その艦、あきつ丸 (友爪)
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プロローグ 猫と黒い艦娘


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嗚呼、せめて私に死ぬ意味を。



 人生最後の日に食べたいものといえば何だろう?

 

 

 やはり、肉かな。厚切りの霜降り肉を、パチパチ音の鳴る鉄板で焼いて、焼き目と赤身が絶妙なバランスになった瞬間にナイフを入れる。上質な脂が滴り落ちる肉を、口一杯に頬張って、咀嚼する。それを年代物の赤で流し込めたら──

 

 ごくりと喉が音を立てた。空っぽの胃が肉派に傾きかけた時、身体の一部が胃に抗議した。激痛、という形で。

 

 眉を顰めて、両太ももに目を向やる。普段であれば、色白で張りの良い健康的な美脚がそこにある筈であった。しかし、今や見る影もない。

 

 一面の赤。赤い軟体と液体、それと僅かの白い固体が、境界面も分からない程に混じりあっている。

 

 肌の内側に収まっているべき肉が剥き出しだ。歪に飛び出ている肉を換算しても、太ももの体積には明らかに足りない。心臓が拍動する度に、いっそ滑稽なくらい、ぴゅうぴゅうと血が吹き出ている。

 

 負傷──と言うより、もはや『爆発』としか表現出来ない様な有様であった。これで何故未だ立てているのか、自分でも気持ちが悪い。

 

 

「食欲が失せたであります」

 

 

 強襲揚陸艦、あきつ丸は文句を言った。

 

 肉は駄目だ。やはり、魚だな。

 

 直近に面した暗い海を眺めて、魚料理に想いを馳せる──調理法が思い付かない。それもその筈。魚など、艦娘として生まれてこの方、食べた事が無かった。

 

 海の底から『深海棲艦』なる謎の生物が、望まれざる海上封鎖をして久しい。漁師も釣り人も、陸に押し込められ、川魚などは既に喰らい尽くされた。今や魚とは幻の珍味だ。それを食べたいのなら、闇市で尻の毛まで毟られるか、命を顧みず海釣りに出るか、どちらかしか無い。

 

 あきつ丸は、どちらも御免だった。

 

 数度の発砲音が闇夜に響いた。非音楽的なそれは、あきつ丸を美味しい妄想から、不味い現実に引き戻す。

 

 

「──がせ。まだ近くに──」

 

「──出てこい、売女──」

 

「──ろしてやるっ──」

 

 

 複数人の粗野な叫び声が、遠く聞こえた。

 

 追い付かれたか──あきつ丸は目を細め、懐から愛銃を取り出す。弾倉を確認すると、残弾は一発だけだった。思わず笑いが込み上げる。

 

 我ながら上出来じゃないか。

 

 弾倉を戻すと、物陰に背中から寄りかかっていたあきつ丸は、力無く、ずるりと自ら作った血の海に座り込んだ。冷たい潮風が、艶やかな黒髪を靡かせる。

 

『強襲揚陸艦』という、特殊な艦種に生まれて十数年。海に出た事は一度も無い。本来ならば、艦娘とは海上自衛隊の管轄なのだろう。だが、どういう成り行きか、あきつ丸は陸上自衛隊に属していた。

 

 この奇妙な経緯について、上からの説明はなされなかった。しかし、推測は容易だ。伝統的に、海と陸は仲が悪い。そういう事だろう。

 

 さりとて仕事が無かった訳ではない。国内の内輪揉めに加担するという、極めて重大で無意味な仕事を任された。そのために、今、現に、こうして死にかけている。

 

 陸自情報機関によれば、外部組織と連み、国民生活に影響を及ぼす様な、極めて悪質な汚職を行う辺境の鎮守府が検知された(機関の報告を全面的に信用するならば、であるが)。

 

 困窮する国民を見捨てる訳にはゆかない、海自鎮守府摘発すべし──という大義名分(言い訳)を得て、あきつ丸は件の『取引先』で証拠を掴むため『鎮守府の遣い』として派遣された。

 

 そして、ひ弱で色白の令嬢ぶって健気にも諜報活動に専念していた所、露見したのだ。

正体がバレたのは過去に複数回あった。

 

 完璧に表面を取り繕ったとしても、鋭く看破する切れ者というのは、何処の組織にも一定数居るらしい。そうなると逃げの一手だ。今回も、さっさと逃げ切るつもりだった。だが、どうやら敵を舐めていたらしい。

 

 あきつ丸に銃撃は通じない。所詮は『点』での攻撃だ。艦娘の動体視力、運動神経を以てすれば恐るるに足りず、多少被弾したとしても、活動は可能だ。

 

 敵は学習したのだ。何時もの如く、あきつ丸が華麗に銃撃を躱していた所、唐突に『面』での攻撃に切り替えた。

 

 手榴弾、仕掛け爆弾、果てはグレネードランチャーまで……人外染みた間諜一人を殺すために、敵は徹底的に労を惜しまなかった。あきつ丸は対応しきれず、安全圏まであと一歩という所で被爆した。全て油断と慢心が招いた結果であった。

 

 瀕死の艦娘は、おぼつかない手並みで拳銃の遊底(スライド)を引いた。次いで、残り一発の銃弾を、果たして何処に向けて放つべきか迷った。

 

 力を振り絞り、僅かに半身と銃口を壁面のコンクリートの窪みから覗かせた。野蛮な連中は、自分の居場所を隠そうともしない。懐中電灯の明かりと、けたたましい怒声は着実に近付いて来ている。逃走経路で何人かは減らしたつもりだったが、未だ十分過ぎる程に多い。重火器のみならず、人材の投入も万全という訳か。

 

 今飛び出したらどうなるだろう?

 

 知れている。太もものみならず、全身を派手に爆発させて、肉片はそこら中に飛び散るだろう。その肉片は一片残らず回収されて、直ぐ隣の海に撒かれるのだ。魚を食べるつもりが、逆に食べられたのでは洒落にもならない。

 

 かと言って、このまま待っていても、いずれ見付かる。その時は、下賎な男共が思いつく限りの方法で責任を取らされた後、やはり海に撒かれる──どうあっても魚の餌は免れない。

 

 そのぐらいなら──あきつ丸は、銃口をこめかみに押し当てた。残り一発。元より、この状況を想定しての残弾数だった。

 

 むざむざ敵に殺されるよりは、生きて辱めを受けるよりは、自ら決着をつけた方が良いだろう。職務を全う出来ないのは無念だ。しかし、ここで潔く散華すれば、きっと自分ではない誰かを勇気付ける折もあるかもしれない。最期は、誇り高き艦娘の生き様を世に示すのだ──と、ここまで考えて、あきつ丸は自嘲した。

 

 これでは、前時代の精神論から何一つ進歩していないではないか。

 

 散華? 勇気? 誇り高き生き様?

 

 どの様な美麗美句を並べ立てたところで『犬死に』の姑息な言い換えに過ぎない。そんな事だから戦争は終わらないし、無くならないんだ。結局の所、小汚い女が小汚なく死ぬ、それだけで済む話ではないか。

 

 引き金に掛かる指に力が籠った。この上はさっさと自裁するに限る。あきつ丸は不意に笑った。どうせなら笑って死んでやろう。それがせめてもの反抗だ。

 

 

 さあ死のう。小汚い女は、他愛も無く死ぬさ。犬は犬らしく、無為に死ぬさ。

犬死に、犬死にか──

 

 

 喉が妙な音を立てた。指が動かない。内側から太い針金を通された様だ。何だ? 動け、動け。自分は死ぬんだ。今死ぬんだ──念じるうちに、目頭が耐え難い熱を帯びた。その熱は、太ももを抉る灼熱よりも、遥かに激しくあきつ丸を苦しめた。

 

 目頭に帯びた熱が、涙腺を通じて洩れ出す。血の海に、一滴、二滴と澄んだ潮水が混じった。

 

 この臆病者めが──自分を罵ってみても、大した効果は無かった。それどころか、心の奥底に沈めていたものが急浮上してきた。

 

 嫌だ、嫌だ! 艦娘として海に出る事も叶わず、このまま無意味に終わるのか。誰にも知られず、無為に消えてゆくのか。ならば自分の生とは何のためにあったのだ。死は怖くない。けれど、犬死には嫌なんだ。もっと有意義な死に方をしたいんだ。たったの一人でも、自分を惜しんでくれる人が居たならば、迷わずこの引き金を引けるのに──

 

 銃口の冷たさをこめかみに感じながら、あきつ丸は不意に悟った。

 

 前時代の人々は、死が恐ろしくて散華だの勇気だのを褒めそやした訳では無い。耐えられなかったのだ。自分が無意味に死ぬ事、人知れず消える事、犬死にする事に。

 

 けれどそれは、弱さを認められない故の逃避だ。卑怯者が自己を錯覚させるための方便だ。最期の時くらい、己に向き合わなくて何とする。

 

 自分は、逃げないぞ。

 

 あきつ丸は硬直していた四肢を脱力させた。沈めていた自分の弱さを認めた途端、楽になった気がした。改めて引き金に指を掛ける。もはや迷いは無かった。

 

 

「誰かそこに居るのか!?」

 

 

 何時の間にか、直ぐそこにまで迫った男が叫んだ。物陰の角に、何条もの懐中電灯の光が集中した。重火器が剣呑な金属音を立てる。じりじりと、靴音が近付いてくる。

 

 急かさなくても、今、死んでやるさ。

 

 

「因果。自分を殺すのには、何時も自分が必要でありますな」

 

 

 最期の最期は、海の藻屑と化して、在るべき場所へ還るのも悪くない。あきつ丸は

低く独り言ちて、指の筋肉を永遠に収縮させようとした──その時。

 

 

「にゃあん」

 

 

 場違いな声だった。いや、鳴き声だった。男たちの目前に物陰から現れたのは、一匹の猫──にしては、やけに太い声をした。

 

 あきつ丸は目を丸くした。この雉猫、何処に隠れていた? 全く気配を感じなかったが……。

 

 

「何だ猫か……」

 

 

 その台詞を一生に一度聞くかどうか。まるで漫画の様に男は呟いて、構えた銃を下げた。男自身、馬鹿馬鹿しいと思ったか、恥ずかしいと思ったか。慮外の乱入者には目もくれず、仲間を連れてそそくさとその場を離れた。

 

 猫は、男たちの目に付く場所にじっと鎮座していた。やがて声すら聞こえなくなると、あきつ丸の傍に寄ってきた。

 

 奇妙な猫だ。

 

 空間を支配する暗闇と、何より『猫』というインパクトで完全に麻痺した観察眼を奮い起こす。やけに凝った装いは、飼い主の趣味だろうか、海軍士官めいている。だが飼い猫にしては首輪をしていない。さりとて野良にしては不遜過ぎる。金色の瞳が闇夜にぼうっと浮かび上がり、多少ならず不気味だ。

 

 帰する所『奇妙』としか表現しようも無いのだった。ともあれ、信じ難い幸運に見舞われた事は事実である。

 

 

「助かったであります、猫閣下」

 

 

 あきつ丸は珍妙な猫に礼を言うと、コンクリートの隅から這い出した。立ち上がろうとして、失敗する。何度かそれを繰り返して、匍匐で進む事にした。

 

「助かった」と猫に言ったものの、本当に助かるかどうか、分からなかった。傷はともかく、失血が問題だ。息絶える前に、仲間に拾って貰えるか否か──

 

 

「おい、お前」

 

 

 背筋が凍った。太い男の声が、背後から聞こえたのだ。まさか、あの男たちの一人が残っていたのか!?

 

 匍匐の状態から、腕力だけで全身を瞬時に半回転させ、銃を構える。一人なら、一人だけなら何とかなる。しかし、背後には暗闇があるばかりで誰も居ない──猫一匹を除き。

 

 

「うおっ、危ねぇな! 何だ、意外と元気じゃん」

 

 

 猫は、とことこと顔付近まで歩み寄ってきた。あきつ丸は未だ、銃口を右往左往させ、声の主を探っている。

 

 

「ココだよ、ココ。目の前の猫」

 

「は……?」

 

「どうしたんだお前。太ももがえらい事になってるぞ。あいつらにやられたのか?」

 

 

 あきつ丸の脳髄は幾つかの選択肢を用意した。

 

 一つ、大量出血による幻覚。二つ、死に際に現れた心霊の類。三つ、現実。

 

 現実的なのは一つ目、その場合無視して進めば良い。二つ目であれば、もはや命運尽きたと諦めよう。しかし三つ目なら、三つ目なら、どうしよう。他に考えられる可能性は――駄目だ、血が足りない。

 

 

「まあ、そういう反応は慣れたもんだ。なんとビックリ現実だよ、コレ、現実」

 

「猫閣下が、喋った……」

 

「その礼節は評価するぞ。たが俺には『ノア』というちゃんとした名前がある」

 

 

 ノアと名乗った猫は、ぴょんとあきつ丸の腹の上に飛び乗った。ちゃんと重みを感じた。幻覚や心霊ではない。

 

 

「その傷で死なないって事は、お前艦娘だろ? 俺は海上自衛隊の端くれでな、危うい雰囲気だったから助けた」

 

 

 言いたい事は山程あったが、あきつ丸はその全てを棚上げした。最初の二つの可能性を捨てた訳では無かったが、彼女はシビアなリアリストだった。 この猫は海自と名乗った。陸と海は水面下で敵対関係である。正体を知られる訳にはゆかないが、発想を転換すれば、これはチャンスだ。

 

 

「そう、自分……私は艦娘です。海上を哨戒していたら、海辺で人影を見たので、注意しようと近付きました。そしたらいき

なり攻撃されたんです。まさか深海棲艦以外に攻撃されるとは思わなくて、捕まってしまいました。艤装も取り上げられてしまったんですが、命からがら逃げ出したんです。でも途中でやられてしまって……ううっ、痛い……」

 

 

 陸軍言葉を封印し、なるべく同情を誘う様な声色で、あきつ丸はすらすら(ぬけぬけ)と述べた。他人に見られる外見を完全にコントロールする術は、間諜任務で培った技術の粋と言える。

 

 

「ふーん、そうか」

 

「捕まる前、咄嗟に救難信号を出しました。きっと鎮守府の仲間が近くまで来ています。ノアさんには悪いのですが、呼んできてはくれませんか?」

 

「なるほど、事情は分かった。じゃあ、お前の所属と艦種、識別名を述べろ」

 

「……ううっ、痛い、痛い。お願いします。早く、仲間を」

 

「仲間っていうのは、銃声が聞こえた途端、黒塗りの車で逃げ去った二人組の陸自の事か?」

 ノアの金色の双眸が、鋭い光を放った。人間と比較して、何を考えているか分からない瞳だが、言葉の意図は明確だった。

 

 

 唯一の依り代にさえ捨てられた──対照的に、あきつ丸の目前はにわかに暗くなった。精神的というより、肉体的な原因かもしれない。

 

 

「聞いといて何だが、所属も何も答えなくて結構。俺は艦娘全てを記憶しているが、その中にお前の顔も名前も無い。だが心当たりはあるぞ。陸自が秘密裏に抱える特殊な艦娘。一切の詳細は不明だが、ただ一つ、黒装束らしいってな。で、お前の格好はどうだ?」

 

「…………」

 

「沈黙は肯定ということかな」

 

「日に二度も正体が露見するとは、このあきつ丸、生涯の不覚……であります」

 艦娘は手にしたままの拳銃を、腹の上の猫に向けた。正体が割れた以上、生かしておく訳にはいかない。銃弾は、一発残っている。

 

「俺を殺すか。へぇ、何の為に?」

 

「海に、陸の情報を渡さない為に」

 

「その陸さんは逃げたぞ。お前を見捨ててな。更に言えば、俺を殺したところでお前は助からない。骸が二つ、だ」

 

「……そのようですな」

 

 

 あきつ丸がそうであるように、ノアもまたリアリストだった。突き付けた拳銃が下ろされる。そして、銃口は再び艦娘のこめかみに押し当てられた。一周回って、同じ場所に戻ったのだった。

 

 

「骸は一つ、で十分ですな」

 

「やめとけよ」

 

「ノア殿、一つ頼みがあります。あの美しい海を、この下らない国を、どうか守護して下さい。自分は終生、下衆の艦娘でありました。争いの火種を生むばかりの、不肖の兵士でありました。後に続く艦娘がこんな有様にはならない様に……せめて誇りを持って死ねる様に、お頼み申します」

 

「やだよそんなの」

 

「……気の利かないドラ猫であります。荒唐無稽は重々承知。適当に頷いてくれれば良いものを」

 

「自分が勘定に入ってないだろそれ」

 

「は……」

 

「お前の言う、海や、国に、自分が入ってないだろ」

 

 

 腹の上のノアは歩み寄り、あきつ丸の胸の上に高く陣取った。金色の双眸が怪しく輝き、黒装束の艦娘を圧倒した。これは夢か現か? 息が苦しい。失血も相まって、判断が曖昧になってきた。

 

 

「あきつ丸、海に来ないか?」

 

 

 意識が掠れてゆく中、その言葉だけは、はっきり聞こえた気がした。陰々たる失望に浸り続けてきたあきつ丸にとって、余程に眩く、希望的な言葉だった。ならばやはり、これは夢だ。夢ならば、寝言の一つも言って良いだろう。

 

 

「魚。魚は食えるでありますか」

 

 

 それきり、瀕死の艦娘は意識を手放した。

 

 月だけが二人を白く照らしていた。純白のあきつ丸の肌を、夥しい流血の紅が伝い、彩っている。それでも何処か安らかな寝顔を見て、ノアは「何言ってんだお前」と苦笑した。



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第一章 つまり、これは戦争であった


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あなたがそう言うのなら。


 冬の海の彼方から寄せる波は高く、潮風は冷たく厳しかった。空は今にも降り出しそうな曇天で覆われ、波浪が砕ける音と、鉄骨を吹き抜ける風切り音以外、何も聞こえない。

 

 異様な静けさだ。本来、船着場とは、遠征帰りの駆逐艦の笑声や、時には出征に逸る艦隊の号令で満たされている筈ではなかったか。日も傾かぬうちに、それらが絶えるという事は、何らかの異常事態を示していた。

 

 異変はそれに留まらない。彼方の水平線が一面どす黒く染まり、蠢いていた。波風に比較すれば微々たる速度ではあったが、水平線そのものが、日に日に陸へ寄せ来る様に見える。

 

 それは錯覚にして、錯覚にあらず──注意深く観察すれば、海水が染色されたのではなく、幾重にも重なった黒点の集合体である事が分かる。その一点一点が、動作しているのだ。明らかに艦娘でも、貨物船でもない。今時分、我が物顔で海面に浮かんで居られる存在は、他に一つしか有り得ない──深海棲艦。

 

 

 つまり、これは戦争であった。

 

 

「やあやあ、これはまた、買いかぶられたものですな」

 

 

 沈黙は不意に破られた。地上でも、海上でもなく、空中。紅白の貨物用クレーンの天辺から、その声は発せられた。

 

 肝も縮む高所で、強風に煽られながらも、身じろぎ一つしない黒い影──強襲揚陸艦あきつ丸は、居心地も良さそうに望遠鏡を片目に当てて、水平を埋め尽くさんばかりの黒点を偵察していた。

 

 未だ彼我の距離は遠い。望遠鏡を目一杯伸ばしてみても、やはり点にしか見えない。思い出した様に『眼球』の倍率を上げる。次の瞬間には、望遠レンズと水晶体(レンズ)が無音のうちに掛け合わされ、敵群が目と鼻の先に感じられるようになった。

 

 群れの端から端まで、艦種を初め、顔の造形までも詳細に改めてゆく。途中、何度か目が合った気がした。その眉一つさえ動かさない青白い顔に覚えるのは、悪寒と言うより気色悪さだ。

 

 あきつ丸は目の合う度「おえ」と舌を出したが、それも一通り終えると、望遠鏡を短縮させ、烏羽色の制服に収めた。代わって懐中時計を取り出し、蓋を開く。

 

 

「作戦会議も終わる頃合でありますか」

 

 

 あきつ丸は呟くと、クレーンを組み上げる鉄骨を数回踏み台にして、軽やかに地上に降り立った。暫し、静止する。沈黙した空の鉛色にも似た、一面のコンクリート張りに、大穴が幾つも開いている。

 

 恐らく基底部までダメージがあるのだろう、底面の土砂からは滾々と海水が滲み出していた。特に海沿いの空洞には、堤防から溢れた海水までもが溜まって、落とし穴が形成されている。

 

 天然と非天然が共同制作したトラップの間を縫う様にして、あきつ丸は海沿いに歩き出した。歩みは鎮守府庁舎に向かっている。偵察の報告はいち早く届けるべきなのだが、足取りは鈍重だった。

 

 ここ数日に学習するならば、どうせ会議は定刻通りになど終わっていないに決まっているからだ。なので、せいぜい牛歩戦術を使わせてもらう事にしていた。

 

 数個目の穴を避けた時、あきつ丸は地面を注視していた冴えない顔を上げた。地面に開いたものを、そのまま平行移動させた様な大穴が、満遍なく建物にまで及んでいる。元陸自所属の艦娘は、憮然として嘆息した。

 

 たった数ヶ月前に赴任してきた時にはぴかぴか(に見えたものだが)だった筈の佐世保鎮守府が、哀れ、見る影も無い。水平線では、鎮守府をこんなにした張本人共が、海を黒ずませ気色悪くぞわぞわ蠢いている。

 

 あきつ丸の顔から感情という感情が抜けていった。代わりに、あの黒ずみより濁った瞳だけが、大きく見開いてゆく。

 

 今に真っ青に還してやろう──彼女は本当に心で想った事を、顔や声に出す素直さは無かった。何時でも泥濁しきった瞳で、じっと、確定事項を述べるのみであった。裏を返せば、彼女が表面上形作るものには、真意など欠片も含まれていない。

 

 怒涛の大群が佐世保近海に押し寄せてから、今日で早一週間。呵成に大挙されれば、一溜りもない群団であるだけに、鎮守府はパニックに陥った。哨戒は何をしていたのか、慢心しやがって、今日の担当は誰だ──と不毛な責任の擦り付け合いを経て(そもそもこれだけの大群勢でれば偵察の用を成さない)、焦り大規模な反攻艦隊が編成された。

 

 結果は惨敗。前提として数が違い過ぎるのだ。敵は水平線を埋め尽くす程の単横陣である。正面から行ったのでは、否応なしにT字不利の形になる。別角度からの奇襲をしようにも、目視可能な近海にまで進出されたのでは実施不可能である。帰結として、艦娘たちは同じ土俵すら追われ、陸に封じ込まれる形となってしまった。

 

 更に皆を困惑させたのは、敵の動向だった。圧倒的な兵力を有し、制海権をも抑えたのだから、後は勢いに任せて鎮守府を落してしまえば良い。しかし、敵は鎮守府を遠巻きに包囲するばかりで、時折散発的な遠距離攻撃を加えてコンクリートに大穴を開けては、積極的な攻勢に出てこない。

 

 

 一体敵の目的は何か? どう対処すべきか?

 

 

 との議論が起こって、何ら結論が出ないまま今に至るのであった。恐らく、今日とて同じだろう──

 

 無益な牛歩戦術も終わる時がきたらしい。

 

 眼前に、象徴的な赤レンガ造りの鎮守府庁舎が現れた。遠距離攻撃の余波で、屋根の端が欠けている。あきつ丸は、顔の筋肉が難しく顰められている事を自覚した。直後には弛緩した忌々しい微笑に代わられる。

 

 入口付近で現状を議論していた二人の駆逐艦が、歩み寄ってくる揚陸艦に気が付いた途端、ぎょっとして、足早に逃げていった。これでこそ──その点については満足して、あきつ丸は入口に歩み寄る。潜りながら、ふと確信した。

 

 この門口が崩壊する時にこそ、我々は肝を据えねばならないのだろう。

 

 

 

 

 静まり返った海とは対照的に、会議室は終わりの見えない喧騒に満ちていた。少女たちの甲高い声が卓上を飛び交い、時が経つに連れ音階は上がるばかりだ。その中に追加された机を叩く音や地団駄の音は、議論の白熱を余計に煽り、全く収拾をつかなくさせていた。

 

 窓の外の大群に、如何に対処するべきか──選抜された艦娘の会した室内では、論法が真っ二つに割れていた。即ち、あくまで抗戦するべしという主戦論と、戦力が温存可能なうちに退くべしという撤退論である。一週間も前から同じ議題に発した討議であったが、未だ決着が着いていない。

 

 

「だから、何度言ったら分かんねん! 敵がなんぼおっても、このまま籠城しとったらどうせジリ貧や。正攻法で破れんのやったら、夜襲をかけるなりなんなり、戦法はあるやろが。深海棲艦は何を考えとるか知れへんのやで。今夜にでも打って出て先手を取らんと、それこそ手もつけられん状況になるで!」

 

 

 正面向かって右方の上座から喧嘩腰を上げた、紅装束の艦娘が叫ぶ。主戦派の急先鋒──軽空母龍驤である。同じ側の席から、果敢な同意の声が対面に叩き付けられた。

 

 

「古参の方とは思えない軽率な言葉……良いですか、敵の目的が不明瞭だからこそ、軽々と動くべきでは無いのです。先日の戦闘で何を学んだのですか? 古来、防衛側を破るには三倍の兵力が必要と言います。敵は明らかにそれより多い。故に海上決戦など論外。撤退するべきです」

 

 

 正面向かって左方の上座に陣取った、桃色の髪の艦娘が、落ち着き払って反論する。撤退派の理屈家──駆逐艦不知火であった。同じ側の席から、意志を固くする同意の声が対面に跳ね返された。

 

 

「アホな。臆病風に吹かれたんか」

 

「正論を述べただけで臆病とは心外」

 

「ええか、艦娘は深海棲艦と戦うための存在や。それを果たしもせんと、ケツまくって逃げる? 冗談も大概にせいよ」

 

「ええ、逃げます。逃げて再起を図るのです。むざむざ全滅しにゆく方が冗談でしょう。あなたの提案は皆を死なせるだけだ」

 

「じゃあな、逃げたとしてどうなるんや? 佐世保が落ちれば、海どころか本土が侵される。そないなって、どの面下げて詫びる言うんや」

 

「貴重な艦娘を失う方が、全体としては損失でしょう。これは戦争なんですよ。無用な情を切り捨てないで勝利は有り得ません」

 

「無用、無用やと。貴様……っ」

 

 

 にわかに、『口調の変わった』龍驤の全身から剣呑な空気が噴き出した。越えてはならぬ一線を越えたのだ。一人の激昴は、速やかに対立する艦娘たちに伝播した。本来、水線上の相手に向けられる筈の敵意が渦巻き、戦友同士でぶつかり合う。侵略者に対する最終兵器たちの剣幕は『殺意』に至る手前に及び、僅かな切欠でもあれば、左右を分断する中央卓を飛び越える構えを見せた。

 

 

「はいはい双方そこまで。あ~怖い怖い。意見は良ーく分かった」

 

 

 殴り合いが始まる直前。太い声が、会議室の最奥から艦娘たちを制した。敵意に満ちた視線が、その出どころに集まる。

 

 焼け付く様な数多の敵意を平然と受け止め、ちょんと鎮座しているのは、一匹の雉猫。見間違えではない。冬仕様の黒服を着込み、階級章を付けた『猫』である。彼こそが佐世保鎮守府最高司令官──ノア提督であった。

 

 艦娘たちは、形だけは命令に従い、腰を下ろした。だがお互いを敵視する睨みまでは消えず、火種は燻ったままだった。しかし、猫に「座れ」と命令されるとは! 明らかに立場が逆なのではなかろうか──と甚だ不本意なのは、左右とも一致する気持ちであった。

 

 

「どちらの意見にしろ、一刻の猶予も無いのは確からしい。結論は出ないままだが、もう待つ事は出来ない。次の会議までに、俺が決断を下す。異存は?」

 

 

 提督は金の双眸で一同を見渡した。艦娘たちは不本意そうに押し黙り、苦い沈黙が場に流れた。

 

 ――確かに作戦の決定権は提督に属する以上、最終的にはそれしかないと頭では分かっている。かと言って、そうも上から命令されたのでは、この一週間は何のためにあったのか? 艦娘たちは存在を蔑ろにされた様な気がしてならなかった。

 

 そもそも畜生風情に指揮されるのが不満なのだ。日和見主義者で、遂には解任された先任の提督の方が、まだ人類であるだけましだった。入れ替わりで、数ヶ月前に、この猫が妖しい黒装束の艦娘を伴って赴任してきた時には度肝を抜かれたものだったが、それから自分たちが国に「見捨てられた」と気が付くまで長くはかからなかった。

 

 そこに、この大侵攻である。艦娘たちは自らの運命を呪わざるを得なかった。

 

 こんな昼行灯の猫に何が出来る──艦娘は自らの運命を常々呪っていたが、不満の核心はそこには無かった。

 

 本当に不甲斐ないのは、海戦で惨敗した上、いたずらに貴重な時を浪費した我々である。戦況を好転させるどころか、更に悪化させるばかりの働きだ。これでは遠回しに敵に肩入れしているのと同じではないか──艦娘の矜持は著しく傷付いていた。

 

 意見の違いこそあれ、皆同様の無力感に焦れている。その真っ当な感性こそが、論議から理性を奪ったのだと、気付いた者は果たして居ただろうか。全く、白黒はっきりしている分、窓の外に飛び出ていった方が幾らかやりやすい。もっとも、その上は生命を賭ける必要があったが。

 

 

「提督殿の仰る通りです。冷静にならなければ、実のある議論も無理難題というもの。ここは提督殿のご裁断を信じ、無謀で無闇な私心はぐっと堪えるべきでしょう」

 

 

 燻り続ける空気を、恐れ知らずにも破った者がいた。皆の注意が、また一斉に声の出どころに集中する。左方末席に、若い男性士官が立ち上がっていた。

 

 女所帯の鎮守府で、提督以外の男が会議に参加するというのも、異常といえば異常である。実際かなりの場違い感を醸していたが、当人は察した様子も無く続けた。

 

 

「しかし、敢えて。敢えて士官の身分として言わせてもらうならば、この際転進も致し方ないでしょう。そこの……駆逐艦が言った通り、数が違い過ぎますから。着任したばかりでお辛い事でしょう、心中ご察し致します。ですが、時に無謀を避け、撤退を決断するのが、真に勇敢な指揮官というものなのです。提督殿におかれましては『大義』のために、どうか賢明なるご判断を」

 

 

 芝居染みた抑揚を付けて、つらつら言いたい事を全て吐き出すと、彼はすとんと座り、目を瞑って腕組みをした。口元は隠しきれない満足感に歪んでいる。正論を言ってのけたという自負に酔っているのだ。

 

 それに注目する艦娘たちの視線に、好意的なものは一つも無かった。むしろ、右方に対面する艦娘たちは──取り分け龍驤は、強い敵意と軽蔑の眼差しであった。

 

 彼は数ヶ月前にノアが着任した数日後、海上自衛隊上層部より、お付きの幕僚として派遣された中級士官である。二十代前半という年齢の割に、階級はまず高いと言えるだろう。また背は高く、身なりはすっきりとしており、眉目は整っていると言えない事もない。

 

 主な職務は兵站管理であり、そちらの能力はまず無難。凡庸とも言い換えられるが、後方勤務には堅実な仕事こそ尊ばれる。何処からも不満が出ないだけ、使える人材であろう。

 

 しかし、この男には悪癖があった。堅実な仕事で満足しておれば良いものを、分を超えて艦娘の運用にまで口を出す様になったのだ。これは明らかな越権行為であったが、提督が強く咎めなかったのと、若さ故の好戦的な姿勢が艦娘の支持を得た事が重なって、暗に見過ごされていた。

 

 彼には『首席後方補給官』という役職名があったが、佇まいが提督よりも提督らしいとして、一部から『参謀閣下』などと呼ばれ始めた。もちろん越権行為を揶揄する呼称でもあったが、本人は痛く気に入ったらしく、こう呼ばれても訂正しなかったため、何時しか定着してしまった。

 

 

 

 この様な訳で、気鋭溢れる若者は、猫風情より余程艦娘に人気があった──が、一月もすると事情は変わった。

 

 

 

 ある時、彼の些細な伝達ミスで、遠征隊が任務を失敗して戻ってきた。小破しながらも無事に帰投した幼い駆逐艦たちを、この『参謀』は必要以上になじったのだ。

 

 

「成果無しとは何事か! それに飽き足らず、おめおめ損害を被って帰ってくるとは、この恥知らず共め!」

 

 

 遠征の旗艦は、涙ながらにその理不尽を訴えたが、更に激しい罵声が返ってくるだけだった。遠征隊の全員が泣き崩れても罵倒は止まず、それどころか、その日入渠もさせて貰えなかった。

 

 事態が発覚したのは翌日の事である。身も心もぼろぼろにされた駆逐艦たちが夜中啜り泣く声に、姉妹艦が気付いたのだ。事情を聞かされた提督は、早急に遠征隊の入渠を命じた後、参謀を呼んで申し開きをさせた。しかし参謀は欠片も悪びれず

 

 

「軍規を正したまで」と胸を張って開き直った──いや、開き直った自覚すら彼には無かった。

 

 

 彼は完璧主義者として異常な自尊心の持ち主であった。自分は特別な存在であり、全ての不都合は他人の責任だと信じて疑わなかった。

 

 それを指摘しようものなら、普段の紳士的な態度を豹変させ、相手が折れるまで喚き散らした。他人を貶めれば、自身が正当化されると勘違いしている様だった。余りの始末の悪さに、泰然自若を常とするノア提督ですら鼻白んだ。

 

 そして、深海棲艦の大侵攻は、参謀の人格上の問題を更に浮き彫りにした。

 

 この男は当初、龍驤側に付いて主戦論をヒステリックに主張し、艦娘たちを激しく扇動した。この時まだ弱かった慎重派、もしくは撤退派を『臆病者』扱いして一蹴すると、自分が出るわけでもないのに、提督に出撃を執拗に願い出た。

 

 新任提督のノアは心底気が進まなかったが、闘争心の加熱しきった艦娘と、ここぞとばかりに上層部の威光をちらつかせる参謀を前に、拒否する事が出来なかった。

 

 そして散々出撃を煽った挙句、反抗艦隊が惨敗してからは、腰が抜けた様に撤退論を主張する様になり、今の内部分裂を招いたのだった──

 

 

 このコウモリ野郎がぬけぬけと!

 

 

 舌の根も乾かぬうちに変わり身して、今度は主戦派を『無謀』呼ばわりする男の発言に、龍驤は歯を食いしばり、怒りで焼き尽くさんばかりに睨んだ。同じ撤退派の艦娘たちですら剥き出しの不快さを隠さない。

 

 だが、どれも瞼を閉じた彼には届かなかった。

 

 

「会議は終了です。退室願います」

 

 

 沈黙を保つ提督に代理して、横に立つ秘書艦──正規空母加賀が無機質に号令した。有無を言わせぬ、冷徹な口調であった。発言を無視された参謀だけでなく、艦娘の反感をも買い、加賀は不満の全てをぶつけられようとした。

 

 

「──退室願います」

 

 

 二度目の号令は、一度目より低かったが、心臓に突き刺さる様な迫力が込められていた。また、加賀の放つ極寒の眼差しは、苦情の一つすらも凍り付かせてしまった。

 

 一同は渋々起立して、形式だけだと自分に言い聞かせながら提督に一礼した。

 

 

 ◆

 

 

 会議室の厚い木製扉を内側から開くと、嫌らしい笑みを滲ませた黒装束の強襲揚陸艦が、廊下の片隅で待機していた。

 

 清潔な廊下を、点と汚す黒ずみに気が付いた途端、龍驤の顔が渋くなる。縁起の悪い──甲斐無い会議も終わったので、煮えくり返るはらわたをどうにか沈静化しようとしていたのに、追加で燃料を投下された気分だった。

 

 龍驤の不快に気付かない訳でもあるまいに、廊下の黒ずみは友好的な身振り手振りも大袈裟に近付いて来た。

 

 

「これは皆様お揃いで。今日も今日とて、長々ご苦労様であります」

 

「……会議サボって何処に行っとった」

 

「偵察です、偵察」

 

「そんで何や動きはあったんか」

 

「相も変わらずだんまりですな。いや参った、どうしましょう」

 

「他には」

 

「変わらず気色悪い連中です」

 

「サボってまで欲しい情報には思えんな」

 

「出席してまで聞く内容でありましたか?」

 

「ぐ……」

 

 

 皮肉ったつもりが逆に痛烈な皮肉を食らい、何も言えなくなった龍驤は、憚りもなく舌打ちした。あきつ丸の、あらゆる不誠実に泥濁した目が極端に細まり、彼岸花色の唇がぐにゃりと歪む──それで笑顔のつもりだろうか。

 

 冒涜的な何かが、下手な人型を演じているのではないかという疑問が拭い去れなかった。極端に色彩の乏しい黒装束と、死人にも似た血色の皮膚は、濃厚な不吉の香りを漂わせている。同じ艦娘と言われるより、滑稽にも『陸の深海棲艦』と言われた方が頷いてしまうかもしれない。

 

 加えて正体の不明瞭さが不気味に拍車をかける。噂によると陸自の出身らしく、確かに誰も海に出た姿を見た事が無い。本人曰く、海上戦闘は専門外らしい。仲間が命を張っている間も、陸で『何か』しているのだ。その癖、階級だけは立派なものであり、あろう事か古参であり武勲艦の龍驤と同格だ。これは裏で不正の闇があるに違いないと、もっぱらの噂である。

 

 正体がはっきりしている分、あのコウモリ野郎の方が、まだやりやすい。やり返された口惜しさよりも、生理的嫌悪感が先に立つ。

 

 

「艦娘の務めはろくに果たさん癖に、士気を削ぐのだけは一人前やな」

 

 

 ──と言ってしまうと負けな気がしたので、龍驤は舌打ちしたきり無言で、踵を鳴らして足早に場を離れていった。

 

 ぞろぞろと後続の艦娘たちも退出した後、一番最後に、艦娘たちに何と思われているか露とも存ぜぬ参謀が、不満そうな顔で会議室を出ようとした。その姿を、あきつ丸が「あの」と呼び止める。

 

 

「何かね」

 

「は、参謀閣下。本日は日柄も良く……」

 

「良いとは言えんだろう。用でも?」

 

「ええと、いえ、用という話ではないのです。ただ話をするための話と言いますか」

 

「話、僕に?」

 

「はい、つまり、何でもないのでありますが……これは失礼致しました、お務めご苦労様であります」

 

「……ありがとう。そちらも」

 

「はっ、光栄であります参謀閣下!」

 

 

 それは驚くべき変貌だった。

 

 艦娘たちを見送った一瞬後には、不吉な黒装束の怪物から一変、崇敬する上官に恐縮する、初々しい新参者の少女へと変化したのだ。

 

 参謀が大いに自尊心の満たされた表情で「うむ」と言うと、あきつ丸は頬を染めて、ぎこちない敬礼をした。その愛くるしい姿は、自尊心以外の何かを刺激したらしい。立ち止まって敬礼し返す間、男は少女の豊満な肢体を、上から下まで視線で舐め回した。やがて咳払いを一つすると、参謀は機嫌も良さそうに去っていった。

 

 曲がり角を折れ、その背中が見えなくなるまで凝視してから、あきつ丸はやっと入室した。会議室の最奥で、猫提督と秘書艦が出迎えた。

 

 

「おかえり。寒いところ、ご苦労さん」

 

 

 あきつ丸以上に思考の読めない(というか存在自体謎な)ノア提督が、先ず労いの言葉をかけた。あきつ丸の顔から、するりと表情が抜ける。そこに嫌らしさも、初々しさも存在しない。

 

 一定時間の無表情で、この小さな提督をじっと見つめた後、また妖しい笑みで建前を満たして「お安い御用」と言った。少しだけ爽やかな返答に、表情との隔たりがあった。彼女のささやかな失敗だった。

 

 

「で、海はどうだった」

 

「はい、報告致します。敵に変化無し。数から艦種、配置、表情まで変化無し。また、何時も通り青白くて気色が悪い半魚人でありました」

 

「そいつは極めて重要な報告だな。戦争の罪悪感という点で。下手に変わられたら超困る。他には?」

 

「距離だけは徐々に詰めてきているであります。言いましても日に十メートル程度でありますが」

 

「攻めてくる様子とは違うのか」

 

「その気があるのなら、とっくの既に蹂躙されておるでしょうな」

 

「俺でもそうする」

 

「猫が言うと重みが違う」

 

「……心理的な圧力をかける作戦でしょうか」

 

 

 提督の脇に控え、黙って報告を聞いていた加賀が見解を示した。途端に報告者は肩を震わし「心理ですって」と出来の悪い冗談を聞いた時と同じ反応をした。加賀が極寒の視線と共に何か言う前に、提督が素早く口を挟む。

 

 

「確かに、その種の効果が出ているのは揺るがない事実だな。しかも由々しき問題だ。奴らが人様の心理を解するかはともかく、俺たちは対応する必要がある」

 

「それを今日の会議で決めたのでは」

 

「分かってて言ってるだろ?」

 

「とんでもございません、まだ聞いてもいないではありませんか」

 

「……加賀、説明頼んだ」

 

「かしこまりました」

 

 

 加賀は手にしたバインダーに目を落とし(律儀に記録していた)、掻い摘んで会議の内容を説明した。丁寧に婉曲されていたものの、内部分裂も甚だしい惨憺たる有り様は誤魔化せない。「それはそれは」と如何にも深刻そうに傾聴していたあきつ丸だったが、内心では踊る会議を早々に見限って偵察役を申し出た、自らの先見性を褒めていた。

 

 

「それで結局は強権発動でありますか」

 

 

 結論を聞き終わると、あきつ丸は呆れた様に首を傾げた。

 

 

「だったら最初からそうなさればよろしかった」

 

「現場の声を無視する事をしない出来た提督だろう?」

 

「お人……猫がよろしいので。それが長所足れば良いでありますが。足を引っ張り合っていては世話もありますまい」

 

「本来は聡い奴らだ。今は二つに分裂して、悪い意味で意地になっているだけで。それに二十年前の大規模作戦を生き抜いた古兵(ふるつわもの)も居る。あの紅い軽空母とかな」

 

「だとしても我々は『兵器』でありますよ。所詮は戦争の道具であって、提督殿に意見出来る立場にありません。敢えてそれらの戯言を聞く必要が?」

 

「……お前本気で言ってんの?」

 

 

 不意に今までとは違う、危険な光がノア提督の双眸に灯った。先の会議終盤にも似た空気が、再び流れる。あきつ丸は気圧されたが、微笑のまま押し黙っている──偶に彼女は、同様の失言を故意に行った。その度に、このちっぽけな猫が、身の丈に合わぬ怒りを本気でぶつけてくる事を確認しては、満足しているのだった。ノアもその事は承知している。承知していて、止めないのだった。それがこの性悪女の『安心』に繋がると知っているからである。

 

 そして存分に怒りを全身に受けてから、あきつ丸は「言葉が過ぎました」とすっぱり頭を下げた。加賀からすれば、不思議な光景であったのだろう。眉をぴくりと動かして訝しんでいた。

 

 

「そもそもの疑問ですが」

 

 

 空気を気遣って(些か空振りだが)、加賀が話題を変えた。

 

 

「敵の目的は何でしょう。心理的圧倒は、言わば副次的であって、主たるものでは有り得ません。鎮守府を陥落させるとか、艦娘を撃沈せしめるとか、然るべき目的が不明です」

 

「再三の会議で結論が出なかった問題だったな。確かにそこが不明だと、どんな作戦も対症療法にしか成り得んが、明らかにするには時間が足らない。このままだと俺らは干上がっちまう」

 

「……資材は戦闘に耐える最低限ありますが」

 

「違う。もっと目の前のもん、飯だ、飯。さっき糧食班から米びつの底が見えそうだって報告があった」

 

「それはっ、由々しき大問題ですね……!」

 

 

 この人でも声を荒らげる事があるんだなぁ、とあきつ丸は暢気に思っていたが、事態は想像以上に深刻であった。

 

 

「矢玉はあっても飯が無いんじゃ、数日しないうちに反攻作戦すら実行不可能になる。飢えて戦ったら負けるって、先人たちが身を賭して証明しているからな。つまり撤退を余儀なくされる訳だ。うちには大食らいも居る事だし……」

 

「お言葉ですが提督、あれは慎ましくも正規空母が十全に活動できる最低限の」

 

「分かってるよ。嫌味言ってごめん」

 

 

 ノアは帽の上から頭を掻いた、つもりだったが、傍目には猫が顔を洗っている様にしか見えなかった。そういえば外はどす黒い曇天であり、今にも降り出しそうであったのを思い出す。

 

 

「しかし、何故その様な事態に。我が鎮守府には少なくとも一月分の糧食が貯蓄してある筈ではないですか」

 

「良く知ってんなお前……けどそれは少し前の話でな。あの参謀殿が着任すると同時、嫌味に『国民が飢えているのに、その守護たる者の贅沢が許されるのですか』とか抜かして、食糧の供給を減らす様に上申しやがったんだよ。あの野郎、この国で一番偉いのを盾にしやがって」

 

「何故教えて下さらなかったのですか」

 

「士気にかかわると思って……」

 

「でもあの人、隠れて夜中にビフテキ食べてたって赤城さんが半ベソかいてましたよ」

 

「あ? 何それ初耳なんだけど」

 

「士気にかかわると愚考しまして……」

 

 

 すれ違いのやるせなさと、それ以上の憤慨で、暫く一人と一匹は言葉も無くしてしまっていたが、程なくして対処を考え始めた。そもそもこういった対処は『参謀』の役割であるのに、逆に尻拭いをさせられる当たりが実に腹立たしかった。

 

「今からでも糧食の輸送を打診してはどうでしょう。佐世保は絶海の孤島でもなし、事情を述べれば許可が下りるのでは」

 

「誰が輸送してくるんだ? 散発的とは言え、敵の攻撃があるんだぞ。それに敵が今にも攻め寄せてくるとも分からない鎮守府だ。海路は論外。陸路は時間がかかる。となれば空路となるが……命をかけてここに直接来るのか、近場で受け渡しをするのか、上でその辺を議論している間に、俺らは干物だし赤城は死ぬ」

 

「街から徴発してくるのはどうでしょう。住民は既に避難済みですし、遠征に出られず手空きの駆逐艦が大勢居ます」

 

「今の時代それは『略奪』って言うんだよ。ただでさえ三十年近くダラダラ戦争してて厭戦気分が蔓延してんだよ? 仮にそれで凌ぎ切ったとしても、今度は国民批判の嵐で海自ごと吹っ飛ぶな。鬱憤晴らしの良い的になる」

 

 

 再び加賀の言葉が無くなってしまった時、今度はあきつ丸が別の視点から議論を振った。

 

 

「いっそ援軍を頼んではどうでありましょうか。あれだけの大動員ですから、他の戦線が手薄になる事が予測されるであります。近場の鎮守府に、そうでありますな、呉辺りであれば間に合わない事もないかと」

 

「『友軍艦隊』か。不可能だな」

 

「その根拠は」

 

「今、他の戦線が手薄になると言ったな。それは本当か?」

 

「必然でありましょう」

 

「では正確な敵の総数は。外のあれ以外には、残り何個艦隊残っている。お前知ってるのか? それとも呉鎮守府の提督なら知ってるか?」

 

「……なるほど、誰も知らない」

 

「その通りだ、誰も知らない。奴らは海の底から何処からともなくやってくる。もちろんすべてを把握して戦えることは稀だろう。そのために俺らは様々な情報や経験を『予測』として打ち出し戦場に赴くわけだが……今、俺たちが分かってるのは飯のことだけで敵の残存兵力も分からないのに、他所に貸す余剰戦力など存在しないだろう。ひょっとすると、ここ佐世保が陽動って可能性も捨てきれん」

 

「過去の情報を鑑みるに、それは無いと思われるでありますが……まあ、自分の立場になって考えれば確かに貸しませんな。ただでさえノア提督殿は嫌われておりますし」

 

「なに急に傷つくこと言ってくんの……それにしても、情報を完全秘匿の内に、大群を率い、先ずは辺境の鎮守府から各個撃破する。全く嫌になるくらい用兵の常道だな。やっぱりあいつら高等知性があるんじゃないのか」

 

「内憂外患とは正にこの事でありますな」

 

 

 提督は徐ろに両手を挙げた。左右か一方であったなら、福の一つでも招きそうなものだったが、この場合単に『お手上げ』の合図だった。残る二人も同意であった。考えれば考える程、より悪い現実しか見えてこないからだ。加えて鎮守府内まで分裂しているのだから、絶望的と言える。

 

 それ以降、何の音も発さぬままノアは両手を挙げ続け、その不吉な招き化け猫を二人はただ眺め続けた。

 

 

「……或いはこの状態そのものが、敵の目的でありますか」

 

 

 どれ程時間が経ったか、あきつ丸がぽつりと言った。提督は両手を挙げたまま、加賀はお腹を空かせたまま、目線だけで話の続きを求めた。

 

 

「敵にとっては、どちらでも良いのでありますよ。こちらから攻めに出ようが、撤退しようが。前者であれば数に任せて一週間前の再現をすれば良し、後者であればなお良し。我々としては、敵があの数で、あの場所に現れた時点で詰みなのであります」

 

「今にも干上がりそうなのも敵の謀略か?」

 

「それはこちらの都合というもので、間が悪いとしか言い様がないでありますな。裏切り行為がないとすれば、でありますが」

 

「やっぱり、あの男深海棲艦のスパイか何かじゃないの」

 

「おや、それは良いでありますな」

 

 

 それを聞くと、提督はようやく両手を下ろし、金色の丸目を細めてみせた。あきつ丸が『良い』と言った意味を理解したからだ。彼女は、常に拳銃を脇に吊るし、隠し持っている。スパイの『処理』などは専売特許だった。

 

 あきつ丸は軽く肩を竦め、冗談である事を示した。今の所は、だが。後は当人の立ち振る舞い次第であろう。

 

 

「それで、提督殿。どちらがお好みで」

 

 

 あきつ丸は一歩み出て、両手の平を差し出した。手を乗せて選べ、という事だろう。

 

 

「何が」

 

「会議の結論でありますよ。直ぐにでも選ぶ必要がありましょう? 右か左か、それぞれ反攻と撤退の……ああ、止めましょう。玉砕と逃亡であります」

 

「露骨過ぎるな、その表現」

 

「今更言葉の上が何でありましょうか。事実は事実なのであります。さてどうしますか、参謀殿は『大義』のために逃亡を勧めておられましたが」

 

「ふざけるな。数万の国民の生活を奪った上に成り立つ大義なんて何処の世界にあるんだ」

 

「では玉砕を?」

 

「……それは主義に反する」

 

「二者択一でありますよ。自分は、どちらでもあなたに付いて行くだけであります」

 

 

 絶対的追従を口にしたあきつ丸は、真白い手袋をはめた手の平を、更に前に差し出す。ノアはじっとその二つを見比べていたが、手を乗せようとはしなかった。

 

 その代わり、帽を深く被り直し、顔を塞いで俯いた。喉をごろごろ低く鳴らし、かなり苦しんでいる様だった。固唾を呑んで見守っていた加賀は、化け猫とはいえ、同情せずにはいられない。

 

 彼に用意された選択肢は、残酷にも双方破滅の道である。

 

 ある意味、艦娘である事は楽だ。何故なら、生死の責任を負わないからだ。自らの生き死にまでも最終的には他人任せで、命令のままに生きれば良い存在だからだ。しかし、多数の艦娘を『兵器』ではなく、尊厳ある『人』として見た場合、その生死を左右させるのは、どれだけの重責であろうか。加賀には想像もつかなかった。

 

 世の諸提督が艦娘を兵器として見がちなのは、何も倫理の欠如によってではないのかもしれない。むしろ、倫理が耐え切れないからこそ、艦娘を少女の形をした兵器だと思い込んでいる。

 

 しかし、この提督の場合、事情が異なる。先程の様に艦娘の尊厳を貶めれば烈火の如く怒るし、今の様に無謀な出撃を強いるとなれば思い悩む。これが並の指揮官であったなら『艦娘に出撃を強要しておいて、自分は逃げる』などという選択をしかねない。むしろ世間の感覚的には、こちらのほうが一般的だろう。この猫が異質なのだ。

 

 恐らく、ノアは軍の指揮官に向いていない。艦娘ごときのために一喜一憂していたのでは、提督は務まらない。『提督』という特殊な職業に着任する過程で、その種の感傷は徹底的に削り落とされるカリキュラムが、上層部によって用意されている。それを保持したままというのは、職業教育に失敗したとしか思えなかった。

 

 しかし──と加賀は考える。世間で言う『ちゃんとした提督』と、この『出来損ないの提督』に指揮されるのでは、艦娘としてどちらが幸せだろうか?

 

 

「俺は気が緩んでいたのかもしれないな」

 

 

 帽を目深にしたまま、ノアが低く言った。あきつ丸は、手を差し出したままだ。

 

 

「長年提督になるのが目標だった。こんなナリだからな、競争相手を追い落とすのに手段は選ばなかった。それがようやくだ。日和見の提督を失脚させて、佐世保に落ち着いた。だから、アレだ。ここの所、燃え尽きてたな。全く、俺の目標は、そうじゃないだろうにな」

 

 自らをたしなめる様に呟くと、俯いていた顔を上げる。帽で暗く影になった奥で、金の双眸が月光にも似た光を迸らせた。丸く開いていた瞳孔が、化け物めいて細まった。

 

 ああ、この目だ──ひっそりと、あきつ丸はノアと出会った月夜を想起した。この妖しい猫に、海へ来ないかと誘われた、全ての始まりの時と同じ瞳だ。

 

 

「あきつ丸」

 

「はっ」

 

「お前には感謝している。何時も無茶ばかり言ってきたが、そのお陰で、こうして提督に納まるのが大幅に短縮された。この際乗りかかった船。もう少しばかり、無茶に付き合って貰う。だからその手をさっさと引っ込めろ! 俺はどちらも選ばない!」

 

 

 鎮守府に着任してから初めて、ノアは声を張り上げた。あきつ丸の両手が、元の位置に戻る。彼女の顔は、表現しようが無い程歪み切っている。

 

「何時もそうであります。私が何か提案すると、あなたは我が儘を言って突っぱねる。困りましたな」

 

「そうだ、どちらも嫌だ。俺がむかついている事が分かるか? それはな、あいつらが『楽に勝てる』と思ってるだろう事だ。舐めてるな、舐めてるだろ。玉砕か逃亡だと、ふざけやがって。してやるものか、させるものか」

 

「では教育してやるしかありませんな。追い詰められた猫がどうするか」

 

 

 ノアとあきつ丸の雰囲気は、正に悪辣を極めた。加賀は絶句している。これがつい数分前まで絶望に悲観していた者たちか?

 

 

「海上戦闘はしない、撤退は問題外。となると、道は一つでありますな。となると、これは」

 

「ああ、この『第三の道』はお前の専門だ。命令する。強襲揚陸艦あきつ丸、すべてをひっくり返すぞ」

 

「吐くのは毛玉だけにしておいて欲しいでありますな」

 

 

 強襲揚陸艦は、大袈裟に手の平を肩まで上げて、呆れ顔で「やれやれ」と首を振った。その後で、一切の表情を失くして、言う。

 

 

「しかし、是非やれと仰るのであれば、やりましょう」



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第二章 最悪の女だ


【挿絵表示】


どうしようもないから、どうしようもない事を始めよう。



 あの無為な作戦会議を終えた、翌日午前の事である。駆逐艦不知火は、一室の扉を叩いた。この行為は既に数度目の経験だった。室内から張りのある返事がして、部屋に入ると、一人の男が執務机に座ったまま出迎えた。

 

 肉付きが全体的に薄く、顎のほっそりした若者だ。身嗜みはしゃんとしていて、身の丈はすらりとしている。全体的に整っていると言えるであろう眉目に、作り笑いの見本の様な表情を浮かべて、不知火が近付く事を許した。

 

 言われるまま、完璧な直立姿勢で執務机の前に立つ。部屋の片隅には、客人用に革のソファーが完備されてはいたが、この男──佐世保鎮守府担当補給官は、艦娘にそれを磨けと強要しても、絶対に着席を勧めはしなかった。

 

 

「ご苦労。駆逐艦の、ええと」

 

「不知火です。陽炎型駆逐艦、二番艦」

 

「不知火、良く来てくれた」

 

「……それで参謀閣下、どうされましたか。本日の作戦会議まで、幾ばくもありませんが」

 

「どうもこうもない、あの無能の畜生の件だ。全くあれは、参謀たる私が何度も意見したというに──」

 

 

 艦娘の名を覚えないのと、挨拶代わりの不平不満も、同じく数度目だった。『参謀たる私』などという誇大妄想には、初め噴き出しそうになったものだ。今では適当に聞き流しせる様になった不知火は、横目に調度などを眺めやる。

 

 絵画、花瓶、窓枠、絨毯──どれも高級品である事が、世俗に疎い艦娘にも分かった。ただし高級であっても、品があるとは言い難い。どれもこれも過剰に装飾されていて、色彩の激しさが目に痛いのだ。

 

 一際目を引く、不知火の身長の倍はありそうな大棚には、数々の賞が陳列されている。士官学校の成績優秀者に与えられる賞状、射撃大会入賞の盾、果ては少年スポーツクラブのメダルまで、生涯で手にした誉れの全てを無理矢理詰め込んだその大棚は、男の過剰な優越意識を形で表していた。

 

 この胸焼けする空間を初めて訪れた時には、一つ一つの賞の由来と、自分がどれだけ偉大な人物かという説得に、小一時間は耐えねばならなかった。曰く、人生のあらゆる過程で秀才の名を欲しいままにしてきたらしい。それに呼び起こされたのは、尊敬や感服などではなく「なるほど道理で」という気持ちのみだった。

 

 どうやら経歴にも容姿にも恵まれた環境は、それ以外の全てを若者から欠落させたらしい。

 

 不知火は無意識に数ミリ眉を寄せた。その眼光は戦艦をも凌駕せしめん──と専ら評判の駆逐艦である。それが研ぎ澄まされたので、自称参謀は言葉を詰まらせた。

 

 

「それで本題だが」

 

 

 たっぷり十五分は独りで話した後、偉大なる参謀閣下はやや不自然に切り出した。

 

 

「あの無能は、いい加減僕たちの意見を認めるだろうか」

 

「そうせざるを得ないと考えます。何せ、聡明なる参謀閣下のご意見です。少し脳を働かせれば、正論である事が直ぐにでも分かります。化け猫の皮も剥がれる頃合。恐らく午後の会議では、総退却を鎮守府全体に命じるでしょう」

 

「もっともな見解だ。全く理解が鈍いのを説得するには骨が折れるよ」

 

 

 参謀は言うと、切なそうに大きな溜息を吐いて、立派な椅子にもたれ掛かる。いかにも無能上司にあてがわれた苦労人めいていた。実際、そう思っているのだろう。

 

 

「だがね、万一にでも抗戦するなどと言い出しはしないか。血の気の多い連中は、考えが足りない割に声だけは大きいから、それに流されたりはしないか」

 

 

 元々は自分で煽動した仲間に対し、何の臆面も無いが、多少の不安を混ぜた声で、少女の姿をした兵器に尋ねた。

 

 

「未だに論が分裂しているのは嘆かわしい事です。しかし、我々には崇高な『大義』があるのです。どれだけ声を大に曲論を並べ立てようとも、毅然とした正論の一言に敵う道理がありましょうか」

 

「一々が君の言う通りだ。主戦派の連中は、戦況が刻一刻と変化している実態を認めない。時の状況に即して、柔軟に案を練るのが参謀の役目というものだろう。にも関わらず連中の愚かしさときたら、臨機応変という言葉を知らん」

 

「それも今日までの懸念。どうか胸をお張り下さい。参謀閣下は、正しい見識をお持ちです」

 

 

 不知火は殺し文句を口にした。参謀は何度か「正しい」と口の中で反芻し、十分に味わってから尊大に胸を反らせた。不安は過ぎ去り、根拠無き自信だけがぎらぎらと彼の目に満ちている。

 

 下手に立つ桃色の髪の駆逐艦は口元を綻ばせた。これは大変珍しかったので、男は驚いた。祝福の笑みだろうか。鎮守府の頭脳を自称する若者は益々のぼせ上がったが、実情は異なる。

 

 単に、嘲笑を抑えられなかったのだ。

 

 

 負けたな、これは。

 

 

 不知火は静かに再確認した。目前で増長する参謀の言動一つ一つが、声高に証明している。不知火は具体的な安心材料を何も示していない。ただ綺麗に言葉を飾って、肯定してみせただけである。彼を安心させるのは、現実的な対策ではなく、言動を全肯定してくれる他者なのだろう。

 

 およそ指揮の一端を預かる役としては、最低の性格だ。海上自衛隊上層部には手を叩きたい。辺境の畜生提督の足を引っ張るのと、中央からの厄介払いと、戦争を長引かせる目的であれば、一転して最高の人材ではないか。

 

 現在の戦況に対し、鎮守府内で真っ先に見切りを付けたのは、他の誰でもない、不知火である。おぼろげな予感では参謀が着任してから、確かな形となったのは、同人がヒステリックに反攻作戦を訴え出してから──早々に陽炎型の二番艦は積極的戦意を喪失していた。

 

 不知火は勝利の確信を得た経験はまずなかったが、敗北の予感を嗅ぎつけるのは誰より早かった。今回の戦闘も例外ではない。惨敗までの道筋が、敵味方の一挙一動を違えず、瞼に浮かぶ様だった。

 

 事前に「戦えば必ず負ける、撤退すべきだ」と強く主張しなかったのは、一度酷く傷付いてからの方が、皆耳を貸すだろうと考えたからだ。欲を言うと、一隻くらい轟沈してくれれば説得力も増したのだが、そう都合良く進まないものである。

 

 さり気なく、陣形不利を誘導してみたり、低練度の駆逐艦を前面に押し出したりしてみたが、いずれも空振りに終わった。あの紅い軽空母が、味方の苦境を見るや援護に入るからである。艦載機と一緒に飛んでくるやいなや、怒号をもって陣形を再編し、低練度艦の出血を肩代わりし、戦線を支えつつ反撃を試みる──そのお陰で、物理的にも心理的にも、鎮守府は『再起不能』とまで至らなかった。全くご苦労様だ。

 

 目論見が外されたので、不知火は別の手を講じる必要に迫られた。そして目を付けたのは、自分自身で煽った戦争の恐怖に捉えられた、兵站管理人であった。

 

 男に撤退論を吹き込むのは実に簡単だった。轟沈手前の重傷を負った幼い艦娘たちが、悲鳴を挙げ大量の血痕を廊下に滴らせ、苦悶の表情で入渠ドッグに運ばれてゆく光景を、茫然自失と眺めていた彼に囁いたものだ。

 

 

「参謀閣下は悪くありません。悪いのは、出撃を許可した提督です。深海棲艦を打倒出来なかったのは、現場の指揮が悪かったからで、これもまた閣下に責任はありません。あなたは正しかったのです──」

 

 

 参謀は不知火の言葉に飛び付いた。この男は肥大した理想ばかり見たいと欲し、厳しい現実を見ようとしなかった。とかく精神のバランス感覚を欠いており、この時も瀕死の幼子を前にしながら、必死に自己正当化の方便だけを探していた。そして、絶妙の頃合に吐きかけられた甘い毒の息を、肺腑の奥まで吸い込んだのだった。

 

 調略が上手くいったのは良いのだが、参謀の変わり身の素早さは、またも不知火の計算を狂わせた。まさか大の男が、ここまで恥を知らないとは思わなかったのだ。

 

 主戦派の艦娘たちにしてみれば(扇動されたとは言え)、昨日の今日で、主張を六時に回頭させてしまっては面目が立たない。であるから、参謀には少し躊躇ってもらい、その様子を主戦派の艦娘に見せ付けてやるつもりだった。それによって、心理的抵抗を抑えつつ、天秤を傾けようとしたのだが――実際、彼の転身は余りに軽々しかったので、逆に激しい反感を招いた。

 

 結果、鎮守府内部は真っ二つに割れてしまい、早く撤退したいがために会議を長引かせる、という皮肉極まりない状況となってしまった。やり場の見付からない不快感が、駆逐艦の薄い胸を一杯に満たした。

 

 それにしても不知火に理解不能なのは、対立する主戦派の連中である。龍驤を初め、作戦会議に出席を許される程度の経験を積むならば、ここに至っての反攻作戦は、玉砕にも等しいと内心では分かっているだろう。

 

 だと言うのに『武人の心』とやらの面目に突き動かされ、むしろ玉砕こそ本望であるかの如く振る舞う連中には、薄ら寒さを感じざるを得ない。寝ても覚めても、華々しく、立派に死ぬ事だけを考えているらしい。

 

 そんな自殺志願に付き合う趣味は無かった。

 

 少なくとも、あの提督がそういう人種でない事は明らかだ。もし『武人の心』とやらに同調するならば、不知火が行動を起こす前に再出撃を命令していた筈であるし、会議が長引く訳もあるまい。

 

 故に提督が強権を発動した時、不知火は確信した──あの猫は逃亡を選んだのだと。

 

 一週間も腹を据えかねる優柔不断者が、最終的に玉砕を選ぶなど心理的に考えづらい。世間一般の感覚で考えれば、追撃防止に艦娘だけを残して、自分は逃げるという道を選ぶだろう。

 

 そうなってくれれば後は楽だ。主戦派の、誰でも良いが、例えば龍驤などに告げ口すれば良い。そんな卑怯を彼女が許す訳がないので、敵前逃亡として捕らえるか、運が良ければ殺してくれるだろう。

 

 そうなれば、以降命令に従う義務は消滅し、提督業を引き継いだ参謀の下、堂々と撤退すれば良い。暴走した主戦派連中が敵に突っ込むかもしれないが、不知火には預かり知らぬ事だ──

 

 

「間もなく、お時間ですね。参りましょう」

 

 

 壁際に据え付けられた、無駄に巨大な振り子時計が、刻限を知らせるベルを鳴らした。頷いた男は、また無駄に幅広い椅子から徐ろに立ち上がる。如何にも荘重な仕草が、不知火の目には滑稽だった。

 

 その仕草の半分でも、精神的な重みがあったのなら、一週間も気苦労する必要は無かったのだ。もちろん若者は露程も気が付いていないが、教えてやるのも馬鹿馬鹿しい。よしんば伝えた所で癇癪を起こすに決まっている。

 

 なので不知火は黙って目を細めて、意気揚々と会議室へと歩く男の狭い背中に、三歩遅れて付いていった。

 

 出来の悪いマリオネットを踊らせるのも、今日で最後だ。目論見が成れば、真っ先に捨ててやる。

 

 戦争で命を落とすなど、絶対に嫌だ。どんな手段を使っても、必ず今日を生きて、生き延びて──そしてまた、戦争をしなくてはならないのに。

 

 

 ◆

 

 

 ノア提督の決断が一方的に知らされた時、この日の会議室を満たしたのは賛成や反対の叫びではなく、ただただ当惑の色であった。主戦派も撤退派も関係無く視線を交わし合って、果たしてどう反応するべきか、答えを探し求めている。

 

 

「では皆々様、抜かりなく」

 

 

 秘書官の加賀ではなく、何故か今日に限って参加している全身烏羽色のあきつ丸が、全てを無視して締めに入ろうとしている。

 

 

「ちょ、ちょっち待ちぃや」

 

 

 関西弁らしく、龍驤が流れを差し止めた。頬に汗を一筋流す必死の形相で、身を乗り出している。

 

 

「それって、つまり、どういう話なんや? 何を言っとん?」

 

 

 歴戦の兵とも思えぬ、呆けた質問であったが、着席している全員の心と一致していた。龍驤の対面に座る、普段の二割増で目を開く不知火も同じである。龍驤が言わなければ、不知火が同じ事を尋ねていただろう。

 

 

「意味も何も、お手元の書類に書いてあるお話の通りでありますが」

 

「ウチらは海の艦娘やで」

 

「疑い無いですな」

 

「そもそも何でアンタが仕切っとんねん」

 

「これでも一応の専門家でありまして。作戦顧問であります」

 

「艦娘にこんな分野の専門家も糞も……いやアンタは事情がちゃうんか、ああ、何や、分からん……」

 

 

 混乱して言いたい事をまとめ切れず、龍驤はツインテールの付け根を乱暴に掻き毟る。

 

 

「だ、断固反対するっ! こんな作戦が認められる訳が無い。常識外れにも程がある、論外だ、論じるにも値しない!」

 

 

 左方末席から、中央卓を強く叩く音と、解読不能と化す寸前の叫び声がした。あきつ丸は、参謀の剣幕に圧された様に、わざとらしい困り顔で「はあ」と返す。

 

 

「それはちょっとわたくしめに言われましても。自分は提督殿に言われた通りやっているだけでありますから、ご意見はそちらの方に……」

 

 

 ゆとり役人めいた言い訳をして、あきつ丸は隣の机上に座るノア提督に目線をやった。表情こそ困り顔だが、濁った目には意地悪いさざめきがある。「面倒臭いので何としろ」と丸投げしているのがあからさまだ。

 

 内心で腹心を罵りながらも、ノア提督はもちろん気が付かない振りをした。

 

 

「異な事を言う。論じる段階は既に終わったよ。論じて結論が出なかったから、やむを得

ず、強権を発動したんだ。昨日の諸君らは承知した筈だったが、まさか違うのか?」

 

 

 調子こそ飄々としているが、有無を言わさぬ言葉であった。非人間の両眼が、沈黙する一同をじっくり見渡す。こうまで権限を振りかざされては何も返せない。参謀は、あっという間に猫以下の小動物と化して、助けを求める視線を左方上席に向けた。

 

 不知火は舌打ちしたくなる。肝が小さいにも程がある。そう露骨に見られたのでは、周囲に関係を悟られるではないか。体面上は、作戦参謀に駆逐艦が追従している形でな

ければ、後でどんな不都合が待っているかも知れないと言うのに。

 

 

「……そもそも戦いとは、勝利の確信を持てない限り、戦端を開いてはならないものです。司令官は分かっておいでですか」

 

 

 棘のある口調で、不知火は正論を述べた。この場の約半分に突き刺さる棘であったが、最も深く刺さるべき人物は、その存在に気が付きもしない。

 

 

「当然、用兵の初歩だからな」

 

「分かっていて、撤退案を破却するのですか」

 

「そうだよ」

 

「つまり、そういう訳だと?」

 

「うむ」

 

 

 不知火は黙り込んだ。提督の対応は端的だが、だからこそ付け込む隙を見出せなかった。末席の男が、今まさに飼い主に捨

てられる子犬の目で、少女を見つめている。少女は無視する事に決めた。

 

 そんな些事に構う余裕も無い程、胸中に生理的嫌悪が渦巻いていたのだ。不知火は不意に悟ってしまった。ノアという提督と自分とは、根本的に相容れない存在であると。

 

 よりにもよって『勝利の確信』だと、この嘘吐きめ!

 

 何もかも未知数の戦争で、これ以上に無責任な発言があるものか。そういう指揮官に限って、兵士にありもしない希望を語り、平気で死地に送り込むのだ。まだ『武人の心』とやらの方がマシだった。死んでこいと事前に宣告されるのと、勝てると嘘を教えられるのでは、 覚悟の質が断然違う。

 

 見よ、艦娘たちの顔を。

 

 今の提督の断言によって、絶望に支配されていた撤退派の瞳にさえ、仄かな希望の炎が宿ってしまった。もしや、という囁きは周囲を巻き込み、段々と大きくなっている。主戦派の連中に至っては、撃ちてし止まんと息巻いて、戦う意気に満ちている。玉砕の覚悟も、一瞬で忘れてしまった様だ。

 

『紅鬼』と恐れられた龍驤さえ──不知火をして一目置く、恐るべき軽空母さえ、今や得体の知れない猫に対しての目付きが熱を帯びている。ある小部分だけは、信頼していたと言っても良い龍驤の変化は、不知火の心理にとって全く想定外の大損害となった。

 

 希望を騙る同僚たちの最中、不知火は、たった独りで血が滲む程強く拳を握った。他者の『希望』のために死地に赴かねばならぬと考えると、気が狂いそうだった。

 

 耐えられない。

 

 理屈で片付かない、おぞましい感情が、一瞬ごとに理性を削っている。黒い感情の渦巻きが、正に殺意の滴りとなる寸前──ノアに機先を制された。

 

 

「でも不利になったら、俺は直ぐ逃げるからね。地位も名誉も惜しいから、しょうがなくやるけれども。だから、せいぜい命張ってくれ」

 

 

 希望の炎は呆気なく吹き飛ばされた。

 

 龍驤の目付きが一気に冷めて、それ以上に会議室の空気が冷えた。

 

 嫌悪感に発狂しそうになっていた不知火は、次に何を思って良いのか分からなくなってしまった。

 

 

 

 

「いや何余計な事言ってくれたでありますか。夜なべして考えた作戦がパァであります」

 

「ほんとごめん」

 

 

 あからさまに渋い顔の艦娘たちを会議室から追い出し、山積する問題処理のために秘書官たる加賀も退出した後、残った両者の第一声がそれであった。

 

 バツが悪そうにしているノアに、あきつ丸は冷ややかな視線を投げ掛けた。徹夜のためか、白目は薄ら充血している。

 

 

「あのまま黙っていれば、穏やかに内憂は除かれておりました。仮にも一致団結で作戦に臨めていたのですぞ。この時点で躓いてどうするのでありますか」

 

「もう我慢出来なかった。ああいう上っ面の忠義みたいなもんを向けられると、全身アレルギー反応が出て、むず痒くて堪らなくなるんだよ。ああ、かいかいかい……」

 

 

 四足動物は後脚を忙しなく動かして、首筋をぼりぼり掻いた。その必死さは、あながち誤魔化しとも見えない。

 

 二足の方は、大きく嘆息した。額の辺りが鈍く痛む。

 

 

「全くうちの提督殿は、妙な所で、妙な突っ張りさえしなければ、いま少し好かれるものを。仕様の無い畜生でありますからに」

 

 

 あきつ丸は演技っぽく眉間を摘んでみせたが、実は本気の落胆の隠れ蓑だった。この作戦の第一段階として、主たる目的は、鎮守府を心理的に糾合する事に間違いない。二人で打ち合わせたのもこの部分である。

 

 だがその裏では、騒動にかこつけて、あれよあれよとノアを『英雄』として祭り上げてしまおう、という秘めたる魂胆があった。

 

 危機に直面した鎮守府で、嫌われ者の新任提督が、艦娘と力を合わせて乗り越える──良い筋書きではないだろうか。あきつ丸が夜なべしたのは、そういうドラマチックな台本を作るためであった(作戦の本筋は早々に完成していた)。

 

 あきつ丸という配下は、忠誠を独占したいと思う気持ちよりも、むしろ主人が無名に甘んじるのを無念に思う気質の方が強かったのだ。

 

 しかし、いつもの、である。

 

 あきつ丸が幾ら劇的な舞台を仕組み、苦労して集客しても、ノアは何もかも台無しにする下衆畜生を演じるのだ。何故だかこの猫は、人格的に評価されるのを極端に嫌っていた。

 

 その過敏症は嫌悪というより、恐怖にも近く見える。海上自衛隊の鼻つまみ者は、何も形態差別のせいばかりではないのだった。

 

 それでもあきつ丸がしつこく諦めないのは、健気さと言うより、性格の悪さだ。

 

 

「あのさぁ、言っとくけど半分くらいお前のせいだからね?」

 

 

 部下の想いを知ってか知らずか、全身の痒みが治まらないらしい提督は、首筋を掻き毟りながら言った。

 

 

「これは心外。ご自分の失態を人のせいにしないで欲しいでありますな」

 

「嘘でも責任転嫁でもないぞ。でかい胸に手を当てて考えてみろ」

 

「脳の小ささは耄碌の早さに関係するのでありましょうか」

 

 

 憎まれ口を叩きながら、すんなり言われた通りにするあきつ丸だった。それを見たノアは、苦そうに目を細めて、一層激しく身体を掻いた。

 

 はてさて? 視線を斜め上に向けながら、問われた腹心は考える。思い出すのは、去る四年間の御恩と奉公、病める時と健やかなる時ばかり。にやけ面で真剣に考えても、思い当たる節は無い。

 

 やはり主人の吹かしだろうと疑い始めた頃、その主人は苦々しく口を開いた。

 

 

「お前、通算何回自決しようとした? 特に最初の一年」

 

 

 あきつ丸は、封印した記憶の蓋が一斉に開く音を聞いた。薄ら笑いは消え失せ、白磁の肌がほんのり紅で染まる。

 

 

「『どうせ提督殿に拾われた命』なんて言って、任務に出る度にボロボロになって、ちょっとでも失敗すると直ぐに自決しようとしてたよな」

 

「…………」

 

「その度に柄にもなく命の尊さとか語らなきゃならなかった俺の気持ちが分かる? もうホントあんな生活嫌なの。一人ですらこれなのに、これ以上増えるとかノイローゼになるわ」

 

「あ、あー、どうも夜なべのせいか耳の調子が」

 

 

 揚陸艦は、色白なため紅潮が目立つ耳を隠す様に塞いで、遠回しな敗北宣言をした──もしも第三者が居合わせたならば、あきつ丸は顔色一つ変えず、上司をボケ猫呼ばわりしただろうし、周りも同意したに違いない。

 

 ただ、今この場には二名しか居ないのだった。

 

 もう少し俺に失望してくれれば良いのに、とノアは思う。

 

 馴れ合いを嫌う半分は元々の捻くれであるが、もう半分は掛け値無しにあきつ丸のせいだ。今どき命をも惜しまぬ忠義忠節など持たれても、面倒臭いだけだし、側に居られると薄気味が悪かった。

 

 一方的に向けられた信頼感情とは、他者に勝手な幻想を抱かせ、そして裏切られたと思い込まれれば強大な敵を生み出す、厄介この上ない劇薬だ。

 

 その点、ノアはとことん『常識的』だった。

 

 誰かに命を捧げるなど馬鹿げており、それが求められるとしたら、環境そのものが狂っているのだ──と、部下が自決しそうになる度に(柄にもなく)言い聞かせた。

 

 さしものあきつ丸も理解したのだろう。今までの自分を恥じて、ある時から忠義者らしくするのをきっぱり止めた。

 

 それからというもの、未熟な艦娘は、成熟を飛び越えて徐々に腐敗していった。あの健気な姿は何処へ失せたのか――絶えず卑しい笑みを浮かべ、あらゆる不誠実で瞳を濁らせ、口を開けば道徳そのものを嘲る、最低最悪の人格へと変貌した。

 

 あきつ丸が腐れ落ちてからというもの、ノアはむしろ安息した。今までの不当な環境の反動と考えれば、実に『正常』な変化だと思ったからだった。

 

 他者に全権を託すより、自分の意思で世界を憎んでいた方がよっぽど健常である。後は、その憎しみが正義感という正しい方向へ昇華してくれれば良いのだが──と案じていた矢先、事件は起こった。

 

 何者かにより、ノアが襲撃されたのである。

 

 当時は、提督という地位へ登り詰めるため危ない橋を何本も渡っていたが、そのうち一本を踏み外したらしかった。

 

 幸い軽傷で済んだため、対策を話し合おうとあきつ丸を呼び付けると、何時も飛んで参上する腹心は現れなかった。さては恐れをなして遁走したかと勘ぐったが、特に怒る気にもならず、死ぬ事しか考えていなかった娘が成長したものだと逆に感心した。

 

 しかし翌朝、あきつ丸は帰ってきた。

 

 頭髪は焼け爛れ、頭蓋の一部と片目が吹き飛び、腕は肘からもぎれ、腹には大小の穴が空き、血みどろの足を引きずる──きらめく朝日によって容赦無く照らし出された、凄惨極まる姿は生涯忘れられないだろう。

 出会いの時よりも酷い半死体の有様で「ちょっと散歩がてらに報復を」と、彼女は変わらず不気味に笑った。

 

 

 

「お前何も分かってないじゃんッ!」

 

 

 

 猫は思わず絶叫した。

 

 騙されていたのである。この女の忠義とやらは矛先を隠しただけで、本質が変わっていないどころか苛烈さを増していた。

 

 もはや彼女に正義悪徳の区別無く、有るのは忠誠のみだった。では一連の変貌は、主人に言われた事に表面上それっぽく従っていただけだったのか?

 

 否。表面だけの演技ならば、動物的嗅覚に富んだノアを騙す事など不可能である。実際に腐ったのだ、この女は! 主人の命令を実行するため、日頃の心配をかけないため、人格すらも歪めてみせたのだ。

 

 全ては、自分の根底にある、酷く美しいものを覆い隠すために。

 

 そこまでして貫く利他精神など狂気の産物でしかない。

 

 もし今この場で死ねと言ったなら、あきつ丸は相も変わらず喜んで自決を果たすだろう。それが意味のある死だと信じて疑わないのだ。そうじゃない。本当に求めていたのは「何であんたのために死ななきゃならんのか」と言い返してくる主体性なのだ。

 

 しかも、あきつ丸は心理分析の達人の癖に、この辺りについてだけは妙に鈍感、盲目的で、すっかり現状に満足している様だから始末に負えなかった。

 

 今では「いのちをだいじに」と厳命してあるため、短気を起こすのが減少しただけで良しとしよう──猫は、諦めの境地にあった。身体どころか、心の支配権まで捧げた相手に何を言っても徒労である。

 

 

「お前だけで沢山だよ、そういうのは」

 

 

 ため息と同じ風に、ノアは呟いた。

 

 ともあれ拾った動物には最後まで責任を持たなければならない。手に余る部下だと常々感じるが、騙し騙される世界に身を置くノアにとって、断じて裏切らない懐刀は、打算抜きにしても頼れる存在である事もまた確かだった。

 

 何という矛盾。自己嫌悪も相まって、ノアの馴れ合い嫌いには益々拍車がかかるばかりだった。

 

 

「……それで、作戦計画だが。別の手立てでいくしかないわな」

 

 

 部下を虐めるうちに、自分にも蘇ってきた苦い思い出に無理矢理蓋をして、新任提督は本筋に戻った。

 

 

「然り」

 

 

 聴力が急回復したらしい腹心は、白々しくも平素の調子で応じ「誰か様のせいで」と憎たらしく付け加えた。ノアは甘んじて聞き流す。このくらいの意趣返しは、むしろ当然の権利だろう。

 

 

「一日あれば代案を出すけど」

 

「遅い」

 

「だよな、食糧事情は待ってくれない。正規空母とかもな。俺が非常食になりかねん」

 

「状況は火急を要します。海の黒ずみが、今に陸を黒ずませるとも限らないのでありますからな」

 

「実際やれる事だ、その気になれば」

 

「あはは、困ったものですな。どうしましょうね、ホントホント」

 

「……で、何かあるんだろ」

 

「おや、おやおや? これはまた、心外な仰り様。このあきつ丸が、作戦立案を一筋しか用意していない無能とでも?」

 

「全く頼もしいと思うよ」

 

 

 嫌に恩着せがましく会話を誘導するあきつ丸に、ノアは嫌味っぽく応じた。この切羽詰まった状況においても普段通りに振る舞うという点では、確かにそう思わないでもない。

 

 

「有りますとも、正に起死回生の妙案」

 

「まあ、俺が台無しにした訳だから、なるべく黙って聞こうか」

 

「では一任して下さいますね」

 

「駄目だ」

 

 

 万を辞して提督は即答した。あきつ丸のニタニタとした笑顔が一瞬だけ作り物っぽくなる(実際作り物だが)。

 

 

「代案については全て任せよう。だが『一任』は出来ない。お前の行動について、責任はあくまで俺に帰属する。俺が提督で、お前が艦娘。その限りを超えて動く事は許さない」

 

 

「……随分、信用が無いのでありますな」

 

「無いよ」

 

「少しは、信じられていると思いましたが」

 

 

 転じて悲壮な雰囲気を醸し出したあきつ丸を、ノアは乾いた目で見つめた。そのうちに艦娘の目の端が潤み始める。見事な程に哀れだ。しかし猫の対応は変わらない。

 

 暫くすると、気落ちした女の顔は、みるみるうちに無邪気な笑みにすげ変わった。何時もの嫌らしい笑みとは、全く性質が異なっている。

 

 これだよ──ノアは深く息を吐いた。

 

 

「諦めたか」

 

「諦めました」

 

「十年は早いぞ」

 

「そのようで」

 

「ほら言ってみろ」

 

「強襲揚陸艦あきつ丸が全行動の責任は、否応無く提督殿に帰属するものであります」

 

「うむ」

 

 

 あきつ丸への行いへの信用など、とうの昔に放り捨てたが、行動原理の一貫性だけは確信している。

『死にたがり』なのだ。

 

 これと決めた主人に命懸けで侍う──それこそ生の全うだと思っているらしい。

 

 全く、分かり易く自害する真似はしなくなったと思ったら、今度はあの手この手で提督の重責を奪って、失敗の暁にはそれと共に心中しようとするのだから堪らない。

 

 上官とは、自分の命令について責任を取る以外に存在価値は無いというのに。

 

 

「諦めついでに聞かせて頂くであります。提督殿は、参謀閣下を如何に処遇するつもりでありますか?」

 

 

 ノアの片目が楕円に潰れた。急に、目の上にタンコブが張り出てきた気がしたのだった。

 

 

「働かせる。黙ってりゃ、そこそこな後方補給官なんだろ。連日、大淀が首を吊りそうな顔をしてるし」

 

「結局ほぼ独りで鎮守府の兵站を切り盛りしていますからなあ。艦娘に対する人権侵害の象徴みたいであります。首吊ったって死ねない所が特に」

 

「お前に言われたら泣くよきっと」

 

「彼女の下に付けるのですか」

 

「アホ、それが通じる相手かよ。形だけは上に付けてやらなきゃヒステリーだろ。逆に言や、形だけで済むんだから安い男だな」

 

「いよいよ大淀さんが縄をない始めますな」

 

「あいつには『ゴマすっとけば横須賀への栄転があるかも』とか言っときゃ良いんじゃない?」

 

「……それで何とか丸められそうなのが彼女のさもしい所でありますな」

 

 

 些か上昇志向の激し過ぎる眼鏡の軽巡洋艦については、主従で感想が一致するところだった。

 

 

「しかし、心配ですなあ、はてはて」

 

 

 肉体から精神から人権侵害で構成されている様な艦娘が、猫撫で声めいて憂いた。ぬらりと撫でられた猫のもう片方の目が、より細く潰れる。

 

 つまりは『それ』だったか。

 

 あきつ丸は、何か口に出して心配する暇に実力行使を取る艦娘である。それが敢えて前者を取るという事は、暗に行動を制限されているという事であった。

 

 

「心配するにしては物欲しげだな」

 

「とんでもない、自分程無欲な艦娘も居ませんよ……ほら、戦場で弾が前からばかり飛んでくるとは限らないでありましょう? 素直に見せてはくれない分だけ、危うし危うし。参謀閣下はそれに気が付いておられない。運が悪いと、あらウッカリ、なんて事が十分有り得ると危惧するばかりであります」

 

 

 背後に立たせなくない女第一位(提督調べ)の艦娘は、指で鉄砲を作って「ばーん」と提督を撃った。

 

 ノアの意識があきつ丸の左脇に誘われる。そこに隠し吊られた鉄塊の存在は、頭の隅にこびり付いて片時も忘れられない。付き合い初めて一年目、何度それが持ち主の脳天をぶち抜くのを止めた事か。

 

 そして未だに、抑止しなければならない。今度は銃口の向き先が変わった──最も、当時よりは随分気が楽かも。

 

 

「いや、そうはならないね」

 

「ほう? では、提督殿は彼の命運は未だ尽きてはいないと思われている」

 

「そう思うね。奴は余程に幸運だ、きっと日頃の行いが良いんだろう」

 

「おほほ、然り然り」

 

「だが、まあ、一瞬だろうな──」

 

 

 何を考えていたものやら分からない、人でなしの双眸が、ちろりと異様な光を零した

 

――瞬間、艦娘の首筋に酷く鋭利なものが滑り入り、通過した。

 

 気道、神経、血管。人外の艦娘と言えど生存に必須なそれらが、ことごとく断裂した感覚を、あきつ丸は確かに味わった。髪を気にする風にして、さり気なく首筋を撫でる。くっ付いている。静かに呼吸を再開した。

 

 次にはもう、提督は相変わらずぼんやりした猫顔を晒していた。強襲揚陸艦の顔は、まだ表情を戻す事が出来ていない。あきつ丸の首を切断したのは、殺意とか迫力とか言う既存の言葉では説明不可能な『なにか』だった。

 

 偶にこういう事がある。こういう事があるから――この方から離れられないのだ。

 

 

「大抵ほんのちょっぴりの事で、一瞬。土壇場でくるりと命運ひっくり返るなんてのはな。こればっかりは自分じゃどうにもならん。奴だって同じだろ、とても平等」

 

「……提督殿と居りますと、ほんに勉強させられるであります。全く自分のものは、クルクル回り過ぎて、今がどの位置にあるのやら──重ねてお忘れなきよう」

 

 

 忠実な配下は、ずいと顔を突き出し、甘く囁いた。

 

 

「たったの一声賜れば、このあきつ丸、即ち白を黒に裏返し、黒を白にも表返しましょう。わたくしはその為だけに所有されるものであります」

 

「すごい便利」

 

「ま、気を利かせて勝手にひっくり返っちゃう時が無きにしも非ずとも」

 

「あきつ丸」

 

「強襲揚陸艦あきつ丸が全行動の責任は、否応無く提督殿に帰属するものであります」

 

 

 コイツ本当に分かっているんだろうか──恐らく分かっていないのだった。

 

 何時の間にか妖笑を帰参させていた黒い腹心は、何時にも増してにやにやする。もはや隠す所も無くなったため、堂々としたものである。その顔は無邪気にすら見えて――いや、やはり見えなかった。

 

 

「さて、どうにも自分は信用が無いそうで? 仕事の一任は出来ないと仰せでありますからして? ではせめて『委任』して頂きましょうか」

 

 髭を伝って、ノアに凄まじく不吉な予感が流れ込んできた──畜生め『後出し』案か。

 

 作戦立案に臨み、幾通りもの道筋を想定するのは当然の嗜みである。この通り数に応じて、立案者の頭脳が評価されると言っても良いだろう。そして、あきつ丸は常に複数道筋を準備している。

 

 その中で初めに選ばれるのは、もちろん最善策だ。しかし不運にも最善策がおじゃんになり、また次善策も台無しになって、いよいよ手段が選べなくなった時、あきつ丸は一番楽しそうに笑う。

 

 作り物ではなく、恐らく本心から。

 

 

 最悪の女だ。

 

 

「提督殿よ、これはあなたが招いた結果であります」

 

 

 慈悲もなく、黒いのは言った。

 

 

「あなたは撤退も玉砕も選ばなかった。内憂を除き、団結を以て戦う事も選ばなかった。どうしましょう。残る手段は、このあきつ丸の『専門科目』ばかりになるのは当たり前でありますなあ。部下の行動について責任を取りたいのなら、まずは御自分の責任を取って頂きませんと」

 

 

 言い回しはともかく、あきつ丸に正論を諭されるのは釈迦に説法されるより堪える猫である。何とも減らず口しか叩けそうにない。

 

 

「お前と違って、俺はまだ死にたくないんだけど」

 

「大丈夫、惜しむ地位も名誉も守ったまま死ねるでありますよ」

 

「命が一番惜しいんだよ」

 

「お供致しますから」

 

「それは止めろ」

 

「でしたら、後は万事このあきつ丸にお任せあれ」

 

「……不戦派にはどう対処する」

 

「なあに、昔取った杵柄。ただの『一発』あれば、嫌でも争いは始められるものでありますよ。由緒正しき陸の取り柄でもあります」

 

「楽しそうだね」

 

「は、そんなわけが無いでしょう。作り顔でありますよ。得意なもので」

 

「ロクでもなさそう」

 

「確かにロクなものじゃあございません」

 

 

 不吉な部下は、素直に認めた。

 

 

「けれど、まあ、戦争なもので?」



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第三章 愛しい大地は、全て、海に帰す


【挿絵表示】


初めまして、さようなら。



 佐世保の庭には、ちょっした東屋となっている所がある。鎮守府内の景観と、労務者の憩いのためだった。開けた場所に建っていて見晴らしが良く、海を眺める事も出来るので、少女らに人気のスポットだ。そのため、絶えず誰かが居座っていて、昼食を食べたり、井戸端会議に華を咲かせたりする訳だが……それも平時の話である。

 

 敵の断続的な爆撃に晒されて、屋根は跡形も無くなり、大胆な吹き抜けになっている。四方の柱が辛うじて体裁を保っているだけで『瓦礫の山』と言っても差し支えない。今となっては、誰も寄り付く理由も無いが──そこに一人。お話し相手など一人も持たない(持てない)陸女が、長椅子の残骸に腰掛けて、東屋を独占していた。

 

 今後再建されても悪い噂が起こって、もうこの東屋には艦娘が立ち寄らなくなるかもしれない。

 

 

 ざまあみろだ──あきつ丸は独り毒づいた。栄養バランスだけが長所で、汁気が皆無な棒型戦闘糧食を苦労して咀嚼している。執務室を出てやるべき事を済ませての、遅めな昼食だった。

 

 

 余りの味気なさを非難する様な目付きで、今日の昼食を睨む。まるで本当に棒キレを食っている感じがする。かつての産業大国が、最前線の健気な少女に送り付けるのがこんな代物とは、俄然泣けてくる。

 

 何とか最後の一片を喉奥に放り込んだ。残った包み紙を丸め放ってしまおうとして、はたと思い直す。少々考えを巡らして、結局ポケットに突っ込んだ。

 

 途端に馬鹿馬鹿しくなる。自分がやってきた事と、今からやろうとしている事と。何だ、ポイ捨て如きが。全く心根まで『ゴミ処理係』が板についていやがる。

 

 空を見上げる。遂には降り出してきそうな色だなと、あきつ丸はその黒さを眺めるにつけ思っていた。

 

 ここ連日、今に降るか今に降るかと待ち構えて、未だに降っていない。他に考える事は幾らでもあるのに、たかがお天道様に気を揉まなければならないのが無性に腹立たしかった。

 

 どす黒い空の真下には我らが鎮守府庁舎がある。赤レンガ作りの堅牢なビルディングで、ちょっとやそっと吹いただけでは飛んでいきそうにない。事実、連日の爆撃に耐え抜き、無益な会議で時間を潰せる程度には健在である。

 

 空襲の規模から考えれば、きっと幸運なのだろう。あの赤レンガ製の庁舎は、鎮守府の頭脳であるだけでなく、象徴でもある。艦娘は、あの赤を見て訓練し、出撃し、食って寝ては起きている。自然と心の風景に染み付いているのだ。自分の住処、守るべき場所として。それが崩壊するというのは士気にも直結する事件になり得るだろう。

 

 ただし一点、耐えきれなかった屋根の端々がおっ欠けていた。

 

 

「甘い、甘い甘い甘い」

 

 

 あきつ丸は、状況の中途半端が心底気に入らなかった。

 

 やる気が有るんだか無いんだか分からない深海棲艦、時間の浪費にしかなり得ない軍議、糞野郎でロクでなしの男、頑固で聞く耳持たない同僚、忠義忠節を留めるばかりの主人。

 

 何もかも、何もかもだ。

 

 戦争とは、何時も向こうからやって来る。誰が望んだでもなければ、意図した訳でもないのに、否応なしに暴力と破壊の渦に呑み込まれてしまう。あまねく犠牲を無くす事など、決して出来はしない。どれだけ力を尽くして回避を試みても、全ては始まってしまった以上、惨禍は決して避けられないのだ。

 

 

「――然れば、自分から赴くしかないでありませんか?」

 

 

 あきつ丸という器から、遂に致死毒が漏れ出した。

 

 例え屍山血河に塗装されていたとしても、その道が避けて通れないのなら、踏破するしかない。それから逃げ切れないのなら、闘うしかないのだ。

 

 一を処しては十を利す――無論、前者が小さく、後者が大きい程に重畳と思う。が、よしんば『一』に同法や、あわや自分が含まれていたとしても、一切の躊躇いは無い。『十』に比ぶれば、断然、無価値である。所詮は全体に対する些末事でしかあり得ないだろう。

 

 以上を実行するために、情けも容赦も持ち合わせてはならない――それを押し留められるとすれば、この世に唯一だけだ。

 

 斯くして、枷の外れた自分は、例外なくそれを実行する。

 

 あきつ丸の汚泥の様な色をした瞳の奥が、どろどろと不気味に流動する。曼珠沙華の唇が、すうっと両端に引き裂かれた。艦娘とは正に怪物だと、知らしめる様な凄惨な面貌だった。

 

 この世にただ一隻の強襲揚陸艦は、健気に過ぎる生死感を振りかざしながら、東屋の残り香(という名の瓦礫の山)に視線を移した。

 

 元は梁だったらしい木屑に埋もれるようにして、何やら、飛び出して見える金属棒がある。あきつ丸はぬっと立ち上がると、棒周りの木屑を軽く蹴飛ばした。

 

 現れたのは、T字型のバー、その下にくっ付く箱めいたもの。

 

 

「随分と、またトラディショナルな」

 

 

 しかし『時間』はぴったりだ。

 

 あきつ丸はそれに触れようと真白い手を伸ばす。ふと。気が付くと、T字の上に拳大の何某――妖精が一人(一匹?)座っていた。非難がましい目で、黒い艦娘を睨んでいる。

 

 あきつ丸は妖精の首根っこを摘み上げて、目前に持ってくる。

 

 

「何でありますなその目は」

 

 

 妖精は、やはり黙してあきつ丸を睨んでいる。良く観察すると、充血した目に隈が出来て、全身が煤ちゃけている。分かりやすく、過重労働への抗議であるらしい。

 

 艦娘は妖精ににっこり笑いかけると、そのまま握り潰した。

 

 手応えは無い。手を開くと、そこには空気の他何も無かった。どういう理屈か、跡形もなく霧散したらしい。潰されたからか、潰されそうになったからか――それすら謎である。

 

 特にあきつ丸は気にしていない。

 

 妖精とはそういうものだった。

 

 協力者という邪魔者を握り潰した手の平を一吹きし、ぶらつかせた後、改めてT字金属バーを撫でる。

 

 もう一度だけ、赤レンガの建物を眺めた。

 

 清濁併せ呑み、ようやく手に入れた夢の鎮守府務め。紛うなき『提督』と『艦娘』として、ピカピカな生活の象徴。国家平和と、人類守護の一大拠点。全ての中途半端の元凶。

 

 糞喰らえ。

 

あきつ丸はバーを思い切り押し込んだ。

 

 

 

 鎮守府庁舎がぶっ飛んだ。

 

 

 

 勢い良く、猛烈に、盛大に、一気に──ぶっ飛んだ──としか感じられなかった。

 

 鼓膜を引き裂く強烈な衝撃波やら、大気そのものを焼け焦がす様な熱風やら、飛散する赤レンガの爆弾破片やらを身体で受け止めたのは、全てその印象の後でであった。

 

 当然この大爆発に巻き込まれて、数メートルも後方に吹き飛ばされたあきつ丸は──狂った様に笑いこけていた。

 

 水を掻く風な手ぶりで瓦礫の下から抜け出すと、ごうごうと燃え盛る『夢の鎮守府』を見て、更に大笑いした。

 

 

「やり過ぎだ間抜け!」

 

 

 痛い腹を抱えながら艦娘は涙を拭く。

 

 分かっていたとは言え、一瞬真顔になってしまった。咄嗟に顔を庇ったから、目に見えた傷は無いだろうけれども、実際服の下は痣だらけになっているだろう。全く嫁入り前の身体に。

 

 妖精どもめ。これが鬱憤ばらしのつもりだったか。使い道の無い『ただの』炸薬をありったけ仕掛けたに違いない。否、意外と勝手が違かったので、念を入れただけなのかも──今にしては、最早どうでも良い。

 

 どちらにしても半端の無い、良い仕事だ。

 

 

「愉快痛快本懐であります」

 

 

 頭の中で、絶叫染みた通信が錯綜している。しかし取り分けて区別するまでもない、どれも内容は大体同じだ。

 

 敵襲か否か!? それだけである。

 

 あきつ丸は苦労して――本当に苦労して、滑稽味を抑え込んだ。そして声を『調律』して、通信回線の荒波へ飛び込んだ。

 

 

『敵襲、敵襲ッ! 提督の安否不明! 繰り返す、提督の安否不明! 総員直ちに戦闘配置へ! 作戦案に則り、攻撃へ備えよ!』

 

 

 駆逐艦の様な、でなければ戦艦の様な。誰でもあって誰でもない、微妙な声の調子であきつ丸は叫んだ。

 

 

『敵襲!? 戦闘配置!』

 

『急げ、もたもたするな!』

 

『回せーッ!』

 

 

 同僚たちの反応は、実に迅速であった。元来、高練度な艦娘たちの集まりである。敵が攻めてきた──その迫り来る現実を前にして、嫌も応もないという事を熟知していた。意見の相違でいがみ合っていても、お互いの正義心を忘れる程愚かでもなかった。

 

 であるが故、容易く戦争を始められる人種だった。

 

 あきつ丸は、吹き飛ばされてしまった軍帽を瓦礫の中から探し出した。太ももで土を払って徐に被り直していると、その上からぽたりと来た。

 

 見上げると、今度は頬にぽたりと来る。間もなく、それは全身を叩き始めた。

 

 ようやっと、お天道様も意志を固めたらしい──肌を突き刺す様な真冬の土砂降りを一身に受けて、あきつ丸は何処までも愉快そうだった。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 彼らは人と同じ感覚器を持つ訳ではない。実際問題、世界をどう捉えているのか、誰に知る由もない。けれども何処だかに理由があって、人の感じられる五感を同様に、或いはそれ以上に、高感度で察知する事が出来るらしい。

 

 辺り一帯にも憚り隠れない大爆発となれば、こと尚更である。音どころか、めらめらと宙を舐める爆炎の熱までも、その青白い肌に感じられそうだ。

 

 衝撃波によって海面に生じた波が遅れてやってきて、そこら一面に黒々ひしめく彼らも、波に合わせて浮沈した。

 

 唐突に爆破炎上した赤レンガ造りの建物を目前にして、比較的人型な一体が、首を捻る仕草をした。その調子で隣の人型を顧みたが、同じ風にしているだけだった。

 

 一連の所作は上辺動物的だったが、微塵の感慨も無い機械的な顔である。その不協和は、彼らを観察する者を不気味の谷に突き落とした。

 

 まるで魚の様な……という表現が、最もしっくりとくる奇怪な生命体であった。

 

 

 深海棲艦。

 

 

 と、彼らは勝手に呼ばれている。それというのも、彼らが名乗りをしなかったからである。

 

 何処か海の深い所からやってきて無差別に人類を攻撃する、世にも恐ろしい正真の化け物および魑魅魍魎にして妖怪変化──と当初思われていた。

 

 ほんの一時、怪物への対抗装置、艦娘が生まれるまでのお話だ。

 

 艦娘の運用によって、人類は自らの意志で化け物を殺せる様になった。未だ容易い話では有り得ない。しかし少なくとも意図的に殺せるのなら、もはや彼らは化け物ではなかった。そういう習性の生き物で、知られざる新種なのだろう。無闇に恐れる謂れも無い──と、実に人間らしい傲慢さに落とし込まれ、彼らはまた勝手に神秘性を失った。

 

 今の彼らは化け物ではなく厄介な生物災害であり、原因は分からないが、そのうち分かるだろうとされた。よく分からない生き物を、よく分からないまま駆除している、というのが現状の全てであった。

 

 御用学者連中がそれで良くとも、しかし、駆除させられる側はたまったものではない。

 

 現状がはっきり分からずとも、一つだけはっきりしているからだ。これが種族の生存を賭した『戦争』である、という事実だった。

 

 そして、件の人類の戦争のお相手は、どうやら集団的混乱の只中にある。

 

 アレ、鎮守府が爆発した──まぬけに聞こえるかもしれないが、事実を素直に受け入れようとしただけである。彼らは何もしていない。いや、断続的な攻撃はしていたが、今さっきまでは中断していた。だが圧倒的現実として、灰燼に帰す半ばにある鎮守府庁舎の光景を叩き付けられている。

 

 あれを破壊しなければならない──という強い観念(めいたもの)が、彼らの内にあった。一際目立つその建造物は鎮守府の象徴にして、きっと敵の拠り所である。それの破壊とは、敵の根城そのものを破壊するも同様の事だ。

 

 連日の爆撃にも、厚い上に精密な対空弾幕と、一騎当千とか言い様のない迎撃戦闘機隊によって、倒壊が阻まれ続けていた庁舎である。全くこれは数上の戦力差からすれば驚嘆すべき事だ。

 先の海上決戦では、幸いと言うべきだろうか、無策な平押しであったから単に多寡の問題で跳ね返しはしたものの、かなりの数を抉り取られた。これ以上下手に攻め込んで、追い詰められた猛虎を相手しては大量出血を免れ得ないだろう。だから数に頼んだ『楽』な攻囲を続けているのではなかったか。

 

 しかし庁舎は自ら木っ端微塵になってしまった、意味が分からない──彼らにとっては、仮に知性があるとするなら、こんな所だったろう。

 

 比較的人型の内でも、更に比較的兵装の立派な一体(人類側分類名無し)が前後に腕を振った。「とりあえずやってみろ」と言うのだ。空母や戦艦らアウトレンジ攻撃可能な個体は、この意見に逆らわなかった。彼らなりの上下関係もあったが、単に他にすべきを見い出せなかったからでもある。

 

 それから行われたのは爆撃も砲撃も歩調を合わせない、大雑把で精彩を欠く攻撃だった。何故か届きもしないのに、駆逐艦や巡洋艦までやたらに撃っている。

 

 反撃が無い。

 

 従来であれば、こちらの爆撃機が到達する前に迎撃に昇ってくる戦闘機、護岸への接近を阻む一斉射など、高練度を痛感させる応報が必ずあった。それが無い、とは、どいういう訳か。

 

 ばらばらとした攻撃は、誰が制止する訳でもなかったが、適当なところで止められてしまう。後にやってきたのは空白だった。多数の人間型、無数の非人間型、共に沈黙するばかりである。

 

 彼らは頭数こそ数多揃うが、指揮官らしい指揮官を持たない。個体差、性能による上下関係が『何となく』存在するだけで、決断を明確に担う者など存在しない。いざ戦闘になってしまえば、ただ上下関係に従って撃ちまくれば良いだけだから、考えなど要らない。実際問題それで勝てていたのだ。けれども、こういう場合──どうするのだ?

 

 つまり彼らは、埒が明かなくなってしまったのである。

 

 埒が明いたのは、とある空母ヲ級が、不意に杖を掲げたのがきっかけであった。何やら指し示している雰囲気で、沈黙するしかなかった彼らの視線が、自然、杖の先に誘導される。

 

 示されたのは沿岸の貨物用クレーンである。赤白の縞模様で目立つ仕様のそれに、皆々は覚えがあった。連日に渡り、真っ黒で不吉な不詳艦娘が天辺に立ってじろじろ観察してきた、あのクレーンである。

 

 今また同じ場所へと登ってきたのは、別種の艦娘だ。小柄の、恐らくは駆逐艦だろう。そして彼女が大きく振り上げたのは、正に黒とは真逆の色だった。

 

 

『白の旗』である。

 

 

 投降、戦意喪失、無条件降伏──かの白色の持つ意味を彼らは本能で受け止めた。だが、しかし勝利を確信する間も無い。白旗が掲揚されてから直ぐに別の駆逐艦が現れて、猛スピードで鉄骨を登るや、先の駆逐艦ごと無理やり白旗を引き倒した。

 

 と思ったら、また先の駆逐艦が立ち上がり、後の駆逐艦を突き飛ばして旗を奪い返す。このやり取りを数度に渡って繰り返した挙句、最後には未だ燃え盛る庁舎の飛び火を受けたか、旗は炎上して消し炭になった。

 

 真っ当な知的生命体がこれら一巡を目の当たりにした時、辿り着く結論とは何だろうか。

 

 赤レンガのシンボルマークは曇天に吹き飛び、分厚い対空攻撃のカーテンは不意に開け放たれ、白旗掲揚を巡って兵士が殴り合う。その様な状態の敵に対して、自群をどう動かすべきだろうか。

 

 彼ら深海棲艦が、実際どの様に判断したのか定かではない。定かではないが──雲霞の如き大群は、即座に全群進撃を開始した。

 

 少なくとも出来るだけ容易に、出来るだけ大きく『勝利』を手中にするためなのは確かだったろう。

 

 

 ◆

 

 

 一刻一刻に冬の雨が激しさを増している。

 

 全く降るのだか降らないのだか、ここ数日の優柔不断を一掃するが如く、雨神による絨毯爆撃は苛烈を極めた。

 

 鎮守府庁舎を呑み込んだ火災は反比例的に勢力を弱めていた。空中を舐めまわしていた巨大な炎の舌は、全身を豪雨に曝露され、今や瓦礫の屋根の下でちろちろと控えめに自己主張をするに過ぎなかった。

 

 雨の一滴がまるで氷針の様な威力だった。炸裂した氷針は即座に液体と化して流れ出し、容赦無く熱を奪ってゆく。敵味方へ無差別に着弾する、自然界からの攻撃である。戦場の環境は悪化の一路だった。

 

 大地に降るものが在れば、大地に登るものが在る。蠢動する無数の黒点、水面から這い上がる遠き深海からの化け物が、続々と陸上を侵してゆく。

 

 打ち寄せる荒波に後押しされる様に、ぞろぞろ、ぞろぞろと。彼らは接岸から誘われる様にして陸を内へ内へと侵蝕していった。

 

 人類史上最悪の事態だった。また艦娘にとって、それだけは絶対に防がなくてはならない光景である筈だった。

 

 人間様の領土が、よりにもよって非人間に侵されている!

 

 佐世保鎮守府、というあらゆる人材の掃き溜めは『化け物の百鬼夜行を陸に招いた』という不名誉な記録を人類史に残したのだ──後の顛末も含めて。

 

 化け物共が大地一面を跋扈しつつある。ただの人間であれば、低体温症で戦闘不能に陥ってもしようのない世界の中で、続々と上陸を果たし、勢力を拡大し続ける。

 

 雨の冷たさなど何一つ感じない、魚の様な瞳で彼らは鎮守府を見渡す。

 

 惨憺たる光景とはこの事だった。日々の癒しであっただろう酒保は、焼け焦げた数柱が立つばかりで跡形も無い。

 

寮舎の半分が屋根も壁も無く、住居としての役割を果たしていない。良く開けた中庭の樹木は大方炭になり、東屋は瓦礫の山だ。

 

 1ミリの隙間すら許容されないコンクリート張りの筈だった地面は見る影も無く、前後左右に大穴だらけだった。辛うじて幾つかの穴には青いビニールシートが被せられ、一応塞ごうとした努力が認められたが、その努力は途中で放棄されたらしい。殆どの穴は吹きさらしであって、基底の土砂から滾々と滲み出す海水に加え、雨水が流れ込み、泥水溜まりになっていた。

 

 何とか形を留めているのは、兵器廟、修理ドッグなど運営機能の中核を成す建造物。それ以外は連日の爆撃により、軒並みが破壊されていた。むしろ一部守られていただけでも褒められるべきだろう──最も肝心な建物は『消滅』してしまったが。

 

 しかし、彼らの大多数にとって鎮守府の惨状などどうでもよい事柄だった。確かな地面を、国家の領地を、艦娘の居場所を、自分の足で踏みしめている。それこそが大切だった。

 

 無意味にすり足をする個体がある、地団駄を踏む個体がいる。各々違いはあれど、一様に固い地面の感触を確かめている。

 

 彼らは、常に何かに駆り立てられていた。生まれ持った抗い難い性──いや『郷愁』とでも言うべきか。誰も彼も、内にあるそれに従って生きていた。

 

 

 

 愛しい大地は、全て、海に帰す。

 

 

 

 これが彼らの絶対的な行動原理であり、目標であった。そして遂に、目標達成まで漕ぎ着けたのだ。この愛しい鎮守府を、やっと海に帰す時が来た。

 

 深き漆黒の群勢、やがて最後の一体までもが上陸を果たした、その時。不気味な程に同調して、深海棲艦は一切の動作を沈黙させた。

 

 全固体が俯き、地面を凝視する形は、まるで黒魔術の儀式めいたものに見えた。

 

 いや、実際それに近いのかもしれない。深海棲艦は、大地を海に沈没させると言われているが、しかし、その手法を誰も知らないのだから──

 

 彼らのうち、一体だけは違う。

 

 彼らの中で最も兵装の整った深海棲艦、概ね『群れ』を率いて攻撃を指導した最上位個体である。地面に取り憑かれた様になった同類を他所に、しきりに光の灯らない目玉を動かして、辺りを警戒している。我々は目標に辿り着いた、辿り着きはしたが──静か過ぎる。

 

 艦娘は何処へ消えた。

 

 まさか白旗を振って直ぐに逃げ出してしまったのか。あれ程高練度で、鎮守府を守るのに躍起になっていた兵士が。仲違えによる抗争があったとして、こうも一目散に逃げ出すものか。

 

 違和感がある。どうしようもなく不気味で、心底悪辣な──まるであの黒装束の艦娘の様な。

 

 命運が翻ったのは、まるで一瞬だった。

 

 泥水を溜めるしか用をなさない、幾つかの爆撃痕に被せられたブルーシート──それらが同時多発的に、ひらりと、文字通り翻った。

 

 強風のためか? 否! 明らかに人為の、それも『穴の内側』からの人為である。

 

 頭を出したのは艦娘だった。前後左右に穿たれた大穴から、艦娘、艦娘、艦娘──そこではない、そこではない! 

 

 きりきりと鉄の擦れる音がする。穴の中から飛び出したのは艦娘だけではなかった。

 

 明らかに重巡か、それ以上の主連装砲、それらは設置された『台座』に据えられ既に狙いを定めている。それとほぼ同時、唸りをつけた大量の爆撃機が穴から飛び立つと、瞬く間に雨空を覆い尽くす。

 

 前後左右、そして空中──五面全ての打撃力が交差する結束点、我々はそこに棒立ちしている!

 

 一体何が起こっているのか分からない。圧倒的優勢で攻囲していた筈が、何故だ、いつの間にか逆攻囲されているではないか。

 

 今や泥水溜りの大穴は『塹壕』へ──塹壕に据えられた巨砲は『砲座』へ──砲座を据えられた鎮守府は『要塞』へ──全ては一瞬のうちに変貌を遂げた!

 

 艦娘にとって招かれざる深海からの客は、未だ大多数が地面に意識を取られている。山盛りの悪意を向けられている事に気が付いてすらいない──つまり彼らは遅すぎたし、艦娘たちが手の平を返すのには早すぎた。

 

 上位個体は恐慌に顔を歪め、声にならない悲鳴を上げた。めでたい事で、この個体が深海棲艦として初めて表に示した情動らしい情動だった。

 

 向かって正面の穴の中から、徐に一本の手が挙がる。

 

 

「ようこそ佐世保鎮守府へ、さようなら」

 

 

 手が振り下げられる。

 

 砲座は一斉に噴火し、爆弾が大地に降り注いだ。

 

 

 ◆

 

 

「いやぁ、死ぬかと思ったよね実際」

 

「まことまこと。提督殿が殉職なされては、佐世保鎮守府もはやこれまで、なんぞと思いました」

 

「燃料弾薬が気になってねぇ。ほら、俺ってマメだし? 一度気になったら居てもたってもいられないってゆうか? んで工廠まで見に来るじゃん。そしたら、さっきまで居た仕事場が爆破されんだもの」

 

「さしものあきつ丸めも肝が冷えましたぞ。青天の霹靂とは正にこの事、いえ、むしろ近頃お天気が悪うございまして。いつ頃ピシャリと来ても何らおかしくは無かったのですかな後講釈」

 

「見てよこの尻尾なんか、まだちょっと逆立ってやんの」

 

「ホホ〜、お猫様」

 

「崇めよ」

 

 

 外界から火山噴火の様な砲撃音が轟いてくる中、げらげらと場違いな大笑いが、兵器廟中に響き渡った。

 

 何処となく妖しい口調だったのだが、この二名──ノア提督とあきつ丸が妖しさ甚だしい存在なのは常からだったので、今更一々詮索する気持ちにもならない。

 

 

「……楽しそうなところ悪いんやけどね司令官さん」

 

 

 不服を全面に押し出した声で、軽空母龍驤が発言した。

 

 

「ん、どうぞ紅いの」

 

「ジブン何処に乗っとんのかな」

 

「何処って、龍驤の、頭の上……?」

 

「分かっとんなら降りろや糞猫ッ! 何を人様の頭に尻下ろしとんねん、失敬やとは思わんのかァ!」

 

 

 欠片も思ってなさそうな顔で、龍驤の頭上に陣取った提督は首を捻る。

 

 

「いやね、何と言うか、収まりが良いんだな。座ってくれとも言わんばかりの頭の形をしていたからね。案の定ぴったりだ。お前、前世は俺のイスかソファだったんじゃない?」

 

「んな最低な運命の再会があるかい! 降りぃ!」

 

「だって俺の腰掛けはさっき庁舎と一緒に吹っ飛んじゃったんだよ。指揮官たるもの座る場所が無いと可哀想でしょうが」

 

「提督殿、ほらほら。こっちの頭に来られてもよろしいでありますよ。幾ばくか遠くまで見渡せるでありますし」

 

「え……何だか病気になりそうだからいいや……」

 

「あんまりであります」

 

「降りろやッ!」

 

 

 紅い腕に叩き落とされる所を、間一髪で猫はひらりと身を躱し、卓上に降りた。悔しそうな龍驤を横目に、提督は髭を撫でてご満悦である──しかし、こんな風に楽しそうにしているのは首脳部だけだった。

 

 臨時指揮所として突貫改装された工廠は、そこかしこがごった返している。

 

 通信機に向かって悲鳴を上げている者が居る、書類の山を抱えて走り周り工具に足を引っ掛け転ぶ者が居る、職務放棄して遺書を書き出す部下を怒鳴りつける声がする──戦時の作戦本部というのは、前線とはまた別種の戦場であった。

 

 何せ『生きるか死ぬか』という極限の二択の挟み撃ちである。必死で各々の職務に齧り付くのが精一杯で、首脳の馬鹿騒ぎには耳も貸さない。

 

 

「はい、何、弾薬の消費が無茶苦茶ですって? バカモノ〜ッ! そんなもんは助かってから考えりゃ良いんです。何なら鎮守府が消滅してから考えますか? 分かったら撃ちなさい。叩け叩け、ひたすらに叩け、ぶっぱなせぇ!!」

 

 

 一際大きな怒号に目をくれると、大淀が受話器を叩き付けている所だった。提督曰く『ケチの権化』である補給担当艦は、自分で自分の発言にケタケタ笑っていた。半ばずり落ちた眼鏡の位置を直しもせずに、隈の濃い目で何枚か帳面を読み進めると、引きつった笑顔のまま、みるみる血の気が失せてゆく。

 

 恐らく数字のグロ画像か何かを目撃してしまったのだろう。突発的に書類に埋もれかけたマグカップを掴むと、中身を一気に流し込んだ。そして、またケタケタ笑う。

 

 マグカップからは、強いアルコールの臭気がした。

 

 

「哀れだなあいつも……」

 

 

 珍しく化け猫提督が他人を哀れんだ。

 

 補給担当艦という職務上、大淀は現在の鎮守府の『ヤバさ』を具体的な数値として把握しており、しかもほぼ不眠不休という極限状態で、いきなり戦場に駆り出されたのだ。酒の力を借りているとは言えど、恐慌しないだけ偉いと評価されるべきだった。

 

 

「お邪魔です」

 

 

 他人を憐れむ間もなく、提督は指揮卓上を冷たく追い払われた。

 

 たった今、尻を置いていた場所に駒が置かれる。秘書官の加賀にすら邪険にされた鎮守府最高指揮官は、しょうがないので綿の抜けたパイプ椅子から身を乗り出してそれを眺める事にした。

 

 それは作業台を転用した薄汚い指揮卓だったが、地図を広げるには苦労しない広さがあった。佐世保の縮小図が記されており、上に点々と駒が置かれている。駒は凸型をしていて、所謂『兵棋』と言われるものであった。色は赤と青がある。中央に固まった多数の赤駒を、少数の青駒が飛び飛びに囲む形であった。

 

 虚空を眺める様にしている加賀は、手元も見ずに黙々と駒を動かし続けている。正規空母として、もう一つの視野──偵察機を通して、戦場の風景をリアルタイムに反映させているのだ。

 

 と、加賀は赤駒を一つ取り除いた。

 

 

「良いではありませんか」

 

 

 あきつ丸が、爽やかさには程遠い笑顔で言った。遠い目をした秘書艦は、特に応答しなかったが、続けて赤駒を取り除く事で応えた。目だけを動かして、こっそり主人の顔色を見ると、指揮卓の端っこで小さく頷いているのが窺えた。黒いのはそれで満足して、改めて兵棋の動きに集中した。

 

 あきつ丸が考案した作戦は、今のところ見事なまでに的中していた──即ち深海棲艦を陸上まで『釣り出し』包囲殲滅を試みる、という作戦である。

 

 突然の庁舎爆発、白旗掲揚と仲間割れ、爆撃被害を逆利用した包囲攻撃──全てが敵を誘い込む罠であった。

 

 地図中央に押し固まった赤の兵棋、深海棲艦の群勢は、ますます直径を縮めている。こと海上であるならば『輪形陣』と呼ぶべきで、その防御に優れた陣形を選択するのは誤りではない。

 

 しかし、ここは陸地だった。

 

 最も愚かな選択をしたな──悪辣な作戦の考案者はほくそ笑んだ。

 

 海戦の常識は、陸戦の常識には当てはまらない。包囲に際して丸くなるのは、自ら殲滅を望むに同じだ。

 

 ここは正々堂々、互いに身を晒し続ける海とは違うのだ。こそこそ身を隠しながら囲んで叩く、などという武士道の欠片も無い、根性の悪い戦い方がまかり通る場所なのだ。

 

 そもそも暗くて綺麗な深海出身が、明るくて汚い陸の流儀に太刀打ち出来る訳がないだろう。

 

 今この時にも嵐の様な爆裂音と、豪雨が屋根を打つ音と、陸上生物の悲鳴と怒号とが、工廠内で混声合唱している。各々が声を張り上げる毎に、地図上の輪形陣は外縁から削れていった。また一つ、また一つと、加賀のしなやかな指によって赤駒が除かれてゆく。

 

 

 やがて、赤と青の数が同数に差し掛かろうかという時であった。

 

 

 

「いけるかもしれない」

 

 

 

 と、誰かが言った──誰が言ったのかを詮索するのは詮無い事だった。それは全員の心中を代弁したに過ぎないからだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 全く、それが良くなかったのかもしれない。

 不意に赤駒の群勢が蠢動を再開した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(下)に続く…

 

 



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