碧落のマリーゴールド (雨魂)
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青は藍より出でて藍より青し

へき‐らく【×碧落】

青い空。大空。また、はるか遠い所。


 

 

 Soliloquy/

 

 

 

 

 誰かは言った。『夢は叶わない。碧落に咲くあの花を摘む事が出来ないようにね』、と。

 

 そんなの、言われなくても分かってる。『理想が現実にならない』なんて、本当は小さい頃から誰かに教えられなくても心の何処かで理解していたわ。

 

 それでも私は、クリスマスはサンタにプレゼントをお願いしたり、七夕になれば短冊にたわいない願い事を書いたりした。それが大人たちの優しさで作られた夢物語である事を分かっていながらも、本当に叶うんじゃないか、と泡沫の夢を見るみたいに期待で胸を膨らませてた。

 

 けど、この世界はそんなに甘くないのデース。

 

 

 夢は願えば叶う? 

 

 祈りの強さが現実を変えてくれる? 

 

 

 こんな手垢だらけのサムイ・ワードが蔓延る世の中には、本当に腹が立つ。

 

 もしそれが本当なら、私たちはあとどれくらい夢を願えばよかったの? 

 

 どんな祈り方をすれば、あの夢は現実になってくれたの? 

 

 ほら、答えて? 

 

 

 ……。……。……。……。

 

 

 沈黙。沈黙。沈黙。沈黙。

 

 

 

 そう。この世界は結局のところ、そんなものなのデース。

 

 偶然良い環境にいて、たまたま結果を出した人が口にする都合の良い話は鵜呑みにして、そうじゃない私たちに向かって偉そうな言葉を吐いてくる。

 

 

 まだ頑張りが足りないからその夢は叶わない。

 

 本当に叶うイメージをしてないから叶わない。

 

 

 バカを言わないで。夢が叶わなかった私たちが、どれだけ努力をしたと思ってるの?

 

 たったそれだけのことで叶うのなら、私たちはもっと大きな夢だって叶えられた。きっと月の裏にでも行ってウサギと一緒にオモチをつけたかもしれまセーン。フフ、イッツジョーク。テヘペロ。

 

 

 

 本当に叶えたい夢を叶えるには、努力だけでは足りない。神様にお願いするだけでは意味がない。

 

 それを現実にするには、最初に配られたカードが良くなきゃならない。どれだけ頭が良くても、手札が最悪ならゲームに勝つ事は出来ない。

 

 だから、私たちは諦めた。もう、出せるカードがこの手に一枚も無かったから。

 

 なんて残酷。あなたはそう思うかしら? イエス、そのとーり。否定は出来ないわ。

 

 足掻いてももがいても、それ以上はどうする事も出来ない。なら仕方ないじゃない。マイリマシタ。そう言って自分から負けを認めるのは日本人は得意でしょ? 

 

 みんな、みーんな諦めた。もう無理だって。決まってしまったものは変えられないー、って。

 

 そう、かく言う私も。

 

 

 

 でもね、ちょっとだけ思った事があるの。

 

 これは例えばの話。

 

 もし、私たちが通ってきた道に、何かすごくビッグな変化があったとしたならば。

 

 この現実は変えられたのかしら、って。

 

 ええ、分かってるわ。そんなのはエソラゴトだって言いたいんでしょう? 絵に描いたオモチはどうやっても食べられないって。

 

 

 

 だから、これは例えばの話よ。

 

 

 私たちが歩いてきた道の途中で、もし、トンデモナイ誰かと出会っていたのなら。

 

 

 未来は、変わっていたのかもしれない。

 

 

 っていう、ただそれだけお話。

 

 

 Soliloquy/end

 

 

 

 ◇

 

 

 

 Prologue/

 

 

 

「ねぇ、そこで何をしているの?」

 

 

 

 最初に聞こえてきたのは、女の子の声だった。その声音に反応してようやく、意識と共に眠っていた聴覚は聞くという仕事を思い出してくれたらしい。

 

 騒がしい蝉時雨と穏やかな潮騒のような音が耳に届く。どうやら外にいるようだ。まだ目を開けていないので、それらが本当に想像した通りのものなのかは判断することはできない。もしかしたら波の音に聞こえるのは、誰かが傍で笊に載せた大豆を転がしている音かもしれない。なんだろう。イメージしてみたら自分がとんでもなくシュールな現場に居合わせている気になった。

 

 

 

「ヘイ…………聞こえてないのかしら?」

 

 

 

 また声が聞こえてくる。さっきと同じ女の子の声。波の音と大豆を笊の上で転がしている音の区別はつかないけれど、この声が女の子のものであることは目を開けなくても認識できた。でも、どうして女の子がボクに声をかけてくるんだろう。

 

 そもそも、ボクはどこにいて何をしているんだ? 目を瞑ったまま自問しても答えは浮かんでこない。分かるのは女の子の声で意識が覚めて、自分が蝉時雨と潮騒が聞こえる場所に居るということ。どうやら聞く、という能力で判断できるのはここまでが限界みたいだ。なら他の方法でこの状況を認識しなければならない。

 

 ふむ。じゃあ、()()はどうだろう。もしボクが普通の人間ならばそれが出来る筈だ。聞くことが出来たのなら、きっと見ることだって可能な筈。

 

 

 

「……息はしてるみたいね。それはいい、けど」

 

 

 

 足音が近くに来るのを感じる。それで自分に感覚があることを思い出した。途端に感じたのは、熱さ。いや、この場合は暑さと表現した方がいいのだろうか。背中にあるのは熱さだが、肌の表面で感じるのは暑さの類の温度。きっと、夏と呼ばれる季節の中に自分は置かれている。

 

 ああ。聴覚があり、感覚があるのならばきっとボクは普通の人間なんだろう。それに、今更だけどそれらを認識する思考能力だって持ち合わせている。そこまではいい。でも、なぜ自分がこんな所で寝そべっているのかが分からない。

 

 

 

「日本ではこういうのをドザエモンっていうのよね。生きてるみたいだから、それも違うかしら?」

 

 

 

 ツンツン、と頬を突かれる。どうやら声の主はすぐ傍にいて、ボクのことを観察しているようだ。

 

 そろそろ目を開けてもいい頃合いかもしれない。これ以上たぬき寝入りをするのは声をかけてくれた女の子に失礼だし、自分が置かれた状況を確認しないまま目を瞑り続けるのも限界だ。

 

 そっと、どこかの方角から吹いてきた涼しい風がボクの肌を撫ぜた。熱さと暑さにサンドイッチされる全身の体温は、季節の温度に当てられて相当高くなっている。

 

 

 

「あ」

 

 

 

 徐に瞼を開き、目の前にある光景を水晶体に映す。だが、眩しさに慣れない瞳は像を見せるよりも先に痛みを感じさせた。

 

 しばらくの間、薄目そこに何があるのかをぼんやりと観察する。徐々に鮮明になってくる景色。

 

 始めに認めたその色彩は、美しい金色だった。

 

 

 

「……」

 

「グッモーニン。それで、もう一度訊くけれど、あなたはこんな所で何をしていたのかしら?」

 

 

 

 月のような色をした二つの金眼が、ボクを見下ろしている。声をかけてくれたのは、やっぱり女の子だった。少女、と形容するには少し大人びている容姿をしているように見えるけれど、きっとまだ十代であることが感覚的に判断できた。きっと可愛らしい声の所為だと思う。

 

 セミロングのブロンド。その髪を左後頭部に数字の6の形に結って、頭頂部にかけて三つ編みのカチューシャを作っている独特の髪型をしている。セットが大変だろうな、と思ったのが最初の印象。

 

 

 

「……ぁ」

 

「ニホンゴは分かる? 英語とイタリア語なら話せるから、そっちの方がいいならそうするわよ」

 

 

 

 何かを言わなくちゃいけないと思ったのに、喉が相当渇いているらしく、声が外に出ていかない。金色の女の子は喋らないボクが日本語を話せないと判断したのか、言葉通り英語とイタリア語の両方で「あなたは何をしているの?」と問い掛けてきた。見た目からして純粋な日本人っぽくないと感じたけれど、その考えはたぶん正解だったらしい。

 

 数秒の間を置き、唾を何度か飲み込んでから落ち着いて口を開いた。

 

 

 

「だ、大丈夫。ボクは日本人だから」

 

「あら? 普通に話せたのデース」

 

 

 

 掠れた声で応えると、金色の女の子は口許に微笑を浮かべてそう言った。

 

 だけど、ボクは彼女の問いに答えることが出来なかった。代わりに出来たのは、質問に質問をぶつけるというコミュニケーションにおいては御法度であるそんな無作法だけ。

 

 

 

「ここは、どこ?」

 

 

 

 そしてボクは誰? なんて、記憶喪失した漫画の登場人物が言うような常套句が、本当に自分の口から出てきた。もちろんそれに対しての驚きもあったけれど、事実ここがどこなのかも自分が何者であるのかも分からないのだから、そう言う他なかった。

 

 当然のように訝しみの目線を向けてくる金色の女の子。波がひとつ岸にぶつかるくらいの間を置いて、目の前にある血色の良い唇は開かれた。

 

 

 

「覚えてないの?」

 

 

 

 頷く。その通り、何も覚えていない。自分がどんな人間であるのかも、何故こんな所で裸で寝そべっているのかも。

 

 ん? 裸? 

 

 

 

「わぁっ!」

 

 

 

 明晰になった意識は、今更になって自分が現在進行形で犯罪を犯していることに気づいてくれた。

 

 どうやらボクは、生まれたままの姿で屋外にぶっ倒れていたらしい。しかも残念なことにボクの性別は男で、最初に見つけてくれたであろうこの子は女の子。穴があったら入りたい、どころの話じゃない。今なら奈落の底にでも紐なしバンジージャンプが出来そうな勢いだった。

 

 

 

「フフ、気づいてなかったのね。もしかしたらワザと私に見せてるのかと思ったわ」

 

「そ、そそそそんなことするわけないでしょ!?」

 

 

 

 言葉にするのも恥ずかしい姿勢で前を隠しながら、ケラケラと笑う金色の女の子に向かって叫ぶ。それもこれも、この子があまりにも自然な感じでボクに話しかけてきたのが気づかなかった最大の原因だって言うのに。もしかしたらこの子、男の身体を見慣れているのだろうか? 

 

 

 

「そう。まぁ、マジマジと見たわけじゃないから、安心して?」

 

 

 

 あ、やっぱり違った。よく見ると女の子の顔が不自然に赤い。ボクが描いた妄想は彼女の朱色の頬のお陰で霧散してくれた。さようなら、ボクの煩悩。そして変な勘違いをしてごめんなさい。

 

 一息吐き、改めて周囲の景色に目を向ける。どうやらボクが倒れていたのは、海がすぐ傍にある岩の上だったらしい。蝉時雨が忙しなく聞こえていたのは、海の反対側に広がる新緑の木々の所為。頭上には蒼天が広がり、遠くの方に巨大な綿あめみたいな形の入道雲が浮かんでいた。

 

 それらのロケーションを目に映すだけで、今が夏であることを強制的に伝えられる。ここがどこかは知らないが、周囲に流れるこの街の空気自体、なんとなく夏らしい。

 

 

 

「話をリターンするわよ? あなたは自分がどうしてここに居るのかも、自分が誰かのかも分からない。それで合ってるかしら?」

 

「う、うん。間違いないよ」

 

 

 

 金色の女の子は再確認するように訊ねてくる。嘘みたいな話であることは重々承知だ。でも、本当にそうなんだから仕方ない。ボクの記憶はたった数秒前に記録を始めたばかりで、それ以前の映像はどんなに頑張っても再生することが出来なかった。

 

 

 

「じゃあ、名前も分からないの?」

 

 

 

 そう訊かれて、すぐに肯定しようとしたけれど、一瞬だけ考える空白を置いた。彼女が問い掛けているのは、ボクという人間の名前。それは分かる。でも、ボクはボクという存在を知らず、何故こんな状況に置かれているのかすら理解できない。

 

 けれど、自分の名前を自問した時、ふとひとつの言葉と文字が頭の中に浮かんできた。

 

 

 

「あおい?」

 

「アオイ。それがあなたの名前なのね?」

 

「多分、そうだと思う。自分でもあまり確証は持てないんだけど」

 

 

 

 自ら口にした言葉だというのに、曖昧。どう考えたって矛盾しているのに、その矛盾以外では女の子の問い掛けに答えることができなかった。

 

 ボクの名前を聞いた金色の女の子は数十間、黙って何かを考えるような表情をしてこちらを見ていた。当然、赤の他人であるボクには彼女の考えていることなど理解できるはずもない。ただ、その黄金の瞳は目の前にいる男のことを捉えて離さない。

 

 

 

「まさか、ね」

 

「?」

 

 

 それから彼女はポツリと言葉を零した。それにどんな意味があったのかは知る由も無いけれど、この子はボクという存在を見て何かを感じたということだけは分かった。

 

 

 

「ちょっと待ってなさい。誰も来ないとは思うけど、そんな格好で歩かれたら私までポリスメンにゴヨーになっちゃいマース」

 

「へ?」

 

「着替えを持って来させるから待ってなさいって言ってるの。場所を変えて話しましょ。あなたの正体はそれまでフモンにしていてあげるから」

 

 

 

 金色の女の子はそう言ってから立ち上がり、紫色のハーフパンツのポケットからスマートフォンを取り出して誰かに電話をかけていた。対するボクはその意図を汲み取れず、恥ずかしい姿勢のまま彼女の後ろ姿を見つめ続けていた。

 

 

 

「? なんだこれ」

 

 

 

 そんなとき、自分の右手に何かが握られていることに気づく。どうやら、この支離滅裂な状況の所為で意識がそこに向かなかったようだ。着ている服も自分の名前以外の記憶すらも無くした状態の自分が、唯一持っていた物。

 

 

 

「USB、メモリー?」

 

 

 

 呟いてみるけれど、そんな物を握りしめていた意味は全く分からない。

 

 ボクの右手の中にあった物。それは、小型の青いUSBメモリー。有名な電機メーカーのロゴと32GBという文字だけが書かれてあるだけの、家電量販店にでも行けばすぐに手に入れられるようなそれ。なんだってこんな脈絡の無い物を待ってるんだろう。自分の存在すら脈絡が無いっていうのに。

 

 

 

「トンネルの方に向かってきてちょうだい。私もそっちに向かうから」

 

 

 

 ボクが青いUSBメモリーと睨めっこしていると、金色の女の子は電話を終えたらしく再びこちらを向いてくる。咄嗟にまたあの恥ずかしい姿勢を取り、女の子に見せてはいけないものを隠した。

 

 

 

「もうちょっとここで待ってなさい。私は着替えを受け取りに行くから」

 

「ぁ……」

 

「まだ開園前だから誰も来ないわ。そこは安心して?」

 

 

 

 金色の女の子はそう言ってナチュラルにウィンクをくれる。それからもう一度身体を翻し、穏やかな波が打ち寄せる岩と雑木林との間にある細い遊歩道を歩き始めた。

 

 

 

「ま、待って」

 

「ん?」

 

 

 

 遠ざかる背中に声をかけ、その両の足を立ち止まらせる。訝しむような表情がこちらを振り向き、金色の目とボクの何色か分からない瞳の眼差しが数秒間交差し合った。

 

 言いたいことは山ほどある。だからこそ、質問をひとつに絞るのが難しかった。それでも、呼び止めたのならば何かを言わなければならない。

 

 そうやって見つめ合ったまま、時が少しずつ波に攫われていく。一秒、二秒と。砂時計の砂で作り上げた小さな山が、汀から消えていくみたいに。

 

 

 

「ああ」

 

 

 

 金色の女の子が何かに気づいたような声を零す。きっと目線の先にある顔を見て、ボクが何を言いたがっているのかを想像したのだろう。その言葉が本当に合っているのかは分からない。でも、それがボクの言いたいことのひとつであることだけは、聞く前から理解できていた。

 

 

 

「私は、小原(おはら)鞠莉(まり)

 

 

 

 予想通り、金色の女の子は自分の名前を口にする。当然、その名に聞き覚えはない。そう思ったところで、彼女はまた言葉を続けた。

 

 

 

「School idol・Aqoursのメンバーよ」

 

 

 

 なぜ、初対面の見知らぬ男にそんなことを教えるのか。思考のアクセルをベタ踏みしても、答えは欠片ほども浮かんでこなかった。

 

 ただ、分かるのはひとつだけ。

 

 

 

「……Aqours」

 

 

 

 その名前だけには、聞き覚えがある。それが何であるかは分からないのに、何故か聞き慣れた感覚を覚えた。

 

 

 

「それから」

 

 

 

 最後に、混乱する脳にトドメを刺すかのような言葉が、耳を通り抜けた。

 

 

 

「浦の星女学院の理事長をしているわ」

 

 

 

 その声は、視線の先にある口から本当に何気なく吐かれた。だというのに、どうしてこれほど気にかかってしまうのだろう。

 

 

 

 ボクには何も思い出せない。自分が何なのか。どうしてこんな場所に存在しているのか。あの女の子は、誰なのか。

 

 いつだって物語は疑問から始まる、と。頭を捻るボクを見つめている夏が諭すように呟く。それは真実の囁きか、それとも嘯きか。

 

 答えはない。だからそれを探せと夏は命令する。

 

 青に包まれるこの小さな島で、ボクは金色の女の子に出会った。

 

 

 

「アオイ」

 

「?」

 

「綺麗な名前ね。まるで、空から生まれてきた人みたい」

 

 

 

 

 そこからどんな物語が紡がれるのかはきっと、まだ誰も知らない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 Nature’s first green is gold,(萌えいずる緑は金色)

 

 Her hardest hue to hold.(うつろい易き色彩よ。)

 

 Her early leaf’s a flower;(萌えいずる葉は花)

 

 But only so an hour.(しかし、それも一瞬。)

 

 Then leaf subsides to leaf.(やがて葉は葉に擬態する。)

 

 So Eden sank to grief,(そして楽園は悲しみに暮れ、)

 

 So dawn goes down to day.(黄昏が夜明けと成り果てる。)

 

 Nothing gold can stay. (金色のままではいられない。)

 

 

 

 

 ────Nothing gold can stay

 

 

 

 

 ──────碧落のマリーゴールド──────



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鴨が葱を背負ってくる

鴨が葱を背負ってくる(かもがねぎをしょってくる)

好都合な事が重なっていくこと。



 

 

 ◇

 

 

 

「こっちよアオイ。着いてきて」

 

「あ。う、うん」

 

 

 

 それから十数分後。ボクは海辺で出会った金色の少女、もとい鞠莉さんに言われるがまま彼女の後ろを着いて歩いていた。

 

 目覚めた時に全裸だったこの身体にはしっかり服が纏われている。それもこれも、知らない男に着させる衣類を鞠莉さんが持ってきてくれたお陰。彼女が居なければボクは今ごろ変質者としてお巡りさんに職務質問を受けていたことだろう。

 

 しかし、どうしても解せない部分があるのはボクの気のせいだろうか。

 

 

 

「ねぇ、鞠莉さん」

 

「ンフ? どーしたの?」

 

「ひとつ質問してもいいかな?」

 

「いいわよ。私が答えられる事なら何なりと」

 

 

 

 鞠莉さんに見つけられた場所から移動を始めて、ボクらは現在、薄暗いトンネルの中を歩いていた。薄暗いと言っても反対側の出口は見えるし、そこから明るい日光が入り込んでいる。加えてトンネルの中には青いイルミネーションが飾られており、なんとなく海の中を歩いているような気分を覚えた。

 

 先に歩いていた鞠莉さんに声をかけ、歩みを止めないまま質問する。知らない全裸の男に声をかけてくれて、服も貸してくれた恩人にこんな事を問うのが不躾なのは重々承知。だけど、ボクの思考回路は残念ながらその我慢を許してくれなかった。

 

 

 

「その、服を貸してくれたのはすごくありがたいんだけどさ」

 

「yeah」

 

「なんで、メイド服なのかな?」

 

 

 

 黒いロングスカートのワンピースに、フリルの付いた白いエプロン。頭の上にはひらひらしたカチューシャが装着されている。

 

 自分が身に纏っているそんな可愛いらしい衣服を見ながら、鞠莉さんに問い掛ける。いや、優しい彼女の厚意でこれを渡してくれたのは分かる。でもどう考えたってこのチョイスはおかしいだろう。渡された瞬間、ボクはこの子に何かを試されているのかと本気で疑ってしまった。

 

 しかし、鞠莉さんには特に悪怯れる様子もなく、ボクをからかっているようにも見えなかった。なので仕方なくメイド服に袖を通し、今に至っている。このまま流してもよかったけれど、訳を問い掛けずにはいられなかった。

 

 鞠莉さんはトンネルの中で足を止めて、こちらを振り返ってくる。ボクらは身長がほとんど同じくらいなようで、月色の瞳が視線の平行を保ったままこちらを見つめてきた。

 

 

 

「仕方ないじゃない。それしか貸せる服が無かったのデース」

 

「うん、ツッコミどころが満載すぎてどの辺からツッコめばいいのかわからない事だけはわかったよ」

 

 

 

 まさかの回答に頭がパンクしそうだ。

 

 

 

「別にイーじゃない、似合ってるんだし」

 

「似合ってる? このメイド服がボクに?」

 

「うん。あ、もしかしてあなた」

 

 

 

 鞠莉さんはそこまで言って、何かに気づいたような表情を浮かべた。それから徐にハーフパンツのポケットから紫色のスマートフォンを取り出し、その背面をこちらに向けてくる。

 

 

 

「アオイ、笑って?」

 

「???」

 

「ハイ、チーズ」

 

 

 

 かしゃり、という音とともに小さなライトがトンネル内に瞬く。今のはカメラ? でもどうしてこんなタイミングで撮影なんてしたんだろう。

 

 

 

「カモン、アオイ。自分の姿を見てみなさい」

 

 

 

 そう言われ、彼女に近づきスマートフォンのディスプレイに映し出されている写真を見る。

 

 そこでボクはようやく、彼女が何をしたかったのかに気づいた。

 

 

 

「…………これが、ボク?」

 

「そうデース。あなた、やっぱり自分がどんなフェイスをしてるのか分かってなかったわね」

 

 

 

 画面を見つめながら数秒間、固まってしまう。鞠莉さんが何かを言っているけれど衝撃が大きすぎて言葉が頭に入って来なかった。

 

 ボクの目線の先にあるのは鞠莉さんが撮ったボクの姿。もしかしたら彼女が嘘を吐いていて、別の写真を見せている可能性もあり得るけれど、その被写体の背景は明らかにこのトンネルの中。さらに写真の上部には現在の時刻がしっかりと表示されている。つまり、これは本当にボクの写真。でも、こんなのどこからどう見ても。

 

 

 

「女の子、じゃないですか」

 

「イエス。最初に遠くから見た時はガールかと思ったもの。近づいたら私に無いものがついててビックリしたわ」

 

 

 

 何故か呆れ顔の鞠莉さん。その目は『なんであなたは男なのよ』、と訴えてきてる。知らないよ。むしろボクが訊きたいくらいだよ。

 

 

 

「なんなんだボクは…………っ!」

 

「まぁいいじゃない。むしろそっちの方が私としては都合がいいもの」

 

 

 

 記憶喪失を恨みながら頭を抱えて歎いていると、鞠莉さんが何か意味深な言葉を零す。

 

 

 

「都合がいいって?」

 

「それも家に着いたら話すわ。ほら、行きましょ」

 

 

 

 鞠莉さんはスマートフォンを仕舞って先に歩いていく。

 

 支離滅裂で突飛すぎる現実に脳がついて行かない。でも、ここで立ち止まっていては何も始まらない。今はとにかく、手を差し伸べてくれるあの子に従わなきゃ。

 

 そう思い、ため息を吐いてから再びトンネルの中を歩き始めた。

 

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 

「……………………」

 

「ここが私の家よ、アオイ。そんなに気を張らなくてもいいわ。リラックスしてバケーションを過ごしてもらうのがここの役目なんだから」

 

 

 

 隣に立つ鞠莉さんがボクに向かって説明してくれているけれど、目の前にある建物のスケールに圧倒されて言葉も出ない。

 

 鞠莉さんの家はさっきのトンネルを抜けた先にあった。だけど、その外観がどうにもおかしい。記憶を失っているボクにもかろうじて常識は残っているらしく、彼女が住んでいるという家がどう考えても普通ではない事は容易く理解できた。

 

 

 

「ここ、ホテルじゃないの?」

 

「そうよ。淡島にある長期滞在型リゾートホテル・ホテルオハラ」

 

 

 

 右隣から淡々とした言葉が聞こえてくる。だがボクは口を開けたまま、見上げていると首が痛くなりそうなくらい高いその建造物に目を取られていた。

 

 どうやらボクはとんでもなくビップな生活を送る少女に拾われたらしい。まだ彼女の事は何も知らないが、とりあえずボクのような見知らぬ人間を拾えるくらいの深い懐を持っている事だけは理解した。じゃなきゃ全裸の男を見たと同時に110をダイヤルするに決まってる。

 

 

 

「さ、外も暑いし中で話しましょ。冷たいドリンクも準備してあげるわ」

 

 

 

 鞠莉さんに言われるがまま自動ドアを通り抜け、テニスコート全面が入ってもおかしくないくらい広いロビーに足を踏み入れる。もうあれだ。あんまり驚かないようにしよう。いちいち呆気に取られていたらキリがない。敷かれているカーペットに足を置いた瞬間に靴の半分くらいが埋まった時点でボクはそう心に決めた。

 

 ホテルの中に流れる優雅なジャズ・ミュージックを聞きながら、足早に進む鞠莉さんについて行く。どうやらロビーには他のお客さんも従業員もいないようだった。それに対して少しだけ安堵する。ボクの存在が誰かに見られたらどう説明すればいいのか、そこのところはまったくもって決めていなかったから。

 

 エレベーターに乗り込み、鞠莉さんは最上階のボタンを押した。彼女は壁に寄りかかって箱が目的の階まで着くのを待っていたけれど、ボクはその間、エレベーター内に貼られた大きな鏡に映る自分の姿に夢中になっていた。改めて見ても、そこにいるのはメイド服を着た女の子。ボクが顔を触れば鏡の中にいる女の子も顔を触る。ボクがその子を睨むとその子も睨み返してくる。やっぱりこれは自分なんだ、と思い知らされ、何度目か分からないため息。鞠莉さんは何も言わずに不思議そうな顔をしてボクの事を眺めていた。

 

 

 

「こっちよ」

 

 

 

 チーン、という音とともに扉が開き、最上階に到着する。それからしばらく長い廊下を進み、突き当りにある部屋で鞠莉さんは足を止めた。

 

 

 

「ここが私のルームデース。何も無いけど、笑ったりしないでね?」

 

「だいじょうぶ。たぶん今なら虎とか人食いワニが出てきても笑わないと思う」

 

「フフ、あなたはそのジョークを言い過ぎた所為で記憶を失くしたんじゃないかしら」

 

「だったら記憶を失くす前の自分を本気で恨むよ」

 

 

 

 そんなたわいない話をしながら鞠莉さんは部屋のドアを開き、ボクはその中に招かれた。

 

 

 

「そこに座っていて。お茶を淹れてくるから」

 

 

 

 十畳ほどの広さの客間に案内され、ボクはそこにある椅子に座るよう促される。それから鞠莉さんはそう言って別の部屋へと出て行った。

 

 

 

「…………」

 

 

 

 そうしてしばらく、部屋の中に沈黙が流れる。外には波の音と蝉時雨があって、ホテルの中には音楽が鳴っていたから、静けさを感じるのは目を覚ましてから初めてだった。どうでもいいけど鞠莉さんの部屋の中はどこぞのホテルのスイートルームみたいな様相を呈していて、何も無くてつまらないなんて事は口が裂けても言えやしない。ちなみに虎もワニもいませんでした。猫くらいいるかなと思ってたんだけどな。ちょっと残念。いったい何を考えているんだろう、こんな時に。

 

 一人になったところで、自問自答をするために少しだけ思考に意識を向ける。

 

 なぜ、ボクはあんな所で倒れていたのか。

 

 そもそも、自分は誰なのか。

 

 今のボクに分かるのは、自分が『あおい』という名前だけを憶えていて、水色のUSBメモリーを握り締めていた事。それと、あの子が言ったAqoursという何かの固有名詞。本当に、それくらい。自分の性別も、容姿も分からなかった。だけどどうやら、普通に会話できるくらいのボキャブラリや一般常識は頭の中に入っている。でもこれは自分自身が何者かを知る手掛かりには繋がらなさそうなアイテムだった。

 

 

 

「うーん……」

 

 

 

 訳が分からず、唸ってみる。声が高い。自分で聞く声は他人が聞くものとは違うってよくいうけど、ボクの声はあの子の耳にはどう届いているんだろう。なんて、別に知らなくてもいい事を考えた。

 

 とりあえず今のボクに分かるのは、解せない事しかないという事。竜宮城から帰ってきた浦島太郎みたいな状態。浦島太郎も知ってるのかボクは。もしかしたら、というか確実に、ボクは自分以上に他の何かの知識の方がある。それは不幸中の幸いだったかもしれない。

 

 

 

「お待たせ。ジャスミンティーは飲めるかしら?」

 

「ああ。うん、ありがとう。きっと飲めると思うよ」

 

 

 

 そうしていると、ティーセットを載せた銀のトレイを持った鞠莉さんが帰って来る。なんとなく咄嗟に返してしまったけど、根拠は一ミリも無い。

 

 鞠莉さんは真白なティーポットからカップに黄金色の紅茶を注ぎ、それをボクの前に置いてくれた。どうやらアイスティーらしい。それでも心地良い柔らかな香りが鼻孔をくすぐる。

 

 そうして鞠莉さんは自分の分のティーカップに紅茶を淹れ、ボクの向かいの椅子に腰かけた。彼女が一口、そのジャスミンティーに口を付けたのでボクも倣ってそれをいただく事にする。

 

 

 

「それで、何か思い出した事はあるかしら?」

 

 

 

 鞠莉さんはカップをテーブルの上に置いてそう問いかけてくる。綺麗な両足を組み、腕組みをして寛いでいるその格好はまるでどこかのお嬢さまのよう。いや、正真正銘お嬢さまなのだろうけど。

 

 

 

「何も思い出せないよ。記憶のきの字も浮かんでこない」

 

「そう。まだ時間は経ってないものね。仕方ないといえば仕方ありまセーン」

 

「ごめん。なんか変な事に巻き込んじゃって」

 

「いいのよ。最初に見つけたのが私だったんだから。あなたは気にしないで」

 

 

 

 そう言って、こちらを見つめてくる金色の女の子。さっきから何度も感じているけど、何かを見定めるようなその視線は、何を見ているのだろう。

 

 

 

「でも、そうねぇ。身元も何も分からないんじゃ、これからどうすればいいか分からないわ」

 

「……だよね。ボクもそう思う」

 

 

 

 もしかしたら警察に行方不明届が出ているかもしれないけど、その本人が記憶を失っているのだからどうしようもない。誰が身元引受人になってくれるかも分からないのに、このまま警察に行ってもいいものなのだろうか。

 

 

 

「ねぇ、本当に何も覚えていないの? 何か、手がかりになるようなものとか持ってないのデスカ」

 

「そう言えばこのUSBメモリーを持ってたんだけど、こんなんじゃ手がかりにはならないよね」

 

 

 

 隠すようなものでもないので、メイド服のポケットの中に忍ばせていたそれを取り出し、机の上に置く。鞠莉さんは興味深そうな目でそのUSBを見つめていた。

 

 

 

「……余計にわかりまセーン。なんだってこんなものを持っているの?」

 

「ボクに訊かれてもね。何のためになるのか分からないけど、これだけは大事そうに持ってたんだよ」

 

「まぁ、何も無いよりはマシね。私のPCで中身を見てみまショウ。何か分かるかもしれないし」

 

 

 

 鞠莉さんはそう言ってまた立ち上がり、別の部屋からノートパソコンを持って来てくれた。

 

 

 

「壊れたりしてないかな?」

 

「あなたが波にさらわれてきたのなら壊れてるだろうけど、やってみなくちゃ分からないわ。えい」

 

「あ、開いたね」

 

「……なんで開くのかしら。アオイ、あなたもしかして人魚とかじゃない? このUSBを守ってどこかから泳いできたんじゃないの?」

 

「足は二本あるからたぶん人間だよ。ヒレも無かったし」

 

「分からないわ。水に入ると身体の上か下のどっちかが魚になるとかあり得マース」

 

「その場合、足が魚になる事を願っておくよ」

 

 

 

 そんなよく分からない会話をしながら二人でPCの画面を覗き込む。鞠莉さんがタッチパッドでUSBの中を開くと、そこには幾つかのフォルダが入っているようだった。

 

 

 

「何かしらこれ」

 

「分からない、何の数字なんだろう」

 

 

 

 そのフォルダの名前には『8492032194729』とか、『3269802541003278426』という不規則な数字が羅列してある。パッと見ても何か意味があるようなものには見えなかった。

 

 

 

「開いてみましょう。あら?」

 

「……今度はパスワードがかかってるね」

 

 

 

 フォルダを開こうとすると、そこには鍵がかかっているようだった。どのフォルダをダブルクリックしても同じ。意味不明なデータだけがそこには並べられている。

 

 

 

「困ったわね。これじゃあ何が入ってるか分かりまセーン」

 

「はぁ……結局意味の無いものだったのか」

 

 

 

 少しだけ期待していた分、落胆も大きい。ボクは何のためにこんなものを握り締めていたんだ。今すぐこの使い物にならないUSBを窓から見える青い海に向かって投げ捨ててしまいたい衝動に駆られた。

 

 

 

「とりあえず、これは保留にしましょう。もしかしたらアオイが急にパスワードを思い出すかもしれないし」

 

「そうだといいね。でも、そのころにはボクは鞠莉さんの前からいなくなってると思うよ」

 

「? どーして?」

 

「いや、どうしても何も、こんな得体の知れない人間と一緒にいる意味はないでしょ?」

 

 

 

 USBをPCから抜き、鞠莉さんはそれをボクに返してくる。そんな彼女にボクは当然の事を言った。なのに、なんでそんな不思議そうな顔をしているんだろう。

 

 

 

「…………それもそうデスネー」

 

「今さら気づいたんですか」

 

「でも、アオイはそれでいいの? ここから出て行けば、行く宛ても無いんでしょう?」

 

「そう、だけど」

 

 

 

 それは仕方ない事だから、と言い加えようとした時、鞠莉さんはまた口を開く。

 

 

 

「その件について、私もちょっと考えがあるんだけどいいかしら?」

 

「? なにかな」

 

 

 

 鞠莉さんはノートパソコンを画面を閉じて、また椅子に深く腰掛ける。ボクも彼女と同じように座り、月色の瞳を見つめた。

 

 

 

「これは私の個人的なお願いよ。残念だけど、私は私のメリットになる事しか考えてまセーン」

 

「そこはかとなく不安だけど、いちおう聞くよ」

 

 

 

 そんな残酷な話の切り出し方があるか、とツッコミを入れたくなる。どうやらこの子は相手の心を読むって事をあんまりしないようだ。

 

 

 

「もし、アオイが良かったらなんだけどね」

 

 

 

 鞠莉さんは一度言葉を区切り、蠱惑的な笑みを口許に浮かべる。

 

 

 

「私の専属メイドにならないかしら?」

 

「……………………はい?」

 

 

 

 そしてまた、ボクの考えが及ばない言葉を口にした。

 

 

 



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人間万事塞翁が馬

人間万事塞翁が馬(にんげんばんじさいおうがうま)


幸せが不幸に、不幸が幸せに転じることがあるので、出来事にたいして一喜一憂しないほうがいいというたとえ。


 

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 カラン、とジャスミンティーが入っている白いティーポットの中で氷が音を鳴らす。それ以外の音は何も無い。よほど厚い壁とガラスなのか、部屋の外からは静寂だけが運ばれてくる。そのおかげで自分の心臓が強く鼓動している事がよく感じ取れた。自分の正体が分からなくとも、ボクはたしかに生き物としてこの世界に存在しているらしい。

 

 

 

「…………メイド?」

 

「イエス。引き受けてくれるのなら、あなたの身はこのホテル・オハラが保証するわ。記憶が戻るまでのあいだ、っていう縛りを付けるけど、どう?」

 

「保証するって、具体的には?」

 

「あなたが自分の事を思い出すまで、私の専属メイドとして住み込みで働いてもらうの。そうすればメンドーな事はたいていどうにかなりマース」

 

「……それは本気で言ってるのかな?」

 

「ホンキもホンキ。本気と書かなくてもマジよ」

 

 

 

 よく分からない事を言う鞠莉さんの顔は言葉通り冗談を言っているようには見えない。それはつまり、彼女は本当にその提案をボクに向けているという事。

 

 

 

「いや、でもそれは」

 

「別に断ってもいいのよ? その時はオマワリサンにあなたがどんな状態で倒れてたのかを詳しく説明してあげるわ」

 

 

 

 この子は一体ボクにどうなってほしいんだ。

 

 

 

「それだけはやめてください。……けど、どうして?」

 

 

 

 どうしてそんなチョコレートのように甘い提案を知らないボクに差し出してくるのか。その考えが理解できず、思わず言葉を零す。

 

 鞠莉さんは右手の人差し指を顎に当てて少し何かを考えてから、可愛らしい唇を開く。

 

 

 

「さっきも言ったでしょ。私は私の事しか考えてないの。私にとって都合のいいものが目の前にあるから、こんなお願いをしているのデース」

 

「道端に捨てられたゴールデンレトリーバーを見つけた子供みたいに?」

 

「私が拾ったのは可愛いオトコノコだったけどね」

 

 

 

 そう言って鞠莉さんはからからと笑う。だが、言葉の真意はまだ理解できない。

 

 

 

「じゃあ、どうして鞠莉さんはこんな見知らぬ男を拾おうと思ったの」

 

「だから、深い理由なんてないの。誰のモノでも無い都合のいいものを拾ったから、私はそれを自分のモノにしようとしてるだけよ。私が言うことがあなたにとって都合のいい言葉に聞こえても、それは私にはどうでもいーの」

 

「……つまり、ボクは」

 

「私にとっては可愛いペットのようなモノデース」

 

 

 

 ボクは頭を抱える。そういうことか。ようやく鞠莉さんの考えが腑に落ちた。だが納得はできない。

 

 この金色のお嬢さまはたまたま道端に寝ていた記憶の無い男を見つけて、それを都合のいいものだと思い、家に連れて帰ってきた。そして、その男を自分のメイドとして働かせる事でその幸運を完全に手に入れようとしている。ここまでの一連の行動を文字に起こすとこんな感じになる。

 

 なんて傲慢な思考回路。でも、お嬢さまらしいと言えばらしい考え方かもしれない。

 

 

 

「でもボクは男だよ? たぶん君と歳もあまり変わらない。そんな人間をそばに置いていていいの?」

 

「その言葉はもう一度鏡を見てきてから言いなさい」

 

 

 

 一番の懸念材料が一蹴された。けど、ここで引いてはダメな気がする。

 

 

 

「見た目の話じゃなくて……その、近くにいるのが男だと鞠莉さんも嫌な事があったりするかもしれないし……」

 

「なーに? もしかしてアオイ、私にえっちな事をしようとしたりしてるのかしら?」

 

「言いたい事のニュアンスはだいたい合ってるけど、違うよ」

 

 

 

 伝わってくれたようで何より。あと、ここで否定しなかったらただの変態に成り下がる気がしたのでいちおう否定してみた次第です。

 

 

 

「それこそあなたが気にする必要はないわ。私はアオイを()()()として仕えさせるのデース。そしてあなたは私に()()()として仕えるの。アンダースタンド?」

 

「もう一声もらえると分かるかもしれない」

 

「仕事として働くんだからえっちな事は考えちゃダメ」

 

「大変よく理解できました」

 

 

 

 一言で強制的に彼女の言いたい事を理解できてしまうこのおめでたい頭に感謝をしよう。どうやらボクはこんな見た目をしておきながら男としての本能はしっかり持ち合わせているようだ。ちょっとだけ安心する。

 

 

 

「そーゆ―事で、私はアオイが変な事をしない限りあなたの事は一人のメイドとしてしか見ないわ。それはオーケイ?」

 

「…………うん、分かったよ」

 

「飼い主に撫でてもらえないチワワみたいな顔ね。可愛いけど」

 

 

 

 そんな顔をしているのかボクは。でも仕方ない。こんな可愛い女の子に『男として見る事は無い』と宣告されたら誰だってチワワになる。わん。

 

 今一度、鞠莉さんの提案を頭の中で反芻する。

 

 彼女は記憶の無いボクを専属メイドとして雇ってくれる。そうすれば記憶が戻るまでの間、このホテルで暮らす事ができる。たぶんだけど、人として最低限の暮らしは与えてもらえるだろう。少なくとも警察に頼るよりはマシな生活ができると思う。

 

 それを思えば断る理由なんてない。でも。

 

 

 

「本当に、いいの?」

 

 

 

 確かめるために問う。何度だって訊いてもいいだろう。しつこいと言われるくらいじゃなきゃ意味がない。そうしなければ優しい彼女に失礼な気がするから。

 

 鞠莉さんは柔らかな笑みを浮かべる。月色の瞳で向かいに座るボクを見て、彼女は答えてくれた。

 

 

 

「イエス。っていうか、お願いしてるのは私デース。あなたがそれでいいのなら、この契約は成立するわ」

 

 

 

 その言葉を聞いて決心がつく。いや、そもそも拾われたボクに悩む権利なんてない。

 

 ボクには最初から、拾ってくれたこの子に借りを返す生き方しか許されていなかったんだ。

 

 

 

「……こんなボクでよければ、お願いします」

 

 

 

 だから、そう返事をする。

 

 

 

「決まりね。じゃあ、早速あなたに名前をあげないと」

 

「? 名前?」

 

「そう、ファーストネームの漢字とラストネーム。それが無くちゃ不便でしょ?」

 

 

 

 鞠莉さんはそう言いながら立ち上がり、部屋の壁の方にある戸棚へと歩いていく。それから一枚の白い紙とペン、それと何か四角いパスポートのようなものを持って戻ってきた。

 

 

 

「あんまり漢字は得意じゃないけど、この字は好きなの。ちょうどあなたに会う字を知っていてよかったわ」

 

 

 

 彼女は紙にスラスラと何かを書いていく。

 

 そしてしばらくしてからペンをテーブルに置き、そこに書かれた文字をボクに見せてきた。

 

 

 

小原(おはら)(あおい)……?」

 

「そう、仕事中はこの名前を使いなさい。私との関係は……遠い親戚とかでいいかしら?」

 

 

 

 すごく重要そうな事を喫茶店で飲み物を選ぶくらいの気軽さで決めていく鞠莉さん。だが、ボクには何も言えない。これからは彼女が言う事がボクのすべてになってしまうのだから。

 

 

 

「鞠莉さん、その」

 

「ノンノン。碧、その呼び方だとメイドと主らしくないわ。もっとそれらしく言ってみなさい」

 

「え、えぇ。急にそう言われても……」

 

 

 

 鞠莉さんは真面目な顔で見つめてくる。でもたしかに従者が主人をさん付けで呼ぶのはどこかおかしい気がする。仕事としてボクと接する事になるからこそ、彼女はそういう事を気にするんだろう。

 

 数秒間、頭を悩ませて考える。そうしたらすぐにその言葉は浮かんで来た。どうやらやっぱり、ボクの記憶喪失になった頭にはしっかりとした常識が備えられているようだ。同い年くらいの女の子をこう呼ぶのは少し恥ずかしい気がするけれど、そうしなければ彼女のそばで働く事ができないのだから仕方がない。

 

 だから、腹を決めてこれから彼女の事はこう呼ぼう。そして、言葉遣いも改める事にする。

 

 

 

「……か、かしこまりました、鞠莉さま」

 

「オーゥ……碧、ファンタスティックデスネー」

 

 

 

 どうやら鞠莉さん、改め鞠莉さまはその名前の呼び方と言葉遣いに満足していただけたようだ。むっふぅ、とご満悦な顔を浮かべていらっしゃるのでそれがよーく理解できた。これからはこれがスタンダードなやり取りになるのだろうから、意識して慣れていかなきゃ。やっぱりうっかり変な口のきき方とかしたらお仕置きとかもらうんだろうか。あんまりハードなやつを受けるのは嫌なので注意していかなければ。

 

 

 

「それで、鞠莉さま。ボク……いや、わたしはどのようなこれから業務をすればよいのでしょうか」

 

「ンフ? ンー、その辺は後々決めて行きましょ。まずは私のそばにいてくれればそれでいいわ」

 

「え、それでは」

 

「私の言うお願いをクリアしてもらえればそれでいいわ。ホテルの方の仕事は他のメイドたちに聞きなさい」

 

 

 

 しれっと大事な事を言われたけど、本当にそれでいいのかと思ってしまう。ていうか他のメイドもいたんだな。予想はしてたけど。

 

 

 

「かしこまりました。……それと、鞠莉さま」

 

「うん?」

 

「その、わたしはこれからどの服を着て仕事をすればいいのでしょうか?」

 

 

 

 さっきからずっと気になってはいた。鞠莉さまのお願いとボクに渡された服。その二つに明らかな共通点があるという事に。

 

 まさか、とは思うけれど、その考えは一旦捨てよう。ボクは男なんだしいつまでもこの服を着ているわけにはいかない。こんな女装をしてる輩が隣にいたら鞠莉さまも困ってしまうだろう。

 

 

 

「どの服って、今着てるじゃない。それとも、もっとミニスカートのメイド服の方が碧はよかった?」

 

「………………そうではなく、そもそもわたしは男なのですが?」

 

「そんなの知ってるわ」

 

「では、男用の服でなくてはおかしいと思うのですが……」

 

 

 

 ボクがそう言うと、鞠莉さまは何かを思い出したような顔を浮かべる。よかった。ようやく言いたい事が伝わってくれた。

 

 そう思って安堵したのは一瞬だけ。

 

 

 

「そういえばまだ言ってなかったわね。このホテルには女性の従業員とメイドしかいないのデース」

 

「………………………………え」

 

「パパの方針なの。オハラ・ホテルのグループで働いてるのはみーんな女性」

 

「それは、つまり」

 

「お客様以外は男子禁制よ」

 

 

 

 そんな超重要な事を言い忘れていた鞠莉さまは、特に悪びれる様子もなくそう言ってくる。だが、どう考えてもそれはおかしいだろう。言葉と提案に判りやすすぎる矛盾があることに気づいていないのだろうか。それは無いだろう。だって彼女は、裸のボクを見たんだから。

 

 嫌な予感がする。ていうか嫌な予感しかしない。

 

 

 

「そ、それではわたしはここで働けないではありませんか」

 

「? どーして?」

 

「わたしは、男なのですよ?」

 

 

 

 ボクの言葉を聞いて、鞠莉さまはようやくその矛盾に気づいてくれる。

 

 

 

「知ってるわよ? ちゃーんとこの目でチェックしましたー」

 

 

 

 はずだったのに、彼女は気づいていない。どういうことだ。ボクは何かを試されているのか。

 

 

 

「そ、そういうことではなく。男子が禁制のこのホテルで、男のわたしが鞠莉さまのメイドをするのはおかしいと言っているのですっ」

 

 

 

 何とか理解してもらうために訴える。すると鞠莉さまは不思議そうな顔でボクを見つめ返して来た。

 

 

 

「だったら、女の子として働けばいいじゃない」

 

「………………………………今、なんとおっしゃいました?」

 

「だから、ボーイじゃなくガールとして働けば何も問題ないでしょ? そんな見た目と声をしてるんだから、あなたが男だって気づく人は誰もいないわ」

 

「頼むから冗談だと言ってください…………っ!」

 

 

 

 先ほどから感じていた嫌な予感が的中した。このお嬢さまは本気でそんなとんでもない事を考えていらっしゃるらしい。

 

 

 

「冗談なんかじゃないわ。私は最初からそれでイケると思ったから、あなたをここに連れてきたのデース」

 

「……このメイド服を持って来させたのは?」

 

「あなたを私のメイドにするためよ」

 

 

 

 なんと。つまりはボクは彼女に見つけられた段階から、ここでメイドになる運命を決められていたとでもいうのか? 

 

 嘘でしょ。

 

 

 

「女として、働く…………?」

 

「イエース。じゃないとあなたの事は雇えまセーン」

 

 

 

 テヘペロ、と舌を出して笑う鞠莉さま。もしかしなくても、彼女は最初からこうなる事を予測して一番大事な話の順番を後ろに持ってきたんじゃないのか。じゃなかったらあんな誘い方はしない。悪魔かこの人は。

 

 

 

「あ、そうそう。もうひとつ言い忘れてた事がありましたー」

 

 

 

 鞠莉さまはそう言って、項垂れるボクの顔を見つめてくる。またヤバい事を言うのか。いや、これ以上にヤバい事なんて今は想像する事もできない。

 

 しかし、その富士山級のハードルはいともたやすく越えられる事になる。

 

 

 

「碧。あなた、私が通う学校に編入しなさい」

 

「が、っこう?」

 

「そうよ。学校、ハイ・スクール。手続きの心配はノープロブレム。そこの理事長は私なんだから」

 

「…………」

 

「専属メイドにはできるだけ近くにいてほしいの。だから、私と同じクラスに編入させるから、そこはよろしくネ?」

 

 

 

 話が光の速さで進んでいく。あまりの速さに思考回路がついていってない。だけど結局、ボクは彼女に従うしかない。まぁ、学校に編入するくらい、男である事を偽って働くよりはどうってことな───

 

 

 

「……待てよ」

 

 

 

 自分が死ぬほど大きいフラグを立てている事に気づき、思考を一旦停止させる。

 

 そう言えば鞠莉さまと出会った時、彼女は自己紹介の最後に重要な事を言っていたような気がする。

 

 たしか、それは。

 

 

 

「ちなみに、私が通う学校の名前はね」

 

 

 

 鞠莉さまはついさっき棚から持ってきた四角い小さなパスポートのようなものを掴み、こちらに見せてくる。そういえばそれはなんだったんだ。

 

 そして、そこに書いてある字を見て絶句した。

 

 彼女が見せてきているのは、学生証。そこには制服姿の鞠莉さまの写真と、彼女が通う高校の名前が書いてある。

 

 ボクが何も言えずにいると、鞠莉さまは高い声でそこに書いてある学校名を代わりに読んでくれた。

 

 

 

 それは。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

()()()────浦の星女学院デ-スッ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 神さま。ボクの数奇な運命はいったいどこへと向かうのでしょうか。

 

 

 

 

 



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尾を振る犬は叩かれず

尾を振る犬は叩かれず(おをふるいぬはたたかれず)


尾を振りながら寄ってくる犬を愛らしく思うものはいるが、憎く思い叩きたくなるものはいないことから、愛想が良く素直で従順なものは誰からも愛されるということのたとえ。


 

 

 

 ◇

 

 

 

 流れて行く青い景色。海を切り裂き進む船が作り出す飛沫がときおり肌にかかり、炎天下に包まれるこの身体に涼しさを与えてくれた。

 

 見上げる空は目覚めた時と同じ快晴。数匹の海鳥が蒼天に両翼を広げている。彼方には大きな山が聳え、遠ざかっていくボクらの事を見つめていた。

 

 視線を移動すると、陸の方に民家と数件の旅館が立ち並んでいる光景が目に映る。その奥には新緑の山々が連なり、青ばかりが主張するこの町に鮮やかな彩りを加えている。単色でつまらない料理にパセリを付けたみたいに見えて、少し笑えた。

 

 

 

「この町の名前は内浦っていうの。見てのとーり、海と山しかない田舎町デース」

 

 

 

 海を進む小型船のデッキに立つ鞠莉さまが両手を拡げて、隣に立つボクにこの町の説明をしてくれる。だけどそれも簡単に済んだようだった。たぶん、鞠莉さまもそれ以上の言葉でこの町を表現できなかったのだろう。

 

 どうやらボクが目を覚ましたのは、静岡県沼津市の端にある海辺の町だったらしい。具体的には、陸からさほど離れていない位置に浮かぶ淡島と呼ばれる小さな島で、ボクは鞠莉さまに発見された。自分がどうやってそこまで辿り着いたのかは未だに謎のままだけれど。

 

 

 

「内浦……」

 

「何か思い出す事はあるかしら?」

 

「いえ、何も思い出せません。ただ」

 

 

 

 鞠莉さまの質問に答え、続きを言おうとした口を咄嗟に閉じる。左隣から視線を感じるけれど、ボクは水晶体に広大なスカイブルーを映したまま数秒間黙っていた。

 

 一度息を吸う。胸の中に潮の香りが含んだ空気が入り込んでくる。記憶を失くした状態で目覚めてからまだ時間は経っていないはずなのに、懐かしい夏の匂いがした。

 

 

 

「すごく、綺麗な町ですね」

 

 

 

 そして、ボクは率直な思いを言葉にする。鞠莉さまは嬉しそうに微笑んでくれた。

 

 

 

「碧が気に入ってくれたのなら私も嬉しいデース」

 

「どうしてでしょう。何も思い出せないのに、どこか懐かしい感じがします」

 

「フフ。もしかしたらあなた、夏の妖精なのかもしれないわね」

 

「もしそうなら一週間後に消えない事を願っていますよ」

 

 

 

 大して面白くも無い冗談なのに、鞠莉さまはからからと笑ってくれる。そうしてくれるのはきっと、彼女が楽しいもの好きで優しいからなのだろう。

 

 たかだか一時間前くらいから始まったこの主人とメイドの関係。出会ってからの時間が浅かったからなのか、鞠莉さまに使う敬語も既に板についてきた気がする。これならば思ったよりもすんなりと主従関係に慣れるかもしれない。この女性用のメイド服には一生かかっても慣れたくないが。

 

 

 

「それで、鞠莉さま。私たちはどこへ向かっているのですか?」

 

 

 

 鞠莉さまの部屋で今後のボクの扱い方や身の振り方を決めてから、彼女は外に行きましょうと言ってロクな説明もしないままボクをこの船に乗せた。

 

 船の運転手はメイドの女性。鞠莉さまはそのメイドにボクの簡易的な紹介をしていたけれど、彼女が『は?』みたいな顔をしてお嬢さまの話を聞いていたのをこの目は見逃さなかった。

 

 後でホテルで働く先輩たちにもちゃんと挨拶しないと。ボクは鞠莉さまの遠い親戚で、天涯孤独の身になって小原家の養子になった、小原碧です。歳は十七歳で、性別はもちろん女です、と。

 

 …………考えれば考えるほどこのまま海に飛び込んで溺れ死んでしまいたい衝動に駆られる。本当にばれないよね、ボクが本当は男だって事。ばれたらただでお巡りさんに捕まるよりも大きな何かを失ってしまう気がする。

 

 

 

「ああ、そういえば言ってなかったわね。これからあなたの入学手続きをするために学校へ行きマース」

 

「学校、ですか」

 

「イエース。制服とかは向こうにあるから、早めに行った方がいいと思ってね」

 

「……ちなみにその制服は」

 

「可愛いセーラー服よ?」

 

「男性用のスラックスとかは……」

 

「女子校なんだからそんなのあるわけないじゃない」

 

 

 

 ですよねー、と心の中で嘆く。どうやら鞠莉さまは本気でボクを自分が通う女子校へ入学させる気でいるらしい。それもこれも、彼女が生徒でありながら理事長を務めているという何ともぶっ飛んだ存在である所為。どんな人生を送ればそんなあり得ない肩書きを持てるようになるんだろう。記憶の無いボクには到底わかりまセーン。

 

 

 

「はぁ……それで、入学するのはいつからなのでしょう。あ、そういえば鞠莉さま、今日は学校ではないのですか?」

 

 

 

 準備の時間は重要だし、訊いておいて損はない。それに、今はまだ午前中。平日であるならば鞠莉さまは学校に登校していなければいけないはず。質問を重ねてしまうけれど、そこは許してほしい。

 

 

 

「今日はサタデーデース。だから私はお休みなの」

 

「なるほど、土曜日でしたか」

 

 

 

 それなら話は分か──────

 

 

 

「碧が入学するのは明後日デース」

 

 

 

 訂正。この人は何にも分かっちゃいない。

 

 

 

「明後日!? それはさすがに無理がありますよ! 早すぎますっ!」

 

「ンフ? そーかしら?」

 

「いや、不思議そうな顔をされても無理なものは無理です……」

 

 

 

 鞠莉さまの頭の上にクエスチョンマークが浮かんでいる。どうやら彼女の思考回路について行くには普通と思える速度の三倍くらいのスピードでその思考を予想しなければならないみたいだ。

 

 

 

「だって、手続きは今日で終わるし、制服も今日で合わせれば問題ないじゃない。教科書とかはちょっと遅れちゃうけど、それは私のを貸すからノープロブレムデース」

 

「ボク──私が言いたいのはそう言う事ではなく、心の準備的なものがですね」

 

「そんなのはなんとかしなさい。大丈夫よ。田舎の高校で転入生なんて滅多に入って来ないからスタートはみんなめずらしいと思うでしょーけど、誰もあなたをオトコノコだなんて思いまセーン」

 

「その根拠は?」

 

「これデース」

 

 

 

 さっき撮られたメイド姿のボクの写真を見せられる。どんな理屈だ。本当にそれだけで押し切れると思っているのだろうかこのお嬢さまは。

 

 

 

「……頭が痛くなってきました」

 

 

 

 帰ったらホテルの従業員たちにも自己紹介しなきゃいけないのに、さらに明後日には学校で同じ事をしなくてはならない。考えるだけで頭の血管が一本くらいぷちっと切れてしまいそうだ。

 

 

 

「それなら、あなたが本当に女の子に見えるかどうか確かめてもらいましょ?」

 

「……? 誰にです?」

 

「学校に部活をしてる私のフレンドたちがいるから、その子たちに訊いてみればいいじゃない。それで何ともなければ碧も安心できるでしょ?」

 

「まぁ、入学する前に意見がもらえれば越した事は無いですが」

 

 

 

 それも少数の意見だろう。いくら田舎の高校だとはいえ、全校生徒と教師の中で一人か二人くらいはボクが男である事を見破る人がいるんじゃないだろうか。というか確実にいる。

 

 

 

「じゃあ着いたら見てもらいまショーウっ。自己紹介はさっき言ったとーりの内容でよろしくネ?」

 

「はい……かしこまりました、鞠莉さま」

 

「グッドよ碧。フフ、あなたやっぱりメイドが似合うわ。きっと記憶が無くなる前は誰かのメイドをしていたのよ」

 

「それだけは無いかと思います」

 

 

 

 そんな話をしながら、船は青い海を進んで行く。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 学校近くの堤防に船は停まり、そこからは徒歩で向かう事になった。鞠莉さまが通う学校は急な坂道の頂上にあり、そこをメイド服で踏破するのはかなり苦労した。丈の長いロングスカートだし、靴はドレスシューズだし、何しろこの町は気温が茹だるほど暑い。坂の左右にある木々からは絶え間のない蝉時雨が聞こえていたので、それが大粒の汗を垂らして歩くボクを応援してくれているものだと妄想しながら何とか学校まで辿り着き、今に至る。

 

 

 

「ここが私が通う浦の星女学院よ。見てのとーり古くて生徒も少ない学校デース」

 

 

 

 校門の前で立ち止まり、鞠莉さまは学校を紹介してくれる。しかし、ボクは坂を登った疲労と暑さで既にダウン寸前。こんな激坂を毎朝登って登校してるのか、ここの生徒は。三日目くらいで投げ出してしまう自信しかない。

 

 鞠莉さまの言う通り、校門の前から見える校舎はあまり真新しいようには見えない。むしろその逆で趣がある外観、と表現した方がいいかもしれない。

 

 今日は土曜日らしいので生徒が見当たらないのは当たり前かもしれないけれど、ここが生徒でごった返す、みたいな光景は平日でもほとんど見られないんじゃないかと想像した。

 

 

 

「浦女、と略すのでしょうか?」

 

「yeah。たいてーの生徒はそう呼んでるわね」

 

 

 

 校舎の壁面上部に『浦女』と書かれたシンボルマークが飾られていたので、質問すると鞠莉さまはそう答えてくれた。何度まばたきしても、そこにある文字は変わらない。つまり、ここは本当に女子高なのだろう。また頭が痛くなってきた。

 

 

 

「さ、ここでオイルを売っていても仕方ありまセーン。最初に手続きをするからまずは理事長室へ行くわよ」

 

 

 

 現実を受け入れられずカチューシャの付いた頭を抱えていると、鞠莉さまはボクの事を気にする素振りも見せずに歩き出した。どうしようかな。このまま鞠莉さまが気づかないうちに逃げちゃおうかな。

 

 でも、彼女について行かなければボクは文字どおり路頭に迷ってしまう事になる。こんなどことも知らない海辺の町で、身寄りもなく、お金も持っていないのに一人で生きていけるわけがない。さすればボクが選ばなくてはいけないのはひとつだけ。

 

 

 

「あぁ、もう。どうにでもなれ」

 

 

 

 悪態を吐きながらでも鞠莉さまに従う事。今は彼女に仕える事だけを考えていればいい。

 

 知らないこんな男を拾ってくれる人と出会えただけでも奇跡なんだ。それに感謝しなければいけないだろう。強制的にメイド服を着させられている事に関しては絶対に感謝できないが。

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 静かな学校敷地内を鞠莉さまは淡々と歩く。ボクは飼い犬のように彼女の後ろをついていく。

 

 

 

「手続きが終わったら制服の採寸をしまショーウ。その後に学校の案内をしてあげるわ」

 

「はい。よろしくお願いいたします、鞠莉さま」

 

「あとはあなたが女の子に見えるかを確かめてもらう誰かを見つけなきゃね」

 

「……それも重ね重ねよろしくお願いします」

 

「オーケイ。あら?」

 

 

 

 そんな話をしていると、鞠莉さまのハーフパンツのポケットから携帯が鳴る音が聞こえてくる。彼女は立ち止まって紫色のスマートフォンを取り出し、画面を見つめた。

 

 

 

「パパからだわ。たぶん碧についての話デース」

 

「鞠莉さまのお父さま、ですか。というか、わたしの件について?」

 

「そうよ。さっきメールを送っておいたの。困った女の子が私を頼ってきたから、うちで雇ってあげる事になったってね」

 

 

 

 鞠莉さまは軽いウィンクをしながらボクの質問に答えてくれる。どうやらボクの知らないうちに話は闇を切り裂く彗星の如く、高速で突き進んでいたらしい。鞠莉さまが手を回すのが早い、と言えば聞こえはいいのかもしれないけれど、そんな即断即決ばかりしていて何かを後悔する事になったりしないだろうか、と少し心配になる。まぁ、お嬢さまの考えと普遍的なボクの脳では回路自体が違っている可能性もある。普通、という安い言葉で鞠莉さまの高貴な考えを決めつけるのはやめにしよう。

 

 

 

「そうだったのですね」

 

「でも、この話はちょっと長くなりそうだわ。碧、悪いけど先に学園長室に行ってステイしててくだサーイ」

 

「え? ですが、学園長室の場所は」

 

「テキトーに探してればすぐに見つかりマース。迷ったらそこらへんにいる生徒に訊いてみなさい」

 

「そ、そんな。鞠莉さま」

 

「だいじょうぶよ、学校にお腹を空かせたライオンがいるわけじゃないんだから。あ、もしもし、パパ? イエス。今日は休みだったわ。うん、それでね────」

 

「…………」

 

 

 

 電話をしながら校舎の裏に消えて行く鞠莉さまを見送り、ボクはまた一人になる。しかし、今回は状況があまりにも酷すぎる。完全な放置。ボクがペットなら言う事を聞かずに脱走して大自然へと帰ってしまうと思う。

 

 適当に探していれば見つかるって、道案内としては零点以下の回答だろう。せめて何階にある、くらいは教えてほしかった。かといって電話中に訊きに行くのも憚れる。どうやらここからは本当に一人で理事長室を探すしかないようだ。

 

 

 

「はぁ…………」

 

 

 

 改めて、自分の境遇に対してため息が出る。だがいつまでもそうしているわけにはいけない。ボクは鞠莉さまのメイドなのだから主人の命令には従わなければ。

 

 とりあえず、誰かに訊くのが一番早いか。このメイド服姿で誰かと面と向かって話をするのはかなり恥ずかしいけれど、そうも言っていられない。騒がれたり通報されたりしたら全力で逃げよう。オーケー、今後はこの方針でやっていく事にしよう。どうしよう。不安しかない。

 

 

 

「部活をやっている生徒がいるって言ってたよね」

 

 

 

 鞠莉さまの言葉を思い出し、まずはその生徒を探す事にする。と言っても、まだボクはこの校舎の構造が分からないんだから、校舎内で探すより屋外の運動部の子を見つける方が効率的かもしれない。

 

 そう思い、まずは校庭の方へと向かってみる事にする。再び校門の前を通り、少し進むとプールが見えて、その奥にある階段を下りた先に広い校庭が見えた。そこではソフトボール部が練習試合をしている。集中している中で声をかけるのは申し訳ない気がするが、親切な人がいると信じて行ってみよう。

 

 

 

「っと」

 

 

 

 そんな事を考えながら校庭の方へと向かっていると、その途中にあるプールの方から水を叩くような音が聞こえてきた。目線をそちらに向けると、どうやら一人の女の子がそこで泳いでいるらしい。

 

 水泳部の生徒だろうか? 見たところ、顧問や他の部員はいない。であれば彼女は一人で練習をしているんだろう。

 

 

 

「……たくさんの人に見られるよりは、いいかな」

 

 

 

 校庭に行けば嫌でも数十人の目がこちらに向く事は容易に想像できる。こんな炎天下の中にメイド服を着た男がいたら、誰だってそっちに気を取られるに決まってる。彼女達の集中力を削いでしまう+通報される可能性が高まる、っていう事を考えると、一人で練習をしているあの水泳部の女の子に話しかける方が安全であるとボクの脳は判断した。

 

 校庭の方へと向けていた足をプールの方へと修正し、鍵の開いたフェンス式の扉を開けてその中へと入って行く。プールサイドに足を踏み入れた時、塩素の香りが鼻をくすぐった。

 

 

 

「あのー、すいません」

 

 

 

 バシャバシャと水飛沫をあげて高速で泳いでいる女の子に声をかける。でも、距離が離れている所為か、その子はボクに気づかない。

 

 ちょうど25mプールの反対側にその女の子はいるので、こっち側に来たらもっと大きな声で話しかけてみる事にしよう。

 

 と、思った矢先、クロールをしていた女の子が突然泳ぎをやめた。もしかしたら、ボクの声が届いていたんだろうか? だが、その子はこちらの存在に気づかず、辺りをきょろきょろと見渡しながら何か匂いを嗅いでいるようだった。匂い? そんなの、塩素と夏の香りしかしないけれど。

 

 

 

「あ」

 

 

 

 そうしてしばらくして、ゴーグルを付けたその女の子が反対側のプールサイドに立つボクの方を見る。やっと気づいてくれたと思い、スタートレーンの方へと近づいた。

 

 しかしその直後、女の子は再び水の中に潜り、姿を消す。どうしたんだろう。まさか、ボクが男だって事に気づいて水の中に潜って隠れてしまったとか? それならヤバい。あの子が水面から出てくる前に逃げなければ。

 

 

 

「ん?」

 

 

 

 そんな事を本気で考えていた時、黒い影がプールの底を這うようにして高速でこちらに向かってきている事に気がついた。その影をよく見ようとしてプールサイドの縁に立ち、前屈みになってそれを覗き込んでみる。すると。

 

 

 

「────制服ーっ!!!」

 

 

「うわぁああああ!?」

 

 

 

 その影は意味不明な言葉を吐きながら水中から勢いよく飛び出してきた。ゴーグルをつけているはずの両眼が光っている。それを認識すると同時に、まるで獲物を見つけたハイエナのような視線を感じた。なぜだ。

 

 水飛沫を上げてプールサイドに姿を現した競泳水着を着た女の子。その子はゆっくりとした足取りでこちらに向かってくる。俯いている所為で表情は見えない。だが、僅かに見える口許は不気味に歪んでいるような気がした。

 

 

 

「制、服……メイドさん……美少女……ふひっ」

 

 

 

 ふひっ、って言った? 今ふひって言いましたよね、あの子。

 

 

 

「あ、あああの、ボク──じゃなかった、わたしは、そのっ、決してあなたが泳いでいたのを盗み見ていたわけではなくっ」

 

「…………」

 

「ご、ごめんなさいっ。今すぐ出て行きますので、どうか警察に通報するのだけはっ」

 

「可愛い!!!」

 

「やめ────へ?」

 

 

 

 明らかにヤバいオーラを醸し出していたその競泳水着姿の女の子に頭を下げて謝ろうとした瞬間、よく分からない言葉が耳を通り抜ける。咄嗟に顔を上げると、ゴーグルを外した女の子がキラキラした目でボクの事を見つめていた。

 

 

 

「可愛いっ、可愛いです! なんでこんな美少女メイドさんが学校にいるの!? ナニコレ! 夢?! 幻!? ああもう訳わかんないよーうっ!」

 

「…………?????」

 

「肌白い! 髪きれい! 声可愛い! 細い! しかも何、このメイド服の完成度! 似合い過ぎでしょっ!? 意味わかんないっ!」

 

 

 

 それから鼻息がかかるほど近くに詰め寄られ、頭の先から足の先まで舐められるように何度も見つめられる。しかし、状況が飲み込めず何も言う事ができない。というか、競泳水着姿の女の子は大きな独り言を吐き続けているので、何かを言ったとしてもボクの言葉が耳を通り抜けるとは思えなかった。

 

 

 

「あ、あのっ、少し近──」

 

「ロングスカートなのも清楚な感じがしていい……でも、生足が見たいよぅ……ぜったい綺麗……じゅる、ふひっ」

 

 

 

 なんか今度は意味不明なワードと不吉な笑い声が聞こえてきた。女の子は今にもボクのスカートの中に入り込みそうな姿勢を取っている。何やってるの、この子。

 

 女の子はなおも超至近距離でボクの全身を観察してくる。だけど、本当に危ない。彼女は競泳水着一枚だし、目線をどこに置いていいか分からない。うっかり身体を見ようものなら胸の谷間や柔らかそうな太ももに視線が癒着してしまいそうになる。

 

 しかもこの子、とんでもなく可愛い。亜麻色のショートカットの髪に海を思わせる大きな青い瞳。身長はボクより少し小さいくらいで、引き締まったウエストや四肢には無駄な脂肪がまったく付いていない。運動が得意だという事は、その身体を見ればすぐに理解できた。

 

 そんな事を逆に観察できてしまうほど、近い距離でボクの事を観察してくる亜麻色の女の子。しかもどうやらこの子はボクが男である事にまったく気づいていない。都合がいいと言えばいいのだけれど、何故か複雑な気分だ。

 

 

 

「あのっ!」

 

「は、はいっ!」

 

 

 

 すると突然、亜麻色の女の子は大きな声を出してボクの顔に顔を近づけてくる。近い近い近いっ、良い匂いがする、そして胸が当たりそうっ。何か言うなら早く言ってくれ……! 

 

 その鼻先がくっつきそうな距離のまま数秒間、時が流れる。遠くの方から聞こえてくる蝉時雨が、焦っているボクの事をバカにしているような気がして少し腹が立った。

 

 

 

「どうすればそんなに可愛くなれるんですか!?」

 

「…………えぇ」

 

 

 

 そして亜麻色の女の子はそんな事を訊ねてくる。

 

 絶対に答えられるわけがないその質問。むしろボクの方が訊きたい、と答えるのはダメだろうか。

 

 

 

「私、この学校でスクールアイドルをしてるんですっ。だからあなたみたいな人になりたいんです!」

 

 

 

 今のままでも君は十分可愛いよ、と声を大にして言ってあげたいけれど、彼女が期待している言葉はそういうものじゃないだろう。ていうかボクはこんな美少女から美少女と評されるほど女の子にしか見えない見た目をしているのか。さっきまで抱えていた不安が一瞬にして霧散した。鞠莉さまの言う通りだった、という事か。

 

 

 

「スクール、アイドル?」

 

「浦の星女学院、スクールアイドルAqoursですっ」

 

 

 

 そう言いながら亜麻色の女の子は一歩、ボクの身体から離れていく。少しだけ名残惜しい感じを覚えながら、ボクは彼女の事を見つめた。

 

 それからまた、同じ言葉が頭を駆け巡る。ボクの記憶の中に唯一残っていた、そのワード。

 

 

 

「…………Aqours?」

 

「そうですっ。あ、まだ自己紹介してませんでしたね」

 

 

 

 競泳水着姿の女の子はそう言って、右手を上げて敬礼するポーズを取る。

 

 

 

「私は浦の星女学院二年生、渡辺曜ですっ」

 

 

 

 それから、向日葵のような明るい笑顔を浮かべてボクに名前を教えてくれた。

 

 

 

 



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桜は花に顕われる

桜は花に顕われる(さくらははなにあらわれる)


普段は平凡な人々に紛れていた人間が、何らかの機会に優れた才能を発揮すること。


 

 

 

 ◇

 

 

 

 こちらから声をかけた手前、逃げるわけにもいかなかったのでとりあえずプールのスタートレーンに並んで腰掛け、この浦の星女学院の生徒である女の子──渡辺曜さんと少し話をしてみる事にした。

 

 

 

「ふむふむ、なるほど。碧さんは鞠莉ちゃんの家のメイドさんだったんですか」

 

「そ、そうなんです。学校に用があるから、とお嬢さまに連れて来られてしまって」

 

 

 

 肩に白いタオルをかけた曜さんは、ボクの身の上話を興味深そうに聞いてくれた。ちなみに彼女の服装は未だ競泳水着のまま。目のやり場に困って仕方ない。

 

 

 

「だからメイド服を着てるんですねー。てっきり誰かがドッキリでも仕掛けてるのかと思っちゃいました」

 

「もしそうなら曜さんは見事に釣られていましたね」

 

 

 

 えへへ、と笑う曜さん。あそこまでダイナミックに釣られる魚もいないだろう。

 

 どうでもいいけど、こうして普通に話している最中も彼女の水浅葱色の目はボクの全身へと向けられている。視姦される、というのはこんな状況の事を意味するのだろうか。男である事がうっかりばれたりしないか、と心臓はさっきからずっと高鳴り続けている。

 

 

 

「でも本当に可愛いです、碧さん。憧れちゃうなぁ」

 

「そんな事ありません。曜さんだってとても素敵だと思います」

 

「う……しかも性格までいいときた。何も勝てる要素が無いよぅ」

 

 

 

 頭を抱える曜さん。そもそもボクは男だから勝負にすらならないよ、とも言えず、下手な愛想笑いを浮かべるくらいしかできない。

 

 

 

「曜さんは、その、鞠莉さまと同じスクールアイドル、なのですよね?」

 

「うん? そうですよ。この前ようやく九人になったんです」

 

 

 

 問い掛けると、曜さんは顔を上げてそう答えてくれる。

 

 よくよく考えたらこれはボクの記憶の中にあった唯一の単語、Aqoursというものが何なのかを知るいい機会なのかもしれない。記憶喪失になった、という事実を知られないように気をつけて少しずつ訊いてみる事にしよう。

 

 

 

「こんな事を訊くのはお恥ずかしいのですが、スクールアイドル、とは何なのでしょう?」

 

「あれ? 碧さん、鞠莉ちゃんの所のメイドさんなのに知らないんだ」

 

「ええ。私はつい最近あそこで働く事になりまして、お嬢さまが何をしているのかよく知らないのです」

 

 

 

 首を傾げる曜さんに、決して嘘ではない言い回しで説明する。最近って言ってもつい二時間前くらいの事ですが。

 

 

 

「そうだったんですねー。じゃあこの渡辺曜が教えてあげましょうっ」

 

「よろしくお願いします、曜さん」

 

「そのお礼としてメイド服を脱いでください!」

 

「それだけは勘弁してください……」

 

 

 

 はぁはぁ、と急に息が荒くなる曜さん。なんでこの子はボクが着るメイド服に執着してるんだろう。単にメイド服に興味があるのか、それともそれを着るボクに興味があるのか。普通に考えれば前者なんだろうけど、か弱い野うさぎを見つけたハイエナみたいなその目つきは明らかにボク自身を狙っている。なぜだ。

 

 

 

「えへへ、嘘ですよーぅ。たぶん

 

 

 

 最後に小声で何か聞こえた気がしたけど、今は聞き逃しておこう。

 

 

 

「簡単に説明するとね、スクールアイドルっていうのはその名の通り、学校で結成するアイドルグループの事なんです」

 

「では、曜さんや鞠莉お嬢さまはこの浦の星女学院のスクールアイドルなのですね」

 

「そのとーりっ。そのグループ名が、Aqoursっていうんです」

 

 

 

 右手の人差し指を立てながら、曜さんは語ってくれる。なるほど。だが、余計に解せない。どうしてボクはそのグループ名を知っていたんだろう。

 

 

 

「スクールアイドルは全国に七千組くらいあって、ほとんどのグループはラブライブに出場するために活動してるんです」

 

「ラブライブ?」

 

「はい。夏と春に開かれるスクールアイドルの全国大会です。ざっくり言うと甲子園みたいなものかな?」

 

 

 

 かきーん、と校庭の方からボールを打つ音が聞こえてくる。ボクは一度頷いてみせた。

 

 

 

「では、曜さんや鞠莉お嬢さまたちもそのラブライブを目指してスクールアイドルなるものをしているのですね」

 

「そうなるかな。まぁ、それだけじゃないんですけどねー」

 

「?」

 

 

 

 苦笑いの曜さんは頬を掻きながら、意味深な言葉を付け足した。それを訊くのも野暮かもしれないと思い、質問が喉を通る前に自重する。

 

 

 

「アイドルっていってもただ歌って踊るだけじゃなくて、曲も歌詞も振り付けも衣装も、全部自分たちで作らなくっちゃいけない決まりがあるんです」

 

「全部、ですか。それは大変ですね」

 

「そうなんです。今日は各自でそれぞれの担当の作業を進めていく、っていう日なんですけど、私はこのとーりで」

 

 

 

 曜さんはそう言って肩に掛けていたタオルを広げて、身に纏う水着をボクに見せてくる。身体のラインと太ももが特に素晴らしい。じゃない、この子はそんな事を伝えたいんじゃないだろう。

 

 

 

「曜さんは何の担当なのですか?」

 

「私は衣装づくりです。でも、ぜーんぜん良いアイデアが浮かばなくって、何かが降ってこないかなーって思いながら泳いで気分転換してたんです。……そしたら」

 

 

 

 なんでだろう。隣から熱烈な視線を感じる。

 

 

 

「そこで、わたしが現れたのですね」

 

「うん。女神さまが現れたんです」

 

 

 

 女神て。ボクは神様どころか女の子ですらないのに。

 

 だが、ここまでの会話であの邂逅の謎は氷解してくれた。ついでにスクールアイドルが何なのかも知る事ができたのでよかったとしよう。

 

 そのお礼、といってはあまりにもおこがましいけれど、彼女がこの出会いを運命的なものだと感じているのならば、少しくらい何かの役に立ちたいと思ってしまった。

 

 

 

「曜さん」

 

「はい?」

 

「何かお手伝いできる事はありませんか? 曜さんが鞠莉お嬢さまの仲間であるのならば、わたしもお力になりたいのです」

 

 

 

 突発的な思い付きを口にしてみる。スクールアイドルが何なのかも知らなかった人間がこんな事を言うのはおかしいかもしれない。でも、彼女の役に立ちたいというこの思いだけは本物だった。

 

 

 

「………………」

 

「曜、さん?」

 

 

 

 ボクの言葉を聞いた曜さんは一瞬、目を開いて驚いたような表情をして、それから俯き、その顔を隠した。どうしたんだろう。もしかして余計なお世話だと思われていたりするのだろうか。いや、この反応はそうにちがいない。ならすぐに謝らないと。

 

 そう思って口を開こうとした矢先。

 

 

 

「っ!」

 

「────え?」

 

 

 

 隣にいた曜さんが抱きついてきた。

 

 あまりにも突然の事すぎて、思考回路が現実を把握しきれていない。一体どういう状況なんだこれは。

 

 

 

「ちょっ、ちょっと曜さんっ!? どうしたのですかいきなり、こんな」

 

 

 

 抱き締められた状態で訊ねるけれど、返答はない。ただ両腕を首の後ろにまわされ、身体を強く押し付けられている。

 

 メイド服越しでも認識できる肌の柔らかさ。塩素が少し混じったその甘い髪の香りは、透明な初夏の季節を思わせた。

 

 冷静に考えなくもわかる。ボクにとってこの状況は非常に危険だ。見られるだけならまだしも、ここまで密着されたら確実に男である事がばれてしまう。これ以上は本気でマズい。理性的なものが崩壊してしまう。誰か助けてくれ。でも、もうちょっとだけこのままでいたいかも。

 

 心の中に生まれたそんなどっちつかずのジレンマを抱えて悶々としていると、再びこの身体は自由を取り戻した。

 

 

 

「碧さん!」

 

「は、はいっ」

 

「やっぱり、あなたは私の女神さまですっ!」

 

 

 

 離れた曜さんはそう言って、ボクの目の前で微笑んでくれた。意味は分からないけれど、褒められてるのかもしれないので一応微笑み返しておこう。

 

 

 

「ま、まだわたしは何もしてませんよ。それに、わたしは女神なんかじゃありません」

 

「いやいや、その可愛さと優しさはどう考えても女神さまでしょ。決めた。碧さんはもう私だけの女神さまです。誰にも渡しません」

 

 

 

 この子はよく考えてから発言しているのだろうか。うん、絶対に何も考えていない。とりあえずとんでもない勢いがある女の子だという事だけは分かった。

 

 

 

「ちょっと待っててくださいね。いま衣装を持ってきますから」

 

 

 

 曜さんはそう言ってからパタパタとプールサイドを駆けていく。ボクは彼女の後ろ姿を茫然と見つめながら、夏の景色の一部になっていた。

 

 そしてすぐに曜さんは更衣室であろう場所からセカンドバッグを持って戻ってくる。それからその中に入った衣装を取り出して、ボクの前で拡げて見せてくれた。

 

 

 

「…………これが?」

 

「これが、次に歌う曲の衣装です。イメージは夏祭り、みたいな感じなんですけど、なんかしっくりこなくて。何か気になるところがあれば教えてほしいなー、なーんて」

 

 

 

 曜さんが持っているのは、水色が主体の衣装。ノースリーブの両肩の部分に藍色のリボンが縦に巻かれ、腰の辺りには濃い青の帯のような形の布があり、それがフリルの付いたスカートの上に掛かっている。それは彼女が言った通り、どこか浴衣を思わせるデザインだった。

 

 

 

「…………」

 

 

 

 ボクが想像していたものよりも数倍クオリティが高い。これならば何を言っても蛇足にしかならないのではないか、と一瞬だけ思った。

 

 だけど、ボクが考えるよりも先に、何かがボクの口を開く。

 

 

 

「どうですか、碧さん。やっぱり分からないですかねー? あはは」

 

 

「────全体のシルエットは悪くありません。ただ、この帯の部分がスカートの上に重なり過ぎているので色のバランスが少し悪くなっています。華やかに見せるのであれば配色が明るい水色のスカートの裾、五センチほどを見せるとより綺麗に見えるかと思います。中央の部分だけは重なってもかまいません。フリルと左右の裾だけを見せる感じで」

 

 

「ははー…………って、え?」

 

「それと、アクセサリーなどはどのようなものを付けるのでしょうか?」

 

「あ。は、はい。これとこれを付けようかな、って」

 

「……少し味気ないですね。出来れば遠くから見る人のために、腕にも何か装飾を付けるべきです。たとえば、上腕にだけ袖を付ける、とか。そうすれば動きが多くなって踊りにダイナミックさが生まれます」

 

「…………」

 

「衣装は、シルエットだけでどれだけ美しく見せるかにかかっています。この基本を忘れてはいけません。細かい部分に囚われるよりも、全体を見て綺麗に見えるかと追及するべきです。かと言って、ディティールをおろそかにすると一瞬で見る側にそれが伝わってしまいます。衣装づくりっていうのは、このバランスが一番重要なんです………………って、あれ?」

 

 

 

 ふと我に返り、自分が何を言っていたのかを振り返る。

 

 だけど、その内容を全然覚えてない。何か偉そうなことを語っていた気がするんだけど、なんだっけ?

 

 目の前にいる曜さんが茫然とボクの事を見つめている。まさか、変な事を言ってしまったのだろうか。

 

 そんな感じで不安になっていると、曜さんは開きっぱなしになっていたその可愛らしい口から言葉を零す。

 

 

 

「……す」

 

「す?」

 

 

「すごいですっ!!!」

 

 

 

 再び曜さんの絶叫がプールサイドに響く。その声に驚いたのか、蝉時雨のボリュームが下がったような気がした。

 

 

 

「よ、曜さん?」

 

「なんでそんなに詳しいんですか!? 碧さんナニモノっ!? 本当に女神さま!? だよね! そうだよね! ど、どどどどうしようっ! 私の前に本物の女神さまが現れたよーぅっ!!!」

 

 

 

 衣装を持って興奮した犬のように走り回る曜さん。あんまりはしゃぐと転んじゃうから気をつけてね。

 

 そんな彼女を眺めながら、解せない事実を呟く。

 

 

 

「…………詳しい?」

 

 

 

 ボクが、アイドルの衣装づくりに?

 

 

 

「碧さんって、もしかして服作りをしてる人なんですか!?」

 

「あ、いや」

 

「それなら私にもっといろいろ教えてください! ぜひっ! なんなら今すぐっ!」

 

 

 

 瞳をキラキラさせて迫ってくる曜さん。土下座でもしてきそうな勢いだ。

 

 だけど、ボクにも状況が理解出来ていないのにそんな事を教えられる訳も無い。

 

 とにかく、今のボクがするべき事は。

 

 

 

「ご、ごめんなさいっ! 失礼しましたっ!」

 

「あっ、待ってよ碧さーんっ!」

 

 

 

 この場からいったん離脱して、冷静になった思考でその事実について考える事。

 

 後ろから聞こえてくる曜さんの声を無視して、ボクはプールを後にした。

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

「はぁ……はぁ……」

 

 

 

 メイド服のスカートの裾を踏まないように両手で持ち上げてしばらく走り、ある程度離れた場所で立ち止まる。

 

 出会ったばかりの生徒の前から逃げてきてしまった。後ろを振り返ってもあの子はボクを追ってきていない。さすがに水着姿のまま校内を歩くのは気が引けたんだろう。

 

 額から垂れてくる汗を手の甲で拭い、上がった息を落ち着かせる。それから、先ほどの一件を冷静に思い出してみた。

 

 

 

 曜さんが作成中だというあの衣装を見た瞬間、ボクは矢継ぎ早に何かを言った。それだけはたしかだ。でも、何を言ったのかが思い出せない。自分で口したはずの言葉なのに、その内容が脳のデータベースの中に残っていない。

 

 我に返った時、あの子はボクが服作りに詳しい人なのか、と訊ねてきた。という事は、ボクはあの衣装を見て何かしらの助言を口にしたのだろう。

 

 だけど、一体何を言ったっていうんだ? 衣装どころかスクールアイドルが何なのかすら知らなかった素人のボクが。

 

 

 

「…………あれは、」

 

 

 

 まるで、ボクじゃない誰かが曜さんにアドバイスを与えていたかのような感覚。他の誰かがボクの操縦席に乗って、勝手に言葉を喋らせた。しかも、聞き手が必要としている言葉を。

 

 そんな事が、本当にあり得るのか?

 

 

 

「あれ?」

 

 

 

 絡まり合った思考から意識を目の前の状況に向けると、自分が今どこに居るのかを認識した。

 

 ここは、昇降口だろうか。校舎内に下駄箱が並んでいるところを見ると、たぶんそうだ。

 

 よく分からない出来事を経てしまったけど、ボクは鞠莉さまから学園長室に行くように言われていたんだった。時間も経っているし、もしかしたら鞠莉さまは先に着いてしまっているかもしれない。

 

 

 

「学園長室、っていうくらいだから、学校の中にあるんだよね」

 

 

 

 そう呟いてから、ひとまず校舎の中に入ってみる事にする。外にいる生徒を探していたらまた曜さんに出くわしてしまうかもしれないし、今度は校舎内にいる生徒に訊いてみる事にしよう。

 

 ドレスシューズを脱ぎ、来校者用のスリッパを拝借して、ボクは浦の星女学院の中に足を踏み入れる。

 

 ここは正真正銘の女子校。そこに女装をして忍び込む得体の知れない男。なんだろう。頭の中でそう表現してみると、とんでもない事をしている気分になってきた。でも、ボクは明後日からここの生徒になるんだ。男だけど。そう考えれば別段おかしな事ではない。男だけど。

 

 

 

「とりあえず、上に行ってみようかな」

 

 

 

 一階には人影が見られなかったので、フィーリングで上を目指す事にする。

 

 階段を登り、すぐに二階に到着。それから学校の中を眺めながら、シンとした廊下を歩いてみる事にした。

 

 

 

「…………」

 

 

 

 リノリウムの廊下には人気は無く、教室にも当然誰もいない。

 

 机が並べられている教室数も少なく、ほとんどは空き教室になっているようだった。鞠莉さまが言っていた通り、生徒数が少ない高校だという事はすぐに分かった。

 

 廊下の窓から外を見ると、薄緑色の芝が生えた中庭があった。きっと昼休みなんかはあそこに生徒が集まったりするんだろう。記憶を失くす前の自分が学生だったのかは分からないけれど、そんな普遍的な高校生活を想像できるという事は、おそらくどこかの学校には通っていたのだと思う。

 

 

 

「ん?」

 

 

 

 そうして眼下にある景色を眺めていると、どこからか何かの音色のようなものが聞こえてくる事に気づいた。

 

 耳を澄まし、その音に耳を傾ける。これは、ピアノだろうか。どうやら上階から流れてきているようだった。

 

 この音を辿って行けば生徒に会う事ができる。ピアノの練習中なのかもしれないけれど、とにかく行ってみる事にしよう。

 

 そう思い、ボクは再び上を目指す事にした。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 ピアノの音色は予想通り、三階の教室から流れているようだった。近づくほど明瞭になってくるその綺麗な旋律。遠くにある美しい絵画に徐々に歩み寄っていき、それを眺めるときもこんな感覚を覚えるのだろう。

 

 音楽室、という室札が掲げられた教室。その扉の前に立って、漏れてくる音を聴いた。

 

 するとまた、さっきプールで覚えたあの不思議な感覚がボクを取り包む。

 

 

 

「……この曲」

 

 

 

 知らないはずのメロディなのに、何故か聴き覚えがある。初めて耳にした音なのに、()()()()()()()()()()()

 

 

 

「                    」

 

 

 

 意志を働かせる事も無く、身体は自動的にその歌を歌い始める。

 

 誰かが奏でているピアノの音色に合わせて、頭の中に流れてくる歌詞を声に乗せ、歌う。

 

 

 

「                    」

 

 

 

 誰もいない静かな廊下に、ボクの声帯から発せられる高い声が響く。その歌声が綺麗なのかそうではないのか、自分じゃ判断できない。

 

 ただ、この歌を口ずさんでいると気持ちが良かった。観衆はいないのに、大きなステージの上で歌っているみたいな開放感を感じた。

 

 出来る事ならばこのままずっと歌い続けていたい。

 

 そんな事を思っている時。

 

 

 

「…………」

 

「あ…………」

 

 

 

 ガラッと音楽室の扉が突然開く。必然、扉を開けた誰かとボクは対峙する。途端に静けさが戻る人気の無い廊下。響いていたピアノの旋律は、いつの間にか土曜日の学校の静寂に消えてしまっていた。

 

 目の前に立つのは、ボクと身長が同じくらいの臙脂色の髪をした女の子。琥珀色の両眼は目前にいるメイドを見つめて離さない。曜さんとは違い、休日だというのにこの女性とは制服であろう半袖のセーラー服を身に纏っていた。

 

 その状態のまま見つめ合い、時が流れていく。こんな時に思考が止まり、何をするべきなのかがまったく浮かんでこない。今のボクに出来るのは、ピアノを弾いていたであろうこの女生徒と至近距離で視線を交わす事だけだった。

 

 

 

「…………て」

 

 

 

 そうして何十秒がたった頃、ようやく臙脂色の女子生徒は小さく口を開く。ただ、何を言ったのかはよく聞き取れなかった。この距離で聞こえなかったという事は、もしかしたらそもそも言葉を発していなかったのかもしれない。

 

 そんな事を思っていると、その女生徒は突然ボクの方へと歩み寄ってきた。

 

 

 

「えっ、ちょっ。ええっ?」

 

「────」

 

 

 

 ただでさえ近かった距離感。それを詰められるという事は当然、身体と身体がぶつかってしまう。そうならないためには、彼女が近づいてくる速度に合わせてボクが後方に後ずさるしかない。

 

 だが、ここは校舎の中。言わずもがな、下がれる距離はある程度限られている。案の定、数歩下がったところでボクの背中は廊下の壁にぶつかり、それ以上後方には下がれなくなってしまう。

 

 どうしよう、と思い、徐に視線を前に向ける。

 

 その直後、ボクの顔の右横からドン、という謎の音が聞こえてきた。

 

 

 

「…………あ、あの」

 

 

 

 予想外の状況について行けず、前に立つ臙脂色の女の子に声をかける。

 

 するとその女の子は綺麗な顔にフッと笑みを浮かべて、壁際に追い詰められたボクの表情を凝視してきた。

 

 というかこれ、冷静に考えてみると壁ドンとかいうやつじゃないだろうか。ボクは壁を背にして立っているし、女の子はボクの顔の横に左腕を伸ばして迫ってきている。

 

 なんで初めて会った女の子に壁ドンなんてされてるんだろう、ボク。

 

 

 

「……て」

 

「て?」

 

「天使が、現れたわ」

 

 

 

 と、ボクに壁ドンをした状態で意味不明な言葉を呟く臙脂色の女の子。この子の目にはどうやら天使とやらが映っているらしい。いや、どう考えても目の前にいるメイド服姿の男しか見ていないけれど。

 

 

 

「て、天使?」

 

「こんなに可愛い天使が学校に現れるなんて、これは夢かしら? そうよね、夢よね。だったら何をしても構わないわよね」

 

「あっ──」

 

 

 

 頬を朱色に染めた女の子は、目を細めてボクの事を見つめてくる。それから何を思ったのか、空いている右手でボクの顎をくいっと持ち上げ、その顔をさらに近づけてきた。

 

 

 

「本当に可愛いわ。私の理想にぴったり。どっちかというと普段はネコだけど、これはタチにジョブチェンジせざるを得ないわ」

 

「…………???」

 

「雰囲気も儚げで、本物の天使みたい。どこかのエセ堕天使とは大違いね」

 

 

 

 本当に夢を見てると思っているのか、臙脂色の女の子はボクの顎を持ちながらブツブツと何かを語っている。その内容が分からないのはボクの語彙力が低いからなのだろうか。

 

 

 

「その、こ、困ります……っ」

 

「くすっ、声も可愛い。なんだか虐めたくなっちゃう。でもいいわよね。これは夢だもの」

 

 

 

 力づくで離れるわけにもいかないのでなんとか説得で逃げようとするが、それはどうやら逆効果だったようだ。なぜだ。

 

 さっきのプールでの一件でもそうだったけど、如何せん距離が近すぎる。こんなに近くでまじまじと見つめられて恥ずかしいと思わない方が難しい。だけど今回は先ほどとは違ったベクトルの恥ずかしさがある。女の子にこんな事(壁ドン)をされるのがこんなに羞恥を感じるものだったなんて、全然知らなかったしどうせなら一生知らなくてもよかった。

 

 

 

「夢じゃ、ありません。わたしは天使なんかじゃない、です」

 

「じゃあ、どうしてあの歌を歌っていたの? まだ完成してない、未完成の曲なのに」

 

 

 

 女の子のその言葉を聞いて、余計に訳が分からなくなる。この子はボクが廊下であの歌を歌っていたのを聴いていた。そこまではいい。

 

 だけど、まだ未完成だったという言葉の意味が理解できない。

 

 

 

「あの曲が、未完成?」

 

「そう。まだ完成してないあの歌を、誰かが歌える訳がないの。だから、これは私の夢。あなたはそこに出てきた私の天使よ」

 

 

 

 そう言って、女の子はゆっくりと顔をボクの顔へと近づけてくる。なんだかよく分からないけど、この状況がいろいろとダメだという事だけは判断できた。

 

 

 

「ッ!」

 

「え──」

 

 

 

 ボクは咄嗟にその女の子が壁に付けていた左腕を掴み、それから彼女の右肩を握って自分の方へと引き寄せた。

 

 それからその場で身体を半回転させ、今までとは逆の体制を取った。

 

 つまり、今はボクがこの臙脂色の女の子に壁ドンをしている状態になっている。

 

 

 

「…………ボクもよく分からないけど、これは君の夢じゃないよ。それだけは言える」

 

「あ…………」

 

「もしそれが信じられないなら、何かをして信じさせてあげてもいいよ」

 

 

 

 その姿勢のまま、ボクは目の前で驚いている女の子に向かって出来るだけ優しい声で言った。思わず敬語を忘れ、一人称がボクになってしまったけど、この見た目ならまずボクが男である事はバレはしないだろう。たぶん。

 

 臙脂色の女の子は数秒間固まり、それからみるみるうちに顔を赤く染め出した。それを見て、彼女がこの現実が夢ではない事を悟ったのだと理解した。

 

 

 

「う、うそ……現実、なの?」

 

「残念だけど、そうみたいだね」

 

「あ、あぁああ…………や、やっちゃったぁ…………もうお嫁にいけない……」

 

 

 

 さっきまでの威勢が嘘のように、へなへなと身体の力を抜いて壁に背を預ける臙脂色の女の子。どうやらこっちの彼女の方が本物なようだ。

 

 いつまでもこの壁ドンの姿勢のままでいるわけにもいかないので、ボクは彼女の左腕を離し、一歩下がって距離を取った。

 

 

 

「ごめんなさい。突然荒々しい行動をとってしまって」

 

「い、いえ。私の方こそごめんなさい。……でも、あなたは?」

 

 

 

 女の子は顔を赤くしたままボクの方に頭を下げてくる。それから顔を上げてそう訊ねてきた。

 

 

 

「わたしは、鞠莉お嬢さまのメイドを務めています小原碧と申します。本日は学校に用件があり、お嬢さまとともに来校した次第であります」

 

 

 

 嘘ではない説明を即興で頭の中で作り、それを言葉にする。プールで曜さんと会ったときもこれで通じた。ならばこの子にも同じように伝わると信じて、そう言う。

 

 

 

「鞠莉ちゃんの、メイドさん……?」

 

「左様でございます」

 

「うぁあああああああ……余計に恥ずかしいぃいいい……っ」

 

 

 

 そう言って両手で顔を隠し、項垂れる臙脂色の女の子。不謹慎ながら可愛いと思ってしまったのは仕方ないと思う。

 

 まだ謎はたくさんあるのだから、このままこの子の前から立ち去るわけにもいかない。ここは気にしていない事をアピールして、彼女の話を訊くのが吉と見た。

 

 それに、この子も鞠莉さまと知り合いのようだし、ここで別れてしまったら次に会うときに気まずくなる事は間違いない。そうならないためにも、ここは少しでも何か話をするべきだと判断した。

 

 

 

「大丈夫です。この事は他言しません」

 

「ほ、ほんとう、ですか?」

 

「ええ。わたしは鞠莉さまのメイドでございます。冗談は言っても嘘は吐きません」

 

 

 

 まぁ存在自体が冗談みたいなものなんだけど。男だし。

 

 そう言ってみせると、女の子は潤んだ琥珀色の瞳をボクに向けて、小さな口をそっと開く。

 

 

 

「あ、ありがとう、ございます」

 

「どういたしまして。それで、あなたは?」

 

 

 

 気にしていない素振りを見せて微笑み、そう訊ねた。

 

 臙脂色の女の子は気を取り直すようにこほん、と可愛らしい咳払いをして、頬を少し赤らめたままボクを見つめてくる。

 

 

 

「私は、桜内梨子です」

 

 

 

 そして、その綺麗な名前を教えてくれた。

 

 

 

 



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