これTS? 憑依? (am56x)
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第一章
T/A01:思い出した過去の自分は超絶カッコよかったのでした。


 

 私は生まれてから何とも言えない違和感を覚えていた。今の体がまるで自分自身の体ではないような感覚が常に付き纏っていた。

 

 どうしようもない不安は、私を泣き虫にさせた。言葉も喋る事の出来ない赤子の頃から私は他の赤子よりもよく泣き、母や父の胸の中にしがみついた。

 

 他の子より少しばかし遅く言葉を覚え、拙いながらも感情を他人へ伝えられるようになると私は盛んに両親へ尋ねるようになった。

 

「ねえ、私は私なの?」

 

 私がこの質問をする時の表情は、とても見ていられなかったと母は言う。思い返してみれば、私がこの質問を尋ねた時、決まって両親は断言してくれた。

 

「大丈夫。あなたはフィエーナ。私の愛しい娘よ」

「心配するな。フィエーナは俺の大切な子供さ」

 

 何度も何度も私が同じ質問を繰り返しても、両親は決して面倒くさがらず真正面から私の感情を受け止めてくれた。包み込むような愛情を前に、私は言いようもない不安から逃れることが出来たのだった。

 

 それでも時折無性に不安になって、ただただ涙が止まらなくなることがあった。だから私は頻繁にしくしくと泣き出す泣き虫で、通っていた幼稚園ではよくからかわれ、よく守られる弱虫な女の子だった。

 

 そんな私がようやく自分自身を襲う謎の違和感に答えを見出したのは、ついこの間のことだ。

 

 その日、赤子の頃には摩訶不思議な言語を話していたと母は笑いながら言い、録画した映像を見せてくれたことがあった。その時私の口から流れ出る言語は確かに、この国の言葉には似ても似つかなかった。だが、私にはそれの意味がおぼろげに理解出来てしまった。

 

 以来、私の中には私ではないもう一人の自分が巣食っている。この現代社会とは似ても似つかないファンタジックな世界の記憶だ。

 

 そこで私は人の背丈に迫る巨大な大剣を操り、奇怪な化け物と戦いを繰り広げていた。ヴェイルという名の青年で、オストブルクという都市で高名な探索者として活躍しているのだ。

 

 ヴェイルとしての記憶は、一度思い出してから加速度的に増殖していった。

 

 幼少から探索者という存在に憧れを抱き、抱いた理想を元にした馬鹿げた努力だけでその資格を手に入れた若き思い出。食い扶持の少ない農民だったにも関わらず両親は俺を責め立てることなく、応援してくれた。

 

 探索者になったばかりなのに、思い上がり死に瀕した黒歴史。そして死の間際を救ってくれたばかりか修業を付けてくれるようになった師匠との修業の日々。

 

 独り立ちした頃に出会ったハリアやヨーキといった仲間たちとの日常。

 

 復活した魔王との戦い。味方としてついた魔導者カディア。ああ……そうだ、俺はカディアとともに最後の魔王と共倒れになったのだ。

 

 

 

 頭の中に大量の記憶が増えた反動なのか、その後しばらく私は寝込んだ。体だけは健康優良児だった私が突然熱を出し倒れたので、いつもより周囲から優しくされる気がする。珍しく病院にまで連れ出されたが、大した事はないそうだ。私としてもちょっとだるいだけで辛かったり、苦しかったりはしない。

 

 明るい時間なのにベッドでゆっくり出来るなんて不思議な気分だ。吹き付ける風が窓を叩き、遠くから迫る車が再び遠ざかっていき、少し空いた扉の向こうでは階下で家事をする母の生活音が耳に届く。何だかいつもより音に意識がいく。それは新しく頭の中にある“過去”の日常の音とは性質が異なるからだろうか。特に記憶にある自分自身の終わりは苦しく心が重たくなってしまうようなものばっかりだ。

 

 私は頭の中でゆっくりとスイッチを切り替えていく。実際にスイッチがある訳じゃないけれど、そんな感覚で私はヴェイルの記憶に繋がることが出来た。

 

 ヴェイルとしての記憶を見ていると、涙が目に溜まってくる。私が今まで見聞きしたどんなお話よりもリアルで、もの悲しい最後だった。魔王は倒してもヴェイルはハッピーエンドで幸せにはなれない。仲間を生かして“私”は死んだ。

 

いきなり増えた記憶に思いを馳せ、天井をただ見つめながらボケっとしていると、玄関が開いて五歳上のベーセル兄のただいまの声が響いてきた。

 

 もうベーセル兄が学校から戻って来る時間になっていたのか。枕に沈んだ顔を動かし壁に掛けられた時計を覗くと、とっくに四時を指し示していた。

 

「調子はどう? フィエーナ」

「ベーセル兄、おかえりなさい」

 

 私と瓜二つの白銀の頭頂部がひょっこり扉の間から現れる。いつも私と遊んでくれるベーセル兄は、私が倒れ込んでからというものいつも以上に気遣ってくれる。ベーセル兄の顔を見たら、先程までのもの悲しい思いは消し飛んで喜びが湧き上がって来て笑顔になってしまう。

 

「ただいま。その分だと、元気になったみたいだね」

「うん」

 

 ほっとしたように笑みを見せたベーセル兄は、ベッドに腰掛けて未だ横になっている私の頭をそっと撫でた。いつもより丁寧で優しいような気がする。

 

「僕が学校に行ってからずっと寝ていたの?」

「ううん、お昼に一回起きたよ。お母さんがここまでご飯持ってきてくれた」

「そっか。まだ眠いの?」

「うーん……」

 

 ちょっと考えたけれど、もうこれ以上横になるのはいいや。逆に体がむずむずしてきてしまいそうだ。

 

「起きる。お腹空いた」

 

 母は病気の身と考えてお昼を少な目にしたので、今日はちゃんと食べていないのだ。起きて頭が覚醒してくると、お腹が自己主張をし出した。小さくお腹の音が鳴ると、ベーセル兄は軽く笑いながらこっちへ手を伸ばす。

 

「おやつ食べてないもんね。一緒に食べよう?」

「うん!」

 

 ベッドから手を差し出した私の手を取り、ベーセル兄は引っ張って持ち上げてくれる。手を繋いだまま一階に降りると、今まさに母がフライパンでパンケーキを作っているところだった。

 

「あら、フィエーナも起きたみたいね。起きて平気なの?」

「うん、もう平気」

「そう、パンケーキは食べる?」

 

 空腹の私に、パンケーキの焼きあがる香ばしい匂いが漂ってくる。ケーキに入っているスライスしたリンゴも加熱されて甘酸っぱい匂いを届けて来る。こんなの、我慢出来る訳がない。

 

「食べる!」

「ふふっ、すっかり元気になったみたいね。ベーセルと一緒に食器の準備頼めるかしら」

「任せて!」

「じゃあフィエーナはテーブルを拭いてて。僕がお皿を取って来る」

 

 背の低い私に変わってベーセル兄が食器棚から平皿を持ってくる間に私は濡らした布巾を持ってきて、テーブルがけをする。こまめに掃除をする母のおかげで布巾に汚れが付くようなことはなかった。

 

「フィエーナありがとね」

 

 ベーセル兄はいいことをするといつも褒めてくれる。今もまた私の頭を撫でてくれた。

 

「ねえ、全然汚れなかったよ」

「そうだね、お母さんがいつも掃除してくれるおかげだね」

 

ベーセル兄がフォークとナイフを並べている間に、母はお皿に乗っけたパンケーキを一枚運んでくる。

 

「焼きあがったわよー」

「あ、残りは僕が運ぶね」

「ありがとう、ベーセルは優しいわね」

 

 待ってました! 母お手製のリンゴのパンケーキが三枚テーブルに並んだ。ハチミツもたっぷりかかっている。フォークやナイフなんて使わずにかぶりついてしまいたい。でもそんな真似をしたら、はしたないとパンケーキを取り上げられてしまうだろう。

 

「今お茶を淹れるから、先に食べてていいわよ」

 

 私は大人の理性で以て、椅子に座りパンケーキをナイフで切り分け口に運んだ。美味しい! 夢中になってパンケーキを運んでいるとあっという間にパンケーキは皿の上から消滅してしまった。

 

「ああもう、フィエーナは早食いだなあ。口がハチミツでべとべとだよ」

 

 仕方がないなあと苦笑いしながらベーセル兄は私の口元を拭いてくれる。私はお礼を言う余裕もなく、未だベーセル兄の正面に残存しているパンケーキへ視線が釘付けになっていた。

 

「お母さんは夕食前だって言うから、一口だけね」

 

 わざと大きめに切り取られたパンケーキはちょうど私の口を一杯にする大きさになっていた。母が背を向けお茶を淹れる僅かな間に、ベーセル兄のパンケーキは私の口内へと移される。頬を膨らませながら、私は最後の一口を一生懸命に咀嚼する。

 

「あら? フィエーナのほっぺが随分おっきくなってるわねー?」

 

 ニコニコと母は私の頬をつついてくる。その目は私の頬とベーセル兄の残り少ないパンケーキを往ったり来たりしていた。

 

「あんまり慌てて喉つまらせちゃ駄目よ?」

 

 母は私の頭を撫でた後、席についてお茶に口を付けた。

 

 

 

 母が夕食の準備を始め、ベーセル兄が勉強で自室に行ってしまうと私はリビングで一人になってしまった。

 

 時計は八時を指そうとしている中、窓からは仄暗く青い空が見える。目の前で喧しく騒音を立てるテレビは目に入らず、私の目はゆっくりと暗くなっていく空に向いていた。

 

 一人になり、唯一変わらない色をしている空を見ていると過去の記憶が湧き上がって来る。数日前の私と今の私は決定的に変わってしまった。

 

 かつての私であるヴェイルはたくさんのやり残したことがあった。たった二十三年しか生きることが出来なかったのだ。碌に親へ恩を返すこともなく、師匠に報いる時間もなく、共に戦った仲間に疲れを労ってやる酒の一杯も奢れず世を去ってしまった。

 

 幸いこの世界は概ね平和で、命が脅かされる危機が目の前にあったりしない。目の前にあるテレビみたいに、かつての世界では見たこともないような機械に溢れる豊かな社会。

 

 かつて憧れに胸膨らませた、魔獣の脅威に神経を澄ましながらダンジョンを潜るような目標は見つけられていない。けれど、過去の私が今の私を見て恥じ入ることがないように生きていきたいと強く私は思った。今まで築き上げてきたヴェイルの偉業に今を生きている私が傷を付けてはいけないと、強く思ったのだ。

 

 テレビを消した私は決意を胸にキッチンへ駆ける。意気揚々と母の背目掛け突撃する。抱き付いた母の背中からは、料理の匂いと心落ち着く甘い匂いが僅かに漂ってきた。さあ、今こそ私の覚悟を見せる時だ。

 

「お母さん!」

「あらあら、急にどうしたの? もうすぐ出来るから待っててね」

「何か手伝う!」

「ありがとうフィエーナ。それじゃ……焦げないようこのお鍋かき混ぜててくれる?」

「分かった!」

 

 世界を救った英雄の魂を継いだ私は、意気揚々とお鍋をかき混ぜる。空腹を強調する芳香が鼻腔を刺激し、私の口内に唾が溜まっていく。初戦からしてここまでの強敵に相まみえた私は、まさしくヴェイルの後継者だった。

 

 



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T/A02:日本から遥々やってきた天河流剣術は超絶カッコよかったのでした。

 

 今日はこの街で毎年開催されるお祭りの日だ。夏季休暇真っ最中で暇を持て余している私と五歳上のベーセル兄は母と一緒に、近所で家族ぐるみの付き合いをしている友人一家と連れ立ってお祭りを楽しんでいた。

 

 普段は車輛が行きかう八車線の道路を、マスケット銃を持つ兵隊に仮装した隊列が行進していく。軍楽隊が陽気で勇壮なマーチを奏でる。現代の軍隊と違って赤と黒のコントラストが目に映える装飾品たっぷりの仮装市民の隊列が行進する姿は壮観だ。

 

 陸ばかりでなく空には空軍のアクロバット専門のジェット機が飛び回り、鮮やかな色のスモークを吐いて一層場を派手に飾り付けていった。

 

 一通りパレードを見終えた私たちはそばにある公園に移動する。サッカー場数個分にもなる広々とした公園は普段とても静かな場所だけれど、今日に限っては広場がたくさんの出店で埋まっていた。

 

「うわー! すっごーい! お店がたくさんある! フィエーナ、行こう行こう!」

「わわっ、ちょっとエリナ! いきなり走らないでっ!」

 

 私の手を引いて駆けだすのは赤子の頃からの友達であるエリナ。いつも私を引っ張ってくれる大切な友達だけど、それは物理的な意味を指している訳ではない。金色のポニーテイルを揺らして元気よく突き進むエリナの勢いに私は危うく転びそうになる。

 

「こら! こんなトコで迷子になったらどうすんの!」

 

 背後から伸びた手がエリナの頭をがしりと掴み、動きを強制停止させる。私が振り向くとエリナの姉であるしかめ面のミゼリア姉がこっちを睨んでいた。普段気だるげでおっとりとした端正な顔つきは、表情を険しくするとギャップからか私を委縮させてきた。かつての私なら慌てて視線を地面に伏せていたことだろう。

 

「もう! 髪が乱れる! 離してお姉ちゃん!」

「はあ? 勝手に走り出すエリナが悪いのよ」

 

 だけど、ヴェイルの記憶を徐々にすんなり参照できるようになってきた私は大人の目線で何故ミゼリア姉が怒っているのかの背景を読み取れる。口調はきついし、折角おしゃれしてきたエリナの髪を乱すのはいけないけれど、ミゼリア姉の主張自体は正しいのだ。

 

「まあまあ、二人とも喧嘩しないで」

 

 お互いが自分は正しいと思い、にらみ合う間にベーセル兄がニコニコと笑いながら仲裁に入る。

 

「はぐれたら危ないよってミゼリアは言いたかったんだよね。だからほら、手をつないで行こうか」

「うん!」

 

 ベーセル兄が醸し出すほんわかとした雰囲気に呑まれたからか、二人とも毒気を抜かれてしまい喧嘩は自然消滅した。私に負けず劣らずベーセル兄が好きなエリナは手を繋いで途端に機嫌がよくなった。

 

「何よもう……」

「ミゼリアがすぐに二人を止めてくれたおかげで助かったよ。ありがとうね」

 

 怒りの矛先を失ったミゼリア姉の顔を立てて感謝を述べるベーセル兄に、ミゼリア姉は頬を少し赤らめてそっぽを向く。まんざらでもなさそうで何よりだ。

 

 

 

 その後、出店で買い物をした後に近くに設営されたテーブル席で食事を取りながらみんなでのんびりしていると不意に体がビクっと震える。そこで私がトイレに行きたいと言ったら母はこの人混みで単独行動は危険と考えてベーセル兄を護衛役に任命した。

 

「フィエーナ? もうちょっと歩くからね」

「うん、急ごう!」

 

 今の私がかつての私より尿意に対して我慢が効かないのは気のせいだろうか。とにかく、お祭り中で並ぶトイレの列には冷や汗をかきつつ何とか私は間に合わせた。

 

「フィエーナ! 見て! 凄いよ!」

 

 私がトイレから出てくると、ベーセル兄は興奮したように私の手を取り広場の中央を指さす。気付くと周囲の人ごみも足を止め、広場中央へ目を惹きつけられていた。

 

 一体何だろうと目を向けると、広場の中央には東洋の衣服に身を包んだ厳つい顔つきの中年男性が一人、刀を持って演武を披露していた。

 

本物なんだろうか。髭面の中年男性は、玩具のように軽々と白銀に煌めく片刃剣を持ちながら動き回っている。この世界では肉体を強化する魔法もないだろうに、よく金属の塊をああも自在に振り回せるものだ。緩急の付いたきびきびとした所作は、人の身を芸術作品のようにすら思わせてくる。あんな綺麗な剣技、ヴェイルの頃にだって見たことがない。

 

「カッコいいなあ……僕もやってみようかなあ」

 

 運動よりも本の兄が珍しい。しかし、中年男性のむさ苦しさとは裏腹に流麗な動きの演武を見ていると心が躍る。気付けば私は目を凝らして技の数々に釘付けになってしまっていた。元探索者としての血が疼いてしまっていた。

 

ベーセル兄だけでなくこの場の観客を大いに沸かせた演武を披露した中年男性は、拍手と声援に包まれながら髭面を粗野だが人好きのする笑顔に変え、舞台裏に何か合図をする。すると、中年男性と似通った服装に身を包んだベーセル兄と同年代の男の子と笑顔が愛らしい着物姿の中年女性が立て看板を持って姿を現す。

 

「ロートキイル王国の皆さん! よければ是非うちの道場に来てください! 子供から大人までお待ちしております!」

 

 看板には丁寧に受講費や道具代の数字が並んでいる。勧誘する気満々だ。言いようのない誘惑が、気付けば私に看板の文字数字の羅列を追わせていた。

 

 

 

 その日の晩、夕食の席にてもじもじしていたベーセル兄はようやく口を開いた。

 

「ねえ、お母さん。あのね……」

 

 遠慮がちに今日見てきた東洋の剣術道場に入ってみたいと告げたベーセル兄へ母は嬉しそうに頷いて見せる。

 

「いいじゃない! 早速明日見学に行きましょう!」

「本当!?」

「うんうん、そうしましょう。でもその前にお父さんが帰ってきたらちゃんと相談するのよ?」

「うん! ありがとうお母さん!」

 

 他の同級生が大抵クラブに所属する中でベーセル兄は今まで読書に精を上げてきた。文字の羅列をあんなに楽しそうに読めるのはすごいと思うのだけれど、昔は母も、父は今でも時たまベーセル兄にクラブに入らないかと誘ってはベーセル兄の顔を引きつらせていたものだ。嫌がるベーセル兄を見て母は父を諌めるようになっていたけれども、子供が体を碌に動かさないのは思うところがあったらしい。

 

 私もベーセル兄は、もうちょっと運動して力を付けた方がいいと思っていたし、これはいい機会だろう。

 

「お母さん、私も入りたい」

「あら? フィエーナもなの? よっぽど魅力的だったみたいね」

 

 

 

 翌日、一か月の夏季休暇を手にして生き生きとしだした父も一緒に道場へ向かうこととなった。ベーセル兄が急かしたこともあって、私たちは朝から早速出発することになる。

 

「日本の剣術か。面白い物に興味を持ったな」

「昨日ショーで見て気に入ったみたいなの」

「あのね、凄いんだよ!」

 

 普段落ち着いた性格のベーセル兄にしては珍しくはしゃいだ様子で父へ昨日見た剣術へ身振り手振り交えながら話し出す。十分もかからない郊外の街道沿いの道場に付いた頃までベーセル兄はずっと興奮気味に剣術についてしゃべり続けていた。

 

「へえ、雰囲気あるなあ」

 

 閑散としている駐車場に車を停めた父は感心したように東洋風の建物を眺める。針葉樹林に囲まれた、四車線の街道から少し奥まった場所に建てられた道場と隣の日本家屋を見ていると、ここが欧州の地とはとても思えない。

 

「おや、どうかされましたか」

 

 少し訛ったロートキイル語を話す、東洋人の青年が道場からこちらに歩いてくる。何歳くらいだろう、二十歳くらいかな。

 

「やあ、実はウチの子が昨日のショーで剣術に興味を持ったみたいでね。見学しに来たんだ」

「そうでしたか。ではこちらへどうぞ」

 

 にこやかに案内を始める青年は目の下に濃い隈があり、少し疲弊しているようにも見えた。異国の地での苦労があるのだろうか。お互いに自己紹介を終え、靴を脱がされた私たちは道場内に入る。

 

『鳳二さーん! 見学希望者ですよ!』

『うおっ! 早速来たか!』

 

 道場には昨日広場で流麗な剣技を披露した髭面の中年男性が濡れ雑巾片手に立っていた。ヨシガミと名乗った青年に異国語で呼びかけられると人好きのしそうな豪放磊落な笑顔でこちらに近づいてくる。

 

「おはようみなさん! 私、この天河流剣術道場で師範をやっております林原鳳二と言います」

「おはようハヤシバラ。俺はベーレム・アルゲン。今日はよろしく頼むよ」

「では早速見学を……と言いたいのですが、実はまだ受講者が少なくてね。この時間だと誰もいないんですよ。代わりにちょっと剣術を体験していきませんか。実際にやってみた方がお子さんたちにもいいでしょう」

「そうか。ベーセルとフィエーナはやってみたい?」

 

 私とベーセル兄の返答はほぼ同時だった。

 

「やってみたい!」

「いい返事だ! じゃあ、子供用の道着があるから着替えてもらおうか」

 

 着せられたのは、道着と呼ばれる剣術のユニフォームのようなものだ。その後私とベーセル兄は稽古の始まりに必ずするという挨拶を習った後、木刀を渡された。

 

「天河流剣術は刀を使い戦うことを目的とする剣術。でも君たちにはまだ真剣は早いからね、こいつで刀の扱い方、刀を使った戦い方を覚えてもらうよ」

「待ってくれないかハヤシバラ。つまりウチの子らは人殺しの術を学ぶって事かい?」

「ベーレムさん。確かにある意味ではそうなりますが、それは本意ではない。少し長くなりますが、説明させてもらいましょう」

「頼むよ、納得できなければ今後来ることはないだろうね」

 

 父の目付きからして、あれは本気だ。母も今回は父と同意見のようで真摯な目付きをしながらハヤシバラの説明を受けている。けれど元探索者の私としては新しい武術の体得には心が躍るので、ハヤシバラには何とか両親を納得させてもらいたい。

 

 ハヤシバラの説明は慣れないロートキイル語のせいか何処か言い回しが迂遠に思われた。それでも私はハヤシバラの説明は、かつて私に修業を付けてくれた師匠を思い起こさせるものだった。師匠もまた、剣の技をただ強くあるためのものとはしていなかった。修行を通じ、私はただダンジョンを制覇する戦闘能力を培っただけでなく、過酷な状況にも折れない精神力や儚く散り行く人であるが故の理想的な生き様を学んだように思える。

 

「いや、恐れ入ったよハヤシバラ。高潔な理念が天河流には込められているんだな」

「分かってもらえ、何よりです」

「ウチの子に習わせるつもりだったが、私も学びたくなってきたよ」

「武芸の道はいつでも始められますよ」

 

 父もまたハヤシバラの説明に感銘を受けたようで、いつの間にか先に自分自身が剣術を学ぶことを決定してしまったようだった。

 

 

 




解説
ロートキイル王国
面積14万平方キロ。ドイツ・フランス間に位置する。
人口4000万人(2010)
GDP:1.4兆ドル。(2010)
貨幣:ロートキイル・マルク(1USドル=1.12RM)
宗教:カトリック系が六割
政治形態:立憲君主制
元首:カール7世 パルナクルス家
国際関係:NATO加盟国、EU非加盟、シェンゲン協定非加盟
・略史
WW2時ドイツの電撃的侵攻により敗戦。
1945年、国家再建。西側陣営。あからさまにドイツ方面へ戦力を展開。
冷戦期:NATO軍中部方面の要として6個師団を中核とする重機甲軍団を提供。ドイツ・イギリス・フランス・アメリカからの資金・技術提供を受け屈指の精鋭陸軍を構築する。
冷戦崩壊:軍を縮小し、志願制へ移行。近年はイラク戦争・アフガニスタン戦争に出兵。





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T/A03:日本からやってきた女の子は超絶美少女でした。

感想貰って嬉しかったので同日二連続初投稿です。


 

 

 

 

 学校が終わり、帰宅した私は早速道着に着替えてメッセンジャーバッグをたすき掛けにし自転車へ乗り込んだ。夏になり外の陽射しは強烈に照りつけてくる中、ベーセル兄を待っているとすぐに体中から汗が滲みだしてくる。自転車もガレージの外に置いていたらあっという間に人が乗れないほど熱がこもってしまっただろう。

 

「ベーセル兄、行こう」

「うん、林原先生が待ってる」

 

 今年で十八になったベーセル兄が先導し、私たちは道場へ向かって自転車を漕ぎ出した。道着姿で街中を走ると珍しいから、初めのうちはあちこちから好奇の目で見られた覚えがある。

 

しかし、何年も走っているとそういった人たちは私たちに笑顔で手を振ってくれるようになっていた。この格好のおかげで接点を持つはずのない人たちと知り合いになり、仲良くなれたのは剣術を始めた思わぬ幸運だった。

 

「今日も剣術かい?」

「ええ、ミレアさん。今日も明日も剣術です」

「ほっほ、精が出るねえ。また顔を出しにいらっしゃい」

「はい、また近いうちに!」

 

 本来は三十分もかからない道場への道が、いつの間にか四十分五十分と間延びするのはよくあることだ。ベーセル兄なんてしょっちゅう老若問わず女の人から声を掛けられ、デートの誘いを受けている。

 

「ベーセルさんこんにちは!」

「やあ、ユレゲア。また今度ね」

 

今もまたちょくちょく声を掛けて来る同年代の女の子を何とか振り切ったところだ。

 

 元々町外れにある住宅街を抜け、郊外の田畑の間にある自転車専用道路を進み、森林をきりひらいて出来た街道を少し進むと道場が見えて来る。そろそろ夏季休暇の始まる時期のせいで、今日は駐車場に十台ほど車が止まっていた。

 

 ここロートキイル王国は夏になると大人も子供も夏季休暇を取る。これは法律にも定められた義務で、王国民が有する権利だ。この時期になると駐車場に止まる車が増えてきて、ああもうすぐ夏季休暇なのだと感じられた。

 

「あれ、フィエーナ。吉上先生がいるよ」

 

 ベーセル兄の視線の先には、確かに吉上先生の姿があった。一時期は林原先生の手伝いとして数年ほどロートキイル王国に滞在していた吉上先生は、近年とんと姿を見せていなかった。何だか懐かしい気分になった私たちは、相好を崩して吉上先生の元に駆け寄る。

 

「吉上先生!」

「お久しぶりです! 吉上先生!」

「やあ、ベーセルにフィエーナじゃないか。日本語上手くなったね」

 

 私たちが声を掛けて振り向いた吉上先生の顔は、見てて心配になるほどやつれていた。これじゃ病人そのものじゃないか。

 

「あの……起きてて大丈夫なんですか?」

「心配してくれてありがとうねベーセル。ちょっと日本での仕事が忙しかったんだ。こっちに来たからには少しゆっくりするさ」

 

 それにしても、体を動かしていていいのか不安になるレベルにやつれている。街中歩いていたら救急車よばれかねないぞ。

 

「しばらく休養を取ってはどうです? その顔、幽霊かと思っちゃいましたよ」

「こら! フィエーナ!」

「あははは……こう見えても体は大丈夫なんだ。むしろ多少体動かしていないと落ち着かなくてね」

 

 この陽射しが強い夕方に、日射病で倒れやしないだろうか。気懸かりではあるけれど、本当に体調がボロボロの状態で無理するほど吉上先生は無茶する人ではない。

 

 一体何が彼をあそこまで追い込んだのか気になりつつも、私たちは別れを告げ道場へと入った。そこで私は新顔を見つける。ハッとするほど美しい顔つきの少女で、そこにいるだけで場の空気を華やかに彩るかのようだ。肩まで伸びた緩く内側に巻いている黒髪、凛とした碧い瞳、愛らしくも冷たい目筋、小さな唇、透き通るような肌。私もベーセル兄も思わず見惚れてしまい、お互いに顔を見合わせる。

 

「ベーセル兄、凄い綺麗な女の子だね」

「フィエーナと同じくらい綺麗な子を初めて見たかもしれない」

「妹びいきが過ぎない?」

「そんなことないって」

 

 しかし少し観察すると彼女からは精神的磨耗が感じ取れる。まるでダンジョンから溢れだした魔物に追われた避難民が見せたような、恐怖や疲弊による感情の磨耗。私と恐らく同年代に過ぎない少女が平和なロートキイルで見せるような表情ではない。

 

「分かる?」

「何か訳ありかもね」

 

 ヴェイルとしての記憶から察した私と同様にベーセル兄も少女の違和感に気が付いたらしい。流石ベーセル兄。

 

「やあ、陽人。新人さんかい」

「よう、ベーセル! それとフィエーナ」

 

 ベーセル兄が日本語で話しかけたのは林原先生の息子の林原陽人。大雑把で短気な奴だけれど、基本いい奴だ。でもベーセル兄と比べるととても同年代には思えないくらい子供なところがある。

 

「一ヶ宮遥です。しばらくここにお世話になります」

「僕はベーセル・アルゲン。よろしくね」

「フィエーナ・アルゲン。困ったら何でも言ってね」

 

 一ヶ宮遥は丁寧な所作でこちらにお辞儀をするけれど、まるで機械のように感情が感じられない。ベーセル兄が差し出した握手の手が、一ヶ宮遥の下げた頭の手前で虚しく空を切る。

 

「日本じゃお辞儀かもしれないけれど、ここじゃ挨拶の時に握手をするんだよ」

 

 握手をかわされて困ったように手を頭に持っていくベーセル兄を見かねて私が手を指し指すと、おずおずといった感じで一ヶ宮遥は手を伸ばした。これは単純に文化の違いで気が付かなかっただけらしい。落ち込まないでねベーセル兄。

 

 私が再トライしろと目で合図したベーセル兄と一ヶ宮遥が握手をしたところで、林原先生が道場にやってきた。打ち解けた空気が一気に引き締まり、道場内に緊張感が生まれる。

 

 受講生が集まり、先生へ始業の挨拶を終えると先生は一ヶ宮遥を隣へ呼び寄せ受講生一堂に紹介を始める。もちろんロートキイル語でなので、きっと一ヶ宮遥自身は何を言われているか分からないだろう。

 

「諸君、今日から我が家に居候となった一ヶ宮遥君だ。本日より彼女も加わることになるからよろしくやってほしい」

 

 今日いる受講生はほとんどが日本文化・武術に興味を持った壮年の男性が主で、十代の受講生は私とベーセル兄くらいだ。中にはお孫さんもいる世代も含まれているし、間違いが起こるとは思えない安心感がある。

 

 修行が始まってみると、一ヶ宮遥の動きは初心者同然だった。林原先生から手ほどきを受けて木刀を振るうけれど、年相応の少女らしい弱弱しさだ。

 

彼女は武術はおろかスポーツも趣味程度にしかやっていないのだろう。どういった心境で、海外に来てまで剣術を始めたいと思ったのだろうか。

 

 

 

 三時間ほどが経過して本日の修行は終了する。かつての師匠とやった修行では一日中剣を持っていたけれど、現代社会では時間がない。学生、サラリーマン、電気技師、市役所職員、警察官僚など受講生のみんなにはそれぞれの日常がある。

 

 私が貸与された日本刀を返却し、荷物を纏めて道場を出ると吉上先生に呼び止められる。

 

「ちょっといいかな」

「何ですか?」

「ついてきて」

 

 道場から少し離れ、森の中へ連れだされる。木々が重なり合って空を覆うと、まだまだ太陽が眩しい時間帯なのに仄暗く感じられる。ここら辺でいいかなと呟き、振り返った吉上先生の表情からは隠し切れない疲弊と悲しみを感じ取れた。

 

「遥のことはもう知っているよね」

「ええ」

「同年代のフィエーナに、彼女を気にかけてやってほしいんだ」

「何があったんですか」

「悪いけど僕の口からは言えない。ただ、辛い目に遭って今の彼女は傷ついている」

「今の吉上先生の体調と関係がありますか」

「……あるけど、とにかく彼女自身の口から聞いてくれないかい」

 

 私がそれ以上聞いても答えは帰ってこなかったし、ここまで疲れ切った人を質問攻めにしていいのかと気が引けてしまい私は口を噤んでしまった。

 

「それじゃあ、頼むよ」

「……分かりました」

「今日は何か疲れちゃったな。フィエーナの助言通り早めに休もうと思う」

 

 道場の傍まで私と一緒に歩いていた吉上先生は別れ際、心底疲れ切ったといった口調で一言呟いた後に離れていった。

 

 本当に吉上先生はどうしてしまったんだろう。私は吉上先生の背が日本家屋の中へ消えるまでジッと見つめ続けた。何だか目を離してはいけないような気がした。

 

吉上先生が玄関の戸を閉じるのを見届けたのと時を同じくして、道場から隣に併設された林原一家の住む家屋へ戻ろうとする一ヶ宮遥が目に入る。

 

 息が上がり、とぼとぼと歩く一ヶ宮遥の背はついさっき見届けた吉上先生にも劣らず哀愁に満ちていて、私は吉上先生の頼み云々を忘れて思わず駆け寄ってしまっていた。

 

「ねえ、遥」

「アルゲンさん?」

「ベーセル兄いるからそれじゃ区別付かないよ。フィエーナって呼んで?」

「フィエーナ……さん」

「遥も私と同じくらいの歳だよね? 今何歳なの?」

「十二歳」

「同い年だね! 学校は行くんでしょ? 何処に通うの?」

「アーミラー中等学校」

「一緒じゃない! じゃあ連絡先交換しておこうよ。携帯は持ってるよね」

 

 頷く遥にメモ帳から破った紙にメールアドレスを書きなぐって渡す。

 

「そこに返信ちょうだい。そしたらSNSに招待するから」

 

 もっと話を続けようとしたけれど、家の方から遥を呼ぶ声がする。林原先生の奥さんである幸恵さんのようだ。

 

「幸恵さんが呼んでるみたいだね。じゃ、連絡待ってるから」

 

 チラチラと私を振り返りながら家に入っていく遥へ私は手を振って笑顔で見送る。

 

「フィエーナ! 僕たちも帰ろう」

「うん!」

 

 帰宅した後、汗まみれの体をシャワーで洗い流してパジャマに着替えたところで私の携帯を見ると文面も何も書かれていないメールが届いていた。ついさっきメールが届いたようだった。

 

 

 



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T/A04:ヴェイルの過去の記憶はやっぱり超絶カッコよかったのでした。

 

 

 

 翌日、私は遥のことが気になり学校で留学生クラスに顔を出してみる。私の住むヴェルデ市はロートキイル王国のウィーネンナッハ経済都市圏内で一番日本人に住みよい環境が作られている関係上、日本人が比較的多い。クラスに一人か二人程度は日本人が混ざっているのが普通だった。

 

「あ、フィエーナちゃんだ」

 

 私のクラスの日本人と仲のいい里奈が私を見つけてやってくる。まだロートキイルに来て半年も経っていない里奈は、この留学生クラスで集中的にロートキイル語の勉強を受けている最中だった。だから時々私はSNSで、ロートキイル語で分からないところを質問されたりしていた。

 

「おはよう里奈。転校生っている?」

「いるよー、ほらあそこ」

 

 窓際の席に座り、心ここにあらずといった目付きで外を眺める遥。見た目がいいのでそれだけで絵になるけれど、あれじゃクラスで浮いてしまう。

 

「一ヶ宮さん、何か辛い目に遭ったのかな? 何かそんな感じがする」

 

 おや、里奈も気付いていたのか。あれだけ感情のない表情を見れば、案外みんな分かるのかもしれない。

 

「どうしてそう思ったの?」

「震災に遭った人が似たような顔してたんだ。そんな気がするだけなんだけど」

 

 そういえば日本は地震が多いのだったか。

 

「ほっとけない感じするよね。フィエーナちゃんも心配で見に来たの?」

「まあ、そんなところ」

 

 里奈と一緒に遥の座る席の隣に立つ。

 

「おはよう遥」

「あ…………おはよう、ございます」

 

 消え入りそうな声で挨拶を返す遥には生きる気力が感じられない。取り繕うように最後浮かべた笑顔が逆に痛々しかった。何があったから知らないから断言はできないけれど、これはゆっくり心の傷を治す必要がありそうだ。

 

 私は予備の折り畳み椅子を教室の隅から引っ張り出して遥の隣に座った。

 

「おーいフィエーナちゃーん。ここ違うクラスだぞー?」

 

 困惑する里奈にはサムズアップを返しておく。任せて里奈。私にはヴェイルの記憶があるから。

 

「あの……フィエーナさん?」

 

 戸惑う遥にもサムズアップを返す。私は口が上手い訳でもカウンセラーの資格もない。だけど避難して疲れた子供たちは、一緒にいて笑い返してやるだけで次第に感情を取り戻していった。理屈はよく分からないけれど、一緒にいて安心感を常に与え続けるのがいいのだと思う。

 

 という訳で私は笑顔でじっと遥を見つめ続けることにした。それだけじゃあんまりなのでどうでもいいような世間話を一方的に私がしゃべり続ける。努めて暗い話題は避けて、遥の表情に注視して会話を続ける。

 

 そうして観察していると家族関係の話になると動揺するのが分かったので話題から外す。途中から里奈も加わり、無駄話を続けているとすぐに授業時間になってしまった。

 

「また来るよ遥!」

 

 

 

 それ以来、私は専ら遥の元に通い続けていた。クラスメイトからは恋人だなんだとからかわれたけれど適当にあしらい、一緒に居続ける。下校の際には一緒に道場に行ってそのまま修行に入った。

 

 私が話をしている間、遥の表情が少し穏やかになっている気がするのだ。無表情の仮面の向こうに隠された苦痛を癒してやれるのならばと、私は話し続けた。

 

 ただ、話すネタが枯渇しつつあった。なので、私はヴェイルの記憶をさも自分が考えた仮想の物語のように話してみた。

 

「あるところにね、ヴェイルっていう男の子がいたんだ。その子は魔物が巣食うダンジョンを探検することを夢にしていたの」

 

 今思えば、無謀極まりない。ただの一農家の次男坊が抱く夢じゃない。けれど、英雄物語に出て来るダンジョンは当時の男の子にとって未知が詰まった空想の的になっていたのは確かだ。

 

 憧れだけで村の大人たち顔負けの剣の腕を身に着けたヴェイルは、道中出会った夜盗も苦も無く撃退する。そしてその野党たちは探索者たちも恐れる高名な野党集団だったこともヴェイルの自信を悪い方向に向かわせた。

 

 夜盗を壊滅させた功績を引っ提げ探索者に登録されたヴェイルは単身でありながらダンジョンを次々に踏破していく。苦戦なんてしなかった。だって俺には滅魔の力があったから。触れただけで魔物を紙のように斬り裂く唯一無二の力。むしろ魔物でない防具を着こんだ夜盗の方が斬るのに苦労したほどだ。

 

 そう、二十階層までは苦も無く踏破できたのだ。もうこの頃の俺は完全に慢心していた。僅か十五歳の若造がベテラン探索者でないと足を踏み入れることの出来ない領域に易々と到達したのだから、無理もない。

 

 けれど三十階層から一気に敵が強くなり、苦戦するようになった。その頃俺は周囲からも期待の新星と持ち上げられ、嫉妬の目線も向けられ、苦戦した事実を認められなかった。俺なら高位探索者でないと進めない魔境、五十階層にだって辿りつけるとがむしゃらに突き進んだ。

 

 目をつぶりながら若き日の苦い思い出を脳裏に浮かべて口に出していると、むずがゆいと同時に郷愁の念に駆られてくる。自分自身の体験談なのでついつい語りすぎてしまった。

 

「変な話聞かせてごめんね」

 

 道場で修業を終えてからほんの数分だけ遥の顔を見て帰るつもりだったのに自分語りが過ぎていつの間にか七時を過ぎていた。これはいけない。急いで帰らないと、母に怒られてしまう。

 

私は軒先から腰を上げ、地面に着地する。そして一緒に座っていた遥に別れを告げようと振り返ると身を乗り出してこちらを見つめて来る遥がいた。

 

「ねえ、その先はどうなるの」

 

 初めて、遥の方から話しかけてくれた。無表情だった顔には好奇心に満ちたきらきらとした目が輝いている。

 

「ふふ、今日は遅いからまた今度ね」

「うん! ま、待ってる!」

 

 私が手を振ると、遥もぶんぶんと手を振り返してくれた。

 

 

 

 次の日、学校に行って早速遥の元へと向かってみる窓から外を眺めぼうっとしている遥がいた。今までの遥とは違い無機質な人形のような表情ではなく、目の中に煌めきを帯び何か楽し気な想像に耽っているように見える。

 

 何か嫌な目に遭い心を閉ざしている。そう聞かされ気遣ってくれる周囲のクラスメイトたちも様子の違う遥に気が付いているようで、何人か遥へ話しかけようとしている者も見受けられた。遥はとっても可愛らしい。良くも悪くもクラスの雰囲気に影響を及ぼしているようだった。

 

「遥、おはよう」

「フィエーナさん、おはよう」

 

 私がいつものように挨拶すると、何処か挙動不審に挨拶を返してくれた。

 

「ねえ、そ、その。昨日の続き……」

「ん? いいけど、ここじゃちょっと恥ずかしいなあ」

 

 私の中では実体験として土の匂い、風の感触まで記憶にある。けれど、周囲からすれば脳内で物語を創っているとしか思われない。今思えば他人に聞かせるのは軽率だったと後悔していた。ただそれでも怒涛の人生を歩み、そして死んだヴェイルの生き様をこのまま風化させたくなかった思いもあった。最近、記憶が薄れてしまわないようにと日記帳に書き綴っているけれど、あれは絶対に誰にも見つかってはいけない。

 

「話して?」

「う、うーん、じゃあ昨日の続きからね……」

 

 有無を言わせぬ上目遣いに私は負け、ゆっくりと回想を始める。記憶を引き出すために目を閉じて、昨日の続きから再び昔語りを私は始めた。

 

 しばらく遥相手に話していると、ちょいちょいと肩をつつく者が現れる。目を開き振り向くと、昨日の遥のように目が輝いている里奈が鼻息荒くしてこっちを見つけていた。

 

「ねえねえ! 何今のお話! 何かの小説!? 私結構日本のは読んでるけど全然知らない! ロートキイルだと人気の物語なの!?」

「え、いや……恥ずかしながら私が考えただけなんだ」

「えー!? すっごいじゃーん!」

 

 普段大人しい里奈がここまで興奮するなんて珍しい。眼鏡越しに目が輝き、ポニーテイルがぴょんぴょんと跳ねている。

 

「ねえねえ私も聞いていい? 聞いていいよね!」

「あ、うん、いいよ」

 

ぐいぐいと食いついてくる里奈の勢いに負け、私は頷いてしまっていた。そして、その日から里奈も私の昔話に付き合うようになっていた。

 

 



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T/A:05二人の友人を我が家に招きました。

 

 

 

「えー、今日はここまでなのー?」

「ごめんね、道場に行かなきゃ」

 

 私は放課後基本道場に通っている。友達付き合いはあまりいい方とはいえなかった。里奈とも学校以外での付き合いは専らSNSだった。

 

「フィエーナちゃんいっつも道場行ってるよね。一日くらい時間取れないの?」

 

 遥とは道場後多少の時間を取っていたけれど、里奈に昔語りを聞かせるのは学校だけだった。SNSで催促をされたことがあったけれど、下手すれば全世界に広がることを考えると流石に恥ずかしすぎて断った。

 

「うーん……まあたまにならいいけど」

「やった! じゃあじゃあ来週の水曜はどう?」

「まあ、いいよ」

「いやったー! フィエーナちゃん好きー!」

 

 小柄な里奈が勢いよく私に抱き付いてきて私は何歩か後ろへ押し込められる。ふと、遥に目を向けると目線だけでこちらに物欲しそうな感情を訴えかけてきていた。

 

「よかったら遥も来る?」

 

 私の言葉に頷いて見せた遥の表情は明るく、年相応に眩しい笑顔を見せた。

 

 

 

 水曜日の放課後、友人たちが一度家に戻っている間に一足お先に家へ帰ると母がパウンドケーキを持って出迎えてくれた。

 

「おかえりなさいフィエーナ!」

「ただいまお母さん。それ、美味しそうだね」

「うふふ、そうでしょう! 今日のケーキはいい焼き上がりしてるわ!」

 

 友人を招く私よりも母の方がよっぽど嬉しそうだ。思えば私が以前に友人を家に招いたのはいつだろう。パッと思い出せない程度には稀な出来事だけに、母が張り切るのも無理はないのかもしれない。

 

「今日来るのは二人とも日本人の女の子なんでしょう? ケーキは口に合うのかしら? 幸恵は心配いらないって言うけどちょっと不安だわ」

「大丈夫だよ、お母さんのケーキ美味しいもん」

「ありがとうフィエーナ!」

 

 私が二階の自室に行き、軽く自室を整理していると階下から玄関に備え付けられたチャイムの音が耳に届く。おや、随分早い到着だ。

 

 どっちが着いたのだろうかと階下へ降りていくと、母が一足先に玄関で吉上先生と遥の二人と挨拶を交わしていた。

 

「フィエーナと仲良くしてあげてね」

 

 優しく微笑む母の伸ばした手を握り返した遥におびえた様子は見られない。ベーセル兄に伝承されたほんわかとした人となりは、遥の警戒心を上手くほぐしてくれたようだ。

 

「こんにちは、吉上先生。今日は遥の送迎ですか?」

「こんにちは、フィエーナ。買い物もあったからついでにね。七時前には迎えに来るからあんまり遊び過ぎないように」

「はーい。遥、私の部屋に行こう?」

 

 私の伸ばした手を遥が掴み、私たちは階段を昇っていく。

 

「一杯お茶でも飲んでいきませんか? ちょうどパウンドケーキも焼けたばかりなのよ」

「へえ、いいですねえ。あんまり寄り道は出来ませんけど、一切れだけ頂けますか?」

 

 階下で吉上先生が母のパウンドケーキに釣られたのを聞き及んだ私は二階から一階に頭を突き出す。

 

「吉上先生ケーキ全部食べないで下さいよ!」

「あははは……努力はするよ」

「大丈夫よフィエーナ! 私がちゃんと見張ってますから!」

 

 私がリビングへ消えていく二人の背中を見ながら頭を引っ込めると、遥が不思議そうに見つめていたので説明する。

 

「吉上先生が甘いお菓子好きって知ってる?」

「うん。よく食べてるの見るよ」

「先生ったら前、パウンドケーキ丸々を一人前と勘違いしちゃって全部食べちゃったことがあるんだよ」

「えぇ……」

 

 あの時の吉上先生の顔は見ものだった。勘違いに気付いて顔を青くする吉上先生とまさか全部食べると思わなくって笑い出す母。私とベーセル兄もおやつが消滅した憤りを忘れ、おかしくて笑ってしまったのだった。

 

「もうほんとちょっと目を離した隙にこんな大きさのケーキを全部食べちゃったんだから」

「それは……吉上さん、食べ過ぎだね」

 

 しばらく吉上先生を話のネタにしていると再びチャイムが鳴る。私は遥と連れ立って二階から玄関を見下ろすと、玄関を開けた母の前に緊張した面持ちの里奈が立っていた。

 

「こんにちは、フィエーナのお友達かしら?」

「こ、こんにちは! 坂木里奈です!」

 

 里奈のロートキイル語は大分上手くなってきたと思うのだけれど、初対面の人だとまだ里奈はちゃんと話せるか不安になってしまうのだと以前言っていた。

 

「こんにちは里奈。フィエーナから聞いているわ。どうぞ入って」

「お邪魔します!」

 

 普段はあんな声音が大きい子ではないんだけどな。手足の動きも心なしか機械のようだ。

 

「里奈-、ここだよ」

「フィエーナちゃんに遥ちゃん!」

 

 私が日本語で話しかけるとホッとしたような表情を見せて来る。やっぱり母国語の安心感があるのかな。

 

「おや、フィエーナの友達って日本人だったんだね」

「え、ええと?」

 

 突如現れた吉上先生に困惑する里奈。

 

「あはは、フィエーナの通っている剣術道場で師範代をしている吉上善です。よろしくね」

「へええ、よろしくお願いします。でもなんでフィエーナちゃんの家にいるんですか」

「遥がホームステイしてるのも剣術道場なんだよ。今日は送り迎えに立ち寄ってね」

「そうなんですか」

「所用があるんで、僕は一旦帰らせてもらうよ」

 

 帰っていった吉上先生を見送った後、隣に立つ里奈が興奮したように話しかけて来る。

 

「ねえねえ! 凄いカッコいい人だね!」

「あはは……」

 

 確かに顔は悪くない。けれど吉上先生にカッコいいといった形容詞が似合うようには思えなくて私は苦笑いしてしまった。

 

「私にとってだけど、どっちかというと吉上先生は優しい印象かな」

 

 ちょっと抜けてる面もあるけど誠意があって、人の気持ちをよく考えて行動する人……私の中の吉上先生はそういった人間だ。

 

「ふうん。何歳くらいなのかな」

「今年で三十六歳だったかな」

「嘘! 二十歳くらいに見えたよ!」

 

 吉上先生顔つき若々しいんだよね。身長も百七十あるかないかだし、ロートキイル人基準だと下手すると十五歳前後にすら見間違えられちゃう。ベーセル兄の方が年上に見えかねないからなあ。

 

「さあさ、みなさん。そんなところに立ってないでこっちへいらっしゃい。おやつにしましょう」

 

 母に先導され私たちはリビングのソファに座らされる。

 

「ちょっと待っててね。今ケーキを持ってくるわ」

「私も手伝うよ。二人はそこで待ってて」

 

 二人をリビングに残し、ウキウキとキッチンに消えていく母を追う。

 

「お母さんはいつも通りお茶を淹れて。私がその間にケーキを切り分けておくから」

「はーい、フィエーナの言う通りにしまーす」

「もう、何それ」

 

 二人でクスクス笑い合いながら準備を済ませ、リビングに戻って四人でケーキをいただく。

 

「いただきます」

 

 初めに遥が小声で呟いたのに続いて、里奈に私、そして母も今日は日本式にいただきますを唱えた。

 

「ん、美味しい。美味しいですお母さん!」

「ありがと里奈」

 

 目を輝かせケーキを頬張る里奈は小動物のように愛らしい。あっという間に食べきってしまった里奈へ母はお代わりを持ってくるわとキッチンへ消えていった。

 

「いいなあフィエーナのお母さん。こんなの毎日食べれるんだもん」

「自慢のお母さんだよ」

 

 私は自信を持って宣言するけれど、それとなく遥の様子を窺う。表面上も、そして心拍に至るまで特に変わった様子は見受けられない。よかった……遥は家族関係の話題を出し過ぎると嫌がる。それとなく注視を続けていこう。

 

「遥はどう?」

「好き。すごく好き」

 

 直球で好きと真顔で言い放ちながら遥は黙々とケーキとお茶を交互に食べては飲んでいく。気に入ってくれたなら、何よりだ。

 

「遥ちゃん食べてる姿も綺麗だよねー、超絵になる感じする」

「分かる。写真を撮って額縁に飾ったら芸術作品になりそうだよね」

 

 私と里奈がジッと見つめているのに気が付いた遥は困ったようにこっちを見て来る。

 

「あんまり見ないで……それに、フィエーナさんの方が飾られると思う」

「私?」

「遥ちゃんも綺麗だけどフィエーナちゃんも美少女感半端ないよね! 外国って感じ凄いし!」

「何それ」

 

 外国って感じとは一体? ちょっと私が頭を悩ませている間に母が戻ってきて里奈にケーキを渡す。さっきより厚めに切られたパウンドケーキを里奈は美味しそうに切り取って口に詰め込んでいく。

 

「里奈ちゃんリスみたいにパクパク食べるから見てて癒されるわ」

 

 顔全体を嬉しそうにしてもぐもぐ食べている姿は確かに癒される? かもしれない。ふと遥の皿に目を向けるとこちらも食べ終えてしまっている。

 

「遥もお代わりする? まだまだあるから持ってきてあげるよ」

「そ、それじゃお願いします」

 

 私がケーキを切ってリビングに戻ると、いつの間にか打ち解けたようでロートキイル語にも物怖じせず里奈が母とパウンドケーキについて語り合っていた。

 

「お茶との相性もいいですよね!」

「そうなの! 出すお菓子によって変えているんだけど、これだ! って組み合わせを見つけるのも楽しいのよ」

 

 里奈は料理を作るの好きと前行っていたし、母とは気が合いそうだ。ここから話が進み今度みんなで集まってお菓子でも作ろうかという話になった頃、玄関から帰宅を告げるベーセル兄の声が聞こえてくる。

 

「ただいま~」

「おかえりベーセル兄」

「おかえりなさいベーセル」

 

 私たちの声がリビングからしたのでこっちにやってきたベーセル兄は、ソファに座る私たちを見て目を丸くする。

 

「ただいまフィエーナ。今日はお友達を呼んでいるのかい」

「うん、遥は知ってるでしょ? こっちは坂木里奈っていうんだ」

「日本の子かな? 僕はベーセル、フィエーナの兄だよ。よろしくね」

「よっ、よろしくお願いします! 坂木里奈ですっ!」

 

 あ、里奈の奴一瞬見惚れて呆けていたな。ベーセル兄も罪造りな顔立ちをしている。挨拶を交わした後キッチンへ消えていったベーセル兄におやつの準備をしてあげましょうと母が同じくキッチンに行ってしまうと、里奈が私との間隔を詰めて耳元に寄って来る。

 

「ちょっと! フィエーナちゃんのお兄さんヤバくない!? ヤバくない!?」

「あはは、よく言い寄られているのを見かけるよ」

「あっ……何か、ごめんね」

 

 今までのトラブルを思い出した私の表情に思うところがあったのか、里奈はさっきまでのテンションの高さはどこへやら無言になってしまう。

 

「って違うじゃん!」

「いきなり叫ばないでよ」

 

 天にツッコむかのようにいきなり立ち上がった里奈は苦情を入れた私に輝いた眼光をこちらに向けて来る。

 

「あ、ごめん。でも今日ケーキ食べに来たんじゃないって思い出したんだよ。フィエーナちゃんの物語を聞きにきたんだった」

 

 思い出さなくてもよかったのに……。

 

 



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T/A06:ヴェイルが超絶カッコよかったのが世間に認められて嬉しいけど、ここまでの事態になるとは予想外でした。

 

 

 

 ヴェイルの記憶を私の脳内に留めておいていいのかという思いはあった。未だその傾向はないけれど、記憶はいずれ薄れ曖昧になっていくもの。

 

 ただ過去の記憶を持っているなんて突拍子もなくて信じてもらえると思えなかった。フィエーナとしての私の同一性が侵される気がして、話すのが怖かった。

 

だから密かに書き記し、秘密の捌け口にしたのだった。誰にも見せる予定なんてなかった。

 

「うひょへええええ」

「ふおおおおおお」

 

 奇声を上げながら私のノートに縋りついて読みふける里奈に、その隣で熱心に読み進めていく遥。

 

 そして二人を見る私には羞恥やら諦観やらもう、今の心境をどう現していいやら分からない。もう見てられないので二人には背を向けている。

 

 ああ、駄目だ。頑丈なハードカバーの黒地のノートがゆっくりとめくられる音すら今の私には辱めになる。天井を仰ぎ見ては窓際によって外の景色に意識を向けようとしたり、ちょっと様子が気になって二人に目を向けてみたり。

 

 ロートキイル語で書いているのに、全く意を介さないように二人は読み進めていく。それ、二百ページ以上あるんだけど。二百ページ以上びっしりとアルファベットで埋められているんだけど……。

 

 里奈に書き記したりはしていないのと聞かれ、安易にあるよと渡すべきではなかった。語り聞かせているんだからいいやと思ったのが間違いだった。私自身の口で過去の記憶を語る際には省いたり隠したりした恥ずかしい思い出も逐一回顧録には記されている。気がついたのは回顧録を読み始めた里奈の背中から自身の筆跡を追いかけた時で、今更奪い返す訳にもいかなかった。

 

 五時ちょっと過ぎから二人を私の自室に招き入れ、二人にしてみればあっという間。私からしてみればあまりにもゆったりとした時間が経過し六時になった。

 

「ね……ねえ里奈。そろそろ帰らないとお家の人が心配するよ」

「えぇ? うわっ! もう一時間経ってる!?」

 

 帰らなくちゃと慌てだした里奈の手からノートを取り上げようと伸ばした私に抵抗するように里奈はノートを胸元に抱え込む。

 

「これ、貸して?」

「えっ」

「だってまだ二十ページも読めていないんだよ! ロートキイル語で書いてるから読み進めるのにすっごく時間かかるし!」

「いや、でも……」

「大丈夫! フィエーナちゃんの小説そんな恥ずかしがる必要ない! 私ロートキイルの小説もいくらか読んだことあるけど、これが一番面白いもん! 遥ちゃんだってこの小説好きだよね!」

 

 ぶんぶんと頭を縦に振る遥。違う、違うんだ……。せめて編集させて。読ませたくない記憶の部分だけ削除しておくから。

 

「お願い! 絶対汚したりしないから!」

「うーん……」

「遥ちゃんだって読みたいよね!? 一日交代で交換っこして読もうね!」

 

 再び力強く首を振る遥。

 

「お願いお願いお願い!」

 

 里奈と遥二人が私を上目遣いでジッと見つめて来る。動揺する私が目を逸らしてもちょこまかと動いて視線を向けて来る。物欲しげな目に見つめられ続け、私の拒絶の意思は緩んでしまう。

 

「しょうがないな……いいよ、貸してあげる」

「やったー! ありがとフィエーナちゃん大好きー!」

 

 抱き付いてくる里奈を受け止めながら、私はもはやなるようになれと前向きに受け止めることにした。というかお願いだから変な事態にだけはならないで……。

 

「ちなみにフィエーナちゃんこれって一冊だけなの?」

 

 ぎく。

 

 

 

 その後、一気にロートキイル語に習熟し始めた里奈は一気に二百ページ以上はある第一冊を読み終え二冊目、三冊目と読み進めていった。そのかい(?)あって里奈は留学生クラスから一般クラスに編入することになる。また、遥も数百ページにも及ぶロートキイル語の文章を物語として楽しみながら読んでいったことで一気にロートキイル語への理解が深まり、僅か二週間足らずで新学期から一般クラスへ編入することに決まった。

 

 そして……。

 

「ねえねえフィエーナ! これの続きってまだないの!?」

「ごめんね。一日数ページ書けるかどうかだから」

「数ページでもいいから俺見たいよ」

「里奈に貸しちゃったからまた今度ね」

 

 クラスメイトにまで私の回顧録が広まってしまっていた。いや、友達に見せたいって言った里奈に許可を出したのは私だけど。私だけど! だって遥と里奈以外が興味持つなんて思わなかったんだもの!

 

 まさかこんな読まれるなんて思いもしなかったんだ……だって、特に考えずに昔の記憶に従ってさらさらって書いてるだけなんだよ。時系列とかは気を付けてるけど、本当にそれくらいで、ただ書き綴ってるだけなのに。

 

「フィエーナったら小説家みたいね」

「あはは……そんなんじゃないよ」

 

 隣のクラスからやってきた幼馴染のエリナが軽い口調でからかってくる。だけど口調とは裏腹に顔には分かりやすく私は不満ですと書いてある。

 

「私に隠れて何冊も執筆されていたなんて知らなかったわー」

 

 エリナとは週に何度も会っているし、家にも頻繁にやってくる。一番の親友といってもいい存在だ。それなのに回顧録の存在は私から知らされず他の友人伝いでようやく知った。何だかそのことが気に入らないようで、話題になるたびに意味深な目線を向けられていた。

 

「一番に私に見せて欲しかったのになー、私が順番待ちで最後の方なんだよ」

「ごめんってば」

 

 グチグチ言ってくるエリナに謝り続けていると、遠慮がちにクラスメイトのグレイアが話しかけて来る。

 

「あの……ウチのお母さんがフィエーナさんに会いたいって言うんだけど」

「え? 何で?」

 

 私に話しかけているのに、返事は平気でエリナがする。私とエリナは大体一緒にいるからグレイアは気にした様子もなく話を続けた。

 

「フィエーナさんの小説あるでしょ? あれお母さんが読んだら是非出版したいって」

「え……!?!?」

「数日中にフィエーナさんの家族も交えて話し合いがしたいんだって」

「フィエーナ! やったじゃん! これで有名人の仲間入りだね!」

 

 寸でのところで表情が崩れるのを避けた私の内心を知らず、グレイアの話は進んでいった。

 

 

 

 翌日である。ロートキイルでも大手の出版社に位置する会社に勤めているというテレーズさんが我が家にやってきた。

 

 凛々しい顔立ちに眼鏡の似合う彼女は両親とベーセル兄、そして駆けつけてきてくれたエリナを前に私の回顧録を持ち出しその出来栄えを絶賛する。

 

「フィエーナさんの書いたこの小説、実に素晴らしい出来です。是非ともわが社で出版させていただきたいのですがよろしいでしょうか?」

「と、いっても……私たち読んだこともないのですけれど」

「出版の可否の前に冒頭だけでも読ませてもらっても?」

「あら!? でしたら是非読んでください! 読めば分かると思いますから!」

 

 テレーズさんの手から家族の手に回され、私が家族相手には隠そうとしていた秘密が秘密と認識されることなく公開されていく。本当は断ってもよかった。けれど、ヴェイルの記憶もまた私の一部分ではあるのだ。家族には知ってなお、受け入れて欲しいという思いが私の中にはあった。

 

 だから、ある意味これはいい機会なのかもしれない。ヴェイルの記憶を持った私という本当の形ではないけれど、むしろ過去の記憶を持つ真実ではない形での公開だからこそ、嘘を吐く形にはなるけれど……。

 

「あら、面白いじゃない」

「ああ、昔読んだ児童小説を思い出すなあ」

「フィエーナにこんな才能があったんだね。別に隠す必要なんてなかったのに」

 

 微笑みながら頭を撫でて来るベーセル兄に私は俯いていることしかできない。家族には私の文筆の才が認められているのだろう。けれど、それでもいい。否定されなくてよかった。

 

「ともかく本人の意思が大事だろう。いくら出来栄えが良くとも本人が嫌と言うなら俺は反対だ」

「そうね、フィエーナがどうしたいかよね」

「絶対出版した方がいいって! フィエーナお金持ちになるチャンスだよ!」

 

 両親の理解ある言葉とは正反対の言動を、エリナが耳元で囁いてくる。正直クラス中に広まってしまっているので、もうどうにでもなれ感がある。ただそれでも全国区への出版には二の足を踏んでいた。

 

「実は既に一部がネット上に公開されていまして……これがかなりの評判で閲覧されています。削除はもちろん可能ですが、完全にとなると今のご時世難しいでしょう。どうです? せっかく世に出たのですから最後まで公開してしまってもいいのでは? フィエーナさん」

 

 

 誰だ勝手にネットに上げた馬鹿は!? テレーズさんの話は、この場を私の内面を家族に受け入れてもらおうという私自身の目論見とは大きく外れていて、大きな充足感を得ていた私の表情を歪ませるに十分な衝撃となった。

 

「正直に言って、この作品が世間に公開されず埋もれるのが私には耐えられません。みなに読んでもらってこの読後感を共有したい! どうかお願いします!」

 

 テレーズさんは興奮したように鼻息を荒くし、私の手を取って来る。その表情は時折名著に出会い家族へ布教してくるベーセル兄にも重なるところがあって、ヴェイルの記憶を愛してくれることに私は喜びを覚えてしまっていた。だから彼女に否定的な言葉を投げかけることを私に躊躇わせる。

 

 端的に言って、私は彼女の熱意を前にほだされてしまったのだった。

 

「分かりました……詳しい契約条件にもよりますけど」

「ありがとうフィエーナさん! もちろん悪いようにはしませんとも!」

 

 本当に、悪いようにならないでくださいね……。

 

 

 



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T/A07:私の二年の修行の成果を、遥は一か月で物にしてしまいました。

 

 

 

 

 夏季休暇に入り、二か月ほど私とベーセル兄は自由の身となった。今年大学受験のベーセル兄は勉強に励んでいるけれど、私は道場に朝から夕まで入りびたり修行に明け暮れていた。

 

「おはようございます! 林原先生!」

「おっ! 来たかフィエーナ、待っていたぞ!」

 

 早速今日も私は早朝から道場にやってきて、修行に励む。

 

 五歳の頃、道場へ通うようになってから七年。前世での修行も合わせると都合三十年近く私は剣の道に人生を捧げてきたことになる。

 

 最初の三年は林原先生の剣に圧倒された。私は過去の記憶をなぞって力に頼った動きをしていたからだ。私が成長に伸び悩んだ時、林原先生は単純な力に頼らない剣の動きを見せてくれた。

 

「これはな、天河流で最高の使い手と謳われた天河宗前の動きを録画したものだ」

 

 白黒で解像度の荒い動画だった。しかしそれには老年期に入り、単純な力では青年には劣る天河宗前の洗練された剣の動きが残されていた。私は頼み込んで映像を拝借し、コピーした映像データが破損するほど見続け、動きを学んだ。

 

 思うにヴェイルに限らずあっちの世界の人間はこっちの世界の人間に比べて頑丈で身体的に優れていた。その上魔法で肉体を強化していたのだから、私がヴェイルの動きをそのまま真似ても労するところ少なしだったのだ。

 

 今の私は地球に生まれ、それ以上に女で、そして子供だった。単純な身体能力で林原先生に勝てるはずがない。それでも林原先生と何とか渡り合えたのは、ヴェイルの頃命を懸けたやり取りを繰り返した経験と勘あってのものだった。

 

 私は新しい今の私にあった体の動きというものを探し、身に着ける必要があった。その模索の最中、かえって実力が落ち込むこともあった。それでも、もうヴェイルのように私は動けない。参考になったのは林原先生から授かった天河宗前の動きが残された映像資料だった。

 

私の悪戦苦闘が実りだしたのは天河流に入り四年目のこと。ようやく私は私に合った動きを体得した。それからは一気に実力が伸びていき、十二歳の今では林原先生にも余裕を持って相対出来るだけの実力を手にした。

 

「よし、行くぞフィエーナ」

「はい! 先生!」

 

 本物の日本刀を使った型稽古は一歩間違えれば死を招く危険な行為だ。攻め役と受け役に別れて動くことになるけれど、特に振るってくる剣を受け止める受け役には高い技量が必要とされる。唯一、この道場で私は受け役を林原先生相手に演じることが出来た。

 

 互いに日本刀を持って、剣を振るう。もはや一般人の目には映らない速度で私と林原先生は型通りに剣を、体を動かす。日本刀同士が触れ合い、金属特有の高音を道場に響かせる。

 

 一通りの型稽古を済ませると、あっという間にお昼時になっていた。

 

「フィエーナ。よくぞここまで腕を上げたな」

「先生こそ、剣がどんどん冴えわたっているじゃないですか」

「ふっふっふ。お前を越える目標が出来たからな」

 

 林原先生も私の実力に追いつき追い越すように剣の腕を伸ばしていた。私が思うに実力が拮抗した使い手が互いに切磋琢磨する時こそ、実力を伸ばす機会に恵まれるのでないだろうか。

 

「それにしても……遥の上達ぶり、どう思われます?」

 

 私と林原先生が型稽古をする道場の向こう側、先生の息子である陽人と型稽古をしている遥は既に堂に入った動きで陽人と互角の力を見せている。

 

「あれは……異常だ。お前と比べてもな」

 

 私と手合わせをして笑顔だった林原先生の表情が畏怖を交えた物に変わる。まだ遥が剣術の道に入ってから一か月。たかが一か月と言うのに、十年以上修行を続けていた陽人に付いていけている。

 

 私や林原先生が自動車なら、遥はジェット機の如き速さで実力を身に着けていた。

 

「私が二年かけて身に着けた柔の動きを遥はたった一月で物にしてしまいました。天河流の型だってもう既に全てマスターした。彼女、一体何者なんですか」

 

 私としても正直、あの上達ぶりに恐怖を覚えない訳ではない。私の苦労を軽々と踏み越え、彼女は一気に剣術の達人にまで成長してしまった。

 

「天河流次代の至宝、と目されている人材だ。努力を惜しまない天才ほど怖い者はないな」

 

 あの上達ぶりなら夏季休暇が終わるまでには私と手合わせ出来る程度には成長するだろう。私も負けてはいられない。久方ぶりに魔王のような強大な相手と対峙する予感が、私に武者震いを起こさせる。

 

「林原先生、もっともっと修行です! 私たちだってまだ成長できるんですから」

「ああ! そうだな! でもまあまずは今日は昼ごはんにしよう! 腹が減った!」

 

 がっはっはと豪快な笑い声を上げながら、林原先生は私の肩を叩く。

 

 道具の後片付けをした私たちは道場に併設されている日本家屋へ移動する。今日集まった受講生の中で午前中しか参加しない者、さらには午後から参加する予定者も加わり十五人も一つの食卓を囲んだ。

 

「何だまた来たのか」

「先生の奥さんの料理美味しいですからね」

「美味い日本食が食べれる場所は中々ありませんし」

 

 林原先生の呆れたような口調に受講生たちは口々に幸恵さんの料理の美味しさを讃える。

 

「そういってくれると作るのにも精が出ますわ」

 

 ニコニコと丸っこい体系の中年女性がお櫃を持って現れる。

 

「手伝いますよ」

「あら、ありがとうね」

 

 流石に十五人分の料理を作るのは手間がかかるだろうに、幸恵さんはむしろたくさん料理が出来て幸せだと言ってくれる。その好意に甘える訳にはいかない。林原先生も一緒になって全員で料理を運び、皿に乗せ、食卓まで運んでいった。

 

「よし全員座ったな。頂きます!」

「頂きます!」

 

 頂きますだけは日本語で全員が復唱し、一斉に食事へと移っていった。私もここで食事を何年も取る内にすっかり箸の扱いに慣れてしまった。唐揚げを摘まみ、きゅうりの漬物を齧り、ご飯をよく噛み、お味噌汁を啜る。ロートキイルとは違う異国の食事だけれど、今ではこの味に私は慣れ親しんでしまった。

 

「うん! 今日も美味い! 幸恵の料理は最高だ!」

「ありがと鳳二さん。はい、お代わり」

 

 先程まで体を動かしていたものが大半だ。お櫃のご飯も、大皿に積まれた唐揚げも、ボウルに入ったサラダもどんどんなくなっていく。

 

「麦茶がなくなりそうね、ちょっと取って来るわ」

「手伝いますよ」

「あ、私も」

「あら、助かるわトイフェルにジューコフ」

 

 ここら辺、受講生の大半が大人だからだろうか。幸恵さんが大変そうだと感じたらすかさず行動に移し助け合っている。これだけ手間を掛けさせているのだ。いくら食費を払っているとはいえ、何もしない訳にはいかないと思ってしまうのだろう。それにきっと感謝の念も込められているに違いない。

 

「全員よく食ったな。ご馳走様でした!」

「ご馳走様でした!」

 

 ご馳走様の号令が林原先生から出ると、その後当然のように後片付けを全員で行っていく。皿洗いも洗い場に先に立った者が率先して実行する。料理を作ってもらった分、その片付けには幸恵さんは座って休んでいてもらう。

 

「毎日ありがとうございます幸恵さん」

「ふふ、いいのよ。私もみんなが美味しそうに食べてくれて嬉しいから」

 

 私が肩もみをするとやっぱり凝っている。十五人分も一人で用意するのはきっと大変なことなのだ。いつの間にか私は身長が伸びて、もう幸恵さんは私よりも小さくなってしまった。私ももう十二歳か……。時が流れるのは早い。

 

「ねえ、幸恵さん。私も料理作ってみたいけれど手伝わせてもらってもいいかな」

「なあに突然? フィエーナちゃん剣術が恋人みたいに熱中してるのに」

「駄目かな」

「ううん」

 

 うーあー言いながら肩を揉まれていた幸恵さんは、私に振り向いてにっこりと笑った。

 

「ありがとフィエーナちゃん。明日から手伝ってくれる?」

「うん、任せて!」

 

 

 翌日、私は十人を超える料理をたった一人で用意する大変さを初めて知った。

 

 



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T/A08:超絶暑いヴェルデ市を離れ、悠々とバカンスに乗り出しました。

 

 

 私とベーセル兄が夏季休暇に入ってから遅れるほど二週間、ようやく父にも休暇の時が訪れた。

 

「よう、ヘイゼ。ルシュは生意気やってないか?」

「お義兄さん、ルシュは可愛い。そんなことないですよ」

 

 それと同時に父方の祖父母に会いに叔母夫婦がロートキイルへと旅行にやってきていた。ちょっと訛りのあるロートキイル語を話すヘイゼさんは南欧の出身で、三十になってなお色香漂う甘いマスクをしている。そんなハリウッドスター顔負けのヘイゼさんにも見劣りしない綺麗な女性が、眉を吊り上げて父ににじり寄る。

 

「もう兄さんったら! 兄さんこそユミアに迷惑かけてないでしょうね!」

「おいおい、俺は模範的な父親だよ。だろう、ユミア?」

「ふふふ、そう……ね。残業で一時間遅れて帰ってくるのを除けばね」

「あーっ! まーた兄さんは仕事馬鹿なんだから!」

「おいおい、たかが一時間職場の引継ぎに時間取られただけじゃないか」

「はあ、お義兄さん……定時に帰るのは家族のための義務デスよ。ベーセルはこんな風になったらいけマセンよ」

「は、はあ……」

 

 こうなったら父はもう駄目だ。参ったなと頭を掻きながら、三人から如何に家族を考えるべきか懇々と説かれる展開が待っている。

 

「大人たちの話なんて退屈。私たちは向こうに行きましょう」

 

 私より二つ年上の従姉リミ姉は両親譲りの美貌をしかめて見せ、勝手知ったる我が家を歩いていき、食卓の椅子を無造作に手前へ引っ張ってぐだりと座り込んだ。リミ姉の家からここまで飛行機と列車を乗り継いで五時間はかかる。ただ座っているだけでも辛いものがあっただろう。

 

「うあー、疲れたぁ。ねえフィエーナ何か飲み物取ってー」

「はいはい」

 

 妹夫婦と入れ替わりで私たち家族は二週間のバカンスへ出かける。暑くなってきたロートキイルを離れ、高所地帯にある別荘で何するでもなくのんびりしにいくのだ。

 

 私が炭酸リンゴジュースをコップに入れて差し出すと、リミは一気に呷って飲み干してしまう。

 

「美味しい……流石私のフィエーナねぇー」

 

 語尾をだらしなく伸ばしながら、リミは隣に座る私へと倒れかかってきた。百七十センチのスラリとした長身に出るところは出た均整の取れた肢体を持つ彼女は、イタリアではそれなりに名の知られたモデルなのだとか。

 

何冊かリミ姉が出演した雑誌を私は持っている。ひいき目かもしれないけれど他のモデルさんよりもずっとリミ姉は美しく輝いて見えた。疲れてよりかかってくるリミ姉は雑誌で見たようなキリッとした美しさに代わり、退廃的で淫靡な魅惑を放っている。

 

「疲れてるみたいだね、リビングのソファでちょっと横になったら?」

「そうしよっかなー……でももう動きたくないー……うああーフィエーナ柔らかいーでも私よりおっきいのは生意気だぞー……うああ柔らかいようフィエーナ……」

 

 しょうがない従姉だ。しがみついてくるリミを私が半分ひきずりながらソファにひきずってやると、すぐに目を閉じ寝息を立て始めた。

 

 

 

 私たちは妹夫婦に我が家を預けた後、荷物を積み込んだ車に乗り込んで一路道場へ向かった。道場に着くと、入り口で荷物を纏めた遥が吉上先生と幸恵さんを伴って麦わら帽子を被って立っていた。

 

「おはよう遥!」

「おはようフィエーナさん」

 

 私が真っ先に遥に駆け寄り抱き付くと、照れ臭そうに頬を染めながら抱きしめ返してくれる。私が遥と出会ってから一か月を過ぎ、遥もようやく感情を示してくれるようになってくれた。

 

「すみませんね、家族の旅行なのに」

「いいえ、気にしないでください。遥ちゃんなら歓迎するわ」

 

 頭を下げる吉上先生の前で母は笑顔で遥に抱き付く。遥はどうしたらいいか分からないようでおろおろと顔を赤く染めながら母の背に手を伸ばしていた。

 

「それじゃフィエーナちゃん。遥ちゃんをよろしくお願いね」

「任せてください!」

 

 遥の事情は両親にも伝えてある。トランクに遥のリュックを詰め込んだ父が運転席に戻り、私たちはロートキイル南部に位置するとある避暑地へと向かった。

 

 高速道路を使って休憩を何度か挟みつつ三時間ほど。夏になり気温が三十度を超えることもあるヴェルデ市を南下しているにも関わらず、僅かに開けられた窓から吹いてくる風は徐々に冷たくなっていく。ロートキイルに数少ない山岳地帯であり、古くから岩塩の産出で生計を立てているザルトヒェン村に近づいてきた証だ。

 

 出発したばかりの車内はエアコンがなければ熱中症で倒れかねないほど暑かったのに、ザルトヒェンに到着した頃には窓を閉めていても心地よい程度に涼しくなっていた。

 

 パステルカラーでありながら何処か落ち着いた雰囲気を見せる建築群、明るい空の下ほとんど人気のない広々とした石畳の道、あちこちにある噴水を横目に私たちは村郊外にある別荘に到着した。

 

 白亜色の壁が眩しい二階建ての別荘は、去年と変わらず私たちを迎えてくれた。広々とした室内には必要十分な家具が置かれ、管理人のセンスで調度品が飾られている。

 

 遥も別荘を気に入ったようで、車から降りて別荘の外観を見るなり目を輝かせて屋内をあちこち歩き回っている。

 

「すごいねフィエーナさん! ここに泊まるんだね!」

「そんなにはしゃがなくてもこれから二週間はここにいるんだよ」

 

 テンション高めの遥は年相応に愛らしく、私は思わず頬が緩む。

 

「別荘は広いから一人一部屋選べるんだよ。お父さんとお母さん、ベーセル兄はいつものお気に入りがあるけどまだ三部屋残ってる」

「見に行こう、見に行こう!」

 

 はしゃいで私の手を引く遥に促されるがまま、私は別荘内を歩き回った。遥の別荘探索が一段落し、車から荷物を移し終えた段階で私たちは市街中心部へ散策に歩みを進めた。

 

 村郊外と言っても村自体そう広くもない。十分経たずに私たちは中心街に到着した。噴水と時計塔を中心に円形に構築された広場に沿うようにパステルカラーの建築物が並んでいる。

 

「すごいねフィエーナさん! おとぎ話に出て来る町みたい!」

「あはは、さっきからずっとすごいすごいって言ってるよ遥」

「だってすごいんだもの!」

 

 

 それから私と遥は家族と連れ立って、あるいは二人きりであちこちを歩いて回った。私が何度も訪れている場所でも遥にとっては初めて見る景色ばかりで、見る度に目を輝かせ興奮を体で表現していく。

 

 最初会った頃と打って変わって遥は感情を露わにし、実は明るい快活な少女だったことを私に見せてくれる。

 

 それなのに夜になると何度か、遥の絶叫が別荘に響くことがあった。最初その悲痛な声を聞いた時は家族全員驚いて、予め事情を聞かされていたけれど改めて遥の心に刻みつけられた傷の深さを知った。

 

 遥が悪夢にうなされ目を覚ます度に私たち家族は全員遥の部屋に集い、遥が申し訳なさそうにしているのを気にしないように笑って他愛のない、気分が楽になるような雑談で安心させ再び寝かしつけていた。

 

「遥ちゃん、日本でどれだけ酷い目に遭ったのかしらね」

「ユミア、詮索はしないって約束しただろう?」

 

 母がポツリと呟くように発した言葉を父がすかさず制する。

 

「お母さん、遥なら大丈夫だよ。きっと乗り越えられる」

 

 私は遥がロートキイルに来た頃から遥を見てきた。ふさぎ込んで周囲とまともに会話すらままならなかった頃から遥は変わった。

 

「そうね、段々明るくなっているしきっと遥ちゃんなら克服できるわ」

 

  遥が悪夢にうなされ目を覚ます頻度は日が進むにつれ減っていった。

 

 

 

 二週間の休暇が翌日で終わる昼下がり、私たちは村に数多とある噴水で特にお気に入りになった一角のベンチに座ってぼうっとしていた。

 

 不意に遥は口を開く。

 

「ねえフィエーナ」

 

 休暇で一緒に歩き回っている間に、遥は私の名前を気安く読んでくれるようになっていた。けれど、何だか今日はその声音が冷たく感じる。

 

「何? 遥」

「聞いていて楽しい話じゃないの、でも聞いてくれる?」

 

 私が遥に目線を向けると、感情が抜け落ちたような顔つきでこちらを見つめていた。まるで出会った最初の頃のようだ。何か大事な話をするに違いない。私は休暇で緩み切った顔を引き締めて頷いて見せる。

 

「私ね、強くならないといけないの。弱かったせいで、パパとママを酷い目に遭わせてしまった」

 

 後悔を多分に含んだ顔つきを見せる遥は、一人話し続ける。昔から普通の人には見えないモヤが見えたこと、悪意あるモヤを消滅させる力があること、力のことは両親と僅かな親友にしか明かしていなかったこと。

 

「ここに来る前、日本にいた時に私の親友……凛が他の友達と心霊スポットに肝試しに行くことになったんだ。凛は行きたくなかったみたいなんだけど、付き合いで行かない訳にもいかなかったのね。だから凛は私を頼って、私も凛が心配だったから付いていった」

 

 だけど、それが間違いだった。度胸試しに過ぎないお遊びのつもりだったのに、そこには本物がいた。

 

「私の力、結構強いみたいで悪魔に憑りつかれて……そこから私の記憶は途切れ途切れで……」

 

 涙を流しながら震え出す遥はそれでも言葉を紡ぎ続ける。私は遥の肩を抱き、遥の独白に耳を傾ける。

 

「でも分かるの……私が、私を乗っ取った悪魔がパパとママに酷い目に遭わせてるのを! そのせいでパパとママは病院で寝たきりになって……受け答えすらまともにできなくなっちゃって……」

 

 そこまで話した遥は私の胸元に顔を埋め泣き続けた。数十分は経っただろうか。落ち着いた遥はその後吉上先生と三谷鎮の二人に助け出されたと打ち明ける。なんてこった、吉上先生って一般人じゃなかったのか。

 

「私がただの女の子だったらきっと私の両親を苦しめることはなかった。でもそうじゃなかったから」

 

 後悔に身を震わせる遥は、何かに縋るような切ない表情で私を見上げて来る。

 

「私、強くなれるかな」

「なれるよ遥なら」

 

 私が遥と目を合わせ、遥の手を取ると、遥は私の手を両手で包み込んで胸元に押し付ける。

 

「フィエーナ、ありがとう」

 

 涙ぐんだ顔を隠すように遥はそのまま抱き付いてきた。私は何も言わず、頭を撫でてやる。

 

「私ね、フィエーナと会えてよかった」

「私も遥と会えてよかった」

 

 遥はとてもいい子だ。辛い目に遭ったのは確かだけれど、そのまま沈んでいっては欲しくなかった。どうにか、立ち直って幸せになってほしかった。

 

 丁度良く涼やかな外気の中で、ただ遥と抱き合い触れている部分だけが熱を孕み暖かい。ただ暖かいだけでなく、人を傍で感じて私は安心感も覚える。遥も同じ思いを抱いてくれたら、私なんかでも立ち直る一助となりうるだろう。

 

「フィエーナ……」

 

 遥の呟きは寂しさに母を求める幼子のようで、私は一層力を込めて遥の体を抱き寄せる。大丈夫、大丈夫だよ遥。私がそばにいる。

 

「遥、起きてる?」

「起きてるよフィエーナ」

 

 そっか。私が何度も問いかけても遥はすぐに返事をする。

 

「退屈じゃない?」

「全然そんなことないよ、ずっとこうしてたい」

 

 結局、私が小腹を空かせておやつを食べようと提案するまで二時間近く遥は私に抱き付き続けた。そしてこの日以来、遥のスキンシップは一気に濃密になっていった。

 

 



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T/A09V:世界の真実を明かされ、そして俺は意識を取り戻す。

 

 

 二週間の休暇を終え、帰ってきた数日後。依然としてうだるような暑さの道場から一人、また一人と帰宅していく中、私は一人居残っていた。

 

「フィエーナ、君はまだ残るのかい?」

「今日は遥とお泊りなんです」

「ははは、それは楽しそうだね」

 

 顔なじみの受講生とも別れを告げると、私は一人道場に取り残される。日が陰り、赤みがかった空から道場内に暗い影を落とす。時刻は七時を過ぎようとしていた。

 

「フィエーナ、待たせたね」

「吉上先生。では、話してください」

「場所を変えようか」

 

 いつも朗らかに笑みを浮かべている吉上先生の顔がいつになく強張っている。遥に悪魔の話を聞かされた後、一人になった私はすぐに吉上先生へ真偽を確かめようと電話を入れた。けれど、吉上先生は言葉を濁し、直接話すからと明言を避けた。

 

 道場に併設された日本家屋に案内され、その一室に足を踏み入れると林原一家全員と遥が既に着座していた。上座に座る林原先生の対面に私は着座するよう促される。

 

「よし、全員そろったな。おい吉上、話してやれ」

「結局僕が話すんですか?」

「当事者の一人だろ、ほらフィエーナも焦れてるぞ」

「参ったな……何処から話そうかな?」

 

 目線を天井に向け、自らの頭を指で何度か叩いた後覚悟を決めたのか吉上先生は私を真っ直ぐ見つめてくる。その目付きはまるで刀を持っている時のように鋭く、彼らしくない剣呑さをはらんでいた。

 

「退魔師……ってのをフィエーナは信じるかい?」

 

 そこから始まった話は、探索者時代にも負けず劣らずのファンタジックな内容だった。世の中には魔之物と呼ばれる負の感情が具現化した魔物のような存在が蔓延っていること。それを退治する退魔師という職業が日本にあり、それと似たような存在は世界各地に存在していること。

 

「それじゃあ遥が襲われたのは、魔之物なんですか」

「そこがちょっと複雑でね……」

 

 魔之物は人類人口が大幅に増えた西暦1960年代から確認されるようになったこと。それ以前にいた妖怪や魔物といった存在の多くが、19世紀までには人類によってほぼ殲滅されたこと。元より数少なかった妖怪・魔物と比較して、魔之物は交通事故程度には死傷者が発生する厄介な問題であること。

 

「今の退魔師はかつての退魔師とは別物といっていいんだ。今の退魔師に求められているのは地道に担当区域を見回って、魔之物が実体化する前の状態で浄化することだからね。退魔力さえあれば、戦闘能力は銃火器を扱える程度でしかないよ」

「退魔力?」

「まあ、ゲームでいう魔力みたいなものさ。退魔の力で形を持つ前の魔之物を浄化して回るのが今の退魔師のお仕事って訳」

 

 ファンタジックな内容ではあるけれど、現代退魔師の事情を詳しく聞くとむしろ地味に聞こえてくる。担当区域をくまなくパトロールして回って、魔之物が靄上のいわば孵化する前の状態で浄化して回る毎日。先進国なら大体魔之物を早期発見する警戒網が構築されているそうで、退魔師はその情報を受け取って浄化して回り続ける。そこに終わりはなく、むしろ世界人口の増大と共に出現頻度は増していく。

 

「まあこれが今の退魔師の現状なんだけど、実はごくごく少数妖怪や悪魔、魔物といった存在は生き残っているんだ。そして現代の退魔師でこれらに対処出来る人材はとても少ない」

 

 

 

 遥が出会った悪魔もまた、ごく僅かな例外的存在だった。侵入経路は不明だけれど、日本では見られない系統の力を持つ悪魔の水際阻止に失敗し遥は被害に遭ってしまう。初期対応に当たった吉上先生も歯が立たず、結局増援が来るまで遥とその周辺は悪辣な精神攻撃に苦しめられた。

 

 遥の両親は精神病院に収容され、友人たちもおかしくなってしまった。

 

「だから私は強くならなくちゃいけないの。悪魔は私を狙ったフシがあるんだって」

「そう、訓練を受けていない遥の魔力は悪魔の絶好の餌になってしまった。遥には今後のためにも自衛の術を学ぶ必要があったんだ」

「私にも協力は出来ないんですか」

 

 分かってはいたけれど、吉上先生は首を横に振る。

 

「残念だけどね、フィエーナには退魔の力がない。魔之物に有効打を与えられないんだよ」

「そう、ですか」

 

 私は俯き、歯を噛みしめる。こんな時、ヴェイルならきっと役に立てた。あの頃なら高層ビルを縫って駆け回るスーパーヒーローの真似事も出来ただろう。でも今の私は結局人の枠を越えられていない。オストブルク最強の探索者だったかつてとは裏腹に、今の私の実力をあっち基準で換算したら……技量はともかくとして力に差があり過ぎる。身体強化した肉体は岩を砕き、敷石を踏み割り、家を飛び越えるのだ。力だけじゃない、速さだって自動車並みに駆け回り、銃弾を見てから回避できる相手じゃ先読みして斬りかかった私の剣の刃を受け止められてしまう。

 

 根本的に違いすぎるのだ。けれど私はこの世界の住人の力をまだ見ていなかった。もしかしたらあっちほど強くないかもしれない。

 

「でも……私は林原先生とも遣り合えているんです。手助けくらいなら出来ませんか」

「馬鹿! あれは親父が力を抜いているだけだ! フィエーナくらい、俺でも相手出来る」

「陽人、別に俺は手なんか抜いてないぞ? ただ、魔力は使っていないだけだ。素の実力で俺と五分なんだ、フィエーナの実力は大したもんだよ」

 

 褒められているようだけど、私にはちっともそうは聞こえなかった。今までの認識がずれていく。私は手を抜かれて、情けを掛けられていた? そういった思いが心中に浮かび、私は耐えきれずに立ち上がる。

 

「陽人。勝負して。私を納得させてみてよ」

「いいぞ、俺も魔力を使わないで戦って負けっぱなしじゃあ気に入らねえ」

「おいおい陽人! 一般人にそれは駄目でしょう、ねえ鳳二さん!?」

「いや、フィエーナなら大丈夫だ。やらせてやろう」

 

 

 

 場所を移し、道場で私は陽人と対峙する。今までの陽人なら余裕を持って一方的に相手出来る程度の相手だった。それが魔力を使って身体を強化し、どこまで食い下がってくるのか。あるいは私は一方的に負けるのか。恐怖と好奇心と冒険心がないまぜになった感情が私をかき乱す。

 

 道着に着替えてきた陽人は、木刀を持って私の前に立つ。構えを見ても依然と同じ。私なら隙を付いて勝てるだけの実力差が姿勢だけで想像つく。それなのに、どうしてだろう。今の陽人はいいしれぬ威圧感を漂わせていた。油断したら大怪我する。なのに、私の心は乱れている。このままじゃ勝てる試合も勝てなくなる。目を閉じ、深呼吸を一回。よし、大分気持ちが落ち着いた。

 

「俺から行くぞ」

「いいよ、かかってきなよ」

 

 速い! 一瞬陽人の姿が消えたかと思うと目の前で大仰に木刀を振り下ろしていた。隙だらけな動きでも、人を超える圧倒的スピードを前に余裕がなくなる。

 

 回避に専念し、横に移動する私は慣性の勢いを利用し陽人の木刀の側面に一撃を加える。今までの陽人ならこの一撃で木刀を吹っ飛ばされていたはずだ。けれど今の陽人の肉体は強化されていた。

 

「効くかっ!」

 

 人外染みた膂力で、私の一撃を力で跳ね除けて来る。あえなく私は弾き飛ばされてしまった。元々身長はあちらが二十センチは高く、単純な力では勝ち目がなかった。それを技と速さと読みで補ってきた私に、さらなる絶対的な力の差が襲い掛かる。

 

 とにかく、今の陽人の一撃をまともに喰らえば一発で木刀が弾き飛ばされてしまう。受け流し、隙を何とかして私が作っていかないと勝ち目がない。

 

 ヴェイルだって力で敵わない相手と斬り合っていた。ならば私だって出来るはずだ。集中だ、こっちは僅かな隙も見せられない。あっちは隙だらけでも簡単に私を打ち破れる。まだ陽人は若い。油断していないつもりでも、意識していない隙がどこかにあるはずだ。

 

 どこかに、どこかに……! 脳みそが熱くなる。思考は高速化し、血液による冷却が追いつかなくなっていく。

 

力も速さも劣る私が先読みして配置した木刀に、陽人が撃ち込む疾風怒涛の剣戟が吸い込まれていく。

 

ああ、手が痛い。千切れそうだ。木刀からはみしみしと嫌な音が聞こえてくる。あと何回耐えられるか分からない、早く決着を付けなくちゃ。

 

肉体が限界迎えつつある一方で、今にも火を噴きそうなほど熱を孕んだ頭脳は私の動きを最適化してくれる。

 

 今まで客観視してきたに過ぎないヴェイルの記憶と私が融け合い、完全に一つになった感覚。今の私なら、陽人の力にだって速さにだって付いていける。

 

――先を読んでも間に合わないなら、相手を俺の思い通りに動かしてやればいいんだ。

 

「マジかよ! フィエーナ……お前! 頭おかしいくらい強いな!」

 

 余裕の笑顔を見せながら致死の一撃を叩き込んで来る陽人と裏腹に、私は一発一発を受け流すごとに体力をごっそりと持ってかれていく。それでもなんとか、私は陽人と互角に撃ちあえる体勢に持っていけていた。

 

 でも決定打が撃てない。このままじゃ持たない。一分経たずに体が限界を迎える。リスク覚悟で、こちらから仕掛けないとじり貧だ。

 

――そんなぎこちない動きじゃ当たり前だ。俺ならもっと上手く立ち回れるぜ。

 

「ははははっ! すげえ! ありえねえ! 身体強化してんのに! 一般人相手に攻めきれないなんて初めてだ!」

 

 私の体は悲しいくらい鈍足で、複葉機がジェット戦闘機相手に射撃機会を得られないような状況に持ち込まれていた。

 

――射撃……機会? へっ、比喩はともかく、攻撃する余裕がないなんて泣き言はなしだ。相手はとんだひよっこだぞ? いくらでも誘導できるはずだ。

 

「悔しいけど認めるぜ! お前は俺より強い! でもここまで有利な試合で負けられっかよ!」

 

 私は体力的に限界を迎えていた。吐息は乱れ、脳には酸素供給が間に合わず意識も薄れ始めていた。脳はオーバーヒートによる損傷を避けるため、今まさに強制シャットダウンを実行しようとしていた。

 

「どうした!? 防戦ばっかじゃ俺には勝てねえぜ!」

 

それなのに陽人はまだまだ余裕綽々といった様子で、嬉々として木刀で斬り込んで来る。無駄口まで叩いてくるし、本当に癪でしょうがない。悔しいけれど、身体的スペックに差が付きすぎているようだ。

 

 本当は、実力で以て陽人を捻じ伏せたかった。けれどもう肉体が、脳みそが、精神が限界だった。それら全てが直ちに活動を強制的に終了させようと意識を削り取りに掛かっている。

 

――しょうがねえな。俺に任せてみな。

 

 

 

 吹きすさぶ突風が全身を叩く灰色の空の下、まるで作り物かと見紛う美貌を讃えた美少女が立っている。眩く光り輝く金色の髪は突風とは無関係に波打ち、白銀の閃光を全身から迸らせていた。

 

「あと少しじゃ。決して目を離すなヴェイル!」

「任せとけって」

 

 俺は自ら流した血の池に倒れ伏したまま、歪んだ笑顔を顔に張り付けてこちらを凝視してくる黒髪の美女から目を離さない。戦闘には似つかわしくない黒いドレスに身を包んだ最後の魔王、発狂者ピューゼリアは、肉体をズタズタに引き裂かれていてもなお、身の毛のよだつ笑顔を顔に張り付けたまま、筋肉を痙攣されたような哂い声を上げ続けている。

 

 滅魔の力を以てしても完全に息の根を止められない不死身の生命体を前にして、最早残された手段は一つしかなかった。

 

「止めてっ! 行かないで!」

 

 俺とカディア、ピューゼリアの三人が白銀の光球に呑まれ異空間へと消滅していく最中、置いていったはずのハリアの声が俺の耳に届く。

 

 悪いな、ハリア。お前の頼みは聞いてやれそうにない。視界が白銀に呑み込まれ、ついで暗い闇へ誘われていき、あらゆる感覚が磨耗し消滅していく。

 

 そして意識が断たれた俺がふと気が付くと、手には木で出来た剣が握られていた。片刃の剣を模した細い木剣で、目の前に立つボサボサ髪の少年の胸元に剣先が当たっている。

 

「マジ、かよ……」

 

 呆然としながら自身の胸元に目を遣る陽人を見ながら、俺はぼんやりと今の状況を理解し始めていた。

 

 煌々と道場内を照らす蛍光灯の明かり、開け放った扉から吹き込んで来る火照った体に心地よい涼やかな風、扉の向こうからこちら目掛け夕日を反射してくる数台の自動車……ああそうだ。ここはかつて俺がいた世界じゃない。

 

 混濁する意識が急に晴れたかと思うと、俺は思わず帝國語で呟いた。

 

「おいおい、こりゃどうするよ……」

 

 

 



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T/A10V:生まれ変わると、超絶美少女に生まれ変わっていたんだが・・・・・・?

 

 

 ズキンと一瞬頭が痛み、フィエーナの記憶が今、何が起きているのかを俺に知らせる。俺は死んで、蘇った? フィエーナとして……だが、何故今さら俺が自我を持ってこの体を動かしているんだ? もう、俺は記憶の中にあるだけの存在だったというのに。

 

 鼻腔に漂う微かな血のにじむ匂いが、酸素を求めて伸縮する肺が起こす空気の流れが、手に持っている木刀の感触が、確かに俺が今ここで生きている実感を与えてくれる。

 

 フィエーナから見れば何でもありの魔法の世界に生きた俺だって、こんな荒唐無稽な出来事に当事者として出会うなんて予想外だ。

 

 意識を走査してみると、フィエーナが消え去った訳ではないようだ。安心した。

 

本気の本気を出そうとして、一気に疲れが出て眠りに付いてしまったように感じた。こういった出来事に詳しくはないが、一日たっぷり寝れば自然とフィエーナの意識は目覚めるだろう。

 

 しょうがない、それまでどうにかフィエーナとして振舞うほかないようだ。

 

「互いに、礼!」

 

 混乱しきっている俺は、林原先生の号令で陽人と礼を交わしながらも自身が取り乱さないようにするだけで精いっぱいだった。

 

 そのせいで、陽人の様子が普段と違うことに気付けなかった。試合終了後、陽人は無言で道場を走り去ってしまった。一瞬視界に写った陽人の顔は耐えがたい敗北で歪んでいた。

 

 俺は状況に理解が追いつかないながら、陽人を放っておいていいのか判断つかず背中を追いかけようと駆けだす。

 

「待て、フィエーナ」

「林原先生」

「しばらく一人にしてやれ。あいつも気持ちを整理する時間が必要だ」

 

 逡巡したが、俺は林原先生の言葉に従うことにした。フィエーナの記憶を見て、陽人が一度や二度の敗北で捻じ曲がる性根の男じゃないと思えたからだ。

 

「フィエーナ驚いたよ。まさか本気の陽人に勝って見せるなんてね」

「正直、よく覚えていないん、です……無我夢中で、気付いたら勝ってた、んです」

 

 ロートキイル語の丁寧語がスラスラと口から出るのに我ながら驚きを覚える。帝國語じゃまともに丁寧語が話せずお偉いさんの前では突っ立ってるしか能がなかったというのに。それでも俺が丁寧な言葉遣いをしているのがどうにも落ち着かない。

 

そもそもからして、俺が喋っているのに少女の声で出力されるのも俺を混乱させて来る。

 

「無我の境地か。俺もいつかはその域まで到達してみたいもんだ」

 

 肉体の酷使と精神的混乱。何だか疲れてしまって、俺は天を仰ぎ眉間に指をあてる。ただし、眉間に触れた指はごつごつとした太い指でなく、フィエーナの綺麗な細い指だった。

 

「疲れているみたいね。鳳二さん、フィエーナをお風呂に入れてあげてもいいかしら」

「おお、折角だし日本の風呂に入ってみろ。気持ちいいぞ~」

「私が案内してあげる!」

 

 張り切って俺の手を取り先導する遥を見ていると、初めて会った時見た機械のような無表情っぷりが勘違いだったように思えてくる。フィエーナは俺を真似しただけというだろうがとんでもない。フィエーナ、お前は立派だよ。

 

「遥、先に着替えを取りに行かせて」

「あ、そうだね。じゃあ私の部屋行こうか」

 

 今日俺は、遥の部屋の一角を間借りして寝かせてもらう。和室に布団を敷いて寝るなんて初めてだ。フィエーナは楽しみにしていたが、残念だったな。まあ、俺の記憶を見れば体験できるからそれで我慢してもらおう。

 

「どうしたの? 忘れてきたの?」

「いや、そうじゃない……けど」

 

 遥の部屋に置かせてもらっているバッグから着替えを取り出す。当然、パジャマも下着も女物だ。ど……どうする俺!? というか、道着はともかく今の俺も中に付けている下着は女物じゃねえか。

 

 再び眉間に手が延びる。やべえ、フィエーナちょっと変わってくれないか。俺の願いは空しく、意識がフィエーナに移り変わる様子はない。

 

「大丈夫? ちょっとここで休む?」

「あ、いや大丈夫だよ。さっ、お風呂にしよう!」

 

 遥の部屋から少し歩き、浴場に到着する。ガラガラとスライドする扉を開くと、籠が入った棚と姿鏡、数人が横に並んで使える鏡付きの洗面台、それに体重計の置かれた空間が広がっていた。

 

「まるで旅館のお風呂みたいだよね」

「旅館って何?」

 

 遥によると旅館というのは日本におけるホテルのようなものなのだそうだ。その上でこんな大きな脱衣室を備えた家は日本でもそうはないと教えてくれた。

 

「こっちがお風呂場だよ」

 

 遥が擦りガラスで出来た扉を横に開くと、お湯がたっぷりと張られた浴槽からもうもうと湯煙が浮かんでいた。フィエーナの家にある陶製の浴槽とは比較にならない、古代ローマ人の邸宅にありそうな規模の広々とした大きな木製のお風呂だ。

 

 思い返せば、俺のいた世界では貴族でも碌に風呂には入っていなかった記憶がある。平民の俺は水で体を洗う程度だった。今あっちに戻ったら悪臭に耐えられないかもしれない。

 

「広いね。私なら四人か五人は入りそうだね」

「ふふっ、フィエーナがいっぱいだね」

「じゃ、先に入っていいのかな」

「うん、どうぞ」

 

 遥が脱衣室から出ていった後、俺は道着に手を掛け少し迷う。果たして俺が見ていいのか? だが、フィエーナと俺は一心同体なのだ。その気になればいくらでもフィエーナの記憶から覗き見れるのに、迷う必要が何処にある。

 

 意を決し脱ぎ始めるが、道着を脱いだ後で目に着くのは可愛らしい女向けの下着。途中からこんなもの着ていられるかという気持ちの方が優ってポンポンと景気よく脱いでいってしまった。

 

「うわ……」

 

そうして裸になってみて、改めて全身を眺めてみるとかつてとの違いに思わず唸ってしまう。

 

 顔はまだ少女然としていたフィエーナだが、体つきはとっくに大人に迫っているようだ。フィエーナの身長は百六十一センチ。俺のいた世界に女で、それも十二歳で百六十一センチってのはいなかった。今がこれだとフィエーナが大人になる頃には俺のいた世界の平均的な男とタメを張れるだけの背丈が得られそうだ。

 

 姿鏡で全身を確認する。白銀の髪は、ハリアを思い起こさせる。ただ、あいつは癖毛でいつもどっかしらの髪が飛び跳ねていたな。フィエーナの髪はふんわり纏まっている。櫛を入れなくても手で簡単に整えられるのを見たらきっとハリアは嫉妬するだろう。

 

 紅紫色の瞳はロートキイルでもあまり見られない目の色だ。多分、ヴェルデ市ではフィエーナとベーセル兄貴の二人だけだろうし、国内でも十人いるかどうかってところだろうな。

 

 目尻の垂れた目付きは、物憂げでミステリアスな魅力を放っている。紅紫色をした瞳の珍しさも相まってフィエーナを非日常の存在であるかのように見せかけていた。フィエーナが度々街中で呼び止められて、目を見せてほしいとかモデルにならないかなどと言われるのも納得する。

 

 顔立ちも整っていて、可愛らしい。今でも美少女だが、成長すればさぞや美人になるだろう。何処を取っても一流といっていいが、俺個人としては目付きが好きだな。鏡越しに見ているのに惹きこまれるような魅力が感じられる。だが、妖しく誘ってくるようなこの目付きを見過ぎていると魅了されかねない恐ろしさを感じ、俺は自覚した瞬間に慌てて目を逸らした。

 

 長い手足はフィエーナを実際の身長よりもスラっとした印象に見せかけている。筋肉はあるが、ごつごつした印象はない。むしろ柔らかく、しなやかな体躯は猫科の肉食獣を連想させる。実際、腹部に手を這わせてみるとすべすべふにふにしていた。

 

 俺がフィエーナの将来……それも剣術を続けさせる上で心配になるのが、片手で握ると手がいっぱいいっぱいになってしまう程度に丸く膨らんだ胸だ。フィエーナの母親を見るとこれでもまだこの程度で済んでいると思えてしまうが、実際のところ下着の補正がないと動いていて違和感が半端ない。

 

 ちょっとその場を歩いてみると揺れて体の重心移動がとんでもなくぶれぶれになってしまい、俺は苦笑した。こりゃ、厄介な重量物が付いてきたものだ。さっき投げ捨てた下着の恩恵は偉大だったことに気付き、今更ながら丁重に扱ってやることにした。

 

 あれこれ考えているが、ふとまるで子供を持ったようだなと思い再び苦笑してしまった。現状、俺自身がこの体を意のままに操れるが、このまま俺が俺として生きようとは思えなかった。

 

 

 紛れもなくフィエーナは俺自身ではあるのだが、しかし俺はもうフィエーナの一部に過ぎないのだ。今は疲れ切ったフィエーナが休んでいるから、代わってやっているだけ。

 

 姿鏡に映る俺はかつて大剣を意のままに操った大男としてではなく、人を惹きつける見目麗しい十二歳の美少女であり、こいつを俺として動かそうとは思わない。俺の魂に新たに生まれたフィエーナにこそふさわしい体だ。

 

「あれ、フィエーナ裸で何してるの」

「遥!?」

 

 俺が感慨深い感情に浸りながら全裸で姿鏡の前に立っていたところに、ガラガラと音を立てていきなり遥が入って来る。馬鹿野郎! いきなり入ってくるなよ!

 

 変な奴と思われたらフィエーナに恥をかかせてしまう。顔に血が上るのを感じながら、俺は慌てて籠の上に置いたタオルを引っ掴み、顔より下を隠すように垂れ下げた。

 

「ごめんねフィエーナ。もう浴場に入ってるかと思ってたの」

 

 くるりと背を向けて謝罪する遥は、俺の反応を裸を見られたからと解釈してくれたようだ。

 

「別に後ろなんて見てなくていいよ、それより何の用?」

「あのね、一緒にお風呂入ってもいいかなって聞こうと思って」

 

 一緒にお風呂? 確かにここのお風呂はでかいから、数人が同時に使っても問題はなさそうだ。だが俺のいた世界では裸は猥らに他人へ見せるものじゃない。ロートキイル人としても、他者と裸でお風呂に入る習慣はない。サウナはあるが、あれは水着で入るものだ。

 

「それって日本だと普通なの?」

「普通! タオルは付けるけどね。あっ、でもね、湯船に入る時は取らなきゃ駄目なんだよ」

「うーん……でもなあ」

「駄目?」

 

 正直言って、断りたい。遥が嫌いとかそういう訳じゃないが、文化的に受け付けないというか、理屈じゃないんだがやりたくないという思いが強い。

 

 だが、物欲しそうにこっちを上目遣いで見つめて来る遥を見ていると甘やかしてやりたくなってしまうのだ。フィエーナにもその気はあるが、俺も頼まれると余程じゃない限りはどうにかしてやりたいと思ってしまう。

 

 そういえばベーセル兄貴も何度かここに泊まった時、陽人と一緒にお風呂に入った話をしていたような気がする。ベーセル兄貴にも出来て俺に出来ない道理はない。

 

「まあ……いいよ。一緒に入ろうか」

「ありがとうフィエーナ! 背中洗ってあげるね!」

「あ、ありがとう遥」

 

 裸のままの俺に抱き付いてくる遥に、俺は思わず引きつった笑顔になってしまう。ええい、覚悟を決めたぜ。この際日本流の入浴法を身に着けてやろうじゃないか。

 

 



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T/A11V:前世の俺としては、フィエーナには幸せになって欲しい。

 

 

 俺と共に裸になった遥は意気揚々と浴場内へ俺を引き入れる。気のせいかもしれないが、遥が俺を舐めまわすように見てくる……ような気がする。

 

「フィエーナっておっぱい大きいよね」

 

 羨むような視線を向ける遥には確かに胸はない。だがなあ、フィエーナを対象に考えちゃ駄目だろう。

 

「遥はまだ成長期に入ってないだけだよ」

「だ、だよね……お母さんも小さかったけど」

 

 ボソッと悲し気に呟く遥に俺は返答してやれなかった。きっと、遺伝だけで決まるものじゃない……と思うぜ。

 

「じゃあ最初はお体洗いましょうねー」

 

 気を取り直したのか、浮ついているのが見て取れるほどニコニコと顔を蕩けさせている遥は、歌うような調子で俺を木の椅子へ座らせる。

 

「本当に日本だとお互いに体を洗うの?」

「仲良しなら普通!」

 

 普通……普通のことなのか。

 

「んん……フィエーナの髪綺麗だよねー!」

 

 揉みしだくように髪を撫でつけながら髪を洗うのは普通なのか。

 

「あぁ……フィエーナの背中!」

 

 感極まった声を上げながら背を洗うのも普通なのか? 遥は舞い上がり過ぎて調子が狂っているんじゃないか?

 

「ねえ! 前の方も洗ってあげようか!?」

「いいよ、後は自分でやるから。それより、次は私の番でしょ?」

 

 遥を座らせ、俺はゆっくりと髪を洗ってやる。フィエーナが普段からやるように、あまり力を込め過ぎないよう丁寧に。

 

「んっ……フィエーナ、頭洗うの上手だね……」

 

 肩に触れそうな長さの黒髪は艶やかで引っかかるようなことはなく、頭皮まで指先が簡単に届くので洗うのに苦労しない。気持ちよさそうに小さく声を紡ぐ遥を見ていると、指先に溜まっていく疲労も飛んでいくような気がした。

 

「ねえ、遥。今日の遥随分とはしゃいでいるね。友達とお風呂にはいるのがそんなに嬉しかった?」

「あ……ちょっとテンションおかしかった?」

 

 俺の口調に少し咎めるような調子を感じたのかもしれない。遥の返答は何処かおどおどとしているように思えた。

 

「いつもと比べるとね」

「嫌だった?」

「そうじゃないよ。でも、一回落ち着こうか。息も荒くなってるし、深呼吸しよう」

 

 遥はまだぬるま湯で髪を洗った程度なのに、耳も頬も赤く染まっていた。普段から白い肌をしているだけに、余計目立つ。遥はもしかすると、暑さに弱い性質なのか?

 

「どう? 落ち着いた?」

「うん……どうかな。まだ心臓がバクバク言ってる」

「もしかしたらお湯にあてられたのかな。一回お風呂を出て、涼んできた方がいいよ」

「そうかも。ちょっと出て来るね」

 

 湯気満ちる浴場内が遥の調子を狂わせてしまったのだろう。一回頭を冷やせばいつもの遥に戻るんじゃないだろうか。

 

 浴場から遥が出て行った間に俺は全身を洗い終え、浴槽に足先を差し入れる。

 

「んー、ちょっと熱いかも」

 

 かといってこの湯の量じゃ冷めるのを待っている間に俺の体が冷めてしまう。一回、浸かってみるか。するすると体を浴槽の中へ沈めていき、ついには肩までお湯の中へ沈めてしまう。

 

 あー、でもこの熱さがいい感じかもしれない。シャワーを浴びるのとはまるで違う、全身がほっこり熱に包み込まれるような感覚が心地よい。それに、浴槽の材料になっている木の香りが清涼感をもたらしてくれる。

 

「あー……これははまるかも」

 

 思考が蕩けてただ、気持ちがいい。しばらく何も考えずお湯をのんびり眺めていると、浴場の扉が開き、遥が戻って来る。

 

「フィエーナ、お風呂気に入った?」

「うん、これ好き」

 

 やばいなあ、ヴェルデ市でお風呂に入れる場所なんてここぐらいなのに。お風呂目当てで毎日通いたくなってしまいそうだ。

 

「遥は大丈夫なの? 気分はどう?」

 

 戻ってきた遥はスポンジを泡立てて体を洗おうとしていた。さっきは髪しか洗ってないもんな。

 

「ん、大丈夫。原因も分かってるし」

「原因って?」

「フィエーナ」

「え?」

 

 てっきり、暑さに弱いと答えるかと思っていた俺は間抜けな声を上げてしまう。

 

「私、いつもはお風呂に何十分も入ってても平気なんだよ? でも、フィエーナと一緒だと何だか頭が暑くておかしくなっちゃったんだ」

 

 なるほど、実は遥も他人と一緒にお風呂にはいるのが恥ずかしかったんだな。日本人なら普通と思い込んで実践してみたけど、無理だったって訳だ。俺はそう指摘してみるが、遥は首を横に振った。

 

「違うよ。お友達と一緒に入ったことなんて何回もあるし、家族で温泉に行ったことだってあるもん」

 

 今まで背を向けていた遥が振り返って俺と目を合わせる。答えの分からない何かを欲する切ない表情に、俺は思わず緩やかに弛緩していた思考を正される。

 

「フィエーナといると別なの! どうしてか分からないけど、何か……ごめんね」

 

 悲し気な笑みを最期に遥は再び背中を向けて、スポンジで全身をこすり始める。遥の小さな背中を見ていると、正解も分からないのに俺は浴槽から上がって遥へ向かっていった。

 

「フィエーナ?」

「背中洗ってもらったからね。私もやってあげる」

「ありがとう!」

 

 遥の背中は十二歳相応に小さかった。この年で親元を離れ、一人なのは心寂しいに違いない。普通の少女に比べ、遥は重荷を背負わされてしまっている。もし俺を特別に思ってくれているなら、遥の重荷を代わりに背負い、心の隙間を埋めてやりたい。遥を助けてやりたい。

 

 

 体を洗い終えた後、俺の隣で一緒にニコニコと浴槽に浸かる遥を見て俺はフィエーナと同じような愛おしさを覚えた。

 

 俺の肩に頭を乗せこっちをずっと見つめて来る遥は甘えん坊の子供にしか思えなくて、結婚もしていない二十三歳の若造だったくせに、フィエーナに続く二人目の子供を見守る気分を抱いてしまっていた。

 

 

 

 遥が浴槽に浸かってから十分ほどだろうか。俺はそれより長く浸かっていたからか、何だか熱に浮かされたような気分になりつつあった。いけね、これじゃ俺の方が調子を崩しちまう。

 

「これ以上は限界かな。私はそろそろ上がるね」

「じゃあ、私も出る。多分鳳二さんが今か今かと待ってるよ。あの人お風呂大好きだから」

 

 今日はフィエーナがお客さんだから特別なんだよと遥は教えてくれる。

 

「でも鳳二さん長風呂はしないの。お風呂は好きなんだけど浸かるのは数分だけなんだよ」

 

 体を拭き、いざ下着を付けようといった段階で俺の手は止まった。あー、これ着けなきゃいけないのか。フィエーナの記憶を見る限り、こいつは就寝用の地味な代物だ。それでもな……だが、隣で俺が下着を見て動きを止めているのを不思議そうに見ている遥がいる。

 

 

「何で恥ずかしがってるの?」

「そんなこと、ないよ……あはは」

 

 視界に入れる時間を短くしようと手早く下着を身に着けた俺は、さっさとパジャマに袖を通した。

 

 

 

 美味しく頂いた夕食の席の後、テーブルに並んだ皿を遥と一緒に台所まで運んで、食器洗浄機へ放り込んでいく。一々手で洗わなくても、この世界ではいいのだ。

 

様々な文明の利器に、多彩な調味料を使った新鮮な料理の数々。全くこの世界は羨ましいくらい文明が進んでいる。

 

「なあフィエーナちょっといいか」

「いいけど」

 

 全ての食器を洗浄機に入れて、後は終了の音楽が鳴るのを待っていた俺を陽人が連れ出す。

 

道場脇の連絡路まで行くと、晩酌で賑やかな大人たちの笑い声も遠く聞こえる。外は既に暗く、弱弱しく灯る連絡路の照明にはひらひらと蛾が誘われていた。連絡路の先に建つ誰もいないがらんどうの道場は明かりもなく、何処か厳かで神聖な雰囲気を漂わせている。

 

 少しの間俯き、口をつぐんでいた陽人は目を合わせるなり強く俺を睨み付けて来る。

 

「なあ、お前の強さやっぱおかしいよ。今までの俺ならお前には天賦の才があるって納得できた」

 

 今までの疑念を晴らすような苛立ちを募らせた口調で陽人は続ける。

 

「今日俺は本気だった。こっちの国の連中と模擬戦していい線行ってる俺が、魔力もないお前に五分だなんて冗談もいいとこだ」

 

 本気で理不尽を覚えているのだろう。悔し気な顔つきは切羽詰まっているようにも見えて、俺は真相を明かすべきか一瞬悩んでしまった。

 

「立ち回りだっておかしい。さっきのお前……まるで何度も死線を潜り抜けた奴の反応じゃねえか。死を目前にしてなお、勇気を持って踏み出せる奴がようやく立てるラインにいる、気がする」

 

 陽人がここまで真相に迫って来るとは正直驚いた。フィエーナの記憶を見て俺は、こいつを立ち向かってきては何度もフィエーナに挑み続ける愛すべき馬鹿と考えていた。

 

だけどなフィエーナ、お前はこいつをちょっと軽く見過ぎている。こいつは目指す目標を前に何処までも努力できる男だ。一回りも歳が下のフィエーナに何度も負けて、それでも剣の道を一度たりとて諦めた様子を見せない陽人には、尊敬の念を持ってもいいくらいだぜ。

 

「絶対お前は何か隠してるだろ」

「……」

 

 俺はあえて否定はしなかった。否定できなかった。

 

「そうか……じゃあさ、いつか俺が勝ったら話してくれるか?」

「負けないよ」

「言ってろ、いつか必ず勝ってみせるからな」

 

 馬鹿みたいに探索者の道を進み続けた俺の若き頃を見ているようで、俺は思わず微笑んでしまう。

 

「な……何でここでそんな風に笑えるんだよ」

「気にしないで」

 

 何故か照れて頬を掻いてみせる陽人へ俺は手を差し出した。

 

「あ?」

「陽人も来月から日本に行くんでしょ。私もその間頑張るから、陽人もサボっちゃ駄目だからね」

「当たり前だ!」

 

 乱暴に差し出された手を受け取り、互いに握手を交わす。

 

「実はな、剣術探求ってこっちの友達には言ってるしお前にもそう言ったけど本当は退魔師修行に行くんだ」

 

 日本は何故か特別魔之物の出現量が多く、実戦経験を積んだ歴戦の退魔師も世界一の人数を誇っていると陽人は話す。

 

「俺はそこで実戦を積む。本物の化け物相手に戦いを重ねていくんだ。ちんたら剣を振ってるだけのフィエーナなんて、あっという間に追い越してやるぜ」

 

 そうはどっこい。俺だって化け物相手は幾度もこなしている。これからの未来に燃えている陽人には発破だけかけて送り出してやろう。

 

「それは怖いね。でもだからって私だって負ける気はしないから」

「言ってろ」

 

 フィエーナは陽人のことをただの兄貴の友人としてしか見ていなかったようだが、俺は陽人を気に入ってしまった。頑固でいじっぱりで目標目指して愚直な素直に感情を見せる男に俺は親近感を抱いてしまった。

 

「何か知らねえけど、今日はお前とよく話せた気がするな」

「そう?」

 

 陽人にとってもベーセル兄貴は友達だが、フィエーナのことは友達の妹兼追い越すべき目標としてしか見ていなかったようだ。たまに家に来たときとかに、ちょっと軽口を交わす程度の関係でしかなかった。フィエーナの記憶を漁ってみると、何だかんだこんな話す機会は初めてなのか。

 

「へへ、話せる機会ももうそんなないもんな。思い切って話してよかった」

「ねえ、多分そんな機会あるか分からないけどさ……ついてきて」

「何だよ」

 

 俺は遥の部屋まで陽人を連れてきて、荷物からメモ帳を取り出しアドレスを書き記して渡す。

 

「今まで連絡先も交換してなかったでしょ。だから、はい」

「ははっ、そういや。そうだったな」

「困ったら相談してもいいから」

 

 俺の発言がおかしかったのか、陽人は盛大に笑い出した。

 

「何で笑うのさ」

 

 発言した直後、俺はフィエーナだということに気付く。そりゃ五歳も離れた少女が上から目線してたら笑われもするか。

 

「い、いやだって……ま、分かった。ありがとうよ」

 

 俺の頭をポンと叩いた後、陽人は襖を開ける。そこでは不満げな遥がこちらを睨んでいた。

 

「長くなっちまって悪いな遥。俺は部屋に戻るよ」

 

 メモ用紙を頭上に掲げ、ひらひらと振りながら陽人は遥の部屋から去っていった。

 

 

 

 休みの最中なので遊ぼうと思えばいくらでも遊べるが、遥には一刻も早く強くならなければいけない理由がある。

 

 そこで俺たちは明日の修行に備え早々に寝ることにした。林原家の人たちに挨拶を告げた後、遥の部屋に布団を敷いて二人一緒に横になる。

 

 俺は一気に眠気に襲われ、何か遥と二言三言会話を交わしてすぐに寝入ってしまった。

 

 

 

 私は夢を見た。私の体へヴェイルが乗り移って林原家の人たちや遥と行動している。ヴェイルが私の格好をして、さらには私の口調をして動いているのは滑稽なようでもあり、現代に蘇ったヴェイルを見るのは憧れのスターを目の前に現れたようで感動を覚えもする、不思議な体験だった。

 

 良質なスピンオフ作品を見たような読後感を覚えつつ、私は目を覚ました。さっきまで木刀を握っていたはずなのに、今の私は隣の布団から転がり込んできた遥に抱き枕として身動きを封じられている。

 

 私が今目を覚ますまでの間、確かにヴェイルが私を動かしていたのだ。

 

 ヴェイルになら、安心してこの身を任せられる、のだけれど今さらどうしてこんなことが起きたのだろう。やっぱり肉体に無茶をさせすぎちゃったのだろうか。ヴェイルがそう判断していたのだ、きっとそうなのだろう。

 

 でも、無茶をし過ぎてもヴェイルが控えているのなら安心して無茶が出来そう。そんな不届きな思いが通じてしまったのか、心の奥底からヴェイルの諌める声が聞こえてきたような気がした。

 

 遥の好きなキャラクターものの可愛らしい卓上時計に目を移すと、時刻は五時半になろうかといったところだった。遥の柔らかい体の温もり、ほんの微かに香る甘い体臭、吐息を浴びながらぼうっと障子の向こうを眺めていると、群青色の空がゆっくりと明るくなっていくさまが見えた。

 

 そろそろ起きなくちゃいけないな。私は体を揺さぶってみるけれど、どうも拘束は解けそうにない。

 

「遥、起きて。朝だよ」

 

 もぞもぞと動いて耳元に直接声を届ける。何度か声を掛けていると遥も目を覚ましたみたいでぽけぽけした顔つきでこっちを見つめてくる。その愛くるしさに私は一瞬このままでもいいかなと思い込まされそうになってしまう。

 

「遥、起きた?」

「んー……? うん……おはよう、ふぃえーな……」

 

微睡みながら微笑む遥はやっぱり愛くるしくて、またしても私はほだされそうになってしまう。うう……このままじゃいけないな。

 

「ふぃえーなぁ」

「うわ、ちょっと遥」

 

 寝ぼけて顔を近づけてきた遥に慌てて動こうとするけれど、やっぱり動けなくてそのままおでことおでこが接触してしまう。

 

「ねえ、寝ぼけてないで起きてよ。いい加減恥ずかしくなってきたんだけど」

「私はそんなフィエーナの顔もっと見てたい」

 

 あっ、これからかわれているのか。遥の口の端に浮かぶ笑みがいつの間にか悪戯っ子のそれに変わっていたのに気付く。

 

「もう遥、早く起きないと朝の修行が出来なくなっちゃうよ」

「そうだね。残念だけど起きる」

 

 遥が私の拘束を解いてくれたので私が立ち上がろうとすると、いきなり遥が腰に飛びついてきたので私は布団に尻もちをついてしまう。

 

「もう遥!」

「フィエーナおーはよっ!」

 

 はしゃぐ遥に私は怒るに怒れなくて、笑ってしまう。それに遥もつられて笑い出す。ああもう、何て楽しい朝の始まりなんだ。

 

 

 



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T/A-Ha01:閑話

 

 事件が終息したあの日から、私は私自身の行動を第三者の目線で見つめていた。嬉しいとか悲しいとか、昔は私も感じていた感情が持てなくなっていた。

 

 私自身が何処か遠くにいるような、空虚な感覚しか持てなかった。

 

「馬鹿者! そうではないと言っているだろう!」

 

 はかま姿のおじさんから怒鳴られる。どうして私は木刀を持たされているのだっけ。訳も分からないまま、おじさんの言う通りに体を動かす。でも、思うように体が動かない。おかしいな、これは私の体なのに……そうだっけ、これは私の体、私の? 私って何だっけ……。

 

「違う! どうしてこの程度も分からんのか!」

 

 ああ、何だかもうどうでもいいや。とにかく、終わらせよう。

 

「ちょっと待ってください!」

「吉上! 貴様、何をしに来た!」

「遥はまだ訓練をするような精神状態じゃない! 今はまだ静かにさせてあげるべきです!」

「馬鹿者! 一刻も早く自衛の術を身に付けさせるのが真の優しさだろうが!」

「とにかく、こんなこと許されていいはずがないでしょう! この子は僕が預かります!」

 

 私の手を引っ張る男の人は、私を地獄から救ってくれた恩人だ。とてもありがたいことで、感謝をしてもしきれないはずなのに、私は口を開くことが当時できなかった。ありがたいと思う余裕すらなかったのだ。ただ、苦しみが途絶えて、そして代わりには何もない。

 

「そ、そんな……そんな暴挙許されるとお思いですか!?」

「しかしそれは、天河家がいなければ壊れていただろう? 天河家に身を尽くすのが人として当然の事でないかね?」

「な……まだ心の整理もついていないこの子の口約束に拘束力なんてあるはずがない! この件は僕が直々に重蔵様と話を付けます!」

「馬鹿な! 当代の主である私の判断に横車を押すというのか!」

 

 私の周りで叫ばないで。争わないで。折角、苦しみから逃げられたのに、また痛くなる。苦しくなる。

 

「いいだろう、お主の判断に任せる」

「お父様! しかし! 遥の潜在力はここ数十年稀に見るものがあります! その血を是非とも天河に入れるべきでしょう!」

「いけ、善。こいつの傍に居るとそれも邪魔が入る。鳳二の元に身を寄せるとよかろう」

 

 無理やり天河家の人間と婚約するよう強要された私を、吉上さんはロートキイル王国へと連れ出した。

 

「大丈夫、向こうでは何も心配いらないから」

 

 事件以来、私のために動き続けてくれた吉上さん。私を悪魔から救い出し、両親の病院を手配し、自衛手段を手にするよう天河家に預けてくれた吉上さん。私は何も恩返しなんて出来ないのに、ただ助けてくれて、私を慰めてくれた吉上さん。

 

頭を撫でてくれる吉上さんの優しさに触れて、私はようやく自分を自分自身が動かしている感覚を取り戻せた。

 

 けど、それは同時に自分が犯した過ちと直面することにもつながった。私が、両親を、友人を、吉上さんを危険に導いたんだ。それを自覚すると、心が息苦しくなった。優しくしてくれる吉上さんに申し訳なくなった。大きな恩を感じているからこそ、これ以上迷惑をかけたくなくて、頼りに出来なくなった。

 

 

 

 私が身を寄せた林原家の人たちはみんないい人だった。

 

「初めまして遥ちゃん。林原幸恵よ、ゆっくりしていってね」

「林原鳳二。ここの道場の主だ。今日は疲れたろう、休むといい」

「俺は陽人だ。あー……まあ、よろしくな」

 

 でも、ここは私の居場所じゃない。私のいた……お父さんにお母さん、お友達。みんな私のせいで壊れちゃった。壊したのは私。でも、それを本気で考えだすと体が震えてくる。死にたくなる。

 

 もし私のそんな見苦しい態度を見せたら、きっと迷惑に思うだろう。心配をかけるだろう。だから、考えない。とにかく、心を空っぽにして、そうしていれば、傍目には普通でいられる。

 

「遥ちゃん、今日は休んだら?」

「ありがとうございます。でも、やらしてください」

 

 天河の人間に持たされた道着に身を通し、私は道場に向かう。無力な私が招いた惨事。無力でいることが罪ならば、早く力を付けなくちゃいけない。事件から日が経って、少しは考える余裕の出来た私に、ただ何もせずじっとしているなんてことは出来なかった。むしろ、何もしない方が怖い。何か、意味のあることをやらしてほしかった。

 

「日本じゃお辞儀かもしれないけれど、ここじゃ挨拶の時に握手をするんだよ」

 

 そう言って手を差し出したのは、とても綺麗な女の子だった。赤紫色の瞳をした、垂れた目付きは優しげで、慈しみに満ちている。落ち着いた調子の声音は、聞いているだけで空虚だった心に充足感を与えてくれる。

 

 久しぶりに、私の心に前向きな感情を抱かせてくれたフィエーナと名乗る少女に、私はすがりつきそうになってしまっていた。でも駄目だ。すっかり私は人を頼ることに臆病になってしまっていた。

 

 

 

 翌日、学校に行くとフィエーナは隣に陣取って話をしてくれる。ロートキイルについて知らない私に、この街のことや、近所の人のこと、フィエーナ自身にあった他愛のない出来事を延々と語りかけて来る。

 

 どうして? 何で私なんかに構うのだろう。疑問に思いつつも、フィエーナの発する声には妙に心を落ち着かせる魔力があって、私はその声に身を委ね続けた。

 

「あるところにね、ヴェイルっていう男の子がいたんだ。その子は魔物が巣食うダンジョンを探検することを夢にしていたの」

 

 フィエーナは作り話というけれど、とてもそうは思えないフィエーナのヴェイルを主人公としたお話は、現実に苦しむ私に格好の空想材料になってくれた。

 

 物語の中のヴェイルは、馬鹿みたいに一直線で、それなのに真っ直ぐ理想に突き進み続けて本当に目標に手を掛けてしまっていた。羨ましいくらいに純粋で、迷いがない。

 

 現実逃避に過ぎないのは分かっている。けれど、私は学校と道場ではフィエーナにすがり、それ以外ではヴェイルにすがって心の苦しみから逃れようとしていた。

 

 逃げ続けていていいはずがない、だからいつか覚悟を決めて立ち向かわないといけない。その覚悟が付いたのは、ロートキイルに来て一か月が経とうとしていた頃だった。

 

 フィエーナの家族に誘われてやってきたザルトヒェン村の避暑旅行も終わりを迎えていたあの日、私はフィエーナに事件のことを打ち明けることで私自身の逃走に終わりを告げた。フィエーナにこんな重たい話を聞かせて申し訳なく思ったけど、同時にフィエーナには私の全てを知っていて欲しかった。

 

「私、強くなれるかな」

「なれるよ遥なら」

 

 私が心に薄ら寒い物を感じて抱き付くと、フィエーナは嫌がることなく受け止めてくれる。フィエーナの体は柔らかく、いい匂いがして心を落ち着かせてくれた。

 

 

 

 ロートキイルに来て、私の周りの人はみんな私に優しかった。吉上さんも、幸恵さんも、鳳二さんも、陽人さんも、里奈も、ユミアさんも……。

 

 でも、私はフィエーナを一番頼った。一か月ほど一緒にいた今なら、その理由が分かる気がする。フィエーナは他の人とは何かが違うのだ。今ではすっかり虜になってしまった外見的魅力はそれはそれで今まで感じたことのなかった感情を私に抱かせるのだけどそうじゃなくて、雰囲気が他の人とは大きく異なっている。

 

母性を感じさせるかと思えば男気を感じて、優しく気遣いが出来るけど一方で豪快なところもある。女らしいのに男らしくて、男らしいのに女らしい。

 

 私はフィエーナのことが大好きだ。この気持ちは友情とは少し違っていて、その正体は私にもよく分からない。

 

 初めて感じたこの思いは何なのだろう。いつか分かる時がきたらいいな。

 

 



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T/A12V:前世の俺としてはヒャッホオオオウ! 戦車は最高だぜぇ!

 

 

 目を覚ますと、真っ先に手を伸ばして視界に入れるのが習慣になりつつあった。俺が自分自身の手だと認識していたのは、大きくごつごつとした武骨な男の手だった。

 

 だがしかし最近目の前に掲げられるのは、白くて細い女の手だ。フィエーナの手に文句をつけるつもりはないが、違和感はどうしても拭えない。

 

「これで三度目、か」

 

 俺が初めてフィエーナの体を借りてから二週間近くが経過しようとしていた。俺が望んだわけではなく、何故か唐突に発生する奇妙な入れ替え現象は週に一回程度のペースで起きるようだった。

 

 フィエーナは意外とこの状況を楽しんでいる。記憶にしかいなかった俺が現代で反応を見せるのが愉快で仕方ないらしい。まあ、怯えられるよりかはマシだが体を乗っ取られているのにこの反応だ。フィエーナも結構タフな精神をしている。

 

 目覚ましに洗面所で顔を洗い、歯を磨いていると欠伸をしながらベーセル兄貴が入ってきた。

 

「ふあ……おはようフィエーナ」

「うあよあえーえういい」

「あはは、歯ブラシ口に入れたまま喋らない」

 

 俺が歯を磨いている間にベーセル兄貴は顔を洗い、終わったタイミングで今度は俺が口の中をゆすいだ水を洗面台へ吐き捨てる。もう慣れたものでお互いが特に会話をすることもなくタイミングを合わせられる。

 

「じゃあ私は先に着替えてるから」

「むむ」

「あー、歯ブラシ口に入れたままだ」

 

 俺の意趣返しにベーセル兄貴は歯ブラシを差し込んだまま笑って見せ、俺はその笑顔を見届けた後に洗面所から出て行く。

 

 俺が自室でトレーニングウェアに着替えていると両親の寝室で目覚まし時計の音が鳴った。一秒にも満たない時間で目覚まし時計は音を止める。相変わらずフィエーナの父親は目覚めるのが早い。

 

「おはようお父さん」

「おはようフィエーナ。何だ今日も俺が最後か?」

「そうだよ、早く支度しないと仕事遅れちゃうよ」

「ったく、お前たちには敵わないなあ」

 

 父親が準備を終えると俺たちはまだ薄暗い夏の朝、近所の公園まで走り始める。元々フィエーナの父親は毎朝一時間走ってから仕事に向かっているが、いつの間にかベーセル兄貴も付き合い始め、フィエーナもやがて付き合うようになったのだった。

 

 昔はベーセル兄貴もフィエーナも父親のペースにとても付いていけず途中からベンチで公園をハイペースで駆ける父親を応援していたものだが、今ではベーセル兄貴は父親に並走するまでに体力を付けていた。俺はまだまだ父親のペースにはとても付いていけていない。

 

 一時間たっぷり走り終えると俺は呼吸が乱れに乱れてしまうというのに、父親は汗ばんでいるだけで息は少し浅くなる程度だ。今年で四十になるくせに、とても敵わない。元特殊部隊員だったそうだが、軍人ってのはみんなこうなのだろうか。

 

「フィエーナ大丈夫か?」

「はあ……はあ……うん、平気……」

 

 いつものフィエーナならマイペースに駆けるだけだが、俺はちょっと対抗心を抱いて父親のペースに食いつこうとした。結果、芝生に倒れ込んでしまう。畜生、いつか追い越してやるからな。

 

「父さんについていこうって考えちゃ駄目だよ。体力馬鹿なんだから」

「なにぃー? 言ったなベーセル!」

「うわ! ちょっとやめてって!」

 

 父親にヘッドロックを掛けられて芝生に倒れ込むベーセル兄貴。止めてと言いながら、その表情は本当に楽しそうで、俺も昔はこんなやんちゃをしていたよなあと懐かしさを覚えた。

 

 

 

 朝食の後、母親からお茶の葉が入った小瓶を二つ渡される。

 

「今日はよろしくねフィエーナ」

「うん、ちゃんと届けて来るね」

 

 フィエーナの母親はお茶を淹れるのが好きで、独自にブレンドティーの作成もしている。これが父方母方双方の祖父母に気に入られていて度々母親が作ってあげては届けているのだが、今回はたまたま渡し忘れたのだそうだ。

 

 どうせ俺は今日特別やることがある訳でもない。仕事に出かける母親の代わりに俺が届けることにした。

 

 フィエーナの服からあまり女の子していない服を選択し、メッセンジャーバッグへ小瓶を詰め込む。よし、それじゃさっさと行ってきますか。

 

「それじゃ行ってくるねベーセル兄」

「うん、気を付けてね」

 

 ベーセル兄貴に見送られ、俺はフィエーナ愛用の自転車に跨って早速出発する。曇りがかった青空の下自転車専用レーンを快調に駆け抜けること十五分、まずは近場の父方の祖父母宅に到着した。

 

 三メートルはある柵に囲まれた家の前には庭とガレージがあるのだが、庭ではゾフィ祖母ちゃんがシーツを洗濯籠から取り出して干そうとしているところだった。

 

「おはようフィエーナ。もう来たんだね」

「おはようお祖母ちゃん。こっち側持ってあげるね」

 

 体が大きくないゾフィ祖母ちゃんがてこずっていた大きなシーツも、フィエーナくらい身長があればそう苦労もせず洗濯竿に干してやれる。

 

「助かったよフィエーナ、ありがとうね」

「気にしないで」

 

 人好きのする笑みを浮かべながら、ゾフィ祖母ちゃんは俺を室内まで案内してくれる。

 

「ドーク! フィエーナが来たよ!」

「おお来たか! よく来たな!」

 

 豪放磊落って奴だろうか。とにかく豪快で元気いっぱいな笑顔でドーク祖父ちゃんは戦車兵向けのツナギを着て姿を現した。抱擁も祖母ちゃんよりずっと力強く、バンバンと叩かれる背中が少し痛いくらいだ。

 

「はっはっは! 大きくなったな!」

「あはは、お祖父ちゃんほどじゃないよ」

 

 百八十二センチはある体躯で俺を抱き締めたまま持ち上げて歩き出す。ドーク祖父ちゃんはもう一人の祖父ちゃんと比べいつも元気で行動的だ。

 

「その服着ているってことは今日は戦車のところに行くの?」

「そうさ! 愛しのKPZ.64が俺を待っているんだよ!」

 

 ドーク祖父ちゃんは昔戦車兵だったことが忘れられず、戦車の動態保存をする同好会に入って退職後も戦車を乗り回している。自家用車も軍が正式採用した車輛の払い下げ品だし、軍隊の持つ車が大好きな人なのだ。

 

「そうだ! まだフィエーナは見てなかった新車両が加わったんだ! 今日は見ていくか!?」

 

 戦車か。フィエーナは何度も見ているが、俺だって一度くらい実物を拝みたい。

 

「でもオットフリットお祖父ちゃんのとこにも行かなくちゃいけないんだ」

「そいつは心配いらねえ! あいつも俺の基地に来るからな!」

「なら行く!」

「ようし! じゃあこのまま出発するか!」

 

 意気揚々とSUVに乗り込んだドーク祖父ちゃんに続いて俺も助手席に座り込む。天気は曇り六割青空四割で悪くはない。ドーク祖父ちゃんは幌を開け放ったまま目的地目掛け車を発進させた。

 

 快活でおしゃべりなドーク祖父ちゃんと会話をしながら二十分。車はブリティッシュランドシステムズ・ロートキイル支社の広大な敷地の一角で停車した。

 

「待たせたなみんな! 今日は俺の孫娘も一緒だ!」

「おお、フィエーナちゃんじゃないか! 元気にしてたかい」

「久しぶりだね! 随分綺麗になったもんだ!」

「えっ! 中将閣下の孫娘がいつの間にこんな大きくなったのか! 子供ってのは見ないうちにすぐでかくなるねえ!」

「ほほう、随分美人になったもんだねえ!」

 

 戦車保存同好会の面々はほとんどが退役した軍の人たちだ。年齢も若くて五十代。だからたまに子供が来るともみくちゃにされてしまう。ええい、五歳児じゃないんだからそこまでしなくていいんだよ!

 

「おいおいフィエーナをあんまり困らすんじゃないよ」

 

 同好会の面々に囲まれた俺をオットフリット祖父ちゃんが助けてくれる。オットフリット祖父ちゃんはドーク祖父ちゃんとは違って、軍人といった見た目ではない。どちらかというと学者あるいは司祭のような物静かな出で立ちをしている。だが、軍隊時代はドーク祖父ちゃんよりもずっと偉かったと聞いた。

 

「おはようオットフリットお祖父ちゃん」

「フィエーナおはよう、今日はどうしてここに? ドークの奴に無理やり連れてこられたんじゃないだろうね」

「そうじゃないよ、お茶の差し入れをお母さんに頼まれたんだ」

 

 俺がメッセンジャーバッグからお茶の葉が入った小瓶を差し出すと、オットフリット祖父ちゃんは嬉しそうに受け取った。

 

「これ、僕も妻も気に入っているんだ。持って来てくれるとはありがたい」

「おうオットフリット! 今日はフィエーナに例の新入りを見せてやりに来たんだ!」

「ああ、KPZ.64/81のことかい」

「そうさ! ほらフィエーナ、こっちだ!」

 

 ドーク祖父ちゃんに先導され案内された広々とした格納庫に戦車たちは鎮座していた。何度も説明を受けているから三輌が何かは分かったが、一輌だけ初めて見る。KPZ.64によく似ているが、主砲にラジエーターグリル、砲手向けサイトなど細部を見ればほぼ別物の車輛だと理解した。

 

「これがKPZ.64/81? 主砲から何まで違うみたいだね」

「よく分かったなフィエーナ! こいつに積まれているのは105ミリじゃない! ラインメタルの120ミリ砲だ!」

 

 アメリカ戦車のパットンを独自改良したKPZ.64を元にして大改良を施したのがKPZ.64/81なのだとドーク祖父ちゃんは朗々と語り始める。

 

「砲だけじゃない! サスペンションもFCSだって別物だ! エンジンもMTUからルステラ社のJu-233に換装済みで出力は五割増し! 後でこいつとKPZ.64の加速を見せてやろう! こいつの加速はエイブラムスをぶっちぎるぜ!」

 

 ただ、フィエーナの記憶によれば装甲能力だけは他の第三世代戦車に劣っていたため、ドイツ製の戦車をライセンス生産してKPZ.64/81は退役したらしい。複合装甲だけは陸軍が満足する出来の物を製造出来ずに爆発反応装甲の付加でお茶を濁したとかなんとか。

 

「ハンス曹長! こいつの調子はどうだい!」

「へっへっへ! いつでも飛ばせますぜ中将閣下! 今日はレディーを乗せて晩さん会にでも行きましょうや!」

「ようし! そら、フィエーナここから乗り込むぞ!」

 

 ドーク祖父ちゃんが先に砲塔までするりと上るのを見届け、俺は渡されたヘルメットを被ってから後に続く。全高三メートルにもなる鋼鉄の塊に手を掛け足を掛け昇っていくと、段々と気分が高揚していくのを感じる。

 

ペラペラの乗用車とは訳が違う、分厚い金属塊で出来た砲塔まで昇り切ると景色がまるで違うのだ。まさに戦場の王者が前線を睥睨する様が見えるかのようだ。

 

「おお……!」

「はっはっは! 中将閣下の孫娘はお気に召したようですね!」

「こいつの魅力に気付くとは、流石に俺の孫だけはある!」

 

 俺を戦車用キューポラに乗せた後、ドーク祖父ちゃんとハンス曹長は戦車を見回り点検をしてから戦車に乗り込んだ。ハンス曹長は操縦席に、ドーク祖父ちゃんは私の隣にある装填手用キューポラに乗り込むとKPZ.64/81は鋼鉄の唸り声を上げて格納庫内をゆっくりと前進し始める。

 

「どうだ! こいつの乗り心地は!」

「すごいね!」

 

 鋼鉄のキャタピラが地面を踏みしめる音に轟々と鳴り響くエンジンの音が、俺の全身を振動させながら伝わって来る。

 

「そうら、そろそろスピードを上げるぞ! ハンス曹長!」

「アイ・サー!」

 

 格納庫を抜け、広々とした平野に出るとKPZ.64/81は一気に速力を上げた。ぐいぐいと速力を伸ばしていき、平野の土を削り飛ばしながらかっ飛ばしていく。

 

「すごい! 速いね!」

「当たり前よ! ハンス曹長今何キロだ!」

『五十キロでさ中将閣下!』

「はっはっは! 不整地でこの速さだ! アウトバーンなら七十キロは出るぞ!」

 

 その後、砲塔を旋回してくれたり光学サイトの映像を見せてくれたりとたくさんサービスしてくれて俺はもう大満足だった。

 

「どうだ! KPZ.64/81はよかったろう!」

「うん! すごかった!」

「はは、さっきからすごいばっかりだね」

 

 オットフリット祖父ちゃんに指摘され、思い起こしてみると戦車に乗ってから確かにすごいしか言ってなかった。いやでも実際すごいんだよ! こんなのが俺の自家用車だったらかっこいいだろうな!

 

 結局、俺の戦車熱は午後に剣術道場へ行って気を落ち着けるまで続いたのだった。

 

 



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T/A13:超絶カッコいいお兄ちゃんが進学で家を離れていきます。嫌です。

 

 

 八月の中旬ごろ、私たちの家では笑顔を崩さないベーセル兄を尻目に母と私だけがちょっとした緊張に包まれていた。

 

「そんなに心配しなくてもいいんじゃない?」

 

 苦笑するベーセル兄を信頼していない訳じゃない。けれど、やっぱり一生のうちで大きな転機になりうるイベントだと思うのだ。

 

 リビングに掛けられた時計の針が天を指し、頃合いと見たベーセル兄はリビングに置いてあるデスクトップパソコンで大学のホームページにアクセスする。固唾をのんで後ろから見守る母と私は、サイトのページを跳ぶ毎にどうなのかどうなのかと見守り続ける。

 

 パソコンを立ち上げて数分もしないうちにディスプレイには数字が羅列され出し、私たち三人は一斉にそこからベーセル兄に割り当てられたとある数字を探し始める。

 

「あ、あった」

 

 何の気のないベーセル兄の呟きと伸ばした指先に示される数字、確かにこの数字はベーセル兄の受験番号に違いない。

 

「おめでとうベーセル!」

「ありがとう、お母さん」

 

 嬉しそうにベーセル兄を抱きしめる母を見ながら、私はホッとため息を吐くような思いでよかったと呟いた。

 

 今年ロートキイルの中等学校を卒業するベーセル兄は九月から大学に進学する。ロートキイルにもいい大学は数あれど、ベーセル兄が目指す学部は欧州内でもそう多くなく、結局隣国であるドイツで大学生活を送ることになってしまった。

 

 母と会話するベーセル兄を見ていると共に暮らしてきた十二年の日々が想起される。思えば私が生まれついてから、ずっとベーセル兄はそばにいた。物心ついてから、ずっとベーセル兄は至らない私を助けてくれた。

 

優しかったと同時に厳しかった。勉強が嫌いだった私が大学進学を前提とする中等学校に入学できたのもベーセル兄がいたからこそだろう。

 

 勉強の楽しみ、読書の楽しみはベーセル兄が教えてくれた。ヴェイル時代も含めてぶっきらぼうだった私が、多少なりとも人に優しくなれたのも範とするベーセル兄がいてこそだ。

 

 

 私の内面はヴェイルの在り方が理想になっているけれど、ベーセル兄の影響も過半を占めているに違いない。人としてベーセル兄は尊敬できるし、同じ家族になれたことをとても幸福に思う。

 

 だからこそ、ベーセル兄とこれからは離れて暮らすのだと現実に突き付けられると、大学進学を喜ぶ気持ちに並ぶくらいの寂寥感が溢れてしまう。

 

「おめでとうベーセル兄」

「ありがとフィエーナ」

 

 抱きしめるベーセル兄の背中はいつも通り温かかった。

 

 

 

 深夜、帰ってきた父と一緒に家族で祝いの夕飯を済ませ寝静まった我が家で、私は静かにベーセル兄の部屋を訪れる。

 

「ねえ、入ってもいい?」

「いいよ」

 

 室内に入るとベーセル兄はまだ起きていて、難しい文字が並んだ日本語の本を読んでいた。私の日本語力は一般的な日本の小説をつっかえつっかえ読める程度で、専門書とか古文とか漢文とかは何が書いてあるのかちんぷんかんぷんになってしまう。

 

「もう一時になるのに読書?」

「ちょっと確認したい点があったんだ。でも用件があるなら聞くよ」

「ううん、いいよ。私はここで見てるから続けて」

 

 私はベッドに両肘をついて横になり、読書を再開したベーセル兄の横顔を見つめ続ける。数十分ほど読書を続けたベーセル兄はやがて本を閉じ、私の寝ている横に腰を沈めて座り込む。

 

「ねえフィエーナ。たまには二人で何処か遊びに行こうか」

 

 そう笑いかけて来るベーセル兄の笑顔が滅多に見られなくなるとも思うと、何だか目が潤んできそうになる。私は涙を隠そうとベーセル兄の腰にしがみつき顔を隠した。

 

「何処に行く?」

「そうだなあ……とりあえずさ、最後に一通り街を見て回りたいって思っているんだ。フィエーナは付き合ってくれる?」

「いいよ、行こう」

 

 ベーセル兄の通う大学は高速鉄道を使って四時間はかかる。九月一日には早くも大学は始まるから、準備を含めて一週間は前にベーセル兄はドイツに行ってしまう。会える時間はもう六日しかなかった。

 

大学に行っても度々帰って来るのだろうし、十月には早くも秋季休暇があるはずだ。だからそこまで悲しむ必要はないのだろうと理性は言うけれど、感情は納得せずベーセル兄との接触を求めていた。

 

「この街にも色々思い出があるんだよね……離れるとなると寂しいなあ」

 

 じゃあ、離れなくてもいい。そう思ってしまう気持ちがないとはいわない。だけどそれはベーセル兄の将来を狭めてしまう。私はベーセル兄の足かせにはなりたくなかった。

 

「私と離れるのは寂しい?」

「もちろん。でも、ずっと一緒にはいられないからね」

 

 いつかベーセル兄も家族を持って独り立ちするのだろう。私はベーセル兄のお嫁さんを笑って迎えられるだろうか。眠たい頭はとりとめもない思考を続ける。

 

「僕もそろそろ寝ようかと思うんだけど、フィエーナ離れてくれない?」

「んー、どうしようかな」

「しょうがないね、フィエーナは」

 

 クスリと笑う声が頭上からしたかと思うと、頭が優しく撫でられる。心地のいい感触に私が睡魔に負け微睡むと、ふとベーセル兄の腰に回していた腕から何かが離れていこうとする。それが耐えられなくて私が力を込めるとやがて諦めたようで抵抗は抑えられた。

 

「フィエーナ。これじゃ僕が寝られないよ」

 

 ベーセル兄の嘆きの声に、眠たくて思考のまとまらない私の頭は腕の力を緩めることにした。するりと抜け出すベーセル兄を私は止めない。

 

「おやすみなさい、フィエーナ」

 

 

 

 翌朝、私が目を覚ますともうベーセル兄は服を着替えていてコーヒーカップを片手にこちらを見つめていた。

 

「おはようベーセル兄」

「おはようフィエーナ。今日は一日歩き通しだから覚悟した方がいいよ」

 

 寝ぼけていた私の脳は急速に覚醒する。いけない、ベーセル兄の貴重な時間を潰す訳にはいかない!

 

「ちょっと待って! すぐ準備するから!」

 

 飛び起きて慌てて朝の支度と朝食を済ませた私は今日の天気をスマホで調べる。幸い、今日はちょっと涼しいみたいだ。

 

「お待たせベーセル兄!」

「ふふ、それじゃ行こうか」

 

 私はベーセル兄に先導されて街のあちこちを見て回った。よく通った学校の通学路を思い出を語りながらのんびり歩いて行ったり、近くの公園でベンチに座りながら水分補給にジュースを飲んで、近くの商店や飲食店の人たちにも会っては大学進学の話をして語り合ったり……時間はあっという間に過ぎて行ってしまう。まだ家の近所にしか回れていないのにな。

 

 午後には近場の図書館で本を借りるでもなく館内を歩いて回ったり、博物館の中に入らず外周の公園そばのカフェで昔は何度も来た当時の思い出に花を咲かせたり、思い出話をしていたら入りたくなったので入館料を払って当時との違いに思いを馳せたり……懐かしい思い出がたくさんたくさん思い出されて私とベーセル兄は笑い合い、語り合った。

 

「ああ、もうこんな時間になっちゃったね。帰ろうか」

 

 私にとってこれほど時間が短いと思った日はあんまりないだろう。気付けばもう五時を過ぎていて、日はまだ明るくても帰宅に掛かる時間を考慮に入れると帰らなくてはいけなくなっていた。

 

「何か……全然時間が足りなかった気がする」

「そうだね」

「ねえ、昨日は私が寝てからリビングのソファで寝たんでしょ。ごめんねベッド使っちゃって」

「唐突だね。でも気にしないでいいよ」

 

 そういって何でもないように笑うベーセル兄の手を取る。いつの間にかベーセル兄に手を引っ張ってもらうことはなくなっていた。今日一日くらい、許してほしい。

 

「今日だけでいいんだ。一緒に寝ちゃ駄目かな」

「……今日だけ、だからね」

「ありがとうベーセル兄!」

「うわっ、いきなり抱き付いたりしたら危ないよ!」

 

 

 



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T/A14:遥の誕生日会が開かれました。

 

 

 夏季休暇が終わり、新学期が始まった。以前はベーセル兄も一緒に通学していたのだけど今日の私は一人で家を出る。何だか寂しい気持ちを抑えつつエリナと待ち合わせをして通学した私は、以前より一階上の階まで上がりクラスルームに到着する。

 

 新鮮味のない、去年と構造は全く同じクラスルーム。木目の床は綺麗にワックスで磨かれ、明るいクリーム色の壁と天井は窓から差し込む朝日で一層まばゆく、黒板にチョークの汚れは全く見られない。例年通り夏季休暇中に清掃が入ったのだろう、ピカピカとしたクラスルームが私たちを出迎えてくれた。

 

「おはよう」

 

 隣のクラスのエリナとは別れ、クラスメイトたちと挨拶を交わしながら去年からの定位置に座る。代わり映えのしない見知った顔のクラスメイトたちはそれでも夏季休暇の間に見違えたかのような錯覚に陥る。結局話してみれば、中身はそう変わってはいないのだろうけれど。

 

「おはようございます!」

 

 私が席に座り間もなく、やけに丁寧な口調でクラスルームに遥が入ってきた。動作もどこかぎこちなく、表情もちょっと硬かった。新しいクラスで緊張しているのかな。それでも、私を見かけた途端大輪の花が咲いたような笑顔を見せて駆け寄ってきた。

 

「会いたかったよフィエーナ!」

「私もだよ遥」

 

 駆け寄ってきた勢いのまま突っ込んできた遥を受け止め、抱きしめてあげる。私としては数秒抱擁して終わるかと思ったのだけれど、私の背に回された腕がほどける様子はなかった。

 

「ヘイ、フィエーナ。その子が遥って子?」

「うん、紹介するね」

 

 私が遥のことを紹介したら、あっという間に遥はクラスメイトたちと馴染んでしまった。流暢にロートキイル語を操り、互いにジョークの掛け合いまでこなして見せる遥から、かつて無口だった遥の姿は想像できない。

 

 

 

 朝七時から始まった学校は、十二時十五分に一旦お昼休みになる。私は遥にトヨ、キアリー、アメリアの五人で食堂に向かった。

 

 ロートキイルの学校には必ず食堂がある。そう言ったら遥は驚いていた。

 

「日本にはないの?」

「あるのかな? トヨは知ってる?」

「分かんない。あたしの小学校は給食だったよ」

「私も!」

 

 そのほかにも色々な違いがあるようだ。混ざってきたエリナとも一緒に昼食を取りながら日本とロートキイルの学校の違いについてあれこれ話していると、エリナが唐突に遥へとんでもないことを言い出した。

 

「そういえばさ、遥は来週誕生日だよねー。私も誕生会呼んでくれる?」

「た、誕生会?」

「あれー? 日本じゃやらないの誕生会? ロートキイルじゃみんなやってるよ」

 

 ロートキイルでは誕生日に、本人が主催者となって友人を招きパーティーを開くのが一般的だ。だから、エリナの発言はもっと遥と親しくしたいという意思表示をしていることになる。そういったことをかいつまんで私が説明すると、遥は難しい顔をした。

 

「うーん……考えとくね」

 

 遥は居候の立場にある。林原一家は誕生会くらい気軽に許す器量はあると思うけれど、遥が自身の境遇から躊躇う気持ちは分からなくもなかった。

 

 

 

 そこで私は剣術道場で帰り際に、幸恵さんに相談してみた。すると、林原家でこっそりサプライズパーティーを開こうという計画が持ち上がっていたらしい。

 

「遥ちゃんきっと遠慮するだろうから、当日に驚かせようと思っていたの」

 

 私はそのパーティーに遥の友人が参加してもいいか尋ねてみると、幸恵さんは大喜びで賛成してくれた。

 

「いいじゃない! 何人くらい参加するのかしら? 遥が楽しく学校行けているようで嬉しいわぁ」

 

 本当はこういうパーティー形式ってしないんだけれど、折角林原家が計画を立てていてくれたのだ。計画に乗っかることにした。

 

SNSでは足が付く。私は電話や直接対話で参加してくれそうな人に声を掛けてみた。義理で参加されてもパーティーが白けてしまう。なので仲のいい人間に限定して、参加者を確保することが出来た。

 

 私は当然参加するとして日時の都合上里奈とトヨ、それにキアリー、アメリアには参加してもらえることになった。真っ先に参加したいと言っていたエリナは家族の用事で抜けられないとか。全く頼りない幼馴染だ。

 

私は幸恵さんと相談してパーティーの準備を進めていく。ケーキは折角なので私が準備していくことにした。幸恵さんには料理の方で腕を振るってもらおうと思う。

 

 剣術道場の帰り前の時間、里奈に長電話をしてもらい、その隙を見て幸恵さんと話を進める。吉上先生と林原先生も私が幸恵さんと二人きりになるよう協力してくれている。ここまでして隠すこともないと思うのだけれど、林原先生がどうせやるなら驚かせたいと言い出したのだそうだ。ちょっと意外。

 

「ゲームは何が喜ばれると思う? パーティーなんて陽人が七年生になってからやってなくて……」

「特別何か用意しなくていいと思いますよ。美味しいごはんと飲み物、それにプレゼントがあれば十分ですよ」

 

 子供のうちは親が色々企画を練って集まった子供たちを盛り上げるのに苦心するのがロートキイルの定番だ。だけどそれも十歳を過ぎてからは本人が何とかするものだろう。今回は日本式だとしても、友達なのだから集まればそれだけで楽しい。それでいいのだと思う。

 

「そういうものかしら?」

「中等学校の七年生ならそういうものです」

 

 現役七年生の私が言うのだから間違いない。幸恵さんも納得してくれたようで、概ねの準備は整っていった。

 

 

 

 

 九月十三日。遥の誕生日当日であり、都合よく日曜日でもある。私は早朝に起きてチョコレートケーキを焼いておく。最早これ以外ないというレベルでロートキイルのケーキはチョコレートだ。招待客もケーキを持ち込んで来るけれど、主催者はとにかくチョコレートケーキを用意しなくてはいけない。

 

「いい匂いがするわね~」

「おはようお母さん」

「それ、遥ちゃんの誕生日ケーキ?」

「そう、今から持っていくんだ」

 

 いつもは自転車で剣術道場に向かっているのだけれど、流石にケーキを持ったままは無理だ。我が儘を言って、今日は母に車で送ってもらうことになっている。

 

「実はお母さんも昨日ケーキ焼いておいたんだ。私からって遥ちゃんに渡そうって思って」

「おお、用意周到だね」

「んふふ、でしょう?」

 

 お昼前になって、完成したケーキと母の用意したケーキ、それにラッピングされたプレゼントを持って私は母と共に剣術道場に向かった。街道を曲がる道の隅には本日誕生日と書かれた華やかな看板と風船が飾られていた。こういう装飾を見ると「あ、ここで誕生日会やってるな」とロートキイルの人なら勘づくはずだ。

 

 道場へ向かう一本道を過ぎ、駐車場に車を停めて道場脇の日本家屋に目を向けるとちょっと日本家屋には似合わないカラフルな装飾と風船で彩られていた。

 

「準備は万端のようね」

「そうみたいだね」

 

 ケーキを持ち、私たちは玄関でチャイムを鳴らす。パタパタと慌ただし気な足音を響かせて幸恵さんが出迎えてくれる。

 

「こんにちは、今日は来てくれてありがとうね」

 

 挨拶を交わし、私と母は室内に案内される。畳張りの居間には座敷机が中央に据えられ、部屋の各所にはモールや風船、紙細工で飾り付けられていた。

 

「今遥ちゃんはいる? 私もケーキを作ったから渡したいの」

「ごめんなさいねユミア、今遥ちゃんは吉上さんと一緒に出掛けているの」

 

 午後に開くパーティーの準備のため、遥は吉上先生に連れられて出かけているのだそうだ。帰ってきた遥を驚かせる魂胆らしい。

 

「おやユミア、お早いですな」

「こんにちは鳳二。今日はチャーミングな帽子を被っているのね」

「いやははは、誕生日パーティーですからな。はっちゃけたくらいがよろしいでしょう」

 

 林原先生が三角帽子を道着姿で被っている姿なんて初めて見た。ベーセル兄が林原先生はあれで案外お茶目なんだよと言っていたけれど、林原家に遊びに行ってこういうところを見てきていたんだろうな。

 

 その後しばらくのんびりおしゃべりをしていると、待ち合わせの時刻となったために続々と人が集まって来る。里奈とトヨが少しばかり早く来て、アメリアは時刻ぴったりに、キアリーは少し遅れてやってきた。みんなパーティーに呼ばれたとあって、何だか普段より服装に気を使っていた。

 

「へえ、遥。こんなトコに住んでいたのね」

「すごいね~、日本人ってみんなこんなお家に住んでいるの? 草の匂い? がするね~」

 

 アメリアとキアリーにとって日本家屋に足を踏み入れたのは初めてのことだ。アメリアはその鋭い目つきであちらこちらに関心を見せ、キアリーはスカートを履いたままなのに畳に伏せて鼻を近づけていた。腰にまで迫る金髪が垂れてしまっているけれど、キアリーはそういうことを気にしない子だ。

 

「トヨちゃん、もしかして林原さんってすっごいお金持ちなんじゃない?」

「そう? あたしんとこじゃこれくらいの家普通だったよ? いやー、でもロートキイルに来て畳に座れるなんてあたし感激だわー」

 

 日本人にとっては普通なのかと思いきや、やけに里奈は恐縮している。

 

「里奈ならそんな珍しがらないと思ったのに意外だな。日本で見飽きてるものだと思ったよ」

「もうフィエーナちゃん! こんな広いお家いくらすると思ってるの? とても高くて何億円もするんだよ」

 

 里奈がぼそぼそと私の耳元でまくしたてる。何億円ってことは、数百万ロートキイル・マルクに相当する訳で……そりゃ珍しい訳だ。

 

「ええ……そんなにしたかなぁ? いっとくけどあたしんちの祖父ちゃん家普通の農家だよ」

「実はお金持ちなんだよ、子供にわざわざお金持ってますって言う訳ないじゃない」

 

 困ったように波打った短髪に手を突っ込んでかいて見せるトヨを前に、里奈は両手を前に持って来て力説する。

 

 実のところ林原家は林原家だけのものじゃない。天河流剣術の欧州支部としての性格も持ち合わせている。昔一回、見慣れない人が日本家屋を出入りしていたので吉上先生を慌てて引っ張っていったら笑われたことがあった。吉上先生によれば、時々天河流の人間が尋ねてきているのだそうだ。だから多分林原先生が特別お金持ちって訳じゃないと思う。

 

「みんな遥ちゃんのために来てくれてありがとうね! おばさん嬉しいわ……」

「なあ幸恵、どうも遥は楽しく過ごせているようだな!」

 

 涙ぐむ幸恵さんの肩に手を置く林原先生の瞳も、いつもより少し潤んでいるように見えた。遥の暗い事情を何となく察している面々も、いざ遥と共にある保護者の涙を見てしまって何だかしんみりとしてしまう。

 

 この雰囲気のまま遥を迎えたらパーティーがしおらしくなる。これではいけないと私は母と目くばせし、母は手を叩いてみんなに発破をかける。

 

「ほらみんな! もうすぐ遥が帰ってきちゃうわよ! 急いで支度をしましょう!」

「お母さんの言う通り! ほら幸恵さん! 手伝いますから台所行きましょう」

 

 それからは一気に準備が進んでいく。大人も三人いるし、私たちだっている。そう規模も大きくないこともあって、余裕を持って私たちは体勢を整えて時を待った。

 

「そろそろだね~」

 

 掛け時計を見たキアリーがぽけぽけとした声を発したのと時を同じくして、外から車が近づいてくる音が迫って来る。

 

「来たわね」

「オウ、私のタイミングがばっちしだったね~。よしみんな、行こう行こう!」

 

 イベント前になると途端張り切りだすキアリーが意気揚々と先陣を切ってクラッカーをポケットにまで詰め込んで玄関に進んでいく。

 

「ほら、フィエーナちゃんが中央で迎えてあげるんだよ~。私は隣でクラッカーバンバンしまくるから!」

「盛大に頼むよキアリー」

「ふぇっへっへ~任せてフィエーナちゃん、腕が鳴るね!」

 

 コツコツと玄関前の石畳を足音が二つ迫って来る。横開きの玄関扉が開くと同時に、私たちは一気呵成にクラッカーを打ち鳴らした。

 

「お誕生日おめでとう!」

 

 クラッカーから飛び出す紙細工を一斉に撃ち込まれながら遥はその青い瞳を丸くして口を両手でふさぐ。クラッカーをポケットから取り出し鳴らし続けようとするキアリーを友達が止めるのを横目に、驚きで動きを止める遥へと私は歩み寄る。満面の笑みを浮かべながら私は遥を抱きしめた。

 

「遥、今日は誕生日でしょ。おめでとう!」

「あ……ありがとう?」

「さあさあパーティーの始まりだよ! ほら遥ちゃん上がって上がって! いえいいえいえい!」

「ほら遥! そんな呆けてないで一緒にケーキ食いまくろうぜ! みんな持ってきたから色々あるんだぜ!」

 

 キアリーとトヨに纏わりつかれ、私と遥は居間のパーティー主会場まで追い立てられる。みんなから口々におめでとうの嵐を受け、戸惑っていた遥の表情が見ているこっちまで幸せになる笑顔へ変わっていく。

 

「みんな、ありがとう……」

 

 目を潤ませた遥が発した、細々とした声は確かに全員が聞いていた。

 

 

 

 

 

 



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T/A15V:遥と映画を見に行った。

 

 

 秋季休暇が終わりに近づいた頃、フィエーナの母親から映画のチケットを貰った。チケットには如何にもといった風情の軍人たちが戦車と共に映っている。そして、題名はライエナハウ旅団。

 

「ライエナハウってお母さんの旧姓だっけ? また映画化したの?」

「そうなの。折角だからってお父さんがくれたんだけど、ベーセルの分が一枚余っちゃったのよね」

 

 フィエーナの母親、その家族であるライエナハウ家には国民的英雄が存在する。フィエーナの記憶によれば、フランスがあっさり敗戦したせいで防衛線の裏側を付かれ大敗走したロートキイル軍の中で唯一、戦車を主体とした実験旅団が防戦に獅子奮迅の活躍を見せたのだとかで、その指揮官が母の祖父であるデレク・ライエナハウなんだとか。

 

まあ結局ロートキイルはドイツに降伏するんだが、それで諦めるデレク・ライエナハウじゃない。イギリスに亡命し機会を窺い、連合軍の欧州逆上陸の際には自由ロートキイル軍の指揮官としてロートキイルの地を真っ先に解放した英雄だ。

 

 度々テレビドラマの題材になったり、映画の題材になっていてその度に関係者である母の父親のオットフリットお祖父さんには試写会やらなんやらのチケットが送られたりするのをフィエーナは覚えていた。

 

「よかったらお友達誘って見に行ったら? もらった四枚全部あげてもいいわよ」

「そんな、いいよ。二枚だけもらっとくね、ありがとうお母さん」

 

 俺としては是非見たいものだが、さて誰を誘ったものか。幼馴染のエリナは見るの嫌がるだろう。ベーセル兄貴とだったら気軽に見に行けたんだろうが、三日前にドイツに戻っちゃったしな。

 

 フィエーナの部屋を出ていった母を目で見送った後、俺はベッドに背中から倒れ込みスマホを掴んで誰を誘おうかなとリストに目を通し始める。

 

「遥は……こういうの好きなのかな」

 

 今ではすっかり明るくなってクラスでも友達を何人も作っているほど馴染んだ遥の心の傷を刺激したりしないだろうか。聞くだけ聞いてみてもいいかもしれない。電話を掛けてみると一コールもしないうちに遥は電話に出た。

 

「もしもし! フィエーナどうしたの?」

「あ、遥? 実は映画のチケットを貰ったんだけど、戦争映画って見れる?」

「フィエーナと映画!? 行く行く! 絶対行く!」

 

 案外乗り気だ。じゃあ遥と一緒に行くか。秋季休暇は今日で終わってしまうので、早速今日のお昼に近所の映画館に行くことになった。

 

 遥に土地勘がないので一旦フィエーナの家で待ち合わせすることになり、バスを乗り継いで遥は家を訪ねて来る。

 

「こんにちは、遥です」

「こんにちは遥。うわぁ、今日はおめかししてきたね」

「ど、どうかなフィエーナ」

 

 恥ずかしそうにこちらを上目遣いで見て来る遥はいつもより可愛らしくて、俺は思わず感嘆してしまう。こっちは普段着の上にただブレザー羽織っただけだが、遥はワンピースの上におしゃれなカーディガンを羽織ってる。頭の上の帽子も、足元の靴も、パーティードレスほど堅苦しくないのにセンスがいい。

 

「似合ってるよ!」

「ありがとうフィエーナ!」

「あら! 遥ちゃん今日はすっごくおしゃれね!」

 

 挨拶の抱擁を交わした後、遥の格好を見たフィエーナの母親も興奮して何枚か写真を撮られてしまう。おかげで出発が十分は遅れてしまい、俺は遥に早歩きを強制させる羽目になってしまった。

 

「ごめんね遥、ちょっと時間取られちゃったね」

「ううん、気にしてないよ」

「十分もかからないところにあるんだ。だから、ちょっとだけついてきて」

 

 今日の遥がヒールの付いた靴とか履いて着ていたら危なかったが、多少早く歩く程度なら遥も体力付いてきているし問題ないはずだ。俺が先を進もうと歩みを進めると、後ろに伸ばした手を誰かが掴む。

 

「フィエーナ! おいてかないでよ?」

 

 遥は心配性だな。誘った俺が置いていく訳ないじゃないか。

 

「大丈夫だって、さあ行くよ!」

 

 安心させるよう後ろの遥かに笑って見せた後、俺は頻繁に後ろの遥へ振り向き、話しかけながら映画館に歩き続けた。俺の計画では映画が始まるまでに二十分は余裕を残して到着するはずだったが、ちょっと歩みを速めた程度で十分の遅れが取り戻せるはずもない。

 

「あと十分か……」

「全然余裕だったねフィエーナ」

 

 混んでたら危なかったが、今日は幸い人がそう多くない。俺と遥は数人の列に並び、チケットを受付に提出し席を取る。

 

「あと五分はあるね。売店で遥は何か買う?」

「うーん……私は飲み物だけ買う」

 

 二時間半の映画だ。俺も飲み物くらいは買っておこう。普段のフィエーナならチュロスを買ってさらにコーラを飲んでいる。悪いが俺はそんな甘ったるい組み合わせを食える気がしない。ただ、炭酸飲料は口の中の感触が新鮮で面白いから買ってしまう。ふと隣を見ると遥はブラックのアイスコーヒーを頼んでいた。

 

「苦くない? それ」

「えー? 苦味がいいんじゃない。フィエーナは苦手?」

「うーん、どうだろう」

 

 フィエーナは好きじゃないが、俺は苦い食い物が嫌いじゃない。記憶の中ではブラックコーヒーにいい思い出はないが、俺の時だけ飲めるようになるものだろうか。

 

 支払いを済ませ、売店から少し離れた休憩スペースに移動したところで遥がコーヒーの入ったコップを差し出してくる。

 

「一口だけ飲んでみる?」

「いいの?」

「いいよ、はい」

 

 差し出されたストローからコーヒーを吸い出し、口内に留めて味わってみる。うーん……いや、やっぱりこれは無理だ。俺を見る遥はおかしそうに笑っていた。俺は自分のコーラを一口飲んで口内からコーヒーを洗い流した。

 

「私はこっちでいいや」

「ふふ、そうみたいだね」

 

 ちょっと雑談していたら、上映まで数分になっていた。慌てて二人で館内に入りスクリーンの前に座る。公演からまだ数日しか経ってない平日の午後で、席は三分の一が埋まっている程度か。これって採算は取れているのか?

 

 やがて周囲が暗くなり、映画が始まる。国内資本で作成された映画だが、結構気合の入った作りで俺は楽しんで見られた。確かドーク祖父ちゃんのところのヴィッカース戦車とKPZ.39も何処かに混ざっているはず。ほかにも欧州諸国の実働車輛や実働機を出来る限り陸上航空どちらも使うようにしていると謳っている通り、結構車輛のシーンは迫力がある。

 

俳優もまあ結構真に迫った演技をしているが、唯一デレク・ライエナハウが本人と似ても似つかないのが引っかかってしまう。オットフリット祖父ちゃんから本人の写真たくさん見せてもらっているからな……まあこれは映画なのだから割り切って見よう。

 

 映画の序盤、堂々と部隊の威容を見せられた後にドイツ軍によって無様にもやられていくロートキイル軍。正面も側面も折角猛攻に耐えていたのに、肝心の後方を守るフランス軍が総崩れとなって後方から無慈悲にもロートキイル軍は壊滅していく。そのシーンではフランス軍へ当てつけにも近い罵倒が差しはさまれていた。

 

 急降下爆撃機が爆弾を投下し、機関銃の発砲音がけたたましく鳴り響き、ドイツ軍戦車がロートキイル軍人の死体の間を縫って無慈悲にキャタピラの音を鳴らして進んでいく。恐らく最初の見せ場シーンなのだろう。爆発も派手だし、人間もバンバン兵器に殺されていく。映画とは分かっていてもおぞましく思えるリアリティたっぷりの映像だ。

 

 ちょっと刺激が大きかったのかもしれない。再び遥は俺の手に自らの手を重ねてきた。これはしょうがないよなあ……俺は安心させるようにもう一方の手で遥の手を包んで安心させてやる。

 

 横目に遥を見ると、その目は食い入るようにスクリーンへ釘付けになっていた。手は震えているのに見るのは止める気がなさそうだ。大丈夫、か?

 

 遥が限界なら途中退席もやむなしだが、遥の顔は好奇心と恐怖心がないまぜになっている。これなら問題はなさそうだ。

 

 映画はデレク・ライエナハウがアメリカ第十二集団軍の助力を得つつ故郷の地を踏み解放したところで終わり、観客たちは盛大な拍手で映画を讃えて終わった。

 

「はー……すごかったね」

「うん、結構いい映画だと思うよ」

 

 圧倒されたように席で座ったままの遥に俺も賛同する。ドーク祖父ちゃんに傑作戦争映画を見せられているフィエーナの歴代ランキングで、トップテンに入る出来だ。

 

頑なにCGを拒むばかりでなく、要所要所少ないシーンに限る代わりに本物そっくり仕上げていて迫力もたっぷりだったし、ロートキイル人にとっては祖国が舞台でヒロイックに仕上がっていたし、これは興行収入もいい線いくかもしれない。

 

 暗くなっていた館内は再び照明が灯り、観客たちは思い思いに語りながらゆっくりと席から立ち去り始める。俺たちもそろそろ帰らないとな。

 

 ゴミはゴミ箱まで持って行かなければと思い、コップを持ちあげると予想よりも重たい。

 

「あー、結構残ってるね」

 

 上映途中から遥の手を両手で包んでいたから飲む機会を失ってしまい、結構な量が残っていた。このまま捨てるのはもったいない。

 

俺は氷の解け始めたコーラを一気に飲み干す。ちょっと薄味になったコーラが喉を潤してくれる。こっちの方が俺は好きだな。

 

「遥はそれ飲み終えた?」

「あ、まだあんまり飲めてない」

 

 遥のコーヒーを覗いてみると、中身がほとんど減っていないのに気が付く。あまり喉が渇かなかったのかな。

 

「遥も飲めるなら飲んじゃいなよ」

「あ、う、うん……」

 

 どうしてだろう。遥は頬を僅かに染めてコーヒーを一気に飲み干した。

 

「じゃ、帰ろっか」

「そう、だね……」

 

 映画館に向かう時と同じように俺は後ろに手を引かれる。案の定、遥が俺の手を掴んでいた。

 

「どうかした?」

「う、ううん。何でもない。何となく」

 

 成る程、実は映画が怖かったから手を繋いで欲しかった訳か。言い出すのが恥ずかしくてちょっと照れていたんだな。

 

遥はまだ十三歳、誰か甘える相手が欲しいんだろうが林原家や吉上先生にはあまり迷惑をかけられなくて遠慮しているのかもしれない。

 

しょうがない、俺が親代わりになれるなら代わってやろう。

 

「いいよいいよ、このまま帰ろうか」

「……うん!」

 

 俺の言葉を聞いた遥の笑顔は、一瞬こちらが見惚れて固まってしまうほどだった。

 

 



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T/A16:幼馴染のエリナの料理はやっぱり超絶美味しかったのでした。

 

 

 クリスマスが迫り、街の様相も大きく変化していた。各所にクリスマスの装飾が施されるようになり、中心街ではクリスマスマーケットが開かれる。

 

 煌びやかな街並みを横目に私とエリナはぐったりと車内で寄り添い合っていた。肩にもたれかかるエリナに普段の元気はない。

 

「あーもー疲れたよフィエーナ……」

 

 五年前くらいから私がエリナに誘われて始めたヴェルデ市少年少女合唱団は、宗教行事が迫ると市の意向に応じ色んな場所にお呼ばれして歌を披露する。クリスマスの十二月からイースターの四月までは特に忙しく、クリスマス前の十二月なんて週に何回も何処かしらに行く羽目になる。

 

 今日は市が主催する音楽イベントがあって、午後五時から始まって午後九時にイベントは終了した。

 

「お腹も空いたね」

「うん……ずうっと声だして歌ってたから、ほら聞いて?」

 

 走行中の車内で小さく、エリナの腹の音が響く。思わず笑うとエリナも一緒に笑い出す。

 

「お二人さん? もうすぐ着くからね」

 

 運転席の母にも聞こえていたのか、ちらりと見えた顔には笑みが浮かんでいた。

 

 

 

 我が家に到着すると、疲れているはずなのにエリナは生き生きとし出す。

 

「本当にいいのエリナちゃん? 今日は疲れているでしょう」

「やらせてちょうだいユミアさん! 私今日は全然料理してない!」

 

 エリナが鼻歌を歌いながらキッチンを占拠するのはよくあることだった。週に何度も泊まりに来るお礼とエリナは言っているけれど、あれはどう考えても自由に料理できるのが楽しくて仕方がない顔だ。

 

 片道一時間の運転で疲れている母にはありがたいだろう。私も労せず美味しい夕食が取れるからエリナには感謝している。

 

 見ているだけで惚れ惚れする手際でエリナはキッチンを動き回る。

 

「うう……もう我慢できないよエリナ~」

「あとちょっと! 我慢してフィエーナ!」

 

 空腹で倒れそうな私の鼻にさらに空腹を煽る匂いが漂い、泣き言を言ったらキッチンから追い返されてしまった。

 

「お母さんエリナに怒鳴られた」

「もう、まだ十分も経ってないんだから我慢しなさい」

 

 ソファに座る母の膝元に倒れ込むと、母は苦笑しながら私の頭を撫でて来る。そのままうだうだ待つこと三十分。数字だけ見ると、下準備もなく手早く三人分の料理を仕上げたのは確かだけれど空腹で待つ身からすれば耐え難い三十分だった。

 

「美味しい! 流石エリナ!」

 

 それだけに食べた時の充足感は得難いもので、エリナの料理上手も相まって私は何口も食べてからようやく感想をエリナに伝えることが出来た。

 

「そうでしょう?」

「うん! エリナの料理が一番だよ!」

 

 ウインクを決めるエリナの表情には自信が溢れている。エリナは料理人になるべきだと思う。

 

「あれー? お母さんの料理はー?」

 

 意地悪気に微笑んで来る母に、私は本心から誠意を持って返答する。

 

「お母さんの料理も好きだよ」

 

 エリナの料理は好きだし、一番美味しいとも思っている。けれど母の料理を食べると心が落ち着くような、癒されるような感覚を覚えるのだ。これは美味しさとは別枠に区分すべきだと思う。

 

「ありがとうフィエーナ!」

「ちょっと! 食事中に抱き付くのは行儀悪いよ!」

「怒られちゃったわエリナちゃん……」

「ユミアさんよしよし」

「何さそれ」

 

 呆れ声で私が突っ込みを入れると二人は笑い出す。私も釣られて笑顔になってしまう。エリナが一緒にいると楽しく時間を過ごせるから好きだ。

 

 

 

 三人とも疲れているし、ロートキイルの学校は七時から始まる。食事をとった後は早々に寝ることになった。

 

 エリナはいっつも来ているので寝間着も我が家に置いてある。私はエリナを自分のベッドにいつも通り迎え入れて一緒に横になる。

 

「エリナが来てくれるとありがたいよ」

「何さ急に、前からずっと来てるじゃない」

「そうだけど……ほら、今年はベーセル兄もお父さんもいなくなっちゃったから」

 

 ベーセル兄は大学進学で、父は仕事の都合でこの家を離れてしまった。四人家族が一気に五割減した訳だ。

 

「お母さんもきっと寂しいと思うんだ」

「フィエーナがいるでしょ? 大丈夫だよ」

「まあね。けど、私はあんまりはしゃいで盛り上げるのは得意じゃないからエリナが来てくれると家の中が華やかになる気がするんだ」

「そうかな?」

「うん、だからすっごく感謝してる。エリナがいっつも来てくれて助かってるよ。美味しいご飯も作ってくれるしね」

「んもう、フィエーナったら!」

 

 将来の話、学校の話、家族の話、幼馴染だからこそ遠慮なくただ思うがままに語り合える。

 

「私……フィエーナが私の料理を食べている顔が好き」

「ねえ……私ね……絶対、有名な料理人に……なるから、ね。フィエーナは……絶対、食べに来るのよ」

「うん……もちろん、行く、よ……」

 

 とりとめのない話をしているうちに私は眠ってしまっていた。

 

朝、まだ真っ暗な時間に私は目を覚ます。隣ではエリナが私の腕を抱きしめたまま眠っていた。ゆっくりとエリナを引き離し、私はベッドから身を起こした。

 

「おはようエリナ。ちょっと走って来るね」

 

 父がいなくなっても私の体にはランニングの習慣が根付いてしまっていた。朝には走らないと一日が始まったような気がしない。

 

「うう、寒い……」

 

 息が白い。もう十二月、早朝の気温は零度を下回る。サクサクと霜を踏み、薄く積もった雪に足跡を残す。そうやって一時間も走り続けていると体は火照り、外気がちょうどよい熱冷ましにすら思えてくる。

 

「おかえりなさいフィエーナ」

「おはようお母さん」

 

 私が家に戻ると煌々と明かりが灯っていた。何だかホッとする光景だ。シャワーを浴び、髪を乾かした後に自室に戻るとまだエリナはベッドの中にいた。

 

「ほらエリナ! もう起きないと学校遅れちゃうよ!」

「むむ……もうちょっと……」

「そんなこと言ってまた眠っちゃうでしょ! ほら、起きる!」

 

 寝ぼけているエリナをベッドから引きずり出して髪に櫛を通し、洗面台まで案内してやる。顔を洗うと寝ぼけた顔つきからいつも通り勝気なエリナの顔になる。

 

「私は先に下降りてるからすぐ来てね」

「しゅぐいく!」

 

 歯磨き中のエリナを後に私は一階に降りた。私が付いている時のエリナは余裕を持って朝食を取って学校に行ける。エリナの家に迎えに行くと髪が跳ねていたり朝食は食べずに出てきたりしてしまうのが普通だ。

 

 エリナを待っている間に私はアドベントカレンダーに手を付ける。父がくれたカレンダーは毎年恒例のチョコレート菓子が入っている。ベーセル兄がいた時は二人で交互に開けて食べていたっけ。

 

一口サイズの菓子を口に放り込み、今度はベーセル兄が送ってきたアドベントカレンダーを開けてみる。昔、家にテレビが搬送された時に見たような段ボール箱で送られてきた大きなアドベントカレンダーには、意向を凝らした様々な贈り物が入っている。

 

今日は何が入っているのか心躍らせながら開くと小さな小箱の中はカラフルな細い紙の包装材がぎっしり詰まっていて、それをかき分けると青く煌めくガラス玉が入っていた。

 

「うわあ、お母さん見てこれ! ベーセル兄が作ったんだよ!」

「綺麗ねえ……ベーセルはこういう小物作るの好きよねえ」

 

 こういうのばっかりならいいのだけど、ベーセル兄にとっては数学の公式もガラス玉と同じように美しいものに分類されていて、公式とそれに勉強の苦手な私でも簡単に理解できるような解説が入っていたりもする。はたまたなるほどと思うようなラテン語の格言が入っていたり、あるいは科学豆知識だったりと無駄に手間暇かかっている。

 

 ベーセル兄はアイデアが尽きないのか私に何年もずっとこの時期にカレンダーを作ってくれる。私も何度か真似してみたけれど、二十日以上ある日々の贈り物なんて考えられず挫折してしまった。代わりに毎年頑張ってクリスマスカード作っているので勘弁してほしい……といっても、ベーセル兄も毎年素敵なカードを作って来るのでベーセル兄にはとても敵わない。

 

「何をニヤニヤ見てるの~?」

 

 私がガラス玉をじっと眺めていると、ソファの後ろからエリナの顔が私の肩にのしかかってくる。

 

「あ、エリナ。これ、ベーセル兄のアドベントカレンダーに入ってたんだ」

「えーっ! いいなー!」

 

 羨ましがるエリナには悪いけれど私はちょっぴり優越感を抱いてしまっていた。ベーセル兄は私と同じようにエリナと接しているように見えても、こういう時には私を優遇してくれる。口に出してはいけない感情なのは分かっている。だから、心の奥底で素知らぬ振りをしてしまっておく。

 

「いっつもフィエーナばっかりずるい!」

「ふふ、これは妹特権だから」

「あー! 生意気言ってるぅー! このー! 押しつぶしてやる!」

「ちょっと! エリナ重いって!」

 

 ソファの反対側からのしかかってきたエリナは思いのほか力を込めてきて、私はエリナ諸共ソファからずり落ちてしまう。もみくちゃになっているうちにエリナはガラス玉を私から奪い取ってしまっていた。

 

「いいなぁ、私のお姉ちゃんとは大違い」

「ミゼリア姉もいいお姉ちゃんだよ。ベーセル兄が規格外なだけで」

「んー、ミゼリアがいいお姉ちゃんには賛成できないけど、ベーセル兄さんの方は賛成してあげる」

 

 ベーセル兄は身内とは思えないくらいに頭がいい。数学に、物理、ラテン語……学校の科目で全部何かしらの全国大会はおろか欧州大会、さらには世界大会に招待されたことすらある世界全体で見ても頭のいい部類に入る天才だ。私にもし、ヴェイルの記憶がなければ同じ両親の子なのにどうしてここまで違うんだろうって捻くれていたかもしれない。

 

 だけどもしかしたらベーセル兄なら、そんな私すらもどうにかしてみせたかもしれない。エリナから奪い返したガラス玉を見ているとそんな気もしてくる。

 

 

 

 テーブルに置かれた四本のロウソクとクリスマスリースを何気なく眺めながらパンとスープ、サラダに果物といった定番の朝食を食べて、私はエリナと一緒に学校へ行く。時刻は七時、まだ太陽が昇りすらしていない暗闇の中を私たちは学校目指し歩き出す。

 

「うええ……寒いよフィエーナ」

「ちょっと! ここ滑るんだからいきなり抱き付いてこないで!」

 

 除雪はされていても、路面に張り付いた氷は中々取れない。私は慌ててバランスを取ろうとエリナにしがみつく。

 

「ふふふ暖かい」

「もう、歩きづらいんだけど……」

「だって、寒いんだもん?」

 

 学校まで歩いて十分、その間エリナが私から離れることはなく始終くっついたままだった。

 

「それじゃ、ちゃんと勉強するんだよ」

「もうフィエーナ! ママみたいなこと言わないで!」

「それじゃ、またね」

「ん」

 

 私が手を振るとエリナは背を向けたまま手を振って自分のクラスルームに入っていった。

 

 

 



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T/A17:友達と巡るクリスマスマーケットは楽しかったのでした。

 

 

 私の家の近所には大きな公園がある。噴水と古い煉瓦造りの給水塔があるくらいの広々とした公園は、雪で白く塗りつぶされた上に取り付けられた装飾や電飾によってクリスマスらしく様変わりしていた。

 

「いやあ、寒いねフィエーナ」

 

 手袋をした手を顔に持って来てエリナが息を吐くと目の前が白く染まった。

 

「もっと遅く出ても間に合ったよ、絶対」

「えへへ……」

 

 私が文句を言うとエリナは曖昧に笑ってからそっぽを向いた。時計塔に目を向けるとまだ待ち合わせまで二十分もある。

 

「ごめんね遥、エリナがはしゃいじゃって」

「ううん気にしてないよ! 大体、私がクリスマスマーケットに行ってみたいって言ったからだし」

 

 今日はロートキイルに来てまだクリスマスを経験したことのない遥、それに里奈の為に地元民である私たちがクリスマスマーケットを案内してやろうということで集まることになっていた。

 

 といっても私たちはどうにも集まりが悪く、滅多に全員が集まった試しがない。特にこのシーズンは私とエリナは週の半分は合唱団に参加するし、アメリアは普段から五輪候補生として射撃の練習に忙しいし、キアリーも全学技術連盟コンピュータ技術部門のメンバーだから毎日忙しく過ごしている。里奈だって日本から大量の資料を輸入して何か知らないけれど毎日辛いって言ってたし(その割に目にクマ作りながら楽しげなのが謎だ)、トヨは弟と妹が幼く母の手伝いを率先してやっている。

 

「七人も集まるなんて久しぶりだね」

「ホントホント! 運に恵まれてるね!」

 

 待ち合わせの時間が迫り段々とみんな集まって来る。いつも通りというか、トヨと里奈は五分早くやってきて、アメリアは時間ぴったりに、キアリーは数分遅れてやってくる。

 

「ヘイ! みんな~! おっはよー!」

 

 学校では猫を被ったように大人しいキアリーは、友達の前では人が変わったように大げさにはしゃぎ回る。人数が多いのに一人一人へたっぷり時間をかけて抱擁を交わしていく。

 

 

「あはは~里奈小さいね~」

「ふっふっふ、まあ、親譲りですから? ……ってうわあ!」

「ふぇっへっへ~高い高いだよぅ!」

 

 里奈は特別小さいからか、キアリーは勢いよく抱擁してそのまま持ち上げその場を回りだす。だけどキアリーは運動神経がいい訳ではない。ちょっとした段差に足を取られ、体勢を崩してしまう。

 

「うわっ! 墜落する! メーデーメーデー!」

「ちょっ、キアリー! 私を道連れに!?」

 

 こういう時に瞬間的な跳躍が出来るのは剣術をやっていた恩恵かもしれない。倒れかけたキアリーを掴まえ、転倒を防ぐことが出来た。

 

「もう、危ないからこれは没収ね」

「あ~! 里奈~」

「キアリーちゃん、さよなら」

 

 悲し気なキアリーに未練はないようで、里奈は軽く手を一振りしてすぐに私にしがみついてくる。

 

「フィエーナちゃんなら安心してこの身を任せられるよ。歩くの面倒だし、このままでもいいよ?」

「駄目! 里奈も歩くの」

「ひええ~、遥ちゃん怖いよー」

 

 冗談めかして里奈は私からずり落ちた。それにしても、遥の剣幕にはびっくりした。私が他の子と触れ合っている時、声音がきつくなる傾向があるような……気のせいだろうか。

 

「ねえフィエーナ。このままじゃずっとここにいる羽目になるけど?」

「アメリアの言う通りだよ! 折角のクリスマスマーケットなのにさ!」

 

 確かにいつまでもここでうだうだしていたら折角こうして集まれた時間が無駄になってしまう。

 

「そうだね、出発しようか」

 

 クリスマスシーズンの街中を十分ほど歩いていく。雪が各所に積もり街中を白へと染め上げ、薄暗い曇天の空からは太陽の気配を感じない。灰と白に塗り潰された、静かで冷たい雰囲気の街路は煌々と灯るカラフルな電飾により明るく彩られていた。太陽の代わりにクリスマスのイルミネーションが白に赤、緑など様々に光り輝いて街を照らす。

 

 ロートキイルでは十一月の末頃からクリスマスまで街は少し静かになる。職場も学校もいつもより少し早く帰宅するよう促される。クリスマスまで続くこの静かな雰囲気をトヨはまるでお正月みたいと例えていた。逆にこっちの新年がクリスマスみたいらしい。日本とロートキイルだとそれぞれが逆転するというのは面白い。

 

 クリスマスマーケットが近づいてくるとワインの匂いが漂ってくる。今年も大人たちがグリューワインをたらふく飲んでいるせいに違いない。ヴェルデ市では二か所マーケットが開かれていて、今日向かう旧市街地のクリスマスマーケットは中世風の衣装を着た店員やショーが開かれていたりする。このせいで旧市街地は通行止めになってしまうけれど、クリスマスマシーズンなのでしょうがない。

 

 まばらだった人の流れもクリスマスマーケットの近くまで来ると込み合ってくる。目に付く人々の顔は明るく、陽気だ。

 

「うわーっ! 可愛い!」

 

 旧市街地に入るなり里奈は一気にテンションを上げて懐から取り出したデジカメであちこちを撮影しまくっている。

 

「すごい綺麗……煌びやかだね」

 

 遥も目の前の光景に目を輝かせていた。何回も訪れている私だってこの時期ここに来ると心が躍る。二人にも気に入ってもらえたようで何よりだ。

 

「お! あのワッフル美味そうじゃん、ちょっとあたし買ってくるわ!」

「あ~! あのキャンドル欲しいな~、ちょっと見て来るね~!」

 

 気ままに行動する二巨頭は真っ先にお目当て目掛けて単身突撃し始める。規律正しいアメリアがどっちを制止すべきか悩んであわあわしているのが可愛らしい。

 

「フィエーナ、私はグリューワイン買ってくるね」

 

 エリナもこういう時好き勝手に動く。私がエリナを見送るのをいつの間にか隣にいた里奈が見ると怪訝な顔をして、ちょいちょいと肩をつついて背をかがめるよう合図してくる。私が膝をかがめると、耳元で周りの目を気にして話しかけて来る。

 

「ねえねえフィエーナちゃん、ワインなんて買っていいの? 未成年でしょ?」

「ああ、安心して里奈。ああ言ってるけれど子供用の買ってくるから」

「なあんだ」

 

 そもそもまだ小さなエリナにアルコール飲料を売ったりはしない。里奈ほどではないけれど、エリナも十分小さいからね。

 

「どうしようフィエーナ? みんなバラバラになっちゃう!」

 

 私と同じくらい背が高いけれど、早生まれのアメリアはこの中で一番若い。いつもしっかりしているけれど、時々年相応に子供らしく感情を見せる。

 

「大丈夫だよアメリア、みんな勝手知ってるメンバーばっかりだから。それに全員携帯は持っているし迷子になんてならないよ」

「でも、折角全員で集まれたのに……」

「七人も集まると一塊で行動すると道も狭いし邪魔になるからね。それぞれ好きなように動いて……そうだね、一時間後の十二時に広場の時計塔で集合ってしようよ」

「分かった! みんなに伝えて来る!」

 

 そう言い残しアメリアは駆けだしていってしまった。人ごみを縫って後頭部のシニョンが段々と小さく遠くなっていく。アメリアも自由に楽しめばいいんだろうけれど、きっちりしないと気が済まない性格なのがアメリアだ。ハリアも団体行動の時にはあれこれ言い出したっけな……。何となくちょっかいかけてしまいたい欲求が湧いてしまうけれど、きっとこれはヴェイルのせいだ。

 

 アメリアと話している間に、遥を引っ張って里奈は何処かに行ってしまい私は一人になっていた。と、思いきやエリナが可愛らしいマグカップ片手に隣に立っている。

 

「これ見てフィエーナ。今年のカップだよ。リニューアルしてたから持ち帰ってきた」

「あ、本当だ」

 

 グリューワインのカップは気に入ったら持ち帰ってもいい。その分カップの価格込みで請求されるけれど、気に入らないときはカップを返還すればカップ代は戻る仕組みだ。もちろん、エリナのワインは子供向けのノンアルコール品だけれども。

 

「美味しい?」

「うん、ほら一口あげる」

「ありがと」

 

 目の前に差し出されたカップを自分で傾け、一口呷る。ぶどうジュースのようでスパイスが効いていて、冷え切った体が温まる。これも十分美味しいけれど、いつかは本物を飲んでみたい。

 

「フィエーナ! 私のもあげようか!?」

 

 駆け足で目の前までやってきた遥に面食らったけれど、エリナからもらった一口だけじゃ物足りなく思っていたところだ。ありがたくもらっちゃおう。

 

「いいの? 遥もありがとう」

 

 違う店で買ったらしく、遥のものはちょっと重たい味だ。スパイスがよりふんだんに入っていて、パンチが効いている。カップも形が異なり、アメリカンチェリーのような赤黒いサンタブーツの形をしている。

 

「これ貰ってもいいんだってね! 太っ腹だよね~!」

 

 里奈もカップ片手にやってきた。はしゃいでいる姿を見ていると小学校低学年の子を見ているみたいで微笑ましい。

 

「だけど味はあまり好きじゃない……ねえフィエーナちゃん飲んでくれない?」

 

 里奈は遥と同じ店で買ったのか。確かにあれは好みが別れそうな味だ。

 

「いいよ」

「ねえねえフィエーナちゃーん! これ見てこれ見てイカすキャンドルゥー!」

 

 テンションマックスって感じでキアリーが頭上に掲げて持ってきたのは、にっこりほほ笑む羽の生えた太陽のキャンドルだった。燭台込みで買ってきたようで、かなり重そうだ。

 

「ねえねえいいでしょ? いいでしょ?」

「キアリーは変なもの買ってんな」

 

 私が返事に困っているとアメリアと一緒にワッフルを食べながらやってきたトヨが正直すぎる感想を突きつけてしまう。

 

「ががーん! トヨちゃん辛辣だー! フィエーナちゃん慰めて!」

「あはは……キアリーはきっと将来大物になるよ」

「そうかな! フィエーナちゃんありがとう!」

 

 ルンルン口に言いながらはしゃぐキアリーを見て、アメリアが私の耳元でそっと囁く。

 

「絶対しばらくしたら重いって言いだすわよ」

 

 確かに……キアリー体力ないものね。案の定、十分もしないうちに根を上げたキアリーのお荷物をアメリアが持ってあげていた。

 

 その後も誰かが加わっては離れてを繰り返しながら一時間ほど適当にクリスマスマーケットを見て、一度時計塔前に設けられた休憩スペースに集まって昼食をとることにした。

 

「うわ、混んでる」

 

 今日は学校の教員が会議で休校になったので平日なんだけれど、それでも半分近いベンチとテーブルが埋まっていた。

 

「座れるだけありがたいよ、休日じゃなくて助かったね」

 

 七人全員が一か所に座れるだけいいだろう。それに、他のお客さんが楽しそうに食事をとっている姿も風情の一部みたいなものだ。がらんとしたクリスマスマーケットなんて寂しい。

 

「じゃじゃん! 坂木里奈、今日は甘い物尽くしで行きます!」

「いいねえ! でも、あたしはやっぱ肉もないとね~!」

 

 思い思いに好きな物を買って食べることが出来るのもこういった場の楽しみだ。私の家は母が健康に気を使っているから、食べられるものに制限がある。今日くらいちょっとばかり不健康に振舞っても構わない、と思う。

 

「あら~綺麗な黒髪ね! 羨ましいわ~」

「あ、ありがとうございます?」

 

 そばを通ったお姉さんにいきなり褒められ遥は驚いたようだ。

 

「私なんて平凡な銀髪だから! フランス行ったら老人みたいって馬鹿にされるし嫌になっちゃう!」

「ははは、俺のツレがすまないね。ワインを飲み過ぎちまったようで……」

「んなこたないわよ! 今日はまだまだ飲むんだからね!」

「おいおい勘弁してくれよ……」

 

 お姉さんはふらつきながら近場のワイン売りの屋台へ向かい、彼氏さんらしき人はうんざりとした様子で後を追いかけていく。

 

「びっくりした……」

 

 私の腕に縋りついてくる遥。酔っ払いが絡んでくるのは何されるか分からないから、怖いよね。

 

「私もよく言われるよ。黒髪で羨ましいーって。こっちじゃ珍しいからかな」

「ロートキイル人で黒髪は一割いるかいないかよ。レアね」

「あたしの癖っ毛でも褒められるんだもんな~。髪褒められたのこっちに来て初めて」

 

 ロートキイル人の多数派は銀髪だ。こっちじゃありきたりで何も珍しくない。逆に黒髪は憧れにもなっているから、染める人も中にはいる。

 

「はいはい! 私の金髪もよく褒められるよ~、褒めて褒めて!」

「キアリーの金髪もレアね。銀髪ばっかりだからこの国は」

「でも金髪ストレートって綺麗で羨ましいよ」

「確かに。キアリーちゃん、何処かのお姫様みたいだよね」

 

 カチューシャで髪を後ろに下げておでこを出した、肩まで掛かる真っ直ぐな金髪。エリナの濃い金髪と違った、淡い色合いの金髪で儚げな美少女って見た目をしている。見た目は、ね。

 

「ありがと里奈~!」

「うわわ! 転んじゃうよ!」

 

 キアリーは里奈に抱き付くのが気に入ったらしく、事あるごとに里奈へ抱き付いている。まあ、里奈は小さくて庇護欲をかき立てられる見た目してるから気持ちはわかる。

 

 

 

 あっという間の時間だった。みんなで好き好きに買った食べ物をもらったりあげたりしてるだけですぐに時間はなくなってしまった。一時には早くもアメリアはやってきた父に連れられ帰って行ってしまう。私とエリナも三時に開催される市のイベントに参加しなくてはいけないので、帰らないといけない。

 

「頑張ってねフィエーナちゃん!」

「ありがとうキアリー」

 

 みんなと別れを告げ、私はエリナと一緒に帰途に就いた。クリスマスマーケットで賑わう人混みから離れると、一層静かな街路が寂しく感じられた。

 

「楽しかったねエリナ」

「そだね~、たまにはたくさんの友達と集まるのもいいもんだね」

 

 何となくクリスマスマーケットの雰囲気が恋しくなり、後ろを振り返ると旧市街地がたくさんのイルミネーションでキラキラと光り輝いていた。

 

「今度はもっと時間のある時に行きたいね」

「本当だよ、合唱団にもクリスマスを楽しむ権利はあるよね! 歌って楽しませてるばっかりだもん!」

 

 市の予算で運営されている合唱団は、使わないのは損とばかりにこの時期は出ずっぱりだ。聖歌のないクリスマスなんて考えられないけれど、もう少し休みがあればもっとみんなと一緒に遊べたのにと思ってしまう。

 

「せめてさ、拍手いっぱいもらって来ようねフィエーナ!」

「そうだね」

 

 気合十分とばかりに歩速を速めたエリナに私は付いていく。まだクリスマスシーズンは始まったばかり。後何度イベントに呼ばれるかと考えるとちょっと気が滅入ってしまうけれど、そんな心持ちで歌っては聴衆を楽しませることなんて出来ない。

 

 エリナを見習い、私も気合いを込めて歩き始める。

 

「お母さんきっと待ちくたびれてるよ。急ごう、エリナ」

「うん!」

 

 逸る気持ちを抑えきれず、ついに私たちは雪道を駆けだしたのだった。

 

 

 



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T/A18:エリナの料理をつまみ食いさせてもらいました。

 

 

 ロートキイルではクリスマス休暇前になると学校や職場でよくクリスマスパーティーが開かれる。私のクラスでもワルター・ザリンゲン委員長が主導して、みんなで食べ物を持ち寄ってワイワイと適当に雑談する感じのパーティーが休暇前最後の登校日を利用して行われる予定になっていた。

 

「ねえフィエーナさん。今年も歌ってもらっていい?」

「ん、いいよ」

 

 特に何かやらなきゃという訳でもないけれど、楽器が出来たり歌が歌えたり一芸のある人には盛り上げ役が依頼されたりする。いなくてもいいけれどいないとあそこのクラスはつまらないとか言われたりするので、クラスの沽券にかかわると思う人がいるのも事実だ。

 

 

「ありがとう助かるよ」

「ワルターこそ、今年も伴奏してくれるの?」

「そりゃもちろん! やらせてもらいますとも!」

 

 まるで執事のように頭を傅かせるワルターの所業にクラス内から笑いが漏れる。ロートキイルでは委員長職は大学進学において得点に成り得る。ワルターは中等学校に入ってから連続で委員長職をしているだけあって、成績も校外活動の実績も見事なものだ。これで性格も顔もいい。まさに将来を約束されたような人物だ。

 

「俺、フィエーナさんの歌声好きだから傍で聞けて嬉しいよ」

「ありがとう」

 

 剣術には及ばないけれど、合唱団には長年参加し続けてきた。私の歌声で喜んでくれる人がいるというのは嬉しい。

 

 細かい打ち合わせを終え、私は遥たちの元に戻る。話題は自然と音楽について移っていった。

 

「フィエーナは合唱団に入っているんだよね」

「そうだよ」

「フィエーナちゃんの歌声すっごく綺麗なんだよ。今聞いてみたいな~」

「いいね、一曲歌ってくれよ」

「私も聞きたい!」

 

 キアリーの呟きに思いのほか周囲のクラスメイトが食いついてくる。さっきまでてんでばらばらに好き勝手していたクラスメイトが一斉にこちらへ視線を向けて来る。ぽつりと呟いただけのキアリーが事態を大きくしてしまってあわあわしているのが可愛い。

 

「ごめんね、今日は私これからすぐに家に帰って合唱団に参加しないといけないんだ」

「そっかー、残念」

 

 本気で残念がってくれるクラスメイト達には申し訳ないと思うのと同時に、それだけ楽しみにしてくれることに嬉しく思った。帰宅の準備を終えた私は遥たちと一緒にクラスルームを後にした。

 

「何かみんなすっごくフィエーナ見てたね」

「遥はフィエーナの歌聞いたことないのね」

「うん、アメリアそんなすごいの?」

「ふふ、クリスマス会で聞いてみるといいわ」

 

 意味深に笑うアメリアの顔と私を交互に見ながら遥は首を傾げる。

 

「フィエーナが歌うと周りが聞き惚れて時間を忘れちゃうんだよ。あたしもあの声は忘れられないなあ」

「魅了の魔法だよね~」

「あはは……」

 

 キアリーの物言いには苦笑してしまった。私の声がおかしくなったのは、合唱団でレッスンを受け始めてからだった。レッスンを受け、自主的に練習を重ねるうちに自分でもびっくりするくらい魅力的な声音が出せるようになったのだ。けれど、ちょっと度が過ぎていたようで反省した私はそれ以来あえて声音を弱めて生きている。

 

 昔はもっとはきはきと喋っていた覚えがあるのだけれど、今の私の声はともすれば間延びしたような印象を受けるかもしれない。

 

 

 

 忙しいとあっという間に時間は過ぎていく。十二月に入ってから実施されていたテスト月間が終わると、もうクリスマス休暇前日になってしまっていた。

 

 クリスマス会当日に授業はなく、教材を持ち歩く必要はない。代わりにクラスメイトや担任教師で各々分担した食べ物を持ち寄っていかないといけなかった。

 

 私はケーキ担当だったので登校する時に自作のケーキを両手に抱えて雪道を歩いていく。太陽のまだ差してこない暗闇を点々と灯る街灯とクリスマスイルミネーションが照らす中、エリナと一緒に私は身を震わせる。

 

「ちょっとフィエーナ、転んだら駄目よ?」

「エリナこそ。こっちに寄りかかってこないでよ」

 

 からかうような調子のエリナに対し今日は笑い事じゃすまないかもしれないぞと睨む。

 

「リュックに鍋入れてるんでしょ。重くない?」

「んー? 重くはないけど、テラコッタで出来てるから転ぶと大惨事だよ」

 

 今日エリナは学校でバーニャカウダをするらしく、大きなリュックサックを背負っている。

 

「今日はスプリとサルティンボッカも作ってきたんだ。本当は出来たてが一番なんだけど今日のために冷えても美味しいのは確認したから大丈夫」

「エリナは料理するの好きだね……後でちょっと頂戴ね」

「いいよ、学校着いたらね。多分スプリはまだ暖かいよ」

 

 揚げたてのスプリから伸びるチーズにミートソース、中から湯気を立てて現れるお米を想像すると、さっき朝食を食べたはずなのに喉が鳴る。私のクラスメイトも料理が上手な人が多い。そういった意味でもクリスマス会はとても楽しみだ。

 

 アーミラー中等学校に到着すると、学校全体もイルミネーションで綺麗に輝いている。生徒会がボランティアを召集して昨日飾り付けたのだ。

 

「あそこらへん、私が飾ったんだよ」

「フィエーナ昨日私と合唱団で十五時から市議会にいたのに……いつの間に?」

「お昼にちょっとだけ手伝ったの。それより、エ~リナ?」

 

 私がにこやかに首を傾げてリュックを指さすと、エリナはキョロキョロと辺りを見渡し空き教室に私を誘う。エリナの呆れたような顔つきが気にかかるけれど、実際エリナの料理は美味しいから仕方ない。

 

「フィエーナったら食い意地張ってる」

「エリナの料理が誘ってくるんだよ。私を食べてーって」

「馬鹿言ってないの。はい、口開けて」

 

 エリナが差し出した、一口大のスプリに歯を突き立てると揚げたてのパン粉がサクッと噛みきれ中から温かいチーズが口に飛び込んで来る。お米とミートソースが絡んだ具とサクサクとした衣が濃厚なチーズと一緒になったハーモニーがたまらない。たった一個で満足できる味じゃなかった。

 

「ねえ、もう一個だけ頂戴」

「駄目。ちょっとしか作ってないんだからこれ以上は無理よ」

 

 無慈悲にも十数個も入っている容器の蓋は閉じられてしまった。ああ、本当に残念だ。

 

「ああー……残念だな」

「んもー! あと一個! 一個だけだからね!」

 

 私のもの欲しそうな顔にエリナは弱い。閉ざされたかと思われた蓋は再び開き、私の口の中へスプリが転がり込んで来る。

 

「んん……美味しい。エリナ、まだスプリに余裕はある?」

「ない!」

 

 きっぱりとした物言いに私は大人しく諦めることにした。けど、美味しかったな。

 

「もうフィエーナにはあげないからね!」

 

 私の顔を見たら決意が揺らぐと思ったのか、別れるまで頑なにエリナは視線を合わせてくれなかった。

 

 

 

 



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T/A19:クリスマス会の後、遥が家を訪ねて来ました。

 

 

 二階に上がっていくエリナを見送り、私は一階をそのまま進んでいく。

 

 クラスルームは隣同士なのだけれど、クラスルームだと一クラスが集まって立食したり音楽演奏したりするには少し狭苦しい。だから、クリスマス時期になると多目的室や音楽室などの好物件は取り合いになりがちだ。中等学校は五年生から十二年生まであるので、好物件は上級生に取られる……かと思いきや、下級生には一階とかのスペースが優先的に与えられるので助かった。一番不憫なのは真ん中の九年生とか十年生あたりだろう。

 

 ワルター委員長は今回、一階にある技術工作室を私たち向けに獲得していた。普段はのこぎりや電動ドリル、卓上ボール盤などが置いてある工作室はクリスマス模様に室内が装飾で飾り付けられている。騒音対策もされていて騒がしくしても問題ないと聞いたクラスメイトがいそいそとバンド仲間と一緒にドラムを設置しているのを横目に、私はケーキを所定の場所に置く。

 

 ようやく太陽が昇り始め、窓の外が徐々に明るくなっていく。この時期は太陽が昇るのが八時を過ぎてからで、十六時には再び暗くなってしまう。こうも日照時間が短いと、日を浴びるのがありがたく感じる。

 

 普段は七時半から始まる授業前には全員が集まる真面目なクラスだけれど、今日は八時くらいには来てねってくらい緩い。それでも大体のクラスメイトは普段の習慣が抜けないみたいで、既に登校済みだった。

 

「キアリー来ないね」

「遥、心配しないで。キアリーはイベント好きだからもうじき来ると思うよ」

 

 いつも朝の授業で眠たげにしているキアリーが登校時間の縛りを解かれたなら、こうなるのは予想が付く。

 

「今日は多分はしゃぎまくってうるさいから気を付けるのよ」

「今日くらいいいだろ。一緒に面倒見ようぜ」

 

 遥へ耳打ちするアメリアの背中からトヨが肩越しに顔を出す。遥も含めてみんなちょっとおしゃれをしている。私も今日は気を使っておいてよかった。

 

「ふああ……みんな~おはよ~」

 

 話をすれば大きくあくびをしながらキアリーがやってくる。ともあれ、これで全員がそろったのでワルター委員長の司会の元、パーティーが開始される。といっても、そんな格式ばったものでもないのだけれど。

 

音楽を趣味でしている年配の担任教師がノリノリでサクソフォンを奏でて喝采を浴びたり、結成して一年ほどのバンド仲間三人の演奏を聞いたり、ワルター委員長が電子オルガンで一人オーケストラしてみせたりと場を定期的に盛り上げる音楽がある程度で、それ以外はみんなで持ち寄った食べ物をあれこれおしゃべりしながら摘まんでいるだけだ。

 

 私も合唱団で習った曲や最近の流行歌、個人的な好み、応えられるリクエスト曲を歌って場の盛り上げに貢献する。歌っている間、クラスメイトのみんなが食べる手を止めてこっちを見て聞いてくれるのはありがたい。何度もアンコールをくれるのも嬉しい。けれど、十二月に入ってから歌を歌い続けて正直喉が疲れているので一時間ほどで歌を切り上げることにした。

 

「もっと聞きたいのに……」

「後、一曲だけ!」

 

 私の歌声は、あまり聞きすぎるとそれなしでは生きられなくなってしまうと合唱団の先生に言われたことがある。真面目な先生が珍しく冗談を言っていると思ったら、あまりに真剣な声で言われたので忠告は守っている。つまり、あんまり長くは聞かせてはいけない。

 

「ごめんね、休憩させてね」

 

 ちらっと壁の時計に目をやるとあと一時間半くらいで、後片付けに入らないといけない。これならのらくらと時間を稼げば、もう歌わなくてもいいだろう。歌うのは好きだけれど、今日はこの後も合唱団で歌う予定もあるし喉を労わらなくては。

 

「フィエーナの歌は流石ね! 私もフィエーナくらい上手くなりたいわ」

「ありがとう、アンナ」

 

 アンナに熱のこもった目で両手を掴まれる。同じクラスメイトで、バンドを一年前から始めたアンナは目標に私を掲げていると公言している。もっと上手い人はいくらでもいると思うんだけど……まずは身近な人からってことだろうか。

 

「ねえ今日の私の歌はどうだった!?」

「いい歌声だったよ」

「ありがとうフィエーナ! でもフィエーナと比べたらまだまだだと思うの!」

 

 興奮したようにまくしたてるアンナの後ろに遥が見える。その瞳は怒りや嫉妬のないまぜになったような感情を強烈に光線としてこちらへ照射してくる……ような幻視をしてしまった。アンナも感じ取ったみたいで訳も分からず後ろを振り返る。

 

「え? な、何だったのかしら……」

「フィエーナ! 疲れたでしょ、何か飲もう?」

 

 私の隣で微笑む遥にさっきまでの感情は見られない。気のせい……いや、でも? あれ、どうなんだろう。今の遥はとても清楚で愛らしい美少女にしか見えない。あんな目をするようには見えない。

 

「そうだね遥。アンナ、話はまた後でね」

「う、うん?」

 

 寒気がしたのか両手で自らを抱きしめるアンナから離れ、私は遥と一緒にその場を離れる。

 

勘違い……かな。疲れていたから、きっと誤認もあり得る。それでもちょっとあまりにも衝撃的な光景で、笑顔で話しかけて来る遥からさっきの印象が薄れるまでに時間がかかった。

 

「フィエーナは歌が上手いんだね」

「ありがとう遥、ワルター委員長の伴奏もあってこそだけどね」

「そんなことないよ! 私、フィエーナの歌のファンになっちゃったよ!」

 

 遥は私の歌のファンでもあり、回顧録のファンでもあるのか。ケーキも美味しいって言って一人でワンホール全て食べてしまったし、このままいくと私の創り上げたもの全てのファンを自称しだすかもしれない。

 

「私もフィエーナの伴奏が出来たらな」

「遥は楽器かなにか出来るの?」

「ピアノなら、やってたよ……今はないからしてない」

 

 一瞬遥が寂しげな表情になる。ほんの僅かだったけれど、そこからは郷愁が読み取れたような気がした。そっか、日本ではきっと楽しくピアノを弾いていたんだろう。

 

「ねえ遥、私の家にピアノあるんだ。よかったら弾いてみる?」

「いいの?」

 

 期待と遠慮が見え隠れする遥に私は笑顔で頷いた。きっとお母さんなら許してくれるだろう。

 

 

 

 クリスマス休暇に入って早速、遥が家に遊びに来た。私が事前に遥にピアノを使わせていいかと相談すると母は笑顔でオッケーを出してくれた。

 

「それにしても遥ちゃんがピアノを弾けるなんて知らなかったわ。何歳からやっているの?」

「四歳からです」

「じゃあもう九年もやっているのね」

 

 艶やかな黒が美しいアップライトピアノは、二階の防音設備が供えられた部屋に置かれている。ピアノを見た瞬間、遥の目が子供らしく輝く。

 

「うわあ、これを使ってもいいんですか?」

「もちろんよ」

 

 傍から見ても分かりやすく上機嫌になった遥は、母から簡単に説明を受けて鍵盤に触れる。

 

 私にはピアノの弾き方は全く理解できないけれど、遥が奏でる音はとても心地のよい響きをしていた。興が乗ったのか、色んな曲を弾き出した遥の独奏会はしばらく続き、遥が一息ついて演奏をやめると私と母は惜しみない拍手を遥へ送った。

 

「遥ちゃんすごい上手じゃない!」

 

 ピアノ経験者としての血が疼いたのか、母は興奮冷めやらないまま立ち上がり勢いよく遥に抱き付く。遥も褒められてまんざらでもないようだ。照れ臭そうに顔を笑顔にしている。

 

「フィエーナはどうだった?」

「感動して目が潤んじゃったよ」

 

 私が目を拭って見せると遥は満面の笑みでこっちを見つめてくる。

 

「これだけ上手なのに林原家でピアノが弾けないなんてかわいそうだわ! 遥ちゃん、いつでもうちに来ていいからね!」

「ありがとうユミアさん!」

 

 その後、ベーセル兄が帰って来るので母は迎えに車を出していってしまった。するとさっきまで明るかった遥の表情に陰が差す。

 

「フィエーナには話しておこうと思うの。私、明後日から日本に帰るんだ」

 

 折角の帰郷というのに、遥の顔は浮かない様子だ。事情が事情だから、単純に喜べないのだろう。私の座る椅子の隣に座った遥は肩に寄りかかって来る。そして正面を見つめながら淡々と話し始めた。

 

「両親とも会うことになっているの」

 

 遥の両親は深い精神的苦痛を浴びて、病院に入院していると聞いていたけれど父親の方はもう退院して仕事に復帰しているのだそうだ。

 

「今はね、お父さんとは電話で話もしているの」

 

 ぎこちないながらも、徐々に昔通りの関係へ戻りつつあると遥は心底嬉しそうに話してくれる。

 

「でも、お母さんはまだ駄目みたい」

 

 もしかしたら面会が許されないかもしれない。そう話す遥の目からは涙が零れていた。立ち上がった遥は無言でピアノの前に座り曲を弾き出す。今の遥の感情を表すように、物悲しげで穏やかな曲が流れる。

 

「この曲……お母さんが好きなドラマの主題歌なの」

 

 自称天才物理学者と自称天才奇術師のコンビが様々な怪奇現象に出会う、日本では人気のあったドラマシリーズの曲らしい。

 

「他にもお母さんとは色んな曲を聞いたし、ドラマも見たんだけど……今無性に弾いていたい気分」

 

 何度も何度も同じ曲を弾いた後で、遥は曲を変えた。穏やかで明るい調子、それなのに無性に心が悲しく引き裂かれるような思いに駆られる。

 

「ふふ……同じアーティストさんつながりだよ」

 

 耐え切れなくなった私は背後から遥を抱きしめる。弾くのに邪魔になるだとかそんな配慮なんて思わずかなぐり捨ててしまった。同じ曲が、少し救われるような調子に変わったように思えた。

 

「ありがとうフィエーナ。傍にいてくれて本当にありがとう」

 

 ピアノを弾きながら遥は呟く。ピアノにかき消されそうになりながらも、確かに遥の言葉は私の耳まで届いた。

 

 曲を弾き終えた遥は晴れやかな表情で私を見つめて来る。

 

「私、行ってくるよ」

「うん、戻ってきたらたくさん遊ぼうね」

「うん!」

 

 負けないで遥。遥ならきっと、乗り越えられる。

 

 



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T/A20:クリスマスなので、親戚が集まってきました。

 

 

 ついにやってきたクリスマスシーズン。この時期になるとドークお祖父さんにオットフリットお祖父さんの双方を訪ねて親戚一同がヴェルデ市へ集結を始める。我が家も帰ってきたベーセル兄と父に加え、母の弟であるヴェラホルド叔父さん一家五人も数日の予定で泊まり込んできた。

 

「今年もよろしく頼むよ姉さん」

「いらっしゃいヴェル! 今年も歓迎するわ!」

 

 あまり会えない弟との再会に母のテンションがいつもより高い。

 

「あらー、アリスちゃん一段と綺麗になってるわね! ミイア、あなたに似て来たんじゃない?」

「ふふ、ユミアありがとう」

 

 私も一年ぶりに再会したアリスたちと挨拶を交わそうと近づいていく。すると、私に熱い視線を送るレードと目があった。

 

「フィエーナお姉ちゃん!」

 

 目が合うなり突撃してきた七歳のレードを私はしゃがみこんで受け止める。

 

「レード、久しぶりだねぇ? 元気にしてた?」

「うん!」

 

 レードは赤子の頃から我が家にやってきていて、来るたびに私は可愛がっていた。レードの方も私に懐いてくれて、再開する度に私とレードはこうして抱擁しあっていたのだった。

 

 

「ははは、レードはフィエーナに懐いているなあ」

「ベーレム義兄さん、フィエーナみたいな優しくて綺麗な従姉があの年でいたら甘えたくなるもんじゃないか?」

「それは言えてるな!」

「分かるわ。私も年上の従姉のお姉さんに思い切り甘えてたもの。年が近いと気恥ずかしいけど離れてると素直に甘えられたのよね」

 

 まだ七歳で中性的な顔立ちのレードは、私に会えて嬉しいのか純真な笑顔を見せながらぐりぐりと顔を私の胸元に擦り付けて来る。私もそんなレードが愛らしくて背中に回した腕に力がこもるけれど、あまり力をこめてしまうと痛がるかもしれないので程ほどに自制する。

 

「フィエーナお姉ちゃん、お胸がすっごくやらかくなったね」

 

天使みたいに可愛げのあるレードにまさか胸について言及されるとは思わなくて、私は一瞬固まってしまう。レードにしてみれば含意はなく、単なる感想を述べただけなんだろうけど……。

 

「あははー、私も大人になってるんだよ」

「お母さんよりも大きいから、フィエーナお姉ちゃんの方が大人なの?」

「あははは、困ったな……」

 

 元々周りから注視されている中でこのやり取りだ。私は何だか恥ずかしくなってしまい、笑って誤魔化すしかできなかった。

 

 

 

 ヴェラホルド叔父さんの家族も一緒に夕食をとり終えると、さっきまで礼儀正しく椅子に座っていたレードが元気よく私の元へ駆けだしてくる。

 

「フィエーナお姉ちゃん遊ぼう!」

「いいよ、何しようか」

「はいこれ!」

 

 レードが私に差し出したのは飛行機のおもちゃだった。さっきもこれで遊んだのに、よく飽きないなと内心思う。

 

「フィエーナ姉、レードに付き合ってばっかりだけど別にほっといてもいいんだよ?」

「お姉ちゃんの言う通りだよ、フィエーナお姉さんも疲れるでしょ」

 

 レードにいつも付き合わされている二人の姉からは度々こうして忠告をされる。どうも二人は日常で遊び相手にされているようで、その度に体力不足で付き合いきれなくなってしまうのだとか。

 

「心配してくれてありがとう。けど大丈夫、私体力には自信あるから」

 

 それにレードとは年に一回しか会えないのだ。多少疲れるくらいならなんてことはない。二人の姉の物言いにちょっと不満げな顔つきになっていたレードは、私が笑いかけるとパッと顔を綻ばせる。やっぱりレードは可愛らしい。

 

「僕がエレメントリーダーだからフィエーナお姉ちゃんは付いてきて!」

「イエスリーダー」

 

 私の真面目くさった返答に仰々しく頷いたレードは私に差し出したのと同じ飛行機のおもちゃを頭上に掲げ、出撃する。私もレードの飛行機と同じ高度を保つよう胸元の辺りに飛行機を構えて追随する。

 

「ヒュオオオオオオー!」

 

 ジェット機の高速飛行音を口で再現しながら手のひら大のおもちゃを右に左に機動させるレードに私はぴったりとついていく。

 

「前方に断崖絶壁! 方位210に回避!」

「パープル2、了解」

 

 リビングの壁際がレードには断崖絶壁に見えているらしい。飛行機のおもちゃに乗り込んでいるレードパイロットにはさぞや大きな崖が見えているのだろう。

 

「再び断崖絶壁だ! スライスバック!」

 

 部屋の隅で回避行動をしたレードをさらなる崖が迫る。高度を捨て反転したレードは、僚機である私が背後にいたことに気付かず追突してしまった。レードの搭乗していた飛行機が私の胸の谷間に埋没後、レードの手から零れ落ち床へ堕ちていく。

 

「あはは、壁は避けられたのにね」

 

 私は鈍い痛みの残る胸を軽く撫でさすった後、床に落ちたおもちゃの飛行機をしゃがんで取り上げる。

 

「はい、レード……どうしたの?」

 

 気付くとレードも私と一緒になって床にしゃがみこんでいた。そして、私が差し出した飛行機のおもちゃを受け取ろうとしない。

 

「駄目だよフィエーナお姉ちゃん。二人とも墜落したんだからシーサーを待たないと」

「シーサー?」

「パパー! 墜落したー!」

「何!? 待ってろ今助けに行くぞ!」

 

 何が何だか分からない私は、恐らくヘリコプターの音を口で真似ているヴェラホルド叔父さんがやってきてレードを抱き上げるのをただ見つめているしかなかった。

 

「ようし、救助成功だ!」

「わーい!」

「あの、これは?」

 

 二人で盛り上がっているところに私がおずおずと質問すると、ヴェラホルド叔父さんはにこやかに答えを返してくれる。

 

「はは、戦闘機パイロットを助けに来た救難隊だよ」

 

 レードの飛行機遊びは本格的で、墜落した場合は救助のヘリコプターが来るところまで再現しているのだとか。レードが妙に凝ったごっこ遊びをするのは、ヴェラホルド叔父さんが空軍のトーネード戦闘攻撃機パイロットだからなのかもしれない。

 

 救助されたレードと私がもう一度飛行機に乗って遊んでいると、流石にずっと遊び続けて疲れていたのかレードがあくびを連発し始める。

 

「眠い」

 

 そういって私にもたれかかってきて、さっきまでの威勢のよさはどこに行ったのかべったりとくっついてきて動くのを止めてしまった。

 

「んー」

 

 もう言葉を喋る事すら面倒らしい。ものぐさに横になりたいと訴えて来たレードをまさか床に置いておくわけにもいかないので、私が壁を背にして座ってその上にレードを横にさせた。

 

 私の腰に手を回し、レードはうつ伏せになって倒れ込む。

 

「レード?」

 

 返事はない。もうすっかりお休みのようだ。

 

レードの遊び相手から解放された私は暇になり、リビングのテーブルを使ってチェスをしているアリスとエマの方に意識を向ける。

 

「はい、チェックメーイトッ!」

「んんー、もう一回!」

 

 得意げに駒を打ち倒すアリスを前に顔をしかめるエマ。ヴェラホルド叔父さんの二人の娘はチェスを趣味としていて、地元では大人を相手取る有名なチェスプレイヤーなのだという。

 

 リビングのテーブルに我が家のチェスボードを引っ張り出してチェスをする二人は、酒をたしなむ大人たちの新たな雑談のネタにされてしまっていた。

 

 二人の試合に大人たちがここをこうしたらとアドバイスするものの、二人よりもチェスの腕があるのはヴェラホルド叔父さんとベーセル兄くらいのものだ。本来二人の実力差は拮抗しているらしいのだけれど、長女のアリスはアドバイスに理路整然と反論する一方で、次女のエマは周囲の野次馬からもたらされる考えなしのアドバイスに従ってしまうせいで何度も敗北を喫してしまっていた。

 

「お母さん、エマに変なこと吹き込まないでよ! 真剣勝負の邪魔!」

「ごめんなさいねアリス」

 

 ヴェラホルド叔父さんの奥さんであるミイアさんは、アリスの刺々しい物言いに朗らかに笑いながら謝る。ミイアさんお酒が入ると口が軽くなる人だから、アリスもつい口調が鋭くなっちゃうのだろう。

 

「もー、エマもあんな頓珍漢なアドバイス無視すればいいでしょ!」

「でもお母さんが言ってくれてるんだもん」

「チェスド下手くそなお母さんのアドバイスなんて聞く必要ないの! これじゃ勝負がつまんないわ! 今度はベーセル兄が私と相手してよ、今日こそ勝って見せるんだから」

「僕? いいよ、二人の試合見てたらやりたくなってきちゃった」

 

 お酒の入ってちょっと機嫌のいいベーセル兄は、快くアリスの挑戦を受けるとポンポンと駒を動かしてあっという間にアリスを追い込んでしまった。思考する素振りもなくベーセル兄は自分の手番になるとすぐに駒を動かし、アリスだけが時間を費やしていく。

 

「むぐぐぐぐ……」

 

 素人の私にも分かる圧倒的な実力差を前にアリスの持ち駒は一気に削られていき、唸り声を上げて苦肉の一手を打ってはすぐさま打たれるベーセル兄の一手を見て小さく悲鳴を上げるアリスという構図が続く。

 

「私の、負けよ……」

 

 テーブルに倒れ伏したアリスの顔には悔しさがにじみ出ていた。対面に座るベーセル兄、これは少しやりすぎなのでは?

 

「あ、じゃあ次私もいい?」

「いいよ」

 

 倒れ伏すアリスの上に乗しかかる形でエマはチェスボードの前に座り、ベーセル兄と対戦する。けれど結果は同じで、ふうとため息を吐いたエマは下に倒れている姉にすがりつきながら降参を宣言した。

 

「ねえお父さんベーセル兄をやっつけてよ」

「そうだよパパなら勝てるでしょ?」

「ははは、こりゃ負けられんな」

 

 左右の肩に一人ずつ娘がのしかかる中、ヴェラホルド叔父さんはベーセル兄を相手取る。ポンポン駒を動かすベーセル兄のような勢いはないけれど、ヴェラホルド叔父さんの落ち着いた指し手にベーセル兄も苦戦しているようだ。ベーセル兄の表情が好戦的になっていくのが私には分かってしまった。

 

「お父さんすごいすごい! これなら勝てそうねエマ!」

「そうだねお姉ちゃん! パパ負けたらお仕置きだよ! 今日寝てる間私がずっとのしかかったままだからね!」

「エマだけじゃないわ! 私も乗っかってもう動けやしないんだからね!」

 

 二人の娘の応援にも関わらず、ヴェラホルド叔父さんはベーセル兄に負けてしまった。

 

「いや、強くなったなベーセル!」

「叔父さんも相変わらず強いですね。久しぶりに負けるかもと思いました」

「ははははは! そりゃ光栄だ!」

 

 母と二人きりで静かだった我が家が、久しぶりに人が集まり賑やかになる。二人では広かったリビングも、私の家族にヴェラホルド叔父さん一家の九人が集まれば手狭に感じられた。

 

 

 



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T/A21V:親戚一同が集まってクリスマスを祝う風習らしい(前編)

 

 

 

 いつもより賑やかだった我が家だが、流石に早朝は静かだ。物音ひとつしないひっそりとした空気の中で俺はいち早く目を覚まし、自室を抜け出す。人感センサーを備えた足元灯が真っ暗な廊下をぼんやりと照らすと、何処かホッとした心持ちを覚えてしまった。

 

「メリークリスマス、フィエーナは今日も早起きだね」

「ベーセル兄、メリークリスマス。いよいよクリスマスだね」

 

 今日は十二月二十四日。この日から二十五日にかけてフィエーナの家族は毎年祖父ちゃんの家に行き、親戚一同と一緒になって暮らすのが習慣になっている。

 

 フィエーナにしてみればもう十三度目になるクリスマスだが、俺にとっては初めてのクリスマスだ。やばい、楽しみで仕方ないぞ。心の浮つきを抑えることができない。軽率な行動に移す前に、日課のランニングで体を動かし心を落ち着けないと。

 

「何だかそわそわしてるね」

「だってクリスマスだよ、ベーセル兄。今日もランニング行くよね? 早く行かないと私この場で走り出しちゃうよ」

「こらこら、父さんが起きてくるまで待つよ」

 

 俺が腕をランニングフォームにして走り出す素振りを見せると、ベーセル兄は笑いながら頭を掴んで来る。つられて俺も一緒になって笑ってると、寝室から髪の毛を掻きながら父親が出てきた。そのすぐ背後には眠たげにぼんやりしている母親もついてきている。

 

「メリークリスマス、フィエーナにベーセル。朝から楽しそうだな」

「メリークリスマス、父さん。フィエーナが今にも飛び出しそうだったから抑えてたんだよ」

「何だ今日もランニングに行く気なのか? クリスマスくらい休んだらどうなんだ」

 

 そうは言うけれど、この男は毎朝走らないと落ち着かない性分のはずだ。実際その口調には真面目に諌める様子は見られない。

 

「えー、じゃあ私一人でも行っちゃうよ。今日の私は心躍ってるから」

「待て待て。俺も今から準備するから一緒に行こう」

「フィエーナもパジャマのままで出かけたら凍えちゃうよ。ほら、着替えないと」

「はーい」

 

 朝の支度をいち早く終え、俺が二階からリビングに降りるとレードがうつらうつらしながら母親に温かいお茶を飲ましてもらっていた。

 

「メリークリスマス、レード。早起きだね」

「メリークリスマス、フィエーナお姉ちゃん」

 

 母親の手を借りてお茶を飲むレードの口調はもごもごしていた。寝起きできっと意識がぼんやりしているのだろう。

 

「私たちが起きて動き出したから起きちゃったみたいなの」

「そっか、まだ寝ててもいいんだよ」

 

 ソファに座るレードの目線に合わせて努めて優しく話しかけてやると、レードは首を横に振る。

 

「起きる」

 

 そう言ってお茶の入ったカップに口をつけるレード。三分の一ほど残っていたお茶を一気に飲み干してカップをテーブルに置いたレードは、ソファから立ち上がり俺の腕を引っ張り始める。

 

「ねえ、一緒に遊ぼう」

 

 全く元気な奴だ。だが、男の子なら朝っぱらから走り回れるくらい元気な方がいい。どれ、ちょっと外に連れ出してやろう。

 

「ねえお母さん、レードを外に連れ出してもいいかな」

「いいけど、ちゃんと着こませないと駄目よ」

「そうだよね、それじゃレード。私は今からお外に行くけれど、付いていく?」

「行く! ボールも持ってっていい!?」

「いーよー。それじゃ、寒いから着替えようね」

「うん!」

 

 遊びに行くと分かると途端に動きが機敏になりだすレードを見て、俺と母は顔を見合わせて笑い合う。

 

 さあついて来いレード。昨日のフィエーナよりも俺はもっと暴れまわるからな。

 

 

 

 お昼頃、叔父であるヴェラホルドの妻と一緒にクリスマスのご馳走を作り終えた俺たちは揃ってジーク祖父ちゃんの家へと車で向かった。市内にはオットフリット祖父ちゃんの家もあるのだが、毎年交代でどちらかの家に集まることになっている。

 

「あー、また今年も天幕が広がってるね」

 

 双方の親戚を合わせると二十人を超える。それだけの人数を一つ屋根の下に収容するのは大変だ。なので、ジーク祖父ちゃんは軍隊が使うような天幕を自宅の庭に設営してしまっていた。天幕はリビングとも直結していて、双方のスペースを合わせれば二十人を超える親戚一同を余裕を持って迎え入れられるようになるのだ。

 

 暗緑色の天幕にはクリスマス装飾がこれでもかと盛り付けられ、派手で陽気なクリスマスが演出されている。天幕には採光用の透明な箇所があり、そこから内部で人が動き回っている様子が窺えた。もう結構集まっているみたいだな。

 

「フィエーナおねーちゃーん!」

「おー、レード。元気だね」

 

 俺が車を降りると、両親の乗る車に乗っていたレードが駆け寄ってきたので屈みこんで受け止めてやる。子供特有の高い体温が一気に冷たい外気を押しのけてしまった。これはいい暖房だ、屋内に入るまで抱っこして持ち歩くことにしよう。

 

「すっかり懐かれたね」

「レードと私は仲良しだよね?」

「うん! 僕ね、フィエーナお姉ちゃんと結婚するの!」

 

 七歳児らしからぬ物言いに周囲の一同の顔が笑顔になる。生温かな笑みが大半だけれど、俺の傍に寄ってきたレードの姉二人の顔にはからかうような意味合いが混じっていた。

 

「レードじゃフィエーナ姉に釣り合わないわよ!」

「そんなことないもん!」

 

 長女であり私の二歳下のアリスから否定され、むきになるレードへさらにもう一人の姉であるエマからの追撃が刺さる。

 

「えー? でも抱っこされてるじゃない? それじゃフィエーナお姉さんの旦那さんにはなれないわよ」

「降りる! 先に行こ、フィエーナお姉ちゃん!」

 

 ぷんすかとした調子で俺から降りたレードは、手を握ってずかずかと歩みを進めだす。

俺は苦笑しながらレードに付き合ってやった。

 

「ねえ、フィエーナお姉ちゃんは僕のお嫁さんになってくれるよね!」

 

 正直言って、俺はそういった付き合い事をする気は毛頭なかった。そういうのはフィエーナが惚れた相手とするつもりだった。しかし、きっとフィエーナが好きになるのは男だろう。そう考えると、将来フィエーナが結婚した時に俺は苦渋の決断に迫られそうだ。まさか、フィエーナが女と結婚するはずもないだろうしな……。

 

というか、男相手に求婚されるなんて経験が俺にあるはずがない。だから俺はフィエーナがいつもやるようにお馴染みの台詞を吐く。

 

「そうだね、レードが立派な大人になったら考えてあげようかな」

「駄目なの?」

「結婚は大人がすることだからね、レードが立派な大人になってくれたらデートとか一緒に住んだりしてさ。生涯一緒にいたいって思えるようなカッコいい男になったら結婚しようね」

「ねー、駄目なの?」

 

 だがレードは、誤魔化しを許してはくれない。イエスかノーのどちらかを聞くまで引くつもりはないようだ。

 

「ねーねー、いいの? 駄目なの?」

「んー、じゃあ今はいいけど……」

「やったー! ねーねー! フィエーナお姉ちゃんが僕のお嫁さんになってくれるって!」

 

 俺の返事を全て聞き終える前にレードは俺の手をすり抜け大喜びで駆けだして、少し後ろを歩く二人の姉の方へ行ってしまう。

 

「待って待って、まだ全部言えてないよ! レードがちゃんと立派な大人になったらだからね!」

「だって、レード? 勉強サボってお友達とサッカー行くようじゃ駄目なのよ?」

「お姉ちゃんたちが疲れてても無理やり手を引っ張って遊ぼうとするようじゃ駄目なんだってよ?」

「じゃあもうしないもん!」

 

 当分レードは二人の姉にいいように言われ続けるのだろう。しかしレードの奴、立派な大人って部分ちゃんと耳に入っているのか心配だ。言っておくが、俺のお眼鏡にかなわないような大人になったらフィエーナと結婚なんて許さないからな。

 

 図らずも先頭を歩いていた俺は、ドーク祖父ちゃん家の玄関に一番先に立っていた。ならばとブザーに手を伸ばしかけたところで、扉が勢いよく内向きに開く。

 

「久しぶりだねフィエーナ! ハッピークリスマス!」

「リア姉、メリークリスマス」

「んんー! 一段と綺麗になっててお姉さん感無量だよっ!」

 

 今年で二十歳になるリア姉は女性にしては高い百七十七センチの体躯で以て俺を抱き上げてしまう。俺だって百六十二センチはあるのだが、果たしてここまでは大きくなれるのだろうか。

 

「ああ~、フィエーナは可愛いなあ~」

 

 すりすりと頬を寄せ付けて来るリア姉の顔はとろけきっている。ちょっと異性に見せるには刺激のある表情で、だからこそ俺は反応してしまい思わず目を背けてしまった。

 

「恥ずかしいから降ろして、リア姉」

「あはぁ、その顔つきもいーねっ!」

 

 そう言いながらも無理強いはしないリア姉は俺を降ろし、後ろにいたレードを早速抱き上げていた。

 

「レード、一年ぶりだねっ! ハッピークリスマス!」

「リア姉ちゃんメリークリスマス! ねえねえ、もっと高い高いして!」

「いーよっ! ほうら、くーるくるくるーっ!」

 

 七歳になるレードを平然と持ち上げて、バランスを崩すことなくその場で回って見せるリア姉。

 

「あはははははーっ! ねえもう一回もう一回!」

「ちょっと待ってねレード! 今レードのお姉ちゃんたちとも挨拶してくるから!」

 

 リア姉がアリスたちにも抱き付きに突撃しにいくと、二人からも楽し気な嬌声が響いてくる。リア姉は相変わらず優しくて愛嬌のある自慢の従姉だ。

 

「何だ玄関が騒がしいな!」

「お祖父ちゃん、メリークリスマス!」

「おう! メリークリスマス! レードもいるな、元気にしてたか!?」

「う、うん」

 

 ドーク祖父ちゃんに怯えたのか、レードは俺の足に縋りついてくる。だが、そんなこと知ったことかとドーク祖父ちゃんは豪放磊落な笑顔でレードを抱き上げてしまった。

 

「おお、おお! 大きくなったじゃねえか! 今体重は何キロだ、ええ?」

「二十六キロだよ」

「そうかそうか! でかくなったな! 身長も伸びてるか? 今どのくらいだ?」

「えとね、百三十センチ」

「そりゃ、すげえ! 去年より六センチは伸びてるな!」

 

 ドーク祖父ちゃんが笑みを絶やさずレードを撫でてやると、レードの顔つきからおどおどとした部分が姿を消す。一年ぶりに会ってちょっと接し方を忘れてただけのようで、そこからはレードもドーク祖父ちゃんと嬉しそうに喋り始めた。

 

「おい、ゾフィ! レードが来たぞ!」

「あれまあ、大きくなったねえ」

「本当! でもまだ可愛らしいわ」

 

 のっしのっしと室内に入っていくドーク祖父ちゃんの掛け声に釣られ、ゾフィ祖母ちゃんにツェーラ伯母も姿を現す。リア姉の母親とあって、ツェーラ伯母の身長も百七十センチほどある。おまけにフィエーナの父親の兄であるメルツ伯父の身長は百八十センチ越えなので、メルツ伯父一家は全員高身長な家系となっている。

 

「お、フィエーナ久しぶりじゃねえか。お前随分綺麗に……つかでかくなったな」

 

 玄関辺りが賑やかになったからか、見上げるような身長と筋肉質のがっしりとした筋骨隆々な青年、ウェル兄貴が姿を現した。ウェル兄貴は父親の身長も越え百九十センチほどまで背が伸びている上に、サッカーで鍛え上げた肉体、さらには綺麗に刈り上げた白銀の顎鬚も相まってとてもベーセル兄貴の一個上とはとても思えない。

 

 かつての俺に近しい体躯を持つウェル兄貴はだがしかし、フィエーナのたわわに実った胸部をぶしつけにも凝視してくる。せっかく厳つくてカッコいい顔つきをしているのに、そんなだらしない表情をしていちゃ台無しだ。

 

「何処見て言ってるのさ、ウェル兄。メリークリスマス」

 

 俺は内心の呆れを隠すことなく声音に乗せ、上目遣いで睨み付けてやる。というか、厚手のセーターを着こんでいるからそこまで目立たないと思うんだがな。

 

「にーちゃーん! 誰が来たの? あ、フィエーナ……め、メリークリスマス」

 

 兄の後ろからひょっこりと顔を出したのはウェル兄貴の弟であり、アリスと同じ年であるマハンだ。兄に似た厳つい顔立ちだが、まだ少年のあどけなさも残している。だが、去年会った時よりも随分と背が伸びていた。流石メルツ伯父の家系だ、二歳年下のくせに俺よりも五センチほど背が高い。

 

 やんちゃな声を張り上げて兄の背中から出てきたと思えば、かぼそい声で俺に挨拶してくる。三年くらい前までは割かし元気いっぱいに絡んできた覚えがあるんだが、どうしてしまったのやら。

 

「メリークリスマスマハン、久しぶり。スケベなウェル兄みたいになっちゃ駄目だからね」

 

 親戚同士なら普通抱擁くらいするのが普通だが、ウェル兄貴は無視してマハンとだけ抱擁をする。

 

「はん、十三歳でそんな体つきのお前にゃ言われたくないわ」

「どういう意味さ」

 

 口を開きかけたウェル兄貴だが、何かに怯えたように口をすぼませてしまった。

 

「レディに対して不躾がすぎるぞ、バカ息子」

「へーい……悪かったなフィエーナ」

 

 後ろから凛々しい男前な声がすると思ったら、いつのまにかメルツ伯父が立っていた。四十代半ばでありながら息子であるウェル兄貴よりも力強いがっしりとした肉体に、射殺さんばかりの鋭い目つき、顔に刻まれた皺からは年を経て培ってきた年季を感じさせるカッコいい中年男性だ。

 

「メリークリスマスフィエーナ。元気にしてたかい?」

「はい、メルツ伯父さん。伯父さんも相変わらずみたいですね」

 

 抱擁を交わすと、見た目に違わず鍛え抜かれた肉体を触れて感じ取ることが出来た。こいつはすごい、生半可な鍛え方じゃここまではならない。フィエーナの父親といい、メルツ伯父といい、ドーク祖父ちゃんの家系は戦う男の血筋のようだ。

 

「よう兄さん! 最近出世したんだって?」

「久しいなベーレム。おかげさまでな」

「お久しぶりです、ますます頼もしくなられたようで」

「ヴェラホルドか。君も今はヴォールト航空基地でトーネード航空群を率いているそうじゃないか。いざという時は航空支援を頼むよ」

 

 和気あいあいと軍隊トークに映る三人を見ていると、今更ながら軍人率の高さを思い起こさせる。というかむしろ、軍人じゃないフィエーナの父親が例外じゃないか。

 

「ああもうメルツったら! 今日はクリスマスなのよ、そういう物騒なお話はまた今度にしてちょうだい」

「そうはいうが、ツェーラ。クリスマスくらいしか会う機会がないんだから仕様がないじゃないか」

「はいはい、まだパーティの準備は終わってないのよ。ほら、ユミアさんたちが持ってきた料理を運ぶのを手伝うわよ!」

「参ったな」

 

 困ったように頬を掻くメルツ伯父を見て、ヴェラホルド叔父がニヒルに笑う。

 

「山岳旅団長殿も奥方には頭が上がりませんか」

「そりゃ、ツェーラにはいつだって敵わないよ」

 

 豪快に笑うメルツ伯父たちだったが笑っている暇があったらさっさと動きなさいと再び小言を言われ、慌てて外に止めてある車に向けて掛け足で向かっていった。

 

 その後、みんなでクリスマスの準備に追われているとオットフリット祖父ちゃんが長男であるデレク夫妻と一緒に訪ねて来る。

 

「お久しぶりです、参謀総長」

「はは、元ですよ。今はただの退役軍人です」

「先月ぶりだなメルツ。山岳歩兵のくせに戦車旅団に刃向った無謀な奴め」

「デレクか。戦車乗りは図が高くて足元がお留守だからな。相手取るのは簡単だったよ」

 

 好戦的な応酬とは裏腹に、二人の顔は親し気に笑みを浮かべている。確か、二人は同期で士官になっていたはず。同期としての遠慮ないやり取りなのかもしれない。

 

二人はバシンと勢いよく握手を交わした後、荒々しく抱擁を重ねる。背中をベシベシと叩き合い、何というか俺も昔は探索者連中と一緒にあんな真似をしたなと懐かしく思える荒々しさだ。

 

「ふん、今日は呑み明かそうじゃないか」

「望むところだ」

 

 そして二十人を超える親戚同士で延々と抱擁を交わしていく。数人程度ならすぐにすむこの行為も、この人数だとただ抱擁しあうだけでかなりの時間を取られてしまった。まあ、年に一回くらいしかないのだからたまには悪くないかもしれない。

 

「久しぶりだねレオン兄。メリークリスマス!」

「フィエーナ久しぶり。去年より綺麗になったね」

「ありがとう」

 

 不躾なウェル兄貴と違ってデレク伯父の長男であるレオン兄貴は、気質がベーセル兄貴に近い。オットフリット祖父ちゃんの血筋は何処か紳士的な振舞いをさせる何かがあるのだろうか。それにしてもドーク祖父ちゃんのアルゲン家本筋が内務省勤めの文官家系で、オットフリット祖父ちゃんのライエナハウ家が代々の軍人家系なのは興味深い。何だか反対のような気がする。

 

「グスタフ兄も元気にしてた? メリークリスマス!」

「あ、う、うんまあね。メリークリスマス」

 

 俺より二つ年上のグスタフ兄は分かりやすいくらい緊張して俺と抱擁を交わす。まあ、分かる。フィエーナは可愛いものな。俺だって動揺するよ、うん。

 

「昔からグスタフ兄は私とだけぎこちないよね」

「そ、そうかな? あははは……」

「こいつはフィエーナに惚れてるからな」

「ちょ、兄さん!」

 

 前髪に隠れ気味の碧い瞳が分かりやすいくらい挙動不審になっていた。ここまで分かりやすいと最早親戚の間では公然の秘密となっているしグスタフ兄貴も知られているのは承知の筈なのだが、それでも改めて指摘されると恥ずかしいのだろう。

 

「レオン兄、駄目だよからかっちゃ。悪いお兄さんだね」

「ごめんごめん、許してくれグスタフ。でも俺だってフィエーナなら付き合いたいくらいだけどね。どう、付き合わないかい」

「あはは、今の私の恋人を知ってるでしょ?」

「剣術のことか。もうずっと続けているよね。何年になるんだっけ」

 

 五歳の頃からずっと続けてきたから、もう八年はやっているのか。思えば随分長いものだ。フィエーナはへこたれずよく頑張ったと俺は褒めてやりたい。

 

「八年か。もう円熟した夫婦みたいなもんだね」

 

 前世も含めれば二十年を軽く超す。二十歳で結婚してももう四十代になるレベルだ。そんな長い付き合いを易々と引きはがせるとは思わないことだ。

 

「そうだよ~? だから諦めることだよ」

「参りました。グスタフも降参する?」

「ぼ、僕は、その……母さんが料理運ぶのを手伝ってくる!」

 

 足を踏み外し、転びそうになりながらグスタフ兄貴は外へと駆けて行ってしまった。フィエーナも罪な女だ。美少女だとしても、ハリアレベルにぼっちと無口と無愛想を極めればこんな問題も起きないんだろうが……代わりに一人も友人を作れなくなるかもしれないからハリアみたいにはなってほしくはないが。

 

「グスタフ兄、見た目はいいから普通に彼女作ったりしてないの?」

 

 男らしさは感じさせないどころか、一見だと女に見間違えられそうな整った顔立ちは優し気で穏やかな風貌をしている。そのくせ運動神経は結構いいし、俺以外とは明るく打ち解けられるコミュニケーション能力もある。これでモテないはずはないと思うんだが。

 

「あいつはフィエーナ一筋だから、告白されても眼中にないみたいだよ。諦めを知らないのがあいつの美点でもあり欠点でもあるから」

 

 そこまで思いを寄せられる女がいるとは幸せなのだろうか。だが、当のフィエーナにその気がなさそうなのが悲しいところだ。俺としては一回付き合っちまってもいい気もするが、まだフィエーナには恋愛以外にやらないといけないことが山ほどあるんだろう。

 

俺もまあ、探索者目指しての修行に次ぐ修行を終えてその後はずっとダンジョンに潜りっぱなし。カディアを復活させちまってからは七大魔王との戦いに駆り出されていたので恋愛なんてしたことがない。フィエーナにどうこうアドバイスできない立場だ。

 

 死ぬ間際にハリアとちょっとそれっぽい雰囲気にはなっていたんだが、帰ったらハリアから何か話すことがあると言われた直後に死んじまったからな。あいつ、俺に何を言うつもりだったんだろうか、そこは前世での気がかりの一つだ。

 

 

 

 



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T/A22V:親戚一同が集まってクリスマスを祝う風習らしい(後編)

 

 

 みんなで持ち込んだ料理が天幕を広げてリビングから一直線に伸びたテーブルにずらりと並んだところでクリスマスパーティは開幕する。これでもかと沢山並べられた料理を各自が思い思いに皿に取っては好き勝手に食事を始める。ケーキも肉も、野菜も果物も取り放題で、今日ばかりは何をどれだけ食べても文句を言われることもない。

 

 各々が持ち込んだクリスマスプレゼントは、翌日開封するお楽しみの一つだ。クリスマスツリーの周囲を二十人以上が用意したプレゼントが全周を包囲し、山を形成している。成人男性ほどの高さがあるクリスマスツリーは、プレゼントの山によって半分くらい姿を隠してしまっていた。

 

 一同の中でひときわ幼いレードは、明日の楽しみの中心であろうツリーに置かれたプレゼントを何度も眺めては目をキラキラと輝かせている。果たして、フィエーナの用意したおもちゃは気に入られるのだろうか。

 

大人たちは早速お酒を呑んで陽気に笑い合い、子供たちも遊びの片手間に食事を食べても今日だけは怒られない。

 

 そんなどんちゃん騒ぎもフィエーナの母親がピアノを弾き、ベーセル兄貴がバイオリンを奏で、それに俺が歌い始めるとみんな押し黙ってクリスマスらしい雰囲気のある聖歌に耳を傾ける。

 

 だが、そんなしんみりとした雰囲気も最近の流行歌をリクエストされていくうちに崩れていき、また再び賑やかなどんちゃん騒ぎに回帰していく。

 

 冬の短い日の光があっという間に落ちて、外が真っ暗な夜になってしまっても煌々と照らされた室内は暖かくて明るいままだ。

 

 一年ぶりの再会とあって、一年間たっぷり温めた様々なエピソードをそれぞれが開陳し、それをみんなでやんややんや言いながら盛り上げていく。話のなり手は大人だけという訳じゃない。レードが幼いなりにつっかえつっかえ最近サッカークラブであった試合に話をしては、サッカー経験者のウェル兄貴を初めとする男子たちがレードにアドバイスを始めたり、最近のサッカーリーグの話題に飛んではレードのお気に入りの選手について語り合ったりしていく。

 

 夜が更けて、深夜になっても今日だけは寝なくてもいい。まだ小さなレードは喋りつかれてベッドに寝かしつけられてしまったが、俺やアリス、エマはそこらの会話に加わり続けていた。

 

 それでも年少組は十二時になったあたりから徐々に睡魔に負けていき、十五歳になって今月からお酒が飲めるようになったグスタフ兄貴もぐったりとソファに倒れ込んでしまう。

 

 一日中起きていいてもいいとはいえ、俺も多少は寝ようかなとグスタフ兄の寝るソファの隙間に身を潜り込ませようとするとベーセル兄貴がやってきた。ワインのグラスを片手に少し服のはだけているベーセル兄貴には、妙な色気があった。

 

「フィエーナも流石に疲れた?」

「そうだね、ちょっと眠たい」

 

 そういった傍から、欠伸が出てしまう。

 

「そんな狭いとこで寝たら体痛めちゃうよ。二階のベッドでちゃんと横になりなよ」

「でも、もう動きたくないんだ。ここでいいよ」

 

 グスタフ兄貴はとても男には見えないので、何となく大丈夫なような気がするのだ。

 

「ほら、わがまま言わない。おんぶしてあげるから」

 

 ソファに倒れようとする俺の腕を取り引っ張って来るベーセル兄貴。そういうならと俺はのそのそとベーセル兄貴の背に伸し掛かった。

 

「大丈夫? 酔ってるのに……私そんなに軽くないよ」

「フィエーナくらい持ち上げられるよ。それ」

 

 お酒のせいか一瞬だけふらつくものの、確かな足取りでベーセル兄貴は俺を背に歩き出す。俺は心地よい疲労に身を委ね、思考を蕩けさせながらベーセル兄貴の背中にひっついた。

 

「んー、ベーセル兄の背中暖かいね。もうここで寝ちゃおうかな」

「じゃあ僕はフィエーナが起きるまでちゃんと支えておくね」

「んーん。もう一緒に寝ちゃおうよ。ちょっとくらい寝ておいた方がいいよ。どうせ今年も明日は教会に行くんだから」

 

 教会なんてほとんど行かないアルゲン家も、流石にクリスマスくらいはお祈りに行く。親戚総出で近所の教会まで行って、俺たちのクリスマスは終了するのだった。

 

「はれー? フィエーナおんぶされてるー!」

「うわ、リア姉さん人を担いでるときにぶつからないで」

「ごめんごめんベーセルゥ……あはははははーっ! 私も抱っこしてー!」

 

 リア姉もお酒を呑んで普段以上に陽気になっている。酔っぱらったリア姉が腰辺りにひっついてきて、ベーセル兄貴は身動きが取れなくなってしまった。

 

「おいこら姉貴、困ってるんだから放してやれよな」

 

 こつんと優しくリア姉の頭を拳で叩いたのは、リア姉の弟であるウェル兄貴だ。

 

「悪いなベーセル。こいつ年々酒癖がひどくなってきててな」

「あはは……」

「うわあん、弟にぶたれたよー! フィエーナ慰めてー!」

 

 背中に負ぶわれていた俺を簡単に引きはがし、リア姉は近くの床に倒れこんで俺を抱き枕のように抱きしめて来る。リア姉の息は酒臭く、相当呑んでいることが伺える。俺もあと二年あれば酒が飲めるんだが、ここまで酩酊したらフィエーナに後でどう思われるか考えると自制しないとな。

 

「ふわあ……何だか私も眠たいな、一緒に寝ちゃおうかフィエーナ」

「せめてベッドで寝ようよリア姉。床は硬くて嫌だよ」

「床は硬いけどさー、フィエーナが柔らかいから私はオッケーだよー!」

 

 そう言いながら胸に顔を埋めて来るのは止めてくれ。

 

「おい、俺が背負ってやるからさっさとフィエーナを放してやれって」

「んむー! フィエーナと一緒にいたいのー! ウェルは筋肉でカチカチだけど、フィエーナはおっぱいおっきくて柔らかいからこっちの方がいい!」

「ったく……おいベーセル。もう二人まとめて運んじまおうぜ」

「それは危なくないかな? ねえ、リア姉さん。僕はフィエーナにベッドでゆっくり休んでほしいだけなんだ。手伝ってくれないかな?」

「んむ? フィエーナはベッドで寝たい?」

「うん、ベッドで休みたいよ」

「んー、じゃあお姉さんが運んであげるね!」

 

 そういうなり俺を抱っこしてリア姉はふらふらと歩き始める。危なっかしいリア姉をベーセル兄貴とウェル兄貴の二人で補助して、ようやく俺はベッドにたどり着くことが出来た。

 

「ほうら、ベッドだよフィエーナ。ゆっくり休んでね」

「ありがとうリア姉」

「いいよいいよ! どんどん私に頼ってくれていいからね! にしてもベッドふかふかだあ……」

 

 あっという間に寝息を立ててしまうリア姉を見て、俺は二人と顔を見合わせ笑いあう。

 

「ベッドの数も足りねえから、フィエーナはそれと一緒に寝てくれ。何かあったら俺に言えよな」

「おやすみフィエーナ」

「うん、二人ともお休み」

 

 一日中喋り続け、何度も歌のリクエストを聞き続けていた結果、俺も案外疲れていたらしい。ベッドに横になるとすぐに眠くなってしまった。

 

 俺が喉の渇きを覚えて目を覚まし、壁に掛けてあった時計を見ると朝の五時。四時間くらいは眠ってしまっていたようだ。隣では未だリア姉がうつ伏せの体勢のまま眠り込んでいた。

 

 俺が部屋の扉を開け、廊下に出ると階下ではまだ話し声が聞こえて来る。フィエーナの親戚連中はアルゲン家にしてもライエナハウ家にしても軍人やら警察官やら体力がないとやっていけない職に就いている者が多い。一日の徹夜くらい大した疲労には入らないのだろう。

 

「おや、起きたんだねフィエーナ」

「ベーセル兄は徹夜?」

「まあね」

 

 特に疲れた様子も見せず、ベーセル兄貴は微笑んでくる。

 

「おーいフィエーナ。こっちに来なさい」

「はーい、お父さん」

 

 その後、俺も会話の中に加わり喋り続けていると徐々に眠っていた連中が起き出してくる。朝食はご馳走の残りを食べて、太陽も八時を過ぎてやっと顔を見せ始めた頃には全員が起きていた。

 

「そろそろ教会にいこうかね」

 

 そうゾフィ祖母ちゃんが切り出したのは、九時ごろ。支度をして教会に向けて歩き始めると、同じ目的の人が多いのか段々と人通りが増えて来る。

 

 十時のミサに間に合わせた私たちは一時間半ほど、教会で聖歌を歌ったり聖書の一節に耳を傾けたりして時間を過ごした。荘厳な雰囲気のある教会内で聞く聖歌や聖書が、一年の終わりと新しい新年の始まりを感じさせた。

 

 

 



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T/A23:遥が日本から帰ってきました。

 

 

 

 家族親戚一同が集まるクリスマスを終えると、あっという間に一年が終わりを迎えてしまう。大学進学で離れていたベーセル兄も仕事の都合で王都に行ってしまった父も帰ってきて一時的に我が家が賑やかになったのもつかの間、年明け早々に父は再び王都へ舞い戻ってしまった。

 

「ベーセル兄、起きて朝だよ」

「ベーセル兄、速いね」

「ベーセル兄、先にシャワー浴びるね」

「ベーセル兄、ご飯出来たって」

「ベーセル兄、これ新しく買ったんだ。見て」

「ベーセル兄、久しぶりにこれで遊ぼうよ」

「ベーセル兄、お昼は私が作るね」

 

 父がいなくなってちょっとだけ寂しいけれど、ベーセル兄がいてくれるなら私はそっちの方が嬉しい。秋季休暇以来ろくに会ってなかったし、自分でもやり過ぎだと自覚するくらい四六時中べったりベーセル兄に張り付いていた。たまに顔を出すヴェイルに苦笑されようとも、SNSの返信が遅れがちになるのを揶揄されようとも、私は止まらなかった。だって、あんまり一緒にいられないのだから限りある時間を出来る限り一緒にいたいと思うだけ。

 

「ごめん、家族の時間を大切にしたいから」

 

 そう思っていたのだけれど、ベーセル兄が友人から会う提案を受けて断ったのを聞いて流石に反省した。電話を切ろうとするベーセル兄の前に私は姿を現し、行ってきなよとジェスチャーする。いいのと顔で聞いてくるベーセル兄に私は内心離れたくない思いが溢れかけるけれど、顔に出さず笑顔で頷いて見せる。

 

「あ、やっぱり行ってもいいかな? ごめんごめん……本当? ならよかった。じゃ、明日ね」

 

 電話を切ったベーセル兄に誰からか聞くと、中等学校時代の友人だという。仲の良かった友人たちが久しぶりに地元に揃ったから、みんなで集まろうとなったらしい。

 

「え……それは行かなきゃ駄目だよ!」

 

 義理の付き合いならともかく、ずっと一緒に過ごした特に仲のいい人たちの名が挙がって私はびっくりした。彼らとの付き合いはないがしろにするべきじゃない。

 

「僕も行きたいって思ったんだけど、フィエーナから離れたくなくてつい断りそうになっちゃった」

「ベーセル兄、妹離れしなきゃ!」

 

 言った瞬間、どの口がよくもまあという思いと同時に離れて欲しくない思いも膨らんで来る。けれど、いつまでも一緒にいる訳にもいかないのだ。ぐっと私は思いを封じ込めた。

 

 

 

 翌日、ベーセル兄が出かけてしまって暇になった私は隣のエリナを訪ねてベーセル兄の話をする。エリナは始終雑に私をあしらってきたのだけれど、私はベーセル兄の話が出来ればそれでいいので特に気にせず話し続けていた。誰も聞いてくれないから、エリナにだけ話すのだけれど、そのエリナもあまり長くは聞いてくれない。

 

「は?」

「え……何? エリナ」

 

 さっきまでスマホの画面を見ながら適当に返事をしていたエリナが真顔でこっちを見つめて来る。

 

「それってさ、フィエーナがべたべたべたべたずーーーーーーっとくっついてたから遠慮したんじゃないの?」

「うん……だから行って来なよって私が言ったんだよ」

「そもそもフィエーナはもう十三歳だよ! その年でベーセル兄と一緒に寝るのはおかしいでしょ!」

「そうなのかな?」

 

 ああ、しまった。あまり長く話し過ぎるとエリナが説教モードに入ってしまう。いちいち正論で、反論も出来ない。エリナに気付かれないよう時計に目をやるとかれこれ三十分は説教が続いていた。

 

「いい? もうフィエーナは絶対一人で寝るのよ?」

「……はい」

「あーっ! 絶対口だけでしょー!」

「そんなこと、ないよ?」

「はあ……ホント、フィエーナのブラコンは深刻よね」

 

 私はそうは思わない。毎日ベッドに潜り込むのはベーセル兄と会える日に制限があるからで、毎日顔を合わせていた頃はこんな真似していなかった。許してくれるベーセル兄も私も数か月振りだからお互いを懐かしく思っているだけだ。ベーセル兄も男だし、ちょっとした生理現象を図らずして見せてしまうこともあるけれど、敬愛する兄の愛嬌みたいなもので私は愛おしく思っていた。

 

「エリナ、本当のブラコンってのはこういうのだよ」

「いや、フィエーナ……その例はヤバ過ぎだって」

 

 私が反証のためスマホで検索したブラコンの記事を見せつけると、エリナはがっつり顔を引きつらせる。その後しばらくエリナの部屋でのんびりしていると、わざわざ電子メールで遥が連絡を取って来る。SNSがあるのにこっちで連絡するというのはつまり、秘密にしたいってことだろう。

 

 メールには今日は帰ってきたことと、今から会えないかと書いてあった。いつ帰るか分からないと言っていたけれど、いつの間にか帰ってきていたようだ。

 

「そろそろ帰るね」

「うーん……じゃねー」

 

 ベッドに寝っ転がりながら手を振るエリナと別れ、私は林原家に向かった。雪のせいで自転車は使えないけれど、代わりにバスがある。待ち時間とバス停間の距離もあるので林原家まで三十分ほどかかった。

 

 普段も静謐な雰囲気の中に佇む林原家と道場は、雪の積もる針葉樹林が音を吸収することでさらに静けさを増していた。街道を通る車輛音は聞こえなくなり、ただ靴底まで積もった雪を踏む音だけが耳まで届く。

 

「こんにちは」

「こんにちは遥ちゃん、明けましておめでとう」

「幸恵さん、明けましておめでとうございます」

 

 幸恵さんに室内へ招かれると、難しそうな顔をして林原先生が腕を組みながらこたつに座っていた。吉上先生もこたつに入ってだらしなく倒れ込んでいる。挨拶を交わした後、林原先生はとにかく遥と会ってやってくれと話す。

 

「俺も励ましたんだが、どうも上手くいかん。フィエーナ頼むよ」

「分かりました、遥は自分の部屋に?」

「ああ、行って来てくれ」

 

 木張りの廊下を歩き、遥の部屋の襖障子の前に立つ。ノックしたら破けるのかな。怖いので叩くのはやめた。

 

「遥、いる?」

「フィエーナ……いいよ、入って」

 

 畳張りの室内で遥はスーツケースを開けてほったらかしにしたまま、壁に背中を預けて座っていた。手袋やマフラーこそ脱いでいるけれど、コートは着たままだ。本当にさっき帰ってきたばかりのようだ。

 

「いきなり呼んでごめんね」

 

 遥の顔はやつれているように見えた。かろうじて見せる作り物の微笑が痛々しい。

 

「いいよ、休暇でやることもなかったし」

 

 遥の隣に座ると、遥は壁の代わりに私へ寄りかかって来る。

 

「ごめん、しばらくこうしてていい?」

「いいよ、帰って来たばかりで疲れてるでしょ」

「うん……」

 

 やがて眠ってしまった遥の顔は肩からずり落ち、私の膝の上で止まった。私が遥の髪を撫でながら何するでもなく遥を見ていると、吉上先生が顔を出す。

 

「やあ、遥は眠ったのかい?」

「はい、すぐに」

「そっか、実はあまり眠れていなかったようでね。フィエーナの隣なら安心出来たのかな」

 

 吉上先生は押入れから毛布を取り出して、遥にかけてくれる。

 

「じゃ、遥を頼むよ」

「任せてください」

 

 私が敬礼してみせると、吉上先生は苦笑しながら部屋を出て行った。

 

 

 

「ん、あれ?」

「あ、遥。起きた?」

 

 私が遥に膝を貸して二時間ほどが経過した頃、遥は目を覚ました。冬の日の入りは早くて、襖の上の明かり取りである欄間からは外が真っ暗になっている事が窺いしれた。

 

「フィエーナ?」

「まだ眠い? もう暗いし、布団敷いて寝ちゃおうか?」

「今何時?」

「んー、五時半くらいだよ」

「じゃあ、起きる」

 

 そう言いながらも遥は一度開けた目を再び開こうとはしない。ただ、仰向けだった姿勢をくるんと回ってうつ伏せに変えた。

 

「起きるんじゃなかったの?」

「んー……いい匂いがする」

 

 そう言って遥は私の股の間に顔を埋めたまま、動きを止めてしまった。そんな場所の匂い、いい匂いとは思えないんだけどな。何だか恥ずかしくなってきたので、私は遥を揺さぶって起こそうとする。

 

「遥? 起きるんでしょ?」

「うん……」

 

 ようやく起き出した遥は今度は、私の胸元に顔を埋めて背中に両手を回してくる。

 

「遥?」

 

 返事はなく、ただ涙で次第に私の胸元は濡れていった。私は黙って遥を抱きしめ返す。また、しばらく時間を置いて遥は日本での出来事を話してくれた。

 

 日本で遥は父親にまず会ったのだそうだ。仲の良かった父親がぎこちなく迎える様でまずショックを受けたらしい。

 

「私とお父さん、本当に仲良しだったのに……」

 

 それでも、一緒に話しているうちに昔のように打ち解けた話も出来るようになっていったのだという。

 

「フィエーナのことも話したよ。銀髪で紫の目をしてるんだって言ったら驚いてた。だからスマホに撮った写真を見せて、それでやっと信じてくれたの」

 

 父親と何を話したかと話す遥はとても嬉しそうで、それだけにこんな仲のいい家族が引き裂かれる原因を作った悪魔とやらには怒りを覚えた。

 

「それで……お母さんにも会いに行ったんだけど」

 

 遥に面会は許されなかったそうだ。曰く、遥の格好をした悪魔に拷問を受けた影響で本物の遥と悪魔を判別出来ない。きっと遥の姿を見たら怯えてまた病状が悪化する。だから、遠巻きに母親の姿を見るだけに留めたのだという。

 

「あんなになったお母さん……見たくなかったよ」

 

 口数少なく遥は母親の様変わりについて述べた。代わりに遥は以前の母親についてたくさん話してくれる。

 

「お母さんはとっても綺麗な人なんだよ。私の碧い目もお母さん譲りなんだ」

 

 それから遥は色んな家族の思い出を語ってくれた。三人でピクニックに行ったこと、温泉旅館に泊まったこと、水族館に行ったこと……昔に思いを馳せる遥は、今にも消えてしまいそうなほど澄み切った雰囲気だ。このまま儚く消滅しそうで思わず私は背中に回した腕に力を込める。

 

「お父さん、言ってくれたの。いつかまた三人で暮らそうなって」

 

 遥の手に触れる父親の手は震えていたけれど、確かに触れてくれたのだと遥は喜ぶ。

 

「ここに来る前じゃ考えられなかったから……だから、私もっと頑張って力を付けるの。そうしたら、もう同じ目に遭わないから」

 

 遥の剣の腕は着実に向上している。今や道場で遥を相手取れるのは私と吉上先生、林原先生を置いて他にない。魔力の扱い方については知る由もないけれど、遥ならぐんぐん腕を伸ばしているはずだ。

 

 涙でぐっしょりとした胸元から離れた遥の目には強い力が漲っていた。儚く消えゆく雰囲気から一変、力強い高潔な意思を感じる。

 

「それでね、私と同じ目に遭う人がいない世界にしたい……なんてね」

「出来るよ、遥が諦めなかったら」

 

 カッコよく決めていたのに最後茶化すように笑った遥に私は真摯に答えた。

 

「ありがとう、フィエーナ」

 

 そう言って立ち上がった遥は、私にも立ち上がるよう促してくる。そうして立ち上がった私を遥は正面から抱きしめた。

 

「フィエーナ。私、フィエーナのこと大好きだよ」

「遥、ありがとう。私も遥が大好きだよ」

 

 

 



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T/APo01:閑話

 

 

 

 フィエーナという少女の護衛を僕は担当している。ふわふわと柔らかそうな白銀のボブカットに赤紫色の瞳を持ち、厚着をしていても目立ち始めている大きな胸が少女らしい幼い顔立ちと相まって魅惑的な魅力を僕に抱かせて来る若干十三歳の女の子だ。

 

彼女の魅力は簡単には言い表すことはできないけれど、僕が彼女の護衛についているのは何も彼女に纏わりつく虫を追い払うことが目的じゃない。それはあくまで副次的な目標であって、本義としては彼女の父親の就いている仕事に関係している。

 

フィエーナの父親であるベーレム・アルゲンが務めているのは王国警察内部でもテロリズム関係を担当する機密度の高い部署だ。ロートキイルは欧州で最も治安がいい国と言われているが、それでもテロ事件と全くの無縁という訳ではない。だからこそ、ベーレムの近しい人物に対しては内密にではあるけど、身辺護衛が付けられているのだ。

 

 この任務にあてられた当初、はっきり言って僕は不満たらたらだった。警察官の中でも危険の大きな要人警護を担当する部署に入るのには苦労したし、それだけの努力を僕は続けてきた。それなのに与えられた任務は特に直近で危険が迫っている訳でもない少女一人を遠巻きに監視するだけなのだ。

 

 とはいえ与えられた仕事なのだから仕方ないと前任者からこの仕事を引き継いだ際、彼からあるアドバイスをもらった。

 

「くれぐれも自信をなくさないようにな。あの子は絶対こっちに気付いてくるから」

 

 何を馬鹿なと最初は思った。僕のことを訓練しかしていない新人と勘違いしているのではないか。これでも僕は特殊部隊を引退する前に幾度も自身の気配を潜め、犯人を尾行してアジトを突き止めた経験があった。国内ばかりじゃない、国外でも通用したこの技量は隊内でも随一を謳われたものだった。

 

 そう、僕を見つけられる人間なんて僕が意図して見つかるようにしない限りいないはずだったのだ。それなのに、度々フィエーナは僕のいる方を見つめては手を軽く振って来るのだ。そして口ぱくでこう伝えて来るのだ。

 

「いつもありがとうございます」

 

 感謝の念を持ってくれるのは仕事にやりがいを持てるけれど、何もこんな形で表明されるとは思わなかった。はっきりいって、自尊心を傷つけられたたし、技量が落ちたと疑ってフィエーナ以外の警護任務に代わってもらったこともあった。

 

 しかしやはり、誰がフィエーナを担当してもしばらくするとフィエーナから感謝を受けるのだという。部署内でも有名な話で、誰を送り込んでも結果が変わらないのでもうフィエーナ本人から隠れるのは諦めているのだとか。むしろお近づきになれない制限から、フィエーナに対して畏敬に似た感情が抱く者が現れ、警護部内の守護聖人扱いまでされているありさまだった。

 

 上層部としても隠匿の技量に優れた僕を鳴り物入りで送り込んだ経緯があると風の噂で聞いた。僕もそう知ってからは期待に応えるべく一層励んで背景や自然の風景、通行人に紛れ込む努力を続けたのだけれど、効果は上がらなかった。

 

 

 それでもフィエーナが僕を発見するまでにかかる時間は、僕が技量を磨くごとに長引いていった。僕は開き直り、さらなる技量の向上の試し相手としてフィエーナを利用するようになっていった。

 

 そうやって懸命にやっていくうちにいつの間にか、僕はこの任務を気に入ってしまっていた。というよりか、護衛対象であるフィエーナに魅せられてしまっていた。フィエーナの見せる一挙手一投足を誰よりも長時間見ていられることに充足感を抱いてしまっていた。季節によって変化する服装はフィエーナの新しい魅力を発見させてくれ、フィエーナにも劣らない可愛らしい友人たちとの絡み合いはフィエーナの表情に多様な変化を与えてくれる。そして何よりも僕はフィエーナの目付きに惚れてしまっていた。希少な赤紫の瞳の色すらどうでもいいと思えるほどにフィエーナの目付きは魅惑的で、性別すら超えて周囲の人間達が魅せられていく様を僕は遠巻きに何度も見続けていた。

 

 そして何処を向いているか分からないフィエーナの双眸が確実に僕を見つめていてくれるのが、僕を発見して感謝を伝えてくれるその瞬間だった。僕は見つけてくれることにいつしか喜びを覚え、フィエーナの瞳と僕の瞳が重なり合う瞬間を最高の喜悦としてしまっていた。

 

これでは数多いたフィエーナを付け狙っていた不審者の精神構造と変わらないのではと自覚しているが、これは上層部から与えられた任務なのだから僕は仕事をしているだけなのだ。

 

 

 



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T/A24:ファッシングに向けて、里奈と衣装作りをしました。

 

 

 クリスマス休暇は終わったけれど、今度は二月にあるファッシングの話題でクラスメイトが盛り上がりを見せ始めた一月の中旬。私はいつものように剣術道場に向かおうと放課後、足早に家へと帰ろうとしていた。

 

「ねえフィエーナちゃん、ちょっとお話いいかな?」

「ん、いいよ」

 

 珍しく困り顔の里奈に呼び止められた私は、近所のよく通っている喫茶店に入る。

 

「こんにちはー」

「おや、お友達連れかい」

「そうなんです」

 

 マスターに常連さんたちと軽く挨拶を交わした後で、奥の席に里奈を誘う。

 

「それで、何か相談事?」

「うん、実はね……今度のファッシングで仮装パーティーがあるでしょ」

 

 クリスマスに続いて大事な宗教イベントであるファッシングではもちろん学校はお休みになる。そして、お休み前には当然パーティーが開かれるのだ。

 

「それでね、私のクラスはテーマが創作上のキャラクターになったの」

「ふうん、面白そうだね」

 

 ちなみに私のクラスは十七世紀がテーマに選ばれた。別にテーマを守るかは自由ではあるけれど、選ばれた以上は守りたい思いもある。けれど、十七世紀って……何をしたらいいのか全然見当が付かないよ。

 

「それでね、それでね……」

 

 言葉にするのを怖気づいた里奈はもじもじしながら黙り込んでしまった。

 

「里奈。私と里奈は友達でしょ? 心配いらないよ」

「ありがとうフィエーナちゃん。やっぱりフィエーナちゃんに相談してよかった。日本語で相談できるし」

 

 ホッとしたような顔つきの里奈は一回大きな深呼吸をした後で、席から身を乗り出して額と額がぶつかりそうな距離まで近づいて私の目を真っ直ぐに見つめながら口を開く。

 

「実は私、アニメ漫画オタクなの」

「ふうん」

「あの……ひいたりしない?」

「何で?」

 

 重大事のような声音で話すから何事かと思ったら大したことがなくて拍子抜けしてしまった。それとも、日本だと禁忌的な告白だったりするのだろうか。

 

「あ、ううん! それでね、今年のアニメで、あっ原作はウェブ小説なんだけどね!」

 

 早口で一気にまくしたてるように説明を始める里奈に私はついていけない。ちょっと何を言ってるか分からないところもあったけれど、とにかく里奈はそのアニメのキャラクターに仮装したいらしい。

 

「すればいいじゃない」

「簡単に言ってくれるねフィエーナちゃん! 衣装づくりとかすっごく大変なんだよ! というかね、衣装を作るより一番の問題があるんだ……」

 

 再び深刻な表情をして顔をにじり寄らせてくる里奈に、今度こそ何事かと私は息を呑む。

 

「私に全然似合わないことなのーっ!」

 

 そういって里奈はテーブルに突っ伏して泣き出してしまった。

 

「そんなに似てないの? 頑張れば何とかならないの?」

「そんなレベルじゃないの……これ、見て」

 

 里奈が掲げたスマホにはアニメキャラクターが映っていた。銀髪に赤い目をしたドレス姿の美少女は、確かに黒髪で小柄な里奈とは似ているとは言えなかった。

 

「けどさ、かつらとかをつければどうにかならない?」

「あのね、問題はそこじゃないの!」

 

 ビシッと指を指す里奈。それ、ここじゃ失礼に当たるよ。

 

「あのね、フィエーナちゃん。銀髪で赤目の人に心当たり、ない?」

「ん~銀髪ならロートキイルにはいくらでもいるけどね。赤目は流石にいないかな」

 

 何か含みのある笑みで私を見て来る里奈の視線は、私の瞳に注がれていた。

 

「いや、里奈。私の目は赤くないよ。どっちかというと紫に近いんじゃないかな」

「そうかな? 紅紫の目。ロートキイルでもとっても珍しい瞳。実はね、アニメだと赤っぽいけど書籍版のこの子を見て?」

 

 里奈がそう言って鞄から取り出したのは、ちょっと雰囲気の異なる銀髪紫目の美少女が表紙に乗った本だった。

 

「アニメ化で作画が変わって、私本当はちょっぴりがっかりしたんだ。こっちの絵が実際に動いてほしかったの」

 

 無理だって分かってるんだけどねと里奈は寂しそうに笑う。曰く、ラノベ表紙の絵はアニメとして動かすには労力がかかり過ぎるのだとか。

 

「だけどねフィエーナちゃん! フィエーナちゃんならなりきれるって私ビビッときちゃったの!」

 

 興奮した里奈が対面から私の肩を掴んで来る。

 

「お願いフィエーナちゃん! 私の潰えた希望をフィエーナちゃんに叶えてほしいの!」

「里奈? それじゃ里奈の仮装衣装が完成しないじゃない」

「大丈夫! それはそれで用意してあるから!」

 

 勝ち誇ったような顔で里奈はスマホを再び私の目の前に突き出す。そこにはコミカルに描かれたドラゴンがいた。

 

「これは?」

「フェルベリナの契約獣、えふもん! これの着ぐるみ作るんだ!」

 

 ビビットカラーで鮮やかな可愛らしいドラゴンと、フリルもりもりのドレスに日傘を持った美少女のコンビ。アニメならいいけれど、私が実際にこれを着るのだと考えると羞恥心で死んでしまいそう。

 

「ねえ、里奈。私、ちょっと恥ずかしいよ」

「何で? 絶対フィエーナちゃんなら似合うよ! 私ね、これは運命だって思うの! フィエーナちゃんなら完ぺきにリアルフェルベリナを再現できる! 保証する!」

「うーん……でも」

「お願いお願い! フィエーナちゃんしかいないの!」

「しょうがないな……分かったよ里奈」

「ありがとうフィエーナちゃん! 絶対完ぺきに衣装仕上げて見せるからっ!」

 

 里奈が必死に頼み込んでくるものだから私はつい了承してしまった。けれど、ドレスに日傘の組み合わせだけなら、辛うじて十七世紀の貴族衣装として見れないこともないと思う。だから、大丈夫……で、あってほしい。

 

 

 

 数日後、日程を調整し私は里奈の家を訪れた。わざわざ私の家まで送迎の車を運転手付きで寄越してくるだけあって、住んでいるマンションは市でも有数の高級タワーマンションだった。

 

「随分広いお家だね」

「そうでしょ? でもここ、パパじゃなくて会社が所有してる物件なんだよ」

「お父さんかお母さんは今いないの?」

「二人は忙しいから」

 

 この時の里奈は普段と違いそっけない。両親に対して好感情を抱いてない……というより、あまり構ってもらえていなくて拗ねているような態度だった。

 

「それより私の部屋に来てよ! もう一か月もないし急がないと!」

 

 案内された部屋も随分と広い。里奈の身長で届く高さの本棚が壁際三面を占め、漫画やDVDが所せましにぎゅうぎゅうと詰められている。

 

「すごいたくさんの漫画だね」

「そう? これでも日本に蔵書のほとんどを置いてきたんだよ」

「そうなんだ……もしかして里奈の寝室は別にあるの? ここじゃ寝られないでしょ」

「うん。ここは私専用の書斎だよ。ほかに寝室と衣装部屋があるの。お姫様みたいでしょ?」

 

 

 一見自慢のような台詞なのに、私は里奈が誰かに当てつけのように言っているのではと聞こえてしまった。

 

「それじゃまず、寸法から図ろうか」

 

 目を輝かせながら遥はメジャー片手にやってくる。私は促されるままに服を脱ぎ、メジャーが体に回されるのを大人しく見ている。

 

「うわあ。やっぱりフィエーナちゃんって胸大きいね。服着てるときからそうかなって思ってたけど、予想以上」

「どんな予想してたのさ」

 

 黙々とメジャーを回す里奈の真摯な目付きに私まで面持ちを正してしまう。

 

「いいなあ、フィエーナちゃんはスタイルいいよね」

 

 一通り採寸を終えた里奈は顔をふにゃりとだらしなく弛緩させてしなだれる。

 

「フィエーナちゃん……身長も高いもんなあ。私よりおっぱいおっきいのに印象が全然違うよ」

「えー、本当に? 大きさとか、どれくらいなの?」

 

 里奈は身長は小さいのに、胸だけが無駄に大きいとは思っていたけれど意外にも私と同じだったとは思わなかった。ちょっと信じられなくて思わず聞いてしまう。

 

「あんまりみんなには言わないでよ?」

 

 私が頷いて見せると、里奈は小声で私の耳元に呟いてきた。うわ、本当に私と同じくらいだ。身体バランスの違いによる印象って結構馬鹿に出来ない。

 

 私と小学生程度の大きさしかない里奈では同じ大きさだとしても身体的負荷が違ってくる。里奈がすぐへばっちゃうのもしょうがないことだったのだ。

 

「身長も高いし、足も長いし……羨ましいよ」

 

 そう言って足に縋りつく里奈。泣く真似が冗談に見えないので反応に困る。

 

「で……でもさ、里奈だって比率的には足が長く見えるよ」

「つまり絶対評価だとちっこいってことじゃん」

 

 いじけてしまった里奈を慰めながら、作業を進めていく。既に材料を発注していた里奈の手筈の良さに感心しながら、衣装づくりを進める。

 

「いいのフィエーナちゃん? 私の我が儘なんだし手伝ってくれなくてもいいんだよ」

「そんなわけにはいかないよ。私の衣装を作ってもらうんだよ?」

 

 本当は材料費だって負担すべきだ。けれど、そこは里奈が譲らなかったので私も手伝うことでちょっとでも穴埋めをしようと思う。

 

「それにしても里奈は手際がいいね」

 

 私がほつれたシャツのボタンを治すとかその程度の経験しか積んでなかったのに対し、里奈はこれまでにも何着も制作してきたのだという。

 

「ま、伊達に年季積んでませんし? ねえねえ、今まで作った服見せてあげよっか」

「おー、見たい見たい」

「こっちだよ!」

 

 うきうきと歩く里奈に連れられ衣裳部屋へと連れてこられた私は今までの自信作を里奈から紹介される。自信満々に衣装を紹介してくれる里奈に着て見せてよと言ったら一転、落ち込んでしまった。

 

「でも、このままじゃ着れないんだ。胸の辺りを仕立て直さないと……」

「あー……」

 

 私は慰めの言葉が咄嗟に見つけられなかった。

 

 

 

 二月の頭、衣装が完成した。私は難しいフェルベリナの衣装をあまり手伝えなかったけれど、えふもんはどうにか私が作成した。これで半々だから貸し借りはなしかな……そんな訳がない、里奈の方がずっと労力はかけている。多分、かけた時間は同じくらいだと思うけれど。

 

「見て見てフィエーナちゃん! 俺様がエフドライブ様だぞー!」

 

 えふもんの着ぐるみを着た里奈が嬉しそうに室内を跳び回る。えふもんはアニメを知らなくても一目で愛らしいドラゴンだ。私はアニメも小説も里奈に借りたから、今では私もえふもんのことをよく知っていた。

 

「えふもん! 私に力を貸しなさい!」

「フェルベリナ! いいだろう、俺様の力を使え! ほら、フィエーナちゃん着替えて!」

 

 ようやく完成したフェルベリナの衣装に身を通す。それにしても、この衣装の完成度は非常に高い。史跡として保存されている宮殿の展示品として飾られているものと私には見分けが付かない。

 

 ドレス本体だけじゃない、手袋、靴下、日傘までいつの間にか用意していた里奈は私の着替えを手伝ってくれる。

 

「うわああ……うわああ!」

 

 感激で声を震わせながら里奈は私の周りをはしゃぎまわる。

 

「最後にこれ履いて!」

 

 里奈……靴まで用意してたのか。私に合わせているから里奈は着れないのに。

 

「どう、里奈? 似合ってる?」

「ああ……」

 

 無言で震えながら里奈はだらしのない笑みを浮かべながらその場に崩れ落ちた。

 

「ちょっと里奈!?」

「フィエーナちゃん……フェルベリナの口調でお願い」

 

 全く里奈は注文の多い子だ。けれどここまで付き合ったからね。いいよ、やってあげようじゃないか。

 

「ったく、情けないわねえふもん? こんなトコで倒れちゃジェルスバンドに笑われちゃうわよ?」

 

 私はまだアニメ化はされていない四巻中盤の台詞を、声音を男っぽく寄せながら吐く。

 

「ふ、ふはははは! それでこそフェルベリナ! 覚悟は決まったようだな!」

 

 私の周りをくるくる回りながら里奈は私に日傘を手渡してくれる。えふもんの龍の雄叫びを真似る里奈は本当に子供っぽくて可愛らしい。

 

「いけ、フェルベリナ!」

「任せてえふもん! ここからは私がヒーローよ!」

 

 剣術に限らず、武器を日常的に扱っていたヴェイルであり私なら適当にそれっぽくかっこいい感じに日傘を振るうなんて造作もない。アニメの決めポーズを再現してみせると、里奈は目の前で大粒の涙を流しながら口を両手で覆い隠す。

 

「フェルベリナ……フェルベリナだああああああああああああ!」

「泣いちゃ駄目。あなたはここで立ち止まっていて、それでいいの?」

「名台詞ラッシュだあああああああああああああああ! もっと言って! もっと言って!」

 

 しばらく付き合っているうちに里奈は床を転がり回ったりするだけじゃなくてカメラで写真を撮り始める。それは執拗なまでアングルにこだわり、同じ場面も何度も取るものだから先に私がくたびれてしまった。

 

「ごめん里奈。私もう疲れたよ」

「あ、フィエーナちゃんになっちゃった」

「そんな残念そうにしないでよ」

「えへへ……ごめん」

 

 汚したらもったいないくらい出来のいい衣装を脱ぎ、私は里奈と一緒に使用人の人が出してくれたお茶を飲み、ケーキをつつく。

 

「いやぁ~、フィエーナちゃんにはすっごく感謝してる。衣装作りも手伝ってくれたし、本当にありがとうね」

「気にしないで里奈。私こそ、今年のファッシングは素敵な衣装で参加出来て助かってるんだ。ありがとうね、里奈」

 

 うーんと伸びをして里奈は椅子の背もたれに倒れ込んだ。

 

「私たち、頑張ったよね……他の子はどんなもの着て来るかな?」

「ここまで気合いを入れている子はいないと思うよ。二十マルクくらいで出来合いの製品を買うのが普通じゃないかな」

「ふーん、そんなもんかあ」

「ファッシングの行列に参加する人なら気合の入った服を着ている人もいっぱいいるけどね」

「へえ、どんな感じなの?」

 

 学校のファッシング休暇は金曜日から水曜日までずっと続くのだけれど、ヴェルデ市一帯は協力関係を結んで仮装行列は金曜日から火曜日まで一日に一つの町を回ることになっている。一日に一回の分、複数の町の集団が協力する仮装行列は質量ともにここらへんでは最大規模だ。消防団、警察官、地域のクラブ、地元の企業、大学や市役所チームなど年に一回の仮装行列のために有志が集まり、このイベントに全力を注ぐ人も少なくない。

 

ヴェルデ市では薔薇の月曜日に行列が市内を練り歩く。騎馬騎士が行列の最前列を進み、おどろおどろしい木の仮面をかぶった行列など伝統的な仮装行列が通り過ぎると今度は今時の奇抜でこの日のために衣装に工夫を凝らした人たちの行列が続いていく。

 

「私の合唱団も行列に参加するんだ」

「へええ、何の衣装を着るの?」

「伝統的な民族衣装を着こんで木の仮面を付けて、歌いながら行進するの。きっとどれが私か分からないよ? でも、里奈を見かけたらお菓子あげるね」

 

 ファッシングの行列を行進する者はお菓子や花束を持って見物客に配るのが習わしだ。ただし、行列の参加者も見物客もとにかくたくさんいるからもらえるかは運とアピール次第となっている。

 

 その後はのんびりおしゃべりしたり里奈一押しのアニメ映画を見せて貰ったりしてゆったりと時間を過ごした。夕食は専属のシェフの作った料理で、こんなのを毎日食べているのかと聞いたら里奈は首を横に振る。

 

「普段はもっと簡単に作ってもらうんだけど、友達が来るって言ったらヘンテルがはりきっちゃって」

 

 私がキッチンに目をやると優しそうな壮年のコックがこちらに軽く会釈をしてきた。

 

「ヘンテル、今日も美味しかったよ」

「里奈、そう言ってくれると嬉しいよ。今日のデザートをどうぞ」

 

 夕食を取った後はお風呂に入ろうとなったのだけれど、里奈の家の風呂は林原家と同じくらい大きかった。白くて眩いジャグジーバスは窓に面していてヴェルデ市の夜景を楽しみながらお風呂に浸かれる。

 

「広いね。二人で入る?」

「フィエーナちゃん、そういうの平気なの?」

「別に気にしないよ」

「じゃあ二人で入ろう!」

 

 はしゃぎながら手を引く里奈に促されながら、私は脱衣室に戻り服を脱いでいく。里奈も一緒に隣で服を脱いでいくのだけれど、身長に見合わない大きくたわわに膨らんだ胸に思わず目がいってしまう。

 

「もうフィエーナちゃん、エッチだよ!」

「あはは、ごめんね里奈」

「そんな目で見るフィエーナちゃんにはもっとおっぱいおっきくなるように願掛けしちゃうからね!」

「それはやめてよ」

 

 実のところ、つい最近ブラジャーのサイズが合わなくなったので一つ大きいサイズを買い揃えたばかりなのだ。ここまで膨らみ始めると、重量バランスの乱れが剣術をやる上で無視しえないレベルになっている。裸のままで甲冑を付けている気分になりそうなので、お願いだからこのあたりで止まってほしい。

 

「フィエーナちゃん、顔が怖いよ……」

「あ、ごめん。剣術やってるから私はこれ以上大きくなられると困るんだよ」

「そっか、動きにくくなっちゃうよね」

「お互いこいつには苦労させられているね」

「ふふ、そーだね」

 

 私が自分の両胸を持ち上げて笑って見せると、里奈も困り顔のまま笑い返してきた。

 

 

 



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T/A25:トヨのお家にお邪魔しました。

 

 

 

 雪の吹きすさぶ外を見ながら、私は友人たちと一緒に食堂で昼食を取っていた。

 

「えー、じゃあ遥ちゃんは毎日剣術ばっかりしているの?」

「うん」

「フィエーナみたいね」

 

 私だって毎日はしていない。精々週に四日か五日がいいところだ。遥には才能ももちろんあるけれど、努力も欠かさない。だからこそ、異常なまでに腕を上げていく。

 

「でも遥、たまには休まないと駄目だよ」

「ありがとうフィエーナ。フィエーナはお休みに何してるの?」

「フィエーナちゃんなら……」

 

 里奈が慌てて口に両手を当て、途中でしゃべるのをやめる。あからさまに何かやましいことがあると開示している。

 

「何で里奈が答えようとしたの?」

「え? 何でもないよ! フィエーナちゃん、ほら、言ってあげなよ!」

「怪しい」

「何でもナイヨー……」

「里奈ちゃんってさ~、嘘つくの下手だね~」

 

 私の隣に座っていた遥は対面に座る里奈を見つめ続ける。里奈の顔には汗が滲み始める。席を立った遥は里奈を持ち上げ、自らの膝上に乗っけて額を突きつけ合わせる。

 

「本当の事、言って?」

「はい、遥ちゃん……耳貸して」

 

 ぼそぼそと遥に何事か呟いた里奈。

 

「そんなの気にしないよ」

「本当?」

 

「でも、内緒でフィエーナとお泊りしてたのはずるい。次からは私にも教えて」

「うん、分かったよ遥ちゃん」

「何々~どうしたの~?」

 

 その後、里奈は恥ずかしそうに小声で自分がアニメや漫画が好きで、その衣装を作っているのだと明かす。

 

「他の人には言わないでね……」

「言わないけどさ、別に隠すようなことか?」

「トヨちゃんは恥ずかしくないの?」

「別に?」

「いいじゃんいいじゃん好きなことがあってさ~」

「私は、里奈の趣味に口を出す気はないわよ?」

「ロートキイル語の漫画あったら貸してくれる? 私も漫画読むからさ」

 

 みんなからの発言に気が楽になったのか、里奈はほっとした表情で自分の席に戻り、私にもたれかかる。

 

「里奈は態度が分かりやすいね」

「私も気にしてるの……でも今日は肩の荷が降りた気がするよ」

「それで、里奈は今何を作っているの?」

「んふふ~それはね~」

 

 エリナの質問に里奈はウキウキと小声で語りだす。学校では見かけないハイテンションで語りだす里奈をみんなは初めて見たようで、微笑ましく見つめる。

 

「ね? だからフィエーナちゃんが適任だったの」

「あはは~、里奈はホントにフェルベリナ好きなんだね~」

「崇拝してますから!」

 

 その熱の籠りように常識人のアメリアが少し引いていた。私は頃合いかなと思い、話題をファッシングの衣装へと移す。

 

「私はね~、フェルマーだよ~。最終定理はロマンだよね~」

「あなた、相変わらずすごい発想してるわ……」

「えへへ~、褒めるなよ~」

 

 隣で引いているアメリアを肘でつつくキアリー。果たして一体どんな仮装になるのだろう? 相変わらずキアリーの発想は奇抜で斬新だ。トヨはテーマに付いていけなかったので、持っていた小袖という日本の服装で来るつもりだという。気になったので、帰ったら写真を送ってもらえるよう頼んでおいた。

 

「アメリアはどうするの?」

 

 遥に聞かれたアメリアは整った顔立ちをしかめてみせる。そして恥ずかしそうに小声で父親が用意するのだと告げた。アメリアは小さいころからずっとファッシングの衣装を父親に一任してきたのを、私たちは知っていた。

 

「あの人の数少ない楽しみだから、好きにさせてるんだけど。そろそろやめさせようと思っているの」

 

 そう言葉にするアメリアだけれど、友人たちの前だから強がっているように見える。別に恥ずかしがるようなことじゃないのに。

 

「でも毎年すっごく綺麗に着飾って来るよね~、お父さんのセンスに免じてあげようよ~」

「お父さんも悪気はないんだしさ、来年からはお父さん任せじゃなくて一緒に考えてあげたらもっと喜ぶかもね」

「二人がそう言うならそうしようかな……遥は、もう決めたのかしら?」

「実は、まだなの」

「おいおい、もう一週間しかないぜ? 何ならあたしの浴衣でも貸そうか? ここの連中和服の違いなんて分からないんだし適当に誤魔化せばいいんじゃない?」

 

 ロートキイル人に失礼なトヨの物言いに、遥はそうしようかなと同意して見せる。

 

「あたしは遥よりちょっと小さいけど、まあ二、三センチくらいだし大丈夫だろ。ただ念のため一回うちに来てくれる?」

「はいはい! トヨちゃんの家に私も行きたいな~」

「いいけど、何にもないぜ? 弟と妹もうるさいし」

「弟と妹がいるんだ。トヨに似てるの?」

「え~? そうだなー、昴はあたしのちっちゃい頃そっくりなんだけどさ、五鈴は超おしとやかで可愛いんだ!」

 

 私の質問を受けてトヨはしょうがない見せてやるかとスマホを操作して、弟と妹の映った写真を見せてくれる。いそいそとスマホを操作するトヨは何処か嬉しそうだ。

 

「こっちのロボットを掲げてるのが昴で、こっちの超可愛いのが五鈴だよ」

 

トヨそっくりのボサボサ髪でやんちゃにおもちゃを振り回す男の子が昴で、明るい茶色の髪のたおやかにほほ笑みながら恥ずかし気にピースをしてみせている女の子が五鈴。昴は小学校に通っていて、五鈴はまだ幼稚園児なのだという。

 

「うわー! トヨちゃんの妹さん本当に可愛いね~! お人形さんみたい!」

「だろ? 毎日あたしのベッドに入り込んで来るんだぜ!」

「うわー! いいなー!」

「昴はトヨに似ているね」

「だろ? こいつも小学校に上がったくせにベッドに入り込んで来るんだぜ。生意気だけど、まだ甘えん坊なんだよ」

 

 愛おしくてたまらないって顔つきでスマホの画面を見つめるトヨに、私は何故か母の影を見てしまった。

 

 

 

 ファッシングの前日、学校が終わった私たちはトヨの家にお邪魔した。学校から徒歩で二十分ほどの住宅街の一軒家を会社が購入し現地に派遣した社員に貸しているのだとかで、ちょっと古めかしい庭付き三角屋根の家に案内された。

 

「みんないらっしゃい、私が豊美の母です。ゆっくりしていってね」

 

 トヨより妹の五鈴に似た顔立ちをしているまだまだ綺麗なトヨの母親は、ぎこちないロートキイル語で挨拶をしてくる。トヨもあまりロートキイル語は上手くないけれど、トヨの母親はとりわけ下手だ。日常生活がきちんと送れているのか、私は不安になってしまった。

 

「あっ、母さん友達の前で豊美はやめろって!」

「えっ、えっ? 豊美、あんまり早く喋らないで」

「ごめん母さん、豊美じゃなくてトヨって呼んで」

 

 トヨは発音は上手くないけれど、ネイティブ並みの速さで会話を進めて行ける。一方で母親にはまだ聞き取りもままならないようで、これは苦労しそうだなと心配になってしまった。

 

 一通り挨拶を交わしていくうちに、遥は日本人だということに驚かれてしまう。

 

「え、ごめんなさいね遥ちゃん。でも、すごい綺麗な顔立ちしているわね~」

「ありがとう、ございます」

 

 私も日本語で挨拶をしたら驚かれてしまった。

 

「あら! 上手な日本語ね~」

「あはは、ありがとうございます咲子さん」

「え、でもどうしてそんなにペラペラしゃべれるのかしら?」

「五歳くらいから日本人が師範をしている剣術道場に通ってたんです。そこで剣術を習っているうちに、覚えてました」

 

 あの頃は真っ先にベーセル兄が日本語を覚えたのだった。ベーセル兄は知らない事に興味を持ってどんどん吸収する知識欲の塊みたいな人で、私はそんなベーセル兄に憧れていて負けじと日本語に手を付けたんだった。

 

「そっかー子供の頃から触れてると早いわよねー。五鈴もね、あ、トヨの妹なんだけどこっちに来て一年くらいでお友達と喋れるようになっちゃってて、まだ五歳なんだけど今では私よりもロートキイル語ペラペラなのよー」

 

 まるで日本語での会話に飢えているかのように勢いよく語り始める咲子さん。幸恵さんを紹介したら、案外仲良くなるかもしれない。

 

「あ、五鈴~! お姉ちゃん帰ったぞー」

 

 扉の間から顔を半分だけ覗かせて、肩まで茶色い髪を伸ばした女の子がこちらを見つめていた。トヨのデレデレな掛け声に嬉しそうに走り寄って、顔をトヨのお腹に押し付けている。

 

「ほら、五鈴。あたしの友達に挨拶してくれる?」

 

 コクリと頷いた五鈴は、何処か緊張した面持ちでぺこりと頭を下げた。

 

「あの、篠原五鈴です。お姉ちゃんをよろしくお願いします」

 

 流麗なロートキイル語で丁寧にあいさつする姿は愛らしくて、トヨの明るく奔放な姿とは似つかない。私も含めて全員が相好を緩めるのも無理はなかった。

 

「よろしくね~! 私はキアリーだよ! 仲良くしようね~!」

「むぐ」

 

 満面の笑みで五鈴をキアリーが抱きしめると、その胸に五鈴の顔が埋まってしまう。

 

「こら、五鈴が窒息してしまうわ」

「ええ~」

 

 キアリーから五鈴を奪い取ったアメリアは、普段の仏頂面しか知らないと想像もつかない聖母のような笑みを浮かべて五鈴の小さな手を取り握手を交わす。

 

「私はアメリアよ、よろしくね」

「よろしくね、アメリアお姉ちゃん」

 

 ロートキイル語は日本語のように兄、姉を指し示す単語を名前と一緒に付け加えて話すことが出来る。ドイツ語に似通ってはいても、細かい部分でやはり違いがあるのだ。

 

「ねえねえ~。五鈴ちゃん、一緒に遊ぼうね~」

 

 五鈴が本当に可愛らしいので、挨拶を交わした後にみんなが五鈴と遊びだしてしまった。今日は何をしに来たのか、遥まで忘れているのでは……けれど、まあ時間はある。五鈴も一緒に遊んでいて打ち解けてくれたようだし、いっか。

 

 しばらく遊んでいると、今度は弟である昴が元気いっぱいに家へ駆けこんできた。

 

「ただいまー! あれ、誰こいつら」

「昴、あたしの友達。ほら、挨拶!」

「えー……篠原昴! よろしく!」

 

 ちょっと頬を染めた昴は、挨拶といって叫んだあとで家の奥へ引っ込んでしまった。

 

「昴は引っ込み思案なのかな?」

 

 私がトヨに聞いてみると、トヨは悪戯っ子のような笑みを浮かべて昴が消えていった廊下を見つめた。

 

「いやあいつ、美少女に囲まれて照れてやんの。可愛いだろ?」 

 

 愉快気に笑うトヨからは嗜虐心が漏れ出ている。こらこら、いけないぞ。

 

「お兄ちゃん行っちゃったね。いつもこうなの?」

 

 エリナの問いかけに五鈴はふるふると首を横に振る。

 

「いつもは一緒に遊んでくれるよ」

「それじゃあ、私たちがいるから遠慮したのかしら?」

「え~、それじゃ可哀想だよ~、私連れ出してくるよ~」

 

 意気込んで駆けだすキアリーを見てトヨはさらに顔を歪める。

 

「キアリーのおっぱいで絶対あいつ顔を真っ赤にするぜ。見に行こう」

 

 にやにやと下卑た笑顔を張り付けたトヨは悪いお姉ちゃんだ。けど、何故だか私も積極的に止める気にはなれなくて、ついつい付いて行ってしまう。私にもトヨのいけない感情が乗り移ってしまったみたいだ。

 

「昴く~ん、一緒に遊ぼうぜ~」

「なっ、別にいいよ!」

「そんなこと言うなって~、五鈴ちゃんも一緒に待ってるよ~」

「んん……じゃあしょうがねえな……」

「偉いお兄ちゃんだ~、よしよ~し」

 

 身をかがめて頭を撫でるキアリーを前に、昴は確かに顔をまっかっかにしていた。

 

「はは~ん」

「な、何だよ姉ちゃん!」

「いやあ~、昴も男の子だよね~」

「うるせえぞ! 売女!」

「はぁ! お姉ちゃんへの口に気を付けろ!」

 

 トヨの煽りは純朴な青少年の心を弄び過ぎたらしい。それでも昴の吐いた言葉は他人に向けて掛けてはいけないものだ。私は片手でトヨを制して、腰をかがめて目と目を合わせる。

 

 

「昴。それは人に言っちゃいけないよ」

「でも、姉ちゃんが!」

「うん、そうだね。トヨも昴をいじり過ぎだよ」

「ちぇ、わかったよフィエーナ。悪かったよ、ごめんな昴」

「俺も……ごめん」

 

 お互いを謝らせて、この場を収める。きっと普段からこんな喧嘩はしているのだろう。だから私が出る必要はなかったと思う。ちょっとおせっかい焼いちゃったかな。

 

「よく謝れたね昴、偉いよ」

 

 私はベーセル兄やヴェイルがするように、昴を抱きしめてやる。一緒に頭も撫でてあげた後、顔を鼻が触れるところまで近づけて諭していく。

 

「これからはもうあんな言葉遣いしちゃ駄目だからね。約束出来る?」

「あ……はい」

 

 かぼそく、消え入るような声でも昴は確かに約束をしてくれた。

 

「よし、いい子だね。でもお姉ちゃんがいじめてきたら私に言ってね。こらしめてあげるから」

「おいおいフィエーナ、何だよそれ」

 

 本当はああなる前に私が制止すればよかったのに、昴の赤く染まった表情が可愛らしくてつい止めるのを躊躇ってしまった。私も反省しなくてはいけない。

 

「いや~、一件落着だね~。それじゃ、一緒に遊びに行こう~! お~!」

 

 掛け声のところで昴の手を取り、一緒に手を掲げさせるキアリー。ちょっと気まずい雰囲気をキアリーがほんわかとした口調で崩してくれる。

 

「それじゃ、私たちも行こっか」

「だな」

 

 

 

 年上の女の子と遊ぶのは気恥ずかしいのか、ちょっと照れたりする昴と一緒に遊んだり咲子さんが用意してくれたおやつを食べたりしているとあっという間に時間が過ぎてしまう。

 

「おいこのままじゃ浴衣着る時間なくなっちゃうって!」

 

 珍しくトヨの慌てた声で当初の目的を思い出した私たちは、早速遥に浴衣を試着してもらう。

 

 撫子の花柄がしつられられた浴衣を着た遥の姿に一同は見惚れてしまう。顔を少し伏せ、照れ笑いを見せる遥は本当に綺麗でそこだけ空気が違うようだ。

 

「綺麗だね……」

 

 ほうっと息を吐いた里奈は、目を遥に釘付けにしながら呟いた。

 

 

 



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T/A26:ファッシング前日の学校に行きました。

 

 

 

 脂の木曜日と呼ばれるファッシング初日には学校で仮装パーティーが開かれる。私はせっかくなので里奈と一緒に登校することにした。別のクラスなので別れてしまうけれど、フェルベリナとえふもんは一緒じゃないと様にならない。もう私は両者がセットじゃないと違和感を覚えるまでに里奈から刷り込まれてしまった。

 

 私の提案に里奈は乗り気になってくれ、早朝から着ぐるみ姿で私の家にやってきては役になり切って私の周りをはしゃぎまわっている。

 

「楽しそうね、何をお話しているの?」

「え、えへへへ! パーティー楽しみだねってお話してたんです! ね!? フィエーナちゃん!」

 

 ただし、ロートキイル語では頑なにアニメ関連の話を喋ろうとはしなかった。里奈は自分自身がオタクであることをあまり大っぴらにはしたくないようだ。私の母は偏見で見るような人ではないから明かしたらと促してはみるのだけれど、どうにも煮え切らない態度の里奈に強制する気にもなれなかった。

 

「フィエーナちゃん! そろそろ着替えようよ」

 

 パーティーでは毎回何がしかの料理や飲み物を生徒自身が用意することになっている。まさかドレスに身を包みながらケーキを焼く訳にもいかないので、ケーキが出来上がるまでの私はセーターとパンツの普段着にエプロンを着けて作業をしていた。ちなみに里奈はとっくに作り終えたサンドイッチをバスケットに入れて持って来ていた。

 

 けれど、時間的にもう着替えないと遅刻してしまいそうだ。私はエプロンをいつもの場所に掛ける。

 

「そうだね、里奈は手伝ってくれる?」

「任せて! 着ぐるみは脱ぐからちょっと待ってね」

 

 リビングで里奈に手伝ってもらいながら、フェルベリナの衣装を身に付ける。母とそれにいつの間にかやってきていたエリナから浴びる歓声が何だかむずがゆい。

 

「うわあ……綺麗ね」

「ありがと、お母さん」

 

 ドレスを身に纏った私を母はスマホで撮りまくってくる。珍しく興奮した母の姿に、私は少し恥ずかしくなってしまう。私のスマホに撮った写真は何度も見せたはずなんだけどな。

 

「フィエーナ……私、フィエーナならお嫁に迎えてもいいよ」

「何言ってるのエリナ」

 

 私の衣装姿を見たエリナが着ぐるみ姿で冗談を言ってくる。頬を染めながら言われると冗談に聞こえないから、やめてねエリナ。

 

「そろそろ行こうか」

 

 恍惚とした表情で私にスマホを向けて来る母に我慢ならなくなった私は早々に家を出ることにした。友達二人の前で、ちょっとみっともないよお母さん……。

 

 コートを羽織って外に出ると、まだ暗い朝なのに奇天烈な服装をした人たちが愉快気に歩き回っている。ファッションの季節だからこれが普通なのだけれど、初めての里奈には興味深かったらしく道行く人々をキョロキョロと見回していた。

 

「すごいね、みんな仮装してるね」

「この時期に普通の格好してたら逆に目立つよ」

 

 とはいえ仮装の行列の中に合っても私みたいに日傘を差して厚底のリボン付きブーツを履いた格好は珍しいみたいで、上に羽織ったコートで衣装はスカート部分しか見えていないのに注目されているようだった。

 

 記念写真を求められたり、近所の知り合いにあって互いに衣装を誉めそやしながら歩いていると普段の倍近く時間を掛けて学校に到着した。

 

「いやあ、フィエーナちゃん大人気だったね」

「里奈の衣装の出来がいいからね」

 

 思いのほか反響があったことに三人で盛り上がった後で、私はエリナと里奈の二人とは別れて自分のクラスが割り当てられた多目的室に向かう。クラスに向かう道すがらもどうにも注目されているような気がしてしまう。記念写真を何度も求められた後遺症だろう。

 

「おはよー」

 

 私が多目的室に入ると様々な格好のクラスメイトたちが目に入って来る。半分くらいのクラスメイトは十七世紀の貴族衣装や軍人装束などの歴史的な衣服を再現していた。これなら私が悪目立ちするようなことはなさそうだ。

 

「ん……みんなどうしちゃった?」

 

 コートを脱いで隅っこの荷物置き場に置いてから振り返ると、私に視線が集まっている。やっぱり室内なのに日傘を差しているのがおかしいのかな。

 

「あ、いやあ。フィエーナさん、その衣装似合っているよ。俺ちょっと見惚れちゃって……みんなもそうでしょ?」

 

 ワルター委員長の物言いにみんなが頷いてくれる。里奈の衣装作りの腕はすごい。私がモデルで人をここまで感嘆させるのだから、将来もし衣装関係に進んだら人をもっと魅了させるんだろうな。

 

「フィエーナ、いつもおしゃれしてないのもったいなくない? 今日はすっごく綺麗だね!」

「ありがとう、アンナ」

 

 いつもの私はそんなにひどい格好なのかな? 一応着せ合わせとか考えて着てるのに、何だかショックだ。

 

 その後しばらくクラスメイト同士で互いの仮装について批評し合っていると、小袖姿のトヨと浴衣を着て来た遥がやって来る。滅多に見ない日本の衣装にクラスメイトのみんなは興味津々で、一気にみんなの視線を集めて一斉に囲まれてしまう。

 

「これって日本の衣装なの? 綺麗だね~」

「可愛い服だね!」

「その木の靴? もエキゾチックで素敵だね」

 

 みんなから褒められ照れているトヨとは対照的に、遥は部屋に入ってからずっとこっちを凝視し続けている。白い頬を染めながら、周りの声が届いていないかのようにゆっくりと遥は私に近寄ってきた。遥の異様な動きにクラスメイトたちも何事かと注視する。

 

「おはよう遥、どうかした?」

「フィエーナ……」

 

 私の名を呟いた遥は恍惚とした眼差しで私の頬に手を差し伸べて来る。数センチ背の低い遥は上目遣いのままそのまま顔を近づけて来た。何だこれ、まるでキスしようとしているみたいだ。恥ずかしくなった私は日傘から手を放し、遥の両頬を抓って誤魔化す。

 

「むにー」

「んにゃ!? ふぃふぇえな!?」

「おはよう、遥。朝からびっくりさせてくれるね」

 

 一瞬空気の固まった室内は、私が奇行に打って出てようやくざわざわと動き出す。苦笑する私と顔を真っ赤にして俯く遥は、しばらくクラスメイトたちから関係の追及を受けてしまうのだった。

 

 



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T/A27:ミゼリア姉に会うことができました。

 

 

 エリナに会いに家を尋ねるとリビングでミゼリア姉に会った。エリナの姉であるミゼリア姉は、私にとっても姉のような存在であった。面倒見のいいおせっかい焼きなミゼリア姉をエリナは疎ましく思っているようだけれど、内心は家族として大切に思っていることを私は知っていた。

 

「おはようミゼリア姉」

「おはよ、フィエーナ」

 

 私が後ろから話しかけてきたからか、びくりと肩を震わせてミゼリア姉は振り向いた。勝気なエリナの目付きとは正反対に垂れ目のミゼリア姉は、おっとりとした雰囲気の美人さんだけれどその実エリナみたいにはっきりとした性格をしている。

 

「びっくりした?」

「後ろから話しかけるからよ」

 

 私がにやりと笑いながら問いかけると、ミゼリア姉は苦笑する。

 

「今日はエリナに会いに来たの?」

「うん、どうせまだ寝てるでしょ」

「そうよ、あいつったら休日はだらだらだらだらしっぱなしなんだから! フィエーナは毎日ランニングしてて偉いわね」

 

 私はミゼリア姉から頭を撫でてもらう。たまにしか会わないけれど、昔からミゼリア姉は私に優しくしてくれた。ベーセル兄にミゼリア姉、二人も尊敬出来る年の近い人間がいて私は恵まれている。

 

 今日のミゼリア姉は特に用事がなくて暇を持て余しているらしい。いつもは友人づきあいやバイオリンの練習であちこち動き回り家にいないことが多いミゼリア姉と話す機会が得られて嬉しくて、ついついエリナと会いに来たのを忘れて話し込んでしまう。

 

 そうして色々と話題にしながらお喋りに興じていると、こないだのファッシングも話題になった。

 

「ミゼリア姉は何を着ていったの?」

「私はね、友達の家に集まって魔女の格好をしていったわ」

「へえ、見たかったな」

「んふふ、見せてあげるわ」

 

 スマホを取り出し、ミゼリア姉は黒い三角帽子を被った魔女姿を披露してくれる。友達とお揃いの格好で満面の笑みを見せるミゼリア姉の表情は、私に見せるお姉さんな顔つきと違って十六歳相応の愛らしい表情をしていた。

 

「フィエーナはどんな格好をしたの?」

「こんなんだよ」

「うわあ! 綺麗ね! 流石フィエーナ、自慢の妹よ!」

 

 私がスマホを見せるとミゼリア姉は興奮して抱き付き、頬をすり寄せて来る。しばらく衣装について質問攻めにされた後、私はクラスメイトから言われた台詞を思い出してしまった。

 

「ねえ、ミゼリア姉。私の普段の服装ってダサイのかな」

「どうしたの急に」

 

 私が事情を話すと、ミゼリア姉は口に手を添えて微笑む。

 

「フィエーナはスカートほとんど履かないでしょう? きっと普段とのギャップに驚いたのね」

 

 確かに私はスカートが履くのは合唱団に参加する時などフォーマルな場に出る時くらいだ。思えば学校にスカートを履いていったのは、入学式以来かもしれない。

 

「じゃあ今の私はダサくない?」

「馬鹿ね、フィエーナは下手に服を選ばなくても素材がいいから問題ないわ」

 

 ミゼリア姉は私から上手く情報を聞き出して、アンナがおしゃれのことを勘違いしているんじゃないかと話してくれた。曰く、女性らしく可愛らしい服装をおしゃれだと思い込んでいるんじゃないかという。

 

そう言われてみると、アンナが普段着て来る服は可愛らしいスカートや体のラインを強調したふわふわとしたイメージの服装が多いことに思い至る。勘違いというよりかは、服装の好みが違うと言った方がいいかもしれない。

 

「そうだ、今日はフィエーナに服を選んであげる。特別可愛らしいの選んであげるわ」

「いいの?」

「ちょうど暇だったし、付き合ってくれる?」

「ミゼリア姉ありがとう! すぐエリナ起こしてくるね!」

「え~、起こさなくてもいいわよ?」

 

 口とは裏腹に、ミゼリア姉の表情は穏やかだった。

 

 

 

 エリナを叩き起こし、私たちはミゼリア姉の先導で近所へ買い物に出かけた。

 

「うえ~、今日も寒いね」

「本当だね」

 

 体を震わせながらエリナが私に身を寄せて来る。ファッシングが終わり、もうすぐ三月になるけれど一向に温かくなる兆しはなかった。今日も軽く雪がちらつき、足元は真っ白に染まっている。ただ、そこまで雲は厚くないようで、久方ぶりに太陽が顔を見せているのはありがたかった。

 

「もうすぐだから、我慢しなさい」

「ねえねえ、お姉ちゃん私の服も選んでよ」

「えぇー、エリナは適当でいいんじゃない?」

「は? フィエーナひどくない?」

 

 何だかんだでミゼリア姉のことが好きなエリナは、憮然とした表情で私に同意を求めて来る。

 

「冗談よ、あんたも身綺麗にすれば映えるんだからちょっとは服に気を使いなさい」

「あー、また私をからかうんだー!」

 

 結構丸わかりな口調だったのに、悪戯気に笑うミゼリア姉に向かってエリナは怒り顔で走り目の前に立ってわざわざ顔を背けて見せる。エリナもミゼリア姉の前ではちょっと我が儘度が増して妹っぽくなるのが可愛らしい。

 

「それにしても、フィエーナ大きくなったわよね」

 

 二人がひとしきり姉妹漫才を終えた後で、ミゼリア姉はしみじみと私の事を見上げて来る。エリナとミゼリア姉の家系はそこまで身長が高くないようで、二人ともロートキイル女性の平均身長百六十五センチを大きく下回っていた。

 

「お姉ちゃん私たちが小さいだけだって」

「んなっ、私は百六十センチはあるんだからあんたと一緒にしないで」

「んえ~? たった百六十じゃん」

「そういうあんたは百五十センチくらいでしょ」

「そこまで小さくない! 百五十六はあるから!」

 

 どっちにしてもロートキイルでは小型の部類だ、ミゼリア姉も含めて。その点私は高身長なドークお祖父ちゃんの家系の血が流れているから、きっと結構伸びるんじゃないかと思っている。十三歳なので成長の最盛期は過ぎたけれど、まだじわじわと伸びているし少なくとも百六十五センチには達するだろう。

 

「あ、着いたわ。ここよ」

 

 ミゼリア姉が入っていったのは、こじんまりとしたお店だった。クラシカルな雰囲気で、室内も落ち着いた夕日のような照明で照らされている。飾られた洋服も、何処か格調高さを感じさせた。

 

「こんにちは、リハーナ」

「あら、ミゼリアじゃない! 今日も可愛いお友達と一緒ね」

 

 喜声でミゼリア姉を迎えた店主のリハーナさんはまだ二十代ほどだろうか。前髪をぱっつんと切りそろえた白銀長髪の女性で、身長は私よりちょっと高いくらいのちょっと幼げで清楚な印象を与える女の人だった。

 

「ううん、今日は友達じゃないの。妹たち」

「へえ~! あなたたちお名前は?」

 

 それぞれ自己紹介すると、リハーナさんは顔つきを緩ませて私たち三人を纏めて抱き寄せる。

 

「うへへ……こほん、それで今日はこの子たちの服を見繕いにきたのかしら」

「そんなトコ、あとあなた服のセンスはあるんだからそのだらしのない悪癖はやめるべきよ」

 

 ミゼリア姉がジト目で睨むと、リハーナさんはちょっとはた目には見せられないだらしのない顔つきにまで顔を緩ませる。

 

「その表情……好きぃ」

「呆れた。ほら、二人とも離れなさい」

 

 回された腕を引き離したミゼリア姉に追い立てられ、私とエリナはリハーナさんと距離を置かれた。

 

「ああん、もっと触れ合わせてよぅ」

「私の時間を無駄にさせないで。あなたも可愛い女の子を着飾るのは好きでしょ」

「もちろん! だからこのお店をやってるんです!」

 

 腰に手を置き胸を張るリハーナさんを前に、ミゼリア姉は眉間を揉む。ねえ、何でここに来たのミゼリア姉?

 

「フィエーナと絡ませたら怖いわね……エリナ、あんたまず選んでもらいなさい」

「ええ……」

「似合う服を選ぶセンスだけは本物だから、ほら。フィエーナのためよ」

「ちぇ、分かった」

 

 嫌がるエリナを無理やり前に押し出し、リハーナさんの前に立たせるミゼリア姉。でもミゼリア姉、その人かなーり変態な顔つきしてるけれどエリナ大丈夫かな。

 

「あ、あはあ……小柄で巨乳な子。私大好きヨ」

「お姉ちゃん!」

 

 口元から涎が零れかけるリハーナさん。リハーナさん自身は綺麗な人なのに、これじゃもうまともな人には見えない。気丈なエリナも流石に涙目になって普段は頼ろうともしないミゼリア姉にすがってしまう。

 

「エリナに酷い目合わせたらただじゃ置かないわよ」

「じょ、冗談ですって……へへへ。でも軽く体図らせてネ。その胸だと洋服選ぶの苦労してるデショ」

「まあ、そうだけど……」

 

 私の周りには胸囲の大きな人が多い気がする。エリナも例外でなく、背が小さいのに胸だけが大きくなって既製服で似合うのが減って嘆いていたのを覚えていた。

 

「ふへへ、ほんと、一瞬だからネ」

 

 メジャーを掲げエリナと衣装室に入っていくリハーナさんを見ていると不安がこみあげて来る。初見の清楚な印象が吹っ飛んでしまうリハーナさんの所業に私はミゼリア姉の耳の傍で小声を上げる。

 

「ねえ、この人大丈夫なの?」

「心配しないで。あの人旦那さんもいるし、愛でるまでしかしないから」

 

 あんまり不安が払しょくできないよミゼリア姉。

 

 ほんの少し待って、僅かに頬を染めたエリナと共に出てきたリハーナさんは凛とした表情で店内全体に目を通す。そして数瞬だけ目を閉じた後、カッと目を見開くとリハーナさんはいきなり叫ぶ。

 

「見えた!」

 

 リハーナさんは店内を駆け回り、衣服をかき集め始める。衣装室の手前にぽんぽんと衣服を積み上げること、数分。額に一筋の汗をたらしながら息を乱すリハーナさんは輝くような笑顔でエリナに向き直った。

 

「いよっし、それじゃエリナ。お着替えと行きましょう。まずはこれと、これ! 着てみてネ!」

 

 リハーナさんから衣装を受け取ったエリナは衣装室に入り、しばらくしてから出て来る。

 

 

「ど、どーかな?」

 

あるいは私よりも服装に無頓着かもしれないエリナがコバルト色のワンピースに身を包みおずおずといった様子でこちらを見つめて来る。エリナの活発で小柄な愛くるしい雰囲気と上手くマッチしていてとても可愛らしい。

 

「おおー、いいじゃんエリナ」

「本当?」

「そんな疑わなくてもいいじゃない、似合ってるわよ」

 

 ミゼリア姉と二人で綺麗になったエリナを褒め続けていると、あのエリナが恥じらって衣装室に引っ込んでしまった。そんな可愛い反応するから、私たちにいじられるんだぞエリナ。

 

「ね? 服を選ぶセンスはあるでしょ」

 

 引っ込んでいったエリナを見つめる私に、ミゼリア姉が得意げに耳打ちしてくる。

 

「でも、ミゼリア姉。あれじゃエリナも素直に喜べないよ」

 

 私が視線を向ける先にはいくら綺麗でも通報されかねない顔つきのリハーナさんがいた。両手で顔の下半分を覆っているけれど、大きく開いた口からは涎が垂れて覆った両手から滴っている。興奮し見開いた眼光、ハアハアと変態染みた吐息……視線を向けたミゼリア姉が思い切り頭を叩きに行くのを私は止めようとは思えなかった。

 

 何着かエリナが着替えてみせたり服を目の前に掲げたりした後、今度は私の番になる。

 

「次はフィエーナの番ね。くれぐれも、変な真似するんじゃないわよ」

「リハーナ。フィエーナは剣術やってるんだからね、嫌らしいことしたらぼっこぼこにされるから」

 

 ミゼリア姉とエリナに脅しつけられたリハーナさんは首を縮ませ、おどおどとした笑いを浮かべる。

 

「わ、分かってますってぇ……で、でも……」

 

 私の事をじいっとリハーナさんは見つめて来る。その顔つきは見る見るうちに緩んでいき、喜悦に塗れているって感じだ。

 

「尊い……ミゼリア、この子尊い……!!」

「流石ねフィエーナ。あまりの美少女レベルにリハーナが畏怖しているわ」

「何それ」

「と、ととととととりあえずスリーサイズは、はは、図ろうネ。ぐへへへ」

 

 大丈夫かな、恐る恐る衣装室に一緒に入り私は着ていた服を脱いでいく。

 

「あ、あっあっあっ。フィエーナ、服を脱いで……」

 

 咄嗟にリハーナさんはハンカチを取り出して鼻を覆う。折角の白いハンカチが赤く染まっていってしまっていた。

 

「待って待って。これは一回深呼吸しないと……時間をかけてば死ぬ、勝負は一瞬でつけないと……いける私? いや、いかなくちゃ! 誰がこの子の服を選べるの? 覚悟を決めなさい私!」

 

 胸に手を当て深呼吸を行うリハーナさん。目を閉じて両膝をつくその姿はまるで神の前に跪く敬虔な信徒にも見え、美しく見える……のだけれど、先程までの姿を見ている私にはあまりに差異が激しくて違和感に目がくらむようだ。

 

「よし! リハーナ、覚悟決めます!」

 

 そこからのリハーナさんは素早かった。本当に測れているのか不安になるくらい、メジャーが私の肌に当たる時間はごく僅かで、それでいて先日里奈と一緒に測った数値とそう違わない結果を教えてくれる。

 

「ふうむ、上から八十八、五十二、七十九か。これは……フィエーナも服を選ぶの苦労しているでしょう」

 

 ハンカチで鼻を抑えながら再びキリリと顔を引き締めているリハーナさんに私は頷いて見せる。上に合わせるとぶかぶかで、下に合わせると服が入らない。私が量販店に行っても、着られる服はあまり見つからないのが常だった。

 

「流石にこれだと即座に服を用意してあげることはできないわね。でも、大丈夫。私の店なら丈も合わせてあげられるから」

 

 衣装室から一緒に出たリハーナさんはエリナの時と同様に店内をぐるりと見回し、目を閉じる。数秒間目を閉じたリハーナさんの雰囲気は意味もなく剣呑としていて、戦場に出かけるかのようだ。

 

「見えた!」

 

 再び店内を駆け回りだすリハーナさんを横目に私はミゼリア姉の隣に立つ。

 

「いつもあんなんなの?」

「おかしいところはあるけど、本当に才能だけは認めてあげて……リハーナ自身も悩んでるところがないわけでもないから」

 

 いつになく曖昧な口ぶりのミゼリア姉を見ていると、本当に悩んでいるのかは疑問だ。何より服を高速で選ぶリハーナさんの表情はとても生き生きとしていて、生きている喜びを噛み締めている。天職ではあるんだろうなとは思う。

 

 

 

 エリナにしても私にしてもロートキイルの標準的な体格とはいえず、私に至ってはロクに着替えすらも出来ずにこの日は服を見繕って終わった。それでもああだこうだファッションについて話す機会はそうなくて、楽しい時間ではあった。

 

リハーナさんのお店を出ると、既にお昼を過ぎていた。

 

「それじゃ、よろしく頼むわリハーナ」

「任せておいてミゼリア。しっかり調整しておくから」

 

 出て行く私たちをわざわざ店から出て見送ってくれるリハーナさんの手を振る姿はやっぱり清楚なお姉さんと言った風情で、店内での態度とは似ても似つかない。

 

「また来てね」

「どうしよっかフィエーナ? こんな変態さんのいるお店また来たい?」

 

 エリナは低めに声を抑えたつもりだったけど、聞こえていたらしい。少し離れたリハーナさんの顔つきが見る見る曇り、涙目になってしまう。ここまで素直に感情が出せる人も滅多にいないし、私は嫌いまではいかないかな。せめて変態的な素振りは誰もいないところでこっそりしてくれれば言うことはない。

 

「こらこら、リハーナをあんまりじめないであげて。あれで打たれ弱いんだから。心配しないでもまた来るわ」

「……待ってる!」

 

 目を潤ませながらこちらを見つめて来るリハーナさんを見ていると私も絆されてしまい、うっかりまた来るなんて約束を取り付けてしまったのだった。

 

 

 

 



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T/A28:心が超絶息苦しくなりました。

 

 

 ファッシングが終わり、イースターまで二週間を切った頃、興奮したような口ぶりのテレーズさんが電話を掛けてきた。

 

「フィエーナさん朗報よ! 重版が決まったわ!」

「本当ですか?」

 

 私の中にあるヴェイルの記憶を書にした回顧録が出版されると決まってから半年以上が過ぎていた。その間、私は誤字や誤用の修正をした程度でそれ以外のきっと大変であろう作業の全てをテレーズさんに任せていた。その分印税はテレーズさんにも入るようになっているけれど、正直儲かるとは私には思えなかった。

 

『探窟者ヴェイルの回顧録』と名付けられた私の回顧録はシリーズものとして売り出す予定で、もう既に私は巻数で言えば八巻目である最後の執筆に取りかかっていた。売れても売れなくても私には関係ない。ただ、記憶の確かなうちに思い出せることを書き記しておきたいと思っただけだ。

 

 それでもクラスメイトから購入報告を受けたり、私の母が贈呈本を大事にしてくれていたり、ベーセル兄がドイツにいるのにわざわざネット通販で購入してくれたりしたのは嬉しかった。

 

 恐らく一番のファンでもある遥と里奈には私が最初の二冊を直々に手渡していた。二人には最新の話を読んでもらって感想を聞いたりしている。出版される話を明かした時にも喜んでくれたし、話が大事になっても私が依然と変わらない調子で書き続けられたのは二人のおかげかもしれない。

 

 その後、テレーズさんは数日おきに重版の決定を教えてくれた。発行数も順調に伸びているらしい。ネットの通販サイトでもランキングに入ったりして、案外ヴェイルの思い出には需要があったようだ。

 

 

 

 

 三月の下旬、イースター前の聖週間が訪れ学校はお休みになった。町ではイースターマーケットが開催され、スーパーマーケットや個人商店でも卵やウサギ関連の商品が頻繁に見かけるようになっていた。

 

 聖週間前の金曜日にパーティーが開かれた後、せっかくのお休みだし遊べないかと日程を調整したのだけれど、今回は運に見放され全員で集まる機会に恵まれなかった。私とエリナだけが合唱団の日程の都合で参加出来なかったのだった。

 

「ベーセル兄、ほら行くよ」

「はいはい、すぐ行くから」

 

 ベーセル兄の前だと私はどうにも浮かれてしまう。今日は大学から戻ってきたベーセル兄に、ミゼリア姉とエリナの四人で近所のイースターマーケットを見に行く約束をしていた。

 

「ベーセル兄さん! お久しぶり!」

「あ、ベーセル、一月ぶりね……」

 

 元気にベーセル兄と挨拶を交わすエリナと違い、ミゼリア姉は少しそっけない。

 

「おはよう二人とも。それじゃ、行こうか」

 

ただ、今日のミゼリア姉の服装には気合いが入っているような気がするのは、私の見間違いなのかどうか……私の心が少しざわついている。

 

 きらきらと輝くイルミネーションに、白と緑で塗りたくられた鮮やかな出店群。出展されている卵を模したお菓子に工芸品、ウサギのぬいぐるみや陶製の人形……何から何まで可愛らしい。白木で作られた柵の中では本物のウサギと触れ合えるようになっていて、子供たちが笑顔で餌を与えたり頭を撫でていたりしている。

 

 去年までの私はイースターに春の訪れを感じ、心浮き立っていただけれど、今の私はそれらを見てもちっとも心惹かれなかった。明らかにベーセル兄とミゼリア姉二人の態度が違うのだ。

 

「ねえ、フィエーナ。あの二人もしかして……」

 

 エリナも感づいているようで私に耳打ちしてくる。

 

 私の心臓の鼓動が早まる。呼吸が乱れ始める。視界が揺れる。けれどそんな私を見たベーセル兄とミゼリア姉がどう思うかを考えると、私は全てを抑え込むしかなかった。幸か不幸か、私は心中を外に出さない鍛錬を積んでいる。

 

 さらに言えば心の乱れは剣の乱れ。一回の深呼吸で私の心は平静に回帰した。これなら……と思いきや、目の前のベーセル兄とミゼリア姉を見た瞬間、心はあっさりとかき乱されてしまう。

 

 いや、待つんだ私。何かの間違いかもしれないじゃないか。私は口に笑みを張り付けて二人に話しかけた。

 

「あれ~? 二人とも様子がおかしいね。何だかカップルみたいだよ」

 

 何を言っているのかよく聞き取れない。確かにベーセル兄の口は動いているはずなのに。いや、私が聞かないようにしたいだけだ。

 

 照れて頬を染めるミゼリア姉と頭をかくベーセル兄。

 

「実は、つい最近から付き合ってるんだ」

「えー、ひどいよー。言ってくれればよかったのに」

 

 そうだ、祝福すべきだ。ベーセル兄のことも、ミゼリア姉のことも私は愛している。二人なら信頼できる。ベーセル兄が変な女に付きまとわれるのを冷ややかに見つめる必要も、ミゼリア姉がよく分からない男と一緒に歩いているのを疑わしく見つめる必要もなくなるのだ。

 

「フィエーナ……怒ってない?」

「何で? 怒らないよ! 二人なら私安心できるし、エリナ今日は二人をお祝いしよう!」

 

 四人での買い物は終始楽し気な雰囲気で終わった。私の平静を見て安心したエリナが二人が付き合いだしたきっかけを聞き始めたり、私に遠慮していたミゼリア姉が私の態度を見て安心したのか公然とベーセル兄と腕を組み始めたり、果てはベーセル兄までトイレに向かうミゼリア姉と別れ際に口へ軽いキスをし出す。

 

 私は顔にいつもの自分を張り付けながら、自問自答を繰り返していた。何故私はここまで精神的打撃を受けているのだろう。ベーセル兄も、ミゼリア姉も、二人とも私の大切な人だ。素性も知れない何者かと二人が結婚するよりもずっと安心できる結末で、むしろ安堵すべき状況のはずだ。

 

 拷問を思わせる数時間を終えて、私は一人自室のベッドに倒れ込んだ。数秒の逡巡の末、私は遥と連絡を取る。

 

「今日は遥の家に泊まるね」

「そっか、行っておいで」

「うん」

 

 ベーセル兄に行先を伝えた後に私はランニングウェアに着替え、誰にもこの姿を見られないように隙を伺って一人で家を出る。今は何も考えたくなくて、とにかく肉体に鞭を振るうように全力で走った。走っているうちに無性に涙が出て来る。見られると面倒なので、フードを深くかぶり私は走り続けた。

 

 三時間後、私は息も絶え絶えになって道路に倒れ込んだ。涙を流し余計に水分を失ったせいもあり、酷い頭痛がする。スマホから家までの距離を衛星位置情報システムで調べると直線距離で三十五キロと出て来る。これをまた往復しないといけないと思うと、ちょっと面倒だな。

 

「あれ」

 

 ひどく喉が渇く。水分を失いすぎたようだ。体に力が入らない。けれど、私は死にかけの体を無理やり動かす術をヴェイルの記憶から呼び起こすことが出来る。ただ、もし実行したら死にそうで、ちょっとどうしようか私は分からなくなってしまった。

 

 とりあえず何か飲まないと。私は揺らぐ視界に危機感を覚えながらスーパーに立ちより、スポーツドリンクを買って一気に飲み干した。一リットルでも足りずにもう一本飲んでようやく人心地つく。

 

 スーパーの脇に設置されたベンチで数分休憩し、私は帰路に着く。今回は水分不足を起こさないよう買い物も済ませていたので、体調に問題はなかった。けれど単純に体が疲弊し思うように動かなくなっていた。

 

 半ば足を引きずりながら走り続ける私は考え続ける。私がベーセル兄に抱いた感情は何なのか、家族愛だと思っていた感情が別の何かに見えてくる。

 

 いっそのこと泣きわめきながらベーセル兄に縋りついた方が楽だったのかもしれない。けれどあいにく、そんな真似をするほど私は我が儘になれなかった。何より、人の幸せを打ち砕くような真似はヴェイルが許さない。

 

 疲労からか、普段は考えないような思考が頭を渦巻いてくる。中には考えるだにおぞましい猥らなものも含まれていて、私は自らを嘲笑する。

 

 ベーセル兄の方が体力はあるし力は強いけれど、天河流剣術は剣だけ学んでいる訳じゃない。無手での戦闘も考慮されていて、私も人一人程度身動きを奪う術を身に付けている。不意をつけば、ベーセル兄を好きに出来る。

 

 真剣にベーセル兄を襲う方法を組み立てる自分自身にふと気づき、気持ち悪いと思うと同時にまさか自分がここまでの感情を抱いていたことにあきれ返った。

 

 結局、私はこれからどうするべきか。これはもう決まっている。二人の幸せを願い、出来るだけ協力してあげるべきなのだ。問題はたった一つ、割り切れない私の思いだけ。私がどうにかしていつも通りの平静さを保って周囲に気取られないよう折り合いを付けないといけない。

 

 答えはもう出ている。だから後は私が納得すればいいのだけれど、私は幼児のように駄々をこねてミゼリア姉との関係を拒絶する。私にはなりえないポジションに立ったミゼリア姉に対し嫉妬を抱く自らが、おぞましい怪物に見えてくる。

 

 怪物退治は得意分野だった。私は精神を魔物に見立て戦う。切り刻み、滅魔の力を流し込む。戦闘はかつて体験したヴェイルの戦いとも重ね合わされ、何度も復活する度に塵一つ残さず消滅させていく。

 

 何度そんなイメージを脳裏に浮かべたのだろう。ようやく気持ちの整理が付くと、代わりに大きくぽっかりと精神に穴が開いたような思いに囚われる。まさに身を切る思いで自身を納得させた訳だ。

 

 ここまで私を狂わせたのだ。ベーセル兄とミゼリア姉には、必ず幸せになってもらわないと許さない。

 

 時計を見ると、既に七時を指していた。家を出てから五時間か。あまり遅く到着すると遥に不審がられてしまう。私はスマホで検索し、公共交通機関を利用して帰った。

 

 途中で合流した遥が何も言ってこなかったのはありがたかった。

 

「こんばんはフィエーナちゃん! 遅かったから心配したわよ? すごい汗ね! 遥ちゃんと一体何をしていたの?」

「あはは……せっかくだし走って帰ろうって私が提案したんです」

「フィエーナちゃん、目……何があったの?」

「かゆくてかいちゃって……花粉症かな」

 

 幸恵さんの追及を逃れた後、私は真っ先にお風呂を借りた。絞れるくらいランニングウェアにたまった汗でべとべとの体を洗い流し、すっきりする。

 

「それで、何があったの」

 

 流石に遥には嘘を吐く訳にはいかないか。私は事情を明かした。

 

「フィエーナにとって、お兄さんは初恋の人だったのかもね」

「家族だよ? そんな訳ないよ」

「でも、辛かったんでしょ」

 

 そう言われると、私は何も言えない。確かにベーセル兄は優しくて、頭も良くて、運動も人並み以上に出来て、顔もカッコよくて、話も面白くて……もし、血のつながりがなくて恋人にするなら私はベーセル兄を選ぶだろう。

 

 血のつながりのおかげで私はベーセル兄の妹でいられて幸せだったのに、それを恨めしく思う日が来るとは思わなかった。

 

「ね、フィエーナ。今日は私に甘えていいから」

 

 そういって、遥は私を後ろから抱きしめてくれる。何だか人の温もりに弱くなったらしい。目がまた潤んで来る。おかしいなあ、走っている間あんなに泣き続けたのに。

 

「ごめん遥。今日だけ……今日だけでいいから」

「うん」

 

 遥の優しい声と柔らかい雰囲気に包まれていると、一気に眠気に襲われる。そういえば、今日は四十キロくらい走ったのだ。疲れるのも当然か。

 

「大丈夫だよフィエーナ、私がそばにいてあげる」

 

 

 

 

 



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T/A-Me01:閑話

完璧超人じゃつまらないので、多少はね?


 

 

 僕には一人妹がいる。僕と同じ白銀の髪に、紅紫の瞳をした五歳年下の妹だ。小さな頃から僕によく懐いていて、纏わりついてくる妹が僕は可愛くて仕方がなかった。

 

「ベーセルってさ、女に興味ないの?」

「何で? そんなことないよ」

「えー? でもことごとくフッてんじゃん。そのくせ誰かと付き合いもしないし」

「あー、ユスト知らないの? ベーセルはフィエーナちゃん一筋だから」

「はぁ? フィエーナってベーセルの妹だろ?」

「シスコンなんだよ、ベーセルは」

 

 僕は苦笑いを浮かべながらも、友人にあえて反論はしなかった。この頃の僕はまだ、自分自身を仲の良い兄妹と認識していた。フィエーナに対する感情を家族愛と思っていたんだ。

 

 

 

 

「ベーセル兄、どうしたの?」

「ううん、何でもないよ」

「そう?」

 

 僕が大学に進学する直前になるとフィエーナは僕が遠くへ行くことに寂しさを覚えたのか、よく僕の部屋に入り込んではベッドに潜り込んでくるようになった。

 

「ね、今日だけはいいでしょ?」

「……今日だけだからね」

 

 フィエーナはいつも今日だけと言いながら入り込んで来る。それを指摘すると顔を赤くして誤魔化してくるのが可愛らしいけど、僕は意地悪じゃないから滅多に指摘することはなかった。

 

 フィエーナが僕を慕って部屋を訪ねてくれること自体はすごく嬉しい。問題はフィエーナにはなく、僕にあった。

 

夏用のパジャマを着たフィエーナは色々と無防備で、見ようと意図していないのに丈のゆったりとしたパジャマの隙間から見える太腿、脇、胸元……普段目に付かない部位が目に入る度に僕の目を惹き付け、劣情を誘ってくるのだ。

 

 フィエーナが十二歳になった頃から僕はおかしくなっていった。フィエーナが子供の体から大人の体に成長していくにつれて、僕のフィエーナへの感情が変化を遂げていくのを実感していったのだった。

 

 こんな感情は初めてだった。他の女の人ではこんな感情は抱かないのに、どうしてよりにもよって最愛の妹相手にこんな下劣な思いを浮かべてしまうのだろう。自分自身がひどく情けなくて仕方なかった。

 

 そしてこんな僕の内面に気付かず肌を寄せて来るフィエーナにはとても困った。フィエーナはただ単に兄妹間の親愛の情で近寄って来るのに、フィエーナは僕の事をとても尊敬しているのに、本当の僕はフィエーナに対して性的な目を向けているのだ。

 

 フィエーナをどうにかしてしまいたい欲求は日に日に募るばかりだった。けれど、それ以上に僕はフィエーナが幸せであって欲しいと願っていた。だからこそ、決して手を出すことはなかった。

 

 幸い、僕は九月には実家を出てフィエーナから離れることが出来た。本当のことを言えば、離れるなんてもってのほかなのだけど……僕が自分自身を抑えきれる自信がなくなりつつあったのでお互いにとってよかったのだと思う。

 

 

 

「ベーセル兄、おかえりー!」

 

 秋季休暇でフィエーナに会った時の衝撃は忘れられない。駅に迎えに来たフィエーナは満面の笑みで僕の胸元に飛び込んできた。普段のフィエーナの姿を知っているだろうか。何処か泰然とした笑みを浮かべ、気高く畏れ多い雰囲気をフィエーナは外で漂わせている。

 

 そのフィエーナが無邪気に相好を崩し、天真爛漫に笑いながら僕と接しているのだ。男相手では僕にしか見せてない妹の姿に、僕はひどく優越感を覚えてしまう。

 

 触れる柔らかな肉体が、鼻腔に香るフィエーナの体臭が、僕にしか見せない態度が……僕はどうにかなってしまいそうだった。

 

「ベーセル兄、今日は一緒に寝ようね」

 

僕の中の理性は限界値ぎりぎりにまで達していたのに、フィエーナは何でもないようにベッドの上で僕を待っている。外向きオーラを解除したフィエーナは、好き好きオーラ全開で僕に首を傾け微笑んで来る。

 

 あの時は本気で終わりかと思った。だらしなくボタンを閉じ切っていないパジャマの隙間から見える下着に包まれた胸はしっかりと丸みを帯びていて、指を差し入れれば吸い込まれるであろう柔らかな白い谷間が存在感を主張している。部屋に入った僕を見上げるフィエーナの目は早くこっちに来てと魅了の魔法を掛けて来る。うつ伏せの格好で寝転んでいるせいではだけたパジャマの隙間からは背中から臀部に至るなだらかで白い肌とフリルが可愛らしい下着がチラリと覗いている。

 

 目に入るフィエーナの何もかもが僕を狂わせる。僕の中の獣が雄叫びを上げ、いきり立つ。僕は忘れ物をした体を装って部屋を慌てて逃げ出すほかなかった。

 

 秋季休暇の間の僕はフィエーナと共に時間を過ごせる喜びと、フィエーナに過ちを犯しかねない自身への恐怖に苛まれていた。

 

 後に情けなさに包まれる自慰行為を定期的にするようになったのは、この休暇からだった。今までの僕はそういった性的欲求とはてんで無縁で、友人たちからは枯れているだの人格が老成しているだの言われていた。それがまさか実の妹相手に欲情しているのだから度し難い。

 

 正直なところ、秋季休暇で家を離れられたのは嬉しかった。これでフィエーナに間違いを犯すことはなくなるのだから。フィエーナとは毎日電話やSNSで連絡を取り合っている。別に恋しくなることはない。

 

 

 

 一度自覚した感情はもう、消えないのかもしれない。僕は大学に戻った後、普段以上に勉学に身を入れた。

 

戻ってからも性的欲求が薄れることはなく、むしろフィエーナの肌の感触や甘い匂い、息の鼓動が鮮明に頭に浮かんでくるのだ。汚れた思いをかき消すように僕は勉学に力を入れるのだけど、薄らぐ気がまるでしなかった。

 

 勉学だけでなく、ランニングや持ち込んだ木刀での自主訓練で体を動かしてもどうにもならない。フィエーナから毎朝かかってくる電話の度に、僕はその声と息遣いで興奮してしまっていた。

 

 

 

 クリスマス休暇で家に戻る時、僕は燃え上がる欲求が溢れかえっていた。盛り切った猿のような性欲をフィエーナ目掛けて奔流したい思いが理性を打ち崩さんと強く暴れていた。

 

 そんな僕の葛藤なんて露知らずフィエーナは久方ぶりに僕に会えた喜びを爆発させて僕に四六時中くっついてくる。

 

「ベーセル兄、シュトーレン切ったから食べよう!」

「ベーセル兄、公園のクリスマス装飾一緒に見に行こうよ」

「ベーセル兄! お父さんが抱き付いてくるよー! 助けて!」

 

 僕の周りで笑い、照れ、はしゃぎ、こっちばかりを見つめて来るフィエーナ、愛おしい妹……そんな妹から性的な興奮を覚える僕をどうか許してほしい。そしてどうかこの思いを霧散させてほしい。

 

クリスマスだからと珍しく家族で訪れた教会で静かに僕は一人祈った。他人に聞かせるにはおぞましくて、告解なんて出来るはずもなかった。

 

「ベーセル兄、夜は寒いね」

「そうだね、何で来たのか分かる気がするよ」

 

 夜になり、僕の部屋にフィエーナがやってくる。フィエーナは純粋に冷たいベッドに一人入りたくないだけなんだろう。ようは僕をベッドの温め役にしようという思いでやってきているずるい子だ。

 

 そんなフィエーナとは及びもつかないほど僕はずるい。正直に言ってフィエーナが来て僕は喜んでいた。股間に血が滾り始めるのを自覚する。

 

同時に僕はフィエーナには決して来てほしくなかった。もう、我慢できるか分からなくなっていた。性欲に任せて動いた結果を想像すると、股間から血は引いていく。侮蔑の感情を抱きながら泣き腫らすフィエーナの顔なんて見たくなかった。それは最悪の結果にほかならない。

 

「暖かいね」

 

 勝手にベッドに入ってきて顔を目と鼻の先にまで近づけフィエーナは微笑んで来る。いたずらっ子のような企み事を含んだ笑みに、僕は小悪魔的な魅力を感じてしまった。

 

「ベーセル兄、私ねもう動けない」

 

 帰る気はありませんといいたいのだろう。疲れていたのか、フィエーナは目を閉じるなりすぐに寝息を立ててしまった。すうすうと規則正しく僕の顔にかかる吐息を僕が意図して吸い込むと、脳天に強い刺激となって快楽へと変換される。たまらなく、気持ちのいい匂いがする。一気に下腹部が硬質化し猛り始める。やっぱり本人の前だと妄想なんかより遥かに硬くなる。ああ、このまま上下に動かしてしまいたい。いや、いっそのことフィエーナに……!

 

「馬鹿だな、僕は」

 

 このまま欲望のままに貪ることが出来れば、きっととてつもない快楽に包まれるんだろう。でもその一時の快楽は、一生のトラウマをフィエーナに負わせる結果にもなる。信頼していた兄の裏切りに、フィエーナは耐えられるのだろうか。ここまで慕ってくれる妹の信頼を裏切ってまで僕は性欲に身を任せたくはなかった。

 

 クリスマス休暇の間、フィエーナは毎日のようにベッドに潜り込んできては僕に試練を与え続けた。情けなくも股間の制御こそ抑えきれなかったけど、理性が振り切れかけるような事態は起こらなかった。

 

 ただ一回だけ起床時、意識が覚醒する狭間の朦朧とした状態で柔らかな何かをまさぐりあてて一気に股間を猛らせた時があった。興奮が朦朧とした意識を一気に覚醒させ目を開くと、顔を赤くしながらパジャマの隙間から胸元に突っ込まれた僕の手を外そうともがいているフィエーナの姿が目の前にあった。縫い付けが緩くなっていたのか、フィエーナがもがいた結果ボタンが千切れ一気にフィエーナの胸元が僕の眼前に晒される。

 

あまりに艶めかしい光景に、僕は手を引くのを忘れ半ば無意識にブラジャーの上部から覗く谷間へ手を潜らせた。そのせいでブラジャーを留める前止め式のスナップボタンが外れ、いよいよフィエーナの生の胸を僕は鷲掴みにしてしまう。手一杯に広がる張りがあってむちむちとした感覚を前に、僕の理性は完全に崩壊する。もうこのまま、どうにでもなってしまいたい。

 

「ベーセル兄、痛いよ……」

 

 獣に落ちかけた僕に鍾馗を取り戻させたのは、フィエーナの声だった。取り返しのつかない過ちは、僕を一気に氷水に突き落とされたような思いにさせる。パンツの中で濡れた股間が寒々しく現実に引き戻す。

 

「ご、ごめ…」

「大声だしたら気付かれちゃうよ」

 

 咄嗟に謝罪しようとした僕の口に、フィエーナの人差し指が当てられる。

 

「ベーセル兄も男だもんね、気にしなくていいんだよ」

 

 そう言ってフィエーナはボタンが千切れ乱れたパジャマのまま、ベッドで固まってしまった僕の頭を胸元に抱き寄せて頭を撫でて来る。先ほどまで興奮の対象だった胸の間に僕は包まれるけど不思議と興奮することはなく、ただ圧倒的な抱擁感と安心感に後悔で震える体は落ち着いていった。

 

「私、先に着替えて来るから。ベーセル兄は謝ったから、もうこの話は終わりだからね」

 

 どうしてフィエーナはあの時、嘲笑でも罵倒でもなく慈愛の目で僕を見たのだろう。僕の失態を愛情で不問にするような態度に、僕は一層絆されてしまう。もしかしたら、フィエーナは僕が過ちを犯しても許してくれるのかもしれない。

 

そんな目でみるなよフィエーナ、せっかく覚悟を固めたのに揺らいじゃうだろ……。

 

 覚悟が揺らぎかけていた時の僕を呼び出したのはミゼリアだった。両親もエリナもいないミゼリアだけしかいない家に、どうしても来てほしいと頼まれたのだった。

 

「どうしたの、ミゼリア」

 

 いつにない険しい表情で僕を睨み付けて来るミゼリアに僕は困惑する。果たして、僕は彼女をここまで怒らせるような真似をしただろうか。

 

「フィエーナはね、私にとっても可愛い妹なの」

 

 何故、いきなりフィエーナの話が出て来るのか。一体、ミゼリアは何を僕に伝えようとしているのか。険しい顔つきの奥に垣間見える悲愴な思いが、さらに僕を混乱に追いやる。

 

「だからねベーセル。あの子に間違いを犯させたくない」

 

 だけど、ミゼリアのこの言葉から僕は何を言おうとしているのか察してしまった。ミゼリアは僕の秘めた思いに感づいてしまったのだ。だけど、何処まで? 一応、僕は今まで紳士的な人間として周囲には知られている。よもや、僕がどれほど愚かな人間だとミゼリアに看破できるのだろうか。

 

「もう隠したって駄目よ、ベーセル。あなた、フィエーナに欲情しているのでしょう?」

 

 あっさりとバレていて、僕は思わず苦笑してしまう。何だ、分かる人には分かるものなんだな。会話で炙り出すまでもなく、何も僕が反応を見せていないのに断言してくるというのなら、ミゼリアにとってはもう確定した事実として僕の変態性は露見しているのだ。

 

「ねえ、どうしてフィエーナなの? エリナでもなく、私でもなく……」

 

 説明をしてほしいのならばと、僕は朗々とフィエーナの美点をつらつらと挙げていく。延々としゃべり続ける僕に苛立ちを覚えたのか、ミゼリアは怒声にも等しい声を上げ僕の言葉を遮った。

 

「家族のフィエーナに欲情するのに、血のつながっていない私を妹としか見れない!? おかしいわ!」

 

 ミゼリアの言うことは全くの正論だ。普通、実の妹に欲情する人間なんていない。僕自身も何を間違ってしまったのだろうと思う。けれども、理性の範囲外である性欲はフィエーナをターゲットに収めていて、それ以外の女性をロックオンしようとしてくれないのだ。

 

「ベーセル、あなたはずっと成功し続けてきた。あなただってフィエーナに手を出せば未来を失うのよ」

 

 その通り、フィエーナに手を出せば僕もフィエーナも世間をまともに歩くことはできなくなる。けれど、もう僕は僕自身を抑えられそうになかった。フィエーナはきっと僕を受け入れてくれる。なら、我慢する必要はあるのだろうか。

 

 本当は言う必要もない言葉の羅列を次々にミゼリアにぶつけてしまう。僕自身も今平静でいられていないのだと自覚するも止められない。フィエーナへの思いに気付かれた以上、ミゼリアには何とかして黙ってもらわないといけない。

 

 そんな、どこまでも卑劣な僕の目の前であろうことかミゼリアは服をはらりと脱ぎ捨てる。予め準備をしていたようで、手間取る様子もなく、ミゼリアの白い素肌が露わになった。

僕が思わず目をそらすと、ミゼリアはずんずんと僕の前に近づいてくる。

「ねえ、こっちを見て。本当に私で欲情しないのなら、真っ直ぐ見られるはずよ」

 

 僕より二十センチは小さなミゼリアが上目遣いでこちらを睨んで来る。それはちょうど今のフィエーナと同じくらいの背丈で、下着だけのミゼリアとフィエーナが何処か重なって見えた。

 

「私、あなたのことが子供の時からずっと好きだった。フィエーナのこともずっと好き。このまま二人が不幸になるのを私は見ていられないわ」

 

 覚悟のこもった台詞とは裏腹に白い頬を真っ赤に染めながらミゼリアは僕の目の前でブラジャーを外し、床へ捨てる。胸の大きさはフィエーナの方が既に僅かに大きかったけど、当時の感触が脳裏によぎると僕の獣がいきりたち始める。何て愚かなんだ! ミゼリアはフィエーナじゃないのに!

 

「ここで、終わらせる。ベーセル、あなたも本当は分かっているんでしょう? なら、私に全てぶつけなさい。私があなたの欲望を受け止めてあげる」

 

 羞恥に体を震わせ、こちらを見上げて来るミゼリア。この時初めて、ミゼリアをただの妹としてでなく僕は一人の女として見てしまった。

 

「本当にミゼリアはそれでいいの?」

 

 ここで止めてくれればまだ僕の理性は退くことができる。だけど、恐らく退かないだろうという汚い確信を僕は持っていた。僕自身とフィエーナを愛し、僕たちの関係を案じたミゼリアの優しさを僕は今まさに悪用していた。

 

「フィエーナから最愛の妹の座は一生奪えなくても、恋人の座は手に出来る。私はこれ以上ないくらい幸せになれるわ」

 

 その日、僕はミゼリアと肉体関係を持ち、そして恋人同士にもなった。フィエーナで貯めた劣情を別人のミゼリアで発散するなんて本当はあってはならない。けど、抑えきれない欲望の捌け口になってくれたミゼリアを僕はもう拒絶出来なかった。

 

 

 




兄の屑じゃないか(激怒)


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T/A-Ha02:閑話

完璧超人じゃつまらないので、多少はね?


 里奈がこっそりフィエーナと逢瀬を重ねていたと知った時、私は何でもないように笑って流したけど、内心嫉妬心で狂いそうだった。

 

 私に立ち直るきっかけを作ってくれたフィエーナ。留学生クラスで私に話しかけ続けてくれたフィエーナ。このクラスに馴染めるよう間を取り持ってくれたフィエーナ。至らぬ私に手取り足取り剣術のイロハを教えてくれたフィエーナ。

 

私が困っていると率先して助けてくれるフィエーナ。あまりにもお世話になり過ぎて、私にはとてもお返し出来そうになくて……。

 

 別に、私だけが特別な訳じゃない。フィエーナは困っている人がいたらしれっと傍に立って手助けをしているような子だ。気負わず、ただ自然に何でもないように助けてあげて、いつの間にか傍を離れているような不思議な女の子。

 

 学校でのフィエーナの評判はいい方だけど、周りからはあまり面倒見はいいとは思われてはいないようだった。困っている人を見かけたら助けてはくれるけど、困りごとから解放されると離れていってしまう。

 

 困っていると訴えても、フィエーナが助けを必要としていると判断しないと手を貸してはくれない。

 

 課題を普段から忘れるような人には頼まれても課題を見せてはくれないけど、真面目に課題をこなしているのに存在自体を忘れていて慌てている人には面識がほとんどなくても課題を見せてあげたり休憩時間に隣に座り込みながら発破をかけて無理やり課題をやらせようとしたりしている。口に出してなかったはずなのに、何故か気付かれて絡まれたことのある人もいるようだ。

 

「いやあの時は焦ったけど、アルゲンさんが助けてくれてさー」

 

 フィエーナのファミリーネームが聞こえた私は百人近い生徒でごったがえす混雑した食堂の中から十数メートル先で話し込んでいる二人組の会話に耳を傾けてしまう。フィエーナについての話なら、何だって聞きたくなってしまう。

 

「羨ましいよなー、俺には見向きもしてくれねーのに」

「お前はいっつも忘れて来るからだろ。そういう奴は見限られるんだよ」

「ちぇ、勉強しか取り柄のないがり勉デブの方がお気に入りなのかよ」

「そういう訳じゃないよ……アルゲンさんは僕に興味がある訳じゃなくて困っている人に興味があるだけだから」

 

 本当に困っている時には助けてくれるけど、フィエーナをアテにしてサボるような子には冷ややかな目を向けて来る。

 

 私にとってフィエーナは天使みたいな存在だけど、周りからはしたいことを好きにやっている気まぐれ屋と見られているようだった。

 

 じゃあ、そんなフィエーナと昔から付き合いのあるエリナやキアリー、アメリアはどうして長く一緒にいられているのだろう?

 

「ええ? いきなりそんなことを聞かれてもなあ……昔からずっと一緒だったもん。気が合っただけじゃない?」

「あはは~、何でだろうね~? でもフィエーナちゃん近寄りがたいオーラを身に纏ってるからね~、それを突破できないと駄目だったんだよきっと!」

「キアリーの言うことも分かるわ。フィエーナは他の子より一歩抜きんでてるから。勉強とか運動じゃなくて精神性みたいなのが大人って感じだもの」

「そうか? フィエーナは普通に優しいけどな~」

 

 すっとぼけるトヨに向けてアメリアは言葉を続ける。

 

「フィエーナだと、普通に優しくしただけで舞い上がっちゃう人がいるからでしょ」

「どういう意味だ?」

「美人に優しくされたら勘違いするってこと?」

「ん~、まあそれもあるけど。選ばれた感で暴走しちゃう、みたいな?」

「何言ってるんだか全然わかんね」

「アメリアちゃんもっと人間の言葉で喋ってよ~」

「キアリー、それ私のこと煽ってる?」

 

 アメリアの言いたいこと、私には分かった。フィエーナ相手だと自分を卑下して卑屈な態度をフィエーナに取ってしまったり、理想の偶像のように扱ってしまったりしてしまう気持ちが私にもあるから。

 

 きっとフィエーナは自分自身を一人の人間として扱ってくれる人と一緒にいるのが居心地がよかったんだ。崇拝されたり、畏怖されたりは好みじゃないんだ。

 

 そう思い至った時、私は自分自身をかえりみる。

 

 私は……どうだろう。フィエーナと対等な関係を築けているだろうか。フィエーナに頼りっぱなしな私は果たして対等な友人と言えるのだろうか。そう振り返ると心もとない気持ちになってしまう。

 

 だけど、私からフィエーナは離れて行かなかった。フィエーナは友達として私と一緒にいてくれる。

 

 フィエーナと一緒に過ごす毎日は、私にとって夢のような日々だ。

 

 何を考えているか掴めない物憂げな眼差しに、口元はほんの少し口角が上がって微笑んでいる。所作の一つ一つに気品があって、何処かの国のお姫様のようだ。普段のフィエーナはそんな感じで、何処か近寄りがたい貴い雰囲気を纏っているように思えてしまう。

 

 でも、一緒に隣にいるフィエーナは表情豊かで、変化の一つ一つに私は見入ってしまう。

 

 

キアリーの突拍子のない行動を見て目を丸くするフィエーナが好きだ。トヨの冗談に口元を緩めるフィエーナが好きだ。授業を真面目に受けているフィエーナの横顔が好きだ。突然のにわか雨に顔をしかめてみせるフィエーナが好きだ。私をからかって、悪戯な顔つきになるフィエーナが大好きだ。一緒にお風呂に入った時に見せた、リラックスして緩みきったフィエーナの顔つきが大好きだ。裸でいるところを私にじっくり見つめられて恥ずかし気に目を逸らすフィエーナが大大大好きだ。

 

 特に何もすることがないと、私の脳内には決まってフィエーナが浮かんでくるようになっていた。お気に入りの情景が再生されてニマニマしているところを吉上先生に鳳二先生、幸恵さんにからかわれたことは一度や二度じゃなかった。

 

 

 

 私はフィエーナに与えられてばかりで、何も返せていない気がする。それなのに、私はフィエーナを占有したい欲求にかられている。独占欲は日々強くなっていく一方で、大切な友人である里奈に対し一瞬敵愾心を抱きかけてしまうまでに強まったこの感情を私は恐れていた。

 

 フィエーナを私だけのものにしてしまいたい。私にだけ笑顔を見せてほしい。悪戯をして小悪魔めいた魅力を見せる表情を他人のいる場で披露しないでほしい。

 

 行き過ぎだと自分自身でも分かるこの感情をどう処理すればいいのか分からなくて、私はフィエーナに相談してみた。

 

「そっか……」

 

 フィエーナの部屋で私は二人きりだった。一度フィエーナの家に泊まってみたいという私の我が儘に、フィエーナは嬉しそうに頷いてくれたのだった。

 

「いけないって分かってる……でも、私……どうしたらいいかな?」

「そうだね」

 

 パジャマ姿のフィエーナは、隣に座る私をそっと抱き寄せる。体が密着する。私の感情は昂っていた。心臓の鼓動が聞こえてくる。今にも破裂しそうに高速で伸縮を繰り返している音が響く。フィエーナにも、聞こえているのかな。

 

「他の人と関わるのを辞める気はないけどさ、そんなの気にしなくなるくらい遥は私に甘えてくれていいから」

「フィエーナ?」

 

 フィエーナはきっと何か勘違いしている。私の思いをまるで、母親を取られそうになって焦る子供か何かのように思っている気がする。私を対等の友人としてじゃなくて、小さな子供のように見ているんじゃないかと猜疑心を抱いてしまう。

 

 そんな反発心から、私は思わずフィエーナをベッドに押し倒してしまっていた。倒されたフィエーナに危機感はまるでなく、私を慈しむような目線を見つめて来る。フィエーナは分かってない、私が魔法を使えるのを。身体強化した私を前にしたら、フィエーナじゃ私に抗えないんだよ。

 

 ベッドに倒れ込んだフィエーナの腰の上に乗っかり、私は覆いかぶさっていた。身長はフィエーナの方が高いけど、私が本気になれば今のフィエーナを好きに出来る。そう思うと、昏い喜びがふつふつと沸いてくるのを私は自覚してしまった。

 

「どうしたの、遥? もう眠い?」

「もうフィエーナ! フィエーナは私のママじゃないよ!」

「ごめんね遥、そんなつもりはなかったんだ。だから、ね? 許して?」

「許す!」

「ありがとう遥」

 

 さっきまでの反発心は、フィエーナの“ね?”が愛らし過ぎて消し飛んでしまった。我ながらちょろい性格をしているなとちょっと呆れてしまった。

 

 

 

 フィエーナと一緒のベッドで寝た日、結局私の悩みは解消されずに終わってしまった。フィエーナはまるで弱みを見せなくて、でも私は散々フィエーナに泣き縋っている。

 

フィエーナが弱みを見せるってことは、つまり弱っているってことだから見ないのはいいことだ。そう分かっているのだけど、フィエーナにも私を頼ってほしい。そうしたら初めて私とフィエーナは真の意味で友人となりえるような、そんな気がするのだ。私もフィエーナのために何かしたいという思いが晴れることはなかった。

 

 

 

そんな私の積もった思いが或いはフィエーナに不幸を届けてしまったのだろうか。ある日、フィエーナが有無を言わさぬ調子で私の家に来ていいか尋ねてきたことがあった。

 

 私としては大歓迎で、一も二もなく了承したのだけども、その時のフィエーナの調子は少しおかしくて。

 

 外でフィエーナと合流した時、私はフィエーナのあまりの変化にしばし言葉を失ってしまった。

 

 涙で潤んだ瞳、腫れ上がった瞼、崩れかけの笑顔、ふらふらと頼りない足取り。普段の気高いフィエーナとは似ても似つかない、弱り切ったフィエーナの姿を見て私は見てられなかった。

 

 やっぱりフィエーナにはいつもの調子でいてほしかった。飄々として、ミステリアスで、余裕のあるフィエーナでいてほしかった。

 

 そう思う私がいる一方で、私は気丈に平静を装うつもりで全く何も隠せていないフィエーナの姿にひどく興奮を覚えてしまっていた。ここまで泣き腫らしているのに美しさに些かの瑕疵がなくて、むしろ庇護欲を燃え上がらせるフィエーナの姿に私は昏い愉悦を覚え、そしてそんな自分自身に嫌悪を覚えた。

 

 ここまでフィエーナが弱るなんて何があったのだろう。事情を尋ねると、フィエーナはぽつりぽつりと事情を明かしていく。

 

「フィエーナにとって、お兄さんは初恋の人だったのかもね」

「家族だよ? そんな訳ないよ」

「でも、辛かったんでしょ」

 

 明かされた事情は、私に史上最高の嫉妬を覚えさせるに十分な内容だった。フィエーナのお兄さんは、フィエーナにここまで愛されているのにフィエーナを選ばなかった。選べるはずもないのは分かっているけど、何て愚かな選択なんだろうと心底思う。

 

「ごめん遥。今日だけ……今日だけでいいから」

「うん」

 

 フィエーナが私に縋りついて、涙を流している。この光景を前に、私は陶酔にも似た感覚を味わっていた。心地よかった。やっと私もフィエーナの役に立てる時が来たのだ。こんな場面が来るのをどれほど夢想しただろう!

 

 でもやっぱり同時に、フィエーナにはいつもの態度でいて欲しいという思いもあった。こんな顔を見たくないという思いもまた強く感じていた。

 

 私は一体フィエーナをどうしたいんだろう。相反する二つの思いは同程度に力強くて、だからこそフィエーナがいま求めている寄り木としての私を実現する感情が表層に現出する。フィエーナが求めているなら、私はそうありたかったのだ。

 

 私の胸の内で眠ってしまったフィエーナの髪を優しく撫でつけながら、私は頬をフィエーナにくっつける。気持ちの良い肌触りと心地よい温かさに、私もまた微睡みを覚える。

 

「大丈夫だよフィエーナ、私がそばにいてあげる」

 

 

 




友人の屑じゃないか(憤怒)


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T/A29V:遥との対決。

 

 春季休暇を利用し日本に帰っていた遥から会いたいと連絡があった。帰ってきてすぐだというので、きっと疲れているはずだ。俺の方から遥に会いに行くことにした。

 

 すっかり暖かくなった街の中を自転車で進んでいく。極端に日照時間が減る冬を過ぎて一気に明るさを取り戻した街は、木々や花々で彩られる。雲に覆われずっと暗澹としていた印象の空も最近はずっと快晴が続き気分がいい。

 

 風を全身で浴びながら自転車を漕いでいくと、緑を取り戻した林の中にある道場と林原家にあっという間に到着してしまった。この季節は自転車で出かけると気持ちいいから目的地まですぐに着いてしまう。

 

 林原家の人たちと挨拶を交わし、常居で畳に座る遥と会う。何だかみんな明るい様子で今回の日本行の成功を予感させる。

 

「何だか遥、嬉しそうだね。いいことでもあった?」

「うん、あったよ」

 

 遥は常に微笑をたたえながら今回の日本行について語ってくれた。

 

 今回は、もう職場にも復帰した父親のゴールデンウイーク休暇に合わせて帰国したのだそうだ。そして父親と久しぶりに面と向かって軽く話した後、母親との面会が許されたのだという。

 

「お母さんとお話が出来たんだ……」

 

 当時の喜びを思い出し涙ぐんだ遥を見ていると、俺まで柄にもなく目に涙が溜まって来てしまう。

 

「それからは毎日お母さんに会いに行ったの」

 

 このまま行けば近いうちに遥の母親も退院が許されるのだという。

 

「それでね、夏季休暇になったらもう一度日本に戻って三人で暮らしてみようって」

 

 遥がロートキイルに来てもうすぐ一年になる。ようやく、遥の家族は事件の悲惨な思い出を克服して日常を取り戻そうとしている。俺はまるで自分自身のことのように嬉しくなった。

 

「よかったね、遥」

「うん……ありがとうフィエーナ」

 

 隣に座る遥に抱き付くと、遥は俺の胸元で静かに泣き始める。泣いてはいるけれど、この涙は前回とは違う。悲しみだけじゃなく、ようやく前に進める喜びも内包した涙だ。しばらく泣いていた遥だけれど、帰国したばかりで疲れていたせいか眠ってしまった。

 

「幸恵さん、遥寝ちゃいました」

「あら、やっぱり疲れていたのね」

「見てください、本当に穏やかで幸せそうに寝てます」

「本当ね……」

 

 涙ぐむ幸恵さんと一緒に遥の寝顔を見ながら、ふとこれから遥はどうするのだろうと考える。夏季休暇で家族生活をして、上手くいったらきっと遥の両親は遥に日本へ戻るよう促すだろう。

 

 もしかしたら、遥と一緒にいられる時間はもうそんなに長くないのかもしれない。寂しくはあるが、遥が家族と再び一緒に過ごせるようになることは喜ばしい。

 

 

 

 目を覚ました遥は俺と試合がしたいと言い出した。

 

「今ならフィエーナに勝てる気がする」

「言ってくれるね」

 

 遥の剣の腕は驚異的といえる速度で成長してきた。今では吉上先生すら敗北し、この道場でまともに立ち会えるのは俺に林原先生の二人だけとなっていた。しかし、だ。フィエーナの肉体が華奢でかつての俺とは比べ物にならないほど貧弱といえど、この俺に勝つなんて百年早い。

 

 事実として遥が成長し、手合わせをするにしたがって俺自身の技量も加速度的に向上していくのを感じていた。天才たる遥に刺激され、俺と林原先生の技量まで向上しているのだ。

 

 

「でもね、今の私なら気持ちで負ける気がしないんだ」

「へえ……確かに今の遥、いい目をしてる」

 

 懸念だった家族関係に希望を持てたことで、遥の心の咎が晴れたのかもしれない。遥の纏うオーラとでもいうべき雰囲気も晴れやかで明るく思える。

 

「いいよ、相手してあげる」

「ありがとうフィエーナ!」

 

 その後、俺たちは道場に移動して木刀を持つ。本気の本気でやりあっても、魔力で人智を越えた速度にまで肉体を加速し、危ういところを助けてくれる林原先生と吉上先生が見守ってくれているから遠慮なくやり合って大丈夫なのは助かる。

 

「いくよ、フィエーナ!」

 

 へえ、遥から来るんだね。いつもは俺から斬り込まないといつまでたっても試合にならないのに、心の持ちようが変わるとこうも変わるか。俺は攻める方が性に合ってるんだが、今日はあえて受けに回ってみるか。

 

 遥の剣戟、足さばき、技量といった点でいえばさほどの差は変わらない。だが、思い切りのよさがいい方向に作用している。普段の慎重に慎重を重ねた緻密な機械を思わせる防御主体の動きも厄介だったが、その慎重さを隙を減らすために利用されると一層対処に困る。

 

 

 強い。今の遥は確かに以前よりも強くなっている。俺にはもはや魔力による身体強化が望めないのに対して、遥はただ身体のみで俺の全力に食い下がるようになってしまったのだ。一年前、初めて遥の練習風景を見た時は何だこのど素人はと心配になってしまったのを思い出す。

 

 軽口を挟む余力もない。俺はただひたすらに遥の攻撃を捌いていく。ここまでやるとは俺も心が滾り始める。いいね、やっぱ相手が強くないと面白くねえ。

 

「遥ァ!」

 

 この俺が防御してるばっかりじゃつまらない。ここからは俺が攻めさせてもらうぜ。遥の一撃を受け流すと同時にそのまま斬り込んでいく。だが、遥が防御一遍に押されるようにはならなかった。遥もまた、俺の攻撃に攻撃をぶつけていく。俺の攻撃がすなわち遥の剣戟に対する防御になるように、遥の防御は俺への攻撃にもなっていた。

 

 これだけ楽しい試合は久しぶりだった。気付けば遥の顔には笑みが浮かび、俺も自分が笑っているのを自覚していた。どれだけの時間が経過したのかも忘れ、二人で斬り結び続ける。最後は互いに大振りの一撃を弾き合って、反動で床に倒れ込んだ。

 

「二人とも無茶するね……見てて冷や冷やしたよ」

「はっはっは! これほどの試合、日本でもそうは見れんな!」

 

 息も切れ切れになった俺は立ち上がろうとするが、手足が震えて思うように動けない。これは、明日は全身が痛むかもな。フィエーナに愚痴を言われそうだ。

 

 しばらく呼吸だけして床に倒れ込んでいた俺は遥より一足早く立ち上がる。日本から帰ってきて早々に試合をした遥よりかは俺の方が体力が残っていたようで、遥はまだ床に大の字で倒れ込んでぜえぜえと肩で息をしていた。

 

 俺は体をふら付かせながら遥の傍に近づき、座り込む。

 

「遥、強くなったね。まさか互角とはね」

 

 たった一年でここまで追いつかれるとは正直悔しい。だが、今は晴れやかな表情のまま倒れる遥の微笑みを見られたことから良しとしよう。

 

「フィエーナがいてくれたから私、くじけずにすんだよ。ありがとうフィエーナ」

「ふふ、どーいたしまして。感謝してね」

 

 遥ならきっと俺がいなくても立ち直れたと思う。それでも立ち直る助けになったのなら、俺の記憶がフィエーナに残っていたことに価値はあったと言えるかもな。しかし、俺の人生の回顧録が遥の立ち直るきっかけになったとはいえ、フィエーナの奴出版までしてベストセラーにしちまうんだからまいっちまう。

 

 今月ドイツ語版が発売されるが、まさかロートキイル以外でも俺の思い出なんかに価値を見出す奴はいるんだろうか。

 

 

 



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T/A30V:フォルツ社長と会った。

 

 

 

 学校が終わり、俺が帰宅の途に就いていると手を振る小太りの男が目に入った。ブランド物のスーツが絶望的に似合っていない脂ぎった中年男性は、俺を見つけるなりニヤニヤと近付いてくる。流石に今の俺よりは背が高いが、それでも百七十センチに届いていないであろう背丈はここロートキイルにおいては低身長に部類される。

 

「お久しぶりですね、もう会わないかと思ってました」

「いやははは、随分嫌われちゃったね」

「警察沙汰にまでしておいてよく言いますね」

「その節は悪いと思ってるよ。だからこそ、もう勧誘は来ていないだろう?」

「……時々来ますけど」

 

 俺が白けた目線でいくつかの団体の名を挙げると、刈り上げた短髪をがしがしと掻きながら情けない顔つきをする。

 

「あー、そういうのまではちょっと制御してやれないな……でも、言ってくれれば業界から干すくらいはしてやれるからどんどん言ってくれていいよ」

 

 いまいち頼りにならない笑顔で、笑いかけて来るこの人がロートキイルで最大規模の芸能事務所の社長だと誰が気が付くだろうか。

 

「ちょっと時間をもらえるかな」

「本当に、ちょっとですからね」

 

 あまり時間をつかいたくなかったので、俺は近くの喫茶店にフォルツ社長を案内した。

 

「いらっしゃい。おや、その人は?」

 

俺が軽く事情を説明すると、喫茶店のマスターのフォルツ社長に対する接客が何処となくぞんざいになった気がする。

 

 フォルツ社長もここがアウェーであると察したようで、苦笑いを浮かべながらどっかりとソファに腰を据えた。

 

「それで、何か用があってきたんでしょう」

「まず初めに、ベストセラーおめでとう。『探窟者ヴェイルの回顧録』、僕も読ませてもらったけど、面白かったよ。まさかフィエーナちゃんには文筆の才まであるとはたまげたね」

「ありがとうございます」

 

 俺自身を褒められたような気がして、悪い気はしなかった。案外悪い奴じゃないのかもしれない。俺はフィエーナの記憶が警戒するよう促してくるのをを折り曲げて、つい、つんけんした態度を和らげてしまう。

 

「僕は娘に買ってあげたついでに読んだけどね。ヴェイルって主人公がカッコイイね。子供の頃からの理想に邁進出来るなんて羨ましいよ」

「そ、そうですか?」

 

 ヴェイルに目を付けるとはこの社長しっかりした審美眼を持っているようだ。

 

「うん、毎日毎日あんな厳しい修行を続けたら普通は根を上げちゃうよ。努力家だよね、ヴェイルは」

「いやあ……それほどでもないですよ」

「フィエーナちゃん、ヴェイルのことになると自分のことのように喜ぶね。やっぱり思い入れが強い?」

 

 思い入れが強いというか、ヴェイルとは俺のことなのだ。いくらでも褒めてくれていいぞ。なんてったって、俺はオストブルクで最強の探索者だからな!

 

「そうですね、何しろ主人公ですから」

「そっかあ、今日のフィエーナちゃん。ヴェイルみたいな性格が出てるね。ヴェイルもさ、褒められるとすぐ照れちゃって調子に乗っちゃうトコあるよね。上機嫌なフィエーナちゃんも可愛いなあ」

 

 ぎくり。確かに俺は褒め殺しで余計な依頼を持ってくる馬鹿だと仲間からは散々怒鳴られた覚えがある。フィエーナも同類扱いされるような真似をしてしまったことに今更ながら後悔する。緩んだ顔つきを慌てて引き締めようとするも、動揺からか口の端がピクピクと動いてしまう。

 

「えぇっ、そ、そうですか……?」

「んふふ、もしかしてそれがフィエーナちゃんの素の性格だったりする?」

「あー……いや、そんなことないですよ」

「可愛いなあ、僕は素直に褒めてるだけなんだから謙遜しなくてもいいんだよ」

 

 何とかすまし顔を作って平静を装うが、これはもう手遅れと言っていいだろう。悪いフィエーナ、挽回はするからな! 安心しろ!

 

「いやあ、こんなに表情がコロコロ変わるフィエーナちゃんは初めて見たよ。年相応なトコもあるもんだね」

 

 いや、その、俺は少なくとも二十三年は生きているんだが……。探索者としての修行ばかりでそれ以外からっきしな俺は、僅か十三歳のフィエーナにすら対人スキルでは劣っていると言われているようで何だか情けなくなってくる。

 

「もったいないなあ……やっぱり僕の事務所でモデルやってみる気はない?」

「散々断ったのにその話ですか」

 

 この男も随分としつこい。フィエーナは二年も前からずっと迷う素振りすらなく断り続けているのに、根気の良さだけは認めてもいい。

 

「いやもちろん、プライベートを大事にしたいフィエーナちゃんの気持ちはよく理解しているよ。でも、本の近影が随分ネットで話題になっているよ。美少女過ぎる作家ってさ、本の中身よりあの写真欲しさに買う人もいたそうじゃないか。それに、地元のテレビ局には出演したでしょ?」

「あれは合唱団の取材で、ついでに紹介されると思っていて。市役所の人もインタビュアーの人もそう言ってましたよ」

「でも、メインはフィエーナちゃんだったね?」

「……意地悪ですね」

 

 このまま言いくるめられでもしたら、フィエーナに立つ瀬がない。席を立とうとすると慌てるフォルツ社長が制止にかかる。

 

「ははは、ごめんごめん。冗談冗談、無理強いする気はないさ。ただ近くを寄ったのでね、フィエーナちゃんと会えたらと思っただけ」

「冗談とは思えませんでしたけど……」

 

 俺がジッとフォルツ社長のぜい肉に埋まりかけた目を睨み付けると、フォルツ社長は目を逸らしてからビジネスバッグから本を取り出した。

 

「それと、もう一つ用事があった! 娘がフィエーナちゃんの本を気に入ってね、よかったらサインもらえるかい」

「それくらいなら、まあ……」

「娘は主人公のヴェイルをすごく気に入っててね、あんなにカッコいい人が現実にいたら彼氏にするって言うんだよ。この本はファレーアの私物、あ、僕の娘なんだけどね、ほら、ヴェイルの活躍する箇所だけ何度もページを開いているから跡が付いちゃってるんだよ」

「へ、へええ」

 

 フォルツ社長の娘さん、いい趣味してるじゃないか。なんてったって、オストブルク最強にまで上り詰めたこの俺だからな。まあ、幼い少女には理想の男として映ってしまうのも無理はない。ふふ、我ながら罪造りな男だぜ。

 

「フィエーナちゃん、今日はとんでもなくちょろいな……」

 

 ぼそりとフォルツ社長が呟いた一言に、俺は我に帰る。さっき戒めたばかりなのに、すっかり俺は絆されて満面の笑みを浮かべてしまっていた。

 

「こほん、これでいいでしょう」

 

 もはや手遅れと言うレベルではないが、冷や汗だらだらで俺はサインをすませて本をフォルツ社長に手渡す。

 

「ありがとう、いいお土産が出来たよ」

 

 心底嬉しそうに、丁重に本をしまうフォルツ社長を見て、俺は再び警戒心が薄れていくのを感じる。いかんいかん、このままじゃフィエーナの評判に傷を付けてしまう。とにかく、冷静にして、大人しくしよう。

 

「それにしても、フィエーナちゃん……やっぱりモデルとかしてみる気はない?」

「ないです!」

 

 ここを肯定してはもはや引き返せなくなる。俺は絶対死守の意思を込め、きっぱりと宣言しておいた。やらないからな、いくらヴェイルのファンだからって……やらないからな!

 

「即答かあ……フィエーナちゃんのその目付きで拒否されると、僕はもう何も言えないなあ」

 

 参っちゃうなあとフォルツ社長は頭をかいて、諦観の垣間見える笑みを浮かべながら言葉を続ける。

 

「やっぱり僕はフィエーナちゃんのその目付きに魅入られちゃっているんだよなあ。フィエーナちゃんくらい綺麗な女の子はさ、探せば国内にも数人はいると思うけど……やっぱりその目付きとなると世界で唯一なんだよ。だから、是非とも一緒にお仕事がしたかったんだけど……」

 

 残り少なくなったコーヒーカップを一気に傾けて中身を呷るとフォルツ社長は席を立ち、数歩出口に向かって歩いては振り返る。

 

「フィエーナちゃん、くれぐれもその目付きを悪用なんかしちゃ駄目だよ。好きな人が出来てもその目で見つめ続けてゲットなんてしちゃお互い不幸になるからね。ちゃんとお付き合いしなきゃいけないよ」

「……私の目は魔眼なんかじゃありませんよ」

「あはははは! 確かにね、でも、魔法みたいな効き目があるはずだよ」

 

 俺はその言葉を否定したかったが、フィエーナ自身には多少の自覚があるようだった。幼少の頃より、フィエーナが強い思いを宿して相手と目を合わせると相手は不思議とフィエーナの願うように動いてくれるとフィエーナは信じていた。そして実際、変な勧誘にあってもフィエーナが拒絶の意思を込めて睨み付ければ、たいてい何も言わずに去っていくのが常だった。幼少の頃、誘惑に負けてフィエーナの母親におねだりをしてとんでもない出費を強いてしまったことがあった。

 

 だからこそ、フィエーナは意図して目付きにあまり変化をもたせないようにしていた。フィエーナの目付きがいつも物憂げなのはそのせいだった。

 

 フィエーナの目付きと声にはもしや、魅了とか洗脳の類の魔法が付与されているのじゃなかろうか。今や魔法を一つたりとも使えなくなってしまった俺には、そんな疑念が時折浮かんでくることがあった。

 

「サインありがとう。大切にさせてもらうね」

 

 結局、フォルツ社長はサインだけもらって帰って行ってしまった。本当にフィエーナに会いに来ただけではないだろうが、まあ、悪い奴じゃなかったな。

 

 

 



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T/A31:修学旅行に出発しました。

 

 

 五月の中旬、私たちは修学旅行に行くことになっている。王都周辺に一週間滞在して国家中枢について見聞を深め、レポートを書くのだ。

 

「えー、学校として出来る限り補助はしたいところではあるんだけどね。あまり予算が多い訳じゃない。もし王都に知り合いがいたら泊めて貰えないか聞いてくるように」

 

 アーミラー中等学校はヴェルデ市の予算で運営されている。ヴェルデ市は別に貧しい訳じゃないけれど、旅行先に知り合いがいたら泊めてもらえるか聞いてくるのはよくあることだ。

 

「フィエーナは王都に知り合いはいるの?」

「引っ越した友達ならいるけれど、多分無理だよ」

「あ、ケインのこと? 懐かしいよね~」

 

 幼稚園時代にいた友達とか、はたまた合唱団の先輩とか、いない訳じゃないのだけれど五人全員で押しかけて泊まるのは気が引ける。それでも何人か分散してならなんとかなるかもしれないので、その日はとにかく知り合いに当たってみようということでみんなと別れた。

 

 

 

 日曜日、そんな修学旅行にまつわる話をドークお祖父さんにすると意外な返答が返ってきた。

 

「おー、それなら当てがあるぜ。ちょっと待ってな」

 

 そういうなり電話をかけ始めるドークお祖父さん。しばらくして、私を電話口に呼ぶ。誰だろう。私が受話器を手に取り耳にあてると、老齢の男性の声が聞こえてきた。低く落ち着いた、知性を感じさせる声だ。

 

「フィエーナさんですね?」

「はい」

「覚えていますかね、ロアックです」

 

 ロアック……確か、ドークお祖父さんの兄で王都に住んでいた。まさか、ドークお祖父さんはロアック大伯父さんを頼ろうとしているのだろうか。

 

「お久しぶりです、ロアック大伯父さん」

「随分綺麗な声になりましたね。さて、旅行の日時と人数をお伺いしても?」

「五月の十四日から、一週間を予定しています。とりあえず五人ですけれど、クラスの都合で変更になる可能性もあります」

「ふうむ、そうですか。ヴェルデ市のアーミラー中等学校に通学されてましたね」

「はい」

「なるほど、結構です。ドークに代わってもらえますか」

 

 事情を掴みきれず、言うがままに答えた私は目の前でドークお祖父さんが着々と話を進めていくのをただ傍観する。展開が早すぎて追いつけない。

 

「よし! 話は決まったな!」

 

 電話を置き、豪快に笑うドークお祖父さんに私はただ困惑する。何が決まったの? 私の質問にドークお祖父さんはロアック大伯父さんの家に私を含めた五人の宿泊、それに王都での行動計画の全てを任せた旨を伝えて来る。

 

「はっはっは! ロアック兄に全部任して置きゃ間違いはねえから安心だな!」

 

 私は唖然とした。まだ他のみんなには何も言っていないのにここまで話が決まるなんて予想外だ。

 

「心配しなくていいさフィエーナ。ドークの兄には僕もあったことがある。とてもいい人だよ」

 

 オットフリットお祖父さんが慰めてくれるけれど、私一人の独断で決めていい問題ではないのだ。

 

 私は慌ててみんなへ電話をかけ始める。幸い、私を信用してくれたみんなは快くオッケーしてくれたので私はドークお祖父さんの家の電話を借りて報告の電話を入れる。

 

「全員から了承を得られました」

「そうですか、それはよかった」

 

 電話越しに、柔和な笑みが幻視される柔らかな声音が漏れ聞こえて来る。ロアック大伯父さんはドークお祖父さんの兄らしいのだけれど、どちらかというとオットフリットお祖父さんのように物静かな印象を受ける人だ。ほとんど会ったことのない方なのだけれど、物腰が柔らかで安心させる話しぶりをされるので、私も話しているうちに安心感が芽生えて来る。

 

「今回はお時間いただきありがとうございます」

「気にすることはありませんよ。老人の暇つぶしというやつです」

 

 

 

 修学旅行初日、私たちは地元の駅に現地集合する。鉄道黎明期に建てられた駅は古い建物をそのまま使っているけれど、みすぼらしさや古臭さは感じない。クリーム色の壁面に均等の間隔で設けられた巨大なアーチ状の窓や建物の屋根から突き出た時計塔は、当時の威容をそのままに保っていた。

 

 先生方に先導され、学校が予約した高速列車に乗る事およそ二時間半。ヴェルデ市から北上を続けた高速列車は、ロートキイルの首都であるヴォルムナッハに到着した。

 

 人口二百万人を誇る、ロートキイルで一番人の住む都市だけあって列車を降りた私たちは人ごみに圧倒されつつ駅を出る。学校が予約したバスが停車しているすぐそばに、ドークお祖父さんに見せてもらった写真そのままの顔つきをした老年の男性を見かけ、私は駆けよった。

 

「ロアック大伯父さん!」

「よく来ましたね、フィエーナさん」

 

 髪からは光沢が失われ、すっかり白くなった髪を丁寧に整えた、気品ある老齢の男性が私を出迎えてくれた。口元には微笑をたたえ、私を優しく抱擁で包み込んでくれる。

 

「お友人の方々とはお初にお目にかかりますね。私、フィエーナの大伯父のロアックです。ようこそヴォルムナッハへ」

 

 元貴族である所以だろうか、一つ一つの所作に気品を感じられる。同じ兄弟のドークお祖父さんが豪快なのに対して、えらい違いだ。

 

「彼は私の護衛兼運転手のセリューズです」

「本日はよろしくお願いいたします」

「荷物運びに来てくれました。ジョンソンです」

「ははは、みんなよろしくな!」

 

 私たちとの挨拶を交わした後、ジョンソンさんの運転するバンに荷物を運び入れている間にロアック大伯父さんは先生方と何やら話をしにいった。荷物を運び入れ終えたタイミングでちょうど帰ってきて出発の号令をかける。

 

「それではいきましょうか」

 

 七人乗りのバンの後部座席は対面式になっていて、ちょうど五人分の座席になっている。ロアック大伯父さんは自ら助手席に座り、私たちにくつろぐよう促してくれた。

 

「今日は列車移動で疲れたでしょう。私の家でゆっくりしてくださいね」

「ありがとうございます!」

 

 五人の声が重なり、意味もなくみなでクスクス笑い合っているとロアック大伯父さんとセリューズさんの顔にも笑みが浮かぶ。ロアック大伯父さんの家に着くまでの二十分ほど、私たちは学校のことやヴェルデ市について質問されたり、あるいはヴォルムナッハについてやロアック大伯父さん自身の話を聞いたりしながら和やかに時間を過ごしていった。

 

「みなさん、ロアック様のご自宅が見えてきましたよ」

 

 一緒に会話をしていくうちに打ち解けたセリューズさんの視線の向こうには、鉄柵に囲まれたお屋敷が建っていた。周囲の家々もどれも大きくて、如何にも歴史ある閑静な住宅街といった風情だ。

 

「ひょええ……すっげえお屋敷じゃん。もしかして大金持ちなんじゃないか?」

 

 怯えた様子で耳打ちしてくるトヨに私は返答することができなかった。正直、ロアック大伯父さんについて私もあんまり詳しく知らないのだ。

 

 門の前に立つ警備員から敬礼を受けながらお屋敷の鉄柵門を潜り抜け、お屋敷の前にセリューズさんがバンを停車させる。

 

「みなさん、家内がきっと待ちくたびれていますよ」

 

 ロアック大伯父さんにエスコートされた私たちを出迎えてくれたのは、これまた上品な佇まいのアニレア大伯母さんだった。浮かべた笑みには何処か高貴な雰囲気が漂い、所作の一つ一つが洗練されている。もし年老いたならこうありたいと思える素敵なお婆さんだ。

 

「ようこそみなさん。ゆっくりしていって下さいね」

 

 アニレア大伯母さんと全員で挨拶を済ませた後で、いつのまにか運んでくれていた荷物の置かれた部屋へと一旦移動する。

 

 それぞれ個室をあてがわれたのだけど、キアリーの部屋だけひと際広かった。ベッドとチェスト、それに小ぶりなデスクが申し訳程度に置かれた殺風景な部屋だ。

 

「申し訳ありません。ここは元々使われていない部屋だったのですが、急遽ベッドを追加しましてね」

「でも広くていーです! 私ここ気に入った……です!」

 

 付け焼刃な敬語に冷や冷やさせるキアリー。

 

 そして何だか私の部屋は、広さにしても装飾にしても豪華だった。

 

「何だかこの部屋も広いですね」

「はは、ここは元々ゲストルームでしてね。その分広く作られています」

 

 キアリーの部屋ほど無駄に広くはないけれど、客人が狭く感じないよう配慮された広々とした一室になっていた。ベッドとチェスト、一人用の小さなデスクしかなかった他の部屋と違い、四人掛けのソファまで設えてある。ちょっと待遇に差があるような……?

 

「十分ほどしたら、お呼びします。今後の予定などを話し合いましょう」

 

 そう言って、ロアック大伯父さんたちは部屋を出て行った。

 

「ふう……フィエーナの大伯父さま。畏れ多い方ね」

 

 気の抜けたようにソファに沈みこむアメリア。その隣にため息を吐きながらトヨが座り込んだ。

 

「だなー、あの人といると背筋が伸びる感じするぜ」

「えー? 可愛いお爺ちゃんじゃん」

 

 一人用の椅子の背もたれに寄りかかったキアリーは、私よりも一回り大きな胸を背もたれ上部に乗っけながら、のほほんととんでもない発言をしてくる。これには全員がぎくりと視線を集中させた。

 

「頼むからキアリー。それを本人の前で言うんじゃないわよ」

「えー? 言わないよー」

 

 ほんわかとした雰囲気を漂わせながら笑うキアリー。

 

 本当に、お願いだよ……。

 

 私にあてがわれた部屋でちょっとぐだぐだしていると、あっという間に十分が過ぎてしまっていたようでメイドさんが私たちを呼びに来る。

 

 案内された部屋ではロアック大伯父さんにアニレア大伯母さん、それにセリューズさんとジョンソンさんがにこやかに出迎えてくれた。

 

「さ、みなさんお掛けになって?」

 

 着席した私たちに、アニレア大伯母さんは立ち上がり、手ずからお茶を淹れてくれる。

 

「ありがとうございます」

「ふふ、長旅で疲れたでしょう? まずはお茶でも飲んで一息入れましょう」

 

 恐縮しながら、ティーカップに口を付ける。一口呑むと、何処か体に溜まっていた疲弊が軽くなったような気がした。

 

「アニレアはお茶を淹れるのがとても上手なんだ。茶葉もアニレアが自分で選んだんだよ」

「いや、相変わらずアニレア様の淹れる一杯は体に浸みます」

 

 カップを片手にほうっとため息を吐くセリューズさんの顔つきがリラックスした面持ちに変わる。

 

「俺としてはコーヒーが好みなんだが、アニレアの淹れるお茶を飲んでからは紅茶も悪くはないと思うよ」

「ありがとう、ジョンソン。フィエーナはどうかしら? お口にあっていたらいいのだけれど」

「美味しい、です。お母さんはハーブティーをよく淹れてくれるんですけど、紅茶もいいですね」

「あら、そうなの? これを機に紅茶も好きになってね」

 

 しばらく他愛もない話をした後で、明日からの予定を教えてもらう。内務省、国立博物館、植物園、国防省、王国議会の五か所を見て回る予定だとロアック大伯父さんは話してくれる。

 

「内務省には知り合いがいますので、案内をさせようと思っています。国防省の方はドークが手配をしてくれたようですね。連絡がありました。予定表を作っておいたので差し上げましょう」

 

 ロアック大伯父さんが配ってくれた予定表には、簡潔かつ事細かに予定が記載されていた。間違いを想起しない文章遣いや一目見てすぐ分かる図表の使い方に、こういった資料を作り慣れている雰囲気が窺える。

 

「何から何まで、本当にありがとうございます」

「いえいえ。年よりの道楽みたいなものですよ。むしろ私の好きにさせてください。こういった計画を立てるのも楽しいものですよ。急な予定変更、無理やりな人員追加、政治家の横やり……想定外の連続に狂わされない計画は美しい」

「ロアックは遠足の計画を立てる子供のようにワクワクしながら今日の計画を作ってきたんですよ」

「いやはやお恥ずかしい」

 

 照れながら頭をかいて見せるロアック大伯父さんは、キアリーの肩を持つわけじゃないけれど愛嬌があった。

 

 一週間に渡る予定を生き生きと話すロアック大伯父さんの説明を聞き終えると、随分と時間が経過していた。

 

「ヘイ、ロアック。そろそろ夕食にしてはどうかな」

「ふうむ、いつの間にか二時間近く経過していましたね。そうですね、いい頃合いでしょう」

「わーい、ご飯だー!」

 

 声を抑えて言ったつもりのキアリーの歓声は思いのほか室内に響いてしまい、私は思わず苦笑してしまった。慌てて口を閉じても遅いよキアリー。ロアック大伯父さんたちも幼い子を見るような生暖かい目線でキアリーに微笑みを差し向ける。

 

「今日はアニレアが腕によりをかけて手料理を振舞ってくれるそうですから、楽しみに待っててくださいね」

「は、はい……」

 

 一旦、解散となり私たちは再び私の部屋に集合する。

 

「はあ~~~~、もうキアリー! 五歳児じゃないんだからさっきのはないでしょう」

 

 特大のため息を吐いて注意するアメリアだけれど、口調とは裏腹に顔はおかしそうに笑みで緩んでいる。

 

「ごめんね、でももうお腹が空いてしょうがないんだよー」

 

 そう言ってソファに座る遥をそのままにソファへ倒れ込むキアリー。そのままキアリーは遥の太腿を枕に横になってしまった。

 

「遥、邪魔だったら床に落としちゃいなさい」

「えー、そんなことしないよ……」

「つか、あたしも疲れたー」

 

 キアリーの上に倒れ込むトヨ。キアリーより十センチほど背の小さいトヨは遥の太ももまで背が届かず、キアリーの肩辺りに顔を乗せる。

 

「ちょっとトヨ~、顎が背中に刺さってるよー」

「あ、ごめんごめん。これでいいか?」

「ん、許す」

 

 頬をキアリーの背に付けるとキアリーはトヨを許してしまった。

 

「もう、私が座れないじゃない」

「じゃあアメリアは私とこっちだね」

 

 腕を組むアメリアに私は絡みつき、ベッドに倒れ込む。

 

「ちょっとフィエーナ! 危ないでしょ!」

「あははー、ごめんねアメリア」

「もう……反省してない顔ね!」

 

 アメリアは何処で覚えて来たのか私の上に乗っかり、脇腹をくすぐってくる。アメリアのくすぐりの腕がいいのか、それとも私がこの手の技に弱いのか、私はくすぐられてすぐに我慢できずにのたうち回る羽目になる。

 

「ちょっ、あ、あはは! や、やめ、て! やめてよアメリア!」

「反省したかしら?」

「はぁ……はぁ……反省した、から……」

 

 得意顔で馬乗りになるアメリアに、私は息絶え絶えで肯定するしかなかった。

 

「それにしてもフィエーナ、反応いいわね。パパには全然効かないのに」

「パパ?」

「あ、いや……余計なこと言わないの!」

 

 余計なことを言ったのは私じゃない。それなのにアメリアはくすぐりの手を再開する。

 

「んあっ! なんで! えへへへ! なんでぇ!」

 

 口を滑らしたのはアメリアなのに、理不尽だ。しばらく身悶えした私はかすれた声で抗議する。

 

「んん……ひどいやアメリア」

 

 上に伸し掛かるアメリアを睨むけれど、頬を僅かに染めたアメリアは顔を背けて私の抗議を見なかったことにしようとする。

 

「あいてっ!? キアリーいきなり動くなって!」

「あわわわ、フィエーナ駄目だよ! エッチだよ! みんな、見ちゃ駄目っ!」

「え、え!? キアリー!?」

 

 トヨを押しのけ、唐突に私の顔の上に胸を押し付けて来るキアリーに私はパニックを隠せない。というか息が出来なくなるから早く退いて。

 

「息が……」

「こらキアリー! フィエーナを殺す気!?」

「ええ!? そ、そんなつもりじゃないよー!」

 

 何だかてんやわんやになって、誰が笑い出したのかは分からないけれどいつの間にか全員おかしくなって笑い出していた。

 

「あはは、旅先でテンションが上がってるのかな」

「そうかも、私ったらもう本当……浮かれちゃってる」

「フィエーナ、さっきはノリノリだったね。アメリア羨ましい」

 

 ジト目の遥までベッドに乗り込んできて、アメリアを押しのけて私の上に乗り上げる。

 

「おいおいあたしはのけ者かよー」

「そんなことないよー、トヨもこっちに来なよー」

「キアリー!」

「トヨー! おいでー!」

 

 飛び込んできたトヨをキアリーはその豊満な胸で受け止めてあげる。トヨも嫌がる素振りは見せずに自分から胸に顔を埋める。

 

「いい心地だぜ……」

「よしよーし、いい子だねトヨー」

 

 トヨも里奈ほどじゃないけれど背が小さい。私より十センチちかく、キアリーと比較すると十五センチは小さいんじゃないか。キアリーの胸に顔を押し付けるトヨは、お姉さんに甘える小さな妹のようだ。

 

「ね、フィエーナ。私にもあれして」

 

 あれを羨ましがる遥にちょっとびっくりだけれど、別にやること自体に忌避感はない。

 

「遥も甘えん坊さんだね。よしよし」

 

 私の胸元に顔を埋める遥の頭頂部を優しく撫でてあげる。ふと遥に押しのけられたアメリアと目が合う。

 

「二人も甘えん坊さんがいて私たちの班は前途多難だね」

「本当ね」

 

 皮肉気味に笑う私に、アメリアも呆れ声で同調する。

 

「ほらもう、みんな! しゃきっとしましょう! まだ寝るには早いわよ、ほらベッドからもう全員降りる!」

 

 胸の前で両手を叩きながら、みんなをベッドから引きずり下ろすアメリアを見ていると彼女こそみんなの保護者みたいだと思ってしまった。

 

 

 

 

 

 



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T/A32:ロアック邸で朝食の準備を手伝いました。

 

 

 アニレア大伯母さんが夕食の席で作ってくれた料理は特別豪勢なものではなく、古くから知られる素朴な家庭料理だった。見た目はもう見慣れてしまっている料理だけれど、どう調理したのか自然と口に運んでしまうような味付けがされていて、それでいて何処か高貴な品格が見え隠れしている、アニレア大伯母さんの人柄を現しているかのような料理だった。

 

 食事の席ではロアック夫妻だけでなく、セリューズさんにジョンソンさんも相席していた。元米海軍の大佐だったというジョンソンさんは自称海軍仕込みのユーモアたっぷりの会話で晩餐室の空気を盛り上げてくれた。

 

 ロアック大伯父さんは口数がそう多くないのだけれど人から知りたい話を聞き出す技能に長けているようで、私だけでなく他のみんなも思わず口を滑らせてはそれぞれごまかしたり照れ笑いを浮かべたりしていた。こういう技能も官僚には必要なのだろうか。

 

 食事を終えてお開きになった後、私たちは自然と私の部屋に集まっていた。

 

「ふわあ……お腹いっぱいになったら眠くなっちゃったよー」

「あたしも今日はさっさとベッドに倒れたい気分」

 

 キアリーとトヨはお互いにもたれかかりながら、ソファでぐったりしている。二人の太腿の上には遥が脱力しきって言葉にならないうめき声を上げながら、だらしなくうつ伏せに倒れ込んでいる。

 

「私も今日はちょっと疲れちゃったわ。まだ九時だけど明日からは忙しいし寝てしまいましょうか?」

 

 何だかみんなお疲れみたいだ。私は非日常の中にいるのがワクワクして眠れそうにないんだけどな。

 

 

 

 翌日、私がベッドの中で目を覚ますと普段とは違う天井が見えて一瞬ギョッとする。昨日からロアック大伯父さんの家に泊まっていたのだと気づき、何を驚いているのだかと私は苦笑してしまった。

 

 窓際に立ちカーテンを引くと、陽光が眩く室内に差し込んできた。もうすぐ夏、太陽の輝きもますます強くなってきている。木々の葉は濃い緑色の表面を朝露に濡らし、枝の上を小鳥が元気に飛び跳ねてはさえずっている。

 

 窓を開け放つと、早朝の清涼な空気が私に吹き付けて来る。私は伸びをしながら一回深呼吸をして、パジャマからトレーニングウェアに着替えた。

 

 室内で履いていたスリッパを脱いで、私の部屋の出入口に設けてある靴置き場に座り込んで私はランニングシューズへと履き替える。我が家と違い、ロアック大伯父さんの家はプライベート空間と公共の空間の間に靴を脱ぐスペースが設置してある。ここらへんの室内レイアウトは、ロートキイル貴族のお屋敷らしい建築様式だ。

 

 私が二階から一階に降りると、既にメイドさんは慌ただしく朝の仕事に取りかかっていた。

 

「おはようございます。家の周りを走ってもいいですか?」

「構いませんよ」

 

 許可も得たので私はお屋敷を出て、家の周りを走り始める。綺麗に整備された庭は雑草が生い茂ることもなく、若草色の芝生が敷き詰められている。踏み抜いたらいけないだろうと、私は点々と敷かれた敷石の上を走って行く。普段と違い、敷石の間隔に歩調を合わせた走りをしていると何だか新鮮な気分で走ることが出来た。

 

 コースを体が覚え辺りを見回す余裕が出来ると、改めてロアック大伯父さんのお屋敷に感嘆する。芝生に花壇は一個人で手入れするには規模が大きくきっと職人さんを呼びいれているのだろう。各所に設置された監視カメラに、塀の上に微かに見える高圧電線、門の傍に警備員の待機所もある。セキュリティ面もかなりのものだ。

 

「おや、先客がいますな」

「はははは、フィエーナじゃないか。早起きだね」

「おはようございます、セリューズさんにジョンソンさん」

 

 お屋敷から姿を現した二人の目的もランニングだというので、折角なので一緒に走らせてもらった。二人とも父には全く及ばないけれど、それでも私よりは速く走るのでじりじり追い抜かれたり徐々に引きはがされたりしながら走り続けた。

 

「いやあ、よく走るねフィエーナ」

「毎日走ってますから」

 

 私がぜえぜえと肩で息をしているのに対し、セリューズさんとジョンソンさんはまだ余裕がありそうだ。二人に付き合っていつもより長く走ったせいもあるけれど、二人とも頑健な肉体をしているのは間違いない。

 

「いいことを教えてやろう。今日俺たちと走ったコース取りをすると一周が二百メートルになる。計算が正しければ俺が十マイル走った間に今日フィエーナは八マイル走ったことになる」

 

 一マイルは一キロと六百メートルくらいだから、八マイルってことは十三キロ近く走っていたようだ。普段の私は十キロを目安に走っているから、今日は走り過ぎていたらしい。

道理で息切れする訳だ。

 

「みなさんおはよう、朝からごくろうさまね」

 

 ジョンソンさんたちと軽く雑談に興じていると、ロアック大伯父さんとアニレア大伯母さんが連れ立って歩いてきた。互いを慈しみあう仲睦まじい老夫婦の姿を見ていると、何だか私まで心がほんわかとしてくる。

 

「おや、こんなところに珍しい。今日はロアックも走りますかな?」

「ははは、遠慮させてもらうよ。なに、フィエーナさんの姿が見えましたのでね」

「私、ですか?」

「ええ、上からフィエーナの走りっぷりを拝見させてもらいましたよ。フィエーナは女の子なのによくこの二人に付いていけますね。感心してしまうわ」

「いやはや、大したものです。その若さが羨ましい」

 

 普段の日課を改まって褒められると何だか照れ臭い。私は、ロアック大伯父さんとアニレア大伯母さんの褒め言葉に気恥ずかしくなってつい目線を下に逸らしてしまった。

 

「一時間も走って喉が渇いたんじゃないかしら? 飲み物を用意してありますからね、私たちの部屋にいらっしゃい」

 

 何の気負いもなくアニレア大伯母さんはそう言ってくれるけれど、私の記憶によればあの部屋は結構お高い調度品がたくさん置いてあった。ソファもそこらの家具店では早々見られない出来のよさで、今の私が座ってもいいのかとためらいを覚えてしまう。

 

「汗まみれですけど、いいんですか」

「そんなこと気にしませんよ」

 

 そういって笑うアニレア大伯母さんに裏表はなくて、本心から言ってくれているのだと私は判断した。

 

「でも、一息入れてシャワーを浴びたようがいいでしょうね、女の子ですもの」

 

 不意打ちでウインクをしてきたアニレア大伯母さんを前にして、私は思わず笑顔になってしまう。そして、私の顔を見たアニレア大伯母さんは悪戯成功といった顔つきで微笑みかけて来るのだった。

 

 

 

 ロアック大伯父さんとアニレア大伯母さんは夫婦で共用の私室があって、私はそこに案内された。昨日、ここに来た直後にみんなでお茶をご馳走になった部屋だ。

 

「今の子が気に入るか分からないけれど、許してちょうだいね」

「ありがとうございます、いただきます」

 

 アニレア大伯母さんが用意してくれたのは、ロートキイルで昔から人気の清涼飲料だった。仄かなリンゴの甘味のあるお茶風味の飲み物で、走りっぱなしで喉の渇いていた私はコップに口を付けてすぐに全部飲み干してしまった。けれど、一杯だけじゃ物足りない。唇に触れた氷の冷たい感触が火照った体を刺激し、物欲しげな目線を向けてしまう。

 

「あらあら、随分喉が渇いていたようね。もう一杯のむかしら?」

「いいですか?」

「遠慮しなくていいのよ」

 

 瓶から注がれた飲み物をもう一度飲み干して、ようやく私は人心地着くことができた。

 

「フィエーナは随分体力がありますね。剣術を習っていると聞きましたが、その体作りですか」

「いえ、これはお父さんと兄に影響されたんです」

「ほう、それはどういう?」

 

 私にしてみればなんでもないような話をロアック夫妻は嬉しそうに耳を傾ける。何だか新しいお祖父ちゃんが出来たような気分だ。

 

 私としても何処となくドークお祖父さんの面影があるロアック大伯父さんには親しみを感じていた。豪快さよりかは貴族のような気品が見え隠れしているので、ちょっと兄弟とは思えないけれど、やはり似ている部分はある。

 

 こうして話しているうちに、私はロアック夫妻と打ち解けていった。

 

「朝ごはんもアニレア大伯母さんが作るんですか?」

 

 各所で働いているメイドさん、実は常勤という訳ではないのだそうだ。普段は必要な時にだけ来てもらっているのだけど、この一週間だけは客人を迎えるので追加料金を払ったのだとのことだ。

 

「残念ですけど、普段からメイドなんて雇えはしません。この家の維持費がありますからね」

「先祖から受け継いだ屋敷なので手放したくはないのですが、時々もっとコンパクトな家ならと思う時はどうしてもありますね」

 

 意外と世知辛い実情を明かされ、私は申し訳なくなる。そんなに苦しいのに、私たちは受け入れてくれたのか。

 

「おっと、気に病んだりしないで下さいよ。あなた方を招いたのは私たちの希望なのですから」

「お金のことなんて気にしないで思う存分くつろいでいいんですよ」

 

 きっと二人の本心なのだろうけれど、そんな話を聞いて黙ってはいられない。

 

「アニレア大伯母さん。朝食ですけど、私と一緒に作りませんか?」

「いけません。フィエーナはお客さんなんですから」

「元貴族の矜持がありましてね。家内は客人に働かせるのが嫌なんですよ」

「でも、私は家族じゃないですか。ねえ、一緒にアニレア大伯母さんと料理作らせてもらえないですか? きっと楽しいと思うんです」

 

 私はアニレア大伯母さんの手を取って頼み込む。アニレア大伯母さんと共に料理を作る情景が脳内に浮かび、私は期待に胸を膨らませた。最初は何か手伝いをしたいと思って口を動かしていたのに、これじゃ私が楽しみたいだけみたいだと内心苦笑する。

 

「フィエーナたら、そんな目で見られたら断れないわ」

「ふふふ、アニレアもフィエーナには形無しだね」

「一旦その気になったら楽しみになってきてしまったわ。罪な子ね、フィエーナ。厨房に案内するわ」

「はい!」

 

 厨房は晩餐室の隣に設置されている。私がアニレア大伯母さんと一緒に中に入ると、既にメイドさんが調理を始めていた。

 

「シュレ、今日はフィエーナも手伝ってくれることになりました」

「よろしいのですか?」

「ええ、構いません」

 

 広々とした厨房で私はそこまで料理の助力はできなかった。そもそもロートキイル人の朝食に調理の手はあまり入らない。精々、果物やハムを切ったりする程度だ。それでもお皿を並べたり飲み物を運んだりと雑務で役に立とうと動き回った。

 

「慣れてますね、同い年の私の子もこれくらい手伝ってくれると嬉しいものです」

「え、シュレさん結婚してるの?」

「してます、もう十年」

 

 私は驚きで一瞬固まってしまう。二十代前半かと思っていたんだけど、本人はあっけからんと三十五歳なのだとこともなげに言ってくる。

 

「私の子、寝起きは我が儘なんで旦那に朝は任せて午前勤務を入れたんです。えへへ」

 

 真顔で笑い声を上げる姿は何処かシュールに見えた。

 

 手早くアニレア大伯母さんとシュレさんの三人で朝食の準備を整えた私は、頃合いだろうとみんなを呼びに二階に上がる。けれど、それぞれの部屋をノックしても誰もいない。おかしいなと思い、最後に私の部屋を開けると全員が集まっていた。

 

「あー、フィエーナだ」

「ロアックさんたちとは何を話していたの?」

「つーか、何でそんなカッコしてんのさ?」

 

 私は簡単に今までのことを話す。

 

「フィエーナ、準備いいわね。私も毎朝ランニングするけど忘れて来ちゃったわ。何だかいつも走っているからか、ムズムズして仕方ないわ」

 

 本当なら靴とウェアを貸してあげたいところだけれど、私とアメリアじゃサイズが合わないだろう。

 

「フィエーナ水臭いな、あたしも世話になりっぱなしは性に合わないから手伝うぜ」

「なら、私も手伝う」

「じゃあじゃあ、私だって手伝っちゃうよ!」

 

 この後朝食の席でアニレア大伯母さんに手伝う旨をみんなして伝えると、困ったように笑ったアニレア大伯母さんは承諾してくれた。

 

 



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T/A33V:王宮に足を踏みいれた。

 

 

 王都に来てから内務省及びその外局、国立博物館、植物園、国防省などいろんな場所を見て回った。六日目になる明日は王国議会に向かう予定のはずなのだけれど、夜にロアック大伯父さんから私に明日はとある場所に付いてきてほしいと頼まれた。

 

「悪いのですけど、議会の方にはフィエーナ抜きで行ってもらえませんか」

「んーと、いいかな」

 

 私たちはそれぞれレポートを書くことになっているけれど、私の主担当は国防省で王国議会は遥が担当している。だから、みんなはロアック大伯父さんに私が連れ出されることを承知してくれた。

 

「それで、何処に行くんですか?」

「それは明日のお楽しみということでお願いします」

 

 珍しく含みを持たせた言い方に疑念が湧いたけれど、この数日間でロアック大伯父さんと過ごし信頼できると判断した私は大人しく従うことにしたのだった。

 

 

 

 翌日、目を覚ますとフィエーナは俺に体の支配権を譲っていた。おいおい、ロアックの大伯父が何か企んでいる時に俺か。俺に体よく面倒事を処理させようとしていないだろうな。

 

 フィエーナの友人たちとは別れ、俺だけフォーマルな格好になるよう促され車に乗せられる。

 

「あの、そろそろ明かしてくれてもいいのではないですか」

「そうですね……あ、見えてきましたね」

 

 ロアックの大伯父の視線の先に俺も目を向けると、そこには王宮があった。王宮にロアックの大伯父はどんな用事があるのだろう。そして何故俺を同伴しているのだろう。

 

 

 王宮に到着した俺たちは、幾層に渡り実施される厳重な警備を潜り抜けた後に、ようやく王宮内部に案内される。その際、王宮の人たちと気安げに話すロアックの大伯父を見ながら何故か俺は過去の嫌な思い出が浮かんでくる。

 

 七大魔王との戦い、魔獣討伐の数々……何がしかの功績を上げる度に俺は貴族や王族の人間と会う機会を設けられた。だが、帝國語は平民の話す言葉と貴族の話す言葉で大きく異なっている。迂闊に話せば処断されかねない状況で、俺は一言二言定型文を話すほかは何も出来ず、黙って言われるままにならざるを得なかった。

 

 それでも単語単位で理解できなくない状況下、本心を押し隠した高貴なる人間達の口に昇る不穏な言葉の連なりに冷や汗が幾度も流れたものだった。

 

「もう明かしてもいいでしょう。これから私たちが合うお方はこの国で最も尊ばれるべき方です」

 

 ああ、やっぱり……俺の嫌な予感は大体当たるのだ。フィエーナ……お前これを分かっていて俺に変わったんじゃないだろうな?

 

「そう怯えなくてもいいのですよ。陛下はお優しい方ですから」

 

 ロアックの大伯父にフォローされるくらい、俺は傍目に分かるくらい動揺しているらしい。当たり前だ! テレビとかでしか見ないような、ロートキイル人の敬意を一身に集めているお方と、俺が合うんだぞ! 本当に、何で俺の時になんだよ!

 

「あの……本当に国王陛下が?」

 

 普段のフィエーナからは想像も付かないビクビクした声音が口をついて出てしまう。俺の動揺を知ってか知らずか、ロアックの大伯父は鷹揚に頷く。

 

「特に予定はなかったのですが、フィエーナと過ごすうちに自慢してやりたくなりましてね」

 

 は? それだけの為にここに俺はいるのか? いらんことしやがって……しやがって!

 

 

 俺がロアックの大伯父と一緒に案内された部屋は、壁ですら豪華絢爛に装飾の施されたきっととんでもなく芸術的に価値のある空間なのだろうが、それらを意識の隅にすら置けないほど、俺の意識は二人の人物に集中してしまっていた。

 

 王太子時代には王国陸軍の戦車兵としていくつも勇ましい武勇を残し、今もなお王宮防護を担う近衛連隊に配備された戦車のうち一輌に戦車長として乗り込むのだと噂すら立つ勇王カール七世。テレビや新聞で見た勇猛な御姿は違わず、七十八の齢を経てもなお武人らしい精悍な顔つきをされている。

 

 そしてカール七世の傍にあり、常に彼を支え続けた才女クリスティナ王妃。今時では中々ない幼少から結婚を定められていた仲にあって、両者の関係は今でも語り継がれている。蛮勇に過ぎた若き頃のカール七世が思わず制止してしまうほどお転婆だった過去を経て、今もなおその行動力には目を見張るものがある。

 

「久しゅうございます、国王陛下。王妃殿下」

「三か月振りだな、事務次官を辞してからの方が生き生きとしているようじゃないか。内務省のトップでは貴様の器には足らなかったか?」

「まあまあカール。今日は可愛らしいお嬢さんを連れているのだから、政治の話はまた後にしましょう。あなた、お名前は何というの?」

 

 かつての俺ならここで名乗りを上げて後は仲間や後援についてくれた貴族に任せて黙り込んでいた。だが、今の俺はヴェイルじゃない。一通りの礼儀はしっかり叩き込まれているんだぜ。

 

「本日は国王陛下並びに王妃殿下にお目にかかり光栄に思います。私はロアック大伯父の大姪のフィエーナ・アルゲンと申します」

 

 ああ、フィエーナならば声を上ずらせることなどなかっただろう。もっと優雅に頭を下げられただろう。俺にこんな高貴な場は場違いなんだよ……。

 

「はっはっは! そう畏まるな! 先生や両親と話すようにすればよい。二十一世紀の世だ、打ち首になどせんからな」

「楽にしてくださいな。緊張しきるあなたを見ていたら、私たちも落ち着けませんわ」

 

 何だこの物言い!? 俺の出会った王族とは大違いだ。王族といえば平民の俺を冷淡に見つめ、ただその利用価値にのみ深慮を巡らせるような存在じゃなかったのか。それとも俺の出会った奴らが壊滅的に出来が悪かったのか。

 

「それで? ロアックよ、フィエーナを何故ここに連れてきたのだ?」

「私はもう想像が付きますよ、こんな愛らしい大姪がいたのを最近知って自慢しに来たんでしょう」

「ははは、クリスティナ王妃殿下には敵いませんな」

「ふん、意地の悪い男だ」

 

 不機嫌そうに鼻を鳴らす国王陛下を見て優位に満ちた笑みを讃えるロアックの大伯父に、俺は気が気じゃない。おいおい、不敬罪じゃないか?

 

「おほほ、気にしないでねフィエーナ。カールはあんまり孫娘と上手くいってないから」

「言うな、クリスティナ。こいつがつけあがるだろうが」

 

 内政のトップに立ってきたロアックの大伯父なら色んな笑みを使い分けることができるだろうに、よりにもよって国王陛下の御前でそんな煽るような顔つきは……。

 

「ロアック大伯父さん、流石に失礼ですよ」

 

 俺が小声で隣に座るロアックの大伯父に注意すると、我が意を得たとばかりに国王陛下が俺の方を見て豪快に笑って見せる。

 

「ははは、貴様よりよほど出来た娘じゃないか。礼儀を一からフィエーナに習ったらどうだ?」

「これはお手厳しい」

「二人ともお戯れはそのくらいにしてちょうだい。私、フィエーナとお話ししてみたいわ。綺麗な目をしているわね。パルナクルスの名に相応しい目」

「私もそれは思った。紅紫の瞳を持たない王の前に、パルナクルスの長の有資格者たる瞳の所持者が姿を現したのだからな」

 

 ロートキイルの王国を創設した初代の王は紅紫の瞳をしていたのだという。そして、三代王までは紅紫の瞳を持つ者が国王に座していたのだが、国内全土を見回しても当時のロートキイルには紅紫の目を持つ人間はいなくなってしまっていた。当然王位継承は揉めに揉めた訳だが、それ以来王としての実力に意味を成さない紅紫の瞳は王である条件から外れてしまった。

 

「まるで王位を簒奪しに来たようじゃないか、ええ?」

「ははは……国王陛下、流石にそれは冗談が過ぎますぞ」

 

 笑みの中に浮かぶ凄みがロアックの大伯父の額に汗を垂らす。国王陛下は噂に違わず、本当に武人らしい。

 

「もうカール、一々話題をかき混ぜないでちょうだい」

 

 老いてなお厳つい武人然とした国王陛下も王妃殿下の前にあっては、小声ですまんと呟いてしまう。何だか夫婦の力関係を見てしまったような気がした。

 

「フィエーナは今いくつなのかしら、最近の若い子は発育が良くて見ただけでは分からないわ」

 

 一瞬の刹那、全員の視線が胸に注がれたのを俺が見逃すはずがなかった。フィエーナ、やっぱり目立っているぞ。俺も恥ずかしい目に遭うんだから、そろそろ成長を止めていいだろう。既に十分大きい部類だ、もういいだろう。

 

「十三歳になります」

「ではもう小学校は卒業したのね。今は何処の学校に通っているの?」

 

 

 その後も王妃殿下の質問は続いていくが、俺は優し気な王妃殿下の雰囲気に絆されて大分いつもの調子を取り戻していった。剣術について話しては国王陛下に型を軽く見せ互いに武術トークで盛り上がったり、合唱団の話をしたら一曲歌わされては褒めてもらったり……俺、というよりかフィエーナの家族関係や兄妹関係、交友関係、書籍のことなど洗いざらいを聞かれていく。

 

「フィエーナよ、もう一度歌って見せてはくれないか。いい声をしている」

「私も聞きたいわ。でも、あまり聞き続けると中毒になりそうな気がするからあと一曲だけにしましょう」

 

 望外のリクエストを受け、フィエーナが何年も続けてきた練習の成果をこのような場で発揮できることに恐縮しつつ俺は聖歌を歌う。王女殿下にまでフィエーナ魔性の歌声説が認められたのは、ちょっと恐ろしい思いもするが……フィエーナ、お前もしかしたら歌で天下を取れるかもしれないぞ。

 

 俺が歌い終わり、国王陛下がアンコールをしようとして王妃殿下に諌められると国王陛下の顔つきは変わる。ついさきほどまで俺が歌っている間に見せていた好々爺然とした表情は鳴りを潜め、一国の長たる厳めしく堂々たる勇王と称されるに相応しい顔つきだ。

 

「ロアックよ、そろそろ本題に入ろうではないか」

 

 国王陛下の変化に伴い、ロアック大伯父も顔を理知的で老獪なものへと帰る。きっと、仕事の席ではいつもこんな顔をしているのだろう。

 

「悪いけど、フィエーナは別室に下がってもらえるかな」

「はい」

 

 やっぱりフィエーナを自慢するだけで来たわけじゃなかったんだな。安心した。

 

「フィエーナ様、先程の歌声感激しました」

「あ、ありがとうございます」

 

 別室に移動中、案内のメイドさんが目を輝かせてフィエーナの歌を褒めてくれる。俺自身でもあり俺の娘でもあるフィエーナが褒められるのは悪い気がしない。俺はありがたく褒め言葉を受け取った。

 

「では、こちらでお待ちください」

 

 案内された部屋は国王陛下と会った部屋程ではないが、それでもそこらの豪邸が霞むほどの絢爛な装飾の施された部屋だった。窓から覗く庭園は広々としていて、初夏に近い陽気に花々が鮮やかに咲き乱れている。この部屋にいるだけで、芸術的欲求を満たしてくれるのだから王宮とはなんて素晴らしいのだろう。

 

だが、警戒も決して怠っている訳ではないようだ。巧妙に隠されているが、死線を潜り抜けた俺は屋上や部屋の奥に隠れている狙撃チームの姿もいくつか捉える。ドーク祖父ちゃんのおかげで戦車を見慣れた俺は、視界の奥の方で点のように小さく動いている現役戦車KPZ.90/14を目敏く捉えた。おお、去年配備されたばかりの最新改修モデルがまさか王宮の場で見られるとは俺もツイている。

 

「おお~……」

 

 新型120ミリ砲と新型徹甲弾により距離二キロで貫通力が千ミリを超え、さらに接射ですら自砲弾の直撃に耐えるとも噂されるKPZ.90/14は各種要素技術を売り出し少しでもNATO市場を得ようと努力しているようだが、あまりうまくいっていないらしい。国内だけで五百輌は調達するそうだが、それでも一輌の初期調達価格が軽く一千万マルクを超えその高額が国会でも問題視されていた。

 

 先日国防省の調達部門の人に話を伺ったが、それはそれは予算獲得に苦労したと愚痴られたのは記憶に新しい。特に空軍のF-35調達計画が高騰を続ける中、航空兵力優先の気がある冷戦後の予算配分に苛立ちを隠せていなかった。

 

 それでもどうにかこうして実物が目の前を走るまでに至ったのだから、調達部門の人には感謝したい。レポートでもしっかり文章量裂いて苦労のほどを書いていきたいと思う。

 

俺が新型戦車の雄姿に注視していると、背後の扉が静かに開いていくのに気が付く。さっきのメイドさんだろうかと振り向くと、知らない少年が立っていた。

 

 怜悧な印象を受ける美少年で、ともすれば女性にも見えかねない顔立ちはしかし、細いながらも鍛えられた手首が礼装の袖から見えていることで否定される。

 

 赤いジャケットに白いスラックスは着る人を選ぶだろうが、彼にはとてもよく似合っていた。目付きにはかの国王陛下の名残が見受けられ、もしかすると王族の人間なのかもしれない。人を従わせるオーラのようなものが見え隠れしていて、そういえば王族の一人にこのような少年がいたような記憶がおぼろげながら湧いて出る。

 

「突然失礼。俺はアルフレートという。さきほどカール国王陛下の御前で畏れ多くも歌っていたのは貴様だな」

「そうですね」

「魅力的な声をしている。どうかもう一度歌ってはくれないか」

 

 いきなり現れて何だろうかこの人はと思うが、何処か懇願するような物言いに俺は断るのも悪い気がして了承してしまう。一分ほど軽く歌って見せ、これで満足かなとちらりと顔を窺う。

 

「聞き足りぬ。通して歌ってくれないか」

 

 通しだと五分を軽く超えるんだけどなと思いつつ、俺は暇しているので退屈しのぎにはなるだろうと要求に応えてやることにした。歌うのは好きだし、たまたま目の前にいきなり部屋に入ってきた同年代の少年がいるだけと思おう。

 

 だが聞かせているうちに綺麗な顔が、テレビなどで紹介される薬物中毒者みたいな顔つきへと変貌し始め、まずいかもしれないと思いなおし俺は歌うのを止めた。

 

「もっとだ、声を途切れさせないでくれ」

「あの、やめておいた方が……」

 

 もう物言いが薬を取り上げられた中毒者そのもので、俺はこの高貴な雰囲気を漂わせていた少年の変わり振りに戦慄を覚える。フィエーナお前……お前って奴は……。お、俺は悪くねえ! 普通歌っただけでこうなる人間はいない。

 

「何だ、俺のために歌うのは嫌か? 歌ってくれ」

 

 俺が歌うのを躊躇っていると、アルフレートは壁際にいた俺に迫ってきて両手を壁に付け俺を圧迫してくる。

 

「悪いけど、そんな真似したって無駄だよ」

「剣術をしているそうだな。だが、所詮東洋のっ!?」

 

 剣術のことを知っているってことは、国王陛下とのやり取りを聞ける位置にアルフレートはいたということか。

 

「今、何をした?」

「ふふ、ただすりぬけただけだよ」

 

 軽く距離を取った俺は、意表を突かれ心に隙間の出来ているアルフレートへ一挙に軽動を諌める苦言を叩きつけていく。

 

「ねえ、王子殿下。ちょっと我が儘が過ぎるよ。たかが歌に拘って小娘相手に手を振るうなんて」

 

 仮にも王族の一員ならば、国民には無様な姿はどうか見せないでほしい。そういった姿はどうか、見えないところでやってほしい。未だこの国では王は国の柱であり、支えなのだから。

 

 そういった願いも込めつつ、俺はしっかり目を見据えて言葉を告げた。

 

「うっ……すまない。だが、フィエーナよ。その声はいかんだろう。俺だけがおかしくなると言わせんぞ!」

 

 反省してくれたかと思いきや、アルフレートは何処か優雅に手を扉の方へ振り上げてみせる。すると、いつの間にやら結構な人数のひとだかりが出来ていた。

 

「フィエーナ様、どうか後一曲だけ!」

「その歌声を途絶えさせないでくださいまし!」

「あ、あははは……どうしよっか」

 

 幸いアルフレートがこの場を収めてくれ、再び部屋には静謐が戻って来る。俺はちょっと疲れてしまい、ソファに埋まるように体を沈みこませた。

 

「ありがとう、助かったよ」

「これを機に気軽に人前で歌を披露しないことだな」

 

 何処か得意げにしているが、もとはと言えばアルフレートの頼みを聞かなければこんなことにはならなかったのだ。俺はフィエーナらしくはないと自覚しながらもむくれながら反撃する。

 

「分かった、王太子殿下に頼まれたとしても断るようにするよ」

「むっ!?」

 

 その後、誰も来ないこの部屋で俺はアルフレートを暇つぶしの会話相手にちょうどいいと他愛のないようなことを話題にしながら時間を潰していく。学校の話、友達の話、家族の話……アルフレートは王太子殿下の息子だそうで、王族故の苦労や面白いエピソードをたくさん披露してくれた。いきなり歌ってほしいなんて言うから第一印象があまりよくなかったが、結構話も面白いしいい奴かもしれない。

 

 俺がさきほど見かけたKPZ.90/14の話題をそれとなく出してみると話に乗ってくれたのもなおさらアルフレートをいい奴に見せる。戦車についての話なんてフィエーナの友人は全然興味持ってくれないからな。フィエーナもそこばかりは寂しく思っていたから、いい友人を作ったと俺に感謝してくれるかもしれない。

 

「なあ、フィエーナ」

「ん? なあに?」

「俺の連絡先だ。これからも話に付き合ってはくれないか」

 

 躊躇いがちにアルフレートは連絡先の書かれた名刺を差し出してきた。電話番号は分かるが、その中にSNSのアドレスまで入っていて俺は時代の違いをまざまざと見せつけられる。この世界では王族もSNSをやるのか。

 

「あはは、今時は王子様もSNSで連絡する時代なんだね」

 

 俺が笑いかけると、アルフレートはおどけたようにウインクしながら笑い返してくる。ふと、これじゃアルフレートと知り合うために来たようだなと漫然と思った。

 

 

 




杞憂でしょ(すっとぼけ)


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T/A34V:夏季休暇の一幕を過ごす。

 

夏季休暇が訪れ、私たちはいつものように避暑の為ザルトヒェン村へ行くことになった。今年はミゼリア姉も一緒に来るのだという。すっかり両方の親から公認され円満カップルと化したベーセル兄たちだけれど、ベーセル兄はドイツの大学に通っていて、ミゼリア姉はロートキイルで学生生活の真っ最中だ。二人の時間は実はそんなに取れていない。

 

「ベーセル!」

「おおっと、危ないなあミゼリア」

 

 昨日も夜までベーセル兄と一緒だったのにミゼリア姉は嬉しそうにベーセル兄へ駆け寄って抱き付きに行く。ベーセル兄もまんざらでもなさそうにミゼリア姉を受け止め笑う。美男美女のカップルだから、のろけきっていても絵になるのが見てて少し腹が立つ。

 

「はあああああ、見てらんないわ。フィエーナの部屋に入れてよ」

 

 ラブラブっぷりが癪に障ったらしい従姉のリミ姉は私の手を引っ張って二階に上がる。私の了承なくベッドに倒れ込み、そのまま私の膝の上に頭を乗っけて寝転んでしまった。

 

「もうリミ姉、私は枕じゃないよ」

「ん~? でもいい匂いもするし、抱き心地もいいし~……フィエーナは私専用の抱き枕になってよ」

「何それ」

 

 私は苦笑しながら、リミ姉の肩甲骨まで伸びた艶やかな白銀の髪を撫でる。毛先の跳ね一つない髪は普段からしっかり手入れしているのだろう。とても触り心地がいい。

 

「んへえ……気持ちいいわ。もっと撫でててフィエーナ……」

 

 リミ姉の綺麗な顔立ちがリラックスして緩む。普段から凛としていてキリッとした美人さんのリミ姉が、眠たげにしていると何処か淫靡な魅力があった。

 

 そのまますやすやと寝息を立て始めるリミ姉を撫でていると、私まで釣られて眠たくなってくる。

 

「おーい、フィエーナ? そろそろ出発するよ?」

「はっ!?」

「あはは、今寝てたでしょ」

 

 ベーセル兄のふんわりとした笑みが私に向けられていると、さっきまでの苛立ちがすっかり吹き飛び私も口元が緩んでしまう。

 

「リミは心地よさそうに眠ってるね」

「きっと移動の疲れが出たんだよ、毎年こうだもん」

「それじゃ起こさないようにしてあげないとだね」

 

 私はそろりと慎重に膝上に乗っかっているリミ姉の頭を除け、ベッドから降りた。

 

「リミ姉、行ってきます」

 

 小さく別れの挨拶を残し、私はベーセル兄と一緒に階下へと降りていく。その際、ミゼリア姉がベーセル兄を見上げて手を振ってきたのが何だか癪に障ったので、私は前を歩くベーセル兄が最後の一段を降りたのを見計らって背中に飛びついた。

 

「うわ! 危ないよフィエーナ!」

「危なくないよ、もう階段は降りたもん」

「屁理屈言わない!」

「はーい……ミゼリア姉、ベーセル兄に叱られたよー」

 

 わざとしょぼくれてミゼリア姉に飛びつくと、ミゼリア姉は口元が笑っている作り物の怒り顔でベーセル兄を睨む。

 

「駄目よベーセル、妹は大事にしなさい。ほら、よしよしフィエーナ」

「参ったな」

 

 困り顔のベーセル兄を見て、罪悪感にさいなまれた私はミゼリア姉の歩みを誘導して二人でベーセル兄の胸元にしなだれかかった。

 

「ごめんねベーセル兄」

「悪い子だねフィエーナは」

 

 私の謝罪が軽い口調だったのに気付き、ベーセル兄はくしゃくしゃと私の髪を乱すように頭を撫でて来る。

 

「ベーセルったら、酷いわ」

 

 時々嫉妬が抑えきれないけれど、私はそれでも二人の関係を今では良しとしていた。二人の関係が変わっても、私にとって大事な兄と姉であることには変わりがない。

 

 

 

 俺がザルトヒェン村での避暑から帰ってきてから数日して、遥もまた家族の元から帰ってきた。

 

「フィエーナ! 会いたかった!」

「私もだよ遥、久しぶり」

 

 道場での修行を終え、帰ろうと支度をしていた道着姿の俺目掛け子犬のように駆け寄ってきた遥はそのままの勢いで胸元に飛び込んで来る。

 

「日本はどうだった?」

「すっごく暑かったよ……こっちは冷房いらないから好き。んー、フィエーナいるから好き」

 

 

 歓喜に満ちた蕩けた顔つきの遥はフィエーナの胸元に顔を埋めて、さらに顔をどんどん押し付けて来る。左右に顔を振りながら押し付けて来るせいで、道着がはだけ始め俺は慌てて注意の言葉を口に出す。

 

「あはは、ありがとう遥。でも、このままだと脱げちゃうから離れてね」

「あっ、ごめんねフィエーナ」

 

 俺は乱れた道着を急いで整える。フィエーナの奴は、スポブラなら見られても恥ずかしくないからって肌着すら着ていない。親面してる俺としては、そんな無防備でいるのは心配だ。性的欲求を抱く前に死した童貞野郎の俺だが、それでもフィエーナの肉体がそういった魅力に溢れていることは理屈として理解していた。もっと自分を労わってくれよ……まあ、どうせ夏は暑いから仕方ないとか言い訳してくるんだろうな……。

 

「ねえ、久しぶりに一緒にお風呂入ろうよ。フィエーナも汗かいてるからいいでしょ?」

「いいアイデアだね遥」

 

 遥の提案は汗でべとべとの俺にとってはあまりに魅力的で思わず飛びついてしまう。幸恵さんに許可を貰ってから俺は意気揚々と遥と共にお風呂へと向かった。衣服なんてさっさと脱ぎ捨てて、俺は早速シャワーを頭から浴びる。

 

「うああああー」

 

 火照った体の表面を温水が滑り落ちていくと、疲労も一緒に落ちていくような気がする。思わず口から間抜けな声が出てしまうのも、三時間みっちり体を動かした成果と思って許してほしい。

 

「もう、フィエーナ子供みたいだよ」

「あはは~」

「体洗ってあげるね」

 

心地よい疲労にぼんやりとしていた俺は、いつの間にか遥に体を洗われていることに気が付いた。頭頂部からゆっくりと遥の手は下へと降りていく。

 

「遥、下はいいよ。自分でやるよ」

「疲れてるんでしょ。いいよいいよ私がやってあげるから!」

 

 遥も息が荒いし、白い頬に朱が差している。長い時間移動して疲れているのだから、無理をしなくていい。俺はそう諭し、代わりに遥の体を洗ってやる。相変わらず、遥の体は髪にしても、肌にしても触り心地がいい。触っていられるならずっと手の平を当てて撫でつけていたいと思えてしまう。

 

「ふぃ、フィエーナ……そこはいいよ?」

 

 遥の喜びが見え隠れする焦り声に俺はハッとすると、いつの間にか俺は遥の胸にまで手を伸ばしていたことに気が付く。遥の肌触りがあまりに心地よく、無我夢中になってしまっていたらしい。フィエーナのたわわに実った胸とは正反対の辛うじて膨らんでいるかどうかといった胸から、俺はサッと手を引く。

 

「あはは、ごめんね遥」

「あ! で、でもやってくれるなら私嬉しい!」

「いいの?」

 

 他人に全身洗われるなんて赤子のようで恥ずかしくはないのだろうか。俺はそう気遣い問いかけるが、遥の方にそんな意識はないようでこくこくと首を縦に振って来る。

 

「じゃあ洗っちゃうね」

「う、うん……!」

 

 生唾をごくりと呑み込む遥に俺は苦笑する。やっぱり恥ずかしいんじゃないのか? だが本当に我慢ならなければ遥の方から言ってくるだろう。

 

「ん……っ……!」

 

 俺としては懇切丁寧に洗っているつもりなのだが、どうしても遥は口から小さく喘ぎ声を漏らしてしまう。うーん、これ以上力を弱めたらそもそもスポンジが持てないレベルで、俺はどうしたらいいか分からなくなってしまう

 

「遥、私下手くそでごめんね。もうやめようか?」

「やめ、ない、っ……で!」

 

 目を潤ませ、懇願するような口調で言われてはやめるにやめられない。もうこうなったらゆっくりじわじわでなく丁寧かつ高速で済ませてしまおう。そう思いゆっくり慎重に動かしていたスポンジを素早く鼠蹊部に滑らせると、遥の体がビクリと震え俺にしがみついてくる。

 

「だ、大丈夫遥?」

「う、うん???? むしろ心地いいくらいだよ……?」

 

 遥もまた自身の状況を理解しきっていないように見えた。困惑で首をこてんと傾げる遥には、今まで見たことのない妖艶な雰囲気がにじみ出ていて俺は正視することができなかった。濡れた黒髪が上気して赤く染まった頬に張り付き、普段は凛としている目付きはいつになくトロンとしている。乱れた吐息の一呼吸一呼吸を吸い込むと、ジンと体の内側から何かが染み出すような感覚が生まれて来る。遥の挙動の一つ一つがどうにも俺に感じさせたことのない感情を呼び起こさせそうで、それを考えてはいけないと俺の中でブレーキがかかる。

 

このままだと何だか危うい。上半身を洗い終えたところで俺は手を止め後は遥自身に任せることにした。遥も自分自身の変化に何か察するものがあったようで、俺たちは何処か気まずい雰囲気のまま体を洗い終えた。

 

お互い無言のまま、一緒にお風呂に入る。林原家のお風呂に入れてもらう機会は中々ないから、だからこそこの心地よさには敵わない。さっきまでのことを俺はすっかり洗い流し、心地よいお湯の熱に身を委ねた。

 

「ふへぇ」

「フィエーナの顔が蕩けてる」

 

 遥に指摘され、俺はいつのまにか開いていた口を閉じる。おっと、リラックスし過ぎかな。だが、そういって俺の緩みを指摘する遥の表情もまた人様には見せられないようなだらけた表情だった。

 

「遥だってニマニマしっぱなしじゃない」

「えへへ~、だって久しぶりにフィエーナと一緒なんだもん」

 

 弾んだ口調でそう言い放つ遥は本当に嬉しそうに俺の肩に頭を乗っけてきた。上目遣いでこちらを見ている遥と目と目があった。すると遥は心底幸せそうに笑みを浮かべる。よかった、いつもの調子を取り戻せたようだ。

 

「フィエーナ……」

「ん~?」

「えへへ、呼んでみただけ」

 

 このやり取りを今日だけで何度繰り返しただろう。飽きもせずに遥は幾度もフィエーナの名を呼んでくる。そんな遥の喜びようを見ていると俺まで何だか気分が上向いてくる。

 

「ねえ、フィエーナ」

「ん~?」

 

 さっきまで空気とは違う、遥の平静でいようと装った呼び声に俺は気が付く。何か大事な話をするつもりらしい。俺が遥と目を合わすと、その瞳には寂寥の念がこもっていた。

 

「私ね、二月には日本に帰るよ」

「そっか」

「お母さんから、帰ってきてって言ってくれたの。本当に嬉しかった……やっと、元に戻れたんだ」

 

 何でもないような話しぶりで遥は口を動かし続ける。

 

「日本は四月から新しい学年が始まるから、その準備もあるから、二月には帰ろうって決めたんだ」

 

 途中から遥の口調は震え出し、瞳からは涙が零れだしていた。その涙には喜びも悲しみも混ざった複雑な思いが籠っていた。

 

「寂しくなるね」

「ありがとう、フィエーナ。今まで、全部ありがとう……」

 

 お湯の熱さに融けた思考の中で、俺は遥の体を正面から抱き寄せる。白い華奢な遥の背中に腕を回し、肩甲骨のあたりに手を添える。ただでさえ熱かった体が火照った遥の肌と密着し、俺はもうロクに思考できそうにない。それでもぼんやりとした頭の中でようやく遥は日常に帰っていくのだと、そう思った。

 

「フィエーナとは別れたくないよ。でも、パパとママとも一緒に過ごしたいよ。どっちかしか選べないのはひどいよフィエーナ」

 

 分かり切っていることだというのに、遥はぶつくさと無茶ぶりな文句を言い始める。言葉を切る直前には微笑みかけてきて、遥はおどけて見せる。それでも隠し切れない悲しみが漏れ出ていて、俺の心にも突き刺さるような痛みが走った。

 

「遥と私は友達じゃない、ちょっと距離が遠くなるだけだよ」

 

 俺のいた世界と違って交通網が全世界的に広がるこの世界なら、会おうと思えばいつでも会いに行ける。直接会う以外にも交流を続ける手段もいくらでもある。

 

自分自身に言い聞かせるように、そして遥を元気づけるように俺は言葉を紡ぐけれどやはり直接会うことが出来なくなる事実を突きつけられると、寂しさが心を冷え冷えとさせていく。

 

「ロートキイルと日本じゃ遠すぎるよフィエーナ……フィエーナも日本に持って帰れたらいいのに」

 

 さっきと違い、真顔で言い放ってきたので俺は遥が本当に私を持ち帰りたそうにしているようで笑ってしまう。フィエーナは物なんかじゃないぞ、遥。

 

「あはは、冗談に聞こえないよ遥」

「ちょっと本気」

 

 抱き寄せていた遥は自ら離れていったかと思いきや、俺の額に自らの額を当て目と目を突き合わせてくる。ちょっとどころじゃない、真剣そのものな遥の眼差しを真正面から見せつけられ、俺は愛おしさを覚えた。そこまでフィエーナを好いてくれるとは、フィエーナも結構な友達を持ったものだ。

 

「私、フィエーナと離れちゃうの本当に悲しい」

 

 唇を寄せてくる遥を俺は思わず身を退いて回避してしまう。しかし、背中には湯船が当たった。次は強引に遥を引きはがさないと避けられないだろう。

 

「遥?」

 

 俺は遥の真意が読めなかった。一体どうして遥はキスなんてしようとしたんだ? 愛情相まっての行動なのか? 今まで日常的にキスなんてしていなかった父親に対し、いきなり愛娘がキスを迫ってきたような心境を俺は抱かされる。五歳児とかなら友達の真似をしたくなったとか理由も推測できるが、遥はもう十三歳だ。

 

 まだ、幼児染みた甘えっこな感情を抱いてもおかしくはない年齢でもあるし、独り立ちし始めてもおかしくはない。うーむ、やはり俺には理解できそうもない。フィエーナ、後で正解を導き出しておいてくれ。

 

「ごめん、フィエーナが欲しくなっちゃってつい」

「それ、どういう意味なの?」

 

 混乱する俺にさらなる追い打ちをかけたうえで、答えを教えてくれず遥は背を向けてそのまま湯船から上がってしまう。

 

「ちょっとのぼせちゃったみたい。先に上がるね」

「……うん」

 

 残された俺は唇に指を添え、遥の真意を図りかねてしばらく湯船に浸かり続けた。

 

 

 



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T/A35:アメリアの誕生日会です。(前編)

 八月の下旬、アメリアと友人となってからはこの時期は決まってパーティーに参加するようになっていた。

 

「本当にいいの? 別に断ってくれてもいいのよ」

「ううん、そんなことないよ。着飾ったアメリアの姿楽しみにしてるからね」

「もう、フィエーナったら……ありがとうね」

 

 電話でアメリアには今年も参加する旨を伝える。アメリアも一人で参加となったら心細いはずで、案の定電話越しに安堵のため息が漏れ聞こえてきた。

 

「今年もウィーネンナッハ城塞で開催?」

「そうね、お父様ったら今年も張り切っちゃってたくさん人を呼ぶみたいね」

 

 アメリアの家系は十世紀ごろに興った古ロートキイル王国を建国した七大支族の末裔で、

今でもヴェルデ市のあるルヴェ州の主要な土地はアメリアの家系が保有している。アメリアのファミリーネームであるレイハウと聞けば、誰しもがここではピンと来る有力家系なのだ。

 

 ウィーネンナッハ城塞は州都であるウィーネンナッハ市にある、レイハウ家がかつて拠点として使用していたお城だ。今では一般公開もされていて、私もかつて小学校の遠足でアメリアとも一緒に訪れた覚えがあった。

 

 そして一般公開の休日を利用して、アメリアの父は娘の為のパーティーを毎年のように催しているのだった。私もまた、アメリアの友人として何度も訪れたことがある。

 

とにかく古めかしくて大きくて、歴史の重さに圧倒される建物の中で壮麗に催されるパーティーはかつてヴェイルが経験したパーティーを思い起こさせて私は心躍らせたものだ。

 

 

「フィエーナが来てくれると助かるわ。あなた物怖じしないものね」

「んふ~、頼りにしてくれていいんだよ」

「はいはい、頼りにしてるわフィエーナ」

 

 

 

 エリナと私の準備に手伝ってくれた母親に見送られ、私はアメリアの家族が手配してくれた車に搭乗し現地に向かう。

 

「うげえ~、緊張してきた」

「あはは、要はお誕生日会なんだからそんな気負わなくても大丈夫だよ」

 

 レースの入った黒地のワンピースドレスを纏い、母親から借りて来たというネックレスを首に下げたエリナは深窓の令嬢にも見える。いつもよりしおらしくなっているのも、一層お嬢様といった感じを増しているように見えた。

 

「今日のエリナ、とっても綺麗だね。自慢の幼馴染だよ」

「フィエーナ、恥ずかしいからやめて」

 

 正装をするのに気後れしているエリナは、頬を赤くしながら俯いてしまった。こんな反応をするエリナは珍しい。元々小柄なことも相まっていよいよもって愛らしく見える。

 

 そのまましばらく車は進み、遥をピックアップしていく。私たちは三人で会場に向かうことになっていて、里奈は専属の運転手を自前で持っているのでそれで連れて行ってもらい、キアリーとトヨは別の車で一緒にやってくることになっていた。

 

「フィエーナ……綺麗」

「ありがとう遥、遥もすっごく綺麗だね」

 

 紺色のジャケットにワンピース姿の遥を前にして、私とエリナは思わず目を奪われてしまう。最近は夏季休暇で道着姿の遥ばっかり見ていたギャップもあって、すっかり私は遥に見とれてしまった。

 

 ヴェルデ市を出発して二十分ほど車は走り続け、やがてウィーネンナッハ市に入っていく。州都とあってヴェルデ市には見られない高層ビル群が遠目に見える人口八十万人を誇る大都市を流れる川の畔にウィーネンナッハ城塞は築かれている。

 

 数百人が籠城可能な巨大な石造りの集中式城郭として建造されたウィーネンナッハ城塞は、高さ十五メートルはある城壁の内側にさらに二十メートルの高さの内壁が設けられて、内部には三十メートルの高さに及ぶ塔が四隅に建てられた石造りの城が建っている。

 

 普段は一般人が見学可能で、なおかつ中央の一部の建造物が博物館にもなっているウィーネンナッハ城塞だけれど、今日はレイハウ家が貸し切りでアメリアの為のパーティーが開かれるのだ。改めて考えるとスケールの大きな話だ。

 

「すごい、本物のお城だ」

 

 多分初めて訪れたであろう遥は車窓に顔を近づけて感嘆としている。パーティーに合わせて続々と集まって来る車両群はどれもお高そうな代物ばかりで、何だか私みたいな普通の階級の人間が来てよかったものかと思わないでもなかった。

 

 短機関銃を持った警察官が巡回しているのをぼんやりと見つめながらのろのろと進む車の中でエリナや遥とお喋りしながら暇をつぶし、十分ほどかけてようやく私たちの乗る車は城内に入ることが出来た。

 

 駐車スペースに車が停車し、石畳の道を歩いて私たちは城の中に案内される。案内されたのはアメリアのために解放された一室で、ゴシック調の広々とした部屋には既に里奈たちが先に到着してアメリアと一緒に私たちを待っていた。

 

「うわああ……アメリアのその衣装、綺麗だね」

「ありがとう遥。でも、遥も負けてないわよ」

 

 手間の掛かるだろうレースの刺繍がみっちりとワンピース全体に施された絹のドレスを着たアメリアは、中世期の貴族の令嬢のようだ。首元に立ったレースで出来た襟に、僅かに膨らみを持たせているスカート部分が格式高く歴史を感じさせる衣装になっている。

 

 一番綺麗なドレスを着ているのはアメリアだけど、里奈やトヨ、キアリーも今日はしっかり着飾っていてみんなちゃんとした衣服を着ていると気品のあるお嬢様然としていた。

 

 いつもは活発元気少女なトヨもワンピースドレスに身を包んで両手を前に組んでいると様になっているし、ハチャメチャな行動をしてみせるキアリーだって同様だ。

 

「えへへ~、ちょっと動きにくいよね~」

「ホントだよなー、短パンとかじゃ駄目なのか?」

 

 それでも中身が変わっている訳ではない。朗らかに笑いながらくるくるとその場を回るキアリーに、スカートを無遠慮に膝が見え掛かるまで持ち上げて見せるトヨはいつの通りだ。

 

「駄目に決まってるでしょ」

「そりゃそっか」

「当たり前だよトヨちゃん! こんなトコで短パンで来てたら場違い過ぎて恥ずかしいよ!」

「たはは」

 

 私たちが談笑しているところ、アメリアの家族が挨拶にやってくる。

 

「やあ、ちょっといいかなアメリア」

「お父様! ええ、どうぞ入って」

「やあみなさん、今日は私の娘のために集まってくれて感謝しているよ」

 

 室内に入ってきたのは顎鬚を蓄えた壮年の男性と彼に寄り添うアメリアに何処か似た雰囲気の美しい女性、それにアメリアの兄が一人に弟が二人だった。

 

「ふむ、見ない顔もいるので自己紹介もしておこうか。グリジン・レイハウ、アメリアの父親だ」

 

 互いに抱擁を交わし、挨拶を終えるとアメリアの両親と兄はパーティーの準備があるそうで早々に出て行ってしまった。アメリアの二つ下の弟のアロルと、八歳のテキオルだけが残される。

 

「ふぇっへっへ~、大きくなったねアロル~。流石成長期!」

「はは、ありがとうございますキアリーさん」

 

 アロルは年齢に見合わない丁寧な態度の優しい子だ。キアリーが無遠慮に背中をべしべしと叩いてきても、何も言わずに笑顔で感謝を述べている。何て大人な子なんだろう。

 

「姉ちゃん疲れたー」

「もうテキオルはすぐへばるんだから。ほら、そこにあるソファで休んだら?」

「姉ちゃんでいーよ」

 

 一方のテキオルはアメリアにべったりのお姉ちゃん子で、アメリアもそれを憎からず思って接している。こっちは年齢相応に子供らしい。今も両親がいなくなった途端、隣のアメリアによりかかっていた。

 

「確かアロルはイギリスの寄宿学校に行ってるんだよね。あっちはどうなの?」

「中々厳しいですよ。けど、先輩や同級生は良くしてくれますし、楽しくやってます」

 

 私が話しかけると、柔和な笑みを讃えながらアロルは返事をしてきた。そんな泰然としたアロルは、何かを思い出したかと思うと急にそわそわしだしてアメリアに声を掛ける。

 

「そうだ姉さん、本は何処に置いてありますか」

「そこの机に置いてあるわ。サイン、欲しかったんでしょう?」

「はい!」

 

 アメリアが指し示した机の上からブックカバーに入った本を駆け足で取ると、年相応な笑みを浮かべながら私の目の前に走って来る。

 

「実はフィエーナさんの本、読ましてもらいました。とっても面白かったです!」

「あ、ありがとうアロル」

 

 なんてことだ。イギリスにいたアロルに私の本の存在が知られているとは。

 

「おお~、フィエーナちゃんのファンがまた一人誕生だね~」

「アロル君もヴェイルの回顧録読んでるの!? どこら辺が好き!?」

 

 いきなり生き生きと話し出した里奈にちょっと面食らいながらも、アロルは滔々と語り始める。

 

「そうですね、情景描写がまず好きですね。実世界の話じゃないのにまるで自分自身がいるかのように思えてきて、世界観にはまりこんじゃうんです」

「おお~、分かってるねー!」

 

 テンションの上がった里奈に負けず、アロルの声音もウキウキとしている。普段の落ち着いた様子のアロルを見ていた私には見せなかった顔で、ちょっと意外に思えた。

 

「フィエーナ、アロルはフィエーナの本のファンなの。よかったらサインしてあげて」

「あ! そうだ、ぜひお願いしたいのですがいいですか?」

「いいよ、それじゃ本を貸してね。ペンはある?」

「はい! これでお願いします」

 

 アロルの持つ本へサインを書いてあげると、アロルは嬉しそうに表情を緩めてずっとサインを見つめ続けていた。足はステップを踏んでいるし、鼻歌まで時々歌いだすはしゃぎようは見ていて微笑ましい。

 

「そんなに喜んでくれると、私もサインした甲斐があるよ」

「あ……はは、お恥ずかしい」

 

 照れて俯いてしまう姿も可愛らしくて、アロルは私たち全員からすっかり可愛い子認定されてしまうのだった。

 

 



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T/A36:アメリアの誕生会です。(後編)

 

 やがて会場の準備が整ったとの事で、私たちはアメリアを残し一足先に会場に足を踏み入れる。

 

 石造りの壁面から来る圧迫感は、アーチ状の窓から差し込む陽光と光り輝くシャンデリア、それに紅色の敷物で覆われた床面により大きく軽減され、むしろ荘厳な雰囲気として身を引き締めさせる。

 

 等間隔に配置されたテーブルには食べ物が品を損ねず、それでも豊富に並べられ訪れた人々を既に楽しませていた。

 

 一段高くなった奥の方には各種楽器が並んでいて音楽家たちが快い音色を奏でていた。

 

 まさに映画などで見るような壮麗なパーティーそのものといった風景で、礼装に身を包んだ人々が気負いなく笑みを浮かべているのを思わず尊敬してしまいそうになる。

 

「おや、フィエーナ嬢ではありませんか」

「あ、トイフェルさん。来ていたんですね」

 

 ありがたいことに道場の受講生の知り合いに出会うことが出来て、私の気は大分軽くなった。遥も見知った顔を見つけられて目に見えて表情が柔らかくなる。

 

 そのほか、昔からの知り合いやらと挨拶を交わしながら無難にその場を切り抜けていくけれど、百人はいるだろう招待客がいるので休む暇が全然ない。

 

 特に今年は新しくやってきた遥にみんな興味津々で、ロートキイル人羨望の麗しき黒髪と透き通った碧い瞳の珍しい組み合わせに壮麗の男女がメロメロになっていくのをはた目に見るのは愉快だ。

 

「ほう、遥嬢のような目をした日本人は多いのかね」

「いえ、そんなにはいないかと……」

「そりゃあそうだろう。きっと日本でも羨まれたのではないかな」

「あ、ははは……ありがとうございます」

 

 初めて来たというのに遥は案外礼儀正しく会場内で振舞えていた。流暢なロートキイル語を異国の美少女が話し、それでいてお淑やかで慎ましいとあれば人気の出ないはずがない。

 

 遥以外も普通にやっていけているようだけど、こういう場ではいつものお喋りと無遠慮が何処かに行ってしまうのがエリナだ。けれど、エリナもこの場には何度も来ているだけあって顔見知りがいる。

 

「それでね、トマトの量を増やしたら一気に美味しくなったんだよ」

「ほう、それはいいことを聞いたよ」

「それは僕もやりますねえ!」

 

 高名な料理人一家であるレイネンシア家に一目置かれているエリナは、最近の料理について話していた。さっきまでの緊張が吹き飛び生き生きとしている様は見ていてこっちが嬉しくなってくる。

 

 そうこう時間を潰していると、会場の一段高まったところにアメリアの父親であるグリジンさんが家族を伴って現れる。すると、会場内がスッと静かになり壇上へと注目が集まっていく。

 

「みなさん本日は私の愛娘であるアメリアの誕生日会に来ていただき感謝しています」

 

 朗々と語りだすグリジンさんの姿は、かつての七大支族の子孫の名に恥じない堂々たる佇まいだ。けれど……。

 

「思えば、我が愛しの愛娘であるアメリアも十三歳となってしまいました。十三歳といえば、ティーンエイジャーの始まりともされていますが……」

 

 段々とその威容は薄まり、ただの親ばかなお父さんといった実像が姿を現し始める。とはいえ、この場の招待客はこうなることを百も承知でやってきているので問題はない。ただ、このスピーチの後に挨拶をするであろうアメリアはきっと顔を真っ赤にしている事だろう。

 

 

「つい先日のことなのですが、最愛の愛娘であるアメリアにちょっとした失態を犯してしまい、私はアメリアからの罰を受ける羽目になったのですが……これがまた愛らしいことで、私をくすぐることで帳消しにしようと図ったようなのです」

 

 私はアメリアの知らない一面をあけっぴろげに話してくれるグリジンさんのお話ならどんどん聞いていけるのだけれど、流石に何十分も話し続けていたらアメリアが羞恥で面前に姿を出せなくなってしまう。グリジンさんのお話を強引に遮るように衣装替えをしたアメリアがずんずんと歩幅を広めて壇上に上がってきてしまった。

 

 さっきまで着ていたドレスより格段に動きにくそうなコバルトブルーのドレスは、その分格段に豪華で綺麗だ。けれど、頭に乗っけたティアラなんか目ではないくらい今のアメリアの羞恥と誇りの混ざり合った表情が一番に魅力的で目を奪われてしまう。

 

「お父様。そろそろ、私のスピーチに移ってもよろしいかしら?」

「ああ、いいとも。それではみなさん、私の愛しい愛娘であるアメリアが三日三晩かけて私と共に考え練ったスピーチをどうかお聞きください」

 

 アメリアはグリジンさんの溺愛に実は喜んでいる。恥ずかしくはあっても、自分について嬉しそうに話すグリジンさんを見て満足げに見つめていたのを私は見逃さなかった。

 

「本日はこのような一個人の誕生日記念のために集まっていただいた事に感謝します」

 

 アメリア、それにグリジンさんが考えたスピーチを終えると、一斉に会場の人々がアメリアにあめでとうの挨拶を交わそうと壇上にぞろぞろと動き出していく。それら多数の招待客相手を嫌がる素振り一つ見せず笑顔で応対していくアメリアの姿はまさに現代に生きる貴族の令嬢そのものに見えた。

 

 途中からは私たちもアメリアと合流しひっきりなしに応対に次ぐ応対で進んだ誕生会は三時間ほどで幕を閉じた。

 

「うう……」

 

 三時間ほど続いたパーティーでひっきりなしに挨拶を続けていたアメリアはお疲れのようで、うめき声を上げてぐったりとソファに腰を沈みこませた。

 

「お疲れさま、アメリア。私の我が儘に毎年付き合ってくれてありがとう」

「いいのよ、お父様。私がお父様の自慢の娘ってことなんでしょう?」

「そうとも! 今日のアメリアは世界一可愛らしかった!」

 

 現代のロートキイルにはキスの文化はあまり根付いていない。いつしか廃れてしまった風習だけれど、レイハウ家ではまだ現役のようでグリジンさんはアメリアの両頬にキスを残す。アメリアもまんざらでもないようで、父親の頬の傍でリップ音を鳴らす。

 

「俺にも! 俺にも!」

「もうテキオル。甘えん坊さんね」

「今日のあなたは一段と綺麗だったわ」

「ありがとう、お母様」

 

 テキオルに続いてアメリアの母親、それにアロルにアメリアの兄であるカナデアさんともキスを連続して行っていく。最初は驚いたけれどもう見慣れた私たちの中で、唯一今年初参加の遥だけが動揺で耳を赤くしている。里奈は意外と平気のようだ。招待客との受け答えも何だか慣れていたし、場数を踏んでいるように見えたのは気のせいだろうか。

 

「さてと。ここからは身内だけのバーベキューパーティーと行くぞ! お肉をたくさん焼いてあげるからたんとあげていきなさい」

 

 グリジンさんは貴族然とした高貴な雰囲気にもなれるし、そこいらにいるようなマイホームパパにもなれる表情豊かな人だ。

 

「お父様。ドレスにバーベキューの匂いを染み込ませでもしたら親御さんから非難轟々ですよ」

「ふふふ、どうですご友人方。アメリアのこの慧眼!」

「もう、恥ずかしいからパパ!」

 

 実は普段はパパって言ってるの、誤魔化せてないんだよアメリア? 失言に気付いて、あわあわと口に両手を当てるアメリアがどうにも愛おしくて、そしてそれはグリジンさんも同様のようで。

 

「どうです! 可愛らしいでしょう!」

 

 誇り高く娘を褒めあげる姿は、カッコいいんだかおかしいんだか、分からなかった。

 

 



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T/A37:今度は遥の誕生日パーティーです。

 夏季休暇が終わって二週間もすると、遥の誕生日だ。去年はサプライズパーティーを実施したものだと懐かしんでいると、遥から招待状を手渡される。

 

「去年はフィエーナが招待状をくれたよね。受けてくれる?」

「もちろん!」

 

 去年は遥の誕生月である九月の来月に誕生日のある私が、ロートキイル流お誕生日会のお手本を遥相手に実践して見せたのだった。今年は遥もロートキイル流に倣うようだ。

 

「うわ~、もう一年前になるんだね~」

「マジか……あっという間に時間て過ぎるよなー」

「本当よね……」

 

 大人みたいなことを言ってしみじみする三人に、私と遥はクスリとしてしまう。

 

「後は誰か誘うの?」

「後はね、里奈とエリナにも渡そうと思う」

 

 里奈はきっと何とか都合を付けてくれるだろう。けれど、エリナはうっかり度忘れが多いからな……去年みたいに家族の用事とだぶらせやしないか不安だ。

 

 

 

 誕生会当日、送り迎えをしてくれる母を我が家に残しエリナの準備が整っているか様子を窺いにいく。

 

「よかった。まだ寝てるかと思った」

「ちょっとフィエーナ、私だって友達のお誕生日会をすっぽかしたりしないよ」

「ソーダネ」

「あー、嘘っぽい。絶対信じてないでしょ」

 

 去年は軽率にも予定を合わせられなかったエリナも、私がしっかりとスケジュールを監督して参加できるように取り計らったので安心だ。

 

 エリナを引き連れ、母に林原家まで送ってもらうと街道から道場に進む曲がり角が風船とイルミネーションで飾られているのが目についた。準備は万端なようだ。

 

 立派な日本家屋である林原家の入り口も、風船と紙飾りで綺麗に飾り付けられていた。

 

「こんにちはー」

 

 プレゼントにケーキを持って私たちが林原家を訪問すると、林原夫婦に遥の三人が仲良く玄関前に立って出迎えてくれた。

 

「お誕生日おめでとう遥」

「ありがとうフィエーナ!」

「遥、はいこれ。私とエリナからのプレゼント」

 

 遥の誕生日である九月十三日の誕生石という、カイヤナイトという碧い宝石のペンダントを二人でお店を巡って選んだのだけれど、遥はその場で付けて嬉しそうにクルクルと回って見せる。

 

「ありがとうフィエーナ、エリナ」

 

 遥の浮かべた笑顔はとても魅力的で、私は見惚れてしまう。

 

「フィエーナはもう一個プレゼント用意してるんだよ。ほら、出しなよ」

「う、うん……」

「何々?」

 

 エリナに肘で小突かれ私が取り出したのは小さなガラス細工球だ。夏季休暇の間にベーセル兄から習って凄い物を作ってやろうと意気込んだのだけれど、大したものが作れなかった。それでも、これは結構いい感じに出来たとは自負している。それでもやっぱり宝石のペンダントなんかと比べられると自信は吹き飛んでしまうような、その程度の出来だ。

 

 期待に胸膨らませて私を見て来る遥ががっくりしてしまわないか不安で、私は笑顔で誤魔化しながらおずおずとガラス球のストラップを遥に差し出す。

 

「あはは、ストラップにちょうどいいでしょ? そのペンダントのおまけくらいに考えてよ」

「なーに言ってんのフィエーナ。一か月ガラス細工のお勉強して頑張って作ったんじゃない」

「フィエーナが私のために?」

「うん、受け取ってくれる?」

 

 幸い、遥は私のストラップを受け取って大切に両手で包み込んでくれた。私はホッと胸をなでおろす。いつか商品になるよう出来のもの作って見せるから、待っててね遥。

 

 しばらくして全員が到着したので、遥は今回の誕生パーティーの主催者として動き始める。

 

「えー、今日はみんな集まってくれてありがとう。去年の今頃はまだ私が留学生クラスが編入したばっかりで、そんな私をみんなが受け入れてくれてとっても嬉しかったのを覚えてます」

 

 遥が思い出を交えながら今までのロートキイルでの数々に感謝を述べ始めると、改めて遥が日本へ行ってしまうのだと再確認させられる。

 

「特にフィエーナ。フィエーナは私がロートキイルに来て最初の日に私に話しかけてくれたよね」

「そう、だったね」

 

 あの頃の無表情で磨耗した遥が、今では私に微笑みかけてくれている。めでたい祝いの席のはずなのに、何だか涙ぐんでしまう。みんなも同じ気分を抱いているようで、ちょっとパーティーの場がしんみりとしてくる。

 

「ありがとうフィエーナ。本当に感謝してる」

「どういたしまして、遥」

 

 感極まった遥が飛びついてきて、私もそんな遥を抱きしめ返す。あと半年もしないうちに遥とこうして気軽に抱擁を交わすことも敵わなくなるかと思うと、潤んでいた瞳から涙が零れ落ちそうになってしまう。けれど、今日は楽しい誕生パーティーの日だ。そろそろこの雰囲気から脱するべきだろう。

 

 私がチラリとエリナに目くばせすると、付き合いの長いエリナはすぐに察してくれる。

 

「遥、私お腹空いちゃったなー。パーティーがあるからお昼は抜いてきたんだよ」

 

 背伸びをしながらわざとらしくお腹をさすって見せ、エリナは机の上に置かれた料理群に目くばせして見せる。

 

「そうそう! 今日は遥が手巻きずしを振舞ってくれるんだよね。私も遥の作ったお寿司早く食べたいな」

 

 私も先手を切ったエリナに呼吸を合わせ、遥に明るい調子でご飯アピールを始める。

 

「あ~、私もお腹空いてたんだ~」

「おっし! それじゃさ遥! 主催者としてどんどん寿司を巻いてくれよ。あたしたちがどんどん食ってくからさ!」

 

 トヨの茶目っ気たっぷりな調子に遥のしんみりとした表情は何処かへ去り、冗談めいた困り顔に変化した。

 

「えー、私は食べれないの?」

「遥ちゃん、私手伝ってあげるから大丈夫だよ。トヨちゃんを満腹にさせてあげよう」

「ありがとう里奈。一緒にトヨに手巻き寿司おみまいしようね」

「どんどこいだぜ!」

 

 カッコよく両手を振りかぶって受けて立つ姿勢のトヨの前で、手を洗った遥と里奈がいそいそと海苔と寿司飯に具材を積めてくるくると細長く巻いていく。まるでクレープみたいだ。

 

「はい、トヨちゃんどうぞ」

「ありがとな里奈。いただきまーす」

 

 豪快に手巻き寿司にかぶりつくトヨの口からは、まだ水分を吸ってしなしなになっていないパリパリの海苔が食いちぎられパリッと小気味よい音を立てる。

 

「んー、うめー」

「はい、こっちはサーモンだよ」

「おー、サンキュー遥」

 

 トヨが遥と里奈に餌付けされている隣では、初めて見る手巻き寿司に手をこまねいているアメリアがキアリーと一緒になってそろそろと海苔を巻いている。

 

「ねえ、これで合ってるのかしら?」

 

 不安げにアメリアは慎重に海苔を巻き終えた手巻き寿司を目の前に掲げ、じっくりと観察する。

 

「大丈夫だよアメリアちゃん。綺麗に巻けてる」

「いいじゃんいいじゃん、美味しそうだよ~。いっただきます!」

 

 里奈のお墨付きと、円錐状に巻かれた手巻き寿司に勢いよくかぶりついたキアリーが笑顔で頷いて来るのを見て、ようやくアメリアも形の良い口を小さく開いて手巻き寿司に噛り付いた。最初のうちは微妙な顔つきで咀嚼していたアメリアだけれど、途中からはコクコクと頷いて見せ普通に食べ始めた。

 

「んー、美味しい。この酸味は何処から来てるんだろうね、フィエーナ」

「お酢だったと思うよ」

「へえ、お米に?」

 

 お料理好きのエリナは初めての手巻き寿司に好奇心に探求心を刺激されているようだ。もぐもぐと小さな口を忙しなく動かしては手巻き寿司の美味しさの根源を探ろうとしている。

 

「だよね、遥」

 

 どうだったか自信がなくて遥に聞いてみるとそうだよと頷いてくれる。

 

「あとお砂糖も入ってるよ」

「お砂糖!」

 

 日本人ならともかく、ロートキイル人には物珍しい手巻き寿司を興味津々に食べ終えてから私たちは思い思いに持ち込んだケーキやらクッキーやらをお茶と一緒に食べていく。

 

「んえっへっへ~。やっぱりケーキは美味しいねえ~」

「お行儀悪いわよ」

 

 蕩けるような顔つきでフォークに加えるキアリーの口から顔をしかめたアメリアがフォークを引き抜いて皿にのせる。

 

「里奈のケーキ美味しいね。日本のケーキなの?」

「そうだよ、こっちじゃあんまり見かけないから作ってきました!」

 

 ロートキイルだと定番の黒いチョコケーキとは反対に純白の生クリームに覆われ、大粒のイチゴが乗っかったケーキは日本ではポピュラーなケーキなのだという。

 

「んー! ショートケーキ好き。里奈グッジョブ」

「ありがと遥ちゃん」

「日本はいっぱい珍しい食べ物があるね。一回みんなで行けたらなー」

「いいねエリナちゃん! その時は私案内してあげるよ!」

「あたしも地元なら詳しいぜ!」

 

 何気ないエリナの一言にもし日本にいけたらトークが盛り上がる。富士山とか東京とか、有名どころしか知らない私たちに遥や里奈、トヨはそれだけじゃない色んな日本の名所や美味しい食べ物をあげつらう。

 

 手巻き寿司にお菓子でお腹いっぱいになったはずなのに、見たこともない食べ物飲み物の話を聞いていると生唾が出てきてしまうのだった。

 

 

 

 



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T/A38:遥が帰っていきました。

 ロートキイルでは十一月に聖マルティヌスの日という記念日がある。

 

 道場での修行を終えた私と遥はせっかくなので、一緒に道場の目の前の道を通る提灯行列を見学に来ていた。林原先生一家や道場の受講生も何人か一緒に連れ立ち、すっかり暗くなってきた道を点々と動く提灯の行列を眺める。

 

「綺麗だね……」

 

 うっとりと提灯の明かりがふらふらと揺れ動きながら教会の方向へ向かうのを眺めながら、遥は私に寄りかかってきた。聖マルティヌスの日を境に冬は始まるとされているけれど、夜を迎えて一気に気温が落ち始めていた。くっついてくる遥の人肌は暖かくて、けれど頬と頬を触れ合わせるとひんやりとする。もうじき雪も降りだすだろう。

 

「ねえ、フィエーナ」

「どうしたの遥」

「ううん、何でもない」

 

 ぎゅっと私の手を握る遥は目を潤ませながら提灯行列に視線を向け続ける。つい先日の秋季休暇で日本から帰って来てから遥はこんな表情を時折見せる。その瞳は私たちが近い将来、遠く離れることに思いを馳せているようだった。

 

「ねえ、フィエーナ」

「ん、どうしたの」

「私ね……ううん、何でもない」

 

 さっきから何かを伝えようとしては口を噤む遥。私も何かを言おうと思うのだけれど、口を開こうとするたびに心の奥底がジンと痛むようで、その度に口を閉じてしまうのだった。

 

 

 遥は二月の初めにはもう帰ってしまう。もう、こうしていられる時間は三か月を切ってしまっている。

 

「遥」

「なあにフィエーナ」

「まだ時間はたっぷりあるよ。だからさ、いっぱい一緒に過ごそう。いっぱい楽しもう」

 

 私が笑いかけると遥は涙を零す。そして小さく頷いた。

 

 

 

 三か月、二か月、一か月、三週間、二週間、一週間、六日、五日、四日、三日、二日、一日……まだたくさんあると思っていた時間はあっという間に過ぎてしまった。

 

 遥が帰る数日前には遥の両親もロートキイルにやってきて遥がお世話になった人たちへお礼の挨拶をしに回っていた。私の家にもやってきて、母と一緒に精いっぱいおもてなしをした。

 

 両親の前にいる遥は明るくて、甘えん坊さんで、見栄っ張りなところもあって……仲の良い家族だった。彼らの幸せが戻るのならば、それは祝福すべきことだと思えた。

 

 遥の父親、仁悟さん。母親の奈緒さん。二人ともとてもいい人だった。二人に絡む遥は二人をとても信頼していて、本当に幸せそうで……。

 

「みなさん、今まで本当にお世話になりました」

 

 両親の前に立ち、ぺこりと頭を下げる遥。遥との別れを惜しんで空港には私だけでなく友人たちも林原一家も集まっていた。涙もろいところのあるキアリーはボロボロと涙を零しっぱなしで、それにつられてみんなまで涙腺が緩んで泣き始めてしまう。私は別れの場で泣きたくはなかったから我慢したけれど、我慢なんて出来るはずがない。隙を見ては目に溜まった涙をハンカチで拭って笑顔を維持し続けていた。

 

「林原さん、吉上さん。今まで遥を預かっていただき、本当にありがとうございました」

「本当に、本当にありがとうございました」

 

 遥の両親も深く深く頭を下げる。

 

「はっはっは! 気にしなさんなお二人とも! 私たちも遥と一緒に過ごした日々には感謝していますぞ!」

「そうですよ、遥ちゃんが来てくれて私も楽しかったわ」

 

 目を赤くした林原先生と幸恵さん、二人は遥を実の娘のように可愛がっていた。一年半ほど、共同生活をしていたのだから愛着の湧かないはずがない。気丈に笑う林原先生から、そして声を震わす幸恵さんにも惜別の念が溢れ出て見えた。

 

 やがて飛行機の搭乗を促すアナウンスが響き出し、別れの時を迎える。遥の両親がそれではと歩みを進めようとすると、キアリーが駆け出し遥に飛びつく。

 

「遥ちゃん……日本に行ってもずっと友達だよぉ~!」

「キアリー、綺麗な顔が台無しだよ」

 

 涙と鼻水で顔をぐちゃぐちゃにしたキアリーの顔を遥は愛おし気にハンカチで拭ってあげる。

 

「キアリー、時間がないわ。私にも遥とハグさせて?」

「うん……うええぇ……」

 

 よたよたと離れたキアリーを遥とアメリアは微笑ましく見つめた後、二人はしっかりと抱擁を交わした。

 

「日本でもしっかりやるのよ遥」

「ありがとうアメリア。私、頑張るね!」

「その調子! 遥なら元気にやれるわよ!」

 

 アメリアが寂し気に笑いながら遥から離れると、代わってトヨがアメリアと同じような顔つきをして遥を勢いよく抱きしめた。

 

「寂しくなるな」

「そうだね……きっとまた会えるよね」

「当たり前だろ! なあ!」

 

 振り返ったトヨに私たちは力強く頷いて見せた。そうだ、この別れで終わりになんてさせない。きっといつか、またみんなで一緒に再開するのだ。

 

「んー! 次は私だよ!」

「おいおいアタシを押しのけんなよ」

「だって時間がないんだよ! 私も遥ちゃんときちんとお別れしたいもん!」

 

 両手を伸ばして抱擁をせがむ里奈の姿は抱っこをせがむ小学生のようだ。私と同じ風に遥も思ったようで、くすりと笑って遥は里奈を抱き上げる。

 

「わわっ! 遥ちゃん?」

「里奈は留学生クラスの時から仲良くしてくれたよね。あの時の私は不愛想だったのに……」

「そんなの気にしないでいいよ!」

「ありがとうね里奈」

「うん」

 

 里奈と遥はお互いに背中をひしと抱きしめて、やがて離れた。それでも互いを慈しんだ優しい目線は離れることなく見つめ合い続ける。そこにコホンとわざとらしい咳をしてみせたエリナが割り込んでいく。

 

「私ともハグしよう、遥」

「エリナ」

「フィエーナについて語りあえる仲間がいなくなると思うと寂しいな」

「私に逐次連絡お願いね」

 

 何だかとんでもない事を話していない? 後でエリナを問い詰めないと……。その後、私の母に、幸恵さん、林原先生、吉上先生とも抱擁を交わした遥は最後に私の目の前に立つ。

 

「フィエーナ、お別れだね」

 

 もう今日だけでどれほど涙を流したんだろう。上目遣いでこちらを見つめて来る遥を見ているとそれだけで涙が溢れ出て来る。

 

「遥」

「フィエーナ!」

 

 私たちは言葉を発さず、ただ抱き合った。こうしていると遥と出会ってからの思い出が次々に湧き上がってくる。本当に立ち直ってくれてよかった。遥なら向こうに戻ったらきっと人気者になれるだろう。新しい友達を作って楽しい学校生活が送れるだろう。

 

 遥の温もり、心臓の鼓動、漏れ出る吐息、体臭に至るまで私は記憶に刻み込んでいく。

 

「遥ちゃん……もう飛行機が出るから」

「分かってるよママ」

 

 遥が私から離れていく。どうしようもない寂しさに、私は腕を伸ばしかけるけれどここで引き留めては遥の決意も鈍ってしまう。遥を掴むために伸ばした腕で、私はお別れに手を振った。

 

 何かを言おうとしても口から言葉が出てこない。せめて、私の思いが伝わってくれと目だけで私の気持ちを伝える。

 

 ありがとう遥。一緒にいれて楽しかったよ。元気でね。

 

「フィエーナありがとう」

 

 最後にもう一度だけ軽い抱擁を交わし、遥は搭乗口に消えていってしまった。私は搭乗口から目を離せなかった。

 

 全面ガラス張りの空港の壁際、トヨは私に遥が今乗り込んでいる飛行機を指さしてくれる。双発の真新しい旅客機が空港から離れ、滑走路へ行き、そして離陸して空の向こうに消えていくまで私はずっと見つめ続けていた。

 

 思えば、親しい人間が私のそばを離れていくのは随分久しぶりの経験だ。前回は幼稚園の頃だったっけか……こればかりは何度経験しても慣れない。ヴェイルも、遠く離れ行く者を見送った後は随分とへこんでいたっけ。

 

 私も、ちょっと辛い。しばらくはエリナにでも甘えつくそうかな。

 

 

 

 

 




もうちょっとだけ続くんじゃ(進捗五割)


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第二章
T/A01:日本にやってきました。


新章突入なので初投稿です。


遥が日本に帰国してちょうど一年が経とうとしていた二月の初旬、私はパソコンの画面越しに毎日顔を合わせていた遥の疲れ果てた顔つきを見て驚いた。

 

「どうしたの、遥?」

「えへへ……ちょっと魔之物に手こずっちゃった」

 

 遥曰く、今日退治した魔之物はいつもより異常にタフでちっとも倒れてくれなかったのだそうだ。そして、そんな報告が徐々に増え、三月ごろには毎日のように戦いに遥が身を投じていることが遥自身の口から語られる。パソコンの画面越しであっても遥が少しずつ疲弊していく様が見て取れて、私は遥が心配になって今は日本にいる吉上先生にも話をしてみた。

 

「実は、原因不明の魔之物大量発生事件が起きているんだ」

 

 吉上先生は遥が担当する当該区域で何故か異様に耐久力の高い魔之物が大量に出現している実情を語ってくれた。さらに、日本全域でも魔之物が急増しているらしい。もっとも全国的に出現している魔之物には説明のできない異様な耐久力はないらしく、現地の退魔師が休日返上で退治に奔走しているとのこと。当の吉上先生の声も何処か疲れている。吉上先生も動員されて、今日は自分で何時間も運転して現地で魔之物と戦ってきたのだと愚痴って来る。

 

「遥の街に住んでいる人は大丈夫なんですか」

「幸い、遥がいてくれているおかげで被害は防げているよ。もっとも遥と宗一の二人にしか対処できないから二人に負担がのしかかっているんだけどね」

 

 四月、日本ではこの月から学校が始まるらしい。そして学校にも通う必要が出てきた遥は一気に口数が少なくなった。明るかった遥が朦朧とした意識で私を見つめながら寝落ちする。そんな日々が増えていた。

 

 私に何が出来る訳でもないけれど、遥と直接会わなくてはと決意したのはこの時だった。夏季休暇を丸ごと使って遥に会いに行こうと思い、吉上先生へ相談した。

 

「うーん、どうだろうね」

「難しいですか?」

「今の遥の一日を知ってるだろう? 起きて学校に行って魔之物を退治して寝る。この繰り返しで休む暇もない。そりゃ夏休みになれば多少余裕が生まれるけどね」

 

吉上先生は遥が安らげる時間は学校にいる間と家にいる間だけと語る。そんな状況なのに、他の退魔師は何をやっているのかと問いただすと、吉上先生は苦笑しながら自身の目のクマを指さす。そう、増援のアテはないのだ。

 

「じゃあ、遥は収束のアテのない戦いをずっと続けるんですか!?」

「原因の調査はされているよ。ただ結果は芳しくないね。いつ、問題の根源が見つかるのかは僕には見当もつかないよ」

 

 そんな……私は唇を噛むけれど、私にはもう手の出せない世界の話だった。もしヴェイルだったらきっと何とか出来たのだろう。無力な私を恨めしく思う。

 

 私はカレンダーを見て考える。今は五月の中旬、あと一か月でアーミラー中等学校は夏季休暇に入る。けれど、日本の高校は違うはずだ。会いに行くだけじゃ遥といられる時間は休息の間の僅かな時間だけだけれど、もし私が留学生として遥の通う学校に潜り込めれば、一緒にいられる時間は一気に増える。

 

 面倒なことになるとは承知の上だ。私はやれるだけのことをしようとここに決意した。

 

 

 

『はい、こちらは三丘高校です』

「私はフィエーナ・アルゲンと言います。実は短期留学の相談があってお電話させて頂きました」

 

 

「本当にいいんですか?」

『フィエーナちゃんならいつでも来てくれてオッケーよ!』

 

 

「ベーセル兄、ありがとう!」

『明日から進捗を見ていくから、しっかり勉強するんだよ』

 

 

 

 

 

 空港を出た途端、じめじめとした湿気が全身を包み込む。話には聞いていたけれど、ここまでとは想定外だ。体にぬるぬると生ぬるい空気が纏わりつくようだ。

 

「あっちと比べると随分天候が違うでしょう?」

 

 私が露骨に顔をしかめたのを見て、吉上先生の奥さんである佳織さんがクスクスと笑う。先生の奥さんと顔を合わせるのは初めてだけれど、器量の良い愛らしい人物に見えた。

 

「おーい! さっさと車に乗りなさい。もうすぐ雨らしいから早く出発しよう」

 

 もうすぐ四十代になるというのに若々しい、悪く言えば年相応の威厳のない吉上先生は服装もよく言えば若々しい、悪く言えば年に見合わないラフな格好をしていた。

 

 吉上先生の運転するミニバンが出発してほどなくして、車の窓を雨が叩き始める。一気に勢いの増した雨に対抗して、ミニバンのワイパーが忙しなく前方の窓を左右に行きかう。

 

「今って梅雨なんでしたっけ?」

「フィエーナちゃん日本に詳しいのね」

「ガイドブックに書いてました」

 

 助手席から振り返った佳織さんにリュックから取り出したガイドブックを見せつけるとまたクスクスと笑い出した。この人の笑顔を見ているとこっちまで気分がよくなる。つられて私も何だか笑顔になってしまった。

 

 空港から遥々二時間ほど車に乗り、遥の家族が住んでいるマンションに到着する。エントランスでは遥の母親が出迎えてくれた。遥に似通った凛とした綺麗な顔立ちを優しそうな笑みに変えて、私の抱擁を受け止めてくれる。

 

「お久しぶりですね、奈緒さん」

「ようこそフィエーナちゃん。歓迎するわ」

 

 吉上先生と奥さんに感謝を述べて別れた後、私は一ヶ宮一家の住むマンションに案内される。まだ建てられて十年も経過していないという奈緒さんの言葉通り、どこもかしこもまだ清潔で、機能的な印象を受けた。

 

「遥は今どうしているんですか」

「高校で授業を受けているわ。午前中だけだから、もうじき帰って来るんじゃないかしら」

「その後は……」

 

 スムーズに上昇を続けるエレベーターの中、奈緒さんは口を紡いで俯いてしまう。優しそうな笑みから一変、生来の綺麗な顔立ちを険しく歪ませると、常人以上に凄みを感じさせてくる。

 

「ええ、魔之物退治に出かけるわ」

 

 あまり口に出したい言葉ではなかったらしい。言い切ると同時に奈緒さんは大きくため息を吐いて見せた。嫌悪と自嘲のないまぜになった表情で、奈緒さんはずんずんと扉を開けたエレベーターから出て行く。

 

「本当はやめさせたいんだけどね、そうしたら夕宮市全体が危険にさらされるって聞かされているから……」

 

 魔之物とかそういった話はあまり世間に聞かせるような事柄ではない。エレベーターを出て以降、奈緒さんは言葉を発さず前へ一人進んでいく。私はキャスターをカラカラ鳴らしながら、スーツケースを引っ張り奈緒さんに付いていった。

 

「ようこそフィエーナちゃん。ここが私たちのお家よ」

 

 心を入れ替え、私を出迎えた時のように笑顔になった奈緒さんは私に一ヶ宮一家の住む部屋の中を紹介してくれる。一軒家とは比べてはいけないだろうけれど、それでも広々としていて、私専用の部屋まで用意してくれていた。

 

「ここがフィエーナちゃんの部屋よ。好きに使ってね」

 

 ベッドが一つに、デスク、クローゼットにチェスト。一通りの家具は揃っているようで、これなら八月までの二か月ほどを不自由なく過ごせそうだ。

 

「ありがとうございます。あの、長旅の汗を流してもいいですか」

「もちろんいいわ! お風呂場は案内したけど、使い方は分かるかしら? 説明してあげるわね」

 

 何でもお風呂場は一ヶ宮一家が入居することを知ったマンション側が当時最新の設備に一新したのだそうで、我が家のただ捻るとお湯が出るだけのバスルームとは雲泥の差を感じてしまった。日本人はお風呂が好きって聞くけれど、こういった設備面もロートキイルとは段違いだ。

 

「フィエーナちゃんはお湯に浸かる?」

「いいんですか?」

「遠慮なんていいのよ、すぐ湧くからその間に体を洗ってしまいなさい」

 

 林原家にあった木の湯船とは違う、乳白色でピカピカの湯船に勢いよくお湯が張られていくのを見ながら、私はシャワーを浴びる。私が日本に行く前に母が日本の水はロートキイルとは違うと調べてくれたので普段と違うシャンプー類を揃えてきたのだけれど、確かに心なしか違うような気もする。とはいってもそんな変わらないような気もする……水の専門家じゃないし正直いまいち違いは分からなかった。

 

「お風呂、ありがとうございました」

「どういたしまして、麦茶飲む?」

 

 麦茶。夏の林原家にお邪魔すると冷蔵庫がキンキンに冷えた麦茶でお出迎えされたのを思い起こさせる。私がお礼を言ってから躊躇いなくごくごく飲み始めると、奈緒さんは何故か苦笑いを浮かべていた。

 

 

「フィエーナちゃんって幸恵さんのところで日本についてたくさん経験しているから、外国人って反応見せてくれないわね」

「日本語だって喋れちゃいますよ」

 

 私が自信満々に胸を張って見せると、奈緒さんは顔をだらしなく緩ませて抱き付いてくる。

 

「んもう、フィエーナちゃん可愛らしいわね!」

「奈緒さんもそういうとこ、可愛いです」

 

一緒に麦茶を飲みながらのんびりしていると、玄関のチャイムが鳴る。オートロックのあるこのマンションで、マンション入り口の施錠を突破できるのはマンションの住人と住人がオートロックを開錠して招き入れた人間だけだ。となれば誰が帰ってきたかははっきりしている。

 

「私が出迎えます!」

 

 逸る心を抑えなんてしない。私は室内をはしたなくも走って玄関まで行き、扉の鍵を開けてあげる。一応遥には私が来ることを伝えてはいるけれど、何時に来るかまでは言っていない。

 

「ただいまママ? え、え……?」

 

 白いブラウスに赤いネクタイ、藍色のスカートを着た愛らしい格好の遥は疲れ切ってぼんやりとした表情を驚愕に変貌させる。

 

「遥、おかえり」

 

 どうやらしっかり驚いてくれたらしい。私はしてやったりと遥に笑いかける。

 

「フィエーナ?」

 

 声を震わせながら、そして伸ばしてくる腕も震わせて遥は通学鞄を床に無造作に落としてこちらにふらふらと近寄って来る。

 

「前から言ってたでしょ、今日からホームステイするんだ。よろしくね」

 



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T/A02:三丘高校を事前訪問しました。

 学校から帰ってきたら一年前滞在していた外国の友人が家にいて、出迎えて来る。そんなシチュエーション、きっと遥でなくても驚くだろう。

 

 奈緒さん譲りの美しく整った顔立ちを驚愕に染めて、遥はフラフラと両手をこちらに伸ばして近寄って来る。テレビ電話で毎日のように顔を合わせていたけれど、画面越しでない遥からは一年間の成長を感じる。

 

 私が別れた時より三センチも身長が伸びたから相対的な差はないけれど、遥も一センチくらいは背が伸びたように見える。制服越しでも分かる華奢な体躯は剣術の修行に加え退魔師としての戦闘経験のおかげで細いのに健康的で、奇跡的なプロポーションを実現していた。

 

「フィエーナ……」

 

 嬉しさを前面に押し出して迫って来る遥の腕の中に私は入り込み、遥を受け止め抱き返す。一年と少しの時間は決して短くなかった。久方ぶりに遥と抱き合えて、私はつい涙腺が緩んでしまう。

 

「は、遥?」

 

 それなのに遥というと私の抱擁の中でもぞもぞと動いて胸元に顔を移動させ、埋めてくるのだ。まるで母乳を求める赤ん坊のようで、私は苦笑してしまう。

 

「ん~……前よりおっきくなってる」

 

 すんすんと匂いを嗅ぎながら私の胸の感触を確かめるように顔を押し付けて来る遥の表情は蕩けきっただらしのない表情で、さきほど感極まって抱き付いてきた奈緒さんを彷彿とさせた。いや、奈緒さんとは比べ物にならないレベルに人前には出せない表情だけど、親子なんだなとは思わせてくれる。

 

「あら……遥あなた! 変態みたいな真似はよしなさい」

「へ、変態……」

 

 自覚がなかったのか。ショックでのけぞり硬直している遥の頭を私は撫でてあげる。

 

「大丈夫だよ遥。遥が変態でも私は友達だからね」

「フィエーナ!? 変態は否定してよ!」

 

 ごめんね遥、そこはちょっと無理だよ。心の中でだけ呟いて、私は曖昧に笑って見せた。

 

 

 

 奈緒さんが用意してくれたお昼ご飯をそそくさと食べ終えると、遥はちょっと見たことのない不思議な格好に身を包む。黒色で描かれた不可思議な紋様が黒地の生地からうっすらと伺い見える、肌をなるべく覆うように作られている真っ黒な衣服。全身を黒ずくめにして、蒸し暑いのに膝まで裾があるロングコートに身を包んだ遥はこれが退魔師としての戦闘服なのだと教えてくれた。

 

「このグローブも、コートも魔之物の攻撃をある程度無力化する素材で出来ているの」

 

 玄関でこれまた暑苦しいロングブーツを履いて玄関に立つ遥の顔つきはこれまでに見たことがないものだったけれど、私の前世であるヴェイルはよく見た表情だった。これから戦いに出向く人間の顔つきだ。

 

 私の前では心痛に顔を歪めていた奈緒さんは遥の前では笑顔ともつかない神妙な顔で娘を見送る。

 

「それじゃ、行ってくるねママ。それにフィエーナも」

「……行ってらっしゃい遥ちゃん」

「またね、遥」

 

 私がヴェイルだったら、せめて魔力でもあれば遥と一緒に戦えたのに。けれど遥は魔力無しでも私と互角の戦闘力を既に有していて、魔力による【身体強化】でその戦闘力は数十倍に跳ね上がる。もう、手の届く場所に遥はいないのだ。

 

 ちょっと心持ちに暗いものが漂うけれど、そんなんじゃいけない。戦闘で助けになれなくても、せめて心を支えてあげようって私は思い遥々日本までやってきたのだ。

 

 魔之物との戦闘の激化で遥と遊びに行ったりする時間は確保できないだろう、それでも家にいる僅かな時間に多少心安らぐ時間を作ってあげたりは出来るはずだ。

 

「奈緒さん、私も遥を支えます。一緒に遥を応援しましょう」

「ありがとうフィエーナちゃん。そうね、一緒に遥ちゃんを助けて行きましょう。えい、えい、おー!」

 

 元気よく片手を天に突き上げる奈緒さんがさあ一緒にやってとばかりにこっちへ目線を向けて来る。

 

「おっ、おー! あのこれ……何なんですか?」

「んふふ、掛け声があった方がいいじゃない?」

 

 お茶目にウインクしてくる奈緒さんが可愛くて、私は細かい追究をせずに納得してしまった。

 

 その後、身支度を整えた私は奈緒さんにも一緒に来てもらい手続きのために三丘高校へ向かう。遥は単純に家から近いから選んだそうだけれど、奈緒さん曰くそんな理由でお手軽に入れるような高校じゃないそうだ。

 

「遥ちゃんは昔から成績優秀だったのよ。仁悟さんに似たのね」

 

 遥の父親は自動車メーカーに勤務しているとは聞いている。数回テレビ電話に顔を見せて会話をしたこともあったけれど、優しそうな人だった。

 

「それでね、小学三年生で英検の一級にチャレンジしたんだけどね遥ちゃんったらもうあっさり合格しちゃったから私もまさかって思ったんだけどね」

 

 高校に着くまでの十分ほど、奈緒さんは遥がいかに素晴らしいのか口早に喋り続けていく。頭が良くて、運動神経も良くて、奈緒さんの誕生日を忘れず祝ってくれて、毎日のご飯にも感謝を忘れなくて、どんどん遥のいいところを私に教えてくれる。

 

「本当に遥ちゃんはいい子なの。悪いことだって全然しない、それなのに……」

 

 一瞬目を淀ませた奈緒さんは過去の恐怖が思い起こされたのか、身を震わせる。私は咄嗟に奈緒さんの手を握った。奈緒さんの手は握った私の手に強く力をこめ、爪が手の甲に食い込んでくる。

 

 ほんの一瞬のことで、すぐに奈緒さんは我に帰り慌てて力のこもり過ぎた手を脱力させる。

 

「ごめんなさいフィエーナちゃん! 爪痕が……」

「気にしないでください」

 

 私は奈緒さんの正面に立って奈緒さんを抱きしめる。遥より少しばかり小さな奈緒さんの額が私の頬に当たった。数秒だけ抱擁を交わし、私は奈緒さんから頭一つ分の距離を取り安心させるように微笑む。

 

「いいんです、いいんですよ奈緒さん」

「フィエーナちゃん……」

 

 恐怖に歪みかけていた表情が呆けてこちらを見つめて来る。しばらく見つめ合った後、奈緒さんは小さくありがとうと呟いた。

 

「何だか遥ちゃんがフィエーナちゃんが好きになった理由が分かった気がするわ」

 

 

 三丘高校は一ヶ宮家から歩いて十分ほどの場所にある。武骨なコンクリート製の校舎が四角くそびえ立つ風情も何もない近代的な学校に見えるけれど、屋内プールや食堂などの充実した設備に優秀な教師陣などの魅力が周辺の学生たちを望んで受験に向かわせるのだそうだ。

 

 武骨な代わりに小奇麗で機能的な校舎内を案内され、私は奈緒さんと一緒に祥子先生との面会を果たす。四十代半ばのやり手キャリアウーマンといった風貌の彼女こそ、私が三丘高校に留学する機会を認め、制度構築にも尽力してくださった恩人でもある。

 

「よく来ましたねフィエーナさん。こうして直に顔を合わせたのは初めてですね」

「祥子先生。このたびは受け入れに尽力いただきありがとうございます」

「いいのですよ、困ってる友達のためだけにアーミラー中等学校と我が三丘高校に交換留学制度を構築してしまう行動力は称賛しましょう」

 

 一か月ちょっとで何もない状態からどうにか出来たのは私だけの力じゃない。ロアック大伯父さんにも力を借りたし、道場の受講生にいた教育委員のレエールさんなど多くの手助けを借りた結果だった。

 

 校則の説明など予習済みの事柄をパッパと済ませ、最後に学校生活に必要な教科書や制服を祥子先生は渡してくれる。こういったものも本当は指定のお店に行くなりする必要があるそうだけれど、祥子先生が手配してくれていた。いつか何らかの形で恩返しが出来たらと思う。

 

「制服は聞かされたとおりの寸法で作ってありますが、着てみてください。合わなければ仕立て直します」

 

 面談をしている部屋から奈緒さんと祥子先生には出て行ってもらい、私は着て来た服を脱いで制服へと着替え始めた。白いブラウスに赤いリボン、紺色のスカート。遥と同じデザインを着ることになるとは、お揃いの服をきているようでワクワクする。

 

 今まで履いた事のない短さのスカートにどぎまぎしつつ、腰にベルトを締め、新品の匂いがするブラウスに袖を通し、首元でリボンを結う。それにしたって膝が丸見えなのは気恥ずかしい。足首までスカート丈があってはいけないのかと思ってしまう。

 

「着替え終わりました。どうですか?」

 

 この部屋には鏡を置いていないようなので、室内に招き入れた二人に感想を求める。私を見るなり奈緒さんは興奮気味に飛びついてきて、キラキラと目を輝かせる。祥子先生も一瞬目を丸くした後、相好を崩して頷いてくれた。

 

「うわあ、フィエーナちゃん綺麗ねぇ。こんな同級生がいたらみんな放っておかないわ!」

「似合っていますよフィエーナさん。何か気になる点があるなら、今のうちに言ってください」

「胸がきついです」

 

 寸法を伝えたのは二週間前のことだから、胸囲の成長は関係ない。きっと、いや絶対メーカーによって同じサイズ表記でも多少の差があるからそのせいに違いない。おまけに三丘高校の制服は腰にベルトを締めてスカートにブラウスの裾を入れるように校則で求められている。そのせいで余計にきつく感じてしまった。

 

「確かに、サイズが合っていないようですね」

「あー……水丘先生、これじゃフィエーナちゃんが注目の的だわ」

 

 祥子先生に釣られて胸元に目を向ける奈緒さんの視線に意味が分からない。

 

「ええと、何かおかしいですか?」

「あっ、フィエーナちゃん自分では見えないのね。大きすぎて」

 

 奈緒さんが鞄から手鏡を取り出してくれて、ようやく事態を把握した。胸元のボタン部分が押し広げられて下着が見えてしまっている。鎖骨から胸の頂点に至るまでしか見えない私ではこれは発見不可能だ。

 

 鏡を頼りに、試しとばかり指を指し込んでみるとスッと入って胸とお腹の境目まで指は到達してしまった。普通のブラジャーは頼りないから私はいつもスポーツ用のしっかり固定されているものを着用している。見た目もブラジャーというよりかはスポーツウェアにしか見えない代物なので、見られて困るものではないけれど公序良俗には反しているとは言えるだろう。

 

 それに見られて恥ずかしくないからと言って、見せたいわけでもない。こんな隙間が空いていてははしたないしみっともない。気恥ずかしさを覚え、私が胸を支えるような形で腕を組み隙間を隠して見せると祥子先生がぼそりと呟いた。

 

「……あなたが着ると随分煽情的になってしまいますね」

「……それはどういう意味ですか」

 

 何もそこまでではないと思うのだけれど……面と向かってエッチな子だと言われたような気がして、私は余計に恥ずかしくなる。

 

「ま、いいでしょう。月曜までにはどうにかしておきます」

 

 私はそそくさと元の服に着替え、三丘高校を後にした。

 

 



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T/A03:遥の両親はいい人たちでした。

新章突入なので三話連続初投稿です。


 全教科の教科書に制服、体操服などの荷物を一ヶ宮家に運び終えた私たちは夕食の買い物に出かけることにした。お昼は私が何を食べられるか分からなかった奈緒さんがサンドイッチに野菜スープを用意してくれたけれど、せっかくなので何か日本らしいものを食べてみたいと告げると奈緒さんは頭を悩ませる。

 

「でも、フィエーナちゃんはあっちでも幸恵さんのご飯を頂いていたんでしょう? 何がいいかしら?」

「うーん……ロートキイルって内陸国なのでお魚はあんまり食べられないんですよね。日本人は魚をよく食べるんでしょう?」

「そうね……なら、お刺身にでもしましょうか」

「お刺身! 私、食べたことないです」

 

 そもそもからして新鮮な魚を生で食べる機会がない。お寿司ならスーパーにパックが売られていたのを食べたことはあるけれど、トヨ曰く回転寿司でもこれよりはマシと言わしめるレベルだった。

 

「三丘市はね、隣が漁港だから新鮮なお魚がたくさん取れるのよ」

 

 それに、奈緒さんが普段よく使っている近所のスーパーは漁港と契約しているので珍しいお魚もあったりするんだとか。正直私には想像も付かなくて、奈緒さんが美味しいのだと話す魚の種類にもピンと来なかった。

 

 歩いて三分。高校に向かう途中にも見かけたスーパーマーケットは、買い物時とあってかお客さんで賑わっていた。

 

「あら、一ヶ宮さんじゃない! その子はだあれ?」

「佐藤さん、実は短期留学生を受け入れたのよ」

「へええ~、すっごく美人さんじゃない!」

 

 近所のスーパーとあってか、奈緒さんの知り合いもたくさんいるようだ。私は奈緒さんと一緒に挨拶を何度も繰り返す。何だか私たちの周りに人混みが出来てしまい、私はスーパーをじっくり見て回ることが出来なかった。

 

「ふわー……フィエーナちゃん人気者ね。まるでアイドルみたいだったわよ」

「あはは……」

 

 玄関にたどり着いた奈緒さんはくたびれてしまったらしく、靴を脱ごうと座ってからしばらく動こうとしなかった。なので、代わりに私が冷蔵庫に食材をしまっていく。奈緒さんは几帳面な性格らしく、整理された冷蔵庫の中は分類別にしっかり小分けされていた。

 

「ありがとうねフィエーナちゃん」

 

 あらかた食材をしまいこんだところでやってきた奈緒さんの態度はどこか申し訳なそうだった。これから一緒に暮らしていく上で私もきっと迷惑をかけることもあるのだから、こんなことは気にしなくていい。

 

「今日からは私も家族の一員ですから、どんどん言ってください」

「んふふ、頼りにしてるわ」

 

 肩に両手をのせポンポンと叩いてくる奈緒さんに、私はようやく遠慮が消えたかなと内心安堵した。

 

「我が家の夕食は遅いから、ちょっとおやつにしましょうか」

「仁悟さん、帰って来るのが遅いんですか」

「仁悟さんじゃなくて遥ちゃん」

 

 苦い顔つきに変わった奈緒さんはコーヒーを淹れながらため息を吐く。広々として清潔で眩しいキッチンの中で、奈緒さんだけがどんよりと暗い雰囲気を放ってくる。奈緒さんは元々ネガティブな人なのかもしれない。それとも、事件以来こうなってしまったのだろうか。

 

「毎日九時くらいが遥ちゃんの帰宅時刻なの。仁悟さんはだいたい六時半には帰ってくるんだけど」

「六時半でも、私のお父さんは過労してるって怒られますよ」

 

 テレビ電話でも遥の疲弊は察していたけれど、まだ高校生の遥がここまで動かないとやっていけないなんて事態はかなり深刻らしい。退魔師なんて簡単に人を増やせる職種じゃないし、遥が逃げ出せば無辜の一般人に死者が出てしまう。

 

 それなのに事態はまだ解明されず、しかも日を追うほど深刻化していると聞く。何だか末期戦じみた状況になりつつある様を見せつけられているようで、背中に冷たいものが走った。

 

 奈緒さんも私も結局、遥の無事を祈って待つことしかできないのは同じなのだ。ちょっと暗い雰囲気の中、私たちはソファでクッキーをつまみながらちびちびとコーヒーで喉を潤す。奈緒さんは遥が飲めたように平然とブラックコーヒーだけれど、私はお砂糖とミルクと足していただいた。

 

 この暗い空気の中、タイミングよく玄関のチャイム音がかき消した。

 

「きっと仁悟さんね」

 

 表情を明るくした奈緒さんはいそいそと玄関に向かうのを私は後を追った。奈緒さんが施錠を開くと、くたびれた顔つきの中年男性が顔を見せる。スーツ姿にビジネスバッグを肩にかける、典型的な日本人サラリーマンといった服装の仁悟さんは愛妻を認め表情を笑みに変え、次いで私を見てにっこりと微笑んできた。

 

「おかえりなさい仁悟さん」

「ただいま奈緒。それにようこそ我が家へ、フィエーナさん」

「今日からよろしくお願いします」

「はは、そんな改まらなくたっていいよ。ネット越しには何度か会ってるし、一年くらい前にもロートキイルを案内してくれたじゃないか」

 

 疲れているのだろう、どすんと玄関に腰を下ろすと仁悟さんはゆっくりとした動作で革靴を脱ぎ家に上がる。隣を歩いた私の鼻に一瞬漂ってきた不快な体臭も、一日仕事で頑張ってきたからこそなのだろう。スーツの上着を奈緒さんに渡し、そのまますぐにお風呂に入りに行ってしまった。

 

「うあ~……さっぱりした」

 

 三十分ほど経って仁悟さんはリフレッシュした顔つきで私たちの前に戻って来る。帰宅したばかりの疲弊にまみれた緩慢な所作も、こころなしかきびきびとしたものに戻っているようだった。

 

 それから私は仁悟さんも交えて私自身の日課についてなど、互いの生活習慣について話し合った。私の父がこういうところは詳しく話し合っていた方が後々トラブルにならなくていいと助言してくれたのだ。確かに話していくうちに発見があって、父も案外頼りになるじゃないかと密かに見直した。

 

「いやあそれにしても……すごい別嬪さんじゃないか」

 

 対面に座る仁悟さんは私をまじまじと観察してくる。奈緒さんみたいな美人と結婚したなら、もう他の女の人には興味を持たなくていいのにと私は内心思ってしまう。

 

「こら、鼻の下のばさない」

「イタタタ……」

 

 耳を抓る奈緒さんの顔には真に迫った恐ろしさが混じっているような気がして、意図せず誑かした私への一瞬の冷え切った目付きに私は心が縮み上がった。仁悟さん、私も巻き添えになるから勘弁してほしい。

 

「そろそろ夕食の準備をしましょうか」

「手伝います!」

 

 九時に帰宅する遥に合わせて夕食を取るのが一ヶ宮家の習慣になっている。六時半に帰ってきた仁悟さんは空腹で大変なんじゃないかと聞いてみたけれど、娘を差し置いて食事を取る気にはなれないのだとか。

 

「だって抜け駆けみたいじゃないか。どうせなら待って、一緒に美味しく奈緒の料理を食べたいのさ」

 

 それでもお腹が空くのには変わらない。奈緒さんが巧みに包丁を振るって魚を捌いてお刺身にし、私が内心戦々恐々としながらシラスを丼に盛り付け、お味噌汁の匂いがふんわりと香ってくると仁悟さんのお腹が空腹を訴えてぐうぐうと鳴り出してしまった。

 

「おお~、今日はシラス丼にイワシのお刺身かあ。美味そうじゃないか」

「そうでしょう? おひたしもたっぷりあるから食べてね」

「ははは……健康のためちゃんと食べるさ」

 

 仁悟さんも一緒になってテーブルに料理を並べていくと、九時十五分前には準備が完了する。

 

「あら、ちょっと早く出来ちゃった。いつもは九時ぴったしに出来るのに」

「フィエーナさんが手伝ってたからじゃないか?」

「そうね。ありがとうフィエーナちゃん」

 

 幸恵さんのところでお米を炊くのと、酢飯作り、おひたし作りそれにお味噌汁を作るのは経験していた。今度は魚を捌けるようになりたいと奈緒さんに言うと、奈緒さんがにんまりと笑って頭を撫でてくる。

 

「んふふ~、フィエーナちゃんいいお嫁さんになれそうね~」

「いやあ、美人でお料理も上手いんだから羨ましいよ。あ、奈緒には負けるけどね」

「仁悟さんったら!」

「奈緒」

 

 上機嫌で胸元に飛びついてきた奈緒さんを仁悟さんはデレデレしながら受け止める。夫婦仲が良好なのはいいことだ。微笑ましい夫婦愛に、何だか私の口角までゆるゆるとしてきてしまう。

 

 いつの間にか始まった夫婦の馴れ初め話を聞かされていると、玄関のチャイムが鳴り出す。これは間違いなく、遥の帰宅を告げている。

 

「私、出迎えてきます!」

 

 小走りで玄関に向かい扉を開けると、黒ずくめの服に身を包んだ遥の顔には仁悟さんが帰宅時に見せたような、芒洋とした任務の果ての疲弊が色濃く見えていた。けれど、私を視界に捉えた遥は疲弊をまるで感じさせない明るい笑顔に表情を変えて抱き付いてくる。

 

「遥、おかえり」

「えへへ……ただいまフィエーナ」

 

 くたびれた声音で倒れかかるように私へ体重を預ける遥。やはり、疲れているみたいだ。私が脱力している遥を座らせてあげようとゆっくり腰を下ろしていると、背後からホッと安堵のため息が聞こえてきた。

 

「おかえりなさい遥ちゃん」

「おかえり、遥」

「ただいま、ママ。パパ」

 

 平和な日本で、命の危機すらある退魔師になった遥の身を案じない訳がない。遥が帰ってきて無事な姿を見てようやく、遥の両親は不安を取り払って日常に戻ることが出来るんだろう。

 

「よし、夕食にしましょう!」

 

 遥の帰宅で心の重しを取り払った奈緒さんは遥と似た控えめな胸の前で両手を叩き、次いで右手を天空に振りあげる。子供じみた動きに仁悟さんは小動物を見るような愛おし気な眼差しで妻を見つめ、遥も子供っぽいとこあるんだと耳元で囁いてきた。

 

 

 



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T/A04:遥のクラスメイトに会いました。

 

 

 

 夕食を食べ終えた遥は早々にお風呂に入り、明日に備えて眠る準備を始める。退魔師戦力に余裕のあった頃なら日曜日は好きに出来る自由な日だったけれど、今や逆に一日中魔之物と戦い続ける最も過酷な曜日へと変貌していた。

 

「ねえ、フィエーナ。今日は一緒に寝ようよ」

「ん、いいよー」

 

 遥の両親にお休みの挨拶を告げ、私は遥の部屋に招かれる。片開きのドアを開けると、もう一枚ドアが目に入り私は目を丸くする。

 

「何これ? 防弾シェルター?」

「あははは、違うよ防音室になってるの」

 

 開けっ放しになっていた二枚目のドアは、普通のドアより分厚くなっている。組み立て式の防音パネルで作ったという防音室の内部は広々としていて、アップライトピアノのほかにベッドやチェストなどの家具があってもまだ私が五人は横に寝転がれる空間が残されているくらいだ。

 

 ただ二重構造になっている以外は、普通に女の子の部屋らしい内装に仕上がっていた。ロートキイル時代に撮った写真が写真立てに飾られ、いくつかぬいぐるみが置かれ、学生らしく制服が壁にかけられている。その中に一つ、異様な雰囲気を纏ったオブジェが置いてあるのを見て私は苦笑した。

 

「あれ、飾ってるんだ?」

「うん。せっかくもらったんだもん」

 

 去年の誕生日にキアリーが気に入っているコレクションの中から遥に贈呈した面妖な一品だけれど、遥も気に入っちゃったんだろうか。ムンクみたいな顔をした青銅のオブジェは、じっくり見ると愛嬌が垣間見えなくもなかった。

 

 キアリーの奇怪なプレゼントの横に目を引かれ気付くのに遅れちゃったけれど、私が昔に遥へプレゼントした小さなガラス細工球もちんまりと飾ってくれていた。その隣には、去年の誕生日に気合を入れて作ったウサギの硝子人形も鎮座している。どちらも博物館の貴重品みたいにケースに封入され、赤いシーツの上に置かれていた。

 

「懐かしいねー、これ」

 

 ベーセル兄に触発されて作り始めたガラス工芸だったけれど、意外と私はのめり込んでいた。素人にしては案外うまく作れるようになったと自負していて、地元の有名なガラス工芸家のユレーシャさんの弟子として師匠の個展の隅っこに作品を置いてもらえるようにもなっていた。他のお弟子さんもよく褒める、褒め上手で穏やかな気質のユレーシャさんの言うことだから話半分に聞いているけれど、私には才能があるらしい。他のお弟子さんもみんな言われてるみたいだからお世辞みたいなものだとは思うけれど、そう言われるとヤル気が出ちゃうあたり私も乗せられやすい性質みたいだ。

 

 遥のお部屋に興味は尽きないけれど、私に返事をしようとした遥は大きなあくびで目を涙で潤ませる。恥ずかしそうに口を押さえる遥ともっともっとお話していたいけれど、疲労を蓄積させるようでは私が来た意味がない。

 

「そろそろ寝よっか」

「ん、こっちに来て」

 

先にベッドに入り込んだ遥がポンポンとベッドを叩くのに促されるまま、私が隣に入り込んだのを確認すると、遥はナイトスタンドに置かれたリモコンで部屋の照明を消した。これなら暗い中室内を歩く必要もないという訳だ。素直に私は感心した。

 

「流石日本のハイテクだね」

「こんなので?」

 

 おかしそうに笑う遥を見ていると、日本ではこんなこと何でもないらしい。こうしたちょっとした部分でもロートキイルとの差が見えてくるのは興味深かった。

 

「それよりこの部屋すごいんだよ、ピアノを弾いても全然外に音漏れしないの」

 

 念のためご近所さんにも確認したそうで、微かな音すら聞こえてこなかったのだという。

 

「外側のドアは鍵かけれるけど注意してね。二枚目のドアを閉めてたらノックされてるのに気付けないから」

 

 一回鍵を掛けたことを忘れ夢中になってピアノを弾いていたら、奈緒さんの呼び出しに全然気づけず一緒の家に住んでいるのに電話がかかってきてようやく気づいたことがあったらしい。

 

 十数分ほどお話をしているうちに、遥は疲れに負けて眠り込んでしまった。私も時差ボケを解消しようと無理に起き続けていたので、何もすることがなくなると一気に睡魔が襲い掛かって来る。

 

眠気にぼんやりとした思考の中、私の目の前ではスヤスヤと寝息を立てる遥の顔がこちらを向いていた。遥から微かに漂う清潔で甘い匂い。ウェーブがかった艶やかな黒髪が横を向いているせいで遥の片顔を隠してしまう。綺麗な顔立ちが隠れてしまうのが、何だかもったいない気がして私は遥の顔に触れ、起こさないよう髪をかき上げた。サラサラとしてすべやかな髪の毛と暖かく触り心地の良い頬の温もりは、私の手の動きを遥に触れたままに固定させる魅力に満ちていた。ナイトスタンドに置かれた照明具のほのかなオレンジ色の光に照らされた遥の綺麗な顔立ちは、何処か幻想的にさえ見えた。

 

 こんなに愛らしい遥と間近に触れ合っていられるのだ。今日はきっと気持ちよく眠れるだろう。

 

「おやすみ、遥」

 

 

 

 翌日、私が目を覚ますと遥が私のすぐ目と鼻の先でじいとこちらを見ていた。

 

「おはよう遥」

「フィエーナおはよう」

 

 にへらと無邪気な笑顔で遥は私の体に回す腕に力を込める。いつの間にやら抱きしめられていたらしい。寝起きの思考が纏まらない頭のまま、遥のほんわり暖かな体温に包まれていると眠気が再び襲い掛かって来るけれどここで寝坊しては時差ボケが治らない。

 

 名残惜しげに見つめて来る遥に躊躇いを覚えながらも引きはがし、私はベッドから身を起こして頭を軽く振ってから背伸びをする。

 

「うーん……よく眠った。遥はどう?」

「フィエーナと一緒だったから元気百倍だよ!」

 

 胸の前で両手をグッと握る姿はボクサーのファイティングポーズにも似ているけれど、それとは似ても似つかない可愛らしさに溢れていた。

 

 

「フィエーナは今でも朝にランニングしているの?」

「してるよ、こっちでもしたいけれどいい場所があるかな」

 

 何分来たばかりの土地で何処に何があるかも分からない。

 

「任せて! 私が案内してあげる!」

 

 子供のようにはしゃぐ遥に腕を引かれ起床した私は身支度を整えた後、遥の両親が寝ている中マンションを抜け出し近所の公園に案内される。

 

「ほら、公園の外周がランニングコースになってるんだよ」

 

 こじんまりとした公園だけれど、足に優しい舗装の施されたコースは一周四百メートルに設定されていて使いやすそうだ。私たちの他にも数人、先客が走り回っている。その中には私が通うことになっている高校の名が背中に描かれたジャージを着ている二人の男も混じっていた。

 

「おんや、一ヶ宮さんじゃない。その美人さんはどうしたの!?」

 

 話しかけてきたのは、日本人はあまり背が高くないと思っていた私の偏見を吹き飛ばすような高身長の青年だ。すごい、私より二十センチ近くも身長が高いなんて。隣だって走っていた青年もまた優に百八十センチを超える体躯をしている。

 

「フィエーナ、この人は同じクラスの葛西さんだよ。隣の人は尾頭さん」

「どっも~! よろしくお願いしますね~!」

 

 ケラケラと軽い調子で笑って手を差し出してくる葛西に、無言で頭を軽く下げて来る尾頭。どうにも正反対の性格に見える。

 

「月曜から三丘高校に転校することになってるフィエーナ・アルゲンだよ。よろしくね」

「ええっ!? 噂の留学制度一人で作っちゃったあの!?」

「あはは、まさか一人じゃ無理だよ。いろんな人に助けてもらってどうにか今ここにいるんだよ」

「つか、日本語上手いな」

「あ! そういやそうだ、何で!?」

「向こうにいた日本人と交流しているうちに上手くなったんだよ」

 

 軽く自己紹介を済ませ、私は新しいクラスメイトとせっかくなので走ることにした。二人はバスケ部に所属しているそうで、毎朝こうして体力づくりの一環として走り込みをしているのだとか。

 

 コースを周回する度にベンチに座る遥に手を振りながら私たちは走って行く。ちゃっかり参考書を持ち込んでいた遥はお勉強をしているようだった。昔は遥も時間を取って走っていたと葛西が話す。

 

「何か最近忙しいみたいなんよね……学校でも元気ないしおれっちとしてはちょっぴし心配」

 

 ちゃらちゃらした軽薄な顔立ちに髪型、ついでに言葉遣いも好きじゃないけれど、遥を案じる葛西の声音と目付きは誠実に見えた。

 

実のところ、遥に体力を無駄遣いする余裕はない。一時間のランニングでの消耗も、命がけの戦闘の前には温存しておきたいみたいだ。そしてそれはヴェイルに言わせても理屈に叶っている。ちょっとの差が命を失うか否かに関わるのだから大事を取っておくべきなのだ。

 

 一時間ほど走り終えると、私はそろそろ帰ると二人に告げる。二人も私たちより十分ばかり早く来ただけだったようでこの辺で切り上げるようだ。二人ともかなりのハイペースで走るから、私も一緒に付いて行くのは大変だった。三人して息を荒くしながら、待っている遥の元に歩いていく。

 

「はあ……はあ……。え、フィエーナさんマジ体力あんだね……」

「何かスポーツをしてるのか?」

「遥と同じ天河流だよ。免許皆伝」

 

 私はピースして見せながらドヤ顔で見せつける。実は結構自慢のタネなのだ。

 

「おおっ、すっげえじゃん!」

「マジか……」

 

 葛西は大仰に驚いてくれるし、あまり表情に変化のない尾頭も驚きで口をしばらく開けたままにする。

 

「俺らなんか一瞬で倒せちゃう?」

「んー、二人とも鍛えてるし体格もいいからねー。素手じゃちょっと手間取るかな」

「無理ではないのか……」

「無手でも戦えるのが天河流だよ」

 

 

 

 二人と別れ、帰る道中何だか不機嫌な遥は私の腕に体を絡みつかせる。

 

「あの二人、フィエーナのおっぱいじっと見てた」

「でも、すぐに目をそらしてたし悪気はないよ」

 

 私の胸が標準よりいくぶんか大きいのは自覚している。私だって身長の大きな葛西と尾頭に一瞬注目してしまったのだ。平均よりずれると違和感に目を奪われるのは仕方のないことだと思って私は自分自身を納得させていた。あんまり注目され続けるのは気分が良くないけれど。

 

マンションに戻ると遥の母親が朝食を作るいい匂いが鼻をくすぐる。

 

「おはよう遥にフィエーナちゃん。昨日言ってたけど本当にランニングに行ってたの?」

「そーだよ、ね遥」

「うん。私は勉強してただけだけど」

「だから締まった体してるのね。羨ましいわ」

 

 一瞬胸に視線が映ったのを私は見逃さず、そして私に気付かれてしまった奈緒さんはあからさまに目を逸らした。

 

「もっ、もうすぐ朝ごはんよ。フィエーナちゃんはシャワー浴びてさっぱりしてきたら?」

「ありがとう奈緒さん。そうさせてもらうね」

 

 家族みたいなものなのだから敬語はいらない。そう言われたので私は昨日の夜から奈緒さんと仁悟さんにも普段通りの言葉遣いで接していた。

 

 シャワーを浴び終え、起き出してきた仁悟さんとも一緒にテーブルを囲んで朝食を取る。そして、朝食を取り終えた遥はまたすぐに迎えの車に乗って戦線へ投入されていったのだった。

 

 

 

 




竿要員とかじゃなくて、人避けの盾以上の価値はない(無慈悲)


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T/A05:遥を寝かしつけました。

 遥が退魔師として仕事に出向いた後、私は奈緒さんと仁悟さんと一緒に近所を巡って一通りに地理関係を頭に叩き込んだ。もうこれで半径数キロ圏内なら道に迷うこともなくなるだろう。

 

 ついでに細々とした日用品も買い増して戻ってくると、すっかり夕暮れになってしまっていた。

 

「あー……今日は随分と歩いたなー」

 

 疲れてソファにぐったりと沈み込む仁悟さんの声音には疲弊だけでなく何処か達成感も含まれている気がした。

 

「そーねー、でもいつの間にか沙奈さんの喫茶店新メニューが出来てたわね」

「ああ、抹茶のアレか。美味かったな」

「暑くなってきたからああいう涼しい見た目のメニューよかったわね」

 

 ここに越したのは遥がロートキイルを離れた頃の事で、まだ一年ちょっとしか経っていないらしい。だからか、二人にとっても暇なときの町巡りは楽しみになっているようだった。

 

 

「にしても、フィエーナさんは注目の的だったな。まるでアイドルみたいだったじゃないか」

「本当! これからがちょっと心配ね」

 

 どうしても日本だと私の容姿は浮いて見えてしまう。白銀の髪が標準のロートキイルとは正反対に日本は黒髪が標準なのだ。

 

「アイドルデビューしちゃおうかな」

「いいんじゃないか? きっと大成功すると思うぞ」

「わあー! そしたら私応援するわよ!」

「じょ、冗談だよ! 冗談!」

 

 まさか本気にされているかと思って私が慌てて否定し始めるとこの夫婦、顔を見合わせてニヤリと笑う。からかわれていたと気付き、私は口をへの字に結んでじいと睨んだ。

 

「その顔も可愛いわねフィエーナちゃん」

「ブスッとしてても絵になるな」

 

 抱きしめられても、褒められてもあまり嬉しくなくて私は表情を維持し続けた。

 

 

 

 遥は昨日にもまして疲れて帰ってきた。当たり前だ、昨日は午後だけで今日は丸一日ずっと戦い続けていたのだろうから。ぐだぐだして動きののろくなってしまった遥は食事中にもうつらうつらする有り様で、さっさと寝かせなくてはと私と一ヶ宮夫婦の間でアイコンタクトによる合意が図られた。

 

「お風呂はどうする遥ちゃん? 結構汚れてるからシャワーだけでも浴びて寝たら?」

「んー……眠いよママ……」

 

 目をこすり、頭をふらふらとさせる遥は今にも椅子の上で眠り始めそうだ。

 

「奈緒さん私が遥をお風呂に入れてもいい? きっとそうした方がよく寝れるよ」

「遥ちゃんどうする?」

「いれてーふぃえーなー」

 

 抱っこの体勢を取る遥はとても十五歳には見えないほど幼く見えた。あまりにも子供っぽくて、愛らしい。だがここまで幼児退行しているのも、全ては命がけの戦いでの消耗故なのだ。

 

「仕方のない子だ。ほら、パパがお風呂まで運んでやるからな」

「んー……」

 

 だからこそ我が儘に振舞う遥にきつく当たる人間はこの場にはいない。

 

「悪いが後はフィエーナさん頼むよ。まさかこの年の娘を俺が風呂に入れてやる訳にもいかん」

 

 苦笑しながら脱衣所から出ていく仁悟さんを見送り、私は遥の服を脱がせにかかる。

 

「ほら、遥。両手を挙げて」

「んー……」

「んじゃ次は一回立ってくれる? パンツ脱がせるからね」

「んー……」

 

 私の言葉に素直に従い、重たい瞼をこすりながら遥は裸になる。身長は百六十を越え、体のラインもくびれのある大人の女性と化している。それなのに幼児のように振舞うギャップが何ともいじらしい。

 

 白くてきめ細やかな肌、手の平で包み込める可愛らしい胸、お尻も丸みはあれど小ぶりで、だけれどそれ以上に細くて華奢な腰は折れそうにすら見えてしまう。性的な感慨よりも、単純にただただひたすらに美しいと思えるような身体美を前に私は思わず感嘆としてしまう。美少女とはまさに遥のことを言うのだろう。

 

「遥、気持ちいい?」

 

 遥をお風呂に置いてある椅子に座らせ、シャワーノズルで髪の毛にたっぷり温水を含ませる。綺麗な黒髪だ、乱暴に扱って台無しにしたらもったいない。

 

「んー……」

 

 ロクに言葉も発する気力がないらしい。さきほどから声にもならないうめき声の声音だけで私は遥の心境を察しなくてはいけなくなっている。多分、心地よいのだろうと私は判断し、私は頭皮にしっかり指を届かせてマッサージをするように汚れを落としていく。

 

「んへ」

 

 気の抜けたような声を上げ、ただ眠たげだった遥の表情に笑みが浮かぶ。本職ほどではないけれど、気持ちよくなってくれているのなら私も丁寧に頭を洗っている甲斐がある。

 

「はあ……ふう……」

「大丈夫遥? ちょっと休憩しようか?」

 

 ちょっと時間をかけすぎてしまっただろうか。そこまでお湯の温度が高くないはずなのに、遥の息は乱れ頬には朱が差していた。

 

「ん、いいから……続けてフィエーナ」

「う、うん」

 

 眠たげに緩む目元に紅潮した頬、お湯に濡れた髪の毛がぺったりと肌に張り付いて、背後にいる私に振り向いて上目遣いでお願いをしてくる遥を、私は煽情的だと感じてしまった。こんな表情、人目のある場所で見せたら過ちが起きかねない。遥、私以外に迂闊に見せたりしたら駄目だからね。

 

 お風呂を上がった遥をパジャマに着替えさせ、髪を乾かしてあげる。もうこの段階になると遥は座ったまま眠ってしまっていて、私は遥を寝かしつける準備を終えるとそのまま遥を背負って部屋に連れて行き、ベッドで横にしてあげた。

 

「遥、寝ちゃいました」

 

 私が遥の自室からリビングに戻ると、ビールを開けて晩酌をする夫婦の姿があった。

 

「そう、フィエーナちゃんありがとうね。遥ちゃんのお世話大変だったでしょう。はい、一杯どうぞ」

「ありがとう奈緒さん」

 

 ロートキイルだともうお酒は飲めるんだけど、こっちではそうもいかない。奈緒さんが私のコップに注いでくれたのはジュースだった。

 

「いやいや助かるよ。あそこまで大きくなると奈緒では重くてきついんだが、さりとて年頃の女の子だろう? 俺が下着を着せる訳にもいかないからね」

 

 しばし二人の晩酌に付き合った後、私は一ヶ宮家のパソコンを借りる。日本とロートキイルの時差は七時間なので、夜も更けた今頃があちらではお昼過ぎとなる。SNSで連絡は欠かしていないけれど、やはり直に顔を見合わせて話しておきたい思いも強くなっていた。

 

「ハロー、映ってる?」

『フィエーナ! 映ってる、映ってるわよー』

「おー、お母さーん」

 

 画面越しに私の母がにこやかに手を振りながらロートキイル語で話しかけて来る。向こうでは毎日のように聞こえていた言語だけれど、当然ながら日本では全く聞く機会がない。

 

 

『フィエーナ、どうだ元気にしているかい?』

「うん、元気だよー」

 

 母の隣から父が顔を見せる。数年の王都勤務を終え、ようやく父は最近家に戻ってきたのだけれどそれと前後して私が日本へ旅立ってしまった。母が一人ぼっちで残される羽目にはならなくてよかったと思っている。

 

『フィエーナ? 今日は私もいるよ』

「エリナ! 今日は時間を空けてくれたの?」

『まあたまにはね』

 

 日曜日のエリナは大抵何がしかの用事を抱えていた。私との通信のためにわざわざ私の家に来てくれたなんてちょっぴり感激してしまう。

 

『遥ちゃんは今どうしてるの?』

「あはは、もう寝ちゃってるよ。今すごく忙しいみたいなんだ」

『それを励ますためにフィエーナが行ったんだものな。しっかり元気づけてやるんだぞ』

「もちろんだよお父さん、私がそばに張り付いてしっかり元気にしてくるよ」

『ちょっとストーカーっぽいよフィエーナ』

「えー、ひどいよエリナー」

 

 日本に付いてからの近況を話していくとキリがなかった。生魚を初めて醤油で食べた話、防音パネルに仕切られている遥の部屋の話、電柱まみれの街中の話。数十分ほどの会話を終えて通信を打ちきると、寂しさがこみ上げてきてしまう。

 

「フィエーナちゃん、そんなにしょんぼりしないで。私たちがいるじゃない」

「そーだぞフィエーナさん。家族みたいなもんなんだ」

 

 テレビ電話の途中からちょくちょく会話に割り込んできていた一ヶ宮夫婦が私の肩に優しく手を乗せる。乗っかった手の温もりが妙に心をほんわかとさせてきて、自然と私の寂しさはほぐれていった。

 

「ありがとう奈緒さん、それに仁悟さん」

 

 片方ずつに乗っかったそれぞれの手を私は握り、感謝の思いを込めて精いっぱいの笑顔でお礼を言った。

 

 

 

 



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T/A06:自己紹介の席で驚かされました。

 

 翌朝、目を覚ました私は私の上に跨って四つん這いの姿勢をしている遥と目があった。

 

「おはよう遥。起こしに来てくれたの?」

「う、うん。おはようフィエーナ」

 

 わざわざ私を起こすために全力疾走でもしてきたのか、そう思えるくらい遥の息は小刻みかつ連続的だ。頬も微かに赤く染まっているし、受け答えも少々声音が不自然だ。その顔つきは何処か艶めかしくて、私の方がどきりとしてしまう。

 

「遥、体調が悪かったりしない? 大丈夫?」

「ううん? 平気だよ!」

 

 嘘を言っているようには見えないけれど、態度におかしな点があるのも事実。

 

「まあいいけどさ、とりあえず退いてくれない? これじゃ私、起きれないよ」

「あ、ごめんねフィエーナ」

 

 何かやましいことでもあるのか、そそくさと私から離れた遥は部屋を出て行ってしまった。何も出て行かなくてもいいのに。

 

 私は朝の身支度を整え、ランニングに向かう。遥にも声をかけたけれど、今日は勉強に励みたいとのことなので一人で行くことにした。私が公園に到着すると、昨日も見かけた二人の青年が入り口で待ち構えていた。

 

「おいーす! フィエーナさんっ!」

「うす」

「待っててくれたの?」

 

 私が葛西に質問を投げかけると、照れたように顔を逸らされてしまった。

 

「いやあっ、美人さんに上目遣いされるとちょっとおれっち困っちゃうなー」

「ボディーガードとでも思ってくれりゃいいさ。俺らがいれば早々近寄る馬鹿はいないからな」

「へえー、ありがとうね。葛西に尾頭」

 

 性根は善良そうな二人だ。一緒にいて仲良くなってもいいだろう。昨日のように二人と一緒に走り始める。

 

「今日は私のペースで走ってもいいかな」

「いいすよいいですとも! な、雄二」

「あんまり遅かったらペース早めるぞ」

「言ってくれるね」

 

 昨日は二人に合わせて走っていたので、もうちょっと負荷が欲しいと思っていたのだ。私は少し二人の前を走り、この走行集団のペースを定めた。さあて、ついてこられるかなお二人さん。

 

 一時間たっぷり走り、私は膝に手をついてその場で動きを止める。二人はどうかと見てみると、息は切らしているけれどまだ余裕はありそうだ。うーん、悔しい。

 

「はあ……はあ……いや、フィエーナさん……これ毎朝はきついっすよ」

「朝練大丈夫かな」

 

 何とこの二人、この走り込みの後さらに部活の朝練にも参加する予定だったのか。

 

「あちゃあ、何か考えなしでごめんね」

「いやいや、俺らもちょっと油断してたし、なっ!?」

「くっつくな暑苦しい」

 

 肩を組もうとした葛西を振り払った尾頭はふんと息を吐いて私を見下ろしてくる。仏頂面だった顔に少しだけ笑みが見えた。

 

「行こう葛西。朝練に遅れる」

「そだなー。んじゃ学校でねフィエーナさーん!」

「ばいばーい」

 

 そのまま背を向けて去っていく尾頭に、両手を振り続けながら器用にも後ろ歩きで去っていく葛西。性格は似てないけれど、仲は良いようだ。私は片手を振り、微笑ましく思いながら見送った。

 

 私は同じマンションの住人と挨拶を交わしつつ一ヶ宮家に戻ると、既にみんな起き出して活動を始めていた。奈緒さんはキッチンで朝食を作り、仁悟さんはリビングでスーツに身を包んではビジネスバッグの中身をがさごそと弄り、遥は制服に着替えて奈緒さんが朝食を作るキッチンの目の前にあるテーブルで勉強をしていた。

 

 私も急いで支度しないと遅刻してしまう。軽くシャワーを浴びて汗を洗い流し、制服に着替えていると遥が部屋に訪ねて来る。

 

「フィエーナ、入っていい?」

「いいよー」

 

 私の部屋に入ってきた遥は、私を見るなり凝視したまま動きを止めてしまった。

 

「どうしたの遥?」

「制服が……」

 

 私の胸元を指さし眉間にしわを寄せる遥。スラっとした立ち姿の遥と違い、私の場合胸囲が大きめなのでそこだけが引っ張られてしまっているのがみっともなく見えるのかな。一応、腰部のベルトのおかげでメリハリが出来てある程度は見られるようにはなっているとは思うのだけれど。

 

「あんまり人前に出たら駄目だよ」

「ええ、今から学校に行くんだよ遥。無茶苦茶言わないでよ」

 

 ジッと私の胸元に視線を集中させていた遥は唐突に大きな溜め息を吐いてうなだれる。一呼吸おいて面を上げた遥の瞳には決意の光が宿っていた。

 

「大丈夫、フィエーナは私が守るからね」

「あはは、ありがとう遥。それじゃ朝ごはんにしようか」

 

 奈緒さんの作ってくれた朝食を一ヶ宮家のみんなと一緒にいただく。朝は簡素にフルーツとパンを摘まむ程度のロートキイルと違い、一ヶ宮家の朝食はご飯にお味噌汁が基本におかずのついたお腹に溜まる食事だ。朝からこんなに食べられなくて、私の器だけ全てが小盛りになってしまっている。

 

「本当にそれだけでお腹いっぱいになるの? お代わりしたら?」

「ありがとう奈緒さん、でも私は昔から朝はちょっぴりしか食べてないから」

 

 予め朝はそんなに食べないと伝えているので、奈緒さんも私の分量を調整して出してくれている。父の言った通り、細かな部分で生活習慣に違いがあるから話し合っておいてよかった。

 

「そうだ、はい。これフィエーナちゃんの分よ」

 

 朝食を食べ終え登校の準備に入った私は、両手の上に乗っかるサイズの小さなトートバッグを手渡される。温もりを発する不思議なバッグは私にだけでなく、遥の分も用意されていた。

 

「これは?」

「お弁当だよ、ママはいつも作ってくれるんだ」

 

 遥は私と柄違いのトートバッグを持ち上げ、愛おし気に表面を撫でる。奈緒さんが朝食と並行して私たちの昼食まで作っていたのを知り、私はちょっとの申し訳なさと胸いっぱいの感謝の気持ちを抱く。遥もきっと私と同じかそれ以上に感謝の念を抱いているに違いない。

 

「専業主婦ですもの、これくらいはね」

「ううん、そんなことない。私、感謝してる。毎日作ってくれるママのこと大好きだよ」

「んふふ、どういたしまして遥ちゃん」

 

 奈緒さんの謙遜を強く打ち消した遥は、直球で感謝の言葉を放つ。そのむき出しだからこそ直に心に響く思いを真っ直ぐに受け止めた奈緒さんは、嬉しそうに照れ笑いを浮かべていた。

 

「奈緒さん、私からもありがとう。大切に食べるね」

「んもー、二人とも……明日も美味しいの作ってあげるから早く学校行ってらっしゃい」

「あー、ママ。照れてるー」

「照れてません」

 

 そう言ってツンとそっぽを向く奈緒さんの耳がほんのり赤くなっていたのを私と遥は見逃さなかった。

 

 

 

 先に仕事へ出かけた遥の父親から遅れて私たちも登校する。歩いて十分の距離にあって、なおかつ始業も八時半からなので、ロートキイルの学校より一時間はゆったり出来た。

 

 遥と連れ立って通学路を歩いていると、同じ服装で同年代の人たちが同じ方向へ向けて歩いていく。そういうものとは知っていたけれど、改めて見ると不思議に思えて来る。

 

「おお……本当にみんな同じ服を着ているね」

「ロートキイルだとないもんね」

 

 ロートキイルだと街中を普通に歩いていて同じような服装の集団というと警察かあるいは軍隊くらいだろうか。それがここだと高校生が服装を統一して歩いている。これはこれで統一感があって面白い。

 

「というか、随分と注目されてるね私たち」

「私たちじゃなくて、フィエーナがだよ」

 

 遥の黒髪がロートキイルで目立っていたのと同様に、私の白銀の髪がここ日本では珍しいものとして扱われてしまっている。見るだけならいくらでも見てくれていいのだけれど、ほんの数人とはいえスマホを向けて来るのは無遠慮であまりいい気分にはなれなかった。

 

「ねえねえあれ何?」

「郵便局だよ」

「じゃあ、あれは?」

「酒屋さん」

 

 通学路にある建物に、街並みのどれもがロートキイルとはまるで異なっていて興味深い。ヴェイルのいた異世界とは違って、同じ世界なのにこうも一々違って見えるなんて世界は広い。昨日奈緒さんと仁悟さんに案内してもらったけれど、少しを知れば新たに疑問が浮かんできてしまうのだった。

 

「今日のフィエーナはロートキイルに来たばかりの私みたいだね」

「あはは、そうだね」

 

 思えば遥もロートキイルに来た当初は道行くもの全てが初めて見るものばかりで、時々あれは何だろうと首を傾げていた。すっかり立場が逆転してしまっている。

 

 私がちょくちょくと止まっては質問を繰り返していたせいで十分の道のりが倍に伸びてしまったけれど、予め今日は早く学校に行き担任の先生と話をする予定だったので余裕を持って学校には到着できた。

 

 遥に職員室まで案内してもらい、担任の先生と挨拶を交わして、遥と同じクラスまで案内される。

 

「フィエーナさん身長大きいね。今はどれくらいあるのかしら?」

「百六十七センチです」

「そっかあ、ロートキイルだとそれくらいは普通なの?」

「んー、平均くらいです」

 

 語尾が伸び気味で緩い口調の久保先生は優しくて気さくな女の人だった。担任の先生と軽く雑談をしながらクラスルームに向かい、一緒に室内へ入る。

 

「みんなおはよー」

 

 朗らかな印象を受ける久保先生の挨拶は残念ながら生徒たちからの返事をもらえなかった。いや、遥の声だけ聞こえてたのだけれど、それ以外の生徒は静まり返って私と先生を見つめてきていた。

 

「あは~、サプライズだったかな? 今日は先週から言っていた転校生の子がやってきました。自己紹介してくれる? フィエーナさん」

 

 ニヤリと笑う久保先生にこれで名前を書いてねとチョークを渡され、私は筆記体でサラサラっとフルネームを黒板に書いていく。フィエーナ・ガブリエラ・テレジナ・ルカ・パルナクルス・ユニカ・アルゲン、私のフルネームでありどの部分も気に入ってはいるけれどこれを全て覚えるのを他人に求めるのはロートキイルであっても難しい。なので、最初と最後だけを強調するように下線を引いた。

 

「初めまして、長々と書きましたけど間の奴は省いてフィエーナ・アルゲンと覚えてください。これから一か月くらいですけど、よろしくお願いします」

 

 日本式に私はぺこりと頭を下げ、生徒たちの様子を窺う。私のいたクラスの倍近い四十六人クラスの全員がしっかりこっちを見てくれてはいるけど、拍手してくれなかった。あれれ、もっとジョークを効かせるべきだったかな。

 

 よしここは一つ、ロートキイルジョークをと思ったところでガタンと勢いよく椅子から立ち上がった子がそのままの勢いで私目掛けて歩いてくる。

 

 青みがかった綺麗な黒髪を前下がりボブにした、目鼻筋がキリッとした美人の女の子だ。背筋もピンと張っていて歩き方も堂々としている。スラリと伸びた足に細い腰とは対照的に大きな胸とお尻は、女子高生に非ざる大人の魅力を醸し出している。遥は美しさと愛らしさを両立した美少女だけれど、この子は美しく気高い。見た目、立ち振る舞いの双方が威風堂々としていて格好のいい美人さんといった印象だ。

 

 そんな女の子が、つかつかと私の目の前まで歩いてきて私を見下ろしてくる。五センチは優に背丈で私は負けていた。透き通った三白眼の瞳が私を射抜く。強い意思の籠ったその瞳を前にして、私は目をそらすことが出来ない。

 

 気付けば両手を握られてしまっていた。口を開いて見せては閉じ、再び少し開く。何かを言おうとしては躊躇っているようで、もどかしい。何かを伝えたいという強烈な思いの丈が目から溢れているのに、言語化しあぐねて彼女自身もどうしていいのか分からないのではないかと思える。

 

時間にすれば数秒間、私たちは見つめ合っていた。透き通った白い肌を僅かに染めていた赤色が徐々に顔全体に広がっていき、真っ赤に染まるまでになって、彼女はようやく口を開く。

 

「一目惚れした! 付き合ってくれ!」

 

 凛々しい顔立ちを真っ赤に染め、しおらしく眉を八の字に曲げた彼女は一気に言いたい事だけ言って頭を下げて目を瞑る。告白の返事を待っている姿は、私がさきほどまで抱いていた堂々たるイメージとは真逆の可憐な乙女だった。不覚にも可愛いと思ってしまった私はバッサリと切り捨てる台詞を吐くのを躊躇ってしまう。

 

「と、唐突過ぎるよ。いきなり告白なんてされても……」

「駄目か!?」

 

 多少の受け答えの想定はしてきた私だけれど、まさかこんなことになるなんて予想できるはずもない。返答に期待を膨らませる美少女の熱情をはらんだ視線は直視するには眩しくて、私は視線を横に流してしまう。ああもう、頭に血が上っているのが分かる。

 

駄目だ駄目だ、こういう時こそ冷静にならないと。一呼吸、しっかり空気を吸っては吐いて私は思考をクリアにする。こんな場面でも平静をすぐ取り戻せるのも天河流剣術を長年続けていたおかげだ。

 

「私は遥を元気づけようと思って日本に来たんだ。恋人を作りに来たわけじゃないよ」

 

 美少女相手は初めてだけれど、初対面で告白を受けたのは何も初めてという訳じゃない。一度冷静になれば、今まで通り対処していけばいいだけだ。相手を逆上させないよう強く嫌悪の念を示さず、態度は柔らかく。けれど言葉の上ではしっかりと否定していけばいい。普段通りのアルカイックスマイルを浮かべたまま、私は言葉を紡いでいく。

 

「遥って、一ヶ宮のことか? 一ヶ宮と知り合いなのか?」

「ロートキイルに遥がいた頃に友達になったんだよ。それで最近元気がないから様子を見に来たんだ」

「じゃ、じゃあ……アルゲンは遥のために日本に来たってのか? でも、留学しに来たんだろ? どういうことだよ」

「あはは、留学って形にすれば学校でも一緒にいられるでしょ」

「まさか……一から留学制度を作ったのは遥と一緒に学校で勉強したいからなのか」

「うん」

 

 目の前の美少女は私の遥への思いを聞き、直情的な告白の浅慮を恥じたようだ。

 

「やべえ……これが本物の愛ってやつなのか?」

「ごめんね」

「うああ……」

 

 うなだれて呆然自失となった彼女に、小さな女の子が駆け寄って来る。明るい茶色の長髪は染めているようには見えないから、きっと地毛なのだろう。小動物のような愛くるしさで心中の私をほんわかさせる少女は私の目の前に割り込んで上目遣いで必死な表情を向けて来る。

 

「あ、あの! 智恵ちゃん悪い子じゃないから嫌いにならないであげて! ちょっと行動が突発的で猪突猛進なトコあるけど、ホントにいい子なんだから!」

 

 おっとりとした癒し系の美貌で懇願してくる目の前の美少女は、結局百五十センチの壁すら突破できなくて悔し気に涙目になった里奈とほぼ同じくらいの背丈だ。こんな小さいと、同年齢かちょっと疑ってしまう。実は小学生くらいなんじゃないだろうか。里奈はそれを否定する立派な双丘を持っていたけれど、この子は顔つきに沿った控えめな体をしていた。

 

「あはは……名前すら聞いてなかったよ。智恵っていうの?」

「ん、ああ……アタシは橘智恵。よろしく」

 

 さきほどまでの勢いはどこに行ったのやら。しょげかえった智恵はもごもごと小さく自己紹介をした。いきなり告白をされ驚いたけれど、少なくとも私の見た目は好きでいてくれるのならちょっぴり嬉しい。抱擁……はきっと日本では勘違いを招く。それでも握手位ならしてもいいのではないかと私は智恵に片手を差し出す。

 

「よろしくね智恵。恋人にはなれないけど、お友達にはなれたらいいね」

「!? あ、ああ! なろう! 今日から友達から始めよう!」

 

 差し出した手を力強く両手で握った智恵は途端に元気を取り戻し大輪の花のような笑顔を見せた。

 

 

 

 



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T/A07:新しい友人が出来ました。

 

 智恵の暴走で一時騒然となったクラス内で一人愉快そうに笑みを浮かべ続けていた久保先生は両手を何度か叩いて自身に注目を集める。

 

「みんな新入生のフィエーナさんに興味津々みたいね。せっかくだし、今日のホームルームはフィエーナさんと親交を深める時間にしましょうか。ほら、何かフィエーナさんに聞きたい事がある人はいない?」

 

 久保先生の一言で次々に湧き上がる質問を受けていると、授業前の時間はあっという間に過ぎてしまった。

 

「はいはい質問はこれくらいにしましょうか。それじゃ後はフィエーナさんの席だけど、フィエーナさんは遥さんに会うために来たのよね。隣が空いてるしそこに座りなさい」

「ありがと久保先生」

 

 歓待してくれたクラスメイトと軽く言葉を交わしながら、最後方に座る遥の隣に私は座る。

 

「今日から同級生だね遥」

「よろしくねフィエーナ」

 

 何だかこそばゆくて、私は口角を緩めて遥に微笑みかける。遥の方も私を見つめて周囲が華やぐような輝かんばかりの笑顔で私を迎えてくれた。二人してニコニコと互いを見つめ合っていると、ふとクラスメイトたちに注目を受けていることに私は気付く。

 

 遥から目線を離して辺りを見回すと、私たちを見る目は決して悪意は見られない。けれど、恍惚とした顔つきでこちらを見つめている集団に私はちょっと気恥ずかしくなった。

 

「あの~、フィエーナさん? お二人は恋人……という訳ではないのよね?」

 

 おずおずと片手を挙げておかしな質問をしてくる久保先生を私は一笑に付した。

 

「あはは、違いますよ久保先生。ね、遥?」

「う、うん……」

 

 

 

 その後、三丘高校の授業を私は受けていく。日本の友人と相談してカリキュラムを作って指導してくれたベーセル兄の指導の賜物で、私は拍子抜けするくらい簡単に授業に付いていくことが出来た。

 

「へーえ。フィエーナのお兄さんが日本に留学してたわけね」

「うん、今京都の大学にいるんだよ」

「古文の授業も難なく質問に答えられたのもお兄さんのおかげなの?」

「そうだよ、ベーセル兄はすごいんだ」

 

 授業と授業の合間、朝の一件で強烈なインパクトをもたらした智恵を伴って長い黒髪の少女が組んだ腕を私の机に乗っけながら質問を繰り返してくる。朝に智恵を制止に駆け寄ってきた淡い茶髪の少女野崎鈴子も一緒だ。二人とも里奈とどっこいどっこいくらいに背が小さくて、百七十五センチあると教えてくれた智恵と比べると大人と子供だ。

 

「あなたのお兄さんならさぞや綺麗な顔立ちをしているんでしょうね」

 

 小柄で可愛らしい少女然とした鈴子と比較して、黒髪の美少女春前雪夜には何処か色香のようなものが漂っている。細くて華奢な白い腕を組んでこちらを見上げるこれまた小さな顔は、自覚はないんだろうけれど挑発するような、こちらを試しているような表情をしていた。

 

 形の良い赤い唇に指をあてがい、張りのある艶やかな唇が弾力を見せつけるように歪む様を見せつける雪夜。綺麗な黒髪を額で均一の長さに切りそろえた幼げに見える髪型、ほっそりとした体躯、整ってはいるけれどとても高校生には見えない幼い風貌。外見的特徴はどれも子供じみているのに、どうしてもこうも雰囲気がアダルティックなのだろう。

 

「写真ならあるよ。雪夜、見せてあげるね」

 

 自慢の兄であるベーセル兄は遠くに離れているので、変なストーカーが付く心配もない。私はスマホを取り出し、一番カッコよく決まっている写真をチョイスして雪夜に見せてあげる。

 

「あらあ、すごいイケメン。ほら、トモも見てみてよ」

「おお、確かにすげえイケメンじゃん。でもアタシはフィエーナの方が……」

「も、もう智恵ちゃん! 振られたんだから泣き言言わないの!」

「ぐへえ」

 

 

 智恵のメンタルを何気に抉り削る鈴子の見た目は雪夜と同じように幼げだ。儚げで清廉な雰囲気を纏った美少女で、遥と並んでいると清らかで心が洗われるような思いを抱かされる。

 

引っ込み思案なのか発言の頻度は控えめで、私との間にはまだ壁があるように感じる。まだ出会って数時間しか経っていないし、これから仲良くなれればいいのだけれど。

 

「フィエーナってもしかしてお兄ちゃんっ子? さっきからベーセルお兄さんのこと手放しに褒めてるわね」

「大、大、大、大、大っ……好きだよ。すごく好き。ベーセル兄は優しくて頼りになってカッコよくてちょっとした気配りが出来て言うべきことはしっかり言えて運動神経は抜群で、でも私より剣術の腕は負けてるけれどそこも私に唯一面目を立ててくれるためかと思うと本当に好き大好き愛してるし心の底から一つになりたい。そうだ昨日もベーセル兄とは電話したんだけれど」

「わー待って待って! 分かった、分かった! フィエーナがお兄さん大好きなのはすっごく伝わった! もう心の奥底まで伝わったわ! ほら、授業開始のチャイムが鳴り出したから私たちは席に戻るわねっ!」

「あっ……うん、またね」

 

 私はベーセル兄の素敵なところをまだ一ミリたりとも伝えられないうちに言葉を遮られてしまい残念に思う。けれど、あんまり魅力を伝え過ぎてこれ以上ベーセル兄のことを好きな人が増えすぎてもベーセル兄が大変だから仕方ない。もう恋人もいる身なんだし、言い寄る女の子を私が増やしでもしたらミゼリア姉にお小言を貰ってしまうから、不満は残るものの口をつぐむことにした。

 

 けれど一度開いてしまったベーセル兄への衝動的な感情はとめどなく膨れ上がっていく。私のこの感情の奔流に付き合ってくれるのはエリナしかないので、私は後でエリナに電話を入れることを決意した。

 

 午前中の授業が終わってお昼になると、学食に向かう人とその場でお弁当を広げる人で別れる。私の事前調査によれば三丘高校の学食は良心的な値段で美味しくバランスのよい食事を提供すると評判で、食育という点からも保護者から好評なんだとか。

 

「フィエーナはお弁当なんだ」

 

 ひょこっと私の隣に顔を出してくる雪夜は距離感が近い。どちらかというと私はこっちの方が感覚的に慣れていて楽だ。

 

「遥の家にホームステイしてるって話したでしょ? お弁当も作ってくれたんだ」

「私もお弁当なのよ。お父さんがお店を開く仕込みのついでに作ってくれるの」

「雪夜のお家は料理屋さんなの?」

「そうよ~、機会があったら来てね。サービスするように言ってあげる」

 

 ばっちりとウインクを決めて悪戯っ子な笑みを向けて来る雪夜は小悪魔的に可愛らしい。

 

 

「ほら、こっちで一緒に食べましょ」

「うん、ありがと雪夜」

 

私は智恵の告白の一件からそのまま流れで彼女たちのグループと一緒に行動するようになっていた。遥も智恵たちとは一緒に行動していたようで、そういう点でも自然に一員に迎えてもらった。

 

「しかしよう、遥はいいよなあ。アタシもフィエーナと一緒の家で過ごしたかったな」

「それは駄目」

「なっ……遥お前、フィエーナのことになると自己主張激しいな」

「本当ね~普段はあんまり喋らないから、無口な子だと思ってたわ」

 

 遥が無口? そんな風に思われていたなんて意外だ。ロートキイルでは立ち直ってからは社交的に周りと仲良くしていたのに。

 

「遥ちゃん、フィエーナちゃん大好きなんだね」

「好き。結婚したい」

 

 自分の発言の意味に言ってから遅れて気付いた遥は一瞬で顔を真っ赤にさせる。

 

「ええーっ!?」

 

 智恵たちだけじゃない。遥の発言が耳に届いた範囲内全域で叫び声が一斉に上がりだす。私も今日だけで二回目の爆弾発言を受けて頭がくらくらしてきた。やっぱり二人は付き合ってるんじゃとか、美少女百合天国だとかの勝手な外野の言動がクリティカルに精神を揺さぶって来る。

 

「は、遥……そう思ってくれるのは嬉しいけれどね」

「あ、あわわわ。ち、違うのフィエーナ。あっ、違うっていうのは嫌いって意味じゃなくて!こ、これは言葉の綾というか気持ちは嘘じゃないんだよ!」

 

 フォローを入れる箇所が致命的に間違っていて、周囲の勘違いを加速的に広げていくのはやめてほしい。

 

 



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T/A08:天河の本家にお邪魔しました。

 

 学校に来てから視線を感じていたけれど、お昼休みを境に私を目当てにやってくる人が増えてきた。日本において物珍しい容姿をしているのには自覚があったけれど、何かひどいことをしてくるわけでもないので私は特に何するでもなく見られるに任せていた。

 

 強引に誘いをかけて来る人も何人かいない訳でもなかったけれど、こういう時だけだからと言い訳して私は目と目を合わせて睨み付け、拒絶の意思をこめて声を発していた。これでほとんどの人間は去っていってくれる。

 

午後の授業を終えた私は、新たに出来た友人たちと別れ一直線に帰宅する。今日の私たちには用事があるのだ。

 

 遥はこれから退魔師としての活動がある。私はというと、吉上先生に頼んで本家天河流で修業をさせてもらえないかと頼んでおいたのだった。

 

「やあフィエーナ。日本での暮らしはどうかな」

 

 遥が出かけて行ってやや遅れて吉上先生は奥さんと連れ立って私を迎えに来てくれる。吉上先生の奥さんである佳織さんは、奈緒さんにとって悩みのタネである遥について退魔師関連のセンシティブな話を隠さず話せる相手らしく、仲良くやっているようだった。

 

 吉上先生の運転するミニバンに乗せてもらいながら、私は異国の車窓に興味を惹かれつつ会話する。昔からの知り合いである吉上先生は私にとって大切な人でもあった。

 

「楽しくやってますよ。色々ありましたけど……」

「ま、まあ異国での暮らしだからね。僕も最初は苦労したものさ」

 

 私が今朝の出来事やお昼休みの一件に声を曇らせると、吉上先生はすかさずフォローを入れてくれる。こういう目端が効くのは吉上先生のいいところだ。けれどもフォローの方向性が見当違いだった。違うんだ吉上先生、私は日本文化には苦労させられてないよ。苦労させられているのは人間関係だよ。

 

「そういえば吉上先生も退魔師なんですよね? 前線は大丈夫なんですか?」

「情けないけれどね。僕みたいな木端退魔師は魔力の回復にも数日を擁するんだよ。その間は何も出来ない役立たずって訳。ならせめて後輩の育成を出来たらって思っているんだけど」

 

 吉上先生の実力を私は知っている。正直私にかかれば瞬殺できる程度だけれど、ヴェイルの記憶に照らせば経験豊富な熟練探索者の剣技に劣るようなことはなかったはずだった。魔之物という異形の怪物は、私の知る魔物よりも手ごわいのかもしれない。

 

「じゃあ、遥は本当に一流なんですね」

「ははは、一流なんてものじゃないよ。日本でも遥ほども実力者はそうはいないくらいさ。もし遥がいてくれなきゃ数十人は死者が出ていてもおかしくなかった」

 

 そこまで遥が評価される存在になっていることを知って私は少し嬉しくなった。遥の努力は日本においてトップクラスの退魔師になるだけの成果を彼女に与えてくれたのだ。こっそり遥の師匠と自負する私は誇らしく思った。

 

「フィエーナは事情を知っている人間って明かしてあるよ。無手ならともかく、真剣勝負なら【身体強化】ありでも僕じゃあ君には勝てないし、そういう相手との修練なら得るものも多いと思うからね」

 

 三十分ほど吉上先生のミニバンに揺られ、山間にある大きな日本家屋に到着する。ロートキイルの林原家が小さく思えてくるほどで、家屋というより最早平城だ。私の目が驚きに見開かれるのを、吉上先生が愉快そうに見つめてくる。

 

 正面門を顔パスで通過した吉上先生は駐車スペースにミニバンを止めてから、真剣な表情をして私に諭すように話しかけて来る。

 

「ここが天河の本家。あんまり無礼なことはしないでね」

「吉上先生、私なら大丈夫ですよ」

「うーん……ベーセルならともかく、フィエーナだとちょっと心配だなあ」

「む、どういう意味ですそれ?」

 

 ベーセル兄が何処でも上手くやっていけるのに異論はないけれど、私だって礼儀知らずな人間と思われるのは心外だ。とはいえ、ロートキイルの作法ならともかく日本の作法に私は詳しくないのも事実だった。

 

「はは、まあ僕の言う通りにしていれば間違いはないよ」

 

 広々とした敷地内を吉上先生に先導されて歩く。洋服を着ている人ばかりだった日本でこんなに和服に身を包む人間ばかりに出会ったのはここが初めてだった。現代の日本から昔の日本にタイムスリップしてしまったような錯覚さえ抱いてしまう。

 

「ここだよ。ってあれ、ちょっと緊張してる?」

「そんなこと……ちょっとあるかもしれないです」

 

 すれ違う誰しも雰囲気が常人から離れている。決して粗暴な訳ではなく礼儀は洗練されているのに平和でのほほんとした市井と違う、何処かピリリと張りつめたような雰囲気に私は呑み込まれていた。

 

「大丈夫、僕のよく知る人だから。いい人だよ」

 

 林原家に併設された道場とそう変わらない広さをした道場は、年季の入った古い木の匂いがした。漆喰で出来た壁に黒く塗られた木の梁、神棚のある高さに等間隔で開かれた開口部からは未だ高い陽射しが差し込んで来る。

 

 張りつめた音のない道場内に正座をしていたのは、林原先生のように髭を生やした壮年の男性だった。私が道場に入り礼をすると、頷いた男性はこちらに歩み寄って来る。

 

「名は?」

「フィエーナ・アルゲンと申します」

「そうか、ワシは狭山景成という。今日はよろしく頼む」

 

 古風な武士と言った雰囲気を醸し出す目の前の男性に影響され、ついピンと背中が伸びる。服装から所作まで、この人が現代に生きているとは思えなかった。

 

「吉上よ、この娘が?」

「はい狭山さん、どうか実力を見ていただければと」

「ふうむ、確かに実力はあるように見えるが……斯様なうら若き異国の娘が? 一度剣を交わさねばワシ自身の感覚が騙されている気になるな」

 

 そんなに私は弱弱しく見えるのだろうか。道場に併設された部屋についてこいと促され入ると、内部にはずらりと日本刀が並んでいる。日本刀だけじゃない、槍や薙刀などいろんな武器が置いてあって、武器庫の様相を呈していた。

 

「そこから一振り選ぶといい。まさか使ったことがないとは言うまいな?」

 

 私は林原家でお借りしていた一振りと具合のよく似た、二尺三寸の一般的な長さの日本刀を手に取る。今の私の身長だとやや短めではあるけれど、昔からこの長さでやってきているので今さら変える気になれなかった。

 

「では、始めようか」

「いつでもいいです」

 

 道場に戻り、狭山さんを正面に迎えて早速試合を始める。最初から張りつめた雰囲気をした人だったけれど、いざ刀を構えられると貫くような殺気が脳内を駆け巡った。面白い、私は場にそぐわないと知りつつも口角が吊り上がるのを抑えられなかった。

 

「ほう……この殺気で笑えるか」

 

 互いに間合いを図りつつ、じりじりと距離を詰めていく。お互いがゆっくりとした動作で観察を続ける中、木張りの床がひと際大きな音を立て不協和音を奏でたのが切っ掛けとなった。

 

「せいっ!」

 

 私より五センチは上回る身長と鍛え上げられた筋肉から繰り出される情け容赦ない上方からの振り下ろしに、私は冷静に対処する。正直、余りに見え見えでフェイクなのではと疑いそうになったくらいだった。何処に当たっても命に関わる猛連撃。刀と刀が触れ合い、耳をつんざくような金属音が道場内に響き渡るも、狭山さんの攻撃を私は脅威に思えなかった。

 

 初撃で私がはっきりと互いの力量を覚ったのからやや遅れ、狭山さんも十数秒の攻勢を悉く無力化されて気が付いたらしい。無呼吸で剣を振るい続けた肉体にたっぷりと深呼吸で酸素を流し込んだ狭山さんは、額から汗を流しながら歯茎が見える豪快な笑顔を見せつけて来た。

 

「いやはや……まさかここまでやるとはな。本気を出しても構わんかな?」

「それはつまり、魔力を使うってことですか?」

「如何にも」

 

 遥は例外として、魔力というものはそう簡単に回復するものではないとさっき聞いた。狭山さんほどの実力があればきっと魔之物退治に大いに貢献できるだろう。貴重な魔力を私なんかのために浪費されては困る。

 

「魔之物が跋扈しているのに、無駄遣いされても困ります」

「……吉上よ、随分内情を深く教えているようだな」

「あはは……フィエーナ、そこは心配しないでいいよ。実のところ狭山さんは病み上がりでね。先日魔之物に負わされた怪我が治ってリハビリ中なんだ」

 

 狭山さんの射るような眼光を受け、額に汗を垂らしながら慌てて吉上先生は事情を話してくれる。

 

「ふん、リハビリなどとうに終えておるわい」

「しかしドクターはまだ療養が必要だと仰っていたじゃありませんか」

 

 なるほど、私が呼ばれたのは戦いに本調子でない狭山さんが出立しないよう、諌めるためだったんだ。吉上先生、私をその気にさせておいてひどい。後で何かおごってもらわないと。

 

 

「ワシが抜けて前線は逼迫しているだろう。一人でも多く戦力が必要なのだ」

「はあ……でしたら、目の前の少女を打ち負かせたら僕が当主様に取り持ちましょう。その代り負けたらドクターの許可が下りるまで安静にすることを約束してください」

「ほう、男に二言はないぞ」

「勿論ですとも」

 

 そうきっぱりと言い放った吉上先生は一方で私に向かって素早く頭を下げて見せる。もう、仕方のない人だ。いいよ、私も腕が訛らないよう相手が欲しいって頼んだんだ。これくらいやってもいいかなと思えてきた。

 

「では、いくぞ」

「いつでもどうぞ」

 

さっきより比べ物にならない一撃が来るのを覚悟し、私は静かに頷いて見せた。

 

「せぃっ!」

 

 速い。それに力強い。私には到底真似できない一撃を連撃で繰り出してくるのは羨ましい。けれど、当たらなければ意味はないし逆に非力な私の一撃でも刀ならば致命傷を与えられるのだ。

 

狭山さんの剣技は何処か林原先生の息子である陽人を思い起こさせる攻撃的なものだった。まだ若く未熟な陽人と比べるとずっと動きに無駄がなく洗練されている。攻撃の精度も的確で、【身体強化】された肉体に比して低速な私が微かに見せる隙へ食らいついては受け流されるを繰り返していた。

 

 とっても素直な剣を振るう人だ。確かに私は滅多に隙を見せないけれど、それを好機として疑いもせずイケイケどんどんで突き進むのは純粋過ぎる。剣を交えて性格を知る。ヴェイルの頃から続けているある種の読みでそこそこ程度には当たるのだけれど、この人はきっとこの剣のように素直で純粋な、裏表のない善人なのだと思う。

 

 一度陽人と戦い強化された退魔師の速度に慣れていた私にとって、陽人の上位互換的な狭山さんは与しやすい相手だった。私の額に汗がにじむころ、狭山さんは全身から汗を拭きだして床に転げ倒れる。唐突に足を引きつらせて、狭山さん自身が倒れてしまったのだ。どうも、足に負った怪我は完治していなかったらしい。

 

「ぐ、ううう! む、無念! まだ、ワシは全力を出し切っておらんというのに!」

「狭山さん、病院に戻りましょう。取り返しのつかない後遺症になっても手遅れなんですよ」

「くっ……いいだろう」

 

 右足を手で庇いながら膝を付く狭山さんに私が具合を尋ねると、もう痛みはほとんど退いているらしい。

 

「だが、未だ思うようには動かん。本来ならばもう少しマシな動きが出来るのだぞ」

 

 悔しさをにじませながら、狭山さんは右足を手でさする。さっきの一戦、私は狭山さんが足に傷を抱えていることなんて気が付けなかった。弱みを気取られることなく平然と立ち振る舞った狭山さんから、私はきっと学べることがある。

 

 しばらく片膝をついていた狭山さんが一息ついて立ち上がる。その瞬間に気持ちの整理がついたのか、さっきまでの苦渋の表情はさっぱり消え失せて気持ちの良い笑みを浮かべ私を見つめていた。

 

「しかし小娘よ。病み上がりとはいえワシの全力を容易く捌くとはやるではないか」

「狭山さん、そろそろ名前で呼んでやってはもらえませんか」

「そうだな、アルゲン。認めよう、紛れもなくお主は強者だ」

 

 握手を交わす狭山さんの表情は晴れ晴れとしていた。威圧感のある髭面をにいいと歪めて笑うその顔は豪快で、その力強さに圧倒されてしまった。

 

「ほう、狭山にそう言わしめるとは」

 

 さっきから道場の入り口に人がいて、私と狭山さんの試合を観察していたのには気付いていた。

 

 年のほどは二十歳にはなっていないくらいの若い男の人で、退魔師として出かける時の遥と似たような黒革の衣服を身に纏っている。鋼鉄の鎧を着るよりも防御力に優れると遥は説明してくれたけれど、それでも六月の終わりに着て耐えられるような服装には思えなかった。じめじめとした梅雨を初体験している私にはなおさらそう思えてしまう。

 

 いかつい顔つきをした背の高い青年を見た狭山さんは随分と驚いていて、慌てたように佇まいを整えた。

 

「そ、宗一様……!」

 

 狭山さんに様付けされるほどの偉い人らしい。そういえば、宗一という名には聞き覚えがあった。確か、遥と共にこの三丘の地を守る退魔師の一人だったはずだ。吉上先生は様なんて付けずに呼び捨てにしていたけれど、いいのかな。

 

「相手になってやる」

 

 何て唐突なと私が驚く暇もなく、道場の外に立っていた宗一は腰に下げた日本刀を抜刀しこちら目掛け駆けて来る。速いくせに、力強い! 狭山さんよりも優に十センチは高い身長はきっと百八十五センチ近い。鋼のように鍛え上げられた体躯で疾風の如く突っ込んでくるものだからまともに受けたらきっと私は頭から股の間まで真っ二つになってしまう。

 

 

 狭山さん相手なら多少の余裕を残せていた私も神経を研ぎ澄まして、どうにか横に跳び初撃を回避する。速力の乗った大男の剣戟なんて相手にしたくもなかった。

 

「これを避けるか」

「宗一様! 刀をお降ろし下され!」

「宗一! 止めるんだ!」

 

 二人の制止を聞く気はなさそうな宗一は、私が抜刀するのを待ってはくれるみたいだ。いきなり斬りかかってくるなんて、何て不躾な人なんだろう。けれど、私は思わぬ強者の乱入に胸を躍らせていた。多少の無遠慮なんて気にならなかった。

 

「いいよ、相手してあげる」

 

 私が抜刀した直後、間合いの外側にいた宗一は一瞬で距離を詰めて日本刀で刺突を仕掛けていた。私よりもずっと大柄なのに、機動力という点で大きな差はなさそうだった。避けても避けても連続して繰り出される刺突の嵐に私は冷や汗をかく。斬撃なら軌道をずらせば殺傷力を削げるけれど、刺突はそう簡単にはいかない。

 

 いつも以上に観察し、相手を読まなければあっという間に串刺しにされてしまいそうだ。とはいえさしもの宗一と言えども、【身体強化】した狭山さんほどの力と速度はないようだった。きっと渡り合えてしまうほどの技量差なのが怖いけれど、今の宗一なら動きさえ読めれば何とか捌ける。

 

 そして、私は宗一の動きを不思議とあっさりと読み切れていた。これは宗一の動きが単純で読みやすいのでなく、知っているからだった。誰かは思い出せないけれど、私はこの剣技を知っているような気がしていた。だから、問題なく捌き切る。

 

 剣戟の応酬の果てに、私は自然と優勢に立ち始めていた。もう宗一の剣は見切ってしまった。

 

「よもや天河きっての麒麟児がああも劣勢に陥るとは……吉上よ、ロートキイルの女子はみなああなのか」

「はは、まさか。フィエーナは例外中の例外ですよ」

 

 呑気にお話をしている二人に軽く意識を向けるほど私には余裕が生まれていた。だから、一瞬の変化に反応が遅れた。

 

「甘く見るな、女!」

 

 さっきまでの宗一の速度を自動車に例えるなら、一瞬で宗一の速度はジェット戦闘機まで加速していたのだ。

 

 私はただその超高速の一撃をかろうじて目で追えただけ。私の手元から弾かれた日本刀がゆっくりと回転しながら落ちていくのを目の端に捉えながら、私は首元に迫る刀の刃を見つめていた。

 

 死を一瞬覚悟したけれど、流石に私を殺す気はなかったらしい。殺気のない刃は首元に触れる寸前で停止し、剣圧で生まれた風が私の皮膚に薄い一直線の痛みを残した。

 

 全員がその場に固まって動かない。先ほどまで金属音が鳴り響いていた道場内から一切の音が掻き消えて、代わって蝉しぐれが騒々しく場を支配する。

 

 数瞬のち、日本刀を私の首元から引いた宗一は多分に後悔の残る顔つきを私にだけ見せた後、声すら発しない口の動きだけで謝罪を残し足早にこの場から去っていった。不器用な人だと思いながら私はその背中を見送った。

 

「負けちゃった」

 

 痛みの残る首に手をやり、一直線に残る痛みの跡に指を這わせる。血は出てないし、傷が残っている訳でもないみたいだ。それでも赤く変色くらいはしているかもしれない。首をべっとりと濡らしている汗が、触れた指先に水滴となってくっついてくる。舐めるとしょっぱかった。当たり前か。

 

「吉上先生、ここ傷あります?」

 

 私が首を傾け、とんとんと患部を指でつついて見せると唖然としていた吉上先生は我に帰ったようでフルフルと首を横に振る。よかった、傷なんて作ったら遥に心配をかけてしまう。

 

「すまんアルゲン!」

「僕からも、本当に申し訳ない」

 

 二人からは散々謝罪を受けたけれど、挑戦を受けたのは私自身なので気にしていない旨を伝えておいた。それでも何度も謝って来る二人を見ていると、さっきでていった宗一との差をしみじみと感じてしまう。同じ高校に通っているとさりげなく吉上先生は明かしたけれど、あの態度で上手く学校生活を送れているのかと何故か心配している自分に気が付いた。

 

「とにかく、今日は本当に悪かったね」

「もう吉上先生。もう何十回謝るんですか? 気にしていないったらいないんですから」

 

 日が落ちて街が暗闇に包まれていく中、急に空模様が悪くなりマンションにつく頃には大雨になっていた。ざあざあと地面を叩きつけるような雨脚に私はちょっと気分を高揚させながらマンションエントランスで吉上先生のミニバンから飛び降りる。

 

「僕は駐車場に車を停めて来るよ」

「傘は持ってますか?」

「大丈夫、この季節は車内に常備してるんだ」

 

 軽快な発進で大雨の中を去っていくミニバンを私は見送る。太陽に熱せられた地面が雨を受けて、むわりと湿気を帯びた空気が立ち上ってくる。今日はじっとりとした過ごしにくい夜になりそうだった。

 

 

 

 



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T/A09:夜、何だか変な雰囲気になりました。

 私が帰宅して体を綺麗にして学校の課題に頭を悩ませていると遥が帰ってきた。丸一日戦闘の続いたであろう日曜日よりは疲労が軽く見えるけれど、それでも疲れた遥は出迎えた私の胸元に倒れ込んで来る。幸い戦闘は雨が降る前に済ませていたようで、体が濡れてはいなかった。

 

「ふぃえーなぁ……」

 

 年に見合わない五歳児のような甘えた声音で私の名を呼ぶ遥に私は愛おしさを覚える。胸に顔を沈める遥の頭頂部を撫でてあげると、気持ちよさそうな媚声が上がりドキッとしてしまう。

 

「遥ちゃんはフィエーナちゃんのおっぱいに顔を埋めるの好きねえ」

「柔らかくて気持ちいんだろうね」

「ふーん……」

 

 一緒に遥を迎えに玄関まで出向いていた仁悟さんは、底冷えのする目付きで奈緒さんに睨まれる。誤魔化すように笑みを浮かべながら慌ててリビングへ逃げ帰っていった仁悟さんを奈緒さんは逃す気はないようで、ススススと静かな足取りでリビングに消えていった。

 

 

「ママは結構独占欲強いんだよ」

 

 二人の行動を見た遥はぼそりと私にそう呟いた。遥を見ていると、納得できるような気もした。

 

 

 

 私が電気を消して自分の部屋にあるベッドで横になっていると、部屋のドア付近の空気が僅かに揺らぐのを感じ取る。もしかしてと思い目を開き、目だけを横に動かすと暗い空間の中で数センチだけ開け放たれたドアから遥の碧い瞳が覗いていた。

 

「フィエーナ、起きてる?」

「起きてるよー」

 

 私を起こさないように配慮してくれたのか、本当に微かな声音で声を発する遥へ私はいつもの調子で返事をする。一体何の用だろう?

 

「そ、そっか。一緒に寝てもいい?」

「いいよ、おいで」

 

 迎え入れた遥の顔がベッドサイドに置かれたランプに照らされる。その表情がビックリするくらい煽情的で、私は思わず目をそらしてしまう。見間違いかと再び視線を戻せば、冷たい顔つきで無邪気に笑顔を見せてくれるいつもの遥の顔つきに戻っていた。

 

「フィエーナ」

 

 私の気のせいかもしれない。甘え声で私の名を呼びながらベッドに潜り込んできた遥は私に体を絡みつかせてすぐさま表情を蕩けさせてくる。上気して赤みの差した頬の遥はとても可愛らしい。けれど、今の遥からは嫌に色気を感じる。

 

 私は遥を受け入れてすぐに目を瞑り、眠ろうとするのだけれど遥がそれを許してはくれなかった。

 

 今日の遥、ちょっと落ち着きがない。胸に埋められた顔を頻繁にもぞもぞさせ、私の太腿に絡みついた両足を何度も組みなおしてくる。体を擦りつけているようにも思え、私は遥にマーキングされているような気になって来た。こうも動かれちゃ寝れないよ。

 

 窓から聞こえる雨音は一向に収まらず、室内にもざあざあと雨音が満ちる。その眠気を誘う雨の音色に混じって、遥の吐息が聞こえて来る。甘く温かい遥の息が私に吹き付けて来る。浅く何度も繰り返される息には熱が帯びていて、首元に吹きかかるたびに私の思考に白い靄のような痺れるような未知の感情を惹起してくる。何だろうこの感情、気持ちがいいけれどこれ以上味わったらいけないような背徳的な……嫌だな、何だか私まで変な気持ちになってきちゃった。

 

「フィエーナ……」

 

 遥が度々私の名前を呼ぶたびに私の奥底へ甘い蕩けるような快感がふつふつと沸きあがって来る。擦り付けて来る遥の体は普段よりずっと体温が高い。気付けば私も息が荒くなっているのを今さらになって自覚した。

 

「遥……もぞもぞしないで、寝れないよ」

「フィエッ!?」

 

 これ以上この感覚を味わっていたら私はおかしくなってしまいそうで、閉じていた目を開き文句を付けることにした。

 

「起きてた、の……?」

「うん。だって遥が落ち着きがないんだもの」

 

 私の目が開いたのが予想外だったようで、遥は目に見えて動転している。けれど、いざ目を開けた私も遥のあまりに淫靡な表情を見せつけられてしまい直視が出来なくなってしまった。

 

 いつも理知的な碧い澄んだ瞳が欲望に浮かされ霞んで見える。今の遥の目を直視し続けていられない。強烈な熱情に私もあてられてしまいそうだ。

 

小さく形のいい唇からはだらしなく涎が垂れ私の胸元にべっとりと大きな染みを作っていた。道理で何だか湿っぽいと思ったんだ。私の勘違いじゃなかったんだ。

 

だったらまさかと思いもう一か所湿っぽいなと思っていた自分の太腿に目をやると、遥の股間から伝わる液体で濡れていた。これ、何の液体なの……?

 

私はこの状況をどうしようかと考えようとするけれど、小刻みに漏れる遥の息は嗅いだことのない甘い匂いがするようで、頭がくらくらとしてきて考えがちっとも纏まらない。

 

 時折エッチな顔つきになる遥だったけれど、目の前の遥の顔つきは今までとは比べ物にならなかった。

 

まるで……本番中みたい。

 

かつてのヴェイルの記憶から類型の記憶が呼び起され、それはあまりに私にとって不意打ちだったけれどまさにこのシチュエーションを指し示すのに近い答えだった。もうだめだ、私には対応できない。頭が情報の処理に追いつけなくてパンクしそうだ。

 

 私が目を逸らした先に、サイドテーブルに置かれた目覚まし時計があって時間が目に入る。うわ、全然気が付かなかったけれど一時間以上経ってたんだ。体感時間では十分ちょっとだったのに、私も狂わされちゃっている。それだけの時間経過してたら、私が寝たって勘違いしてもしょうがないのかもしれない。

 

「は、遥はさ……何をしてたの? いつもと様子が違う、よね?」

 

 聞くのにも勇気がいって、及び腰に発した私の質問に、遥のただでさえ赤かった表情が真っ赤になって目がクルクルと回り出す。余程聞かれたくなったみたいだ。とっても可愛くて心が甘い感情で満たされるけれど、これが現実逃避なんだろうなと私は薄々ながら自覚する。

 

 そういえば今朝の遥もこんな感じだったかもとふと思い出していると、ここでヴェイルの記憶が私に天啓を授けてくれた。

 

 ヴェイルの記憶によれば、命がけの戦いの中に身を置き、生存本能を刺激されると子を残したい欲求が高くなるのだという。ヴェイル自身はその感情に流されることはなかったけれど、そういった人物をヴェイルは見てきた。

 

 普段は冷静沈着な若き女魔法使いが、ただのやんちゃな十代半ばの青年剣士が、理性の徒であった探索者仲間が……人間もまた生き物であり、そういうものなのだとヴェイルは知っていた。

 

 遥もまた一日の休みなく命を賭した戦闘の連続で、子を成さなければと本能的な欲求が生じてしまっているのかもしれない。流石ヴェイル、私には分からないことも深く知っているんだ。

 

 遥みたいな理知的な女の子が本能的に湧き上がる欲求を抑えられずに従ってしまうほど、体も心も疲れ切ってしまっていた。それが答えなんだ。

 

 よりにもよって私の傍でするのはやめてほしいけれど、きっと自慰行為の快感と人肌に触れる安心感のどちらも味わいたくて欲張った結果なのだろう。疲れてて一回私のそばを離れて自慰行為に及び戻って来る気力が湧かなかった、のかな。

 

「その、さ……そういうことするのも自由だけどさ。私の目の前では困るよ」

 

 私の言葉に声にならない悲鳴を上げて遥はシーツの中に潜りこんで消えてしまった。そうだよね、友達に見られたら恥ずかしいよね。けどだったら目の前でやっちゃ駄目だよ、遥。

 

 仕方のない子だ。ヴェイルのおかげで事情を完ぺきに理解した私は、恥ずかしさにシーツに潜り込み両手で顔を覆う遥の頬に手を触れて撫でる。

 

「フィエーナ?」

「気にしなくていいよ、遥。きっと疲れが溜まってたせいだよ」

 

 頬に触れた手をゆっくりと降ろしていく。ほっそりとした首から鎖骨まで優しく撫でおろしていく。

 

「遥は毎日戦って平和を守ってるんだよね。偉いよ、私には出来ないもん」

 

 かつての私には出来ていた。当時がどれだけ苦しく辛かったとしても、私にしか出来なかった。滅魔の力を持つヴェイルにしか。ヴェイルよりも強い探索者はいくらかはいた。それでも滅魔の力のない彼らには撃退は出来ても撃滅は叶わなかった。

 

 いま日本を襲っている状況に似通っている。だからこそもし、私がヴェイルと同じような力を持っていれば事態を打開出来たんじゃないかと妄想することがあった。

 

 私の前世はヴェイルだけれど、結局ヴェイル本人ではなかった。

 

 ならばせめて、私に遥の魔力があれば……そうしたら私が今遥の背負っている負担を肩代わり出来たのに。

 

「フィエーナ、羨ましがってる?」

 

 正しく図星を付かれ、私は心臓が跳ね上げるような思いで体を震わす。こんな思い、遥に覚られたらいけない、遥は己の才で大きな不幸を背負ってしまった。それを羨むなんて。

 

「あはは、何で?」

「フィエーナ……心配かけてごめんなさい。でも私、この力を持ったこと後悔してないから」

「そっか、遥は強くなったね」

 

 ぎゅうと遥の頭を抱える。ちっぽけでいい匂いのする遥の頭。疲れているなら、いくらでも私を頼ってもいいんだよ。目の前でするのが望みなら、困るけど……すっごく対応に困るけど……我慢するから。

 

「遥。さっきは困るって言ったけどさ、もし……私の傍でする方がいいのなら私、見ない振りしてあげるから」

「フィエーナ?」

「おやすみ、遥」

 

 これ以上言葉はいらない……と、あと一つ言うことがあった。くるりと遥に背を向け距離をちょっと取った後で、私は振り返る。

 

「あ、ただする時はくっついてこないでね。寝れないから」

「フィエーナ……好き」

「あはは、私も遥のこと好きだよ」

 

 抱き付いてきた遥を受け止め、私は今度こそ眠りについた。もぞもぞしない遥は代わりに離さないとばかりにぎゅうと抱きしめて来たけれど、これなら大歓迎だ。

 

 

 



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T/A-Ha01:閑話

 

 

 日を経る毎に増加していく魔之物。退魔の力に抗力を手にした彼らは私の限界を試すかのように増殖し、襲い掛かって来る。

 

 一か月前ならば刃を撫でるように当てれば斬り裂き祓い清められていた下級の魔之物ですら、十数秒の猛攻撃の末にようやく浄化し終える程に魔之物たちの耐久力は向上していた。この程度の相手、本来なら並の退魔師が数回の通常攻撃で祓い清められる程度のはずなのに、今となっては一人の退魔師が全力を賭して下級の魔之物を祓うのがやっととなってしまっている。

 

「……はぁっ……はぁっ……」

「大丈夫か?」

「ん、んん……ありがと……ん、ございます」

 

 ふらつき倒れかけた私の体を支えてくれたのは補佐役の有江さんだった。返事もするのに息も絶え絶えな私が、こちらを慮る怜悧な美貌を纏まらない思考の中でボケっと眺めているといつの間にか車の中に押し込められていた。

 

「君がここまで疲労するとは……手助けできず、すまない」

 

 忸怩たる表情で運転席から聞こえてきた謝罪の声に私は慌て、モヤのかかった頭に冷や水を浴びたような感覚に襲われる。有江さんの実力なら戦闘に参加してもいいのに、わざわざ私の為に付いてくれているのだ。

 

「有江さんがいてくれるから……帰りの心配をしないで私が全力を出せる。感謝してるの」

「そう言ってくれると少し、気が楽になるよ」

 

 あまり納得はしてくれてなさそうだけれど、それでも笑みを見せてくれた有江さんに安堵した私は意識を手放した。

 

 

 

 気が付いた私は見慣れた自室の天井を真っ先に目の当たりにした。確か十九時過ぎくらいに有江さんに送ってもらおうとしてたような……? ナイトスタンドの明かりだけが頼りの薄暗い室内で体の上に掛けられたシーツを押しのけ上体を起こすと、ベッド横にお母さんとお父さんが座り込んでいるのがようやく目に入った。

 

 ああ、また私途中で寝ちゃったのか。最近、こうなっちゃう日が多いな。

 

「おはよう」

「んもう、今は十一時よ遥ちゃん」

 

 寝ぼけ眼をこすりながらお母さんに挨拶すると、目に見えてお母さんの表情がホッとして気が緩んでいくのに気付く。そっか、ずっと心配してたんだ。

 

「……心配かけてごめん」

「謝らなくていいのよ。無事でいてくれればそれでいいの」

 

 気後れして俯いてしまった私にひしと抱き付いてきたお母さんの体は温かかった。ん、このまま眠ってしまいたいな。そう思った私だったけれど、安心したからなのか途端にお腹が空いてきて空腹を訴えお腹が声を上げ出した。

 

「ははっ、まだ夕食がまだだったもんな。さ、みんなで食べよう」

「そうね! 遥ちゃんの体力が付くようお母さん頑張ったわよ~!」

「うん!」

 

 

 

 三月に魔之物が急増してから、私の一日のサイクルはほとんど寝て起きて学校に行き、その後すぐに魔之物退治に出かけて終わったらすぐに倒れるの繰り返しだった。

 

 唯一魔之物退治後も起きていられたのはフィエーナとの通信がある日だった。その日だけはフィエーナの顔が見られる想いだけが私の瞼を引き上げ続けた。それでも、フィエーナの顔を見て、声を聞いてしまうと天に昇るような気持ちになったまま夢の世界に誘われてしまいフィエーナには私の寝顔を見せてるだけになってしまい心苦しく思っていた。

 

「……ん」

『あ、起きた?』

 

 先程までフィエーナが私に延々と話しかけ続けていたのを私の頭はぼんやりと覚えていた。フィエーナの声を聞いていると疲労で荒んだ心が癒されるのだ。たまに話題に困ると、フィエーナは歌を歌う。寝ている間にも私を惹きつけてやまないフィエーナの歌声。魔性の声と周りに揶揄され、フィエーナは困りながらも否定しようとしない。確かに、私のフィエーナの歌には中毒的な魅力が溢れていると思う。

 

でも、だからこそ疲れ切った私にとって心を救ってくれる癒しの奇跡となってくれる。

 

ううん、フィエーナの声なら旋律なんていらない。ただ喋ってくれるだけでいい。私に優しく話しかけてくれるだけで私の胸はいっぱいになる。

 

無理を言って声を途絶えさせないようお願いした私の無茶を、フィエーナは律儀に応えて無反応な私にずっと声をかけ続けてくれる。

 

「いつもごめんね」

『そんなこと言わないでよ、遥。私、遥の眠ってる顔見てるの好きだよ』

 

 そう言って微笑みかけて来るフィエーナの笑顔に一瞬見惚れてしまった私はフィエーナが唇の下を指で突いているのに気付く。フィエーナの柔らかな唇の弾力に目を惹かれるのも数瞬、フィエーナの目線から私は何かを指し示そうとしているのだと感づいた。何だろう、私が自分の唇に触れてみると涎がねっとりと指先を濡らす。うわ、フィエーナに涎の垂れた姿を見られちゃったんだ。

 

 私は羞恥で顔に血が上ると同時に慌てて手の平で口元を拭った。

 

『あははー、よく眠れたのかな?』

「先に言ってよ……」

 

 私の理不尽な文句にムッとした様子もなく、フィエーナはこちらを労わる優しい目線で私を見つめてくれる。

 

『傍にいたら私が拭ってあげられたんだけどね……』

 

 フィエーナが傍にいてくれたら。私がそれをどれだけ夢想したことだろうか。ロートキイルにいた頃みたいにフィエーナと一緒に触れ合えたらと何度嘆いただろう。

 

 ああ、本当にフィエーナが一緒にいてくれたらなあ。

 

 

 

「遥、おかえり」

「フィエーナ?」

 

 私が学校から帰宅し、玄関を扉を開けた瞬間の衝撃は計り知れなかった。あの、夢にまで見た、いつも画面越しでしか会えないことに血涙が出そうになっていた、あのフィエーナが……目の前で立っていたのだ!

 

 ふわふわとしていて柔らかな白銀の髪の毛、世にも珍しい紅紫の瞳、ほっそりとした体型からのインパクト抜群のおっきなおっぱい。ミステリアスで儚げな雰囲気を醸し出しながら親交を深めると蕩けるような笑顔を浮かべてくれるフィエーナ。が! 目の前にいる!?

 

 興奮で頭が真っ白になりそうになった私は震える手を伸ばし幾度夢に見たら分からないあのフィエーナの肢体に触れようとする。

 

 そして! 確かに! 私はフィエーナに触れることが出来たのだった。ああ、ああ……もうここで昇天してもいい……!!

 

 うう、うう……ディスプレイ越しにどれほどこの温もりを夢想したことか……ああ、ああ!! やっぱりフィエーナの匂い好き!! しゅき!!! あ、いけないお腹がじんじん温かくなってきちゃう! これから退魔師としてのお仕事があるから、我慢、我慢しなきゃ……。我慢したくないよ、このまま自分の部屋に籠って致したい……!! でも、でも……フィエーナに軽蔑されたくはないから私は鋼の精神で理性を全面稼働させ我慢する。

 

 け、けどおっぱいの感触だけ少し堪能して……それだけ、それだけしたら我慢するから……んんぅ! や、やっぱり我慢するの辛いぃぃぃぃ!

 

「あら……遥あなた! 変態みたいな真似はよしなさい」

「へ、変態……」

 

 流石にお母さんから変態と言われ、私はショックで一気に全身が冷たくなり理性を取り戻した。ああ、やっぱりさっきの私変だったよね……でもフィエーナ分を久しぶりに大量に摂取したせいだからしょうがない。

 

 フィエーナと直に触れ合ってから私の体調はすこぶる快方へ向かっていった。フィエーナが来る前なら倒れ込んでいたであろう疲労も、家に帰ればフィエーナに触れ合えると想像するだけで一気になかったことになる。

 

 どんどん増加の一途を辿る魔之物の脅威も全然怖くない。戦闘中に退魔力の枯渇に怯えていた以前が何だったのかというくらいフィエーナに再開してから力が溢れ出て来る。負ける気がしない。

 

 それだけフィエーナに元気づけられている私だけれど、あまりに元気づけられ過ぎていた。私も人間で、人並み程度には性欲がある。とはいっても精々が一日数回、十回に届かない程度なのだけれど……その行為も最近は疲れからか一日一回ベッドの中でちょこっとに収めていた。

 

 ああ、フィエーナ……でもフィエーナがいると体が燃えるように熱くなる時があるのだ。ふとした瞬間に見せるフィエーナの隙が、私の全身に貫くような快楽の刺激を轟雷の如く撃ち放って来る。

 

フィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナフィエーナ……好き♡

 

「遥……もぞもぞしないで、寝れないよ」

「フィエッ!?」

 

 溶けるような快楽に包まれていた頭が一気に冷える。

 

「起きてた、の……?」

「うん。だって遥が落ち着きがないんだもの」

 

 恐る恐るの質問、一番聞きたくなかった答えがフィエーナから帰って来る。さっきとは違う意味で全身が熱くなってきた。

 

「は、遥はさ……何をしてたの? いつもと様子が違う、よね?」

 

 どうしようどうしようなんて答えたらいいんだろう!? 素直にフィエーナをオカズにしてましただなんて言ったら絶交されちゃうかもしれない。そんなの絶対嫌だ。でもこの状況でどんな言い訳が通じるんだろう? さっきまで気持ちよくなり続けていたせいで全然思考が回らないよ……あ、私を見て混乱するフィエーナ可愛いな。普段は全然見せてくれない取り乱したフィエーナの慌てように胸がキュンキュンと高鳴りを抑えられない……って、今はそんな事を考えている場合じゃない!!

 

「その、さ……そういうことするのも自由だけどさ。私の目の前では困るよ」

 

 ああ……あれ? 何だか、セーフになりそうな予感がする。

 

「フィエーナ?」

「気にしなくていいよ、遥。きっと疲れが溜まってたせいだよ」

 

 合わせる顔がなくてシーツに潜り込んだ私の両頬を柔らかなフィエーナの白い手がそっと触れ、撫でて来る。私を労わるようにそうっと撫でてきたフィエーナの表情は溢れんばかりの優しさに満ち溢れていた。

 

「遥は毎日戦って平和を守ってるんだよね。偉いよ、私には出来ないもん」

 

 ゆっくりと頬から首元、鎖骨に降りていくフィエーナの手を目で追っていく。快楽ばかりだった私の脳内を、充足感で満たしてさっきよりもっともっと気持ちよくされてしまう。ああ、この思いやりの中に溺れてしまいたい。

 

 そう思ってフィエーナの顔を見上げると、フィエーナの瞳は雄弁にフィエーナ自身の思いを伝えてくれた。

 

「フィエーナ、羨ましがってる?」

「あはは、何で?」

 

 私の指摘を何でもないように受け流して見せたフィエーナのポーカーフェイスも、私には通じない。フィエーナのことなら、サブミリ秒単位で観察し続けている。私には隠せないよ。

 

 フィエーナの性格なら、自分だけ安全地帯でのうのうとしているなんて我慢ならないはずだ。けど、これはどうしようもないんだ。私にしか、出来ないことなんだ。

 

「フィエーナ……心配かけてごめんなさい。でも私、この力を持ったこと後悔してないから」

「そっか、遥は強くなったね」

 

 抱きしめて来たフィエーナの肢体に私は溺れる。

 

「遥。さっきは困るって言ったけどさ、もし……私の傍でする方がいいのなら私、見ない振りしてあげるから」

「フィエーナ?」

 

 え、え。何でそんなこと言うのフィエーナ。駄目だよ、そんな優しい言葉かけられたら甘えたくなっちゃうよ。

 

「あ、ただする時はくっついてこないでね。寝れないから」

 

 さっきまで背を向けていたフィエーナが振り返って冗談めかしながらウインクしてくる。けど、拒絶されたのは確かでちょっぴり内心私は傷つく。それでもオナニーばれして何もしてこないフィエーナが優しいのは変わらないのも確かだ。

 

「フィエーナ……好き」

「あはは、私も遥のこと好きだよ」

 

 眠りについたフィエーナから私はそっと離れ、自室に戻った。今度はフィエーナの眠りを妨げないように。

 

 

 



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T/A10:水泳の授業を受けることになりました。

 私が来てから唯一涼しかった朝方も残念なことに今日はとても暑かった。梅雨ももうすぐ明けるらしく、本格的に暑くなるとちょっぴり点けたテレビで天気予報のニュースキャスターが報じていた。この気温は本当に嫌になる。暑いだけならともかくムシムシしていて、本当に不快だ。

 

「フィエーナがしかめ面するなんてよっぽどだね」

「うん……私、暑さには強くないんだ」

 

 朝なのに……七分丈のスポーツウェアでただ外を歩いているだけなのに、ちょっぴりとはいえ汗を流すなんて初めての体験だ。

 

 燦々と輝く太陽の浮かぶ、透くような青空は見ている分には気持ちがいいけれど太陽にはちょっとでいいから出力を抑えて欲しい思いが募ってしまう。

 

この時期の日本に来たのを少し、後悔した。

 

「今日は三十度越すらしいよ。暑くなるね」

「言わないで遥。三十度なんて人の住める気温じゃないよ……」

 

遥と一緒に公園に行くと、葛西と尾頭の隣で仲良さそうに話す女の子がいた。智恵と同じくらい身長の高い女の人で、半そでのシャツにハーフパンツ姿から垣間見える肢体はしなやかで筋肉が付いている。ピンと跳ねるようにまとめられた後ろ髪がクルンと旋回してこちらを向いた顔立ちは猫のようで可愛らしく、興味深げにこちらを見つめて来る。

 

「よ、あんたが噂の転校生さん?」

「フィエーナ・アルゲンだよ、フィエーナって呼んでね。あなたは?」

「ひひ、ウチは本江澄ってんだ。同じ一年で、こいつらと同じでバスケしてんの。よろしく」

 

 無邪気な笑みを浮かべ手を差し伸べて来る澄に応え私も手を伸ばすと、ぶんぶんと子供のように腕を振った豪快な握手になる。

 

「うへあ、すっげえな。すっべすべじゃん。マジ美少女の手って感じするわ~。葛西も触るか?」

「え、いいんすか!?」

「握手するだけなら別にどんとこいだよ~」

「あ、やっぱいいっす。その、お隣の方が、ね……」

 

 軽薄そうな顔つきを神妙に正し、葛西は胸の前で両手を掲げ降参ポーズを取る。葛西の目線の先を辿ると、ただでさえ無表情だと冷たい印象のある遥の目付きが絶対零度の如き冷たさになっていた。

 

「何だよ、デキてるって噂はマジなのか?」

 

 まだ私が三丘高校に通って一日しか経ってないのにもうそんな噂が立ってしまっているのか。遥が変なこと口走らなければなあ、と私は遥に視線を向ける。

 

「あはは……私はお友達のつもりなんだけど」

「私だってそうだけど! 男の子にみだりに近付いちゃいけません!」

 

 そう言って葛西と尾頭の間に入り込む遥は妙に気合が入っていて可愛らしい。

 

「おいおい一ヶ宮さんよ、それじゃフィエーナに彼氏が出来ねーじゃん」

「そ、そんなの……フィエーナを幸せに出来るか私が見定めてから認めるから」

「一ヶ宮さんはフィエーナさんの親父か何かなのか……?」

 

 遥の反応に次々と突っ込みが入っていく。もし本当に私に彼氏が出来た時、遥は本当に大きな障壁として立ちふさがってきそうだ。

 

「んま、いーや。一ヶ宮さんもよろしくな。あ、遥って呼んでもいーか?」

「うん、いーよ。本江さん」

 

 差し出された澄の手を握る遥は、豪快に腕を振る澄の握手に翻弄されてしまっていた。澄の握手、勢いが凄い。

 

「なんだよー、澄でいいぜ」

「じゃあ……澄?」

「ぅう~! 遥もカワイーなー!」

 

 ちょっと躊躇って一呼吸置いてから上目遣いに名前を呼んで来る遥に澄がノックアウトされた。感極まって抱き付いて来る澄を驚きながらも遥は受け止めてあげている。

 

「あ、すまんつい」

「ううん。別にいーよ。ちょっと恥ずかしかったけど」

 

 すぐに我に帰って遥を離した澄だけど、頬を微かに染めて目を逸らす遥にまた衝動的に抱き付きに行ってしまう。気持ちはすっごく分かる。

 

「狙ってんかよー! もー!」

「!?」

 

 十センチ近い身長差に物を言わせて遥を抱き上げてしまった澄は、驚きに身を固めた遥へ頬ずりをしながらその場を一回転する。遥が困り出しているので、私は助け船を出してあげることにした。

 

「ねえねえみんな。そろそろ走らない? これ以上暑くなったら私、耐えられないよ」

「あっは、それもそうだな! おっしゃ! んじゃ、みんなウチに付いて来いやオラァ!」

 

 

 勢いよくスタートダッシュを決めた澄はあっという間に向こうへ行ってしまう。

 

「あれで一時間走り切れるのかな?」

「いやあ、澄ちゃんは調子よくかっ飛ばしてへばるのがいつものことなんよ」

「あいつは馬鹿だから付いていこうなんて思うなよ」

 

 案の定、澄を追いかけて走り出した私たちは途中で一気に走力を失って歩きに移行してしまった澄にすぐ追いついてしまった。のだけれど、少し休んでからの復調は素早く最初の無茶のせいで私たちほどのペースに追いつけはしないものの流石鍛えているだけはある持久力を見せてくれた。

 

「いや……フィエーナはさぁ……体、細いのにどこに体力隠し持ってんだよ?」

 

 一時間後。切れ切れに呼吸を重ねながら、太腿に手をついて澄はこちらを見上げて来る。

 

「あはは、毎日走ってるから体が慣れたんじゃないかな」

「マジか……」

 

 滝のように汗が湧き出ている澄ほどじゃないけれど、私も今日はかなり汗をかいてしまった。予想外に外が暑かったせいだ。帰る前に自動販売機で何か買って水分補給した方がいいかもしれない。そう思っていた私に遥が近寄ってきてコップに注がれたスポーツ飲料を渡してくれる。

 

「はい、フィエーナ」

「ありがとう遥、用意してくれてたの?」

「うん。明日からは私がいなくても飲み物用意しないと駄目だよ。すごく暑いんだから」

 

 コップの中身を飲み干した私の傍に立ち、遥は肩に掛けたメッセンジャーバッグからタオルを取り出して汗を拭ってくれる。甲斐甲斐しく頭から首にかけて丁寧に汗を拭ってくれる遥。こんなことずっとされてたら遥に頼り切りになってしまいそうだ。

 

「何か……噂が立つのも無理ねえよな」

「んだべさね」

「夫婦みたいな空気だよな」

 

 

 

 朝、クラスメイト達と挨拶を交わしながら遥と一緒に机に荷物をしまっていると智恵たちが会話に混ざってきて、今日の体育に話題が映った。

 

「水泳かー、私あんまり経験ないな」

「ロートキイルって内陸国よね。プールはないの?」

「あるけど、私はほとんど行ったことないな」

 

 雪夜の質問に応え、私はロートキイル人の水泳事情について軽く解説をする。小中を通して水泳を習う日本と比べると、小学校時代に水害対策の講習でしか水泳の授業を義務化していないので水泳はあまり縁のないスポーツだった。

 

 一応私の住むヴェルデ市にはプールがあるけれど、暇さえあれば道場に通っていた私が行ったのは講習の時くらいのものだった。

 

「フィエーナちゃんは、何泳ぎが得意なの?」

「あはは、私泳ぎ方は一つしか知らないな。ロートキイル語だとブルストって呼んでたけど、こんなのだよ」

 

 私がその場でカエルのように水を掻きわける動作をしてみせると、日本語では平泳ぎということを教えてもらう。あまり使わない単語だと、まだまだ教えてもらうことが多かった。

 

 

「まあ、今日は私参加できないけれどね。水着がないんだ」

「そっか、それならしょうがないね」

 

 そんなお話をしていたからだろうか、クラスに顔を出した祥子先生が私を呼び出して廊下に出るとスッと水着を目の前に差し出してきた。

 

「フィエーナさん。何とか間に合わせましたよ」

「これ、水着ですか?」

「はい。サイズが特殊でしたので特注になってしまいましたが、旧式のものならと間に合わせてもらいました」

「旧式、ですか?」

「新型といっても少し形が違うだけですから、気にするほどのものではありませんよ。どちらにせよ、フィエーナさんは数回しか使わないでしょう」

 

 大した違いがないのなら気にする必要もないだろう。それよりも一人だけ見学する羽目にならなかったのだ。私は祥子先生に感謝した。

 

「わが校の屋内プール設備はかなりのものですよ、せっかくですから楽しんでいらっしゃい」

「はい、ありがとうございます!」

 

 クラスルームから去っていく祥子先生を見送った後、私は新品の水着を持ってみんなのもとに戻っていく。特殊な衣服ではあるけれど、新品の洋服とあって私は心躍るのを感じた。

 

「見て見て。私にも水着が届いたよー」

「あ……よ、よかったわねフィエーナ」

「そ、そうだね雪夜ちゃん」

 

 あれ、ポリエチレン包装に包まれた水着を披露すると智恵を除き微妙な顔つきになってしまった。

 

「フィエーナこれ、古いタイプのスク水だよ」

「そうらしいね。けど、祥子先生は大した差はないって言ってたよ」

「んーまあ……フィエーナのスク水の方がアタシは着慣れてるけどな。ただ、クラスの連中はスパッツタイプばっかだろうな」

「みんなはどういうのを着ているの?」

「こんなの」

 

 遥が机からさっとノートを取り出し、ササッと走り書きした絵はシンプルながら違いがよく分かった。どうも私のスク水は股部分の布地が省略されていて、足の付け根部分あたりまで曝け出してしまうタイプのようだ。一方で遥たちの持っている水着はスパッツ型といって膝の上あたりまでしっかり布地で覆ったものらしい。

 

「このタイプを着るのって智恵くらいなの?」

「んにゃ、着てる奴もいるよ。ただ、このクラスだとアタシ含めて五人もいないな」

「あはは、そうなんだ……まあ、智恵と一緒なら私いいや」

「お、お揃いだな!」

「そーだねー」

 

 

 水泳の授業は着替えで時間を取られる都合上、二時限連続の授業になっていた。私は遥たちと一緒に更衣室に入る。更衣室はたくさんのロッカーとカーテンで仕切られた着替え用の個室が何十室も用意された広々とした空間で、授業後に髪を乾かすためのドライヤーまで鏡の前に何十台も設置されている。

 

 生涯で二つ目のプール施設だけれど、ロートキイルの公営プールより設備が整っている。日本のプールはみんなこうなのだろうか。

 

 ロッカーに荷物を入れて、私は開いていた個室に入り早速水着へと着替えた。五年ぶりの水着はあまりに久しぶりで、なおかつ水着が結構きつくて着替えるのに手間取ってしまった。

 

 俯くと、普段スポーツブラで抑えつけている胸が自由を取り戻して目一杯に膨らみを見せつけて来る。主にきつく感じたのは胸のせいだった。目の前にある姿鏡で自分自身の今の姿を確認する。一枚の紺色の布がぴったりと肌に寄り添って、体のラインがよく分かる。これじゃ、裸とそう変わらないのではと思ってしまうくらいだ。

 

 気恥ずかしさに個室を隔てるカーテンへ手を伸ばしては引っ込めてしまう。ふと視界に入った姿鏡に映った私の顔は僅かに紅く染まっていた。みんなと同じとはいえ、やっぱり恥ずかしいものは恥ずかしかった。

 

「フィエーナ、着替え終わった?」

 

 ぐずぐずしていると、カーテンの向こう側から遥が声をかけてくる。ちょうどいい、遥に見てもらって大丈夫と太鼓判を押してもらえれば外に出る勇気を持てる気がする。

 

「遥、ちょっと中に入ってきてもらっていい?」

「どうかしたの?」

 

 外に様子を窺われないように配慮してくれたのだろう、素早く隙のない侵入は玄人染みていて思わず目を見張ってしまう。そんな私よりも遥かに遥は目を見張り、胸元目掛け抱き付いてきた。

 

「遥?」

「フィエーナのおっぱいやらしいよ」

「えー、ひどいよ遥……私ただ水着を着ただけだよ」

 

 冗談ともつかない台詞を真顔で言い放った遥はそのまま耳を真っ赤にしながら胸元に顔を埋め続ける。じいぃっ……と、すぐ目の前にある谷間へと視線を集中させ続けて来る。咎める目付きとは違う、何処か恍惚とした目線が突き刺さる。

 

 私から言わせれば、今の遥の表情の方がいやらしさに満ちていた。人前では凛としたクール美少女然とした遥が面影なくトロンと蕩けた目付きで胸元に顔を埋めながら息を荒くしているのだ。

 

普段は肩のあたりまで降りている黒髪はスイミングキャップで纏められ、白いうなじが艶めかしく私の目の前に見せつけられる。紺色の水着がぴったりと張り付いた背中からお尻にかけてのラインは同性の私から見ても惚れ惚れするくらいに美しく芸術品のようだ。水着のスパッツ部分と太腿の境目は紺と白のコントラストが目に映え、柔らかさを主張するかのような食い込みが手を伸ばし触れたい欲求を刺激する。

 

遥は自分が滅多にいないレベルの美少女だという自覚がないんじゃないかな。このまま雰囲気に流されるといけない気がした私は意識して気を引き締める。ピリリとした殺気に遥は瞬間的に反応し、一瞬だけ狩人のような鋭い目つきに変え、次いで私の呆れ顔に見つめられおどおどと私から離れてシュンと俯く。

 

「ごめんねフィエーナ。ひどいこと言っちゃったね」

「あはは、気にしないで遥」

 

 元はと言えば水着如きで自信を失って友人に意見を求めた私が迂闊だったのだ。自分で言うのも何だけれど、私の容姿だって遥レベルでないにしろ綺麗な方ではあるのだ。隙を見せれば色んな意味で食べられかねない。同性に迫られた経験だって一度や二度じゃない。

 

 それでも、友人の間や家族親類の間だと気が緩んでも仕方ないしそれを許してくれる相手であって欲しいとも思う。だけれども、常在戦場状態で生存本能が荒ぶっている今の遥は普段通りの理性が損なわれている状態と言っていい。今の遥には隙を見せてはいけなかったし、試すような真似をした私が悪かったのだ。

 

 それにしても、こんな発情期の猫に近い遥を外に歩かせてもいいものなのだろうかと不安も覚えてしまった。私だからよかったものを、もし仲良しの男の子なんかがいて、そして今の遥を見て理性を制御出来るものだろうか……まあ、出来ないような人は私が許す気はないのだけれども、遥はとっても可愛らしいから常人の理性ではきっと我慢出来ずに一線を越えちゃう気がする。

 

そんなの、許せない。

 

「私も遥のこと責めれないな」

「フィエーナ?」

「ううん、何でもない。そろそろプールに行こう」

 

 思わず見せてしまった苦笑を押し隠し、私は遥の手を取ってカーテンを開け放つ。そう時間は経っていないからか、更衣室はまだまだ生徒たちで込み合っている。水着を着てこういった場所に来た経験の少ない私にとって、こんなにも薄着で歩き回る同年代の女の子たちがたくさんいる光景にやっぱりちょっとどきどきしてしまう。

 

 私が姿を見せた途端集まる視線。サッと見渡す限り悪意の籠った感情は見られなく、単純な好奇心が主立って感じられた。やっぱり私のことはまだ物珍しいのだろう。こんなことで今更気圧される私ではないけれど、今は格好が格好だけにあまり視線を浴びたくなかった。

 

「フィエーナは私が守るからね!」

「あはは、ありがとうね遥」

 

 私の心を見透かしたかのように前に立って視界を遥が遮ってくれる。遥の心遣いが今はありがたくて、素直にナイト役を任せることにした。

 

「お、フィエーナも着替え終わったか……って、何だよ遥?」

「智恵には刺激が強すぎるから見せない」

 

 一足早く着替え終わって近くで待っていてくれた智恵の前に遥は立ち、強い意思を感じる背中で私を庇う。

 

「何でだよ! アタシが着てるのと同じようなもんだろうが!」

 

 そう声を荒げて遥を避けようとその場でサイドステップする智恵だけれど、戦闘を重ねた遥の立ち回りに叶うはずもなく容赦なくブロックされる。

 

「別に授業中に見れるでしょう」

 

 いつの間にかいた雪夜の言葉は最もだ。何を二人は意地を張っているのやら。雪夜の後ろに立つ鈴子が智恵に向ける白けた視線が何処か生暖かく感じる。

 

「うっせえ! 正妻面してるがアタシだって負けちゃいねえんだよ!」

「私が負けるはずがない」

 

 興奮して動きの荒くなる智恵に対し、どこまで冷徹に視界を遮る遥。勝負は最初から決まっているようなものだ。けれど、ここで智恵が手を出したことで情勢は一変する。

 

「んにゃにおう!」

「むー!」

「ふははは! 遥ぁ! 捕まえた!」

 

 まさか一般人に手を挙げる訳にもいかない遥は一瞬体が反射的にカウンターアプローチで致死的攻撃を加えようとしたのを身を強張らせて抑え込み、その隙を付いて智恵は遥を抱きしめてしまう。ていうか遥、もうちょっと穏便な体術もあったのに選択肢を間違えたね。修行不足だぞ。

 

 身長が百六十センチほどある遥だけれど、百七十五センチはある智恵と比べると体格は劣る。ぎゅうと抱きしめられた遥は顔を胸に押し付けられ、せめてもの抵抗か仏頂面になる。

 

 

「おおー、似合ってんじゃん」

「本当? ありがとう」

 

 遥を捕獲したままの智恵に褒められ、私はちょっぴり安心した。遥は私に甘いところあるからもうちょっと客観視できる人間の目線も欲しいと思っていたのだ。

 

「いいなあ智恵ちゃんもフィエーナちゃんも……私ももっとおっきかったらなあ」

「そうよねえ……神様は不公平だわ」

 

 小さく盛り上がった胸元に手を添えてため息を吐く鈴子に同意するように、盛り上がりすら見られない雪夜も愚痴を零す。雪夜にしても鈴子にしてもロートキイルだと小学生に間違われるくらい背丈が小さい。里奈は背丈は小さくても胸だけはそこらの大人を優に打ち負かす成長をしていたのを思い出した。翻って遥は胸の大きさは鈴子とそう差はないけれど、スラッとした体躯は身体美極まれりといった感じで見ていて惚れ惚れする。

 

 身長はともかく、胸だったら半分くらいなら分けてあげたいのだけれどきっとそんなこといったら顰蹙を買うだろうなと私は口をつぐんだ。

 

「何だよ、アタシだってこの体で苦労してない訳じゃないんだぜ? 大きすぎて重いし、身長もデカすぎるから既製品で合うやつなんてほとんどないし」

「うぅ~、それは何度も聞いてるけど持たざる者には羨ましいんだよ智恵ちゃん。それに私だって小っちゃすぎて子供服しかサイズが合わなくて苦労してるんだから!」

 

 ならば唯一日本では平均的な身長の遥は困らないのだろうかというとそういう訳でもないらしい。話を振られた遥は渋面で衣服事情を語る。

 

「私もその……細すぎるから」

 

 周りに聞かれたら困るからか、小さな声で呟いた遥の言葉に全員がああ、と納得の声を上げる。何しろ身長が十センチは小さな雪夜や鈴子のウエストより優に一回りは遥の方が細いのだ。これではサイズの合う服は容易には見つからないだろう。

 

「あらあら、みんな揃って着る物に困っていたみたいね」

 

 事情はそれぞれだけれど、困っているのはみんな同じらしい。

 

「フィエーナは大丈夫なのか? ロートキイルからちゃんと夏服持って来てないときっついぞ~」

「うーん。実は日本の予想外の暑さにちょっと困ってる」

 

 気温が三十度を超すのは調べて把握していた。湿度が高くてムシムシするのも知っていた。そう、どちらも事前に知っていたのだ。けれど、想定を上回る体感の暑さに私はロートキイルに逃げ帰りたい思いが日々強まっていた。暑い暑いと思っていたロートキイルの夏が涼しかったとは予想だにしていなかった。

 

「この暑さでよく日本人は平気だね」

「平気な訳ないだろ。この時期外に出る気になれねーよ。なあ?」

 

 智恵の振りに全員が頷いて見せる。近くの同じクラスの生徒の幾人かにどうなのと話を振ってもうんざりした顔で同意の言葉を貰った。そうだよね、人間なら耐えられるはずがない。

 

「服装の工夫でどうにかなるものなのかな」

「無理。いっとくけど、八月はもっともっと暑くなるよフィエーナ」

「うええ……」

 

 心が萎えて屈みこむ私と鈴子の目が合う。何か元気づけるような言葉を探してか、あわあわと口を動かすも咄嗟にこの熱地獄を擁護する言葉が思い浮かばないようで可愛らしく慌てている。

 

「……ファイト!」

「……ありがとね、鈴子」

 

 腕をグッと掲げて励ましてくれる鈴子の愛らしさに癒されたので、この場は許すことにした。

 

 

 

 

 

 



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T/A11:泳いでみると案外何とかなりました。

 着替え終わった私たちは揃ってプールへと移動する。広々としたプールには一組の女子生徒だけではく、三組の生徒も集まっていた。どうやら合同で授業をするらしく、その中には見知った顔も混ざっていた。

 

「お! フィエーナじゃん! 朝ぶりだなあ!」

「や、澄。偶然だねえ」

 

 プールサイドでは走るなと聞かされていたけれど、そんなこと意に介していないように駆け寄ってきた澄から求められたハイタッチに私は応じる。

 

「ん? フィエーナは澄と知り合いなのか?」

「んふふ、玉砕された智恵殿には秘密の逢瀬で御座いますことよ」

「んなっ!?」

 

 お嬢様らしく(?)振舞っておほほほと笑う澄は、悪戯気な顔つきのままずいずいと智恵と距離を詰めていく。

 

「あはは、そんなんじゃないよ。朝、ランニングしてたら会ったんだ」

「しっかし智恵殿もやりますなあ。フィエーナに出会って即告白されたそうではありませぬか」

「うるせー」

「ひひ、からかってごめんって。今日もよろしくな」

 

 肘で脇腹をつついて来る澄をうざったそうにしながらも、そこまで智恵は邪険にした様子はなかった。

 

 やや刺々しい二人の掛け合いを前に私は雪夜の傍に屈んで事情を聴く。

 

「二人は知り合いなの?」

「あの二人身長が近いでしょう? 体育の準備運動ではよく組まされているのよ」

「へえ。じゃあ私も誰か見つけないとまずいのかな」

「私がいる」

「あの、遥ちゃんじゃ小さくないかな?」

 

 鈴子の言う通りで、遥と私だと五センチほど身長が違う。智恵ほどじゃないからどうにでもなりそうではあるけれど。

 

「おお、ならウチのダチに言って混ぜてやるよ。おんなじくらいだったはずですぜ」

 

 さっきまで智恵とじゃれていたはずなのに、いつの間にか割り込んで来た澄は私に対しても脇腹を肘でつつこうとして遥にブロックされてしまった。

 

妨害を受けキョトンとした表情をした澄の背後から、ジト目で澄の首に腕を絡ませる女の子がやってきた。ぐええと呻く澄にあれまと呟いてすぐさま腕は離していた。危なっかしい真似をする子だ。

 

「そのダチを置いて駆けてっちゃうんだから困りものね。プールサイドで走り回ったらだめじゃない」

「おー、こいつこいつ! 百合恵っち!」

 

 さっきの首絞めを気にしていないのを見るに、そういうスキンシップを頻繁にする仲なのか。澄の奔放な性格を前につい手が出ちゃうのかな。

 

「あれ、一組で見た顔だね」

 

 澄は三組の人だからてっきり同じ三組の人を紹介してくれるのかと思ったんだけれどという私の疑問はあっさりと氷解する。

 

「そうよ、澄とは同じバスケ部仲間なの」

 

 成る程、クラスの繋がりではなく部活の繋がりが日本にはあるんだ。ロートキイルだとそういうのは学外の活動になるから、思いつかなかった。

 

 と、先生たちが集合を合図する。先ほどまでざわざわとあちこちでお話に興じていたクラスメイト達が、誰とも言わずに動いて三十秒と経たずに整然と列を形成した。

 

 こういうところ、凄いなあと思ってしまう。私のクラスだともうちょっとグダグダしているのにな。

 

初めに今日の授業の内容を話した後で、久美先生が私に言及する。

 

「はーい、それじゃ準備運動を始めます! そうだ、フィエーナさんはどうしましょうか。身長が同じくらいの子と組むのだけど……」

「心配いらないです、組んでくれる人を見つけておきました」

 

 先生の言葉にすかさず百合恵が手を上げて発言する。

 

「あらホント? 誰かしら?」

「私と織香さんです」

「羽嶋さんに似鳥さんか、なら安心出来るわ。それじゃ転校生をよろしくね二人とも」

「はい!」

「はーい、任せてください久美先生」

 

 準備運動の号令をかけ先生がかけると、クラスメイト達は一斉にグループごとに集成を始める。私も遥たちと別れ、百合恵とその友人の元に近づいた。

 

「よろしくね織香」

「いえいえ、こちらこそよろしくですよー」

 

 にこやかに迎えてくれた織香の厚意をありがたく受け取り、私は二人と共に準備運動を進めていく。その後は習熟度別にグループを作っていく。私の水泳経験は幼少期で止まってしまっていると先生に話していた。なので、一番習熟度の低いグループに配属されることとなった。

 

「あれ、織香もなんだね」

「あはは~、水泳あんまり好きじゃないです……フィエーナさんも泳げないのですか?」

「うーん、そういう訳じゃないんだけれど」

 

 一応、子供の頃にはブルストでプール内を泳ぎ回っていた記憶はあるのだ。あの頃の動きを覚えていれば、泳ぐこと自体は可能なはず。

 

「ほらほら、あんまり無駄話してちゃ駄目よ? ほら、フィエーナさんの泳ぎを見てあげるからこっちにいらっしゃい。似鳥さんはちゃんと泳いできなさい」

「はーい」

 

 織香と別れ、とりあえず泳いでみろと言われたので先生の前で軽く平泳ぎを披露して見せる。泳げるかと頭は心配しても、体は案外と覚えているものらしい。かつてコーチとしてやってきた元五輪選手の動きは流麗で見惚れたものだった。その動きをなぞるように体を動かしていく。

 

 うだるような外気とは打って変わって気持ちの良い水をかき分け先生の目の前を十メートルほども泳ぎ振り返ると、久美先生は関心したように褒めてくれる。

 

「すごいじゃない! とっても綺麗なフォームで泳げているわ! もう平泳ぎは体に身に付いているみたいね。一週間しか水泳をしていなかったなんて信じられないくらい……講習の先生の腕がよかったのかしら」

 

 うろ覚えだけれど幼少期に教えを受けた人の名を挙げると、先生は納得したような声を上げる。

 

「知っているんですか?」

「水泳をしていれば名前くらいは聞いた事のある人よ。コーチの才能もあったなんて流石だわ!」

 

 その後、二十五メートルを難なく泳ぎ切った私は一定の泳力があると判断されたので織香とは別れ雪夜と鈴子のグループに混ざり込んだ。

 

「ここでは何をしているの?」

「バタフライで二十五メートルを泳ぐのが目標よ」

「フォームが綺麗に決まらないの……」

 

 どんな泳ぎをするのか質問をすると、雪夜がお手本を見せてくれる。平泳ぎよりも水中をダイナミックに進む姿は見ていて楽しく、そして綺麗なものだと感心してしまう。

 

「雪夜すごいね、とてもカッコいい」

「うふふ、ありがとうね」

「フィエーナちゃん! 私の泳ぎも見てて!」

 

 雪夜と比べるとちょっと動作にぎこちなさが見える泳ぎは、ちんまりとした鈴子の姿と相まって小さな子供が頑張っているみたいでほんわかとした気持ちにさせてくれる。

 

「鈴子も上手く泳げてると思うな。ね、私に泳ぎ方を教えてくれる?」

「いいよ! 私が先生だね! じゃあ……どうしたらいいかな雪夜ちゃん」

「そうね、私たちの泳ぎを見たのだから一回試しに泳いでもらいましょう。それで、駄目な部分を指摘していけばいいと思うわ」

「て、的確な指摘……雪夜ちゃんはすごいなあ」

「ふふっ、ありがとうね」

 

 そうして泳ぐよう促された訳だけれど、やはり参考にするなら雪夜の動きだろう。ただ、体のバランスは人それぞれで違うからそのまま真似をすればいいという訳でもない。

 

 試しに泳いでみると、平泳ぎとは違った泳ぎの楽しさがあった。何だか、水泳って面白いかもしれない。今度からは機会があれば泳いでもいいかもと思えた。

 

「どうだった? 少し自分向けにアレンジしちゃったけれど」

「フィエーナは……水泳初心者なのよね?」

「そうだよ? 我ながら結構上手く出来てたと思うけれど、どうだったかな」

「完璧だったよ! すごいねフィエーナちゃん! 見ただけでマスターしちゃった!」

「あははー、昔から体を動かすのだけは得意なんだ」

「て、天才児だわ……!」

「雪夜ちゃん! 次はクロール! クロール教えてあげようよ!」

「そ、そうね……折角だし四泳法マスターさせてあげましょう」

 

 その後しばらくして、私は雪夜と鈴子を師として四泳法と呼ばれる水泳の泳ぎ方を一通り学ぶことが出来た。こうして泳いでいる間に私はすっかり水中で体を動かす独特の挙動に面白みを見出していた。

 

「雪夜師匠。弟子の成長が早すぎます! もう教えられることがありません!」

「本当ねぇ……とんでもない子だわ」

「師匠、いいですか?」

「何ですかっ! フィエーナちゃん」

 

 いつのまにか先生から師匠にジョブチェンジしていた鈴子師匠へ、バタフライの動きが何処かぎこちなかったので、ちょっとこうしたらいいんじゃないかとアドバイスをしてみる。

 

「それじゃ、泳ぎ始めていいよ」

「はい、師匠!」

 

 鈴子の泳ぐタイミングに合わせて掛け声を入れていく。最初は反応にずれのあった鈴子だけれど、私が声を掛けてからの反応速度を見越して掛け声のタイミングを調整して最適なタイミングでの動作を可能にする。

 

 試しに支給されているストップウォッチで二十五メートルのタイムを測ると今までのタイムを大幅に超える結果が出ていた。

 

「早くなった……」

「ふぃ、フィエーナ師匠……!」

「あはは、よくやった愛弟子」

「師匠っ!」

 

 ひっしと抱き付いてくる鈴子をよしよしと撫でてあげていると、いつの間にか授業時間は過ぎてしまっていた。

 

 



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T/A12:伯父さんの知り合いに会いました。

 

 水泳の授業を終えて昼休みを迎える。三十度越えの外気よりマシとはいえ、いまいち冷えていなかった校内の気温が水に浸かっていた体には心地よく感じられた。

 

「あ、あの! ちょっとだけ時間もらっていいかな!」

 

 更衣室を出たところで呼び止めてきたのは黒い三つ編みのおさげを垂らし、眼鏡をかけた大人しそうな女の子だった。水泳用具を仕舞ったバッグを持っているあたり、授業を一緒に受けた同級生らしい。一組の子は顔を覚えているから、きっと三組の子だ。

 

「何か用かな」

「あ、はい。その……できれば三人だけで話したいんですけど」

「おじさ……紅葉のお父さんに関わる話なんだよね」

 

 紅葉という名の女の子の後ろで壁に背もたれていた子が口を出してくる。二人はどうも友人関係にあるようだ。

 

「そこまで聞かれたくない話なら、放課後に時間を作るよ?」

「あ、いや! そこまではしてくれなくてもいいです!」

 

 何か大事な話のようなので、遥たちに断ってちょっと時間を作る。二人に案内されたのは使われていない空き教室だった。机とかの一切置かれていない空き教室は何だか普段使っているクラスルームよりも広々とした印象を受けた。

 

「ここらへんでいいんじゃない?」

「う、うん……」

 

 頭の後ろに手を組み壁際に寄りかかってリラックスしている紅葉の友人と比べ、紅葉は随分と緊張している。もじもじちらちらとこちらの様子を窺ってくるばかりで話が進まない。

 

 私、怖がられているのかな。出来る限り敵意のない笑みを浮かべ、優しいトーンになるように声を掛けよう。

 

「それで、どういった用なの?」

「あ、あう……」

 

 じい、と見つめ続けているとやがて覚悟が決まったのか頬を赤くしながらちょっと震え声で紅葉は話し始めてくれた。

 

「えー……とですね。フィエーナ、さんの苗字はアルゲンでいいんですよね」

「そうだよ」

「メルツ・アルゲンさんってお父さんだったりします?」

「メルツ伯父さんかな」

「え、と。ロートキイルの軍人さんなんですけど」

「それなら合ってると思うよ。伯父さんは陸軍山岳旅団で働いているもん」

 

 それにしてもまさか異国の地で伯父の名前を聞かれることになるとは……伯父さん、一体何をやらかしたんだろう?

 

「あの……ですね。昔お父さんがメルツさんにお世話になった、らしいんです。それで、もしアルゲンさんがメルツさんの娘さんだったら挨拶したいって言いだしてまして……」

「へえ、意外なトコで縁があるもんだね」

「ほ、本当ですよねぇっ! あはは~」

 

 上ずった声で笑い声を上げ紅葉は後頭部に手をやる。調子のズレた発音に、後ろにいた友人が小さく笑い声を上げ、目敏く紅葉は後ろを睨んでまた私へ愛想笑いを浮かべて来た。器用な真似をする子だ。

 

「それにしてもどんなことで知り合ったんだろ」

「イラクらしいんですけど、私のお父さんも自衛官で、そのぉ外国だと軍隊みたいなそうじゃないみたいな組織で働いてて……」

 

 イラクか。そういえば、伯父さん派兵されてたっけ。一切口に出したがらないアフガニスタンと比べると何度か話を聞いたあたり、多少は精神的に楽な戦場だったんだろうけれどそれでもあんまり話題に上げようとはしなかった記憶がある。

 

「ふうん。紅葉のお父さんの名前聞いてもいい? 確認してみるよ」

「ありがとうございます! あの、賀谷幸徳っていいます」

「今から電話してみるね。ちょうどあっちは朝だろうから」

 

 とはいえ結構な早朝だ。早起きなメルツ伯父さんなら起きてるだろうけれどとは予想していたけれど、数コールもしないうちに電話はつながった。流石伯父さん、早い。

 

「おはようメルツ伯父さん。朝早くにごめんね」

「フィエーナが電話とは珍しいな。今日本にいるんだろう? 何かあったか」

 

 ロートキイルにいてもメルツ伯父さんにそんな頻繁に電話していなかったのに、わざわざ日本から電話を掛けたのだ。メルツ伯父さんの声音にはこちらを慮るような響きが見られた。

 

「ちょっとね。伯父さんがイラクに派遣された時に知り合った日本の軍人さんの娘さんと学校で会ったんだ。賀谷幸徳って人を知ってる?」

「カヤ……カヤか。随分と懐かしい名だ。そうか、あの頃からもう十年以上も経っているのか……」

 

 過去を懐かしみ、伯父さんは黙り込んでしまう。電話口の向こうにある、ロートキイルの静謐な朝の空気を私は唐突に思い出した。日本の空気が悪い訳じゃないのだけれど、思い出すと猛烈な郷愁に駆られる匂いが鼻をついた気がした。

 

 いけない、こんな時に寂寞に身を任せてる場合じゃない。無粋とは分かっていても、私は伯父さんの黙考を遮って会話を再開させる。

 

「知り合いなんだね」

「ああ。その娘さんはどんな子だ? 元気にしているのか」

 

 いきなりそんな事を言われてもな……会って全然経ってないのだ。ちらりと様子を窺うと、同じようにこちらを窺っていた紅葉と目が合う。途端、眼鏡越しに目線があらぬ方向に散り、顔を真っ赤にしてはそっと再び上目遣いでこちらに視線を戻してくる。

 

 私が微笑みかけながら手を振ると、真っ赤にした顔でおずおずと小さく上げた片手をふるふると振り返してくれた。うん、いい子だ。

 

「さっき知り合ったばかりだけど……うん、立派に育っていると言えるんじゃないかな」

「そうか……」

「朝早くにありがとう、それじゃ切るね」

「ああ、フィエーナも日本で頑張るんだぞ」

「ありがとう伯父さん。伯父さんもお仕事頑張って」

 

 感慨に耽り、私との会話にやや上の空な気のあったメルツ伯父さんとの会話を打ちきる。悪い思い出を想起させたらと内心危惧していたけれど、気苦労だったみたいでよかった。

 

「確かに伯父さん、賀谷って名前に憶えがあるみたいだね」

「そっか……」

 

 遠く離れた日本に思わぬ縁があったのだ。これを断ち切るのはちょっともったいない、気がする。

 

「ね、私もメルツ伯父さんとどんな出会いがあったのか知りたいし会わせて欲しいな」

「え? いいんですか?」

「うん。それじゃ連絡先を交換しておこうか」

「うえぇぇ!? は、はい!」

 

 日本で新しいSNSに登録したけれど、こうしてどんどん友人が増えていくのは嬉しい。

 

「よろしくね紅葉」

「よ、よろしくお願いします!」

「あはは、敬語なんて使わなくたっていいよ。これからはフィエーナって呼んでね」

「ほ、本当? いいの?」

 

 私が頷いて見せると、遠慮がちにフィエーナと呟いてくれた。可愛らしい子だ。

 

「よかったじゃん紅葉」

「う、うん……」

 

 今までのやり取りを紅葉の後ろから見ていた友人がうりうりと肘を紅葉に押し付けニヤニヤと笑う。嫌味な感じはしない、悪戯っ子のような笑みだ。

 

「あなたは紅葉のお友達?」

「そ、佐倉楓。よろしく!」

 

 さっと差し出された手に私が手を伸ばすと、大仰に上下に振られる。白い歯がにかっと見える笑顔でぶんぶんとする姿はちょっと幼げで、ロートキイル人基準だと中学生になりたて程度の身長のせいか、年下の女の子を相手しているような気分になってしまう。

 

「よろしく楓。楓とも仲良くしたいから、連絡先を交換しよう」

「お、おう……積極的ね! 私もフィエーナって呼んでいいかな!」

「いいよ。楓は面白いね」

「はっはっは! ほめられちまったぜい!」

「もう楓ったら……こいつ適当な奴なんですよ」

 

 その後は面会の日程について話しながら、私は二人と共に部室から教室へと戻る。意外と時間を取られてしまった。戻ったら急いで奈緒さんのお弁当を食べないといけない。

 

「ねねフィエーナ。フィエーナが一ヶ宮さんのためにわざわざ日本まで来たっていう噂は本当なの?」

「本当だよ」

 

 肯定すると、二人は息を揃えて驚く。というか、結構広まっちゃっているのかな。

 

「友情パワーだねぇ」

「友情? 噂によれば、二人は付き合ってるって……」

 

 紅葉の言葉に私は口の端がひくつきそうになる。そこも広まっているの……?

 

「あははー、遥とはお友達なんだけどなー。きっとロートキイルと日本で友情の表現法が違うから勘違いされてるんじゃないかな」

「おおー! 文化の違い! 例えば例えば?」

「うーん、友人同士ならハグは普通とかかな? 日本じゃやらない人もいるでしょ」

「でもでも、やる人もいるよ?」

「そうだね。けど、それが一般的かっていうとどうかな? 街を歩いてたらそこらじゅうでハグしてる人が見られるのがロートキイルだよ。こっちだと全然見かけないから私は新鮮だったな」

「あー……親しくても私なら楓とハグなんて絶対しないわ」

「えー! ひっでーな!」

 

 何だか紅葉って仲良くなった相手には結構辛辣な子だ。ばしばしと背を叩く楓の態度あってこそなのかもしれないけれど。

 

 そこまで空き教室と私のクラスルームとの距離は離れていなかったようでもうちょっと深く会話したいなと思ってるうちにクラスルームの入り口前に到着してしまった。あ、遥がこっちを見て目を輝かせているのが見える。早く行ってあげないと。

 

「それじゃ、また後でね」

「ばいばーい」

「んじゃね~」

 

 あれ? でも私、学校じゃあらぬ誤解が生まれないように同性、異性問わずロートキイルのように挨拶代わりの抱擁なんてした覚えはない。どうして遥との関係を勘違いされたのだろう。

 

 私が疑念に首を傾げつつ教室内に入ると、待っていましたとばかりに遥が駆け寄って来る。

 

「フィエーナ、どうかした?」

「ん、何でもないよ。それより早くお昼にしちゃおう? 話し込んだせいであんまり時間がないからね」

「うん!」

 

 笑顔で指を絡めてくる遥に引っ張られながら、私は智恵たちの座る机の方に歩いていくのだった。

 

 



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T/A13:歌を歌いました。

 時刻が五時になって、ようやく今日の授業は終了した。ロートキイルだと最終学年でも三時半には帰校できるので、長時間の拘束に気疲れを少し覚えてしまう。ただ、その分授業はより丁寧な印象を受けた。一、二回の留年を前提としているロートキイルと留年はあまり想定されていない日本の教育制度の違いだろうか。

 

「ようやく帰れるね」

 

 私の言葉に頷くのは遥と智恵。一方で雪夜に鈴子はまだ帰らないのだという。

 

「私たちはハルカやトモほど頭が良くないから……」

「これから追加授業なんだよー……来週は期末テストもあるし気合入れなくちゃ!」

 

 三丘高校はこの周辺でも屈指の進学校だ。ロートキイルに来て数か月でロートキイル語をマスターしてしまった遥のような天才は通常授業だけで問題ないけれど、普通の子はそうはいかない。先生と相談しつつ、進度の速い通常授業に遅れないよう適宜追加の授業パッケージを受けることで学力を付けるのだとか。

 

「フィエーナちゃんもテスト受けるって言ってたよね? 追加授業受けなくて平気なの?」

「ん、とりあえずは自習で頑張ろうかなって。いざとなれば優秀な家庭教師もいるし」

 

 私が微笑みかけると、気合の入った遥が私の両手を包み込むように握りかけてくる。

 

「任せて、フィエーナが満点取れるように頑張るから!」

「あはは、ありがとう遥。それにベーセル兄だって助けてくれるからね。負ける気がしないよ」

 

 テストの件を話したらベーセル兄は早速テスト範囲や授業内に出てきた設問傾向、授業方針などを私からヒアリングし勉強すべき指針を指し示してくれた。少ない労力でロートキイルの中等教育システムに染まった私を日本式に適合させたベーセル兄は教育者としての資質も一流だ。

 

やっぱりベーセル兄は私の一番のベーセル兄だ。感謝してもしきれない。果たして一生の間に恩返ししきれるか……きっとしきれないんだろうな。それでも私に出来ることはしていきたい。ベーセル兄のためだったら何だってしてあげたい。

 

 

 

 遥と一緒に帰宅後、遥が退魔師として出発するのを見送った私がリビングで勉強していると、奈緒さんがお茶を淹れて勉強中の私に差し出してくれた。

 

「どう? 日本の授業は?」

「ベーセル兄のおかげで困ったことはないんだ」

「んふふ、フィエーナちゃんはお兄さんのことが好きね」

「大っっっっっっっ好き。ベーセル兄の凄いところはいっぱいあるんだ。勉強が出来て運動も出来るだけじゃなくて、人としての格も私なんて及びもつかないくらいすごいんだよ」

 

 私はとめどなく溢れるベーセル兄への思いを奈緒さんに伝え続ける。延々と語り続けていると、いつの間にか仁悟さんが帰宅しリビングに立っていた。

 

「今日はお迎えがなくて寂しいよ……」

「あらあ、ごめんなさいね仁悟さん。でもすごいのよ、フィエーナちゃん何十分もずうっとお兄さんの自慢話を途切れることなく話し続けるの。私感心しちゃった」

「へえ、ベーセル君だっけか? ずいぶんと優秀だとは聞いたね」

「うん! ベーセル兄はとっても優秀なんだ!」

「おや、フィエーナさんが珍しく興奮しているね」

「こんな可愛いんだもの。お兄さんも甘やかしちゃうわ」

「仁悟さんも聞いてくれますか?」

 

 ベーセル兄が会話の話題に上ったことは幾度かあったけれど、一ヶ宮家の人にここまで突っ込んだ話をするのは初めてだ。ベーセル兄についての話だし絶対興味を持ってくれる。

 

「あー……俺はまず風呂で汗を流させてもらおうかな」

 

 何処か慌ただしくリビングを去ってしまった仁悟さん。ああ残念だ。仁悟さんにも話を聞いてほしかった。けれど奈緒さんがまだいる。

 

「ごめんなさいねフィエーナちゃん。まだやらなきゃいけない家事がたくさん残っているの。それにフィエーナちゃんもまだ勉強全然してないでしょう? お兄さんのためにもしっかり勉強しないと駄目よ」

 

 そういえばさっき勉強を初めて間もなく奈緒さんがやってきたからロクに勉強に手を付けていなかった。折角ベーセル兄が私の為に時間を取って面倒を見てくれたのに、手を抜いてはベーセル兄の妹としての名折れだ。

 

「そうだね、奈緒さん話聞いてくれてありがとうね」

「ううん、また色んなお話聞かせてちょうだい」

 

 

 

 夜の九時を過ぎてようやく帰ってきた遥と一緒にみんなで夕食を取っていると、ふと遥が私の歌を聞きたいと言い出した。

 

「フィエーナもたまには歌っとかないと喉が訛っちゃうんじゃない」

「そうだ、それで遥に防音室使っていいか聞こうと思ってたんだ。遥の部屋を借りてもいい?」

「いいよ、勝手に入っても。フィエーナなら好きにして構わないから」

「ありがとう遥」

「あら、フィエーナちゃんは歌が得意なの?」

 

 奈緒さんに聞かれ、そういえば言ってなかったかもと私は合唱団に所属しているのだと明かす。

 

「へえ、どんな歌を歌っているのかしら」

「結構節操無しに色々。老人ホームに陸軍、病院……場所によって受ける曲も違うからね」

「歌っているところをみてみたいな。なあ?」

 

 同意を求めるように仁悟さんが周囲に視線をやると、奈緒さんも遥もうんうんと頷いて見せる。

 

「んー……ちょっと恥ずかしいけれど、ご飯食べたら披露してみようかな」

「恥ずかしがる必要ないよフィエーナ。フィエーナの歌はとっても綺麗なんだよママ」

「へえ、それは楽しみね」

「あんまりハードルを上げないでよ遥」

 

 夕食を食べ終え、遥の部屋に全員で移動する。カーペットに座る三人の期待するような目線を浴びつつ、私は喉慣らしもかねて一つ歌って見せる。聖歌を歌っていると、熱心な信者でない私にも何処か神への畏敬の思いが湧いてくるような気がする。地元にある教会のひんやりとした、心が清らかになるような空気を胸に抱きながら私は一曲歌い終えた。

 

 三人だけの観客は、歌い終えた私にいっぱいの拍手を浴びせてくれる。

 

「心が洗われるようだったわ……」

「そうだな……今日はぐっすり眠れそうな気がする」

 

 うっとりとした顔つきで胸元に手を乗せる奈緒さんの肩へ手を回す仁悟さんは、仕事終わりとは思えない晴れやかな表情でこちらに微笑みかけて来る。遥に至っては瞳から涙を零していた。そこまで感動してくれると、私としても嬉しい限りだ。

 

「やっぱりフィエーナの歌好き。もっと歌ってくれる?」

 

 涙を人差し指で拭う遥の姿は清廉な美少女然としていて、私は一瞬見惚れてしまう。そんな遥のお願いを私に断れるはずがなかった。

 

「いいよ、私も歌い足りなかったところ」

 

 それでも合唱団の先生の教えは忘れていないから、私は数曲で歌うのを止める。コンサートなどで私のトータルの歌唱時間及び単位時間当たりの歌唱時間の制限を図る先生の気苦労を間近に見ている私には、先生の危惧を笑い飛ばすことなんてできなかった。

 

「今日はこの辺にしとこうかな」

 

 私の言葉を聞き、奈緒さんと仁悟さんは露骨に不満を表情に現してくる。

 

「もうやめちゃうの?」

「何だ、まだ俺は聞いていられるぞ?」

「あはは、二人とも明日があるんだからそろそろ寝ないと駄目だよ」

 

 私の言葉を聞き遥の部屋にかかっている時計に目を移した仁悟さんは慌てて立ち上がる。

 

「残念だけど、俺はまだ資料にも目を通さないといけないからここで失礼するよ」

 

 おやすみの挨拶を交わして仁悟さんが部屋から出ていくと遥も欠伸を噛み殺しながら立ち上がり、私の目の前まで歩いて来る。

 

「私寝るからフィエーナはこっち」

「えー! 遥ちゃんはフィエーナちゃんの歌はもういいの!?」

「私眠いんだ、ママ」

 

 手を握って私をベッドに引っ張る遥の目はトロンとしている。今日も退魔師として数時間戦闘を続けていたのだ。しっかり休まなくちゃ体がもたない。

 

「そっか、それじゃ……ううぅ……すっごく名残惜しいけど二人ともおやすみなさいね」

 

 そう言って奈緒さんは部屋の明かりをついでに消してから出て行った。

 

「フィエーナのお歌は相変わらず延々と聞いてたくなっちゃうけど、私がストッパーになってあげるからね」

「ありがとう遥」

「ん」

 

 抱き付いてきた遥の柔らかな体が弱冷房の室内では少々暑かったけれど、次第に思考は微睡んでいつの間にか私は眠ってしまっていた。

 

 



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T/A14:鈴子がお弁当を忘れました。

 

 

 目を覚ましスマホを確認すると、昨日のうちに紅葉からメッセージが届いていた。私が寝ていたので連絡は諦め、明日の朝に会えないかとだけ残されていた。やってしまったと後悔しつつ、私は朝に会える旨返信を残しておいた。

 

「誰から?」

 

 リビングでスマホを操作していた私の肩に、寝起きで口調がむにゃむにゃ気味の遥の顔が乗っかる。

 

「昨日お話した紅葉だよ。今日も話す必要があるから、ちょっと早く登校するね」

「私も行く。除け者にしないで」

「んー。紅葉がいいって言ったらね」

 

 私からすると不思議な話だけれど、紅葉は父親の職業が明らかになるのをあまりよく思っていないようだった。隠すような職業ではないと思うのだけれど、本人の意向を無下にする訳にはいかない。

 

 

 

 普段より早く登校し部室まで行くと紅葉の友達である楓が一人、扉の前に寄りかかっていた。

 

「おはよー、フィエーナ。それに一ヶ宮さん?」

「おはよう楓。遥が何の話をしたのか気にしててね、紅葉に話してもいいか聞いておこうと思ったんだ」

「あー……一ヶ宮さんならいーと思うけど。まあまあ入ってよ。紅葉は朝の補習に出てるからさ」

 

 三丘高校では九時から始まる通常授業の前に、早朝授業まである。よほど優秀な生徒でもない限り参加していると聞くので、楓は相当頭のいい子のようだ。

 

「いやあ、今日も朝から暑いよねー。麦茶あるよ、飲む?」

「もらおうかな」

「あ……私もいい?」

「いいよいいよー、はいどうぞ!」

 

 冷蔵庫から取り出したペットボトルの麦茶をコップに注ぎ、私たちに渡した後で楓は間髪入れず一気に飲み干してしまう。豪快に呷って口元から一筋垂れる麦茶を腕で拭うと、乱暴にコップをテーブルに叩きつけ楓は叫ぶ。

 

「くはーっ! 染み渡る! もういっぱい!」

 

 二杯目を呑んで満足したらしい楓は冷蔵庫に麦茶をしまうと、クーラーの風が直に当たるよう位置取りをしてようやく腰を落ち着けた。

 

「ロートキイルも夏は暑いの?」

「暑い、と思ってたんだけれどね……日本は段違いに暑いかな」

「そっかあ、湿度もムシムシだもんね。一ヶ宮さん……遥って私も呼んでいい? 代わりに私のことは楓って呼び捨てでいーからさ」

「いいよ」

「遥はフィエーナの何処に惚れたの?」

 

 思いもよらない質問に私はむせてしまう。な、なにを言っているんだ楓は? 遥もきっと驚いているに違いない。

 

「うーん……フィエーナのいいところはたくさんある。から、一言ではとてもいいつくせない、けど。端的に言って全部好き。超好き。最大級に好き。ハイパー大好き」

「お、おおー……」

「は、遥……」

 

 まさに恋する乙女らしい、頬を淡く染めた遥から直球の好意を浴びせかけられて私はノックダウンさせられてしまった。私の顔面に血が上っていくのを感じる。

 

「遅れてごめんなさーい! って、あれ?」

 

 硬化した場の雰囲気を打ち破ったのはスライド式の扉を勢いよく開けて入ってきた紅葉だった。けれど、室内の異様な気配に呑まれ、おずおずと後退していってしまう。

 

「あー……お邪魔、でした?」

「そんなことない! そんなことないって! ね、フィエーナ!?」

「あ、うん。この場を用意したのは紅葉なんだから邪魔なんてことあるはずがないよ」

「そ、そうだよね。でも、どうして一ヶ宮さんもいるの?」

 

 事情を話すと、紅葉は遥の同席に同意してくれた。

 

「ありがとう。賀谷さん」

「でも、あんまり公にはしないでよね一ヶ宮さん」

「分かってる」

 

 その後、紅葉といくつか打ち合わせをして紅葉のお父さんと会うのはテスト週間が終わってからということで決まる。

 

「それにしてもどういう接点があるんだろうね。おじさんのいた地点の傍にロートキイル陸軍もいたみたいだけどさ」

「私も軽く調べたけど、分からないな。昨日のメルツ伯父さんの口調からして悪い思い出って訳ではなさそうではあるけれどね」

「ふーん……お父さんの知り合いがロートキイル人で、その姪のフィエーナが私のいる学校に来るなんて……すっごい偶然だよねえ」

「うんめー感じちゃうねー」

「紅葉とは何か縁があるのかもね」

「え、ええっ! そ、そうかな!? あ、あああそうだ! もうすぐホームルームだよ!」

 

 あからさまに動揺し、話題を逸らしてくる紅葉に視線を揃えて笑い合う私と楓。何て可愛らしい、からかいがいのある女の子なんだろう。ほの暗い感情をほとばしらせて来る遥は、見なかったことにした。

 

 

 

「あれっ? あれれ?」

 

 午前中の授業を終えて、机を寄せ合いお昼ご飯にしようとしたところで鈴子の困惑した声が私の耳に届く。

 

「どうかしたの?」

「お弁当がない……おかしいな、入れたと思ったのにな……」

 

 がさごそと学生鞄を漁る鈴子。けれどよく整頓された鞄の中は漁るまでもなくお弁当がないと分かってしまう。

 

「あららー、やってしまったわねー」

「ううぅ……」

 

 目に涙を溜めて俯く鈴子の姿はとても見ていられない。

 

「何だよ仕方ないな。アタシが分けてやるからそんなにしょげんなって」

「私たちが少しずつ分ければ何とかなるわよ。だから泣かない、ね?」

「鈴ちゃん弁当忘れたの? ウチも分けちゃろかー?」

「何だよ泣くなよ野崎ー、俺もやるよー」

 

 智恵と雪夜に始まりどんどんと周囲のクラスメイト達が慰めの言葉をかけていく。この分だと鈴子には食べきれないほどのおすそ分けが集まりそうな勢いだ。鈴子はどうもこのクラスのマスコット的に可愛がられているようだ。

 

「でももしかしたらそろそろ……お、やっぱ来た。おーい野崎! 弟君ですぞ!」

「え、大志君?」

「すいませーん、僕の姉さんに忘れ物届けに来ましたー」

 

 クラスメイトであり、ランニング仲間でもある葛西の声に釣られてクラスルームの入り口に目を移すと、身長百七十センチ前後の何処か飄々とした態度を取るひょろりとした男の子が立っていた。三丘高校の制服に似通ってはいるけれど、ちょっと違う意匠の服装は恐らく三丘中学のもの。

 

「大志君お弁当届けてきてくれたの? ありがとー!」

 

 鈴子に大志君と呼ばれた彼と私は、ふと目が合ってしまう。すると大志は目を見開いて硬直してしまった。ニコニコとダッシュして駆け寄った鈴子に目を合わせようとせず、ただただ私に目をやっている。

 

「大志君? 大志くーん!」

「えっ、あ、ああ。姉さん」

 

 ゆさゆさと鈴子が揺さぶってようやく大志は我を取り戻し鈴子に目線を移す。

 

「何だー? 弟君も一組最かわ美少女転校生に惚れちゃったのかー?」

「しょうがないわよー、だって女の私でも惚れちゃいそうなんだもん」

「んふふ……大志君も男の子なんだね」

 

 クラスメイト達の揶揄と擁護の声、それに目の前の鈴子の意味深な笑顔に大志は顔を真っ赤にし、あわあわと口を蠢かせるも何も声を出すことは出来ない。

 

「紹介するよ! お姉さんのお友達のフィエーナ・アルゲンさんだよ! ロートキイルからの留学生なの!」

「あはは、よろしくね。大志で、いいのかな。フィエーナって呼んでね」

 

 しかし鈴子は大志の動揺を気にした様子もなく、私を引っ張って大志に引き合わせる。

 

「あ、は……はい。姉さんの弟の野崎大志です。あの、そそっかしい姉ですがどうかよろしくお願いします」

「ちょっと大志君! お姉さんですよ!」

 

 すっかり緊張してしまった大志の声は少々震えていて、握手の手も汗ばんでいた。涼やかな顔立ちで、最初見た時は表情筋が死んでいるかのような表情をしていたけれど、随分と印象が変わってしまった。鈴子と同じく可愛らしい子だな。家系の遺伝なんだろうか。

 

「あ、あの僕、これで失礼しますっ!」

「た、大志君っ!?」

 

 駆け去っていく見て、鈴子がぽつりと呟く。

 

「大志君があそこまで動揺したの久々……フィエーナちゃんって罪作りだね」

「ひどいよー」

 

お昼ご飯では大志が話題になる。

 

「大志は三丘中学校の生徒なの?」

「そうだよ、今は二年生なんだ。私が忘れ物するとよく気が付いて届けてくれるいい子なんだよ」

「週に一回は来てるぞ。鈴子は忘れ物が多すぎだ」

「うう……よく言われます……」

「あの子はそれを苦に思ってはいなさそうだけれどね。きっと可愛いお姉さんの世話焼きが好きなのよ」

「うう……私はお姉さんなのにー……お勉強見てあげたりはしてるんだよー?」

 

 へにょへにょした顔つきになって机にうなだれる鈴子をよしよしと智恵が撫でる。撫で心地がよいのか智恵の顔がだらしなく緩み、撫でられている鈴子も気分が落ち着いたらしくリラックスした表情でのほほんとしている。うーん、やっぱり鈴子は可愛い。

 

「鈴子を見ていると癒されるわ」

「分かる。飼いたい」

「遥ちゃん!? それどういう意味なの!?」

「でもアタシも分かる」

「智恵ちゃんまで!?」

 

 二人とは違うよねと私と雪夜に視線を振られるけれど、正直遥の気持ちが分かってしまって私は愛想笑いに終始した。雪夜も否定の言葉は上げず、微妙に目線を逸らして微笑んでいた。私たちのほかのそばにいるクラスメイト達に縋るも、無慈悲に無言の肯定をされ鈴子は再び机に沈んだ。

 

「ううー……みんなひどいよー……犬っぽいとか言われるけどさ……」

 

 



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T/A-Ha02:閑話

 私が性的な快感を知ったのは、フィエーナと出会ってからと言っても良かった。ロートキイルでは当たり前だったけれど、日本人の私にはびっくりするくらいくっついてきてはスキンシップを図るフィエーナに最初は驚きっぱなしだった。

 

 そう、初めはその感情は驚きだとか、気恥ずかしいとかそういう部類の感情と私は思っていた。

 

 けど、違った。初めてフィエーナと一緒にお風呂に入った時のこと、今でも鮮明に思い出せる。今より幼げな顔つきなのにおっぱいは既に人並み以上に大きくほっそりとした肢体。普段きつく抑え込まれているフィエーナのたわわなおっぱいはブラジャーの拘束が解かれた故に歩くたびにふるふると揺れ、そしてそれを当時の私は理由も分からず目で追っていた。

 

 いや、おっぱいだけじゃない。フィエーナが前を歩くことで見放題の白くてまあるいお尻にも、すべすべとしていて流麗な背中を、対面した時に見える華奢な鎖骨を、秘所に向かってつるんとして滑らかな鼠蹊部を、フィエーナの露わになった全身の隅から隅まで私は理由もわからず目に焼き付けていた。

 

 あの頃の私は美少女であるフィエーナに見惚れたからだと結論付けた。それは間違っていないけれど、そこに私が今まで隠し持っていた情欲のマグマを噴き上げるやましい感情が隠れていたと自覚していなかった。

 

 そう、お互いに無知なシチュエーションだったわけで私が自慰行為をする際に妄想する定番のネタでもあった。もし、あの時の私が手を出してたら……それを妄想のネタに使ってするとよくイケる。

 

 それはともかくとして、その日に自覚した謎の感情を私はどうやって処理したら分からなくて、それでもそれは気持ちよくて、当時の生きるのが苦しかった私には再び何としてでも味わいたい感覚だった。

 

 けれど、無知だった私にも当時の快感の再現が人目に憚れる行為だとは分かっていて、居候先の林原家でバレたらと思うと思う存分するには憚られた。

 

 こっそり、こっそりと私は自分を慰めていく。今と比べると本当に子供らしく週に数日、隙を見つけては軽く胸や股の間に軽く触れるだけの児戯。そして、その時に思い浮かべていたのはいつもフィエーナだった。フィエーナの裸体を妄想のネタにして私は一人勝手に燃え上がっていた。

 

 幸か不幸か私の体は簡単に飛べる体質で、ヤろうと思って事に及んでもそう時間がかかることはなかった。頻度が数日から徐々に短くなっていき、日に一回はシないと満足できなくなってからも数分もあれば私は一気に高みを味わえていた。

 

 日本に戻ってからは私にとってかなりの高環境を手に入れる。ご近所さんに迷惑をかけないように用意された防音設備は、私が必死に我慢してきた喘ぎ声を自由に上げられるようにしてくれた。

 

 吐息から漏れるエッチな声を必死に我慢しながらの行為もそれはそれで自身を昂らせる燃料として味わっていたのも否めないけれど、それはそれとして快楽に身を委ねて声を上げられる自慰行為は別種の気持ちよさがあった。一度自分がどんな声をだしているのか気になって録音した音声を聞いてみたことがあったけれど、あれを聞かれたら私を見る周りの目は大きく変わるだろう。蔑まれること必至な獣性に満ちた雄叫びを私は顔を真っ赤にして消去した。

 

 退魔師として続けて来た修行は自分の部屋のドアのノブが数ミリ回されたその刹那、股を下品に開いて指を指し込んでいる体勢から瞬時にベッドに潜り込むくらいは容易く行える。

 

 両親に気付かれるスリルを感じながらも、私はいざ部屋に入り込まれてもばれない自信があった。だから、行為は徐々にエスカレートしていった。未成年なのにいけないと知りつつも、インターネットから知識を仕入れてどんどんと快楽に溺れていった。ただし、行為の形がどのように変容しても妄想のネタがフィエーナなのには変わることがなかった。

 

 でも、フィエーナが悪いのだ。私が深みに嵌るきっかけであり、深みに沈んでいく主因でもある。フィエーナさえいなければ私がオナニー狂いになることもなかった。じゃあ、出会わなければよかったとは微塵も思わない。私がフィエーナの魅力に憑りつかれたとしても、在り方が狂ってしまったとしても、私はフィエーナと会えてよかったと思っている。願わくば、フィエーナにもそれくらい私のことを想って欲しい。駄目かな。

 

 

 

 唯一日本において問題なのはロートキイル時代にあったフィエーナとの物理的な接触が断たれたことだった。もちろん毎日のようにインターネットを介して顔を合わせ、その様子はアーカイブとしてもれなく保存し、 使えるネタ集も何パートも用意してある。

 

 けど……やぱり生のフィエーナが足りなかった。確かに私は鮮明にフィエーナの感触、匂い、温もり、吐息、声音……全て思い起こせる。けど、違う。実際にフィエーナと触れ合いたかった。それをネタにしたかった。そうすれば今の環境と相まってもっともっと気持ちよくなれるのにと歯がゆく思うことも何度となくあった。

 

 そんな折、私は新種の魔之物と対峙することになる。あんなに毎日何回も貪っていた快楽に食指が伸びなくなり、起きて食べて寝るだけの日々へ変貌していく。シたとしても一回、それも軽くさするような程度で満足して眠れるようになってしまった。

 

 まあ、それはそれでいいかなと思っていた。お友達と遊べなくなったり、フィエーナとまともに会話する時間も取れなくなったりといった大事に比べればオナニーが全然出来ないなんてどうでもいいことだった。むしろ、回数が減って健全な性生活を送れていると言ってもよかったかもしれなかった。

 

 

 

 フィエーナが来るまでは。

 

 フィエーナだフィエーナの匂いだいい匂いがするうううううこれだけであ、イっちゃった♥ 無理♥ あ♥ あ♥ フィエーナのおっぱいに直に触れてる♥ 駄目♥ イク♥

 

 このザマだった。もう、フィエーナがいなかった頃のオナニーなんて不感症同然に気持ちよくなれた。自分でもドン引きするくらいに私は簡単に頂点に達し、そしてそれが連続し、しかもその頂点は達する度にどんどんと深く大きくなっていく。

 

 あげく我慢できずにフィエーナの傍でこっそりオナニーし出すありさまで、私自身ドン引きだ。

 

 幸いフィエーナは私のオナニーを見ても態度を変えないでくれたけれど、それはあの時の行為が本当に軽い代物だったからで、もし白目をむくような濃厚なオナニーを目の前で見せつけていたらどうなったのか想像……想像したらムラムラしてくる。駄目だ、本当に今の私はダメダメだ。

 

 せっかくフィエーナが来てくれて心も体も元気いっぱいになったのに、その生まれた気力を無為に浪費しているのだから我ながら愚か者だ。でも、手が止まらないのだ。どうしたらいいんだろう。

 

 あげく数時間も行為に耽って寝不足でフラフラとしている姿を心配される始末だ。

 

 フィエーナを私の自慰行為に巻き込むなんてもってのほかだと理性はストップをかけるけれど、欲望むき出しの性欲はフィエーナを襲えとまで囁いて来る。

 

 そんなの駄目だ。フィエーナを、無理やりなんて……出来なくは、ない。やろうと思えば簡単にフィエーナをベッドに抑えつけて無茶苦茶に出来るだろう。

 

 ヤリたい。フィエーナが誰にも見せたことのない秘所を私が直々に開き、挿れ、ねぶりまわし、溢れる体液を顔中に浴びてフィエーナの匂いに包まれたらどれほどいいのにと思わない日はない。

 

 でも、でも……無理やりしてフィエーナを悲しませたくない。もしフィエーナがヤッたら簡単に堕ちるような子だったら……それはそれで駄目だ。フィエーナを他の人に渡すなんて絶対に駄目だ。そんなことは許されない。もし、そんな敵がいたら私の全力で叩き潰す。殺すだけで足りるだろうか? 

 

 私の技術の粋を尽くしてフィエーナを堕とすのなら、私が私であるが所以でフィエーナを靡かせられたら……はあ、私が願うだけでフィエーナとセックス出来たらいいのにな。

 

 そういえば、フィエーナってたまに異様にチョロイ時があるのを私は思い出す。そう、普段ならニコニコしながらも拒否するようなことでもその時だけは頑張って頼み込めば聞いてくれる。そんな日がフィエーナにはあった。

 

 エリナとそんな話題で盛り上がった時、確かエリナもどうしても頼みたいことがある時はちょろちょろな日を狙うのだと話していた。

 

 もし、その日ならフィエーナと……。

 

 

 

 

 

 

 



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T/A15V:猥談を聞く羽目になった。

 

 

 いつも眠っている自室の空気とは異なる違和感に目を覚ますと、自我がフィエーナから俺へ変遷していた。

 

静謐な空間内では、すうすうと寝息を立てる遥とクーラーの立てる微かな駆動音だけが耳に音を届けて来る。

 

 既に太陽は昇っているようだ、枕元だけを照らす光量の少ないナイトスタンドの光のほかにカーテンの隙間から朝の陽ざしが差し込んできている。

 

 薄暗い室内をぼうっと見つめていると、ここはいつもいる自宅ではないのだとしみじみと自覚する。日本か、思えば遠くまで来たものだ。

 

 どうにも外の景色が見たくなり、カーテンを開くと三丘市の街並みが目に入る。まだ早朝で人気のない街並みはロートキイルとは建物の形式からまるで違っていて異国感を覚える。

街のあちこちに張り巡らされている電柱と電線、標示がまるで異なる道路舗装等々……独特の景色だが、俺はこの日本の地方都市の街並みを気に入った。

 

 街の空気も吸ってみたい思いに駆られたが、昨日フィエーナがうだるような暑さに参っていたのを思い出し踏みとどまる。俺はフィエーナよりは暑さに強いが、それでも好んで熱所に突っ込んでいく馬鹿ではない。どうせすぐにランニングに出かけるのだからその時に味わうとしよう。

 

「おはようふぃえーな……どうかした?」

「ううん、何でもない。おはよう遥」

 

 遥……今は起きたばかりで寝たげに目を半開きにしているが、毎日あの細く華奢な体で戦っているのだ。この俺が何も出来ずにただ、見守るだけしかできないとはな……。俺は戦えない者になどなりたくなかった。魔力、あるいは滅魔さえあればと力を欲する思いに駆られる。

 

駄目だな、もう俺はヴェイルじゃない。フィエーナなのだからと思って諦めなくてはいけないのだろう。だが、フィエーナと違って俺は諦めが悪い性格をしている。

 

「ねえ遥……私は魔之物と戦えないくらい弱いのかな」

「フィエーナ?」

「私って、そんなに弱い? 一緒に戦って……」

 

 思わず口を出てしまった言葉は、憐れむような目をした遥に抱きしめられ止まる。

 

「フィエーナは弱くなんかないよ。でも、魔之物は魔力を持つ人にしか退治出来ないの」

「そう……だよね。ごめん、変なこと言っちゃった」

「ううん、フィエーナが私を想ってくれてるのは伝わった」

 

 フィエーナは同じ思いを共有しているが、口に出さない自制心があった。翻って俺はどうだ? やっぱり俺は馬鹿だ、フィエーナに尊敬されるような英雄じゃない。

 

 ああ畜生、俺に考え事なんてさせるものじゃない、頭脳労働はハリアやヨーキ、ラフィテアに任してしまえばよかった頃が懐かしい。もやもやとした思いを抱え込んでおくと先々よくない、さっさと日課のランニングに行くことにした。

 

 

 

 三丘高校に通うようになってまだ三日目だが、それでもある程度の流れは掴んできた。登校してからの四時限授業を恙なくこなし、さあお昼休みといったところで遥のスマートフォンに不愉快な連絡が入る。

 

「緊急事態、すぐ行かなきゃ」

 

 クラスメイト達がいる手前、俺にのみ聞こえるように素早く呟いた遥は荷物を手早く片付けクラスルームを出る。さっきまで友人たちに囲まれ和やかだった遥の表情が能面のように硬くなるも、それを見られる暇を与えない素早い所作はクラスメイト達に違和感を察せられる前に姿を消すことに成功していた。

 

 友人たちの意識の隙間を上手く付いた結果、遥がクラスルームから消えた十数秒間は誰も遥が消えたことに気付きすらしなかったほどだった。

 

「あれ? あれえ? 遥ちゃんがいなくなってる!」

 

 ようやく気が付いた鈴子が遥の席を指さす。

 

「さっきまでいたと思ったんだけどねえ」

「何処に行ったんだろうな……フィエーナ?」

 

 俺の表情もまた、日常をいきなりかき乱した魔之物への苛立ちで硬くなっていたらしい。事情を察した智恵は席に座る俺の傍に屈み、小さく沈鬱な声で囁いて来る。

 

「フィエーナはさ、遥の事情は知ってんのか?」

「ごめん、私の口からは言えないよ」

「あ、そういうつもりじゃあなくてさ……知ってんなら支えてやってくれよ。見てらんねえんだよ」

「うん。そのために私は来たから」

「そっか……んじゃ、頼むぜ?」

 

 智恵の伸ばした拳に俺も拳を軽くぶつける。畜生、こんな時に何も出来ない俺自身に虫唾が走るぜ。

 

「ちょっと電話させてもらうね」

 

 居ても立っても居られなくなった俺はクラスルームを飛び出し、今どうなっているのか吉上先生に問いただすことにした。人気のない校舎外に出ると、一気にむわりと暑さに全身が囚われるが今はそんなことどうでもよかった。

 

 スマホを操作し数コールもせず、吉上先生は電話に出てくれる。迷惑だろうにそれは表に出さず吉上先生は俺の質問に答え続けてくれる。

 

「吉上先生、こういったことは頻繁にあるんですか?」

「残念ながら、徐々に増えているのは確かだよ。四月に一回、五月に三回、そして今月はこれで八回」

「そんな……」

「何か突破口が見つかればいいんだけど……ごめん、頼りない大人で」

「吉上先生は何も悪くないです」

 

 自然現象をどうこうすることは人間には出来ない。だが、せっかく遥が取り戻そうとしていた平穏を脅かさないでほしい。遥はもう十分辛い目に遭い、それを乗り越えてようやく前に進もうとしているんだ。やめてやってくれよ。

 

 結局、ないものねだりでお願いおねだりしかできないのが今の俺だ。フィエーナ、せめて遥をしっかり支えてやってくれ。親友のお前なら、心の支えになってやれるだろう。俺も短い時間お前の体を借りるが、出来る限りはするさ。

 

 決意を新たに、人目のつかない校舎の隅から智恵たちの元へ戻ろうとしたところで、俺の耳に微かな声が届く。フィエーナの名が聞こえたような気がした。誰かがフィエーナのことを探しているのだろうかと声の方へと歩いていく。だが、近づいていくにしたがって人気が減っていき、そして会話の内容が明らかになっていく。

 

「フィエーナさんいいよな~、おっぱいあれどんくらいあんのかな~」

「日下先輩よりは小さいからJの一つ下かね?」

「博士の見解はどうなんすか?」

「ふむ……恐らくカップサイズ自体は同等と見ていいだろうな。だがアルゲンさんはかなり細身の体をしている。一方で日下先輩はスタイルは男好みの豊満形体……その差が服の上から確認可能なサイズ差として見えるのだろう」

「さっすがおっぱい博士。詳しいすね~」

「ふん、褒めるな」

 

 く……くだらない……さっきまでの俺の悩みが吹っ飛んでしまうレベルに低俗な話だ。それだけに俺の気は少し楽になる。あまり気負ってもよくないか。

 

「あれくらいでかけりゃ、埋まるよな……」

「ああ、挟むというより完全に呑まれるだろうな……」

「私の見立てではハンドボール程度の容積があると見ている」

「マジかよ!」

「モデル張りにスレンダーな体にも関わらず、胸部だけが大きく主張しているアルゲンさんの肢体……性的、というよりも一種の芸術品の如き感動を与えてくれるだろう。一度見てみたいものだ」

「けどそのギャップがエロいんしょ~?」

「否定はしない」

「スレンダーって博士はいうけど、お尻も結構よくないか?」

「む、確かに。訂正しよう」

 

 だが、同時に俺の愛娘的立ち位置にあるフィエーナを妄想のネタとして使っているのは看過出来なかった。俺が探索者時代にうっかり見てしまった性交シーンと比較しあまりにマニアックな内容の数々……恐らくフィエーナの胸なら出来そうなのが余計に苛立ちに繋がった。フィエーナは確かに出来るかもしれないが、そんなことする子じゃないぞ!

 

「一ヶ宮さんも美少女ではあるんだけどな……アイドルでもあのレベルはいないくらい可愛いのにおっぱいはまるでないのがな~」

「おや、俺はあれはあれで好きだよ? 大きさだけで判断するのはよくないなぁ」

「いや……大きさつうか……一ヶ宮さんからは膨らみを感じられないんですが」

「見る目がないね君は。水着姿の目撃者の証言を私は得ている。彼女にも膨らみそのものはあるぞ? 着衣状態では目立たないレベルなのは確かだが……」

「マジか!? 博士は流石すねえ……」

 

 性欲を一概に否定はしないが、しないがだな……。遥にまでそういう目を向けるとはこいつら死にたいらしいな。

 

「フィエーナさんが来る前までは智恵っちが一組最胸だったんすけど、今じゃちょっと物足りなく見えますな」

「そうはいうが、Gカップであのスタイルと見た目。あれほどの好物件はそうはいないぞ」

「三丘には日下先輩がいるからな~。感覚麻痺しちゃうよな」

「……高身長な橘さん、俺は好みだが」

「雄二は背が高いすもんね~、身長差からすりゃちょうどいい組み合わせっすよね」

 

 何だか聞いた事のある声があると思ったら葛西に、尾頭もいるのか。おいおい、明日のランニングの時は覚悟しておけよ?

 

「春前さんと野崎さんは身長と同じくおっぱいもないよな」

「あの身長でおっぱい大きかったらちょっと犯罪的じゃありません?」

「野崎さんはむしろあれでいいでしょ。癒されるんじゃ~」

「分かるわ……ずっと一緒にいてえなあ」

 

 鈴子にもし性欲を抱いていたら今ここであの世に送っていたかもしれない。あの子はそういうこととは無縁な見た目をしている。

 

「春前さんは確かにロリっぽい見た目だけどさ、妙な色気あるよな」

「あの見た目に欲情したらやばいって思っても悔しい! むらむらしちゃう!」

「馬鹿! まだ午後に授業があるんだぞ!」

「つか全員可愛いよな、やっぱ類は友を呼ぶって奴なのかね?」

「三丘はそもそも全員レベル高いよな。見た目も性格もさ」

「そうそう、三丘は偏差値だけじゃないよな。みんな、優しい女の子ばっかで……俺ここに入れて幸せだわ」

「入るのに苦労するけどさ、それに報いる三丘は神ですわな」

「でも、一番は俺ら一年一組だよなあ?」

 

 数人が反論を述べようとするも、うめき声に終わる。

 

「雪乃平君。確かに……四組の私としては認めがたいが、三丘高校で最強なのは一年一組だろう。だが、三丘の普通が他校では上位クラスに相当するのを忘れてはいけない。三丘で感覚を麻痺させて世間に出るとうかうか彼女も作れなくなるぞ」

「つか、顔でレベル付けって失礼だろ雪乃平くうん? 彼女の一人も持ったことのない雪乃平くうん? だから彼女がいないんじゃないの雪乃平くうん?」

「すまなかった! 悪かったから俺への攻撃を今すぐ中止してくれ! 精神に直接攻撃はやめてくれ!」

 

 もういい。これ以上は見苦しい。俺がこの集団に終わりを告げてやろう。

 

「私の友達をどうこう言ってた君たちが言える台詞なのかな~?」

 

 俺が姿を見せると一気に場の雰囲気が凍り付く。あからさまに怒りの感情は見せてないはずだが、全員が俺を見て怯えているようにも見えた。

 

「ふぃ……フィエーナ、さん? いつからここに?」

「そうだね、私の、その、胸について話してた時からかな」

「すっ、すんませんした……」

「そういう話をするのは自由だけどさ、もっと人目の付かない場所でやろうね? 高校の敷地内じゃ誰がうっかり聞いちゃうかもしれないんだから」

「は、はい……」

「あの、俺たちがこの話をしていたのは……秘密にしていただけると……」

「私と君たちだけの秘密だね? いいよ、でも私のお願いはちゃんと聞いてくれたらだよ?」

「それは、もう! 絶対守りますとも!」

 

 葛西と尾頭ににっこりと微笑みかけると顔面を蒼白にしてあらぬ方向を向く。今更ガタガタと体を震わしても無意味だからな。覚悟しておけ。

 

 



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T/A16V:クラスに宗一が訪ねて来た。

 

 

 俺が昼食を取り損ねないよう些か駆け足気味にクラスルームに戻ると、留守の間に来客があったことを雪夜が教えてくれる。訪ねてきたのは、宗一だという。

 

「何の用だったのかな」

「さあ……いないって伝えたらさっさと行ってしまったわ」

「三年の先輩だろ? フィエーナと接点なんかあるもんかね?」

「あー、道場で手合わせしたんだ」

「ほへえ、そういう繋がりか」

「授業が終わったらまた来るって言ってたわよ」

「ふうん」

「それより遥ちゃん、大丈夫かなあ……」

「今月は特に多いよな」

 

 突然の来客者だったが、それよりもみんなは遥のことを心配していて宗一についての話題はそれきりになってしまった。

 

 放課後、雪夜が言っていたようにホームルームの後に宗一がクラスルームへとやってきた。夏用のシャツ越しでも分かるがっしりとした鍛え上げられた肉体に百八十五センチの身長、おまけに鋭い目つきをした宗一が現れるとそれだけで一瞬クラスルームの空気が静かになった。

 

「フィエーナ・アルゲン。来い」

 

 それだけ言うとさっさと背を向けて入り口から出て行ってしまう。俺が付いてこなければそれでよしってことなんだろうか。まあ、いい。来ることを想定し、予め荷物はもう纏めてあった。紺色のスクールバッグを手に取り俺は立ち上がる。

 

「行って平気なのかな、フィエーナちゃん」

 

 そろりと駆け寄ってきて耳元で不安そうに鈴子が囁いて来る。

 

「大丈夫だよ。私の方が強いから」

 

 魔力さえ使われなければ、だが。それも一度見ているし、対応は不可能ではない。俺は安心させるように鈴子の頭にポンと手の平を乗っける。

 

「それじゃ、行ってくるね」

「平気か? アタシが付いてってやってもいいぜ?」

「そうよ、みんなで行ってもいいんじゃない?」

「んーん。気にしないで」

 

 心意気はありがたいが、もし本格的に事を構えるならむしろ単騎の方が楽だ。それに、まさか学校でやり合うつもりなんてあるはずがない。道場でも一瞬ばつの悪そうな顔を見せていたことだ。悪いようにはならないだろうという確信があった。

 

 あまりのんびり構えていると後を追えなくなってしまう。友人たちとの会話は手短に、俺は足早にクラスルームを出る。宗一は背を見せていたものの、足を止めて廊下の端に陣取っていた。むすっとした大男がずんと立っているので授業終わりの他のクラスメイト達がぎょっとして空気を委縮させていた。

 

 俺がクラスルームから完全に身を外に出した途端、視線を背後に向けることなく再び宗一の足は動き始める。ふむ、気配を読むくらいは楽勝という訳か。中々に出来る。

 

「宗一……先輩? 何の用なんですか?」

 

 俺が声を掛けても返答はない。何だかな……どっかの誰かを思い出す不愛想さだ。なあ、ハリア?

 

 俺が脳内でかつての仲間に思いを馳せていると、突然宗一が振り返る。人通りも少なくなってきていたし、ここいらで話をするつもりなのかもしれない。そう俺は思ったのだが、宗一が口を開く様子はない。何故かじいとこちらを睨み付けるばかりだ。

 

「ええ、と。そろそろ用件を言ってくれてもいいんじゃないですか?」

「おい、あまり馬鹿にするなよ」

 

 どういうことだ? 全く意味が分からない。

 

「すまん。気のせいだった」

 

 余計に意味が分からない。それだけを言って再び歩き出す宗一に付いていくべきか悩むが、ここまで来たなら最後まで付き合おう。

 

 会話もなく連れてこられた一室には読書部の表札が掲げられていた。

 

「入るぞ」

「失礼します」

 

 中からの了承を得ることなくドアを開いた宗一に俺も続く。

 

「ああ~! 待ってたよ~!」

 

 ドアが開いた途端、天真爛漫な笑顔をした女性がフィエーナよりも大きな胸部を揺らして突撃してきた。どうにも見覚えのある色合いのハードカバーの本を大事そうに両手でしっかりと抱えている。日本語じゃないな。というか、これは……。

 

「ね、あなたフィエーナ・アルゲンさんでしょ? 待ってたんだよ~!」

「え、ええと。初めまして?」

「んふふふふ~! ね、ね。これにね~サイン貰ってもいいかな~!?」

 

 ほんわかとした笑みが和ませる女性がずずいと出してきたのはロートキイル版の『探窟者ヴェイルの回顧録』だった。やはりか。

 

「ま、まさかお読みになったんですか?」

「うん! すっごく面白かったよ! ね、ね! アルゲンさん絶対この作者でしょ? そうでしょそうでしょ!?」

「あ……はい」

「きゃー! やっぱりやっぱりぃ! すごいなすごいな~! すごい偶然だよね~!」

 

 はしゃぎながらぴょんぴょんと飛び跳ねる彼女はとても可愛らしい。それにしてもまさか遠い日本にもフィエーナの本の読者がいるとはな……胸に呑み込まれかけている本に目を向けると、初版の表紙をしていた。さてはこの子、初期からの読者か!

 

「こらこら日子。はしゃぎ過ぎって。困惑してるぞ~」

「あ、ごめんね! でもでもっ、りーちゃん! 原作者に会えたんだよ! これってとってもすっごいことだよ!!」

「そうだねぇ、でも原作者様を困惑させちゃ迷惑になるだろう?」

「あ、迷惑だった?」

 

 先程までの笑みを陰らせ、不安げに本で顔半分を隠しながら上目遣いでこちらを見てくる日子。あんなに嬉しそうに笑っていた顔から笑顔が消えると罪悪感が芽生えて来る。

 

「いいえ、そんなに喜んでくれて嬉しいです」

 

 たかが俺の人生をここまで魅力的な物語に昇華してみせたのだから、フィエーナは流石だ。きっと後で喜んでくれることだろう。で、俺のどこら辺がイケていたか聞かせてくれてもいいんだぞ?

 

「はえ~……フィエーナってすごかったんだねー……」

 

 横から顔を出してきたのは楓だった。その横には紅葉の姿もある。

 

「あれ? 二人はもしかして読書部だったの?」

「そーだよー」

 

 楓が肯定する横で紅葉もコクコクと頭を縦に上下させる。

 

「何だ、二人の知り合いか? あ、同じクラスなのか?」

「いえっ! そうじゃないんですけどぉ……まあ、ちょっとしたことでお知り合いになりまして……へへ」

「わああ~! だったら言ってくれればよかったのに~」

「わ、私たちも作家さんとは知らなかったんですよぅ部長。ね、楓?」

「そういう訳なんです」

「そっか~!」

 

 ほわほわと優しい笑顔の日子先輩にサインを書いてあげると、何度もお礼を言って大事そうに本を胸に抱く。

 

「ありがとうね~! 大事にするよ~!」

「これが用事だったんですか?」

 

 今まで蚊帳の外で知り合いを話していた宗一に話しかけると首を横に振った。口数少ない宗一の代わりに愛想笑いを浮かべた隣の男性が申し訳なさそうに話し始める。

 

「あ、いや。道場で彼、ちょっとやり過ぎちゃったでしょ? だから謝りたいんだって」

「はあ」

「いや本当こいつ口数少なくて分かりにくいことこの上ない奴だけどさ、悪い奴じゃないんだよ分かってやってくれ……とまでは言わないけど謝罪を受けてくれないかい」

 

 何だか宗一にいつも苦労させられてそうな奴だ。諦観と懇願の混じり合った物言いに、俺は多少の同情を覚えてしまう。何しろ、俺のパーティーには無駄に喧嘩を吹っかける奴が絶えなかったからな。何で俺がという内心を押し殺して謝ったことが何度あったか……やめよう、悲しくなってきた。

 

「いいですけど、何故ここで?」

「それは二人きりで話したいらしいから、読書部の部室の一部を借りたいのが半分。日下さんが君のことを知って会いたがってのが半分」

「なるほど」

「つーわけなんで吉村さんよ。あそこの部屋を貸してもらっていいよね」

「あ、どぞどぞ。だが変なことしたら成敗だからな」

「しねえって! な、な?」

 

 必死に同意を求める男から目を逸らす宗一。何というか……ううむ、既視感が……。

 

「そーくんはそんな人じゃないよ~! 鍵を貸してあげてよりーちゃん」

「むむ、日子はこいつに甘いんだから」

「何かされたらすぐ声を上げろよー」

 

 吉村りーちゃん先輩の揶揄を背に受けながら、俺は鍵を開けた宗一に顎で促され先に室内へ入った。

 

 カーテンで外光の遮られた薄暗い部屋の中はおまけに狭かった。人一人分の通路しかないその部屋の両側には本棚が並び、フィエーナの背丈ほどまでぎっしりと本が並んでいる。とはいえ奥行きはそんなにない部屋だ。冊数としてはそこまででもないだろう。

 

 室内に入り少しばかり待つが、宗一の方から口を開くつもりはないのか一向に会話が始まらない。

 

 ただ俺の方をじいと見つめて来るばかりだがこの男、誰かさんと感情表現の方法がよく似ている。だから俺は宗一の目から何を思っているのかある程度察することが出来た。

 

「道場でも一度謝罪は受けました。それで私は十分ですよ」

 

 後悔の念……多分、俺以外だと彼と長年付き添ってきた人物か余程観察眼に優れた人物でないと読み取るのは難しいだろう。それほど彼の表情は不愛想で無表情だ。

 

「……聞こえていたのか」

「口の動きで何となくそうかな、と」

 

 俺の言葉に俯き視線を逸らす姿まで似通っている。あいつほど言葉に不自由している奴はそういないと思っていたが、まさかこんなところに同類がいたとはな。

 

「でも、もう一度言わないと気が済まないんでしょう? 聞きますよ」

 

 俺が精いっぱい優しそうな声音を作り、ほほ笑むとようやく宗一は顔を上げ視線を俺の目と……合わせようとしては逸らし、首元に移らせてはまた逸らし、さらに視線を下げて胸元を見て目を数瞬瞑る。

 

 結局観念したのか、あるいは一番ましと判断したのか目と目を一瞬だけ合わせて彼はぽつりと呟いた。

 

「すまなかった」

 

 そう言ってすぐに目をそらしあらぬ方向へ視線を動かしてしまう。あまり誠意のある謝り方ではない。だがきっと、この男にとってはこれが精いっぱいの謝罪なのだろう。この先の社会で通用するとはとても思えないが、まあ、いいだろう。

 

「宗一先輩の思いは確かに伝わりました。その謝罪、受け取りましょう」

「そうか」

 

 これで彼の用は済んだのではないだろうか。そう思っていたのだが、どうにも動く様子がない。しばらく待っても何もないので俺から声を掛ける。

 

「これで一件落着、ですよね?」

「ああいや……ああ、そうだ」

 

 ようやく解放してくれた宗一の後に続いて部屋の外を出る。

 

「仲直り? は出来たの?」

「あー……」

 

 日子先輩がほんわかとした調子でスススと寄ってきて宗一にニコニコと問いかけるが、宗一は一瞬口を開いては閉じ、返答に困っているようだった。

 

「ええ。もう平気です」

「そっかー! ならよかったよ~」

 

 真っ先に近寄ってきた日子先輩に続いて寄ってきたのは楓だった。待っている間に日子先輩から、フィエーナの出した『探窟者ヴェイルの回顧録』についていろいろと話を聞いたのだとペラペラと滑るように話を始める。それだけ関心を持ってくれるのはありがたいし、別の日なら遅くまで付き合ってもよかった。だが今日は遥のこともあるからそろそろ帰らせてほしいのが正直なところだ。

 

 五分を区切りにと内心定め話を聞き続けていると、何やら再び宗一からの視線を感じる。何だ、今度はどうしたんだ? 疑問に思いつつもアクションを取って来ることはないので、今日はそろそろお暇させてもらうか。

 

「ねえねえフィエーナ! 日子先輩に聞いたけど“ヴェイルの回顧録”って色んな国の言葉に翻訳されてるんでしょ? 日本語版ってないの?」

「あー、確か今年の九月に翻訳版が出るはずだよ。私も日本語出来るからある程度翻訳に関わったし」

「そっかぁ! ないなら諦めて英語版でも取り寄せようって思ってたけど、なら販売されたら買うからね!」

「ありがと楓」

「わ、私も日本語版が出るなら買おうかな」

「本当? 紅葉も嬉しいこと言ってくれるね」

「えへへ……」

 

 よし、ここいらで帰らせてもらおう。

 

「悪いんだけど、私はそろそろ帰らせてもらうね。今日遥が早退して、ね」

「ええっ!? だ、大丈夫なの?」

「んー、そこまで大事ではないと思うけど」

「そ、そっか。楓の無駄話なんかに時間潰させちゃってごめんね!」

 

 読書部の部長である日子先輩と迷惑をかけたその他のメンバーにも挨拶を済ませ俺が部室を出ると、その後を宗一とその友人が追いかけて来た。

 

「お帰り、ですか?」

「あ、と。俺はそうだけどこいつは別。君は知ってるだろうけど」

 

 成る程。これから退魔師としての活動があるのか。それにしても遥には及ばずとも吉上先生を優に超える実力の宗一には緊急出動の命令は出なかったのだろうか。遥ばかりに負担を押し付けてやしないだろうな。

 

「後詰めだ」

「え、と?」

「あーとね。宗一は君が疑問に思っているのに答えたんだよ。何で宗一は学校にいるのかって」

 

 それは何となく察していた。

 

「そうじゃなくて、後詰めって何ですか」

「予備戦力、かな。この地の二大戦力の一角なんだ遥さんと宗一って、だから片方には余力を残しておいてもらわないと困る訳。たまたま今日は遥さんが緊急出動の担当だったの」

 

 今更俺が戦力運用にどうこう口出しなんて出来ない。向こう側の人間がそうだと説明するなら俺はそうなのだろうと納得するしかない。

 

「そういえば名前を聞きそびれてましたね」

「あれ? そういえばそうかもしれないね。俺は北村武人。宗一と同門さ」

「二重の意味で先輩ですね」

「はは、アルゲンさんの実力には及ばないけどね。その年で免許皆伝。おまけにあの狭山さんを手玉に取って見せるなんてすごいよ」

 

 ま、俺の経験ありきだからそこは当然の話だ。曖昧に笑っておくだけに留めた。

 

専ら北村先輩の方と話しながらも、俺と北村先輩双方が宗一に注意を払っていた。俺に何か話をしたいようだが……。

 

「それじゃ、俺たちはここで。それじゃあまたね」

「はい。お二人とも気を付けて下さい」

「ありがと」

「……」

 

 それとなく二人で促しても話す様子もなく、話したがってはいるが話すのを躊躇っているようにも見受けられたので俺は北村先輩と目くばせして今日はお開きにすることにした。

 

 

 

 

 

 

 



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T/A17V:退魔師の現況を聞いた。

 

 

 

 学校から帰宅した俺は遥の母親と共に、遥がいつ帰って来るのか不安に感じつつ待っていたが意外にも六時前には同伴者を連れて帰ってきた。

 

「フィエーナ、ただいま」

「おかえり遥」

 

 抱き付いて来る遥の体には特別怪我をした様子はない。無事なようで、俺はようやく心のざわつきが収まるのを感じた。全く、待たされる側ってのも楽じゃないな。自分自身で戦ってた頃の方が、気が楽だったかもしれない。

 

「奈緒さん。今日は遥さんには無茶をさせ申し訳ないことをしました」

「いえ、必要なことだとは理解してますから……」

 

 遥の母親の前で頭を下げたのは、二十代半ばほどに見える女性だ。戦いに身を置く者といった雰囲気をびしびしと発している凛々しくも美しい、中性的な顔つきの女性は遥と似通った黒い独特な衣装も様になる堂々としたスタイルをしている。

 

「これ、気持ちばかりですがよかったら食べてください」

 

 頭を下げる前に大きな紙箱を遥に手渡していたのを受け取って、女性は機敏な動作で遥の母親に箱を差し出す。

 

「あら、ケーキ? その恰好でケーキ屋さんに?」

「? 何か?」

「ママ。私は止めたんだよ」

 

 恥ずかしそうに目を瞑り、顔を俯かせて遥は母の隣まで移動し呟く。凄まじくカッコいい衣装なのは認めるが、確かにこれで人前を堂々と歩くのはコスプレ染みてもいる。服装にこだわりがないのだろうか。

 

「はっ!? も、もちろん、この程度の品で娘さんの貢献の対価にしようなどと浅ましい意図などございません。失礼な真似をしました……」

 

 途端にしょんぼりとしてケーキの入った箱を差し出した腕を引く。それを見た遥の母親は慌ててその手を差し止めた。

 

「有江さん。そういう意味ではないのよ。ケーキ、ありがたく頂くわ」

 

 ケーキを受け取ってもらい余程嬉しかったのか、彼女の顔は晴れるように笑みがこぼれる。

 

「遥。この人は退魔師仲間なの?」

「おっと、自己紹介が遅れましたね。私は天辺有江、遥さんとは共に戦わせてもらっている者です。もっとも、ほんの補助程度ですがね」

「そんなことないよ。有江さんが付いてくれる日は楽に戦えるから」

「っ! そう言っていただけると冥利に尽きます」

 

 自己紹介ではキリリと怜悧な美貌を際立たせていたのが、遥に褒められるとにへらとすぐに顔が柔らかくなってしまった。感情表現がすぐに出てしまう人だな。

 

「私はフィエーナ・アルゲン。フィエーナって呼んでね」

「お噂は聞いております。あの狭山様を一方的に下す実力者だとか。林原様の愛弟子というのは本当なのですか?」

「林原先生にはお世話になったよ。まだ先生には敵わないかも」

 

 遥がいなくなってからも二人での研鑽は続いていた。コツを掴んだというのだろうか。最近はやや先生がフィエーナの実力を追い越しているが、まだ俺の時に負けたことはない。もっとも、フィエーナの胸が大きくなるにつれ剣の軌道に制約が掛かり出しているのも問題なのだが……。遥のように比較的平坦な胸なら、フィエーナも先生に負ける実力ではないのだが、成長するのもプラスばかりではないということか。

 

「とりあえず立ち話もなんですし、上がってくださいな。遥ちゃんの現況について、有江さんからの話も聞かせて頂けると助かります」

「それは、きちんと説明させていだたきます」

「そんな畏まらないでいいから、ね? 折角ケーキも買ってきてくれたんだし食べながらお茶にでもしましょう」

「はあ……」

 

 ソファの隅に縮こまるように座る有江、遥の母親がケーキの入った箱を開くと箱の大きさで予想されたが色とりどりのケーキが十個も入っていた。俺がいることを勘定に入れていたとしても一人最低二個は食べられる計算だ。

 

「あら、随分沢山買ったのね」

「多すぎましたか?」

「気にしないで、いっぱい食べられるわね」

 

 再び心配げに顔を歪ませる有江は、遥とフィエーナに笑いかける遥の母親を見て小さく安堵のため息を吐く。

 

「パパ甘い物好きだから喜ぶね」

「そうね、あんまり食べ過ぎると太っちゃうから有江さんも少し食べていってね」

「あ、ありがとうございます」

「有江さんが自分で買ってきたんだから気にしなくていい」

「う、うーむ。そうかもしれませんが……これはそういう意味の謝意ではなくてですね……」

「分かってるから」

 

 二度に渡る遥のツッコミを見るに、二人の関係性が垣間見える。真面目ではあるんだろうが、ちょっと天然入っているな。

 

「ふふ、有江さんは面白いわね」

「は、はあ……」

 

 遥の母親がお茶を淹れ、俺たち残り三人でお皿の用意をしていると遥の父親が帰って来る。

 

「おや、有江さんじゃないか」

「今日は謝罪に伺いました」

 

 遥の父親にも一通りの事情を話すと、遥の父親は渋面で唸り声を上げて一瞬天井を見上げる。

 

「そうか、致し方のないことではある……けど。親としては満足に学校生活を送らせられないというのは忸怩たるものがあるね」

「仰る通りで、申し訳ないです」

「でも、それは有江さんのせいじゃないだろう? あまり思い詰めてちゃ身が持たないよ。有江さんだって戦っている遥の戦友なんだ、しっかり身心共に養生して遥を助けてやってくれればそれが一番ありがたいよ」

 

 ソファから立ち上がった遥の父親は恐縮に身を固める有江の肩に手を置き、ポンポンと叩きかけ、気まずそうに手を挙げる。

 

「おっとっと……今はこういうのはよくないんだったな」

「私なら気にしませんが……心遣い感謝します」

「それよりだ、これは有江さんが買って来てくれたのかい?」

 

 首肯する有江を見ると、遥の父親の渋かった顔に笑みが戻る。

 

「いやあ美味しそうだなあ。俺はこのザッハトルテを貰おうかな」

「仁悟さんはチョコが好きなの?」

「ああ。でも他のケーキだって好きだよ。ケーキってだけで心がワクワクするんだよ」

「子供みたいでしょ?」

 

 遥の母親が浮かべる笑みは何処か楽しそうだ。こういう一面も気に入っているようで、それを見る遥もまたいつもの父親の挙動に呆れ半分笑み半分で静観している。

 

「ほらほら、俺が取り分けるからみんなどれを取ってほしいか言ってごらん」

 

 はしゃいだ様子の遥の父親に各々ケーキを取り分けてもらい、ちょっと遅いおやつの時間を楽しむ。

 

「日本のケーキも美味しいね」

「ロートキイルと比べるとあっさり目だよね」

「うん、これはこれで好きだな」

「ロートキイルのケーキも美味しかったなあ……ほら、フィエーナさんの近所の喫茶店に行ったよな」

「あー、行ったわね。もう一年以上も前になるなんて時間が経つのって早いわ」

 

 夕食も控えているので遥の母親は当初一個までしか食べることを許可してくれなかったが、それぞれのケーキを一口ずつ分け合ったり一つのケーキをみんなで分割することを遥の父親が提案して複数のケーキを堪能しながら時間は過ぎていった。

 

「さて、そろそろ今の状況について話を聞かせてもらえるかな」

「はい」

 

 有江から聞く話は概ねフィエーナが吉上先生から聞いた話を大差ない話だった。逼迫する退魔師戦力は一切改善していない。全国規模で集成され三丘市を中心とする半径数百キロ区域における魔之物の跋扈は辛うじて防げているものの代わって動員された他区域は余剰戦力の大部分を供出しているため、想定外の魔之物の発生に対応が不可能な状況になっているのだそうだ。

 

「正直なところ、戦力ローテーションは崩れつつあります……一部の有力退魔師、遥さんのような突出した存在が辛うじて平和を維持しています」

「どうも、状況は思ったより深刻なようだね。有江さんも体をすぐに休めるべきなのに引き留めて悪かったね」

「いえっ、こんなゆっくりできたのは久しぶりですので。いい気分転換になりました」

 

 有江が帰り、俺を除けば家族だけの空間となると遥の父親は遥の姿を見つめてしみじみと声を漏らす。

 

「しかし、この時間に遥がいるのは久しぶりだな」

 

 いつもは中々取れない家族の談笑が始まる。何でもないようなことばかりではあるが、そういうことを気軽にだらだらと話す時間も一ヶ宮家はまともに与えられていなかったのだ。誰もがこの貴重な時間を噛みしめるように味わっていた。

 

そんな話の折、来週奈緒さんのご両親がくるらしいと話題が上がる。

 

「お祖母ちゃんたちが?」

「ああ。フィエーナさんに会うのを楽しみにされていたよ。きっといっぱいお土産を持ってくるんじゃないかな」

 

 ほう、それは楽しみだ。先ほどから続く談笑の続きに俺も声を上げようとしてふと違和感に気付く。奈緒さんの顔は何故か陰りがあるのだ。もしや、遥の母と祖父母との間には確執でもあるのだろうか。

 

「奈緒さん?」

「フィエーナちゃんには話しておこうかしら。実はね、私……母さんと父さんに会うのが怖いの」

 

 ぽつぽつと遥の母親は事件の後遺症について話してくれる。そういえば、最初期の遥の母親は遥と遥の父親に会う事すら恐怖でままならなかったのだったか。その後遺症は依然として消えきってはいないらしい。かつての友、遥と遥の父親を除く血を分けた家族親類と出会うと否応なしに体が震え、恐怖に包まれてしまうのだという。それは遥の母親を精神世界で苛んだ悪魔の手口で、知った顔の人間に化けて遥の母親を苛め抜いてきたことが原因なのだと話す遥の母親の顔を今にも泣き出しそうだった。

 

そのトラウマは根深く遥の母親の精神を傷付けていた。隣では遥の父親が肩に手を置き、遥も横で寄り添う。弱弱しい笑みで支えてくれる二人に感謝の意を示す遥の母親を見るのが不憫でしょうがなかった。

 

「母さんと父さんは何も悪くないのに、私だけが距離を作って一方的に怖がってるの。本当、自分が嫌になるわ」

「そんなこと、ないよ。ママ」

「奈緒は悪くない。奈緒は何も気にする必要はない」

 

 自己嫌悪を隠そうとしない遥の母親に、二人は励ましの言葉を幾重も重ねる。

 

「ごめんね暗い話して! さあっ! 美味しいご飯を作りましょうっと!」

 

 その言葉が本当に遥の母親を癒せていないのはこの場の誰もが察していたが、立ち直ったとばかりに張り切って立ち上がり虚勢の笑顔でキッチンに駆け足で去っていった背中に誰もが声を掛けられなかった。

 

「時間が解決してくれるといいんだけど……双方にとってこんな不幸なこと、あっていいはずがないんだ」

 

 今日何度吐いたか分からない遥の父親のため息は、澱のように沈んだ暗い感情が溜まりに溜まっていた。

 

 



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T/A18V:遥が寝る前に妙な思い付きを迫ってくる。

 

 

 

 

 夜になり、俺は遥に何度もせがまれて部屋に連れ込まれる。

 

「フィエーナ、こっち」

 

 歌うような調子で機嫌よくフィエーナの名をさえずる遥にぽんぽんと横に誘われ俺は遥のすぐ隣で寝転がる。

 

「んふー」

 

 俺が寝転ぶと途端に身を寄せて来る遥は心底嬉しそうだ。ここまで慕われてしまってはまんざらでもない。俺は遥の頭を優しく撫でてやる。サラサラの黒髪にフィエーナの細い指が埋もれ、ふんわりと遥の匂いが鼻をくすぐる。美少女ってのは体臭も不快にならないとは、お得だ。

 

 俺がダンジョンに潜っていた頃なんて……おっと、あまり面白くない思い出に浸らないでおくか。顔に出てからじゃ、俺の話術では上手く誤魔化しきれる自信がない。

 

「ふぃえーなー」

「んー?」

「んふふー」

 

 幸い、気付かれなかったか。それにしても遥はフィエーナの名を呼ぶのが好きだな。ただ、生返事をするだけでも喜んでくれる。

 

しばらくこっちを見ながらニコニコしている遥を見ていると、何を思ったかもぞもぞとシーツに潜っていき、フィエーナのお腹に顔をぐりぐりと寄せてくる。フィエーナの時にも、よく顔をフィエーナの体のどこかに押し付けるのがお気に入りになっている。何だか犬みたいと言ったら、怒るだろうか。

 

「遥、早く寝ないと駄目だよ。ちゃんと睡眠時間取らないと疲れが取れないよ」

「はーい」

 

 フィエーナが一ヶ宮家を訪問してから最初の二日くらいは元気そうにしていたような気がするんだが、火曜あたりから疲労が取れないのか遥は寝起きにフラフラ、何もない時にぼけーとしている。ロートキイルにいた頃は暇そうにしていてもこんなことはなかったんだが……。

 

「ね、フィエーナ」

「どうしたの?」

 

 シーツの間から顔を覗かせる遥はちょっとばかし表情が硬くなっていた。何か、頼み事でもされそうな雰囲気だ。

 

「私ね、考えたの。フィエーナのお胸に包まれて寝たら安眠出来るんじゃないかなって」

「え?」 

 

 この、十五歳にしては……いや大人と比較してもフィエーナより胸が大きい女の人が見つかるかってくらい大きく成長した胸に遥の視線が注がれる。物欲しげに目を煌めかせ、遥は不意の思い付きに自信を覗かせている。

 

「いいよ、来て」

 

 しかし、今更どうしたというのだろう。一緒に寝る度に遥は胸に顔を突っ込んでいたような気がする。

 

 少し疑念を覚えつつも俺は両腕を広げ遥が来るよう促すが、遥はゆっくりと首を横に振った。

 

「服、脱いで欲しい」

「え?」

 

 は?

 

「服越しじゃなくて、直接包まれたいの」

「遥、それは……恥ずかしいかな」

「駄目?」

 

 別にやってやれない訳じゃあないが……しかし、なあ。ベッドの上で上半身曝け出すのは一緒に風呂に入るのとは違う気がする。時と場所が違うだけで、こうも忌避感が生まれるとは遥に迫られて思い知らされた気分だ。

 

「お願い」

「ん~……困ったな」

 

 シーツの中からずりずりとフィエーナの体の上を這いあがって来る遥に頼み込まれ、俺は悩む。これが俺自身の体なら、どうぞと気楽に言えるんだが娘同然のフィエーナだと容易く頷く訳にはいかない。

 

 だが、まあ俺からすれば遥も子供のようなものだ。ここは、母の温もりを求める子だと思って我が儘を聞いてやってもいいのかもしれない。

 

「駄目?」

「……分かった。いいよ」

「フィエーナ好きぃ♥」

 

 ぎゅうと抱きしめられて俺は苦笑する。仕方のない子供だ。俺はさっさとパジャマを脱ごうとボタンに手を掛けるが、それを遥の手に抑えつけられる。

 

「遥?」

「私がやってあげる!」

「じゃあ、お願いしようかな」

 

 要求が通って張り切る様が微笑ましく、俺はつい了承してしまった。だが、遥の様子がおかしい。呼吸は荒く、手だけでなく全身が小刻みに揺れているのが馬乗りされている俺にはよく分かってしまう。

 

 それだけでない、フィエーナが遥の失態として受け流した先の自慰行為の時と同じ目をしているのだ。欲望に憑りつかれたようなはしたない顔つきは、遥の清楚な顔つきを猥らに変貌させてしまっていた。

 

 はだけ始めた胸に遥の吐息が吹きかかる。緊張と思わしき感情が俺にも映ったのか、いつの間にか溜まっていた唾を俺は思い切り呑み込む。

 

 これ、おかしくないか?

 

 荒げられた遥の吐息がふうふうとついに露わになったフィエーナの胸を襲う。生ぬるい風が掛かるたびに、肌を襲う刺激が妙に意識に残った。俺が今まで感じたことのない感情だ。

 

 

「じゃ、じゃあ……脱がすよ♥」

「待った」

 

 震えの激しくなった遥の手を俺は抑え込んだ。期待感に満ちていた遥のだらしない笑みが硬直する。

 

「え」

「遥、調子がおかしいよ。どうかした?」

「あ、え? そ、そうかな?」

 

 あからさまに目をそらすが、真っ赤になった顔は誤魔化せるものではない。

 

「熱でもあるんじゃない? 体温計、探してこようか?」

 

 もしやこのおかしな行動は病によるものではないか。俺が上に跨る遥を慮ると、急に遥は目に涙を浮かべて下着姿になった上半身に顔を埋めて来る。

 

「ヤダ! フィエーナ行っちゃヤダ!」

「何処にも行かないよ」

 

 病に伏せると人恋しくなるものだ。俺は優しく抱き付いてきた遥の背に腕を回してゆっくりと撫でてやる。いい子だ、いい子だから我慢してくれ。

 

「えい!」

「あっ」

 

 何と器用な真似なのか。フロントホック式のブラジャーを遥はまさか口だけで外して見せる。咥えたブラジャーをペッと投げ飛ばすと、ブラジャーに抑え込まれていたフィエーナの絹のようにきめ細やかな肌質の胸が、その大きな威容を見せつけるように、或いは極上の柔らかさを主張するように震えて姿を見せつけた。

 

「わああ♥ フィエーナの、おっぱい♥」

 

 喜色満面とはこのことだろうか。嬉しさに顔を蕩けさせた遥は躊躇いなく再び顔を胸へと押し付けた。

 

「……ん! フィエーナ♥ ここ、硬くなってるね♥」

 

 さきほどとは少し違う何処か淫靡な雰囲気を纏わせた遥が、責め立てるような嗜虐的な笑みでこちらを見つめて来る。

 

「あはは、エアコンがきいてる部屋で遥が脱がせるからでしょ」

「え? あ、そっか。そう、なのかな?」

「そーだよー」

 

 まあ、どちらにせよ病気ならさっさと寝かしつけた方がいいか。

 

「ほら、これで満足したでしょ。熱があるかもしれないんだし、さっさと寝るんだよ」

 

 元気そうに見えるが、案外ってこともあり得るのだ。胸越しに遥の顔の体温が伝わるが、確かに普段よりも温もりを帯びているように思えた。

 

「う、うん……」

 

 さきほど遥が暴れて振りほどかれてしまった手を再び遥の頭に持っていき、額に当てる。額は平熱、かな。これはただ遥が興奮してるだけかもしれない。寝る前にはしゃいだから体温が上がって眠れなくなってるだけだな、こりゃ。

 

「ほら、よしよし。遥は毎日頑張ってて偉いよ。よく寝なさい」

「うん……」

 

 あー、何だか胸に遥を抱きしめているとこっちの方が心が温かくなってリラックスしてきてしまった。これが母性って奴なのかもな。俺はもう寝ちまうが、遥も早く寝るんだぞ。

 

 

 

 私が目を覚ますと、寝る前にヴェイルがやったように上半身が裸にされていて胸の中で遥がスヤスヤと寝息を立てていた。

 

 何て恥ずかしい!

 

 私は一気に顔に血が上って来るのを自覚し、急いで何かを身に付けようと手を動かす。けれど、とても幸せそうに眠っている遥をどかすのは憚られてしまい、手は止まってしまった。

 

 うう、うう……遥が起きるまでどうしたらいいのだろう。

 

 結局、ランニングの時間が迫っているのを言い訳として遥が寝ぼけている間に私は慌てて逃げ出す羽目になったのだった。

 

 けど、ヴェイルのやったことだからこれが正しいのだ。まだまだ私はヴェイルの深意にはたどり着けそうになくて、鍛錬を積むべくマンションを駆け足で出ていった。起きた時を思い出すと無性に恥ずかしくて、歩いていられなかった。

 

 

 

 



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T/A19:遥の親友が電話をかけて来ました。

 

 

金曜日、今週は土曜授業がないのだそうで週で最後の授業となった。来週がテスト週間とあって先生方がテストを意識した発言や問題を出すこともあって、授業を受けるクラスメイト達も週初めより何処か真剣な雰囲気を醸し出していた。

 

「今日はテストのお話が多かったね」

「分かんないトコあったら私が教えてあげるからね」

「ありがとう遥」

 

 勉強時間があまり取れなくなっても問題なく授業についていける遥なら、きっと頼りになることだろう。胸の前で両手をグッとする遥のやる気に満ちた表情に私は微笑みを返した。

 

「私はこれからスパートかけてくよっ!」

「私もスズと一緒に追加授業を受けていくわ。結構頑張ってきたし、ここでくじけてられないもの」

 

 遥以上にやる気満々な鈴子はやる気が先走ってピョンピョンとその場で跳ねている。栗色の長髪が跳躍の度に宙を舞っては広がる様は何処か芸術的で小柄美少女な鈴子の可愛らしさを飛躍的に向上させていた。これは智恵が抱き付きに行くのも分かる。何処か張りつめていたクラスの空気も鈴子によって和らいでしまった。凄い。

 

「頑張れよ~!」

「ん、頑張るよっ!」

 

 案の定智恵が現れ、中空に浮いている最中だった鈴子はそのまま抱きすくめられてしまった。

 

 

 

 遥が退魔師として出撃し、そして疲れ切って帰ってきた夜。夕食もお風呂も終えて後はもう寝るだけといった調子の遥が私の部屋にやってきてベッドでごろごろと時間を潰す。

 

「遥はお勉強はいいの?」

「んー、今日はいいの」

 

 デスクに向かって勉強する私に構うでもなく、いつもなら眠たげに頭をフラフラさせている遥はスマホ片手にそわそわと何かを待っているようだった。

 

 今日はもう、勉強はいいかな。そう思い私がデスクを片付け、遥のいるベッドに腰掛けると寝そべってスマホをいじっていた遥がにへらと顔を満面の笑みに変えて匍匐前進して腰に抱き付いてきた。

 

「ふぃえーなー」

「んー? 私、今日はもう寝るけど遥はどうする?」

「ちょっとだけ待ってもらってもいい?」

 

 私のお尻に顔を埋める遥は顔の上半分だけを覗かせる。その瞳は寂し気で、私は抗う気になれずにいいよと返答した。

 

「何かあるの?」

「うん……今日ね、私の幼馴染が電話をかけてくるの」

 

 遥の幼馴染か。一体どんな人なんだろう。私が聞くと、遥は何処か誇らしげに答えてくれる。

 

「凰島美真っていうんだけど……自信満々で、とっても綺麗なんだ。何か、ズゴゴゴゴォって感じ」

「何それ」

「お家も近くて、幼稚園も小学校も一緒で……ずっと一緒に遊んでた。今は忙しいから会いに行けないけど、ちょっと前まではお茶しにこっちまで時々来てくれてたんだ」

 

 凰島美真という子との思い出は遥にとってとても大切でかけがいのないものなんだろう。私に色々と思い出話を語ってくれる遥の表情は上半分しか伺えないけれど、瞳が生き生きと輝いていた。

 

「それでね、私と凛は止めたんだけど美真はそのまま強行して……凛、か」

 

 凛。その名前には私は聞き覚えがあった。かつて遥と一緒に避暑旅行に行った時に遥が私に事情を打ち明けてくれた時に、名前が挙がった気がする。確か……一緒に肝試しに行った親友だった、かな。

 

「凛のこと、フィエーナには話したっけ?」

「うん。昔、一度ね」

「そっか。覚えてたんだね。凛は……美真に凛、それに良助の三人には私は昔から嘘を吐いたことなかった。隠し事無しでずっと付き合ってきたの。だから、私は退魔師の話をした。悪いのは全部、悪魔のせい。そう思って私は真相を全て話した。そうしたら、私を肝試しに連れ出したからって、凛は気に病んじゃった」

 

 かつての情景を思い浮かべているのか、しばらく目を閉じていた遥が再び物憂げに目を開き口を開く。

 

「言うべきじゃなかった、のかな……凛は責任を感じて私との付き合いを辞めちゃった。私は……そんなつもりじゃなかったのに……」

 

 後悔に沈む遥は口をつぐんで顔を私のお尻に押し付けて表情を隠してしまう。私が簡単に口を挟めるような事柄じゃなくて、私は何も言うことが出来なかった。私に出来るのはただ、落ち込んだ遥を慰めることくらいだ。私は遥の頭頂部に手を乗せ、ただゆっくりと撫でるしかなかった。

 

 しばらくそうやって静かにしていると遥の手に握られていたスマホがブルブルと振動を発する。

 

「美真だ。もしもし?」

『遥ァ! 久しぶりですわねぇっ!』

 

 遥がスピーカーモードにしたスマホから勢いよく声が流れ出すと、元気のなかった遥の顔にぱああっと笑顔が戻った。ベッドに倒れ込んでいた体勢から一気に立ち上がり、佇まいを正して私の隣に座り込んだ。

 

「んー! 美真は元気そうだね」

『ほっほっほっほ! あたくしが病気にかかったことなんてありまして?』

「流石美真だね」

『当然っ! ですわっ!』

 

 こんな口調の人が現実にいるとは。てっきり、里奈の持っているマンガの中にしかいないと思っていた。ちょっとした衝撃を受けていた私を遥が美真へ紹介してくれる。

 

「今日はフィエーナも一緒だよ」

「えぇと、初めまして。フィエーナ・アルゲン、今は遥の家にホームステイさせてもらってるんだ。よろしくね」

『あらっ、綺麗な声ですわねっ! あたくしは凰島美真。遥とは幼少からの幼馴染ですの。あたくしのことは美真と気軽に呼んでいただいて構わなくてよ』

「分かったよ。じゃあ私のことはフィエーナって呼んでね。よろしくね、美真」

『ええっ! 遥とは上手くやってますの? 何かあったらあたくし、相談に乗って差し上げますからねっ?』

「ちょっと美真ー?」

 

 からかい交じりの美真へ、遥もまた半分笑いながら言い返す。昔からの信頼があるみたいで、ちょっとうらやましい。

 

「あはは、遥とは上手くやってる……よね?」

「すっっっっっごく仲良しだから心配いらない」

『あらぁ? それなら何よりですわっ』

「美真の方もそろそろ期末考査、だっけ? 大丈夫なの?」

『ぐっ。ま、まああたくしは』

 

 言葉に詰まった美真へ滔々と遥はお説教を開始する。

 

「ちゃんと勉強しなきゃ駄目だよ。美真はお勉強さえしたら成績良くなるんだから」

『ぐぬうう……遥ァ! お兄様みたいな口振りはやめなさいっ! 流石にテスト前くらい机に向かうくらいできますったらっ!』

「本当? 後で良助に確認しちゃおうかな」

『いいですわっ! 何を隠そう良助に勉強を習っているんですものっ!』

「そっか。安心した」

「美真にもお兄さんがいるの?」

『ええっ! 二人おりますわっ!』

「そうなんだ、私にも一人いるんだよ~、どんなお兄さんなの?」

『あたくしのお兄様たちも優秀ですのよっ! 加えて卓お兄様はとても紳士的でよくオモテになられてますわねえっ! それに引き換え健お兄様ったらすぐあたくしにちょっかいをかけてきて、聞いてくださるぅ!?』

 

 そこから怒涛の勢いで愚痴を吐き出す美真。忘れ物をした美真に届けて一言皮肉を告げたり、テスト前なのに友達と長電話をしていて諌められたり……美真の瑕疵が原因で、それも心配してくれているのは美真自身も理解しているようだった。

 

『だとしてもっ! あそこまで罵倒される必要があるとお思いかしらっ! 体重なんて関係ないじゃないっ!』

「健さんは口が悪いんだ。美真のこと考えてるのは分かるけれどね」

 

 スマホから距離をおいて小声で話す遥。ひとしきり愚痴を言い切った美真はすっぱり感情を切り替えて遥の近況を尋ねて来る。

 

『何だか最近は調子がいいんじゃありませんこと? 返信もすぐ返って来るようになりましたわね』

「うん。フィエーナが元気を分けてくれるの」

「あはは、一緒にいるだけなんだけどね」

『そう……あたくしも転校しようかしら?』

「嬉しいけど、美真のお頭じゃ……」

『ぐぬう……』

 

 凛の話題が出ると通話の向こうの美真もシンと静かになる。

 

「凛は……相変わらず?」

『そう、ですわね……向こうの学校の友人によると学校の中でもあの調子みたいですわ』

「そっ……か」

『ごめんなさいねフィエーナ。関係ない話をして』

「ううん、気にしないで。それとも私、席をはずそうか?」

「離さない。一緒にいて」

 

 私が少し体をベッドから浮かせる素振りを見せただけなのに、遥は先んじて私の腰に腕を回してぎゅうとくっついてくる。ちょっと心配性じゃないかな。

 

『遥?』

「あ、いや。フィエーナには私のことで隠し事をしたくないんだ」

『へえ、そこまでの仲ですのね』

 

 向こう側にいる美真の笑みが通話越しに聞こえて来る。遥の無事を喜ぶような、そんな声だった。

 

『暇が出来たら一度お茶でもしましょう? いいお店を知ってましてよ?』

 

 



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T/A20:ロートキイルの友人達と会話しました。

 

 

 私が日本に来てから一週間、ロートキイルの友人たちとは主にSNSでの交流だけが続いていた。エリナが毎日テレビ電話を掛けて来る両親の通信に混ざったりしてくることはあったけれど、みんなそれぞれ事情があって、何より七時間の時差の影響でリアルに声を聞く機会は大きく減少してしまっていた。

 

『フィエーナちゃーん!』

「里奈!」

 

 真っ先にグループテレビ電話回線に入ってきたのは里奈だった。相変わらずの小さな体と、小さな体とはアンバランスに大きな胸を画面いっぱいに広げて喜色満面に抱き付く仕草を画面越しにする里奈に合わせ、私も思わず腕を広げ里奈を迎え入れる体制になってしまう。

 

『そっちは夜なんだなー、こっちはほら。まだまだ明るいぜー』

 

 画面を占有する里奈の後頭部に手を置いて、ぐぐぐいっと画面下に追いやりながら後ろからひょっこり顔を出すのはトヨだ。里奈はトヨに抵抗することなく頭の上に置かれた手を両手の手で掴みながらするすると消えていった。

 

というか、この部屋の内装からして二人はエリナ家のリビングにいるらしい。位置からしてテレビのディスプレイを使っているようだ。

 

「ロートキイルはまだ二時だもんね。日本は今夜の九時だよ」

『時差ひでーなあ。あーあ、あたしもお盆に帰るけどさ』

『私も日本帰るよ』

 

 ひょっこりと目から上だけ姿を見せる里奈の頭の上には相変わらずトヨの手がある。里奈は百五十センチすら届かない身長のせいで、こんな扱いが慣れっこになってしまっているのだった。

 

『あ。繋がったの』

 

数分ほど里奈とトヨの二人を相手に話していると、飲み物の入ったコップ片手にだらけた部屋着姿のエリナがのっそりと姿を見せる。ああもう、せっかく綺麗な顔してるのに髪もロクに整えないでエリナはもう……髪も淡い金髪でとっても綺麗なのにもったいないなあ……可愛いからつい許しちゃう私はきっとエリナにだだ甘なんだろうな。

 

「エリナー、私がいないからってだらけてるー」

 

 ひもの緩い白のタンクトップからはたわわな胸が零れそうでひやひやしてしまう。私ほどでないにしても、エリナだって大きいんだからもうちょっとしっかりしてほしい。

 

『何言ってるの。別にフィエーナいなくてもこんな調子だよ』

 

 しれっとそう言いながら氷の入ったジュースをずずずとわざと音を立ててニヤリとして見せるエリナは行儀が悪くて、いつも通り過ぎて、ちょっと故郷に郷愁を感じてしまった。

 

『フィエーナ。今私映ってる?』

 

 今まで一画面だったディスプレイが二画面に分割されたかと思うと白銀のシニョンだけが映り出し、ごそごそとカメラの位置が動いて鋭い目つきを心配げにしているアメリアの顔が姿を見せる。

 

「アメリア心配しないで。ちゃんと映ってるよ」

 

 アメリアもまた忙しい身だ。今日は一時間だけ自由時間を無理言って作ったと聞いた。今も里奈たちとは別の場所からグループテレビ電話に入ってきている。企業のロゴの入ったぴっちりとしたスポーツウェアは怜悧な美しさを持つアメリアが着ているとすごく様になっていた。

 

『あら? キアリーの顔が見えないわね』

『キアリーちゃん遅刻なんだ。今ね、全学技術連盟のプロジェクトが忙しいみたいでわたわたしてるよー。って、玄関がうるさいね。来たみたい』

『あたしが出るよ』

 

 どたばたと画面越しが慌ただしくなって、ようやくキアリーが出現する。まあ、約束の時間から五分も過ぎていないからぎりぎりセーフにしてあげよう。

 

『うあぁあぁあ、間に合わなかったぁ……』

 

 息も切れ切れに額から汗を流しながら胸を上下させるキアリー。相変わらずすっごく大きな胸をしている。絶対赤ちゃんの頭よりも大きいよ、あれは。ヴェイルは三丘高校で日子先輩に会っていたけれど、やっぱりキアリーの方が上だ。

 

『もう、時間に余裕を持って行動しないからよ』

『ううう……フィエーナ。アメリアが怒るよぅ』

 

 お淑やかそうな方向性で綺麗に整った顔立ちとサラサラと真っ直ぐに伸びる金髪でお人形さんみたいに可愛らしいのに、相変わらず子供じみたところがキアリーにはある。顔は幼げだけれど、身長は私よりも四センチほど大きく、胸も私より十センチほど大きいのでギャップが凄い。

 

「駄目だよキアリー。忠告はちゃんと聞き入れなきゃ」

『うえあー……』

 

 駄目だこりゃ。走って脳に酸素がないせいで、まともな呼吸になりやしない。浅い呼吸を繰り返すキアリーはテレビの前に設置されているソファにずるずると倒れ落ちて行って画面から消えていった。

 

『キアリーちゃん。お水でも飲んで落ち着いて』

『あいがとー里奈ぁ……』

 

 画面外で里奈にお世話されるキアリーの姿は見えないけれど、そういった光景はありありと脳内で再現が可能なほど見慣れている。

 

「何かみんな、相変わらずだね」

『そりゃ一週間ちょっとで変わる訳ないでしょ』

「あはは、そりゃそうだね」

 

 そういいながら不愛想にこっちを見つめて来るエリナだけれど、その瞳の奥からはこっちを慈しむ感情が見え隠れしていた。意外と心配性なんだよね、エリナって。

 

 

 

 その後、落ち着いたキアリーを交えて話していると、三十分が経過した頃に里奈が遥について聞いて来る。

 

『そういえば遥ちゃんはまだ帰ってこないの? 九時頃なんでしょ?』

「うーん、そろそろだと思うんだけどな」

 

 今回夜八時半に通信を始めたのは、この時間なら遥もみんなの顔が見られると考えたからなのだけれど今日は……あ、インターホンが鳴り出した。階下のエントランスに遥が到着したようだ。

 

「遥を出迎えて来るね」

『いってらしゃーい』

 

 気のないエリナの声を背後から聞くのも久しぶりで、嬉しくなってしまう。

 

 一ヶ宮家に間借りしている私の部屋を出て玄関で遥を出迎えようとすると、奈緒さんと仁悟さんもリビングから姿を現してきた。

 

「遥ちゃん、どうにか間に合ったみたいね」

「うん、アメリアもきっと遥の顔が見れたら喜ぶよ」

「しかし今の時代は便利だよなあ。ロートキイルにいる友人が日本にいる友人と顔を合わせて会話できるんだもんなあ」

 

 ほろ酔い気味の仁悟さんのしみじみとした物言いに私も頷く。ヴェイルのいた世界ではとても再現できない現代文明の数々がなければ私は今ここにはいられない。

 

「ただいまぁー……」

 

 日曜日の任務、昨日の土曜日も丸一日を費やして魔之物退治をしていた遥にとってきっと一週間で一番に疲れている時間だろう。疲れ切った声音で帰宅した遥はそのままに出迎えた私の胸元に顔を倒れ込ませる。

 

「おかえり、遥」

「えへへへぇ」

 

 だらしなく顔が緩む遥を見ていると、私も何だか心がほっこりして口元が緩んでしまう。すりすりと私に顔を寄せ、背に回した両腕でぎゅうと抱きしめて来る遥を見ていると、とても戦う力を持った強者には見えない。ただただ愛らしい美少女だ。

 

「遥、今日はロートキイルのみんながテレビ電話で待ってるよ。会う元気ある?」

「ある! え、え? みんなって誰?」

「エリナにアメリア、里奈にキアリー、トヨの五人」

「わわわわ! わああ~!!」

 

 言葉にならない声を上げて遥は周囲が明るくなるような満面の笑みを浮かべる。そんな笑顔を見せられたらこっちまで心が高鳴ってしまう。

 

「あはは、私の部屋のパソコンだから早く行こうっか」

「待って待って! 私すぐに着替えて来るっ!」

 

 遥らしくなく靴をぽいぽいと玄関に投げ落としたかと思うと次の瞬間には遥の部屋の扉がバタンと閉じる音がした。は、早い……流石遥。

 

「遥ちゃんはしゃいじゃって、もう」

 

 言葉面とは裏腹に嬉しそうにしながら奈緒さんは座り込み、遥が適当に脱いで捨てた靴を並べなおす。

 

「フィエーナさん……父親として改めて言わせてもらうよ。遥と一緒にいてくれてありがとう」

 

 ちょっと目の潤んだ仁悟さん、ちょっとお酒が入って感傷的になっているのが分かる。

 

「仁悟さん。私、遥と友達になれて幸せだったって思っているよ」

「そうか……」

 

 私が言葉を続けようとし、仁悟さんも何かを喋ろうと口を開くも私たちにこれ以上言葉を紡ぐ時間はなかった。

 

「フィエーナ! 準備オッケーだよ! どうかなっ!?」

 

 あっという間に着替えを終えた遥が怒涛の勢いで部屋から飛び出してきては私に服装について感想を求めてきたのだった。

 

 遥はとっても可愛らしいからよっぽど変な格好をしなければ様になっちゃう子だけれど、今回もしっかり綺麗に決まっていた。私がグーサインを出して頷いて見せると、テンション高めの遥はニコニコと抱き付いてきた。

 

「フィエーナ行こう!」

 

 抱き付いたかと思えばすぐに私の手を引いて歩き出す遥は本当に嬉しそうだ。

 

「みんな~! 本当にみんないるねーっ!」

 

 昨日までロートキイルにいたかのように流暢なロートキイル語を話し始める遥はみんなとの会話に混ざる。

 

『遥ちゃーん!』

『遥!』

 

 テンション高めの遥に付き合うかのように画面越しに里奈とキアリーが迫って来る。

 

『遥、あなた……大丈夫なの? すっごく疲れて見えるわ』

「んー、疲れてたけどみんなの顔見たら疲れなんて吹っ飛んじゃった!」

『そうはいうけど、予想外に疲れた顔してるぞ? 電話終わったらさっさと寝ろよ?』

「トヨの声聞くのも久しぶりで感動……」

『駄目だこりゃ』

 

 疲れのせいか普段よりも幼げに感情を露わにする遥は可愛らしいけれど、トヨの言う通り早く寝かしてあげた方がいいかもしれない。うーんでも、こんな嬉しそうにはしゃぐ遥を止めるのも私には出来そうにない。

 

 久しぶりに遥も混じって全員で賑やかにおしゃべり出来て私としてもこの場をずっと過ごしていたい思いがあるのも確かだった。近況を互いに喋っているだけなのに、ずっとこうしていたくなってしまう蜜のように甘い時間。

 

『そういえばフィエーナちゃんに彼氏が出来たんだよ~』

「は?」

『あ、い、言い間違えちゃった~あはははは~』

 

 分かりやすく動揺する里奈は一瞬で氷のように冷たくなった遥の視線に耐え切れず画面外に逃げる。代わって、その視線が横にいる私へと向けられた。

 

「あ、あはは……里奈の誤解だから遥落ち着いて?」

「何だ、そっか」

 

 にっこりと笑顔を見せる遥だけれど、その張り付いたような笑みはさっきよりも怖いかもしれない。

 

「それで、里奈が言っていた男の子との間に何かあったの?」

『遥落ち着きなよー、ただフィエーナの元にアルフレート王子が尋ねて来ただけだよー』

『それに合唱団交流会で王都に行った時、家に招かれて泊まった、だけだよね』

 

 フォローするつもりで墓穴を掘るキアリー……その墓穴は私が入る羽目になるのを理解してほしい。あと、事態をかき混ぜるつもり満々のエリナは後で覚えていること。しっかり睨みを効かせておく。

 

「アルフレート王子って、修学旅行の時にあったって話していたね? お友達になったとは言っていたけど……」

「う、うん。SNSで交流したりね」

「ふうん」

 

じいいと、遥が睨んでくる。私は悪いことをしたつもりはないのに、罪人のような気分だ。

 

「フィエーナの男事情は知らないけど。私には何にも言ってくれなかったね」

「だって、お友達と交流しているだけじゃない」

「でもフィエーナはすっごく綺麗だし、可愛いし、優しいし、おっぱいも大きいし、髪もさらふわで触り心地いいし、くっついてると幸せな気持ちになるし、声は聴いてるだけで気持ちよくなっちゃうし、目は宝石みたいに綺麗な赤紫色をしているし」

「待って待って! 遥褒めてくれるのは嬉しいけど結局何が言いたいの?」

「あっ」

 

 遥の褒め言葉の嵐にディスプレイの向こう側からニヤニヤとした笑みが送られてくる。私まで恥ずかしくなってきて、頬が淡く染まるのがディスプレイに映り余計に羞恥を煽られる。遥ったら、もう……!

 

「つ、つまりね! フィエーナはもっと慎重になるべきだよって言いたいの! その人、信用出来るの?」

「遥。アルフレート王子殿下とは私自身何度も会って本人を見て来たから断言できるよ。あの人はいい人だよ」

 

 真摯な態度で私は遥に言い聞かせる。アルフレート王子は私の大切な友人だ。遥だからって悪く言うのはいけないことだと言わなければならない。

 

「……ごめんフィエーナ」

「ううん、遥は私のこと心配してくれたんだもんね。ありがとうね遥」

「……アルフレート王子とはお友達、なんだよね?」

「あはは、疑り深いね遥。そう言ったでしょ?」

「今も交流しているの?」

「うん、今日もちょっとSNSでメッセージを送り合ったよ」

『遥ちゃん。ロートキイルだと告白イベントはなくて長く付き合ったボーイフレンドとは恋人同士になるんだよ。油断しないで』

「フィエーナ?」

 

 せっかくどうにかなったかと思ったら、里奈の言葉に再び遥の顔が猜疑心に満ちた追究者へ変貌する。

 

『里奈! 余計なこと言わないのっ!』

『えーっ! でもアメリアちゃん、これって本当のことだよ!』

『そうだよ遥。フィエーナってばいつの間にか王子様引っ掛けてるんだからずる……羨ま……ごほん、凄いよね』

「エリナっ!」

『へ~んだ』

 

 エリナって本人はそういう素振りは一切見せてないつもりだけれど、私への独占欲は結構高い。遥のために来日しようとした時も嫉妬が見え隠れ……というか割とはっきり態度で示していた。今の発言は絶対遥をけしかけてアルフレート王子との仲をあわよくば薄めてやろうという算段だ。エリナ。私だってエリナのこと心の奥底まで分かってるつもりなんだからね。

 

「もう、私はそういうつもりで付き合ってないのに……アルフレート王子とはお友達、だよ」

「そっか……そういうことにしておく」

 

 疑り深いな遥。

 

 

 



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T/A21:遥を胸に抱き寄せて寝ると、幸せな気分になれました。

 

 ロートキイルの友人たちとの会話は思った以上に遥を元気づけたようで、会話後の遥は何処か浮かれた様子を隠さなかった。愛娘の嬉しそうな姿に釣られて浮かれた仁悟さんはひとしきりテンションの上がった調子ではしゃいで疲れたせいなのか、お酒をいつもより飲んだせいなのか、ソファでだらしなく眠りこけてしまっている。

 

 夕食後、お風呂を浴びに行った遥を見送った私たちはのんびりとリビングでぐだぐだとしていた。

 

「もう、こんなトコで寝ちゃって」

 

 床に座った奈緒さんはソファに眠る仁悟さんの顔を見上げながら微笑み、頭を優しげに撫でる。遥に受け継がれた綺麗な顔立ちが魅せる表情に、ちょっと私は見惚れてしまった。

 

「明日は仕事があるのに飲み過ぎなのよ」

 

 そう言いながらも奈緒さんは膝丈までの高さしかないテーブルからビールの入ったコップへ手を伸ばす。今日の一ヶ宮家はとっても幸せそうだった。遥が過酷な任務から解き放たれれば、これが日常になるのだろう。

 

「ここまで元気な遥ちゃんを見るのはいつ振りかしらね……」

 

 奈緒さんがぽつりと放った言葉を切っ掛けに昔はどうだったのか聞いてみる。

 

「そうねえ……週に一回、それも数時間だけだったわね。あ、プラスで週に二回は修行として道場に参上するようには言われていたかしら」

 

 その程度なら日常に支障なく過ごせるだろう。さっさと魔之物の大量発生は収束してはくれないだろうか。

 

「でもそれだけじゃないわ。今の遥ちゃんはお友達と遊ぶ機会もなかったでしょう。だから今日はとっても楽しかったはずよ」

 

 中学時代は三年生で転校して一年の付き合いとはいえ、友人も作り楽しく過ごしていたのだという。けれど、高校に入る直前の三月からこの忙しさがやってきて遥には学校で友人を作る余裕が失われてしまった。いや、一応智恵たちがいるから友人はいるのだけれど気晴らしに遊んだりする余裕がなくなってしまったのだ。何しろ、画面越しに私と会話するのでさえ途中で寝落ちしてしまうほど体力的余裕を失っていたのだ。今日の出来事はきっと数か月振りに友人と気ままにおしゃべり出来た時間だったのだ。

 

 

 

 お風呂から上がった遥は土日の疲れが出て来たのか頭がふらふらと覚束なくなっていた。奈緒さんと私が早く寝るよう促すと、素直に頷いておやすみの挨拶を交わしリビングを出ていったと思えば十数秒後ふらふらと戻って来る。

 

「遥ちゃん?」

「ママ、フィエーナと寝る」

 

 そう言いながら奈緒さんの対面のソファに座っていた私の上に覆いかぶさってきた遥は脱力しきっていて、このままの状態で眠ってしまいそうだ。

 

「ふぃえーなぁ、いっしょにねよー」

「ん、分かったからベッドに行こう、ね?」

「んんー……」

 

 どうにか遥を立たせ、私はもう目を開けてすらいない遥の手を引きながらリビングを後にする。

 

「おやすみなさーい」

「おやふみ……」

「おやすみ奈緒さん」

 

 手を振って見送ってくれた奈緒さんと本日二回目のお休みの挨拶を交わした遥を連れて、私は遥の部屋までゆっくりと歩いていく。

 

「んにゃ」

「ちょっと遥。もうちょっとだからしっかり」

「んむう」

 

 足元がおぼつかない遥は部屋の扉にもたれかかって防音用の二枚目の扉を閉じてしまう。ああもう、世話が焼ける子だ。私は私自身に遥をもたれかけながらどうにかベッドまで誘導してやると、今度はベッドに倒れ込みながら私にくみついてきて私を押し倒してしまう。

 

「ふぃえーな……」

 

 私は抱き枕じゃないんだけどな……それでも、抱き付いて来る遥の体は触れていて心地が良くてどうにも拒否する気になれなかった。とはいえ、上に乗られていると流石に寝られそうにない。

 

 心地よさそうに寝息を立てる遥を横に降ろして一息ついたのもつかの間、今度は私の頭の上に遥の頭が乗っかって遥の髪の中に埋もれた私の顔は清潔感のある、仄かな甘い匂いに包み込まれてしまった。

 

 これはこれで気持ちよく眠れそうな気がしたけれど、頭の上に頭を乗っけていたら起きた時に頭痛になってしまいそうだ。やむなく遥の頭を擦り落とした。ごめんね遥。

 

「んぅん……」

 

 少し距離が離れたのをすかさず察知した遥は駄々をこねる幼児のようなぐずり声を小さく上げ、私の首元に両腕を回して再び距離を縮めて来る。そのままだと唇同士で当たりそうになり焦った私は慌てて少し上に体をずらすと、遥の頭部は私の胸へと突っ込んでいった。

 

 

「んえへへぇ」

 

 息が苦しくないのだろうか? 谷間の中に顔を完全に埋もれさせた遥は私の懸念を他所にすごく幸せそうな声を漏らしていた。うーん……もう、いっか。いざとなったら私くらい跳ね飛ばせるくらいの力が遥にはあるのだ。

 

 何より、胸の間に遥が顔を埋めていると私も何だか心の奥底が温かく、愛おしい思いで満たされていって気分がいい。遥だからこんな思いになれるんだと思う。服を脱いで胸を曝け出すのは恥ずかし過ぎるので断っちゃったけれど、着衣の上でならいくらでも遥を抱きしめていられる。

 

 口から子守歌が自然と紡がれていく。遥はロートキイル語が分かるから、意識がしっかりしてるときに歌ってたらムッと拗ねるかもしれない。けど、ごめんね? 今の遥を撫でながら抱きしめてると、自然と口をついて出ちゃうんだ。許して?

 

 

 

 とても幸せな思いに包まれた眠りを経て、相も変わらず胸の中で眠りに付く遥の体温を感じながら私は目を覚ます。

 

 カーテンの隙間から漏れる太陽の輝きと壁に掛けられた時計に目を向け朝になったのを確認すると、起きなくちゃと思うのだけれど。どうにも遥と互いに抱き合っている今が気持ちよくて体を動かそうという気分になれない。

 

 それにしても、胸に包まれて眠るのはどんな気分なんだろう。幸せそうに寝息を立てる遥を見ていると私も体感したい思いが湧き出て来る。顔が埋まるくらい大きな胸の知り合いか……キアリーに、エリナ、後は里奈も可能ではあるだろう。あとは……お母さんなら出来そうだ。遠い昔、お母さんに抱きしめられ眠りに付いた時に私はどう感じたのだろう。記憶を辿ると、それはとっても心が落ち着いたようなおぼろげな思い出が湧き出て来た。遥も同じ思いを私に抱いているのかな?

 

 遥のサラサラとした黒髪の触り心地、匂い、温もり諸々を堪能しながら寝起きのぼんやりとした頭でぼうっとそんなことを考えていると、いよいよ起きなくちゃいけない時間が迫って来る。

 

 仕方ないか、数十秒ほどたっぷり遥の髪の中に顔を埋め感触をしっかり我が身に焼き付けてから私は起床を決意し遥を引きはがしにかかる。

 

「いや……」

 

 さっきまで幸せそうだった遥の表情がこの世の終わりみたいに悲し気に歪むのを見てしまい、私の手は止まる。そしてその隙に遥はさっきより一層強く抱き付いてぎゅうと胸の中に顔を埋めて離すまいとする。あちゃあ、これじゃあ私自身じゃ抜け出せないかも。言葉による説得へと切り替えてみる。

 

「遥、おはよう。朝だよ、そろそろ起きよう?」

「んん……?」

 

 胸から顔を離す気はないようだけれど、少し上向いた遥は鼻から上だけを胸から離し寝ぼけ眼で私と視線を合わせる。ああもう、なんて可愛いんだ遥ったら。

 

「は~る~か?」

「ふぃえーな?」

 

 小首を傾げる遥の愛おしさに心が高鳴るのを覚えながら、私は遥の顔と角度を合わせてにっこりと微笑んで見せる。

 

「そうだよー。フィエーナだよ? 朝になったから起きようよ」

「んむう……もっとこうしてたい」

「私も」

「じゃあ、こうしてよう?」

 

 うう、その誘惑には抗いがたい……このままずるずると一緒にベッドの中で遥と抱き合ったまま時間を浪費出来たらと思わないでもないけれど、ここは心を鬼にしないと一緒に遅刻しちゃうかもしれない。

 

 そう、心を鬼にして……鬼にして……駄目だ、物欲しげな遥の目線に抗しきれない。思わず目を背けてしまった。

 

「そんな目で見ないで遥。誘惑に負けちゃいそう」

「フィエーナ? 私とずうっと一緒にいよう?」

 

 もぞもぞと私の体を這い上がってきた遥は目と目を合わせて誘惑してくるけれど、その口元には笑みが漏れている。ああ、からかわれているなと私が気付いたのと同時に遥は我慢できずに笑い出していた。

 

「もう、ひどいよ遥」

「えへへ、ごめんねフィエーナ。さ、起きよっか」

 

 サッとベッドの上で立ち上がった遥はそのまま私に背を向け、ベッドから降りようとする。何だかからかわれっぱなしは癪に障った私はお返しに遥の後ろから抱き付き、そのまま遥を抱きかかえたまま背中からベッドに倒れ込んだ。

 

「フィエーナ!?」

「あはは~」

「あーっ、もうフィエーナびっくりしたよー! 悪い子!」

「あっ、ちょっと! くすぐりは駄目だよっ! んあぅ!? 駄目、そこはっ、駄目って!」

 

 

 



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T/A22:ベーセル兄の親友が訪ねて来ました。

 

 

 月曜日を迎え、三丘高校はテスト週間を迎えていた。午前中だけしか授業がなくなった一方で、大学受験に備えた学習の成果を確認するためのテストに挑むクラスメイト達は真剣だ。

 

 努力が実りいい結果に安堵のため息を吐く者もいれば、悪い結果を前にしてうなだれる者もいる。

 

「どう思う?」

「うーん……部分点なら貰えそう」

「そっか……」

 

 良くも悪くもテストの結果に右往左往するクラスメイト達の中にあって、遥は答えの正誤判定に悩むクラスメイト達の採点を手伝ってあげていた。何でも遥は三丘高校開校以来一番に頭のいい生徒らしく、今の今まで失点らしい失点をしたことがないのだとか。

 

 今日のテストでも当然の如く全科目百点(クラスメイト達による自己採点だけれども)なのだから、遥は凄い。

 

「遥はいつもああなの?」

「ん? ああ、テスト後はな」

「遥の採点は誤差がほとんどないから早く結果を知りたい子にはありがたいのよ」

 

 回答者としてだけでなくて、採点者としてもほとんど完璧らしい。退魔師として修行しているから戦闘面でも隙はないし、やっぱり遥は凄い子だ。

 

「アタシ頭の良さには自信あったけどさ、遥に会って上には上がいるって思い知ったよ」

「私も智恵ちゃんより頭が良い子がいてびっくりしたよ」

「おまけにあの愛らしさ……マジのガチでお近付きになりたくて必死だったなあ」

「智恵ちゃん、可愛い子とか美人な子に目がないもんね……」

「一緒にいると幸せに気分になれるんだよ。へへぇ」

「ははは……」

 

 にへらっと端正な顔を崩して笑う智恵に抱き付かれ、渇いた笑い声を上げる鈴子。その横にいた雪夜が私の傍にスッと近寄り耳元で囁いて来る。

 

「智恵は可愛い子には全員声を掛けてるからレズ疑惑があったのよ……あなたに告白したから疑惑ではなくなったんだけれどね」

 

 そ、それは……。身長が二十センチ以上小さな鈴子を抱き寄せては頬を染めながら頬ずりする智恵は蕩けそうな笑みを浮かべている。心底幸せそうで、綺麗な美人さんの見せる隙にうっかりドキッとしてしまった。

 

「あの表情は反則よね」

 

 険しい顔つきの雪夜に、私も頷いて賛同する。

 

「ふぃえーなー」

「遥? どうしたの」

「んー」

 

 ふわりと甘い香りがしたかと思うと、遥の柔らかな肢体が私に絡みついてきていた。お友達が撫でられて羨ましくなったのかな。

 

「もう……遥は甘えん坊さんだね」

 

 うるうると見つめて来る遥の頭を撫でてあげると気持ちよさそうに目を細めて胸元に頭を摺り寄せて来る。まるで猫みたいだ。

 

「フィエーナ? それ、普通にやってるの?」

「え? 何か変かな?」

「遥もフィエーナ相手だと甘々よね……」

「そう?」

「いーなー! アタシも混ぜてくれー!」

「うわわっ! 智恵!?」

「むぎゅう」

 

 私と遥に智恵が覆いかぶさって来て、私たち纏めて抱きすくめられてしまう。視界の端でホッとしたような表情を浮かべる鈴子が見えて、標的としてとらえられてしまったことを私は察した。

 

「へっへっへえ……二人ともいい匂いだなぁ」

 

 私たちの体臭を嗅いでは嬉しそうに身を震わす智恵の姿は、クラスメイトたちの面前で見せていいものじゃないような気がする。私は遥に目くばせすると、意をすぐに酌んでくれた遥はこくりと頷く。

 

「よっと」

「むん」

 

タイミングを合わせ二人で智恵の拘束を抜け出すと、両腕を広げて立つ智恵が一人残される。ちょっと滑稽な立ち姿だ。

 

「え? え? アタシ、え?」

「あははー、びっくりした?」

「どうしたの智恵ちゃん」

「あ、いや……」

 

 するりと抜け出した私と遥に手品を見せられたかのように呆然としている智恵は首を傾げながらも広げた手を下げた。そんな智恵を不思議そうに近寄っては見上げる鈴子の距離感はこなれたように思えた。

 

「それにしても智恵と鈴子は仲良しだねー。雪夜と違って中学から一緒なんだっけ」

「ううん。私と智恵ちゃんはもっと昔から友達だよ、ね?」

「ああ。小学生の頃から学校は別だったけど友達だったぜ」

「へー」

 

 何気なく話題にした二人の関係だけれども、何だか鈴子の様子がおかしい。珍しく眉を怒らせ、ちょいちょいと指でみんなに近寄るよう促してくる。私たちが椅子に座る鈴子の周りを囲むと周囲の雑音にかき消されそうな小さな声を上げる。

 

「智恵ちゃんたら怖いんだよ。町内会のお神輿の時に私を見かけて一目ぼれしたって家にまで乗り込んできたんだから」

 

 怪談でも話し始めそうだった鈴子の声音は最後の方は半笑いになってしまっていた。本気で嫌悪している訳ではないみたいだ。それにしても智恵の行動力には驚かされる。鈴子の口振りだとそれ以前には全くの他人だったんだろうに家まで押しかけるなんて。

 

「あはは……智恵って昔から変わらないんだね」

「ええ……私もそれは初めて聞いたわ」

「怖いって何だよ。別に同い年の友達が欲しかっただけだろ」

「でも幼稚園の頃から目を付けてたって言われた時はお母さんとお父さんストーカーって疑ってたよ」

 

 ジト目の鈴子から目を逸らした智恵は渇いた笑い声を上げて追及から逃れようとする。

 

「でっ、でも誤解は解けたからな! 今じゃおば様たちとは仲いんだからな?」

「まあね、大志君とも遊んでくれてるし。私ゲーム苦手だけど智恵ちゃんはすっごく上手いんだよ」

「大志も結構上手い方だけど、アタシにゃ及ばねーな」

「大志君私と対戦すると弱くてつまんないって言うんだ……」

「なにぃ? お姉ちゃんを悲しませるとは後でアタシが〆とかないとだな」

 

 

 

 日が燦々と降り注ぐ午後二時ごろ、一番気温の上がる時間帯に帰宅した私と遥は空調の効いたマンションのエントランスに足を踏み入れようやく一息ついた。管理人さんと挨拶を交わし、エレベーターに乗り込んだ私は三十度を優に超える外気から解放され思わずため息を吐いてしまった。

 

「ふう……涼しいね、遥」

 

 じっとりと張り付いた胸元の制服を肌から引きはがしながらパタパタと仰ごうとすると、スッと遥の手が私の腕を掴む。何事かと目を向けると遥は静かに首を横に振る。

 

「何? 遥」

「駄目」

 

 私だってはしたない真似だとは百も承知だ。人前ではこんなことしたりしない。きっと遥もだから止めたのだろうけれど。

 

「遥しか見てないからいいじゃない。ね?」

 

 数秒ほど目線を重ね合わせ、根負けしたように目を逸らした遥は僅かに頬を染めながらぼそりと呟いた。

 

「……許可する」

「あはは、ありがと遥」

 

 遥と他愛のないおふざけをしている間にエレベーターは目的の十階まで到着していた。少し前を歩く遥がインターホンを押し、少し待つと微かに開錠の音がして扉が開く。

 

「おかえりなさい遥ちゃんにフィエーナちゃん。今日は懐かしい人が来てるわよ~」

 

 奈緒さんの隣に立っていたのは私の師匠である林原先生の一人息子にして、今は日本で退魔師として活動をしているはずの林原陽人。二年くらいは経たであろう実戦経験によるのか、精悍な顔つきは日に焼け自信が満ち溢れていてカッコいい。うん、いい感じに成長しているようで何よりだ。

 

「よう。二人とも元気にしてたか?」

 

 私より十センチは高い身長は日本人の中では大きな方だろう。少し頭を屈めて私たちに向ける笑みからは若さに満ち溢れていながらも、大人の余裕が顔を覗かせるようになっていた。あの陽人から大人らしさを感じるとは、著しい成長に感慨深くてうるっときそうだ。遥も声は出さずコクコクと頭を上下に振るだけだけれど、目がキラキラしているし何より頭を振る速度から感極まっていることが分かる。きっと同居していた陽人にも気持ちは伝わっていると思う。

 

「久しぶりだね陽人。それと、あなたは?」

 

 陽人の背から、何だか緊張しきってかしこまっている女の子が顔を出している。私より十五センチは小さいけれど、迂闊に小学生くらいかなと思ってはいけない。彼女が小さすぎるのではなく、私が日本では身長が高めなだけなのだ……多分。

 

「あ、ああ……ちょっと先輩! ここ、こんな美少女たちと同居生活してたんすか!?」

「たち、じゃねーよ。黒髪の方、遥とだけだ」

 

 ツインテールのよく似合う幼げな顔立ちの可愛らしい女の子にベシベシ腰辺りを叩かれ、うっとおしそうに目線をあらぬ方向に向ける陽人。二人の関係は退魔師の先輩後輩なのだろうか?

 

「どっちにしても羨ましいなぁむぉう!」

「いいから自己紹介しろよ。フィエーナも困ってるだろ」

「うおっ!? そ、そうでしたね。では改めましてっ! 私は美津黒由那(ミツクロユイナ)十五歳! 花も恥じらう現役高校生退魔師ですっ!」

 

 ビシッと右手を天に差し出すのは決めポーズなのかな。何だか背伸びして格好つけようとしている子供みたいで可愛らしい。

 

「私はフィエーナ、同い年だよ。よろしくね由那」

「は、はうぅ……よ、よろしく……」

 

 私が手を差し出すと恥ずかしいのか顔を赤らめて俯きながら手を伸ばしてきた。私から手を取って握手をすると、口元をひくつかせながら細々と何かを呟いているけれどよく聞き取れない。何だろうと耳を近づけてみると、びくっと反射的に固まってしまった。

 

「あー……こいつ人見知りなんだよ。慣れるとかなり失礼な奴なんだけどな」

「余計な事言うなっ!」

「はっはっは、うるせえなおい」

 

 小声で叫ぶ器用な真似をする由那をシレっとあしらう様を見るに、二人の付き合いは結構長そうだ。

 

「ほら、遥も自己紹介」

「あ、うん。わ、私は一ヶ宮遥です。よろしくお願いします」

「あ、ああ……よろしく……」

 

 緊張で表情を硬くした遥に、ぼそぼそと呟く由那の二人はどちらも人見知りぎみだ。これじゃ打ち解けられるか心配だな。

 

 軽く互いの自己紹介を終えた私たちはリビングに上がる。リビングのテーブルには麦茶の注がれたコップとお菓子の入った小皿が並んでいた。由那が座りなおした手前のテーブルだけぽろぽろとお菓子の食べかすが散らばっていた。それに気づいた様子の陽人に頭を叩かれまた小声で口論をしている。二人とも本気ではなくて、じゃれ合っているように見えるのは気のせいなのかな。

 

「フィエーナ、はい」

 

 二人の様子を見て立っていた私の前にひょいと遥が割り込んできて麦茶の入ったコップを差し出してくる。そういえばさっきまで暑くてしょうがなかったのを思い出し、途端に喉が渇いてきた。

 

「ありがとう遥」

 

 遥と奈緒さん、後ろの方を歩いているだけにしてはちょっと遅いなと思ったら途中でキッチンに寄っていたからだったんだ。コップに注がれた麦茶を差し出してくる遥に続いてやってきた奈緒さんは遥の分のコップと麦茶の入ったピッチャーをお盆に乗せて持ってきていた。

 

「遥ちゃん。どうしても自分がやるって言うの」

「フィエーナのお世話は私がする」

 

 私に麦茶を渡した遥は今度は奈緒さんからピッチャーを受け取り、いつもやっているかのように陽人の隣に座る。

 

「は……陽人はまだ飲む?」

「あー、じゃあ一杯貰えるか? こいつのも入れてやってくれ」

「分かった」

 

 久しぶりに再会したからか、ちょっとだけ遥の声音には緊張が見え隠れしていた。注ぎ口から麦茶がとぷとぷとコップに注がれていくのを二人して眺め、七分目あたりまで注がれたのを見届けた遥はスッとコップを陽人に差し出すと陽人は何でもないようにそのコップを受け取った。

 

「助かる……てか、何か久しぶりだなこういうの」

「……うん」

 

 感慨深げに微笑みかける陽人に、遥も思いを噛み締めるようにピッチャーを抱く。

 

「先輩。同棲時代はそんなんだったんすか」

「ん。まあ、そうだな」

「へー。へー!」

「何だよ」

「何でもないですっ!」

 

由那との掛け合いの合間に陽人はサッと目線を送り、それを見た遥はクスリと笑う。何だかちょっと妬けちゃう関係だ。

 

「ねえ、それにしたって突然の訪問だけどどうしたの?」

「ああ、実は俺たちも増援としてこっちに来たんだよ」

「へー、陽人もそういう立場になったんだね」

「まーな」

 

 陽人が日本に来たのは三年ほど前で、その頃は実戦経験がまるでない新米だったはず。そこから増援を求める退魔師に応じて馳せ参じるレベルにまで成長したという訳らしい。

 

「んー、確かに今の陽人からは頼り甲斐を感じるよ」

「本当か?」

 

 ちょっと喜色が垣間見える陽人に、私は率直な感想を返してあげた。努力の結果は素直に褒めてしかるべきだ。

 

「うん。退魔師として、それに人として立派になったね陽人」

「何で師匠面なんだよ」

「あははー」

 

 突っ込みをもらってしまったけれど、満更でもなさそうな陽人に日本では何をしていたのかを聞いていく。連絡先は交換していたので、ちょくちょく質問をもらって私なりの考えを伝えたりはしていたけれど、具体的にどうこうといった話は聞いてなかった。

 

「こっちじゃ実戦に次ぐ実戦さ。何しろ退魔師なんてロクにいないからな。全国で千人ちょっと……だっけか?」

「合ってるからこっち見んな。先輩なんだからもっとシャキッとしましょーよ」

「うっせー」

 

 暴言を互いに投げ合う関係を見ているとラフィテアを思い出す。ラフィテアもヴェイルによく突っかかってきていた。私が思うに素直に絡めなかったからだと思うのだけれど、ヴェイルもそれを理解し優しくあしらっていたな。

 

「由那とはどういう関係なの?」

「こいつとは腐れ縁でな。俺の師匠の従妹なんだが、ちょっとした事件の時に知り合って以来タッグを組むようになっちまった」

「私じゃ不満ってか? んあーん?」

「叩くな。お前には感謝してるよ」

「ふぇ?」

「お前の援護がなけりゃ俺も幾つもの死線をかいくぐれなかったからな」

「あ……あぁ……そすか……うぇへへ」

「でもこいつといるとうどん三昧になるから食生活が狂っちまうんだよなあ……何でお前うどんしか食わねえの?」

「うどん上手いじゃん? それで充分っすよ」

「はあ……こいつ自分でうどん作るんだぜ?」

「あ? 美味い美味いゆーてたじゃんか」

「うどんばっか食わされる身にもなってくれよ……素うどんしか認めないしさこいつ」

 

 何だかんだ言っているけれど、二人の仲はよさそうだ。

 

「これから三週間くらいか。東北エリアからの増援ってことで俺たちが担当することになったんだよ」

 

 テーブルの片隅に畳まれていた地図を再び広げ、ここらへんなんだがと陽人が指さす。三丘市からは少し離れているみたいだ。

 

「車で三十分くらいかしらね? 三丘市よりも栄えてるから生活は楽だと思うわ」

「へえ、そりゃいい。何しろ俺のいるトコはど田舎で大変なんですよ」

「か、代わりに自然が豊かだから……」

 

 しばらく遥も交えて和気あいあいと会話をしていたけれど、残念ながら遥にはあんまりのんびりできる余裕がない。途中で抜け出し退魔師の装束に身を包んだ遥は私たちに出立を告げるべく戻ってきた。

 

「ね、陽人。私はもう行くから」

 

 別れを惜しむように目を伏せる遥に、陽人は立ち上がってにこやかに出迎える。

 

「おお……様になってるぜ」

「本当?」

「俺より強くなりやがって!」

「んー! 髪が乱れる!」

 

 首に腕を回しわしゃわしゃと頭を豪快に撫でる陽人の顔には一種の覚悟が見られた。私には手が届かない世界だけれど、成長した陽人なら遥に手を差し伸べられる。ずるい……けど、遥を頼むよ陽人。助けてあげて。

 

「魔之物なんかに負けんなよ」

「当然。私も退魔師だから」

 

 最後にポンと遥の頭に手を乗っけた後、陽人に差し伸べられた言葉に遥は珍しく好戦的な顔つきを見せていた。

 

共に戦う者の絆が見えた気がした。私には築けない形の関係、やっぱり羨ましい。

 

 



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T/A23:遥の親友に遭遇しました。

 

 

 テスト週間も半分を過ぎた水曜日。智恵が珍しく憂鬱な顔つきで机に伏していた。

 

「どうしたの智恵。今日は調子悪い?」

「んや……テスト週間がもうすぐ終わっちまうだろ? そしたら軒貸地蔵尊例祭があるんだよ」

「例祭って?」

「智恵ちゃんはそこで龍笛を吹くんだよ」

「えーと?」

 

 私が雪夜と遥に視線を向けると二人も事情が分からなくて首を傾げている。

 

「二人とも端折り過ぎよ。説明してちょうだい?」

「あ、悪い。実は……」

 

 説明に入った智恵が言うには、テスト週間明けの日曜日に軒貸地蔵尊例祭というお祭りがあるのだとか。そのお祭りのイベントで智恵にとっての面倒事があるらしい。

 

「あー……お地蔵さまはウチのご先祖様も関わってるありがたい神様だから、例祭自体はしっかりやりたいって思うんだけどその時に集まる会合がなー」

「市長とか偉い人がいっぱい来るんだよね」

「あー、面倒くせーよぅ」

 

 智恵のお家はいわゆる名家らしく、このお祭りで智恵にも令嬢らしい振舞いが求められるのだとか。

 

「トモが……意外だわ」

「おい、そりゃどういう意味だ」

「むにゅう」

 

 ほっぺを摘ままれた雪夜はそのまま十秒ほどたっぷりいじくられた後で解放された。いじられたほっぺを両手で包み未練がましく睨む雪夜はちっとも怖くなく、いじらしいくらいに可愛いだけだった。

 

「だって……トモの口調ってあんまりお嬢様って感じしないんだもの」

 

 すねたように話す雪夜には意趣返しを言葉で以てしようと意図があったのかもしれない。けれど、智恵がお嬢様かあ……あんまりそういう風には見えないな。

 

「むしろ雪夜の方がお嬢様っぽいよね」

「それは否定出来ないよね智恵ちゃん」

 

 私の言葉に乗っかってきた鈴子を前に、智恵は唸り声を上げて再度机に沈み込んでいってしまった。

 

「む、ぐぐ……」

「でも、智恵はお辞儀とかすっごく綺麗だし素敵だと思う」

 

 そう遥が言うと、確かに所作の節々が丁寧だったのは思い起こされた。確かに口調を除けば、口を開かなければお嬢様に見えるかもしれない。

 

「遥! さっすがよく見てるぅ!」

「むう。暑苦しい」

 

 けれど遥の頭頂部に頬を摺り寄せては歯を見せ笑う智恵を見ると、お転婆な印象は拭えない。

 

「ま、そんな堅苦しいお祭りって訳でもないんだけどな。御堂開きまで終わっちまえばそこら辺のお祭りと同じで出店も出るし楽しめるぜ。夜は花火もあるし」

「私は毎年智恵ちゃんと一緒に行ってるよ。みんなも来る?」

「あら、テスト明けだしいいかもしれないわね~」

 

 私も思わず行くと返事をしかけたところで、遥の事情を思い出す。日曜日といえば、一番遥が苦しい戦いに身を投じる日だ。何も遥が戦っている間、私まで楽しみを我慢する必要はないのかもしれないけれど、やっぱりそういう気分にはなれなかった。

 

 遥もお祭りに行くか行かないかと話題に出た時点で取り繕うような笑みを顔に張り付けてしまっていた。こんな表情を見せたら雪夜たちも気分よくお祭りに行けなくなってしまいそうで、私は思わず遥の顔を隠すように抱き付いていた。

 

「あはは、私たちはちょっと無理かな。日曜は二人きりで過ごさせてもらうよ」

「何だ、羨ましいなおい」

 

 きっと、みんなも察してるだろうけれど上手く場の雰囲気を悪くしないよう私の遥と惚気るような動きに乗ってくれる。

 

 

 

 みんなと別れた帰り道、ぽつりと遥が謝ってきた。

 

「ごめんフィエーナ」

「どうしたの、遥?」

「行きたかったでしょ、お祭り」

 

 私は遥を悲しませるためにロートキイルから来たんじゃない。隣を歩く遥の手を握り、しっかりと目を見据えて私は首を横に振って見せる。

 

「私、遥と一緒にいる方がいいから。だから遥は気にしないで戦ってきて」

「……ありがとフィエーナ」

「ううん。私こそ一緒にいさせてくれてありがとうね」

 

 肩に頭を乗せて来て感じる遥の温もりは不快な夏の暑さとは違っていて、引き離そうという気にはならなかった。

 

「遥……やっぱり暑いよ」

「そうだね……けど、もうちょっとこうしてていい?」

「んー、遥がいいならいいよ。帰ったら思い切りシャワー浴びるんだ」

「じゃあ思い切り汗かいてもいいね」

 

 そういうなり遥は私の体をがっしりと抱き寄せてぎゅうと肢体を密着させて来る。汗ばんだ遥がくっつくと余計に暑っ苦しくて、けれど甘い体臭にはちっとも不快感がなくてむしろ脳髄の奥を痺れ差すような蠱惑的な甘みが残る。

 

 何だか変な方向にスイッチが入ってしまいそうになって私は慌てて遥を引きはがしにかかる。

 

「もう遥! 歩けないじゃない!」

「んふー」

「おーもーたーいー!」

 

 やっと離してくれたと思ったら遥の様子がおかしい。

 

「遥?」

 

 笑顔だった遥の口角が下がる。視線の先には三谷高校のものじゃない制服を着た女の子が立っていた。前髪をぱっつんと一直線に整え、長い黒髪を後ろで一本に纏め上げた仄暗い印象を受ける女の子だ。前髪に半ば隠れた瞳は動揺に揺らぎ、思い詰めた表情は今にも自殺しかねない危うさを放っている。

 

「凛……」

「はる、か」

 

 何か言葉を続けようとしばらく開き続けた口から結局何も発することなく、凛と呼ばれた少女は唇を噛んで俯いてしまう。

 

 凛。何処かで聞いた事のある名前だ。何処でだったか……そうだ、今はもう会えなくなってしまった遥の親友。つい数日前にも話題に上がったばっかりだった。まさかこんな場所で出会うことになるとは。

 

「久しぶりだね、私は……元気にしてるよ」

「そう。なら……それなら、いいの」

 

 遥が一歩足を進めると、びくんと体を震わせ一歩後退してしまう。凛のことは詳しく分からないけれど、互いに想いあっているように見えるのにどうして遥から逃げようとするのだろう。

 

「ねえ、時間があったらでいい……ちょっとお話ししない?」

「あ……それ、は……」

 

 遥がついに勇気を振り絞って声を上げると、俯いてしまった凛の隙をついて手を取ってしまう。振り払う気はないようで、むしろ触れられて一瞬喜色が見えたのは私の気のせいだろうか。

 

「行こう、凛。近くにコーヒー屋さんがあるから。フィエーナも付いてきてくれる?」

「いーよ」

「は、遥……」

 

 入ったコーヒーチェーン店は、昼下がりで中々に混んでいたけれどどうにか席を確保できた。物珍しい髪色の私にスーパー美少女な遥、危うい雰囲気をたたえたこれまた美少女の凛という組み合わせは店内でちょっとした注目を浴びる。けれど、思い詰めた二人は周囲の様子に気を配す余裕なんてない。

 

「私が注文待ってるから、遥は席で待っててよ」

「……ありがとフィエーナ」

 

 私を待たせるのに抵抗があったのかちょっとだけ逡巡した遥だけれど、今は凛のことを一番に考えて欲しい。私の想いが通じたのか、割とあっさりと引いて確保できた席に遥は戻っていく。

 

 混みあった席の中で断続的ながらも何度も話しかける遥と、悲し気に短く口を開く凛の姿を遠目に眺める。遥に親友と言わしめるまでに凛はかつて仲が良かったはずなのに、今の姿はとても見ていられなかった。

 

 今、遥はとても辛い戦いに身を置いているのに、私がとっくに克服したと思い込んでいた昔の遺恨がまた遥に心労を強いている。何だか私までとっても悲しい思いになってきた。

 

 いけない。ここで私までどんよりしてたら二人のわだかまりを深くしてしまいかねない。せめて部外者の私くらいは……。

 

 ようやく出来た注文の品を受け取り、私は席に戻る。四脚の椅子が置かれたテーブルで対面に座る二人は互いに目線を逸らしあっていた。

 

「はい、遥」

「ありがとうフィエーナ」

「これが凛の分かな。はい、どうぞ」

「あ、その、ありがとう……ございます」

 

 遥の隣に座り私は砂糖たっぷりのカフェラテをストローで吸う。店内の空調である程度涼んでいたけれど、やっぱり冷たいものはいい。一気に火照りが引いていった。

 

「凛、今日はありがとう」

「遥?」

「だって、いつもは逃げちゃうんだもん」

 

 微笑む遥に俯く凛。顔を僅かに上げては下げてを何度か繰り返し、ようやく勇気が持てたのか長い前髪の隙間から目を覗かせながら口を開く。

 

「そ、その……体調は大丈夫?」

 

 店内の騒音で危うく聞き損ないかねない小さな声だけれど、遥は心配されて嬉しいのかにっこりと笑顔を見せて頷く。

 

「大丈夫だよ。毎日だけど、睡眠時間はしっかり取ってるから」

「そう……そっか。なら、よかった」

 

 安堵の声には確かに遥を気遣うたっぷりの想いが込められている。それなのに、どうしてこんなことになっているんだろう。ふと視線を凛に向けると前髪の間から覗いていた目と目が合い、慌てて凛は俯いてしまった。どちらにせよ、結構な恥ずかしがりやさんではあるみたいだ。

 

「フィエーナのこと、気になってる? 紹介するね、今私の家にホームステイしてるんだ」

「フィエーナ・アルゲンだよ。よろしくね」

「湯浅、凛です。ロートキイルに遥がいた頃のお友達、でしたっけ?」

「そう、私のこと心配して来てくれたの」

「ふうん」

 

 おや、ちょっと嫉妬心が垣間見える。あんまり遥のことほっといちゃうと私が遥のこと取っちゃうぞー。

 

「凛は今日、学校はどうしたの?」

「ご、午前授業だったの。だから、ちょっと散歩してて、それで……」

「ここから凛の家、徒歩だと一時間以上かかるよ」

「……」

 

 この炎天下を一時間散歩なんて倒れてしまいそうだ。遥の冷静な指摘と視線に負け、凛は言い訳するために上げていた顔をまたテーブルに下ろしてしまう。

 

「ねえ凛。別に普通に会いに来てくれていいんだよ?」

 

ふるふると首を横に振った凛の隠れた目には涙がにじんでいた。

 

「ママに謝れてないから?」

 

ゆっくりとうなづいた凛の体は微かに震え始めてすらいた。罪悪感に押しつぶされそうになる罪人のようで、私は見ていられなくなってつい視線を背けてしまう。

 

「けど、凛。あれは凛のせいじゃないんだよ? 謝る必要なんてないよっ」

「そういう、訳にはいかないよ……ごめん私、もう行くから」

 

 嗚咽交じりの声で席を立った凛は駆け足に店内から去っていってしまう。その背中を見つめる遥もまた目に涙を浮かべていて、けれど立ち上がる様子はなかった。

 

「いいの? 追わなくて」

「凛の気持ち、分からなくもないから」

 

 だとしても、あんな表情をした人をそのままにするのは耐えられない。

 

「私が行くよ。関係が薄いから逆にいいかもしれない」

「……お願い、出来る?」

「任せてっ!」

 

 お店を出ると、早足で俯きながら去っていく凛の背中が見える。このくらいならすぐに追いつけると私が走ると、どうにか曲がり角に差し掛かる手前で追いつくことが出来た。

 

「ね、凛?」

「あっ、ええ、と……アルゲン、さん?」

「涙拭きなよ。はい、これ」

「あ……」

 

 私の差し出したハンカチに手を伸ばしかけて途中で止まる凛の手に無理やり持たせる。

 

「ほら、こっちに来なよ。木陰でちょっと涼しいから」

 

 木陰に置かれたベンチもすっかり温まっていたけれど、木製なのと木陰に置かれていたのとで座るのには支障がなかった。

 

 嗚咽を我慢しながら泣いていた凛が落ち着くのを待って、私は問いかける。

 

「ねえ、何を我慢してるの? 遥は仲直りしたがってるよ」

 

 そんなに意地を張る何かがあるのかな。遥にまで無理をさせてまで、何を我慢しているの?

 

「ごめんなさい。言えないです」

「こっちこそごめん。いきなり深く突っ込み過ぎだね」

 

 ここまで意地を張るのだ。そう簡単に他人に話せる内容でもないのは、よく考えなくたって冷静に考えればすぐわかることだ。私も遥が関わっているせいであんまり冷静でいられていないのかもしれない。

 

「あ……あの、これ」

 

 凛が両手で差し出してきたハンカチはたっぷりの涙を吸い取り、鼻水も混じってぐちゃぐちゃになっている。ハンカチ君、役目をしっかり果たしてくれてありがとうね。

 

「ん?」

 

 てっきり返してくれると思い私が手の平を差し出すけれど、返してくれる様子がない。

 

「あ、あの、洗って返します」

「いいよいいよ。別に汚れてないもん」

「そ、そういう訳にいきません」

 

 しっかりした部分のあるとってもいい子だ。事件に巻き込まれさえしなければ遥のいい友人として今でも仲良くしてたんだろうな……。私ともお友達になってくれるかな。

 

「そっか。それじゃ、連絡先交換しよっか。都合のいい時にまた会おう」

「え、あ、はあ……」

 

 連絡先を交換した後である程度立ち直った凛は帰ると私に告げる。

 

「でも、遠いんでしょ?」

「電車通ってますから、そんなでもないです」

「そっか。何度か来た事があるんだね」

 

 図星だったらしく、ぎくりと固まる凛は内緒にしてほしいと告げながら足早に去っていった。やっぱり、意地を張ってないでさっさとよりを戻してもいいと思うんだけどな。

 

 

 

 帰宅後。遥も退魔師としての活動を終えて戻って来た夜。私は遥と別れた後の凛の様子を話した。

 

「そっか。フィエーナに任せちゃってごめんね」

「んーん。そんなの気にしないでよ」

「でも、ありがとう」

「あはは、どーもいたしまして」

 

 ベッドに座っていた私を押し倒し、胸にぐりぐりと頭を押し付けながら遥は感謝を述べて来る。鼻先にかかる遥の艶やかな黒髪からは、シャンプーの爽やかな香りが漂ってくる。私は遥の温もりに包まれながら、ベッドに埋もれる。

 

 日本に来てから遥で一杯だ。このままだと遥の匂いに染まってしまいそうな気分になった。不思議とそれは、悪い気分ではなかった。

 

 頭の片隅でそんなどうでもいいようなことを考えながら、私は凛についての話を進める。

 

「ねえ……凛はどうしてあんなに頑ななのかな」

「一回ね、凛が私たちに謝罪しに来たことがあったの。けど、ママは後遺症があるでしょ。だから謝ることは出来なかった。凛、元気な頃のママしか知らなかったからあの時に怯えて取り乱したママを見て自分の責任を重く感じちゃったんだと思う。思い悩む必要なんてないのに」

 

 それから遥は凛に責任がないことを早口でまくしたてた。臆病な性格の凛は強引に肝試しに誘われ断るに断れなかったこと。凛についていくことを提案したのは自分自身だったこと。肝試しを提案した凛の塾仲間がそもそも既に操られ、生贄を集める機械と化してしまっていたこと。

 

「本当は……本当だったら、肝試しに行った全員が死んでたの。けど、私が偶然いたから私だけの犠牲で助かった。それも死者の出ない結果になったから凛が私を連れて来たのはむしろファインプレーだったんだ」

「そのこと、凛には伝えたの?」

「うん……けど、だからって割り切れないのも分かるから」

 

 例え何も悪いことはしていなくても、責任を感じる気持ちは確かに理解できた。

 

 凛が取った行動は事件の渦中に置かれた人間としては完ぺきに近かったのかもしれない。それでも被害は出て、親友の遥に大きな傷を遺してしまった。後悔しないはずがない。私も同じ目に遭って、果たして遥の前におめおめと顔を出せるだろうか。正直、自信を持てなかった。

 

「どうしたらいいのかな、フィエーナ」

「……遥はさ、また凛と仲良くしたいんだよね?」

 

 力強く遥は頷く。だったら。

 

「だったらもう、遥の我が儘を押し付けるしかないかもね」

「フィエーナ?」

「きっと凛は一緒にいることで罪悪感に苛まれると思う。けど、それをかき消すくらい遥が一緒にいてくれないと人生を過ごせないって我が儘を通すしかないんじゃない。凛がそばにいないと駄目なんだって思いをぶつけるしかない、かも」

「……私の、我が儘」

 

 遥も凛も互いを想いあっていて、傷つけたくないって思っている。それを否定はしないし、そのまま傷が癒えるのを待っていたらいつかは分かり合える日が来るのかもしれない。

 

 けれど凛はもう凛自身が遥の人生に関わることが悪いことだと思ってしまっているから、あるいはこのまま遥の前から消えるのを贖罪と思って消えていくかもしれない。

 

 凛が遥の元からいなくなるのを引きとどめるには、凛が傷付くかもしれなくても遥が前に出なくちゃいけない……気がする。

 

 どうなんだろう、こんな時こそヴェイルならいいアドバイスが出来たんだろう。過酷な世界とは程遠い、生ぬるい平和な世界に生きて来た私じゃヴェイルの記憶越しに遥へ寄り添う事しかできなかった。

 

 

 

 



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T/A24:遥が怪我をしました。

 

 

 木曜日、最後の時間は化学のテストが実施されていた。私が慎重を期して答案用紙を見直ししてから退室すると既に遥はいなかった。

 

「あれ、遥は?」

「遥なら、早退したわ」

「えっ」

 

 私より先に退室した智恵と雪夜はいつもの場所で遥と一緒にテストの感想を言い合っていたら、先生に遥が連れ出されていったのだそうだ。

 

 また、魔之物か……遥、大丈夫かな。

 

「心配よね」

「うん……」

 

 何とかテストを受けきって早々に学校を去った遥が帰宅したのは信じられないことに翌日に差し掛かった頃だった。正午前に早退したのにあと十数分もすれば金曜日になるような時間に帰ってきたのだ。

 

 今までとは事態が違うと察した私と仁悟さんはインターホンが鳴ったのと同時にエレベーター前で二人を待つことにした。

 

「こんなことって前はあったんですか?」

「……フィエーナさんが来る前は、度々あったよ」

 

 帰りの遅い遥を待って動揺する奈緒さんを励まし続け気丈に振舞っていた仁悟さんだけれど、奈緒さんの目を離れてからは仄暗い表情を隠しきれていなかった。静かな夜のマンション通路に突っ立って、ただじっと点々と動くエレベーターの階層表示を見つめ続けている。

 

 やがてスムーズに上昇を済ませたエレベーターのドアが開き、有江さんに肩を借りる遥の全身が露わになる。致命傷はない、それは不幸中の幸いだ。でも、頑丈だと聞かされていた漆黒の退魔師の装束はもうボロボロで、露わになった遥の白い素肌には掠り傷があちこちに付いてしまっている。地に何度も転がされたのか土が頬に付着し、綺麗な黒髪は土煙を浴びてくすんでしまっていた。

 

 どんなに疲れて帰ってきても掠り傷一つ残さず戦いから戻ってきた遥がこんなにボロボロになるなんて、一体……。

 

 声を出す余力もないのか、私たちの姿を見た遥は口端を微かに上げて微笑んで見せる。うつろな表情で視線もぶれさせながらそれでも笑う遥を見たら、どうにも無性に泣きたくなってきてしまったけれど、ここで私が弱気になってちゃいけない。

 

 一瞬目を瞑って気合を入れなおし、私はボロボロの遥を抱き受けた。有江さんも限界だったのだろう。私が遥を引き受けた途端にふらふらとよろめき、壁際に身を預ける。

 

「す、みません……」

「いえ。娘をありがとうございます」

 

 遥を無事に帰してやりたい思いは有江さんも同じだ。悔しさに顔を歪ませた有江さんに仁悟さんが肩を貸し、私が遥を支えて私たちは奈緒さんの待つ部屋まで戻る。

 

「遥!」

 

 仁悟さんに慰められて何とか平静を保っていた奈緒さんは玄関で娘の帰還を待ち受けていた。体育座りから立ち上がって遥の元に駆け寄った奈緒さんは大事な愛娘を一度しっかりと抱きしめた後、家に上げるのを手伝ってくれた。

 

 リビングのソファに身を横たえさせた遥はようやく安心できる場所に戻って来られたからか、辛うじて保っていた意識を閉じそのまま眠りに付いてしまった。

 

 仁悟さんに肩を借りて何だか歩けていた有江さんもソファに座らされると心底疲れた表情で目を瞑る。

 

 ここまで疲れ切った二人に事情を聴くのは気の毒だ。私たちは特に会話をすることもなく二人の具合を見続けた。

 

 一時間ほど経った頃、有江さんがぼんやりと目を開け小さく水と呟いたので持って来てあげるとコップを一気に呷って飲み干す。

 

「すまない、助かった」

「大丈夫……なんですか」

「うん。しばらく休ませてもらったからな」

 

 去勢を張ってる訳ではなさそうだった。水を飲み終えた有江さんは意識をすっかり覚醒させて元の凛々しい立ち振る舞いを取り戻していた。ぐったりと背をもたれさせていたソファから腰を上げ、姿勢を正した有江さんはテーブルを挟んで向こう側にいる奈緒さんと仁悟さんに頭を下げた。

 

「奈緒さん、仁悟さん。この度は申し訳ありません」

「……何があったんですか」

「そうですね。お話しましょう」

 

 三月からゆっくりとだけれども徐々に勢力が増しつつある魔之物。今までは何とか抑えられていたはずの勢力は、今日決壊を迎えた。数か月に渡る観測で蓄積されたデータを上回る速度で増殖を開始した彼らはオンステージ中の退魔師の対応許容量を上回る速度で出現し、実体化。正午前には待機中及び休暇中の退魔師を総動員し民間人への被害を抑えるべく戦力の集成を開始。一時的に魔之物の勢力を抑えつけることに成功した。

 

 あわせて周辺地域の予備として拘置されていた退魔師が緊急事態として三丘市を中心とする該当区域へ緊急輸送され、何とかなったと思われた。

 

 けれど午後四時頃、小康状態に持ち込んだ戦線で二回目の攻勢が発生する。この二回目の攻勢は予備として確保した周辺地域の退魔師を動員してもなお抑えられるものではなかった。

 

 この事態を受け、北海道から沖縄に至るまで国内に在籍する退魔師が緊急動員されることとなった。本来退魔師の活動業務は隠匿するべきもののはず、けれどそうも言ってられなかったらしく陸海空全自衛隊の輸送戦力すらも移動には使用されたのだとか。

 

「今、三丘市を中心としたAクラス区域及びBクラス区域以外はがら空きですよ。まあ、引退した方々に声掛けをして最低限の対応は可能になってますがね」

「それ、って……日本は大丈夫なんですか」

 

 あまりにもぎりぎりな状況に、私が上げた声はかすれてしまっていた。

 

「まあぎりぎりのところだな。先代様のように日常の退魔師業を引退された実力者も全国各地にある程度だがいる。退魔師層の厚さにかけては日本ほどの国はないからな」

 

 下手すれば何万という命が失われる危機があった恐るべき事態があったのに、私たちは何も気づかずにのん気に日常を送っていた。空恐ろしい現実を前にリビングにいる私たちにどんよりとした不安感が降りかかる。

 

「おっと、不安がらせてしまったみたいですね。だが、私はそう絶望してはいないですよ」

「そうはいうが有江さん。今の話を聞く限りじゃ……」

 

 重々しい仁悟さんの言葉を遮るように有江さんは自信に満ちた表情で話し始める。

 

「今日の戦い。ほとんどの退魔師はまともな戦いにすら持ち込めていなかった。それでも被害がほとんど出てないのは遥や、宗一様のような突出した退魔師がいたからこそです」

 

 

 まともな戦闘に持ち込めていたのは遥と宗一の二人きりであり、それ以外の退魔師は防戦に努めるか逃走以外の選択肢はなかったと有江さんは言う。それって、とってもまずいような気がする。自信を持って言える台詞じゃないんじゃないかな。

 

「遥の怪我。それは全て最初の大戦闘で負ったものです。二回目では各地の強者が集まりました。遥にも劣らない優秀な退魔師です」

 

 日本の最精鋭ともいえる戦力が現在この街には集結していて、彼らが到着後はそれまでの苦戦が嘘のように事態は好転したのだと有江さんは話す。今の陣容ならば危機に陥ることが想像も付かないほどの戦力だとまで言い切る有江さんの表情は確かで、不安に満ちたリビングの空気が少しばかり軽くなった気がした。

 

「安心してください。皆さんの日常は我々が必ず守り抜きますから」

 

 凛とした態度で有江さんは立ち上がる。

 

「私はこれから天河本家の元に行かねばなりません」

「大変ね。少し何か食べてからでもいいんじゃない」

「いや、しかし……」

 

 このまま颯爽と消える雰囲気を醸し出していた有江さんは、奈緒さんの言葉に困ったように立ち止まってもじもじしだした。

 

「……私、お腹空いた」

「遥! 目が覚めたのね! 良かった! よかった……」

「ママ。私なら大丈夫だよ。掠り傷しか負ってない」

 

 にっこりと笑う遥に奈緒さんが感極まり泣き出しながら抱き付きに行く。いつもは私に抱き付いて来る遥が、奈緒さんの背をゆっくりと撫でてあげる。慈愛に満ちた表情は遥の綺麗な顔立ちとよくマッチしていて、私はしばらく見惚れてしまっていた。

 

「はは、何だお腹が空いたか」

 

 緊張の糸が途切れ、ようやく笑みを取り戻す仁悟さんに遥はちょっと我が儘っ子な笑みを返す。

 

「うん。だって、夕方から何も食べてないんだよ」

「それじゃみんなでご飯にしよう。私、温めて来るよ」

 

 実をいうと私も遥が無事と分かってから、急にお腹が空いてきた。ああ、私もやっと安心出来たんだ。ようやく遥が笑顔を見せてくれたので自身の表情が緩んでいるのを自覚する。

 

「私も手伝うわ。ホッとしたら私もお腹空いちゃった。すぐ用意するから有江さんも食べて行って?」

「……むむ、困りましたね」

「有江さん、食べてって」

「そう……ですね。私もお腹が空きました。ご相伴に与ります」

 

 ついに観念した有江さんの腕を掴み、遥が椅子に座らせる。テーブルに置かれた料理の数々が目の前に広がり、有江さんがごくりと喉を鳴らすのが見えた。やっぱり有江さんもずっと食事を取れていなかったのだ。これくらいの休息を取るくらいは許されるはずだ。

 

 

 



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T/A25:遥に譲り渡しました。

事実上の最終回です(最終話とは言っていない)


 

 テスト最終日の金曜日、昨日の疲れが心配だったけれど遥は恙なく学校でテストを受けきることが出来た。

 

帰宅中、ふらつく遥の体を咄嗟に支える。

 

「遥、大丈夫?」

「ん、平気」

 

 昨日帰宅して以来、遥の調子はよろしくなかった。私にはよく分からないのだけれど、退魔の力を使いすぎてしまった後遺症なんだそうだ。本来は数日休暇すれば問題のない疲労……なのだけれど、現在の情勢はそれを許してはくれない。それどころか、遥がここまで奮闘しても安全係数ぎりぎり程度までしか魔之物を削り切れていなくて、今日も遥は帰ったら即座に出撃しなくては街が危ないのだという。

 

「心配しないでフィエーナ。昨日で強い魔之物は祓い尽くしているから、今日はちょっと数が多いだけ」

「うん……」

 

 本当は遥に行って欲しくはない。このまま一緒に平和に過ごし続けていたい。けれど、その平和そのものを遥が守っているのだ。私が気弱でいたらいけない。心を切り替えなくちゃ。

 

 

「……そんな」

 

 何処か気の抜けっぱなしな調子だった遥の表情が俄かに険しくなる。ずっと支えていた遥の体が私から離れ、制服越しの柔らかな感触が失われた。

 

「遥?」

「フィエーナ逃げてっ!」

 

 動けたのは遥の声があったからこそだった。頭上より飛来した漆黒の塊が音を切り裂き大地に突き刺さる直前、私は横に跳躍し、遥は何処かから取り出した息吹く新緑の色をした刀を黒塊に突き刺していた。

 

 黒い塊は遥の刺突の前に形状を維持できずに消失していく。だけど、それ以上に私は道路の舗装を紙みたいにバラバラにした破壊の爪痕に視線が釘付けになってしまっていた。もし一瞬でも判断が遅れていたら、私はどうなっていたのかな。

 

「は、遥……今の、何?」

 

 今更ながらに震えだしてきて、声もいつも道理に発声できなくなってしまった。はは、遥はいっつもこんな怖い目に遭ってたのか。私には、とても出来そうにないや。

 

「魔之物……どうして、市街地に……駄目! フィエーナこっちに! 逃げないと!」

 

 戦えない私を抱えた今の遥に強硬手段は取れない。足枷になっているのを自覚しながらこれ以上私は足を引っ張りたくなくて、周囲に突如として湧き出した異形の怪物たちに気後れすることなく駆ける遥に付いていく。

 

 よかった。体の震えはどうにか走るのに支障のない程度で済んでいる。時折刀を振るい進路を啓開していく遥の後を何とかついていけている。けど、この命がすぐにでも潰えそうなプレッシャーに長く晒されていたらどうにかなってしまいそうだ。早く逃げ出したい。

 

「……誘導、された」

 

 それなのに。

 

 逃走した先にはあまりの暑さに人っ子一人いない真夏の公園があった。サッカーコート一面分の面積がある、申し訳程度に遊具がいくつか置かれた公園の中心。揺ら揺らと陽炎のたゆたう広場の中心部には、不定形の黒で構成された巨大な球体が蠢いていた。陽炎のように揺らぎ明滅していたその黒い球体はまるで私たちが来るのを待っていたかのように唸り声を上げ、触手のようなモノを伸ばし振り下ろしてくる。

 

「フィエーナ!」

「大丈夫だよっ! このくらい避けれるからっ!」

 

 古い戦車砲の徹甲弾くらいなら目で追える私にとって、この程度のスピードなら避けられる。精々が亜音速、マッハ三くらいは出る古い戦車砲弾よりは断然遅い。

 

 私を庇うように動く遥を安心させるように余裕ぶって駆け回り、攻撃を回避する。

 

「……フィエーナは私が守る!」

「遥!?」

 

 今、余計な力を使う余裕なんてないはずなのに。遥は私の周囲に渦巻く風の結界を張り、一人黒い球体に向かっていく。触手の一撃にも物ともしない頑丈な結界は、内部にいる私にも触れえない。外に出ようとすると、ふわりと空に巻き上げられ渦の中心にゆっくりと着地させられてしまった。

 

 私の怯えが予想以上に顔に出ていたのを自覚したのはようやくのことだった。遥に余計な力を使わせてしまった……。無力な自分自身が悔しくて意味もないのに全身に力を込める。

 

 やがて黒い球体は単体では遥を仕留めきれないと判断したのか、公園内部に四方から生き物を模した黒い異形の怪物を何処からともなく呼び出し始めた。

 

自由に取れていた回避機動が、湧き出した多数の怪物によって制限される。それなのに触手を振るう巨大な黒い塊に仲間意識はないみたいで、仲間諸共私や遥へ攻撃の手を緩めない。

 

 遥は、強い。自身よりも大きな熊を模した魔之物に囲われても横薙ぎで瞬殺し、蟹みたいなダンプカーくらいに大きな魔之物の硬そうな外殻も一振りで切り刻む。それなのに、公園の中心に位置取る三階建てのビルくらいに大きな球体にはちっとも攻撃が通る気配がない。

 

 

 私の見立て違いなら嬉しいのだけれど、時間が経過する度に険しさを増す遥の顔つきを見るに情勢は悪化し続けているとしか思えない。

 

 ヴェイルならこんな時に遥を救えるのに。ヴェイルなら……私じゃなくてヴェイルそのものだったなら……。

 

「負けないで遥……」

 

 私に出来るのは祈る事だけ。必死に戦って、命を失おうとしている親友のやり取りをただ見ているだけ。

 

 ならばせめて……私は想い続けるしかない。遥の勝利を、無事を、平穏を。

 

「ああああああああああああああああああああああああああああ!!」

 

 遥らしくない必死の形相に、雄たけびを上げて遥は戦い続ける。それでも球体には何ら打撃を与えられない。一切のダメージが通らない。

 

 遥を中心に緑色の風が集合していく。竜巻のように緑の風が一つに束ねられ、遥は竜巻を球体目掛けて叩き込む。

 

 この爆音に匹敵するのはKPZ戦車が中隊集中射撃したのを目撃した時以来だろうか。それだけの猛爆音が辺り一帯に鳴り響き、凄まじい暴風に巻き上げられた砂埃がもうもうと立ち上がり、結界の外の様子を隠してしまう。

 

 どうなったの? 遥……遥はどうなったの?

 

 巻き上げられた砂煙の中、強烈な日光はその中に立つ人影を映し見せてくれる。

 

「遥!」

 

 やったんだ。遥が勝った。私がそんな期待で胸を湧き上がらせた瞬間、晴れた煙の先では一切のダメージを追っていない黒い球体が変わらず表面を蠢かせていた。

 

「あ……」

 

 突き出される触手に、遥は回避する素振りを見せない。私は遥の横顔を見て察した。遥は全力を尽くして、意識が朦朧としているんだ。駄目、避けて、死んじゃ嫌だよ遥。

 

 触手がぶつかる瞬間、私は想わず目をつむってしまった。見ていられなかった。瞬間、私の周りを包んでいた浄化された空気が汚染される。結界が消滅した……それって、つまり。

 

「遥っ!」

 

 地面に倒れる遥は僅かに身じろぎして、こちらに目を向ける。もう遥に動き回る力はないんだ。触手の振り下ろされる速度に比してあまりにゆっくりとした動きで遥は私に手を伸ばし、口を動かした。 “フィエーナ”

 

 駄目。遥、死んだら駄目。遥は一回死ぬような大変な目に遭って、それでも現実に負けずに頑張って努力を続けてまた学校に行けるまでになったんだ。奈緒さんも、仁悟さんも遥の存在があったからまだ日常に戻れるまでに復活したんだ。幼馴染の凛とだってまだ仲直りもしてないんだよ、遥。

 

 遥はまだ死んじゃ駄目!! 

 

 

 

 

 

 その時不思議なことが起こった。私の中から何かが抜け落ちるような感覚、何かを失ってしまう感覚。けれどそれを認めさえすれば遥を助けられる。そんな気がした。

 

 だから遥……受け取って、私を! 私の気持ちを!

 

 視界が眩く輝く。白銀に染まる。何かが爆ぜる音がした。

 

「フィエーナ、ありがとう。受け取ったよ」

 

 白銀の輝きが消え去った視界には、遥が立っていた。いや、輝きは完全には失われてなんかいない。遥の左手に嵌められた無装飾の指輪が白銀色に煌めいていた。

 

 いつの間に流していたのか、地べたで無様に涙に濡れる私を撫でる遥は力に満ちていた。

 

「大丈夫だよフィエーナ。フィエーナからもらったこの力なら、勝てる気がする」

 

私の頭に乗った遥の手が離れるのが名残惜しくもあったけれど、前に歩いて背を見せて立つ遥がいつになく頼もしい。遥がすっごくカッコよく見えた。

 

一瞬指輪がひと際輝くと遥の体の周囲に白銀の風が吹き纏う。そして、遥を中心に白銀の風が渦巻き吹き荒れると、周囲を取り巻く魔之物が一吹きで消失していく。今まで身じろぎもしていなかった巨大な黒い球体が表面を蠢かせて苦悶の顔を表面に浮かべる。

 

 ふわり。遥が空に浮かんだかと思えば突風が吹き荒れ私は目をつむる。風が止み、私が目を開くと中央に大穴を穿たれた球体が白銀の粒子となって消失していっていた。

 

「遥!」

 

 今度こそ訪れた紛れもない勝利に私は遥の背中に向かって走り寄ってそのまま抱き付こうとするけれど、遥は手を私の前に出してにっこりと笑いかけて来る。

 

「ちょっと待ってて、フィエーナ。この力ならけりを付けられる」

 

 久しぶりに見た、自信に満ちた遥の笑顔が眩しく見える。この笑顔だけで私はくらくらと参ってしまった。何て綺麗な笑顔なんだろう。

 

 ふよふよと空へと上がっていった遥を私は見送る。スカートなのに大丈夫かなと余計なことを考えられるほど私の心には余裕が生まれていた。

 

やがて親指ほどの大きさになるまで上昇した遥は、高空から白銀の風を全方位に向けて吹かせた。心のモヤモヤが晴れるような綺麗な風だ。夏の暑さまで吹き飛ぶような爽やかで涼やかな風だ。

 

 やがて地上に降りて来た遥は日本刀を何処へかと仕舞って私の元に歩み寄って来る。

 

「もう、大丈夫だよフィエーナ。多分これで全部終わったから」

「そっか……長かったね」

「うん」

「頑張ったね」

「うん」

 

 燦々と照り付ける炎天下の公園、誰もいない中で私たちはしばらく抱き合い続けた。

 

 



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T/A26:先代様と面会しました。

 

 

 黙々と灼熱の炎天下で私たちが抱き合っているとスクールバッグの中に入っている遥のスマートフォンがブルブルと震え出す。しばらく無視していた遥だったけれど、長々と振動を続けるものだから無視し続ける訳にもいかなくなったらしい。

 

「有江さんだ」

『遥無事だったかっ! 先程発生した銀の風だがっ、遥も感じ取っただろうかっ!?』

 

 私にもはっきり聞こえるくらいの大声が鳴り響き、遥は思わず耳に添えていたスマホを離す。有江さんの大声が途絶えるのを待ってから再びスマホを耳に当てた遥は、何か月も自信を苦しめていた元凶を退治した偉業を何でもないようにさらっと口にする。

 

「それ、私がやった」

『……え?』

「ここいらの魔之物、全部祓ったはず」

『え、ええ! そう! そうなんだっ! 今まであんなにいた魔之物が全て消滅して……え、遥がやった……!? えぇ!?』

 

 一切自慢とか驕慢の垣間見えない自然な口調で話すものだから通話の向こう側にいる有江さんがすごく困惑している。遥に限らずベーセル兄とか、すごい人ってすごい事をサラッとやってしまう。

 

「会って話そう? 有江さん」

『わ、分かったっ! 通学路の途中にいるようだなっ、そこで待っていてくれっ! 五分以内に到着するっ!』

「有江さん、凄い慌ててた。あと声がうるさかった」

「そりゃあ、今まで大苦戦してたのに遥が一掃したらびっくりするよ」

「私がやったけど、私だけの力じゃないよ。フィエーナから流れ込んできたこの力のおかげ」

 

 愛おし気に遥は左手に嵌った指輪を撫でる。金属には見えないけれど、光を反射して硬質な白銀色を返してくる不思議な物体で出来ている無装飾のリング。

 

「それ、何なんだろう」

「眠っていたフィエーナの力の具現化された結晶」

「ヴェイルの力……」

「確かにヴェイルの滅魔に似てる。じゃ、この力は滅魔って名付けよう」

 

 そうじゃないんだ、遥。多分それは、かつてヴェイルが持っていた力だ。私には扱えず眠ってしまっていたんだ。それを遥が扱ってくれるなら、私としても嬉しい。私の至らなさ故にヴェイル自身に扱ってもらうことは出来なかったけれど、ヴェイルも遥になら託してくれるよね。

 

 それにヴェイルの滅魔はあんな大それた広域浄化なんて出来なかった。魔王カディアの助力があった時でさえ、遥がさっき見せた一撃には及ばなかった。凄いよ遥は……私なんかより、よっぽどヴェイルを継ぐに相応しい。

 

「フィエーナ、上」

 

 遥が唐突にそういうものだから、さっきの荒事を思い出して私が慌てて上を見ると、六角形の金属板みたいなものに乗って宗一先輩が高速でこちら目掛け飛翔していた。上空数十メートルにも関わらず飛行に使っていた物体を躊躇いもなく消滅させると、すっと仁王立ちで着地する。遥程じゃないけれどすごい身体能力、流石退魔師だ。

 

「今のは誰がやった! フィエーナ・アルゲン、貴様か!?」

「私」

「一ヶ宮遥、貴様が……馬鹿な、あれは、あの力は……」

 

 愕然とした表情の宗一先輩は遥の指に収まる白銀の指輪に釘付けになる。

 

「その指輪……何処で手に入れた」

「これは、私とフィエーナの愛の結晶」

「やはり貴様か! フィエーナ・アルゲン!」

 

 ずんずんと大柄な体躯で迫って来るものだからちょっと怖い。そんな私の内心を読み取ったのか、スッと遥が私の前に立って宗一先輩に立ちふさがる。前までだったら遥だけに任せてられないと並立しただろうけれど、さっきの戦いで遥のカッコよさに魅入られてしまった私は遥に守られることに喜びを覚えてしまった。

 

「何のつもり」

「貴様こそ、何故邪魔立てする」

 

 じいいと上を向いて宗一先輩とにらみ合う遥、そういえば二人ともそんなに口が上手い人でもない。やっぱり私が前に出ようと思いなおしたところで公園の前に停車した車から有江さんが猛烈な勢いでこちら目掛け駆け寄って来る。

 

「おい! どうなってるんだ! 何故二人がにらみ合っている!?」

 

 有江さんが二人の間に無理やり割り込んで来たので宗一先輩はあっさりと数歩後退した。そのまま有江さんの脇を抜け、公園の出口へ足早に歩き去っていく。

 

『私のことを忘れたとは言わせないわよ馬鹿』

 

 その間際、ぼそりと呟かれた寂し気な帝國語は私にはっきりと聞き取れてしまった。

 

「フィエーナ?」

「ううん、何でもないよ」

 

 まさか、似た性格だとは思っていたけれど……そんなことってあるのかな。

 

「この件は先代様に報告する必要がある。天辺有江、分かるな」

「は、確かに」

「俺も同行する。貴様に運転してもらうぞ」

「では、行きましょう」

 

 全員で車に乗り込んで天河家のお屋敷に向うことになった。後部座席では遥が中央に座り込んで、私と宗一先輩を隣り合わせないよう睨みを聞かせる。そこまで警戒しなくてもいいのにと思うのは、私が彼にかつての存在を重ね合わせ始めているからだろうか。

 

「俺だ。先代様に繋いでくれ」

 

 祖父と電話するのに秘書か何かを経由しなければいけないような話しぶりだ。かなり偉い立場にいる人なのかな。

 

「すぐに会う、だそうだ」

 

 宗一先輩の言葉を聞いた有江さんの背がいつになくピンと立った。やっぱり緊張するほどの相手みたい。私も会うことになるかもしれないので、ちょっと情報収集することにする。

 

「ねえ先代様っていうのは……」

「天河重蔵様のことだ。宗一様の祖父君にして今の天河家の実質的な支配者をされておられる」

「退魔師でもあるの?」

「うむ、老齢ながら今もかなりの実力者だぞ?」

「へえ」

「頼むから勝負を挑んだりするなよ?」

「あはは、そんなことしないよー」

 

 有江さんに本気じみた口調で言われて、苦笑してしまう。私のこと、有江さんはどんな風に見ているんだろう?

 

「それより遥さん。その、先程の力についてそろそろ説明してくれてもいいだろうか」

「うん」

 

 遥らしく、手短かつ過不足ない情報量の説明はそう長くならずに終わる。

 

「そんなことが……フィエーナさんに異常はないのか?」

「今のところ何ともないかな」

「ふうむ……力の保有者はフィエーナさんだが、使えるのは遥さんとは」

「一ヶ宮遥だけにしか使えないのか? 貴様しかまだ使おうとしていないだけだろう」

「確かに……ちなみにフィエーナさんが指輪を手にすれば力を使えるようにはならないものかな?」

 

 宗一先輩越しに指輪を遥が渡してくれる。しばらく触ったり念じたりしてみるけれど、うんともすんとも言ってくれなかった。

 

「んー、私にはただの指輪でしかないみたい。力とか全然分からないよ」

「そっか」

「俺にも貸してみろ」

 

 遥に返そうと伸ばした私の手が宗一先輩に握られる。途端に目を不穏な調子でギラつかせた遥を見て私は急いで遥を宥めにかかる。

 

「遥、貸してあげてよ」

「フィエーナが言うなら……」

 

 渋々と言った顔つきの遥の了承を一応待ってくれた宗一先輩は、私の手から指輪をそっと取り上げる。しばらく私同様に試行錯誤するも、何も起きる様子はなかった。

 

「駄目か」

 

 大きな落胆の垣間見える声を期限と見たのか、遥はすぐに指輪を自分の手に取り返してしまった。

 

「宗一様でも駄目なのか」

「私には力とか分からないけど、あの時私は遥の力になりたいって想ったんだ。だから遥にしか使えないのかも」

「フィエーナが私を想った結晶だもん」

「想いの結晶化か……それでは私にも扱えそうになさそうだな」

「そうだよ。有江さんでも使えないよ」

 

 断言する遥は何だかとっても嬉しそうだ。私も遥の力になれて心から嬉しい。お互いに目線を遣り合い微笑みあった。

 

 

 

 やがて屋敷に到着した私たちは大広間に案内される。

 

「来たか。ま、そこに座れ」

 

 そこでであった天河重蔵様は精悍な顔つきをした未だ衰えをちっとも見せない長く伸びた白鬚が特徴的なお爺さんだった。何処か宗一先輩にも似通った鋭い目つきは興味深げに細められ、私と遥の指にはめられた指輪に向けられている。

 

「まずは魔之物を一掃した礼を言っておこう」

 

 袴っていうのかな? 日本の伝統的な衣装に身を包んだ老齢の強者は私たちの目の前に確かな存在感を持ってどっしりと座っている。

 

「一ヶ宮遥、それにフィエーナ・アルゲンと言ったな。この地を治める天河の者として感謝する」

 

 そんな厳かな雰囲気を纏った方が、拳を畳に付けて頭を下げて来られると逆に畏れ多くてこちらがどうしていいか分からなくなってしまう。

 

 共にいた有江さんも宗一先輩もまさかの行動だったのだろう。ぴしりと表情が固まり動かなくなってしまった。

 

「私は退魔師の使命を果たしただけ、です」

「はっはっは! そうかい! そりゃあ頼もしいじゃないか!」

 

 ひとしきり豪快な笑いを上げた先代様は、その後事情を説明するように要求され私たちはそれに応える。

 

「そうか。その指輪、儂にも見せてはくれんか」

 

 遥の手から差し出された指輪を先代様は興味深げに片目をつぶって天にかざしながら見つめる。

 

「ほう。綺麗な指輪だ。力……は儂には知覚できんか。だが清らかな気配がある」

「金属じゃねえ、未知の力の塊か」

「滅魔」

「滅魔? ほう、そりゃどういう由来だ?」

 

 遥ったら、こういう場面では失礼のない様にした方が……先代様が気にされてなくてよかった。何だか冷や冷やする遥と先代様の会話は私の執筆した本の話にまで及ぶ。

 

「はっはっは! なるほどねえ! そちらのお嬢さんはベストセラー作家だったか!」

 

 やがて事情を聴き終えたと判断した先代様は私たちにお茶を奢りながら、険しい顔立ちを優し気な笑顔で和らげる。

 

「この地を守ってもらった礼だ。それを手放さずに済むよう手配してやろう。それに、そうだな……お嬢さんの身の上を考えたら、出所もあまり公にしない方がいい。天河家からの譲渡物ってことにしておくか。もちろん、所有権は放棄済みって形にしておくから奪われる心配はしないでいい」

 

 

 



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T/A27:遥に堕ちました。

 

 当主様との会談後に二時間ほど状況説明を有江さん相手に済ました私たちは屋敷にまだ残るという有江さんに別れを告げ、迎えに来た吉上先生の車で帰宅した。

 

「まさかフィエーナに力が宿っていたなんてね」

「私もびっくりですよ」

「それも新型魔之物への特効効果があったとは……これも天の思し召しなのかな」

 

 状況説明の最中、私には明かされていなかったいくつかの情報が明かされた。何でも今回発生した魔之物は姿かたちこそ従来の魔之物と同じなのだけれど、在り方が異なるのではという報告が相対した退魔師から早くから挙げられていたのだとか。

 

 その報告を元に退魔の力にある程度の抗堪性を有する新型に対し、対抗策が練られてはいて。けれどそのどれもが実現に数年はかかるため即効性はなく国主導の対策チームに参画した面々は徹夜徹夜徹夜の毎日に絶望していたそうなんだとか。

 

「幸運にも遥を心配してフィエーナが来てくれたから事態は解決したんだ。まあ、表向きには天河家に収蔵されて埃を被っていた神器が特効性能を持っていたことにするんだっけ?」

「うん。フィエーナには日常を送ってほしいから」

「色々脅されちゃったもんね」

 

 魔之物災害が特筆して多い日本だからか、他国と比較して日本だけが人口当たりの退魔師人口が多いのだとか。世界でも有数の人口を誇る中国でも日本とほぼ同数に過ぎないそうで、もし私の存在が露見したらどういう扱いを受けるかが分かったものじゃない、とのこと。

 

「さて、到着だ。奈緒さん、随分心配されていたよ。早く顔を見せてあげるといい」

 

学校を帰宅途中で戦闘になったのだ。一応、屋敷にいる間に有江さんが一度無事だと連絡はしたとは言っていたけれど……帰宅した私たちは無言で飛び込んで来る奈緒さんに出迎えられた。

 

「よかった……二人とも無事だったのね」

 

 ぎゅうと私と遥をまとめて抱き付いて来る奈緒さん。その背に遥は腕を回し背中をゆっくりとさする。

 

「心配かけてごめんねお母さん。でももう多分大丈夫」

「有江さんに聞いたわ」

 

 奈緒さんの背後には吉上さんの奥さん、佳織さんが立っていた。私たちが帰還するまでの間、奈緒さんを励まし続けてくれたのだろう。

 

「終わった……のよね?」

 

 佳織さんの微かに不安の混じった質問に吉上先生は笑みを浮かべ頷いて見せる。

 

「うん、遥が放った銀の風は僕も見たよ。あれほど清浄な力は初めて見たね。あれで周囲に一帯の魔之物は全て浄化されたとみて間違いない」

「やっと、ね……遥ちゃん」

 

 ようやく自分の子供を襲っていた試練が終えたからか、奈緒さんは気の抜けたようなほわりとした笑みを浮かべ遥とついでに私を抱きしめ続ける。

 

「うん……ね、フィエーナいいよね」

 

 同意を求める遥に私は肯定の意を示す。奈緒さんには真実を知る権利がある、と思う。

 

「実は……」

 

 リビングに移り、佳織さんにお茶を淹れてもらいながら話すこと数十分。一通りの説明を終えた遥は話し疲れたように一息を吐く。

 

「へええ……まさかフィエーナにそんな力が眠ってたなんて」

「だから、フィエーナのおかげでもあるんだよお母さん」

「フィエーナちゃん……ありがとう、遥ちゃんをありがとう」

 

 遥を挟んで一緒のソファに座っていた奈緒さんが遥も纏めて私を抱きしめて来る。私は涙を流す奈緒さんの肩を優しく叩き、受け入れた。一緒になって抱き付いて来る遥もぼそりとありがとうの言葉を胸に顔を埋めて囁く。

 

 三人で抱き合って数分。奈緒さんの様子が落ち着いてきたのを見計らって佳織さんがにこやかにお祝いしないかと提案する。

 

「奈緒さん。折角だし、お祝いしましょうよ」

「いいかもしれないわね。遥ちゃんはどう思う?」

「ん。いいと思う」

 

 愛娘からの賛同を受けてすっくと立ちあがった奈緒さんはグッと右手を天に掲げ高らかに宣言する。

 

「よし! それじゃあ今日はご馳走にしましょう! 佳織さんたちも食べて行ってね!」

 

 奈緒さん、昨日から暗い顔つきだったから今浮かべている笑顔がキラキラと輝いて見える。

 

「お手伝いしますよ奈緒さん」

「私もお母さんと一緒にお料理する」

「いいねえ、僕もちょっとロートキイル料理でもお披露目しようかな」

「えー、吉上先生がー?」

 

 吉上先生が料理しているトコ、見たことないなー。私が懐疑的な目を向けると、ムキになった吉上先生が腕まくりをしてから大仰に指を振る。

 

「おー? 怪しげに見てるが僕を甘く見ちゃ困るよ」

 

 みんなでわいわいやっていると、事前に報告を受けて上機嫌に帰ってきた仁悟さんがケーキ片手に帰って来る。

 

「ただいまー! 魔之物の事件が収束したんだって!?」

「私とフィエーナがやったんだよ」

「何だって! それは本当かい!?」

 

 みんなでスーパーに行って食材を買い込み、みんなで料理を作り合い、賑やかに催された夕食の席もすっかり夜遅くになってしまった。あんまり強くないくせにお酒を呑み過ぎへべれけになった吉上先生を支えながら佳織さんが支えながら帰っていき、少し家の中は静かになる。

 

「フィエーナ、フィエーナ。一緒に寝よ」

「ん」

 

 くいくいと袖口を曳いて来る遥に誘われた私は、いつになく上機嫌にリビングで身を寄せ合っている奈緒さんと仁悟さんにおやすみを告げて、遥の部屋のベッドに体を横たえる。

 

「ふふー」

 

 ぐりぐりと胸に頭を押し付けて来る遥の顔はとても幸せそうだ。

 

「やっと、終わったんだね」

「うん……」

 

 私にとっては二週間足らずのどたばたした日々だったけれど、遥にとっては半年近く続いた多忙な戦いが終わったのだ。やっと訪れた平穏を前に遥は目を閉じ、安らかな表情で私にくっついてくる。

 

「これからは一杯遊ぼうよ、遥」

「うん!」

「お祭りも一緒に行こう」

「んー……いまさら連絡しても大丈夫かな?」

 

 遥の浮かべていた眩い笑顔が少し陰る。一回断ったことを気にしているのだろうけれど。

 

「あはは、みんなそんな狭量じゃないよ。ちょっと待ってて」

 

 くっついていた遥を一旦退けて傍に置いていたスマホから連絡を取ると、みんなから楽しみに待ってる旨のメッセージが次々に届いてきた。リアルタイムに届くメッセージを遥と一緒に眺める。

 

「ほら。みんないいって」

「あ……」

 

 ポップしてくるメッセージを前に、遥の陰っていた顔に明るさが戻っていく。いいんだよ、遥。これからは遥は笑っていなくちゃいけないんだ。

 

「だからさ、日曜日は目一杯楽しもうよ」

 

 目を潤ませながら、遥はこくりと小さく頷いて見せる。よしよしと頭を撫でてあげると、気持ちよさそうに目を細め一層強く抱き付いてきた。

 

「ありがとうフィエーナ」

「なあに?」

「これ……この指輪のおかげで解決した」

 

 左手の薬指にはめられた白銀の指輪を遥は愛おし気に撫ぜる。ヴェイルの力の詰まった滅魔の指輪。もう私には使えない力。

 

「いいよいいよ。遥になら、ううん遥にこそそれは相応しいと思うから」

 

 私自身で使えないことに不思議と後悔はなかった。遥に使ってもらえて嬉しかった。力になれない私が、遥の為になれたことがとても嬉しかった。

 

「フィエーナ……ね、私はこれが婚約指輪でもいいよ」

「あはは、仁悟さんの冗談?」

 

 ついさっきのお酒の席で、遥の左手の薬指に嵌っていることから仁悟さんが発した言葉だ。あの時は上機嫌な大人たちの冗談の嵐のせいで、遥も私も話題を捌くのに精いっぱいだったけ。みんな、とても上機嫌だった。

 

それだけ今回の事態が終わったことが喜ばしかったのだろう。それにしたって少しはしゃぎすぎだったんじゃないかなとは思うけれど。特に、吉上先生。

 

「私も遥なら一生のパートナーにしてもいいかも」

「本当!?」

 

 心の中に浮かんだ言葉をポツリと呟いだだけのつもりだったけれど、思いのほか勢いよく遥は食いついて来る。

 

「冗談なんかじゃないよ」

 

 その勢いに気圧されながらも私は肯定の言葉を返した。遥となら、きっと一生涯に渡るいい友情が築けるんじゃないかと思えたから。ただ何となく、今私は言葉の選択を致命的に間違えたような気がした。

 

「フィエーナァ……♥」

「は、遥……?」

 

 嬉しそうにすり寄って来る遥の笑顔。時折見る満面の笑みに近しいけれど、何かが違う。濡れた瞳が妖艶に煌めき、白い頬には朱が差している。艶めいた唇に、どうしてかとても意識を奪われる。

 

 漏れ出る荒い吐息が吹きかかる。何だかこの息、甘い。遥の肺を介して出て来た空気がそのまま私の中に入って来る。おかしいな、何だか私まで平静を保てなくなってきた。

 

 このままだと遥の唇と私の唇が当たると分かっているのに、私は頭が真っ白になってしまって動けない。ううん、動こうと思えないんだ。このまま触れ合ったら気持ちいいんじゃないかって微かに期待してしまっている。

 

このまま……遥とキスしてしまおうか。

 

けれど、こつんと額が当たった瞬間に私は最後に一言抵抗する。

 

「遥……近いよ」

 

 ここで止まってくれたら、私も止まれる。じいと遥と見つめ合う。互いに荒く乱れた呼吸の中、どれだけの時間が経ったのかも分からない程に遥の顔を見つめ続ける。ああ、遥はやっぱりとっても可愛らしい。もう、遥とならいいのかもしれない。

 

 私が覚悟を決めたあたりで遥の妖艶な据わった視線が可愛らしく挙動不審にブレ始める。あ、すっごく動揺してる。

 

「お、お休みっ!」

 

 あ、逃げた。遥は瀬戸際になって勢いよく背を向けてシーツを被って私の目の前から消えていなくなってしまった。

 

「んふふ」

 

 そんな肝心なトコでへたれて逃げ隠れてしまった遥がどうしようもなく愛おしくて、私はシーツに潜り込んで背中からぎゅうと抱きしめる。

 

「おやすみ、遥」

「……うん」

 

 バクバクと脈打つ遥の心音を聞きながら、私は一人で先に寝入ってしまった。もしかしたら遥は寝付けないかもなとは頭の片隅で思ったけれど、翌朝寝不足でフラフラしてる遥を見て後悔したのは後の話しだ。

 

 

 

 

 

 

 

 



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T/A28:お祭りに行きました。

 

 

 

「雪夜、もうすぐ着くって」

「そっか」

 

 午後から私たちはお祭りに出かける約束をしていた。徒歩とバスで十五分くらいのお寺が開催場所なのだけれど、隣町に住む雪夜とは駅から乗り継いでくるついでなので遥が家に来るように誘ったのだった。

 

 だらけていた私たちが外出に身支度を整えていると、エントランスに到着した雪夜からインターホンを鳴らす。オートロックを開錠してしばらく待つと、花柄のワンピースに身を包んだ雪夜が玄関に立っていた。

 

「こんにちは~、春前雪夜です」

 

 学校でしか会っていなかった雪夜の私服姿は新鮮で、何処か艶やかな魅力が爽やかな子供のような笑顔と混じり合って、とっても可愛らしかった。

 

 私たちに愛らしくウインクを投げた後で丁寧に両手を前に重ねて頭を下げる雪夜を前に相好を崩しながら奈緒さんと仁悟さんはにこやかに挨拶を交わす。

 

「あらぁ、可愛らしいお友達ねぇ。遥の母の奈緒です」

「父の仁悟です。外は暑かったでしょう? 少しだけどゆっくりしてきなさい」

「ありがとうございます、ほんっとに暑かったです」

 

 汗を拭い、パタパタと胸元を仰いで見せる雪夜をリビングに案内してしばらく冷房の効いた室内で少しの間だけれど休んでもらう。

 

「雪夜ちゃんは隣町から来たんですって? 遠くなかった?」

「いえ、駅の近くに住んでいるのでそうですね……十分くらい、かな」

「ほら雪夜。暑かったでしょ」

「ありがとう遥」

 

 遥が持ってきた麦茶の入ったコップを雪夜は両手で包み込むように持ち、こくこくと喉へ流し込んでいく。所作は丁寧だけれど喉は渇いていたらしく、雪夜の両手に収まる小さなコップの中身はすぐになくなってしまった。

 

「もう一杯持ってこようか」

「うーん……お願いしてもいいかしら?」

「いいよ」

 

 タッと立ち上がり軽々と冷蔵庫に飛んでいく遥はやる気に満ちている。お祭りに行けるのが楽しみでテンションが上がってるみたいだ。

 

「お外は暑いよねー、分かる」

「ねー。私、せっかくおしゃれしてきたのにすぐに汗がぶわって! もー嫌になるわ」

 

バスの出発時間が来るまで十数分ほど。雪夜の汗がすっかり引いた頃、時間が迫ってきたので私たちは出発することにした。

 

 一ヶ宮夫妻に見送られた私たちはマンションの外に出て、再度の熱暑に歓迎される。先ほどまでこの中を歩いてきた雪夜はうんざりとした表情を見せ、ふらふらと私に倒れ込んできた。

 

「ううー……」

「もう、暑いよ雪夜」

「あ、フィエーナのお肌しっとりとして気持ちがいいわ」

「ほんと?」

「二人とも! 暑いったら!」

「んふふー」

「ふふー」

 

 私が身を震わして二人を振りほどいたけれど、その後も二人は何かと私にくっついてきて大変だった。バスの車内が涼しかったのが幸いだ。

 

「ふう、一息付けたね」

「涼しーわねー」

「んー」

 

 周囲からの好奇の視線を浴びながらバスに揺られて十分くらい、意を決し降車した私たちの周囲は遥の住んでいる地域とはちょっと毛並みの違う街並みをしていた。道路はアスファルトから小奇麗な石畳になっていて、白壁が眩しい寺社が軒を連ねている。家々も歴史のある趣きがして、外国の人が想像する日本の街並みって感じがする。

 

「ここら辺は雰囲気違うね」

「朽木は古い町並みが保存されてるんだってお父さんが言ってたよ」

「それだけじゃないわ、三丘市の歴史ある家系ならこの辺りにお屋敷を持ってるの」

 

 智恵はこの辺に住んでいるらしいし、やっぱりいいところのお嬢さんなんだな。

 

私たちがお祭りに向かっていると、浴衣を着た人がちらほらと私たちと同じ方向へ歩いている。人通りも増えてきてバス停周りの閑散とした雰囲気から随分と賑やかになってきた。

 

「何だか楽しくなってくるわね」

「祭りの空気が近い」

「んー、心なしかみんな顔つきが楽しそうだね」

「フィエーナもウキウキしてるでしょ」

「分かる?」

「分かるわー、ね遥?」

 

 こくこくと頷いて見せる遥。

 

 鈴子にもうすぐ着くと連絡すると、今ここに居るよと写真を送って来る。自撮りじゃなくて誰かに撮ってもらったみたいで、その点を聞いてみると弟の大志も来ているのだとか。写真を雪夜と遥にも見せて三人で何処だろうと歩き回っていると、鈴子の無邪気で愛らしい声が遠くから響いて来る。

 

「フィエーナちゃーん! こっちだよー!」

「鈴子!」

 

 ぴょんぴょんと跳ねて存在をアピールする鈴子、それに弟の大志も二人して浴衣を着ていた。

 

「うわあ、綺麗だね」

「ありがとフィエーナちゃん!」

「いいわね、似合ってるわ」

「えへへ~、ありがとう雪夜ちゃん」

 

 挨拶を交わした後、私たちが鈴子を褒める言葉に隣で相槌を打っていた遥の前にひょこっと鈴子が立つ。キラキラとした眼差しはまだ褒め言葉をかけていない遥へ褒めて褒めてと強烈に主張していた。あまりの可愛らしさに照れて目を見開いた遥は、自然な調子で鈴子の頭の上に手を乗せていた。

 

「あ、と。可愛いと思う」

「ありがとー遥ちゃん!」

 

 よしよしと撫でられる鈴子も嬉しそうに双眸を細めてニコニコしている。こんな顔してくれるんだから智恵が頻繁に撫でる気持ちが分かってしまう。

 

「ね、ね。みんな褒めてくれたよ大志君!」

「よかったね姉さん」

 

 しばらくして周囲が静まりステージに琴や太鼓らしき楽器が並べられ、オリーブグリーン、あるいは海松色っていえばいいのかな、そんな色の狩衣装束を纏った老若男女様々な集団が入って来る。その中には智恵の姿もあった。

 

 普段から凛とした雰囲気の美人さんだけれど、今日はいつも以上に決まっている。ふと目が合うと、真一文字に結んでいた口が僅かに緩んだように見えた。大勢の人を前に少し緊張してたのかな、手をひらひらと振ってみると綺麗にウインクを返してくれた。

 

「智恵ちゃんは龍笛が上手いんだよ」

「龍笛?」

 

 恐らく今智恵が持っている横笛のことなんだろう。あの楽器はどんな音色がするのかワクワクしてきた。

 

 やがて始まった演奏は私が初めて聞く類の音楽だった。馴染みある金管楽器や弦楽器の音色とは毛色の違う、何処か雅でオリエンタルな音色の音楽。これが日本の音楽、なのかな。演奏の間ずっと私は音色に聞き入ってしまい、演奏が終わって遥に肩をつつかれてようやく我に帰ったのだった。

 

「フィエーナ?」

「あ……遥」

「聞き惚れちゃった? すっごく目がキラキラしてたわよ」

「うん……とってもよかった」

「智恵ちゃんすごかったよね!」

 

 私たちが智恵の参加した演奏について盛り上がっていると、やがて当の本人が疲れた様子でこっちにやってきた。さっきの素敵な衣装は着替えてしまい、シンプルながら品の良いブラウスとデニムパンツ姿に変わっている。スタイルがいいからすごく様になっているけれど、あの衣装姿ももっと見ていたかったな。

 

「ああぁー……鈴子ぉ」

「お疲れ、智恵ちゃんよしよし」

 

 最早見慣れた鈴子に甘える智恵の姿に私たちだけでなく、周囲の大人たちも微笑ましい目を向けて来る。どうにもここいらには智恵の知り合いが多いみたいだ。

 

「さっきの演奏よかったよ」

「惚れたか?」

「あははー、またいつか聞かせてね」

「おう! 家に来たらいつでも聞かせてやるぜ!」

 

 それはありがたい。智恵のお家にもいつか遊びに行ってみたいものだ。

 

「智恵さん、僕は友達が来るので失礼します。姉さんを頼みますね」

「任せろ」

「大志君ばいばい」

「はい、行ってきます」

 

 まだ私にはちょっとお堅い大志は、少し離れた場所にいる友人たちの元へ手を振りながら歩き去ってしまった。彼が私に慣れてくれる日が来てくれるともっと仲良くなれるのにな。

 

「アタシも七時半まではフリーだから早く遊びに行こうぜ!」

 

 スキップ交じりに浮かれた歩調の智恵に先導され、私たちはお祭りの屋台へ足を踏み入れる。私には見たことのない食べ物、競技がたくさんあって心が躍り出す。

 

「お。こういうお祭りは初めてか?」

「うん。私の知らないモノばっかりだ」

「そう、それじゃ私たちと一緒に初めてのお祭り体験と行きましょう?」

 

 焼きそばにりんご飴、わたがし、射的、わなげ……初めてのものばかりで私はいつになくはしゃいでしまっていた。

 

「楽しいね遥」

「うん!」

「フィエーナの子供らしい笑顔、初めて見たかも」

「そうかな?」

「初めて見たっ! フィエーナちゃん、いっつも大人の女の人みたいな笑い方するもん」

「かわええ……」

「あ、智恵ちゃんが天国に行きかけてる……えいっ!」

「うおっ!? ここは、天国……?」

「違うよっ! 目を覚ましてっ!」

 

 鈴子と智恵のコントじみた会話にみんなで笑っていると、唐突に何だかガラの悪そうな三人組に話しかけられてしまった。

 

「なっ、なあなあ! オレたちと遊ばない?」

「女の子だけじゃつまんないっしょ!?」

「そこの外人ちゃん。すげえおっぱいしてんねえ!!」

 

 下卑た笑いにいやらしい目線が不快だ。あまりこういう手合いには近づかれないんだけれど、ちょっと気を緩ませすぎたかな。ふうむ、遊んでそうな三人だけれどそこまで悪人という訳ではなさそう。さては、夏休みに入っては羽目を外しすぎているな。声音がちょっぴり緊張してるの、私は見抜いちゃったぞ。

 

「あぁん? アタシのモンに手ぇ出す気かぁ? 別を当たりな」

 

 それでも智恵とほぼ同じ身長の二人と百八十センチ近い男性一人に迫られているのだ。鈴子は怯えてしまい、雪夜のさっきまでの楽しそうな雰囲気が何処へやら硬い表情になってしまった。遥は流石に命をやり取りしてるだけあって胆力が備わっている。何だこいつらと白けた目線を向けていた。普通の人なら遥みたいな美少女にこんな冷めた目で見られたらそれだけで逃げ出したくなりそうな冷たい目線だ。

 

「あ、いやっ。オレたち別に悪い奴じゃねえって!」

「いーじゃねーか遊ぼうぜぇ!?」

「あわよくばとか全然考えてねーしぃ!?」

 

 遥に加え、智恵が好戦的な態度で私たちを庇うように前に立って三人組を睨み付ける。途端に陽気で頭の軽そうな三人組は、下手に出てどうにか気を損なわないように取り繕い始める。うーん、単純に異性と遊びたいだなのかな。けど、もうちょっと考えて動くべきだったね。

 

加えて言うなら、さっきから智恵はちょくちょくすれ違う知り合いと挨拶をしていた。つまり、ここいらは智恵の味方が集結しているわけで周辺の大人たちまで三人組へ白い目線を送り始める。それだけじゃない、中には増援としてこちらにずんずんと歩みを進める厳つい大人たちも現れ始める。

 

「まーまー、ここは私に任せて」

 

 智恵の肩を叩いて、代わりに前に出る。別に事を荒げる必要なんてない。私はにっこりと笑みを顔に貼りつけ、何処かへ去ってほしいと思いを込めながら目と目を合わせて声を発する。

 

「悪いけど、私たちは私たちで遊ぶから。バイバイ」

「あ……ハイっ!」

 

 私が手を振ると、顔を真っ赤にした三人は無様なくらい慌てて背を背けて何処かへと走り去ってしまった。よかった、今度からは女の子を怖がらせないお付き合いの仕方を考えて行動するんだぞ。

 

「え、えー! すごい……」

「マジか……」

「これでいいでしょ?」

「フィエーナ、魔法が使える?」

 

 真剣な顔つきで遥に問われてしまい、私は苦笑した。あながち間違いでもないかもしれない。ともあれ、これで穏便に事を収められた。

 

 それからももう少し遊んだ後で、私たちは花火を見るために場所を映る。薄暗い夜空に眩い大輪の光の花が咲く。ロートキイルでも花火はあったけれど、何だかこの日本の夏に見る花火は何処か趣きがあって一番に綺麗に思えた。

 

「きれーだねー」

「だなー」

 

 ぽけーと夜空を見上げる智恵と鈴子の隣では雪夜が花火をスマホで撮影する。

 

「お父さんたちにも見せようと思って……」

 

 別に咎めている訳でもないのに、照れ笑いで誤魔化しにかかる雪夜。真っ先にお父さんが出てくるあたり、お父さんのことがそれだけ好きなのだろう。

 

「そうだ! アタシたちも集合写真撮ろうぜ!」

「お、智恵ちゃんナイスアイデア!」

「信乃さーん! ちょっといっすかー!?」

 

 智恵が近くにいた知り合いを呼んできて、みんなで花火を背景に整列する。

 

「んー、いーかんじよー。それじゃ撮るわよー。はいっ、チーズ!」

 

 何回か構図を変えても写真を撮ってくれた信乃さんにみんなでお礼を言うと、信乃さんは笑顔で旦那さんの元に戻っていった。

 

「どんな感じに撮れたかしら?」

「お、いい感じだぜー」

 

 智恵のスマホを中心にみんなで顔を寄せ合う。信乃さんの写真を撮る腕は中々のもので、背後の花火も前方に立っている私たちもピンボケせずにしっかりと撮られていた。取られた写真をネタにみんなでやいのやいの言っているとあっという間に時間は過ぎてしまい、智恵が親戚筋との晩さん会に出なくてはいけない時間になってしまった。

 

「あーあー、これからが大変なんだよなー」

 

 うんざりした態度を体で表す智恵だけれど、顔はまだ笑っている。

 

「今日は楽しかったぜ。んじゃ、アタシは行ってくるぜっ!」

「またねー、智恵ちゃん」

「あの!」

 

 みんなで智恵を見送る中、遥がちょっと緊張しながら智恵の前に立つ。頬を僅かに染めて両手を胸の前でぎゅっと握った姿にはドキリとしてしまう。

 

「今日は誘ってくれて……ありがとう。楽しかった」

 

 私に限らず、智恵もまた遥にしばらく見惚れた後でにかっと気持ちの良い笑顔を見せる。

 

「ああ! また次、機会があったら遊ぼうぜ!」

「うん」

 

 帰路、雪夜は遠慮していたけれど夜になったので遥と二人で駅まで見送りを終えてから家路に着く。人通りがめっきり減った夜の道は点々と灯る街灯があっても暗く、全然涼しくならない大気がぬめりと生ぬるく全身を包む。

 

「今日は楽しかったね」

「うん」

 

 ぽつりぽつりと会話を繋ぎながら私たちはゆっくりと歩いていた。二人きりになってからいつの間にか伸ばされた遥の手を私は快く受け入れ、ぶんぶんと二人の間をつながれた腕がブランコのように舞う。

 

「ねえ、フィエーナ」

「なあに?」

 

 何度も遥は私の名を呼ぶ。それはとても温かくて、何度呼ばれても心が浮き立つものだった。

 

「私、フィエーナと一緒にいれてよかったよ」

「……私もだよ」

 

 遥は無口なとこが可愛らしい。澄ました顔はとても綺麗で、見惚れてしまう。素直に表情を見せるとこが愛らしい。一々見せる反応が素敵で、どんどん関係を深めていきたくなる。甘えて来る遥には心が高鳴って、何時までも甘やかしてあげたくなる。そんな私が自制するまでもなく、一線を引ける遥はしっかりしていていい子だ。私があげた物をずっと大切に持っていてくれて嬉しい。昔あげた小さな拙い自作の硝子細工を忘れず大切にしまっていたのを見つけた時には、心の奥底から遥に蕩けそうになってしまった。戦いの場ではとてもカッコよかった。ヴェイルの力に認められた在り方が眩しい。

 

 遥と会えて私はとても幸せだ。

 

「フィエーナとはもう別れたくない」

「遥?」

 

 そんな遥はぎゅうと力を手に込めて、さっきまで幸せそうにしていた顔を陰らせ地面に俯く。私が様子を窺うと、覚悟を決めたようにキリリとした目付きでこっちを見つめて来た。

 

「ずっと、日本にいて欲しい」

「それは……」

 

 遥の言葉はとても嬉しくて、つい頷きそうになってしまうけれど私はロートキイルに多くのものを残してきている。家族、友人、師匠、住んで来た街……これらを遥の傍にいるために離れられるだろうか。駄目だ、すぐには決められない。

 

「私がずっとそばにいるから、それじゃ駄目?」

「んー……」

 

 遥の真剣な眼差しを受け止めながらなお、私は答えを出せなかった。どうしたらいいか、必死に頭を回転させようと試みるけれどこんな時に限って全然頭が回らない。

 

「すぐ結論を出さなくていい……けど、考えておいて」

「分かった」

 

 遥は優しく微笑んで私の回答を保留にしてくれた。遥が見せた微笑み、それを見た私はじわりと郷愁の念を湧かせながらも覚悟を決めないといけないと思った。

 

 答えは出ている。けれど、それを口に出してしまえばと思うと私はこれ以上言葉を紡げなかった。

 

 無言になった遥と繋がる手を握りなおして、私は肩を寄せて来る遥と一緒に帰宅した。

 

 

 



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T/A29:すっごい英雄に会えました。

 

 

朝、私がいつものように日課のジョギングに向かおうと起きると珍しく既に奈緒さんが起きて家事に手を出していた。

 

「おはよう奈緒さん、今日は早いね」

「お、おはようフィエーナちゃん」

 

 キッチンで背を向けていた奈緒さんはびくりと肩を震わせてから、私と顔を合わせるとホッとしたように安心した笑みを浮かべる。

 

「ごめん、びっくりさせちゃった?」

「そんなことないわよ~」

 

 何だか奈緒さんが緊張しているように見えて、一体どうしたんだろうかと首を傾げていたら朝食の席で原因が判明する。

 

「そういえば、今日はお義母さんたちが来るんだったね」

「え、ええ……」

 

 仁悟さんは神妙な顔つきをしていて、奈緒さんは気まずそうな顔つきで俯いてしまう。そうだ、そういえば奈緒さんは事件の影響で親密な関係を取っていた人であればあるほど恐怖を覚えてしまう後遺症がまだ残っていたんだった。

 

「いつ来るの?」

「六時くらいに……」

 

 気遣うような表情の遥へ気が重たげに返答する奈緒さんが提示した時間は仁悟さんが帰って来るあたりの時間だった。今日は道場に行く予定があるけれど六時前には帰ろう。

 

 

 

 学校では先週行われたテストの返却が行われ、問題の解説が実施された。結構手ごわい問題ぞろいだったけれど、それなりに出来ていて嬉しく思っていると鈴子が寄ってきてじいと見つめて来る。

 

「なあに?」

「完璧超人だね、フィエーナちゃんは」

「どうしたのさ、突然」

「うう~、国語以外フィエーナちゃんに敵わなかった……私、日本人なのに日本史で負けた~」

 

 そう言って椅子に座る私の横からへたり込んで来る鈴子に私は伸し掛かられる。小さいので全然重たくなくて、むしろ軟らかくていい匂いがした。

 

「広瀬先生も褒めてたわね~。というか、授業範囲外の趣味問題は勘弁してほしいわ……」

 

 そう言いながら反対側から寄りかかって来るのは雪夜だ。

 

「二人ともなんなのさ」

「でも流石に国語はアタシらが勝ってたよな。つか、負けてたらシャレになんねえよ」

「智恵まで?」

「へへへ~」

 

 背後からやってきた智恵は鈴子と雪夜もろともぎゅうと抱きしめて来る。

 

「ずるい。私も」

「遥も~?」

 

 流石にスペースがなくなってきたと思ったら机の下から潜り込んできて正面からくっついてくる。

 

「ちょっとー、暑いよ~」

 

 割かしのんびりとした時間を過ごしてたのだけれど、ガラッと勢いよくドアを開けて入ってきた宗一先輩が現れたことで一気にクラスルーム内が緊張に包まれる。

 

「フィエーナ・アルゲン。来てもらおう」

「宗一先輩」

「何を……している?」

 

 抱き付き合っている私たちを前にして流石に戸惑っているみたいだ。険しい目から鋭さが消え、困惑が残る。

 

「あ、あははー。五分だけでもいい?」

「構わん」

 

 遥がちょっとしつこかったけれど、どうにか言いくるめた私は宗一先輩と空き教室で二人きりになる。その私の前で宗一先輩は何やら見たことのない札を制服の懐から取り出し、空中に浮かせる。

 

「それは?」

「人避けの結界だ」

「結界? 大げさじゃない?」

 

 そこまでして聞かれたくない話題、私には心当たりがあった。結界を展開してからいつになく目を鋭くさせて私を睨んでいた宗一先輩は宗一先輩としてではなく、ハリアとして口を開く。

 

『……本当にあなた、ヴェイルなの?』

 

 それは私の中にあるヴェイルの記憶で幾度となく聞いた異世界の言葉。それも、ハリアの口調に瓜二つの帝國語だった。それにしても、その体で使うにはちょっとずれているような気がしないでもないけれど。

 

『ヴェイルじゃないんだ。ごめんなさい』

『どういうこと? あの力、確かにヴェイルの滅魔だったわ! というか帝國語を解しているじゃないの!』

『私の中に確かにヴェイルの記憶はある。けど、私はフィエーナであってヴェイルそのものではないんだ』

『そん、な……』

 

 縋るような視線が絶望に変わる。もしハリアだとしたら、私の存在は邪魔なのかな。どちらにしてもヴェイルの存在をあてにしていたのだろうから、私の返答は宗一先輩にとっては喜ばしくないものであるのは確かだ。

 

『それより、あなたは本当にハリア、なの?』

『……ええ。あなたと違って私は私そのものとしてこの世界に生まれたわ。はあ……折角昔の仲間に会えたのかと思ったのに……!』

『あー……と、一応、たまーにヴェイルの人格も復活したりはするよ』

『どういう、こと?』

 

 ちょっと希望の灯った目線を向ける宗一先輩に私とヴェイルの不可思議な共同生活を説明した。もし本当にハリアなら、尊敬するヴェイルのこれまた尊敬すべき仲間なのだ。一欠片でも嘘を吐いては失礼にあたる。

 

 私が一通りの事情を話すと、ようやく宗一先輩は平常心を取り戻してくれた。宗一先輩というより、私がかつてヴェイルとして会った頃に体験したハリアのような物言いを始める宗一先輩に私の心は高鳴り出す。伝説が目の前にあるのだ。興奮しない方がおかしい。

 

『面倒ね。苦労してないの?』

『何で? ヴェイルと肉体を同一してるなんてこれ以上名誉なことなんてないよ!』

『……変わってる子ね。それで、ヴェイルを今呼び出せないの?』

 

 どうしてか呆れられてしまった。理由は分からないけれど、それでもこんな反応を確かにハリアはしたとヴェイルは教えてくれる。うう~……高まる!!

 

『んー……結構気まぐれに現れるから……週に一回は出て来るんだけれど』

『そう……それならその時話したいって伝えておいて』

『あ。記憶は共有してるからもう伝わってる。安心して』

『ふうん……ま、いいわ。連絡先は渡しておくから、ヴェイルの人格が出て来たらすぐ連絡して。いいわね?』

『うん! 絶対するよ!』

 

 そう言い切ると宗一先輩は結界を解除し、空き教室から去っていく。その背に向けて私が興奮に任せてぶんぶんと手を振ると、宗一先輩は呆れの表情をそのままにしながらも手を振り返してくれた。

 

 その反応が正に気を許した相手にするハリアの態度そのままで、私は思わず口の端が緩むのを抑えきれなかった。

 

 

 



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T/A30:遥の祖父母がやってきました。

 

 

 

 放課後、私は道場へ遥は魔之物退治に向かう。本当なら七時くらいまではお邪魔させてもらおうと思っていたけれど、今日は事情があったので六時前には帰れるようにしておいた。

 

「何とかならないのかな……」

「難しいね。心の問題はどうにもしがたいよ」

「そっか……」

 

 車上で吉上先生に奈緒さんのことで相談するも、色よい返事はもらえなかった。流石に吉上先生にも出来ることと出来ないことがあるか。それでも私の不安を聞き遂げてくれるだけありがたい。

 

「送ってくれてありがとう吉上先生」

「奈緒さんのこと、僕からもよろしく頼むよ」

 

 悔しさをにじませた吉上先生は一瞬目を落とした後で、いつものように笑って去っていった。私は手を振って見送るとマンションのエントランスに入りオートロックを開錠し、マンション内へ戻る。

 

「ただいまー」

「おかえりフィエーナ」

「おかえりなさいフィエーナちゃん」

「あれ、遥?」

「今日もやっぱり魔之物が少なかったの」

 

 道場でもそんな話はあったからもしかしたら遥が早く帰ってるかもとは思っていたけれど、実際に元気そうに抱き付いてきた遥を見るとホッとする。やっと遥が疲れ切ってへとへとになるまで酷使される事態は終わったのだ。

 

「そっか。よかった、ね……」

「うん」

 

 ぎゅうと抱きしめる遥の返事は言葉少なかったけれど、喜びに安堵がたっぷり詰まっているように思えた。

 

「本当よ……ようやくね遥ちゃん」

「うん」

 

 私に抱き付く遥の上から奈緒さんも遥の背から抱き付いてくる。私にとっては二週間ちょっとだけだったけれど、遥と奈緒さんにとっては半年にも及ぶ戦いが終了したのが実感できたのだ。感慨もひとしおというものだろう。

 

 願わくば、これが普通になってほしい。

 

 

 

 六時が迫るにつれおろおろそわそわしだす奈緒さんは、恐る恐ると言った表情で私に歌を歌ってくれないかと頼んで来た。

 

「フィエーナちゃんの歌を聞いてると心が落ち着くの。少しでいいのだけれど、駄目……かしら?」

 

 一度歌を聞いてもらってから、奈緒さんは私が暇をしていると歌ってくれないかと尋ねて来ることがあった。リクエストに応えると、いつもすごく喜んでくれるから先生に課せられた制限を守りつつ私は奈緒さんに歌を聞いてもらい続けていた。

 

 もし、私の歌で奈緒さんの助けになるというのならいくらでも歌ってあげたいと思う。

 

「コホン。じゃ、ちょっと歌っちゃおうかな」

 

 

 

 私がこの際制限なんて知らないとばかりに奈緒さんとその隣にちょこんと座る遥へ歌を披露する。リラックスできるような落ち着いた曲調の歌を選んでみたのが功を奏したのか、焦燥に駆られたような奈緒さんの顔に落ち着きが戻っていく。

 

 これならあるいは遥のお祖父ちゃんとお祖母ちゃんとも上手くやれるかもしれないと思っていたところに、突如としてチャイムがリビングに鳴り響いた。

 

 いつの間にか、訪問時刻である六時になっていたようだ。そして、私の影響なんてたかが知れているのを見せつけるように奈緒さんの顔には恐怖が浮かんでいた。

 

「来た、みたいね……」

「私、出迎えて来る」

「待って遥ちゃん、私も行くから」

「でも……」

 

 サッと立ち上がって一人で玄関に向かおうとした遥を奈緒さんが引き留める。奈緒さんを気遣って躊躇いを見せる遥へ、奈緒さんは顔に笑顔を張り付けて立ち上がった。

 

「ううん、せっかくフィエーナちゃんに勇気をもらったんだもの。大丈夫よ」

 

そういう奈緒さんの足は微かに震えていた。結局、私は役立たずだ。

 

 怯えを隠そうと努力する奈緒さんと一緒に私たちは玄関前に来ていた。奈緒さんは怯えてしまっているけれど、遥にとってはただのお祖父ちゃんとお祖母ちゃんであり恐怖を抱く必要なんて何処にもない。インターホン越しに交わした数語を聞くに、遥は仲良くやれているみたいだ。それだけに緊張にごくりと喉を鳴らす奈緒さんが不憫でしょうがない。事件以前は仲のいい家族だったとも聞いているだけに、なおさら……。

 

「私が出るよ」

 

 玄関で私たち三人が待っていると、チャイムが鳴るので遥が身を乗り出して扉を開ける。

 

「久しぶりー! それに、はじめましてねフィエーナさん!」

 

 つば広帽子を被った奈緒さん似の女の人、桜子さんがオーバーリアクション気味に奈緒さんと遥へ両手を胸の前で振った後、ずずいと私の前にやってきて手を取っていきなり握手をしてきた。満面の笑みは大輪の花のように華やかで周りが元気になるような素敵な笑顔だ。可愛らしい人だと私はすぐに好きになってしまった。

 

「おー。綺麗な人じゃないか。それが家内の桜子、私は奈緒の父で遥の祖父、築作言います。よろしく頼みます」

 

 桜子さんの隣で綺麗な会釈をしてみせた築作さんは、七三分けの白髪交じりの黒髪をばっちりと分け眼鏡は四角い黒縁の実直そうな、あるいはすごく真面目そうな男の人だ。

 

私は桜子さんに両手を握られぶんぶん振られているけれど、築作さんにばかり頭を下げさせるわけにはいかないので慌てて会釈を返す。

 

「私はフィエーナ・アルゲンです。奈緒さんたちの好意でホームステイさせてもらってます。フィエーナって呼んでくださいねっ」

「もう~カタッ苦しくてごめんなさいね~。これでも目一杯愛想よくしてるんですよ~、ほほほ~」

「桜子。一言多いぞ」

「なーに言ってるの~。私がフォローしないととっつきづらいのよアンタはもう~」

「母さんも父さんも、相変わらずね」

 

 ぽつりと呟いた奈緒さんの表情は嬉しそうに、そして寂しそうに見えた。健在な両親の存在に喜び、その交わりにもう自分は昔のように関われなくなった悲しみ。

 

「奈緒、アンタはどうなの~? 引っ越しても上手くやっていけてるの~?」

「う、うん……」

 

 桜子さんが何の気なしに娘に触れようとするも、奈緒さんはビクリと怯え目を瞑ってしまう。朗らかな桜子さんの表情が一瞬固まって、みしりと場が軋んだような気がした。

 

「あ……あははは! 遥ちゃんはどう~? もう高校生でしょ~?」

「フィエーナも来てもう完璧」

「最近試験があったそうだな。どうなんだ? 結果は」

「ん、ばっちし」

 

 びしっとピースをしてみせる遥を見て頷く築作さん。遥のちょっと無口なところはお祖父ちゃんに似たのかな。

 

 その後、リビングに上がってもらい私たちは仁悟さんの帰宅を待って雑談に興じる。遥はいつになく甲斐甲斐しく奈緒さんと桜子さんたちの間をちょこちょこ動き回っては両者の仲を取り持ち、私は奈緒さんの隣に座って後ろで手を繋いで奈緒さんを少しでも安心させられはしないかと肩を寄せる。

 

 私と遥には普通に受け答え出来るけれど、桜子さんと築作さんから会話を振られると途端に小動物みたいにびくびくしてしまう奈緒さんの姿は初めてで、事件の傷がまだ一ヶ宮家を完全に癒しきれていないことに私は胸を痛める。

 

「奈緒も少し調子がいいみたいね~」

「う、うん。何だか今日は、ね……不思議」

 

 慈しみの目で娘を見る桜子さんはしみじみといった口調で奈緒さんに声を掛ける。それをおどおどしながらも何とか無難に返答し、ホッと息を吐きながらチラリとこちらを見る奈緒さんに笑みを返すと、緊張で硬かった表情が緩む。私なんかが助けになるなら、いくらでも協力するからね奈緒さん。

 

「お祖父ちゃん、これは?」

「いいんじゃないか? 前来た時もここだったろう」

「そーだよ」

 

 今日は出前を取るらしく、遥が持ってきた幾店舗かのお店のメニューを築作さんは至極重要な書類のように見つめている。築作さんの座るソファの後ろでメニューを覗く遥の距離は近く、お祖父ちゃんに甘える孫の様相で何だか微笑ましい。

 

「私はあんまり脂っこいのは嫌よ~」

「お前の好みくらい知っとるわ。俺は大トロが欲しいな。余ったら仁悟君ならまだ若いし食べるだろう」

「パパ、最近油ものがきついって言ってたよ」

「何だ、仁悟君はもう胃がへたれたのか」

 

 段々と和やかな雰囲気になっていく中で仁悟さんも帰って来る。

 

「どうも、お久しぶりです」

「お仕事お疲れさま。お邪魔してます」

「悪いね、平日というのに」

「いえいえ、どうぞゆっくりしてって下さい」

 

 桜子さんたちは県外からわざわざ電車を乗り継いできたそうで、今日は市内のホテルを取っているのだとか。昔は泊まりの際は家に泊めていたらしいけれど、事件後は奈緒さんの精神衛生上いつの間にか外泊になってしまったそうだ。

 

「奈緒、お味噌汁くらいは作りましょうか。台所借りるわね」

「あ……あの、お母さん。て……手伝う?」

 

 奈緒さんの遠慮がちに発した言葉に桜子さんは一瞬目を見開いてからにししと歯を見せ笑う。

 

「何言ってんの。お味噌汁くらいお母さんに作らせなさい?」

「あり、がとね」

 

 軽く手を振ってキッチンに入っていった桜子さんの目は涙で潤んでいるように見えた。もしかしたら、事件以降奈緒さんから声を掛けたのはこれが初めてなのかもしれない。この情景を前に遥は片手で口を覆って目から涙を流し、築作さんも潤んだ眼をしきりにしばたかせて泣くのを堪えていた。

 

「ちょっと奈緒~! お味噌はどこ~!?」

「もうお母さんったら」

 

 苦笑して立ち上がった奈緒さんは自然な調子でキッチンに入っていくけれど、何も言わずに私の元に戻ってきて私を引っ張って誰もいない廊下に連れ出してきた。その表情は恐怖に引きつっていて、さっきまでびくびくしながらも会話出来ていた姿とは似ても似つかない。

 

「どうしたの奈緒さん」

「ごめんなさいフィエーナちゃん……」

 

 私の手を両手で包み込むように握り、息を浅く何度も繰り返しながら目をつぶる奈緒さんは徐々に恐怖に歪んだ表情を落ち着かせ、呼吸も落ち着きを見せていく。

 

「やっぱり……」

「奈緒さん?」

「何だか、よく分からないけど……フィエーナちゃんといると恐怖がなくなる、ような気がする」

 

 じいと床をしばらく眺めていた奈緒さんが顔を上げると、怯えながらも決意に満ちた表情に変わっていた。

 

「ね、一緒に来てくれる?」

「ん、いーよ」

 

 肉親に会う為に勇気を振り絞る必要があるなんておかしなことだ。私がその恐怖を和らげられるなら、一緒にいてあげよう。キッチンに立つ桜子さんからは見えないように手を繋いだ奈緒さんは数瞬口をつぐんでから実の母に声を掛ける。

 

「ごっ、ごめん。遅くなっちゃった」

「あら~? もうお味噌見つけたわよ~。手を貸すのが遅いんだから~」

「ごめんごめん」

 

 奈緒さんは私の手を離したり繋いだりを断続的に試していた。私からは桜子さんの姿は伺えず、手を離す度に一瞬体を震わせる奈緒さんのみが見えるだけだ。

 

「ま、いいわ。すぐ作っちゃうからあっちで待ってなさい」

「うん。じゃ……お、お願い。お母さん」

 

 さっと身を退いた奈緒さんと私は再び二人きりになる。

 

「どうだった?」

「やっぱり……ね、フィエーナちゃん。今日はなるべく一緒にいてくれる? お願い」

「いーよ。ずっと一緒にいよう」

 

 頼み込む奈緒さんの願いを私は快諾する。もし、奈緒さんの心の傷が私がそばにいるだけで一時的にでも癒せるなら協力を惜しむ訳がない。

 

「……フィエーナ? ママ? 何してるの?」

 

 ひょこっとリビングからやってきた遥が顔を出す。何だか猜疑に満ちた目が怖いような気がする。気のせいかな。

 

「あ、遥ちゃんちょうどよかったわ。作戦に協力して頂戴」

「ママ?」

 

 奈緒さんが話した内容に少し考え込んだ遥だったけれど、協力はしてくれるようだった。仁悟さんにもこっそり伝えてくれると遥は意気込む。話を聞くと一転やる気になった遥が一体どんな勘違いをしてたのか後で聞いてみよう。

 

「お義父さん。さ、どうぞどうぞ」

「む、すまんね」

「ははは、奈緒はあまり酒を呑みませんからね。買い込み過ぎてたので来てくれて助かりましたよ」

 

 出前のお寿司が到着し、私たちは夕食を取り始める。ロートキイルで食べたパック寿司ではいまいち美味しさが伝わらなかったお寿司だけれど、今日食べたお寿司はとても美味しい。これなら人気が出るのも分かる気がした。

 

「ここのお寿司、やっぱり美味しいわね~!」

「ほんと、大将さんいい腕してる」

 

 桜子さんと会話する奈緒さんはとても嬉しそうだ。事件以降のトラウマでまともに会話できなかった実の母親とお話が出来るようになったのだから当然か。けれど、どうして私がそばにいると恐怖が薄れるんだろう。滅魔の力が影響しているんじゃないかと私は考えていた。

 

「奈緒、醤油が切れた。取ってくれ」

「はい、お父さん」

「すまんな」

「んーん、でもお父さんお醤油付け過ぎじゃない? 気を付けてよね」

 

 父親相手に調味料を渡すだけのことで、嬉しそうにする奈緒さん。今日出会った当初、両親相手だと何をするにも一呼吸を置く必要があった奈緒さんは、気が付けば普通に接することが出来るようになっていた。

 

 その時だった、お醤油の付け過ぎで桜子さんに小言を言われる築作さんを見て微笑む奈緒さんの背後から黒い霧のようなモヤが飛び出してきた。黒い靄は苦悶の表情を空中に描き出し、奈緒さんから逃げ出そうとしているようにも見えた。

 

けれど、その悪意の塊のようなモヤは何をすることもなく消失する。

 

 一瞬、それは私にも捉えきれるかぎりぎりの高速の一閃だった。

 

 お寿司を黙々と口に運んでいた遥の姿がぶれたかと思うと、刀を握りモヤ目掛けて刺突を叩き込んでいた。刀身からは清らかな風が迸り、穢れの塊たるモヤを瞬間的に消失させ、むしろ室内は浄化され清涼な空気で満たされるほどだ。

 

 私以外で遥の挙動を捕捉し得た人間はこの場にはいないはずだ。当然、いきなり座っていた遥が消滅したかと思いきや日本刀を持って立っている姿を見た面々は思考を停止させ呆気にとられる。

 

「ママ、もう大丈夫だよ」

「……えっ? は、遥ちゃん? え、え? さっきまで私の隣に……?」

「私がママの中に巣食う悪意、今退治した」

 

奈緒さんを挟んで座っていた遥がいきなり背後に立っていたので奈緒さんは混乱して遥が元々座っていた場所と今経っている遥を交互にキョロキョロ視線を移動させる。混乱しすぎて遥の発言の内容にまで思考が回らなくなっているみたいだ。

 

「遥、それはつまり奈緒はもう知人や友人に怯えなくていいってことなのか?」

 

 いち早く立ち直った仁悟さんの問いに、遥はこくりと頷く。

 

「ほ、本当なの……?」

「フィエーナの滅魔のおかげ」

「奈緒さん」

 

 私がテーブルの向こう側にいる桜子さんたちへ奈緒さんを向かわせる。握っていた手を離しても奈緒さんは一切体をびくつかせることなく対面にいた桜子さんと築作さんの前に一人立つことが出来た。

 

「お母さん……」

「奈緒……奈緒!」

 

 目を涙で溢れさせながら母親に崩れ落ちる奈緒さんを桜子さんもまた泣きながら受け止める。

 

「そうか……ようやくか」

「お父さん……」

「やっと俺の目を見てくれたな、奈緒」

「うう……お父さん……」

 

 築作さんに頭を撫でられる奈緒さんはもう体を怯えで震えさせはしない。むしろ築作さんの武骨な手に頭を擦りつけるように頭を寄せた。

 

 数十分はたっぷり泣き続けた奈緒さんは、ようやく泣き終えると私と遥の二人を抱き寄せる。

 

「遥ちゃんにフィエーナちゃん。二人ともありがとう」

「私はフィエーナが追い出したから祓えただけ」

「私も何が何だか……遥、説明してくれない?」

「そうだね。パパたちも聞いて」

 

 それからぽつぽつと遥は説明を始める。私の滅魔の力が奈緒さんの中に巣食う、退魔師でも見抜けなかった悪魔の残滓を体外へ追いやったこと。そして、体外に出そうな辺りで気付いていた遥は出てきた瞬間を待ってましたとばかりに斬り伏せてしまったこと。

 

「フィエーナが滅魔に目覚めてなかったら一生気付けなかったかもしれない」

「奈緒アンタ、こりゃ一生の大恩だね」

「本当ね、フィエーナちゃんありがとう」

 

 顔を感謝の思いに綻ばせ、涙でくしゃくしゃにした奈緒さんはとても綺麗だった。思わず照れて目を逸らしかけてしまいそうになったけれど、奈緒さんの思いに目を逸らす訳にはいかない……んだけど、やっぱりここまでの感謝の念を直視してしまうと気恥ずかしい。

 

「私、ただ一緒にいただけだよ。それより遥が退魔師になってなかったらせっかく飛び出してきた悪魔も逃げおおせていたと思うんだ。だから、私と遥の二人がいてようやくどうにかなったんじゃないかな」

「卑下しないでフィエーナちゃん。遥ちゃんにフィエーナちゃん、二人とも私の大恩人には変わりないんだから!」

 

 勢いよく飛び込んできた奈緒さんは私を抱きしめ、ぐりぐりと胸の中で頭を押し付けて来る。まるで遥みたいで、そしてとてつもなく愛おしくて、私は押し付けられた頭を抱き寄せ頭頂部におでこをくっつける。

 

「ママ、ママ。ずるい」

「遥ちゃんもありがとうね! お母さんを助けてくれて、本当にありがとう……」

 

 絶対嫉妬で奈緒さんの裾を引っ張っていた遥は感謝の気持ち百パーセントの奈緒さんの純粋な思いに打たれ、頬を赤くして奈緒さんのお腹に頭を突っ込ませ照れ隠ししようとする。

 

 私が意を酌んで奈緒さんを解放すると、奈緒さんは屈んで遥の頭をよしよしと撫でてあげた。

 

「遥ちゃんは私の誇りよ。本当にいい子に育ってくれたわ」

 

 どんどん遥の耳が赤く染まっていく。

 

「ありがとう遥ちゃん。とっても大好きよ」

 

 あ、照れすぎて暴れ出した。

 

 

 



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T/A31:祓魔師がやってきました。

 

 その後、桜子さんたちはホテルをキャンセルし泊まっていくことになった。キャンセル料を支払うついでに荷物も持って帰ってきた桜子さんたちは、事件発生から二年ぶりに娘との正常な付き合いを回復した。

 

「久しぶりね。お父さんの肩を叩くの……」

「そうだな」

 

 とんとんとテンポよく築作さんの肩を叩く奈緒さんはとても機嫌がいい。桜子さんが二人を眺める目付きも良く言えば落ち着き切っていて、はっきり言ってしまえばだらけきっていた。

 

「アタシは先に寝るわ。もう年かしらねぇ」

「えーお母さんは肩凝ってない? 私、やってあげようか?」

「あら、いいの? じゃあお父さん放っておいてこっちやりなさい」

「俺が先だぞ」

「眠いわ~、寝る前にすっきりして寝られたらアタシ幸せなのにな~」

「ふふっ、お父さんちょっとだけ待っててくれる?」

「奈緒は桜子に甘いな。アレは実家にいる時並にだらけきってるぞ」

「いいじゃない今日くらい」

「そうよ~、せっかく奈緒が立ち直ったんだから~」

 

 

ようやく取り戻した家族の仲を前に張り切る奈緒さんを微笑ましく見つめていた私に遥がこっそりと耳打ちしてくる。

 

「吉上先生と連絡が付いた。祓魔師を派遣してくれるって」

「祓魔師?」

「悪魔祓いの専門家。エクソシストっても呼ばれてる」

 

 吉上先生も完全に退治しきっていたと思っていた悪魔が塵同然にまで弱体化していたとはいえ生き残っていたことにはショックを隠せていなかった。吉上先生曰く、日本には悪魔に関する資料が少なくて完ぺきな対処が困難なのだそうだ。

 

 けれど今回吉上先生は伝手を四方八方あたり、どうにか来日中のエクソシストの協力を取り付けることに成功したらしい。

 

「吉上先生、すっごく声が沈んでた。多分呼ぶのにかなり苦労してる」

「あはは……吉上先生、大丈夫かな」

「後でお礼しないと」

「そうだね」

 

 

 

 翌日学校から帰り、私たちはマンションのエントランスまで降りて祓魔師の人が来るのを待ち受けていた。

 

 やがてエントランスの前に黒塗りのセダンが停車し、銀髪の少女が降り立つ。

 

「特徴と一致してる。多分あの人」

 

 年上と聞いていたのだけれど、その容姿は十歳くらいの女の子にしか見えなかった。長く伸びた銀髪は腰にまで及び、碧い瞳と相まってお人形さんみたいに愛らしい。けれど愛らしいと感じたのも一瞬、その荒んだ目付きからは威圧感がたっぷりとこちらへ振り撒かれ……と思いきや、私たちを見るなり仏頂面が途端ににへらと緩みルンルンステップを踏みながら……。

 

「うべ」

 

 自動ドアが開ききる前に駆け寄ってきたせいで、おでこをぶつけてずるずると倒れてしまう。うーん、この子は本当に高名な祓魔師なのかな。ちょっと不安になってきた。

 

「大丈夫?」

「あ、ああ……平気だ」

 

 私がロートキイル語で話しかけながら屈んで手を差し出すと、銀髪の少女は涙目になりながらも気丈に流暢なロートキイル語で返事をする。てっきり立ち上がったら手を離してくれると思ったんだけれど、離してくれない。ぎゅうと握る手はすべすべと心地よい肌触りをしていて赤ん坊のような肌をしている。

 

「あなたがアリーナ・ガブリエラ・マリア・エクセター・ドレキア・J・フレルクス?」

「その通り、気軽にアリーナと呼んでくれ給え」

 

 遥が予め聞いていた長ったらしいロートキイル人のフルネームを流暢に唱えると、些か古風な言い回しでアリーナは答えを返してくる。

 

「もしや、君もロートキイル人かな?」

「そうだよ。フィエーナ・アルゲン。フィエーナって呼んでね」

「よもやこのような異郷で同郷の民と会うとは……運命かもしれないな」

「あはは、そうだねー」

 

 私としてもまさか日本で同じ銀髪仲間に会うとは思いもしなかった。

 

「それにしても……フィエーナ、君の傍にいると心が洗われるような清浄な気分になるな。これは……もしかすると、私は君と相性がいいのかもしれないな」

 

 幼げで可愛らしい顔立ちをキリリとカッコつけたアリーナは、未だに繋いでいる私の右手を両手で包み込んで顔を一気に近づけて来る。年上と知っているけれど、小柄で愛らしい見た目で尊大な振舞いをするものだから何処か滑稽にも思え愛おしく思えてしまう。

 

「違う。それは滅魔の力」

 

 私の鼻先がアリーナの鼻に触れる直前でぐいとアリーナの顔は遥によって押しのけられあわや衝突の危険は回避された。けれど依然としてぐいぐいと顔を近づけようとするアリーナと頬に手を置いて引き離そうとする遥の攻防は続いている。何をやってるの二人とも。

 

「君は?」

「一ヶ宮遥。本件の依頼者」

「ほほう……かなりの力を持った退魔師のようだ。それにしても、ロートキイル語が話せるんだな」

「一年と少しロートキイルにいた」

「なるほどなるほど! つまり私と会話出来るよう采配してくださった神には感謝しないといけないな!」

 

 遥の手が頬に押し付けられたまま、二人はそのまま何事もないかのように会話を続ける。二人はそれでいいの?

 

「三谷から依頼を受けた時には面倒事を……とも思ったが、素晴らしい! 美少女たちとの出会いに感謝、だな!」

 

 嬉しそうに遥の手に頬を擦り付けてきてアリーナを前に、ついに遥は根負けし手を引っ込める。底知れぬ何かを感じ取ったのか、遥は私の肩に肌を寄せぶるぶると体を震わせる。

 

「フィエーナ。この人怖い」

「あはは……大丈夫だよ」

 

 目の前のあどけない顔つきのアリーナの何処が怖いのだろう。こんなに可愛らしいのに。

 

「怖がらなくていい。私も無理やりは……割と好みだが、いきなりどうこうはしないともさ」

 

 

 この人は何を言ってるんだろう。私たちより大人だから、言ってることが難しいだけなのかな。というか、いい加減手を離してはくれないかな。そう思いながら目と目を合わせるとじいと私の目をアリーナは見つめて来る。

 

「ふうむ……その瞳、王の目か」

「あはは、珍しいよねこれ」

「なるほどなるほど。フィエーナ、君は案外脆そうだ」

 

 かつてのロートキイル王と同じ紅紅の瞳に、歴史を感じさせる感想が飛んでくるかと思いきや意味の分からない返答をされる。それにしても、私が視線でやめてほしいなと感情をこめて訴えかけても応えてくれない人は里奈に続いて二人目かもしれない。結局里奈には色々無茶ぶりされて断り切れなかったな……。

 

「ど、どういう意味かな」

「ふふん、こっちの話だよ。アルゲン女の逸話が本当か、確かめる機会がよもや巡って来るとはね」

「え、と。何の逸話?」

 

 あの話がまさか身内以外にも伝わっているなんて私は想像だにしていなくて私は顔が強張るのを自覚する。いや、けれどまさか違うよね。だって、確かめるってつまりそういう意味になっちゃうもの……。

 

「ふふ、代々気の強いアルゲン女も寝床では子猫のよう、というアレだよ」

「フィエーナ?」

 

 嗜虐的なアリーナの顔つきは幼い作り故に却って妖艶さが際立って見えて、そして好奇心を垣間見せる遥の問いかけるような表情が私の知らない猥らな本性を暴き立てようとしようとしているように見え私は余裕をすっかり喪失してしまった。

 

「遥、私は違うからねっ! 早く、行こっ!」

 

 ああもう、どうしてこんな恥ずかしい目に……! 繋がれていた手を強引に振りほどいて私は二人を置いてエレベーター目掛け早足に歩を進める。追いついて来る二人の足音を聞きながら私は頭が冷えていくのを感じる。いけない、いきなり変な話をされるものだから取り乱しちゃったな。

 

「そうだフィエーナ。父方はアルゲン家として、母方は何処の家の者なんだい」

「……ライエナハウだよ」

 

 エレベーターに乗り込み、しばしの無言からアリーナが再び話しかけて来る。何を暴露されるか分からなくて、私はちょっとしり込みしながらも、それでもライエナハウ家にアルゲン家みたいな変な逸話はないはずと思い答えた。

 

「ほう! あの英雄の家系とはね! くくっ、しかしライエナハウか」

「何か変かな?」

「いいや、立派な家柄じゃないか。しかし君はライエナハウ女の逸話は知らないのかな」

「何かあるの?」

「いいや、知らないのならいいさ。ふふ、ぐふふふ……そうか、アルゲンとライエナハウの合わせ技か……となれば君は相当の……ふへへへ」

 

 だらしなく笑みを浮かべるアリーナが濁した言葉の続きを遥に聞かれたくなくて私はこれ以上質問を続けられなくなってしまった。一体、ライエナハウの名にどんな逸話があるというのだろう。知りたいけれど、知りたくないような妙な気分だ。後でこっそり聞いてみよう。

 

「大丈夫、フィエーナは私が守るから」

「ほほう! 随分勇ましいね! 私はね遥、君みたいな愛らしい美少女が気丈に振舞うのを見るといきり立つ思いに駆られるんだよ!」

「フィエーナ……」

 

 一瞬目付き鋭くしていた遥も、アリーナの発言を前に気弱になってしまいおずおずと後退する。子供のようにあどけない顔つきの美少女なのに、発言がどうにもいやらしいアリーナ……変な子だ。悪人ではないんだろうけれど、私たちを見て舌なめずりしたり変わった行動が多い。

 

 

「あら、可愛らしい子ね。あなたがアリーナちゃん?」

「んっ!? これは、人妻もありか……?」

「えっ? ごめんなさい、ロートキイル語はあまり聞き取れなくて」

「英語なら大丈夫だろうか?」

「ありがとう、英語なら分かるわ」

「では改めて、私がアリーナだ。今日はよろしく頼む」

「私の方こそよろしくお願いするわ、アリーナちゃん」

 

こくりと頷くアリーナは微笑む奈緒さんの顔に釘付けになっていた。

 

「さ、上がってちょうだい」

 

 リビングに案内されたアリーナにお茶を振舞おうとする奈緒さんに、アリーナは首を横に振る。

 

「いや、早速仕事に入らせてもらおう。パッと見た限りは問題ないようだが、一応しっかり調べておこうか」

 

 黒いブリーフケースに収められた私にはよく分からない十字架やら何やらで調査を始めるアリーナ。二時間はたっぷりと様々な方法で調査をしたアリーナは自信満々な態度で調査の終了を宣言する。

 

「うむ、完全に悪魔は消失したと言える」

「そっか、ありがとうアリーナちゃん」

「私からも感謝する。ありがとう」

「ふふん」

 

 よかった、専門家からのお墨付きも貰えた。そう安心した矢先に、アリーナは何でもないように爆弾発言をしてくる。

 

「だが、元凶はまだ生きているぞ」

「えっ」

 

 アリーナの発言は奈緒さんの安心しきった表情を硬め、遥が顔を険しくするのに十分な衝撃があった。私だって平静でいられない。

 

「それはどういうこと? 確か、本体は三谷家の退魔師に討伐されたはず」

「話は聞いているし、資料ももらった。その上で言う。まだ終わっていない」

 

 遥の詰問に鷹揚に返答するアリーナに事の深刻さは分かっているんだろうか。それとも、専門家たる彼女には何か解決策があるのかな。

 

「はは、だがそう怯えなくていいぞ。恐らく本体は死に体なのは間違いない」

「どういうこと?」

「まず、今回の悪魔だがポゼッシャーとインフェクターの合成人造悪魔だ。それだけならそう手ごわくないが、今回はネームドだったようだな。いや、ネームドとしても人造悪魔程度、大した強さじゃないんだが……こいつはいい寄生先を見つけたようだな」

 

 すっと伸ばしたアリーナのたおやかな白く細い指が遥を指さす。

 

「遥。君の類まれなる才覚を糧に分体は非常に強力に成長した。それこそ本体の方が引きずられ影響力を失いかねない程に……今や本体は封印の石碑の存在に由来して辛うじて生存しているに過ぎない」

「つまり、石碑を破壊すれば全てが終わるの?」

 

 遥の質問にアリーナは再び鷹揚な態度で頷いてみせる。

 

「だが、事態はそう簡単じゃないぞ。退魔の力、あるいは祓魔でもいいがそれらで石碑を原型を留めないレベルで破壊しなくてはならないんだ」

 

 これが件の石碑だが、とアリーナは写真を一枚懐から取り出す。木々に覆われた自然豊かな背景にも関わらず、不自然に自然が朽ちて草一つ生えていない空間に石碑があった。まるでそこだけが時が止まったように石碑には一切の劣化が見られない。まるで建立したばかりのように表面は綺麗に磨き上げられたままに陽光を鈍く反射している。

 

「見たところ、高さ一メートル弱といったところか。私ほどの祓魔師ならこれくらい真っ二つにするのは容易だが、粉みじんとなるとな」

「私なら出来る」

「ほう? それはかの天旋を使えば、か?」

 

 頷く遥はアリーナの傲岸不遜な態度にも負けないくらい自信に満ちていた。カッコいい。

 

「素晴らしい! 神器の力を使いこなせるとは、君はやはり類まれな力を持っているようだ。まあ、私には及ばないだろうが」

「そう? 負ける気はしないけど」

「ふふふ、ま、勝敗は今はいいとしようじゃないか」

 

 周囲をゆっくりと睥睨するように見回した後でアリーナはにやりと笑みを見せる。

 

「決着を付けるぞ、諸君」

 

 

 



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T/A32(last story):遥は取り戻しました。

 二人の無事を待つこと数時間、夕刻に帰ってきた二人には傷はおろか汚れ一つ見受けられなかった。

 

「ふん、まあ大したことのない相手だったよ」

 

 飄々とした態度で、アリーナは帰っていく。せっかくなので夕食を食べて行かないかと奈緒さんが誘ったのだけれど、所用があるとかで足早に去ってしまった。

 

 帰り際、遥に何かを耳打ちして顔を真っ赤にさせていたのは何を呟いたのやら。遥に聞いても何でもないというけれど、あれ以来何故か遥が私を見る目付きがおかしいのだ。まさかと思うけれど、あの変な嘘の噂話を聞かせてやしないか不安だ。思い切って聞いてみようかな……いや、もし本当だったら墓穴を掘りそうなので聞くのは諦めることにした。

 

 何だか連日のようにお祝いが続いているような気もするけれど、ご馳走が食べられるのは大歓迎だ。

 

 昨日の奈緒さん復調記念に続いて私たちは事件の元凶が倒された記念として気合の入った奈緒さんの夕食を美味しく頂き、私は満足しながら遥と一緒にのんびりしていた。

 

 その遥はというと、ようやく全てが終わったというのに自室に入ってから何やら考え込んでいる。何となく、これからしようとしていることが想像ついた。

 

「フィエーナ。凛をお家に招こうと、思う」

「いいんじゃない? ただ、二人にちゃんと確認しとこうよ」

「だね」

 

 ようやく口を開いた遥が考えていたのは案の定、幼少からの幼馴染である凛の話だった。彼女もまた、事件の後遺症で心を痛めている。ようやく奈緒さんが立ち直った今なら、禊としての謝罪をする機会を作れるかもしれない。

 

 私たちがこの話を持ちかけると、奈緒さんは一も二もなく頷いてくれた。

 

「もちろん構わないわ。凛ちゃんも本当は遥ちゃんと仲良くしたかったはずなのに、私に遠慮して……これはいい機会になるわ」

「ありがとうママ」

 

 そうと決まれば作戦会議だ。一旦、部屋に戻ってどうするかを話し合おうとすると、遥は無言でスマートフォンを取り出す。凛に連絡を取るつもりらしいけれど、その手は途中から動きを止めてしまった。

 

「遥?」

「多分……私から連絡しても」

「そっか。じゃ、私から連絡してもいいかな」

 

 遥が連絡を取ろうとしても出てくれないかもしれない。私ならハンカチ返してもらう約束をしているし、通話を試みて無視されることもないだろう。少しばかり考えてから、遥は小さく頷いてくれた。

 

 まだそこまで夜も遅くない。善は急げというし、私はすぐにでも電話をしてしまう。

 

『もしもし』

「湯浅さん?」

『アルゲン、さん……』

「明日にでも会えないかな。ほら、ハンカチを返してもらう約束だったでしょ」

『あ、はい。じゃあ、明日駅で待ち合わせしましょう』

 

 私に対しては特に遺恨もないからか、スムーズに会話が進む。さて、遥に電話を代わっても話をしてくれるだろうか。

 

「それ、と……」

 

 私がスマホを遥に手渡すと、スマホが小刻みに揺れる。遥の手は緊張で震えていた。大丈夫、遥の想いきっと伝わるよ。

 

 私がスマホを持っていない方の手を握ると震えは止まり、遥は覚悟を決めて声を上げる。

 

「凛」

『……っ、はる、か』

「あのね。ママがね、立ち直ったの」

『おばさんが……?』

「うん。凛はママに謝りたいって、それがけじめだって言ってたよね」

 

 電話を切られないよう、一気呵成に言葉を紡ぐ遥。ここで手にしたチャンスを逃したくない決死の表情が痛々しい。ああもう、遥がこんなに想っているんだ。凛、仲直りしてあげてよと自分本位な考えが頭に浮かんでしまう。

 

「だったら、明日私と一緒にママに会ってほしい。それで、そこからまたやり直そう」

『遥、でも……』

「待ってる。来なくても私、責めたりはしないから」

 

 返事を聞かずに遥は通話を終えて切ってしまった。

 

「いいの遥? ちょっと強引だったんじゃない?」

「かも」

 

 一瞬後悔で顔を歪めるけれど、再び顔を上げた遥は不安は混じっていても何かを信じる目をしていた。

 

「けど、凛なら来るよ。凛は強いもん」

 

 

 

翌日。通話の後にもう一人の幼馴染である美真経由で約束の時間と場所を伝え、私たちは駅へと向かった。お昼下がり、相変わらずの暑い日差しは雲に遮られることなく私たちの元へ降り注いでくる。いっそ清々しいくらいの快晴だ。

 

 約束の場所に指定していた駅の出口には、約束の時間より早く来た私たちよりさらに早く来ていた湯浅さんが待ち受けていた。それを見た遥の表情は一気に緩み、凛目掛けて駆けていった。

 

「信じてたよ、凛。行こう」

 

 不安でお先真っ暗といった顔つきの凛の手を躊躇うことなく握る。

 

「あ」

「心配しないで凛。私のママはとっても優しいんだから」

「……知ってる」

 

 くしゃりと歪んだ笑みを見せる凛は今にでも泣き出しそうだ。

 

 ほとんど会話が進むことなく、私たちはマンションにたどり着く。いよいよとなり、エントランスの前で凛は立ち止まった。

 

「凛?」

 

 足が震え、泣きそうだった目からはついに涙が零れだす。それでも、凛もまた覚悟を決めたのだろう。キュッと口を真一文字にして再び歩き出した。

 

 手を繋いだ遥もその心意気を汲み、そのままエレベーターに乗り込み一ヶ宮家の部屋まで案内する。遥が一度チャイムを鳴らすと、玄関前に待っていた奈緒さんがすぐに出迎えてくれる。

 

「久しぶりね、凛ちゃん。ちょっと大人びたかしら?」

 

 出迎えてくれた奈緒さんの顔には笑顔があった。久しぶりに会った凛を見て懐かしそうにするその姿は私にとっては最早見慣れていたものだ。けれど、凛にとっては終ぞ見られることがないと思っていた表情に違いない。

 

「あう……お、ばさん。ごめん、なさい。ごめんなさい……」

 

 奈緒さんと顔を合わせた途端に凛は玄関に崩れ落ち、ぼろぼろと大粒の涙を流し始める。

 

「いいの。いいのよ凛ちゃん……」

 

 嗚咽を漏らしながら静かに泣く凛の隣に座り込み、奈緒さんは静かに背をさする。たっぷり数十分は泣き続け、ようやく多少落ち着いた凛を奈緒さんはリビングに上げる。

 

「ほら、コーヒー淹れたわ」

 

 奈緒さんのいない間、遥に寄り添われた凛は弱り切っていた。泣き腫らした目をゆらりと上げ恐る恐る奈緒さんからコーヒーカップを受け取った。

 

「もうブラックで飲めるようになった?」

 

 奈緒さんの菩薩のような微笑みに負け、顔を上げた凛は小さく首を横に振る。

 

「ミルクとお砂糖、取って来るわね」

 

 くすりと笑った奈緒さんの笑顔に釣られ、凛はここにきてようやく笑みを見せてくれる。それは一瞬で、微かな笑みだったけれど私と遥は見逃さなかった。

 

 奈緒さんの持ってきたミルクと砂糖を入れ、ちびりとコーヒーに口を付けた凛は美味しいと呟く。

 

 隣に座る遥に背を撫でられ、目の前の席に座った奈緒さんの優しい眼差しに包まれて、ようやく凛は落ち着きを取り戻した。コーヒーカップを置いた凛はやっと奈緒さんと目を合わせる。

 

「改めて、言わせてください。本当にごめんなさい。私、とんでもないことを……ごめんなさい……!」

 

 テーブルに頭をぶつけかねない程小さく身を縮こまらせた凛は再び謝罪をする。

 

「さっきも言ったでしょう。もういいのよ凛ちゃん。それより事件に囚われないで生きて欲しいって言ったら聞いてくれるかしら?」

「それって、どういう……」

「凛。私、凛とまた仲良くしていきたいと思ってる。駄目?」

「え、あ……」

「私からもお願いするわ。また昔みたいに遥ちゃんと仲良くしてくれない?」

 

 二人のお願いに凛の目に輝きが戻る。凛だって何度も事件のあらましは聞かされている。親友と三年近く会えない苦しみでもう十分、凛が自分に与える罰としてはもうそれでおしまいにしたっていいはずだ。それで凛自身が納得してくれるか、だけれど……。

 

「いいんでしょうか……」

 

 奈緒さんに遥、私にまで縋るような視線を向けて来る凛へ全員が力強く頷いてあげる。

 

「……いい、のかな?」

 

 声音にも期待が漏れて、明るさが少し戻って来る。いいんだよ、凛。もう自罰的な考えはやめていいんだ。

 

「私も、遥と一緒にいたい」

 

 本当に小さく呟かれた言葉。それでも私たち三人の耳には確かに届いていた。

 

 

 

 

 




あと一話、IF ENDINGがあります。


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おまけ:或いは、素直になってしまえば。

日常物の終わり方がよくわからないので、これが最終話です。今まで読んでくださりありがとうございました。


 アリーナと共に石碑のある森の中へ訪れる。夏真っ盛りの森の中、虻蚊の飛び交う森をアリーナは周囲を氷結させて接近を拒絶する。

 

「ふん、私の柔肌を吸ってよいのは美少女だけと決まっているのだよ」

 

 パキパキとアリーナの周りが霜に覆われ、夏とは思えないくらいに涼しくなる。

 

「これで出歩くのにも楽だろう?」

 

 ニヤリと笑うアリーナは夏にそばにいたらとても便利そうだ。そのまま地図を元に森の中へ入っていく。アリーナは地図を読むのが下手くそであちこちをふらふらするので途中から私が地図を片手に進んでいくと、それはあった。

 

 木々に雑草が茂っていた森の中で唯一土の露出した円形の空間。常人が立ち入ればその異様な空気に呑まれてすぐに背を向け逃げ出す異様な気配を放っている。その空間の中央に石碑は立っていた。

 

「あれを、破壊すれば……」

「そうだ。今や弱体化した悪魔だ、君ほどの実力者なら遅れは取らないよ」

 

 私は目を瞑り、今までを振り返る。幸せだった中学時代、幼馴染の凛と楽しく過ごせただろう過去を破壊した怨敵。大切な家族を引き裂き、お母さんとお祖母ちゃんたちをいつまでも苦しませ続けた元凶。

 

 けど、残念だったね悪魔さん。私はフィエーナのおかげで立ち直れた。フィエーナがくれたこの力で、同じ不幸を繰り返さないためにあなたを消滅させる。

 

 だから……あなたを倒そうとしている今、私は負の感情を抱いていない。フィエーナに立て直してもらったこの人生、最期まで目一杯楽しんで生きるよ。

 

 天旋を抜き、そのまま指輪を輝かせて私は必殺の一撃を構える。緑色の疾風が白銀の竜巻と混じり合い、天まで伸びる。

 

「おいおい、それはオーバーキルじゃないか?」

「一思いに一気にやる」

 

 さよなら、私の過去。ここからは未来を歩ませてもらうから。

 

 私が天旋を振り下ろし、耳をつんざくような轟音が辺りを地震のように震わしたかと思うと、石碑のあった場所には底の見えない大穴だけが残っていた。

 

「は、はは……凄まじいなこれは」

 

 自信に満ちていたアリーナは、大穴を覗き込むと唖然とした表情でしばらく動かさずに固まってしまった。

 

「これで大丈夫?」

「あ、ああ。これだけの一撃、人造悪魔の残滓程度が耐えられるものではないよ」

 

 アリーナに怖がられて、ちょっとショックを受けながら帰宅の途につく。車の性能と運転士さんの運転技能、どちらもが一級品で車内に騒音が入り込むことはなかった。静かに車窓の景色が流れていく。

 

「なあ、遥よ」

 

 隣に座るアリーナはさっきから無言だった。そのアリーナが出会った時から見せてきた偉そうな態度やちょっと怪しげな雰囲気とは違う、気遣うような視線を向けて来る。

 

「君はフィエーナのことを愛しているのかな?」

「うん」

「そうか……」

 

 アリーナの質問に私は何の逡巡もなく即答できた。だって、これは私の本心だから。隠す必要なんてない。何だかフィエーナに妖しい目つきを向けるアリーナには、なおさらだ。

 

「ふうむ、私が割り込むのもそれはそれで一興だが……おいおい睨むな。流石に弁えているとも」

 

 本当だろうか。フィエーナは生身ならとても強い子だけれど、力を使われれば手籠めにされるかもしれない。もしそんなことしたら、私は絶対に許しはしない。

 

「手向けをやろう。フィエーナについて、君の知らない情報を教えてあげる」

「初対面のアリーナが、私の知らないこと?」

 

 そんなこと、あるのだろうか。あるはずはないと思いたいけど、さっきの会話を思い起こすとフィエーナの家系に関する逸話を知っているような口ぶりだった。だとしたら、私が知らない可能性もあるのだろうか。だとしても、初対面のアリーナが私の知らないフィエーナの情報を知っているのはずるい。

 

「なに、先程フィエーナ本人が慌てて取り繕うとしていたある種の裏話さ」

 

 それからアリーナは嗜虐心で目を輝かせながらフィエーナの家系についての話をしてくれた。曰く、父方のアルゲン家は代々内政を司る貴族の出身なのだとか。それはどうでもいいのだけれど、そのアルゲン女は代々気の強い背高女として貴族の間を嫁いでいったが、誰もが褥では嘘のように弱弱しくなるのだとか。

 

また、母方のライエナハウ家も代々の軍人家系で男は頑健とした勇猛かつ知略に満ちた性格の高名な軍人を輩出する一方で巨乳好きとして知られ、嫁ぐ女を選び続けているうちにライエナハウ家に生まれる女の子もまたみんな巨乳として生まれるようになったらしい。だからフィエーナも、そのお母さんもおっぱい大きかったんだ。

 

そしてライエナハウ家の女は気立てが良く、気性も穏やかで、おまけに嫁いだ先によく尽くす理想の女としてよく求められていた……という表の話から、その実よく喘ぎ、よく啼く至極男に都合のよい女としても貴族界隈の裏話では有名とのこと。

 

 ヨワヨワなアルゲン家の血と、ヨワヨワなライエナハウ家の血を継ぐフィエーナはさぞかし夜よく啼く事だろうと涎をすすりながらアリーナは興奮気味に話す。

 

「どうだい? ヤル気になったかい?」

 

 そしてアリーナはぼそりと悪魔の囁きをしてくる。君ほど好感度があれば、後は無理やり自分のモノに出来る筈だ、と。

 

 本当? 本当の本当? え、え……フィエーナってそんなエッチな面を隠し持ってるの? だったら帰ったらすぐにでも……いやいや! う、うーん……うーん! うーん!? うむむむむむむむむむ!?

 

 フィエーナが……フィエーナを……あ、あ。駄目だ。いつもしている妄想がよりリアルに鮮明に頭に……こんなとこで発情してたらいけない!

 

 どうにか思考を逸らそうとするけれど、一度フィエーナがそういう子と認識させられてしまうと妄想が留まらなくなりだす。

 

「……で、でも。私はフィエーナにその気がないなら手は出さない」

 

 私の絞り出した言葉はどうにも心がこもっていなくて、アリーナにもきっとばれている。

 

「なら、勇気を出すことだな。彼女もまんざらでもなさそうだったよ? 後は君次第だ」

「そう、かな」

「そうとも」

「でも……女の子同士って、迷惑じゃない、かな」

「遥。それで引くのも君の意思だとも。親友としての関係も貴いものさ」

 

 そうだ。私とフィエーナは親友だ。私としてはねっとりぐっちょりとした関係に進みたいけれど、フィエーナに拒絶されたら生きていけない。

 

 ベッドの上でおっぱい丸出しにするトコまでは出来る関係までにはなっている。あの時、生おっぱいに包まれた時は圧倒的な温もりを前に心が癒されまくって何も出来なかったけれど。

 

なので、翌日同じことを頼んだらフィエーナは涙目になりながら顔を真っ赤にして断ってきた。私の視線がおっぱいに向けられてるのを自覚し、華奢な細腕で胸を押さえていたけれど、それが却って胸を強調しているのにフィエーナはいっぱいいっぱいになっていて気付いてなかった。うっかり誘い受けをしてるのかと勘違いしかけてしまった。

 

あのフィエーナの恥じらいだけで十分美味しかったし、感触はしっかり覚えてたから捗ったのも確かだ。

 

 けど、そんな体験を矮小にすらさせる話をアリーナはしていた。

 

「だが、君はそれで満足できないから踏み出そうとしているのではないかな」

 

 う、う……どうしよう。とんでもない話をされてもう私の性欲がぐぐぐぐと盛り始めてしまっている。あー……お腹が熱い♥ あ、あ、もう駄目だ♥ 咄嗟に私はアリーナから目を背けて体を震わす。ばれて、ないよね……。

 

「はあ、私は恋の相談役なんてする側ではないのだがね。あまりに君がいじらしいから調子が狂ってしまった」

 

 妄想のフィエーナが猥らに乱れる様が脳内からこびりついて落ちない。もう、アリーナの目を気にしてられなくなる。吐息の乱れもついに隠し通せず、私は発情した姿をアリーナの前で曝け出してしまう。

 

「今すぐにでも君を食べてしまいたいが……また会おう。その時は結果を聞かせてくれ給え」

 

 このままだと駄目だというところで、何とかお家のあるマンションに到着し私は慌てて車から飛び降りる。私の感情が伝染してか、アリーナの白い頬も赤く染まり呼吸が浅くなっていた。

 

 

 

夜。そう、私は夜まで我慢したのだ。

 

 いつものようにフィエーナを私の部屋に招くと、フィエーナも疑うことを知らずにいつものようにニコニコとベッドに潜り込んで来る。もう私駄目だよ、我慢なんて出来ない。

 

「ねえ、フィエーナ?」

「なあに?」

「前さ、我が儘になれって言ったよね?」

「遥?」

 

 キョトンとするフィエーナの顔がこれから快楽に染まる様を想像するとそれだけもう私は体が震えて来る。ああ、あああああ……♥ 下の口からドロドロと溢れ出て来る。

 

「だから私、我が儘を押し通すことにした」

「えっ? は、遥?」

「私はフィエーナのこと、好き。愛している」

 

 これから私はフィエーナを押し倒す。けれど、無理強いはしない。

 

「だから……もし嫌だったら、最初に拒否してほしい。もう止まれないと思うから」

 

 

 

 

 




あらゆる面で完ぺきな美少女がエロ方面だけクソザコナメクジなのはいけないことですか?


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