メビウスアプリコット (きゃら める)
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メビウスアプリコット

             * 序 *

 

 ――鬱陶しい。

 降り続ける雨がどんどん髪や服に染みてくる。それなのにあたしは、傘も差さずにその中で立ち尽くしていた。

 傘は倒れたときに飛んでいって、風が吹いたからか、近くには見えなかった。尻餅をついたときに濡れたお尻は下着まで水が染みてて気持ち悪い。車から降りてきたすぐ近くで男の人がしきりになにか言ってるけど、雨音と同じく、耳の右から左に抜けていくばかりだった。

 あたしが見下ろす場所にいるのは、ボタン。

 雨はそんなに好きじゃないはずなのに、ボタンは身動きひとつすることなく、焦げ茶色の大きな身体を道路の真ん中に横たえていた。

 本当にぴくりとも動かない。固い毛並みに雨が染みていって重くなってるはずなのに、それをどうすることもない。呼吸のために微かに動いてるはずのお腹も、動いてはいなかった。

 ついさっき起きた現実を、あたしは理解することができなかった。

 ボタンがあたしを突き飛ばして、なにをするのかと怒ろうと顔を上げたとき、ドンッと重い音とともにボタンが道路の端から真ん中まで飛ばされて、そのまま動かなくなった。

 事実としてはわかってるのに、なにが起こったのか理解してない。ボタンだけはしっかり見えてるのに、周りが見えなくなってきて、耳障りな雨音も男の人の声も消えていった。頭の中が真っ白になってて、雨に打たれてるのがわかってるのに、あたしは動くことができなかった。

 ――こんな感じだったのかな。

 遠くなりそうな意識の中で、思考の片隅にそんな考えが浮かんでいた。

 ――渚や、汐ちゃんを亡くしたとき、朋也もこんな感じだったのかな。

 悲しいとは感じてなかった。ただ寝たかった。全部置いておいて、深く眠りたい。もう二度と起きないくらい、深く。

「空っぽになっちゃった……」

 自分にも聞こえないくらいの声でつぶやく。

 あたしの心は空っぽだった。いままでは椋が、ボタンがいてくれたけど、椋には彼氏がいて、ボタンはいま、あたしの目の前で横たわってる。空っぽになった身体の中にまで雨が染み込んできてるみたいで、気持ちが悪かった。

 ――寒いよ……。

 雨に濡れた身体はもうどこか遠くに感じてるだけなのに、寒かった。寒くて寒くて仕方なくて、暖かいものを抱きしめたかった。暖かい誰かに抱きしめてもらいたかった。

 ――朋也……。あたしを抱きしめて。強く抱きしめて、暖めて。

 なんで朋也なんだろうと呆然と考えながら、あたしは動くことがないボタンを、ずっと見つめ続けていた。

 

             * 1 *

 

 布団と布団の距離はだいたい十五センチ。

 これくらいであれば、腕を真横に伸ばすかお互いに手を伸ばすかしない限り身体が触れることはないはず。

「うぅーん」

 これでいいような気がするのに、あたしは口元に手を寄せてまだ考え続けてる。

 もう少し近づけたい気がする。でもそういう関係じゃないのにこれ以上近づけるのはいろんな意味で怖いし、部屋の端っこと端っこまで離すのは逆に意識してみるみたいで嫌な気がした。

「……なにやってんだ? 杏」

 いつの間にお風呂から上がってきたのか、Tシャツと短パン姿の朋也があたしの後ろから声をかけてきた。

「なにってわかんないの? どれくらい布団を離しておくべきか考えてんのよ。朋也が誤解なんてしないようにね」

「はぁ……」

 もうちょいおもしろいリアクションがあるかと思ったのに、朋也はため息ひとつでキッチンの方へと向かっていって、冷蔵庫から缶ビールを取り出し立ったままプルタブをはずしてあおった。

「布団敷いてあげたんだから礼くらい言いなさいよね」

 あたしの存在を無視するかのようにビールを飲み続ける朋也を睨みつける。

「――ありがと」

 素っ気ない礼の言葉とともに向けられた視線には、感情が籠められてなかった。それだけじゃなく、生気ってものが感じられなかった。

 ――まったく。

 ちょっとは感情の籠もった反応が返ってくるかと思ったのに、昼間と変化した様子のない朋也に落胆する。

 あたしはいま、朋也がひとり暮らしをしてるアパートの部屋に来ていた。二十代も後半だってのにひとりわびしい生活をしてる朋也に、あたしがちょっとくらい彩りを添えてあげようかと思ったからだった。

 日曜の休みの日にどこかしょうもないところに出かけようとする朋也を部屋の前で捕まえて、汚れっぱなしの部屋を掃除して、敷きっぱなしの布団を干して、あたしの実費で食材を持ち込んで昼食も夕食もつくってあげた。おっきな声で怒るわけでもなく、小さな声と視線で邪魔だとか出ていけなんて言う朋也をあしらいつつ、寝るような時間まであたしは朋也の部屋にいた。

 ――やっぱり、まだまだなんだな。

 今日半日見ていた朋也の様子は、暗かった。掃除もされてない部屋でじっとあたしのことを睨むように見つめてくる姿は恐怖すら感じそうなのに、ガラス玉みたいな感情も生気もない目からは、その奥に籠められてるだろう悲しさしか感じなかった。

「帰らないのか? 杏」

「いまさらなに言ってんのよ。お風呂も借りたし、見ての通りパジャマ着てんのよ? こんな姿で出歩くと思ってんの? あたしもビール、っと」

 真ん前に立って邪魔な朋也をどかして、了解を得ることなく冷蔵庫からビールを取り出す。布団を敷くためにテーブルも端っこに追いやってるから座る場所を見つけられなくて、仕方なく朋也と並んで流しに腰を持たせかけながら缶ビールを傾けた。不満そうな雰囲気のある視線が横顔に見てるのはわかってたけど、無視する。

「パジャマ姿のあたしって、そんなじっと見つめるくらい魅力的? でもダメよ。誤解して手を出そうなんてしたら、ただじゃ済まないんだからね」

 ビールを飲み干す間もじっと見つめてきてた朋也に、缶を燃えないゴミに放り込んだあたしはにっこりと微笑む。右手に掃除中に見つけた分厚い工事関係かなにかの専門書を構えながら。

「帰ってくれ。俺は来てほしいなんてひと言も言ってない」

 途中の会話がすっぽ抜けた朋也の言葉にため息が出そうになりながら答える。

「いいでしょ? そんなの。あたしの勝手よ。むしろ世話してあげたんだからちゃんとしたお礼くらいしてくれてもいいわよね」

「勝手もなにも、ここは俺の家だぜ」

「知ってるわよ。知らないで来るわけないでしょ?」

 口調こそ高校時代のものとあんまり変わりないけど、朋也の口調は重い。あたしを見つめる目にはほとんど感情が籠められてなくて、それこそ死んだ目って表現がぴったりの目をしていた。

「……勝手にしろ」

 やる気が失せたのか、言って朋也は空になった缶を流しの上に置き去りにして布団に潜り込もうとする。

「ん~~」

 少し考えて、あたしはおもむろに構えていた専門書を投げつけた。

 ……距離が近いから多少手加減はしたつもりだったけど、ガツンッ、と派手な音がして、朋也の側頭部に角がクリーンヒットした。

「――――っ」

 さすがに痛かったのか、朋也は目尻に涙を溜めて睨みつけてくる。

「勝手にしろ、って言ったじゃない」

 悪びれることなく返して、あたしは彼の目を見つめる。

 微かに怒りが籠められた目。感情があるってことは、ほんの少しであっても生気があるってこと。

 畳に転がった専門書を手に立ち上がった朋也。どんな反応するのか期待したけど、こいつは本を棚の上に戻してまた布団に潜り込んだ。

「はぁ……」

 あたしが漏らしたため息の意味は、朋也にもわかってるはず。大きなお世話くらいにしか思ってないかも知れないけど、あたしはこいつのことが心配だった。

 渚と、汐ちゃんを失った朋也の生活は荒れていた。

 聞いた話だと仕事には復帰したそうだけど、笑うようなことはなくなったらしい。休日はなにをするでもなく、パチンコとかで時間をつぶしてるって話だった。部屋については、そんなに広くないってのにあたしが半日かかってやっとどうにかなったくらい、ぐちゃぐちゃになっていた。

 それでもただ一カ所だけは……。

 朋也のことを見ていた視線を上げて、小さな部屋の隅、タンスの上に置かれているものを見る。

 だんご大家族のぬいぐるみ。

 汚い部屋の中で綺麗だったのは、そこだけ。間抜けなくらい大きな、三つ重なって置かれたぬいぐるみを見て、朋也の気持ちを思う。

 ――こいつはこの先、ずっとこんな風に生きていくつもりだったのかな?

 生きてるだけの生活に、どんな意味があるんだろうか。

 思い出はいまの朋也にとって痛みしか与えてくれないはず。高校時代みたいにあたしや陽平みたいな嫌でも近づいてきてくれる人もいない。そして今回は、汐ちゃんのように、希望が生まれる可能性もない。

 ――笑ってほしいな。

 あたしはそう願っていた。

 それだけを願って、朋也の家にやってきた。迷惑がられるのも承知の上で。

 なんでかあたしは朋也の莫迦っぽい笑顔が好きだった。元気のない朋也なんて見たくなかった。見なければいいんだろうけど、一度死んだ目をした朋也のことに気がついたら、気になってしかたがなかった。

 ――あたしに、なにができるかな。

 わからなかった。でも、なにかしたかった。

 考えながら灯りを消して、朋也の隣に敷いた布団の中に入る。

 目をつむって深呼吸をすると、昼間に干した布団からは、お日様の匂いと、もうしないはずの渚の香りが、微かに鼻をくすぐった。

 

 

 夕日に照らされて色を失った朋也の姿は、まるで石像のようだった。彼の前に並んでいる墓石と同じように、生きているようには見えなかった。

 片手に大きな紙袋を――パチンコにでも行ってたらしい――を抱えて、朋也はじっと渚と汐ちゃんが眠る墓の前に立ち尽くしていた。

 あたしはその様子を隠れるわけでもなく、少し遠くから眺めてる。近づいて声をかければいいのに、できなかった。なにをするわけでもなく立っているだけの朋也は、いまのあたしには寂しすぎた。

 今日は汐ちゃんの一周忌。幼稚園の仕事を抜け出せなかったあたしは、夕方になってやっと墓に参ることができた。家族揃っての墓参りは終わってるだろうけど、一年と少し前まであんなに元気だった汐ちゃんにお線香くらいあげたかった。

 たぶん家族一緒に墓参りからは逃げたんだろう、ってのはわかるけど、一年経っても朋也は、葬式のときと同じような、渚を亡くした後に見かけたときと同じような、生気のない目をしてる。

 ――笑ってよ、朋也。

 口には出さずに、そう呼びかける。

 慰めの言葉なんて思いつかなかった。どんなことをすればあいつの痛みを和らげてあげられるのかなんて、わからなかった。

 ――莫迦みたいに、笑って見せてよ。

 だからあたしは、朋也に自分の望みを心の中でつぶやく。

 直接言わなければ伝わらない。なにかをして上げなければ変わらない。それはわかってるけど、あたしにできることなんて思いつかなかった。

 ――笑って……。

 胸の前で合わせた手を握りしめながら、強く、強くそう想う。

 

               *

 

 すぅー、すぅー、という密やかな寝息が聞こえていた。

 まだ目をつむっていて、意識も覚まさないまま、朋也は隣で寝ている存在を耳だけで感じていた。

 眠っている間に悪い夢を見ていたような気がしていたが、忘れてしまった。聞こえる寝息がすべてを忘れさせてくれた。いまあるのは胸にある暖かさだけ。ひとりではないということで、安心してまどろんでいられた。

 隣で眠る人の体温を感じたくて、朋也は布団から手を出し、隣に敷かれた布団の中に入れる。ちょうどそこにあった手を優しく握った。

 ――俺はひとりじゃないんだな。

 寝ているだろう相手に手を握り返されて、彼はそれを感じる。まどろむ頭の中に満たされていく感覚。ひとりではないというだけで、これほど安心している自分の弱さに笑みがこぼれていた。

 天井に向けていた顔を動かして隣で眠る人の顔を見る。

「……」

 眠気は一気に吹き飛んだ。握っていた手は反射的に離していた。

 意外にあどけない寝顔を朋也に向けているのは、杏。

 隣で寝ているのが誰なのかは知ってるつもりだった。夜中に何度も目が覚めて、隣に誰がいるのかをその度に確認していた。

 身体を起こした朋也は、深くため息をつく。

 ――俺は、弱いな。

 まどろみながらも、杏が一緒にいると知っていた自分がいる。知っていながら彼女がいるというだけで安心を感じている自分がいることを、否定はできなかった。邪魔だと感じながらも強い態度で杏を追い出せなかった理由を、自分なりに理解していた。

 ――でも俺は……。

 渚や汐だったらどんなに幸せだろうと考えてる自分がいた。

 ――俺はお前たちを、幸せにできなかったんだな。

 眠り続ける杏の顔を眺めながら、朋也は最近めっきり涙もろくなった自分を感じ、布団に顔を押しつけた。

 

               *

 

「美味しい?」

 おみそ汁をすすって自分のつくった味に満足しながら、朋也に聞いてみるけど、こいつは一心に食事をかき込むばっかりで、視線すら上げようとしなかった。

「まったく、感想くらい言ってもいいじゃない」

 頬をふくらませて抗議してもやっぱり反応はない。

 窓の外からは差し込んでくる春先の柔らかい朝日が、あたしと朋也の横顔を照らしていた。いい関係でもないふたりだから起きた姿のまま。じっと顔の変化を見つけようと眺めていたけど、それが嫌そうに一度視線を上げただけで、朋也は無表情のままだった。

 ――まだまだこれからよ。

 朋也の家に上がり込んで約一日。多少目に感情が宿ることは――わざわざ怒らせたりしたんだけど――あったけど、それ以上の反応はなかった。

 めげるにはまだ早い、と考えつつ、あたしも朋也を追って食事を食べ続ける。

「ちょっ、こらっ。朋也っ!」

 さっさと朝食を食べ終えた朋也が立ち上がって、おもむろに服を脱ごうとするのを見ていられず、茶碗を投げ出すように置いて背を向けた。

「なに考えてんの?! レディがいるってこと、わかってんの?」

 言いながらちらりと後ろを見ると、タンスから服を取り出すのに背を向けている下着一枚の朋也の姿が目に飛び込んできた。

「うっ、くっ」

 とっさのことで反応できず、頬に血が上ってくるのを感じながらまた朋也に背を向けた。

 ――ちっ、違うんだからねっ。

 ドキドキッて音がはっきり聞こえそうなくらい早く打ってる胸を押さえながら、心の中で言い訳する。

 ――別にあたしは、朋也のことなんとも思ってないんだからねっ。こんなことしてるのは、朋也が笑ってないとあたしの調子が狂うからなんだからねっ。

 誰に言うわけでもない言い訳を口に出さずに繰り返しながら、朋也に聞こえないように何度も深呼吸をしていた。

「ふふっ」

 鼓動を整え終えたあたしの口に、無意識のうちに笑い声が漏れていた。

 ――あれ?

 どうして自分が笑ってるのかわからなかった。うぅん、笑ってることに気づいたいまならわかる。

 ――あたし、楽しんでる?

 なにが楽しいかまではわからなかった。朋也は高校の頃よりさらに無愛想で、反応も鈍いけど、でもこいつと一緒にいる時間をあたしは楽しいと感じていた。

「朋也? あ、こらっ。なにも言わずに行こうとしないっ!」

 足音に振り返ると、着替えを終えた朋也が無言のまま玄関に向かってるのが見えた。呼び止めても振り返らない彼に、まだ座ってたあたしは一度キッチンに寄ってから玄関まで追っていった。

「今日の仕事、夕方まで?」

「鍵かけるからお前も――」

「大丈夫よ」

 靴ひもを結び終えた朋也が振り返る。あたしは指に引っかけて持ってるものを――掃除中に見つけた合い鍵を見せて笑った。

「夕食つくって待ってるからね」

 あたしの笑顔に一瞬あきれ顔を返した彼に、問答無用でもう片方の手で持ってたものを胸元に押しつける。

「朝食つくるときついでにつくっておいたの。栄養のバランス考えてるし、あたしのお弁当の味は朋也も知ってるでしょ?」

「杏の弁当なんて初めてだ」

「そうだっけ?」

 なんとなく朋也にお弁当をつくったような憶えがあったけど、思い返してみるとそんな機会がいままでなかったことを思い出す。

「あれ? まぁ、いいか。料理の腕の方は昨日から食べてんだから、わかるでしょ? ほら、時間もないんだろうから、さっさと行った行った」

 受け取りきっていなかった弁当を渋々といった雰囲気を漂わせながら手にし、景気の悪いため息を漏らして朋也は玄関を出て行った。

「ちょっとは反応あったわね。まっ、まだまだ時間かかりそうだけど」

 言ってあたしは部屋を振り返る。昨日半日の掃除じゃ片づけが終わっただけで、細かいところの埃なんかが残っていたし、ゴミ出しとかも残っていた。

「ちゃっちゃとやっちゃいましょうかぁ」

 どうしようもなく漏れてくる笑みを抑えることをやめて、まずは食器の片づけを始める。

 ――始まったわね。

 朋也との生活。あいつに笑顔を取り戻させるための大きなお世話。

 ――時間はかかるだろうけど、あいつが笑ってないとあたしの調子が狂うからねっ。

 窓から差し込んでくる朝日のまぶしさに目を細めながら、それでもあたしは笑っていた。

 

            * 2 *

 

 お疲れ様ぁ、という声を後ろの方に声をかけながら手をあげて、幼稚園の低い門をくぐる。

 春にはまだまだ早いいまの時期の日は短くて、溜まった事務処理を一気に片づけた今日は、すっかり暗くなってしまっていた。

「……」

 目をつむって腕を組んでるっていう格好つけ男が門柱に背を預けてるのが見えたけど、無視してあたしはその前を通り過ぎた。わざわざ足を速めて。

「ちょっと待て、杏。……おぉーい、こら。わかってて無視するなぁ~」

 声とともに小走りに寄ってきた男が肩に手を伸ばしてきた気配を察して、ついっと肩をずらしてかわし、さらに足を速める。

「――冗談もそこまでにしてくれよぉ~」

 泣きそうな声に哀れみを籠めた視線で振り返ってやる。意外と体力がないのか、陽平は肩で息をしていた。

「突然どうしたのよ。あんた、実家の方で仕事してたんじゃないの?」

「ちゃんとしてるよ、いまでも」

 追いついてきた陽平と肩を並べて歩く。

「……汐ちゃんの一周忌だったろ? この前。岡崎のことも心配だし、――他に用事もあったしな」

「ふぅ~ん」

 特に話題もなかったから、こちらから切り出す話もない。陽平の奴もしばらく押し黙ったままなにも言ってこなかった。

「――なぁ、岡崎の奴はひどい状態らしいぞ。電話したけど会ってくれねぇし、毎日仕事行って寝てるだけって話だ。……渚ちゃんの実家の方も行ってみたけど、岡崎にしてやれることはないって言ってた」

「そう……」

 また会話が止まった。

 このまま歩いていくと家に着いちゃうな、とどこか頭の片隅で考えてる。実家じゃない、いまの仕事をするようになってから住み始めたアパートの部屋に。片隅じゃない頭では、いろんなことが駆けめぐってて、考えがまとまらなかった。

「岡崎の側に誰もいてやらなかったら、あいつはいつになったら立ち直れるんだろうな」

「さぁ、ねぇ……」

 あのときお墓の前で見た朋也の姿は、生きた人間のようには見えなかった。あんな様子のままあいつはいつまで暮らしていくんだろう。

「はぁ」

 とため息が漏れたところで立ち止まる。もうアパートは目の前だった。

「あんた、いつまで着いてくるつもり?」

 まさか部屋に上げるわけにもいかない。確かに高校時代陽平は友達は少なかったかも知れないけど、探せばひと晩くらい泊めてくれる男友達のひとりやふたり、いるはずだった。

「ん……。じゃあ、用事を済まそう」

 軽くうつむくようにしてなにかを考えていたらしい陽平。顔を上げた彼は初めて見る真剣な表情をしていた。

「僕の田舎まで来てほしい」

「観光旅行でもしろってこと? 旅行するなら温泉のあるとこにでも行くわよ」

 言葉の意味はわかっているけど、はぐらかす。だってこいつが――、陽平がこんなこと言うなんて想像できなかったから。

「いますぐって話じゃない。次この町に来たときに、荷物をまとめておいてほしいんだ」

 冗談が効かない目で、陽平はあたしの目を覗き込んでくる。

 ――あたしは……。

 見つめられながらでも、あたしは陽平のことを見てなかった。頭の中には陽平じゃない人の顔が思い浮かんでいた。

 ゆっくりと、おずおずと伸ばされ肩に回そうとしてくる手を容赦なく空中で叩き落とす。

「じょ、冗談ならもう少し気の利いたのにしてほしいわね」

 顔ごと視線を逸らして言い放つけど、内心の動揺は隠しようもなかった。

「岡崎だろ? 思い浮かんだの」

「っ!」

 見透かされて自分でもわかるくらい肩がビクッと反応する。

「知ってたよ、僕はね。二年のときから杏はずっと岡崎のことだけ見てたもんな。そのクセ自分からはなにもしないでさ」

 振ってやったってのに、陽平の顔には笑顔が浮かんでた。さっきまでのどっか重苦しそうな雰囲気は消えて、なにか吹っ切れたような笑顔をしていた。

「あいつが鈍感で、甲斐性なしなのくらい、知ってただろ? 強引に引っ張って行けばいいのに、それもしないでさ……。鈍感なのは杏も一緒だしね」

「あっ、あたしは――」

「僕はずっと、杏のこと見てたんだよ。知らなかっただろ?」

 してやった、って風な子供っぽい顔をして、陽平は続ける。

「僕も言やよかったんだよな。岡崎が渚ちゃんと一緒になって、それでも杏は岡崎のことだけを見ててさ。だからいままで、ずっと言えなかった。――わかってたんだ、振られるの。でもこれが僕なりのケジメって奴だよ。なんとなく格好いいだろ? ケジメってさ」

「意味わかって使ってんの?」

 陽平の調子に合わせて、あたしも笑顔を返した。

「わかってるって。それに僕、実家の方じゃけっこうモテるんだよ?」

「へぇ~。陽平がねぇ~」

「嘘だと思ってるだろ? 僕はさ、たぶん今度の春に結婚するんだ。実家の近くで見つけた子と。でも杏のことも頭に残っててさ、きっぱり決着をつけたかったんだ」

「迷惑な話ね」

「ははっ、そうかもね」

 子供っぽいように見えたけど、意外と大人の顔をして、陽平は笑っていた。

「なぁ杏。もし岡崎に誰かが手を差し伸べてやるとして、渚ちゃんでも汐ちゃんでもなかったら、他の誰かでもいいの? そりゃああいつの回りって、思い出してみるとけっこう女の子多かったけどさ、もしかしたらぜんぜんあいつのこと知らない女があいつの気持ちに入っていくのを、黙って見てられる?」

「……」

 想像を、したくなかった。

「それに杏だって、いまのままひとりでやっていけるの?」

「なに言ってんのよ。あたしはひとりでも――」

「杏って、ダメじゃん。誰かの世話焼いてないと、ぜんぜんダメなタイプじゃない? 僕だってけっこう大人になったよ。目の前にいる女がどんなタイプかくらい、話してればわかるよ」

「……うん」

「もし岡崎がまた笑えるようになるとしたら、そのときあいつの隣には、誰がいるんだろうね?」

 その問いには、言葉を返さなかった。

 しばらく会ってなかった間にすっかり大人になった陽平に、あたしは笑顔で答えていた。

 

               *

 

 この前油を差してやった扉の鍵は、ほとんど音を立てなかったらしい。音もなく扉が開いたのが見えて、初めて朋也が帰ってきたのを知った。

「――っっっ!」

 声にならない悲鳴を上げて、あたしは脱いでいたシャツで胸元を隠す。反射的に片手で本を探り当てて、朋也が驚く顔を見せる前に投げつけていた。

 二冊目の本は扉に命中した。どうにか朋也を追い出すことに成功したあたしは、下着だけだった身体に手早く服を身につけた。

「……もういいわよ」

 扉の外に声をかけると、一冊目の本を片手に、命中した額をさすりながら朋也が入ってきた。下を向いてるのは果たして赤くなってるからか、怒ってるからか、わからなかった。

 散らばった本を拾って本棚にしまって、朋也は無言のままタンスを開けてタオルなんかを取りだしてる。下着姿を見たってのにそんな反応なのが少し寂しくて、わざわざ正面に回り込んで行く手を邪魔したあたしは問いかけてやる。

「いいもの見せてやったんだから、感想くらい言いなさいよね」

 上目遣いに覗き込んだ顔は、あたしの言葉で一気に耳まで赤くなっていった。

 朋也との生活は、あっという間に五日が経っていた。

 まだまだ言葉が少なかったし、無表情や仏頂面もあんまり変わらなかったけど、初日に比べればちょっとだけ感情が表れるようになっていた。

「ぷっ、くくっ」

 けっこうウブな朋也の反応に思わず笑いが漏れる。

「あたしの下着姿で欲情なんてしないでしよぉ~?」

 無理矢理すれ違って風呂場の方に行こうとする朋也にもうひと声かけてやる。

「あっ、でも甲斐性なしだから大丈夫よね」

 甲斐性なしって言葉に反応したのか、足を止めた朋也がゆっくりと振り向く。

「俺だってな……」

「俺だって、なぁに? 朋也にそんな甲斐性があるっての?」

「――くっ」

 それ以上は言い返せなかったのか、また顔を赤くして風呂場に駆け込んでいった。

「あははははっ」

 ひとしきり笑った後、夕食をつくるためにキッチンへと入る。

 下ごしらえまで終わっていた食材を冷蔵庫から取り出しながら、あたしは考えていた。

 ――朋也は、いまあたしをどんな風に見てるんだろ?

 あいつに笑顔を取り戻させるっていう望みは、このまま一緒に暮らしていれば時間はかかるかも知れないけど、実現しそうな気がしていた。でもそんな風に世話を焼くあたしのことを、朋也の方がどんな風に見てるのか、ほんのちょっとだけ気になっていた。

「誤解、するかな? あたしのこと」

 あたしの望みはあくまであいつの笑顔だけど、あいつ自身はどんな風にあたしのことを見てるのかわからなかった。もしかしたら誤解してるかも知れない。

 それにあいつは、汐ちゃんっていう子供がいたくらいなんだ。甲斐性なしって言っても、ホントの甲斐性なしじゃないはず。

「誤解されたらどうしようかな」

 料理の手は止まっちゃって、口元に手を当てながら考え込み始めてる。いろんなことを想像してるうちに、あたしの口元には笑みが浮かんでいた。

 

               *

 

「――そんなことがあったんだ」

「あぁ」

 食後のビールを片手に、芳野はテーブルを挟んで正面に座っている公子に最近の話をしていた。

「さぁ、私はとくになにがあったか知りませんね……」

「そうか……。ちょっと気になったからな」

「そうですね」

 トイレから出てきた風子はそんな話をしてるときにちょうど廊下を差しかかって、こっそりダイニングの外から聞いていた。

「笑うほどまでにはなってないが、明るくなった。いや、まだ明るいほどではないか。だが変わった。いまも変わっている」

「岡崎さんになにがあったんでしょうね? いいことだと思いますけど……」

「だと思うが、気にはなる」

「えぇ……」

 ――岡崎さん? 汐ちゃんのパパ?

「その人がどうしたんですか?」

 いまひとつ明るくない顔をしているふたりの間に割って入り、風子は訊ねる。

「ふぅちゃんも、汐ちゃんが亡くなったのは知ってるよね?」

「はい。あれはとてもとても悲しい出来事でしたっ」

「岡崎さんは汐ちゃんが亡くなってからずっと元気がなかったんだけど、ここのところ元気になってきたみたいなの」

「んーっ」

 口をすぼめながら、風子は考えてみる。芳野と公子に不思議な顔をされながら一所懸命考えて、でもけっきょく考えはまとまらなかった。けれど、思い出したことがある。

「風子、忘れ物があるんです」

「……どうしてそんな話になるの?」

「どうしてもですっ」

 根拠はなかったが、風子には自信があった。どこから出てくる自信なのかは自分でもわからなかったが、確かに忘れ物をしているのはわかっていた。

「本当はもっと前に渡さないといけなかったんです。でも風子、うっかりしてて忘れてしまったんです。いまでは風子からでは渡せないものになっていて……。それがないと、岡崎さんは幸せになれないんです」

「岡崎が、幸せになれない?」

「はい」

 芳野も公子も、風子が言っている内容に半信半疑の様子だった。けれど「幸せ」という言葉に反応して、真剣な顔つきになる。

「ふぅちゃん、その忘れ物って、なんなの?」

「それは……、ん~っと――」

 渡し忘れているものがあるのは確かだった。風子の中で確信があった。実際それがなんなのかと問われると、よくわからなかった。

「とっても、とっても綺麗なものです。綺麗で、でも汚いかも知れないものです。たぶんもうすぐそれが必要になるんです。風子は、それを誰かに渡さないといけないんですっ」

 頭の上に疑問符がいくつも浮いてそうな顔をしているふたり。けれどもふたりは風子の話に口を挟むことはなかった。

「……もし、もしそれを渡すことで岡崎が幸せになれるなら、渡してやってくれ」

「任せてくださいっ。風子、頑張っちゃいます。それさえあれば、岡崎さんも、渚さんも、汐ちゃんも幸せになれるんですから!」

 自信満々に、風子は自分の胸を叩く。

「え? 渚ちゃんも、汐ちゃんも?」

「もちろんですっ」

 疑う余地がないほどきっぱりした顔で、風子は笑んでいた。

 

               *

 

 春先の暖かな日差しの下を、朋也は時折あくびを漏らしながら歩いていた。

 杏が突然押しかけてきて一週間が経った日曜。承諾した憶えはないのに無理矢理居座り続ける彼女は、米が足りないと言いだし、「女の子にあんな重い物持たせないわよね」という言葉とともに微笑みによって朋也を町に連れ出していた。そのとき笑顔の隣に構えられた分厚い本のことは、とりあえず考えないでおく。高校時代からの条件反射が復活したのか、ここ数日は杏の必殺技には拒否することができなくなっていた。

 ――あれを本気で投げつけられたら、死ぬよな……。

 なんでこんなことになってるんだろうと朋也はため息を漏らす。

 ――というかあんな本をあんな力で投げられるなら、米の一袋くらい大丈夫そうな気はするが……。

 考えながら朋也を連れ出した当の本人がいた方向に目をやると、すっかり見失っていることに今更ながら気がついた。

 食材の買い物という名目で朋也を連れ出したものの、杏の目的は別にあったらしい。スーパーは後回しにされ、彼女の興味はブティックやアクセサリー屋、雑貨屋に集中していた。

「あっ、朋也朋也! これなんてどう?」

 意外に近くにいた杏から声がかかる。なにを見てるのかと思えば、ハンガーに掛かったままの春物らしい服を身体に重ねて鏡に映していた。

「……買い出しの方はどうなったんだ?」

「そんなの後でもいいじゃない。それよりさ、これなんてどう?」

「さぁな」

 曖昧な答えに不満そうな顔をする杏だったが、すぐ新しい服を探してきてまた鏡で様子を見ていたりする。買ったりはしなかったが、杏は朋也の手を引っ張りながらも商店街の中を連れ回し続けた。

 ――渚とも、こんな風に歩いたよな。

 渚は杏ほど積極的ではなくて、けれどもいろんな服を見ては考え込んだりするところは一緒だった。そしてそんなことをしてるのが楽しいらしく、男の朋也にはよくわからなかったが、渚はいつも笑っていたのを憶えている。――いまの杏と同じように。

 朋也もまた、杏の笑顔に釣られて、笑顔こそ出てこなかったが、つい一週間前まで張りつめていた心がほぐれているのを感じていた。

 次の店の物色に向かう杏に手を引かれ、朋也は柔らかい日差しの中を歩く。まだ少し冷たい風は、日向にいるとちょうど心地良くて、眠気を誘っていた。

 あくびが出てしまうほどに、思わず笑みさえ出てきてしまいそうなほどに、いまの朋也は緊張がほぐれていた。重かった心が、ずいぶん軽くなっていた。

「ありがとうな、杏」

 少し離れたお店のショウウィンドウに張り付いてなにかを見ている彼女に、聞こえないくらいの声で礼を言う。

 渚と一緒に暮らしていたときの、ほんのひと時だったけれど汐と一緒に過ごしたときの優しい気持ちを、いまは杏が呼び起こしてくれていることに、まだ素直には言えないけれど、礼を言いたかった。

「どうしたの? 朋也。こっちこっち」

 いまはまだ仏頂面のまま、呼ばれて朋也は杏の元へと歩いていく。

 ファンシーショップのウィンドウに飾られたぬいぐるみとにらめっこをしている杏。並んで立ってなにを見ているのかを自分も眺めてみる。

 どうやら杏が一心に見つめているらしいぬいぐるみは、得体の知れない形をしていた。怪獣のようでいて、細かいところが妙にリアルなは虫類のようにも見える。値段は、朋也の感覚としてはあり得ないくらい高かった。

 ――なんで女の子はみんなこんな得体の知れないものが好きなんだろうな。

 思いながら真剣な顔をしている杏の横顔を見る。

 ――渚……。

 いまの杏の姿に、渚がダブって見えた。

 渚もまた、このファンシーショップが好きだった。生活が苦しかったから買ってやることはできなかったが、町に来ると必ずと言っていいくらい、この店にやってきていた。背丈が違うから姿こそダブらないものの、汐もまたよくこの店でぬいぐるみを眺めていた。

 ――俺は……、あいつらを幸せにするって誓ったのに。

 その誓いは、果たすことができなかった。朋也は世界で一番大切な存在のふたりともを、亡くしてしまった。

 ――あいつらを幸せにできなかった俺が、こんな安らいだ気持ちでいていいんだろうか?

 考え始めると止まらなかった。

 杏と一緒にいる時間が楽しいと感じている自分を、疎ましく感じ始めていた。誓いをひとつも果たすことができなかった自分が、楽しい時間を過ごしていいはずがないと思い始めていた。

 いまのいままで感じていた安らぎが、潮が引いていくように消えていくのを感じてる。笑みが漏れそうだった頬は、一週間前に戻ったように強ばっていった。

 杏から視線を外したときにはもう、朋也の目からは生気が失われていた。

 

 

 ――成功だったかな?

 後ろから着いてくる朋也のことをちらりと見て、あたしはこっそり笑みを漏らす。

 買い出しっていう名目で朋也を町に連れ出したのは正解だったと思う。あたしが勝手に引っ張っていってる形だけど、朋也はあんまり嫌そうな顔はしてなかった。それどころか、笑ってまではいなかったけど、たまに表情が緩んできてるのを、何度か目撃していた。

 ――成功だったよね。

 あたしが手を引っ張ることはあっても、繋ぐことはなかった。話すのはあたしばっかりで、朋也から声をかけてくることはなかったけど、続かないにしても返事はあった。

 あたしといることで、朋也はいつか笑ってくれると思う。その実感がある。望んでいたことが実現していくだろうっていう希望が持てていた。そして朋也が笑っているとき、あたしはその側にいる……。

 ――あたしたちは、どんな風に見えるかな?

 いまのあたしと朋也は行き交う町の人たちからどんな風に見えてるだろう。

 ――デートしてるように見えるかな? 恋人同士に、見えるかな?

 どうなのかわからなかったけど、どう見られてるか想像するだけであたしの頬には笑みが漏れてきた。朋也を笑わせるつもりなのに、あたしばっかり笑っているけど、でも楽しかった。

 ――朋也も楽しいと感じててくれたら、いいな……。

 朋也が着いてくるのをちらちら確認しながら歩いていく。商店街を一周し終えて、もうすぐ夕暮れの時間が近づいていた。見上げた空はいつの間にか雲が覆ってきていた。

 少し憂鬱な気分になりながらも、あたしは立ち止まってショウウィンドウに目を向ける。

 そこはさっきも見ていたファンシーショップのショウウィンドウ。なんとなく忘れられなくなった可愛いぬいぐるみが、あどけない目をあたしに向かって見せていた。

 ほしかったけど、ちょっと高くて手が出なかった。

「ほしいのか?」

 背中からかけられた言葉に、今日初めてかけられた朋也からの言葉にちょっと驚きながらも、「うん」と返した。

「なんなんだ? あれは」

「……わかんない。でも可愛いわよ、すっごく」

 少ししゃがんでぬいぐるみを見てるあたしの横に、朋也が立ってる。ウィンドウのガラスに彼の姿が映っていた。

「じゃあ買ってやるよ」

「え? ホント?」

 驚きと嬉しさに胸を満たされながら振り返る。

「あっ……」

 振り返って見た朋也の顔に、あたしは別の驚きの声を上げていた。

 彼の目はまるで、一週間前に戻ったみたいに生気が感じられなかった。

「ほれ」

 と言いながら財布を丸ごと突き出されて、反射的に受け取ってしまう。朋也はそのままあたしを置き去りにして、商店街の出口に足早に向かっていく。

「どうしたの? 朋也」

 財布を胸に抱きながら、その後を追いかける。

「迷惑なんだ」

 表情のない顔で言う。

「渚にも、汐にも、俺は幸せにするって誓ったんだ。でもできなかった。俺は二度も、誓いを破ったんだ。俺はもう誰かを幸せにすることも、幸せになることもできないんだ」

 夕食の買い出しをする主婦や帰宅途中の学生たちをかき分けて、朋也は歩いていく。あたしは置いて行かれないように早足で追っていく。

 商店街が途切れて、人通りが少なくなったところで朋也は立ち止まった。

「お前はなんで俺のところに来たんだ?」

「あたしは……」

 朋也に笑ってほしかったから。

 そう続けたかったのに、続けられなかった。笑ってほしかっただけのはずだったのに、それ以上のことを望んでる自分がいることを知っていたから。

「笑って……、ほしかったから……」

「俺はもう笑う必要なんてないんだ。誰よりも愛してた渚と汐を死なせちまった俺が、笑ってていいはずないんだ」

 苦しさすら伝わってこない、平坦な声で彼は言った。生きていない目で、あたしを見つめてきていた。

「正直、杏といて楽しかった。ありがとうな。でも俺には笑顔なんて必要ないんだ。幸せなんていらないんだ。生きてる意味も、目的も、なくていいんだ」

 朋也の財布を握りしめてるあたしの頬には、涙が伝っていた。

 ――錯覚だったんだ。

 なにかできると思ってた。少しずつ変えていけると信じてた。けどけっきょく、あたしにはなにもできなかった。笑ってくれることを望んで、それ以上のことを求めて、そして最後には、朋也を傷つけることしかできなかった。

「じゃあな」

 軽く手を上げてあたしに背を向ける。もう追っていくことはできなくて、その場に立ち尽くして頬に流れる冷たい涙を感じていた。

「生きてる意味も、目的もないなら、あんたはいったいいつまで生きてるつもりなの?」

 叫ぶようにして、朋也の背中に呼びかける。

 一瞬歩調が弱まったけど、答えが返ってくることがないまま、行ってしまった。

 そして静かに、雨が降り始めた。

 

             * 3 *

 

 ――鬱陶しい

 髪や服に染み込んだ髪が重くて、足取りも重くなってしまった。商店街から独り暮らしをしてるアパートの部屋までそんなに遠くないのに、いつもの三倍くらいかかって帰ってきた。

 濡れた手で鞄から鍵を取りだし、扉を開ける。

 着替えなんかを取りに来てたりはしたけど、ここで暮らすって意味では久しぶりに帰ってきた部屋。少し埃っぽさを感じながら明かりをつけると、ガランとした室内が見えた。

 少し前まで手狭に感じていたはずのフローリングのワンルーム。着替えするのも髪を拭くのも億劫で、あたしは部屋の真ん中にへたり込んでしまう。意味もなく周りを見回してみるけど、あたしの帰りを待っててくれる存在の影は見あたらない。もとより隠れる場所なんてなかったし、家で待ってるときのボタンは、あたしが部屋の扉の前に立った時点で駆けつけてくれている。

「ひとりなんだ」

 つぶやきを漏らしてあたしは床に倒れ込む。

 ボタンはいない。

 イノシシの寿命は十年もないって言われてる。ボタンは冬に入った頃から足下がおぼつかなくなってきてて、体重もずいぶん落ちてげっそりと痩せてしまっていた。それでもウリボウの頃の可愛い瞳のままに、幼稚園から帰ってくるあたしを毎日出迎えてくれていた。

 そしてふた月ほど前、雨が降ってるのに散歩をせがむボタンを連れ出してあげたとき。前方不注意で飛び出して来た車からあたしを助けるために、ボタンは死んでしまった。

 ――本当は違ったんだよね。

 朋也の家に上がり込んだのは、あいつになにかしてやりたい、ってのももちろんあったけど、それよりもなによりも、ボタンのいない暮らしにあたしが堪えられなくなったからだった。

 身体が冷えてきたのを感じて、身体を起こして服を脱ぎ捨てる。さっとシャワーを浴びて、パジャマに着替えようとして朋也の家に忘れてきたことを思い出して、今度取りに行こうと考えながら適当に丈の長いシャツを羽織って折りたたみのベッドを準備して潜り込んだ。

 ボタンがいたとき家はくつろげる場所だったのに、ベッドの中に潜り込んでも眠気はやってこなかった。眠りたいと思ってる、願ってるのに、いつまでも眠気はやってこなかった。

 ――どうしてあたしは、朋也を望んじゃったんだろう。

 あいつの笑みだけを望んでいればよかった。そうすれば、いまも朋也と一緒に暮らせてたかも知れない。一緒に暮らしていれば、いつか朋也も……。

 ――でも朋也は変わることを望んでなかった。

 変わることを望んでなかった朋也は、いつまであたしと暮らしていたら、変わっただろうか。

 考えばかりが頭の中を巡っていて、ベッドの中で何度も寝返りを打っていた。降り続ける雨の音だけが部屋の中を満たしていて、いつもしていたボタンの寝息は、どこにもなかった。

 ――あたしは、空っぽね。

 けっきょく、なにもできなかった。あたしは朋也になにもしてやれなかった。

 後悔しか残ってない。だったらなにもしなければよかったのかも知れない。でもなにもしなかったらあたしは……。

 一層強くなった雨の音。

 ベッドから出て、カーテンを開けて窓の外を見る。

 眠れずにどれくらい過ごしたのかもよくわからない。曇ったままの空はあまり明るくならなくて、夜が明けたのかどうかもわからなかった。

 雨はあたしを誘ってるみたいだった。

 ――行こう。

 目的地がどこなのかは考えてなかった。ただあたしを誘う雨の音に従って、着替えを済ませて外に出た。

 

               *

 

「はい、そうですか。わかりました。また明日、よろしくお願いします」

 受話器を置いてため息をつく。

 杏と別れた後帰宅した朋也は、酒を飲んで眠ってしまった。飲み過ぎで寝坊するかも知れないと頭の隅で考えていたが、習性なのかいつも起きる時間には目が醒めていた。降り続けている雨に仕事場に電話を入れると、朋也に与えられた仕事は今日は休みだと伝えられた。

 ――忘れていたい。

 杏のことも、渚のことも、汐のことも。

 必死に仕事をしていれば忘れられた。けれど忘れたい今日に限って、仕事は休みになってしまった。どうやって忘れていよう、と考えながら、ため息がもうひとつ漏れてくる。

 二日酔いで痛む頭で部屋の中を見回してみた。

 ちょっと前の荒れようが嘘のように、部屋の中は片づいていた。けれどひと組しか敷いてない布団で、杏と過ごした騒がしい日々が終わってしまったんだと感じる。

 ――俺には、どうすることもできなかった。

 笑みが漏れそうになる度に、杏の笑顔に、杏の後ろ姿に、渚や汐の姿を重ねて見ていた。ふたりと過ごした楽しかった日々のことを思い出して、漏れそうになる笑みが霧散してしまっていた。

「楽しかったんだよ、杏」

 彼女と過ごした日々は、確かに楽しいと感じていた。けれども彼女に渚や汐の面影を重ねてしまう朋也には、その楽しさを受け入れることができなかった。ふたりを幸せにできなかったという事実は、楽しさを辛さに変えていたから。

 こうやって杏のことを思い出してるだけでも胸が痛んだ。たった一週間だった杏との日々に、失ったふたりとの思い出が重なる。

「辛くても腹は空く、か」

 クゥ、と鳴った腹の音に空腹感を覚えて、朋也は布団から立ち上がった。一瞬どうするかと悩んだ後に布団を畳み、押し入れに突っ込んだ。

 冷蔵庫の中は確認しなくても食べるものが入ってないのはわかっている。食料を買い込むする前に杏と別れたのだから、買いに行かなければ家にあるのは水道の水くらいだった。

「行くか」

 誰が聞いてるわけでもないのに口に出して言い、朋也は服を着替えた。

「俺はどうすればいいだろうな、渚、汐。俺には、なにができるんだろうな」

 タンスの上に重ねて置いてあるだんご大家族のぬいぐるみに呼びかけて、朋也は傘を手に家を出る。

 後のことは後で考えようとアパートからほど近いファミリーレストランの前に立ったが、入ることはできなかった。日は昇った時間でも降り続く雨のために薄暗い町並み。その中で明るさを振りまいているそこは、渚が昔勤めていた場所だったから。

 商店街に行くかどうか決めかねながら歩いているうちに、高校に続く桜並木の坂道の前に来ていた。

「俺たちは、ここで出会ったんだな……」

 朋也が卒業する頃に切られてなくなるという話があったらしいが、智代が生徒会委員長として頑張ったらしい。そろそろ咲き始めるだろう桜並木は、いまも朋也の目の前で、雨に打たれていた。

「ふぅ……」

 当初の目的を忘れながら、朋也は町をさまようように歩いていく。

 苦い気持ちを噛みしめながら病院の前を過ぎ去り、気がついたときには公園の中を歩いていた。

 無意識の自分がどこを目指していたのか理解したときにはもう遅かった。

 降り止まない雨の向こうで、優しい光を放っている古河パンのウィンドウが見えてきていた。

 ――俺は、あそこには行けない。

 渚も汐も死なせてしまった朋也には、古河の家との繋がりはなくなっていた。懐かしく、恋しい場所であっても、そこに踏み入れる理由はなくなっていた。

 傘を持ち直し、踵を返す。

「やっぱり、朋也さんですね」

 振り返ったそこには、目尻に微かに涙を溜めている早苗が傘も差さずに立っていた。

 ――変わってないんだな。

 そう感じてしまったときには逃げ道はなくなっている。朋也が差す傘の中に入ってくる早苗を、拒絶することはできなかった。

 

               *

 

 ビクッ、と身体を震わせて立ち上がる。

 芳野と公子が驚いた視線を向けてきているけれど、気にはならない。

「呼んでいるんです」

 ふたりがなにか言い出す前に、風子はそう言っていた。

「行かなくちゃいけないんです」

 食べかけの昼食のパンを皿の上に置き、風子は玄関を目指した。

「止めないでください。風子は行かなくちゃいけないんです」

 玄関まで追ってきたふたりに言って靴箱から長靴を取り出す。

「でもふぅちゃん、アプリコットディニッシュ、残ってるよ? ふぅちゃん、好きだったよね」

「ん~っ。それはめちゃめちゃ惜しいことをしてます。アプリコットディニッシュはまだほんのり温かいですから、いまが食べ頃です」

「……食べてからでも、いいんじゃない?」

 そう言ってくる公子に長靴を履き終えた風子は振り返り、笑む。

「いまでなくちゃ、いけないんです。風子がずっとずっと渡し忘れていたものですから」

 その言葉の意味がわかっているのかわかっていないのか、けれども芳野は「ちょっと待て」と言い、奥に引っ込んでいった。公子もまた「待ってて」と言ってダイニングに戻る。

「風も吹いてるから、傘だけじゃ濡れるぞ」

 そう言って芳野が差し出したのは風子のために買ってあった赤いレインコート。

「本当は行儀よくしないといけないし、食べにくいかも知れないけど」

 公子はアプリコットディニッシュを持ってきた。

「頑張ってきてね、ふぅちゃん」

「はい、頑張っちゃいます。可愛い人と、素敵な人と、……風子でない風子が、大好きな人のために」

 

               *

 

 タイミング良くクゥ、と鳴ったお腹を呪いながら、朋也は古河パンの奥の居間に座っていた。

 面倒臭そうな顔をして煙草をふかしている秋生と、その隣でさっきまでの涙の跡はすっかり消えてにこにこ笑っている早苗。そしてちゃぶ台の上には山盛りのパンが置かれている。

 ――なにも変わってない。そんなはずはないのに……。

 汐の葬儀が終わってからしばらくして、早苗は倒れてすっかり元気をなくしたと噂に聞いていた。秋生もまたずいぶん痩せたなんて話も伝わってきていた。

 けれども半年以上振りに見たふたりの様子はあまりに変わりがなく、そしてなんの繋がりもなくなったはずの朋也に対しても、変化のない態度を見せていた。

「久しぶりじゃねぇか」

「……」

 顔はテレビに向けたまま煙草をもみ消した秋生は言った。

「そうですね。何度も電話でお呼びしたのに、どうして来てくださらなかったんですか?」

 にっこりと早苗は笑った。

 ――どうして、この人たちは俺にこんな顔を向けていられるんだろう。

 不思議だった。渚と汐を死なせた自分には、秋生と早苗との繋がりがなにもなくなったはずなのに。

「間違えるなよ。てめぇが聞いてる噂は、嘘じゃねぇ。早苗はこの前まで起きたり寝たりだったし、俺は信じられねぇくらい痩せてたのは本当だ。てめぇがそうだったように、俺らにだって汐がいなくなっちまったのは、すげぇ辛いことだったんだ」

 ふんっ、と鼻を鳴らし、テレビを消した秋生は朋也に向き直る。

「でも俺は、渚も、汐も、ふたりとも死なせて――」

「朋也さん、汐の一周忌の日、お墓に来てくださいましたよね」

「え?」

「本当はちゃんと一緒にお墓参りをしてほしかったんです。呼んだのに来てくれなくて、すごく悲しかったんですよ。でも朋也さんは、わたしたちが帰った後にちゃんと来て、渚と汐に、ぬいぐるみとおもちゃを供えてくださいましたよね」

 確かにその通りだった。秋生と早苗が帰っているだろう夕方を見計らって朋也は墓に参った。奇跡的にパチンコ屋に残っていただんご大家族の小さなぬいぐるみの景品を取って、次の誕生日に汐に買ってやるつもりだったおもちゃを墓に供えて帰った。

「渚も汐ももういません。でもわたしたちと朋也さんは家族です。だって同じ人を、ずっと想い続けてるじゃないですか」

「てめぇは浅はかなんだよ。一度家族になったら、そうそう簡単にはやめられねぇんだ。ずっとついて回るもんなんだよ」

 早苗の微笑みと並んで、秋生もニッと笑みを見せた。

 ――俺は甘かったんだ。

 ひとりで苦しんで、ひとりで悩んで、ずいぶん時間が経ってしまった。渚のときも犯した過ちを、二度も犯してしまっていたことに、いまさらながら気がついていた。

 考える必要なんてなかった。家族を失った痛みを、残された家族で分かち合えばよかっただけだった。こうしてここに来るまでそのことに気づかなかった自分の莫迦さ加減にあきれて、笑みが漏れた。

「そう考えると、家族ってのは質の悪い金融業者みたいだな」

「なに言ってんだ。家族ってのはもっと厳しいもんだぜ? なにしろ金貸しは金を返しゃあ縁は切れる。だが家族の絆って奴は一生切れやしねぇ。いや、死んだ後だってつながってるもんだ。そうだろ? 朋也」

「そうだ……、そうだった……」

 笑っているのに、涙がこぼれて止まらなかった。涙をごまかすために積まれたパンに手を伸ばす。

 ――俺はこの人たちと一緒に泣けばよかったんだ。それで充分だったんだ。

「おっとそのパン、お勧めだぜ」

 ちょうど手に取ったパンを見て、秋生が意味ありげにニヤリと笑う。別におかしなところがなかったので、朋也はそのままひと口かじった。普通のピロシキかなにかのようだったが、見てみてもその中身がいったいなんなのか、よくわからなかった。けれども――。

「……美味しい」

「だろ? 今日の早苗のスペシャルパンだ。たまにゃあ早苗のパンもうまいのができるらしい」

「たまにって、なんですか? じゃあいつもはわたしのパンは、美味しくないんですか?」

「いやっ、ちがっ……。い、いつだって早苗のパンは最高だぜっ!」

 ずっと前から繰り返されていた光景に、朋也の笑みと涙は止まらなかった。スペシャルピロシキの中身はあえて問わないことにして、朋也は積まれたパンを食べ続けた。

 涙を流しながらパンを食べて、秋生と早苗の笑顔に包まれながらお茶を飲んだ。お腹が満たされていくのと同時に、気持ちが落ち着いていく。三杯目のお茶を飲み終えた頃には、すっかり気持ちの整理ができていた。

「俺はふたりに――」

「それはもういいだろ? 時間は過ぎちまったし、俺らはいまこうやってここにいる。それよりもな、朋也。どんなときだって、どんな形だったって、息子の幸せを願わねぇ親はいないんだぜ」

「え?」

 突然言われたその言葉に、驚く。

「今日、ここに来るきっかけを与えてくれたのは、誰ですか? 朋也さん」

 ――杏?

 もし彼女が部屋に上がり込んで来なければ、あとどれくらい変化のない生活を繰り返してきただろうか。それを思うと背筋に寒気が走った。当たり前のことに気づかせてくれるきっかけを与えてくれたのは、自分に笑顔を取り戻すきっかけをくれたのは、確かに杏だった。

「ナベ……、いや、ボタンだったな。ボタンは死んだそうだ。汐の一周忌の少し後にな」

「藤林さんにとって、ボタンさんはたぶん、家族だったんでしょうね。最愛の家族を失った痛みは、わたしも、秋生さんも、そして朋也さんも、わかっていますよね」

 そんなことは初耳だった。

 ――聞いてたとしても、同じか。

 今日ここに来るまでの自分では、家族の絆のことなど思い出す余裕なんてなかったから。

「でもなんでそのことを?」

「先々週に藤林さんがいらっしゃって、話してくださいました。これから自分がしようとしていることを。それから、朋也さんへの気持ちも」

「渚の他にてめぇのことを見てるような女がいるなんて思わなかったぜ。俺みてぇないい男だったらともかくな。てめぇみたいな甲斐性なしにはもったいねぇぜ」

「甲斐性なしは余計だっ」

 言って朋也は立ち上がる。

 立ち上がって少し考えて、笑顔を見せてくれるふたりに問う。

「いいのか? 本当に。俺は――」

「頭で考えんじゃねぇ、甲斐性なし。さっき言ったばっかりの言葉を忘れるんじゃねぇよ」

「……あぁ」

「わたしたちにもちゃんと紹介してくださいね。朋也さんはいつまでも、わたしたちの大切な息子なんですから」

「はい」

 もう一度こぼれそうになった涙をぐっと堪えて、朋也は靴を脱いできた店の方に向かう。

「どこに行けばいいのか、わかっていますか?」

「……たぶん、大丈夫です。俺は、あいつの大切な場所を知っています」

 外に出てみると、昨日から降り続いていた雨は小雨になっていた。

「行ってこい」

「行ってらっしゃい」

 ふたりの声を背に受けて、朋也は走り出した。

 

               *

 

 どれくらい町をさまよい歩いただろう。

 疲れた頃にたどり着いたのはいつもの場所だった。ボタンを見つけた、空き地。

 ――ついになくなっちゃうんだな、ここ。

 何年も空き地のままだったのに、ひと月くらい前に木と針金で柵がつくられて、工事計画を書いた立て札が立てられていた。いつかはなくなるんだろうと思っていたけど、その日が近づいてきていた。

 誰かが広げたらしい針金の間に身体をくぐらさせて空き地に入る。雨はもう上がったけど、水を吸った草はぐっしょり濡れていた。

 畳んだ傘を脇に置いて、ジーンズが濡れるのも気にせず草の上に腰を下ろす。見上げた空は、雲間から青空が見え始めていた。

「はぁ」

 歩いてる間に考えることは全部考え尽くして、いまはもうなにも考えられない。すごい速度で動いていく雲と、その合間から見える青空をじっと眺めてるだけ。

 ――終わっちゃったな。

 後悔しか残ってないけど、いまはなぜかやれることはやったって思うことができた。空っぽの自分を確認しただけなのに、満足感なんて少しもないのに、なんでかほんのちょっとの達成感があった。

「そう思えば今日って、月曜だったな。仕事休んじゃったんだ。明日なんて言い訳しよう」

 明日からは元の生活が始まる。幼稚園に行って、仕事が終わったらボタンのいない家に帰って、寝て起きたらまた幼稚園に行く。

 仕事はやりがいがあって楽しいけど、それだけじゃ物足りないと思っちゃうのは贅沢なんだろうか? 全部の満足を望んじゃうのは、いけないことなんだろうか?

 立てた膝の上に両肘を乗せて、組んだ手の甲に顎を乗っける。お尻に染み込んでる雨が少し気持ちが悪かったけど、雨が残していった風は気持ちが良かった。

 誰も来るはずがないのがわかってるのに、あたしはここでなにかを待つようにじっとしていた。

「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……」

 肩で息をする声が聞こえてきたのは、雲と青空の割合が半分くらいになったときだった。

 でもそれは朋也じゃなくて、小柄な女の子。ほんの何度か会ったことがある、確か風子ちゃんって子だった。

「このまま終わってしまっていいんですか?」

 あたしが入ってきたのと同じ針金の開いたところから空き地に入ってきた風子ちゃん。

「なに? どういうこと?」

「このまま終わってしまってもいいんですか?」

 同じ言葉を繰り返されるけど、それがどういう意味なのかわからない。

「空っぽのままじゃ悲しいです。ひとりのままじゃ寂しいです。風子だったら、堪えられません」

「え?」

 近寄ってきた風子ちゃんがあたしの横に立つ。ふざけてる様子はなくて、真剣な顔をしていた。

「このままでいいんですか? 嫌ですか?」

「どういう意味なの?」

「いいんですか?! 嫌なんですか?!」

「……嫌、だよ。こんなんじゃ、嫌」

 焦れたように怒った口調で言われて、思わず答えていた。

 質問の趣旨はわかんなくても、答えの意味ははっきりしてる。

 ――朋也とこのまま終わっちゃうのは、嫌。

 あいつに笑ってほしかった。笑いかけてほしかった。空っぽのあたしを、抱きしめてほしかった。だから、このまま終わるのなんて嫌だった。

「じゃあこれを受け取ってください」

 大切ななにかを包み込むようにして差し出された両手。あたしはそれを受け取ろうと両の手の平を差しだした。

「目をつむってください」

 言われてそっと目をつむる。

 手の上になにかが置かれた感触は、いつまでもこなかった。でもつむった目の裏に光の玉が見えていた。

 目をつむっているのにゆっくりと空から降りてくる光が、差しだしたあたしの手の平の場所に届いた。

「岡崎さんにそれを渡してください。本当は風子が渡さなくちゃいけなくて、渡し忘れちゃったものです。いまの風子じゃもう渡せないので、お願いします」

 目を開けて手の平を見てみるけど、そこにはなにもなかった。

 やっぱりこの子がなにを言ってるのかわからない。わからないはずなのに、なんでかわかったような気がしていた。

「あたしには、もうなにもできない……。朋也は変わることを望まなかったから。あたしは、でも……」

「そんなことはないです。ほらっ」

 振り返って示された空き地の前の道。

 そんなことはないはずなのに、あたしは拒絶されたはずなのに、遠くから走り寄ってくる足音が聞こえてきていた。

 

             * 4 *

 

「よく、わかんねぇ」

 どうしてこの場所を知っていたのか、どうしてこの場所に来たのかを朋也に問うた答えが、それだった。

 あたしは朋也にこの場所のことを教えた憶えはなかった。一度拒絶したこいつがあたしのところに来た理由は、訊いてみなくちゃわからなかった。

 やっと息を整え終えた朋也があたしと面と向かって立つ。

「じゃあなんで来たのよ」

「それもわかんねぇ。――でも、このままじゃいけねぇ、って思ったんだ」

「…………」

 ――朋也も同じだったのかな?

 このままじゃ終われない。終わりたくない。その思いは、あたしといっしょだったんだろうか。

 すっかり晴れ渡った青空を、たぶんもうすぐ夕焼けに染まるだろう空を仰いで考える。次言うべき言葉を。

「あたしは……」

 無言で言葉を待っていてくれた朋也に、あたしは言う。

「あたしは朋也の笑顔が好きなの。なんでかあんたの莫迦っぽい笑顔が好きで溜まらなかったの、高校で出会ったときからね」

 朋也の目を覗き込むようにして見ながら続ける。

「渚とつきあうようになって、結婚して、朋也は幸せになったんだと思った。あのときのあんたの笑顔、すごくよかったから。渚を失って、でも汐ちゃんと暮らすようになって、……また失って――。見ていられなかった。見なければいいのに、一度目にしたら離れなかった」

 一歩下がって、朋也の全身を眺めながら、言った。

「あたしはあんたの笑顔が好きだから。あんたのことが、朋也のことが、好きだから」

 言い終えてにっこり笑いかけた。

「……うん」

 間をおいて頷いた朋也は、ひとつ息を吐いた後、応える。

「お前といて、俺は楽しかったんだ、杏。でも俺はお前に渚や汐を重ねて見てた。――辛かった。お前は渚でも汐でもなかったから。あのふたりはもういないから。幸せにできなかったふたりのことを思うと、俺はひとりで幸せにはなれなかった」

 大きく息を吸って、穏やかな目をして、朋也は言う。

「ありがとう、杏。本当にありがとう」

「うん」

 笑顔を交わしあった。

 ――あたしにはもうできることはないな。

 いまのこいつの笑顔を見て、そう感じた。

 あたしのしたことは朋也の笑顔のきっかけくらいにはなれたみたいだ。でもそれが限界。あたしにはもう、してやれることはなにひとつない。

 胸に充分すぎるほどの満足感と達成感を抱いて、すべてのことをやり終えたあたしは朋也の横を通り過ぎて空き地を出ようとする。

「忘れてたっ」

「どうした?」

 後ろに着いてきてた朋也に振り返り、なにも持ってない手に壊れ物を包み持ってるようにする。

「風子ちゃんから頼まれてたんだっけ。これを渡せ、って。両手を出して」

「あ、あぁ」

 わけがわかんないらしい朋也が、たぶんあのときのあたしと同じように不思議そうな顔をして両手を差し出す。

「目をつむって」

 朋也が目をつむったのを確認して、あたしも目をつむる。朋也が差しだしてる手の上に、あたしの手を重ねた。

 目の裏に光の玉が見えた。あたしのところにひとつ。朋也のところにたくさんの光。数えてみると、その数は十二。

 ――光を……。あたしの中にある光を、朋也に。

 あたしの回りを漂うようにところにあった光が朋也の方に引き寄せられていく。蛍のように朋也のところに飛んでいった光に、他の十二個の光が集まっていく。

「あっ……」

 ひとつになった光の玉が、強い光を放った。

 

 

 三つの人影が桜並木の坂道をゆっくりと歩いていた。

 大人の人影がふたつ。ふたりに挟まれて両手を繋いでいる小さな人影がひとつ。

 渚と、汐ちゃんと、それから朋也。

 ――あれは、俺じゃない。いや、俺だけど、『ここ』の俺じゃない。

 ――うん。

 要領を得ない言葉だったけど、意味はわかった。

 渚と汐ちゃんと一緒に歩いていく朋也は、いまあたしと手を繋いでその様子を見ている朋也とは、別の朋也だっていうのを感じていた。

 幸せそうに笑顔と笑い声を交わしあう三人。その光景は、実現することがなかった光景。あたしがいる『ここ』の世界では、あり得なかった光景だった。近いようで遠い、絶対に手が届かない、別の世界の、別の可能性の光景だった。

 そのとき立ち止まった渚と汐ちゃん。別の世界の住人のはずなのに、ふたりはあたしたちに振り返った。

 声のない渚の口が「大丈夫だよ」という言葉を綴った。

 同じようにして、汐ちゃんの口が「いま、幸せだよ」と。

 そしてあたしと朋也のそれぞれに、深々と頭を下げた。

 ――幸せなんだな、渚も、汐も。

 ――うん。

 ――『ここ』の俺にはできなかったけど、『あっち』の俺には、あいつらを幸せにすることができたんだな。

 再び『あっち』の朋也と手を繋ぎ、光の中へと歩いていく三人。

 ――終わったんだな。俺のやるべきことは、全部……。

 ――うん。あのふたりは、幸せになったんだよ……。

 三人の姿が光の中に消えていき、一緒に桜並木も消えていく。そしてひとつに集まっていた光が元の十三個に別れ、散っていった。

 

             * 始 *

 

 着替えを終えたあたしは、荷物を入れた鞄を肩にかけて玄関に向かった。

 昨日あれだけ降ってた雨が嘘のように、今朝は晴れ渡ってる。朝日がまぶしいくらいに窓から差し込んできてる。

「行くのか? 杏」

 玄関で靴を履くあたしの背中に、まだ部屋の真ん中で座ったままの朋也が声をかけてきた。

「うん。――朋也にできることは、なにもないからね」

 一瞬靴ひもを結ぶ手を止めて、あたしはそう言い切った。

 昨日、あの広場を出たあたしは荷物を取りに行くためにも一度朋也の家に寄った。なんだかんだでけっきょく夕食を一緒に食べて、けっきょくひと晩泊まることになって、本当はすぐ出て行くつもりだったのに、朝になってしまっていた。

 笑顔を見せられるようになった朋也には、できることはなにもない。あたしができることは、もう充分やったから。

「じゃあまたね」

 顔だけ振り向いて笑顔を見せ、玄関の扉を開ける。

 一歩外に踏み出したときにまた背中に声がかかってきた。

「来週の土曜か日曜、空いてるか?」

「……なに、言ってんのよ」

 かけられた言葉に動揺してしまう。もう一歩踏み出して扉を閉めればそれでいいのに、そのもう一歩が踏み出せない。

「俺は渚のことも、汐のことも忘れることはできない。『こっち』の俺があいつらを幸せにできなかったことは、確かだしな」

「当たり前じゃない。あたしだって忘れなんてしないわよ」

 ――なにを言い出すのかと思えば、そんなのこと?

 もっといい言葉がかけられるのかと思ったあたしが莫迦だった。あいつには見られないよう背中を見せたまま口をとがらせる。

 ――相変わらず朋也は朋也なんだから。

 と思った矢先。

「でも俺は考えたんだ。もし俺の支えを必要としてくれていて、俺を支えようとしてくれる人がいるなら、失いたくない、って。『あっち』の俺は、あいつらのことを幸せにできたんだしな」

「……なっ、なに言ってんのよっ」

 朋也らしくない真面目な口調の言葉に、思わず振り向く。

「俺は本気だぜ……。って、ちょっと待て! いまお前、その本どこから取りだしたっ!」

 振り向くと同時に肩に担ぐようにして構えたのは、工事関係の専門書。

「乙女の秘密よっ」

「いや、乙女って――、昨日はお前、俺と――」

「わっ、わぁーっ!! 朋也、それ言っちゃだめっ!」

 反射的に本を投げつける。それと同時に鞄を投げ捨てて靴のまま朋也の口をふさぐために彼に駆け寄っていた。

 ガツンッと額に本が命中して畳に倒れ込んだ朋也の上に抱きつくように覆い被さる。

 両手を朋也の身体に回して、それから彼の口をふさぐために、――自分の唇を重ねた。

 長く、長く重ねていた。

 痛みが落ち着いたのか朋也が暴れなくなってから唇を離して、言う。

「好きだよ、朋也」

「杏……、おでこが痛ぇ」

「こらっ!」

 もう一度口をふさいでやろうとしたけど、今度は逆に抱きしめ返されて、身体の上下を入れ替えられてしまう。そして朋也の唇があたしの唇をふさぐ。

 今度も長い、――キス。

 唇を重ねたまま薄目を開けて、ちらりとタンスの上に置かれたものを確認する。

 三つ重ねておかれただんご大家族のぬいぐるみ。そしてその上には、朋也に得体が知れないと言われたぬいぐるみが、ちょこんと置かれていた。

 

               「メビウスアプリコット」 了



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