深紅の狙撃手《クリムゾン・スナイパー》 (伊藤 薫)
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プロローグ
[1]


 もうすぐ真夜中だった。基地を飛び立ってから1時間近く経っている。

 エーリヒ・カイルベルトは怯えていた。自分の人生で今より不幸な時はあったかもしれないが、それがいつかは思い出せなかった。こんなに恐怖を感じるのは初めてだった。エーリヒはこれから戦場に落下傘で降下する。そんなことは一度もしたことは無かった。息をするのさえ苦痛だった。

 恐怖の次に感じたのは恨みだった。エーリヒは苦々しい思いを噛みしめていた。戦争は終わったんだ。それなのに、自分は戦場に向かおうとしている。

 エーリヒは時速約770キロで飛行している爆撃機の中でうずくまっていた。

 パイロットと軍曹が天辺のドーム型コクピットに収まり、中尉が透明なアクリル樹脂で出来た機首の円錐部分にいた。二等兵であるエーリヒは機首とコクピットを結ぶ通路に固定された小さな椅子の上にしゃがみ込んでいた。パラシュートを背負い、5キロ近くある短機関銃を抱えている。ただでさえ狭い場所が耐えられないぐらい窮屈に感じられた。

 最悪だったのはハッチだった。もうすぐそこから飛び出していくことになるハッチはキチンと閉まらないらしく、ガタガタ揺れながら冷気を機内に送り込んでいた。だが、このオンボロ爆撃機でガタガタ揺れていない物などあるだろうか。この飛行機は木製だった。

 通路の先に座っている中尉に眼を向ける。中尉については苗字しか知らなかった。キルヒアイス。中尉の肩に白い物が舞っていた。白い物って何だ。雪に決まっているだろう。この間抜け。エーリヒは胸中で呟いた。

 その時、通路が傾いた。エーリヒは機体が降下するのを感じた。一瞬、胃が浮き上がる。自分たちが今、ハルツ山脈の上空を飛んでいることに気づいた。

 突然、軍曹が頭上に現れた。通路に降りて来るなり、邪魔な物をどけるような感じでエーリヒを脚で乱暴に小突き、ハッチを開けた。冷たい夜気が吹き込んでくる。エーリヒは軍用コートを身体にかき合わせた。冷気が身体に潜り込んできて鳥肌が立つ。身体が震える。

 エーリヒが腰かけている座席にはインターコムの差込口が無かった。3人の上官たちが道中ずっと何か話している間、エーリヒは独り機体の薄暗い通路に腰かけ、訳も分からず取り残されていた。軍曹が装備のチェックを始める。きっと目的地を見つけたに違いない。

 キルヒアイスがそばに立った。通路を這って来たのだ。キルヒアイスが激しい身振りで何かを伝えようとしていた。少し興奮しているように見える。エーリヒは恐怖と嫌悪と寒さで何も感じていなかった。ひたすらだるかった。

 キルヒアイスが軍曹のイヤホンをエーリヒの耳に押し込んだ。自分の口許のマイクに向かって話した。

「目的地に着きました。上空を1回旋回して、目的地の西にある野原に降ろしてもらいます。リーゲル軍曹が最初に出ます。次が私、あなたは最後になります。着地したら、岩壁の向こうに4階建ての凝った装飾の建物が―」

「《ヴォータン》から《ヘルムヴィーゲ》、あと30秒で降下だ」

 パイロットがキルヒアイスの声に被せるように言った。

「敵は向かいの山から中庭を狙って撃つつもりでしょう。私たちはちょうどその反対側から近づいていきます。グリューネヴァルト伯爵夫人が屋敷の中庭に姿を現す前に着かねばなりません。分かってますね?」

 エーリヒは弱々しくうなづいた。

「高度は約180メートルで飛び出します。パラシュートの開き綱を引くのを忘れないように。これは自動索ではありませんので」

「あと10秒だ、《ヘルムヴィーゲ》」

 3人とも顔は戦闘用のペイントで塗りたくられている。ウールで出来た山岳猟兵用の防寒帽を耳まで被っていた。リーゲルが両手の親指を立ててみせる。これからたった3人で皇帝フリードリヒⅣ世の寵姫であるグリューネヴァルト伯爵夫人の暗殺を阻止しなければならないというのに。いかにも戦争をするぞといった感じの仕草だった。

「行け!《ヘルムヴィーゲ》、飛ぶんだ!」

 リーゲルがハッチから飛び出した。キルヒアイスがそれに続いた。

 刹那、ある考えがエーリヒの脳裏を過ぎった。このまま通路に腰を降ろし、パイロットと一緒に基地に帰ることも出来る。だが、そんなことを考えている間にも脚は勝手にハッチの前に立っていた。そして、エーリヒはそのまま静寂の中に落ちていった。



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第1章:The Hunter Becomes The Hunted.
[2]


 2週間前―。

 惑星テルペニアは銀河帝国の要衝イゼルローン要塞から、自由惑星同盟(フリー・プラネッツ)の方角へ約10光年を進入した宙点(ポイント)に位置している。寒冷の惑星でごく短い春と秋があり、大半は冬の領域に入っていた。後年の戦史研究家たちから、この星における一連の戦闘は「冬戦争」と呼称されている。《シグルド》と称される帝国軍の前線基地が大陸の一つに設けられたのは帝国暦485年、宇宙暦794年のことだった。

 その年の7月、ジークリンデがこの基地に着任した。

《シグルド》基地は連隊レベルのささやかな軍事施設だった。司令官の階級は大佐。名前はハンゼンといった。ジークリンデは司令室で官姓名を名乗り、着任の挨拶をした。

 ハンゼンの年齢は40代前半。不機嫌な印象を与える男だった。顔の血色も悪く、眼光も活力が欠けているように見えた。ジークリンデの敬礼に片手で応じる。眼は机上の書類に向けたままだった。

「まず貴官はなぜここに派遣されたか、十分に分かっているのか?」

「はい」

「過去はどうあれ、ここでの貴官は一介の新任中尉に過ぎない」

「心えております」

「幼年学校では成績が良かったようだな。過去に輩出した女性士官の中ではトップか。特に得意だったのが・・・」

「狙撃であります」

「ならば、その腕を存分に生かすことだ」

 ハンゼンは机上に置かれた電話を掴んだ。

「軍曹をここに呼んでくれ」

 数分後、司令室に入って来たのは2メートル近い身長を持つ偉丈夫だった。その偉丈夫がジークリンデの横に立ち、野太い声を出した。

「リーゲル軍曹、まいりました」

「彼女を補給廠に案内したまえ、軍曹」

 ハンゼンはジークリンデに顔を向ける。

「貴官には着任早々であるが、さっそく夜間の斥候任務に就いてもらう。そのために班を組んで任務に当たれ。班の指揮官は貴官である」

 ジークリンデはリーゲルの案内で、基地の補給廠に向かった。道すがら非番の兵士たちがリーゲルに敬礼するが、ジークリンデの姿を見るなり思わず立ち止まったり、振り返ったりする者がいる。リーゲルが低い声で笑った。

「ヘッヘッ、みんなアンタの姿を見て驚いてるぜ。ここじゃ女は珍しいからな」

「もう慣れてますから」

 とにかくジークリンデは目立つ存在ではあった。帝国軍内で前線に立つ女性兵士といえば衛生兵、看護兵や通信士ばかりだった。ジークリンデは軍服の右袖に狙撃手章を付けているが、狙撃手章は狙撃で20名以上の敵兵を斃した将兵に贈られる勲章で、その授賞者は男性の狙撃手でも少ない。ましてやジークリンデは身長が175センチあり、燃え立つような赤毛のショートカットが映えていた。

「ところで、アンタはこの戦役が叛乱に対する討伐であることを知ってたかい?」

「ええ。行きの艦の中で聞きました」

 この年の3月に勃発したヴァンフリート星域における自由惑星同盟との会戦は帝国軍の勝利に終わり、多くの司令官が戦功により昇格を果たしたりもしたが、完全な勝利を収められなかったことに対する生贄も必要とされた。

 今回、その生贄が惑星テルペニアに置かれていたトーポリ要塞となった。要塞司令官は代々、テルペニアの領主でもあるヴェーバージンゲ伯爵家の当主が務めていた。現当主のミヒャエル・ヴェーバージンゲ中将率いる艦隊はヴァンフリート星域会戦において、自由惑星同盟の第五艦隊を取り逃がしたのである。帝国軍統帥本部はそのことに対する懲罰として、ヴェーバージンゲ中将から要塞司令官の権限を剥奪しようとした。

 弁明の機会も与えられず、一方的に下されたこの懲罰を不服に思ったヴェーバージンゲ中将はひそかにかき集めていた《髑髏師団》と称する私兵を動員し、帝星オーディンから派遣された要塞駐留艦隊を追い返してしまう。統帥本部はヴェーバージンゲ中将の行為を帝国に対する叛乱とみなし、駐留艦隊に対してただちに討伐を命じたのである。



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[3]

「まあ、討伐とはいったが、今ではもう残党狩りみたいなもんだがな」

 リーゲルは現在の戦況について説明を始める。

《髑髏師団》は現在、瓦礫の山と化したドレヴァンツという工業都市とトーポリ要塞を含めた数十平方キロの戦線に追い詰められているという。ドレヴァンツは《シグルド》基地が置かれた大陸北部に位置するヴァルダイ丘陵にあり、イリメニ湖とセリゲル湖という2つの湖に挟み込まれている。

 ジークリンデは口を開いた。

「さっそく夜間の斥候に出るという話ですが、戦況が逼迫してるのですか?」

「司令官はアンタに説明しなかったんだな」

「何を?」

「敵の師団に凄腕の狙撃手がいるんだ。今までコッチの将校が何人も殺されてる。奴さんは将校しか撃たんのだ。こう言っちゃなんだが、アンタは囮だ。これまでこっちは夜間の斥候任務で狙撃なんかしたことなんかないからな」

「敵をおびき出すというわけですね」

「そうだ。今夜、アンタが暗視装置を着けた銃で敵を狙い撃ちにする。そうすれば、必ず向こうの狙撃手も動き出す」

 そして、うまくいけば私を殺すことができる。ジークリンデはそう思った。

「それがあなたの思惑ですか?」

「思惑というか、勝手な想像だ。ウチの司令官は以前、憲兵隊にいたというから何を考えてるのかホントのところは分からんが・・・まずはアンタの腕前を見せてほしい」

 いつもこれだ。ジークリンデはそう思った。軍内では女性であるだけで目立つ存在であったが、ジークリンデは幼馴染とともに数々の戦功を立ててきた。それに伴い、階級の昇格も同期と比較して早い方だった。周囲からは「虎の威を借りる女狐」と陰口をたたかれることもあった。常に実力で排除しなければ、軍隊には生き残れない。そうした諸々の感情を胸の裡で押し殺して、ジークリンデは口を開いた。

「分かりました。どこでやりますか?」

「練習場があるから、そこで」

 射撃練習場は補給廠に隣接した予備倉庫だった。長屋風の建物は天井が低く、屋根のすぐ下にある窓には鉄格子がついていた。銃器を収める鍵つきの戸棚が並ぶ小さな武器庫と弾薬用の金庫。分厚い木製の防護板が何枚かあり、その上にターゲットが貼られている。

 リーゲルはテーブルの上に置かれていたワインの空き瓶を3つ手に取り、倉庫の奥に向かって歩き出した。射撃線から200メートルの地点に空き瓶を置き、リーゲルは銃器棚の1つを開ける。棚から取り出したのはライフルだった。新品のようだった。

 長さは1メートル余り。カバノキの大きな銃床に太い銃身。首都オーディンの造兵廠で製造されたTOZ-8「メルカシュカ」ライフルだった。信頼性が高いボルトアクション方式で、重量も1・5キロしかないために扱いやすい。ジークリンデが幼年学校の狙撃課程で初めて手にした小口径の狙撃銃でもあった。

 ジークリンデはライフルと銃弾を3発受け取る。銃弾は口径5・6ミリのリムファイア弾。初弾を薬室に装填し、膝射の姿勢を取る。右膝を地面につけ、踵に体重をかける。左腕の肘下にスリングを回して、ライフルをしっかりと支える。床尾を肩のくぼみに当て、トリガーに人差し指をかけて頬を銃床の上部に押し当てた。

 ジークリンデは照準器のアイピースを右眼で覗き込んだ。ライフルに取りつけられたPEスコープの倍率は4倍。空き瓶は3本の黒い照準線の間でかすみ、太字のピリオドのようにしか見えない。直感に頼るしかない。

 標的(ターゲット)を感じる。これは狙撃課程で教官から教わったことだ。標的は8秒以内に撃つ。

 ジークリンデは息を止める。狙いを定める。息を吐き、トリガーを滑らかに引く。次弾を装填する。それを3回繰り返した。

 パンという音と共に、銃弾が発射される。肩に軽い反動を感じる。

 空き瓶が砕ける。細かい破片が陽光を浴びてキラキラと輝いた。

「アンタは正真正銘の靴屋の親方(マイスターシュースター)のようだな」

 リーゲルの感想に、ジークリンデは思わず訊き返した。

「《靴屋の親方》?」

「ああ、つい興奮しちまって訛りが出ちまったな。狙撃の名手(マイスターシュッツェ)ってことだよ」



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[4]

 夜間斥候を担当する小隊の編成はほとんど喜劇に近かった。

 ジークリンデの小隊に新しくやってきた兵士たちの驚きは特に大きいようだった。終始こんな具合だった。4人の若い兵士がジークリンデの小隊に編入された。まだ士官学校を卒業したばかりの新兵たちだった。4人の兵士が兵舎に駆け込んできた。

 ジークリンデは狙撃教則に眼を通し、丘陵地が多い地方での射撃について学んでいる最中だった。リーゲル軍曹は他の3人の兵士と一緒に銃を点検している最中だったが、4人の新兵には空いているベンチに座るよう勧めた。4人は地面に背嚢を置き、のんびりとした風情で壁のベンチに腰を下ろし、辺りを見回し始めた。

 新兵たちはジークリンデの姿に気づくと顔を見合わせる。一斉にニヤついた。

「君もこの小隊に配属されてるのかい、お嬢さん?」1人がそう聞いた。

「ええ」

「そりゃすごいな!」彼は仲間たちにウィンクした。「俺たちはアタリだな。なんてイカす衛生兵だ!ホントに美人さんだな。君にクギづけってところだ。仲良くしようぜ。俺はロベルト。君の名前は?」

「ジークリンデよ」

「やあジーク、そうしかめっ面するなよ。兵隊さんにはもうちょっと優しくするもんだ。悪いことは言わないからさ」

 ジークリンデは苛立ちを抑えながら低い声を出した。

「そうして欲しければ、軍の規則に従いなさい。気をつけの姿勢で私の前に整列して自分たちが到着したことを指揮官に報告しなさい」

「指揮官はどこだよ?」

「私よ」

「ジーク、からかうなよ。そんなことあるわけないだろ」

 この時、新兵たちの頭上にリーゲル軍曹の雷が落ちた。

「コラ、大バカ者どもめ!それが上官に対する態度か!その場で腕立て伏せ50回!30秒以内ですませろ!」

 4人の新兵たちは訳が分からないといった表情を浮かべ、地面に手を付き、腕立て伏せを始めた。リーゲルは4人が時間内に所定の回数を終えるまで、罵声を浴びせ続けた。それが終わると、4人は這う這うの体で気をつけの姿勢で整列し、官姓名を名乗った。ジークリンデは指揮官として初めての訓示を行った。それでも新兵たちの顔には、まだ驚いた表情が貼りついたままだった。

 最後にリーゲルは皮肉っぽい口調で付け足した。ジークリンデは苦笑を浮かべた。

「言っておくが、我らが指揮官は常に本気であり、下らない冗談は好まない。ふざけたことをすれば、脳天に鉛玉をぶち込まれるだろう」

 ジークリンデは小隊に対して準備を命じた。新兵たちには新品の短機関銃2丁と替えのドラム式弾倉(マガジン)が3個ついた軽機関銃を支給された。ジークリンデが手に取ったのはSVT-40だった。装弾数10発の着脱式マガジンを備えたアサルトライフル。銃弾には口径7・92ミリの短小弾を使用した。

 銃器の他はスコップ、ナイフ、水筒、携帯食料、200発の弾薬と手榴弾5個をそれぞれ携行した。ジークリンデのベルトにも弾倉2個付きの拳銃がぶら下がっていた。しかし夜間偵察で拳銃が必要になるとしたら、それは事態が最悪に悪化した場合しか考えられない。

 夕暮れ時に小隊は基地を出発した。ジークリンデは装備の重量に耐えながら、ぎこちない足取りで狙撃地点まで徒歩で向かった。暗視装置は旧式の物しかなかった。背中にくくりつけた巨大なバッテリー。バッテリーと太い電線で繋がれたライフル。不格好な暗視用照準器。ライフルには二脚架も取り付けられている。だが、自分を嗤う者は誰もいない。ジークリンデには分かっていた。



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[5]

 闇夜。

 ジークリンデは地面に寝そべっていた。二脚架に載せたアサルトライフルの後ろで伏射姿勢を取り、肩に銃床を当て掌でグリップを包み込む。まだ肩と腕に鈍い痛みを感じる。旧式の暗視装置は本当に重かった。それを背負って基地から約四キロ歩いてきたが、銃とバッテリーの重みでスリングが鎖骨に深く食い込んできた。今は狙撃の邪魔にならないように、重たい装置は背中から下していた。

 空気は思いのほか冷たい。肌を刺してくるようだった。懸命に喘いでいる呼吸をコントロールしようとする。静穏は狙撃手の力強い味方になる。どんな状況下に置かれても、意志の力で自分を平常時の状態を持っていく。心と使命を一つにする。そのことを繰り返し教えてくれたのは、幼年学校にいた狙撃課程の教官だった。

 400メートル先で、キチンと耕された畑が小川に向かって落ち込んでいた。河川敷には小さな木立があり、草がぼうぼうと生えていた。ちょうど自然の漏斗といった感じで、土地が窪んでいる。不慣れな土地で、おそらくは恐怖を感じながら、こんなところにいたくないと願っている者はまず間違いなくそこにひきつけられるはずだった。

「あそこの畑だ、中尉。見えるか?」

 リーゲルが暗闇の中でジークリンデの横にしゃがみ込んだ。

「ええ」

「連中は5日のうち4日はあそこを通る」

 リーゲルは口数が多かった。神経質になっているのだろう。

「もっと近づくことも出来るが」

「距離は400メートルぐらいでしょう。ちょうどいい」

「照明弾は?」

「軍曹、照明弾は要りません」

「援護射撃が必要なら、右側に機関銃チームを配置してある。分隊長は信頼できる男だ。俺は残りの隊員と一緒に左側にいる」

 リーゲルの顔はジークリンデと同じように、油性の戦闘ペイントで塗りたくられていた。星明りの下で、眼だけが白く輝いていた。

「連中はいつも11時ごろやって来る。あと数時間だ。ここがコッチの戦線の弱点だと連中は考えているんだな。こっちがわざと通過させてやっているとも知らずに」

「明日からは敵も近づこうとはしないでしょう」ジークリンデは笑った。「新兵たちにはじっとしているように伝えてください。撃ってはダメです。これは私の作戦ですから。分かりましたか?」

「分かってるよ」

 リーゲルは姿勢を低くしたまま、その場から去って行った。

 この方が良い。ジークリンデは出来ることなら、こういう時に独りで過ごしたかった。自分だけの時間だ。頭をすっきりさせ、筋肉をほぐす。標的に狙いを定めたライフルとの一体感を高めていく時間。

 ジークリンデはじっと横たわっていた。時おり風が感じられる。ライフルのトリガーに手をかけたまま、眼の前に広がる闇をじっと見つめる。ジークリンデは森の音に耳を澄ませた。針葉樹の間を吹き抜け、カサカサと葉を揺らしていく風のざわめき。

 二脚架に載せたアサルトライフルを前後左右に動かす。自分の動作にすばやく反応するかどうか確認した。暗視装置の照準器にかかっている覆いを取り外す。バッテリーのスイッチを入れる。ジークリンデはゆっくりとボルトを押した。ボルトはギクシャクと銃身の中を滑る。かすかに抵抗を指先に感じる。カチッと音がしたところで手を停める。射撃の切り換えスイッチを確認する。セミ・オートマチック。ジークリンデは安全装置を外した。

 気分が良かった。いつまでも標的を待てそうな気がする。いつもこんな風に任務に就けたことはなかった。樅の枝の間から、夜空に冷たく輝く星を眺める。突然、闇の中から何かが襲いかかってくるような感じがする。視界が一瞬ぼやける。

 雨に濡れた身体が冷え切っていた。凍てつくように寒い。首都オーディンの記憶が脳裏によみがえって来る。絶望の時だ。



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[6]

 2か月前―。

 その日の夜、帝都オーディンの市街地は雨が降っていた。

 ジークリンデはリンベルク・シュトラーゼの下宿に帰る途中だった。雑踏に身をまぎらせながら辺りに注意を払った。最近、ジークリンデは誰かに監視されていると感じていた。街。軍務省。新無憂宮(ノイエ・サンスーシー)。いたる所でジークリンデは監視者の圧力を感じた。

 脳裏には幼馴染の忠告が点滅していた。その幼馴染はグリンメルスハウゼン子爵が開いた大将昇進の私的な祝賀会に出席した際、リューネブルクと決闘になりかけたが、その場は会場の警備を担当する憲兵隊の大佐に収められたという。幼馴染とリューネブルクはヴァンフリート4=2の地上戦以来、浅からぬ因縁があった。幼馴染は言った。

「ここまで来ると、リューネブルクの奴が何をするかわからん。よもや刺客が仕向けて来くるとも思えんが。身辺に注意しろよ」

 ジークリンデは庭園に足を踏み入れた。下宿への近道だった。庭園内の池にかかる小さな橋を渡る際に、ジークリンデは探していたものを見つけた。見覚えのある男がいた。小脇に箱を抱えている。男は橋の上、数メートル先を歩いている。以前にどこで見かけた顔だったか思い出そうとし、素人じみた監視ぶりが気になった。

 次の瞬間、男がさっと振り向いた。包装紙と箱が橋の張板に落ちる。カチンという大きな音が響き、刃が閃いた。男がジークリンデの方に足を踏み出した。

 ジークリンデは咄嗟に身体を捻った。次の瞬間、ナイフがわずかに頬を掠めた。ジークリンデの素早い動きに、男は一瞬バランスを崩した。ジークリンデはすさかず男の脾腹に左の拳を叩き込む。続けて右の拳で顎を下から打ち抜いた。男は呻きを漏らしてよろめいたが、ナイフはまだ握っていた。ジークリンデはナイフを奪おうとした。男はさっと逆手にナイフを持ち替えた。再び刃がきらめいた。今度は鋭いナイフが肘のすぐ上を捕らえ、軍服とその下のワイシャツを切り裂いて血を滴らせた。

 男が前進する。ジークリンデは軍服のタイトスカートの裾を引き裂き、後退した。降り続いている雨の音が全てを呑み込む。足元は滑りやすかった。ジークリンデは自分の感覚が麻痺しつつあることを感じていた。

「なぜ、私を襲うの?」

「恨むなら、金髪の孺子(こぞう)を恨め」

「どうして?」

「ペーネミュンデ夫人のためだ」

「男爵夫人か?」

「そうだ」

 男が動き出した。その時を待ち構えていたジークリンデはナイフを払いのけようと、拳を突き出す。男が首を横に傾げ、拳をかわした。空振りしたジークリンデは勢いよく、橋の欄干に飛びついた。その直後、ジークリンデは身体に強い衝撃を感じた。脇腹にナイフが食い込んでいる。

 ナイフが引き抜かれる。喘ぎが漏れる。男がジークリンデの身体を引き寄せる。一瞬にらみ合った後、ジークリンデは渾身の力を振り絞って男の額に頭突きを食らわせた。

 凄まじい音が響き、ジークリンデは後ろへよろめいた。頭から血を流しながら、男は橋の欄干に寄り掛かった。ジークリンデはすかさず男の上腕を欄干に叩きつける。

男がナイフを手離した。ジークリンデはそのナイフを掴んだ。身体が自動的に動いたような感覚だった。ジークリンデはナイフを男の胸に叩き込んだ。

 男は悲鳴を上げる。ジークリンデの軍服の襟を掴む。身体が引きずり回された。軍服が腰まで裂ける。ジークリンデはまたナイフを突き立てようとしたが、男はがっくりと項垂れて身体がのしかかる。ジークリンデは男の身体を払いのけた。雨に濡れた張板の上で脚が滑ったのか、男がその場に転倒して動かなくなった。

 ジークリンデはいきなり脚に力が入らなくなるのを感じ、橋の上で凍り付いた。ジークリンデは自分の身体を見下ろした。シャツが血でびっしょりと濡れていた。生まれて初めて感じる寒さだった。

 ジークリンデは搬送先の病院で憲兵隊に身柄を拘束された。容疑は殺人だった。幼年学校時代の学友たちが尽力して有能な弁護人をつけてくれたが、軍事法廷の判決を覆すことはついに出来なかった。大尉だった階級も中尉に降格された上、この星に送られた。

「中尉」

 暗夜。誰かが無線で耳元に囁いた。ジークリンデは回想から引き戻された。

「分かってます」

 照準器のスイッチを入れ、アイピースを覗き込む。暗視映像が眼の前に表れた。最初の1人が現れる。人間の形をした光の塊が緑色の暗闇を背景にユラユラと揺れている。さらにまた1人がその背後から現れた。続いて、また1人。

 ジークリンデは照準器の十字線を先頭の塊に合わせる。息を止めて狙いを定める。そして息を吐き、ライフルのトリガーを滑らかに引いた。



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[7]

 トーポリ要塞の外れに置かれた《髑髏師団》の司令部前では、テーブルに置かれた蓄音機から国歌が流れていた。広場には簡素な棺がいくつか並べられている。棺の中には帝国軍将校たちの遺体が横たわっている。ヴェーバージンゲ中将の直衛儀仗分隊が整列し、敬礼を捧げている。

 国歌の調べが広大な要塞陣地に虚しく吸い込まれていく。将軍の数歩後ろに立ち、棺を眺めているのはハインツ・トールヴァルト少佐だった。トールヴァルトはおもむろに要塞を見上げる。

 この要塞はかのルドルフ大帝が宇宙海賊を討伐していた頃に建設されたという。当時は要塞となる人工天体を建造する技術がそれほど発達しておらず、生命が生存可能な星々に宇宙港として要塞を数多く建設した経緯があった。

 やがて音楽が終わった。《髑髏師団》の参謀長を務めるエルヴィン・ランツ大佐が将軍の方を向いた。

「司令官、お願いします」

 ヴェーバージンゲが進み出る。

 将軍の顔は疲労が色濃く見える。極度のストレスに晒され続けた結果だろう。眼の近くが時おり痙攣しているのが遠目からでも覗える。将軍は指で死体の蒼ざめた顔を撫でながら、それぞれの胸に戦傷章金章を付けていった。

 埋葬が終わる。ヴェーバージンゲは従軍医を連れて要塞内の自室に消えた。トールヴァルトはランツと共に、司令部が置かれている要塞の地下室に入った。

「オーディンから狙撃手が送り込まれたようだ・・・」

 ランツがトールヴァルトと2人きりで向かい合った。ランツが口を開いた。

「昨夜、哨戒中の歩兵小隊が全滅した。撃たれた兵士の穴埋めに、8人の下士官を昇格させたばかりだというのに・・・」

「暗視装置を使ったんでしょう」トールヴァルトは言った。「もっともあんな物を使いこなせるような気骨のある奴がオーディンにいたとは驚きですなあ」

「もっとも君のように有名じゃない人間だと思うが、この星に来たということは、狙いは君だと思うがどうだろう?」

 ランツがトールヴァルトの胸に飾られた功一級狙撃手章を指し示した。

「でしょうな」

「この要塞もドレヴァンツもただの廃墟なのだ。戦略的な価値はすでに無いに等しい。しかし、将軍は要塞に固執しておられる。もう統帥本部との個人的な意地の張り合いでしかない・・・私はこの泥沼から出来るだけ早く抜け出したいのだ。師団が日毎に弱ってきているのが痛いほど分かるからな」

 ランツは机の上に広げられた地図に眼を向ける。

「とりわけ私が恐れるのは討伐部隊ではなく、将軍でね。従軍医の話では、将軍は師団の全兵力を動員して、ドレヴァンツを奪回すると考えているそうだ」

「師団の全兵力を?今はどのくらいでしたかな」

「500人足らずだ」

「奪回できますかね?そんな兵力で」

 ランツは首を横に振った。

「おそらくは無理だろう。奪回は出来ないだろうが、討伐部隊に十分な損害を与えることは出来る。それで講和に持ち込もうと考えているようだ。将軍はすでに討伐部隊にスパイを潜入させており、街の奪回を有利に進めることが出来るとか・・・」

「薬が効きすぎて、幻覚を見ておられるのでは?」

「とにかく、この戦いはさっさと終わらせなければならない。そのためにも、新たに送り込まれて来た狙撃手の排除が必要不可欠だ。何か策はあるのか?」

「まあ、お任せください」

 トールヴァルトは司令室を出た。向かった先は死体処理班がいる倉庫だった。軍医が安置台に屈み込んで、死体を検分している。死体は昨夜に殺害された哨戒班の1人だった。手術着とマスクを付けながら、トールヴァルトは軍医に歩み寄った。

「見つかりましたか?」

 軍医は死体の胸をY字形に切り開き、破壊された内臓の間を指で探っていた。

「ほら、少佐。おみやげだ」

 トールヴァルトは咄嗟に手を出した。押し潰されたような鉛の塊がゴム手袋に包まれた掌に転がった。茶色い液体状の物体がこびりついている。

「この茶色いのは?」

「おそらく軟骨だろう。その弾は脊柱に達して、脊髄を切断した」軍医は答えた。「そんな風に弾の先端が開くものなのかね?」

「普通の銃弾は体内で何かに当たると粉々になるか、そのままの形で貫通する。コイツはホローポイントとかソフトポイントですよ。人体に命中すると体内で膨らんで、こういう風に変形するんです」

 軍医は死体から摘出した銃弾をガーゼに包んでトールヴァルトに手渡した。

「貴官がそれに込められたメッセージを解読してくれることを祈ってるよ」



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第2章:魔弾の射手
[8]


 ラドミル・ハージェクは森の中を走っていた。

 木々が立てるちょっとした物音にもびくつき、油断なく眼を光らせてしまう。敵に見つからないように、夜に移動した。朝は小さな洞穴や茂み、巨岩のそばで眠りに落ちた。飢えに突き動かされ、木の根や果実を食べた。静寂の中、本能だけを頼りにあてもなくさまよい歩いた。周りは山で囲まれていた。山を避けて木が鬱蒼と茂るふもとを通った。逃げ出してから何日も経っていた。

 体力の消耗は激しかった。我慢して食べている木の根や果実だけでは、十分な栄養など望めない。最後は森が勝利を収めることは分かっていた。動けなくなるくらい衰弱したら、死ぬしかない。衰弱して気を失い、名も無い小川のそばで息絶えるのだ。

 服はボロボロになっていた。ブーツは分解しかけていた。ズボンはほつれ、生地が脂と汚れで光っていた。逃げている最中に背負っていた背嚢はどこかに捨てた。行動は生きている証だった。それが今までこの山で生活してきた教訓だった。とにかく動き続けろ。

 ある晩、雨が降った。すさまじい暴風雨だった。ハージェクは縮こまり、動くことができなかった。木々の向こうの地平線に稲妻が突き刺さり、雷が轟音を立てた。

 それから2日、空気には硫黄にも似たツンとした臭いが漂っていた。一度、森の中で開けた場所に出た。それは溢れるばかりの光に包まれていた。ハージェクは怖じ気づいた。じめじめした森のさらに奥深くに向かった。

 ハージェクは何度か道路を渡った。気が付かないうちに、宿屋か民家の敷地に迷い込んでいたこともあった。だが、管理人や兵士に会うかもしれないと考えただけで恐ろしくなった。ハージェクは再び森の奥深くに逃げ込んだ。

 体力が急速に衰えつつあった。果実と木の実とコケを口にしただけで長いこと頑張ってきたが、この二日くらいでだいぶ身体が弱くなったような気がしていた。

 ある朝、眠りから目覚めた。ハージェクはついに終わりが来たことを悟った。身体に力が入らなかった。周囲は風に吹かれてカサカサと音を立てる古木ばかりで、食べられる物は何も無かった。白くてささくれだった無数の枝が手のように絡まりあっていた。

 地面は冷たい薄皮のような落ち葉で覆われていた。ハージェクは土の上で仰向けに横たわったまま、木の枝を見上げる。円蓋の隙間から青い空がのぞいている。土の中で死ぬことさえ出来ない。

 何かの気配を感じる。ついに捕まったか。どれくらい逃げていただろう。

 ハージェクは最期の祈りを唱えようとしたが、何ひとつも思い出せなかった。もう何年も祈りなど口にしていなかった。

 幻覚が始まった。不意に男が眼の前に現れた。遠目からでも、その顔は疲れているように見えた。男の部下たちが捕虜たちに穴を掘るよう怒鳴っている。捕虜たちがようやく穴を掘り終えると、その穴の前に捕虜を並べて撃ち殺した。遺体は穴の中に消えた。その間じゅう、男は退屈そうに処刑を眺めながらタバコを吸っていた。像がはっきりとしない。男は肩に何かライフルのような物を吊るしていた。男たちの軍服には髑髏の徽章があった。

 ハージェクは今までの人生を回想しようとしたが、もはやその気力も残っていなかった。愛する人たちを思い出そうとする。いや、どうせ皆あの穴の中で死んでしまっている。自分が死んで悔やまれるのは彼らの記憶がどこにも存在しなくなることだ。

 兵士たちが陰の中から現れた。帝国軍だ。だが髑髏の徽章はない。

 空が見えなくなった。

 ライフルを手にした男が視界をさえぎった。ハージェクは銃弾を撃ち込まれるのを待ち構えた。男が「動くんじゃない」と言った。

 ほかの人影がぞろぞろと集まってきた。

「情けない野郎だな」誰かが言った。

「中尉、エーリヒがしょぼくれた爺さんを捕まえましたよ」

 別の人影が言った。

「無駄飯食いが、また1人増えたってわけか」



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[9]

 屋根裏部屋は半分壊れていた。

 曙光に部屋が照らされる。崩れた壁からぶら下がった時計が揺れている。もう一方の壁には自転車。この部屋を使っていた子どもなのだろう。ジークリンデはそう思った。子どもが大切にしていた空間がそのまま遺されていた。

 辺りはしんと静まり返っている。

 砲撃で空いた穴から市街地の景色を見渡せる。いかにも奇妙な感じだった。煉瓦や瓦礫の山の様子から、あっという間に破壊されたことが分かる。人の姿は見えない。しかし瓦礫の山の中には潜む眼がいくつもあることは分かっていた。狙撃銃の照準器。

 ジークリンデは砲弾で吹き飛ばされた家の残骸に潜んでいた。銃身は瓦礫混じりのボロ布で覆われている。狙撃銃を伏射姿勢で構えているジークリンデの姿も壊れた煉瓦の埃にうずくまって敵からは何も見えないはずだった。埃に隠れている銃はシュレスヴィヒ=マンフレートM1895。

 口径8ミリのボルトアクション式ライフルでいま狙っているのは、メケンジア通りに《髑髏師団》が造った塹壕だった。その辺りから薄く白い煙が上がっている。おそらく誰かが早朝の一服にタバコを吸っているのだろう。ジークリンデは銃口を向ける。

 倍率4倍のヘーネル望遠照準器にしっかりと眼を当てる。巨大で鮮明なイメージが眼の前に浮かび上がる。帝国軍のヘルメット。タバコを吸っている老兵の顔があった。野戦服の襟に髑髏の徽章。《髑髏師団》の兵士だ。疲れ切っているのか、頬が赤くうっ血している。距離は約四百メートル。スコープに描かれたT字型照準線をゆっくりと動かす。汗で髪が張りついた老兵の顔に狙いを定める。

 息を止めて狙いを定める。そして息を吐き、トリガーにかけた指を力に入れる。

 不意に、老兵は塹壕の中で背後を振り返った。誰かに呼ばれたのか。自信たっぷりにふざけた表情を浮かべる。トリガーにかかった指から力が抜ける。銃身が下がった。

 老兵がタバコを消した。ジークリンデはそのまま塹壕の監視を続ける。

「今の標的、見逃したのか?」

 階下からリーゲルが言った。居間に開いた大きな窓から双眼鏡でジークリンデが狙っていた塹壕を見ていたのだろう。ジークリンデが潜んでいる屋根裏は中二階にあり、そこから手すり越しに居間が見下ろせる。

「ええ」

「どうして?」

「相手は後ろに振り向きました。その瞬間に撃ったら、塹壕にいる他の兵士に自分たちが狙われてることに気づかれます。もう二度と塹壕から顔を出したり、あそこの塹壕を使わなくなるかもしれない。それに・・・」

「それに?」

「階級章がアナタと同じ軍曹でした」

「まあ、あれはアンタが狙うべき獲物じゃなさそうだしな」

 ジークリンデは敵の狙撃手を探していた。リーゲルが新兵を揺り起こしている。

「おい、ロベルト。起きろ。貴様、いつまで寝てるつもりだ」

 すでに陽が高くなっていた。照準器に映る兵士たちの顔に緊張が走る。それはいつもと変わらぬドレヴァンツの朝だった。朝の訪れが戦闘の開始を告げ、たった1つの楽しみでもある食事が配られる。それがわずかに缶1杯のスープであろうが、再び生きて温かい食事を摂れる幸せを感じることができる。

「そろそろメシの時間じゃないか?」リーゲルが言った。

「自分が取ってきます」

 新兵のロベルト・ホフマン二等兵が答える。配属された時にジークリンデを看護兵に勘違いことをいまだにリーゲルに揶揄われ続けている。ロベルトが立ち上がる。

「待て」

 リーゲルは小さなノートを取り出した。補給担当の軍曹宛てにいくつか必要事項を書きつける。そのメモをロベルトに手渡しながら言った。

「偉大なジークリンデのためだと言え。メシの配給が倍になるだろう・・・ここに戻ってこいよ。俺たちはこの辺にいるからな。いいな、途中で食ったりするなよ」

 リーゲルが言い終わる前に、ロベルトは姿を消していた。



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[10]

 トールヴァルトは早朝、ドレヴァンツの前線司令部を訪れた。戦前はホテルとして使用されていた6階建てのビルに戦闘指揮所が置かれていた。前線から送られてくるあらゆる情報をオペレーターたちがメモに起こし、次から次へと各所に通信している。

 食堂に入る。軽い食事をとった後、トールヴァルトはタバコに火をつけて一服した。

「少佐、お話があります」

 トールヴァルトが顔を上げる。

 テオ・アダムが眼の前に立っていた。かつて憲兵隊にいたこの男は品行方正とは言えない過去の持ち主で、占領地で婦女子に対する暴行や略奪を働いたという噂が立ち、それが基で憲兵隊を追い出されていた。不快な気持ちを抑えて「何だね、軍曹」と答えた。

「小村を襲撃した際に、男を1人取り逃がしました。男は森に逃げた模様です。捜索隊を出してるのですが、未だ見つかっておりません」

「放っておきたまえ」

「しかし・・・」

「今ごろ森のどこかでくたばっているはずだ。捜索隊は呼び戻せ。それよりも市街地の西で戦線が破られそうだ。機関銃か何かで敵をけん制するように」

「分かりました、そのように手配します。それと、少佐」

「何だね?」

「《ザックス》から連絡がありました」

《ザックス》とは敵の司令部に潜伏しているスパイのことだった。アダムが続ける。

「今日、《女狐》は市街地に出てるようです。あなたは街に出ない方がよろしいかと」

「覚えておこう」

 アダムは食堂を出て行った。

 虐殺の記憶がトールヴァルトの脳裏をよぎる。アダムの部下が村民たちを穴の中においたてた。穴は村民たちが掘らされた。年老いた農民。両親とその子どもたち。子どもたちはひどく怯えている。老人たちはほとんどまともに歩けていなかった。穴の中に追いやられる男女や子どもたち。最後は若い娘たち。トールヴァルトはその日もタバコを吸っていた。

 アダムが構えていたのはMP-34と呼ばれる短機関銃だった。ボルトをロックして短機関銃をしっかり脇腹に押し付け、トリガーを引いた。銃弾が背中を切り裂いた。彼らは痙攣しながら穴の中に倒れた。銃創から鮮血が溢れ出し、全身が赤く染まっていく。子どもが身じろぎし、呻き声を上げる。アダムは指で切り替えスイッチを単発に戻し、その頭に1発撃ち込んだ。アダムは言った。

「どこかの下手くそな奴にやられるより、俺に撃たれた方がいいはずだ」

 その眼には嗜虐の色が浮かんでいた。

 アダムのような連中を使うことは心苦しい部分があった。あれは虐殺と呼んでもいい蛮行だった。全ては敵の狙撃手を誘い出すための方策なのだ。トールヴァルトはそう自分に言い聞かせた。虐殺から逃れた男は必ず敵と接触する。そして、トールヴァルトの標的となる狙撃手が登場する。あとは標的を仕留める舞台を整える。

 トールヴァルトは先日、兵器廠に立ち寄った。技官に《女狐》―敵の狙撃手に撃たれた遺体から摘出した銃弾を手渡して鑑定を依頼していた。技官はトールヴァルトを作業台に案内した。銃弾が置かれている。

「この銃弾は短小弾ですが、重さが143グレーンあります」技官は言った。「しかし鋼鉄が全く使われていません。純粋に鉛だけで作られています。とても柔らかい弾です。人体に対しては、最大限のダメージを与えることができます」

「敵はどうしてこんな弾を使ったんだと思う?」トールヴァルトは言った。

「この弾を銃身の溝がすごく深くて、しっかりと弾に食い込むようになっている銃で撃てば発射速度が遅くても、弾にたっぷりと回転をかけることができます。つまり―」

「精度が高くなる」

「そうです。しかも秒速700フィート以下で発射した場合なら、発射音もほとんどしなくなるはずです」

「この弾を使ってる狙撃手は自分の仕事をしっかりと心得てるようだな」

 トールヴァルトの脳裏に浮かんだ像は1つだった。幼年学校の狙撃課程にいた唯一の女生徒。深紅の狙撃手(クリムゾン・スナイパー)

「少佐殿」

 トールヴァルトは顔を上げた。今度は通信兵がトールヴァルトに報告してきた。

「この24時間の被害を報告します。駅構内で見張りが2人、北部で砲兵が1人、工場地区の第23歩兵師団で中尉が1人、集合住宅地区で工兵が3人撃たれました。それから少佐殿が興味を持たれそうな捕虜を1人捕まえたとのことです」

「まだ喋れるといいんだが」

 トールヴァルトは呟いた。



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[11]

 ジークリンデは小さな教会に向かった。ロングブーツの重い足取りは石畳を蹴る。さわやかな空気が意識を醒ます。ジークリンデは教会のドアノブを回して中に入った。

 黄昏を迎えた暗い教会の構内に、大理石の床を闊歩する靴音が響いた。教会の番人がジークリンデの姿に気づき、奥の部屋に消えていった。祭壇ごとに灯された燭台の前に立ち、独り静寂に包まれる。壁に聖母を描いた地味な祭壇画が飾られていた。ぼんやりと見える聖母はかすかに光る敬虔な面差しに悲しげな笑みを浮かべている。祭壇に歩み寄り、丸い蝋燭に火を灯して数歩後ずさる。両手を合わせ、眼を閉じる。

 身体がビクッと震えた。ジークリンデは眼を覚ました。見慣れた兵舎の天井。簡易ベッドから身体を起こす。背中が痛かった。艦隊勤務ならタンク・ベッドが使える。タンク・ベッドなら1時間寝ただけで8時間の睡眠に匹敵するが、地上勤務ではそんな大層なものは使えない。自分の方に屈み込んでいたリーゲルがにんまり笑みを浮かべている。

「睡魔は狙撃手の一番の敵だな。奇襲する時に装甲車の中で寝ちまって、眼が覚めたら敵の戦線から40キロ後方にいた奴がいるらしいぜ。知ってるかい?」

「いえ」

「最後にちゃんと寝たのはいつだ?」

 ジークリンデは肩をすくめる。

「ここでは夜が短い。お前さんの歳じゃ、もっと睡眠が必要だろうな。俺の場合はありがたいことに、もうそんな問題はない。眠らなくても済むようになっちまった。戦車の中で寝るような奴もいるらしいが」

 惑星テルペニアは自転周期が27時間であり、自転周期を強引に24等分して惑星地方時を採用していた。この討伐が惑星の地表で行う制圧作戦が主であり、ジークリンデは帝星オーディンの標準時に慣れた身体をこの惑星の環境に適用させる必要があったが、ここ数日間はよく眠れない夜が続いている。身体が環境に合わないだけではない。

 ジークリンデの戦果は目覚ましい勢いで増えていた。ドレヴァンツの市街地で3日間、叛乱軍の将校を19人撃った。だが、敵の狙撃手による損害は一向に減らない。そもそも敵の狙撃手が街に潜んでいる気配も感じられない。しかも昨日はジークリンデの部下が1人消えた。

「準備して出ます」

 今日は敵機関銃を一掃するよう命じられていた。敵の機関銃がドレヴァンツの西端から正確な銃撃を行い、味方の部隊が頭も上げられない程だった。

「道中、気をつけてな」リーゲルは言った。

 ジークリンデはうなずいた。やり場のない焦燥感は妄想となって表出する。言葉や音、風景、顔が夢の中で浮かぶ。それらの妄想がジグザグに脳内を走り抜ける。突然、眼の前に飛び込んでくる。自分と瓜二つの分身が対面している。ドッペルゲンガー。知っているのか知らないのか分からない誰かと共にいる感覚。

 いつも誰かがそばにいる感覚がする。自分の背後で聞こえるひそやかな息づかい。自分と同じ顔をしている。いつも楽しそうで、いつも自由にふるまう分身。最近、眠っている時に見る夢で度々現れる何か。横たわるベッドの数歩先に、透明な姿でジークリンデに微笑みかける少年の幻想。自分はその少年に呼びかけていやしないか。

 要するに、自分は焦っているのだ。ジークリンデはその事実をあっさりと認めるのはやぶさかでもなかった。幼年学校にいた狙撃課程の教官ならジークリンデの心情を容赦なく指摘し、笑い飛ばしてみせるだろう。

 ジークリンデは装備を検める。弾薬ベルトに「L」タイプの軽量弾と先端が黒い徹甲弾を装填する。徹甲弾を使うのは敵の機関銃手だけではなく、機関銃そのものも無力化するつもりだった。シュレスヴィヒ=マンフレートM1895は1発ずつ弾丸を装填して発射するシステムになっている。

 夜が明ける1時間ほど前、ジークリンデと観測兵は基地を出発する。



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[12]

 トールヴァルトは工事業者が使う物置代わりの小屋にいた。砲撃で穴が開いた壁から、双眼鏡でドレヴァンツの西に広がる市街地を覗いている。

 近くの果樹園では兵士たちが塹壕を堀ったり、土嚢を積んだりしている。その前方を戦闘配置の兵士が砲撃で破壊された瓦礫を盾に警戒している。今度は砲撃で屋根が吹き飛ばされた家の天井に焦点を当てる。

 その背後では捕虜がタオルを口に噛まされて、呻き声を上げ続けていた。アダムの部下の1人でレスラーのような体型をした兵士が縛り上げた男の首を太い腕で締め上げている。上下の腕と肘を効かせて男の首を後ろから羽交い絞めにする。男は二度、三度と簡単に失神する。顔をひっぱたいて叩き起こし、また首を絞める。外傷を残さない非常に効果的な拷問だが、今では憲兵隊でもさすがに誰もやる者がいなくなった。

 首を絞められる方は失神の回数が重なるたびに死の恐怖がつのっていく。捕虜は尋問を始めてから約1時間耐えているが、そろそろ意識も怪しくなりかけている。眼の反応も鈍くなっていた。尋問者は同じ質問を繰り返した。

「《女狐》は今日、どこにいる?誰を狙うつもりだ?」

 捕虜の顔は腫れ上がっていた。喋るのも億劫そうだった。

「そんなこと、分かるわけがない」

「なぜだ?」

 捕虜は答えなかった。尋問者がレスラーにうなずいた。レスラーがまた捕虜の首を絞める。何度目かの失神から目覚めさせられた男がしきりに首を振り始めた。額に脂汗を垂らして何か言おうとしていた。

「言うか?」尋問者は言った。

「常に移動しているんだ。どこにいるかなんて分かりっこない。10分前にこっちにいたかと思うと、今はあっちにいたって感じなんだから」

 トールヴァルトは捕虜を一瞥した。野戦服に縫い付けられた名前の刺繍を見る。

 ホフマン。昨日の昼間に哨戒中だった小隊がメケンジア通りの近くで捕らえた。前線司令所の一室でも同じ尋問を受けた後、この小屋に連行された。

「その通りだ、ホフマン二等兵」トールヴァルトは言った。「《女狐》は狙撃手だ。狙撃手は常に場所を移動する。私も含めて狙撃手はそういう風に躾けられているんだ。そのことを承知の上で、私たちは君に聞いている。《女狐》はどこにいる?」

 ホフマンは答えなかった。その腹にレスラーの足蹴りが飛ぶ。ホフマンは血の混じった胃液を吐き出してすすり泣いた。

「君の最後の砦はどこにあるんだ、ホフマン二等兵。私はそれを崩して見せよう。まず私が狙っている《女狐》は君の上官なのか?」

「違う」

「そうか。実は奴が君の上官だろうが、そうじゃなかろうがあまり関係はない。奴のことは手に取るように分かっているつもりだ。なぜなら奴を狙撃手として躾けたのは私なのだ」

 トールヴァルトはホフマンの反応を窺う。動揺したようなそぶりは見せない。

「《女狐》のライフルはシュレスヴィヒ=マンフレートだ。タイプはM1895。先日の夜襲で使ったのはアサルトライフルだが、それは稀だ。あの時は大勢の兵士を狙撃する必要があったからだ。照準器はヘーネル社の望遠照準器だろう。あそこの照準器は性能がいいからな。シュレスヴィヒ=マンフレートとヘーネル社の望遠照準器。この組み合わせで奴の腕前なら百発百中ってとこだろう。これじゃまるで私はストーカーだ。そうは思わないか、えっ?」

 周囲にいた兵士たちが低い笑い声を上げる。トールヴァルトもにやりと笑った。笑い声がおさまると、トールヴァルトは繰り返した。

「《女狐》はどこだ?」

「わからない」

「《女狐》は何を狙っている?例えば・・・この近くには機関銃座があるんだが、あれなんかどうだろう。ここ数日ずっと敵の進撃を阻んできた」

「わからない」

「なら、教えてもらおう」

 トールヴァルトは近くにいた兵士に命じる。

「服を脱がせろ。それとライフルを持ってこい」



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[13]

 ジークリンデはドレヴァンツの市街地に進出して射撃位置を確保する。砲撃で半壊した建物の瓦礫の中に身を隠した。床に伏せたジークリンデの傍らで、観測兵(スポッター)が崩れた瓦礫壁の合間から立膝の姿勢で双眼鏡を覗いている。

 今日の観測兵はドミニク・ニルソン二等兵だった。昨日、消息を絶ったホフマンと一緒にジークリンデの部下になった新兵の1人だった。ドミニクが双眼鏡で敵の狙撃手が潜んでいないか確認する。次第に驟雨が降り始め、身体が冷えてくる。ジークリンデはつい苛立った声でドミニクに尋ねた。

「まだ見つかりませんか?」

「申し訳ありません。もうすぐ終わりますから・・・」

 ドミニクは意外に思った。狙撃に入る前はまず敵の狙撃手の存在を先に突き止めるか、狙撃手がいないことを確認する。これが狙撃の基本原則である。真横に伏せているジークリンデ自身がドミニクに教えたことだ。ドミニクは敵の塹壕を越えて後方地域まで確認してから声をかけた。

「大丈夫です。敵の狙撃手はいないようです」

 あるはずの返事がなかった。

 ドミニクはジークリンデを一瞥する。ジークリンデは身体で抱くように温めていた狙撃銃―シュレスヴィヒ=マンフレートM1895を構え、照準器を覗き込んでいた。ジークリンデが遠目に見ていたのは市街地の奥に広がる山並みだった。野戦服から携帯していた軍用地図を取り出して広げ、眼を落とす。ハルツ山脈。

 山脈の手前にジッテル渓谷が広がる。その渓谷の両側の高い崖に鉄橋がかかっている。鉄橋の真ん中あたりは爆撃で破壊されて通行はできない。だが、あの高さは格好の狙撃場所になる。こちら側の前線と後方陣地を900メートル以上に渡って一望できる。

 嫌な予感がする。

 ジークリンデとドミニクは砲弾で屋根を吹き飛ばされた家屋の天井に潜んでいた。そこからいくつもの路地を重ねて敵の塹壕までの距離は約300メートル。空爆と砲撃で瓦礫と化した市街地の上を鉛色の雲が覆っている。焼け焦げた街が驟雨で濡れている。時おり、風に舞う雨粒で遠くの視界がぼやけてしまう。

 崩れかけた家の周囲にある果樹園に塹壕があり、三脚に乗った敵の機関銃が見える。その横には弾薬の箱。機関銃に望遠照準器が装着されている。

 午前7時に敵は見張りを交代した。小銃を持った兵士たちは獲物(ターゲット)ではない。ジークリンデは機関銃手が現れるのを待った。数秒後、ついに機関銃手が姿を見せた。3人がかりで機関銃の整備を始める。それから樹の下に腰をおろして金色の大きな梨を食べ始めた。果樹園の木々の下には梨が山ほど転がっていた。

 ジークリンデは3発だけ撃つことにした。そのうち1発は機関銃の銃尾を狙う。軽量弾を込めボルトを引いて装填し、瞳を照準器に寄せた。獲物―機関銃の三脚のそばに座っている背の高い兵士の頭にT字照準線を合わせる。あと数秒すれば弾は放たれる。だが突然、果樹園がざわついた。機関銃手が飛び上がり、整列して気をつけの姿勢を取る。1分後、ひさしのついた帽子を被った将校が数人やって来た。そのうちの1人が眼をひいた。口に紙巻タバコをくわえている。帽子の縁に金色の帯。右肩に金色の飾緒。

 距離は分かっている。約300メートル。無風。気温は14度。ジークリンデは獲物を機関銃手から飾緒のつけた将校に変更し、息を止める。そして滑らかにトリガーを引いた。

 敵の将校は声も上げすに膝から崩れ落ちた。銃弾は将校の眉間に命中していた。機関銃手たちは斃れた将校のそばで狼狽していた。ジークリンデは二度、軽量弾を装填して2人の機関銃手を斃した。そして4発目に徹甲弾を使い、機関銃の機関部に命中させた。これで機関銃は使用不能になった。

 その時、ドミニクは彼方からかすかな射撃音を耳にしたような気がした。その方角に双眼鏡を向ける。小さな白色の発砲煙を発見する。息が止まった。驟雨に濡れた市街地を飛翔する7・29ミリの弾丸はドミニクの首を貫いた。指先から双眼鏡が落ちる。ドミニクは仰向けに倒れた。

「ニルソン二等兵!ドミニク!」

 伏射を続けていたジークリンデは倒れたドミニクにすぐに気づいた。

 ジークリンデは床を這ってドミニクの近くに行った。ドミニクの頬を両手で包む。身体が細かく震えている。切り裂かれた喉から鮮血が溢れ出す。動脈が切断されたに違いない。ドミニクが大きく息を吐き出す。

「ニルソン二等兵・・・」

 ドミニクが呻くように唇を震わせて何か言おうとしていた。ジークリンデは抱きかかえたドミニクの顔に耳を寄せる。苦しく吐き出される音しか聞こえない。ドミニクが眼を閉じる。身体から力が抜ける。ドミニクは動かなくなった。ジークリンデはドミニクの身体を静かに横たえた。



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[14]

 ジークリンデはドミニクから離れる。心の奥底から湧き上がる強い怒りにかられた。崩れた煉瓦壁の陰に半身を隠して狙撃銃を構える。市街地を見渡す。4倍の光学照準器で敵の狙撃手を探す。吐息で照準器のレンズが曇る。ジークリンデは指先でレンズの曇りを拭った。

《どこだ?どこにいる?敵の狙撃手は?》

 胸で鼓動は高鳴っている。トリガーにかけた指が震えていた。焦り。苛立つ心。敵は見つからない。ジークリンデは視野の狭い狙撃銃の照準器から眼を離す。双眼鏡で敵の狙撃手を探した。その場所はすぐに分かった。渓谷にかかる鉄橋。ドミニクが最後に見たであろう、小さな白色の発砲煙が見えた。

 数秒後、ジークリンデはヒュッという風切音を聞いた。次の瞬間、右肩に衝撃を受けた。野戦服が裂ける。ジークリンデは狙撃銃を落とし、身体が脱力して床の上に崩れた。右肩に焼けるような暑さがあった。傷は浅い。

 発射時に高熱となった弾丸はジークリンデの右肩を擦過していた。身体の位置がほんの数センチ高ければ、右肩に食い込んでいただろう。片腕で傷口を抑える。指の間からじんわりと血が流れ出す。出血はしばらく続いた。床に仰向けになる。

 敵が獲物―自分たちの生死を確かめに来るかもしれない。ジークリンデは斃れたドミニクの傍まで這っていき、ホルスターから九ミリ拳銃を抜いた。最悪の事態に備えて携行していた物だった。遊底(スライド)を引き、薬室に銃弾を送り込む。

 砲撃が続いている。小銃の発射音はまだ遠い。敵が踏み込んできたら撃つ。その瞬間を待ちうけている間、ジークリンデはふと思い当たる。

 敵の狙撃手はジークリンデたちが機関銃を狙っている間に来ていたのだ。そして渓谷の鉄橋からドミニクを一撃で斃した。だが、自分に対しては銃弾をわざと外した。不意にジークリンデはそう思った。右肩を掠めた銃弾がメッセージを意味する。脳裏に《まさか》という思いが払拭できず、そうとしか思えぬ強い確信に変わった。

 ドミニクの死に打ちのめされた。ジークリンデは鉛色の雲を眺め続けた。遠くに響く砲撃や小銃の喧騒も、もう気にならなかった。眼を閉じる。そのまま殺されても構わない。そんな気持ちだった。傷を負った今はとても疲れ果てている。ジークリンデはそのまま眠った。

 日没前、ジークリンデは寒さで目覚めた。空薬莢が転がる床。そして横たわるドミニクの遺体。肩に被弾したジークリンデは歩くことはできたが、腕は使えなかった。ドミニクの亡骸を運ぶのは無理だった。ジークリンデは自分だけ帰隊することは考えていなかった。独りだけ小隊に戻ればドミニクの遺体を収容するために、まだ敵の狙撃手が潜伏しているかもしれない地域に危険を冒して兵士を送り込むことはないだろう。あの司令がそんなことを許すとも思えなかった。

 ジークリンデはこの場所に留まることにした。帰隊時間を1時間以上過ぎれば、小隊の兵士が探しに来てくれるかもしれない。仲間を危険にさらして申し訳ない。しかしドミニクの遺体をちゃんと葬ってやるにはそれしか方法が無かった。

 ちょうど日没時、リーゲルが斥候班を率いてやって来た。

「撃たれたようだな」リーゲルは言った。

「ええ、肩をやられました。観測兵(スポッター)は・・・」

「ダメです、もう死んでます」

 ドミニクの遺体を確認した衛生兵が言った。

 ジークリンデは身体を起こした。遠くに見える渓谷の鉄橋を一瞥する。リーゲルがジークリンデの前で長身を屈み、右肩の銃創を調べる。

「ふぅん、傷は浅いな。歩けるか?」

「ええ」

「ニルソンのことは気にするな」

 衛生兵がジークリンデの右肩に応急手当を施す。リーゲルは周囲を警戒している兵士たちに集合を命じた。

「これからニルソン二等兵の遺体を搬送する。交代で背負え。落とさないように、ベルトで担架にしっかり固定しろ。負傷兵の装備品はヴィンクラー二等兵、貴様が運べ。一列縦隊で市街地を抜ける」

 斥候班は基地に戻った。リーゲルが歩きながらジークリンデに話しかける。

「司令官はもうこの街を制圧しようと考えてないらしい。目標を変えるそうだ」

「なら、どこを?」

「街の西に広がる山だ。ハルツ山脈というそうだ。早急に抑える必要があるらしい」

「あの山に何かあるんですか?」

「皇帝の別荘だ」



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第3章:魔の山
[15]


 トールヴァルトはトーポリ要塞内の自室にいた。簡易ベッドに腰を下ろし、タバコに火を付けて一服する。質の悪いミュシアという名前のタバコだった。葉の詰め方が緩く、小枝がまじっている。時おり小枝が音を立てて弾けるが、トールヴァルトは以前からこのタバコが病みつきになっていた。

 書き物机の抽斗を開け、豚革の小箱を取り出す。小箱を開ける。箱の中には銅で出来た功二級鉄十字章が入っていた。八等級もある鉄十字章の中では最下等のクラス。何の飾りも無い簡単な造りだった。

 勲章をじっと眺める。あれが起きそうな感じがして怖くなった。だが不安は的中する。視界の隅にくねくねと身をくねらせる紐が出現した。紐は繊細なプリズムで造られているように煌めいている。眼の間を指でつまむようにして揉み、瞼を強く閉じる。

 思い返せば、事の始まりはこの眼の病だった。

 2年前、パリオン星系における地上戦でトールヴァルトは叛乱軍―自由惑星同盟の兵士257人を斃した。その戦果が認められて、皇帝から功一級狙撃手章を授かったトールヴァルトは一躍、英雄になった。さまざまなパーティーやサロンに門閥貴族たちの見世物として呼ばれた。

 ペーネミュンデ侯爵夫人が主催したサロンもゲストとして出向いた宴席の一つだった。立食中にトールヴァルトは突然、視界の一部を奪われた。瞼を閉じても、プリズムがまだ見えてちらついた。トールヴァルトはテーブルを離れ、近くのソファに腰を下ろした。ペーネミュンデ夫人が声をかけてくる。

「どうかされましたか」

「いえ、何でもありません。ちょっと疲れたんでしょう」

「お医者様に見せたほうがよろしくてよ。良い医者を紹介しますわ」

「痛み入ります、侯爵夫人」

 後日、ペーネミュンデ夫人から紹介された医師が本当にトールヴァルトの自宅を訪ねてきた。医師は皇帝の侍医団の一員であり、グレーザーと名乗った。トールヴァルトは自分で淹れた紅茶をグレーザーに勧めた。

「プリズムのようなものが見えるとね」

 グレーザーはそう言って紅茶をひと口含んだ。視界の隅に浮かぶプリズムについて、トールヴァルトはあくまでも友人から聞いた話として相談した。

「飛蚊症だろう」グレーザーは言った。「ちゃんと病院で診察した方が確実だが。貴官のご友人はいま何歳なんだね?」

「41、2ってとこです」

「なら飛蚊症だ」

「病気なんですか」

「老化現象の一つだ。年を取ると出てくる症状でね、病気とも言えない」

「治療法はあるんですか?」

「さっきも言ったが病気ではないから、年を取ったんだと諦めるしかあるまい」

 トールヴァルトは眼の前が真っ暗になるような感じがした。戦闘中に照準器で相手とプリズムが重なって見失うようになれば致命的だ。

「ところで、少佐」グレーザーは額にういた汗をハンカチで拭きながら言った。「今日は診察料をいただかないので、その代わりにと言っては何だが、我々の未来というか、ゴールデンバウム王朝の未来のために一つ骨を折ってくれないだろうか」

「何をしろと言うのです?」

「暗殺をお願いしたい」

「どなたの?」

「グリューネヴァルト伯爵夫人だ」

 この時、部屋のドアがノックされた。回想から引き戻されたトールヴァルトはタバコを足許に落として踏み潰し、「入れ」と言った。部屋のドアを開けた兵士が「参謀長がお呼びです」と告げた。

 要塞地下の司令部に入る。ランツの声は疲れ切っていた。聞いているのはトールヴァルトだけで他の兵士は無線を取り次いだり、戦況ディスプレイに向かっている。トールヴァルトはランツの顔を見る。ランツの気品ある顔は眼の周囲が震えていることに気づいた。

「貴官がここにいる理由は無くなった」ランツは言った。

「何故です?」

「ヴェーバージンゲ中将―総司令官閣下は覚悟をお決めになった。おそらく自決されるおつもりだ。だが、私にはまだ師団を指揮する責任がある。貴官はどこかに逃げるといい」

「失礼ですが参謀長、私にはやることが残っています」

 ランツはトールヴァルトの言葉をさえぎった。

「傷病兵を運ぶ宇宙船が用意されている。それに乗るといい」

「参謀長、私にも任務が残されています」

 トールヴァルトの低い声音に気圧されたようだった。ランツが心もち緊張する。

「では、貴官の認識票を預かる。もし貴官が死んだことが知れたら、敵の士気はどうなると思う?もし斃れるなら、すまないが身元不明の軍人として斃れてくれ」

 トールヴァルトは何も言わずに野戦服の上着を脱いだ。首から認識票がついた鎖と鉄十字章を外してランツに手渡した。

「それからこの功二級鉄十字章もお渡しします。当地での戦闘の初日に斃れた116歩兵連隊の少尉に死後贈られたものです・・・少尉は私の息子でした」

 トールヴァルトは司令部を後にした。



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[16]

 どこまでも続く真っ白な大雪原の片隅。ジークリンデは待ち続けていた。

 降りしきる雪は何もかも覆い隠して世界の輪郭を曖昧にする。遠くに見えるはずの地平線は空と交じり合い、全てがぼんやりしていた。凍てつく寒さだけが現実を感じさせる。

 大雪原の傍らに生える樺の木。その後ろにジークリンデは身を隠していた。じっと息をひそめる。大きすぎる毛皮の帽子とコートで小さな身体を包んでいる。寒さに頬を赤く染めた顔はまだ幼い。

 いま構えているのは、ボロ布が巻かれた旧いボルトアクション式ライフルだった。よく使い込まれて表面の黒色仕上げがところどころ剥げていた。古い銃はもちろん、少女の手には重すぎた。時おり照門に舞い散る雪がへばりついては融ける。

 頭上で鳥が鋭い声を上げて飛び立った。同時にジークリンデが狙いを定める照星のはるか向こうに、灰色の狼が姿を現した。ジークリンデと狼の間に1本の木がある。その木につながれた馬がいななきを上げる。手綱は木にしっかりと結わえ付けられ、逃げることはできない。狼が周囲を警戒しながら、必死の形相で暴れもがく馬にゆっくりと近づいていった。

「まっすぐに眉間を狙え」父が言った。「弾は1発しかないぞ」

 ジークリンデの小さな手に握られたライフルはかすかに揺れる。

 灌木の間から出てきた狼はなおも馬に向かってくる。馬は手綱を振りほどこうとして、さらに激しく暴れる。じりじりと馬に近づいた狼は身体を低くする。馬に飛びかかろうと身構える。ジークリンデは狼の頭に狙いを定める。トリガーに指をかける。掌でライフルが小刻みに震え始めた。トリガーを引くかと思えば、戸惑ったように指を離してしまう。

「引き金を引くんだ。いま奴を殺らなきゃ、お前がやられるぞ」

 父が押し殺した声で言った。声音は優しいが充分に切迫していた。じっとジークリンデの背後で見守りながら完全に気配を消している。司法省に勤める下級官吏である父だが、今は本物の猟師のように振る舞っている。ジークリンデは再びトリガーに指をかける。

「今だ!ジーク!撃て!」

 乾いた銃声が静寂を破る。

 ジークリンデは目覚めた。見慣れた兵舎の薄汚い天井が眼に入る。

 今日は普段と違う夢を見ていた。ジークリンデに狩りを教えたのは父だった。母は何も言わなかったが、父には反対していたようだ。幼い頃、初めて父に連れられて狼を狩った時は8歳だった。乾いた銃声はすぐ雪に吸い込まれて、周囲は静寂に支配される。その一瞬まで覚えている。

 父が自分に狩りを教えた理由は分からない。ただ、その後に母から父が男の子を欲しかったという話を聞いた。息子に狩りを教えるつもりだったようだ。ジークリンデに兄弟はいないが、実は母は双子を身ごもっていた。だが双子の片割れは母の胎内で亡くなり、ジークリンデだけが生まれた。そんな残酷な話を聞かされたのは、ジークリンデが隣家に住む下級貴族の幼馴染に誘われて、幼年学校に入る前日のことだった。

 この世に生を受けられなかった片割れは男の子だろう。両親に確かめたことはない。ジークリンデは漠然とそう考えていた。夢の中で突然、眼の前に飛び込んでくる顔。自分と瓜二つの分身。赤毛に青い眼をした少年が笑いかけている。

「中尉、手紙が届いてるぞ」

 ジークリンデはベッドから上体を起こした。手紙を持ってきたリーゲルに礼を言ってカセットを受け取り、機械にかける。

 手紙の送り主は両親だった。映像から語りかける両親は年老いていた。

 父は猟を辞めていた。体力がすっかり落ちてしまったからだという。その代わりにバルドル星系産のなんとかという蘭の栽培に勤しみ、自宅の庭にある温室を建て直したという。凝り性の父らしい。ジークリンデはそう思った。

 ジークリンデは手紙の返事を考えてみた。その時間だけ戦場にいることを忘れた。



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[17]

 ジークリンデの兵舎に来た下士官が「司令所に出頭せよ」というハンゼンからの命令を伝えに来た。手紙の返事をしたためたメモ帳を閉じる。

 ジークリンデはベッドから起き上がり、苦労して野戦服を着た。包帯を巻いた右肩が不自由だった。敵の狙撃手に観測兵を斃され、右肩を撃たれた。その時に肩を擦過した9ミリ弾は5センチほど皮膚を裂き、その下の肉を焼いた。ジャケットのボタンを閉じようとして脇腹の切り傷が眼に入る。傷だらけだな。ジークリンデは苦笑を浮かべる。兵舎にいる周りの兵士は気を遣って何も言わない。

 司令所に向かって歩き出す。踏み出す度に痛みがこめかみをつき抜ける。痛み止めは飲まなかった。感覚が鈍くなって任務に支障を来すことを恐れた。

 司令所にはハンゼンの他にもう1人、背丈はごく普通だが頑丈そうな身体つきの将校がいた。ハンゼンがジークリンデをその将校に紹介する。将校は第57歩兵旅団長のシュパイデル中佐と名乗った。シュパイデルはジークリンデをじっと見た。

「深刻な問題が発生した。それで、貴官のところに来たのだ」

 ジークリンデはうなずいた。

「わが旅団の戦区に敵でおそらく最高クラスの狙撃手が現れたようだ。この2日で5人撃たれている。5人とも将校で頭を撃ち抜かれている」

「隠れ場は判明しているのですか?」

「ハルツ山脈のジッテル渓谷に鉄橋がかかっている。その残骸から撃っているのではないかと思われる」

「あの鉄橋ですか!」

 ジークリンデは思わず大声を上げてしまった。

「鉄橋のことを知ってるのか?」シュパイデルは驚いて尋ねた。

「知っているとは言えませんが、私もあの橋に敵が潜んでいないかと考えていたのです」

「では、貴官ならどう考える?」

 シュパイデルは戦況ディスプレイまで来るように手招きした。渓谷の鉄橋がある戦域の大縮尺の地図と、旅団の部隊配置が表示されていた。シュパイデルがタッチペンで渓谷と北西部の一番狭い部分を横切る薄い黒線を指した。

「ジッテル渓谷はちょうど敵の本拠地―トーポリ要塞の裏手にある。わが旅団としては渓谷をおさえて、要塞を正面から攻撃する部隊と合流して敵を包囲したい。だが、この鉄橋にいると思われる敵の狙撃手で我々は陣地から一歩も前進できんのだ」

「この鉄橋は非常に有利な陣地です」ジークリンデは言った。「残った橋脚のどちらかに隠れ場を見つけて金属部分の残骸に身を隠すことが出来れば最高です。そうすれば600から800メートルの距離で敵を撃つことが可能です。敵の前線と後方陣地が全て見えます。ですが反対側からは、我々の前線が同じようによく見えるでしょう。ですから、敵の狙撃手は思うままに撃てているのです」

「敵の狙撃手を仕留めることができるか?」

「はい」ジークリンデははっきりと答えた。「大佐が私に命じてくだされば」

「問題ない」ジークリンデたちの会話を聞いていたハンゼンが言った。「私としてもあの山脈はただちに制圧する必要がある。今日中にも貴官をシュパイデル中佐の指揮下に入れという連隊命令を出す」

「何か要望はあるか?」シュパイデルが言った。

「山脈の地形には不慣れです。地図を貸していただければ」

「それは出来ない。おそらく敵の妨害工作だろうが、地図については戦況ディスプレイに表示されている大縮尺の物しか使えないのだ」

「でしたら、誰か案内できる者は?」

「先日、わが旅団の斥候班がある民間人を保護した。その民間人はあの山に詳しいそうだ。今は野戦病院で療養してる。話を聞いてみるといい」

「期限は4日だ、中尉」ハンゼンが言った。「4日で敵の狙撃手を斃してもらう」

 ジークリンデは司令所を出た。

 現段階で自分の敵が誰なのかあれこれ考えることはしなかった。これは決闘なのだ。ジークリンデは不意にそう思った。この決闘は単純な任務ではない。易しいものでも、すぐに決着がつくものでもないはずだ。ジークリンデは敵の狙撃手が身を潜んでいると思われる場所については1か所しか知らず、それも正確な知識があるわけではなかった。敵の狙撃手が事前にいくつもの陣地を準備しているのかもしれない。

 ひとまずは鉄橋にたどりつくことだ。ジークリンデはそう思い直して野戦病院に向かうことにした。



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[18]

 旅団の斥候班で民間人を発見したのはエーリヒ・カイルベルトという兵士だった。ジークリンデは野戦病院に向かう前に、兵舎にいたカイルベルトから民間人の詳細を聞くことにした。

 民間人の名前はラドミル・ハージェク。ハージェクは家族と一緒にハルツ山脈の小村に暮らしていた。その村が《髑髏師団》に襲撃されて4、50人の村民が殺害されたかもしれないという。ハージェクは襲撃時、村を離れて森に行っていた。村に帰ってきたハージェクは襲撃を目撃した後、3日ほど山の中を彷徨って力尽き倒れたところを斥候班に発見されたために難を逃れた。ジークリンデはカイルベルトに聞いた。

「襲撃を指揮したのは?」

「名前はテオ・アダム。階級は軍曹。元は憲兵隊にいたことがあるようです。ハージェクの証言から中佐が同定したんです」

 ジークリンデは野戦病院に出向いて軍医からハージェクの様子を聞いた。搬送時にかかっていた栄養失調とショックは改善したが、日中はぼんやりと窓の外を見ていることが多いという。未だ凄惨な記憶が脳裏に生々しく残っているであろう。ハージェクに山の案内を頼むことは酷なことに思えてきた。ジークリンデは気が進まなくなってきた。それでも病室まで看護師に案内してもらった。ためらいがちにドアをノックしてから開ける。

 ハージェクは窓辺に立っていた。外を眺めている。全身に毛布を巻きつけて、薄暗い明かりの中でぼんやりとした表情を浮かべている。

「大して見る物は無いでしょう?」

 ジークリンデは病室にそっと足を踏み入れながら声をかけた。ハージェクがハッと振り返ってジークリンデを見つめる。やけにどぎまぎして見えた。

「大丈夫ですか?」ジークリンデは尋ねた。

 ハージェクは黙ってうなずいた。

「良かった。大丈夫なら良いんです」

 ジークリンデはハージェクに対する接し方が間違っているように思えてきた。神経質になっている。自分でもそう思った。官姓名を名乗った後は言葉に詰まってしまった。方法は一つしかない。ジークリンデは何度も自分にそう言い聞かせた。

「実は・・・手を貸してもらいたいのです。とても重要なことで」

 ジークリンデは相手の反応を待った。ベッドに腰かけたハージェクは黙ってジークリンデを見返した。落ち着いているようであり、周囲に関心が無いようにも見える。

「我々の狙いは狙撃手を殺すことです。その狙撃手はジッテル渓谷にかかってる鉄橋の残骸に潜んでいる可能性が高いのですが、我々にはジッテル渓谷の地図がありません。敵はもっといろんなことを知ってるはずです。そこで、地図を書いてほしいのです。鉄橋にたどり着くまでの地図を」

 ジークリンデは手にしていたスケッチブックを差し出した。ハージェクが顔を上げる。こちらの話を全く理解していなさそうな様子だった。ジークリンデは困惑した。

「本当に大丈夫ですか?熱とかありませんか」

「狙撃手を殺す?誰が?」ハージェクは尋ねる。

「撃つのは私です」

お嬢さん(フロイライン)がか?」

「私でなければ、もう1人が撃ちます」

 再びハージェクの眼が興味なさそうに曇る。ジークリンデには分かった。

「連れていってやる」ハージェクはいきなり言った。

「え?」

「一緒に行こうじゃないか。ああ、そうしよう」

「自分がいま何を言ってるのか分かってる?戦闘が行われるかもしれない。アナタも敵の狙撃手に撃たれるかもしれないんですよ」

「構わない。どうでもいいことだ」

「どうでもいい?」

「お嬢さんには分からないだろう。とにかくワシは行かなくてはならない。そうでなければ、この話は断る。これが条件だ」

 ジークリンデは混乱していた。動機を考えてみたが、単刀直入に「なぜ?」と尋ねた。

「旧友たちのため。そう言っておこうか。旧友たちに会う絶好の機会だからだ」

 おかしな答えだ。ジークリンデはそう思った。釈然としないまま答えた。

「わかりました。一緒に行きましょう」



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[19]

 森に夜明けの光が差し始めていた。ジークリンデと観測兵のヴィンクラーは森番のハージェクを先頭に森の小道を進んでいた。兵舎の留守番はリーゲルに任せていた。

 2人は装備を積み込んだ背嚢を背負い、ライフル―倍率4倍の望遠標準器が付いたシュレスヴィヒ=マンフレートM1895を構えている。万一の事態に備え、ジークリンデはヴィンクラーに短機関銃も携行させていた。野戦服の上から茶色のカムフラージュ用コートを着て、耳覆いのある帽子を被る。ハージェクも2人の兵士と同じ格好をしている。

 突然、風が巻き起こる。木々が揺れ、葉の落ちた枝がぶつかり合う。ジークリンデは耳をそばだて顔を上げた。道に覆いかぶさるようにして、灰色がかった茶色の樹が立っていた。幹が曲がったセイヨウカジカエデ。枝に長い軸を持つ掌のような、大きなオレンジ色の葉がまだ数枚残っていた。突然、1枚の葉が枝から離れて空中を舞いながら、ジークリンデの足元に落ちた。ハージェクはそれを指さして言った。

「拾いなさい。幸運の印だ」

 ジークリンデは美しいセイヨウカジカエデの葉をポケットに入れた。

 第57歩兵旅団の陣地からすでにかなり離れていた。その先に敵が待ち伏せているかどうかも分からなかった。ジークリンデたちはハージェクに付いていくことしかできない。周囲を警戒しながら、ほとんど人目につかない猟師道を歩いて行った。カムフラージュするにはぴったりの場所に思えたが、敵を狙撃するには理想的とはほど遠かった。銃弾をどこに飛ばせばよいだろう。茂みが渓谷を覆い隠しているような場合、どうやって目標(ターゲット)までの距離を正確に計算できるだろう。

 森に入る前、ジークリンデはジッテル渓谷の南斜面にある124・0高地に立ち寄った。敵の狙撃手が潜んでいると思われる鉄橋が見える一番近い地点だった。ジークリンデは双眼鏡で鉄橋を観察する。鉄橋の南端は損傷が激しかった。橋脚は1本しか残らっておらず、それさえも損傷を受けていた。そこに狙撃手の隠れ家を置くのは不可能だろう。ジークリンデはそう思った。敵側にある鉄橋の北端に眼を向ける。

 そこは状況が全く異なっていた。曲がった鉄筋やねじれた鉄骨。土台から浮き上がった線路。真っ黒に焦げて木っ端みじんになった枕木が山積みになっている。3本残った橋脚はどれもしっかりしていた。鉄骨や木材が積み重なっているところならば、身を隠すのはとても簡単だろう。敵はそこから狙っている。確信があった。だがすでに二度も狙撃に成功した場所に敵は戻ってくるだろうか。

「曲がったカエデの樹から井戸までは85メートル」ハージェクは言った。「覚えておくと役に立つ。お嬢さん」

 夜明けの光が差す森の中はしんと静まり返っていた。ハージェクは確かに森を知り尽くしていた。その知識は父親から受け継いだものだ。初めて会った時、ハージェクが言った「旧友」とはこの森のことを示していたのだ。ハージェクの一族は100年間、銀河帝国を統治するゴールデンバウム王朝に忠実に仕えてきた。皇帝はジークリンデが今いるこの惑星に唯一聳えるハルツ山脈に広大な狩猟場と別荘を所有していたのである。

 この山脈について地図が碌に遺されていないのは保安上の理由からかもしれない。冷静沈着な兵士としての思考を進める一方で、ジークリンデの脳裏に去来してきたのは美しい姉弟のことだった。裏町にある自宅の隣に最下級の貴族である帝国騎士(ライヒスリッター)のミューゼル家が越してきたのはジークリンデが10歳の時だった。父と姉弟の3人家族だった。美しい姉弟に出逢ったことでジークリンデの運命は変わった。弟は初対面でいきなり自分の名前を「俗な名だ」と言って詩的な姓名で呼ぶことにすると宣い、皇帝フリードリヒⅣ世の後宮として連れ去られた姉を取り戻すために幼年学校に自分を誘い、自分にだけ反逆の精神を覗かせたのだ。

 ハージェクの話は続いていた。ハージェクとその近隣の人々は生涯、山の小村で暮らしてきた。この森や皇帝の別荘には常に手入れが必要だったからだ。ハージェクが家族の話を聞いてきた。ヴィンクラーは5人兄弟の末っ子で両親はすでに亡いという。ジークリンデは両親が健在で双子の弟がいると答える。弟の名前はジークフリート。男の子が生まれたら父が付けるはずだった名前。もちろん母の胎内で亡くなったことは言わない。



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[20]

 幹が曲がったカエデの樹を過ぎる。今度は道が二股に分かれていた。ハージェクは右に曲がった。この森番がいなかったら、ジークリンデたちは山の中を彷徨っていただろう。この地点では灌木の茂みが2メートルもの高さになって広がっていた。

「お嬢さんは特殊な照準器が付いたライフルを持ってると聞いたが」ハージェクは言った。

「ええ」

「それを奴らに使ってくれ。あの橋までの道はワシが教える。すぐに分かる」

「実際の距離はどのくらいあるの?」

「あまり遠くない。近道を行けば、あと5キロくらいだ」

「アンタが言ってるその近道は簡単に見つかるのか?」ヴィンクラーが聞いた。

「そんなのは簡単だ」ハージェクは言った。「人と同じだ。道もみんな違う。生えてる樹は種類も違う。樹齢も違う。それにいつ花が咲くか。実がつくかも違う。樹の顔形の見分けもつくんだ。1本1本違う。覚える気があったらお兄さんにも分かる」

 ハージェクの言葉はおとぎ話や伝説のように思えた。冷たく曇った朝が木々にどんよりとした色を与えている。自分たちは眼の前に生えているカエデの太い幹とニレの樹でさえもはっきり区別できないのだ。ジークリンデはハージェクの話に素直にうなづくことが出来ず、苦笑を浮かべるしかなかった。

 まもなくジークリンデたちは古い水道管にぶつかった。直径20センチほどの錆びた鉄管で使わなくなった井戸まで続いていた。鉤の付いた柱が空に伸び、井戸の存在を知らせていた。森は深くなり、木々は水の周りに密集していた。突然、かすれたため息のような音が井戸から聞こえてきた。ハージェクがその場に立ち止まり、そのすぐ後ろにいたジークリンデとぶつかった。

 ジークリンデたちが井戸を覗いた。井戸の中に野生の猪がいた。井戸は大きな石を粗く積み上げて壁を造り、厚板で入口が半分覆われていた。猪はまだ若く、毛は薄茶色で牙はまだ伸びきっていない。自力で井戸から出られなくなっていた。頭を上に向け、悲し気な焦げ茶色の眼でハージェクを見つめてぶうぶうと鳴いた。

「仕留めるか?」ハージェクが聞いた。「ホカホカの猪肉のカツレツが出来る。コイツを食べない手はないだろう」

 ヴィンクラーがごくりと喉を鳴らした。ジークリンデは若い猪を見つめながら答えた。

「いいえ。この子はまだ大人になってない。生きてもらいましょう」

 ハージェクは嬉しそうだった。井戸の近くで長い竿を探し、それを井戸の中に突っ込んで猪の腹の下に入れて持ち上げた。井戸の外に出てきた猪を地面に転がした。まるで解放されたのが信じられないかのように鳴いた。そして飛び上がったかと思うと、身体を揺すり、落ちた枝を踏みしめながら全速力でその場を走り去った。次の瞬間、くるっと巻いた尻尾が茂みの中にチラッと見えた。ジークリンデは思わず笑った。

 ジークリンデはポケットから地図を取り出した。シュパイデルが「無いよりはマシ」だと言って手渡してくれた大縮尺の地図だった。味方の前線は井戸を越えたところで終わっていた。そこから先は敵が占領した地域になる。ジークリンデたちは腰を下ろして休憩した。基地で支給された携帯食糧を食べる。ハージェクも同じ物をもらっており、ジークリンデたちはそれで食事を済ませた。ハージェクはこの森について話し始めた。

 ジークリンデが猪を逃がしたのは正しい行いであり、森はきっとご褒美をくれる。森も寺院と同じである。森に佇んでいる時は慣習を守り、娯楽のために無暗な殺生を行ってはならないのだという。ジークリンデは皇帝の別荘について聞いてみた。別荘は山脈の奥深くに広がるアッペンツェルと呼ばれる湖の畔にあるという。元は修道院だった石造りの建物には目印となる鐘塔がそびえている。

 日が昇る頃、ジークリンデたちは鉄橋の北端に着いた。ハージェクは自分の小村に帰るという。ジークリンデたちはハージェクに礼を言い、数日分の食糧と煮沸した水を入れた水筒を手渡した。森に消えるハージェクの後ろ姿をジークリンデはいつまでも見つめた。



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[21]

 ジークリンデたちは携帯用のスコップで塹壕を掘った。塹壕を掘り終えると、その上に折り畳み式の金属枠を置き、それを小枝やセイヨウネズやヘーゼルナッツの茂みで覆ってカムフラージュを施した。これなら鉄橋の上から見ても茂みにしか見えないだろう。さらに、ジークリンデたちは囮を作った。棒にマネキンの胴体を付け、オーバーコートを着せる。頭部にヘルメットを被せ、背中にライフルをしばりつけて本物の兵士らしく見えるようにしたものだ。囮にはパウルという名前を付けた。

 2日間、ジークリンデたちは鉄橋の残骸を双眼鏡でじっくり観察した。ライフルを持った狙撃手が就くのに理想的な場所は2か所しかない。ジークリンデとヴィンクラーは交代で、その2か所を監視した。もしかしたらその狙撃手は新たな獲物を探してここを離れ、森のどこかで友軍がすでに仕留めたのではないか。そんな考えがジークリンデの脳裏にもたげた。だが非常に抜け目のない敵の狙撃手が前線と第五七歩兵旅団の後方陣地まできれいに見晴らせるこの鉄橋を簡単には捨てられないのではないか。それがヴィンクラーの答えだった。

「狙撃手は必ず姿を現すでしょう」ヴィンクラーは言った。「重要なのはその時、こちらが先に敵を見つけることです」

 3日目の朝。ジークリンデはうとうとしていた。塹壕に肩をもたせかけてしゃがみ込んでいた。冬用の軍服―暖かな肌着、チュニック、ひだ付きで中綿入りの袖なしのベストにズボン、オーバーコート、白いカムフラージュ用スモックを身に着けていた。凍えることはないが、とても暖かいというわけではない。不意にヴィンクラーがジークリンデの肩を揺らし、鉄橋を指さした。ジークリンデは胸にかけたケースから双眼鏡を取り出して眼に当てた。夜は次第に明けつつあった。鉄橋の輪郭が早朝の靄の中に姿を現し始めていた。黒い影がねじれた鉄筋の間をすり抜けて歩いている。一人の男が明るくなりつつある空を背景に浮かびあがった。次の瞬間、その影はすぐに消えた。

 ジークリンデとヴィンクラーは視線をかわした。獲物が作戦地域に到着したことを確認しあった。敵はこれから周囲に眼を配り、ライフルの準備をして銃弾を装填する。自分の仕事がやりやすいように、この地域に目印をいくつか置いているはずだ。敵が準備を整え、目印を確認するまで待たねばならない。

 2人は塹壕に向かう前に、この後の行動を打ち合わせていた。ヴィンクラーはパウルを担いで塹壕沿いに前線近くまで忍び寄る。狙撃の準備が完了したというジークリンデからの合図を待つ。準備は簡単。これまで何度もシミュレーションを行ってきた。今回は地平から射撃することになる。標的との角度を考慮して照準を合わせる必要がある。

 30分が過ぎた。

 夜が明ける。周囲は静まり返っていた。ドレヴァンツでは敵味方どちらも戦闘を行っていなかった。大砲も迫撃砲も機関銃も沈黙し、戦闘機も爆撃機も空に舞っていなかった。戦争がまるでこの世から消え去ったようだった。ふと思うことがあった。殺戮が終わり、平和な生活が戻ってこようとしていた。自分たちの技術がもはや必要ではないのだと思えてしまう。だが残念ながら、今この瞬間はそんなことを考えるのは危険だった。

 ジークリンデはいつにない静寂に耳を澄ませながら、2本の指を唇に当てて口笛を鳴らした。ヴィンクラーが短い口笛で答える。ジークリンデは照準器に眼を当て、鉄橋から眼を離さずにいた。ヴィンクラーが塹壕に身を隠したまま、パウルを無人地帯(ノーマンズ・ランド)までひきずっていった。遠くからは、斥候が塹壕を出て眼の前の地域を見渡しているように見えるはずだ。敵はこんな古い手口にひっかかるだろうか。

 鉄橋からくぐもった音がした。まるで木の厚板を金属の棒で叩いたような音だった。敵が撃ったのだ。正にジークリンデが予想していた場所で閃光がパッと上がった。敵の陣地は左側が鉄筋で盾になっている。ライフルは曲がった小枝に乗せればいい。狙撃手は右脚の踵に体重をかけ、膝はバラバラになった枕木に置く。左腕の肘は左膝に乗せる。ついにジークリンデは敵を見つけた。

 照準器に敵の頭が見えた。凍えるような寒さの中でジークリンデはじっと息を止める。そして滑らかにトリガーを引いた。



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[22]

 敵はジッテル渓谷の底に落下した。敵が落ちた辺りは葦がびっしりと生えていた。ライフルが狙撃手の後を追いかけて落ちる。

 ヴィンクラーは塹壕の中で短機関銃を手に、眉間を撃たれた獲物に駆け寄るジークリンデを援護した。25分ほど走ったり滑り降りたりして、ジークリンデは葦をかき分けて敵の傍にたどり着いた。ジークリンデは死んだ敵の顔を見ることが好きではない。ましてや顔を覚えるなどまっぴらだった。

 時間がどんどん経過する。ジークリンデは敵の死体を手早く検めた。遺体は防寒チュニックの上にカムフラージュ用コートをまとっていた。兵士用パスポート。銀色の糸で刺繍を施した肩章。チュニックの第二ボタンの穴に黒と白の組紐でかけた赤いリボン付きの勲章。鉄十字章。ジークリンデはナイフでこれらを切り取った。こうした品々が戦場の偵察報告を細部で補完するために必要になる。

 オーバーコートの右ポケットとチュニックの右胸についたポケットに大きな包みが見つかった。ブランデー入りの平たい水筒。タバコが数本入ったシガレットケース。ガスマスクを入れるためと思われる金属製の筒にはガスマスクの代わりに、携帯食糧が入っていた。

 敵には不要になった望遠照準器付きのライフルを肩にかける。ジークリンデは塹壕に戻った。ヴィンクラーがじりじりしながらジークリンデを待っていた。ヴィンクラーはジークリンデが胸壁を乗り越えて塹壕に入るのに手を貸し、笑みを浮かべながら聞いた。

「今回の相手は誰だったんですか?中尉」

「これが勲章」

 ジークリンデは敵の勲章をポケットから取り出した。

「大物のようですね。でも一番は、わが軍の兵士たちがこれで静かな時間を持てるだろうということですよ」

「静まり返ってる。つまり彼は独りで狩りに出かけたんです」

「よほど自信があった」ヴィンクラーが敵の俸給手帳を取り上げて読み上げた。「ヘルマン・レクナーゲル。第346歩兵師団第121歩兵連隊。曹長」

「敵兵がここに来る前に離れましょう」

 ヴィンクラーがライフル2丁をジークリンデから取り上げて2人は塹壕を出た。第57歩兵旅団第3大隊の前線に向かった。部隊の監視所にいた兵士が挨拶してくれた。ジークリンデたちが連絡通路の高い壁の間から出るか出ないかという時に、敵の迫撃砲が鉄橋の上から唸りを上げる。機関銃の射撃音が始まった。敵は何が起きたか気づき、無人地帯に砲弾や銃弾を激しく浴びせていた。味方も応戦した。この日の朝は静かに明けた。それでも結局、戦争は始まる時に始まる。

 ジークリンデたちは第57歩兵旅団の司令部に出頭した。司令部は幹線道路沿いの小さな白い家に置かれていた。シュパイデルはじっくりと時間をかけてレクナーゲルの俸給手帳と鉄十字章を調べた。ジークリンデとヴィンクラーはシュパイデルの前で気をつけの姿勢を取っていた。

「どちらが敵の狙撃手を仕留めたのだ?」

 シュパイデルはヴィンクラーを見ながら訊いた。

「中尉殿です」ヴィンクラーが大きな声で答えた。

「どうやって斃したのだ?」

「いつもと同じです」ジークリンデは答えた。

「これを読んだが」シュパイデルはのんびりと続けた。「このレクナーゲルという男は最近この星に移ってきたようだな。以前はオーディンで狙撃教官をしていたそうだ。貴官は知ってるかね?」

「いえ」ジークリンデは首を横に振った。

「レクナーゲルはこの手帳によると、兵士と将校を合わせて215人という戦果を挙げている。貴官は何人だ?」

「227人です」

「いい勝負ではないか」

「はい」

「レクナーゲルは勲章を2つもらってるようが、貴官はどうだ?勲章をもらったことはあるかね?」

「いいえ」

 部屋がしんと静まり返った。シュパイデルは物悲し気にこちらを見た。まるでジークリンデを初めて見るかのようだった。ジークリンデは上官とこの手の会話を交わす時は、なるべく口をつぐむようにしていた。軍で長い時間を過ごすうちに、上級指揮官と長い会話を交わしても、下級指揮官にとって何も得るものはないという結論にいたっていた。

「この戦争は終わった、中尉」シュパイデルは言った。「皇帝陛下が妃をお連れになってこの星にいらっしゃる。珍しく戦勝記念会を開催するそうだ。その席で君が表彰されるよう、これから基地の司令本部に行こう。君たちの手柄の報告を携えてな」



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第4章:赤鷲は舞い降りた
[23]


 トールヴァルトは空腹を覚えて足を止めた。夜半過ぎてからほとんど1日じゅう疲れた身体をむち打って森の中を歩き続けてきた。上空に眼を向ける。

 樹木の間から駆逐艦が遊弋しているのが見える。オーディンから皇帝自ら率いた宇宙艦隊がトーポリ要塞に到着したのだろう。あと少しで森を抜けて耕作地を通れば、目的地の納屋があるはずだった。すでにトーポリ要塞からはかなり離れている。草地にある倒木に腰を下ろして小休止を取った後、再び歩き出した。

 夜明け前の闇が深い頃、トールヴァルトは山の中腹に建つ納屋にたどり着いた。控えめに扉をノックする。納屋から出てきたのは若い男だった。若い男はラルフと名乗った。

「お待ちしておりました、少佐殿」

 トールヴァルトはうなづいて納屋に入る。干し草と牛と肥料の匂いがした。納屋の中に乗用車が止まっている。ラルフが車の後部座席から大きなトランクを運び出そうとしている。

「それが暗視装置か?」トールヴァルトは訊いた。

「ええ」

「慎重にな」

 納屋の奥に進む。血色の悪い中年男がテーブルの傍に立っていた。

「私は《ザックス》。初めてお目にかかる、少佐」

「こちらこそ」

 トールヴァルトは《ザックス》と握手する。帝星オーディンから派遣された鎮圧部隊に潜入していたスパイが眼の前にいた。《ザックス》は訝しげに野戦服を着たトールヴァルトをじろじろと見た。

「民間人の服装で移動した方が安全じゃないのか?」

「何を着ようが、もはや関係あるまい」トールヴァルトはアサルトライフル―SVT-40の部品が並べられたテーブルを指した。部品がオイルで光っている。「あんな物を持ち歩いてるハイカーもいないだろう。それに誰かに会うとは思えない。登山ルートやハイキングコースからも遠く離れた山道を歩くのだから」

《ザックス》は鼻を鳴らした。トールヴァルトは《ザックス》に尋ねた。

「《女狐》はどうしてる?」

「今は軍刑務所の檻の中だ。君には手出しできないはずだ」

「なら良いが」トールヴァルトは納屋の窓から外を見た。「周りには何も無さそうだな」

「年老いた夫婦が持ってました」ラルフが言った。「すごい大金を払って買ったんです。これほど予算がついた作戦は初めてですよ」

 トールヴァルトはテーブルに近づいた。アサルトライフルの金属が冷たい光を反射している。だが機関部に汚れが付いていることに気づいた。何故かそれが気に障った。

「部品はいま初めて並べたんだろうな?」

《ザックス》がラルフを睨む。〈信じられない〉といった表情を浮かべる。

「指示はキチンと守ってます」ラルフが震えた声で言った。

 トールヴァルトはすばやくアサルトライフルの組み立てを始める。続いて淡々とした手つきで弾倉6個に30発ずつ弾薬を込める。丸い弾頭をした特別製の弾薬だった。この弾薬なら亜音速で標的まで飛んで行くはずだ。斃すべき標的は1人だが、近辺に護衛がついているのが当然の身分だ。本音を言えば弾はいくらあっても足りない。アサルトライフルを横に向けて弾倉をハウジングに入れた。トレランスに嵌る感覚が伝わってくる。掌の付け根で弾倉を奥まで叩き込む。バネの嵌る音がした。

「まるで手術の準備をする医師のようだな」《ザックス》が言った。

「これはただの道具だ。では、コイツを担ぐのを手伝ってくれ」

 トールヴァルトは水筒と弾倉入れのついた戦闘用ハーネスを身に着け、その上から装置用のラックを背負った。《ザックス》とラルフが暗視装置を持ち上げ、コートを着せてもらうようにトールヴァルトがその前に滑り込む。紐をきつく締め、前に踏み出す。重量が全てかかって来た。

「ばかに重い装置だな。歩けるか?」《ザックス》が尋ねた。

「歩いてみせるとも」トールヴァルトはライフルの負い紐を肩に掛けながら厳しい口調で言った。「俺の教え子で一番筋が良かった《女狐》もコイツを使いこなせたんだ。負けるわけにはいかん」

「少佐、持って行ってください」

 ラルフが差し出したのはホイルに包まれたチョコレートだった。

「ありがとう。朝食だな。気が利くじゃないか」

 トールヴァルトはそれを野戦服のポケットにしまう。テーブルから離れて初めて独りでライフルの全重量を支える。顔から血の気が引くのを感じたが、そのまま納屋を出てまばたきしながら陽射しの中へと足を踏み出した。すでに身体が重さに慣れてきていた。

 目指す場所はアッペンツェル湖。皇帝の別荘だった。



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[24]

 皇帝を迎える歓呼の声が遠くから聞こえてくる。

 皇帝ばんざい(ジーク・カイザー)帝国ばんざい(ジーク・ライヒ)

 皇帝フリードリヒⅣ世が寵姫グリューネヴァルト伯爵夫人を伴って惑星テルペニアに行幸に来たのだ。叛乱の首謀者ヴェーバージンゲ中将がトーポリ要塞で自決したことにより、中将が率いていた私兵集団―《髑髏師団》も降伏した。テルペニアの叛乱は鎮圧されたのである。

 敵の狙撃手を斃した功績により表彰されるはずだったジークリンデは基地に併設された軍刑務所にいた。軍刑務所には《貴人室》と呼ばれる部屋があり、貴族や将官は一流ホテル並みの住環境で過ごすことができるが、ジークリンデが放り込まれたのは一般士官用の独房だった。

 不満を口にしたことはない。食事もそれなりの物が出された。電磁石式の手錠をはめられたままだったが、赤毛の狙撃手はごく自然に不屈だった。憲兵隊に不当に逮捕されている。そう感じていた。容疑は部下の殺人だった。

 狭い取調室で陰気な目をした尋問官と対面する。尋問官は取調を始める前に帝国軍の官姓名を名乗ったが、ジークリンデにこの男が元は内務省社会秩序維持局にいたのではないかと疑っていた。あの組織に雇われていた人間であれば捏造した証拠をつきつけ、思想犯と称して無辜の臣民を処断することにかけては手慣れているはずだった。

 尋問官はジークリンデに対してこう切り出した。

「なぜ、貴官は自分の部下を殺害したのかね?」

 ジークリンデが斃した狙撃手と思われる死体をジッテル渓谷から回収して調べたところ、ヘルマン・レクナーゲルなる人物が帝国のデータベースに存在しないという。また遺体の生体検査を行った結果、ジークリンデの部下の1人で行方不明になっていたロベルト・ホフマン二等兵であることが判明した。それがジークリンデにかけられた容疑の詳細だった。

「貴官は撃った敵の顔を覚えていないのか?」尋問官は言った。

 戦争に行った兵士を殺人罪に問うこと程、馬鹿げた話はない。取調中、ジークリンデはひたすら口を閉ざしていた。尋問官は続ける。

「撃つ瞬間に標的が部下だと分かったら、撃てないはずではないか?」

 この質問に対して、ジークリンデは答えることが出来なかった。

 任務を果たした後、標的の顔がいつまでも脳裏に浮かび、標的が悪夢に出てくることはまずない。あれは創作だ。幼年学校の狙撃課程にいた教官も同じことを言うだろう。撃つ瞬間、ジークリンデは標的の顔を覚えていない。思い出せるのは外面的な要素だけだ。標的を撃った瞬間の気温・湿度・風向き。敵の服装。

 狙撃手の習性を相手に説明しても無駄だと思い、ジークリンデは黙っていた。尋問官は質問するだけで、拷問にかけようとはしなかった。ひたすら身柄を拘束したいだけのように思える。ひょっとしたらジークリンデを皇帝に会わせたくないのか。会わせたくない相手はもしかしたら個人的な面識があるグリューネヴァルト伯爵夫人か。それは何故なのか。いくら考えてみてもピースの足りないパズルを解くような感じがするだけだった。

 取調は毎日、不規則な時間で行われる。寒い独房に閉じ込められて風邪をひき始めていたジークリンデは次第に耐え切れなくなっていた。尋問官はオーディンに護送して部下を殺傷または戦果を詐称した罪で軍法会議にかけると告げる。取調を終わった後、独房の壁に風邪の熱でほてった頬を押し付けて冷やそうとした。ジークリンデはふさぎ込んだ。

 ある日の夜、独房の扉が開けられる。ベッドに寝ていたジークリンデは眼を扉に向ける。侵入者は男2人。逆光で顔貌は分からなかった。ジークリンデは男たちに両脇を抱えられて独房を出る。オーディンに護送されるのか。

 小部屋に連行される。将校が1人待ち構えていた。初めて見る顔だった。覚悟を決めていたジークリンデが驚いたことに、手錠が外される。長い間、手錠で締め付けられて傷んだ手首をさする。将校が口を開いた。

「貴官が()()()()()()()()()()()()()中尉か?」

 ジークリンデはうなづいた。



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[25]

 トールヴァルトは納屋を出て裏手に回り、斜面を登って行った。数百メートル先でいきなり畑が途絶え、森になった。木々が残りの山を覆いつくし、その険しさと大きさをぼかしていた。トールヴァルトにはかなりきつい行程になることは分かっていた。事前に撮影された航空測量写真によると、今いる地点からアッペンツェル湖が広がる谷までは約20キロ。山林の中のごつごつとした斜面をずっと行かなくてはならない。いったん登った後、しばらく横に移動してから、反対側の斜面を降りていく。

 手首を返して腕時計を見る。午後2時35分。日が落ちるまであと6、7時間。夕暮れまでには射撃位置に着けるはずだった。太陽が沈む前に着くことが肝心だった。ひと目でいいから明るい光の中で別荘を見ておく必要があった。そうして環境に適応し、射角を計算し、標的を仕留められる範囲を見極めるのだ。

 決然とした足取りで、ゆっくりと大股で歩いていく。すでにライフルの負い紐が肩に食い込んでいた。汗が吹き出すと同時に、筋肉が温まって動きが滑らかになる。高所に行くほど空気は薄くなり、楡や樫といった木が鬱蒼と生い茂る若い森はオーディンの山地とよく似た古の松の原生林にとって代わられるはずだった。

 きつくなる傾斜に手こずりながらも前進を続ける。行く手を岩の塊がさえぎるようになり始めた。森の様子が徐々に変わってきた。ぼんやりとした影が重なりあい、枝の隙間から気まぐれに日が差し込んでいた。この薄暗い風景にもそれなりの美しさがあったが、トールヴァルトにはそれを楽しむような精神状態ではなかった。ひたすら脚を動かすことだけを考えていた。時おり傾斜がなだらかになる箇所にさしかかる。トールヴァルトはそうしたところでひと息をついた。

 トールヴァルトはへとへとになりながらも、再び歩き出した。岩がかなり厄介な障害物になってきた。岩の隙間を通り、滑りやすい急な斜面を登った。途中で木立が途切れ、遠くを望むことが出来た。トールヴァルトは先を急いだ。木立や低木の茂み、アザミに覆われた斜面をひたすら登った。喉が渇いていたが、立ち止まって水を飲む時間さえ惜しかった。不安定な足場で時おりブーツが滑り、一度ひどく膝を石にぶつけた。膝がズキズキと疼き、肩の痛みがひどくなっていた。ペースを落とすか休むかすべきだった。だが今はそれが出来ないことをトールヴァルトは知っていた。薄れゆく陽光が気になって仕方がなかった。暗くなる前に現場に到着しなければ、こちらの負けなのだ。

 自分はどこに向かっているのか。それがキチンと分かっているのか。そう、私は皇帝の寵姫を暗殺するために別荘に向かう。自分を雇った連中はゴールデンバウム王朝のためにこれを為すのだと言った。いや違う。これは自分のためだ。自分にはもう何も残されていない。妻と息子に先立たれた。加齢による眼病で狙撃が出来なくなる前に、歴史に名が残るような偉業を成し遂げようという思いだけでここまで来た。

 前方に光が見えてきた。足元が平坦になる。山の上に広がる原生林に到達したのだ。

 トールヴァルトは急ぎ足で光を目指した。松や樅の木に囲まれた尾根に立つ。空気が涼しかった。周囲を見回す。尾根の彼方に岩だらけの山頂があった。その向こうに木立で輪郭のぼやけた他の山々も見えている。はるか遠くに、雪に覆われた雄々しい山が聳えていた。

 視線を下に向ける。木立の続く山の斜面をずっと見下ろした。碁盤目模様の耕作地が数千メートル先に広がっていた。アッペンツェル湖。それ以外はほとんど緑一色だった。近くにあるはずの小村は影も形も見えなかった。

 皇帝の別荘が見える。はるか昔に建てられた元修道院の別荘は屋根の高い建物で、ドーム型の尖塔が2つある。そのほかに小さな建物がいくつか並んでいる。外界とは煉瓦壁で隔離されている。双眼鏡で屋敷を観察した。中庭が見える。標的は今日の深夜にあの中庭を散策すると聞いている。

 今はひたすら夜を待つだけだった。



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[26]

 ジークリンデは小部屋で初対面の将校と向かい合っていた。将校は歴戦の武人らしい精悍な風貌だが、なぜか茶色の頭髪が両耳の横の部分だけ白くなっている。ジークリンデは将校の官姓名を尋ねた。将校は口を開いた。

「私はウルリッヒ・ケスラー大佐。憲兵隊に身を置いてる」

 ジークリンデは思わず敬礼する。

「貴方がケスラー大佐でしたか」

 昨年、ごく短期間にジークリンデは幼馴染とともに憲兵隊に出向し、幼年学校で発生した連続殺人事件の秘密捜査に従事したことがある。その時、不敬罪に捕らわれた老婦人を救ったケスラーの話を聞き、幼馴染はその手腕と人柄に非凡なものがあると評価していたのである。

「まあ、そんな固くならずに」

「グリンメルスハウゼン大将閣下の邸宅で警護をなさっているのではなかったですか?ラインハルト様から貴官にお世話になったと聞きましたが」

「最近は閣下も身体が弱くなっていてあまりオーディンを離れたくはないが、こうした事態になると、真っ先に呼びつけられる身分でね。今はこの星で捕虜の聴取や残兵の逮捕を行ってる。実はある将校が行方不明なのが気がかりだ。おそらく死んでないと思われるが」

「誰なんですか?」

「名前はハインツ・トールヴァルト。階級は少佐。皇帝から功一級狙撃手章を受け取ってる。貴官は知ってるだろうか?」

 ジークリンデはうなづいた。

「ええ、オーディンの幼年学校で狙撃課程の教官でした」

「ふむ。どうやらその男が今夜、グリューネヴァルト伯爵夫人を暗殺するというのだ」

「何ですって?」

 ジークリンデは衝撃を受けて眼を見開いた。

「どうして、そのようなことが分かったのです?」

「ある事故が発端になったのだ」

 ハルツ山脈で討伐部隊が脱走兵を捜索していた時、山道で乗用車と輸送トラックが正面衝突する事故が起きた。トラックの方は無事だったが、乗用車の運転手が重傷を負った。運転手は野戦病院に緊急搬送されたが、軍医の懸命な措置も空しく死亡した。

「私は運転手が所持していた身分証に興味を持ってね。運転手はラルフ・ザイドリッツという兵站担当の士官で、オーディンで貴官を襲撃した犯人の親族だった。私が山道を走ってた理由を問い質すと、ザイドリッツは気が弱って観念したのか、事切れる前にいろんな話を漏らした。グリューネヴァルト伯爵夫人の暗殺もそうして漏らした話のひとつだ」

「他にはどのような?」

「今回の暗殺にはどうやら憲兵隊が絡んでいるようなのだ。叛乱部隊にテオ・アダムという人物がいたが、彼は元憲兵隊だ。これは君が斃したらしいな」

「ええ」

「アダムは数年前、惑星ロミンテンで住民に対する略奪を働いたにもかかわらず、隊内でも特に処罰されずに憲兵隊を辞めて軍に入り直している。この基地の司令ハンゼン大佐も以前は憲兵隊にいた。アダムが事件を起こした時の上官だったのだ。ザイドリッツによると、この基地から《ザックス》というスパイが叛乱部隊に情報を流してたようなのだ。私は《ザックス》がハンゼンだと見ている」

「《ザックス》が要塞に情報を流してたとしたら、それは叛乱部隊が有利に戦局を進めるようなことを画策してたと思います。ですが、それは失敗しています」

「目的は違うところにある。おそらくは・・・」

 ジークリンデはケスラーの言葉を引き取った。

「私を監視していた」

 ケスラーはうなづいた。

「教官はなぜ?」ジークリンデは当然の疑問を口にした。

「トールヴァルトを捕らえて聞いてみる他あるまい」

 ジークリンデはケスラーに昏い眼を向けた。

「今夜、伯爵夫人はどこで過ごされるのですか?」

「アッペンツェル湖の別荘だ。皇帝陛下は要塞で一夜を過ごす。別荘は護衛が何人かついているが、トールヴァルトはそれも織り込み済みだろう。伯爵夫人も護衛もまとめて殺害するつもりだ」

「アッペンツェル湖はハルツ山脈の奥地ですね。別荘に連絡を取る手段は?」

 ケスラーは首を横に振った。

「別荘には電話も無い。下手に警告すれば、ハンゼンたちに気づかれる恐れがある。そうなれば、トールヴァルトが暗殺までの時間を早めるだけだ。ザイドリッツによると、暗殺は今夜の零時に決行されるそうだ」

「私はこのために解放されたんですね」

「君にトールヴァルトを阻止してもらいたい。彼に対抗できる者は貴官しかいない」

 ケスラーから言われるまでも無かった。ジークリンデは最初からそのつもりだった。



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[27]

 トールヴァルトの暗殺を阻止するためには当然、武器が必要だった。

 ジークリンデは補給廠の兵器倉庫にしのび込んだ。リーゲルともう1人の兵士が倉庫で備品の整理をしていた。9ミリ拳銃を突きつけたジークリンデに2人の兵士は降参して両手を挙げた。リーゲルと一緒にいたのは第五七歩兵旅団のカイルベルトだった。

「酒が飲めない大男と未成年が倉庫番をしてる。情けない話だ」リーゲルが自嘲した。「それより中尉は?無罪放免になったのか?」

「少し事情が変わりましてね」

 ジークリンデは拳銃をしまい、現在進行中の暗殺計画を手短に説明した。これからそれを阻止するために2人に手伝ってほしいと頼んだ。カイルベルトは突然の展開に口をあんぐりさせたが、リーゲルは顎を手でさすりながら思案顔を浮かべる。

「中尉殿の元教官―トールヴァルトはすでに現地にいる」リーゲルは言った。「別荘を見下ろす山の中に。暗視装置を持って」

「そうです」

 ジークリンデは疲れた口調で言った。頭痛がひどかった。2本の指で目元をつまむ。遠くから音楽が聞こえる。軍放送が流しているポピュラー音楽だろう。笑い声もしていた。

「憲兵隊や別荘の警護に連絡すればいいじゃないですか」カイルベルトが言った。「彼らに警告すれば―」

「その憲兵隊に敵が潜んでいるんだ」リーゲルは言った。「別荘に電話線が繋がってないということだし。仮に線が繋がってたとしても、この騒ぎだ。誰も出やしない」

「誰か風邪薬を持ってませんか?」ジークリンデはむっつりと尋ねた。「外は盛り上がってるみたいですね」

「それは皇帝が来てますから」カイルベルトが言った。「もうひとつ手があります。山の猟師たちですよ。中尉がお会いになったハージェクさんとか。そうした人たちに連絡を―」

「その猟師たちにどうやって連絡するんだ?お手上げだな。どうだ、仕事はもう切り上げて俺たちもパーティーに参加するか」

「軍曹」

「分かってる、カイルベルト」

「軍曹、私たちはまだ―」

「その通りです、エーリヒ」ジークリンデは言った。頭が割れそうに痛かった。「こうなることは分かってたんです。最初から予感してました。こういう展開になると」

「どうやら俺も中尉と同じらしい」リーゲルがだるそうに立ち上がりながら言った。「今の時期は本当に暗くなるのが早いな?」

「2人とも何の話をしてるんです?」

 カイルベルトが尋ねた。返事を聴くのが何故か怖かった。

「カイルベルト、車を取ってこい」リーゲルが言った。「それからこの建物のどこに電話があるか教えてくれ」

「一体どういう―」

「私たちがやるんです」ジークリンデはようやく説明した。「貴官と私と軍曹で。それしかありません。早く車を取ってきてください」

「車じゃ別荘までとてもたどり着けませんよ」カイルベルトが言った。「何百キロも離れているんです。もう8時近い。そんな短時間では―」

「飛行場までは2時間で行けます。運が良ければ、飛行機が使えます。そうすれば―」

「何を言ってるんです?夢でも見てるんですか?飛行機で山に行ったとしても、別荘があるのはどこでしたっけ?アッペンツェル湖でしたか。あの辺に着陸できるような場所がありません」

「飛行機が着陸する必要はありません」ジークリンデは言った。「私たちは別荘に落下傘降下するんです」

 リーゲルは倉庫で電話を見つけた。実際に見つかったのは民生用の無線装置だった。リーゲルは飛行場にいる爆撃機部隊の司令を呼び出した。相手はリーゲルと同期で士官学校を卒業したクレープス大佐だった。

「少し困ってるんだ。そうだ。そいつは大した問題じゃないが、時間が問題でね。飛行機が要る。そう、ラムイェーガーだ。素晴らしい飛行機だな」リーゲルはジークリンデを見上げ、送話口を手で押さえてから言った。「奴さん、すっかり出来上がってやがる」それから間髪入れずに続けた。「へえ、全て木造だって。ああ、それで少し大変なことを頼みたい。いささか急を要する事態だ。俺たちはハルツ山脈に行かなくてはならなくてね。山にいる残兵を捕まえなくちゃならない。そう、上の連中に話を通してる暇はなんかない。ああ、その通りだ。飛行機を都合してもらえると助かる。そう、そう、2時間くらいだ。ああ、分かった。そうだな、もちろんだ。それじゃ」ようやくリーゲルは受話器を置いた。

 ジークリンデは尋ねた。

「断られたんですか?」

「いや、大丈夫だ。とにかく飛行場に10時に来いと。爆撃機が準備されてるはずだ」

 リーゲルは立ち上がった。2人は倉庫を飛び出した。基地のそこら中でお祝いしている連中を押しのけて走った。カイルベルトが基地の入口でジープとMP-34短機関銃を用意して待っていた。



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[28]

 まもなく11時半になろうとしていた。長い間、冷え込んだ岩場で待っていたトールヴァルトは身体が強張っているのを感じた。じっと待つ間、自制心で心を無にしていた。疑念や後悔を頭から追い払い、心を静めていた。こうした不気味な冷静さが最高の射撃を生み出すことが分かっていた。

 トールヴァルトは別荘から400メートル離れた地点にいた。角度は約30度。これがギリギリのところだった。今は土から露出した岩の後ろで半屈みになっていた。暗視装置を装備したライフルは眼の前にある。岩の上に二脚架に載せてあった。かさばった照準器が片側に斜めに飛び出している。射撃の妨げにならないように、装置はすでに背中から下ろしてライフルの隣に置かれていた。

 周囲が十分に明るい内に、トールヴァルトは眼下の建物をじっくりと観察した。別荘は煉瓦壁で囲まれており、まるで監獄のような雰囲気があった。一番古い建物が礼拝堂。実用本位の石造りの建物で屋根が尖っている。ドーム型の尖塔の先端に厳めしい小さな十字架が付いている。トールヴァルトは別のもっと大きな建物に双眼鏡を向けた。中庭に面している元修道院の居住部分。薄れゆく光の中で辛抱強くそこに眼を走らせ、ついに目立たない木の扉を見つけた。階段と立派なアーチのついた出入口の近くにある。しっかりと閂がかかっていた。標的は真夜中にそこから出てくるものと思われた。

 屋敷にいると思われる護衛は5人。もしかしたら周囲を哨戒して回っている兵士もいるかもしれない。その可能性は高かった。《ザックス》によれば、仮に大所帯だったしても護衛は20人程度になるという話だった。望遠照準器に現れる者は全てを殺すつもりだった。

 以前に標的の写真を眼にした。グリューネワルト伯爵夫人というのは美しい女性だった。なぜ皇帝はこんな美しい寵姫を独りにして山奥の別荘に閉じ込めるのか。同衾して子孫を遺そうという気にならないのだろうか。伯爵夫人には弟がいるようだが、その弟に遠慮するような年柄や間柄でもないだろう。

 そろそろ腰を上げて準備に取りかかる時間だ。トールヴァルトは体操を始める。決まった手順通りに準備運動を行う。それが終わってから、トールヴァルトは静かに横たわった。動悸が収まる頃には完璧に落ち着いているはずだった。

 これからの数分間を脳裏に思い描く。照準器を通して見る建物は冷たくのっぺりしていることだろう。それから一瞬、視界がぼやける。扉が開いて、夜の冷気の中に熱が放散されるせいだ。無数の粒子が渦を巻きながら広がる。虹色に煌めき、揺らめいている人影が眼の前を横切る。親指でライフルの安全装置を外して標的に狙いを定める。

 そこでトリガーを引く。

 遠くから飛行機の音が聞こえる。

 不意に脳裏に浮かんだイメージが消えた。トールヴァルトはライフルが置かれた岩まで這って行った。迷いは無い。自分の心奥から意志の力を感じていた。腹ばいになって肘をついた。腰を岩に押し当て、バランスを取るために脚を開いた。それからライフルを自分に引き寄せる。銃床を肩に当てる。掌でグリップを包み込む。冷たい金属とプラスチックの塊が掌の中ですぐに温もりを帯びた。

 二脚架に載せたアサルトライフルを前後左右に動かす。自分の動作にすばやく反応するかどうか確認した。暗視装置の照準器にかかっている覆いを取り外す。バッテリーのスイッチを入れる。人差し指で湾曲したトリガーを探り当ててから指を離した。

 トールヴァルトはゆっくりとボルトを押した。ボルトはギクシャクと銃身の中を滑る。かすかに抵抗を指先に感じる。カチッと音がしたところで手を停める。これで亜音速の銃弾が弾倉から薬室に送り込まれた。ライフル全体がトールヴァルトの意のままに動いていた。思わず笑みを浮かべながら、射撃の切り換えスイッチを確認する。セミ・オートマチック。

 トールヴァルトは安全装置を外した。

 飛行機の音が小さくなっていった。

 最後にもう一度、腕時計に眼を落とす。もうすぐ真夜中だった。



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[29]

プロローグがちょうど、この話の前半部分に当たります。


 風がリーゲルをどんどん運んで行った。ジークリンデは自分が蜂蜜の中を泳いでいるような気がしていた。リーゲルの白い落下傘はすでに30メートル下を降下中で、100メートル横手の方で風に揺れていた。ジークリンデに見えるのはそれだけだった。爆撃機のエンジン音はすでに聞こえなかった。重苦しい静寂の中を落ちていく。地面まであと1分ほどのところで、リーゲルのパラシュートが急にしぼむのが見えた。着地したのだ。

 ジークリンデは着地と同時に、痛みに襲われた。衝撃で眼の奥に閃光が走り、脚が疼き始めた。脚をかばおうとして倒れ込んだのが間違いだった。尻と肩をしたたか地面に打ちつけ、しばらく訳が分からないままそこに横たわっていた。リーゲルのパラシュートが野原をひらひらと横切っていくのが見えた。どうにか立ち上がる。脚が痛んだものの、走る分には大丈夫そうだった。ハーネスの索留めを外す。締め付けが無くなって身体が楽になる。ハーネスを脱ぎ捨てる。

 すぐ近くで地面に身体がぶつかる鈍い音がした。「あいたッ!」という声が上がる。ジークリンデは眼を向ける。カイルベルトが絡まりつくパラシュートと格闘しながら立ち上がろうとしていた。

 ジークリンデはMP-34短機関銃を肩から降ろした。自分が谷間に広がる牧草地に立っているのが分かった。足首ほどの長さの草に覆われたなだらかな丘が続いている。400メートルほど先に、別荘とそれを取り囲む壁が見えたような気がした。

「こっちです」

 ジークリンデはまだ落下傘と格闘しているカイルベルトに小声で言った。

 痛みを覚えながらゆっくりと走り始めた。リーゲルの姿はどこにも無かった。

 

 リーゲルは走っていた。目的地にどんどん近づいているような気がした。脚に少し痛みを感じていたが、大したことはなかった。短機関銃がどうなったのかは分からない。着地した時に無くしてしまったのだ。いま身に着けているのは用を為さない短機関銃用の弾倉が3つと9ミリ拳銃のみ。建物はまだかなり先にあるようだった。

 ひたすら走り続ける。自分の中にいる別の人間が苦しそうに喘いでいた。咳き込むか立ち止まるしかなかった。かけっこだ。帝国軍ではある種の将校―特に貴族出身の将校はなりふり構わず野原を駆けたりはしない。そのことをリーゲルは士官学校で始めて知った。そうした連中が吐きそうになるまで、汗で肌が燃えそうになるまでリーゲルのような平民を走らせるのだ。将校は部下に命じるだけで汗をかかないものなのだ。士官学校の教官たちはそんなことを嘯く奴ばかりだった。内心で糞野郎だと罵った。似たようなことを口にした上官を何人か殴ったこともある。そのせいなのか階級がいつまで経っても軍曹止まりだ。損な性格だった。今はどうしようもないほどブーツが重く感じられた。草が足を絡めとろうとする。頭の中は空っぽ。

 

 トールヴァルトは望遠照準器のスイッチを入れた。最終段階に来たのだ。空いている方の手でレシーバーのすぐ後ろの銃床を掴み、射撃の時に使う眼―左眼を照準器の柔らかいゴムに当てる。右眼はわずかに瞼をすぼめるだけにしてつぶらない。眼を閉じている状態はストレスを生む。

 暗視装置を通して見える世界は緑色だった。静寂に包まれている。

 トールヴァルトはいくらでも待てそうな気がした。自分が歴史の一部ではなく、歴史そのものになったような気分だった。深き淵から手を伸ばして未来に変える。そんな荒々しい力を感じる。これから行うことは今、野蛮な行為に思われるかもしれない。だが、もっと長い眼で見れば評価は変わる。これは《善》や《正義》に値する行為だ。

 扉が開いた。光の染みが照準器の中を横切る。無数の渦巻く分子がこぼれ出した。

《運命との約束に時間通りに現れたな―》

 人間とは分からないくらいぼやけた光の塊がちらつきながら姿を見せた。

 トールヴァルトは呟いた。照準器の十字線でその姿を追う。

「よし、いい子だ。そのまま出てこい」



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[30]

 ジークリンデは走り続けていた。風邪が悪化したようだった。熱で頭がぼんやりとして倒れてしまいそうだった。幼年学校の頃から短距離走はどちらかと言えば苦手だった。今すぐ草の上に倒れ込んで、山の冷たい空気を思いっきり吸い込みたかった。

 気が付けば、カイルベルトが肩を並べて走っている。普段から脚を鍛えていたのか、後ろから追いついて来ていた。ジークリンデも抜かれまいと踏ん張った。誰かが屋敷の門に取りついている。リーゲルではないか。

 ジークリンデは胸がむかついた。思わず泣きそうになる。

《どうやって門を突破すればいいの?》

 

 リーゲルは屋敷の煉瓦壁に設えた門を叩いた。ビクともしなかった。

 

 トールヴァルトは指をライフルのトリガーにかけていた。力を徐々に入れ始める。

 

 ジークリンデは門にたどり着こうと必死に駆けていた。もう間に合わないだろう。刹那の数秒間に起きるであろう恐ろしい出来事が脳裏をよぎる。

 誰かが「軍曹!」と叫んだ。自分の裂帛だった。

 

 オーディンの士官学校で行われた特殊部隊向けの訓練を受けていた頃、リーゲルは古くから伝わるトリックを教わったことがある。講師を務めていた男は辺境星域で警官として働いていたことがあり、荒っぽい手段のトリックを全て知っていた。そして、これも教わったトリックのひとつだった。

「もしドアに鍵が掛かっていて、中に急いで入りたいとする」元警官は言った。「そうだな、例えば同盟軍の兵士に追われていたりして。軍曹、君ならどうする?」

「蹴破ります」

「その間に敵に追いつかれてしまうな。だから、その時は西部劇に出てくる連中みたいに拳銃を取り出して撃つといい。ただし、狙うのは錠前じゃない。映画とかドラマはそこを間違えてる。それだと、跳ね返ってきた弾が自分の腹に命中するだけだ。そうじゃなくて角度をつけて木の部分に撃ち込むんだ。錠前の後ろを狙ってな。デカい45口径なら、最高のレンチになってくれる」

 それから紆余曲折を経て5年も経つ。ちょうど必要な時にそれが脳裏によみがえってくるとは不思議なものだった。リーゲルは拳銃を抜いて撃鉄を起こす。慎重に狙いをつけ、古い真鍮製の錠前の金属板から2センチ離れたところから斜めに撃った。目の前に白く眩い火花が散った。すかさず扉を蹴りつける。

 扉が開いた。

 

 あと少しでトリガーに力を込めれば、銃弾が飛び出すところまで来ていた。

 トールヴァルトは照準器に当てた左眼をかすかにしかめた。

《あれは何だ?》

 

グリューネヴァルト伯爵夫人(グラフィン・フォン・グリューネヴァルト)!」リーゲルが怒鳴った。「悪い奴に狙われてます。悪い奴は暗闇でも見えます。悪い奴は暗闇でも見えるんです」

 リーゲルは屋敷の中庭に入る。

 白い顔が夜闇にくっきりと浮かび上がって見えた。深みのある碧い瞳がリーゲルを見返した。まるで幻影のようだった。その白い影が逃げ出す。慌てふためいて舗床を逃げ惑う足音がする。悲鳴や甲高い叫び声も聞こえた。

 相手にしてみれば、自分こそ暗闇でも見える悪い奴に違いない。リーゲルはそう思った。顔を黒く塗った大男が拳銃を片手に持ち、息を切らして庭に押しかけてきたのだから。皮肉なものだった。その時、ジークリンデが背後で叫んだ。

《一体、何の用だ?》

 

 トールヴァルトは撃った。

 

 ジークリンデはようやく門にたどり着いて屋敷の中庭に飛び込んだ。

 何かが駆け回る音が響いている。ジークリンデは闇の中を疾走しているように見える人影に眼を凝らした。誰かが泣いていた。恐怖のあまり抑えがきかなくなった甲高い声が聞こえる。中庭に女性が泣きながら地面に伏せていた。その傍に大男が斃れている。

「神様、お願いです」

「アンネローゼ様!」ジークリンデは叫んだ。

 リーゲルは頭をほとんど吹き飛ばされていた。中庭の真ん中に横たわっている。周りの舗床に黒い血の海が広がりつつある。ジークリンデは咄嗟に身体を投げ出して、グリューネヴァルト伯爵夫人であるアンネローゼの上に覆いかぶさった。

 

 トールヴァルトは再び撃った。



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第5章:狩りのとき
[31]


 夜明けが近い。

 ジークリンデはようやく正気を取り戻した。リーゲルがトールヴァルトに撃たれてからしばらくグリューネヴァルト伯爵夫人を身体で抑えてつけるだけで精一杯だった。銃弾が暴風雨のように屋敷に降りかかった。

 不意に発砲が途切れる。トールヴァルトが新しい弾倉を装填しているのだろう。ジークリンデは咄嗟に上体を起こして膝射で短機関銃を構えてトリガーを引いた。弾倉を1個撃ち尽くした。激情に駆られて山に向かって叫んだ。あてもなく発射された曳光弾が闇に包まれた山の斜面に消えていった。

 突然、誰かに肩をタックルされる。ジークリンデは悲鳴を上げて倒れた。再び銃弾の嵐が吹き荒れる。ジークリンデは眼を向ける。黄玉色(トパーズ)の瞳を持った青年士官がジークリンデとグリューネヴァルト伯爵夫人を地面に押さえつけ、あらん限りの力で煉瓦壁の陰に引きずって行った。

「これは一体どういうことですか!」士官が叫んだ。「みすみす殺されるつもりですか、貴官は!」

 ジークリンデは相手を見た。その虹彩に何故か常軌を逸したような光が宿っていた。ジークリンデは乱暴に手を振りほどいて短機関銃に手を伸ばそうとした。その動きを読んでいた士官は樫の枝くらい太い右の前腕で、ジークリンデの首を思いっきり殴った。ジークリンデは驚いて足掻くのをやめた。

「あそこに出て行けば、死ぬだけです!」士官が腹立たし気に怒鳴った。

「貴官の官姓名は!」ジークリンデは叫んだ。

「ギュンター・キスリング少尉です。伯爵夫人の警護を任されてます。屋敷の外で周囲を哨戒してたのですが、銃声を聞きつけて駆けつけました!貴官は!」

「名前はジークリンデ・キルヒアイス。階級は中尉!憲兵隊のケスラー大佐から命じられて、アンネ・・・グリューネヴァルト伯爵夫人の警護を!」

「そうでしたか!ところで、これは一体なんです!」

 中庭の向こうに横たわるリーゲルを見る。幾重もの血の筋が中庭の石の割れ目や隙間に入り込んでいた。頭が砕かれ、片方の目が飛び出している。ガスで膨らんだ内臓が地面にこぼれ出していた。トールヴァルトは彼らしくもない激情に駆られ、弾倉の銃弾を全てリーゲルに撃ち込んでいた。それから今度は狙いを無差別に定め、あらゆる物をズタズタに切り裂いた。順番に屋敷の窓を撃ち抜き、教会の壁龕にある漆喰の聖像をオートマチックで一気に掃射した。最後は2つのドーム型の尖塔に付いている十字架を撃ち落とした。

 かなり頭に来てるな。ジークリンデはそう思った。

「キスリング少尉!どこか避難できる場所は!」ジークリンデは尋ねた。

「屋敷に地下室があります!」

「では、そこにグリューネヴァルト伯爵夫人を!私は敵を斃します!」

「伯爵夫人!屋敷に隠れましょう!」

 キスリングがアンネローゼに覆いかぶさり屋敷に向かおうとする。別れの際、アンネローゼが「ジーク!」と呼びかける。ジークリンデは振り向いた。幼馴染と同じ蒼氷色(アイス・ブルー)の瞳に見つめられて思わずたじろいでしまう。ジークリンデは答える。

「大丈夫です。アンネローゼ様。必ず敵を斃して戻ってきます。約束します」

「必ず帰ってきて」

 ジークリンデはうなづいた。キスリングはようやくアンネローゼを連れて屋敷に駆け出した。その後ろ姿を見届けた後、ジークリンデは門の傍まで地面を這って行った。カイルベルトが門の外で銃を抱えたまま、地面に俯せていた。

「怪我は?」ジークリンデはカイルベルトに尋ねた。

「ありません。銃撃が止んだようですが・・・敵は?曹長は?」

「リーゲル曹長は殺されました」

 カイルベルトは2回瞬きした。

「そんな・・・」

「敵はまだ近くにいるはずです。これから2人で斃しましょう」

「ちょっと待ってください」

「これ以上のチャンスはありません。出来ます。私が保証します」

「銃撃が止んでます。敵はとっくの昔にいなくなってますよ」

「いや、教官はそんな真似をしない。夜の間は自分の天領だと思ってるはずです」

「ぼくは英雄じゃありません」

 全身に慄きが走る。カイルベルトは手が震えていることに気づいた。

「よく聞いてください。暗視装置はバッテリーで駆動します。バッテリーは太陽光発電で充電します。今は太陽が見えてますか?」

「いえ」

「なら暗視装置はバッテリー切れでもう使えません。いま教官の視界は真っ暗で何も見えなくなってます」

 ああチクショウ。カイルベルトはそう思った。

「それじゃ、2人で山の中に入って・・・」

「違います」

 闇の中でカイルベルトはジークリンデが傍にいるのが分かった。熱気が伝わってくる。

「貴官が入って行くんです」



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[32]

 トールヴァルトには何も見えなかった。静まり返った闇に独りでじっとしているのは訓練していなければ、かなりきついだろう。自分ほど優秀な兵士でなければ、この場から逃げ出したいという誘惑に勝てなかったかもしれない。

 苦々しさは拭いきれなかった。標的を仕留めそこねた。あと一歩だった。どうして失敗したのか今さら考え込んだりはしない。

 頭脳が複雑な問題に直面して刺激されていた。目まぐるしく回転させる。

 敵を1人始末したのは分かっていた。問題は敵があと何人残っているのか。ライフルの弾数に不安はなかった。敵が何人いようが問題にならない。そもそも敵は追ってくるのか。彼らは何者なのか。今のうちに逃げ出すべきか。

 最後の点については、すでに(ナイン)という答えが出ていた。

 暗視装置をどうするか。これは大いなる悩みの種になった。バッテリーが切れた今は重さ40キロの無用の長物となっていた。射撃戦では全ての要素が目まぐるしく展開する。すばやく動いてトリガーを引かねばならない。装置は取り外すべきだろうか。

 暗闇では敵は追ってこないだろう。夜が明けてから、こちらの姿が見えるようにならない限り、敵に勝算は無い。敵は来るだろうか。トールヴァルトは直感する。

 敵は必ず追ってくる。トールヴァルトは闇の中で笑みを浮かべた。

 

 ジークリンデは繰り返した。

「貴官が山の中に入って行くんです」

「ぼくは、えっと・・・」

「計画はこうです。教官はこちらが何人いるのか知りません。それに、こちらは暗視装置のバッテリーが切れていることを知ってます。教官はそれを知りません。そこで教官はこう考えるでしょう。もし敵が迫ってくるとしても夜が明けてからだと」

 カイルベルトは言葉が出て来なかった。

「そこで、2段階の作戦を考えました。まず貴官は山を登ってください。夜明けまであと1時間近くあります。その間に渓谷を避けながら、静かに登るんです。おそらく教官のライフルは射程距離が400メートルでしょう。こちらの短機関銃の射程距離を考えて、最低でも斜面を200メートルから250メートルは登らなくてはなりません。分かりますか?」

 カイルベルトはうなずいた。

「第2段階では、午前7時半きっかりに私が姿を見せます。何もない平らなところに」

 一瞬、カイルベルトは自分の心配を忘れた。

「中尉は死んだも同然ですよ。その場でイチコロです。一歩踏み出した途端、奴に穴を開けられます」

「それを利用します。貴官が教官を殺すのです。教官がトリガーを引いたら、貴官はその位置を確認できます。教官は貴官がすぐ傍にいることを知らないんですから。ここからがこの作戦のキーポイントです。貴官は待ちます。ひたすら待つんです。じっとしている限り、貴官は安全です。動いたらやられます。私もそうですが、ああいう手合いは耐え忍んで仕事を成し遂げます。教官は撃ってから最低でも半時間、もしかすると一時間はじっとしているでしょう。辛いでしょうが、ひたすら待ってください。その内に教官は立ち上がります。びっくりするほど近くにいるかもしれません。教官が現れたら、低めを狙って弾を撃ち込んでください。弾薬が詰まらないように5、6連発ずつ撃つようにしてください。教官が倒れてもそのまま撃ち続けてください」

 ジークリンデはカイルベルトの短機関銃を手に取る。

「これは撃ったことがありますね?ここにあるのは30発入りの弾倉です。フル・オートマチックにセットしておきましたが、薬室には1発も入っていません。横に付いたボルトを後ろに引くだけでロックされます。オープン・ボルトで発射します」

 ジークリンデは銃をカイルベルトに返した。

「教官が現れるのを待ってください。そこが一番肝心なところです。おそらく教官が撃つ銃弾は普通の銃弾とは違う音を立てるはずです。その後で待ってください。必要だったら1日中でも待ってください。分かりましたか?」

 カイルベルトは口をポカンと開けてジークリンデを見つめていた。

「貴官の出番です。チェックメイトが近づいてます」

《俺にあの山の中に入って行けって?》カイルベルトは恐怖の中で考えた。この壁からあの山までは限りなく遠くに思われた。

「忘れないでください。7時半に作戦開始です」

 ジークリンデはカイルベルトの肩を叩いて耳元に囁いた。

「さあ、行ってください!」



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[33]

 周囲が次第に明るくなる。眼下のぼやけた灰色の世界から修道院が姿を現した。修道院は静まり返っていた。中庭に遺体が1つ。その他に人影は無かった。

 トールヴァルトはライフルから半分空になった弾倉を外した。弾倉入れに手を入れて弾薬が詰まった弾倉を取り出し、それをライフルにはめ込む。それから撃鉄を引いた。樹の間から斜面を見下ろす。周囲は明るさが増しつつあった。小鳥が囀り始める。冷たくて湿った森の匂いがした。

 夜が終わろうとしていた。

 敵がいるとしたらもうすぐやって来るだろう。

 トールヴァルトは冷静に待ち続けた。

 

 もうすぐ自分の出番だった。

 ジークリンデは修道院の壁の蔭にしゃがみ込み、せわしい息遣いでここに留まっているべき理由を新たに考え出そうとしていた。腕時計の秒針が容赦なく進み続けている。カイルベルトは無事に山の中に入っただろうか。だが、今はカイルベルトを心配している余裕はなかった。木立に到達するまでに100メートルほど敵の前を横切らなくてはならない。脚の速い男なら12秒で行きつけるだろう。だが、着地の際に痛めた脚で駆けることは不安だった。少なくとも15秒はかかる。

 身体が暑かった。上着を脱いでシャツの袖をめくる。それでもまだ暑かった。ブーツを確認する。紐は解けてはいない。帽子は脇に投げ捨てた。再び腕時計に眼をやる。時間がどんどん過ぎていくような気がした。時が腕時計から草の上にこぼれ落ちる。もうすぐ起きるであろうことを気楽に考えようとした。だが、代わりに胃の中身が喉の奥までこみあげてくる。呼吸するのが苦しかった。脚は冷たく強張っている。口は渇いていた。

 辺りに一瞥をくれる。気持ちのいい1日が始まろうとしていた。弱々しい太陽が山の端から顔をのぞかせる。空は晴れ渡っていた。白くてふわふわした雲が浮いていた。

 再び腕時計に眼をやる。あと数秒。しゃがみ込んで短機関銃を点検した。弾倉やボルトはロックされている。フル・オートマチック。安全装置は外してある。森ははるか彼方にあるように思えた。トールヴァルトのことを考えた。今は木立の中でライフルの照準器を覗き込んでいるはずだった。

腕時計が時間を告げた。ジークリンデは駆け出した。

 

 トールヴァルトは兵士が壁から飛び出すのを眺めていた。その姿は数分前から気づいていた。あの愚か者は外を覗いては頭を引っ込めるという動作を繰り返していた。

決心がつかなかったのか。景色に魅了されていたのか。

 どちらでも構わなかった。トールヴァルトはのんびりとその姿を追った。あまりにも簡単な獲物だった。照星をわずかに上に向け、進行方向にずらす。トリガーをしぼっていく。身長は標準ぐらいで痩せていた。こいつが過去数週間、自分を追っていた奴なのか。兵士はよろめきながら走っていた。脚が悪いのかもしれない。

 トリガーの遊びが無くなった。

 この兵士は生かしておくことにした。

 気に入らなかった。あまりに簡単すぎる。あの息を切らしている兵士なら、いつでも仕留めることが出来る。まだこれから400メートルも木立の中に広がる険しい斜面を登ってこなくてはならないのだ。その途中でいくらでも片付けられる。

 だが、あの兵士の姿を照星に捉えたまま撃つ機会を窺っているうちに、ある考えが頭に浮かんできた。この数時間、トールヴァルトには何も見えていなかった。その間に別の兵士が木立の中に移動していたら?それは向こうが暗視装置の欠点を把握しているという前提の基になり立つ推測だった。別の兵士がすでに木立にいると考えた方が良いだろう。

 もう1人の兵士は斜面のどこにいてもおかしくはなかった。短機関銃の射程内に潜んで、こちらが撃つ瞬間を待っているのだ。一度ライフルを発射すれば、こちらの位置は筒抜けになる。トールヴァルトは再び我慢した。細身の兵士が左側の斜面を懸命に登ってきていたが、これは後回しでも構わなかった。

 もう1人の兵士を見つけなくては。どこにいるだろう。実際にもう1人の兵士がいるとしたら、そいつと細身の兵士は互いの火線に入らないように打ち合わせをしているはずだった。細身の兵士が左側にいるということは、もう1人は右側にいるのではないか。細身の兵士が脅威になる程こちらに近づいてくるまでにあと4分か5分はある。

 トールヴァルトは右側の斜面を入念に探し始めた。



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[34]

《さあ、これからどうする?》カイルベルトは考えた。

 敵は立ち去ったに違いない。そうでなければ、間違いなく中尉は穴だらけになっていたはずだ。

 カイルベルトが今いるところからは、中尉が走る姿がよく見えていた。中尉が壁から飛び出すのを眼にしてすぐに振り返ったが、大して見る物は無かった。山の斜面をびっしりと覆う木。地面から露出した岩。生い茂った下生え。

《教官》は撃ってくる。中尉は自信たっぷりに言っていた。だが何も起こらなかった。カイルベルトは眼の前に広がる抽象画のような景色を見渡した。汗が腕を流れ落ちて行った。耳元で虫が音を立てて飛んでいた。森を見つめるのは、星を数えようとするのに似ていた。すぐに頭がおかしくなってしまう。模様が眼の前で囁き、輝き、ちらちらと揺れているように感じられた。物の輪郭がぼやける。小石が肌に食い込む。次第に落ち着かなくなる。

 動くべきか。このままじっとしているべきか。中尉は何も言わなかった。ひたすら待て。中尉からはそう指示されただけで銃声がしなかった場合はどうするかについては一言も無かった。たぶんこのままじっとしていた方が良いだろう。おそらく敵は逃げたのではないか。こんな場所でぐずぐずと留まっているわけがない。敵はバカじゃない。タフで抜け目がない兵士だ。

 どうすればいいのか。カイルベルトは途方に暮れた。

 

 ジークリンデは木立の奥深く、薄暗いところまで来ていた。幹の後ろにしゃがみ込んで少し休む。この辺りの斜面は緩やかだが、その先は急な登りになっている。足場は不安定そうだった。

 しゃがみ込んだまま、木立の向こうに眼を凝らす。視界は数メートル先で閉ざされている。絡まりあった枝と樹。斜面と突き出た岩しか見えなかった。

 カイルベルトがこのまま動かずにいてくれるといいのだが。作戦に変更はない。今でも肝心なのはジークリンデが囮となってトールヴァルトに撃たせることだった。

《バカなマネはしないでください、エーリヒ。さもないとやられてしまいます》

 ジークリンデは再び力をかき集めた。身体に力が残っているかどうか定かではなかった。斜面を登り始める。樹から樹、岩から岩に突進する。腰をかがめて歩き、滑り込み、必要以上に大きな音を立てた。

 

 カイルベルトは辺りを見回した。頭上のもつれた枝の間から光の筋が何本か差し込んできていた。教会の中で屋根の隙間から入り込んでくる光を眺めているような感じだった。相変わらず何も見えない。敵がオーディンのカフェに座っている姿が瞼に浮かんだ。

 それなのに、こっちはこんな山奥に座って汗をかいているのだ。

 敵が一瞬でも見えさえしたら!

 その時、自分はどうすればいいのか。誰かに教えてもらえさえすれば!

 カイルベルトは慎重にじりじりと斜面を登り始めた。

 

 もう1人の兵士は右側の斜面、約150メートル下にいた。森の木陰に半ば包まれながら、盛り上がった地面の後ろから立ち上がったところだった。トールヴァルトはその動きを見逃さなかった。

 トールヴァルトは淡々とライフルを持ち上げ、位置を変えて再び二脚架の上に載せる。自分の身体にすばやく引き寄せて照準器に眼を当てる。

 こちらの兵士はまだ子どものように見えた。この距離からでも、相手の顔が成熟していないのが見て取れる。若者は臆病なトカゲのように立ち上がった。キョロキョロと辺りを見回し、ひどく怯えながら、ためらいがちに動いていた。

 もうすぐ細身の兵士が左側の斜面を登ってくるはずだった。下生えをかき分ける音まで聞こえてきそうな気がした。兵士たちの位置が互いにこれほど離れていなければよかった。互いが近ければ、こちらは二脚架を全く動かさずに銃口を横になぎ払うだけで2人とも片付けることができた。

トールヴァルトは若者の胸に照星を合わせた。その時、若者がしゃがみ込んだ。

《くそっ!》

 左側で細身の兵士が射程内に入るまであと数秒しかなかった。

《ホラ、そこの若いの。立ち上がれ、このクソッたれめ!》

 銃口を細身の兵士に向けるべきか。

《さあ、若いの。立ち上がれ》

 若者が再び姿を現した。眼の上に両手をかざして間抜けなしかめっ面で懸命にこちらを探している。若者はすでに固定している照準器のど真ん中にいる。胸がぼやけた金属の楔の後ろに隠れていた。

 トールヴァルトは撃った。



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[35]

 銃声を耳にした瞬間、ジークリンデにはピンと来た。教官が撃ったのだ。短機関銃を肩に当ててさっと立ち上がる。カイルベルトの姿が見えた。撃たれたのだ。自分もトリガーを引いた。

《もっと撃つのよ!》ジークリンデは自分を叱りつけた。

 ジークリンデはトールヴァルトの銃声が聞こえてきたと思われる方向に狙いを定めた。

 短機関銃が次々と銃弾を吐き出す。集中射撃した場所で土煙が揚がるのが見えた。

 弾が切れる。ジークリンデはすばやく地面に身を伏せた。手が震える。胸は高鳴っている。耳元ではまだ銃の轟音が鳴り響いていた。ぎこちない手つきで弾倉を交換する。辺りに土煙だか蒸気だか、何やらねっとりと熱いものが雲のようにたなびいた。混乱に紛れて人影らしきものは全く見当たらなかった。

 攻撃を続けなければならない。ジークリンデは自らの銃火を盾にして前進する。斜面を這い上り、本能に従って連射する時だけ脚を停める。乾燥した松の針状葉と枯れたシダの積もったゆるい地面で二度脚を滑らせた。姿勢を低く保ったまま進む。

 オートマチックで連射される銃弾が頭上の枝をかすめる。ジークリンデは身を伏せた。上から樹の破片が降ってくる。再び短機関銃を持ち上げ、銃声が響いた方向に向かって連射した。それから軽やかに右側に転がる。トールヴァルトはこちらに気づいている。周囲の樹に向かって銃弾を撃ち込んだ。地面がえぐり取られる。

 数秒後、今度は左手の上で絡まり合った松の枝の間から人影がちらりと見えた。だが、それはすぐに消えた。ジークリンデはたしかに人の姿を眼にしていた。ついに教官をこの眼で捉えた。

 

 トールヴァルトはすばやく弾倉を交換した。息遣いが荒かった。駆けて移動する途中で転んでいた。顔の片側から血が流れている。短機関銃の銃弾が近くの岩に当たり、小石か岩の破片が眼の上にぶつかったのだ。

 今は距離を取った方が安全だ。トールヴァルトがいま手にしているSVT-40の有効射程距離は400メートル。ギャングみたいに近距離で撃ち合うのは馬鹿げていた。不確定要素が多すぎる。ちょっとしたはずみや偶然で、銃弾が岩に当たって跳ね返ってくるかもしれない。もっと高い場所に移動して遠くから敵を仕留める。

 トールヴァルトは斜面を登って行った。

 

 ジークリンデも木立をかき分け、どんどん斜面を登る。近距離ならチャンスがある。重い暗視装置を背負ったまま、斜面をすばやく登っていくのは容易ではないはずだ。出来るだけ教官から離れないようにして、はっきりと敵の姿を捉えられる瞬間が来ることを願った。もし距離が開けば、トールヴァルトは余裕でジークリンデを始末できるだろう。

 傾斜がかなりきつくなっていた。空いている方の手で樹を掴み、ひたすら登り続ける。汗が滝のように流れ落ちる。唇に土埃が貼りついている気がした。脚がひどく傷む。何度かしゃがみ込んで敵の姿が見えないか、密集した枝の蔭から見上げた。動く物は緑にうねる木立だけだった。

 

 暗視装置はどうしようもなく重たかった。時間さえあれば、背中からむしり取って投げ捨てていただろう。だが、ライフルから照準器を取り外すには数分かかる。今はそんな余裕が無かった。

 トールヴァルトは斜面で脚を停める。右側の斜面を振り返った。何も見えない。

《ヤツはどこにいる?》

 トールヴァルトは斜面の上に眼を向ける。この辺りはひどく傾斜がきつかった。水が欲しい。息が切れている。締め付けてくる負い紐のせいで上半身の感覚が無くなっていた。

 この山にいるのは、自分ともう1人の兵士だけだった。

 畜生。畜生。どうして暗視装置を捨てなかったんだ?こんな物はクソ食らえだ。全部クソ食らえだ。憲兵隊も。伯爵夫人も。皇帝も。同盟も。銀河帝国も。全部くたばるがいい。息も絶え絶えにそんな怒りをどこかにぶつける。トールヴァルトは登り続けた。



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[36]

 前方に地面から露出した大きな岩があった。ジークリンデは岩の手前で脚を止めた。危険な感じがする。岩陰からそっと上を窺う。何も見えなかった。自分に進めと命じる。そのまま進み続けろ。

 ジークリンデは岩に張り付いた。わずかな出っ張りに指をかけ、もう少しで乗り越えられるところまで身体を持ち上げた。右脚で踏ん張る。あと数センチよじ登ろうとする。

 全くなんてザマだ。こんな辺境の星で岩山に取りついている。おまけに怖い。

 右脚で稼いだ数センチはすぐに帳消しになった。ついに痛めた脚が限界に達した。そして背中に敵の銃弾が突き刺さった。金属片が神経に触れる。痛みが全身を貫いた。ジークリンデは倒れた。バランスを崩しながら、悲鳴を噛み殺す。何かにしがみつこうとしたが、手は宙を掴むだけだった。

 落ちながら身体をねじって肩から着地した。頭の中で閃光が飛び回る。一瞬、訳がわからなくなった。口の中に土の味がした。無我夢中で転がり、手探りで短機関銃を見つけようとする。唯一の武器は転落した拍子にどこか遠くに飛ばされていた。

 短機関銃が見つける。トールヴァルトの姿も眼に飛び込んできた。

 トールヴァルトは200メートルも上にいる。彫像のように落ち着き払っていた。

 ジークリンデは起き上がって短機関銃に取りついた。

 

 トールヴァルトはライフルのトリガーを引いた。向かい側の斜面で銃弾が敵の背中に命中した。敵が斜面を転げ落ちる。後は興味を失った。死んだのは確かだ。もはや関心の対象外だった。ライフルを置いて、背中から暗視装置を下ろすためにその場に座った。

 肩はズキズキしていた。装置の重量から解放された身体が震えていることに気づいて驚いた。さっき撃ってから数秒しか経っていないような気がしたが、数分が経過していたのは間違いなかった。

 危ないところだった。あの兵士は向かい側の斜面を駆け上がって撃ってきた。本当に際どいところを狙ってきた。頭の傍にある岩に当たった銃弾がほんの数ミリくらいしか外れていなかったのではないか。そう考えて身体に慄きが走った。トールヴァルトは額の傷口に手をやる。血は乾いて瘡蓋になっている。

 タバコが吸いたかった。だが今は持っていない。諦めるしかなかった。

 自分が今いる場所に意識を向ける。周囲はハルツ山脈が聳えていた。表面に長年の雪が降り積もっていた。はるか下に緑が生い茂る谷が広がっている。静寂の中でじっと眺める。山容がとりわけ厳めしく感じられた。トールヴァルトは立ち上がった。最後の任務は帰還することだった。ライフルを肩にかけようとして、不意に誰かに呼びかけられた。

「ヘル・トールヴァルト!」

 相手の姿はよく見えなかった。

 トールヴァルトは片手をかざして陽射しをさえぎった。左側の斜面を見る。数十分前に見逃した若い兵士の顔が見える。トールヴァルトは今まですっかり忘れていた。ライフルを身体の前に構え直して照準器に眼を当てる。トリガーに指をかけて引こうとした。一瞬、眼の端にプリズムが現れる。標的の姿がぼやける。

《クソッ!こんな時に・・・》

 刹那、トールヴァルトの身体が左側の斜面から放たれた銃弾で引き裂かれた。

 

 カイルベルトはゆっくりと敵に近づいた。トールヴァルトは仰向けに横たわっている。中尉の銃撃を受けて大きな傷跡が開いている。そこらじゅう血だらけだった。カイルベルトはしゃがみ込んで短機関銃の銃口を頭蓋骨に当て、5発連射で頭を吹き飛ばした。

 ジークリンデは疲れた足取りで遺体に近づいた。カイルベルトは血と肉片にまみれて立ち上がり、「おめでとうございます」と言った。

 ジークリンデは黙って前屈みになる。トールヴァルトの遺体を俯せにひっくり返し、ライフルを肩から外して負い紐を腕から引き抜く。背中のバッテリーと照準器に接続しているコードを切らないように注意した。ライフルから銃身を外して、太陽に向けて内部を覗いてみる。

「何か見えますか?」カイルベルトは尋ねる。

「すごく汚れてます。教官が使った特殊な銃弾のせいでしょう。撃つ度に、残留物が少しずつ残されていったんです。ライフリング(銃身内の溝)が詰まって内側がつるつるになってます」

「中尉はもう少しでやられるところでした」

 ジークリンデはうなづいた。

「銃身がこんな状態だから、弾はめちゃくちゃな方向に飛んでたのです。教官は連射したはずですが、私に当たったのは一発だけでした。その頃はもう使い物にならなくなってたんでしょう」

 だが、ジークリンデにはまだ気にかかっていることがあった。

「ひとつ分からないことがあります。教官は貴官を撃とうとしましたが、私には一瞬ためらったように見えました。普通なら、すぐにトリガーを引いてるはずですが・・・」

 カイルベルトはジークリンデに倣って困惑した表情を浮かべようとした。だが、自分にはどうでもよいことだった。その時、もっと大切な件が頭に浮かんだ。

「あの、中尉?」

「何です?」

「ぼくたちは皇帝の妃を救ったわけですよね?それなら、勲章がもらえますよね?両親が大喜びすると思うんですが」

 ジークリンデは微笑んだ。



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エピローグ
[37]


 数週間後―。

 ジークリンデはイゼルローン要塞に向かう駆逐艦エルバーフェルトの船中にいた。ハルツ山脈の暗殺未遂事件が決着してからまもなく、銀河帝国軍はイゼルローン要塞から同盟領方面に出兵することを発表した。期日は8月20日に定められ、オーディンからも宇宙艦隊が出立したという。惑星テルペニアの叛乱を制圧した艦隊もこれに参加する。

 ジークリンデは暗殺阻止の功績により降格処分は取り消され、階級は大尉に戻された。テルペニアを出発する前に、ケスラー大佐から暗殺未遂事件の顛末を聞けた。憲兵隊はハンゼン大佐が叛乱部隊から暗号名《ザックス》と呼ばれる内通者として情報を流していた容疑で逮捕した。だが、肝心のグリューネヴァルト伯爵夫人の暗殺を命じた者の捜査は、犯人が門閥貴族である可能性があるために難しくなるという話だった。貴族の犯罪に対する法網はいたって目が粗く、権力と富を巧妙に駆使して処罰の手を逃れた者も多い。思索にふけっていたジークリンデの気が着いた時、要塞の宇宙港に駆逐艦が到着した。

 ジークリンデはしばし宇宙港に佇んでいた。今さらながら生きている我が身が不思議でならなかった。大勢の兵士たちが脇を通り過ぎていく。だが、ジークリンデの幼馴染には赤毛の女性兵士を見つけることは困難ではなかった。ジークリンデにしても、豪奢な黄金色の頭を発見するのは容易だっただろう。

「キルヒアイス!」

 そう自分を呼びかける生気と音楽性に富んだ声がこよなく懐かしいものに思える。ジークリンデは足取りを弾ませて歩み寄る金髪の若者の姿を認める。

 ラインハルト・フォン・ミューゼル。この時のジークリンデはまだ知る由もないが、近い内に長い間断絶していたローエングラム伯爵家を継ぐ者である。

 ジークリンデは心もち背を伸び上げるようにして、ラインハルトに敬礼する。

「閣下、私は・・・」

 ジークリンデはラインハルトに抱きすくめられた。耳元でラインハルトが囁いた。

「何も言うな。キルヒアイス」

「閣下、服が汚れます・・・」

 ジークリンデは野戦服を着たままだった。急き立てられるように出発したために軍服に着替える時間も与えられなかった。

「服など構うものか。お前は姉上を救っただけでなく、こうして生きてることが分かっただけでも俺は存外にうれしいのだ。しばらくこうさせてくれ」

 いま自分の顔が赤くなっていないだろうか。ジークリンデはそれが相手に分かってしまわれないか心配になった。

「それより閣下はよしてくれ。2人きりの時は名前で呼べと言っただろう」

「はい、そうでした。ラインハルト様」

 ラインハルトは蒼氷色(アイス・ブルー)の瞳で友人を見つめる。誰も真似ようのない笑顔を見せ、しなやかな指先に赤い髪をからませた。

「今回、俺は分艦隊の1つを指揮することになった。前回は100隻単位、今回は1000隻単位だ。お前も旗艦に乗ってもらうぞ」

「はい、ラインハルト様」

「まずは再会を祝して食事を摂ろう。肩のライフルは?持ってやろうか?」

 ジークリンデは肩に吊るしていたシュレスヴィヒ=マンフレートM1895と功一級狙撃手章をラインハルトに手渡した。

「これはラインハルト様にお渡しします。私にはもう無用の物ですから」

「要らないというのか?」

「もう狙撃はしない。そう誓いを立てたのです。それにラインハルト様、アンネローゼ様をお守りするのにライフルはもう必要ありません。ブラスター1つがあれば十分です」

 ジークリンデ・キルヒアイスは惑星テルペニアの叛乱以降、ライフルによる狙撃任務を一度も行っていないことが帝国軍の経歴や記録等から証明することが可能である。また、功一級狙撃手章を受勲した唯一の女性狙撃兵である。

 9月にジークリンデ・キルヒアイス大尉はミューゼル分艦隊の副司令官を拝命し、分艦隊司令官ラインハルト・フォン・ミューゼル少将とともに前線に立ち続けた。同盟軍は同年12月にイゼルローン要塞に対する総攻撃を開始し、この年―宇宙歴794年、帝国歴485年は第6次イゼルローン攻防戦で血生臭い終幕を迎えることになる。

 そして翌年も2月の第3次ティアマト会戦で血臭に満ちた開幕を迎える。連年この繰り返しであり、この不毛な連鎖を断ち切るためにはよほどドライスティックな変化が必要と思われた。そうした変化を成し遂げうる巨大な才能も必要であろう。

 ラインハルトはそのことを自負し、ジークリンデ・キルヒアイスは生涯を通じてラインハルトの才覚を信じて疑わなかったのである。



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