けものフレンズR 星色の記憶 (檻人)
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「追憶」の中の少女
音が聞こえる。
それも、ひどく耳障りな金属音のような騒音だ。
すぐに止むと思っていたけれど、いつまでもいつまでもその音は鳴り止まない。
その音をずっと聞いていると胸が締め付けられそうだったので、耳を塞ごうとして気が付く。
この、手についている液体は何なのだろう。
色は分からない。目に見える世界は全て、モノクロに統一されている。
黒いような気もするし、白いような気もする。
よく見るとそれは、床一面に広がっている。いや、これは地面なのだろうか。
分からない。
分からないから、周りをよく調べてみよう。
試しに振り返ろうとしたところで──
「それ以上はいけないよ」
そんな声が聞こえて、再び世界は真っ暗になったのだった。
☆
イエイヌが目を覚ましたのは、ちょうど太陽が傾き始めたくらいの時分であった。
朝から怪しかった空模様は昼には崩れ、そこからザアザアと雨が降り続いていた。
窓の向こうで降り注ぐ雨粒をぼんやりと眺めている内に、いつの間にか眠ってしまったらしい。
テーブルに突っ伏して眠ってしまったせいか体の節々に鈍い痛みが残る。
くあぁ、と立ち上がる前に軽く背伸びし、そして更なる眠気覚ましの為にコーヒーを一杯入れて飲む──近頃は雨続きで、いつもそんな調子の生活を繰り返している。
この季節にはよくあることなのだが、どうにも雨ばかり降るのは好きになれない。元々活発なタイプのフレンズであるイエイヌであるが、さすがに雨に濡れ泥にまみれてまで外で走り回るという訳にはいかない。なのでこの時期が過ぎるまでは大抵、家の中で大人しくしているしかない。
──雨が降っても降らなくても、結局は家の中で過ごすのが当たり前なことには変わりないじゃないですか。
コーヒーの豆を挽き潰しながら自嘲気味に笑う。
いつからこんな暮らしをしているのか、イエイヌ自身にももう思い出せない。それほどまでに長い時間、彼女は待ち続けているのである。いつの日か、ヒトが帰ってくることを信じて。
他のフレンズは皆、ヒトはずっと昔に絶滅してしまってパークには残っていないんだと考えている。けれど決してそれを、イエイヌの前では口にしなかった。
その優しさが嬉しくて、痛くて、最近はめっきり他のフレンズの元に顔を見せることもなくなってしまった。
時折イエイヌを心配してやって来てくれるフレンズもいるけれど、この雨の季節にはそれも殆んどない。
この季節の雨は滅多なことでは止まないのである。
止む気配のない雨を見ていると、いっそこのまま水の中に沈んでしまうのもいいかもしれないという考えがよぎる。
その度にコーヒーの苦い味を噛み締めて、そんな夢見心地から目を覚ますのである。
でも、そんな苦さにも慣れつつあった。
コーヒーを淹れ終わり、窓辺の椅子に腰掛けて飲む。いつもはテーブルの上でジャパリまんをつまみながら飲むのであるが、今日はなんとなく、雨を眺めながら飲んでみたい気分であった。
隙間無く敷き詰められた雨粒が外の景色を白く濡らしていく光景は、案外見ていて飽きないものであることに最近気が付いたのである。
だからコーヒーを飲みながら眺めればより楽しめるのではないか、その位の思い付きであった。
全くの偶然である。
けれども、そんな偶然だからこそ普段はあり得ないことに巡り会うのだろう。
雨の景色を眺めていたイエイヌの視線は、「それ」を見付けた瞬間に動かなくなった。否、「それ」以外の一切に意識を割く余裕を失ったのである。
雨が歪んでいた。空間の一点、その箇所だけ雨が何かの形を形成するかのように。
そして「それ」は明らかに動いている。雨の中を構うことなく突き進むようにして。
見付けた最初、ほんの一瞬はそこに誰かフレンズがいるのだろうと思った。けれどもそこは全くの「透明」なのである。何かが擬態しているんだとか、背景に紛れているんだとか、そういうことではないのである。何も無いのだ。
なのに雨は歪んでいる。まるでヒトの形のように。
「透明な少女」──イエイヌの頭の中でそんな言葉が思い起こされた。かつて、他のフレンズ達が噂をしていたのを聞いたことがある。
『パークにはね、注意しなくちゃあいけない物が三つあるんだ。一つは「セルリアン」、もう一つが「ビースト」、そして最後の一つが「透明な少女」だ。前の二つはみんな殆んど知ってるんだけど、最後の透明な少女っていうのが曲者でね。誰も見たことがないから、どんな物なのかが全然分からなくて、みんな噂しか知らないんだ。でも、どの噂にも一つだけ共通しているところがあってね、その少女を見てしまったものは「決して目覚めることのない眠り」についてしまうんだ。だから、決して彼女を見ちゃいけないよ。さもないと、二度と目を覚ますことなく眠り続けてしまうからね。え? 透明なのにどうやって見るんだって? それは、ほら、あくまで噂話だからね、ふふ、そんなに震えなくても大丈夫だよ。はい、いい顔頂きました』
透明なのに見たら永遠の眠りにつく、あまりにも胡散臭い話だったので本気にするフレンズはあんまりいなかったけれど、まさか本当にいるなんて──
衝撃か、恐怖か、はたまた興奮か。イエイヌはその「透明な少女」から視線を動かすことが出来なかった。その「透明な少女」もイエイヌの視線に気が付いたのか、先程からぴくりとも動かない。
どのくらいの間そうしていたのか、先に動いたのは「透明な少女」の方であった。さっきまでの歩く程の速さとは違い明らかに走り出したような速さで雨の向こうへと去っていく。
イエイヌは反射的に、逃げる「透明な少女」を追い掛けていた。
ドアを開け外に出た瞬間に激しい雨が毛皮を容赦なく濡らす。
けれどそれに構うことなく「透明な少女」を追い掛けた。
どうやら走る速さはイエイヌの方が上らしいが、この悪天候と何より相手が透明なことも相まって差は次第に開いていく。それでも諦めずにイエイヌは追い続けた。自分でも何故ここまで本気になるのか分からない。けれども、何か言葉にならない激しい衝動がイエイヌを突き動かしていた。
このままここで逃がしてしまったら、何か大切な物を見逃してしまうような、そんな予感がしていた。
やがて「透明な少女」の向かう先に何やら大きな建物のようなものが見えてきた。この近辺にこんな建物があっただろうか? 疑問に思うよりも先にイエイヌは走り続けた。そして「透明な少女」は建物の中へと飛び込んでいった。続けてイエイヌもその建物の中に飛び込んだ。
ひどく古びた施設だった。イエイヌが飛び込んだ受付らしき部屋の天井や壁には無数のひび割れが走り、家具や設備らしき道具はどれもボロボロに壊れている。なにより、埃とカビの臭いが酷かった。思わず涙目になり鼻を抑える。
臭いに慣れるまで暫く鼻は頼りになりそうにない。仕方ないので目と耳で追跡を続ける。しかし、犬の宿命として視力はそれほど良くはなく、聴覚もヒトよりは優れているが他の種の動物と比べると頼りない。それでも、諦めようとは思わなかった。
「すみません、誰かいませんか!」
試しに大きな声で呼び掛けてみるも返答はない。外の大雨から考えて、雨宿りをしているフレンズがいないか期待したが、どうやらあてが外れたらしい。
この建物には、私とあの「透明な少女」しかいない──
それを自覚した途端に、今まで影を潜めていた恐怖が溢れだしてくる。
この部屋には通路は一つしかなく、相手が逃げたとしたらこの先に行くしかない。しかしその通路は真っ暗な闇が口を開けて獲物を待ち構えているようであった。
帰った方がいいんじゃあないのか?
そんな考えで頭が埋め尽くされる。そもそも何故自分はあの「透明な少女」を追い掛けたのだろうか?
あの、何かを失いそうな焦りの感覚は一体なんだったのだろうか?
分からない。何一つとして分からなかった。
分からないということが、逆にイエイヌに勇気を与えた。
──このまますごすごと帰ってしまったら、きっと後で後悔してしまう気がします。何故だかは分からないけれど、私はこの先に行かなきゃいけないんです!
意を決して、闇の中へ一歩踏み出す。そしてもう一歩、周囲の気配に全力で気を配りながらイエイヌは歩き出した。
闇の中は全くの静寂だった。入り口から少し離れるともう、外の叩きつけるような雨音も聞こえなくなる。自分の靴が埃を帯びた床と擦れるキュッという音だけが響く。脇には他の部屋や通路があるのが辛うじて判別できたが、その全てが瓦礫で塞がれてしまっており実質一本道になっている。
逃げ場は何処にもない。
いつの間にかイエイヌの目尻に涙が浮かんでいた。
怖くて怖くてたまらなかった。
それでも進むことを止めなかった。
まるで何かに導かれるように。
暫く進むと闇の中にぼんやりと浮かび上がる光が見えてきた。更に近付くと、生き残っていた非常灯が淡くまるで人魂のようにとある部屋の扉を照らしているのが分かった。
両開きの、重そうな鉄の扉が僅かにだが開いている。間違いない、あの「透明な少女」はこの部屋の中へと入っていったのだ。
扉に手をかけ、体重を乗せて思い切り押し開ける。イエイヌの華奢な体ではまるでびくともしないように思われる扉であったが、さすがにフレンズの力強さには敵わずギギギと重たい音を上げながら、徐々に扉は開いていく。
そして扉は完全に開いた。
まず一番目を引いたのは、部屋の中央にある大きな球状の物体だった。他とは違う電気系統で維持されているのか、その物体は未だランプの明かりが点いており微かな機械音も聞こえる。──一体何の機械なんでしょうか?
不思議に思い近づこうとしたイエイヌは、その物体の周囲を囲むようにして落ちている無数の花々に気が付いた。
この辺りで見付かる花や、今まで見たことのない花まで、様々な種類の花が謎の機械を中心として供え物のように円形に並べられていた。どの花もすっかり色褪せてしまっており、かなり以前から並べられていたことが分かる。
まるで墓標である。
ふと、機械の側にある台の上に一つだけ真新しい花が置かれているのが目に留まる。
イエイヌは、漸く慣れてきた鼻でその花の匂いを嗅いでみた。
不思議な匂いがした。おぼろげな甘い香りは、今までイエイヌを包んでいた恐怖や不安を和らげ、なんだか安心するような心持ちにさせる。まるで母親に抱かれた時のような安らぎを感じさせる匂いのする花であった。
また同時に、ひどく懐かしい匂いだと思った。
──?
この花の匂いを、私は知っているのでしょうか?
イエイヌの脳裏に疑問がよぎる。長い時間の中で失われてしまった記憶の中に、一筋の光が射し込もうとしたその瞬間に──
「それ以上はいけないよ」
と、背後から少女の声が聞こえた。
瞬間的に戦闘態勢に入ろうとしたイエイヌであったが、まるで他人の身体のように力が抜けてしまいその場に崩れ落ちる。
全身から激しい熱が沸き上がるのを感じる。特に胸が燃えるように熱い。声にならない悲鳴を漏らしながら悶えるイエイヌは、意識を失う瞬間に黒い人影がこちらを見下ろしているのを見た。
間違いない、彼女が「透明な少女」──
無意識にその人影へと手を伸ばすイエイヌを見て、少女は一言、
「ごめんね」
と呟いた。
なんだか酷く寂しそうな声──そんなこと思いながら、イエイヌの意識は途切れた。
★
激しい機械音が鳴り響く。まるで癇癪でも起こしたかのようにせわしなくランプを瞬かせ、落ち着きのない音を絶え間なく鳴らし始める。
そんな狂った機械のすぐ側で、イエイヌは目を覚ました。
「私は、生きている、のでしょうか?」
身体をぺたぺたと触りながら、どこにも異変がないことを確認する。あの燃えるような熱さと痛みはまるで夢や幻だったかのように、身体には何の痕跡も残されていなかった。
はっとしてイエイヌは周囲を強く警戒する。辺りにはもう誰もいないようだったが、それでも安心はできない。
何しろ相手は透明な、不可視の存在なのである。
目に見えないのならばとイエイヌは匂いを嗅いでみる。近くに自分以外の何者かがいるのならば、すぐさまそれで探知できる。
けれども、イエイヌが嗅ぎあてた匂いは、全くの予想外のものであった。
後ろにある機械から、今まで何度も何度も待ち焦がれてきた匂いが漂ってくる。
何故? どうして?
そんな想いに思考を深めるよりも先に目の前の機械は光や音を発するのを止め、沈黙する。
そして、プシュウと空気かガスのようなものが抜ける音と共に球体が二つに割れた。
球体の中から煙が溢れてくる。いや、煙というよりは霞みや霧のようなものに近いだろうか。煙を吸い込んだもののそれは体に害を与えるものではなさそうだった。
けれどもイエイヌにとってそんなことは全くどうでもいいことであった。彼女の意識は全て、球体の内部にへと向けられていたのである。
そこには、安らかな寝息をたてて横たわる女の子がいた。身長はイエイヌと同じか、ちょっぴり小さいくらいだろうか。肌は繊細なガラス細工のようにキレイで儚くて、触れると傷付けてしまうのではないかと心配になってしまう程に色白い。草原の青葉のように明るくはつらつな印象を与える緑色の髪の毛とは対照的である。
息をする度に彼女のつつましい胸部がなだらかに上下する。どうやら呼吸に異常などは見られないようである。
イエイヌはそっと女の子の頬に手をあてて、その温もりを確かめるように優しく撫でる。
暖かい。他者の温もりを感じるのはいつ以来のことだろう。
間違いない、この子は生きている。夢でも幻でもない。生きているヒトの子どもだ。
その子がヒトだということは、イエイヌには直感的に理解できた。外見的な特徴がどうだとか、フレンズ特有のサンドスターの力を感じないだとか、そういうこと以前にイエイヌの魂がこの子はヒトの子どもなんだと訴えていた。
やっと会えた──
ぽたぽたと膝を濡らす雫が自分の涙だと気が付いたイエイヌは慌てて目を拭う。そして改めて女の子に向き直った時、その子は目を開けて、じっとイエイヌを見つめていた。
左右の瞳の色が違っていた。色の違う二つの瞳は夜空に浮かぶ星のようにはっきりとした輝きで目の前の相手を見据えている。
「ねぇ、どうしてあなたは泣いているの?」
「え?」
第一声がそれであった。何故自分はここにいるのか。ここは一体何処なのか。目の前の相手は何者なのか。
尋ねたいことは山ほどあっただろう。しかし、この女の子が真っ先に選んだのは「どうして目の前の子は泣いているんだろう」ということであった。
「あの、その、わ、私は──」
あまりにも予想外のことで答えに窮しているイエイヌを、その女の子はまだ目覚めたばかりでろくに力も出せない筈なのに、しっかりと機械から身を乗り出して、優しく抱き締めた。
「大丈夫だよ。あなたは一人じゃないから」
そう言った女の子の体は、微かに震えていた。怖くない筈がない。疑問がない筈がない。それなのにこの女の子は目の前の見知らぬ相手の涙を真っ先に気遣い、癒そうとしている。
自分のことよりも優先して。
──ああ、何がなんでも、私はこの子を守り抜こう。たとえどんなことをしてでも、この子は幸せにしてあげよう。
抱き締めている筈なのに、逆に震えている女の子の胸の中で、イエイヌはそう決意した。
そして女の子は、いつの間にか再び眠っていたのだった。
○「透明」な少女
いつ頃から広まったかは分からないがこのちほーではそこそこ有名なジャパリ七不思議の一つ。その「透明」な彼女を「見て」しまったフレンズはいつまでも目覚めない悪夢にうなされてしまうらしい。
透明なのにどう見るんだと一部の賢いフレンズは疑問に思うそうだが、そもそもジャパリ七不思議自体数えていくと百をいつの間にか越えてしまう存在なので、つっこむのは野暮なことである。
最近この噂を話すフレンズが増えており、他のちほーからわざわざ真偽を確かめに来る物好きもいるとのこと。
透明なのは作画が楽でいいけど、代わりに漫画でどう表現すのかが課題になるだろう。
――タイリクオオカミのネタ帳より抜粋
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イエイヌのハウス
目を覚ますと、知らない天井が見えた。
どうやらあたしはどこかのお部屋のベッドの上にいるらしい。不思議に思って辺りを見回すと、もっと不思議なことに、動物のコスプレをした女の子が横で眠っていたのだった。
なんだかふわふわでもこもこな印象を受ける女の子である。着ている服はなんだか制服のようであるけれど、こんな制服の学校があるのかはよく分からない。
それにしても、この耳と尻尾はよく出来ている。女の子の寝息に合わせてぴこぴこと動く様子はまるで本物のワンちゃんのようである。
「ちょっとだけなら触ってみてもいいよね……?」
おそるおそる女の子が付けている尻尾を触ってみる。なめらなか毛並みと手触り、芯の通り方やその温もりまでまさしく本物のそれと全く遜色がない。
あまりのリアルさに驚いていると、女の子が「うぅん、やぁっ……!」と何だか色っぽい寝言を立てているのに気が付いて思わず手を放す。目の前の女の子にとても申し訳ない思いを抱いていると、お部屋の中央にあるテーブルの上に、何やら青いバッグが置いてあることに気が付いた。
この子の持ち物なのだろうか? 勝手に中身を見る訳にはいかないけど、せめて名前くらいは知っておきたいなと思った。
バッグの表には特に名前らしき表記は見当たらない。後ろを見てみてもそれは同じだった。
仕方がない、やっぱりこの子を起こして事情を聞くしかなみたい。そう思いバッグをテーブルの上に戻す。
そして改めてベッドの上の女の子の方を向いた時に、どさり、と何かが床に落ちる音が聞こえた。
慌てて振り返りテーブルの上を見ると、さっき置いた筈のバッグがない。それはやはり、床の上に落ちてしまっていた。
あたしの置き方が悪かったせいだろう。急いで元の位置に戻してから、真っ先に女の子に謝らなくちゃ! そう思い床に落ちたバッグに手を伸ばした時、バッグのチャックが開いて中から何かがはみ出しているのに気が付く。
それは何か大きな本のようなものだった。はみ出した部分から僅かにタイトルらしき文字が窺える。
「なんだろう? ア・デイ……?」
その文字は英語で書かれていることもあり、はっきりとは判読できなかった。もう少し真面目に勉強しておけば良かったなぁと後悔してしまう。
昔から勉強は苦手であり、暇さえあればあたしはいつも──なんだっけ?
あたしは、昔から、何をしていたんだっけ?
あれ、ちょっと待って、そもそもあたしって、何て言う名前──
「あーーーーーっ!!!」
背後から聞こえた大きな声であたしの考えは一時中断される。ゆっくりと振り向くと、先程までベッドの上で眠っていた女の子が、あたしを見てとっても驚いたような顔をしていた。
ぽかんと開いた小さなお口からは、可愛らしいちょこんとした犬歯がちらりと覗いている。眉の形から少しつんとした印象を受ける大きな瞳は、左右の色がそれぞれ違っていた。所謂オッドアイというものだろう。改めてしっかりと見ると、すっごくきれいで可愛いい子だなぁ──って見とれている場合じゃあない!
「あー、どうも。おはよう? こんにちは? こんばんわ……は違うよね明るいし」
あたしがテンパった挙げ句にトンチンカンな挨拶をかわしたところ、目の前の女の子は途端に涙目になる。まずい、あたしがバッグを落としてしまったところを見ていたのかもしれない。この子の大切な物に傷をつけてしまったことで、この子を悲しませてしまったのかもしれない。
「あの、ごめんなさ「良かったぁーーーーっ!!!」
あたしが言い終わるよりも先に女の子は私に飛び付いてきた。そのまま押し倒され床に頭を打ち付ける。幸いカーペットが引いてあったので大したことはなかったけれど、頭がヒリヒリ痛む。でもそれ以上に、目の前の女の子がさかんに顔を舐めてくるのが恥ずかしくて仕方がない!
「レロレロレロレロレロ……ああ良かった! もう丸一日眠り続けていたから、このまま目が覚めないんじゃないかって、とってもとっても心配立ったんですぅ! レロレロレロレロ」
「ちょっ! ダメだって! 舐めるのはまずいよ!」
「そんなことないですぅ! こうやっていつまでも舐めていられますゥ!! レロレロレロレロレロレロレロレロ」
「うわっぷ! 待って! ステイ!!」
「はいッ!」
「はぁッはぁッ、分かってくれて嬉しいよ……!」
「ハッ! ご、ごめんなさい! ヒトと会うのは本当に本当に久しぶりで、私はイエイヌのフレンズだからその、顔をねっとりと舐め回す本能の抑えが効かなくなってしまってて、あぅぅぅ……。これ、どうぞ……」
申し訳なさそうに女の子が渡してくれたハンカチでべたべたになった顔を拭く。
理性を取り戻したらしい彼女は、そのまま真っ赤になってうつ向いてしまった。
付けている耳も尻尾をしゅんと垂れ下がってしまっていて、顔を舐め回されたのも相まって、この子は本当にワンちゃんなんじゃあないかという気がしてしまう。
でもまさか、そんなことはあり得ないよね。ファンタジーやメルヘンじゃあないんだから。
「そんなに気を落とさなくても大丈夫だよ! 確かに最初はびっくりしたけど、嫌でたまらないって訳じゃなかったし」
「じゃあ! また舐めてもいいでしょうか!?」
「うーん、今は遠慮しておこうかな。あなたに色々と聞きたいことがあるからね」
「あ、はい。私に答えられることなら何でもお答えしますっ!」
「ありがとうね。じゃあまず……あたしは誰なの? あたしはこんな所で何をしているの?」
「……え?」
すっかり元気を取り戻したらしい女の子に、あたしは今一番疑問に思っていることを正直に伝えてみたのだけれども、あたしの質問を受けた彼女は、再び沈黙してしまったのだった。
☆
そもそもの始まりは、空から落ちてきた星の欠片だという。ひょっとすると、まだヒトも動物もいなかった程の遠い昔にそれはやってきたのかもしれない。
そして更に長い時間が経って、その星の欠片の中に眠っていた不思議なパワーはある日突然目覚めた。
「サンドスター」と呼ばれるその物質は、自然の常識を超える沢山の奇跡を人々にもたらした。その中でも一際特別な奇跡は、「人と動物が友達になれる」というものだった。サンドスターは動物に人と同じ姿と知識を与え、両者が共に暮らせるようにしてくれたのだ。
かつてそんな奇跡が起きた島に作られたのが、大規模複合型動物園─ジャパリパーク─。動物の保護とふれあいを目的として作られたこの施設に、再び星の奇跡が降りかかった。多くの動物達が、人と同じように話すことができるアニマルガールズとなり、また新しい人と動物の歴史が紡がれ始めた──
「これが私が聞いているこの場所、ジャパリパークの成り立ちです。長い間このジャパリパークは人と動物達が共に暮らす素晴らしい場所だったそうです。でも、今は……」
「人はパークからいなくなって、あなた達のようなフレンズだけが暮らしている、ってことなんだね」
「はい……だから、どうして人であるあなたがパークにいたのか、どうして記憶を失っているのか。私には分からないんです、ごめんなさい」
「そんな、謝る必要なんてないよ。むしろあなたは一人で眠っていたあたしを見付けてくれたんだよ? お礼を言うのはこっちの方だよっ!」
「くすっ、そう言ってもらえると本当に嬉しいです」
柔らかく微笑んだ彼女を見て、あたしの不安もなんだか共に安らいでいく。まだ自分のことが何一つ思い出せないという状況なのだけれど、目が覚めて一番最初に出会えたのがこの子であたしは本当に幸運だったと思う。
疲れた身体もすり減った心も、この子の笑顔を見ていると全部吹き飛んでしまうんじゃないかなぁ。
そういえばこの子はイエイヌのフレンズだと言っていた。昔もきっと、その笑顔でたくさんの人々を癒していたんだろうね。
「そういえばまだあたし、あなたのお名前を聞いていなかったね。あなたは、何て言うお名前なの?」
「あ、私はそのままイエイヌです。フレンズの皆さんはだいたい元の動物の名前をそのまま自分の名前にしているんです。たまに違う方もいますけど」
「そっか、じゃあよろしくね。イエイヌちゃん!」
「はいっ! よろしくお願いします! ……えっと、私はあなたをどう呼べば……?」
「……あちゃあ、そうだったね」
さすがに名無しのままではあたしも辛い。かといって、適当な名前をつけてしまうというのもどうなんだろうか?
一応フレンズ式につけるなら、人だから「ヒトちゃん」とか?
うーん、何かしっくりこないなぁ……
「あの、もしかしたらあの荷物の中に何か手掛かりになるものが入っているかもしれません」
そう言ってイエイヌちゃんはテーブルの上に置かれているバッグを指差した。
「えっ? あれってイエイヌちゃんの持ち物じゃあないの?」
「あれはあなたを見付けた時に、あなたの眠っていた機械の中に一緒に入っていたものです。だから多分あなたの持ち物なんだと思いますけど、私は中を見ていないからはっきりとは……」
「じゃあ、開けて中身を見てみようか? 何が入っているのかすごく気になるし」
テーブルまで歩み寄りバッグのチャックに手を掛ける。何が入っているのかドキドキしているせいなのか、チャックを開ける手にうまく力が入らない。
この中にあたしの正体の手掛かりになるものが入っているのだろうか?
仮にそうだとして、一体何が入っているのだろう?
期待と少しの不安を伴いながら、あたしは一気に残りのチャックを開けた。
「タオルにハンカチに、空の水筒……白紙のメモ帳に筆記具まであるね。探検に出掛けにいく為に今すぐ準備したぜって感じだなぁ」
中身を一つ一つ取り出して確認していく。けれども、出てくるのはごくごくありふれたものばかり。それでもそれらのどれか一つに名前でも書いてないかと期待したけれど、空振りに終わる。
「これは地図、でしょうか? このちほーの大まかな見取り図になっていますね。それとこっちは図鑑ですね。色々な動物のことが書いてあります」
「ねぇイエイヌちゃん、その図鑑のタイトルってなぁに?」
「えっと、『ジャパリパーク公認 フレンズ&動物パーフェクトガイド改訂版』ですね。いつの日にか人のお役に立てるように私、ずっと文字を読めるよう練習していたんですっ! でも、どうしてタイトルが気になったんですか?」
「うん、ちょっとね」
あの、妙なタイトルの刻まれた大きな本のようなものがどこにも見当たらなかったのが気になった。
あたしは勿論取り出してなんかいないし、イエイヌちゃんがそんなことをする理由もない。第一、今まで一番バッグに近かったのもそれを最初に開けたのもあたしであり、そんな状況で彼女が本を隠すのは物理的に不可能だ。
それに、イエイヌちゃんを疑うだなんて絶対にありえない。
やっぱり、あたしのしょうがない見間違いだったんだろう。
結局、バッグの中身はあらかた全部出し終えたけれど、手掛かりになりそうなものは何もなかったのだ。
「……どうしたんですか? そんなに、難しい顔をして」
「あはは、結局何も手掛かりが見付からなかったな、って。ここまでイエイヌちゃんが手伝ってくれたのに、あたしは、自分の問題を何一つ解決できてないのが、情けなくなっちゃってさ……」
期待を削がれたことで残された不安だけが急速に頭の中に広がっていく。
これからどうなるのだろうという不安に、イエイヌちゃんへの申し訳なさに、自分が何者なのか分からないという恐怖。色んな感情があたしの中で渦巻いていき、訳が分からなくなる。
嫌なことなんて気にしていないつもりだったけれど、今ここになって、それが溢れだしてきたんだろう。
気が付くと、一言一言絞り出す内に、涙がぽろりぽろりと零れ落ちていた。
「っ、ごめんね。辛気くさいこと言っちゃって! 今、泣き止むからさ!」
必死になって涙を拭おうとするあたしを、イエイヌちゃんは無言で抱き締めてくれた。
「大丈夫です。泣いてもいいんですよ」と励ましながら、優しく頭を撫でてくれている。
「今は何も手掛かりがなかったとしても、知ろうとすることを諦めなければきっと前に進むことが出来ますよ。それに、私はイエイヌのフレンズですから、人であるあなたが困っているならばいつまでも全力で力を貸します! だから、心配しなくても大丈夫です。あなたは、一人じゃありません」
なんだかとっても心が落ち着く声だった。
覚えてないけれど、多分、おかあさんに慰められるっていうのは、こういう感じなんだろう。
「ごめん、もう少し、こうしててもいい? 泣いても、いいかな?」
「もちろんですよ」
そうして暫く、あたしは泣き続けた。
今まで溜まっていたものを全て吐き出してしまうみたいに。
その間、イエイヌちゃんはずっとあたしの側にいてくれた。何も言わずに、ただ抱き締めてくれていた。
それが──本当に嬉しかった。
☆
「うん、もう大丈夫。落ち着いた」
「本当にいいんですか? なんならもう少し抱き着いていても……」
「え? 何か言った?」
「いえっ! 何でもないですっ!」
どのくらい泣いていたんだろうか。すっかり赤くなったあたしの目を見てイエイヌちゃんが「少し顔を洗ってきた方がいいですよ。涙と鼻水で色々と凄いことになってますから……」というので洗面所へと向かう。
鏡を見た瞬間、確かにこれはひどいなと妙に冷めた感覚を持ちながら、あたしは顔をすすいだ。
顔を洗いながらゆっくりと考える。結局あたしは何者なのか。どうして一人でパークに残されていたのか。他にも誰か同じような人はいるのか。これからどうするのか。
色んな事を一気に頭の中で巡らせて、深く深く考えてから、結論付ける。
──まずは、何かを食べることにしよう。
鏡に凛とした顔で向き直るのと、空腹を訴える腹の虫の音が鳴ったのは、ほぼ同時のことだった。
★
洗面所で彼女が顔を洗っている間、イエイヌはキッチンで今晩の夕食の事を考えていた。
火が苦手であるイエイヌであるが、この家はそんなフレンズ達の為に電磁調理器具が完備されており、知識さえあれば誰でも料理を行うことが可能になっている。
「今日はとってもおめでたい日ですから、何か料理を作りたいところなんですけど、材料を切らしてしまっていますね……」
文字を勉強した時のように、いつか人の役に立てる為に色々と料理を習得していたイエイヌであったが、食材が傷みやすいこの時期はついつい食事をジャパリまんで済ませていた為に、材料切れになっていたことを忘れていた。
かといってこの時間では材料の補給に出向こうにも間に合わないので、どうしたものかと頭を悩ませる。
「うーん、やはり今日はジャパリまんで夕食を済ませるしかなさそうですね。その分、明日の夕食は美味しいものを沢山作ることにしましょう!」
そうして備蓄してあったジャパリまんを取り出そうとして、急に視界がぐらりと揺らぐ奇妙な感覚がイエイヌを襲う。
──あれ?
ふらついた足取りを修正しようとするも、身体に力が入らずその場にへたりこんでしまう。
体から沸き上がるようにして熱が高まり、全身に冷や汗が流れ出す。
頭に鈍い痛みが走り思考を維持していられない。
激しい熱さの中で朦朧としていく意識の中で、彼女はどんな味のジャパリまんなら一番喜んでくれるでしょうか、とイエイヌは考える。
イエイヌがその場に倒れるのと、玄関の扉が静かに開いたのはほぼ同時のことだった。
○不思議な力
通常フレンズは元々の動物の特性が強化され、一種の得意技のような物を有していることが少なくない。またセルリアンとの戦闘においては「野生解放」というサンドスターの力を消費してその特性を更に引き出すことが出来る。これらの力はすべて、サンドスターの恩恵だと言われている。
しかし、中にはそれらとは完全に異なった力を持つフレンズたちが存在しているらしい。元々の動物の特性に縛られないまったく未知の能力とは、一体どんなものなのだろう。
是非ともそんな力を持ったフレンズ達を取材してみたいものだが、残念なことに彼女達の特別な力を認識できるのは、同じく特別な力を有しているものだけらしい。
これもやはり、ジャパリ七不思議の一つとして最近有名になっているそうだ。
そういえばこの不思議な力には何か固有の呼び名があるそうなのだが、インタビュー対象のフレンズの誰もが思い思いの言葉を並べ立てたため結局どれが本当の呼び名なのかは分からなかった。
――タイリクオオカミのネタ帳より抜粋
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デイ・トゥ・リメンバー その①
顔を洗い終え、今晩の夕食をどうしようかなと考えながらリビングに戻ると、イエイヌちゃんの姿が見当たらない。
他の部屋に何か用事でもあったのかなと考えながら椅子に座ろうとした時、足の先に何かがぶつかる感触があった。
何だろうと思いテーブルの下を覗き込むと、一冊のスケッチブックらしき本が落ちていた。イエイヌちゃんの持ち物だろうかと思い手を伸ばした時、表紙に「A Day To Remember」と刻まれていることに気が付く。
──間違いない! あの本だ!
慌てて拾い出そうして頭をテーブルにぶつける。でもそんな痛みは何故このスケッチブックがここにあるのかという驚きと、一体これは何なのかという強い興味に支配されていたあたしにはちっとも気にならなかった。
スケッチブックを取り上げるとすぐさまページを捲っていく。
その殆どが全く手がつけられていない白紙のページだったけど、1ページだけ絵が描かれたページがあった。
それは、一人の小さな女の子が描かれた絵であった。イラストというよりも、そのディテールの細かさと色づかいからして肖像画のような印象を受ける。しかし何れにせよ、とてつもなく上手な絵である。いや、上手という言葉が陳腐に聞こえてしまう程の完成度だ。この絵を見た誰もが、描いた人がとんでもない才能の持ち主であると一目で分かるだろう。
そのあまりのクオリティに見とれていると、絵の下の方に何やら文字が書き残してあるのに気が付く。
『To Moe』
と、もえ? 誰かの名前を表しているのだろうか。多分それは、この絵の女の子の事だと思うのだけれど、そもそもこの女の子は誰なんだろう?
黒髪の、少し大人しそうな雰囲気の子である。椅子に座って、多分絵を描いている人の方を見ていたんだろう。視線がこちらを見据えるような感じになっている。年齢はあたしよりも大分年下だろうか。見たところ6、7歳あたりだと思う。
でも何故だろう。とても他人という気がしない。
もう少しよく絵を調べてみようとしたところ、背後から何かが落ちる音がして思わずひいっと悲鳴を上げる。
「い、イエイヌちゃん?」
返事はない。代わりに、廊下の奥に見える部屋の扉が開け放たれていた。
あの扉を開けたのはイエイヌちゃんということ? いや、それしかあり得ない。この家にあたし達以外の誰かがいるとでもいうのだろうか。
「イエイヌちゃん、冗談は止めてくれると嬉しいんだけど……」
おそるおそる、ドアの開いた部屋を目指して歩き出す。
リビングは玄関と直で繋がっており、そのちょうど真向かいに家の奥側へ続く廊下がある。あたしがさっき顔を洗って出てきた洗面所兼お風呂場は、その廊下に入ってすぐ右側に入り口があった。キッチンはカウンター式でリビングに面しているけれど、廊下側にも入り口となるドアがあり、それは入ってすぐ左側に設置されている。
そしてその廊下の奥には更に二つの扉がある。ついさっき目覚めたばかりのあたしがここまで詳しいのも変な話だけれども、このおうちは以外と小さくその間取りを把握するのはそんなに難しくはないと思う。けれどもさすがに、奥の二部屋がどのような部屋なのかは分からない。
ドアが開け放たれているのはリビングから見て左奥側である。さっきあたしが洗面所から出てきた時にはリビングへのドア以外は全部閉まっていた。だからイエイヌちゃんはそのままリビングかキッチンにいるものだと思っていたけれど、あんな奥の部屋で一体何をしているんだろうか?
部屋のすぐ近くまでは来たものの、ある可能性を思いつき足を止める。もし仮に、イエイヌちゃんが中で着替えていたとして、たまたま偶然風か何かでドアが開いてしまったとは考えられないだろうか。その場合このまま覗いてしまうと、いくら同性だとしても大分デリカシーの無い行為を犯してしまうのではないか。
……まぁ、何か大事でも起きてたらいけないし仕方ないよね、うん。
よし覗こう。一応ノックはしておこうかな。
「ノックしてもしも~し、イエイヌちゃんだいじょう……ぶ……」
部屋に入ってまず目に映ったのは、ベッドの上で横になってピクリとも動かないイエイヌちゃんの姿だった。最初は眠っているのかなって思ったけれど、呼吸をしているように見えない。それに眠っているにしてはあまりにもベッド周りが整い過ぎていた。シーツ、掛け布団、枕、そのどれにもシワが一つも無いというのはあまりにも不可思議である。生きている者が眠っている前提で考えるとすると、であるが。
あたしはもう頭が真っ白になり、一目散に彼女へと駆け寄った。
「イエイヌちゃん!? しっかりして!!」
彼女の肩を掴み揺すりながら呼び掛けるも返事はない。もしかして、と最悪の状況を思い浮かべるも振り払い、彼女の胸部へと耳をあてる。
心音──大丈夫、イエイヌちゃんは生きている!
けれども酷く呼吸が弱い。殆んどしてないといっていいくらいに。それに彼女に触れて初めて気が付いたが、体温が異常なくらいに高くなっている。
いくらフレンズだといってもこれは明らかに普通ではない。はやく、何とかしないと!
そう思い急いで部屋を出ようとして気が付く。ドアがいつの間にか閉まっている。入ったとき、そのあまりにも衝撃的な光景により閉めたのに気が付かなかったのだろうか。
そんなことはどうでもいい。はやく、イエイヌちゃんを助けないと──
必死になり半ば体当たりするようにドアを開けようとして、あたしは勢いよく弾き飛ばされた。
ドアにぶつけた力をそのまま跳ね返されたのかと思う程の衝撃を受けて床に叩きつけられ、肺から空気を絞り出すような咳を繰り返す。
「げほっげほっ……! あれ、このドア、押して開けるんじゃなかったっけ……?」
なんとか呼吸を整え立ち上がり、今度は慎重にノブを回しドアを開けようとする。
しかし、開かない。右に回しても左に回しても、押しても引いてもドアはびくともしない。
「な、なんで……なんでなんでなんでぇっ!? 開いてよ、お願いだから開いてよぉぉっ!!」
半狂乱になりドアを思い付く限りあらゆる方法で開けようとしたけれど、無情にもドアは開くことはなかった。
素手では埒があかない。何かもう、ドアを壊してでも外にでないと……!
一度感情を爆発させたからか、僅かに冷静さを取り戻したあたしは改めて部屋の中を見回す。見たところこの部屋は、かつて子供部屋として使われていたらしかった。子供用の学習机に、本棚には色々なジャンルの図鑑や辞書。動物の人形やスポーツに使ったであろうボールやシューズが隅の方に並べられている。その中に、今一番頼りになりそうな物を見付けた。
「これがうまくいったら多分イエイヌちゃんにものすごく怒られちゃうだろうけど、それくらいで済むんならっ……!」
あたしは野球用のバットを握りしめドアに相対する。子供でも飛距離を出しやすくする為だろう、そのバットは木製のドアよりも頑丈な金属製だ。
これならきっと、ドアを開けられる!
周りにぶつけてしまわないように位置を確認し、息を整えて、全力でバットをドアへと叩きつける為に振り上げた瞬間──
ドアの向こう側から、ドアの開く音がした。
「え……?」
ドアは開いていないのに、ドアの開いた音がした? 一体どういうこと?
矛盾した状況に混乱したあたしは、思わずドアに耳をあて外の状況を窺おうとする。すると明らかに、このドアの向こうから誰かの気配がするのを感じ取った。
まさか本当に、このおうちの中にあたし達以外の誰かがいたなんて。
本来は恐怖して警戒するべきなのだろうけど、今は一刻を争う状況である。あたしは必死になってドアの向こうの誰かへと呼び掛けた。
「すいません! 助けてください! この部屋であたしの大切な人が大変なことになっていて、でも、どうしてかドアが開けられなくて! 外からどうにかドアを開けられませんか!?」
ドア越しとはいえ距離はそうない筈なので、聞こえているに違いない。けれどもドアの向こうからあたしに返事を返すような声は何一つしなかった。
「あの、聞こえてますか!?」
今度はドアを叩きながら呼び掛けようとする。そしてドアに拳をぶつけようとしたその時、あたしの目はとても奇妙な光景を映し出した。
それは、ドア全体を覆うようにして巻かれた黄色のテープのような物体だった。その表面にはびっしりと文字のようなものが浮かび上がっている。
『Keep in! Keep in! Keep in!』
「なに、これ……?」
思わずドアから離れる。さっきまではこんなものは無かった筈である。なのにどうして、突然こんなものが現れたのか。
まさか、これが今起きている奇妙な現象の正体ということなの?
後退りするあたしの足に何かがぶつかる。ゆっくりと足下を見ると、そこには先ほどリビングで見付けた不思議なスケッチブックが落ちていた。
無意識に抱えてこの部屋まで持ってきてしまっていたのだろうか。それとも──
「う、ぅぅ……」
「イエイヌちゃん!」
弱々しいうめき声ではあるものの完全に意識が途絶えてはいないということに一抹の喜びを感じたあたしは、考えごとなんて吹き飛んでしまった。すぐにベッドで横たわるイエイヌちゃんの元へと飛び付きその手を握り締める。
薄目を開けてあたしを見たイエイヌちゃんは、とっても苦しい筈なのににこりと微笑んで「ごめんなさい、今すぐ晩御飯の準備をしますから……」と頭を持ち上げ起き上がろうとする。
「ダメだよ!? イエイヌちゃん、すっごい熱があるんだから、大人しくしてなきゃ!!」
「平気ですよ、こんな熱なんて……つい、最近にも……」
そう言いかけて力なくベッドへと倒れるイエイヌちゃん。慌てて彼女のおでこに自分のおでこをくっつけて熱を測る。その熱さは、さっきと比べても明らかに増していた。
そして彼女の体に改めて触れたあたしはとてつもなく危険な状況にあることを理解する。
こんなにも熱いのに、イエイヌちゃんの体は殆んど汗をかいていない。ということは、つまり──
「ま、まずいッ! きっと体温の上昇に対して熱の排出が追い付いていないんだッ。いつだったかは覚えてないが犬や猫は人間と比べて汗腺の数が極端に少ないと聞いたことがある。おそらくフレンズになって人に近付いたとしてもその性質は変わっていないんだッ! 今すぐ身体を冷やさなければッ イエイヌちゃんは助からないッ!!!」
「だけど、ドアは開かないし破壊しようにも多分、あの妙なテープのせいでぶつけた力は跳ね返されてしまう! どうすればいいの~~~~~ッ!!??」
再びパニックになったあたしは頭を抱えて床にうずくまる。こんなことをしていても何も状況は変わらないと分かっているけれど、こんな理不尽な現象に対して一体あたしに何ができるというのだろう?
何も出来る訳がない。
でも、それでも──イエイヌちゃんを助けたいっ!
そう強く思ったとき、先ほど見付けたスケッチブックが目の前にあった。
──? さっきと落ちてた場所が違うような?
素朴な疑問が頭に浮かんだ瞬間、突如スケッチブックがひとりでに開きパラパラと勢いよくページがめくれていく。
そしてある空白のページまでたどり着いたとき、そのまっさらな紙上にゆっくりと文字が浮かび上がった。
『描イテ イマすぐに タスケるために』
突然の事態についていけず、混乱していたあたしの頭はとうとう致命的にフリーズしてしまう。瞬きするのも声を出すのも忘れて、ただただ目の前の奇妙な現象を呆然と見詰めていると、再びページに
『描イテ イマすぐに タスケるために』
と浮かぶ。
そこで漸くあたしは、今自分が一刻の猶予もない状況にあることを思い出す。
訳がまったく分からないけれど、もうこれを頼るしかない!
「か、描くって、何を……?」
『アナタが イマいちばん ノゾむもの』
今あたしが一番欲しいもの。それはイエイヌちゃんの身体を冷やす為の何かである。
でも、それを描いたとして一体どうなるというのだろう?
ただの絵に一体何ができるというのだろう?
「ちくしょう! 何が起こるかさっぱりこれっぽっちも検討が付かないけど、こうなりゃやれることは全部やるしかないッ!!!」
次々と浮かぶ疑念を振り払い、あたしは学習机の上のペン入れの中にあった鉛筆を掴むと、一心不乱にスケッチブックへと描き殴った。
何を描くかなんて頭になく、ただひたすら「冷やす」ということを考えて鉛筆を走らせる。
そして思考も意識も遠くへと置いてきぼりにして、手先の感覚だけが取り残される。
──懐かしい感覚。
ふと気が付くと、手の動きが止まっていた。
「はぁっはぁっ、これは……?」
紙に描き出されていたのは、下の方が幅広く上の方がやや細くなっている袋のようなものであった。透明なその袋の中にはごつごつした質感の四角形の物体が収められている。これは──氷?
袋の表面はシワがよっていたり、なにか水滴のようなものがついていたり、なにかそれっぽい陰影がついていたり、とにかく、もの凄いリアルな絵である。
「これを、あたしが描いたの?」
自分でも自分を信じられず、思わずその絵を覗き込もうとした時、スケッチブックがまばゆい輝きを放ち出す!
「うわああああっ! 一体何だァーーッ?!」
あまりの光に直視していられず、目をつむり必死に耐える。すると何かがボトリと膝の上に落ちる感覚があった。何だろ? と思う間もなくそのあまりの冷たさに思わず飛び退いてしまう。
「ひやぁっ! 何これ冷たい!! ……ハッ!?」
あたしはすぐにそれを掴むとイエイヌちゃんの額に押し当てる。
冷たい氷の入った袋を額に乗せたイエイヌちゃんの表情が、僅かに和らいだ。
「はふぅ……冷たくて、気持ちいいです……」
「よ、良かったぁ……!」
そんなイエイヌちゃんを見て少しだけ安堵のため息が漏れる。
でも依然として、彼女の熱は下がらない。
やはり知識のないあたしだけでこのまま病気のイエイヌちゃんを看病するのは危険である。
しかしどんな手段をとるにしても、この部屋に閉じ込められたままでは始まらない。
「次はどうにかしてここから出ないと……!」
脱出の手段を探るために再びドアの方へ向かうと、先ほどドアに取り付いていた妙なテープが見当たらないことに気が付く。
「あれ……?」
おそるおそるドアノブを回しゆっくりと力を込めて押していく。
するとドアは、驚くほどあっさり開いたのであった。
☆
「ヤバいヤバいヤバいヤバいよ……開けちゃったから開いちゃったよ……なんでわたしはいつもこんな目にあうの? わたしが何をしたっていうの? わたしはただひっそりと静かに良い所で暮らしたかっただけなのに……」
廊下からは見えないリビングの死角でぶつぶつと小声で呟く少女がいる。
壁にぴったりと背中を張り付けて徐々に動悸の激しくなる心臓をなんとか落ち着かせようと深呼吸を繰り返す。
「最初はただ、この辺りに住んでるフレンズを見付けたから『ひょっとしたらもっと良い住み処が見付かるんじゃあないか』ってくらいの軽い気持ちで付いてきて、案の定良さそうな家に住んでいたから入ってみただけなのに……なんでいきなり倒れてたりするの? なんでいきなり部屋に戻ってくるの? 本当にびっくりして思わずあの子を隠しちゃったじゃあないのッ!」
足音がリビングに近付いてくるのを感じる。相手はこちらの正体に勘づいてはいないだろうが、存在を疑っているのは確実である。
「それでもなんとか閉じ込めて、後はわたしが安全なところまで逃げてそれでおしまいだったのにッ! どうしてこんなことがッ!」
少女は忌々しげに窓の外を睨み付ける。
「見付かったらきっとあの子に酷いことをした犯人だって思われる。偶然だって言ってももう信じて貰えるわけなんてない。でもこんな小さな家でずっと隠れていられる訳もない……! こうなったら、やるしかない。わたしのスタンドでもう一回、あの子たちを閉じ込めるしかないッ!」
少女の手のひらにあの文字の入ったテープがどこからともなく現れる。
それを握り締めながら少女は覚悟を決めたような表情で、自身のフードを深く被り直す。
「今度こそ絶対にヘマはしない。わたしの『アローン・イン・ア・ルーム』で確実に閉じ込める……!」
スタンド名:デイ・トゥ・リメンバー
本体:記憶喪失の少女
【破壊力 - なし / スピード - C / 射程距離 - C / 持続力 - C / 精密動作性 - C / 成長性 - A】
描いたイラストを実体化させることができる。その挙動は本体の常識や知識、記憶によって決定される。また、生き物を実体化させたとしてもそれは「そのように動く物体」であり本物の生物ではない。
実体化した際の諸々の性能は絵のクオリティによって変化する。
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デイ・トゥ・リメンバー その②
あまりにもリビングが薄暗いので壁際のスイッチで照明を点ける。すぐそばに掛けられた時計を見ると、針はそろそろ六時を指し示そうとする頃だった。
リビングにたどり着いたあたしは周りを見回す。
他のお部屋を探ってみても誰もおらず、誰かが隠れているとしたらもうこのリビング以外には考えられなかった。
けれどもそんなあたしの用心とは裏腹にお部屋には誰の姿も見当たらない。リビングと繋がっているキッチンも同じだった。
そもそも、既に玄関の扉は開いていた。家にいた誰かはもう、外へ出ていってしまったらしい。
窓の向こうではざぁざぁとそれなりに強い雨が降り始めている。お部屋が急に暗くなったのは、時間だけでなくこの雨のせいでもあったんだろう。
イエイヌちゃんが言うにはこの時期、このちほーではよく雨が降るそうだ。
「この雨の中で風邪を引かないといいんだけど……」
閉じ込められるという憂き目に合わされたものの、流石にこの天気の中を出ていったと思うと同情してしまう。
でも一体どうして、あたし達にあんなことをしたんだろう?
イエイヌちゃんがああなってしまったのは誰かのせいというよりは、何かの病気のせいだと思うし、そうなると相手はイエイヌちゃんを丁寧にベッドに寝かせてくれたということになる。
しかしそうなるとやっぱり、閉じ込められたことへの合点がいかない。
「うーん、考えても仕方ないね。今はまずイエイヌちゃんを看病することを一番に考えよう」
とりあえず開いている玄関の扉を閉めなきゃ。雨の勢いも強いし、このままだとお部屋が濡れちゃうからね。
小脇に抱えていたスケッチブックをテーブルに置き、玄関の扉のノブに手を掛けようと近付いたところで、あたしはあることに気がつき足を止めた。
──なんか、扉の開き具合が小さくない?
外開きの扉は隙間から外の様子をやっと窺えるくらいにしか開いていない。誰かが外に出ていったなら、もっと大きく開いていてもいいのではないだろうか?
もちろん、誰かが出ていった後に反動で扉が閉まった可能性も十分にある。でも、そうだとしても、扉が殆んど濡れていないのは不自然なんじゃあないの?
扉の隙間から上の方を覗いてみる。
やっぱり、この家の玄関の外側にある庇の部分はとても短い。これだと誰かが外に出られるくらいに扉を開けたとき、その大部分は必ず庇からはみ出してしまい雨に濡れる筈である。
けれどもこの扉はまったくと言っていいほど濡れていない。なぜ?
玄関の扉を閉めてもなお、あたしはその場から動かず考え込んだ。
──雨が降る前にその誰かは出ていって、雨が降る前に扉は閉まってしまったから? それとも、その誰かは扉を開けてはみたものの、ここからは出られないと気付いたから扉を開けきらなかったということ? この雨のせいで?
「あれ、もしそうだとすると、このおうちの中にはまだ──」
あたしがとある可能性に思い至った時、リビングの照明が突然切れた。外から差し込む光がある為に完全に視界を失うことはないものの、厚い雨雲に遮られた夕刻の光量はあまりにも心許ない。あたしは慌てて照明を点け直す為にスイッチのある壁へと向かう。
薄暗いので足下に気を付けながら進み、なんとかスイッチのある壁にたどり着く。
そして明かりを点け直そうとスイッチへ手を伸ばしたあたしの手は、こつんと何か固いものに触れた。
不思議に思いよく見てみると、何か透明なものがスイッチの上に覆い被さってガードしている。
「これって、ガラスのコップ? あれ、なんだこれ! 壁にぴったりと張り付いてて取れないよ!?」
まるで吸盤のようにぴたりとスイッチに張り付いたコップは押しても引いても揺らしてもびくともしない。
「まさか……!」
暗がりの中、更に目を凝らしコップを観察する。コップと壁の境目にはあの、文字の入った奇妙なテープが貼り付けられていた。
『keep in! keep in! keep in!』
「間違いない! やはり『誰か』はまだこのおうちの中にいるッ! そして今再びあたし達を閉じ込めるつもりなんだッ」
背中を壁に張り付け背後をカバーする。スイッチは廊下のドアのすぐ近くにあり、その為に今あたしがいる位置からはリビング全体を大まかに見通すことができる。
そして周囲を見回そうとするも、明かりの消えたリビングは薄暗く全体をくまなく見通せているか自信が持てない。けれどもこの家は、人が身を隠しながら色々と動ける程広くはないのだ。しっかりと注意を払っていれば、必ず相手を見付けられる筈。
──でも、さっきリビングに入った時に確認したけど、誰もいなかったよね?
いや、きっとあたしの探し方が甘かったせいだ。だからもう、油断さえしなければ……!
そうしてリビングの隅々を見回したものの、視界に現れるのは壁際に置かれた家具と、部屋の中央に置いてあるちょっと大きめのテーブルだけ。もちろんテーブルにも椅子にも、その下に誰かが隠れてなんていない。今あたしがいる所からは完璧にテーブルと椅子の足の向こう側が見通せている。
家具もまた、壁に沿うようにして並べられているので遮蔽物としての役割はまるで果たしていない。
一番怪しいベッドの下は念入りに確認してみたけれど、残念ながら誰もいる様子はなかった。
最後にここから唯一の死角になっているキッチンの方を覗いてみる。しかしここにも誰の姿も確認できない。カウンターの影に隠れてリビングから身を隠すくらいのスペースしかないこの空間に他の隠れ場所があるとも思えなかった。
「そんな……隠れる場所なんてないはずなんだけどなぁ……?」
コロン コロン
ふと、どこからともなくコップが足元へと転がってくる。ハンカチで蓋をされたそのコップにはやはり例のテープが巻き付けられていた。
そしてそのコップの中には、何かが入っている。屈んで手に取り確かめてみると、それは人差し指程の大きさの小さなヒトの人形であった。
「一体どこからこんな……きゃあっ!?」
コップの人形に気をとられた刹那、頭上から何か大きな物が覆い被さってくる。
それはあたしをすっぽり包み込んでしまえるくらいに大きな布のようなものだった。そしてそのまま、あのテープがしゅるしゅると布の内側へと入り込んでくる。
「まずいッ! このままだと床と布の間に閉じ込められる!?」
必死の思いで布を振り払い、浮き上がった布の隙間から滑るようにして間一髪脱出する。布はそのまま床にぴったりと張り付くようにして広がり落ちると、テープにより完全に封をされてしまった。
「て、テーブルクロスだ……テーブルクロスを上から被せて床に蓋をすることで、その中にいるあたしを閉じ込めようとしたんだ……!」
テーブルを見ると、先ほどまで掛けられていたテーブルクロスが無くなっていた。
いつの間にあんな大きな物を動かしたというのだろう。しかもただ動かしたのではない。それをあたしの頭上まで運び、落としてきたのだ。
何よりもそれだけ大胆なことをされたのに、リビングで動く人影のようなものは全く確認できなかった。
ここまでされるともう、暗くて見逃したとか確認が甘かったとか、そんな単純な理由では説明できない。
「『閉じ込める』だけじゃあない! この相手にはそれ以外にも何か、隠された物があるッ!」
正直、かなりマズいと思う。相手がどのようにしてこの広くないリビングで神出鬼没の振る舞いをしているのか全く見当がつかない。
もういっそ、イエイヌちゃんの側にいられるなら閉じ込められてもいいんじゃないのかな?
──いや、それはダメだ。いつまで閉じ込められるかも分からない状況に、熱で苦しんでいるイエイヌちゃんを置いておくことなんてできる訳がない!
やっぱり何とかして相手を見付けて、この行為を止めてもらわないとダメなんだ!
それに、ここまでに至るまでの諸々で分かった。相手は多分、あたしが今ここで何を言っても閉じ込めようとするのを止めないだろうって。
ハッキリとは言えないけど、この行いからは『物凄く必死な何か』を感じる。もう目の前の目的を遂げることだけしか見えなくなって、立ち止まることが出来なくなってしまっているのだ。
このパークにあたし以外にヒトがいない以上、きっとこの相手はフレンズに間違いない。
あたしはまだこのジャパリパークにどんなフレンズ達がいるのか知らない。その子達がどんな考えを持っているのか、どんな生き方をしているのか、一つも分かっていないのだ。
けれども、イエイヌちゃんが教えてくれた「どんなフレンズでも、フレンズ同士、そしてヒトと友達になれる」というかつてのパークの姿を思い起こさずにはいられなかった。
「あなたにどんな事情があって、どういう理由でこんなことをしているのか、あたしは知りたい。そして、あなたが困っているのなら力になってあげたい。だって、このジャパリパークはみんなが友達でいられる場所なんだもん!」
「だからあたしはこれから、あなたを見付けにいく! この奥の部屋で苦しんでいるイエイヌちゃんのために、そしてあなたと友達になるために!!」
そう呟いてあたしはテーブルの上から床に落ちていたスケッチブックを手に取る。そのそばには先ほどイエイヌちゃんと一緒に開けたバッグもあった。
そこから鉛筆を取り出し、スケッチブックを開く。
そして真っ白なページの上に迷うことなく筆を走らせた。
「『デイ・トゥ・リメンバー』! あたしがここに描いた絵は紙を飛び出して、現実のものになるッ!」
紙面に描かれた絵はまるで切り抜かれたみたいにして紙から浮き上がり、膨らみ始める。平面が立体へと、まるで「水が液体から固体へと変わるように当然だ」と主張するように、空想が現実へと置き換わっていく。
そして現れるかつて絵だったそれは、この部屋を包み込む薄暗い影の帳を貫く眩い光を放出する!
「不思議な気分……『覚えていないのに知ってる』なんて…… 普通は物凄く違和感だらけで不快な感じになるのかもしれないけれど、今はとってもありがたい。おかげでこの薄闇を切り開くことができたッ!」
あたしがスケッチブックへと描き出したのは一個のランタン。
薄暗い中で描き出したそれに、このリビングを照らし出すだけのパワーが備わっているかは賭けだったけれど、どうやらこの様子では大成功みたい。部屋の照明に負けず劣らず、リビングをはっきりくっきりと光で満たしているんだから。
そして──ランタンが浮かび上がらせたのは、本来の部屋の姿だけではなかった。
ランタンを持つ左手の袖に何か、灰色の粉のようなものが付着している。よく見ると左手だけじゃなく、右手側にも同様にそれは付着していた。
いや、袖だけじゃあない。その灰色の粉はあたしの着ている服全体にまるで振りかけたみたいに薄くかかっている。
「これにもだ……あたしの服から、というよりはきっとこっちから、あたしの服にくっついたんだ」
先程あたしを襲ったテーブルクロスも、同じく灰色の粉にまみれていた。他にも何か綿のようなものが所々に付着している。これは間違いない。
『埃』だ。
なんでこんなに沢山の『埃』が? テーブルから運ばれる途中で床にでも引き摺られたのかな?
いや、あのイエイヌちゃんがそんな目に見える所の掃除を適当に済ませている筈がないよね、ありえない。
じゃあどこでこんな汚れが付いたのか。
改めてリビングを見る。
テーブルのそば、つまり部屋の中央から見回してもやはり誰かが隠れている様子はない。
けれども床の所々に、微かにではあるが埃が落ちている箇所があった。
ピカピカに磨かれた床の上に、まるで湧き出てきたかのように埃が存在している。
「やっぱり変だ。砂漠のまっさらな砂の上にひとつだけ『足跡』が付いてるみたいに、この『埃』の落ち方はおかしいよ。周りがこんなに綺麗なのに、ここだけ汚れてるなんてのは……」
そう言い掛けた時、あたしの頭の中で閃光が走るかのような感覚が起こった。目まぐるしく頭の中で可能性が浮かんでは消えていく。
右手の拳を握り、親指の先を人差し指の付け根に置いてスイッチを押すようなポーズで唇に寄せる。なんだか分からないけれど、こうしていると考えがまとまる気がするのだ。
そうして徐々に、とある一つの仮説が急速に形を成していく。
そんなこと、ありえない。
でも、もしかすると、フレンズならばあるいは。
「まさか、あなたが今いる場所って──」
ボコッ! ボコッ!
何かが膨れ上がるような音が聞こえた。
すぐさま音の出所を確認すると、そこには鍋が一つ置いてあった。
置いてある所は、確か、リビングに面したキッチンのカウンターだ。
よく見てみると、その鍋の下には何か黒いシートのようなものが引かれている。
なんだろう、あれ。
「ーーーーッ! あ、あれはッ 電磁調理器だ! 鍋を電磁調理器で加熱しているのかッ!? でも一体、何を暖めているんだ?」
ボコッ! ボコッ! ボコッ!
と更に膨れ上がる音が大きくなる。
そして次第に鍋から煙のようなものが立ち昇っていく。臭いはしないし、炎も出ていない。どうやら煙じゃあないようだ。
じゃあ、あれは何?
気が付くと、額にじっとりと汗をかいていた。いや、額だけではない。手や脇や、背中に足。全身の至るところに汗をかき始めている。
なんだか急にじっとりとしてきて気持ちが悪い──あっ!?
「まさかあれは、『水』を煮立てているのかッ!? 立ち昇るあの白いのは気体化した水──湯気!!」
でも、なんでこんなことをする必要があるの? 一体この行為に何の意味が……
疑問に思うのもつかの間、キッチンカウンターの表面が真っ白に曇り始めていることに気が付く。
空気中に溢れた水が冷えて結露し、付着した物体の表面で再び水へと戻りだしたのだろう。極々微小な水滴は肉眼では粒の区別が付かず、まるで白い布を被せられたかのように白く──
シュルリ、シュルル
その、白い表面を覆うようにして、あのテープがキッチンカウンターに貼り付いた。
「な、何ィーーーーーー!? こ、これはどういうことだッ!? このテープは何かを『閉じ込めて』それを固定する能力! そういう『ルール』の筈ッ! 無差別に貼り付いて固定できるような、そんな強力なものだったというのか!?」
「いや違うッ この『水滴』だ……これを表面に隙間なく付着させることによって『閉じ込めて』いるんだ。物体を薄い薄い水の『膜』の中にッ! ……ハッ!?」
よく見ると既にキッチンカウンターだけではない。周囲の壁、天井、冷蔵庫に電子レンジに流し台や食器棚。キッチンにある諸々がテープにより覆われ、封じられている。
そして次第に次第に、テープはこのリビングにまで広がり始めていた。湯気の広がりと共にこのテープはその領域を広げているのだ。
「クソッ! 外は雨ッ! だからこのおうちの中で発生した水は湿気として外へ抜けていく量よりも、内部へと籠っていく量の方が多くなっているんだ! ま、まずい……このままじゃあこのリビング全てが湯気とテープに『閉じ込められて』しまうッ!!!」
絶体絶命──誰が見てもそう答えるであろう超危機的状況。
そんな中にあたしはいる。その筈なのに、どうしてだかあたしは笑みを浮かべた。
でも決してこれは、自棄になった笑いでも嘲りの笑いでも、この危機的状況そのものを楽しんでいるような笑いじゃあない。
「この笑みはきっと、『楽しみへの予感』の笑み。この状況のお陰であたしは、これから直ぐに『あなたを見付けて友達になれる』って確信できたからね!!」
スタンド名:アローン・イン・ア・ルーム
本体:?
【破壊力 - E / スピード - E / 射程距離 - C / 持続力 - A / 精密動作性 - E / 成長性 - E】
箱状の本体から引き出されるテープを貼り付けることで空間を『密閉』することが出来る。
ただし空気だけは普段から通すようにしている。そうしないと、相手も自分も窒息してしまうからだ。
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デイ・トゥ・リメンバー その③
「際限なく拡散するテープッ! 湯気が付着し水滴となった箇所を覆いながら確実にあたしの方へと近付いて来ている! だけど、少し勝負を焦りすぎたみたいだね。これであたしはもう100%決定的にッ あなたを見付けられるようになったッ!」
鍋を起点として広がる湯気と、それを追うようにして這い広がっていくテープ。この無敵とも思える布陣であるが、その規模の大きさ故だろう。今まで気が付かなかったとある事実があたしの目の前に表れていた。
そう、これこそがあたしが笑みを浮かべた訳の一つ──
「あなたのテープは『一本』だけだッ! どれだけ沢山広がろうと! どれだけ遠くまで伸びて行こうとッ! 少なくとも今伸びているテープは一本だけなんだッ! それをあなたは図らずもあたしに教えてくれたみたいだねッ!」
キッチンを封鎖し、リビングへと広がりつつある湯気とテープ。しかし、湯気による水滴の付着の進行と比べて明らかに、テープによる封鎖の速度は追い付いていない。
キッチンカウンターに隣接するリビングの壁。その左右どちらも湯気による水滴に覆われているのに、テープの侵食が広がっているのはあたしから見て右側の壁だけであった。そして壁を這うようにして動くテープも、一つだけしか確認できない。
これがもし、複数のテープにより行われる封鎖であったならば、とっくにあたしのいるリビングの中央まで到達していただろう。しかし現状は、廊下へと続く扉を今やっと封鎖し終えたところであった。
「それはつまり、リビングの完全封鎖が完了するまでにはまだ時間があるということッ! そしてあたしは既にッ あなたの居場所の見当をつけているッ!!」
最初のきっかけは、不自然な場所に落ちていた「埃」であった。
丁寧に掃除されている部屋に落ちていた、ある筈のない埃。あの誠実そうな(実際そうなんだけど)イエイヌちゃんが、あんな大きな汚れを見逃してしまう可能性はまずあり得ない。ならば一体埃はどこから来たのか。
一つだけ思い当たる場所があった。
掃除する際に、簡単には取り除けず、それ故に一番埃が溜まりやすくなってしまう場所。この部屋に実は沢山あった、そんな条件を満たす場所。
それは──
「家具と壁の隙間、あるいは家具と家具の隙間! あなたはそこに隠れ、移動していたんだッ!」
普通はありえない、ブッ飛んだ発想。だけどイエイヌちゃんから聞いていた「フレンズは元の動物としての特技を残したまま人の姿を持てる」という情報が頭の隅に浮かんだからこそ、あたしはこの可能性に至ったのだ。
元の動物がとても小さな、隠れるのがとても得意な子だったならば、フレンズになってもその特技を強化して有しているのではないかと。それこそ、ほんの数センチ程の隙間を移動できてしまう程に。
しかしこれは同時に、あたしにとって非常に不都合な事実でもあった。あたしの腕力では重い家具を動かしてその隙間に隠れているこの子を見付けることは出来ないのだ。全力で力を込めてやっと少し引き摺ったところで、既にこの子は別の場所へ移動してしまうし、あたし自身がテープに絡め取られるのがオチである。
正直、当初の状態のまま持久戦を続けられていたらあたしに勝ち目は無かっただろう。
そう、当初の状態のままだったならば──これが笑みの、最後の理由。
「けれど、今は違う。あなたがテープを部屋中に広げて真っ先に、あたしの逃げ道を封じてくれたから。このリビングとキッチンを、奥の部屋へと続く廊下から『隔離』してくれたから、イエイヌちゃんの安全が確保されたから、あたしは思う存分『奥の手』を使えるよ。まぁ部屋は滅茶苦茶になっちゃうんだけど……」
バットの件は未遂で済んだけれど、これは確実にイエイヌちゃんの逆鱗に触れてしまうだろう。もしかしたら、本気で嫌われてしまうかもしれない。
「その時は本気で謝らなきゃね。そして、あなたにもお部屋の片付けを手伝ってもらうよっ!!」
「『デイ・トゥ・リメンバー』は既に、仕上がっているッ!!! あなたが水をゆっくりと『忍び寄るように静かに』使うというんなら、あたしはもっとド派手に使わせてもらうよ!!!」
ページが光ったと同時に、リビングの壁という壁から水が勢いよく溢れ出した。鍋からの湯気とは比較にならないレベルで部屋はあっという間に水浸しになっていく。
そして、壁と家具に挟まれ圧縮を受けた水は、その隙間という隙間から噴水の如く水を吹き出して隙間を徹底的に洗い流し始めた。
──あたしが描いたのはこのおうちのリビングの光景。ただし、流れるプールのように水が壁から流れ出しているという粋な創意工夫が施されている意欲作だ。
「うーん……描いてる分には楽しいんだけど、いざそれが現実になっちゃうと結構怖いね。このスケッチブック、使う時は気を付けないと……」
あたしは足とスケッチブックが濡れないようにテーブルの上へと避難して、膝を抱えながらことの成り行きを見守ることにした。
「きゃあああああああぁぁぁ────ッ!!!」
やがて悲鳴と共に、水の流れが集まる部屋の中央、つまりあたしの目の前に一人の女の子が仰向けの姿勢で流されてきた。やっぱり、どこかの隙間から洗い流されて来たんだろう。
「初めまして……ようやく会えたね」
うん、この子にもしっぽが付いているし、予想通りフレンズさんなのには間違いないみたい。でもイエイヌちゃんのとはしっぽの質感も違うしお耳もついていない。
身長は、多分あたしより少し小さいくらいなのかな? 殆んど変わらないくらいだと思う。
ずぶ濡れになった彼女の衣服は、半袖のカッターシャツと長いでも短いでもない普通くらいの丈のスカートと合わせて、純朴な女学生のような印象を受ける。ただ、シャツの上に羽織ったフード付きのマントのようなものがとても印象的だ。薄いクリーム色のシャツに対して、スカートとマントはやや濃い砂色で迷彩柄の模様が織り込まれている。蝶々のデザインが入ったネクタイもとっても可愛らしい。
でも一番目を引いたのはそのフードに何やら目のようなものが付いていたことだ。
イエイヌちゃんに犬のお耳が付いていたように、この子のこの目も元になった動物の姿を幾らか反映した故のものなのだろうか?
「というか、さっきからぴくりともしないけど、大丈夫かな……? まさか流される途中で頭を打っちゃったとか!?」
怪我を確認しようにも、彼女はフードを目深に被っていて頭の状態どころかお顔もよく窺えない。仕方がないので、フードを脱がして確認させて貰うしかなさそうだ。
テーブルから降りて彼女の側に駆け寄る。壁の滝は落ち着いたものの、まだ具現化した水までは消えておらず、ぴちゃりと足の裏に冷たい感覚が走った。
床には水が溜まっている。ほんの数センチ程の水溜まりだとしても、このままだと溺れちゃうかもしれない。早いとこ介抱してあげないとね。事情を聞くのはそれからにしよう。
彼女のフードに手を掛け、頭の怪我の様子を探ろうとする。
──瞬間
彼女のフードについている大きな目のような模様。フードへと視線を向けた際にちらりと見えたその模様は、ぎょろりと瞳を動かしてあたしの方へと向け、ぱちりと瞬きをした。
目が合う。
ぱしゃり
あたしの一瞬の隙を見逃さず、彼女のしっぽが水を撥ね飛ばし、あたしは思わず手でそれを防いだ。防いだ右手が水を浴びて濡れている。
いや、水だけではない。あたしの右手に、あのテープが巻き付いている。
そのテープは、目の前の少女の手の中から伸びていた。
そして彼女はテープを強く、握り締める。
「……え? し、しまったッ! うわぁッ!?」
そのまま勢いよく床へと引き倒され全身に水を浴びる。
右手に巻き付いたテープはあたしの全身が濡れるのと同時に、あっという間にあたしの全身をぐるぐる巻きにしてしまう。体は指一本どころか、瞬きする力すら受け付けず、完全に固定されてしまったのだ。
「……確かに、広い部屋を覆おうとすると遅くなるってのは弱点だと言えるよね。わたしの『アローン・イン・ア・ルーム』は元々パワフルなタイプのスタンドじゃあないから、それだけのパワーを出す分には、どうしてもスピードを犠牲にしなくちゃいけないもの。まさか閉じ込める力の方を甘くする訳にもいかないしね」
あたしの目の前で倒れていた少女はゆっくりと上体を起こして立ち上がる。
その手にはあのテープ、そして、何か四角形の箱のようなものが握られていた。どうやらテープはあの箱の中から引き出されていたということらしい。
あの箱とテープがこの子のスタンド? と言う能力なのだろうか。
あたしの不思議なスケッチブックも、もしかして同じようなものなの?
少女はそのまま、今度は逆に床に倒れているあたしを見下ろしながら語りかける。
「でも、そんなの最初から知ってたよ。自分自身のスタンドのことなんだから、知ってない方がおかしいよね。それでも敢えて部屋を覆う手段を取ったのは、あなたのスタンドにまさかあの状況を切り抜けられる程の力があるとは思わなかったからだよ。今みたいに、面と向かって直で巻き付けてればすぐに済んだことなんだけど、用心して姿を見せないようにあの方法を選んだ。でも失敗だったな……せっかく雨に濡れないようにと努力したのに、こんなずぶ濡れになるなんて……それに結局は見付かっちゃたし……」
「わたしっていつもそう……何をするにしてもいつもろくでもない結果にばかりなっちゃう……。今回のことだって、ただ間借りするのに良さそうな棲み家の下見に来ただけだったのに……こんな大事をしでかしてしまうなんて……」
「やっぱりもっと用心しとかなきゃいかなかったんだ……そうしておけば、この人たちにも迷惑なんか掛けずに済んだのに……わたしが用心をしていれば……」
段々と少女の声が涙声になっていく。
どうやらこの子は、とても用心深い性格をしているようだ。しかしあまりにもそれが行き過ぎて、脅迫的になってしまっているらしい。
そうだ、そもそも倒れたイエイヌちゃんを奥の部屋のベッドに運んだり、口をテープに塞がれている今のあたしが呼吸出来ていることからしてそうなのだ。
この子は元から、誰も本気で傷付けようとはしていなかったのではないのか?
本当はこんな手荒な手段なんて取りたくはなかったのではないのか?
それなのに、どんどん自分から自分を追い詰めていってしまったのではないのか?
──あなたは、ただ、怖かっただけなんじゃないのかな?
彼女にそう問い掛けようとするも、テープで塞がれた口は息こそできるけれど言葉までは発することはできない。なんとか力を込めて口元のテープだけでもずらそうとしたものの、全く叶わなかった。
「むぐぐ! うむーッ!!!」
「あぁ、心配しなくても大丈夫。もう雨も止む頃だろうし、このまま奥の部屋にいるイヌ科のお友達の所に運んであげる。わたしがここから出ていけばそのテープも解除されるから。安心して、もう乱暴なことは絶対にしないから……」
違う! そうじゃない!
今ここでこの子とお話し出来なかったなら、彼女はもう二度とあたしの前に姿を見せることは無いと確信できる。
それだけでなく、誰かを攻撃してしまったという負い目からますます彼女の不安は高まり、これまで以上に苦しむことになってしまうかもしれない。
今ここで、この子を行かせちゃダメなんだ!
「うごごごごご!! ふんが────ッ!!!」
「ダメだよそんなに暴れちゃ……! 一度固定されてしまったなら、わたしのスタンドの束縛からは決して逃れることはできないの。逆にあなたが怪我をしちゃうよ……!?」
彼女の言う通り、無理な姿勢で暴れまわった為に身体中に変な負荷がかかり軋むような痛みが走る。
それでもあたしは諦めたくなかった。この子とどうにかしてお友達になることを。
というよりも、この子の悲しみをここで見て見ぬふりをすることを、あたしはしたくなかったんだ。
「むぐぅあ────ッ!!!!!」
渾身の力を込めて身体をバタつかせる。実際にはテープに固定されているので、僅かに床の上を転がる程度の力しか出せていないだろう。残りの力の殆んどはテープの内側にいるあたしの方へと痛みとして返ってくる。
全身の関節が、骨が悲鳴を上げる。筋肉にビリビリと電流でも流されているかのような刺激が起こる。
痛い。とても痛い。
でも、あたしにとってはこんな身体の痛みよりも、目の前で悲しんでいる女の子になにもしてあげられないことの方がずっと苦しい。
だから、これから行うことに一つも後悔なんてない。
覚悟はもう、出来ている。
「ぬぅぅぅ、うっがぁぁぁ────ッ!!!!!」
身体がバラバラになるんじゃあないかって思うくらいの激痛と引き換えに、あたしは漸く動くことが出来た。
床を転がり、水を掻き分け、すぐ側のテーブルの足へと思い切り激突する。
ドシン!
その衝撃はテーブルへと伝わる正の方向だけではない。あたしへと伝わる筈の反動も、テープに覆われている故に更にテーブルへと跳ね返される。
テーブルの足は本来ありえない「二重の衝突」を受けて大きく揺らいだ。接地面となっている床が水に濡れ滑りやすくなっていたことも、それに拍車を掛けたのだろう。
その揺れにより、上に置かれていたあのスケッチブックがテーブルの縁へと揺り動かされる。半分はテーブルの上に、そしてもう半分は支えのない空中へと浮かんでいる。
「ぐふっ……!」
けれどあたしの方も無事ではなかった。激突の衝撃はテープによりテーブルへと受け流されたものの、その内側、体内で起こったエネルギーも代わりに外へ放出されずに身体の中を縦横無尽に駆け巡り筋肉や内臓にダメージを与えるのだ。
喉の奥から鈍い鉄の味が広がってくる。
「止めてッ! そんなに暴れてしまったらあなたの身体が持たないッ! 箱に入れた豆腐みたいに中身がぐちゃぐちゃになって潰れてしまうッ! 今すぐテープを剥がしてあげるから大人しくしてぇ────ッ!!!」
少女が血相を変えてあたしへと向かってくる。いや、そうに違いないだろう。相変わらずフードを深く被っているから表情は分からないのだけれども、この子は優しい子だから、今のあたしの行動に危険を感じて必死に止めようとしてくれているのだ。
──やっぱりあなたは、悪い子なんかじゃあないよ。
だからこそあたしも、あなたの優しさに報いないといけないね。
ドシン!
もう一度、ありったけの力を込めてあたしはテーブルの足へと身体を叩き付けた。
更にテーブルは大きく揺らぎ、上に置かれていたものは次々と床の上へと落ちて行く。水に浸った床の上へと。
「うぐ……ぉぇ……」
口からつうと一筋の液体が伝い落ちる。
血だ。
今のでどこか内臓が傷付いてしまったのだろうか。
でも、それはどうでもいいことだ。
口から流れた血は
「どうにか……うまく……いったみたいだね…………」
「な、なんで……! わたしのテープがいきなり消えたッ!? い、いや、それだけじゃあないッ わたしの服が乾いているッ! 部屋中の水が無くなっているッ!!」
「あたしのスケッチブックに描かれた絵は紙を飛び出して現実になる……スケッチブックにそういうことが出来る力が宿っているからなんだろう。それが、あたしの能力……」
「ゲホッ…… なら、そのスケッチブックが『無くなってしまった』なら……スケッチブックとして使えなくなってしまったのなら、その力はきっと失われるはずだと思った……」
「この部屋に溢れる水、あたしを覆っている水も共に消滅するはず……成功するかは分からない、一か八かよりも断然分の悪い賭けだったけどね……」
倒れたまま状況を語るあたしの側には、水に濡れて変形してしまったスケッチブックが落ちている。
多分もう、絵を描くことはできないくらいに紙が痛んでしまったに違いない。
「……スタンドへのダメージはそのままあなたへのダメージとして跳ね返ってくる。既に少なくないダメージを受けている上に、そんなにスタンドがボロボロになってしまったのなら、結局もうあなたは動けないよ…… どうして、どうしてこんな……」
「……ちゃった……からね……」
「え?」
「濡れるのが苦手なあなたを、あたしがお話がしたいからって理由でずぶ濡れにしちゃったからね…… ごめんね、寒かったでしょ?」
「あ、謝るのはわたしの方じゃないの!? そもそも、わたしがこんなことしなければッ! わたしさえ、ここに来なければッ!」
「こんなに弱くて臆病なわたしなんか、いなければ……」
最後は消え入るように呟き、彼女はその場に膝をついて押し黙ってしまった。
顔を隠したフードの中から、涙が次々と溢れ落ちてくる。
ああ、この子も、自分を許せなかったんだなぁ。
さっきのあたしと、おんなじじゃない。
「ねぇ、あなたが言う『弱さ』や『臆病』って、本当に、駄目なことだけなのかな?」
──なら、あたし自身、どうしてほしいか知っているはずだよね。
「あなたは今はフレンズだけど、元々は動物さんだったんだよね? きっと、あなたの『弱さ』も『臆病』も、その頃から持っていたものだと思うの。そしてそれは、あなたが今ここに生きていることを一番助けてくれた、生まれもっての『贈り物』なんじゃあないのかな?」
「この世界に生きるいのちは、ほんとうに、あたしが知りきれないくらいに沢山の形がある。そのそれぞれが、それぞれに合った『生き方』に則って生きている。その生き方は、前に生きていたいのちから受け継がれてきた生きる為の『知恵』であり『贈り物』なの」
「その『贈り物』があったからこそ、あなたはここまで生きてくることが出来たんだよ。確かに動物からフレンズになった今、それがあなたを不安にさせ、負担となってしまっているのは事実。でも、元々は『生きる為のもの』なんだもん。きっと、あなたがフレンズとして幸せに生きていくことにも役立てられるはずだよ」
「あなた一人じゃ見付けられないのなら、あたしも一緒にあなたの『弱さ』と『臆病』の良いところを見付けてあげる。それも不安なら、それが役に立つところを作ってあげる。だからさ、あたしと友達になろうよ?」
ボロボロの身体をゆっくりと、相手に心配を掛けないように無理をせず起こす。
口元の血を拭う。新たに流れてくることはない。どうやら、そんなに大きい傷じゃあないらしい。
泣きじゃくっている女の子の目の前に、あたしも座り込む。正直立っていられないくらいにフラフラなのもあるけれど、泣いている子には、こちらも視線を合わせてあげるものなのだ。
「どうして、どうしてあなたは……そんなに優しいの? あなたとあなたのお友達を攻撃したわたしに、なんで優しくしてくれるの……?」
「正直に言うとあたしは、あたし自身のことが全然分からない。というよりは、覚えてないんだよね。長い間ずっと眠っていて、ついさっき目覚めたばかりなんだ。自分の名前すら分からない。あたしがこうしているのも、目覚めてから初めて出会ったあの子にしてもらったことを、そのままあなたにしているだけなんだよ」
「あたしにとってその優しさは、何よりも暖かくて嬉しくて、安心させてくれるものだった。なんにもない空っぽなあたしを『ここにいてもいいんだよ』って認めてくれている気がしたから。あたしは、あたしを救ってくれたその子と、そしてこのジャパリパークが持つ優しさに報いたいって思う。だから、どんなに困難で不可能に思える状況でも、あたしもみんなも幸せになれるような道を進んで行きたい。そんな『誇り高い優しさ』を絶対に正しいことだって信じたいから」
「それにあなたも、あたしと同じだって感じた。自分が嫌で、怖くて、ここにいる価値なんてないんじゃあないかって、苦しんでるって伝わってきた。そう思うと、なんだかほっとけなくなっちゃったんだよね」
あたしはゆっくりと、女の子が被っているフードに手を掛ける。
彼女も、もうそれに抵抗するようなことはなかった。
そのままフードを外すと、涙で顔がぐしゃぐしゃになった、それでもとっても可愛らしいって分かる美少女さんが現れる。どことなく薄幸そうな印象を受けるけれども、その分笑ったらとんでもなくイイんだろうな。うん。
明るい砂色をしたさらさらの髪の毛は、少し肩にかかるくらいの長さでまとまっている。色々とお洒落ができそうな、シンプルで良い髪型だ。
でもまずは、一番大切なことをしてあげないとね。
「あたしのハンカチでお顔を拭いてあげるね。泣いてちゃあせっかくの美人さんが台無しだよ?」
バッグの中に入っていた白いハンカチ。小さな花の刺繍が入ったこのハンカチは、きっとかつてのあたしが使っていたものなんだろう。
そのハンカチで優しく、彼女の涙を拭う。
「……ありがとう」
「えへへ、どういたしまして。そういえば、まだあなたのお名前を聞いてなかったね。あなたは、なんていうフレンズさんなの?」
「ヤモリ……ニホンヤモリ……小さくて臆病で、隠れることに定評がある爬虫類よ」
「よろしくね! ニホンヤモリちゃん!」
グゥ────ゥ!!
その挨拶と合わせるようにあたしのお腹が鳴る。
そういえば、お腹が空いていたことをすっかり忘れていた。
ものすごく恥ずかしくなってしまったけれど、その音を聞いたニホンヤモリちゃんがちょっぴり微笑んだのを見れたので、まぁ、良しとしよう。
爬虫綱有鱗目ヤモリ科ヤモリ属
ニホンヤモリ
全長は10~15cm程。扁平な体により壁の隙間等の狭い場所にも潜りこむことができる。
発達した趾下薄板(ミクロ・マイクロサイズの非常に細かい毛の集まりを持つ器官)による表面張力を利用し、ガラスの壁や天井にも張り付くことができる。
人が造る建物の周辺に多く生息しており、かつてパークに住んでいたヒトの近くで暮らしていた野生の個体の子孫がフレンズ化した。
性格は臆病で自分よりも大きな生物に対しては積極的に関わろうとしない。しかし、追い詰められると噛みつく等の抵抗は見せる。
フレンズとしての彼女は精神的ストレスによりこの性質が暴発してしまった故に今回の騒動に至る。
最近、不思議な力に目覚めたらしい。
好物は蛾。そして生食派。
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