Way to Abyss (栗粉塵爆発)
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ペイント・イット・ブラック

世界は、黒いペンキで真っ黒に塗りつぶされた、
絶望と悲劇とほんの少しの幸福だけしかない闇だと、そう思っていた。
それでも、私は。
私は、此処にいる。


私にとって、世界は黒いペンキで真っ黒に塗りつぶされた、絶望と悲劇しかない闇だと、そう思っていた。

 

一九六五年十一月十四日。南ベトナム。

私たちは、前日にアメリカ軍基地を襲撃した北ベトナム軍を追撃するため、カンボジア国境付近のイア・ドラン渓谷へ派遣された。

派遣されたのは、第七航空騎兵連隊(ギャリーオーウェン)の一個大隊、四五〇名。

着陸地点確保の為、先遣隊が到着した時には、すでに四千人の北ベトナム軍が私達の周りを囲んでいた。

司令部は諜報員の情報を全く活かせていなかったのだ。兵士達を泥沼の闘争へと送り込む事になることも知らないで、彼らは無責任な指令を与え続けた。

 

鬱蒼と茂るジャングルに、断続的な銃声と爆発音、そして悲鳴が響いている。通信兵がしきりに無線機に援軍を請う怒声を聞きながら、私は夥しい遺体の中で、微かに残った命を長らえさせるために奔走していた。

だが、救う命より、奪う命のほうが圧倒的に多かった。命の灯が消えゆく仲間の姿を見ながら、敵を殺す。時折、私自身衛生兵なのかと疑い、その役目を成していないのではないかと、ジレンマに陥るようになった。

 

「大丈夫か! 今行く!」

泥濘に埋もれた遺体の山の中から、微かにうめき声が聞こえ、私は交錯する銃弾を掻い潜るように泥濘の中を這い、声の主に近づいた。

今まで看取ってきた彼らとは違い、泥の中に蹲る兵士は、私の良く知る兵士だった。

彼はこのベトナムの地へ来て初めて親しくなった友人だ。

私より一年ほど前にこの地へ配属された彼は、慣れない土地に戸惑う私によく世話を焼いてくれた。陽気で、仲間思いの太陽のような彼は、私にとってかけがえのない親友になっていた。

ヘルメットが脱げ、綺麗な金髪が泥に汚れている。大量の血液が彼の体から泥濘に流出しているのが見て取れた。それは赤いはずなのに、泥に混ざって真っ黒な絵の具のようだ。

私は顔を顰めた。ああ、『また』だ。

「頼む……殺してくれ…殺して…く…れ」

この言葉を聞くのは、幾度目だろうか。もはや数えても意味が無いほどに、その言葉を耳にしてきた。

泥濘の中、もがき続ける戦友の怪我の状態を診る。腹部に被弾、内臓が露出している。それに加えて爆風のせいか、左脚が吹き飛んでしまって、今のままではどうすることもできない。

私は腰のメディカルバッグの中から、モルヒネを取り出し、彼に注射しようとした。気休めにしかならないのは判っている。どうにかして彼を生かしたかった。

だが、彼はモルヒネを持つ私の手を弱弱しい手で押しとどめた。

 

「だめだ。これは、ほかのやつに使え…」

「衛生兵(メディック)こっちだ!早く!負傷者を運べ!」

 

向こうで私を呼ぶ声が聞こえる。だが、血みどろの彼を残してはいけない。

 

「だが……」

「いいんだ。だから俺を殺してくれ……頼む……」

「……駄目だ……私は衛生兵だ…それはできない。それに君は私の友達だろう!?」

「頼む、酷く痛いんだ…助からないのは判ってる。俺をこの苦しみから解放してくれ……」

 

今にも消えてしまいそうな声で、彼が言った。スカイブルーの瞳が、私の迷いを責めるように見つめている。確かに、劣悪な衛生環境、満足な治療用の薬も道具もないこの状況では彼を生存させ帰還させるのは、非常に困難だ。そして、私達は四千人の敵に包囲されている。今生きている者が生きて帰れるのかも判らない。

私は震える手で、コルトを抜き、彼の胸に銃口を向けた。だが、引き金を引くことができない。瘧のように体が震え、歯がカチカチと鳴った。目の前の彼の顔が滲んでぼやけ、まともに見ることが出来なかった。

 

「すまない。■■■■。ありがとう」

 

私の名前を呼んだようだが、殆ど掠れて聞こえなかった。驚く程の力で、彼は血と泥に塗れた手で私の手ごとコルトを掴み、引き金を引いた。びくり、と体が跳ね、二度と動くことはなかった。

手の中のコルトが爆ぜた音を最後に、私の周りの全てが真っ黒に塗りつぶされたような錯覚を覚えた。自分の呼吸と、鼓動が煩いほどに鼓膜を叩いている。

誰かが私を呼んだ気がした。だが、体が動かない。コルトを握る私の手には、真っ黒なモノがねちゃねちゃと纏わりつき、全身を侵してゆくように思えた。

震える手で、彼のドッグタグを引きちぎりポケットに入れる。するといきなり、がさりと目の前で茂みが揺れ、私は反射的に銃を向けた。

 

そこには小柄な色黒の兵士が驚いたような顔を私に向け突っ立っていた。彼はその体に不釣り合いなほど大きなAK‐47を持ち、その銃口を私に向けた。

彼はその黒い瞳で長いこと私を見つめていたが、何故か発砲することはなかった。私はというと、泥の中で蹲り、戦友の遺体を抱えて涙を流すという無様な姿を晒していた。

だが、その均衡は数発の銃弾によって崩れ去った。私の後方から飛んできた銃弾は、小柄なベトコンの頭と胸に命中し、彼は糸が切れたマリオネットのように頽れた。

真っ黒なペンキの血を噴き出して。

呆然と、目の前の光景を見つめていると、後ろから聞きなれた言語が聞こえた。

 

「おい!聞こえるか!」

 

肩を思い切り揺すられ、はっと我に返る。全身泥と血に塗れて顔すらわからない味方の兵が、私を呼ぶ。

ああ、そうだ。任務を全うしなければ。

でも、何故だろう。血も、泥も、全て同じに見える。真っ黒なペンキが、全てを塗りつぶす。

 

「見ろ!UH-1(ヒューイ)だ!」

 

声のほうを見た。迷彩塗装のガンシップが列を成して、こちらへ飛んでくる。それは冥界からの使者のようにも見えた。

苛烈な空爆が始まり、泥と血と、肉が巻き上がる。目の前の敵の悲鳴が轟音にかき消された。そして、私の視界は真っ黒に塗りつぶされた。

 

あの泥沼のような戦争で、沢山の仲間が死んだ。

私も味方の空爆に巻き込まれ、酷い怪我を負ったが、奇跡的にその命を拾うことが出来た。その後、一度キャンプ・ハロウェイの軍病院に搬送され、本国へ送還された。

もう、あの地獄のような戦場へ行かなくてもいいのだという安堵感が私の胸に広がっていた。

だが、私の期待とは裏腹に、物事はそう上手くいくことはなかった。

祖国の人々は、泥と血の中を這いつくばっている数十万の私たちより、月へ向かった二人の男の事しか心配していなかったのだ。

帰還した私達に向けられたのは、月へ行った英雄達とは真逆の、冷たい視線と罵倒の声だった。

飛行機を降り、基地の外で戦いに疲弊した私達を待っていたのは、『人殺し』『地獄に落ちろ』というプラカードを持った大勢の人々だった。

 

あれほど帰りたかった故郷に、自分の居場所が無いことを知った。

それは人を絶望に突き落とし、全てを狂わせる。

私はそれから、眠ることが出来なくなった。眠りに落ちると決まって、真っ黒なペンキを腹から、首から、口から眼から噴き出した戦友たちが、そして、あの若きベトコンが助けてくれと叫ぶのだ。

毎晩毎晩、ベッドから飛び起きる日が続き、私は精神のバランスを欠いてしまったのだろう。だんだん壊れてゆく私に、家族ですら私を奇異な眼で見始めていた。

日中、起きているときでも、その悪夢を見ることが多くなった。

『もう、彼を病院に入れたほうがいいんじゃないの?』

そんな時、家の中で彼らがひそひそと話しているのを聞いてしまった。

最初こそ戦場からの帰還兵という同情的な眼で見られていたが、彼らにとってもはや私は『厄介者』でしかなかったのだ。目の前が真っ暗になり、私はどす黒い怒りの炎が身を焦がすような錯覚を覚えた。

怪我が完治すると、私は軍を去り、家族を捨てて世界を転々とした。もう、あの薄っぺらな正義を振りかざす欺瞞に満ちた国に居たくはなかった。

しかし向かった先は、結局戦場だった。今まで助けられなかった、そして自らの手で殺した戦友への贖罪の為といえば聞こえはいいが、戦場に居るときだけはあの恐ろしい夢を思い出さずに済むというのが、理由だった。

ラオス、グアテマラ、そして、コロンビア。私は紛争地帯を転々とし、そこで衛生兵、時には医者として渡り歩いた。

幸い、私には技術があった為、食うには困らなかった。内政が混乱して居る国には、もぐりの医者がごまんといる。そのうちの一人が私だった。

戦場で傷ついた兵士やそれに巻き込まれた人々を治療し、彼らに礼を言われる事も数多くあった。その時、私の心は一時の安らぎを、そして生きているという実感を得ていた。

祖国に失くした居場所を、一時だけでもその場所に見出していたのだ。

殆ど荷物は持たなかったが、最小限の医療機器と、二人分のドッグタグだけは肌身離さず身に着けていた。

様々な国を渡り歩くうちに、自然と兵士達やゲリラ戦士達とも言葉を交わす機会も増えてゆく。

だが私は必要以上に自分の事を話すことはせず、常に一定の距離を置いていた。

失う事の痛みを知った人間は強くなるというが、それは嘘だ。もう二度と失いたくないから、強くなったと思い込む。

そして相変わらず、あの恐ろしい夢は私を苛み、それを振り払うように目の前の仕事に没頭するようになった。

年月が過ぎ、私はコロンビアの軍病院で働き始めた。

当時、コロンビアは政情が不安定な上に反政府ゲリラと政府軍の小競り合いが頻繁に起きていて、病院は慢性的な人手不足に悩まされていた。

もうすっかり板についたスペイン語で経歴を話すと、政府の担当者はすぐにでも働いて欲しいと言ってきた。渡りに船とばかりにその話に飛びついた。

次々と運ばれてくる負傷者に、忙殺されていたそんなある日、脚を撃たれて運ばれてきた若い兵士が、拙い英語で私に声をかけてきた。

 

「ああ、痛え……」

「大丈夫だ。弾は抜けている。麻酔はないが、我慢してくれよ。すぐ済ませるから」

「ありがとう。先生。……その、ドッグタグ……あんた、ベトナム帰りか?」

「……まぁ、そうだ」

「なぁ、今までベトコンを何人殺したんだ?」

「さぁ……。でも、救う命より遥かに多かったのは確かさ」

「ふぅん。あんた、変わってるな」

「そうかな」

 

「ああ。なんか、俺たちの『ボス』に似てる。不思議だな。顔も全く違うのに」

『ボス』と口にした彼の表情は、誇らしげで、羨ましいほどに輝いて見えた。

縫合している間も、彼は『ボス』がどんなに素晴らしい人物かをずっと語り続けていた。驚いたことに、病室に居た全員が『ボス』の事を知っているらしく、信仰にも近い感情を持っているようだった。

私は生憎ここに来たばかりで、『ボス』がどんな人物なのかを知らなかった。そして私は、その『ボス』とやらに興味が湧いていた。

コロンビアに来て一カ月が経った。病院のスタッフや患者達からも信頼され始め、よそ者の扱いを受けることも減っていった。

そんな時、私は一人の少女に出会った。彼女はゲリラに両親を殺され、幼い弟妹を養うためにこの病院で働き始めたと言っていた。

名前はアルマ。まだ、十四歳の少女だった。

彼女は働き者で、患者の汚れ物やシーツの洗濯、排泄の世話、病室の掃除などを決して厭うことなく真面目にこなし、周りのスタッフや患者達からの評判も良かった。

彼女の素朴な笑顔と優しさが、戦いに疲弊した彼らの心を癒していたのかもしれない。

「私は弟たちを学校に行かせたいんです」

いつかそう話した彼女の真っ直ぐな眼が眩しくて、私はまともに見ることが出来なかった。

アルマは『よそ者』の私にもよく懐いてくれて、私は少しでも彼女の為になればと思い、英語を教えると申し出た。

将来、医療の道を歩みたいと言っていたのを覚えていたからだ。彼女は少し驚いた顔をして、本当に嬉しそうに笑っていた。

 

それから、仕事が終わった後、時間が出来るたびに、私は病院の小さな事務室で彼女に英語を教え始めた。

英語を教え始めて数週間が経ち、その持ち前の勤勉さで彼女の英語は驚くほど上達していた。頭の回転も速く、医療専門用語も難なく覚えてしまうのだ。

 

「すごいな。これなら、アイビー・リーグへ行くのも夢じゃない」

 

私は賞賛の意を込めて彼女に言った。

だが、彼女は寂しそうに笑いながら、「そんなお金ないですから」と言うだけだった。

その翌日、私は丁度オフだったので、町の郵便局へ行って、アメリカからの小包を受け取った。中身は英語の辞書と医療の専門書だ。

アルマがいつもボロボロの辞書を使っているのが気になったのもあるが、日頃の真面目な働きぶりへの細やかな御礼として、彼女にプレゼントしようと考えたのだ。

彼女に出会ってから、不思議とあの夢を見ることがなくなり、体調も良い。

私は包みを開けたアルマの驚く顔を楽しみにしながら、帰路に就いた。

だが翌日、アルマの姿を見ることはなかった。

真面目な彼女が、無断で仕事を放り出すわけがない。

私は言いしれぬ不安を感じていた。今思えば、虫の知らせだったのかもしれない。

連絡もないままに、次の日になり、そしてその日も彼女は来なかった。

私は彼女の身に何かが起きたのではないかと思った。

スタッフ達に聞いても、困惑したように知らないと言うばかりで埒が明かなかった。警察にも話したが、よそ者が何を言っているのかと相手にすらされなかった。

三日が経ったが、彼女の行方はようとして知れなかった。様々な所を聞きまわり、探し回ったが、無駄だった。

しかしある朝、不安と苛立ちを募らせ休憩所で普段吸う事のないタバコをふかしている時、思わぬところから手がかりを得た。

 

「先生」

 

一人の兵士が、私の傍に寄ってきた。顔を見ると、前に脚を撃たれて運ばれてきた若い兵士だった。

彼はあたりを見回すようにして人がいないことを確かめると、小さな声で言った。

 

「あの子の事だが……もう、探しても無駄かもしれない」

 

私は驚き、彼を見つめた。

 

「三日前、政府の治安部隊に拘束されるのを見た者がいた。噂によれば、彼女は反乱組織のスパイという線が濃厚のようだ」

 

その言葉に血の気が引いた。今は別の施設に連行されて、酷い尋問を受けているだろうと彼は付け加えた。

 

「彼女はまだ十代だ。そんなことは許されない。たとえ彼女がスパイであろうとも」

 

彼の話によれば、彼女は年齢を偽っており、二十歳も過ぎているということ、そして軍病院に入り込み、そこで得た情報を反政府組織に流していたということだ。

だが、私は躊躇することなく、彼にアルマの居場所を聞いていた。彼は少し戸惑いながら口を開いた。

 

「先生。事の次第によっては、あんたにもスパイ容疑がかかっちまう。それは判っているはずだ」

 

判っていた。だが、私は彼女を救わなければならなかった。

私の決心が揺らぐことは無いと悟ると、彼はやれやれと肩をすくめて、彼女がいると思われる場所をいくつか教えてくれた。

 

その夜、私は久しぶりにM1911を整備して腰のホルスターに提げた。暫く感じていなかったずしりとした冷ややかな重みが、否応にもあの戦場を思い出させる。

時計を見た。時間がなかった。日中のうちに借りておいた馬に跨ると、夜の闇が濃くなり始めた西へ向けて走り出した。

彼から聞いたいくつかの候補から、彼女がいるであろう場所を絞り込んだ。昼間の仕事時に、兵士達の会話を聞いたり、それとなく話題を振ってみたところ、運よく拘束時に居合わせた兵士の話を聞けた。

その兵士は病院で彼女に世話になったこともあり、幾分か同情的だった。私は兵士に少し多めのドルを渡すと、彼は居場所を仲間から聞き出してくれた。

彼女は首都ボゴタを西に五キロほど行ったところ、廃墟になった製材所に監禁されているらしい。

くれぐれも、無茶しないで下さいよ。ここはあんた以外藪医者しかいないんだから。そう言った若い兵士の言葉を思い出し、私は苦笑した。

 

製材所の手前まで着くと、私はぐるりと周りを観察した。ぼんやりとした街灯がついており、見張りの兵士は数人足らずだ。

それほど重要な施設でもないのか、彼らから緊張感がまるでない。出来るだけ、戦闘は避けたかった。

元製材所ということもあり、身を隠しながら潜入するにはうってつけの場所だ。隠れながら進むのは、あのベトナムのジャングルで慣れっこだった。

兵士達をやり過ごし、元は事務所と思しき建物内に侵入した。廊下に灯りは殆ど付いておらず、足元に用心しながら進まなければならなかった。

進み続けると、黴と埃の臭いに混じって、鉄錆の匂いが漂ってきた。廊下の突き当りのドアの隙間から、ちらちらと光が漏れ出ていた。

数人の男の笑い声と、か細い悲鳴が聞こえ、全身の血液が沸騰するほどの怒りが湧いてきた。

足音を殺して、その部屋に近づき、隙間から様子をうかがう。テーブルを数人の兵士が囲んでいた。その中央には、ぐったりと裸で横たわるアルマがいた。酷い暴行を受けたようで、呼吸が安定していない。

これ以上は危険だった。

 

「おい、やりすぎるなよ。死んじまうぞ」

「知るかよ。こいつはあのサル共に俺達の情報を流してたんだぞ。家畜以下だぜ」

「見ろよ。こいつ、魚みたいに震えてるぜ」

 

もう聞いていられなかった。ドアを蹴破ると、アルマを囲んでいた兵士達に向けて引き金を引いた。彼らは何が起こったのか判らないままに、銃弾を頭に浴び、真っ黒な血を噴き出した。

私はアルマに駆け寄った。片腕が折られているようで、歪に曲がっている。羽織ってきたジャケットを彼女にかけてやると、痛々しく腫れ上がった眼が薄く開いた。呼吸が浅く速い。早く清潔な設備のある場所で治療をしなければ。

 

「ごめん、なさい」

「もう大丈夫だ。心配無い」

 

出来るだけ優しく声をかけると、彼女の眼から涙が溢れ出た。

 

「おい!貴様!」

 

外の兵士が銃声に気付いて駆け込んできた。私は迷わず、そして正確にその胸を撃ち抜いた。彼女を部屋の隅に避難させると、外から攻撃してきた敵を迎え撃った。

夥しい銃弾が、部屋の中に撃ちこまれ、朽ちたコンクリートの破片や粉じんが飛び散った。武器はコルトしか持ってきていなかったので、死んだ兵士のライフルを拝借し、ありったけ撃ち尽くした。

ようやく最後の一人を倒すと、私はアルマの方へ脚を向けた。

だが彼女は、痣だらけの傷ついた身体を晒しながら、私を見つめていた。その細い腕に、真っ黒な銃を携えて。

 

「アルマ……君がそんなものを手にすることは無い」

「ごめんなさい……。でも、私には何もないの」

「君は、将来医者になるんだろう!?」

「貴方には判らない!」

 

私の言葉に、彼女は泣き叫ぶように言い、その悲愴な声に私は声を詰まらせた。

 

「……!」

「故郷を奪われ、家族も、何もかも失った私に、残ったのは、復讐という黒い炎だけ……」

 

彼女の手の中の黒い塊が、ゆっくりと持ち上がり、ぴたりと側頭部に宛がわれた。

 

「でも、貴方といた時間は楽しかった。ありがとう。先生……」

「やめろ!」

 

なりふり構わず、手を伸ばしたが、遅かった。遅すぎた。パン!という破裂音とともに、全てがスローモーションのようになって、彼女の頭から真っ黒なペンキが噴き出した。

崩れ落ちる彼女の体を呆然と見つめながら、私は膝をついた。

お前は結局何がしたかったのだ?ヒーローごっこか?失われた自尊心を少しでも満たしたかったのか?不幸な身の上の少女を救うヒーローか。仲間すら救えなかったお前が。

真っ黒な血を浴びた戦友たちが、私の耳に囁いている。いや、それは私自身の声だったのかもしれない。

私は、ふらふらと彼女の手から零れ落ちた銃を取った。

呼吸が荒くなる。

さあ、楽になれ。自分を黒く塗りつぶせ。

その囁きは、極上の美酒のように私には感じた。右手を持ち上げ、自らの頭にその真っ黒な銃口を当てた。

人差し指が、震えながら引き金を引いた……はずだった。

 

私は強い力で腕を取られ、あっという間に床に引き倒されていた。滲む視界に、年季の入ったカーキ色の野戦服の足が眼に入った。

 

「よせ」

 

低く、力強い声が、頭上から降ってきた。顔を上げると、ぼんやりとしたライトの中に、一人の男が立っている。ぼさぼさに伸びた頭にバンダナ、右目には眼帯と、海賊のような男だと思った。

そのスカイブルーの隻眼は、気高く、何者にも従属することを許さない、獣のような眼をしていた。私は彼の雰囲気に一瞬で圧倒されていた。

あの若い兵士が得意げに語っていた『ボス』なのだと、すぐに判った。

 

「貴方が……『ボス』……?」

「これは、お前がやったのか?」

 

彼は、斃れた兵士達を一瞥して、私に厳しい視線を浴びせた。無言で頷くと、彼は短く「そうか」とだけ私に言った。

 

「確か、あんたは軍病院の医者だったな」

 

兵士達の遺体を検めながら、彼は私に言った。束の間、硝煙と血の生臭い臭いが漂う室内に、彼のブーツが床を踏みしめる音だけが響く。

 

「ベトナム帰りか。ならこの戦闘能力の高さも頷ける」

 

いつの間にか、彼の手には私のドッグタグが握られていた。戦闘時に落としたのだろうか。

 

「……私は、救う事が出来なかった。今回も」

 

私は何故か、ぽつぽつと取り留めのない言葉を紡いでいた。まるで堰き止められていた川が決壊したかのように、後から後から言葉が溢れ出す。

「ずっと、国のために戦ってきた。泥濘の中を這いずり回り、敵を殺し、時には苦しむ戦友を見殺しにした。だが、私に残ったのは、真っ黒な悪夢だけだ」

この世界のどこにも、私の居場所は無い。

兵士でも、医者でもなくなってしまった。

だから、私を殺してくれ!

 

「わかった」

 

彼が、ホルスターから銃を抜いた。奇しくも私が使っていたものと同じ銃だった。

眼を閉じる。

これで、終わる。漆黒のペンキが、私を塗りつぶすのだ。

パン!という音が連続した。びくりと身体を震わせたが、痛みも、何もない。

怪訝に思って眼を開けると、彼は薄く硝煙が立ち昇る銃口を、私の足元に向けていた。そこには、私のドッグタグが穴だらけになって落ちていた。

 

「医者だろうと、女だろうと、一度自らの意思で銃を取ったのなら、どんな結末も覚悟するしかない。それが悲劇的なものだとしても」

 

彼は静かに、厳しさの中にほんの少しの悲しみを滲ませて私に語りかけた。呆然と見つめていると、彼はゆっくりとアルマの亡骸に近づき、見開かれた眼を掌で優しく閉じさせた。

束の間、彼は彼女の死を悼むかのように眼を閉じ、そして私を見た。

 

「だが、俺は目の前の現実から逃げようとする奴の手助けをする気はない」

 

彼の眼が、鋭さを増した。その眼光に、私は畏怖を覚えた。

 

「俺のところへ来い」

 

思わぬ言葉に、私は目を丸くした。

「しかし……私は……もう」

 

「俺の所にいるのは、お前と同じような境遇の奴らばかりだ。国を捨てた奴や居場所を失った奴。皆、戦場でしか居場所を見いだせない。俺達は、そういう奴らの集まりだ。生まれた国も、思想も、関係ない。かつての敵味方であろうとな」

 

だが、無理にとは言わない。と彼は付け加えた。

私の中に、迷いが生じた。

終わりのない暗闇でもがき続けている中で、光が、出口が見えたような気がした。その光が彼だと信じたかった。

 

「……私は、ヒーローになりたかったわけではない。ただ純粋に、彼女を助けたかった。それだけだ。でもそれは、見捨ててきた戦友たちへの贖罪を彼女に見出していたのかもしれない……だが結局はそんなものは私自身が生み出した傲慢の産物にすぎなかった。」

 

私の震える唇からとめどなく溢れる支離滅裂ともいえる言葉を、彼は黙って聞いていた。

 

「……私も連れて行ってくれ。頼む」

 

私は、まっすぐに彼の隻眼を見つめた。

 

「いいのか?」

「……もう、現実から目を背けるのは辞めた。過去は清算出来ないが、その十字架を背負ったまま生きる事は出来る」

「それは、一番辛い選択だぞ」

 

少しだけ、彼は表情を歪ませて言った。まるで、古傷がじくじくと痛み出したかのように苦しそうだった。

「覚悟は出来ている。それに、もう今更安穏の中に生きる事は出来ない。貴方ならわかるだろう?」

自嘲気味に私が言うと、彼はそうだな。と笑った。その笑顔は、とても寂しそうに見えた。あの、アルマのように。

彼は座り込む私に手を差し伸べると、言った。

 

「スネークだ」

「え?」

「『ボス』は此処の連中が勝手に言ってるだけだ。スネークと呼んでくれ」

 

私は迷わずその手を取った。力強く、温かい掌だった。

 

「わかりました。『ボス』」

 

私が言うと、スネークはちょっと不満げに眉を寄せたが、やれやれと諦めたようだ。

 

「部下が言っていたが、アンタの医療技術はかなりのものだと聞いたぞ。そんな奴が居てくれるのなら、大助かりだ。現地では満足な治療すらできない医者もどきも多いからな」

 

あの若い兵士が、私の事を伝えていたのだろう。どうやら彼は私のことを高く買ってくれているようだった。少しくすぐったいような気になった。

 

「それに、短時間でこの場所を調べ上げたうえに、単独潜入の手際も見事だった。衛生兵にしておくには惜しいくらいだ」

「昔、第一特殊作戦グループの第4D中隊に居た事があります。貴方も、アメリカ人でしょう?」

 

彼がアメリカ人だという事は想像がついていた。そして、かなり高度な訓練を受けた軍人だという事も。だが、彼は眉を顰めて小さく吐き捨てた。

 

「そんなもの、今の俺に意味は無いさ」

 

スネークは、野戦服の胸ポケットから葉巻を取り出し、ナイフで豪快に吸い口を作って口に咥えた。私も勧められたが、丁重に断った。

小さな灯りが点り、血と硝煙の臭いに混じって、葉巻の甘苦い香りが広がった。

束の間、沈黙が部屋を支配したが、彼が何かを思い出したかのように私を見た。

 

「……そうだ、お前の事は、何と呼べばいい?」

「ボスの好きなように呼んでください。私は、一度死んだのですから」

 

私は、銃弾でひしゃげたドッグタグを見せた。すると彼は難しそうな顔で唸ると、口を開いた。

 

「あー、じゃあ、メディック……でどうだ?」

遠慮がちなその声に私は思わず小さく笑ってしまった。スネークは少しむっとしたように「仕方ないだろう。思いつかなかったんだから」と呟いていたのを聞いて、また少し可笑しくなってしまった。

 

「了解。『ボス』」

 

ボスは、私が政府軍にした事を秘密裏の内に『消した』。すべては、アルマを奪還に来た反政府ゲリラの仕業に見せかけ、私の所業は闇に葬られた。

完璧な偽装工作と偽装情報の流布のおかげで、当局の矛先が私に向くことは一切なかった。見事としか言いようのない、鮮やかな手並みだった。

だが、アルマには『裏切り者の反政府組織のスパイ』というレッテルが貼られ、墓すら作られることは無かった。

病院で、彼女の事を悪し様に言う兵士達の会話を聞き、悔しさと虚無感だけが私の心に渦巻いた。

 

それから数日後、アルマの少ない遺品を見晴らしの良い丘に埋めてやろうと、郊外へ出た。アルマが生前、アルストロメリアが美しい丘で、いつか私を連れて行きたいと言っていた場所だった。

丘を登りきると、オレンジ色の海が私の目の前に広がっていて、暫くその景色に見蕩れてしまった。

不意に、後ろに気配を感じて振りむいた。

 

「足音は消したと思ったんだけどなぁ」

 

ばつ悪そうに頭を掻きながら歩いてくるボスを見て、私は驚いた。

 

「つけてきたんですか?」

「俺だってそんな暇じゃない。思い切りこいつを吸える場所が欲しかっただけだ。あそこにいたら、俺の分がなくなっちまう」

 

彼はそういうと、上等な葉巻を旨そうに吸い始めた。案外、嘘は下手なようだと笑いながら、私は地面に穴を掘り、遺品と、彼女にプレゼントするはずだった本を埋めた。

 

「……結局、アルマの人生は何だったんでしょうね。彼女が生前人々に為した事は全て上書きされて、大罪人として人々に記憶される。でも味方を殺した私は、変わらず日常を生きている」

 

なんて世界は不条理なのだろう。

土で汚れた手を見つめる。彼女の血が、混ざっているような気がした。まただ。黒いペンキが、私の中に渦巻く。オレンジのアルストロメリアが黒く染まってゆく。

 

「だが、お前だけは彼女の事を覚えている。それが、真実だ。大衆が何を言おうと、お前の中の真実は変わらない」

 

背中から、いつもの厳しさは無く、不器用ではあるが、優しさに満ちたボスの声が聞こえた。

その言葉は、なぜだか深く、深く心の中に突き刺さった。

溢れ出る感情を抑えきれず、私は無言でオレンジ色の海を見つめた。もう、黒いペンキはどこにも見えなかった。

そうだ。私は彼女の事を覚えている。それが真実なのだと自分に言い聞かせて。

 

「ボス、ありがとうございました。」

 

私は、ずっと傍に居てくれた彼に礼を言った。彼は少し照れくさそうに笑いながら、片手をあげた。

長居しすぎてしまったようだ。周りを見ると、赤い夕陽が花畑を濃い橙色に染めている。

 

「これから、よろしくお願いします」

 

私は直立し、土で汚れた右手で敬礼した。

おそらく、私達が行く道は修羅の道だ。そしてその先は、地獄へ向かっていることだろう。

それでも、私達のような天国の外側(アウターヘブン)の住人には理想郷なのかもしれない。

だから私は、ボスについて行こうと思ったのだ。

真っ黒な世界から私を救ってくれたのは、他でもない、彼なのだから。

今度は、私が貴方を助けよう。

それが地獄への道行きだとしても、私は貴方を守るだろう。

 

ボスの元で働き始めて数ヶ月が経った頃、幾度目かの反政府ゲリラとの戦闘の後に、ボスは傷ついた兵士を拾ってきた。なんでも、反政府ゲリラの指揮官とのことだった。

私は驚いた。まだ、二十もそこそこの若者に見えた。実戦経験もそれほど無いはずだ。

名前は、カズヒラ・ミラー。日本人とアメリカ人のハーフらしい。

私は彼の怪我の状態を確かめた。爆風による裂傷があり、出血もそれなりにしているが、呼吸も血圧も安定している。適切な処置を施せば、すぐに回復するだろう。

それを伝えると、ボスは安堵したように、そうか。と呟いた。

 

「ああ、そうだ。くれぐれもこいつに危害が及ばないように気をつけてくれ。ここの連中は気性が荒いからな」

「わかりました。でも、何故私に?」

「お前が一番近くにいるだろう?それに一番信頼できる」

「それはありがとうございます。そんなに彼がお気に召したんで?」

「なかなかこいつは根性があるし、面白い。気に入った」

 

物好きな人だと半ば呆れるように言うと、ボスは人好きする笑みを浮かべながら、頼んだぞ。と私の肩を叩いた。

ボスが診療室を出ていくと、私は治療台に乗せられた彼を見た。

金色の髪が、どことなく、昔ベトナムの地で果てた友人と重なった。

 

『おふくろ……』

 

彼の口から聞きなれない国の言葉が聞こえ、少し慌てた。

その声は酷く悲しげで、何かを探すように手が空を彷徨う。

私は思わずその手を握り、宥める様に胸に手を当てた。

 

「もう大丈夫だ。安心しなさい」

 

そういうと彼はホッとしたかの様に、穏やかな呼吸に戻っていった。

サングラスを取ると、年齢より大分幼く見えるなと思いながら、私は彼の処置に取り掛かり始めた。

彼は相変わらず、私の手を握りしめている。そのままでは治療できないので手を外すと、今度は私の上着の端を掴んできた。

まるで、親から離れない子供のようだと、私はくすりと笑った。

その若者がいずれ私達の副指令官となることなど、その時は思いもしないまま、私は彼の穏やかな寝顔を見つめていた。



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ドッグ・デイズ

夏になると、シリウスは太陽と共に昇る。まるで、いつまでも手に入れる事のできない光を追う犬ように。


あれから、二年近く経った。私は相変わらずボスの元で衛生兵として働いている。ボスのカリスマ性故か、行く先々で人が彼のもとへ集ってゆく。一個小隊ほどだった私たちも、もはやかなりの人数になった。

続々と入ってくる隊員達に比例して、私も古参の部類になり、今や医療班のチーフに収まっている。

ボスも相変わらずどんなに危険な任務でも自ら前線に出て戦い、必要とあれば一人で任務を遂行する。

指揮官としては相当な型破りな人ではあるが、その豪放磊落な親しみやすい人柄は、隊員たちのみならず現地の住民からも慕われている。

誰よりも戦場の非情さ、命の尊さを知っているからこそ出来るのだろうか。私にはまだ分からない。しかし、隊員達の死と共に増えてゆくボスの傷は、決して涙を見せない彼の悲哀の痕のようにも見えるのだ。

 

ここ数年で一番の変化といえば、カズヒラ・ミラーという男の存在だろう。彼はまだ若く、古参兵の中にはボスの右腕というポジションに収まっているのを快く思わない輩もいる。だが、彼の卓越した経営センスと交渉力は、私達のような『ならず者』の集団を一端の傭兵部隊…いや組織(カンパニー)として機能出来るまでに成長させた。

 

この功績はボスも認めざるを得なかった。彼がいなければ私達は明日の飯すら困る有様になるのだ。また、彼のわけ隔てない明るさや、仕事に人一倍、時には寝食すら忘れて熱心に取り組むという日本人独特の気質が、徐々に彼を副指令として認めさせていった。

私達に付けられた名前は、『国境なき軍隊(Militares San Frontieres)』

国家、思想、イデオロギーにとらわれることの無い軍隊。戦う者たちの理想郷(ユートピア)。

その旗印は海賊旗のような髑髏と、幻の大陸と呼ばれたパンゲア大陸をモチーフにしている。

自分たちの旗が出来た時、いい歳をした男達が子供の様に喜び、涙する者もいた。皆、ボスの下に集ったことを誇りにも感じているのだ。私も、その一人だ。

やがて私達が国境なき軍隊として機能し始めた頃。その話はやってきた。

 

「カリブ海に、ですか?」

「ああ。コスタリカ沖の元採掘用プラットフォームでな。二ヶ月後に入る予定だ。悪いが、引っ越し準備をしておいてくれ」

「分かりました。随分と急ですね」

 

ボスが医療テント内の簡易椅子にどかりと座った。彼はいつもそうだ。指令室というものが性に合わないと言って、いつもどこかしらうろついている。ボスは無線で呼び出さないと駄目だと、ミラー副指令がぼやいていたのを思い出した。

おもむろにボスが胸ポケットに手をやるのを見て、私は笑顔で人差し指を振った。ここは禁煙だ。それはボスとて同じことである。

彼がおどけたようにその分厚い肩を竦めた。愛煙家の彼には悪いが少しだけ我慢していただこう。

 

「カズが話を持ってきた…んだが、少し胡散臭い案件でな。まあ、それは俺達で対処する。新居は少しボロいだろうが我慢してくれ」

「いえ。このテントよりはマシだと思ってますよ。スタッフには私から話しておきます」

「ああ。頼んだ」

 

それだけ言うと、ボスはさっさとテントを出て行った。すぐにでも葉巻の煙を吸いたいのだろう。相変わらずのヘビースモーカーだ。

幸い、最近は大きな戦闘もなく私達医療班も暇を持て余している。私はボスの指示を伝えるために、スタッフを集めた。

カリブ海沖に作られたという件のプラットフォームは、予想を遥かに超えた立派な代物だった。だが、年月が経っているために腐食したり、痛んでいる場所も少なくはなかった。

 

「ここが俺達の家になる。少しずつでも修繕して増設していけば、かなり立派になるぞ。その為にはもっと人員を集めないとな」

 

錆の浮いた鉄製の壁を叩きながら、ミラー副指令は誇らしげに言った。確かに、中古とはいえ立派なものだ。百人は収容できるだろうそのプラットフォームは、かつては労働者たちで溢れかえっていた名残が感じられた。その役目を終えて朽ち錆びて行く運命にあったそれを、私達のような傭兵が生き返らせるというのはなんだか不思議な話だ。

そんな物をおいそれと提供する依頼人とは何者なのだろう。

他の隊員達は、これまでの放浪生活から抜け出し、自分たちの城が手に入ると大はしゃぎだった。私も喜ばしいと思う。今までの私達はノーマッド(放浪者)同然だったのだから。

 

「だけど、これを掃除するのか……結構根気がいるぜ」

 

隊員の一人が、錆びた手すりにでろりと垂れ下がった海藻らしき残骸を指さした。確かに。1週間で終わるようなものじゃないと私も思った。

 

「ほらそこ、やる前から諦めんな!始めるぞ!」

 

副指令の檄が飛ぶと、私達は新たなホームの大掃除を始めるべく動き出した。

 

掃除や修繕は二週間もかかるほどの大仕事だった。だが、綺麗になった私達の家を見上げた時、清々しいほどの達成感と喜びが皆の疲労を吹き飛ばした。錆でボロボロだった壁を新しく塗り直し、手摺りを新しいものに変えて床を磨き上げれば、小さいけれど、洋上の要塞とも名乗れそうな立派な風体に様変わりしていた。

 

「どうだ。これが俺達の要塞だ。そして、俺達の家(マザーベース)でもある」

 

モップを肩にかけ、汗みずくになった副指令が誇らしげに見上げる。私達もそれに倣って新たな家を見上げた。中には感極まって泣き出すものも出る始末だった。このマザーベースには私達にとっての希望であり、唯一の居場所なのだ。この時、全員が新たな明日を夢見ていた。その時は、まだ。

そして、ボスがコスタリカでの長期任務に出ている頃、このマザーベースに新たな住人が入った。ニカラグアで活動していたFSLNの残党たちだ。驚いたことに彼らの司令官(コマンダンテ)はまだ若いアマンダという女性であった。そして、彼女の弟であるチコ。彼らはここに来た時は酷く衰弱していたが、元々タフなのかみるみるうちに回復していった。いきなり患者が増えてベッドは満杯になるで、医療チーム私達もてんてこ舞いになっていた。

 

 

「チーフ! チコがいません! あのガキまた抜け出しやがった!」

「ハァ。またか。もう何回目だ?数える気すら起こらないぞ」

 

点滴を替えに行ったスタッフの怒声に、私は頭を抱えたくなった。チコは十二歳にしては体が小さい。栄養状態のよくない環境で育ったためだろう。だがゲリラと共に育ってきた割にはすれていないその性格や、人懐っこさはスタッフたちにも可愛がられているようだ。注射嫌いでベッドから抜け出す度に色々なところを探す羽目になるのは勘弁ではあるが。

今日も何回目かの脱獄を果たしたようで、担当のスタッフがこめかみをひくつかせていた。安静だとあるスタッフが見かねて縄で縛りつけてもするりと抜け出してしまう。これには私も舌を巻いた。どうやら彼の将来はあまり良くない方の意味で有望なようだ。

 

「……あの、よかったら私が探してきましょうか?」

 

さて困ったと私が頭を掻いていると、後ろから可憐な声音が響いた。振り返れば、太陽の光をそのまま糸にしたような金色の髪の小柄な少女が、遠慮がちに佇んでいる。彼女はパス・オルテガ・アンドラーテ。今回私達に仕事を依頼してきたクライアントでもあり、マザーベースに加わった新たな仲間でもある。

ザドルノフという大学教授の元で平和について学んでいるそうだが、ボスはあの教授の話は全く信用していないように思えた。私も同意見だ。ザドルノフは信用に足る人物ではないが、その教え子であるパスはどう見ても平凡な女子学生で、何かを企んでいるようには見えなかった。

彼女がマザーベースに来てからはその可憐な容姿や健気さも相まって隊員達からは絶大な人気を誇っている。

彼女は真っ先に医療班の手伝いをしたいと申し出てくれて、慢性的な人手不足に悩んでいる医療チームとしてはありがたい。仕事も真面目に取り組むし、なにより患者に対しても献身的だった。パス目当てにここに来る不届き者も後を絶たず、幾度蹴りだしたかは定かではない。

彼女を見ていると、どことなくコロンビアの軍病院で出会ったあの娘を思い出す。彼女も文句ひとつ言わずに、患者たちには献身的だった。彼女の痩せた体がパスに重なり、つきりと胸が痛むこともあった。いや、違う。私が勝手に重ねているだけだ。パスは彼女(アルマ)とは違う。

 

「ああ、パス。ありがとう。そうしてくれると助かるよ。彼のことだ。おそらく食堂かヘリポートあたりにいるかもしれないな」

「ふふ。先生はチコのいる場所が分かるんですね」

「その先生はやめてくれよ。私はしがない衛生兵(メディック)だ」

「わかりました。『先生』。チコを見つけたら今日の夕食は無しだと言っておきますね」

 

パスはそう言うと、まるで悪戯好きの猫のような軽やかさで医務室を出て行った。やはり女性相手には口では勝てない。言いくるめられる私が面白かったのか、スタッフ達が笑いながらこちらを見ていた。

 

「さすがのチーフもパスには敵いませんね」

「ああ。全く恐れ入るよ。ここの女性陣のタフさには。それに彼女達が来てからここも明るくなった」

 

だが、天真爛漫な彼女のベイビーブルーの瞳の中に、ほんの少しだけ哀しみの色が見えたのは錯覚ではないと思う。無理もない。彼女は祖国を蹂躙され、自身も被害に遭ったのだ。私達のような『傭兵』と共にいる事は十代の少女にとっては恐ろしい事だろう。それでも彼女は私達…いや、ボスを『頼ってきた』のだ。その強さには敬服せざるを得ない。

程なくして、しょんぼりと肩を落としたチコが金髪の少女に連れられて医務室に戻ってくることだろう。

私はあのやんちゃな小さな戦士にどう説教しようと考えながら、目の前の作業に取り掛かった。

ボスがコスタリカの長期任務に赴いてから数日後、まだ日も昇り切らぬ内に私は副司令室に呼び出された。何か良からぬことが起こったのだろうかと胸騒ぎを感じながら、重い足取りで副指令室に向かう。いくつかの階段を上がり、『副指令室』のプレートが掲げられたドアをノックすると、「入れ」といつもより硬い声が響いた。

部屋の中ではミラー副司令が深刻そうな顔でデスクに広げられた作戦マップを見つめていた。

 

「ミラー副司令、お呼びでしょうか」

「ああ、悪い。ちょっとトラブルが発生した。座ってくれ」

 

促され、近くのパイプ椅子に腰掛けた。副司令が私を見つめて、大きく息をついた。

 

「ボスが捕らえられた」

 

副司令から言い渡されたその言葉に、私は目を丸くした。まさか、と知らず知らずのうちに声に出していたようだ。副司令は私の考えを読んだように、安心しろと肩を叩いた。

 

「隠し持っていた無線機で辛うじて連絡は取れている。急遽救出チームを編成した。だがこれはMSF全体の士気に関わる事だ。他言無用に頼む」

「副司令、私もチームに加えて下さい」

「わかってる。その為に呼んだんだ。アンタの医療スキルはここで一番だからな。二時間後にここを出る。モルフォワンに搭乗してくれ」

「了解」

 

私は急ぎ医務室に戻り、必要になりそうな医療器具や薬、応急キットを揃えるとデッキに向かった。絶対にボスは大丈夫だ。そう自分に言い聞かせながら。医務室を出ると、チコが心配そうな顔で私を見上げていた。おそらくアマンダ達には伝えられているのだろう。青ざめた顔で、チコが「スネークは…大丈夫だよな?」とつぶやいた。

 

「……ボスは大丈夫だ。絶対に」

「おれも行く!」

「だめだ。君はここにいろ」

「おれは子供じゃない!銃だって……」

「チコ!!」

 

自分でも驚くほどの怒声が出ていた。びくりと肩を震わせたチコが、怯えたような眼を向けているのを見てはっとした。

 

「チコ…君は確かに立派な戦士だ。でも銃で人を殺すことだけが戦いじゃない。銃で傷ついた人間を救うこともまた、戦いだ」

「……でも」

「君はここで何を学んだ?銃の撃ち方やナイフの扱いだけじゃないだろう?」

 

チコはまだ十二歳だ。確かに世界中に少年兵はいる。私もベトナムで幾人もの少年兵の命を奪ったことがある。しかし、私には目の前の子供に銃を持たせて戦わせるなんてしたくはなかった。例えそれが本人の選択だとしても。偽善者だと謗られようとも、無垢な子供の手を血に染めるなどしたくはない。束の間、潮風が窓を叩く音だけが廊下に響き、俯いていたチコが顔を上げた。

 

「先生。やっぱりおれも行く。先生の助手としてだ。おれはスネークに命を拾われた。だから今度はおれが助ける番だ」

「チコ……」

 

さっきまでの聞き分けのない子供の顔は消え去り、代わりに確固たる決意を秘めた男の顔になっていた。それはさながら死地に赴く戦士のような。

そんな彼にもはや私が言える事はなかった。

 

「わかった。副司令には私から言っておく。一緒に行くからには君は私の助手であり部下だ。分かっているな」

「はい!」

「分かったならさっさと準備をしてくるんだ。もう時間がない」

「Sir.YesSir!」

 

慌ただしく駆けてゆく小さな背中を見つめる。あのやんちゃだったチコの成長ぶりに驚いた反面、気づかされたような気がした。

どうしてボスの元に来たのか。そして私はボスの為に何が出来るのか。

今度は私が彼を救う番なのだと。

 

 

戦闘班や諜報班、そして支援班の隊員が忙しなく動く中、私たちはヘリポートで待機していたモルフォ・ワンに乗り込んだ。緊張からか、いつもよりチコの表情も強張っているように見える。

コックピットからパイロットが離陸の合図を出すと、メインローターの回転数が上がり始めた。するとふわりと機体が上昇し、マザーベースがどんどん小さくなった。

 

「チコ。大丈夫だ」

 

隣に座る小さな肩を軽く叩くと、彼は強張ってはいるが力強く頷いた。良い目だ。彼は将来立派な人間になるだろう。願わくば、戦いとは縁遠い人生を送って欲しいと思うのは、私の傲慢であろうか。だが今、私たちは皆同じ想いを胸にここに居るのだ。

 

『一度自ら銃を取ったなら、どんな結末も覚悟するしかない。たとえ誰であろうとも。』

 

ボスのあの言葉が脳裏に蘇り、私は苦いものが胸の中に広がるのを感じながら、金色に染まり始めたカリブ海を見つめた。

 

コスタリカ上空の森林地帯に差し掛かり、青々と茂った緑の海が一面に広がっているのが見えた。ジャングルにはあまりいい思い出がない。

否が応でもあのベトナムの戦場を思い出させるのだ。ナパームで数百人のベトナム兵を焼き尽くした時の、植物と動物が焼けて一つになってしまったあの異臭は、未だ私の頭の中にこびりついて離れない。

 

「確か、先生はベトナム帰りなんだろ?」

 

どこで聞きつけたのか、チコが興味津々に聞いてきた。

 

「誰から聞いたんだ?そんなこと」

「ミラーさんが言ってたよ。すごく強いって聞いた」

「……私は戦場が怖くて仕方なかった。だから衛生兵になったんだ」

「へえ。そんなもんなのかな」

「チコにはまだ早いさ。出来れば……」

 

私の言葉を遮るように、ヘリの内部にけたたましいアラートが響いた。

 

「スカッドミサイルだ!掴まってろ!」

 

パイロットが叫ぶように言うと、全員が緊張に包まれた。窓の外を警戒していた隊員が、「十時方向だ!」と叫び、その言葉にすぐさま大きくヘリが傾いだ。フレアが発射され、すぐ脇をミサイルがかすめ飛んでいった。さすがに背筋が総毛立った。そのままヘリは森の木々を掠めるようにして飛行を続ける。モルフォ・ワンのパイロットはかなりの腕を持っているようだ。しかし安堵したのは束の間、次のアラートが鳴り響く。

 

「四時の方向!」

 

後部の窓に噛り付くようにしていたチコが叫んだ。私は反射的にドアガンに取り付き、凄まじい速さで向かってくるミサイルに向けてM60の弾を撃ちまくった。ミサイルよりわずかに右に逸れた射線を修正すると、派手な音を立ててミサイルが爆発した。ここまで熱気が伝わってくる程だ。あと二秒遅かったら巻き込まれていたかもしれない。

 

「やるね!先生!」

 

チコが喜色を滲ませた声を上げた。汗が背中や額に滲んだ。前線に出たのは本当に久しぶりだったからだ。私はチコに「油断するなよ。まだ来るかもしれない」と注意すると、チコは幼い顔を戦場に初めて立った新兵のように強張らせて、「了解」と言った。

幾度かのミサイルを迎撃、もしくは神業のようなテクニックで回避した後、『それ』は現れた。

 

「なんだ……あれは……」

 

パイロットが茫然と呟いたのを、私も同じような気持ちで聞いていた。鋼鉄の歪な四足で大地を掘り返すように蹂躙し、無機質な球体の頭にはぞっとするほど不気味な赤い光が点っている。『ピース・ウォーカー』なんて名前は、このおぞましい兵器に相応しい筈がない。

 

「化け物……」

それはさながら、黙示録の終末に奈落から現れ、世界を死よりも恐ろしい苦しみで満たすという奈落の王、『アバドン』のような。

突如それが咆哮を上げた。不快で恐ろしいその声は、ヘリの内部までも轟いた。

 

「ねえ!あそこ!スネークだ!」

 

チコの悲鳴に私は我に返った。下手すれば下に落ちるのではないかというくらいに身を乗り出し、チコが指す方向を見た。

 

「ボス……!」

 

巨大な鋼鉄の獣に、果敢に挑みかかっているのは、見慣れた野戦服にバンダナ、そして眼帯の男。だがその姿は血と埃にまみれていて、ここからでも決して軽傷ではないのが見て取れた。

 

「あんな化け物に…無茶だ!」

 

パイロットが叫ぶ。そうだ。あんなものに、独りで立ち向かうなんて無謀過ぎる。ドアガンの照準をあの忌々しい兵器に合わせようとした、その時だった。

 

「!」

 

ボスが私を見た。あの力強い眼差しではない、哀しみと苦しみに満ちた表情で、「撃つな」とそう言われたような気がした。

 

「おい!なんで撃たないんだよ!」

 

チコの怒声にも私の指は動かなかった。なぜ撃たなかったのか、自分でも不思議なくらいだった。

 

「後方から敵機多数!気をつけろ!」

 

その声にはっと我に返った。振り返ると、3機のハインドが高速で近づいていた。

 

「急速旋回する!奴らをぶち落とせ!」

 

ぐん、とヘリが傾くと私の真正面に三機のハインドが見えた。ドアガンの引金を引く。夥しい量の薬莢がちゃりちゃりと音を鳴らしてヘリの床に当たって下へ落ちていった。敵のミサイルがこちらへ向かっているのが見えた。照準をミサイルに合わせる。私はあまり重機関銃の扱いが得意ではない。

当たってくれ!とほぼ祈るように撃ち続けると、ミサイルが空中で爆発した。

夢中で引金を引く。隣ではチコが小さい体で大きなAKを構えて応戦していた。

M60の弾丸が一機のヘリのメインローター部分に当たり、コントロールを失ったヘリは、別の一機を巻き込んでジャングルへ落下していった。

大きく息をつく。汗が全身を濡らしていた。

 

「やったぞ!」

「あと一機だ!くそ!速い!」

 

我々の攻撃を逃れた一機が、ボスとピースウォーカーへ一直線に飛び去ってゆく。

 

「スネーク!」

 

チコが外に乗り出すようにして悲鳴を上げた。私は彼の軽い体が落ちないように押さえることしかできなかった。

その一機は武装をしていないようだった。その分軽量で、重武装していた我々のヘリは到底追いつけない。

これまでか…!と誰もがそう思った時、そのヘリはボスの頭上を越えて、山の向こうへ飛び去ろうとしていた。そして、その後を追うようにして鋼鉄の異形が地響きを立てながら歩き去ってゆく。

ボスが白馬を駆り、それを追う。その姿はトロイアで最強と謳われたヘクトールの如き雄々しさだった。だが、馬の脚ではあの速さに追いつけそうにない。ピースウォーカーはあっという間にニカラグアの国境を越えて、山の向こうへ消えていった。

 

≪ボス!駄目だ!一旦体勢を立て直そう!≫

≪……わかった≫

 

副司令の声が無線から響く。暫くして、馬の嘶きとともに悔しそうにボスの声が聞こえてきた。

私達の乗るモルフォ・ワンが、ボスの真上でホバリングを始め、ゆっくりと下降する。

白馬から崩れるように降りたボスが見え、その姿に驚きを隠せなかった。白馬の毛並みが赤く染まるほどの出血、焼け焦げた野戦服。

これだけの傷で動けるのが不思議なくらいだ。

私は医療キットの箱をチコに渡すと輸血と点滴の指示を出し、まだ着陸しきっていないヘリから飛び降りた。

 

「ボス!」

 

駆け寄ると、火薬と血の匂いが鼻をついた。ボスは私の声が聞こえていないかのように、ピースウォーカーが去った方向を睨みつけている。

出血による意識の混濁を懸念した私は、ボスの目の前で手を振り、先ほどより大きな声で呼びかけた。

 

「ボス!聞こえますか!」

 

はっと、我に返ったようにボスの青い瞳が私を見る。

 

「お前か…。すまん。迎えに来てくれたんだな」

 

ふらりとボスの足元が揺らぎ、慌てて支える。さっきよりも濃厚な血の匂いに私は顔をしかめた。なぜ、彼はこんな過酷な戦いを続けるのだろうか。

それが俺の罪であり、業だ。と彼が言っていたが、私には自分にふさわしい死に場所を求めている気がしてならないのだ。

いや、それは私も同じことだ。過去を清算することはできない。過去という十字架を背負って生きてゆくしかない。いつか、その日が来るまで。

 

「歩けますか?」

「ああ……肩を貸してくれ」

 

血だらけの腕を自分の肩に回すと、ずしりとした重さを感じた。彼の背負っているものを少しでも軽くできたら…と苦い思いが私の中に広がる。それができないのはわかっている。だが、そう思わざるを得ないのだ。

 

「……いい腕だ」

「え?」

 

直ぐ隣から聞こえてきた言葉に、私はすぐ反応することができなかった。

 

「あの状況で三機のヘリを相手には出来なかった。お前のおかげで助けられた」

 

血まみれなのに、いつものように笑う彼に私は何も言う事が出来なかった。

ボスに肩を貸しながら、ゆっくりとヘリへ歩く。私は胸の内を押し隠し明るく言ったが、うまく言えていただろうか。

 

「ボスに何かあったら副司令に、いえ、みんなに顔向けできませんよ」

「はは……なあメディック、その、一本点けてもいいか……?」

 

私は面食らった。ここまで酷い怪我でまだ葉巻を吸おうとしているのに。恐るべき愛煙家と言うべきか。

本当は吸わせてやりたいが、治療を最優先させるために心を鬼にする。

 

「駄目です。怪我人は大人しくしていてください」

「…やれやれ。俺の主治医は厳しいな」

「当然です。さあ、乗せますよ」

 

ボスの身体をヘリに乗せる。チコが心配そうに彼に話しかけると、心配するな。と小さな頭をぽんぽんと撫でた。

 

「さあ、脱がしますよ。腕を上げて」

 

私は血だらけの野戦服を脱がすのを諦め、ハサミで袖から切ってゆく。血に濡れた布がヘリの床に落ちて赤く染めた。

腕、肩、胸のいたるところが銃創や切創、やけどにまみれていて、チコが苦しそうな顔で眼をそむけた。

いくつかの銃創には、弾がまだ入ったままだ。医療キットから麻酔を取り出そうとした時、ボスの腕が私の手を掴んだ。

 

「……麻酔は使うな」

「しかし……!」

「奴はニカラグアの米軍基地へ向かった。このまま向かう。おい!このペースならどれくらいで到着する?」

「あ……こ、この調子なら6時間程で到着するはずですが……」

「無茶です!今の状態では!」

 

彼は私を制してパイロットに話しかけた。とんでもない話だ。通常の人間なら失血による意識混濁で命すら危ないのだ。今、この状態で正気を保っていられるのは彼の信じられないほど強靭な精神力のおかげだろう。だが、このまま戦闘を続ければどうなるかはわかっているはずだ。

 

「死ぬ気ですか!?これ以上の戦闘は……!」

「メディック」

 

静かだが、それでいて何者をも抗うことすら許されないようなボスの声に、ヘリ内の全員が息を飲んだ。

 

「奴を止められるのは、俺しかいない。大丈夫だ。必ず生きて還る」

 

真っ直ぐなボスの眼差しが、私を射貫く。ああ、やはり貴方には敵わない。医師として、『メディック』として、全力で貴方の力になろう。

 

「私は医師失格ですね。かなりの荒療治ですよ。覚悟はいいですか」

「お前の腕は俺が知ってる。遠慮なくやってくれ」

「わかりました。チコ。メスと鉗子、それと縫合の用意、それと点滴と輸血だ」

「り、了解」

 

 

『メディック』は先生と呼ばれるのを嫌う。なんでかわからないけど。でもオレにとっては先生だ。先生はオレがマザーベースに来てすぐの頃、栄養失調とCIA(ラ・シーア)共から受けた傷を治療してくれた。最初はでかくてちょっと怖かったけど、すごく優しい声で笑うんだ。だからすぐにいい人だって思った。

でも、たまにその笑顔がちょっと悲しそうに見えるから、なんだか放っておけないんだ。何だろう、こう、でっかい犬みたいな、そんな感じ。姉ちゃんはスネークみたいな強い男が好みらしいけど、オレは先生もかっこいいと思うけどな。ちょっと地味だけど。あ。先生に聞かれたら怒られちまうな。

 

だからオレは先生が本気で怒ったのを見た時は驚いた。なんていうか、すごく怒っているのに、泣きそうで、オレまで悲しくなっちまう。そんな眼をしてた。

先生は昔ベトナムで戦ってたと別の兵士から聞いた。実はMSFで五本の指に入るほど強いってことも。

あの優しい先生が戦場で人を殺してたなんて信じられなかった。別に人殺しが悪いことなんて今更言うほどオレも子供じゃない。でもあの人を見てもなんていうか、そんな姿を想像する事が出来なかった。

ヘリの中から機関銃で敵を狙う先生の眼は兵士そのものだった。狼(ロボ)が獲物に食らいつこうとするみたいな、そんな怖い目をしていた。

ああ、この人は兵士なんだって思った。でも、スネークを見るなりヘリから飛び降りていった先生は、必死で目の前の命を救おうとしている医者の姿だった。

オレは、ほんの少しだけ先生の笑顔の底にある哀しみの正体が分かった気がした。

命を救うための手で、人を殺さなきゃならなかった先生は、ずっと苦しんでたのかもしれない。

だから先生は、先生と呼ばれるのを躊躇った。自分はただの『メディック(衛生兵)』なんだって頑なに言い続けて。

だけどオレにとっては先生は先生でしかないし、過去なんて別にどうでもいい。

先生はオレの命の恩人なんだから。

 

 

ボスの傷の処置は、揺れるヘリの中で行った。輸液と輸血用のチューブをつけたまま、麻酔なしで体内に残った弾を取り除き、傷を縫合する。

その間、ボスは声を上げることも苦痛に身体を捩ることもなく、少し横になると言ってそのまま眠っていた。並の兵士でさえ痛みに呻くというのに、彼の並外れた忍耐力と精神力には心底感服する。到着まであと二時間弱。それまでに少しでも体力が回復していればいいのだが。

処置が終わり、助手をずっと務めてくれていたチコもほっとしたように息をついた。彼も私も汗だくだった。

「チコ、君も少し休め」

私の言葉に彼は頷くと、窮屈なシートと機材の間に寄りかかって眼を閉じた。二人の穏やかな寝顔に、私も少しだけ緊張の糸を解く。

ボスの方を見る。上半身は痛々しく血の滲んだ包帯に覆われ、死んだように眠っている。

止血帯を取り換えようと、傷だらけの身体に手をかけた時だった。

 

「ボス……」

 

彼の口から今まで聞いたことのない、苦しそうな、それでいて悲しげな声が聞こえた。私は思わずその手を取ろうとして…やめた。

 

「ボス……行くな……」

 

彼の口から放たれた『ボス』という言葉の底に、並々ならぬ想いが沈んでいるような気がしたのだ。彼の言う『ボス』が誰のことを示しているのかは、その時私には分からなかった。私は、こんなに悲しそうなボスを見るのが辛くて、燃えるような赤からどろりとした藍色が混ざり始めた空を見つめることしかできなかった。

 

ヘリは無情にも目的地に到着した。ボスの命令だとは分かっている。だが、彼の体力は6割も回復していないだろう。これ以上の戦闘は主治医として是が非でも辞めさせたい。だが、私はボスの【メディック】なのだ。彼の命令に抗う手段を私は持っていない。

「ボス、到着しました」

そう言う前にボスは既に目覚めていたようで、その肩に触れる前に力強い腕が私の腕をつかんだ。

 

「ああよく寝た……大丈夫だ。俺はしぶといからな」

 

そういいながら、彼は装備品を身に着け、ヘリから夜の闇へ躍り出た。分かっている。彼が強いことなど百も承知だ。

でも、どんなに強い奴でも弱点はあるのだ。ダビデに滅ぼされたゴリアテのように。

ボスにとっての弱点は、彼が叫んでいた【ボス】という言葉に関係しているのかもしれない。

 

「ボス!」

 

ボスの姿が暗闇に消える前に、私は思わずヘリの上から叫んでいた。

 

「必ず、必ず無事に帰ってきてください!もう、貴方の手術をするのはうんざりですから!」

 

彼はいつものように片手を軽く上げて返事をして、暗闇の中へ消えて行った。

 

私達は、ニカラグアとコスタリカの国境近くにある、FSLNの仲間が潜伏しているという村に一時待機することになった。アマンダが話をつけてあったからか、彼らは多くを語ることもなく、物資や弾薬を快く提供してくれた。おそらく、アマンダの弟であるチコの存在が大きいだろう。

サン・ファン河の傍だからか、湿気を含むじっとりとした暑さが容赦なく体力を奪う。私は滲み出る汗を拭いながら、ヘリの整備を手伝っていた。

 

「先生、ちょっとは食っておかないと参っちまうぜ?」

「ああ、ありがとうチコ。」

 

チコがナカタマル(トウモロコシの粉を練ったものに野菜や豚肉を入れ、バナナの葉で包んで蒸した料理)を持ってきてくれた。この暑さで食欲が低下していたが、チコの言う通り体力をつけておかないとならない。今この瞬間、ボスはたった一人で戦っているのだ。私が倒れるわけにはいかない。

バナナの葉をはがすと、何とも言えない食欲をそそる香りが漂ってきた。

 

「スネーク、大丈夫かな……」

 

チコはナカタマルを頬張りながら心配そうに言った。私も同じことを考えていた。あの出血と怪我の中、満足な治療もできずに送り出したことを後悔もし始めていた。

 

「……」

「そういえば、なんであの時撃たなかったんだ?」

「え?」

 

隣を見れば、チコが怪訝そうな、そして少しだけ非難の入り混じった表情を向けて言った。あの時、撃てたのにもかかわらず、ピースウォーカーへ向けてドアガンを撃たなかった事を言われているのに漸く気づいた。

 

「……あの時、ボスに『撃つな』と言われたような気がしたんだ」

「まさか。自分が死んじまうってのに……」

「ああ。でも、あの兵器と対峙していたボスはどこか哀しそうだった。なぜかあの中へ立ち入ってはいけないような感じがしてね。…やはり私は兵士には向いていないな。戦いの中にそんな感情を持つなんて」

 

ヘリの中で、小さく【ボス】と呟いた彼の姿を思い返す。深い哀しみと激しい怒りが入り混じったその声は、私の胸にずしりと重い何かを残していた。

 

「そんなことないよ。ヘリから機銃を撃つ先生は兵士そのものだった。正直、ちょっと怖かったんだ」

 

チコからそんな言葉が出るとは思わず、私は少し驚いた。なんといっていいものかわからず、二人の間に何とも言えない空気が流れた。

 

「チコ……」

 

そう言いかけて、上空からヘリのローター音を捉え、敵襲と思った私達は同時に身を固くした。

しかしそれは杞憂だった。目を凝らせば、MSFのエンブレムとモルフォ蝶をあしらったマークがその機体に描かれている。モルフォ・ツーだろう。副司令が応援を寄越してくれたのだろうか。

モルフォ・ツーが砂塵を巻き上げながら着陸する。その中から現れた人物を見て、チコが驚きの声を上げた。

 

「姉ちゃん!?」

 

まだ完全に傷が癒えていない筈のアマンダが、その手に銃を携えてヘリから降り立つ。

 

「チコ。あんたの言うとおりだ。あんたはもう戦士よ。覚悟があるなら、あたしと一緒に来なさい」

 

アマンダがその手をチコに差し出した。その眼は弟を見る姉の眼ではなく、兵士を見る指揮官のそれであった。

チコは暫く無言でそれを見つめ、「先生、ごめん」と小さく言い残して静かにヘリに乗り込んでいった。何も言うことはできなかった。彼の選んだ道だと自らに言い聞かせて、私は黙ってその小さな背中を見送った。

離陸する時、アマンダが私を見た。幼い弟を戦地に伴うという事に彼女も自責の念を感じているのだろうか、覚悟の中に悲しみと後悔を色濃く滲ませ、「それでも、私達はこうやってしか生きる術を知らない」と言ってるような気がして、

私はやり切れない思いと共に遠ざかっていく機影を見つめるしかできなかった。

もしもここで私が何か言っていれば、彼の運命を少しでも変えられたのではないのだろうか。今更ながら後悔している。

たとえそれが私自身のエゴであったとしても、そう思わざるを得ないのだ。

 

アマンダ達がボスを間一髪のところで救い出す一部始終を私はヘリの中の無線から聞いていた。私達も共に応戦したい衝動に駆られていたが、私達には退路を守るという役割があり、ここを離れるわけにはいかなかった。

副司令から到着したとの連絡が入った。心強い援軍だった。

「ベンセレーモス!」という声と共にけたたましい銃声が響き渡る。歓声と共にボス自身から無事だと無線が入り、私達はホッと胸を撫で下ろした。

 

≪こちらミラー。ザドルノフ、コールドマン共に確保した。コールドマンは重傷だ。帰還する≫

 

ミラー副司令の無線が響き、ヘリ内は歓声に包まれた。

ザドルノフとコールドマンが後ろ手に拘束された状態で後部のカーゴに乗せられる。コールドマンの胸部からはかなりの出血が認められた。早急に治療をしなければマザーベースまでたどり着くのも難しいだろう。私は応急処置の準備の為に必要な器具を揃えようと立ち上がった。

その時、一瞬だけ見えたコールドマンの不気味な笑みが、私には不吉なものに感じられた。

 

「貴様!何をしている!」

 

突然、機内中に副司令の怒声が響いた。驚きと共にそちらを見れば、コールドマンが胸倉をつかまれ、スタッフたちに囲まれている。

傍には小型のアタッシュケースが開いたまま転がっていた。端末らしき機器とディスプレイが見える。何が表示されているのか、私の所からは見えなかった。

 

「…ふ、ふふ…最後に勝つのは私だ…野良犬風情に止められるか?お前達は平和という偽りの状態の中では疎まれ、

 やがて野垂れ死ぬだろう。どうあがいても、闘争という麻薬からは逃れられない哀れな犬の集まりだ…」

 

がくりとコールドマンの首が冷たい床に落ちる。呼吸が弱い。非常にまずい事態だ。私は戸惑う様に彼を囲んでいるスタッフ達に指示を出した。

 

「そこに寝かせてくれ!くそ、意識レベルが下がっている。心臓マッサージの用意!」

「り、了解!」

 

この死に損ないが!と副司令が忌々しそうに床を蹴った。そして大声でマイクに向かって叫んだ。

 

「くそ!やりやがった!コールドマンがピースウォーカーを起動した!核発射の偽装データも同時にだ!送信先は……NORAD……」

NORAD。地球上の核ミサイルや戦略爆撃機などの動向を監視する専門機関。千五百本のICBMがアメリカ本土に向けて発射されたという偽装データが送信されたというのだ。

恐らく今頃は蜂の巣をつついたような騒ぎになっているはずだ。

いや、そんなものでは収まるはずはない。もし、NORADがこれを偽装と見抜けなかった場合、取る行動は一つ。

 

「報復攻撃……」

 

誰かがぽつりと漏らした言葉に機内がしん、と静まり返った。ベトナム、いやそれすら凌駕するほどの泥沼の闘争が世界中を焼き尽くすだろう。冷たい戦慄が背筋に走った。

 

『カズ。ピースウォーカーの現在地を教えてくれ』

「ボス!ダメだ!あんた一人でどうにかなるシロモノじゃない!」

『分かってる。だが、あれは俺が止めなければならないんだ。これ以上政治屋共の玩具にされる前に、俺が破壊する」

「ボス……」

 

聞いている方が苦しくなるような声が、無線機から響き渡る。副司令はそれ以上何も言うことはなかった。

そうこうしているうちに、ヘリ内のミサイルアラートが鳴り響き、私達はその場を離れた。眼下にはボスが乗ったAPCがピースウォーカーへ向けて走り出していたが、私達には彼の無事を祈ることしかできなかった。

ピースウォーカーとの戦闘は文字通り熾烈を極めた闘いになった。

無線越しにもわかるくらい、凄まじい攻撃の嵐がボスを襲い、彼はそれを驚異的な持久力と瞬発力で避け、的確に攻撃してゆく。ボスは私よりも年下だが四十も間近の人間の体力とは到底思えない。やはり伝説の兵士と謳われているのは伊達ではないようだ。

しかし、相手は一機で一個大隊、いや一国を殲滅できる程の鋼鉄のAI兵器。たった一人でどうにかなるものではない。ピースウォーカーへのダメージは確実に増えているが、ボスの体力は既に限界に近かった。

一際大きな爆発音が響き、私達は下を見た。凄まじい風と衝撃がヘリを揺らした。

度重なる攻撃によって外装がひしゃげたピースウォーカーが、がくりと姿勢を崩し、AIポッドが地面に倒れた。すかさずボスがハッチをこじ開け、中に入る。

基盤を外せば、AIの思考ルーチンが停止するとここにいる全員が思っていた。

 

『ダメだ! データの送信が止まらない!』

 

エメリッヒ博士の悲鳴がスピーカーから流れる。

焦燥と絶望が、ここにいる全員を支配した。

 

『俺には……俺にはわからない! 教えてくれ! ボス!』

 

無線越しに、ボスの悲痛な咆哮が響く。それは、誰に向けたものだったのか。

もう、止められない。私はこんな所で見ているしかない自分の無力さを嘆いた。

 

『ジャック』

 

鳴りやまないアラートの中、私は確かにその【声】を聞いた。酷いノイズにまみれていたが、強い意志を感じさせる女性の声だった。

そして、私達は【奇跡】を見たのだ。

 

 

 

全てが終わった。

ピースウォーカーは自らを湖に沈め、世界は危機を脱した。それが代償とでもいうように、世界中の命を救った英雄に消えることのない傷痕を遺して。

ボスは無言でピースウォーカーが沈んでいった湖面を見つめていた。

湖畔には、名も知らぬ白い花々が咲き乱れている。白い花弁が風に舞い、湖面に白い花を咲かせる。その花の蜜につられたのか、沢山のモルフォ蝶が花弁と戯れるように飛んでいた。

もしも天国があるのだとしたら、このような光景なのだろうか。私には確かめる術もないのだが。

ボスは静かに湖面に佇んでいた。今立っていることすら不思議なくらいに、満身創痍の状態だった。

副司令たちとの話が終えるのを見計らって、私は応急処置をするために彼の元へ向かった。

「……すまん。センセイ。また無茶をしちまった」

血と土埃に汚れた顔が辛うじて笑みとわかる表情になった。こんな状態になってまで冗談を言えるのかと呆れたが、その額に彼のトレードマークだったバンダナは巻かれていない。

「さて、今まで何度それを聞いたでしょうね。もう慣れましたよ」

治療をするため、私は彼をヘリに促した。が、彼は動こうとしない。

「ボス?」

「『……美しいだろう?』」

ぽつりと、ボスが呟いた。それは彼自身の言葉なのか、それとも誰かの言葉だったのか。

「え?」

「……いや、何でもない」

「でも、天国がもしあったら、こんな光景なんでしょうかね」

光の中を白と青の花びらが舞う美しい世界に、私は思わず呟く。

「さぁな。確かめる術はないさ。俺達がいずれ堕ちるのは地獄だ。それに、俺達の居場所は【天国の外側(アウターヘブン)】にしかないんだからな」

天国の外側(アウターヘブン)。

その言葉は、いつまでも燃え尽きない熾火のように、私の中に燻り続けることになる。

そして、それの本当の意味を知るのは、もっとずっと後の事だった。

それと共に、私達の盛夏(dog days)がもうすぐ終わろうとしている事など、その時は知るべくもないままに。

 



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バタフライ・デイドリーム

白昼に夢見る者は、夜にのみ夢見る者の見ない数々のものを知るのだ。


あの過酷な戦いから三週間ほど経った。MSFのマザーベースは相変わらず忙しない。ボスの噂を聞いて志願してくる者が絶えることはなく、プラットフォームも増築が繰り返され、

初めは数十人の小隊でしかなかった私達もかなりの大所帯となった。

ピースウォーカーとの戦いは完全な非公式、非公開の任務ではあったが、その仕事は裏の世界では大きく噂になっていたようで、良くも悪くも世界的に我々の存在を知らしめた。

それ以来、依頼される任務は倍以上に増え、隊員たちや副司令もてんてこ舞いだ。

ようやくあの時の傷が癒えたボスだったが、まだ任務には行くことはできない。憮然とする彼にその診断を下したのは私だ。

暫くは療養を兼ねて隊員たちの訓練とデスクワークに励んでいただこう。

そんな中、副司令は大きな仕事を終えた私達の為にささやかな宴を開くことを提案した。いや、寧ろずっと戦い通しだったボスの為にと言ったところだろうか。

 

「平和の日……ですか?」

 

幾度目かのボスの診察で、副司令が近くマザーベースを挙げての大きなイベントを開催するという事を知った。

診察台から降りて上着を羽織った彼が葉巻を銜えようとしたが、人差し指を立てた私を見て肩を竦めた。

 

「ああ。カズのたっての希望でな。皆ずっと戦い通しだったんだ、少しくらい息抜きが必要だとな。ま、俺はそれに賛成だが。しかし、平和の日とは皮肉なもんだ」

「まぁ、私達にはあまり縁のないものですからね」

「現実には【慈悲深きマリア】も、【平和をもたらす教会の鐘の音】もありはしないさ」

 

ボスが皮肉気に言う。言葉の奥底にどこか諦念のようなものを感じた。

 

「シュトラウスですか?あまり歌劇には詳しくありませんが……」

「俺もあまり知らん。昔上官に無理矢理連れて行かされてな。半分は寝てた」

 

マリンブルーの瞳が懐かしげに細められた。やはりまだ彼の心のどこかで【彼女】は生きているのだろうか。そんな想像をしていると、急にボスの眼が鋭いものに変わった。

 

「そういえば……近頃、紅い蝶を見たという話を聞いた。もしも見たら教えてくれ」

 

何の脈絡もないその言葉は、符牒だ。コスタリカに生息する蝶の中で紅い蝶などいるはずがない。これは、私達の中にスパイがいるという警告だった。

張りつめた彼の気配に、緊張が走った。だが、ボスは軽く私の肩を叩くと、いつも通りの笑みを浮かべて診察室を後にした。

彼の背を眺めながら、私は一抹の不安を感じていた。

蒼い蝶の中に混ざった紅い蝶。それは蒼い水面に落ちた真っ赤な血のように、蒼い蝶たちを染め上げていくのではないかと。

 

平和の日まであと十日。マザーベース全体がどこか浮き立ったような雰囲気にあるのは、皆やはりバカ騒ぎを心待ちにしているのだろう。こんな稼業だ。明日には戦場で冷たくなっているかもしれない。

少しくらいの乱痴気騒ぎは大目に見てくれるはずだ。

今ベッドに居る患者の治療スケジュールを考えている時、控えめなノックの音が入り口から聞こえてきた。

 

「どうぞ」

「すみません」

 

赤い顔をしたパスが、ふらふらと医務室へ入ってきた。

 

「どうしたんだい?」

「少し、熱があるみたいで……」

 

見れば、いつもは健康的に日に焼けた肌が赤く色づいている。私はすぐに彼女を座らせ、診察を始めた。

 

「はい、口を開けて」

 

若干喉が赤い。ほっそりとした喉の辺りを触診すれば扁桃腺が少し腫れている。典型的な感冒の症状だった。

 

「風邪だね。色々あって疲労が溜まっていたんだろう。抗生物質と解熱剤を処方しておくよ」

「ありがとうございます。ごめんなさい、先生も忙しいのに」

 

ふうふうと苦しそうな表情の中の、その健気な視線に苦笑する。

 

「それが私の仕事だ。心配はいらないさ。さあさあ、ベッドに入って早く良くなってくれ。君の笑顔がないと仕事にならない奴はたくさんいるんだ」

 

冗談めかした私の言葉に、彼女はふっと笑った。それがなんだか酷く悲しそうな笑顔で少しだけ気になったが、患者、しかも若い女性のプライベートに立ち入る様な無粋な真似はしたくなかった。

だが、それは杞憂に終わった。

 

「ねぇ、先生は、人を殺した事、ある?」

 

唐突に発せられたパスの言葉に、カルテを書く手が止まる。

 

「……あるよ」

 

自分でも驚くほど、淡々と答えていた。

 

「……後悔してる?」

「わからない。その時は必死だったから。でも今は、後悔している」

「どうして?貴方は医師だけど兵士でもあるのに」

「私は臆病者だからだよ。闘いも怖いが、死ぬのも死を見るのも怖い。だけど、私はメディックである限り、目の前の命を救わなければならないんだ」

 

朝日に照らされた海のような色の瞳が、私をじっと見つめていた。だが、これが私の中の真実だ。

パスはふっと笑うと、医務室の出口へ歩いてゆく。私は、彼女が満足するような答えを言えたのだろうか。いまいち自信がなかった。

 

「お大事にね」

「ありがとう。先生」

 

それが、この場所で私が見たパスの最後の姿だった。

 

今日もマザーベースは快晴で、いつものように忙しない日々が始まる。平和の日まであと三日。

浮かれた隊員たちが少し早いどんちゃん騒ぎをしたり、しょうもない事件が起きたりするけど、それもいつもと変わらない。

そう思っていた。

 

≪非常事態発生! 非常事態発生! 総員、直ちにD1プラットフォームへ緊急避難せよ。これは訓練ではない。繰り返す。これは訓練ではない≫

 

けたたましいサイレンと共に、緊迫したアナウンスが全プラットフォームに流れた。

一瞬にして、ピンと空気が張りつめ、全員が身構える。パニックになることはない。皆、そのように訓練されている。

何故と問う前に体が動く。私達はそう言う人種なのだ。

 

「重症患者から避難を始めろ。自分で歩ける患者は自力で避難だ」

 

部下たちに指示を出し、私は必要最低限の薬品やカルテを持ち、避難の準備を始めた。何が起きているのかは分からない。だが、私は己の任務を全うしなければならない。

医療用カバンに全てを詰め込み、窓の外を見た。その向こうには、信じがたい光景が広がっていた。

メタルギアZEKEが、マザーベースを破壊している。

ZEKEは、私達を守るために造られたはずだ。それが、まさに今、私達に向けて牙を剥いていた。

 

「一体……なにが……」

 

そう呟いた時、突き上げるような衝撃が私のいる空間を襲った。

棚や器具が倒れ、ガラスが割れた。避難の途中だった隊員達が悲鳴を上げる。

 

「皆!すぐにこの場から離れろ!」

 

そう叫んだすぐ後、私は激しい衝撃に吹き飛ばされ、背中を強かに床に打ち付けた。一瞬息が止まった。

上を見上げると、無残に崩れた天井の向こう側で、鋼鉄の獣が透き通るような青空を背にして、私を見つめていた。冷や汗が、背中を伝う。

すると、ZEKEが身体を反転させた。私はその隙に体の上に倒れた点滴台をどかし、起き上がった。

私はすぐそばで倒れていたスタッフに肩を貸し、物や瓦礫を避けながら出口へ向かう。この場所から一刻も離れなければ。鼓膜を突き破る様な咆哮がすぐ真上で聞こえた。

爆発音と何かがひしゃげる音が響き渡る。間一髪で私達は瓦礫に押しつぶされる前に部屋を出た。呆然とするスタッフを叱咤しながら私は彼と共に安全な場所を目指した。

 

「先生!」

 

外に出た時、私を呼ぶ声が聞こえた。振り返ると、チコが血相を変えて走り寄ってきた。

 

「チコ!何があったんだ!」

「先生……オレ、オレ……」

 

俯いたままのチコに、歩み寄り、屈んで目線を合わせた。今の彼は気が動転しているようだった。

 

「チコ、大丈夫だ。何があったか、教えてほしい」

「パスが、パスが……」

 

その眼に涙を溢れさせて、彼は私を見つめる。いつも気丈な彼がそんな姿を見せるという事は、何か尋常ではない事が起きているのだろう。

 

「パスが、あれに乗っているんだ……」

「なんだって……?」

 

チコの口から出た名前に、私は驚愕した。彼女がZEKEに搭乗しているという事実が信じられなかった。

 

≪ベンセレーモス!≫

 

ZEKEから、彼女の声が聞こえた。普段の彼女とは想像できないほどに攻撃的で、敵意に満ち満ちている。信じられなかった。彼女がZEKEを操縦しているという事が。

だが、そこにあるのは残酷な現実だった。ミサイルがZEKEから発射され、近くにあったプラットフォームに直撃した。

私は頭を振ると、涙を流しながら突っ立っているチコの肩を揺さぶった。

 

「チコ、チコ!まだ、怪我をして取り残されているスタッフがいるかもしれない。私はここ一帯を見てくる。君は彼を安全な場所へ頼む。これは君にしか頼めない。分かるね?」

「……うん……先生は?」

「大丈夫。必ず合流する。さあ、行くんだ!」

 

チコに負傷したスタッフを任せ、私はその場を離れた。

 

ミサイルの激しい応酬が、すぐそばで繰り広げられている。恐らく、ボスが奮戦しているのだろう。私はたくさんの戦闘の爪痕を避けながらプラットフォームを目指した。

彼女が【紅い蝶】だったというのか。確かに、違和感を感じていた。彼女が何かを隠しているということも。

 

『先生は、人を殺した事、ある?』

 

あれは、どういう意味だったのだろう。あの時、何か別の答えを言っていれば、何か変わったのだろうか。

溢れ出る記憶は後悔と自責の念に囚われる。

ZEKEが咆哮を上げ、ミサイルを撃つ。私達の家が、無残にも破壊されてゆく。しかし、今の私には何もできない。

 

「おおい!誰か!助けてくれ!」

 

すぐ近くから声が聞こえた。私は我に返ると、声の主を探し始めた。

 

「どこにいるんだ!」

「ここだ!」

 

声の主は、落ちてきた瓦礫の下敷きになっていた。しかし幸運なことに、そこにできた隙間のおかげで命拾いした様だ。

 

「足を挟まれて動けないんだ……頼む」

「わかった。いま瓦礫を動かすからな。もう大丈夫だ」

 

彼の顔は真っ青になっている。まずい。思ったよりも出血が多いかもしれない。一刻も早く止血と治療を施さなければ危険だ。

近くにあった鉄の棒を瓦礫の下に差し込み、渾身の力で押し上げる。重いコンクリート製の瓦礫はびくともしない。

 

「クソッ!上がれ!」

 

瓦礫で負傷したのか、手の平から血がぬるりと流れ出ていたが、そんな事を気にしている余裕はなかった。

その時、ドン!という重い破裂音が耳元で炸裂し、私は為すすべなく吹き飛ばされた。

 

「ぐっ」

 

ぐらぐらと視界が揺れる。

上を見上げれば、鋼鉄の死神が、私を見つめていた。

パス。ああ。何故だ。そんな言葉が、私の頭の中を駆け巡っていた。

だが、ZEKEは一向に私達を攻撃する様子はなかった。私はそれを好機と判断し、要救助者を助けることに専念した。

もう一度。鉄棒を押し上げる。ほんの少し、ほんの少しだけ瓦礫が動いた。その期を逃さず彼は必至で身体をずり動かすと、ようやく瓦礫の下から脱出することが出来た。

彼に肩を貸し、斜めに傾き始めたプラットフォームから脱出しようと試みた。だが、ZEKEの機銃がすぐ側を撃ち抜いた。ボスがすぐ近くまで来ているようだ。

私は無駄だと分かっていても、溢れ出る感情を止めることができなかった。

 

「もう止めろ!パス!君は……!自分の為に、自分の人生を生きてくれ!」

 

何故そう言ったのか、私自身にもわからない。だが、彼女の悲痛な『叫び』は、かつて私の目の前で自ら命を絶ったあの少女と重なって見えた。

私は、今度こそ、彼女を救いたかったのかもしれない。

そして、ZEKEの駆動が一瞬だけ止まった。私の声が届いたのかどうかは分からない。が、その一瞬を『彼』が見逃すはずはなかった。

鋼鉄の機体を無数のミサイルと爆発が襲う。足元に爆薬を仕掛けていたのだろう。ZEKEの足元が沈んだ。

 

≪―――…それが、お前達が選んだ、道だ!≫

 

それは、私が知る少女の声ではなかった。血反吐を吐くような、昏い憎悪が滲んだその怨嗟の声に背筋が凍る思いだった。

爆発音が鳴り響き、パスの悲鳴がスピーカー越しに聞こえる。

眩い光と共に、ZEKEのコックピットが大きく爆発した。

 

「あああああ!」

 

パスの悲鳴が、私の耳に確かに届いた気がした。

彼女の身体が、コックピットから投げ出されたのが見えた。

 

「パス!!」

 

私は、精一杯腕を伸ばしたが、それは無念にも彼女には届かなかった。

濃紺の波間に吸い込まれる彼女を茫然と、見つめることしかできなかった。

もしもこれが違う結末を迎えていたら、どのような未来が待っていたのだろうか。

 

 

 

「俺達は、国を棄てる」

彼の言葉が、ホールに響いていた。周りの隊員たちは、熱を帯びた視線で声の主を見つめていた。

私はもう既に国を、家族を、すべてを棄てた。

「そこには国も、思想も、イデオロギーもない」

私の未来は、既に決まっている。あのベトナムのジャングルから。

「俺達は、地獄へ堕ちるだろう」

いいえ、私は既に堕ちている。

「天国でもあり、地獄でもある。そうだ。それが、俺たちの居場所。【天国の外側(アウター・ヘブン)】だ」

天国の外側。

私は、その言葉に、言いようのない高揚感と、嵐の前の空のような不安感がない交ぜになった感情を抱えていた。

彼女は、あの言葉を放った時、一体何を思ったのだろうか。

もう、あの日々には戻れない。

その真意を知る術は、永遠に失われた。

奇妙な喪失感が、心の中に渦巻いている。

でも、それでも。

私は。

貴方に付いて行くと決めたのです。

それが、すべてを失った私が、唯一選んだ道なのですから。

 



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ブラック・スター

第五の御使が、ラッパを吹き鳴らした。するとわたしは、一つの星が天から地に落ちて来るのを見た。この星に、底知れぬ所の穴を開くかぎが与えられた。


私達に決定的な分岐点を与えたあの日から、三ヶ月後。マザーベースに漂う雰囲気が明らかに変わったと思うのは、気のせいではないだろう。

甲板や廊下に響いていた騒がしい笑い声や、フットサルに興じる歓声は絶えて久しく、代わりに慌ただしく出動する靴音と風を切るヘリのローター音が日に日に増えていった。

午前中が患者の診察や回診で慌ただしく過ぎ去り、決して旨くはないレーションを流し込むようにして腹に収める。座る間も無く医療プラットフォームで医療品や薬品の荷受けをすると共に、受け取りたくない荷を受け取る。それが、最近の私の日常だ。

輸送ヘリから降ろされる、カーキ色や黒色のシートに包まれた、人のシルエットをしたもの。

それは数日前に送り出した仲間達の変わり果てた姿だった。

 

「チーフ。今回の戦死者のリストです」

 

医療スタッフのイーグレットが淡々と事務的な表情でファイルを差し出す。彼はとても優秀で子供好きで、思いやりに溢れたスタッフだ。

よくチコやパス、孤児たちと共にデッキでフットサルに興じていた。いつしか副司令やボスまでもが割り込んできて、暗くなるまで歓声と笑い声が絶えなかったものだ。

だが、あの【事件】が彼、いや、彼等を変えてしまった。

規律は一層厳しくなり、訓練のメニューも増え、新しい武器や装備が毎日のように搬入されてくる。

コスタリカの一件で、私達の名は良くも悪くも表と裏の世界にも広がり、【国境なき軍隊】は国家間の戦争から麻薬カルテルの闘争まで多岐にわたる戦いに身を投じている。

今はキプロス島の紛争に大部分の人員が割かれていて、私は、毎日のように現地から送られてくる戦死者のリストを見て暗鬱とした気持ちを飲み込みながら、部下たちに指示を出さざるを得なかった。

何故人間は人種や国境という垣根があるのだろうか。その垣根をいつか馬鹿馬鹿しいものと気付く日が来るのだろうか。それは、私にもわからない。

だが、今言えるのは、来る日も来る日も運ばれてくる歪なボディバッグと、コードネームしか書かれていないリストを見る事が、いつしか当たり前の日常だと思えてきた。

それはあまりにも、命というものが軽く失われる世界。

私達は、そういう世界で生きているのだ。そして、それを選んだのは、自分自身だ。

 

「ああ。分かった。回収された遺体は検査に回してくれ」

「分かりました」

 

戦地で回収した遺体は、感染症や細菌兵器、化学兵器により汚染されている可能性がある為、直ぐには水葬にすることはない。詳細な検査により、化学兵器や細菌兵器への対抗手段を見つけることが出来るかも知れないのだ。

リストが挟まれたバインダーをイーグレットに手渡すと、彼は短く返事をした。前回の検査の報告書をまとめる為に端末へ身体を向ける。

昔は万年筆を片手に質の良くない紙とにらめっこしながら仕上げたものだが、技術の進歩というものは素晴らしい。誤字をする度に紙を丸めてゴミ箱へ放り投げなくても良くなったのだから。

未だ慣れないキーボードに四苦八苦していると、イーグレットの手がデスクの端に何かを置いた。栄養剤の小瓶だ。

 

「チーフ。暫く碌に休んでいないでしょう。貴方の事ですから本当の事は言うはずないと思いますが」

 

彼がやれやれと肩を竦めるのを見て、私は気まずそうに笑うことしかできなかった。むしろ当たり過ぎているのだから。

 

「判るかい? 流石うちのスタッフだね」

「何年一緒にいると思っているんですか。先生の考えている事などお見通しですよ」

 

イーグレットは、私がコロンビアにいた頃からの付き合いだ。そう。あの時、脚の銃創を治療した若い兵士が彼だ。

聡明で思慮深いイーグレットは、私の優秀な部下でもあり、誰にも言えない悩みを打ち明けられる唯一の友でもあった。

 

「パスを【彼女】に重ねたのでしょう?」

 

その言葉に、私は栄養剤を流し込む手を止めた。かつて、コロンビアで出会った、天真爛漫で、弟想いの、心優しい少女。だが彼女は無残に殺された家族の為に復讐を誓った、哀しきスパイだった。

 

「そうかもしれない」

「でも、それは貴方のせいでは…。現にあの女【パシフィカ・オーシャン】は、我々を裏切った。あの女のせいで、死ななくてもいい仲間が沢山死んだ」

 

イーグレットが忌々しそうに舌打ちした。私にも、彼の気持ちは痛いほどによくわかった。

 

「私達に戦う理由があるように、敵には敵の戦う理由がある。私はエゴイストだから、死にたくないし、傷つきたくはない。

それでも、戦場で傷ついた人の命を救いたい。それは、贖罪でもあり、自分自身を保つ安全装置のようなものなのかもしれない。イーグレット。私は君が思っているような清廉な人物ではないよ」

 

栄養剤を一気に流し込むと、遣る瀬無い気持ちを振り払うように息を吐いた。イーグレットが心配そうに私を覗き込んでいる。

 

「いつか、私達が要らなくなる平和な時代が来たら。彼女達のような不幸な子供達が救われたら。そう考えた事もある。でも」

 

壁のコルクボードに無造作に留められた写真を見た。全員で撮った集合写真。彼女はあの時のまま美しく微笑んでいる。

 

「私は一度死んで、ボスに拾われた。帰る故郷も家族も無い。此処が、私の居場所なんだ」

 

その為に、人を救う技術を使い、また新たな戦いへ送り出す。

なんて、滑稽でエゴに満ちた笑い話だろう。

 

「俺は、ボスの為ならいくら命を賭けたって構いません。でも、あの時チーフに救われたから今此処に居られるんです。貴方を尊敬してる奴は、大勢いるんですよ」

 

イーグレットが静かに笑った。やはり彼は頼りになるスタッフだと、私は改めて思う。

 

「……それでですがチーフ。最近少し気になる事がありましてね」

 

少し潜められた声に、思わず私も身を乗り出す。

 

「チコの様子が、最近おかしいんですよ。どこか、上の空というか……」

「パスの一件があったからじゃないのか?」

「それは確かにあると思います。でもアイツは賢い。何もなければいいんですが」

 

確かにチコはあの日から塞ぎ込むことが多くなっていた。自分が報告していれば、あんなことにならなかったかもしれないと、嗚咽を漏らしながら、私に語ってくれたのを思い出す。

ゲリラと共に銃を手に山野を駆け、生きる為に大人顔負けの知識を身に着けてきたとしても、まだ彼は子供だ。慕っていた少女を目の前であんな風に失くして、心に傷を負わないわけがない。

彼の為に何ができるのだろうか。奇しくも私もパスの最期の姿を見た。翅を焼かれた蝶のように、青い海に堕ちてゆく彼女を、私は手を伸ばす事すらできなかった。そんな私が、彼に何と言えるというのだろうか。

いつも明るく、基地のムードメーカー役だったチコの元気のない姿に、隊員たちは少なからず気に掛けているようで、イーグレットもその一人だった。

 

「そうだな。合間を見て話してみよう。ありがとう。イーグレット」

 

頼りない私にいつもついてきてくれる彼に改めて感謝の意を述べると、イーグレットはちょっと驚いたように、そして照れながら「どういたしまして。先生」と笑った。

 

 

副司令から近いうちにIAEA(国際原子力機関)の核査察が入ると聞かされたのは、その翌朝だった。

言葉少なに言い渡されたその命令に、疑問を持つことは許されないのだと感じた我々は、その口を固く閉じ、黙々と査察までの業務をこなすしかなかった。

数十人の傭兵集団から形成されていた私達は、もはや千人を軽く超す大所帯だ。ボスの伝説的な功績に加え、副司令の卓越した運営や用兵が、このMSFをここまで大きくしたのだろう。

それは諸刃の剣でもあったのかもしれない。もはや世界中の紛争地帯に隊員たちが派遣され、あらゆる情報を得る為に潜入工作員が潜伏している。

既に私達は、傭兵集団の範疇を超えていたのかもしれない。それは、一つの国家とみなされてもおかしくないくらいに。

核査察時は、査察団に怪しまれぬよう、ZEKEは勿論、武装や人員も最低限にしなければならない。

私達がクリーンな集団であるという事をアピールするというのがエメリッヒ博士の主張であるが、私には所詮、茶番だという印象しかなかった。

 

査察があと半月に迫った頃、キューバで活動しているアマンダから支援物資の要請があったと副司令から聞かされた。

彼女も、コスタリカでボスと共に戦った勇敢な戦士だ。今はMSFの任務と並行して、故郷であるニカラグア復興のため日夜奔走していた。

ボスはかつての戦友の為に支援要請を快諾し、副司令は核査察の雑務に加えて支援物資の手配に追われる羽目になっていた。

 

「え?チコを?」

 

日々の激務に少しやつれ気味のミラー副司令に栄養剤を点滴していた時、彼が漏らした言葉に眼を見開いた。本当は少しでも睡眠を摂るべきだと進言したが、彼は頑として首を振らず、私は上官達の頑固さに頭を抱えそうになった。

 

「ああ、査察時にチコのような子供や民間人が傭兵部隊にいたら心証が悪いだろう。そうでなくとも俺達に対する世論の風当たりは強い。子供を無理矢理拉致し、戦わせている等という流言飛語が出ないとも限らない。だからチコは今度の支援物資の輸送時に、この基地にいる民間人たちと共にアマンダの元へ行かせる。これはボスとも話し合った結果だ」

「チコは素直に従うでしょうか?」

「二日後の明朝、物資を積んだ貨物船がハバナ港へ向かう。チコにはその旨は伝えてあるし、本人も了承済みだ」

 

言いながら、副司令がトレードマークのサングラスを外して私を見た。そのコスタリカの海のような碧眼には、疲労の色が色濃く滲んでいた。

最近、査察に関してエメリッヒ博士と副司令の間で軋轢が生まれているのではないかという噂は私の耳にも入っている。

あくまで平和主義で、クリーンな組織だという事をアピールするべきだと主張するエメリッヒ博士と、国家、思想、イデオロギーに囚われない我々MSFにそんなものは不要だと言う副司令。

ボスはどちらかというと副司令側の意見であったが、エメリッヒ博士が半ば強引に査察を受け入れてしまい、激怒する副司令を宥める立場となっていた。

 

「副司令。やはりお休みになったほうがいいと思います」

「無理だな。あいつが勝手な真似をしてくれたおかげで、俺のデスクには未処理の書類が山積みだ。査察団へ配布する資料もまだ終わってない。今日も徹夜だなまったく」

 

苛々とサングラスの弦を噛む副司令の愚痴を聴きながら、私はチコが今どうしているだろうと考えていた。

 

 

金色の夕陽が、茜色の海に沈む。世界で有数の美しい景色が、明日をも知れぬ傭兵部隊の基地で見られることが、奇跡のようにさえ思える。

 

「綺麗だな」

 

私は素直に感嘆の台詞を口にした。隣の欄干に寄りかかっていた少年が、ゆっくりと私を見上げた。激務の中ようやくもぎ取れた束の間の休息。私はどうしても彼に話したかった事があった。

過酷な状況で生き残った人間に起こる罪悪感。心的外傷ストレス症候群の一種であるそれは、ベトナムで生き残った私にも深く深く傷跡を残している。

パスを失くしたチコも、同じような状況下であると考えられた。

 

「うん。そうだね」

 

あの元気な面影は欠片もなく、私は茜色に染まり切ったチコの横顔を見つめることしかできなかった。

 

「なぁ、チコ。君に言っておきたいことがあるんだ」

 

私は、彼に昔ベトナムからコロンビアで起きた全てを伝えた。私が経験してきた全てを。

ベトナムで戦った事、国を棄てた事、そして、コロンビアでアルマに出逢い、ボスと出逢った事。

話し終えた時、彼はじっと沈みゆく太陽を見つめながら、ぽつりと言った。

 

「先生は、後悔してる?」

 

その短い問いは、ゴルゴダの丘に続く道に背負う十字架のように、私の胸に重くのしかかった。

 

「していないと言ったら、嘘になる。でも、ボスと共に戦う道を選んだことは後悔していない。決して」

 

本心だった。私は沢山の過ちや罪を犯してきた。でも、彼の為に戦う道を選んだのは、あくまでも私の意志であり、この世界に対する私のささやかな抵抗だった。

 

「……そっか」

 

チコが笑みを浮かべて私を見上げる。いつもの気持ちいいくらい晴れやかな笑顔が、茜色に染まっていた。

 

「話してくれて、ありがとな。先生」

 

少し生意気だけど、心優しい小さな友人の笑顔を見たのは、この時が最後だった。

私が此処で違和感に気づいていれば、彼の運命を変えられたかもしれない。

すまない。チコ。本当に、すまない。

 

 

明朝、チコを乗せた貨物船がハバナへ出発した。だが折悪しく急患が入ってしまい、私は彼を見送ることが出来なかった。

久しぶりの姉弟の再会だから、彼も喜ぶだろう。その時はそう楽観的に考えていた。本来ならば彼は普通に学校へ行って教育を受け、家族や友人と過ごす年齢だ。

どんなに気丈に振舞っていたとしても、まだ子供だから。

 

「チコはどうしていた?」

 

仕事が入ってしまった私の代わりにイーグレットが見送りに行ってくれたので、一息ついていた頃、丁度医務室に戻ってきた彼に問いかけると、彼はポケットから一枚の写真を出した。

コスタリカの蒼い海をそのまま映し出したかのような美しい翅を持つ蝶の写真。

 

「モルフォ蝶?」

「チコが、チーフにと」

「私に?」

「ええ。俺にそれを押し付けてさっさと行っちまいやがりました。薄情な奴だぜ」

「はは。チコらしいな」

 

肩を竦めるイーグレットは憎まれ口を叩いてはいるが、本心は寂しいのだろう。ムードメーカーであるチコが居なくなったのだ。

 

「ああ、それと」

 

イーグレットが思い出したかのように私を見た。

 

「ニュークの世話を頼むよ。先生。だそうです」

 

私は彼と【彼女】が可愛がっていた黒猫の姿を思い浮かべ「了解」と笑った。

 

「ニューク。いるかい?」

 

少しだけ和らいだ陽光が海面にきらめき、清涼な潮風が吹き抜ける。医療プラットフォームのヘリポートの南側。彼はこの時間はここがお気に入りのようで、

大体タラップの陰で涼んでいる。この広大なマザーベース全てが彼の縄張りなのだ。

にゃあ、という声と共に、階段の陰から小さな黒猫が姿を現した。

糧食班の隊員が持たせてくれたニュークの餌を乗せたアルミのステンレスの小さな器を差し出すと、彼は艶々の尻尾をピンと立たせて、催促するかのようにもう一度高い声で鳴いた。

 

「はいはい。ちょっと待ってくれよ」

 

まとわりつくニュークを避けながら器を足元へ置くと、それ来た!と言うかのようにがっつき始めた。

その隣に腰を下ろし、黙々と平らげる黒猫の背をそっと撫ぜる。

ふわふわの柔らかな毛並みと掌に確かに感じる温かな体温。この小さな猫を慈しみ、可愛がっていた彼等はもういない。

私はニュークの背を撫でながら、金色に変わり始めた雲を見つめた。

 

「寂しくなるな……。なぁ、ニューク」

 

その意味を分かっているのかいないのか、彼はぺろりと口元を舐めながら一声鳴いた。

 

―――ああ。そうらしい。何でも死にかけてた所を漁師に拾われたって噂だ。

―――あの女の事だ。色仕掛けでも使ったんだろう。

―――俺達の家をあんなにしやがった癖に……しぶとい女だ。

―――あんな女、さっさと死んじまえばいいのさ。でなきゃ、あの女に殺された奴らが浮かばれねえよ。

 

チコが出立してから四日後。私は朝から言いようのない胸騒ぎに駆られていた。何といえばいいのだろうか。胸の中で蝶が羽搏いている様な、何とも落ち着かないものだ。

チコから到着の連絡はまだない。そろそろあってもいい頃だろうと思っていたし、ニュークの事を心配していた彼に一言大丈夫だよと言いたかった。

 

「チーフ、大丈夫ですか?」

 

彼に何かあったのかもしれない。そう考えていると不意に声をかけられた。

余程思いつめた顔をしていたのか、イーグレットが心配そうに私を覗き込んでいたので、私は誤魔化すように笑うしかなかった。

 

「ああ、大丈夫。ちょっと疲れが出たのかもね」

「貴方は我が隊の数少ない名医なんですからここで倒れちまったら困りますよ。ちょっと休憩しましょう」

「ありがとう。三〇分ほど休憩にしようか」

「もっと休んだっていいんですよ。全く。ワーカホリックも程々にして下さいよ」

「ははは。敵わないなぁ君には」

 

後はやっておきますから。と言うイーグレットの申し出をありがたく受けて、私は一足早く休憩を取ることにした。医務室を出て、ふと思い立つ。

副司令なら、何か分かるのではないだろうか。

私は踵を返して、副司令達のいる司令部に向かうことにした。

今思えば、あれは【虫の知らせ】というものだったのかもしれない。

 

司令部への長い階段を上がり、扉の前まで来た。入室の許可を得る為に声をかけようと息を吸ったところだった。それを聞いてしまったのは。

 

「……罠だ」

「だが行くしかない」

 

副司令とボスの声だ。酷く真剣で焦燥が滲んでいるようだった。

 

「あの女の生死はわからんが、少なくとも、チコは生きているはずだ」

 

副司令の言葉に、一瞬息が止まり、背筋に冷たいものが流れ落ちた。生きているはず?チコに何かがあったのか?

 

「場所は特定できたのか」

「キューバ南端、グアンタナモ湾岸にある収容キャンプだ」

 

何という事だ。よりによってあんな場所に彼は居るというのか。ベトナム時代、元中央情報局所属の男に聞いたことがあった。

南米に法律や倫理すらすり抜けた場所がある。そこは名目上難民キャンプという看板を掲げているが、中身は非人道的な拷問で情報を得る為の収容所らしく、そこに収容されたら最後、生きて出られることはない。

私は、もう黙っている事なんて出来なかった。

 

「私も、同行させてください」

 

戸口に立つ私に副司令が驚いたように振り向いた。

 

「メディック!聞いていたのか」

 

だがボスだけは私の存在を最初から知っていたかのように、ゆっくりと胸のポケットから葉巻を取り出して、口に咥えた。

 

「……いいだろう」

「スネーク!」

「こいつの口の堅さは俺が保証する。それに救出時にメディックが居れば二人の生存率も上がる。だがこれは極秘作戦だ。少数精鋭で行く」

 

その厳しい声音と視線は、ボス自身が救出に向かう事を意味していた。射貫くような隻眼を真っ直ぐに見つめる。久しぶりに見る、死地に向かう兵士の顔だった。

 

「ありがとうございます。ボス」

 

私は任務に就くにあたって副司令から事のあらましを全て聞いた。パスが生きている事。チコがサンチアゴで船を降り、単独で救出に向かった事。そして、キャンプオメガと呼ばれる収容所に捕らわれた事。

二人で夕陽を見たあの時、彼が見せた笑顔は、これから起こることへの覚悟だったのかもしれない。

 

「メディック。お前が何を思っているのかは知らんが、これはあくまで救出任務だ。私情に囚われ過ぎるな。己の任務を果たせ」

 

副司令のデスクの前の窓に背を寄りかからせていたボスが私を見た。彼には全てお見通しだ。昔からそうだった。どんなにポーカーフェイスを通してもすぐに見破られてしまう。

 

「イエス・サー。ボス」

 

昔を思い出して反射的に敬礼する。身も心も引き締まる思いだった。彼はおもむろに近づくと、にやりと笑って私の肩を二回叩いた。

 

「三時間後に出るぞ。準備しておけ」

「はい!」

「カズ。留守を頼んだぞ」

「ああ。任せておけ」

 

ボスの後に続いて部屋を後にしようとした時だった。副司令が「メディック」と私を呼んだ。

 

「ボスを、頼んだぞ」

「ええ。任せてください」

 

あの時、何故彼が私にあんな事を言ったのか、この時はまだ解らなかった。

 

私はオフィスに戻ると、急な任務が入ったとイーグレットに留守を頼んだ。彼は心配そうに私を見たが「お土産は要りませんからね」と笑っていたので、少しだけ気が紛れた気がした。

最低限だが、治療に役立つ器具や薬品を選びケースに詰め込む。

二人は無事だろうか。考えれば考えるほどにずぶずぶと冷たい泥の底に沈んでゆくような感覚に捉われる。

捕虜になった人間がどのような末路を辿るのか。嫌という程見てきた。救出されるのはそのごく一部であることも。

コロンビアでの悲劇を繰り返すのではないか。

ほっそりとした指が、こめかみに当てた銃口の引き金を引く。その瞬間の記憶が鮮やかに再生される。

私は、またあの悍ましい瞬間に立ち会うのではないかと心のどこかで恐れていた。

それを振り払うかのように、私は、目の前の任務を確実に遂行することが最優先だと、準備に没頭していた。

 

「モルフォ・ワンより管制塔。各計器等異常なし。天気、気圧共に良好。離陸の許可を求む」

≪了解。離陸を許可する。もうすぐ日没だ。幸運を≫

 

三時間後。私はヘリの中にいた。今回のミッションは、スタッフの中でも副司令を含むごく一部しか知らされていない。

ボスに同行を許されたのはモルフォ・ワンのパイロットと、私のみ。

それが逆に、この任務がどんなに重要であるかを思い知らされる。

 

「離陸します」

 

パイロットの言葉に、ボスは静かに、だが力強く頷いた。轟音と共にヘリがふわりと宙に浮き、空高く舞い上がる。

外を見ると、群青色の海と空の境界線に、黄と赤の滲んだような太陽の残滓が消えようとしていた。

宵闇が辺りを覆い尽くすと、空と海の境界線すら判らない。本当の闇だ。ふと、その闇が私を見つめている様な気がして、私は窓から視線を外し、ボスの方を見た。

優秀な開発班によって開発された最新鋭のスニーキングスーツに身を包んだ彼の肉体はまるで鋼の鎧だ。強靭という言葉をそのまま体現するとしたら、このような肉体になるのかもしれない。

淡い空色の隻眼は、朝凪の湖のように静謐の中にあった。だが、その湖底は如何なる生物も生息を許さぬほどに深く冷たい厳しさに満ちているだろう。

 

「どうした。腹でも痛いのか」

 

不意にボスが私を見て笑った。そんなにも難しい顔をしていただろうか。

 

「いいえ。ヘリ内で喫煙はどうかと思いましてね」

「う……」

 

彼は片方しかない眼をぱちくりさせて、銜えていた葉巻に火を点ける手を止めた。どんなに重傷を負っても、少しでも目を離せばどこから調達したのか満足そうに煙を吐いている。何度言っても聞かないのでもう諦めてはいるのだが。

 

「ま、それは冗談として。これ以上貴方の傷を縫うのはごめんですからね。私は裁縫は苦手ですから」

「ははは。ぼろ雑巾みたく縫われちゃ敵わん。努力はするさ」

「その言葉、今まで何度聞いたでしょうね」

 

降下地点までのほんの短い時間。私達は久しぶりに笑いあった。他愛のない雑談だったが、初めて出会った頃を思い出させるような、束の間の安らいだ時間のように感じた。

 

「まもなく、ドロップポイントに到達します」

 

パイロットの言葉に一気に緊張が張りつめる。ライトに照らされた隻眼が、冴え冴えとした冬の月のような鋭い光を放っていた。

ボスはゆっくり立ち上がり、一気にヘリの扉を開ける。猛烈な雨風がヘリの内部に吹き込んできた。

 

「酷い雨です。崖を登るのは危険では……」

 

パイロットの言葉にボスは首を振った。

「いや、ここでいい。別のポイントだと遠すぎる。雨と風は物音を消してくれるからな。丁度いい」

 

最新鋭の暗視ゴーグルを装着しながら、降下の準備を始めたボスの背に、私は言った。

 

「ボス!……幸運を」

「ああ。行ってくる」

 

口の端をわずかに上げると、彼は激しい風雨が吹きすさぶ、漆黒の真ん中に飛び込んでいった。

 

「一旦、サンチアゴで給油する」

 

パイロットの言葉も耳に入らないくらい、私はボスが降下した場所を見つめていた。彼なら大丈夫、でも。二人はどうだろうか。そんな事しか考えられない自分が情けなかった。

その時、「先生!」とモルフォのパイロット、メイフライが声を上げた。

 

「大丈夫ですか?」

 

その言葉に私はハッと我に返り、上の空だった自分を恥じた。

 

「すまない。メイフライ」

 

彼は「いいんですよ」と笑うと、ヘリを転身させ、サンチアゴの補給所へ向かわせた。

サンチアゴの補給所には既にFSNLの兵士たちが私達を待っていた。副司令が迅速な対応をしていてくれたおかげで、スムーズに彼等から物資を受け取ることが出来た。

その中には、チコの姉であるアマンダの姿もあった。彼女は以前より大分伸びた髪を一つに束ね、きびきびと部下たちに下知している。

彼女は私達を見ると、笑みを浮かべて迎えてくれた。

 

「先生。久しぶりね」

 

たった二、三カ月ぶりなのに、彼女はすでに堂々たる一角の指揮官の表情をしていた。

 

「ああ。久しぶりだね……アマンダ、チコの事だが……」

 

既に彼女の耳に入っているだろうが、言わずにはいられなかった。だが、彼女は静かに首を振り、私を見つめた。

 

「あの子は、もう子供じゃない。戦士よ。戦士は、自らの選択に責任を持たなくてはならない」

 

その言葉に、私は厳しい世界に生きる彼等の価値観をまざまざと見せつけられた気がした。例え血を分けた弟が捕らえられたとしても、彼女に従う沢山の部下たちを放り出す事は許されない。恐らく、チコもそれを分かっているのだろう。

なんて哀しく残酷な姉弟愛なのか。

それでも、私は彼女を責める資格も権利もない。

指揮官には時として、良心すら捨てねばならない事がある。

それを教えてくれたのは、他ならぬボスだった。

でも、私は、衛生兵だ。人を、仲間を生きて帰還させるのが、使命なのだ。

 

「それでも、私はボスを信じてる。大丈夫、必ず一緒に帰るよ」

 

アマンダはその言葉に大きく眼を見開いた。そして酷く悲しそうに笑い、次の瞬間には倒れこむように私に抱きついて来て、私は慌てて彼女の身体を支えた。そこにいたのは故郷の為に戦う戦士では無く、たった一人の弟を心配し、憔悴した姉の姿だった。

 

「お願い……お願い。あの子を、あの子に逢いたいわ」

 

今の私には、震える声で幾度もそう呟くアマンダをそっと抱き締める事しか出来なかった。

 

「メディック、副司令から連絡だ!ボスがチコを確保したらしい。ランデブーポイントへ向かうぞ」

 

補給を終えたメイフライが緊張を滲ませて叫んだ。その声に私達はハッと顔を見合わせた。

 

「じゃあ、行ってくるよ」

「先生、チコをお願いね」

「ああ。必ず」

 

私は不安げに揺れる彼女の瞳を真っ直ぐに見つめて頷いた。

既にメインローターは稼働し始めている。急いでヘリに戻り乗り込んで、外を見た。アマンダや彼女の部下達がこちらを見つめている。

小さく敬礼すると、彼女は大きく手を振って何かを叫んだ。だが、ここからではエンジンとローターの風切り音で聞こえなかった。

私達を乗せたモルフォ・ワンが離陸し、彼等の姿が小さくなり、やがて夜の闇の中に消える。私はふとチコから託された写真の存在を思い出した。胸のポケットに手をやり、小さな革の手帳の間に挟んでいたそれを取り出す。

深く青い深海をそのまま切り取ったような美しい蝶。だがその命はひと月だけの儚いもの。

写真の裏側を見やる。そこには、掠れた文字で何かが書かれていた。ライトを斜めに当てると、辛うじてドイツ語という事が分かった。

 

「『お前が長く深淵を覗き続けるならば、深淵もまた、等しくお前を覗いているのだ』」

 

言葉にし終えて、ぞっとする寒気が全身を襲っていた。ニーチェの【善悪の彼岸】の一節。怪物と戦う者は、自分自身も怪物にならぬよう心せよ。深淵を覗くとき、深淵もまたこちらを覗いているのだ。

そうか。この写真は。私はそこで考えるのを止めた。この写真が誰のものだったか、今更どうでもいいことだ。

私は、もう既に深淵の底にいるのだから。

蒼い空の下には戻ることはないだろう。

美しい蝶の写真を手帳に仕舞うと、私は眼を閉じて深く深く息を吐いた。

 

雨と風は益々強くなり、容赦なく視界を奪おうとする。ヘリを飛ばすには最悪な天候だが、メイフライの卓越した操縦技術の前ではさしたる障害にはなり得ないようだ。

ヘリは基地の監視塔のライトを避けながら進み、収容所から少し離れた入り江の端に辿り着いた。すると、発煙筒のピンク色の明かりが岸壁の暗がりからチカチカと光っているのが見えた。双眼鏡を覗くと黒いスニーキングスーツ姿のボスと、その足元にもう一人を確認した。

オレンジ色の囚人服を着た、小さな身体の。

 

「あそこだ。チコもいる」

「寄せるぞ。ハッチを開けてくれ」

 

彼の言葉に、私はハッチを開けた。途端に物凄い風と雨が吹き込んでくる。ヘリは慎重に岸壁に近づき、漸くはっきりと二人の姿が見えるようになった。

 

「ボス!」

 

更に近づく。風の音にかき消されないように声を上げると、ボスは座り込んだままのチコを抱え上げ、機内の床に彼をそっと下した。

急いでずぶ濡れの小さな身体に毛布を掛ける。体温の低下で震えが酷い。意識の混濁も見られている。早く温めなければ危険な状態だった。

 

「メディック」

 

手早く処置の用意をしていると、機内から降りようとしていたボスが振り返った。

 

「チコを頼んだぞ」

「……はい」

 

彼は頷くと、もう一度嵐の中へ戻っていった。

 

「チコ、チコ。聞こえるか……」

 

毛布を被ったままのチコの肩に手を置いた。その細い肩が怯えたようにびくりと身を震わせた。だが、早く治療をしなければならない。酷く殴られたのだろう。痣や裂傷が顔に痛々しく残っていた。

 

「身体を見せてくれ。大丈夫。治療をするだけだ」

「いやだ!やめろぉ!」

 

毛布に手をかけた時、チコは聞いたことのない悲痛な悲鳴を上げて、暴れ出した。半狂乱と言ってもいいくらいに滅茶苦茶に手足を暴れさせる姿は、彼があの場所でどんな目に遭ったのかを物語っていて、はらわたが煮えくり返りそうだった。

鎮静剤を打つため、暴れていた両手を掴むと、かかっていた毛布が落ちて彼の裸足の足が見えた。

それを見て、愕然とした。

 

「うっ……。うう」

 

あの場所で起こっていたのは、私の想像を遥かに上回る、非人道的で残酷なものだった。

彼の両脚の腱に埋め込まれた金属を見て、私は自分の日和見な頭をぶん殴りたくなった。

すすり泣くチコを茫然と見つめる。

何故彼がこのような目に合わなければならなかったのか。

まだ、子供である彼が。

もっと素晴らしい未来があったはずなのに。

どす黒い怒りが、私の視界を塗りつぶしていくような気がした。

 

「ごめん、ごめんよ。パス」

 

嗚咽の合間に、彼は壊れたカセットテープのように小さく呟き始める。その痛々しい姿に、私は思わず小さな身体を抱きしめていた。

 

「すまない。チコ。遅くなって、すまない」

 

チコは一瞬身体を強張らせると、私の野戦服を強く握りしめ、初めて大声で泣いた。

もう二度と彼は元のようには走れないだろう。

喉元まで出かかった薄っぺらい言葉を噛み潰すように、奥歯を強く噛み締める事しかできなかった。

 

少しずつ落ち着きを取り戻したチコだったが、未だショック状態からは抜け出せてはいない。

私は無理に会話をしようとはせず、細心の注意を払って治療に当たった。脚のボルトに関しては機内の設備では治療ができない。

俯いたままのチコは先程からずっとパスへの謝罪を呟いている。嗚咽交じりのその言葉は、胸が潰れそうになるくらいに痛々しい。

それでも私は彼に掛ける言葉がない。

どんな言葉も気休めにしかならないからだ。

 

≪こちらスネーク。パスを確保した。ランディングゾーンの座標を送る。迎えを頼む≫

 

機内に響いたボスの声に、私は思わず操縦席の無線に目をやった。俯いていたチコも顔を上げ、ほっとしたような、悲しそうな複雑な表情で前を見つめていた。

 

「モルフォ・ワン、了解」

 

ヘリは転身し、漆黒の嵐の中を進む。暫くして、基地から少し離れた場所の岩場に彼等の姿が確認できた。

チコより大分背が高いが、細身のオレンジ色の影は、座ることすらできずにぐったりと横になっている。一刻を争う状態だという事が、ここからでもわかった。

急いでハッチを開けると、ずぶ濡れのボスが入ってきた。ほっそりとした捕虜を抱えて。だが、私はその人物が彼女だと一瞬判らなかった。

 

「行け!行け!」

 

ボスの声でヘリは高く上がる。眩いライトと共にサイレンが鳴り響いた。

ごとりと、彼女が傾いた床と共に転がる。それを押さえようと手を伸ばすと、あのいたいけな少女の面影は微塵も感じられない、傷つき憔悴した彼女の姿をまざまざと見せつけられた。

痩せ衰えた身体、酷く傷つき、腫れあがった顔、がたがたに刈り上げられた髪、元の色が分からないくらいに血と汚れがついた囚人服。

どれだけ身体を、尊厳を傷つけられたのか、私には想像すら及ばない。

こんな事をしたのが、自分と同じ人間だと思うと、吐き気すら覚えた。

だがいつまでも私情に囚われている暇はない。すぐに彼女の脈を図る。

 

「脈拍が弱い。酷い衰弱だ。強心剤を投与します」

 

ボスにパスを長椅子に寝かすように頼むと、私は点滴の用意をする為に立ち上がった。

 

黙々と点滴の用意をする。そうでもしなければ私は、怒りでどうにかなってしまいそうだった。

ふと、マザーベースでの思い出が蘇る。泡沫の平和だったかもしれないが、私達にとってもそれは忘れがたく、尊いものでもあった。

しかし、ボスの言葉を思い出して、我に返る。

 

『一度、自ら銃を取ったなら、どんな人間も悲劇的な結末を覚悟するしかない』

 

その通りだ。チコも、パスも。己の目的の為に銃を取り、他人の命を屠ることを選んだ。その瞬間から自らもそうなる運命を覚悟するしかないのだ。

 

「スネーク、スネーク!」

 

チコの声が機内に響いた。そしてすぐに「メディック!」という切迫したボスの声が聞こえた。私は作業を中断してすぐに彼等の元に向かった。パスの腹部の着衣が捲り上げられている。血みどろの華奢な腹部をよく見れば、V字型の傷が大きく残されていた。滅茶苦茶に縫われたそれは、治療するというより、切り裂かれた布をただ縫い合わせたような酷いものだ。

その傷を見て、すぐに最悪の可能性に思い当たった。

 

「罠だ…。人間爆弾か!」

 

ボスの声が焦りを帯びた。私は「すぐに取り出します!」とラテックスの手袋を素早く装着する。

呼吸が浅い。麻酔は間に合わないだろう。

 

「麻酔間に合いません。なしで開腹します」

 

手術用の器具を手早く用意する。ハサミ、鉗子、メス。

 

「押さえるんだ。早く押さえろ!」

 

ボスの声が響き、パスの身体を二人が押さえる。道具を揃え、戻り患部を診る。夜間の機内での手術はあまり経験がない。

 

「暗い。ライトを向けて。早く!」

 

時間がない。爆弾の起爆までどれくらいかわからない以上、早急に取り除く必要がある。

ボスが機内の懐中電灯を持ってきて手元へ向けるよう固定した。

 

「しっかり押さえていて」

 

がたがたに縫われた傷口の糸を一つ一つ切っていく音が、無言の機内でやけに大きく響く。寒いはずなのに、酷く汗をかいていた。

糸を全て切り終わった。私は一度だけ息を吐くと、ゆっくりと傷口に両手を差し入れた。

腹圧に負けぬよう一度大きく傷を開くと、ぐちゃ、と嫌な音を立てて傷から血が流れ出る。てらてらとライトに照らされた小腸がむわりと生臭い臭いを放った。しかし爆弾は確認できない。更に両手を差し入れて探る。

 

「ああああああああ!」

 

パスが絶叫を上げた。「腸管(ダルム)を押さえろ!」私も指示を出しながら泡を吹いて死に物狂いで暴れるパスの腹の中を探る。指先に骨でも内臓でもない硬い人工物が触れた。

 

「これか!」

 

血液や体液で滑りそうだ。両掌でしっかりと掴んだ。想像以上の重量感だ。

体内からずるりとその姿を現した爆弾は、赤黒く濡れ、ひたすらに禍々しい。

信じられない事に爆弾の表面には、ピースマークが描かれていた。

悪趣味にも程がある。こんな事、人間のする事ではない。

鬼畜の所業だ。

 

「ボス……」

 

爆弾は不気味な電子音を発していた。ボスは顔を顰めて私が差し出したそれを掴み、ハッチを開けると、外に放り投げた。

束の間、ほっとした空気が私達を包んだ。

パスが苦しそうに喘ぐ。直ぐに処置に取り掛かからなければならない。

 

「呼吸は大丈夫だ。アクティブな出血は無し。閉腹する。押さえてくれ。連続縫合でいく」

 

チコに手伝ってもらいながら、縫合を行う。早く適切な処置をしなければ。

その途中で、メイフライがマザーベースへ作戦が完了した旨を連絡しているのが聞こえた。

 

「ボス、貴方に」

 

メイフライがボスに回線を渡す。

会話からして、エメリッヒ博士からのようだ。査察は順調に行っているのだろう。

パスの腹部の縫合を終え、私は額に滲んだ汗を腕で拭う。チコが安堵した表情でパスの額をそっと撫ぜた。

酷い一日だった。

本当に。

もっと酷い事がこれから起こることも知らずに、私達は我が家を目指していた。

 

先程より幾分か安定した呼吸のパスを、心配そうにチコが見守る。パスほどではないにしろ、酷い怪我を負っているチコにも休むよう言ったが、彼は頑として首を振らなかった。時折、苦しそうに魘される彼女の手を握り、まるで同じ苦しみを背負うような表情でチコは彼女に寄り添っていた。

 

「こちらモルフォ・ワン。管制塔、応答求む」

 

メイフライの焦ったような声が響く。

 

「通じません。回線は異常なし……」

 

管制塔と連絡が取れないらしい。もう管制塔から我々のヘリが目視できてもいい距離だ。

 

「なんだ……あれは」

 

メイフライの茫然とした声に、窓の外を見た。

 

「先生、あれ……」

 

チコが信じられないという表情でそれを見ていた。私も、自分の目の前に広がっている光景が、夢だと思いたかった。

 

「マザーベースが……」

 

赤々と燃え上がるプラント。大きな爆発と共に、その一つが火柱を立てながら真っ黒な海の中に吸い込まれていく。

響き渡る銃声。鉄筋が倒れる耳障りな音。

破壊しつくされた私達の居場所。

言葉もなく、その光景を見つめていると、メイフライが叫んだ。

 

「ミラー副司令!」

 

辛うじて無事だったヘリポートで、生き残った隊員と副司令達が奮戦していた。敵は何者なのか、ここからではわからない。

ボスがアサルトライフルで副司令達を援護する。私はチコとパスに自分の身体を盾にするように覆い被さった。

パスが苦しそうに呻く。まだ意識は戻らない。チコは震えながらパスにしがみついていて、私は安心させるように彼の肩をさすった。

大きな爆発音が背後で聞こえ、熱風がちりちりと首筋を嬲った。

 

「スネーク!」

 

副司令の声が発砲音の中に聞こえて、彼がヘリに乗り込んだことを知った。

 

「退けぇ!」

 

ボスの怒号に、ヘリは勢いよく上昇する。すぐに大きな爆発が起こった。

誰もが、言葉すらなく、目の前の光景を茫然と見つめていた。

真っ赤な炎を噴き出して、私達の家は、無惨に燃え堕ちていった。

 

ハッチを閉まる。座り込んだ副司令は本当に酷い有様だった。仲間か自分かも分からないほどに血と煤に塗れ、中程度の火傷を負っている。

私は彼の応急処置をしようと準備をしていると、不意に副司令がぽつりと言った。

 

「査察は、全くの嘘だった」

 

その言葉は、無念と憤怒が入り混じった慟哭そのものだった。私の頭の中に無数の疑問が浮かび上がっていた。

査察は嘘?では、エメリッヒ博士は……?

 

「奴らに嵌められたんだ!クソ!あれは、あれは俺達の!」

 

激情に駆られた副司令は、機内の鉄の壁を思い切り殴った。静まり返った機内に荒い息だけが聞こえる。そして、ゆっくりと横たわるパスに眼をやった。

 

「こいつ……」

 

ゆらりと、副司令がパスに近づく。その姿はまるで復讐に駆られた鬼のようだった。私は彼を止めようとしたが、思い切り体当たりされ、体勢を崩してしまった。

 

「貴様!貴様のせいだ!起きろ!おい!」

 

彼がパスの身体を力任せに揺すった。だめだ!傷口が!そう言いかけた所で、彼女の眼がかっと見開き、血の塊を吐き出した。

目を覚ましたパスは怯えるように副司令から数歩後退ると、周りを見回した。

 

「ばくだんは……?」

 

目を覚ましたばかりで、その言葉は若干おぼつかない。ボスが安心させるように掌を彼女に向けた。

 

「大丈夫だ。摘出した」

 

しかし、パスは酷く怯えたまま視線を彷徨わせ、私達を見つめた。

 

「ちがうの……」

 

ゆっくりと後ずさりすると、ハッチのスイッチを押す。冷たい潮風が一気に吹き込んできた。

 

「爆弾は、もう一つ……」

 

その言葉に、私は取り返しのつかないミスを犯した事に気づいた。

あれは、囮だ。

本物は、まだ。

彼女の身体が、暗闇の中に舞った。翅をもがれた蝶のように、吸い込まれてゆく。ボスが彼女の身体を捉えようと手を伸ばした。

 

「止せぇ!」

 

無意識に体が動いた。誰よりも速く。何よりも、疾く。

私は、この時の為に生きていたのかもしれない。

真っ白な閃光が、視界を覆った。

光の中に、一瞬だけ、ひらりと舞う蒼い蝶を見たような気がした。

すぐに灼熱と衝撃が全身を襲った。何かがひしゃげた。警告のブザー、宙に浮く身体。激痛。何かに叩きつけられたような。冷たい。何も、聞こえない。

そして、【私】の意識は真っ黒に、塗り潰された。

 

 



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アッシュズ・トゥ・アッシュズ

灰は灰に、


――ありふれた、戦場の或る日。

 

遠くで、ポップコーンメーカーのような、アサルトライフルの発砲音が響いている。遅れて、迫撃砲の重たい爆発音が僅かに地面を揺らした。

ここは【天国の外側】。温かい祝福も、神の赦しもない。あるのは血と銃弾の洗礼と、平等な死のみだ。

それでも、俺達は此処にいる。

ここにしか、寄る辺がないのだ。例えどんなに蔑まれようと、戦う事でしか、居場所を見つけられない人間達の楽園なのだ。

血みどろの洗面台の前に立つ。鏡の中には、敵と味方の血で真っ赤になった鬼が、其処にいた。

もうすっかり馴染んだ鋼鉄の左手で、擦り切れるほどに聞いたカセットテープを取った。

【世界を売った男】とは、なんと皮肉の効いた名だろうか。

レコーダーにテープをセットして、再生ボタンを押下する。

懐かしい彼の声が流れ始めた。いつもみたく、悪戯が成功する前の少年のようでもあり、何者にも従属しない凛とした、聞く者を惹きつける、そんな声。

 

≪思い出したか?≫

 

私が何者か、分かっている。

少なくとも、貴方の声を聴いている限りは。

生ける屍同然だった私は、貴方の声で目を覚ました。

あの時、アルストロメリアの咲き誇る丘で、貴方に新しい人生を貰った。

真っ黒に塗りつぶされていた私の世界は、貴方のおかげで、沢山の色を得た。

思い返してみても、貴方はいつも無茶ばかりだった。

毎回傷だらけで帰還するくせに、注射が嫌いで、薬も嫌いで。私の言う事なんて素直に聞いたことなんてない。

でも、それももうお終いです。

私がメディックでいられるのは、これが最後。

貴方と共に戦えたこと。今でも誇りに思っています。

テープが終わる。迷うことなく、録音ボタンを押した。

暫く逡巡した後、口を開く。

 

「ボス。あんたは言ってた」

 

それは、今この瞬間には酷く似つかわしくない、穏やかな、それでいて、少しの希望に満ちたメッセージだった。

 

「さよなら。ボス」

 

そして俺は、【自分自身】に永遠の別れを告げた。

 

 

ーーーーーーーーーー

 

遠くにクラスノゴリエの赤茶けた山頂を望むその場所は、かつて激しい戦闘があったのか、戦いの爪痕がそこかしこに見られた。

中でも、湖の傍にあったのであろうその開けた場所は、大きな爆発が発生したような痕跡が確認できた。周りは炭化した木々があるばかりで、生命の営みなど欠片も無い。その片隅にある小屋は、傍から見れば、湖の水質調査の為に作られた簡素なもののようだが、其処彼処に厳重なセキュリティが張り巡らされた小さな要塞だった。それも巧妙に。一見で見破れるものは、恐らく極僅かだ。

 

鉛色の雲の中から、ひらひらと風花が舞い落ちる。

壮年の隻眼の男が、じっと分厚い防弾性の窓からそれを見上げていた。

かつてこの場所は、オオアマナの群生地だった。真白い花弁が舞い踊り、この世とあの世の境目のような光景。

銃声が響く。純白の絨毯に仰向けで斃れ伏した安らかな笑みを浮かべる彼女。

そして、引き金を。

 

「ボス」

 

落ち着きのあるテノールに名を呼ばれて我に返る。戸口には、西部劇に出てくるようなダスターコートを着た、伊達男というに相応しい銀髪の男。彼は今の空と同じような銀灰色の瞳を自分に向けていた。

 

「オセロットか。どうした」

「アウターヘブンが落ちました」

 

その言葉は、逃れようのない結末を物語っていた。沈黙が部屋の中を支配する間、ぱちぱちと静かに暖炉の薪が爆ぜていた。

そして大きく息を吐きながら、頷く。

 

「そうか。相手は」

「ミラーの教え子です。まだ若い」

 

オセロットが表情を崩さずに言い放った。

 

「カズの教え子なら、手強いだろうな」

 

くつくつと喉の奥で笑いながら言うと、オセロットが面白くなさそうに眉間に皴を寄せた。

 

「笑い事じゃありませんよ。あれは、もう一匹の蛇です」

 

ちらりとオセロットを見やる。そのまま胸のポケットから葉巻を取り出して銜えた。

 

「すまん。見くびっているわけじゃ無い。彼奴を殺したそいつに興味があっただけだ」

 

オセロットが片眉を上げながら、ライターに火を点けて差し出す。ぽっと赤い灯が点いて、ふわりと煙が立った。

 

「そういえば、彼から託されました。貴方にです」

 

オセロットはコートの内ポケットから何かを取り出した。受け取って見てみれば、昔彼にメッセージを吹き込んだカセットテープ。何度も何度も再生されたのだろう。かなり汚れていた。

訝し気にテープをレコーダーに入れ、再生した。ザー、というノイズの後、穏やかな声が響いた。

 

≪ボス。あんたは言ってた。俺達に明日はないと≫

 

それは、自分に対するメッセージだった。

朴訥で、不器用で、呆れるほどに愚直で真摯なメッセージ。

全てが終わり、かちゃりとレコーダーが鳴った。

 

「オセロット」

「はい」

「生き残ったあいつの部下は、全てこちらで引き受ける」

「分かりました」

「暫くの間、俺はゴーストになる。留守の間は頼んだ」

「判っています。その間の連絡は、全てカットアウトを通します」

「すまんな。ジュニア」

「いいえ。貴方の為ですから。それが私の全てです」

 

オセロットは満足そうな笑みを浮かべると、セーフハウスを後にした。

彼の背を見送ると、カセットテープに眼をやった。おもむろにそれを手に取り、赤々と燃え続ける暖炉の中に放り投げた。

黒と灰色の煙を出しながら、プラスチックがゆっくりと燃えて溶けてゆく。

 

お前は、俺と違う方法で理想を夢見たのだな。

少し、お前が羨ましいよ。

 

カセットがばちりと火花を放った。

 

お前のミームは、俺が引き受ける。

 

「さらばだ。エイハブ(メディック)」

 

そして、エイハブ(メディック)という男の存在は、完全にこの世界から消失した。

 

【了】




メタルギアソリッドファントムペインのストーリーや小説がメディックの過去に何も触れていなかったので、メディック=プレイヤー=プレイヤーの数だけのストーリーなのではないかなと思い、補完と自己満足のつもりで書きました。
また、今回はデス・ストランディング発売記念として公開させて頂きました。
ここまで読んでいただきまして、ありがとうございました。


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