夏の日、しぶき、氷 (Planador)
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夏の日、しぶき、氷

 空銀子は可愛い。

 町中で十人とすれ違えれば十一人が振り向くような容姿の持ち主。

「ねぇ、八一」

 空銀子は可愛い。

 ぱっと見の見た目が儚さ過ぎて、小さい時に初めて会った時は、お化けか妖精かと思った程だ。

「八一ー、やーいーちー」

 空銀子は可愛い。

 ネット上だけでもファンだと公言してる人が多すぎて、俺が何も持たなければ横に居ていいかもわからなくなる。

「ちょっと、八一ってば」

 そう、空銀子は可愛い。

 そして俺は、そんな彼女と一番繋がりが深い男――だよな、師匠より、実の親より、誰より。

「なんか八一が気持ち悪い顔してる……」

「そんなに?」

「そのまま涎垂らしそうだったわよ」

「えっ、それは恥ずかしいな!?」

「――冗談っ」

 そのままペロッと軽く舌を出した彼女に、不意にドキリとさせられる。

 空銀子はかわいい。それは容姿だけじゃなくて、親しい人相手だけに見せる表情も含むのだと、俺はつい最近知った。

 そして、俺はそんな彼女と、先日想いを通じ合わせることが出来た――らしい。

 らしい、となるのは、一応『封じ手』でそこから先に至ってないからだけど。実質大差がついているので、再開すれば棋譜に残念棒が引かれるまでもなくすぐに投了してしまうだろう。大差というか、寧ろ互角? となると千日手? まぁつまりそういうことで。

 ――やっぱあれ、殆ど意味なしてないよなぁ?

「で、さっきまで私が話してたこと、一字一句諳んじてくれる?」

「――すみませんでした」

「ほらやっぱり……」

 昨日の三段リーグで連勝し、三敗のまま残る六局を迎えることになった彼女の、突然のお願い。昨日の棋譜を元にした第三者の目を入れた感想戦。起こりえた変化を彼女が見落としてたかどうかの確認。

 残る六人の研究は、今の所彼女一人でするという話を聞いているから、俺が出る幕はない。それだけは、一切のことを断って、自分一人でやりぬきたいと。

 まぁそうだよね。あれは俺がいたら却って私情が入ってしまうかもしれない。特に最終局は鬼勝負、その相手は――。

「もういいや。八一がそんなんなら、やってても殆ど意味ないし」

「え、いや悪かったです姉弟子! お願いされてましたしちゃんとやりますから!」

「ダーメ。私の集中力が切れたわ。私がちゃんと出来ないから一旦お開き」

 結局俺はただ彼女の邪魔をしに来ただけな状態だったらしい。いや何のためにさっきまでの月夜見坂さんと供御飯さんの追求から逃れてきたと思ってるんだよ。どうせ二人が出かける言うからどの道解放はされてたとはいえ。

 少なくとも銀子ちゃんの枷にはならないと決めてたはずなんだけどな。これじゃ駄目だろ。

「全く、これじゃぁ何をしに来たのかわからないじゃない……そりゃぁ私もだけど……」

「あれ、姉弟子何か言いましたか?」

「帝位戦挑決の時に苦しみまくればいいって言ったの」

「いやそれはひっでぇよ!」

「まぁ、八一もずっと名人の免状申請でホテルに缶詰めだったって聞いてるし、それこそずっと極限まで集中させられてるようなもんだったから、確かに疲れてるのも無理はないわよね」

「え、ええ、確かにそれもないとは言いませんが……」

 どうやら勝手に勘違いしてくれたらしい。まぁ缶詰で疲れたというのも嘘ではないけど。あいにはずっと仕事してたと誤魔化せたというのもあるし。

「でさ、正直なところ、私もあれがあって、それで日があまり経ってないし、だから少しやりたいことがあるというか」

 話の行く先が見えない。高校は夏休みだから学校に行く必要もないし、だから本来はここでずっと研究を行っているべきというのが定石なのだけど。

 一々、モデルみたいな動作で立ち上がって、そのまま銀子ちゃんが耳元で小声で囁く。

「まぁ、そんなだから、ちょっと早いけど、ご褒美欲しい」

「ご褒美って、三段リーグ突破出来たらということのじゃなくて?」

「いやだから昨日創多らに勝ったことへのさ」

 まぁ、確かにあれはいい対戦だった。途中の変化だとか、これまでの銀子ちゃんのとは一線を画してるということが棋譜からもわかる。

 だから、別にお祝いっぽいことをすること自体は吝かではないのだけど。でもどうして急に?

「別に、ちょっとお忍びでデートするくらい、流石に許されるでしょ?」

 ――あー。それは俺が察しなきゃいけないとこだ。

 でも赤くなりながら言わないでよ、こっちだって照れる。

 

 

 

 福島から西九条で阪神電車に乗り換えて難波に来た。梅田とかはまだ俺たちの話を知らない若手棋士や、そもそも内弟子らにばったり会う可能性があるから、自然とキタではなくてミナミの方に行こうと話がまとまった。

「二人きりでミナミの町中歩くの、いつ以来だったっけ」

「えっと、最近機会がなかったから……そうだ、師匠が順位戦で頓死して帰ってこなかった際の法善寺横丁」

「あれは寒かったわね……」

 あの時は、遅くはない午前の道頓堀川をデートっぽく歩いてたんだったか。道頓堀川に師匠が浮かんでないかとか銀子ちゃんが言うとかして。

 ――銀子ちゃんが腕組んできて、俺もだいぶ舞い上がってたなぁ……まさか半年程度でこうも動きがあるとは……。

「で、気のせいじゃなければ、さっきの感想戦、ずっと私の顔を見てたように思うのだけど?」

「ブホッ!」

 吹いた時に喉奥からせりあがった唾が喉に絡まって、瞬間的に呼吸困難になった俺はその場で思いっきりせき込む。

「で、どうなのよ?」

「え、ええ、そうです……」

「へー、そうなんだー……ふーん……」

「仕方ないじゃん……贔屓抜きで可愛いと思うのは本当だし……、そんな可愛い子が俺の幼馴染で俺の事好きらしいとなりゃ……」

「か、かわ、わわわ、ヵわいいって、そんな……」

 ――なんだこれ。何かあればバカ。何かあればクズ。何かあれば頓死しろ。ここ数年来ずっとそんな感じだったのに。

 それが今となってはどうだ。そりゃ可愛いと言ってりゃチョロいのは知ってたけど。罵倒も何もなしにただ赤くなって終わりなのは、却って調子が狂うというかなんというか。

 ――ドMじゃないよ? ほんとだよ?

 ともあれ、詰めろ逃れの詰めろ、というつもりはなかったのだけど、深く考えずに口をついた言葉は結果的にそうなったみたいだ。彼女の玉は飛車角みたいに存在が大駒みたいなのに、王手をかけられると動けなくなるみたいだ。将棋というより、チェスに於いての、自由に動き回れるクイーンだけど、チェックを受けると動けなくなるキングという方が適切かもしれない。

「――あの時みたいに腕をぎゅってする?」

「え、でもこの時間にそれしたら衆目に晒されちゃうでしょ!? 今姉弟子は変装もしてないですし!」

「それがどうしたっていうのよ」

「週刊誌とかに晒されてみてくださいよ。『浪速の白雪姫が熱愛! お相手は弟弟子の竜王!』とか書かれるだけならまだいいです。それで色々追っかけ回されて、三段リーグ最終日までにそれの対応で疲れ果ててる状況を想像してください。ただでさえ辛い死にたいとこぼしてたのに、また来年やりたくはないでしょう? 普段通りでそうなるかもわからないのに、余計な種は蒔くもんじゃないです」

「――それもそうね」

 結局、お互いの腕が汗まみれになりそうなことにはならず、肩と肩が触れ合うかどうかぐらいの距離感でぶらぶらと歩く。ちらりと横を向けば、何かと名残惜しそうな銀子ちゃんの顔が目に入る。

 ま、名残惜しいのは俺だってそうだけどさ。やったとして、多分向こうから早い段階で離されたとは思うけど。離されなかったら色々な意味でやばい。

 暫く、そのまま道頓堀川の河川敷を歩く。夏の日の、ビル風と川風が混ざった生ぬるい風は涼しいと言うには程遠くて、俺たちの火照りを冷ましてはくれない。

「――三段リーグの初戦で、坂梨さんに私が勝った時」

 不意に、ぽつりと銀子ちゃんが口を開く。

「私が王の女で、研究手でも何でも八一に教えてもらい放題だろという呟きが聞こえたんだけどさ。けど盤を囲むことはあっても、研究みたいなのはあまり出来てなかったしさ。一部屋買ったとはいえ、まだ一回だけで八一とは使えてないし。勿論自分自身で色々やった上でだけど、そもそも、ただ教えてもらうだけ、というのじゃ八一のためにもならないし」

「まぁ、銀子ちゃんの研究を、俺が使うこともあるけど……それで?」

「ねぇ、私、もっと八一に頼っていいのかな? それとも、自立すべきなのかな?」

 少しばかり不安そうにする彼女は、俺たちの関係を抜きにして、俺に『依存』してもいいものか、という含みを持たせたものらしい。

 俺としては、正直頼って欲しいぐらいだ。だけどその前に確認しなければいけないことが一つだけ。

「銀子ちゃんは、プロになって以降は、何が目的になるん――なの?」

 いけないいけない、敬語やめてほしいというなら、今この場ぐらいはやめないと。

「えっと、強くなりたいという話は勿論のこと。そりゃいつかは名人とか師匠とかお世話になった人とかとちゃんと公式戦で当たって恩を返したいという思いはあるけどさ」

 一旦そこで区切られた。少しだけ逡巡するようにして、改めて口が開かれる。

「でも一番は、プロ棋戦で、八一と当たること。八一と公式戦で戦えるようになること。そのために、私は強くなりたい」

「ははっ、そっか、そっかぁー……」

 うわぁ。なんかど真ん中ストレートが来たよ。封じ手の際にそんな気はしてたけど、自惚れでも何でもなかったよ。

「まぁ、俺は銀子ちゃんの頼みならやるんで。だからまぁ、やりたい、やってほしいとなったら呼んでやってください。俺と当たるということになったら、それこそ俺が銀子ちゃんの研究のために呼んで最新の癖とか見抜こうとしますから」

「ふーん、女の子の癖をつぶさに観察するなんて、変態さんは言う事が違いますねー」

「いやいや勝ちに拘るからでしょ変態じゃなくて銀子ちゃんもする盤外戦術でしょそんなジロジロ人として終わってるようなことはしないからね!?」

「周囲からロリコン認定される人に人権なんてないですよーだ、ばーかばーか」

「だからロリコンじゃねー!」

 意地悪そうに微笑む銀子ちゃんは、そんなとこは昔から変わってなくて。だけど、我儘なお嬢様は、昔以上に様々な表情を俺に向けて見せてくれるようになって。

 あぁ、やっぱりこの子可愛い。萌える。そんなことを考えたり、変にあたふたと動いていたりしたら、どうにも熱くなってしまうのも自明の理で。

「――日陰だけどとにかく暑い……」

「ちょっと涼みますかぁ……」

 生ぬるい風は湿気しか運ばなくて、不快感が少しばかり上回る。彼女の体力を考えれば少し休んでもいいし、その上で涼しくなれそうな所――うん、あそこだ。

「今ここにいて、涼を感じられる場所なら、やはりあそこじゃないかな?」

 

 

 

 来てすぐに、ここを選んでよかったと思った。多分銀子ちゃんもそうだろう。

 それは別にここの願掛けがどうかということじゃない。いやそれもあるにはあるけど、柄杓で水をバシャバシャかけるこの場所が、見た目からして素直に涼しいのは、この暑い日には気持ちほっとする。

 見れば、観光客が柄杓で水をぱしゃぱしゃと掛けている。もっと豪快にぶっかけてもいいと思う辺り、俺も福井というより大阪の人間になっているという証拠だろう。

 水掛不動。前回来た時は、銀子ちゃんとあいが柄杓で鍔迫り合いしてたっけ……。

「暑いから、私たちも少し濡れるくらいにはやっちゃっていいわよね?」

「ええどうぞどうぞ。願うものは幾らでもあるでしょうし。俺だってありますし」

 バッシャバッシャと水をぶっかけながら、既に決まっていた願い事をお不動さんに託す。将棋の上達――今ならまずは帝位戦挑決の必勝だ――と、銀子ちゃんとの今後の末永い関係。彼女も同じように考えていてくれたら嬉しい。

 かけてる内に、実際少し濡れた。ひんやりとかかるしぶきが、夏場の太陽に焦がされた肌には少し痛い。

「八一はやっぱり今は帝位戦挑決の必勝祈願?」

「それともう一つあるけど……銀子ちゃんも一緒なら嬉しいけど、そっちは?」

「そっちはやっと叶ったから、とにかく三段リーグ突破かな。それさえ出来れば、他も叶うから」

「叶ったって……やっぱり、前回来た時の?」

「小童と鍔迫り合いしてた時、八一がその前に何言ってたか覚えてる?」

「――あー……」

 確かにあの時、俺はここのご利益として縁結びを挙げた。二人が鍔迫り合いを始めたのはその直後だ。

「もしかしなくても、あの時姉弟子があいとやってたのって……」

「気付くの遅い、バカ」

 そりゃ俺もバカと言われるわ。これは甘んじて受けるしかない。

「その様子なら、芋づる式にもう一つ気付くでしょ?」

「あー……まぁそれより前から気付いてないと言えば嘘になりますが……」

 恋愛と憧れの違いは難しい。少なくともあいが、俺に一言じゃ言い表せない想いを持っているというのは、あまりに独りよがりな考え乃至盛大な勘違いでなければそうであろうということは、幾ら鈍感な俺でも気づくしかなかった。

 俺が小学生だった時の、桂香さんへの想い方を考えれば、あいのあの様子はだいぶ腑に落ちるところがあるのだ。内弟子が、その師匠に、恋をしていると。

 流石に、銀子ちゃんとあぁいうことやってたり、小学校で話されていたっぽい会話を要約したり、そもそもロリコンを殺す服で迫って来たりしていたことを考えれば、自惚れが確信に変わってくる。

 だけど、それが勘違いだったと気付くとして、勘違いだったと易々と認められるだろうか。あいのことだから、気付いても、認めたくないという思いが先に来るだろう。

 ――きっと、どこかであいをとても傷つけてしまうんだろう。それを出来る覚悟が、俺にはまだない。

 あいの担任の鐘ヶ坂先生の厳命を抜きにしても、俺がこうだから。説得力を持たせられるのは、まだ先になるだろうけど。

「いらないこと吹き込んじゃった?」

「でもどこかで考えないといけませんでしたし」

 今はあいに結果的に隠している格好だ。何れあいにも天衣にも話さなければいけないのはわかっている。

 正直、二人に話すのは、かなり気が重いだろう。言っちゃなんだが、そうでなければ、前回の竜王就位式の際に考えるまでもなく銀子ちゃんから真っ先に花束を受け取っている。

 あいは俺のことを好きなんだということを、銀子ちゃんとの会話で嫌でも思い知らされた。ただでさえ何かあると周囲の温度を氷点下まで下げる彼女だ。でも、多分こればかりはそういうことにもならなさそうで、だからこそ反応が読めなくて怖い。だからこそ、せめて伝聞じゃなくてちゃんと俺から言うようにしなければいけないだろう。

 天衣は――正直よくわからない。ずっと独りきりで、そこから俺が弟子にして、色々あったからこそ、よくは思われてはいないはずだけど、嫌いとまではなっていない――はずだ。銀子ちゃんみたいに嫌いとか言いまくってるけど、本心は真逆という可能性が、銀子ちゃん宜しくゼロとも言えないんだろうなということを理解してしまったし。家族にすると言った手前、下手するとこっちの方が面倒かもな――。

「その時は、私もいた方がいい?」

「うーん、そもそも、一門で集まる時か、そういう時かなとは思うから……まぁ場合によってかな……。でもいてくれた方が、確かに心強いかもね」

「――ありがと」

 感謝を言うのは、俺の方なんだけどな。

 さて、今後銀子ちゃんとはどうなのだろう。ずっと想いを隠してて、今一応こんな感じだけど、どこかで離別する未来が一切ないとは、流石に言い切ることが出来ない。

 でも、それはそれとして、水掛不動宜しく苔が生すぐらいには、彼女とずっといたいと思うのも、それはそれとしてあって。

 つまりは、未来のことなんて何もわからない。そもそも銀子ちゃんの横に堂々といていいということまで至るとは、つい数週間前までは思ってもいなかったし、結局今言えるのは、俺は彼女を好きという事だけ。

 仕事と私、どっちを取るのよ、とは物語じゃよくある話だ。場合によっては、どこかで俺も彼女に聞かれることがあるのだろう。

 だけど、その際は、銀子ちゃんには悪いけど、将棋と答えるつもりだ。だけどそれは、俺が同様に彼女に迫ったとして、彼女も将棋と答えるという確信があるからでもある。

 だからこそ、付き合い自体の喧嘩別れみたいなことはあるかもしれないけど、どの道関係性自体は一生モノになるのは、現時点でほぼ確定しているのだ。

 だって、俺たちは将棋がなければ生きられないのだから。

 

 

 

 おやつ時だから列が出来ていたのだけど、首尾よく食べてた人達が軒並み退店したおかげで、すぐに座ることが出来た。

 夫婦善哉。ここも師匠探しの時に来た場所だ。前回とは水掛不動とこことで来た順番が逆になっているけど、まぁそこはこだわるとこじゃない。第一そこに拘ってたらららららら。

 ――いや、流石にこの期に及んで銀子ちゃんもツーショット撮ってあいに写真送りつけることはしないと思うけど。あいの追及は下手な週刊誌より厄介だし。面倒臭さは大体供御飯さんレベルだし。

「どうします姉弟子? 夏ですし冷やしだけにするとか?」

「外暑かったからいつものはいいや……冷たいの……」

 日傘はいつも通り持っていて、お不動さんへの水しぶきを浴びてたとはいえ、既にぐったりしている。やはり下手に蒸すんだったら川沿いは歩くべきでなかったか。そこは俺の判断ミスだ。

「冷たいのというと、冷やし? 氷?」

「氷一つあればいい……」

 となると、いつものお椀と塩昆布は、今回は拝まないということか。そのパターンは初めてな気がする。

 まぁ、たまにはいつものがなくてもいいだろう。たまには定石から外れてみるのもいい。

「氷善哉と宇治抹茶氷善哉を一つずつ」

「へぇ、ちゃんとわかってるじゃない」

「姉弟子の好物は大体把握してますからね」

 俺は甘ったるくなくていいから普通の氷善哉を。彼女は好物の宇治抹茶のを。この店の宇治抹茶味が彼女の夏の定番で好物ということを知るのは俺と師匠だけ。

 ――こうして見ると、銀子ちゃんの他の人が絶対知らないこと、俺だけが知っているような話っていっぱいあるなぁ。これくらいになって、食べてるものを途中で交換するのは、銀子ちゃんが拒否するよね?

「ねぇ、ねぇ八一」

 そんなことを考えていると、不意にテーブルに載せていた腕がつつかれる。

「さっきから、どうして名前で呼んでくれないの……?」

 それは、とてもか細い声で、何か不安そうで。その表情だけで、俺の中に言葉にし難い感情が浮き上がる。

 正直、それ自体にぐっとくるところはあるのだけど、如何せん。

「ここは他のお客さんの視線がありますから……三段リーグ終わるまでは今まで通りにさせてください……」

 アウェーですらなく、完全にホームと呼べるだろう場所で、その辺りの反応が急に変わったと思われるのは。

「ひとまず、暫くは衆目があるところでは敬語にさせてください。急に変わって知ってる人に不審がられちゃ世話ないですし」

 そして何より、人前じゃ純粋にまだ恥ずかしい。一応封じ手だって彼女が言うのだから、俺はそれに則るだけ。

「そもそもこれって、デートなんですかね?」

「は? 私はデートだと思ってるけど?」

 俺としては真っ当な疑問だったのだが、銀子ちゃんはそうではなかったらしい。一から説明するか。

「いやね? 姉弟子とこうして二人で出かけること自体はこれまでも珍しくなくて、でも気持ちが通じてというのは今回が初めてで。だけど、姉弟子は封じ手ということにしてるじゃないですか。だから正式にお付き合いをする前の時点での二人で出かけることはデートと呼んでいいのかどうなのかと……」

「八一」

 鋭い、という程でもないが、少し棘っぽい様子で、彼女が俺を呼ぶ。

「私が姉弟子とかそういうのを抜きにした際に、今の私との関係性を一言で表すなら何?」

「一言、ですか……」

「別にどう答えても怒らないわよ、ほんとに」

 そうは言うものの、真面目にわからない。姉弟子でないとすると、家族。幼馴染。いやそれらどれも適当ではないだろう。とすると適切なのが残らない。

「えっと、質問に質問を返すようで悪いですけど、じゃぁ逆に、姉弟子は俺との関係性、なんて言うんですか」

「ひぅ!?」

 その反応に俺がびっくりした。なんだ今の可愛い声……。

 銀子ちゃんは急に髪をくるくるといじり始めて俺から視線を逸らす。

「えっと、八一は、か、かっ、か、かぇ……」

「あー……わかりました、もういいです、うん……」

 そういうことか。そうだよな、真っ赤になりながら今の仕草は、つまりはそういうことだよな。――いやだから、なんでさっきからこう羞恥プレイが連続するの?

 とはいえ、そうだとすると、俺も言わなければいけないことがあって。

「――まぁ一応これだけははっきりと言っておきますが、俺は姉弟子のことをまだ彼女だとは思ってないですよ」

 ばっと音がするぐらいに即座に銀子ちゃんが俺を見る。その瞳はとても不安そうで、見ていると抱き締めたくなる欲求に駆られるのだけど、続きを話さないことには始まらない。

「でもそれはあくまで姉弟子が封じ手だっていうから我慢してるとこもあるのはわかってくださいよ? とにかくまず三段リーグが終わるまでは俺は待ってますから。姉弟子が箍外しちゃったら俺だってどうなるかわかったもんじゃないですよ? それこそ将棋どころじゃなくなるかもしれないくらいには。週刊誌の話とか抜きにして」

「そういうことね……えっと、ごめん、変なこと聞いて……」

 まぁ確かに『封じ手』で箍を外そうと思えば外せることがわかっちゃったけど。でも今だけはまずいから。それが彼女のためにならないことがわかっているから。

「ちゃんと三段リーグ突破出来たら、改めて言うから、それまで頑張って、銀子ちゃん」

「そこでそういう風に言うのは反則だ……ばか……」

 ――あぁもうほんと可愛いなぁ! こんな子が俺を好きって、夢みたいだよなぁ……。

 そんなタイミングで、頼んでいた品が到着する。幾ら提供が早い店とはいえ、順繰りに出していたら遅くなってしまったらしい。そこは順番があるから仕方ないし、寧ろこのタイミングで助かった気もする。

「来るまでに暑くなっちゃったじゃないの……ほんとばか……」

 ――あぁ! なんでもうこの子は……萌え……。

 さくさくと氷を崩し、最初はただ氷だけを口にして体を冷やし、続いて餡子と氷のハーモニーを楽しむ。

「餡子の甘味って、ほんとほっとしますよねー」

「抹茶と餡子の組み合わせって、どうしてこうもおいしいのかしらね」

「ね! そんでこのタイミングで白玉をっと――はー、癒されるなぁ……」

 こういう言い方もどうかと思うが、正直これだけで日本人でよかったと思うくらいには、俺も現金な奴だ。シンプルに甘すぎず、だけど存在をしかと主張する控えめな甘さは、奥ゆかしい性格にはぴったりだろう。

「ちょっと、八一」

 氷の山の向こうから俺の名前が呼ばれた。そして顔を上げると、何やら銀子ちゃんが少し赤くなりながらもじもじとしている。

「え、えっと……あ、あーん」

 瞬間、その行動に理解が追い付かなかった。

 追いついて、数秒ほんとに頭の中が真っ白になって、いやいや彼女こういうことするような子じゃなかったでしょとなって。初手端歩なんてもんじゃない。初手7八金とするぐらいの珍しさ。

「――悪いものでも食べました?」

「ぶちころすぞわれ?」

「いやでもそういうことしたというかしてくれたことなかったでしょ!? そもそも銀子ちゃんは残り汁だけよこすようなそんな子だったでしょ!?」

 そう、宇治抹茶がかかった氷と、俺のにも載ってる餡子をわざわざ俺にくれようとしているのだ! こんなことするの銀子ちゃんじゃないと言いたくなるぐらいの衝撃だ。言ったら半立ちの状態で脛を蹴られて頓死する。

「だから! そういうことをやってみるとかあるじゃない! 他意はないから素直に乗ってよ!」

「わかりました! わかりましたから!」

 こんなチャンス、滅多にない。いや今後あるかもわからないけど、だったら、俺だって。

「じゃぁ……俺も……お返しで……あーん……」

「っ!? はぅぅ……」

 同様に銀子ちゃんの口の前に差し出された匙を見て、赤みが余計に増した彼女は、恥ずかしさからか目をぎゅっと閉じてしまう。

 そんあプルプルと震える彼女が視界に入れば、俺だって周りなんて気にする余裕もなくなるし、対局中みたいに緊張が高まるし――。

「――お、おいしい?」

「そ、そうですね」

 ――そんなんで、味なんて、わかるわけがないだろって。

 

 

 

「ふーんふふーんふーん♪」

「随分ご機嫌ですね」

「だってー。『それっぽいこと』はやってみたかったからー。八一も乗ってくれたしー」

「その相手で光栄ですよ」

「何言ってんの。後にも先にも八一以外の誰にやるってのよ」

 なんかすごくかわいいことを言ってくれている。俺が銀子ちゃん以外の相手を想像できなかったように、彼女にとっても俺だけだと言ってくれていることに他ならなくて。

 うーん、もしかしなくても、俺にとって最高の嫁になってくれるんじゃないだろうか?

「以前に、将来の夢はお嫁さんって話したことがあったと思うけど」

「――俺という主語を伏せてたってことですか」

「話が分かるようになってきたじゃない」

 この会話をした時の記憶。順位戦終了後の打ち上げに呼んだ際の銀子ちゃんのドキドキさせる笑顔。蔵王先生との対局に負けた悔しさ。ショックでふらふらになって、彼女の――。

「正直に言うとさ、あの時の八一、かわいかったわよ」

「それは喜んでいいのかなぁ……」

 悔しいという思いが先だって、縋るように銀子ちゃんの膝で号泣したけど。今にして思えば、あれはあいでも天衣でも桂香さんでも他の誰でもなく、銀子ちゃんでよかったと思える。

 ――先日、包丁持った時の銀子ちゃんも同じ感覚だったのかな……。

「はぁ……そう考えると、ほんと私って面倒な女……」

「うん、まぁ、知ってるというか、今更だし」

「ぶちころすぞわれ?」

「ぶちころされてもいいけどそうすると可愛い銀子ちゃんが一人遺されちゃうからしない方が賢明だと思うよ?」

「はぅ!? ――ぅ~~~~~っ!」

 チョロい。そしてそこが可愛い。

 しかし銀子ちゃんの口癖への反撃としてこれは使えるな。人目があるとこだとまだまずいけど、二人きりみたいな時には積極的に使っていこう。

「それより! そろそろ盤を囲まないと。どうせなら『暑い』より『熱い』方がいい」

「――そうですね」

 それは、いつもの世界へ帰ろうという合図。将棋会館に帰って、本来今日やろうとしていたことを再開するという印。

 少しだけ名残惜しいけど。でも、きっとまた早い内に機会は訪れるだろう。

 だから、俺は、可能な限りそのサポートをするだけ。ひいてはそれが俺のためにもなるし。

 そして、気分的にも気持ちよく関西将棋会館まで戻ってきたところで、思わぬ人影を見つけた。

「あれ、月夜見坂さんと供御飯さん。どこか出かけてたんですか?」

 丁度会館に戻ってきたという体の、女流トップの二人。さっきまで棋士室で俺を捕まえてたというのに、そこからのどこか行くというのが終わったとこらしい。

「あぁ、ちょっと行きたいとこがあったからな」

「お二人は仲睦まじくてよろしゅうございますなぁ」

 供御飯さんがその一言を言うが早いか、銀子ちゃんが俺の脛を蹴る。普通に痛い。

「まぁこれでも家族ですし。家族が一緒に出掛けるのは変な事でもないでしょ?」

「それはそうなんどすけどなぁ。周りが見ればお二人は『年頃の男女』以外の何物でもおざりませんから」

 まぁそれはそうだ。幾ら幼馴染というか、内弟子としての家族というか、そんなことを言っても、血縁がないが故に、一般的にそういう視線になるというのは重々承知している。

「で、お二人はちゃんと目的は果たせたんですか?」

「ん、問題ねーよ。ちゃんと終わった」

「ならよかったです。でもお二人はこっちのイベントか場所か、今から改めて行くようなとこって何かありましたっけ?」

「いやぁ見たかったのは場所じゃなくて人だからな。まぁ満足出来たからよし」

「お互いの共通の知り合いのものを、将棋以外で見てみるというのも乙なもんどすなぁ」

 こちらが何か言うまでもなくここまで饒舌になる二人も中々珍しいような気がする――とまで考えてはたと気付く。

 ――こっちの二人の共通の知り合いって、俺たちの他に誰かいたっけ?

「しかしなー。俺たちもあんなもん見せられちゃなー。嫌でもそういうもんだって理解できちまうしなー」

 ん? なんか途轍もなく雲行きが怪しくなってきたような気がするぞ?

「せやね。おもろいもんも見れたし上々ですわ。音声がないのが惜しまれるとこや」

 おもろいもん? 音声? あれ? まさかと思うが――。

「しかし夏場の散歩もいいもんだな。たまには川風吹かれるのも悪くねーわ。バイク乗ってる時より生ぬるかったけどな」

「せやね。ところで、法善寺の夫婦善哉の店の入り口右脇に窓がありますやろ?」

 あ、これヤバい奴だ。とんでもなくヤバい奴だ。

「その直下に、銀色の髪が見えておざりまして。どうにも銀子ちゃんの髪の長さ程度でありましてなぁ」

 ちょっと待て、なんで席次まで把握している……!?

「二人してあーんをし合いっこするとは、大変仲がよろしゅうございますなぁ」

「な、な、な、なんでそのことを知ってるのよ!?」

「姉弟子! 墓穴! 墓穴!」

「――あっ!?」

 銀子ちゃんが思いっきり頓死の罠にかかってしまっていた。完全に二人して即詰みだ。

 いやそれよりも! なんで見られていた!?

「おい万智てめぇ。なんでそんな面白いとこ呼んでくれなかったんだよ? 俺それ見てねーぞ?」

「燎はんはその時水掛不動でバシャバシャ水掛けることに夢中になっておりましたからなぁ」

「くっ、お願いよりも優先すべきものが目の前にあったってのかっ……クソッ……!」

 違うっ……これは間違いない……!

 ずっと……この二人に尾行されてたっ……!

「ど、どうして全部見てるのよ!? いやどこからよ!?」

「そんな物騒なこと言わんといてなぁ。仲が急激に進展したらしいお二人の顛末を少しばかり見届けようとしただけでなぁ」

 あれとかこれとか、いやあーんを見られてたことが一番恥ずかしいけれど。でも、二人きりだろうと思って素を出してた部分が、全部、何処となく目があったという事実が、俺と銀子ちゃんの意識を遠のかせる。暑さ当たりしたんだ。きっとそうに違いない。そう思い込みたい。

「で、さっきまでお二人は何をしてはったのかえ~?」

 そして伏見稲荷の狐宜しく口角を持ち上げる供御飯さんを前に、二人して震えあがることしかできなかった。頓死……! 圧倒的頓死……ッ!

 

 

 

 空銀子はかわいい。

 まぁ、だから、アイドル税みたいなのは、暫くは、というか今後もずっと払うことになるんだろうな。

 ま、守るとも決めたし、それも上等だけどね。



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