絶望の世界と天使の時間 (TUTUの奇妙な冒険)
しおりを挟む

灰に覆われた都市

灰色の大気の下に広がる世界。かつて栄華を誇った人類の文明社会は、大変動を繰り返した地表の上でかろうじて原形を留めていた。外界と内部を隔絶していた壁は全て埃と泥に塗れ、数百年にも等しい時の中で色褪せていた。地面を覆っていたはずの固いアスファルトは粉末と化し、この粉さえ目を凝らさなくては観察できないほどに草が繁茂している。かろうじて道路のコーティングが塊を維持している場所でも、その塊の間隙を縫って巨木が聳えている。煤けたビル街は各所が崩落し、塗装の剥げた壁の中に割れた窓ガラスが寂しく残されていた。何台もの乗用車が放置され、どれもが草むらの中に黒ずんで沈んでいる。

遥か彼方を鳥の群れが飛んでいる以外に、動く物の姿は見られない。何もかもが死滅した世界のように感じられる。通話をしながら出勤する人の声も、車を警戒して吠える犬の声も、横断可能を知らせる信号機の音もしない。地に倒れた街灯に光が灯ることはなく、茂みに隠れた時計の針が振れることもない。時間の止まった世界には静寂が訪れていた。

 

その静寂を破り、軍靴の音が響く。余裕のあるような歩みの音ではない。何かに追われ、焦燥に駆られた足音。迷彩服に身を包んだ十数人の男が、血相を変えて崩壊したビル街を走り抜ける。この時代に迷い込んだわけではない、現代から計画的に投入されたフル装備の兵士。この時代の調査と物体の回収のために送り込まれたプロの戦力が、今、この時代の何者かにより圧倒的な劣勢に立たされていた。

「追って来ているか!?」

先頭近くを走る男が、隣を走る男に問う。問いかけを受けた男は咄嗟に振り返るが、そのまま走ることをやめはしなかった。

「……来ています!5頭、いえ6頭!」

汗を滴らせて息を切らせる集団の背後数十メートルの距離に、何者かがいた。地面にではない。人類が生活を営んでいた建造物の壁面。姿は人間に似ているが、全く異なる存在であることは誰が見ても一目瞭然だった。人間には決して再現のできない滑らかな動きで、軍服の集団に向かって壁の上を移動している。その速度は圧倒的であり、全速力で走る部隊との距離はみるみるうちに縮まってゆくのが分かる。

「──クソォッ!」

「駄目です!撃たないで──」

部下が静止に動いたときには、男は携えていた自動小銃を既に後方の黒い“影”へ向けていた。火薬の燃焼が起き、連続した銃声が響く。鉛玉は軸回転しながら“影”の脳天に迫るが、 “影”は身をよじって銃弾の軌道を回避した。標的を外した銃弾は建物の壁を削って火花とともに砂煙を立てる。その煙を遥か背後に放逐した“影”は臆することなく、だが前方からの更なる攻撃に対応するかのように、縦横無尽に壁面や屋上を疾風の如く駆け抜ける。少なくともこの距離では最早銃は通用しない。銃口の向きから弾道を予測する、まるで未来を見透かすかのような知性。“影”の集団は人類の持つ対抗策の能力を学習した。

「チッ」

「だから銃は駄目ですって!あいつらは音に敏感なのですから──」

「だが撃たなければさらに距離を詰められていた!それはもう終わりだろうが!」

いち早く無駄を悟り、“影”に背を向けて依然逃走する部隊。かつて自動車が幅を利かせていたであろう交差点を曲がり、逃走経路にせめてもの変更を加える。“影”の集団を撒くことができれば皆諸手を上げて歓喜しようというところだが、“影”は猛スピードで頭上を飛び回り、無情にも彼らの背後数メートルの距離まで迫っていた。

「ああああああ!」

最後尾を走っていた隊員の服が掴まれ、人智を超えた力で後ろへ放り投げられる。部隊の全員が思わず振り向く。地面を跳ねて転げ回り、口に入った砂利を吐き出すと同時に、“影”の一体が踊りかかった。鍛え上げた熟練の兵士の腕力をもってしても全く歯が立たないまま、喉笛を喰い千切られる。溢れる血液に膨大な気泡が混ざる音を立てながら、断末魔とも呼べないようなノイズが発される。

鮮血の飛沫が宙を舞うころには、部隊の後方に居た兵士たちは皆小銃の引き金に指をかけていた。時空の亀裂を越えて遥々この魔境へ足を踏み入れた兵たるもの、致命傷とそうでない負傷の区別など一瞬で見抜ける。“影”の集団に捕らわれた同胞に手の施しようがないことはその場の全員が痛感していた。ではどうするか。絶対防衛ラインは己の命。他の隊員が何人犠牲になろうとも、自らの命だけは守って文明社会へ帰還しなくてはならない。自らの心の中に巣食う恐怖心を押し殺し、同胞の体もろとも“影”を一匹残らず一斉掃射で蜂の巣にする気でいた。

だがその目論見は実現しなかった。

理由は既に一人の兵士が口にしていた。

『あいつらは音に敏感』。彼は隊長が後方へ発砲したことに対してこう言ったが、確かにそこに間違いはなかった。あの銃声を聞きつけ、今まさに狂乱の宴へ混ざらんとする“影”もいるだろう。だが彼の見通しは甘かった。逃げ惑う軍靴の音、不安を漏らす兵士の呟き、荒い呼吸音、激増する心拍。これらの全ての音が、“影”には筒抜けだった。あの場で発砲する・しないを問わず、彼らは既に“影”の掌の上で踊らされていたのだ。言わゆる詰みの状況。そして彼らはできるはずもない攪乱を狙って道を曲がり、袋小路──否、自らの墓場へ追い込まれてしまった。

今、彼らの周囲360°を“影”が取り囲んでいた。

銃を構えていた兵士が一人、上へ釣り上げられる。突然の体が勢いよく突き上げられる感覚に、思わず明後日の方向へ銃弾を放つ。薬莢が悲しく飛び散り、音もなく草むらへ吸い込まれる。銃を乱射しながら手足を振るうも、叫び声とともにビル街の闇の中へ引きずり込まれた。それに驚く兵士たちが、同様にろくな抵抗もできないまま次々に餌食になる。軍で培った強靭な精神力に限界が訪れ、留め金の壊れた爆発的な恐怖心が秒速で膨れ上がる。最早兵士たちには屈強なレンジャーとしての尊厳は失われ、絶対的な優位種の前に逃げ惑う様は子羊も同然だった。“影”が上から、横から、後ろから、哀れな獲物を狩り続ける。銃声、叫び声、母親への助けを求める慟哭をバックグラウンドにして。

命を絶たれる寸前、ようやく兵士たちは“影”の姿を拝むことができた。姿は霊長類に似るが、体格は遥かに上回る。直立すれば3メートル近くあるであろうその巨体。一方で肉体は引き締まっており、一般的に猛獣という単語で想像される重量感のある動物たちとは一線を画する。翼手目から進化した生物と聞かされてはいたが、コウモリから一体どのような歴史を辿ればこのような進化が可能なのか。この細い腕で人間を片腕で軽々と持ち上げる力をいかにして発揮するのか。そのような疑問を思考の片隅にでも浮かべた兵士はおそらくいないだろうが。顔は不気味としか形容しようがなく、それが一層兵士の恐怖心を駆り立て、冷静な判断を不能に追い込んでいた。歪に並んだ細かい牙はまさに悪魔を想起させた。地獄と化した文明の残骸を網膜に映しながら、兵士たちは壮絶な苦痛の中で事切れていった。

 

多くの兵士の魂が天へ旅立った地点からそう遠くない場所で、轟音が響いていた。“影”──否、コウモリたちが執拗に扉を殴りつけている。扉は重厚な鋼鉄の塊でできているらしく、人間の体をいともたやすく破壊する捕食者といえど、抉じ開けるのは困難を極めるようだ。扉はコウモリから浴びせられた打撃による無数の傷や凹みを帯びているが、コウモリに由来しない痕跡もわずかに残されていた。指紋、そして泥のついた靴跡。人間がこの扉を通過したことを意味している。そして扉へ繋がる道の上には、コウモリに貪られる兵士の遺体のほか、薬莢が無造作に転がり、飛び散った血が砂に混じって濁りきっていた。部隊の先頭にいた兵士たちが、何名かの命を散らしながらもある建造物の中に身を隠したのだった。

外から殴打する音が腹に響くのを感じながら、中に逃げ込んだ兵士たちは息をついていた。

「フウ……危なかった」

飲料を喉に流し込むと、隊長はボトルのフタを締めて口を開いた。

「隊長……ここに奴らはいないのですか?」

「おそらくは安全だ。油断は禁物だが、外ほど気を張る必要もないだろう」

「しかし我々が外を逃亡しなければならなかったのは、偏に屋内でもあの生物が巣をなしていたからで──」

「ああ。普通の建築なら恰好の巣になるだろうさ。外の車だってそうだった。風雨を凌ぎたいのは人も奴らも同じだな。……だがここだけは違う。この建物だけはな」

部下たちの指摘をさも事前に把握していたかのように、隊長はすらすらと答えてボトルを装備に仕舞い込む。彼にとってよほど想定内の発言だったのだろう。部下たちはその平然とした受け答えと、そして今居るこの建造物への圧倒的信頼を疑問に感じた。数舜のざわめきの末に、一人の隊員が問う。

「それほど自信がおありなのですね」

「自信じゃあない。自分への信頼ではないからな。俺が信じているのはこの建物──いや、この建物を管理していた組織のことだ」

「……軍ではないのですか?内務省?」

隊長は眼を閉じ、黙って首を横へ振る。

「お前達も聞いたことがあるはずだ。この建物の所在地はカナリー・ワーフ。名称はワン・カナダ・スクエア。この時代ではどうか知らないが、我が国で最も高くそびえる高層ビルだ」

「高層ビルだから……なのですか?理由は?」

「いいや違う。この施設を管理・運営していた組織は存在を隠匿されていた。一般市民でこの名を耳にする者はまずいないだろう。警察や軍、政府では多いかもしれないが……それでもこの組織の全容どころか、業務内容の一部でさえも知りえないはずだ」

「一体何という組織なのですか?」

「俺もかつて、1年前まではこの組織に籍を置いていた。組織の名は──『トーチウッド』」

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

パンドラの箱

トーチウッド。その組織の起源は1879年まで遡る。当時スコットランドで恐れられていた狼男伝説だが、その伝承は真実であった。当時のヴィクトリア女王が狼を崇拝する教団による暗殺未遂を受け、未知の脅威から大英帝国を防衛すべく秘密機関トーチウッドを設立した。それ以降、地球外生物や異次元生物、タイムトラベラーなどの英国における異常存在はトーチウッドが対応することになっていた。本来は時空の亀裂までもがトーチウッドの管轄であったが、あまりにも多い発生件数を鑑みて英国政府が亀裂調査センターを立ち上げ、亀裂に関する対応のみ管轄を移したのだった。

 

「2007年にカナリー・ワーフを中心に大規模な戦闘行為があった。お前達も覚えているだろう?鋼鉄で作られた兵士、そして得体の知れない金属の兵器。俺たちも銃を手に取って戦ったが、連中は強すぎた。地球上で最強の戦力を保有していた確信があるが、連中はさらにその先を行った。人類の科学力を遥かに超越した存在──トーチウッドは戦いの末に解体されたよ」

「にわかに信じがたい話ですが……」

「それを言うなら現状も同じだ。時空の亀裂を抜けて、未来世界へやって来て、未来の生物に襲われている。これも一般人に喋れば、にわかに信じがたい話だと思うが?」

「……信じます。ではその後、この建物は?」

「さあ。俺はすぐにトーチウッドの記録文書のうち自分に関するものを書き換えて、レコン──記憶処理剤の投与を回避して逃げ出したからな。ああ、完全にトーチウッドを敵に回したわけじゃあない。今の所属にいるのもトーチウッドの斡旋があって、それをクリスティンが拾ってくれたおかげだ。しかしこの建物がその後どういう顛末を辿ったのか俺は知らない……政府が闇に葬ったかな」

だが、と隊長は指を立て、部下の注意を引き付けた。

「間違いなく確信していることがある。1つ、ここのセキュリティは管理者がいなくなったところで崩壊するようなものじゃあない。現に外の化け物どもは侵入できていない。政府が管理を怠って防衛システムを取っ払った可能性もなくはなかったが、それも次で否定される。2つ、ここには外の化け物を駆逐する兵器が腐るほどある。未来や地球外の技術を取り込んで製造された特殊装置だ。世界の歴史を書き換えられるような代物だ、外部に漏らすわけにはいかないから、当然セキュリティは厳しくなる。それを手に入れて、現代へ帰還しよう」

「未来の……装置ですか」

半信半疑な様子を見せる部下に対し、隊長が鼓舞するような声色で返答する。

「ああ!現にオリバー・リークが亀裂調査センターへの反逆行為を行った際、生物を制御していたのは未来の技術だ。未来は俺たちが欲するものの宝箱さ」

隊長は銃を構えるよう部下にハンドサインを下した。部下が一斉に、しかし静かに銃を手に取って行動の準備を整える。

「さあ行くぞ。案内する」

 

生き残った隊員6名が、かつてトーチウッドと呼ばれていた建物を慎重に巡回してゆく。ガラス張りだったはずの地上階はトーチウッドの技術で強化されていたらしく、1階で捕食者との遭遇はなかった。高度な技術で保存された非常電源が奇跡的に生きていたため、施設内へのアクセスは可能だった。異空間から突如姿を現した球体の研究室を覗く。密閉されていた部屋はやはり数百年ぶりに扉を開かれたのであろうが、密閉されていたために室内には埃も大して堆積せず清潔だった。しかし期待とは裏腹に、中はもぬけの空。部屋に隠されていた銃火器はもちろん、球体を探知するための無数の検出器までも持ち去られていた。ジャサー・サン・グライダーなど無数の物体が保管されていた空間に向かうが、ここも綺麗に何もかもが回収されていた。エレベーターは当然電力供給の断絶とともに停止しているため、銃口を上下にしっかりと向けながら、捕食者への警戒を怠らず階段を一歩一歩丁寧に登ってゆく。

 

やがて最上階に到達した。裂け目を開く研究が千回も行われていたこの階層であれば何か見つかるかと期待していたが、ここも空振りだった。裂け目の開閉装置のレバーはオンライン側に入っていたが、とっくにシステムは閉鎖されていた。あの戦いの最後にここで何が行われていたのか、一瞬だけ想像力を働かせた──が、すぐにそこから見える光景に目を奪われ、現実に引き戻される。

外に見える建物の全てに例の捕食者がいた。くすんだ色に沈んだ世界で、灰色の魔人が闊歩している。そしてその奥に見えるのは断崖絶壁。世界の半分を突如消し去られたような切り立った崖が、かつてロンドンだった領域に荘厳な地形を刻み込んでいる。おそらく最下層は森林か何かになっていて、捕食者が主に狩猟の場としているのはそこなのだろう。外を見ると寒気が走る。しばらく見つめていると、向こうもこちらに気付いたようだ。地上では扉をこじ開けようとするコウモリが群れているのだから、こうなるのも時間の問題だとは思っていた。他の建造物の屋上や壁を飛び跳ね、次々に捕食者がトーチウッドタワーの根元へ結集しはじめる。

「……まずいな。連中がとうとう動き出した」

「早く見つけましょう。この階にもないなら──」

「隊長。この階の探索は完了しました。武器はおろか、バリケードになりそうなものさえ残されていません」

「……」

トーチウッド1の解体後、所蔵品は全て別の場所へ移されていた。いくつかはキャプテン・ジャック・ハークネスが指揮を執るカーディフのトーチウッド3へ。いくつかは同じくロンドンを本拠地とするUNITロンドン支部へ。時空の亀裂へ応用できるものは亀裂調査センターへも横流しされていた。自らトーチウッド1を後にしてクリスティン・ジョンソンの下で軍人の道を選んだ彼には知る由もなかった。期待を悪い意味で大きく裏切る報告を受けた隊長は、目に手を当てて項垂れる様子を見せた。十数秒ほどそのまま考え込んだ彼は、ある決断に至った。だがその表情は決意を固めた表情ではなく、苦虫を噛み潰したように顔に皺を深く刻み込んだ顔だった。部下たちはその表情を見て、隊長の身を案じる。

「隊長……」

「……最終手段だ。この手は使いたくはなかったが、もう仕方ない」

「最終手段というのは?」

「トーチウッドが解体されてもこの建物が厳重に管理されていた理由だ。それを今から使う……使わざるを得ない」

フーッとため息をつき、隊長は話を続ける。

「危険な兵器を収集しているから施設が保存される……それは当然だ。悪用されると大惨事を招きかねない。だがもう1つ理由がある。危険な生物を収容していることだ」

「危険な生物……?」

「外の奴らみたいなものですか?」

「ざわつくな。そうだ……と言いたいが違う。トーチウッドが捕獲・管理している生物は地球外生物。地球人に並々ならぬ敵意を抱く連中だ。知性も高い。こいつらが脱走すれば世界が滅びる。外に居る未来生物の出現を待たずしてな。だから、生物収容エリアは厳重に封鎖されている」

「待ってください……外に居る化け物に、この施設の化け物をぶつけると!?自殺行為ですよ!」

「それでもやるしかない!」

突然の隊長の叫びに、部下はたじろぐ。この状況で危険性を最も正確に理解しているのはトーチウッドに勤めた経験のある彼だけだった。彼にとっても苦しい決断だった。決断を下すまでに相当の精神的苦痛をその身に受けていたのだろう、彼の迷彩服が湿り気を帯びている。髪の毛もしおれ、頬もトーチウッドタワーへの突入時よりも痩せこけているように見えなくもない。息を荒げながら、隊長は続ける。

「それでもどうにかやるしかないんだ。さもないとここで乾き死ぬか、外の連中に引き裂かれて死ぬかだ。……ここにいるエイリアンを解放して、連中にぶつける。双方が争っている間に亀裂を抜け、現代へ戻るぞ」

部下は数秒の間沈黙した。隊長の鬼気迫る表情を見止め、部下たちも賛同した。

 

 

トーチウッドタワーの地下収蔵庫。ここに保管されていた機材も上階と同様に軒並み他の組織へ移送されていたが、そんなことは想定済みだった。狙いはエイリアンの武器ではなく、エイリアンそのものを外の捕食者の群れにぶつけることだ。空っぽの部屋を通り抜け、重々しい鋼鉄のゲートの前に立つ。

「よし……今からゲートを開錠する。全員いるか?」

「ええ」

「はい」

「はッ」

 

──静寂。本来ここで訪れるはずのない沈黙に、隊長は眉をひそめる。部下も同様だった。周囲を振り向いて確認するが、やはりおかしい。5人いたはずの部下が3人に減っている。

 

「……オイ、捕食者の攻撃はあったか?」

「いえ、ありません。それは断言できます。もし捕食動物の攻撃であれば、確実に轟音がします。それこそ、先ほど我々がこの建物に突入した時のように」

「叫び声だって聞こえるでしょう。それに2人だけを襲って我々を無傷で返すとも考えにくい……捕食者による攻撃ではありません」

「ではどうしたというのだ。何も言わずに立ち去るなど」

「手洗いか?」

「それにしても一言くらいは言うだろう」

「それもそうだが……」

若干の不安と苛立ちに駆られる部下をよそに、隊長はトランシーバーを取り出す。姿を消した隊員2名に呼びかけるが、返事はない。2人の端末は不通になっていた。

「……仕方がない。ここで2人が来るまで待機だ。待ちくたびれて死ぬことにならないといいが」

その発言に、部下が何か思いついたというふうの表情をする。

「……隊長」

「どうした?」

「待ちくたびれるといえば……この施設は数百年放置されていたわけですよね。中のエイリアンは死亡していないのですか?」

「なんだ、そんなことか。中のヤツはどれだけ長い寿命を持つか分からんようなヤツだ。それも、水や食料なしでも生きていけるような。もしかすると空気さえ必要ではないのかもしれないな」

「そんなことが……」

「ありえるのさ。我々の世界では。あの電子ロックを解除してしまえば──」

ふと、隊長の発言が止まる。部下たちも隊長に目をやり、彼が見つめている方向へ視線を送る。

 

 

電子ロックは、既に解除されていた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

この世界の果てに

「まさか、そんな──」

隊長が電子ロックに近づき、目を見開いて確認する。電子ロックが開いていることを示す、緑色の光が灯っていた。

「嘘だろう、そんな──」

「隊長!」

「今からゲートを開ける。全員、目を閉じるなよ。必ず目を見開いて、中に居る奴を見つめるんだ。目を閉じるときは進言しろ」

部下全員が承諾する。それを確認すると、隊長がハンドルを回しゲートを開く。徐々にゲートが横へ動いていき、隙間が大きく開いてゆく。部下たちは皆固唾を飲み、隊長の顔には冷汗が浮かんでいた。彼は自らの体が冷え切っていることを痛感していた。この世に起きてはならない事態が、今目の前で起きている可能性が非常に高い。腕に垂れた汗は、地下からの湧き水を汲んだかのように冷え切っていた。氷のごとき冷気を抱きながらハンドルを回す。

 

ゲートが完全に開き、収容エリアの全貌が全員の目に飛び込むと、そこには今までに何度も目にした光景が広がっていた。

 

虚無。

 

凶悪な地球外生物はおろか、何一つそこには残されていなかった。

 

「何──」

その瞬間、何か硬い物が折れる音が響いた。咄嗟に振り向くと、つい先ほどまで行動を共にし、会話を交わしていたはずの部下たちが忽然と姿を消していた。その代わりに三体の彫刻がその場に置かれている。天使の形をなした石像。こちらへ手を伸ばす石像、両手で顔を覆った石像、両手を広げて笑みを浮かべている石像。三者三様だが、唯一この場に残された男は全てが同じ敵意を持ってこの場に居ることを理解していた。

嘆きの天使。この種族の起源がどの惑星で、いつ頃この宇宙に出現したのかは全く不明である。そして普段は彫刻の姿に擬態し微動だにしないが、目を離せばその動作は地球上のあらゆる生物を超越した水準にある。この生物に出会って生き延びる方法は、できる限り目をそらさずにその場から立ち去ること。ほんの瞬き程度の一瞬であれど、目線をそらせば即死に等しい。見なければ死ぬという極限状態に置かれ、心臓が脈拍を速めていくのが分かる。

「そういうことか……消えた部下は既にお前達に……もう脱出していたというわけか……」

男はこれまでに起きた全ての現象に納得していた。じっと天使像を見つめ、その場を後にする。うっかり目線をそらしてしまわないか、目にゴミが入らないかという懸念要素が膨れ上がる中、加速する拍動をこらえながら、男はどうにか天使たちの居るエリアを脱出した。このまま天使を誘導し、外の捕食者の群れと衝突させる。可能性は限りなく低いと分かり切っているが、これに賭ける以外の手は最早残されてはいなかった。

 

 

数分後、トーチウッドタワーから脱出せんとする男の目に激痛が走っていた。どうやら天使の目を見つめてしまったらしい。天使が目の中に入り込み、脳内で着実に力を増している様が痛いほどに感じられる。痛みをこらえるために目をこすり、眼輪筋をほぐしてみるが、全く効果はない。むしろ頭蓋骨を内側から押し広げるような痛みが増大していた。自分の肉体が何か異質な物へ変化してゆく恐怖も同居していた。目から砂のようなものが流れ落ち、体が硬くなってゆく感覚がする。男は自らの死期を悟った。かつて勤務したこの建物の中で果てるのも、何かの因果なのかもしれない。

男は必死に死から、天使から逃れようともがいていたが、一瞬だけ諦念が脳裏をよぎった。天使はその隙を見逃さない。男の目と脳が剥離し、大量の血液を噴出しながら、中から天使が具現化した。

 

 

 

やがて天使はトーチウッドタワーの扉を開け、外界へ進出した。タワーへの侵入を試みていたコウモリたちは、すぐさまその異変に気付いた。突然扉が開き、彫像が出現したのだ。一見人間に見えるが、心拍はなく、動作はない。はじめのうちは突然の出現に警戒態勢を敷いていたが、ただの動かない物体であると悟ったコウモリはすぐにその彫刻から興味を失った。

 

それが命取りだった。

 

次々にコウモリの群れから個体が消えていった。コウモリたちは当初、何が起きているのか理解が追い付かなかった。超音波を介したコミュニケーションを展開する最中、突然同胞からのメッセージが途絶えた。断末魔も上げず、突如として音波が消失したのだ。心臓の鼓動さえも、その止まる過程を知覚させずに消え失せた。その方向に目をやると、先ほど退屈させられた彫刻がいた。まるであたかも彫刻が攻撃を開始したかのように。

 

目を凝らしていると全く動かない彫像だが、目を離した隙に再び同胞が消された。群れがパニックに陥り、無茶苦茶に彫像を攻撃する者、八つ当たりで群れの他の個体に手を出す者、人間の遺物を破壊する者が出始めた。しかしコウモリも愚かではない。これを延々と繰り返すうち、莫大な脳容積を用いてある結論を導いた。

 

この彫刻は、見ていない間に動いて攻撃をする。

これが分かれば後は簡単だった。群れで徒党を組み、天使1体につき数頭のコウモリで囲み込む。彫刻は沈黙した。そして一方的な破壊の嵐を炸裂させる──

 

──はずだった。

しかし、天使の構造はコウモリの想像以上に硬いものであった。彼らの爪は削れ、振り下ろした腕は激しい反動とともに弾かれる。虚しくも腕に痺れが走る一方、天使像は相変わらず涼しい表情で中央に佇んでいる。周囲からの集中砲火は何一つ影響を及ぼせていない。

 

彼らには知りえないことだが、天使の体は量子ゼノン効果による束縛を受けている。クォンタム・ロックとも呼ばれるこの状態では、一切の変化が発生しない。状態変化もなく、物理的な破壊も一切通用しない無敵の完全防御形態。この時代でいつもコウモリが相手にしている虫とはわけが違う、未知の領域に足を踏み込んだ防御機構だった。一切の攻撃が通用しない相手にコウモリは粘り続けるが、鉄さえも捻じ曲げる自慢の攻撃力が完全に無力化されていた。

こうしている間に、コウモリの監視網に穴が開き始める。一頭のコウモリが消去され、連携の断たれたコウモリが次々に天使の攻撃を受けてこの世から跡形もなく消されてゆく。

 

同胞を次々に消される中で、コウモリは新たな思考の段階に達した。

「見ている」と「攻撃できない」。

ならば「見ず」に「聴く」と良い。

彼らは音を視ることができると評価されるほどの異常に卓越した聴力を持っていた。そして、その聴力が感じ取るのは、自らが発した超音波による探知網。この聴力をもってすれば、天使たちを視認することなく観察ができる。

 

コウモリが瞳を閉じ、空気を振動させ索敵を開始する。緻密な探知網の中を何者かが高速で接近している。天使の動く様子が、音波の反響で手に取るようにわかる。高速で動く天使の腕が自らの体に触れる寸前に、コウモリの腕が天使の首に炸裂した。鉄柵を突破するほどの爆発的なエネルギーが、クォンタム・ロックの支配下から離れた天使の首に一点集中する。あまりの衝撃に耐えられず、天使の首が割れ、破片を巻き散らして地面に落下する。

 

スピードは互角だった。数十メートルの距離を瞬きの合間にほぼゼロ距離まで詰めることのできる嘆きの天使に対し、未来の捕食動物は至近距離から放たれたEMDを回避し、熟練の兵士の視界に残像さえも残さない速度で動く。両者の速度は、人類の目線からすれば拮抗していると言ってよいだろう。

 

それに加え、生物兵器として生み出された捕食動物は、戦闘におけるカンが天使よりも冴えていた。いかに凶悪な地球外生物といえど、彼らは野に生きる獣ではない。偵察し、敵兵を引き千切るために生まれた生物は、相手の動作や弱点を読み解く能力に長けていた。これが勝因だった。

 

 

落下音を確かめたコウモリたちは勝利に沸いた。だが天使たちが尚も動いた。ひと時の勝利に胡坐をかいたコウモリたちが何頭か、生きていた痕跡を忽然とこの世界から抹消される。だが、心音の消失に気付いた同胞たちは、即座に目の前の敵に向き直り、超音波の探知網を展開した。次に砕かれるのはお前たちだ、と言わんばかりに。

 

 

 

彼らが生み出したこの戦法がどこまで通用したか、それは誰も知らない。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む




評価する
※目安 0:10の真逆 5:普通 10:(このサイトで)これ以上素晴らしい作品とは出会えない。
※評価値0,10についてはそれぞれ11個以上は投票できません。
評価する前に
評価する際のガイドライン
に違反していないか確認して下さい。