深紅の狙撃手《クリムゾン・スナイパー》 (伊藤 薫)
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プロローグ [1]

 もうすぐ真夜中だった。基地を飛び立ってから1時間近く経っている。

 エーリヒ・カイルベルトは怯えていた。自分の人生で今より不幸な時はあったかもしれないが、それがいつかは思い出せなかった。こんなに恐怖を感じるのは初めてだった。エーリヒはこれから戦場に落下傘で降下する。そんなことは一度もしたことは無かった。息をするのさえ苦痛だった。

 恐怖の次に感じたのは恨みだった。エーリヒは苦々しい思いを噛みしめていた。戦争は終わったんだ。それなのに、自分は戦場に向かおうとしている。

 エーリヒは時速約770キロで飛行している爆撃機の中でうずくまっていた。

 パイロットと軍曹が天辺のドーム型コクピットに収まり、中尉が透明なアクリル樹脂で出来た機首の円錐部分にいた。二等兵であるエーリヒは機首とコクピットを結ぶ通路に固定された小さな椅子の上にしゃがみ込んでいた。パラシュートを背負い、5キロ近くある短機関銃を抱えている。ただでさえ狭い場所が耐えられないぐらい窮屈に感じられた。

 最悪だったのはハッチだった。もうすぐそこから飛び出していくことになるハッチはキチンと閉まらないらしく、ガタガタ揺れながら冷気を機内に送り込んでいた。だが、このオンボロ爆撃機でガタガタ揺れていない物などあるだろうか。この飛行機は木製だった。

 通路の先に座っている中尉に眼を向ける。中尉については苗字しか知らなかった。キルヒアイス。中尉の肩に白い物が舞っていた。白い物って何だ。雪に決まっているだろう。この間抜け。エーリヒは胸中で呟いた。

 その時、通路が傾いた。エーリヒは機体が降下するのを感じた。一瞬、胃が浮き上がる。自分たちが今、ハルツ山脈の上空を飛んでいることに気づいた。

 突然、軍曹が頭上に現れた。通路に降りて来るなり、邪魔な物をどけるような感じでエーリヒを脚で乱暴に小突き、ハッチを開けた。冷たい夜気が吹き込んでくる。エーリヒは軍用コートを身体にかき合わせた。冷気が身体に潜り込んできて鳥肌が立つ。身体が震える。

 エーリヒが腰かけている座席にはインターコムの差込口が無かった。3人の上官たちが道中ずっと何か話している間、エーリヒは独り機体の薄暗い通路に腰かけ、訳も分からず取り残されていた。軍曹が装備のチェックを始める。きっと目的地を見つけたに違いない。

 キルヒアイスがそばに立った。通路を這って来たのだ。キルヒアイスが激しい身振りで何かを伝えようとしていた。少し興奮しているように見える。エーリヒは恐怖と嫌悪と寒さで何も感じていなかった。ひたすらだるかった。

 キルヒアイスが軍曹のイヤホンをエーリヒの耳に押し込んだ。自分の口許のマイクに向かって話した。

「目的地に着きました。上空を1回旋回して、目的地の西にある野原に降ろしてもらいます。リーゲル軍曹が最初に出ます。次が私、あなたは最後になります。着地したら、岩壁の向こうに4階建ての凝った装飾の建物が―」

「《ヴォータン》から《ヘルムヴィーゲ》、あと30秒で降下だ」

 パイロットがキルヒアイスの声に被せるように言った。

「敵は向かいの山から中庭を狙って撃つつもりでしょう。私たちはちょうどその反対側から近づいていきます。グリューネヴァルト伯爵夫人が屋敷の中庭に姿を現す前に着かねばなりません。分かってますね?」

 エーリヒは弱々しくうなづいた。

「高度は約180メートルで飛び出します。パラシュートの開き綱を引くのを忘れないように。これは自動索ではありませんので」

「あと10秒だ、《ヘルムヴィーゲ》」

 3人とも顔は戦闘用のペイントで塗りたくられている。ウールで出来た山岳猟兵用の防寒帽を耳まで被っていた。リーゲルが両手の親指を立ててみせる。これからたった3人で皇帝フリードリヒⅣ世の寵姫であるグリューネヴァルト伯爵夫人の暗殺を阻止しなければならないというのに。いかにも戦争をするぞといった感じの仕草だった。

「行け!《ヘルムヴィーゲ》、飛ぶんだ!」

 リーゲルがハッチから飛び出した。キルヒアイスがそれに続いた。

 刹那、ある考えがエーリヒの脳裏を過ぎった。このまま通路に腰を降ろし、パイロットと一緒に基地に帰ることも出来る。だが、そんなことを考えている間にも脚は勝手にハッチの前に立っていた。そして、エーリヒはそのまま静寂の中に落ちていった。



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第1部 [2]

 2週間前―。

 惑星テルペニアは銀河帝国の要衝イゼルローン要塞から、自由惑星同盟(フリー・プラネッツ)の方角へ約10光年を進入した宙点(ポイント)に位置している。寒冷の惑星でごく短い春と秋があり、大半は冬の領域に入っていた。後年の戦史研究家たちから、この星における一連の戦闘は「冬戦争」と呼称されている。《シグルド》と称される帝国軍の前線基地が大陸の一つに設けられたのは帝国暦485年、宇宙暦794年のことだった。

 その年の7月、ジークリンデがこの基地に着任した。

《シグルド》基地は連隊レベルのささやかな軍事施設だった。司令官の階級は大佐。名前はハンゼンといった。ジークリンデは司令室で官姓名を名乗り、着任の挨拶をした。

 ハンゼンの年齢は40代前半。不機嫌な印象を与える男だった。顔の血色も悪く、眼光も活力が欠けているように見えた。ジークリンデの敬礼に片手で応じる。眼は机上の書類に向けたままだった。

「まず貴官はなぜここに派遣されたか、十分に分かっているのか?」

「はい」

「過去はどうあれ、ここでの貴官は一介の新任中尉に過ぎない」

「心えております」

「幼年学校では成績が良かったようだな。過去に輩出した女性士官の中ではトップか。特に得意だったのが・・・」

「狙撃であります」

「ならば、その腕を存分に生かすことだ」

 ハンゼンは机上に置かれた電話を掴んだ。

「軍曹をここに呼んでくれ」

 数分後、司令室に入って来たのは2メートル近い身長を持つ偉丈夫だった。その偉丈夫がジークリンデの横に立ち、野太い声を出した。

「リーゲル軍曹、まいりました」

「彼女を補給廠に案内したまえ、軍曹」

 ハンゼンはジークリンデに顔を向ける。

「貴官には着任早々であるが、さっそく夜間の斥候任務に就いてもらう。そのために班を組んで任務に当たれ。班の指揮官は貴官である」

 ジークリンデはリーゲルの案内で、基地の補給廠に向かった。道すがら非番の兵士たちがリーゲルに敬礼するが、ジークリンデの姿を見るなり思わず立ち止まったり、振り返ったりする者がいる。リーゲルが低い声で笑った。

「ヘッヘッ、みんなアンタの姿を見て驚いてるぜ。ここじゃ女は珍しいからな」

「もう慣れてますから」

 とにかくジークリンデは目立つ存在ではあった。帝国軍内で前線に立つ女性兵士といえば衛生兵、看護兵や通信士ばかりだった。ジークリンデは軍服の右袖に狙撃手章を付けているが、狙撃手章は狙撃で20名以上の敵兵を斃した将兵に贈られる勲章で、その授賞者は男性の狙撃手でも少ない。ましてやジークリンデは身長が175センチあり、燃え立つような赤毛のショートカットが映えていた。

「ところで、アンタはこの戦役が叛乱に対する討伐であることを知ってたかい?」

「ええ。行きの艦の中で聞きました」

 この年の3月に勃発したヴァンフリート星域における自由惑星同盟との会戦は帝国軍の勝利に終わり、多くの司令官が戦功により昇格を果たしたりもしたが、完全な勝利を収められなかったことに対する生贄も必要とされた。

 今回、その生贄が惑星テルペニアに置かれていたトーポリ要塞となった。要塞司令官は代々、テルペニアの領主でもあるヴェーバージンゲ伯爵家の当主が務めていた。現当主のミヒャエル・ヴェーバージンゲ中将率いる艦隊はヴァンフリート星域会戦において、自由惑星同盟の第五艦隊を取り逃がしたのである。帝国軍統帥本部はそのことに対する懲罰として、ヴェーバージンゲ中将から要塞司令官の権限を剥奪しようとした。

 弁明の機会も与えられず、一方的に下されたこの懲罰を不服に思ったヴェーバージンゲ中将はひそかにかき集めていた《髑髏師団》と称する私兵を動員し、帝星オーディンから派遣された要塞駐留艦隊を追い返してしまう。統帥本部はヴェーバージンゲ中将の行為を帝国に対する叛乱とみなし、駐留艦隊に対してただちに討伐を命じたのである。



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[3]

「まあ、討伐とはいったが、今ではもう残党狩りみたいなもんだがな」

 リーゲルは現在の戦況について説明を始める。

《髑髏師団》は現在、瓦礫の山と化したドレヴァンツという工業都市とトーポリ要塞を含めた数十平方キロの戦線に追い詰められているという。ドレヴァンツは《シグルド》基地が置かれた大陸北部に位置するヴァルダイ丘陵にあり、イリメニ湖とセリゲル湖という2つの湖に挟み込まれている。

 ジークリンデは口を開いた。

「さっそく夜間の斥候に出るという話ですが、戦況が逼迫してるのですか?」

「司令官はアンタに説明しなかったんだな」

「何を?」

「敵の師団に凄腕の狙撃手がいるんだ。今までコッチの将校が何人も殺されてる。奴さんは将校しか撃たんのだ。こう言っちゃなんだが、アンタは囮だ。これまでこっちは夜間の斥候任務で狙撃なんかしたことなんかないからな」

「敵をおびき出すというわけですね」

「そうだ。今夜、アンタが暗視装置を着けた銃で敵を狙い撃ちにする。そうすれば、必ず向こうの狙撃手も動き出す」

 そして、うまくいけば私を殺すことができる。ジークリンデはそう思った。

「それがあなたの思惑ですか?」

「思惑というか、勝手な想像だ。ウチの司令官は以前、憲兵隊にいたというから何を考えてるのかホントのところは分からんが・・・まずはアンタの腕前を見せてほしい」

 いつもこれだ。ジークリンデはそう思った。軍内では女性であるだけで目立つ存在であったが、ジークリンデは幼馴染とともに数々の戦功を立ててきた。それに伴い、階級の昇格も同期と比較して早い方だった。周囲からは「虎の威を借りる女狐」と陰口をたたかれることもあった。常に実力で排除しなければ、軍隊には生き残れない。そうした諸々の感情を胸の裡で押し殺して、ジークリンデは口を開いた。

「分かりました。どこでやりますか?」

「練習場があるから、そこで」

 射撃練習場は補給廠に隣接した予備倉庫だった。長屋風の建物は天井が低く、屋根のすぐ下にある窓には鉄格子がついていた。銃器を収める鍵つきの戸棚が並ぶ小さな武器庫と弾薬用の金庫。分厚い木製の防護板が何枚かあり、その上にターゲットが貼られている。

 リーゲルはテーブルの上に置かれていたワインの空き瓶を3つ手に取り、倉庫の奥に向かって歩き出した。射撃線から200メートルの地点に空き瓶を置き、リーゲルは銃器棚の1つを開ける。棚から取り出したのはライフルだった。新品のようだった。

 長さは1メートル余り。カバノキの大きな銃床に太い銃身。首都オーディンの造兵廠で製造されたTOZ-8「メルカシュカ」ライフルだった。信頼性が高いボルトアクション方式で、重量も1・5キロしかないために扱いやすい。ジークリンデが幼年学校の狙撃課程で初めて手にした小口径の狙撃銃でもあった。

 ジークリンデはライフルと銃弾を3発受け取る。銃弾は口径5・6ミリのリムファイア弾。初弾を薬室に装填し、膝射の姿勢を取る。右膝を地面につけ、踵に体重をかける。左腕の肘下にスリングを回して、ライフルをしっかりと支える。床尾を肩のくぼみに当て、トリガーに人差し指をかけて頬を銃床の上部に押し当てた。

 ジークリンデは照準器のアイピースを右眼で覗き込んだ。ライフルに取りつけられたPEスコープの倍率は4倍。空き瓶は3本の黒い照準線の間でかすみ、太字のピリオドのようにしか見えない。直感に頼るしかない。

 標的(ターゲット)を感じる。これは狙撃課程で教官から教わったことだ。標的は8秒以内に撃つ。

 ジークリンデは息を止める。狙いを定める。息を吐き、トリガーを滑らかに引く。次弾を装填する。それを3回繰り返した。

 パンという音と共に、銃弾が発射される。肩に軽い反動を感じる。

 空き瓶が砕ける。細かい破片が陽光を浴びてキラキラと輝いた。

「アンタは正真正銘の靴屋の親方(マイスターシュースター)のようだな」

 リーゲルの感想に、ジークリンデは思わず訊き返した。

「《靴屋の親方》?」

「ああ、つい興奮しちまって訛りが出ちまったな。狙撃の名手(マイスターシュッツェ)ってことだよ」



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[4]

 夜間斥候を担当する小隊の編成はほとんど喜劇に近かった。

 ジークリンデの小隊に新しくやってきた兵士たちの驚きは特に大きいようだった。終始こんな具合だった。4人の若い兵士がジークリンデの小隊に編入された。まだ士官学校を卒業したばかりの新兵たちだった。4人の兵士が兵舎に駆け込んできた。

 ジークリンデは狙撃教則に眼を通し、丘陵地が多い地方での射撃について学んでいる最中だった。リーゲル軍曹は他の3人の兵士と一緒に銃を点検している最中だったが、4人の新兵には空いているベンチに座るよう勧めた。4人は地面に背嚢を置き、のんびりとした風情で壁のベンチに腰を下ろし、辺りを見回し始めた。

 新兵たちはジークリンデの姿に気づくと顔を見合わせる。一斉にニヤついた。

「君もこの小隊に配属されてるのかい、お嬢さん?」1人がそう聞いた。

「ええ」

「そりゃすごいな!」彼は仲間たちにウィンクした。「俺たちはアタリだな。なんてイカす衛生兵だ!ホントに美人さんだな。君にクギづけってところだ。仲良くしようぜ。俺はロベルト。君の名前は?」

「ジークリンデよ」

「やあジーク、そうしかめっ面するなよ。兵隊さんにはもうちょっと優しくするもんだ。悪いことは言わないからさ」

 ジークリンデは苛立ちを抑えながら低い声を出した。

「そうして欲しければ、軍の規則に従いなさい。気をつけの姿勢で私の前に整列して自分たちが到着したことを指揮官に報告しなさい」

「指揮官はどこだよ?」

「私よ」

「ジーク、からかうなよ。そんなことあるわけないだろ」

 この時、新兵たちの頭上にリーゲル軍曹の雷が落ちた。

「コラ、大バカ者どもめ!それが上官に対する態度か!その場で腕立て伏せ50回!30秒以内ですませろ!」

 4人の新兵たちは訳が分からないといった表情を浮かべ、地面に手を付き、腕立て伏せを始めた。リーゲルは4人が時間内に所定の回数を終えるまで、罵声を浴びせ続けた。それが終わると、4人は這う這うの体で気をつけの姿勢で整列し、官姓名を名乗った。ジークリンデは指揮官として初めての訓示を行った。それでも新兵たちの顔には、まだ驚いた表情が貼りついたままだった。

 最後にリーゲルは皮肉っぽい口調で付け足した。ジークリンデは苦笑を浮かべた。

「言っておくが、我らが指揮官は常に本気であり、下らない冗談は好まない。ふざけたことをすれば、脳天に鉛玉をぶち込まれるだろう」

 ジークリンデは小隊に対して準備を命じた。新兵たちには新品の短機関銃2丁と替えのドラム式弾倉(マガジン)が3個ついた軽機関銃を支給された。ジークリンデが手に取ったのはSVT-40だった。装弾数10発の着脱式マガジンを備えたアサルトライフル。銃弾には口径7・92ミリの短小弾を使用した。

 銃器の他はスコップ、ナイフ、水筒、携帯食料、200発の弾薬と手榴弾5個をそれぞれ携行した。ジークリンデのベルトにも弾倉2個付きの拳銃がぶら下がっていた。しかし夜間偵察で拳銃が必要になるとしたら、それは事態が最悪に悪化した場合しか考えられない。

 夕暮れ時に小隊は基地を出発した。ジークリンデは装備の重量に耐えながら、ぎこちない足取りで狙撃地点まで徒歩で向かった。暗視装置は旧式の物しかなかった。背中にくくりつけた巨大なバッテリー。バッテリーと太い電線で繋がれたライフル。不格好な暗視用照準器。ライフルには二脚架も取り付けられている。だが、自分を嗤う者は誰もいない。ジークリンデには分かっていた。



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[5]

 闇夜。

 ジークリンデは地面に寝そべっていた。二脚架に載せたアサルトライフルの後ろで伏射姿勢を取り、肩に銃床を当て掌でグリップを包み込む。まだ肩と腕に鈍い痛みを感じる。旧式の暗視装置は本当に重かった。それを背負って基地から約四キロ歩いてきたが、銃とバッテリーの重みでスリングが鎖骨に深く食い込んできた。今は狙撃の邪魔にならないように、重たい装置は背中から下していた。

 空気は思いのほか冷たい。肌を刺してくるようだった。懸命に喘いでいる呼吸をコントロールしようとする。静穏は狙撃手の力強い味方になる。どんな状況下に置かれても、意志の力で自分を平常時の状態を持っていく。心と使命を一つにする。そのことを繰り返し教えてくれたのは、幼年学校にいた狙撃課程の教官だった。

 400メートル先で、キチンと耕された畑が小川に向かって落ち込んでいた。河川敷には小さな木立があり、草がぼうぼうと生えていた。ちょうど自然の漏斗といった感じで、土地が窪んでいる。不慣れな土地で、おそらくは恐怖を感じながら、こんなところにいたくないと願っている者はまず間違いなくそこにひきつけられるはずだった。

「あそこの畑だ、中尉。見えるか?」

 リーゲルが暗闇の中でジークリンデの横にしゃがみ込んだ。

「ええ」

「連中は5日のうち4日はあそこを通る」

 リーゲルは口数が多かった。神経質になっているのだろう。

「もっと近づくことも出来るが」

「距離は400メートルぐらいでしょう。ちょうどいい」

「照明弾は?」

「軍曹、照明弾は要りません」

「援護射撃が必要なら、右側に機関銃チームを配置してある。分隊長は信頼できる男だ。俺は残りの隊員と一緒に左側にいる」

 リーゲルの顔はジークリンデと同じように、油性の戦闘ペイントで塗りたくられていた。星明りの下で、眼だけが白く輝いていた。

「連中はいつも11時ごろやって来る。あと数時間だ。ここがコッチの戦線の弱点だと連中は考えているんだな。こっちがわざと通過させてやっているとも知らずに」

「明日からは敵も近づこうとはしないでしょう」ジークリンデは笑った。「新兵たちにはじっとしているように伝えてください。撃ってはダメです。これは私の作戦ですから。分かりましたか?」

「分かってるよ」

 リーゲルは姿勢を低くしたまま、その場から去って行った。

 この方が良い。ジークリンデは出来ることなら、こういう時に独りで過ごしたかった。自分だけの時間だ。頭をすっきりさせ、筋肉をほぐす。標的に狙いを定めたライフルとの一体感を高めていく時間。

 ジークリンデはじっと横たわっていた。時おり風が感じられる。ライフルのトリガーに手をかけたまま、眼の前に広がる闇をじっと見つめる。ジークリンデは森の音に耳を澄ませた。針葉樹の間を吹き抜け、カサカサと葉を揺らしていく風のざわめき。

 二脚架に載せたアサルトライフルを前後左右に動かす。自分の動作にすばやく反応するかどうか確認した。暗視装置の照準器にかかっている覆いを取り外す。バッテリーのスイッチを入れる。ジークリンデはゆっくりとボルトを押した。ボルトはギクシャクと銃身の中を滑る。かすかに抵抗を指先に感じる。カチッと音がしたところで手を停める。射撃の切り換えスイッチを確認する。セミ・オートマチック。ジークリンデは安全装置を外した。

 気分が良かった。いつまでも標的を待てそうな気がする。いつもこんな風に任務に就けたことはなかった。樅の枝の間から、夜空に冷たく輝く星を眺める。突然、闇の中から何かが襲いかかってくるような感じがする。視界が一瞬ぼやける。

 雨に濡れた身体が冷え切っていた。凍てつくように寒い。首都オーディンの記憶が脳裏によみがえって来る。絶望の時だ。



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[6]

 2か月前―。

 その日の夜、帝都オーディンの市街地は雨が降っていた。

 ジークリンデはリンベルク・シュトラーゼの下宿に帰る途中だった。雑踏に身をまぎらせながら辺りに注意を払った。最近、ジークリンデは誰かに監視されていると感じていた。街。軍務省。新無憂宮(ノイエ・サンスーシー)。いたる所でジークリンデは監視者の圧力を感じた。

 脳裏には幼馴染の忠告が点滅していた。その幼馴染はグリンメルスハウゼン子爵が開いた大将昇進の私的な祝賀会に出席した際、リューネブルクと決闘になりかけたが、その場は会場の警備を担当する憲兵隊の大佐に収められたという。幼馴染とリューネブルクはヴァンフリート4=2の地上戦以来、浅からぬ因縁があった。幼馴染は言った。

「ここまで来ると、リューネブルクの奴が何をするかわからん。よもや刺客が仕向けて来くるとも思えんが。身辺に注意しろよ」

 ジークリンデは庭園に足を踏み入れた。下宿への近道だった。庭園内の池にかかる小さな橋を渡る際に、ジークリンデは探していたものを見つけた。見覚えのある男がいた。小脇に箱を抱えている。男は橋の上、数メートル先を歩いている。以前にどこで見かけた顔だったか思い出そうとし、素人じみた監視ぶりが気になった。

 次の瞬間、男がさっと振り向いた。包装紙と箱が橋の張板に落ちる。カチンという大きな音が響き、刃が閃いた。男がジークリンデの方に足を踏み出した。

 ジークリンデは咄嗟に身体を捻った。次の瞬間、ナイフがわずかに頬を掠めた。ジークリンデの素早い動きに、男は一瞬バランスを崩した。ジークリンデはすさかず男の脾腹に左の拳を叩き込む。続けて右の拳で顎を下から打ち抜いた。男は呻きを漏らしてよろめいたが、ナイフはまだ握っていた。ジークリンデはナイフを奪おうとした。男はさっと逆手にナイフを持ち替えた。再び刃がきらめいた。今度は鋭いナイフが肘のすぐ上を捕らえ、軍服とその下のワイシャツを切り裂いて血を滴らせた。

 男が前進する。ジークリンデは軍服のタイトスカートの裾を引き裂き、後退した。降り続いている雨の音が全てを呑み込む。足元は滑りやすかった。ジークリンデは自分の感覚が麻痺しつつあることを感じていた。

「なぜ、私を襲うの?」

「恨むなら、金髪の孺子(こぞう)を恨め」

「どうして?」

「ペーネミュンデ夫人のためだ」

「男爵夫人か?」

「そうだ」

 男が動き出した。その時を待ち構えていたジークリンデはナイフを払いのけようと、拳を突き出す。男が首を横に傾げ、拳をかわした。空振りしたジークリンデは勢いよく、橋の欄干に飛びついた。その直後、ジークリンデは身体に強い衝撃を感じた。脇腹にナイフが食い込んでいる。

 ナイフが引き抜かれる。喘ぎが漏れる。男がジークリンデの身体を引き寄せる。一瞬にらみ合った後、ジークリンデは渾身の力を振り絞って男の額に頭突きを食らわせた。

 凄まじい音が響き、ジークリンデは後ろへよろめいた。頭から血を流しながら、男は橋の欄干に寄り掛かった。ジークリンデはすかさず男の上腕を欄干に叩きつける。

男がナイフを手離した。ジークリンデはそのナイフを掴んだ。身体が自動的に動いたような感覚だった。ジークリンデはナイフを男の胸に叩き込んだ。

 男は悲鳴を上げる。ジークリンデの軍服の襟を掴む。身体が引きずり回された。軍服が腰まで裂ける。ジークリンデはまたナイフを突き立てようとしたが、男はがっくりと項垂れて身体がのしかかる。ジークリンデは男の身体を払いのけた。雨に濡れた張板の上で脚が滑ったのか、男がその場に転倒して動かなくなった。

 ジークリンデはいきなり脚に力が入らなくなるのを感じ、橋の上で凍り付いた。ジークリンデは自分の身体を見下ろした。シャツが血でびっしょりと濡れていた。生まれて初めて感じる寒さだった。

 ジークリンデは搬送先の病院で憲兵隊に身柄を拘束された。容疑は殺人だった。幼年学校時代の学友たちが尽力して有能な弁護人をつけてくれたが、軍事法廷の判決を覆すことはついに出来なかった。大尉だった階級も中尉に降格された上、この星に送られた。

「中尉」

 暗夜。誰かが無線で耳元に囁いた。ジークリンデは回想から引き戻された。

「分かってます」

 照準器のスイッチを入れ、アイピースを覗き込む。暗視映像が眼の前に表れた。最初の1人が現れる。人間の形をした光の塊が緑色の暗闇を背景にユラユラと揺れている。さらにまた1人がその背後から現れた。続いて、また1人。

 ジークリンデは照準器の十字線を先頭の塊に合わせる。息を止めて狙いを定める。そして息を吐き、ライフルのトリガーを滑らかに引いた。



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[7]

 トーポリ要塞の外れに置かれた《髑髏師団》の司令部前では、テーブルに置かれた蓄音機から国歌が流れていた。広場には簡素な棺がいくつか並べられている。棺の中には帝国軍将校たちの遺体が横たわっている。ヴェーバージンゲ中将の直衛儀仗分隊が整列し、敬礼を捧げている。

 国歌の調べが広大な要塞陣地に虚しく吸い込まれていく。将軍の数歩後ろに立ち、棺を眺めているのはハインツ・トールヴァルト少佐だった。トールヴァルトはおもむろに要塞を見上げる。

 この要塞はかのルドルフ大帝が宇宙海賊を討伐していた頃に建設されたという。当時は要塞となる人工天体を建造する技術がそれほど発達しておらず、生命が生存可能な星々に宇宙港として要塞を数多く建設した経緯があった。

 やがて音楽が終わった。《髑髏師団》の参謀長を務めるエルヴィン・ランツ大佐が将軍の方を向いた。

「司令官、お願いします」

 ヴェーバージンゲが進み出る。

 将軍の顔は疲労が色濃く見える。極度のストレスに晒され続けた結果だろう。眼の近くが時おり痙攣しているのが遠目からでも覗える。将軍は指で死体の蒼ざめた顔を撫でながら、それぞれの胸に戦傷章金章を付けていった。

 埋葬が終わる。ヴェーバージンゲは従軍医を連れて要塞内の自室に消えた。トールヴァルトはランツと共に、司令部が置かれている要塞の地下室に入った。

「オーディンから狙撃手が送り込まれたようだ・・・」

 ランツがトールヴァルトと2人きりで向かい合った。ランツが口を開いた。

「昨夜、哨戒中の歩兵小隊が全滅した。撃たれた兵士の穴埋めに、8人の下士官を昇格させたばかりだというのに・・・」

「暗視装置を使ったんでしょう」トールヴァルトは言った。「もっともあんな物を使いこなせるような気骨のある奴がオーディンにいたとは驚きですなあ」

「もっとも君のように有名じゃない人間だと思うが、この星に来たということは、狙いは君だと思うがどうだろう?」

 ランツがトールヴァルトの胸に飾られた功一級狙撃手章を指し示した。

「でしょうな」

「この要塞もドレヴァンツもただの廃墟なのだ。戦略的な価値はすでに無いに等しい。しかし、将軍は要塞に固執しておられる。もう統帥本部との個人的な意地の張り合いでしかない・・・私はこの泥沼から出来るだけ早く抜け出したいのだ。師団が日毎に弱ってきているのが痛いほど分かるからな」

 ランツは机の上に広げられた地図に眼を向ける。

「とりわけ私が恐れるのは討伐部隊ではなく、将軍でね。従軍医の話では、将軍は師団の全兵力を動員して、ドレヴァンツを奪回すると考えているそうだ」

「師団の全兵力を?今はどのくらいでしたかな」

「500人足らずだ」

「奪回できますかね?そんな兵力で」

 ランツは首を横に振った。

「おそらくは無理だろう。奪回は出来ないだろうが、討伐部隊に十分な損害を与えることは出来る。それで講和に持ち込もうと考えているようだ。将軍はすでに討伐部隊にスパイを潜入させており、街の奪回を有利に進めることが出来るとか・・・」

「薬が効きすぎて、幻覚を見ておられるのでは?」

「とにかく、この戦いはさっさと終わらせなければならない。そのためにも、新たに送り込まれて来た狙撃手の排除が必要不可欠だ。何か策はあるのか?」

「まあ、お任せください」

 トールヴァルトは司令室を出た。向かった先は死体処理班がいる倉庫だった。軍医が安置台に屈み込んで、死体を検分している。死体は昨夜に殺害された哨戒班の1人だった。手術着とマスクを付けながら、トールヴァルトは軍医に歩み寄った。

「見つかりましたか?」

 軍医は死体の胸をY字形に切り開き、破壊された内臓の間を指で探っていた。

「ほら、少佐。おみやげだ」

 トールヴァルトは咄嗟に手を出した。押し潰されたような鉛の塊がゴム手袋に包まれた掌に転がった。茶色い液体状の物体がこびりついている。

「この茶色いのは?」

「おそらく軟骨だろう。その弾は脊柱に達して、脊髄を切断した」軍医は答えた。「そんな風に弾の先端が開くものなのかね?」

「普通の銃弾は体内で何かに当たると粉々になるか、そのままの形で貫通する。コイツはホローポイントとかソフトポイントですよ。人体に命中すると体内で膨らんで、こういう風に変形するんです」

 軍医は死体から摘出した銃弾をガーゼに包んでトールヴァルトに手渡した。

「貴官がそれに込められたメッセージを解読してくれることを祈ってるよ」



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第2部 [8]

 ラドミル・ハージェクは森の中を走っていた。

 木々が立てるちょっとした物音にもびくつき、油断なく眼を光らせてしまう。敵に見つからないように、夜に移動した。朝は小さな洞穴や茂み、巨岩のそばで眠りに落ちた。飢えに突き動かされ、木の根や果実を食べた。静寂の中、本能だけを頼りにあてもなくさまよい歩いた。周りは山で囲まれていた。山を避けて木が鬱蒼と茂るふもとを通った。逃げ出してから何日も経っていた。

 体力の消耗は激しかった。我慢して食べている木の根や果実だけでは、十分な栄養など望めない。最後は森が勝利を収めることは分かっていた。動けなくなるくらい衰弱したら、死ぬしかない。衰弱して気を失い、名も無い小川のそばで息絶えるのだ。

 服はボロボロになっていた。ブーツは分解しかけていた。ズボンはほつれ、生地が脂と汚れで光っていた。逃げている最中に背負っていた背嚢はどこかに捨てた。行動は生きている証だった。それが今までこの山で生活してきた教訓だった。とにかく動き続けろ。

 ある晩、雨が降った。すさまじい暴風雨だった。ハージェクは縮こまり、動くことができなかった。木々の向こうの地平線に稲妻が突き刺さり、雷が轟音を立てた。

 それから2日、空気には硫黄にも似たツンとした臭いが漂っていた。一度、森の中で開けた場所に出た。それは溢れるばかりの光に包まれていた。ハージェクは怖じ気づいた。じめじめした森のさらに奥深くに向かった。

 ハージェクは何度か道路を渡った。気が付かないうちに、宿屋か民家の敷地に迷い込んでいたこともあった。だが、管理人や兵士に会うかもしれないと考えただけで恐ろしくなった。ハージェクは再び森の奥深くに逃げ込んだ。

 体力が急速に衰えつつあった。果実と木の実とコケを口にしただけで長いこと頑張ってきたが、この二日くらいでだいぶ身体が弱くなったような気がしていた。

 ある朝、眠りから目覚めた。ハージェクはついに終わりが来たことを悟った。身体に力が入らなかった。周囲は風に吹かれてカサカサと音を立てる古木ばかりで、食べられる物は何も無かった。白くてささくれだった無数の枝が手のように絡まりあっていた。

 地面は冷たい薄皮のような落ち葉で覆われていた。ハージェクは土の上で仰向けに横たわったまま、木の枝を見上げる。円蓋の隙間から青い空がのぞいている。土の中で死ぬことさえ出来ない。

 何かの気配を感じる。ついに捕まったか。どれくらい逃げていただろう。

 ハージェクは最期の祈りを唱えようとしたが、何ひとつも思い出せなかった。もう何年も祈りなど口にしていなかった。

 幻覚が始まった。不意に男が眼の前に現れた。遠目からでも、その顔は疲れているように見えた。男の部下たちが捕虜たちに穴を掘るよう怒鳴っている。捕虜たちがようやく穴を掘り終えると、その穴の前に捕虜を並べて撃ち殺した。遺体は穴の中に消えた。その間じゅう、男は退屈そうに処刑を眺めながらタバコを吸っていた。像がはっきりとしない。男は肩に何かライフルのような物を吊るしていた。男たちの軍服には髑髏の徽章があった。

 ハージェクは今までの人生を回想しようとしたが、もはやその気力も残っていなかった。愛する人たちを思い出そうとする。いや、どうせ皆あの穴の中で死んでしまっている。自分が死んで悔やまれるのは彼らの記憶がどこにも存在しなくなることだ。

 兵士たちが陰の中から現れた。帝国軍だ。だが髑髏の徽章はない。

 空が見えなくなった。

 ライフルを手にした男が視界をさえぎった。ハージェクは銃弾を撃ち込まれるのを待ち構えた。男が「動くんじゃない」と言った。

 ほかの人影がぞろぞろと集まってきた。

「情けない野郎だな」誰かが言った。

「中尉、エーリヒがしょぼくれた爺さんを捕まえましたよ」

 別の人影が言った。

「無駄飯食いが、また1人増えたってわけか」



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[9]

 屋根裏部屋は半分壊れていた。

 曙光に部屋が照らされる。崩れた壁からぶら下がった時計が揺れている。もう一方の壁には自転車。この部屋を使っていた子どもなのだろう。ジークリンデはそう思った。子どもが大切にしていた空間がそのまま遺されていた。

 辺りはしんと静まり返っている。

 砲撃で空いた穴から市街地の景色を見渡せる。いかにも奇妙な感じだった。煉瓦や瓦礫の山の様子から、あっという間に破壊されたことが分かる。人の姿は見えない。しかし瓦礫の山の中には潜む眼がいくつもあることは分かっていた。狙撃銃の照準器。

 ジークリンデは砲弾で吹き飛ばされた家の残骸に潜んでいた。銃身は瓦礫混じりのボロ布で覆われている。狙撃銃を伏射姿勢で構えているジークリンデの姿も壊れた煉瓦の埃にうずくまって敵からは何も見えないはずだった。埃に隠れている銃はシュレスヴィヒ=マンフレートM1895。

 口径8ミリのボルトアクション式ライフルでいま狙っているのは、メケンジア通りに《髑髏師団》が造った塹壕だった。その辺りから薄く白い煙が上がっている。おそらく誰かが早朝の一服にタバコを吸っているのだろう。ジークリンデは銃口を向ける。

 倍率4倍のヘーネル望遠照準器にしっかりと眼を当てる。巨大で鮮明なイメージが眼の前に浮かび上がる。帝国軍のヘルメット。タバコを吸っている老兵の顔があった。野戦服の襟に髑髏の徽章。《髑髏師団》の兵士だ。疲れ切っているのか、頬が赤くうっ血している。距離は約四百メートル。スコープに描かれたT字型照準線をゆっくりと動かす。汗で髪が張りついた老兵の顔に狙いを定める。

 息を止めて狙いを定める。そして息を吐き、トリガーにかけた指を力に入れる。

 不意に、老兵は塹壕の中で背後を振り返った。誰かに呼ばれたのか。自信たっぷりにふざけた表情を浮かべる。トリガーにかかった指から力が抜ける。銃身が下がった。

 老兵がタバコを消した。ジークリンデはそのまま塹壕の監視を続ける。

「今の標的、見逃したのか?」

 階下からリーゲルが言った。居間に開いた大きな窓から双眼鏡でジークリンデが狙っていた塹壕を見ていたのだろう。ジークリンデが潜んでいる屋根裏は中二階にあり、そこから手すり越しに居間が見下ろせる。

「ええ」

「どうして?」

「相手は後ろに振り向きました。その瞬間に撃ったら、塹壕にいる他の兵士に自分たちが狙われてることに気づかれます。もう二度と塹壕から顔を出したり、あそこの塹壕を使わなくなるかもしれない。それに・・・」

「それに?」

「階級章がアナタと同じ軍曹でした」

「まあ、あれはアンタが狙うべき獲物じゃなさそうだしな」

 ジークリンデは敵の狙撃手を探していた。リーゲルが新兵を揺り起こしている。

「おい、ロベルト。起きろ。貴様、いつまで寝てるつもりだ」

 すでに陽が高くなっていた。照準器に映る兵士たちの顔に緊張が走る。それはいつもと変わらぬドレヴァンツの朝だった。朝の訪れが戦闘の開始を告げ、たった1つの楽しみでもある食事が配られる。それがわずかに缶1杯のスープであろうが、再び生きて温かい食事を摂れる幸せを感じることができる。

「そろそろメシの時間じゃないか?」リーゲルが言った。

「自分が取ってきます」

 新兵のロベルト・ホフマン二等兵が答える。配属された時にジークリンデを看護兵に勘違いことをいまだにリーゲルに揶揄われ続けている。ロベルトが立ち上がる。

「待て」

 リーゲルは小さなノートを取り出した。補給担当の軍曹宛てにいくつか必要事項を書きつける。そのメモをロベルトに手渡しながら言った。

「偉大なジークリンデのためだと言え。メシの配給が倍になるだろう・・・ここに戻ってこいよ。俺たちはこの辺にいるからな。いいな、途中で食ったりするなよ」

 リーゲルが言い終わる前に、ロベルトは姿を消していた。



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[10]

 トールヴァルトは早朝、ドレヴァンツの前線司令部を訪れた。戦前はホテルとして使用されていた6階建てのビルに戦闘指揮所が置かれていた。前線から送られてくるあらゆる情報をオペレーターたちがメモに起こし、次から次へと各所に通信している。

 食堂に入る。軽い食事をとった後、トールヴァルトはタバコに火をつけて一服した。

「少佐、お話があります」

 トールヴァルトが顔を上げる。

 テオ・アダムが眼の前に立っていた。かつて憲兵隊にいたこの男は品行方正とは言えない過去の持ち主で、占領地で婦女子に対する暴行や略奪を働いたという噂が立ち、それが基で憲兵隊を追い出されていた。不快な気持ちを抑えて「何だね、軍曹」と答えた。

「小村を襲撃した際に、男を1人取り逃がしました。男は森に逃げた模様です。捜索隊を出してるのですが、未だ見つかっておりません」

「放っておきたまえ」

「しかし・・・」

「今ごろ森のどこかでくたばっているはずだ。捜索隊は呼び戻せ。それよりも市街地の西で戦線が破られそうだ。機関銃か何かで敵をけん制するように」

「分かりました、そのように手配します。それと、少佐」

「何だね?」

「《ザックス》から連絡がありました」

《ザックス》とは敵の司令部に潜伏しているスパイのことだった。アダムが続ける。

「今日、《女狐》は市街地に出てるようです。あなたは街に出ない方がよろしいかと」

「覚えておこう」

 アダムは食堂を出て行った。

 虐殺の記憶がトールヴァルトの脳裏をよぎる。アダムの部下が村民たちを穴の中においたてた。穴は村民たちが掘らされた。年老いた農民。両親とその子どもたち。子どもたちはひどく怯えている。老人たちはほとんどまともに歩けていなかった。穴の中に追いやられる男女や子どもたち。最後は若い娘たち。トールヴァルトはその日もタバコを吸っていた。

 アダムが構えていたのはMP-34と呼ばれる短機関銃だった。ボルトをロックして短機関銃をしっかり脇腹に押し付け、トリガーを引いた。銃弾が背中を切り裂いた。彼らは痙攣しながら穴の中に倒れた。銃創から鮮血が溢れ出し、全身が赤く染まっていく。子どもが身じろぎし、呻き声を上げる。アダムは指で切り替えスイッチを単発に戻し、その頭に1発撃ち込んだ。アダムは言った。

「どこかの下手くそな奴にやられるより、俺に撃たれた方がいいはずだ」

 その眼には嗜虐の色が浮かんでいた。

 アダムのような連中を使うことは心苦しい部分があった。あれは虐殺と呼んでもいい蛮行だった。全ては敵の狙撃手を誘い出すための方策なのだ。トールヴァルトはそう自分に言い聞かせた。虐殺から逃れた男は必ず敵と接触する。そして、トールヴァルトの標的となる狙撃手が登場する。あとは標的を仕留める舞台を整える。

 トールヴァルトは先日、兵器廠に立ち寄った。技官に《女狐》―敵の狙撃手に撃たれた遺体から摘出した銃弾を手渡して鑑定を依頼していた。技官はトールヴァルトを作業台に案内した。銃弾が置かれている。

「この銃弾は短小弾ですが、重さが143グレーンあります」技官は言った。「しかし鋼鉄が全く使われていません。純粋に鉛だけで作られています。とても柔らかい弾です。人体に対しては、最大限のダメージを与えることができます」

「敵はどうしてこんな弾を使ったんだと思う?」トールヴァルトは言った。

「この弾を銃身の溝がすごく深くて、しっかりと弾に食い込むようになっている銃で撃てば発射速度が遅くても、弾にたっぷりと回転をかけることができます。つまり―」

「精度が高くなる」

「そうです。しかも秒速700フィート以下で発射した場合なら、発射音もほとんどしなくなるはずです」

「この弾を使ってる狙撃手は自分の仕事をしっかりと心得てるようだな」

 トールヴァルトの脳裏に浮かんだ像は1つだった。幼年学校の狙撃課程にいた唯一の女生徒。深紅の狙撃手(クリムゾン・スナイパー)

「少佐殿」

 トールヴァルトは顔を上げた。今度は通信兵がトールヴァルトに報告してきた。

「この24時間の被害を報告します。駅構内で見張りが2人、北部で砲兵が1人、工場地区の第23歩兵師団で中尉が1人、集合住宅地区で工兵が3人撃たれました。それから少佐殿が興味を持たれそうな捕虜を1人捕まえたとのことです」

「まだ喋れるといいんだが」

 トールヴァルトは呟いた。



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[11]

 ジークリンデは小さな教会に向かった。ロングブーツの重い足取りは石畳を蹴る。さわやかな空気が意識を醒ます。ジークリンデは教会のドアノブを回して中に入った。

 黄昏を迎えた暗い教会の構内に、大理石の床を闊歩する靴音が響いた。教会の番人がジークリンデの姿に気づき、奥の部屋に消えていった。祭壇ごとに灯された燭台の前に立ち、独り静寂に包まれる。壁に聖母を描いた地味な祭壇画が飾られていた。ぼんやりと見える聖母はかすかに光る敬虔な面差しに悲しげな笑みを浮かべている。祭壇に歩み寄り、丸い蝋燭に火を灯して数歩後ずさる。両手を合わせ、眼を閉じる。

 身体がビクッと震えた。ジークリンデは眼を覚ました。見慣れた兵舎の天井。簡易ベッドから身体を起こす。背中が痛かった。艦隊勤務ならタンク・ベッドが使える。タンク・ベッドなら1時間寝ただけで8時間の睡眠に匹敵するが、地上勤務ではそんな大層なものは使えない。自分の方に屈み込んでいたリーゲルがにんまり笑みを浮かべている。

「睡魔は狙撃手の一番の敵だな。奇襲する時に装甲車の中で寝ちまって、眼が覚めたら敵の戦線から40キロ後方にいた奴がいるらしいぜ。知ってるかい?」

「いえ」

「最後にちゃんと寝たのはいつだ?」

 ジークリンデは肩をすくめる。

「ここでは夜が短い。お前さんの歳じゃ、もっと睡眠が必要だろうな。俺の場合はありがたいことに、もうそんな問題はない。眠らなくても済むようになっちまった。戦車の中で寝るような奴もいるらしいが」

 惑星テルペニアは自転周期が27時間であり、自転周期を強引に24等分して惑星地方時を採用していた。この討伐が惑星の地表で行う制圧作戦が主であり、ジークリンデは帝星オーディンの標準時に慣れた身体をこの惑星の環境に適用させる必要があったが、ここ数日間はよく眠れない夜が続いている。身体が環境に合わないだけではない。

 ジークリンデの戦果は目覚ましい勢いで増えていた。ドレヴァンツの市街地で3日間、叛乱軍の将校を19人撃った。だが、敵の狙撃手による損害は一向に減らない。そもそも敵の狙撃手が街に潜んでいる気配も感じられない。しかも昨日はジークリンデの部下が1人消えた。

「準備して出ます」

 今日は敵機関銃を一掃するよう命じられていた。敵の機関銃がドレヴァンツの西端から正確な銃撃を行い、味方の部隊が頭も上げられない程だった。

「道中、気をつけてな」リーゲルは言った。

 ジークリンデはうなずいた。やり場のない焦燥感は妄想となって表出する。言葉や音、風景、顔が夢の中で浮かぶ。それらの妄想がジグザグに脳内を走り抜ける。突然、眼の前に飛び込んでくる。自分と瓜二つの分身が対面している。ドッペルゲンガー。知っているのか知らないのか分からない誰かと共にいる感覚。

 いつも誰かがそばにいる感覚がする。自分の背後で聞こえるひそやかな息づかい。自分と同じ顔をしている。いつも楽しそうで、いつも自由にふるまう分身。最近、眠っている時に見る夢で度々現れる何か。横たわるベッドの数歩先に、透明な姿でジークリンデに微笑みかける少年の幻想。自分はその少年に呼びかけていやしないか。

 要するに、自分は焦っているのだ。ジークリンデはその事実をあっさりと認めるのはやぶさかでもなかった。幼年学校にいた狙撃課程の教官ならジークリンデの心情を容赦なく指摘し、笑い飛ばしてみせるだろう。

 ジークリンデは装備を検める。弾薬ベルトに「L」タイプの軽量弾と先端が黒い徹甲弾を装填する。徹甲弾を使うのは敵の機関銃手だけではなく、機関銃そのものも無力化するつもりだった。シュレスヴィヒ=マンフレートM1895は1発ずつ弾丸を装填して発射するシステムになっている。

 夜が明ける1時間ほど前、ジークリンデと観測兵は基地を出発する。



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[12]

 トールヴァルトは工事業者が使う物置代わりの小屋にいた。砲撃で穴が開いた壁から、双眼鏡でドレヴァンツの西に広がる市街地を覗いている。

 近くの果樹園では兵士たちが塹壕を堀ったり、土嚢を積んだりしている。その前方を戦闘配置の兵士が砲撃で破壊された瓦礫を盾に警戒している。今度は砲撃で屋根が吹き飛ばされた家の天井に焦点を当てる。

 その背後では捕虜がタオルを口に噛まされて、呻き声を上げ続けていた。アダムの部下の1人でレスラーのような体型をした兵士が縛り上げた男の首を太い腕で締め上げている。上下の腕と肘を効かせて男の首を後ろから羽交い絞めにする。男は二度、三度と簡単に失神する。顔をひっぱたいて叩き起こし、また首を絞める。外傷を残さない非常に効果的な拷問だが、今では憲兵隊でもさすがに誰もやる者がいなくなった。

 首を絞められる方は失神の回数が重なるたびに死の恐怖がつのっていく。捕虜は尋問を始めてから約1時間耐えているが、そろそろ意識も怪しくなりかけている。眼の反応も鈍くなっていた。尋問者は同じ質問を繰り返した。

「《女狐》は今日、どこにいる?誰を狙うつもりだ?」

 捕虜の顔は腫れ上がっていた。喋るのも億劫そうだった。

「そんなこと、分かるわけがない」

「なぜだ?」

 捕虜は答えなかった。尋問者がレスラーにうなずいた。レスラーがまた捕虜の首を絞める。何度目かの失神から目覚めさせられた男がしきりに首を振り始めた。額に脂汗を垂らして何か言おうとしていた。

「言うか?」尋問者は言った。

「常に移動しているんだ。どこにいるかなんて分かりっこない。10分前にこっちにいたかと思うと、今はあっちにいたって感じなんだから」

 トールヴァルトは捕虜を一瞥した。野戦服に縫い付けられた名前の刺繍を見る。

 ホフマン。昨日の昼間に哨戒中だった小隊がメケンジア通りの近くで捕らえた。前線司令所の一室でも同じ尋問を受けた後、この小屋に連行された。

「その通りだ、ホフマン二等兵」トールヴァルトは言った。「《女狐》は狙撃手だ。狙撃手は常に場所を移動する。私も含めて狙撃手はそういう風に躾けられているんだ。そのことを承知の上で、私たちは君に聞いている。《女狐》はどこにいる?」

 ホフマンは答えなかった。その腹にレスラーの足蹴りが飛ぶ。ホフマンは血の混じった胃液を吐き出してすすり泣いた。

「君の最後の砦はどこにあるんだ、ホフマン二等兵。私はそれを崩して見せよう。まず私が狙っている《女狐》は君の上官なのか?」

「違う」

「そうか。実は奴が君の上官だろうが、そうじゃなかろうがあまり関係はない。奴のことは手に取るように分かっているつもりだ。なぜなら奴を狙撃手として躾けたのは私なのだ」

 トールヴァルトはホフマンの反応を窺う。動揺したようなそぶりは見せない。

「《女狐》のライフルはシュレスヴィヒ=マンフレートだ。タイプはM1895。先日の夜襲で使ったのはアサルトライフルだが、それは稀だ。あの時は大勢の兵士を狙撃する必要があったからだ。照準器はヘーネル社の望遠照準器だろう。あそこの照準器は性能がいいからな。シュレスヴィヒ=マンフレートとヘーネル社の望遠照準器。この組み合わせで奴の腕前なら百発百中ってとこだろう。これじゃまるで私はストーカーだ。そうは思わないか、えっ?」

 周囲にいた兵士たちが低い笑い声を上げる。トールヴァルトもにやりと笑った。笑い声がおさまると、トールヴァルトは繰り返した。

「《女狐》はどこだ?」

「わからない」

「《女狐》は何を狙っている?例えば・・・この近くには機関銃座があるんだが、あれなんかどうだろう。ここ数日ずっと敵の進撃を阻んできた」

「わからない」

「なら、教えてもらおう」

 トールヴァルトは近くにいた兵士に命じる。

「服を脱がせろ。それとライフルを持ってこい」



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[13]

 ジークリンデはドレヴァンツの市街地に進出して射撃位置を確保する。砲撃で半壊した建物の瓦礫の中に身を隠した。床に伏せたジークリンデの傍らで、観測兵(スポッター)が崩れた瓦礫壁の合間から立膝の姿勢で双眼鏡を覗いている。

 今日の観測兵はドミニク・ニルソン二等兵だった。昨日、消息を絶ったホフマンと一緒にジークリンデの部下になった新兵の1人だった。ドミニクが双眼鏡で敵の狙撃手が潜んでいないか確認する。次第に驟雨が降り始め、身体が冷えてくる。ジークリンデはつい苛立った声でドミニクに尋ねた。

「まだ見つかりませんか?」

「申し訳ありません。もうすぐ終わりますから・・・」

 ドミニクは意外に思った。狙撃に入る前はまず敵の狙撃手の存在を先に突き止めるか、狙撃手がいないことを確認する。これが狙撃の基本原則である。真横に伏せているジークリンデ自身がドミニクに教えたことだ。ドミニクは敵の塹壕を越えて後方地域まで確認してから声をかけた。

「大丈夫です。敵の狙撃手はいないようです」

 あるはずの返事がなかった。

 ドミニクはジークリンデを一瞥する。ジークリンデは身体で抱くように温めていた狙撃銃―シュレスヴィヒ=マンフレートM1895を構え、照準器を覗き込んでいた。ジークリンデが遠目に見ていたのは市街地の奥に広がる山並みだった。野戦服から携帯していた軍用地図を取り出して広げ、眼を落とす。ハルツ山脈。

 山脈の手前にジッテル渓谷が広がる。その渓谷の両側の高い崖に鉄橋がかかっている。鉄橋の真ん中あたりは爆撃で破壊されて通行はできない。だが、あの高さは格好の狙撃場所になる。こちら側の前線と後方陣地を900メートル以上に渡って一望できる。

 嫌な予感がする。

 ジークリンデとドミニクは砲弾で屋根を吹き飛ばされた家屋の天井に潜んでいた。そこからいくつもの路地を重ねて敵の塹壕までの距離は約300メートル。空爆と砲撃で瓦礫と化した市街地の上を鉛色の雲が覆っている。焼け焦げた街が驟雨で濡れている。時おり、風に舞う雨粒で遠くの視界がぼやけてしまう。

 崩れかけた家の周囲にある果樹園に塹壕があり、三脚に乗った敵の機関銃が見える。その横には弾薬の箱。機関銃に望遠照準器が装着されている。

 午前7時に敵は見張りを交代した。小銃を持った兵士たちは獲物(ターゲット)ではない。ジークリンデは機関銃手が現れるのを待った。数秒後、ついに機関銃手が姿を見せた。3人がかりで機関銃の整備を始める。それから樹の下に腰をおろして金色の大きな梨を食べ始めた。果樹園の木々の下には梨が山ほど転がっていた。

 ジークリンデは3発だけ撃つことにした。そのうち1発は機関銃の銃尾を狙う。軽量弾を込めボルトを引いて装填し、瞳を照準器に寄せた。獲物―機関銃の三脚のそばに座っている背の高い兵士の頭にT字照準線を合わせる。あと数秒すれば弾は放たれる。だが突然、果樹園がざわついた。機関銃手が飛び上がり、整列して気をつけの姿勢を取る。1分後、ひさしのついた帽子を被った将校が数人やって来た。そのうちの1人が眼をひいた。口に紙巻タバコをくわえている。帽子の縁に金色の帯。右肩に金色の飾緒。

 距離は分かっている。約300メートル。無風。気温は14度。ジークリンデは獲物を機関銃手から飾緒のつけた将校に変更し、息を止める。そして滑らかにトリガーを引いた。

 敵の将校は声も上げすに膝から崩れ落ちた。銃弾は将校の眉間に命中していた。機関銃手たちは斃れた将校のそばで狼狽していた。ジークリンデは二度、軽量弾を装填して2人の機関銃手を斃した。そして4発目に徹甲弾を使い、機関銃の機関部に命中させた。これで機関銃は使用不能になった。

 その時、ドミニクは彼方からかすかな射撃音を耳にしたような気がした。その方角に双眼鏡を向ける。小さな白色の発砲煙を発見する。息が止まった。驟雨に濡れた市街地を飛翔する7・29ミリの弾丸はドミニクの首を貫いた。指先から双眼鏡が落ちる。ドミニクは仰向けに倒れた。

「ニルソン二等兵!ドミニク!」

 伏射を続けていたジークリンデは倒れたドミニクにすぐに気づいた。

 ジークリンデは床を這ってドミニクの近くに行った。ドミニクの頬を両手で包む。身体が細かく震えている。切り裂かれた喉から鮮血が溢れ出す。動脈が切断されたに違いない。ドミニクが大きく息を吐き出す。

「ニルソン二等兵・・・」

 ドミニクが呻くように唇を震わせて何か言おうとしていた。ジークリンデは抱きかかえたドミニクの顔に耳を寄せる。苦しく吐き出される音しか聞こえない。ドミニクが眼を閉じる。身体から力が抜ける。ドミニクは動かなくなった。ジークリンデはドミニクの身体を静かに横たえた。



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[14]

 ジークリンデはドミニクから離れる。心の奥底から湧き上がる強い怒りにかられた。崩れた煉瓦壁の陰に半身を隠して狙撃銃を構える。市街地を見渡す。4倍の光学照準器で敵の狙撃手を探す。吐息で照準器のレンズが曇る。ジークリンデは指先でレンズの曇りを拭った。

《どこだ?どこにいる?敵の狙撃手は?》

 胸で鼓動は高鳴っている。トリガーにかけた指が震えていた。焦り。苛立つ心。敵は見つからない。ジークリンデは視野の狭い狙撃銃の照準器から眼を離す。双眼鏡で敵の狙撃手を探した。その場所はすぐに分かった。渓谷にかかる鉄橋。ドミニクが最後に見たであろう、小さな白色の発砲煙が見えた。

 数秒後、ジークリンデはヒュッという風切音を聞いた。次の瞬間、右肩に衝撃を受けた。野戦服が裂ける。ジークリンデは狙撃銃を落とし、身体が脱力して床の上に崩れた。右肩に焼けるような暑さがあった。傷は浅い。

 発射時に高熱となった弾丸はジークリンデの右肩を擦過していた。身体の位置がほんの数センチ高ければ、右肩に食い込んでいただろう。片腕で傷口を抑える。指の間からじんわりと血が流れ出す。出血はしばらく続いた。床に仰向けになる。

 敵が獲物―自分たちの生死を確かめに来るかもしれない。ジークリンデは斃れたドミニクの傍まで這っていき、ホルスターから九ミリ拳銃を抜いた。最悪の事態に備えて携行していた物だった。遊底(スライド)を引き、薬室に銃弾を送り込む。

 砲撃が続いている。小銃の発射音はまだ遠い。敵が踏み込んできたら撃つ。その瞬間を待ちうけている間、ジークリンデはふと思い当たる。

 敵の狙撃手はジークリンデたちが機関銃を狙っている間に来ていたのだ。そして渓谷の鉄橋からドミニクを一撃で斃した。だが、自分に対しては銃弾をわざと外した。不意にジークリンデはそう思った。右肩を掠めた銃弾がメッセージを意味する。脳裏に《まさか》という思いが払拭できず、そうとしか思えぬ強い確信に変わった。

 ドミニクの死に打ちのめされた。ジークリンデは鉛色の雲を眺め続けた。遠くに響く砲撃や小銃の喧騒も、もう気にならなかった。眼を閉じる。そのまま殺されても構わない。そんな気持ちだった。傷を負った今はとても疲れ果てている。ジークリンデはそのまま眠った。

 日没前、ジークリンデは寒さで目覚めた。空薬莢が転がる床。そして横たわるドミニクの遺体。肩に被弾したジークリンデは歩くことはできたが、腕は使えなかった。ドミニクの亡骸を運ぶのは無理だった。ジークリンデは自分だけ帰隊することは考えていなかった。独りだけ小隊に戻ればドミニクの遺体を収容するために、まだ敵の狙撃手が潜伏しているかもしれない地域に危険を冒して兵士を送り込むことはないだろう。あの司令がそんなことを許すとも思えなかった。

 ジークリンデはこの場所に留まることにした。帰隊時間を1時間以上過ぎれば、小隊の兵士が探しに来てくれるかもしれない。仲間を危険にさらして申し訳ない。しかしドミニクの遺体をちゃんと葬ってやるにはそれしか方法が無かった。

 ちょうど日没時、リーゲルが斥候班を率いてやって来た。

「撃たれたようだな」リーゲルは言った。

「ええ、肩をやられました。観測兵(スポッター)は・・・」

「ダメです、もう死んでます」

 ドミニクの遺体を確認した衛生兵が言った。

 ジークリンデは身体を起こした。遠くに見える渓谷の鉄橋を一瞥する。リーゲルがジークリンデの前で長身を屈み、右肩の銃創を調べる。

「ふぅん、傷は浅いな。歩けるか?」

「ええ」

「ニルソンのことは気にするな」

 衛生兵がジークリンデの右肩に応急手当を施す。リーゲルは周囲を警戒している兵士たちに集合を命じた。

「これからニルソン二等兵の遺体を搬送する。交代で背負え。落とさないように、ベルトで担架にしっかり固定しろ。負傷兵の装備品はヴィンクラー二等兵、貴様が運べ。一列縦隊で市街地を抜ける」

 斥候班は基地に戻った。リーゲルが歩きながらジークリンデに話しかける。

「司令官はもうこの街を制圧しようと考えてないらしい。目標を変えるそうだ」

「なら、どこを?」

「街の西に広がる山だ。ハルツ山脈というそうだ。早急に抑える必要があるらしい」

「あの山に何かあるんですか?」

「皇帝の別荘だ」



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