました?」

「それがさっぱりなんだ。マンションの方へ行ったけどやっぱりいないし、他に行きそうなところは全て回ってみたけど成果もないな」

 困ったもんだ。と志貴は片を竦め、猫探しの困難さを実感する。

 最も、志貴は書置きに「これ以上、姿をくらまそうものなら二度と朝飯は作ってやらん!」とアルクェイドのウィークポイントを的確に突く書置きをしてきたので、翌日には会えるだろうと楽観視もしていた。

「……志貴、そのようなくだらない事で真祖が現れると本気で思っているのですか?」

「来るさ。絶対に来る」

 当然のように志貴は答えると、確信しているように微笑んだ。しかし、シオンは納得していない様子で疑いの眼差しを向けてくる。

 ――仮にも真祖の王族が

 ――本来必要無い人間の食事如きで?

「君の気持ちは分かるけどさ、これが今のところ一番効く方法だと思っている。以前、アイツと秋葉が殺し合いのような喧嘩をした時も、意地でも謝らなかったアイツをこれで何とかしたんだ。明日あたりに合えるさ」

 シオンは未だ納得していない様子であったが諦めた。もともと人間の判断基準で理性的に動かない真祖の行動は、不確定要素が多すぎてひどく読みづらい。今のところ有効な手立ては無いのだから、唯一コンタクトを取れるかもしれない志貴に任せるしかシオンには方法が無かった。

 そして、シオンは兼ねてより組み立てていた仮説を開陳した。

「志貴、もしかして真祖は意図的に真祖から離れているのではありませんか?」

「どういう意味?」

「つまり――再来した吸血鬼は真祖かもしれないという事です。もともと真祖こそもっとも強い吸血衝動を抱える生物です。噂の吸血鬼とは一年前のそれではなく、吸血衝動を抑えきれなくなった彼女であるという可能性も――」

 

「いやぁ~~ないない。それはない」

 

 実にあっけらかんと、志貴はシオンの仮設を否定した。感情論で拒絶しているのではなく、心底あり得ないと確信している様子だった。

 そのあまりにあっさりとした態度にシオンは豆鉄砲を食ったようにポカンとする。

「シオンは知らないだろうけど、アルクェイドに限ってそれは絶対ないって。絶対に」

「絶対に……ですか」

 志貴はここにはいない彼女へ思いを馳せるように、信頼し切った表情を浮かべた。

 ずきり、となぜかシオンの胸が痛んだ。ぎゅっと胸の前で拳を握ると、その感情に名前を付ける前に、感情に蓋をする。

 シオンは出鼻を挫かれたように、やや伏し目がちになる。

「何の迷いもなく言い切れるなんて、志貴はすごいんですね。そこまで信頼してくれる人がいるというのは、素直に羨ましいです」

「え、あ、う、うん……。ま、まあとにかくあいつは人の血は吸わない。信じがたいだろうけどアルクェイドは」

「吸血鬼ではない。というのでしょう。志貴がそう言うのならば信じましょう」

 ですが、とシオンは指を立てる。

「噂の広まりに寄与するもの――吸血鬼のモデルとなった『何か』が必要です。一年前の事件はあくまで起因。こうも確信的な噂には、信憑性を高めるためのもととなる『モデル』の存在があるのです」

「……それがアルクェイドだってのか?」

 シオンは答えなかったが、その真摯な表情が肯定を示していた。

「今日私が集めていた情報は志貴が持っていた情報と大差無いものでしたが、その中には真祖や秋葉がモデルとも思われる噂もありました」

 その言葉を聞いた途端、志貴の目の色が急変する。

 秋葉は秋葉で噂の吸血鬼について調べていた。そしてシオンの口調から察するに、噂になるほどならば、一日や二日の徘徊ではないだろう。

 遠野の家は魔により魔を狩る血族。自分程度が気付くような噂ならば、とうに秋葉の耳に入っていると考えるべきだろう。そこまで頭が回らなかった己の不甲斐なさに志貴は歯噛みした。

「志貴、あなたが気に病む必要はありません。秋葉の負担を減らすためにも、私たちがモデルとなった誰かを探すよりほかありません。こればかりは足で立証を得るしかないでしょう」

「やっぱりそうかあ……」

 結局はそれしかないか。と志貴は苦笑する。

 アルクェイドと出会ってからというもの、事あるごとに探索といえば夜の街の徘徊だった。健全な学生ならば縁の無いような、夜の街の顔にもすっかり詳しくなってしまった自分がいる。

「そこで提案なのですが……。夜の探索は二人で行いませんか? 私はこの街に不慣れです。志貴が案内してくれると無駄が省けます」

 シオンは顔を赤らめながら、そんな提案をしてきた。

「そりゃいいけど……。シオンはそんな事をしていて大丈夫なのか?」

 シオンの本来の目的は吸血鬼化の治療のはずだ。アルクェイドと関係の無い『噂の吸血鬼』とやらにかまけている時間などあるのだろうか?

 志貴の疑問を読んだシオンは、やや不機嫌そうに疑問に答える。

「その研究のために真祖に協力を求めても私だけでは相手にしてもらえません。しかし、志貴と共に行動していれば出会った時、その手間が省けます。仮にモデルが真祖ならば良し……。違った場合も志貴の目的は果たせますし、その吸血鬼の退治を私が手伝うこともできます。――こんなこと、くちにするまでもないと思いますが?」

 矢継ぎ早にまくしたてられ、志貴は気圧されるもシオンの言い分はもっともだった。

「なるほど……。それならまあ、お互いギブ&テイクという事で」

 志貴は頭を掻きながら、今後の方針を固める。シオンはなぜか嬉しそうだった。

 

「あのー、その話、私も混ぜてもらっていいかな?」

 いつのまにか、入口に体重を預ける形でさつきが立っていた。昼間は本調子ではないらしく、吸血鬼化してから白くなっている顔色がさらに青白い。

「私も肉体は吸血鬼だし、夜になればかなり動き回れるよ。きっと役に立つと思うの」

 シオンと志貴は互いに顔を見合わせ、思案する。

 さつきは確かに戦力になる。しかし、噂の吸血鬼と戦闘になった時、守り切れる自信は無い。シオンはやんわりと辞退願おうとする前に、さつきに腕をぎゅっと握られた。

「お願い! 私もみんなの役に立ちたいの! 今までシオンに頼りっきりで私は何も出来てない……。もうそんなのは嫌なの」

 だってわたし、とシオンは決意の籠った瞳でシオンを見据えると。

「シオン(友達)とは対等でいたいから……」

その瞳の奥には静かな炎が燃えていた。何があろうと引かないよ、と言外に語っていた。

 シオンはしばらく逡巡したがやがて折れた。優しく手を握り返した。

 



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第七章 君の名は

  リーリーと鈴虫のバックコーラスが心地良く耳に沁みる。街灯に生み出された木々の影法師は隣同士で繋がり、夜色に溶け合う。

 四時間を超える街の探索も、結局は不自然なまでに不気味な静寂さを纏った街並みを再確認するだけに留まった。つまるところ全く進展は無い。

「んー、ずいぶん歩いたけど成果無しか」

「街は気味悪いくらい静かだったけど、何かおかしな雰囲気ってわけでも無かったよね」

 夜の探索を終えた三人は、小休止を取るために再び公園に戻って来ていた。志貴はおなじみのベンチに腰掛けると、さつきは遠慮がちにやや距離を置いて場所にハンカチを敷いて座った。

 シオンはやや離れた箇所で冷たく凍るような星空を眺めていた。それは誰か待ち人がいるようにも、招かれざる客を警戒しているようにも見える。

 陽が沈むのと比例するように体調が回復したさつきは笑顔だ。

 さつきと志貴はベンチの背もたれに体重を預けて一息入れる。

「気合いを入れて出てきたのはいいけど、なんだかアッサリしてたね。上手く言えないけど、私もう少し何かあると思っていたよ」

「俺も、何というかこう……前触れみたいなもんがあると思っていたけど、至って普通だったね」

「まだ噂がカタチになるレベルではないという事でしょう。時間が経てば嫌でも犠牲者は出てきます」

 その言葉に志貴はひっかかりを覚えた。いまだ、吸血鬼の噂は出ても犠牲者で出ていない。そもそも本当に吸血鬼がどうかも不明なのに、シオンの言は断定的過ぎる。

「犠牲者? シオン、それってどういう――」

 見れば、シオンは空の一点を見つめていた。

 目も眩むようなまばゆさの月を背景にその人は佇む。

 しかし、それは地に足を付けた状態ではない。誘蛾灯の役割をした街灯のてっぺんで、ピタリと立っていた。

 黒い法衣の下には編み上げブーツが生え、だらりと下げた手は懐へ伸び――

 考えるより早く体が動いた。

志貴は反射的にさつきの手を取り、抱きかかえるように右足に渾身の力を込めて跳躍。方向など知った事ではない。ただ、あの場で呆けていれば、瞬きの間に全身が剣山のようになることだけは本能で理解できた。さつきを抱えたまま、近くの芝を二転三転、さつきが驚きの声を挙げる。

志貴の離脱と同時にそれは起こった。轟! という音とともにシオンの周辺へ白銀の形を成した殺意が地面へ雨あられと降り注ぎ、地面に突き刺さったソレは包囲網を構築する。

 それは歪な墓標のようでいて、聖者の十字架のようであった。よく見るとその武器に志貴は見覚えがあった。

「――止まりなさい錬金術師!」

 閑散とした夜気を吹き飛ばすような強い口調だった。

 黒い法衣の女――シエルだった。

 シエルはスカートを翻し、ふんわりと重力を感じさせない猫じみた動きで地面に降り立つと、シオンの退路を塞ぐようにシオンと対峙する。

 一方、シオンは至って冷静。足元にまで迫っていた凶刃をつまらなそうに一瞥すると、やや冷たい表情。

「噂には聞いていましたが、教会の代行者とは随分と野蛮な方たちのようですね。人を呼びつけるために剣を投げつけてきたのは、さすがにあなたが初めてですよ」

「お生憎様、私はそこまで優しくないので。もちろん、時と場合……いえ、相手によって多少手心は加えますが」

 すっとシオンの心臓へ向くように黒鍵を向けるシエルは既に臨戦態勢だ。

「……先輩?」

「……ひょ? と、遠野くん!? なぜあなたが彼女と共にいるのです!?」

 そこで初めて気が付いたように志貴を見て、無駄としりつつシエルは顔を両手で覆う。そして彼女の中で推測が成り立つと、スゥとシエルの目が細くなった。シエルはシオンと志貴に抱きかかえられたさつきを薄く睨むと口を開く。

「弓塚さん……姿が見えないと思えば死徒になられていたとは残念です。もしやシオン・エルトナム、あなたが――」

「えっ、その私は」

「勘違いしないでください。彼女の親元はロア。私の眷属ではありません」

 さつきの代わりにシエルの問いかけに心底不愉快そうに答えるシオン。シエルもその線は薄いと思っていたらしく、質問を変える。

「では彼の事はどう説明するのです。まさかあなた……」

「それも勘違いです代行者。私は志貴に協力を要請し、彼はそれに応えてくれました。私の方も彼の探し物を手伝う。立派なギブ&テイクです。あなたが危惧するような事は決してないと断言します」

「それを誓えますか?」

「神に、という意味でならばノーです。私は私の――誇り高きエルトナムの錬金術師として誓います。私利私欲のための偽りを口にする事だけは無いと」

 シエルは無言でシオンの言葉を胸中で反芻する。

 シエルには貴族や錬金術師の矜持など知ったことではなかったが、シオンが嘘をついているとも思えなかった。いずれにせよ、本題はそこではない。彼がこの女の味方でないという事さえ判明すればこちらの仕事はぐっとやりやすくなる。

シエルは黒鍵を新手に計三本左手に現出させると、完全な臨戦態勢を取る。

「では遠野くんはあなたたちとは無関係という事でよろしいですね? この場で襲われようと、あなたは遠野くんに助けを求める事が出来ない」

「!!」

 シオンも表情をぐっと引き締め、手を微かに振った。夜闇では視認できないが、恐らくエーテライトを張ったのだろう。

 ただならぬ雰囲気を感じた志貴は二人を諫めようと、ちょうど挟まれるような位置に立つ。

「ちょ、ちょっと待った先輩!? 先輩の仕事の事は分かるけど、シオンは悪いヤツじゃないんだ。……その、彼女は何て言うか……」

「遠野くんは黙っていてください! そしていつまで弓塚さんと抱き合っているのですか!!」

「わあ!」

 志貴の言い訳を切り捨てるよう向けられた黒鍵に志貴は、飛び退るようにさつきから離れ、顔を赤くしたさつきにペコペコと謝る。そして役得そうに笑っている死徒(さつき)にシエルは無性に腹が立った。

 シエルは腰に手を当てて、体についた泥や草を払っている志貴へ、物分かりの悪い問題児を諭す教師のような態度で接する。

「まったく遠野くんはどうしていつもこう厄介事に首を突っ込むんですか。それとも……かわいい女の子に頼みなら何でも聞いてあげちゃうって言うんですかあなたは」

「いや、確かに二人はかわいいけれど、それだけが理由じゃないっていうかその……」

 志貴はシオンとさつきの二人に目配せするがシオンは面白くなさそうに無言。さつきは『かわいい』と言われた事に喜びを隠しきれないように笑みを漏らす。シエルの機嫌がまた少し悪くなった。

「とにかく、遠野くんが横から口を挟もうが私はいっさい、ええ、いっっっさい聞く耳を持ちません。もし邪魔をするのならきっつ~いお仕置きの意味も込めてお相手します」

 指をごきごきと鳴らして威嚇するシエルは、視線をシオンに戻す。

「そしてシオン・エルトナム・アトラシア。あなたは発見次第、保護または拿捕するよう教会から手配されています。アトラス協会からも同様の要請を受けていますが……。その前に一つ、お聞きします」

 

「――あなたは誰ですか?」

 

 シエルの質問の意図を志貴は即座に察する事が出来なかった。口ぶりからして先輩はシオンについて、自分より情報を持っているはずだ。それなのに、その尋ね方はどういう事か。当のシオンも怪訝そうに肩眉を上げ、再び名乗る。

「すでにご存じだと思いますが、私の名はシオン――」

「ええ、シオン・エルトナム・アトラシアで間違いないでしょう。私が聞きたいのはそんな分かり切った事ではないのです」

 シエルはシオンの言葉を遮り、一旦、黒鍵を消すとポケットからある紙束と試験管のようなものを取り出した。クリップで閉じられた紙束を確認するように、ページを捲る音がしばらく響いた。

 そして、シエルは書類から顔を上げるとそれを誇示するように眼前に突きだした。

「…………?」

「…………っ!!」

 英語で書かれているらしいその書類は、外語にとんと疎い志貴にはほとんど理解できなかったが『DNA』という三文字のアルファベットだけは読み取れた。どうにも遺伝子か何かに関わる報告書だろうか、と志貴は当たりをつけた。

 志貴は疑問符を頭上に浮かべるだけだが、シオンは吃驚した後、砂を噛んだような表情でシエルを睨み返す。

「先輩、それって何? DNA鑑定書か何か?」

「察しがいいですね遠野くん。そうです、これはそこの女……シオン・エルトナム・アトラシアのDNA鑑定書です」

「勝手な事を……! アトラス院も人の事を言えた義理ではありませんが、教会も随分とデリカシーの無い事をしてくれますね」

「死徒を相手にそんなものを私たちが考慮するとでも? それに本題はそこではありません。失礼ながらあなたがたが寝床にしていたダンボールから「ダンボールじゃない! マイホームです!」あっ、すいません。その……ご自宅から採取した毛髪からDNA鑑定を行ったところ、そこの彼女はシオン・エルトナム・アトラシアで99.9%間違いないようです」

「???????」

 志貴の頭上の疑問符は飽和し、溢れだしてがらがらと地面に転がる。

 シオンはぎゅっと拳を握りしめ、何かに耐えるように唇を噛む。

 まるで最も知られたくない秘部を土足で踏み荒らされるような思いが、シオンの神経を暴力的に削りとる。

「ええと、先輩。よく分からないけど、シオンは偽物ってわけじゃないんでしょう?」

「ところがそうとも言い切れないのですよ弓塚さん。この場合は一致する事がおかしいのです」

「……どゆ事?」

 未だ内容が理解できないさつきと志貴に、シエルは衝撃的なひと言を口にする。

「シオン・エルトナム・アトラシアは既に我々教会が保護し、本国へ送り届けています。採取したDNAはその保護したシオンと一致したのですよ」

「ええっ?」

「な……?」

 さつきと志貴が驚愕を露わにし、反射的にシオンを見る。シオンはただ、何かに耐えるようにシエルの攻勢に身をゆだねている。

「あなたに双子の姉妹はいらっしゃいませんし、これはどういうかご説明願えますか? それと念のため身柄を拘束したいので大人しくしてくれるとありがたいのですが」

「お断りします」

 きっぱりとシオンはシエルの要請を却下した。シエルも最初から期待などしていなかったのか鼻を鳴らすだけだった。

 ひゅう、と一陣の風が吹いて、志貴を挟み込むかたちで両者は睨みあう。これから決闘を始めるようガンマンのような一触即発の空気を醸し出している。

「従う気は無いというわけですね。いいでしょう、教会の代行者としてあなたを捕縛します。ああ、それから」

 ちらり、とさつきを見るとニコリと微笑む。さつきは訳が分からなかったが、同調効果に弱い日本人よろしく、精一杯の愛想笑いで返した。

「それから、ついでにそちらの死徒も狩っておきましょう。そちらが私の本業ですし、遠野くんと仲良さげでむかつきますし。あなた方をとっとと始末して、遠野くんは私の家で一晩お説教です。ご安心を、遠野くんは峰打ちで勘弁してあげましょう。看病もわたしがしてあげます。それはもう手厚いやつを」

「つ、ついで!? やだよう! そんなざんざいな扱いで狩られるのはやだよう! いや、どちらにせよ狩られるのは嫌だけれども!!」

「後半は欲望が駄々洩れですが!?」

「両刃の黒鍵でどうやって峰打ちするんですか先輩!?」

 さつきたちはあまりの対応に抗議するも、シエルはどこ吹く風。己の使命と志貴への愛で公私混同するシエルは完全にスイッチが入った。

 両手に黒鍵を現出させ、じりじりと油断なく間合いを詰めてくるシエル。シオンもそれに合わせるように、エーテライトを周囲に展開させる姿は、一種の結界を張ったようにも見える。

 志貴は前後の二人を交互に見比べては、どちらに着くべきか決めあぐねている。

 既に何度もお世話になった、心優しくも厳しい先輩。

 理屈っぽく、謎も多いが確かな信念を感じさせる出会ったばかりの少女か。

「志貴!」

 シオンは志貴の前に出ると、バレル・レプリカを構えた状態で叫ぶ。

「決断してください。このトラブルは私自身の問題で、あなたには何の関係もない。代行者もあなたが傍観者でいる限り、そう手荒な事はしないでしょう」

「シオン……」

「それに、こちらにはさつきもいます。さつきには体術の手ほどきをしていますし、いかに代行者と言えども、二人がかりならば勝算も無くはありません」

 嘘だった。

 相手は人の理を外れた超越者で吸血鬼狩りを専門とする先頭集団。それを相手どって、戦いに向かない錬金術師に新米吸血鬼が加わったところで、焼け石に水だろう。もし概念武装などを所持していたら、自分達程度の吸血鬼など苦痛を感じる間もなく昇天する。

 それに、今回を逃せばチャンスはない。自分達には圧倒的に時間が足りない。それだけはどうしても受け入れられない。ここで倒れるわけにはいかない。

「選んでください志貴。あなたがどちらを選んでくれても私は構いません」

 それも嘘だった。

 彼の協力は計画には不可欠。ここで彼に拒まれればもう完全に打つ手が無くなる。

 恐れと不安から、志貴の顔がまともに見れない。騙していたことを怒っているのか、もう自分の事は見限ってしまったのか。恐る恐る背後を振り返ると、

「……はあ~~~~~~~~~~~~~~~~」

 と、志貴は盛大な溜息をついた。それは何度も経験してきた理不尽に対する諦念のようで、志貴は片を回しながらシオンの隣に並び立つ。

「シオン、簡単に言ってくれるけどさ。先輩に逆らったら後でどんな目に遭わされるか……」

 シオンの表情が暗く沈む。さつきと二人で代行者を相手取るプランを練り始めるが、

「……でもまあ、俺も約束しちゃったしな。今回は君につくよ。色々と隠している事があるのは分かったけど、君が悪意を持って黙っていたとも思えないし」

「え……?」

 シオンは虚を突かれたように目を開き、志貴は苦笑を浮かべながら銃を構えたシオンの腕をポンと叩いた。

「それに、こんな震えている女の子を放っておけないだろう?」

「あ……」

 そこで初めて気が付く。銃口は震え、ろくに狙いが定められない。そして、それを認識すると震えは伝播し、腕から肩へ、肩から背中、腰、足へと波のように押し寄せた。

 計算と確立で動く錬金術師は本来、勝ち目のない戦いに挑む事はない。脆弱な身で勝利を掴むためには入念な下準備を行い、万全な体制を整えてから勝負を仕掛ける。負けると分かっている勝負を挑むというのはシオンにとって完全に未知の恐怖だった。

「志貴、それならば」

「うん。今回は君につくよシオン。……というわけでごめんな先輩」

「わ、わたしもやるよ遠野クン。シオン!」

 さつきも覚悟を決めた様子で拳を握って前に出る。見れば微かに震えているが、それを懸命に堪えている。

 いつの間にかシオンの震えは止まっていた。志貴が加わってくれた事を考慮しても、計算上では勝負していい数字ではない。

 しかし、だがしかし。

 なぜだか、二人と共にいると恐れを忘れる事が出来た。かつての自分では信じられない事だ。

「……もうよろしいですか? 時間が惜しいので早急に決めさせてもらいます」

 しびれを切らしたシエルがぐっと両足に力を込め、遥か上空へ飛び上がる。

 それが合図だった。

 シオンの「総員散開!」の掛け声とともに、三人は散らばる。

 ドオ! という音と共に砂煙が上がり、人の身体を容易く貫通する死が上空から降り注ぐ。

 シエルの戦法はいたってシンプル。一撃必殺の志貴や怪力を誇るさつきと近接戦闘は避け、遠距離から黒鍵の投擲による攻撃のみで済ませるつもりだ。

 木々や街灯の上を、軽業師もかくやという動きで次々と飛び移り、常に場所を変えながら投擲を続ける。

 志貴とさつきは逃げるだけで手いっぱい。すると警戒するべきは、

「――――そこ!」

 シオンのエーテライトのみとなる。ワイヤーカッターのように迫りくる斬撃をシエルは躱しながら、移動を続ける。

 俯瞰した先には逃げ回るさつきと、黒鍵を躱しながらも間合いを詰める隙を伺う志貴。

 志貴はもちろん、シオンもなるべく傷つけたくない。ならば狙う相手は一人。

 シエルは瞳から感情を無くし、ただ吸血鬼の命を刈り取るために疾駆する。

「――死んでください」

「――――危ない、弓塚さん!」

 志貴が叫ぶが遅い。彼女との距離はおよそ二十メートル。近づいて心臓を突き刺すまで一秒もかからない、さつきもそれを感じ取ったのか、迎撃態勢を取る。

「――はっ!」

「甘いです!」

 さつきは肉薄するシエルに前蹴りで牽制する。しかし、シエルは難なく蹴り足を左手で払うと右手に持った黒鍵を勢いよく突き刺そうとする。

「なめないで!」

 しかし、さつきは体を捻ると黒鍵をすかし、伸び切った腕を左脇に抱える。そして右手をシエルの脇に刺し。

「――えいっ!」

「な――」

 柔道の払い腰の要領でシエルをぶん投げた。自分の足腰と背筋の力がシエルの全身に乗せられ、勢いよくほぼ地面と水平に投げ飛ばされるシエルは驚愕の表情を浮かべた。

「ちっ! 死徒の分際で武術を使うなど!」

 シエルはあえて派手に地面を転がりダメージを分散。口の中に酸っぱいものがこみ上げ、血の混じった唾と共に吐き出す。接近戦は不利だと悟ったのか、ふたたび高所の多い林の中へ身を顰める。再び、木の上から黒鍵を放とうと身構えた瞬間、足元の感触が溶けるように消えた。

「ごめん先輩!」

 志貴が木の『線』を切断したのだと理解するより早く、シエルは隣の木に移ろうとするもシオンのエーテライトがその木を切断する。

 ――しまった!

 シエルは安易に同じ戦法を取ろうとした自分を恥じた。高台から攻撃されるのを嫌った三人は「それなら高い場所を無くせばいい」という実に乱暴な理論で木々や街灯を破壊し始めた。

 下へ無防備に降りようとすればエーテライトの斬撃が迎え撃ち、かといってこのまま木々を飛び移り続けてもジリ貧。

 焦りが脳に汗をかかせ、ふやかせる。肌がちりつくような緊張感のやり取りの中、シエルのプランは決まった。ここは多少攻撃を食らうのを覚悟し、地上で真っ向から三人を打ち破るしかない。志貴が自分の死の線や点まで攻撃してこないのを祈りつつ、シエルは勝負に出た。

 見れば、さつきはシエルを見失い、首を回しながら周囲を忙しなく見渡している。やはり戦闘経験に乏しい。

 シエルはさつきの対角線上にバックを取り、地面に降りつつ一撃で背後からさつきを仕留めるために飛び降りた。

 その様は獲物を狙う猛禽類に似た奇襲。さつきの白いうなじめがけて黒鍵がせまる。これで終わりだ。灰は灰に、塵は塵に。

 ――あるべきところへ還れ吸血鬼――!

 月光を反射する刃が届こうかという瞬間、さつきが首を回す。

「読まれていた!?」

 半分だけ見える顔の口の端は吊り上がり、挑発的な笑みを浮かべる。どこか侮るような目つきにシエルの内心はささくれ立ち、そのまま突き刺そうとしたところで。

 グン! とシエルの身体が硬直した。

「これは!?」

「捕獲用の三層多重結界です。逃げ場はありません」

 シエルが両腕に力を込めるも、ギシギシと鳴るだけで身動きが取れない。見れば腕だけでなく、全身にエーテライトが絡みつき、蜘蛛の巣にかかったチョウのような状態になった。

 全身の自由を完全に奪われた。シエルは最初こそ抵抗をしようと試みたが、暴れるほど肉に食い込み、切断されるだけだと悟り諦めた。

 シエルは奥歯を噛みしめ、僅かに逡巡するが目を閉じた。

「……分かりました。わたしの負けです。さしあたっては――」

 シエルが降伏を宣言しようとしたその時、

 

「いぃっくよおおおおおおおおおおおおぉぉぉぉっっっ!」

 

 さつきが掛け声を共にこちらへ駆けてきた。

 土ぼこりを上げながら、ぶんぶんと右腕を振り回しながらこちらへ全速力。その勢いは猪を彷彿とさせる迷い無き突進。まさしく猪突猛進だ。

 直後に起こる事を想像したシエルの顔が青ざめる。

「あの! あなた!? わたしはもう動けなちょっ、えっ? え!?」

 シオンと志貴の制止の声が響くも、アドレナリンが多量に分泌されたさつきの耳には届かない。勢いそのままに右拳を振り上げ、右拳でシエルのみぞおちを打ち抜く。

「えええええええええええええええええええいっっっっ!!」

「ぐっはああああああああああああああああ!?」

 ごきり、という音と同時に喀血。捻りを加えられた殴打は内臓を衝撃で捻転させ、ひしゃげ、あばら骨を砕きながら、衝撃が突き抜ける。

 拘束していたエーテライトは千切れ、周囲の木々をなぎ倒しながら、シエルははるか後方の公園中央へ、きりもみ状に回転しながら吹き飛ばされた。

 どんっ、どんとゴムボールのように何度もバウンドした後、シエルはそのまま大の字になった。

 ――しん。

 と時間が止まったような錯覚に囚われる。志貴は呆然とし、シオンは思考が停止していた。当のさつきはたった今、致命傷を負わせた右拳とシエルの吹き飛ばされた方向を見ながら「え? あれ?」とおろおろしていた。

 志貴はすぐに我を取り戻し、シエルの安否を確認するべく駆け出した。その姿を見てさつきはようやく察した。シオンへ振り返り、口元を引きつらせる。

「……もしかしてシオン。わたしやっちゃった?」

「……はい」

 ごめんなさああああああい! と叫びながらさつきも志貴の後を追った。

 



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第八章 だってシエルだし?

 揺れ動くカーテンから漏れた朝日が瞼越しに目を焦がす。心地良い日差しがまた一日が始まった事を告げていた。

 手をもぞもぞと枕元を這わせると固い感触。わたしははそれを掴んで顔に掛けると、ぼやけた視界がクリーンになった。

 ベッドから起き上がり、うーんと背伸びをする。血液の循環が良くなり寝惚けた身体をすっきりさせる。窓から下の道を見下ろすと、朝練に向かうらしい中学生くらいの男の子が元気よく登校している。窓際に飛んできた小鳥に挨拶を交わすと、鼻腔をくすぐる芳醇な香りに気が付いた。

 ターメリック、ローレル、カルダモン、ベイリーフ、ナツメグ。香辛料のオーケストラが生む絶妙なハーモニーはシエルの食欲をそそる。

 キッチンへ視線を投げると、見慣れた後ろ姿が飛び込んできた。中肉中背ながらも引き締まった身体。短く切り揃えられた髪と耳にかかった眼鏡をかけた少年、志貴くんだ。

 そう、わたしは高飛車妹と低脳金髪を押しのけ、志貴くんをゲットし、なんと同棲を始めていた。

「――おはようシエル。カレー、もう出来てるよ」

 振り返ると彼の眩しい笑顔が私の心に暖かさを染み込ませてくれる。

「おはようございます、志貴くん。良い匂いですね。スパイスを変えました?」

「さっすが俺のシエル。違いが分かる女っていいと思うよ」

「こーらっ、生意気ですよっ」

 人差指をたてて「めっ」とアピール。いくら恋人同士とはいえ、私のほうが年上なのだ。彼のやんちゃなところも可愛らしいけれど、それはそれ。甘えつつ、甘やかし過ぎないのがちょうどいい塩梅なのです。

 テーブルに座ると、彼が湯気のたちこめる皿を持ってきてくれた。カレースープにポークカレー、カレーうどんとバランスの良いメニュー。さらに口直しのカレーサイダーまで用意しているのだから完璧に私の好みを把握してくれている。

 私はスプーンでカレーをひとすくいして口へ運ぶ。香辛料の弾けるような辛みと、溶け込んだ人参と玉ねぎが甘さをくれる。舌の上いっぱいに広がる幸せをわたしは噛みしめた。

 そこで、志貴くんが笑ってくれているのに気付く。何だか私は気恥ずかしくなって、スプーンを置いた。

「な、なんですか志貴くん。人の顔をまじまじと見つめて」

「はは、ごめんごめん。俺さ、シエルの幸せそうにカレーを食べている顔って好きなんだ」

「もう! そういうところが生意気だっていうんです」

 わたしは顔をプイと背けてふくれっ面を作る。我ながらあざとい仕草だとは思うけれど、彼はそんなところを含めて自分を愛してくれるだろう。彼の無意識に出てくる歯の浮くようなセリフにはこうでもしないと対抗できないのだから。

 志貴くんは柔らかな微笑みを浮かべながら、私の置いたスプーンを持つとカレーをすくう。そして私の顔に近づけてきた。

「シエル、あーん」

「…………」

 わたしはスプーンをちらりと見ても、すぐには振り向かなかった。年上のお姉さんであるところを見せなくっちゃ。

「あーん」

「…………」

「……シエル?」

 私の態度が本当に不機嫌に映ってしまったのか、志貴くんは不安そうな表情になる。

 ……卑怯だ。

 彼は普段ひょうひょうとしているくせに、こうして時折、捨てられた子犬のような表情を見せる。私はこの顔に弱いのだ。

 振り向きざまにぱくりとスプーンを加えた。ただし、恥ずかしいので目をつむったまま。

 もぐもぐと咀嚼する。悔しいが美味しい。このこみ上げる多幸感はカレーのおかげだけではないだろう。

 わたしは照れ隠しにコホンと咳払いして礼を述べる。

「……ありがとうございます志貴くん。カレーはとってもおいしいです」

「あらあん嬉しいわ。私のカレー修行もついに実を結んだのねえん!」

「…………………………………………んん?」

 シエルはゴキリ、とスプーンを噛んだ。歯と金属が強引に噛み合い、鈍い痛みが止まった思考を動かす。

 ひたひたと現実が徐々に近づいてくる足音がする。嫌だ、わたしはまだこの都合のいい夢に溺れていたい。今のはきっと、代行者の激務がたたって聞こえた幻聴だ。

 恐る恐る瞼を開くと、悪夢がそこにいた。

 色黒の肌に筋骨隆々の暑苦しい身体。威厳ある蓄えられた口ひげも、オネェ言葉のおかげで台無しだ。その顔には見覚えがある。私をカレー狂いにした死徒、キルシュタインだ。いつの間にか、最愛のヒトは筋肉の塊に変貌していた。

「やっとお目覚め? シエル。そろそろお目覚めの時よおん」

「嫌です!」

 わたしは力いっぱい叫ぶんで、席を立とうとするが丸太のような腕に阻まれる。彼は私に馬乗りになると怪しく瞳をぎらつかせる。

「まあまあ、聞いてよシエル。やっと自分が納得できるカレーを作り上げたの。これは是非ともあなたに食べて欲しくてこんなところまでお邪魔しちゃったのよお」

「それならば現実でやってください! どうして! どうしてわたしは夢の中ですら幸せを許されないのですか!?」

「うーん? 私は上手く言えないけれど、しいて言うなら……『だってシエルだし?』」

「ガラムマッサラアアアアアアアアア(超ムカツクゥゥゥゥゥ)!!」

 キルシュタインは嘆きの咆哮を挙げる私の口腔にカレーを突っ込んできた。もうだめだ、薄れる意識の中で私は思う。ああ、わたしはいつだって

 貧乏くじばっかりだ――

 

 〇

 

 顔に叩きつけられる衝撃と冷たさに神経が刺激される。脳内に立ち込めていた濃霧は強引に晴らされ強制的に意識を覚醒させられる。ビクリ、と反射的に体を震わせたシエルはゆっくりと目を開けた。

 見れば志貴はバケツをかつぎ、仰向けに倒れたシエルの顔を覗き込んでいる。

「先輩! よかった気が付いたんだな!? 『究極のカレーは私が完成させます!』とかうわ言で言い出した時はいったいどうしようかと思ったぞ!!」

「遠野ク――ン! アレあったよ――!」

 シエルがむくりと起き上がると、さつきがアイロンのような形をした救急救命道具――AEDを持って走ってきた。

 シエルは腹部に手を当てると、損傷はほとんど直っているのを確認する。どうやら無意識のうちに魔術を行使して傷を塞いでいたらしい。あの男の知識に助けられるのは癪だが背に腹は代えられない。

 何度も水をかけられたのだろう、濡れ鼠になったシエルは足元の水たまりを見ると嘆息し、AEDを押し付けてこようとするさつきを手で制した。

 気を取り直したように側で立っていたシオンに向き直る。

「シオン・エルトナム・アトラシア。あなたの事は彼に任せるとしましょう。これ以上、あなたがたに関わって、本業が滞るのも馬鹿らしい。能力の向上しているあなたに死徒や遠野クンが加わっては勝算は薄いようです」

「……では見逃すと? 教会は殺人集団とお聞きしておりましたが」

「勘違いなさらないでください。あくまで優先順位の問題です。私の最優先はあくまで死徒狩り。今は教会から正式に指令の出された死徒を優先させるまでです。」

「ではあなたも噂の吸血鬼を捜しているのですか!? それならば……!」

「ええ、あなたの計算通りですよ錬金術師。タタリは近日中に姿を現すでしょう」

「……!!」

 シエルの言葉をシオンを驚倒させた。シオンは呼吸も忘れる程に動揺し、全身を震わせる。教会が観測した。ならば確実にアレは現れる。

 シオンの記憶から去来するは、血の涙を流し続ける悪夢。

 肩を抱き、小刻みに震えるシオンに、シエルは続ける。

「あなたの気持ちは分からなくもないですが……死徒狩りは教会の役割。でしゃばるのはやめなさい。ヤツは私が責任を持って処理します。今の私は雑事にかまけている暇は無いのです」

「あの、どうしてそこで私を見るんですか?」

 さつきの言葉を無視してシエルは残っていた街灯の上にジャンプした。

 シエルは両手を後ろで組んで、学校で見せるような包みこむ笑顔を浮かべる。

「そういうわけですから遠野くん。彼女の事は頼みましたよ。あなたのほうから彼女たちに関わったのですから。途中で放り出したらそれこそ許しませんよ」

「……了解、先輩。こうなったらとことん付き合うさ」

 志貴は力強く頷くと、任せろ、と言うように胸を叩いた。

「それを聞いて安心しました。――それとなんでこうなったか、詳しいお話は事が終わってからじ~っくりと聞かせてもらいます」

「え? あ? うわあぁぁ」

 志貴の決意がかなり揺らいだ。今、先輩が浮かべる笑顔は、補習を知らせた時の秋葉の笑顔と同類なのだと志貴は思い知った。

 シエルは一際強く跳躍すると、あっという間に濃い闇の中へと消えていった。

 嵐が過ぎ去った公園は、木々がほとんどなぎ倒され凄惨な状況となっていた。シオンは代行者が大人しく引き下がった事に驚いた様子で口を開く。

「代行者はよほど志貴を警戒しているようですね。先ほどの戦闘でも、志貴との近接戦闘だけは頑なに避けているように見受けられましたし……。まあ、ともまれ予測していた最大の障害は排除できましたし……志貴?」

「……なあシオン。さっき先輩が言っていた事って」

「……どのことでしょう?」

「全部だよシオン! あのDNA鑑定や指名手配の事もそうだし、それにシオンは何だか噂の吸血鬼について知っているんじゃないの!?」

 さつきが志貴の疑問を代弁するが、シオンは拍子抜けたようだった。

「ああ……何かと思えばそんな事ですか?」

「そんなって……。なんでそんな大事な事を教えてくれないのシオン。私と一緒にいたときだってそんな話は一言も言ってくれなかったじゃない。」

 自身の目的どころか素性まで疑われるような状況になりながら、シオンはまるで意に介していない。算数の問題を子供に聞かれた親の方がまだ悩むだろう。

 志貴とさつきの非難を込めた視線を浴び、シオンはばつが悪そうに口を開いた。

「私は話す必要が無いから話さなかっただけなのですが……。確かに私のミスだと認めます。まさか教会まで私を追ってきたのは予想外でした」

「……シオン、君は何者なんだい先輩が本気で襲ってくる事なんて――」

 志貴の脳裏に穏やかなシエルの笑顔が浮かび、数珠繋ぎのように先輩との思い出がフィードバックする。

 シエルの家で勉強を教えてもらっていた時に、ちょっかいをかけにきたアルクェイドに第七聖典をぶっぱなす先輩。

 登校時に通学路で待ち伏せをしていたアルクェイドに黒鍵を投げつける先輩。

 先輩と先に約束していたけれど、断り切れずにアルクェイドと映画を見に行った夜、帰宅途中で斬りかかってきた先輩。

「……しょっちゅうあるけど、理由も無しに襲うような人じゃないぞ。何かしているのならばちゃんと言ってくれないと困る」

「そうだよシオン。どうしてわたしだって困るよ」

「……困る? 志貴とさつきが? どうして……? それは必要不可欠な要素なのですか?」

 理解出来ない。という風に目を丸くするシオン。とぼけているのではなく、本気でこちらの意図を汲めていないようだった。

 志貴はポケットに手を突っ込み、少しだけ気を落としたように告げる。

「……俺はシオンの事を仲間だと思っている。必要かどうかじゃなくて、仲間として必要な事だと思うんだ」

「うん。私もシオンの事は吸血鬼になっちゃってから出来た唯一の友達だと思っているよ。友達だから全部話して欲しいとは言わないけれど、出来れば隠し事はしないで欲しいなあって思うの」

「仲間……。友達……」

 シオンは人差指を口元にあて、黙り込んだ。初めての感情を噛みしめるように二人の言葉を胸中で反芻する。

 シオンはしばらく逡巡し、そして意を決したように語り始めた。

 

 アトラス院。

 それは不可侵の腫物。

 私たちは何もしない何も成し得ない。

 ただ穴に籠り各々が至高と考える物事を作る事に専念している。

 そんな学院のただ一つの戒律。

 

 いかなる禁忌をも許すが創造の開放を禁ずる。

 

 自己の成した成果は自己にのみ公開する。

 それがアトラスの唯一にして絶対の規律。

 

「ですが私はその禁を犯しました。アトラスで穴熊をきめていては決して辿り着けないと判断した私は、魔術協会や教会を始めとした多くの機関を訪れたのです」

「もしかしてシオン、自分の研究結果と吸血鬼の情報を交換していったの?」

「おっしゃる通りですさつき。私も錬金術師にあるまじき行為だとは思います。ですが私にはアトラスの規律より自分の疑問を晴らすほうが優先でした」

「それが吸血鬼化の治療法を見つけるってことなのか?」

 志貴の言葉にシオンは頷く。

「そうです。死徒とは不老不死――それを人間は求め、不完全ながらも可能にしながらも、それを禁忌として避ける人間の思考回路。なぜ自分自身に疑問を持つのか、という疑問が私の枷です」

 シオンの物言いは理知的なようでいて、ときおり婉曲な表現で分かりづらい。真っ直ぐでいて歪曲に紡がれるセリフは理解出来ない部分が多々ある。

「いずれにせよ、私が追われているのはアトラス院の教えに背いているからです。志貴やさつきは犯罪者に加担しているわけではないので安心してください。信じなさい。私は志貴たちが嫌悪するような事はしていない」

「や、まあシオンが悪い事をしているなんてこれっぽっちも思っていないけど……」

 さつきは顔の前で手を振ると、杞憂だと否定する。もともと、志貴はともかく自分のような新米吸血鬼に接触するメリットがあるとは思えないとさつきは言った。その言に志貴も追従する。

「俺もそう思う。……シオンの事は信じるよ」

「それは良かった」

 なぜか得意げな表情を浮かべるシオンに、さつきと志貴はなごやかな気分になった。

 しかし、まだ疑問は二つある。

「シオンの事は信じるけれど、先輩が言っていた『タタリ』って噂の吸血鬼の事だろ? 君はその事を知っているみたいだったし、どうも雰囲気からしてシオンも無関係だとは思えないだが」

「モチロン、シキニタノマレテジョウホウヲアツメテイマス」

 昭和のアニメに出てくるロボットのように、カタコトで話すシオン。明らかに動揺している。

 じぃっと志貴はシオンを見つめ、次の言葉を待つ。シオンは最初、貝のように口を閉じていたが、やがてマシンガンのように言葉を弾丸のように繰り出した。

「し、知りません! 私には一切合切完璧に完全に、まったくもってこれっぽっちも関わりなどありません!! ええ! なぜこの私が取るに足らない吸血鬼騒ぎに関わらないといけないのですか!!」

 これが漫画的表現ならば間違いなく火を噴いていただろうな、とさつきは傍から見ていてどうでもいい感想を抱いた。シオンは自分が思っているほど冷静ではないのに気付いているのだろうか。

「うわあ、取るに足らないってひどいな」

「あいえ、そういう意味では無くて。噂が確定されていない以上、犠牲者も出ていません。私としては犠牲者が出る前に辿り着けたのは僥倖です。犠牲者が出てからでは遅いのです志貴。いいですか、吸血鬼が再来したという噂自体は無視してはいけない始まりで――」

「シオン、君さ。アルクェイドに用があって来たんじゃないのか?」

「あっ……それは、その……」

 シオンはハッとした表情を作り、頬を朱色に染める。失言だ、と気付いた時にはもう遅い。唖然としたさつきと、じっとりとした視線を向ける志貴を前にして、シオンの語調は尻すぼみに小さくなっていく。プルプルと震えた後、誤魔化すように顔を上げて再び火を噴いた。

「そうだと最初から言っているではないですか! そこでたまたま私とは無関係の死徒が現れて、それがたまたま私の知っている死徒だったというだけでしょう!?」

 無茶苦茶だった。もはや理屈は何一つ通っていない、完全な感情論だ。いたずらを咎められた子供のほうがまだマシな嘘をつく。

 シオンはぶつぶつと何か言っていたが、志貴は肩を竦めると天を仰いだ。

 思えば、最初から事情を全て話してくれる人の方が珍しかった。彼女が何か隠している事は明白であるが、少なくとも悪意があるようだ。

「ま、いっか」

「……何がいいのですか」

 志貴がやれやれといったポーズをとった事が癇に障ったのか、やや上目遣いに睨み付けるシオン。志貴はそれを苦笑いで軽くいなすと、眼鏡をブリッジを押し上げた。

「いや、何か色々と隠し事があるみたいだけど、悪い人間には見えないからいいかって思っただけさ。秘密はあっても悪意はなさそうだし。弓塚さんもそれでいいよね?」

「うん、話さないんじゃなくて話せないって感じだし、私もシオンを信じるよ。DNA鑑定の事は気になるけれど、私は捕まっちゃったシオンの方は知らないし」

「二人とも、その………………………………ありがとうございます」

「ん? 最後の方がよく聞こえなかったんだけど?」

「――――うるさいですよ志貴! さつきもニヤニヤしない!!」

 シオンは烈火のごとく怒り、志貴はまた理不尽に怒られたと困惑。さつきはそんな二人の様子を見てのんきに笑っていた。

 志貴はシオンから逃げ回り、シオンは何か理屈っぽい長台詞を吐きながら追いかける。口調と目つきは厳しいものの、口元が僅かに綻んでいる。

 さつきは二人を眺め、同世代の友人との触れ合いのなつかしさに、自然と笑みをこぼし



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第九章 恋心は澱となって

 


 ぎしり、ぎしり、ぎしり。

 みしり、みしり、みしり。

 襲い来る激痛の前兆である頭蓋の軋みに、私は「また始まった」と鬱屈した想いで吐き気を催した。脳髄を容器に入れて直接シェイクされるような気持ち悪さと、電極を脳漿にぶち込んで電流を流されるような痛みが混じりあってわたしを苛む。

 わたしはこれが始まると、夜が明けるまで必死に体を丸めて耐え続けるだけの芋虫になる。時折、手足を振り回してもがいたところで、痛みはちっとも軽くなってくれない。

 奇声を上げる、自身の腕に噛みつく、頭を壁に叩き付ける。ナイフで腹部を刺してみる。

 思いつく限りの自傷行為を試してみたが、恨めしいほどに頑丈な身体は、羽一枚分も痛みを軽くしてはくれなかった。

 視界と思考がどす黒い紅で埋め尽くされる。

 砕ける程に奥歯を噛みしめて、喉元までせり上がって来る衝動を必死に押しとどめようとする。

 ――なあ、もうよいではないか。

 ――うるさい黙れ。

 私は自分を誘惑してくる声を怒鳴りつける。

 ――いつまで己を偽り続けるつもりなのだ。

 ――黙れ。

 お前の甘言に耳など貸す者か

 ――お前のやっている事などただの欺瞞だ。

 ――黙れ。黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ!!

 ガン! という衝撃音で目が覚めた。右手で思いっきり何かを叩いてしまったらしい。

さつきは重苦しく目を開けて首だけ横に向けると、粉々に砕かれたナイトテーブルを見て、またやってしまったと自己嫌悪に陥る。

わたしの悪夢は昨日よりひどくなっていた。

夢をみる舞台は決まって路地裏。志貴くんによく似たヒトを襲いそうになって、シオンに止められる。そしてぬか喜びをして、また血を吸っているところで目が覚める。しかも、わたしが殺してしまった人の数はさらに増え、全身を無数の杭で貫かれ、粉々に砕かれるような痛みも酷くなる。

わたしはいまだ鈍痛のある頭を押さえ、そこで気が付いた。

 

――私の右手は赤く染まっていた。

 

「――――――――――ッッ!?」

 

 指先からしたたる赤が、布団に点をつけるのを視認すると、わたしの心臓は飛び上がった。

 なんで、という疑問と

 いつから、という恐怖と

 だれを、という後悔がわたしの頭の中をぐるぐると駆け巡った。

 呼吸が荒い。調律の狂ったメトロノームのようにでたらめなリズムを刻む心音と呼吸は、完全に平静を失っていた。

 震える指先を見つめるわたしは、きっと見るに堪えない顔をしているのだろう?

 がちがちとした音は、わたしの歯の根が鳴る音なのだと遅れて気付いた。

 ゴンゴン! ゴンゴンゴンゴン!

「さつき! 先程大きな音がしたのですが何があったのですか? さつき!?」

 わたしを呼ぶシオンの声で我に返った。

 わたしは「何でもないよ」と言おうたけれど、引き攣った喉は擦れた息が漏れるだけで声にならなかった。

「開けますよ!?」

 エーテライトを使ったのか、シオンが鍵のかかった扉を開けて飛び込んできた。よほど慌てていたのか、部屋に入るなりベッドの上にまで登ってきた。

「シオン……」

 わたしは赤く染まった右手を見せると、シオンは愕然となった。しかし、壊れたナイトテーブルを見ると、緊張を一気に弛緩させた。

「さつき……。よく見てください。それは輸血用の血液です」

「うん……?」

 わたしは床に視線を落とすと、敗れて中身をぶちまけたビニル製のパックが転がっていた。そうえばナイトテーブルの上に置いておいたのをすっかり失念していた。

 わたしは安堵の息を漏らすと、へなへなとへたり込んだ。シオンもようやく安心したように肩の力を抜いて、ベッド脇に腰掛けた。わたしもなんとなくそれに倣って、シオンの隣に座る。ベッドのシーツが血まみれだけど、もう今更変わらないだろう。メイドさんには申し訳ないけど、また明日取り換えてもらおう。

 わたしはぷらぷらと足を揺らしながら、なんだかなあ、と呟いた。

「ねえ、シオン」

「何ですかさつき?」

 わたしの暇つぶしにシオンは付き合ってくれるらしい。黙って耳を傾けてくれる。

「――何でわたしたち、こんなに苦しい思いまでして吸わないのかな」

「――――――――」

 ここからでは顔は見えないけれど、シオンは息を呑んだような気がした。

「私たちは吸血鬼でさ、血を吸わないと存在出来ないよね」

「…………そうですね」

 消え入るような声でシオンは答えた。どっかで読んだんだけどさ、とわたしは続ける。

「悪い事をしたら地獄に落ちるよね。例えば殺人や暴力、盗みとか。人は豚や魚を殺してそれを食べているけれど、それは生きていくためには仕方の無い罪。そういう罪は死んだ時の苦痛とか死に対する恐怖とかで償われるんだって」

「さつき、何が言いたいのです……?」

 うん、だからね。と私は、今更な疑問を口にした。

「――どうして血を吸っちゃだめなのかな」

「――――それは……」

 シオンは言葉に詰まり、やがて俯いた。

「どうして人の血を吸うのはだめなのかな? だって少なくともわたしたちの身体は吸血鬼で、生きていくためには絶対に必要な事だよ。他の生命から奪わなければ生きていけないのは私たちも人間も同じだよ? ねえ、一体何が違うのかな?」

「…………………………………………」

 シオンは完全に黙り込んだ。膝の上で指を絡め、所在なさげに組み替えている。

 しばらくの間、重苦しく停滞した時間が流れた。わたしたちは何度も口を開きかけては閉じるを繰り返し、顔を見合わせては背けた。

 時計の秒針が揺れる音だけがBGMだった。ただいたずらに時の流れに身を任せても、事態は何一つ好転などしないだろう。わかっていても動けなかった。

 どれほどそうしていただろうか。

「…………私たちが人間だからではないでしょうか」

 絞り出すような悲痛な声だった。

 シオンはぎゅっと唇を噛みしめると、口を開いた。

「上手く言えませんが、私たちがそう思うこと自体が人間である証拠なのだと考えます。確かにさつきの言う通り、私たちは人間の血なくしては存在出来ない不出来な生き物です。認めたくはありませんが、生きるために血を吸うのは吸血鬼としては何も間違っていないのでしょう。事実、私も吸血衝動を抑えるのに必死ですから」

 自嘲気味に笑うシオン。よほど屈辱的なのか、固く握った拳は白くなっている。

「シオン……」

「ですがさつき、私たちの心は人間です。あなたは志貴の血を吸おうとしましたがちゃんと耐えられたではありませんか。大丈夫。吸血鬼化の治療法は私が必ず見つけて、あなたの身体も人間に戻して見せます。――だから、もう少し待っていてください。決してあなたにそんな顔をさせないと誓います。私はそのために今ここにいるのだから」

「ありがとう、シオン。でもね、私はちょっと違うの、私は――」

 

「分かっていますよさつき。志貴を見ると吸血衝動が起こるのでしょう?」

 

「――――――え?」

 わたしはシオンの言葉に全身をこわばらせた。胸がきゅっと締め付けられるようで、反射的にパジャマの胸元を掴んだ。

 志貴くんが好きなのがバレているのは当然だ。わたしなりに必死にアプローチしているのに気付かない志貴くんの方がよほど鈍感なせいだ。頭のいいシオンなら、それくらいとっくにお見通しだろう。

 しかし、なぜ志貴くんだと吸血衝動が大きくなると知っているのか?

 まさか、という疑問が脳裏に浮かび、すぐに氷解した。

「そっか、見守ってくれていたんだね。シオンは……」

「……はい。ですが、私は」

「うん、分かってる。シオンが私を信用していないわけじゃないっていう事くらい、わたしだって分かってるよ。それが正しいんだと思う。だって、あの夜、自分でも危ないって思っちゃったんだもん。ずっと遠くから眺める事しか出来なかった人と、二人っきりでお話出来たんだもん。舞い上がっちゃうよ、わたし。志貴くんの笑った顔、わたしを気遣ってくれる優しい顔なんて見てたら、わたしはもう自分でも制御できなくなって」

 そこから先は言葉にならなかった。

 出てくるのは小さな嗚咽と鼻をすする音だけ。わたしの悲愴が両目から零れ、シーツに次々としみを作っていく。嘆きと悲しみは涙へと姿を変え、がらんどうの心に重く響く。

 シオンは無言でわたしを胸へ抱き寄せ、包み込むように背中へ手を回してくれた。

はは、とわたしの口から乾いた笑いが漏れる。

 中学生の頃から好きだったのに。高校生で同じクラスになって、今度こそ告白しようと思っていたら吸血鬼なんてものになってしまった。もう二度と会う事などないと思っていたら、シオンのおかげで再会出来たというのに。

 一体、わたしは何なのだろう。

 わたしは自問自答する。

 手を伸ばす前にその手を折られ、次こそはと手を伸ばせば、その手は包み込んだものを傷つけるだけの呪いの腕となっていた。

 わたしが志貴くんを求めれば求めるほど、破滅に向かって行くのが分かってしまうから。とわたしは泣き言のように言った。

「――さみしい」

 わたしはシオンの服でくぐもった声を挙げる。

 また彼女に甘えてしまっている。それでも彼女の暖かなぬくもりは、少しだけ空っぽのわたしを満たしてくれるような気がした。

「――さみしいよシオン」

「――ええ、とても」

「あああああっ。あああああああああああっ」

 わたしの嗚咽が一層激しくなり、堰を切ったように涙が滂沱として流れた。

 シオンはただ無言でわたしを受け止めてくれる。

 悲嘆も、痛憤も、諦念もなにもかも。わたしから溢れ出る感情の奔流。それを彼女ならば優しく受け止めてくれるはずだと考えている自分の打算と弱さが自己嫌悪に拍車をかける。

 辛いのはシオンだって同じなはずなのに。私だけが、みっともなく優しい人に当たり散らしている。

「――――」

 そこでわたしは気付いた。シオンの胸に頭を抱き止められた姿勢となっているけれど、わたしの頭に何かぽたぽたと落ちてくるものがあった。

 それが涙なのだと気付くまで、わたしはしばらく時間がかかった。

 あのいつも冷静沈着なシオンが泣くなんて。

 わたしは一層強くシオンを抱きしめ、シオンもより強い抱擁で返してくれた。

 シオンは大丈夫、大丈夫ですと言い聞かせるようにわたしの耳元で囁く。

 ――さつき、頬をつたう珠は天気雨なのです。この涙を乗り越えさえすれば

――きっとさつきに良く似合う、晴天のような笑顔が戻ってきます。

――だからもう少しだけ頑張りましょう。

わたしは力強く頷いた。

 何度も何度も頷いた。

 

 



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第十章 前半 真祖の姫君

 文字数が多すぎるとの事で前後編に分けました。


 嫌な夜だった。

 満月と呼ぶにはやや欠けた、貝殻のようにほの白い月を見上げながら志貴はぶるりと肩を震わせた。月には様々な思い入れがあるだけに、事あるごとに夜空へ目を凝らすクセがついてしまった。

 それもこれもあの気まぐれなお姫様のせいだ。と志貴はどこか愉快気に笑う。

 ここ最近、めっきり会う機会の減ってしまった彼女の事を想うと、志貴も自然と歩調が速くなる。結局、今日も噂の吸血鬼も見つからなかった。ならばせめてアルクェイドと、と思うも世の中はそう都合よく出来ていないらしい。志貴、シオン、さつきの三人は休憩するために公園へ向かう途中だった。

「……」

「どうしました志貴?」

「何だか元気が無いみたいだけど、何かあったの?」

 シオンとさつきが心配そうに覗きこんでくる。

「ん、なんでもない。気のせいかもしれないが、ちょっと嫌な予感がしただけだ」

「嫌な予感? 志貴、あなたは特に良くないものをイメージするのは避けていただきたい。本当に危険ですから。真祖と会うのにナーバスになるのも分かりますが、嘘でもいいのであなたは楽観論で行動してくれると助かります」

「いや、アルクェイドに会うのに気を遣う必要なんて全く無いんだけど、まあ、虫の居所が悪いとやば――ていうか、シオン。今のは何かおかし――」

 志貴は公園の入り口で立ち止まり、シオンに聞き返そうととすると違和感に気付く。

 ――この、におい、は。

 嗅覚を殴りつけるような暴力的な香りが、夜気を孕んだ風に乗って流れてきていた。風向きを志貴は確かめると、間違いなく公園の中央から流れてきているものだと確信した。

 気付けば走り出していた。背後から自分の名を呼ぶ声がするが、志貴は構わず足を動かす。

 公園中に漂う以上な感覚。

 肌にまとわりつくむせかえるほどの血の匂い。

 びしゃり、と水溜まりを踏んだような音がして足元へ意識を向けると、水溜まりではなく血溜まりなのだと気付いた。

 恐る恐る顔を上げて公園中央を睨む。

 

 ――そこで佇むのは血濡れの姫君だった。

 

 肉片と化した骸に尊厳は無く、血と糞尿が漏れだす革袋。それが幾重にも折り重なった無数の死体の山で、血濡れの姫は優雅に立つ。

 その様は白く純潔でありながら毒々しい白百合を連想させて、紅に染まる地面に咲く一輪の薔薇のようでもあった。

 藤紫のスカートに白のハイネックとシンプルな出で立ちは、余分な装飾など己が美貌を落とすとでも言わんばかりの秀麗さを備えた女性。

 ブロンドの髪から覗く顔のはっきりとした目鼻立ちは芸術品のように均整がとれていて、蠱惑的な瞳は一目で雄の心を奪い去る。

 ――あれは間違いなくアルクェイドだ。

 人外じみた美しさを決して見紛うはずがない。ないが、その雰囲気はどこか違った。

 白い月下、月明かりに照らされ金色の髪の吸血鬼は笑う。

 ――あははははははははは!

 場違いな嘲笑と共にアルクェイドは死体を踏みつけ、首を捩じ切り、頭部を蹴り転がす。

 冒涜的な凌辱は留まるところを知らず、彼女はけたたましい哄笑と共に足元の肉塊を踏み荒らす。

「――やめろアルクェイド!」

 志貴がさけぶと、アルクェイドはのっぺりとした動作で鎌首をもたげると。爛々と輝く双眸は妖しく光り、狂気に濡れていた。

「あー……。やっと来たんだ志貴ィ」

 ――何かがおかしかった。

「まったく、あんな手紙で人を呼びつけておいて時間を守らないんだもの」

 ――その雰囲気。仄かな狂気。

「しかも知らない女を二人もつれて……」

 ――漂う威圧感は異常だった。

「なあんか頭にきちゃったなァ」

 ――自制を失ったかのような。

「アルクェイド……。これは……?」

 ――その姿は何かに酔ったかのごとく。

「ああ、これ? 志貴ったらあんまり遅いからちょっとね……」

 ――街を荒らす噂の吸血鬼をイメージさせた。

「まさか……。お前が……?」

「ふん……? まさか、何よ志貴?」

 噂の吸血鬼なのか? と言おうとして志貴は喉元まで出かかっていた言葉を飲み込む。

 そんなはずがない。そんなわけがない。

アルクェイドが――……。

アルクェイドがそんな事するはずが――

 志貴は微かな緊張を持って、アルクェイドに問いかける。

「――お前。本当にアルクェイドか……?」

 志貴の言葉に、アルクェイドは口角を吊り上げ不敵に笑う。

「そう言う志貴こそ――」

 彼女は右手を振り上げ、アンダースローで地面をすくい上げるように振るう。

「本物かしら!?」

 アルクェイドが叫ぶと同時に、振るわれた腕が衝撃波を放ち、地面が抉れる。威嚇のためだったのか、衝撃波は足元で勢いが死んだが、直撃すれば人間の身体などひとたまりもないだろう。

 飛び散るつぶてを志貴たちは、顔の前で腕をクロスして庇う。アルクェイドは三人の警戒など意に介さないように悠然と歩み寄り、シオンに顔をずいと近づけた。

「まあ、それはすぐに分かるとして……。――私になにか用かしら魔術師と死徒?」

 じぃ、と値踏みをするようにアルクェイドはシオンとさつきを交互に見比べ、二人の言葉を待つ。さつきは圧倒的な存在を前に竦んでいる。シオンはさすがの豪胆さで、優雅に拝礼した。それは騎士が王妃に謁見を請うような、最高位の礼だった。

「申し遅れました。私の名はシオン・エルトナム・アトラシア。錬金術師として真祖の姫君の協力を仰ぎたく参上しました」

「錬金術師が……私に?」

「はい。真祖との話し合いの機会を得るべく、志貴に依頼したのです」

「私に協力しろ? 珍しいわね。教会の人間以外でそんな事言ってくるなんて」

 少しだけ興味を引かれたように、アルクェイドは態度を軟化した。

「……いいわ。言ってみなさい、面白ければ聞いてあげる」

 シオンは希望を見出したように、伝えるべき事柄を並列思考を駆使して熟考する。ここが正念場だ、何としても真祖の協力を取りつけねば自分とさつきに未来はない。

 シオンは唾を飲み込んで喉を湿らすと、己の目的を話し出した。

「お気づきだと思いますが、私と隣の彼女……弓塚さつきは死徒です。私は人間の吸血鬼化について研究しています。真祖に血を吸われ死徒と成った者。その死徒により吸血鬼と化した者……この一方通行に手を加えるために!」

「ふうん、つまり」

「はい。吸血鬼化の治療に他なりません。人間は貴女方の血によって異なる生物へと変化へと変貌した。ならばまた人間へと変化させうる事も道理の内でしょう。その為には大元たる真祖の血を……」

 

「――なあーんだ。そんな事?」

 

 嘲りをたっぷりと籠めた侮蔑の視線に、シオンの全身が跳ねた。

 それで一切の興味を失ったように、アルクェイドは話は終わりとでも言うかのように背を向けた。

「ダメダメ。つまらないから話はここまでよ」

「な……!? つまらないとは聞き捨てなりません!」

「そうです! 遠野くんから聞きました。吸血鬼の大元はあなたたち真祖で、真祖に血を吸われた人たちがまた人間の血を吸っているんだって……。元はと言えばあなたたちが蒔いた種じゃないですか! そのせいでわたしは学校にだって行けなくなって、家族とだって……」

 シオンとさつきは語調を強めるが、アルクェイドは依然としてつまらないものを見るような目で冷たく突き放す。

「それは私のせいじゃないし、どうでもいいわ。別に死徒がつまらないとは言っていないの。私はね、あなた達がつまらないと言っているの」

「どうでもいい……?」

「……それはどういう意味です?」

 さつきは信じられないという風に顔を青くし、シオンは苛立ちを懸命に押し殺す。

「自分でも分かっている事を聞くのは愚問よ。だってそんな事不可能だもの。あなただってとっくに分かっているんでしょ。吸血種になった人間はもう元には戻れない。時間は逆行しないのよシオン・エルトナム・アトラシア」

「――――ッ!」

「アナタの目的は別でしょう? 吸血鬼化の治療? 半分嘘よ、だってそんな事は無理だって出来っこないって事は本人が十分理解しているはずだもの。わたしはifの話も諦めの悪い子も好きだけど、あなたはてんでダメ」

 シオンは呼吸も忘れ、アルクェイドの言葉に刺し貫かれるまま。

 脳裏に浮かぶのは血の涙を流す死徒。紅い月の下で膝をつき屈服する自分。

 無抵抗のシオンへとどめをさすようにアルクェイドは嘲りを籠めて言い放つ。

「そうでしょう? だってあなたはもうとっくに――」

 

「黙りなさい――――――――――――!!!!」

 

 ドオオオオ! という轟音と共にシオンは怒声を張り散らした。ありったけの殺気と共にエーテライトを展開させ、そっ首を落とさんとエーテライトを振るう。

「貴女に助力を請おうとした私が愚かでした! 所詮、生まれ出でたる時より人ならざる生命体に、人の心を異形の身体に蝕まれる我々の嘆きなど理解できようはずもない!! もはや問答は無意味!! ならば力尽くで従わせるのみ!!!!」

 それは不可視の斬撃。風切り音すら置き去りにする必殺の一撃は、寸分違わずアルクェイドの喉元へ食らいつく。

 しかし、アルクェイドは動かない。

 迫りくる圧縮された殺意を、アルクェイドは、

「――児戯ね」

 ――指先でつまみ取った。

「なっ……!」

 シオンの表情が驚愕に歪み、エーテライトを引き戻そうとするが全く動かない。大木であろうと容易く切り裂くエーテライトを、まるでただの糸のように指先で転がす。

「それで終わり?」

「嘗ァめぇるぅなああああああああああああああああっ!!」

 シオンは激情のままに残った片腕を振るい、エーテライトで追撃を試みる。

 袈裟切り、切り上げ、切り払い、脛切り。

 合わせて四度。

 アルクェイドはそれらを必要最低限の動きで躱し、いなし、そして凶刃と化したエーテライトを、

「……もういいわあなた。つまらないにもほどがある」

 爪でぶつりと切断した。アルクェイドの命を刈り取らんと猛威を振るっていたエーテライトは張りを失い、力なく地面に落ちる。

 アルクェイドは指先に息を吹きかけ、爪先についた糸くずを飛ばす。いい加減終わりにしようとアルクェイドがシオンを睨んだ瞬間。

 ――パアン!

 という音が夜に木魂した。

 硝煙の揺れる銃口から、アルクェイドはシオンが発砲したのだと理解した。

 ――くだらない。銃など私にとっては玩具と変わらない。

「最初から最後まで下らない女ね。あなたの相手するの飽きちゃった。もう終わりにしましょう」

 そこでアルクェイドは己の肩口に乗った毛束に目が行った。それが先程の発砲によって削り取られた自身の髪なのだと気が付いた時、アルクェイドの顔から表情が消えた。

 白く美しい肌はさらに血を失い、冷徹さを剥き出しにした。

 ゾクリ、とシオンは全身が粟立つの感じた。

 先程の獅子がじゃれつく鼠にしびれを切らしたのとは事なる、純粋な殺意。

「ちょっと本気で頭に来た。獅子の余裕で、鼠に一噛みくらいはさせてあげるつもりだったけど――。いいわ、血を吸う不快な蚊は叩き殺されるのがふさわしいわ」

 アルクェイドは脱力し、鷹揚に構える。シオンはバレル・レプリカの照準をアルクェイドの額に当て、一挙手一投足見逃さぬよう極限の集中で迎え撃つ。

 ――分割思考同時展開。

 右旋回から爪による攻撃。

 地面を滑空するように移動してから首の掻っ切り。

 上空を飛んで背後に移動し心臓を一突き。

 優に百を超えるアルクェイドの行動パターンを計算し、あらゆる攻撃に備える。

 ――来い。来い。来い。

 シオンは目を皿のようにしてアルクェイドを見据える。

 しかし、アルクェイドは動かない。

 変わらず不敵な笑みを崩さないアルクェイドにシオンが不審に思った瞬間。

 アルクェイドは眼前に移動していた。

 「――ばぁ」

 「なあっ……?」

 視界いっぱいに広がる真祖の手の平。

 掌底? それとも掴み技?

 反射的に後ろへ飛ぶため、脳が指令を送るより早く、シオンの後頭部は地面に叩きつけられていた。後頭部に鈍い衝撃と、遅れてやって来る酩酊感。

 地球が反転したのかと錯覚した。

 三半規管はお役御免とばかりに職務放棄し、ここが地面より水平なのかどうかも分からない。

 全身の力は抜け落ち、命令系統が狂いきった肉体は無意味な痙攣を繰り返すだけの肉塊となっていた。

「さようなら。どうせ何もかも諦めているなら、ここで消えるのも同じでしょう?」

「やめろ! 殺すなアルクェイド!」

 シオンの顔面をそのまま握りつぶそうとするアルクェイドを止めるために志貴は走り出す。

 志貴はアルクェイドを羽交い絞めにしようとすると、アルクェイドはシオンを鷲掴みにした腕を離すと、

「悪いけどちょっと眠ってて志貴」

 トン、と志貴のみぞおち付近を優しく押した。

 瞬間、志貴は両膝から崩れ落ちた。地面は溶け出し、足場から埋もれていくような感覚は志貴から全身の自由を奪う。

「アルク、エイ、ド。な、に、を……」

 地面のザラついた感触を頬に感じながら、僅かに動く首のみを動かしアルクェイドを見上げる。

 アルクェイドは右腕を掲げ、羽虫を踏み潰すかのような感慨の無さで、処刑の刃を振り下ろそうとする。シオンは口の端から涎を垂らし、憎々し気にアルクェイドを眼光鋭く睨み付けるが抵抗するまでの力は回復していなかった。

「わたしの友達に手を出すなあああああああああああっ!」

 アルクェイドが振り下ろすより早くさつきは飛び出す。友人と想い人を同時に傷つけられたさつきの視界は怒りで赤く染まり、勢いそのままにアルクェイドを打ち抜くべく拳を放った。

何の駆け引きも技術も無い、衝動に任せただけのテレフォンパンチ。しかし、不意打ちに驚いたのか、鬼気迫る表情に面食らったのか、アルクェイドはバックステップでそれを躱すと、僅かに表情に色を取り戻した。

「あなたまだいたの? 黙って立ち去るなら見逃してあげようと思っていたのに。あなたもそこの錬金術師も、レベルの違いが分からないような馬鹿には見えなかったのに」

「うるさい! 我慢に我慢を重ねてきたけどもう限界だよ!」

「……何に? まだ私はあなたに何もしてないじゃない」

「あなた達はいつもそう! そうやって強い力を振りかざしては、弱い人達を平気で傷つけて食い物にして! あなた方にとっては人間なんて家畜と同じなんだろうけど、わたしたちは生きているんだよ! 一人一人の人生があったんだよ! それを突然奪われた苦しみがあなたに分かる!? 分かるわけないでしょうよ!!」

 さつきの怒りは留まる事を知らなかった。口からついて出る言葉は、吸血鬼への憎悪と理不尽に人としての正に幕を下ろされた理不尽な世への嚇怒。

 アルクェイドはとばっちりを受けたかのように不快そうに唇を尖らせる。

「何を勘違いしているのか知らないけれど、私は人の血は――」

「シオンを噛んだ吸血鬼だって! 私を殺したロアだって! その勝手な行動の責任を取った事が一度だってある!?」

「――あなた」

 アルクェイドの表情が一変する。きまりが悪いように顔を曇らすと、静かな憐憫を覗かせた。

 ふーっ、ふーっ、荒い息を吐き、自らの激情を叩き付けたさつきはアルクェイドの変化に気付かない。

「……そう。あなたはロアの。確かに、それなら私にも責任の一端はあるかもね」

 アルクェイドにしては非常に稀な事に己の非を認める旨を述べた。志貴が聞いたら仰天した事だろう。一方、さきは意外そうな表情を作るもすぐに引き締める。

「だったら……。少しでも私に悪いと思っているのらば、協力してください! それがせめてもの罪滅ぼしでしょう!?」

 さつきは再び協力を要請するが、アルクェイドは静かに首を左右に振り、さつきの要求を跳ね除ける。

「残念だけど不可能よ。あなたは特に。私が戻す方法を知らないんだもの。極小の可能性に賭けるのもありだけど、そうなる前にあなたがたは時間切れになる」

「そんな――。そんなのってないよ! 何か、何か方法があるはずだよ!! そんな簡単に諦められないよ! 私だって、シオンだって、何のためにここまで耐えてきたっていうの!?」

「…………」

 アルクェイドは目を閉じた。眼前の無力な少女に対し、ただやりきれない不条理を皮肉げに見つめるだけ。

「……あなたは本当に諦めないのね。皮肉だわ。本当に皮肉だわ。でも無理よ。私にはあなた達は救えない。あなたを救えるとしたら志貴ぐらいだけど――彼に殺されていいのは私だけ。なんなら私が代わりにやってもいいわよ。それともいままで通り、ネズミのようにこそこそ逃げ回って生きる? それもアリよ。それなら見逃してやってもいいわ」

 ブチリ、とさつきの中で何かが切れる音がした。

 それは燃え盛るような憤怒ではなく、薄い氷の刃にも似たひどく冷たい殺意。怒りの果ては反転した冷徹なのだとさつきは悟る。

 逃げ回れ?

 見逃してやってもいい?

 ――どこまで馬鹿にするつもりだ!!

 さつきの口から乾いた笑いが漏れる。この感情はもはや怒りという表現ですら生々しい。何たる理不尽、何たる不条理。

「――シオン。あれをわたしに使って」

「さつき!? ですがあれは……」

「いいの。わたしはコイツが許せない。散々好き放題玩具にされて、これだけ一方的な哀れみを向けられて黙っていられるほどわたしは平和主義者じゃないよ。――うん、窮鼠猫を嚙むって言葉を思い知らせてあげる」

 いくらか動けるまで回復していたシオンは、片膝立ちのまま瞠目する。シオンは躊躇いを見せるが、覚悟を決めたさつきを見て、エーテライトを操作する。

「いきますよさつき! リミッター解除!」

 シオンの腕輪が光を放ち、さつきの気配が膨れ上がる。

 全身の筋繊維が搾り上げられ、張り巡らされた神経は高速伝達を可能とする。

 ドクリ、ドクリと心臓は力強く確かな拡張と収縮を繰り返し、気血を全身に送り込む。

 ゆらり、とさつきは揺れた。

「私と一緒に、来い……!」

 精神を研ぎ澄まし、眼前の絶対的強者に牙を突き立てるべく、口を開く。

 

「――飢え渇け『枯渇庭園』」

 

 



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第十章 後半 枯渇庭園

 さっちんの枯渇庭園については完全に筆者の妄想です。まじで本編だとどうなるのか気になります。


 さつきが紡いだ言の葉をトリガーに世界は一変する。

 現出するは広大な平原に咲き乱れる皐月の花々。

 その様は鮮やかな貝殻を無為に集めて散らしたように、軽く爽やかに広がっていた。

 鮮やかなカーマイン、艶のある練色、清純なスノーホワイトに、奥ゆかしい薄色。

 雲一つ見つからぬ晴れ空は生命に息吹を与え、皐月は己の生命を輝かせる。

 吹き抜ける風は清廉で、魂を洗い流していくよう。

 青々とした草の匂いは花の力強さを訴えかけ、同時に脆く儚いイメージを抱かせた。

 ざあ、と風が吹けばそれに幾ばくかの花弁が巻き込まれ、流れて行く。

 どこまでも続く清楚にして凄艶な花園は、現世に写し出された幽世を想わせる仮初めの幻想。

 アルクェイドは舞い散る花びらを一枚掴むと、感心したように呟いた。

「……驚いた。まさかあなたみたいなぺーぺーの新米吸血鬼が固有結界まで使いこなすなんて。二十七祖に匹敵するポテンシャルよ」

「まだ驚くのは早いですよ、アルクェイドさん」

 さつきが顔を歪めると、庭園は反転する。

 あれほど若々しく生を謳歌していて花々が、突如として色を失いだした。始めは色褪せ、薄くなり、一様に枯れた柴色となったかと思えば、煤けた墨色となる。

 活力を吸い尽くされた花々は渇き切り、冷たく吹く風によって灰と散った。

 空は鈍色の雲で覆い尽くされ、太陽をすっぽりと覆う。

「…………!」

 アルクェイドは重く伸し掛かる重圧と、抹消から零れていく生命力に眉根を寄せる。

 空間が渇くような感覚からして大気中のマナが吸い取られているのは見て取れる。しかし、全身の皮膚から活力を奪われ枯らされるような具合から、体内のオドも吸収されているようだ。

「この空間の中では私が支配者。鼠にだってプライドはある。あんまり軽く見てると怪我するよ」

 挑発的な物言いにもアルクェイドは動じず、無造作に腕を振るった。

「――――」

 しかし、その手は空しく空を斬るだけで、魔力を込めた衝撃は発生しない。まるで出発点から霧散するように、消えていく。アルクェイドは試すように二度三度、同じように腕を振り回したが結果は同じだった。

「無駄よ。ここではマナやオドを使った攻撃は一切通じない……。形勢逆転だねお姫様」

「言ってくれるじゃない。確かに色々と制約の付きそうな固有結界だけど、これでどうするつもり?」

「こうするの」

 言うがいなや、さつきの姿が視界から消えた。アルクェイドは反射的にしゃがみ込み、頭上から数秒遅れてやって来る拳圧が、さつきの拳が空振りしていたのを知らせる。

「シッ!」

 しゃがみ込んだアルクェイドに追い打ちをかけるようにローファーの先でトーキック。アルクェイドは後方宙返りでそれを難なく躱し、重力を感じさせぬ足取りで着地する。

 さつきは地面を抉るように飛び出し、アルクェイドの顔面めがけて突きを放つ。

 左ジャブ右ストレートのワンツーから、左ボディ左アッパーカット。

 スウェーバック、ステップバック、サイドステップ。

 さつきの息もつかせぬ豪打を、アルクェイドは蝶が舞うように優雅に躱す。

 さつきが打てば、アルクェイドは回る。二人はくるくると入れ代わり、演舞する。

「ははっ! 付け焼刃のボクシングにしては上等よ! 怖い怖い!!」

「――――ッ!!」

 さつきは容赦なくストレートで顎を狙い、肝臓を破裂させる勢いの左ボディ、右フックでテンプルを打ち抜こうとする。しかし、アルクェイドは鼻歌交じりにパリングでさつきの拳を払いのける。

 さつきの猛攻は意思を持った暴風雨。それをアルクェイドはワルツを踊るように軽やかにやり過ごす。

 さつきは徐々に苛立ち、額に汗が滲む。

 早く、早く決着を付けなければ。

 元より、純粋なスペックで勝てるなどと思い上がってはいない。枯渇庭園は言ってみればマナやオドを消失させる事により、大抵の超常現象を封殺するためのものだ。相手を弱体化させ、自分の得意なフィールドに引きずり込むのがこの固有結界の真骨頂。

 これを使えばあるいは、それがシオンと秘密裏に行った特訓で見つけた真祖に対する唯一の勝機。

「あはははは! 当たらなければ扇風機。涼しくていいわ!」

 それでも届かない。

 さつきの表情には焦りが色濃く表れ、攻撃も単調で大振りなものとなる。コンビネーションを失った打撃は精緻さを欠き、乱雑に振るえば隙を生み出す。

「はあああああああああっ」

 裂帛の気合いと共に、さつきは大振りのハンマーフック。アルクェイドはダッキングでそれをやり過ごし、ガラ空きになった腹部へ貫手を放とうとすると、

「……あらっ?」

 ガクリと、右半身が落ちた。違和感のした足元を見ると、抉れた地面に右足がはまっていた。その穴はさつきが不自然なほどに強い踏み込みで開けたものだった。加えて、自身の反応が徐々に鈍っていたのもあるだろう。

 ――これを狙って?

 振り返るとさつきの右拳は装填完了していた。一撃で仕留めるために振りかぶり、審判を告げる悪魔のように微笑む。

「これがわたしとシオンの力よ。覚えておいて。鼠だって命を捨てる覚悟があれば猫くらい食い殺すの」

 ドオッ! という衝撃が頬骨にめり込み、一瞬、アルクェイドの端正な顔がひしゃげると同時に後方へ吹き飛んだ。

 吸血鬼の膂力を最大限に活用した、全力攻撃。

 その勢いは地面を削り、土ぼこりが舞い上がり、五転六転もんどりうってようやく止まった。

 すると、徐々に荒れ果てた空間が崩れ始めた。沈み込むような黒と枯れた茶色のみで構成された殺風景な空間は溶け落ち、壊れ、消えていく。

 さつきの魔力が枯渇すると同時に、舞台は再び閑静な公園と転じた。

「――うぐぅっ!?」

 幻想の消失と共に、さつきの全身に激痛が走った。精神性の脂汗がベッタリと身体中を流れ、ナメクジのようにぬめる。リミッター解除の反動が来たらしい。強い力にはそれなりの代償が伴うとシオンが言っていた意味をさつきは身をもって理解した。

 およそ百メートル近く飛ばされたアルクェイドは仰向けのまま微動だにしない。

 見れば志貴はシオンを介抱しており、志貴に肩を貸してもらいながら何とか立ち上がる。さつきの帰還を確認したシオンは安堵の笑みを浮かべる。

「……さつき? やりました?」

「うん。ぎりぎりだったよシオン。でもやっぱ、リミッター解除は奥の手にしよう……」

 さつきもシオンの無事を喜ぶが、志貴は浮かない顔。さつきは複雑そうに、アルクェイドの転がる方向へ視線を投げる。

「とりあえず、アルクェイドさんを拘束しよう、シオン。あの人は嫌がるだろうけど、拒否なって絶対させない。責任を取るまで私は何度だって打ち倒してやるんだから」

 さつきは確固たる意志を滾らせ、気を失っているであろうアルクェイドの元へ歩を進めようとする。

 これが追い詰められた鼠の一噛みだ。例え絶対強者にとって、どれだけ取るに足らない存在であろうが、何度でも立ち上がり噛みついてやる。

 さつきがアルクェイドを引っ張り起そうと近づいたその時。

 

「ん――、まあ、半人前ならこんなものかなあ」

 

 と、能天気な声が耳に飛び込んだ。

 よっと、という掛け声と共にアルクェイドは起き上がり、身体についたほこりをはたく。

「効いて、ない……?」

 さつきは呆然として、震える口を動かすが言葉にならない。志貴とシオンも驚愕を顔に張り付け、平然としているのはアルクェイドだけであった。

 アルクェイドは血の混じった唾液を地面に吐き捨て、嘆息する。

「いやいや、結構効いたわよ。奥歯が一本ぐらぐらするもの。これじゃあ再生させるために抜かないといけないじゃない。どうしてくれるのよ」

「奥歯一本……」

 アルクェイドは自宅周りを散歩でもするかのような気軽さで歩きながら近づいてくる。さつきはそれに合わせるように後ずさり。

 アルクェイドが一歩動けば、さつきは三歩下がる。

 アルクェイドが三歩進めば、さつきは十歩後退する。

 激憤で蓋をしていた恐怖が暴れ出し、飛び出そうとするのをさつきは矜持でかろうじて抑え込む。

 慄然とするさつきの畏怖を見透かしたように、アルクェイドは追い詰める。

「――窮鼠猫を嚙む」

 アルクェイドはさつきの言葉を反復する。さつきはビクリと肩を震わせ、身構えた。

「言い得て妙ね。確かに私も噛まれてちょっと痛かったわ」

 けどね、とアルクェイドは言葉を止めて、殺気を膨らませる。

 

「身の程も弁えずに獅子に噛みついた鼠なんて、食い殺さるのが道理でしょ」

 

「さつきいいいいいいいいいいいい!!!! 逃げてくださあああああああいいいいいいい!!!!」

 シオンの絶叫じみた悲鳴が響くも時既に遅く、瞬時にアルクェイドは肉薄する。アルクェイドの手刀がさつきの肩へ吸い込まれるように振るわれる。

さつきの右手は宙を舞っていた。

「――――あ」

 血飛沫をあげながら落下した己の右手を見て、ようやく脳は事態を正しく認知した。遅れてやって来た激痛のシグナルは神経を焼き切り、シナプスをスパークさせる。

「あっあっあっ……、があああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっっっっっっっ!!!!!!!」

 噴水のように溢れ出る自信の肩口を左手で押さえながら、さつきはのたうち回る。

 傷口は痛みを通り越して燃えるように熱く、生命が流れ出るのを、力の抜けていく四肢が伝えてきた。

 血泡を飛ばし、セーターが泥まみれになるように地面を転がりながら、獣じみた絶叫を挙げ続ける。

 大地に爪を突き立て、がりがりと爪が剥がれるほど強く掻きむしった。

 アルクェイドは既に手負いとなった獲物を睥睨し、無造作に蹴り飛ばす。

「がっ!」

 アルクェイドのつま先はさつきの水月を正確に捉え、ゴムボールのように転がされる。

「ぶえっ、ぶえっぶええええええええっ!!」

 内臓がひしゃげ、胃からせり上げてきた夕食をすべてぶちまけた。げえげえとさつきはえずき、口元を押さえるも吐瀉物は滝のように噴出される。

 ようやく全てを出し切り、涙で霞む視界を挙げると横から衝撃。

 横っ面を蹴られた。と思った瞬間、アルクェイドの靴底がさつきの喉を踏みつけた。喉元にかかる重圧は首ごと捩じ切りそうなほど強い。

「がっぐっううううううう」

 さつきはアルクェイドの足首を掴み、抵抗するが全く動かない。

 抜き身の刀じみた殺気を差し込まれ、さつきは自分の命が風前の灯であるのを本能で理解する。もしアルクェイドはあと少し、力を込めれば自身の脆い首など紙細工を砕くより容易く潰れるだろう。

「やめろアルクェイド!」

「お願いです! 先程の無礼なら詫びます! ですからさつきを殺さないでください!!」

 制止する志貴に冷徹な表情で一瞥するも、アルクェイドは一層、足に力を込める。

「卓越した思考速度で敵の行動を予測しするアトラス院の錬金術師に、固有結界まで操る死徒、かあ……。確かに厄介だけど、覆せない確率はどうにもならない。難破すると解っている船に乗った人間に助かる術がない様にね。本来、私とアナタたちの戦いはそういう事よ。アナタが私の何を予測し、対策を立てたところで対抗手段なんてない。私とあなた達では文字通りケタが違うの。小細工でひっくり返るようなものじゃない」

「一体どうしたんだよアルクェイド!? 今日のお前、何かヘンだぞ!? もとから冷酷なところはあったけど、そこまでするようなヤツじゃなかったろ!!」

「別に……。気に入らないヤツに絡まれてイラついていたところに、志貴が嫌いなタイプの女を二人も連れて現れるんだもん。殺したくもなるわよ。ていうかさあ」

 アルクェイドはさらに眼光を鋭くしてさつきへ吐き捨てる。

「そもそもアンタ生意気なのよ。生きていても死んでいても私の志貴を独占しようだなんて」

 ぐん、とアルクェイドはさらに力を込めようとした時、背筋に冷たい汗が流れた。

「――頼むアルクェイド、やめてくれ。それ以上やるなら本気で怒るぞ」

 志貴は眼鏡を外し、青白く発光した瞳で怒れる獅子を睨み据える。

「…………」

「…………」

 二人は無言で睨みあう。志貴の殺気はと陽炎のように揺らめき、アルクェイドの全身を包み込む。実のところ、アルクェイドにもそれほど余裕は無かった。さつきの固有結界は相当厄介な部類であり、力を二割近く削がれた状態で本気の志貴を相手にしては負ける可能性もゼロではない。

 アルクェイドはしばらく志貴と睨み合いを続けていたが、やがて譲歩するようにさつきの首から足をどけた。

 咳き込むさつきへシオンが駆け寄り、傷を見る。

「綺麗に切断されている……。さつき、これならすぐにくっつきます。良かったですね」

「ゲホッ、ゲホッ……。あんまり良くないような気が……」

 赤い筋肉と黄色の脂肪がむき出しになった切断面にシオンが触れると、さつきはうめき声をあげる。シオンは舌を噛まないようにハンカチをさつきの口元へ運ぶとさつきはやや遠慮がちに咥えた。

 シオンは手慣れた風にエーテライトで神経と筋肉を接合していく。さつきの事も気がかりだが、エーテライトはもともと医療用の道具だと言っていたので大丈夫だろう、と志貴は判断した。

「……アルクェイド、お前本当にアルクェイドか? これはお前がやったのか?」

 志貴は目の前のアルクェイドを、自身の記憶と照らし合わせながら尋ねた。未だに死体の山はむせ返るような血の臭いを放っている。

「それはこっちのセリフよ。あなたこそ本当に志貴? 人をこんなところまで呼び出しておいて二人も女を侍らせて……。まさか、やっぱり偽物?」

「それこそ俺のセリフだ! この死体の山は何だ!? お前、アルクェイドの偽物か!?」

 志貴は死体が折り重なって積まれた歪なタワーを指さし、興奮気味に叫ぶ。しかし、アルクェイドは涼しい顔で遺骸を見つめるのみ。

「死体の山ってこれのこと? これなら私がやったんじゃないよ。だって今の志貴が来る前に私が公園に着いた時に志貴が殺していたんだもん。私からすれば志貴だって偽物みたいなんだから」

「え……? お、俺が!?」

 志貴は自分を指さし仰天する。無意識に人を殺しそうになる前科があるだけに完全には否定出来ない。自身の記憶に自信の持てない志貴はひどく狼狽する。

「困った事に私たちみんなアイツの影響を受けているようね。志貴も気を抜いていると、本当に殺人鬼になっちゃうわよ」

「??? 殺人鬼になる……って? どういう事だ?」

「良くない不安を実行してしまうってコトよ。もっとも――こんなんじゃ殺人鬼とはいえないけどね!」

 アルクェイドは辺りに転がった適当な生首を蹴り飛ばした。バウンドして自分の足元まで転がって来た死体の濁った瞳と目が合って、志貴はぞっとした。生命として完全に渇き切った虚ろな表情は、生理的な恐怖を与える。

「なっ、何をするんだアルクェイド! 遺体を粗末に扱うな!!」

「あは、志貴ったらまーだ騙されてる」

「騙されてる?」

 志貴は再び足元の生首を、目をすがめて注意深く観察した。

 すると、何か視界にかかっていた靄が晴れるような感覚の後、人間の頭部はいつのまにかただのゴミ袋へ姿を変えていた。志貴は目をこすり、先程までは確かに死体と見えたものはゴミ袋に、飛び出した眼球はちり紙に、血と錯覚していたものは茶色の汚水と化していた。

「あれっ? さっきは確かに」

「ほーら騙された。志貴は人より嫌な経験をしているから、現実化させやすいのよ」

「ごめんアルクェイド……。さっぱり意味が分からない。つまりどういう事なんだ?」

「そんなの決まっているじゃない。吸血鬼の仕業よ」

 決まり切った事を聞くな、とでも言わんばかりにアルクェイドは断言する。

 志貴は突如として当初の目的がここで繋がる事に驚く。

「それって、街で噂になっているアレか? シエル先輩も言っていたけどお前も……」

「なあんだ、シエルにもう聞いていたの? でもそれじゃあおかしいわね。そろそろアイツが現れてもいいころなんだけど――」

 言いかけてアルクェイドは顎に手を当てて考え込む。

 ――私がいる事で決めかねている?

 馬鹿ね、とアルクェイドは呟いた。あのタタリという性質上、乗っ取りや具現化など容易いのだろうが、欲をかきすぎたところで自滅するだけだ。

 とは言え、不完全ながらも自分(アルクェイド)をタタリとして固定したなら、街一つ壊滅させることなど造作も無いだろう。ならば、見過ごす事も出来ない。

 アルクェイドは一人納得した風だが、志貴はまったく全容が見えない。

「アルクェイド、俺にも分かるように説明してくれないか?」

「そこの錬金術師に聞いたら? 私より詳しいわよ、なんたって当事者なんだから」

「!!」

 アルクェイドに指摘されて、シオンは後ろ姿を強張らせたように見えた。さつきの手当てのために手を休める事は無かったが、耳を欹ててはいたらしい。

 続けろ、とその背中は語っていた。

「シオンが当事者? なあ、シオン。それってどういう意味だ?」

「…………」

 シオンは無言でさつきの腕を縫合している。糸で皮膚が引っ張られた跡が目立つが、腕を繋げる事には成功したようだ。さつきも目を閉じて、呼吸は落ち着いている。

「ほーらね。嘘ばっかりついてるくせに協力はさせるなんてズルイ女。ホントはそんな女殺しておきたいところなんだけど……志貴は邪魔するでしょ?」

「ばっ、当然だろ! どうしてお前はいつもそう物騒な方向へ話を持っていくんだ!?」

「ほらね。だから今夜は見逃してあげるわ錬金術師。じゃあね志貴。殺人鬼になっちゃってもご飯の約束は忘れないでよ」

 予想通りの答えにアルクェイドは肩を竦めると、お開きとでも言うように外灯へ飛び移った。振り向きざまに悪戯猫のような笑みを浮かべて去って行った。

 志貴が引き止めようとするも、アルクェイドは木々の間を飛び移りながら風のように去って行った。

 志貴はシオン達の元へ近づき、さつきの容態を確かめる。シオンのエーテエライトによって今は眠っているらしい。血や汚物で汚れているが、落ち着いた表情で静かに寝入っていた。シオンはさつきを近くの木に、背中を預けさせるようにして座らせた。

「……シオン。聞いてただろ? アルクェイドが言っていた当事者ってどういう意味だ? 街の噂の吸血鬼についても本当は知っているんじゃないのか?」

「隠していたわけではありません。街の噂については志貴と同程度の知識しか有していませんが……。この街に潜伏する死徒がどのようなモノであるかは――そう、熟知しています」

 やっぱり、と志貴は眼鏡のブリッジを押し上げる。シオンの言動は明らかに噂の正体について心当たりがあるとしか思えなかった。この後に及んで情報を出し渋るシオンに、さすがの志貴もムッとした表情を作る。

「志貴は噂の吸血鬼を捜していただけなので、正体を知る必要は……」

「大アリだよ。俺は正体を探るだけじゃなくて、場合によってはソイツをどうにかしないといけないんだ。事前にソイツの情報があれば対抗策だって立てられるだろ」

「……一理あります。本当はアレにあまり関わって欲しくないのですが、必要以上の隠し事はしたくないので教えましょう」

 シオンは淡々と噂の吸血鬼について語りだした。

 真祖や代行者が捜している噂の元凶である死徒。

 その死徒は『ワラキアの夜』と呼ばれる主体性の無い吸血鬼。

 呼び名の通り『祟り』とは強い不安、一般性を持つ噂を現出させる呪いであり、『タタリ』は『祟り』を文字通り具現化する。

 それは一種の固有結界であり、タタリのそれは周囲の人間の想念をカタチに一夜限りの条件を持って発現する。

 タタリの発生には不吉な噂の存在が必要不可欠であるが、無から有を生むより有を害に変える方がより祟りにふさわしい。

そういった面で、人々が不安を感じる事件が実際に起きた三咲町は絶好の舞台である。

「永遠に近い時を生きる死徒は、全ての事に飽いていきます。中でも吸血行為にルールを敷き、それを守る事によって単なる摂食を娯楽にまで昇華しているのです」

「娯楽か。胸クソ悪いな」

 侮蔑を込めた志貴の言葉にシオンは心から同意した。

「タタリにとって自らが現れると決めた街は、言ってみれば一つの舞台。既に観客は集まり始めています。もし、客席が満席になりでもすれば」

 そこでシオンはつばを飲み込み、重々しく口を開いた。

「朝までに大量の犠牲者が……。いいえ、濁すのはやめましょう。恐らく三咲町の住人は全滅します。観客全員が信じた悪い噂によって。なぜなら」

「……なぜなら?」

「自らが思い描く悪夢に対抗策などあるはずが無いのです。対抗策が思い浮かぶのならば、それは悪夢たりえない。自分の描く、自分ではどうにもならない悪い噂によって、人々は殺されるのです」

「――――」

 志貴は絶句し、その光景を鮮明にイメージし青ざめた。

 一面に広がる血の海の中で、無言で横たわる人、人、人――

 ネロ・カオスがホテルを襲撃した時の比ではない犠牲者が出る事は想像に難くなく、一夜にして死の街と化した場景が浮かぶ。

 抗えないからこそ悪夢。ゆえに想像によって創造される悪夢に抗えるはずがない。

 額から流れる汗を拭い、志貴は神経を張り詰める。その志貴の緊張を知ってか知らずか、シオンはさらに志貴が固まるような事を口走った。

「志貴、あなたはその観客の中でも主賓扱いでしょう。ですから志貴が不安に思う事がタタリになりやすいと言えます」

「……? 何で俺の不安なんかが?」

 シオンは言いにくそうに頬を染め、もじもじと身体を揺らしながら答えた。

「以前も言いましたが志貴がその……。真祖の恋人であって、寵愛を一身に受けているのでしょう?」

「寵愛!? ねえ、それって前もうやむやにされたけど、一体どういう事――」

「話がややこしくなるので眠っていてください」

 さつきがガバッと起き上がると同時に、シオンのエーテエライトがさつきの額に刺さる。逆再生のようにさつきは再び寝かされた。

 志貴はビクビクと痙攣するさつきを心配そうに見つめるが、話を戻す。

「確かに俺はアルクェイドを良く知っているけど、それがタタリにとって何の関係があるんだ?」

 自明の理です、とシオンは人差指を立てて、学生に講義するように続ける。

「この街で考え得る最凶のタタリとは? 見境を無くした真祖でしょう。タタリそのものが狂った真祖の姿を纏うより、真祖そのものに取りついたほうが効率が良いのです。それを可能たらしめるのに利用しやすいのが、あなたの持つ正確なイメージです。具体的なイメージを伴う志貴の不安は、タタリにとって利用しやすいのです。」

 志貴はそこで「ああ」と合点がいったように口元を引き結んだ。

 自分は多くの血や人の死といったものを実際に多く目の当りにしている。シオンは無を有にするより有を害にする方が祟りにふさわしいと言った。ならば、架空の存在を想像するしかない人々より、はるかに形にしやすいイメージを自分は持っているのだろう。

 ならば、と志貴はより最悪なイメージを連想する。

 己が体内に666の獣を内包する混沌、他者の命を刈り取るためだけに生まれ落ちたような殺人鬼。

「じゃあ何か、おれがアイツやアレを不安に思ってしまったら――」

「――アッ、あっ、ああああああああああああああ!!」

「さつき!?」

 志貴が言いかけると、突如さつきが体を抱くようにして苦しみだした。見れば顔は熟した林檎より赤く染まったかと思えば蝋のように白くなるのを繰り返す。

 さつきは前のめりに倒れ込み、荒い呼吸を繰り返す。その姿は熱病に冒されたようにも、凍死寸前まで冷え切ったようにも見える。

「ッ!? どうした!? もしかしてアルクェイドにやられた傷か!?」

「分かりません、ですが早くどこかで安静にしないと!」

 シオンはさつきを抱きかかえ、切迫した表情で叫ぶ。

 とりあえず俺の屋敷で休ませよう。と志貴は提案すると、シオンは力強く頷いた。

 



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第十一章 容態

 時間の流れというものは均一なようでいて、その間隔はひどく曖昧である。

 特に、目の前に苦しむクラスメイトがいようと、自分に手助け出来る事など何一つ無いこの状況では。

 時計を見ても、先程確認した時から五分も進んでいなかった。こんな事をかれこれ述懐近く繰り返している。

 遠野邸に帰って来た三人の惨状を見た秋葉は、目を離した隙に深手を負ってきた兄と尋常ではない高熱に苦しむさつきをみて吃驚した。翡翠は口元に手を当て、琥珀は真剣な表情でさつきの具合を診ていた。

 現在、琥珀とシオンはさつき治療にかかりきり。役に立たない志貴と秋葉、翡翠の三人はロビーで待機していた。

 志貴は意味も無く、テーブルの周りをうろついては、思い出したように立ち止まると沈痛な面持ちで、さつきが寝かされている一室の方向へ視線を向ける。

 その姿は親鳥とはぐれた雛のようでひどく忙しなくて頼りない。

「兄さん、少し落ち着いたらいかがです?」

 普段なら琥珀さんが淹れる紅茶を、自分で用意した秋葉はこんな状況でも優雅に紅茶を飲んでいた。ハーブティーの清涼な香りを堪能し、すっきりと優しく目が冴える。

 あまりにも平常な秋葉に、さすがの志貴も抗議する。

「落ち着くって秋葉、お前な。弓塚さんがこんな状況だっていうのに、落ち着いてなんかいられるわけないだろう。お前も少しは心配してやったらどうだ」

「あら、兄さんのようにテーブルの周りをうろついて、渋い顔をしていたら弓塚さんは元気になるのかしら」

「むっ……」

 悔しいが反論出来ない。所詮、医学知識の無い今の自分に何も出来ないのは事実だった。この無意味な徘徊も、彼女を心配しているというパフォーマンスなのではないか、と志貴はやや自己嫌悪に陥った。

「秋葉様、志貴様は……」

「お黙りなさい翡翠。兄さんのしている事は全くの無駄よ。こういう時こそしっかりと休息を取って、いざという時に備えておくのが当主というものよ」

 遠慮がちな翡翠の言も、秋葉はピシャリとねじ伏せた。

「それに兄さん。琥珀は薬学だけでなく医学の心得もありますし、魔についても多少の知識はあります。そこにシオンが加われば、今できる中では最高の治療が施せるはずです」

「分かったよ……。ここは二人に任せた方がよさそうだな」

 志貴は不承不承と言った具合に椅子に座った。たまには自分で紅茶を淹れようと、茶葉に手を伸ばしかけた瞬間、部屋の扉がギイと音を立てた。全員の視線が入口に集中する。

 出てきたのは全身汗だくになったシオンと琥珀だった。その疲弊ぶりから、二人がどれだけ奮闘してくれたのが伝わって来るようだった。腕まくりをした琥珀は努めて明るい調子で告げた。

「志貴さん、どうにか峠は超えましたのでご安心を。今は鎮静剤で眠っていますが、明日になれば目を覚ますでしょう」

「本当かい琥珀さん!? ありがとう、本当にありがとう!!」

 志貴は勢いよく席を立つと、琥珀の朗報に歓喜した。

「お礼ならシオンさんに言ってくださいな。彼女のえーてらいと? には私も驚かされっぱなしです。あそこまで重篤な方を、死の淵から蘇生させるなんて」

「吸血鬼は吸血鬼を知るという事です。私も人間の医学はもちろん、自分と同族の身体の事ですから、ある程度は」

 シオンはそれだけ言うと、どっかりと適当な椅子に腰かけ、天井を仰ぎながら重い息を吐いた。今にも倒れそうなほど疲労困憊しているようだった。琥珀も同様に疲れているはずなのに「ただいま紅茶をお持ちしますねー」と厨房へ姿を消した。

 肩で息をするシオンに志貴は労いの言葉をかける。

「お疲れ様シオン。弓塚さんはもう大丈夫なのか?」

「未だに予断は許さない状況ではありますが、ひとまずは大丈夫です。後はしばらく安静にしていれば体調も回復するでしょう」

 それを聞いて安心したのか、志貴は肩の力を抜くとシオンに笑いかける。シオンもそんな志貴にぎこちない笑みを返し、しばらく和やかな空気が流れた。

 その後、シオンも琥珀に入れてもらった紅茶を口にし、しばしの休息をとる。シオンの体力がいくらか回復したのを見計らって、志貴は疑問を口にする。

「お疲れのところ悪いんだがシオン……。これから俺達はどう動けばいいんだ?」

「どう動く、とは?」

 シオンは片眉を上げて、逆に聞き返した。

「どうも何も、ワラキアの夜ってやつがこの三咲町に出てくるんだろう? だったらその対抗手段を考えなければならないだろう。シオンはその正体を知っているんだから、何か作戦でも立てられるんじゃないかって思ってさ」

「ああ、その事ですか」

 質問の意図を察したシオンは、志貴を見つめ、一瞬口を開きかけるが閉じて――。躊躇いがちに再び口を開いた。

「その件ですが――。私たちはここで降ろさせていただきます」

「はあ!?」

 予想だにしなかった突然のリタイア宣言に志貴は驚愕し、見れば秋葉も同様に目を丸くしている。

 ここで降りる?

 むしろこれからが本番だというこの時に?

 一体、何のために?

 隠している何かが関係しているのか?

 志貴の脳内を様々な疑問と憶測が混線し、絡み合って情報の処理を放棄する。あわてふためく志貴に、シオンは心苦しそうに言葉を発した。

「志貴、私は確かにワラキアの夜についての知識は有していますが、ヤツの事は私はどうでもいいのです。私たちの目的はあくまで吸血鬼化の治療のため。わざわざ強力な死徒と戦うメリットなどどこにもありません」

「そりゃそうだけど……! 弓塚さんはあんな状態だし、シオンの言い方じゃワラキアの夜はもうすぐ出現するんだろう!? それなら君たちだって巻き込まれる。それなら全員で協力してワラキアをどうにかした方がいいだろう!?」

 もっともな志貴の意見だったが、シオンは無言で首を横に振って却下する。

 志貴は三咲町の住人であるがゆえに見落としている。

 ワラキアの固有結界は確かに最低最悪の固有結界ではあるが、その範囲はせいぜいが地方都市である三咲町一体をすっぽり包み込む程度。ならば、ワラキアの夜が完全に出現する前に三咲町を脱出すれば、ワラキアの夜の影響を受ける事は無い。

 極めつけに、ワラキアはあくまで一夜限りの悪夢である。

 ねずみ算式に配下を増やし、徐々に版図を広げる通常の死徒と違い、一晩しのぎさえすれば、次に現れるまでは安全である。と、シオンは言った。

「真祖との交渉が決裂した今、正直に言うと、私がこの街に留まる理由は無いのです。私たちには時間が無い。ハタ迷惑な死徒と交戦している暇があるなら、他の吸血鬼化の治療方法を捜すべきでしょう」

「――待ちなさいシオン」

 シオンは一通り思うところを述べると、氷のような秋葉声が刃のように入って来た。

 秋葉は腕を組んだ状態で、正面からシオンを睨む。

「あなたの考えは分かったわ。もともと、あなたたちには関係の無い話で、巻き込まれたくないという気持ちも理解できる」

 けどね、と秋葉は立ち上がり、シオンの側に歩み寄る。

「私たちは体調の悪いあなたの友人を看病して、食事も寝床も提供したのよ? それなのにここに脅威がやってくれば、手の平を返して逃げ出すというの? 私、これでもあなたの事は高く買っていたのよ?」

「……秋葉たちに感謝はしています」

「なら――」

「ですがそれでも無理なのです」

 シオンは深々と秋葉に頭を下げると、恥じ入るように肩を震わせた。己の最も醜い部位をさらけ出すように、シオンは恥も外聞もなくただ吐露する。

「私もさつきも、いつまで持つか分からないのです。本音を言うと、さつきがあんな状態でなければ、すぐにでもこの街を出ていって、一刻も早く研究に取り掛かりたい。私はもう失敗するわけにはいかないのです」

 絞り出すような声のシオンを、秋葉は薄く睨む。志貴も秋葉も恩着せがましい部類ではないが、それでもシオンの撤退宣言はあまりに薄情と言えた。

 しかし、シオンの言う通り、彼女は彼女で切迫した状況に立たされているのもまた事実。こうしている間にも吸血鬼化は進み、抗い難い吸血衝動が彼女を苛んでいるのだろう。

 内に潜み、徐々に自分の人間である部分を蝕ばまれていく気持ちはどれほどのか。

 吸血衝動の苦しみを理解出来る秋葉と志貴は、彼女を責め立てる気にはなれなかった。

「……分かりました。そのワラキアの夜とやらは我々が対処します」

「秋葉!?」

 死徒の処理を自ら買って出る秋葉に、志貴は驚く。

「何を意外そうな顔をしているの兄さん。そもそもこの地での魔の管理は遠野家当主の役目。仕事が正しい部署に回って来ただけの事です」

「そんな。ならお前が」

「お前がでる必要は無い、俺が行く。なんて言ったら怒りますよ兄さん! 私がくだらない正義感や義務でそんな事をしようと思っているのですか!?」

 志貴はなおも食い下がろうとしたが、秋葉の剣幕に引き下がる。志貴は何か言いたそうにしながらも、取りあえずは沈黙を選んだ。

「……申し訳ない。こんな事を言っても言い訳にすらならないでしょうが、もし私が万全の体調だったら、あなた方と肩を並べて戦いたかった。短い間でしたが、あなたたちと過ごした二日間は本当に楽しかった。同世代の友人などさつき以外にいなかった秋葉は、私を忌避する事なく接してくれた。それは本当に嬉しかった」

「あなたが気にする必要は無いわシオン。あなたにはあなたのやる事がある。あなたの気持ちは理解出来るから」

「ありがとう、秋葉」

 シオンは顔を上げると、秋葉を上目遣いに見る。既に秋葉の顔に怒りの色は無い。むしろ、これから痛む身体を引きずりながら茨の道を歩く友人に対して、心配している風にも見えた。

 シオンはすっと姿勢を正し、今度は謝罪としてではなく感謝の念を示すため、頭を下げた。

「ありがとう秋葉。この恩は一生忘れません。さつきの体調が戻り次第、屋敷は出ていくのでどうか彼女の事だけは……」

「いくらでも居てくださって結構よ。協力を拒まれたからといって、追い出すのでは遠野家の名が廃ります。言ったでしょう、あなたとは仲良くなれそうだって」

 秋葉は片手を差し出すと、シオンは苦笑した。やはり、血は繋がっていないとはいえ、兄弟なのだろう。親交を深めようとすると、握手をするのは二人の流儀らしい。

 シオンは迷わず秋葉の手を握り返す。

「健闘を祈ります秋葉。いつか必ず、この御恩は吸血鬼化を治療してから必ず。次は人間としてあなたの屋敷に遊びに来ます」

「あなたでしたらいつでも大歓迎です。いつかまた、紅茶を一緒にいただきましょう」

「あ、それ俺も参加していい?」

 ぜひ、とシオンは微笑んだ。

 



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第十二章 眠り姫の決意

 安らかな寝顔はとても穏やかで、彫刻のように美しい。まるで眠るように息を引き取ってしまったのかと錯覚するが、胸の上の毛布が静かに上下するのが彼女に息があるのを示唆していた。

 シオンはさつきの容態を見るために、さつきの部屋を訪れていた。

 眠り姫の容態は琥珀の適切な処置のおかげもあって、安定していた。これならばしばらくは持つだろう。

 シオンはポケットをまさぐり、エーテライトとバレル・レプリカの感触を確かめる。これは一種の御守りだ。

 そっと、シオンは指でさつきの頬に触れた。あの不摂生な路地裏生活にも関わらず、きめ細やかで美しい肌は年頃の少女そのものだった。気付けば、さつきの肌は小刻みに痙攣しているように見えた。しかし、すぐに気付く。

 それはシオンの身体の震えだった。

 ――私は嘘つきだ。大嘘つきだ。

 全てを捨てて、皆を欺き、それでもここまでやってきたというのに。

 シオンはさつきとの思い出を振り返る。

 寝床を求め、深夜の公園で野犬たちと縄張り争いで勇敢に戦った事。

 高級レストランの裏ではわりと状態の良い残飯が捨てられると気付き、毎晩漁りにいったら周囲の飲食店にブラックリストが出回った事。

 夜中にうろついていたら、立ちんぼと勘違いされ、下心丸出しで近寄って来た中年男から必死に逃げた事。

「…………アレ?」

 シオンはこめかみを押さえた。どうにも苦い思い出が多い。

「ま、まあ良い思い出もあります」

 黴臭いダンボールハウスで肩を寄せ合って寝た事や、私の誕生日にさつきがケーキ屋のゴミ箱から拾ってきたケーキで祝ってくれた事。

 住めば都。ダンボールも大豪邸である。夏はサウナで冬は冷凍庫でも、私にとってはどんな高級ホテルのスィートルームでも及ばないだろう。

 苦しい思い出も過ぎ去れば昇華される。ならば、この後の事もいつかは良い思い出に変貌するのだろうか。

 シオンはそこで思考を断ち切り、さつきから指を離した。シオンは背を向けて、そのまま立ち去ろうとする。決意が鈍らぬように、さつきの顔を見ずに、別れを告げた。

「――さようなら、さつき。ゆっくり休んでいてください。大丈夫、目覚めれば全て終わっていますから」

 そう言ってシオンは歩を進めようとして、複の裾を掴まれた。

「もう、ずるいよシオン。そうやってまた一人で全部抱え込んで」

「…………さつき。危険ですのであなたは安静にしていてください。大丈夫、ただ水を飲みに行くだけです」

「ぜーんぶ聞こえてたよ。シオンが何かを抱えてるなんて、みんな気付いているもん。ねえ、シオン。私はシオンが何かを隠しているなんて、全然気にしてないよ。だって友達だもん。だからね、全部話してくれなんて言わない。だから、何も言わずに私にも手伝わせて欲しいな」

 シオンは振り返らない。拳をぎゅっと握りしめて、何かに耐えるように唇を引き結ぶ。

 固く固く引き結ぶ。

 だって、だって。もし少しでも気を抜いてしまったら、きっと私は笑ってしまうだろうから。

 この胸から溢れる感情は歓喜だ。偽りの自分で友人すらも欺く自分を信じてくれる存在がいる事に、シオンは感情に蓋が出来ない。

 シオンはそんな感情の高ぶりを悟られぬよう、背を向けたままだ。

「さつき、私はワラキアと決着をつけなければなりません。そのために私は来たのだから」

「……それって、私の吸血鬼化の治療に関係あるの?」

「はい。それはとても大きな一歩になります」

 力強い口調でシオンは断言した。

 さつきはシオンの背中に滾る、熱い闘志のようなものを感じた。氷のような理性に包まれた燃え盛るような激情。

 そう、とさつきは呟いて、立ち上がる。

 病み上がりにも関わらず、足取りはしっかりとしていた。腕を大きく伸ばして、翡翠が新調してくれた制服を手に取った。パリっとノリのきいたシャツも、柔軟剤でふんわりとしたセーターも気持ちがいい。

 さつきはパジャマを脱ぐと、月明かりを頼りにテキパキと着替えを始める。さすがのシオンも目を剥き、動揺したようにさつきに声をかける。

「さつき? 何をしているのです?」

「何って決まってるじゃない。シオンと一緒に悪い吸血鬼をやっつけに行くんだよ。私も手伝うって言ったのもう忘れちゃったの?」

「いやいや。いやいやいやいやいやいやいや! さつきの方こそ聞いていなかったのですか!? 危険ですのであなたは安静にしていてくださいと言ったでしょう!?」

 シオンはさつきの肩を掴み、半ば強引にベッドに押し込めようとする。しかし、さつきはシオンの手を優しく外すと、あっけらかんと笑う。

「うん。あの冷静なシオンがそんな顔をするんだもん。相当危険な相手だっていう事は何となく分かるよ」

「なら……!」

「でもね、だからといってシオンを一人で行かせるわけにはいかないし、そもそもシオンが死んじゃったら、私を誰が治療してくれるっていうの?」

「それは……」

 痛いところを突かれた、という表情だった。

 確かに、シオンが死ねばさつきの吸血鬼化治療はいよいよ絶望的となる。万に一つの可能性が完全に摘み取られてしまうだろう。シオンにはさつきを説得させるだけの材料が無かった。

 シオンが口ごもるのを好機と見たさつきは畳み掛ける。

「シオン、私たちはもう一蓮托生なんだから、最後まで一緒だよ。私はシオンを信じるから」

「……だから?」

「――シオンも私を信じて」

「――――――――」

 シオンは深く目を閉じ、長い長い沈黙の後、

「――――分かりました。それならば最後までよろしくお願いします。さつき」

「――うん!」

 さつきは元気よく返事をし、慌ただしく制服を身に着けた。

 

 ○

 

 黄金に輝く月へ届きそうなほど高くそびえる摩天楼。

 無骨な鉄筋コンクリートのビルが立ち並ぶジャングルの中でも、一際存在感を示す一柱。

 神殿(シュライン)の名が指し示すように、周囲のビルを睥睨するような出で立ちのビルはどこか荘厳な趣がある。

 巨大グループがビル街の一角ごと買い占め、何百億という総工費をかけたおかげが一種の別世界じみていた。昔、ここにあった公園の面影など欠片も無い。

 来年完成予定のビルの周りには、深夜な事も相まって人影は見当たらない。ここに用があるとすれば余程の物好きか、自分達のように不法侵入を試みた輩くらいだろうとシオンは思った。

 さつきはおどおどと辺りを見回し、警備の人間が来ないか警戒を続けている。真祖に殴りかかった事があるくせに、そういった人間臭さが抜けていないらしい。さつきのそんな小市民ぶりにシオンは心で笑った。

「ねえシオン。屋敷を抜け出してきたのはいいけど、どうしてここなの? こんなところに人がいるとは思えないんだけど」

「『人』ならばそうでしょうね。ですが我々が捜しているワラキアは人が多いところではなく、人を一望出来る場所を好みます。ならば、三咲町で最も標高があるこの建造物の屋上にワラキアが現れると私は計算で導き出しました」

 そういうもんかあ、とさつきは納得したようなしていないような顔で頷いた。本日五度目の立ち入りを禁止する鎖をくぐり、シオンとさつきはシュラインの入口に辿り着いた。

 間近で見るとその威容さに気圧される。見上げればそのまま、のけぞって後ろに倒れそうなほど高く、神殿が看板負けしていない。

 シオンは入口のガラス製のドアに手をかける。

 途端、感じる異様な気配。肩は震え、足は竦み、本能が撤退を命じていた。

 薄い刃物で首筋を撫でられるような不気味な殺気に戦慄する。

 これより先は地獄の一丁目。この敷居を跨げば、自分は死地に足を踏み入れる。しかも何よりも大切な友人を引き連れて。

 シオンはごくり、と唾を飲み、最終確認を行う。

「さつき……。くどいようですが、本当にいいのですか? 私は確率で生きるアトラスの錬金術師です。私の計算式によれば、さつきが加わってくれたところで、私たちの勝率は数パーセントにも満たないでしょう。さつきからすればこれは前向きな自殺です。それでも行くのですか?」

「しつこいよシオン! 行くったら行くの! シオンが一人で戦おうとしている時に自分だけ寝てなんかいられないよ。布団を被って震えていたところで私に未来は無い。だったらシオンと一緒にその僅かな確率に賭けてみるしかないよ!」

 それ以上言葉はいらない、という風にシオンは頷き、ドアに再び手をかけた。

 幸い、鍵はかかっていなかった。おまけに電気は既に通っているようで、非常用の電灯もついており、エレベーターも動きそうだ。

 シオンは深呼吸して、肺胞の中を新鮮な空気で満たす。交感神経が活発になり、アドレナリンが恐怖を忘れるために多量に分泌されていくのが分かる。

 ワラキアの夜は不確定要素の塊。情報で戦う自分にとっては最悪の敵。アレと対峙するかと思うと思考は凍り付くのに、解の無い難題は脳は過負荷でオーバーヒートを起こさせる。

 しかし、覚悟はとうに決まっていた。

 もとより、自分の命など大した優先事項ではない。

 吸血鬼化の治療。この大望を果たすためならば、ワラキアの妥当は必要不可欠。

 ならば幾千、幾万のシュミレーションを繰り返し、必ず解に辿り着いて見せる。

 シオンが決死の一歩を踏み出そうとしたその時、

 

「こらそこの不良娘たち。不法侵入はいけないぞ」

 

 心に染み入るような声だった。

 心臓は早鐘を鳴らし、嬉しさや気恥ずかしさで頬は桃色に染まる。

 ああそうだ、とシオンは一人で納得した。もとより、彼はこういう人間だった。

 だからこそ私は――

「――志貴」

「遠野くん!? どうしてここに」

「どうしたもこうしたもないだろう。シオンがあんな思い詰めた表情でバレバレの嘘をつけば、誰だってこうなるって予想するさ」

「……バレバレでしたか?」

「心の機微に鈍い兄さんが気付くくらいですもの。演技の才能は無いようですねシオン」

 すっ、と志貴の後ろから秋葉が現れた。

 夜色に溶けるような黒髪を優雅に風に流し、秋葉は皮肉げに言った。

「秋葉まで……」

「何をいまさら驚くの? 元々、遠野家当主たる私の仕事。部外者であるあなた達に任せるわけにはいかないもの」

 そっぽを向く秋葉に志貴は微妙な表情を作る。

「秋葉が素直じゃないのは今更だけど、そういうわけで俺達も協力させてもらうよシオン、弓塚さん」

「うん、ありがとう遠野くん! 秋葉さん! 二人がいてくれれば百人力だよ!」

 さつきは喜色満面で応え、思わぬ戦力の増強に歓喜した。

 シオンは蒸気する頭で高速思考する。混血の鬼種である秋葉と直視の魔(ま)眼(がん)を持つ志貴。この二人が加わってくれるだけで、成功率は格段に上がる。

 それに、このパターンからはじき出されるルートにはさらに続きがある。

 シオンはその先を計算すると、思わず顔を地面に向け、こみ上げるものを必死に抑えた。

「弓塚さん、お節介は私たち二人ではないようですよ」

「……えっ?」

 秋葉は外灯を見上げ、つられて志貴とさつきも見上げる。

 そこには黒い法衣を纏った一人の女が立っていた。

 三人の視線を受け、シエルは苦い表情を作ると、観念したように地面に降りる。そのままカツカツとブーツの音を響かせると、シオンとさつきの元へやってきた。

「あの……」

「勝手な勘違いをしないでください死徒」

「まだ何も言ってませんよ!?」

 シエルは相変わらずさつきには厳しかった。またもぞんざいな対応をされてショックを受けるさつきを無視し、シエルはシオンに語りかける。

「秋葉さんではありませんが、これはもともと代行者である私の仕事。それを捕縛対象のあなたに横取りされたとあっては聖職者は名乗れません。なので、タタリは私の手で滅します。あなたは出来れば引っ込んでいてくれると有難いのですが」

 出現させた黒鍵をシオンへ挑発的に向けるシエル。

 もう限界だった。

 シオンの肩の震えは、ブランコのように徐々に揺れ幅が大きくなり、

「あはっ……! あははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははっっっっ!!」

 がばりと上を向いたかと思うと、シオンは腹を抱えて笑った。

 ばんばんと太ももを叩き、呼吸が苦しいのかヒイヒイと息を引きつらせ、目尻には涙を浮かべていた。

「なっ、何が可笑しいのですかアナタはっ!?」

「シ、シオン。どうしたの? 変なものでも食べた?」

 シエルは気味悪げに警戒レベルを引き上げるが、それは他の面々も同じだった。

 ――常に冷静沈着なシオンが笑い転げるだって?

 志貴は思わず後ずさりしそうになり、秋葉とさつきは目を丸くしていた。

 いまだ呼吸の整わないシオンは壁に手をつき、荒い息を吐く。

「ああ、ああ、ああ! そうでした。あなた達はそういう方達でした!」

「……?」

 志貴を含めた全員がシオンの奇行に驚倒しているが、シオンは全く気にしていない。

 憑き物が落ちたように、シオンの表情は吹き抜ける風のように穏やかだった。

 目じりの涙を拭うと、シオンは落ち着いた。

「そうでしたか代行者。ならば、ワラキアの討伐を頼みます。私も現場にいるかもしれませんが、私の事はどうかお気になさらずに」

「当たり前です! 私は私のために来たのであって、あなた達のためではありません! 勘違いしないで下さい」

「うわあ、テンプレだよう……」

「もう一週回って珍しいくらい典型的ね……」

「そこ、お黙りなさい!!」

 呆れるさつきと秋葉に、シエルはキシャーと威嚇の声を挙げる。

「はいはいみんな。取りあえず先輩も協力してくれるのなら心強いだろ。みんな立場の違いもあるだろうけど、ここは街の平和を守るっていう点は同じなんだから協力しようよ。ねえ、先輩?」

「う、その、遠野くんが言うなら……」

 シエルは屈託の無い笑顔を向けられると、照れたようにもじもじとさせる。秋葉とさつきは面白くなさそうだった。

 シエルは仕切り直すようにごほん、とわざとらしい咳払いをすると、腕を組んだ。

「とにかく、遠野くんの言う通り我々はタタリを滅ぼすという目的のみ一致しているようです。ですが、協力しあうのは御免ですから、みなさん私の邪魔だけはしないように――」

 シエルは言葉を止め、シュライン正面の遥か先、暗く、吸い込まれそうな闇夜を睨みつけていた。

 次に気付いたのは志貴と秋葉だった。夜の空気は一変し、流れてくるのは濃厚な死の匂い。ざっざっと聞こえてくる足音は十や二十では効かないだろう。

 隊列の揃わない足音はばらばらでいて、不規則の中に規則性がある。意思は無くとも目的は共通らしい。すなわち生者への嫉妬と執着。血の底から響くような足音は軍靴の群れで、不死者の行軍だった。

 ぼう、と暗闇から中年の男の顔が現れた。

 次は若い女性、壮年の男性から年端も行かない少女まで。

 年齢も性別も、老若男女区別なく、多種多様だ。共通するのは彼らが既に生物の系統樹から外れた存在である事。既に生きながら死んでいる事。

 やがて、月明かりが彼らの全容を照らし出した。

 幽鬼のように猫背でぶらぶらとやってくるそれらは、明らかにこちらを目指している。

 突如、頭の一つがはじけ飛んだ。

 司令塔を失った身体はぐにゃぐにゃと崩れ落ち、そのまま灰となって消える。

「――遠野くん」

 投擲の姿勢のままシエルは低い声で言う。

「どうにもタタリまで簡単には辿り着かせてはくれないようです」

「先輩、こいつらは――っ!」

「……ワラキアが露払いを始めました。あの悪趣味なヤツの事です、舞台に部外者を招き入れるのは我慢ならないらしいようです……!」

 志貴の質問にシオンが代わりに答えた。

「シオン!? ワラキアはまだ出現していないんじゃなかったの!? それなのにどうしてこんなに死徒がわらわら……!」

「いいえ秋葉。これはワラキアの配下ではなく、志貴のイメージによって生まれた死徒のタタリでしょう」

「えっ、じゃあアレは俺の!?」

 志貴は目を凝らして、こちらへやってくる死徒を睨む。微かに覚えがある顔がちらほら見えた。うろ覚えだが、アルクェイドを襲った死徒の中に居た気がする。

「兄さん! どうして死徒の事なんて考えるんですか!」

 余計な仕事が増えた事に、秋葉はまなじりを上げる。その数はさらに増え、ゆうに五十は超えていた。

 志貴は秋葉の抗議に弁明する余裕は無い。以前戦った雑兵の死徒など、心の隅にひっかかっていただけだ。ワラキアに主賓扱いされている自分の怖れは、想像以上に拾われやすいらしい。

 そこで志貴の思考はある事柄に帰結する。

 自分が抱くイメージの中で最も強烈でおぞましいものは何だったのか。

 志貴の記憶がフラッシュバックする。

 とある高級ホテルで起きた惨劇。

 異形の猛獣たちが一晩で宿泊客を惨殺した、なおも志貴の心を苛む事件。

 それを引き起こしたのは――

 

 ぬう、とそれは姿を現した。

 黒より黒く、夜より昏く。

 影と闇を混ぜ合わせ、全てを飲み干し、全てを取り込む混沌。

 二メートルに届こうかという巨躯に、筋骨隆々とした身体にはコート一枚。短い灰色の髪にどこまでも堕ちていきそうな濁り切った瞳。

「――ありえない」

 志貴は刃のような殺意を剥き出しにし、闖入者をねめつける。男はひどく無機質な表情で地獄から響くような声で答えた。

「……同感だ。だが、在り得ぬとは言え、存在するのなら是非もなかろう?」

 シオンは黒鍵を投げつけ、秋葉は略奪を発動させた。

 全身を串刺しにされ、焼け焦がされながらも混沌――ネロは続ける。

「ふむ、私の排除を優先させるか、賢明な判断だ」

 再び投擲。周囲の地面ごと爆散させる破壊力であるはずなのに、噴煙から現れるのは傷一つついていない。

「そして正論だ。タタリは街の人間を飲みつくすまで終わらぬが、その為には障害となり得る存在を排除する必要があると言う事か――。くだらん! 全くもってくだらんが……此処に在る以上は本能に従うまで」

「――遠野くん、あなたは先に行ってください」

 シエルは黒鍵を両手に構え、腰を落とす。

「……あら、それならお付き合いしますよ先輩。あなた一人では荷が勝ち過ぎるでしょう」

 秋葉はシエルの隣に並び立ち、髪を真紅に染め上げる。シエルは視線をネロから外さずに問いかける。

「いいのですか? お兄さんについていかなくて。ここは私一人で十分ですのであなたは遠野くんと一緒に行ってもよいのですよ」

「ご冗談を。すでに不死でなくなった先輩を心配して兄さんが集中出来なくなったら困りますもの。そういうわけで兄さん。ここは私と先輩で片付けますので、気兼ねなく行ってください」

「馬鹿な事を言うな秋葉! アイツを甘く見るな。あいつは俺が知っている中で最悪の敵に近い」

 志貴はナイフを構え、緊張で張り付く喉を懸命に動かす。

 今でも昨日のように思い出す。ヤツから放たれた猛獣たちの牙を、爪を、重厚な筋肉を。それらは文明の利器に毒されきった霊長類を易々と切り裂き、押し潰し、捩じ切る事を身をもって味わっていた。

「貴様も来るか、私の死よ。――よい。意趣返しは私の流儀ではないが、貴様が相手ならば私の無聊もいくらかは慰められよう」

「あなたの相手はこの私です」

 ゴウッ! と紅蓮の火柱が噴き上がり、周囲の死徒ごと空間が焼失した。

 焼け焦げた臭いが充満するが、混沌は再び形を成す。

「……どいつもこいつも反則のような存在ばかりですね。兄さん、なおさら行ってください」

「でも……」

 志貴は秋葉の背中を見つめ、どうするべきか思案する。

 秋葉の能力は強力だが持続性に欠ける。琥珀や翡翠がいない今、集団戦を任せるのは得策ではない。しかし、秋葉は志貴の危惧をよそに、連続して発火させる。秋葉は叫ぶ。

「行ってください兄さん!! どうせワラキアとかいう死徒もコイツと同じかそれ以上の化け物なのでしょう!? それならば兄さん、あなたにしか出来ない事なんです。……シオンの側にいてやってください。兄さんは兄さんのやるべき事をするべきです」

「……行きましょう志貴」

「――シオン」

 シオンは志貴の袖を引き、真っ直ぐに見つめる。

「彼女の覚悟を無駄にしてはいけません。どのみちワラキアを滅さなければ、ヤツラは際限無く湧いてきます。やつを殺せるのはあなただけです」

「……分かった。行こう。シオン、弓塚さん」

 志貴は力強く頷き、秋葉とシエルに背を向ける。今は二人を信じて行くしかない。それが自分を信じて送り出してくれる二人に対する礼儀というものだろう。

「またな、秋葉。そして先輩、明日も学校で」

「ええ、明日は寝坊せずに起きてくださいよ兄さん」

「私は生徒会の仕事を手伝って欲しいですねー」

「……善処するよ」

 思わず笑いがこみ上げた。こんな状況だというのに、自分達の会話は普段となんら変わりない。それが心地良くて、誇らしい。

 志貴は扉を開けて、死地へと足を踏み入れる。それに続いて二つの足音が着いて来た。

 十メートルほど先にあるエレベーターのボタンが薄く光る。志貴は最上階のボタンを押すとすぐに扉は開き、誘い込まれるように乗り込んだ。

 



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第十三章 タタリ

 久々のアップです。どうか最後までお付き合いください。


 ゴウンゴウンとエレベーターが最上階を目指して登っていくと、臓腑が持ち上がるような浮遊感が続く。

 各々は背中をエレベーターの壁に預け、思い思いの表情を浮かべていた。

 さつきは緊張した面持ちで落ち着かない。

 シオンは腕を組んだまま目を瞑っていた。

 志貴はナイフを矯めつ眇めつ、チェックを行いながら疑問を口にする。

 

「シオン、さっきは状況が状況だったから効かなかったんだが、タタリは俺にしか殺せないってどういう事なんだ? 強力な死徒なのは間違いないんだろうけど、もしかしてとんでもない再生能力でも持ってるのか?」

「再生能力、という単純な能力ならば話は簡単です。しかし、タタリは遥かに厄介です。なにせタタリには本体というものが存在しません。あれは人々の噂によって具現化する現象……ロアとはまた違った方法で不死へのアプローチを試みて二十七祖まで辿り着いた化け物です」

「へえ、二十七祖……。って、二十七祖!? シオン、二十七祖ってあの二十七祖!?」

「そんなとんでもないヤツが相手だっていうのか!? 聞いてないぞそんなの!!」

 

 さつきと志貴は驚愕し、シオンは「あ」という顔をした。

 

「むう、そういえば言っていませんでしたね」

「言ってませんでしたね、じゃないよシオン! 秘密主義にもほどがあるよう!」

 

 死徒とは人間のみを吸血対象とする吸血鬼であり、その中でも最高位とされる死徒は、真祖を除けば最強の存在である。

 それらの正体は教会が多くの犠牲を払って正体をある程度掴めていたが、ただ一人、正体はおろか姿さえ不明の吸血鬼が存在した。

 それが二十七祖の一角に君臨する謎の存在、タタリNo.13『ワラキアの夜』である。

 教会の追跡も届かず、他の祖ですらソレと対峙した者は皆無。

 

「ワラキアの夜……。先輩から聞いた事がある。二十七祖の中で唯一、住処が特定出来ないヤツなんだっけ?」

 

 志貴はシエルから聞きかじった二十七祖の知識を引っ張り出す。

 

「ワラキアの夜に住処など存在しません。もとより、アレはこの世に存在しないのですから、住処など必要ないのです」

「存在しない……。それって死んじゃってるって事? 幽霊みたいな感じ?」

「当たらずとも遠からず、ですね、さつき。二十七祖クラスの死徒になれば肉体は滅しても消滅はしません。しかし、ワラキアの夜はそれらとも異なります。ワラキアは本当に存在しないのです」

 

 二人はさらに訝し気な表情を浮かべるだけで、今一つピンと来ていない様子だった。シオンは「つまりですね」とワラキアの本質を述べる。

 

「ワラキアは一定条件が揃わねば永遠に現れませんが、条件さえ揃えば永遠に存在する……。それがワラキアの夜が体現した不老不死です」

「死徒でさえ永遠ではなく、それゆえに永遠を求める……か」

「ロアの言葉ですね。志貴はロアと因縁があるそうですが、素質のある赤子に転生する事で限定的ながら永遠を実現した死徒です。そしてもう一人、同じく限定的ながらも永遠を実現化した死徒が存在します。それがワラキアの夜――ズェピア・エルトナム・オベローンです」

「エルトナム……? まさかシオン!」

 

 志貴は瞠目し、さつきはそれとなく察していたのか、それほど驚いていなかった。

 シオンはぎゅっと肩を抱き、己の恥部を晒すような息苦しさと共に二人の疑点に答えた。

 

「はい、二十七祖の一角、ワラキアの夜ズェピアは私の血縁。三代前のエルトナム当主にして稀代の錬金術師と謳われた人物です」

「じゃあ、シオンがワラキアの夜を追っているのって……」

 

 さつきはその先を口にするのを躊躇っているようだった。さつきと出会った当初から、彼女は何かを追っている風だったが、親類だったとはさすがに予想外だった。

 シオンは淡々と続ける。

 

「ズェピアはアトラスの禁を破り、外界で研究を重ね死徒となりました。そこから先はあなた方の想像通り、エルトナム家の権威は失墜し、名門とは名ばかりの没落貴族。罪人の一族という一生消えないレッテルを貼られたのです」

 

 志貴にはアトラス院が、いわゆる普通の学校とは違うものだとイメージしている。しかし、同じ学び舎の中に重罪人が親族にいる人間がどういう扱いを受けるかは想像に難くなかった。

 

 本人に咎は無くとも、人はそう簡単に割り切れる生き物ではない。ましてや、優等生のシオンの事だ、足を引っ張る隙を窺う人間には、絶好の口実だろう。

 それらの人々がシオンに取ったであろう態度を想像すると、志貴は胸に固いしこりのようなものが出来た気がした。

 さつきはシオンの苦悩を我が身のように感じ入った様子で、同情の言葉を述べようとする。

 

「シオン……」

「大丈夫です、さつき。私は己の境遇を呪った事など一度もありません。むしろ呪った事があるのならば、それはワラキアに見逃された時の事くらいです」

「見逃された?」

 

 また気になる話題が出てきたとばかりに志貴の顔が曇る。いい加減、情報を小出しに開示されるのにウンザリ来ているようだ。

 

「…………」

 

 シオンは答えない。

 エレベーターは未だ上昇を続け、シオンは天井の排気口を見上げた。

 このまま話すべきか逡巡する。

 シオンは足のつま先を何度もタップし、やがて口を開いた。

 

「目的の階まで時間もあります。いい機会ですので洗いざらい話しておきましょう。私、シオン・エルトナム・アトラシアという人間の事を――」

 

 〇

 それは八年前の事。

 

「シオン・エルトナム・ソカリス。これを次期院長候補へと任命する」

 

 ホール状の講義室中央の壇上。

 厳かな雰囲気を持つ初老の男性が、しわがれながらも力強い声で宣言した。

 途端、周囲わざわめき、院生どころか共感までもがあり得ない出来事に冷静さを失った。

 それは彼らの悲鳴や怒号、罵声ではなく、悪意を持った視線によって放たれた。

 

 しかし、私に格別変化は無かった。

 シオン・エルトナム・ソカリスからシオン・エルトナム・アトラシアとなり、教官の資格と特使と同格の扱いになろうと変わらない。

 アトラスを冠する錬金術師は学園における代表と同意。

 それが院生の中から、しかもエルトナムの者に与えられようと誰が予測しえたか。

 道徳や倫理感までも、合理性の前では塵のように扱うアトラス院の無機質さが珍しく私に味方した。

 アトラス協会の中で継承者に足る人間が私しかいないのならば、大罪人の一族でも代表に迎えるとは恐れ入る。

 

 まさか、という呪詛も。

 信じられない、という否定も。

 許されない、という非難も。

 飲み込まれ、言葉にならない声は私に絡みつく呪詛のようでいて、怨嗟の鎖でもあった。

 

 しかし、私に驚きはない。計算するまでもなく、私より優秀な人間がいなければ私がアトラスを冠するのは木から林檎が落ちるのより当然だった。

 それで何か変わったのか?

 変わるわけがない。私はそう断言できる。

 先祖が冒した罪を帳消しにするために、優れた生徒である事を証明し続けるだけの毎日。

 周囲の人間が私を妬み、嫉み、軽蔑侮蔑の念を向けて排除しようとしていた。しかし、アトラシアとなった私は、彼らを排除するなど赤子の手をひねるより簡単な地位にいた。

 彼らは私を怖れているようだったが、侮らないでもらいたい。私は彼らに対してなんの感情も抱いていないし、腐っても私は貴族。私情で権力を振るう事などありえない。

 彼らは私を遠ざけ、望み通り私も遠ざけた。

 

 そこから先も、何一つとして変わらなかった。

 私は兼ねてから必要だった研究室をもらい、優れた生徒を続けた。私は誰も必要としていないのだから、誰とも関わる必要はない。

 合理性と分割思考により導き出される解に沿って生きる私の日々は、正解しかあり得ない人生であったはずなのに。

 何が正しくて、何が間違っていたのか正直、今もよく分からない。

 どこかで数値を振り間違えているのか、何度検算しようと答えは依然として変わらない。

 

 そして三年前――事件は起こる。

 発端は一つの伝承。

 暗く、混濁とした廃墟を思わせる寂れたある村に伝わる、陳腐でありきたりな迷信。

 

 曰く、他の村から嫁いできた女性が三つ子を孕み、そのうち二人が死産だと良くない事が起きる。

 曰く、二人の兄弟の血肉を奪って生まれた赤子は、吸血鬼となって村に害をなす。

 

 やがて伝承は真実となる。

 イタリアの片田舎にワラキアが発生した事を突き止めた教会は、お膝元での吸血騒動を懸念し騎士団を派遣する。そこでアトラス院の協力を求めてきた。

 吸血鬼になる前のズェピアはアトラスの出自であり、同門の錬金術師ならば良い助言役になると考えたのだろう。

 

 その役に私は志願した。先祖の罪を清算するわけでも、エルトナムを没落させたタタリに恨みがあるわけではなかった。ただ、この閉塞的な穴倉の中では得られない新たな情報が欲しかっただけだった。

 この時派遣されたヴェステル弦楯騎士団の団長、リーズバイフェ・ストリンドヴァリは傑物揃いの代行者にも引けを取らない人物。そんな彼女と一緒にいればどうにかなると思っていた。

 

 それが砂糖よりも甘い計算だったのだと気付いたのは、事が全て終わってからだった。

 村人はことごとく血を吸い尽くされ死に絶え、同行していた騎士団は全滅。

 私を逃がすため、一人タタリと対峙した楯の騎士を見捨て、私は夜の森を走った。

 山道は険しく、鬱蒼とした木々が生い茂る森の中、私は水を求め走った。

 

 ようやく見つけた川は死体で埋まり、凄惨であったが――それでも水を求めて這った。

 口から直接、咽るように飲んだ。

 そのうち、何かが絡みついた。

 際限なく絡みついた。

 邪魔なので引っ張った。

 はがしてもはがしても、指に絡まって来る。

 いい加減鬱陶しくなり、手に取ると、

 それは皮だけになった人の顔だった。

 

 私の絶叫は大気を震わせ、夜の森に木魂する。

 川に浮かぶそれらは、かつて人間だった布切れ。

 全て中身を抜かれていた。飲みつくされた人間で、川は埋め尽くされていた。

 じゅるり、じゅるり、じゅるり。

 何かを啜る音で我に返る。見れば、私と同じように、這う姿勢をとっていた人物がいた。

 私と同じく逃げ延びた人間かとも思ったが、すぐにその考えを打ち捨てる。

 それはぐるりとこちらを向くと、飲む以上の血液を両目からこぼし、血の涙を流しながら泣き笑いをしていた。

 

 逃げろ。

 本能が叫ぶが、蛇に睨まれた蛙のように足は竦み動かない。

 私の元まで這ってきたそれは人の血を飲む化け物。人の血を奪う簒奪者。

 そっと、恋人を抱きしめるかのような丁重さで、ソレは私の首筋に牙を突き立てた。

 死を覚悟し、その身を任せた。

 しかし、私は死なない。消滅しない。

 なぜ殺さない、と問えばそれは

 ――なに、同病相哀れむというヤツだ。

 と言って、笑いながら消滅した。

 つまり私は、

 見逃されたのだ。あの汚らわしい吸血鬼に。

 

 〇

 

「結果として私はタタリに噛まれ吸血鬼となりましたが、タタリは一夜限りに出現する中途半端な吸血鬼。私が吸血衝動に何とか耐えられていたのもそれが理由です。そして私はタタリが次に発生する今日までの三年間、タタリを追い続けてきました」

 

 シオンは逃亡の日々に思いを馳せるように、遠い目をする。

 地位も名誉も全てを投げ打ち、アトラスと教会から逃げ続ける日々。

 

「あまりにも長く、あまりにも辛い毎日でした。吸血鬼化の治療の目処は建たず、タイムリミットが刻一刻と近づき、日々理性を失っていく自分……。心も身体も摩耗しきっていたところにさつきと出会って私は救われました」

「え? わたし?」

 

 自分を指さし、「なぜ私?」とでも言いたげな表情だ。シオンはそのさつきの自然体さに微笑を浮かべる。

 

「吸血行為というのは吸血鬼にとって至極当然の行為なのです。すでに吸血鬼となった今、なぜ吸血行為を拒み続けるのか、私には理解出来なかった」

「う、うん。私も何でかは上手くいえないけど、何となくそうしなきゃって思ったの」

「そう、それでいいのです、さつき。我々は確かに吸血鬼です。ですが、だからといって吸血によって人を殺す理由にはならない。心まで吸血鬼になってはいけない……。例えどれだけ拙くとも、時に揺らく信念であろうとも、私にとってはその解だけで十分だった」

 

 だから、とシオンは決意の炎が灯る瞳でさつきを見据える。

 

「あなただけは何があろうと、人間に戻すと私は誓った。例え全てを欺いてでも、世界の全てを敵に回してでも」

「……ありがとうシオン」

 

 さつきが短く礼を言うと、チンという音がエレベーターの終点を知らせた。

 地上三十七階。高層建築シュラインの最上階であり、ワラキアの夜が待ち受ける死地。

 シオンは二人に目配せし、ドアの前に立つ。

 

「行きましょう。今夜が最後の夜です」

「ああ」

「うん! 頑張ろうねシオン」

 

 ドアが自動で開き、月明かりと夜気が流れ込んでくる。

 今宵がシオン・エルトナム・アトラシアの集大成。

 心血を注ぎ、存在全てを懸けた大勝負。

 シオンはゆっくりと、そして力強く一歩を踏み出した。

 



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第十四章 偽りの月

 ワラキア戦スタートです。


 ズウウウウン。

 という大型エレベーター特有の重厚な開放音と共に、シオン達三人は屋上へ並び立つ。

 シュライン屋上は直径五十メートルほどの正方形で、打ちっぱなしのコンクリートと剥き出しの鉄骨が目立つ。

 屋上なのも相まって、地表に比べて随分と風が強く、志貴は眼鏡が飛ばされないように軽く抑えた。

 

「シオン、あれは……」

 

 さつきが緊張の拭えぬ表情で、舞台中央を指さす。

 志貴とシオンも、エレベーターを降りた直後から注視していた物体。

 否、物体と呼べるものなのかも判別不能だ。

 シュライン屋上を陣取る異様な球体は黒く、時折、電流に似た光が奔る。

 それは自然現象に無理矢理例えれば、雷を纏い、凝集した黒雲。空間が歪むほどの圧を放つソレは、桁違いのエネルギーを内包しているのが見て取れた。

 

 志貴は眼鏡を外し、ソレを凝視する。

 糸のように細めて目を凝らし、脳に負荷がかかるほど注目するが、眼鏡をかけていた時と変化は無い。

 

「まずいな……死の線が見えない」

「……やはり見えませんか」

 

 志貴は憎々し気に呟くと、シオンも予想通りといった風にソレを睨みつける。

 シオンは自分の血管が膨張し、心拍数が跳ね上がるのを感じる。何度、アレと対面しようと自分が怯えを拭える事は無いのだと自覚する。

 

 膝が崩れ、胸を押さえながら息苦しそうに悶えるシオン。跳ね上がった心音は、なけなしの勇気を根こそぎ奪われ、衝動に呑まれそうになる。

 乙女の瑞々しい鮮血はどれだけ甘美だろう。

 赤子の初々しい血脈を汚すのはどれだけ心潤うだろう。

 想い人の血を啜り、下僕とするのはどれだけ高揚するだろう。

 吐き気を押さえるようにシオンはえずく。

 

「しゃんとしろ、シオン」

 

 シオンはハッとし、志貴を見上げる。

 彼の瞳に怯えの色は無く、研ぎ澄まされた刃のような鋭さは変わらず、しかし崩れかけた仲間を鼓舞する優しさは健在だった。

 ぎゅっ、と手を握られた感触に、シオンは反対側へ首を動かす。

 

「立ってシオン。アレを倒して二人で人間に戻るんでしょ。なら戦う前から気持ちで負けてどうするの」

「志貴……。さつき……。……!!」

 

 シオンは笑う膝を気力で無理矢理立て直し、荒い息をつきながら空元気で立ち上がる。

 

「ん、それでこそシオンだ」

「そうそう。弱気なシオンなんてシオンらしくないよ。……あれ? でも結構ウジウジしている事も多かったような……?」

「そうなのか?」

「うん、わりと。ダンボールハウス(マイホーム)を市役所の職員さんに撤去された時はちょっと泣いてたし」

「二人共憎まれ口はそこまでです」

 

 シオンはバレル・レプリカを手に出現させると、黒球に銃口を突きつける。狙いを定め、公演に遅れる役者を、舞台に引きずり出すため声を張る。

 

「ワラキア! 既にカタチを得ているという事は意思があるという事。何か残す物があるなら聞きましょう」

 

 挑発するように、シオンは怨敵へと遺言を勧める。

 すると、黒球を中心に渦巻いていたエネルギーの奔流がピタリと動きを止めた。猛威を振るう嵐が一旦、怒りを抑えたようにも見えた。

 しかし、それは黒球の嘲笑。

 本来ならば一笑に付す価値すらないとでも言わんばかりに、侮蔑と軽視を込めた声が響く。

 

「無粋な……。開演前に舞台裏に現れるとは、あの夜より何ら成長はしていないのかエルトナム? 何百年経とうがアトラスの者に優雅さは備わらぬと見える」

 

 言葉を発すると、黒球の中央、一際強く鳴動する光が揺らめく。

 

「――ッ!!」

「んんっ……!!」

 

 シオンの呼吸はとまり、さつきも胸を苦し気に抑える。

 二人の様子が明らかにおかしい。シオンは首を締め上げるように悶え、度し難い衝動を捩じ切るように抑え込む。

 脂汗は滝のように吹き出て、視線は定まらない。

 志貴は苦悶を浮かべる二人の様相から、ナイフを水平に構えワラキアに対峙する。

 

「二人共、キツイなら無理をするな! シオンが決着を付けられないのならば俺が――!!」

「それもまた無粋。分からぬか客人? その娘は私に問わねばならぬ事があるのだ。そうであろう? シオン・エルトナム・アトラシア?」

「な、に……?」

 

 志貴は黒球――ワラキアの質問の意図を推し量るように、シオンへと振り返る。シオンは苦し気に呻き、ワラキアへ顔を上げる。シオンは痙攣する唇を、顔面の神経を総動員して発音を言葉に象る。

 

 

「――今更、聞きたい事など、ない…………!!」

 

 

「…………ほう?」

 

 動揺を表すように、黒球が僅かに揺らめく。シオンは構わず続ける。

 

「そんな些事にいつまでも拘るほど私は弱くない! 私は私の悲願のためにここへ来た! お前への憎悪も自分への嫌悪もとうに捨てた! お前などただの通過点! 消え失せろタタリ! この世にお前の居場所などありはしない!!」

 

 銃口を振るわせながらシオンは吼える。眼前の存在を断じて認めないという風にワラキアを拒絶した。

 

「……少々意外だったな。ではお前は私の言った『同病相憐れむ』という言葉を真に理解しているというのか? 断っておくが私がお前を同類とみなしたのは――」

「ええ、血縁関係などからではない。私もあなたも『他人から何かを搾取しなければ生きられない同類』だからです。あなたは他者の情報によって発生し、私は他者の情報を搾取する事でしか存在できない……。私もあなたも大差ない空虚な存在でしょうね」

「――――――――」

 

 今度こそ、完全に虚を衝かれたようにワラキアは沈黙する。

 虚勢ではない。シオンの毅然とした態度も、曇りの無い眼は嘘偽り無い。

 それがひどくワラキアの癇に障る。

 シオンは挑みかかるように口を開く。

 

「私が得てきた知識・思考・理念・法則。それら全てはシオン・エルトナムという一人の人間から生まれたものではなく、他者から奪ってきた物。私は他人から何かを奪わねば存在できない不出来な生き物。透明で自己の無い空の器」

「そうとも! 何だ理解しているではないか! 私もお前も搾取によってしか存在出来ぬ同類! ならばなぜお前は人である事に固執する!? 心理の追求に人の身体は必要か!? より性能の高い肉体に乗り換えるは合理的ではないのか!? 痛む身体を引きずり、己が本能に逆らいながらなぜ無駄な抵抗を続ける!?」

「――それはわたしたちが人間だから。だよねシオン?」

「その通りです」

 

 いつの間にか、シオンの隣にさつきが並び立っていた。

 さつきは胸に手を当て、自身の線引きを、吸血鬼と人との隔たりを見せつけるように宣言する。

 

「確かに私たちは吸血鬼です。一日中血を吸いたい衝動と戦わなきゃならなくて、太陽の下はロクに歩けない。毎晩お腹を空かせて、家もなくて、もう親とも友達とも会えない」

 さつきは吸血鬼になり立ての頃を思い出す。

 行く当ても無く街をさまよい、無関心な人々の雑踏の中、さつきは一人で歩き続けた。

 夜中に出歩く女学生を心配し、声をかけてくる人もいたが、すれ違う人はどこまでいっても無口な他人だった。

 一度、両親の待つ家まで行った事もある。庭にこっそりと入り、窓の外から中を盗み見ればダイニングテーブルに座る両親の姿があった。

 両親は想像以上にやつれていた。

 白髪が目立ち始め、頬はこけ、肌はつやを失い、色濃い隈が出来ていた。

 頬を伝う雫が涙なのだと気付くには随分と時間がかかった。

 

 ――お母さん! お父さん!

 

 心で叫ぶ。しかし、それは窓を震わせ、二人の耳に届く事は無く。胸中で泡のように溢れては弾けて消えていく。

 もし、さつきが玄関の扉を開けて二人の前に飛び出せば、きっと二人は一瞬の驚愕の後、私をきつくきつく抱きしめてくれる事だろう。そして今までの事を聞きながら、ごはんの用意をしてくれたり、お風呂を沸かしてくれたりするのだろう。

 しかし、さつきはそうしなかった。彼らへの愛は狂おしいほどの飢えと渇きへ転じ、喉笛を引き裂くだろう。

 そっと、さつきは窓枠にかけていた指を離した。さつきは思いでの詰まった家に背を向けて、冷たい夜の街へと消えていく。

 自分と両親はすでに別の生き物であると痛感したからだった。

 けれど、とさつきは続ける。

 

「たとえどれだけ人から情報を奪っても、人の血を吸う事だけは嫌なんです。それをすれば私たちはきっと心まで怪物になってしまう。だから吸えない、吸わないんです。私たちは体は吸血鬼であっても、私たちなりに人間でいたいから」

 

 さつきの宣言は自己の罪を告白する咎人にも、教義を遵守する信徒のようにも見えた。

 シオンはさつきの言葉に被せるように、吸血鬼の本能を否定する。

 

「ワラキア、私たちはどこまでも人間である事に拘ります! あなたは一側面で確かに真理だ。それはアトラシアを冠する私が保証します……。ですが! 私たちはお前にも吸血衝動にも負けはしない! そんなに弱くはないのです!!」

「――――――――フ」

 

 ――限界だった。

 

 黒球が揺れる。

 

「――フハハハハ」

 

 それは壁に小さな亀裂が入ったダムの壁のようでいて、黒球が小さな笑いを零すたびに亀裂は長くなり、歪な蜘蛛の巣状に広がり――やがて決壊した。

 

「フハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハッッッッッッ!!」

 

 けたたましい哄笑と共に、大気が震えチリチリと肌を焼くようなノイズが全身を打った。

 心底愉快そうに呵呵大笑する黒球は、とびっきりの玩具を前にした子供のように無邪気に残酷さを孕んでいた。

 

「――カット」

 

 ワラキアは喜悦を含んだ呪詛を吐く。

 

「カットカットカットカットカットカットカットカットカットカットカットカットカットカットカットカットカットカットカットカットカットカットカットカットカットカットカットカットカットカットカット!!」

 

 地響きがするほど叫びによって黒球は捻じれ、ひしゃげ、内部に孕んだ勢いを増幅させるように鳴動する。

 

「なるほどなるほど! 我が娘の陥落をどのように行うべきか、手慰みに脚本を温めておいたというのに、これほどまでの即興劇(アドリブ)が見られるとは僥倖僥倖!! ここまで滑稽だともはや喜劇を通り越して悲劇だ!! 役者が道化ばかりの舞台というのも中々、見どころがあるではないか!! それでこそ喜悦!! それでこそ享楽!!」

 

 途端、空気が変色した。

 夜に溶けるように昏い闇色は空間を覆い、世界を丸ごと飲みつくす。

 体の芯から揺さぶられるような酩酊感の後に恐る恐る目を開ける。

 

 そこは荘厳な城だった。

 不気味なほど静寂な広間には天使を模した彫像が立ち並び、バロック調とでも言うべき神秘的な雰囲気を醸し出している。

 最奥に鎮座するは鎖に絡みつかれた玉座。

 志貴はいつかの夢で見た幻の城と、邂逅した姫君を思い出す。

 たった一度、夢なのか現実かのかも分からない、ひどく朧げな記憶の残滓。

 カツリ、と子気味良く響く靴音がした方角へ振り返る。

 

「ようこそ、私の世界――。千年城ブリュンスタッドへ」

「アルクェイド……。いや、お前は!!」

「あ、あなた……」

 

 さつきは露骨に怯えの色を浮かべ、志貴は最愛の人の名前を呼びかけるが、言い淀む。

 彼女はアルクェイドであってアルクェイドではない。普段の陽気で冷酷な彼女の面影はなく、真紅の瞳を諧謔的に歪めた。

 シオンは彼女の姿を見て、口を開く。

 

「やはり器とするのは真祖の姫君ですかワラキア……」

 

 アルクェイドは妖艶に微笑むと、舞台役者のように両腕を広げて、謳うように告げる。

 

「もちろん。この身体は実に素晴らしい。自分の世界を具現化するなんて、魔法の領域の反則技すら自由自在。ここ、千年城ならば何の制約も気兼ねも無く、力を行使できる場所。力を抑えた状態でもネズミを縊り殺す事くらいわけはないのだけれど……」

「あ、あああああああ……」

 

 クスリ、とアルクェイドがさつきに微笑みを向けると、さつきは完全に委縮した。

 歯の根が噛み合わず、記憶がフラッシュバックする。

 切断された右肩に幻痛が蘇る。虫を潰すような気軽さで首を折られかけた記憶が呼び起こされる。

 それでも倒れないのはさつきなりの矜持か。

 ねずみの小さな抵抗を嘲笑うようにアルクェイドはさらに絶望を突きつける。

 

「欺瞞の塊で成り損ないの吸血鬼と、己の真実さえ分からない吸血鬼。唯一、私を殺せる可能性があるのは志貴くらいだけど、十全の力を振るえる私じゃ分が悪い……。違うかしら?」

「――!」

 

 志貴は悔し気に歯ぎしりをすると、油断なくナイフを構える。握るナイフがただの棒切れのようにひどく頼りない存在に思える。

 アルクェイドは全身から強大なオーラを放ち、卑小なる存在を叩き潰さんと歩を進めた。

 彼女が一歩進む度に、絞首台の階段を一歩登るような錯覚に陥る。

 

「志貴! さつき! あれは偽りといえど、存在そのものは真祖と変わりません。決して油断しないでください!!」

「ハッ! 油断!? 思い上がりも甚だしいわね錬金術師!! あれだけ私にボロボロにされておいて、まだ格の違いが分からないのかしら!? これから行われるのは勝負なんて高尚なものじゃない。――ただの害虫駆除よ!!」

 

 ブアアアアッ! 轟音と共に、車輪状の赤いエネルギーが志貴たち目掛けて襲い来る。三人はそれぞれの方向に飛び散り、やり過ごす。

 後方で石柱の倒壊する音が地鳴りのように響き、振り返らずとも攻撃の苛烈さを語っていた。

 バラバラに散った三人を、まるでアルクェイドは言の通り、羽虫を潰すように容赦なく第二撃、三撃を打ち込んで来る。

 

「痛ッ!」

 

 躱しきれなかったさつきの頬を衝撃波が掠め、薄く血が垂れる。志貴が救援に向かおうとすれば、進行方向に攻撃が放たれ、近づけさせずに連携を封じる。

 

「くそッ! これじゃ近寄れない!」

 

 志貴は派手に転がされ、アルクェイドとの距離がさらに開く。彼女に死の線は多少見えているので、近づけば勝機がないわけではない。しかし、

「あはははは! そーれ、そーれ! 逃げてばかりじゃ勝てないわよ!? さっきまでの威勢はどうしたの!?」

 

 際限なく振るわれる衝撃波に、三人は逃げの一手しか無かった。このままでは間違いなくジリ貧だ。

 志貴はアルクェイドをきつく睨み付けるも、アルクェイドは邪悪な微笑みで返すだけ。シオンにも焦りの表情が浮かんでいる。

 しかし、シオンは絶望しない。現在、この街でもっとも強大な力を持つ存在が真祖である以上、ワラキアが真祖を象るのは想定内。ゆえにシオンは当初の予定通りに事を進める。

 シオンはエーテライトによって思考をさつきと志貴に送る。無事届いたのだろう、さつきと志貴は小さくうなずくと陣形を組む。

 最も腕力と耐久性に優れるさつきが前方、そこからやや左後方に志貴、二人の間の後方にシオンと歪なY字型のフォーメンションだ。

 

「行くよ!」

 

 さつきは強く地面を蹴ると、ジグザグにステップを踏みながらアルクェイドへ接近する。構えはスタンダードな近代ボクシングのそれ。いきなり右からのツー・ワン・ツー。左アッパーから右ストレートとやや変則ぎみ。

 一発一発が、常人であれば容易く頭蓋を砕かれる程の重みを持った連撃。しかし、アルクェイドはそれらを腕で受け止める。

 さつきの拳がアルクェイドの肉にめり込むが、砕けない。女性らしく華奢な腕であり柔らかいはずなのに、さつきの豪打は勢いを殺される。まるで巨大な圧縮されたゴムの塊を殴りつけたような感触に、さつきは驚愕する。

 

「重くていい攻撃ね。だけど雑。打ち込む際に一瞬、拳を引いてから打ってちゃバレバレよ」

 

 アルクェイドは打ち終わりで隙だらけのさつきへ、伸びた爪で貫手を放つ。さつきの心臓目掛けて伸びてくる手を――さつきはするりと躱し、脇に抱えてアームロックをかけた。

 アルクェイドの肘関節がみしみしと悲鳴を上げ、可動域を超えかける。アルクェイドは残った手で追撃しようとするも、完璧に極められていて動けない。

 

「実は組み技の方が得意なんです。これは逃げられないよ。――遠野くん!!」

「了解、弓塚さん!!」

 

 シオンは牽制し、最も腕力のあるさつきがアルクェイドの動きを止め、志貴が直視の魔眼をもって討ち取る。その好機を見逃す志貴ではない。志貴はアルクェイドに薄らと見える線を目掛け、ナイフを勢いよく振り下ろす。

 ――獲った!

 無防備な首筋の線へ刃を滑り込ませようとして――アルクェイドが動いたのを志貴の肉眼は捉えた。

 べきべきべきっと肉と骨を砕くような生々しい音と共に、アルクェイドの腕がさつきの脇からずるりと抜けた。完全に動けないと高を括っていたせいか、さつきと志貴の反応も一瞬遅れる。さつきの横っ腹を蹴り飛ばして拘束を脱出したアルクェイドは、志貴の顔面を凪ぐように爪を振るう。

 

「小癪! 小癪小癪小癪!! 羽虫にお似合いの稚拙な戦法だこと!」

「――ッ!!」

 

 志貴は本能的にバックステップで爪を紙一重で躱す。爪が首筋を掠め、コンマ一秒遅れていたら首と胴体が泣き別れになっていただろう。志貴は想像して全身が総毛立つ。

アルクェイドは追撃しようとするが、シオンの銃撃に阻まれる。その隙に志貴は体勢を立て直したさつきの隣に並び立つ。

 さつきは再び拳を、志貴はナイフを構え直す。アルクェイドは二人を不愉快そうに睨みつけると折れた腕をぶんぶんと振る。

 

「はあー、痛ぁ……」

 

 痛い、と言いつつも、口角を歪めて諧謔的に笑う。折れた間接がボコリと膨らんだかと思うと、内側からみるみる修復されていく。全快した腕を満足げに眺めたアルクェイドは感嘆の息を漏らした。

 

「ぷちっと潰せるかと思ってたけど、やるじゃない。しぶとさは害虫並ってこと? まったくイライラさせてくれるわね」

「ネズミも害虫も生きているんです。あなた達の気分で好き勝手されるほど私たちは弱くありません」

「その通り。俺もお前を殺すのは初めてじゃない。それに、偽物のお前なら殺すのに何の躊躇いもない」

「ははっ、言うじゃない定命の者たちが。あんな不意打ちを勝負にカウントするなんて。そこまで無知蒙昧なら教えてあげる……格の違いってヤツを!!」

 

 バッ! っとアルクェイドは右手を掲げると、上空に巨大な圧力が生じ始めた。志貴は天井を見上げると、壁にひびが入り始め、ミシミシと音を立てていた。

 ――まずい!

 志貴の本能が警鐘を鳴らす。気付けば足元はぐらつき、微細な振動が伝わって来る。しかし、それは地下から生じる地震ではない。これはまるで天が落ちてくる滅びの日の前兆であるかのようだ。

 

「偽りの月にて狩られよ! プルート・ディ・シュヴェスタア!!」

 ゴオオオオオオオオオオオオオオオオオッッッ!!

 という轟音と共に天井が崩落した。

 

 天から顔を覗かせるは銀箔の月。

 その圧倒的な質量を誇る巨体は卑小な存在を圧潰せんと、三人目掛けて落ちてくる。

「何だよそれ……! 何だよそれ!! 反則にもほどがあるぞ!!」

「反則ぅ? あなたたちのスケールならそうでしょうね!」

 

 志貴はナイフを月に向けて威嚇するようなポーズを取るが、無意味な行動であると自分でも分かっていた。月のサイズからして躱す事は不可能。よしんば躱せたとしても、衝撃で吹き飛ばされるだろう。

 ならば、と志貴は月を凝視し、死の線を見る。

 ――見えた。

 ならば、一か八かあの月を切断し、やり過ごすしか方法が無い。

 

「不可能です志貴! それではあなたが死んでしまいます! それで月を破壊できても、あなたが圧死します!!」

「ならどうやって!? 逃げ場なんて無いぞ!?」

 

 焦った志貴の口調も乱暴になる。口論している間にも月は視界を占める割合を増していき、衝突寸前なのを否応にも突きつけてきた。

 

「考えがあります。さつき! 志貴! 力を貸してください」

 

 シオンの言葉と共に、二人の脳内にシオンのプランが流れ込んでくる。

 志貴はあまりに無謀なプランに吃驚する。さつきの方を見るとすでに覚悟を決めた表情だった。志貴はそれを見て自身も腹をくくった。

 シオンは二人の前に立ち、落ちてくる巨大な質量を見据えると、エーテライトを張り巡らし、へし折れた石柱に巻き付けていく。そしてクモの巣状のエーテライトへ背中を預け、バレル・レプリカを構えた。

 

「――リミッター解除」

 

 発射台と化したシオンは精神を研ぎ澄ます。自身の心音さえ聞こえそうなほどの極限の集中は、世界の流れが停滞しているのかと錯覚させるほどだ。

 血流が熱を持ち、銃身を握る手に、踏ん張る足にエネルギーが圧縮され凝集していく。

 暴発寸前までエネルギーを詰め込んだ銃身は、襲い来る月を迎え撃つように向けられた。

 

「なあに……? 何か策があるのかと思えばそんなオモチャで偽りの月を受け止める気? アトラスの錬金術師らしくもない」

 

 アルクェイドは鼻で笑うが、シオンは雑音など耳に入らない。

 今、己の世界にあるのは偽りの月と銃身のみ。呼吸をコントロールし、最大最高のタイミングで全てを打ち込む。

 ――来い。

 巨大な質量が距離を縮めてくる。

 ――来い。

 巨体の月は圧倒的な暴で押し潰さんとやってくる。

 

「―――――――――――」

 

 ――肺を空気で満たし、裂帛の気合いと共にシオンは叫ぶ。

 

「――バレル・レプリカ・オベリスク!!」

 ドオオオオオオオオオオオオオオオッッッ!!!!!

 耳をつんざく轟音と共に、銃口から膨大なエネルギーが放出される。銃身から迸るエネルギーは輝く流星。煌びやかに力強く流れるエネルギーは偽りの月を受け止める。

 

「ぐううううううううううっっっ!!」

 

 力の奔流はうねり、月の衝突から逃れんと照準が逸れそうになるのを、シオンは全身全霊で抑え込む。

 骨は軋み、筋繊維の一本でも気を抜けばコントロールを失った銃身は暴れてあらぬ方向へ逃げるだろう。

 ブチリ、と筋肉が断裂し、堪える膝はみしみしと悲鳴を上げる。徐々に地面に足がめり込みながらもシオンは奥歯が砕けんほどに力を込めて耐え続ける。

 シオンは月を睨みつける。その勢いは徐々に殺され始める。

 

 ――まだだ、まだこれではいけない。

 ――計測せよ。演算せよ。

 今にも瓦解しそうな身体を押さえつけ、激痛のシグナルに耳を塞ぐシオンは無理矢理にエネルギーを銃身に注ぎ続ける。

 力を込め過ぎた奥歯が砕け、鉄臭い味が口腔内に充満する。シオンはもう一度エネルギーを込めようとした時――

 銃口が突如として上を向いた。首輪を外された猛犬のように荒れ狂う銃身は偽りのソレへ向かって意味なくエネルギーを吐き出していく。

 

「なん……っ!」

 

 シオンは瞠目し、そこで気付く。右前腕が折れ、皮膚と筋肉を突き破り露出していた。

 

「――シオン!」

 さつきは叫び、シオンは迫りくる月を凝視する。月は表面をいくらか砕かれているものの、勢いが完全に消されているわけではない。

 シオンの元へ近寄ろうとする志貴をシオンは止め、腕の縫合を始める。普通ならば転げまわるほどの痛みのはずだが、今だけは吸血鬼の身体である事をシオンは感謝した。

 

「さつき!」

「うん!」

 

 シオンの号令と共に、さつきはシオンの前に立つ。偽りの月に挑みかかるように言の葉を紡いだ。

 

「――飢え渇け『枯渇庭園』」

 

 現れるはさつきの心象風景。清楚ながらも華やかさを内包する花々が咲き乱れ、世界を彩色し染め上げる。

 しかしそれも束の間。皐月の栄華は一瞬で瓦解し、吹きすさぶ風が灰へと貶め攫って行く。

 

「馬鹿の一つ覚えみたいにまたソレ? もう飽きたわ」

 

 オドを吸い取られながらも妖艶な笑みを崩さないアルクェイドは鷹揚に構え、鼠のあがきを冷徹に見下ろす。

 

「――ふふっ」

「――何が可笑しいのかしら?」

 

 シオンが侮蔑を含んだ笑いを漏らした事に反応したアルクェイドが、眼光を鋭くする。

 獅子を前にした鼠が絶望のあまり気が触れたかとも思ったが違う、自分の娘はそこまで愚昧ではあるまい。

 それではなぜ?

 アルクェイドが尋ねるよりも早く答えが返って来た。

 

「なまじ真祖の知識があるだけに計算しきれませんかワラキア」

「……どういう」

 

 意味よ、言いかけると空間に激震が走った。

 アルクェイドは偽りの月に視線を向ける。

 黄金の月に大きな亀裂が走っていた。

 

「なっ……!」

 

 この時、初めてアルクェイドの表情に綻びが生じた。

 ペキリ、ベキリと表面から薄皮を剥がしていくように黄金の月が割れていき、存在を削り取られていく。

 

「あり得ない! いくら固有結界とはいえ、真祖の生み出した月に一介の死徒如きが対抗出来るはずが無い!!」

「ええ、真祖ならばそうでしょう! ですがワラキア! あなたは所詮は偽り紛い物! あなたごときが真祖を象るなど無茶だったのです!!」

 

「その通りだよタタリ! 私はアルクェイドさんに手も足も出なかったけど……。偽物のあなたからは、あの圧倒的な恐怖なんて微塵も感じない!! 薄っぺらの蚊トンボなんだよ!!」

 

 さつきは叫び、固有結界をより強固にしていく。すでに月は崩壊を始め、剥がれた端から灰となり消えていく。

 黄金の月は溶かされ、存在を抹消される。すでに直径、一メートルにも満たないほど小さくなった月は力なく落ちてきて――

 

「えい」

 

 さつきの気の抜けるような掛け声と共に、拳で破壊された。

 サラサラと流れて行く月の残骸がアルクェイドの顔にかかった。

 すると世界は再びシュラインへと引き戻され、固有結界がはじけた。

 アルクェイドの表情が険しくなる。始めて見せる苛立ちの顔は、こちらを敵と認識したようだ。

 

「……ふーん。確かに。確かにそうね、わが娘。本来の真祖であれば、そこの小娘如きに空想を上書きされるなんてあり得ないでしょう」

 

 でもね。とアルクェイドは再び不敵な笑みを漏らす。

 

「一度、偽りの月を凌いだくらいで何よ? あなた方はその一度で満身創痍じゃない。それでどうするの? 私はまだまだ動けるわ。その状態で私と戦える?」

「――うん、やっぱりあなたはアルクェイドさんより断然弱いよ。偽物さん」

「――――ッ!」

 

 小うるさい羽虫を黙らせようと、アルクェイドは腕を振るおうとして、そこで気付く。

 全身にエーテライトを張りめぐらせた対吸血鬼用三層多重結界。今のアルクェイドは蜘蛛の巣に囚われた蝶さながらだった。

 いつの間に、という疑問はすぐに氷解する。

 あの時だ。腕を縫合しながら、密かにエーテライトを張っていたのか。

 

「――小賢しい!」

 

 アルクェイドは力づくで引き千切ろうと、力を込める。めり込んだ皮膚から流血するがそんなものは後で再生させればよい。そして脱出した後、じっくりといたぶり殺せばよい。

 巻きつけられた石柱が倒壊し、アルクェイドが抜けだそうとすると――

 

「――終わりだタタリ。お前なんてアルクェイドの足元にも及ばない」

 

 トスリ、と背後からナイフが滑り込んできた。

 



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閑話 嗤う死神

 これでストックが終わります。次回の更新はちょっと後になるかもしれません。


 噴き上がる火柱が肉を焼き、骨を焦がす。本来であれば蒸発した脂肪で口周りがべたつくが、人の理を外れたものたちは灰となって霧散していく。

 既に百体は葬っただろうか。人型だけでなく、虎やワニ、果ては鷲や鹿まで。あらゆる動物たちが秋葉の略奪によって肉片一つ残らず燃やし尽くされていく。

 

「うふふふ! 燃えなさい畜生共! 女の子が全員、動物好きだと思っているならとんだ勘違いです!!」

「露払いありがとうございます秋葉さん!」

 

 秋葉が叫ぶと、シエルは絶好のタイミングでネロ・カオスに第七聖典を構えて突進する。

ネロも体内から蛇を吐き出し応戦するが遅い。シエルは現出させた黒鍵でそれらを地面に串刺しにすると、偉丈夫の胸にパイルバンカーを打ちつけた。

洗礼済みの聖なる杭をネロの体内に捻じ込み、浄化を開始する。

 

「灰は灰に。塵は塵に。聖なる哉、我が代行は主の御心也」

「ぬう……っ!」

 

 聖なる神気が流し込まれ、獣の因子が滅されていくのをネロは感じ取る。混沌と化した己が溶かされ、汚泥を清廉な川のせせらぎに変えていくかのよう。

 転生批判の概念武装でネロを貫いたシエルは異形に命ずる。

 

「二十七祖が一角、混沌の具現者の虚像に命ず! 土に還れ幻影!!」

「……所詮一夜の夢。狂乱が終われば幻たる我が身が消え去るは必定か――」

 

 何の感慨も浮かばぬほどに無機質な声でネロは我が身の運命を察する。

 ざあああー、とネロの身体は煙のように消えていった。

 

「代行、完了……」

 

 山場を越えた、とシエルは膝をついて荒い呼吸を繰り返す。

 虚像のネロは間違いなく本物に匹敵するポテンシャルを有していた。二十七祖クラスがあともう一体現れていたら、いかに秋葉と二人掛かりとはいえ押されていたかもしれない。

 

「残るは雑魚だけですか。秋葉さん、今、応援に」

 

 シエルは秋葉の支援に移ろうとしたところで、背後の殺気に振り返る。

 風に乗って流れた灰が再び集結し、コールタールのように黒く、昏くなる。もうもうとした煙はやがて人を象り――寸分違わぬネロ・カオスが再び現出した。

 

「――ふむ」

 

 何事も無かったように仮初めの生を再び受けたネロは、僅かに好奇心を覗かせるように己の身体を見回す。

 

「人の噂などという曖昧模糊としたものに頼る醜悪なコウモリかと思えば――。なかなかどうして面白い方法だ。全くもって理不尽甚だしい。出演者の意思に拘わらず、舞台が続くのならば、強制的に演じ続けねばならんとは」

「でたらめだ……。転生批判の概念で貫いたのに、消去できない!?」

 

 シエルの怨嗟の声にも、ネロは努めて冷静だ。

 

「ああ、それについては同感だ。しかし、こうして再び舞台に引きずりおろされたのだ。主催者が再演をご所望ならば、私は混沌の役割を演じ切るのみ」

「くっ……!」

 

 シエルは第七聖典を構え直す。

 常日頃から備蓄していた魔力の大半は先程の攻撃で使ってしまった。先ほどの同じ神気で打ち込めるのは難しい。それで滅せたところで、再び蘇られたら次は動けないだろう。

 助勢を求めようと秋葉に視線を送るが、愕然とする。既に秋葉は疲労困憊で顔は青白い。消耗の激しい秋葉の能力では、既に限界が見えていた。

 

 ――どうする? どうするどうする?

 

 シエルが油断していると、不意をついた蛇が肩口に噛みついた。シエルは舌打ちと共にそれを引き剥がすと、肉を少し持っていかれた。どくどくと鮮血が流れ、回復にまた無駄な魔力を使う。

 憎々し気に睨みつけるシエルへ、混沌は悠然と歩み寄る。内包された混沌から、黒い泥のようなものが地面に這い出たかと思うと、様々な動物の形に変容する。

 獅子、虎、鰐、鷹、黒豹。およそ猛獣と名のつく全てを吐き出したネロは、一種の指揮官じみていた。闇の中で金色に光る瞳は優に百を超える。見れば秋葉が倒したはずの人間の死徒まで蘇り始めていた。

 これ以上の戦闘続行は不利。シエルはそう判断すると、秋葉を回収するために走りだそうとする。

 

「行かせると思うか蛇の因子よ」

「ッ! どきなさい混沌!」

 

 シエルはどうにか突破口を捜すも、周囲は完全に囲まれている。秋葉はもう持ちそうにない。残る黒鍵で一点突破を試みようと両刃を現出させようとすると――

 

 

「――無粋だねえ。ダンスを断られたら潔く去るのがいい男の最低条件ってモンだ」

 

 

 ――座

 

 ――座座座

 

 ――座座座座座座座座座座座座座座座座座座座!

 

 ――――――――斬!!

 

 軽快なナイフの舞踊と共に、獣達の肉片が飛び散り、漆黒の染みを地面に作る。

 とん、と無意味に宙返りをして秋葉の側に立つ影が纏うは学生服。

 額に脂汗をにじませながら、秋葉は驚愕の声を漏らす。

 

「どうしてあなたがここに……!!」

 

 秋葉の複雑な感情をない交ぜにした言葉にその男――七夜志貴はニヒルな笑みを浮かべた。短めな短髪の下には、刹那的な快楽を好みそうな茫漠とした顔。そして愛する兄の水面に移る月。色香を漂わせる声音に、秋葉は必死に心臓を押さえつけた。

 

「我は面影糸を巣と張る蜘蛛――。ようこそ! この素晴らしき惨殺空間へ! 愛しの妹に麗しの聖職者、そして醜悪な混沌殿! お呼びでないなら勝手にお邪魔させてもらうまで!」

 

 やや芝居がかったセリフと共に髪を撫でつけ、七夜は高らかに謳う。『七夜』と刻印の入った短刀を抜き放つと、うっとりと眺める。月明かりで反射する刀身に映る顔は楽し気だ。

 

「貴様は……似て非なるものか。くだらん、うせろ。直死の魔眼どころか何の異能も持たず、魔術の心得も無き者に、私の相手は務まらん」

「言うじゃないか化け物。確かに、脳天ぶち抜かれようとくたばらない礼儀知らずの相手なんざ、金をもらったって御免だが――」

 

 七夜は両手を高々と掲げ、喝采する。

 

「俺もお前も木っ端な脇役端役。いずれは一夜と果つる泡沫の身」

 

 しかしだ、と七夜は言葉を切り、秋葉の肩にそっと手を乗せる。

 

「それなのに今宵のダンスのお相手はこんなにも綺麗どころが揃っている。俺たちには分不相応な贅沢さ」

 

 ネロが黙らせるように鷹を放つ。弾丸のように夜気を切り裂き、飛来するそれを七夜は鼻歌交じりに切り落とす。

 

「あくびが出るほどぬるいな。先日、目覚めかけた眠り姫に十七分割された時の方がよほど昂ったよ。とは言え、彼女は成れの果ての俺じゃなく、アイツにご執心。妬けるねえ、羨ましい。ま、いいさ。花形は譲ってやるとしよう」

 

 秋葉を自身の背に隠しながら、七夜はナイフを水平に構え、獲物に飛びかかる狩猟者へとスイッチを切り替える。

 無駄話を交えつつ、七夜は手近な獲物を切り裂きながら劇場を黒き汚泥で染め上げる。

 獅子の脳天が串刺しに、虎の四肢は切り飛ばされ、鰐は咢を砕かれた。

 

「七夜……! 私はあなたの助けなんていりません! 失せなさい!」

「そう邪険にするなよ秋葉、兄貴の好意は素直に受け取るモンだぞ」

「私の兄さんは遠野志貴ただ一人です!」

「まったくどいつもこいつも……。俺とアイツの何がそんなに違うってんだ? 俺はアイツでアイツは俺じゃあないか。ヤツも一歩間違えれば俺になるんだぜ?」

「戯言を……!」

 

 秋葉が怒気をにじませた瞬間、七夜の刃が振るわれた。不意を突かれた秋葉が体を強張らせる。

 

「きゃっ――」

 

 しかし、刃は秋葉に届かない。秋葉と通りすぎた刃は、背後に迫っていた鹿の首を両断した。

 ドサリ、と落ちた首に秋葉困惑し、七夜を見る。口の端を吊り上げた七夜は、くつくつと笑う。

 

「ふふっ『きゃっ』か」

「な、なんですか、なんですか七夜! 言いたい事があるのならばはっきり言ったらどうです!?」

「別に……。ただ、少しだけやる気が出ただけさ」

 

 七夜は会話中でも遠慮なしに襲い来る獣を切り裂き、打ち捨てる。次々と地面に黒い染みが出来上がるが、すぐにネロのもとへ這うと、体内に吸収される。

 秋葉は七夜に庇われながらも冷静に状況を分析する。ネロは七夜が引き付けているおかげで、弱ったシエルでも有象無象の死徒相手ならばしばらく持つだろう。

 

 しかし、ネロを滅する事は出来ない。また、七夜は集団戦に向いておらず、このままではいずれ三人とも追い詰められる事だろう。今の自分達は溶岩に浮かぶ岩に過ぎぬ、多少は持ちこたえられても、いずれは飲み込まれるのは目に見えていた。

 それは七夜も理解しているらしく、芝居口調が次第に減って来た。秋葉に近づく者を律儀に斬殺するが、生傷が増え始める。

 ぐっと秋葉は拳を握る。兄に啖呵を切ったはいいが、戦況は芳しくない。脱出するためにも相応の火力がいる。ならば、と秋葉は髪を真紅に染める。

 

「七夜、先輩、一瞬だけ私が焼き払います。その隙に一旦離脱して、態勢を整えましょう!」

「無茶です秋葉さん! あなたはもう能力を使える状態ではありません!」

「俺も反対だ秋葉。たまには兄貴に頼ることを覚えろ」

 

 シエルはなけなしの魔力で死徒を殲滅し、七夜は短刀で応戦する。二人も奮闘しているが圧倒的に火力不足、突破口を開くのは難しい。

 秋葉がありったけの力を込めて、空間を歪ませると、場違いに明るい声が夜闇に響いた。

 

 

「はーい、決死の覚悟のところを申し訳ございませんが、お邪魔させていただきます!」

 

 

 何事かと七夜が夜空に目を凝らすと、七夜は目を疑った。

 そこに浮かぶは箒に跨ったローブ姿の人間。声からして間違いなく彼女だろうが、あり得ない事象に七夜は思い描く人物像と、ローブの不審者がどうしても結びつかなかった。

 皆の困惑をよそに、少女は快活に名乗りを上げる。

 

「お呼びとあらば即、参上! お呼びでなくとも押しかける! 愛と正義のケミカル魔法少女マジカルアンバー推・参・です!!」

 

 口上と共にマジカルアンバーは懐からビーカーを取り出すと、獣の多い場所へ適当に放り投げる。

 一瞬、小さな焔が上がったと思うと、轟音と共に爆発が起こり、死徒を一気に十体以上吹き飛ばした。

 続けてマジカルアンバーがピンク色のビーカーを投げつけると、けむりがもうもうと上がり、半径五メートルほどを包み込む。秋葉は訝し気にピンク色の煙を見つめる。すると、煙の中から脱出した死徒が五、六歩足をよろめかすと、

 ――バタリ

 と力尽きて倒れた。

 

 秋葉の顔面が先程とは別種の恐怖で蒼くなる。通常、死徒相手に対人間用の毒物はほとんどが無効だ。その死徒をああまであっけなく死に至らしめるとは一体、どんな薬物を使用したのか。

 秋葉の全身を襲う怖気をよそに、マジカルアンバーは心底楽し気に次々と得体の知れないビーカーを投擲する。

 

「はーはっはっはっはっは! これぞ化学の勝利です! 秋葉様のお役にも立てて私は実験も出来て、一石何鳥なのでしょうか!? おや? あちらは全身が紫色に……? あちらは皮膚がとろけて……。うーむ、『遠野の裏庭印』薬品もまだまだ改良が必要ですね!!」

 

 パリーン! ボウウウゥ!

 パリーン! ブシュウウゥ!

 パリーン! デロオオオオ!

 

 マジカルアンバーが愉快気にばら撒くビーカーが割れるたびに形容しがたい擬音の後、見るも無残な形で死徒が倒されていく。秋葉は少しだけ同情した。

 

「琥珀! あなたには翡翠と一緒に屋敷を守るよう言いつけておいたはずでしょう! どうしてあなたがここにいるの! というか、こっちにもちょっと当たりそ……きゃあああ!」

 

 故意か偶然か、秋葉の近くへ飛んできたビーカーを七夜がすんでのところでキャッチし、愉快気に語り掛ける。

 

「随分と面白い恰好だ琥珀! 一体全体何が起きた!?」

「私は琥珀ではありませんが、お答えします。ヒ・ミ・ツです秋葉様と志貴さんのソックリさん! いい女は秘密が多いものなのです! 今宵は何故か空を飛ぶ魔女になれそうな気がしたので、お庭の箒に跨ってみればアラ不思議! 愛と正義の魔法少女、マジカルアンバー爆誕というワケです! ご理解いただけましたでしょうか!?」

「一ミリも理解できないわよ!?」

「屋敷の警備でしたらご安心を! 私の科学技術を総動員したメカ兵器が、屋敷の守りを盤石なものとしています!」

「また不穏なセリフを……。わあ! だからこっちにも来てるって言っているでしょう琥珀! あなたワザとやってない!?」

 

 秋葉の足元で弾けたビーカーの中身が跳ねて、秋葉のスカートにかかる。

 すると、液体は何故か淡い光を放ちながらスカートを溶かし、小さな穴を開けた。

 

「…………」

「…………」

 

 さすがの七夜も絶句し、秋葉は口をぱくぱくと広げる。

 ――もし、身体にかかっていたら……

 不健全な想像が頭を支配するが、秋葉はすぐにそれを打ち消した。彼女の存在も言動も謎の薬品も何一つ理解出来ないが、戦力としては役立つだろう。

 秋葉は空中から危険物をまき散らすテロリストを指さし叫ぶ。

 

「ああ、もう! さっぱり状況は分かりませんけれど! 協力するというのならば今は追及はナシにしてあげます! この化け物共を掃討するのを手伝ってくれますね琥珀!?」

「ノンノン! 秋葉様! そこはマジカルアンバーとお呼びに――」

「一生無給で働きたいの?」

「いっえーーい! 秋葉様のために土へお帰りくださいみなさーん!!」

 

 大盤振る舞いで大量のビーカーを琥珀がばら撒き、目に痛い程の原色の爆発が死徒たちを爆散させる。傍から見れば完全に琥珀の方が悪役である。

 テロは死徒だけでなく動物たちにも及び、次々と倒されていく。

 地面に咲く極彩色の花火の中、ネロはゆらりと歩を進める。

 

「私には全く理解できぬ状況なので無視させてもらおう」

「はっ! 安心しろ混沌、俺にも全く訳が分からない! が、悪くない! 一夜の夢でお祭り騒ぎ! お前さんも後顧の憂い無きよう! 存分に魂を震わせるがいいさ!」

「――断る!」

 

 ネロが再び猛獣を生み出し、七夜が混沌目掛けて夜を掛ける。

 

 夜は長く、頭上に輝く黄金の月はどこまでも妖艶。

 互いの魂が極彩と散るにはおあつらえ。

 

 さあ、殺し合おう。

 

 七夜の握る白銀の刃が夜色に冴えた。

 

 



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第十五章 妄執の果て

ガンガン書いていきます!!


 硬直した筋肉から刀身を引き抜くと、アルクェイドは力無くコンクリートの床に突っ伏した。白いハイネックの背に穴は開いているが出血は無い。死の点を突かれた人間に外傷は無く、存在そのものを殺される。

 

 志貴は眼鏡をかけ直すと、冷たい目でアルクェイドを見下ろした。ぐったりと物言わぬ死体と化した彼女の偽物を、志貴の瞳に感情は映らない。

 彼女に似た存在を切ったところで罪悪感など湧くはずも無く。

 彼女を模倣した形を貫いたところで高揚も無く。

 志貴は眼鏡をかけ直すと、ひたすら無感動に無言を貫く。

 静寂で無味乾燥な時間が流れる。

 

「な……なん、で……」

 

 静寂な空気に溶け消えそうな、弱弱しい声がアルクェイドの口から漏れる。

 今の自分は真祖の力を完全に模倣した同一な存在。夜ならばともかく、この千年城にて死の点どころか、線すらもありえぬはずだ。

 

「ああ、本物のアルクェイドなら見えなかったろうさ。本物ならな」

「な、に……」

 

 アルクェイドの疑問を読み取ったように、志貴は答える。アルクェイドは生命が流れ出ていく身体を蠢かすが、すでに小刻みな痙攣のように虚しい抵抗だった。

「弓塚さんやシオンの話を聞いていなかったのか? お前はアルクェイドの力を使いこなせていないんだよ。しょせん、お前なんてただの劣化品だ」

 

 志貴は初めて侮蔑を込めた視線をアルクェイドに向けると、嘆息する。

 

「ははっ、劣化品か。なるほどなるほど、確かに私ごときが真祖に成り代わるなど、土台無理な話だったと言う事か。私では汲めて三割…… それすらも手に余る。攻撃の精度が悪くて仕方が無かったのもそのためか」

「……?」

 

 アルクェイドは小さく笑うと、僅かに身体を丸める。瞬間、志貴の背中に嫌な汗が、つう、と流れた。

 全身が総毛立ち、今まで何度も遭遇してきた恐怖がぶり返すような既視感。

 なぜ、死の点を突かれても、まだ生きていられる?

 それよりも、先程より流暢に喋れるようになっているような――?

 志貴の疑問が解に辿り着く前に、変化は起きた。

 

 ――ジ

 ――ジジジッ

 ――ジジジジジジジジジジジジジジジジジジジッッッ!!

 

 昆虫の羽ばたきのような音と共に、アルクェイドの身体が明滅する。

 存在の証明は濃淡を繰り返し、希薄と濃厚を行き来する。やがて、それは透き通るような空虚な色となり――やがて消滅した。

 

「消えた……?」

「いいえ違います志貴! これは、まさか――!」

「ねえ、シオン! あれを見て!」

 

 さつきが慌てたように上空を指さす。二人は急いでさつきの指さす方へ視線を向けると、そこには黒球が再び姿を現していた。

 それは三人が屋上へ訪れた時に、最初に飛び込んできた悪夢の凝集体。人々の恐怖をぶち込んで煮詰めた坩堝。

 ゴウ! と黒球から暴風が吹き荒れた。踏ん張らないと吹き飛ばされてしまいそうな風圧の中、志貴は愕然とする。

 

「なんで死なない……? 確かに死の点を突いたのに!」

「やはり……!!」

 

 苦々しげに呼吸へ鋭い視線を向けるシオン。

 

「志貴、ワラキアの夜は死んでいません。先程のはあくまでタタリの駆動式を崩しただけ……! 再び式を立て直されればタタリは復活します! 例え直死といえどもカタチを無くし現象と化した存在を殺す事は不可能です……!!」

「ご明察! だが、度の過ぎた種明かしは白けるだけだぞ我が娘! 我は不死限りなく近づいた二十七祖が一角、ワラキアの夜! 例え直死といえども現象である私を滅ぼす事は叶わぬ!」

 

 舞台で独白する役者のように、大仰にワラキアは叫ぶ。

 志貴は再び眼鏡を外し、ワラキアを凝視するが、死の線はやはり見えない。

 生物であれ単なる物質であれ、死とはカタチあるものにしか存在しない概念だ。いかに存在を抹殺できる直死の魔眼といえど、カタチ無き現象に死を与える事は不可能だ。

 その意味を考えれば考えるほどに、志貴は事の重大を思い知らされる。

 臓腑に重くのしかかるような圧は力を増していき、ワラキアという現象が膨張していくのを感じる。

 

「駆動式が成立する限り、タタリは街の人間を飲みつくすまで止まらぬ! 我を退場させられるのは夜明けのみ!! 一夜あればことごとく飲みつくせる!!」

「そんな……! どうにかならないのシオン!? このままじゃ街のみんなが!!」

 

 さつきは絶望的な状況に、縋るような視線をシオンに向ける。しかし蒼白なシオンの表情は打開策が存在しない事を暗に告げていた。

 

「前座は終わりだ小娘……。真祖の身体も貴様達も実に惜しい。素晴らしい役者は最後までとっておくのだが、それは私の流儀に反する」

 

 そして何より、とワラキアは息を吸ったように言葉を区切り、激情を吐き出す。

 

「何者であれ、我が舞台を汚す者に生存は許さん!! 速やかに奈落へ落ち、永遠に続く我が祭りを眺めるがよい!!」

 

 ワラキアの宣言は、滅びの日を伝えるラッパの音だった。

 一際強く凝集した黒球は、今にも弾けそうに鳴動する。

 志貴の本能が警鐘を鳴らし、心の臓を鷲掴みにされたような錯覚に陥る。無意識に後退しそうになる足を鉄の意志で無理矢理つなぎ止める。

 髪の毛程の細さでもいいから、死の線が見えないか、志貴は脳に強く負荷をかけてワラキアの死を見ようとした時、冷徹な声が月夜に響いた。

 

 

「否、汝の祭りは今宵で終わりだ」

 

 

「何者だ!?」

 ワラキアの声と共に全員が夜空を見上げる。

 貝殻のようにほの白く、氷のかけらのように煌めき、黄金のように輝く満月。

 どことなく冷たい輝きを放つ明るい月を背に、夜空へ浮かぶは同じく黄金を思わせる金髪の姫君。

 

「何者だ、とは愚問を。私はこの遊戯の審判者。それとも」

 

 姫君は優雅に手を広げ、存在を誇示するように告げる。

 

「――赤い月、と名乗ればよいか?」

「な……なん、だ!?」

 

 アルクェイドがワラキアを睥睨した途端、黒球が歪み押し潰される。加減を知らぬ子どもが泥団子をこね回すように、ぐにゃぐにゃと形を変え、圧縮され、崩れていく。

 その崩壊は同時に創造でもあった。カタチを失った黒球は再び象られ、ヒトの姿を形成していく。

 一瞬の閃光。

 ビッグバンから新たな星が誕生するように、凝縮されていた極小の点が膨れ上がる。

 

「あれ、は……!?」

 

 シオンは目を見開き、黒球より生まれたる人物を凝視する。

 それはどこか貴族的な雰囲気を纏う男だった。

 引きずりそうなほど長いマントと貴族服に包まれた体躯はすらりと長く、面長で理知的ながらも繊細さを内包した、いかにも舞台映えしそうな顔立ち。

 

 見間違えるはずもなかった。

 誇り高きエルトナムの名に泥を塗り、罪人の焼き印にまで貶めた先達。

 そして何より、自分の首筋に牙を立て、汚らわしき血を送り込んできた時の姿。

 

「ズェピア・エルトナム・オベローン……!!」

「!? じゃあ、あれがワラキアになる前のシオンの……!?」

 

 シオンは苦々し気に怨嗟の声を漏らすと、さつきは現れた長身痩躯の男に最大限の警戒を向ける。

 当のワラキアは久方ぶりの肉体――カタチに困惑する。

 それはかつて、自分がワラキアの夜などと名付けられる遥か遠い昔。一介の錬金術師と木っ端な死徒として活動していた頃の姿。

 

「あり得ぬ……! 現象(ワラキア)となったこの私がカタチ(ズェピア)に戻るだと!?」

 

 突如として、ウワサからカタチにまで堕とされたズェピアは、理不尽な現実を認めるわけにはいかないとでも言うかのようにアルクェイドへ吼える。

 

「一体何をした!? 例え貴様が真祖の王族であろうと、現象である私を存在に戻すなど出来るはずがない! 私の駆動式が終わるのは千年後……。そうアルトルージュと契約したのだ。その時まで私は現象(タタリ)であるはずだ!!」

「戯け、夢から覚めよズェピア。まだ分からぬか」

 

 アルクェイドは聞き分けの悪い幼児を諭すように、頭上を指さした。

 

「ならば仰げ! 頭上に輝く紅い月を!!」

「これは……。私が『ワラキアの夜』となった夜の月――」

 

 ズェピアは全身が震撼し、驚愕に目を見開く。

 先程までの眩く光る黄金の月は、いつの間にか血の滴り落ちそうなほど紅く染め上げられていた。

 真紅の月から注がれる光はワインレッドに周囲を照らす。その輝きは神秘的であり、畏敬の念を抱かせる。

 自らを現象とするため、力を汲み取った紅い月。その猶予は再び紅い月が現れるまで。

それが現出する事はすなわち、タタリの駆動式の終了を意味する。そう、アルトルージュと契約したのだ。

 

「だが紅い月はまだ未来の筈! まだ千年の猶予がある! その時まで私はタタリであるはずだ!!」

「式が終われば、汝は元の姿に戻ろう? 千年もの長き式の果て、第六法に至る事が叶わぬのならば、ワラキアの夜は死徒ズェピアに戻る。それが汝とアルトルージュが交わした契約のはずだ」

 

 アルクェイドの言葉にズェピアは顔を歪める。

 ならばあの紅い月は、現実のもの。

 ワラキアが理解を放棄しようとするが、アルクェイドはそれを許さない。

 

「ならばあの紅い月は……。私のこの姿は……っ!!」

「そう、これが汝のくだらぬ旅の結末よ。嬉しかろう? 本来ならば千は続く徒労を此処に具現してやったのだからな」

「それじゃあ、あれは幻覚などではなく……。空想具現化で作り上げた正真正銘、千年後の月だと言うのですか!?」

 

 信じられぬ物を見るように、紅い月を見上げるシオン。

 時間旅行ですら魔法の域にあるというのに、異なる時間軸の存在を呼び寄せるなど、もはや魔法の括りすら逸脱しつつある。

 

「何を驚く事がある? 此処は私の世界。汝と同様一夜限りの世界ではあるが、故に私に用意できぬものはない」

「そうか、つまり貴様は私と同様に一夜限りの支配者! ならばより優れた空想を具現化出来る貴様にとって、私の空想など妄想にまで堕ちるという事か!! ク、ク……クハハハハハハハハハハハハハハッハハハハハハッッッ!!!!」

 

 自虐的に哄笑するズェピアは月夜に吼える。狂ったように呵呵大笑するその様は、壊れた玩具を連想させる。

 ズェピアは理知的に狂乱する。

 乾いたような虚しい声が響き渡り、夜空に羽ばたいては消えていくのを繰り返す。

 一通り、抱腹絶倒したズェピアはピタリと笑いを止めて、重々しく口を開いた。

 

「……では、私の、望みは……」

「――叶わぬ」

 

 それはズェピアにとって死刑宣告に等しい断言だった。

 千年の歳月の果てに赤い月が出現する。その時点で正解に辿り着かねばワラキアの夜は死徒ズェピアに戻る。

 頭上に輝くは紅の月。

 そして今の己は現象ワラキアではなく、死徒ズェピアという存在。

 ならば私は――

 ズェピアは解に至ると、首を断頭台に置いたかのような錯覚に陥る。

 

「汝の駆動式の終焉は人間の終焉。無人の荒野に君臨するも良いが結果の出た生を行うも苦痛であろう。これ以上汝の無策に我が力を使う事もなし」

 

 アルクェイドは容赦なくギロチンを振り下ろす。

 

「ここでその存在を終えよワラキア。なにより汝の立てる劇は不快」

「ハハハ……。そうか、そうか……」

 

 ズェピアは目を閉じる。

 かつて第六法という神秘に挑み、敗北し、結果ズェピアの身体は霧散した。

 しかし、それはズェピアの思惑通りの結果であった。

 通常、肉体という檻から解放され、大気に散った霊子は意思から解脱した貯め、流れるまま根源たる無に落ちていき、次の変換を待つ。

 それをズェピアは『タタリ』という駆動式を用いて、死徒の肉体を形成していた強大な霊子を拡散しつつも世界に留まり続ける事に成功する。

 

 ズェピアは千年単位の航海図を描き、人間が滅びるまでのスパンで祟りが発生する地域を流れては、その地域で発生した『噂』に収束し現世に蘇る。

 幾度も幾度も。

 何度も何度も繰り返した。

 人の世が終わるまで『タタリ』は駆動し続ける。

 永き流転の果てに、この身が第六法に辿り着く事を夢見てきた。

 夢見て、きた、というのに。

 

「……その結果が。無限の時を経て辿り着いた結末が――」

 

「――――――――これ(私)だというのか!?」

 

 ズェピアは叫ぶ。

 己の生涯など全ては徒労。アトラシアの名を捨て、死徒に身を堕とし、噂により象られるタタリとまでなった結末がこれか。

 

「その通り。たとえ幾千幾万の時を重ねようとも、所詮は叶わぬ見果ての夢よ。――もうよいだろう。もはやタタリとして徒に彷徨う意義もなし。今宵がワラキアの夜の終焉よ!!」

「~~~~~~~~~!!」

 

 苦悶の表情を浮かべ、ズェピアは歯噛みする。

 沸々とこみ上げ、猛り狂う激情は痛憤、激怒、憤慨、憤懣、嚇怒?

 否、そのような月並みな言葉で、この腹の底で煮えたぎる感情にラベリングなどされたくはない。

 ズェピアはやるせない気持ちを燃え上がらせながらも、発散させる事すらかなわない。

 

「終焉……。まさかそれならば! いけます! 志貴、さつき!」

「いける? それって……。倒せるのかタタリを!?」

「で、でもシオン、また倒しても復活するんじゃ……」

 

 さつきは苦渋に満ちた表情のズェピアを恐る恐る指さし、志貴は魔眼で直視する。

 そこで志貴は初めて気付く。今やズェピアの全身には死の線が縦横無尽に走っている。

 シオンは志貴の表情の変化を読み取り、疑問に答える。

 

「志貴、今のあなたには彼の死が見えていると思います。――そう、今の彼はタタリでもワラキアでもない。現象と化す前のズェピアという名の死徒」

 

 シオンはバレル・レプリカを取り出し、ワラキアに銃口を突きつける。それは絶望の中に唯一の希望を見出した決意の表情。

 黒光りする拳銃を両手で構え、シオンは叫ぶ。

 

「実在する今ならば間違いなく可能!! 今の状態の彼を消滅させられれば、タタリという死徒も存在出来なくなるはずです!! さつき、あなたはズェピアの足止めを。志貴はズェピアにとどめを! ここで決着を着けます!!」

「うん! いこう遠野くん!」

「ああ、いくぞみんな!」

 

 さつきは気合い十分、未だに煩悶するズェピアに目掛けて突進し、志貴もそれに続く。

 相手は既に死の内包しないタタリではなく、アルクェイドの偽物でも無い。ただの一介の死徒。ならば、この三人に加えてアルクェイドが加われば戦力的に負けるはずもない。

 そう計算したシオンは一斉に攻撃に移るが――

 

「そう見くびってもらっては困るな我が娘!」

 

 ドウゥ!! とワラキアの叫びと共に魔力が噴出され、さつきと志貴は吹き飛ばされた。志貴は地面を転がりながら勢いを殺し、さつきは強靭な足腰で力尽くのブレーキで何とか止まる。

 風圧の塊に激突されたかのような衝撃に志貴とさつきは驚愕する。既にタタリでなくなったというのに、これほどまでの暴威を振るえるズェピアに、志貴は最大限の警戒を向ける。

 両手を掲げ、舞台上で音吐朗々と語る主演のように、ズェピアは立つ。

 

「我が名はワラキアの夜、ズェピア・エルトナム・オベローン!! タタリと化すより遥か昔――。己が手管と手腕によって二十七祖が一角に上りつめし者! 軽々とと討ち取られるほど安い首ではない!!」

 

 ズェピアは尚も叫ぶ。血の涙を滂沱と流し、狂気に顔を染め上げながら妄執のままに突き進む。

 

「ああ、確かに何千年とタタリを続けようと、貴様には至れぬようだな真祖の姫よ! しかしだ! 愚行も貫けば信念! 妄執の果てに僅かでも希望があるやもしれぬのならば――」

 

 迷妄の執念によって、大衆の言の葉に乗せられ流され続けてきたタタリは、それでも歩みが止まらぬように咆哮する。

 

「滅びぬ! 私は決して滅びぬぞ!! たとえ今宵が私の果てだとしても……。貴様を仕留めれば嘘も消えよう! タタリで第六法に至れぬとあらば真夏の夜の夢もここまで! ならば貴様を飲みつくし、その力を以て次の手段を講じよう!! 我、紅い月の力を以て、第六へと至らん」

 

「アイツ……! アルクェイドを取り込む気か!! おい、気を付けろアルクェイド! 来るぞ!!」

 

 志貴はアルクェイドに警戒を促すが、アルクェイドは変わらず冷徹な表情でこちらを見下ろすばかり。悠然と涼風に吹かれる様は戦場にそぐわぬ彫刻のようだ。

 微動だにしないアルクェイドをよそに、ズェピアは真祖へ挑む準備を始める。

 

「……シオン、何か黒い霧があの人の周りに!」

 

 さつきが怯えたように、周囲を流れて行く黒い靄のようなものを避ける。

 

「膨大な魔力に反応した悪性情報の具現化――」

 

 シオンはワラキアを中心に渦巻く濃霧に険しい表情を浮かべ、計算の甘さを再認識する。

 いくらデータ不足とはいえ、ズェピアがタタリという反則技を身に着けずとも二十七祖の力を持つ事は知っていた。ただでさえ膨大だった魔力がさらに濃密に膨れ上がり、その圧を増していく。

 

「キ……キキキキキキキ!! 魂魄ノ華爛ト枯レ、杯ノ蜜ハ腐乱ト成熟ヲ謳イ例外ナク全テニ配給、嗚呼、是即無価値ニ候…………!! 蛮脳ハ改革シ衆生コレニ賛同スルコト一千年。学ビ食シ生カシ殺シ称エル事サラニ一千。麗シキカナ、毒素ツイニ四肢ヲ侵シ汝ラヲ畜生ヘ進化進化進化セシメン……!! カカカカカ……カ、カ、カット!! カットカットカットカットカットカット!! リテイク!!」

 

 荒れ狂う黒い暴風は狂った楽器のように出鱈目な音律を吹かし、狂気を凶器にしてアルクェイドに襲い掛かる。

 

「キイイイイイイイイイイイイイイッッッ!!!!」

 

 常軌を逸した甲高い叫びと共に、ワラキアは変形しアルクェイドに飛来する。その様は車輪状の黒い刃。大気を切り裂きながら、轟音と共に突進する。

 しかし、アルクェイドは動かない。猛スピードで迫りくる暴威にも感慨の灯らぬ醒めた目で見つめ続ける。

 

「――あ!」

 

 シオンはそこでアルクェイドの状況に思い至った。全速力でコンクリートを蹴り、ズェピアとアルクェイドの間に割って入る。

 エーテライト多重展開。十層、二十層。十重二十重に張り巡らしたエーテライトはあらゆる衝撃をも受け止める鉄壁の障壁と化す。

 エーテライトから迸る火花は星の瞬き。チェーンソーのように回転し、削り取ろうとするズェピアの勢いをシオンは受け止め続ける。

 

「く……あ!!」

 

 みしみしと指の関節は悲鳴を上げ、吸血鬼の修復速度は破壊に追いつかず、一本、また一本と鈍い音と共に折られていく。

 脳髄が焼き切れるような激痛を、シオンは堪え続ける。その様は巨大な運河の濁流を体一つで受け止める行為に等しい。数秒でも耐えられている事自体が奇跡だ。

 ブチリ、ブチリとエーテライトが切れていく。

 

「――シオン!!」

 

 崩落は志貴の叫びと同時だった。

 エーテライトの多重結界を食い破り、ズェピアは勢いそのままにシオンへ激突。

 ゴオオオオオオオオオ!

 という轟音と共に、黒き悪鬼の暴威は閃光を放ち、シオンを押し潰した。

 



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第十六章 あの日の誓い

 有難い読者の皆様。一言でもいいので感想をいただけないでしょうか? 正直、自分だけだと面白いのかそうでないのか時々分からなくなるんです……


「シオ、ン……? シオン! おいシオン!? 無事なら返事しろ!!」

 

 もうもうと湧き上がり、一帯に広がっていた噴煙に視界を塞がれた志貴は仲間の安否を確かめる。爆発にも似た突撃によって砕かれた石柱から生まれた粉塵は、いくら手で払おうとも一行に消える気配は無い。

 

「私が見てくるよ遠野くん! 大丈夫、私の方が目がいいから!」

「離れると危ない弓塚さん! 固まって動かないと……」

「でもシオンを放っておけないよ!」

 

 人間の志貴より視界の効くさつきは、志貴の制止も聞かずに、煙の中をずんずんと進んでいく。三メートル先すら真っ白に塗り潰された世界で志貴は闇雲に歩く事も出来ずに、声を張り上げるしか出来ない。

 すると、一陣の風が吹き、煙を綿埃のように引き千切っていく。何度かそれを繰り返し、ようやくクリアになった志貴の視界。そこへ飛び込んできたのは

 

 ――彼女を例えるならば白百合の騎士だった。

 

 黒と白を基調としたゴシックな制服に身を包み、背丈を超えるほど巨大な楯は槍であり弦楽器であるようにも見える。

 乳白色の不透明な髪を後ろに束ね、精悍な眼差しは誇り高き騎士を思わせる。少女というには凛々しく、青年というには華やか過ぎる。中性的な顔立ちながらも、胸部の装甲の膨らみから、女性である事が窺えた。

 その女性はシオンとアルクェイドを守るように立ち、眼前のズェピアに対峙する。

 

「――三年前」

 

 女性が口を開く。それは鈴の音のように涼やかで、よく通る美しい声だった。

 

「君を守ると誓いながらも、果たせなかったこの身だが――今度こそは守れたかな?」

「違いますリーズ、――今度も、です」

 

 全身から血を流し、息も絶え絶えながらシオンは笑う。それにつられて白百合の騎士の口からも思わず笑みが零れる。

 

「その聖楯の輝き、複製などではない……。馬鹿な! お前は三年前に私がこの手で殺したはず」

「そうとも! 今でも昨日ように鮮明に思い出せるぞ、貴様がその汚らわしい牙を私の首に突き立てたあの夜を!」

 

 怒りを滲ませ、女性は叫ぶ。しかし、すぐに凛々しい表情を作ると守護騎士の誓いを再び謳う。

 

「我が名はヴァステル弦楯騎士団リーズバイフェ・ストリンドヴァリ! 聖楯に誓いしシオン・エルトナムの守護の楯である!!」

 

 リーズバイフェは聖楯を剣のように高々と掲げ名乗りを上げる。

 ズェピアは不可解な物を見るように眉根を寄せるが、一つの解に思い至る。それを確かめるべく、自身の中をまさぐる。

 

 ――変わらず、いる。

 

 もはや魂の情報体のみの存在である、哀れで役立たずな騎士は今もタタリに飲み込まれたままである。

 ならば眼前の騎士はやはり複製。

 違う。ワラキアは自身でその解を棄却する。あの忌々しい聖典武装の輝きはいかに我が娘といえども、完全に再現出来るものではない。

 こちらの肌を焼き、存在そのものを浄化させるような聖なる気は本物。

 

 ならばなぜ――?

 

 ズェピアは高速思考を展開し、あらゆる可能性を計算、検証する。

 ヒトの最も弱い部分、卵の殻に包まれた内部を、ぐちゃぐちゃにかき混ぜるように甘美な堕落を進言したにも関わらず、躊躇なく跳ね除けた心胆。

 まるで分かり切っていた問答に答えるような迷いの無さ。

 そして僅かに噛み合わぬ会話の応酬。

 そこから導き出される答えとは――

 

「――――――――――――――――――」

 

 ズェピアは一瞬、呆けたような表情を作ると、くつくつと笑いだす。

 最初は小さな震えだった。それが徐々に大きくなり、やがてのけぞるように天に向かって哄笑した。

 

「ハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハッッッッハッハァ!!!!」

 

 腹の皮がよじれ、顎が外れるほどの呵呵大笑。

 嘲りをふんだんに含んだ、けたたましいほどの笑い声は憫笑にも聞こえる。

 まるで始めから間違えた解を、性懲りも無く間違い続ける子孫に通ずるものを見つけたように。

 突如として笑い出したズェピアに耐えかねたシオンは、苛立たし気に叫ぶ。

 

「何が可笑しいのですかワラキア!」

「可笑しいとも! そうか、そういう事か!! そこの小娘が己すら騙せぬ欺瞞に興じているのはなぜかと思えば……。これは奇想天外奇妙奇天烈タマラナイ! 素人作家の脚本というのも、度肝を抜くという点では捨てたものではないな!!」

 

 ズェピアはさつきを指さし、皮肉げに嗤う。さつきはズェピアに指さされ、びくりと身体を震わせると後じさりする。

 なぜか、この男の言葉には覚えがあった。

 さつきは、ガラスに小さな亀裂が次々と走るような感覚に陥った。

 聞いてはいけない。耳を傾けてはいけない。

 そう、本能が叫ぶが耳を塞ぐのを禁じられたように両手はだらりと下がる。

 

「黙りなさいズェピア! さつき! その男の言葉を聞かないでください。一人では危険ですから志貴と一緒に……」

「そうだ弓塚さん! あんなヤバイやつ相手に単独行動はマズい! というかアルクェイドもアイツを倒すのに協力してくれよ! なんだって、さっきからずっと一言も喋らないし、棒立ちのままなんだ!? シオンがいてくれなきゃ今ごろ……」

 

 志貴は別の石柱に飛び移り、こちらを見下ろすアルクェイドに抗議の言葉を投げる。それを向けられたアルクェイドは困ったように苦笑を浮かべ、言いにくそうに口を開いた。

 

「あー、その事なんだけどね。恰好つけておいて何だけど、私はちょっと動けないんだ」

「ハア!?」

「真祖の言う通りです志貴……。彼女は動かないのではなく動けなかった。千年後の月を具現化するなどという荒業。いかに真祖といえど、力の大半を使わねば維持できないはずです」

 

 シオンの説明に志貴は頬を引くつかせ、そのような事態ではないと理解しつつも嘆かずにはいられなかった。

 

「まー、そういうワケだからズェピア退治は志貴たちで何とかしてくれる? 倒せそうな状況を作ってあげただけ、大サービスよ、うん」

「この女……! わかっちゃいたけどやっぱとんでもねえ!!」

 

 志貴は泡を食ったように驚愕する。

 シオンは真祖の助力を諦めたのか、ズェピアを鋭く睨み続けた。ズェピアは確証を得たというように口を三日月状に歪める。

 

「なるほど……。空想具現化で力の大半を奪われた今なら、私にも勝機があると踏んでいたが……。直視の魔眼持ちに我が娘、二十七祖に匹敵するポテンシャルを持つ死徒に、聖典武装を持った守護騎士とあらば、確かに万が一の勝利を拾われる可能性もあるか!!」

 

 ワラキアは賞賛すると、ぐるりと周りを品定めするように見渡す。

 魔眼を持ち殺人技巧に長ける壊れかけの人間。

 アトラスの名を冠し、錬金術を操る半端者の吸血鬼。

 固有結界をも使い、二十七祖クラスの力を持つ死徒。

 聖楯を使い、あらゆる不浄を滅する守護騎士。

 間違いなく一級品。これだけの粒ぞろい、下手をすれば封印指定を受けるほどの戦力である。

 

「素晴らしい! 真祖の代役としてはいささか以上に見劣りするが―― よろしい! このズェピア・エルトナム・オベローンが第六に挑む門出を飾る花束の役程度は果たせるだろう!!」

 

 その前に、とズェピアはさつきに血涙を流し続ける瞳を向ける。さつきが怯えた声を出すのを心地良さげに聞き入ると、衝撃の一言を打ち消した。

 

「私が十全の力を振るうためにも……。私の半身を返してもらうとしよう」

「半身って……。あなたは何を言っているの……?」

 

 さつきの心臓の鼓動が早くなる。

 呼吸がひどく苦しい。一息吐く度に肺が焼け付くように痛い。

 ナニカ、トテモ、タイセツナコトヲ

 

「さつきにその汚らわしい言葉を向けるなと言っているでしょう――――!!」

 

 シオンは怒りに任せてデタラメに発砲。ズェピアは撃ちだされたエネルギーを片手で軽く弾き飛ばすと、つらつらと語る。

 

「何を驚く事がある? お前はそこの人間――直視の魔眼が恐れる心より生じたタタリだ。ならば私の一部。半身と言って差し支えないとも」

 

 

「――――――――――――――――――――は?」

 

 

 さつきの時間が止まる。

 意味が分からない。思考が意味の理解を拒絶する。

 全身は痺れ、息する事も忘れて呆然とする。

 それでも、固まった喉を無理矢理動かし、さつきは抗う。

 

「私は……ロアに噛まれて……。それでも血を吸わずに一生懸命、耐えてきて…………」

「そうですさつき! あなたは人間です! どれだけ吸血衝動に襲われても呑まれなかったじゃないですか!!」

「カットカットカットカットカットカット!! 娯楽を遠ざけて生きてきた君に演技指導は向いていないぞ我が娘!! いい加減、下らぬお芝居は止めたまえよ!! どれ、私がお手本を見せてやろう――リテイク!」

 

 ズウウ、とズェピアの五指が黒い霧で覆われる。

 鋭さを持ちながらも柔軟性のある爪が伸び、さつきと志貴目掛けて伸ばされる。

 それはズェピアの用いるエーテライト。

 彼もまたエルトナムに名を連ねる錬金術師、エーテライトの扱いについてはシオンよりはるかに熟知していた。

 

「君が私に干渉して奪ったのならば、逆に干渉されて奪い返される可能性も考慮しておくべきだったな。返してもらうぞ我が半身を」

「やめろズェピアアアアアアアアアアアアアアアッ!!」

 

 シオンの絶叫が響くも、ズェピアのエーテライトは容赦なくさつきの額に刺さる。ズェピアの纏う黒い霧がエーテライトを伝って流し込まれ、悪性情報が伝播する。

 吐き気を催すほどの負。

 怖気が噴き出すほどの陰。

 それらが雪崩のように押し寄せ、さつきの心を黒く塗りつぶしていく。

 ベキリ、ベキリ、と何かが剥がれ、砕けていく。

 薄氷を踏むような綱渡りで守られてきた何かが、完全に破壊されそうになる。

 

「貴様らにとって人の血を吸わぬのが人間の定義だと言うのならば」

「やめ、て……。やめてやめてやめてやめてやめて!!」

「――――思い出せ、己が何者であるかを」

 

 ――ああ

 

 さつきの抵抗を嘲笑うように流し込まれる情報は、さつきの心を粉々に砕く。

 思い出されるのは薄暗い路地裏。煌々としたネオンに照らし出される表通りから一本外れただけで、そこは異界と化していた。

 普段ならば飲食店から漏れ出る油臭い空気がホコリと絡まり、思わず鼻をつまみそうになる。しかし、今夜はそれ以上に強烈な鉄さびの匂いが、それらを掻き消していた。

 

 ――ああああ

 

 壁一面に飛び散った臓物はぬらぬらとどす黒い赤色。

 その中で一人の少女が座り込み、拳大の赤い肉塊を恍惚の表情で掌で弄んでいた。

 胸骨を砕き、抉りだした心臓を握りつぶすと、生暖かい血液がぽひゅっと優しい音を鳴らす。それに口を近づけ、じゅるじゅると啜るのは他ならぬさつき。

 舌から喉元を流れる鮮血は、天上の美酒。どれほどの美女を抱こうとも、いかなる麻薬をキメようと、ここまで退廃的で堕落的な高揚を与えてくれるものではないだろう。

 

 ――あああああああああああああああああ

 

 異変を察したのか、路地裏に一人の男性が現れた。

 どことなく志貴に似た雰囲気を持つ、おちついた男性だ。彼が何かを言っていたが知った事ではない。

 さつきは血を蹴り、男の喉元に食らいつき、首筋に牙を突き立てた。再び、美酒が流し込まれる。男がピクピクと痙攣し、虚しい抵抗を続けるが、首元から流れ出ていく生命は風前の灯。

 男は完全に動かなくなった。

 さつきは男の首元から口を離すと、天に向かって息を吐きだした。

 夜空を見上げる瞳から、一筋の雫が落ちる。それは感涙なのか、悲嘆なのか、はたまた。

 じゃり、と小石を踏むような足音が壁を反響し、さつきの耳に届いた。

 期待を込めて振り返る。

 短めの黒髪に地味なフチ無し眼鏡。見慣れた学生服に履き古したスニーカー。

 さつきはゆらりと立ち上がり、両手を広げて闖入者を歓迎した。

「――――志貴くん」

 

 ――ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ。

 

 



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第十七章 あかね色の坂道で

ネタバレにならないタイトルってマジでどうすればいいんでしょうか…?


 遠野志貴くん、ずっとずっとあなたが好きでした。

 

 あなたはきっと覚えていないだろうけれど、中学二年生の冬の頃よりずっと前から、わたしはあなたを見てきました。

 いつか何でもないような、他愛の無いお喋りをして「弓塚さん」って呼んでもらえるようになれたらいいな。そんな小さな望みがわたしに力をくれた。

 乾くんと志貴くんが楽しそうにはしゃぐ姿を見て、わたしも入れてと何度も言いかけてはやめるのを繰り返してきた。二人にはわたしが決して入る事の出来ない絆みたいなものがあるっていうのが分かっていたから。

 

 それでも私は精一杯の勇気を出して、志貴くんを帰り道に誘ってみた。

 目に染みるような夕あかねの空が坂道を染める中、二人きりで下校できた。

 オレンジ色に染められる志貴くんの横顔は、相変わらず自然体で、その飾らない姿がわたしを安心させてくれる。

 志貴くんはやっぱり私の事を覚えていなかったけれど、志貴くんが私の事を知ってくれただけで嬉しかった。

 

 やっと、私の事を「弓塚さん」って呼んでくれた。

 ほとんど初対面のような会話で、苗字で呼ばれただけだったけれど、私は飛び上がりそうなくらい嬉しかったんだ。

 

 ――これから話なんていつでも出来るよ。

 

そうだよね、これからいっぱいお話して、私の事をもっともっと知ってもらうんだ。

 いつか、ただのクラスメイトから友達になって、そして「さつき」なんて名前で呼んでもらえるようになって、それからそれから――

 そこから先を想像したら、私は照れくさくなって、思わず頬に手を当てた。

 なんだかぽかぽかして、あったかい。

 ここに鏡が無くて良かった。そこに映るわたしはきっと、ものすごく緩み切った恥ずかしい顔をしている事だろう。

 

 弓塚さつき十七歳。華の女学生。

 わたしの恋はきっと、ここからがスタートなんだ。

 わたしは拳をぐっと握りしめ、緩んでいた頬を少しだけ引き締めた。

 志貴くんはすごい朴念仁だ。きっと並大抵のアプローチじゃ気付かないだろう。

 とてもとても恥ずかしいけれど、やっと足掛かりを得られたんだ。このチャンスを無駄にする事なんて、もったいないオバケが出るだろう。

 

 楽しかった記憶はここまでだった。

 

 志貴くんが夜中に繁華街を歩いているという噂を確かめるために、わたしは夜の街へ足を踏み入れた。

 それがいけなかったのだろう。

 わたしは突然、耳に入って来た怪しい物音に、どこか惹かれるように路地裏へ行き――そして意識を失った。

 

 目を覚ましたわたしを襲ってきたのはとんでもない激痛。体中がバラバラになって、内臓ごと飛び出しそうな吐き気がして、そして、

 ――どうしようもなく喉が渇いた。

 わたしは公園に行って、浴びる様に水を飲んだ。胃が膨れて、喉元までせり上がってきそうになっても、わたしの渇きが癒える事は無かった。

 

 ――だめだ、こんなものじゃ満たされない。

 

 不思議と、わたしには渇きの原因と解決方法が分かっていた。

 何でかは分からない。しいて言うなら、わたしの中に入って来た、わたし以外の何かが教えてくれるのだ。

 飲め、お前の身体はそうしないと持たないぞ、って。

 わたしはその言葉を無視し続けて、おぞましい衝動から目を背け続けた。

 真夏だっていうのに、とても寒い。体は死人のように冷たく、指先は蝋のように白かった。あまりにも寒くて、試しに拾ったライターの火を指先に近づけた。

 ちっとも熱くなかった。

 これは寒いんじゃなくて、暖かさを感じなくなったんだ。

 そこでわたしはようやく現実を受け入れた。

 もうこの身体は既に、ヒトとしてとっくに終わっているっていう事を。

 

 〇

 

 ぴちゃり、ぴちゃりと血が滴り、わたしはその雫を舌で受け止める。

 喉を流れて行く血が渇き切ったわたしの心と身体に染み入ってくる。

 分かっていた。

 これがいけない事だって事くらい、わたしにだって分かっていた。

 けれど痛くて寒くて寂しくて、こうする事しか出来なかった。

 血を飲んでいる時だけが、わたしにとって唯一安らぐ瞬間だった。

 けれどそれも一瞬、すぐにわたしの内から湧き上がる衝動は暴れ出し、わたしを突き動かした。

 

 わたしはもうヒトではない。

 ヒトだって生きるために他の動物を殺して生きている。わたしの場合は、その他の動物が人間だっていうだけの事。何もおかしくはない。

 そう納得しかけては、わたしの何かが懸命に叫んだ。

 

 ――違う! そんな事は間違っている!

 

 ヒトではないのだからヒトを殺しても良い? 

 そんなものは間違っている。

 けれどそれはきっと正しい。

 渇きを癒すたびに、わたしは激しい痛みに襲われた。

 体の痛みは止まるのに、胸を締め付けるような痛みはいつまで経っても消える事は無かった。

 それが心の痛みなのだと気付けても、わたしは首筋に牙を突き立てるのをやめる事が出来なかった。

 どれだけ新鮮な血を飲もうと、どれだけ高揚しようと、すぐさま自己嫌悪の波が押し寄せ私は頭の中がぐちゃぐちゃになる。

 

 渇くのは喉だけじゃなかった。最初はすごく心が痛んだのに、もう今ではチクリとしか痛まない。

 徐々にわたしがわたしじゃなくなっていく感覚に飲み込まれる。

 

 ――怖い。怖いよ志貴くん。

 

 わたしは体を抱いて、寒さと恐怖に震える。ガチガチと歯を鳴らし、わたしを飲み込もうとする葛藤に懸命に抗う。こんな時に思い出すのは決まって彼だった。

 だって彼は、わたしに『 』をくれる人だから。

 

 〇

 

 薄暗い路地裏の中、わたしは志貴くんに抱き着くようにして首筋へ食らいついていた。

 わたしの牙から流し込まれるのは、わたしの血液。

 わたしの一部が志貴くんの中に注ぎ込まれるたびに、志貴くんがわたしと溶け合って一つになるような気がした。

 わたしの血が、志貴くんの意識を破壊し、従順な下僕に変える。志貴くんの瞳から徐々に光が消えていき、ぼうっとした虚ろな表情になった。

 これで志貴くんは私の物。

 そう思ったのに、

 

「弓塚――――――!」

 

 わたしは大きな叫び声と共に、思いっきり突き飛ばされた。尻もちをつく形で私は倒れ、志貴くんに見下ろされる形となる。

志貴くんはハアハアと荒い息をつき、真っ青になった顔で私に怯えた表情を向けた。その首筋にはわたしの歯型がくっきりとつき、どくどくと血が流れている。

 

「弓塚さん、なに、を……」

 

 けどそれが限界だったみたい。もう意識はどろどろに溶けて、腕一本満足に動かせないのだろう。わたしの流し込んだ黒い血が、志貴くんの自我を破壊するために、身体中を駆け巡って浸食していくのが感じ取れた。

 

「あ――ぐ、ぐうううううううっ!!」

 

 とても痛いのだろう。志貴くんは地面にがりがりと爪を立て、自分の体内を犯す私の血に懸命に抗おうとする。

 なんて可愛らしい抵抗。

 わたしは安心させるように囁いた。

 

「大丈夫、痛いのは最初だけだから我慢して。わたしの血が混ざればすぐに落ち着くよ」

「だから、お前は何を……」

「何をって、志貴くんもわたしと同じになるって事だよ。普通の食べ物のかわりに人間の血を吸って、太陽の下を歩けなくなって、夜に出歩くヒト以外の生き物になるの」

 

 にこり、と私は笑顔を作る。私の渇きや寒さは癒えないけれど、この人がいればきっと心にぽっかりと開いた寂しさを埋められるだろう。

 二人で夜の街をかけて、お日様の下で歩けない同士、手を取り合って生きていこう。

 志貴くんは懸命に吐き気を堪えるようにしていたけれど、それもそろそろ限界。わたしは畳み掛けるように手を伸ばす。

 

「――よかった。これでずっと一緒だね、志貴くん」

 

 伸ばした手がひどく重い。震えを悟られないようにするので必死だった。

 

「さあ、こっちに来て。わたしの傍にきて、わたしの手を握って、わたしを安心させて」

 

 それは間違いなくわたしの望み。

 志貴くんと一緒にいられるのならば、どんな痛みにだって耐えらる気がしたから。

 こうしている間だって、ずっと苦しい。ヒトである部分を多く残したわたしの身体は、血管などはまだ人間のままだ。血が流れるだけで破裂し、その端から修復していくため、血管が沸騰し続けるような痛みに襲われる。

 わたしは志貴くんを受け入れるように両手を広げた。

 

「これでわたしと志貴くんは同じ側の存在だよ。わたしの物になるって約束して、決してわたしの元を離れない、他の人に目もくれないって」

 

 口から空虚な言葉が漏れ出るたびに、わたしは心がじくじくと痛んだ。

 これはわたしの望みだったのだろうか?

 それは半分嘘で、半分本当だ。

 だから、彼が足を一歩後ろに引いた時、わたしは少しだけほっとしてしまった。

 

「なんで……? 私の血が効いていないの!?」

 

 私は熱くなる頭や言葉とは裏腹に、じんわりと心に小さな火が灯った。

 

「もうやめよう。こんな事をしちゃいけない。……君は病気でおかしくなっているだけなんだ弓塚さん。だから、俺と一緒に病院に行こう。きっと何とかなるから」

 

 こんな状態になっても、まだそんな甘い事を言ってくる。

 ああ、そうだ。わたしだって本当は分かっていた。あなたが一緒に来てくれないって事くらい。

 だってわたしは、そんなあなただから。

 

 わたしの言う事もわたしを支配する欲求も、全ては上書きされたものだ。本心だけれど本心ではない。まだわたしが人間の弓塚さつきだった頃の想いに混ぜられた不純物だ。

 それでも私は苦しくて心にも無い事を口走る。

 

「どうして!? どうしてわたしの物にならないの!? わたしに逆らえないはずなのに! そんなにわたしが嫌だっていうの!?」

「――逆だよ、きっと君が好きだったから追いかけたんだ」

「――――――――――――」

 

 志貴くんは息も絶え絶えに、困ったような表情で呟いた。

 わたしは血が昇っていた頭に、冷や水を浴びせられたような感覚に陥った。

 身体に熱が籠っては、不気味なほどに冷静な理性が燃え上がった心を鎮火する。

 喉が震えて上手く声が出ない。何度も開閉しては失敗し、カラカラになった口でようやく言葉を紡ぐ。

 

「どうして……。どうしていま、そんな事を言うの……?」

「俺も分からない。でも今の弓塚さんはとても苦しそうだ。そんなに辛そうな女の子を放っておく事なんて俺には出来ない。本当にどうでもいいやつなら、こんな真夜中に探しになんてこないだろ」

 

 ――なんて皮肉。

 

 ひゅう、と私の口から息が漏れた。

 彼の言葉は変わらず暖かい。だからこそわたしのささくれ立った心を締め付ける。

 ごきり、と私の口内で奥歯が砕けた。この感情は悔悟。

 

「そんなのってないよ……」

 

 頬に伝うものが涙なのだと気付くのに随分、時間がかかった。涙なんて、とうに枯れ果てたと思っていたのに。

 わたしはとうに行き止まりだ。崩壊して先の無くなった道で、すんでのところで足掻いているだけに過ぎない。

 それでも、志貴くんなら何とかしてくれるかもしれなくて、弱いわたしは縋るように声を絞り出す。

 

「――助けて志貴くん」

「――ああ。俺に出来る事なら何でもするよ」

 

 変わらぬ彼の優しい声。

 それがひどく――癇に障る。

 

「うそつき――――――!!」

 

 わたしは目の前が真っ赤になって、志貴くんの胸倉を掴んで力任せに放り投げた。志貴くんはボールのように転がって壁に激突した。

 ぎり、と私は砕けた奥歯を再び噛みしめる。

 げほげほと咳き込む志貴くんに近寄り、古ぼけたコンクリートの壁を殴りつけた。

 

「助けてくれるって言ったのに! わたしがピンチの時は助けてくれるっていったのに!!」

 

 わたしは自分で自分のセリフに笑ってしまいそうだった。

 夕暮れの中で帰宅する途中、取り留めも無い会話の中でした、他愛の無い口約束。わたしの中で輝き続ける、志貴くんとの思い出。

 そんなものは彼を糾弾する理由になんてなりはしないのに。

 

「約束したのに! したのに! したのにしたのにしたのに!! 志貴くんがわたしの傍にいてくれるなら、この痛みにだって耐えていけるのに。どうしてあなたまでわたしを受け入れてくれないの……!」

 

 子供の癇癪のようにわたしは何度も何度も壁を殴り続ける。パラパラと落ちるコンクリートの破片が志貴くんの顔に降りかかる。

投げられた衝撃で擦り傷だらけなのに、彼は穏やかに微笑んだ。何かの償いをするように、必要のない苦労を背負い込むように。

 

「いいよ、弓塚さん」

「志貴……くん?」

 

 その時のわたしはきっと間抜けな顔をしていただろう。志貴くんの言葉が信じられないように私は大きく目を見開いた。

 

「俺の血で良ければ吸っていいよ。約束だもんな……キミと一緒に、いってやる」

「なんで……? なんで今更、そんな優しい事を言うの……?」

 

 戸惑いと驚きを込めてわたしは震える唇を動かす。

 それをしたら、最後に残った私の一欠片さえも砕け散ってしまいそうで。

 私は受け入れて欲しかった。

 嘘よ、本当はそんな事、望んでいない。

 私は拒絶して欲しかった。

 それも嘘よ。彼が欲しくてこんなにも疼いているというのに。

 

「やめて……! やめてよ志貴くん! そんな風にわたしを受け入れないでよ!!」

 

 その優しさに縋ったら、きっと本当に何もかも終わってしまうから。

 志貴くんは躊躇するわたしに呆れたような顔をした。

 

「……なんだよ。今までそうしたくて散々追い回したんだろ。なんでここで遠慮するのかな、弓塚さんは」

「ほんとに、いいの……」

「痛いんだろ。なら、いいよ。俺はキミを助けられない。だから、弓塚さんの言う方法で助けるしかないじゃないか」

 

 彼は笑っていたけれど、私はどんな表情をしていたのだろう?

 喜んでいたのだろうか?

 それとも嘆いていたのだろうか?

 今の私の気持ちが、人間の弓塚さつきのものなのか、吸血鬼としてのものなのか、わたしにはもう分からない。

 

 気付けば、私はアスファルトに膝をつき、志貴くんに牙を突き立てた。

 唇越しに伝わる志貴くんの体温。それが急速に失われていくのが分かる。

 静かな、とても静かな死。

 彼はその死を乗り越え、私と共に新たな生を謳歌するのだ。

 彼と一緒に享受する生はどれだけ幸福なのだろう。わたしはあり得ぬ未来を夢想する。

 そして、

 

「――――ごめん。俺は弓塚を助けられない」

 

 トスリ、と胸に突き刺さるナイフの感触に、わたしは心底安堵した。

 力が急速に抜けていく。

 わたしはその間隔すら愛おしいというように、何も感じなくなった体を志貴くんに寄りかからせた。

 

「そっか。――やっぱり一緒には行ってくれないんだね、志貴くんは」

 

 わたしはどこか清々しさを含ませて、当然の帰結に安心した。

 これでよかったんだ。わたしは自分を納得させる。

 わたしは最後の最後で、人間でいられたのだろうか?

 わたしの腕の中で、小さくすすり泣く声が聞こえた。わたしは志貴くんの瞳に光る雫を見て、少しだけ救われたような気がした。

 

「ありがとう、そしてごめんね。あんなにひどい事をしたわたしのために泣いてくれるんだね。――そんなトコ、誰よりも好きだった」

 

 足は既に肺となり、風に乗って霧散していた。

 わたしは上半身だけになって、彼に最後の言葉を告げた。

 

「ばいばい志貴くん。あなたの手で終わりを迎えられたんだから、わたしはきっと幸せなんだよ」

「これのどこが……っ!」

 

 鼻声で志貴くんは怒りを滲ませる。

 その怒りはわたしにじゃなくて、この状況を作った犯人に対して、そして理不尽な世の中に対してなのだろう。

 この人を好きになってよかった。

 わたしは目を閉じた。

 もう私は胸も消えかけていた。

 

 どうして最初、わたしはあなたに中々話しかけられなかったのか、ようやく理解できた。

 志貴くんは優しさの中に、とてつもなく冷酷なものを飼っていたんだ。すでに救いの無いわたしに、ほんの僅かな救いを与えてくれる人。

 

 ――そう、わたしに『終わり』という救いを与えてくれる人だったんだ。

 

 そうしてわたし、弓塚さつきは二度目の生を、一番好きな人の中で終えた。

 



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十八章 巧言令色鮮し仁

ちょっと短めです。


 膝を折るように座り込むわたしは、終始俯いたまま無言だった。

 だらり、と全身が弛緩し半ば投げ出すように力無く項垂れる。

 全て、思い出していた。

 心地良い夢のようなひと時は崩れ去り、けっして逃れらぬ過去に飲み込まれた。

 目に映る景色に色は無い。白黒映画のワンシーンのように酷く無味乾燥で、物語は進まないのにフィルムだけが無駄に流れて行く。

 志貴くんも過去の自分の行いを思い出したのか苦衷の表情を浮かべ、シオンは絶望的な表情を浮かべていた。

 

 ――なぜ私は生きているのだろう。

 ――ズェピアは言っていた。今の私は志貴くんの怖れから生まれたタタリだと。

 ――なぜ私は今まで忘れていたのだろう?

 ――思い当たる節は一つしかない。

 

 わたしは緩慢な動作で首だけをシオンに向けると、昏い瞳を向けた。瞳孔は完全に開き、目は座っている。沸々と静かに燃える炎を瞳に携えて、わたしはシオンを睨みつけた。

 

「――どうして」

「さつき、それは……」

 

「――どうして放っておいてくれなかったの?」

 

「――――――――――――ッ!!」

 

 シオンは顔を苦悶で歪めた。想定より微妙にずれた質問だったのかもしれない、シオンは胸を押し潰されたように苦し気に押さえた。わたしの問いかけはひどく曖昧であると同時に針のごとく本質を突いている。

 わたしはゆっくりと息を吐き、濁り切った瞳でシオンを睨みつけた。ゆらりとした立ち姿は生気の無い幽鬼のようで、瞳だけは曇りの中で爛々と輝いていた。

 

 わたしが彼女に抱いてきた親愛と友情が、音を立てて崩落していく。

 シオンがわたしを人間だと言ってくれた事が、独りぼっちで心細かった心をどれだけ支えてくれたか彼女は知らないだろう。

 何の手がかりも見つけられず、ただ耐える事しか出来なかった私に、治るかもしれないと言ってくれた事が、どれだけ希望を持てたか彼女は分からないだろう。

 シオンの言っていた事は全て嘘だった。

 

 けれど、今はそんな事はどうでもよかった。

 

「――どうして放っておいてくれなかったの?」

 

 絞り出すように、わたしはもう一度繰り返した。

 シオンが息を呑む。咎を暴かれた罪人のように、シオンは露骨に狼狽え、視線をさまよわせた。

 

「さつき、私はあなたを治療するために――」

「わたしはどうして放っておいてくれなかったのかって聞いてるんだよ!!」

 

 わたしは怒号と共に足元を思い切り殴りつけた。わたしの怒声とコンクリートを砕く音が響き渡り、シオンはびくりと身体を震わせた。

 引き抜いた拳から血を滴らせながら、わたしは叫ぶ。

 曰く、エーテライトは魂のハッキング。それは他人の知識や記憶を盗み取る疑似神経。ならば他人の記憶の捏造や封印など造作もないだろう。

 全ては彼女の手により塗り固められた、吐き気がするような優しい嘘。

 わたしと彼の、最後の記憶に土足で踏み込まれた。

 底知れぬ沼のような憎悪は怒りで煮えたぎり、憤怒と共に干上がった。その熱を肺一杯に満たし、私はシオンに叩きつけた。

 

「どうしてあのまま眠らせてくれなかったの!? 私はもうどうしようもなかったんだって! それでも遠野くんに看取られて、それで良かったんだって――」

「ですが! あなたはそれで納得しているのですか!?」

「してないよ! してるわけないじゃない!! でもね、そんな事、わたしは一言だって頼んでない! やっと諦めて、最後には救いがあったんだって思えたのに!!」

「それは…………」

 

 シオンは言葉に詰まる。

 ぐっと堪えるような素振りをシオンは見せるが、それでも無理矢理口を開く。

 

「私は……私は納得出来なかったんです! あなたはあれで踏ん切りをつけられたかもしれない! けれど、私はどうしても納得出来なかったんです!!」

 

 気付けばシオンの頬から一筋の雫が滴り落ちていた。光を持った粒はポツポツと地面に点を作っていく。

 シオンは決して引かない意思の籠った瞳で、負けじと言い返して来た。

 

「あなたは罪の無い完全に完璧に被害者だ! 平凡で幸せな日々があったはずなのに、それを理不尽に奪われ、最後はこの上ない皮肉な結末だった! それを変えるために私はここまで来たんです!!」

「知った風な口を利かないでよ! 私は被害者かもしれないけれどそれ以上に加害者なんだよ! 殺したんだよ、その罪の無い人をいっぱいいっぱい殺したんだよ!! シオンがわたしの何を知っているっていうの!? いくらエーテライトを使っても、それだけじゃ分からない事もあるんだよ!!」

「知っています! きっとこの世界であなたの次に知っているんです! だって私は――――」

 

 そこでシオンは言葉を飲み込んだ。シオンらしくもない、感情を剥き出しにした叫び。

 常に冷静沈着で、感情よりも理性と理論を優先させる彼女をここまでさせるのは何か。

 シオンはまだ何か隠している。わたしは何となく察した。

 しかし、それを話す気は無いようだ。

血が昇った頭は添削もせずに、ただ思いのままに感情を吐露する。

 

「私には……! 私には救いなんてあるわけない! 私はもう吸血鬼ですらない、タタリとかいうワケの分からない存在なんだ! ズェピアが殺されれば私だって消えちゃうんだよ!! もうどうしようもないじゃない!!」

 

 私は声を張り上げながら、目の前が深い闇に覆われていく錯覚に襲われた。希望の光なんて一筋も見えない、全てを飲み込み無に還す真っ暗闇。

 

「――いやあ、そうでもないぞお嬢さん」

 

 そこへ、一筋の小さな糸が垂らされた。

 それはとある文豪の作品に出てくる、地獄に垂らされた一本の蜘蛛の糸のように見えた。

 私はとっくに罪人だ。

 本来ならば地獄の底で、永遠の責め苦にあい続けるのが定めというものだろう。

 その糸を垂らす蜘蛛は口を三日月型に歪めた。

 

「確かにタタリは結界内の人間を飲みつくせば自然消滅する……。しかしだ、私が第六法に挑み、到達する事が出来れば、君一人に滅びぬ肉体を与える事など造作も無いとも」

 

 なんて、甘い誘惑。

 なんて、都合のいい夢。

 わたしの空洞の瞳に、昏い色が灯った。

 

「嘘ですさつき! そんな都合のいい話があるはずがありません! あなたは私が必ず治療します! だからそんな誘惑に負けないで下さい!!」

「カットカットカットカット! 未完の名作より完成された駄作とは言うが、こうまで拙い脚本ではヤジの一つも飛ばしたくなるというものだよ我が娘! 生娘同士の初々しいやり取りも手垢まみれを通り越して輝いているな!!」

 

 ズェピアはシオンの真剣な声を一笑に付し、謳うように両手を広げた。それは見目麗しい悪魔が人を誘惑する姿に似ていた。

 舞台役者のようによく響く声で、ズェピアの誘惑はわたしの脳髄を侵していく。

 

「君ほどの存在ならば土地に染み付いた記憶を元に、私が再構成する事も可能だ。君は新しい身体と生を手に入れられるのだよお嬢さん。もっとも私がそれをするには条件があるがね」

「…………条件」

 

 自然と、わたしは立ち上がっていた。これが自分の意志なのかどうかも分からない。わたしは思考も行動も、糸で吊るされた操り人形のように他人事の感覚がする。

 わたしは何で、この気持ちはどこからくるのだろう。

 もうどうでもいい。何もかもがどうでもいい。

 

「さつ、き…………?」

 

 シオンは立ち上がったわたしを怪訝な表情で見るが、やがて解に至ったのか狼狽したように口を開きかける。それを鬱陶しそうにズェピアが衝撃波を放ち、リーズバイフェが楯で防いだ。

 

「簡単だとも。私が真祖たちを片付ける間に、直視の魔眼の少年を行動不能にしろ。もしそれが出来たならば君を蘇生させる……。後はそこの少年と過ごすなりなんなり、好きに生きるといい」

「…………ははっ」

 

 わたしは自然と笑みが零れた。

 それを本気にするほど、馬鹿だと思われているのだろうか。

 きっと違う、全て理解した上でこちらにつくとズェピアは踏んでいるのだ。

 馬鹿にしている。見下し、侮られ、軽視されている。

 それでも、わたしの身体は未だに悲愴な表情で唇を噛みしめている彼に向いていた。

 彼は一瞬、身構えた。けれど、少しだけ悲しそうな表情をして

 

 ――ナイフを構えた。

 

 そしてわたしも鉛のように重かった腕に、ようやく力を込める。

 きっとわたしは何もかも間違っている。けれど、

 

 ――そんな誘惑、抗えるはずないじゃない。

 

 わたしは強く地面を蹴って、月夜を背景にして、

 ――この世でもっとも愛しい人に牙を剥いた。

 



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第十九章 罪の残滓

 お久しぶりです! ちょっと展開を変更するのに時間がかかってしまいました。ですが、その分面白くなると思うので、気長にお待ちください。


 振り上げた拳は必殺の威力を持って、風切り音と共に志貴の顔を掠める。

 さつきの空振りした腕は屋上の飾り柱を砕き、その勢いのまま軌道を変え、横に薙ぎ払われる。

 破砕音に全身を総毛立たせながら、志貴は全力で後ろに飛ぶ。

 二人の身体能力差は歴然。瞬きの間にさつきは視界から消え、死角より豪打を放つ。常人の反射速度では到底、追い付けない速度で繰り出される攻撃を紙一重でやり過ごす。

 志貴の魔眼に映るさつきの身体は無数の死の線が走り、全身を覆っていた。志貴はさつきの猛攻をやり過ごしながら、僅かな隙を見つけては、志貴のナイフを持つ手が僅かに動いた。その仕草にシオンは悲痛な叫びを上げる。

 

「何をしようとしているのです志貴!? さつきは今、まともな精神状態ではありません! さつきを攻撃しないで下さい!!」

「…………!」

 

 志貴はさつきの攻撃をやり過ごしながらも、額に脂汗が滲む。

 興奮状態のさつきの攻撃は乱雑だ。重心は崩れ、大振りとなった攻撃は時折、大きなスキを見せる。そこへ志貴はすかさずナイフを差し込もうとして――反射的に後ろへ下げた。

 彼女は間違いなく自分の罪、決して下ろせぬ十字架。

 ゆえに、志貴は冷酷に告げる。

 

「ごめん、シオン、弓塚さん。――俺はまた弓塚を殺す」

「なにを…………っ!」

 

 シオンは絶句し、さつきはピタリと動きを止める。そしてさつきは志貴の言葉を胸中で反芻し――にこりと笑う。

 それはあの夕日の下で見せた、純真で屈託の無い柔らかな笑顔。その笑みは、かつてオレンジ色に染まる坂道で、他愛のない口約束を交わした思い出のカケラを振りまく。

 さつきは両手を後ろで組んで、少し顔を突きだしながら小首を傾げた。

 

「――――また私を殺すの? 遠野くんは?」

「――――――――――――」

 

志貴は小さく息を呑み、ナイフを握る手の力が抜けていくのを感じた。心臓の調律が狂い、彼女の言葉が凍った心臓を鋭い針で次々と刺していく。

 

「あの冷たい路地裏で遠野くんに刺された時、私は嬉しかったよ。遠野くんが私の罪を罰してくれたから」

「俺は……」

 

 志貴の声に動揺が滲み、ナイフを落としそうになる。さつきの顔が少しずつ遠くなり、志貴はようやく気付く。

 知らず知らずのうちに、志貴は後ずさり、自らの罪に背を向けかけていた。

 そんな志貴の卑劣さに、嘲りを含んだ調子でさつきは続ける。それは小鳥がさえずるように柔らかく、鴉が鳴くように耳障りだった。

 

「でもね、今度は違う。私はアナタの弱さによって起こされて、あなたの矮小さによって殺されるの。こんな理不尽な事がある? ねえ、それで遠野くんは自分の罪を帳消しにしたつもりなのかな?」

「その言葉を聞いてはいけません! 彼女はズェピアの影響を受けて、本心ではない事を語っています! 聞くに値しない戯言です!!」

 

 シオンは志貴に耳を塞ぐよう忠告するが、すでに志貴は戦意を喪失しかけていた。

 ズェピアは三人のやり取りを愉快気に干渉しつつも、さらに志貴の心を土足で踏み荒らす。

 

「戯言、そう戯言だとも。その娘の言葉は、魔眼持ちの少年が望んだものなんだよ」

「……どういう意味ですか?」

「その通りの意味だよ。彼女は罰。形になり得なかった罪を象り、罰を与える現象。――要はあの少年は未だに吹っ切れていない。心の底では罰されたがっているからこそ、あのようなセリフを紡ぎ出す影法師を生み出すのだよ」

 

 ズェピアの不快な言葉に志貴は反論出来なかった。ズェピア言う事はいちいち不快だがいちいちもっともなノイズだ。

 彼女を殺した事は罰だ。

 彼女を生み出してしまったのも罪だ。

 そして当然、再び彼女を殺すのも罪だ。

 自分のやる事はしょせん、臭いものに蓋をするだけ。心に十字架で傷をつける事で許しを請う殉教者の皮を被った豚である。くだらぬ自傷癖で償った気になっているだけの卑怯者だ。

 その志貴を見透かすように、さつきは氷の刃で志貴を刺す。

 

「そうやって苦しい顔をしているのだって、償いのつもりなんでしょ? お生憎様、優しい言葉なんてかけてあげないよ」

「俺は……」

「矛盾だらけなんだよ遠野くんは。罪をさらなる罪で打ち消そうとする。自らの過去に蓋をするために同じ手段を重ねようとする」

 

 さつきの一言一句が、背筋を薄く撫でまわすような寒気を走らせる。その手は滑らかで、優しく志貴の心を殺しにかかっていた。

 

「――遠野くんはさ、殺人という罪を殺人という罰で消去するつもり?」

「――――――――ッッッ!!!」

 

 志貴の顔により一層暗い影が落ちた。それは自身の急所を的確に貫く処断の声。決めたはずの覚悟を砕く悪魔の囁き。

 しきの喉がひりつくのをさつきは見逃さなかった。拳を振り上げ、強く地面に振り下ろす。

 

「そ――おれっ!!」

 

 可愛いらしい掛け声とは不釣り合いな衝撃が地面に走る。拳を中心に円状に広がる衝撃はコンクリートを砕き、志貴の足元をぐらつかせた。

 衝撃波と共に志貴の虚弱な体は後方へ吹き飛ばされ、アルクェイドの鎮座する柱へと叩きつけられた。

 

「がはっ……!」

 

 衝撃と共に空気が肺から押し出され、内臓はうねり荒れ狂う。骨は軋み、筋肉は何か所か断裂したように燃えるような激痛を訴えてきた。

 志貴の視界は痛みで霞、やがて朱色が侵してきた。それは自身の頭部から流れる血液だった。

 血で視界を奪われた。それを拭おうと志貴は空いている左腕を動かそうとするが、震える左手は脳からの指令に従わない。まるで神経の繋がらない他人の腕を移植したかのようだ。

 志貴の脱力した姿に、ズェピアは笑う。

 

「かつての罪が己を断罪するために地獄の淵から舞い戻り、愛憎と共に恋しい男に襲いかかる、か。実にケレン味の効いた三文芝居だな。どうだね、我が娘? 人間の娯楽の一抹は理解できただろうか?」

「あれを娯楽と考える貴方の考えを理解出来る日など永遠に訪れない! そこをどけワラキア! 私はさつきを止めなければならないのです!!」

「私も手伝おうシオン。アレはあまりにもやるせなさすぎる」

 

 シオンとリーズがズェピアを無視してさつき達のもとへ駆け寄ろうとすると、ズェピアはマントを広げ、つれない二人に長嘆し天を仰いだ。

 ズェピアは相も変わらず芝居がかった仕草で、自分を袖にしようとする美女二人に再びダンスを申し込んだ。

 口元をわずかに歪めたその笑みは、新しい悪戯を思いついた子供のようで、シオンは全身を怖気が覆うのを感じた。何か再び、理解の及ばぬ悪趣味な一幕を開演しそうで。

 

「せいっ!」

 

 リーズもそれを察したのか、ガマリエルをズェピアの顔面目掛けて突きだした。

 自慢の剛腕と魔力によるジェット噴射を組み合わせた、聖楯による打撃。圧倒的重量で迫る攻撃を、ズェピアは跳躍で軽々と躱し、手近な柱の上に飛び移る。

 攻撃を空振りしたリーズは忌々し気にズェピアを睨むと、ズェピアは哄笑する。

 

「はは! 急いては事を仕損じるぞ楯の乙女よ! 慌てず焦らず、起承転結、緩急を守りたまえ! 女とは疑いたくなるほどの剛力は実に素晴らしい! ……いや、もしかして君は本当は男性なのでは? 剥いてみなければ分からんな」

「よし、お前をブチ殺す理由が一つ増えた。お前は神の敵であると同時に私の敵だ」

 

 リーズは白い肌に青筋を立て、無礼者を打ち据えようと聖楯を構え直す。騎士団所属時に「団長は女装男性かもしれない」という根も葉もない噂を立てられた苦い思い出がある。 

無論、その噂を信じて直接尋ねにいった団員の顔にリーズの拳が叩きこまれたのは言うまでもない。

 過去に封印した忌々しい過去を呼び起こされ、リーズは怒り心頭だがシオンはリーズの袖を引く。

 

「リーズ! 今はアナタの男装癖をとやかく論じている場合ではありません! 二人を止めないと!」

 

 シオンの悲痛な叫びにリーズも我に返る。あの死徒は後で殺す、と物騒なセリフを吐きながら、リーズ達が二人の元へ向かおうとするとワラキアが呼び止めた。

 

「待ちたまえよ我が娘と白百合の騎士。あちらはちょうどパートナーが出来上がっている。ならばこちらはあぶれた者同士、二対二のペアで舞台を作り上げるべきではないかね?」

「二対二? 二対一の間違いだろう。残念ながら私のパートナーはシオンと決めている。貴様はコウモリとでも戯れていろ」

 

 ズェピアの誘いをすげなくするリーズだが、ズェピアは肩を竦めるだけ。見目麗しくもいささか以上に礼儀を欠いた騎士に苦笑する。やはり、乙女には剣より華だな。という認識をズェピアはは内心で強めた。

「間違いではないさお嬢さんたち。君が穢れ無き純白の乙女を相方に選ぶというのならば、私もそれ相応の相手を用意させてもらおう」

 

 その言葉に、シオンの悪寒はさらに激しさを増した。

 ズェピアは演劇狂いの演出家だ。脳内に地獄を飼う彼が書き起こす脚本の醜悪さは、嫌というほど思い知らされている。

 もし彼が、自分の計算通りの演出をしようとするのならば間違いない。

 その先を想像して、シオンは血が凍る錯覚に陥った。もし、ズェピアに彼女が加われば勝ち目は一気に薄くなる。

 そのシオンの不安をさらなる恐怖で包み込むように、ズェピアは最高最低の演出を始めた。

 

「足跡一つ無い雪原のように美しい彼女の対となるならば――。濁の如き汚泥がお似合いだとも」

「お前……!」

 

 やはりそうなるか、とシオンは怒りで視界が赤く染まるのを感じる。凍った血液が一転、怒りで燃え上がり、視界は紅く染まる。

 シオンの激情を心地良く受け止めるようにズェピアは瞼を閉じて、新たな役者を舞台へ招き入れるために目を閉じる。

 己の内奥、深く、より深い最奥の深淵にズェピアは意識を潜り込ませる。そこは一筋の光も、一節の音すらないどこまでも広がっていく闇。タタリに飲み込まれたものが、混ぜ合わされ溶け消えていき、闇という無に収束される。

 

 しかし、その中に一点だけ輝く異物があった。

 暗い闇の中では光こそ異端。光明など不要。

タタリに飲み込まれながらも分解に抗い続ける聖なる輝きは、かつて愚かしくも健気に立ち向かってきた哀れな乙女。

 

 その乙女に、ズェピアは――一滴の血を垂らした。

 白磁器のごとき美しい肌に一点の赤い染みが出来ると、徐々に広がり、どす黒く変色していく。白と黒を基調としていた制服は、黒をベースに血管のような赤い線が走るデザインに変更される。

 制服に流れる血管が太い動脈と静脈すれば、肌に走るのは毛細血管か。瞳も充血したように紅く染まり、静謐な狂気を湛える。

 のっそりと、気怠げに彼女は起き上がった。その感情の籠らない姿に、ズェピアは満足げに頷き、優雅に一礼する。

 

 ――そろそろお目覚めの時間だ。

 

 ズェピアは恭しく彼女の手を取ると、彼女を意識の外へと引き上げる。

 ズェピアの周囲に黒い影が蠢きながら集合する。それは徐々に凝集し、ある形を形成していく。

 

「あれは、私……?」

 

 リーズは瞠目し、シオンは噛み切った唇から血を滴らせる。あれは確かに彼女だ。聖楯の庇護により、分解を免れているのだから、それを元に再構成すれば生前のリーズと寸分違わぬ存在を生み出せるだろう。

しかし、アレは果たして本当に彼女なのか?

聖なる輝きに美しく映える制服は、闇を想わせる黒と血を連想させる赤に染まり、肌にはひび割れの如き血管が走っている。

 

「素材そのままでは芸が無いのでな。私なりのアレンジを加えさせてもらったよ。中々の力作だと自負しているのだが――どうだね我が娘? これが私を守護する黒百合の騎士だ」

「お前…………!!」

 

 シオンはズェピアの隣に並び立つ人物を睨みつける。

 それは彼女のよく知る人物だった。しかし、似ても似つかない。

 彼女の磨き上げられた乳白色の玉のような輝きは漆黒に塗り潰され、誇りと尊厳を完全に砕かれていた。

 怨嗟の籠った視線に気が付いたのか、彼女を象っただけの似て非なる存在。

 

 漆黒の騎士――リーズバイフェ・ストリンドヴァリは、

 

 ――にいぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃ

 

 と口角を吊り上げた。上がり切った口の端からは涎がだらだらと零れ、狂気で爛々と濡れる瞳で心底愉快気に語り掛けてきた。

 唇を震わせながら、壊れたスピーカーのようなたどたどしい口調で

 

「――ひさし、ぶり。――――――――しお、ん」

 

 と漏らした。

 そこが限界だった。

 

「どこまで私たちを侮辱するつもりだあああああああああああああっっっ――――!!!!」

 

 思考回路は焼き切れ、シオンはズェピアの喉元へ食らいつく勢いで飛び出す。

 怒りに支配されたシオンに、リーズの制止の声は届かない。シオンは腕輪からエーテライトを多重展開。汚されて堕とされきった友を救うために、怨敵を殺すために突貫する。

 アトラスの錬金術師が激情に身を任せるなど愚かの極み。怒りだけでひっくり返せるほど、シオンとズェピアの戦力差は小さくない。そんなものは計算するまでもない。

 それでも向かってくるのは矜持がそれとも友情か。

 いずれにせよ烏滸の沙汰には違いない。計算式に影響を与えない排除すべき値だ。

 

「だからこそ愛おしい。人間とは矛盾と無駄が個性を創る」

 

 ズェピアは恍惚に全身をぞくぞくと震わせ、殺気をみなぎらせながら突進する娘を、手を広げて歓迎する。

 

「――さあ、第二幕の開演だ我が娘!」

 



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第二十章 交錯する思い

 これ書いている途中でパソコンが落ちて、作業一時間分が無駄になりました。泣きそうでした……。


 一つ話をしよう。

 

 それはどうしようもなく行き違いで報われなかった話だ。

 

 かたや常人と狂人の狭間に立つ魔眼を持った少年と、かたや平凡な学生から稀有な才を持つ吸血鬼へと堕ちた少女の物語。

 

 彼女にとっては恋だった。

 

 なけなしの勇気を振り絞って学校の帰り道を一緒にし、気持ちの一端を伝えた。さらに一歩踏み込んで、深夜出歩いているという彼の元へ行こうとした。

 そこで彼女の運命は激変する。

 一瞬の困惑の後、彼女を支配したのは渇望。彼女が欲する物は他者の血液と、崩壊していく理性とココロに強く刻まれる彼の穏やかな表情。

 

 彼女は支配を望んだ。

 そうするのは当然だと新しい自分が訴えたから。

 彼女は終わりを望んだ。

 カケラとなった過去の自分が悲痛に叫んだから。

 そうして天秤は終わりに傾いた。彼女は内なる矛盾に絡まった糸はほどけなくとも、彼の刃で断ち切られる事によって、ほんの僅かな救いと安息を得た。

 

 彼にとっては恋ではなかった。

 

 彼は他人に興味が無いのではなく、全てが大事で、頭一つ抜ける者がほとんどいなかったのだ。

 冬の倉庫の一話を聞かされたけれど、彼の心にさして響く物は無かった。彼にとって、それは本当に何でも無い事で、彼はいつだって当たり前のようにやってきた事だったのだ。

 

 そんなところが素敵だと彼女は言った。彼にはそれが分からなかった。だからこそ彼女は彼に惹かれたのだろう。

 意識せずに人に尽くす気性の彼にとって、飛びぬけた存在など悪友と妹とその使用人くらいのものだった。

 彼女との思い出はほとんど無く、長年恋い慕われた自覚の無い彼にとっては初対面も同義だった。

 

 それでも彼は彼女を追った。

 いくら彼でも単なるクラスメイトのために、そこまで自己犠牲を発揮出来る性質ではない。それは親切を通り越した何かだ。

 ではなぜ追い続けたのだろうか。

 血の惨劇を目の当りにし、病弱な体に鞭打ってまで彼女を追いかけた理由は。

 決して恋ではない。恋ではないが、

 

 ――――それはきっと、愛と呼ばれるものだったのだろう。

 

 それが両者との決定的な差異となった。

 恋とは本来一方通行で、互いにそれが交差すれば成り立つものだ。

 愛も同じく一方通行だが、受け取る相手がいるだけで事足りる。

 

 だから彼と彼女は交わらない。彼女の想いは届いたけれど、彼が返せるのは別物だった。

 彼が首筋から流し込まれる暖かなものを感じている時、脳裏に浮かんだのは愉快な妹と双子の使用人たち。

 だから彼女からの恋をはねのけた。

 彼がもっと孤独で愛を知らずにいれば、結果はまた違ったのかもしれない。しかし、彼女が出会った時の彼には、既に彼の周りには愛しい人達が大勢いたのだ。

 ゆえに彼は彼女に終わりを与えた。

 後悔はある。それでも彼には手放せない人が居たから。

 

 けれど勘違いはしないで欲しい。彼にとって彼女も手放したくない内の一人ではあった。

 ならば運命のイタズラで彼女が再び現れれば、彼はどんな選択をするのだろうか?

 

 〇

 

 音もなく、志貴の刃はさつきの四肢を切断した。

 彼女に走る無数の死の線へ、流れるようにナイフを滑らせる。それは機械じみた冷酷な正確さと、水のようにで穏やかで変幻自在な太刀筋。

 右上腕、左大腿、右アキレス腱、左肩口。

 赤黒い血を噴出しながら、さつきは手足を失い。自らの血溜まりの海に沈んでいく。

 うつ伏せに倒れたさつきの顔は生気を失い青白く、口の端から血を滴らせながら、ポツリと呟いた。

 

「……あはっ、やっぱりこうなっちゃたか」

「――――弓塚さん」

 

 もはや首を上げる事もかなわないさつきを、志貴は見下ろす形で彼女の名前を呼ぶ。

 カツン、と小さな金属音が耳元に聞こえ、さつきが唯一自由に動く眼球で音を追うと、ナイフが所在なさげに転がっていた。

 ここから志貴の顔は見えない。

 彼はどんな顔をしているのだろうか。

 ズェピアの口車に乗って、性懲りもなく襲った私に怒ったのだろうか。

 きっと違うのだろう。

 彼はきっと、こんな状況でも――。

 

 手も足も失った状態で一体、何を考えているのか。さつきは思わず笑いがこみ上げた。身じろぎ一つ出来ぬ状況で、急速に体と思考が冷えていく。

 重く、泥のように沈んでいくようでいて、乾いた砂となって風にさらわれていくような気持ち。

 既に二度味わった『終わり』という冷たくもほのかに暖かい感覚。

 ふと気が付くと、地面にぽつぽつと小さな染みが生まれていた。雨でも降り始めたか、とさつきは思うが即座に違う解に思い至る。

 彼の足元だけに降る小さな雫は、断続的に次々と堕ちて地面に点を作り続ける。

 その水滴がコンクリートに弾かれ、飛散する度にさつきの心に何かが満たされていった。

 不意に彼が口を開くような気がした。

 

「俺、は……」

「――いいんだよ、遠野くん」

 

 さつきは最後の力を振り絞り、懸命に唇を動かす。

 

「ごめんね、何度も何度も。それとひどい事いっぱい言って。でも、そうしないと遠野くんは迷っちゃうでしょ?」

「君はどうして――」

「どうしてって言われても……」

 

 さつきは言葉を発すると同時に、力が抜けていくのも感じていた。一言一言が、自分の生命と引き換えに紡がれているのだ。

 瞼が徐々に落ちていく、今の自分は火が消える寸前のろうそく。最後の一瞬で燃え上がる間に、気持ちを伝えたかった。

 

「どうせ助からないなら……。最後はやっぱり好きな人に終わりを与えて欲しかったから、かな」

「――――――――」

 

 局所的な雨は激しさを増した。願わくばその雨がひと時の通り雨でありますように。そしてもし、一つわがままを言ってよいならば。

 その雨の意味だけは、彼が覚えていてくれますように。

 

 ごめんなさい。また、わたしの不始末を押し付けてしまってごめんなさい。

 ごめんなさい。また、優しいあなたに甘えてごめんなさい。

 

 もう唇は動かなかった。

 最後に一度だけ、彼の顔が見たかった。けれど、そんなわがままは許されない。

 そう思っていたのに、不意に彼の顔が曇った視界に飛び込んできた。

 彼はしゃがみ込み、さつき一人だけをただ見つめる。

 雨を生み出す瞼は赤く染まり、くしゃくしゃだ。こんな顔もするのか、とさつきは笑ってしまいそうだった。

 

 今、この瞬間だけは彼の顔も心も自分のものだ。さつきはそれが少しだけ嬉しかった。冥土の土産としては十分過ぎるだろう。

 声にならない声で、さつきは懸命に口を動かした。

 

 ――――――――――――『 』

 ――――――――――――『 』

 ――――――――――――『 』

 ――――――――――――『 』

 ――――――――――――『 』

 

 

 ――――――あ り が と う

 

 

 それは言葉として彼に届いたのだろうか、既にさつきの耳は聴力を失っていた。

 そっと、瞼に何か柔らかな物が触れる。そしてゆっくりと視界に暗幕がかけられる。

 それが最後だった。

 人形のように美しく眠るさつきから志貴は指をゆっくりと離し、

「――――――――――――――――――――――――ッッ!!!!」

 天まで響かせるような雄叫びを挙げた。

 



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二十一章 白騎士VS黒騎士

 エタったと思いましたか? 大丈夫! 完結させる気はバリバリありますよ!!


「あ…………」

 

 志貴の振るう銀光がさつきの四肢を切り飛ばす光景を瞳に映した瞬間、シオンは膝から崩れ落ちた。

 ぼちょり、と不格好な肉塊と化した手足が地面に落ちる。中央で血だまりに沈むさつきは柱頭で、手足は花弁であり、歪な花に見えた。

 シオンの口から息がひゅう、と情けなく抜けていく。先程まで怒り一色に染まっていた紅蓮の思考は冷水を浴びせられたように凍り付いた。

 放心状態となったシオンへ、黒リーズは自身と同じく黒色のガマリエルを大上段から脳天目がけて振り下ろした。すかさずリーズはシオンの前へ滑り込むと、聖楯で迎え撃つ。

 

「戦場でぼさっとするなシオン! 気持ちは分かるが今は目の前の敵に集中しろ!!」

 

 超重量の攻撃を聖楯で受け止めると、端正な顔を力ませながらリーズバイフェは叫ぶ。

 しかし、リーズバイフェの呼びかけにもシオンは反応せず、慟哭する志貴をただ呆、と眺めている。

 黒リーズはシオンの都合など一切構わず、攻撃の手を緩めない。聖楯を前方に構えた姿勢からタックルをかまし、リーズバイフェがそれを受け止めれば、力を僅かに横へ逸らしながら側面に滑り込む。

 

「させるか……っ!」

 

 それを予測していたリーズバイフェは、黒リーズと同じ方角へさらに素早く体を回転。逆に黒リーズの脇へ入り込む事に成功したリーズバイフェは顔面へ右ストレートを放つ。

 

「くらえっ!」

 流れるように美しい軌道を描いた拳は、的確に黒リーズの頬骨を捉え――そしてすり抜けた。力んだ態勢の勢いをすかされ、リーズは前方につんのめる。

 

「首抜け!?」

 

 黒リーズはパンチを受けながらさらに全身を回転――その勢いのままバックブローを放つ。

 ガアン! と手甲同士がぶつかり合う金属音と共に火花が散る。リーズバイフェは辛うじてバックブローを手甲でガードすると、たまらずバックステップで距離を取った。

 

「うえひひ、おしい、おしい」

 

 敵を飲み込む瀑布の如き力強さで押しつつ、清流の柔らかさで受け流す。寸分の狂いもなく、自分が血道を上げて築き上げた戦闘術と同じだ。

 リーズバイフェは歯噛みする。今のところ、自分とあの黒ずくめの紛い物は全くの互角。互いに手の内を知り尽くした同士で、同じ技術を使って戦うのだから千日手となるのは必然。

 

 否、正確には互角では無かった。こちらが対等な勝負をしていたところで、シオンとワラキアでは勝負にならない。

シオンがいくら優秀とはいえ、相手は二十七祖の一角まで上り詰めた死徒の最高峰。ならば、自分が手早く偽物を打倒し、シオンへ加勢する手はずだったのだ。

 幸い、出力向上のために妙なアレンジを加えられたせいか、黒リーズの思考は単純化している。それならば早急にカタがつくと考えていた。それなのに。

 

「ひいいいっ! はっはあ! あははははははははhahahahahahahaha!!」

 

 奇怪な叫びと共に、黒リーズは聖楯を構えて再び突進、それを予見していたリーズは攻撃を受け止めず、横に逃げる。その際、ぼうっと佇んでいるシオンの腰を掴むと、背中を見せぬよう後ろ走りで距離をとった。

 シオンの身体はだらりと力なく、抱えられても声一つあげない。

 

「シオン! しっかりしろシオン!!」

 

 リーズバイフェはシオンを下ろすと、肩を揺するが反応は無い。生気の無い瞳は虚ろで何も映していない。

 

「~~~~このお、いい加減にしろっ!!」

 

 パアン! と乾いた破裂音と頬に走る鋭い痛みでようやくシオンは我に返った。瞼を何度かしばたたかせる。半ば脊髄反射のように開かれた瞳は、ようやく現実を映し出した。

リーズバイフェはシオンの肩をがしりと掴むと、息が触れそうな距離に顔を近づけ叱咤する。

 

「君は一体、何のためにここへ来た!? ワラキアを打倒し、自分と彼女の吸血鬼化を治すためにじゃないのか!? その君がボケっとしてどうする!!」

「ですが私は……」

「『ですが』が多すぎるんだ君は! 言い訳なんて聞きたくないぞシオン! 君はいつだって合理的で理屈っぽくて悲観的だったけれど……。それでも確立を超えた何かを信じて立ち上がれる人間だっただろう!?」

 

 よく見ろ! とリーズバイフェはシオンの顔を両手で挟み、さつきが倒れた方向へ無理矢理顔を向かせる。そこには芋虫も同然の姿となったさつきが倒れ伏しており、シオンはたまらず目を瞑ろうとする。

 しかし、リーズバイフェの言葉がそれを許さなかった。

 

「彼女はまだ死んではいない! 微かにだが息がある!!」

「え……っ?」

 

 シオンは驚愕に目を見開き、吸血鬼の視力を持ってさつきの胸部分を凝視する。そこは微かに上下しており、弱弱しくも自発呼吸しているのが見て取れた。

 生きて、いる。

 彼女は生きている。

 そこで彼女は先程の志貴の行動を思い起こす。志貴が放ったのはあくまで四肢に対しての斬撃。志貴の言う『死の点』へ攻撃するのならば刺突で行くべきだ。それの意味する事は。

 

「志貴! 彼女は……! さつきは生きているのですか!?」

「……………………ああ」

 

 志貴は俯いたまま消え入りそうな声で呟いた。それはどこか安堵したようにも、自分の甘さに嘆くようにも聞こえた。

 

「お優しい事だな少年。そう何度も殺すのはさすがに滅入るか? 私としては薄幸の美女は儚く散るのが好みなのだがね?」

「――――黙れ。その汚い口で彼女の事を知った風な口を利くな死徒」

 

 殺気の籠った志貴な視線を受け、ワラキアは大仰に肩を竦める。その安いアメリカのホームドラマにでも出てきそうなアクションがひどく志貴の癇に障る。

 志貴はリーズの隣に並び立つと、横目で視線を交し合う。魔を狩る鋭い眼光にリーズは心臓が一瞬跳ねるが、それと同時に頼もしさも感じていた。

 

 リーズ、シオン、志貴の三人の前に立ちはだかるのは、演劇狂いの死徒を背にした漆黒の聖楯騎士。

 夜の帳に星々が煌びやかな穴を開け、そこに照らされる黒い鎧は背徳的な美しさがある。歪な高貴さの鎧から出した顔に白痴のような笑みを浮かべている。

 志貴は油断せぬようナイフを右手に構え、シオンとリーズも戦闘態勢をとる。

 つう、と黒リーズの口の端から一筋の光が月明かりに照らされる。それが頬を伝い、コンクリートへ一点の黒を生み出す。

 それが合図だった。

 

「あはははあはは! あはっ、あっはっはっはははははははははは!!!!」

 

 地面を砕くほどの踏み込みにより、黒リーズは弾丸のように飛び出し――大上段に構えた聖楯を勢いそのままに振り下ろす!

 リーズはその勢いが軌道に乗りきる前に一歩踏み出すと、掌底で顎を突き上げる。

 

「がっ!!」

 

 歯と歯が強制的に噛み合わされる音と共に黒リーズの視界に星が瞬く。脳が揺らされた感覚に初めて表情に苦痛が浮かぶ。

 

「まだまだあ!」

 

 リーズは打った掌底のまま、黒リーズの顎を掴むと右足を相手の左足にかけて大外刈り。

 ゴン! という鈍い音と共に黒リーズの後頭部がコンクリートに叩きつけられる。実に実戦的な喧嘩殺法だ。

 リーズバイフェは膝で相手の腹を制し、馬乗りになる。手甲をつけた拳を顔面に叩き込もうとすると、黒リーズが勢いよくブリッジ。リーズバイフェの腰が上がり、揺さぶられるがロデオのようにリーズバイフェは踏ん張り持ち堪える。

 

「せいっ!」

 

 掛け声と共に振りぬかれた右フックが黒いリーズの左頬を打ち抜いた。殴った反動が鈍く拳に反響し、手応えを感じた。

しかし、黒リーズもさるもの、リーズのみぞおちと脇腹を無茶苦茶に殴りつける。

ガンガン! と力任せに叩きつけられた拳が内蔵をかき回し、リーズが股で腹を挟む力が緩むと、黒リーズは地面を蹴ってマウントポジションから脱出した。

 

「げほっげほっ……。逃げられたか。あのままマウントで顔を破壊してやれるかと思ったのに」

「……リーズ、仮にもあなたは女性ですし、自分と同じ顔の人を殴りつけるのは……」

「俺もそう思う。綺麗な顔に似合わずえぐいファイトスタイルしてるなあ」

「ええい、うるさい! そんな事を言っている場合ではないだろう!? まだ来るぞ!!」

 

 総合格闘技さながらの攻防にシオンと志貴が若干引き気味になるなか、リーズは腰を落とす。

 

「いひひ、イタイイタイ」

 

 見れば黒リーズは痛みを逃がすように、頭をぶんぶんと振りながら立ち上がる。シオンはその隙に発砲するが、リーズはそれを一瞥もせずに裏拳で叩き落とした。

 言語機能その他は著しく低下しているが、反射速度や戦闘技術は一切の衰えが無いのを検証できた。

 

「くっ、戦闘分野に関しては異常に鋭い……!」

 

 シオンはバレルレプリカに弾丸を再装填しながら、口惜しそうにバレルを構える。

 黒化したリーズは痛覚も鈍麻しているようで、脳震盪も起こした様子は無い。シオンは眼前の敵をどうするべきか、志貴のほうへ視線を投げかける。

 すると志貴は目を細め、食い入るように見つめていた。瞳は蒼く光り、極限の集中状態となっていた。

 シオンはエーテライトを使わずとも理解した。志貴の有する直死の魔眼が眼前の黒騎士の死を見ている。本能的に体が強張る中、シオンは志貴の視線が僅かに黒リーズ本体よりもずれている事に気が付いた。

 

「志貴、何か視えるのですか?」

「――ッ! ああ、悪いシオン。何か言ったか?」

 

 志貴はハッとした様子を見せるとシオンに問い返す。

 

「彼女本人ではなく、彼女の周囲を見ているようですが何かあなたにしか視えないものが視えているのではありませんか?」

「……視える、彼女の周囲に張り巡らされた黒い糸のようなものが」

 

 シオンの指摘に志貴は重々しく口を開いた。

 万物の死を視る直死の魔眼が、黒リーズを視界に収める。彼女の背後には禍々しい気配が立ち込めているだけでなく、マリオネットの糸に似た何かが全身に絡みついていた。

 それは仄かな燐光を放つ豊かな黒髪のように気品に溢れ、汚れ一つない。それが彼女を傀儡としている原因なのかもしれないと志貴は当たりをつけた。

 

「なるほど、貴様の目にはそう見えるのか。つくづく反則だなその目は。貴様も私が成る候補の一つであったがピーキー過ぎたのでな……。少し惜しい事をした」

「冗談じゃない。お前なんかに俺になられてたまるか」

「そーよズェピア。あんたみたいなのに志貴の魔眼が真似られるもんですか」

 

 志貴はズェピアを薄く睨みつけ、後方の石柱からは能天気な声が響いた。

 

「ハハハハハハハ! 確かに! 真祖の力を汲み取る事すらできなかった私に、直死の魔眼が真似られるかは甚だ疑問だ! それに万物に死をもたらす眼など、死徒の永遠の命題とは真逆だ! それもまた一興!」

 

 喜悦に満ち満ちた笑いをズェピアはまき散らし、自己矛盾すらも座興と言わんばかり。

 シオンは理知的な狂人である祖先を苦々しげに見つめ、重心のグリップをきつく握りしめる。

 握った指が白くなるほど力を込めていると、シオンの高速思考が一つの回にたどり着いた。

 なぜ、彼女の周囲に操り人形の糸のような物が張り巡らされている?

 彼女はレプリカントで生み出した意思のない存在とは異なり、生きた生体情報から再構成した本人の複製品とでもいうべきものだ。

 ゆえに、彼女は生前と何ら遜色ない価値観と行動理念、情動を持つ。

 本来であるならばシオンの生み出したリーズのように思い、考え、行動するはずである。

 街の絶景を一望出来る屋上で、壊れた人形のように笑う彼女に意思があるとは考えられない。

 

 瞬間、シオンの脳裏に一筋の光が走った。

 シオンの腕にはめられた金のブレスレッドが輝く。シオンの思考がエーテライトを伝い、志貴とリーズの脳へプランを伝える。二人はしばし沈黙するとやがて、頷いた。

 この推測が正しければあるいは。

 シオンがエーテライトを展開する。身体を包む結界のようにミクロン単位のフィラメントが意思を持ったようにうなり、夜気を切り裂くエーテライトが漆黒の騎士へ躍りかかった。

 

 



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第二十二章 マリオネット

物語も佳境に入ってまいりました。みなさん、どうか最後までお付き合いください。


 ギィン! と金属をはじかれる音が大気に跳ね、それを手繰るシオンの表情に焦りが浮かぶ。

 高速思考と並列思考が生み出す数多の未来を先読みし、シミュレートを行いながらズェピアの急所目掛けてエーテライトをシオンは躍らせる。

 

 錬金術師の戦闘は詰将棋に似ると誰かが言った。事前に予測し、勝ち筋を戦う前から読み切り後は未来に存在する勝利を正確に掴み取るだけ。錬金術師は勝負の前に勝利を確定させて、それを必然的に享受する生き物だ。

 しかし、眼前の男もまた錬金術師。シオンが右足を狙ってエーテライトを薙げば、その出足を挫くように右腕が弾かれて勢いを殺される。

 シオンの高速思考を常に一歩上回る精密さでズェピアは動きを封じてくる。

 

 それはさながら刻一刻と変化する詰将棋。シオンが読み切ったと駒を動かせば、ズェピアはその奮闘を嘲るように盤上の配置を変えてしまう。さらにシオンの不利となる配置にしてくるのだからたまらない。

 

「痛!」

 

 シオンは右手に走った激痛に顔をしかめ、視線のみを痛みの発生源に向けると、人差し指と中指がへし折られ骨が剥き出しになっていた。

 

 ――その瞬間、シオンの中に蠢く霧が入り込んでくるような錯覚に襲われた。

 

 乾き切った血を連想させる黒い靄は視覚だけでなく、脳ごと知覚を殴りつける。それは深い怨嗟の声であり、嘆きと悲愴をないまぜにした悪性情報。

 

 ――乗っ取られる!!

 

「――四番停止! 七番停止! エーテライト切断!!」

 

 シオンは即座に汚染された思考を切り離し、高速思考から切り離す。それはウイルスに侵入されたファイルを、これ以上被害が広がらないように一時的に隔離させる行為にも似ていた。

 残った左手で振るったエーテライトが右腕に絡まったエーテライトを切断する。そしてシオンは折れた指を掴むと、

 

「――――――――っ!」

 

 ゴキリ、と強制的に元の位置にはめ直した。脳内は発痛物質を大量生産し、ショックで気を失わないために多量分泌される脳内麻薬がせめぎあい、痛覚の陣取り合戦を始める。

 事の趨勢はシオンの意思により脳内麻薬に軍配が上がった。

 

「……再起動。動作確認開始……全て異常なし」

 

 激痛のあまり舌を噛みそうになった口元を必死に抑え、痛みを怒りに変えてズェピアを睨みつける。一方、ズェピアは余裕綽々。顎に手を当てて、こちらを値踏みするように語り掛ける。

それは舞台のオーディションに来た女優の卵へアドバイスを投げかける役者にも思えた。

 

「不利と判断するや否や、思考を切断したその判断や良し。攻撃にもハックにも使用できる汎用性の高さゆえ、エルトナムの人間は皆、これに頼りすぎる嫌いがあるからな。そして――」

 

 ズェピアが言い切るより速くシオンは回復した右腕で拳を握ると、疑似神経へ指令を送る。瞬きよりも早く、音を遥か後方へ置き去りにするほどの斬撃が四方八方からズェピアへ襲い掛かった。

 視覚と意識の虚を突いた完璧なまでの不意打ち。それはズェピアの四肢を切断し、挽肉にする未来をシオンは視た。

 

「――そして、予測したという事は予測されるという事なのだよシオン」

 

 迫りくる殺意を持ったミクロンフィラメントを同じくエーテライトで受け止めた。

 

「な……っ!」

「見え透いているよ娘。エーテライトを使用した吸血鬼用の多重結界か……。先ほどの小競り合いでこれを仕込んでいた周到さは愛らしいくらいだ。しかしだ、そのような実にアトラスの錬金術師らしい生真面目な賢しさではとてもとても、私を倒す事など出来ないぞ」

 

 受け止めたシオンのエーテライトを掌で弄びながらズェピアはシオンを採点する。

 

「ましてや同じエルトナム! その先達である私に既知の技能で挑む愚を悟るべし!!」

 

 ズェピアは口角を吊り上げ、エーテライトを天高く突き上げる。漆黒の爪を模した疑似神経が伸びると同時に、シオンの態勢がガクンと崩れた。

 関節が外れるのではないかと思うほどの衝撃と共に、シオンは一本釣りで夜空に釣り上げられる。美しいほどの放物線を描くと、束の間、重力を忘れた。

 一瞬の浮遊感の後にシオンを襲ったのは全身を粉砕するほどの衝撃。コンクリートをやすやすと砕く勢いで地に叩きつけられ、シオンの視界は明滅し、思考は寸断される。

 ごぼり、と口から洩れる鮮血が唇を伝い、頬を流れていく事から自分は仰向けに倒れているという事だけは辛うじて理解できた。

 

 ……二番停止。

 ……さんば、ん。てい……し……。

 

 力が全身から抜け落ちていく。酸欠の金魚のようにパクパクと開閉する口元は、ズェピアへの罵倒か、それとも仲間への助けを呼ぶ声か。

 

「少々高い授業料だったかな? このままでは及第点以下……落第だよシオン」

 

 血だまりに沈んでいくシオンを一瞥すると、落第と言いつつズェピアは満足げにうなずく。

 

「シオ――――ン!!」

 

 行動不能となったシオンへ志貴が声を上げるが、彼女の耳には届いていないようだった。

 志貴は彼女の元へ駆けつけようとするも、黒い楯の突進に行く手を阻まれる。

 

「どけえ!!」

「いひいははははははははあああぁぁぁっっ!!」

 

 志貴は怒号と共に死の線目掛けてナイフを振るい、黒リーズを排除せんと荒れ狂う。しかし、理性を失えどそこは聖楯騎士。志貴のナイフを冷静にはじき返し、少しでも甘い打ち込みと見れば、痛烈なカウンターを放ってくる。

 リーズはそのカウンターを聖楯で弾き返し、スイッチする形で入れ替わった志貴がナイフで攻撃する。攻防を振り分けたシンプルな戦法で二人は戦っていた。

 

「このままじゃラチが明かない! 少年! 何か手はないのか!?」

「…………!!」

 

 再び振るわれた黒いガマリエルをリーズは受け止めながら、志貴へ声を張り上げる。その表情には焦りと疲労が色濃く浮かび、徐々にだが押されつつあるのを感じた。

 じりじりと、徐々に志貴の手足が沈むような錯覚に陥る。長時間、死を視続ける事による負荷が脳の神経を焼き始めているのが、目の端から流れ出した血液が物語っていた。

 

 ――一か八かやるしかない。

 

 攻撃を受け止めたリーズが、押し返すかたちで黒リーズを前方へ弾くと、

 

「しゃあらあああああああああああああっっっ!!」

 

 ナイフを右手に構えた志貴が飛び出し、怪鳥のような咆哮と共に黒リーズの『死』目掛けてナイフを躍らせた。

 

「馬鹿! 何を考えている!?」

 

 飛び上がり、勢いのままに切りかかるなど愚の骨頂。身動きの取れない空中では格好の的となるのに、志貴は夜空を背に飛び掛かる。

 

「はっはあ!」

 

 黒リーズは唾液を飛ばしながら、無知な獲物を狩るようにガマリエルを突き出す。その切っ先は貧弱な人間など、紙より易々と突き破る代物だ。黒リーズは半歩、右斜め前へ乗り出し、ナイフの射程範囲から逃れた位置へ移動する。

 学生服目掛けて鋭利な聖楯が迫る。

 リーズは走るが間に合わない。

 勝利を確信した黒リーズは聖楯にありったけの殺意を込めて突き出す!!

 

 ――ギイン!

 

 その瞬間、鋭い金属音が闇夜に響いた。リーズは当惑し、感情の死んだ黒リーズでさえも眉根を寄せる。本来であらば、血袋を破裂させたような鈍い水音が奏でられるはずだったのに。

 リーズたちの疑問はガマリエルの粉砕される音と共に氷解する。

 志貴の右手に握られたナイフは鈍く光りを反射し、夜空に瞬く星のよう。

 そして、志貴の袖口には対となる瞬きが一つ。

 

「ぜあああああああああああああああっっっ!!!!」

 

 志貴は呆けた敵の隙を見逃さず、裂帛の気合と共に落下するエネルギーを左手に乗せ、黒リーズの右腕を肩から三分割した。

 掌、前腕、上腕と分かたれた肉塊がアスファルトに落ちると、同時に黒リーズの肩口からどす黒い血液が噴水のようにあふれ出す。

 

「――仕込みナイフさ。俺の数少ない趣味……まさかこんなところで役に立つとは思わなかったよ。こんなのものまでネットで買えるなんて通販様様だ」

 

 スプリングの鋭い音と共に、左の袖口から銀光を放つナイフを掲げた。

 そこでようやく黒リーズも自身の読みの浅さに失望する。

 なぜ武器が一本だけだと思っていた?

 天性の暗殺者じみた体技を駆使する彼がなぜあんな大げさな動きを?

 解に至ると同時に黒リーズはぎり、と奥歯を噛み締める。体中を疾走する血液が勢いを増し、逆流しそうになるほどの熱を持ったこの感情は怒り。押さえつけられていた感情を爆発させると同時に、リーズは地面を蹴りだす。

 

「があああああああああっっ!!」

 

 怒りに身を任せた右ストレート。ダンプカーの衝突にも匹敵する威力を持った一撃は、憎き相手の頭蓋骨を爆散せんと放たれる。

 

「――もういい、お疲れ様。後はゆっくり休んでいてくれ」

 

 雑な打ち込みを志貴は首を横に傾けるだけで回避し、左右のナイフでリーズに繋がれたエーテライトを切断する。

 文字通り、糸の切れた操り人形のように黒リーズは地面に倒れ伏す。肩口からあふれ出す血が地面に奇怪な模様を描いていく。それは彼女の仮初の命が流れ出しているようにも見えた。

 志貴は口を開きかけたが、きゅっと引き締める。

 リーズは物言わぬ骸と化した己の分身を複雑な表情で見下ろしながら、やがて右手で十字を切った。

 

「…………アーメン」

 

 自身に向けてリーズは冥福を祈る。何に向けて捧げるかも分からない空虚な祈り。

憑き物が落ちたように安らかに眠る彼女は、最後に何を思ったのだろうか。

 しばし、静謐な時間が流れる。

 しかし、その静寂はズェピアの拍手によってかき消される。

 パチパチと掌から発せられる破裂音は、静謐な思いに水を差すには十分過ぎた。

 

「ズェピア……ッ!」

「おっとっと。そう邪険にしないでくれたまえ」

 

 ズェピアはむしろ二人を讃えるように近づいてくると、倒れたリーズへ視線を向ける。

 

「お見事だ。直死の魔眼に聖楯騎士団長。木偶は木偶なりに役立つかと思ったが情けない」

「自分で勝手に殺して、そのうえ操り人形みたいに扱っておいてそれか。本当にいちいち癇に障るなお前。言いたい事はそれだけか?」

 志貴が殺気をみなぎらせながら左右のナイフを構えると、ズェピアはくつくつと笑う。

「私の事を冷たいと言うのならば、それは君たちも同じだろう? わが娘がそこで瀕死の重体だというのに感傷に浸っている場合かね?」

 

 ズェピアは後方を振り向くと、そこで驚愕する。

 息も絶え絶えだったシオンの体が徐々に色を失い――やがて無数のナノフィラメントに分解された。

 

「なっ…………!」

 

 エーテライトで編み上げられた体が完全に崩れ、姿を消す。流された血も汗も、苦悶の表情すらもナノフィラメントで構築されたものだった。

 

「ハハハハハハ! 素晴らしい!! エルトナムも漫然と時を重ねてきただけではないようだな!! 本物と見紛う出来! いやはやお見事お見事!!」

 

 ズェピアは高らかに哄笑し、シオンへの賛辞を贈ると――

 自分の首へ腕を回され、拘束された。

 

「――――なに?」

 

 ズェピアは動かせぬ首の代わりに眼球だけ下へ向けると、そこには漆黒の騎士の左腕が絡みついていた。それは獲物を締め上げる蛇ようにギチギチと食い込み、ズェピアの動きを封じる。

 

「貴様! くたばり損ないの分際で……!!」

「お前、生きていたのか!?」

「言って、くれる、な……。白い……わた、し……」

 

 憎々しげにズェピアは吐き捨て、リーズは目を見開く。ズェピアは黒リーズを引きはがさんともがくが、その腕にエーテライトが絡みついた。

 

「今だシオン! 私ごとやれ!」

 

 黒き聖楯騎士が叫ぶと、ズェピアの視界に揺らぎが生じ、明滅する。

 それはSF映画に出てくる光学迷彩のように、同化していた背景から自身の色彩を取り戻す。

 闇夜でも映える藤色の服とベレー帽。譲れぬものを奥に湛えた静かに燃える瞳。

 シオン・エルトナム・アトラシアが現れた。

 

「私の視覚情報を……? いつのまに!?」

 

 ズェピアは突如姿を現したシオンを凝視する。

 

「他者に介入出来るという事は他者からも介入されるという事! それを先達である貴様が忘れるとは何たる傲慢! 何という油断! 私たち弱者を……! 人間たちを嘗めるなズェピア!!」

 

 金色の腕輪がより一層輝きを増し、多重展開されたエーテライトが黒リーズとズェピアを巻き取っていく。蜘蛛の巣に絡めとられた羽虫のように、徐々に二人の自由を奪う。

 ならばこちらもとズェピアはエーテライトを伸ばそうとするも、心の臓を聖楯の破片で串刺しにされた。

 

「がっ!?」

「おとなしくしていろ……!」

 

 苦悶の表情を浮かべるズェピアを、黒リーズは血を吐きながら縫い留める。ズェピアの心臓を貫通した聖楯の切っ先は自身の胸にも突き刺さっていた。

 痛苦に顔を歪める黒リーズに、シオンの腕に迷いが生まれると黒き聖楯騎士は叫ぶ。

 

「私の事を気にしている余裕などないだろうシオン! 君の優しさは救いの無い私ではなく、もっと希望のある人々に捧げるべきだ! もう私は助からない!! 君は何のためにここまで来たか思い出せ!!」

「リーズ、あなたはそんな姿になってまで……」

 

 例え吸血鬼の手駒に墜とされようと、決して失われぬ光を見たシオンは覚悟を決める。

 懐から取り出したのはリーズバイフェの形見である聖楯加工弾。

 

「ガンバレル・フルオープン!」

 

 天寿の概念武装に装填しズェピアの首へ、頭と心臓を同時に消し飛ばせるよう照準を合わせる。

 突きつけられた銃口にズェピアは何事か喚き、リーズは、

 ――花が咲くように微笑んだ。

 シオンもそれにつられて一瞬、微笑を浮かべた後、引き金に力を籠めて、

 

「ガンバレル・フルトランス――――ッ!!!!」

 

 友と怨敵を打ち砕く弾丸を発射した。

 放たれる聖なる光弾は万物を清め、悪しきものを断罪する主の威光。圧倒的な破壊力を誇りながらも、包み込む慈愛の手。

 それらがズェピアに襲い掛かり、凄まじい光量を伴った破壊音が響き渡る。

 世界が漂白されゼロに還る。瞼を閉じようと、眼球の裏側まで侵す圧倒的な光量。

 

 視覚と聴覚がようやく戻ってきた志貴が恐々、目を開けるとそこには巨人の一撃でえぐり取られたような跡を残すアスファルトが所在なさげに佇むだけだった。

 二人は志貴より先に回復したらしく、姿が見えない。志貴が二人の姿を目で追うと、すでにさつきの元へと駆け寄っていた。

 

「さつき! 無事ですかさつき!?」

「しっかりしろ、さつき!!」

 

 二人は懸命に呼びかけ、無事を確認するも、さつきの意識は戻らない。薄く上下する胸元だけが彼女の生存を示唆してくれているが、風前の灯であることは明白だった。

 志貴は唇を噛んだ。今まで忘れていたが、彼女は昨年の夏に死亡している。自分こそが、この手で彼女の命を終らせたのだ。彼女がタタリの一端である以上、ワラキアが完全に消滅した今、彼女はただ消えゆくのみ。燃え尽きる寸前のろうそくが、最後の命を燃やしているだけにすぎない。

 

「――いいえ! まだです! こんなところで諦める訳にはいかないんです志貴!!」

 

 志貴の諦念を吹き飛ばすように、シオンは腕輪を発光させるとエーテライトをさつきの全身に接続していく。

 シオンは目を閉じ、全神経を集中させる。

 側で見守る志貴の肌がひりつくほど集中で、神経線維一本も余すところなくさつきへと意識を傾ける。

 

 深く、より深く彼女の深淵へ。

 さつきという平凡ながらも一途な愛を貫いた少女を、吸血鬼にも錬金術師にもなりきれなかった半端な自分を友と呼んでくれた仲間の情報を、シオンはスキャンする。

 五体から細胞へ、さらに細緻な素粒子レベルから魂の構築具合まで、シオンはさつきという存在の全てを記録し保存する。

 分割思考と並列思考を総動員した弓塚さつきという『個』の情報を完全に読み取り終えた。

 ふう、とシオンは額の汗を拭う。綱渡りに次ぐ綱渡りであったが、無事に彼女の情報を手に入れられた。

 

「シオン、弓塚さんは……。これから一体、どうなるんだ……?」

「……ズェピアが死亡した今、彼女もじきに消えるでしょう」

 

 志貴は目を伏せた。分かっていたとはいえ、僅かでも都合のいい幻想に縋った自分の卑怯者ぶりに志貴は自己嫌悪を強くした。

 

「ですが安心して下さい。彼女を復活させる方法があります」

「ええッ!?」

 

 志貴は驚愕に目を見張り、シオンを凝視する。その表情に曇りは無く、エーテライトを収納しつつ静かに口を開く。

 

「彼女の生体情報は全て読み取りました。今すぐに肉体を復活させることは難しいですが、ひとまずは彼女を私の分割思考に住まわせます」

「そんな事が出来るのか?」

「可能です。志貴の目の前にいるリーズもそうですから。いつか肉体を完全に復元する方法を見つけ次第、二人には人間として復活してもらいます」

「…………っ!」

 

 志貴は唾を飲み込むと同時に、心の奥底で湧き上がる熱を確かに感じた。

 自分は彼女に何一つ救いなど与えてやれなかった。しかし、シオンならば彼女の人生をやり直させる事が出来るというのか。

 仰臥するさつきを志貴が希望を持って見つめていると、

 僅かに彼女の口が動いた。

 

「ッ! シオン! 弓塚さんの口が動いたぞ!」

「! さつき!! 聞こえますかさつき!?」

 

 ぎこちなく、張り付いたものを引き剥がすように、渇いた動きでさつきの唇が開閉する。それは友人の身を案じる言葉か、それとも別れの挨拶か。

 志貴とシオン、リーズの三人は地面に手をつき、聞き漏らさぬよう耳を近づける。

 その弱弱しい口から、確かに言の葉が紡ぎだされた。

 

 

 

「――――――――――――――――――――カット」

 

 




あと四話くらいで終わります。


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第二十三章 カーテンコールにて喝采を

 ちょっと短いです。良かったら感想をください。


 満天の星が燦燦と輝く蒸し暑い夜。空には滴るような朱い月。

 三年前、己の行く末を決定的に違えさせられた悪夢の晩。

 ちょうどあの日もこんな夜だった。行く当ても無くさまよい、ようやく辿り着いた川辺で遭遇した血の涙で泣き笑いする吸血鬼。

 裂けるほどに両角を吊り上げ、啜った以上の血涙を流す化け物。

 

「――――カット」

 

その化け物が、

 

「――――カットカット」

 

 友人の姿で、

 

「――――カットカットカット」

 

 おぞましい顔で嗤っていた。

「――――カットカットカットカットカットカットカットカットカットカットカットカットカットカットカットカットカットカットカットカットカットカットカットカット&リテイク!!!!」

「――――――――ッ!!」

「なんだ……!?」

「ちいッ!!」

 

 さつきの豹変ぶりに違和感を覚えた三人はすぐさま後方に飛びすさり、油断なく構える。

 志貴は再び眼鏡を外し、死の線を初めとした常軌を逸した『モノ』を視る。それは黒リーズに絡みついていた糸に似ていた。しかし、決定的に異なるもの。

 それは彼女の切り飛ばされた手足の切断面に集合し、複雑に絡み合って太い綱のようになる。それが磁力によって引き合わされるように近づいていき、さつきの四肢は無理やり縫合された。

 

 陽炎がゆらめくように、かつて志貴のクラスメイトであった少女は立ち上がる。

 真紅に染まったセーターが背後の朱い月と溶け合うようで、胸の前に掲げた両手は渇いた血で黒く染まり、いつかの惨劇を想起させた。

 そしてその場にいた誰もが理解する。目前の少女は健気で清純だった彼女ではなく、姿を模したタタリ。

 弓塚さつき――ズェピアに組み込まれた新たなる舞台(にくたい)はけたたましく哄笑する。

 

「奈落に落ちた役者に次は無し! されどカーテンコールにて喝采を! 舞台の熱が冷めきらぬうちに!!」

 

 さつきの姿をとったズェピアに、シオンは絶望的な表情を受かべながら噛み付く。

 

「なぜ……。なぜ貴方がさつきの体を使えるのです!? 聖楯加工弾で跡形もなく滅ぼしたはず!!」

「たかが聖典武装ごときで私を滅しきれたと思ったのが君の敗因だ娘よ! 君は言ったな『嘗めるな』と! その台詞、そっくりそのまま返させてもらおう!!」

「どういう事だよシオン!!」

 

 志貴は最大限の警戒態勢を維持しつつ、シオンに問いかける。彼女は希望を打ち砕かれたように肩を震わせ、口から弱々しげに漏らした。

 

「乗っ取りかえされたんです……! 私がワラキアから奪ったおかげで辛うじて消えずにいたさつきの体を、ズェピアは最後の依り代として乗っ取んだです!!」

「ご名答! さすが理解が早い!」

 

 さつきの声でズェピアは笑う。その貼り付けられた顔こそ彼女と完全に同一なだけに、それが一層、志貴たちの神経を逆撫でする。

 小動物の可憐さと、野に咲く花のような純朴さを内包した声音でズェピアは己が新しい身体を誇示する。

 彼女の一挙手一投足が、発話の一語一語が、苦楽を共にした彼女との思い出を汚していくようでシオンは頭に血が昇る。

 シオンの激憤をよりかき立てるように、ズェピアは自身(さつき)の頬に手を当て、その瑞々しい肌に掌を吸い込ませると恍惚の表情を浮かべた。

 

「惚れ惚れするようなポテンシャルだ。半端に人の心など残していなければ、間違いなく二十七祖の一角に上り詰めていただろうに。謙遜過ぎる役者は自らの芽を潰してしまうものだな……。真祖の姫君が手に入らなくなった今、この体は私が有効活用させてもらうとしよう」

 

 最悪だ、とシオンは心の中で独りごちた。さつきの吸血鬼としての才覚は図抜けている。シオンが戦闘の手ほどきをしたおかげで戦力を増したとはいえ、しょせんは一年足らずの付け焼刃。加えて彼女は元来、戦闘には到底向かない性格と吸血鬼の力を忌避する意思によって、大きな枷がついて状態だった。

 しかし、眼前に立ちはだかる彼女は違う。

 自分を遥か凌駕するエーテライトの技巧に加え、二十七祖クラスの圧倒的な身体能力。真祖は動けず、志貴は普通の人間。自分とリーズは満身創痍。あまりの彼我の戦力差に計算するのも馬鹿馬鹿しい。

 シオンが思わず後ずさりをしかけると、感覚が刺し貫かれた。

 

「――――ッ!?」

 

 咄嗟に右後方を振り返ると、眼を蒼く光らせた志貴が全身から殺気を漲らせ、ズェピアを視線で射殺していた。

 もし視線が刃の役目を果たすのならば、今頃ズェピアの全身は隈なく裁断され、物言わぬ大小の肉塊になっていただろう。

 志貴は重く一歩を踏み出すと、猛り狂う激情を静かに言葉に乗せた。

 

「お前は何度彼女を弄べば気が済むんだ?」

「気に障ったか? だがな彼女の復活を望んだのは貴様だそ?」

「お前何を……!」

 

 志貴は語気を荒くして詰め寄ろうとする。

 俺が望んだ?

 彼女の復活を?

 ――馬鹿げている。

 彼女を殺したのは確かに自分だ。彼女が噂の吸血鬼であったらと恐れた事はあるし、それが原因で彼女というタタリが現れたのならばそれも事実だろう。

 しかし、望むわけがない。

 

「呪いとは術者に還る自己の罪。祟りとは自己を滅ぼす妄執」

「……いちいち勿体つけていないで、本題に」

「――――貴様は本当にこの女の事を吹っ切れているのか?」

「――――!」

 

 ズェピアの発せられた言葉に志貴は歯噛みする。

 今でも胸に残るのは、彼女と共に灼けるような夕日を背にして語り合った一幕。

 

 ――ピンチの時は助けてね。

 

 他愛の無い口約束が、今は志貴の手足を、心の臓をがんじがらめに縛り付ける鎖となる。

 幾度も迷っては覚悟を決めて、事が終われば迷い嘆き、返しのついた棘のようにいつまでも刺さり続ける。それを力ずくで抜く度胸もなく、ましてや痛みを忘れる事も出来ず。

 意を決した振りをして、彼女を自分は何度も手にかけた。

 

「――――それがどうした」

 

 しかし、志貴はそれでもナイフを構える。

 相も変わらず腕は重く、頭で理解しつつも体は固縮し鉛のよう。

 

「吹っ切れるはずがない。許してくれなんて口が裂けても言えない。彼女を殺したのは間違いなく俺だ。彼女を生み出してまた殺したのも俺だ。彼女を弄ぶという点では俺も大差ないだろう」

 

 けどな、と志貴は刃の切っ先をズェピアに向け、叫ぶ。

 

「だからといってお前が弓塚さんを弄んでいい理由になんてなりはしない! 彼女と同じ声で喋るな!! 弓塚さんと同じ顔で笑うな!! 反吐が出そうだ!!」

 

 志貴はナイフを振りかざし、ズェピアを解体せんと突貫する。後方からシオンとリーズが制止する声が響くが志貴は構わず疾駆する。

 月夜にナイフを踊らせる自分はしょせん、甘いだけの死神。彼女の言う英雄になどなれはしない。

 しかし、死神には死神らしいやり方があるはずだ。

 そうして志貴は、弓塚と鏡写しの顔で笑う偽物を解体し尽すべく襲い掛かった。

 



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第二十四章 登壇

ゴジラvsTYPE-MOONが面白いです。誰か同人誌を譲ってください……!!


 星一つない夜空をぼんやりと眺めていたら、ゆっくりと空に落ちていくような感覚に飲み込まれる。明かりは無く、足元も覚束ない。自分が空に沈んでいくのか、地面に浮かんでいくのか、それすらも曖昧だ。

 

 耳が痛いほどの無音。

 鼻孔が苦しいほどの無臭。

 眼球が眩しいほどの無明。

 地肌が敏感になる無痛。

 

 およそ五感の全てに仕事を振らないこの環境は、まさしく『無』。ただただ残酷なまでに優しく冷たい『無』だった。

 

 ただ一つ分かるのは、さつき(わたし)はもう既に死んでいるという事だけだった。

 

 志貴くんがわたしのまぶたを閉じてくれてからの記憶は無い。志貴くんの魔眼によってわたしは完全に消滅させられるらしいから、ここは死後の世界というものだろうか。

 そこには幼い頃に聞かされた地獄の閻魔大王も、天界へ連れて行ってくれる天使もありはしない。

 

 あるのは生気の無い、ひたすらの『無』

 

 ――なんて殺風景なのだろう。

 

 わたしは何となく、首を動かして周囲を見渡した。

 ……ような気がした。

 すでに感覚は全て失われているのだから、今の自分が何をしたのかなど確認する方法は無い。肉体が残っていたころの名残から、そういうものなのだと自分を納得させる。

 

 だけど思考する事は出来るみたいだ。

 それなら唯一、許された思考で、想い人との思い出でも振り返り続けていようか。

わたしは瞼の裏に大好きだった人を思い浮かべる。

 

 少し小柄で穏やかそうで、いざという時には颯爽と現れてくれるヒーローみたいな人。

決してクラスで目立った人ではないけれど、本当の格好良さを持っている人。

 

 ――志貴くん! 志貴くん! 志貴くん!!

 

 私は震えない声帯で、届かない声で想い人の名前を叫んだ。

 溶けていく、わたしの全てが溶けていく。

 光星が全て塗りつぶされた宇宙を泳ぐような感覚にどれほど浸っていただろうか。

 

 突如として、わたしの眼球を焼くように光の塊が現れた。

 光りの塊はギィ、と音を立てた事からそれが扉のような役割をしているのだとわたしは察した。

 足場も無いのに靴音を鳴らし、役者は『無』に登壇する。

 切れ長の瞳が理知的で、静かに聴衆を釘付けにしそうな端正な顔立ち。そしてどことなくシオンの面影を残す男。

 

 ――ズェピア・エルトナム・オベローンその人だった。

 

 わたしは咄嗟に身構えようとしたが、すぐに体の緊張を解く。少しだけ諦念を込めながら、眼前の役者へ問いかけようと口を開く。

 

「こんばんは、お嬢さん。ご気分はいかがかな?」

「――――っ」

 

 意外過ぎる台詞にわたしは開きかけていた口を思わず閉じてしまった。

 つい先ほどまで、極限の命のやり取りをしていた吸血鬼。シオンを吸血鬼にまで墜とし、わたしの思い出を土足で踏みにじった怨敵。

 わたしの臓腑から再び煮えたぎるような激情が溢れ出そうとして、蓋を力強く叩き続けている。

 死後の世界でさらに死があるのかは知らないが、このまま黙って眼前の男を見逃す気はなかった。

 

「おやおや、顔に似合わず好戦的なお嬢さんだ。わが娘の友人なだけはある。繊細で傷つきやすくも、立ち上がる気概はあるとお見受けする」

「あなたわたしの考えを……」

 

 わたしは唇をきつく引き結ぶと、余計な思考が紛れないようにズェピアに集中する。そんなわたしの小さな努力に何かを思うように、ズェピアは小さく笑った。

 

「それで何をしにきたの? あなたもここに来たって事はシオンや志貴くんに倒されたって事? だったらご愁傷様。いい気味だわ」

 

 精一杯の侮蔑を込めてズェピアを睨みつけると、当の本人は笑みをますます深めるばかり。

 てんで的外れ、とでも言いたげに。

 持って回った言い回しも、含みのある言動も鬱陶しいことこの上ないので、わたしは重ねて問いかける。

 

「結局、ここはどこ? わたしとあなたはどうなってしまったの?」

「やはりそこが気になるかね。まあ、これは口で説明するよりも実物を見てもらったほうが早いか」

 

 ズェピアは細く形の良い指を鳴らすと、隣に再び光の扉が現れたと思ったら違った。

 それは扉ではなく、スクリーンのようであった。最初は眩しいほどの輝きであったのが、徐々に鮮明に像を結び始める。

 そして、そこに映し出された映像はさつきの心臓を殴りつけるような衝撃を与えた。

 

「――なんで私が戦っているの?」

 

 〇

 

 全身の臓腑がせりあがるような強烈なGを感じながら、リーズバイフェは天高く放り投げられた。鍛え抜かれた足首の、頑強な骨と筋繊維が痛烈な圧迫によって悲鳴を上げる。

 吸血鬼の身体能力を測る際に、姿形などまるで意味を成さない。しかし、さつきのような中肉中背の少女が、甲冑を身に纏った大柄な女性を軽々と振り回すのは奇異に映る。

 

「軽い! 軽いなあ聖楯騎士!!」

「ぐっ……っ!!」

 

 まるでプロレスのジャイアントスイングを通り越して、ハンマー投げもかくやという要領でリーズバイフェを振り回すズェピアは歓喜する。

 人間の最高峰に達している聖楯騎士を、純粋な腕力のみで圧倒し、容易く組み伏せる剛力に固有結界。さらにアトラスの技術が加われば、東洋のことわざで鬼に金棒と言ったところだろう。

 

「そーおれぇっ!!」

 

 掛け声と共にズェピアはリーズを投げ飛ばす。純粋な、技術も工夫もない子供の遊びじみた投げ。それでもリーズの体は鉄骨に向けて、弾丸の速度で投げ飛ばされる。

 

「危ないリーズ!」

 

 シオンは網状に組み込まれたエーテライトを投網のようにリーズに絡ませ、鉄骨との激突を防ごうとする。

 狙いは正確、リーズをハンモックのように受け止め、シオンは手繰り寄せようと腕に力を籠める。

 

「ううっ!?」

 

 グン! と凄まじい力でシオンは引きずられ、リーズもろとも鉄骨へ激突した。肩を強打し、肩甲骨と鎖骨が砕ける鈍い音が脳に刻まれる。肩口から灼けた鉛を押し込まれたような激痛のシグナルが走り、シオンは必死に悲鳴をかみ殺した。

 

 視線だけを隣で倒れるリーズに向けるも、彼女は左腕を押さえ苦痛に端正な顔を歪ませていた。服越しでは分からないが、恐らく使い物にはなるまい。

 ズェピアはゴムボールのようにバウンドし、苦悶の表情で這いつくばる二人を満足げに見つめ――ナイフを摘み取った。

 

「な……っ!!」

 

 志貴の表情が驚愕に歪む。意識と視界、双方の死角から放つ必殺の一撃。死の線が太く走る後ろ首へ突き出された志貴の得物を、ズェピアは一瞥する事もなく受け止めていた。

 ナイフを引き抜こう、と理性が訴えるが本能はバックステップを選択した。鼻先を掠める衝撃は、数舜前まで自分の居た位置が、アスファルトごと砕かれた。

 

「敵を倒した瞬間こそが最も気が緩むとき、か……。つくづく生粋の暗殺者だな貴様は。二人が重傷であるのに私の始末を優先させるのは正解だ。一点の欠如もない満点と言えるだろう」

 

 ズェピアが身体を志貴の方へ向け、油断なく己の敵を見据える。よく知るクラスメイトの姿であるのに、志貴の全身からは冷や汗が滝のように吹き出す。

 確かに、自分は直死の魔眼という万物を殺す力がある。しかし、それ以外は普通の人間。どれだけ強力な武器であろうと、当てる術が無ければ無用の長物。今まで志貴が戦ってきた強大な敵に志貴が打ち勝てたのは、ひとえに彼らが絶対強者であるという驕りがあったからだ。

 

 鼠を警戒する獅子はいまい。捕食者と被捕食者との間にはそれだけの差がある。

 ゆえに彼らは油断する。

 生態系の上位の椅子にふんぞり返る強者に、背後から必殺の一撃を加える。

そこが唯一、志貴がつけ込む隙だったのだ。

 

「残念ながら今の私に驕りは無い。認めよう、貴様は素晴らしい役者だよ遠野志貴。この私が全身全霊を持って叩き潰すにふさわしい相手だ」

 

 花が開くような笑顔から物騒な言葉が吐き出される。志貴は予備の仕込みナイフを取り出すも、お守り以上の機能は期待出来そうにない。

 志貴は直死の魔眼を酷使し、ズェピアの死を視る。現象から存在へ堕ちたズェピアは死が充満する生物である。志貴のナイフがかすりでもすれば、即座に死に至らしめるはずなのに。

 

 志貴は一切の予断なく、ズェピアの行動に注視する。足のつま先から髪の一本に至るまで、ズェピアの攻撃の『起こり』を見逃さないよう全神経を集中させる。

 加勢は期待出来ない。互いに一撃必殺。時間が経てばジリ貧になるだけ。

 

「しゃらああああああああああっっ!!」

 

 志貴は叫ぶと同時にズェピアへ突貫する。

 ズェピアの死の点は胸の中央、そこへ一突きしようとすれば間違いなく腕を掴まれ敗北が決定する。ならば狙いやすい末端から刻み、弱ったところを仕留めようと志貴はズェピアの右指向けてナイフを振る。

 

「馬鹿正直にやって当たるわけなかろう、たわけめ」

 

 志貴の全力の一撃を、ズェピアは人差し指の爪でいとも容易く弾いた。

 二撃目、三撃目、四撃目――

 息つく暇もなく志貴は連続して腕を振るうが、ズェピアはそれを受け止めるではなく払うように志貴のナイフをいなし続ける。一見、身体能力に物を言わせた防御に見えるが、これは力のベクトルを流す武術の理。シオンからさつきが習った技術をズェピアは行使しているのだ。

 

「くそっ! ……くっそ!!」

 

 志貴は見当違いの方向へナイフが流される事に苛立ち、つい力んで大振りになる。

 その隙を見逃すズェピアではない。身をかがめながらナイフを躱し、志貴の懐に潜り込む。右手で志貴の左袖を、左手で志貴の襟を掴むと、

 

「はっ!!」

 

 掛け声と共に背負い投げ。

 志貴は世界が回転したのではないかという錯覚と共に、コンクリートに叩きつけられた。鈍い衝撃が全身を駆け、せりあがった横隔膜は肺を圧迫し、呼吸を阻害する。

 

「がはっ……!!」

 

 全身の感覚が死に絶える。痛覚を含めたすべての感覚は用無しとなり、眼球はどろどろとした意味のない絵を映し出すだけのガラス玉と化した。

 志貴のナイフがカラカラと渇いた音を立てて、コンクリートを転がる。自身の主が拾いに来る事はない。主人はピクリとも動かず、完全に気を失っていた。

 すでに瞳から光を失った志貴をズェピアは全身の埃を払いながら見下ろす。

 

「生まれて初めて武術というものを使ってみたが、奇妙な感覚だ。人類の歴史というものはある種、弱者が強者に立ち向かう術の歴史とも言える」

 

 もっとも、強者がその術を振るえば勝負になるまい。と、ズェピアは肩をすくめる。

 

「なかなか楽しめたが私には真祖(メインディッシュ)が残っている。そろそろ終わりにさせてもらおう」

 

 ズェピアはぐっと拳を固め、志貴の顔面へ狙いを定める。

 とどめは確実に、一撃で戦況をひっくり返すポテンシャルを持つジョーカーはここでご退場願おう。

 ズェピアはさつきの顔で喜色満面。そして、

 

「――さようなら志貴くん。楽しかったよ」

 

 掲げた拳を勢いよく振り下ろした。

 



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最終話 

「――――――――」

 

 何と叫んだのかはわたしにも分からない。肺腑の空気を全て出し切るほどの全力で、喉よ引き千切れろとばかりに叫んだ。

 わたしの拳が志貴くんの頭に振り下ろされれば、それこそ潰れたトマトの果肉みたく脳漿がぶちまけられるだろう。好きな人を二度も殺すなんて絶対に嫌だった。

 しかし、その言葉が彼に届く事は無い。私の想いは今まで通り、空虚に闇夜に埋もれて消えるだけ、そのはずだったのに。

 

 

「それでいいのかさつき――――――――――――――ッッッ!!!!」

 

 

 スクリーンごしでも大気を振るわせられているのではないかと錯覚するほどに、叫び声が鼓膜を叩いた。

 スクリーンの映像が切り替わり、そこに映し出されるは白百合の騎士。折れた左腕を押さえ、痛苦に顔を歪めながら立ち上がる。

 

 髪には血がこびりつき、格調高い鎧や聖楯にはひび割れている。それでも彼女の高貴さは一切、曇りを見せる事はない。

 満身創痍の体に鞭打って、空元気を振り絞る。

 

「君は……! 君はそんなに弱い子ではなかったハズだ! 何度、吸血衝動に襲われ、何度、容易な道を示されたって! 君は決して負けなかったじゃあないか!! 心は人間でいたいといつも言っていた!! そんな健気で無垢な君だったからこそ私は君も守ると誓ったんだ!!」

 

 ガン! と右拳で胸の甲冑を叩き、己の存在を誇るようにリーズは高らかに宣言する。

 

「私を見ろ!! 肉体はとうに死に絶え、シオンの分割思考に常駐するだけの存在だ……。言ってみれば完全なデータが、生前の私と寸分違わない思考と言動をしているだけの虚ろな存在に過ぎない!!」

 

 後ろでシオンが口を開きかけるが閉じる。その先をシオンは視線で促し、リーズは頷くと続けた。

 

「しかしだ! 私は今、自分の意志でここに存在している! 自分の意志で、自分の想いで君とシオンを守ると誓った!! だから……!」

 

 一息吸い、呼吸を整え、一気に言い切る。それが彼女の生き様だとでも言うように。

 

「だから! 私は私だ! たとえデータチップの一枚になろうと! たとえ培養液に浮かぶ脳髄一つになっても! 私が私であると思う限り、私は私なんだ!! 元ヴァステル弦楯騎士団団長にして、君とシオンの守護の楯!! リーズバイフェ・ストリンドヴァリである!!」

 

 一点の曇りもない眼で、彼女は己を肯定した。

 すでに肉体は消えたデータの集合体。もしもわたしが彼女と同じ境遇であれば、わたしはあそこまで迷いなく言い切れただろうか。

 わたしは茫然とした表情で彼女を見つめる。なぜ彼女がそこまでわたしのことを買ってくれているのかは分からない。分からないけれど、彼女はおためごかしなどではなく、本気でわたしがズェピアに勝てると思って呼びかけてくれている。

 

 知らず、わたしは歯を食いしばっていた。

 身体が熱い。全身を巡る血液は沸騰し、焔のように燃え上がる。

 体中を走る神経たちは興奮を雷撃のようにスパークさせ、シナプスを弾けさせる。

 不思議と頭は冴えてきた。これだけ熱を帯びているのに思考はどこか冷静で、自分が何をなすべきなのか、努めて冷静に命令を下す。

 

 膝に力を籠める。笑っていない。これなら自分の足で歩けるだろう。

 掌を開閉する。しびれていない。これなら拳を固められるだろう。

 わたしの変化に気が付かないのか、ズェピアは腹を抱えて、彼女の勇姿を嘲笑った。

 

「ハハハハハハハ!! これは傑作だ!! 既に命の蝋はかき消され、複製された仮初の肉体と知りながらそれでも自己を語るか!! なんという欺瞞!! 道化ばかりのこの舞台で君以上の道化がいたとは!!」

 

「――――――――――――――――れ」

 

「…………………………………………なに?」

 

 ズェピアは怪訝そうな顔を浮かべるが、わたしは意に介さない。

 許せなかった。シオンの人生を狂わせて、罪人の烙印を押した事が。

 許せなかった。わたしの恋心を踏みにじって、また志貴くんを泣かせた事が。

 

 そして何より、

 殺されてもなお、懸命に自分を持ち続けた彼女を侮辱した事が許せない!!

 だからわたしは叫ぶんだ!

 たとえどれだけ矛盾した想いでも!

 どれだけ薄弱な理由だとしても!

 わたしがわたしであるために、わたしは叫ぶ!!

 

 

「黙れえええええええええええええええええええええええええええっっっっ!!」

 

 

 〇

 

「黙れえええええええええええええええええええええええええええっっっっ!!」

 

 彼女の想いが夜空に響き渡り、ズェピア――弓塚さつきは力の限り咆哮する。

 体の支配権を奪い合っているのか、時には体を大きくのけぞらせ、手足を震わせる彼女はそれでも己を手放さない。

 

「くだらない! くだらないくだらない馬鹿馬鹿しい!! わたしが何者であるかなんて、そんなものは他の人が決める事じゃない!!」

「はっ! 死後に噂でカタチを与えられただけの存在が何を――」

 

 二つの意志が一つの口から言葉を漏らし、表情と言葉が一転三転する。しかし、さつきは自分の頬を殴りつけると、無理やりに体を奪い取る。

 

「吸血鬼でも! タタリでも! データの集合体になったとしても! わたしはわたしだ!! 弓塚さつきだ!! たとえ魂魄百万回生まれ変わったって、わたしはわたしであり続ける!!」

 

 そして、とさつきは言葉を区切り、今も眠り続ける彼へ思いの丈をぶつける。

 

「――そして、何度だって志貴くんに恋をするんだから!!!!」

 

 それが彼女の在り方だった。

 どれだけ苦行に満ちた茨の道であろうと、人であることを諦めずに前へ進む。

 振り向いてもらえずとも、共感も理解も得られずにいつかひっそりと果てようと、それでもさつきはさつきであり続ける。

 

「たわけた事を抜かすな屑共があああああああああああああああっっっ!!」

 

 さつきの口から醜悪な怒号が放たれる!

 瞳を憎悪の炎で焼き焦がし、黒き渇望で爛々と光るそれはもはや光を映していない。

 

「貴様らごときに私の悲願を阻まれてたまるものか!! 私がどれだけの苦行の果てに『ワラキアの夜』などというものに身を窶した思う!? 私の五百年の研鑽を! 滅びを回避するという大願を!! たかが小娘の恋心ごときで邪魔されてなるものか!!」

 

「――うん、だから一生理解出来ないよ、あなたには」

 

 さつきは悲痛さの入り混じった叫びを穏やかに返すと、憐れむように微笑んだ。身体の内でズェピアは反駁したようだったが、さつきは構わずトリガーを起動させる。

 

「――――飢え渇け『枯渇庭園』」

 

「……さつき! いったい何を!?」

 

 突如として固有結界を発動させるさつきに、シオンは驚愕の表情を浮かべる。

 固有結界は元来、とてつもなく緻密で繊細な集中を要するものだ。それを体のコントロールの大半を奪われたままで発動するなど自殺行為だ。

 

 しかも周囲のマナやオドを奪う効果は、魔力回路に乏しい自分や魔術師ではない志貴に効果は薄いが今はリーズがいる。彼女を構築するオドまで奪われれば、今の自分では再構築するだけのリソースは無い。

 

 シオンは制止しようとするが、ふと気づく。彼女が固有結界を展開する際に現れる色彩豊かな皐月の花が現れない。

 発動に失敗したか、とシオンは安堵と共にさつきへ顔を向ける。

 さつきは振り返り、口元に微かな笑みを浮かべると――

 

 ごぼり、と口の端から血を溢れ出させた。

 

「………………え?」

 

 間抜けな声がシオンの口から零れた。

 思考が追い付かない。

 ついていけないのはリーズバイフェも同じようで、目を丸くしてポカンと口を開けていた。

 なぜ、

 どうして、

 

 

 ――――どうして彼女のお腹に大穴が空いているのだろう?

 

 

 まるで太い杭で彼女の腹部を刺し貫き、抉り取ったような凶悪な傷跡。はらわたは命尽きるまで足掻こうとしているのか弱弱しく鳴動し、最後の命を燃やさんと明滅する。

滴る血によってスカートはすでに赤一色となり、ソックスとローファーも既に鮮血に侵食されつつある。

 

 シオンはゆっくりと膝をついた。臓器の大半は消し飛んだであろう腹部から、血液がぼたぼたと落ちる様を、まるで別世界の話のように他人の目線で凝視していた。

 

「きさ、まあ……! 固有結界を自分の体内で……!?」

 

「ふふ、こうでもしないとあなたはまたわたしを乗っ取るでしょう? だったらこうするしかないじゃない」

「貴様は何が望みだ……? 死が、滅びが恐くないのか? 私と共にあれば、不死もあの男も手に入るのだぞ…………?」

「何度でも言ってあげる。――あなたには一生理解出来ないよ、恋心は」

 

 勝ち誇るように、さつきは嘲笑う。

 それがズェピアの怒りに油を注いだ。

 思考は一瞬で空白となり、すぐに嚇怒と憎悪で埋め尽くされた。

 

「――――――――――――――ッ!!!!」

 

 ズェピアの咆哮は意味を成さない。ただ、認められぬ何かを否定し、叩き潰すためだけに喉元は唸りをあげて、理解不能な生命たちを滅さんと飛び掛かる。

 シオンはエーテライトを取り出すが、折れた指の再生が間に合わない。片腕だけのリーズでは心許ない。力の抜ける身体を無理やり起こそうとすると、すっとリーズバイフェが庇うように前に出た。

 

「危険ですリーズ! あなたはもう戦える状態ではない! せめてあなたを再構成してから……!」

 

 この状況でも他人を気遣う不器用な温かさに、リーズは苦笑する。

 

「それは君も同じ事だろうシオン。私なら大丈夫さ」

「何が大丈夫なのです!? 半死半生とはいえ、さつきの力を持ったズェピアを今のあなただけで――」

「同じ吸血鬼杭(ドラクルアンカー)使い同士、こういう事だけは分かるんだ。直接、顔を合わせた事は無かったけれど、それでも通ずるものがある」

 

 リーズバイフェは微妙な表情を浮かべた後、右腕にガマリエルを装填する。その楯に聖なる輝きが宿る。主の威光を知らしめよと叫ぶ相棒を、リーズは誇らしげに構えた。

 ズェピアは変わらず言葉にならぬ叫びで襲い来る。あと二十歩といったところか。

 ならば後、十歩だろう。

 ズェピアは残る十歩。

 もう背中に追いついただろう。

 そしてリーズはガマリエルをズェピアに向けて、声を張り上げる。

 

 

「合わせろ代行者――――――――ッッッ!!!!」

「命令しないでください――――――――――ッッッ!!!!」

 

 

 月下に照らされたアスファルトに一つの影が浮かぶ。満月を背に飛び上がる彼女は、第七聖典を脇に抱えた偽りの信徒

 二つの聖典武装が闇夜を照らす。その輝きは主に逆らう愚者を、存在ごと滅する神罰の代行者。

 その輝きが重なり合い、集約する。暴発寸前まで高められた神聖な気は、死に体の吸血鬼を貫かんと放たれる。

 

「「カルバリア・ディスロア(デスピアー)――――――――――!!!!」

 

 異端の信徒たる二人の武装が唸りをあげる。第七聖典はさつきの右腕を、聖楯は左腕を刺し貫き吹き飛ばす。

 

「がっああああああああああああああああああっっっっ!!!!」

 

 絶叫するズェピアは勢いそのままにはるか後方へ吹き飛ばされ、アルクェイドの佇む石柱の根本へ破砕音と共に縫い付けられた。

 

 両腕を完全に縫い留められたズェピアは身じろぎ一つ出来ない。指先さえ動けばエーテライトを使用して反撃も出来ようが、杭を打ち込まれた箇所から浄化され、灼けるような痛みでうまく動けない。ここで吸血鬼の特色が強い身体が仇となった。

 脳髄まで犯されそうな痛みにズェピアは奥歯を噛み締める。

 完全に手詰まりだった。

 

「終わりです、弓づ……いえ、ワラキアの夜。今宵があなたの終着点です」

 

 シエルは意図的に表情を消し去り、ズェピアの元へ歩み寄る。その手には黒鍵が出現している。

 これで言の葉に乗り、人口に膾炙する事で時には小国すら滅ぼした悪夢も消える。

 限定的ながらも不死を獲得した吸血鬼の存在など、シエルは己の全てを賭して滅ぼさなければならない。

 

 シエルの眼が細くなり光を失う。

 祈りの言葉など不要。

 この魂に救済は無く、無為に土へ還るのみ。

 そしてシエルは心臓目掛けて投擲の姿勢を取ると、リーズバイフェに肩を掴まれた。

 

「その手はなんです? あなたは弓塚さんと知り合いのようですが……。ここまでくれば手の施しようがありません、諦めてください。もし庇い立てするようならば――」

「――頼む。後は彼女達にやらせてやってくれないか」

 

 深々と、真摯に頭を下げるリーズバイフェにシエルは息をのむと、彼女の言う『彼女達』へ顔を向けた。

 

「…………遠野君」

「シエル先輩……。それから――――弓塚さん」

 

 血に染まった顔を拭いながら、志貴はシオンに掴まりながら立ち上がっていた。

 宗教画に描かれる聖人の磔刑を彷彿とさせるさつきの姿を見て、志貴は全てを理解した。

 志貴は先ほど拾った七夜の短刀を取り出し、さつきの目の前へ二人で近づく。

 一歩、また一歩と重くなる足取りを、無理やりに動かして。

 おかしな気分だった。

 まるで死刑台を昇る受刑者のようだった。

 己は大のために小を切り捨てる無慈悲な執行人だというのに、これでは立場があべこべだ。

 

 気づけば短刀を握りしめる腕は震えていた。そしてシオンに掴まる左肩からも、自分以上の震えが伝わってくる。

 短刀を握りしめた手が白くなるほど力を籠める。後はこの刃を彼女の死の点、胸中央に突き刺すだけだ。それで全てが終わる。この町を包み込む虚言の夜は閉幕となる。

 

 理性が囁く。

 彼女は助からないと。

 本能が叫ぶ。

 彼女を生かしておけないと。

 

 もとより、彼女の命は一年前に自分が断っている。すでに血で塗りつぶされた過去のカンバスに、さらに血を重ね塗りしたところで一体、何の変化があろうか。

 

 まったく彼女の言う通りだった。

 殺人という罪を殺人という罰で消去する。

 決して消えない過去に蓋をする。

 それを捨てる度胸もないくせに。それを忘れて笑えるほど器用でもないくせに。

 そのくせ、それを覗くのは気が引ける。

 傷が癒えかけるたびに思い出しては同じ傷をつけて感傷に浸る卑怯者。

 

 どうせ出口の無い袋小路なら、せめて大勢が助かる道を選択する。

 志貴は自分すら騙せない嘘をつき、ナイフを振りかぶる。

 

「――――いいよ、志貴くん。そのままで」

「さつき…………!」

 

 さつきは無理やりに笑顔を作ると、晴れやかな笑顔を向ける。その笑顔がさらに志貴の心を抉る。

 

「さつき、私は本当にあなたを……っ!」

「うん、分かってる。全部分かってるよシオン。シオンが本気で私を思ってやってくれていたって事くらい、本当は全部分かっていたから。でもね、私はもうだめみたい。今はズェピアを何とか抑え込めているけれど、もうそろそろ限界。この杭みたいなの痛くって、意識が飛びそうなの」

 

 そしたら、また乗っ取られちゃうね。と、さつきは困ったように苦笑する。

 事実、さつきの身体に刺さった杭は吸血鬼を浄化し、傷口から煙を上げている。吸血鬼の特攻武器なだけに、吸血鬼の特性が強いさつきの方がダメージは大きい。

 それが分かっているがゆえに、彼女は全てを受け入れる。

 志貴のナイフを持つ手がガタガタと震える。覚悟を決めては崩される自分の不甲斐なさを志貴は心底恥じた。

 だから、こんな恥知らずな発言が出来るのだろう。

 

「――なあ、何とかならないのかアルクェイド!?」

 

 志貴は石柱に無言で鎮座し、事の行く末を傍観していた真祖に懇願する。

 恥も外聞をかなぐり捨てて、駄々っ子のように幼稚な願望をぶちまける。

 

「お前とシオンが協力すれば吸血鬼化の治療だって夢じゃないんだろう!? 俺からも頼むよアルクェイド!! 何か……何か方法があるかもしれないだろう?」

「無理よ志貴。そればっかりは私にもどうにもできない……。諦めてちょうだい」

 

 しかし、そんな想いは容易く切り捨てられる。つまらないものでも見るような彼女の瞳は、それが嘘ではない事を語っていた。

 

「都合が良い事を言っているのは分かってる! けどなあ、だからって諦めきれるワケないだろう!? 彼女が一体、何をした!? 理不尽に殺されて、吸血鬼なんてものにされて、また殺されて蘇っては殺されるっていうのか!?」

「吸血鬼の被害者なんてみんなそんな物よ。世界ではごくごくありふれた悲劇の一端、それにね志貴、私はこう思うの」

 

 志貴の背筋がぞくりと震える。彼女は根は冷酷な現実主義だ。そのくせ理詰めである。この先の言葉を聞けば、きっと自分は逆らえないだろう。

 志貴は耳を塞ぎたくなる衝動に駆られるが、一足遅かった。

 

 

「――――殺した責任、ちゃんと取らなきゃダメだと思うの」

 

 

「――――――――――――――――――はっ……」

 

 志貴の喉からひゅう、と息が漏れた。完全に、完膚なきまでに打ち砕かれとどめを刺された。志貴は皮肉げに顔を歪め、真祖の姫君に恨み言を漏らす。

 

「……お前がそれを言うのかアルクェイド」

「バカね、私だからに決まってるじゃない」

 

 二人の攻防は終了した。志貴は再びナイフを握りしめる。甘え腐った心がやめろと吠えるが志貴は責任という理性で押さえつけ、狙いを死の点へ定める。

 筋繊維の一本たりとも許してはならない。許せばきっと全員が仕事を放棄して取り落としてしまうから。

 

 呼吸は乱れ、石膏で固められたように動かないくせに震えだけは大きくなる。その震えは次第に大きくなり、意思を裏切ろうとする。

 

 そこへ、そっと手を添えられた。

 

「シオン…………」

 

 シオンはしっかりと両手で志貴の腕を包み込むように押さえ、志貴の顔を見て頷く。

 怜悧な瞳からは光の粒が次々と産声を上げては、頬を伝う。

 

「――――志貴、私も」

「…………………………」

 

 志貴は無言で頷くと、ナイフを彼女の胸元に当てる。

 あと一ミリ。

 あとほんの僅か、突き出すだけで彼女の存在そのものが殺される。

 さつきは目を閉じ、全てを受け入れるように沈黙している。

 

「弓塚さん、君はそれでいいのか?」

「えっ? 今、それ聞いちゃう? うーん、志貴くんって本当にあれだよね」

 

 何でもない、教室で世間話でもするような気軽さでさつきは対応した。目を大きく見開くと、うーん、と首を傾げる。

 

「ええと、言わないほうがいいんじゃないかな? せっかく志貴くんもシオンも覚悟を決めてくれたのに揺らいじゃわないかな? ああ、もちろんわたしもなんだけど?」

 

 はにかむように冗談めかしてさつきは笑う。

 シオンは渇いた唇を懸命に動かし、無理やり言葉を紡ぐ。

 

「さつき、前から思っていたのですがあなたは遠慮しすぎです。日本人は謙虚を美徳と捉えがちですが、あなたのは度が過ぎている。貧乏くじばかり選んでいないで、たまにはワガママになったらどうです?」

 

 笑顔が作れているかシオンは心配だった。恐らく作れていないのだろう。自分でも分かる。

 だってさつきも、今にも崩れてしまいそうな笑顔なのだから。

 

「それじゃあね、私も言うね。きっと最後だから」

 

 さつきは大きく息を吸い、花が咲くような笑顔を向ける。

 弱い自分を隠すための偽りではなく、本心から、心から愛した人へと向けた笑顔を。

 

 

「遠野志貴くん。わたしはずっとずっとあなたが好きでした」

 

 

 それが彼女の一世一代の大告白だった。

 余計な装飾なんていらない。ただ、本当の愛を、本当の言葉で伝えよう。

 さつきの涙腺が崩壊する。

 ああ、駄目だ。最後までやせ我慢をしようと思ったけれど、やっぱり自分は弱いと自覚する。

 

 それでも、最後くらい甘えても、きっと神様だって許してくれるだろう。

 それからさつきは自分の全てを語った。

 

 元から好きだったけれど、中学二年生の冬、閉じ込められた体育倉庫から助けてくれた時に本当に好きになった事。

 同じクラスになったのに、志貴くんは覚えてもいなくてすごくショックだったこと。

 オレンジ色の夕日が照らす帰り道、この人を好きになって良かったとまた思えたこと。

 

 気付けば志貴も泣いていた。

 ああ、やっぱりこの人は優しい。どれだけ迷って傷ついて、責任を取るために動いても、こんなわたしのために泣いてくれるのだ。

 

 ――うん、そんなところが誰よりも好きだった。

 

「また泣いてくれるの志貴くん? 優しいなあ。できればそんな優しさを、わたしが独りじめにしたかったなあ」

「…………俺は」

「ありがとう、志貴くん。でもね、わたしの人生はそんなに捨てたものじゃなかったって思うの。好きな人の手で終わりを迎えられて、生き返った後も友達が出来て、そして――」

 

 さつきは晴れやかに笑いかける。

 

「そして本当に愛した人に想いを伝えられた。こんなに幸せな事がある?」

「…………弓塚さんっ!!」

「もう、最後くらい名前で呼んでよ」

「…………さつきさん」

「呼び捨てで」

「…………さつき」

「あはっ、嬉しい。なんだか本当に恋人同士みたいだね」

 

 泣きはらしたような真っ赤な顔で、さつきは屈託無く笑う。本当に笑顔が似合う女の子だった。

 

「――――――――私は諦めません!!」

 

 唐突に、シオンは張り裂けそうに叫んだ。

 迷いを全て断ち切った、理知的ながらも暖かな瞳で眼前の親友に宣誓する。

 

「私、シオン・エルトナム・アトラシアは! 誇り高き錬金術師として! そしてあなたの親友として誓います!! 決して諦めないと!!」

 

 静かに闘志を燃やす瞳に憂いは無い。

 

「たとえ真祖が不可能と断じようと!! たとえ何度失敗しようとも!! 私は諦めません!! 私は挫けません!! いつかあなたと共に笑い合える日が来るまで、何度だって挑んでみせると!!!!」

 

 天に、真祖に、親友に、――――そして全ての不条理に対して、シオンは挑戦状を叩きつけていた。

 

 宣戦布告だ。

 

 壁は高ければ高いほど、上り詰めた時の快感もひとしおだろう。その時に、隣に友がいてくれれば望外の喜びである。

 見上げるような断崖絶壁でも、何のとっかかりも見えない壁がそびえ立とうとも、自分は決して歩みを止める事はない。

 

 これは決して終わりなどではない。これは新しい始まりなのだ。

 シオンは、本心からの満面の笑顔を見せる。

 そしてさつきもそれに満面の笑顔を見せた。

 

 さつきに疑う心は欠片も無い。頭でっかちで理屈っぽいけれど、どこまでも暖かな学者の彼女のことだ。不可能なんてあるはずがない。案外、直ぐに何とかなるかもしれない。

 だから、さつきはこう言った。

 

「うん、信じているよシオン。だから」

 

 さつきは最後の言葉を全幅の信頼と最大の親愛で送る。

 

 

「――――――またね、シオン」

 

 

「――――――――――――――――――――――――――」

 

 シオンは瞠目し――そしてすぐに表情を引き締めた。志貴も既に涙を止めていた。

 志貴の腕に力が籠る。それを察したシオンはその腕に自分の力も乗せ、一息に突き刺す。

 そして、しばらく会えなくなる親友に言葉を贈る。

 

「――――――それではまた、さつき」

 

 トスリ、とあっけなく志貴のナイフがさつきの胸に突き刺さる。

 さつきは苦しむ素振りも見せず、最後まで快活な笑顔を絶やさない。

 彼女の身体が崩れていく。

 夜風は灰となったさつきの身体を運んでいき、そして最後に、

 ――彼女の笑顔を連れて行った。

 



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エピローグ1

 ――八月初頭

 うだるような熱気は夏本番とでも言わんばかりに、肺腑を焼く。

 日光は相も変わらずアスファルトを熱し、空間を歪ませる。

 ただし、つい数日前とは異なる点が一つだけ。

 サカナたちが猛暑にも負けず、町へ繰り出しているという点だろうか。

 

 ファストファッションの話題で盛り上がる中高生。相手の顔も見れないはずなのに、携帯電話越しに頭を下げるサラリーマン。

 そして、暑苦しい学生服の少年と白いハイネックに身を包んだ金髪の美女。

 二人は無言で、活気の溢れる雑踏を縫うように歩き、繁華街から一歩外れた道へ出る。

 油と埃がこびりつき、場末の飲食店特有の匂いが鼻をつんざく。

 

 志貴は胸に小さな花束を抱えていた。

 その花束を抱えながら、すっかり馴染みとなった路地裏に入り込む。

 ここに来るたびに、様々な記憶が思い起こされる。

 自分が殺した女が追いかけてきて追い詰められた事も、決して忘れられぬ思い出だろう。

 

 しかし、今は、彼女との思い出のほうが強かった。

 遺体の入っていない彼女の墓に花を添える気はどうしても起こらなかった。

 彼女の命が断たれたのは間違いなくここだ。世界中の誰もが知らなくとも、自分と彼女達だけは胸に刻み続ける土地。

 志貴は記憶を頼りに、彼女の胸にナイフを突き立てたあの場所へ足を運ぶ。

 そこはどこまでも殺風景で、渇いた景色。

 そこに、すでに花束がいくつも置かれていた。

 

「なんだ、先客がいたのか」

 

 志貴は誰にともなく独り言ちると、花束が置かれている場所に、自分の花束を重ねる。ちなみに自分のが一番小さいのが少し悔しい。

 ポケットからライターと線香を取り出し、火をつける。

 どこか郷愁を漂わせる匂いに志貴はしばしば感じ入り、燃え移らないように花束から少し離れたところに置いた。

 

 無言で手を合わせ、瞼を閉じる。

 瞼の裏に思い浮かぶは、自分を好きだと言ってくれた一人の少女。

 ほう、と志貴が息を吐き、すっと立ち上がる。

 

「――――もう行こうか、アルクェイド」

「あら、もういいの? てっきりもっといるのかと思ってた」

 

 アルクェイドはきょとんとした顔をする。

 

「ああ、いいんだ。どうせすぐに会えるしな」

「…………そう」

 

 アルクェイドはそれ以上言わなかった。ただ、いつの間に摘んでいたのか、名前も知らない小さな花を、花束の近くにそっと置いた。

 志貴はそんなアルクェイドに微笑を浮かべると、手をメガホンの形にする。

 

「おーい! シオン! 隠れてないで出て来いよ!!」

「なっ、なぜ分かったのです志貴!?」

 

 ひょっこりと、物陰から全身紫の学者が現れた。予想外の事態だったらしく、顔には焦りと驚きが浮かんでいた。

 

「カマかけただけだよ、どうせいると思ってね」

「ひ、卑怯です志貴! 私を騙したのですか!?」

 

 顔を真っ赤に染めてシオンはポカポカとハンマーパンチを叩きつけてくる。志貴はじゃれ合いをしばし楽しむと、小さく息を吐いて、少しだけ真剣な表情を見せた。

 

「……君はこれからどうするんだ?」

 

 それは現在の事を聞いているようで、遠い未来をも訪ねているようだった。

 シオンは顎に手を当てると、少しだけ悩む素振りを見せて、慎重に言葉を選ぶ。

 

「とりあえずはアトラス院に戻ってみんなと研究を続けようと思います。まあ、その前に学長たちを説き伏せるために反省文を書かなければなりません。もしアトラス院で駄目ならば、彷徨海にコネがあるので、そこでお世話になろうと思っています」

「はは、よくわからないがシオンなら絶対大丈夫さ、俺が保証する」

 

 彼女は本当に変わった。今まで、他人の手を借りる事に抵抗があり、全てを抱え込もうとしていた彼女は、人に頼る事を覚えた。

 彼女はそれを弱さと言っていたけれど、志貴はそれも一つの強さだと思っていた。

 そんな志貴の想いをよそに、シオンは誰に向けるでもなく独白する。

 

「私は間違いだらけの人生でした。それでも、ここで得られたものは決して無駄ではなかったと思います。きっとこの先、私は何度も間違え、何度も失敗するのでしょう。ですが、それでも、私は決して諦める事も自分を嫌う事もしないと誓いましょう」

 

 宣誓は空に流れて行って、青空へ染みわたる。

 その横顔は青空に負けないくらい晴れやかで清涼だった。

 志貴はハンドポケットのまま、彼女の横顔を眺めていると、すっと目の前に手を差し出された。

 

「お別れです。志貴、最後にその……握手をしてもらえませんか?」

 

 二度目だというのに全く慣れた風は無く、顔を赤らめながら遠慮がちに手を伸ばす。

 志貴はポケットから手を取り出し、迷いなく、その手を握りこんだ。

 固く、ほどけないように二人は握り合う。

 そして、彼女の方から手を放し、少しだけ名残惜しそうに掌を見つめてから最後の言葉を口にした。

 

「志貴、私は決して諦めません。データ体となったリーズも、魔眼で存在ごと殺されたさつきも、必ずや人間に戻してみせます。ですが、その……」

 

 言いにくそうに、もじもじとしていたが、意を決したようにシオンは少しだけ弱音を吐露する。

 

「ですが、私は弱いのです。これから先、少しだけへこんでしまう事があるかもしれません。その時に……その時にあなたを訪ねてもよいでしょうか? こんな弱い私を叱ってもらえないでしょうか?」

 

 上目遣いで、不安げにシオンは志貴を見上げる。彼女が時々見せるようになったこんな表情が、志貴は素直に嬉しかった。

 自分に出来る事などほとんど無いだろう。せいぜいが尻ごみする彼女の尻を叩いてやるだけだろう。そしてセクハラだなんだと叫ぶ彼女に追い回されるのだろう。

 そんな未来を想像して、少しだけクスリと笑った。

 

「ん? 何がおかしいのです志貴?」

「いや、何でもないよ」

 

 勘の鋭いシオンに、志貴は首を振ってごまかすと、真っ直ぐにシオンを見つめ返す。

 

「もちろん、俺なんかでよければいくらでも頼ってくれ。シオンが嫌だって言っても俺はお節介を焼かせてもらうぞ。なんたって数少ない俺の友達なんだからな」

 

 ふっと志貴は柔らかく笑い、シオンもつられて笑みを返す。

 これ以上の言葉は不要だった。

 志貴も自分も湿っぽい別れは似合わない。別れの時こそ鮮やかに。

 

「それでは、私はそろそろ行きます」

「ああ、達者でなシオン」

 

 それだけ言うと、志貴も既に去っていった真祖を追いかけていった。なんとも彼らしいあっさりとした別れ。それでこその彼なのだろう。

 

 シオンも踵を返し、はるか遠い穴蔵を思い浮かべる。

 これから先、自分と志貴が交わる事は無いだろう。それでも、もし、私に何かがあれば、きっと彼は駆けつけてくれるのだろう。

 

 それがとても暖かで、心が喜びで打ち震えた。

 だから、きっと私は大丈夫。

 彼と、彼女と、そしてその道中で出会った人々との絆は私にとってかけがえのない財産だった。それがあれば私は迷う事は無いだろう。

 手でひさしをつくり、照り付ける太陽に微笑みかけ、決意を胸に歩を進める。

 

 いつかまた、花の咲くような笑顔の彼女に会うために。

 



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エピローグ2

これにて完結です。皆さんのおかげで最後まで楽しく書ききる事が出来ました。ありがとうございました!! 最後になりますので、もし少しでも楽しめたのなら感想をお願いします。次回作はさつきとシオン達路地裏同盟と鮮花が織りなすドタバタコメディを妄想しております!!


 プシュウウウと炭酸の抜けるような音と共にコフィンが開き、シミレーション終了のアラームが室内に響く。

 

 むくりと、上半身を起こした彼女は何度か目をしばたたかせ、瞳の涙を拭い眼鏡をかける。そしてベレー帽を脱ぐと後ろで束ねられた三つ編みをほどくと、左右の二本にまとめ上げる。

 馬の尻尾のようにツインテールをなびかせると、シオン・エルトナム・アトラシアは久方ぶりの現実世界の空気を肺いっぱいに吸い込んだ。

 機械類に囲まれた空間特有のどことなく無機質な香り。シオンは不思議とこの匂いが嫌いではなかった。

 

『シミレーションお疲れさま、シオン。……で、どうだった?』

 

 背後のモニター室からマイクを通じて声をかけてくれるのは、年の頃十四か十五の少女。

 ――の姿をしたレオナルド・ダヴィンチその人である。

 見た目は可憐な少女でも、中身は間違いなく壮年のお爺さんである。この姿は生前、彼が最も美しいとした女性の姿であり、自分をその姿に変えたもののさらに縮小版である。

 アトラス院の人間が言えた義理ではないが、天才というものはやはり頭のねじが数本飛んでいる。

 

 以前、そのことについて童話作家のサーヴァントに尋ねたところ「あんな性癖倒錯者の事など知るか!!」とすげなく突っぱねられた。あんまりな態度だとも思うが、他のサーヴァントも概ね似たような感想を持っているらしい。シオンは考えるのをやめた。

 

 志貴との別れからどれだけ時間が経過しただろうか。

 彷徨海に流れ着き、吸血鬼化の治療法を研究していたところ、人類滅亡の危機を計算で弾き出し引きこもった。そこにやってきた地球最後のマスターのバックアップに務めるかたわら、シオンは研究を続けていた。

 シオンはコフィンの無機質な肌をつるりと撫でると、今回のシミレーションの反省を脳内で行う。

 

 ――一番思考。やはり、最初の接触するのはさつきではなく志貴にするべきだったのでは?

 ――一理ある、次回に向けて前向きに検討しよう。

 ――二番思考。やはり、さつきに自分の正体を悟らせないようにするべきでは?

 ――確かに、戦闘途中で自身がタタリである事を知られたのはまずかった。

 ――三番思考……

 

『こーら、また一人で脳内反省会してないで、私の質問にも答えてくれたまえよ』

 

 そこで思考は中断される。はっとわれに返ったシオンは、恐らくモニター越しに自分の覗いているであろう万能の天才に曖昧な笑みを返した。

 

「うーん、まずまずといったところですね」

『そうかい、でも気にする事はないとも。失敗は成功の母。私ほどの天才でない限り、人は失敗しながら前に一歩ずつ進んでいくものさ』

 

 さり気なくカチンとくるフォローを入れながら、ダヴィンチは陽気な声を上げる。シオンは笑みを苦笑の形に変えると、今回のデータを見るべくモニター室へと足を運ぶ。

 扉を開けると様々な観測機が膨大なデータを処理し、フル活動を続けている。これも今までずっと繰り返してきた事だ。

 シオンは手近な椅子に腰かけ、眼頭を押さえる。少々、疲労が溜まっているようだった。

 

「お疲れ様、はいどうぞ」

「ありがとうございます」

 

 ダヴィンチの差し出したカップを受け取ると、湯気の立つコーヒーの香りを楽しむ。

 一口すすると、苦みのある芳醇な香りが口腔から鼻腔へ伝わり、眠りかけていた脳細胞が目を覚ます。

 

 ちらり、とシオンが一際大きく目立つモニターに視線を移す。そこには大小様々な扉が鎮座し、光る扉と黒く陰った扉が並んでいる。

 両者の違いは単純明快。すでに試した分岐か試していない分岐かだ。シオンがコーヒーを一息に飲み干すと同時に、また一つ輝いていた扉が黒く塗りつぶされた。

 

 ロゴスリアクト・ジェネリック

 

 これがこのコフィンの名だ。以前、立花くんたちが暴走させてしまった簡易版ではなく、正式な大規模演算シミュレート装置。

 いくつかの条件を入力することで限定的な観測空間を生成し、そこで仮想実験を行う装置である。

 

 中の数値、すなわち条件を設定出来るので、あらゆる『if』をシミュレート出来るだけに、まさしく「夢のような」現実体験である。異なる歴史の検証を行い『あの時こうしていればどうなっていたか』を何度でも検証可能だ。

 

 ――まあ、検証できるだけでレイシフトのように過去を変えられるわけではありませんが……

 

 シオンは少しだけ自嘲気味に笑うと、腕のアラームが次のスケジュール開始を知らせる。

 

「ダヴィンチ。私はちょっといつものところへ行ってきます」

「ああ、いつものアレかい。君も友情に篤いねえ」

 

 シオンは軽く頭を下げると、自室に向かって歩き出す。途中で人工培養した皐月の花を一輪胸に抱き、自室の扉を開ける。

 研究者の部屋らしい、実に簡素で人間味の無い部屋。眠ること以外にはほとんど使わず、調度品や娯楽品のほとんど無い、ある種の無菌室じみた部屋の中央に、一つだけ異質な存在があった。

 

 ベッド脇のテーブルに置かれた写真立。そこに移るのは照れ臭そうにはにかむ若き日の自分と、元気と愛想を振りまく制服を着た少女。

 彼女が拾ってきた使い捨てカメラに、一枚だけ残っていたフィルムで撮った、一枚きりの写真。

 

 花瓶のしおれた花を、自分の持ってきた新しい花に変えると、写真立てを手に取る。

 思わず、笑みが零れた。変わらず、私は解決の糸口も掴めていないけれど。何度もあなたを救おうと奔走しては、そのたびに打ちのめされているけれど。

 

「――それでも、私は諦めません。挫けません。――絶望なんてナイナイ!」

 

 彼女の得意技だった空元気で、シオンは胸の前でガッツポーズをとる。

 空元気だって立派な元気。彼女はいつだったかそう言った。

 たかだか、三百回程度の失敗でへこたれるほど私は弱くない。

 

 ――それでも、底知れぬ不安はあった。

 

 現在、彷徨海にある演算システムは世界最高峰のものだ。あらゆる状況を計算し、シミュレートし、解決の糸口を探りだす。そこから導かれる『if』に則ってシオンはシミュレートを繰り返し、彼女を戻す方法を模索している。

 

 その扉が全て黒く染まってしまったら、私はその時何を思うのだろうか?

 

 無論、それが吸血鬼化の治療に直接結びつく可能性は低い。吸血鬼化治療は別の方法で模索している最中だ。

 それでもシオンは願わずにはいられなかった。

 もし、彼女が吸血鬼化しても幸せになれる分岐点はあったのではないか。

 

 意味の無い感傷か?

 確かにそうかもしれない。けれど、『if』の存在は無駄ではない。たとえ、今の自分が辿った道筋が光明の見えないものだったとしても。どこかで枝分かれした未来で彼女が笑っていたらと思うと、ほんの少しだけ救いがあるような気がしたからだ。

 シオンは眼鏡のブリッジを戻すと、モニター室へ戻るために写真立てをテーブルに戻す。

 

 青春の思い出に浸るのはここまでだ。地球が白紙化されていては、彼女が復活したとしてもびっくりするだろう。志貴がいなくなっているのも問題だ。

 こんな時まで彼女の事たちを考えている自分が何だかおかしくて、シオンは誤魔化すように歩を進める。

 

 何度も行き来し、壁の染みの数まで覚えてしまいそうな廊下を抜け、再びモニター室に戻ってきたシオンを出迎えたのは万能の天才少女だった。

 ニマニマと我が子の恋愛話を楽しむ母親のように、意地の悪い笑みを浮かべている。

 

「な、何ですかダヴィンチ。私の顔に何かついていますか?」

「まさか! 君は身だしなみもピッチリしているとも! 問題はそこじゃあない。さあさあ、どうぞこちらへ」

 

 ダヴィンチが強く服の裾を引っ張るので、シオンは訳も分からずモニターの前へ引っ張られる。そこには変わらず、ほとんどの扉が黒く塗りつぶされた画面が鎮座していた。

 これが何か、とシオンが聞くより早くダヴィンチが口を開く。

 

「シオン、以前君は『あらゆる可能性が潰されたらどうしよう』とこぼしていたけれどさ」

 

 以前、つい口から洩れてしまった弱音に、シオンは固く口を引き結んだ。シミュレートの失敗が二百五十を超えたあたり、足元が溶け堕ちるような焦燥感に襲われた時の事だろう。

 

「私はね、可能性というものは、一つの角度からだけでは測りきる事は出来ないと思うんだよ。決して諦めなかった人間が、確率論も機械も何もかもを乗り越えてその手に掴むもの。それを奇跡と言うと考えている」

 

 シオンは意味が分からず眉根を寄せる。もしかして遠回しに諭されているのだろうか。

 これだけやってダメなのだから諦めろ、と。

 堪らずシオンは顔を背けようと首の筋肉に力を入れると、あらぬ方向を見ようとする。

 すると、視界の端に一筋の光が輝いた。

 

「え…………?」

 

 シオンは呆けたようにモニターを見つめる。目の錯覚かと思ったが違う。今まで、画面を扉で埋め尽くしていた画面がズームアウトし、扉が豆粒のように小さくなる。

 そして、ポツポツと新たな扉が現れ始めた。

 それは水面に湧き上がる泡のように、次々と光輝きながら新たな道を示し始める。

 今までとは比較にならない情報量、分岐点。

 演算気はオーバーヒートを起こしかけ、悲鳴をアラームに変えて大合唱。

 

 わなわなと、自分の方が震え、開いた口が塞がらない。きっと自分は相当に呆けた顔をしているのだろう。

 隣のダヴィンチはにんまりと微笑むと、問いかける。

 

「――どうだい? これでもまだ絶望出来るかい? まだ諦めようって気持ちが起こるかい?」

 

 そんな彼女の優しい挑発に、シオンは久方ぶりの満面の笑みで答えた。

 

「――――まさか! 諦めるなんてナイナイ!」

 




いまさらながに月姫のss書くって俺って頭オカシいんじゃないか……?


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