東方逢魔幻譚 ~ Never Cross Phantasm. (時間ネコ)
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【 序章 『 空っぽの星 2020 』 】
第0話 逢魔幻譚 The Fragments


2019.08.25
全平成仮面ライダーの本編完結記念。


 それは、西暦2009年。平成の半ば、師走(しわす)の終わり。

 ある写真家の男が二人の探偵と出会い、世界を救った少し後の冬の日のことだった。

 

 古く(さび)れた小さな写真館。人通りの少ない路地にひっそりと構えているため、この写真館を訪れる客はあまり多くない。

 老人は孫娘と二人、この『光写真館(ひかりしゃしんかん)』を経営している。

 あるときは訪れる『仲間』にコーヒーを振る舞ったり、孫娘と共に作った茶菓子をもって、彼らは『旅』の一時(ひととき)を過ごしていた。

 

 店主の孫娘である女性、 光 夏海(ひかり なつみ) が数枚の写真を手に取り、小さく微笑む。

 その写真はどれも手ぶれや逆光、ピンボケなどでろくに被写体を写せていなかったが、歪んだ光の中に映る笑顔は不思議な写り方をしており、見る者に芸術的な美しさを思わせるようなどこか奇妙な印象を与えた。

 

 夏海(なつみ)は長い黒髪を揺らして窓際の椅子に腰掛ける。向かいには黒いコートを纏い、明るい茶髪を整えた一人の青年が座っている。長い脚を組み、首から()げたマゼンタ色のトイカメラを撫でる青年の姿からは確かな自信が満ち溢れていた。

 夏海が持つ数枚の写真はすべて彼が撮ったもの。それらは、ここではないどこか別の場所。異なる『世界』を巡った証として、彼らが歩む終わりなき旅の1ページを彩っている。

 

(つかさ)くん、写真を撮るのが上手くなったんじゃないですか?」

 

「ああ。どれも俺の大切な世界だ。……しっかり向き合ってやらないとな」

 

 青年、 門矢 士(かどや つかさ) は旅人だ。いくつもの世界を巡り、その瞳に写したものは彼にとってかけがえのない意味を持っている。

 あらゆる世界から拒絶され、淘汰(とうた)され、忘れ去られた士が得た答え。それは、どの世界も自分の世界にできるという真理(しんり)だった。

 たとえ自分の世界でなくとも、たとえ自分を拒絶する世界であっても。その瞳でしっかりと向き合い、旅の想い出としてファインダーに収めるのだ。

 

「士ぁー! お前砂糖いくつだったっけー?」

 

 旅の感傷に浸っていた士の空気をぶち壊す、のんきで(ほが)らかな声。夏海と同じく、士の旅の仲間である黒髪の青年、 小野寺(おのでら) ユウスケ が四人分のコーヒーを()れている。本人の性格と同様、明るく晴れ渡るオレンジ色の服がどこか眩しい。

 

 夏海の祖父である老人、 光 栄次郎(ひかり えいじろう) に教わりながら、コーヒーを淹れる腕もかなり上達してきた。これなら、数少ない来客に出しても恥ずかしくないだろう。

 ユウスケの成長を孫のように嬉しく思い、栄次郎はやっと思い出す。ここは喫茶店ではないし、自分はマスターでもない。

 それでも、みんなが喜んでくれるならいいか、と。栄次郎は再び笑顔を見せた。

 

「三つ。……いや、四つ入れろ」

 

「む、そんなに入れたら甘すぎだよ」

 

 四本の指を立てて見せる士に、栄次郎が唇を尖らせる。そんなこともお構いなしに、ユウスケは士の分のコーヒーに角砂糖を落とした。

 

 栄次郎が作った上等な茶菓子と共に(いこ)いの時を楽しんでいると、カラン、と。不意に写真館の扉が開く音がする。

 背景ロールの正面、立派なカメラの向こう側――廊下を進んだ先の入り口が開くのは、数少ない来客の証拠だ。栄次郎は手に持っていたお盆を置くと、来たるべき客人に扉を開ける。

 

「あ、いらっしゃい!」

 

 ――しかし。栄次郎が出迎えた扉の向こうには誰もいない。入り口を出て確かめるが、客人はおろか、そこには通りすがる人々の姿さえなかった。

 あるのはただ、いつも通りの外の光景。人通りの少ない路地。閑散とした塀と木々。たまに訪れる客人がいるとすれば、近所の野良犬か野良猫ぐらいである。

 風の仕業と考えようにも、今はそれほど強い風は吹いていない。精々、夏であれば風鈴が揺れる程度のもの。写真館の扉を開けるほどの力はないし、何より扉はしっかりと閉められていたはずだ。

 

 栄次郎は(いぶか)しみ、扉を閉めて居間に戻る。首を傾げるが、答えは見つかりそうにない。目の前に置いてあるカメラとその先に広がった無地の背景ロールを見ながら、栄次郎は不思議な感覚が拭えないでいた。

 狐につままれたようでもあり、狸に化かされたようでもある。何とも表現できぬ、奇妙な感覚。そこに誰かがいたような気がするのに、誰もいなかったような気もする。

 

「……誰かの悪戯(いたずら)でしょうか?」

 

「うーん、風のせいじゃないかな?」

 

 夏海もユウスケもその感覚には気づいていない。栄次郎も気のせいだったと納得しているようだが、士はそうではなかった。

 微かに震える右手でコーヒーカップを置く。口の中に残る苦味は、コーヒーのせいではない。背筋を伝うような不気味な感覚が、士の心に雫を落としたのだ。

 

「なんだ……この感じは……」

 

 それは一陣の風などという生優しいものではない。この世のものではないような何かが、確かにそこにいた。現実のものではない何かが、間違いなく感じられた。

 だが、その正体が掴めない。これまで様々な世界を旅してきた士でさえ、まるで雲を掴むような感覚。

 自分の目の前に、この空間に、確かに何かが感じられるのに。それがどこにいるのか、何であるのかさえ分からない。こんな感覚は生まれて初めてだ。

 誰かに見られている? 振り返って窓の外を見る。そこには何もない。

 どこからか覗かれている? 写真館の天井を見上げる。そこには相変わらず、レトロな電灯が設けられているだけ。

 

「気のせい、なのか……?」

 

 不安を洗い流すため、士は再びコーヒーカップに口をつける。流れ込んでくる黒に心を委ね、ようやく落ち着いた心を取り戻せた。

 写真館の奥、背景ロールを見やる。今は何も描かれていない真っ白な無地。だが、端に取り付けられた留め具を外せば畳まれていたロールが開き、そこに写真を撮る際の背景となる一枚の絵を掛けてくれる。

 その絵には、ただの背景ではない不思議な力があった。

 一言で表すならば、『世界の移動』。無数に遍在(へんざい)する並行世界(パラレルワールド)を行き来するための引き金。この背景ロールに写し出された絵は、如何(いか)なる原理か誰にも分からないが、異なる世界と世界を結びつける力がある。

 士たちはこれまでもその導きによって数々の世界を渡り、旅を続けてきた。

 

 先ほど外から入ってきた風によるものか、あるいは単に引っ掛けが甘かったのか。背景ロールを()めておいた鎖が外れ、からからと音を立てながら畳まれていた幕を落とす。

 誰の手によるわけでもなく独りでに展開されたその絵は、士たちの心を凍りつかせた。

 

「……! こ、これは……!」

 

 栄次郎の顔が青ざめる。その場にいた夏海もユウスケも、同じく突如として広がった背景ロールに目を奪われた。栄次郎と同様、生気を失ったような顔でその絵を見つめ、これまでにない不気味な気配に(おのの)いている。

 その反応は、士も例外ではない。これまでも数々の世界を巡り、様々な経験をしてきたが、ここまで異様な空気は感じたことがなかった。

 背景ロールに写し出された一枚の絵。それは、まさしく『異界』と形容するに相応しい禍々(まがまが)しいもの。

 一面に染み渡る黒と紫色の闇の中に、こちらをぎょろりと睨みつける無数の目玉。突き出す数本の道路交通標識じみたものは、その異形の光景にさらなる異質さを与えている。

 

「な、なんですか……これ……!」

 

「なんか、すっごく嫌な予感がする……!」

 

 それを見て、咄嗟に立ち上がった夏海が怯える。ユウスケも額に汗を浮かべながら、(かば)うように夏海の傍に立った。

 栄次郎が夏海たちに駆け寄り、その不気味な背景ロールを確かめようと近づく。

 闇に無数の目玉が覗く絵の中心は、渦巻く紫色の雲を飲み込むような黒い穴を描いているようだった。

 

「…………っ!!」

 

 ありえない。士の心が声を詰まらせる。どれだけ不気味なものであったとしても、それはただの絵だ。ただの絵である――はずだった。

 闇の中心。紫色の雲を描く絵の真ん中の穴。そこに小さく白い影が浮き上がってくるのに気づいたのだ。白い影が少しづつ大きくなっていくにつれ、それが華奢(きゃしゃ)ながら妖艶(ようえん)な『女性の手』であることが分かった。

 ただの絵、ただの背景ロールであるはずのその闇から、おもむろに突き伸ばされた白い手が光写真館を闇に染める。

 世界が歪む光を見る。空間が切り替わる音を聞く。これまでも幾度となく経験してきた、世界と世界の『境界』を超える感覚。士は確かにそれを感じ取った。

 

「きゃあっ!!」

 

「夏海ちゃんっ!!」

 

 揺らぐ世界の狭間(はざま)に聞こえる、夏海とユウスケの声。闇に閉ざされた視界においては、何が起こっているのかは分からない。

 闇が晴れる。そこには、いつも通りの光写真館があった。背景ロールの不気味な絵こそそのままであるが、世界を移動した直後のいつも通りの状態。

 

 ─―しかし、士の心は依然として湧き上がる焦燥に満ちていた。さっきまでそこにいたはずの夏海とユウスケがいなくなっており、栄次郎の姿も見当たらなくなっているからだ。

 扉を開けて出ていった様子はなく、忽然(こつぜん)とどこかに消えてしまったとしか考えられない。

 

「夏海……? ユウスケ? ……おい! どこだ!?」

 

 撮影所兼居間である背景ロールの部屋を出る。奥に進んでキッチンを見るが、誰もいない。廊下に飛び出して写真館中を探す。されど、人の気配はどこにも感じられない。()えかねた士は焦りのままに、光写真館を飛び出した。

 背景ロールの導きのままに世界を移動した直後であるならば、そこに広がっているのはこことは異なる別世界。隣り合わせの過去と未来を持った並行世界の光景である。

 

 これまでも、世界を移動すれば並行世界の『どこかの場所』に、何かに代わるように光写真館が建っていた。まるでずっとそこに存在していたかのように、当然のようにそこにあったものを塗り潰して光写真館が根付くのだ。

 そこから一歩出れば、馴染みのない別の世界。ただ、別の世界と言っても、まったく常識が通用しない完全なる異世界というわけではない。

 もしもあの道を選んでいたら。もしもあの行動を取っていたら。無数の選択肢と同様に広がる、別の可能性。我々が当たり前に生きる一つの未来に分岐して無限の道を形作る、可能性世界。並行世界と呼ばれるif(もしも)の世界線。それらは、本来は決して交わることがないはずだった。

 

 超古代、殺戮(さつりく)を遊戯とする邪悪なる民族が未知の石を手にした世界。

 

 有史以前に、神に背いた天使によって人類に可能性の光が与えられていた世界。

 

 虐げられた兄妹の手により、鏡の中にモンスターが生まれてしまった世界。

 

 一度は死した人間が蘇り、新たなる人類種として灰の肉体を得た世界。

 

 太古から続く聖戦、不死なる始祖が争い合った果てに、人類が栄えた世界。

 

 語り継がれる魑魅魍魎(ちみもうりょう)跋扈(ばっこ)し、大いなる自然の猛威を振るった世界。

 

 人間の姿に擬態し、社会に紛れ込む侵略者が隕石と共に落ちてきた世界。

 

 消えゆく別の未来より、己の時間を手に入れようと過去を目指した男がいた世界。

 

 日常の中に住まう隣人に牙を突き立て、その命を吸って生きる種族がいた世界。

 

 世界は一つではない。当然、たった九つということもない。世界は無限に広がっている。世界は絶えず無限に生まれ続けている。今、この瞬間も。過去も未来も、すべての選択、あらゆる可能性が、別の世界となって因果のどこかに開かれている。

 それは互いに干渉することはできず、観測されることもない。あくまで可能性の話に過ぎない。だが、門矢士は確かにここにいた。世界を渡る旅人として、光写真館の導きに従って。

 ここは士のいた世界ではない。まして夏海や栄次郎の世界でも、ユウスケの世界でもない。

 

「……森……?」

 

 光写真館から出てきた士が目にしたのは、写真館を覆うように生い茂る木々の群れ。鬱蒼(うっそう)と広がる森の光景だった。

 正面には赤い鳥居。左右を向けば苔生(こけむ)した一対の狛犬(こまいぬ)が出迎え、下を見れば、足元には今にも崩れそうな木の階段と荒れ果てた石畳が敷かれている。

 ボロボロの石畳の上、歩きづらいその道を数歩だけ歩いて、後ろを振り返る。さっきまで写真館だったはずの建物は、何十年も放置されたような古く寂れた神社になってしまっていた。

 

「どうなってる……?」

 

 普段なら、世界を移動すれば光写真館はその世界の別の建物、おそらくはその世界の喫茶店などに置き換わるように存在し、外観こそ置き換わる前の元の建物となっていたが、中身は変わらず光写真館のままであった。

 しかし、今の士の目に映るのは写真館でも喫茶店でもない。まさに神社としての意味しか果たしていないであろう小さな(やしろ)。小さな拝殿と大量の葉っぱが敷き詰められた賽銭箱しか存在しないその構造は、どれだけ強引に考えても中に写真館があるとは思えなかった。

 

 士は呆れ、頭を()く。どう考えても頭で答えを出せるようなまともな現象ではない。こんな小さな神社、それも拝殿の正面から、ついさっき士が出てきたことがすでに奇妙だった。

 賽銭箱の向こうには参拝のための神棚しかなく、当然ながら人が入れるような扉も空間も備えつけられてはいない。

 なら、自分はどうやって光写真館──だったこの寂れた神社から、外に出てきたのだろうか。考えたところで分かるわけがないため、士はその思考を捨てたのだ。

 

 神社を背にし、一歩、また一歩と歩きづらい石畳を歩く。

 ところどころ赤色の剥げた鳥居を見上げると、扁額(へんがく)に文字が記されているのに気づいた。が、文字は経年劣化によって掠れ切ってしまっているらしく、まともに読むことはできない。

 

(はく)――? この神社の名前か?」

 

 この異常な状況にも慣れてきたのか、士が落ち着いた声で呟く。理解できないことには慣れている。これまでも数々の世界を巡り、その適応力は並外れたものになっていた。

 ふと、自分の服装を確認してみる。写真館にいたときと同じ、黒いコートのまま。その当たり前の状態に、士は違和感を覚えた。

 

 これまでは世界を移動し、光写真館の外に出れば、士の服装は様々なものに変化していた。それに伴い、その服装の通りの技能と役割が士に与えられ、その世界ですべきことのヒントとなってきたはずだった。

 だが、今の士は何の技能も与えられていない士本来の姿であり、その服装からは役割を見出せない。何の世界かも判らぬこの未知の森、未知の神社の境内で、士は途方に暮れるしかなかった。

 

 ─―そのとき。

 

「お待ちしていましたわ」

 

 突如として耳に響く、若い女性の声。背後から聞こえてきたその声は、澄んでいるとも濁っているとも言い難い、不気味な色を帯びているかのようだった。

 肌を撫でる生暖かい風。気温は低くないはずなのに、士はどこか寒気を感じた。

 

「――ッ、誰だ!?」

 

 咄嗟に背後を振り返る。その瞬間、士の視界は一面の闇に染まっていた。

 神社を、森を、世界のすべてを飲み込んで、見える景色に闇色の雲が広がっていく。

 ぎょろりと浮かび上がる無数の目玉。おびただしく突き伸ばされた無数の腕。現れては消える道路交通標識のようなものは、光写真館で見た絵と同じものだ。

 

「――――」

 

 そこでようやく、彼は気がついた。

 この闇に飲み込まれているのは、世界ではなく自分の方なのだと。

 無辺の深淵。境界に(たたず)む紫色の影。女性と思しきその姿に、士はどこか無意識のうちに魅入られていた。

 女性はゆっくりと振り向くと、微睡(まどろみ)の彼方へと失せていく士に小さく微笑む。

 

 その艶やかな唇が淡く紡ぐ言の葉は──(かそ)やかながらも、門矢士の耳へと届いていた。

 

 

─― ようこそ、私の世界(・・・・)へ ――

 

 

 門矢士の意識は、そこでぷつりと途絶えた。

 

◆     ◆     ◆

 

 それは、どこまでも深く果てしない混沌の中。無数の目玉がひしめく深淵に、一人の女性が佇んでいる。白い帽子にあしらわれた赤いリボンは年端もいかぬ少女らしさを感じさせるが、(たた)える微笑は悠久の時を生きた化生(けしょう)じみたものだ。

 絹の如く揺蕩(たゆた)う金色の長髪。あらゆる境界を見据える紫色の瞳。純白のフリルドレスの上から纏うは、瞳と同じ紫色の道士服めいた前掛け。すべてがこの不気味な空間には似つかわしくないほど可憐であるようにも見え、逆にその妖しさに見合う異質さを備えているようにも見える。

 

 常闇の(はて)。その全身に纏わりつく、不快な視線。このおびただしいまでの負の想念が渦巻く畏怖と拒絶の中において、静かに微笑む彼女はただ、居心地の良ささえ感じていた。

 

「…………」

 

 (いにしえ)の大妖、幻想の境界と称された妖怪の賢者―― 八雲 紫(やくも ゆかり) が微かに顔を強張(こわば)らせる。懐から取り出した白い箱状の物体は、つい先ほど自身が招いた青年から拝借したものだ。

 威圧的な雰囲気を放つ箱の中心には灰色がかった透明の水晶体(センターレンズ)が鈍く輝いており、その左右には緑、赤、青と、三対に彩られた六つの輝石が並んでいる。中心のレンズを囲うように配置された九つの紋章は一つ一つがそれぞれ異なった形を象り、黒く小さく、環状に刻まれていた。

 

 門矢士が所持していた道具。(ゆかり)は自ら望んだ『ディケイドライバー』と呼ばれるそれを見つめると、レンズがある方を外側に向け、それを自身の腰、丹田(たんでん)の辺りに押し当てる。

 すると、ディケイドライバーの左端から突如として伸びた銀の帯が紫の腰に巻きつき、それを特殊な『ベルト』として紫の身体に固定する。ただの白い箱だったそれは、気づけばベルトの留め金(バックル)となって身に着けられていた。

 同時に、紫の左腰に現れるもう一つの白い箱。こちらは箱というよりは本のように畳まれた薄い板の形をしており、斜めに引かれた黒い線の中にはバーコードじみた紋章が描かれている。

 

 ディケイドライバーの両端に設けられた鈍色(にびいろ)の引き金を両手に握る。左右に引くと、内部の機構が回転し、中心の白いバックル部分を直角に傾けた。横向きの楕円(だえん)形であったバックルは縦の卵型となり、引き金に隠れて見えなかった右端の溝が上部に現れる。

 細く小さな溝は、薄い紙が一枚分入る程度の隙間。カードスリットとなったそれを撫でると、紫は左腰の白い板――『ライドブッカー』を開き、中から一枚のカードを取り出した。

 カードに描かれているのは、破壊の化身。マゼンタ色の悪魔。世界を滅ぼす力となり得る災禍(さいか)の具現を、紫はその手に持っている。

 願わくば、この力を持って――来たるべき崩壊から、愛したものを救えるのなら。

 手にしたカードが微かに歪む。気づかぬうちに強く握りしめていたらしい。迷いを振り払い、覚悟を決めてそれを掲げる。人差し指と親指。二本の指でカードを支え、絵柄を闇に向けた。

 

「――変身」

 

 ただ一言。己を変える呪詛(じゅそ)を呟く。

 掲げたカードを(ひるがえ)し、白いバックル、ディケイドライバーのスリットに差し込むと、カードの裏側に描かれていた破壊の紋章が透明なレンズ越しに混沌の世界を睨みつけた。

 

『カメンライド』

 

 悪魔の箱。白い棺が無機質な電子音声を奏でる。破壊の序曲を耳に聞く。滅びの始まりを光と見る。

 もう、後には引けない。この道を、この方法を選んでしまったのなら――彼女はもはや、そうあることしか許されない。

 開かれたバックルの両端、左右に伸びた引き金に再び両手を添える。紫の心は、すでに決まっている。意を決し、両手に力を込めることで、開いたバックルを元の形に戻した。

 

『ディケイド!』

 

 バックルの中心、赤く染まったレンズの中に、バーコードじみた紋章が輝いている。鳴り響く破壊の宣告と共に、周囲に現れた九つの虚像が紫の身体に一つに重なっていき、その身体に漆黒のスーツとして固着される。豊かなドレスと女性らしい身体つきは虚数の果てへと消え、そこには無彩色の戦士だけが立っていた。

 ディケイドライバーから飛び出した幾重(いくえ)もの赤い板。それらは(せわ)しなく回転しながら前方を踊り、やがて次々に戦士と化した紫の仮面へと突き刺さっていく。角度を伴って組み込まれたそれぞれの板が戦士の仮面を彩ると、流れるように戦士の装甲を深いマゼンタ色に染め上げた。

 

 あまりの熱量に、周囲の混沌が、それを凝視していた目玉が吹き飛ぶ。そこに現れたのは、八雲紫の姿などではない。

 胸は肩にまで至る十字の鎧を模す。仮面はさながらバーコードめいた意匠を持つ。一対の複眼は緑色に輝き、額に光る小さな黄色は第三の眼の如く、無辺の混沌を睥睨(へいげい)している。

 悪魔と恐れられたその姿。破壊者と(さげす)まれたその戦士。

 紫はマゼンタ色の威光に染まり、世界から『ディケイド』と──あるいは『仮面ライダー(・・・・・・)』と呼ばれたその力を、(おの)が身に纏った。

 

 独りでに開いたライドブッカーが九枚のカードを吐き出す。それぞれ異なる九人の戦士。その仮面が描かれた九枚の『ライダーカード』が、混沌の境界へと飛び進む。

 一枚、また一枚と何もない闇色の空間に突き刺さり、溶けては虚ろに消えていく。

 その度に、混沌の中に浮かび上がる小さな光。黄金に輝く九つの紋章となって、カードは妖しくマゼンタ色の戦士となった紫の姿を照らし出している。

 九つの紋章。ディケイドライバーに描かれたものと同じ形の『ライダーズクレスト』は、紫を導くように優しく輝き、この不気味な空間の中において強く正しくそこに刻み込まれた。

 

「さぁ、時代をゼロから始めましょう」

 

 輝く紋章のうちの一つ。クワガタムシの大顎を雄々しき双角に見立てたようなそれに触れる。紋章は暖かく、優しさを感じさせる光に満ちていた。

 それは破壊者(ディケイド)の姿となった紫の指さえも青空のように受け入れ、少しづつその身体を光の中へ(いざな)い、紋章の向こう側へと受け入れる。

 その先にあるのは、暴力と悲しみ。破壊と殺戮に満ちた悪意の世界。あるいは、晴れ渡る笑顔の物語。その光は、その青空は、何よりも優しさに満ちているのに。紫には、溢れんばかりの涙を(たた)えているように見えた。

 やがて紋章の彼方へと消えた紫の後に残ったのは、その光の他に輝く残り八つの紋章。

 輝く龍の(あぎと)。燃える龍の頭部。斜め一閃された楕円(だえん)(つるぎ)の如きスペード。三つ巴の鬼火。英字の書かれたカブトムシの背中。過去と未来を示すレールめいた真円。コウモリにも似た高貴なる牙と翼。

 

 そして、最初に触れたクワガタムシの大顎。この九つの紋章はすべて、紫の知らぬ世界の物語。九つの世界、九つの物語。決して交わることのない並行世界。それらすべてが交錯した混沌は、ありとあらゆる因果において、誰にも予測することのできない結末をもたらす。

 彼女の愛した最果ての楽園は、すべての答えを受け入れる。それは何もかもを無に帰す、滅びの現象。避けられぬ崩壊さえも。

 歪む仮面。青空の涙。十字架の写真。虚像の笑顔は悪逆の破壊を写し出す。たとえそれが世界の選択だったとしても、彼女はあまりにも残酷なその終焉(しゅうえん)を、認めることができなかった。

 

──これは、決して交わらざる幻想の物語──




誤字、脱字報告お待ちしています。


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【 第一章 『 九つの物語 2000 ~ 2009 』 】
第1話 始まりの刻 First Border


 ――幻想郷(げんそうきょう)

 それは、東の国の山奥に人知れず存在する小さな秘境。

 時は明治の世において、不可視の結界によって空間の一部を切り離し、外界から隔絶された領域として生み出された箱庭の世界。現代常識の裏側と呼ぶべき、失われた楽園である。

 

 存在を否定され、淘汰(とうた)され、人々の記憶から忘れ去られたものは『幻想』となってこの場所に流れ着く。

 畏怖を失った妖怪、自然を失った妖精、あるいは信仰を失った神々。居場所を奪われた彼らは常識の世界から追放されると同時に、非常識の楽園たるこの幻想郷に導かれ、新たなる住人として認められるのだ。

 

 やがて時は流れ、世は令和の始まり。人間たちは幻想郷に見守られながら、明治の文化を捨てることなく、妖怪の文化を取り入れた独自の発展を遂げてきた。

 

 人間と妖怪が共に生き、互いの意味を尊重し合って豊かな均衡を保つ幻想の(さと)

 しかし、恐怖も争いもない平坦な生活は妖怪の存在意義を奪い、彼らが持つ本来の力を失わせてしまう。

 強大な力を持つ妖怪同士の決闘による、小さな幻想郷の崩壊を危惧したとある人間の巫女は、妖怪の本能を抑えつけることなく平和的な決闘を可能とする、極めて幻想的なルールを制定した。

 

 命名決闘法『スペルカードルール』。

 

 相手の命を奪うことを目的とせず、幻想の力をもって放つ技の美しさを競い合い、相手を魅せる疑似決闘。

 プレイヤーは自身が持つ技を『スペルカード』という契約書に記し、それを提示することで持ち札とする。相手の技に一定数以上被弾してしまったり、提示した技をすべて攻略されてしまった者の負け、というものだ。

 スペルカードルールに則った一種の決闘形式の中でも、特に弾幕という形で技の派手さを強調したものは、娯楽の少ない幻想郷に生きる少女たちに『弾幕ごっこ』と呼ばれ、些細な揉め事も簡単な決闘で解決できる遊び、あるいはスポーツのようなものとして親しまれていた。

 

 妖怪が人間を襲い、人間が妖怪を退治する。平和な幻想郷を維持するための単純な繰り返し。そのために、妖怪が気軽に力を振るえるようになり、力の弱い人間でも妖怪と対等に戦えるようになるスペルカードルールは、今の幻想郷には必要不可欠である。

 ある者は、それを「『殺し合い』を『遊び』に変えるルール」だと称した。命を奪い合う争いを、誰もが楽しめるゲームに変えた幻想の法。故に、『ルールの無い世界では弾幕はナンセンスである』。

 ただ相手を殺すだけが目的なら、弾幕という美しさを用いる必要はないのだから。

 

◆     ◆     ◆

 

 西暦2020年。『平成』の時代を終え、次なる元号を迎えた新時代の春。

 幻想郷の最東端――内側と外側の境界に位置する小さな神社、『博麗神社(はくれいじんじゃ)』の境内で、二人の少女が弾幕の光を散らしていた。

 激しく飛び交う光弾は互いの肌を掠め、流れ弾は境内を覆うように生い茂る木々の隙間に消えていく。満開の花を咲かせた桜の木々は風に揺られ、気力と弾幕をぶつけ合う二人の決闘を盛り上げるかのようにひらひらとその花びらを落とし、境内の石畳を淡い春色に染めていった。

 

「ちっ、これでどうだ!」

 

 黒衣の少女が左手で魔女帽子を押さえ、振り向きざまに叫ぶ。金色の長髪を(なび)かせ、白いエプロンを揺らしながら走り抜ける姿に、いつもの余裕は感じられない。

 幻想郷に生きる人間の一人、魔法使いである 霧雨 魔理沙(きりさめ まりさ) は視界に迫るもう一人の少女に向かって右腕を伸ばし、手の平から無数の光弾を撃ち放った。

 流星群を彷彿(ほうふつ)とさせる青白い星屑(ほしくず)の弾幕はしなやかな軌跡を描き、紅白の巫女装束を纏う黒髪の少女に襲いかかっていく。弾速こそさほどでもないが、この至近距離で放たれた攻撃を回避するのは難しいはずだ。

 走りながらそう考える魔理沙をよそに、紅白の巫女はそれを視認するや否や軽やかに地面を蹴ると、黒髪を()わえた大きな赤いリボンを揺らしてふわりと宙に舞い上がり、魔理沙ごと弾幕を飛び越えてしまう。魔理沙は晒してしまった隙を最小限に抑え、巫女の反撃に対処すべく再び正面に向き直った。

 だが、自身を飛び越えた先、目の前にいるはずの巫女の姿はどこにも見当たらず、代わりに背後から殺気にも似た鋭い気配を感じ取る。

 背筋に冷たいものが伝うのを感じた魔理沙は、明確な戦慄を隠すことができなかった。

 

「降参するなら今のうちよ、魔理沙」

 

 この博麗神社の巫女を務める 博麗 霊夢(はくれい れいむ) は、魔理沙の背中に大幣(おおぬさ)の先端を突きつけ、強気な口調で静かに告げる。

 ある程度なら空間を無視した移動を可能とする彼女は、魔理沙を飛び越えたと同時にその先の着地点に別の空間を接続し、そこに落ちるという形で魔理沙の背後に瞬間移動したのだ。

 

 もはや観念したのか、魔理沙は霊夢を刺激しないようにゆっくりと両手を上げ、その手に何も持っていないことを証明する。抵抗しようとする動きを見せない魔理沙の姿を見て降参の意思を表明したと判断し、霊夢は魔理沙の背中に突きつけていた大幣を下ろした。

 

「……なんてなっ!」

 

 その瞬間を見計らい、魔理沙は手元に古びた竹箒を召喚すると、遠心力を込めて背後にいた霊夢を振り払う。巫女としての勘が働いたのか、霊夢はそれを難なく回避し、袖から博麗の加護が施された数枚のお(ふだ)を抜き取った。

 その場に箒を捨て置いた魔理沙は素早く地面を蹴って後退し、帽子の中から八角形の小さな火炉、『ミニ八卦炉(はっけろ)』を取り出すと、右手でそれを構え、反動に備えて左手で腕を支える。片手に収まるサイズながら最大火力に至れば山一つ焼き払うその武器を前にしてなお、霊夢は少しも怯みを見せない。

 魔理沙が狙いを定める僅かな間に霊夢は体勢を立て直し、ミニ八卦炉を目掛けてお札を投げつける。水平に飛んだお札にミニ八卦炉を弾き飛ばされ、魔理沙は尻餅を着いてしまった。

 霊夢はその隙を見逃さず、一瞬で魔理沙の目の前まで移動し、左手に持った大幣を彼女の眼前に振り下ろす。魔理沙は咄嗟に目を瞑るが、それ以上の攻撃が飛んでくる気配はない。

 

「これで王手ってところかしら?」

 

 霊夢は大幣の先で魔理沙を指したまま、不敵な笑みを浮かべる。弾き飛ばされたミニ八卦炉は魔理沙の手が届く距離にはなく、魔法で手元に引き寄せようにも突きつけられた大幣はそれすらも許してくれそうにない。

 完全に追い詰められたことを悟った魔理沙は小さく溜息をつき、今度こそ投了を宣言しようと再び両手を上げた。

 それを見た霊夢は一瞬だけ気を緩めかけたが、警戒を解かず怪訝(けげん)な眼差しで魔理沙を睨む。

 

「――降参だ。何度も同じ手は使わないぜ」

 

 やれやれ、と肩を竦ませ、霊夢を仰ぎ見るように呟く魔理沙。明確に降参の意思を告げられたため、霊夢はそこでようやく大幣を下げることができた。

 スペルカードルールにおいて、勝負に敗れた者はそれ以上の攻撃を行えず、余力を残していても負けを認めなくてはならない。たとえ王手を掛けられていても、逃げ場さえ残っていれば戦闘を続けられるが、いわゆる『詰み』の状況に陥ってしまえば戦闘の続行は不可能となる。

 定められた敗北条件を満たすか、一度どちらかが明確に降参を宣言すれば、その時点で弾幕勝負は決着したと見なされ、双方は追撃及び反撃行為を禁じられるのだ。

 

 勝敗が決し、緊張を保つ必要もないと判断した魔理沙は、冷たい石畳の上で痛みを感じ始めた腰を上げ、スカートについた汚れを軽く掃いながら立ち上がった。激しい戦闘で落ちそうになっていた帽子を深く被り直すと、魔理沙は霊夢と交わした約束を思い出して気が重くなってしまう。

 

「約束よ。宴会の準備、手伝ってもらうわ」

 

「やれやれ、今日こそは勝てると思ったんだがな」

 

 普段なら博麗神社で行われる宴会の基本的な準備は霊夢が担っているのだが、今年は幻想郷と外の世界を分け隔てている『博麗大結界(はくれいだいけっかい)』の小さな綻びが頻発しており、その修復作業や原因の調査などで多忙に追われていたため、ほとんど宴会を開催できていなかったのだ。

 

 宴会準備の手伝いを懸けた弾幕勝負が霊夢の勝利に終わると、魔理沙は渋々ながらそれを承諾し、霊夢を振り払った際に落とした竹箒を拾い上げる。

 箒がなくとも自由に飛行できるのだが、彼女はこれに乗って空を飛ぶことに(こだわ)っている。魔理沙曰く「魔法使いっぽいから」という理由で、普通の人間である自分が魔法使いらしく振る舞うためには必須だと思っているらしい。

 魔法使いと言っても、魔理沙は魔法が使えるだけのただの人間に過ぎない。成長を放棄し、妖怪じみた存在となった幻想郷的な『魔法使い』とは違い、魔理沙はまだ妖怪としての魔法使いの域には至っていない。

 食事を取らなければ衰弱するし、病気に(かか)れば命を落とすこともある。魔法を使うことができるということ以外は普通の人間と何も変わらない、至って普通の魔法使い(・・・・・・・)である。

 

「それにしても、こんなときに巫女が宴会なんてしてていいのか? 天下の博麗大結界が緩むなんて、六十年周期にはまだ早いぜ」

 

 魔理沙が魔法をかけると、その手に握られていた竹箒は煙のように一瞬で消え去った。

 長年に渡る魔法の研究の結果、魔力を帯びるようになったその箒は、魔理沙の意思一つで自由に出現と消失を行えるのだ。

 弾き飛ばされたミニ八卦炉も忘れることなく回収し、再び帽子の中へとしまう。

 彼女にとってそれは心強い武器としてはもちろんのこと、暖房から調理まで、あらゆる面で生活に欠かせない道具、あるいは大切な人から(もら)った想い出として、かけがえのない宝物だった。

 

「やっぱり、『異変』なんだろ? 今のところ被害は出てないみたいだが」

 

 悠々とお札をしまう霊夢を見て、魔理沙が問う。その言葉は、まさしく霊夢の考えていたことを的確に射抜くもの。どこか他人事のように考えていた霊夢も、その言葉を聞いてはもはやそう考えるしかないのか、と現実を突きつけられたような気持ちになった。

 

 ――異変。この幻想郷においては、人間もそれ以外もすべてを巻き込んだ大規模な異常現象が発生することが度々ある。

 過去にあった例を挙げれば、幻想郷の空が紅い霧で覆われ、日光が遮られてしまったり、五月になっても冬が終わらず、春の景色が雪に染まったままであったり。あるいは人も妖怪も問わず、そのほとんどが無意識的に連日連夜に渡る宴会を繰り返していたこともあった。

 

 人々はそれを『異変』と呼び、詳細な原因は不明とされているが、実際は強大な力を持つ一部の妖怪が気まぐれで引き起こしたものがほとんどである。

 だがその影響は大きく、最悪の場合は幻想郷の存続にも関わるため、異変と判断されれば幻想郷の調停者、妖怪退治の専門家である『博麗の巫女』が行動し、異変の解決、およびその首謀者である妖怪を退治するのが基本となっていた。

 しかし、当代の博麗の巫女である霊夢はあまり積極的に異変解決に(おもむ)こうとはしない。たとえ異変に気づいていても、実際に自分の周囲に被害がなければ行動を起こさない性格だ。

 

 (くだん)の博麗大結界は実体を持たず、現実と幻想を分け隔てる境界として成り立っている論理的な結界として定義されている。物理的な手段では干渉することさえできず、博麗神社とその巫女が幻想郷に存在しているだけで維持されるため、結界に揺らぎが生じることは滅多にない。

 数少ない例外は六十年周期で訪れると()われる異変、『六十年周期の大結界異変』による大規模な緩みだが、前回の当該異変からはまだ十年ほどしか経っていないはずだ。

 過去にも幻想郷に多大な影響を及ぼす異変は数多く存在したが、博麗大結界そのものに直接の影響が出るという事態は極めて珍しい。博麗の巫女たる霊夢も今は原因の調査が精一杯で、異変の解決に踏み込むには情報が足りず、手をこまねいている。

 もしこれが従来通り一部の妖怪によるものであるならば、その妖怪を退治してしまえばこの異変は収束していくだろう。だが、異変と呼ぶにはあまりに特殊かつ奇妙なこの事態に、幻想郷の賢者たちは最悪の事態を防ぐ『現状維持』以上の対策が取れず、膠着(こうちゃく)状態に陥ってしまっていた。

 

「ちゃんと仕事もしてるんだから、大丈夫よ。それに――」

 

「それに?」

 

「これだけ立派な桜が咲いてるんだから、楽しまなきゃ損でしょ?」

 

 霊夢は博麗神社の境内から幻想郷を一望する。小さな郷の至る所に咲き乱れる薄紅色は、春の目覚めを感じ取るのに十分だった。

 これまでも数々の異変を解決してきた霊夢は今回の異変も楽観視している。原因の調査を進めても現状以上のことは何も分からなかったため、いつも通り勘で適当に探し、現れた原因を退治するという方法で異変の解決に当たってみることにした。

 霊夢にとって、自分の勘より信頼できるものはほとんどない。あれこれ考えるより、まずはとにかく行動する方が性に合っている。そうすれば、必ず相手の方から顔を出してくれるはずだ。

 

「しかし、大結界の綻びか……ちょっと面白そうだな」

 

 興味深そうに魔理沙が呟く。彼女も霊夢と同じく異変の解決に出向くことがあるが、大体の動機は単なる好奇心によるものであるため、博麗の巫女としての職務の一環で異変解決を行っている霊夢には先を越されてしまうことがほとんどだった。

 魔理沙が地道な努力と調査を重ねている間に、霊夢は天賦(てんぷ)の才能と生まれ持った己の勘のみで異変を解決してしまう。認められずとも、魔理沙はその差を痛感していた。

 

 自嘲(じちょう)気味に小さく笑うと、不意に境内を照らす陽光が陰りを見せる。雲一つない晴天だったはずの空の下、遮られた日差しに違和感を覚えた二人は、無意識のうちに空を見上げていた。

 

「なんだ? 急に暗くなってきたが……」

 

 博麗神社の空から太陽を奪い去ったものは雲などではない。

 それは、虚ろな光の(とばり)にも、空の裂け目にも見える、禍々(まがまが)しくも神秘的なもの。

 

 ――『灰色のオーロラ』。

 

 霊夢たちが目にしたものは、そう形容する他になかった。

 

 境内に落ちた光は朧気(おぼろげ)なカーテン状の壁を象り、絶えず不規則に揺らいでいる。その妖しい輝きは、見ているだけで吸い込まれてしまいそうな錯覚にさえ陥るほど、深く、美しい。

 

 まるで異なる世界と世界が繋がるかのように。空気の流れが変わり、空間が不安定に歪んでいく感覚。霊夢と魔理沙はこの怪奇現象を前に、本能的にそれを感じ取っていた。

 間違いない。これこそが博麗大結界の綻びとなっていた原因。霊夢の勘が導き出した答えは、彼女が確信を得るのに十分だった。

 博麗大結界が綻んだ原因は外の世界からの影響や、大結界そのものに対する干渉ではない。霊夢たちの目の前で揺らぐ不気味なオーロラのようなものが空間を歪ませ、幻想郷に悪影響を及ぼしているのだ。

 それは何の確証もない直感。文字通り、ただの勘に過ぎない。それでも霊夢の勘はそれだけで異変を解決するための判断材料となるほど強く、十分な信頼に足るだけの重要な要素となる。

 

「……前言撤回。魔理沙、今日の宴会も中止よ」

 

 霊夢は真剣な表情で妖怪退治用のお札を手に取り、構える。異変解決モードとなった霊夢を見て、魔理沙も未知の脅威に備えた。

 灰色のオーロラが再び大きな揺らぎを見せ、それが波紋となってオーロラ全体に広がっていく。より一層強くなる空間の歪みを感じ、二人は自然と臨戦態勢に入っていた。

 

 直後、波打つ光の幕から吐き出される一つの塊。暗い緑色をしたそれは続けざまに二つ、三つと飛び出し、博麗神社の境内に着地する。

 丸めていた背を広げ、畳められていた手足を伸ばし、二本の足でゆっくりと立ち上がると、おおよそこの幻想郷には似つかわしくないような歪で醜悪な姿が明らかになっていく。

 

「妖怪、なの……?」

 

 妖怪退治を生業(なりわい)とする霊夢でさえ、その存在は見たことがないものだった。

 緑色の皮膚から薄く透き通って見える細胞群は顕微鏡(けんびきょう)越しに見る微生物を連想させる。その姿はまるで人の形を得たミジンコの怪物としか形容できず、人の言葉が通じそうにない原始的なおぞましさを感じさせた。

 中でも一際目を引くのは腰に巻かれたベルト状の装飾品だ。その中心にある青銅色の留め金(バックル)は悪魔の形相めいた不気味な意匠を持ち、威圧的な悪意を放っている。あまり質が良くないのか、劣化によって朽ち果てているものの、怪物にとってはそれが象徴的な装飾であるように思えた。

 

「ギィ、ギィィィ」

 

 剥き出しの闘争本能は相手を選ばず、獣じみた鳴き声を上げて二人を威嚇(いかく)する。

 腰に携えられた短剣を抜き、霊夢たちにその刃を向けると、博麗神社に招かれざる三体の怪物、ミジンコ種怪人『ベ・ジミン・バ』は俊敏な動きで刃を振りかざし、二人に襲いかかった。

 

「おわっ!? なんだこいつら、幻想郷のルールも知らないのか!?」

 

「話の通じる相手じゃなさそうね。その身に直接、叩き込んでやるわ!」

 

 幻想郷において、力のある存在、すなわち妖怪が無力な人間を一方的に攻撃することは禁じられている。その差を補うためにも、スペルカードルールは機能しているはずだ。

 しかし、霊夢たちの目の前にいるこの怪物は幻想郷の秩序に背き、博麗の巫女とはいえ人間である霊夢に対して弾幕という手段を用いらずに攻撃を仕掛けてきた。

 ルールに従わない存在は幻想郷に拒絶され、その意思たる『妖怪の賢者』によって排除されることになる。その前に、無知な怪物たちにこの郷の秩序を教えてやらなくてはならない。

 

「ギィィッ!」

 

 先頭のベ・ジミン・バが振り下ろした短剣を避け、霊夢は左手に持った数枚のお札を無造作に放り投げる。巫女の霊力が込められた霊夢特製のお札はどこまで逃げようが必ず追い詰め、対象を攻撃する必中の誘導ショット、【 ホーミングアミュレット 】となるのだ。

 相変わらず本人は真っ直ぐ放っているつもりなのだが、不思議なことにお札は曲線を描き、霊夢が狙ったものを的確に射抜く性質を備えていた。

 空中にばら撒かれた数枚のお札はそれぞれが独立して飛んでいき、怪物に対して攻撃を仕掛けるが、俊敏な動きの怪物は避けようとすらしない。霊夢のショットを正面から受けても怯むことなく攻撃を続けるその姿は、まるで自分が攻撃を受けたことにすら気づいていないようだ。

 

「ギィィィッ!」

 

 奇妙な鳴き声を発しながら三体の怪物は短剣を振るい続ける。回避経験に長けた霊夢たちにその刃が当たることはないが、霊夢のお札を受けても怯まないほどの精神力は厄介だ。スペルカードルールを教えようにも、幻想郷に馴染もうという意思が感じられない。

 霊夢のお札に加え、魔理沙も自らの魔力で生成した光弾、【 マジックミサイル 】を放つ。光弾はベ・ジミン・バの皮膚に命中し炸裂するが、それでも怪物が動きを止める気配はない。

 

 これだけの警告射撃を受けてなおスペルカードルールを逸脱した攻撃を続けることは、紛れもなく幻想郷の秩序に対する反逆行為だ。

 霊夢は博麗の巫女として、この存在を反逆者と見なす覚悟を決めた。

 スペルカードルール外の攻撃を続ける相手には、スペルカードルール外の攻撃を。幻想郷の秩序を乱す者には、相応の『不可能弾幕』をもって制裁を下す必要がある。命を奪わない平和的なルールの中で戦闘を繰り返していた少女は刹那(せつな)の間に葛藤を振り払い、やがて決断を下した。

 

「おい、効いてなさそうだぞ……どうするんだ?」

 

「……決まってるでしょ、本気で相手をするまでよ!!」

 

 俊敏だが単調な攻撃を回避し続け、霊夢は手に持ったお札に再び霊力を注ぐ。

 それは、いつものような遊びの『弾幕ごっこ』ではない、故意に命を奪うための攻撃。彼女の本気を込めたホーミングアミュレットはベ・ジミン・バへ向かって一直線に飛んでいき、その全てが命中した。

 緑色の皮膚に突き刺さった数枚のお札が青白く弾け、込められた霊力は怪物の体表で次々と炸裂する。怪物が腰に巻くベルトのバックルにも亀裂が入り、確実なダメージとして見て取れた。

 

「このまま一気に……! ――ッ!?」

 

 霊夢が追撃を試みようと、再びお札を取り出した瞬間――

 

「ギィィアアアーーッ!!」

 

 ――咆哮と共に、怪物は突如、内側(・・)から『爆散』してしまう。

 

 あまりにも呆気なく弾け飛んだ肉片や臓物は、凄まじい熱気と霊力の渦に掻き消され、跡形もなく消滅してしまった。

 突然のことに驚きながらも、二人は爆風から身を守るために咄嗟に腕で顔を覆う。幸い、爆発の規模は大したことがなく、弾幕ごっこに慣れていたおかげもあり、火傷などの被害は免れた。

 

「わっぷ! な、なんだ!? いきなり爆発したぞ、こいつ!!」

 

「やっぱりただの妖怪じゃないみたいね……! 手加減は無用よ!!」

 

 疑問は尽きないが、一体の怪物を葬り去っても油断はできない。残った二体のベ・ジミン・バは先ほどよりもさらに激しい動きで短剣を振るい、霊夢たちへの攻撃を続ける。

 霊夢の意図を察した魔理沙もスペルカードルールの範疇(はんちゅう)を超えた魔力を注ぎ込んでマジックミサイルを生成し、ベ・ジミン・バに向けて射出するが、仲間を殺されて危機感を覚えたのか、怪物は機敏な動きで光弾を回避してしまう。

 対象を追尾する性質を持つ霊夢のホーミングアミュレットとは違い、真っ直ぐにしか飛ぶことのできない魔理沙のマジックミサイルは地面に着弾して小さな光を炸裂させた。普段の弾幕ごっこでは出力を抑えた基本のショットとして放っている下級の魔法だが、相応の魔力を込めれば容易(たやす)く地面を抉るだけの威力がある。生身の人間がこの一撃を受ければ、まず命はないだろう。

 

「くそっ! こんなときに(ゆかり)は何やってんだ!!」

 

 焦らず、次なる魔力の光弾を放つ魔理沙。その声はどこへともなく張り上げられる。

 幻想郷の管理者、すなわち妖怪の賢者である 八雲 紫(やくも ゆかり) 。幻想郷に何か異変があれば彼女が気づかないはずはなく、ルールに背くような存在が現れたのならば真っ先に彼女が動くはずだ。

 だが、今は姿を見せないどころか、反逆者に対する処分さえ明らかにしていない。

 どこにいるのかさえも分からない紫の指示をただ待っているわけにもいかず、今は自分の身を守るために目の前の怪物を倒すべきだと判断し、本気の弾幕をもって応戦するしかなかった。

 

「グギャァァアアアッ!!!」

 

 背中合わせに放たれた二人の弾幕はそれぞれが対峙(たいじ)していた怪物に命中し、霊力と魔力が二体のベ・ジミン・バを爆散させる。

 博麗神社に現れた怪物は全て倒したが、怪物が現れた原因である灰色のオーロラも、空間を不安定にしていた不自然な歪みも、いつのまにか消え去っていた。

 

 不意に、霊夢の首筋に冷たい汗が流れる。当たってほしくない嫌な勘は、霊夢の視線を南西の空へと向けさせた。

 その方角には幻想郷において数少ない、人間が安全に暮らせる『人間の里』が存在する。本来なら人間を襲うことはもちろんのこと、妖怪同士の決闘も禁止されている不可侵の領域も、今となっては安心できる場所ではない。

 現に、さっきまで博麗神社に現れていた灰色のオーロラが、人里の上空に出現しているのだ。それを見た二人はすぐにその意味を察し、最悪の状況を予想してしまう。

 

「おい、あれって里の方角じゃないか……?」

 

「……っ!!」

 

 湧き上がる焦燥に()え切れず、霊夢は無言で空へ()び上がった。魔理沙も箒に(またが)り、霊夢を追って里の方角を目指す。

 もし、あの怪物が里に現れれば、おびただしい数の人間が犠牲になるだろう。幻想郷の秩序は妖怪と人間の間に結ばれた条約。危うい平和の維持。形骸化したシステムによる均衡は、少し傾いただけで簡単に崩れ去ってしまうほど、脆く不安定なものでしかない。

 幻想郷の秩序崩壊を阻止するのが博麗の巫女に与えられた役割であり、大結界の維持と並行して異変解決を行うことが、霊夢の巫女としての使命だった。

 

 霊夢と魔理沙が去り、誰もいなくなった博麗神社。その境内に鎮座する賽銭箱の前に、突如として小さな裂け目が現れる。深淵から無数の目を覗かせる不気味な裂け目の両端には赤いリボンが結ばれ、その異質さを際立たせていた。

 ふわふわと賽銭箱の前を漂う謎の裂け目は、その隙間(スキマ)から白く細い女性の腕を伸ばすと、手に持った一枚のカードを賽銭箱に落とし、再びスキマの中へと腕を()み込む。

 役目を果たした妖しげなスキマはゆっくりと閉じていき、やがて静かに姿を消した。




ベ集団のバックルの色は消去法で決めました。

次回、STAGE 2『現れるもの Encounter』


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第2話 現れるもの Contact Encounter

 建物一つない荒野と化した人間の里。

 だが、それは決して怪物によって滅ぼされてしまったためではない。この里に住む一人の妖怪が幻想郷の『歴史』を喰らい、人里の存在を生物の認識から欺くことで隠しているからだ。

 過去の出来事を無かったことにし、偽りの歴史を正史だと錯覚させることで、人間の里を侵略者から守っている。

 妖怪の身にして人間を愛する彼女は、この里が蹂躙(じゅうりん)されることを許せなかった。

 

「ここを、通すわけには……!」

 

 女性は青い建物状の帽子を被り、蒼銀の長髪を揺らしながら息を切らしている。青い服と特徴的なロングスカートは彼女自身の血と土に汚れ、(かんば)しくない戦況を雄弁に物語っていた。

 半人半獣の妖怪である女性、 上白沢 慧音(かみしらさわ けいね) は歴史を司る『ワーハクタク』と呼ばれる種族の能力で里を隠し、怪物の侵攻を食い止めている。

 人間の里は物理的に消失したわけではなく、あくまで一時的な歴史の改変により生物の認識から外れているだけだ。怪物が無差別に暴れてしまえば、どれだけ歴史を変えようと人里が滅びる運命に変わりはない。

 彼女が持つ『歴史を食べる程度の能力』は、実際に起こった出来事や過去そのものを書き換えることはできないが、歴史を隠すという形で今ある現実にある程度の影響を与えられる。

 既に過去の出来事を知っており、そこに里があったという事実を知る者に対してはあまり意味がないものの、里の成り立ちを知らない若き人妖や、外の世界からの来訪者にとっては過去の改変と同等の効果を発揮するのだ。

 幸い、死傷者を出すことなく里の存在を隠せたが、彼らが帰るべきこの場所を、慧音はなんとしても守りたかった。彼女はそれを自らの責務だと考え、幻想郷の秩序を乱す者を敵視する。

 

「ギィ、ギィィ」

 

 慧音に対し、向かう怪物の数は三体。表情の伺えない不気味な姿で彼女を取り囲むベ・ジミン・バは、ミジンコのように(せわ)しなく飛び交い、慧音の首を()ねようと短剣を構えている。

 能力で隠しているとはいえ、多くの人間たちが生きる里でこの数を相手に戦うことは難しい。集中力を切らせば能力が解け、目の前の怪物は間違いなく人里に侵攻するだろう。

 スペルカードルールによる決闘なら余裕を保っていられるが、幻想郷の法に従わない者が相手ではそんな悠長なことは言っていられない。里を丸ごと対象とした大規模な術を維持しながら、命を奪い合う本気の戦闘を行うなど、争いを好まず、戦闘慣れしていない慧音にとっては容易にできることではなかった。

 まして半人半獣といえど、今の彼女は普通の人間と何も変わらない。獣人としての本来の能力、すなわち神獣『白澤(ハクタク)』としての慧音は、月に一度、満月の晩にのみ顕現(けんげん)する。今は人間としての能力を駆使し、人間並みの身体能力のままで未知の怪物と対峙している状況にあるのだ。

 

「ギィッ!」

 

「くっ……!」

 

 一瞬の思考が隙を生み、僅かに外敵への反応が鈍る。理性なき獣はそれを見逃さず、高く跳躍して慧音の首元に短剣を振り下ろした。

 判断の遅れを悔いる間もなく、空中に跳び上がったベ・ジミン・バの一撃が慧音に迫るが、その刃が彼女の身体(からだ)に突き刺さることはない。気がつけば怪物は虚空より飛来した一本の鋭い針に右肩を穿(うが)たれ、赤い血を散らせると同時に勢いを殺されて人里の地に叩き落とされていた。

 

「霊夢か! こいつらはいったい……!?」

 

「さぁね。こっちが聞きたいくらいだわ……!」

 

 里の大地に降り立った霊夢に続いて、魔理沙も箒から飛び降りた。

 怪物は己の肩に突き刺さった針を力任せに引き抜き、傷痕から血を滴らせながら霊夢たちを見据えている。

 形こそ人間に近い姿をしているものの、知性はそれほどないのか、直線的で単調な動きはあまり弾幕ごっこに興じない慧音でも簡単に避けることができた。が、やはり弾幕に慣れた霊夢や魔理沙と比べて動きが鈍いせいか、ベ・ジミン・バたちは再び慧音に狙いを絞って短剣を振り始める。

 

「この……! させるかっての!」

 

 人里を隠すことで被害の拡大を抑えている慧音が倒されることを危惧し、霊夢は袖から数本の針を取り出して慧音を狙う一体のベ・ジミン・バに向けて射出する。

 巫女の信仰心、その霊力が込められた【 パスウェイジョンニードル 】は怪物の(もも)を穿ったが、僅かに怯ませる程度の効果しかない。動きを止めることはできたものの、それ以上の深手にはならなかった。

 このショットはホーミングアミュレットとは違い、敵を追尾する性質を持っていない。魔理沙のマジックミサイルと同様、真っ直ぐにしか飛ぶことはできないが、その分、速度と威力は折り紙付きだ。霊的な意味を持つお札よりも物理的な殺傷力があるため、動物的な相手に対してはお札以上の効果を発揮することができる。

 霊夢は再び渾身の霊力を注いだ針をまとめて撃ち出し、ベ・ジミン・バを狙う。一直線に飛んだ針は怪物の腹に突き刺さり、怪物は流し込まれる膨大な力に耐え切れず、炎を上げて爆散した。

 

「これでも食らえっ!!」

 

 魔理沙は指先に魔力を溜め、一直線に放たれる光線、【 イリュージョンレーザー 】として撃ち放つ。光線は慧音を狙うもう一体のベ・ジミン・バの右腕を貫通し、その痛みに怯んだ怪物は短剣を取り落した。

 焼け焦げた腕の傷を一瞥(いちべつ)すると、武器を失った怪物は自らの牙をもって魔理沙に襲いかかる。ギラリと輝く怪物の牙は、短剣の刃にも匹敵する鋭さを見せた。

 咄嗟に魔法陣を展開し、魔理沙は怪物の牙を防ぐ。実体化した魔力で構築された即席の盾は魔理沙の身を守るが、怪物の牙は容赦なく魔法陣の輝きを削っていく。今にも砕け散りそうな頼りない障壁に隠れながら、再びイリュージョンレーザーを撃ち放つための魔力を蓄えていった。

 

「魔理沙! 後ろだ!!」

 

 十分な魔力を溜めた魔理沙に対し、慧音が告げる。少しの動揺はあったが、魔理沙は躊躇(ためら)いなく自ら張った魔力の盾を爆発させ、敵を怯ませると同時に、()ぜた魔力の風圧を受けることで前方のベ・ジミン・バと距離を取りつつ、その勢いを利用して背後のベ・ジミン・バに自身の体重を乗せた渾身のヒップアタック、【 マスィヴボディ 】の一撃を見舞った。

 間髪入れず、溜めておいた魔力を指先から解放し、高出力のイリュージョンレーザーで前方のベ・ジミン・バの心臓を貫く。全身を駆け巡る魔力に細胞を焼かれ、怯んでいたベ・ジミン・バは断末魔の叫びを上げることもできずに爆散した。

 魔理沙は一体の怪物を倒したことを確認する間もなく、一瞬だけ手元に召喚した竹箒で背後にいたベ・ジミン・バを殴り払い、軽やかに大地を蹴って再び大きく距離を取る。

 

「ギギ、ググ……」

 

「私の後ろを取ろうなんて、十年は早いぜ」

 

 ベ・ジミン・バは完全に魔理沙のみに注意を向け、怒りのままに短剣を振り上げた。感情に身を任せ、誤魔化しようのない隙を晒してしまった怪物に対し、魔理沙は小さく笑いを零す。

 スペルカードルールにおいても、ルール無用の殺し合いにおいても、最後に立っていられるのは我を忘れなかった者だけだ。怒りと焦燥から冷静さを欠いた愚かなる獣に、もはや勝利など残されてはいない。

 隙だらけのベ・ジミン・バは背後に接近していた霊夢の存在に気づけず、至近距離で射出されたパスウェイジョンニードルをまともに受ける。清雨の如く降り注ぐ信仰の針を叩き込むと、霊夢はベ・ジミン・バを蹴り飛ばす反動で爆発の範囲外へと退避した。

 

「ふぅ……これで全部ね」

 

「……すまない、助かった」

 

 霊夢たちの力がなければ怪物の侵攻を許していたかもしれない。最悪の結果を避けることができた旨を告げ、慧音は霊夢たちに感謝する。

 同時に、能力を維持しているとはいえ、自らが怪物を退けられなかったことを歯痒く感じた。里への被害を考慮せずに戦うことができたなら、あの程度の怪物に遅れは取らなかっただろう。責任感の強い彼女の性格では、そのような選択肢は有り得なかったのだ。

 

 長時間、能力を維持し続けることは慧音自身への負担が大きく、何より人里を不可視化したままでは幻想郷の妖怪、人間たちにとっても不都合が多い。怪物の脅威が去ったことを確認し、慧音は里にかけていた自らの能力を解こうとする。

 ――が、妖怪としての能力か、慧音個人の第六感か。彼女の知覚は、里へ来訪するもう一つの悪意を認識した。

 解きかけていた能力への意識を強め、里へ近づく邪悪な『何か』を警戒する。最初の怪物のときと同じく、空間ごと空気が変わるような不気味な感覚が肌に伝わってきた。

 

「いや、まだだ。まだ気を抜くな……!!」

 

 戦いはまだ終わっていない。慧音が霊夢たちにそれを告げた瞬間、一層強くなった邪悪な気配が霊夢たちの前に具現する。先ほどまでの怪物とは比べものにならない露骨で明確な悪意は、疑いようもない殺気として霊夢たちの身を貫いた。

 異形の身に纏う民族衣服めいた布は超古代の文明を感じさせ、複眼に押し潰された双眸(そうぼう)は醜く歪につり上がり、側頭部からは節足動物じみた細長い足が何本も突き出している。人の形をした蜘蛛(クモ)の怪物と形容し得るそれは、ベ・ジミン・バと同じように、灰色のオーロラから現れた。

 

 腰にはやはりベ・ジミン・バと同じ不気味なベルト状の装飾品が巻かれているが、彼らとは違い、バックル部分がくすんだ赤銅色となっている。ただ色が変わっただけだというのに、象徴的な意匠の変化は力量の差をも物語っているようだった。

 怪物はベ・ジミン・バのように忙しなく跳ね回るわけではなく、その鋭い視線で霊夢たちを見据えながら、悠然と里の大地を踏みしめる。土の地面はその重量に沈み、怪物の足跡を刻んだ。

 

 所詮(しょせん)は『ベ』か 役に立たない ザコどもが

「ショゲン パベバ ジャブビ ダダバギ ザボゾログ」

 

「……!? 言葉……?」

 

 蜘蛛に似た怪物が煩わしげに吐き捨てる。それは鳴き声と呼ぶにはあまりに複雑な音。人の言葉のようにも聞こえたが、慧音たちが聞き取れた言葉の羅列には意味を見出せない。

 だが、理解こそできないものの、言葉を話すということはある程度の文明を持っているはずだ。それは今まで動物的な鳴き声しか発していなかったベ・ジミン・バよりも遥かに高い知性を持つことの証左である。

 慧音はそのことに気づくが、仮に言葉が通じたとしても、平和的な対話など望むべくもないだろう。何せ、こちらは受動的な正当防衛とはいえ、既に相手の怪物を何体も殺しているのだ。これほど好戦的な怪物が、仲間を殺した相手の話を素直に聞いてくれるとは思えない。

 

 風が吹き抜ける静寂。一瞬の緊張を破り、先に動いたのは怪物の方だった。

 ゆっくりと歩を進めながら、蜘蛛の怪物は両の拳を握りしめる。手の甲から生えた鋭い鉤爪が一瞬で短刀を思わせる長さにまで伸びると、怪物は己が鉤爪を構えて大地を蹴った。

 跳躍した怪物はその爪を霊夢に向けて勢いよく振り下ろすが、この程度の攻撃は霊夢には当たらない。大地を砕き、土煙を巻き上げた怪物は一瞬だけその動きを鈍らせ、僅かな隙を見せた。

 

「そこっ!!」

 

 霊夢はそれを見逃さず、怪物の真横から強化されたお札の弾幕、【 博麗アミュレット 】を叩き込む。霊夢の手から離れたお札は瞬時に大型化し、怪物の身体に命中して次々と霊力を爆発させていった。

 博麗アミュレットはホーミングアミュレットに比べて射程と追尾性能が落ちるが、この距離ならば純粋に威力を上げたこちらの方が都合がいい。

 この怪物がベ・ジミン・バと同じなら、これだけのダメージで十分に倒せていただろう。必要以上の霊力を込めた弾幕をもって、確実に相手を仕留めたつもりだった。しかし、目の前の怪物は気にも留めずに手で傷を払い、石ころでも投げつけられた獣のような視線で霊夢を睨みつける。

 

「うそ、効いてないの……!?」

 

 掠り傷程度のダメージは即座に治癒し、霊夢を驚愕させた。恐るべきはその生命力か、あるいは驚異的な皮膚の強度か。ならばより強い攻撃をぶつけるまでだと判断し、霊夢は霊力を溜めながら怪物と距離を取る。

 慧音を守るように立ち回る魔理沙に目配せをすると、その意図を察してくれたのか、魔理沙は予め溜めておいた魔力で光弾を生成。放たれた【 マジックナパーム 】は霊夢に注意を向けていた怪物に炸裂し、物質化した粘液状の魔力を浴びせた。

 怪物がそれを怪訝に思う暇も与えず、魔理沙がパチンと指を鳴らす。その瞬間、付着した魔力が激しく燃え上がり、怪物の全身を魔力の炎に包み上げた。

 燃焼に酸素を必要とせず、術者の意のままに燃える魔法の炎は怪物にダメージを与え続ける。

 

「これで少しは(こた)えるだろ……!」

 

 燃え盛る炎に包まれてなお、怪物は絶命していない。魔理沙は追撃を早まり、今度は大技を決めてやろうと再び魔力を溜め始める。

 が、怪物はマジックナパームの焼夷剤(しょういざい)を呆気なく振り払うと、炎の呪縛から逃れてしまった。全身に大きな火傷こそ残っているものの、怪物にとってそれが致命的なダメージになっているようには見えない。

 魔理沙は焦って次の一撃を放とうとするが、それだけの魔力は溜まり切っておらず、ただ僅かな隙だけを晒してしまう。無防備な一瞬を見逃すことなく、怪物は口から白く光る一筋の糸を吐き出した。

 弾丸の如き速度で放たれた蜘蛛の糸は風を切り、魔理沙を目掛けて一直線に飛来する。蜘蛛の糸は魔理沙の全身を絡め取り、その身体の自由を完全に封じ込めていた。

 

「しまっ……!!」

 

「魔理沙!!」

 

 ある程度の距離が開いていたとはいえ、魔理沙は敵を目前に余計な隙を見せてしまったことを悔いる。

 かなりの強度を持つ粘着性の糸は少し身体を捻った程度では全く隙間を見せてくれず、魔法やミニ八卦炉の火で糸を焼き切れないか錯誤するが、頑丈に絡みついた糸の中では満足に手足を動かすことすらできない。

 それどころか、迂闊に動いたせいでバランスを崩して転倒し、受け身の取れない姿勢のまま地面に鼻をぶつけてしまった。意図せず溢れる涙を(こら)え、これ以上の状況の悪化を防ぐため、魔理沙は自分を心配して駆け寄る慧音と、蜘蛛の怪物を警戒し続ける霊夢に向かって叫ぶ。

 

「私のことはいい! 早くそいつを倒してくれ!!」

 

「言われなくても、そうさせてもらうわよ!」

 

 霊夢にとっても、魔理沙を救出している余裕はない。ベ・ジミン・バと比べて、明らかに怪物の判断能力や反射神経が増しているのだ。

 霊夢と慧音はクモ種怪人『ズ・グムン・バ』が再び吐き出した糸をそれぞれ左右に飛んで避ける。その一瞬で二人の動きを見定めたのか、怪物は霊夢ではなく慧音の方に蜘蛛の糸による追撃を浴びせた。

 直前の攻撃を回避して間もないため、体勢を整えられずにいたが、迫る糸をなんとか視認し、咄嗟に弾幕を展開して糸の勢いを逸らすことに成功する。

 弾道を曲げられた蜘蛛の糸は慧音の肩を掠めて飛んでいき、里の地面に力なく散らされた。

 

 狩りがいのある リントどもだな

「バシガ ギンガス ゾロザバ リント」

 

 相変わらず霊夢たちに言葉の意味は理解できないが、怪物はどこか嬉しそうな声で呟いた。

 己の爪を研ぐように撫でると、ズ・グムン・バは再び大きく跳躍する。最初の獲物と定められた目標は、蜘蛛の糸によって動きを封じられた魔理沙だった。

 

 まずは一人だ

「ラズパ パパン ビンザ」

 

 霊夢と慧音は目の前のズ・グムン・バが頭上に跳び、視界から消えたために対処が遅れ、一瞬だけその姿を見失ってしまう。魔理沙への接近を許してしまったことに気づいたのは、ズ・グムン・バが勝利を確信した後だった。

 動けない魔理沙には防御も回避もできず、ただ恐怖に目を瞑るしかない。(まぶた)の先に見えないながらも、迫り来る鉤爪に避けられぬ死を実感し、呼吸が止まる。

 ここまでか、と半ば諦めかけた魔理沙は、己の心を奮い立たせることができなかった。

 

 ――そのとき。

 

「…………?」

 

 霊夢も魔理沙も、慧音も、今まさに魔理沙に爪を突き立てようとしていたズ・グムン・バでさえも。その場にいた全員の聴覚が変化を感じ取る。

 地を這う唸り声にも、天を貫く(いなな)きにも聞こえる、激しい機械の駆動音。幻想郷には存在しないはずの双輪が、広い大地を駆け抜ける音。外の世界では『バイク』と呼ばれている機械仕掛けの鉄馬に跨る青年は、里の大地を疾走する。

 その背に快音を残し、白煙を棚引かせ、青年を乗せた『ビートチェイサー2000』が向かう先は人間の里。あの蜘蛛の怪物のもと。今は広がる無辺の荒野に、その疾走を阻むものは何もない。

 

「何の、音だ……?」

 

 未知の怪物を前にしているこの状況でも、その変化は無視するにはあまりに大きい。魔理沙は今なお動けない状況にあるにも関わらず、音の聞こえる方向に意識を向けた。

 人間の里があったはずの何もない荒野、一体の怪物と三人の少女が争うこの場に、知られざるもう一人の来訪者が現れようとしている。

 白銀のボディと青いラインを持つビートチェイサー2000は濛々(もうもう)と舞う土煙を掻き分け、霊夢たちの前に姿を見せた。

 青年は怪物の目の前でハンドルグリップを引き上げ、加速に乗せてビートチェイサーの前輪を持ち上げると、そのまま勢いよく前輪を振り下ろす。自身と車体の重量、さらにはマシンの速度を加えた前輪の一撃はズ・グムン・バの身体を踏みつけ、仰け反らせるように体勢を崩させた。

 

「グゥッ……!?」

 

 怪物が初めてくぐもった声を漏らす。この一撃によるダメージに怯んだというよりは、予期せぬ来訪者が攻撃を仕掛けてきたことに驚いているのだろう。

 この場に突如として現れた青年の姿はあまりに幻想郷らしからぬ、極めて『現実的』と言える服装だった。

 白いTシャツの胸には双角の紋章のようなものが(えが)かれ、その上から赤いチェックのシャツを羽織っている。動きやすそうな青のジーンズは幻想郷では珍しい素材だが、彼のいた場所ではどこまでも普遍的でありふれたものだ。

 青年―― 五代 雄介(ごだい ゆうすけ) はその場にバイクを停め、ゆっくりと降りると、被っていたヘルメットを外してビートチェイサーのグリップに掛ける。ズ・グムン・バの姿を見た五代は、信じられないような表情で。あるいは、酷く悲しそうな表情で。――ただ、そこに立ち尽くしていた。

 

「未確認生命体、第1号……どうして……」

 

 複雑な感情が入り混じった拳を強く握りしめる。

 ありえない。そんな思いが拭い去れない。どうしようもなく、そこに存在している現実から目を背けることができない。確かに目の前に存在しているのに、それが現実であると信じてしまいたくなかった。

 それほどまでに、怪物の存在は──否。その怪物の存在そのものではなく、今この場に『その怪物が存在している』という『事実』に、彼の心は強く揺さぶられている。

 

「おい、バカ!! 何やってんだ! 早く逃げろ!!」

 

 蜘蛛の糸に囚われた魔理沙は、自分が助けてもらうことなど考えずに、ただの人間でしかないであろうその青年を逃がそうと必死に叫ぶ。

 里の人間は今、慧音の能力によって一人残らず歴史から消えているはずだが、能力の影響から漏れた者がいたのだろうか。とにかく、ズ・グムン・バがいるこの場所に近づかれては青年を守り切ることができない。

 そんな魔理沙の願いも虚しく、五代はここから逃げようという意思を見せなかった。それどころか、少しでも早く糸の拘束から脱しようともがく魔理沙に対して腰を下ろして屈み、グッと親指を見せるポーズを取る。彼の笑顔は自信に満ちていたが、どこか寂しげな雰囲気もあった。

 

「……大丈夫。だって俺、『クウガ』だもん」

 

 五代はゆっくりと立ち上がると、足を開いて自身の(へそ)を丸く覆うように両手をかざす。

 その瞬間、彼の腰回りが一瞬歪んだようにぼやけたかと思うと、どこか有機的な素材を思わせる奇妙な『ベルト』が姿を現した。

 それは妖力の具現化やエネルギーの実体化などといった論理的な変化ではなく、腹部と衣服を物理的に突き破って現れた、としか表現できない。しかし、五代の身体に外傷と呼べるものはなく、あたかも元から身体の一部であったかのように違和感なく身に着けられている。

 

 現れたベルトは、とても万全と言える状態ではなかった。様々な紋様が刻まれた銀色の帯は、それがこの時代の物質ではないと一目で分かるほど遥か悠久の時間を感じさせる。だが、このベルトについた無数の傷は、経年劣化によるものではない。

 傷だらけのベルトの中でも特に目を引くのは、バックルの中心で鈍く輝く灰色の水晶石(クリスタル)だ。剥き出しの神経を思わせる生命力の具現は、砕けたように深い亀裂を負っていながらもこのベルト自体が生きているのではないかと錯覚させるほど強い意思の力を放っている。

 

 五代が身に着けるベルト状の装飾品。超古代の遺物、『アークル』と呼ばれるこのベルトに、ズ・グムン・バは見覚えがあった。

 忘れるものか。世界を(たが)えてなお記憶に刻まれた忌まわしき存在。かつて自身を含む同族の(ことごと)くを封印せしめた最大の仇敵、『クウガ』が持つ力。古き文明が生み出した、(さか)しき蛮勇。

 

 それはクウガのベルト……?

「ゴセパ デスドン クウガ……?」

 

 幻想郷とは異なる世界線において、未確認生命体第1号と称されたズ・グムン・バが(いぶか)しむ。この男が腰に着けているベルトは、間違いなくクウガの象徴たるアークルそのもの。

 五代の表情は魔理沙に向けられた笑顔から掛け離れた、眼前の怪物に対する強い決意の表情に変わっている。アークルに埋め込まれた霊石『アマダム』は五代の意思に呼応して彼の体内で力を高め、覚醒の時を待った。

 アマダムを中心に、五代の全身に満ちるエネルギーは徐々に確かな力へと変わっていく。全身の筋肉や体組織、あらゆる細胞や神経へと供給される霊石の力を解き放つべく、五代は右腕を自身の左正面に突き出し、力を抜いた右手の薬指と小指を少し曲げ、左手を右腰に置いた。

 

 身体の奥深くから(みなぎ)る熱。全身に伝わる戦士の鼓動。かつて宿敵に受けたアマダムの傷は未だ癒えていない。神経を断ち切るほどの激しい痛みは、今も身体の中で(くすぶ)っている。本来ならばとても戦える状態ではないが、彼の意思はその程度では揺るがない。

 痛みに震える足を奮い立たせ、歯を食いしばる。ここで膝を着けば、多くの血と涙が流れることになるだろう。

 五代は右腕を右へと滑らせ、右腰に置いていた左手を左腰に添え、拳と成した。

 

「……変身っ!!」

 

 五代は叫ぶ。己が魂に刻まれた遥かなる宿命を(ただ)すが如く。高く掲げた右腕を左腰へ引っ込め、左腰に添えられた拳という暴力を右手で優しく押さえ込む。

 霊石アマダムは応えた。その覚悟を見定め、五代雄介を再び戦士クウガとして認めたのだ。アークルの中心で輝く『モーフィンクリスタル』が朱色に染まり、力が(ほとばし)る。神経を伝い、アマダムから送られる力を全身に感じながら、振り抜いた左腕で目の前の怪物に非力な拳を叩き込んだ。

 

 衝撃。怪物の顔面を殴りつけた拳が歪む。五代の腕は黒い強化皮膚に包まれ、瞬く間に白い装甲に彩られる。それは、羽化直後の甲虫めいた頼りない白。それでも、五代にとっては怪物に(あらが)うことができる唯一の手段となる。

 さらに右拳を打ちつければ右腕が白く染まり、左脚を振り上げ、怪物の脇腹に横蹴りを見舞うと、今度は両脚が黒皮を装った。胸に両肩、腹に膝。少しづつ形成されていく黒い皮膚と白い鎧を纏いながら、五代は絶え間なく打撃を続けていく。

 最後にもう一度、怪物の顔を狙って放たれた拳は、ズ・グムン・バの片手によって容易く受け止められた。だが、その一撃を合図に、五代の全身は余すところなく異形の姿に変わり果てる。

 

「……ぐ……っ……!!」

 

 苦痛に歪む五代の顔は、もはや人間のものではなくなっていた。

 鋭く強靭な大顎に、短く伸びた金色の双角。両目は昆虫じみた一対の複眼と化し、曙光(しょこう)の如き朱色に輝いている。対峙するズ・グムン・バを蜘蛛の怪物と呼ぶなら、こちらは人の形をしたクワガタムシの怪物と形容できるだろう。

 この姿こそ、古代文明『リント』の戦士たる姿。争いを好まない民族である彼らが、暴虐の限りを尽くす戦闘民族『グロンギ』に対抗するために生み出した――戦火の象徴である。

 

「変わった……!?」

 

 目の前で一人の人間が別の姿に『変身』する様を見て、霊夢が驚愕の声を零した。驚いているのは霊夢だけではない。その場に立ち尽くす慧音も、糸に囚われ倒れ伏している魔理沙も、同じく目を見開き、異形と化した青年、白い鎧の怪物となったその姿を見る。

 人間と呼ぶにはあまりに歪で、妖怪と呼ぶにはあまりに異質すぎるその姿は、幻想郷に存在するべきものではないことは疑いようもない。

 対する怪物と同様、この白き異形の存在も、幻想郷の記録には確認されていないものだった。

 

「クウガ……!!」

 

 枯れ果てた偽りの大地で、二つの異形が相見(あいまみ)える。鋭く冴える視線は懐疑から憎悪に変わり、怪物は明確な殺意という感情をもって戦士『クウガ』を睨んだ。

 両爪は怒りに震え、もはやズ・グムン・バにとってクウガ以外の存在など眼中にない。霊夢たちを差し置いて、怪物は突然の来訪者に向き直り、(たぎ)る殺意のままにクウガに拳を振り抜いた。

 

 その隙を見て、慧音は魔理沙の全身に絡みついた蜘蛛の糸を解く。強靭な糸だったが、慧音の妖力を込めた光剣はなんとか蜘蛛の糸を切断した。自由の身を取り戻した魔理沙は慧音に感謝しながら、服についた糸を払って立ち上がり、困惑を隠せない表情で戦士の姿を目の当たりにする。

 

「どうなってんだ……!? あいつも化け物だったのか!?」

 

「……いや、違う。彼はきっと……味方だ」

 

 ズ・グムン・バがクウガに気を取られている間に、慧音たちは怪物を倒す手段を考える。

 魔理沙は怪物同士が仲違いを起こしているのだと解釈したが、慧音はそうは思っていない。もし本当に我々を欺き怪物としての本性を現したのだとすれば、魔理沙に対してあんなに優しい笑顔を向けられるはずがないと判断したのだ。

 化け物だと糾弾される苦しみを知りながらも人間を嫌うことができない慧音には、青年、クウガの姿が自分と重なって見えた。怪物に向けた己の拳をぎこちなく振りかざす姿は、暴力への躊躇(ためら)いを捨て切れていないように見える。それは慧音と同じく、争いを嫌う者の証なのかもしれない。

 

「……っ!!」

 

 五代雄介は葛藤する。終わったはずの醜き戦いに、再び足を踏み入れようとしている。

 怪物のせいで誰かが涙を流さないため。誰もが笑顔でいられるため。たとえ自分が傷ついたとしても、皆の笑顔のために戦ってきた。クウガとしての彼の戦いは、生身の少年を自らの拳で殴り殺す最悪の感触で幕を下ろしたはずだった。

 それなのに、倒したはずの未確認生命体が今度は彼が迷い込んだ最果ての郷で暴れている。因果は彼を戦いの渦、凄惨なる殺し合いの螺旋から、逃してはくれないのだろうか。

 

「はぁっ! はぁ……だあっ!!」

 

「グォ……グァア……!!」

 

 それでも、戦士は拳を振るい続ける。彼は永遠に、暴力で誰かの命を奪う感触に慣れることはないだろう。

 だが、それが見知らぬ里、見知らぬ人間だとしても、怪物に襲われている少女を見捨てる道理はない。思い出すことさえも辛く感じるこの姿になってでも、彼は見ず知らずの少女を助ける道を選んだ。――選んでしまったのだ。

 それは誰かに頼まれたわけでも、感謝や賞賛が欲しいわけでもない。ただそこにある『笑顔』を守りたいが故に。

 それは正義などとは縁のない、彼自身が戦う理由。自分にできることは限られている。ならば、今の自分がしたいこと、できる限りの無理を、全力で果たすまで。

 

 太古の意志を受け継ぎ、クウガとしての自分であり続けることが、この幻想郷に(いざな)われた五代の選択だった。

 並べる理想が綺麗事でも構わない。むしろ、綺麗事であるからこそ、それを現実に変えるべく戦うのだ。

 理想があるのなら叶えたい。希望があるのなら成し遂げたい。戦士クウガが、五代雄介がその胸に抱き続ける儚き願いは――『いつか、みんなが笑顔になれる日のために』

 

「……見てらんないわよ」

 

 苦痛と悲しみを堪えながら戦うクウガを見て、霊夢が呟く。その手には、争いを平和なものに変える法の証である『スペルカード』が握られていた。幻想郷らしい戦い方は怪物には通じない。それならば、せめて優しき法の全力を。

 戦士クウガが世界を笑顔にするのなら、クウガを笑顔にしてくれるのは、きっと、彼が信じた世界中の笑顔。それは五代雄介にとって、どこまでも広く晴れ渡る『青空』なのだろう。

 

 ――優しい戦士の戦いが、優しい世界で今、再び始まった。




スペルカード戦(物理)
グロンギの皆さん、ちゃんと弾幕ゲゲルに従ってください。

次回、EPISODE 3『戦士』


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【 青空綺想曲 ~ Dream Smile 】
第3話 戦士


A.D. 2000 ~ 2001
それは、晴れ渡る笑顔の物語。

A New Hero. A New Legend.



人間の里 歴史喰いの懐郷

03:25 p.m.

 

 最果ての楽園、幻想郷。忘れ去られた秘境の地で、二つの異形がぶつかり合う。

 蜘蛛の怪物はその爪を、白き戦士はその拳を。互いの意志は命を削り合い、その身を傷ましい鮮血に染めていった。

 白き戦士が拳を振り抜く。鈍く滞った動きは、またしても空を切る。脚を振り上げれば容易く止められ、地面に身体を打ちつけられる。全身に広がる激しい痛みに比例して、今は戦士の姿となっている五代の心までもが削られていくかのようだった。

 

 一度拳を振りかざせば、心を染める黒き慟哭。再び拳を受ければ、脳裏に響く白き享楽。吹雪の音。雪空に掻き消えていく二つの声。戦士と戦士の嘆きと悦び。男と男の哀と楽。

 目の前の怪物と拳を交える度、嫌でもそれを思い出す。

 殴る痛み。殴られる痛み。傷よりも心が痛む、暴力と暴力の応酬。互いの身体から血が噴き出し、白雪を赤く赤く染めていく。溢れる涙に映るのは、殺戮を楽しむ純粋な少年の笑顔。

 あの戦いからはまだ、半年も経っていない。五代にとっては、一時(ひととき)も忘れることができない悲しみの記憶。

 今でも、あのとき受けた一撃は深い亀裂となってこの身体に(くすぶ)っている。絶えず全身に走る激痛は、あの白い少年と戦ったときのそれに匹敵するほどにも感じられた。

 

 戦士クウガが身に纏う白い装甲は、見る見るうちに彼自身の血に染められていく。

 この姿は五代が心に思い描いていた本来の姿ではない。白く脆弱な鎧は、十全な力を出し切れていない『グローイングフォーム』と呼ばれる不完全な形態だ。

 五代は確かに、目の前の怪物と戦う覚悟を決めた。本来ならば、クウガは五代がイメージした通りの『赤い姿』でなくてはならないはずなのだ。

 まだ、心のどこかで戦うことを恐れているのか。それともアークルの中心、モーフィンクリスタルに残る深い亀裂が、クウガへの変身を阻害しているのか。どちらにせよ、今のクウガは本来の力の半分も発揮できていない『白い姿』であり、とても万全と呼べる状態ではない。

 

「がぁっ……ぐっ……うっ……!!」

 

 再度、クウガが拳を振り上げた瞬間、ズ・グムン・バの豪腕がクウガの首を握り締める。腹部に秘めるアマダムの力で全身を強化されているとはいえ、生身の人間ならばそれだけで首の骨を()し折られていてもおかしくはない。

 怪物の指が首に食い込み、黒い強化皮膚が抉れる音を聞く。ギリギリと肉が潰れ、骨にヒビが入る感覚。このまま力を込め続けられれば、間違いなく五代の命はない。

 五代は自らの首を絞めるズ・グムン・バの腕に手をかけ、引き剥がそうと強く掴む。渾身の力を込め、なんとかズ・グムン・バの豪腕を振り払おうとするが、未完成形態である白いクウガの力ではズ・グムン・バの片腕の腕力に抗うことすらままならなかった。

 やはり、この姿――白く不完全な姿のままでは、彼らに対抗することはできないのか。

 

 その小さい角のままで 俺を殺すつもりか?

「ゴン ヂギガギ ヅボン ララゼ ゴセゾ ボソグヅロ シバ?」

 

 遠のきかけた意識が翻転する。直後、全身が硬い地面に叩きつけられる激しい痛みを感じた。背中から伝わる衝撃が肺の空気を押し出し、呼吸ができなくなる。ズ・グムン・バがクウガの首を捻り上げ、勢いよく地面に叩き落としたのだ。

 酸欠と衝撃で脳が揺らぐ。視界がうまく定まらず、殴り合っていたはずのズ・グムン・バの姿を捉えられない。

 ズ・グムン・バは身動きが取れないようにクウガの胸を踏みつけると、両手を広げて雄叫びを上げた。弱り切った獲物には糸を使うまでもないと判断したのだろう。狩人の咆哮は空高く、人里の彼方へと吸い込まれる。

 異形と化した仮面、クワガタムシめいた顔の下で、五代の表情は激痛に歪んでいた。なんとか痛みを堪え、気を失うまいと必死に目を開ける。

 強化された視界に差し込む光はとても暖かく、懐かしさを覚えるものだった。絶え間ない暴力に曝されていてなお、そう思ってしまうほど、何よりも優しく、穏やかな光。

 

 ――青空。

 

 雲一つない快晴の空に、陽の光を遮るものは何もない。怪物を招いた灰色のオーロラさえ、もはやそこには存在していなかった。

 一瞬だけ、その美しさに魅入られる。迷い誘われ足を踏み入れてしまった最果ての郷。されど、彼が大好きだった『青空』の美しさは、この幻想郷においても変わることはない。

 

 ズ・グムン・バが鋭く伸びた鉤爪を振り上げる。いくら戦士クウガといえど、ここまで弱った身体に渾身の一撃を受ければ未熟な装甲など容易く貫かれ、致命傷は免れないだろう。

 どんな痛みにも耐えよう。どんな苦しみも乗り越えよう。だが、死だけは。ここで死ぬことだけは決して受け入れてはいけない。ここで自分が死ねば、誰の笑顔も守ることはできない。

 

 終わりだ クウガ!!

「ゴパシザ クウガ!!」

 

 クウガの顔面を貫こうと、振り下ろされた右腕を目の前で受け止める。力の入らぬ両腕でもって、なんとかその一撃を防ぐことができた。

 そのまま咄嗟の判断で右脚を振り上げ、怪物の尻を蹴り上げる。クウガの身体に足を乗せていたズ・グムン・バは体勢を崩し、よろめきながらクウガの身を解放した。

 立ち上がったクウガに向き直り、ズ・グムン・バは再び鉤爪を振るって攻撃する。クウガは両腕を上げて防御の構えを取るが、十分な力を込められず、腕の強化皮膚が鉤爪によって切り裂かれてしまった。零れる鮮血が白い鎧を汚し、里の大地に滴り落ちる。

 もはや、かつての仇敵を──否。弱り切ったこの『獲物』を狩るのに、そう時間はいらない。結果を確信したズ・グムン・バは、自身の背後に迫る小さな力に気づいていなかった。

 勝ち誇った笑みを零し、鮮血に濡れた鉤爪をクウガの心臓に突き立てようと、腕を振り抜く。

 

「……っ!?」

 

 瞬間、迫り来る爪の冴えを前にしてなお、目を閉じなかった五代の視界に閃光が走った。クウガの身体に一撃を見舞おうとしたズ・グムン・バの背中に一枚のお札が直撃し、その身を青白い光と火花に包んだのだ。

 爆発によって生じた煙を振り払い、余計な邪魔が入ったことに苛立(いらだ)った怪物は、煩わしげな様子を隠すこともなく、先ほどまで対峙していた三人の少女たちに向き直った。

 

「――ったく、なーに勝手に盛り上がってんのよ」

 

 右手に持った大幣を正面に伸ばし、蚊帳の外にされていた少女が不満げに声を上げる。霊夢が放ったお札は、やはりズ・グムン・バにとってまともなダメージにはなっていないようだ。

 しかし、それは明確な殺傷の意図。いつも通りの弾幕ごっこなら、相手の意識をこちらに向けることすらできなかっただろう。霊力には限りがあるが、今以上に込めることができれば怪物に対しても十分なダメージとなり得るはずだ。

 霊夢は静かに息を飲み、怪物の動きを待つ。蜘蛛の怪物はその場にいるだけで気分が悪くなるほどの露骨な敵意を剥き出しにしているのに対し、もう一方の怪物、白い鎧の戦士はこちらに一切の敵意を向けてこない。

 まだ確証を得るには至らないものの、霊夢は半ば彼を人間だと認め始めていた。仮に戦士の方が見た目通りの怪物だったとしても、少なくとも自分たちを傷つける意思はなさそうだ。

 今のところ、彼は今の自分たちと同じく、目の前の蜘蛛の怪物を倒すことを目的としていると判断できる。

 霊夢は彼が戦いの直前、魔理沙に見せていた『人間』としての笑顔を信じてみることにした。

 

「そこの白いの! 人間なら、今だけ力を貸してもらうわ!!」

 

 五代は霊夢の言葉に驚き、深く思い悩むような素振りを見せるが、ズ・グムン・バが霊夢たちの方へ注意を向けていることに気がつくと、両腕でズ・グムン・バの身体にしがみつき、背後から羽交い絞めにした。

 精一杯の力を込め、暴れる怪物を必死に押さえながら、名も知らぬ少女たちに右手の親指を強く掲げる『サムズアップ』のポーズを見せる。異形の仮面に阻まれ、表情を伺うことはできないが、その親指には見る者を安心させる不思議な魅力があった。

 霊夢はその仕草を承諾の意と受け取ると、それぞれの位置に控える魔理沙と慧音に目配せし、手に持った一枚のカードを見せる。それは今この場においては何の力もない紙切れだが、幻想郷に住む少女たちにはそれが何を意味するのか、考えるまでもなく理解できるものだ。

 

 二人は小さく(うなず)き、霊夢から離れてズ・グムン・バの視界から彼女を遠ざける。自分たちが前に出て戦うことで、霊夢に可能な限りの霊力を溜めさせる時間を稼ぐ作戦だ。

 彼女が放とうとしている技は、上手くいけば一撃で勝負の結果を左右できるかもしれない。だがその分、精密に霊力を整えなければ暴発の危険が伴うハイリスクなもの。普段の弾幕ごっこならそんな危険性は一切ないが、仮にも初めて、相手の命を奪う目的で使うのだ。周囲との連係が取れなければ、味方を巻き添えにしてしまう可能性が高く、さすがに慎重にならざるを得ない。

 

 先に怪物と戦っていた霊夢たちに加え、未知の戦士を味方だと仮定するなら4対1。たった一人増えた程度だが、その戦力差は先ほどまでより遥かに大きい。

 今までは能力の維持に必死で自分の身を守ることさえままならなかった慧音も、今ならば余裕を持って敵の攻撃を見切れるだろう。怪物の強さに焦ってしまい、攻撃にばかり気を取られていた魔理沙も客観的に戦況を把握し、動くタイミングを冷静に見計ることができるはずだ。

 

「いいか? 無理はするなよ。お前は能力の維持が最優先だ」

 

「分かっている。お前こそ、あまり前に出すぎるんじゃないぞ」

 

 魔理沙と慧音はとりあえずのところ、蜘蛛の怪物のみを優先的に警戒する。白い戦士への警戒が疎かになってしまい、最悪の場合不意を突かれて全滅という恐れもあるが、二人は歴戦の異変解決者である霊夢の判断を信じることにした。

 今、彼女らの目の前で戦っているのは二体の怪物ではない。人里を襲う一体の怪物と、それに立ち向かう一人の人間である。

 相変わらず何一つとして根拠は無いながら、霊夢の考えは、その仮説を信じていた。たとえ姿が異形と成り果てても、人ならざる異能を身につけても。人間でありたい、人間のままでありたいという想いを持つのなら、それは紛れもなく、幻想郷らしい『人間』であるのだ。

 

「ま、そういうわけだ。そのまま頼んだぜ、白いの!」

 

 クウガに羽交い絞めにされ、動けないズ・グムン・バの正面に立ち、魔理沙が言う。指を鳴らすと、彼女の傍らに二つの小さな魔法陣が展開された。

 光の魔法陣として召喚したのは、魔理沙が普段の弾幕ごっこにも使用している独立装備(オプション)の一つ、いわゆる『使い魔』の一種だ。彼女のものは単純な動きしかできないが、ある程度なら本体と同様の魔法を扱える。

 本体と使い魔による同時攻撃ならば、いくら強敵とはいえさすがに堪えるだろう。

 

「……光線(レーザー)は使えないか。だったらこいつだ!」

 

 光の魔法陣は輝きを増し、やがて高密度のマジックミサイルを撃ち放つ。緑色に輝く光弾は、速く鋭くズ・グムン・バに向かって飛び出した。

 魔理沙が愛用するイリュージョンレーザーなどの光線系ショットでは標的の身体を貫通してしまうため、ズ・グムン・バを背後から押さえつけているクウガにまで攻撃が当たってしまう。仮にも一時的な協定を結ぶのなら、不要な軋轢(あつれき)は生むべきではないと判断した。

 

 光弾は怪物に命中し、その身体に傷をつける。ダメージとしては微かなものの、この攻撃ならば背後にいるクウガにまで貫通することがなく、使い魔に頼っているため射撃精度に少々難があるが、これだけ近い距離ならば誤射の危険性はない。

 次々と飛んでくる蜘蛛の糸を走って避け、ズ・グムン・バに向けてマジックミサイルを撃ち続けながら、魔理沙はその間に溜めておいた魔力を自身の両手に収束させていく。

 

「そんな単純な自機狙い、私には当たらないぜ!」

 

 魔理沙は両腕を前に突き出し、流星群の如き光弾の雨を解き放った。

 撃ち出された【 スターダストミサイル 】は青白く輝きながら、ズ・グムン・バの身体に次々と着弾していき、星屑を散らして爆発する。使い魔から放たれるマジックミサイルも加えて、ズ・グムン・バには二種類の魔法が同時に炸裂した。

 防衛面も考慮し、必要以上の魔力消費を抑えるため、魔理沙は一定のところでスターダストミサイルを撃つのをやめ、マジックミサイルを放っていた使い魔への魔力供給を停止する。

 

「グゥッ……!」

 

 怒涛(どとう)の攻撃。魔力の奔流(ほんりゅう)に包まれ、ズ・グムン・バは(たま)らず呻き声を上げた。

 先ほどまでよりかは効果的なダメージを与えられているだろうか。不安になるが、迷いはない。ただひたすらに魔力をぶつけ、ズ・グムン・バへの攻撃と()す。今はただ、霊夢が十分な霊力を整えるまでの時間を稼げさえすればいい。

 スターダストミサイルを撃ち終えても油断はせず、魔理沙はすぐさま次の手を考える。この程度の攻撃で倒せるなどとは微塵も思ってはいない。せめて、怯ませるだけでも。続く霊夢の攻撃によって、もし倒せるなら。少しでもその一撃のために、怪物の体力を削っておきたい。

 

「私も、負けていられない……!」

 

 ズ・グムン・バが魔理沙に気を取られている隙に、慧音が溜めておいた妖力で青く輝く光の弾幕を生成した。細かく丁寧に練り上げられた妖力の光弾は、慧音の性格を示唆(しさ)するかの如く、寸分の狂いもなく配置され、独特なパターンを構築している。

 一斉に整列する光弾の波が慧音の正面に展開されると、ズ・グムン・バはようやくその妖気に気がついた。だが、体内に貯蔵していた蜘蛛の糸を使い切ってしまったのか、あるいは単に使う必要がないと判断したのか、怪物は慧音に気づいていながら蜘蛛の糸を射出してくる様子はない。

 

 力の弱い白いクウガでは、ズ・グムン・バを拘束しておくのにも限界がある。五代は自身の腹に肘が打ち込まれる苦痛に怯み、怪物の身を解放してしまった。

 再びズ・グムン・バに掴みかかろうとするも間に合わず、怪物は近くにいた魔理沙に爪を振るう。魔理沙は咄嗟に魔法陣で防御したが、込められた魔力は弱く、魔法陣は簡単に砕け散ってしまった。直撃は防げたものの、その衝撃によって弾き飛ばされ、地面に身体を打ちつける。

 

「痛ってて……」

 

「ご、ごめん!! 大丈夫!?」

 

 体勢を立て直しながら、魔理沙はズ・グムン・バに向き直る。五代は慌てて魔理沙の無事を確認するが、その様子は本気で魔理沙の身を心配しているようだった。

 返答を待つ間もなく、魔理沙への攻撃を続けさせないためにズ・グムン・バの背中に拳を叩き込む。狙い通り、ズ・グムン・バは再び五代に注意を向けたが、その対処のために魔理沙を気にかける余裕を失ってしまう。

 突っ込んできた爪を避け、その勢いに沿って背後を取る五代。拳を振るうが、振り向いたズ・グムン・バの爪によって拳が弾かれ、手甲に深い傷がつく。

 さすがに二度も背後を狙うことはできなかったが、上手く立ち位置を変えることができた。今、彼の位置はズ・グムン・バと魔理沙たちに挟まれる形にある。この位置関係ならば、もし再び魔理沙たちが襲われてもその間にいる五代が盾となり、彼女らへの接近を阻害できるだろう。

 

「いや、私が油断しただけだ。謝らなくてい……い?」

 

 今更ながら、魔理沙は白い戦士と会話をしている自分に不思議な感覚を覚えた。

 なんとなく分かってはいたが、やはり白い戦士とは人間と同じく普通に会話ができるのか。特に疑問も感じず言葉を返していたが、よく考えたら異形の姿の怪物と当たり前に言葉が交わせることに妙な感動が沸き起こる。

 幻想郷は、人ならざる存在が人と共に生き、人と同じように暮らす場所。当たり前だと思っていたそれがひどく奇跡的なように思えて、魔理沙は少しだけ嬉しくなった。

 

「よそ見をしている余裕があるのか? 怪物!!」

 

 自由の身となったズ・グムン・バに対し、動く隙も与えず慧音が叫ぶ。振り下ろされた右腕を合図に、青の光弾、慧音の妖力で構成された弾幕は怪物に向かって射出された。

 間髪入れず、続けて左腕を振り下ろし、今度は赤く輝く妖光の弾幕を生成と同時に射出する。刃のように鋭く研ぎ澄まされた赤の光弾は青の光弾の隙間を縫い、より速く怪物に向かって突き進んでいった。

 怪物の身体に命中した弾幕は小さく爆発し、妖気の煙に包まれたズ・グムン・バが小さな呻き声を上げる。やはり大した深手を負わせることはできなかったが、少なくともダメージにはなっていると信じたい。

 弾幕を撃ち終えた慧音が後退し、自身の妖力を整える。蜘蛛の怪物は幻想郷の歴史に詳しい慧音の知識をもってしても正体が分からない。白い戦士もそれは同じだが、怪物には明確な悪意があるのだ。正体不明の未知の怪物が里に侵攻しようとしている状況で、負けることなど何があっても許されない。――いざとなれば、怪物と刺し違えてでも里を守る覚悟さえ、慧音にはあった。

 

「まったく……前に出すぎるなと言っただろう」

 

 慧音は本日何度目かの尻餅をついた魔理沙に手を差し伸べる。その手を取って立ち上がると、魔理沙はばつが悪そうに笑っていた。

 二人はズ・グムン・バから一旦離れつつも、後方に控える霊夢との距離は怠ることなくしっかり取っている。落ち着いて呼吸を整え、それぞれ魔力と妖力を練り上げた。

 魔理沙の魔力は傍らに輝く二つの魔法陣に。慧音の妖力は彼女の両手に光と灯る。

 

「それっ!」

 

「はぁっ!」

 

 解き放たれたエネルギーが弾幕となり、ズ・グムン・バに向かって同時攻撃を行った。魔理沙は使い魔から赤く輝く双条の光線を照射し、慧音は自らの両手から青と赤の光弾を射出する。二つの力は同時に命中し、小さいながらも確実なダメージを与えていく。

 魔理沙の使い魔から溢れる光線、【 ストリームレーザー 】はイリュージョンレーザーのように高密度な収束率を持たないが、ある程度の距離から対象を焼き払うのに適している。たとえズ・グムン・バの身体を貫通したとしても、今ならばクウガに当たる心配はない。

 小賢しい連撃。悪足掻(わるあが)きに等しい抵抗。それでも、ズ・グムン・バにとっては無視できないものとなっている。本来ならば取るに足らない些細な攻撃だったが、油断していたせいか僅かに体勢を崩す。ズ・グムン・バは弾幕と爆煙によって視界を覆われ、一瞬だけ相手の姿を見失った。

 

「今だ!!」

 

 慧音が再び声を張り上げる。振り向く先は白い鎧の戦士。名乗りも交わさず、言葉だけで意思を伝える。それでも、慧音の想いは戦士へと伝わった。

 五代は小さく頷くと、右腕を左正面へ真っ直ぐ伸ばし、左手を右腰に小さく添える。右足の爪先を怪物に向け、両腕を振ってズ・グムン・バへと走っていく。右足の裏に感じる熱。本来灯るべきその力に比べると、ひどく心許ない。だが、それは今の自分にできる最大の一撃なのだ。

 

「はぁっ!!」

 

 大地を蹴り、空を舞う。両脚を抱え、空中で前転を加えると、その回転エネルギーを重力に乗せ、ズ・グムン・バへと鋭い飛び蹴りを放った。白いクウガが放ち得る一撃、渾身の【 グローイングキック 】が、ズ・グムン・バへと炸裂する。

 怪物の全身に響く衝撃。クウガの右足によって与えられるそれは、数値にして数トンにも及ぶ。まして魔理沙と慧音の弾幕が怪物にダメージを与えていたのだ。何も感じないはずはない。

 

 蹴り飛ばした反動でクウガが翻る。後方に着地し、右足の裏に焼けつく熱を感じながら、しゃがんだままの姿勢でズ・グムン・バを見た。ズ・グムン・バはゆっくりと立ち上がり、蹴られた胸の中心から白い煙を立ち昇らせている。

 右足に灯る熱、怪物を蹴り飛ばす感覚。紛うことなき、白いクウガのグローイングキック。その確実な命中を見届け、五代は待った。ただ静かに、望む結果を待ち続けた。

 

 怪物が呻き、その胸には輝く光の『文字』が――

 

 …………

 

 ――現れない。

 

 本来ならば怪物の胸に刻まれているべきその『文字』は、ついぞ現れることはなかった。それは力の欠片ですらない。光どころか、形と呼べるものは何もなく、文字を構成する線の一つさえ、そこには浮かび上がってこなかった。

 立ち上がってズ・グムン・バを見る。少なからずダメージは入っているものの、望んだ結果は得られていない。この右足に灯る熱、怪物への決定打となる力は、ズ・グムン・バには伝わっていないようだ。

 込められた力は怪物の厚い体皮に阻まれ、ほとんど発揮されずに霧散してしまっていた。

 

「……っ! やっぱり、まだダメか……!」

 

 五代は、キックそのものの威力で怪物を倒せるなどとはそもそも期待していなかった。

 肝心な力――クウガが持つ力の本質は物理的な衝撃ではない。クウガの足裏に刻まれたリントの文字。その干渉による特殊な反応。今まで『グロンギ』と呼ばれる未確認生命体、すなわち彼らと同じ怪物を倒してきた力は、まさしくその文字が引き起こすものだった。

 だが、今はその力すら満足に使えていない。かつて未確認生命体第26号(キノコの能力を持ったグロンギ)へと放ったグローイングキックは、弱いながらも確実にその干渉を与えていたはずだ。死の淵から蘇ったこの第1号(ズ・グムン・バ)が強くなっているのか、それとも今の自分が以前よりもさらに弱くなっているだけなのか。

 

 ならば、もう一度。五代は再び自身の右足に熱を込め始める。だが、いくら気合を入れどもその熱が蘇ることはなかった。力を込める度、全身に激痛が走る。アークルの傷が、モーフィンクリスタルの亀裂が、全身の神経を引き裂く痛みに()いている。

 痛い。辛い。苦しい。戦いの渦、悲しみの螺旋。己の嘆きを押し殺し、今にも引き千切れそうな身体を奮い立たせ、五代は再び、グローイングキックを蹴り放つ構えを取った。

 

 ――その瞬間、背後から感じる神秘の圧力。滲み溢れるその力に、五代雄介は光を見る。

 

「やっとかよ。待ちくたびれたぜ……!」

 

 魔理沙が呟く。視線の先は、何度も見慣れた霊夢の姿、その(たえ)なる霊光に。

 

「そこの君! 巻き込まれないように気をつけろ!」

 

 慧音が告げる。視線の先は、それを知らぬ未知なる白い戦士へと。

 

「えっ? 俺? ――えっ!?」

 

 クウガは、五代雄介は、理解していなかった。霊夢の力、一見普通の少女である彼女が持つ、意思の力を。

 左右に退避し、ズ・グムン・バへの道を開く二人に対し、五代は未だ困惑していた。いったい何が始まるのか、彼には検討もつかない。だが、それはグローイングキックの衝撃で僅かに動きを鈍らせたズ・グムン・バも同じだ。その意味を理解できるのは、弾幕ごっこに慣れ親しんだ幻想郷の住人だけ。今この場にいる中では、魔理沙と慧音、そして、霊夢だけがその光を知っている。

 

「――スペルカード」

 

 神に奉るが如き、清く透き通った声。博麗霊夢が手にする『スペルカード』そのものに、特別な力は込められていない。命を奪うことなく平和的な決闘を行うための札。スペルカードルールにおいて用いられる、単なる攻撃意志宣言に過ぎないもの。

 普段ならそれを示すだけのただの紙切れは、幻想郷を踏み荒らす知性ある獣に対する、最後の通告。その本質たる技は、霊夢自身によって発動される博麗の封印術だった。

 

 霊夢は目を閉じたまま、一枚の札を高く掲げる。励起(れいき)した霊力が、赤く、青く、緑に輝く。浮かび上がった霊力の塊が、三様に形成された七つの光球となって霊夢の周囲に漂い始めた。

 光球が揺蕩(たゆた)うだけで空気が張り詰める。神秘的な雰囲気がその場一帯を覆い尽くす。博麗の祈祷(きとう)。霊夢の十八番(おはこ)。これまで数多くの妖怪を退治せしめてきた、博麗霊夢の必殺技(ボム)

 

 一つ、深く呼吸をする。ただ一言、この場においては無意味な宣言をするために。弾幕は武器ではない。スペルカードは兵器ではない。そのことを自らに戒めるように。

 霊夢は目を開き、幻想郷の(がん)となった怪物をしかと見据える。掲げた札を振り下ろすと同時に、博麗の巫女は高らかに謳う。秩序の代行者として。幻想的な決闘法(スペルカードルール)の提唱者として。必要以上に美しく、機能以上に麗しい、艶やかな無駄に彩られた遊びの極致に、願いを込めて叫んだ。

 

霊符(れいふ)夢想封印(むそうふういん)!!」

 

 七つの光球が震える。(しと)やかに舞う光は、ズ・グムン・バの存在を確かに捉えた。緩やかな軌道を描き、光球はそれぞれが怪物に向かって飛んでいく。

 その光は、弾丸と呼ぶには遅すぎる。だが、この光に『速さ』など必要ない。一度捉えたものは、決して逃れようがないのだ。どれだけ避けても翻り、どこまで逃げても必ず追い詰め、如何なる相手にも『封印』という干渉を押しつける。それは霊夢が意図せずとも、彼女が生まれ持った天性の才能。博麗の加護という名の、あまりにも一方的で反則じみたルールである。

 

 クウガを掠めて横切る光球。そのうちの一つ、赤い光が僅かに瞬く。

 同時に、クウガが装うアークルの中心、朱色に輝くモーフィンクリスタルに微かな『赤』が灯ったような気がした。まるで霊夢が放った光に呼応するかのように、優しく暖かな光が身体の底から湧き上がる。

 加えて、右脚に(ほの)かな熱が宿る感覚。五代は、この戦いの中で確かにそれを感じた。ただ、一瞬のことであったため、その感覚を掴むことができぬうちに消えてしまったものの、この感覚には覚えがある。五代が至るべき本来の姿。戦士とあるべきクウガが持つ、本当の力。

 

 五代がその感覚に気がつくや否や、彼の目の前で大きな光が連続して炸裂した。一つ、二つ、三つ。光球は次々と着弾し、怪物の全身を霊力の爆発に包み込む。その力の奔流は、霊力など知る由もない五代でさえ、ただの風圧ではない何かが顔を打ちつける実感を得るほどに強く、激しい。

 

「グゥゥゥオオオッ!!」

 

 圧倒的な光の爆発。その一撃は、紛れもなく怪物に対する大きな一手。その結果は確認せずとも、耳を(つんざ)く怪物の怒号を聞けば分かる。

 霊夢が放つ【 霊符「夢想封印」】は、彼女が最も得意とする『誘導』の性質を最大限に活かした彼女愛用のスペルカードだ。相応の霊力を込める必要があるとはいえ、ホーミングアミュレットよりも遥かに高い追尾性能を持ち、パスウェイジョンニードルや博麗アミュレットを大きく上回る威力が期待できる。それはまさしく、霊夢にとって頼れる必殺技と言う他にない。

 

 一度に多くの霊力を消費しすぎた霊夢が肩を崩す。乱れる呼吸を整え、額の汗を拭って再び顔を上げた。ある程度の余裕を持って弾幕を放ったつもりだが、予想以上に霊力を使ってしまったようだ。普段ならここまでの力を込める必要はないだけに、精神的な負担が大きく感じる。

 突然の闖入者(ちんにゅうしゃ)、白い鎧の戦士がこの場に入って来なければ、これだけの一撃を確実に与えられる隙は訪れなかっただろう。偶発的に万全の状態でスペルカードを発動できたが、この攻撃で確実な深手を与えることができなければ、霊夢たちの勝利はあまりに絶望的なものになっていた。

 

「グ……グゥオ……オオオ……ッ」

 

 爆ぜた霊力の煙が晴れ、甚大(じんだい)なダメージに激しくもがき苦しむ怪物が姿を現す。息を切らし、呻き声を上げるその様に、先ほどまでの威勢は感じられない。

 

「よっしゃ! 効いてるぜ!」

 

「どうやら、倒せない敵ではないようだな……!」

 

 致命傷とまでは至ってはいないようだが、ようやくまともな深手を与えることができた事実に魔理沙は無邪気に喜ぶ。慧音も警戒を怠らないながら、今までとは違う怪物の反応に確かな手応えを感じていた。

 これなら、この戦力でも奴を倒すことは不可能ではないかもしれない。その答えが、膝を突きかけた身体に再び希望を芽生えさせてくれた。

 

「すごい……」

 

 五代は、その光景を見て呆気に取られていた。拳を構えることも忘れ、目の前で起きた光の爆発を、ただただ茫然(ぼうぜん)と見ていることしかできなかった。

 この少女たちが不思議な力を持っているのは理解していた。五代もよく知る怪物――グロンギと戦っていたのには驚いたが、光を散らし、弾幕を交し合うその光景は、目で見てなんとなく理解して受け入れていたつもりだった。

 だが、その輝きはさっきまで共に戦い、隣で見てきた少女たちの弾幕の光とはまるで違う。溢れんばかりの輝きが、思わず見惚れんばかりの美しさが。そこにはあったのだ。

 

 この場に似つかわしくない想いはすぐに拭われる。ズ・グムン・バが腹を押さえる右手の隙間から、小さな光が漏れているのに気がついたためだ。怪物が手をどけると、その腹部には何らかの象形文字にも見える光の紋章が現れる。

 左右から力を加えられる人の形に似た紋章は微かに明滅を続けていたが、弱々しいその光はズ・グムン・バが大きく咆哮を上げると同時に(かす)み、やがて完全に消え去ってしまった。

 

「……っ! 今のは……!」

 

 五代がよく知るその紋章。クウガの足裏に刻まれたリントの文字。流し込まれた封印の力を表す刻印は、古代リント文明における『封印』を意味する表意文字だ。

 普段ならクウガの一撃によって刻まれる文字は、白いクウガ、グローイングフォームでは力及ばず、蘇った第1号(ズ・グムン・バ)には刻み込むことができなかった。

 しかし、たった今そこに浮かんだ文字は、間違いなくリントの刻印。五代が手を下したわけではない。クウガの力を継ぐ者が、この時代に二人といるはずもない。この文字は、紛れもなく霊夢が放った夢想封印の一撃によって、ズ・グムン・バの身体に刻み込まれたのだ。

 

 なぜ……

「バゼ……」

 

 ズ・グムン・バはただ、疑問に感じていた。自身がこれだけの深手を負ったことに対して、ではない。クウガならざるただの人間(リント)が、自身に『封印』の力を与えたことに対してだ。

 かつてクウガに受けたその力に比べると、今の力はまだ弱い。ただの気合をもって、ズ・グムン・バはその文字を打ち消してしまった。霊夢の夢想封印を受けたことで相当なダメージを受けているものの、この程度の封印ならば抗い切れるようだ。

 怪物は苦痛を押し殺して立ち上がり、再び霊夢たちに揺るぎなき殺意の視線を向ける。

 

「くっ……まだやるっての……!?」

 

 渾身の一撃を与え、確かに手応えはあった。だが、いくら周囲への被害を考慮して精密に霊力を調節したとはいえ、純粋に殺傷目的で放った夢想封印を受けてもまだ息があるとは。

 直感的に理解はしていたが、もはやこの怪物は人間の手に負えるものではないのか。今まで如何に強大な妖怪に対しても恐れることはなかった霊夢でさえ、今回ばかりは少しだけ気が滅入りそうになった。

 霊夢は弱気の自分を振り払い、いつも通りの自分自身で妖怪ならざる未知の異形を睨みつける。妖怪よりも物理的な怪物は、曖昧で抽象的な存在である妖怪と比較して、幾許(いくばく)かは戦いやすい。相手がどれだけ強大でも、それが生物であるならば単純な方法でも殺すことはできるはずだ。

 

 夢想封印によって与えた怪物の損傷は早くも癒え始めている。このままでは(らち)が明かない。奴を倒すには一撃をもってその身体を完全に破壊するか、肉体が再生するよりも早くその根源を断つ必要がある。

 だが、そもそも十分なダメージを与えるのにさえ一定以上の力を込めなくてならないし、次の攻撃を放つまでの隙を上手く埋めなければまた怪物の身体は再生してしまう。

 夢想封印以上の威力を持つスペルカードもあるにはあるが、通常の弾幕ごっこでさえ死者を出しかねないほどのものが大半だ。本気の霊力を込めれば間違いなく味方を巻き添えにし、さらには慧音の能力で秘匿されている人里にも被害が及ぶかもしれない。

 ならば手段はただ一つ。それぞれが持つ渾身の術技を連続でぶつけ、怪物の再生が始まる前にその肉体を破壊し尽くす方法だ。ダメージこそ与えられているものの、この驚異的な生命力を持つ怪物を確実に殺すことができる保障はないが、今はそれくらいしか思いつかなかった。

 

「魔理――」

 

 霊夢が魔理沙たちに作戦を告げようと、口を開く。だが、その言葉が紡がれることはない。突如吹き荒れた突風によって、視界の一切が巻き上げられた土煙に消えたのだ。

 咄嗟に腕で顔を覆ったため、目の前から怪物の姿が消える。この状況で奇襲を受ければ、甚大なダメージは避けられない。微かな焦燥が身を焼いたが、一瞬の憂いは杞憂(きゆう)と失せ、すぐさま土煙は晴れてくれた。

 突風の正体は、幻想郷の気象や天候の影響によるものではない。博麗大結界を隔てた向こう側の世界である、『外の世界』の空気だったのだ。

 霊夢はその空気を知っている。妖怪も神秘も、あらゆる幻想の一切を排斥(はいせき)する拒絶の渦。冷たく濁っているが、どこか怜悧(れいり)さを感じさせる、紛れもない外の世界の風。霊夢自身は今、幻想郷の中にいるにも関わらず、その空気を感じただけで妙な居心地の悪さを覚えていた。

 

「……っ!」

 

 ─―咄嗟にお札を構える。晴れた土煙の先の空には、やはり灰色のオーロラがあった。

 おそらく、このオーロラは博麗大結界を無視し、幻想郷と外の世界を直接的に繋げる力があるのだろう。

 性質こそ違えど、その実態は『結界』と呼ぶに相違ない。このオーロラの向こう側に繋がる外の世界から流れ込んできた空気が、突風となって幻想郷に入り込んできたのだと推測できた。

 

 どこか冷たく鋭い風が人里の空を仰ぐ中、晴天の下に現れたオーロラの彼方に朧気な人影が浮かび上がる。灰色の波紋を広げ、オーロラの向こうからゆっくりと歩いてきたのは、波立つ黒髪を湛えた長身の女性だった。

 (ひたい)の白いタトゥと唇と染める紅色は、二つの相反する意思を感じさせる。その身に纏う漆黒のドレスは風に揺られ、首に巻かれた深紅の花飾りと共に女性の威圧的な美しさを彩っていた。

 

「――グムン」

 

 ただ一言、女性は強い口調で発声する。その言葉を聞いて、霊夢たちと戦っていた蜘蛛の怪物、ズ・グムン・バは動きを止めて背後を振り向き、黒衣の女性を強く睨みつけた。

 

 勝手な真似をするな ゲゲルは まだ始まっていない

「バデデバ ラベ ゾグスバ ゲゲルパ ラザ ザジラデデ ギバギ」

 

 女性は表情を変えず、淡々と告げる。その言葉はやはり霊夢たちには理解できない。操る言葉は彼ら独自の文明から成り立っている『グロンギ語』と呼ばれる特殊な言語。霊夢たちはもちろん、グロンギと戦ってきた五代でさえ、その言葉の意味を知ることはできなかった。

 この女もやはり、常人ではない。操る言語もだが、放つ雰囲気が異様な殺気に満ちている。彼女の言葉によって動きを止めた怪物を見るに、怪物たちを統率する立ち位置にあるのだろうか。

 

 待っていろ お前を殺すのは この俺だ

「ラデデギソ ゴラゲゾ ボソグンパ ボン ゴセザ」

 

 ズ・グムン・バは再びクウガに向き直ると、グロンギ語でそれだけ吐き捨て、ゆっくりと後ずさる。背後に広がるオーロラに飲み込まれていき、沈むようにその向こう側へと消えていった。

 オーロラは波紋を揺らし、ズ・グムン・バを受け入れる。残された黒衣の女性も同じく、クウガたちに背を向けてオーロラの向こうへと消えようとしていた。

 それに気づいた霊夢は咄嗟にお札をしまい、無意識のうちに身体に霊力を込め始める。

 

「ちょっ……! 待ちなさい!!」

 

 逃がすまい、と。霊夢は慌てて走り抜けた。魔理沙と慧音の間を抜け、クウガの傍まで一瞬に等しい時間で移動する。霊夢が意識したわけではない。彼女は普段から、無意識のうちに瞬間移動を行うことがある。本人は真っ直ぐ移動しているつもりでも、他者から見たら空間を跳躍しているようにしか見えないのだ。

 風圧は起きない。文字通り、離れた位置から離れた位置に直接移動したためだ。霊夢にとってはただ、気がついたらオーロラの前まで来ていただけでしかない。五代は突如として現れた黒衣の女性に気を取られ、いつの間にか隣に来ていた霊夢の存在に気づかなかった。

 

 霊夢の接近に気づいたのか、黒衣の女性が振り返り、手をかざす。直後、巻き上がる薔薇(バラ)の花びらと激しい突風が生じ、霊夢たちは再び視界を奪われてしまう。一瞬、僅かに見ることが出来た女性の顔は、霊夢を見て微かに笑っているように見えた。

 濁った空気を鋭く切り裂き、鼻を(くすぐ)る独特の色。むせ返るような薔薇の香りが強く漂い、霊夢たちの脳を刺激する。気がつけば、目の前の空に広がっていた灰色のオーロラは、どこへともなく消え去っていた。

 オーロラから現れた女性も、外の世界の空気と共に姿を消している。そこにはもはや、霊夢たちを包む薔薇の香りと、舞い落ちた数枚の花弁の他には何も残されてはいない。

 不快ささえも感じさせる強い香りが身を包む。あの女の行動は、何らかの警告のようにも思えた。あの女もおそらくは蜘蛛の怪物と同じ存在なのだろう。ならば、なぜ奴は蜘蛛の怪物を引き止めたのか。理由は分からないが、こちらに好意的でないことは雰囲気から見ても明らかだ。

 

「もう、なんなのよ……」

 

 霊夢は肩を落として小さく呟く。その傍らで、白いクウガが地に落ちた薔薇の花びらを拾い上げた。五代にとって、あの薔薇の女を見たのは初めてだが、心当たりがないわけではない。かつて共に未確認生命体と戦った無二の相棒、警視庁のとある刑事から聞いたことがある。

 それは、未確認生命体B群第1号と称されていた。B群とは、未確認生命体と判断されながらも一度も『怪人態』を見せていない存在に対する呼称だ。

 その刑事からは『薔薇のタトゥの女』と呼ばれていたが、今の一瞬、あの距離ではタトゥまではよく見えなかった。だが、薔薇の能力を持った未確認生命体であるならば、かつて警視庁合同捜査本部で見せてもらった写真と合わせても、あの女がその『B1号』である可能性は高い。

 

 五代は左手に花びらを持ったまま何もない空を見上げる。広がる青空は、長い戦いの末にその表情を変えていた。すでに夕刻を過ぎ、沈みゆく太陽の斜光によって空は茜色に染まっている。夕陽を受け、クウガの白い鎧はオレンジ色に輝いていた。

 そういえば、初めてクウガとして戦ったときも、その戦いの終わりは夕暮れ時だった。五代はそのことを思い出し、振り返って霊夢たちを見る。怪物には逃げられてしまったが、無事にこの子たちを守ることができた。

 一応の脅威は去ったと安心させるため、五代は右手でサムズアップを決める。ズ・グムン・バとの戦闘で身体はボロボロになってしまったが、五代の心に、後悔などは微塵もなかった。




戦闘シーンを書くのが一番タノシーストライク。

次回、EPISODE 4『幻想』


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第4話 幻想

人間の里 歴史喰いの懐郷

05:38 p.m.

 

 春の夕暮れ。暖かくも涼しい風が、無辺の荒野を吹き抜ける。

 謎のオーロラも怪物の脅威も、もはやそこにはない。それを実感すると、急に疲れが押し寄せた気がした。

 霊夢は目の前で親指を掲げる白い戦士を前に、手にした数枚のお札をしまう。それを見て、魔理沙と慧音も全身に張り詰めた力をようやく抜くことができた。

 霊夢の直感ではこの白い戦士に害はないと判断できたが、頭で考えて答えを出せるほどの情報はない。今この瞬間、安心させておいていきなり襲いかかってくる可能性も完全に否定することはできないのだ。

 それでも彼の持つ雰囲気は、その親指の仕草は。相手を自然と安心させる何かがあった。

 

「あなたは、いった……い……」

 

 一時的とはいえ、戦士と共に戦い、怪物を退けることができた。が、慧音は戦士について訊きたいことがある。

 当然、疑問を感じているのは慧音だけではない。霊夢も魔理沙も、この戦士について訊きたいことは山ほどある。共に戦ってくれたことに感謝したい気持ちもなくはないものの、それ以上に押し寄せる疑問の方が遥かに強い。

 長時間の戦闘と能力の維持で慧音の体力は限界に達していた。ふらつきながら立ち上がり、頭を押さえたかと思うと、慧音はその場に倒れ伏してしまう。緊張の糸が切れ、疲労と消耗が重なって意識を失ってしまった。もはや、彼女には立っている気力さえも残されていないようだ。

 

「お、おい。大丈夫か?」

 

 魔理沙が心配して駆け寄るが、返事はない。五代も一瞬慌てるが、同時に気づいた周囲の変化に気を取られる。慧音が意識を失ったことで、里にかけられていた『歴史喰い』の能力の効果が切れたのだ。

 先ほどまで何もなかった荒野にはじわじわと色が現れ、地形が徐々に変わっていく。その変化に戸惑っていると、やがてまったく別の光景が視界に満たされた。

 並び立つ木造の家屋、歩き(なら)された土の道、さらに、行き交う人々は和装に身を包んでいる。そこに現れたのは、まるで明治時代の日本の街並みそのもの。過去の時代へタイムスリップでもしてしまったかのような状況に、今はクウガの姿となっている五代雄介は目が回りそうになる。

 

「魔理沙、あんたは慧音を送ってあげて。私はちょっと、こいつと話があるから」

 

 霊夢はそれだけ言うと、様々な感情が込められた視線で戦士を睨んだ。

 慧音の能力が切れ、人間の里本来の姿が現れる。当然、その能力で隠されていた里の人間たちも正史の世界に戻ってくる。彼らからしてみれば、急に現れたのはむしろ霊夢たちの方であっただろう。里の人間もそれ自体には慣れていたため霊夢たちが驚かれることこそなかったが、今は状況が悪かった。

 人間の里は妖怪の侵攻が禁じられている場所。本気の戦闘はおろか、人間同士の弾幕ごっこすら滅多に行われない。弾幕ごっこに慣れている少女たちならまだしも、里の人間は何の能力も持たない者が多いため、僅かな流れ弾で怪我を負い、命を落とす危険もあるからである。

 

 そんな安全なはずの場所に、今は白い鎧の異形が堂々と立っているのだ。それを見た里の人々は驚き、恐れ、ある者は逃げ出し、ある者は泣き出し、ある者は目を逸らしてそそくさと通り過ぎる。里を包む人々の喧騒は、瞬く間にその異形に対するものに変わっていた。

 里に足を踏み入れる妖怪は少なくない。妖怪でありながら人間の里に住まう者も存在する。半人半獣、ワーハクタクである慧音もその一人だ。

 しかし、それは変装や妖術による変化を駆使して人間に扮したり、妖怪としての正体を隠しているから許されているだけに過ぎない。妖怪として里に踏み入り、人間を襲えば如何なる者も処罰される。

 今の五代、戦士クウガは外見からして人間ではなく、あまりにも目立ちすぎていた。

 

「ああ。お前も気をつけろ。またあの変なオーロラが出てくるかもしれないからな……」

 

 魔理沙も同じく、クウガに追及したいことは沢山あるが、今は状況を(かんが)み、霊夢の言う通り慧音を家まで送ってやることにした。

 気を失った慧音の肩を担ぎ、歩いて目的の場所を目指す。箒に乗って飛んだほうが速いのだが、里で速度を出せば人にぶつかる危険性も高いし、何より意識のない者を乗せていては飛行のバランスが取れない。

 幸い、慧音の自宅はここからそれほど遠くない。慧音を担いだままでも、遅くなりすぎないうちには辿り着けるだろう。

 人間の里にさえいれば、日が暮れても堂々と人を襲うような妖怪は出ないはずだ。先ほどのような正体不明の怪物がまた現れたら厄介だが、どちらにしても今の状況ではまともな応戦はできそうにない。今はただ、オーロラや怪物が再び現れないことを祈るしかなかった。

 

「あんた、いつまでその姿でいるつもり? 目立つからさっさと人に戻りなさい」

 

 突如現れた人里に驚いているクウガに、霊夢がぴしゃりと大幣を叩きつける。混乱していた五代ははっと気がつき、慌てて姿を歪め変身を解いた。

 しかし、すでにクウガの姿は里の人間に見られてしまっている。人々は異形の怪物が人間の姿に化けたことに驚き、里を包む喧騒はさらなる波紋となって広がっていった。

 

 妖怪の存在は珍しくないが、それでも人間は妖怪を恐れるものだ。そうでなくては幻想郷のルールが成り立たない。里に人間からかけ離れた存在がいてはどうしようもなく目立ってしまうのが常識である。

 人間とは似つかない異形の妖怪が里で生きていくことは難しく、大抵は幻想郷のどこかで野良妖怪として生きることになるか、運良くどこかの勢力が受け入れてくれるのを待つしかない。

 

「……ここじゃまずいわね。ついて来なさい」

 

 できれば慧音の能力が効いているうちに話をつけたかったが、これ以上、彼女に負担をかけさせるわけにはいかない。騒ぎが大きくなりすぎる前に、この青年を別の場所に移動させたほうがよさそうだ。

 と言っても、人間の里よりも安全な場所など一つしか思いつかない。霊夢の管理下に置かれた彼女の自宅兼職場、博麗神社である。

 博麗神社は妖怪が集まりやすい場所ではあるが、それは人間を襲う類のものではない。霊夢の人柄に魅せられて集まってきた古参の妖怪たちばかりだ。幻想郷のルールを理解しないような下級の妖怪は、そもそも博麗の巫女を恐れて神社に近づこうなどとは考えないだろう。

 

 霊夢は周りの人間たちの疑念を愛想笑いで誤魔化すと、里の大地を蹴ってふわりと宙に舞い上がる。道案内のために多少高度を落として、空を飛べない者でも目で追える程度の高さをゆっくりと飛翔したつもりだ。

 彼女の持つ『主に空を飛ぶ程度の能力』は、文字通り空を飛べる能力だが、その本質はあらゆる法則から『宙に浮く』ことである。地球の重力でさえも、霊夢を縛りつけることはできない。

 

「あ、うん。……おおっ」

 

 五代はまたしても驚いた。人間が当たり前のように浮遊し、重力に逆らって空を飛んでいることに対してだ。

 少女たちが弾幕を散らしたり、いきなり里が現れたことにも驚いたが、またしても素直に驚くことになるとは。ここへ来てから驚くことばかり続いている。

 常識がついていかず、理解が及ばない。だが、なぜか自然とそれを受け入れてしまっていることに、不思議と違和感はなかった。

 少女が空を飛んでいる。五代はその光景をしばらく眺めていた。周りの人間たちはそれに見向きもせず、五代のほうにばかり注目している。彼らにとっては空を飛ぶ人間より自分のほうが珍しいのだろうか。

 じろじろと見られていることにむず痒さを感じながら、五代は軽く会釈をする。笑顔でいれば警戒はされまい、と思ったが、人々は困惑したような表情で互いの顔を見合わせていた。

 

「何してんの! 早く来なさい!」

 

 なかなかついてこない五代に対し、霊夢が遠くから呼びつける。

 五代はごめんごめんと謝りながら一度霊夢から離れ、停めておいたビートチェイサー2000の調子を確かめた。

 シートに跨り、スタンドを上げる。ハンドルグリップに掛けておいた黒いヘルメットを被ると、左足でギアを入れ直し、あまり速度を出しすぎないように霊夢の姿を追った。

 

 空を飛ぶ霊夢を避け、人々は道を開ける。バイクが珍しいのか、あるいは五代自身が珍しいのか。すれ違う度に感じる視線は、様々な感情を帯びているような気がした。

 やがて走行を続けていると、霊夢は門を潜って人里の外に出る。空はすっかり夕暮れが過ぎ、東の方はすでに暗くなり始めていた。夜は妖怪が活発になり、里の外ともなればいつ襲われてもおかしくはない。少し悩んだが、霊夢は夜にならないうちに急いで神社に向かうことにした。

 

「ここからは飛ばすわよ。しっかりついて来なさい」

 

 それだけ言うと、霊夢は一気に速度を上げる。人間の里を通り抜け、深い森に入ると、どんどん視界が悪くなっていく。

 五代は霊夢を見失わないように、ビートチェイサーのヘッドライトを点けて林道を照らす。ガサガサと木々を掻き分け、二人は鬱蒼とした獣道を抜けていった。

 

 博麗神社境内を覆う鎮守の森。青々とした木々は森を進むにつれて桜の芽吹きが増えてきており、春の季節を感じさせる。

 たまにすれ違う不気味な気配は気のせいではない。博麗の巫女である霊夢の存在と、見慣れぬ機械のライトを警戒してか二人の前には現れないが、様々な『何か』がこちらを見ている。霊夢とはぐれれば、知性のない妖怪などすぐに五代に喰らいつくだろう。妖怪の賢者が敷いた幻想郷のルールによってある程度は秩序をもたらされているが、妖怪の本能は常に人間を求めているのだ。

 

◆     ◆     ◆

 

博麗神社

06:42 p.m.

 

「――着いたわ」

 

 獣道を抜け、博麗神社に戻ってくる頃には茜空の大半が濃紺に染んでいた。

 ビートチェイサーのライトとエンジン音が妖怪を遠ざけていたのか、あるいは逆に彼らを刺激していたのか。どちらともつかないが、霊夢はひとまず、無事に青年を神社まで連れてくることができて安堵する。

 すでにヘルメットを外していた五代はビートチェイサーを手で押し、境内を覆う木々の隙間から顔を出す。木々を抜ける度にはらはらと散り、頭に乗っていたいくつかの桜の花びらを払うと、博麗神社拝殿の傍、参拝の邪魔にならない程度の側面の位置にビートチェイサーを停めた。

 

「いい神社だね。なんか、すごく落ち着くって感じ」

 

 裏庭の森から抜けてくる形で博麗神社の正面に回る。明らかに参道を無視しているが、霊夢曰くこちらのほうが近道らしい。

 五代雄介は冒険家だ。これまでも数多くの山々を登り、道なき未知を求めてきた。建造物でさえ、屋根や窓の縁などの足場を駆使して登りたくなるくらいだ。正面から真っ直ぐ入るより、こうして不安定な抜け道を通る方がワクワクする。冒険家の性として、ある程度の危険(リスク)を求めてしまうのは仕方がない。

 鳥居を潜ることなく神社の境内に踏み入り、石畳を歩いて拝殿の前まで来る。少し寂れているが丁寧な手入れが行き届いており、この神社が愛されていると伝わってきた。境内を見回しても他に人の姿は見当たらない。年季を感じさせる建物だが、あまり知名度のない神社なのだろうか。

 

「単刀直入に訊くわ。あんた、いったい何者なの?」

 

 五代に向き直り、霊夢は真剣な口調で問う。並みの妖怪ならその重圧を感じただけで逃げ出していてもおかしくはない。この場でこの男を『退治』してしまうこともできるが、霊夢の直感は彼を人間だとしか思えなかった。人間であるのならそれを守り通すのが霊夢の信条だが、彼はただの人間と呼ぶには(いささ)か以上に異質すぎる。

 服装や幻想郷の常識に疎い様子から察するに、おそらくは結界を超えて幻想郷の外から来た人物、すなわち外の世界から漂流した『外来人』なのだろう。

 幻想郷には、稀に何らかの原因で博麗大結界を超えてしまい、本来あるべきではない不正な手順で『幻想入り』を果たしてしまう者が現れることがある。そういった場合、妖怪の賢者や結界を管理する博麗の巫女の手によって、無事に外へと帰してもらうまで幻想郷で過ごすのが通例だ。

 

 見た目はまさに一般的な外来人としか言いようがない、ごく普通の青年。だが、忘れてはならない。この男は、霊夢の目の前で鎧の異形に『変身』してみせている。

 外の世界にも多少なりとも幻想的な能力を持つ者もいるかもしれないが、ここまで露骨に人ならざる姿へと至る人間など、霊夢は聞いたことがなかった。

 もしやこの男も、例の『灰色のオーロラ』から現れた存在なのではないか。我々を欺き、怪物と共に幻想郷を踏み荒らすつもりなのではないか。その意図がないにしても、本人が自覚していないだけで、あの怪物と――人里を襲った蜘蛛の怪物(ズ・グムン・バ)と同類という可能性も捨て切れない。

 

「あっ、ごめんね! 自己紹介してなかったっけ。えーっと……はい、これ!」

 

 張り詰めた空気を容赦なく打ち砕く、気が抜けるほど朗らかな声。五代はあっけらかんと答えると、浮かべた笑顔を崩さず自らの懐を探る。取り出した革の財布から一枚の紙を抜き取り、変わらぬ笑顔でそれを差し出した。

 霊夢はそれを受け取り、怪訝な表情でその紙を見る。書かれた内容は自身の名前を記した名刺のようだったが、そのデザインは奇抜なものだ。

 左右に横書きで並べられた『夢を追う男』『2000!の技を持つ男』の文字。それが何を意味しているのかはさっぱり分からない。その文字を押しのけるように、真ん中には一際大きく、縦に書かれた『五代雄介』の文字が記されている。左右の妙な肩書きと名前の他には、左端に描かれた顔のような絵。顎のほくろと掲げる親指は、この名刺を差し出した青年の特徴をよく捉えている。

 

「……なにこれ」

 

 顔を上げ、再び青年に問う。青年、五代雄介は名刺に描かれた絵と同じく、笑顔で親指を掲げた。あまりにのんきなその顔を見ていると、霊夢は自分の考えがバカらしくなってくる。真剣に考えていたはずなのに、気づけば霊夢は小さな笑顔を見せていた。

 あれこれ深く考えるのは自分らしくない。霊夢は当初の直感に従い、五代を人間であると決めつける。そのほうが楽だし、何より人間にしか見えない外来人を退治するなんて後味の悪い真似はしたくなかった。

 もし本当に人間を襲うような怪物だったとしたら、そのときはそのときで考えればいいだけだ。霊夢には、たとえもとは人間であっても、『人間だったもの』を葬る覚悟がある。

 

「今日はもう遅いし、あんたの処遇は明日考えることにするわ。しばらくはここに泊まっていってくれる? 一応、客間くらいならあるから」

 

 霊夢は名刺を懐にしまい、親指を背後に向けて博麗神社の拝殿を指す。

 神社といっても、ある程度の住居は設けられているし、霊夢は普段ここに住んでいる。人一人を泊めるくらいは問題ない。多少抵抗はあるが、その辺で野宿させて妖怪のエサになられるよりかはマシだ。

 人間の里では人目につくし、顔も知られているだろう。あまり騒ぎになられては困る。今は結界が安定しておらず、外の世界に帰すことは難しいかもしれないが、いずれこの異変も終わるはずだ。それまでには無事に帰せると信じて、監視も兼ねてこの男を家に泊めてやることにした。

 

「えっ? でも、迷惑じゃない? 神主さんとかは?」

 

「あー、いないのよ。そういうの。私一人でやってる神社だから」

 

 五代の疑問はもっともだ。だが、この博麗神社に神主はいない。霊夢はここに一人で暮らしており、巫女としての仕事も彼女一人で担っている。

 妖怪退治などの報酬があるおかげで生活に苦しむことはないし、霊夢が望もうが望むまいが、ここには魔理沙を初めとした沢山の来客が来るため、寂しさを感じることもない。これでここに来るのが普通の人間で、普通の参拝客だったら言うことなしなのだが。

 強い人間、特に霊夢のような人物は妖怪に好かれやすい。気がつけば、宴会を開いても、商売のためにイベントを初めても。ここに集まるのはやはり人ならざる『妖怪』ばかりだった。

 

「どうせ行くところもないでしょ? ここは素直に従っときなさい」

 

「……そっか。そう、だよね。うん、じゃあ、そうさせてもらおうかな」

 

 何やら悩んでいるようだったが、五代はここに泊まることを決めたようだ。

 霊夢としても里に置いておくわけにはいかないし、里以外の他の場所も安全が保障できないため、嫌だと言われようが無理矢理ここに泊めるつもりだった。本人が納得してくれるなら面倒がなくて助かる。

 あとは、巫女として異変の解決を果たすだけ。神出鬼没の怪物は常に結界めいた灰色のオーロラから姿を現していた。となれば、やはりそのオーロラのあるところにこそ自分が赴き、怪物を退治するべきだろう。

 幻想郷全体が広く見渡せる博麗神社から一通りの場所を確認してみたが、あの灰色のオーロラは今はどこにも現れていない。ひとまず安心すると、霊夢は振り返りながら口を開く。

 

「ちなみに、素敵なお賽銭箱はそこ――」

 

 言い切る前に。カラン、と。聞き慣れない音を聞く。軽い金属が硬いものを打ちつける音。その音から連想される事実に思い至るのに、霊夢は数秒の時を要した。

 

「――よ?」

 

 思えば、そんな音はしばらく聞いていなかった気がする。すぐ目の前に、いつでもそこに。変わらず傍にあったはずなのに。なぜか、それが当たり前だと思い込んでいた。

 咄嗟に拝殿の方を見る。賽銭箱の前に立つ人間は、まさしく先ほどまで会話していた五代雄介本人だ。二拝二拍一拝。瞳を閉じて祈りを込める。その様は疑いようもなく、この神社にお参りをする参拝客に他ならない。

 博麗神社は参拝客が少ない。その理由は、霊夢の性格が強い妖怪を惹きつけてしまうからだ。妖怪神社とも呼ばれるほど妖怪に好まれやすい神社に、まして周辺を森で囲われ、人里から歩いて来ることすら難しいこの場所に、わざわざ参拝に来ようなどという物好きはほとんどいない。

 

「…………よし、と」

 

 五代雄介は静かに祈る。もう二度と、あんな怪物――未確認生命体に。グロンギと呼ばれる化け物に、誰の涙も流させないため。みんなに笑顔でいてほしい、その小さな願いが、奉る神様に届くのならば。

 どうか、もう二度とあんな悲劇を起こさせないでほしい。戦う必要のない世界。自分がただの冒険野郎でいられる日常。ただ、五代の望みはそれだけだ。

 あとは少し、お世話になったとある店が潰れず繁盛してくれれば。おやっさんたち、元気にやってるかな、と。五代は雑念を抱きながら、名も知らぬ祭神に祈りを捧げる。最後にもう一度、強く両手を打ち鳴らし、祈りを終えると、どんな神様がいるかも知らない小さな神棚を見上げた。

 

「あ、あら。お賽銭、入れてくれたの? ええっと……ありがとう?」

 

 霊夢は困惑していた。参拝客は少ないなりに、来ないことはない。だが、お賽銭を入れてくれる者など皆無に等しかった。賽銭箱など、もはやただの置き物と思われているのではないか、と思うくらいに。

 金額は重要ではない。まともな参拝客として、祈りを込めてくれたことが嬉しかった。霊夢はどう反応すればいいか分からなかったため、自分でもよく分からず五代に礼を言う。もちろん彼は普通にお参りをしただけなのだが、霊夢はその意味が分からず頭に疑問符を浮かべていた。

 

「短い間だけど、ここでお世話になるんだし。神様にも挨拶しとかないとね」

 

「そ、そう? なかなか殊勝(しゅしょう)な心掛けね」

 

 屈託のない笑顔で答える五代を見て、霊夢は動揺が隠せなかった。ここまで素直で裏表のない人物は幻想郷では珍しい。

 何の皮肉も込められていない、ただ純粋な笑顔。今までひねくれた妖怪ばかり相手にしてきた霊夢は、その素直さに逆にやりづらさを覚えた。

 

「あれ? なんだろ、これ」

 

 参拝を終えた五代が、ふと賽銭箱の隙間に何かが挟まっていることに気づく。名刺ほどの大きさを持つ小さな紙片、というより、一枚の『カード』らしき何か。賽銭箱の奥まで落ちてしまわないようにそっと引き抜くと、五代はその絵柄を確認した。

 深い桃色に彩られたカードの(ふち)、その上部にはバーコードめいた黒い線が刻まれている。中心の絵柄には仮面らしきものが描かれているが、ぼんやりとした灰色の輪郭(りんかく)からはその全容が判別できない。目をこらせばバーコードらしき板状の意匠が組み込まれているようにも見えるものの、やはり抽象的な推測の域を出なかった。

 薄く見える一対の複眼、額に組み込まれた小さな結晶。見た目のデザインこそ大きく異なっているが、基本的な造形は五代が変身した姿にも共通するものが感じられる。

 

「……カード? スペルカードじゃないみたいだけど……」

 

 霊夢たちが弾幕勝負において用いるスペルカードとは似ても似つかない。そもそも、彼女らの持つスペルカードとは弾幕の発動を宣言するためのただの紙だ。それそのものには何の力も込められていない。

 だが、このカードは違う。五代は触れているだけで、霊夢は見ているだけで、説明のつかない何かが。怪しげな力が、カードの絵柄を通じて伝わってくるような気すらした。

 

 気のせい、なのだろうか。一瞬だけ感じたその不気味な感覚はすぐに消え、カードはただの紙片として霊夢の目に映っている。

 一見、ただ謎の仮面が描かれただけのカード。誰が何の意図でこの賽銭箱に入れたのか。いったいこのカードは何を意味しているのか。裏庭の森に住まう妖精が悪戯で入れたもの、と思ってしまえばそれまでだが、霊夢の勘は、どこか漠然とその可能性を否定しているようだった。

 

「ここのお供え物みたいだし、巫女さんが預かっておいたほうがいいんじゃない?」

 

 五代が霊夢にカードを手渡す。先ほど感じられた不気味な感覚はもはやそこにはない。やはり気のせいだったのだと納得して、霊夢はそれを受け取った。

 博麗神社に置いておいてもいいが、このカードは何か気になる。材質といい絵柄といい、幻想郷らしくないものが多すぎる。幻想郷を管理する妖怪の賢者、八雲紫ならこのカードについて何か知っているかもしれない。

 霊夢はこれを紫に見せる機会を待つため、そのままその謎のカードを懐にしまった。

 

「ああ。そういえば、まだ名乗ってなかったわね」

 

 五代が自分のことを一度も名前で呼んでいないことに気づき、霊夢はようやく思い出した。疲れの溜まった身体を伸ばし、一度深く息を吐く。

 思えば、魔理沙との弾幕ごっこに続いて、神社に現れた怪物から人里に現れた怪物と、今日は一日中戦いっぱなしだ。異変時におけるスペルカード戦ならこれくらいの連戦は珍しくないが、今回は未知の敵と本気の戦闘を続けていたのだ。いつも以上の疲れを感じるのは必然である。

 

 里に現れた未知の怪物は退けることができたものの、トドメを刺すことはできなかった。それだけではなく、オーロラが現れる原因も掴めていない。数体の怪物を倒せても、異変は何一つ解決していないのだ。

 これからもあれだけの怪物が次々に現れるのだと考えると、この程度で疲れてはいられない。気を引き締め直すと、霊夢は五代に背を向けて右手の親指を立てるポーズを見せた。

 

「――博麗霊夢よ。五代さん」

 

◆     ◆     ◆

 

「ほら、上がって」

 

 霊夢に言われるがまま、五代は博麗神社の玄関まで足を運ぶ。台所が備えつけられた土間を抜け、廊下を進んで来客用の座敷まで案内された。どうやら、外から見えた拝殿の大半は霊夢と名乗った少女の自宅らしい。

 拝殿の中に住居があるという構造自体はかなり特殊だが、内装はやはり神社らしく、外観と変わらぬ木製の壁。畳と障子の匂いに彩られた、古き良き日本の和風建築そのものだ。

 

「中は結構広いんだね。いや、外から見たときも広かったけど」

 

 この神社に来る前に見た場所の街並みもそうだったが、その内装はどこか前時代な古臭さを感じさせる。神社としては当然かもしれないが、これだけの設備がありながらどれも電気の使われていないものばかり。今の時代において、年端もいかぬ少女が一人暮らしをするに電化製品などを一切使わず生活する苦労はかなりのものがあるはずだ。

 相当な田舎に来てしまったのか、あるいは本当に過去へタイムスリップしてしまったのか。考えても何も分かるまい。今はただ、この未知の郷に、冒険家としての好奇心を満たす以外の答えは出せそうになかった。

 だが、あまり浮かれてもいられない。ここには自分以外にも、倒したはずの未確認生命体が迷い込んでいる。理由は分からないが、一度は奴らを葬った身として、五代は責任を感じていた。

 

「あんたの部屋はこっち。何かあったら、私はあっちにいるから」

 

 無意識に拳を握りしめていた五代は、霊夢の声を聞いてはっと気がついた。軽く返事をすると、霊夢は不思議そうな様子で五代の表情を見つめる。

 さっきまで見せていた心からの笑顔とは違う、無理して形作った悲しい仮面の笑顔。もしかしたらバレていたかもしれない。

 知り合ったばかりの少女を相手にしても、五代は心の涙を見せたくはなかった。

 

「それじゃ、私は夕食の支度をしてくるわ。あんたはそこで待ってなさい」

 

「あっ、だったら俺も手伝うよ」

 

 部屋の(ふすま)を閉めようとする霊夢を見て、五代が土間まで戻ってくる。本人に苦しんでいる様子がないため、詳しい怪我の状態までは分からないが、先ほどの戦いぶりを見る限りでは全身に相当なダメージを負っているはずだ。

 さすがに見過ごせず、振り返って五代を引き止める。じっと五代の顔を睨むが、とぼけた様子のその顔はなぜ止められたか理解できていないらしい。霊夢は呆れた顔で溜息をつき、座敷に用意した来客用の座布団を指さす。正確には、しまうのが億劫(おっくう)で出しっぱなしだっただけなのだが。

 

「あんた、さっき怪物にボコボコにされてたでしょ? おとなしく待ってなさいっての!」

 

「もう全然大丈夫だって! ほら!」

 

 朗らかな笑顔で服をまくり、身体を翻らせてみせる五代。いくら異形の姿に変身して戦っていたとはいえ、あれだけの暴力に(さら)されて平気でいられるはずがない。

 が、見たところ本当に大した怪我は負っていないようだ。ただ痩せ我慢をしているだけなのか、それともやはりあの怪物と同じように並外れた回復力を持っているのか。霊夢は驚きながらも、五代の様子を見て安堵する。

 五代は気づいた。この子には、人の痛みを思いやれる優しさがあるのだと。なればこそ、なおさら。この少女を、ここに住まう人々を。未確認生命体との戦いに巻き込むわけにはいかない。また再び、かつてと同じように自分が未確認を倒していけばいいだけだ。

 辛く苦しい戦いだが、未確認によって流されるはずだった血と涙を、元の笑顔に変えられるのなら。何度でも立ち上がることができる。もう一度、奴らに立ち向かうことができる。

 

「それに、霊夢ちゃんだってあいつらと戦ってたのは同じだし、俺もここに泊めてもらうんだから、手伝いくらいはしないとじゃない?」

 

 言いながら、五代は当たり前のように流し台で手を洗っている。とぼけた顔をしておいて、意外と食えない男だなと霊夢は思った。

 もはや何も言うまい。霊夢は反論できず、そのまま五代に手伝わせることにした。本人がやりたいと言っているのだから、わざわざ無下にすることもない。

 手元に食材を取り出し、霊夢は器用な手つきで調理を進めていく。やはり一人で暮らしている以上、自炊には慣れているのだろう。特に危なげもなく、一通りのことをこなせていた。

 

 一人暮らしならこのくらいは普通かもしれない。だが、それ以上に気になったのはやはりその環境だ。電化製品がないだけならまだしも、一般的な住宅におけるライフライン、すなわち生活に必要なインフラ設備がほとんど整っていないように見える。

 かまどや手押しポンプなどが置かれた台所は、現代の生活様式からは遠く掛け離れた光景だ。

 

「なんか、すごいね。まだ若いのにこんなに苦労してるなんて」

 

「見た目ほど不便じゃないけどね。一応、これでも妖怪の恩恵を受けてるし」

 

 霊夢は苦労する様子もなく当たり前とばかりにそれを行っている。五代はそれを不思議に思い、思わず声に出していた。慣れた手つきで調理を続ける霊夢は、何気ない口調でそう答える。

 

「妖怪?」

 

 つい聞き流しそうになったが、違和感を覚えた五代は気になった単語を霊夢に訊き返した。すでに粗方の作業は終わっており、五代は霊夢に言われた通り二人分の食事を座敷に置いたちゃぶ台まで持ってくる。

 質素だが、バランスの整った食事。この神社の景観に相応しい完全な和食である。白米と焼き魚、漬物と味噌汁。急須から注いだ湯呑みの中は美しく透き通ったお茶が満たされていた。

 

「人間の里なら食材くらいは揃ってるし、必要な道具は河童の技術でなんとかなるし。幻想郷って、外から来た人間が思うほど遅れてないのよ」

 

 座布団に腰を下ろし、それだけ言うと、霊夢は両手を合わせて「いただきます」と呟く。左手に箸を持ち、丁寧に魚の身を解す霊夢を見て、向かう五代も同じく繰り返した。

 

 幻想郷は人間と妖怪が共に暮らしている場所だが、その割合は妖怪の方が遥かに多い。人間の数が減りすぎると妖怪が人間を襲えなくなり、それを糧とする妖怪も減少の一途を辿ってしまうため、人間の里は妖怪たちによって保護されている。

 つまり人間は妖怪の脅威に怯えて暮らす身でありながら、妖怪の庇護(ひご)を受けて生きているということだ。

 例外的に人里を離れて暮らす人間もいる。霊夢のような妖怪退治を生業とする者だ。妖怪を退治するという名目上、妖怪に怯えることも妖怪に保護されることもないが、実際は妖怪と協力して幻想郷を維持するため、形式上の模擬戦闘(スペルカードルール)で決着をつけている。

 だが、もしもそのルールを守らず無秩序に人間を襲うような妖怪が現れた場合、幻想郷を守るために本気でそれを討つことも辞さない。それもまた、博麗の巫女の仕事の一つである。

 

「ごめん、幻想郷? 外から来たって……?」

 

「あれ? 言ってなかったっけ?」

 

 里に現れた怪物の対応や白い戦士の正体についてなど、異変のことでいっぱいいっぱいだったため、外来人である五代に幻想郷のことを教えるのを失念していたらしい。

 どう説明したものか、と霊夢は眉間を押さえる。一言二言で説明できるほど単純なものではないが、霊夢には一からそれを教えている精神的な余裕がなかった。

 妖怪、幻想、結界……どれを取っても分かりやすい言葉が見つからない。感覚的に物事を判断する天才肌の霊夢は、何かを人に分かりやすく教えるのは苦手なのだ。理解する側ならあっという間に分かってしまうのに、理解させる側になると途端に言葉が詰まってしまうタイプである。

 

「まぁ、厳密には違うんだけど、ここは五代さんがいた世界とは違うってことね。妖怪とか、妖精とか。そういうのがうじゃうじゃいるのよ。この幻想郷には」

 

「……妖怪……か……」

 

 霊夢の簡潔な説明を聞いて、五代は理解こそできずも納得しているようだった。荒唐無稽な話だが、今しがた弾幕の光や空を飛ぶ少女を見たばかり。ここへ来て未知の事象に度々見舞われた彼は自然とそれを受け入れていた。

 しかし妖怪とは。やはり人に害を成すのだろうか。未確認生命体の脅威に加えて、未知の怪異とも相対することになるかもしれない。未確認ならば五代もよく知っているため柔軟に対応できる自信はあるが、さすがに妖怪には出会ったことがなかった。

 五代は頭の中にぼんやりと、デフォルメされた妖怪、どこかキャラクターじみた姿を持つ天狗や河童のイメージを思い浮かべる。それくらい可愛いやつだったらいいんだけどな、と。

 

「まぁ、運が良かったわね。里に来てなければ、今頃その辺の妖怪に襲われてたかもしれないわよ。ただでさえ、今は異変に乗じて人を襲おうとする妖怪が増えかねないってのに」

 

 里の人間は妖怪に守られている。だが、里の外にいる人間はその限りではない。特に外から来た人間、外来人は幻想郷の均衡に含まれていないため、妖怪の保護を受けられずにそのまま帰らぬ人となってしまうことが多いのだ。

 霊夢の仕事は妖怪から人間を守ることではない。人間を襲った妖怪を退治し、人間の一定数を維持すること。それが幻想郷のシステムとしての博麗の巫女の役割だ。

 だが、霊夢は法則外にいる外来人といえど無視することはできない。たとえ幻想郷に何の影響ももたらさない外の世界の人間だとしても、たとえそれが幻想郷の脅威になりかねない存在だったとしても。妖怪や怪物に襲われる可能性があるのなら、放っておくことができない性格だ。

 

「異変って?」

 

 五代はすでに食事を終えている。茶碗に箸を置き、座布団の上に正座する自身の膝に手を乗せ、真剣に霊夢の話を聞いていた。

 彼の疑問に答えるべく、霊夢も一度箸を置く。霊夢の頭の中に浮かぶのは、博麗神社や人間の里に現れた謎のオーロラ。おそらくは結界に似た役割をするもの。

 見た目だけで言えば灰色のオーロラと形容できるが、実際は光の屈折などによって空間と空間の境界らしきものが可視化され、揺らめく光の幕のように見えているだけにも感じられた。

 

「五代さんも見たでしょ? あの変なオーロラに、そこから現れた怪物。見たところ、あれは妖怪に類するものじゃなかった。……あんた、あれについて何か知ってるんじゃない?」

 

 直感と推測による判断。目の前にいる男は、あの怪物を知っている。もしそうでないにしても、あの怪物と何らかの関係があるはずだ。

 そう考えた理由は五代が変身したあの姿。一見するとあの怪物とはまったく異なる姿だが、本質的にはどこか同じように思えた。調べてみないことには断定はできないが、霊夢はあの戦士と怪物を同じものだと考えていた。

 ただ静かに答えを待つ。五代は答えに迷っているのか、握りしめた湯呑みの水面に視線を落とした。微かに震えるお茶の表面は、揺れ動く五代の心象を映し出しているかのようだ。

 

「……未確認生命体」

 

「え?」

 

 お茶を見つめたまま、五代ははっきりと答える。不意に告げられたその言葉に、霊夢は意表を突かれた。

 おもむろに顔を上げた五代はお茶を一気に飲み干し、そのまま神妙な面持ちで話を続ける。

 

「あいつら、本当の名前は『グロンギ』って言うみたいなんだけどね。もう、すっごい昔の時代から復活した怪物で、とんでもなく強い奴らで」

 

 未確認生命体。ある研究者と警視庁によってそう定義された未知の生物群。長野県中央部の山岳地帯に位置する古代遺跡、『九郎ヶ岳遺跡(くろうがたけいせき)』から復活した彼らは『グロンギ』と呼ばれる超古代の狩猟民族だった。

 彼らはもともと、同じく超古代の民族である『リント』によって封印されていた。だが、九郎ヶ岳遺跡を発掘した調査チームにより、彼らを封印したリント唯一の戦士、『クウガ』の石棺が開けられてしまったのを皮切りに、最初のグロンギ──未確認生命体第0号が復活。最初に復活を遂げた第0号の手によって、200体以上ものグロンギが現代に蘇ることとなってしまった。

 

「俺のいたところでは、あいつらは今まで何千、何万もの人の命を奪って……すごくたくさんの人が亡くなった。それでも、いろんな人たちと協力して、なんとか全滅させることができたんだ」

 

 グロンギは破壊と戦いを好み、何より殺戮を好む。古代においても、復活を果たした現代においてもそれは変わらず、彼らは一貫して大量虐殺を繰り返していた。

 それを食い止めるため、五代は九郎ヶ岳遺跡から発掘されたリントの遺品を手に取った。超古代においてリントが作り上げた、たった一人の戦士。常人を超人に変える聖なる霊石の力。ベルト状の装飾品、アークルを身に着けた。

 そして、五代は現代のクウガとなってグロンギたちに立ち向かい、ついには人々の協力もあり、グロンギの族長たる『第0号』を討ち果たし、彼らを全滅させることができたのだった。

 

「(外の世界で、そんなことが……?)」

 

 いくら幻想郷が外の世界と隔絶されているとはいえ、本質的には地続きの場所だ。本来の意味で異世界と呼べるものではなく、外の世界に支えられて存在している副次的な閉鎖空間、箱庭の結界と言い換えてもいい。

 未知の怪物、グロンギのことといい、霊夢は何か違和感を覚えた。外の世界でそれだけ大きな変化があれば幻想郷にも何らかの影響があるはずだし、紫や賢者たちを通じてそのことがこちら側に伝わってきてもおかしくないはずなのに、そういった話は一切耳にしていない。

 

 にわかには信じがたい話だが、彼が嘘を言っているようには見えない。霊夢の勘も、それを真実だと認めている。それでも霊夢は、それが『外の世界』で起きたという一点のみ、疑問が拭えないでいた。

 五代の話によると、先ほど人間の里に現れた蜘蛛の怪物も、彼によって一度は倒されているらしい。それが何らかの理由で復活し、幻想郷に姿を現したのだろう。

 だが、そんな存在が人々の記憶からそう簡単に忘れられ、正当な幻想入りを果たすだろうか。それだけの殺戮を繰り返したのなら、人々にとって忘れたくても忘れられない恐怖の記憶となるはず。となれば、やはり奴らは何らかの手段で故意に結界を越えてきたと考えるのが自然だ。

 

「すごく辛くて、すごく悲しかったけど……やっと第0号を倒して、終わったー!って、思ってたんだけどなぁ……」

 

 言いながら笑う五代は、小さく手を震わせていた。無理して笑顔を形作っていることが傍目に見ても分かる。相当な覚悟を持って、その拳を血に染めてきたのだろう。相当な苦しみを背負って、その身を戦いに投じてきたのだろう。

 グロンギについても、戦士(クウガ)についても何も知らない霊夢には、五代がどんな思いでそうしてきたかは知る由もない。それでも、胸を震わせる思いは五代の姿から伝わってきた。

 

「……そう。話してくれてありがとう。今はゆっくり休んで。後片付けは私がやっておくから」

 

 正直、まだ訊きたいことはある。だが、ひどく辛そうな顔をしている五代に対し、それ以上は何も訊く気になれなかった。

 この幻想郷において、彼に必要なのは安らかな休息だろう。今はただ、グロンギのことなど忘れて、ゆっくり身体を休めてくれればそれでいい。

 霊夢は心に決めた。もう、彼を戦わせる必要はないと。彼は彼の世界で、十分戦ったのだ。博麗の巫女として、ではない。『博麗霊夢』個人として、そう決めた。

 いくら外の世界由来の怪物であろうと、幻想郷の異変は幻想郷の住人だけで解決すべき問題。外来の人間を巻き込むわけにはいかない。結界が安定したらすぐにでも外の世界へ帰そう。それまではどうか、この博麗神社で、戦いを知らずゆっくりと過ごしてくれることを願うばかりだった。




博麗神社の構造、どうなってるか分からなすぎる。
幻想郷なら拝殿と住居が一体化しててもたぶん大丈夫です!(笑顔でサムズアップ)

次回、EPISODE 5『霊夢』


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第5話 霊夢

――――――――――――

 

――――――――

 

――――

 

 幾千、幾万の戦士が吼え、数多の矛が宙を舞う。断末魔は吹き荒び、燃ゆる焔と飛び散る鮮血が殺風景な断崖の荒野を染めてゆく。

 地獄絵図とも形容すべきこの戦場に、何一つとして尋常なものはなかった。

 

 火焔を吐き散らす龍。円盤の如き鳥や獣。天空を翔ける列車。城を背負った巨大な魔物。等身大の戦士たちもその身に鎧を纏い、一切の肌を晒しておらず、素顔は仮面に隠されている。

 

 彼方には、ただ一人だけ無傷の戦士が立っていた。この地獄の中に一人、それを睥睨(へいげい)する悪魔がいた。

 後光の如く差し照らすマゼンタ色の輝き。歪に吊り上がった濃い緑色の複眼。額に組み込まれた結晶は紫色に捻じ曲がり、戦場を等しく()めつけている。

 破壊の化身は地上に舞い降りた。すべてを無に帰す、滅びの象徴はそこにいた。ここに倒れる全ての戦士は、命を落とした全ての異形たちは、この悪魔を倒すためだけに、その力を振るっていたのだ。

 だが、その奮闘も虚しく、たった一人の『それ』を討ち倒すことができる者は誰一人としておらず。この無情なる戦場は、その悪魔――マゼンタ色に輝く『破壊者』の勝利を讃えていた。

 

「何よ、これ……」

 

 瞬く間に命が消え、骸と屍が積もってゆく。凄惨なその光景の中、一人の少女が風に揺られ、紅白の巫女服を揺らしていた。理解の追いつかない状況に立たされ、茫然と立ち尽くす少女。博麗霊夢はただ、その地獄を傍観することしかできない。

 霊夢が疑問と不安に満たされた表情で一面の絶望を見渡していると、虫の息ながらも未だ立ち上がろうとする戦士の姿が視界に入る。

 強靭な大顎、金色の双角と赤い複眼、その両目と同じ赤をした胸の装甲は一部、彼自身の血によって赤黒く変色してしまっており、見るに堪えないほどの(いた)ましさだった。

 

 色こそ違うが、霊夢はその姿を知っている。頭に浮かぶのは鎧の戦士。それは幻想郷に迷い込んだ外来人たる青年が変身した姿として、霊夢の記憶に新しい。

 霊夢の知っている鎧の戦士は、角の短い白い姿だ。だが、今目の前にいる戦士は鮮烈な赤に染まり、その頭部に掲げる二本の角も霊夢の記憶よりも強く大きく伸びている。全身を自らの血に染め上げ、弱々しく拳を震わせているものの、その心は未だ折れてはいないようだった。

 

「ごだ――」

 

 ─―違う。霊夢の直感は、この存在を『五代雄介』だとは認めていない。

 見た目は間違いなく、彼が変身した姿そのもの。色の違いこそあれど、同一の存在と見ていいだろう。それでも、霊夢はその戦士を五代と同一人物であるとは思えなかった。

 『別の誰か』としか考えられない。五代雄介という人物を詳しく知らない霊夢だが、その違いは感覚的なものとして理解できた。ならば、その戦士は誰なのか。五代と同じ姿になる者が、二人と存在するのか。

 そこまで考えて、霊夢の勘は一つの答えを導き出す。同じでありながら、違うのだ。この戦士は、紛れもなく五代雄介と同じもの。だが、五代雄介ではない。ただ、それだけだ。

 

「待て……っ!」

 

 歩くことすらままならないというのに、赤い戦士はその拳をもって再び戦場へと踏み入ろうとしている。ふらつきながらも拳を構えるその姿は、とても戦えるようには見えなかった。

 彼の心は怒りに支配されている。憎悪と憤怒に身を焼かれている。悲しみを内に秘めるのではなく、その吐露として拳に乗せようとしている。その仮面の下にあるのは、笑顔でも涙でもない。

 

「はぁあああ……っ!!」

 

 圧倒的な力の奔流。広がる青空は掻き乱され、暗く淀んだ雷雲に満たされる。大地を()いて轟く光。溢れ出る力は激しく歪み、周囲のものを空中に浮かび上がらせる。尋常ならざる気配は、より一層凄まじきものへと変わっていった。

 暗黒が戦士を包む。怒号と慟哭(どうこく)。鳴り響く雷鳴と地響き。それに伴い、戦士の身体は徐々に闇に堕ちていく。

 全身に走る金色の血管状組織。暴力的なまでの黒い姿。掲げる双角は歪に捻じれ、空を引き裂かんと伸びる四本角に。口元には獣の如き牙が生え揃い、肩や手足からは隆起した角のようなものが突き出している。

 戦士の瞳は、その身と同じ黒に染まっていた。その黒い瞳からは優しさや思いやりなど微塵も感じられない。ただ無限に湧き上がる怒りと憎しみ。目の前のものを破壊したいという衝動。拳を振るうことしか考えられない怪物の視線は揺るぎなくマゼンタ色の破壊者を貫いた。

 

 凄まじき戦士と世界の破壊者が対峙し、構える拳が互いの影を捉える。凄まじき戦士の黒き拳は炎に染まり、向かう破壊者の拳は幾何学的な情報の光に包まれた。

 互いが大地を駆け抜け、その拳と拳をぶつけ合う。その瞬間、あらゆる空気が吹き飛び、打ち砕かれる大地と共に、二つの影を中心に――世界の何もかもが消し飛んでいった。

 

 耳を貫く轟音を聞く。肌に焼けつく熱風を感じる。

 破滅の閃光、消えていく意識の中に、霊夢は聞き覚えのある紫色の声を聞いていた。

 

「やっぱり、こうなっちゃうのね」

 

◆     ◆     ◆

 

博麗神社

02:25 a.m.

 

「…………っ!!」

 

 心臓を鷲掴みにされたかのような強い衝撃で霊夢は目を覚ます。布団の中に横たわる自分の身体は、冷たい汗でじっとりと濡れていた。

 上体を起こし、落ち着いて呼吸を整える。少しづつ時間が経つにつれ、頭がすっきりと冴えてきたようだ。

 凄惨な闘争。殺戮の嵐。絶え間なく繰り広げられる地獄の光景は、今は霊夢の頭の中にしか存在していない。額を伝う一滴の汗を拭うと、霊夢は少しだけ気持ちが楽になるのを感じた。

 

「……夢……?」

 

 胸の鼓動が激しく聞こえる。霊夢の勘は、脳裏を(よぎ)る不吉なイメージをただの夢だとは認識できなかった。

 肌を撫でる焦げた風。血と炎の匂い。そして全身を震わせる『凄まじき戦士』の気迫。五感のすべてに戦慄を刻み込む幻は、夢と呼ぶにはあまりにも鮮明すぎる感覚だった。

 無意識のうちに、震える身体を押さえつける。冷えた寝汗が体温を下げたのか、夢の内容への恐怖がそうさせているのか。たかが夢だ、と頭では思っていても、霊夢は心象に焼きついたその光景を振り払うことができなかった。

 寝巻を整え、立ち上がる。纏う布が肌に張りつく感覚が酷く不快だ。もう一度眠りに着く前に、この汗を洗い流したい。博麗神社の近くには間欠泉から引いてきた地熱由来の天然温泉が設けられており、湯を沸かす必要がなく、思い立てばすぐに身体を清めることができる。

 

 軽く汗を流し、丁寧に髪を乾かす。空はまだ暗いが、気持ちが落ち着くと眠気も失せてきた。昨日は連戦に連戦が続き、あんなに疲れていたというのに、不思議なものだ。

 霊夢は別に用意しておいた寝巻ではなく、朝に着る予定だった巫女服を手に取り、袖を通す。お気に入りの赤いリボンで髪を結ぶと、心の中の小さな不安も打ち砕けるような気がした。

 

 土間から玄関を抜け、夜の幻想郷を一望する霊夢。五代雄介はまだ寝ている。相当疲れが溜まっていたのだろう。霊夢のことを考慮して座敷とは別の部屋で、布団も敷かずにぐっすりと熟睡している。霊夢の方はいつも通り座敷に布団を敷いて眠っていたにも関わらず、全身に張り詰める緊張のせいか妙な夢を見てしまったというのに。

 霊夢が一人で暮らす博麗神社には当然、男物の服など置いていない。五代には申し訳ないが、今は彼が着ていた服をそのまま着せておくしかなかった。近いうちに里で服を調達しておこう。

 

「……こんな異変、さっさと終わらせないとね」

 

 赤い鳥居越しの夜空には真円に満たぬ月が浮かんでいる。結界の綻びによるものか、あるいはオーロラの影響なのか、霊夢にはそれが不気味に歪んでいるように見えた。

 

 かつて月の秘術によって、幻想郷の満月が太古の月に差し替えられていたことがあった。

 そのことに気づいた妖怪の賢者、八雲紫は真相を確かめるべく霊夢と手を組み、境界を操る妖怪の力で夜を止めた(・・・・・)

 終わらぬ夜をもって、その間に月の異変を解決する。永い夜が続けばそれだけ月の影響を受けやすい妖怪の本能が活性化されやすくなり、夜が明けなければ人間の生活にも悪影響を及ぼしてしまうため、人間側の存在である霊夢としてもリスクの高い方法だった。

 しかし、月の違いなど分からない大多数の人間にとって、それは『夜が終わらない』という異変に他ならない。

 同じく異変解決者として名を馳せている霧雨魔理沙も、夜を明けなくした犯人、すなわち『永夜異変』の元凶として霊夢と紫を討ちに来たが、魔理沙の努力は霊夢の才能には及ばず、さらに紫も相手にしていたため、魔理沙に勝ち目はなかった。

 月の異変の正体、それは地上の密室化だった。千年も前から地上に姿を隠していた月からの亡命者が、匿っている月の姫を守るために追手の目を欺き、月と幻想郷を繋ぐ橋となる『満月』を封じたのだ。

 もっとも、幻想郷には結界があるため、そんなことをせずともすでに密室だったのだが。

 

「今は一人でやるしかないか……」

 

 今は姿を見せない八雲紫にも、当然、外来人である五代雄介にも頼ることはできない。ならば博麗の巫女である自分一人で異変を解決する。それがいつも通りの妖怪退治。いつも通りの巫女の仕事。ただ変わらず、今回の異変にもそうやって(のぞ)めばいい。

 霊夢は小さく溜息をつく。当初は楽観視していた今回の異変だが、結界の綻びの原因は想像以上に厄介なものであった。例のオーロラが幻想郷中に出現すれば、人間だけではなく妖怪も犠牲になるかもしれない。

 実際、人間の里に現れた蜘蛛(クモ)の怪物は霊夢と魔理沙だけでなく、妖怪である慧音までも狙っていた。奴らには人間と妖怪の区別がないのか、あるいは区別する必要がないのか。

 

 今回の異変も月の異変のときと同じく、妖怪と手を組まなければならなくなるだろう。人間も妖怪も関係なく襲う怪物を相手に、人間と妖怪のルールなど気にしている場合ではない。

 幻想郷は人間と妖怪が共に手を取り合って生きてきた。だが、妖怪は人間を襲わなければならない。人間は妖怪を恐れなければならない。それが幻想郷のルール。平和な幻想郷を維持するための秩序なのだ。スペルカードルールの制定によって形骸化しているとはいえ、今の幻想郷においては誰もがその規律に縛られて生きている。

 人間の少ない幻想郷において、異変を解決するのが『選ばれた人間』だけでは足りない。人間も妖怪も関係なく、幻想郷の戦力を束ねて挑まなければこの異変は終わらないだろう。この異変は、人間だけの手に負えるほど小さなものではないと、霊夢の直感は警鐘を鳴らしていた。

 

「…………」

 

 ─―鳥居の方に視線を向け、博麗神社に背を向けている霊夢は気づいていなかった。自身の背後、博麗神社の瓦屋根に、不気味な影が降り立つのを。

 影の両腕から生える翼には薄い被膜が張られ、(ふんどし)めいた白い布を纏う身体は夜に紛れる暗い茶色に染まっている。黒い体毛の生えた胸、その両乳首にはピアスを刺し、腰にはやはりズ・グムン・バと同じベルト状の装飾品が巻かれていた。赤銅色に鈍く輝くバックルは悪魔の如き形相を見せ、この怪物が『グロンギ』と呼ばれる未確認生命体であることを如実に示してくれている。

 

 ……あいつで 一人目だ

「……ガギヅゼ パパン ビンレザ」

 

 異形の顔面がニヤリと笑う。噛みつくことに特化したような鋭い牙、人間の口にも似たそれが歪に釣り上がり、生暖かい息を吐き出した。

 鋭く伸びた耳は小さな音を受け止める形に広がっており、細く潰れた双眸は僅かな光を効率的に取り入れる暗視の機能を備えている。たとえ月のない夜においても、音と匂いに加えて闇の中を見通すその視力があれば、如何なる獲物にも喰らいつくことができるだろう。

 

 博麗神社の屋根を蹴り、夜の闇に翼を広げる怪物。風を受けて滑空し、鋭く研ぎ澄まされたその翼爪を構えて霊夢へと飛び進んだ。

 まるで目にも止まらぬスピードで、巫女服から露出した霊夢の白い肩を目掛けて飛来する。

 

 一撃。怪物の翼爪は的確に霊夢の左二の腕を捉えた。鋭い爪が柔肌を切り裂き、飛び散る鮮血が月の光を受けて妖しく煌めく。

 痛みよりも滲み湧く、冷ややかな恐怖の感情。見えない角度から闇に紛れて攻撃を受けた、という感覚が霊夢の動きを鈍らせてしまい、咄嗟の反撃に出ることができなかった。

 

「ぐっ……妖怪……!?」

 

 いや、違う。夜とはいえ、博麗神社の境内では人間を襲うことは禁じられている。

 不意打ちで一瞬混乱してしまったが、霊夢はすぐにそれが妖怪ではなく、例の『怪物』の一種であると気がついた。血の滴る左腕を押さえ、巫女服の紅白比率が偏っていくのを感じながら、霊夢は目の前で己の爪についた血を舐め取る怪物を睨みつける。

 幸い、傷は小さい。よほど深く切りつけられたのか、なかなか血が止まる気配はないが、痛みは大したことはなかった。

 それより、せっかく新しく着替えたばかりの巫女服が血に染まってしまったことの方が腹立たしい。日々の妖怪退治の報酬として物はあるため貧乏というほどでもないが、霊夢は通貨としての金銭をほとんど持ち合わせておらず、自由に着られる巫女服もあまり多い方ではないのだ。

 

 うまそうな血の匂いだ……

「グラ ゴグバ ヂン ビゴギザ……」

 

「あんたたち……本当にしつこいわね……!」

 

 夜の博麗神社に現れた新たなるグロンギ、コウモリ種怪人『ズ・ゴオマ・グ』が恍惚そうに笑みを浮かべる。未確認生命体第3号とも呼ばれたこの怪物は、その見た目通りコウモリの能力を備えていた。

 それだけでなく、チスイコウモリの如く動物の生き血、それも人間のものを好むという性質を持ち、さながら吸血鬼じみた殺人を行うのだ。

 

 ズ・ゴオマ・グが再び翼爪を構える。それに伴い、霊夢も焦ることなく懐から数枚のお札を取り出した。

 昼間の疲労はある程度なら回復済みだ。万全の状態とは言えないが、グロンギに対しては夢想封印ほどのスペルカードなら深手を与えられることが分かっている。それならば、周囲への被害を考慮する必要のない今この状況なら、霊夢一人でもこの怪物を倒せるかもしれない。

 

 最初に博麗神社に現れたミジンコの怪物、ベ・ジミン・バはホーミングアミュレットなどの基本的なショットでも倒すことができた。

 しかし、里に現れた蜘蛛の怪物、ズ・グムン・バと同様、このズ・ゴオマ・グも『ズ集団』という階級に属している。ベ・ジミン・バのような最下級のグロンギ、『ベ集団』の一つ上に位置する階級でありながら、その戦闘力には天と地ほどの差があった。

 見た目の違いこそ腰に巻くベルト状の装飾品、『ゲドルード』のバックルの色が変わった程度でしかないが、体内に秘める魔石『ゲブロン』の出力は大きく異なっている。それは五代の体内にある霊石アマダムと同質の物体。この石の力がグロンギの肉体を変異させ、怪人態としての能力を与えているのだ。

 その構造を理解しておらずとも、一度彼らと戦った霊夢には直感で理解できた。このコウモリの怪物、ズ・ゴオマ・グは博麗神社に現れたミジンコの怪物とは違う、と。生半可な戦闘力で倒せる相手ではない。それは夢想封印を耐え凌いだズ・グムン・バが証明してくれている。それでも、あの怪物には十分な深手を与えられていた。

 この怪物も、見たところ防御に長けている様子はない。ならば、倒すことは不可能ではないはずだ。これまで培ってきた妖怪退治の技術と、スペルカードが誇る威力をもってすれば。

 

「私を狙ったのが、運の尽きだったわね」

 

 お札を構えた左手が震える。腕から流れる血はまだ止まっていない。ズ・ゴオマ・グの攻撃によって傷口に何かされたのだろうか。

 血液の凝固が遅れ、傷口が塞がりそうにない。左腕に力を込めただけで出血が促進され、放っておけば貧血で意識を失ってしまう恐れもある。これほどの怪物を前にして、それは決定的な不覚となるだろう。

 利き腕をやられたのは致命的だ。霊夢のお札は自動的に対象を追尾するとはいえ、これでは標的を上手く狙えない。誘導性能を持つお札以外のショット、パスウェイジョンニードルなどは命中が期待できなくなってしまった。

 だが、スペルカードの発動には問題ない。霊力さえ整えることができれば、夢想封印などの大技は問題なく発動できる。目の前の怪物が隙を見せたら、すぐさまそれを見舞ってやろう。

 

「先手は貰ったわ!!」

 

 ズ・ゴオマ・グが動く前に、霊夢は鋭くお札を投げつける。左腕の傷口から血が溢れるが、今は気にしていられない。巫女服の(すそ)を破いた布を使えば止血はできるだろうが、怪物がそんな悠長な真似を見逃してくれるとは思えなかった。

 真っ直ぐ飛んだ【 マインドアミュレット 】がズ・ゴオマ・グの身体に突き刺さる。他の誘導ショットとは異なり、霊力そのものではなく精神力を込めた特殊なお札。メインとなるお札に付随し、追従するお札の霊体が敵に追加ダメージを与える。威力は低いながら、連続ヒットによるダメージが期待できるため、初手の牽制(けんせい)としてはこのマインドアミュレットで十分だ。

 

 投げたお札が青白く炸裂する。やはり大したダメージにはなっていないが、問題ない。ズ・ゴオマ・グは獲物となるべき人間(リント)が攻撃してきたことに苛立ち、霊夢に向かって真っ直ぐ突進した。冷静さを欠いているのか、先ほどのような驚異的な速さは見られない。

 自慢の翼も広げず、ただ馬鹿正直に真っ直ぐ突っ込んでくるだけだ。その程度の単純な攻撃、弾幕ごっこで鍛え上げられた霊夢の回避能力をもってすれば、避けることなど造作もない。

 

「残念だったわね。私が格闘戦に付き合うとでも思った?」

 

 振るい上げられたズ・ゴオマ・グの拳が空を切る。攻撃を外したズ・ゴオマ・グは煩わしそうに霊夢の姿を睨みつけた。

 蜘蛛の怪物、ズ・グムン・バとは違い、飛び道具と呼べる武器は持っていないのか。高速で飛行できるという点を除けば、あまり大した能力を備えてはいないらしい。それならば、ある程度の距離を保ちながら弾幕を放ち続けていれば、大きなリスクを背負うことなくスペルカードを発動するための霊力を溜められるはずだ。――怪物がそれを大人しく許してくれるのなら、だが。

 

「シャアッ!!」

 

 体勢を立て直す間もなく、ズ・ゴオマ・グが再び翼爪を構えて突っ込んでくる。

 咄嗟に両腕を構えて防御したが、体格差もあって呆気なく吹き飛ばされてしまった。境内の石畳、硬い地面に背中を打ちつけ、霊夢は痛みに顔を歪める。

 呼吸を整える暇さえない。霊夢は次の攻撃が飛んでくるのを視認し、横に転がる形でズ・ゴオマ・グの爪を避けた。

 その直後、博麗神社の石畳が怪物の一撃で砕ける音を聞く。もしもあのまま寝ていたら、霊夢の頭は無くなっていたかもしれない。

 だが、この距離ならば誘導性能に頼ることなく威力の高い一撃を与えられるはずだ。霊夢は寝たままの姿勢で袖から針を取り出すと、右手の指に挟んだ数本を怪物に向かって撃ち放つ。

 

 誘導性能のない、威力重視のショット。左腕の負傷により、命中が不安定となっていたパスウェイジョンニードルは怪物の皮膚に突き刺さり、霊力を爆発させた。

 ズ・ゴオマ・グは真横からの攻撃に怯み、唸り声を上げて後方に退く。霊夢はその隙を見逃さず、パスウェイジョンニードルをさらに強化した対妖怪決戦用の強化ショット、【 エクスターミネーション 】を叩き込んだ。

 赤く輝く閃光の霊力はそれそのものが巨大な針の幻影を模し、さながら一条に束ねられたレーザーのように、ズ・ゴオマ・グの身体を焼き払いながらダメージを与えていく。

 

「よし……このままいけば……!」

 

 弾幕ごっこの範疇を超えた、命を奪うための攻撃。消費する霊力も相応に高いが、怪物の特性を理解していなかった昨日までよりかは確実に有利に戦えている。あとは溜めておいた霊力を解放し、スペルカードを発動すれば勝負はつくはずだ。

 里に現れた蜘蛛の怪物は夢想封印を受けてもまだ息があった。この怪物も、それなりの耐久を備えていることを覚悟しておく必要がある。

 この怪物を倒すには、最低でも夢想封印級以上のスペルカードを二発か三発。否、できることなら一撃で仕留めたい。霊力も体力も、無尽蔵ではないのだ。大技となるスペルカードを放っておきながら怪物を倒し切れなければ、そのまま返り討ちにされてしまう可能性が高い。

 

 エクスターミネーションで体力を削り、スペルカードによる一撃をもって確実に撃破する。それが叶わずとも、相当のダメージは与えられるだろう。問題は、霊力の枯渇に気をつけつつ、虫の息となったズ・ゴオマ・グを倒せるだけのスペルカードをもう一度発動できるかどうか。

 霊夢は一撃で怪物を倒せるよう、可能な限りの霊力を込める。左手に形成したスペルカードは霊夢の意思の具現。普段は何の力も込められていないただの紙切れ。しかし今は、怪物を殺めるのに十分なだけの霊力が力強く輝いていた。

 立ち上がり、体勢を整える。エクスターミネーションは霊夢の手から霧散し、その場には呻き声を上げるズ・ゴオマ・グだけが残された。ダメージこそ決定打にはなっていないが、弾幕という怒涛の攻撃手段は相手に確実な隙を作らせることができる。先日のズ・グムン・バ戦で、それはすでに証明されていた。

 狙うは一撃。構えるスペルカードを高く掲げ、その名を叫ぼうと口を開いた瞬間──

 

「グォォーーーォォオッ!!」

 

「なっ――!?」

 

 ─―油断していた。

 霊夢は目の前の怪物を倒すことに集中しすぎて、他の怪物が乱入してくる可能性を考慮していなかった。

 突如として死角から現れた蜘蛛の怪物、ズ・グムン・バが自身の糸を灰色のオーロラから垂らし、それに掴まることで振り子の要領で迫って来たのだ。

 伸ばした足をこちらに掲げ、自身の体重と遠心力を込めた飛び蹴りを放つズ・グムン・バは、もはや先日のダメージなど微塵も残っていないようだ。あれからまだ数時間ほどしか経っていないというのに、その傷はすでに完治している。やはり、怪物の驚異的な再生能力は健在らしい。

 

「二匹……!?」

 

 霊夢は咄嗟に身を屈め、ズ・グムン・バの飛び蹴りを避ける。後方に着地したズ・グムン・バは糸を手離し、振り返る霊夢の前で発達した両腕の筋肉を打ち鳴らした。

 ズ・グムン・バが霊夢に糸を吐きつける。なんとか身を翻すが、闇の中に白く光る蜘蛛の糸は血の滴る霊夢の左腕を呆気なく縛りつけてしまった。身動きを封じられることは回避できたが、左腕に巻きついた糸の感触が気持ち悪い。

 思わず、左手に持っていた光の札を取り落す。物質的なものではなく、霊夢の霊力から構築された疑似的なスペルカードはひらりと地に落ちると、形を失い光の粒と消滅した。

 

「くっ……!」

 

 今なお左腕に巻きつく蜘蛛の糸は、ズ・グムン・バの口と繋がっている。このまま引き寄せられれば、間もなく霊夢は怪物の餌食となるだろう。それをおぞましく感じた霊夢は、残る右腕を使って懐から一枚のお札を取り出し、霊力を込めて硬質化させた。

 刃の如く鋭く研ぎ澄まされたお札を振り下ろし、蜘蛛の糸を切断する。無茶な使い方をしたせいか、お札は糸を断ち切ると同時に砕け散った。

 強靭な蜘蛛の糸を切断し、霊夢は余った糸を自らの左腕に巻きつけるようにグルグルと引き寄せる。ギュッと結び目を作ると、ズ・ゴオマ・グによって与えられた傷はズ・グムン・バの吐き出した糸によって綺麗に止血されていた。それはさしずめ、見事な即席の応急処置である。

 

「……悪いわね。ちょうど、包帯が欲しかったところだったのよ」

 

 多くの血を失い、蒼褪(あおざ)めた顔で軽口を叩く。蜘蛛の糸には、古くから止血効果があると言われている。ズ・ゴオマ・グの何らかの能力によって止まらなかった血も、包帯代わりの蜘蛛の糸が()き止めてくれていた。

 人間の里に現れた際、魔理沙を縛りつけていた糸の様子から、この糸に毒性がないことはすでに確認している。

 本体から切り離したため怪物からの干渉を受けることはないと判断したが、霊夢は念を押して霊力で糸の性質を変えておいた。傷口の消毒と糸の洗浄も兼ねており、万が一にも蜘蛛の糸による害を受けることはない。

 年頃の少女である霊夢にとって、その生理的な嫌悪感は耐えがたいものがあったが。

 

 単純に向かう敵の数は二体。それは、ホーミングアミュレットでも倒すことができたベ・ジミン・バとは違う。四人がかりでも倒し切れなかったズ・グムン・バほどの怪物、赤銅色のゲドルードを持つズ集団に相当するグロンギが二体だ。

 もはや、霊夢一人ではどうすることもできない。たった一人の異変解決を、ここまで心細く思ったことはなかった。

 だが、霊夢は諦めてはいない。この身体はまだ動く。この心はまだ生きている。スペルカードを発動できるだけの霊力は残っている。なんとか怪物の隙を見つけ、せめて片方だけでも無力化することができれば。残るもう一体の怪物だけに集中することができれば、まだ勝機はある。

 

「…………!」

 

 失血により頭が回っていなかったのか、ほんの一瞬だけ思考が飛んでいたようだ。飛んでくるズ・ゴオマ・グがその鋭い翼爪を構えて霊夢に向かう。しまった、などと考える暇もなく、霊夢は迫り来る恐怖を防御するため、冷静に防御結界の印を組んだ。

 霊夢の身体は次の行動に移れない。十分とは言えずとも、疲労は回復していたはずだったが、出血の影響だろうか。ぐらりと揺れる視界の中、霊夢はその場に膝を着いてしまった。

 

「はぁっ!!」

 

 ─―その瞬間、霊夢の背後から飛び出した男の拳が異形の肉を潰す。ズ・ゴオマ・グの顔面を殴りつけた右の拳は、やはり黒い皮膚と白い装甲に彩られた。

 続けて左の拳で怪物を殴る。左腕が黒と白を装う。横蹴りを見舞って怪物の脇腹を打つ。両脚が黒く染まり、両膝が白い装甲を纏う。腰に巻かれたアークルの中心、モーフィンクリスタルの輝きは朱色。翻って裏拳を叩きつける。やがて男の顔は、その全身の姿は──戦士クウガの未完成形態たる、グローイングフォームへと変わっていた。

 再び白いクウガとなった五代雄介は回転の勢いを乗せ、最後にもう一発、ズ・ゴオマ・グの顔面に重く鋭い右ストレートを叩き込む。いくら人々を虐殺する異形の怪物を相手にしているとはいえ、人の形をしたものを殴る感触は優しすぎるその拳に(つら)いものを感じさせた。

 

「クウガ……!」

 

 口元を拭い、立ち上がったズ・ゴオマ・グが憤怒(ふんぬ)の形相でクウガの姿を睨みつける。白いクウガの拳では、やはり大したダメージを与えられていない。

 未完成形態と言っても、白いクウガは常人を遥かに超える身体能力を誇る。だが、それでも魔石ゲブロンの力で驚異の能力を身に着けたグロンギを相手にするには、些か力不足だった。

 

「霊夢ちゃん、その怪我……!」

 

 白いクウガ──五代がその場に膝を着く霊夢の怪我に気づく。傷口は蜘蛛の糸で縛ってあるとはいえ、すでに流れた鮮血はただでさえ鮮やかな巫女服をさらに赤く染め上げていた。

 彼女の全身を汚す土と掠り傷は、ついさっきまでこの少女が戦っていたことを証明している。

 

 また、戦わせてしまったのか。自分が倒すべき未確認生命体を、何の関係もない少女に。

 五代は己の拳を強く握りしめる。湧き上がる無力感。どうしようもない情けなさ。それは行き場のない怒りとなって、五代自身の心を貫く。

 彼は弱い。それでいて、どこまでも強かった。怒りを覚えても、それを拳に乗せたくない。憎しみを感じても、それを暴力に変えたくない。できることなら戦いたくない。許されるのなら誰にも戦ってほしくない。

 五代は、戦いの辛さ、暴力を振るうことの悲しみを、誰よりも知っている。だからこそ、その辛さを、その痛みを。他の誰でもなく、クウガである自分一人で背負おうとしたのだ。

 

「バカ! なんで来たのよ!!」

 

 霊夢は一人で戦うつもりだった。いずれ幻想郷の妖怪たちと共にこの異変に挑むことになろうとも、幻想郷の外から来た外来人を巻き込むつもりはなかった。

 

 まだ、戦うつもりなのか。自分が解決すべき幻想郷の異変に首を突っ込んでまで、何の関係もない人間が。

 霊夢は石畳に叩きつけられた際に強く痛めた左肩を押さえ、激しい痛みに顔を歪めながら立ち上がる。湧き上がる焦燥感。どうしようもないやるせなさ。それは明確な行き場を込めた叱責(しっせき)の声となって、五代雄介の耳朶(じだ)を打つ。

 彼女は強い。それでいて、どこまでも弱かった。悲しみを覚えても、それを見せたくない。辛いと思っても、そこですべてを投げ出したくない。できることなら戦いたくない。許されるのなら誰にも戦ってほしくない。

 霊夢は、争いの愚かさ、実力主義の悲しみを、誰よりも知っている。だからこそ、誰も傷つけ合う必要のない幻想郷を。争いを平和なゲームに変える、スペルカードルールを制定したのだ。

 

 博麗霊夢と五代雄介。二人はお互いに、戦うべきであり、戦うべきではない者だった。

 霊夢は当代の博麗の巫女。幻想郷の異変を解決し、平和を取り戻す使命がある。されど、未確認生命体とはまったく関係のない一人の少女。

 五代は当代の戦士クウガ。再び現世に蘇り、殺戮を始めようとする未確認生命体を打ち倒す使命がある。されど、この幻想郷においてはただの一人の外来人に過ぎない。

 

「だって俺、クウガだから!」

 

「はぁ?」

 

 五代はクウガの姿のまま背中越しに伝える。きっとその仮面の下は、青空のような笑顔に晴れ渡っているのだろう。

 ただでさえ仮面を被っているくせに、その下の顔まで仮面を作っていては世話がない。五代との付き合いはほとんどなくても、勘の鋭い霊夢には分かる。彼の心は、戦いへの悲しみで土砂降りの雨模様だ。

 霊夢は理解できなかった。その仮面の笑顔は、自らの青空を捧げる覚悟に見えた。なぜ、そうまでして戦えるのか。なぜ、そんなに辛そうな背中を見せてまで、あんな化け物に立ち向かっていけるのか。見たところ、戦うのが好き、というわけではないらしい。ならば、なおさらだ。

 

「幻想郷に現れた以上、こいつらを倒すのは巫女である私の仕事よ! クウガだかなんだか知らないけど、あんたに戦う義務はないの!!」

 

 震えた心を見た。あまりに辛そうな笑顔を見た。悲しみを知らずとも、伝わってくる思いを感じた霊夢は、五代を戦わせたくなかった。

 あんな悲しみに満ちた笑顔で、大丈夫などと言えるはずがない。彼が人間である以上、守ると決めた。重ねて言えば、博麗の巫女として、外来人の手を借りるわけにはいかないのだ。

 

 張り詰めた心を見た。遥かに掲げた覚悟を見た。その強さを知らずとも、五代は霊夢の言葉に衝撃を覚えていた。

 五代も同じ気持ち。未確認と戦うのは、クウガである自分でなくてはならない。クウガである自分にしかできないことだと思っていた。だからこそ、無関係の少女たちを巻き込みたくない。彼女らが関わるべきではないと。そう、思っていた。

 かつて無二の相棒に言われた言葉。今の霊夢と同じ、誰かを巻き込みたくないという想い。

 

「……お互い、『中途半端に関わるな』ってことだよね」

 

 その言葉は、今でも五代の心に残っている。初めてクウガの力を手にしたとき、何の関わりもない未確認生命体の事件に首を突っ込み、後に相棒となる刑事にひどく叱責されたものだ。

 

「大丈夫! 俺、中途半端はしないよ! しっかり関わるから!」

 

 五代は振り返り、正面を向いて霊夢にサムズアップを見せる。

 ふと、霊夢は五代の心の中に降りしきる雨が、少しだけ止んだような気がした。理由は分からないが、今度ばかりは本当の笑顔。嘘偽りのない五代自身の青空で掲げられた親指は、霊夢の心に()だまりを残していた。

 しかし生憎(あいにく)、今は戦闘の真っ只中(ただなか)である。つい先ほどまで、まさに戦っていた二体のグロンギに背を向け、五代はのんきにサムズアップを掲げていたため、案の定、それを好機と見た二体のグロンギ――ズ・グムン・バとズ・ゴオマ・グが、クウガの背中に襲いかかった。

 

「……っ! 邪魔よ!」

 

 五代は目の前で表情を変えた霊夢に突き飛ばされ、境内の石畳に黒い強化皮膚で覆われた尻を打ちつける。無論、クウガの皮膚は人間の何十倍もの強度があるのだが、不思議と衝撃は痛みとなって尻に響いた。

 すぐさま霊夢は自らの袖に眠る手の平サイズの玉に祈る。道教における太極図をそのまま立体化したような紅白の宝珠は、霊夢が愛用する『陰陽玉(おんみょうだま)』と呼ばれる独立装備(オプション)として、彼女の両隣に手毬(てまり)程度の大きさを持つ純粋な霊力による光球となって複製された。

 

 真なる陰陽玉の本体は今なお霊夢の袖の中に。霊力で生み出した傍らの二つは、ある種の弾幕と定義された陰陽玉の能力そのもの。

 それは魔理沙の使い魔と違って、霊夢の思考のままに複雑な動きで敵を翻弄することができるという特徴を持っている。博麗神社の秘宝として受け継がれた特殊な鉱物による宝珠は、霊夢の武器たる威光を示し。

 

 迫り来る二体の怪物。ズ・グムン・バとズ・ゴオマ・グ。霊夢はクウガを突き飛ばしたことで空いた軌道上に陰陽玉を向け、その二つを重ねた。

 重なり合った二つの光球に収束する霊力が輝きを増していく。やがて陰陽玉は怪物を目掛け、赤紫色に輝くお札のショット、封印装備の【 妖怪バスター 】を解き放った。

 妖怪バスターは拡散するお札の弾幕。機動力を重視した場合においては前方を大きく撃ち払う広域射撃となるのだが、今の霊夢はその場に留まり、オプションとなる陰陽玉を目の前で密接に重ね合わせた状態だ。

 この状態で撃ち出された妖怪バスターは、前方中範囲へと扇状にお札を広角拡散させる形になっている。どちらにせよ純粋な威力こそ散逸してしまうものの、一気に解放された霊力のお札はさながら散弾銃の如く。二体のグロンギは、その圧倒的な物量に呆気なく吹っ飛ばされた。

 

「……足、引っ張ったら承知しないからね!」

 

 爆発的な霊力の波を一度に撃ち出すと、陰陽玉は役目を終えて消失する。妖怪バスターはスペルカードではないため、霊力の消費は大きくない。

 だがその分、遠距離ではホーミングアミュレットに劣る程度の威力しかなく、怪物への決定打にするには心許ない。敵と接近していれば高い火力を出せるが、基本的には相手の体力を削るための通常ショット、あるいは牽制(けんせい)射撃として使っていくべきと言えるだろう。

 

「や、やるなぁ……霊夢ちゃん……」

 

 白いクウガは地面に座り込んだまま、霊夢にサムズアップを見せる。すぐに立ち上がり、霊夢の傍に控える形で背中を合わせた。

 己の血に染み、赤に染まった巫女の隣に、己を失い、白に染まった戦士が並び立つ。巫女は掲げるお札を構え、戦士は拳を握ってファイティングポーズを取った。

 

 青空の底を、雨雲が埋め尽くしても。降り注ぐ涙が晴れ渡る笑顔を濡らしてしまっても。きっとその雨を降らせている雲の向こうにはどこまでも青空が広がっている。

 止まない雨などない。この心に降りしきる悲しみも、やがていつかは青空になる。

 

 博麗霊夢は快晴の巫女だった。その気質は、緋想(ひそう)の空を雲一つない青空、すなわち『快晴』に変えた。五代と同じく、心の中にどこまでも澄み渡る大空を宿すもの。

 青空と快晴。封印と封印。その身に装うべきは赤か白か。先代の意志を受け継ぎ、共に己に正しくあろうとする覚悟は、まさしく戦士。

 博麗の巫女として選ばれた霊夢の心は、幻想郷における『クウガ』に相応しいものだった。




五代雄介、こういうのを知ってるか。
小説を書くときに一番難しいのは、改行タイミングだ。

次回、EPISODE 6『復活』


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第6話 復活

博麗神社

03:15 a.m.

 

 夜も更け、早朝の涼しい空気に包まれ始めた博麗神社の境内。

 牙を剥く異形の怪物は二体。対するは片や左肩を負傷した若き巫女、片や不完全なままの白いクウガである。

 背中合わせに構えられたお札と拳は二つの異形に相対し、ぼんやりと夜空を照らす月明かりの下で息を合わせていた。

 クモ種怪人、ズ・グムン・バは境内の石畳に手を合わせ、地を這うようにこちらを威嚇する。昨日は伸ばしていた短刀の如き両爪は、今は手首までほどの小ささに収まっている。初めてこの怪物と出会ったときと同じ、おそらくは平時状態の拳だ。

 そしてもう一方の怪物、コウモリ種怪人、ズ・ゴオマ・グはその両手に生える翼膜を羽ばたかせ、月夜に舞って牙を光らせる。コウモリらしく獲物に喰らいつくために発達した牙、そこに滴る唾液には生物の血液凝固を遅らせる能力があるのかもしれない。

 霊夢が受けた傷は翼爪によるものだったが、そこに唾液の成分が付着していたのだろうか。

 

 手を出すな 俺がやる

「デゾ ザグバ ゴセ グジャス」

 

 後から来ておいて 偉そうに……!

「ガドバサ ビデ ゴギデ ゲサゴグビ……!」

 

 霊夢を差し置き、クウガである五代を殺そうとその場に着地したズ・ゴオマ・グ。だが、血気に逸るその行動は蜘蛛の能力を備えたズ・グムン・バによって遮られる。

 霊夢たちには彼らが発しているグロンギ語の意味は理解できなかったが、どこか不和の様子が感じられた。

 その隙を見て、霊夢と五代は互いの顔を見合わせて頷く。霊夢は一度五代から離れ、ズ・グムン・バに不満の声を上げるズ・ゴオマ・グへと近づいた。

 こちらの身体はまだ動く。多少の傷こそ負ってしまったものの、相手の動きは把握した。五代がこの場に現れたのは予想外だったが、戦力はこれで2対2。まったく互角に戦えるとは言い難いだろうが、一人で二体を相手にするよりかは幾許(いくばく)かマシな戦いが期待できるはずだ。

 

「隙だらけよ!!」

 

 霊夢は軽やかに接近し、ズ・ゴオマ・グの背中に渾身の掌打(しょうだ)、【 衝霊気(しょうれいき) 】を叩きつける。霊力によって強化されているため、単純な体術でありながらその威力は本気の通常ショットにも比肩するほどだ。

 両手の平で霊力が爆発する衝撃。骨まで響くそれを実感し、ズ・ゴオマ・グを突き飛ばしたことを確認する間もなく、霊夢は手元に儀礼用の大幣を取り出した。

 迫り来るズ・グムン・バの豪腕をその大幣で防ぐと、またしても両腕に強い衝撃が響く。

 

「はぁっ!」

 

 ギリギリと大幣に力を加えるズ・グムン・バに対し、五代が突進しながらの拳をぶつける。霊力など微塵も存在しない純粋な力押しの衝撃ではズ・グムン・バを吹き飛ばすことはできなかったが、よろけさせることぐらいはできた。

 その隙を見て、五代は振りかざした左の拳をもってさらなる打撃を加える。白いクウガの微弱な力といえど、繰り返し殴打を加えていけばそれなりのダメージにはなるはずだ。

 

 立ち上がり、霊夢に狙いを定めたズ・ゴオマ・グが翼爪を構えて飛翔する。上空に逃げられたことにより、大幣を真っ直ぐに突き出す【 衝夢(しょうむ) 】の一撃は避けられてしまった。

 空へ逃げた怪物を睨み、無意識に舌打ちを漏らす。だが、霊夢は焦ることなく、その身体に込めた霊力を両脚に宿した。地面を蹴り、宙返りを決める形で上空より飛び迫るズ・ゴオマ・グを蹴り上げる。

 霊夢の体術の中でも特に馴染み深い【 昇天脚(しょうてんきゃく) 】が見事に炸裂した。対空の蹴り上げを受けたズ・ゴオマ・グは再び空へと打ち上げられ、咄嗟に翼を羽ばたかせることができずに僅かな隙を見せる。

 当然、霊夢はそれを見逃さず、間髪入れずにスペルカードを発動する体勢に入った。

 

夢符(ゆめふ)封魔陣(ふうまじん)!!」

 

 スペルカードの名を叫び、構えたお札を地面に叩きつける。直後、お札を中心に霊夢の足元に形成された結界が、青白い柱となって霊夢とズ・ゴオマ・グの身を包んだ。

 霊夢自身には何の影響もなく、結界に触れたズ・ゴオマ・グだけがその霊力の波を浴びて全身にダメージを負う。どこまでも高く立ち昇る光の柱は、霊夢以外のものを焼き払う光熱の力場として展開された。

 比較的霊力の消費を抑えた【 夢符「封魔陣」】を解き放ち、霊夢は額の汗を拭う。このスペルは夢想封印とは違い、封印を飛ばす干渉ではなく、結界をその場に展開する受動的な攻撃だ。敵の方から近寄って来るか、こちらから接近しない限り当てられないが、使い勝手は悪くない。

 

「ギィッ……ガァッ……」

 

 翼を焼かれてなお、飛行能力を失っていない。ズ・ゴオマ・グは全身から立ち昇らせる白い煙を振り払い、霊夢の姿を睨みつけた。封魔陣のダメージは確実に入っているものの、夢想封印ほどの深手には至っていないようだ。

 五代はズ・グムン・バと格闘を続けながら、自身の身体に生じた違和感に気づく。

 先日と同じ、奇妙な何か。霊夢の解き放った霊力の光に呼応して、アークルを着ける身体の奥底から暖かいものが湧き上がるような感覚。

 五代はその正体を確かめるべく、自身の腰に巻かれたベルト、アークルに触れる。中心に輝くモーフィンクリスタルは、グローイングフォームを表す曙光の如き朱色のままだ。

 

「今の感じ……」

 

「こら! 前見なさい!」

 

 奇妙な感覚に気を取られ、ズ・グムン・バへの反応が一瞬鈍る。五代は霊夢の声に顔を上げ、咄嗟の判断で迫り来る怪物の拳を避けた。あのまま呆けていれば、顔面に怪物の拳を受けていたかもしれない。

 五代は霊夢に感謝の意を込め、心の中でサムズアップを立てる。里での戦力差のある戦いならともかく、二体を相手にしている状況では実際にそんな仕草をしている余裕はなかった。

 

夢想妙珠(むそうみょうじゅ)!!」

 

 込めた霊力を解き放ち、スペルカード【 霊符「夢想妙珠」】を発動する。霊夢が狙ったのはクウガと拳を交えるズ・グムン・バの方だ。

 束ねた霊力を球状に固定し、三色に輝く光弾として生成する。このスペルには夢想封印ほどの威力も誘導性能もないが、少ない霊力でも十分な形で発動できるのは利点と言えるだろう。

 解き放たれた小さな光弾はズ・グムン・バに命中し、爆発を起こす。当然、ズ・ゴオマ・グへの警戒も怠ってはいない。

 夢想妙珠の光弾の一つを大幣で叩き落とし、速度を込めた純粋な射撃として撃ち放つ。光弾のほとんどはズ・グムン・バへと飛んだが、そのうちの一つ、霊夢の打撃を受けたものだけは方向を変え、再び襲いかかってきたズ・ゴオマ・グの顔面に着弾して煙を上げた。

 

「……また! なんなんだ今の!?」

 

 五代が漏らす、困惑の声。霊夢が霊力を解き放つ度に、クウガとなった五代の身体に変化が現れている。

 何度も繰り返し感じている、モーフィンクリスタルに微かな赤が宿る感覚。だが、やはりすぐに消えてしまう。

 五代はその感覚に囚われ、思考を乱していた。それでもなんとか身体を動かし、怪物の動きについていく。白く未熟な身体なれど、人を超える身体能力を持って、なんとか怪物と戦えてはいるものの、こちらも怪物の一撃をまともに受ければ深手は避けられない。

 

 このまま消耗戦を続けていけばこちらが不利になるのは明白だ。グロンギを相手に戦いを長引かせれば、こちらが与えた損傷は魔石ゲブロンの治癒能力によって再生されてしまう。クウガにも同様の能力を持つ霊石アマダムがあるが、今の白い姿のままではその力を十分に発揮することができない。

 意を決し、五代は思いついた作戦を実行に移そうと考えた。成功の根拠は一つもないどころか、効果があるのかさえ分からない――賭けに近い作戦。このまま戦いを続けていてもこちらが消耗していくばかり。ならば多少強引にでも、この戦況を大きく変える必要がある。

 

「霊夢ちゃん、さっきみたいなやつ、俺に向けて撃てないかな? できれば、さっきのよりも強いやつがいいんだけど!」

 

「え? ど、どういうこと?」

 

 夢想妙珠によって二体のグロンギが動きを止めた瞬間を見計らい、五代が霊夢に提案する。突拍子もないその言葉は、霊夢には理解できていない。

 スペルカードの霊力を自分に向けて? 弾幕ごっこならまだしも、本気の霊力を込めたものを受ければ、いくら異形の鎧といえど無事では済まないはず。夢想妙珠や夢想封印の威力を知らないわけではないだろう。怪物に向けて放った際の威力は、この男も見ているはずだ。

 

「俺なら、たぶん大丈夫だから! お願い!」

 

「よくわからないけど……どうなっても知らないわよ!」

 

 怪物が動きを止めていてくれる時間はごく僅かだ。すでに奴らが次の攻撃の構えに入っていることに気づき、五代は言葉を続ける。説明している時間はない。一刻も早く、この身に『それ』を受け取める必要があると判断した。

 信頼を築けるほど長い時を過ごしたわけではないが、どうやら血迷ったわけではないらしい。霊夢としても、それほど長い時間をかけてはいられないと思っていた。溜めておいた霊力を練り上げ、十分なスペルカードを発動できるだけの確かなものへと変えていく。

 祈祷、詠唱、スペルの構築。すぐさま迫る怪物に向けてではなく、目の前にいる傷だらけの白い戦士に向けて構える。

 すべてを見据え、霊夢はただ一言。渾身の霊力を込めた札を掲げ、スペルカードを発動した。

 

「――霊符、夢想封印!!」

 

 溢れ出た霊力が光球を象る。霊力こそ十分ではないが、注ぎ得る最大限の力を込めたつもりだ。体力が持っていかれる感覚。自分のすべてが抜け出ていく錯覚。解き放たれた封印の干渉は、霊夢の狙い通り白いクウガへと飛んでいく。

 ゆっくりと舞う。七つの光球。それぞれ輝き、クウガを狙う。――そこで、霊夢は気づいた。霊夢は五代に「自分を狙え」と言われ、特に部位を定めずクウガの背中辺りを無作為に狙ったはずだった。

 ――しかし。

 光球はふわりふわりと不規則に飛んだかと思うと、吸い込まれるように五代が腰に着けるアークルに向かっていく。赤を受ければ光は赤く。青を受ければ光は青く。そして緑を受ければ緑に染まり、同時に受けた光は紫色に輝く。

 モーフィンクリスタルの色は移ろい、すべての光球はアークルの中へと取り込まれていた。

 

「ぐっ……! ううっ……!!」

 

「な、何が起こってるの……!?」

 

 五代は苦痛の声を上げる。霊夢は驚愕の声を上げる。クウガのアークルに、モーフィンクリスタルに取り込まれた光は、クウガの全身に沁み渡っていった。

 夜の博麗神社に一際強く輝く光。霊夢の夢想封印と、戦士クウガの力。二つの力が混ざり合い、見る見るうちにベルトの傷を、モーフィンクリスタルの損傷を癒していく。光が収まる頃には傷だらけだったアークルは完全に修復され、中心の深い亀裂もすっかり消え去っていた。

 霊夢の放つ夢想封印に、何かを回復させる力はない。五代の身体に変化を及ぼしていた霊力の波動が、彼の目論み通り、アマダムの眠れる力を再び呼び覚ましたのだ。

 それは偶然か否か、五代には知る由もない。だが、今やるべきことはすでに決まっている。

 

「…………」

 

 白いクウガの身のままで、右腕を左正面に鋭く伸ばす。右腰に置いた左手を左腰に送ると共に、伸ばした右腕を右へと滑らせていく。

 空白。降り注ぐ嘆き。悲しみの記憶。拳に灯った、炎の誓い。五代雄介は己に願った。この右脚に、この魂に。熱く燃え滾る炎のように。もっと強く。もっと赤く――――!

 

 こんな奴らのために。

 これ以上、誰かの涙は見たくない。

 みんなに笑顔で、いてほしい。

 

 だから──

 

―― 邪悪なるもの あらば ――

 

―― 希望の 霊石を 身に着け ――

 

―― 炎の 如く 邪悪を 打ち倒す 戦士あり ――

 

「変身っ!!」

 

 強く叫び、解き放つ。

 右腕を左腰へ引っ込め、己の左拳を包むと、全身に走る力が確かなものへと収束していくのが感じられた。揺るがぬ想いはただ一つ。みんなの笑顔を守るために。

 両手を広げ、この身体に満ちる力を誇示するかのように。羽化したばかりの甲虫めいた鎧、その白い装甲がより強固なものへと変わっていく。

 アークルの中心、モーフィンクリスタルの輝きは炎の如く鮮烈なる赤に。それに伴い、五代の身体――クウガの肉体が、未熟な白から完全なる赤へと変化する。腕、肩、胸。さっきまで白かった装甲は、少しづつ。戦士の覚悟を助け、血の(かよ)った赤色をもたらしていく。

 

 身体の根幹、誇りのエナジーが熱く蘇る。空白(からっぽ)(ほし)が色付いていくのを感じ取る。クウガの複眼も、モーフィンクリスタルと同じく赤に染まっていた。

 戦士の鎧は強く赤く。金の双角は、高く雄々しく空を()く。その姿は、霊夢が夢で目にした戦士の姿と同じ色。五代雄介ならざるクウガが全身を血に染めていた――しかし血によるものではない炎の如き赤。

 五代はそれを、希望の力と受け止めた。霊夢はそれを、絶望の始まりだと思わされた。あのとき夢で見た地獄の光景。赤が黒へと至る悪夢。

 霊夢はクウガの変化を、ただ良いものだとは微塵も思えなかった。漠然(ばくぜん)と感じる嫌な予感は、彼女自身にも説明できない曖昧なものとして、霊夢の心を冷やかに刺し貫く。

 

「赤い……戦士……」

 

 夢の内容を振り払い、不安を押し殺して霊夢が呟く。クウガの身体は、完全なる赤――基本形態である『マイティフォーム』に変わっていた。

 その姿は格闘戦を得意とする、戦士クウガの最も基本的な形態(フォーム)。白い身体、グローイングフォームでは為し得なかった激しい動きも、今ならば可能となる。パンチ力、キック力、そして走力に跳躍力。耐久においても不備はなく、あらゆる面でバランスの取れた対応ができる赤の戦士だ。

 

 未確認生命体第4号。それが彼の――五代のいた世界におけるクウガの呼び名である。

 彼が守るべき現代の人類、すなわち五代雄介と同じ時代を生きた人々にとっては、グロンギもクウガも関係なく、彼らは同じ未確認生命体に過ぎない。

 それでも、白いクウガである2号、および赤と染まったこの『4号』の名は、他の未確認生命体とは一線を画す存在として。未確認を殺す未確認。人々を守る異形の怪物。あるいは、誰かにとってのヒーローとして。人々の記憶に鮮明に焼きついた。殺戮の中に冴える希望はどこまでも暖かく、優しく。それでいて、悲しい。クウガは戦士であっても、五代雄介は戦士ではないのだ。

 

「ごめんね。遅くなっちゃって」

 

 ほんのりと明るみを帯びてきた夜空が笑う。差し込む光は小さいが、すでに夜明けは近いのだろう。霊夢に振り返る五代――赤いクウガの瞳は、朝の日差しを受けてより赤く輝いていた。

 雲が晴れる。青空が顔を出す。森に覆われている博麗神社の境内は、その木々が(かげ)となって朝日が入ってくるのが遅れやすい。鎮守の森の隙間から溢れた木漏れ日を受け、霊夢はそこで初めて夜明けの光に気づいた。

 もう少し時間が経てば、角度を変えた太陽が朝の光を届け、境内を照らしてくれるだろう。月の光だけで二体もの怪物と戦うのは些か心細かった。霊夢は夜目の利く方ではないため、こんな小さな光でも少しは視界が広がった気がして、心のどこかで微かな安心を覚える。

 

 ようやく 赤くなったか

「ジョ グジャブ ガバブ バダダバ」

 

 ズ・グムン・バがクウガを睨み、人とは似つかぬ歪な口角を吊り上げる。クウガの変化――その復活を喜んでいるのか、あるいは嫌悪しているのか。

 振り上げられた怪物の拳はマイティフォームとなったクウガに受け止められ、怪物は逆に腹部に赤い拳の一撃を受けることとなった。

 赤いクウガの力は、白いクウガの比ではない。この姿であれば、ズ集団のグロンギとも互角以上に戦うことができるだろう。現に、五代は一度このズ・グムン・バを倒している。クウガとなって日の浅い時期に、この赤の力をもってして。

 怪物はそのまま続けて振り抜かれたクウガの拳を避けると、俊敏な動きで素早く後退し、その口から蜘蛛の糸を吐き出した。狙われた五代は抵抗も虚しく、その身を糸に拘束されてしまう。

 

「くっ……!」

 

 俺の獲物だ!

「ゴセン ゲロボザ!」

 

 動けなくなった五代に対し、機を伺っていたズ・ゴオマ・グが大地を蹴った。両翼を広げ、ギラリと光る爪を構えて飛んでくる。

 上半身を糸で包まれ、拘束されているため、五代はその拳を振るうことができないが、下半身は自由だ。強く大地を踏みしめ、霊石アマダムの力で筋肉が異常発達した右脚を振るい上げると、そのまま体重を乗せてズ・ゴオマ・グに蹴りを見舞った。

 咄嗟の判断で放った一撃であるため、そこに大したエネルギーは込められていない。クウガの足裏に刻まれたリントの文字も、ズ・ゴオマ・グの身体に刻み込むには至らなかった。

 

 ――しかし。

 

「ギ……! ギャアアッ……!!」

 

 クウガに蹴り飛ばされたズ・ゴオマ・グが激しく(もだ)え苦しみ、自身の顔を押さえながら博麗神社を覆う森の奥深くへと退却していく。木々を掻き分け、どこへともなく走り去るズ・ゴオマ・グの気配は、もはやどこにも感じられなくなっていた。

 その理由は、ズ・ゴオマ・グの得た魔石ゲブロンにある。夜行性の動物であるコウモリの遺伝子を手に入れ、その能力を我が物とした彼は、日光などの『強い光』に激しい拒否反応を起こしてしまうという弱点があった。

 戦いの始まりこそ夜であったが、長い戦いの末に夜は明け、生じた森の木漏れ日の中に蹴り飛ばされたことによって日光をまともに浴びてしまったため、戦闘を放棄して逃げ出したのだ。

 

「な、なんなの……?」

 

 さっきまで威勢よく襲いかかってきたズ・ゴオマ・グの様子が変わったことに霊夢が驚くが、すぐに表情を切り替えて残るもう一体の怪物に向き直る。ズ・グムン・バは動けなくなった五代に近づき、その蹴りを避けながら足を振るった。

 反応が遅れ、五代は足を取られて転倒してしまう。受け身が取れず、硬い石畳に身体を打ちつけて痛みを感じるが、白いクウガのときほどのダメージはない。特別耐久力に特化しているわけではないとはいえ、赤いクウガの装甲はこの程度で傷を負うほど弱くはなかった。

 

 拘束され、地に伏したクウガの身体を踏みつけるズ・グムン・バ。やはりその両腕に備えつけられた爪は短刀を思わせる長さに伸びていく。

 里のときとは違い、今度は獲物に対して油断はしない。すぐさま爪を振り上げ、振り下ろすが、赤の力を取り戻した五代の反応はズ・グムン・バの攻撃を許さなかった。

 強化された肉体をもって両腕を広げ、蜘蛛の糸を引き千切る。拘束から脱した五代はズ・グムン・バの腕を掴み、そのまま腹へ鋭く膝蹴りを見舞った。

 白のままの力では糸の拘束から脱出することはできなかっただろう。これほどの力を取り戻せたのは、紛れもなく霊夢が放った霊力のおかげだ。原理こそ理解していないが、五代はそれを確信していた。

 苦痛に悶えるズ・グムン・バを見据え、立ち上がった五代は渾身の力で右の拳を叩き込む。赤の身体、マイティフォームのパンチは、白のクウガとは比べものにならない威力を誇る。

 

「グ……ブゥ、ガッ……!」

 

 正面から打撃を受け、ズ・グムン・バが数歩後ずさる。さすがにただの殴打では致命傷とまではいかないが、今のクウガは単なる格闘においても十分にグロンギと渡り合うほどの力を備えている。アマダムの出力は、ズ集団が腹に持つ魔石ゲブロンを大きく上回るほどだ。

 怪物は標的への認識を改める。『狩るべき獲物』から『倒すべき敵』へ。伸ばした爪を撫で合わせ、ズ・グムン・バは赤のクウガを睨みつけた。

 吐き出された糸は風を切り、五代のもとへと突き進む。いくら強化された身でも、弾丸の如き速度で放たれたそれを回避する技能は五代にはない。弾幕ごっこに慣れた幻想郷の少女たちならまだしも、戦い慣れているとはいえ彼は戦士の姿に変じているだけの普通の人間である。

 

封魔針(ふうましん)!!」

 

 迫る糸は、五代には届かなかった。五代の背後にいた霊夢が、右手に持った霊力の針を放ち、こちらも弾丸の勢いをもって糸の勢いを相殺したのだ。

 針を撃ち放つという点ではパスウェイジョンニードルに似ているが、この【 封魔針 】は霊力で構成されている。物理的なものではないため、役割を果たしたそれは力を失って霧散した。

 続けて束ねた霊力を針と成し、形成された封魔針を解き放つ。パスウェイジョンニードルほどの威力はないものの、霊力の続く限り無尽蔵に放つことができる封魔針は霊夢の頼れる集中ショットの一つだ。怪物の皮膚に突き刺さった針は炸裂し、その場に霊力の爆発を巻き起こした。

 

「忘れたの? あんた、今は2対1よ」

 

 お札を構え、余裕の笑みを見せて怪物を挑発するが、霊夢の体力ももはや限界に近い。これだけ長時間の戦闘を続けていれば、人間である霊夢の疲労が募るのも当然であった。隣で拳を構えるクウガの表情は仮面に阻まれて見えず、疲労の度合いは分からない。

 それでも震える手を見れば分かる。これ以上は戦いを続けたくないのだろう。理由は問うまい。彼は、十分に戦った。何度も何度も戦い抜いて、ようやく平和を勝ち取った。彼の話は、彼の戦いの終わりを十分に物語っていた。

 だからこそ、終わらせる。この場で確実に決めなくては、終わったはずの彼の戦いがさらに長引いてしまう。霊夢としてもそれは本心ではない。ここで怪物を逃がすわけにはいかないのだ。

 

「……っ!」

 

「また……!」

 

 有明(ありあけ)の空に、朧気に浮かび上がった灰色のオーロラ。その正体を知らずとも、それが何を意味するのかはすでに理解している。

 怪物の行動を許すこと。それは怪物の逃走を許してしまうということに他ならない。せっかく与えた損傷も、奴を取り逃がせば無意味なものとなってしまうだろう。

 

「逃がすもんですか!!」

 

 逃げ去ったもう一方の怪物――ズ・ゴオマ・グも気になるが、今は奴を追うよりもこちらを倒す方が先決だ。霊夢は素早く組んだ印を解放し、ズ・グムン・バに向けてお札を投げつける。突き刺さったお札は霊力を解き放ち、その場に結界を展開した。

 設置型の疑似結界。ごく限られた小さな空間にだけ作用する拘束用の【 常置陣(じょうちじん) 】をもってズ・グムン・バの動きを封じ込める。結界の効果はすぐに切れてしまうが、一瞬だけでもその動きを止めることができれば。

 オーロラは消えている。怪物の退路を断った、というわけではないだろう。先ほども何もない空間に突如として現れたオーロラだ。またすぐに現れてもおかしくはない。霊力の波によって拘束されていたズ・グムン・バが自由の身を取り戻すと同時に、五代と霊夢は互いの顔を見合わせた。

 

「……ふっ……!!」

 

 五代――赤のクウガが右腕を正面に突き出し、左手を腰の前に添える。アークルの中心から湧き上がる力と共に、右足の(くるぶし)辺りを彩る赤い宝玉が強く輝く。右脚の筋肉全体に熱が迸り、足の裏から炎となって噴き上がる。

 地面を焼き払わんばかりの勢いで燃え上がるそれを感じながら、五代は両手を広げ、腰を落とす構えを取った。

 両腕を振るい、焼けつく熱を放ち続ける右足と、前へ踏み出す左足。黒い強化皮膚に覆われた健脚をもち、赤のクウガは大地を蹴る。空中で両脚を抱え、加速を込めて一度(ひとたび)、前転。真っ直ぐ斜めに、鋭く伸ばした右脚を掲げ、赤く燃え上がる炎と共に渾身の飛び蹴りを打ち放った。

 

神技(しんぎ)天覇風神脚(てんはふうじんきゃく)……!!」

 

 霊夢が告げる、最後の一手。持ち得る最大限の霊力を一つに束ね、自身の全身――特に左脚へと収束させる。体術系のスペルカードの中では最高峰の威力を誇る【 神技「天覇風神脚」 】は、本気で放てば生身の霊夢の脚力でも巨岩を打ち砕くほどのものとなる強力なスペルだ。

 青白い光が霊夢の身体から溢れ、弾け飛ぶ。この身はすでに、人間の限界を超えている。スペルが発動している短い時間限りの、異常な状態。今この瞬間においては、霊夢の身体能力は赤のクウガにも匹敵する。

 大地を蹴って空へ舞う。ふわりと姿勢を低くし、目標へ飛び進む。頭を下げ、くるりと一回転すると、鋭く伸ばした左脚を掲げ、霊夢は自らを一つの光弾とするが如く飛び蹴りを放った。

 

「――おりゃあああああっ!!」

 

「――せやぁあああああっ!!」

 

 咆哮。二つの『赤』が気合いの叫びを吼え立てる。

 炎と共に放つ右脚の蹴り。霊力と共に突き進む左脚の蹴り。怪物から見て左側の霊夢が放つは彼女の最強体術、神技「天覇風神脚」。博麗の巫女の隣に並ぶのは、赤い身体を取り戻した戦士クウガが誇る封印の一撃だ。

 マイティフォームとなったクウガの必殺技。渾身の力を込めた【 マイティキック 】が、霊夢の放った蹴りと共にズ・グムン・バの胴体を吹き飛ばす。蹴った反動のまま、五代と霊夢は翻り、その後方に着地した。

 二人は姿勢は違えど、同じく片手と片膝を着いて向かうズ・グムン・バの姿を見る。

 

「……はぁっ……はぁっ……」

 

 五代の激しい呼吸に混ざり、控えめに息を荒げる霊夢の声。静寂の中、じりじりと焼けつく足裏の熱がより強く感じられた。

 二人はゆっくりと立ち上がる。怪物の胸に、小さく浮かび上がる光。それに気づき、五代は仮面の下で目を見開いた。苦しみに悶える怪物の姿を見て、霊夢も固唾(かたず)を飲んで手に汗を握る。

 

「グォ……ブグァッ……グゥオッ……!!」

 

 ズ・グムン・バの胴体に輝いている紋章は、紛れもなく古代リント文明が(のこ)した『封印』の文字だった。

 里で見た脆弱(かよわ)い光とは違う。確かに強く、雄々しく輝くその光は、ズ・グムン・バの身体に確実に流れ込んでいる。

 そこにある紋章――封印のリント文字の輝きは二つ(・・)。右胸と左胸に、それぞれ封印の文字が刻み込まれている。五代が放ったマイティキックの他に、ズ・グムン・バに命中したのは霊夢の天覇風神脚。その二つが、同じ力、同じエネルギーを伴ってこの怪物に封印の干渉を与えたのだ。

 

 殺す……! やってやる……! 殺す……ッ!!

「ボソグ……! ジャデ デジャス……! ボソグ……ッ!!」

 

 苦痛に悶えながら、怨嗟(えんさ)の声を吐き漏らすズ・グムン・バ。腕を振るい、空を切る。糸を吐き出そうと口を開くも、漏れ出るものは呻き声だけ。

 その全身を走る神秘の力、古代リント文明が生み出した『封印エネルギー』と呼ばれる光が、ズ・グムン・バの身体を駆け巡る。

 クウガのマイティキック。霊夢の天覇風神脚。並び立つ威力を誇るその力によって与えられた封印エネルギーは、ズ・グムン・バの腰に巻かれたゲドルードのバックルへと光を伸ばした。

 赤銅色に鈍く輝く悪魔の形相に、小さな亀裂が入る。溢れる光は美しく、優しい。されど、その優しさは彼らにとっては何よりも耐え難い侮辱に他ならないものだった。

 

 超古代におけるクウガは、リントであるが故に殺しを知らず。そのため、殺戮を繰り返すグロンギをも殺すことはせず、あくまで封印という方法でその脅威を大地の下に眠らせることで、相手の命を奪うことなく戦いを終わらせた。

 しかし、現代のクウガ──五代雄介は現代の人間(リント)である。現代のリントは、あるグロンギ(いわ)く『変わった』と称された。かつての誇り、優しさを忘れ、グロンギと同様に殺しを行う様は、彼らの言葉を借りるなら「我々と等しくなった」と思われても仕方がないのかもしれない。

 

 それでも、五代は優しさを捨てなかった。その()り方は、古代におけるリントの誇りに通ずるものがある。

 だが、彼の世界は優しくあろうとしなかった。殺しを認め、人々を傷つけるグロンギめいた(ことわり)を容認した。その世界を、現代に生きる悲しみを知ってしまっている五代は、人々の笑顔を奪う未確認生命体を──グロンギの存在を認めることができなかった。

 存在を認めない。それは、相手の命を、生きることを否定するということ。古代のリントになれるほど、五代雄介は世界を達観できなかった。彼はただ、みんなの笑顔が好きで、それを守りたいだけの優しい青年であるのだ。

 いくら暴力を嫌っても、拳を振るうことを嘆き悲しんでも、無慈悲に降り注ぐ暴力は笑顔では止められない。自分の身を想うからこそ、自分が守りたい、大切なものを守るために。五代雄介は自分の涙を仮面に隠して、その悲しい拳を振るい続ける。――霊石アマダムはその想いに答えた。

 

「グォ……グッ……ブグゥオッ……!!」

 

 ズ・グムン・バの身体に刻み込まれた紋章が一際強く輝く。腰に巻くゲドルードのバックルに入った亀裂も、そこから漏れる光に包まれ、黄金に染まっていた。

 駆け巡る封印エネルギーが体内の魔石ゲブロンに近づき、五代も望まぬ『ある反応』を引き起こす兆候として現れる。

 それは、人が人を殺すことが受け入れられてしまった悲しい世界、リントの誇りを忘れたリントの世界で生きる、五代の心。リントが相手の命を尊重して生み出したはずの封印エネルギーは、封印のための出力を超えて、五代の悲しみを()み取ったアマダムが送る強大な武器となった。

 

「クウガァァァアアーーーーーッ!!!」

 

 接触。封印エネルギーの光が、ズ・グムン・バの魔石ゲブロンに届く。溢れる光は魔石ゲブロンのエネルギーを暴走させ、グロンギの回復能力を遮断する。

 断末魔と共に、ズ・グムン・バの肉体は内側から溢れ出た封印エネルギーと魔石ゲブロンの暴走エネルギーによって、境内一帯を明るく照らすほどの大爆発を引き起こした。

 熱風と轟音。ズ集団ともなれば、ベ集団とは比べものにならない爆発が巻き起こる。博麗神社の地面を焼き、凄まじい爆風を発するが、赤いクウガにとっては少し強い程度の風でしかない。

 

 霊夢も顔をしかめ、爆ぜた命を見届ける。近くにいたら爆風を受けていたかもしれないが、少し離れたこの位置ならば若干の熱風が髪と巫女服の裾を揺らす程度で済んだ。

 ベ・ジミン・バと同様、砕け散った肉体は跡形も残さない。凄まじいエネルギーによって全てが消し飛び、そこには死体どころか肉片の一つさえも残ってはいなかった。ここまで木端微塵になるほどの霊力を込めたつもりはなかったため、やはり怪物の方に爆発の仕組みがあるのだろう。

 

「やっぱり、こいつも爆発するのね。……神社に結界を張っておくべきだったかしら」

 

 爆風の勢いは強い。だが、それは弾幕ごっこに慣れ親しんだ霊夢にとっても普段見ている爆発とそう変わらないものだ。焼けつく風に仰がれる感覚は不快だが、ようやく怪物を倒すことができた証だと考えれば少しは爽快感もあった。

 気にかかるのは博麗神社の方だ。この神社は地震によってこれまでに二度も倒壊している。その度に設計を見直し、より強固に建て直されているのだが、未知の怪物の爆発にどこまで耐えられるか心配になる。

 大丈夫だとは思っていても、境内で起きた爆発のせいか神社は少し揺れているように見えた。また倒壊でもされたらしばらく霊夢は住まいを失い、野宿生活となってしまう。

 

「……霊夢ちゃん!」

 

 変身を解除し、生身の姿に戻った五代が沈んだ顔を上げる。その名を呼び、霊夢に振り向くときには、すでに朗らかな笑顔が戻っていた。揺るぎなき笑顔で掲げられた親指の仕草は、五代雄介という人物をよく表している。

 霊夢もそれに向かい、やれやれと言った様子で小さな笑顔を零す。右手の親指を掲げ、五代と同じようにサムズアップを見せた。それを見て、五代の笑顔はさらに嬉しそうなものになる。

 

「やっぱり、笑顔っていいよね」

 

「ふふっ……何よそれ」

 

 互いに笑い、空を見上げる。濃紺の夜空は、晴れ渡る青空に。五代が守りたかった、笑顔と青空。そのどちらも、今ここで笑っている。

 悲しみに満ちた現実を、拳をもって打ち砕く。ただ、笑顔でいられる幻想を切り開く。

 

 向かう悪意を壊すためではなく、自分が大切だと思うものを守り抜くために。

 

◆     ◆     ◆

 

座標不明

06:27 a.m.

 

 薄暗く不気味な建物の中に、男と女が佇んでいた。

 男は全身を黒いコートで包み、深く被った黒いニット帽と白い布で顔を隠しているため、その表情は(うかが)えない。外見こそ人間らしい姿をしてはいるが、放つ雰囲気はとても常人のそれではなかった。

 全身に白いマントを羽織るその姿は、暖かい春の季節においては相応しくない異質な格好であると言わざるを得ない。

 対して、向かう女の姿は麗しいドレス。黒衣に纏うは深紅の薔薇を思わせる花の首巻き。鮮やかな装いに反し、女の表情は冷たく研ぎ澄まされたものだった。それは人間の里に現れたときと同じ冷ややかな眼差し。額に浮かぶ白いタトゥは、やはり一輪の薔薇を模している。

 

 バルバ グムンはどうした

「バルバ ゾグ ギダパ グムン」

 

 右手に異形の算盤(そろばん)、『バグンダダ』を持つ男が低い声で問う。

 向かう女もそれなりの長身ではあるが、男はそれを遥かに上回る並外れた長身だった。2m近い体格でもって、風にはためかせるマントを気にも留めず。ニット帽と口元の布から覗く鋭い双眸は、女の姿を貫いた。

 男の名はドルド。かつて未確認生命体B群第9号と呼ばれたグロンギであり、今はB群の呼び名通り、人の身と変わらない生身の姿、すなわち『人間態』となっている。

 怪人態となれば、空を自在に支配する猛禽(もうきん)の鳥獣、コンドル種怪人『ラ・ドルド・グ』としての能力を遺憾(いかん)なく発揮することができるが、彼の立場は裏方におけるグロンギの補佐に過ぎない。彼は自ら裏方の補佐階級である『ラ集団』を選び、その立場を望んでやっているのだ。

 

 グムンは死んだ ゴオマも 資格を失った

「ギンザパ グムン ギバブゾ グギ バダダロ ゴオマ」

 

 黒衣を装う長身の美女が静かに答える。

 同族の死を伝えているにも関わらず、その表情に一切の悲観は見られない。まるでそれが当たり前のことであるとばかりに、淡々と事実を告げていた。

 女の名はバルバ。やはりこちらもかつては未確認生命体B群第1号と呼ばれていた存在。薔薇の能力を備えたグロンギ、バラ種怪人『ラ・バルバ・デ』の人間態である。

 彼女もまた、ドルドと同じく裏方の補佐を務めるラ集団に所属する者であり、平時においてはグロンギの儀式を円滑に進める神官、あるいは巫女のような立場となる。実際に自らが出向くことは少ないが、必要に応じればドルド同様、怪人態の姿を晒して戦闘を行うこともあるだろう。

 

 そうか かつての繰り返し というわけだな

「ゴグバ バヅデン ブシバゲギ ドギグ パベザバ」

 

 ドルドは皮肉めいた笑みを浮かべるが、相変わらず覆い隠された表情に変化はない。どれだけ心象に変化をもたらしても、この男がそれを表に出すことはない。

 かつての繰り返し。その言葉には彼自身、苦い記憶を想いつつも、どこか心の底で歓喜しているようでもあった。

 この身に受けたリントの知恵(・・・・・・)は未だ忘れられるものではない。苦痛という次元を超えた、暴虐の極致。ただのうのうと死にゆくだけだった弱き民が、クウガに頼らず『ラ』であるこの身を殺すまでに至ったのだ。バルバと同じく、彼もまた、リントが『変わった』ことを嬉しく思っていた。

 

 問題ない 我々の儀式に 滞りはない

「ロンザギ バギ パセパセン ギギビビ ドゾボ ゴシパバギ」

 

 自らの中指を彩る指輪を見つめ、バルバが冷たい声を吐き出した。

 その指輪は爪のような不気味な装飾が施され、何らかの儀式に用いられそうな呪具の様相を(てい)している。グロンギの文明が凝縮されたと思わせんばかりの悪意が、その小さな装飾に込められているようだった。

 琥珀(こはく)の如く冴える指輪。溢れ出るエネルギーこそ神秘的であるのに、全体的な雰囲気は邪悪と形容する他にない。美しき姿の中、その一点の指輪だけがあまりにも歪な悪意を体現している。

 

 ……では

「……ゼパ」

 

 バグンダダを懐にしまい、ドルドがバルバに向き直る。張り詰めた空気は、より一層重く厳かな空気になっていた。

 しん、と静まり返った建物の中、バルバは手にした皮紙を見つめる。

 皮紙に記されているのはグロンギを表す紋章。バルバの額に浮かぶタトゥと同じ、グロンギを象徴する動植物の意匠だ。

 魔石ゲブロンによって与えられたその力は、グロンギの身体に刻印となって浮かび上がる。それは一見タトゥのように見えるが、実際は生体的な色素沈着などの異常により生じた『(あざ)』と呼ぶべきものだった。

 バルバが手にする皮紙の最下部。他の紋章は闇のように暗い漆黒色で描かれているが、その一つだけはバルバの額にある薔薇の紋章と同じ、純白の色をしている。激しく歪んだクワガタムシの紋章は、すべてのグロンギを超越した究極の存在、彼らの族長である『ン』を意味するものだ。

 

 ――ゲゲルを 始めるぞ

「――ゲゲルゾ ザジレスゾ」

 

 視線を皮紙からドルドへ移す。儀式の準備は、すでに整っている。あとはそれを実行するグロンギ、来たるべき儀式の『プレイヤー(ムセギジャジャ)』となる者たちを招集するだけである。

 儀式の開始前であるというのに、勝手な行動をしてしまったズ・グムン・バはクウガによって殺された。同じく早まった行動をしたズ・ゴオマ・グも死ぬことこそなかったが、『かつて』と同じく儀式の参加資格を失ってしまった。

 グロンギたちの聖なる儀式。その名は『ゲゲル』。(たくま)しき者グロンギが、惰弱(だじゃく)なる者リントを殺戮する、彼らの遊戯。それは、現代人類(リントたち)を獲物と称して狩りを行う、殺人ゲーム(・・・・・)だった。




マイティキックと天覇風神脚。封印を司る赤い人のダブルキック。
本来、天覇風神脚は連続サマーソルトキックなんですが、見栄え重視です。

次回、EPISODE 7『疑惑』


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第7話 疑惑

博麗神社

10:32 a.m.

 

 ─―ズ・グムン・バとの戦いから数時間。

 すでに日は高く昇っており、傷を負った霊夢と五代も博麗神社にあった救急箱を使ってある程度の手当を終えている。霊夢の腕を止血していた蜘蛛の糸も、今は白く清潔な包帯に置き換えられていた。

 簡単な朝食を済ませ、縁側に座る。霊夢は失血のせいか体調が優れないようだが、戦いのあとにもう一度布団に入ってしばらく休んだ結果、少しだけ顔色が良くなった気がする。

 さすがに全快とまではいかないが、五代の手伝いもあって二人分の食事は用意できた。

 

 五代も温泉を借りて身体を清め、新しい服に袖を通す。普段から慣れ親しんだ自分の服。幻想郷には存在しない、外の世界特有の素材で作られた現代の洋服。冒険家として、十分な荷物に着替えを用意しておくのは当然である。

 この服は五代自身が買った私物であり、幻想郷のものではない。が、五代はどこか遠慮がちに自分の服に袖を通していた。

 理由は一つ。――五代には、この服を、この荷物を。幻想郷に持ち込んだ覚えがない(・・・・・・・・・・・・・・・)

 

 ここに来る前。記憶に残る最後の戦い。グロンギの族長、第0号との死闘を終え、五代は吹雪の中、バイクも荷物も置いてそのままの足で冒険に出たはずだった。

 みんなを心配させないため、先に別れを告げて。自分の名を呼ぶ男の声も、自分の帰りを待つ人々の笑顔も、吹雪の彼方に押しやって。

 あれから数ヶ月。気ままに冒険を続けていた五代は、気づけばこの(さと)(いざな)われていた。今は博麗神社に停めてあるビートチェイサー2000も、旅立つ前に決戦の地である九郎ヶ岳遺跡に置いてきたはず。本来ならば、ここに存在しているはずがないのだ。

 

 異国の海岸、波打つ砂の浜辺を歩いていたはずの五代は、刹那の闇を見た直後、幻想の境界へ落ち、その先の荒野で再び巡り逢った。

 無二の相棒から、同じ想いを抱く人々から託された、第4号(クウガ)のための――五代雄介のための超高性能マシンに。もう二度と見ることはないと思っていたビートチェイサーに乗って、無辺の荒野に蘇った未確認生命体第1号を倒すために、五代は再びクウガとなる道を選んだ。

 ただ無心に、ただひたすらに。求められる拳を振るい続けた。悲しみに打ちひしがれても、掲げる青空を涙に染めたとしても。そこに笑顔があるのなら。それを壊す者がいるのなら。

 

「あれ? あんたその服……持ってきてたの?」

 

「いや、持ってきた覚えはないんだけどなぁ……」

 

 博麗神社の縁側に戻る。この服は霊夢が用意したわけではない。当然、元から幻想郷にあったわけでもない。ビートチェイサーと同様、わざわざ用意した誰かがいるのだ。外の世界と隔絶されているはずのこの幻想郷に、外の世界のものを。

 霊夢はその犯人を考える。博麗大結界を超え、外の世界のものを持ってくることができる存在は限られている。心当たりはそう多くはない。必然的に、一人の妖怪を思い浮かべていた。

 

「……まさか、(ゆかり)……?」

 

 八雲 紫(やくも ゆかり)。霊夢もよく知る強大な妖怪で、この幻想郷を管理している『賢者』の一人だ。

 幻想郷を愛し、その均衡を維持しようとしている彼女が、わざわざ一人の外来人のために元の世界のものを用意してくれるとは考えにくい。

 だが、この青年を。五代雄介を連れてくることが紫の目的だったとしたら。外の人間である彼を利用して、何かを企んでいるとしたら。

 異変の影響で結界が不安定になり、そのせいで幻想郷に迷い込んでしまった外来人だと考えていたが、突如として現れた怪物――グロンギと戦えるような人間が都合よく幻想入りを果たすのは不自然かもしれない。

 その疑問も、紫がグロンギに対して対応を見せないことにも、すべて紫が仕組んだものだと考えれば合点がいく。しかし、彼女がどこまで異変に関わっているかは分からない。おそらくは五代を招いたのは紫であるとは思うが、まさかあのような怪物まで幻想郷に招いたのだろうか。

 

 縁側に正座しながら、霊夢は五代の隣で湯呑みの中のお茶を飲む。境内を覆う桜はどこまでも美しいが、今はそれどころではない。

 灰色のオーロラ、未知の怪物、そして、白い――否、赤い鎧の戦士クウガ。この異変を終わらせないことには、おちおち花見も(たの)しんでいられなかった。

 五代の分の湯呑みも用意してある。霊夢と同じく縁側に座り、静かに湯呑みに口をつける。グロンギとの戦いは忘れられない。束の間の休息でしかないが、満開の桜を見ながらの一時は痛んだ心に安らぎを与えてくれた。

 

 見上げる桜吹雪の中、晴れ渡る青空に一つの影が差す。黒い影はどうやら黒衣を装った一人の少女のようだった。さながら童話に登場する魔女のように古びた箒に跨って空を飛び、高度を落として博麗神社の境内に降り立つ。

 指をパチンと弾いて箒を消し去り、黒い帽子を被った豊かな長い金髪を揺らす少女は先日も人間の里で怪物と激闘を繰り広げた魔法使い、霊夢の友人である霧雨魔理沙だ。

 

「よう、霊夢。あれからどうだ?」

 

「散々よ。夜中だってのに怪物に襲われるし。それも二匹よ? 片方はなんとか倒せたけど……」

 

 悪戯(いたずら)っぽく笑う魔理沙の言葉に、霊夢は小さく項垂(うなだ)れる。連戦に連戦が続き、さすがに疲れも限界に達していた。

 あの戦いの後にすぐ布団に潜ったが、まるで疲れが取れた気がしない。スペルカードルールに即しない本気の戦闘がこれほど疲れるものだとは、幻想郷のルールに馴染みすぎてすっかり忘れていたようだ。

 博麗神社に現れた二体の怪物。クモの怪物とコウモリの怪物。そのうちの一体、人間の里にも一度姿を見せたクモの怪物――ズ・グムン・バの方は、赤い戦士(マイティフォーム)となった五代の協力もあり、なんとか撃破することができた。しかし、コウモリの怪物――ズ・ゴオマ・グには二体の怪物を同時に警戒していたのもあって、予期せぬ行動の変化に対応し切れず逃走を許してしまったのだ。

 

「もう片方には逃げられたんだな。まぁ、よくあることだ」

 

「あんたと一緒にしないでよ」

 

 魔理沙曰く、能力の酷使で倒れた慧音は無事に家まで送り届けることができたらしい。彼女と(えん)の深い、とある人間が介抱してくれたおかげで、魔理沙はその対応を委ねて異変の方に集中することができたようだ。

 霊夢の隣に座る青年――五代を見て、魔理沙は一瞬訝しんだような顔をするが、すぐにその顔を思い出す。彼女の中では戦士クウガの印象が強すぎて、生身の五代の顔はあまり記憶に残っていなかったらしい。幻想郷らしくない服装と合わせて、この男が例の『戦士』であると紐付ける。

 

「お前も大した怪我はなさそうだな。というか、あんな姿になってなんともないのか?」

 

 魔理沙は先日の戦いを思い出すと、段々と鮮明に記憶が蘇ってくる。この男は、異形の姿に変身した後、散々殴られ叩きつけられていたはずだ。それなのに、見たところ怪我と呼べる怪我は負っていない。それも疑問に思ったが、まだ些細なこと。

 今はそれより、この男がそもそも異形の姿に変身したことが気になっている。人間が魔法も何も使わず、肉体を捻じ曲げて形を変えるなど、幻想郷においても信じられないような話だ。

 

「なんともないってことはないけど、なんとかなるみたい」

 

 湯呑みを揺らし、何気なく答える五代。顔を上げ、心配そうな表情をしている魔理沙に気がつくと、五代は優しく笑顔を見せ、再びサムズアップを掲げる。

 真っ直ぐ目を見て、ただ一言。「大丈夫」と。これまで何度も口にした、五代雄介の言葉。ただの一度も約束を(たが)えず、誰かを裏切ったことのないその言葉。それは、この幻想郷の地において、彼の口から聞くのは二度目である魔理沙も、どこか不思議と信じられるような気がした。

 

「まぁ、本人が大丈夫って言ってるんだし、大丈夫だと思うけどね」

 

「言いました! だからもう、全然大丈夫!」

 

 博麗神社の縁側、日の当たる場所に並んで座る霊夢と五代。二人は同時に湯呑みを傾け、温かいお茶を口にする。

 胸に残る悩みをお茶の苦味で洗い流し、冷たい不安はその暖かさで氷解していく。湯呑みから口を離し、ほっと一息吐くと、目の前には呆れた様子の魔理沙が立っていた。

 

「霊夢は相変わらずだが、お前もお前でのんきな奴だな……」

 

 その目的すら判然としない異変の最中だというのに、二人には緊張感というものが見受けられない。昔馴染みの友人はともかく、出会って二日目にして、魔理沙は早くもこの青年――五代雄介の性格を掴み始めていた。

 この男は、霊夢とよく似ている。逆境に立ち向かう強さを持っているのに、弱さを見せようとしない。飄々と困難を切り抜けていくのに、辛そうな表情を見せない。でも、魔理沙には分かっている。霊夢は苦しみを隠すのだ。この男も霊夢と同様、仮面の下に痛みを抱えているのだろう。

 

「あんたも飲む?」

 

「いらん」

 

 座敷の中を指す霊夢。(から)の湯呑みはまだ残っている。霊夢はもう一人分のお茶を淹れてもいいと思ったが、魔理沙はそれを遮った。

 異変は何も解決していない。オーロラから現れた怪物を数体倒した程度で、この異変が終わるとも思えなかった。

 原因となる何かがあるはず。この異変を起こしている全ての元凶、幻想郷に名立たる妖怪たちにも比肩するほどの強大な力を持つ『何か』が存在しているはずだ。

 

 しかし、今はそれよりも。人の身にして異形の姿へと至ったこの男の方に興味がある。如何なる原理であの姿へと変じるのか。如何なる方法であの姿を身に着けたのか。様々な知識を追及する魔法使いとして、好奇心は尽きない。が、同時に、やはりどこか心配でもあった。

 幻想郷においては、里の人間が妖怪になることが最大の罪とされる。外来人には当てはまらないため、すぐさま退治の対象になることはないはずだが。

 それでも、人間と妖怪のバランスが何よりも重視されるこの幻想郷で、もしもその均衡を崩すようなことがあれば。調停者である博麗の巫女は、迷わずこの男の命を絶つだろう。霊夢にはそれだけの覚悟があるということを、魔理沙は長い付き合いの末に、知ってしまっているのだ。

 

「……見た感じは大丈夫そうだが、一応は医者に()てもらった方がいいぜ」

 

「あ、そうそう! 俺もそうしようかと思ったんだけど、さすがにマズいかなって」

 

 医者の診療。五代はかつて、この身体をある医者に診てもらったことがある。当然、身体の中に埋め込まれ、神経と一体化した未知の鉱物が──超古代文明から受け継がれた霊石アマダムが、驚かれないわけがなかった。

 だが、相棒の古い友人であるその医者はアマダムを調べた。彼の興味本位というのもあったが、死体の解剖を専門とする監察医であるにも関わらず、友人の頼みとあって生きた五代の身体を調べてくれた。そして、その結果として、五代雄介は思い知らされることとなる。

 

 自分の身体に起きている異常。それは霊石アマダムから伸びる神経状組織による細胞の侵食。同じく超古代から復活した怪物、グロンギとほぼ同じ構造で、五代の身体は戦士クウガの身体に作り替えられていたのだ。

 それでも、五代は戦った。自分の身体が自分のものではなくなっていく恐怖の中で、自分の身体がグロンギと同じ、戦うためだけの生物兵器と成り果ててしまう可能性すらも恐れずに。

 

 五代は、自分と同じ原理で異形の姿となるグロンギ、彼らを統べる族長である『第0号』を悲しき激闘の末に討ち果たした。

 その際に受けた一撃によってアークルに深い亀裂を負ってしまったものの、その戦いを最後として、すべての未確認生命体を倒すことができた。

 こちらも相手のベルト──第0号が身に着けていたゲドルードのバックルを砕いたことで互いに変身を維持できなくなり、最期は生身同士による決着となったため、その身を殴り殺した感触は今でも五代の拳に鈍く残っている。

 アマダムの自己修復機能によって、どうやらあの戦いから数ヶ月の間に白いクウガ(グローイングフォーム)になれる程度には変身能力が戻っていたようだ。そこへさらに霊夢の夢想封印を受けたことでアマダムの力が引き出され、その再生能力を取り戻してアークルの損傷を全快させたのだろう。

 

 知らねばならない。自分の身体が今、どうなっているのか。世界で唯一、アマダムのことを知っている掛かりつけの医者は幻想郷(ここ)にはいない。――だが。

 今なおこの身体に眠る、霊石アマダム。服の上から腹に触れる。この場所で、これを診せてもいいのだろうか。いくら神秘の栄える郷とはいえ、驚かれるのではないか。五代はどこか笑顔を曇らせ、相棒の友人である若き監察医――頼りがいのある、白衣の男の顔を思い出していた。

 

「心配するな。里ならともかく、竹林の医者ならそういうのにも慣れてるだろ」

 

 幻想郷には人間の里にある小さな診療所の他に、里から離れた竹林の奥深くに大きな病院が建っている。

 正確には高度な医療技術を持った人物が住まう古いお屋敷であるのだが、ここを訪れることのできる大多数の来客はこの建物を優れた医療機関としか認識していない。

 

 かつて幻想郷を襲った大規模な異変、永夜異変。表立っては『夜が明けなかった異変』とされているが、実際のところは『満月がすり替えられていた異変』だった。

 その首謀者が千年以上も前から幻想郷の竹林に隠れ住んでいた『月の民』であることが分かったのは、霊夢と紫がこれを討ち果たし、スペルカードルールによる弾幕ごっこをもって調伏(ちょうぶく)したからである。

 異変の実行犯だった人物は現在、結界によって秘匿された幻想郷の利点を鑑み、深い竹林の屋敷でそのまま隠れることなく住んでいる。博麗大結界のあるこの幻想郷なら月から追手が来ることもないと判断したようだ。

 今の彼女ならば、いきなり訪問したとしても快く五代の身体を診察してくれるだろう。

 

「で、霊夢はこれからどうするんだ?」

 

「……疲れたから、もう少し寝る」

 

「そう言うと思ったぜ」

 

 明らかに気怠そうな様子の霊夢は、あくびを隠そうともせず魔理沙の問いに答える。春眠暁を覚えず、とはよく言ったものだ。もっとも、彼女の場合は本気の連戦に加え、夜間の敵襲でろくに眠れなかったことも影響しているのだが。

 (から)になった二人分の湯呑みと急須を盆に置き、博麗神社の座敷へと片付ける霊夢。布団は片付けてあるが、霊夢用の座布団は出したままだ。おそらくはこのまま横になるつもりなのだろう。

 

「あ、そうだ。五代さん、あの乗り物、ちょっと見せてもらえる?」

 

 座敷から顔を出し、霊夢は五代に声をかける。その白く細い指先が指しているのは、博麗神社の傍に停めてある五代のバイク、ビートチェイサー2000だ。

 このバイクは警視庁開発の機体、すなわち白バイの一種であるため、端末部分には同じ警察機構との通信を可能とする無線機が設けられている。しかし、大結界によって隔てられたこの幻想郷においては外の世界との通信は叶わない。物理的な干渉は当然として、結界は電波や霊力波、意思すらも遮断してしまうのだ。

 霊夢はビートチェイサーの無線機の存在を知っているわけではない。が、何の偶然か、その手には八雲印の通信札――紫色の呪術印が刻まれた一枚のお札がひらひらと揺れていた。

 

◆     ◆     ◆

 

迷いの竹林

12:15 a.m.

 

 まだ日は高いというのに、高く伸びた無数の竹が空を遮り、薄暗い。古くは高草郡(たかくさごおり)とも呼ばれたこの『迷いの竹林』を、五代と魔理沙は歩いていた。

 歪んだ竹が景色を捻じ曲げ、緩やかな傾斜となった地面は歩く者の平衡感覚を狂わせる。よほどの強運がなければ、その名の通りに迷いに迷い、二度とここを抜けることは叶わないだろう。

 

「それで、五代さん……だっけ? この人が鎧の戦士に? なんだか頼りなさそうだけどねぇ」

 

 この土地に住まう住人、竹林の兎たちのリーダーである少女が笑う。

 小さな背丈と薄い桃色の服装は純粋な少女のようでもあるが、幼い外見に反してどこか老獪(ろうかい)さを感じさせる。短い黒髪の間、その頭頂部から垂れ伸びた白い兎の耳は紛れもなく、この少女が人ならざる者である証だ。

 地上に生きる妖怪兎、中でも最も長命な因幡(いなば)素兎(しろうさぎ)である 因幡(いなば) てゐ(てい) 。彼女はこの迷いの竹林に古くから住む妖怪であり、この竹林の所有権を主張するだけあって、迷い込んだ者を案内して竹林の外まで抜けさせてやることができる。

 彼女自身が並外れた幸運に恵まれている他、てゐが持つ『人間を幸運にする程度の能力』のおかげで、迷いの竹林においても迷うことなく自由に出入りが可能となるのだ。

 だが、今は彼女が向かう先は竹林の外ではない。魔理沙に連れられ、てゐに案内され、五代が目指す場所は迷いの竹林の奥深く。地上の兎たちが舞い踊る古い屋敷――『永遠亭(えいえんてい)』である。

 

「そうそう、なんて言ったか? 確か、リュウガだかオーガだか……」

 

「クウガだよ、クウガ! ほら、クウガのマーク!」

 

 歩く途中でも一度その名を聞いたが、どうやら魔理沙は戦士の名を正確に記憶していなかったらしい。

 五代は白いTシャツを引っ張って見せ、胸の部分にある紋章を見せる。クワガタムシの大顎を思わせるが、形から見てそれは二本の角でもあるようだ。

 太い黒線と直角で形成されたそのマークは、古代リント文明における『戦士』を表す文字。同時に、リントにとって唯一の戦士である『クウガ』を表す文字でもある。彼はこの文字を気に入り、自らの服にプリントしたのだ。

 魔理沙は興味深そうにそれを見ているが、てゐは一瞥(いちべつ)した後、すぐに正面に向き直った。

 

 五代は博麗神社から持ってきたビートチェイサー2000を引きながら、魔理沙は古びた箒を肩に掛けながら、竹林のことを誰よりも熟知しているてゐの案内に従って歩を進める。

 この竹林においてはバイクも飛行能力も意味を為さない。真っ直ぐ走っても、空を飛んでも、不思議な力によって強制的に迷わされるからだ。

 ビートチェイサーの端末部分には霊夢のお札が張りつけてある。今はそれを目視することはできないが、霊夢がお札を張った瞬間にビートチェイサーのボディに馴染み、霊的な力となって定着したらしい。

 このお札は特殊な霊力波を送受信する機能があり、遠く離れた場所においても通話を可能とするという。霊夢本人にも詳しい原理はよく分かっていないようだが、八雲紫から渡されたというこのお札の機能は確かなものだった。

 見た目こそ同じでも、今のビートチェイサーならばどこにいても霊力を通じて霊夢と会話ができるだろう。それはさながら、元より端末に備えつけられた無線機の代わりのようなものだ。

 

「ほら、着いたよ」

 

 薄暗い竹林の中、ぼんやりと光る大きな屋敷。『永遠亭』の門の前まで辿り着いた五代たちは、その周囲を跳び回る多くの兎たちに歓迎されていた。

 門を潜り、敷地に入る。建物はとても古い日本の木造建築のようだが、ここまで立派なものとなれば相当の年月を経ているだろう。

 それなのに、屋敷は古びた様子を見せるどころか、まるでついさっき建てられたばかりかのような真新しさを感じさせる。まさに『永遠』を体現するに相応しい神秘的な雰囲気が、日本人ならば誰もがよく知る平安の物語、竹林の中にぽつんと光る一本の竹を連想させた。

 

鈴仙(れいせん)ー! 患者だよー!」

 

 美しく整えられた永遠亭の庭園を抜け、正面玄関の前まで来ると、てゐは扉の前で大きく声を張り上げる。

 からからと扉を開き、屋敷の中から現れたのは(すみれ)色の長髪を整えた一人の少女だった。

 

「……もう、あまり大きな声を出さないの。お師匠様にご迷惑でしょ?」

 

 少女の頭頂部にはてゐと同じ白い兎の耳が真っ直ぐに伸びている。

 狂おしき月の光を思わせる真紅の両目は、やはりどこか兎めいた不気味な狂気を帯びているようだった。

 白いブラウスの上から装う服は外界の教育機関で古くから用いられる制服、紺色のブレザーに似ている。赤いネクタイや薄紅色の短いプリーツスカートも含め、この服は『月の都』と呼ばれる浄土、月面世界の幻想郷とも言うべき場所における兵士の軍服に相当するものだ。

 

 月からの逃亡者である 鈴仙(れいせん)優曇華院(うどんげいん)・イナバ は、かつて月の都の兵士だった。

 地上で生まれ、地上で生きてきた妖怪兎であるてゐとは違い、鈴仙は月の都で生まれ育った月の兎、すなわち『玉兎(ぎょくと)』という種族である。

 地上に逃げ隠れて以降は大結界の恩恵に預かり、現在は千年以上もの遥か昔から幻想郷に先住していた月の民――今では師匠と慕う薬師(くすし)(もと)、人間の里に出向く薬売りとして暮らしている。

 

「よっ、患者を連れてきてやったぜ」

 

 鈴仙は魔理沙の言葉を聞いて、見慣れぬ顔の人物、五代雄介に軽く会釈をする。

 同じく返された鈴仙はどこか幻想郷らしくない服装と素直さを見て、一瞬で彼が外来人であると理解した。

 

「あんたがわざわざ連れてくるなんて、よほどの奇病なの?」

 

「そういうわけじゃないが、こいつの身体はちょっと訳ありでな」

 

 見たところ大きな怪我をしている様子もないし、笑顔で元気に会釈をする姿はとても病人には見えない。

 魔理沙が連れてきたのなら彼女にとってよほど興味深い状態なのだろうが、一見しただけでは鈴仙には分からなかった。

 自分には分からなくても、師匠ならば理解できるだろうと鈴仙は判断した。彼女の師匠は幻想郷の文明レベルでは考えられない医学知識を持ち、この永遠亭の名医として知られている。

 

「……? よくわからないけど、診察室はこっちよ」

 

 鈴仙は五代と魔理沙を招き、屋敷の中に入れる。てゐはまだ用事が残っていると言い残し、永遠亭を離れ竹林のどこかへ行ってしまった。五代の感謝の言葉を聞き届けると、手を振り笑顔で去っていく。

 竹林を飛び跳ねながらどこへと知れず遠ざかっていく姿は、まさしく兎そのものだ。

 

 永遠亭の内装は平安時代の貴族の屋敷を思わせる豪華な装飾が至るところに施されながらも、どこか質素な雰囲気にも満ちた不思議なものだった。絶え間なく連なる(ふすま)と木造の廊下には竹の意匠が施され、風雅な(おもむき)を感じさせる。

 迷路のように長い廊下を超え、一枚の襖の前まで来ると、鈴仙は足を止めた。部屋の中からは何とも形容しがたい様々な薬の匂いが漂ってくる。決して良い香りとは言えないが、五代はその匂いにアマダム関係で長らく世話になった関東医大病院を思い出し、懐かしさを覚えていた。

 

「お師匠様、診察希望の方がお見えです」

 

「ああ、ウドンゲ? 今は手が離せないから、勝手に入ってきて」

 

 鈴仙は襖の前に立ち、部屋の主に一声かける。部屋の中から聞こえてきた声は、若い女性のものだった。

 その言葉に従い、鈴仙は「失礼します」と断りを入れた後、襖の引き手に手をかけ、両手を使って丁寧に開く。五代と魔理沙を中に入れ、ゆっくりと襖を閉じた。

 

 部屋に入ると、より一層強い薬の匂いが鼻を刺激する。五代の視界に入ったのはまさしく診療所といった装いの、それにしては和風の色が強い屋敷の一室。

 奥には清潔な白い寝台(ベッド)が設けられ、それなりの広さを持つ部屋を彩る書棚には様々な書物や薬品が並べられている。

 板張りの廊下を歩いているときにも思ったが、日光を遮る外の竹林から差し込む光は少なく、近代的な電灯と呼べるものもないため、屋敷の中は薄暗い。

 それでも不思議と目が疲れないのは、この屋敷が持つ独特の雰囲気のおかげだろうか。

 

 部屋の中心にいたのは、鈴仙よりもやや大人びた印象を受ける一人の女性だった。女性は机に向かって高椅子に腰かけており、真剣な眼差しで何かを紙に記している。積み重ねられた紙の量は、数冊の分厚い本として束ねられるほどだ。

 筆を走らせる女性は長い銀髪を後ろで束ね、一本の三つ編みにしている。頭に被っている小さな青い帽子はナースのそれに似ており、中心に刻まれる赤い十字も医療従事者の象徴である。

 

「さて、と。ごめんなさいね。お待たせしちゃったかしら」

 

 一区切りついたのか、銀髪の女性は五代たちに優しく微笑むと、身体をこちらに向けて筆を置く。座っていて分かりづらかったが、その衣装は独特なデザインをしていた。形自体は中華風の装いを思わせる洋服であったが、一際目を引くのはその配色だ。

 腰から上は本人から見て右側が赤、左側が青と、中心を境に色が綺麗に二分されている。裾に白いフリルのあしらわれたロングスカートはその逆で、右側が青、左側が赤い色にそれぞれ分けられていた。

 全身に配された星座のラインは、(なが)(なが)い宇宙の歴史を思わせる。その様はさながら、彼女自身を天球儀――あるいは広大な銀河そのものに見立てているかのようなデザインだった。

 

 女性の名は 八意 永琳(やごころ えいりん) 。この永遠亭を取り仕切る実質的な家主であり、幻想郷において他に並ぶ者はいないとされる凄腕の薬剤師兼医師である。

 彼女は様々な医学薬学知識に加え、『あらゆる薬を作る程度の能力』を持っている。その名に誇張はなく、材料さえ揃えば如何なる効果を持つ薬をも作ることができる能力だ。

 

 気の遠くなるほどの遥か昔、永琳は月の都において、服用者を不老不死にする『蓬莱(ほうらい)の薬』なる禁薬を開発した。

 これを飲み、禁忌を犯した大罪人として地上への流刑(るけい)を言い渡された彼女の(あるじ)、月の都の姫君であった『かぐや姫』は、刑期を終えたにも関わらず地上の暮らしに執着し、月の都に帰ることを拒んだのだ。

 姫を迎えに来た月の使者たちのリーダーであった永琳はその意思を汲み、共に姫を連れ戻そうとしていた仲間たちを謀殺。その際に自らも蓬莱の薬を飲み、老いることも死ぬこともない永遠の存在、『蓬莱人(ほうらいびと)』として同じ罪を背負っている。

 幻想郷は博麗大結界によって隔離されているため、月から再び使者が現れることはない。もはや隠れる必要はないと知ったのは、幻想郷に辿り着いてから千年ほど後のことだった。

 

 永遠亭を訪ねてきた来客に向き直ると、永琳は少し呆れたような表情で小さく笑みを零す。

 

「診察って……魔理沙? 毒キノコにでもやられたの?」

 

「私はそんなヘマしないぜ。霊夢じゃあるまいし。……じゃなくて、診てほしいのはこいつだ」

 

 魔理沙は立てた親指で自分のすぐ後ろに立っている五代を指す。

 鈴仙と同じく、永琳は彼を一目で外来人だと理解した。妖怪でもない限り、人間の里に住まう者は基本的に和装である。外の世界ではどれだけ普遍的な服装でも幻想郷では珍しい。

 

「毒……キノコ……」

 

 永琳の放った『毒キノコ』という発言で、五代の表情に若干の曇りが生じる。永遠亭の薬の匂いも相まって、唇に嫌な感触を思い出してしまった。

 一度は仮死状態にまでさせられた未確認生命体第26号の事件。キノコの能力を持ったグロンギの胞子は五代の内臓を腐らせ、あわや死にまで追い込もうとしたのだ。

 しかし、古代リント文明から受け継がれたアークル――五代の体内にある霊石アマダムはそれを阻止すべく、五代の身体を意図的に仮死状態にすることで体温を下げ、毒胞子の活動を停止させることで彼を救っている。

 この霊石は五代にとっては苦難の象徴であると同時に、命の恩人でもあると言えよう。

 

「確かに、顔色が悪いわね」

 

 永琳の言葉に従い、彼女の前の椅子に座る五代。

 目の前にいる女性の腕を疑っているわけではないが、この場所で自分の身体を――霊石アマダムの状態を調べられるのだろうか。

 この建物は外を見ても中を見ても純和風の作りである。当然、どこを見渡しても五代が以前通っていた関東医大病院ほどの設備などあるはずもないし、近代的な設備としては大規模な医療機器どころかパソコンの一台さえも置いていない。

 博麗神社と同様、見た目だけではやはり明治相当の様式ばかりが目に入る。

 

 ――気になるのは、永琳の机に並べてある紙の資料だ。和紙とも洋紙ともつかない不思議な質感は、見ただけでは材質を特定できない。

 それ以上に、記されている内容に自然と目がいく。和風の屋敷であるこの永遠亭にはX線撮影や磁気共鳴撮影などといった設備はないはず。それなのに、その資料――おそらくはカルテに類するものには、精密な人体の透過画像を写し出した数枚のレントゲン写真が含まれていた。

 

「お腹、見せてもらえるかしら?」

 

「あ、はい!」

 

 永琳は聴診器を耳にかけ、溢れる疑問を抑え込む五代を触診する。未知の郷で、尽きぬ疑問が頭を埋め尽くしていることもあるが、この永遠亭の技術は五代の想像を遥かに超えているらしい。冒険家としての探究心に火がつき、心臓の鼓動を早めている。

 重ねて言えば、思わず息を飲むほどの美女がこれほど近くにいるのだ。聴診を行う際にはあまりよくない状態だが、月の頭脳とも(うた)われた永琳にとってはその程度、些事にもならない。

 

「……なるほど。これは大物ね」

 

 数分の触診で何かを掴んだのか、永琳は真剣な表情で耳から聴診器を取り外す。五代の後ろでその様子を眺めていた魔理沙も永琳の反応に気がつき、心配そうな表情を強めていた。

 

「あなた、名前は?」

 

「五代雄介です」

 

 その身体の状態に興味を示したらしき永琳が五代の名を聞くと、机の上に広げたカルテにその名を記し、五代の情報を書き連ねていく。僅かに触診をしただけだというのに、すでにその情報量は膨大なものになっていた。

 月の都の賢者として優れた医療の腕を持つ永琳は、幻想郷はおろか外の世界の名医ですら届き得ぬほどの天才である。

 その能力は、人智を超えた超技術を誇る月の都においてなお賢者と慕われ、月の重鎮たちに頼られるほど。彼女の技能は、もはや医療というレベルを遥かに超えている。

 

 ――しかし、それでも。天才たる彼女にも疑問という概念は存在していた。目の前の人間――五代雄介と名乗る男の身体には、不死の身に至る以前から幾星霜(いくせいそう)の時を生きてきた永琳でさえ、見たことがないものがあった。

 彼の身体データはすべて記録した。細胞の一つ一つから意識の構成情報に至るまで、永琳は自らの天才的な知識と経験を持ってそのすべてを診断した。

 たった一箇所、その腹部にある未知の異物――鉱物らしき材質を持つ謎の物質を除いては。

 

「五代さん、と言ったわね。奥のベッドに横になってもらえる?」

 

 先ほどまでの柔和な笑みはどこへやら、永琳の表情は優しい女医の顔から学問を(きわ)めようとする者の顔に変わっていた。知的好奇心に火がついた永琳の恐ろしさは、かねてより新薬の実験台にされている鈴仙がよく知っている。

 鈴仙は、おそらく幻想郷に迷い込んでしまったであろう罪もない外来人に心の中で同情しながら、師匠の探究心の餌食となろうとしている青年を見守ることしかできなかった。

 

◆     ◆     ◆

 

 机の上には、先ほどまではなかったぼんやりと光る板(シャウカステン)が立っている。和風の屋敷においては異彩を放つものだが、それ自体は五代自身も見慣れたものだ。

 ベッドに寝た直後というもの、不思議な光が身体を通過したときは驚いた。一瞬のことで何がなんだか分からなかったが、どうやらそれはX線のような特殊な電磁波であるらしい。どのような技術で行っているか五代には見当もつかないが、人体の透過画像はレントゲン写真として永琳の手に現像されていた。

 彼女はそれを光る板に張りつけ、椅子に座って五代たちに見せる。鈴仙も魔理沙も、五代の体内を写したその写真――特に、腹部にある謎の物質には興味を惹かれているようだ。

 

「さて、これを見てどう思う?」

 

 自身のレントゲン写真を見て、五代は驚いたようでもあり、安心したようでもある、不思議な気持ちを覚えていた。

 腹の内側に眠る帯状の有機物質群。五代の体内に深く根付いているベルトのようなものは、クウガへの変身に際して肉体の外側に現れるアークルだ。カルシウムやタンパク質などの有機的物質で構成されているこのベルトは、普段はバラバラに分解されて五代の身体の一部となっている。

 

 驚いたのは、九郎ヶ岳遺跡で身に着けてから長らく付き合ってきた腹部の異物――中心に輝く霊石アマダムに、一切の傷も残っていなかったからだ。

 最後にこれを見たときは、第0号の攻撃で深い亀裂が入り、ボロボロに傷ついていたはずだったのだが――やはり、あのとき霊夢から受けた不思議な力の波動によって修復されているのか。

 

「なんだこりゃ? 腹の辺りになんかあるな。真ん中の奴は……石か何かか?」

 

「それも気になるけど……これ、なんか全身に神経を広げてるような……」

 

 魔理沙が疑問を口に出す。続けて、鈴仙も永琳の下で修行した成果である優れた洞察力を持ってその状態を推察した。

 鈴仙の推察通り、五代の腹部にある霊石アマダムは全身に特殊な神経状組織を張り巡らせ、既存の神経系と一体化している。身体全体に広がった神経は両手両足にも及び、特に右脚の筋肉にはそれが密集しているように見受けられた。

 腹部の物質から伸びる神経には何らかの電気信号が送られている。筋肉の活動電位にも似ているが、さらに強力だ。こんなものが全身を走れば、雷に打たれたような衝撃が伴うはず。

 

「師匠、これはいったい……?」

 

 振り返り、鈴仙は師匠である永琳に問う。しかし、永琳は肩を(すく)めて小さく笑うばかり。人体を知り尽くしていると言っていい永琳の知識を持ってしても、その石の正体は分からないようだ。

 

「お前にも分からないことがあるんだな……」

 

 魔理沙は意外といった様子で永琳の顔を見つめる。頼りにしていた叡智にも分からないとあって、魔理沙と鈴仙は心配の様相を強めていたが、当の五代本人は納得のいった表情で己の腹部、霊石のある丹田(たんでん)の辺りに触れていた。

 これなら、まだ戦える。五代の安心は、ただ一つの宿命のために。この石がまだ()つのなら。石の力がまだ使えるなら。この地においても戦士と()れる。この拳を固めることができる。

 

 永琳は疑惑を確信に変えつつあった。地上と月の叡智を統べるほどの彼女に分からないものがあるとすれば、おおよそ、その由来に見当はつく。

 おそらくこれは、彼女の知識の及ばぬ世界――こことは異なる時空から現れたもの。外の世界や幻想郷の物質であるならば、彼女の知識を持ってその正体が判明するはずだ。無論、月の頭脳と呼ばれた八意永琳とて全知ではないが、その可能性は低くないと言える。

 

 今の永琳はこの物質を『異次元からの漂流物』と仮定していた。この青年――五代雄介は純粋に外の世界から流れ着いた外来人ではない。もっと外部の、それこそ『別の世界』と言える場所から現れた存在なのではないか。

 五代の身体に眠る未知の鉱物。この石は、ヒトをヒトならざる異形に変える。その意思に応じ、人間を超えた『何か』に作り変える力を秘めている。正体が分からずとも、彼の身体を調べる限りで得られた情報は、疑いようもなくその事実を示していた。

 幻想郷に現れた謎のオーロラについて、永遠亭でもその発生を確認している。こちらも正体を掴めてはいないが、霊夢と同様、永琳も五代とオーロラの間に何らかの繋がりを感じていた。

 

 真意を確かめるべく、永琳は永遠亭を訪れた外来人、五代に向き直り、静かに口を開く。

 

「……五代さん、詳しい話を聞かせてもらえるかしら?」

 

 そう問う永琳の表情は、個人的な知的好奇心を捨てた『月の賢者』のものだった。

 

◆     ◆     ◆

 

幻想郷 上空

01:28 p.m.

 

「戦士……か」

 

 晴天。されど風雨を纏う天空の化身は青空の彼方で膝を組む。白い雲に座すように浮いている女性は、古戦場を思わせる赤い衣装に身を包み、紫紺の髪を豊かに(たた)えて風を読んでいた。

 環状に束ねた太い注連縄(しめなわ)と数本の黒い柱のようなものを背負い、天下を見渡す姿は神々しささえも感じさせる。それも当然、この女性は紛れもない『神』そのものであり、人々の信仰を受けて昇華した『神霊』と呼ばれる存在だ。

 風を司る神、軍神の側面も合わせ持つ 八坂 神奈子(やさか かなこ) は自らの顎を撫で、どこか(うれ)うように独り言つ。眉間に(しわ)を寄せ、鋭く大地を睥睨(へいげい)する視線は、さながら蛇のようでもあった。

 

「やっと霊夢が重い腰を上げたみたいだね。ま、グロンギが本格的に活動を始めたみたいだし、動かざるを得なかったようだけど」

 

 白い雲から飛び出し、両手を着いて空に座す幼げな少女もまた、一柱(ひとはしら)の神である。

 青紫色の服には跳ね躍る数匹のカエルが描かれており、淡い金髪の頭に被る帽子もどこかカエルじみた二つの目のような意匠が目立つ奇妙なものだ。

 大地を司る古き土着の神、 洩矢 諏訪子(もりや すわこ) は余った白い袖を揺らし、けろけろと笑う。無垢な少女のように見えても、彼女は純粋な神性を持つ『八百万(やおよろず)の神』。腹の内では(おごそ)かに天下を見据える神奈子と同様、すでに幻想郷で起きている異変がもたらす真の意味を理解しているだろう。

 

「グロンギの目的が例の『遊び(ゲーム)』だとしたら、依然として里が襲われることになる。一応、すでに監視は置いてあるけど、本当にそれだけが目的なのかどうか……」

 

 立ち上がり、胸に掲げた鏡を揺らす神奈子(かなこ)。その瞳には幻想郷のすべてが映っている。認識される脅威は外部からのもの。灰色のオーロラから出現する怪物たちの存在だ。

 同じく諏訪子(すわこ)も白い雲の上に立ち上がる。二人が立ち上がったことにより、その身長差がより顕著(けんちょ)に現れた。互いの力は等しくとも、歴戦の軍神といった印象を受ける神奈子に比べ、諏訪子の身長はかなり低い。

 天と地。二柱の神は一度は国を賭けて矛を交えた関係だが、今は仲の良い友人同士である。

 

「奴らが動き出したとなると、次に動くのは……異教(あっち)で言う『天使(・・)』様あたりかな。……真っ先に狙われるとしたら、やっぱり『地獄鴉(あいつ)』だよね」

 

「……あの力は、私たちが与えた神の火。太陽の輝き。たとえ器が人間(・・)ではないとしても、その力に類するものであれば……『奴』が放っておかないだろうね」

 

 緩やかな風に吹かれ、黄金と紫紺、二つの髪が静かに揺れる。諏訪子も神奈子も、視線の先は己が立つ雲海の眼下。大地に広がる幻想郷。あるいは、その大地よりもさらに下にある世界。さながら『地の底』の果てを見ているようでもある。

 豊かな胸の前で腕を組み、鋭い眼光を地に落とす神奈子。諏訪子は何かを期待しているかのように、湛えた笑顔を崩すことなく、両手を大きく広げて余った袖をはためかせた。

 

「こっちも同じ『神様』として、しっかり見届けてやらないとね」

 

 それだけ一つ呟くと、諏訪子の姿は刹那と消え失せてしまう。雲の中に潜ったわけではない。文字通り、その場から姿を消したのだ。

 神奈子は組んだ腕を解き、空に背を向け振り返る。再び一陣の風が吹く頃には、神奈子の姿もそこにはなかった。

 白き海、揺れる雲間の天守閣に、もはや神の影などどこにもない。春風の吹き抜ける幻想郷の青空は、いつの間にか元の静けさを取り戻している。二柱の会話も、風の中に掻き消えていた。




 ツ  ヅ  ク(表音リント文字で)
ハーメルンにも古代リント文字フォント実装されませんかね(無茶振り)

次回、第8話『光の覚醒』


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【 光輝の太陽進化 ~ Nuclear Evolution 】
第8話 光の覚醒


A.D. 2001 ~ 2002
それは、帰るべき居場所の物語。

目覚めろ、その魂



 幻想郷の地の底には、地上とは異なる一つの世界が広がっている。

 それは、すべての妖怪を受け入れるはずの幻想郷においてなお、嫌われ、(さげす)まれ、拒絶された者たちが集う場所。かつては文字通り、罪人の魂がその身を焼く地獄であったこの場所は、今や嫌われ者たちの楽園――『地底世界』と呼ばれていた。

 どこまでも広い地獄のコスト削減に際し、切り捨てられた『旧地獄』。そこに地上の妖怪たちが移り住み、独自の社会を成り立たせているのが、この地底世界の正体である。

 

 旧地獄の中心には、嫌われ者の妖怪たちの中でもことさら嫌われ者の妖怪がいた。近くにいる者の心を読み、何も喋らずともすべてを見透かされ、一方的な会話しかすることができない読心の妖怪。古来より『(さとり)』と恐れられた少女は、同じ地底の妖怪たちからも避けられていた。

 心を読まれても怯まぬ存在は、言葉を持たぬ動物たちだけ。気づけば彼女の周りには地底の動物たちしか残っていなかった。

 薄暗い地の底にぼんやりと光る孤独な居城。東洋の妖怪が住まう幻想郷の地獄には似つかわしくない西洋風の屋敷、『地霊殿(ちれいでん)』だけが、彼女にとってたった一つの『居場所』であるのだ。

 

◆     ◆     ◆

 

 立ち昇る業火は、ここが地底であることを忘れさせるほど高い天井の岩肌を焼きつけるかの如く激しく燃え盛っている。

 ここがまだ現役の地獄であった頃から罪人の魂を燃やしてきた灼熱地獄は、今は地獄のスリム化に伴って破棄され、『灼熱地獄跡(しゃくねつじごくあと)』としてなお地霊殿の直下で未だ火を(おこ)していた。

 

 火に触れても焼け落ちることのない地獄の木材で組まれた猫車(ねこぐるま)。これを操る者は葬儀の場より死体を奪い去る猫の化生、『火車(かしゃ)』と呼ばれる妖怪である。

 地上世界から持ち去ってきた新鮮な死体を炎の中に投げ入れ、灼熱地獄跡の火力を調整するのが彼女の仕事だった。

 暗い旧地獄の中で光る業火の如き赤髪を二つに結び、束ねた三つ編みの結び目と両の先端は黒いリボンでまとめられている。頭頂部には鋭く立った黒猫の耳が伸び、この少女が人ならざる身であることを如実に表すかのようだ。

 いくつものフリルがあしらわれた漆黒の洋服には万華鏡めいた緑色の模様が描かれている。腰の付け根から生える二本の尻尾はやはり黒猫の毛並みを持ち、陽炎(かげろう)の如く揺らめいていた。

 

「よいしょ……っと! ふう、今日はこんなところかな」

 

 地底の動物が妖怪化した『妖獣』の一種にして、地霊殿の(あるじ)に飼われているペットの一匹である少女、 火焔猫 燐(かえんびょう りん) が額の汗を拭う。彼女は仰々しく長い自身の名前を好まず、常に下の名を愛称として『お(りん)』と呼ばせている。

 たった今、今日の分の死体(ねんりょう)を全て投げ入れ終わったばかり。今朝までは火力が少し弱まっていた灼熱地獄跡の炎も今ではその激しさを取り戻している。このまま順調に死体が燃えていけば、この直上に建てられた屋敷、地霊殿にも十分なエネルギーが行き渡るだろう。

 

 少女の赤い瞳は、旧地獄の炎を映してより赤く鮮烈に輝いている。細く鋭い猫の瞳孔が、過度な光を吸収しすぎないようにさらに細く収縮していた。

 何人分もの死体を投げ入れたお燐は満足げに炎を見つめて小さく微笑む。死体の回収とそれを投げ入れるための旧地獄の炎は彼女が何より好きなものである。火車として妖怪の身に至った彼女は、その役割を、自分の存在しているこの居場所を。ただ、何よりも大切にしていた。

 

「さて、さとり様に報告を……おや?」

 

 妖気によって具現化した愛用の猫車を消し去り、お燐は灼熱地獄跡直上の地霊殿に戻ろうとする。主への報告を行うため燃え盛る炎に背を向けて歩き出したが、視界の端に見覚えのないものを見つけて立ち止まった。

 それは、人間の――おそらくは成人男性であろう一つ(・・)の死体だった。今日の分の死体はすべて炎の中に投げ入れたつもりだったが、入れ忘れがあったのだろうか。

 お燐の持つ『死体を持ち去る程度の能力』をもって手に入れられた死体は皆、彼女の猫車に乗せられて旧地獄へと導かれる。しかし、いくら燃料扱いとはいえ、さすがに人間の死体を落とせば途中で気づくはず。

 少し疑問はあったが、お燐は深く考えず、暗い地面に横たわる『それ』を見た。

 

「あちゃー……あたいとしたことが、一つ忘れてたのかな」

 

 青年と呼べる男性の死体に近づいてお燐は一人言つ。すでに灼熱地獄跡の火力は十分だが、一人くらい誤差に等しい。このまま投げ入れ、炎の一部と(とむら)ってやろう。

 

 お燐はパチンと指を弾き、旧地獄に漂う怨霊たちを呼び寄せる。火車としての能力の他に、彼女は地底の怨霊を統率する能力も持ち合わせている。旧地獄に残されてしまった浮かばれぬ怨霊たちならば、快くお燐に従ってくれるだろう。

 青紫色に燃え上がる人魂(ひとだま)めいた怨霊たちはゆっくりと青年の周りを回ると、青年はその身を宙に浮かび上がらせた。このまま灼熱の火炉まで運んでくれれば、お燐の仕事は完了だ。

 

「それじゃ、お兄さん。かわいそうだけど、来世で元気にやっとくれよ」

 

 死体の処理を怨霊に任せ、お燐は灼熱地獄跡を後にする。二本の黒い尻尾を揺らし、光差す地霊殿への道へと歩を進めようとした。

 その瞬間、背後で聞こえる鈍い音。ドサッ、といったような、重い何かが落ちる音だ。

 

「う……ううっ……うーん……」

 

 振り返ると、青年の死体――だったはずのものが、唸り声を上げながら苦痛に顔を歪めているではないか。青年を運んでいた怨霊たちは驚き、ついさっきまで死体だと思っていたそれを再び地面に落としてしまったらしい。

 灼熱地獄跡の炎の近くに連れてこられ、その熱に耐えかねたのだろう。額にはじっとりと汗が滲んでおり、苦しそうにただ悶えている。怨霊たちも、ただ困惑しているばかりだった。

 

「お、お兄さん? もしかして……生きてる?」

 

 その様子に、お燐はかなり驚いた。妖怪として人の姿を得て以来、長らくこの仕事を続けているが、まさか生きた人間を連れてきてしまうとは。やってしまった、などと考える間もなく、お燐は慌てて青年に駆け寄る。

 青年の身体は、暖かかった。旧地獄の炎に(あぶ)られた死体の熱ではない。紛れもなく、生きた人間の命の鼓動。流れる血の熱が感じられる。それは、生者しか持ち得ぬ命の灯火(ともしび)だ。

 

「えーっと……大丈夫かい?」

 

 よく見れば、その青年はお燐が持ち込んだ死体の一つではなかった。

 お燐はこの仕事に誇りを持ち、趣味としても死体を愛している。地上で手に入れてきた死体の顔は一人一人覚えているため、その一つであれば顔や服装を見てすぐにどこで見つけてきたものか思い出せるはずだ。

 しかし、お燐はその青年に見覚えがなかった。服装から察するに、おそらくは哀れにも幻想郷に迷い込んでしまった外来人だろう。それだけならば、地上において運悪く妖怪の餌食となり、死体となってしまう者も少なくない。お燐も最初はそのうちの一つだと思っていた。

 

 自分が持ち去ってきた死体の中に、この青年は存在しない。ならばいったいどうやって、この灼熱地獄跡に――生きたまま存在しているのだろうか。

 死体が息を吹き返したわけでもない。当然、生きた人間がこの旧地獄に、灼熱地獄跡に最初から存在するはずもない。考えられるとしたら、自分以外の誰かがここに連れてきた可能性をおいて他にはなかった。

 お燐に従う怨霊たちは地上には出られない。地上と旧地獄の間には、妖怪の賢者によって相互不可侵の条約が結ばれている。旧地獄の怨霊を決して地上に出さないという約束で、地底の妖怪たちは地上からの干渉を受けることなく平和な暮らしを謳歌(おうか)できているはずだ。

 

 お燐は一度だけ、大切な親友を助けるためにその条約を破ったことがある。地底の怨霊を地上に溢れさせれば地上の妖怪は必ず気づくと踏み、強大すぎる力を手に入れて増長してしまった親友の暴走を止めるべく、地上の妖怪に助けを乞おうとしたのだ。

 結果、地上から現れたのは妖怪ではなく異変解決を生業とする博麗の巫女だったが、彼女の活躍により友の暴走は止められたため、お燐の目論みは成功したと言える。

 以降の地上には怨霊と同時に吹き出してしまった間欠泉による温泉が増え、幻想郷の商売を潤わせた。この出来事は、後に『間欠泉異変』と呼ばれ、人々の記憶に残っているのだった。

 

「……ど……ます……」

 

「何? 何が言いたいんだい?」

 

 意識を取り戻した青年が、弱々しくも口を開く。未だ激しく燃え上がる旧地獄の炎は、今にも青年の服に燃え移ってしまいそうだ。お燐は慌てて青年の身体を掴み、炎のない壁際の場所まで引っ張ってやろうとする。

 やや長めに切り揃えられた茶髪の隙間から覗く青年の瞳は、おもむろにお燐の顔を見上げた。

 

「……火傷(やけど)、しちゃいますよ……」

 

 お燐は、青年が放ったその言葉の意味を一瞬では理解できなかった。

 倒れている青年から見れば、お燐は炎の傍に立って青年を助けようとしているように見えたのだろう。だが、お燐は炎と共に在るべき地獄の獣であるし、灼熱の環境においても熱によるダメージはほとんどなく、むしろ炎を操る側の妖怪だ。

 お燐は、こんな状況においてなお自分より人の身を心配している青年の意図に気づき、どこか呆れたような表情を見せていた。

 捻くれ者が多い幻想郷の中でも、特に避けられ嫌われた妖怪たちが集う旧地獄。その中心たる地霊殿直下において、ここまで素直で人を思いやれる存在と出会えたのは奇跡と言っていい。お燐はあまりにも貴重なこの男を、なるべく死なせないように気をつけようと強く心に誓った。

 

◆     ◆     ◆

 

 青年の手に握られた水筒は妖気に包まれているのか、この灼熱の環境においても冷たさを失っていない。

 不運にも灼熱地獄跡という文字通り地獄の環境に迷い込んでしまった生者の青年は、ところどころ焦げてしまったフリース素材のジャケットをそのままに、灼熱地獄跡の入り口近くの壁際に座っている。炎の近くから助け出され、お燐の持っていた水筒の水を分けてもらったことで少しは楽になったらしい。

 さっきまで死にかけていたというのに、朗らかな笑顔は太陽の如く地獄の闇を照らし出すかのようだ。無垢なる笑顔の輝きは、灼熱地獄跡の炎に勝るとも劣らない。

 素直さの際立つ青年―― 津上 翔一(つがみ しょういち) は、助けてくれたお燐と向き合い、爽やかな表情で正座している。

 この環境に慣れているお燐は気づいていないが、荒れた岩肌が突き出す旧地獄の釜底において丁寧に正座をしているその姿は、礼儀正しさよりもどこかズレたような印象を感じさせた。

 

「いやー、ありがとう! 君が助けてくれなかったら、完璧に死んでたね。きっと!」

 

「あはは! お兄さんも豪胆だねぇ! その性格、気に入ったよ!」

 

 翔一とお燐は灼熱の火炉から少し離れ、冷え固まった岩の壁際で談笑している。

 幻想郷に迷い込んだ外来人は皆不安そうな顔をしているが、こうやって楽しそうに笑う者も少なくない。

 それらは大きく分けて二種類あり、自分の置かれている状況を深く考えられないだけのただの能天気か、もしくは相当な大物かのどちらかだ。

 お燐はこの男を後者だと考えていた。自分が死にかけている状況で他者を心配し、かつそれを笑いものにできる者は、人間の中では、特に外の世界においては限りなく少ないだろう。

 

「あ、そうだ。君、俺のバイク知らないかな? さっきまで乗ってたはずなんだけど……」

 

 不意に何かを思い出したように、翔一はライディンググローブを着けた両手を打つ。唇を尖らせながら、不可解そうな表情を隠すことなくお燐に問うた。

 見渡す限りの痩せこけた岩肌。猛り燃え上がる灼炎は天盤(そら)にも届く。翔一はその光景を、地獄のようだと思った。吹き出す汗はどこまでも止まらない。さっき水を飲んだばかりだというのに、喉の渇きは早くも次の水分を欲しがっている。

 こんな場所に来る少し前までは、彼も確かに、彼の世界で生きる人間であったのだ。

 

 最後の記憶は、自身が経営する小さなレストランを出てからしばらく後。翔一は未熟ながらオーナーとして、一人のシェフとしてそれなりの腕前を自負しており、彼の店も多くの人から高い評判を受けていた。

 自家製の無農薬野菜を使い、極めた料理の腕でもってお客さんに提供する。それが料理人である津上翔一としての『居場所』であるはずだった。

 愛用のバイクを走らせていたのは、かつて記憶を失って倒れていた際、居候として大変世話になったとある家族の住宅へ顔を出すため。

 店を閉じ、看板を『CLOSE』に切り替えてバイクに跨ると、翔一はもはや自らの家族も同然な彼らの顔を思い出しながら、あるいは手塩にかけて育てた自慢の家庭菜園がまだ残っているかどうかを考えながら、ヘルメットの下で顔を綻ばせ、ハンドルを握りしめた。

 

 そこまでは、憶えている。だが、自分が今いる場所は個人経営の小さなレストランでもなければ一般家庭の住宅でもない。目の前に広がる灼熱の光景は、さっきまで自分がバイクで走っていた公道ですらなかった。

 目が覚めて、気づけば自分の周囲が炎に覆われていたときは、まさか途中で事故でも起こしてバイクが爆発してしまったのかと思い、天然ボケ気味の翔一といえどさすがに不安にならざるを得なかった。

 どうやらそうではないらしいと分かったのは、自分の身体に怪我の一つもなかったからだ。

 

「どこ行っちゃったんだろ……俺のバイク……」

 

「……さっきから『ばいく』って、何のことだい?」

 

 お燐は聞き慣れない単語に首を傾げる。それも当然、幻想郷には外の世界からの漂流物や幻想的な具現物(オカルト)を除き、バイクなる乗り物は実用化されていない。

 彼の世界では当たり前に存在するバイクを知らないというお燐に対し、翔一は目を丸めた。

 

「珍しいなぁ。今どきバイクを知らないだなんて。もしかして、相当田舎の人とか?」

 

「む……悪かったね。田舎者で!」

 

 翔一の遠慮のない言葉に、お燐は若干ムッとした気持ちを覚えた。

 この青年は柔和な笑顔を浮かべ、自分より他人(ひと)の身を心配できる優しさはあるらしいが、どこか無神経なところもあるようだ。彼の言葉に一切の悪意がないのは、子供のように笑うその顔を見れば分かる。

 変わらず無邪気な笑顔を見せた翔一は、どうやら自分が嫌味とも言える発言をしたことに気づいてすらいないらしい。

 先ほどまでは相当な大物かもしれないと思っていたお燐だったが、彼女は早くもその考えを改めていた。旧地獄に迷い込んだこの青年は、おそらく――ただ能天気なだけだ。

 

「お兄さん、探し物してるところ悪いんだけど、今はとりあえず安全なところまで――」

 

 長い間ここにいても人間である翔一は体力を消耗し、衰弱していくだけだ。お燐は人間の死体こそ好きだが、自ら人間を殺したり、見殺しにすることは好まない。

 死体になってくれる分には大歓迎なのだが、お燐はこの男を死なせたくないと思ったばかり。旧地獄は危険が多いため、比較的安全な場所である地霊殿まで案内してやろうとした。

 

「あっ! 俺のバイク!」

 

 すると突然、灼熱地獄跡を見回していた翔一が声を張り上げる。釣られてお燐も翔一の視線の先を見ると、地獄の岩肌にどっしりと横たわる等身大ほどの銀色の影が見えた。その場へ向かう翔一についていき、炎の光を受けて輝く銀色の近くまで来る。

 銀色の正体は外の世界の乗り物――特にその中でも大型自動二輪車に分類される『バイク』の一種だった。

 フルカウルに覆われた前面とオンロードタイプのタイヤは荒れた岩肌を滑ってしまったのか、ところどころ傷ついてしまっている。

 自分のバイクにこれだけの傷がついてしまったことに対して翔一は一瞬ショックを受けたような顔をしたが、ある程度バイクの様子を確かめた後、すぐにさっきまでの笑顔に戻った。

 

「よかった。タンクは無事みたい。気をつけないと引火しちゃうからね」

 

 どうやら問題なく動かせるらしいことを知ると、翔一は自分のバイクのハンドルグリップを掴み、ゆっくりと立て直す。

 近くに落ちていたヘルメットも拾い上げ、小脇に抱えてバイクのエンジンを切ろうとした。

 

 ――その瞬間、翔一の知覚が一つの『変化』を感じ取る。

 

「…………!」

 

 脳髄に走る鋭い光。翔一の笑顔を一瞬にして奪い去る、()まわしき感覚。

 

 翔一はバイクのハンドルを握り、その傍に立ったまま指を震えさせた。

 彼にとって、この感覚には確かな覚えがある。一度は自分に関するほとんどの記憶を失った翔一でさえ、この感覚までは忘れることができなかったほど。

 身体に染みついたもう一つの記憶。遺伝子に刻み込まれた光の因子。翔一の記憶は眠ったままでも、その感覚は、あるべき光の姿を否が応にも翔一の身体に目覚めさせようとする。

 

「この感じは……」

 

 もう、終わったはずだ。翔一は長い戦いの末に、自らの居場所と愛する者たちの居場所を守り抜いたはずだった。

 頭を貫く光を振り払おうとする。しかし、どれだけ拒んでも光は翔一の身体を突き動かす。

 

 逆らうことができない。翔一の肉体に、その魂に、深く刻まれた光の記憶に。

 

「……どうかした? 何か様子が変だけど……」

 

 先ほどとは明らかに様子の違う翔一を心配し、お燐が声をかける。翔一の額にじっとりと浮かんだ汗は、灼熱地獄跡の暑さから来るものではない。逃れたくても逃れられない、光ある宿命への苦悩。闇の中にあるしかない戦士の苦悩だ。

 翔一は手にしたヘルメットを素早く被り、バイクに跨る。炎に照らされてもなお暗く感じられる灼熱地獄跡は、翔一が乗るバイクのヘッドライトから伸びる光をより明確に、はっきりと映し出している。それはさながら、翔一を導かんとするが如き『光の力』の縮図でもあるようだ。

 

「ごめん! 俺、行かなくちゃ!」

 

 ヘルメットのバイザーを下ろし、それだけ言うと、翔一はバイクのハンドルグリップを握りしめて走り出す。力強く回転するタイヤが地面を削り、バイクは勢いよく灼熱地獄跡を飛び出した。

 

「ちょ、ちょっと! お兄さん! そっちは危ないってば!」

 

 お燐は未知の乗り物がいきなり唸り出したのにも驚いたが、翔一を乗せたバイクが向いた方向に肝を冷やす思いを抱いていた。

 彼が向かおうとしているのは地上でも地霊殿でもない。かつて強大すぎる力を手にしてしまい、その力に飲まれて暴走した結果、地上から現れた博麗の巫女によって調伏されたお燐の親友が働く場所だ。

 親友の仕事は、ここと繋がる場所に設けられたとある研究施設の管理。不用意に踏み入れば外来人とて容赦なく侵入者と見なされ、親友の手によって始末されてしまうのは明白だ。

 

 お燐は咄嗟に妖怪として人の身に至る以前の姿――すなわち地底の動物として長く生きてきた黒猫の姿に戻る。腹部の赤い毛並みが目立つ双尾の黒猫は、お燐が持つもう一つの身体にして、彼女の生来の姿である。

 バイクが動き出す直前、お燐はなんとかその後部にしがみつくことができた。身軽な猫の姿でなければ、すぐに振り落されてしまっていたことだろう。

 そんなお燐の姿に気づかず、翔一は真っ直ぐに銀色のバイクを走らせる。灼熱地獄跡を抜け、暗く狭い通路を真っ直ぐに駆けていく。

 たとえ一寸先も見えぬ闇の(みち)だとしても、未来への光(ヘッドライト)はその道を照らし指し示した。

 

◆     ◆     ◆

 

 旧地獄の中心に燃える灼熱地獄跡から、やや離れた位置。ここには、幻想郷らしからぬ近代的なエネルギー機関を備えたとある施設が存在している。

 妖怪の力を借りているとはいえ、未だ文明レベルの低い幻想郷に産業革命を起こすべく、地上の神が地獄の妖怪に与えた力、太陽の力である『核融合』。高い技術力を持つ外の世界の文明においてなお完全な実用化には至っていない核融合反応炉の研究と実験のため、地底と地上を繋ぐほどの深い縦穴として建設されたのが、この『間欠泉地下センター』と呼ばれる施設だ。

 

 この施設の管理、および侵入者の排除を任せられた妖怪の少女、地獄鴉(じごくがらす)である 霊烏路 空(れいうじ うつほ) は、旧地獄が現役の地獄であった頃からの長い付き合いを持つ親友のお燐と同様、共に妖怪でありながら地霊殿のペットとして飼われている動物の一匹だ。

 彼女はお燐から愛称として『お(くう)』と呼ばれるのを気に入り、他の人にもそう呼んでもらうことを好んでいる。

 生まれ持った(からす)の姿から人間の姿に至ったお空は、長い黒髪を緑色の大きなリボンでまとめており、白いブラウスに短い緑色のスカートを穿()いている。生来の鴉の妖怪として背中から突き出した巨大な黒い翼には、裏生地に広大な宇宙を描いた白いマントが覆い被せられていた。

 

 お空の胸には深紅に輝く巨大な眼が埋め込まれている。彼女の胸部全体を覆わんばかりに大きく開かれたそれは、太陽の化身とされる『八咫烏(やたがらす)』と呼ばれる神の眼だ。

 お空は地上の神に(そそのか)され、神の火である『核融合を操る程度の能力』を得て以来、姿が大きく変わってしまった。

 胸に輝く八咫烏の赤い眼も含め、その姿は普通の妖怪とは一線を画している。

 

 分解を司る左足を中心に回っているのは、電子のような小さな光。融合を司る右足は()けて冷え固まった鉄の塊で覆われたように重厚な外観をしており、それはさながら『象の足』にも似た様相を(てい)している。

 さらに右腕に装備された六角柱は核融合を操るための『制御棒』としての役割を持ち、それそのものが八咫烏を彷彿(ほうふつ)とさせる第三の足のようでもあった。

 間欠泉異変が起きていた頃においては強大すぎる八咫烏の力に増長して暴走してしまったが、今はしっかり反省してその力をコントロールすることができている。完全に使いこなせているとは言えないものの、今のお空には地上世界を焦土に変えてやろうなどという野望は毛頭ない。

 

「…………」

 

 陽炎揺らめく間欠泉地下センターの最深部。核融合発電所の中心で、今、お空が相対しているのは、見たこともない一体の怪物だ。

 妖怪と呼ぶには物質的で、妖獣と呼ぶには理性的。否、どちらかと言えば神に近い存在であるようにも見える、不思議な気配を放つ異形の何か。お空の目には、それは人間のように二本の足で立つ(ヒョウ)のように見えた。

 怪物はネコ科の動物特有の鋭い瞳孔を持ち、宝石の如き眼でお空の姿を睨んでいる。溢れる神性は高い知性を感じさせるが、怪物は未だ一度も言葉を発さない。

 黄色い毛並みにところどころ混ざる茶色い斑点模様はお空の見立て通り、この怪物がヒョウやジャガーなどの肉食哺乳類に通ずる存在である証。されど、首に巻く赤いマフラーと背中に残る小さな翼、古代神話の様式めいた格調高い装飾を纏ったその姿は、動物の範疇を超えている。

 

「……あなた、旧地獄の動物じゃないね。もしかして、地上から来た妖怪?」

 

 ヒョウの怪物が何を考えているのか、意思の疎通は可能なのか、お空にはまったく判らなかったが、彼女にとってそんなことは関係ない。この怪物が如何なる存在であれ、間欠泉地下センターに許可なく踏み入ったことは事実。

 ならば、核融合を操る力を持ってこの施設の管理を任された身、主に言いつけられた通り、この存在を、炉心の障害となる異物を排除するのみだとして、お空は戦闘体勢に入った。

 

「どっちにしても侵入者なら、容赦なく叩き潰すよ!」

 

 お空は左手にエネルギーを溜め、手の平に輝く核熱の光球を生成する。ふわりとそれを振りかざし、横一文字に腕を振るってヒョウの怪物に無数の光弾を撃ち放った。

 普段ならそれは弾幕ごっこに用いられる程度の弱い力だが、妖怪としての知覚が直感的に判断したのか、お空は無意識のうちに、未知の怪物に対して本気の攻撃を仕掛けていたようだ。

 

 光弾は容赦なく突き進み、怪物の身体に当たって炸裂する――はずだった。

 

「えっ……?」

 

 お空は手加減などするつもりもなく、ただ怪物を排除しようと弾幕を解き放った。しかし、光弾はヒョウの怪物の目の前で静止したかと思うと、力なく消え去ってしまう。お空の攻撃は、怪物の身体まで届いてすらいない(・・・・・・・・)ようだ。

 難しいことを考えるのは苦手なお空ではあるが、慣れ親しんだ弾幕の射程を見誤るわけがない。お空の光弾は、確実に命中する距離にあったはずだ。それなのに、怪物は何かした様子を見せることもなく、お空の攻撃を避けることすらせず無力化した。

 お空にとって、(たま)が当たらないということはよくあったが、弾が届かないという経験は初めてのことだった。

 戸惑うお空を見て何を思ったのか、ヒョウの怪物は自身の胸の前にその右手を持ってくる。お空に手の甲を見せ、そこに左手の指をもって何らかの紋章(サイン)を切るような動きを見せつけた。

 

「…………」

 

 ただ一息、ヒョウに似た姿を持つ超越生命体、『ジャガーロード パンテラス・ルテウス』は(しゅ)への敬意を示す。そこに言葉はいらない。不完全で曖昧なヒトの持つ言語など、必要ない。

 

「……だったら、今度はもっと火力を上げて!」

 

 お空は左手を空高く掲げ、手の甲を正面に向けて親指と人差し指を立てる。八咫烏の力で起こす核融合反応は、地獄鴉であるお空の妖力を高温高圧に圧縮し、その頭上に膨大なエネルギーの塊を生成した。

 輝く核熱の光球はすでにサッカーボールほどの大きさを優に超えている。お空の頭上に掲げられた光球はさながら小さな太陽の如く、間欠泉地下センターの最深部を照らしていた。

 

「黒き太陽、八咫烏様! 私に力をお貸しください!」

 

 内なる神に、太陽の分霊に願い立てる。最後に渾身の力を込め、左腕を大きく振り払うと、お空と八咫烏の力は無数の光線となって降り注いだ。

 一つ一つが高エネルギーの塊である光線状の弾幕が次々にヒョウの怪物、パンテラス・ルテウスを目掛けて解き放たれるが、怪物はそれを避けようとはせず、ただそこに立っているだけ。

 

 標的はまったく動いていない。それなのに、お空の放った弾幕は怪物に対し、掠りもしなかった。直線にしか動くはずのない光線は、怪物の近くに来る度に捻じ曲げられ、間欠泉地下センターの地面に矛先を変えられてしまう。まるで弾幕の方が怪物を避けているかのようだ。

 

「…………」

 

「な、なんで……!?」

 

 パンテラス・ルテウスの無言の威圧感に、さっきまでは何も感じていなかったお空も恐怖の感情を抱き始めている。妖怪でもなければ神でもない、まさに正体不明(・・・・)の怪物を前にして、お空は数歩後ずさった。

 恐怖を自覚するより前に、瞬く間に距離を詰められてしまう。次の攻撃を迷っている暇もなく、気がつけばパンテラス・ルテウスはお空の目の前まで接近していた。この距離では、自慢の弾幕もあまり有効ではない。

 間欠泉地下センターの壁際まで追い詰められたお空は自身の黒い翼が熱された鉄板の如き壁に触れる感覚に気がつき、後退の道が断たれたことを知る。咄嗟に制御棒を振りかざすが、怪物は持ち上げた左腕で容易くそれを受け止めた。

 目の前の怪物、パンテラス・ルテウスはしなやかな筋肉に満ちた己が右腕をお空の身体にかざす。直接触れられているわけではないのに、お空は首に見えない力が加わるのを感じた。

 

「ぐっ……!?」

 

 見えざる力によって呼吸を制限される苦しみの中、お空の視界に映るパンテラス・ルテウスの頭上に青白い光が浮かび上がる。

 それは薄い円盤の形を象っていたが、神々しく儀式的なその光は、さながら古代の神話や聖書などに登場する『天使』の光輪のようだった。

 直後、お空は自身の翼が燃え上がるような激痛を感じ、顔を歪める。振り返って翼を見ると、間欠泉地下センターの壁に自身の翼が()けていくではないか。お空は目を疑ったが、背中から伝わるこの痛みは疑いようもない。

 このまま力を加えられ続ければ、お空の身体は壁と一体化し、やがて朽ち果てるのを待つだけとなる。お空は感覚的にそれを予見し、そこでようやく恐怖の感情を自覚した。

 

「負ける……もんか……!」

 

 苦痛に歪む意識を堪え、渾身の妖力を右腕に注ぐ。地獄鴉として生まれ持つ自身の力と、神に与えられた八咫烏の力。二つを一つに混ぜ合わせ、制御棒の先端に輝く光の玉と成す。

 核熱のエネルギーに満ちた制御棒を怪物の胸に突き立て、壁に埋まりかけた自身の身体を砲台とし、接射の状態で力を解き放った。

 お空を中心に凄まじい爆発が起きる。それはパンテラス・ルテウスをも巻き込み、辺り一帯を白光に染め上げるほど。生じた轟音と爆風は、間欠泉地下センターの一部を打ち砕いた。

 

 砲撃の直撃を受けたはずのパンテラス・ルテウスは大したダメージを負っていないらしい。何らかの超常的な力に守られているのか、損傷と言える損傷は怪物が首に巻く赤いマフラーに多少の焦げ跡がついた程度だ。

 装飾に誇りを持つ怪物は、煙に包まれたお空に苛立ちを向ける。もはや命はないだろうと判断した様子で、怪物は張り詰めた力を抜いてトドメを刺そうと歩み寄っていく。

 

 黒煙を突き破り、現れたのは光熱のエネルギー弾だった。お空が続けて放った光弾は怪物の胸に命中し、再び大きく爆発を起こした。

 仰け反るように吹き飛ばされたパンテラス・ルテウスは胸に傷と焦げ跡を負い、晴れ広がる黒煙の中心に、五体満足で立っているお空を強く睨みつける。怪物の身体にはお空の放った光弾によるダメージがあるものの、あまりに微弱すぎるそれは深手を与えたとはとても言いがたい。

 

()ったた……もう少し抑えてもよかったかな」

 

 爆発により、砕けた壁から脱出できたお空が服の(すす)を払って立ち上がる。

 下手をすれば自身にも致命傷となり得る規模の爆発だったが、発射の瞬間に八咫烏の力が高密度の磁気シールドを形成してお空を守ってくれていたようだ。

 パンテラス・ルテウスに放った攻撃はすべて何らかの力によって受け流されていた。お空はそれに気づき、力の流れを利用することで壁を破壊、その拘束から脱出できたのだ。

 

 咄嗟に放った光弾は怪物に命中した。ならば、まったく攻撃が通用しないというわけではないはず。お空はなぜ攻撃が届いたのかを気にする様子もなく、自分の攻撃が怪物に当たったということに喜びを見出し、小さく笑う。

 エネルギー弾で怪物を吹き飛ばした際にそれなりの距離を稼ぐことができたため、今ならば弾幕のポテンシャルを十分に発揮できるだろう。

 怪物は飛び道具を持たないのか、お空の生存を確認すると、再び距離を詰めようとする。

 

「…………」

 

 ――しかし。怪物はお空を前にしている状況において、どこか別の場所に注意を向けているようだった。

 パンテラス・ルテウスの視線の先は、間欠泉地下センターに設けられた横穴の通路。お空が破壊した壁のすぐ近くである。

 お空はその行動を訝しんだが、すぐにその意味を理解した。豪々(ごうごう)と駆動する核融合炉の音に混ざって、別の駆動音が聞こえてくるのだ。唸るような機械のエンジン音は灼熱地獄跡へと通ずる通路の闇の中を突き抜け、この場所まで届いてきた。

 その音の正体を確かめるべく、お空も怪物と同じように横穴の通路に意識を向ける。

 

 深く暗い通路から姿を現したのは、銀色のボディを持つ大型のバイクだった。それは急ブレーキによって間欠泉地下センターの地面に摩擦を起こし、炎を上げんばかりの摩擦を帯びたタイヤでもって車体を急停止させる。

 停止したバイクから飛び出す小さな黒い影。影は放物線を描き、ゆっくりと宙を舞った。

 

「にゃうい!?」

 

 バイクが急停止したことで、慣性の法則に従って吹っ飛ばされた小さな黒猫――猫の姿になっていたお燐は素っ頓狂(すっとんきょう)な鳴き声を上げ、四肢を振り乱した。咄嗟に地面に足を向け、肉球に彩られた四足で着地する。猫の姿でなければ感覚が掴めず、背中を打ちつけていたかもしれない。

 

「また侵入者!? ……って、お燐? 何やってるの?」

 

「お空こそ! さっきの爆発は……っていうか、何その怪物!?」

 

 通路から現れた新たなる来訪者に対し、お空は一瞬警戒するが、慣れ親しんだ妖気と声は警戒心を緩ませた。お空の親友であるお燐は猫の姿から再び人間の姿に戻り、服の一部を焦がしたお空を心配して駆け寄る。

 パンテラス・ルテウスは一瞬だけお空とお燐を見るが、攻撃の対象はすぐに別の存在へと向けられる。その対象は無論、バイクに乗ってこの場に姿を現した人間、津上翔一だ。

 

「アンノウン……!」

 

 光の導きに従い、間欠泉地下センターに足を踏み入れた翔一が驚く。ヘルメットのバイザーを上げ、肉眼で『それ』を見た瞬間――無意識のうちにその名を漏らしていた。

 

 彼はこの怪物を──ジャガーロードに分類されるパンテラス・ルテウスの姿を知っている。そうでなくとも、この脳髄を(まばゆ)く染める感覚は疑いようもなく、己が魂に根付いた光の記憶がもたらすもの。相対するのは、これまで幾度となく戦ってきた怪物のうちの一体。

 人智を超え、自然の法則を超えたその存在は、過去に全滅したとされる『未確認生命体』を遥かに凌ぐほどの戦闘能力を持っていた。

 未確認を超える未確認。一切の情報もない正体不明の怪物。彼らと遭遇し、その存在を認識した警視庁は、それをただ正体不明の意味のまま『アンノウン』と呼称するしかなかった。

 

 バイクから降り、ヘルメットを外した翔一がお燐とお空の前に歩み出る。

 お空は突如として現れた銀色のバイクに、お燐は間欠泉地下センターに我が物顔で存在しているヒョウの怪物に目を奪われ、その場から動くことができない。

 揺らめく陽炎の熱に赤いマフラーをはためかせるパンテラス・ルテウスは翔一に向き直ると、彼の中にある光の力の存在を確信した。

 そして再び、お空にそれを見せたときと同じく、怪物は右手の甲に左手の指で紋章を切る。

 

「…………」

 

 ヒョウの姿をしたアンノウンはこの場において、翔一の存在を何より強く警戒している。怪物にとって、その内にある光はどんな物質よりも確かなものなのだろう。

 

 翔一は左手を左腰に添えると、そこへ右手を重ねるように突き入れる。すかさず右手を正面へ突き出し、間髪入れずに伸ばした右手を右胸の前まで引き戻しながら、翔一は頭の中に光の形を思い浮かべた。

 この身体に、この魂に。深く刻まれた光の記憶を。有史以前の遥けき過去より、大地と共に未来を歩むすべての人類が、どこまでも魂に宿し続ける――揺るぎなき輝きを。

 

 その意思に応えるように、翔一の身体に変化が起こる。腰の中心に黄金の光が渦巻き、黒く神秘的な留め金(バックル)を形成する。同時に力強く腰を一周する赤い帯は、まさしく光輝のベルト(・・・)として身に着けられていた。

 身体に秘めた光の粒子が具現化して現れた『オルタリング』と呼ばれるベルト。バックルの中心には黄金の輝きを持つ『賢者の石』が埋め込まれており、その左右にはそれぞれ風と火の力を宿した竜珠(りゅうじゅ)『ドラゴンズアイ』が組み込まれている。

 もはや翔一の本能は、このベルトがもたらす光の意思に導かれるかの如く、超然とした無我の境地に至っていた。ただ内なる声が呼びつけるままに、身体に馴染んだ構えを取るだけだ。

 

「はぁぁぁああ……っ」

 

 広げた手の平を閉じぬまま、手刀の如く鋭く立てた右手を右肩と共にゆっくりと正面に伸ばしながら深く息を吐く。芽生えた光を育てるように、限りない進化を促していく。

 大地そのものの脈動を思わせるオルタリングの鼓動。魂を響かせる心音はより大きく、翔一の身体に宿る光はより強く。

 息を吐き出し、脳髄を染める光に誓う。この身は人間であり、人間を超えるもの。願わくばもう一度、あの超常の存在に、アンノウンに対抗し得る『可能性』を、この身に(あらわ)すために。

 

「……変身っ!!」

 

 ただ一声。魂に秘める輝きを解き放たんと、叫び立てる。

 翔一は手刀と掲げた己の右手越しに睨みつけるパンテラス・ルテウスに、その輝きの真髄を証明するかの如く、声を張り上げた。

 伸ばした右手の手刀と左腰に添えた左手を自身の正面に突き出し、一瞬だけ交差させる。すぐさま両腕を腰の両端――腰に装うオルタリングのサイドバックルへと導き、それを叩いた。

 

 オルタリングから溢れる光をそのままに、翔一は怯むことなく悠然と歩を進める。向かう怪物、パンテラス・ルテウスも拳を握りしめ、豹の如き俊足をもってそれを振り抜くが、身を屈めた翔一はその一撃を容易く回避した。

 隙を見せた怪物に対し、翔一は屈んだままの状態で拳を低く構え、目の前にある豹の腹筋に拳を突き立てる。オルタリングによって強化された翔一の拳は、生身(・・)でもアンノウンにダメージを与えられるほどだ。

 加えて腹を押さえ後ずさるパンテラス・ルテウスに向かい、翔一は正面に真っ直ぐ蹴りを叩き込み、体重を乗せた一撃をもって怪物を吹き飛ばす。立ち上がった怪物は、どこまでも白く眩い光に包まれた翔一を見て、喉を鳴らした。

 琥珀色(こはくいろ)の瞳が憎悪に揺れる。そこに映るのは、パンテラス・ルテウスが(しゅ)(あが)める者の名を(けが)す、忌まわしき力。彼ら(アンノウン)にとって滅ぼすべきであり、人間(ヒト)が持つべきではない悪しき光。

 

ΑGITΩ(アギト)……!」

 

 パンテラス・ルテウスが怨嗟(えんさ)に満ちた声を上げる。光の中から現れたのは、黒曜石にも似た漆黒の強化皮膚を備えた超人(・・)だった。

 胸や腹には黄金に輝く神秘の鎧を纏い、その両肩には刃の如き白銀の装甲を装っている。同じく金と銀の装甲に彩られた膝と(すね)、手足の鎧や腰に着けられたオルタリングも含め、滲み溢れる光の波動は、その由来を知らぬお空とお燐でさえ神々しさを覚えるほど。

 頭部に掲げる黄金の双角。神の(ことわり)に喰らいつかんとする白銀の大顎。額には天地を見通す小さな青を輝かせ、両目となる複眼は人類が持ち得た原初の知恵、すなわち火を思わせるような赤に染まっている。

 それは津上翔一が持つもう一つの姿。同時に、彼の世界(・・・・)の人類が背負う未来の光であり、人間が持ち得る無限の可能性そのものとも言うべきもの。大地と共に歩むべき、大いなる光。

 

「…………」

 

 翔一が身に宿す『アギト』の力。金色(こんじき)の輝きを放つこの戦士は、遥かな神代(しんだい)の世において人類に与えられた『神』の力である。

 この力をもって翔一はアンノウンと戦い、やがて勝利した。有史以前から連綿と続く人と天使の争いに終止符を打ち、人類は限りない未来を約束されたはずだった。

 

 だが、目の前には倒したはずの(ヒョウ)のアンノウンが──ジャガーロード パンテラス・ルテウスが存在している。彼らは神に仕える正真正銘の『天使』であり、人類の中に芽生えたアギトの力を滅ぼそうとする者の使者として現れた。

 たとえこの身が人間でなくなったとしても、翔一の魂は人間としての誇りを捨てていない。天使が人類の可能性を否定するのなら、何度でも声を張り上げる。人の運命が神の手の中にあるなら、その力をもって奪い返す。己と人間の居場所のために。アギトとして、人間として。

 

 光と闇。人と天使の戦い。忘れ去られた幻想の果てで、終わりなき神話は再び紡がれる。




翔一くんのバイクってVTR1000F FIRE STORMっていうらしいですね。
トリニティフォームの必殺技のファイヤーストームアタックを思い出す名前だ。

次回、第9話『大地の記憶』


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第9話 大地の記憶

 灼熱の大気と核融合炉の駆動音に満たされた人工施設。間欠泉地下センターの最深部に、幻想郷には招かれざる二体の異形が存在している。

 一体は(ヒョウ)の姿をした怪物、ジャガーロード パンテラス・ルテウスと呼ばれるアンノウン。天使として神に創られたその怪物は、全身に神秘の装飾を纏っていた。

 特に赤いマフラーを留める左胸の羽根飾りと、渦巻く貝を思わせる独特の意匠が施されたベルト状の装飾品は、この獣が地底の動物でも地上の妖怪でもないことを示唆している。

 

 対して、向かう異形は光の戦士。黄金の鎧を纏うは、神に背いた天使によって与えられた人類の可能性。守るべき未来の居場所を導き照らす、『アギト』の姿である。

 それは神でも、天使として人類を統べる存在でもない。彼もまた、等しく神に創られた一人の人間として。地に足をつき、アギトである以前に人間として、同じ人間の未来を歩むのだ。

 

「…………」

 

 パンテラス・ルテウスはアギトを睨み、その姿を嫌悪している。彼が憎むのはアギトの力もそうだが、その器となる人間そのものだ。

 神は初めに光と闇を、そして宇宙を創り、星々を創り、分身である天使(マラーク)たちを模して地上に栄える動物たちを創った。やがて神は自らの姿を模して人類を創造し、神は自分の姿に似る人類を何よりも愛した。

 ――しかし。人類は傲慢(ごうまん)にも神の姿に似る自らを他の生物よりも格上だと増長し始め、天使の姿に似る動物たちを家畜と扱い、虐げていく。これに(いきどお)った天使たちが神に抗議の声を上げたにも関わらず、神はなお人類への愛を優先したのだ。

 神の寵愛(ちょうあい)を一身に受け、天使(アンノウン)たちにとって我が子に等しい動物たちを虐げる人類に対し、彼らは憎悪を募らせる。たとえ神の愛したものでも、アンノウンは人類を許せなかった。

 

 神代の当時、人類と天使の総数は共に二億。どちらも同じ数なれば、力で勝る天使にこそ勝敗の分はある。40年間に渡る戦争は、人類が圧倒的に不利だった。

 滅びゆく人類を(あわ)れんだのは神に最も近い七大天使のうちの一人。彼は地上に降りて人の女性と交わり、人が『ネフィリム』と呼ぶ異形の子を成す。この異形は荒れ狂い、敵対する天使の(ことごと)くを喰い尽くしていった。

 人類に争いの知恵をもたらした罪により、()の大天使は神の手によってその身を砕かれ、長く続いた争いは天使たちの勝利に終わる。だが神に背いた天使は今際の際、神の子である全人類へ自身の力を()き、遥か未来に遺志(アギト)を受け継がせた。

 多くの命が失われた争いを深く悲しんだ神は一度、地上の文明を回帰させるべく大洪水を起こして地上のすべてを洗い流した。その際、地上のすべての命を(つがい)として方舟(はこぶね)に乗せ、世界を初めからやり直したのだ。

 天使たちは憎き人類の根絶を願ったが、人類を愛す神はそれをしなかった。たとえそれが、やがて自分の愛したものではなくなる光――『アギトの力』を宿してしまっていたとしても。

 

「……え、え? 化け物が二体? どうなってるの?」

 

 神代から受け継がれた光。アギトの力を宿し、人を超えた姿と成り果てた翔一に相対するは敬虔(けいけん)なる神の使徒、アンノウンであるパンテラス・ルテウス。それらを見て、困惑の声を上げたのは八咫烏の力を持つ地獄鴉──お空こと霊烏路空だった。

 お空の隣で狼狽(うろた)える火車の少女、お燐こと火焔猫燐もまた、その状況を理解できていない。二本の黒い尻尾をぴんと伸ばし、その毛を逆立ててこの世ならざる超常の気配に震えている。

 

「どういうこと? お燐! あの金ピカの奴、さっきお燐と一緒にいたよね!?」

 

「あ、あたいにだってわかんないよ!!」

 

 光の戦士たるアギトも、ヒョウの姿をしたアンノウンも。どちらも幻想郷にあるべき存在ではない。お空にとってもお燐にとっても、それは異形と定義し得る。

 アギトの身体は今、大地の加護を受けた漆黒の強化皮膚と黄金の装甲に覆われている。これはアギトの姿の中で最も安定した力を誇る超越肉体の金、すなわち『グランドフォーム』と呼ばれる形態である。

 人類の祖先が一人の大天使より授かった力。それは火、知恵、あるいは文明と呼ばれるもの。大地と共にある人類が火の力を目覚めさせ、地の力として発現したのがアギトの基本形態、金色の鎧を持つこの姿だった。

 神は人類を愛していながら、彼らの成長を、その進化を望まなかった。人類に宿るアギトの力が覚醒し、自らが愛した人間の領域を超え、人間(ヒト)人間(ヒト)でなくなることを恐れた。

 

 幾星霜(いくせいそう)の時を超え、現代。長き眠りから目覚めた神は人間としての肉体を伴い、地上で人間たちを見守りながらアギトの覚醒を見た。

 神の使徒、人類が『アンノウン』と呼ぶ天使(マラーク)たちの使命は、アギトの根絶。人類を愛しながらもアギトを愛せなかった神に代わり、アギトに目覚める兆候のある人間を殺すために、アンノウンは地上に(つか)わされた。

 アギトに目覚めた人間の一人、津上翔一はアンノウンたちから人類の居場所を守るべく、アギトとなってアンノウンと戦い、やがて彼は長い戦いの末、神の現世での肉体を破壊する。その日を境に、人類が天使を見ることはなくなった。

 神への反逆。人類の親離れ。あの戦いからおよそ一年と数ヶ月。翔一は念願だったレストランを開き、慎ましくも平穏に暮らしていた――はずだった。

 翔一は見覚えのない灼熱の地獄に踏み込み、そこがどこかも分からぬうちに、気づけば再び光の力に導かれていた。向かう先に現れ、今、翔一と対峙しているのは紛れもなくかつて倒したはずのアンノウン。ジャガーロード パンテラス・ルテウスが、少女に牙を剥いていたのだ。

 

「どうして……また……」

 

 アギトとしての赤い複眼が怪物の姿を捉える。翔一は、やはりアンノウンの再来に対する疑問を振り払うことができない。

 大地を踏みしめ、悠然と構えを取るアギトを前に、パンテラス・ルテウスは間欠泉地下センターの地面を駆ける。振るう拳は(ヒョウ)の速度を伴い、アギトの身体へと振り抜かれた。

 

 今はアギトの姿となっている翔一は僅かに上体を逸らしてそれを避け、続けて振るわれた腕の一撃を受け止めると、くるりと(ひるがえ)って肘を打つ。

 敵に背を見せながらも、翔一は寸分の焦りも見せることはない。予想通り、背後を取って再び拳を振りかざしたパンテラス・ルテウスの攻撃を防ぎ、そのまま僅かな隙を突いてアギトの拳が怪物の顔面を捉えた。

 互いの間合いを保ちながら、二つの異形はゆっくりと位置を変えて好機を待つ。アギトはこの瞬間に至るまで一切の隙をも見せていない。ここで僅かに構えを解いたのも、あえて怪物の攻撃を誘うためだ。

 そのことにも気づかないまま、パンテラス・ルテウスはアギトの身体に覆いかぶさり、神に創られた万能の筋肉をもって翔一の息の根を止めようとする。

 その動きを見極め、アギトとなった翔一の黒い腕が怪物の身を掴んだ。超常的な筋肉を持つのはアンノウンだけではない。力の根源を同じとするアギトもまた、それに匹敵するほどの遥かな力を誇っている。

 大柄な体格を持つ怪物を容易く持ち上げると、翔一は突っ込んできた怪物の勢いを利用して正面に向けて強く投げ飛ばした。

 流れるようにしなやかで自然な動き。落ち着きすらも感じさせる一連の動作に、一切の無駄は存在しない。翔一はアギトと自身を一体とし、無我の境地とも言うべき(くう)の心で戦っている。戦士と表現するにはあまりに安らぎに満ちたその所作は、悟りを開いた賢者のようでもあった。

 

 パンテラス・ルテウスは苦痛を堪えるように立ち上がり、アギトを睨みつける。見た目こそ損傷を負っているようには見えないが、その身体には確かにダメージが入っているようだ。

 

「…………」

 

 一度、アギトの額に光る青き結晶『マスターズ・オーヴ』が小さく輝く。それに伴い、熱くなる肉体(からだ)(こころ)。翔一はその感覚に精神を委ね、ただ、本能に従う。

 流れ高まる光の力が昇華され、その全開を指し示す頭部の双角『クロスホーン』は三対の翼の如く、双角だったそれを六枚に開いた。それはさながら神話や伝承に登場する龍の角を思わせるような形に、後光の如く燦然(さんぜん)と光を湛えている。

 静かに息を吐き、広げた両脚で強く大地を踏みしめる。右手の平を天に、左手の平を地に向け、両腕を水平に開いていく。左手は腰に、右手は身体の正面に構え、ゆっくりと腰を下ろし、翔一は力を込めた。

 足元に広がる紋章は龍を模し、大地のエネルギーとなって渦巻きながらアギトの右脚に収束していく。右足は大地と共に。それを軸として、左足は半円を描いて後ろへと回す。

 

 溢れる光の力。神代より受け継がれる輝きを見て、パンテラス・ルテウスは翔一のもとへ走るが、アギトが右脚に込めるエネルギーはすでに臨界の光を放っている。抵抗など、もはや何の意味も成さない。

 地下深き核熱の旧地獄に輝く、頭部に掲げるクロスホーンの光。そのまま背負う龍の如き紋章を解き放ち、翔一は超常の筋肉に彩られたアギトの脚力をもってして高く飛び上がった。

 

「はぁっ!!」

 

 張り詰めた光を打ち破り、気合いを強く声に出す。翔一の身は、アギトの全身は。大地の加護を受けた光の矢となり、間欠泉地下センターの熱気を切り裂き、ヒョウのアンノウンに向けて一直線に蹴り放たれた。

 超越肉体の金(グランドフォーム)が誇る超常の蹴撃。天使の祝福がもたらした奇跡の身体から繰り出されるは、同じ天使の身さえ打ち砕く【 ライダーキック 】の一撃だ。

 突き進む右脚は闇の中に灯る火の如く、力強く(たくま)しい誇りに満ちている。足裏に光る紋章はアギト自身を示すものと同じ、六枚もの角を広げた龍の(あぎと)と呼ぶべきもの。

 

 人類の答え。研ぎ澄まされたアギトの右足は、パンテラス・ルテウスの胸に鋭く突き立てられた。怪物を蹴り飛ばし、その眼前に翻ったアギトは構えを崩さぬまま、手刀と伸ばした右腕が怪物と並行になるように着地する。

 ()けつく光と熱は確実な一撃を放った証として右足の底に残っている。頭部のクロスホーンが刃金(はがね)の如き金属音を奏でると共に、再びそれを元の双角へと閉じた。

 左腰に添える左手と正面に伸ばした右腕の構え。大地と共に人間(アギト)の時代を生きる者として、翔一はゆっくりと構えを解きながらアンノウンに向き直る。

 アギトの赤い複眼が宿すのは、その力をもたらした天使と同じ、滅びゆく者への憐憫(れんびん)か。それとも、人の未来を奪う神への怒りなのか。翔一の魂の在り方は、誰にも分からない。

 

「グゥ……ゥア……!!」

 

 胸を押さえ、激しく悶え苦しむパンテラス・ルテウスの呻き声が、地下深い旧地獄の間欠泉地下センターに木霊(こだま)する。

 頭上に浮かび上がる青白い光の円盤。彼らが超常の存在であることを示す光輪は、これまで何度も翔一が見届けた天使の死。アンノウンの命が散る際に、彼らが在るべき『本当の居場所』として開く、神の世界への道標(みちしるべ)である。

 パンテラス・ルテウスの肉体に打ち込まれた光は、内側からその身を滅ぼしていく。如何に天使といえど、肉体を失えば現世に留まることはできない。――肉体を失う、その瞬間までは。

 

「『人間(ヒト)は、人間(ヒト)のままでいればいい』……!!」

 

「なにっ……!?」

 

 アギトのライダーキックを受けながらも、パンテラス・ルテウスは口を開いた。それまでは獣のような唸り声しか上げていなかったはずのアンノウンだが、この瞬間、明確な意味を持つ人間の言葉を発したのだ。

 アンノウンの予期せぬ言動に驚き、翔一は不意に全身に力を込めてしまう。硬直した筋肉は咄嗟の行動を許してくれず、目の前の怪物に僅かな隙を晒してしまった。

 パンテラス・ルテウスはその場から動かぬまま、困惑するアギトに向けて右手をかざす。その手を中心に、渦巻く波動が強大な力場となって空間を歪め、翔一の身体に強引に干渉する。

 

「ぐぁぁぁあああっ!!」

 

 内臓を、魂を、自分自身を引き()り出されるかのような激痛に堪えかね、翔一は顔を歪めて絶叫した。微かに目を開き、なんとか視界の端に捉えることができた光景は、彼にとって一度だけ経験したことのあるもの。

 自身の内側から溢れる光は、かつては忌まわしさ故に自ら手放そうとした『アギトの力』そのものだ。光はやがて一つの塊に圧縮され、幼い少年の姿を象って具現する。

 光に包まれ、ぼんやりと輝く白い少年がゆっくりと浮かび上がり、パンテラス・ルテウスの右手へと吸い込まれていく。アギトの力を抜き出されてしまった翔一は光を失い、変身を維持できなくなったことで強制的に生身の姿へと戻された。

 頭上に光輪を浮かべたまま、こちらを睨むパンテラス・ルテウスの視線。琥珀色だった瞳は光を失い、どこか虚ろに――『闇』を湛えているように見える。

 その闇は、人類にアギトの力を与えた大天使を、仮に『光の力』と呼ぶのなら。それとは正反対にして、全く同一の性質を持つもの。さしずめ『闇の力』とでも呼ぶべき、神の意思。

 

「グ……グゥッ……ア……!!」

 

 もはやパンテラス・ルテウスの肉体は、裏切り者が(のこ)した『アギトの力』を受け入れられるほどの力を備えていない。

 その身に余る人類の可能性を、未来となるべき光を取り込み、アンノウンは先ほどよりも強く苦しみの声を上げる。生身となった翔一も、(わけ)も分からず動けずにいるお空とお燐も、ただそれを眺めることしかできなかった。

 翔一からアギトの力を奪い、(しゅ)である万物の創造主に――神の意思たる『闇の力』にそれを捧げようと、パンテラス・ルテウスは天を見上げた。間欠泉地下センターの上空に広がる、突き抜けるような縦穴。遥か地下深くであるこの場所からも変わらず地上の空は確認できる。

 

 よろけるように数歩、怪物はその場でたたらを踏む。アギトから受けたライダーキックのダメージに加え、闇を打ち払う光を体内に受け入れたことが(あだ)となり、パンテラス・ルテウスの頭上の光輪は明滅していた。

 パンテラス・ルテウスの意思は、闇の力に届かず。受け入れたアギトの力も重なり、その肉体はすでに限界を迎えていたのだ。

 己が仕える(しゅ)に助けを乞おうと空高く手を伸ばすが――その動きを最期に、頭上に輝く光輪が消えて無くなる。次の瞬間、パンテラス・ルテウスの身体は轟音を立て、大爆発を起こした。

 

「うわっ……!」

 

 爆ぜ散ったアンノウンの肉体は消滅し、その身に取り込まれていた『アギトの力』が光となって解き放たれる。間欠泉地下センターの最深部を白く染め上げる光は、太陽の誕生を思わせるほどに力強く、膨大だった。

 溢れんばかりの眩さに顔を覆う。浴びる光は翔一の身体に取り込まれ、彼が失ったアギトの力がその魂へと確かに戻っていく。

 目立った身体の変化が見受けられずとも、アギトとして戦ってきた彼には力の奪還が直感で分かる。怪物から『力』を取り戻した今なら、問題なくアギトの姿に変身できるだろう。

 

「うにゅ……!?」

 

「にゃ……!?」

 

 ─―光を浴びたのは、翔一だけではない。その場にいたお空とお燐も、パンテラス・ルテウスの内に取り込まれていた眩い光に顔を覆っていた。

 彼女らにとってはただ眩しいだけの光でしかないが、どこか身体に感じた変化は、気のせいだっただろうか。お空とお燐は、一瞬のうちに輝きが収まったのを感じてゆっくりと目を開く。

 

 広がる視界、見慣れた間欠泉地下センターには、もはや怪物の姿はなかった。

 

「倒した……の……?」

 

 お空は一言、不安の色が込められた言葉をもって怪物の死を認識する。肌を突き刺すように張り詰めていた空気は、いつも通りの核融合の熱気によってすでに蒸発してしまっているようだ。

 

「もう、なんだったのさ、いったい……」

 

 お燐も全身の力を抜いて警戒を解くが、その心は未だ落ち着いているとは言いがたい。未知の怪物の撃破を確認したところで、それを果たしてくれた存在もまた未知の怪物として拳を振るっていたのだから。

 灼熱地獄跡で介抱した茶髪の青年のことは人間だと思っていたが、どうやらただの人間にしておけるような単純な存在ではないらしい。

 彼もまた、お燐にとっては警戒すべき未知の異形。同時に、お空にとってはパンテラス・ルテウスと同様、この間欠泉地下センターに無断で踏み入った侵入者だ。

 

 しかし、今この場で彼を倒そうと思えるほど彼女らは動物的な思考を持ってはいない。生まれこそ旧地獄の動物たる身ではあるが、妖怪として人間の姿に至った以上、人間に等しいだけの知性は身につけられている。

 灼熱地獄跡や間欠泉地下センターの管理を任されているのは、彼女らが一定以上の信頼を得ている証拠。その信頼の寄る辺、彼女らの帰るべき居場所である『地霊殿(ちれいでん)』の(あるじ)は、お空やお燐がまだ動物であった頃からの飼い主として、彼女らの面倒を見てくれている存在だった。

 

「さっきの怪物やお兄さんのことも気になるけど、今はそれより……」

 

「……さとり様に報告、だよね……」

 

 自らの両手を見つめ、何か思い悩んでいる様子の翔一を見て、お燐が呟く。その言葉に対し、お空もこれから何をすべきかを確認した。

 地霊殿のペットである身の二人。彼女らにとって今できることは、自分たちの飼い主たる存在への状況の報告。

 この青年に問い詰めたいことはいくらでも思いつくが、彼の正体も依然として分かっていない状態なのだ。不用意な真似をして事態が悪くなる前に、今はとにかく信頼のおける主人への報告を優先するべきだろう。二人の判断は、翔一を地霊殿まで連れていくことを決断させた。

 

◆     ◆     ◆

 

 間欠泉地下センターを離れ、ここは旧地獄のほぼ中心に位置する場所。灼熱地獄跡の直上、燃え上がる炎に蓋をするように建てられた館は、ステンドグラスに彩られた天窓を持つ西洋風の巨大な屋敷、『地霊殿』と呼ばれる建物だ。

 中でも特に壮美な装飾を持つ鮮やかな部屋。市松模様の赤と黒が敷き詰められた床とゴシック調めいた様式の格調高い内装は、この地霊殿に招かれた来客をもてなすための一室である。

 

「……ええ。こちらでも間欠泉地下センターの異常は確認しているわ。送られてきた映像は一部不鮮明なところがあったから、詳しい状況までは把握できていないけど……」

 

 お燐に従う怨霊の報告を受け、静かに語るのはやや癖のある薄紫色のショートボブを揺らした幼げな少女。地霊殿の一室に設けられた窓に手を当て、外の様子を眺めながら何かを憂う姿は、大人びた落ち着きを感じさせた。

 いくつものハートがあしらわれた水色の服とピンク色のスカートは一見すると人間の少女のようだが、全身に絡みつく複数のコードと、胸の位置に繋がれた『第三の眼(サードアイ)』の存在が、少女を妖怪たらしめる最大の要因として不気味に動いている。

 旧地獄で最も恐れられる『(さとり)』と呼ばれる妖怪、地霊殿の当主である 古明地(こめいじ) さとり は、お空とお燐が連れてきた外来人の青年に向き直り、彼と同じように向かい合うソファに座った。

 

「いやー、本当に広いお屋敷ですね! でも、ちょっとだけ暗くないですか?」

 

 来客用のソファに座っているのは、お燐が灼熱地獄跡で見つけたという外来人だ。間欠泉地下センターに踏み入ったという話は穏やかではないが、当主であるさとり自ら淹れた紅茶に口をつける姿からは警戒心など微塵も感じられない。

 形式上は来客としてこの場にいる翔一だが、実際はその近くにいるお空とお燐によって未だ警戒されている。この男が少しでも不審な行動を見せれば、すぐにでも対処できるように。

 

 ――しかし、怨霊も恐れ怯む少女として知られたさとりにとって、従者による警戒など必要ない。彼女の怪異たる象徴は、さとりが持つ『心を読む程度の能力』にある。

 それは文字通り、相手が思っていることを何であろうと見透かしてしまう能力。彼女を前にしている限り、誰も隠し事をすることはできない。話したくないことも一方的に筒抜けにされ、相手に一切口を開かせることなく会話を進める。

 誰であれ生きている以上は話したくない秘密を持っているもの。それを無条件に暴かれてしまう妖怪は、嫌われ者にも嫌われる。この地底においても、地上においても、その能力を(いと)わず傍にいてくれるのは、人の言葉を持ち合わせず、心を読まれても問題ない動物たちだけだった。

 

 ぎょろりと赤い(まぶた)を広げ、翔一を見つめる第三の眼(サードアイ)。さとりが生まれ持ったその『眼』は、意識せずとも相手の心を『見て』しまう。その目に見つめられたが最後、どんな秘密も秘密でなくなってしまうだろう。

 流れ込んできた心の情報に意識を向けたさとりは優しく微笑んだかと思うと、翔一の背後に並び立つお空とお燐に右目でウインクをしてみせた。

 その合図を見た二人は張り詰めていた緊張を解き、胸を撫で下ろす。さとりが見た翔一の心にはこちらを害する意思はない。正当な来客として見ても構わないと、その目線で伝えたのだ。

 

「申し遅れました。私は古明寺(こめいじ)さとり。この地霊殿の(あるじ)です」

 

「あ、どうも! 俺、津上 翔一(つがみ しょういち)って言います! よろしくお願いします!」

 

 無邪気な笑顔でティーカップを置く翔一の言葉に、さとりは一瞬困惑の表情を浮かべた。聞き間違いかとも思ったが、津上翔一と名乗った男の心には、彼が名乗ったものとは『別の名前』が浮かんでいるからだ。

 相手を欺こうとしているわけではない。自らの名前を思い違えているなどということもあるはずがない。彼がこの場で『偽りの名前』を名乗るその理由を、さとりは確かめたかった。

 

「……本名ではありませんよね。沢木 哲也(さわき てつや)さん」

 

 その言葉を聞いた瞬間、津上翔一と名乗った青年の表情が明確に変わる。さとりにとって意外だったのは、その表情が心を暴かれた不快感や嘘を見抜かれた焦燥感などではなく、純粋にそれを言い当てられた『驚き』によるものだったためだ。

 さとりは相手の心を読むことができるが、それは相手が今思っていることにしか作用しない。本人が忘れてしまっていることや、今この瞬間に思い浮かべていないことに関しては見通すことはできないのだ。

 相手の記憶を探るには、会話や行動でカマをかけてその記憶を表出させるか、強い催眠術をもって深層心理にまで踏み込むしかない。

 間欠泉地下センターに設置された監視用の術式。そこから地霊殿に送られてきた映像記録はなぜか一部ぼやけてしまっており、詳細な情報は分からなかった。さとりが判別できたのは、突如として現れた『何か』が金色の輝きを放つ『何か』によって倒された、ということだけ。

 

「あれ? どうして俺の本当の名前を? ……もしかして、超能力者とかだったりします?」

 

 さとりの目論み通り、翔一は様々な可能性を考慮して思考を乱しているようだ。思考をモノに例えるなら、今の彼は複数の棚から無作為にモノを取り出している状態。一つの心に狙いを絞らずとも、相手の方からたくさんの思考を見せてくれる。

 あとは、さとりの能力をもってその心と向き合うだけ。何もせずとも、さとりの第三の眼は相手の心に意識を向ける。流れ込んでくる情報の波を見れば何かが分かるはずだ。

 

 光の力によって人類に撒かれたアギトの力。その力に目覚める兆候のある者は、念動力や透視、予知やテレパシーなど、様々な『超能力』を発現させることが多い。

 力を持つ者が超能力を行使すれば、アギトの力は見えざる光の波動となって放たれる。アンノウンはそれを感知し、見つけた超能力者――アギトとして覚醒する素質を持つ人間を、闇の力の命令に従って殺していくのだ。

 生きたまま樹の(うろ)に埋め込まれた者もいた。溶けた土の地面に溺れたように生き埋めにされた者もいた。何もない空に飛ばされ転落死した者もいた。あるいは高速で飛来した鋼の如く硬い何かにぶつかって、自覚なく殺された者もいた。

 アンノウンによる殺人行為は、そのどれもが常軌を逸した物理的にありえざるもの。警察はその犯行を『不可能犯罪』と呼び、犯人を明確に怪物と規定して対応に当たっていた。

 

「まぁ、そのようなものです。……と言っても、あなたの思っているような『アギト』なる存在とは関係のない能力ですので、その『アンノウン』とやらに襲われる心配はないと思いますが」

 

 津上翔一と名乗った男の思考から知り得た情報を、さとりはここぞとばかりに言葉にする。翔一はただ超能力者としか口にしていないのに、心の中で思っただけのことを次々に明かされ、呆気に取られているようだった。

 喉の渇きも忘れ、たださとりと向き合うことしかできない翔一。ティーカップの中の紅茶はまだ残っているが、今の彼にはそれを口にしている余裕すらもなくなっているのだろう。

 

「『アギトを知っているんですか?』……ですか。ええ。知ったのは『たった今』ですけどね」

 

「…………!?」

 

 翔一が口を開こうとするが、その言葉はさとりの言葉に遮られる。だが、それは会話を遮ったわけではない。翔一が言葉にしようとした質問をそのまま向こうから言葉にされ、あまつさえ質問の答えまでもが一緒に返ってきたのだ。

 否。返ってきた、という表現は適切ではない。一方的(・・・)に、こちらがする前から質問と回答を同時に投げてきた、と言う方が正しいだろう。さとりの持つ能力は、会話を成立させない。

 

「あははっ! お兄さんの心、今なら私にも分かるよ。考えていることを言い当てられてびっくりしてる、って顔だね。さとり様には、相手の心を読む能力があるんだよ!」

 

「ちょ、ちょっとお空! ……失礼じゃないかい? お客さんにも、さとり様にもさ」

 

 翔一が無害であると分かって安心したのか、さとりの傍で太陽のように無邪気に笑うお空が黒い翼をはためかせた。

 お燐はさとりが持つその能力に、どこか後ろめたさを感じているような素振りを見せる。お燐は優秀な子だ。自分たちの不用意な言動で、主であるさとりを困らせないように気をつけているのだろう。

 しかし、その言葉を聞いたさとりは表情に小さく影を落とした。最愛のペットの一匹であるお空の心には何の悪意もない。主であるさとりを心から尊敬し、信頼していることが、心を読めるさとりには分かってしまう。

 嫌われ者たちが集う旧地獄。中でも特に嫌われ者であるさとりの心は、深淵のように暗く染まっている。

 己の能力に自信がないわけではない。むしろ、他者の心を言葉もなく明かせるこの力は素晴らしいものだと思っている。……そうでなければ、自分の心を保つことなど到底できない。

 

「えっ……? それ、本当ですか?」

 

 露骨なまでに顔を引きつらせ、嫌な表情を隠そうともせず翔一が問う。さすがに気分を害されただろうか。

 ─―当然だ。そんなこと、心を読むまでもない。嫌われることは初めから分かっている。だからこそ、さとりは相手の心に土足で踏み入ることを躊躇(ためら)わない。悩む必要がないのだ。

 

「じゃあ、せっかく考えた俺のダジャレ、全部知られちゃってるってことだよなぁ……」

 

 さとりに見えた翔一の心は、これまでたくさんの心を見てきたさとりの眼をもってしても驚くほどのものだった。

 どこまでも際限のないその美しさは、太陽の如く眩く純粋なもの。さとりにとってはお空の心を読んだときにも似ている、純粋すぎて覗いているこちらが苦痛を覚えるほどの無邪気な心。裏表がない、とはまさにこのようなものを指すのだろう。

 さながら第三の眼をもって太陽を直視しているような。網膜(もうまく)()くような素直さが、さとりにとってはひどく眩しい。

 言葉通りの心の内。津上翔一の心は、たった今その口から放たれた言葉と寸分違わぬ意思を見せている。何も考えていない、というのとは少し違う。翔一の心は、光と共にあるのだ。地底には相応しからぬ太陽の輝き。この青年の在り方は、やはりどこか、お空によく似ている。

 

「……気持ち悪いとは、思わないんですか?」

 

 さとりは初めて、相手の真意を知るために『質問』をした。これまではわざわざそんなことをせずとも、相手の心を読めば済むことだった。それでもさとりが疑問形の言葉を口にしたのは、翔一の心をどこか受け入れがたかったから。

 こんな素直さは自分にはない。お空に対しても言えることだが、あまりに裏表がなさすぎて自分の能力が鈍ったのではないかと心配になるほど。実際には、完全に心を読んだ上で表も裏も見えないだけなのだが。

 正直なことを言うと、さとりはこういう相手があまり得意ではなかった。心を読まれることを否とせず、普通に接してくる。これでは、心を読めても何の優位性も持つことができない。

 

「俺もアギトですし、似たようなもんです。それより、どうです? 俺のダジャレ! いっぱい考えてたんで、ぜひいろいろ見てってください!」

 

 翔一の言うアギトとは、すぐに彼の心象に映る金色(こんじき)の戦士のことだと分かった。間欠泉地下センターから送られた映像にあった異形のうちの一つは、恐らくこのアギト――津上翔一と名乗った青年本人で間違いない。

 超能力者を狙うという超常の怪物、アンノウンのことも、さとりは翔一の心を読んだことで掴んでいた。

 遥か昔。有史以前に起きた光と闇の戦い。神に背いた天使の祝福。人類に『アギト』の力が与えられていたこと。そのアギトの力を根絶やしにするために、力の片鱗に目覚めた超能力者を抹殺しているアンノウンのこと。

 さとりが情報を整理している最中にも、絶えず流れ込んでくる翔一の心がさとりの思考を邪魔してくる。

 この壮大な神話の中に相応しくない翔一の想い。彼はさとりが考え事をしている間、ずっと考えたダジャレを──灼熱地獄跡の直上にあるこの地霊殿さえ寒気に包むようなくだらないものを次々と心の中に羅列している。あまりに場違いな思考に、さとりは思わず吹き出してしまった。

 

「ふふっ……」

 

「あっ、やっと笑ってくれましたね! どれが一番おもしろかったですか?」

 

 翔一は今まで真剣な表情で考え込んでいたさとりが笑顔になったのを見て、嬉しそうに笑う。傍にいたお空とお燐はその会話の意味が分からず、互いの顔を見合わせて首を傾げることしかできなかった。

 二人にとって、主であるさとりと会話する者が笑顔を保ち続けているのは非常に新鮮な光景だった。そもそも嫌われ者の居城と悪名高いこの地霊殿に、客人として足を踏み入れる物好きはほとんど存在しない。

 必然的にさとりと会話する者も多くはない上、どんな心も見通す能力を相手に笑顔で会話を続けられる者がどれだけいようか。

 彼女とまともに会話ができるのは、さとり以上に強大な妖怪くらいのもの。人間が彼女と話す機会自体がそうそうないが、あったとしても、ものの数分で逃げ出す者が大半であった。

 

「……ねぇ、お燐。あの人間、翔一って言ったよね。さとり様と話して平気なのかな?」

 

「うーん……あたいには何も考えてないように見えるんだけど、さとり様も笑ってるし……」

 

 さとりや翔一に聞こえないようにひっそりと耳打つお空とお燐。その声量は翔一らには届いていない。さとりの読心能力の範囲が傍にいるお空とお燐にまで及んでいることを、彼女らは失念してしまっているようだが。

 お空たちに聞こえるよう分かりやすく咳払いをするさとりに気づき、二人は話をやめる。優しげな微笑みを浮かべていたさとりは表情を変え、再び真面目な顔で翔一に向き直った。

 

「……言葉にせずとも分かっています。ここがどこかも分からず、帰り道すら分からなくて、困っているようですね。そして、あわよくばここに泊めてもらえないかなぁ……と考えている」

 

 向かう青年の心にある一つの思考に着目し、さとりは核心を突く。邪魔な思考を自らの言葉で表出させ、打ち砕く。

 言葉で直接訊いてもいいのだが、一対一のコミュニケーション能力が欠落しているさとりにはそういった発想は浮かばない。知りたいことがあり、それを知っている相手がいるのなら、わざわざ聞くまでもなく心を読めば済む話だからだ。

 さとりとしても、この青年を地霊殿に泊めることは(やぶさ)かではない。アギトやアンノウンについて、まだ知りたいことは多くある。ここでこの男を手放すのは得策ではないと判断した。

 

「いやぁ、そんな、ご迷惑になりますし……あっ!」

 

 翔一は一瞬だけ否定するような素振りを見せたが、すぐにさとりの胸にぎょろりと動く第三の眼に気づいたのだろう。

 遠慮がちに振っていた手を止め、ばつが悪そうに自身の後頭部へと右手を伸ばした。

 

「ず、ずるいですよ! そんなことまで読めちゃうなんて……!」

 

 迷惑になると言っていたのも口だけではない。本当に迷惑をかけたくないから、この旧地獄に迷い、未知の屋敷を訪れ、帰り道さえまったく分からない状態でなお泊めてもらいたいと言い出せなかったのだろう。

 この男が口にするすべての言葉は思考と一致している。本質的に、どこまでも嘘をつくのが苦手な性格なのだろうと思わせた。

 当初は間欠泉地下センターに現れた怪物について知るために、この男を屋敷に招き入れたつもりだったが、いつのまにかその不思議な魅力に惹かれている自分の心に、さとりはどこか皮肉めいた微笑を浮かべる。彼の持っている心の輝きは、お空やお燐と同様、不思議と不快ではない。

 

「……本当に、正直な人ですね」

 

 秘密や隠し事といった欺瞞(ぎまん)など、誰にでもあって(しか)るべきもの。さとり自身にもそれはあるし、それを否定するつもりもない。それでも、正直な人間というのはどこか言葉にしようのない魅力があるものだ。

 彼が人間であるということもまた、さとりにとっては興味深い。外の世界からの外来人が現れるとしたら、基本的に結界に近い地上の世界にこそ現れるはず。なぜ、わざわざ結界から遠いこの旧地獄に現れたのだろうか。

 お燐が地上から運んできた可能性もあるが、お燐の報告では彼は灼熱地獄跡で初めて発見したらしい。彼女の記憶を読んでもそれは間違いなかった。『無意識』でもない限り、あらゆる行動は深層の記憶に残る。さとりはその無意識に心当たりがあったが、今は考えないことにした。

 

「沢木さん……いえ、津上翔一さん。よければ、この地霊殿の客室を使ってください。ここは広いので、少なくとも衣食住に不自由はないと思います。……お空もお燐も、それでいいわね?」

 

 本人がそう名乗るのなら、沢木哲也ではなく津上翔一として。あえてすでに知られている本名ではなく、偽名だと看破された方の名前を使用するのなら。さとりもその意思を汲み、そちらの名前で呼ぶと決めた。

 そして翔一もまた、偽名を名乗っているという自覚を持ってはいない。本当の名前を名乗るのは都合が悪いというよりも、ただ『津上翔一』という名前の方がしっくりくるのだ。

 

 今は津上翔一と名乗っている青年、沢木哲也は乗り合わせたフェリーが局地的な嵐に見舞われたことによる『不可解な海難事故』に()い、そのショックで自分の名前を含む深刻な記憶喪失に陥ってしまっていた時期があった。

 流れ着いた浜辺で気を失っていたところを助け出された際、手に持っていた中身のない封筒に記されていた名前から、便宜上の名前として『津上翔一』の名を名乗った、というのが、記憶を失った彼が津上翔一として生きることとなった経緯である。

 今でこそ記憶は戻っており、本当の名前も思い出しているのだが、記憶を失っていた際に世話になった家族や、アンノウンとの戦いを共にした仲間からは依然として津上翔一の名で認識されてしまっている。

 呼ばれる度に訂正していたが、今では彼自身、こちらの方が自分らしくいられるようだ。

 

「さとり様がそう言うなら、私はいいと思いますよ! ね、お燐?」

 

「あたいもお空と同じ……というか、さとり様ならもう分かってるかもね」

 

 お空もお燐も、すでに心は決まっている。お燐の言う通り、わざわざ問う必要もなく、さとりにはそれが分かっていた。あえて言葉で訊いたのは、彼女らの意思を尊重するため。そして、翔一にもそれを伝えるため。

 二人はいつも通りの笑顔を見せ、同じく笑顔を返す翔一に悪意の一つもないことを理解する。心を読むまでもなく素直さに満ち溢れているのが分かるその表情は、見る者を安心させた。

 

「私、霊烏路 空(れいうじ うつほ)! お空って呼ばれてるよ! で、こっちが私の親友のお燐!」

 

「灼熱地獄跡では自己紹介もしてなかったからね。改めて、よろしく! お兄さん!」

 

 お空は持ち前の素直さ故に。お燐は灼熱地獄跡で出会った際に、翔一の明るさに悪意はないと信じられたがために。それ以上に、信頼する主人であるさとりの言葉のおかげもあって、二人は翔一と難なく打ち解けることができたようだ。

 翔一は一瞬だけお空の翼とお燐の耳と尻尾に気を取られる様子を見せたが、特に気にせず再び笑顔でさとりに向き直る。

 自身もアギトなる存在であるからだろうか。翔一は、お空やお燐、そしてさとりの特異性を気にしていないらしい。もっとも、疑問を抱かれたところで彼女らはこれが普通なのだが。

 

「じゃあ、お言葉に甘えて! お世話になります! 金剛寺(こんごうじ)さん!」

 

「……古明地(こめいじ)です」

 

 わざとではない。というのが分かってしまうからこそ、なおのこと反応に困る。さとりが読んだ翔一の心は、一切の悪意なくさとりの名前を間違えて覚えている。

 確かに古明地と金剛寺では似ていなくもないかもしれない。しかし、さとりはどこかそういう問題ではないような、そんな方向性の話ではないような、言いようのない気持ちを覚えていた。




アギトは語られてない裏設定が多すぎて説明が多くなりがちですね……
前回もそうでしたが、かなり冗長気味になってしまったような気がします。

次回、第10話『暁の嵐、地獄の炎』


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第10話 暁の嵐、地獄の炎

 幻想郷の遥か地の底。地底世界と呼ばれた旧地獄に、地上の光が差し込むことはない。昼も夜も問わず、灼熱地獄跡から溢れる光と熱のエネルギーがなければ、ここは命の芽吹かぬ死の世界となっていただろう。

 かつてはその名の通り、死者たちの集う地獄であったこの場所も、地上から移り住んだ妖怪たちによって多くの繁栄がもたらされている。

 地底に残った怨霊さえ地上に出さなければ、嫌われ者の妖怪たちにとっては過ごしやすい楽園のように思えた。もっとも、地底に暮らす妖怪もこの『地霊殿』には近寄らないが。

 

 地霊殿の客室。普段は床や天井を彩る七色のステンドグラスから灼熱地獄跡の光が差し込み、美しい明かりに満たされている。

 しかし、今は客人として招かれた人間、津上翔一が疲れて眠っているのだ。灼熱地獄跡の光熱は人間には過酷すぎる。光へと通ずる穴を閉じ、今は僅かな光源と暖かい程度の熱だけが、この部屋に取り入れられていた。

 人間にとっての環境の調整など、さとりはこれまでしたことがなかったため、上手くできている自信はない。この地霊殿に人間が踏み入ること自体が、そもそも滅多にないのだから。

 

「……本当に、疲れていたのね」

 

 静かに眠る翔一のベッドに近づき、さとりは小さく呟く。

 これだけ近くにいて、対象を絞っても相手の心が流れてこないということは、翔一の心は今、完全な睡眠状態に入っているはずだ。

 さとりは心を読む程度の能力をもってして、翔一に触れることなくそれを確認した。

 

「……想起(そうき)、テリブルスーヴニール」

 

 右手をかざし、束ねた妖気は、さとりの意識を具象化した特殊な精神エネルギーの波長として光と溢れる。

 本来は弾幕ごっこ用のスペルカードとして考案した一種の催眠術だが、今はただ、この男の深層意識を覗くために。さとりは能力を応用した【 想起「テリブルスーヴニール」 】をもって、眠っている翔一に光を当てた。

 閉じた(まぶた)を貫く眩しさに顔を歪める翔一。さとりはすかさず、そこから流れ込んでくる精神の波に意識を向ける。この光は人の深層意識に作用し、対象が恐怖と感じている過去の記憶、すなわち『トラウマ』を想起させる性質を持っている。

 さとりが知りたいのは、翔一がよほど強く封印しようとしていた記憶。さとりの言葉でも誘導できなかった、アギトとアンノウンについての過去。眠っている今の状態ならば、彼のトラウマを夢という形で見ることができるはず。もし目が覚めても、悪夢として処理されるだろう。

 

「眠りを覚ます恐怖の記憶(トラウマ)を思い出し、今は眠りにつきなさい……」

 

 さとりはテリブルスーヴニールの光を止め、右手に収束させていた妖力の波を解く。翔一の心の中にざわめく何かを第三の眼で実感し、ゆっくりと目を閉じてその意識に想いを馳せた。

 

 翔一の記憶。トラウマたる過去。さとりが最初に見たのは、荒れ狂う嵐に見舞われ身動きが取れない状況に陥っている一隻の客船(フェリー)だった。

 多くの乗客たちが混乱している様子が分かる。その中には明るい茶髪を整えた青年、今は津上翔一と名乗る沢木哲也の姿もある。彼の手には、宛先となる津上翔一の名を記した一通の封筒が握られているようだ。

 彼らが怯えているのはフェリーを局所的に包むような嵐に対してではない。天へと昇る光の中、彼らは『見てはいけないもの』を見てしまっている。

 白い青年の死。そして死んだはずの彼による、力の干渉。後に『光の力』と呼ばれることになるこの存在は、遥か太古、創世の時代に神に背いた大天使が時空を超え、この時代に人間としての肉体を伴って現れたものだった。

 翔一は不可解な自殺を遂げた姉の死の真相を知るため、姉の恋人である本来の津上翔一への手紙を持ち、この『あかつき号』に乗船していた。これから起こる出来事も知らずに──

 

 彼の姉は、彼の世界における『人類最初のアギト』だった。彼女は、アギトとなってしまった自分の力に耐え切れず、自ら命を絶ったのだ。

 翔一が光の力に選ばれたのは、彼がその弟だったからだろうか。アギトの力は血の繋がりを持つ者に強く受け継がれる。光の力はあかつき号の船内に現れ、周囲の乗客を巻き込みながらも、翔一の力を目覚めさせて消滅した。

 その直後、光の力を追って現れた七大天使の一人。闇の力が遣わしたのは、水を司る権能を持つ高位のアンノウンだった。彼はアギトの姿へと進化してしまった翔一を海に叩き落とし、残されたあかつき号の乗客たちにこのことを決して口外するなと警告したようだ。

 しかし、その言葉が翔一に届くことはない。彼は二週間ものあいだ海を漂流し、やがて流れ着いた浜辺で記憶を失った状態で発見されることになるのだから。

 それでも死なずに済んだのは、紛れもなくその身に覚醒したアギトの力のおかげである。

 

「これが津上さんの……沢木哲也の過去……」

 

 さとりは(おのの)くように目を開き、震える右手を押さえて小さく縮こまる。朗らかな笑顔からは想像もつかないような、重く苦しい戦いと過去。一人の青年に背負わせておくには、あまりにも大きすぎる宿命だと思わされた。

 これまでもさとりは多くの記憶を、人のトラウマを覗いてきたが、ここまで深いものは見ているさとり自身にすら重圧として感じられるほど。翔一の心と同調したさとりの心は、その記憶に残る高位のアンノウンの姿に――どこか根源的な恐怖や畏怖の感情を覚えさせられていた。

 

「……あれ? さとりさん? どうかしましたか? また、怖い顔してますけど」

 

「……っ! いえ、なんでもありません。すみません。起こしてしまったようですね」

 

 不意を突かれて聞こえた翔一の声に驚き、さとりは思わず後ずさってしまう。起こすつもりはなかったのだが、翔一の心を覗いた際に感じた不安が伝わり、意識の覚醒を促してしまっていたのだろうか。

 翔一はひどく緊張した様子のさとりを見て、何かを察したように自嘲気味に視線を外した。

 

「見てたんですね。俺の過去……」

 

 おもむろにベッドから起き上がり、そこに腰掛ける翔一が苦い表情を浮かべる。

 さすがに踏み込まれたくない領域であったのだろう。翔一の心は、僅かにさとりへの不信感を募らせているようだった。

 さとり自身にもそれは分かっている。人には触れられたくない過去もあることを知っている。だからこそ、彼が眠っている間にそれを探ろうと考えたのだ。

 人間の気持ちなどさとりには分からない。理解しようとしたこともあったが、結局は心を読んで相手に嫌われるだけ。分かるのは過程を無視した結果。人の心にある直接的な思考そのもの。この眼がある限り、彼女が『(さとり)』である限り、その能力の呪縛からは決して逃れられない。

 

「……気づいていたんですか。よほど深層の恐怖として想起させたつもりだったんですが、見たところ、あまり取り乱していないようですね」

 

「ええ、まぁ。確かに前まではトラウマでしたけど、もう克服しましたから! 今の俺には、ちゃんと帰るべき居場所がありますし。……まぁ、帰り道はまだ分からないですけどね!」

 

 翔一にとっての深いトラウマは、すでに過去のものとして記憶に封じられている。確かに初めてアギトとして戦った瞬間、あかつき号に乗っていたあの日、翔一の心はどうしようもない恐怖に支配されていた。

 水を司る高位のアンノウンと対峙したとき。沢木哲也としての記憶を取り戻し、再びそのアンノウンと巡り逢ったとき。どこまでも心に湧き上がる恐怖は、何度もあの日を思い出させ、絶え間なく苦痛を感じさせた。

 だが、翔一は乗り越えた。大切だと思う居場所、守るべきそれを背負って戦い、ついにはトラウマの象徴である水のアンノウンを自らの手で撃破したのだ。そのとき共に居候として、ある家族と共に世話になっていた少女が作ってくれた弁当の味は、今でも確かに記憶に残っている。

 

「……あなたは、強いんですね。それに、たくさんの仲間がいる」

 

「何言ってるんですか! さとりさんにもいるじゃないですか、大切な家族!」

 

「家族……」

 

 その言葉を聞いて、さとりはお空とお燐の存在を、そして地霊殿に住まうたくさんの動物たちを思い浮かべた。彼女らもペットとして、傍にいてくれる大切な存在として、さとりにとっては家族に等しいことには間違いない。

 それでも、さとりはどこか埋めようのない寂しさを自覚せざるを得なかった。彼女にとって、本当の意味で『家族』と呼べる存在はただ一人だけ。

 血を分けた肉親。たった一人の妹。今は地霊殿にはおらず、しばらく帰ってきていない、大切な家族。たまに会うことはあるが、すぐにどこかへいなくなってしまう。彼女は今、いったいどこで何をしているのだろうか。どこかで楽しく、変わらず無事でいてくれているだろうか。

 

「俺、姉さんがいたんですけど、姉さん、アギトの力が嫌になっちゃったみたいで。……もう、会えません。でも、代わりに俺を家族だと思ってくれる人ができました。血は繋がってないですけど、俺にとっては大切な家族です。だから俺、そういう居場所を守っていきたいんです」

 

 幼い頃に両親を亡くし、唯一の肉親であった姉すらも無慈悲な運命に奪われた翔一とっては、記憶を失った自分を保護してくれた家族の存在が何よりも暖かかった。

 それを守るため、彼はアギトとして戦うことを決意した。自分の居場所を、大切な居場所を守るために、自らの人生を奪い去った『アギトの力』さえも、自分の力だと受け入れた。

 

 それは、さとりの在り方によく似ている。力を持つが故に疎まれても。力を持つが故に失うものがあったとしても。その力は、自分の力であるのだ。自分の力として、認められるのなら。きっと無意味なものにはならない。

 妖怪であるさとりには両親という概念はない。唯一の肉親は、同じ(さとり)の妖怪として共に生まれたたった一人の妹。翔一の姉とは違い、命を絶ってこそいないものの、そうあってもおかしくないほど彼女は追い詰められていた。

 それも当然、さとりと同様に持つ読心能力は、本人が望もうが望むまいが相手の心を読んでしまう。さとりほどの精神を持つ者ならともかく、常人にとってそれは生き地獄に等しい。

 

「……私の妹も、私と同じく人の心を読む能力を持っていました。ですが、妹はその能力のせいで周囲の人から嫌われることを恐れ、第三の眼を……自分の心を閉ざしてしまった」

 

 心を読むという恐怖が具現化した(さとり)という妖怪。そんな存在が、心を読む能力を拒み、その第三の眼を閉ざしてしまえばどうなるか。さとりの妹は、第三の眼を閉じたことで、自分自身という自意識を、自我そのものを深層心理に閉じ込めてしまった。

 結果として、彼女は無意識の存在となった。人の無意識に入り込み、自分を認識させることなく行動する無我の妖怪。

 さながら路傍に転がる小石のように、どこまでもありふれた空気のように。誰も彼女を気に留めることはなく、彼女もまた誰のことも気に留めない。それが今の、さとりの妹だった。

 

「今、あの子はどこにいるのか……もしかしたら、近くにいるのかもしれません。でも、今の彼女は無意識に入り込める存在。たとえ傍にいても、誰からも気づかれることはないでしょう」

 

 二人が愛した家族。翔一の姉とさとりの妹。どちらも自身の能力を受け入れられず、その力を拒んだ。方や自らの肉体を──命を絶ち。方や自らの精神を──心を閉じた。残された二人に許されたのは、自らの力を認めて前を向くことだけだった。

 翔一は姉を、さとりは妹を想う。そのとき、翔一の思考に鋭い光が走るのを、さとりは確かに認識した。翔一もまた、脳髄を眩く染める感覚に表情を変え、ベッドから飛び降りる。

 

「すみません、俺……!」

 

「……分かっています。例の怪物、アンノウンが出現したようですね」

 

 さとりはアギトの力を持たず、闇の力に象られた人間でもない。アンノウンの出現を感知することはできないが、翔一の心を読めば別だ。彼の思考に走る光は、紛れもなく先ほどまで見ていた記憶の中にあったものと同じ。

 アギトを滅ぼすために現れる天使。この世の動物たちの君主たる超越生命体の気配だ。

 

「…………」

 

 翔一は真剣な表情で頷き、光の本能に従って地霊殿の客室を後にする。アギトの力に導かれるように、翔一は迷うことなく地霊殿の通路からアンノウンのもとへと向かったようだ。

 

◆     ◆     ◆

 

 地底深き旧地獄の天盤の下。地霊殿の正門から外へ出た翔一は、その目の前に迫る一体の怪物の姿を見た。

 それは間欠泉地下センターにも現れたヒョウの怪物、ジャガーロード パンテラス・ルテウスと非常によく似た姿をしており、アンノウンとしても同族らしき気配を放っている。

 

ΑGITΩ(アギト)……」

 

 獰猛(どうもう)な肉食獣の視線で翔一を睨むのは、クロヒョウに似た姿を持つ超越生命体『ジャガーロード パンテラス・トリスティス』だった。

 黄色い毛並みを持っていたパンテラス・ルテウスとは違い、こちらは石炭色めいた漆黒の毛並みに身を包んでいる。首に巻く黄色いマフラーは風に揺れ、全身に配された斑点模様は黒い身体に紛れてあまり目立たない。

 共通するのは、やはりヒョウの姿をしていることと、マフラーを巻いていること。そしてそのマフラーを留めるように装う胸元の羽根飾り、巻貝の意匠を持つ腰のベルトだ。

 

 クロヒョウの怪物、パンテラス・トリスティスは翔一の存在を警戒し、胸の前に右手を持ってきて左手の指で殺しのサインを切る。これから殺めるのは神の愛した人間ではない。神に仇為(あだな)し、神の寵愛に背を向ける不届き者。

 アギトの力を持つ者への神罰と粛清(しゅくせい)。それを実行すべく、パンテラス・トリスティスは自身の頭上に青白い光の渦を浮かべた。円盤状に輝くその光に手を伸ばし、神の世界から取り出すは一振りの長槍。自身の得物として最適な『貪欲(どんよく)の槍』と呼ばれる天使たちの武器である。

 

「…………!」

 

 地霊殿の正門を抜け、翔一と同じくこの場に現れたさとりが目を見開く。

 翔一の心を読んだことでアンノウンの出現地点は分かっていた。彼女がこの場に現れたのは単なる好奇心からではない。

 誰かの居場所を守るために戦う翔一に、これ以上何かを背負わせたくなかったからだ。

 

「……あれが……アンノウン……」

 

 翔一の記憶を読んで度々その姿を認識してはいたが、さとりは初めて肉眼でアンノウンの姿を捉えていた。

 記憶や心象という曖昧なものではなく、自らの眼をもって認識するその形はより明確に、この世ならざる神秘の肉体を備えているように見える。

 第三の眼を絞ってみたが、怪物の心はどうやら読めそうもない。この世の存在が及ぶ領域のものではないと思わされる天上の知性。言語化不可能な理が、さとりの心に流れ込んでくる。

 

「さとりさん、逃げて!!」

 

 パンテラス・トリスティスの槍を受け止め、しっかりと握りしめてさとりに振り向く翔一が叫ぶ。再び心に光を思い浮かべると、翔一の腰には光と共にオルタリングが現れた。

 

「……変身っ!!」

 

 その手に掴んだ槍を離さず、パンテラス・トリスティスを軸に翔一は立ち位置を変える。ぐるりと立場が逆転した瞬間にその身が光に包まれたため、さとりから見れば怪物とすれ違ったことを境にアギトに変身したように見えただろう。

 光を解き放ち、黄金の装甲、グランドフォームの姿へと一瞬で変わった翔一は槍を引き寄せ、すかさずパンテラス・トリスティスの腹に右の拳を鋭く打ち込んだ。

 その肉体は鎧のように強靭な皮膚であるのに、羽毛のような柔軟さをも合わせ持っている。この奇妙な感覚は、やはり否が応にもアンノウンとの戦いを再認識させてくるかのようだ。

 

 アギトの全身に満ちる光のエネルギーは、翔一自身にも理解できぬ超常の力。されど、彼がこの力を使いこなせているのは、その胸部装甲に鈍く輝いている太陽の黒点。胸の中心に埋め込まれた石版状の物質のおかげである。

 心臓に最も近い位置で静かに脈動する『ワイズマン・モノリス』と呼ばれる制御器官。この石版のおかげで、翔一はアギトの力を上手くコントロールすることができているのだ。

 

「……っ! 津上さん! 危ない!」

 

 さとりは薄暗い旧地獄の中に冴え目立つ『白』に気づき、声を上げる。

 目の前のアンノウンに気を取られ、背後への警戒が疎かになっていた翔一。アギトとなったその身に、一本の矢が飛来する。光を帯びた白い矢はアギトの背を射抜き、さながらひとひらの六花の如く炸裂した。

 痛みに思わず膝を着く。目の前にはまだクロヒョウの怪物がいるというのに、神経を凍りつかせるような痛みは紛れもなくアンノウンの攻撃。

 翔一はその正体を確かめるべく、膝を着いたままの姿勢で矢が飛んできた方向を見た。

 

「…………」

 

 その白い身体は、暗い地底の世界において不気味なほどに美しい。氷の如く冴える視線で翔一と向き合う、雪のような純白の毛並みを持つヒョウのアンノウン。

 ユキヒョウに似た姿を持つ超越生命体『ジャガーロード パンテラス・アルビュス』は、その左手に白い長弓『傲慢の弓』を構え、そこに物質的な矢を番えることなく右手を添えた。

 

 揺れる青いマフラー。白い身体に装う灰色の斑点模様。やはりこちらもヒョウの姿であり、天使として神に創られた荘厳な装飾は、パンテラス・ルテウスやパンテラス・トリスティスと同様、まさしく『豹の君主(ジャガーロード)』と呼ぶに相応しい風格を備える。

 放たれる光の矢は真っ直ぐに飛び、アギトのもとへと鋭く飛来するが、翔一はそれをなんとか回避することができた。

 しかし、予期せぬ攻撃を避けることに必死で動きが鈍っていたのか、今度は背後のパンテラス・トリスティスがアギトの身体に槍を向ける。当然、翔一はこちらも警戒しているが、二つの攻撃を同時に見切ることは難しい。

 かつてはこの二体の怪物を同時に相手にし、難なく倒すことができていたはずなのに。今の翔一は身体に輝くアギトの力がどこか完全ではないように思えた。光輝へと至った進化の極北は、賢者の石の輝きは、どうやら左右のドラゴンズアイに光を灯す程度が精一杯のようだ。

 

「戦うのはあまり得意じゃないけど……」

 

 二体の怪物に挟まれ、苦戦するアギトの様子を見かねたさとりが自身の周囲に妖力の光弾を浮かべる。右手の人差し指を軽く持ち上げ、目標を固定すると、さとりは視線を鋭く黒の怪物に絞って右手を開いた。

 解き放たれた光弾が飛び進み、膝を着くアギトの背中に槍を突き立てようとしていたパンテラス・トリスティスの身体に着弾する。

 怪物の意識をこちらに向けることしかできない程度の威力。そんなものをぶつけられた程度ではアンノウンは怯みさえしない。同族が攻撃を受けたことで苛立ちを覚えたのか、先ほどまでアギトに光の矢を向けていたパンテラス・アルビュスもさとりに向き直った。

 

 貪欲の槍を振り上げたパンテラス・トリスティスがさとりを睨んで喉を鳴らす。傲慢の弓を構えたパンテラス・アルビュスが冷たい息を吐く。アギトに向けられた殺意は、すでに邪魔者となるさとりへの殺意に変わっている。

 アンノウンたちの主である『闇の力』は、自ら創造した子供たち、すなわち人類を深く愛していた。故にアギトならざるただの人間を殺すことは極力禁じられ、これを破った使徒は主から制裁を下されることになる。

 しかし、この幻想郷に多く生きる怪異や化生の類――賢者たちを始めとする『妖怪』の存在はその限りではない。邪魔をするのなら、彼らは容赦なく殺しの対象とするだろう。

 神の子たる人類でも使徒(マラーク)の子たる動物でもない命を、生かしておく理由はないのだから。

 

「くっ……!」

 

 じわり、と。動きを見せる黒と白。この世の法則が通用しない超常の使徒ならば、僅か一瞬の間にこちらとの距離を詰めることができるだろう。さとりは心を読めぬながら、怪物の動きを見計ろうと第三の眼を大きく見開く。

 やはり分からない。アンノウンたちが何を考えているのか。それでも微かな筋肉の動き程度ならば読める。対応は難しいかもしれないが、この『眼』の観察力を最大限に使えば――

 

「グゥゥア……ッ!!」

 

「ゴォッ……ア……!!」

 

 ─―だが、そのとき。さとりがスペルカードを構えようとした瞬間。その視界に白く眩い光が満ち溢れる。一瞬遅れて耳に届いた轟音と怪物の呻き声は熱風を伴い、さとりの髪とスカートの裾を激しく仰いだ。

 咄嗟に顔を覆った腕を下ろし、目を開くと、目の前には見慣れた黒い翼がはためいている。それは紛れもなく、さとりのペットであるお空の姿だ。

 翼を覆う白いマント越しに読むことができたお空の心は、慣れ親しんだ人格の中に一つだけ不安な意識が感じられる。そこには、翔一と同じ光――アンノウンへの敵意が輝いていた。

 

「お、お空? それにお燐? どうしてこの場所が……?」

 

「あたいにもよく分かんないんですけど、お空が急に部屋を飛び出して……!」

 

 お空と共にこの場に現れたお燐に問うが、やはり状況が掴めない。さとりは翔一の心を読んだことでアンノウンの出現場所が分かった。しかし、お空たちにそれを伝えたつもりはない。

 ならばなぜ、どうやってこの場所にアンノウンが現れたことを突き止めたのだろうか――?

 

「あのヒョウみたいな奴ら、やっぱり……」

 

 右腕の制御棒から妖気の煙を立ち昇らせるお空が呟く。その視線は、たったいま自身が攻撃した二体のジャガーロードを見つめ、怒りとも悲しみともつかぬ感情を帯びているようだった。

 

「…………!」

 

 クロヒョウに似た超越生命体、ジャガーロード パンテラス・トリスティスが微かな怯みを見せる。それはお空の放ったエネルギー弾によるダメージからではない。お空の存在に、その内に秘める力に対した反応だ。

 パンテラス・トリスティスは同族となるユキヒョウに似た超越生命体、ジャガーロード パンテラス・アルビュスと顔を見合わせ、新たなる脅威に構え直す。

 貪欲の槍の矛先は、傲慢の弓が番える矢尻の先は、それぞれ違わずこの場に現れたお空に向けられていた。

 それでも、お空の表情は揺るがない。相変わらず(からす)の如く鋭く怪物を睨みつけている。

 

 二体の怪物はお空の存在に気を取られているのか、あるいは今のアギトならば取るに足らないと判断したのか。これまで何度も狩り、滅ぼしてきたアギトの力よりも、今は『未知の力』こそを警戒しているようだ。

 翔一はそれを好機と立ち上がり、自身の腰の左側――腰に巻いたオルタリングの左バックルに手を伸ばした。

 黒く装うそれを一度、軽く叩くと、ベルトの中心に輝く賢者の石が光を増す。左右に埋め込まれたドラゴンズアイのうち、本人から見て左側のものが『風』を解き放って青く輝く。

 

 先ほどまで金色だった賢者の石は風のように青く染まる。吹き荒ぶ竜巻が、嵐となりてアギトの身を包んでいく。

 荒れ狂う突風に怯みながらも、依然としてアンノウンはお空と翔一を同時に警戒している。はためくマフラーは風に暴れ、今にもどこかへ飛んでいってしまいそうだ。

 

 風が止む頃にはアギトは静かに姿を変えていた。金色の胸部装甲は蒼天を思わせる青に、隆起した左肩の装甲と左腕は、こちらも同じく風の力を司る左側のドラゴンズアイと同様、青色に染まっている。

 それ以外は変わらず金色の装甲のまま。グランドフォームの姿から、胸と左半身だけが風と共に青へと至る。得られた変化は、外見以上のものだった。

 あらゆるものの変化を風と受け止め、一陣の流れとなって繰り出すは青の嵐。風と一つになる精神。超越精神の青。スピードに特化した戦士であるこの形態は、基本形態であるグランドフォームを遥かに凌ぐ敏捷性と精神力を誇る『ストームフォーム』の姿として、ここに顕現した。

 

「…………」

 

 翔一は一息、風となった姿のままオルタリングの正面に左手を添える。青く輝く賢者の石から突き出した長物の『柄』のようなものを逆手で握り、一気に引き抜くと、辺りに一段と激しい突風が巻き起こった。

 取り出された青の薙刀(なぎなた)、その名は『ストームハルバード』。青嵐(せいらん)槍斧(そうふ)たる両端に、輝く金色の刃が鋭く展開される。

 アギトの身の丈ほどもある長大な薙刀として、翔一はストームハルバードを左手に構える。纏う旋風はストームフォームの身と共に。筋力と耐久は劣るが、速度は相当のものだ。

 

「はぁぁぁっ……!」

 

 続いてお空も自慢の制御棒を構える。熱く蓄えた核熱の妖気を束ね、その先端に核融合エネルギーの光球を形成する。高温高圧に圧縮された力は、地底の大気を震わせるほど力強い。

 

「喰らえっ!!」

 

 込めた力を解き放ち、お空はアンノウン──ではなく、パンテラス・トリスティスの足元たる地面に向けて灼熱のレーザーを放射した。そのまま横一文字に制御棒から放つレーザーを薙ぎ払うことで、地面に光熱を撒き散らす。

 大地さえ熔かす地獄の熱。お空が放つ【 グラウンドメルト 】の光はやがて臨界に至り、激しい炎を上げて爆裂した。

 超常の存在であるアンノウンの肉体をも灼き焦がすほどの熱は、明確なダメージとなって怪物に刻まれる。これほどの火力は明らかに、お空の普段のパワーを超えている。

 

 お空の攻撃にパンテラス・トリスティスが怯んだその隙に、翔一は手にしたストームハルバードを両手に構え、空気を裂いて振り回す。

 金色の刃によって掻き乱される大気が突風を巻き起こし、さながら翔一の記憶にあるあかつき号の嵐の如く吹き荒れていく。

 生み出された竜巻は翔一の意思のまま、パンテラス・トリスティスの身動きを封じ込めた。この風そのものが刃となり、怪物の肉体を切り裂きながら退路を断つ。そこで翔一は嵐を巻き起こす(まい)をやめ、左手にストームハルバードを構えて刹那、疾風の如く怪物に斬りかかった。

 

「はぁっ!!」

 

 風を帯びたストームハルバードの刃がパンテラス・トリスティスの肉体を裂く。続けて薙刀を振り上げ、後ろ刃で追撃。さらに休まず一撃、再び二撃。最後に振り抜かれた一閃をもって、嵐の舞は終わりを告げる。

 超越精神の青(ストームフォーム)となったアギトが誇る【 ハルバードスピン 】はこの連撃の果てに、瞬く間にパンテラス・トリスティスに致命傷を与えていた。

 切り抜けた翔一の背後で苦痛の断末魔を上げる漆黒のアンノウン。青き光に風と断ち切られた運命は、使徒の頭上に天使の輪を掲げさせ、やがてそのまま身体を爆散させた。

 

 アンノウンのうちの一体。その撃破を確認し、翔一は左手に込めた力を抜く。風の力に満ちていたストームハルバードが光の粒子と消えたかと思うと、アギトの姿も金色を基調とした基本形態のグランドフォームへと戻っていた。

 その直後、背後に殺気を覚えた翔一がすかさず後ろを振り向く。すると、残ったもう一体のアンノウン、パンテラス・アルビュスが純白の筋肉を掲げ、傲慢の弓をお空に向けて引き絞っているではないか。

 お空は体力を消耗しているのか、その意思に気づいていないらしい。このままでは、彼女は生身でアンノウンの矢を受けることになるだろう。

 翔一は慌ててそれを防ごうと駆ける。この距離から怪物の行動を阻止できればよかったのだが、アギトは弾幕を放つことができるお空やお燐、さとりたちとは違い、飛び道具と呼べる攻撃手段を持ってはいない。相手に接近しなければ、まともに戦闘を行えないという弱点があった。

 

「……っ! 妖怪! 火焔(かえん)の車輪!!」

 

 パンテラス・アルビュスが持つ傲慢の弓から白い矢が放たれると同時。咄嗟に飛び出したお燐がお空の前に立ち、スペルカードを発動する。

 激しく燃え上がる巨大な車輪が現れ、回転しながらお燐の目の前で弾幕を解き放った。放たれた矢を弾き、豪々と炎の弾幕を撒き散らす妖怪の車輪、【 妖怪「火焔の車輪」 】はアンノウンに向かって突き進んでいく。

 溢れる熱気を鋭く感じ取り、パンテラス・アルビュスはヒョウの如き素早さをもって容易くそれを回避してしまった。が、問題ない。攻撃は避けられたが、お空を守ることはできた。

 

「ふう、なんとか間に合ったみたいだね……お空、立てる?」

 

 お燐は親友の無事を確かめようと、額に汗を浮かべて膝を着くお空を気にかけるが――

 

「――っぐ、あぁぁぁぁあっ!!」

 

 左手で胸を押さえ、苦痛に満ちた叫びを上げるお空。抑圧された感情を爆発させるかのように、お空は右腕の制御棒をその場の地面に叩きつけた。

 地面の中で反応する核融合のエネルギーが地殻を突き破り、さながら間欠泉の如き火柱となって噴き上がる。お空の近くにいたお燐は慌てて飛び退き、ギリギリでそれを避けた。

 

「あ、危ないじゃないか! 何するのさ、お空! ……お空?」

 

 核融合の力を地中で起こした【 ヘルゲイザー 】はお燐すらも巻き込まんと爆裂し、その彼方にいるパンテラス・アルビュスへと向かう。火焔の車輪を避けたばかりで油断していたためか、アンノウンはこちらまで回避し切れず、その身を炎の間欠泉に吹き飛ばれた。

 苦痛の声を漏らすパンテラス・アルビュスはゆっくりと立ち上がり、焦げついた青いマフラーと白さを穢された自身の肉体を見て苛立ちを隠さず喉を鳴らす。

 怪物が見たのは、グランドフォームの身体で再び動きを見せようとするアギトの姿だ。

 

「はっ!」

 

 翔一はお空のヘルゲイザーを受けて体勢を崩したパンテラス・アルビュスの隙を見逃さず、右手をオルタリングの右端へ伸ばす。ベルトの右バックルを軽く叩いて見せると、今度は周囲に陽炎を起こすような強い熱気が立ち込め始めた。

 地霊殿の直下、灼熱地獄跡への道は今は閉ざされている。その力のない本来の旧地獄は、熱などとは無縁の肌寒い場所である。

 そんな薄暗い世界を暖め、明かりを灯すかのように。オルタリングの中心、賢者の石の光は再び強く。左右のドラゴンズアイのうち、右側に灯る赤い光は『火』の力を解き放ち、その輝きを中心部へと供給する。

 赤い輝きを放ち始めた賢者の石。瞬間、アギトの身体から燃えるような高熱の波動が激しく溢れ出した。胸部の装甲は真紅に染まり、同じく赤と染まった右肩は突き上がるように大きく隆起。その右腕も赤い筋肉に満ち、驚異的なパワーを感じさせる姿へと変化を遂げる。

 

 風の力を宿したストームフォームと対となる姿。それは火の力を宿し、パワーに特化した形態である『フレイムフォーム』の姿だった。刃の如く研ぎ澄まされた五感で対象の全てを感じ取る、烈火の如き戦士、超越感覚の赤。

 オルタリングの中心から突き出した黒い柄を右手で握り、親指を下に向けた順手の構えで一気に引き抜く。噴き上がる炎と共に現れた一振りの長剣は、フレイムフォームとなったアギトの感覚をその身に担うもの。

 金色の(つば)はアギトの角のように二本に輝き、赤い峰に青い宝玉を装っている。赤と金の鍔から鋭く伸びた白銀の刀身は、片手で振るう剣というよりはむしろ刀と言える微かな反りを持つ。アギトは赤きフレイムフォームのパワーをもって、この『フレイムセイバー』を振るうのだ。

 

「…………!」

 

 地底を染める力の熱源に気づき、パンテラス・アルビュスは再びアギトに視線を向ける。構えた傲慢の弓を引き絞り、右手に長剣を携えた赤い戦士に向けて矢を放つ。

 間髪入れず、続けて放つ矢は地底の闇を裂き、オルタリングの光を受けてさらに赤く輝く装甲を目掛けて飛来していった。

 フレイムフォームは純粋な筋力、つまりパワーに特化している。そのため、グランドフォームほどの耐久力やストームフォームほどの速度および俊敏性は備えていない。肥大化した筋肉の重さにより十分なスピードが得られない分、この形態の真価は別の点において発揮される。

 

 風の流れ。熱の動き。肌を刺す怪物の敵意。それらすべてを感じ取り、赤き火の力である超越感覚をもって放たれた矢を見切る。それを可能とするのが、パワーの他に感覚にも特化したフレイムフォームの能力だ。

 翔一は右手に構えたフレイムセイバーを振るい、視認したすべての矢を斬り伏せる。金属音を響かせ、パンテラス・アルビュスのもとへと静かに歩み寄る。

 矢による攻撃は無意味。それを悟ったのか、パンテラス・アルビュスは傲慢の弓を剣のように構え、こちらも刃のように鋭く冴える弓そのものでアギトに斬りかかった。

 

 フレイムセイバーの刃と傲慢の弓が剣戟の音を打ち鳴らし、やがてパンテラス・アルビュスはその力に押され、手にしていた弓を弾き飛ばされる。

 すかさず翔一は右腕に力を込めた。腕の筋肉を流れる光の力が高熱の波動となり、フレイムセイバーに伝わっていく。熱く燃え(たぎ)る火のパワーを受け、双角じみた金色の鍔は左右に展開され、六枚の角を広げてより強い熱を放つ。

 揺れる陽炎が視界を熱くする。目の前のアンノウンに放つ熱気がじわじわと相手の体力を奪っていく。翔一は本能のまま、フレイムセイバーを両手で構え直し、正眼(せいがん)の構えを取った。

 

「はぁぁああっ!!」

 

 深く踏み込む一歩と共に、振り上げた刀を握りしめ、烈火の如く天地を断つ。縦一文字に両断されたパンテラス・アルビュスは全身を真っ二つに()き斬られ、ぐらりと地面に倒れ伏した。

 

「グゥゥ……ァァア……ッ!!」

 

 漏れ出る呻き声も力なく、頭上に青白い光を浮かべたパンテラス・アルビュスはアギトの目の前で大きく爆散する。吹き抜ける爆炎が収まるや否や、フレイムセイバーの鍔も元の双角へと軽やかに閉じた。

 超越感覚の赤(フレイムフォーム)へ至ったアギトの剣技、その必殺たる【 セイバースラッシュ 】の一撃を見舞った後、翔一は右手に込めた力を抜く。隆起した右肩の赤い装甲は再び金色の装甲に戻り、アギトは基本形態であるグランドフォームへと回帰した。

 この場に現れた二体のアンノウンの両方を撃破したため、翔一は全身に張り詰めていた光の力を静かに解く。その全身を包む黄金の光は一瞬で消え、翔一の肉体は生身の姿を取り戻した。

 

「津上さん、少しよろしいですか? お空の様子が……」

 

 戦いが終わり、静寂に包まれた旧地獄、地霊殿正門前。変身を解いた翔一は背後から聞こえたさとりの声に振り向き、共に戦ってくれた少女たちのもとへと向かう。

 お燐はとても慌てた様子で膝を着くお空の傍に座り、額に汗を浮かべるお空のことを心配しているようだ。さとりも冷静さを失ってはいないが、やはり心配そうにお空を見つめている。

 

「……はぁっ……はぁっ……」

 

 苦しそうに胸を押さえる左手の隙間からは、脈打つように明滅する八咫烏の眼の赤い光が溢れている。その苦しみ方は素人目に見ても尋常ではない。さとりたちに分かるのはそれだけだ。

 

「すごい熱だよ……! お空、いったいどうしちゃったのさ……!?」

 

「わかんない……なんだか身体が……身体が……燃えるように熱いの……」

 

 先ほどお空が放ったグラウンドメルトやヘルゲイザーの熱量。普段のお空ならいくら火力に自信があるとはいえ、あれほど無作為に過剰な力を込めたりはしないはず。無二の親友たるお燐を巻き込むなどもってのほかだ。

 お燐はヒョウの怪物から受けたダメージによって苦しんでいるのかと思ったが、見たところ大きな怪我をしている様子はない。お空の身体は熱によって多少の火傷や小さな傷はあるが、お空ほどの妖怪にとってこの程度の傷が深刻なダメージになるとは思えなかった。

 

 高熱を訴え、苦しむお空を心配する翔一。出会って間もない少女ではあるが、その苦しみを見過ごすことはできない。特に、その苦しみ方は程度の差異こそあれ、どこか見覚えのあるような気がしていた。

 アギトとして戦ってきた際、記憶を取り戻して飲食店(レストラン)での勤務を始めた頃の出来事を思い出してみる。同僚として親しくなった一人の女性に見られた発熱。彼女は光の力を宿す者の一人として、翔一と同じアギトに覚醒する素質を持っていた。

 その兆候として現れたのが、苦痛を伴う異常発熱と頭痛による身体への負担だった。翔一はその姿を知らないものの、おそらくは彼の姉も同じ痛みを経てアギトに至ったのだろう。

 

「まさか……」

 

 首筋を伝う汗。アギトの力を持つ翔一に共鳴し、明滅する八咫烏の眼がドクンドクンと唸りを上げている。翔一には一瞬、お空の顔が自らもよく知るアギトの顔に変わったように見えた。

 

「……とにかく、一度お空を部屋まで運びましょう。お燐、お願いできる?」

 

 不安に震える翔一の顔を見て、さとりはその心の中を見てしまったようだ。その場では何も追求することなく、苦しむお空を肩に背負う。

 小柄なさとりでは長身のお空を一人で運ぶことは難しい。お燐の操る猫車に乗せてもらい、ひとまずは地霊殿のベッドで休ませてやることにした。翔一も手伝おうと声を上げたが、それはさとりに遮られる。

 もしも翔一の考えている可能性が本当なら、彼の力と反応してお空がさらに苦しんでしまうかもしれないと判断し、さとりはその場に立ち尽くす翔一に対し、真剣な表情で向き直った。

 

「津上さん、少しお話があります。……私の部屋までついてきてください」

 

 お空の苦しみが『アギトの力』によるものだとしたら。もし本当に、翔一の思考が事実であるとしたら。その力を知らないさとりやお燐には、お空を救うことはできない。だが、力を知る翔一ならば、あるいは。

 さとりは翔一に訊きたいことが出来た。心を読むのではなく、その言葉をもってして。信頼という形の上で、さとりは翔一と話をしたいと思った。

 そうでなければ、きっと彼を地霊殿に留めておくことができなくなる。お空を苦しませる原因が彼にあるのなら、彼のアギトの力と共鳴し、どういった由来かは分からないが、もしも本当にお空にアギトの力が宿ってしまったなら。

 問わねばならない。津上翔一という男の在り方そのものを。アギトに向き合う、彼の心を。




SHODO-X 仮面ライダー 6 を箱買いした影響でストームフォームとフレイムフォームを書きたくなってしまったことがバレてしまう。バンダイさん、CSMオルタリングはまだですか……!

次回、第11話『アギトと八咫烏』


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第11話 アギトと八咫烏

 地霊殿の一室。この屋敷の当主であるさとりの部屋は、客間ほどの広さはない。それでも十分な広さが設けられており、薄暗さは部屋の主同様、微かな陰鬱さを感じさせる。机を彩る孤独な薔薇が、さとり自身を表しているかのようだ。

 翔一がこの部屋に招かれてからすでにそれなりの時間が経っている。その時間はすべて、互いの疑問を打ち砕くために流れたもの。

 もっとも、翔一が口を開く必要はほとんどない。こちらから投げようとした問いも、向こうから投げられた問いへの答えも、どちらも見透かされてしまっているのだから。

 

「あんまりよく分かってませんけど、つまりさとりさんも、お空ちゃんたちも、みんな妖怪……ってことですよね? なんか、すごいなぁ……! 俺、妖怪の人って初めて会いました!」

 

 幻想郷について。妖怪について。そしてこの地底世界について。さとりは先ほどの戦いで翔一が抱いた疑問に丁寧に答えた。その心を読み、彼が疑問を抱いたことが分かったうちから次々に答えていくため、少ない時間で多くの情報を交換できた。

 アンノウンと呼ばれる二体の怪物に放った弾幕といい、彼の前で妖怪の力を使ったことは失敗だったかもしれない。彼の心を埋め尽くす幻想への疑問が、さとりの知りたい情報を覆い隠し、邪魔をしてくる。それらを解消しないことには、目的の情報は得られそうになかった。

 

「普通、外来人は妖怪を見たら驚くと思うのですが……」

 

「もちろん驚いてますって! ほら、さとりさんなら分かってるんじゃないですか?」

 

 翔一は相変わらず、さとりに笑顔を見せてくる。確かにその心には驚きの感情が感じられるが、妖怪への畏怖というよりはさとりの容姿に向けられているようだ。

 外の世界の伝承では(さとり)は体毛に覆われた猿のような妖怪だと伝わっているようだから、さとりのような少女の姿では驚くのも無理はない。

 彼女が予想していた驚きの感情は、もう少し別の方向性のものだったはずなのだが。

 

「でも、安心しました。さっきこのお屋敷を出たときは上を見上げても空がなくて……本当に地獄に落ちちゃったのかと思いましたけど、ちゃんとこの上にはお日様、あるんですね!」

 

 料理人として、あるいは菜園の持ち主として。翔一は太陽を愛している。地底の果てにおいて、その光が差し込むことはないが、遥かな天盤の彼方に、彼の知る太陽は確かに存在している。

 

「……地の底であることは事実ですけどね。ただ、地底(ここ)にも太陽と呼べるものはあります。お空の八咫烏の力は、停止状態だった灼熱地獄跡に再び火を灯してくれた」

 

 旧地獄の太陽。それはお空が神に与えられた八咫烏の力。核融合を操る能力こそが、この地底における太陽そのものである。

 灼熱地獄跡は地球の核、マントルにまで繋がっている。そこから引き出す膨大なエネルギーを安定させ、この地底世界全体に行き渡らせるのが灼熱地獄跡の役目だった。

 

 かつては地獄として死者の魂を焼く業火だったが、旧地獄として切り捨てられてからはもっぱら生身の死体を燃やし、地底のエネルギー源とするくらいのもの。全盛期に比べればその火力は遥かに弱くなっていた。

 そこで、死んだ灼熱地獄跡に火を灯し直してくれたのが、お空に与えられた神の力。太陽と同じ核融合を司る、八咫烏の力だったのだ。

 地上の神、風雨の象徴たる八坂神奈子がお空に八咫烏の力を与えたのは、灼熱地獄跡のエネルギーを資源として幻想郷の進化に利用しようと考えたからだ。もっとも、地底は妖怪たちの邪魔が多く、地上から遠すぎたため、実際には別のエネルギーが必要になってしまったのだが。

 

「お空ちゃん、太陽! って感じですもんね。明るくて、本当にお日様みたいでしたし!」

 

 翔一はお空の笑顔を思い出して、同じように笑う。高熱にうなされていた彼女のことは心配ではあるが、翔一の知る限りの情報では、彼女にしてやれることは何もない。

 ここが地上の光が差し込まない地の底でも。たとえ旧地獄と呼ばれた最果ての奈落でも。そこに誰かが生きている限り、そこが誰かの居場所である限り光はある。この地底においては、お空の存在こそがその光であったのだろう。

 地底の太陽は、地殻に輝くマントルの火、その輝きとして、この旧地獄を照らしてくれた。地上の光は空から来るものだが、ここでは地面の下にこそ太陽に等しい輝きがある。それは地熱という形で、旧地獄を底から暖めてくれている。

 青空一つ見えない地の底においても、彼女がいてくれるのなら安泰だった。昔は地獄でも、今は妖怪たちの楽園として。

 きっと野菜はおいしく育つ。生まれた命は温もりを知ることができる。太陽の代わりに笑ってくれるお空がいる限り、この地底は地上と同じく誰かの居場所として存在できるはずだ。

 

 さとりは翔一の言葉にどこか奇妙な共感を覚えていた。お空が太陽のようだ、というのもそうだが、何より、それはさとりが翔一に対して思ったこと。さとりの眼をもってしても自分に似ているとは思っていないところが彼らしい。

 似ているのは心だけではない。分解の足は森羅を断つ風の渦か。融合の足は万象を束ねる火の熱か。そしてそれらを安定させる第三の足、制御棒は未来を歩む大地の意思か。

 分解と融合、そして制御。風と火、そして大地。それぞれ三つの力を一つとして輝きを放つその姿は、さとりにアギトと八咫烏の共通点を連想させる。

 思えば、間欠泉地下センターにアンノウンが現れたのも不可解だ。翔一の話によれば、奴らはアギトの力に目覚める兆候を発現させた超能力者、すなわちアギトに至る可能性のある『人間』こそを狙うはず。

 しかし、お空はそもそも人間ではない。アンノウンを初めて観測したあの時点ではアギトに近づいてすらいなかったはずだ。

 最初に間欠泉地下センターに現れたパンテラス・ルテウスの目的は──否、翔一を地霊殿に招いてから現れたパンテラス・トリスティスとパンテラス・アルビュスの目的さえも。もしかしたら、最初からアギトたる津上翔一ではなく、お空が宿す八咫烏の力だったのかもしれない。

 

「それで、本題ですが……いえ、改めて切り出すまでもないでしょうか」

 

「…………」

 

 お空のことについて話そうと、さとりが口を開く。その雰囲気を感じ取ったのか、翔一も柔らかな笑顔を微かに固めながら俯いた。

 聞こうとした答えも、すでに翔一の心の中に浮かんでしまっている。分かってはいたことだが、実際に確信を得てしまうと、どういう気持ちでいればいいのか分からなくなってくる。

 

「……そう、ですか。やはり、お空は……」

 

 結論としては、お空は『アギトの力』を間違いなく宿してしまっているようだ。翔一の中に輝くアギトの力が、お空に近づく度にそれを事実だと共鳴する。そしてその度に、共鳴した力がさらにお空を苦しめてしまう。

 このままアギトの進化が進めば、お空はやがてアギトとして覚醒するだろう。翔一はこれまで多くの超能力者を見てきた。アンノウンに殺されてしまった者たちもいた。アギトに覚醒しても、その力に耐え切れず自らの命を絶つ者もいた。翔一の姉も、恩師の息子もその一人だ。

 

「……すみません。俺が油断したばっかりに、お空ちゃんたちまで巻き込んじゃって……」

 

 自分が自分ではなくなる恐怖と喪失感。記憶を失い、自分が誰かも分からなくなった過去を持つ彼には、アギトとして覚醒してしまうことの恐怖が分かってしまう。

 翔一の世界に住まう人類は皆等しくアギトの光を宿している。それはどこまでもありふれたものであり、力の有無は超能力者としてアギトとなるべき兆候を見せているかいないか、という些細な違いでしかない。

 だが、幻想郷の歴史においては違う。お空もお燐も妖怪であり、人間ではない。生まれ持ったアギトの光などあるはずがない。翔一はパンテラス・ルテウスを撃破した際に溢れた光が、お空たちにアギトの力を宿させてしまったと推測した。

 あの怪物には、翔一の知っている『神』の力が加わっていたように見えた。一度は奪われたアギトの光が解放された際に、翔一に戻ると同時にその場にいたお空までその力を取り入れてしまったのだろう。

 幻想郷の住人ではない外来人である翔一には、人ならざる妖怪がアギトの力を手にしたらどうなるかなど想像もつかない。彼自身、アギトの力を知り尽くしているわけではないのだ。

 

「同じく光を浴びたお燐には、特に変わった様子は見られません。おそらくは、そのアギトの力がお空の八咫烏の力と反応し、良くない影響を及ぼしているのでしょう……彼女も妖怪としてはあまり大きくない存在です。二つも異物を取り込めば、身体への負担は相当なもののはず……」

 

 さとりは翔一の罪悪感を誰よりも共感する。暗い想いは翔一らしからぬ、悲しげな思考となって第三の眼に流れ込んでくる。

 間欠泉地下センターでの戦いにおいて、パンテラス・ルテウスから解放された白い光を浴びたのはお空もお燐も同じだった。監視用の術式と怨霊の報告から得られた映像は、アギトやアンノウンの姿こそノイズがかったように曖昧だったが、あのときの光がアギトの力であるなら、お燐もそれを浴びている。

 そのはずなのに、アギトの力を由来としているであろう異常な高熱にうなされているのはお空だけだった。さとりはその理由として、彼女が内包する『八咫烏の力』こそが原因ではないかと推測する。異教同士の神の力が反発してしまい、お空を苦しめているのではないか、と。

 

「……お空は、強い子です。八咫烏の力だって、自分のものにすることができた」

 

 大切なペットとして。かけがえのない家族として。さとりはお燐や動物たちと同様、お空のことも信頼している。

 神から与えられた八咫烏の力を得て今までの自分を超越したお空は、新しい自分をすぐに受け入れてくれた。ならばきっと、アギトに力にも負けないはず。彼女自身の意識をもって、その力に打ち勝ってくれるはずだ。今のさとりにはただ、それを祈ることしかできない。

 

 そこで不意に、コンコンと扉を叩く音が聞こえた。さとりと翔一は思考をやめてそちらの方に意識を向ける。さとりの言葉を受け、開かれた扉から顔を出すお燐の顔は、どこか懐疑的だ。

 

「さとり様、お空の様子が落ち着きました。今は眠ってるみたいです」

 

「そう。ありがとう、お燐」

 

 お燐は今までずっとお空の傍にいてくれたのだろう。親友があれだけ苦しんでいるのを見て、お燐も心を痛めている。さとりには、そのことが明確な答えとして見えてしまう。

 第三の眼を思わず人に向けてしまうのは、(さとり)という種族が生まれもった(さが)のようなもの。

 

「……津上さんもお疲れでしょう。食事は客室に用意しておきます」

 

 さとりはお燐が部屋を出たのを確認し、翔一に告げる。

 思えば、間欠泉地下センターに現れた怪物から地霊殿の敷地内に現れた二体の怪物まで、彼にはアギトとしての力を行使させ続けてばかりだ。

 すでにアギトである男、津上翔一。そして、やがてアギトに至るであろう少女、霊烏路空。それに加えて、お燐までもがアギトの力の一端を宿してしまった可能性が高い。

 

 古くから知っている者の中に知らない力がある。愛した家族(ペット)、子供たちと言っていい者たちが、自分の知らない存在になっていく。

 アギトになる、ということはどういうことなのだろう。他者との交流を避け、不器用に生きることしかできなかったさとりは、自身が微かな羨望を覚えたことに気づいていなかった。

 

◆     ◆     ◆

 

 地底には昼も夜もない。太陽の光が差し込まぬこの地で、時計もなしに時刻を把握するのは困難を極める。この環境に馴染み、地底の妖怪として地盤の下の変わり映えのない昼と夜を楽しめる者たちを除けば、だが。

 この地底に生きる妖怪たちは、無意識のうちに目を覚ましている。本能に刻まれた時間感覚が正しい規律で妖怪たちの身を突き動かす。

 地底の妖怪である彼らがそこから目にすることはできないが、この天盤の上たる地上には爽やかな朝日が昇る時刻。地上においても地底においても、今は正しく『朝』と言えた。

 

 地底で最も巨大な屋敷である地霊殿の一室に、一匹の妖怪鴉が眠っている。

 八咫烏の力を宿し、今はさらに異なる光を宿してしまった妖怪の少女。さとりのペットの一匹であるお空は、大きな寝台(ベッド)の上で翼を畳み、明滅する胸元の眼に苦しみの声を上げていた。

 

「ぐっ……ううっ……!!」

 

 脈動する心臓のように、ドクンドクンと明滅する八咫烏の眼を左手で押さえる。気休め程度にも休まらない苦痛に身体を震えさせ、汗でびっしょりと濡れた服を纏っているというのに、お空の全身に燃えるような高熱がその身にさらなる苦痛を与える。

 お空が苦痛に悶える度にベッドが軋む。自分の中で暴れる二つの力のどちらを憎めばいいのか分からない。今、爪を立てているのは、慣れ親しんだ方の力ではなかったか。

 

 全身の筋肉が熱く震える。八咫烏の眼の赤い光が激しく明滅する。

 突如、腹に感じた奇妙な感覚。溢れんばかりの白い光がお空の部屋を染めたかと思うと、次の瞬間、お空の腰には神秘的なベルトが現れていた。

 それは翔一がアギトへの変身に用いるものと同じ、オルタリングと呼ばれる真紅の帯。お空の身体に現れたのは、紛れもなく『アギトの力』の象徴とも言える輝きのベルトだった。

 

「お空、起きてる? ……って、うわっ! 何これ、どうなってんのさ!?」

 

 親友のために食事を持ってきたお燐が控えめに扉を開ける。彼女が見たのは、腹部のベルトから部屋を染めるほどの膨大な光を放っているお空の姿。慌てて食事を机に置き、お空が横になっているベッドに近づく。

 その苦しみ様は先日よりも辛そうだ。お燐はせめて水を飲ませてやろうと持ってきたコップを差し出すが、すぐに払い除けられる。

 激しく動いたせいでお空はベッドから転げ落ちてしまった。濡れた黒い翼は、雨に打たれたように艶やかな光沢を反射している。

 床に制御棒を叩きつけ、お空は自らの異常な体温で蒸発する翼の汗と床に零れたコップの水の蒸気を纏いながら、なんとかお燐の前に立ち上がった。ひどく苦しそうに喘ぐお空は胸を押さえ、溢れる力の渦に天を仰ぐ。

 お燐には、両腕と翼を広げるお空の胸の眼が、どこか助けを求めているように見えた。

 

「うわぁああああっ!!」

 

 アギトの力による全身の異常発熱と筋肉組織の痙攣(けいれん)、思考を光に染める頭痛が限界に達し、お空は吼える。胸の八咫烏の眼が真紅の輝きを強く放ち、同じく腰のオルタリングも白い輝きを激しく解き放った。

 その圧倒的な眩さに顔を覆うお燐。光が静まり、目を開けたお燐は、少しづつ異形に変わりゆくお空の姿に息を飲む。

 服を含んだ全身の皮膚は濡鴉(ぬれがらす)の羽めいた漆黒に染まっていく。八咫烏の眼を湛えた豊かな胸は黄金の装甲に覆われていく。肩や手足は金と銀の装甲に。大柄な体格に見合わぬ可憐な少女の顔は、龍の如き黄金の双角と赤い複眼を備えた『アギト』としての顔に変わっていく。

 

「うっ……あ……ああ……」

 

 焼けつくような熱気と蒸気の中に佇む長身の影。そこにいたのは、お燐のよく知るお空の姿ではなかった。

 内なる光の力を発現させた人類の進化種、アギトの基本形態たるグランドフォームの姿に酷似している。――否、人間ならざる『妖怪』の身にして光の力を覚醒させてしまったその姿は、本来の意味でのアギトですらない。

 萎縮した黒い翼は背中の強化皮膚と同化している。溢れる妖怪の力を無理やり押さえつけるかの如く張り詰めた力はいかにも窮屈そうだ。

 右腕の制御棒はアギトの力と溶け合ってしまったのか、黒い皮膚と金の装甲に覆われた右手と化している。おそらくは力と一体化してしまい、五本の指を持つ右手そのものが制御棒として定義されたのだろう。

 お空が至ったアギトの姿の中でも一際目立っているのが胸の中心部。津上翔一が変身したアギトは、その胸部にワイズマン・モノリスという制御器官を設け、超常的なアギトの力をコントロールしていた。――しかし、今のお空にはそれらしきものが見受けられない。

 胸に輝くのは、依然として赤く光る『八咫烏の眼』だ。お空は制御器官の代わりに、太陽の象徴である八咫烏の力を剥き出しにした状態のまま、アギトとなってしまったのだ。

 

 アギトの力。八咫烏の力。本来交わるはずのない二つの世界の神性が、お空という妖怪の肉体を借りて一つの力と捻じ曲がっていく。光と光。太陽と太陽。その性質は似て非なるもの。反発し続けた先に現れたのが、この『八咫烏の眼を持つアギト』だった。

 胸に八咫烏の眼を宿しているため、本来アギトの力を制御するためのワイズマン・モノリスがそこにはない。今、二つの力は完全に無秩序な状態にある。

 不幸中の幸いなのが、お空の──アギトの頭部に輝く二本の角だ。彼女の体内に宿る八咫烏の力によってパワーが阻害されているせいか、そのクロスホーンの輝きは全開していない。

 

「お……お空……その姿は……!?」

 

 ぐらりと猫背気味に立ち尽くす金色の戦士。その姿がさっきまで親友のお空だったことを、お燐は現実だと受け止めきれない。

 それでも、この目で見たことは間違いなく事実であるのだ。お空は今、津上翔一と同じアギトの姿になっている。超越肉体の金を誇る、グランドフォームの形態に覚醒している。

 

「はぁぁああっ……」

 

 八咫烏の眼とはまた違った色の赤い複眼がお燐の姿を正面に捉えた。だが、そこに彼女の意思はない。深く息を吐き、白銀の大顎から吐息を零す。

 お空は自らの部屋の床を勢いよく蹴り上げると同時、目の前のお燐に襲いかかった。

 

「お空……っ! しっかりして……! あたいが分からないの……!?」

 

 左手の黒い指先がお燐の首を締め上げてくる。指のしなやかさは少女特有のものであるが、そのパワーは桁違いだ。お空は元からパワーに自信のある妖怪だったが、アギトとなった今はその力がさらに強化されている。

 お燐がもし妖怪の身でなければ、妖力で身体を保護するのが少し遅れていれば、一撃で首を捩じ切られていたかもしれない。

 そんなことを考えている間もなくお空は右腕を振り上げた。見た目ではさほど筋力のありそうな腕には見えない細いものではあるのだが、その力は物理法則に囚われぬ神の領域。お燐の想像の及ばぬ神性が、アギトの右拳には込められている。

 そんなものをまともに受けてしまえば、どれだけ妖力で肉体を強化していたとしても、ひとたまりもないだろう。

 お燐は薄れる意識の中でお空の身を案じていたが、急に身体が楽になるのを感じた。

 

「ぐっ……ううっ……!」

 

 お空はお燐から手を離し、再び苦しそうに頭を押さえ始める。胸の八咫烏の眼は赤く明滅し、アギトの力を阻んでいるかのようだ。

 どちらかの力が強まればどちらかの力が苦しむ。そしてどちらが強くなろうとも、結果的にそのフィードバックは本体であるお空への苦痛となってしまっている。

 その場に倒れ込れこんだお燐は背後の壁に寄り掛かる形で、首を絞められ呼吸を制限された苦しみを忘れようと肺に酸素を取り込んだ。脳に染み渡る酸素のおかげで、少しづつ頭の中がクリアになっていく。

 妖怪の身であるが故か、強い力で首を絞められていたものの跡は残っていない。今は肉体的な苦痛より、親友に殺されかけたという意識の方がお燐の精神を苦しめていた。

 

 激しい頭痛にふらつき、頭を押さえながら窓際まで後退するお空。窓と言っても日光を差し入れるためのものではない。ただ単に、地霊殿の一室から等しく広がる地底の景観を見ることができる程度のもの。

 緩やかにアギトの変身が解けたのは、お空の意思か。それとも、八咫烏の力か。アギトの身体に圧縮されていた黒い翼が解放され、周囲に羽根を撒き散らす。

 生身の姿に戻ってもお空の意識は未だ安定していないようだ。右腕に戻った制御棒を一瞥(いちべつ)したかと思うと、お空は翼を広げ、窓を突き破って外に出る。羽ばたく黒い翼が地底の天盤を飛んでいき、やがて中庭から灼熱地獄跡へ向かった。

 付き合いの長いお燐には分かる。たとえ理性を失っていたとしても、お空が行きそうな場所は見当がつく。

 きっと彼女は灼熱地獄跡から間欠泉地下センターを経由し、『地上』へ向かおうとしているのだろう。かつて八咫烏の力を手に入れたばかりのとき、お空はその強大な力に増長して地上を灼熱地獄に変えてやると言っていた。彼女の本心は、再び活気に満ちた地獄の炎を見たいのだ。

 

「……っぐ、う……げほっ……! さ……さとり様に知らせなきゃ……!!」

 

 ようやくまともに呼吸ができるようになったお燐が小さく声を絞り出す。力の抜けてしまった身体をなんとか奮い立たせ、お空の部屋を後にした。

 少しでも体力の消耗を抑えるため、お燐は黒猫の姿に戻って地霊殿の廊下を駆け抜ける。生まれ持った動物の姿は、妖怪としての人に似た姿より動きやすい。こちらのほうが、生来の妖獣であるお燐にとっては楽に過ごせる。

 慣れ親しんだ主人の妖気を追い、素早く人間の姿に戻ったお燐は客室の扉を開け放った。猫の姿はお燐にとって楽だが、人の言葉を話すことができないという欠点があったためだ。

 

「さとり様っ!! 大変です! お空が金色の怪物になって、地上に……!!」

 

 部屋の中にいた翔一とさとりは互いの顔を見合わせ、真剣な表情で頷く。お燐の言葉を聞き、二人の疑念は確証に変わっていた。

 お燐の言葉からさとりが見つけた結論は一つ。間違いない。お空はアギトとして覚醒した。そこまでは推測できるが、まさかこれほど早い段階でアギトになってしまうとは。想定していたよりも遥かに進化が早い。

 八咫烏の力と反発し合い、進化が阻害される可能性もあったが、あるいはむしろ促進されてしまったのか。否、今は考えている余裕はない。一刻も早く、お空を連れ戻す必要がある。

 

「あたい、お空を探してきます! まだそんなに遠くには行ってないはず……!」

 

「待ちなさい、お燐!」

 

 お空の変貌と暴走に焦っている様子のお燐は、さとりの静止も聞かず、再び猫の姿になって部屋を飛び出す。すでに階段を飛び越えていってしまったのか、さとりは視界の端に二本の黒い尻尾の先が消えていくのを見ただけだった。

 さとりはお空を信じている。たとえ未知の力を取り込んでしまったとしても、自分を失わずにいてくれるはず。そう思ってはいるが、その過程で誰かを傷つけてしまうかもしれないという思いも拭い去ることはできない。

 さとりは本当は自分で彼女らを連れ戻したいと思っている。だが、本気の戦闘などほとんどしたことがないのだ。アギトと化したお空を救うことも、おそらくは彼女を狙うアンノウンへの対抗も難しい。自分が行っても、二人の役に立つことはできないだろう。

 少し逡巡したが、翔一を見る。彼の思考は、お空とお燐への心配に一切の葛藤さえも抱いていないようだ。

 自分には無関係だと思っていないのは、自分のせいで二人がアギトの力を宿してしまった、という罪悪感からだろうか。ともあれ、今のさとりにはアギトである彼を頼るしかなかった。

 

「……申し訳ありませんが、津上さん。二人のこと、よろしくお願いします」

 

 翔一はさとりの言葉に強く頷き、その部屋を後にする。間欠泉地下センターから灼熱地獄跡を経由し、この地霊殿に来たときのルートはすでに記憶している。中庭に停めてあるバイクを使い、もう一度あそこへ向かおう。

 さとりから地底の詳しい構造を教えてもらい、間欠泉地下センターから地上へ出られることを知った翔一。お空は、そこから地上へ出たのだと言う。

 お燐を追ってほしいと頼まれ、翔一は再び高熱の空気が満ち溢れる灼熱地獄跡へと戻っていく。常人ならば過酷すぎる環境かもしれないが、アギトとしての力を宿している翔一にとっては大した脅威ではない。

 地霊殿を訪れる少し前にも翔一は灼熱地獄跡に倒れていたのだ。今更、この程度の熱で死を予見することもない。彼の身には地獄の炎よりも遥かに強い、天の火が輝いているのだから。

 

「それにしても……津上さんの記憶にあったあれは……」

 

 一人、自分の部屋に残されたさとり。翔一の記憶に見られたアンノウンとの戦いの中に、さとりは見覚えのあるものを見つけていたことを思い出した。

 青い装甲。機械仕掛けの武装。人類の叡智を結集して開発されたであろう、おそらくはアンノウンと戦うための強化外骨格(パワードスーツ)らしき戦士の姿。

 動物たちが集めてきた残骸の中に、それらしきものがあったような、なかったような。さとりの記憶に走る青。その名も知らぬ鋼の鎧を、さとりは確かにその目で見た記憶がある。

 

 気づけば、さとりは考えるよりも先に地霊殿の地下倉庫へと向かっていた。

 

◆     ◆     ◆

 

 地霊殿の中庭に停めておいた銀色のバイクに乗り、翔一は同じく銀色のヘルメット越しに灼熱地獄跡を繋ぐ通路の先と向き合う。薄暗い地底通路の先に輝くのは、先日もアンノウンと拳を交わした間欠泉地下センターの最深部だ。

 エンジン音を響かせ、暗い洞窟の隙間を走っていく一機の大型バイク。それそのものは翔一が普段から使用している一般的な自動二輪車(オートバイ)でしかない。――今、この状態においては。

 

 バイクを走らせる翔一の腰に光が走る。赤い帯に黒いバックルを装うオルタリングは、バイクのシートに腰かけた状態の翔一の身体に現れ、ベルトとして定着した。

 オルタリングの鳴動、大地の鼓動を思わせる心音めいた駆動音と共に、翔一は思考を光へと導く。オルタリングの覚醒に必要なサイドバックルへの衝撃は不要。大地と、光と、火と風と。進む未来と一つになったような感覚。

 翔一は両手でバイクのハンドルを握ったまま、腰に巻くオルタリングに意思を届けた。

 

「変身!!」

 

 その一声をもって、翔一の身体は金色の光に包まれる。アギトとしての姿。グランドフォームの装甲に覆われ、翔一は赤い複眼で未来を捉えた。

 全身から放たれる超常の光、輝く『オルタフォース』の波動によって、翔一の身はアギトへ至る。溢れ出た光の力は彼のみならず、彼が乗っていたバイクにも変化を与えていた。

 

 翔一が生きる世界ではありふれた見た目をしていた銀色のバイクは、オルタリングから溢れ出るオルタフォースを浴びて、光の力に相応しい形へと姿を変える。

 銀の車体は赤と金色に彩られた神秘の装甲に。車体の前面を覆うフルカウルは黄金に創り変えられ、中心には六枚の角を広げた龍の紋章が刻まれていた。

 光の本能に従い、翔一が操る超常の機体。『マシントルネイダー』の名を持つこのバイクは、先ほどよりもさらに速度を上げて灼熱地獄跡と間欠泉地下センターを繋ぐ通路を疾走する。

 

「はっ!」

 

 マシントルネイダーを走らせる翔一は一度、その速度を緩めることなくシートを蹴って飛び上がった。アギトの身のまま、眼下で走るマシントルネイダーと同じ速度で素早く空中前転。それを引き金として、彼の意思は光に届いた。

 前後に大きく引き伸ばされるマシントルネイダーの車体。さながら空を飛ぶ龍の如く、赤と金の装甲は縦に長い身体に変わる。地を駆ける前輪と後輪は水平を向き、その回転を止めて車体を空中浮遊させた。

 シートの上に着地したアギトは両脚を前後に広げ、右手を正面に伸ばしながら左手を腰に添える。サーフボードめいた形状となったマシントルネイダーの上に乗り、翔一(アギト)は額のマスターズ・オーヴの輝きをもって、その機体に手を触れることなく超速の飛翔を遂げていた。

 

 この姿はもはや、常識におけるバイクという次元を超えている。天使の力を受けてアギトのための翼となったマシントルネイダー、その『スライダーモード』と呼ばれる形態は、翔一にとって頼れる手足の一つだった。

 かつて翔一がサソリに似た超越生命体、猛毒の針を持つアンノウンに殺されかけた際、突如として発現したマシントルネイダーの飛行形態。これは、闇の力の慈悲によって翔一に与えられた加護である。

 彼自身はその経緯を知る由もないが、その恩恵は本来の津上翔一の説得によるものだ。

 

「……! お燐ちゃん!」

 

 スライダーモードに変形したマシントルネイダーに乗り、翔一は視界に双尾を揺らして走る黒猫の姿を捉える。間欠泉地下センターを目指すその黒猫は赤い模様とリボンを装っており、翔一が知る妖怪の特徴を備えていた。

 翔一はその黒猫の背を優しく掴み、マシントルネイダーの後部に乗せる。座席などは存在しないが、車体を覆うオルタフォースの結界『オルタバリアフィールド』によって守られているため、彼女が疾走による風圧を受けることはない。

 お燐は急な浮遊感と視界に満ちる未知の輝きに困惑した。すぐに目の前に立っているのがアギトであることが分かり、慌てて人間の姿に変化する。人の身となったお燐の体重が急に加わっても、マシントルネイダー スライダーモードはバランスを崩すことなくお燐を受け入れた。

 

「お、お空……!?」

 

 アギトの背を見たお燐は一瞬、先ほど目にした、親友が変わり果てた異形の姿を想起する。しかし、その体格はお空とは似つかない。背中に押し込められた翼の意匠もなく、同じアギトながら特徴は別人のものだ。

 そこでお燐は混乱していた思考をようやく整え、津上翔一の笑顔を思い出した。最初に見たアギトは、翔一が変身した姿だった。となれば、この『アギト』も翔一が変身したものだろう。

 

「お燐ちゃん! しっかり掴まってて!」

 

 自らの背後を振り向かず、翔一は空を見上げながら車体後部に座るお燐に言う。間欠泉地下センターに辿り着き、眩い人工施設の光に目を閉じながらも、お燐は咄嗟にマシントルネイダーにしがみついた。

 直後、ふわりと感じる不思議な浮遊感。妖怪として空を飛んだときにも似ているが、不意に感じるとここまで奇妙なものなのだろうか。

 お燐は浮遊感と背中を引っ張られるように感じる重力、前方から瞼の裏を赤く焼く光の中、ゆっくりと目を開けた。

 ――お燐が最初に見たのは、晴れ渡る青空に高く輝く『本物の太陽』だった。その眩しさに目を背け、続いて目にしたのは見慣れた施設の壁。それが物凄い速さで下へと流れていく。

 

「うわっ……! な、なにこれ……っ!?」

 

 驚きに手を離しそうになったが、精一杯の力を込めて再び車体にしがみついた。

 お燐が乗せられ、アギトとなった翔一が繰る超常の機体、マシントルネイダー スライダーモードは、その車体を真っ直ぐ垂直に立たせ、深い縦穴として設計された間欠泉地下センターを昇っていたのだ。

 オルタフォースによって固定されたアギトはマシントルネイダーから落ちることなく、それを大地とするかのようにしっかりと両足で踏みしめる。

 数瞬の後、マシントルネイダーは車体の向きを水平に変えた。背中を引っ張られるような感覚はなくなり、お燐は車体から感じる下向きの引力、いつも通りの重力に安心して座り込んだ。

 

「すごい……!」

 

 慣れ親しんだ地底を抜け、今飛んでいるのは青空の下。有史以前よりこの星を暖めてくれた原初の太陽が輝く『地上』の(そら)である。これまで何度も地底を出て、死体を探すために地上を出歩いたことはあるが、ここまでの速度を体験したのは、お燐とて初めてのことだった。

 

「……あっ! お(くう)っ!!」

 

 マシントルネイダーの後部から地上を見渡すお燐の言葉で、翔一は速度を緩める。空中で旋回し、お燐の指す場所――翔一も感じられたお空の気配、自身と同じオルタフォースの波動を目指しながら、マシントルネイダーを地上へ向けた。

 巨大な山の近くに広がる広大な森。鬱蒼と生い茂る木々の傍に立つ小さな道具屋の近くで、お空らしき少女がエネルギーを圧縮しているのが見える。

 お空の近くには二人の人物がいるようだ。今のお空の状態では、二人は暴走に巻き込まれてしまう危険性がある。翔一はお燐にそれを伝えられ、急いでその場所へと向かっていった。

 

◆     ◆     ◆

 

 ひんやりと満ちる冷たい空気。それは、幻想郷ならざる外の世界。

 しかし、ここは幻想郷の住人たちが知る『外の世界』とは別の因果にある世界である。

 

 旧地獄でも地上でもない、どこかの場所。幻想の気配も感じられないほど、暗くひっそりと静まり返った森の中。ぼんやりと輝く光の球の前に佇むのは、神々しいまでに荘厳な装飾を纏った異形の怪物だった。

 この異形もまた、神たる闇の力によって創られた天使の一人。同じく神が創った人間たちから恐れられ、『アンノウン』と呼ばれている怪物である。

 頭部は鋭く獲物を喰らう猛禽の鳥獣、天空の王者たるタカを思わせる。全身に配された美しい羽毛は、この世のものではない。

 神に仕える天使の長、最も神に近い七大天使の一人に数えられる神の世界の神官。高位のアンノウンである彼は『エルロード』として、神の眠る『聖地』の守護を司っている。

 

 動物たちの君主たる天使(マラーク)を統べる大天使(エルロード)の存在。それらは、かつて人類にアギトの力を与えた大天使と同格の使徒。神を裏切り、人類から光の力と呼ばれた者は、今やエルたちの中では忌まわしきアギトの象徴とも言えた。

 人類に与えられた文明は火という知恵だ。それを司っていたのは『火のエル』というエルロードの一人。龍に似た姿を持っていたこのエルロードは、もはや神の世界にすら存在しない。

 

(テオス)よ……やはり肉体を失っているか……」

 

 タカによく似た姿を持つ高位の超越生命体、エルロードの一人である『風のエル』は、猛禽の爪めいた右手を伸ばし、虚ろに漂う神秘の光球に触れる。誰にともなく呟かれる声は男性とも女性ともつかない、(かすみ)のような色をしていた。

 神たる『闇の力』の肉体と同じく、風のエルも一度は肉体を破壊されている。神の愛した人間は、アギトの力をもって創造主に牙を剥いたのだ。

 それだけではない。闇の力にとって許せなかったのは、彼が人間からアギトの力を奪ったにも関わらず、力を失って『ただの人間』となったはずの人間からも、裏切られたことである。

 

 アギトならざる人間の攻撃で深く悲しんだ(テオス)は、愛する子供たちを、人類そのものを滅ぼそうと決めた。全人類をリセットし、もう一度、人類への愛を最初からやり直そうと、人智を超えた神の力を行使した。

 一人、また一人と自分と同じ顔を持つ人間と遭遇し、ドッペルゲンガー現象によって次々に命を絶っていく人間たち。やがて人類は自らの手で死滅を迎える。それを阻止すべく、光の力に選ばれたアギトは神の肉体を破壊。闇の力が現世に降臨するための身を蹴り砕いた。

 

 神はアギトを受け入れることができなかった。しかし、神が『アギトを滅ぼす者』として蘇らせた人間は曰く「人はアギトを受け入れるだろう」と答えを出した。人間の無限の可能性として、アギトはやがて人類に認められるという。

 それが人類の未来への答え。神は人類への愛を忘れることができず、その言葉を信じた。人類の歩む道を見届け、アギトさえ受け入れられるように。

 あの男が放った言葉が正しいのかどうか。自らが創造し、何よりも愛した人間という存在が何なのか。もう一度、その目で見守るために。神は人間の肉体を再び得ようとはせず、何の力も持たない霊体のまま神の世界へと消えた。

 人類の行く末を見守ると宣言した今の神には人類への悲しみはないだろう。そのはずであるのに、神は今、超常的なエネルギーの光球としてこの聖地で復活の瞬間を待っている。

 

「…………」

 

 ふと、風のエルは自らが守護する神の領域、聖地と呼ばれるこの場所に踏み入ろうとする愚か者の気配を感じ取る。

 この世すべてのタカという動物は、エルロードたる彼を模して創造された命だ。タカを遥かに凌ぐ眼を与えられた彼の視力は、森羅万象の一切を貫き、あらゆるものを見通すほど鋭い。

 

「ひっ……! ば、化け物……っ!!」

 

 風のエルの姿を見てしまった青年は蒼褪めた様子で腰を抜かし、慌てて逃げ去ろうと必死に立ち上がる。足がもつれてしまっているのか、上手く逃げ出すことができないようだ。

 

「……見たな。ここは聖地。人間の来るべきところではない」

 

 振り返った青年が見たのは神の造形を誇る神秘の長弓。風のエルが光の渦より取り出した白い弓は、聖地へ踏み入った者への神罰を執行するための『憐憫(れんびん)のカマサ』と呼ばれるもの。風のエルはそれを右手の指で引き絞り、憐れみを込めた光の一矢を放った。

 矢に射抜かれた青年は苦痛の声も上げず、自らが射抜かれたことにすら気づかず、その身をこの世から消失させる。

 声も、身体も、魂すらもそこには残りはしない。存在そのものが、矢による天使の干渉を受け、この世から消え去ったのだ。ただ、纏っていた衣服(・・)という証だけを儚くその場に残して。

 

「忌まわしきプロメスの火……人間(ヒト)の分際を超えてその先へ燃え移ったか……」

 

 風のエルの眼が見通しているのは物質的な地平だけではない。遥かな空を見上げ、その瞳に映るのは異なる空の並行世界。

 アギトの光。闇の力の子供たち。その神話は、風のエルやその他のアンノウンたちが降り立った世界にのみ。闇の力が人類を創造したという歴史すらも、今、風のエルが存在する『この世界』だけの過去である。

 無論、この世界を基準とする別の並行世界にも同じ歴史は存在している。ただ、大きく分けられた物語の尺度として、選ばれた『九つの物語』のうち、光と闇の神話を持つのがこの世界だけということ。

 笑顔と青空の世界にも、あるいは幻想郷の外の世界にも。可能性の道は繋がっていない。




超能力者でドッペルゲンガーといえば、やっぱりあの人。

次回、第12話『深秘的な超能力者』


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第12話 深秘的な超能力者

 幻想郷の人里から少し離れた山麓(さんろく)の平野に、鬱蒼とした広がりを持つ不気味な森が存在している。深い魔力と有害な瘴気に満ちたこの森は『魔法の森』と呼ばれ、よほどの物好きでもない限り近づく者はいない。

 そんな森のすぐ近くには、とある小さな古道具屋『香霖堂(こうりんどう)』が建っている。里でも森でもないこの場所は人間の領域と妖怪の領域、それぞれの中間に位置していると言っていい。

 

 そして、それを体現するかのように、この香霖堂を経営する店主もまた人間と妖怪の中間たる存在――『半人半妖』と呼ばれる人妖の混血(ハーフ)であった。

 若く見えても半妖の青年。見た目以上に長く生きている 森近 霖之助(もりちか りんのすけ) は今は店の外におり、従業員不在の香霖堂を背にして青と黒の東洋風(オリエンタル)な装束の裾を熱風に揺らしている。短く整った銀髪の隙間から覗く眼鏡(めがね)越しの双眸(そうぼう)は、どこか好奇心に光っているようだ。

 視線の先にいるのは霖之助(りんのすけ)自身も写真や伝聞以外で姿を見るのは初めての妖怪、旧地獄に住まうとされる霊烏路空だった。普段は地底で働いていると聞いていたが、その様子はどう見ても尋常ではない。()けつくような熱風を全身から発しながら、激しく苦しそうに息を荒げている。

 

「あれは地底の……確か『お空』と呼ばれている地獄鴉だったか。なぜ彼女が地上に……?」

 

 今は春だというのに目の前にいる核熱の地獄鴉が空気を熱し、夏のような暑さだ。霖之助は額に伝う汗の雫を拭いながら、外の世界から仕入れたストーブの熱を思い出す。冬にあれだけ重宝した暖かさなど比較にならないほど、お空の熱は遥かに強い。

 湿度の高い森の水分が蒸発していく。焼き尽くされる空気が渇き、眼球や口の中が乾燥していくのが分かる。

 霖之助の視界が白く染まったのは水蒸気によって眼鏡が曇ってしまったからだ。その隣で同じく白く曇った眼鏡を拭いて掛け直す少女もまた、目の前で燃え盛る地獄鴉に視線を注いでいる。

 

「地底の妖怪なんて珍しいんじゃない? ……でも、なんかヤバそうな雰囲気……」

 

 癖のついた茶髪に被る黒い帽子、近代的な(すみれ)色の制服とスカート。本来ならばこの幻想郷の住人ではない 宇佐見 菫子(うさみ すみれこ) だが、彼女はとある理由から眠っている間だけ()()()()からこの幻想郷に来ることができるという特殊な体質を持っている。

 その本体は外の世界の女子高生として、平日の昼間は学校の教室で、それ以外は自室のベッドで眠っているはずだ。

 

 夢を介して疑似的に幻想入りを果たしている菫子(すみれこ)。その原因は彼女が完成させていた外の世界のパワーストーン『オカルトボール』による都市伝説の具現化により菫子の『ドッペルゲンガー』が生まれてしまったからである。

 菫子が外の世界で眠りに就くと、幻想郷に菫子のドッペルゲンガーが形成される。ドッペルゲンガーの意識は外の世界で寝ている菫子の肉体に宿り、その意識は菫子が見るはずだった夢を見ている状態にある。

 つまり、今この幻想郷に存在している生身の菫子は外の世界の人間ではなく、その意識を宿したドッペルゲンガーというわけだ。とある人物にとって『夢幻病(むげんびょう)』と名付けられたこの症状を抱えたまま、菫子は今もこの幻想郷にドッペルゲンガーの肉体を伴って足を踏み入れている。

 

 かつて宇佐見菫子が幻想郷の存在を突き止め、博麗大結界を破壊しようとした『深秘異変(しんぴいへん)』からしばらく経つ。当初はただ幻想郷の中を調べたかっただけだったようだが、追い詰められた彼女は自らの命さえ散らす覚悟で幻想郷の秘密を暴こうとした。

 幻想郷にばら撒かれたオカルトボールを集めさせ、七つを手にした者を鍵として内側から結界を破壊させる。博麗の巫女や賢者たちの活躍によってこの異変は解決されたのだが──

 菫子は知らなかった。オカルトボールを七つ集めると願いが叶うという噂。それを流布した己が目論見とは別に、オカルトボールの力で噂や都市伝説が具現化する『都市伝説異変』が併発していたことを。

 

 深秘異変の黒幕である菫子は今もこうしてドッペルゲンガーとして幻想郷に現れている。彼女のオカルトボールにはまだ謎があったのだ。

 菫子が用意したものとは別のオカルトボールによる月の都の遷都(せんと)計画、さらに長らく解決されていない都市伝説異変の影響、残存したオカルトボールの力を第三者に利用されてしまったがために起こされたまた別の異変もあったが、そのどちらもすでに解決済みだ。

 菫子の本体は外の世界で眠っているにも関わらず、ドッペルゲンガーの肉体には菫子本体と共有された意識がある。最初のうちは実体を持たぬ精神だけの幻想入りだったのだが、いつの間にやら肉体を備え――気づけば幻想郷(ここ)で負った傷や疲労も現実で眠る本体に反映されてしまっていた。

 

「熱っつ……! 能力で防いでなかったら近づいただけで火傷(やけど)しそう……!」

 

 菫子は外の世界では珍しい幻想の力を持つ者、すなわち『超能力者』である。操る異能は念動力やテレパシー、発火や透視など多岐に渡る。生身の人間にしてこの幻想郷で生きていけるのは、彼女が持つその能力にあった。

 外の世界の人間として、外の世界に興味を持つ霖之助の店に度々訪れていた菫子。今回はたまたま運悪くお空の暴走に遭遇してしまった。

 

 精神を集中し、具現化した超能力の波動を目の前に圧縮する。触れずして物体を操るサイコキネシスの応用、霊力とも呼べる超自然的な精神エネルギーの力場を形成してお空が放つ膨大な熱波を防御している。

 彼女が持つ『超能力を操る程度の能力』は現実の物理法則を超越した特殊な概念ではあるが、それは一種の幻想として定義された。厳密に言えば外の世界の能力でありつつ、この幻想郷ではスペルカードルールに従うことのできる――弾幕ごっこを行える『能力』として認められている。

 

「これではさすがに、弾幕勝負どころじゃなさそうだな……」

 

 菫子の隣でお空の熱波から身を守る霖之助もまた、超常の力を宿した存在だ。外の世界の常識的な人間である菫子とは違い、彼は幻想郷の住人たる怪異の血統、先天的に人間と妖怪の血を分けた半人半妖の種族である。

 幻想郷でも特に珍しい人妖の混血。霖之助は少女たちの遊びである弾幕ごっこに興じることはないが、自力で弾幕を放つことぐらいなら造作もない。

 爆発的な熱風を浴びて顔をしかめながら、片腕を上げ顔を守る。見たところ相手にはまともな状況判断ができるだけの理性が残っているようには見えない。まずは一度、多少手荒な真似をしてでも落ち着かせてやらないことには、弾幕勝負(スペルカードバトル)の申し出も聞き届けてくれないだろう。

 

「ぐっ……うっ……」

 

 いざとなれば菫子の超能力で無力化してもらおう――と考えている霖之助の目の前で、熱波を放つお空の身がぐらりと揺れた。

 周囲の気温が微かに低くなったように感じる。白煙を立ち昇らせるお空は熱を鎮め、剥き出しにしていた八咫烏の力を抑え込んで限界を迎えたのか、霖之助たちに直接的な被害を加える前に力尽きたようだ。

 幸い、まだ息はある。その身体は余熱を帯びてかなり高温なものの、先ほどまでの地獄の熱波に比べれば大分落ち着いてきている。灼熱を放つ脅威が去ったと言えば安心できるが、言い換えれば目の前で少女が倒れたのだ。お空を見つめる二人の表情には、別の心配の色が浮かんでいた。

 

「あ、あれ? 倒れちゃった? もしもーし、大丈夫?」

 

「どうやら気を失っているみたいだね。……よほど体力を消耗していたんだろう」

 

 倒れたお空を気遣う菫子に霖之助が言葉を返す。

 ほんの少し前まではあれだけ高温だったこの周辺の気温は、魔法の森が保つ湿度のおかげか元の空気に戻りつつあった。苦しんでいたお空の表情も安らいでいるように見える。どうやら力を使い果たし、眠ってしまったらしい。

 倒れた少女を介抱するべく、近づこうとする二人を仰ぐ一陣の風。森の湿気を乗せた不快な風の中に、霖之助と菫子は見知らぬ光を見る。

 光が消えたその先にはさっきまでマシントルネイダーの姿として空を翔けていた車体――ではなく、外の世界にありふれた見た目の銀色のバイクが着地していた。そこから降りた青年と少女がお空に駆け寄っていき、地底に住む火猫の少女、お燐が親友であるお空に声を掛ける。

 

「お空っ! しっかりしてよ!」

 

 もはやそこに倒れているのは、ただ一人の妖怪の少女だ。お燐は心配そうにお空を抱き抱え、語りかけた。お空の体温は恒常的に高いが、今は平熱と言っていい。暴走の影響はどうやら落ち着いているようだ。

 翔一はマシントルネイダーを着地させた時点でアギトの姿から生身の姿へと戻っている。通常のバイクに戻ったこの車体には、今は飛行能力はない。

 地霊殿で聞いたお燐の言葉を思い返す。彼女はお空が金色の怪物(・・・・・)になったと言った。その変貌を直接見たわけではないが、アギトの力を宿してしまった者が至る金色など言うまでもなく一つしかない。翔一は、お空が自分と同じ、あの姿(アギト)に至ってしまったと確信せざるを得なかった。

 

「……君たちは彼女の知り合いかい? 君は……見たところ外来人のようだけど」

 

 魔法の森、入り口近くの古道具屋──香霖堂。この店の店主たる霖之助は、お空を追って現れたであろう二人の来訪者に訝しみの声を投じる。

 一瞬だけ見えた青年の光は気のせいだっただろうか。霖之助には、外来人らしき服装の青年がさっきまで金色の怪物の姿をしていたような気がしていた。あるいはそれは、怪物と呼ぶには流麗で、戦士のように見えたかもしれない。

 菫子もそれに気づいたようだが、今はそれよりも目の前に倒れている少女をなんとかするのが先決だ。外来人の青年と、おそらくは地底から来た猫の妖怪に対し、霖之助は再び口を開く。

 

「まぁ、事情は後で聞こう。彼女をこのまま、ここに寝かせておくわけにもいかないからね」

 

 倒れた妖怪に加え、一人の人間と一匹の妖怪を香霖堂の中に招き入れる。香霖堂には売り場の他に霖之助の居住スペースも設けられている。使っていない部屋は倉庫代わりにしているが、道具を端にどければ使えるはずだ。

 霖之助は人間でも妖怪でもあり、そのどちらでもない。妖怪を退治する責任も、人間を襲う義務もない。あるのはただ、一人の男としての優しさと、店主としての知的好奇心だけだ。

 

◆     ◆     ◆

 

 魔法の森と人間の里の中間、森の入り口近くに建てられた異国風の建物。幻想郷で唯一、外の世界の道具を取り扱う香霖堂の奥で、翔一は自己紹介を兼ねた状況の説明をした。

 

 幸い、この店は来客があまり多くはない。人間と妖怪の境界にあればその両方を相手に商売ができると考えたが、実際はそのどちらもあまり近づく者はいないようだ。それでも、一部の常連客はたまに訪れることはある。品物を買っていく者は少ないが。

 お空の身を案じ、お燐は香霖堂の奥で眠っている彼女に付き添っている。熱も下がり、落ち着いた表情で眠るお空はアギトの力を宿す前と変わりない安らかな寝顔を見せていた。胸に輝く八咫烏の眼も、安定した緋色のままだ。これなら、近いうちに目を覚ましてくれるだろう。

 

「……なるほど。アギトの力にアンノウン……か。にわかには信じられないが、菫子くんはどうだい? 君は、外の世界では現役の女子高生なんだろう? そういった話は何か聞いていないか?」

 

「女子高生は関係ないと思うけど……うーん……特に心当たりはないかなぁ」

 

 翔一の話を聞き、訝しみながら思考を巡らせる霖之助。売り場に三人分の椅子を用意して会話をしているが、来客など滅多にないため問題はない。

 慣れ親しんだ外の世界に想いを馳せながら、菫子は翔一から聞いたアギトやアンノウンについてのことを考えてみる。自分のいた外の世界では彼の言うような怪物の存在など見たことも聞いたこともなかった。

 オカルト好きな菫子ならそんな話を聞けば覚えているはずである。古今東西の都市伝説を調べているつもりだが、アギトやアンノウンといったものに関しては記憶にない。

 

「ちょっと待って、ググってみる……って、そうだ。ここ電波通ってないんだった……」

 

 アンノウンは人間の潜在的な特殊能力を発現させた『超能力者』をターゲットとして人を襲う怪物らしい。しかし、本物の超能力者である菫子は翔一の話す事柄についてまったくと言っていいほど何も心当たりがなかった。

 外の世界から幻想郷に持ち込んだ最先端の携帯端末、愛用のスマートフォンを操作し、それらについて検索しようとしたものの、外界から隔絶された幻想郷には外の世界の電波など通っているはずがないのだ。当然、圏外扱いとなり、インターネットへの接続さえままならない。

 

「……な、何よ。他人(ひと)のスマホ、あんまりじろじろ見ないでよ」

 

 物珍しそうにスマホの画面を覗いてくる翔一に驚き、菫子は自身の胸に画面を当てて溢れる電子の光を覆い隠した。別にやましいものを見られているわけではないのだが、他人にスマホの画面を覗かれるのはなんとなく居心地が悪い。

 否、正確には彼はスマホの画面ではなく『スマホそのもの』に興味を持っているようだった。まるで外の道具に執着する霖之助のように、興味深そうにそれを見つめている。

 

 霖之助はその様子に、どこか奇妙な既視感を覚えた。菫子と同様、霖之助自身もその様子に自分と似たところを感じている。この青年は地底で幻想郷の話を聞き、自分が外の世界から来た外来人ということを自覚しているらしい。

 津上翔一と名乗った青年は紛れもなく外の世界から来た外来人で間違いない。しかし、外の世界と言っても幻想郷より遥かに広大な世界。菫子曰く彼女は『都内から遠くない』場所から幻想郷に来ているようだが、彼の場合は別の場所から来ているのだろうか。

 あるいは、彼がただこの『スマートフォン』なる道具を所有していないだけかもしれない。菫子からこの道具を見せてもらった際、この道具が『自身が持つ情報の無償提供』を用途とした道具であることは確認済みだ。

 霖之助は『見ただけで道具の名前と用途が判る程度の能力』を持っている。もっとも、この能力では名前と用途が判っても使い方までは分からないため、度重なる試行錯誤の末にようやく使いこなせるようになるか、諦めて他の道具と同じように商品として店に並べるしかないのだが。

 

 香霖堂に置いてある外の世界の携帯電話はまだ旧式のものばかりらしい。それを知ったのは、外の世界では最先端だという、スマートフォンなる携帯電話が普遍的に使用されていると菫子から聞いたからだ。

 品揃えは最新だと思っていた霖之助は軽くショックを受けたが、まだ見ぬ未知の外来品が多いと知って商売熱が再燃したのを覚えている。

 しかし、先の話の通りならば外の世界では今も菫子が使っているようにスマートフォンはありふれた道具のはず。そこまで物珍しがるほどのものではないということは、菫子の反応からも明らかだ。霖之助はそれを疑問に思い、菫子のスマホに興味を示している翔一に問いかける。

 

「僕は幻想郷(こっち)の住人だから興味を惹かれるけど、外来人の君にとっても珍しいものなのかい?」

 

「だってすごくないですか? まだ携帯も普及したばかり(・・・・・・・・・・・・)なのに、こんなに高性能だなんて!」

 

 嬉々として、笑顔で霖之助に語る翔一。その言葉を聞いて、テーブルの上にスマホを置いた菫子は思わず目を丸くした。

 幻想郷と外の世界の時間の流れは共通である。たとえ結界を隔てた別の世界だとしても、外の世界が春であれば幻想郷にも桜が芽吹き、外の世界が冬を迎えれば幻想郷にも雪が積もって季節は巡る。それらは幻想郷も外の世界も同じはず。

 外の世界は今は西暦2020年。幻想郷は一見は明治時代の文化を保ってはいるが、実際はただ精神面で成熟した人間たちが博麗大結界の創設当時、すなわち幻想郷が外の世界と隔絶された当時の様式を続けているだけだ。

 紀年法こそ西暦や和暦ではなく『第135季』と呼ばれているものの、意味としては外と同じ『令和2年』を表している。外の世界と同様、今は『西暦2020年』ということに変わりはない。

 だからこそ、菫子は翔一の発言がおかしいことに、すぐに気づくことができたのだ。

 

「普及したばかりって……いつの時代の話? 2020年じゃスマホなんて珍しくないでしょ?」

 

「に、2020年? またまた、そんな冗談ばっかり! だって、今は2003年じゃ……」

 

 幻想郷に住まうわけでもなく、眠ることで幻想郷に来ている菫子は外の世界について、この幻想郷で誰よりも馴染みがある。何気なく翔一に告げたつもりだったが、翔一はそれを冗談だと受け取ったようだ。

 再び外から持ち込んだ愛用のスマホを手に取る菫子。幻想郷ではインターネットに繋ぐことはできないが、バッテリーさえ残っていれば多くのことができる。

 画面を点け、菫子は翔一にそれを見せた。ロックされた待ち受け画面には菫子が撮影したであろう写真が浮かび、そこに刻まれた日付にはしっかりと『2020年』の表記がされている。

 

「……マジ、ですか?」

 

 どうやら冗談ではないらしいと知って、翔一は笑顔を失った。震える声で問うも、菫子はさも当然のように頷いている。津上翔一は令和などという元号を知らない。彼は紛れもなく平成の人間であるのだ。

 すべての始まりとなったあかつき号事件は、彼にとって西暦2000年の出来事。そこから記憶を失ってとある家族に保護され、2001年から2002年まで、アギトとして、超能力者たちの命を狙うアンノウンと長い戦いを続けてきた。

 ある冬の日、闇の力と呼ばれるアンノウンの盟主を退けてから一年。翔一は2003年において、イタリアンレストラン『ΑGITΩ(アギト)』を経営しながら料理の腕を振るっていた。

 

 そのはずなのに、津上翔一は気づけば旧地獄の灼熱地獄跡に迷い込んでいた。翔一はさとりから幻想郷や妖怪について聞いているが、ここが外の世界と隔絶された空間、幻想郷と呼ばれる場所ということしか把握していない。

 ようやく自分と同じ『外の世界』を知る者と出会えたと思ったら、どうやら彼女は自分とは別の時代、翔一から見て未来の世界から来ているようだ。

 少なくとも翔一はそう考えている。しかし、正確にはその認識は正しくないと言える。なぜなら外の世界は菫子の認識通り西暦2020年の時代であり、この幻想郷もそれに対応した第135季の時代だからだ。

 菫子にとっても幻想郷にとっても西暦2020年は『今』であり、決して未来などではない。

 

「じゃ、じゃあ外の世界……って言うのかな。そっちで昔、未確認生命体事件とか超能力者を狙った不可能犯罪とか、いろいろありませんでした? 結構、大騒ぎされたと思うんですけど」

 

 かつて発生した未確認生命体事件。それが収束してから二年の月日が流れ、今度は未確認生命体を凌ぐ『アンノウン』が現れた。続けて起きたこの凄惨な事件による死傷者は多数に登り、翔一にとっては現在である2003年でもその傷跡は深い。

 ニュースでも新聞でも絶え間なく報道されている出来事。翔一が闇の力を退けて以来、彼の知る世界にアンノウンは出現していないが、それでもあの事件が忘れられてしまうことはきっと永遠にないだろう。

 警察は不可能犯罪の元凶たるアンノウンの存在を公表していないため、それらが認知されていないのは仕方がないかもしれない。

 それでも、怪物としての姿は多くの人が見ているはずだ。普及したばかりの携帯をもって情報を共有すればあっという間に噂は広がる。たとえ警察が情報を秘匿していても、実際に怪物を見た人は存在している。噂話に敏感な女子高生ともなれば、怪物のことは聞き及んでいるだろう。

 

「未確認……生命体? 何それ? UMA(ユーマ)とか? そういう話は好きだけど、本当に実在するの?」

 

「……えっ?」

 

 菫子の答えは、翔一の予想を掠りもしなかった。似たようなもんなら幻想郷にもいそうだけど、と付け加える菫子はアンノウンどころか『未確認生命体』さえ知らない様子だ。その答えに愕然(がくぜん)とし、翔一はより混乱を深める。

 未確認生命体といえば、翔一だけでなく彼の知っている日本では誰しもが知っているような一般的な話だ。アンノウンとは違い、警察による情報の秘匿も一切ない。ニュースでも未確認生命体関連の報道がされ、厳重注意が呼びかけられたほど。

 いくら菫子の言う通り今が本当に2020年だったとしても、たった20年程度で風化されてしまうほど小さな事件ではないはずだ。かつて未確認生命体が存在していたことなど、子供でも知っている常識である。

 アンノウン出現の2年前。1999(・・・・)年に現れた未確認生命体は、その一種である『第4号』によって完全に滅ぼされた。

 第4号も姿を消してはいるが、4号の戦闘データを基に開発されたとある強化外骨格(パワードスーツ)。その装着者が、警視庁の『人間』として共にアンノウンと戦ってくれたことは記憶に新しい。

 

「俺がいたところでは確かに……あったはずなんだけどなぁ……」

 

 どうやら、違うのは『時代』だけではないらしい。翔一が経験したアンノウンの事件だけでなく、おそらくは当時の全国民が経験した未確認生命体の恐怖さえも、菫子は聞いたことすらないのだという。

 あれだけの事件が社会的に消されたとはあまり考えにくい。とすれば、本当に起きてはいないのだろうか。翔一は確かにそれを知っている。一度は記憶を失っているものの、すでにすべての記憶を完全に取り戻している。

 翔一のいた日本では確かに、間違いなくその事件は起きたことだ。未確認生命体もアンノウンも虚構などではない。彼の世界にとっては紛れもない現実として記憶と記録に残っている。

 

「あなた……本当に『外の世界』の人間なの?」

 

 菫子は真剣な顔で翔一に問いかけた。2003年などと与太話だと思っていたが、翔一の反応を見る限り本当のことのようだ。

 この幻想郷では外の世界では考えられないようなことが起こる。

 現に、菫子が今この幻想郷に夢を見るという形で足を踏み入れていることがすでにその怪異の一種。幻想的な法則に、科学的な見地など意味を成さない。

 菫子にとっては幻想郷の存在が。翔一にとってはアギトとアンノウンの存在こそが。現実の常識を超えた『有り得べからざるもの』として定義されている。如何なるオカルトもオーパーツも、観測されてしまえばそれは現実に起こり得る可能性として認められてしまう。

 

 勘の良い菫子は気づいていた。外の世界と言っても、おそらくは一つではない。最初はただ結界に生じた何らかの不具合により『過去の人間』が幻想入りしてきてしまったのだと考えたが、彼の知る歴史と自分の知る歴史には乖離(かいり)がありすぎる。

 それが何を意味するのか。考え得る答えに辿り着いた菫子は一瞬だけ戦慄したような表情を見せたが、すぐに好奇心に満ちた顔で翔一を見た。

 この男は『西暦2003年』の世界から幻想郷に来ている。それもただ過去というわけではない。菫子の知る外の世界とは別の歴史を歩んだ、いわば『並行世界(パラレルワールド)』と呼べる場所から来ているのではないだろうか。

 そう考えればすべての理屈が一つの座標で交わる。アギトやアンノウンについても、未確認生命体についても、それらが存在した別の世界が存在すると言うのなら、菫子にとっての幻想郷、あるいは一度は足を踏み入れた夢の世界などにも通ずる異世界と呼べる場所の肯定ができる。

 

「……どうやら、彼も君と同様、真っ当な外来人ではないようだね」

 

 答えに辿り着いたのは菫子だけではなかった。霖之助もまた、同じく翔一と共にその仮説に至っている。

 外の世界の人間にしてドッペルゲンガーの肉体を伴い、この幻想郷に存在している菫子と同じく、並行世界からの来訪者と考えられる翔一も同様に、正規の手段で結界を超えていない。

 

 そのような外来人が確認されれば、影響は薄いとはいえ異変として定義されるだろう。霖之助もよく知る博麗の巫女、異変解決の専門家である博麗霊夢はすでに行動を始めているだろうか。いや、彼女のことだから異常に気づいていながら放置している可能性もある。

 この青年――津上翔一を博麗神社まで連れていくべきか迷ったが、彼の話によるとその『アンノウン』なる怪物は地底に姿を現したらしい。

 アギトの力を宿してしまった霊烏路空や火焔猫燐といい、アンノウンが地上にまで姿を現すかもしれない。

 霖之助も菫子も話こそ聞いてはいるものの、アンノウンを見たわけではないのだ。仮にそういった存在が地上に現れたとして、霖之助たちでは対処にも限界がある。まずはこの異変――並行世界から現れた外来人の状況について、もう少し情報を集めたほうがいいと判断した。

 

 そこまで考えて、香霖堂の奥の部屋から小さく光が漏れていることに気づく。霖之助は黄金の中に青白さを備えた光に何かを察し、慌ててその扉を開けた。

 埃っぽいが丁寧に片づけられた部屋。お空と呼ばれている地獄鴉の少女は変わらず横になっており、落ち着いていた様子の先ほどとは打って変わって、元の苦しそうな表情に戻って胸の()を押さえている。

 彼女が香霖堂の前に現れた当初とは違い、高熱の波動は放っていない。霖之助が部屋に入った時点で光はすでに消えていた。部屋から溢れていた光は今は見えないが、胸に輝く八咫烏の眼の中に二つの光芒(こうぼう)が渦巻いているのが見える。

 お空の力に感応(かんのう)してしまったのか、傍でお空の世話をしていたお燐も苦しそうに頭を押さえていた。間もなくして、お空の身体に覆いかぶさるように彼女も倒れてしまう。確か、お空と同様、お燐にもアギトの力が宿っているのではなかったか、と。霖之助は翔一の話を思い出した。

 

「これは……いったい……」

 

 霖之助に続き、翔一と菫子も部屋に入る。そこには高熱も光もなく、ただ二人の少女が意識を失って倒れているだけだ。少なくとも霖之助と菫子には、そうあるように見えた。ただ、それしか分からなかった。

 しかし、翔一には分かる。ここには膨大なまでのオルタフォースの波が溢れている。アギトの力そのものではないため、菫子たちにアギトの力が芽生えることはないだろう。

 

「お……くう……」

 

 なんとか目を開けたお燐が身を起こして小さく声を上げた。自身も苦しそうなのに、彼女は何より親友のことを心配しているようだ。

 翔一は一瞬、お燐の額に小さな黄色の石、結晶状の何かが浮かび上がったように見えた。

 この力の波動、歪んだオルタフォースには覚えがある。翔一と同様にアギトの力を宿してしまった者の末路。

 歪んだ形で覚醒してしまった『アギト』の(まが)い物。アギトならざるアギト。されど、翔一の知る男はその『歪んだアギトの力』を受け入れ、戦士として立ち上がった。

 愛する者を失い、居場所を失い、自分自身さえも失い続け、それでもなおアンノウンと戦う道を選んだ強き男がいた。翔一と同じく『アギトの力』を宿しながら、翔一のように完全な形でアギトに至らず、不完全な覚醒を遂げてしまった男。お燐は今、彼と似た力の波を持っている。

 

「何か……近づいてくる……」

 

 苦しみながら、うわ言のように口を開くお燐。お空は未だに目を覚ましていない。脳髄を走る光に顔を歪め、お燐はどこか、香霖堂の外に意識を向けていた。

 本人以外にそれを知る術はないが、この場で眠っているお空も同じようにその光を見た。魂の奥深く、意識の根底に、この世ならざる『何か』の気配が突き刺さるような感覚。

 

「……何か? 何か、とはなんだい?」

 

 霖之助はその言葉の意味を問おうとお燐の顔を見たが、彼女はすでに限界を迎えていたようで、再びお空の隣に倒れてしまった。

 しかし、彼女らと同じくアギトの力を宿す者。お空やお燐よりも遥かに長くその力と付き合ってきた翔一には、光の正体が分かっている。いつもなら光は『使徒』の出現地点を導いてくれた。アギトとなるべき四肢を伝い、神の使いたるアンノウンの居場所を教えてくれるはずだった。

 

「…………!」

 

 翔一の本能に告げられる光の啓示。アンノウンの出現を感知する第六感は、これまでにない反応を見せている。幾度もアンノウンを葬ってきた翔一でさえ、この感覚は今までとはどこか違うとすぐに理解することができた。

 本能のままに香霖堂を飛び出し、店の前に出る翔一。アンノウン出現の感覚に気づいているのはお空とお燐も同様だが、二人は慣れないアギトの力に適応し切れず、身体を苛む苦痛の症状によって動けない。

 この光が示すアンノウンの出現地点はすでに把握している。それでも、それを認識するのに遅れが生じた。なぜなら、この光は、アンノウンが『今この場所』に出現すると、翔一の本能に伝えてきているからだ。

 アンノウンの気配は、この頭上にある。いったいどうやって、この何もない空間座標に現れるのか。翔一が知らないだけで、奴らは無を超越して現れる神の如き御業を備えているのか。

 

「ど、どうしたの? 急に飛び出して――」

 

 翔一の行動に驚いた菫子も彼を追い、香霖堂の外に出る。霖之助も同じく、奥の部屋でうなされるお空とお燐のことも気がかりではあるが、翔一の反応が気になって外に出てきた。

 

 目の前に佇む翔一の背中は、何もない空間に対して強く警戒している。

 空を見上げ、鋭く天空を睨む翔一の目線。その先に、菫子と霖之助は超常の『光』を見た。

 

「あれは──」

 

 空を歪める灰色の裂け目。境界を揺るがす極光の膜壁(まくへき)。ただ、そう形容するしかないもの。されど、翔一にだけは分かる。この光は、その奥からアンノウンの気配を強く放っている。

 

 ――『灰色のオーロラ』はついぞ初めて、『アギト』の前に姿を現していた。

 

◆     ◆     ◆

 

 この幻想郷を楽園たらしめる博麗大結界の境界。最東端には結界の要となる博麗神社が存在するが、その(うしとら)の方角――すなわち北東の座標には幻想郷の『賢者』とも称される大妖怪の屋敷が建てられているとされる。

 しかし、その屋敷を見たことがある者は誰一人としておらず、そこが真に幻想郷であるのかさえ定かではない。あるいは、それは外の世界ですらない空間なのかもしれない。

 

 境界を操る能力を持つ妖怪の賢者、八雲紫はこの最果ての屋敷に人知れず住まい、博麗大結界の隙間(スキマ)から幻想郷を見守っている。見上げる虹霓(こうげい)の彼方には歪んだ光がオーロラのように揺らめき、どこかこの世ならざる不気味な美しさを思わせた。

 バラバラだった法則はやがて一つの座標に束ねられていく。今ここに輝く光はすでに二つ。そこに、また別の光が(いざな)われようとしている。

 晴れ渡る笑顔。帰るべき居場所。その二つの法則の中に飛び込もうとしているのは、どこまでも無鉄砲な青臭さ――有体(ありてい)に『バカ』と言い切ってしまってもいいような、三番目(・・・)の光だ。

 

「……このまま順調に進んでくれるといいのだけど」

 

 一つ目の光はクワガタムシに似た双角の紋章となって輝いている。二つ目の光はその隣に、六枚の角を左右に広げた龍の顎を模して輝いている。浮かび上がった三つ目の光はまたしても世界と一つになり、緩やかに幻想郷に取り込まれていくようだ。

 紫はその光景を満足げに眺めながら、未だ境界の向こう側に揺れる『残り六つの世界』に想いを馳せていた。

 幻想郷はあらゆる『幻想』を受け入れる『器』として定義されている。

 だが、幻想ならざる現実を引き入れようとしてしまえば、その負荷は物理的な情報として、幻想郷の概念を根幹から揺るがすことになるだろう。

 招く意思は守護のために。されど悪意はその隙間を知っている。それでも紫は深く愛したこの世界を、自らの子も同然な幻想郷を危険に晒してまで、この道を選ぶしかなかった。

 

「…………」

 

 自嘲気味に微笑み、扇子で口元を覆う紫の意思を汲み取るかのように、屋敷の奥から静かに現れたのは、彼女の忠実な(しもべ)として仕えている一人の女性だった。

 金髪のショートボブに被る白い帽子は、頭頂部から突き伸びた獣耳を受け入れる双角じみた膨らみを持つ。身を包む白い道士服には藍色(あいいろ)の前掛けを装い、ゆったりとした法衣の(すそ)を揺らしながら、主人である紫の傍に寄り添う高位の妖怪。

 腰からは金色の尻尾が九つ、扇状に伸びている。高潔さと妖艶さを併せ持つ九本の尻尾は、この妖怪が中国に伝わる最強の妖獣たる『九尾の狐』としての風格を証明している。

 

 策士の九尾、 八雲 藍(やくも らん) は主人の顔色を(うかが)うように隣に控え立った。

 深く余った白い袖を正面で合わせ、拱手(きょうしゅ)の振る舞いをもって佇みながら、主と同じく最果ての虹霓(こうげい)を神妙な顔で見つめている。

 冴える金色の瞳は溶け合う境界を憐れんでいるのか、あるいは主の心境を想ってしまっているのか、ここまで彼女らの狙い通りに事が進んでいるにも関わらず、その表情は浮かない。

 

「次の世界は少し奇妙な痕跡(・・・・・)が見られるようですが……本当によろしいのですか?」

 

 拱手を崩さず、落ち着いた様子で(らん)が憂う。彼女は紫に仕える従順な『式神(しきがみ)』として、その意思のままに行動しているだけだ。ある程度のことは聞かされているものの、紫は道具たる式に自身のすべてを話すことはない。

 式神とはいわば一種のソフトウェアのようなもの。既存の妖獣などに式という術を被せ、術者の駒として必要な情報をインストールして使役する妖術の一種。いかに古今東西に名を馳せる大妖だろうと、八雲紫の手にかかれば式神(どうぐ)の身に甘んじるほどの存在でしかないのだ。

 

 その上で、紫に疑問を投じてまで藍が危惧しているのは、これから『法則の統合』が始まろうとしている世界の不可解さだった。

 これまで接続した二つの世界は異なる過去を持つ単純な並行世界として定義できた。しかし、三つ目の世界――次に接続される世界は、同じ座標の物語を『作為的に』円環(ループ)させ続けてきたような形跡が残っている。

 まるで幾度にも渡って時間の逆行(・・・・・)を繰り返したような。異なる過程をもって別の結末を望み、何度も何度も同じ時間をやり直してきたような。

 その結果として再編された確定世界、といった表現が当てはまる。うっすらと見える筆跡じみた世界の影は、さながら別の時間軸で起こった因果律の鏡像とも言うべきものだろうか。

 

「他に方法はないもの。それに、この程度の『歪み』さえ取り込めないようなら、もとより私たちの計画に光が差すことはない。……(らん)、あなたは手筈(てはず)通り、『彼ら』を導いてちょうだい」

 

「……かしこまりました。(ゆかり)様」

 

 高度な計算式を操る藍は人智を超えた演算処理能力を備えている。数学に長けた彼女だからこそ、その世界の違和感に気づいたのだろう。そして、それほどの知能を持つ藍を式神として組んだのは他ならぬ紫自身だ。彼女とて、このことに気づいていないはずはない。

 紫の答えは当初と変わらず。藍の不安は拭い去られないが、それを表に出せば主への信頼と忠誠に傷をつけてしまう。

 藍はあらゆる妖怪の中でもトップクラスの実力を誇る九尾の狐でありながら、式神(どうぐ)としての自分に疑いを持つことは決してない。

 無論、紫がそう教育(プログラム)したからではない。八雲の名を与えられる以前からの意思が、己を遥かに超える力を持つ大妖怪、主人たる『八雲紫』という存在を、心から尊敬しているからだ。

 

「にゃあっ!」

 

 そのとき、静謐(せいひつ)な空間の中に突如響いた猫の鳴き声。数匹の野良猫たちを伴い、結界を超えてこの場に現れたのは、幼げな少女の姿をした一匹の妖獣であった。

 歪んだ光を飛び越え、紫と藍の前に軽やかに着地する。赤と白に彩られた長袖のワンピースにはいくつものフリルがあしらわれており、胸元を飾る白いリボンも含め、洋服でありながらその出で立ちはどこか中華風の装いだ。

 短い茶髪に被る緑色の帽子からは左耳に金色のピアスを着けた黒猫の耳が突き出している。腰から伸びる二本の黒い尻尾も同様、彼女が長い時を生きた猫の化生、すなわち『化け猫』であることの証である。しかして、その身には藍と同じく『式神』が()けられていた。

 

 凶兆の黒猫、 (チェン) は妖怪としては未熟だが、彼女は八雲紫の式神である八雲藍の式神として、二重の契約が結ばれている。橙の主である藍は自らも式神の身でありながら、高度な術式を組むことができる『式神を使う程度の能力』を備えているのだ。

 従来の妖獣であった頃の橙なら、おそらくはこの結界の隙間を見つけることさえできなかっただろう。だが、今は藍が構築した鬼神の式神を憑依させているため、高位の妖怪に並ぶほどの妖力を持ち合わせている。八雲の屋敷にいる主人への報告を行う程度のことなら造作もない。

 

「そちらの仕事も無事に終わったようね。……橙」

 

 藍の言葉に表情を引き締め、橙は黒猫の耳をぴくりと反応させる。

 丁寧に(ひざまず)いた状態から顔を上げると、橙の視界には共に信頼する二人の強大な妖怪の姿が映し出された。

 小さな背丈で見上げる紫色と藍色。幻想郷の管理者、その直属に当たる最強の妖獣。生まれも育ちも一般的な妖獣に過ぎないはずの橙が、これほどの存在と同じ星を見ることができているのは、ひとえに彼女が八雲藍という大妖の式として定義されているからに他ならなかった。

 

「はい、藍様。すでに三番目(・・・)の世界との繋がりが進行してるみたいです。それに伴い、その世界に閉ざされていたはずの『鏡の世界』が幻想郷の法則として取り込まれ始めました」

 

 橙の報告を聞き、狐色の九尾を揺らした藍が複雑な表情を見せる。それに反して、藍の隣で静かに扇子を畳む紫は嬉しそうに微笑んでいた。

 格調高い紫色の扇子を懐にしまい、三つの光が揺蕩(たゆた)う灰色の空を見上げる紫。光そのものは三つであるのに、揺らめく結界は万華鏡のように光を映し出し、無数の『影』を形作っている。

 

「……そろそろ頃合いね」

 

 紫はそれだけ小さく呟き、微かに目を細めた。

 先ほど扇子をしまった左手ではなく、今度は反対の右手でもって、美しく纏う神秘的なドレスの内側を探る。白く細い紫の右手が取り出したのは、氷のように青く研ぎ澄まされた長方形の物体だった。

 ある程度の厚みを持つ青い板状の物体には複雑な模様が刻まれている。中央で金色に輝く精巧な紋章(レリーフ)は、静かに獲物を狙う冷徹な(トラ)、あるいは『白虎(びゃっこ)』の顔を模しているようだ。

 

 それを見て、藍と橙もそれぞれ自身の懐からまったく同じもの(・・・・・・・・)を取り出した。藍は紫の傍に控えながら神妙な顔でそれ(・・)を見つめ、橙は敬愛する藍の傍へと駆け寄っていき、右手に持ったそれ(・・)を大切そうに握りしめる。

 この場に存在するそれ(・・)は全部で三つ。白虎が象られた板状の箱、数枚のカードを収納した『カードデッキ』と思しきもの。この道具もまた、幻想郷に――この世界の理にあるべきものではない。材質としては既知のものだが、その技術は本来この世界には存在するはずのないものだ。

 

「見届けましょうか。世界の接続、実像と鏡像の境界が交わる(さま)を──」

 

 三人の妖怪は青いカードデッキを手にしたまま、八雲の屋敷で最果ての虹霓(こうげい)を仰ぎ見る。接続された境界は偽りに満ちたもう一つの世界。さながらそれは合わせ鏡のように、どこまでも絶え間なく広がっている。

 不意に、風が紫の金髪を撫でた。願わくば戦いの果てに、()が見つけた答えをもう一度だけ問うことができるのなら。

 再び開いた因果を利用し、愛する幻想郷(せかい)に刃を向ける。それだけの覚悟を、とうの昔に決めている。紫の目的は、その願いはたった一つ。来たる崩壊(おわり)に抗うため。ただ――それだけだ。




なんか正義の系譜みたいな話になってしまいましたが、本当はもっとシンプルです。

次回、第13話 話31第『鏡像秘話』


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【 平成十四年の上海ドラゴン 】
第13話 鏡像秘話


A.D. 2002 ~ 2003
それは、信じる願いの物語。

戦わなければ生き残れない!



 人間の里からおよそ北東の方角に離れた位置。魔法の森に近しい山の(ふもと)に、流れる川の水を静かに湛えた『霧の湖』はある。真昼になると深い霧に包まれ、人妖を問わず視界を白く染められるのがその名の由来だ。

 視界不良のため、一見すると広大な湖に見えるが、実際にはそこまでの大きさはない。歩いて一周しても半刻ほどもかからないとされている。

 妖力を帯びているのか、棲息する生物も普通ではないことが多く、水辺を求める妖怪たちが集まりやすい。妖怪にとっては平和な湖でも、人間にとってはやはり危険な領域である。

 

 この湖には魔法の森や迷いの竹林などと同様、妖怪の他にたくさんの『妖精』が住んでいる。抽象的な恐怖が形を得た妖怪とは違い、妖精は自然そのものの具現。いわば生きた自然現象のようなものだ。

 たとえ個体が消滅を迎えても、自然が存在する限り何度でも発生(・・)する。故に、妖精という存在に死の概念はない。肉体が滅びたところで、ただ『一回休み』として処理されるだけ。真の意味で妖精が死を迎えるとすれば、それは幻想郷からすべての自然が失われたときだろう。

 

◆     ◆     ◆

 

 霧深い昼の湖の近く、その上空を仲良く並び、二人の妖精が飛んでいる。

 幼げな少女の姿をしてはいるが、彼女らも大自然の具現として、この幻想郷に長らく馴染んでいる幻想的な種族だ。

 二人のうちの一方は緑色の髪を左側で束ね、薄い黄色のリボンで結んでいる。白と水色の服に黄色いネクタイを結び、背中からしなやかに生える妖精の証、鳥とも蝶ともつかぬ美しい薄羽をひらひらとはためかせながら、特に急ぐわけでもなくゆっくりと湖に向けて羽ばたいていた。

 

「……チルノちゃん、なにそれ?」

 

 妖精の中でも特に強い力を備えた『大妖精』と呼ばれる個体にも関わらず、彼女はどこか遠慮がちに、自身と並び飛ぶ妖精に問う。

 大妖精もその名の通り、強大な妖精ではあるのだが――親友である隣の妖精に比べれば、その力は他の妖精とほとんど大差のない、あまりにもちっぽけなものだと自覚している。

 

「あたいにもわかんない。さっき湖の近くで拾ったんだけど……」

 

 大妖精の隣を飛ぶもう一人の妖精、 チルノ と呼ばれた少女は親友の隣を同じくゆっくり飛びながら、薄氷めいた妖精の羽をはためかせた。

 ウェーブがかった水色のショートヘアに青いリボンを結び、青い服に白いギザギザ模様のワンピースを纏っている。清涼的な冷たさを感じさせる外見に見合わず、その性格は突発的で刹那的な単純思考だった。

 手にした物体はついさっき手に入れたばかりのもの。金属質な長方形の箱に数枚のカードが収められているだけの、黒い何か。

 チルノはただ、珍しそうなものを見つけて興味本位で拾ってきただけ。行動理念は小さな子供と同じ。チルノが特別幼い思考をしているのではない。妖精という種族全体が、無邪気で自然的な存在なのだ。

 手の平ほどの大きさの黒い板状の箱、カードデッキ(・・・・・・)らしきそれには何も描かれておらず、それが何なのかもよく分かってはいない。

 考えながら、チルノは不意に思考を走った鋭い耳鳴りに顔をしかめる。微かに聞こえる程度の音の発生源らしき場所、視界の端に動く影を見つけ、向かう霧の先、湖の水面を見た。

 

「うわっ!!」

 

 その目に映った巨大な『影』。思わずチルノは驚きの声を上げ、手にしたそれを取り落としてしまう。霧の湖の(ほとり)、その上空で霧を裂いたカードデッキはやがてチルノの手元を離れ、湖畔(こはん)に建つ巨大な屋敷の敷地内へと消えていった。

 チルノは黒いカードデッキを落としてしまったことよりも、今は霧の湖に浮かんだ影の方に気を取られている。湖には(ぬし)が棲んでいるらしいが、彼女が目にした影はそれよりも大きい。

 

「ど、どうしたの?」

 

「びっくりしたー! なんか今、湖にでっかい影が……!」

 

 未だ驚愕に高鳴る心音を押さえ、震える指で湖を指すチルノ。大妖精もその先を見るが――

 

「……? 何も見えないけど……」

 

「あれー? 気のせいだったのかなぁ……」

 

 霧の湖に映った影は、もはやそこにはなかった。

 先の一瞬では確かに目にしたチルノでさえ、湖に影らしきものは見つけられない。目を凝らしてよく探しても、その影はついぞ現れず。

 おおよそ霧に映った影が光の角度で大きく見えたせいで、巨大な影と錯覚してしまったのだろう。大妖精の説明を受けたチルノはどこか納得いかない様子だったが、気づけば先ほど聞こえた奇妙な耳鳴りもなくなっている。

 すでに刹那の興味を失ってしまったのか、手にしていたカードデッキのことも、湖に浮かんだ謎の巨大な影のこともすっかり気にせず、二人は湖の彼方、霧の果てへと消えていった。

 

◆     ◆     ◆

 

 緑豊かな自然の中に清く澄み渡る霧の湖。その景観は幻想郷らしく水彩画のように淡い色をしているが、そんな中、風景画に一滴の血を垂らしたかのように、揺るぎなく高潔に、されど不思議と景色に溶け込む紅色(あかいろ)があった。

 この屋敷の名は『紅魔館(こうまかん)』という。かつて幻想郷にスペルカードルールが制定される以前に、外の世界から幻想として結界を超えた『吸血鬼』の居城。

 大きな時計台を備えた荘厳な外観も、日光の侵入を抑える特殊な構造の窓の縁も。見渡す限りの一面が、気高き真紅に染まっている。紅で覆う庭園の内側、美しく咲き誇る花畑だけを唯一の七色と認めるかのように。

 霧に包まれた洋館は鮮烈に紅く、その姿を湖に映し出しているにも関わらず。遠目からでは畔に建っているのか、湖上の島に建っているのか分かりづらい。

 空間そのものが歪んでいるのかと思わせるほど、(くれない)の楼閣は虚ろにその姿を主張する。

 

「…………」

 

 レンガ造りの塀の正面、大きく構えられた正門を守護する門番が一人。

 鮮やかな朱色の長髪を腰まで伸ばし、華人服とチャイナドレスを掛け合わせたような淡い緑色の衣装と人民帽を身に着けた女性。

 人民帽の正面には『龍』の文字が刻まれた金色の星を装っており、ドレスのスリットから覗く長い脚はしなやかに鍛えられ、強く大地を踏みしめている。

 静かに目を閉じ、腕を組んで門の脇に背を預ける 紅 美鈴(ホン メイリン) は、立ったまま穏やかな昼寝の一時を楽しんでいた。

 すやすやと寝息を立てながらも門番としての職務は放棄していない。彼女が持つ『気を使う程度の能力』により、眠っていながらも周囲の『気』を感じ取ることができるためだ。

 

 その頭上へ、先ほど妖精が落とした黒い板状の箱、名もなきカードデッキが飛来する。

 

「ぶっ!!」

 

 直撃。金属質な板状の箱が重力に従い落下した。

 長方形の鋭角が柔らかい帽子越しに美鈴(メイリン)の頭に突き刺さり、重さと硬さ、速さと鋭さ。それらすべての衝撃が、彼女の意識を覚醒させる。

 せっかくの昼寝(シエスタ)の時間も、突如として脳天に火花と散った痛みを受け、最悪の目覚めを迎えてしまった。寝起きはそれほど悪くない方だが、痛みで無理やり起こされれば是非もない。

 

「痛ったぁ……なんなの……?」

 

 いくら吸血鬼の館を守る妖怪の身と言えど、痛いものは痛い。足元に転がったそれ(・・)を拾い上げ、美鈴は頭を押さえながらそれを見た。

 やや厚みのある板状の箱は数枚のカードを収めたカードケースのようだ。ケースの四隅には銀色の線のような意匠が入っているが、中心に空いた余白には何の意匠も入っていない。

 美鈴は手にした未契約(・・・)状態の『ブランクデッキ』から一枚のカードを取り出してみる。

 

「カード……?」

 

 濃紺の水面に揺蕩(たゆた)う金色の文字が描かれた面を裏返し、恐らくは表面であろう絵柄に視線を注ぐ美鈴。デッキの一番上から取り出した一枚の『アドベントカード』には、どこか不気味な気配が漂っているように感じられた。

 渦巻く闇が中心に向かって吸い込まれていく絵柄。何かを封じ込めるために黒い穴に引き寄せるかのような、別の次元への静かな恐怖。

 カードの上部には『SEAL(シール)』と表記されており、それがやはり、何かを封印(・・)するためのものであるのだと示唆している。

 それは間違いなく、幻想郷の弾幕ごっこにおいて使われるスペルカードの一種ではない。美鈴はそのカードに何か良くないものを感じ取り、本能的にそれを再びデッキへと戻した。

 

 ふと、無名(ブランク)のデッキを見つめる美鈴の感覚が何者かの気配を感じ取る。この紅魔館を訪れる来客は少なくないが、感じられる気配の色から察するに、この辺りに迷い込んでしまった不運な人間だろう。

 美鈴はチャイナドレスの懐にデッキをしまい、吸血鬼の館に近づいてしまった人間の気配を探り、接触を試みようとした。

 供物(くもつ)として(あるじ)に捧げるためではない。人間と親しみの深い妖怪の美鈴は、無辜(むこ)の人間を安全な場所まで案内してやることも門番としての仕事に含んでいる。

 紅魔館や自分に明確な敵意を向けてこない限り、わざわざその命を奪う必要もない。食事となるべき『人間の肉』は、幻想郷の管理者からしっかり提供されているのだから。

 

「参ったな……完全に迷ったかもしんない……」

 

 霧の湖を沿うように、青年はオレンジ色のスクーターのグリップを押して進む。同じくオレンジ色のヘルメットと黒いゴーグルを抱え、赤い服に水色のジャンパーを纏った青年は一人、見慣れぬ秘境を彷徨(さまよ)っていた。

 斜めに背負う黒いリュック、幻想郷らしからぬ近代的な乗り物といい、彼は紛れもなく結界の外の世界で生きていた外来人である。

 白い霧の中に鮮烈に紅く目立つ建物を見つけ、なんとかそこを目指してスクーターを押す外来人の青年。

 ガス欠を起こしているため、スクーターに乗って移動することはできない。そのうえサイドミラーは片方だけ折れてしまっており、今は無理やり応急処置でくっつけている状態だ。

 

「携帯も全然繋がんねーし、また編集長に怒られるかな……」

 

 博麗大結界により外部との繋がりは断たれている。電波は届かず、携帯電話などを用いた通話は為し得ない。

 幻想郷ならざる世界から来た 城戸 真司(きど しんじ) は大学時代に世話になった先輩、今の上司である男の顔を思い浮かべながら呟いた。

 彼は新人ジャーナリストとして、未知のネタの取材に来ていた。ネットニュースの記者として働いているが、まだ未熟な身。少しでも有用な記事を書いて、自身が務める『ORE(オレ)ジャーナル』の社名を上げるために。

 珍しい『金色の(カニ)』の取材に来たはずなのだが、気づけばまったく見知らぬ幻想の郷に迷い込んでしまっていた。右を見ても左を見てもどこか分からず、携帯は常に圏外を表記している。そこでようやく、人が住んでいそうな建物を見つけたのだ。

 周囲の風景に見合わぬ毒々しい紅色は一瞬だけ目を疑ったが、慣れてしまえば美しい。あまりに浮いた洋風の色合いであるのに、不思議と周りの景色と調和が取れているようだ。

 

「あのー、もしかして外来人の方ですか?」

 

「おわっ!? びっくりした……!」

 

 紅魔館の前を訪れた迷い人らしき青年に、美鈴は声をかける。

 この悪魔の館を見ても恐れるどころか、むしろ興味深そうに時計台を高く見上げていた。見慣れぬ服装は、結界を超えた外来人の特徴を思わせる。

 死角から不意に声をかけられ、驚いた真司は洋館の前に立つ女性の顔を見た。正門の前に立っているところから見ると、この女性は恐らく門番の役割を担っている人物なのだろう。

 

「いや、ちょっと取材に来たんだけど、なんか迷っちゃったみたいでさ……」

 

 取材のためとあれば基本的には敬語を使う真司だが、美鈴の親しみやすい笑顔と振る舞いに、気づけば砕けた素の口調で話していた。

 思えば、ここ最近は不運の連続だった。せっかく編集長に取材を任せてもらえたと思ったのも束の間、その途中で大学院生らしき青年とぶつかってしまいスクーターを倒されるわ、見ず知らずの占い師にも「今日の運勢は最悪」と言われた挙句、停めておいたスクーターをガラの悪い男に蹴り倒されるわ……思い返してみても、占い通り最悪だったと言わざるを得ない。

 

 黒いコートの男に道を阻まれ、口論になりかけたこともあったが、そのとき立ち寄った喫茶店は悪くない雰囲気の店だった。初めて来た店であるはずなのに、どこか懐かしさを覚えるような、紅茶専門の喫茶店。

 それから店を出た後、ガス欠で動かないスクーターを引っ張っていたら道に迷ってしまい、今に至るため、やはり未だに最悪の運勢は覆っていないらしい。

 あのときの占い師の男は「俺の占いは当たる」と言っていた。なるほど、確かにここまで的確に運勢を占える実力があるのなら、そう言えるだけの十分な自信にも頷けるというもの。

 

「取材?」

 

「ああ、俺、城戸真司。一応、ネットニュースの記者。……まだ見習いだけど」

 

 懐から取り出した名刺を差し出し、真司は自身の名を告げ、名刺を受け取った美鈴は訝しげにその文字を読む。

 幻想郷にはネットも携帯電話も存在しない。モバイル配信形式のニュースサイトなど、幻想郷の住人である美鈴には伝わるはずもない。

 しかし、真司が口にした取材や記者といった言葉から、それがどういったものかは察することができる。幻想郷にも『新聞』という概念はあるのだ。

 山に住む天狗の一種、黒い翼の『鴉天狗(からすてんぐ)』たちは古くから幻想郷に生きる古参妖怪の代表として、新聞という形で情報の伝達を行っている。

 もっとも、内容はほとんどゴシップ記事のため、まともに読んでいる者はあまり多くはない。紅魔館が新聞を求めるのも、情報のためではなく掃除用具として便利だからである。

 

「OREジャーナル……天狗の新聞みたいなものですかね」

 

 長く切り揃えられた茶髪を掻き分け、頭を掻く真司の耳に、聞き捨てならない言葉が届く。

 

「天狗? ……天狗!? ちょっと待って! この辺、天狗が出んの!?」

 

 思わず美鈴の顔を二度見する真司。神秘的な場所だと思っていたが、まさか天狗が存在するかもしれないとは。

 真司はこれまでも新人ジャーナリストとして、珍しい生き物、金色のザリガニや毛の生えたカエルなどを取材してきた。これから取材しようとしていた金色の蟹もそうだが、天狗と聞けばそんなものは軽く吹き飛んでしまう。

 寄り道になってしまうが、これは何としても取材を試みるしかあるまい。

 多少迷ったことも、電波が悪くまだ連絡ができていないことも、天狗のネタを持ち帰れば編集長も許してくれるはずだ。

 慌てて手帳を取り出し、取材モードとなった真司に微笑み、美鈴は優しく口を開く。

 

「まだ名乗ってませんでしたね。私は紅美鈴。見ての通り、この紅魔館の門番をしています。お望みなら里まで案内しますよ。人間がこんなところにいると危険ですので……」

 

 そう言って続けて、美鈴は外来人らしき青年――城戸真司と名乗った男に幻想郷についてを詳しく話した。妖怪や結界の説明を受け、真司は混乱しているようだったが、ここが自分の元いた場所とは違うらしいことを肌で実感したようだ。

 美鈴は自身も妖怪であると説明した。彼はまだそこまでの情報を頭の中で処理できていないらしいが、いきなり幻想郷に迷い込んだのならそれも無理はない。

 自身が門番を務める紅魔館のことも話す。吸血鬼が住み、魔女が住み、幻想郷でも特に恐れられる場所だと知ればその危険も理解してくれるはずだと判断したが、そんな美鈴の期待も虚しく、真司はむしろ天狗の他に吸血鬼もいると知って余計にやる気を出してしまったらしい。

 

「ええっと……紅魔館だっけ? ちょっとだけ中に入れてもらっても……!」

 

「ダメですって! お嬢様の許しもなく勝手に入れたら私が怒られちゃいます!」

 

 幻想郷についてだけならまだしも、つい紅魔館についても話してしまったのは失敗だったかもしれない。この男は、ここが吸血鬼の館だと説明を受けながら、命知らずにも単独で踏み入ろうとしているようだ。

 記者という者は幻想郷でも外の世界でも等しく厚かましいものなのだろうか……美鈴は比較的親しい鴉天狗の顔を思い出し、うんざりした気持ちになる。たまに居眠りすることもあるが、この身は紅魔館の門番。当主の許可もなく、ここを通すわけにはいかないのだ。

 

「お願い! そこをなんとか──」

 

 食い下がらずに両手を合わせて懇願する真司。

 天狗や吸血鬼が怖くないわけではない。それでも、仮にも真実を追い求めるジャーナリストたる人間として、その姿を世間に知らしめたいという想いがある。

 知りたい人がいるのならそれを調べて伝えたい。OREジャーナルの記事(ニュース)を読んでくれる購読者たちの願いを守りたいと真司は祈る。そのために、両手に小さな『願い』を込めた。

 

 あるいは、その微かな意志が引き金となったのだろうか。

 

 ――その直後、真司と美鈴の耳に、鏡が(こす)れるような不快な金属音が響く。

 キーンキーンと鼓膜を貫く激しい耳鳴りにも似た、高く冷たい金切り音。脳髄を駆け巡るヒビ割れたノイズ。それは頭痛となり、二人の意識に砕けた鏡の破片の如く鋭く突き刺さった。

 

「くっ……何、この音……!?」

 

 不快な耳鳴りに顔をしかめ、美鈴は頭を押さえる。

 突如聞こえた金属音に思わず手帳を落としてしまった真司も同様、謎のノイズに思考を苛まれているようだが、その表情は単なる不快感というよりもどこか怪訝そうなものだった。

 

「(……この気配(・・)……なんで俺……)」

 

 真司はその音を、ただ『音』としてではなく、何かの『気配』と認識した。

 それがなぜなのか自分でも分からない。こんな奇妙な音、これまで一度も聞いたことがないはずなのに。どういうわけか、自分はこの感覚をよく知っているような――

 

 その音に導かれるように、真司は無意識のうちにジャンパーの左ポケットに手を突っ込む。左手の指先に触れる冷たく硬い感触。入れた覚えのないそれ(・・)を掴み取り、この音の本質を、その物体の正体を確かめた。

 水色のジャンパーから取り出したのは、先ほど美鈴が手にしていたものと同じ、黒いカードデッキだった。

 真司がそれを知る由もないが、今この場に、カードデッキと定義されるものは二つ(・・)ある。しかし、それは美鈴のものとは少し違う意匠を持っているようだ。

 そのデッキには、中心に金色のレリーフが輝いている。無地だった美鈴のデッキとは異なり、強く雄々しく存在を主張する『龍』の紋章(エンブレム)と四隅に走る銀色のライン。手に触れる感覚自体は冷たい金属のものであるのに、その内には熱く燃える何かが込められているような気がする。

 

 真司はそれを初めて(・・・)手にした。少なくとも、この因果(・・・・)においては。今の真司には、その()を手にした記憶はない。

 そこへ流れ込む、閉じた因果(・・・・・)の記憶。失われたはずの彼の物語。

 この因果では始まることすらなかったはずの、無限に紡がれ続けた戦いの歴史。その一端、その最後の円環が、真司の中にあるはずのない感覚――輪廻の果てに消えた記憶を呼び覚ます。

 

「うっ……!!」

 

 頭の中を貫く記憶の奔流。合わせ鏡のように乱反射するそれらが真司の思考を掻き乱し、激しい頭痛となって絶え間なく押し寄せてくる。

 右手でこめかみを押さえながら、真司は身体中で確かめるその激しさに顔を歪めた。

 

「そうだ……俺は……」

 

 龍の紋章が描かれたデッキを握りしめ、鏡の向こうに忘れ去られた炎が今、再び燃え上がる。それは誰の記憶であるのか、いつの記憶であるのかは分からない。

 だがそれは確かに、どこかの因果で『かつて戦った』記憶として、真司の中で吼え立てる。蘇ることのなかったもう一つの歴史が。今この因果にはあるはずのない戦いの記憶が。13の願いを超え、朝焼けに包まれて。

 無限の鏡像、暗闇に映る鏡の中に、共に戦った龍の姿を見た──気がした。

 その姿を見たことさえないはずなのに、その存在は今、生身の彼の姿を『赤く染める』ための炎として。真司の想いに、強く抱かれたその『願い』に、すでに失われた因果を開く――

 

 金属音じみた耳鳴りが静かに消える。その直後、霧の湖を染める白の中に、巨大な影が浮かび上がった。深い霧に遮られてその全貌を視認することはできないが、美鈴の知覚はそれを巨大な気配として認識している。

 八本の柱を大地に突き立て、巨体を持ち上げる朧気(おぼろげ)な輪郭。それはやがて霧を突き破り、異形の巨影が姿を現す。

 霧の湖に映し出された影の正体は、人の身の丈ほどの巨大な『蜘蛛(クモ)』の怪物だった。

 

「な、なにあれ!? あんなもの、湖にはいなかったはず……!?」

 

 柱と見紛うほどの巨大な脚で身体を支え、霧の湖から這い上がり、美鈴たちの前に現れる規格外の化け物(モンスター)。金属的で無機質な装甲は生物らしさに欠け、どこか作り物(・・・)じみた印象を見せる。

 湖から這い上がった直後だというのに、その身体には一切の水気も帯びていない。

 

 それは鏡の世界に住まう鏡像の怪物。ある兄妹の願いが生み出した、『ミラーモンスター』と呼ばれる絵空事の守護者。されどその身に命はなく、彼らは常に生物として成り立つために、人間を喰らってその命を取り込み、己が糧とする。

 生みの親である兄妹にとっては守護者かもしれない。彼らにとっては被造物かもしれない。だが、鏡の世界を一歩でも踏み出せば、それは見境なく人を襲う捕食者でしかないのだ。

 

 真司はその姿を知っている。その目で見たことがあるわけではない。ただ、魂に刻まれた戦いの記憶が、頭の中に映像として浮かんでくるだけ。

 気づけば真司は考える前に動き出していた。紅魔館の前に停められた自身のスクーター。オレンジ色のボディを持つ車体に向き直ると、折れていない方のサイドミラーに真司の顔が映し出される。その表情は一介のジャーナリストらしからぬ、歴戦の『戦士』の顔だ。

 

 左手に持ったデッキを正面に突き出す。スクーターのサイドミラー、後方を確認するための小さな鏡に向かって、契約の証(カードデッキ)の正面が見えるようにかざす。鏡に映るデッキの紋章が、その龍の瞳が。鏡越しに真司の顔を睨んだような気がした。

 鏡の中の正面に鏡像として銀色のベルトが形成され、鏡面から実体化したそのベルトは回転しながら真司の腰に装着される。

 機械的な意匠を持つ銀色の帯――『Vバックル』と呼ばれるそれをその身に装い、真司は自らの腰を見ることもなく、鏡の中の自分を見つめたまま。

 デッキを持った左手を左腰に添え、手刀と伸ばした右腕を自身の左上へと高く突き上げた。

 

「――変身っ!!」

 

 迷いの霧を切り払う。虚ろな鏡を打ち砕く。強く発声するその一言と共に、真司は右腕を下ろし、左手に持った『カードデッキ』をVバックルに装填する。

 左側から勢いよく叩き込まれたデッキは正面を向き、ベルトの溝に固定された。同時に赤く輝くVバックルのシグナルを合図として、鏡の中の自分の姿が変わっていくのを目にする。

 

 いくつもの鏡像が真司の身に重なっていく。白く光る騎士の姿がその身に一つと収束する。身体は赤く鮮やかな強化スーツに彩られ、胸や肩は銀色と黒を基調とした甲冑めいた装甲に覆われていった。

 すべての鏡像を受け止めた真司の姿は、人の身を超えた超人の姿に。この身は決して、英雄などではない。ただ、正義なき戦いに身を落とした者たちの、悲しき願いという鎧。

 

 変わり果てた自身の姿を鏡と見る真司の表情は一切(うかが)い知れず。その顔は騎士の兜を思わせる鉄仮面に覆われ、格子状の隙間から覗く赤い複眼と口元のフェイスガードの存在だけが、微かに人間のための鎧として備わっていた。

 赤き戦士の頭部には契約の証として、燃え盛る龍の紋章が銀色に刻まれている。中心に赤い光を伴い、その紋章を伝って走る金色のラインは、さながら東洋の伝承に由来する龍のヒゲにも似た様相を持つ。

 真司が得たその鎧は、『仮面ライダー』と名付けられた争いの道具(システム)。カードデッキを持つ者だけに許された、正義なき願いの行使権。

 今この場に赤く立ち尽くす鏡の騎士こそ、真司のもう一つの姿である『龍騎(りゅうき)』の姿だ。

 

「あの……真司さん……ですよね?」

 

 突如目の前で変身(・・)を遂げた真司の姿に、美鈴は驚いていた。疑問に満ちた彼女の問いに、龍騎となった真司は答えない。彼自身、その姿と記憶、赤き炎の宿命に混乱しているようだ。

 

「……なんなんだよ……! ……どうしてこんな……!!」

 

 霧深い偽りの記憶が晴れていく。霞む景色を切り払うように、もう一つの記憶が蘇る。より強く、より鮮やかに、異なる世界で戦い続けた自身の姿を思い出す。

 鳴り響く金切り音、鏡像の怪物、鏡の中の世界。そして──仮面の騎士たち。

 城戸真司は再び(・・)絶望した。終わったはずのすべてが、今、頭の中に流れ込んでくる。誰が答えるわけでもない問いを繰り返すその口は、怒りや恐怖よりも困惑に打ち震えている。

 

 いくつもの願いを見た。いくつもの死を見た。たった一人の願いのために、たくさんの願いが巻き込まれ、たくさんの人が命を落とした悲しき戦いを見た。真司はそれを止めるために、踏み入った戦いの世界で炎と誓ったのだ。

 やがて真司は戦いの果て、現実の世界に溢れ出した無数の怪物を相手にするうち、小さな未来を守るために、その背に決定的な不覚を受けてしまう。

 薄れゆく意識の中で、真司は戦いの中で得た友に看取られ、その短く鮮烈だった希望(いのち)を儚く閉ざした。

 ――はずだった。

 しかし、今の真司はここに生きている。戦いのあった歴史と『戦いのなかった歴史』の二つが、真司の中に紛れもない記憶として残っている。さらには前者の記憶でさえ二つあるような、助けたいと思った者の同じ死を二度も経験したような──奇妙な感覚が頭から離れない。

 

「…………っ!!」

 

 拳を握りしめ、疑問に震える真司。龍騎の赤い複眼が、ぐらりと揺れる蜘蛛の脚を捉えた。金色の装甲を持つ蜘蛛の脚、あるいは爪にも見える銀色の柱が振り上げられ、龍騎となった真司の姿を見つめる美鈴の身へと迫る。

 真司はすぐさまそれに気づき、人の限界を超えた仮面ライダー(・・・・・・)と呼ばれる騎士の健脚で大地を駆けた。

 咄嗟に美鈴の前に立ち、蜘蛛の爪から彼女を守る。記憶に蘇るあのときと同じ。だが、今度は生身ではなく龍騎の姿をもって。守るべき命を抱きしめず、向かう怪物に視線を向けて。

 

「がはっ!!」

 

「真司さんっ!!」

 

 大質量を持つ鏡像の怪物、クモ型ミラーモンスターの『ディスパイダー』がその爪をもって龍騎を殴り飛ばす。紅魔館の塀に叩きつけられ、その外壁に鎧を打ちつけてしまうものの、変身していたおかげで致命傷にはならなかった。

 それでも生身であれば即死は免れなかったであろう一撃だ。身体が砕けるほどの激痛を全身に感じ、思わず苦痛に顔を歪める。

 美鈴は慌てて真司に駆け寄ろうとするが、ここで怪物に隙を見せればせっかくの彼の行動も無駄になってしまう。美鈴とて、幻想郷に住まう妖怪として弾幕ごっこ(スペルカードバトル)を可能とする身。本気の戦闘においても、人間とは比較にならない戦闘力を持っている。

 これほどの巨体を相手にしても、自慢の武術と弾幕を駆使すれば戦えるはずだ。

 

「……やる気なら、私が相手になるわ!」

 

 美鈴の闘志に気がついたのか、ディスパイダーはその巨体を美鈴に向けた。

 両手に込めた気の力を七色のエネルギーとし、美鈴は両手で円を描く。環状に配置された七色の光弾は虹を思わせる軌跡を描き、美鈴の前で煌びやかに回転。その輪の中心に右の正拳を突き、彩虹の弾幕をディスパイダー目掛けて射出した。

 着弾こそ見届けたが、本気の弾幕を炸裂させても微かに装甲を削る程度の効果しかない。これでは足りないと判断した美鈴は弾幕による攻撃を諦め、本領たる武術を試みようとする。

 

「くっ……!」

 

 だが、ディスパイダーは美鈴のその動きを許さない。吐き出された蜘蛛の糸は、美鈴の身体の自由を容易く奪ってしまった。

 全身を絡め取られ、身動きを封じられる。それだけであれば美鈴の力で糸を引き千切り、脱出できたかもしれない。問題だったのはディスパイダーが糸を口から繋いだまま、美鈴を湖の中に引き摺り込もうとしていることだ。

 美鈴は強く大地を踏みしめながら、なんとか蜘蛛の巨体と拮抗する。少しでも力を抜けば、そのまま相手の領域へ引き込まれてしまうだろう。限界まで張り詰めた蜘蛛の糸はよほど強靭なのか、これだけの力が加わっているのに、まるで千切れる気配さえ見せない。

 

 騎士(ライダー)ですらない女性が戦う姿。真司はそれを見て、龍騎として立ち上がった。

 龍騎の左腕に備えつけられた赤き籠手(こて)。無機質な龍の頭部を模した『ドラグバイザー』の上部に右手を乗せ、そのまま前方にスライド変形させる。展開したドラグバイザーの後部にはスリット状の認識機構(カードリーダー)が現れた。

 すかさず右手でVバックルに装填されたカードデッキから一枚のカードを引き抜く。デッキに入った数枚のアドベントカードのうちの一枚。これまで戦いの中で何度も行ってきた過程を踏み、その手に掴んだカードを翻す。

 ドラグバイザーに設けられたスリットにカードを装填し、龍の頭を元の形に戻した。

 

『ソードベント』

 

 召喚機(バイザー)の基部より聞こえてきた無機質な電子音声。男性らしき声を聞き届けると、龍騎の頭上、その虚空から何か(・・)が降ってくる。右手でそれを掴み取り、迷うことなく美鈴とディスパイダーに向かって走り出した。

 龍の紋章が刻まれた赤い柄。柳葉刀めいた銀色の刀身は龍の尾を思わせる鋭い切れ味を誇り、霧の湖に鈍く光を反射する。

 握りしめた『ドラグセイバー』を両手に構え直すと、真司は振り上げたその剣で蜘蛛の糸を両断した。

 張り詰められていたせいで断たれた糸の双方に勢いが加わり、美鈴はその場に尻餅を突く。対するディスパイダーは支えとなる力を失い、そのまま霧の湖へと落ちていった。

 

 湖の中へと消えるディスパイダーを見届け、真司はその場の地面に向けてドラグセイバーの切先を突き立てる。

 そのまま変わらず龍騎の姿でもって、自身の頬を両手で叩いて気合いを込めた。

 ガチャリと響く金属音。甲冑の擦れる音が鳴る。頭の中に霞がかった迷いや不安を切り払うため、真司は大きく深呼吸した。

 気持ちを落ち着け、冷静になった頭で霧の湖の水面を見つめる。揺らめく水面は境界となり、龍騎の赤い複眼にもう一つの世界を映し出している。

 湖の水面下。されど水中ならざる別世界。真司はこれまでも幾度となくその『世界』と接触してきた。もっとも、それも今となっては別の──失われたはずの因果における記憶だが。

 

「っしゃあっ!!」

 

 拳を固め、己を鼓舞する。迷う意思が世界を曇らせるのなら。憎しみを映し出す鏡がそこにあるのなら。この身を貫く情熱のベクトルをもって、壊すほど。

 理由は分からないが、真司は一度の死を経験してなお、新たなる因果に記憶を呼び覚ましている。背中に穿ち抜かれたトンボ型ミラーモンスターの針が肺を破り、喉から溢れる血の味までもが真司の記憶に蘇る。

 実際にはとある男の干渉により『戦いのない世界』という新たな因果が開かれているため、真司が死んだという事実はこの歴史にはない。

 それでも、自らの死を鮮烈に想起させるこの記憶は、真司が自らを生き返った(・・・・・)と認識するのに十分なほど奇妙なものだった。

 ついさっきまで生きていたはずなのに。当たり前の日常を生きて、ジャーナリストとして生活していたはずなのに。生まれてから今に至るまでの年齢分の人生すべてに、戦いなどなかったはずなのに。

 龍騎(・・)として戦ってきたもう一つの記憶は、紛れもなく真司の記憶として熱く燃える。

 

 果てなき希望(いのち)を、ここに燃やす。生きている限り、人は生きていられる。ならば、生前に抱き、果たせなかった願いにも再び火を灯すことができるはずだ。

 何度繰り返しても、何度同じことが行われようとも、もし再び『あの戦い』が起きようとしているのなら。その火中に飛び込み、何度だって――戦いを止めてやる。

 この大地を抉る一歩は、そのために。

 烈火の如く駆け抜け、その場に突き刺さったドラグセイバーの柄を握り直した真司は──龍騎は、霧の湖へと飛び込んだ。

 水面を入り口として鏡の中の世界、『ミラーワールド』へと向かう。この世すべての反射物、鏡はもちろんのこと、鏡面を持つものならなんであれ、鏡の世界と繋がっている。

 

 見渡す限りの鏡が張り詰められた一本道。現実世界とミラーワールドを繋ぐ境界の空間。そこにはたった一台、この『ディメンションホール』と呼ばれる次元の断層を通過できる、唯一のマシンが備え付けられていた。

 車体を支える前輪は小さく、後輪は大きい。赤いシートは大きく突き出し、展開された黒く半透明のキャノピーらしき屋根が高く上がっている。

 黒と銀の無骨な装いを持つそのマシンは、ただバイクと呼ぶには特殊すぎる形状だった。

 次元転送機『ライドシューター』のシートに座り、龍騎は起動するマシンの中へと取り込まれていく。

 騎士を乗せた赤いシートは低く下がる。持ち上げられたキャノピーはゆっくりと閉じ、龍騎の姿をライドシューターの中に包み込む。

 腰に装うベルト、Vバックルの両腰に設けられたハードポイント『ジペット・スレッド』にライドシューターから伸びる銀のシートベルトを固定。凄まじいスピードで疾走するライドシューターの車体が、ディメンションホールの一本道を駆け抜け、その先の境界へ消えていった。

 

◆     ◆     ◆

 

 ディスパイダーはすでに湖の中に消えている。それを追って湖に飛び込んだ龍騎も今はここにはいない。一人取り残された美鈴はどうすることもできず、ただその場に立ち尽くしていた。

 

「な、なんだったの……?」

 

 湖の岸に乗り出す美鈴。赤い鎧の騎士と巨大な蜘蛛は、この湖の中へと落ちたはずだ。それなのに、落ちる瞬間も、おそらくは戦っている最中であろう今も。水面には激しい水飛沫どころか、波紋の一つも浮かび上がっていない。

 あれだけの巨体なら微かに動くだけで水面は大きく荒れるはずなのに、霧の湖は不気味なほどに静かだった。

 それはあまりにも、いつもと変わらない霧の湖。さっきまで目にしていた騎士と怪物の戦いは昼寝がもたらした白昼夢だったのではないかと思うほど。己を疑って目をこすり、もう一度確かな意識でその湖の水面を見た。されど、水中にはやはりいつも通り魚が泳いでいるだけ。

 

「これって……」

 

 何度見ても水中(・・)には何の変哲もない。しかし、水面(・・)には明確な変化があった。静かに揺れる湖の水面に、湖を覗き込む美鈴の顔が映っている。その背後には木々や空、真っ赤に目立つ紅魔館も変わらず、その景色を鏡像として映し出している。

 ――そこに、二つ。あるはずのないものが映っていた。

 一つは、先ほど湖から現れた巨大な蜘蛛。そしてもう一つは、外来人たる城戸真司が変身したらしき赤い鎧の騎士の姿。

 それらがぶつかりあい、火花を散らし、戦っている様が鏡像となって水面に映っている。

 

「えっ……!?」

 

 思わず後ろを振り返ってみる。そこには相変わらず、豊かな木々と紅魔館があるだけ。龍騎もディスパイダーも、こちら側(・・・・)には存在しない。もう一度水面を見ても、それらは水面にしかいないようだった。

 美鈴は湖の水面に触れてみたが、微かに手が濡れるだけ。水面が波紋と揺れ、映る景色を歪ませる。その揺れも、()で戦っている彼らにとっては微塵も影響がないらしい。

 

 水面に映った自身の顔と向き合う美鈴は、そこで初めて気づいた。この水面は『鏡』となって周囲の景色を映し出している。ならば、ここへ飛び込んだ真司や蜘蛛の怪物は、鏡の向こう(・・・・・)へと至ったのだと。

 真司が龍騎への変身に際し取り出したカードデッキは、美鈴にも心当たりがある。紅魔館の門前で昼寝をしていたら、突如として頭上に振ってきた黒い板状の箱。それは今もチャイナドレスの懐にしまってある。

 美鈴はそれを取り出し、訝しむような目で何の意匠もないブランクデッキを見つめた。

 

「これが……関係あるのかな……?」

 

 本来ならば鏡の中の世界――すなわち『ミラーワールド』を認識できるのは、ある男により『仮面ライダー』に選ばれた者だけだ。

 そして、彼らは契約の証としてカードデッキを所有する。このデッキこそがミラーワールドを、ひいてはミラーモンスターの存在を感知するための証明であるのだ。

 

 美鈴は偶発的にこのデッキを手にしてしまったが、このデッキを持っている以上、彼女もまたミラーワールドを認識することができている。

 だが、偶発的にデッキを手に入れたのは消えた歴史における真司も同じだ。

 彼は仮面ライダーとして選ばれたわけではない。ただ、かつて仮面ライダーだった男の失踪事件を取材していた際に、たまたまデッキを見つけてしまっただけ。

 本来ならばミラーワールドになど関わるべきではなかった。ただジャーナリストとして、失踪事件を伝えるだけでよかった。ジャーナリストとして熱い心を持っていた彼は、その熱意ゆえに、触れてはいけない(せかい)に触れてしまった。

 真司は後悔していない。たとえ二度と後戻りできなくなろうとも、自分に戦う力があるのなら、人を守るために、助けるために戦いたい。己の願いのためでなく。人を襲う化け物(モンスター)と戦うためだけに、仮面ライダーとして戦う。龍騎となって鏡と向き合う。それが城戸真司の誓い――

 

 騎士たちの願い。正義なき戦いの果て。幻想の楽園は、捧げた祈りに再び鏡像を映し出した。




水色のバカ繋がりのチルノと真司。地味にアドベントとも関わりが深い。
でも、残念ながら龍騎と対応するのはチルノじゃなくて美鈴です。中華風の龍繋がりで。

次回、第14話 話41第『それぞれの願い』


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第14話 それぞれの願い

 霧の湖の畔に建つ真紅の洋館、紅魔館。吸血鬼の屋敷として知られるこの建物も等しく、幻想郷を映す『もう一つの世界』に存在する。

 だが、その姿は幻想郷の住人が見慣れた紅魔館ではない。

 屋敷に大きく構えられた時計台の文字盤も、バルコニーの装飾も、庭園を彩る花畑も。そのすべてが綺麗に左右反転(・・・・)している。鏡の中の世界――ミラーワールドに映し出された紅魔館の鏡像は一人の使用人の影も見せず、ただ静謐(せいひつ)なだけの空っぽの屋敷として紅く佇んでいた。

 

「ギシャアアッ……!」

 

 クモ型ミラーモンスター、ディスパイダーの身体が鈍く軋みを上げる。

 鳥も獣も人間も、妖怪さえもこの鏡の中の世界には存在できない。故に、ミラーワールドに意思を持って動くことのできる生物は存在しない。ただ、元より実像というものを持たないミラーモンスターたちを除いては。

 彼らは生物として定義されていない。命を持つこともない仮初めの形。守護者とあれと願われ、形作られた単なる『力』。そして、このディスパイダーの爪と剣戟を交える赤き鎧の騎士、龍騎もまた、同じくミラーモンスターと契約(・・)することで力を得ている。

 手にする赤の柳葉刀、ドラグセイバーも、ある()の尾を模して出現した鏡像の産物だ。

 

「おわっ……!」

 

 ディスパイダーの爪の一撃に打たれ、龍騎──真司が持っていたドラグセイバーは遥か遠くへと弾き飛ばされてしまう。隙を見せることなく続く連撃を防ぎ、失ったドラグセイバーには見向きもせず、反対側に転がって怪物と距離を取る。

 左の籠手として備え装った召喚機、ドラグバイザーを再び展開。デッキからカードを引き抜き、素早く装填する。取り出したカードには赤く燃える『龍』の姿が描かれていた。

 

『アドベント』

 

 ドラグバイザーから響く電子音声。直後、何もない青空を白く染める霧を突き抜け、炎の如き赤が飛来する。天を揺るがすほどの咆哮を高く上げ、うねり舞い降り龍騎のもとを目指すのは一体の龍。より正確に言えば、無機質な龍の姿をしたミラーモンスターだ。

 ライダーと契約したモンスターは野生のモンスターと区別され、主に『契約モンスター』と呼称される。龍騎の契約モンスターであるから龍の姿をしているのではない。名もなき騎士がミラーワールドの龍と契約し、赤い炎を伴って『龍騎』の名を得た、という因果が正しい。

 ディスパイダーと同じ由来の怪物でありながらその力の差は歴然だった。燃え上がる炎を口に湛え、それらを吐き出す無双の赤龍。

 次々に襲いかかる火球はディスパイダーの四肢を焼き払いながら地面に着弾し、その周囲を炎で満たしていく。炎に閉ざされたディスパイダーに、もはや逃げ場はない。

 

 その肢体はしなやかに長く。身体を染める赤は紅魔館の外壁よりも鮮やかな炎の色に。舞い降りた赤き龍――『ドラグレッダー』と呼ばれるミラーモンスターは、真司と契約して彼に仮面ライダーとしての――龍騎(・・)としての力をもたらした存在である。

 されど、契約は所詮、ただの契約に過ぎない。ドラグレッダーは真司に従属するわけでも、仲間として親しむわけでもない。

 ライダーが野生のモンスターを倒し、契約したモンスターに餌と供給する。その代わり、モンスターはライダーの戦力として使役される形で互いに協力関係を結ぶ。

 契約を違えれば共に戦ってきたモンスターといえど容赦なく契約者(ライダー)を喰らうだろう。その契約の証となるのがカードデッキ──ひいてはこの『アドベント』のカードというわけだ。

 

「なんか、変な感じだな……」

 

 こうしてドラグレッダーと共に戦うのは久しぶり――のような気がしていたが、実際は普通のジャーナリストとして生きてきた記憶が、龍騎として戦ってきた記憶と混ざっているせいなのかもしれない。

 無数のミラーモンスターを相手に、真司は命を落とした。しかし改変された因果によって、彼は仮面ライダーにならず、死ぬこともなくなった。

 どういうわけか彼には『戦いのない世界』の記憶と『戦いのある世界』の記憶がどこか混在している。最後の戦いをもって命を落としてからさほども経っていない自覚はあるのに、戦いのない世界における記憶も相まって、長らく変身していなかったような気もする。

 

 感傷に浸っている場合ではない。目の前で炎に揺れるディスパイダーにはまだ息がある。捕食者であるミラーモンスターを放置すれば、鏡面というどこにでもありふれたミラーワールドの出入り口から現実世界に干渉し、誰かを襲うだろう。

 早々に決着をつけるため、真司は再びドラグバイザーを展開する。デッキから引き抜いたのは、龍騎のカードデッキに描かれている龍の紋章と同じ絵柄を持つカードだ。

 開いたドラグバイザーにカードを装填、再び後方にスライドさせて召喚機を閉じる。

 

『ファイナルベント』

 

 カードを読み込み、ドラグバイザーが奏でる最後の宣告。変わらず無機質に響く電子音声を聞いた後、真司は両脚を大きく広げ、両腕を鋭く前に突き出す構えを取った。

 ドラグバイザーを備えた左手を上に拳と成す。開いた右手はその直下に添え、そのまま腰を深く落として両腕を回し、左腕は召喚機を正面に向け胸の前に。右腕は龍の(くび)の如く肩と掲げる。ゆっくりと顔を上げ、真司は龍騎の赤い複眼で眼前の蜘蛛を捕捉した。

 周囲を舞い昇る無双の龍はその牙を炎に染め、回転しながら龍騎を包む。

 ミラーワールドの騎士たち、ミラーモンスターと契約した仮面ライダーたちが誇る最大の必殺技。それは騎士(ライダー)守護者(モンスター)が一体となり、持ち得る力を合わせて放つ最強の一撃だ。

 

「はぁぁぁあっ……!」

 

 熱く燃える炎の無双龍、並外れた力を持つドラグレッダーと契約した龍騎が唸る。常人を遥かに超えた仮面ライダーの身体能力でもって、真司は高く空へと跳躍した。

 それを追うドラグレッダーの影を纏いながら、灼熱(あか)い血を感じる。この身体を焦がして。龍騎は蒼天の果てに舞い踊る。龍と共に、炎となる。

 鋭く突き伸ばした右脚を蜘蛛に向け、拳を握りしめる。背後から解き放たれたドラグレッダーのブレス──息と呼ぶには鮮烈すぎる炎を全身に受け、真司は自らの右脚を咆哮と願った。

 

「――だぁぁぁぁああああッ!!」

 

 炎と共に突き進む龍騎の一撃。切り札となる『ファイナルベント』を解き放ったその蹴撃を追うドラグレッダー。叫ぶ真司の声に重なり、ドラグレッダーの咆哮が響く。

 龍騎のファイナルベント【 ドラゴンライダーキック 】はディスパイダーの肉体を燃やし打ち砕き、激しく炎と爆発した。

 燃える装甲は跡形もなく弾け飛ぶ。そこに形があった証明など微塵も残さず、圧倒的な炎の力に破壊されたミラーモンスターの存在は消し飛ばされる。これまでの戦いでも必中必殺を誇る龍騎の蹴撃に、耐え切れるものなどそうはいない。

 数値にしてAP6000。並大抵のミラーモンスターなら一撃で粉砕し得るほどの火力をもって、真司はディスパイダーを撃滅した。

 揺れる炎に包まれながら、ディスパイダーを倒した龍騎がゆっくりと立ち上がる。

 

「ん? あれ?」

 

 ディスパイダーの亡骸──はすでに消滅している。その代わりとなる炎を見渡す真司は、そこにあるべきものがないことに気づいた。

 本来、ミラーモンスターを撃破すれば、それが喰らった命がエネルギーとなって浮かび上がってくるはずだ。輝く光球状のエネルギーをライダーと契約したモンスターに与え、餌として供給する。それがライダーとモンスターの間に交わされた契約条件である。

 そのはずなのだが、たった今倒したディスパイダーからはエネルギーが出てこない。前にもこんなことがあったような気もするが、改変前の因果と改変後の因果、二つの記憶が混ざった真司には上手く思い出せそうになかった。

 この蜘蛛の怪物とも一度戦った経験はあるものの、そのときはまだ龍騎としてドラグレッダーと契約してすらいなかった。

 いや、契約自体はしていたかもしれない。ともあれライダーとしては成り立ての時期であり、戦うのに必死でモンスターの詳しい状態などあまり覚えていなかったのは確かである。

 

「……ま、いっか」

 

 結論として、真司は深く考えないようにした。

 ミラーワールドやミラーモンスターについてなど、当事者ではあるものの不明な点が多い。モンスターを倒しても餌が与えられないのなら、契約不履行と見なされてやがて真司はドラグレッダーに喰われてしまう可能性が高いが、今は見たところ腹を空かせていないようだ。

 ミラーワールドが再び開かれたのなら、モンスターとて一体ではないはず。となれば、この幻想郷にいる限り、モンスターが現れる度に自分が戦えばいい。

 この力はもとよりモンスターと戦うためだけに使うと決めている。モンスターが現れたのなら、必然的に自分が戦う。その度にモンスターの状況を確かめればいいだけだ。

 

 餌にありつけなかったドラグレッダーは不服そうだが、最悪の場合は契約者を喰らえばいいと最初から判断しているのだろう。特に気にせず、再び空へと消えていく。その姿を見届け、真司もようやく戦いの終わりを実感できた。

 ミラーワールドには不気味で独特な環境音が低く響いている。モンスターを撃破した今、鏡像の世界に長居する必要はない。

 まだ余裕はあるが、早々に実像の現実世界へ帰ろう。あまり悠長に滞在していれば、ミラーワールドは容赦なく生物の存在を拒絶する。

 植物や無機物は鏡像としてミラーワールドに存在することができるが、意思を有した生物が実像を伴ってこの世界に引きずり込まれてしまったが最後、二度と出ることも叶わずにモンスターに喰われるか、ミラーワールドの拒絶による粒子化を経て消滅を遂げる。

 仮面ライダーに許された滞在時間は9分55秒。それを過ぎれば変身して自ら踏み入った領域だろうと、ミラーワールドは実像を持った存在を拒み塵と滅ぼして無へと帰してしまうのだ。

 

◆     ◆     ◆

 

 現実世界の霧の湖。紅魔館へと戻った真司は龍騎の姿を鏡の破片と散らし解き、美鈴の前に姿を見せる。

 湖の水面そのものを境界として鏡の世界から戻ってきたため、その服は一切濡れていない。

 

「し、真司さん……? 大丈夫だったんですか?」

 

「……ああ、うん。俺は平気。そっちも無事みたいで、安心したよ!」

 

 Vバックルから引き抜いた龍騎の紋章入りのカードデッキをポケットにしまい、美鈴と顔を合わせる真司。美鈴には真司が湖から出てきたことが未だよく理解できていないようだったが、彼女の知覚はすでに怪物の消滅を認めていた。

 美鈴が見た限りでは真司に怪我らしき怪我はない。先ほどまで変身していた赤い戦士の姿をもって、湖から現れた鏡像の怪物(ミラーモンスター)を倒したのだろうか。

 スペルカードを発動していなかったとはいえ、本気の弾幕さえ軽く弾く蜘蛛の装甲を凌ぐほどの力を持つ存在だと分かり、美鈴の瞳に警戒の色が浮かぶ。しかし、彼女の問いに笑顔で答える真司の様子は驚異的な力を備えた者というより、どうにも普通の人間にしか見えない。

 

 真司は美鈴に愛想笑いを見せ、背後の湖に振り返って小さく頭を抱える。夢中で戦っていたために、変身したところを見られていたことをすっかり忘れていた。

 先ほどはデッキを手にした瞬間にかつての記憶が蘇り、咄嗟に変身して戦ってしまったが、事情を知らない少女の前で変身したのは迂闊だった。ライダーやモンスターについてを詳しく知られれば、無関係な彼女までもが戦いに巻き込まれてしまう可能性が高い。

 なんとか誤魔化そうとするが、真司には上手い言い訳が思いつかなかった。

 かつて一度、職場の同僚にミラーワールドから出るところを見られてしまったことがあったが、あのときのようには誤魔化せそうもない。

 実は手品だった――などと言っても信じてもらえないだろう。何せ、今回は目の前で変身してしまった上に戦闘まで行っているのだ。鏡から出てきたところを見られたときとは(わけ)が違う。

 

「ええっと、その、今のは……! 手品……じゃなくて……!」

 

 慌てて弁明を図ろうとする真司に対し、美鈴は落ち着いた様子で神妙な表情を見せる。彼女も幻想郷に住まう存在である以上、非現実的な怪物や超常的な力を持つ人間など珍しいとは思っていないが、鏡の向こう側に世界があるなど考えたこともなかった。

 真司が変身に使っていたカードデッキらしきものを美鈴も所持している。これの力によって認識できたと思われるミラーワールドは、紛れもなく湖の水面から通ずる鏡の世界であると美鈴は推測していた。

 特徴的な深緑の中華服から取り出した美鈴のカードデッキは真司のものと違い無地。ミラーモンスターとの契約が果たされていないブランクの状態。

 されど、その内に秘められたミラーワールドの法則は等しい。このデッキを所持している限り、美鈴は真司と同様にミラーワールドを認識し、モンスターの出現を感知することができる。

 

「先ほどの姿……これと似たものを使っていたように見えましたが」

 

「えっ……なんで……それ……」

 

 美鈴の手に鈍く輝く黒いカードデッキは、真司が持っていたものと同じもの。しかし、そこにドラグレッダーとの契約の証である龍の紋章は宿っていない。ブランクデッキのまま、美鈴は仮面ライダーというシステムの要となるそれを真司に見せた。

 真司の目に映るデッキは一瞬、彼の理解を超える。すぐにその意味を察した真司は顔を蒼褪めた様子で狼狽(ろうばい)し、それを持つ美鈴の腕を掴んで鬼気迫る表情のまま震える声を絞り出した。

 

「どこでこれを……! っていうか、なんで……!!」

 

 自身よりも若いほどの少女が『それ』を手にしてしまっている。そのあまりの残酷な真実を受け止め切れず、思わず強い力で彼女の腕を掴んでしまった。慌てて手を離して謝るが、心臓の高鳴りと背筋の凍るような感覚までは拭い去れない。

 美鈴が手にしているものは、紛れもなく『仮面ライダー』への変身に際して用いられるカードデッキだ。未契約(ブランク)の状態は真司がドラグレッダーと契約する前にとあるアパートの一室で見つけたものと同じ黒色の無地。

 今でこそ遠く感じられる『戦いのある世界』の記憶を辿る。あれを偶発的に手にしてしまったばかりに真司は仮面ライダーとなった。

 他の者たち(・・・・・)のようにシステムの開発者に選ばれたわけではない。たまたまデッキを拾い、たまたま戦いに巻き込まれただけ。仮面ライダーとしての道を選んだ判断こそ自分で決めた未来ではあるが、本来ならミラーワールドなど真司には無縁の世界であるはずだった。

 

 戦う力を持つ騎士(ライダー)の姿。そして人を襲う化け物(モンスター)の存在。ただそれだけであれば事情は単純、真司も人を守るために、人間を襲って餌とするミラーモンスターと戦う。そう割り切ることで仮面ライダーになる覚悟は十分だった。

 しかし──ミラーワールドの法則を身に宿した仮面ライダーたち(・・)の戦いの本質はそれだけではなかったのだ。

 ミラーワールドを開き、カードデッキを開発し、彼の世界に仮面ライダーという技術を生み出してしまったある男の目的は一つ。幼き日に命を落としてしまい、限りある未来に命の灯火を与えられた妹を救うため。

 カードデッキの数は13個。それに伴い、モンスターとの契約者となった仮面ライダーたちは全部で13人。偶発的にデッキを手に入れた真司もその一人だ。

 男は自ら選んだ契約者たち――13人の仮面ライダーたちに、それぞれ互いを『殺し合う』運命を背負わせた。勝ち残った最後の一人のみ、あらゆる『願い』を叶えられると約束して。

 

 デッキの開発者が仕組んだライダーたちの戦いは凄惨なものだった。己が願いを叶えたいがために他者の願いを、誰かの命を犠牲にして勝ち進む。勝者となった者の足元には、他の願いを抱いた騎士たちの亡骸がいくつも転がることになる。

 ライダーは決して共存できない。選ばれた仮面の騎士は皆、他の命を蹴落としてまで叶えたい願いがある。そうでなければ、ライダーに選ばれることはないだろう。

 前任者の死により破壊されずに残ったカードデッキを手に取ったことで、開発者に選ばれることなくライダーとなった城戸真司や、ある男を除いては。

 残る12人の仮面ライダーたちはそれぞれ自分の願いを叶えるために『ライダーバトル』に参加していた。自分のために誰かを犠牲にする戦いを止めたいなどと考える者は決して多くはない。明確な願いを持たない真司の他には、亡き友の遺志を汲んだ一人の占い師だけ。

 真司は決して戦いには乗らなかった。幾人もの騎士たちが命を落としていく戦いの中、真司はようやく答えを見つけた。

 戦いを止めたい。それすらも願い。仮面ライダーの一人として、真司は願った。ライダーバトルを止めたいと。

 果てに抱いた願いのまま、真司は命を落とした。それがかつての記憶――閉ざされた過去の因果における『戦いのある世界』での最期の記憶。覚えている限りの──自身の結末だった。

 

「とにかくこんなもの……早く手放した方がいいって……」

 

 美鈴がデッキを所持しているということは、彼女もライダーの一人として他のライダーに命を狙われるということだ。だが、真司が見たところ彼女のデッキには契約の紋章が記されていない。まだモンスターと契約していないのならば、後戻りできるかもしれない。

 彼女は仮面ライダーの事情を知らない様子だった。となれば、開発者自らデッキを渡されたわけではないはず。ライダーバトルに巻き込まれる前にデッキを手放せば、こんな戦いに関わらずに元の生活に戻ることができるはずだ。

 引き返す道はある。真司は美鈴の手からデッキを受け取ろうと、手を差し伸ばす。

 

「…………っ!」

 

 そこで真司は、再びかつて(・・・)の記憶を思い出した。

 自身が先ほどミラーワールドで倒したはずのモンスターは、餌として喰らった人間の生命力を光球状のエネルギーとして残さなかった。戦闘の直後は特に気に留めなかったが、よく思い返せばあのモンスターには見覚えがある。

 クモ型ミラーモンスターのディスパイダー。真司が初めて仮面ライダーの存在を知った日、同僚の女性記者を喰らおうと牙を剥いた怪物。あのときもディスパイダーは一度は撃破されたもののエネルギーを出さず、翌日に強化再生した姿で再び現れたのではなかったか。

 

 モンスターは一度狙った獲物を決して諦めない執念深さを持つ。美鈴を狙ったディスパイダーが蘇れば、またしても彼女が狙われることになるだろう。自身が倒せればいいが、その間に彼女が襲われてしまう危険性もある。ただデッキを預かるだけでは根本的な解決策にはならない。

 

「……やっぱり、これに何かあるんですね」

 

 真司の顔つきを察した美鈴はブランクデッキを中華服の懐にしまい、毅然とした表情で再び真司に向き直る。

 彼が変身した騎士の姿や湖から――正確にはその水面から現れた怪物についてなど、問い詰めたいことはいくらでもあるが、正門の前で立って話すような事柄ではないと判断した。

 

「特別に中でお話を伺いましょう。お嬢様に許可を頂くので、少し待っていてください」

 

 仰々しい音を立て、紅魔館の正門は来訪者のためにゆっくりと開かれた。彼方に見えるのは、立派な時計台を優雅に構えた洋風の屋敷。晴れ渡る青空には似つかわしくないほど鮮烈な真紅に満ちた悪魔の居城だ。

 正門と屋敷を繋ぐ庭園は美しい花畑に満たされている。たくさんの花の彩りは鮮やかな色彩を持つが、その彩りさえも館の(あか)さを強調するための一部にしかならない。

 この庭園の花壇の手入れも、門番である美鈴が日夜行っている。七色の美しさは、美鈴が放つ弾幕の色にも通ずる(おもむき)を感じさせ、どこか悪魔の館らしい恐怖を僅かに落ち着かせていた。

 

◆     ◆     ◆

 

 紅魔館の中でも最も格調高い荘厳な一室。幻想郷の紅色(あかいろ)をすべて束ねたような夜の玉座に、この屋敷の当主は座していた。

 幼く小柄な外見からは想像もつかない大妖の威圧感は鳴りを潜め、500年以上もの歳月を生きた魔物、吸血鬼としての絶対的なカリスマはそのままに、薄紅色のフリルドレスに身を包んだ少女が手に持つ小さなティーカップを眺めている。湛えられた紅茶の表面には、生来の吸血鬼である彼女の顔は映っていない。

 蒼褪めた月の如き銀髪はウェーブがかったセミロングほどの長さに揺れる。その身に装うドレスと同じ薄紅色のナイトキャップも含め、彼女の服装には高貴な出自を思わせるたくさんのフリルと赤いリボン、それに伴う気品が、吸血鬼として以上に彼女の風格から溢れていた。

 

 玉座の背に覆われ、畳まれた黒く小さな翼がぴくりと動く。これから口にしようとしていた上等な紅茶の香りからゆっくりと顔を離し、紅魔の少女―― レミリア・スカーレット は、何より紅い悪魔の瞳を静かに閉じた。

 揺れる紅茶の表面を一瞥(いちべつ)することもなく。そこに一瞬だけ映った男の影にさえ、気に留めることもなく。微かに感じた不快な気配に小さく溜息をつく。

 ソーサーに戻したカップが陶器同士の触れ合う音を鳴らす。その瞬間、耳鳴りのように聞こえていた金属音めいた甲高いノイズがぴたりと()んだ。わざわざ振り返るまでもない。自身の背後、玉座の傍に。またしてもあの男(・・・)が現れるであろう前兆の気配。少女は煩わしげに口を開く。

 

「……またあんたか。いい加減、しつこいわね」

 

 紅魔館の深窓から差し込む陽光は虚ろに少女の部屋を照らしている。吸血鬼の弱点の一つとなる日光も、直接浴びなければ脅威ではない。その窓か、それとも紅茶の表面か、振り子時計の窓からか。あるいは、丁寧に磨かれた調度品からということもある。

 吸血鬼の部屋に鏡はない。されど、その代わりとなる反射物はいくらでも存在する。この世に光とそれを反射する現象がある限り、決してその世界(・・)の目から逃れることはできないだろう。

 

「……あくまでも、そうやって傍観者を気取るつもりというわけか」

 

 その男は、音もなく現れた。部屋の扉は一切開かれていない。レースカーテンの向こう側に閉め切られた窓も同様、この部屋に誰かが侵入してきた形跡は一切残さず、男は忽然(こつぜん)と、亡霊のようにそこに佇んでいたのだ。

 くたびれたベージュ色のコートは歪んだ因果に色褪せ、男の表情も何かを失ってしまったように生気や感情がほとんど感じられない。

 だが、等しい存在ではあるものの彼は本当の意味の亡霊ではなかった。かつて行ったある実験によって肉体を失っただけの生者。鏡の世界――ミラーワールドを開いた際にその法則を身に宿してしまった妄執の果て。

 今の彼は人間という名のミラーモンスターに等しい。もはや 神崎 士郎(かんざき しろう) なる男は、現実世界には存在しない。鏡像の怪物を生み出し、仮面ライダーを開発し、妹に新しい命を与えるという願いのために13の命を弄んだ彼は、実像の身を捨てミラーワールドの住人となっていた。

 

生憎(あいにく)吸血鬼(わたし)は鏡に映らないんでね。鏡の中(そっち)には行けそうにないのよ」

 

 自嘲気味に紅茶を覗くレミリアの顔は、やはりカップの中には映っていない。光や鏡像が吸血鬼の存在を否定するのか、吸血鬼が鏡に映らないという法則はこの幻想郷でも共通らしい。そのせいで、身嗜(みだしな)みを整えるのにも逐一(ちくいち)メイドが必要になってしまう。

 神崎士郎がレミリアに渡したデッキも鏡への反射を引き金として所有者を仮面ライダーに変身させる。しかし、吸血鬼であるレミリアは鏡に姿を映すことができない。デッキをかざしてもVバックルが現れてくれないのだ。

 レミリアは仕方なく自身に仕えるメイドのうち、最も信頼する一人にそれを託した。広い紅魔館の使用人たる無数の妖精メイドを束ねる人間のメイド長。人間の身にして恐れ知らずにも吸血鬼の屋敷で働く酔狂な奇術師を選び、レミリアはライダーの証となるカードデッキを手放した。

 

「滑稽なものだな。自分では何もできず、従者に自らの願いを叶えさせる……か」

 

 コートのポケットに両手を入れた神崎は皮肉めいた笑みを浮かべて振り子時計の文字盤と向き合う。ガラスの反射を見つめる神崎の顔はレミリアと同様、鏡像として映ってはいない。彼自身が実像を持たぬ鏡像であるのだから、鏡に映らないのも当然である。

 時計の反射の中には一体のミラーモンスターがその翼を広げていた。両の翼を含めれば直径およそ数メートルに及ぶほどの巨大なコウモリの怪物。漆黒の闇に紛れるように、その身体は濃紺の黒に染まっている。

 

 闇の翼の名を持つ獣。コウモリ型ミラーモンスター『ダークウイング』はすでにとある仮面ライダーと契約を結んでいるモンスターだ。

 しかし、契約しているからと言ってその本質は変わらない。モンスターは常に命あるものを餌と見なす。仮面ライダーと呼ばれる契約者であれ、それは例外ではない。現に、この個体は神崎士郎にカードデッキを渡された本人であるレミリアの命に執着している。もし契約がなければ、すぐさまレミリアに襲いかかり、己の糧としていることだろう。

 もっとも、吸血鬼であるレミリアはその程度の強襲、容易く返り討ちにできるほどの力を備えている。変身できずとも、並大抵の怪物であれば十分に渡り合うことが可能なはずだ。

 

 それでも彼女が自ら戦わないのは、相手が自分の手出しできない鏡の世界の存在であるということに加え、レミリアの願いは同時に仮面ライダーとなった従者の願いでもある。主人自ら戦わせるわけにはいかないと、従者は自らの意思でカードデッキを引き受ける覚悟を決めたのだ。

 

「……咲夜(さくや)騎士(ライダー)とやらにしておいて、いったい何が目的なのかしら」

 

 神崎士郎が選んだ、揺るぎなき願いを抱きし者。ライダーとなるべき願いを持つレミリアの渇望は、奇しくも神崎と共通のものだった。

 互いに大切な『妹』を救う。ただそれだけのために。他の願いを犠牲にする覚悟を持った運命の代行者。それぞれ自ら手を下さず、誰かを使って願いに手を伸ばす。神崎もレミリアも、そうあることしかできない。

 自分ではライダーとして戦うこともできず、誰かを利用することでしか願いに近づけない。それを皮肉と笑ったのは、神崎自身、彼女と等しい己を自嘲する意図もあったのだろう。

 

「今はただ、戦いを続けろ。お前も……あまり悠長にはしていられないはずだ」

 

「言っておくけど、私の咲夜(ナイフ)は優秀よ。その辺の掃除係より、ずっとね」

 

 残された時間はそう多くはない。それは両者とも同じことが言えた。一刻も早くライダーの力をもって願いを叶えるために。ライダーバトルの勝者に与えられるとされる万能の力を選定するために、神崎士郎は仮面ライダーとなるべき者を選んでいる。

 レミリアは不敵な笑みで神崎の顔を見た。神崎は不服そうな表情でレミリアの顔を見た。互いの瞳はそれぞれ対する相手に向いている。されどそこに映る光の中に、両者の顔はない。

 

 そこへ不意に、一本のナイフが飛び込んできた。

 何かの比喩などではない。銀色に冴える輝きが照明の光を反射しながら飛来し、さっきまで神崎士郎が立っていた場所を抜けてレミリアの指先に捕らえられる。

 もはやそこには神崎士郎の姿はない。閃く刃の光と失せ、その気配も消え去っていた。

 

「……お嬢様、お怪我はありませんか?」

 

 この紅魔館で最も優秀な使用人、メイド長である 十六夜 咲夜(いざよい さくや) が主を気遣う。

 右手に構えた数本のナイフと同様に冴える銀髪は短く揃え、顔の横に垂らした二束の三つ編みにはどこか余裕を感じさせる。幼げなレミリアよりもいくらか高い身長に、動きやすいように膝上ほどの丈に仕立てられた青いメイド服を纏っていた。

 水色の瞳で睨む時計の文字盤、その反射に映る世界を舞うダークウイング。神崎士郎もそうであるが、このモンスターもまた咲夜にとっては主人に害を成すただの魔物でしかない。

 

 咲夜は人間ながら『時間を操る程度の能力』を有している。それは文字通り時の流れを掌握する極めて強大な力だ。部屋に近づく気配を一切感じさせずに扉を開き、この場に突如として現れたのも、一度時間を止めてすべてを済ませたからである。

 時より速く動く咲夜の目をもってしても神崎士郎の姿は捉え切れなかった。ミラーワールドの存在となったあの男は、現実の法則を超越しているのだろう。

 咲夜のメイド服に眠るカードデッキには契約の証、コウモリの紋章が輝いている。その力を感じ取ったのか、時計の文字盤に映っていたダークウイングはどこかへ姿を消してしまっていた。

 

「ええ、おかげさまで。ところで、何か用があったんでしょ?」

 

 レミリアの左手に受け止められたナイフは彼女の意思一つで粒子と消える。銀製のナイフは吸血鬼の身体を裂く脅威となるが、それでもレミリアが最も信頼する従者として咲夜を傍に置くのは夜を支配する吸血鬼たる者の余裕なのだろうか。

 瀟洒(しょうしゃ)な振る舞いで主のもとへ銀の刃を投げる咲夜の胆力も相当だ。彼女の仕事に一切のミスはなく、あまり役に立たない妖精メイドたちの代わりに他の仕事も請け負うため、紅魔館のすべての仕事は彼女一人が担っているに等しい。

 あらゆる仕事を完璧にこなしてみせるものの、咲夜はどこか人間的に抜けているところがやや目立つ。冴えたナイフのように鋭い感覚を持っているのに、どこかとぼけたような雰囲気でズレた言動をすることも多い。その不思議さが、レミリアにとっての退屈を殺してくれるのだ。

 

「失礼しました。何やら外来人らしき男を屋敷に招き入れたいと、門番が……」

 

「外来人? 生きたままの? 素敵なお客様ね。……それとも、()のお仲間かしら?」

 

 紅魔館を訪れる来客は多くない。霊夢や魔理沙のような歴戦の異変解決者ならまだしも、普通の人間――まして外界からの外来人などもってのほかだ。紅魔館に運ばれる人間など、九割以上が食料としての形で加工されている。

 それを知った上であえてこの館を訪れるのなら、相応の理由があるはず。否、あってくれなければ面白くない。

 妖怪は人間を襲うもの。特に吸血鬼は血肉として人間を喰らう種族。生きた人間が踏み入るのであれば、久しぶりにその生き血を啜ってみるのも悪くない。だが、もしその人間が──神崎士郎と同じ『世界』の存在であったとしたら。

 世界と言っても、ミラーワールドを指すのではない。レミリアが観測することのできたいくつもの因果律のうち、別の紡ぎにある並行世界。自分たちの知る歴史とは別の時間を歩んだ、別の法則を持つ『外の世界』からの来訪者――異世界(・・・)からの外来人と定義できる存在なら。

 

 レミリアは吸血鬼としての規格外の身体能力と魔術的能力の他に、彼女固有の特殊な力を持っている。それはやがて来たる未来の形を書き換える力。さしずめ『運命を操る程度の能力』と呼ばれる絶大な能力だった。

 運命とは決定された未来を意味する。しかし絶えず変わる未来に決まった形はなく、運命と言えるものも曖昧で不安定かつどこまでも抽象的なものでしかない。

 彼女はその『運命』を観測し、ある程度の因果律まで望む形に導くことができる。もっとも、運命など誰が保障できるものでもないためにその力を実感できる者は少ない。観測できた運命もほとんどが並行世界に生じる因果の歪みに過ぎず、レミリアが操れる運命はそう多くなかった。

 

「門番曰く、男は赤い騎士(・・)のような姿に『変身』したそうです。如何(いかが)いたしましょう」

 

 咲夜の報告を聞いて、レミリアは赤い瞳にさらに紅い色を灯らせる。

 彼方に仰ぎ見た運命は彼女の予想を超えた龍の姿。吸血鬼の真祖たるワラキアの領主にも通ずるドラゴンの炎。否、どちらかと言えば東洋の龍に近いようだ。

 その咆哮が血染めの因果を焼き尽くしていく様が運命の断片から見て取れた――気がした。

 

「へぇ……思っていたより早かったじゃない。……いいわ。迎え入れなさい」

 

「……かしこまりました、お嬢様」

 

 期待に満ちた表情で運命を見届ける主の言葉を受け、咲夜はその場から姿を消した。正確には、時間を止めてレミリアの部屋を後にしたのだ。

 先ほどまでは開かれていた扉も、今はいつの間にか閉じている。わざわざ止まった時間の中で淹れ直してくれたのか、冷めてしまったカップの紅茶にも再び暖かさが戻っていた。

 

 ミラーモンスターを倒せば奴らが喰らった命がエネルギーとなって現れる。それを契約したモンスターに餌として喰わせることで、モンスターの空腹を満たしてやることができる。それがライダーとモンスターの間に交わされた契約の条件だ。

 さらにはモンスターのエネルギーを与えているため、契約モンスター自体の成長にも繋がり、他のモンスターを倒せば倒すほどこちらのモンスターも強くなる。

 もっとも、野生のモンスターと同様に人間を襲わせれば手っ取り早くエネルギーを吸収してモンスターを強化できるのだが、幻想郷のルールにおいて里の人間はおいそれと殺せない。妖怪を退治するのも人間であるべきという思想もあり、モンスターを強化するには現状、他のモンスターを撃破するしかないのだ。

 

 普通なら仮面ライダーがモンスターを倒す理由はそれぐらいしかない。城戸真司はモンスターから人間を守るためにモンスターを倒しているが、神崎士郎が開発した仮面ライダーの本来の目的はライダー同士で戦い続け、最後の生き残りを決めることのはずである。

 しかし、レミリアはミラーモンスターの撃破にそれ以上の目的を持っていた。戦っているのは咲夜ではあるが、彼女はレミリアの願いの成就こそを自らの願いとしている。彼女が戦う理由は、主であるレミリアと――その最愛の妹である フランドール・スカーレット を救うためだ。

 

「咲夜のおかげで少しは()っているようだけど、それも一時凌ぎ……か」

 

 フランドールもレミリアと同様に生来の吸血鬼として絶大な力を誇る。少し気が触れているところがあり、495年ものあいだ紅魔館の地下室から出してもらえず、本人も出ようとしなかったのだが――今は屋敷の中を自由に活動するほどに落ち着き、門番やメイドたちを遊び相手として楽しく過ごしているようだ。

 最近までは普通に暮らしていたはずなのに、神崎士郎が現れる少し前からだろうか。フランドールの身体には異変が生じている。

 

 ミラーモンスターを倒した際に現れるエネルギーの光球の半分を契約の対価としてダークウイングに与え、残る半分はフランドールの生命力として与える。そうすることで、原因不明の異変を見せるフランドールの症状が少しは抑えられるらしい。

 神崎士郎の言葉に従うのは(しゃく)だが、他に考えられる手はない。だがライダーバトルなどという愚かな児戯に付き合ってやるつもりもない。

 モンスターを倒しながら様子を見つつ、解決策を探す。紅魔館の当主として。誇り高き吸血鬼として。何よりフランドールの姉として。レミリアはそんなくだらない殺し合いを一蹴した。

 

「それにしても、日に当たってもいないのに灰化(・・)なんてね。……原因は何なのかしら」

 

 灰と朽ちゆくフランドールの身体。モンスターのエネルギーを供給しているおかげで症状の進行は食い止められているものの、それがいつまで保つのかは分からない。

 日光を浴びた吸血鬼は肌が焼けるように気化していくのだが、妹の症状はどうやら皮膚組織そのものが直接、灰に変化している(・・・・・・・・)ように見えた。

 それはまるで、別の何かに変わりゆく身を拒むように。吸血鬼が持つ生命力が故か、朽ちる肉体はその変化を受け入れず強引に抗っている。少し経てば肉体は再生するものの、すぐにまた身体は灰となって崩壊を始める。初めて確認して以来、その繰り返しだ。

 レミリアが見た運命の中にフランドールの異変に関するものは見つからなかった。当初は神崎士郎の世界による何らかの影響だと思っていたが、どうやらそうではないらしい。

 

 あるいは、別の世界の影響か。ここ最近に見られた博麗大結界の異常は、外の世界と幻想郷を歪めて繋げるような気配を持っている。その一部が並行世界らしき場所と接続されているのは、神崎士郎や仮面ライダーといった異なる因果の存在から見ても明らかだ。

 となれば世界は一つではないという前提のもと、神崎士郎が存在した世界の因果とは別の法則が幻想郷に組み込まれていてもおかしくはない。

 大結界への干渉とは異なる何かがこの幻想郷に手を加えている。管理者である八雲紫が気づいていないはずはないのだが、あえて放置しているのか。それとも――それすら彼女の狙いの一つであるのか。

 どちらにせよ、今のレミリアにとって『この異変』は都合の良いものではなかった。

 

 観測できただけで三つ。否、すでに四つ目(・・・)が接続を始めている。混線する運命の鎖が絡み合い、ただでさえ複雑な因果律がどこまでも歪に捻じれていく。これでは運命を操るどころか、正しい未来の理を観測することすら難しいだろう。

 幻想郷の『外の世界』を一つの世界と定義し、さらにいくつもの世界が幻想郷の理と繋げられて混ざり合っていくのが分かる。

 ある世界から流れ込んだ法則は鏡の中の世界とそこに棲まう化け物(モンスター)たちの情報。神崎士郎が言っていたミラーワールドの法則として、幻想郷は理を受け入れた。

 

 繋がる因果が一つだけであれば原因を特定できたかもしれないというのに、座標となる幻想郷を結ぶ鎖が多すぎて、運命さえも紅い霧の果て。見えざる因果の彼方に想いを馳せながら、レミリアは暖かいティーカップを口に運ぶ。

 深く優しい香りに包まれ、小さな煩いを紅く飲み込む吸血鬼の少女。従者が騎士となる道を選んだのなら、この身は『夜』とあればいい。

 デッキを手にした咲夜の願いはレミリアと共に。騎士と夜。二つの意味を持つ仮面を纏う。




真司がデッキを見つけたアパートが「コーポみすず」という名前なの、最近気づきました。
こんなところにも美鈴との繋がりがあったなんて……(さすがにこじつけがすぎる)

次回、第15話 話51第『巨大クモ再生』


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第15話 巨大クモ再生

 外観に違わず、内装までもが真紅に染まる紅魔館の客間。必要以上に荘厳な装飾が取り入れられた吸血鬼の屋敷には窓が少なく、日光を抑える作りとなっているために、ぼんやりとした屋敷の影も相まって日中にも関わらずほとんど光が入ってこない。

 悪趣味な装いの調度品や血の色めいた花々の彩り。それらすべてが不気味であるのに、悪魔じみた屋敷の紅さと陽光を知らぬ薄暗さは、どこか気品に溢れた落ち着きを感じさせた。

 

「いや、全然落ち着かないって……」

 

 なぜかこの紅い屋敷に踏み入り、当主の許しを得て正式に招かれた真司が呟く。立派すぎる椅子にはOREジャーナルの職場のものとは比べものにならない高級感があり、無意識のうちに真司の身を委縮させるのに十分な気高さを持っていた。

 ここのメイドらしき少女たちに客人として案内してもらったが、彼女らに見えた羽らしきものは作り物ではないだろう。

 妖精とは無邪気で子供じみた自然の具現である。しかし、紅魔館に仕える妖精メイドたちはある程度の教育が施されているためか、他の妖精よりは少しばかり知性的な個体が多い。もっとも、妖精にしては、と言った程度で、ほとんど人間の少女と大差ない者ばかりだが。

 

 気品ある紅さも真司には無縁のもの。アパートの家賃すら払えず、職場に寝泊まりしたこともある彼には、むしろこの『落ち着き』こそが落ち着かない。

 正式に招かれた身分ではあるが、真司はどこか居心地の悪さのような──自ら望んで踏み入ったはずなのに、取って喰われるのではないか──という静かな恐怖に支配されつつあった。

 

「……やべ、ちょっとトイレ行きたくなってきた」

 

 吸血鬼が住まう館に招かれ、緊張から身体が強張(こわば)る。実際にはそこまで用を足したいわけではないが、悪魔的な屋敷であるのに教会じみた雰囲気を持つ部屋に気圧され、身体中の本能がここを立ち去りたがっている。

 椅子を引き、立ち上がった真司は扉を開けて廊下に出た。しんと静まり返った来客用の部屋を一歩出ただけだというのに、廊下はメイドたちの声に満ちている。

 妖精らしからぬ女性的な身長を持つ紅魔館の使用人。装うメイド服は基本的には水色のものが多いが、メイドとしての階級か何かだろうか。中には赤い服を着ているものや、白い服を纏っているものもちらほらと確認できる。

 その多くは妖精メイド同士で談笑しながら廊下を歩いていたり、おそらくは紅魔館の住人から命じられた業務のために奔走しているのか、慌てた様子であくせく働いている者もいた。

 

「本当に俺の知ってる場所とは違うんだな……」

 

 当たり前のように羽の生えた少女たちが廊下を行き交う。それに加え、真司の目の前を横切っていった異形の小鬼らしき妖怪の姿も見間違いではない。この館そのものもそうだが、美鈴から聞いた通り、幻想郷なる場所は真司にとっての非常識に満ち溢れている。

 天狗や妖精、吸血鬼。妖怪さえも珍しくない。しかし、ミラーワールドという世界の肯定にすぐ馴染んだ真司は幻想郷のことも受け入れ始めていた。

 誰も知らない鏡の中の世界があるのなら、あらゆる幻想を閉じ込める楽園があってもおかしくはないのかもしれない。それは深く考えた結果の思考ではなく、ただ城戸真司という男の性格からして、こういった複雑な世界の法則を上手く捉えられていないだけのことである。

 

 両端に真紅のカーテンを束ねた廊下の窓を見つめていると、不意に真司の耳に聞き慣れた耳鳴りが走った。一瞬だけ窓ガラスに映った歪みは、決して気のせいなどではない。

 鏡の世界から溢れた現実世界への干渉。ミラーモンスターの出現音にも似ているが、どこか不思議と決定的に違いが分かる。それは真司も幾度となく聞いた宣告。いつもガラスや水面などの鏡面から、神出鬼没に姿を現す戦いの主催者の気配。

 真司は自身がさっきまでいた部屋――紅魔館の広い客間を振り返った。年代物の調度品、丁寧に磨かれたインテリアの数々に映り込む男の影が視界に入る。

 男はやがてアンティークな意匠を持つキャビネットのガラスにその身を映した。コートを纏い、生気の失われた表情でこちらを見つめる男の顔は、真司の記憶にも強く刻まれている。

 

「神崎、士郎……!」

 

 ガラスの反射に映る男の姿は現実世界には存在しない仮初めの鏡像。呪いじみた妄執に囚われ、ミラーワールドの住人となったライダーバトルの主催者。自らの願いのために13人のライダーたちに殺し合いをさせた張本人である。

 真司は『前回の』戦いの結末を見届けることなく、ミラーモンスターの一撃によって命を落としてしまった。されど、この男の願い──彼の妹が消える瞬間は、この目で見たはずだ。

 

 鏡像と消えた願いの亡者、神崎士郎は最愛の妹にライダーバトルを否定され、彼女のためにやってきた行いのすべてを否定された。叶えたい願いを抱く騎士たちが殺し合った先の『新しい命』を拒み、彼女は定められた通りに消えゆく運命を選んだのだ。

 その命を守りたかったのは真司も同じ。それでも、他の命を犠牲にした未来など決して求めたりはしないと。少女は血に濡れた希望を糾弾した。その果てに、愛した兄への祈りを捧げて。

 

「……城戸真司。仮面ライダー龍騎。やはり、お前が俺の邪魔をするのか」

 

 何度、輪廻を繰り返しても。終わらない戦いの先に求めた命を与えるために。神崎士郎はただ、妹のためだけに。何度も、何度も、無限に。時間の概念を超越した力で因果を巻き戻し、ライダーバトルを永遠に繰り返し続けるだけの亡霊となっていた。

 客間に戻った真司はキャビネットのガラスに映った神崎と向き合う。震える拳は怒りと悔しさを乗せ、腰のポケットから龍騎の紋章入りのカードデッキを取り出して見せつけた。

 

「お前……! なんでまたこんなこと始めたんだ!! 戦いはもう終わったはずだろ!!」

 

優衣(ゆい)の願いのためだ。すべてはもう一度、あの『祈り』を蘇らせるために……」

 

 神崎士郎の妹―― 神崎 優衣(かんざき ゆい) 。幼い頃に落とした命を再び灯らせることができたのは、鏡の中のもう一人の自分によって仮初めの命を与えられたため。10歳の少女は、鏡の中の10歳の少女と一つになり、20歳までの命を約束された。

 鏡像の少女は自身に告げる。『20回目の誕生日が来たら、消えちゃうよ』――と。

 刻限は訪れた。やがて20歳を迎えた優衣は約束通り消滅する。それを阻止しようと、神崎士郎は自分たちを守ってくれる存在として幼い妹と共に描いた守護者(モンスター)たちと契約した。

 

 守護者(モンスター)騎士(ライダー)と契約する。そして互いに殺し合い、最後の生き残りを賭けて戦う。己が願いを叶えるために――他者の願いを蹴落としながら、神崎士郎が願いのために仕組んだライダーバトルの勝者を目指す。

 何度戦いを繰り返しても優衣は必ず新しい命を拒んだ。その度に結末をリセットし、また一からライダーバトルを始めた。

 だが、優衣は最後の円環で士郎と共にあることを望んだのだ。誰かを犠牲にして生きる未来よりも、たとえ想い出に消えても兄の傍に。神崎士郎もそれを受け入れ、永遠に続くライダーバトルの輪廻は終わった。繰り返される悲しみの連鎖は、ようやく断たれた──はずだった。

 

「まだわかってないのかよ……! 優衣ちゃんはそんな命なんか望んでないんだよ!!」

 

 神崎士郎は幾度も行った時間の逆行を最後に一度行い、繰り返すのをやめた。命を落とした神崎兄妹はミラーワールドを観測することもなく、モンスターたちを生み出すこともない。ライダーたちの戦いにも終止符が打たれ、妹の祈りは『戦いのない世界』をもたらした。

 始まらなかった戦いには記憶も犠牲も残らない。13人の騎士たちはそれぞれ戦いのない世界において別の因果を生き、ライダーとしての宿命から解放された。

 そこで、幻想郷に招かれた真司は再び手にしてしまう。あるはずのない宿命を、仮面ライダーとしての記憶を。龍騎のデッキは真司の手の中で、呪われた因果の炎を灼熱(あつ)く吼え立てる。

 

 兄の願いは鏡像を超え、幻想に具現した。あってはならないはずなのに、合わせ鏡に歪んだ男の願いは、再びこの世界を──終わらぬ悪夢(いま)に染め上げようとしている。

 戦いはまだ終わっていなかったということなのか。真司は燃える葛藤にガラスの中の神崎士郎を睨みつけながら、その意思を鏡に叫ぶ。

 優衣の言葉を受け入れたはずの神崎士郎は揺るがぬ視線で真司の顔と向き合った。新しい世界への一歩を踏み出した幼き少年の持つ瞳ではない。それは、妹のために無限の円環を求め続ける亡者じみた執念。幻想と蘇った願いと共に──ミラーワールドは再び開かれてしまった。

 

この戦い(ライダーバトル)に終わりはない。戦え。最後の一人になるまで、戦いを続けろ……」

 

「おい、待てよ! まだ話は終わって……おい!!」

 

 真司の頭に響く耳鳴りが静かに消える。それに伴い、ガラスに映っていた神崎士郎もいつの間にか姿を消していた。キャビネットのガラスに映し出されているのは真司自身の姿だけ。その顔は焦燥と葛藤に満たされているが、憤怒や憎悪よりも悔しさの色が強い。

 守りたかった命が消えていくのに、それを見ていることしかできなかった自分。それを望んだのが本人ならば、せめて自分にできることは一つしかない。

 これ以上の犠牲者を出さないためにミラーモンスターと戦い続ける。そして、誰の命も失わせずに戦いを終わらせる。ライダー同士の戦いなど、神崎優衣は決して望むはずがないのだ。

 

「真司さん? どうかしました?」

 

 紅魔館の客間に響く真司の声を聞き届け、訪れた美鈴が訝しげに声をかけた。

 扉はすでに開いている。先ほど廊下に出た際に、神崎士郎の気配に振り返った真司が扉を閉めていなかったからだ。

 美鈴が招いた真司以外の人物は客間のどこにも見当たらない。彼女もブランクとはいえデッキを持っているが、どうやら鏡の世界に現れた神崎士郎の気配には気づかなかったようだ。

 

「誰かと話していたみたいでしたけど……」

 

「だ、大丈夫、大丈夫! なんでもないって……!」

 

 愛想笑いで美鈴の疑問を誤魔化しながら静かにキャビネットを離れる真司。不思議そうにガラスを見つめる美鈴の目にも、やはり神崎士郎の姿は映っていない。

 真司の知覚からもすでに気配は消えている。ミラーワールドを移動し、別のライダーのもとへ向かったのだろうか。

 鏡の世界を自由に行き来できる鏡像そのものたる男。神崎士郎にとってその世界は自らの領域にも等しい。ミラーワールドへの侵入を可能とする仮面ライダーの能力を持ってしてもその足取りを掴むのは難しいだろう。何せ、彼には実像と呼べるものが存在しないのだから。

 

「…………」

 

 テーブルを挟んで向かい合う真司と美鈴はそれぞれの正面に二つのデッキを置き、客間の椅子に腰かける。真司の前にあるのはドラグレッダーとの契約の証たる龍の紋章が入った『龍騎』のデッキ。美鈴の前にあるのは何の意匠もない未契約(ブランク)のデッキだ。

 何の因果か、失われた幻想の楽園に迷い込んでしまった真司は再び仮面ライダーとして──龍騎のデッキを手にしてしまっている。

 それはこの幻想郷においてもライダーバトルが継続されるということ。すでに真司の仮面ライダーとしての姿は美鈴に知られてしまっているため、このまま隠し通せるとも思えない。

 

 真司は美鈴にすべてを話すことにした。ミラーワールドと呼ばれる世界のこと。人を襲って餌とする鏡像の怪物(ミラーモンスター)のこと。そして神崎士郎によって作られた仮面の騎士たち――仮面ライダーと名乗る者たちの、正義なき願いに血塗られた戦いを。

 最後の一人になるまで殺し合う、13人の騎士(ライダー)たちによるサバイバルゲーム。たった一人の生き残りを賭けたライダーバトルは神崎優衣の祈りによって、二度と行われないはずだった。

 

「ミラーワールドにモンスター……それに仮面ライダーですか……」

 

「俺だって最初は信じられなかったけど、どうしようもなく現実みたいで……」

 

 いくら荒唐無稽な話でも、事実としてミラーワールドは存在している。誰が信じようが信じまいが関係なく、ミラーモンスターは人を襲うのだ。

 なればこそ真司は仮面ライダーとして誓った通りに。ライダーと戦うためではなく、モンスターと戦うためだけに龍騎に変身する。

 思えば、最初に胸に抱いた志は初めてライダーとして戦うことを決意したときから何も変わっていなかった。消えた因果に己の死を見ても、その願いは曲げられない。

 

 真剣な表情でテーブルの上のブランクデッキを見つめる美鈴。ライダー同士の戦いとまではいかないが、ミラーワールドとモンスターの存在まではその目ですでに見ている。

 あれほどの怪物が一体や二体ではない。それに加え、鏡の中から一方的に人を襲うのならば生身の美鈴には対処できない。

 モンスターの存在もそれほどまでに厄介だが、美鈴が最も衝撃を覚えたのはやはり仮面ライダー同士の戦い――ライダーバトルと称される殺し合いだった。

 幻想郷は争いを平和なゲームに変えるスペルカードルールが秩序を保っている。そんな環境に慣れてしまったからか、多くの人間が犠牲になるなど見過ごせない。たとえ死にゆく覚悟があったとしても、そんな殺し合いが正しいなどと――美鈴はそう簡単に認めてしまいたくなかった。

 

「願いを叶えるために、人間同士で殺し合うなんて……そんな戦い、間違ってます!」

 

「……うん。俺もそう思う。だから頑張って止めようとしたけど……ダメだった」

 

 真司とてそれは美鈴と同意見である。神崎士郎が仕組んだ戦い自体は、願いを叶える手段として、きっと間違っていたのだと信じている。

 それでも、人が抱く願いそのものに善悪などはない。妹を救いたいという気持ちも、恋人を助けたいという気持ちも。騎士たちの戦う理由はそれぞれの願い。それぞれの理想。

 

 自分の結末は自分が一番よく分かっている。背中に受けた傷の痛みは過去の因果におけるものであるため、今の身体に痛みはないし、何より今日まで何事もなく生きてきた身だ。

 ただ、身体が覚えている。一度この身が『死んだ』ことを。前世の記憶のようというのも奇妙な例えだが、そうとしか言えないほどに真司はかつての自分が死んだことを実感している。

 

「でも、俺は絶対に諦めないし、認めない。矛盾してるかもしれないけど、俺もライダーの一人としての願いで、戦いを止めたいんだ」

 

 初めはただ巻き込まれただけの真司に、ライダーとして叶えたい願いはなかった。ただ傷つけ殺し合うライダーたちの戦いを見て、それを何の覚悟も持たず、ただ無邪気に止めたいと思っていただけだった。ライダーたちが背負っている願いを、知ろうともせずに。

 戦いを止めれば、恋人のために戦っていた騎士の願いは永遠に閉ざされる。それを理解した上で、今の真司は戦いを止めたいと願っている。

 きっと辛い思いをしたり、させたりすることもあるかもしれない。正しいかどうかではなく、他のライダーと同様に己が背負う覚悟として──真司は鏡の世界(ミラーワールド)を閉じたいと願った。

 

「甘いかもしれないけど、それでも俺は戦いを止めたい……それが俺の、叶えたい願い」

 

 向かう美鈴の表情を見つめる真司の瞳は揺るがない。そこに込められた想いは深く、烈火の如く鮮烈に、理想に燃えているのが分かる。戦いの否定もまた正義などではなく、純粋な願いの一つであるのだろう。

 美鈴は自身の前に置かれていたブランクデッキを手に取った。気を使う程度の能力で見て取れた波動は龍騎のデッキが放つ覚悟。真司が抱いた願いの炎による意志のオーラだ。

 されど、美鈴が手にするブランクデッキには未だ何の気も感じられない。何の覚悟も込められていない。このデッキは、真司の言う13人の騎士(ライダー)が使っていたものではないのだろうか。

 

「……真司さん、無理を承知でお願いしてもいいですか?」

 

 美鈴はブランクデッキを見つめたまま、真司に問う。重い口調で告げられた言葉を受けて、真司はどこか、その先に紡がれる言葉が分かるような気がした。

 再び顔を上げ、真司に向き直る美鈴の瞳には覚悟の色が灯る。門番として鏡の世界に立ち向かう意思。あるいは虹の如く騎士と騎士を繋ぐ架け橋として、願いを伝える境界の希望(いのち)

 

「私も人を守るために戦いたい。仮面ライダーとしてじゃなくても、モンスターを倒すことができるなら。だから、これは私が持っていたいんです。鏡の中の世界と向き合うために……」

 

 ブランクデッキを握りしめながら、美鈴は強く誓った。このデッキはミラーワールドを観測するために必要なもの。叶えたい願いなどなくても、ミラーモンスターは現れる。ならば、自身もまたモンスターから人を守るために、鏡像と向き合うこともできるはずだ。

 霧の湖でディスパイダーと戦った際は混乱もあって相手の力量を見誤ってしまったものの、美鈴の実力は決してこんなものではない。

 本気の力を込めた彩光の弾幕と鍛え抜かれた祖国伝来の武術。それに加えてスペルカードの威力をもってすれば、どれだけのモンスターが相手でも、ある程度は戦えるだろう。

 

「美鈴ちゃん……」

 

 自分には関係ないはずなのに、戦いの世界と向き合おうとしている少女。真司はそれを見て、どこか過去の自分を思い出した。

 たまたま手にしたカードデッキに導かれ、ミラーワールドへと足を踏み入れた数奇な運命。自身を狙うドラグレッダーと契約を交わし、真司が仮面ライダー龍騎として鏡の世界に立ち上がったのは、きっと、その世界を見て見ぬふりができなかったから。

 モンスターを退ける力を持つ封印のカードを破り捨ててまで龍騎となった真司と同じく、美鈴もまた、心優しいお人好し。明確に理解しておらずとも、真司も美鈴の持つ雰囲気から自分と似たところがあることには気づいている。

 あるいは燃え上がる炎のように鮮烈で、あるいは雨上がりの空に架かる虹のように優しい不思議な魂を持つ二人。鏡合わせに映った想いはどこか、自分自身を見ているようでもあった。

 

「私、なんか何にでも首を突っ込んじゃう性格みたいで! ちょっと関わっちゃうと、最後までやり遂げないと気が済まないんです。門番の仕事はたまーに寝ちゃいますけどね!」

 

「それ! すっげえ分かる! 俺もよく編集長に言われたなぁ……」

 

 親しみやすい笑顔を見せながら話す美鈴の言葉に、真司は深く首を頷けて共感する。

 今でも真司が務めているOREジャーナルの編集長からも言われた言葉。記者として祭りを取材しに行ったはずなのに、いつの間にか神輿(みこし)を担いでいるタイプと称された城戸真司の精神。その在り方は、やはり美鈴と通ずるものがあった。

 何もかもを抱え込んで受け入れてしまう強さには、弱さもある。何でも飲み込んでしまうから迷うんだ、と。同じくライダーの道を選んだ男にも言われた。

 優しすぎる真司には弱さを切り捨てられない。英雄には一つを犠牲にして多くを救う勇気が必要だと説かれたこともある。それでも真司は、一つと多く、そのどちらも救うことを選んだ。

 英雄になどなるつもりはない。ただ、自分が助けたいから――助けるだけだ。

 

 そこへ再び、思考を鋭く貫く不快な耳鳴りを聞く。それぞれのデッキを手にした真司と美鈴は表情を変え、互いの顔を見合わせた。

 龍騎のデッキを持つ真司にとっては、前の戦いで嫌というほど耳にした音。美鈴にとっては先ほど初めて感じたばかりの、ミラーモンスターの気配。神崎士郎の存在には気づかなかった美鈴だが、露骨に剥き出された悪意は、気を使う程度の能力に頼らずとも本能で感じられる。

 

「真司さん……この気配……!」

 

 椅子から立ち上がってブランクデッキを懐へとしまう美鈴と同様、真司もやはりその気配を確かに感じ取っていた。

 背後を振り返ってキャビネットのガラスを見る真司の目に、波打つミラーワールドの境界が映る。反射物の中のさらに奥、鏡像の紅魔館の向こう側から強く伝わってくる気配は、疑いようもなくミラーモンスターの存在を証明している。

 手に取る龍騎のデッキを美鈴に見せ、その在り方をライダーと定義する真司。一度はそのデッキを見知らぬ少年に持ち去られ、返してもらうために過酷な戦いを見せることになってしまったこともあった。

 ライダーの戦いは目を背けたくなるほど辛く凄惨なもの。途中で投げ出したくても許されない、望んで踏み入るべき世界ではないことを、真司は未来ある少年に伝えたかった。

 

「じゃあ、美鈴ちゃん。こっから先は俺に任せて」

 

 真司は冷静な表情で美鈴と向き合い、それだけ告げると、直後に爽やかな笑顔を見せた。これから踏み入る先は仮面ライダーにのみ許された領域。幻想郷の法則として開かれるはずのなかったミラーワールドの中である。

 小さく頷く美鈴。その手に持つブランクデッキを確かに握りしめ、キャビネットのガラスにデッキをかざす真司の傍から少し離れる。

 ガラスの中の真司の腰に銀色のベルト──Vバックルが鏡像と現れるのを見た。そのまま実像としても形成されたVバックルは生身の真司の身体に装着され、ガラスに映る真司と同様に現実(こちら)側の真司も同じく、仮面ライダーの象徴たる銀色のベルト型デバイスを腰部に装っている。

 

「――変身っ!!」

 

 右手を左上に突き上げ、真司は慣れ親しんだ言葉を発した。左手に持ったデッキをVバックルへと装填し、重なる鏡像を纏って龍騎の姿に変身する。

 紅魔館を染める紅色の内装の中で、赤く鮮烈に燃え上がる炎の闘志。真司の身を包む強化スーツの色はどこまでも赤く。その意志を熱く表現しているかのように、強く雄々しい。

 

「っしゃあっ!」

 

 胸の前で右の拳を握る。己を鼓舞する掛け声と共に、真司はガラスの中へと消えていった。

 

◆     ◆     ◆

 

 現実世界とミラーワールドを繋ぐディメンションホールの空間(なか)にライドシューターを停め、真司は独特な環境音が鳴り響くミラーワールドの中へと突入する。

 見渡す限りの真紅色に染められた鏡像の紅魔館。現実世界でも広いと思っていた屋敷だったが、妖精メイドの一人も見当たらない空っぽの館はそれ以上に広く感じられた。

 

 モンスターの気配を追い、真司は客間を飛び出して長い廊下を抜けていく。窓ガラス越しに映る現実世界にはブランクデッキを持つ美鈴の姿があった。

 もし再び現実世界にモンスターが現れれば、奴らは美鈴を狙うだろう。真司としてはあまり望ましいことではないが、本人はミラーワールドに関わる覚悟を決めてしまったようだ。

 

「……逃げて、って言っても、聞いてくれないよな。たぶん」

 

 真司は美鈴に自分と似た性格を感じている。言ったところで簡単には諦めてくれないだろうことにも、大体の察しはつく。

 腰に手を当て、龍騎の姿のまま肩を竦める真司。いざとなれば、自分が彼女を守ればいい。龍騎のデッキは人を守るために手にした力。妖怪を守ることだって、できるはずだ。

 

「もっと上の方か……」

 

 反転した階段を駆け上がり、廊下から二階へと向かう。薄く気配を放つ扉を開け、やがて真司は紅魔館の屋上に備えつけられた立派な時計台のもとへと辿り着いた。

 ローマ数字を刻んだ巨大な時計の文字盤。当然ながら鏡映しのミラーワールドでは数字が左右反転している。やや薄暗くなってきた青空の下で見上げる時計は一見すると古びた様子ではあるが、時刻は正確なようだ。

 ガコン、と。真司は重く厳かな音を聞く。鏡像の大時計が半時計周りに時を刻んだ音。その音を合図として、さっきまで微弱だったモンスターの気配が急激に強くなるのを感じた。

 

「――――ッ!?」

 

 気配の強さに一瞬(おのの)き、咄嗟に背後を振り返る。そこにはモンスターはおらず、何らかの破片らしき物体の一部が転がっているだけ。奇妙な気配を放つその物体を不審に思う真司だったが、前回の戦いで培った直感と洞察力がある仮説を導き出した。

 金色の四肢を覆う銀色の装甲――その無機質ながら生物的な見た目に、真司は確かに見覚えがあるではないか。

 それは先ほど霧の湖で倒した蜘蛛のモンスター、ディスパイダーの特徴と合致する。おそらくはドラゴンライダーキックで撃破したディスパイダーが爆散した際、その破片の一部が紅魔館の屋上まで飛んでいってしまったのだろう。

 本来ならば死んだモンスターはすぐに消滅するはずだが、エネルギーを出していなかったこともあって、やはり完全には倒し切れていなかったのだ。

 ディスパイダーの破片は周囲に散った己の残骸を集めてより大きくなる。巨大な身体が再生を果たしたかと思うと、その姿は先ほど倒したときよりさらに強大な形に進化を遂げていた。

 

「こいつ、さっき倒したばっかりなのに……!」

 

 身の丈を超えるほどの蜘蛛の姿は変わらず金色に輝いている。人間の頭蓋骨にも似た腹部は低く押し潰され、強化再生に伴い頭部から新しく芽生えた人型の上半身を備えながら、その両腕に装う巨大な爪を振り上げて真司を威嚇している。

 一度は倒されながらも進化した姿で復活を果たしたディスパイダーも、真司は前回の戦いで倒した記憶を持っているはずだ。

 しかし、今回はあまりにも再生が早すぎる。かつては少なくとも撃破から再出現までに一日ほどの時間を要していたはずなのに、この個体は半日もしないうちに復活した。

 モンスター自体が強くなっているのか、あるいは幻想郷という未知の環境において特殊な効果が働いているのか。

 真司にはその原因は分からないが、今はただ目の前のモンスターを倒すだけだ。

 

 より強大な力を得て復活した『ディスパイダー リ・ボーン』を前に、真司は腰部に備えたデッキへと右手を持っていく。

 巡らせる思考はこれから引き抜くアドベントカードのために。どういうわけか、神崎士郎が作ったカードデッキには変身者の思考を読み取り、望んだカードを最上段に持ってくる機能が設けられているらしい。

 手にしたカードを確認することもなく、真司は素早く左腕のドラグバイザーに装填した。

 

『ストライクベント』

 

 龍の頭を象ったドラグバイザーの黄色い眼が光る。同時に発声される電子音声を聞き届けると、真司は空いた右手を虚空に突き出した。

 青空の彼方より咆哮を震わせるドラグレッダーの姿が鏡像と映し出され、その頭を模した武装が龍騎の右手へと収められる。

 赤く染まった龍の顎。黄色く灯る鋭い眼。それは一見するとドラグレッダーの頭部そのものに見えるが、龍騎の武装の一つとしてドラグレッダーが貸し与えた力の一つである。

 

 真司は右腕を強く引き絞り、構えた赤き龍の手甲――『ドラグクロー』の双眸をディスパイダー リ・ボーンの胴体に向けて気休め程度の照準とする。

 狙い射るは真司ではない。ましてその両目に捕捉能力がついているわけでもない。ただ、引き金と成すだけ。

 龍騎の背後に舞い降りるドラグレッダーが唸る。ミラーワールドの庭園に咲く花々がその風圧を受けて散れども、鏡に映る花が散ったところで現実世界には何の影響ももたらさない。

 

「だぁああッ!!」

 

 気合いを込めた咆哮と共に、右腕のドラグクローを正拳と突き出した。背後のドラグレッダーが吐き出す炎はドラグクローの顎に宿り、その力を受けて解き放たれる火球と化す。

 迫る龍の火球はディスパイダー リ・ボーンの上半身に命中し、激しく爆発する炎と黒煙の中にモンスターを包み込んだ。

 切り札となるファイナルベントには及ばないものの、近接武器を装備させるストライクベントにもそれなりの威力は期待できる。本来なら近接武器として定義されているドラグクローだが、宿す炎を放てば飛び道具として使うこともできるのだ。

 自身の右腕を龍と成し、龍騎が解き放った【 ドラグクローファイヤー 】の一撃はこれまでも数多くのミラーモンスターを撃破してきた。

 命中を見届け、確かな手応えを感じた真司は黒煙を吐き昇らせるドラグクローの構えを静かに解く。怪物の気配はまだ消えていない。警戒を解かず、黒煙の先を睨みつける。

 

 ――だが、その直後だった。モンスターを包む黒煙を突き抜け、無数の針が龍騎の身を目掛けて飛来してきたのだ。

 真司の記憶にある限りではビルのコンクリートすら容易く貫く威力を持つ針。杭と呼べるほどの太さを持つそれは、仮面ライダーが全身に纏う強化スーツの強度をもってしても串刺しは免れないだろう。

 決して油断していたわけではないが、ドラグクローファイヤーを放った直後の硬直を狙ったかのように連射された針に戸惑い、思わず横に転がってその攻撃から逃れる。背に鉄柵が当たる感触を覚え、真司はそこで自分が時計台から落ちそうになっていることに気がついた。

 

「あっぶね……うおわっ!?」

 

 隙を見せた真司に対して、ディスパイダー リ・ボーンは絶え間なく上半身の胸から針を射出してくる。ドラグクローを装備していては新たにカードを引き抜くことができないため、真司は自らの意思をもって右腕のドラグクローを消失させた。

 両腕で針を打ち払い、その攻撃を弾きつつモンスターと距離を取る真司。大時計の陰に隠れながら再びデッキからカードを引き抜く。

 見つめる絵柄はドラグレッダーの腹部装甲。本来ならば攻撃手段として与えられる武装ではないが、嵐のように連射される針の雨を突っ切っていくには最適な武装であると判断した。

 

『ガードベント』

 

「うぉぉぉぉおおおおっ!!」

 

 ドラグバイザーを開き、カードを装填するや否や、真司は大時計の陰から飛び出した。上空から飛んでくる龍の腹を両腕に装い、再び開始された針の連射の中へ突っ込む。ドラグレッダーの腹部装甲を模した二枚の『ドラグシールド』は龍の爪を備えた盾となり、乱れ撃たれる蜘蛛の針を弾きながら龍騎をディスパイダー リ・ボーンのもとへ接近させた。

 龍騎は紅魔館の屋上を軽く蹴って跳び、ディスパイダー リ・ボーンの下半身に飛び乗る。ドラグシールドを装備した両腕をもって、目の前のモンスターの上半身を殴りつけた。

 

 一発、二発、三発。堅牢なドラグシールドの防御力をそのままぶつけ、確実にダメージを与えていく。限界まで密着したこの距離ならば、針が放たれることはない。

 ぐらりと揺れる蜘蛛の下半身に足を取られ、真司は体勢を崩してしまう。動きを鈍らせているところを見ると、先ほどのドラグクローファイヤーもあって損傷は確かなようだ。

 

「そろそろ終わりにしてやるからな!」

 

 ディスパイダー リ・ボーンの上半身を蹴り上げ、その反動で距離を取る。再び開いたドラグバイザーに、あるいは目の前のモンスターに語りかけるように呟くと、真司は次の一撃で決める覚悟を持って巡らせる思考のままデッキからカードを引き抜いた。

 龍騎のデッキに刻まれた紋章と同じ、金色の絵柄を持つカード。紋章の背景には後光の如く差し輝く赤いオーラが見て取れる。

 それはライダーバトルにおいて最強の一撃を誇る切り札、ファイナルベントのカードだ。

 

「ギシャアアッ!!」

 

「あっ……!」

 

 いざそれをドラグバイザーに装填しようと翻したところ、放たれた針に腕を弾かれてカードを取り落してしまった。ひらりと舞うカードを手で追おうとするが、迫るディスパイダー リ・ボーンの巨躯に邪魔されて掴み取ることができない。

 やがて赤い鉄柵を越え、カードは紅魔館の屋上から落ちていってしまう。思わず鉄柵に身を乗り出し、切り札となるファイナルベントを失った真司は仮面の下に焦燥の表情を隠した。

 

「うそだろ……!?」

 

 小さなカードはミラーワールドの紅魔館庭園をひらひらと舞い落ちていき、やがて龍騎の仮面越しに眼下を見下ろす真司の視界から消える。

 余所見をしていたのが仇となり、真司は背後に迫るディスパイダー リ・ボーンの存在に気づくのが遅れた。振り向いたところに薙ぎ払われた巨躯の脚爪が容赦なく龍騎を殴り飛ばす。

 赤い鉄柵を突き砕き、紅魔館の屋上から落下していく龍騎。なんとか受け身を取ることはできたが、全身を打ちつける痛みは身体を軋ませ、身体に力を込めることができない。

 

「……ってえ……!」

 

 鏡面のない時計塔から落ち、紅魔館の庭園に身を伏せる。なんとか上体を起こして仰向けになり、ビリビリと全身を走る苦痛に声を漏らしながら空を見上げた。

 生身なら全身が砕けてもおかしくないほどの衝撃。仮面ライダーの姿といえど、致命傷にはならないもののモンスターの攻撃にも匹敵するほどの激しい痛みが真司を襲う。

 

 デッキに残されたカードはドラグセイバーを召喚するソードベントと、ドラグレッダーとの契約の証たるアドベントのカードのみ。他の武装となるストライクベントとガードベントはすでに使ってしまっているし、ファイナルベントは先ほど見失ったばかりだ。

 アドベントカードは一度使用すれば次の変身時まで使えない性質を持っている。カードによっては二枚以上あるかもしれないが、決定打と成り得るカードも、盾となるドラグシールドも、今の真司には使えない。

 されど龍騎のデッキには起死回生の一枚、ライダーバトルを円滑化する神崎士郎の意思で与えられた()()()()()が残っているはず。

 ライダー同士で戦うことを拒み続けた真司に業を煮やし、神崎がもたらした最強の力。龍騎に限界を超えた進化を引き起こす烈火の如きカード。

 真司は今この場において──なんとしてでも『生き残る』ために。

 巡らせる思考をもって、Vバックルに装うカードデッキに手を伸ばす。龍騎の指先がデッキの最上段にある一枚に触れた瞬間、真司はその意味を理解してカードを引く動きを止めた。

 

「……あのカードが……ない……?」

 

 龍騎の指先が真司の思考へと伝えるカードは彼が望んだものではなかった。

 望んだカードが最上段に来ていないということは、そのカードは『デッキに存在しない』ということを意味している。理由は不明だが、かつての戦いで確かに得ていたはずのその力は、今の龍騎には備わっていないようだ。

 戦いに敗れ、一度は死んだ自分には生き残る資格すらないということなのか。真司は強く心に抱いた。だったら意地でも、龍騎としての力だけで生き残ってやる――と。

 

 身体を苛む落下の衝撃に、微かによろめきながら立ち上がる。頼りにしていた烈火の力がないと分かり、戦力に不安を覚えるが、ないのなら仕方あるまい。

 あらゆる状況において使用者を生き残らせるほどの絶大な力を秘めたカードは今、龍騎のデッキには入っていない。ならば烈火と滾る炎の力なしで、この窮地を切り抜ける必要がある。

 

「――さん! 真司さん! 大丈夫ですか!?」

 

 紅魔館の外壁に並ぶ窓ガラスには美鈴の姿が映っている。

 心配そうな表情でブランクデッキを握りしめ、現実世界からミラーワールドに向けて声を上げる彼女の心は、高い屋上から落下してしまった真司の身を憂いているようだ。

 

「だ、大丈夫! これくらいなら全然平気だって!」

 

 ガラスに向けて答える真司。仮面で隠されているにも関わらず、真司は無意識に相手を安心させる笑顔を作っていた。

 本音を言うとまだ全身の骨子に響く痛みが身体を震わせ、立ち上がるのもやっとだったが、記憶に残る最後の戦いで背中に穿たれた痛みに比べれば屁でもない。

 モンスターが放つ強い気配は紅魔館の屋上から。庭園に落ちた真司を追い、巨躯に見合わぬ素早さで紅魔館の外壁を駆け降りながら龍騎のもとへと接近してくる。まだ軋みの残る身体を無理やり鼓舞し、真司は再び連射されたディスパイダー リ・ボーンの針から急いで逃げ出した。

 

 もつれた足が庭園の花壇に引っ掛かり、真司はその場に転倒する。視界が低く落ちたおかげで花壇の中まで視線が下がったため、花々の隙間に絡まるファイナルベントのカードを発見することができた。

 真司はそれを取り戻そうと花壇に手を伸ばす。ようやく手に取ることができたそれをドラグバイザーに装填しようと、カードを持ったままの右手を使って左腕の召喚機を開いた。

 

「――っ! 後ろです!!」

 

 現実世界から聞こえるガラス越しの声に耳を打たれ、真司は慌てて振り返る。目の前に広がるディスパイダー リ・ボーンの胸部装甲は龍騎の姿を完全に捉え、放つ針の射程圏内、確実に射殺せる位置に真司を迎えていた。

 モンスターの上半身に設けられた三つの赤い穴――おそらくは針の射出口となる構造が龍騎を睨み、ギラリと覗く数本の針が陰り始めたミラーワールドの陽光を反射する。

 

「やばっ──!」

 

 咄嗟に防御の構えを取ろうとするが、すでに盾となるドラグシールドは召喚できない。ただ両腕を正面で交差させ、顔を覆うだけ。

 避けられぬ激痛に備え、強く目を瞑る真司。心の中で友を想うが、きっと届くことはない。

 

 ――そのとき。

 

『ナスティベント』

 

 冷たく無機質な電子音声を聞いたかと思うと、直後に耳を(つんざ)くような鋭い超音波が激しく鳴り響いた。今まさに龍騎を貫こうとしていたディスパイダー リ・ボーンもその音に苦しみの声を上げ、悶えるように動きを鈍らせる。

 蜘蛛の上半身が両腕で頭を押さえている。下半身はすべての脚を縮こまらせ、うずくまるように小さく固まっている。

 もはやモンスターには真司を攻撃するという意図はないのか、ただ騒音(ノイズ)に震えるだけ。

 

「ぐぅ……っ!?」

 

 激しい超音波にモンスターともども頭を押さえる龍騎。超音波によって動きを抑制されているのはディスパイダー リ・ボーンだけではない。

 虚空より放たれる増幅超音波【 ソニックブレイカー 】の効果を受け、ディスパイダー リ・ボーンも龍騎も等しく、頭の中にけたたましく鳴り響く破壊の旋律に悶え苦しんでいる。

 

 ふと、ようやく激しい超音波が鳴り止み、思考を取り戻すことができた。

 脳髄を直接貫くような音波による頭痛は未だに収まらないが、そちらの痛みに引っ張られて全身のダメージが気にならなくなったような気もする。

 目の前で動きを鈍らせているディスパイダー リ・ボーンもまだソニックブレイカーの効果が抜け切っていないらしい。それを好機と判断し、真司は揺れる頭で掴んだカードを翻す。

 

『ファイナルベント』

 

 ─―しかし、その瞬間。続けて響く無機質な電子音声を聞いたかと思うと、ディスパイダー リ・ボーンの頭上から漆黒の影が飛来した。

 蒼天の果てを破り、ドリル状に束ねられた濃紺の槍。螺旋する暗夜の翼が鋭く捻じれ突き進み、ディスパイダー リ・ボーンの装甲を一瞬のうちに穿ち貫く。

 AP5000を誇るファイナルベント【 飛翔斬(ひしょうざん) 】は純粋な威力こそ龍騎のドラゴンライダーキックに及ばないが、その貫通力は数値以上のスピードをもって放たれる影の如き一撃だ。

 

「――ゴギャアアアアッ!!」

 

 直上から一直線に貫かれたディスパイダー リ・ボーンの身体は内側から爆散し、激しい炎を上げて跡形もなく消滅してしまう。

 その熱風を間近で受け、顔を覆った龍騎は仮面の隙間からある騎士を見た。モンスターが散った炎の中に佇み、陽炎に揺らめく濃紺色の強化スーツ。コウモリの意匠を持つ銀色の甲冑に、左腰のホルスターに携えるは西洋騎士のレイピアを思わせる細剣状の召喚機。

 見紛うはずはない。その姿は、真司の記憶に焼きついた友の鎧。真司自身の死を看取ってくれた最後の友が身に纏う『恋人を救いたい』という『願い』そのものであるのだから。

 

 神崎士郎が作り上げたデッキを使い、願いのために戦う仮面ライダーの一人にして、コウモリ型ミラーモンスター、ダークウイングと契約を交わした夜色の騎士。

 漆黒の夜空めいた鎧を纏うコウモリの仮面ライダー。陽炎の中から視線を上げ、蜘蛛の亡骸が残したエネルギーの光球を見上げる『ナイト』の兜の中には、青く光る双眸が冴えていた。




ミラーワールドに入ると東方キャラの活躍が全然書けなくなっちゃいますね……

次回、第16話 話61第『もう一人の騎士』


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第16話 もう一人の騎士

 ディスパイダー リ・ボーンの消滅により、その個体が喰らった命がエネルギーの光球と輝き溢れた。重力に逆らい、ふわふわと昇っていくそれを掠め取るように、濃紺の翼を持つ巨大なコウモリのモンスターが陽光を遮る。

 引き絞るように甲高い鳴き声を上げ、ダークウイングが目指すのは空に浮かぶ光球だ。契約モンスターといえど、ミラーモンスターの本能は絶えず、他者の命を求めている。

 そこへ割り込んだ赤き龍がコウモリの向かう道を阻んだ。龍騎と契約したドラグレッダーもまた、契約の対価として、モンスターが残した力、命というエネルギーを欲している。

 

「グォォォオオッ……!」

 

「キィキィィキィィィッ!」

 

 低く唸る龍の声。高く喚くコウモリの声。この場に対峙する二体のモンスターはそれぞれ互いを威嚇し合い、静寂に満ちたミラーワールドの紅魔館に響く意思を敵意としてぶつけ合う。

 

「…………」

 

 騎士は視線を落とし、龍騎に向き直った。Vバックルに装う黒いカードデッキにはやはり翼を広げたコウモリの紋章、金色のレリーフと象られたエンブレムが輝いている。

 それは真司と同様にデッキの力をもってしてミラーワールドに踏み入った騎士の証。その姿は、真司も共に『かつての因果』を戦い抜いた友、仮面ライダーナイトに他ならない。

 

「れ、(れん)……?」

 

 自身の死をも看取ってくれた最後の友の名を呼ぶ真司。騎士は答えず、変わらず冷たい視線をこちらに投げかけてくるだけ。格子状の隙間を持つ騎士の仮面の中、鋭く冴える青い双眸に、真司はどこか時の止まったような緊張を覚えた。

 ナイトの右手がその左腰に備えられたホルスターに伸びる。コウモリの翼を模したレイピア型の召喚機──『ダークバイザー』の柄を握ると、ナイトはすぐさまそれを引き抜き、迷わず龍騎を斬りつけた。

 強靭な刃と頑強な鎧がぶつかり、激しい火花が剣戟の音と散る。続けて放たれた正面への蹴りに対しては腕を交差させて防ぎ、後方へ仰け反りながらも真司はナイトを見た。

 

「ぐっ……! な、何すんだ!!」

 

 かつての戦いで身に着いた戦闘経験を活かし、咄嗟の判断で身体を動かしたおかげで受けたダメージは少ない。が、本来ならば殺し合う仮面ライダー同士とはいえ、最後の戦いを共にした男が自身に攻撃してくるなど、真司には考えられなかった。

 ナイトは右手に構えたダークバイザーを左手に持ち替え、刀身を下に向けるようにして逆手で持つ。コウモリの脚が備えた柄の底を右手で掴むと、それを上に引き上げた。

 ダークバイザーのナックルガード部分に設けられたコウモリの翼が斜め左右に開く。顔を出した召喚機の内部構造にはやはり龍騎のドラグバイザーと同様の機構──アドベントカードの認証機構が存在していた。

 腰のVバックルに装うナイトのデッキから一枚のカードを引き抜き、展開したダークバイザーの中へと装填。再び柄底の意匠を掴み、押し込むことでダークバイザーの翼を閉じる。

 

『トリックベント』

 

 ダークバイザーから響く電子音声。それを聞くや否や、ナイトの陰からもう一人のナイト(・・・・・・・・)が現れた。続けてさらに三人目、四人目と現れるナイトの『分身』に、真司はナイトが持つそのカードの効果をすでに知っていながらも、一瞬の対処に迷う。

 ナイトが持つトリックベントは【 シャドーイリュージョン 】と呼ばれる分身技だ。本体とは別に生じる鏡像ながら実体を伴っており、一時的に存在する分身ではあるものの、それそのものが別個のナイトとして定義し得る。

 四人に増えたナイトの攻撃を受けながらも、なんとか急所を逸らすように受け流す真司。

 いくら分身を攻撃しても分身を消滅させるだけで変身者へのダメージは一切ないが、どれが本体なのか分からない以上、戦いを望まない真司には迂闊な反撃ができなかった。

 相手が仮面ライダーナイト──自分がよく知るあの男であるのなら、なおさらである。

 

「やめろって! 蓮! 俺が分からないのか!?」

 

 一つの刃を避ければ死角から別の刃が飛んでくる。拳や蹴りを受け止めても、続くもう一人の攻撃までは防げない。気づけばナイトの姿は四人から五人、六人と増え、やがては八人もの人数で龍騎を囲み、それぞれが持つダークバイザーを振るって真司を追い詰めていた。

 

 戦うつもりはない。相手が友だろうと、殺人鬼だろうと。真司はその命を奪ってしまいたくはなかった。だが、このまま防戦一方ではこちらが命を落としてしまう。

 自分が死んでしまったら、戦いを止めることも、人を守ることもできなくなる。だからこそ、生きて願いを叶えるため。

 死んだら終わりだ、と。かつて友に言われた言葉を胸に抱いて。真司は龍騎の左腕に装うドラグバイザーを開き、デッキから引き抜いたカードを装填した。カードに描かれた柳葉刀、ドラグレッダーの尻尾を模した赤き剣は殺意のためではなく、戦いを止めるための手段として。

 

『ソードベント』

 

 虚空より飛来したドラグセイバーの柄を右手で握り、迫るダークバイザーの剣閃と打ち合うように切り結ぶ。幅の広い刀身を持つ柳葉刀状のドラグセイバーは、レイピアに似たダークバイザーの刀身を押し退け、高い音を鳴らしてナイトの攻撃を退けた。

 カードの効果が切れたのか、次々に消えていくナイトの分身たち。鏡像と消える騎士たちはやがて一人のナイトだけを残して影となる。

 すべての分身が消えてもナイトは攻撃の手を休めない。構えたダークバイザーをドラグセイバーと打ち合わせることなく、その太刀筋を見切って攻撃を続ける。

 今度は真司の方が迫るダークバイザーの刀身に打ちあわせるようにしてドラグセイバーを振るう形になった。

 細い刀身は柳葉刀の刀身で防ぐことができるが、レイピア状の剣は突くことに特化した形でもあるため、攻撃を防ぎ続ける隙を狙われればまともに喰らってしまいかねない。

 

「(なんだ……この感じ……)」

 

 迷いなく冴える剣戟を凌ぎながら、真司はどこか違和感を覚えていた。

 最初はただ、思い出していないだけだと思っていた。仮面ライダーに変身しているからと言って、真司のようにかつて(・・・)の記憶を取り戻しているとは限らない。彼もまた、戦いの因果がリセットされた状態で再び戦っている可能性もあった。

 しかし、互いの剣を切り結ぶ感覚はかつて戦ったとき、前の因果で彼と手合わせたときとは大きく異なっている。

 真司の知る『ナイト』は冷たく振る舞っているが、根は優しい不器用な男だった。昏睡状態に陥った恋人を救うため、ライダーバトルを勝ち進む覚悟を決めておきながら、いざライダーにトドメを刺すとなるとどうしても躊躇(ためら)い、相手に反撃の隙を与えてしまう。

 人を守るために龍騎となった真司と同様、彼は、ライダーになるには優しすぎたのだ。

 

「(蓮……じゃない……?)」

 

 今まさに合わせる剣の冴えには戦いへの迷いが感じられない。剣に伝う優しさがないわけではないのだが、それは無骨で不器用な優しさというより、曇天(どんてん)じみた器用な優しさ。どこまでも手の行き届いた繊細な動き。完璧主義を思わせる瀟洒(しょうしゃ)な振る舞い。

 ナイトは真司が抱いた一瞬の疑問にナイフを突き立てるかのように、切り結ぶ合間に隙を見つけて龍騎の腹に前蹴りを見舞う。

 攻撃の手が休められたのも束の間、再びダークバイザーを逆手に持ち替えるナイト。デッキからカードを引き抜き、展開したダークバイザーの翼の中にカードを読み込ませる。

 

『ソードベント』

 

 ダークバイザーを左腰のホルスターに戻すと、ナイトは虚空から飛んできた大型の槍を両手で受け止めた。

 ナイト自身の身の丈ほどもある長大な槍身は漆黒に染まり、その身に刻まれた金色の模様はどこか高貴さを感じさせる。手甲となるナックルガード部分は銀色に輝き、黒い柄を握りしめながら構える『ウイングランサー』をもって、ナイトは龍騎の首元へその切先を突きつけた。

 

 思わず仮面の下で目を瞑る真司。しかし、ゆっくりと開かれた視界の先に、眼前まで迫ったウイングランサーの刃が振り下ろされることはついぞなく。

 よく見れば、ウイングランサーの漆黒の槍身が、微かに粒子化を始めているではないか。

 

「……時間切れか」

 

 塵と消えゆく槍を下げ、同じく霧のように粒子化を始める自身の手を見ながらナイトが一言、仮面の下で静かに呟く。

 その声は、真司の知らない『女性』のもの。風を切るナイフのように、冷やかに研ぎ澄まされた月のようにも、優しさを捨て切れない騎士のようにも聞こえる、時を刻むような声。

 

 実像の存在がミラーワールドに滞在できる時間は限られている。この世界における仮面ライダーの活動限界となる『9分55秒』の刻限が近づいていることの証明として、仮面ライダーの身体やそれに伴うあらゆる装備は少しづつ粒子と消えていくのだ。

 やがて時がくれば、ライダーといえどミラーワールドから完全に消滅してしまう。それはすなわち、紛れもない『死』を意味している。早々にこの世界から脱出しなければ、彼らの魂は永遠に鏡の世界の塵として彷徨うことになるだろう。

 ナイトは再び上空を高く見上げ、時計台越しに空に浮かぶエネルギーの光球を見やった。ドラグレッダーとダークウイングは未だ互いを威嚇し合い、どちらがそのエネルギーを得るかで緊迫している様子。隙を見せれば、火球か超音波がどちらかの身を裂くのは明白である。

 

 モンスターには粒子化の影響は見られない。彼らはもとより実像を持たないミラーワールドの存在であるため、ミラーワールドの拒絶を受けることなく、無制限に活動することができる。契約者が粒子化を初めていても、両者とも気にせず餌の方に執着していた。

 再び視線を下ろし、龍騎を見るナイト。自らの意思でウイングランサーを消失させ、左腰に備えたダークバイザーを引き抜くことなく展開させる。

 そのまま自身のカードデッキから抜いた一枚のカードを装填。映る絵柄は翼を広げたダークウイング自身の姿が描かれたもの。武装の召喚や効果の発動を目的としない契約のカードは、ナイトがダークウイングと契約したことを証明するカードとして、デッキの中に含まれている。

 

『アドベント』

 

「――キキィィイイッ!」

 

 閉じたダークバイザーが奏でる無機質な電子音声と共に、上空を舞っていたダークウイングが召喚に応じる。目の前に揺れるエネルギーの光球を諦め、ナイトの契約モンスターであるダークウイングは契約者のもとへ飛び迫った。

 背中に装われる形でナイトと一体化し、無機質な黒い翼と広がる鏡像の獣。使うカードが違えば、あるいは盾として扱うこともできるダークウイングの翼を纏い、ナイトは紅魔館の庭園――自身が足つく地面を蹴る。

 濃紺に染まるコウモリの翼を広げ、高く空へと飛翔したナイトは薄く陰る日差しの中、黒い影となってそれを見上げる龍騎の視界に映されていた。

 羽ばたく翼が風を起こし、ミラーワールドの紅魔館庭園に咲く花々の彩りが舞い上がる。

 

「あっ! ちょっと、あんた!」

 

 真司は飛び去るナイトを引き留めようとしたが、すでに遅く。ダークウイングを翼と纏って飛翔するナイトの姿はどこにも見当たらなかった。

 もう一度、上空を高く見上げてみても。そこにあるのは先ほどナイトのファイナルベントによって撃破されたディスパイダー リ・ボーンのエネルギーと、今まさにそれを捕食して吸収するドラグレッダーの姿だけ。

 ナイトが倒した獲物を横取りする形になってしまったかと一瞬思ったが、思い返せば最後のトドメを持っていかれただけだ。ドラグレッダーがそれを喰らう権利は十分にあると考え直し、真司は悔恨なくドラグレッダーの食事を見届け、たったいま飛び去った騎士について考える。

 

「女の声……?」

 

 この場を去ったナイトは確かに、女性の声をしていた。真司の知るナイトは紛れもなく男性であるし、そもそも仮面ライダーとなった者の中に女性がいた記憶はない(・・・・・)。もっとも、真司とて13人のライダー全員と出会っていたわけではないため、出会うことのなかったライダーの中に女性がいた可能性もなくはないが。

 確かに、改めて女性だと考えてみれば、それらしき点は少なくなかった。

 ナイトの姿にばかり気を取られて気づかなかったが、あのナイトは真司の知っている男が変身した姿よりもいくらか小柄で華奢な体格だったような気もする。

 

 女性的なナイト。心当たりはないはずなのに、真司の記憶の中にはどこかうっすらと、白鳥のように白い騎士(・・・・)の姿が浮かんできた。

 だが、彼はそのようなライダーには出会っていない(・・・・・・・)。どこかの因果で出会った可能性もあったかもしれないが、少なくとも真司の知る過去、神崎士郎が優衣の選択を受け入れ、ミラーワールドを開くことのない因果を望んだ──戦いのない世界がもたらされた最後の円環(・・・・・)においては。

 

「まさか、蓮の彼女とか……ないか」

 

 昏睡状態に陥った恋人が代わりにナイトとなった、などと。あるはずもない。そもそも、彼女が自由に動けるのならあの男がライダーとして戦う理由すらなくなる。真司としても、それはそれで嬉しいのだが──やはり当然ながら、複雑な気持ちは拭えない。

 誰かの願いが叶ってしまうということは、すなわちライダーバトルの完遂を意味する。12人の騎士と、ミラーモンスターの餌食となって襲われた多くの犠牲者たちの上に築き上げられた幸せであることは間違いないのだから。

 

 どちらにしても神崎士郎が妹のために仕組んだ戦いだ。仮に本当に最後の一人が決まったとして、その願いが叶えられる保障などはない。妹のためにそれだけのことをしたのだから、最後にはそれすら妹への供物にしてもおかしくはないだろう。

 志半ばで倒れた真司。その死を看取ってくれた(ナイト)の願いは、果たされただろうか。

 

「……ん?」

 

 餌となるエネルギーを喰らって満足げに吼えるドラグレッダーを空へと見送り、真司は身体に妙なむず痒さを感じて、ふと自分の腕を見てみる。先ほどから聞こえてきていた奇妙な音は、自分の身体から発せられているものだった。

 ミラーワールドでの活動限界を迎えて少しづつ粒子と消えていく龍騎。その装甲とスーツが塵と消滅する音が、微かに霧立つ自分の身体と共に視界に入ってきた。

 モンスターとの戦闘に時間をかけすぎていたのに加え、ナイトとの戦闘でもそれなりに時間が経っていたのだ。後から現れたナイトが時間切れでミラーワールドを後にしたのだから、先にディスパイダー リ・ボーンと戦っていた龍騎がそれ以上に滞在できるはずがない。

 

「……おおわっ!! そ、そうだった!!」

 

 加速度的に粒子化が進んでいき、薄くなり始めた身体に激しく焦る真司。何か理由があってここに留まったわけではない。ただ単純に、そのことを忘れていただけだ。

 幸い、出入り口となる反射物は近くにある。真司は背に向けた紅魔館の窓ガラスに慌てて向き直り、飛び込むようにしてミラーワールドと現実世界の境界を越えた。

 無我夢中で疾走したディメンションホールの空間に、ライドシューターを乗り捨てて。

 

 現実世界の紅魔館庭園。屋外から外壁の窓ガラスを見つめる美鈴は、その手に握るブランクデッキに視線を落とし、ガラスの反射の中だけ(・・)に見えた濃紺の騎士、もう一人の『仮面ライダー』らしき人物について想いを馳せていた。

 鏡の世界で龍騎を攻撃していたナイトが呟いた声は、至近距離にいた真司にしか聞こえていない。ディメンションホールの次元を越えてまで、その小さな一言は届いてはいない。

 

「(あのコウモリみたいなライダー……もしかして……)」

 

 しかし、ガラス越しに映る騎士の所作までは見逃していない。成人男性と比べれば小柄な体格、華奢ながら素早く動く身のこなし。加えて、完全で瀟洒なあの立ち居振る舞いには、美鈴は確かな心当たりがあった。

 窓ガラスの前に立つ美鈴は、見覚えのある騎士の動きを推察している。熟考する彼女の視界の端、隣の窓ガラスが境界と揺れるのに、彼女は気づいていなかった。

 現実世界とミラーワールドの境界が繋がる音を聞く。

 ディメンションホールを抜け、ミラーワールドから帰還した龍騎が紅魔館の窓を出口とし、美鈴が立っている場所の隣の窓ガラスから転がるように勢いよく飛び出してきた。

 

「だぁーっ!! あっぶねえ! セーフ!!」

 

 現実世界側の庭園、鏡の世界から戻った真司が地面を滑り込んで安堵の声を漏らす。顔面から地面に突っ込む形になったが、龍騎の姿のおかげで鼻を削らずに済んだ。

 

 入る際は客間のキャビネットからだったが、ミラーワールドの出入り口となる反射物はすべてにおいて共通だ。それが鏡面である限り、どこから入ろうがどこから出ようが問題なくミラーワールドを介した移動ができる。

 ただし、それはすでにモンスターと契約しているライダーに限った場合。契約モンスターを持たず、カードデッキがブランクのままである状態だと、ライダーといえどミラーワールドに入る際に接触した鏡面からしか出ることができない。

 

 当然ながらモンスターは一様に自由な出入りが可能となる。否、正確にはライダーの特性がモンスターに依存していると言うべきか。

 モンスターに襲われれば生身の人間でもミラーワールドに引きずり込まれる。モンスターはそれを利用して、餌となる人間を自分たちの領域で捕食する習性を持つ。

 ミラーワールドに自由に出入りできるミラーモンスターに触れている状態──あるいはその力と契約したライダー自身であるか、ライダーに触れている状態の者であれば、ミラーワールドの法則を身に宿しておらずとも、ミラーワールドを認識、さらには出入りが可能となるのだ。

 

「うわっ!? し、真司さん!? 大丈夫ですか!?」

 

 思考を掻き消す声と共に、視界に飛び込んできた鮮烈な赤。龍騎の姿を目にして、美鈴は驚きながら真司を心配する。ブランクデッキを懐にしまい、龍騎の姿のまま身体を起こして仰向けになる真司の傍に慌てて駆け寄っていった。

 自身の腰、ベルトと装うVバックルに震える左手を伸ばす真司。装填された龍騎のデッキを引き抜き、龍騎の鎧は鏡像と消える。そこで真司は、ようやく生身の姿に戻った。

 

「痛ってて……! だ、大丈夫……! って、言いたいけど……」

 

 仰向けに倒れた状態のままなんとか美鈴に言葉を返す。立ち上がろうと身体に力を込めたが、ディスパイダー リ・ボーンとの戦闘で身体に受けたダメージや、紅魔館の屋上から落下した際の衝撃、先ほどナイトと交戦して蓄積された疲労などが真司の身体に重く()し掛かった。

 

「ちょっと、張り切りすぎたかも……」

 

「ええ……!? 真司さん! しっかりしてください!!」

 

 思うように身体が動かない。真司は意識を強く保ち、最後の力で左手に持ったデッキをジャンパーのポケットにしまうことができたが──

 それを引き金とし、疲労の限界は真司の意識を常闇の淵へと(いざな)ってしまったようだ。

 

◆     ◆     ◆

 

 紅魔館の内部には見た目以上の広さがある。時間を操る能力を持つ人間のメイド長、十六夜咲夜の手によって屋敷内部の空間がある程度拡張されているからだ。

 時間を操るということは、すなわち表裏一体の繋がりを持つ『空間』にも影響を及ぼすことができる、ということ。咲夜は紅魔館の空間を能力で拡張し、それを屋敷そのものに定着させることで一切の負担なく能力を維持している。

 空間の拡張自体はすでに固定されているため咲夜の負担にはならないが、無駄に広い紅魔館を掃除する担当も咲夜自身である。時間を操る能力のため休憩時間こそ無制限に取れるものの、役に立たない妖精メイドと共に屋敷を掃除するのは大変な労力を要していた。

 

 拡張された空間は地下にまで及ぶ。紅魔館の空間自体を広げて地下と定義される場所を作っているため、正確には物理的な意味で地下というわけではない。仮に地中を掘り進んで紅魔館の直下に当たったとしても、問題なく通り抜けられるだろう。

 

 地下に広がった空間の一部、中でも特に広大な面積を持つ一室には、紅魔館の知識のすべてが詰め込まれた巨大な図書館が設けられている。

 庭園ほどの広さと高い天井を誇る『大図書館』の壁には、見渡す限りの本がびっしりと敷き詰められていた。

 地下であるため当然ながら窓などは一つも存在せず、通気性が悪いためにどこか埃っぽいところは否めない。されど、本棚には一つ一つ魔法がかけられており、腐敗や劣化はおろか、火に燃えることも、水に濡れることも一切ない。

 幻想郷のルールと制定された弾幕ごっこは室内でも行われるのだ。重要な書物が保存されている図書館においてもそれは例外ではない。そのために、この図書館の主は自身が有する知識と魔法をもって、自らの存在意義とも言える本たちを弾幕や──白黒の盗人から守っている。

 

「…………」

 

 広い図書館の中、立派な机にいくつもの本を重ねた儚げな少女。月明かりにも似た静かな光を受け、真剣な表情で向かうページには彼女の手による文字が綴られていた。

 深い紫色の長髪には先端を飾るリボンが結ばれ、不健康そうな華奢な身体に纏う薄紫色の服はどこか寝衣めいた緩やかな落ち着きがある。紫色の縦縞模様のように見えるものは、強大な魔力が湛える残滓か、あるいは単なる服の(しわ)だろうか。

 知識と日陰の少女── パチュリー・ノーレッジ は、すでに100年以上もの歳月を生きてきた生粋の『魔女』である。幻想郷における魔女、生まれながらの魔法使いである彼女は後天的に魔法を会得した人間の魔法使いとは違い、一種の妖怪として定義される種族だった。

 

「……けほっ……んん……」

 

 広げた本の傍、シャーレ状に構築された魔水晶を覗きながら咳き込み、呼吸を整える。紫色の髪が微かに揺れるのに合わせ、ナイトキャップに装う三日月の飾りが光を反射した。

 図書館の埃っぽい空気には慣れているが、病弱な身体に生まれ持った喘息までは如何(いかん)ともしがたい。人並み以下の体力や身体能力、併発する貧血も合わせ、パチュリーは膨大な魔力を持ちながらスペルを唱え切れないことも多いのだ。

 戦闘行為は不得手であるため、こうして自身の居場所である静謐な図書館で調べ物をしている方が性に合っている。異変についても気になるが、そちらは専門家に任せることとしよう。

 

「パチェ、フランの灰化について何か分かったことはあった?」

 

 上階の手すりに肘を掛け、上から見下ろすパチュリーに問いかけるレミリア。真紅の瞳で見つめる相手は、互いを愛称で呼び合う仲の親しい友人だ。

 仄かに輝く魔水晶の中にはレミリアの妹、フランドールの身体から零れた灰の粒子が封じられている。

 吸血鬼の遺伝子と、さらに進化を遂げた『別種の生命体』の遺伝子を兼ね備えた肉体の一部。その情報について、レミリアは共に暮らす友人のパチュリーに調べてもらっていた。

 

「……心臓の一部が別の物質になってるってとこまでは調べがついてる。どうやらその物質が何らかのエネルギーを発生させて、肉体を別のものに作り変えようとしているみたい」

 

 パチュリーは向き合う本と睨みあったまま、上階の友人に答える。白くか細い指でめくられた次のページには、フランドールの心臓を魔法で写した精巧な図が記されていた。

 一見すれば普通の心臓。吸血鬼という妖怪のものという点において、人間を遥かに超えて強靭な臓器ではあるものの、それ自体はレミリアにも備わっている。

 

 気になったのはその構造だった。心臓は血液を身体に循環させる器官だが、それに伴いそこから生じたエネルギーがフランドールの身体に行き渡り、肉体を変化させようとしているのが見て取れたのだ。

 まるで一度消失した心臓が、別の臓器として再生したような──さながら『リバースハート』とでも呼ぶべきものが、冷たく鼓動を続けている。

 ミラーモンスターから与えるエネルギーで進行を食い止めなければ、このエネルギーはフランドールの全身を灰と滅ぼすことだろう。

 幸い、心臓の変化は一部だけだ。慌てる必要こそないが、あまり悠長にしていられないのもまた事実。できるだけ早く原因を突き止めたい。その想いはレミリアもパチュリーも同じだ。

 

「別のもの……ねぇ……パチェは何だと思う?」

 

 手すりを飛び越え、小さな翼を広げてふわりと着地するレミリアが疑問を呟く。赤い靴が図書館の床を叩き、軽やかな音を立てた。

 集中している様子のパチュリーの背後から本を覗く。書かれている内容は魔法使いではないレミリアにはさっぱりだったが、描かれた図を見ればなんとなく分かる。

 

 奥にはさらに多くの本が連なる無数の本棚が並べられている。静謐こそを好むパチュリーの性格に加え、ここが図書館なこともあってか無駄口の多い妖精メイドは配備されていない。

 代わりに、大した力を持たない『小悪魔(こあくま)』という使い魔の少女を一人、魔界から召喚して司書として従事させている。

 白いシャツに纏うは黒褐色のベスト。その背と赤い長髪の頭から生える悪魔然とした翼はまさしく人ならざる者の特徴。図書館の室内を低く飛行しながら両手に余る本を積み重ね、ベストと同じ色のロングスカートを揺らしている。

 パチュリーを主人としてよく働いてくれるが、悪戯好きな性格は小さくとも悪魔ゆえか。

 

「少なくとも、幻想郷や外の世界のものじゃないのは確かね」

 

 たくさんの本を抱えて飛んでは丁寧にしまう小悪魔の姿を眺めながら、パチュリーは文字を綴っていた手を止め、机に重ねた本を魔法で浮かせて元の場所へと戻す。そのついでに、小悪魔が間違った場所に戻した本も正しい場所に移しておいた。

 小悪魔は本が勝手に動いたことに驚いた様子だったが、すぐにそれが主人の魔法による訂正だと気づいたのか、パチュリーに顔を向けて申し訳なさそうな愛想笑いを見せた。

 

 友人の言葉を受け、レミリアは顎に手を当てて深く思考する。運命を見たところで、また世界を隔てる霧に邪魔されるだけ。因果を貫く鎖がいくつも絡み合うのなら、そもそもそんな予知に意味などない。

 見えることには見えるのだが、それがどの世界のものかさえ分からない。

 あるときはカレーの香りが漂う異国風の店や、奇妙な面がいくつも飾られた大学の一室。あるときは小規模なレストランや、立派な菜園を備えた一般住宅。またあるときは民家に開かれた喫茶店だろうか。加えて、妙に騒々しい人間たちが心配そうに誰かの帰りを待っている場所。

 

 おそらく、それらは外の世界だ。しかし、博麗大結界を隔てた『外の世界』は一つしかない。こうして様々な運命が複雑な形で見えてしまうのは、どういうわけか別の時空の法則と繋げられた幻想郷の結界が、異なる歴史を辿った外の世界の法則を認識してしまうからだろう。

 

「……ミラーワールドの法則とも違う気がする」

 

 記された妹の心臓を表す図を眺めながら、レミリアは冷静に口を開いた。

 今、この幻想郷の『外』には複数の『世界』が隣接している。ミラーワールドはそのうちの一つとして定義されておらず、どうやら繋がる世界のうちの一つにあった鏡像が幻想郷の法則として流れ込んできてしまったものだと考えられた。

 もしも今の状態で、仮に外の世界に出ようとしたり。外から何かが幻想入りと果たすとすれば、それは幻想郷が知る外の世界とは別の時空に繋がる可能性もある。

 

 それも、あくまで『仮に』の話だ。どちらにしろ、幻想郷のほとんどの住人は博麗大結界を越えることができない。

 こちらからそれを確かめる手段はないものの、その『逆』ならばあるいは。幻想郷から見て『外の世界』と定義されてしまった別の世界、外の世界の並行世界から幻想入りを果たした外来人なら、レミリアたちにも観測できる。

 その可能性の一つが咲夜の報告にあった『赤い騎士』、門番の美鈴が招き入れたという外来人の男の存在だ。そちらについても気になるが、並行世界からの外来人が彼一人ということも考えがたい。接続された複数の(・・・)世界に伴い、招かれた(・・・・)外来人も数人は存在するのではないか──?

 

「それは運命を見ての言葉? それとも、ただの勘かしら?」

 

「残念ながら、後者だよ。でも……」

 

 机の上に開いていた本を閉じ、パチュリーがレミリアに問うた。慌ただしく本を整理する小悪魔の姿を眺めながら、レミリアは親しい友人に気取ることなく言葉を返す。

 紅いカーペットの上を静かに歩む赤い靴。パチュリーが向き合う机の横を通り過ぎていき、数歩ほど歩いた先の反対側でくるりと回る。友人に向き合ったレミリアは赤い瞳を光らせた。

 

「『私の勘に、間違いはないわ』」

 

「……レミィがそう言うなら、そうかもね」

 

 見届けた運命は相変わらず混沌の中。紅く呟いた言葉も、もはや見えないどこかの世界、きっと誰かの言葉なのだろう。

 勘といえば、レミリアが気に入った『赤』も似たような言葉を口にしていた。幻想郷における当代の博麗の巫女、博麗霊夢は、レミリアの好きな赤がよく似合う人間の強者である。彼女もまた、レミリアと同様に己の勘に自信を持つ者だった。

 博麗大結界を隔てて外の世界と隣り合うように、異なる因果を持つ並行世界が引き寄せられた現象。この異変、そして外来人やモンスターの対応に際して、霊夢はどう動くのだろう。

 

「あら、お嬢様。こちらにいらっしゃったんですね」

 

 地下に広がる大図書館、視線の先の扉がガチャリと開かれる音を聞く。姿を見せたのはこの紅魔館の空間拡張を担ってくれた優秀なメイド長だ。咲夜は丁寧な佇まいで主人のレミリアとその友人のパチュリーに敬意を払いつつ、同時に親しみを込めた笑顔で部屋に踏み入った。

 

「おかえり、咲夜。どうだった?」

 

「それが……」

 

 レミリアの問いに対して困ったような反応を見せた咲夜は、対応に当たったミラーモンスターについて主人に報告する。

 紅魔館に──正確にはそのミラーワールドに出現が確認されたディスパイダーと、同一個体の復活によって再出現を果たしたディスパイダー リ・ボーン。フランドールとダークウイングにそれぞれエネルギーを与えるため、咲夜はモンスターの討伐に出向いていた。

 結果として、咲夜はエネルギーの回収には成功した。高密度のエネルギーを持つ大型個体のものはすでにモンスターと交戦中だったもう一人の仮面ライダーに阻まれ、時間切れに際してエネルギーの取得権を明け渡してしまったが、同時に紅魔館に発生した小型のミラーモンスターを掃討することで多少なりともエネルギーを確保している。

 契約モンスターのダークウイング共々、しばらくはフランドールへの供給には困らないだろうが、咲夜が浮かない表情を見せたのはエネルギーに関してではない。

 

 メイド服の懐から取り出したカードデッキは静かに黒く、中心にコウモリの意匠を持つ金色の紋章が象られている。

 本来ならば幻想郷の因果には存在するはずのない『仮面ライダー』の力。ダークウイングとの契約を意味する『ナイトのデッキ』を見つめ、咲夜は当初の目的を完全な形で遂行できなかったことを悔やむように微かに目を伏せた。

 運命の歯車は廻る。紅魔館に現れた外来人らしき人間の男と、赤い龍を伴ったもう一人の仮面ライダー。

 モンスターのエネルギーを奪おうとしたのは建前に過ぎない。本当はあのライダーを自身の力で無力化し、レミリアが見た『幻想郷の運命』を少しでも変えようとしたのだ。

 

「確か、龍騎……と言いましたか。申し訳ございません。お嬢様のご先見通りの結果になってしまいました」

 

 咲夜はメイド服の懐にデッキをしまいながら、先ほど交戦した赤い騎士、仮面ライダー龍騎の姿を思い浮かべた。

 本気で攻撃してはいたものの、殺すつもりで戦っていたわけではない。主人であるレミリアが神崎士郎の主催するライダーバトルなどに乗るつもりがないことを、咲夜は弁えている。

 

「……そう。きっと、その赤い騎士(ライダー)が、戦いの運命を変えるのね」

 

 小さく呟くレミリアはすでに幻想郷に訪れる運命の観測を試みている。並行世界の運命が交錯しているせいで正確な未来を特定できないが、幻想郷が歩むべき因果は何度かその思考に伝わってきていた。

 彼女が観測した幻想郷の運命。そこには、何も見えなかった。未来があるべき鎖の先には、何も繋がれていなかった。

 それが何を意味するのか分からない。もし幻想郷が滅びる運命があるのだとしたら、そうした形で思考を結ぶ紅い霧の中に映し出されるはず。

 

 されど、咲夜が戦った赤い騎士がそれを歪めてくれるなら。運命の鎖を赤く断ち切るドラゴンの炎と燃え盛るなら。不思議と赤い(えん)を信じてみたくなる。

 いつかの夏。かつてレミリアが起こした『紅霧異変(こうむいへん)』を止めてみせたのも、同じ『赤』を装う霊夢だった。

 吸血鬼である自分が日中でも活動できるように、空を遮る紅い霧で幻想郷を覆った異変。霧を打ち払った快晴の巫女が、赤くあるのも必然か。

 あるいは、すでに龍騎(そいつ)と接触を果たした美鈴も──

 運命を変える赤が意味していたのは、スカーレットではなく(ホン)だったのかもしれない。

 

「レミィ、いったいどうするつもり?」

 

「見極めるわ。本当にそいつが、運命を変える存在なのかを」

 

 パチュリーの問いに、レミリアは静かに答える。その赤い瞳に映る運命は、彼女自身にすら知り得ぬ闇。最果ての空を照らしてくれる炎は、幻想郷にとって福音と成り得るのだろうか。

 

 ――幻想郷の『夜』は長い。きっと、この鏡像たちも。その前触れでしかないのだ。

 

◆     ◆     ◆

 

 とある世界。日本のどこかの屋敷──『旧神崎邸』と呼ばれた場所。

 無数の鏡が立ち並ぶ部屋の中に、白と藍色の法衣に身を包んだ女性がいた。八雲紫の式神、八雲藍。彼女がいる場所は、幻想郷でも外の世界でもない。

 

 幻想郷を基準に、ある共通の一点を楔として結びつけられた時空。本来ならば神崎兄妹の祈りによって戦いのない世界となったはずなのに、ここには今、ミラーワールドを開くための無数の鏡が照明の光を反射している。

 姿見の一つ、失われた因果の鏡像と映る男は、消えゆく己の身体を見つめていた。

 

「……どうやら、俺に残された時間はここまでのようだ」

 

 鏡の中で粒子と消える神崎士郎はベージュ色のコートから取り出したカードデッキを右手に持って差し出した。鏡面を越えて鏡の向こう側から伸びる手にも驚くことはなく、藍はそのまま差し出された深い褐色のカードデッキを受け取る。

 デッキに象られた黄金の紋章は、翼を広げた不死鳥の如きもの。不死なる炎を湛えた翼は神々しく、どこか次元を超えた規格外の力を思わせるが、受け取った藍の表情は冷たいまま。

 

「……優衣……」

 

 神崎士郎の身体はもはや形を保つことができない。強引に歪められた因果に生じた微かな残留思念だったその姿は、すでに限界を迎えつつある。

 愛する妹の名を小さく呟き、神崎は鏡の中の世界から――この世界の因果から消滅した。

 

「やはり、紫様の仰っていた通り……」

 

 藍は小さく目を閉じ、自らの身を境界のスキマへと委ねる。鏡像と実像の境界をスキマと定義し、自分たち妖怪が本来あるべき楽園――幻想郷へと戻るために。

 失われたはずの鏡の世界が蘇ったのは、神崎士郎が原因ではなかった。何らかの原因で再び開かれたミラーワールドの法則に残留していただけのあの男には、もはやミラーモンスターやライダーバトルを制御できるだけの力は残っていなかったらしい。

 本来ならばモンスターたちの創造主たる神崎兄妹はもうこの世には存在しない。幼い頃に幼いまま、この旧神崎邸で命を落としたはずだ。その事実と矛盾する神崎士郎という存在を、この世界は拒んだのだろう。それはさながら、ミラーワールドが実像の存在を拒むように。

 

 戦いのある歴史は、神崎兄妹が祈る戦いのない歴史によって塗り潰された。しかし、どれだけ過去を無に帰し、なかったことにしても。どれだけ世界を塗り替えても。本当の意味で『世界が塗り替えられた』という事実を歪めることはできない。

 一度描いた絵は決して消えない。どれだけ描き直しても筆跡は紙に残る。紙を破いても燃やしても、一度その絵が描かれたという事実は世界の法則が覚えている。

 それを認識できる者はこの世界には存在できない。モンスターたちを生み出した神崎兄妹でさえ一度再編されたこの世界にとっては矛盾する異物と定義され、粒子と消滅する。再編された以上、それを覚えている者もいない。

 藍はすでに気づいていた。自分たちとは別の何か(・・)が動いていることに。それが何なのかは分からないが、もしも紫の意思に反する障害なら──藍が取る選択は一つしかありえなかった。




めちゃくちゃ遅ればせながら、新年あけましておめでとうございます。
今年も初日の出の朝焼けに包まれました。渋谷の交差点ではありませんでしたが。

次回、第17話 話71第『夢に向かえ』


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第17話 夢に向かえ

 広がる視界は闇に染まっている。光などどこにもないはずなのに、見渡す限りに散りばめられた鏡の破片は祈りを反射し、真司の意識へと突き刺さってくる。

 やがて光は白く虚ろな影を人の姿に形成した。もはや存在を証と残すことさえできないのか、その影は10歳の少女と20歳の女性の境界を往ったり来たりして一つの形に留まらない。

 

――くん──お願い──真──くん──

 

 失われたはずの因果に届く、失われたはずの少女の声。真司は自身の名を呼ぶ声に聞き覚えがあった。かつてライダーとして戦っていた際に、いつでも傍にいてくれた。

 それは紛れもなくライダーバトルの最果てに望まれた命の少女。神崎士郎がすべてを捧げてでも、輪廻を越えて救いたかった者の嘆き。

 少女の名は神崎優衣。幼い頃に両親に虐げられ、自衛手段として願い描いた絵の中に鏡像のモンスターを生み出してしまったミラーワールドの法則そのもの。神崎士郎は優衣の力を利用して仮面ライダーのシステムを開発したに過ぎない。その根源は、彼女の方にこそあった。

 

「優衣ちゃん……?」

 

 真司は消えゆく影に問いかける。しかし、優衣と思しき影は答える素振りもない。こちらの声は届いているのか、あるいはそれは因果に刻まれた残滓でしかないのか。闇の果てより舞い散る黒い羽根と共に、その姿は拒絶を受けて塵と消えゆく。

 戦いのある世界においては、彼女は刻限のままに消滅した。そして、戦いのない世界においては、そもそもミラーワールドを開くこともミラーモンスターを生み出すこともなく、幼い頃にこの世を去った。おそらく今の神崎優衣は、その境界に残された微かな残留思念なのだろう。

 

――これは──が──じゃない──

 

 優衣の声さえ、こちらに届かない。真司には彼女が何を言っているのか上手く聞き取ることができなかった。

 視界に満たされた無数の鏡の破片に光を反射しながら、優衣はそのまま消えていく。

 

――もう一度――ワールドを閉じ――って─―

 

――お兄ちゃんも──きっと──願っ──

 

 涙の色、後悔の色、懺悔の色。失われた世界、失われたはずの法則の中、優衣の残影は静かに粒子と消滅しつつ、真司に何かを伝えようとしているのに。その言葉の真意はミラーワールドの法則に掻き消され、消滅寸前の優衣では途切れ途切れの伝達がやっとだった。

 真司はそれを止めようと手を伸ばすが、やがて優衣は完全に消滅を遂げてしまう。その手が届くこともなく、真司の視界から──鏡の破片が揺れる闇の中から、その姿は消えてなくなった。

 

――いつでも──祈ってる──

 

 最後に聞こえた少女の声は、ミラーワールドに残った最後の『祈り』なのかもしれない。

 

◆     ◆     ◆

 

「優衣ちゃんっ!!」

 

 鏡と割れる追憶の夢。真司は上体を起こし、どこか血の匂いの香る真紅色の部屋で目を覚ました。身体を覆う上質な毛布を退け、尋常ならざる柔らかさの赤いソファを立つ。

 

「ここは……」

 

 紅魔館の一室で目を覚ました真司は少し前の出来事を思い出す。幻想郷なる場所に迷い込み、再び現れたミラーモンスターと戦った直後、おそらくは真司の知らない誰かが変身したナイトと交戦し、限界に達した疲労によって意識を失ってしまったこと。

 なんとか意識のあるうちにミラーワールドを脱出できたのは幸いと言えた。誰にも知られず鏡の世界で時間切れを迎えるなど、あまり想像したくなるような結末ではない。

 

 寝覚めには堪える部屋の紅さに思わず目頭を押さえ、真司はそこでようやく自分が微かに涙を流していることに気がついた。

 消えゆく夢の内容を虚ろながらに思い返す。優衣の言葉はうまく聞き取れなかったものの、その意思は伝わったような気がする。きっと、今も変わらず、ミラーワールドを閉じたいと、ライダーバトルを止めたいと願っているはず。

 ただ『お兄ちゃんも──』という言葉だけが少し気がかりだ。幻想郷に来てからも真司の前に現れ、戦いを促していた神崎士郎が、ミラーワールドを閉じたいと願うだろうか? あの男の本当の願いは、戦いの先の『新しい命』ではなかったのか。

 あるいは優衣の最後の祈り、誰一人として傷つかないで済む『愛に満ちた世界』こそを、神崎士郎も望んでいたとしたら。

 妹の蘇生ではなく、消えゆく妹が今際の際に抱いた最期の願いを叶えてやりたいと祈るならば、神崎士郎さえもミラーワールドの呪縛に囚われていただけの被害者なのかもしれない。

 

「憎しみなんて、刻まないほうがいいよな……」

 

 真司は再び龍騎のデッキに誓った。かつての記憶と背負う想い。幾千の祈りを受け止めて、声のない叫びに従う。今という悪夢を変えるのは、ただ進むべき道を決めた自分自身、炎と戦い抜ける城戸真司の覚悟だけなのだと。

 微かに抱いた神崎士郎への小さな憎悪も必要ない。かつてと同じように。ただ、ミラーワールドを閉じるために──モンスターから人を守るためだけに戦えばいい。

 

 振り返る窓の向こうには濃紺の夜空と蒼褪めた月が映った。しばらく眠っている間に、すでに日は落ちてしまっていたらしい。カーテンが閉められていないのは紅魔館の住人が持つ西洋人としての文化か、それとも吸血鬼としての矜持か。

 満月と呼ぶには少しだけ歪な月。真司は月齢にはあまり詳しくないが、完全な満月ではないことは一目で分かる。

 霧の湖を越えて朧に染まった月の光が差し込むため、夜を迎えても部屋は暗くない。

 

 ディスパイダー リ・ボーンを倒しに向かった際はとにかく気配を追って上を目指していたためにさほど気にならなかったが、いざ動いてみるとこの屋敷は異常な広さだった。先ほどは迷わずに屋上まで来れたのは奇跡だったかもしれない。

 それが過言ではないと思わせるほど、紅魔館の空間は不可解な接続によって奇妙な広がりを備えている。

 窓から見えたバルコニーはこの部屋が少なくとも二階以上の位置であることを証明していた。ならば真司が最初にいた場所――美鈴と話した客間はこの下だと推測できる。真司はその考えのままに、自分を助けてくれたであろう美鈴に礼を言おうと、そのまま下へ向かった。

 

「……こっちで合ってんのか?」

 

 燭台(しょくだい)が等間隔に並べられた壁を伝い、長い廊下を歩む。道を聞こうにもメイドたちとすれ違うこともない。やはり夜だから眠っているのだろうか。などと考えていると、真司は下の階へ繋がるであろう階段を見つけた。

 階段はどこか薄暗い気配に満ちており、紅く荘厳な廊下からは悪い意味で目立つ。まるで本当に悪魔が住まう場所にでも繋がっていそうな不気味な何かが感じられる。

 一歩、また一歩と階段を下りる度に肌に纏わりつく不快な空気。階段を抜けた先の廊下は上階の優雅な装いとは打って変わって、血の匂いを隠す気のない猟奇的な意匠を持っていた。真司はお化け屋敷にでも入ってしまったかのような恐怖を抑えつつ、紅い雰囲気の廊下を進む。

 

「なんか、こっちに来ちゃいけない気がする……」

 

 背筋に走る空気は冷たいのに、肌に触れる空気はどこか生暖かく血の色を帯びている。それが自分の気のせいであることを願いながら、真司は恐怖を紛らわせようと独りごちた。

 そこへ不意に、自身の足音に重なるもう一つの足音。後ろをついてくるその音に気づきながらも、真司は振り返られず。ただ、その場に足を止めるのが精一杯だった。

 

「ねえ」

 

 背後から聞こえてきたのは少女の声。真司は震える身体を動かし咄嗟に後ろを振り返るが、正面には人の姿はない。ただ一瞬、視界の端に映った宝石めいた輝きに目を惹かれ、そのまま視線を下に落とした。

 そこには妖しい瞳で真司を見上げる幼げな少女が一人。白いナイトキャップを被る金髪は弓張る月の如く、左側だけ束ねたサイドテール状の髪型と整えている。

 紅い瞳で真司と向き合う少女は白いフリルがあしらわれた真紅色のドレスの(すそ)、赤いスカートを揺らしながら、あどけない柔らかさの瞳には似つかない冷たい声色で真司に問いかけた。

 

「あなた、誰? もしかして──人間?」

 

「に、人間……だと思うけど」

 

 滲み溢れる威圧感に微かに後ずさり、真司は見た目こそ10歳ほどの少女に怯む。真司の本能は、明確にこの少女、フランドール・スカーレットに恐怖を抱いていた。

 この年頃の少女に対しては無意識のうちに目線を合わせるのが真司の性格だったが、目の前にしている彼女は見た目以上の底知れなさがある。

 特に気になるのがその背に揺れる翼──のような『何か』だ。紅魔館で見た妖精メイドたちの翼は蝶の羽根に似た形をしていた。だが、この少女のそれは背中から突き出た一対の枝めいた骨格に七色の結晶が並んでいる。それは翼と定義するにはあまりにも不可解な形状だった。

 

 紅魔館は吸血鬼の館だと説明を受けた真司。美鈴から聞いた話が事実なら、この屋敷にはその名の通り本物の吸血鬼が住まうはず。説明のつかない威圧感に包まれ、真司は確信していた。

 この少女こそが紅魔館に満ちる血の匂いの具現──『吸血鬼』そのものであるのだと。

 

「ふーん。地下室(こんなところ)に一人で来るなんて命知らずね。それとも、迷っちゃっただけ?」

 

 紅魔館の空間拡張は物理法則に収まらない。二階から階段を一つ降りただけで、あろうことか地下室に繋がってしまうこともある。495年もの歳月を過ごしたフランドールの部屋は大図書館と同様、静謐に満ちたこの地下空間にあった。

 先ほどまで纏っていた冷たい空気はどこへやら、真司を人間と認めたフランドールは少女特有の所作で真司の傍から少し離れる。その可憐な振る舞いを見た真司も相手が人ならざる者であるという警戒を解き、一人の少女を相手にするという気持ちで向き合うことができた。

 

「でも、丁度よかった。さっき、大事にしてたお人形さんが壊れちゃったの。お兄さん、代わりに私と遊んでくれる?」

 

 月影のように妖艶な笑顔を見せるフランドール。夜を支配する吸血鬼たる証か、真司を試すように見せた牙は少女らしからぬもの。

 しかし、その表情も言葉の後には退屈そうな叢雲に染まる。彼女の心を表すかのように、張り詰めていた両翼の枝は力なく垂れ、吊られた七色の結晶も輝きを失っていた。

 

「……なんてね。本当は遊びたいけど、今はダメなの。私の身体も、壊れちゃったみたいだから」

 

 そう言って自嘲気味に差し出されたフランドールの右手には、白く柔らかな肌の中に一点の違和感が見られた。少女らしく綺麗な手の平から零れる灰。紅魔館地下廊下の床に滴り、積もっては蒸発するように消えていく。

 彼女が灰の塊を握っていたのではない。彼女の右手そのものが朽ち果て、灰となって微かに崩れ落ちたのだ。

 フランドール本人はそれを見ても怯える様子も驚く様子もなく、ただそれが自然なことであるかのように見つめている。灰化する身体に痛みはないのか、顔を歪めることもない。

 

「えっ……!?」

 

 真司はその変化を見て素直に驚いた。目の前の少女が存在を失いかけていることに。灰と朽ちるという過程自体は異なるが、似た境遇の少女──神崎優衣を知る真司にとってはその現象は無視できない共通点を帯びていると思わざるを得ない。

 フランドールと出会った瞬間こそ、冷たい狂気を帯びた獣の如き威圧に恐怖した。その理性的な不条理は、真司の知る凶悪な殺人鬼さえ思い起こさせたほど。

 張り詰めていた空気は今は感じられない。真司はどこか達観したような、自分の運命を悟ってしまったかのような目で自分の右手を見つめるフランドールに対し、かつての因果で抱いた歯痒さを思い出していた。

 

「お姉様から言われてるんだ。原因が分かるまでは地下(ここ)でじっとしてなさいって」

 

 再生を遂げた右手を閉じては開き、感触を確かめる。見つめる右手がいつも通りであることが分かると、フランドールは困惑に狼狽える真司に背を向けて歩き出した。

 少し歩いた先で振り返り、真司に対して、さっきまで灰を零していた右手を向ける。

 

「ここにいると、お兄さんまで壊れちゃうよ。だから……またね」

 

 優しくも悲しげな声色で呟く。直後、フランドールは右手の指をパチンと弾いた。真司がそれを理解する前に、その足元に現れた真紅色の魔法陣が輝きを増す。フランドールは吸血鬼でありながら、備えた魔力で魔法を使うこともできるのだ。

 真司の困惑の声は一瞬のうちに紅い魔力に包み込まれる。光が失せる頃には、そこに城戸真司の姿はなかった。

 

「……また、ひとりぼっちになっちゃったかな」

 

 再び訪れた静寂はフランドールの心を闇に閉ざす。冷たく静かな孤独の心地良さが、少しだけ胸に刺さるのを感じながら。

 ただ物言わぬ人形と、血の匂いだけが満たされた自らの部屋へと足を運んだ。

 

◆     ◆     ◆

 

 紅魔館のエントランスホール。正門を進んだ先の広間もまた、紅く豪華な装飾の中に設けられている。死に彩られた地下空間とは違い、こちらは当主の意向に従ったエレガントな趣を備え、地下空間ほどの不気味さはない。

 そんな広間の中心、紅いカーペットの上に。突如現れた真司はただ、混乱していた。

 

「……ん? あれ? どうなってんだ?」

 

 さっきまで薄暗い地下空間にいたはずの彼の視界に映るのは、暗闇に慣れた目には些か辛いほどの鮮烈な真紅。高く見上げる階段まで続くカーペットには埃一つなく、真司の頭上で静かに光を灯らせるシャンデリアはアンティークな意匠ながら優雅な高級感を感じさせる。

 

「あら、人間のお客様。お目覚めのようですね」

 

 混乱の拭えない真司の頭上、上階の手すり越しに聞こえてくる女性の声。見上げた先には銀製のトレイに白く可憐なティーセットを乗せ、優雅に運ぶメイド長の十六夜咲夜が客人である真司に笑顔を見せていた。

 なんとなく聞き覚えのある声に疑問を覚えつつ、真司は初対面であろう十代後半ほどの少女に軽く会釈をする。咲夜は人間であるため、その背に羽根は生えていない。

 

「あっ! あんた、その声……!」

 

 少しの思考を経た後、真司はその声の心当たりを思い出した。聞き取れたのはあまりに微かな一言だったが、記憶違いでなければ、その声は先ほどミラーワールドの紅魔館庭園で戦ったナイトの声ではなかったか。

 咲夜は笑顔を崩すことなく青い瞳で真司を見据える。その冴えが一瞬、紅く染まったかと思うと、刹那のうちに真司の目の前まで『移動』した。

 普通の人間は止まった時間を認識できない。彼から見れば、咲夜が瞬間移動したように見えたことだろう。

 さっきまで持っていた銀盆(トレイ)は、止まった時間の中でどこかに置いてきたようだ。

 

「十六夜咲夜と申します。先ほどは素敵な戦いぶりをどうも」

 

 メイド服の懐から取り出した黒いカードデッキを真司に見せる。中心に刻まれた金色の紋章は疑いようもなくコウモリの意匠を象っており、真司の推測を確信させるのに十分なものであることを証明している。

 真司は手品のように移動した咲夜に戸惑いながらも、そのデッキから目を離せなかった。息の詰まるような思いの末、ようやく言葉を絞り出す。

 

「ど、どういうことだよ! なんであんたがそのデッキを持ってんだ……!?」

 

「貴方と同じ、仮面ライダーだからですわ。他に理由が必要かしら?」

 

 その手に輝くデッキの紋章は間違いなくナイトのものだ。先ほど戦ったナイトは、咲夜と名乗ったこの少女が変身していたらしい。

 美鈴の持っていたブランクデッキとは違い、すでに契約が交わされている。ダークウイングとの契約を表すコウモリの刻印。真司の記憶と違わぬナイトの紋章。それはこの少女が自らの意思でダークウイングと契約したのか、あるいはすでに契約済みのナイトのデッキを何らかの経緯で手にしたのか。

 

 真司のデッキにはすでにドラグレッダーを表す紋章が入っていた。幻想郷で変身した際に再契約を交わすまでもなく、ドラグレッダーは龍騎のモンスターとして召喚に応じてくれたはず。となれば、やはりナイトの場合も後者に当たるのではないか。

 かつての戦いでナイトだった男は、この戦いには参加していないのだろうか? 真司はその可能性にどこか安堵を覚えるが、同時に無関係の少女がまたしてもライダーの運命に関わってしまっていることに焦燥を覚えてしまう。

 契約前の段階だった美鈴だけならまだ守り切れた。だが、すでにモンスターと契約している咲夜は、仮面ライダー『ナイト』として、後に引くつもりはないらしい。

 

 ガチャリと開かれた紅魔館の玄関が奏でる音に、真司の思考は寸断される。シャンデリアの光が灯るエントランスホールの中、外から差し込んだ月の光は、真司と咲夜の顔を照らした。

 

「咲夜さーん。そろそろご客人の様子を見てきても……」

 

 紅魔館の外で門番の職務を担っていた美鈴。仰々しい玄関のドアを開き、その場に立ち入った瞬間に感じた空気の緊張は、気を使う程度の能力を持つ彼女でなくとも肌で分かる。

 美鈴にとっては上司に当たる咲夜が持っているのは、真司や美鈴も手にしたカードデッキなる外来の道具ではないか。

 真司と咲夜も玄関のドアを開いた美鈴の存在に気づいたようだ。振り返る真司と微かに顔を傾けた咲夜の目線は、変わらず美鈴の方へと向けられている。

 

「……えーっと……どういう状況ですか?」

 

 時が止まっている──と錯覚する刹那の空気。美鈴は思わず、疑問を口に出していた。

 

◆     ◆     ◆

 

 紅魔館の客間に案内された真司は咲夜や美鈴と向かい合うように座り、テーブルの上のティーカップ──ではなく、その横に置いた龍騎のデッキに視線を落とす。

 カーテンの開かれた窓から差し込む月の光が、龍を象った金色のレリーフに反射して光を放ったような気がした。

 向かうテーブルには同じく二つのデッキが置いてある。美鈴の前に置かれたブランクデッキと、咲夜の前にあるナイトのデッキ。コウモリの意匠はやはり龍騎のデッキと同じように月光を返すが、美鈴のブランクデッキには龍やコウモリといった契約モンスターの意匠はない。

 

「やっぱり、あれは咲夜さんだったんですね……」

 

 美鈴はミラーワールド越しに見た騎士(ライダー)の所作からその正体を推測していたが、この場で明かされた説明を受けてもそれは事実であると言えた。

 未だ納得していない様子の真司も咲夜がナイトとなった経緯を聞いて、無為に否定することもできない。

 真司は一度、紅魔館の地下でフランドールと出会っている。そのとき目にした『灰化』の現象は確かに見過ごせぬ変化だった。その症状を食い止めるためとあらば、ミラーモンスターのエネルギーを回収しようとデッキを取るのにも合点がいく。

 フランドールの遊び相手を務めることが多い美鈴はその症状に気がついていたが、咲夜がそのために戦っていることは知らなかった。

 そもそも、咲夜がデッキを手に入れ、仮面ライダーナイトとなったのはつい最近の出来事である。屋敷の外で門番を務める美鈴への伝達が遅れるのも無理はない。

 

「……あんたも色々と大変なんだな」

 

 ライダーバトルを止めることを理想として戦いを続けていた真司にとって幸いだったのは、咲夜がその願いを一点に戦っているということだ。フランドールの症状を抑えるためにモンスターのエネルギーを与える。それだけを理由にモンスターを倒しているのなら、彼女にとって他のライダーを倒す必要はないのかもしれない。

 咲夜が変身したナイトから攻撃を受けた理由も、モンスターのエネルギーを勝ち得るためだと考えれば少しは理解できる。真司には共感こそできないが、そういう行いをするライダーも珍しくはなかったからだ。

 

 かつてのナイトのようにライダーバトルに勝ち残ろうとしているわけではない。無論、一部のライダーのように罪のない人々をモンスターの餌にする気もないらしい。

 理由こそ異なるものの、彼女もまた、モンスターと戦うためにライダーになったと言っていい人物なのではないか──などと。真司はどこか、夢と踊るようにティーカップを手に取る。

 深く染み渡る紅茶の暖かさは、かつて前の因果で世話になった喫茶店──『花鶏(あとり)』で味わった安らぎの香りを少しだけ思い出させてくれるような気がした。

 

「このデッキ、空から落ちてきたって言ってたけど」

 

「はい。たぶん霧の湖の妖精が落としたものだと思いますが……」

 

 テーブルに並べられた三つのデッキ。そのうち美鈴が持っていたブランクデッキについて、咲夜は美鈴に確認した。入手の経緯を説明する過程で仕事中に昼寝をしていたことまで余計に明かしてしまったが、咲夜は特に気にしていないようだ。

 咲夜のデッキはレミリアが神崎士郎から渡されたものをそのまま咲夜が受け取ったもの。その時点で、このデッキにはすでにナイトの紋章が刻まれていた。美鈴が感じ取れた気、デッキに込められた想念を見る限りでも、このデッキはかつての因果においてかつてのナイトが使っていたものである可能性は高い。

 

 不可解なのは美鈴が偶発的に手にしたブランクデッキだ。龍騎のデッキも、ナイトのデッキも。等しく契約の紋章が刻まれているのに。美鈴のものにはそれがない。彼女にだけ見て取れる意思の力、気と呼べる想念の波動も特に感じられない。

 真司が抱いた疑問は、このデッキは自分の世界(・・・・・)由来ではないのではないか──という可能性に繋がっていた。

 もし龍騎やナイトのように元の世界の因果からそのまま引き継がれた力であれば、それがどのライダーのものであれ契約が残っていてもおかしくはない。あるいは、ただ未契約のデッキが元の世界、真司の世界から何らかの理由で流れ込んできてしまっただけなのだろうか──

 

 ――などと考えていると、真司の耳が低く鳴る音を聞く。咲夜も同様に聞いたらしく、顔を上げてその音の発生源に視線を向けた。

 緊迫した空気の中には似つかわしくない平和な音。ミラーモンスターの出現を知らせる鏡の世界の金切り音とは聞き違えるはずもない、真司も自身の腹から耳にした覚えのある音だ。

 

「す、すみません……」

 

 美鈴が照れ臭そうに二人に笑う。彼女の意思で発した音でないにしろ、緊張の鏡を打ち砕くには十分な引き金だった。

 生きている限りは空腹は避けられない。それは人も獣も、ミラーモンスターも。幻想郷に生きる妖怪たちにとっても同様だ。命を持たないモンスターがその概念を正しく理解できているかは不明だが、真司もドラグレッダーに空腹を訴えられたことは何度もある。

 その度に願い思った。モンスター(こいつら)も人間と同じものを食って満足してくれたらな、と。

 もしそうあってくれるなら、最高の味を自負している自慢の料理を、毎日振る舞ってやることも吝かではないのだが──残念ながら、彼らは人間かモンスターしか望まない。

 

「そういえば、そろそろお夕飯の時間だったわね」

 

 メイド服から銀色の懐中時計を取り出した咲夜が呟く。紅魔館の客間にもアンティークな時計は備えつけられているものの、時間を操る彼女は自ら携えた時計で時刻を確認するのが癖になっているようだ。

 

「城戸真司さん、でしたっけ。今日はもう遅いですし、紅魔館の客室を使ってください。お嬢様の許可はすでにいただいておりますので、ご心配には及びません」

 

「ああ、それなら助かる……けど……許可なんていつの間に取ったんだ……?」

 

 咲夜がそう言って席を立つのに少し遅れ、美鈴も立つ。その流れを追うように真司も椅子を引き、三人はそれぞれのカードデッキを再び手に取った。

 奇妙な言い回しをする咲夜に少しの疑問を覚えた真司だったが、深く考える必要もないだろうと早々に忘れ去る。

 真司を紅魔館に泊めることについて、美鈴も同じことを提案しようとした。当主の反対だけが懸念として残っていたものの、どうやら彼女と意向を同じくしている。否、気まぐれなお嬢様のことだ。単に仮面ライダーなる存在が興味深いだけかもしれない。

 

 外来人である真司には幻想郷で行く宛などない。早々に帰せればよかったのだが、幻想郷の結界の異常により外の世界との接続に狂いが生じているらしい。少なくとも異変が収束するまでは紅魔館で世話になることになるだろう。

 咲夜はレミリアの意思を仰せつかっている。彼女が言った『運命を変える赤い騎士』の存在、龍騎のデッキを持つ真司を、みすみす妖怪の餌にしてしまうわけにはいくまい。

 紅魔館には妖精メイドたちに与えてなお有り余るほどの部屋がある。重ねて咲夜の空間操作をもってすれば、自由に部屋を増設することすら造作もない。

 最初に真司と接触した美鈴に耳打ちし、咲夜はこっそりレミリアの意思を伝えた。

 

「(見張り……ですか?)」

 

「(そう。お嬢様が言ってたわ。こいつの監視はあなたに任せるって)」

 

 美鈴にはその言葉の真意は分からなかったが、紅魔館の当主であるレミリアの意思なら従うだけの意味があるのだろう。その圧倒的なカリスマと気まぐれな性格ゆえに紅魔館を振り回すことも多い彼女も、考えこそ定かではないものの優れた見識を持っている。

 城戸真司が紅魔館を訪れる運命さえ見通していてもおかしくはない。美鈴にはその鎖を見ることは叶わないが、誇るべき当主の能力は確かなものだ。

 

 平時においては紅魔館の料理は咲夜が担当している。紅魔館で開かれるパーティでも、他の場所での宴会でも重宝される咲夜の料理の腕前は当主のお墨付きである。

 今は幻想郷に起きている奇妙な異変、それに付随するミラーモンスターの発生やフランドールの灰化現象などの対処に追われ普段以上に忙しい。拡張された屋敷の掃除や咲夜自身も異変解決の一端を担う幻想郷の『人間』として行動しているため、いくら時間を止めても一人の人間にできる労働量を大幅に超過していた。

 その負担を少しでも軽減するため、このところは咲夜の仕事を分割して妖精メイドや門番の美鈴にも配分している。無論、咲夜ほどの働きは期待できないものの、紅魔館唯一の人間である咲夜が異変の解決に向き合えるよう、せめて料理担当くらいはと美鈴が志願したのだ。

 

「それじゃあ、咲夜さん。あとは私に任せてください!」

 

 幻想郷の異変を解決するのは幻想郷の人間でなくてはならない。とは思いつつも、美鈴も咲夜も、すでにどこかで気づいていた。この異変は、幻想郷だけで収まるほどの事態ではないと。かつて咲夜が永夜異変の折、主人のレミリアと共に偽りの満月を目指したときのように、人間と妖怪が共に動く必要があるかもしれない──ということに。

 レミリアも同じことを考えているだろう。咲夜と同じく異変解決を志す人間、霊夢や魔理沙も、やはり永夜異変の際と同様に、人と妖怪の共同戦線を視野に入れるはずだ。

 

「あまり無理はしないでね……って、城戸さんは何をしてるのかしら」

 

「何って、夕飯作るんだろ? 俺、こう見えて料理は得意だからさ! 手伝わせてよ!」

 

 爽やかな笑顔で咲夜の訝しみに答える真司。自身も空腹であったからか、この場の誰よりも料理に対する姿勢が強い。その表情は、客人という自分の立場を分かっていないようだった。

 

◆     ◆     ◆

 

 紅魔館、当主の間。青白く冴える月の光は緋色の屋敷を妖しく染め、陽の光を知らぬ吸血鬼の肌をより白く目立たせている。

 湖の霧は夜間にはあまり生じない。今宵は満月には及ばない欠けた月だが、霧に遮られぬ夜空の光はレミリアにとって愛しい彩りだった。紅霧異変のときのようにレミリア自身が放った魔力の霧が満ちていれば、その月はより美しい真紅に染まっていただろう。

 

 この場にいるのはレミリアと咲夜の二人だけ。フランドールは地下室からあまり出たがらない性格もあり、普段から一人の食事が多い。パチュリーは種族的な魔法使いであるため、そもそも食事自体が不要だ。

 大図書館の司書を務める小悪魔に関しては言わずもがな、召喚者のパチュリーから供給される魔力のエネルギーで事足りる。

 美鈴と真司はまだ厨房に残っているのか、あるいは一階の食堂だろうか。

 

 レミリアにとってナイフとフォークを用いた食事は儀式に等しい。妖怪である以上は人間を襲うことを糧とする。妖怪が人間を襲う、妖怪にとって当たり前の行為が制限されている以上、賢者から供給される人間の血液が含まれない食事など、人間の真似事でしかないのだから。

 

「……咲夜。何この匂い」

 

「お客様がどうしてもと言うので、厨房をお貸ししました」

 

 テーブルの上に並んだ料理は豪華なものだが、どれも量が少ない。生まれつき小食のレミリアが眉を(ひそ)めたのは、大きなテーブルをぽつんと彩る料理の少なさに対してではなく。準備の段階からすでに気になっていた──鼻を衝くような『あの』独特の香りだ。

 吸血鬼に致命傷を与えるにはあまりに程遠いものの、広い意味では弱点の一つとして差し支えないネギ属植物の一種たる野菜。

 妖精メイドたちが運んできた料理の中にたった一つだけ感じられたその匂いは、開け放たれた銀製のクロッシュの中──白い皿の上からその存在を何より強く主張していた。

 

吸血鬼(わたし)の屋敷で餃子(ぎょうざ)を焼くなんて、大した度胸ね……」

 

 肉と野菜の調和を包み込んだ、白い蘭に似た皮を持つ餃子たちが皿に並べられている。薄く焼けついた焦げ跡と月明かりに冴え光る油の雫。美鈴も中華料理を得意としているが、彼女が作ったものはここまで露骨な匂いを発してはいなかった。

 客人に厨房を貸したという咲夜の言葉にこめかみを押さえるレミリア。外来の人間を吸血鬼の食事に携わらせる咲夜についてもだが、あろうことかニンニク料理を出してくるとは──

 

「ご安心ください。お嬢様のはニンニク少なめだそうです」

 

「それは皮肉のつもりかしら?」

 

「皮肉……そうですね。餃子に骨はございません」

 

 レミリアの傍らに立ち控え、笑顔で答える瀟洒な従者。普段は優秀で完璧な働きをするメイドであるだけに、時折発せられるとぼけた言動はレミリアの感覚をもってしても掴みづらい。

 

 丁寧に並べられた銀製のナイフとフォークで、どうやって餃子をいただこうか──と考えている折、食器を手に取ろうとしていたレミリアが微かに動きを止めた。

 理由はただ一つ。咲夜と同じく、感じ取った鏡像の気配に気がついたためである。

 

「咲夜、この料理の時間を止めておいて。冷めちゃったらもったいないから」

 

「……かしこまりました」

 

 精一杯背伸びをしながら白いレースカーテンに覆われた深窓を開き、欠けた月の光を一身に受けるレミリアが小さく笑う。食事の時間を邪魔されたのは不快ではあるものの、夜空に見通した紅い運命の鎖は、確実にレミリアの望んだ色を見せている。

 レミリアの身体は白い手の指先から、羽毛を持たぬ翼の群れに。霧と崩れる吸血鬼の肉体は、黒く羽ばたく無数のコウモリの姿で散っていく。

 

 窓の外へと消えていった無数のコウモリたちを見送り、咲夜は言われた通り目の前の料理に自身の能力を施した。――その前に、外来人の青年が焼いた餃子を一つだけ。必要以上に冷ましたそれを、密かに味わいながら。

 猫舌の身をもって食する背徳の味覚。咲夜が目を見開いたのは、微かに残っていた熱さによるものではない。自身や美鈴が作るいつもの餃子より──遥かに美味しかったからだ。

 

◆     ◆     ◆

 

 時計台を備えた屋上に、招かれざる妖怪が一人。白い法衣に身を包んだ金毛九尾の妖狐、八雲藍は袖に両手を入れ、神妙な面持ちでただ静かに佇んでいる。

 そこへ騒がしくバサバサと羽ばたくコウモリの群れが舞い降りた。赤い鉄柵の上に集まるように翼を畳み、やがて無数のコウモリは元の形──吸血鬼の少女の姿を象っていく。

 

「あんたが紅魔館(うち)に来るなんて、いつ以来かしら?」

 

 赤い鉄柵の上に腰掛けたレミリアが小さく翼をはためかせる。藍は紅魔館の大時計を背に、レミリアは夜空に輝く月を背に、互いの姿と向き合いながら。

 春の夜風に妖しく(なび)く金髪と尻尾。月の祈りに気高く揺れる銀髪と黒翼。レミリアの赤い視線は揺るぎなく、眼前の妖怪──九尾の狐の金色の瞳に合わせられている。

 

「ライダー同士の戦いはもう必要なくなった。そのことを伝えに来ただけよ。もっとも、お前たち吸血鬼は最初からモンスターだけを倒すつもりだっただろうけど」

 

 藍はただ要件だけを告げる。願いを叶えるためにライダー同士が最後の生き残りを決める戦いはもはや意味を成さない。並行世界にあったはずのミラーワールドの『法則』は、すでに幻想郷の因果――その境界を侵食し始めている。

 鉄柵から下に降りれば窓ガラスがある。部屋に入れば光を反射するものはいくらでも置いてある。しかし、レミリアが今いる紅魔館の時計台にはそれがない。

 ミラーワールドに直接繋がる鏡面はこの場に存在しないにも関わらず、ミラーワールドからの気配は絶えず夜風に感じられた。

 

 直後、藍の背後に金色の羽根が舞い落ちるのを目にする。レミリアの視界を明るく照らす黄金の光を伴いながら、藍の傍らにゆっくりと降りる『仮面ライダー』らしき存在。

 その姿は一言で言えば、神々しささえ感じさせた。

 龍騎やナイトとは異なる漆黒の強化スーツ。各部に纏う装甲は落ち着いた茶色を装い、頭部や肩、全身に配された装飾とジペット・スレッドは不死鳥や鳳凰(ほうおう)といった超常的な神の使いを思わせる神秘的な黄金の輝きに染まっている。

 通常は銀色であるはずのベルト、Vバックルでさえ金色のもの。そこに装填されている深い褐色のカードデッキには、死と再生を司る不死鳥の如き紋章が象られている。

 

「それにしては、ずいぶん殺気立った奴がいたもんね。そいつもあんたの式神(どうぐ)なの?」

 

 幻なのか実体なのか。夢幻にして泡影の月。レミリアは対する藍の傍に控える黄金の騎士を見ながら言った。袖に両手を隠して佇む藍と同じように、隣立つライダーもまた、金色と茶色の装甲に覆われた両腕を組んでいる。

 実体のない神崎士郎の意思を代行する13人目の仮面ライダー。最強にして最後のライダーとして生み出された『オーディン』はただ静かに立っているだけ。

 そこには彼自身の意思など存在しない。ただ神崎士郎の代わりとなるだけの従順な駒。仮面ライダーの開発者である神崎士郎が都合の良いアバターとして用意した仮初めの契約者。

 

 かつての戦いにおいては、そのカードデッキは神崎士郎が無作為に選んだ人間を憑代とすることで、13人目という舞台装置として操っていた。

 それは誰でもいい。オーディンになるべき者にはライダーの願いさえ必要ない。ただ生きた人間という身体さえ持っていれば誰でもオーディンとして動かせる。故に、何度倒されようともオーディンは蘇る。ただカードデッキだけを残して。変身者という犠牲を代償にして。

 

「お前もすでに気づいているはず。この幻想郷を苛む悪意はミラーモンスターだけじゃない」

 

「関係ないわ。あんたたちが何を考えていようと、私の祈りは一つだけ」

 

 不敵な微笑は静かに失せ、レミリアは冷たい声色で呟く。向かう言葉を突っぱねるようにして、赤い瞳をもって鋭く藍を睨みつけた。

 静かに目を閉じ、鉄柵の上に立ち上がる。槍のように尖った柵の上、赤く小さな靴で器用に振り返るレミリアは自身の正面に月明かりを捉えたまま。

 藍に背中と翼を向け、首だけを微かに動かして背後に立つ藍に顔を向けた。

 

「大事な妹を、救いたいだけよ」

 

 紅く秘めた覚悟を零す一言。その言葉が相手に届くことさえ確認せず、レミリアは再び無数のコウモリとなって霧散する。

 月を陰らせ、闇に羽ばたく小さな群れが去っていくのを見届け、藍は夜の静けさに満たされた紅魔館の時計台で月の光を反射する黄金のライダーを見た。

 隣立つオーディンは自我こそ持たないものの、神崎士郎によって構築されたプログラムを持っている。それは幻想郷ではレミリアの言葉通り『式神』と定義できる存在だろう。

 

 オーディンの本体であるべき神崎士郎はもういない。残滓として微かに繋ぎ留められていた残留思念さえもすでに消滅してしまった。

 今ここに存在しているオーディンは藍が選んだ『名もなき妖怪』が変身している。すでに存在を失い、妖怪としては終焉を迎えた哀れな個体。死にゆくだけの肉体にオーディンのデッキを与え、藍の意思のままに動く駒とする。

 プログラムされた人格はそのまま。神崎士郎とはまた異なる意識を持ち、オーディンという存在はそのカードデッキに宿り、何度消滅を遂げようとも、変身者を支配して復活する。それはさながら、憑代が死んでも式がある限り何度でも代替可能な式神と同じだ。

 

「……皮肉なものね。あの男は消えても、操り人形はこうして願いに従い続けるなんて」

 

 まるで──役割を失ってしまった式神のよう。同じく式神の身である藍はその姿にどこか憐れみを覚えずにはいられなかった。

 もし仮に自分が同じ境遇に落ちたとき、いったい何を想うのだろう。主人である八雲紫が消えたとしたら、式神と定義された自分はどう動くのだろうか。

 

 金色の羽根が舞い散る夜の時計台。月の光を返して輝くオーディンと藍の瞳。荘厳な音を立てて大時計の針が動くとき、一人の騎士と一人の妖怪はその場から消失した。瞬くうちに消えた羽根もまた、藍とオーディンの姿を微塵も残さない。

 

 時は少しづつ、刻まれていく。その度に境界が近づいていく。すでに幻想郷は複数の世界の法則を取り込んでしまっている状態にある。そこに潜む悪意は、太古の文明を持つ異民族か、あるいは神の使命を帯びた天使か。

 脅威はそれだけではなかった。本来ならばまだ接続する予定のない法則の影響が、この幻想郷においてすでに確認されてしまっているのだ。

 紫が藍に伝えず独断で計画を早めただけならいい。藍は自分でそれを認識し、行動を修正できるだけの演算能力を備えている。だが、藍が確認した影響は、どう考えても紫の意思に反していると思わざるを得ない。式神である彼女にとっての不安は──ただその一点だけであった。




恵理さんと蓮の立ち位置のつもりが北岡先生と吾郎ちゃんっぽさもある、お嬢様と咲夜さん。

次回、EPISODE 18『異変』


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【 幕間『 境界の物語 2000 ~ 2002 』 】
第18話 異変


 結界で隔絶された幻想郷の北西。古くから(そび)える『妖怪の山』の深奥には、これまた特殊な仙術によって切り隔たれた『仙界』があった。

 仙界は霧に包まれ、内なる屋敷は質素に佇む。とある仙人が独自の仙術をもって開いた空間において、この『茨華仙(いばらかせん)の屋敷』はその隠れ家となるために造られた。

 特殊な方術で隠されたこの場所に辿り着けるのは、彼女が決めた正路(パスワード)を正確に通ることができる者だけに限られている。

 

 屋敷の主――この仙界の所有者である 茨木 華扇(いばらき かせん) は仙人『茨華仙』として修行中の身だ。

 白い中華服に緑のミニスカート、紅色の前掛けには茨の模様が描かれ、胸元には牡丹(ぼたん)の飾りが身に着けられている。二つのシニヨンキャップを被った朱色のショートヘアは風に揺れ、彼女に仙界への来訪者を知らせてくれた。

 左手首に装う鎖のついた鉄製の枷。右腕は白い包帯で全体を覆い、指先に至るまで隙間なく肌を隠している。

 否。肌を隠しているという表現は正確ではない。彼女には右腕そのもの(・・・・・・)が無いのだ。この包帯は内に秘める妖気を固め、右腕の形に固定しているだけに過ぎない。

 

 本来の右腕はかつて人間に切り落とされ、一度は独立した存在として暴走してしまったこともあったが、霊夢の尽力により今では封印されて茨華仙の屋敷に保管してある。本体である華扇(かせん)の監視下にある以上、もはや暴走することはないだろう。

 今の彼女はただの仙人だ。千年前に語られた『山の四天王』の一人、強大な『鬼』であった頃の華扇はもういない。

 断善修悪(だんぜんしゅあく)にして奸佞邪智(かんねいじゃち)の鬼、『茨木童子(いばらきどうじ)の腕』はすでに封じられている。

 鬼としての邪気と(たもと)を分かち、仙人として生きていく。それが今の華扇が選んだ新たなる道だった。

 

「…………」

 

 華扇は風が伝える来訪者の気配を耳に聞く。幻想郷の創設を担った賢者。八雲紫は音も立てずに少女の背後に現れ、相変わらず胡散臭い笑みを浮かべた。

 庭園に舞い散る桜の花びらは、この仙界が幻想郷と同じく春の香りに包まれていることの証左である。

 背後から滲み溢れる不気味な妖気は春色の楽園には似合わない。華扇は紫に振り返りながら、小さく溜め息をついた。

 

「……あなたがここに来たってことは、よくないことが起こるってことね」

 

 華扇もすでに幻想郷の異変に気がついている。そもそも、幻想郷の結界を通じて様々な世界が繋げられている異変は彼女ら『賢者』たちが意図的に引き起こしたものだ。

 煩わしげに呟いた華扇も八雲紫と同じ、賢者の一人。かつて鬼だった仙人と純粋な妖怪では立ち位置こそ違うが、幻想郷を見守る意思は等しい。

 

「少し計画を早めるわ。すでにあいつ(・・・)にも動いてもらってる。手遅れになる前にね」

 

 紫は胡散臭い笑顔を真剣な表情に変え、華扇に伝える。紫が言った『あいつ』とは、間違いなく、二人の他にもこの『計画』に携わっている賢者のことだろう。

 仙人の華扇、妖怪の紫と比べ、正真正銘の秘神(・・)──すなわち『神』である彼女なら、よほどのことがない限り安泰のはずだ。

 

 これからの自身の動き方を考える華扇のもとへ、紫が何かを投げ渡す。包帯で形成した仮初めの右腕をもって、華扇はそれを受け取った。

 それは金属製の板に一本角の鬼の顔が金色に象られた黒いリストバンドらしきもの。下部に備えられた小さな銀色のリングの下には、三つ巴の鬼火めいた紋章が描かれている。

 

「いざとなったら、それを使いなさい」

 

「……まぁ、考えておくわ」

 

 肌で触れていないにも関わらず、包帯を伝って感じ取れる力。華扇にとってそれは懐かしくもあり、忌まわしくもある。できることなら、あまり頼りたくはない力だ。

 受け取ったそれを懐にしまいながら紫の声に言葉を返す。

 気がつけば、そこにあった不気味な妖気ごと、紫の姿は消えてなくなっていた。

 

「幻想郷に潜む悪意……か。まったく、どうして山には面倒なのばかり集まるのかしら」

 

 華扇は庭園に咲いた桜の木を見上げて溜息をつく。ひらりと舞い落ちた季節外れの紅葉を一枚、手に取って。

 同じ賢者である秘神の起こした異変を想う。またしても、風情もへったくれもないあの幻想郷が繚乱するのだと思うと。仕方ないとはいえ、華扇は頭を抱えずにはいられなかった。

 

◆     ◆     ◆

 

 幻想郷の最東端――博麗神社の境内は変わらず満開の桜並木に彩られている。ひらひらと散る桜の花びらは境内に春色を落としていくが、神社の中で一枚のカードを見つめる霊夢にはそれを箒で掃う意思が見られない。

 異形の戦士に変身した外来人。その青年――五代雄介が博麗神社の賽銭箱から見つけた禍々しい絵柄のカード。

 ある程度の睡眠はすでに取っている。異変はまだ終わっていない。霊夢はカードを紅白の巫女服にしまい、神社の外に出る。境内の石畳に立ち、幻想郷の空を高く見上げた。

 

「霊夢さん! 大変です!」

 

 青空を見上げる霊夢の耳に届く、明るく元気な声。西側の桜並木を飛び越えてふわりと境内に着地し、飛行によって消費した霊力を整えるために息を荒げる少女が言う。

 頭に伸びる控えめな一本角、ややカールがかった浅緑色の長髪。耳は狛犬めいた形状を持ち、赤く装う南国風のシャツも相まって沖縄のシーサーやそれに類する守護神像を思わせる。

 

 慌てた様子で博麗神社に姿を現した 高麗野(こまの) あうん は、元より博麗神社に設置してあった狛犬の石像から具現化した妖獣だ。

 古くから石像に宿っていた神霊がある時期のとある異変を機に肉体を得、それが妖怪という形で新たに誕生した存在。霊夢にとっては知り合ったばかりの妖怪だが、彼女にとっては博麗神社共々長らく付き添ってきた相手という複雑な関係である。

 

 獅子と狛犬の二つの性質を持つ彼女は、守護神獣として『神仏を見つけ出す程度の能力』を備えている。

 宿る対象は博麗神社の狛犬の石像に限られず、神社や寺院などあらゆる場所に赴き、これまで幻想郷の各地で様々な信仰の形を目にしては『守護』してきたのだという。

 

「あうん? あんた、今までどこにいたのよ」

 

「お寺や山の神社を見回ってました。何か嫌な予感がしたので……」

 

 幻想郷にある神社は最東端の博麗神社だけではない。しばらく前に山の上にも新しい神社が建てられた──というより、外の世界から強引に引っ越してきたことがあった。あうんはそちらの神社や里に近い寺の方にも出向き、独自に調査していたのだろう。

 霊夢は今幻想郷に起きている異変の少し前からあうんがいないことに気がついていたが、予想通り他の場所を守護してきたようで少し安心した。

 

 気になるのはもう一人の住人の方だ。博麗神社に住んでいるのは霊夢一人ではある。しかし神社住居の地下空間、魔力で広げられた場所に『地獄の妖精』を住まわせているはず。

 そちらの姿がしばらく見られないというのは、やはり不安な要素と思わざるを得ない。

 

「それより、外を見てください!」

 

 真剣な表情で張り詰めた声を上げるあうん。

 霊夢は微かな緊迫を覚えた。まさか、またしても例のオーロラが生じたのか。霊夢は境内の石畳を蹴り上げ、あうんと共に博麗神社の上空へ飛翔する。

 鳥居を背にし、幻想郷そのものと向き合うように。博麗神社の屋根を越え、霊夢が見下ろした幻想郷は──彼女の予想を超えた『見覚えのある』異変に見舞われていた。

 

「これって──」

 

 ――霊夢は、その変化に目を見開いた。

 

 森には白い雪が積もっている。山は燃えるような紅葉に彩られている。湖に照りつけるのは、真夏の如き灼熱の日差し。

 一部の場所は博麗神社と同様に桜の芽吹きが見られるが、季節外れの何もかもが幻想郷を染める様は異常と形容する他になかった。

 されど、霊夢とあうんはその異常を、季節が狂った幻想郷の姿を見たことがある。

 

「やっぱり、あのときの異変と同じですよね?」

 

 あうんが心配そうな顔で霊夢に問うた。あうんの言う通り、これは彼女が生まれる原因となった異変──『四季異変』とまったく同じ様相である。

 少し前、幻想郷の妖怪や妖精たちの背中に突如として『扉』が生じたことがあった。その扉から溢れる力によって暴走した妖精が自然を狂わせ、春夏秋冬が入り乱れた異変が、四季異変の大まかな内容となる。

 今でこそ霊夢たち異変解決者によって終結しているが、首謀者が幻想郷の創設を担った賢者の一人であったこともあり、幻想郷を狂わせるのには別の意図があったらしい。

 

 しかし、今回はあうんの背中には扉らしきものは見つけられない。あうんの力も増幅されている様子はないし、妖精たちが強化されている印象もない。となれば、なぜ再びこの異変が起きたのか。幻想郷に起きているオーロラの異変とは何らかの関係があるのか。

 霊夢は思案した。紫の思惑、賢者たちの思想を。

 これだけの影響があれば他の者たちも動かざるを得まい。人間も妖怪も問わず、幻想郷の強者たちは揃って行動を開始するはずだ。

 それを狙って引き起こされた異変であるのか、あるいは此度の異変においても別の意図があるのだろうか。

 幸いにして、里の方には大した影響は出ていないようだ。博麗神社と変わらぬ春の芽吹きが見て取れる。里から出ない限り、幻想郷に乱れ咲く四季に気づくことすらないだろう。

 

「……どうやら本格的に、こっちから動き始めた方がよさそうね」

 

 覚悟を決め、霊夢は懐からお札を取り出す。八雲紫の術式が込められた通信札。五代のビートチェイサー2000に張りつけたものと対応している、無線機の役割を成す札だ。

 ふわりと舞いながら霊夢の傍に浮く。紫色の印がぼんやりと輝く。目に見ることはできないが、不思議な仕組みを持つ札。霊力を伝う霊夢の意思は言葉を乗せ、五代のもとへ届くのだ。

 

◆     ◆     ◆

 

 迷いの竹林、永遠亭。

 外の世界と定義される世界のうち、とある時空の『2001年』から幻想入りを果たしたと思われる五代雄介は、自分の知る限りの情報を目の前の女医、八意永琳に話した。

 やはり青年は時空を超えてしまっている。彼の話にあったグロンギやクウガなる存在も永琳は知らない。外の世界についてはそれなりに知っているはずだが、永琳が推測した通りに、別の歴史を辿った外の世界からこちら側の幻想郷に迷い込んでしまったのだろう。

 

「2020年……並行世界……?」

 

 五代は並行世界、それも自分の知る現代日本の街並みではない秘境の楽園とはいえ、元いた時代から20年近い時間の差異を聞いてうまく受け入れられないらしい。

 その場で話を聞いていた魔理沙と鈴仙も状況を把握し、改めてこの幻想郷に起きている異変の特異性を認識させられることになった。

 これまでも何度も異変を解決してきた魔理沙。幻想郷が月に攻め入られた際に、疑似的ながらも異変解決に乗り出した鈴仙。二人にしても、今回の異変はあまりに特殊である。

 

「……冗談で言ってるわけじゃないみたいだな」

 

「私もすぐには信じられないけど、師匠が言うなら……」

 

 魔理沙と鈴仙は怪訝そうな表情で呟く。真面目な顔で言ってのけた永琳の言葉にはふざけた意思は見られない。

 二人の心境と反するように、五代自身の反応は打って変わって好奇心に満ちていた。冒険家として世界の様々な場所を渡り歩いてきた五代。されど、自分の知る世界そのものを越えて異世界に来るなどという経験は初めてだった。

 幻想郷に来たときもそうだったが、帰れる保証はない。しかし五代は思うのだ。かつて幼少期に外国のとある山で迷子になってしまった際、歳のそう変わらぬ現地の少年に、笑顔で励まされたこと。その強さ、その優しさに、憧れを抱いたこと。

 たった一人で不安に苛まれても、泣いてしまうより笑顔でいたい──と。

 

 そのとき、五代は永遠亭の外から聞き慣れた音が聞こえてくるのに気づいた。元の世界でクウガとして未確認生命体と戦っていた日々を思い浮かべる。警視庁から譲り受けたビートチェイサー2000の無線通信機が伝える甲高い音。

 一瞬だけあの男――自身の相棒と言える刑事からのものかと思った。しかし五代はすぐに思い出す。今のビートチェイサーには、霊夢が仕組んだ霊力による通信札があったはずだと。

 

「お師匠さまー。なんか外の機械がピーピーうるさいんですがー」

 

 黒髪の妖怪兎──因幡てゐが診察室の襖を開いて顔を出す。薄紅色のワンピースは桜を思わせるような可憐な装いだが、それを纏う本人は狡猾で老獪な悪戯兎である。

 地上の兎として耳も良く、なおかつ外で作業することが多いてゐにとって、五代が停めたビートチェイサーの音は放っておけるものではないようだ。

 

「あら、てゐ。丁度よかったわ。鈴仙と二人で患者様のお見送りを頼める?」

 

「え、私もですか?」

 

「てゐ一人だと、お金を請求するかもしれないでしょ?」

 

 永琳の言葉に鈴仙は思わず聞き直すが、理由を聞けば確かにと納得する。まさかと思った魔理沙がてゐの方を見ると、露骨に冷や汗を滲ませているように見えた。

 最初に竹林を案内してくれたときは特に何も言われなかったが、それも作戦の一部なのだろうか。数百年もの時を生きた妖怪兎の考えることだ。用心するに越したことはない。

 

「そんなことしませんって」

 

 てゐは永琳の微笑みを見て否定する素振りを見せる。

 長寿とはいえ、所詮は獣の浅知恵。幾億の時間を知る悠久の存在、八意永琳という月の叡智には通用しない。

 五代と魔理沙は立ち上がり、鈴仙とてゐの導きのまま永遠亭の診察室を後にする。迷いの竹林ほどではないものの、永遠亭自体もかなり広い。加えて不思議な術によってこれまた空間が拡張されているため、屋敷の構造を知る者でなければ迷ってしまうこともあるだろう。

 

「…………」

 

 鈴仙とてゐ、月の兎と地上の兎たる二人の弟子を見送る永琳。五代と魔理沙も診察室を退室したため、この場に残っているのは永琳一人だ。

 幻想郷の日はまだ落ちてはいない。されど竹林の青空は清い空気に透き通り、昼でも彼方に月を見ることができる。ぼんやりと浮かんだ白昼の月を永遠亭の丸窓越しに見つめながら、永琳はどこか遠い記憶に想いを馳せた。

 

 ――ふと、永琳は背後に誰かの気配を感じ取る。襖が開けられた様子はない。鈴仙やてゐが戻ってきた気配もない。だが、永琳はその気配を誰より強く知っていた。

 時間を越えて永遠を体現する月の姫君。古き伝承に語られる『かぐや姫』その人。永琳が月の使者を皆殺しにし、月の都に背いてでも守りたかった人物がそこに立っている。

 

「永琳、何を考えていたの?」

 

 平安貴族を思わせる薄紅色の和服を白いリボンで留めた装い。赤いスカートは地に広がるほど長く、同じく長い袖で口元を覆い隠しながら。腰より長く伸びた(つや)やかな黒髪を優雅に揺らし、少女は静かに部屋へと歩む。

 宝玉めいた真紅の瞳は月の如く。かつて月の姫君であった 蓬莱山 輝夜(ほうらいさん かぐや) は永琳と同様、蓬莱の薬を服用して不老不死の身となった蓬莱人(ほうらいびと)である。

 望んで地上に流刑され、幻想郷に隠れ住んで千年以上の時が経つ。長らく主従関係だった永琳と輝夜も今では親しい家族同然の関係だ。月の都を追放された大罪人といえど、幻想郷での暮らしにおいては特に不都合はない。もはや月からの追手も、半ば追跡を諦めているようだ。

 

「この異変の真意について……ね。きっと、相当面倒なことになるわよ」

 

「面白そうじゃない。幻想郷の異変は、それくらいじゃないとつまらないわ」

 

 輝夜(かぐや)は永琳の答えを聞いて楽しそうに笑ってみせた。

 遥けき遠い平安の時代、あらゆる男から求婚を受けた天下無双の美しさは、現代の世においても不変にして永遠。蓬莱の薬を飲んだ者は一切の変化を失い、永遠にその身のままであることを運命とする。その美しさは、決して欠けることのない満月のようなもの。

 

 永遠を具現する不死の薬。その技術の根源となるのが、輝夜の持つ『永遠と須臾(しゅゆ)を操る程度の能力』である。

 輝夜の能力を用い、永琳があらゆる薬を作る程度の能力をもって開発したのが蓬莱の薬だ。当時の権力者たちにとって、不老不死の霊薬は何よりも望むべきものだった。

 

 竹取物語において、かぐや姫は五人の貴公子から求婚を受けた。輝夜はそれらを拒み、五つの難題を出して追い返した。やがては(みかど)でさえ輝夜を求めたが、彼女は月の都に帰っていった──とされているものの、実際は幻想郷に身を隠したのだ。

 輝夜のいない世には未練などないと、帝は輝夜によって授けられた蓬莱の薬を火山の頂へ捨てさせた。

 そのとき薬は捨てられておらず、とある貴族の娘に奪われていたらしい。輝夜がそれを知ったのは、自身への報復のため幻想郷で燃え上がる不死の煙と出会ってからのことだった。

 

「貴方ならそう言うと思ったわ。でも……」

 

 好奇心に微笑む輝夜の意思は幾星霜もの月夜を共にした永琳がよく理解している。輝夜の言葉を聞いた永琳は同じく微笑み、背後に立つ永遠に向き直った。

 憂いは拭えない。言い淀んだ永琳の心の宇宙には、地上の叡智が千年経っても辿り着けない複雑な方程式、あらゆる因果の縮図がある。

 無限に生まれ続ける並行世界の法則を見た。やがて辿る泡沫の月を見た。賢者たちがもたらすこの異変の真意はきっと、永琳の考えている通りの結末を導くことになるだろう。

 

「大丈夫よ。月はいつだって、私たちを見ていてくれるんだから」

 

 輝夜は開いた丸窓から竹林の空――薄く浮かび上がる白昼の月を見上げて言った。

 

「そう、永遠に……」

 

 高く伸ばされた輝夜の白い右手が、月の形を手の平に遮る。

 竹林を越えて吹き抜ける風。長い黒髪を揺らし、永遠亭の中に届いた春風の香りに、どこか風雅な夏の色を覚えて。

 輝夜はいつかの夏の日、偽りの月を暴きに来た四人の人間と四人の妖怪を思い出した。

 

◆     ◆     ◆

 

 永遠亭の玄関を抜け、庭園に出た五代たち。敷地内に停めてあったビートチェイサー2000の蒼銀のボディに近づき、通知音を鳴らし響かせる機体に奇妙な郷愁を覚える。

 霊的な能力によって備わった疑似的な無線機能であるというのに、響く音は元から備わっていた無線機の音と変わらないというのは不思議な感覚だ。

 

「はい、五代です」

 

 相手は共に戦線を抜けた歴戦の刑事ではない。それを分かっているにも関わらず。五代は思わず敬語でビートチェイサーの無線に応答する。

 無意識に気が引き締まる。これまでこの無線から受けたのは警察の情報による未確認生命体事件の発生を伝えるものがほとんどだった。この幻想郷においても未確認生命体の存在を見ているため、またしてもどこかに奴らが現れたのかと五代は覚悟を決めた表情になる。

 

『五代さん、そっちの様子はどう? 何か変わったことはない?』

 

「えっ? 変わったこと?」

 

 ビートチェイサーの無線から聞こえた霊夢の声には微かな緊迫の色が感じられるが、そこまで大した焦燥はないようだ。さほどの焦りがないところを見るに、未確認生命体──グロンギが現れたことを伝えるものではないように思える。

 問われた五代は少し思い悩むものの、永遠亭から出た直後の時点では特に思い当たらない。永遠亭で聞いた話は確かに奇妙なものであったが、霊夢の質問の意図とは違う気がする。

 

「その声、霊夢? 私たちはずっとこっちにいたけど、何もなかったよ」

 

「五代さんから聞いた話も気になるけど、怪物らしいものも見てないし……」

 

 てゐと鈴仙は見慣れぬ機械から聞こえた聞き馴染みのある霊夢の声に一瞬驚く。すぐに順応したのか、てゐの言葉に続いて鈴仙もビートチェイサーの無線に答えた。

 異変の発生時から永遠亭や迷いの竹林にいた二人にとっても同じ。こちらでは怪物の発生も確認されておらず、五代の話にあったオーロラらしきものもない。

 二人の言葉を聞いた魔理沙は額の汗を拭って考えた。確かに変化らしき変化は実感できないものの、霊夢が訊いてくるということは何かしらの変化が起きている可能性が高い。無論そんな確証はないのだが、魔理沙にとっても霊夢の勘は信頼するに値するほどのものだ。

 

「いや、ちょっと待て。なんだ、この暑さ……」

 

 そこで魔理沙はようやく気がつく。今の季節は春の半ば頃、暖かな気候に桜が咲き誇る時期であるはずだ。それなのに、春に合わせた服装がじっとりと肌に張りつく感覚、あるいはこういう春の日もあるだろうと特に気にしていなかったが、今なら異常が分かる。

 迷いの竹林はその名の通り一面を覆う竹林の迷宮だ。四季の変化があまりに少ない竹という植物に囲まれていたから気づけなかったのか。

 

 まるで夏じゃないか──

 

 呟く魔理沙の声が春の夏空に吸い込まれるように消える。博麗神社にはまさに桜が咲いていたはずなのに。この辺り一帯は真夏の如き日差しが強く照りつけている。

 夏の昼でも薄暗く不気味な竹林は肝試しに相応しい。魔理沙はそう思った永夜異変の暮れの夜を思い出していた。

 多少は暑い春の日もある。しかしこの暑さはまさに夏日と形容する他にない。

 迷いの竹林を吹き抜ける風は晩夏のような涼しさを感じさせるものの、本来の気候において、今の幻想郷にはまだ初秋どころか初夏さえ訪れていないはずである。

 

 春の半ばでは考えられない真夏の炎天下。これだけの日差しなら氷の妖精もこんがり日焼けしていてもおかしくない──と考えて。

 そんな冗談のような現象が実際に起きた異変があったことを、霊夢と同様に魔理沙も知っているではないか。

 あのときは確か暦の上では夏の日のことだったか。博麗神社に桜が咲いていた。そして魔理沙の住まう魔法の森には雪が降り、山には紅葉が彩られる幻想的な異常気象が続いた異変。

 

「霊夢、そっちにあうんはいるか? 背中に扉とかあったりしないよな?」

 

『その様子だと、魔理沙も気づいたみたいね。詳しいことはこっちで話すわ。二人とも、まずは博麗神社に戻ってきてくれる?』

 

 暑く照りつける竹林の木漏れ日。場所が場所ならセミの鳴き声でも聞こえていただろう気候の中で、霊夢と魔理沙の会話を聞いた五代は魔理沙と顔を見合わせた。

 小さく頷き、魔理沙は魔法で箒を召喚する。迷いの竹林と言っても竹の間隔は広い。道さえ分かっていれば飛行はできる。五代もビートチェイサーに跨り、バイクのグリップに備えていた黒いヘルメットを被った。

 

 てゐの持つ人間を幸運にする程度の能力のおかげで帰りは迷わずに済む。鈴仙にそれを伝えられたことで、五代は安心して二人にサムズアップを見せることができた。ヘルメットのせいで目元しか見えないが、その顔は笑顔に満ちているだろう。

 親指を立てていた右手を下ろし、そのままビートチェイサーのハンドルを握る。唸り声を上げたビートチェイサーの無公害エンジンを暖め、やがて永遠亭を去るように走り出した五代は箒に跨って飛翔する魔理沙と併走する。

 背後の永遠亭から鈴仙とてゐの見送る声を聞く五代と魔理沙。竹林の野良妖怪たちもビートチェイサーを警戒してか五代たちの前には現れない。あるいはてゐの幸運の加護か。魔理沙はミニ八卦炉を抜く必要もないかと安心しながら、箒を強く握って速度を上げた。

 

 すでに永遠亭を離れてそれなりの時間が経つ。迷いの竹林は確かに広い。だが、今の五代たちならばてゐの能力のおかげで無事に博麗神社まで辿り着けるだろう。

 

 ――しかし、そのときだった。

 

 五代は本能で感じられた強い悪意に、思わず息を飲むような戦慄を覚える。

 間違いない。それは、かつて五代が元の世界で何度も戦ったものと同じ邪悪な気配。生きるために命を喰らう野生の動物とは違う明確な殺意。

 その悪意そのものが二人の背後(・・)から迫って来る。ビートチェイサーの走行速度と箒の飛行速度、それを軽く凌いでついてくる狩人の脚力が迷いの竹林を駆け抜けて。

 

「――ッ! 魔理沙ちゃん! 止まって!!」

 

 咄嗟に張り上げた五代の声を聞いて、魔理沙は箒に急ブレーキをかけた。すぐには停止できないものの、一気に緩められた速度のおかげで目の前を横切った人影――未確認生命体と思われる怪物の爪を回避することに成功する。

 あのまま真っ直ぐ飛んでいれば魔理沙の身体は怪物の爪によって呆気なく切り裂かれていたかもしれない。それを実感し、今度は冷たい汗が首を伝うのを感じた。

 魔理沙は箒から飛び降りる。五代はヘルメットを外してビートチェイサーから降りる。二人はそれぞれ戦闘体勢となり、目の前で口惜しそうに鋭い爪を撫でる怪物の姿を見た。

 

 よく避けた リントにしては 良い動きね

「ジョブ ジョベダ ギギグ ゴビレ ギデパビ リント」

 

 どこか女性的な体格ながら、しなやかな筋肉に満ちた黒い身体はさながらメスのヒョウを思わせる。人の形をしたそれは黒い長髪を振り乱し、民族的な衣装を纏った姿で竹林の土に四肢を突き立て、静かに喉を鳴らしていた。

 五代はやはりその姿を知っている。警察の発表では未確認生命体第5号と呼ばれたグロンギの一種たる怪物。ヒョウ種怪人『ズ・メビオ・ダ』は並外れた走力をもって通常のバイク程度なら容易く追い抜くのだ。

 しかし五代が使っているバイクはかつて第5号を相手にした際に用いられた『トライチェイサー2000』をさらに発展させた第4号(クウガ)のための高性能マシン、ビートチェイサー2000である。第5号の走力では、この機体には対応できない。

 最高速度で走行していたわけではなかったためにズ・メビオ・ダの接近を許してしまったが、五代のビートチェイサーならば。今のクウガならば。十分に戦える相手だ。

 

 ゆらりと立ち上がり、赤い両目と、額を三日月状に飾る金色の装飾、その中心に光る緑色の宝石で、グロンギは魔理沙の姿を睨む。

 明確に放たれる露骨な殺意に魔理沙は小さく息を飲んだ。

 緊迫する空気の中では不用意に動くことすらできそうにない。上手く隙を見せてくれさえすれば、必殺の武器、ミニ八卦炉を帽子の中から取り出すことができるのだが──

 

 お礼に 両目を やってやるよ!

「ゴセギビ リョグレゾ ジャデ デジャスレ!」

 

 ─―魔理沙が一瞬、五代の方を見た瞬間。ズ・メビオ・ダは竹林の大地を蹴り上げ、瞬くような身のこなしで魔理沙に襲いかかる。

 咄嗟に魔法陣を展開してその爪から身を守るが、勢いに押されて後ろに転んでしまった。

 ズ・メビオ・ダは突き立てた右手の爪を光の魔法陣に食い込ませたまま、その盾を叩き割ろうと今度は右手の爪を振り上げる。

 

「――変身っ!!」

 

 そうはさせまいと五代は腰を両手で覆い、アークルを出現させた。そのまま左上に伸ばした右腕を素早く右に滑らせ、すかさず左腰に引っ込めた右手で左手の拳を押さえつける。アークルへ響かせる覚悟の炎は赤く灯り、モーフィンクリスタルにも赤い光が宿った。

 腰の中心から徐々に変わりゆく肉体は黒い皮膚と赤い装甲を伴い五代の姿を戦士のものへと作り変えていく。

 雄々しく伸びた金色の双角に赤い複眼、クウガの基本形態たるマイティフォームへ。五代はその変化を待つこともなく、赤く振り抜いた右の拳で目の前の怪物を殴りつける。

 マイティフォームの拳を受けたズ・メビオ・ダは微かに仰け反り、後方に飛び退いた。

 

「クウガ……!」

 

 口元を拭い、恨めしそうな声でクウガを睨むズ・メビオ・ダ。いつでも飛びかかれるように姿勢を低く構え、喉を鳴らして獲物を威嚇する姿はまさにヒョウそのものだ。

 立ち上がった魔理沙は魔法陣を解き、自分を守るように立ち構えるクウガの背中を見て気づく。人間の里で五代──クウガと共闘していたときとは色が違うことに。

 

「お前、白の次は赤か? まるでどっかの巫女みたいだぜ」

 

 竹林の木漏れ日を受けて輝くクウガの赤い背中は炎のように頼もしい。だが外来人である彼に頼ってばかりもいられない。

 魔理沙は帽子の中からミニ八卦炉を取り出し、クウガの横に並び立つようにして構える。この身は無力な人間なれど、魔法使いとして戦えると証明するために。

 

 最初から大技を放つか否かを逡巡する。隙は大きいが、霊夢の夢想封印を超える威力を持つスペルカードを魔理沙は持っている。

 右手で構えたミニ八卦炉をグロンギに向けて照準。魔力を込め、一撃で勝負を決める。一対一なら賭けに近いが、魔理沙の傍にはクウガがいる。もし攻撃を外してしてしまっても、ある程度なら戦術の修正が効くはずだ。

 魔理沙はミニ八卦炉に込めた魔力を解放すべく、構えた右腕を左手で支える。放たれる魔法は最大出力で放てば竹林を焦土に変えかねないほどのもの。出力を調整し、目の前の怪物──ヒョウに似た姿をしたズ・メビオ・ダだけを狙えるように魔力の流れを制御しながら。

 

「ギギィッ!」

 

「な、なんだ!?」

 

 いざ狙い撃とうと意を決したとき、魔理沙は背後から不快な鳴き声を聞いた。咄嗟に振り返ってしまったのも束の間、そこで目にしたミジンコ種怪人、ベ・ジミン・バのおぞましさを再びその身で思い出す。

 標的から目を逸らしたせいで相手の動きを許してしまう。俊足を誇るズ・メビオ・ダはその一瞬で魔理沙との間合いを詰め、ミニ八卦炉を蹴り上げて弾き飛ばした。

 魔理沙が不覚を認識するより早く五代が動く。少女の首に迫るベ・ジミン・バの短剣を殴り払い、緑色の肌に拳を突き立てながら。クウガとなった五代は魔理沙をその場から救出しようと、その場にいたベ・ジミン・バの動きを止める。

 

 五代がベ・ジミン・バの相手をしているうちにズ・メビオ・ダを確実に仕留めるため、魔理沙は再びヒョウのグロンギに目を向けた。しかし、魔理沙はそこで言葉を失う。そこにいたのはズ・メビオ・ダだけではなく──その他にベ・ジミン・バが三体。

 背後で五代と交戦するベ・ジミン・バを含めればここには五体の怪物がいる。魔理沙や五代はグロンギが腰に備えるゲドルードの法則を知らないが、青銅色のバックルを持つミジンコの怪物と赤銅色のバックルを持つズ・メビオ・ダとでは、気迫や殺意から力量の差は明白だった。

 

「くそっ、こいつらどっから……!?」

 

 再び肌で感じる不快な風。魔理沙がクウガの方を振り返ると、そこにはやはり里や博麗神社で見たものと同じ灰色のオーロラ──カーテン状の光の膜壁が広がっていた。

 波と揺れる光の歪みはまたしても数体のベ・ジミン・バを吐き出す。おぞましい鳴き声を上げて短剣を振るい、魔理沙と五代を威嚇するその姿は相変わらず知性を感じさせない。

 

「……ああ、そうだったな」

 

 こいつらは何の前触れもなく突如として虚空から現れる。この謎のオーロラは紫のスキマのような性質を持つもの。魔理沙はそれを思い出し、ズ・メビオ・ダを筆頭として竹林にうごめく複数のグロンギに囲まれながら舌打ちをした。

 五代が一体のベ・ジミン・バを撃破する。魔理沙のもとに向かおうとするが、今度は二体のベ・ジミン・バがクウガの道を阻んだ。

 次から次へと現れる緑色のグロンギは魔理沙のもとに集っていき、青白く輝く魔法陣の盾を生成して身を守る魔理沙の姿がどんどんベ・ジミン・バの脅威に埋められていく。赤いクウガといえど、これだけの物量を前に、五代はそれを眺めることしかできなかった。

 

「くっ……!」

 

 赤い拳をもって目の前のベ・ジミン・バを殴り飛ばす。ベ・ジミン・バの群れに襲われる魔理沙を助けるべく、五代は両手を広げてマイティキックの構えを取った。

 右足に灯った覚悟の熱を感じながら。この姿で放ち得る最大の攻撃を緑色の群れに見舞おうとする。が、五代はベ・ジミン・バたちの隙間から溢れる青白い光にその動きを止めた。

 

「――魔符(まふ)、スターダストレヴァリエッ!!」

 

 覆い尽くされた魔理沙の声がベ・ジミン・バたちの中から響く。直後、炸裂した閃光の魔法、魔理沙が得意とする星と光の魔法をスペルカードとした【 魔符「スターダストレヴァリエ」 】が輝きを放ち、溢れ出る星型の弾幕を散らしてベ・ジミン・バたちを吹き飛ばした。

 散った怪物の中心で息を整える魔理沙の手には輝く札。スペルカードと呼ばれるもの。ただの紙切れであるはずのそれを、殺傷の意図で使用する。

 魔力の消費はさほど大きいものではない。それでもやはりいつも通りの感覚だと、弾幕ごっこ以上の殺傷力を持たせて放った際の消耗は予想以上に感じられた。

 

 地面を転がり、ズ・メビオ・ダの蹴りによって弾き飛ばされたミニ八卦炉を手に取る魔理沙。接近してきたベ・ジミン・バをしゃがんだまま蹴り飛ばし、地面に手をついて立ち上がる。

 

「魔理沙ちゃん、大丈夫?」

 

「ああ、でも、ちょっとまずいな……」

 

 同じくベ・ジミン・バを殴り飛ばして駆け寄ってきた五代に答える。

 魔理沙が心配しているのは交戦の状況ではない。永遠亭で受けたてゐの能力、迷いの竹林を抜けるための幸運の加護についてだ。あまり戦闘が長引けばてゐの能力の効果が失われ、竹林を抜けることが難しくなってしまう。

 怪物を吐き出す灰色のオーロラカーテンは未だ消えていない。こうしている間にもまた数が増えているような気がする。ただでさえズ集団の階級に属するズ・メビオ・ダはそれなりの相手だ。加えて無数のベ・ジミン・バの存在もあり、そう簡単に勝負はつきそうにない。

 

 最悪の場合、せめて五代だけでも博麗神社に向かわせようと、魔理沙は手にしたミニ八卦炉でベ・ジミン・バを一掃しようとする。星光の魔法なら薄暗い竹林では目立つため、グロンギたちの注意を引きつけることもできるはずだと判断した。

 その旨を伝えるため、魔理沙は五代を見る。だがその瞬間、正面のベ・ジミン・バを警戒していた五代は背後に迫っているもう一体のベ・ジミン・バに気づくのが遅れ、肩に短剣の刃を受けてしまった。

 ベ集団の攻撃によるもののためか、大したダメージはないようだが、微かに受けた痛みでも生じた隙は他の怪物の行動を誘発する。五代の隙を見たベ・ジミン・バたちは数体ほどが一斉にクウガへと向き直り、その短剣を高く振り上げた。

 

「五代っ!」

 

 クウガに迫る怪物たちを見た魔理沙は声を張り上げる。だが、一瞬の閃光の後、燃え上がった灼熱の炎を見て魔理沙は困惑した。竹林を焼き払わんほどに鮮烈な炎は薄暗い竹林を明るく照らすが、同じく困惑している五代の様子を見るに彼が放ったものではないらしい。

 

「ギィイッ!!」

 

「ギャァアッ!!」

 

 虚空から放たれた炎の弾幕を受け、二体のベ・ジミン・バは呆気なく爆散を遂げる。そこに舞い降りた人影──腰より長く伸ばした白髪(はくはつ)に装う紅白のリボンを揺らし、不死鳥の如く竹林の大地を踏みしめる少女の姿は、どこか神秘的なものがあった。

 上衣は白いシャツを纏う。指貫(さしぬき)の袴に似た赤いズボンのポケットに両手を突っ込み、迫るベ・ジミン・バをそのまま乱暴に蹴り飛ばす。

 短剣を構える複数のベ・ジミン・バたちを真紅の瞳で睨みつける少女。その身はすでに『老いることも死ぬこともない程度の能力』を持つ不死の存在となっている。

 

 蓬莱の人の形。輝夜が帝に与えた蓬莱の薬を手に入れ、とある貴族の娘は不老不死となり、やがて幻想郷に辿り着いた。

 それが彼女、人間の身にして1300年以上の時を生きる蓬莱人── 藤原 妹紅(ふじわら の もこう) である。

 

「こいつだろ? 慧音が言ってた外来人って」

 

「ああ。しかし、私が見たときとは色が違うようだが……」

 

 妹紅(もこう)はポケットから抜いた両手を広げ、手の平に炎を灯す。同じく現れた半人半獣のワーハクタク、上白沢慧音も青いロングスカートを揺らしてベ・ジミン・バに弾幕を放ちながら答えた。

 突然の来訪者に状況が理解できない五代だが、慧音のことは里の件もあって知っている。里で出会ったときは白い姿、グローイングフォームだったが、今は赤いマイティフォームだ。その変化の経緯を説明している時間はない。五代は自分のことを証明するため、慧音に向かってサムズアップを見せる。

 仮面の下で笑顔を形作ってはいるが、当然ながらクウガと化した身体では笑顔など伝わるはずもない。――のだが、慧音にはなぜかそれが笑顔だと理解できた。

 

 その仕草で彼が自分の知る青年だと分かった慧音は小さく微笑の息を零し、魔理沙に注意を向けていたベ・ジミン・バに赤と青の光弾による弾幕を放った。怪物の身体を打ちつけた弾幕は炸裂し、確かなダメージを与えていく。

 里で交戦したときとは違い、今は周囲への被害を考慮する必要はない。能力の維持に割く妖力も攻撃手段に回せるため、魔理沙たちの力を借りずとも十分に戦える。

 それにしても、白い姿の次は赤い姿になっているとは。まるで妹紅のような色の組み合わせだ、と。連想対象こそ違うが、慧音は無意識のうちに魔理沙と似たようなことを考えていた。

 

「魔理沙、ここは私たちに任せて先に行け! どうせ、博麗神社に向かうんだろう?」

 

「……すまん、助かる! 行くぞ、五代!」

 

 振り返った慧音はそれだけ告げると、妹紅と共同で数体のベ・ジミン・バを相手に戦う。妹紅が放つ炎がグロンギたちの注意を引きつけており、逃げる隙を作ってくれていた。

 魔理沙は箒を召喚し、飛び乗って飛行する。てゐの能力の効果はまだ切れていない。このまま進んでいけば、問題なく迷いの竹林を抜けられるはずだ。

 

「ありがとうございます!」

 

 五代も慧音と妹紅に感謝を述べ、近くに停めたビートチェイサー2000に乗る。クウガの姿のままでバイクに跨り、正面のコンソールを操作。すると、それまで銀色のボディに青い線が入っていた『ブルーライン』の状態は色を変え、漆黒のボディに赤い線、一部のパーツなどは金色に染まり、クウガの紋章を刻んだ『レッドライン』と呼ばれる色合いと化した。

 

 疾走するビートチェイサーは赤いクウガを乗せて迷いの竹林を駆け抜ける。その傍を箒に乗って翔け抜ける白黒の魔法使いと共に、五代は東を目指した。

 てゐの幸運が導く直感のままにただ進む。アクセルを強く引き絞り、魔理沙は箒にさらなる魔力を込めて、突き進む先は幻想郷の最東端。桜の咲き誇る楽園の境界――博麗神社である。




2020.01.30
仮面ライダークウガ、20周年おめでとうございます!
平成仮面ライダーシリーズそのものの20周年でもありますね。

次回、STAGE 19『紫の思惑 Cross the Border』


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第19話 紫の思惑 Cross the Border

 迷いの竹林にひしめくミジンコのグロンギたち。ベ・ジミン・バは妹紅と慧音を取り囲み、ズ・メビオ・ダの意思に従うかのように短剣を構えながら跳ね回っている。

 ビートチェイサーの走行音はすでに遠ざかっており聞こえない。どうやらベ・ジミン・バたちの追跡を阻止できたらしく、魔理沙たちの方へ向く個体は一体も見られなかった。

 

「ギィィ」「ギギィィ」「ギィギィギィ」

 

 灰色のオーロラはすでに消えている。だが、この場に集ったグロンギの数は膨大だ。両手の指では足りないほどのベ・ジミン・バがひしめき溢れ、不快な鳴き声を発している。

 筆頭とするズ・メビオ・ダは竹林の木漏れ日に赤銅色のゲドルードを鈍く輝かせ、力量の差を証明しているようだ。

 

 両手に灯った炎を弾幕と放ち、怪物を焼き払う妹紅が小さく舌打ちを零す。単体ではさほどの強さはないようで、本気の力を込めた通常の弾幕なら撃破は可能だ。

 しかし次から次へと襲い来るベ・ジミン・バに加え、ズ集団の階級に属するズ・メビオ・ダのベ集団を遥かに凌ぐ戦闘力も無視できない。有象無象のミジンコばかりにかまけていれば、今度はヒョウの爪が妹紅か慧音の身体を切り裂くだろう。

 不老不死の身体を持つ妹紅は自らの命を考慮していない。輝夜や永琳を含む彼女ら蓬莱人は永遠に死ぬことがないのだ。対して、慧音は人間の身から後天的に半人半獣となった特殊な妖怪である。満月の晩を除くすべての時間帯において、その身は普通の人間と変わらない。

 

「……数が多いな。慧音、スペルカードで一気に蹴散らすよ」

 

「お前ならそう言うだろうと思っていたところだ」

 

 妹紅の呟きに同意する慧音。二人の手にはそれぞれの妖力を込めた札が輝く。背中合わせで呼吸を揃えた妹紅と慧音は手にした光の札、仮初めのスペルカードに本気の力を注ぎ込んだ。

 

「――時効、月のいはかさの呪い!!」

 

「――産霊(むすび)、ファーストピラミッド!!」

 

 声を重ねて二人は叫ぶ。妹紅の妖力は不死の炎と燃え上がり、慧音の妖力は青く輝く歴史の中に光を灯す。周囲にひしめくベ・ジミン・バを一掃すべく、解き放たれた二枚のスペルカードは二つの巨大な弾幕として竹林に具現した。

 どちらも弾幕ごっこで用いられる遊びの威力ではない。目の前の悪意ある怪物たち。グロンギを確実に倒すために発動された本気の弾幕。殺傷のための攻撃だ。

 

 妹紅を中心に広がった粒状の緑弾はベ・ジミン・バの群れを薙ぎ払っていく。その隙間を縫って突き進む赤と青の光剣がグロンギの背を穿ち、爆散させる。

 歴史に残らない殺人事件の再現。妹紅が過去に犯した罪はすでに時効とされている千年以上も昔の出来事。かぐや姫が帝に授けた蓬莱の薬を奪うため、妹紅は『調岩笠(つきのいわかさ)』なる人物を蹴り落とし、下山中に殺害した。それを自らに呪いと戒め、忘れないように自身が持つスペルカードの名前として刻み込んだ。

 それを思い出させる【 時効「月のいはかさの呪い」 】は妹紅にとって蓬莱の薬を求めてしまった罪を示唆するもの。ゆえに、その名は『尽きない若さの呪い』でもあるのだ。

 

 同時に放たれた慧音の弾幕も怪物たちを襲う。慧音を中心に展開した妖力の結界は青白く輝き溢れ、同じく射出された青い光弾をもってベ・ジミン・バたちを一体たりとも逃がすことなくそのエネルギーで撃破していく。

 慧音が解き放ったスペルカードの【 産霊「ファーストピラミッド」 】は天皇の歴史を神代から辿る物語の序章。

 三角形に広がった結界の構成は世界最古のピラミッドパワーを模倣している。幻想郷の歴史を編纂(へんさん)する半獣の妖怪、ワーハクタクである慧音の弾幕は神話の物語を再現した神々の力。慧音は続けてさらに大きな青の光弾を形成し、残るベ・ジミン・バをすべて撃滅した。

 

 なんだ その力は……

「バンザ ボン ヂバサパ……」

 

 残されたのはズ・メビオ・ダただ一体だけだ。すべてのベ・ジミン・バを撃破されて不利を悟ったのか、微かに怯んだ様子で一歩下がる。すぐさま大地を蹴って慧音を狙い、自慢の爪を振りかざして命を奪おうとするが、妹紅はその一撃から慧音を庇った。

 背中に突き刺さった激痛に顔を歪める妹紅。背後から心臓を穿たれ、口から血を吐き出しながら妹紅は慧音の目の前に倒れ伏した。

 

「がはっ……!」

 

「妹紅!!」

 

 思わず慧音はその名を呼ぶ。焦燥の声に満ちてはいるが、それは相手の命ではなく身体を心配したものでしかない。何せ、妹紅には痛覚はあれど、生死の概念はないのだから。

 

 倒れ伏した妹紅の身体が再生の炎に赤く燃え上がる。灰も残さず燃え尽きた妹紅はズ・メビオ・ダの背後に【 「リザレクション」 】を遂げ、傷一つない肉体で蘇った。

 不死となってから千年以上を経て習得した妖術によるものか、さっきまで身に着けていた衣服も同様に再生を果たしている。

 炎と共に死灰からの復活を遂げた妹紅に気づき、ズ・メビオ・ダは機敏な脚力で大地を蹴って距離を取った。二人から離れた怪物に対し、妹紅と慧音は警戒を怠ることなく向き直る。

 

「……気を抜いてると怪我するよ、慧音!」

 

「お前こそ、死なないからって無茶しすぎだ!」

 

 無数のベ・ジミン・バは全滅させた。一人では危なかったかもしれないが、二人なら。妖力の蓄えにはまだ余裕がある。たとえベ・ジミン・バを大幅に凌ぐズ集団クラスの相手であろうと、その戦力差は大きく開かないだろう。

 ズ・メビオ・ダは妹紅と慧音の二人を前にして小さく喉を鳴らした。妹紅たちには相手が何を考えているかは分からないが、グロンギが単独であれば倒せないことはない。

 

 ……妖怪(ジョグバギ)の力を持つ リントに 死なない リントか

「……ジョグ バギン ヂバサゾ ロヅ リントビ ギババギ リントバ」

 

 怪物の口から再び発せられたグロンギ語。やはり妹紅たちにはその意味は理解できない。微かに目を細めながら、ズ・メビオ・ダは興味深そうにそう言った。

 

 これが 今回の 新たなるゲゲル……

「ボセグ ボンバギン ガサダバス ゲゲル……」

 

 ニヤリと口元を歪めて笑うズ・メビオ・ダの様子に、慧音はどこか寒気を覚える。ヒョウに似たその頭部は人間から掛け離れた異形のものだが、表情も人間離れしたおぞましさを滲み出しているような気がした。

 クワガタムシに似た異形の頭部、仮面のままでも優しい笑顔をしていることが理解できたあの外来人の青年、名も知れぬ赤き戦士とは真逆。

 ヒョウの如き異形の顔面から滲んだ邪悪な笑顔は、一方的な破壊と殺戮を、戦いそのものを楽しんでいるように見える。慧音にはただ、その思想こそが恐ろしかった。

 

 改めて思う。こんな奴らを人間の里に──幻想郷にのさばらせるわけにはいかない。そう決意を強める慧音の前で、ズ・メビオ・ダがおもむろに動きを見せる。

 異常発達した脚の筋肉を膝で曲げ、瞬時に背中を向けたかと思うと、ヒョウを思わせる肉食哺乳類の如き走力をもって迷いの竹林を駆け出した。逃走が目的なのか、あるいは別の場所で狩りをするつもりなのかは分からないが、どちらにしてもそれを許すわけにはいかない。

 

「逃がすものか! エフェメラリティ137!!」

 

 慧音は再び妖力で構築した光のスペルカードを発動した。先ほど展開したファーストピラミッドの結界をもってズ・メビオ・ダの逃げ場を封鎖。青白い壁のように広がった三角形のフィールドに怪物を囲み、そこへ魔法陣の形をした使い魔たちを連続で撃ち放った。

 使い魔は結界に当たっては泡のように儚く炸裂する。さらに散逸して弾け飛んだ小さな光弾が雨のようにズ・メビオ・ダに降り注ぎ、ダメージを与えていく。

 

 長寿を司る女神を拒んだ血族の宿命の如し。短命なる歴史を弾幕へと乗せて。慧音が解き放った天皇家の歴史──スペルカード【 始符「エフェメラリティ137」 】はズ・メビオ・ダの逃げ場を確実に押さえながら、その弾幕をもって小さいながらも攻撃の役割も果たしている。

 

「決めろ、妹紅!」

 

 結界と使い魔への妖力供給を保ちつつ、そのまま声を張り上げる慧音。妹紅は全身に満ちる不死の炎と長年に渡り研ぎ澄まされた人の身の妖力を解放し、自身の背中に不死鳥の如き炎の翼を広げてみせた。

 そのまま右腕を振り上げる。同時に火の粉を放ち、雄々しく振り上げられる炎の翼。

 

鳳翼(ほうよく)……! 天翔(てんしょう)ッ!!」

 

 勢いよく振り下ろした右腕を共に、炎と燃える妖力の不死鳥が翼を広げた。慧音の結界に囚われたズ・メビオ・ダを目掛けて、高く鳴き声を上げる火の鳥が飛翔する。

 その羽ばたきを受けて妹紅の長い白髪が火の粉と共に揺れ、結界を巻き込んで直撃した不死鳥の爆発を後方から見届けた慧音が静かに息を飲む。放たれた【 不死「火の鳥 -鳳翼天翔-」 】の直撃により、ヒョウの能力を持つグロンギは灰も残らず爆散した──ように見えた。

 

「やったか?」

 

「……いや、ダメだ」

 

 結界を解いた慧音が火の鳥の着弾地点を見て問うが、炎の中には灰色のオーロラカーテンが揺れているだけだった。どうやらズ・メビオ・ダは妹紅の攻撃が当たる直前にこのオーロラの向こうへ逃げてしまったのだろう。

 追跡を試みるか否か思考する前にオーロラは消えてしまっていた。それがどこに繋がっているかは分からない。

 されど、妹紅も慧音も直感で理解できる。あの不思議なオーロラが接続する先は、幻想郷ならざる別の時空――こちら側の常識が一切通用しない『法則』の『外側』なのだと。

 

◆     ◆     ◆

 

 博麗神社の境内。こちらにも迷いの竹林と同様、灰色のオーロラによるベ・ジミン・バの襲撃に遭っていた。

 五代と連絡を取った際はどこにも気配がなかったのに、突如として現れた灰色のオーロラから次々と溢れた怪物が、瞬く間に博麗神社の境内を埋め尽くしたのだ。

 

 霊夢とあうんはそれぞれ向かうベ・ジミン・バに弾幕を放ち、確実に撃破する。

 

「ああ、もう! キリがないわね!」

 

 対象を誘い射抜くホーミングアミュレットと貫通力に優れたパスウェイジョンニードル。霊夢は得意とする二種類のショットを駆使し、並み居るグロンギたちを葬っていく。

 もうすでに数体以上は撃破しているのだが、あうんと共に戦っていても一向に数が減る気配がなかった。霊力でショットを放っているため弾切れの心配はないが、敵の数が多すぎる。

 

「霊夢さん、次が来ます!」

 

 灰色のオーロラから次々と溢れるグロンギたちを見て、あうんが告げる。

 ベ・ジミン・バだけを相手にしていたのなら、ここまで手間取ることはなかっただろう。霊夢たちが霊力の消費を抑えつつ、周囲を警戒しながら戦っているのは、ベ・ジミン・バの他に――ズ集団の階級に属するグロンギが二体も存在しているからだった。

 

 リントの方は 俺の獲物だ

「リントン ゾグパ ゴセン ゲロボザ」

 

 ほざけ 早い者勝ちだ

「ゾザベ ザジャギ ロボ ガヂザ」

 

 霊夢を睨みつけながら呟くのは未確認生命体第7号、クジラ種怪人『ズ・グジル・ギ』と呼ばれるグロンギ。青白い身体は弾性に富み、刃を通さぬ強靭な筋肉に覆われている。

 その言葉に返すように放ったのはもう一体の怪物、両の拳を構えた未確認生命体第8号、カンガルー種怪人『ズ・ガルガ・ダ』だ。こちらは優れた脚力をもって左右に跳び、対象を殴り殺すことに特化したグローブ状の拳で風を切っている。

 

 敵は多いが、博麗神社の住居自体への被害を気にしなくていいのは幸いと言えた。

 神仏の守護を司るあうんのおかげで博麗神社の境内そのものに結界が定着しているため、仮にズ集団以上のグロンギが爆散したとしても、神社が倒壊する心配はない。

 

「はぁっ!!」

 

 そこへ掛け声と共に、レッドラインとなったビートチェイサー2000のボディが迫る。赤いクウガを乗せたビートチェイサーの前輪がベ・ジミン・バを殴り飛ばし、境内の彼方で爆散を遂げるのを見届けると、クウガ――五代はその場でバイクを回転させ、周囲のベ・ジミン・バをまとめて薙ぎ払った。

 箒に乗って上空から光弾を放ちつつ、グロンギたちを攻撃する魔理沙もまた、クウガと同様に境内の石畳へ降りて身軽になり、襲いかかる怪物たちに対応する。

 

「邪魔だ!」

 

 魔理沙はマジックミサイルに重ねてスターダストミサイルを放ち、ベ・ジミン・バを爆散させた。隣り合うクウガの拳が同じくベ・ジミン・バを撃破し、爆風に金髪が靡く。

 

 クウガ! お前を殺すのは 一番最後だ!

「クウガ! ゴラゲゾ ボソグンパ パパン バン ガギゴザ!」

 

「くっ……!」

 

 ズ・ガルガ・ダはその言葉と共に魔理沙に襲いかかる。咄嗟に箒でそれを防ぎ、さらに背後から迫ったベ・ジミン・バに対してはミニ八卦炉を向けて魔力を圧縮、イリュージョンレーザーの魔力を分散させたストリームレーザーで凌ぐ。赤い魔力の光線はベ・ジミン・バの身体を焼き貫き、内側から爆散させた。

 

 振り抜かれた拳を至近距離でしゃがんで避け、地面に手を着いたまま素早く半回転。両足を後方斜め上、ズ・ガルガ・ダに目掛けて魔力と共に蹴り放ち、地面から広がった青白い魔力で翼を描くように吹き飛ばす【 グラウンドウィング 】の一撃で怪物から距離を取る。

 隙を見せずに立ち上がり、魔理沙は近寄るベ・ジミン・バの群れを箒で殴り払いながら、同じくベ・ジミン・バの群れを相手にするあうんに振り向いた。

 

「あうん! まずは周りのザコから片付けるぞ!」

 

 魔理沙の声に小さく頷くあうん。妖力で形成したスペルカードを解放し、カールがかった緑髪が妖気の流れに風と揺れる。

 

「――犬符(いぬふ)っ! 野良犬の散歩!!」

 

 解放されたあうんのスペルカード【 犬符「野良犬の散歩」 】により、あうんの妖力を具現化して生成された野良犬の幻影が次々とベ・ジミン・バの身体に喰らいついた。

 一体一体が妖獣並みの力を持つためか、この場に存在する怪物の総数と等しいほどに放たれた野良犬の群れが牙を立たせ、瞬く間に相手の数を減らしていく。

 仕上げとばかりに放たれた魔理沙の弾幕――青白い星の光弾を流星群の如く解き放つ【 メテオニックデブリ 】のおかげもあり、溢れんばかりにひしめいていたベ・ジミン・バたちは残らず全滅を遂げた。

 

 残る二体の怪物のうち、クジラに似たズ・グジル・ギは緩慢(かんまん)な動きのせいであうんが生成した野良犬に噛みつかれ、動きを止められているようだ。

 五代はそれをチャンスと見て構えを取る。右手を正面に伸ばし、左手を腰の前に添え、続いて両手両足を広げ、右足に灯る熱のままに博麗神社の境内――石畳の参道を駆け抜けて。

 

「おりゃあああああっ!!」

 

 マイティキックを蹴り放ち、五代は叫んだ。その一撃がズ・グジル・ギの胸元を穿ち、刻まれたリントの文字と共に流れ込んだ封印エネルギーが赤銅色のゲドルードに到達。黄金に輝く亀裂が入ったかと思うと、ズ・グジル・ギは断末魔の叫びを上げて爆散する。

 

「霊符、夢想封印!!」

 

 残るもう一体のグロンギ、カンガルーに似たズ・ガルガ・ダに向けて、霊夢はスペルカードを解き放った。

 自身の霊力を三色の光球に練り上げ、対象を狙って誘導する弾幕と形成する。個々は大きく避けやすい形ではあるが、夢想封印は必ず対象に向かっていくのだ。

 

 カンガルーの脚力を駆使した機敏な動きで光球を避けるズ・ガルガ・ダ。しかし、それも無意味なこと。避けても避けても死角から迫る光球から逃れられず、ついに受けた一つ目の光球のダメージに怯む間に、次々と被弾したズ・ガルガ・ダは苦痛の声を漏らす。

 絶え間なく叩き込まれる七つの光球を受け、ズ・ガルガ・ダの身体にはリントの技術とは異なる法則を持ちつつも同じ封印エネルギーを備えた霊力が流れ込んでいくのが見て取れた。

 

「グゥ……!!」

 

 ズ・ガルガ・ダも霊夢の放った夢想封印に驚いている。正確には、夢想封印によって与えられた封印エネルギーにだ。

 やはりこちらもクモの能力を持っていたズ・グムン・バと同様、気合いで刻印に抗い、封印エネルギーが赤銅色のゲドルードに届くのを防いでいる様子。さすがの霊夢にも、ズ集団の怪物に致命傷を与えるほどの霊力を込めた夢想封印を続けて放つ余力はない。

 

 ――されど、ズ・ガルガ・ダは侮っていた。この場に集った、四人の力を。

 

 ズ・ガルガ・ダの身に喰らいつき、動きを止めるあうんの野良犬。ズ・グジル・ギと同様、無数の野良犬たちに噛みつかれ、機敏な脚力も意味を成さない。

 あうんの妖力供給によって統率の取れた野良犬たちは妖獣並みの力を備えている。たとえズ集団ほどのグロンギが相手でも容易に振り払われてしまうことはないのだ。

 

「ナイスだ、あうん! そのまま止めといてくれ!!」

 

 魔理沙は正面に構えたミニ八卦炉に渾身の魔力を注ぎ込み、右手を抑えてズ・ガルガ・ダに狙いを定める。

 彼女が培ってきた魔法の研究、その集大成。求め続けた『弾幕はパワー』を体現する、すべての魔力を純粋な熱量と破壊力に特化させた魔理沙の十八番。光と星の力を込めて。最高潮に達した魔力の波動を両手で感じ、魔理沙はそれを解き放つべく、声を張り上げた。

 

「……消し飛べっ!! マスター……! スパァァァァクッ!!」

 

 ミニ八卦炉を中心として、周囲の空気が震撼(しんかん)する。解き放たれた魔力の渦は魔理沙の視界を埋め尽くすほどの極大の閃光となり、目の前のズ・ガルガ・ダを眩い光に飲み込んだ。

 

 魔理沙が愛用とする、恋色の魔砲。七色の輝きと共に森羅万象を木端微塵に打ち砕く規格外の超巨大レーザー。

 それは【 恋符(こいふ)「マスタースパーク」 】と呼ばれるスペルカードであり、普段ならば弾幕ごっこにおいて使われる必殺技(ボム)としても放つ魔法だ。

 

 しかし、今はそんなレベルの出力を遥かに超えている。結界に守られているはずの博麗神社でさえビリビリと震えるほどの衝撃。

 霊夢とあうんはそれぞれ眩い光と風圧から身を守り、五代は危うくその波動に巻き込まれそうになったものの、マイティフォームの身のこなしをもってなんとか回避した。

 

「グ……ギッ……ギャアアアアッ!!!!」

 

 マスタースパークの直撃を受け、夢想封印によって与えられた封印エネルギーに抗い切れなくなったズ・ガルガ・ダが断末魔の叫びを上げる。

 光はベルトに到達し、魔石ゲブロンに接触してその身を内側から爆散させた。

 

 爆風から身を守る魔理沙。晴れゆく煙の前で白煙を立ち昇らせるミニ八卦炉に軽く息を吹きかけ、この場に存在していたすべての怪物の撃破を改めて実感する。

 まだ熱の残るミニ八卦炉を帽子にしまっても問題はない。この帽子の中は魔力で空間を設けてあるため、見た目以上の耐久と収納スペースがあるのだ。

 

 グロンギたちの脅威はもはや去った。霊夢とあうんが相応の魔力を消費した魔理沙のもとへと集うなか、五代は戦いを共にした愛機を見やる。

 

 レッドラインとなったビートチェイサーは博麗神社の賽銭箱の傍に停めてある。本来なら五代がクウガであることを隠すため、同一車両であることを秘匿する目的で設けられた車体の外見を変える機能――『マトリクス機能』だが、幻想郷では必要ないかもしれない。

 そんな小細工を弄するまでもなく霊夢たちには正体がバレている。未確認生命体第4号として名前を隠す意味もない。

 ならばもはやブルーラインに戻す必要もないのだろう。どうせ性能は変わらないのだ。それなら五代としても思い入れのあるクウガの文字が入ったレッドラインの方が親しみやすい。車体が黒いということは、森などで怪物の目につきにくいという利点もある。

 それでも――不思議と生身の姿に戻ったら蒼銀の車体(ブルーライン)が恋しくなるのだろう。

 

 変身を解いた五代雄介は博麗神社の境内で、少女たちに笑顔とサムズアップを見せた。

 

◆     ◆     ◆

 

 桜の咲き誇る幻想郷の最東端。夕暮れに染まり、グロンギの脅威も去った平和な博麗神社の境内で、霊夢と魔理沙、あうんと五代はそれぞれの状況を確認し合った。持ち得る情報を交換し合い、今の幻想郷で起きている異常について、霊夢たちはさらなる理解に努める。

 

 五代が西暦2001年の時空、並行世界と定義できる場所から幻想入りを果たした事実についても魔理沙は話した。霊夢はどこかそんな気がしていたようで、あまり驚いていない。

 だが、それなら外の世界で未確認生命体なる事件が確認されていないことにも頷ける。そもそも五代の話した出来事が並行世界の歴史であるのなら、それは幻想郷と繋がる外の世界では起きてすらいない事件なのだから。

 

 五代雄介が西暦2001年の時代から幻想入りを果たしている――というのは永遠亭で魔理沙が聞いた通りだ。紀元前の時代からグロンギが蘇り、五代の生きる『現代』で再び殺人行為を開始したのは『西暦2000年』のことである。

 未確認生命体と戦い、五代は2001年を迎えたある冬の日に最後のグロンギ――第0号と呼ばれる個体を倒した。その戦いを最後として、五代は再び冒険に出た。

 

 決戦から数ヶ月後――五代は異国の海岸で少年たちに2000の技の一つであるジャグリングを見せていたことも憶えている。その直後辺りで五代は幻想郷に迷い込んだのだが、未確認との戦いが終わった後で本当によかった、というのが彼の本音だ。

 海外に旅立ってはいたが日本で他に未確認が現れたなどという情報はない。少なくとも2001年までにおいては、人類の脅威と成り得る怪物は出現していない(・・・・・・・)

 グロンギとの戦いの後は平和なものであった。それは五代の認識も、彼がいた元の世界でも変わらない事実。彼の世界(・・・・)にはグロンギ以外の怪物は現れていないし、存在もしていない(・・・・・・・・)

 

「……やっぱり、竹林の方にも異常が出てたみたいですね」

 

 あうんは再び発生した四季異変の状況についても認識する。魔理沙と五代がいた竹林は春にも関わらず秋に近い晩夏の気候だった。

 博麗神社に向かう際に見られた霧の湖も同じく夏の様相を呈しており、魔法の森に至ってはそう遠くない距離にも関わらず雪に染まっていることが見て取れたという。

 見上げた妖怪の山は秋めく紅葉に覆われていた。幻想郷のどこを切り取っても異常な四季に見舞われているこの状況は――魔理沙や五代、あうんの目をしても異変としか思えない。

 

「そっちも気になるが、問題はあの化け物だ。あいつら何が目的なんだ?」

 

「確か、未確認生命体……グロンギとか言ってたわね」

 

 魔理沙が抱いた疑問に続いて、霊夢も五代の顔を見て言った。現状、グロンギについて何より深く知っているのは彼らと同じ世界から来た彼である。

 五代は話した。現代の人類からは未確認生命体と呼称された未知の怪物群、超古代文明から復活したグロンギなる種族の意思について。

 

 彼ら――グロンギは当初は彼ら独自の言語法であるグロンギ語を用いて会話していた。驚くべきは、超古代の地層から復活して、さほどもない時間で現代の日本語を学び、流暢な日本語を使い始めたことである。

 学習能力の程度は個体によって差異はあるが、強大な力を持つ個体は現代の文化を驚異的なスピードで学習し、ついにはインターネットさえも使いこなしてしまったのだ。

 特に言語能力に長けたグロンギのある個体から得られた情報。それは彼らグロンギが現代の人間、彼らがリントと呼ぶ『獲物』を殺す目的に関して。

 五代は一瞬それを口にすることを躊躇った様子を見せたが、意を決して口を開く。

 

「あいつらが人を襲う理由は……ただのゲームだったんだ」

 

「ゲーム……だと?」

 

 魔理沙も怪訝な表情で五代の話を聞いている。五代はそのまま話を続けた。

 グロンギたちの儀式、ゲゲル(・・・)。日本語に直せば、そのまま『ゲーム』を意味する。彼らの殺人行為には重要な意味などはなく、ただ無辜の命を殺戮する行為を遊びとして――ゲームとして楽しんでいただけだった。

 ルールに従っていかにリントを殺すか。ただそれだけのゲームで、罪もない大勢の人々が殺されている。五代はその事実を噛みしめ、震える拳をそっと下ろした。

 

「なんだそりゃ……弾幕ごっことまるで真逆じゃないか」

 

 幻想郷に制定された平和な法、スペルカードルール。すなわち弾幕ごっこはもとより人間と妖怪の争いを安全なものにするためのものだ。魔理沙はそれを「『殺し合い』を『遊び』に変えるルール」だと称した。

 平和なルールの中で疑似的な決闘を展開し、誰の命も故意に奪うことなく戦う遊び。

 そのおかげで人間と妖怪は互いに殺し合うことなく、双方の意味を尊重し合う形で今の幻想郷を保つことができているはずである。

 

 対して、グロンギの『ゲゲル』はそれとはまさに正反対のものだった。

 

 スペルカードルールに則った弾幕ごっこが「『殺し合い』を『遊び』に変える」ものであるのなら、こちらは「『遊び』を『殺し合い』に変える」ために作られたものと言っていい。

 破壊と殺戮を好むグロンギの遊戯には必ず命がつきまとう。幻想郷の少女たちが遊びに弾幕を用いるのと同じように――彼らの遊びには必ず『殺害』という過程があった。

 

 無力な人間(リント)を殺し、決められた人数を、決められた方法で殺し、目的の数に達するまで殺し続ける。そして最終的に勝ち上がった限られたグロンギは残ったグロンギたちで殺し合い、最後の王を殺すゲゲルの参加資格を手に入れる。

 どこまでいってもただの殺し合いでしかない。グロンギたちはそれを自らの存在意義とし、ゲゲルによる殺戮こそを至上の喜びとしている。

 五代は拳による――暴力による決着などつけたくなかった。本当ならば異文化を生きる怪物とも分かり合いたかった。

 しかし、彼らとは分かり合えなかった。価値観が違いすぎたのだ。命をゲームの道具としか捉えていない民族とは、ついぞ心を通じ合わせることはできないと。五代は理解した。

 

 自分たちの笑顔のためにリントを殺すグロンギ。みんなの笑顔のためにグロンギを殺すクウガ。どちらも暴力だと弁えたうえで、五代は心と拳を涙に染めて。戦士クウガとして戦った。

 

「……そんなの……」

 

「……うん。許せないよね。だから、絶対止めなくちゃいけない」

 

 震える声で呟く霊夢を優しく(なだ)めるように、五代が小さく目を伏せた。下ろした拳を開き緩めた五代とは対照的に、霊夢はそのまま拳を握りしめる。

 

 博麗の巫女として──幻想郷の調停者(バランサー)として。人間を軽々しく死なせるもんか、と。かつて幻想郷の転覆を狙った人間さえも救おうと霊夢は誓ったことがあった。深秘異変に際して博麗大結界の破壊を目論んだ宇佐見菫子さえ、人間であるから保護した。

 グロンギなる怪物はクウガと同じ。体内に宿した石の力で異形の力を得た、古代の『人間』であるのだという。同じ人間であるにも関わらず、思想の違いは大きすぎた。

 

 幻想郷は全てを受け入れると紫は言った。それは人の命を玩具のように使い捨てる怪物さえも受け入れろということなのか。

 仮に幻想郷の意思、賢者たちがそれを()としても。霊夢はそれを認めたりはしないだろう。

 

「…………」

 

 夕暮れの博麗神社がオレンジ色の光に染まる。魔理沙もあうんも、五代の話を聞いてただ重く沈黙するばかりだった。

 

 不意に、桜を散らせる一陣の風が吹く。霊夢は己の黒髪を揺らす風に、春の色とは似つかない不気味な妖気を微かに感じて――思わず博麗神社の屋根の方へ向く。それに伴って同じく振り向いた魔理沙とあうん、五代も霊夢の視線の先を目にした。

 

 やはりそこにあったのは法則の境界――されど先ほども目にした灰色のオーロラカーテンとは違うもの。霊夢にとっては普段から見慣れた大妖怪の能力によるものだ。

 深淵から無数の目玉をぎょろりと覗かせる空間のスキマは横一文字に開き、両端に赤いリボンを結んで西の夕空に浮いている。

 

 ――そこにいたのは、妖怪の賢者、八雲紫。

 

 スキマから姿を現した紫の白いドレスは夕陽を受け、オレンジ色に美しく輝いていた。

 それは里でズ・グムン・バに逃げられた五代、まだグローイングフォームだったクウガの白い装甲が夕陽に輝いていたのと同じように。五代はそれを思い出し、紫の姿を見上げる。

 

「――それが貴方たちの答えかしら?」

 

 紫は湛えた笑顔を崩さず呟いた。左手に持った扇で口元を隠して目を細め、沈みゆく太陽を背にして空を裂き、深く放たれる圧倒的な妖気は五代にも伝わっている。紫は五代と霊夢をそれぞれ見つめると、扇をしまった。

 強大な妖怪の気配に慄き縮こまったあうんを横目に、魔理沙は五代に紫のことを説明する。簡単にその胡散臭さを伝えると、魔理沙も五代の後ろへと隠れた。

 

「紫、どういうつもり? この異変を起こしたの、本当にあんたなの?」

 

 霊夢は見上げた紫に突きつけるように手元に召喚した大幣を真っ直ぐ掲げる。たとえ幻想郷の管理者であろうと、幻想郷に牙剥く妖怪ならば巫女として討つのみ。もしも彼女が怪物を招いて幻想郷に被害をもたらした者ならば、その使命はある。

 親代わりの妖怪でさえ討つ覚悟。幻想郷の秩序を乱す相手が誰より幻想郷を愛する八雲紫であるとしても。

 博麗霊夢は博麗の巫女だ。妖怪相手に情けをかけていては幻想郷の調停者など務まるはずがないということを、博麗の巫女としての役割を拝命した瞬間から理解している。

 

 真剣な表情で紫を睨む霊夢に対し、紫は小さく溜め息をついた。

 スキマを閉ざし、いきなり霊夢の視界から消えてしまったかと思うと、今度は霊夢の背後に現れてそっと大幣を下ろさせる。

 大幣を消失させて素早く飛び退いた霊夢。霊夢が無意識のうちに行っている瞬間移動は八雲紫と源流を同一とする力。スキマ妖怪として『境界を操る程度の能力』を持つこの大妖怪の前に、ありとあらゆる境界という概念は意味を成さないのかもしれない。

 

 昼と夜の境界、逢魔ヶ刻(おうまがとき)。人間と妖怪が出会いやすいとされる夕暮れ時。この時間帯こそ八雲紫の名に最も相応しい境界の時間だった。

 幻想の境界はただ静かに霊夢たちの前に立つ。どこからともなく取り出した白いフリルの日傘を開き、今度は後方に開いたスキマに腰かけるようにして境内の石畳の上にふわりと浮く。

 

「――『逢魔(おうま)異変』。私たちはこの異変を、そう呼んでいるわ」

 

 紫はそう呟くと次の瞬間には鳥居の上へ移動していた。再び空を見上げる形になった霊夢たちは太陽のない東の空を見上げ、オレンジ色の夕陽を返す紫と向き合う。

 宵の明星を思わせる金髪は夕風に揺れ、鮮やかな夕陽を受けて輝く紫色の瞳は暮れの空の如き濃紺の星。その様は、彼女自身が万物の境界であり、そのスキマを司る大妖怪だということを否が応にも認めさせるようだ。

 

「幻想郷に『九つの物語』を繋ぎ止め、『幻想』として定義する。それが、私たちの計画」

 

 静かな声で言葉を続ける紫。霊夢や魔理沙にはその意味が分からない。当然その場にいるあうんや五代にも、紫の意図は理解できなかった。

 紫自身もそれは分かっているだろうが、そんなことは気にせずさらに続ける。

 

「少し予定が狂っちゃったけど、『クウガの世界』を初めとした『法則』はきちんと幻想郷に記録されるわ。霊夢、あなたたちはこれまで通り、彼と『怪人』の撃破を続けてくれる?」

 

「……ちょっと待て。どういう意味だ? さっぱり分からん」

 

 全員が抱いていた疑問を代表して呟く魔理沙の声に、五代は小さく頷いた。紫の言葉を聞いていた霊夢は紫を含む賢者たちの意思――幻想郷の定義を改めて思い出す。

 

 霊夢が生まれる遥か以前の歴史。幻想郷とは元々、妖怪たちが集う山奥の秘境でしかなかったという。人々の畏怖を失った彼らが『幻想』と定義されたのは、当時からの賢者である八雲紫が『幻と実体の境界』という結界を張ったためである。

 今からおよそ500年前、人間の勢力拡大により人間と妖怪のバランスが崩れることを憂いた紫はこの境界を引き、各地の妖怪を幻想として引き入れることで均衡を維持した。

 

 時代は過ぎ、やがて明治の頃――外の世界は非科学的な迷信を排斥し、現実的な文化をさらに強めていった。幻想郷に住みついた妖怪たちは人間の末裔たちと共に暮らし、新たに張られた第二の結界『博麗大結界』によって外の世界と隔絶されることとなった。

 この結界により幻想郷と外の世界は論理的な境界で分断され、幻と実体の境界によって招かれる者やごく一部の例外を除き、中の者は外には出られず、外の者は中には入れない――現在の幻想郷の法則が成り立ったのだ。

 第一の結界、幻と実体の境界。第二の結界、博麗大結界。幻想郷はそれぞれ二重の結界によってその法則を維持しており、外の幻想を引き入れながらも外の世界と分け隔てられている――まさに幻想と呼ぶに相応しい妖怪たちの『箱庭の楽園』となっている。

 

 五代やグロンギが正当な方法での幻想入り――外の世界で忘れ去られ、幻想となったことで幻想郷に招かれたわけではないというのは霊夢の推測通りだった。

 本当にまったく異なる時空から幻想郷に招かれる者がいるとすれば、それは何者かの作為によるもの。幻と実体の境界の法則を書き換えるか、あるいは直接、彼女が招き寄せたのか――

 

「…………」

 

 紫に対して糾弾した霊夢の言葉を否定せず、自らの計画の一部を口にした紫の反応を見て、霊夢はやはり五代雄介を招いたのが紫であると確信した。

 いつも通りの勘ではあるが、その姿からはやはり幻想郷への攻撃の意図は感じられない。むしろ幻想郷の未来を想っているような意思を、霊夢は紫の瞳から感じ取った。

 

「あんた、いったい何を考えて――」

 

 霊夢が鳥居の上に浮かぶ紫のスキマに近づこうと、石畳を蹴って飛翔しようとする。

 だがその瞬間、突如として境内を吹き抜けた突風に煽られ、霊夢は後方に吹き飛ばされてしまった。咄嗟に霊夢を受け止めた五代に支えられるが、顔を上げる頃にはすでに紫の姿は消えてしまっていた。

 突風に顔を覆っていた魔理沙とあうんも紫の姿を見失っている。おそらくいつも通り、スキマを経由して別の空間との境界へ消えたのだろう。

 

「……あっ」

 

 突風で吹き飛ばされたことで、霊夢は自身の巫女服から一枚のカードを落としていたことに気がつく。

 立ち上がり、拾い上げたのは初めて五代が人間の里に顔を出し――博麗神社へ案内したときに彼が見つけた正体不明のカードだった。

 灰色で描かれた絵柄はそれが無彩色であるのにどこかマゼンタ色の圧力を感じさせる不気味な力に満ちているような――説明のつかない恐ろしさが霊夢の勘に突き刺さる。

 

「これ、紫に見せるつもりだったんだっけ。……ま、いっか」

 

 霊夢は再びカードを見つめ、呟いた。そのままそのカードを懐にしまいながら、拝殿――五代たちの方へ向き直る。

 五代は紫の存在に何か思うところがあるのか、顎に手を当てて何かを考えている様子。魔理沙とあうんは紫という緊迫の根源が去ったことで胸を撫で下ろしていた。

 

 賽銭箱の隣に停めてあるビートチェイサー2000は黒い車体に赤いラインを持つレッドラインのまま。バイクそのものに対してか、もしくはその位置に関してか。霊夢は五代の背後、拝殿の前のビートチェイサーを見つめる。

 その視線に気づいた五代は申し訳なさそうな愛想笑いを見せ、愛車のもとへ向かった。

 

「あっ、ごめんね! すぐどかすから!」

 

「別にいいわ。お賽銭入れてくれるのなんて五代さんくらいだもん」

 

 身体を伸ばしながら霊夢は言う。その言葉通り、参拝客の少ない博麗神社の賽銭箱はほとんど魔理沙の箒立てと化していた。魔理沙にとっての箒がバイクと同義なら、それはさしずめ小さな駐車場のようなものである。

 霊夢の住居である博麗神社の居住スペースは裏側の玄関や縁側からしか入れない。正面にバイクがあったところで、ほとんど来ない参拝客の邪魔になるだけ。

 そもそもこんな異変の最中ともなれば、ただでさえ少ない参拝客はより一層激減していることだろう。

 むしろ、今に限ってはその方がありがたい。五代にはクウガの力があるからまだいいが、一般の参拝客がいるときに怪物が現れでもしたら守り切ることも難しいからだ。

 

 あうんが張ってくれた結界、狛犬の守護があるおかげで博麗神社への敵襲があればすぐに気づくことができる。

 改めてそれを認識し、霊夢はあうんと五代に夕食の支度を手伝うよう指示した。この場にいる全員は戦闘によって等しく疲れている。されど、あうん以外の全員は純粋な人間なのだ。食事や休息を取らなければ今後の戦闘にも支障をきたしかねない。

 元神霊の妖獣、狛犬の妖怪であるあうんは人間と同様の食事や睡眠こそ必要ないものの、先の戦闘で消費した体力と妖力を万全の状態に蓄えるにはそれなりの休息が必要となる。

 

「あんたもよかったら食べてく? こっちも戦力は多い方がいいし」

 

「タダ飯なら大歓迎だが、遠慮しておくぜ。(うち)の方も見ておきたいからな」

 

 霊夢はどこか怪訝そうな顔で薄明の月を眺める魔理沙に声をかけた。博麗神社から見渡す景色はやはり異常な季節に見舞われているが、魔理沙が移した視線の先はここより北西の方角――山の麓に位置する魔法の森だ。

 魔法使いである彼女が住む家は魔法の森の中にある。本来なら春である幻想郷、この森もやはり季節が狂い、四季異変のときと同じ白雪の景色に覆われている。

 怪物騒ぎの異変に続いて、再び起きた四季異変。二重に起きた異変の影響、これも紫が言っていた『逢魔異変』の一部なのだろうか――?

 

 深く沈みゆく夕陽が東の空を陰らせていく。少しづつ濃紺の色を強める空を見上げ、魔理沙はこれ以上暗くならないうちにと霊夢に一声かけて箒に跨った。

 ふわりと飛翔する魔理沙の竹箒。境内の石畳を離れ、桜が芽吹く博麗神社の上空を越えて。この辺りの気候はまさしく春の暖かさだが、これより向かう先は雪降る森だ。魔理沙は肌を刺すであろう寒さに備え、魔法で召喚した上着を羽織る。

 

 霊夢がふと視線を下ろすと、賽銭箱の傍に停めてあるビートチェイサー2000のボディがレッドラインからブルーラインに変わって――否、戻っていた。

 バイクの端末を操作する五代の様子はどこか懐かしそうな、嬉しそうな。

 霊夢にはその表情の意味が分からなかったが、彼にとってその車体の色の変化には見た目以上の意味があるのだろうと思わせる。

 

「言うの遅くなっちゃいましたけど、また、よろしくお願いします。――さん」

 

 優しげな口調で蒼銀のビートチェイサーに語りかける五代。小さく呟かれた最後の言葉は、霊夢には聞き取れず。

 五代は霊夢に向き直って笑顔でサムズアップを見せる。先ほどまでの黒と赤を基調とした色も()()()らしかったが、霊夢は今の見た目の方が、青空が好きな()()()()らしいと感じていた。




犬符「野良犬の散歩」のイメージはシューティングウルフのファングバレッツ。

次回、第20話『巡り逢う幻想の物語』


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第20話 巡り逢う幻想の物語

 幻想郷ならざる別の時空――外の世界の法則に隣り合うように招かれた世界の一つ。西暦2001年の時空から基準点となる『力』を失った『クウガの世界』は、外の世界そのものではなく幻想郷の中に幻想として――法則の接続(・・・・・)を果たしている。

 融合ではなくあくまで接続。この世界の基幹となる中心点が抜け落ちていても、この世界が『クウガ』の物語を内包している時空であることは変わらない。

 

 そこはただ、クウガという存在を失っているだけのクウガの世界。今や幻想郷に招かれてしまった五代雄介が生まれ育った彼の世界(・・・・)である。

 本来ならば五代の活躍により未確認生命体――グロンギは根絶されたはずだった。未発見の個体もどこかに潜んでいたかもしれないが、少なくとも西暦2000年に九郎ヶ岳遺跡から復活した200体余りのグロンギは全滅している。

 

 されど――過去に五代が倒したはずの未確認生命体はそこに集まっていた。

 

 高く晴れ渡る青空の下、薄暗い廃工場めいた場所に集まる三人の男女。今は人間の姿をしているが、彼らは紛れもなく超古代の地層から蘇り、現代においては五代が変身したクウガによって倒されたはずのグロンギの元の肉体――『人間態』の姿に他ならない。

 

 黒いコートに白いマントとマフラーを着けた長身の男、ラ・ドルド・グの人間態は、黒いニット帽の隙間から覗く鋭い双眸で手にした異形の算盤、バグンダダを見つめている。

 向かうは黒いドレスに赤い花飾りを装ったラ・バルバ・デの人間態だ。薔薇の如き装いの女性、バルバは冷たい顔で一人の男を従えている。

 廃工場の屋根が落とす影に隠れ、日の光が当たらない場所から出てこようとしない男はバルバの顔色を窺いながら、時たまドルドにも視線を向けて病的に白い顔を上げた。

 

 彼の名はズ・ゴオマ・グ。コウモリの能力を持ったグロンギではあるが、ズ集団に属するゴオマはラ集団である二人と違って個体の力が強くないらしい。超古代に取り込んだ魔石ゲブロンの力にうまく順応できないまま怪人態の力を得たことで、人間態の姿のままでも怪人態における日光への弱点が表出してしまっているようだ。

 一度は外部からの力によって弱点を克服し、さらに強大な力を得てラに匹敵するほどの存在へと至ったこともあったのだが――

 一度『命を落として』しまったせいか、その『欠片』も今のゴオマにはない。封印される前の超古代の頃と変わらず、日光に怯えながら生き血を啜るだけの存在だ。

 

 黒いコートに黒い帽子。忌まわしき日光から病的に白い肌を隠すための漆黒の装い。大切そうに手にした黒いコウモリ傘を使って、必死に日光を遮っている。

 かつては弱点を克服すると同時に流暢に話せていた日本語も力を失ったことによる影響のせいか、満足に使えないらしい。人間社会で傘を購入するなどという行為がもはやできない今、彼の命綱とも言えるコウモリ傘はこの辺りのゴミ捨て場から拾ってくるしかないのだ。

 

「…………」

 

 空気の流れがにわかに変わる。それを知覚したドルドが顔を上げた。廃工場からゆっくりと外に出ると、雲間の揺れる青空が静かに陰りを見せている。

 その直後、ドルドが見上げる空に世界と世界を繋ぐ『灰色のオーロラ』が現れた。揺らめく光の膜壁はそのまま地に落ち、カーテン状の帳となってドルドの目の前で歪む。

 

「グッ……フゥ……」

 

 オーロラカーテンから姿を現したのはヒョウ種怪人、ズ・メビオ・ダだった。

 しなやかな筋肉に満ちた身体、特に左肩には大きな火傷を負っているが、苦痛に顔を歪めていたのも束の間、すぐに魔石ゲブロンによる再生能力で微かな痕さえ消えてなくなる。

 脳神経と直結している眼球であれば別だが、この程度の傷なら短時間で回復できる。かつて人間(リント)に目を射抜かれた際は報復のためゲゲルを無視してリントを殺してしまったが、かつて(・・・)の行いは()は時効のようだ。

 本来ならばゲゲル開始前にリントを殺したプレイヤー(ムセギジャジャ)は相応の()を受けることになる。

 目を射抜かれたことに対する報復のためとはいえ、そのルールに逆らった彼女は、かつてにおいても生き残っていればゲゲルの参加資格を剥奪されていたことだろう。

 

 傷を癒したズ・メビオ・ダは怪人態の身から人間態の姿へ。肩の見える黒い服を着た女性の姿となったメビオは微かに息を荒げ、地面に膝を着く。曲げられた太ももにはグロンギ特有のタトゥじみた痣――彼女の場合はヒョウの紋章が浮かんでいた。

 左肩の火傷こそなくなっているが、戦闘で負ったダメージまでは完全に癒えていないらしい。いくらグロンギとはいえあれだけの一撃(・・・・・・・)を完全に回避することは難しかったようで、メビオは苦しそうに立ち上がった。

 

 背後のオーロラはすでに消えている。こことは異なる時空――ありえた因果の幻想世界へと繋がる光の帳が消えたのは、彼女の意思でもある(・・・・)。正確にいえば、彼女がそれを操っているわけではないのだが、あのオーロラはその意思に応えるように出現と消失を繰り返すのだ。

 それはメビオの意思に限った話ではない。ここにいるドルドやバルバも、ゴオマでさえも。果ては掟に背いて勝手にゲゲルを始めたズ・グムン・バや――その行方も生死も知れぬズ・グジル・ギ、ズ・ガルガ・ダに至るまで。

 少なくともベ・ジミン・バを除くすべてのグロンギ、ズ集団以上の個体が例外なく。その謎のオーロラを意思によって自在に呼び寄せ、消し去ることが可能となっていた。

 

 メビオ あちら(・・・)の様子はどうだ

「メビオ ガヂサン ジョググパ ゾグザ」

 

 ……見ての通りだ

「……リデン ドゴシザ」

 

 魔石ゲブロンを宿す以前の本来の姿――生身の姿のグロンギたち。ドルドは身長差のあるメビオを見下ろしながら歩み寄り、静かな口調で問う。

 つまらなそうにドルドに顔を背け、メビオは吐き捨てるように答えた。

 

 次は 俺だな……!

「ヅギパ ゴセザバ……!」

 

 興奮気味に色白の男――人間態のゴオマが傘を握りしめたままバルバに近づく。ゲゲルの順番を心待ちにしていたのか、もはや待ち切れないといった様子だ。彼にもメビオと同様にオーロラを呼ぶ力は備わっているのだが――

 その力を行使しようとした瞬間、ゴオマの頬に鋭い痛みが走った。

 白い肌に赤い血の色が滲む。即座に再生したその傷は、バルバが制裁として放った茨の鞭打によるものだ。

 

 神経を裂くような痛みに地面を転がったゴオマは顔を上げてバルバを見る。冷たい目線でゴオマを見下すバルバの右腕はシュルシュルと音を立て、刺々(とげとげ)しい茨を纏った怪人態のものから白く麗しい人間態のものへと戻っていった。

 右腕だけを怪人態とし、ゴオマを戒める。バルバにとっても忌まわしいと感じられたのは、それがどうしようもなく――『かつて』の繰り返しを思わせてしまうからだった。

 

 お前には もう ゲゲルの資格はない

「ゴラゲ ビパ ログ ギバブパ バギン ゲゲル」

 

 なぜだ……! 俺は まだ 一人もやっていない!

「バゼザ……! ゴセパ ラザ パパンビン ロジャデデ ギバギ!」

 

 勝手な真似をしたからだ

「バデデバ ラベゾ ギダバサザ」

 

 冷静な口調で告げるバルバに立ち上がり、抗議の声を上げるゴオマ。彼がこの世界から幻想郷へ出向き、此度のゲゲルの開始を待たずに行動を開始し、ズ・グムン・バと共にリントを殺そうとしたことはすでに伝わっている。

 同じく掟に背いたズ・グムン・バはクウガによって殺された。のうのうと生きて戻ったゴオマは、その行いのためにゲゲルの資格を剥奪された。

 

 バルバは不快な感情に小さく眉をひそめる。この繰り返しがいかに無意味なものか。

 かつてと同じ過ちを犯す男に、かつてと同じ制裁を与える。まったく前へと進んでいないグロンギの血を思うと、変わりゆく現代のリントに羨望の念を覚えそうになる。

 

 『聖なるゲゲル』では ただのリントを殺すな

「ボソグ バゾ ダザン リント ゼパ ゲギバス ゲゲル」

 

 再び日陰へと戻ったゴオマに歩み寄り、ドルドが低い声で告げる。その言葉に首を傾げたゴオマは、訝しげな表情を浮かべてドルドに向き直った。

 

 聖なる……? なんだ それは?

「ゲギバス……? バンザ ゴセパ?」

 

 思わず聞き返す。聞き馴染みのない『聖なるゲゲル』なる言葉。超古代においても、かつて現代に蘇った際の記憶においても、ゴオマはその言葉の意味を知らなかった。

 

 ゲゲルとは元より聖なる儀式であったはず。リントから見れば単なる虐殺に過ぎぬ遊びであろうとも、グロンギはただそのためだけに生きていると言ってもいい。他の文明を発達させなかった彼らにとって、ゲゲルは自分たちの存在意義そのものだ。

 それを前提としたうえで『聖なるゲゲル』などと呼ばれるものがあるなら、ゴオマが興味を示すのも無理はないだろう。

 しかし、彼はすでにゲゲルへの参加資格を失っている。その詳細さえ聞かされることもなく、ゴオマはドルドからそれ以上のことを何も訊くことができなかった。

 

 ドルドは再びバグンダダに視線を落とし、バルバはゴオマを無視して廃工場の奥へ向く。

 

「バヅー」

 

 虚空へ向かって呼びかけ放つバルバの声に呼応し、廃工場にオーロラが現れた。極光の膜壁はやはりそこから一人の影を浮かび上がらせ、ゆっくりとこちらに歩む人間の男の姿をオーロラの彼方から呼び寄せる。

 彼もまたこの場に集う民族と同じ。超古代から蘇ったグロンギの一人、未確認生命体第6号と呼ばれた――バッタ種怪人『ズ・バヅー・バ』の人間態である。

 

 地肌に茶色のベストを羽織った奇妙な出で立ち。黄色いマフラーとパーマがかった特徴的な頭髪は、彼が現代で整えたものなのだろうか。

 左の二の腕にはやはり宿した魔石ゲブロンの能力を表す痣、彼の場合は驚異的な跳躍力をもたらすバッタの紋章が浮かんでいた。

 

 自信に満ちた笑みを浮かべながら廃工場を歩んでバルバに近づく。握りしめていた右拳を自身の胸の前で開くと、そこには彼への通告となる赤い薔薇の花びらがあった。

 それはゲゲル開始の合図となる召集の意図。ゲゲル開始直後に召集されたメビオもまた、この花びらを受け取ってバルバたちの指示のもと行動していた。

 

 正式なゲゲルのプレイヤー(ムセギジャジャ)として選ばれた二人のグロンギ、ヒョウの能力を持つメビオとバッタの能力を持つバヅーはそれぞれ、バルバに対して不機嫌そうな無表情と自信に満ちた笑みをもって視線を向ける。

 その在り方を確認したバルバは懐から複数の『腕輪』らしき奇妙な形状の何かを取り出し、メビオとバヅーに投げ渡した。

 

 二人がそれぞれ三つずつ受け取った腕輪らしきものは黒い金属の輪に爪に似た勾玉状の装飾がいくつか通された独特の形状をしたもの。輪の一部には引っ掛けとなる窪みがあり、そこを境界とすることで動かした勾玉の位置を固定できるようになっている。

 それはグロンギにとってゲゲルを行う際の聖なる呪具、『グゼパ』と呼ばれる道具。自分たちが殺したリントを数えるために用いる計数器(カウンター)だ。

 九進法を使う彼らグロンギはグゼパの勾玉を動かし、殺したリントを誤差なく数える。そのために必要なのが個人用の腕輪(グゼパ)と、ドルドが持つ大儀礼用のカウンター(バグンダダ)である。

 

 殺すのは リントならざるリント

「ボソグ ンパ リント バサザス リント」

 

 グゼパを受け取ったメビオとバヅーに改めてルールを伝えるバルバ。今回のゲゲルは通常のゲゲルとは違う『目的』があった。

 ただのリント(・・・・・・)の殺害が禁じられた『聖なるゲゲル』。真剣そうな表情でバルバの言葉を聞くバヅーらを恨めしそうに睨むゴオマには、この新たな儀式の内容は伝えられていない。

 

 その腕輪(グゼパ)で 『力』を奪え

「ゴン グゼパゼ グバゲ ゾヂバサ」

 

 バルバはメビオたちが左腕に着けたグゼパを再び一瞥(いちべつ)し、また視線を上げる。

 本来ならばただ数を数える道具でしかない腕輪。――されど、今このグゼパにはかつての戦いにはなかった『新たな機能』が備わっている。

 グロンギたちの道具や装飾を作る技巧担当のあるグロンギによって調整が施された、この新たなグゼパをもって――グロンギたちは、聖なる儀式を再開しようとしていた。

 

 楽勝だ

「サブショグザ」

 

 バヅーは余裕そうに鼻で笑い、それだけ言うと、人間態の身のままでもなお行使できるバッタの如き跳躍力で灰色のオーロラへ飛び込む。メビオもまた無愛想な無表情で左手首のグゼパを鳴らし、同じく背後に生じたオーロラの向こうへと消えていった。

 

 その様子を見送ったドルドは手にしたバグンダダを黒いコートの懐へとしまう。異形の算盤はグゼパと同様にゲゲルで殺したリントの数をカウントするためのものだが、今の段階のゲゲルで用いられるものではない。

 バルバの冷たい視線に怯んだゴオマは今度はドルドに歩み寄った。メビオやバヅーと同じように出現させたオーロラへと歩を進めるドルドに(すが)るように、ゴオマは手を差し出す。

 

 俺にも グゼパを……!

「ゴセビ ロゾ グゼパ……!」

 

 自分の知らないゲゲルが進行しようとしている。その状況に焦りを感じ、グゼパを求めてドルドに懇願するゴオマ。

 ドルドは背後のゴオマに対して振り向き、そのままゴオマへと伸ばされた手の平からコンドルの羽ばたきじみた衝撃波を解き放ってゴオマを吹き飛ばした。

 

 お前は 来たるべき 最後のゲゲル(・・・・・・)のために 例のもの(・・・・)を探せ

「ゴラゲパ ガガゲゾ セギンロボ ダレビ ビダスベビ ガギゴン ゲゲル」

 

 廃工場の壁に背を叩きつけられ、手放してしまったコウモリ傘を慌てて拾い上げるゴオマに対し、ドルドはただ重く厳かな声でそう言い放つ。

 この指示もまた、彼らにとっては『かつて』と同じもの。故に、ただそれだけの言葉でもゴオマにはドルドの意図が伝わってしまった。

 この身は確かにグロンギの、下級とはいえゲゲルの資格を有するズのはずなのに、またもこうしてゲゲルに参加することなく他のプレイヤー(ムセギジャジャ)の裏方に回ることしかできない。ゴオマはその悔しさに思わず唇を噛みしめ、再び背を向けてオーロラに消えゆくドルドを睨みつける。

 

 愚かな過ちを 繰り返そうとは 思わないことだ

「ゴソババ ガジャラ ヂゾ ブシバ ゲゴグ ドパ ゴロパバギ ボドザ」

 

 最後に顔だけゴオマに向け、ドルドはそれだけ呟いた。次の瞬間、人間態のままで広げられたコンドルの翼が羽ばたき、巻き起こされた風にゴオマは両腕で顔を覆わせられる。

 風が止み、ゴオマが顔を上げる頃には――ドルドの姿もオーロラもそこにはなかった。

 

 今に見ていろ……

「ギラビ リデギソ…… 俺は、今に……!」

 

 怒りに震えるゴオマは拳を握りしめ、怨嗟のように言葉を綴る。恨めしそうにバルバの目を睨みつけるが、返ってくるのは冷たい侮蔑(ぶべつ)の視線だけ。

 ゲゲルの管理者――ラ集団であるバルバの圧力に耐え切れなくなったのか、ゴオマは大人しくコウモリ傘を畳んで背後にオーロラを形成し、ドルドの言葉に従うため――彼の言う『例のもの』を手に入れるために境界を越える。

 ゴオマの姿を飲み込んだ光の膜壁はやがて消え去り、その場にはバルバだけが残されることとなった。

 

「…………」

 

 静寂に包まれた廃工場の中。バルバは右手の中指を彩る指輪、悪魔の如き意匠を持つ『ゲゲルリング』の爪をどこか慈悲深い面持ちで撫でる。

 再び顔を上げ、カツカツと靴を鳴らして外へ出ると、バルバは青空を見上げた。

 

「……異界のリントよ。お前たちの力、我々の儀式に使わせてもらうぞ」

 

 静かに微笑むバルバの声はどこへともなく。人の気配など感じられない青空の下――名もなき廃工場の敷地内で静寂に消えていく。

 その場に起きた風は自然のものか、あるいはグロンギの力が起こしたものか。一面に舞う薔薇の花びらと共に、バルバの姿は儚く消え去ってしまっていた。

 

 リントの戦士。人類の新たなる可能性。そして、鏡に映るもう一つの世界。

 

 ――それらは本来、決して結びつくことのない別々の物語であった。

 

 遥か古代にとある文明が魔石ゲブロンの力を手にした『法則』。その概念そのものを根幹として成立するこの時空、『クウガの世界』において――

 かつて滅ぼされたはずの未確認生命体、グロンギは確かに存在している。それも、古代リントの戦士であるクウガが九郎ヶ岳遺跡より蘇った彼らを撃破し、一度は平穏を取り戻したという事実と同時に。

 同様に、この世界とは違う法則を持ちながらも、この世界と隣接された並行世界として接続されている他の時空にも共通する変化があった。

 

 津上翔一を名乗る沢木哲也があかつき号事件に巻き込まれ、アギトの力を宿してしまった世界。それは、『アギト』という楔を根幹として成立している『アギトの世界』だ。

 アギトの世界にはグロンギは存在せず、代わりにアンノウンなる超越生命体の監視を受けてアギトに至る可能性のある超能力者たちが抹殺されている。

 こちらにおいても、それらアンノウンはアギトとなった津上翔一によって撃破され、その世界に平穏をもたらしたはずだった――にも関わらず。

 やはりクウガの世界と同様にアギトの世界にも倒されたはずの悪意は蘇っている。

 

 そしてもう一つ。こちらは前二者とは大きく異なり、そもそも城戸真司が『龍騎』となってミラーモンスターを撃破していたという法則さえも失われた――『龍騎の世界』。

 それはミラーワールドが開かれたという歴史ごと再編を受け、リセットされているため、本来ならばミラーモンスターも仮面ライダーも生まれるはずのない場所。されど、こちらもやはりミラーワールドの復活に伴い、ミラーモンスターまで蘇っていた。

 幻想郷に招かれた際になぜか手にしていたカードデッキに触れたことで、城戸真司は自身が仮面ライダーとして――龍騎としてミラーモンスターと戦っていたことを思い出した。

 ――否、正確には、『彼が戦っていた歴史』が龍騎の世界に蘇ったのだ。

 

 消えたはずの因果が蘇り、開かれなかったはずのミラーワールドは幻想郷の法則に現れた。そして、倒されたはずのグロンギやアンノウンと共に、ミラーモンスターたちは幻想郷の法則に接続する力を得て復活した。

 されど彼らの動きは幻想郷へ接続された際にのみ。すなわち、たとえ自分たちが存在していた元の世界であろうと、目立った動きをしていないようだった。

 グロンギはクウガの世界に生まれた法則。元よりこの世界で現代のリントを殺害し、自分たちのゲゲルを楽しんでいたはずだ。

 だが、今はこの世界の人間を殺すつもりはないらしい。同じくアギトの世界に生まれた法則であるアンノウンも、今は超能力者たちの抹殺を行っておらず――龍騎の世界に生まれた法則であるミラーモンスターもミラーワールドから人間を襲う動きを見せていない。

 

 グロンギ、アンノウン、ミラーモンスター。それぞれ接続された法則は交わる座標の境界、幻想郷の結界越しでのみその『目的』のために動いている。

 本来あるべき外なる世界において、彼らは一切の殺戮を犯してはいないのだ。

 

 一度はすでに倒された身であるがゆえか。あるいはその経験から自分たちへの対抗策となる法則の存在を恐れているのか。

 いずれにせよ、彼らにしか分からない理由があるのだろう。

 彼らの復活は元の世界には未だ悟られてはいない。復活した彼らが備えた新たな力――世界と世界の境界を渡り歩く灰色のオーロラもあり、彼らは自分たちの世界とは別の世界に渡って水面下で行動しているためだ。

 幻想郷への侵攻、あるいは別の世界への接続を可能とするこの力をもって、彼らは今もなおとある『目的』を成し遂げるために――『幻想』の一部となって静かに行動を続けていた。

 

◆     ◆     ◆

 

 灰色の境界を越え、オーロラから姿を現した黒衣の男。クウガの世界からアギトの世界へと足を踏み入れたグロンギの一人、人間態のズ・ゴオマ・グはドルドから通達された使命によって、己の世界を後にした。

 薄暗い廃工場から世界を越えて訪れたのはこれまた薄暗い山奥の森。されど彼にとって都合がよかったのは、異なる時空において時間帯さえ違っていたからだ。

 

 クウガの世界においては日中の廃工場で日陰に隠れていたゴオマ。彼は安心したように、アギトの世界が月夜であったことを心の中で小さく喜ぶ。

 手にしたコウモリ傘を畳んでコートの中に捻じ込むと、先ほどクウガの世界でバルバの茨に打たれた頬を、黒い手袋を着けた手で撫でた。

 

 おのれ……バルバめ……

「ゴボセレ……バルバ……」

 

 薔薇の棘が頬を打ち、肌が裂けた痛みを思い出す。魔石ゲブロンの力によってその傷はすでに癒えているが、打たれた心の痛みと屈辱は鈍く冷徹に燻っている。

 醜く顔を歪め、ゴオマはバルバへの怒りに沸々と湧き上がるものを覚えた。されど、雑兵に過ぎないベ集団を除いて最下級のズ集団である彼には、ゲゲルの進行を司る上位階級のラ集団たるバルバやドルドに抗う術はない。

 こうして命じられた役割をこなすために動くだけの自分にはもはや他のズには与えられたゲゲルの参加資格すらない――ゴオマはそれを激しく悔しがり、唇を噛みしめる。

 

 もう一度 ダグバ(・・・)の力を 手にすれば……!

「ログ パパンド デビグ セバゾ ヂバサン ダグバ……!」

 

 一度は手にした『あの力』を、もう一度。グロンギの族長――彼らの王である未確認生命体第0号、究極の力の片鱗を、もう一度(・・・・)この身に宿すことができれば。

 ゴオマは近くの大樹を殴りつけて怨嗟の声を吐き漏らす。あの力さえあれば、バルバなど――ひいては忌むべきクウガでさえも、あるいは――

 

 そう考えていたゴオマの思考の中に、超常的な『言葉』が突き刺さった。

 

「……グ……グゥ……ア……!!」

 

 頭の中に流れ込んでくる情報と法則に悶え苦しみ、その場に倒れてしまうゴオマ。頭を押さえて伏せ、目を見開いて『言葉』の意味を理解する。

 ゴオマは一度、確かにリントの言葉を覚えた。死を経験して復活した際に日本語の基礎をおおよそほとんど忘れてしまい、慣れ親しんだグロンギ語のみを用いていたが、ある程度なら日本語も理解はできる。

 だが、脳髄を鋭く刺し貫くこの言葉はグロンギの言葉でもリントの言葉でもない。知らないはずの言語なのに、ゴオマは不思議とその意味が感覚的に理解できた。

 

 ――人間(ヒト)はただ、人間(ヒト)のままでいればいい――

 

 超越的な光の意思がゴオマの脳を眩く染める。頭蓋の奥に見えた青白い光球は、ゴオマの知るクウガの世界には存在しない歴史。されど、ゴオマの遺伝子は始祖の記憶を並行世界の因果の中に呼び覚まし、それが天上の知性であると直感させていた。

 リントの言葉を借りるのなら、それは『天使』と形容される。もっとも、リントの言葉の大部分を忘れている今のゴオマにとって、それを形容することは難しいだろう。

 

 なんだ……! これは……!?

「バンザ……! ゴセパァ……ッ……!?」

 

 脳から全身の神経へ伝う光。ゴオマの脳には原初の大洪水、その海原を泳ぐクジラめいたイメージが想起される。

 ゴオマの遺伝子がそれを記憶しているのではない。有史以前に人類に可能性の光が与えられていたアギトの世界に踏み入り、『天使』の介入を受けたゴオマが、その力の持つ『法則』を記憶のイメージという形で垣間見てしまっているのだ。

 

 月夜の森にぼんやりと輝く青白い光。球状に舞い降りたその光はやがてゴオマの目の前で実体化し、一体の怪物の姿を象ってこの物質世界に降臨する。

 

 クジラに似た姿を持つ超越生命体。怪物は人類からアンノウンと呼ばれる使徒の中でも特に神に近いとされる最上級天使――エルロードのうちの一体であった。

 儀式的な装いを持つ神秘的な衣装はさながら水の如く。背中の翼は他のアンノウンよりも大型化しており、それが高位の力であると示唆している。流麗な曲線美と水晶の如く透き通った複眼もあり、どこか女性的な印象を受けさせた。

 神に仕える天使(マラーク)たちの神官、エルロードの一体である『水のエル』はアギトの世界に連なる位相から人間たちの住む物質界に具現し、別の世界から訪れたゴオマの前に現れた。

 

 お前の力か……!

「ゴラゲン ヂバサバ……!」

 

 ゴオマは思考を貫く意思を振り払い、魔石ゲブロンの力で怪人態、ズ・ゴオマ・グの姿に変身して大地を蹴った。正面に佇む水のエルに向かってコウモリの如きスピードで翔け、掲げた拳をもって渾身の一撃を叩き込もうとする。

 されど、水のエルは軽く右手を上げたかと思うと、ゴオマの拳を触れずして受け止めた。神の加護を持つアンノウンの波動は、神秘の力場によって空間さえも歪めさせる。

 

 本来なら水のエルも一度は天使としての肉体を破壊され、進化したアギトによって倒されているはずである。水と散った肉体と共に、魂さえも消滅したはずだが――この世界の法則の一部として、水のエルはここに存在しているのだ。

 アンノウンである彼もまた、クウガの世界に蘇ったグロンギや龍騎の世界に蘇ったミラーモンスターと同じように不自然な復活を遂げ――幻想郷へのアクセスを可能としていた。

 

()の光に頼らず、人類が別の進化を辿りし法則とは……忌まわしい」

 

 クジラの如き頭部に備えた人の唇は動かず。水のエルは思念だけで独りごちた言葉をテレパシーのようにゴオマへと放った。

 水のエルは頭上に生じさせた青白い光の円盤――天使の光輪めいたものへと左手を伸ばし、異次元から取り出した大型の二叉槍、『怨嗟のドゥ・サンガ』を振るってゴオマを切り払い、衝撃波をもって吹き飛ばす。

 何もない空間から散った水飛沫を生じさせながら、水のエルは役目を終えた天使の武器を再び時空の狭間へと消し去り、大木に背を打ちつけたゴオマの姿を見た。

 

「本来ならばお前たちグロンギもアギトと同様、滅ぶべき存在。だが、今は……」

 

 何か思うように自身の拳を見つめ、目の前で自身を睨むゴオマに語りかける水のエル。

 ゴオマはすでに水のエルとの力量の差を理解したのか、戦意を喪失して怪人態を解き、再び黒いコートに黒い帽子を纏った人間態へと戻っていた。

 

 そこへ再び風が吹く。ゴオマも水のエルも知覚した、世界そのものの空気が確かに変わる気配と共に――月夜の森に現れたのはやはり灰色のオーロラだった。

 

 オーロラから現れた一体の怪物は鳳凰の如く赤く鮮烈な人型の身体。どこか神秘的な意匠を思わせる翼めいた金色の頭部や、全身を熱く包む真紅の羽根。

 鳳凰型ミラーモンスター『ガルドストーム』は今でこそ消滅してしまった神崎士郎の使いとして、龍騎の世界より訪れたミラーワールドの使者だ。オーロラの力はミラーモンスターにも与えられており、それを使いこなすだけの知性がこのモンスターには備わっている。

 

「…………」

 

 ミラーモンスターは例外なく言葉を持たない。命ですらない彼らの意思を理解できるのは彼らを生み出した神崎兄妹を除いては、人智を超えた天使の意思だけである。

 低く唸るガルドストームの意思は水のエルにのみ伝わり、貪欲なまでの生命への執着を滲み湧かせるミラーモンスターに慄くゴオマにはガルドストームの意思は伝わっていない。

 

「この世界も間もなく消える。やがては、彼らの世界も、お前たちの世界も」

 

 山奥の森から木々の果てを見通し、水のエルは微かに変化する街並みを見渡してゴオマに向けて呟いた。

 魔石ゲブロンは生身のままでもある程度ならグロンギに力を貸してくれる。怪人態に変貌せずとも、視力や身体能力といった基本的な力は発揮できる。ゴオマはその強化された視力をもって、水のエルと同じようにこの世界――アギトの世界の街並みを見渡した。

 

 グロンギが人間(リント)と同じ感性を持っていたら、美しいと思えただろう夜景。立ち並ぶビルや建物は明かりを灯し、月夜においても輝いているのが分かる。

 しかし、ゴオマが目を見開いたのはそこにあった異常性に対してだった。

 

 ビルが、建物が、街が。上空のオーロラと共にモザイク状に歪み、次の瞬間には霧のように消え失せる。ちかちかと明滅を繰り返すものもあれば、さらさらと蒸発するように消えていく建物の姿もいくつか見て取れる。

 現代の常識にはあまり詳しくないゴオマでも、かつての戦いでは他のグロンギと共にその時代を見ているにも関わらず。こんな異常な事態は見たことがなかった。

 

 何が起こっている……!?

「バビグ ゴボ デデギス……!?」

 

 消えゆくアギトの世界の様子を目にしたゴオマは狼狽え、その光景を見ながら言う。オーロラを越えた別の世界、自分たちの故郷たるクウガの世界ではないとはいえ、よく似た世界の文明がこうして消えていく様はグロンギの彼にも不可解だった。

 正確には、消滅を始めているのはビルや建物などの文明だけではない。ゴオマは気づくのが遅れたが、今、彼が立っている地面さえも。木々や鳥、虫や森そのもの、山そのものに至るまで、こちらの世界のリント─―人間が住まう街と同様に消滅の兆候が確認できる。

 

 そこでゴオマは気づいた。消滅しているのは、この世界そのものであるのだと。空も海も山も街も、この世界の法則に依る何もかもが、存在を失っていくことに。

 

 ゴオマは水のエルが自身の思考へ直接伝えた言葉を思い出す。聞いたことのない言語であるはずなのに、グロンギ語しか理解できない自分にもなぜか理解できた超常的な言葉。意思そのものを直接的に伝達する天使のメッセージ。

 彼らの世界も、お前たちの世界も消える。彼らの世界というのは、オーロラから現れたガルドストームに対する三人称、すなわち龍騎の世界を意味している。そして、同様にお前たちの世界――ゴオマたちの法則を宿すクウガの世界までもが同様の現象に苛まれているというのだ。

 

「テオスの力はすでに移動させた。お前たちの長の棺も招かれているだろう」

 

 水のエルが放った思考にゴオマは微かに身を震わせる。彼らグロンギにとっての長とは、西暦2000年においてグロンギを蘇らせた本人にしてグロンギ族最強の男。リントからは未確認生命体第0号と呼ばれた――すべてのグロンギにとってのゲゲルの最終目標である。

 究極の闇をもたらす者と呼ばれたグロンギの族長、唯一無二の『ン』の階級を持つ存在に打ち勝ち、究極の力を手に入れる。それがゲゲルの最終段階となる。

 しかし、こうしてズやラといった階級のグロンギはクウガに倒されてなお再び現代に蘇っているというのに――肝心の『ン』が未だ蘇っておらず、棺の中に眠ったままだという。

 

 そしてその事情はアンノウンも同じらしい。彼らを統べる天使(マラーク)たちの盟主、(テオス)と呼ばれた万物の超越者『オーヴァーロード』もまた、アギトなる人類の進化種に肉体を破壊されてからは未だ現世に復活していない。

 ただ力のみがそこに存在し、意思の伝達も不可能な状態。その守護を司る神官、風のエルによって消えゆくアギトの世界から別の世界に移動されているものの、同じく別の世界に移動されたグロンギの族長と同様に、復活の兆候は未だ見られていない。

 

 ゴオマの脳髄に染み渡る闇色の声が伝える事実はグロンギの族長にして彼らが滅ぼすべき最大の宿敵。未確認生命体第0号、クワガタ種怪人『ン・ダグバ・ゼバ』が未だ復活していないということだった。

 究極の力を持つダグバがいなければゲゲルは最終段階に入らない。故に、此度のゲゲルが『聖なるゲゲル』としてその復活を目指すものであれば、説明がつくのではないか。

 

 ダグバの棺が……

「ジヅ ギング ダグバ……」

 

 最高位のアンノウン、エルロードによる思考の伝達を受けて自分の知らない聖なるゲゲルの目的を理解したゴオマが歪に口角を吊り上げる。

 未知の法則を持つ天使の意思に最初は戸惑ったが、ゲゲルの資格などなくとも自分にはまだゲブロンがあるのだ。かつてと同じく究極の力を――ダグバの力の一部を掠め取り、今度こそこの手でダグバを殺してやる(ボソギデジャス)――と。

 ゴオマは聖なるゲゲルの資格も、通常のゲゲルの参加権もないまま。再びゲブロンの力で肉体を再構築し、コウモリ種怪人――ズ・ゴオマ・グとしての怪人態へと変貌する。

 

 待っていろ ダグバ……! 必ずお前を殺してやる……!

「ラデデギソ ダグバ……! ババサズ ゴラゲゾ ボソギデジャス……!」

 

 月の光に赤銅色のゲドルードを輝かせ、ゴオマは闇夜に翼を広げながら仰ぎ笑った。等しく与えられたオーロラの力を行使し、頭上に灰色の帳を生み出すと、そのまま地面を蹴って並行世界の境界を越えていく。

 棺に眠っているままのダグバなら、その身からンのバックルを剥ぎ取れるかもしれない。自分が再び究極の力を手にすることもできるかもしれない――などと淡い期待を抱き、ゴオマは時空の風を切って次元の向こう、灰色のオーロラの彼方へと消えていった。

 

 かつてはその力を手にしてなお、ダグバによって殺されたということも忘れて――

 

「…………」

 

 ガルドストームは静かに灰色のオーロラが消えるのを見届ける。アギトの世界を去ったゴオマを追うこともなく、自身の身体を覆う赤い羽根の中から一枚、金色に輝く羽根を手に取って――その輝きに視線を落として何かを想うように息を零した。

 この羽根は確かにミラーモンスターのもの。しかし、ガルドストーム本人のものではない。彼らミラーモンスターの生みの親、神崎兄妹の存在を証明できる唯一の光だ。

 

 ン・ダグバ・ゼバも、オーヴァーロード テオスも。それぞれの世界から力を失った仮初めの器として別の世界に召集され、復活の時を待つ権利が与えられている。

 されど、ミラーモンスターたちを創造した鏡の世界の導き手はもういない。守護者として守るべき神崎優衣も、番人として仕えるべき神崎士郎もすでにこの因果から消滅している。目的を失った彼らミラーモンスターは、ただ本能のままに人間を捕食することしかできない。

 

「……矛盾する因果の傀儡(かいらい)たるは、お前たちも我々と同じというわけか」

 

 水のエルは嘲笑じみた思考をガルドストームにぶつける。テレパシーとして放たれた声はミラーモンスターとて理解できているのか、赤き鳳凰は(くちばし)を噛み合わせた。

 

 本来ならばアンノウン──すなわちテオスの使徒、マラークたちはテオスが創り、愛した人間たちの進化だけを阻み、アギトの力を根絶するのが目的のはず。人間を殺して遊ぶグロンギの所業や人間の生命を糧とするミラーモンスターの存在を、テオスが許すはずがない。

 されど、その範囲がテオスの創造に依らぬ別の可能性に切り開かれた時空──並行世界の法則に限定されているからだろうか。

 アンノウンたちはアギトの世界以外に住む人間をテオスの子だとは思っていない。テオス本人の意思は断絶されているため計り得ないが、少なくとも神代において、等しく愛されるべき使徒(マラーク)たちの子を虐げた人類に、彼らは元より愛情などないのだ。

 

 それはテオスの創造によって成されたアギトの世界においても例外なく。テオスの目があればこそ形式上は人類の盾となろう。アギトを迎えさえしなければ、人類はアギトではなくテオスの愛した人類のままと認め、主の御心のまま、仇為す害意を排除することと努めよう。

 

 ─―だが、それはテオスの意思でしかない。人類を憎むアンノウンたちが、テオスの命令なく人類を守ろうとすることは決してない。

 一度はテオスとて人類を見限り、その文明をリセットしようとしたこともあった。それでもテオスが再び人類の行く末を見守ると決めた以上、いかに最上位のエルロードといえど一介の天使である水のエルたちには人類の滅亡を強行する権限など与えられていない。

 

 その制約もこの(アギトの)世界だけの法則。この時空だけのルール。使徒たる彼らはグロンギのように人間を殺して楽しむ風習はない。ミラーモンスターのように人間の命を吸収しなければ滅びてしまうわけでもない。

 今でこそ肉体を失っているテオスもいずれはかつてのように蘇る。この時代に残された遺伝情報から現世における身体を再構築し、再びヒトの身の姿で人類の前に現れるだろう。

 

「すべては、来たるべき『破壊』のために……」

 

 モザイク状に破れゆく夜空を見上げ、水のエルは小さく独り言ちた。世界に流れ込む血生臭い蛮族の法則と、擦れ合う金属めいた耳鳴りを乱れる時空の狭間に聞いて――

 その身を水に変え、天使は青白い光の球となって歪む灰色のオーロラへ向かう。ガルドストームも神秘的な赤い翼を広げて崩れる空の境界へ消えていく。

 

 重なる時空の彼方は十年の時を迎えた未来。否、ある者はそれを『歴史』と呼び、またある者はそれを『冒涜』と呼んだだろう。

 消えゆく世界を後にする水のエルとガルドストーム。彼らが向かう場所はすべての法則が一つの座標で交わる境界。幻想としてではなく、真なる意味での物語として。九つの物語を結びつかせるために選ばれた──『十番目の世界』として。

 ─―物語を持たないが故に、その世界は物語の器として選ばれた。終わりなき旅を続ける『破壊者』の物語を、大いなる計画のための『大首領』として、再び玉座へ祀り上げるために。




3月18日は東方Projectの原作者、ZUNさんの誕生日です。
さらに五代雄介の誕生日でもあります。おめでとうございます!

次回、第21話『友のために、家族のために』


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第21話 友のために、家族のために

 それは幻想郷に起きた季節の異常、二度目の四季異変が起きる少し前。

 

 幻想郷、魔法の森。その入り口に建つ古道具屋──香霖堂の前に、世界を分け隔てる結界の波が広がっていた。

 灰色のオーロラとしてこの場に具現したそれは神の力を宿さぬ人間にも、妖怪にも、そのどちらでもある森近霖之助にも感じられる圧倒的なオーラを放っている。

 

 放たれる気配を警戒し、オーロラを見つめる津上翔一。その後ろで同じくオーロラを警戒する菫子。香霖堂で翔一から聞いた話によると、彼はこれまでもアギトなる超人としてアンノウンという怪物を相手にしてきたのだという。

 アンノウンの存在を知らぬ菫子にも理解できる強い気配がオーロラの中から放たれる。実物を見たことはないが、超能力者の命を狙うという目的のためだろうか。

 翔一のようなアギトの力こそ持たないとはいえ、紛れもない超能力者である菫子は言葉では説明のしようのない――どこかスピリチュアルでオカルティックな恐怖を感じていた。

 

「……来る!」

 

 香霖堂の中で眠っている二人の妖怪を心配していた菫子は、緊迫に満ちた翔一の声で再びオーロラの方へ視線を戻す。

 光の彼方に黒くうごめく異形の大群、そのうちの一つがオーロラを突き破った。続けて二体、三体と湧き上がる悪意が形を成し、さながら(アリ)の軍隊めいた怪物が姿を見せる。

 

 気配そのものは神に仕える天使の如き神秘性があるにも関わらず。その外見はどこか醜悪で──天使と呼ぶにはあまりにおぞましい。

 アリに似た超越生命体、『アントロード』の最下級兵士。黒い外殻に身を包んだ『フォルミカ・ペデス』たちは頭部の触角を揺らしながら、強靭な大顎を噛み鳴らして威嚇する。

 

「……アァア……」

 

 この場に現れたアントロード フォルミカ・ペデスの総数は六体に及ぶ。複数個体が出現する例も多いアンノウンにおいても、これだけの数で行動する使徒(マラーク)は地上におけるアリたちのモチーフとなった彼らだけだ。

 今は両手の指で数えられる程度で済んでいるが、もしこれが何千もの軍勢で一斉に現れたとしたら──周囲を焼き払うほどの大火力でもなければ完全な殲滅は難しいだろう。

 

「こ、これがアンノウン……? なんか思ってたよりキモーい……」

 

 黒い帽子を被り直し、戦闘用の白手袋を着けた菫子が不快そうな顔で思わず本音を吐く。怪物とは聞いていたが、一般的な天使のイメージからは程遠い姿だ。

 それでも小さいとはいえアリのものではない羽、天使の翼に似た意匠がある。根拠はないものの、菫子はなぜかそれが翔一の世界に宿る『神』の加護を帯びていると確信できた。

 

「……気をつけたほうがいい。見た目はアリのようでも、気配は神に近い」

 

 オーロラを背にして黒い軍隊となるフォルミカ・ペデスたち。その様子を見た霖之助は、放たれる神秘性に戦慄を覚えながら身体が強張るのを感じた。

 妖怪の山には本物の神が住まうというが――幻想郷の神々とは違う明確な殺意、神道におわす八百万の神々と十字架の唯一神とでは幻想としてのランクが桁違いなのだろう。それに仕える末端の天使は神にこそ及ぶまいが、現世の法則を超越しているのは間違いない。

 普段なら異教の信仰対象とあらば興味を示す霖之助でも、今の状況においてはそんなことは言っていられなかった。

 

 うごめくフォルミカ・ペデスの群れを前にして、翔一が静かに息を吐き、アギトとしての構えを取る。

 その腰を一周する光が渦巻き、オルタリングを形成したかと思うと、場に満ちるオルタフォースの波動をもってその存在を『狩るべき存在』と断定したのか、先ほどまでは緩慢な動きでうごめいていたフォルミカ・ペデスが瞬く間に機敏な動きで襲いかかった。

 

 生身の翔一はその拳を両腕で防ぎつつ、振り上げた右脚でフォルミカ・ペデスを蹴り飛ばす。肉体に宿すアギトの力をベルトとして表出させているため、その力は生身の状態でも多少はアギトの能力に近づいているのだ。

 されど、フォルミカ・ペデスは一体ではない。翔一のもとへ向かった三体のほか、残る三体の怪物は菫子と霖之助のもとへ向かっていった。

 咄嗟に超能力を行使し、サイコキネシスの波動をもって三体のフォルミカ・ペデスを止める菫子。超能力といえど決して万能の能力ではない。その負担は能力者本人へフィードバックされ、行使する力が強いほど菫子自身への負荷も大きくなってしまうという欠点がある。

 

「霖之助さん! こっちは任せて、香霖堂(なか)の二人をお願い!」

 

「ああ、すまないが、そうさせてもらう。君も無理はしないでくれ!」

 

 背にする香霖堂に振り返り、菫子は霖之助に告げる。さすがに三体もの怪物を念力で押さえ続けることは難しい。数秒ほどは持ったが、フォルミカ・ペデスたちはすぐに菫子の超能力から逃れてしまった。

 霖之助も未知の怪物を相手に外の世界の女子高生を戦わせたくはない。だが、超能力という攻撃手段がある菫子とは違い、半妖の身といえど弾幕勝負さえ滅多に行わない霖之助は彼らアンノウンに対して精々自衛の手段しか持ち合わせていない。

 身を守ることしかできない自分が悪戯に足を引っ張るよりは──まだ香霖堂の中にいるであろう二人の妖怪を気にかけるべきだと判断した。

 

 解放されたフォルミカ・ペデスたちに対して、菫子は今度は波動ではなく霊力のエネルギーを圧縮した光弾で攻撃する。

 外の世界の人間である菫子は弾幕ごっこの経験などほとんどない。されど身体に巡る気の流れを束ねて弾幕と成し、形をもって放つ。その動作が当たり前のようにできるのは、彼女もまた紛れもない『幻想』の力を宿す――深秘の少女であるからだった。

 

 香霖堂に向かった霖之助はフォルミカ・ペデスの外殻に菫子の弾幕が炸裂する音を聞く。耳障りな鳴き声を発して呻く怪物の声に背を向け、地底世界――旧地獄から来た二人の妖怪、霊烏路空と火焔猫燐の様子を確認しに行った。

 アギトとして覚醒した津上翔一の存在に加え、いま香霖堂にいるお空とお燐にもアギトの力が宿っていると聞いている。あるいは菫子の超能力も対象となるのだろうか。

 それだけの幻想、人の身を超えた力。進化の可能性と定義し得るものが集まれば――その芽を刈り取るアンノウンがここに現れたことは何らおかしくないのだろう。

 

 アンノウンたちの目的はアギトの根絶、とされているらしい。となれば、アギトの力を宿してしまったお空とお燐も、その命を狙われる可能性が限りなく高いということになる。本来ならばそう考えるのが自然であるはずだが――

 霖之助はどこか違和感が拭えなかった。翔一の話が事実ならアンノウンは『人間がアギトになる』ことを恐れているはず。妖怪がアギトの力を宿したところで、彼らにとっては関係のない話なのではないか──と思いたいが、地底にアンノウンが現れた際もアギトである翔一より先に、お空の方がアンノウンの襲撃を受けていたと聞いている。

 彼らにとって、ただ盲目にアギトの力を根絶することだけが目的ではないのかもしれない。その可能性を考え、霖之助は何か嫌な予感が拭えぬまま、二人が眠る部屋の扉を開けた。

 

◆     ◆     ◆

 

 オルタリングを輝かせ、強化された生身のままでフォルミカ・ペデスと戦う翔一。さすがに生身のままでは最下級の使徒といえど倒すことはできないが、愚直な攻撃はアギトの姿に至らずとも簡単に避けることができた。

 自身が相手する三体のほかに、残る三体が菫子の方へ向かっている。そちらに対処するべく、翔一はフォルミカ・ペデスを蹴り飛ばし、なんとか一瞬の隙を作ることに成功する。

 

「――変身っ!」

 

 構えのままに両手を振るい、腰に装うオルタリングのサイドバックルを叩く。瞬間、眩い光に包まれた翔一はその肉体に宿すアギトの力を活性化させ、進化を促す可能性の光――オルタフォースの波動と共にその身を金色の戦士へと変えた。

 アギト グランドフォームとなった翔一は真紅の複眼で三体のフォルミカ・ペデスを睨みつけつつ、右手の手刀に宿したオルタフォースを光の刃と束ねて振るう。

 

「はぁっ!!」

 

 金色の手刀【 ライダーチョップ 】に切り裂かれたフォルミカ・ペデスは爆散し、陽炎の中に浮かぶもう二体のフォルミカ・ペデスもまた、その一撃をもって撃破する。

 単体ではさほど大した戦闘力がないのがアリに似た超越生命体、アントロード フォルミカ・ペデスというアンノウンの特徴だ。されど兵隊アリの名の通り、彼らは必ず複数体での行動を基本としている。

 

 たったいま三体の個体を倒したばかり。それもかなりの力を込めたオルタフォースの波動と、翔一の戦闘経験をもって初めて一撃で倒せる相手だ。

 そんな相手が──菫子が相手する三体のフォルミカ・ペデスに加えて、さらに灰色のオーロラはまたしても怪物を追加投入してきた。再び現れたフォルミカ・ペデスの増援はもはや数え切れない。うじゃうじゃと湧き上がる悪意の群れに、翔一も思わず血の気が引くのを感じた。

 

「……くっ……!」

 

 アギトとしての基本形態は耐久に特化した超越肉体の金(グランドフォーム)。そして変化形態としてスピードに特化した超越精神の青(ストームフォーム)と、パワーに特化した超越感覚の赤(フレイムフォーム)が存在する。

 翔一は、それらに加えて『新たなる変身』の可能性を身に着けていた。燃え盛る業火の如く、あらゆる闇を照らし灼き払う太陽の如き輝きへ至る炎。あるいは滾り迸る火山の如く、神が与えし原初の火をも思わせる灼熱の光。

 

 されど翔一には分かる。旧地獄でヒョウに似た姿を持つアンノウンに力を抜き取られ、その光がお空とお燐に宿ってしまったからだろうか。

 欠けたアギトの力は翔一の進化の証を完全な形で保持していない。三つの形態になることはできても、今の翔一の力は『燃え盛る業炎』にも『光輝への目覚め』にも届かない。

 それならばと試してみたもう一つの可能性、大地と風と火を一つに束ねた『三位一体の戦士』への変身さえも、両腰のサイドバックルを叩けど成し得ない。

 やはり力の欠けた今の状態では安定していないのか――今の翔一が変身できるアギトの姿は基本形態のグランドフォーム、変化形態のストームフォームとフレイムフォームだけだ。

 

「うげ、また増えてる……! こっちに来ないでってばー!」

 

 無数に増えた怪物たち。その内の三体、元より菫子に狙いを定めていたフォルミカ・ペデスたちと向き合いながら、オーロラから次々と現れるアリの軍隊に怯える菫子。

 サイコキネシスのエネルギーをアンノウンに直接ぶつけるのは非合理的かもしれない。そう判断した菫子は店主である霖之助に心の中で謝罪しつつ、香霖堂の前に置いてあった外の世界からの漂流物らしき粗大ゴミ──否、彼にとっては大切な商品であろう古臭いテレビや冷蔵庫などのガラクタを超能力で浮かび上がらせた。

 それらを念力でまとめて投げ飛ばし、質量をもって怪物にぶつける。サイコキネシスで削った分のダメージもあってか、菫子の【 アーバンサイコキネシス 】によるガラクタの投擲(とうてき)攻撃は予想以上の効果を見せ、いとも容易く三体の怪物を撃破した。

 

 翔一と菫子によって数体のフォルミカ・ペデスは倒されたが、周囲を見渡してみても一向に数が減っていない。やはり目下において彼らの目的は翔一の身体に宿るアギトの力であるのか、菫子よりも翔一の方を優先して攻撃しているようだ。

 単体であれば翔一とて苦戦しない相手。されど、菫子を守りながら彼女と二人だけでこの数を相手にするのは厳しいものがある。

 それに加えて、アギトの力を宿すのは翔一だけではない。この怪物がいつ、偶発的にアギトの力を宿してしまったお空とお燐を襲いに向かうのか、その警戒も怠ることはできない。

 

「…………!」

 

 不意に、アギトとして覚醒した翔一の知覚が凄まじい波動を感知した。自身に宿るアギトの力、オルタフォースの波動。大気を焼き払わんばかりの高熱が、すぐ後ろから迫り来る感覚──

 

「――うりゃぁあああああっ!!!」

 

 咄嗟に転がり、波動を避ける。直後、さっきまで翔一がいた場所に膨大な熱が走った。香霖堂の方から放たれた核熱の波動は鋭く一直線に空を裂き、翔一のもとへ迫っていたフォルミカ・ペデスの黒い外殻を一瞬のうちに焼き溶かしてしまう。

 呆気なく爆散した怪物を背にし、翔一はそれを放った者を見る。右腕の制御棒から白煙を立ち昇らせ、黒い翼を広げたお空は──苦しそうに目を血走らせて息を切らしていた。

 

「お空ちゃん……!?」

 

「目を覚ましたんだ……って、喜べる状況じゃないよね……!?」

 

 翔一と菫子はその場に現れたお空に驚くが、おそらくは再び暴走してしまっているであろうお空のことも、まだ残る怪物と同様に警戒しなくてはならない。

 さらに暴走する彼女を怪物の攻撃から守り切るのは困難を極めるだろう。霖之助は彼女を止めようとしたが、強引に振り払われてしまい、香霖堂の外壁に背中を打ちつけられた衝撃のせいで動くことすらままならないようだ。

 親友を心配したお燐もまだ本調子ではないらしい。ガラクタに手をつきながら息を切らし、身体の中に渦巻く未知のエネルギーに胸を押さえながらお空を見つめている。

 

「お空……! また暴走して……っ!」

 

 ゆらゆらと昇り始める陽炎。最初にお空が現れたときと同様、周囲の気温が上がっていく。瞳を白く光らせたお空は先ほど放った【 地獄波動砲 】の負荷も癒えぬまま、全身に満ちる光輝の波動、オルタフォースを本能に従って解放した。

 お空の腰に現れる、金色の輝きを放つオルタリング。翔一の腰にあるものと同じ光が、お空の身体に渦巻いてはその力を証明する。

 眩く放たれる閃光と共に、お空の身体は瞬く間に姿を変えていく。煮立つ溶岩の如く熾烈に、輝き照らす太陽の如く強く雄々しき光の化身、金色の戦士──

 

 超常の装甲を身に纏うアギト グランドフォーム。だが、翔一の姿とは異なる点も多い。

 

 女性的で華奢な体型は言わずもがな、その背にはお空の象徴である地獄鴉の翼を無理やり器に押し込んだような歪な意匠。さらに赤い複眼は亀裂が走ったように血走り、何より目立つのは本来ワイズマン・モノリスがあるべき胸の中心に輝く八咫烏の眼だ。

 それに加えて、翔一の変身するアギトの場合はその力を最大限に発揮するときのみ開かれるべき頭部のクロスホーンが、彼女の場合は変身直後の時点から全開したままとなっている。力の流れを司る神経の暴走は、お空の身体にさらなる負担を与えてしまっているだろう。

 

「お空ちゃん……その姿は……!」

 

 翔一は自身と同じ──微かに異なる姿に至ったお空を見て、声を零す。自分ではない誰かがその姿に、アギトとしての姿に至ってしまう光景は、彼にとってはひどく悲しく、辛く悔しい過去を否が応にも思い出させる。

 お空は苦しそうに手を差し出したかもしれない。翔一はそれを掴もうとしたかもしれない。しかし、人と妖怪とでは違う。翔一とお空では、住む世界が違う。

 

 決して離すな──と。ある男は言った。翔一はある女性の手を掴み、自らの命を断とうとしていた一人のアギトの、一人の人間の未来を変えた。

 霊烏路空は人間ではないのだ。たとえアギトに至っても、それは翔一と共に歩むことのできない時空、決して結びつかぬ別世界の法則。

 お空の身に宿った八咫烏の力はお空の意思によって出現と消失を自由に行える。普段であれば右腕の制御棒はおろか、両足の分解と融合の象徴も胸に輝く八咫烏の眼も己の魂にしまっておくことができる。が、今はアギトの力に阻まれ、それすら満足に行えないようだ。

 

 翔一はアギトに覚醒してしまった姉を救うことはできなかった。お空の右腕は、アギトと歪んだ妖怪としての生身においては制御棒でしかない。手として成り立たぬ形がゆえに翔一がその手を掴むことは決してできないと。彼女の中の八咫烏が──アギトが。そう告げているようだった。

 

「はぁぁぁあっ!!」

 

 お空は大地を蹴ってフォルミカ・ペデスの群れの中へ突っ込んでいく。生身のままでは制御棒だった右腕も、アギトの姿であれば五本の指を持つ『手』として定義されている。それはさながらアギトの力をもってのみ、繋がりを許された証であるかのように。

 

 左腕にオルタフォースの光を宿す。彼女にとってそれは八咫烏の妖力であったのかもしれない。もはや、そこに差異などないと、交わった光が刃を成す。

 光刃と化した左手の手刀をもってフォルミカ・ペデスの群れを裂く。輝きを放つ【 レイディアントブレード 】は輻射的に放つ核熱の波動をもってさらにエネルギーを加速させ、斬られた者の周囲にまで爆発の被害をもたらし撃破する。

 続いて接近してきた怪物に対しては自身の妖力を練り上げ、自身の周囲から湧き上がる核熱の波動を地中から突き上げる【 フレアアップ 】の爆発エネルギーをもって迎撃する。

 

「……はぁっ……はぁっ……っああああああッ!!」

 

 制御棒だった右腕を五指と共に振り上げ、手の平の先に光を形成するお空。自身が宿す八咫烏の力に加え、流し込まれた妖力とオルタフォースのエネルギーは、核熱の光球を普段の何倍もの大きさに膨れ上がらせた。

 お空本人は意識していないだろう。普段ならスペルカードとして用いられる彼女の弾幕。今はその範疇を大幅に超えた太陽の如き一撃が、歪なアギトの姿で放たれる。

 

 頭上に掲げた太陽を圧縮し、小さな点として中心を成す。内部で融合した原子核が凄まじいエネルギーを生み出すと同時、撒き散らされた核熱の光弾が辺り一面にひしめいていたフォルミカ・ペデスの外殻を瞬く間に焼き貫いていった。

 お空の本領、核融合反応を操る能力による弾幕の行使──そのほんの一部分。さらに太陽は分裂した小さな太陽とも言うべき恒星の弾幕をいくつも撃ち放ち、着弾しては炸裂して一撃のもと並み居るフォルミカ・ペデスの群れをその高熱によって灰も残さず焼却していく。

 

「……ギッ……アアア……!!」

 

 お空の放ったスペルカード【 核熱「ニュークリアフュージョン」 】によってあれだけひしめいていたアントロード フォルミカ・ペデスは大半が駆逐され、大幅にその数を減らしているのが見て取れた。

 ぐらりと肩を落とすアギト──お空。力を解放したというのに、クロスホーンは閉じることなく強い輝きを保ったままお空の力を全開し続けている。

 もはや彼女自身の意思ではクロスホーンを閉ざすことはできないのだろう。このまま力を解放し続ければ、やがてはお空の命までもが尽き果ててしまうかもしれない。

 

「っ……お空……!」

 

 親友を心配するお燐の身体にも、オルタフォースは渦巻いている。暴走するお空の力に感応しているのか、まだフォルミカ・ペデスは残っているにも関わらず、ふらつき苦しむお空を助けようとお燐が動いた。

 霖之助の静止も振り切り、フォルミカ・ペデスの群れに狙われるお空を助けようとするお燐にも怪物の視線が向く。妖力に紛れているものの、アギトの力は確かにそこに宿っている。

 

「危険だ……! すぐに戻れ……!」

 

「出てきちゃダメだって! さすがに守り切れないよ!?」

 

 アギトの力を狙うアンノウン──アントロード フォルミカ・ペデスに対してもだが、暴走状態にあるお空がお燐を狙うかもしれない。

 さらに怪物から守る対象がこれ以上増えれば、翔一も菫子も行動が制限される。半数以上が減ったとはいえ、アンノウンの集団を前にしてそれは致命的な不覚となるだろう。

 

 もはやお空の面影などない異形のアギト。されどそれがお空であることは、目の前で変身した姿を見たため分かる。

 否、それ以上に──紅く主張する八咫烏の眼と、そこから放たれるお空の暖かさが、まだ完全に獣に墜ちたわけではないと如実に証明してくれているではないか──

 

「お、燐……」

 

「お空っ……!? 大丈夫……? あたいのこと分かる……!?」

 

 お燐の耳に、その名を呼ぶお空の声が届いた。アギトと化してしまったお空にもまだ理性が残っている。ただその小さな事実が、お燐の心に希望の光を差してくれた。

 お燐とて内なるアギトの力に苦しみを覚えているが、このまま呼び掛け続ければ──

 

 そう思った瞬間、フォルミカ・ペデスたちが一斉に──視線を()に向けた。

 

 ――――

 

「――驚いたね。暴走状態とはいえ、ここまで力を定着させるとは」

 

 天の顕現(けんげん)。雲上より舞い降りた風雨の軍神。フォルミカ・ペデスたちの警戒と敵意を一身に受けたのは、妖怪の山に祀られる神霊──八坂神奈子だった。

 

 ゆっくりとその場に足を着き、好奇に満ちた視線でもってお空の姿を見る。湛える神のオーラで向き合う神奈子の瞳には、規格外のオルタフォースを秘めた八咫烏。地獄鴉としての限界を超え、神の領域にまで踏み込んだ妖怪の姿。

 ヒトならざる身にて『アギト』と化したお空。金色のオルタフォースに身を包んだ地底の太陽を見て、どこか嬉しそうに──天空の化身は口元に笑みを浮かべて呟いた。

 

 フォルミカ・ペデスは標的をお空とお燐から神奈子に変え、一斉に群がっていく。いくら神の肉体を有していようと、異教の天使が持つ超常の大顎による攻撃は神秘と幻想を等しく喰い破ってしまうだろう。

 しかし神奈子はそんな雑兵の敵意など意にも介さず、跳び勇んできたフォルミカ・ペデスの方へ視線を向けることもなく。天より生じた弾幕の雨をもって数体の怪物を撃破する。

 

「……今、大事な話をしてるんだ。邪魔をしないでくれるかい?」

 

 並み居るフォルミカ・ペデスの数体を、一瞬で蹴散らした神霊の女性。微かに残った天使たちはその神威と権能に畏れ慄き、怯み脅えて後退する。

 圧倒的な力を誇る神奈子を前に、敵意の牙を剥き出したのは異教の天使だけではなかった。アギトとして暴走してしまったお空もまた──グランドフォームの肉体をもって神奈子に襲いかかろうと大地を翔ける。

 

「――うらぁああっ!!」

 

 オルタフォースの光を湛えた天使の手刀。ライダーチョップの一撃にさらに加えた八咫烏の力によるレイディアントブレードの光熱。

 お空は二つの力が重なった神と神の光刃を全力で振り下ろしたが──

 

 神奈子は、その一撃を片手で受け止め、涼しげな顔で砕けた大地の上に立っていた。

 

「…………!!」

 

「さすがは私たちの与えた八咫烏の力。いや……これは(こいつ)のポテンシャルかな?」

 

 アギトは──お空は、理性を神の火で蒸発させているにも関わらず。ニヤリと口元に笑みを浮かべた神奈子に戦慄を覚えてしまい、一瞬だけ力を緩めた。それを隙と見てか、あるいは最初から隙だらけだったのか。

 神奈子はお空の手刀を受け止めたまま、空いた左腕を静かに持ち上げながら呟く。次の瞬間、神奈子の左手がおもむろに大きく開かれたかと思うと──

 開かれた手の平をお空の──アギトの胸に輝く八咫烏の眼に叩きつけた。

 

「……ぁ……がぁッ……ッぅぐ……ッ……!!」

 

 真紅の瞳は輝きを増し、アギトは神の光に包まれる。神奈子の手から流し込まれる力によってお空は苦しみ、苦痛に歪む顔こそアギトとしての顔に覆われて見えないものの、震える手足と零れる苦悶の声が彼女の痛みを物語っていた。

 

「――お空っ!!」

 

 苦痛に悶える親友の姿を見て、心配そうな声を張り上げるお燐。同じくそれを見ていた翔一と菫子、霖之助もまた、突如として現れた神の姿とその権能に目を奪われている。

 

 八坂神奈子がお空に供給したのは、彼女が有する『神の力』だった。八咫烏の存在とアギトの力そのものを安定させ、二つの力を同時に容認させるための中和剤と呼べるもの。

 渦巻くオルタフォースがお空の(なか)で整っていく。神奈子がその変異を見届けると、アギトと化したお空の姿にも変化が生じ始めた。

 

 異形と歪んだアギトの姿。そう形容されるべきお空の肉体。その身は神奈子の干渉によって安定を見せ、背中に押し込まれたような歪んだ翼の意匠は背に溶け込んでいく。亀裂の如く血走っていた赤い複眼もまた、翔一のものと同じ優しい赤に変わっていった。

 力の全開を示すクロスホーンが静かに閉じると、お空(アギト)の胸に紅く輝いていた八咫烏の眼も徐々に縮んでいき、お空の体内へと取り込まれる。

 八咫烏の眼は消えたわけではない。アギトとしての強化皮膚(アーマードスキン)の内側に吸収されただけだ。そして空白の領域となったお空の胸に、八咫烏の眼の代わりとなる制御器官が形成される。

 

「う……あ……あ……」

 

 八咫烏の熱気とオルタフォースの波動は、お空(アギト)の胸に形成された黒い石版──ワイズマン・モノリスの中枢制御によって静かに消え、お空の身を安定させた。彼女の中で暴走していたアギトの力も、すでに八咫烏の持つ神性と習合されているだろう。

 アギトと八咫烏。二つの力が神奈子の手解きによって『核融合を操る程度の能力』に引き寄せられ、広義の『原子核』と定義されたそれらが『融合』を果たしたのだ。

 

 力を安定させたお空はエネルギーを使い果たし、命を落とす前にアギトの身を解く。

 お空が意識して変身を解いたわけではない。すでに体力が限界を迎え、半ば力尽きるような形で眠りに落ちたために、気を失ったお空本体へのオルタフォースの供給が止まっただけだ。

 

「収まった……のか……?」

 

 そのまま意識を失い、神奈子の前で力なく倒れ伏すお空。満ち溢れていた熱気も神秘のエネルギーも、それ見ていた霖之助たちには感じられない。

 アギトとしてフォルミカ・ペデスと戦っていた翔一も菫子や霖之助と同様、その場に現れた神と呼ぶべき存在とたったいま起こった変化に気を取られてしまっている。再び意識を失ったお空についても心配だが、まだ怪物は全滅していないのだ。

 

「あの人は……いったい……」

 

 お空と神奈子が殲滅したフォルミカ・ペデスの他に、残った数体がアギトに迫る。それを菫子の超能力と共にライダーチョップで切り伏せる。

 翔一の目に映った神奈子の存在は、それを只者ではないと一瞬で判断させる極めて荘厳なオーラを放っていた。かつて一度遭遇し、自らの手で退けた『神』――『闇の力』と称されるオーヴァーロード テオスに勝るとも劣らないほどの神秘的な波動を備えている。

 

 少なくとも翔一にはそう感じられた。しかし、厳密に言えば違う。テオスはアギトの世界における創造神であり、聖書に名を連ねるべき天使たちの主。そして対する神奈子は八百万の神々に祀り上げられた神霊――神道の神である。

 異なる宗教、異なる神話体系といえど──その権能は語られるままに揺るぎない。翔一が本能的に感じ取った『神』の気配は、異教の光として進化したアギトにも伝わっていた。

 

「あんた……お空に何をっ……!」

 

 オルタフォースの渦に苦しむお燐が立ち上がる。

 目の前で倒れたお空と、今まさにそのお空の身に手を加えた山の神、八坂神奈子の姿。

 アギトの光に思考を苛まれているせいか、お燐は親友の中で暴走していたオルタフォースが収まったことに気づいていない。

 それどころか、お燐の本能は──お燐の中に宿るアギトの力は、親友に手を加え、気絶させた神奈子に対して明確な敵意の牙を剥けていた。

 お空を心配するお燐の意思と彼女の魂に宿った光が。ヒトにあるべき『アギトの力』が。『妖怪』という幻想の肉体において、一つに交わり異形の力と歪んでいく──

 

「……うぁ……あ……ッ……ァ……ア……!!」

 

 不安定な精神と不安定な肉体。歪みゆくアギトの力に、お空を傷つける者への悪意。それらすべてが歪に交わり、お燐の思考は混沌の光に染められる。

 お燐はお空とは違い、アギトの力と融合し得る神の力──八咫烏の力となるものは持っていない。偶発的に宿ってしまった力を制御するための肉体なども持ち合わせておらず、ただ暴走する力のまま、お燐はそれを溢れさせた。

 

 黄色の閃光が走る。オルタフォースを表出させたお燐の身に、苦痛に歪む顔に。そして額に浮かび上がった第三の眼──黄色く輝く『ワイズマン・オーヴ』の形成と共に。

 

「――ウォォァァァアアアーーーッ!!!」

 

 火車の妖怪、火焔猫燐は──アギトであって(・・・・・・・)アギトならざる存在(・・・・・・・・・)へと変貌した。

 

「あの姿は……!?」

 

「嘘っ!? あの子も変身すんの!?」

 

 神奈子とお空の方にばかり意識を向けていた翔一と菫子が怯む。突如聞こえてきた咆哮と膨大なオルタフォースの波に慄き、思わずお燐の方を向いた。

 

 その姿は、やはり異形と呼ぶ他にない。アギトともアンノウンとも似つかぬ身、黒く染まった強化皮膚に纏うのは、どこか生物的な印象を受ける緑色の生体装甲(バイオチェスト)。頭部は赤い複眼と凶悪な大顎に変わり果て、お燐の獣じみた本能を滲ませている。

 頭部に伸びる緑色の双角は触角の如く短く伸びており、まだ完全にはオルタフォースを放ち切れていないようだ。

 

 さらにその身体には先ほどまでのお空と同様、オルタフォースの制御を司る石版、ワイズマン・モノリスが設けられていない。

 生物的な異形の身体、その腰に装う金色のベルト状の器官もお燐の肉体に形成されている。それはアギトのオルタリングと同様、内なるオルタフォースの生成回路であるのだが──お燐のそれは、(まぶた)と眼球を模したような『メタファクター』と呼ばれるベルトだった。

 

「あれも……アギトなのか……?」

 

 香霖堂の壁に背を打ちつけた痛みを堪え、霖之助が立ち上がる。緑色の肉体に金色の装飾が走る姿はアギトとは似つかない。されどアギトの力を得て進化したのであれば、それはアギトに類するもの──少なくとも人類の進化形の一種であるはずだ。

 しかし、それはまるで──『獣』と称すべき無秩序な力。いくら元が猫の姿の妖怪とはいえ、進化というよりはむしろ闘争こそを本能で求める獣への退化(・・)を思わせた。

 

「アギト……いや、『ギルス』か。珍しい──」

 

 異形のアギト──アギトならざる『ギルス』へと不完全な覚醒を遂げたお燐に対し、神奈子は少し何かを考えるように呟く。

 紡がれる言葉の先を待つ間もなく、お燐は大地を蹴って神奈子へと駆け抜けた。

 

「――と言いたいところだけど、妖怪(・・)なら当然だろうね」

 

 両腕の先から伸びた金色の爪をさらに伸ばし、その『ギルスクロウ』の鋭さをもって神奈子の身体を裂こうとするお燐。しかし、地底の妖怪が放つ一撃は神の光を得たとしても、天上の神霊に届くことはない。

 容易く防がれた一撃に次いでギルス─―お燐は神奈子の腕を蹴りつけ、その反動で後方へと退避した。そのまま距離を取り、妖力とオルタフォースを混ぜ合わせる。

 

「ウォォァアアアッ!!」

 

 自身の身体に漲るパワーのままに、お燐は内なるギルスと共鳴。その本能が訴える衝動を力に変え、お燐は大地を蹴って空中で右脚を大きく持ち上げた。

 妖力で具現した怨霊たちが炎と燃え上がる。そのまま地獄の怨霊を炎と纏ったギルスが(かかと)から鋭く伸ばした金色の爪『ヒールクロウ』を剥き出しに、神奈子へと襲い掛かった。

 

「危ないっ!!」

 

 翔一は見知らぬ神に対し、思わず声を上げた。その一撃が持ち得る力の大きさも、お燐が至ったギルスなる怪物も。翔一はすでに元の世界で知っているからだ。

 

 その瞬間、神奈子が胸に掲げる小さな鏡が──微かに緑色の異形を映した。

 

「……っ!?」

 

 お燐は踵を振り下ろしながら違和感に気づく。それは確かに緑色の異形ではあった。だが、神奈子の目の前で踵を上げる『ギルス』の姿ではなかったのだ。

 さながら巨体を誇る牛の怪物──規格外の化け物。雄牛めいた金色の双角を持つ巨大な『モンスター』のようなもの。

 鏡像の世界に住まうその存在は、あろうことか神奈子の胸に揺れる小さな鏡から、その巨体を何の苦もなく通らせ、神奈子とお燐の間に立ち塞がったではないか──

 

 ――衝撃。お燐が放った渾身の踵落とし、【 ギルスヒールクロウ 】の一撃は巨大な牛の怪物に直撃し、凄まじいエネルギーの余波が吹き荒れる。

 アンノウンの装甲さえ容易く破り撃滅せしめるその一撃を受けてなお。神奈子が鏡の世界より召喚した鏡像の怪物、ミラーモンスターの装甲には傷の一つも残っていなかった。

 

「ブモォォォオオオッ……」

 

 全身を重火器で武装した怪物、バッファロー型ミラーモンスター『マグナギガ』が吼える。

 右腕は長大なロケットランチャーに。左腕は機関砲を備えたロボットアームに。さらに胸部装甲内には無数のミサイルポッドを隠し持つこのモンスターを、自然的な生き物であると思う者は存在しないだろう。

 アギトの世界にも、外の世界にも存在しないこの怪物、ミラーモンスターと呼ばれる存在を知っている者はいま、この場にはいない。

 ただ一人、このミラーモンスターと『契約』を交わしている神奈子自身を除いては。

 

「……やれやれ、相変わらず(ひと)使いの荒い賢者様だ」

 

 誰にともなく独り言つ神奈子。そのままマグナギガに合図を出し、両腕のランチャーと機関砲による掃射をもって残ったフォルミカ・ペデスを殲滅させる。

 が、それを逃れた者がいた。たった一体、火薬と硝煙の匂いに満ちた弾幕の嵐を掻い潜り、お空を狙う怪物。

 アンノウンへの知覚はギルスと化したお燐にもある。お燐はその知覚で捉えたフォルミカ・ペデスを見逃すことなく、意識を失ったお空に迫るアンノウンへと向き直った。

 

 フォルミカ・ペデスの腹をギルスクロウで貫き、爆散させる。天使の光輪を見届ける間もなく、お燐はすぐさま神奈子に視線を戻した。

 しかし、すでに神奈子もマグナギガもその場から姿を消している。現れたアンノウンたちも全滅しているため、お燐は無意識に身体の力を抜いてギルスの変身を解いた。

 

「ぐっ……うっ……!」

 

 内なるアギトの力が変質したもの──肉体に宿す『ギルス』の侵食により、お燐は全身に走る苦痛から地面に膝を着く。まるで身体が内側から腐っていくような感覚に血の気が引き、震える両手をその目で見た。

 妖怪の身とはいえ白く美しかった少女の手は、まるで老婆のように干からびた手へと渇いている。醜くしわがれた自身の手を見つめ──お燐はそのまま意識を失ってしまった。

 

◆     ◆     ◆

 

 幻想郷、旧地獄。地霊殿敷地内。地下深くの倉庫にて、この屋敷の主、古明地さとりは津上翔一の思考の中にあったそれ(・・)を見つけることに成功した。

 さとりが見つけたそれは、津上翔一が存在していた便宜的な意味の外の世界──すなわち『アギトの世界』と定義される場所から流れ着いたもの。何らかの要因によってそれらが幻想郷に辿り着き、地底に落ちた残骸を怨霊や動物たちが掻き集めてきた外来物の一種。

 

「これを……人間が……?」

 

 集められた残骸の中でも特に巨大なものが一つ。それは一つの施設と言って差し支えないほどに大きな車両──幻想郷には存在するはずのない大型トラック、あるいはトレーラーと呼ばれる自動車の一種だった。

 青と銀に彩られた大型トレーラー『Gトレーラー』には警視庁の所属を表す桜の代紋が刻まれている。しかし、さとりが驚いたのはこれ自体に対してではない。

 

 後部を開いたGトレーラーの中には、青い装甲を持つ強化外骨格(パワードスーツ)が鎮座していた。

 

 同じく青と銀の装甲を持つパワードスーツはオレンジ色の複眼と銀色の触角(アンテナ)を力なく示し、電力供給を失ったGトレーラーの影の中で孤独に佇んでいる。かつてはアンノウンと死闘を繰り広げたこのスーツも、今はただの人形でしかない。

 さとりはその姿に哀れむような視線を向けながら、自身の隣に立つ幼げな少女に問うた。土着神の頂点として妖怪の山に住まう少女、洩矢諏訪子はさとりの問いに答える。

 

「そう。人間が未知の脅威(・・・・・)に対抗するために造り上げた叡智。第4号(・・・)に頼らず、『ただの人間』の力をもってして──人類社会を守っていくためのね」

 

 警視庁未確認生命体対策班──通称『SAUL』と呼ばれる組織が開発した第三世代型強化外骨格および強化外筋システム。

 正式名称を『GENELETION-3』……あるいは『G3システム』と称されたこのスーツを、諏訪子はさとりと共に地霊殿地下倉庫で目にした。

 

 幻想郷には実用的な電力はほとんどない。G3システムを動かすバッテリーパックの換装も満足に行うことはできず、システムの残存エネルギーを示す腰部のベルト状パーツ『Gバックル』のメーターも点灯していない状態である。

 このままではこのスーツは堅牢な装甲に守られているだけの木偶(でく)人形に過ぎない。いくら技術が優れていようと、それを動かすエネルギーがなければ単なる飾りも同然だ。

 

 ――しかし。幻想郷において、それは無意味なものにはならない。

 

 人々の守護者として祀られたこのシステムは、偶像としての信仰をかつての4号(・・・・・・)と同じく受けている。諏訪子による神の力の介入もあり、信仰は無尽蔵の妖力に変換されてG3システムを動かすための血肉となるだろう。

 加えて諏訪子の力は元よりあったプログラムを書き換え、武器の制限解除や姿勢制御などの支援をG3システム本体から行えるようにしている。

 それは本来ならば支援車両、Gトレーラーより行われていたすべてのバックアップを装着者が自らの意思で行い、戦闘における行動のタイムラグを限りなくゼロにできるということだ。

 

「今ごろ、地上(うえ)では神奈子が動いてる。決断は早い方がいいんじゃない?」

 

 諏訪子の言葉を聞いて、さとりは意を決した。否、最初にこの叡智(システム)を見たときから何かを感じていたのかもしれない。

 Gトレーラーの後部から伸びた鋼鉄の坂道(タラップ)をゆっくりと登る。カツカツと歩む靴音が地底に響き、やがてさとりはG3システムの正面まで辿り着いた。

 

「ずっと……戦ってきたのね」

 

 冷たく佇むG3の銀色の装甲に触れる。桜の代紋が刻まれたその胸部装甲からは、物体に宿った想念を読み取ることはできないさとりの心にも、どこか込められた人間の想いが伝わってくるような気がした。

 どんなときでも決して逃げない──そんな人間の強さがあるなら。それが『ただの人間』を名乗る強さだというなら。どうかその強さを、少しでいいから分けてほしい──

 

 その願いに応えるように、G3は光の粒子と消え──

 

「…………」

 

 やがて光は形を成す。息を飲むさとりの小さな手に握られていたのは、銀色に輝く機械仕掛けのベルト状パーツ──『Gバックル』だった。

 G3システムのすべてはここにある。本来ならばパワードスーツとして纏うべき叡智を、諏訪子は神の力をもってその法則を──その在り方(・・・)を書き換えたのだ。

 

 今、さとりが手にしているものは紛れもなく『G3システム』そのものである。

 さとりがこのベルトを身に着け、この叡智と共に在りたいと願えば、G3システムはその意思に応えてくれるだろう。

 さながらアギトのオルタリングと同様、あるいはギルスのメタファクター、その内に秘められた賢者の石がもたらす超常的な『変身』と同じように。このGバックルは、組み込まれたプログラム通りに持ち主にG3システムというパワードスーツを纏わせ、『装着』させてくれる。

 

 さとりは一度、手にしたGバックルを強く握りしめると、それを懐にしまう。先ほどまでG3が鎮座してあった場所に背を向け、Gトレーラーのタラップを降りていった。




4月1日は津上翔一(本名が沢木哲也の方)の誕生日です。おめでとうございます!

次回、第22話 話22第『ミラーワールドの境界』


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第22話 ミラーワールドの境界

 幻想郷、霧の湖。その畔に建つ紅魔館はすでに夜明けの光に照らされ、必要以上の赤さを湖に映し出してからしばらく経っている。

 客人として迎えられた外来人の青年、城戸真司は自らの意向で屋敷の掃除を担っていたところ、またしても迷っては妖精メイドたちに案内されるという繰り返しの果てにおいて、ようやく空間の歪んだ紅魔館の構造を少しだけ把握することができたようだ。

 

 広い廊下の窓を拭き終え、真司は自身の髪の毛を落とさないように頭に着けていた三角巾を脱いで一息つく。

 これだけの屋敷であれば掃除するのも並みの苦労ではなく、妖精メイドたちもあまり積極的に働いている様子がないため、メイド長の咲夜にかかる負担は相当のものだっただろう。

 

「それにしても……なんか()っちいんだよな……」

 

 額に伝う汗をタオルで拭いつつ、真司は春とは思えぬ暑さを訝しんでいた。袖をまくってもなお感じる暑さ、窓の向こうからじりじりと照りつけてくる日差しはまさに真夏のものと言って差し支えない。

 自分の住んでいた元の世界とは違う幻想郷なる場所――ここでは真夏めいた春の気候など珍しくはないのだろうか。

 真司はそう考えながら、ふと無意識に──さっきまで拭いていた窓の外を見る。

 

「……っ!?」

 

 灼熱を覚える真夏の日差しが照りつけるのは、この紅魔館周辺と正面にある霧の湖ばかり。紅魔館の窓から見渡せる幻想郷の景色は、真司が想像していたよりも遥かに複雑な怪異と神秘に満たされていたのだ。

 湖の向こうに見える巨大な山には秋めく紅葉が豊かに実り、反対側の森には雪らしきものが白く降り積もっているのが確認できる。

 それは、妖精や吸血鬼の存在を前提としていた真司にとっても驚くべき光景だった。

 

「……どうなってんだ……また夢でも見てんのか……?」

 

 軽く目をこすり、頬をつねってみるものの、景色に揺らぎは生じていない。幻想郷なる奇妙な世界に足を踏み入れたときから、この『幻想』は紛れもない現実である。

 

「一人で何を喚いているの?」

 

「……うわっ!!」

 

 突如背後から聞こえてきた声に素っ頓狂な声を上げる真司。窓の外の景色に気を取られていたため、時間を止めていきなり現れただろう咲夜の存在に必要以上に驚いてしまった。

 

「あんた、確かここのメイドの……」

 

 青と白のメイド服を着た完全で瀟洒な従者。十六夜咲夜の名は真司も覚えている。真司と同じ生身の人間、それも年若い少女でありながら『時を操る』という能力を持つ人物を、出会って二日目で忘れられるはずがない。

 だが、それ以上に。真司にとって彼女は仮面ライダーナイトの力を持つ者。真司もよく知るダークウイングとの契約を交わしている人物でもあるのだ。

 時を操るメイドの少女――という特徴も大きなものではあるが、仮面ライダー龍騎としてライダーバトルの激戦を戦い抜いた経験のある真司の中では『ナイトのデッキを持つ者』としての認識の方が強く、彼女が時間を操る程度の能力を有していることを失念していた。

 

「貴方からもお嬢様にご挨拶をと思ったけど、日傘も無かったし、今はお出かけ中みたい」

 

 咲夜はどこか少し困った様子で腕を組み、そのまま天井の方に視線を向けた。外観と同様に鮮やかな赤に彩られた廊下、その天井もまた非常に赤いため、等間隔に取りつけられた照明の光も相まってやはり人間の目には優しくない。

 小さく溜め息をつきながら、咲夜は『お嬢様』なる人物の部屋があるであろう天井の先――屋敷の上階から視線を下ろす。

 

 十六夜咲夜は吸血鬼が住む屋敷、紅魔館に努める人間のメイド長である。となれば、この紅魔館に主人たる吸血鬼が住んでいるのも必然的な道理。

 咲夜がお嬢様と呼ぶ吸血鬼、レミリア・スカーレットは吸血鬼としての性質に(たが)うことなく日光を弱点としている。彼女の愛用の日傘が無く、かつ本人の姿も見えないとあらば、外出していると考えるのが自然だろう。

 未知の怪物や仮面ライダーなる騎士が確認されているこの異変の最中、レミリア単独での行動は咲夜としてもあまり望ましくはなかったが──

 人間である咲夜では足元にも及ばないほど強大な存在、吸血鬼として知られる大妖だ。仮面ライダーの力を持たないとはいえ、心配には及ぶまい、と。咲夜は主への信頼を固めた。

 

「それより、窓の外を見てみろって! 雪とか、紅葉とか……!」

 

 吸血鬼の屋敷に踏み入った当初の目的はジャーナリストとしての使命感であったはずだが、ライダーバトルの再開や幻想郷の環境の異常性、様々な異変を目にした今では、真司の中でそんなことは吹き飛んでしまっているようだ。

 湖や竹林に強く照りつける夏の日差し。山を赤く彩る秋の紅葉。森に降り積もる冬の雪。最東端の神社や里に近い寺には美しい春の桜が咲いている幻想郷の四季の(さま)

 こちらの地理や常識など知らない真司でも──それが異常であることは分かる。

 

「……残念だけど、はしゃいでいる暇はなさそうよ」

 

「だ、誰がはしゃいで……!」

 

 冷静な口調で呟く咲夜の言葉を聞き、真司は思わず反射的に答える。険しい表情で窓の外を見つめている咲夜はメイド服のポケットから黒い金属体──コウモリのレリーフが彫られたナイトのデッキを取り出していた。

 その様子を見て、真司も再び窓の外に視線を向ける。先ほどまでは紅魔館の高さから見られるままに遠い山や森の景色ばかり目に入っていたが、咲夜の視線の先はこの屋敷の直下、すなわち庭園や正門の周辺。季節の異常ではなく、さらに近い距離に向けられていたのだ。

 

「あっ……!」

 

 紅魔館の正門では、屋敷の門番を務める妖怪の女性──紅美鈴が拳を構えている。その先には、真司も見慣れた鏡像の怪物、ミラーモンスターらしき姿が二体。

 白と黒の縞模様を持つ身体は考えるまでもなく、シマウマの意匠を思わせる。シマウマの姿をそのまま人型に捻じ曲げたような身体を持つモンスターが、似た姿のモンスターと共に生身の美鈴に襲いかかろうとしているではないか。

 

 真司は慌てて自身の懐から龍騎のデッキを取り出し、咲夜と目を合わせた。

 目の前にあるのは先ほどまで丁寧に拭き、ピカピカになった窓ガラス。今でも真司と咲夜の顔を綺麗に映し出しているこのガラスなら、変身に用いる鏡代わりとしては申し分ない反射率を備えているはずだ。

 窓から見えた美鈴を助けるべく、真司は窓の向こう──紅魔館の外にいるミラーモンスターと戦うため、数歩下がって目の前の窓ガラスに対し、左手に持ったカードデッキを構える。

 

 ――そこで、真司はいつもとは違う(・・・・・・・)奇妙な感覚に気がついた。

 

「ん……? 待てよ?」

 

 真司たちが存在している場所は紅魔館。それも、実像の生物が当たり前に生きている現実世界の紅魔館のはず。当然、窓から見えた外の景色も実像を持った現実の世界でなければおかしい。現に、生身の美鈴が存在することがその証明だ。

 窓の向こう側といっても、窓ガラスに反射した鏡像の世界ではない。文字通り、窓を隔てただけの単純な屋外であるにも関わらず。ミラーモンスターは現実世界での活動限界──仮面ライダーたちがミラーワールドで体験するのと同じ、彼らにとっての世界の拒絶──現実世界での『時間切れ』を恐れることなく、こちら側(・・・・)の世界においてその猛威を振るっている。

 

 モンスターたちは現実世界では長時間の活動はできず、捕食の瞬間にのみこちら側の世界に介入して獲物となる生物をミラーワールドに引き()り込む習性を持つ。不用意に現実世界に長居すれば、彼らとて消滅の道を辿るはずなのだが──

 シマウマ型ミラーモンスター『ゼブラスカル アイアン』と、同じくシマウマ型の『ゼブラスカル ブロンズ』は消滅の兆しを見せず、ミラーワールドに帰ろうとする気配もない。

 

「あいつら、ミラーワールドから出ても平気なのか!?」

 

 思い至った一つの仮説に血の気が引く。現実世界に適応したモンスターの存在を、真司は現実という悪夢をもって知っている。

 もしあの怪物が恒常的に現実世界に進出したら──という絶望。無数のトンボ型ミラーモンスターが現実世界の青空を埋め尽くしていく光景が脳裏を(よぎ)る。あのときは神崎士郎の慟哭(どうこく)により、ミラーワールドと現実世界の境界が失われたことで、モンスターたちが現実世界に溢れ出してしまったのだ。

 戦いのある世界においては、城戸真司が──仮面ライダー龍騎が命を落とし、ライダーバトルから永遠に脱落することとなる原因となった現象。

 またしてもそんな最悪の事態が起きてしまったのかと真司は幻想郷の空を見上げたが、真司の記憶にあるようなおぞましい数のトンボが羽ばたく様子は特に見られなかった。

 

「あら、だったら好都合ね」

 

「えっ?」

 

 咲夜は現実世界で活動するミラーモンスターを見下ろしながら、確かにそう言った。真司はその意味が分からず、小さく笑みを浮かべる咲夜に疑問符一つで聞き返す。

 

「こっちも時間切れを気にせず、戦えるってことよ」

 

「……なるほど! あんた、頭いいな!」

 

 得意げな様子で答える咲夜の言葉を聞き、真司はようやく意味を理解した。野生のミラーモンスターが現実世界においても粒子化せず、ミラーワールドから出た状態で自由に活動しているということは──

 元より現実世界の住人である真司や咲夜といった仮面ライダーもまた、こちら側の土俵をもって世界の拒絶を受けることなく無制限に活動できるということだ。

 

 標的となるモンスターが現実世界(こちら側)に存在する以上、彼らが自分たちの世界に逃げ込まない限りはミラーワールドに突入する必要すらない。その事実に歪んだ不安が微かに炎と燃え上がり、真司はそれが闘志に変わるのを感じた。

 

 二人は再びそれぞれのカードデッキを構え、正面の窓ガラスにかざして見せる。目の前に映る自分たちの鏡像、その腰にVバックルが装着されるのを確認すると、真司は右腕を鋭く左上へ突き伸ばす。

 対する咲夜は右腕を拳と固め、自身の左半身に振るうように独自の構えを取った。

 

「「変身!」」

 

 真司と咲夜は声を重ね、それぞれのデッキを腰に生じたVバックルに勢いよく叩き込む。バックルの上部に設けられた赤いシグナルが輝きを放ち、やがて鏡像は龍騎とナイトの姿を二人の身体に纏わせていった。

 紅魔館の広い廊下――磨かれたガラス窓の前に並び立つ灼熱の騎士と黒夜の騎士。龍騎となった真司は胸の前で拳を固めて気合いを入れる。

 つい、いつもの癖でそのままミラーワールドに突入しそうになったが、ナイトとなった咲夜がすかさず窓ガラスを開けてくれたおかげで踏み止まることができた。

 

 開かれた窓の向こう、紅魔館の屋外を目指して二人は廊下を発ち、紅魔館の赤い屋根を駆け降りていく。

 仮面ライダーとなった身のこなしであれば、そのまま屋根を伝って庭園へ降り、美鈴とミラーモンスターが戦っている正門まで辿り着くことは造作もない。

 龍騎は無双龍ドラグレッダーの赤い炎を思わせる烈火の如き勢いをもって紅魔館の庭園を走り抜け、左手の手甲として備え装ったドラグバイザーを拳と共に振るい上げる。熱く燃え上がるようなその一撃は、美鈴に襲い掛かっていたゼブラスカル アイアンの背中を焼き払った。

 

「ブルルゥ……ゥアッ!」

 

 真司の存在に気づいたゼブラスカル アイアンが怒りの声を上げると同時、隙もなく振り返っては、肘から先を覆う腕部の刃物と共に拳を振るい始める。

 ドラグバイザーはガントレット型の召喚機だ。真司は元より手甲を模しているその召喚機を顔の前に振り上げることで、それを盾代わりとして拳の一撃を防ぐ。空いた右腕を引き絞り、それをゼブラスカル アイアンの腹に打ち込みながらドラグバイザーを開いて美鈴へと声を上げた。

 

「美鈴ちゃん! 早く逃げて!」

 

「で、でも……!」

 

 この場にいるミラーモンスターは二体。されど、それらと戦う力を持つ仮面ライダーもまた二人存在している。生身の少女を一人逃がすだけの隙を作るなど、容易のはずだ。

 

「ブルルルゥ……ルルッ!」

 

 龍騎と戦っているゼブラスカル アイアンとは別の──もう一体。刃状の手甲と強靭な装甲に進化した両腕は城砦さえも打ち砕くほどの力を備えている。たてがみの細部に微妙な違いが見られるゼブラスカル ブロンズは、咲夜(ナイト)へと襲いかかった。

 咲夜は腰のホルスターから引き抜いたダークバイザーを振るい、ゼブラスカル ブロンズの装甲を切りつけつつ素早く横に回避する。

 

 コウモリめいた所作で動く騎士を前に苛立ったのか、ゼブラスカル ブロンズは再びナイトに目標を定めた。

 ダークバイザーを振るい、ゼブラスカル ブロンズを攻撃する咲夜。しかし、ゼブラスカル ブロンズの手甲は盾のように幅広い刃に覆われており、なかなか素直に刃が通ってくれない。

 

「くっ……」

 

 一度距離を取り、ダークバイザーをホルスターに戻す。少しでも攻撃の威力を上げるべく、バイザーを開いてデッキから抜いたカードを装填。

 

『ソードベント』

 

 バイザーから響く電子音声を聞き届け、上空から現れた大型の槍、ウイングランサーを両手に構える。ずしりと重いこの大槍は取り回しに難があるが、威力は相応のものだ。

 

『ストライクベント』

 

 咲夜の動きに合わせるように、真司も左腕のドラグバイザーにカードを装填する。電子音声と共に上空から現れた龍の手甲、ドラグクローを右手の拳に装着した。

 

「はぁっ!」

 

「だぁあっ!」

 

 ナイトの振るう黒き槍は前方のゼブラスカル ブロンズに。龍騎の振るう赤き拳はゼブラスカル アイアンにダメージを与え、弾ける火花が視界を染める。

 相手とてただ攻撃を受けているわけではない。二体のゼブラスカルはそれぞれ両腕の刃と装甲を駆使し、迫る攻撃を受け流しながら、龍騎とナイトに対して反撃を行ってきた。

 

 ―――

 

「逃げる……? 私だけ……? そんな……」

 

 二人の戦いを見て、美鈴は逃げることなくその拳を固めていた。彼女の中華服には依然として未契約のブランクデッキが眠っている。

 しかし、彼女はデッキを使うことをどこか恐れていた。仮面ライダーとしての宿命を、選ぶことができなかったのだ。

 

 開いた両手で広く円弧を描く。練り上げた全身の気功をその一点に集中し、黄金のエネルギーに輝く波動をそこへ形成する。

 エネルギーの輝きが最高潮に達したとき、美鈴は覚悟を決め、表情を強く引きしめた。

 

「……そんなこと、私にはできない!」

 

 両手を開いて前へと突き出し、込めた妖気を解放する。黄金の閃光が光の波となり、前方へと射出された【 芳波(ほうは) 】は二体のゼブラスカルに直進。直撃を受けたゼブラスカル ブロンズは思わず仰け反って身体から火花を散らした。

 間一髪その攻撃を避けたゼブラスカル アイアンにはさらに続けて妖気を溜め、紅く輝く球状のエネルギーをその場に形成。

 真紅の妖気を構えた右拳に纏わせ、それを上空へと撃ち出すのと同時、ゼブラスカル アイアンに渾身の拳を叩き込み──【 紅砲(こうほう) 】の一撃をもって殴り上げる。

 

「ブルルゥァアッ!!」

 

「……っつ……!」

 

 ミラーモンスターの装甲は硬い。仮面ライダーの武器をもってしても損傷させるには相応の威力が必要になるほど。それを妖怪の身とはいえ、生身で殴りつけた美鈴は血の滲む拳に痛みを堪えつつ、モンスターから離れる。

 それでも、強化された妖怪の拳は確実にモンスターにダメージを与えた。微かに怯ませる程度ではあったものの、真司と咲夜はその隙を見逃すことなく次なる攻撃の態勢に入る。

 

「はぁぁぁああっ……だあああああッ!!」

 

 龍騎の右手に構えられたドラグクローに烈火の炎が灯る。契約するドラグレッダーの息吹きを咆哮と共に放つ一撃、必殺と成り得るそれを解き放つ。

 放たれたドラグクローファイヤーはゼブラスカル アイアンに向かい、燃え盛る炎をもってその肉体を木端微塵に消し飛ばす──

 

 その直前、ゼブラスカル アイアンはおもむろに(いなな)き、自らの身体を引き延ばした(・・・・・・)

 

「ブルルヒヒィーーンッ!!」

 

 ドラグクローファイヤーの炎をバネ状に伸びた筋肉で受け止め、爆発の衝撃を逃がす。その身に与えられたダメージは相当のものであろうが、本来ならば倒せるはずだった一撃を耐え切られてしまったのだ。

 ゼブラスカル アイアンの周囲で燃えるドラグレッダーの炎は小さい。その身に組み込まれたバネ状の筋肉は受けたダメージを軽減してしまうのだろう。

 真司はそれを見て、これらのモンスターともかつて一度戦っていたことを思い出した。

 

「相変わらず、しぶてぇな……!」

 

 煤けて白の面積が減ったシマウマを指し、思わず(こぼ)す真司。右手のドラグクローを消失させ、次なる一撃で確実に決めてやろうと、再びデッキに右手をもっていく。

 

「真司さん!!」

 

 その瞬間、背後から聞こえてきた美鈴の声が真司を振り向かせた。目の前まで迫っていたもう一体のシマウマ型モンスター、ゼブラスカル ブロンズの気配に気づくことができなかったのは、ここが現実世界だったからだろうか。

 突進してきたゼブラスカル ブロンズの頭突きにより龍騎は吹き飛ばされてしまう。

 

「……()ってて……ん……?」

 

 飛ばされた先で打ちつけた頭を押さえつつ、起き上がる。そこで、真司はこの現実世界に響き渡ってくる『ミラーワールドからの気配』を感知した。

 ここが現実世界である以上、ミラーワールドからの来訪者は存在する。そして、ミラーワールドから出現できる者など限られている。

 現実世界の霧の湖──その水面から飛び出した異形は、その場に降り立った。

 

「シャアアッ……」

 

「モンスターがもう一体……!? 厄介ね……」

 

 真司と咲夜、美鈴。そして二体のゼブラスカルが争うこの場に現れた新たなるミラーモンスターに対し、ウイングランサーを振るっていた咲夜が呟く。

 ゼブラスカル以上の力を備えているのか、このモンスターから発せられる独特の気配は並みのモンスターよりも強いような気がする。さながら生まれ持った才能を補っているのか、滲み溢れるおびただしい気配は、これまで喰らってきた命の数を誇示するかのようだ。

 

 オレンジ色に輝く流線型のフォルムと両腕に備えた巨大な(はさみ)は、堅牢な甲殻を持つ人型の(カニ)を思わせる。

 カニ型ミラーモンスター『ボルキャンサー』は獲物を定め、強靭な鋏を振り上げた。

 

「シャアァアアッ!!」

 

「ブルルォーァアアッ!!」

 

 重ねて鳴き声を上げる二種の怪物。美鈴と咲夜が顔を揃えて困惑したのは、ボルキャンサーが近くにいたゼブラスカル ブロンズに対して攻撃を仕掛けたからだ。

 

「(あのモンスター……やっぱり……)」

 

 しかし、真司だけはボルキャンサーが『ただのモンスター』ではないと気づいている。かつての戦いで見たものと同じなら、このモンスターも。普通ではない力の気配もあって、真司は半ば自分の中にある疑惑を確信していた。

 その気配は言うなれば──ドラグレッダーやダークウイングなどと同じ。すなわち、仮面ライダーと契約を交わしている『契約モンスター』のうちの一体であるということだ。

 

「シャアア!!」

 

 ボルキャンサーの爪がゼブラスカル ブロンズを、さらに襲いかかったゼブラスカル アイアンまでもを裂いて火花を上げる。

 背後を取られたボルキャンサーにゼブラスカル ブロンズの刃が迫るが、堅牢な鎧はその程度では傷つかない。

 ゼブラスカル ブロンズは攻撃の反動で仰け反るものの、続けて肘から伸びる刃を振るう。素早く刃を振り上げた瞬間、ゼブラスカル ブロンズはボルキャンサーの背後に闇を見た。

 

「ブルゥ……ルル……!?」

 

 虚空から飛んできた漆黒の光弾にその身を撃たれ、二歩三歩と後退させられてしまうゼブラスカル ブロンズ。真司は、弾丸が飛んできた方向に龍騎としての複眼を向ける。

 

「こんなにおいしそうなモンスターさんが二体も? やっぱり紅魔館(ここ)は気前がいいわねー」

 

 騎士と怪物が剣戟(けんげき)を交わす戦場に、似つかわしくない少女の声。黒と白の洋服を深い闇と纏った少女は、揺らめく風にショートボブの金髪と赤く大きなお札(リボン)を揺らす。

 無邪気に笑い、上空からふわりと舞い降りる闇色の少女。両腕を真っ直ぐ左右に広げ、さながら十字架に(はりつけ)られた聖者を思わせるが如く。

 

 少女の名は ルーミア という。この幻想郷に存在する妖怪の一種であり、他に類を見ない『宵闇の妖怪』――すなわち闇を操る夜の怪異である。光を嫌う彼女は本来ならば昼間はあまり見かけないはずなのだが、ルーミアは闇を払い、この場に姿を現していた。

 

 そのままゆっくりと大地に降り、幼さの残る小さな背丈で辺りの様子を眺めながら、ルーミアは自らの懐を左手で探る。

 不敵な笑顔で取り出したのは──黒く金属質な板状の箱。カードデッキ。中央に刻まれたレリーフが二つの鋏を振り上げる『蟹』らしき意匠であることを除けば、それは真司や咲夜、美鈴が持つカードデッキと同一のものと見て間違いないだろう。

 

 ルーミアはそのデッキを正面に突き出す。蟹の紋章を誇示するかのように何もない虚空へとかざすが、そこには鏡もガラスもない。

 にも関わらず。デッキはルーミアの意思に応え、彼女の腰にVバックルを出現させた。

 

「変身!」

 

 左手でデッキをかざしたまま、右手で左腕を掻くように払う。入れ替わりに左手を引っ込めると同時、右手の指を蟹の鋏のように二本立て、そのまま左手に持ったデッキをVバックルの溝へと滑らかに差し込む。

 Vバックルのシグナルが赤く点灯し、いくつもの鏡像がルーミアの身体を包んでいく。やがて現れた騎士の姿は、やはり契約モンスターであるボルキャンサーと通ずる鎧。

 

「ふふふ……」

 

「シャアア……!」

 

 オレンジ色の装甲を纏った蟹の騎士。『シザース』と呼ばれる仮面ライダーはボルキャンサーの傍らに立ち、己が左腕の手甲として鋭く装備した鋏型の召喚機──『シザースバイザー』を右手で撫でた。

 金属の擦れる軽やかな音を奏で、現実世界の光を反射するシザースバイザー。召喚機であると同時に、鋭利な刃物でもあるそれはシザースにとって、基本の武装と成り得るものだ。

 

「嘘だろ……!? あんな小さな女の子までライダーになるのかよ……!!」

 

 ゼブラスカルたちがボルキャンサーとシザース──ルーミアに意識を向けている隙に、真司と咲夜は美鈴の元へ駆け寄る。二人が来るまでの間に、二体のゼブラスカルを相手に戦っていたようで、その身体は傷だらけになっていた。

 幸い、ここはミラーワールドではないため、彼女が粒子と消えることはない。真司は美鈴と親しいであろう咲夜に彼女の介抱を任せ、現れた仮面ライダーについて考える。

 

 美鈴が戦っているのも。咲夜がライダーに変身しているのも。真司にとっては自分が戦う以上に辛い光景だった。

 だが、まだ年端もいかぬような幼い女の子が仮面ライダーの戦いに参加している。その事実は、幼き頃の神崎兄妹が虐げられ、未来を閉ざされた悪夢を想起させるほどのものだった。

 

「というか、今の見た? 鏡やガラスもなしに、その場で変身したわ」

 

「そういえば……! ってことは……やっぱり……」

 

 ナイトの複眼がこちらを向く。咲夜の言葉を聞いて、真司はやはりあのときの光景を再び思い出していた。

 モンスターが現実世界に湧き出たのと同じとき。ミラーワールドは崩壊し、現実世界との境界を失い、一つの世界となった。それによって、現実世界のすべてがミラーワールドと同様の法則を得るに至り、モンスターは現実世界に侵攻を始めたのだ。

 

 このゼブラスカルたちやボルキャンサーが現実世界にいても消滅しないのは、ミラーワールドと現実世界の境界が失われているからだろう。

 現実世界がミラーワールドの法則を兼ね備えている。つまり、その場の空間自体が鏡やガラスなどの『反射物』として定義し得る。

 かつて前の戦いにおいて、無数のトンボ型ミラーモンスターを相手に現実世界で戦ったとき。真司は空の彼方にデッキを向けることで、鏡を使わずして龍騎となったこともあった。

 

「(いや……あれ? どうだったっけ?)」

 

 否。もしかしたら、人々の恐慌で置き去られた自動車のボディで変身していたかもしれない。だとしたら、とある大学の研究室から友と二人で空を見上げ、共に変身したのはいつの記憶だったか。戦いのない世界の記憶もある真司には、上手く思い出せそうになかった。

 

「シャアアァアッ!!」

 

「ブルルゥゥールルッ!!」

 

 真司が慣れない思考を続けている間に、ゼブラスカル アイアンとゼブラスカル ブロンズはそれぞれシザースとボルキャンサーを相手に戦っている。

 シマウマの刃と蟹の鋏。ぶつかりあう剣戟が火花を散らし、互いの装甲を削り合う。ルーミアは鋭く冴えたシザースバイザーの刃でゼブラスカル ブロンズの装甲を切りつけつつ、二体の怪物から少し距離を取った。

 

 左手に設けられたシザースバイザーの鋏の片刃。右手でそれを握り、バイザーの先端部を鋭く閉じる。すると連動して基底部の鋏が開き、アドベントカードを挿入するためのカードリーダーが姿を見せる。

 ルーミアはVバックルに装うデッキから引き抜いたカードをシザースバイザーに差し込み、再びバイザーの刃を持って鋏を閉じては何もない虚空に向けて右手の拳を突き出した。

 

『ストライクベント』

 

 シザースバイザーが奏でる電子音声と共に、彼方より飛来してくるオレンジ色の武器。シザースの右手に装着されたそれは、ボルキャンサーの爪を模した大型の鋏──『シザースピンチ』と呼ばれる近接武器だ。

 振り上げたシザースピンチの切断力と、小回りの利くシザースバイザーの斬撃。その両方を駆使し、ルーミアは迫るゼブラスカル ブロンズの攻撃を容易く凌ぐ。

 

 ボルキャンサーと共にそれぞれが装う二対の鋏でシマウマを捌きながら。十分にダメージを与えたと頃合いを見て、右手のシザースピンチを消失させる。

 再びシザースバイザーを展開し、デッキからカードを一枚抜いて、相手に死を宣告するかのように──ルーミアはシザースとしての蟹の紋章が輝く『切り札』のカードを誇示してみせた。

 

「じっとしてないと、余計に痛いかもしれないよ」

 

 ボルキャンサーに抵抗して暴れるゼブラスカル ブロンズに呟く。手にしたカードをシザースバイザーに入れ、鋏を閉じると、ボルキャンサーもルーミアの意図に気がついたらしい。

 

『ファイナルベント』

 

 その宣告と共に、ボルキャンサーがおもむろに跳躍し、シザースの背後に立つ。両爪の鋏を大きく広げ、シザースの行動を静かに待っている。

 ルーミアはその場で大地を蹴り、即座に差し出されたボルキャンサーの両爪に乗った。間髪入れずにボルキャンサーは両爪を強く上げ、その爪に乗ったシザースを高く上空へと打ち上げる。

 

 空中で静かに姿勢を整え、両腕を交差させながら。ルーミアは超高速で空中前転し、弾丸の如きスピードをもってゼブラスカル ブロンズの懐へと突っ込んでいった。

 

「ブルルルルゥゥーーゥゥアアッ!!」

 

 シザースとボルキャンサーの共同必殺技──ファイナルベント【 シザースアタック 】の直撃を受け、ゼブラスカル ブロンズは成す(すべ)なく爆散を遂げる。

 その様を見たゼブラスカル アイアンは龍騎のドラグクローファイヤーを一度受けていることもあって不利を悟ったのだろう。これ以上の交戦を避け、灰色のオーロラへと消えた。

 

「……あーあ、逃げられちゃった。まぁ、いっか」

 

 残念そうに呟いた蟹の騎士は空の彼方へ(にじ)み消えるオーロラを見届ける。シザースアタックの衝撃で残骸と散ったゼブラスカル ブロンズへと視線を向け、ルーミアはVバックルからデッキを引き抜いて変身を解除した。

 ふわふわと浮かぶ光球状のエネルギーを見上げる幼げな少女。まるで月の光に手をかざすかのように、生身に戻ったルーミアは頭上のエネルギー体にゆっくりと手を伸ばす。

 

 そこへ飛び込んできたボルキャンサーに対し、ルーミアは即座に漆黒の光弾を放った。

 

「ダメ。これは私の分よ。あなたはさっき食べたでしょ?」

 

 輝くエネルギーを抱きしめようにその身に取り込み、自らの糧とする。その様子を恨めしそうに見つめるボルキャンサーに釘を刺しながら、宵闇の妖怪はミラーモンスターが喰らってきた生命エネルギーを自身の命として吸収した。

 モンスターのエネルギーを自ら喰らう仮面ライダーなど、聞いたことがない。真司はその光景を見て戦慄した表情を浮かべるが、すぐに問うべき言葉のため口を開く。

 

「ちょ、ちょっと、君! そのデッキ、どこで……!」

 

「デッキって……これのこと?」

 

 真司は少女を警戒させないように同じくVバックルからデッキを外し、龍騎の姿を解きながらルーミアに近づいた。

 彼女もこちらの姿を視認しているはずだが、どうやら仮面ライダーへの敵愾心(てきがいしん)は持っていないらしい。幼さゆえにライダーバトルの趣旨を理解していないのか、それとも自身と同様にライダーバトルに否定的な思想を持った者なのか。

 後者であることを願い、真司は少女の言葉を肯定しつつ、ただ静かに答えを待つ。

 

「ベージュのコートを着たおじさんに貰ったの。この力を使うと、さっきみたいな化け物(モンスター)もすぐに倒せるんだよ」

 

「(ベージュのコートって……まさか……)」

 

 楽しそうにデッキを見つめるルーミアの言葉を聞いて、真司はいつの間にか変身を解除していた咲夜と顔を見合わせた。美鈴は首を傾げているが、咲夜はすでに理解しているらしい。

 

「そいつ、鏡とかガラスとか……姿が映るようなものから出てこなかった?」

 

 再びルーミアに向き直り、真剣な表情で問いかける。真司は無意識のうちにルーミアの背丈に目線を合わせ、しゃがんだ状態でルーミアの両肩に手を乗せていた。

 真司も咲夜も、人にデッキを与えることができる『ベージュのコートを来た男』に心当たりがある。咲夜が受け取ったナイトのデッキは、もとより仮面ライダーを開発した男――神崎士郎の手からレミリアに渡ったものだ。

 

 龍騎のデッキを持つ真司も直接、神崎からデッキを受け取ったわけではないが、仮面ライダーとしての道を志したときから幾度となく遭遇したことがある。願いを持たぬ真司がライダーとなったことは神崎としても想定外だったのだろう。

 

 一度はミラーワールドと共に消滅したであろう、仮面ライダーの開発者。されど真司は、この幻想郷においてすでに出会っている。

 となれば、やはり真司の推測は間違っていないはずだ。咲夜がナイトのデッキを手にしたのと同様に。この少女、ルーミアも神崎士郎からシザースのデッキを受け取っている──

 

「んー? 別にそんなことはなかったわ。変な帽子と眼鏡をしてて、私にこれを渡したら灰色のオーロラみたいなのを出してどこかへ消えちゃったけど」

 

 ――ルーミアの言葉に、真司と咲夜は思わず目を丸くした。彼らが思い浮かべていた人物、神崎士郎とはあまりに特徴が違いすぎていたからだ。

 

「帽子に……眼鏡? 神崎の奴、イメチェンでもしたのか……?」

 

 これまで真司が出会ってきた神崎は服装を変えて現れたことは一度もなかった。そもそも、とある実験によってミラーワールドの存在となってしまったあの男が、実像の衣類を好きに着用できるとは考えにくい。

 それに、思い返せばルーミアはその男を『おじさん』と表現していた。神崎士郎は真司とそう変わらない程度の年齢で、おじさんと呼ばれるような歳ではないはず。あるいは、このくらいの歳の女の子から見れば自分ももうおじさん扱いなのだろうか──

 などと考えていると、真司はいつのまにか少女がいなくなっていることに気づいた。

 

「あ、あれ?」

 

「……ルーミアなら、もう行っちゃいましたよ?」

 

 ボロボロな姿のまま上空を指し、真司にルーミアの行方を伝える美鈴。その言葉によって真司は少女の名がルーミアであることを知った直後、紅魔館の反対方向へとふわふわ飛んでいく姿を見て、あんな少女でもやはり幻想の住人なのだと思い知らされた。

 

「灰色のオーロラ……ねぇ」

 

 すでに去ったルーミアの言葉を思い返し、咲夜は小さく一人ごちる。シザースによって撃破されたゼブラスカル ブロンズを見て、逃走を図ったゼブラスカル アイアン──あの怪物が逃げ去った先が『灰色のオーロラ』と呼べるものではなかったか。

 城戸真司は未だそれに気づいていないようだが、無関係とは思えない──

 

「…………?」

 

 不意に、視界の端で黒い何かが飛び去った。――ような気がした。

 咲夜は一瞬それが気になったが、すでにどこにも気配らしきものは感じられない。時を止める間もなく消えたそれは、ただの気のせいだったのだろうか。

 

 それよりも、今は傷ついた美鈴の治療を優先しよう。紅魔館の戦力は、守るべき二人のお嬢様とそのご友人たる知識人を除いては咲夜と美鈴の二人ぐらいしかいない。有象無象の妖精メイドや司書の小悪魔は頼りにならないため、美鈴が動けなくては困るのだ。

 咲夜はメイド長として、この屋敷で最も忙しい身分である。その役職を捨ておいてまで、モンスターの相手をしてはいられない。

 

 そのために美鈴にも門番以外の仕事を多く分配してあるのだから、倒れられたら仕事を分けた意味がないじゃない──

 と、心の中で建前を並べながら。咲夜は美鈴のことを、誰よりも心配しているのだった。

 

◆     ◆     ◆

 

 妖怪の山。二度目の四季異変に見舞われた幻想郷の北西。幻想郷の力量均衡(パワーバランス)の一角たるこの山もまた、異常な季節の影響を見せていた。

 春だというのにも関わらず、朱く朽ちた紅葉たちがひらりひらりと舞い落ちる。気候も等しく寂しげな涼しさを感じさせるような秋めく風に。この山に棲まう天狗や河童、妖精たちもその光景を訝しんでいる様子。

 

 だが、この山に訪れた変化はそれだけではなかった。

 

 夜の風に吹かれ、ひらり舞い散る紅葉と共に──静かに儚く舞い上がる()。さらさらと舞った命なき炎の残滓(ざんし)は山の隙間に吸い込まれ、どこへともなく消えていく。

 生命力の欠片も感じさせないような死せる塵。そんな灰が、この妖怪の山を紅葉の美しさに隠れながら微かに染めているのだ。

 鮮やかな紅葉とは正反対の灰色。山火事や旅人の不始末というわけではない。妖怪同士の弾幕勝負によって起こった事故によるものでもない。ただ、さらさらと零れる灰がそこにある。

 

「……ハァッ……ハァッ……!」

 

 月明かりの下、紅葉に覆われた山の中を疾走する獣が一匹。その姿は、鋭利な刃物のような棘と優しげな体毛を併せ持つ『灰色の狼』。

 否、正確に言うとすれば、そう形容できるだけの姿を持つ人型の怪物だった。

 

 狼はさらさらと灰を零す腹の痛みに顔を歪めながら、山を駆ける。鋭い爪をもって肥沃(ひよく)な大地を走り抜け、優れた嗅覚をもって『獲物』の匂いを()ぎ分ける。

 

 ─―見つけた。狼の鼻は、確かに自分と同じ(・・・・・)存在を捉えることに成功した。木々の隙間を抜け、まさしく狩りを行う獣の動作で飛びかかり、狼と同じ灰色の身体をもった別の怪物(・・・・)にその鋭い爪を振り上げる。

 怪物は白い獣の耳と尻尾の生えた奇妙な男性を襲っているようだった。白い装束はどこか民族的な意匠を思わせる袴めいたもの。

 この妖怪の山に棲む妖怪、天狗のうちの一種である『白狼天狗(はくろうてんぐ)』は、妖怪の山の警備と哨戒(しょうかい)を担当とする種族だ。灰色の身体を持つ怪物は、その天狗を手にかけようとしていた。

 

「うらぁっ!!」

 

「ぐっ……あッ……!」

 

 そこへ割り込んだ一匹の獣が、鋭い爪をもって怪物の身を裂く。ナマケモノに似た灰色の怪物はオオカミに似た灰色の怪物の速度を視認できず、接近に気づく間もなく攻撃を受けた。血のように噴き上がる灰を浴び、狼は目を光らせる。

 ナマケモノの怪物は咄嗟に鋭く伸びた鉤爪を振るって応戦するが、狼は素早くそれを回避し、メリケンサック状の拳をもって相手の身体を殴りつけた。

 音速の一撃はナマケモノの怪物の腹を的確に捉え、衝撃を全身に響かせる。間もなく怪物は灰色の身体に宿っていた仮初めの命を失い、さらさらと灰と崩れて朽ち果てていった。

 

「おい、あんた。大丈夫か……」

 

 狼の怪物はナマケモノの怪物から溢れた血のような灰で拳を染めたまま白狼天狗の男に振り返り、その無事を確かめようと異形の口を開く。

 ナマケモノの怪物の他にも、同じような怪物はこの山にいた。それらとの戦闘で負った腹の傷が深く痛み、さらさらと零れる灰が足元の紅葉と男の装束を灰色に染めていく。

 

「ば、化け物め……!」

 

 白狼天狗の男は、自分が助けられたなどと(つゆ)ほどにも思っていない。それどころか怪物同士の殺し合いに巻き込まれないようにその場に落ちていた石を掴み、狼の怪物に投げつけては一目散にその場を逃げ去っていった。

 残された狼は自らの手を見つめ、風に吹かれて消える灰を眺める。

 

「…………」

 

 静かに冴える月明かりの下。灰色の狼は慟哭(どうこく)するように──月を見上げて遠吠えを上げた。

 

 ―――

 

「……ふふっ。今宵は良い()が見られそうね」

 

 薄暗い木々の背で、それを見つめる女性が一人。青く神秘的な中華風の装いは、上品な振る舞いの中に隠し切れない(いびつ)さを思わせる。

 女性は紅葉の舞い散る山の中、足元に落ちていた灰を片手で(すく)う。指の隙間からさらさらと零れ落ちる灰に、深く底知れない不気味な笑顔を(たた)えながら──

 青く美しい髪を飾る(かんざし)をするりと抜き、山を形作る断崖の絶壁の中(・・・・・・・)へ消えていった。




シザースとルーミア。どちらも人間の命を食わせる or 食うということで。
それと、シザースは平成ライダー本編の(・・・)歴史において一番最初の純粋な(・・・)敵ライダー。ルーミアは東方ProjectがWindows作品になってから一番最初のステージボスを務めたという関連から。

本編外を含めればG4が、本編でも純粋な敵でなければアナザーアギトがいますが……

Open your eyes for the next Dream
第23話『旅の続き』


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【 妖怪の夢 ~ Mysterious Crimson 】
第23話 旅の続き


A.D. 2003 ~ 2004
それは、疾け抜ける夢の物語。

疾走する本能



 狂い乱れた四季の異変。春にも関わらず紅葉の舞い散る妖怪の山は、秋めく風に吹かれて豊かに寂しく泣いている。

 幻想郷で『山』と言えば主にここを指すとされる、広大な山。ここには幻想郷でも名立たる古参妖怪たちが多く住んでおり、こと観察と情報網においては他の追随を許さない極めて高度な組織的種族、『天狗』と呼ばれる存在の根城もある。

 

 天狗の中でも特に速度に優れた種は『鴉天狗』という種族であり、彼らは幻想郷の情報を収集し、新聞(・・)という形で伝える技能を持っている。近代的な紙の精製や文字の印刷、写真の撮影などといった技術は、同じく山に棲まう『河童』の叡智を借りたものか。

 

 この妖怪の山は、人間の里とは比較にならない文明を持っているとされる。天狗と河童の存在に加え、近年この幻想郷に現れた二つ目の神社(・・・・・・)に祀られた二柱の神々によって幻想郷の技術水準は飛躍的な進歩を遂げている。

 八坂神奈子と洩矢諏訪子は、妖怪の山に神社を構えた外なる神々だ。

 されど、この妖怪の山を統べる者は彼女らではない。彼女らは、妖怪の山の(トップ)、天狗社会の長を務める『天魔(てんま)』に掛け合って幻想郷のパワーバランスの一角を共有しているだけだ。

 

◆     ◆     ◆

 

 秋めく風吹く妖怪の山──そこへ、一つの影が疾風と共に舞い降りてくる。

 黒い羽根を落とし、風と舞い上がった紅葉と──なぜか足元を染めていた白き灰に顔をしかめながら。一人の少女が妖怪の山を覆う肥沃な大地を踏みしめた。

 

 少女── 射命丸 文(しゃめいまる あや) は、この妖怪の山にて一人前の新聞記者(ジャーナリスト)を務める鴉天狗である。

 黒髪のショートボブと同じ色の翼を畳み、白と黒の装いをもったフリル仕立ての天狗装束を揺らしながら。妖怪の山の大地を踏みしめる一本歯の赤い下駄靴(げたぐつ)。さらには頭部に飾る同じ赤の頭襟(ときん)を真っ直ぐに被り直し、(あや)は怪訝そうな表情で懐から一冊の小さな手帳を取り出す。

 

「白狼天狗の報告によると……この辺りだったわね」

 

 弾幕や妖怪の写真が載った彼女の手帳──『文花帖(ぶんかちょう)』は、新聞記者である文がネタとして集めた情報を束ねておくためのもの。そこには彼女が発行する『文々。(ぶんぶんまる)新聞』に使おうと溜めていたネタや写真が豊富に書き綴られている。

 しかし今、彼女が自分の持ち場を離れて山の中腹の森林地帯まで降りてきたのには、本人の意思に()らない理由があった。

 

 本来ならば、今この幻想郷で起きている奇妙な異変──謎の怪物の出現や各地で確認される四季の異常、そして未知のオーロラなど──

 そういった異変を取材、観察し、新聞として幻想郷に報道する。そのために今日までたくさんのネタや情報を集めてきたのだが、今は天狗組織の上層部たる『大天狗(だいてんぐ)』によって、天狗(われわれ)の了承なく不用意に山に踏み入った『侵入者』の相手をしろとの命令を受けてしまっているのだ。

 

「ただでさえ異変が重なって慌ただしいってのに、迷惑な話だわ……」

 

 文花帖をパタンと閉じ、文は溜息混じりに秋めく空を仰ぐ。これだけの異変をすぐさま記事にできないというのは新聞記者として焦れるような想いだが、これも彼女が優秀であるがゆえに大天狗たちに決められてしまったこと。

 いつかの秋の日。山の上に出来た新しい神社の調査としてだっただろうか。この山に踏み入った博麗の巫女。彼女の相手をしろと、命じられたこともあった。

 

 今度の侵入者も博麗の巫女のように、強く聡明な人物であれば──などと考えていると、文は視界の灰と紅葉の隙間に一人の人間らしき青年が倒れているのを見つけた。

 文花帖を懐にしまいつつ、妖怪の巣窟と言っていいこの山に踏み入ってしまった哀れで愚かなその青年に。文は呆れた様子を隠すこともなく、ゆっくりと近寄りながら疑問を抱く。

 

「(人間……? 侵入者って……まさかこいつのこと?)」

 

 文が抱いた疑問は、倒れている者が人間であったことにあった。妖怪の山に許可なく踏み入る人間は多くはないが少なくもない。そのほとんどが山に住まう妖怪たちに襲われ、あっという間に帰らぬ者となる。

 博麗の巫女や魔法使いのような者ならばそうはなるまい。取るに足らない──むしろこちらから保護すべき人間とは違い、彼女らは妖怪を退けるだけの力を持っている。

 

 大天狗は確かに『侵入者の相手をしろ』と言った。その言葉は、侵入者と戦って追い出せ、あるいはその力量を確認して報告しろ、というような意味を持つ。

 天狗という組織に属し、天狗社会の規律を弁えている文はそれを理解し、実行するつもりで山の中腹まで降り、この青年を発見したのだ。

 

「…………」

 

 動きやすそうな暗めのシャツにコート、グレーのジーパン。若いながらも歴戦の風格を思わせる茶髪は肩まで伸び、荒々しさの中にもどこか繊細さを感じさせる。

 近代的な服装から考えるに、この男は外の世界から来た外来人と見て間違いない。なるほど、幻想郷の常識に疎い外来人であるなら山に踏み入ってしまっても仕方あるまい。

 

 十中八九、妖怪に襲われたのだろう。腹部に怪我を負い、苦しそうに顔を歪めているところを見ると、幸いまだ息はあるようだ。古来より人を(さら)ってきた天狗の身、この程度の人間を運んで里へ送るくらいなら造作もない。が──

 

 灰と紅葉の散った土の上に横たわる青年に近づき、文は未だ拭えぬ疑問を想う。大天狗の命令に、幻想郷で度々確認されている例の『怪物』たちの存在──

 そして、このタイミングで現れた外来人。ただの偶然であろうか。あるいは、この外来人こそが大天狗の恐れる侵入者なのだろうか。

 ただの外来人に対して、『相手をしろ』などという命令が下るとは考えにくい──

 

「……これは面白いネタになるかもしれませんね」

 

 そう言って、文は無意識のうちに愛用の写真機(カメラ)をその手に現す。それは妖怪の山の眼、古来より伝わる妖怪『鴉天狗』としての文ではなく、己が写真と記事に誇りを持つ『新聞記者(ジャーナリスト)』射命丸文としての癖と言うべきもの。

 

 意図せず丁寧な口調に変わった小さな独り言と共に──文は微かに、口角を上げた。

 

◆     ◆    ◆

 

 青年は思考の中に灰を見ている。白く濁った光の中に、さらさらと崩れ落ちるような、儚く小さな『夢』を見ている。

 共に旅をした二人の仲間と土手に寝転がり、爽やかな日差しを受けていると、まるで自分自身が真っ白な洗濯物になったかのような気分になれた。

 粗雑でうるさい美容師見習いの少女。真面目すぎて気持ち悪いクリーニング屋の男。それでも強く己の夢と向き合う姿は、彼にとってもどこか羨ましいものがあったのだろう。

 

 青年―― 乾 巧(いぬい たくみ) には最初、夢がなかった。されど、夢を追う彼らと過ごしているうちに、やがて自分の中にも『夢』と呼べるものを見つけることができたのだ。

 

 きっと、これから先の人生で、彼はその夢に向かっていったのだろう。幾多の喜びと悲しみの連鎖を乗り越えて、夢を叶えるために努力していったのだろう。

 しかし、彼はすでに知っている。

 ――『これから先の人生』なんてもの、自分には与えられていないということを。

 

「…………夢、か」

 

 (たくみ)は妙に冷え込む風を肌で感じ、目を覚ました。夢の中で夢を語るなんて、自分らしくないと心の中で小さく自嘲する。

 まず最初に目に入ってきたのは夜。月明かりに照らされた静寂の山。さっきまで自分が寝ていた道外れの土手などではないことはすぐに理解することができた。

 

 身体を起こし、右手の平を見る。しっかり力は入るし、指を動かすことも問題ない。まだ夢の中にいるのかとも思ったが、腹部に走った強烈な痛みに顔をしかめると同時、巧はそれによってこれが紛れもない現実であると確信した。

 服をまくって自分の腹を確認してみると、そこには丁寧に包帯が巻かれている。全身に響く打撲のような痛みも、これが夢の続きである可能性を捨て去るには十分である。

 

「……っつ……」

 

「あ、気がついたみたいですね」

 

 不意に、巧は自身の背後から声を聞いた。思わず振り返ると、そこには自分よりも少し若いほどの少女が立っている。

 白いシャツに黒いスカート。一見すれば普通の装いに見えなくもない。だが、彼女の風格が重なればそれは一般的な日本人からは遠くかけ離れた──むしろ伝統的な『日本』らしさを帯びているようにさえ感じられるようだった。

 その手には巧の腹に巻き付けてある包帯と同じもの、見たこともないような古めかしい薬品などがある。状況から察するに、自分に手当てをしてくれたのはこの少女なのだろう。

 

「安心してください。別に取って食ったりしませんので」

 

 そう言って笑う少女――文の顔は、巧にとってはどこか信用できない。世の中には甘い言葉や優しげな振る舞いで人に近づき、すべてを奪おうとする者が大勢いる。ましてや、それが人の皮を被った『化け物』であることも──

 これまでも巧は、まさに文字通りの『化け物』を見てきた。何より彼自身が『それ』を良く知っている。

 その点を加味しても、少女の笑顔には──この世のものではない妖しさが透けて見えた。

 

「……なぁ、一つ()いていいか?」

 

「なんでしょう?」

 

 巧は文に先ほどから抱いていた疑問の一つを向ける。

 無論、聞きたいことは他にもあるが、自分の身体に起きていること、そして夜の山にいるこの状況、様々なことを考えた結果、第一に聞きたいことはすでに決まっていた。

 

「ここは──『あの世(・・・)』ってやつなのか?」

 

 その言葉を口にした瞬間、巧は自分の中で感じていた恐怖が強くなるのを感じた。

 

 ─―

 

 乾巧は、すでにその生涯を終えている(・・・・・・・・・・)灰の怪物(・・・・)として蘇り、誰かの夢を守るために戦い抜いて。その身はとうに肉体としての寿命を迎えている。

 土手で夢を語り合ったときにも、その身体はすでに限界を迎えていたのだ。灰と朽ちゆく自分の手を見つめながら、巧は最期に見つけることができた『夢』を抱いて目を閉じた。

 

 それが『乾巧』としての最期の記憶――となるはずだった。

 

「……? いえ、この世だと思いますが」

 

 怪訝そうに事実を述べる文。それを聞いて、巧は安堵したような、困惑したような、奇妙な感覚が拭えないでいた。

 自分は確かに、あのとき『二度目の死』を経験し、朽ち果てたはずだ──

 それなのにこの身を苛む痛みに加え、紛れもなく現実の景色、この世そのもの。それらが今この場にあることは当たり前であるはずなのに。巧にとって──それは違和感でしかない。

 

 今この場に自分が生きている(・・・・・)――と表現していいのか分からないが、巧は少なくも生身の身体をもって動くことができる。あのとき、土手で感じた身体の不調も、灰と崩れる肉体の不快感も、もはやどこにも残ってはいない。

 目の前の少女が『あの大企業』の関係者で、この身の崩壊を止めてくれた──などとは考えられるはずもなかった。

 となれば、やはりこの身は二度目の死(・・・・・)を経験してなお、さらに三度目の生(・・・・・)を得たとでも言うのだろうか? 仮にそんなことがあったとしても、いったい誰がなぜ、何のために。

 

「…………!」

 

 ふと、巧は視界に『それ』を見つけ、息を飲む。今までは自分のことやこの場の状況に気を取られていて気が回らなかったが、この夜の森には紅葉以上に目立つものがある。

 肥沃な大地を染める灰──紅葉を白く穢すかのような命の残滓。それがただの灰などではないことは、巧ならばよく知っている。それは先ほどまで夢に見ていた怪物たちの血であり肉であり、その身そのものとも呼べる新たなる細胞。

 

 この肉体(からだ)に流れるものと同じ、『変わり果ててしまったモノ』の証だった。

 

 あれはただの夢ではなかったのか。忌まわしきあの姿に成り果て、自身と同じ灰の怪物を殺して回っていた記憶は、現実のものだったのだろうか。

 

 ――そうだ。思えば、この光景には確かに見覚えがある。

 白き狼として駆けていた場所。月夜の下で灰と紅葉を掻き分け、誰に感謝されるでもなく同族(・・)を狩っていた場所そのもの。

 死後の運命さえも戦いを続けるしかないというのか。否、これはかつて戦うことを罪と背負った自分への『罰』なのかもしれない。

 ならば受け入れよう。この身の夢は灰と共に。それでも誰かの、夢を守ることはできる。

 

「どこへ行くつもりですか?」

 

「山を下りんだよ。……俺にはやらなきゃいけないことがあるからな」

 

 立ち上がり、服についた灰を落とす。できることなら二度と『あの姿』にはなりたくはないが、今は共に戦ってくれた仲間もいなければあの力(・・・)もないし、この身一つですべての怪物を狩るのは難しいかもしれない。

 これは自分への罰なのだ。ならば贅沢は言っていられない。たとえそれが苦痛であろうと、その身へ至るしかないのならば仕方あるまい。

 

 本当は朽ちた灰の身体などではなく、仲間と共に見た紅き血の光をもってこそ、罪を(あがな)うつもりだったが──

 あの力を開発した企業は、もう存在しない。あれだけのことをしたのだ。倒産して当然だったのだろう。仮にあの力が巧の手元にあったとしても、その大元となる企業が倒産してしまった以上、さながら『数千円ほどで買い戻せる腹巻』程度の意味しか残っていないはずだ。

 

「そのことなんですが、下山するなら明日にしたほうがいいと思いますよ? 特に、最近は妖怪でさえも襲われる事件が多発しているようですから……」

 

 巧は、文の言葉を聞いて足を止めた。怪訝そうな表情で振り返り、その意味を問う。

 

「妖怪……? おい、そりゃどういうこったよ」

 

「言葉通りの意味ですよ。でも、安心してください。私たちのような天狗(・・)は人を(さら)うばかりだと思われがちですが、ちゃんと保護もします。貴重な情報源(ネタ元)を失いたくはありませんからね」

 

 変わらず煽るような妖しい笑顔を見せたまま、言葉を返す文。その代わり、あなたのことを取材させてください──と。

 妖怪だの天狗だの、巧には文が何を言っているのか理解できなかった。

 そんなものがいると本気で信じているのか? それとも、自分が知らないだけでこういう場所には本当にそういったものが現れるのか?

 

 民族めいた奇妙な服装に加え、こんな夜の山で見ず知らずの他人を助けるなど、あいつ(・・・)のように真っ白な洗濯物じみたお人好しかとも思ったが──

 どちらかというと、あいつ(・・・)のように何でもばっさりと裂くハサミめいた性格の持ち主なのかもしれない。巧は少女に対する考え方を改め、できるだけ関わらない方がいいと判断した。

 

「……冗談じゃないぜ。ったく、付き合ってられっか」

 

「まぁ、すぐには信じられませんよねぇ。では、これならどうです?」

 

 再び文に背を向けて山を下りようとする巧に対して、文は小さく溜め息混じりに肩を竦める。現代の人間社会に慣れ親しんだ外の世界の人間が、妖怪の存在をすぐには受け入れられないのも当然だろう。何せ、妖怪(われわれ)は外ではすでに『幻想』の存在なのだから。

 

 頭で考えても幻想は理解できない。口で説明するよりも、実際に幻想の何たるかを目で見せたほうが手っ取り早い。強引な手段ではあるが、文には彼が異変に関わる外来人であると確信めいた予感があった。

 文は一度背中にしまった神秘の具現──『鴉天狗』として生まれ持った漆黒の翼を再び現す。妖怪の山の灰と紅葉に彩られた大地に、黒い羽根がいくつか落ちたのを見届ける間もなく、そのまま巧の両脇を持ち上げ、背後から羽交い絞めにする形でその身動きを封じ込めた。

 

「……っ! おい、何の真似……!!」

 

 巧の狼狽(ろうばい)も気にせず、すぐさま文は大地を蹴る。儚く舞い上がった灰と紅葉、そして黒い羽根に包まれながら、文と巧は秋めく山の遥か上空へと飛び上がった。

 

「…………!?」

 

 月明かりに照らされ、紅葉に彩られた山の上空から。漆黒の翼で羽ばたく文に強引に連れ出される形で踏み入った『空』の世界。年若い少女が自分を軽々と持ち上げて空を飛んでいる、という状況、さらにはその少女に人ならざる漆黒の翼が生えていることも、巧に『幻想』を突きつけるのには十分なものだった。

 加えて目にしたのは山の外の景色だ。巧は自身が生きた外の世界において、『西暦2004年』の1月を最期の記憶としている。この山が秋めく景色であったのも、彼の記憶とは齟齬(そご)があった。しかし今、彼の目に入った光景はその程度の齟齬では済まない。

 

 春、夏、秋、冬。知り得る限りのすべての季節が、ここにはある。そのうえ巧は若くして全国を旅する生活を続けていたことがあったが、ここまで日本じみた(おもむき)の景色であるにも関わらず、この場所に一切の心当たりがないのだ。

 またしても夢の可能性が頭を(よぎ)る。その度に全身に響く痛みがそれを否定する。幻想という現実をその目で体感し、その身体で味わい──巧はようやくその『理』を認識した。

 

「どうです? これで信じていただけました?」

 

 黒い翼をゆっくりと羽ばたかせながら、文は混乱している様子の巧を地上に下ろす。自由の身になった巧に対し、自身の背にある黒い翼をこれでもかとアピールしながら。

 

「……お前も人間じゃないってのか」

 

「ええ、天狗です。鴉天狗。この幻想郷では……おっと、失礼」

 

 文はおもむろに翼を消失させる。妖怪という存在はその身の在り方を変えるなど容易い。空を飛ぶための翼は幻想的な意味、あるいは妖怪の法則によるもの、彼女の肉体的な部位としては定義されていないため、自由に出し入れができるのだろう。

 ただ妖怪の実在を証明しても、それは本来の意味の実在とは大きく異なる。現に、外の世界では妖怪は未だ幻想のままだ。

 それを説明するべく、文は『幻想郷』についてを語った。

 この空間、博麗大結界の中に設けられた『世界』と呼ぶべき場所――この場所を現実から切り離し、幻想の楽園と定義することで定着した箱庭。

 

 巧は文の話を聞いて頭の中が混乱の極致に達していたが、今しがた見た光景はまさしく事実。目の前の少女に感じていた違和感も、恐らくは彼女が妖怪であるという点にある。

 しばらく時間を要し、巧はようやく自分の中に納得のいく形で考えを整理できたのだろう。眉をひそめた仏頂面のまま何やら深く考え込むようにどこかを見つめているものの、幻想郷という法則自体はひとまず受け入れてくれたようだ。

 

 外来人や外の世界といったものも一応は理解してくれただろう。自分が外来人で、それがどれだけ妖怪にとって格好の餌になるか、未知の怪物に対してどれだけ無防備な存在か。その程度は知っておいてもらわなければ、ただ守り抜くことさえ困難になる。

 危機感が薄いのか自分に執着がないのか、妖怪や怪物に対しての説明には恐怖の顔一つ見せることはなく、一番に顔色を変えたのは『幻想郷に招かれるのは人々の記憶や世界から忘れられた者』と説明したときだった。

 招かれざる身にて幻想郷へと迷い込む者もいる、外来人の多くはそちらが該当するとも伝えたが、彼にとって『人に忘れられる』という事実は何かを感じさせるのだろう。

 

「申し遅れました。わたくし、清く正しい幻想ブン屋、射命丸文です。あなたのお名前は?」

 

 変わらず営業的な笑顔で文が名乗ると、巧は深く考えるような仕草を見せる。眉間のしわを一段と濃く頭を悩ませ、極めて訝しそうな表情で文の笑顔を見ていた。

 

 しばらくその思考を続けた末、巧はようやく深い溜息を吐き、無愛想に口を開く。

 

「…………………………………………乾巧だ」

 

「沈黙が長すぎません?」

 

 よほど人に裏切られるのが怖いのか、あるいはその逆か。文にとって、乾巧という男は外見から受け取れる刺々(とげとげ)しさでは隠し切れないほどの繊細さ、臆病なまでの優しさを感じさせる──ような気がした。

 まるで自信の無さをわざと隠そうと冷たく振る舞おうとしているかのような。自分の弱さを誰かに見せないよう、牙を剥いて周りを威嚇している子犬のような。

 

 少女のように見えても、射命丸文は天狗として千年以上の時を生きた古参の妖怪である。その観察眼は種族としても彼女個人としても妖怪(ひと)並み外れており、幻想郷の眼とも形容される天狗の名に恥じないだけの鋭さを持っている。

 その不躾(ぶしつけ)な視線に耐えかねたのだろう。巧はあからさまに不機嫌な表情を見せると、再び文に対して苛立ちを向けた。

 少し遠慮がなさすぎたかもしれませんね──と反省しながら、悪びれる様子もなく巧から視線を外し、周囲の景色を染める灰を見回す。

 

 いつからだろうか。少し前まではこの妖怪の山も、本来あるべき幻想郷の気候として春の暖かさに満ちていた。それが四季の狂いによって秋の涼しさを先取りし、あまつさえ紅葉と共に奇妙な灰が山の彩りを染めている──

 これが何なのかは分からないが、タイミングからして異変と無関係とは思えない。同じく無関係とは思えない外来人の乾巧にもそのことを確認してみる価値はあるはずだ。

 

「ところで、(いぬい)さん。この辺り、妙に灰が多いんですが……何か知りませんか?」

 

「……さぁな」

 

 思わせぶりな視線を投げかけ、灰についてを文が問う。巧は文から視線を逸らし、考えるまでもなくぶっきらぼうに答えた。

 その反応を見て、文は巧が『何かを知っている』ことを確信する。ただ答えたくないのか、それとも何か答えたくない事情でもあるのか。どちらにしろ、ますますこの男を手放すわけにはいかなくなった。

 向こうはこちらを信用していない──それは些細なこと。問題はこちらが向こうを信用できるのかどうかだ。不用意に信じ込めば、こちらの情報が漏れる可能性もある。ここは普段通り、相手の力量に合わせて少しづつ接触を試みるのが得策であると判断した。

 

 天狗とは、古来より極めて狡猾(こうかつ)な種族である。強大な力を持つがゆえに、強者には媚びへつらい、弱者には威圧的に振る舞い、時には相手の知力や力量に合わせてこちらの出方を調整する。特に天狗らしい文は、その狡猾さを誰よりも備えていた。

 

 文が次の行動を決めようとしていると、不意に巧の背後に茂る木々がガサガサと揺れる。山に棲む獣か妖怪か、文が感じ取った気配はそれが後者であると示してくれていた。

 

「……ウゥ……ゥ……ォオ……」

 

 木々の隙間から現れたのは、文の推測通りの異形。この山に住まう妖怪の一種、山の動物が妖獣を経て知性を獲得した、最も人肉に貪欲なタイプの妖怪だった。

 巧の身を守ろうと文は妖怪の前に立つ。この程度の妖怪なら弾幕ごっこも必要ない。

 

「乾さん、少し離れていてくだ──」

 

 せめて命を奪わず、撃退に留めようと手に妖力を込めた瞬間。目の前の妖怪が、おもむろに手を伸ばしてきたかと思うと──

 

 ─―妖怪は、伸ばした腕の先からさらさらと灰と朽ち、崩れ落ちてしまった。

 

「……!? いったい何が……?」

 

 文は目の前で妖怪が『灰化』したことに驚き、言葉を詰まらせる。その様を見たのは今が初めてだが、その場に(のこ)された灰は、まさしく妖怪の山の大地を染め上げている死の灰色と同じもの。幻想郷に起きている異変とこれらの灰、それらが示す答えは、まさか──

 

「……ちっ、こいつもハズレ(・・・)か」

 

 頭の中で思考を巡らせる文。そんなことなどお構いなしに、夜の山に踏み入るもう一人(・・・・)の人影。たったいま妖怪が灰と朽ちたこの場所に現れたのは、あろうことか乾巧と同様に現代的な服装に身を包んだ『人間』であった。

 ただでさえ危険の多い妖怪の山に、今まさに起きた未知の事象。そんなところへ踏み込まれてはもはや次の瞬間には死んでいてもおかしくない。

 文は巧と同様の外来人だと判断した青いジャケットの青年、井沢 博司(いざわ ひろし) という男を少しでも山の脅威から守ろうと、可能な限り不用意なことをさせないように警鐘を鳴らした。

 

「今度はまた外来人……? ここは危険です! 何か未知の存在が──」

 

 しかし、井沢(いざわ)は文の言葉に耳を貸す様子は見られない。それどころか不気味に口角を吊り上げ、さっきまで一体の妖怪であった灰の山を踏みつける。

 

 次の瞬間。井沢の顔には、灰色とも黒ともつかぬ『怪物』の影がぼんやりと浮かんだ。

 

「……お前も妖怪か。運が良ければ、俺たちと同じ(・・・・・・)になれるかもな」

 

 顔に映し出された灰の影は、心の悪意と戦意を押し広げるかのように。直後、井沢の身体は全身が灰色に無彩(いろど)られた異形の怪物へと変わり果てる。その姿はまるで人間の形を得た毒の魚──さながら『オコゼ』の怪人といった装いだ。

 

 白く濁った魚の両目。甲冑めいた姿には、やはり魚の鱗のような生物的ながら無機質な装甲の意匠が見て取れる。

 加えて腰に装うベルト状の装飾品。その中央に刻まれているのは、絡み合う輪の中から三方向に伸びた矢印の紋章──『オルフェノクレスト』と呼ばれる『死と再生』の象徴だ。

 

「か、怪物……!? じゃあ、例の侵入者って……!」

 

「…………!!」

 

 巧は、その怪物を見て瞳に激情の色を灯らせた。死よりも暗い奈落の淵。死灰の永遠を零す青く冷たい炎の色は、夜空に鱗粉を舞わせるモルフォチョウの如し。

 死より蘇った灰の怪物の姿。詩人と天使の名を併せ持つそれは人によっては救世主であったかもしれない。しかし──その本質は、救済とは名ばかりの一方的な『死』である。

 

「オルフェノク……!」

 

 憤怒と憎悪に塗れた巧の言葉に、文はその異形の名を知った。人の抱いた夢を奪う、無慈悲な灰色の使徒たちは──乾巧の世界において『オルフェノク』と呼ばれている。

 

 巧の生きた世界における、小さな地球(ほし)の意思による法則。一度は死んだ人間が『灰の細胞』を備えて蘇り、オルフェノクとして覚醒する。あるいは、オルフェノクの力を流し込まれて死んだ人間がオルフェノクとなる。

 それらの呪いはすでに消えたはずだった。巧は長い戦いの末に『オルフェノクの王』と呼ばれる存在を打ち倒し、オルフェノクの未来を閉ざしたはずだった。

 

 ――火事の炎に包まれてオルフェノクとなった、自分自身も含めて。

 

 しかし、倒したはずの怪物、旅の始まりの夜に戦ったあの男が。またしても巧の前に姿を現している。オコゼの特質を備えたオルフェノク、『スティングフィッシュオルフェノク』は、まさしくあの日の男と同じ目をしていた。

 人の潜在的な『戦う姿』が具現化した彼らオルフェノクという怪物に、同じ姿をした別人など滅多にいない。あの怪物は、正真正銘──巧がすでに倒したことのある相手だった。

 

「…………」

 

 一体の怪物と二人の人妖は気づいていない。山奥の林道、月明かりの影に潜むもう一人(・・・・)の青年の存在に。

 灰を撒き上げた夜の風に、深く被った帽子の(つば)を押さえながら。黒い服の青年は、その手に持ったアタッシュケース(・・・・・・・)を彼らのもとへと無造作に放り投げた。

 

 ガサリ、と。山の木々の中へそれは落下する。井沢──スティングフィッシュオルフェノクは、そのケースの存在にひどく驚きながらもそれを手に取り、英字の書かれた表面を撫でた。

 

「これは……!」

 

 スティングフィッシュオルフェノクは、特殊な字体で『SMART BRAIN(スマートブレイン)』と表記されたケースのダイヤルロックを解除しようとする。

 しかしその直後、死角から飛んできた一陣の風──と呼ぶにはあまりに鋭利なその刃に腕を裂かれ、傷口から灰と零れる痛みに怯んでケースを放り投げてしまった。

 

 怪物に対して鋭く視線をぶつける、山の守護者。射命丸文は鴉天狗として生来『風を操る程度の能力』を有している。真空状に束ねた刃をもってすれば、堅牢な妖怪の鎧であろうと切り裂くことは可能だ。

 相手が異変に関わる未知の怪物である以上、警戒を怠ることはできない。全力でないにしろ、本気で放ったつもりの一撃を、掠り傷で済まされてしまうとは。

 

 文は怪物が興味を示したケースが何らかの手がかりになると判断し、風を巻き上げることでそれを自分の方へと持ってきたのだ。

 怪物がどんな攻撃手段を持っていようと、この距離ならば。弾幕ごっこに慣れたこの身、たとえ常人には視認すらできない飛び道具が飛んできても、避け切れるだけの自信はある。

 

「動かないでください。侵入者(あなた)の処遇は大天狗様に報告の後、(しか)るべき──」

 

 ――最後まで言い切る前に、文は視界に灰色の触手が飛び迫るのを目にする。毒魚じみた怪物の指から突き伸ばされた触手は針のように鋭く、その先端が文の心臓を目掛けて飛来したが、幻想郷最速を誇る彼女はその一撃を辛うじて回避できた。

 自身の背後に突き刺さった触手の先端が山の草木に青い炎(・・・)を灯らせる。物理的なものではないのか、青い炎はそれ以上燃え広がることなく即座に消えてしまった。

 

「何のつもりだ? 『記号』を持たないお前では、ベルトの力(・・・・・)を引き出すことはできない」

 

 シュルシュルと触手を指に戻していくスティングフィッシュオルフェノク。月明かりに照らされた白濁の影が、裸身の姿で言葉を綴る。

 文が手に持つ銀色のアタッシュケースを見て、怪物は恨めしそうにそう吐き捨てた。

 

「……記号? ベルトの力? いったい何の話を──」

 

「いいから黙って……それをよこせ!!」

 

 スティングフィッシュオルフェノクは声を荒げ、人型の脚を持っていた下半身を虚ろに歪めてみせる。次の瞬間、さっきまで両脚だったそれは魚の『尾びれ』のようになり、さながら人魚のような姿を持つ『遊泳態』へと変化を遂げた。

 水のない空中を自在に遊泳し、何の苦もなく空を飛び回る。オルフェノクはオコゼめいた鋭利な頭部を武器として頭突きの要領で滑空し、凄まじい速度で迫ってきた。

 

 この程度の速度なら、回避するのは造作もない。しかし、この銀の箱(アタッシュケース)を手放すか否か、乾巧を守るべきか。それを考慮に入れるとなると、粗末な攻撃も厄介なものに思えてくる。文は舌打ち交じりに怪物を睨み上げた。

 

「おい! お前、文って言ったな! そのケースをこっちに渡せ!! 早く!!」

 

 切羽詰まった様子の巧の叫びを聞き、文は思わず足を止めそうになる。飛んでくる怪物を避け続けながら巧の方へと振り返るが、あちらも自力で回避を続けるのは限界のようだ。

 

「な、なんですかいきなり!」

 

あいつと戦う(・・・・・・)には、とにかくそれがいるんだよ! 急げ!!」

 

 巧はスティングフィッシュオルフェノクから文へと視線を下ろし、彼女が手に持つアタッシュケースを受け取ろうと手を伸ばす。その表情は、先ほどまでの死灰めいた仏頂面ではなく、まるで赤き血に満ち溢れた──『覚悟』の色を感じさせた。

 

「なんだかよく分かりませんが……! 怪物(あっち)よりは信用できそうです!」

 

 両手に構えたアタッシュケースを巧に向けて。文は渾身の力で放り投げる。放物線を描くケースの軌道に灰色の触手が突き伸ばされるが、巧はその一撃を肌に掠めてでもアタッシュケースを手に取ることを優先した。

 巧の右肩から血が滴る。紅葉と灰に満たされた地面に命の赤が灯る。だがこの程度の痛み、夢を奪われる者の苦しみに比べたら──

 

 忌まわしくもある、守護者のための力。されど巧は知っている。このアタッシュケースがもたらすのは、力なき人類にとっての守護者ではない。――彼らオルフェノクを統べる王をこそ守るための、言わばオルフェノクの守護者。

 その力は、人類が使うべきではない。なればこそ、オルフェノクである自分が。オルフェノクを(ほふ)るための牙と成す。夢を守るための罪としてこの身に背負う。

 

 アタッシュケースを開き、その手に馴染んだ『ベルト』を手に取る。カチャリと響く無機質な感触が、巧にありし日の戦いを思い出させた。

 

「……くっ……!」

 

 迷っている暇はない。頭上を舞い泳ぐオルフェノクは未だこちらに殺意を向けて突っ込んで来る。巧は飛来する怪物を避けるべく地面を転がり、灰と紅葉に塗れた黒いコートの上から銀色のベルトを腰に巻いた。

 ベルトの名は『ファイズドライバー』。これまで何度もその身に装い、オルフェノクと戦ってきた守護者の、あるいは処刑人であり、救世主となった戦士のベルト。

 

 銀色に輝く機械仕掛けのベルトには、中央に空いた長方形の溝を覆うように赤いラインが入っている。脈動する光の流れを感じ、巧はオルフェノクが放った触手の一撃によって散乱してしまったアタッシュケースの中身に視線を馳せた。

 

 足元に落ちていた円筒状の物体と正方形の物体を手に取り、それぞれファイズドライバーの両端、サイドバックルのハードポイントにマウントする。

 加えて再び手を伸ばし、空から飛び迫る怪物の猛攻を掻い潜って迷うことなく黄色いプレート状のパネルが取り付けられた折り畳み式の『携帯電話』らしきデバイスを掴み取ると、巧はそのまま立ち上がって親指を指し込んで携帯を開きつつ、慣れた手つきでコードを入力。

 

 ――『5』『5』『5』――

 

 携帯電話型トランスジェネレーター『ファイズフォン』への入力を完了するために、巧は通話ボタンの上にある『ENTER』のキーを力強く打ち込む。

 

『Standing by』

 

 ファイズフォンが入力の認識を告げる電子音声を発したのを聞き届け、けたたましい警告音を響かせるファイズフォンを人差し指で畳む。灰と紅葉に満たされた大地に強く両脚を広げながら、巧は右手に持ったファイズフォンを上空へと高く掲げ──鋭く怪物を睨みつけた。

 

「――変身ッ!」

 

『Complete』

 

 雄々しき発声と同時に、巧は掲げたファイズフォンを腰に装うファイズドライバーの中央へと叩き入れる。右端に突き立てたそれを左側に倒し、水平になるように傾けると、ファイズフォンは再び電子音声をもって認識の完了を告げた。

 

 直後、ファイズドライバーの赤いラインがファイズフォンから供給されたエネルギーを受け取ってより強く、紅く輝き始める。ドライバーから伸びた赤いラインが巧の身体へ、四肢へ、その全身へと広がっていく。

 一瞬のうちに月夜の山中を染め上げるほどの真紅の閃光が輝き溢れ、文とスティングフィッシュオルフェノクは闇を切り裂く光の眩さに思わず顔を覆っていた。

 

 やがて閃光は晴れる。紅き光が小さくなるにつれ、夜色の闇が再び舞い戻る。文が慣れ親しんだ暗闇にその目を開けると──

 そこには、見たこともない鎧が。機械仕掛けの意匠を持つ、仮面の戦士(・・・・・)が立っていた。

 

「い、乾……さん……!?」

 

 文にとっても、その変化は想定外のもの。――否。あるいは心のどこかで期待していたのかもしれない。幻想郷各地で確認される未知の怪物と、それらと戦う『戦士』の存在。

 乾巧がそのどちらか(・・・・)に該当するのなら、後者(・・)であってほしい──と。

 

「…………」

 

 巧は一度は失った紅き光の力を再び手にした。身体を覆う漆黒の強化スーツに走る、紅く流れる光のライン。スーツの全身を循環する『フォトンブラッド』の熱が、己の身体を微かに苛んでいくのを──どこか他人事(ひとごと)のように感じながら。

 右手首を軽くスナップし、変身(・・)の感覚を手癖でもって取り戻す。いつものように身体を鳴らし、そのスーツを自らの仮面(・・)と戒める。

 

 胸部や手足を保護する銀色の強化装甲。黒いスーツに配されたフォトンブラッドの流動経路。そして頭部は真円形に広がった黄色い複眼状のファインダーに、さながら電子のサメじみたヒレ状の触角、銀色の大顎。

 フォトンブラッドの流動を司るエネルギー経路、『フォトンストリーム』の色は赤。この輝きは最も低い出力ではあるが、安定性と拡張性に優れている。

 

 これまで何度も変身してきた、オルフェノクの王を守るための姿。されど、巧はその力を真逆の意図で用いた。王を守護することができるのなら、王を殺すこともできる。巧はオルフェノクのために作られた『ファイズ』の力を、オルフェノクから人間を守るために使ったのだ。

 

「貴様……! なぜ幻想郷(ここ)でベルトの力を……!!」

 

 紅き光を纏った巧──ファイズの姿を見て、夜空を泳ぐスティングフィッシュオルフェノクが声を漏らす。思わず上空を仰ぎ見た怪物の視線の先は、ただ夜の(とばり)が広がるだけの幻想の空。彼が訝しんだ『博麗大結界』の境界は、肉眼で目視することはできない。

 本来ならば、たとえベルトがあろうと『この場所』での変身は不可能なはず──

 そう聞いていたスティングフィッシュオルフェノクが動揺したのも当然、幻想郷には、ファイズへの変身に不可欠なものが存在しないからだ。

 

 とある大企業が有する軍事衛星、『イーグルサット』は、幻想郷には存在しない。されどこの場で巧が変身を遂げたのは、あるいは彼が存在した『ファイズの世界』との接続が果たされている影響だろうか。

 ファイズの世界を統べる法則が接続された幻想郷。今この世界には、本来備える法則に加えて三つの法則、ファイズの法則を含めれば五つの法則が宿っている。

 

 巧が辿ってきた旅路は決して消えず。彼が守り抜いた夢の道はきっと、今もどこかで誰かの旅路となっている。今度は、己が抱いた夢を叶えるために。信じた仲間たちと共に、それぞれの答えを見つけ出すために。

 

 世界中の洗濯物が真っ白になるみたいに、みんなが幸せになりますように──

 

 今際の際に抱いた、儚く小さな、吹けば消え入りそうな灰の如き夢。だが、たとえ紛い物の命だとしても。再び芽生えたこの仮初めの身体をもって、巧は夢の旅路を刻む。かつて果たせなかった夢、かつて夢見た理想を求める。故に、乾巧はその身に『戦う罪』の証を背負うのだ。

 

 血染めの旅路。灰色の夢。終わらぬジレンマを歌う悲しみが、幻想の夜に疾走(はし)り出した。




井沢博司くんファンの方、解釈違いなどあったらすみません(いるのか?)
友達と一緒にいたときの性格より本性を明かしてからの性格をイメージしてます。

Open your eyes for the next φ's
第24話『真っ白な洗濯物』


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第24話 真っ白な洗濯物

 黒と銀をその身に装い、真紅の閃光を纏う戦士。乾巧が生きた世界における日本有数の巨大複合企業『スマートブレイン』社が開発した『ライダーズギア』と呼ばれる三本のベルト(・・・・・・)のうち、最も新しく作られたその力は先の二本に備えられた出力の高さを犠牲にし、代わりに優れた安定性と拡張性がもたらされた。

 ファイズフォンとファイズドライバー。運用の前提となるその二つに加え、ツールとなる複数のデバイスを含めた一式の総称は『ファイズギア』と呼称される。

 

「……おい、怪我はないか?」

 

「え? あ、はい……」

 

 巧はファイズとしての黄色い複眼で、夜空を舞い泳ぐスティングフィッシュオルフェノクから視線を外し。自身の傍に立っている文の身を気遣った。

 文は戸惑いながら答えるが、目の前にいる仮面の戦士が先ほどまで話していた乾巧であるとの実感がなかなか湧かない。言葉の刺々しさや荒っぽさの中に見え隠れる優しさ、何よりついさっきまで聞いていたその声から、この戦士が巧本人であることには間違いないのだろうが──

 

「……! どけ!!」

 

 再び上空から飛び迫ってきたスティングフィッシュオルフェノクを見て、巧は仮面の下で表情を変える。目の前の文を無造作に引っ張り上げ、彼女の前に出るようにしてオルフェノクの攻撃から文を庇った。

 ファイズの腹部にオルフェノクの鋭利な頭部が直撃し、巧は怪我を負っている腹へのダメージに思わず小さく顔を歪める。

 再び滑空してきたスティングフィッシュオルフェノクに対しては反射的に右脚を振り上げ、今度は返す形でその腹に渾身の一撃を見舞い、遥か上空まで打ち上げた。

 

「ちっ……!」

 

 スティングフィッシュオルフェノクは尾びれを器用に使い、巧と文に背を向けて逃走を図ろうとする。しかし、巧はそれを許してやるつもりはない。

 

「……っ! 逃がすか!」

 

 ファイズドライバーに装填されたファイズフォンを再び垂直に立て直し、ドライバーから引き抜く。巧はまたしても親指で携帯を開き、素早い動作でコードを入力。変身のときとは違い親指で複雑に『103』のコードを刻むと、(はじ)かれたように『ENTER』のキーを打ち込んだ。

 

『Single Mode』

 

 すかさずファイズフォンの上部を左手で持って斜め左に折り曲げ、その先端に伸びるアンテナの先を『銃口』とする。人差し指を引き金(トリガー)に置けば、さっきまで携帯電話だったそれは瞬く間に特殊な銃身を持つ光線銃『フォンブラスター』へと変形を遂げていた。

 

 単発式の『シングルモード』はフォトンブラッドを圧縮した高密度の光弾を放つことで、長大な射程と精密性を両立した射撃を可能としている。

 巧は上空を舞い泳いで逃げようとするスティングフィッシュオルフェノクに対し、フォンブラスターの引き金を引いて真紅のフォトンブラッドを光の弾丸として撃ち放つ。

 

「……ぐっ……!」

 

 光の弾丸によって尾びれの一部を焼き貫かれ、体勢を崩すスティングフィッシュオルフェノク。距離を取っては格好の的になってしまう。それを悟ったのか、今度は上空で旋回し、鋭利な頭部を振り上げて巧の方へと滑空してきた。

 巧はフォンブラスターのままとなっている状態のファイズフォンへと再びコードを入力。慌てることなく即座に『106』のコードを打ち込み、そのままエンターキーを打ち込む。

 

『Burst Mode』

 

 再び響く電子音声。直後に撃ち放たれた三点バースト(・・・・・・)の濃縮フォトンブラッド光弾が続けざまに発射され、ファイズへと向かうオルフェノクに炸裂した。

 連発式の『バーストモード』の機能は威力こそ十分であるものの、連射性能に特化しているため精密射撃には適していない。その分、対象を絞る必要のない場面においては標的に確実なダメージを与えることができる。

 ─―三発、六発、九発、十二発。四度の引き金で放たれたフォトンブラッドの光弾は、バーストモードの恩恵によって必ずその三倍が放たれた。

 

 たまらず撃ち落とされたスティングフィッシュオルフェノクはそのダメージから遊泳態を解かれ、大地に両脚を着く『格闘態』の姿へと戻されてしまう。

 巧のフォンブラスターはバーストモードの射撃を繰り返して一時的なエネルギー切れを起こしたため、引き金を引いても光弾は発射されない。それを好機と見たのか、スティングフィッシュオルフェノクは隙を見せた巧に対し、オコゼらしく棘の覆われた拳を振り上げてきた。

 

「…………」

 

 そこへ再び、巧はファイズフォンにコードを入力。コード『279』は、打ち込まれたエンターキーの入力をもってその認識を完了する。

 

『Charge』

 

 フォトンブラッドのチャージ。フォンブラスターへの残弾の再装填を果たし、巧は再びオルフェノクにフォンブラスターの銃口を向けると、自身に向かってきた怪物の身体を目掛けてバーストモードのままとなっているフォンブラスターの光弾を叩き込む。

 エネルギー切れと見て油断していたスティングフィッシュオルフェノクはまとめて放たれた光弾をまともに喰らってしまい、成す術もなく後方へと吹き飛ばされてしまった。

 

「くそっ……!」

 

 撃たれた胸元から白煙を立ち昇らせ、身体を苛むフォトンブラッドの衝撃に灰を零すスティングフィッシュオルフェノク。

 零れる灰を惜しむことなく灰の細胞によってその手に大型の三叉槍を形成。身の丈を超えるほどの大振りな槍を構え、スティングフィッシュオルフェノクは再びファイズのもとへと攻撃の意思を振りかざす。

 巧も応戦してフォンブラスターの引き金を引くが、放たれた光弾はスティングフィッシュオルフェノクの三叉槍にすべて打ち払われた。光弾の当たった三叉槍から灰が零れるが、距離を詰められればフォンブラスターといえど効果的ではない。

 

 ファイズフォンを折り畳み、再びファイズドライバーへと戻す。すかさず振り下ろされたスティングフィッシュオルフェノクの三叉槍を両腕で受け止め、巧はまるで不良の喧嘩のような、それでいて無駄のない動きで拳を振るった。

 全身を走るフォトンストリームから放たれた紅き光がオルフェノクに効果的なダメージを与えていく。疾走する衝撃はオルフェノクさえ屠る牙となり、纏う自身にも影響はあるものの、フォトンブラッドの輝きはオルフェノクにとって最も有害な光として灰の身体を苛む。

 

 ――

 

「あれが噂に聞く『仮面ライダー』というものなんでしょうか……! こんなところで巡り逢えるなんて、なんという幸運! このネタは見逃せません……!」

 

 文はその光景を手元のカメラ越しに観察していた。夜の山に映える赤い輝き、複眼が照らす黄色の光を垣間見て、ファインダーを覗く文の瞳は好奇心に溢れている。

 

 仮面ライダー。天狗組織において共有された情報の一部を、文は密かに手に入れていた。聞いていた情報とは少し違うものではあったが、仮面の戦士へ変じて未知の怪物と戦いを繰り広げる謎の外来人──という特徴は、今まさに目の前の男が該当している。

 文とてその名と特徴を微かに聞き及んだ程度であり、その力の正体などを知っているわけではなかったが、こうして直に出会えるとは。

 乾巧が異変の手掛かりになるかもしれないという自身の直感は正しかった。巫女の勘もかくやというジャーナリストの第六感を誇りに思うと同時、肉眼でも捉えたその光景をしっかりとメモに記す。こういうときのためにこそ、文はネタ帳――文花帖を常に持ち歩いているのだ。

 

「おらっ!」

 

 オルフェノクの槍を奪い取り、返す形で投げつける巧。オルフェノクは咄嗟にそれを打ち払ったが、その反応が思わぬ隙となって巧に攻撃の猶予(ゆうよ)を与えてしまう。こちらも負けじと素早く拳を振り上げ、巧へと突き出した。

 その一撃を掻い潜り、巧は鋭く右脚を振り上げる。オルフェノクの腹部を深く蹴り穿ち、巧はファイズの複眼をもって相手の腹に青白い炎が上がるのを確かに目にするが──

 

「(こいつ……あのときより……)」

 

 渾身の前蹴りを叩き込んだにも関わらず、オルフェノクの腹から青白い炎は消える。かつてはそれだけで撃破できていたはずのスティングフィッシュオルフェノクは、多少苦しみこそしたものの、致命傷と呼べるダメージは負っていないようだ。

 

 巧にとってファイズとしての戦闘はかつてと同じ感覚のまま。となれば、一度目の死を──否。オルフェノクである以上は二度目の死であろう。それを経験した後、さらなる復活を遂げたことで何らかの進化を遂げたのか。

 このスティングフィッシュオルフェノクは明らかに以前よりも強くなっている。耐久力もさることながら、先ほどから感じていた動きや攻撃の重さから見ても間違いない。

 

「…………」

 

 ならば──と。巧は密接していたスティングフィッシュオルフェノクを渾身のタックルで突き飛ばし、ファイズドライバーの右腰に備えた円筒状のデバイスに触れる。

 使えば必殺の一撃を放ち得るツールとなるファイズギアの一つ。巧にとってもそれはこれまで数々のオルフェノクを粉砕せしめてきた、まさに切り札。たとえ相手が強化されていようと、この一撃を受ければ消滅は確実だろう。

 

 故に、巧はそのデバイスを手に取ることを躊躇(ためら)った。

 相手はオルフェノクだ。人の夢を奪い、未来を灰に染める無慈悲な怪物だ。情けをかける必要などない、が──

 共に戦った仲間の夢を思い出す。――オルフェノクなんて滅べばいい。無残にもオルフェノクに殺された、いけ好かないが大切な仲間の一人だった男は『オルフェノクの根絶』という揺るぎない信念を掲げて戦っていた。

 一度は同じ理想を夢見たこともある別の仲間の夢を思い出す。――人間とオルフェノクの共存。信じていた人間に、人類そのものに裏切られ、叶わぬ夢を諦めて人の心を捨て去った男は、最期にもう一度だけ、巧に答えを求めて『人間』の側に立って散っていった。

 

 誰かの夢を守るということは、別の誰かの夢を穢すということ。守ることと戦うことの連鎖の果てに、終わらぬジレンマを感じながら。巧は最期に見つけた自分の夢にこそ、殉ずる覚悟を決めたはずだった。

 世界中の洗濯物が真っ白になるみたいに、みんなが幸せになりますように。

 人間もオルフェノクも問わず、すべての人々が共に笑えるなら。黒いスーツの戦士も、灰と歪む怪物もいらない世界があるのなら──巧はそんな世界こそを守っていきたかった。

 

「ぐっ……馬鹿め……!」

 

「……っ!」

 

 刹那の逡巡を経て、ファイズの複眼に再び灰色の三叉槍が映る。一瞬の隙を突いて、スティングフィッシュオルフェノクは巧の心臓を狙ったのだ。

 判断の遅れを悔いる暇もない。咄嗟に両手を交差させようとするが──間に合わない。

 

「はっ!」

 

 ─―だが、ファイズの装甲がそれを受けることはなかった。

 背後にいた文が巧の反応を見て妖力を圧縮し、それを疾風の光弾としてオルフェノクに向けて撃ち放ったためだ。

 風と妖力を練り込んだ鴉天狗のエキストラアタック──【 天狗烈風弾(てんぐれっぷうだん) 】は瞬くような速度でスティングフィッシュオルフェノクの三叉槍をその手から弾き飛ばし、加えて文は右手に出現させた天狗の葉団扇(はうちわ)で風を操る。

 文は扇状の刃めいた光弾【 補扇(ほせん) 】を地面から竜巻のように巻き上げて怪物を上空へと打ち上げつつ、その身体を微かに切り裂いていった。

 

 オルフェノクが動きを見せる直前、先ほど放った天狗烈風弾が山の大樹にぶつかり、木霊(こだま)するように跳ね返る。背後から無警戒の一撃をその身に受け、オルフェノクは無防備な姿で文の方へと吹き飛ばされてしまった。

 文はそれを狙っていたとばかりに溜めていた妖力を解放する。その手に(あや)しく揺らめくただの紙切れ、この場においては殺意の証明でしかないスペルカードを掲げながら──

 

「――風符(かぜふ)風神一扇(ふうじんいっせん)!!」

 

 天狗の少女は高らかに。その名を尊く叫び上げる。

 スペルカードの宣言と共に巻き上がった風、山の加護がもたらす天狗の風が、オルフェノクの視界を紅き朽ち葉に染め上げていく。文の結んだ紅き風が、闇夜を切り裂く閃光となって。散った紅葉の一枚一枚が月の光に紅く、扇状に放たれた一部の葉は黄色く輝く。

 紅と黄色、ファイズのフォトンブラッドや真円形の複眼(アルティメットファインダー)が示す光と同じ色は、妖怪の山を染める夜色の中で燦然(さんぜん)と閃き散っていった。

 

 文が放つスペルカード【 風符「風神一扇」】はその妖力を吸収し、さながら降り注ぐ雨のようにスティングフィッシュオルフェノクへと向かっていく。

 オルフェノクが迫り来る妖力の弾幕──舞い散る紅葉の如き旋風を目にしたときには、すでに遅く。不意に眼前に現れた真紅の弾幕を全身に受け、フォトンブラッドで負ったダメージも相まったことで、その身体にはどうしようもなく灰の死を示す青白い炎が立ち昇ってしまっていた。

 

「ぐぁ……ぁあ……ァ……ァア……!!」

 

「…………!」

 

 空中で青白い炎に包まれ、スティングフィッシュオルフェノクはそのまま灰と朽ち落ちる。夜を迎えている妖怪の山にまた一つ、紅葉を染める灰の小山を増やして。そこに悪意ある怪物がいたという事実は、風に吹かれて消えた青白い炎と共に消し去られる。

 巧はファイズとしての姿のまま──その光景を眺めることしかできなかった。

 

 オルフェノクとの共存など所詮は夢物語だろうか。あの男が抱いた理想はやはり、あの男が辿り着いた通りに叶わぬ幻想なのだろうか。

 巧はそれを振り払う。この身がオルフェノクだからというわけではない。あの男がオルフェノクだからでもない。ただ『生きたい』のは人間もオルフェノクも同じ。ならばせめて、誰もが白くいられるよう、巧は『ファイズ』としての道を選んだのだ。

 

 死ぬのは怖い。一度の死を経験していても、それは変わらない。だからこそ──罪のない人間を守るために一生懸命生きている。

 人が人であり続けるのは、人としての心を失くさずにいられてこそだ。人でありたいという意思を捨てなければ、きっとオルフェノクとして蘇っても人として生きることを否定される(いわ)れはないと、今も信じている。

 一度抱いた覚悟を再び。巧は青い炎と共に散ったオルフェノクの死灰を湛えるファイズの右手を黒く握り、かつての誓いを思い出す。

 迷ってるうちに人が死ぬなら、もう迷うことは許されない。きっと、自分が自分を許すことができない。紅く閃く誓いを掲げ、乾巧は人間(ファイズ)として──再び『生きる』ことを誓った。

 

「――オルフェノク、と言いましたか。あの存在について、いくつか聞きたいことがあります。もちろん、貴方についても」

 

 手にした天狗の葉団扇をしまい、ファイズ──巧に振り返る文が言う。巧は灰に染まった右手から視線を外し、そのままファイズドライバーに装うファイズフォンに手をかける。垂直に立て直してベルトから引き抜くと、巧はそれを開いて通話終了のキーを押した。

 電子音と共にファイズの全身を覆う強化スーツ『ソルフォーム』は瞬時に電子分解され、やがて赤いフォトンストリームを覆う光の骨格(フォトンフレーム)を残して消失。巧の身体を覆っていた赤いラインもベルトへと戻っていく。

 

 生身に戻った巧は腰からファイズドライバーを取り外し、ファイズフォンともどもそれぞれすべてのファイズギアを元あったアタッシュケースの中に再び収納する。

 このケースにも思えば長い旅路に付き合わされた。九州で初めて出会ったときは、まさか自分が夢を持つきっかけになるとは──それこそ夢にも思わなかった。

 それでもこの希望を拒み捨て去る気になれなかったのは、この力が自分にとって何かを変えてくれると感じていたからなのか。世話になったクリーニング屋の男は、これは乾巧(たっくん)のものと言ってくれた。それがどこか嬉しく感じて、無意識に笑ってしまったのもよく覚えている。

 

「ああ。……分かってる」

 

 ファイズギアを収納したアタッシュケースを右手で持ち上げ、巧は素っ気なく答えた。

 この手にある人類の希望、オルフェノクの王を守護するためのベルト。これをこの場にもたらした存在には、微かながら見当がついている。

 一度倒したはずのスティングフィッシュオルフェノクが蘇ったのと同様に──あるいはこの身(・・・)も、オルフェノクとしての死から蘇ったのだとしたら。

 

 すでに灰と朽ちていった最期を見届けたオルフェノクたちも、蘇っているかもしれない。巧はその場で拾い上げた『折り紙のオオカミ』を見つめ、ある男の存在を想う。彼もまたオルフェノクによって人生を捻じ曲げられた被害者。

 一度はオルフェノクの本能に抗い切れず、多くの人間を手にかけてしまった彼も。きっと最期に見つけた希望を、ようやく掴んだ灰の如き夢を信じられるのなら。

 たった一つの善行からもたらされた──か細い蜘蛛の糸(・・・・)を、その手に掴む権利はある。

 

◆     ◆     ◆

 

 妖怪の山、天狗の領域。幻想郷の北西に(そび)え並ぶ山のとある領域には、天狗のみが立ち入ることを許されている人間禁制の隠れ里がある。その道をこっそりと抜け、文は鴉天狗として住まう自らの領域に乾巧を招いた。

 すでに幻想郷の日は落ちている。怪物騒ぎで殺気立った妖怪たちもいる中、外で外来人を野宿などさせれば瞬く間もなく彼らの餌となるだろう。

 

「ここなら妖怪も入ってこれませんし、安全なはずです。さぁ、こちらへどうぞ」

 

 文の部屋と呼ぶべきこの場所は──あまり片付いているとは言い難い。

 それでも鴉天狗としてそれなりの立場を持つ彼女の住まいは、巧を寝泊りさせるに十分なだけの居住スペースが備わっている。

 巧は文にせがまれるまま、オルフェノクやファイズギアについてのことを話すことにした。記者だと名乗る彼女には本当は話すつもりはなかったのだが、目の前でファイズに変身してオルフェノクと戦ってしまった以上、仕方あるまい。

 

 文は情報の対価として食事と寝床を提供すると約束してくれた。巧としても未知の郷において寄る辺などあるはずがないため、その申し出は本心からありがたいと思えるもの。

 目の前に差し出された来客用のお茶が、秋の涼しげな気温の中にゆらゆらと湯気を立たせる熱々の湯呑み(・・・・・・)──だったのが、微かな不満ではあるが。

 

 手で触れて湯呑みの温度を確かめる。─―熱い。巧の顔が一瞬ぴくりと引きつった。

 湯呑みを両手で持ち上げてゆっくりと唇に近づけてみるが、立ち昇る湯気は否が応にも巧の表情を引きつらせる。

 視線を上げた先では、文が満面の笑顔で巧の話を心待ちにしていた。このままじろじろ見られたままではこう──やりづらい。仕方なく、巧は一度湯呑みをテーブルの上に置く。たった一口お茶を飲むことよりも文への情報提供を優先するため、溜息混じりに口を開いた。

 

「…………」

 

 ─―オルフェノクとは、死んだ人間が怪物として蘇った、人類の進化形態である。

 

 彼らは当初、数で勝る人類に反逆するために水面下で殺人行為を行っていた。それもただ人間を殺すというわけではない。自らの細胞で形成した触手や武器などを用いて生きた人間に『オルフェノクエネルギー』なるものを流し込み、その心臓を燃やしてオルフェノクとしての心臓に作り変える行為──すなわち、人間のオルフェノク化である。

 人間をオルフェノク化する行為は『使徒再生』と呼ばれ、その力を受けた人間は死に、流し込まれたオルフェノクエネルギーに適合することができれば人類として進化を遂げ、オルフェノクとして覚醒することができる。

 もっとも、無事に適合できる者は極めて少なく、大多数はそのままオルフェノクエネルギーの力に耐え切れず肉体が灰化、死亡してしまう。

 そのためほとんどの場合それは単なる殺人行為と変わりなく、巧はそんなオルフェノクから人間を守るために、これまで何度もファイズとしてオルフェノクと戦ってきた。

 

 オルフェノクは彼らを管理する組織、表向きは大企業とされる『スマートブレイン』社によって命令を受け、人間に使徒再生を行うことによる勢力の拡大や、人間を襲うことを拒んだオルフェノクに制裁を下すなどして、自らの組織をより巨大化させていった。

 しかし、オルフェノクはその急激な進化に肉体が耐え切れず、一度蘇ったとはいえ、そう長くは生きられない不完全な生命(・・・・・・)だったのだ。

 

 死の運命からオルフェノクを救う方舟(・・)となるのが、『オルフェノクの王』と呼ばれる存在である。王はとある男によって存在を見出され、スマートブレインは王を守るために、王さえも超える三本のベルト──『ライダーズギア』を開発した。

 されど男は考えを改め、オルフェノクの未来を拒絶し、人間を襲う怪物でしかないオルフェノクは滅ぶべき存在だと答えを出す。

 男はオルフェノクとしての肉体の寿命が限界に近かった自分に代わり、王を見出す目的で保護した数十人の孤児たち、自らの子供も同然に愛し育てた彼らに三本のライダーズギアをそれぞれ送ることで、彼らにオルフェノクの王を倒してもらおうと考えた。

 そのうちの一つ─―三本のベルトの中でも最後に作られた『ファイズギア』が、その男に育てられた孤児たちの一人である少女の手に渡り、九州でたまたま出会った巧がそのベルトを受け取ってファイズとなったのだ。

 

 巧はそのほかに残る二つのベルトを知っている。一つは、王との決戦において破壊されてしまった。それを使いこなしていた男も、それを受け継いだあの男も、理想に辿り着くこともなく死んでしまった。きっと、もう二度と見ることはないだろう。

 もう一つは、共に王を倒した仲間が使い──今でもきっと彼が守ってくれているはず。当初は気弱で、戦う勇気も出せないような男だったが、最後には共に王と戦ってくれた。今の彼にならば、安心してあのベルトを託しておける。

 今この場にないファイズギア以外のベルトについては話す必要はないと判断し、巧はファイズについてオルフェノクについて、自分の知っていることを簡単に話してから口を閉ざした。

 

「……なるほど、人類の進化種にオルフェノクの王、それにファイズ……ですか」

 

 文は巧から聞いた情報を反芻(はんすう)し、考え込む。文と向かい合う位置に座っている巧からは確認できないが、彼女が睨みつけている手帳にはおびただしいほどの文字がびっしりと刻まれ、添付された写真には先ほど撮影されたファイズやオルフェノクの姿が写っている。

 不意に手帳から目を外し、文は部屋に備えられた窓から妖怪の山の景色に視線を向けた。

 

「(乾さんから聞いた話も気になるけど……やっぱりこの季節の異変は……)」

 

 本来ならば春であるはずの幻想郷に起きた二度目の四季異変──としか考えられない季節の異常。文はかつて四季異変が起きた際、調査の際に妖怪の山を離れている。そのときに見た四季異変の『主犯』は、二度と同じ異変は起こさないと言っていた。

 究極の絶対秘神。文たち天狗と同じ伝承を祖とする秘神の目的は、自らの存在を『背後から』知らしめること。妖怪や妖精の背中に『扉』を作り、供給される力を得た妖怪たちに自分を畏怖させる目的は、すでに達成されているはず。

 四季異変とは、かの秘神がその力を誇示するために妖精たちに力を与えたことで暴走した妖精たちの影響で自然が狂ってしまい、結果的に季節に異常が見られただけのものだった。

 

「(でも、今は妖精が暴走している気配はないし、扉だって……)」

 

 考えた結果、文は一つの仮説を導き出す。かつて発生した四季異変も、ある秘神が自分の存在を誇示するために扉から力を与えた結果、副次的に発生した影響に過ぎなかった。だとすれば、今回もまた単なる副次的な影響によるものではないか──と。

 文が調査した限りでは妖怪や妖精の強化や暴走は見られない。まして彼らの背中に扉も確認できなかった。自分の背中にも扉がないか姿見で確認してみたこともあったが、当然そんなものは見つけることはできず。

 

 巧や灰の怪物(オルフェノク)が纏う空気、外の世界と思しきそれも奇妙なもの。外来人であるのだから外の空気を纏っているのは必然とも思ったが──

 しかし、文は幻想郷が出来る以前からこの地に住まう最古参の妖怪の一人。かつての空気とは性質が違っていることにすぐ気がつくことができた。最初は時の流れによるものかとも思ったが、彼らから感じられた外の風は、根本から何かが違っている──ような気がする。

 

「(山の風もどこかおかしかった。……いや、山だけじゃない。幻想郷自体の風が……)」

 

 普段から鴉天狗として風と共に在る彼女は感じていた。この幻想郷に、いくつもの異なる風(・・・・・・・・)が入り込んできているということに。

 最初に感じた違和感は気のせいではなかったのか。幻想郷には、まるで異なる性質を持った数種類の『外の風』が流れ込んできている。妖精を暴走させることなく無意識的にその性質に影響を与える、奇妙な空気が。

 度重なる未知の怪物の目撃例、乾巧のような『仮面の戦士』の存在──

 文はそれらを外の世界、それも複数と定義できる別の世界(・・・・)からの来訪者だと考えた。この雑多に混ざり合ったような気持ち悪い外の世界の空気、まったく異なる複数の世界からそれぞれ流れ込んできたかのような空気の歪み、不自然な幻想郷の淀みを、風という観点から仮定してみた。

 

 ――並行世界、あるいはパラレルワールドとも呼ばれるもの。

 

 かつて一度香霖堂でそのような話の本を見たことがある。もしも仮に、現在の外の世界とは異なる歴史を辿った世界線があるのなら、それらの歪みが混ざり合うこともあるのか。

 幻想郷で考えられぬことも外の世界では起きるのかもしれない。外の世界で考えられぬことも幻想郷では起き得るだろう。此方(こちら)彼方(あちら)の境界が混ざり合ってしまったのだとすれば。そんな事態がもし、人為的なものであるならば。可能性は限られているのではないか──

 

「ふーっ……ふーっ……」

 

 思考を続ける文を余所にして、巧はひたすら湯呑みに息を吹きかける。お茶の表面を波立たせないようにそっと、優しく。白く昇る湯気を吹き消すかのように。

 湯気が小さくなってきたのを目にし、巧はゆっくり、湯呑みの中のお茶に口をつけた。

 

「……っ! ふーっ! ふーっ!!」

 

 巧は顔を歪め、反射的に湯呑みを口から離す。今度は優しさを忘れ、どこかムキになったような表情で息を送り込み始めた。

 

「あのー、つかぬことをお聞きしますが。乾さん、もしかして──」

 

「……うるせえな、ほっとけ」

 

 文たち天狗は人並み外れた思考速度で物を考えている。熟考していた間もさほどではなかっただろう。時間にすれば数分程度のものだ。

 それにしても、まさか彼はその間ずっとお茶を冷まし続けていたのだろうか──

 今度から彼に振る舞うものはできるだけ熱くないものにしてやろう。紅魔館のメイド長もかくやという巧の『猫舌』を考慮しつつ、文は疾風の速度で自らの考えをまとめるのだった。

 

◆     ◆     ◆

 

 妖怪の山の中、天狗たちが有する特殊な妖術で切り拓かれた領域に、幻想郷でも最高峰の組織力を誇る彼らの領域は存在していた。

 山を紅葉と共に染め上げる奇妙な灰。オルフェノクによって殺された者の証──あるいはオルフェノクとして死んだ者の証でもあるそれは、この妖気に満ちた山岳の中にも小さな灰の山と高く積み上げられている。

 だが、一部の灰は──そのどちらにも該当しない理由で作られたものだった。

 

「…………」

 

 天狗たちに囲われるように、山の中腹の地──闇夜に包まれた山林の中に立つ『何か』。それは、ファイズに極めて近いものだが、厳密には違う存在だ。

 黒いスーツに走る光のラインの色は『黄色』。二重になったその経路はファイズのものよりも高い出力を誇る『ダブルストリーム』と呼ばれるものであり、出力によって色を変えるフォトンブラッドの強さを示している。

 銀色の胸部装甲には(バツ)印状に流れており、似た外見ながらファイズ以上のパワーを備えていることが流動経路(フォトンストリーム)の違い──ダブルストリームの色という形で見て取れた。

 頭部はファイズに似た真円型の複眼、紫色に輝く『エックスファインダー』にはやはり胸部装甲と同様、X字に分断されている。口元の形状に差異はないはずなのに、喰いしばったような銀色の大顎はファイズ以上の凶悪さを放っていた。

 

 スマートブレインが開発した三本のベルトのうち、二番目のもの。ファイズギアよりも先に作られた『カイザギア』と呼ばれる力を使い、変身を果たした存在。

 ――本来ならば、その力はオルフェノクの王によって破壊されているはずである。にも関わらず、ベルトは確かにそこにあった。

 あるはずのない失われた力。破壊されたカイザギアは、この幻想郷において確かに実物として存在している。幻想としてではなく、揺るぎなく確固たる存在として。砕けた痕跡さえ残すことなく。それは開発された当初と同じく完全な形で黄色い輝きを主張していた。

 

 黄色いダブルストリームを湛えた『カイザ』の放つ輝きが、紫色の複眼と共に妖怪の山の岩肌をぼんやりを照らす。闇夜の中に、妄執に手を伸ばして死んだ男の怨嗟と、理想に辿りつけずに死んだ男の悔恨を塗りたくるかのように。

 周囲に立ち並ぶ天狗たちに見守られながら、自らの両手を恐る恐る見つめるカイザ。震える手で腰に装う『カイザドライバー』へと震える手を伸ばそうと、己の腹に視線を落とすが──

 

『Error』

 

「うっ……! ぐっ……ああッ……!!」

 

 無慈悲に鳴り響いた電子音声と渇いた電子音によって、カイザの全身に火花が走る。装甲の隙間から散った閃光は、周囲の闇をダブルストリームよりも激しく照らした。

 

 衝撃で腰からカイザドライバーが外れる。ベルトを失った戦士は再び黄色い閃光に包まれながら、生身の姿を明らかにして倒れる。

 ガチャリと無機質な音を立て、放り出されたカイザドライバーとそこに装填されていた携帯電話型トランスジェネレーター『カイザフォン』は、その光景に思わず目を逸らした天狗たちの前に投げ出された。

 カイザギアに拒絶された者の末路は、天狗たちも何度も見ている。それはこのベルトが本来あった世界においても同様に。ファイズほどの安定性を持たないが故にもたらされた、高い出力の弊害。だが、それは本来の装着者たるオルフェノクたちにとっては福音と成り得るもの。

 

 ベルトの力に適合することができなかった一人の鴉天狗は──暴走した体内の『記号』によって全身の細胞を破壊され、灰となって朽ち果ててしまった。

 流れる灰の雫。先ほどまでカイザとして戦っていた男はもはや、単なる灰の山でしかない。

 

「やっぱり、ダメか……」

 

 死灰の中から輝きを失ったカイザドライバーを拾い上げ、普段の明るさを陰らせ辛そうに呟くは鴉天狗の少女。栗の色に似た茶髪のツインテールを紫色のリボンで結び、白いシャツに揺れる黒と紫のスカートは市松模様を刻んでいる。

 射命丸文の同僚にして、彼女と同じく新聞記者を務める鴉天狗、 姫海棠(ひめかいどう) はたて はこの場に集うすべての天狗と同様、その身にオルフェノクの記号を宿した者の一人だった。

 

 たったいま灰と朽ちた鴉天狗の男は、このベルトが自らを死に至らしめる『呪いのベルト』と知りつつ、その勇気をもって山の中枢を守ろうと、強大な力を持つ一体のオルフェノクに立ち向かっていったのだ。

 彼の奮闘のおかげもあって侵入したオルフェノクは倒すことができた。――が、カイザのベルトで『変身』できる者自体、ここにはあまり多くない。

 

 妖怪の山に現れた一人の男──自身もオルフェノクでありながら、オルフェノクの滅びを願う者がいた。天狗の長は男の助力を受け、自らの妖術と男の技術をもってその遺伝子を──『オルフェノクの記号』を一部の天狗たちに埋め込んだ。

 オルフェノクの記号は、宿した者を疑似的にオルフェノクの一種だと定義する。故に、オルフェノクにしか扱えないライダーズギアを限定的ながら使えるようになる。

 

 彼らに記号を埋め込んだ男は他のオルフェノクと同様に、二度の死を迎えながらも何らかの原因によって再びオルフェノクとして蘇った。

 しかし男はかつてと同様、不完全な肉体のまま。ベルトを使って戦うことはおろか、ただ生き永らえることすら難しい状況だった。

 そのため、男は朽ちゆく身体で辿り着いた妖怪の山に情報を提供し──自身の代わりに戦ってくれる代理人として、かつての教え子たちと同様に幻想郷の天狗たちを戦士に選んだ。その身にオルフェノクの記号を刻みつけると共に、ライダーズギアの一つたるカイザギアを与えたのだ。

 

「この呪いのベルト……カイザのベルトを使える奴なんて……」

 

 拾い上げたカイザフォンとカイザドライバーを銀色のアタッシュケースにしまい、はたては怨嗟とも悔恨ともつかぬ目でケースを見る。

 ベルトを使わずしてオルフェノクと戦うことも一応はできるだろう。だが、カイザがいなければ戦力は大幅に落ちる。その分、オルフェノクの『使徒再生』によって多くの犠牲者を出してしまいかねない。

 それならば、たとえ確実な死が待っているとしても。誰かがカイザとなって天狗たちと共に戦ったほうが少ない犠牲で済む。それはきっと、天狗らしく合理的な判断なのだろう。

 

「…………」

 

 自分もこのベルトを使えば灰と朽ち果てるのだろうか。もしも使いこなせれば天狗としての立場はさらに上位のものとなるかもしれない。だが、出世に固執しない性格の彼女は命を賭してまで認められようと考える気になれなかった。

 白く細い手でケースの持ち手を握りしめる。再びオルフェノクが現れたら──自分は死のリスクを冒してでもこの呪われたカイザギアを使おうとするだろうか。

 戦うのは怖い。死ぬのは、もっと怖い。本来ならば自室に引きこもって鴉天狗の仕事に専念し、異変に関する記事を書いていたはずなのに――どうしてこんなことになってしまったのか。

 

「うーん、困ったわね。せっかくベルトがあっても、誰も適合できないんじゃ……」

 

 そこへ不意に、青く神秘的な声が聞こえてきた。声の主は、オルフェノクの男と共に記号の移植技術やライダーズギアに関する情報を提供してきた仙人の女だった。

 道士としての修行を積み、彼女は仙道を外れた悪辣な手段で仙人となった。故に、彼女は『邪仙』と称される。 霍 青娥(かく せいが) ――通称『青娥娘々(せいがにゃんにゃん)』とも呼ばれるその女は、1400年以上もの歳月を邪仙として生き続けていた。

 

 彼女が持つ仙術は『壁をすり抜けられる程度の能力』という形で具現している。その能力をもってして、天狗の妖術で阻まれたこの空間に踏み入ることができているようだ。彼女の手にかかれば、如何に強固な警備体制と言えど意味を成さない。

 青娥(せいが)は困ったように頬に手を当て、とぼけ顔で思案する。壁抜けに使った(のみ)状の(かんざし)を髪へと戻し、仙術の気をもって自らの青く美しい髪に蝶の羽根めいた(しと)やかな双輪を象りながら。

 

「こんなこと……いつまで続ければいいの?」

 

 はたては行き場のない苛立ちを青娥に対してぶつけてしまう。

 怒りの矛先は無力な自分であるはずなのに、この邪仙の余裕に満ちた微笑みを見ていると心が落ち着かない。どんな相手とも打ち解けられるはたてでさえ、彼女はどこか信用できないのだ。

 

「仕方ない……か。予定にはなかったけど、最速と名高いあの鴉天狗(・・・・・)に記号を……」

 

「…………!」

 

 青娥の言葉と共に。彼女によって穿たれた虚空の穴から吹き込んだ風が、はたてのツインテールとスカートをそっと揺らしていた。

 背筋に滴る冷たい汗を感じ、その言葉の意味を理解してしまう。はたての服と同様に揺れるワンピース状の青娥の服、中華風の意匠を帯びた空色の服が、揺れ動くはたての心に黄色い閃光を刻みつけてくる。

 はたては自ら手にしたカイザギアの収められたアタッシュケースに強く視線を落とした。

 

「……だったら、私がこのベルトを使うよ」

 

 勇気から来る意思ではない。ただ、心が焦ってしまっただけ。その理由を合理的に説明できるだけの言葉を、はたては持ち合わせていなかったが──青娥は自身に対して振り返ったはたての目を見て、本気を感じたようだ。

 はたては立ち上がり、カイザギアのケースを左手に持ったまま青娥に向き直る。その視線は先ほどまでの猜疑心(さいぎしん)から来るものではなく──相手に対する忠告に近い意味を込めたもの。

 

「何を考えてるか分からないけど……あんまり天狗(やま)社会(ちつじょ)を掻き乱さないでね」

 

「ええ、善処しますわ」

 

 はたての言葉に目を細め、変わらず胡散臭い笑顔でとぼけてみせる青娥。幻想郷の管理者、八雲紫のそれにも似た笑顔を信じられる道理はない。

 それでも彼女が持つ情報は確かなものだ。オルフェノクの記号が天狗たちの身体に埋め込まれなければ、それこそカイザギアは何の意味も持たなかったはず。

 たとえ使えば死ぬ呪いのベルトでも、オルフェノクに対抗するには不可欠な装備である。

 

 並みのオルフェノクであれば天狗の力だけでも戦えるが、一部の個体──オルフェノクの使徒再生に頼ることなく自らの死から自力で蘇り、自然にオルフェノクとして覚醒した『オリジナル』などはベルトの力が必要になる。

 もっとも、通常個体とオリジナルの差は見た目では判断できない。実際に戦ってみても、オリジナル相当にまで成長した使徒再生個体もいることもある。

 だからと言って、あまり悠長にカイザギアを使うことを躊躇(ためら)っていれば──

 

 オルフェノクの使徒再生能力は脅威だ。鴉天狗の動体視力をもってしても視認するのがやっとの速度で放たれる触手は、心臓を貫けば容易くそれを焼き尽くすだけのオルフェノクエネルギーを流し込んでくる。

 人間はそうやって使徒再生――オルフェノクによるオルフェノク化の洗礼を受ける。幻想郷においての前例こそないが、純粋な妖怪の身である天狗でさえ、オルフェノクエネルギーによって心臓を『リバースハート』に作り変えられればオルフェノクと化してしまうのだろうか。

 はたては自身が宿すオルフェノクの記号を恐れ、空いた右手で己の胸をぎゅっと押さえた。




秋めく夜の山に黒、赤、黄色のファイズのカラーリングがビジュアル的に映えまくる。

Open your eyes for the next φ's
第25話『夢の始まり』


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第25話 夢の始まり

 妖怪の山にスティングフィッシュオルフェノクが現れてから数時間。すでに日は昇り、幻想郷の四季を照らす朝日は等しく灰と紅葉を目立たせている。

 そこに落とされた灰色の幕壁。オーロラカーテン状に落ちた光は揺らめき、そこに一つの波紋と人影を映し出した。

 灰色の人影は朧気(おぼろげ)な輪郭から徐々に姿を現す。やがて『ファイズの世界』から時空を超えて西暦2020年の幻想郷に姿を現したその男は、やはり外の世界の一つに生きていた外来人と定義される存在。

 されど彼は本来、オルフェノクとして一度消滅を遂げた者である。それが三度目の生を受けて蘇り、時空を行き来するオーロラカーテンの力を得て再び現世に具現している。

 

「はぁ……ああ……!」

 

 大型のアメリカンバイクをオーロラの中に置き去り、ゴーグルを外した男は秋の風を感じて歓喜の表情を浮かべた。そのまま薄ら笑いを湛えつつ、男は身に纏う茶色のロングコートのボタンを外して裸の地肌で風を受け止める。

 コートを脱ぐことなく、前衣を開けた状態で─―裸身を露わにし、未だ肌寒いであろう秋の山の中腹においてなお、その表情は変わらず何を考えているか分からない不気味な笑顔のまま。

 

「…………」

 

 高い山の崖の上に天狗下駄を乗せた鴉天狗──姫海棠はたては、ロングコートの男が灰色のオーロラから出てくる瞬間を見ていた。

 その手に持った黒地に黄色の装飾が施された双眼鏡、本来は幻想郷にあるべきではないそのデバイスを覗くことで、はたてはオルフェノクの知覚など到底届きようのない遠距離から。

 スマートブレインが開発した高精度の遠視デバイス──『カイザポインター』の望遠レンズを用いて、哨戒担当の白狼天狗が如き千里眼を得ている。

 

 白狼天狗たちにはオルフェノクの記号は宿っていない。この遺伝子を有するのは、天狗組織の中でも『あの男』と接触できた者たち、はたて自身を含めた数人の鴉天狗だけ。

 天魔の情報操作によって、この情報は組織全体には知れ渡っていない。はたての同僚たる文でさえ、このことについては聞いていないだろう。

 

 カイザギアのツールの一つであるカイザポインターの遠視性能をもってすれば白狼天狗ほどの視力を持たない鴉天狗のはたてでも山の全域を観測できるが、それを可能とするのが双眼鏡という性質状、どうしても極めて狭い範囲でしか遠視の効果が及ばなかった。

 それでも彼女が別世界からの来訪者、ロングコートの男の存在を捉えることができたのは決して偶然などではない。

 姫海棠はたてには『念写をする程度の能力』が備わっている。自身が持つカメラに念を込めることで、そこにはない別の景色、別の時間、あるいは誰かが見た光景や写したものを自らのカメラに写真として撮影させることができるという能力だ。

 はたては幻想郷に訪れる悪意を恐れて一度念写を試みた。そこに写ったのが、妖怪の山の遠い外れ──妖怪さえも通ることは少ないとされる場所に、灰色のオーロラと共に見慣れぬ外来人の男が現れる光景。

 その情報をすでに手に入れていたからこそ、はたては見張る先の場所に男が現れるのを確認できた。天狗の領域は山の中枢、ほぼ中心と言っていい場所にあるため、ここからなら角度を変えるだけで山の如何なる場所にも目が届くのだ。

 カイザポインターがなければ、それすらも白狼天狗に委ねざるを得なかっただろうが。

 

「…………!」

 

 はたての視界──カイザポインターのレンズが映し出すのは、ロングコートの男が近くにいた白狼天狗を容赦なく襲う様。

 侵入者と定義されたその男は、哨戒していた白狼天狗に見つかり戦闘になったのだろう。そこへ男は本性を現し、灰色のゾウを思わせる姿へと変貌した。オルフェノクの姿となった男に対して白狼天狗の青年は微かに怯むが、すぐに右手に構えた剣を振り上げる。

 

 されど、その一撃はオルフェノクの装甲を破れず。鈍く散った火花と共に、ゾウのオルフェノクは朝日が照らした影の中に、生身の姿を青白い裸身と映して。目の前の白狼天狗にニヤリと笑みを浮かべてみせた。

 オルフェノクが牙から突き出した灰色の触手はやはり天狗の飛翔に通ずる速度で撃ち放たれる。哀れにもその一撃を口の中に滑り込まされ、体内から心臓に到達した触手によって白狼天狗の男は呆気なく、自らの心臓をオルフェノクエネルギーによって焼き尽くされてしまった。

 

「……やってくれるじゃん……」

 

 はたてはカイザポインターを下ろし、無慈悲な惨劇に唇を噛む。名も知らぬ男だったとはいえ、天狗である以上は同族だ。部署こそ違うものの、同じ組織の一員が惨たらしく殺された現実に心が苛まれる。

 カイザポインターの接眼レンズから視線を外している以上、男の最期は見ていない。が、おそらくはオルフェノクの力に耐え切れず、灰化による死を遂げているだろう。

 

 いくら鴉天狗が速度に優れた種とはいえ、あの距離では全力で飛んでも間に合わなかったのは明らかだ。それでも助けに行こうと動くことすらできなかったのは、自分が臆病者だったせいだと自分が自分を責め立ててくる。

 せっかくカイザギアを手にしても、勇気が出せないのならば意味がない。これを使うと、あの霍青娥に言ったのは他ならぬ自分自身だというのに。

 自分の判断が遅いせいで、すでに一人が犠牲になった。否、飛んだところで間に合わなかったのは分かっている。自分が向かったところで、きっと助けられなかったであろうことは頭で理解している。

 それでも怖くて動こうとしなかったのは事実。だからこそはたては自分の迷いにどうしようもない苛立ちを覚えていた。迷っているうちに誰かが死ぬ。怖がっているうちに何もかもが失われていく。はたては、その恐怖を捻じ曲げて。オルフェノクへの──揺るぎない憎悪とした。

 

◆     ◆     ◆

 

 妖怪の山、天狗の領域。鴉天狗の一人として割り当てられた文の自室は、大天狗ほどではないもののそれなりの広さを持っている。妖怪の山の内部に切り拓かれた空間であるため、山の景観はそのままに広さだけが拡張されて備わっていた。

 そこから一歩出れば変わらず妖怪の山が広がっている。といっても、妖術で捻じ曲げられた空間の中、妖怪の山の深奥地帯は天狗たちの庭――この場においては射命丸文の庭と言ってもいい。よほどのことがない限り、この付近に侵入者は現れないはずだ。

 

 文は巧からファイズとオルフェノク以外についても詳しく訊いた。その話によると、乾巧は外の世界の『西暦2004年』の1月から来ているらしい。その時間のズレを考慮しても、やはり別世界からの外来人である可能性は高い。

 巧にとっては幻想郷や妖怪といった未知の要素に加え、別の世界、別の時間などといった荒唐無稽な話が立て続けに舞い込んできているはず。

 なるべく丁寧に説明したつもりだが、理解し納得するのは時間がかかるだろうという文の予想に反し、意外なほどすんなり理解してくれたのは彼の壮絶な経験が故だろうか。

 

「…………」

 

 巧の思考の中にも死せる灰は残っている。あらかたのことは話したが、それでも自分があいつらと同じ──オルフェノクだなどと、そう簡単に話せるはずがない。

 たとえ幼い頃に火事に遭い、今日に至るまでの人生のほとんどを人ならざる灰の身体をもって生きてきた身とはいえ。誰かを救うためにオルフェノクの力を使ったことを除けば、覚醒してからもずっとずっと『人間』として生きてきた。

 自分がオルフェノクであるという事実を否定するために、手にしたファイズの力を使って、数々のオルフェノクを倒してきた。

 人間のフリをして、ずっと自分や世界を騙して──そうやって罪を背負ってきた。

 

「……おい、なんだこりゃ」

 

 巧はふと目についた紙の束──新聞紙らしきそれを手に取る。文はその言葉に文字を打つ手を止め、振り返った。

 

「ああ、それは私が書いた記事です。『文々。(ぶんぶんまる)新聞』、読んでくださいました?」

 

「名前なんてどうでもいい。それよりこの『仮面ライダーがオルフェノク退治』ってのはどういうことだ? まさかお前、こんなもんをばら撒くつもりかよ」

 

 巧が気になったのは新聞記事の内容だ。そこには先日撮影されたと思われるファイズやオルフェノクの姿がはっきりと映っている。フラッシュを焚かれた気配など一切なかったにも関わらず、文のカメラは鮮明に闇夜の景色を切り取ったらしい。

 一時的な見本用に一部だけ印刷された文々。新聞には、文の手によって綴られた文字がびっしりと並んでいる。

 巧が話した詳しい情報はあまり記載されていないようだったが、ファイズやオルフェノクについてはしっかりとその詳細が書かれていた。

 

「こんなもんとは失礼ですね……私だって一応、この新聞に命を懸けてるんですから」

 

 文は心外そうに唇を尖らせる。幻想郷の──妖怪の山の独自の技術であろう奇妙な機械、巧の知る世界におけるタイプライターにも似たそれを撫で、文は自慢げに言った。

 

 命を懸ける――巧はそれを聞いて、少しだけ表情を曇らせる。

 ある者は美容師になるために。ある者は世界中の洗濯物を清めるために。またある者は立派なミュージシャンになるために。それらすべての理想は、彼らに『死んでもいい』とまで言わしめた灰色の『呪い』だ。

 巧は最初、それがまったく理解できなかった。自分には見えないものを見つめ、その輝きに向かって走っていく彼らの姿に、どこか寂しさを覚えてしまっていた。

 だが、今なら少しだけ分かる気がする。

 かつての自分にはなかったもの。旅を経た今の自分なら、きっと誇れるもの。

 

「常に真実を書いて、幻想郷中にすべてを知らしめる。だからこそ、情報はスピードが命なんです。飛翔においても情報においても、このジャーナリズム──速度(スピード)は誰にも譲れません」

 

 文の言葉には天狗としての、新聞記者としての矜持(きょうじ)がある。それは妖怪の山の眼としてではなく。一人の風神少女(ジャーナリスト)――射命丸文としての誇りだ。

 天狗の新聞はそのほとんどが個人で取材から起稿までが行われている。文が発行する文々。新聞も例外ではない。その購買者は多くが同族の天狗たちであり、その在り方はある者に学級新聞などと揶揄(やゆ)されたこともある。

 それでも文は天狗組織の中でも珍しい、主に人里に関することや幻想郷そのものに関する記事を書いていた。文の新聞はゴシップ的な面もあるものの、それを知ろうとしている者に真実を、正確な情報を伝えたいという真摯(しんし)な想いによって作られている。

 故に、文は裏の取れないような不確かな情報は新聞記事にはしない。真実でさえあれば自作自演のネタを記事にすることも多少はあるのだが──

 

 此度の異変については発生から起稿まで間が開いてしまった。すでに多くの新聞が取り上げていることだろう。ならば、文は文しか知り得ぬ情報(ネタ)を。それもただ聞き及んだだけのものでなく、この目で実際に見て確かめたものを。

 灰の怪物、オルフェノク。紅き光を纏う戦士、ファイズ。それらはおそらく外の世界から幻想入りを果たした外来の存在であることは間違いない。

 未知の怪物に怯える人間や妖怪たちに、少しでも光を届けることができたら。この紅き光が闇を切り裂いてくれるなら。乾巧(ファイズ)は、彼らにとっての『救世主』となってくれるはずだ。

 

「……それが、お前の『夢』なのか?」

 

 巧はやや遠慮がちに、そのつもりで素朴に、文が語った信念を問う。

 それはかつて自分が憧れたもの。やがて灰と共に辿り着いた道。そして、いつの日か叶えたいと望む、未来への旅路。

 共に旅をした美容師見習いの少女曰く『夢を持つと、ときどきすっごく切なくて、ときどきすっごく熱くなる』――らしい。その言葉の意味も、今の巧ならばいつか分かる日が来るだろう。

 

「夢……と言うとなんだか青臭い感じが拭えませんが、まぁ、そんなもんです。それに、どこが悪いんです? この記事、今まで書いたものの中でも指折りの名作ですよ?」

 

 文はつまらなそうに文句を垂れながら巧の手から自作の新聞を奪い取る。モノクロの写真ではフォトンブラッドの色は分からないが、実際にその光景を目にした文と巧の目にはファイズの紅い輝きがしっかりと焼きついている。

 オルフェノクの方は──元より灰色のためか写真でも本物とまったく変わりない。死色の怪物たちは紙面上においても、変わらず灰色の姿で無彩色の光に身を焼かれていた。

 

「全部だ全部。ベルトのことがバレんだろうが。だいたいなんだ、この──仮面ライダー(・・・・・・)ってのは。あれはファイズって昨日説明しただろ」

 

「いいじゃないですか。仮面ライダー『ファイズ』。かっこいいと思いますけどねぇ」

 

 丁寧に新聞を畳みながら文が呟く。この場においては文しか知り得ぬ『仮面ライダー』という単語を、彼女はその情報通りに仮面の戦士と定義した。その定義では、乾巧が変じたファイズなる存在も当てはまる。

 写真の中で戦うファイズの姿から正面に座る巧の顔へと視線を移しつつ、文は頭の中で巧とファイズの面影を重ねてイメージした。

 

 巧は視線を逸らし、傍に置いたファイズギアのケースを見る。何度か敵の手に――否、元の場所に戻ったこともあるファイズのベルト。その度にファイズは裏切り者(・・・・)のオルフェノク──『人間を襲わないオルフェノク』を抹殺する処刑人と成り果てた。

 オルフェノクたちにとって、人間として生きようとするオルフェノクは邪魔な異分子でしかない。王を守るために作られた三本のベルトは、オルフェノクの種の本能に抗うオルフェノクを排除するためにも用いられた。

 その光景を見た巧は確信している。自分とてオルフェノクだ。彼らとは真逆の意図、人間を襲うオルフェノクが相手とはいえ、同族たるオルフェノクをファイズの力をもって倒していることに変わりはない。それでも、あんなファイズ(・・・・・・・)より自分の方がまだマシだったぜ、と。

 

「……あんま知られたくないんだよ。特に、ベルトを狙う連中にはな」

 

 巧から聞いた話の中には、巧が敵対するオルフェノクを統べる組織(・・・・・・・・・・・・)の存在もあった。それは表向きには様々な分野で活動する謎の巨大複合企業とされているらしく、巧自身も実際にその幹部と接触し、攻撃を受けるまではその企業そのものがオルフェノクの巣窟であるとはまったく気づくことができなかったのだという。

 三本のベルト、ライダーズギアを開発した巨大複合企業――スマートブレイン。

 スマートブレインは巧の記憶においてはすでに倒産しているはず。しかし、現にこの場所でファイズに変身できる以上、スマートブレインが保有する人工衛星は今も稼働状態を維持しているということだ。

 それに加えて明確にベルトを──ファイズギアを狙ってきたオルフェノクがいるとなれば、やはり間違いなくスマートブレインからベルトの奪還を命じられているだろう。

 

 王を守るためのベルトが王に敵対する者の手にあるというのは、スマートブレインにとっても望ましいことではない。

 かつての戦いにおいても、スマートブレイン前社長たるオルフェノクの男、巧と共に旅をした少女の義父である男が奪ったベルトを、当時の現社長代理であったオルフェノクの男は何度も取り戻そうとした。

 旅立ちの夜に出会ったスティングフィッシュオルフェノクが蘇った以上、すでに一度倒したオルフェノクであろうと再び現れる可能性も否定できない。

 すなわち、一度倒産したはずのスマートブレイン社も組織の幹部を揃えて復活している可能性が高いということ。三本のベルトのうち一つしか手元にないというのは心許ないが、少なくとも立ち向かうべきは一度倒した相手だ。巧にとっては恐れる相手ではないはず。

 それに、いざとなれば。巧はファイズギアを失っても──戦う手段がないわけではない。

 

「確か……スマートブレインと言いましたか。未だ実態が不鮮明な組織ですが……」

 

 文は巧から聞いた情報をまとめた手帳に視線を落とす。常に持ち歩いている文花帖は写真やメモがびっしりと書き込まれているが、同じくびっしりと張られたいくつもの付箋(ふせん)を辿ることで望んだ情報をすぐに手繰り寄せることができる。

 

「この特ダネ情報を記事にできないというのは惜しいですねぇ……」

 

 ちらりと巧の顔を見て、文は口惜しそうに溜息をついた。露骨にぶつけられた視線の意味を実感し、巧はいたたまれなくなったように少し迷惑そうな顔で視線を逸らす。

 

「……アイロンがけぐらいならできる」

 

 ファイズについてのことを記事にしない代わりに、巧は自分にできることを示した。かつて元の世界――『ファイズの世界』で生きていた際、世話になったクリーニング店で培った技術は、オルフェノクとしての消滅を迎えてなお──この身に備わっている。

 文の陰湿で嫌味な視線は、巧に共に戦った男の顔を思い出させた。お世辞にも性格が良いとは言えない男だったが、彼が抱くオルフェノクへの敵愾心(てきがいしん)と信念は揺るぎないもの。巧にとっては仲間とも呼べる存在だった。

 巧が迷って戦えないときもあの男はオルフェノクと戦い続けてくれた。そんな彼がオルフェノクに殺されたのは、自分の迷いのせいではないだろうか。

 

 巧は人間として最期まで戦い抜いて、オルフェノクの王を打ち倒した。

 ――それでも不意に思う。純粋な人間である彼が死んで、オルフェノクである自分が生き残ってしまったのは正しかったのだろうか──と。

 無論、あの戦いに悔いなどは残してはいない。二度目の人生をオルフェノクとして散った過去も間違いなく事実として存在している。巧が生き残ったことも事実だが、厳密にはその後オルフェノクとして灰化を遂げ、どういうわけか再びこの世界に『蘇ってしまった』だけだ。

 

「…………」

 

 巧は王との最後の決戦を思い出す。優しく純粋すぎたが再び理想を求めた男、弱く臆病ながら戦う覚悟を決めた男。

 三本のベルトは巧を含めた三人の男たちに託された。それら王を守るためのベルトは、その力を束ねてオルフェノクの王を倒した。が、その後すぐに決戦の地である地下施設が崩落を始め脱出を急いだため、王の死――完全なる灰化を見届けることはできなかった。

 もし巧が倒したはずのオルフェノクが蘇り、スマートブレインも復興しているとしたら。完全な消滅を見届けることができなかったオルフェノクの王が関わっているのではないか─―

 

 険しい顔で深く考え込む巧を見て、文はその様子を訝しむ。ファイズやオルフェノクについての情報は得ることができたが、思えば巧本人についての情報はほとんど得られていない。語りたくない理由でもあるのか、単にその性格が故か。

 

 その直後、部屋の丸窓越しに小さな影が映った。文はそれを見逃さず、手にした文花帖を再び懐へ戻す。ばさばさと羽音を鳴らしながら窓の縁に降り立った一羽のカラスの鳴き声に耳を傾けると、文は表情を変えた。

 用件を伝えたカラスは翼を広げ、窓の向こうへ飛び去っていく。去り際に一際高く上げられたカラスの鳴き声は容赦なく行動を急かすような切羽詰まった様子が感じられた。

 

「……乾さん、どうやらまた(ここ)に現れたようです。例の──オルフェノクとやらが」

 

 顔だけで振り返り、巧に伝達の内容を告げる。別の鴉天狗から伝えられた通達には明確にオルフェノクとの交戦を命じる意図があった。

 まさか、妖怪の山の天狗たちはオルフェノクの存在を知っているのか? 天狗組織全体に知れ渡っていない情報だとしても、一部の上層部はその情報を隠し持っていてもおかしくない。文は独自の調査で組織から『仮面ライダー』に関する情報を得ていたが、彼らはまだ何かを隠している可能性が高い――

 

 カラスが伝えた座標はここからそう遠い場所ではない。これ以上の犠牲者を出す前に該当地点へ辿り着くことはできる。それも、鴉天狗としてのスピードに頼る必要もなく。

 巧は先日から──文と出会う前から負っていた傷がまだ残っており、服の下に巻かれた包帯は血が滲んでいる。さほど深い傷でもないだろうが、この傷で前線に出られれば貴重な情報源である彼を失ってしまいかねない。

 だが、取材の基本は前に出ることだ。文の同僚として親しい──あるいは対抗新聞記者(ダブルスポイラー)としてライバル意識を持たれている姫海棠はたてのように、自宅に引きこもって念写ばかりしているようでは新鮮な情報、新しいネタは手に入らない。時には危険な道を選ぶ価値はあるのだ。

 

「怪我人に無理をさせるわけにもいきませんが……」

 

「こんな傷、どうってことねえよ」

 

「そう言ってくれると思ってましたよ」

 

 文は巧の返答にニヤリと笑い、巧と共に扉の先へ向かう。カラスから伝えられた座標は妖怪の山の中腹、天狗の領域からそう遠くない場所だ。

 日課として山を巡回していた際にもよく通った覚えのある道。もし仮に巧が迷ったとしてもこの周辺ならば人間の気配を辿れる。無論、そんなことにならないようにしっかりと目を光らせておくつもりだが。

 最悪の場合があっても彼ならばファイズとして戦える。ただの外来人以上の戦力を持ち、自分で戦えることは先日のスティングフィッシュオルフェノク戦で確認している。

 ファイズとしての力をどれだけ信用していいか分からないが──少なくとも先日現れたオルフェノク程度であれば、トドメの一撃を迷う程度の余裕はあるようだ。

 

 巧の手にはファイズギアを収納したケース。これは巧にとって、人間として、ファイズとして戦うための証。

 決して忘れることなく手に取って、巧はアタッシュケースに込めた信念と共に文の自室を飛び出した。向かう先はこの妖怪の山にて再びオルフェノクが確認されたという場所である。

 

◆     ◆    ◆

 

 山の道を抜け、文と巧は多少開けた場所に出る。巨大な滝が激しく流れ落ちるこの場所は変わらず彼ら妖怪たちの領域ではあるが、特殊な妖術などは施されてはいないただの山。誤って人間が踏み入ることもあるし、夜になれば妖怪の動きも活発になる。

 ここは妖怪の山の中腹部、飛沫舞い散る『九天の滝』と呼ばれる場所。落ちる水は山を下っていき、川となって霧の湖へと流れていく。

 

 周辺は天狗組織の防衛と哨戒を担当とする白狼天狗たちによって守られているため、侵入者はほとんどいない。稀に白狼天狗の警告を無視し、さらに白狼天狗を無力化して乗り込んでくる者もいるが、それは例外中の例外だ。

 此度の異変においても一部の白狼天狗はオルフェノクによって灰化されてしまったのだろうか。侵入者とはいえ山の上の神社を調査しに来ただけだった博麗の巫女や普通の魔法使いとは比べ物にならないほど厄介な相手も、彼らとの戦闘に慣れた乾巧──ファイズがいれば心強い。

 

「……ぐうっ……ッ!」

 

 そんな中、白狼天狗の少女がゾウのオルフェノクを相手に戦っていた。大きな深手こそ負っていないが、全身は戦闘によってボロボロになってしまっている。

 白と黒の天狗装束に身を包み、一部にあしらわれた赤色は妖怪の山を染める紅葉の色に通ずるものを感じさせる。短く整えた白髪には狼というよりはどこか犬のそれじみた獣耳が突き出しており、豊かな尻尾は髪と同様に白く染まっていた。

 右手に構えた長剣と左手に持つ紅葉模様の盾を駆使しながら、妖怪の山に侵入したオルフェノクと交戦しているのは山中哨戒担当の下っ端白狼天狗―― 犬走 椛(いぬばしり もみじ)である。

 

 (もみじ) は白狼天狗として並外れた視力、さしずめ『千里先まで見通す程度の能力』と呼べるだけの遠視能力を持っている。

 この遠視能力のおかげで広い妖怪の山において哨戒中に侵入者を発見できた。侵入者である以上は山の外から入ってきたことは間違いないのだが、外部を担当していた同僚の白狼天狗はこの存在に気づくことができなかったのだろうか?

 いくら自分が下っ端とはいえ侵入を阻止できなかったのなら次の領域の防衛を求む報告があるはず。報告されていない以上、この侵入者の発見には自分の眼に頼るしかなかった。

 

「…………っ!!」

 

 無意識に戦闘を忌避していたためか、外敵を前にして余計なことを考えてしまっていた自分に気づく。これほどの相手を前に、そんな隙は決定的な不覚に繋がる。

 咄嗟に盾を掲げるが、判断の遅れを悔いる暇もなく。鴉天狗の飛翔に通ずるスピードで突き伸ばされた灰色の触手は一直線に椛の顔を目指し、突き進んだ。

 

 ――しかし。椛が瞬く間もなくそれは阻まれる。同じく音速で放たれた疾風の光弾が触手を貫き、その軌道を弾き捻じ曲げることで椛を触手の一撃から救ったのだ。

 一瞬のことに混乱する椛。白狼天狗である彼女は鴉天狗ほどの圧倒的なスピードを持たない。その代わりに優れた感覚を持っており、その能力が故に彼女ら白狼天狗は妖怪の山の哨戒任務を請け負っている。

 椛が認識できた速度は音を超えたという一点だけだった。彼女が不満そうに眉間をひそめてみせたのは、それだけの速度には一人しか心当たりがなかったこと。加えてはらりと舞い落ちた漆黒の羽根の艶やかな輝きが、自身の知る『上司』の来訪を告げていたからだった。

 

「ずいぶんと調子が良さそうね。普段から河童たちと将棋に興じているおかげかしら?」

 

 文は椛の正面に舞い降り、背中越しに顔を向けて椛に皮肉を投げかける。鴉の如き視線に返す狼の如き視線には、個人への不信感と組織への忠誠心が混在している。

 

「射命丸様……また大天狗様のご命令ですか?」

 

 不満そうに問う椛。ただの外来人と見て油断していたこともあったが、目の前のオルフェノクは自分一人の実力では退けられないと認めざるを得なかった。

 

「さぁ、どうでしょうね。とりあえず、あなたはおとなしく持ち場に戻ってなさい」

 

「……了解しました」

 

 椛は文の言葉に目を伏せると、再び顔を上げて答える。その目には微かな迷いもない、組織への忠誠心だけが確かに込められているようだ。

 その真っ直ぐな瞳は、文の心に鋭く冴える牙を突き立ててくる。黒い羽根で覆い尽くした本心を穿つように、椛の実直な剣が文の中の暗闇を暴くかのように輝いている。文はその真っ白な素直さが、どうも好きになれなかった。

 それは椛とて同じだろう。彼女が文を見る目は、隠し切れない侮蔑の念が見て取れた。本心を隠しながら組織に従って生きているのは、白狼天狗の彼女も同じことだ。

 

 椛は組織の一員として協調性を重んじる。そんな彼女は個人的な理由で上司を嫌うことを良しとせず、任務に支障をきたすことを避けようとしている。

 組織に属するということは自分の意思だけでは動けなくなるということ。文とてそれは重々承知している。だからこそ、鴉天狗は柔軟に。組織の命令を緩やかに解釈して風と共に幻想郷の眼となり翼と成れるのだ。

 

 文と同じ天狗の一本歯下駄をもって、椛は軽やかに大地を蹴る。天狗らしい身のこなしで山の木々へと飛び移っていき、椛は去り際に巧を見た。

 上司である文と共に行動している外来人。その存在に椛が不信感を覚えるのも当然だ。だが、それ以上に椛は巧に対して明らかな『何か』を感じ取っていた。確証こそ取れないが、椛の優れた知覚が感じ取ったそれは、彼女に一抹の不安を覚えさせるに十分なものである。

 

「…………?」

 

 気のせいかもしれないが──椛は白狼天狗として備える優れた嗅覚でそれを感じ取った。文と一緒にいる男から、かのゾウに似た灰色の怪物と同じ匂いがしたことを。

 外来人であるのなら匂いが似通うのも必然か、と深く考えず、椛は鴉天狗には及ばないながらも天狗としては相応のスピードで山を駆ける。椛は文の性格を知っているため、取材のためとあらば外来人にまで接触するだろうことを理解しているのだ。

 

 巧と椛の目が合う。その視線は狼の如く鋭い。にも関わらず、瞳の奥に優しさを隠し持っていることがなぜか伝わってきた。

 すぐさま椛から目を離した巧は文が牽制していたオルフェノクに向き直る。椛は銀色のアタッシュケースをその手に構え持った巧の姿を横目に、個人的な感情で戦闘に参加したい気持ちを抑えながら。自分が今するべきことを──上司たる大天狗への報告を優先するのだった。

 

 ―――

 

 文は椛を背中で見送りながら、目の前の怪物を警戒する。正面から対峙しているのはゾウの特質を備えた『エレファントオルフェノク』だ。側頭部から伸びたゾウの鼻は強靭な角と垂れ下がっており、口元からは鋭い象牙が剥き出しに生えている。

 その全身に纏う装甲もゾウを思わせる重厚な皮膚が変化し鎧となったもの。オルフェノクとして進化した鎧は、戦車の装甲にも匹敵する。

 だが、巧はまたしても既視感が拭えないでいた。スティングフィッシュオルフェノクと同様、このオルフェノクもかつての戦いで一度は引導を渡しているからだ。

 

「はぁぁ……ああッ!」

 

 鈍重そうな見た目に反し、エレファントオルフェノクは大地を駆けて突っ込んでくる。巧に変身の隙を与えようと文が弾幕を放つが、怪物の重厚な装甲には微かな妖力で構成された弾幕など注意を引くだけの効果ももたらしてはくれそうにない。

 エレファントオルフェノクはそのまま山の崖に激突し、大地を揺るがす。それでも難なく振り向くと、視線の先の巧──彼が手に持つファイズギアを目掛けて側頭部に生える角の先を。使徒再生のための攻撃としても用いられる灰色の触手と成し、真っ直ぐに突き伸ばしてきた。

 

「…………っ!」

 

 ただの人間には視認すら難しい速度。されど、巧とて少なくとも一度は死を超えている。本能的な反射神経で辛うじて身を(よじ)り、突き放たれた触手の一撃を掠め避けた。

 しかし本性を隠したままの今の姿では身体能力は人間と変わらず。たとえ死を超えて覚醒したところで、この姿のままでは常人より死ににくい程度でしかない。もっとも、一部のオルフェノクは生身でもその力を行使できるらしいが──

 

 咄嗟に岩場の陰に隠れて続く触手の一撃をやり過ごす。アタッシュケースを開こうとその場にしゃがみ込むが、巧は背後からの気配に気づいてすぐに立ち上がった。

 触手による攻撃を諦めて自ら突進してきたエレファントオルフェノクの体躯が小さな崖を粉砕し、その衝撃をもって巧の身体を吹き飛ばす。突進の直撃を受けたわけではなかったが、遮蔽物を破壊するほどの力は怪我を負った巧の身には少しだけ堪えた。

 

 手にしたアタッシュケースもその衝撃で吹き飛ばされてしまったのだろう。さっきまで保持していたはずなのに巧の近くにはない。周囲を見回してみると、厄介なことにエレファントオルフェノクのすぐ近くの場所に吹き飛ばされたアタッシュケースが落ちているではないか。

 

「ちっ……!」

 

 この身体では奴より先に取り戻すことはできない。だが、あるいはあの姿(・・・)ならば。狼の如く山を疾走するだけのスピードに至れば、難なくベルトを取り戻せるはずだ。

 しかし、巧はそれを拒んだ。人間として、ファイズとして戦うと決めたから。もう一度あの姿に至って戦うことを心のどこかで忌避しているのだ。

 

 もう迷わないと決めた。そのはずだ。そう自分に言い聞かせて、巧は恐れを押し殺して自らの中にある灰の細胞を目覚めさせようとする――が、その行動は完遂されなかった。

 目の前で炸裂した妖気の風が、エレファントオルフェノクの装甲を切り裂いたからだ。

 

「乾さん! 無事ですか?」

 

 文の問いに気づき、巧は狼狽しつつも小さく答える。オルフェノクがケースを手にしていないのは、文が渾身の力で放った弾幕がようやくオルフェノクにまともなダメージを与えることができたからだった。

 鴉天狗のスピードで駆け抜け、文は怪物より先にアタッシュケースを手に取る。

 やや気だるげに溜息をついたエレファントオルフェノクは文が抱えたアタッシュケースを見ながら、落ちた陽光に生じた影の中に青白い裸身の姿を映し出した。

 

「そのベルト、ちょうだい」

 

「……やっぱり狙いはこれですか」

 

 両手でしっかりとケースを保持しつつ、文はエレファントオルフェノクに向き直る。

 ゾウを思わせる怪物の長い鼻。側頭部の双角とは別に顔面にも備わったそれは紛れもなくゾウの特質を備えたものだが──

 その高く長い鼻は天狗の種族である『鼻高天狗(はなたかてんぐ)』にも通ずる。高々と鼻を振り上げる姿がどこか天狗特有の傲慢さに似ていたのか、文はそれを見て微かな苛立ちを覚えた。

 

「…………」

 

 銀色のアタッシュケースを手に、文は刹那の思考を馳せる。これを巧に渡したいのだが、素直に投げれば自分と巧の間に立つオルフェノクに奪われてしまうだろう。

 ゆっくりと近づいてくるエレファントオルフェノクに文は再び風の刃を放つが、妖力を練る隙が足りず効果的なダメージになっていない。

 

 それならば──と。上手くいく保障などはない。文は手にしたアタッシュケースを開き、中からファイズドライバーを取り出した。不慣れな手つきながらもデバイスを取りつけつつ、自らの腰に叩きつけるようにしてファイズドライバーを巻きつける。

 ベルトの中に循環する赤い光が、まるで血の流れのように。紛れもない力として、その熱が身体に伝わってくる。文はなぜかその感覚がどうにも恐ろしいもののように思えた。

 

「おい! 何する気だ!!」

 

「大丈夫です! 使い方は見て覚えてますので!」

 

 オルフェノクから目を背けることなく、文はファイズフォンを右手で開く。大まかな流れは見ていたものの、細かい動作まではあまり覚えていなかったが──

 アタッシュケースの内側に書かれた記号の様子や、ファイズフォンが示す感覚的なデータが基本的な使い方を丁寧に教えてくれていた。

 焦らずコードを入力する。表示が示す通りに『555』のキーを入力し、ENTERを押す。

 

『Standing by』

 

 ファイズフォンが告げる認識音を聞き、文は一つの可能性に賭けていた。

 巧の話ではこのベルト、ファイズギアなる力はオルフェノクの王を守るために作られたオルフェノクのためのベルトなのだという。

 オルフェノクの王を守るためのライダーズギア。その力が、オルフェノクと敵対する者の手に渡ったらどうするか? オルフェノクはそれを考えられないほど愚かではないはず。とすれば、スマートブレインなる組織は、ベルトに何らかの制限をかけているのではないか──

 

 文はファイズフォンを閉じ、真剣な顔で思考を続ける。オルフェノクを警戒しつつ、もしも『オルフェノクではない者』がベルトを使えばどうなるのかを実験する。

 ただの外来人であろう乾巧が変身できるなら、天狗である自分も問題なく変身することはできるのだろうが──

 長年を生きた直感によるものだろうか。文はどうしてもそれをそのまま飲み込めなかった。それを確かめるために、文は自分の身体をもって真実を求める。

 

 この黒き翼は闇と共に。ファイズが赤い光をもって闇を切り裂くのなら。鴉天狗である自分は闇をもって闇の中の真実を手繰り寄せればいい。

 待っているだけでは真実は見つけられないのだ。真実を知るには、自らの(あし)で行動しなくてはならない。そのために、文は右手に持ったファイズフォンを高く上空へと掲げてみせた。

 

「よせ!!」

 

「……変身っ!」

 

 巧の静止を振り払い、文は覚悟の言葉を呟く。振り下ろされたファイズフォンが、ファイズドライバーのコネクターに接続され、そのまま水平になるように倒されるが──

 

『Error』

 

「……っ!? きゃあっ!!」

 

 ファイズドライバーから音声が響き、紅い閃光が(ほとばし)る。だが、それは巧のときとは違い、全身を覆う光のラインを形成していくものではない。火花めいたその閃光が激しい電流となって文の身体を苛み、ベルトは文を弾き飛ばして外れてしまったのだ。

 その衝撃で文は後方の断崖に背中をぶつけ、身体に響いた痛みに顔を歪める。ガチャリと鈍い音を立てながら飛んでいったファイズドライバーに視線を馳せる余裕すらも見出せない。

 

「ぐっ……う……!」

 

 咄嗟に翼を展開していたおかげで衝撃を和らげることはできた。それでも抑え切れなかった肺への衝撃によって呼吸が制限され、思考に微かなノイズがかかるのが分かる。

 

「ちっ……!」

 

 巧は文の身体を心配するが、それも一瞬のこと。駆け寄りたい気持ちを抑え、巧は文の身から外れたばかりのファイズドライバーを見た。

 装填されていたファイズフォンもドライバーから外れている。地面に落下してから外れたためか、幸いそれら同士は離れていない。それでも巧から見れば手の届く距離にはなく、むしろ文と共にエレファントオルフェノクの方が近い位置に存在してしまっている。

 

 再びあの姿(・・・)となって疾走すべきか逡巡してしまった。その度に本能が駆け巡る灰色の記憶を呼び覚まし、無意識に駆け出してしまいそうな身体を抑えつける。

 ─―耐えろ。守り抜け。灰色の旅路ではなく、紅く切り拓く光の道を夢と目指せ。

 

 ただ時間にすれば、巧の思考は刹那のことだった。エレファントオルフェノクがファイズドライバーに近づこうとする瞬間を見て、巧は思わず駆け出していた。忌み嫌った己の姿、灰色の狼としてではなく。白き未来を歩む、『乾巧』として。

 しかし──人間の速度では間に合わない。距離も力も足りていない。エレファントオルフェノクが当たり前に伸ばした右腕の隙間に――人間の意地を滑り込ませる余地すらない。

 

 そんなとき、巧の視界にもう一つの閃光(・・)が走った。空から降り注ぐ、黄色い光(・・・・)の弾幕が。

 

「ぐぉ……おお……!?」

 

 黄色い光弾は数発に渡ってエレファントオルフェノクの装甲を撃ち抜き、その体躯を怯ませる。突如として起きた変化に巧は一瞬驚くが、すぐに反応してオルフェノクが手に取り損ねたファイズドライバーをその手に掴み取った。

 左手でベルトを巻きつつ、右手で拾い上げたファイズフォンにコードを入力する。

 

『Standing by』

 

「変身っ!」

 

『Complete』

 

 ファイズドライバーのコネクターにファイズフォンを装填。そのまま水平に傾け倒し、巧は全身に広がる赤い光のラインを感じながら電子音声を聞く。

 構築されたフォトンフレームを軸に、空を隔てた世界にあるはずの人工衛星から電送された漆黒の強化スーツを身に纏い、巧はこの地において再び『ファイズ』となった。全身に満ちる真紅のエネルギーの熱と灰を苛む不快感を振り払うように、いつもの癖で右手を軽くスナップする。

 

「はぁっ!!」

 

 ファイズの脚力をもって巧は山の大地を蹴り上げる。風を裂くは地上の鮫が如き威圧、そのスピードは右の拳をエレファントオルフェノクの腹へ的確に打ちつける。

 さらに振り上げた右脚でエレファントオルフェノクを真正面へと蹴り飛ばす。純粋な威力こそ心許ないが、ファイズの全身に絶えず流動するフォトンブラッドの衝撃がその破壊力を何倍にも強く高めてくれているのだ。

 

 蹴り飛ばされ、断崖の壁を打ち砕いて舞った土煙に包まれるエレファントオルフェノク。あれだけの重量を持つにも関わらず、ファイズはその体躯を蹴りの一撃で吹き飛ばし、あまつさえ背後の断崖を打ち砕くほどの衝撃を見舞ってみせた。

 ぱらぱらと落ちる石と砂、その中に先ほどの体躯は姿を見せない。ファイズの力を悟ってこの場を去ったのか、あるいは予期せぬ一撃を受けたことで力尽きてしまったのか――

 

「痛ったた……何が起きたの……?」

 

 文は呼吸を整え、翼を消失させながら己に問う。妖怪の身ゆえに身体的なダメージはさほどないが、思考を根こそぎ焼き払うような衝撃は不可解なものだった。

 

「それに……さっきの光は……」

 

 未だ秋めく陽光の照らす山の空を見上げて、文は先ほど空から撃ち放たれた光弾を想う。それはファイズの赤いフォトンブラッドと似たエネルギーの輝きをしていたが、ファイズの赤色とは違ってそちらは『黄色』の輝きだった。

 似ている――が、それが同一のものだという確証はない。文はそれ以上の思考に深く切り込もうとしたが、不意に響いた地鳴りと振動によって再び思考がそちらに向けられてしまう。

 

「あやややや……今度はいったいなんですか?」

 

 山の唸りに過去を思い出し、文は鳥肌を抑えながら(ファイズ)のもとへ戻る。ファイズの黄色い複眼が睨みつけるは、先ほどエレファントオルフェノクを蹴り飛ばした崖。山の岩場、砕け散ったその瓦礫から、先ほどとは比べものにならないほどの巨大な気配が滲み出している。

 巧にとっては本能で感じるオルフェノクの気配。文にとっては肌に伝わる戦意と敵意。空気を裂いて届くかのようなその威圧感に、二人は無意識に身構えていた。

 

 瞬間──瓦礫の山が怒号を上げて炸裂する。そう見えたのは、瓦礫の山の中にいたエレファントオルフェノクが自らのパワーをもってそれらすべてを吹き飛ばしたからだ。

 現れたのは先ほどと同じエレファントオルフェノクに相違ないだろう。以前において元の世界、自分の世界で戦った際にも一度その姿を見ている巧は、それが姿が違えど(・・・・・)同じ存在であることを確かに理解している。

 その姿は、元の数倍とも言える圧倒的な巨躯へと変化を遂げていた。さながら森羅万象を踏み鳴らす巨大なゾウが如き『突進態』へと変化したエレファントオルフェノクは、巧と文をまとめて押し潰そうとゾウの身体から生えた自らの上半身を鼻のように振り回して突っ込んできた。




文字数が多くなりすぎないように調整してたら変なところで終わってしまった……

Open your eyes for the next φ's
第26話『オルフェノクの記号』


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第26話 オルフェノクの記号

 砕けた瓦礫を突き破り、砂塵を巻き上げながらゾウの巨体は猛進する。エレファントオルフェノク 突進態のパワーは目に見える通りのものだった。

 文は衝撃に軋む身体に力を込め、背に現した翼を広げて後退。ファイズとなった巧も地面を蹴り、荒ぶるオルフェノクの巨体に巻き込まれないようになんとか距離を取る。

 見上げるほどの大きさは的としては当てやすい。文は後退しながらその手に込めた妖気を前方へと解き放ち、風の刃をもってオルフェノクを攻撃するが、巨大化した影響か先ほどよりも装甲の強度が増しているようだ。

 オルフェノクはやはり巧が持つベルト──ファイズギアの奪取を狙っている様子。文の方へは注意を向けてこない。その隙を見て、文は通常の弾幕を超えた規模の妖力を己の中で練っていく。やがて文は純粋に破壊力だけを追求したスペルカードを光と成し、その手に掲げてみせた。

 

「――疾風、風神少女ッ!!」

 

 手にしたスペルカードが光の力と散ると同時、文の全身に妖力の渦が巻き起こる。そこから放たれた疾風の光弾は放射線状に拡散し、風雨の如くエレファントオルフェノク 突進態の巨体に着弾していった。

 発動した【 疾風「風神少女」】の攻撃はまだ終わらない。放ち続ける風雨の弾幕に紛れ込ませるように、文は溜めた妖力を光球として具現する。それは先日スティングフィッシュオルフェノクに向けて放ったものと同じ、天狗烈風弾を思わせる妖力の塊だった。

 前方に放つ光球は一発二発と続けて三発、さらに四発、五発。疾風怒涛の勢いで連射された妖力の塊を一点に集中し、文はエレファントオルフェノクの装甲を撃ち破ろうとする。

 

「……っ……と……! 大きさの割によく動きますね……!」

 

 しかし、エレファントオルフェノクが振り払った剛腕は弾幕の雨を難なく掻き消してしまう。あわよくば足止めできればいいと考え、僅かな隙で編んだ妖力ゆえにパワーが足りていなかったのだろうか。こちらの消耗も抑えたつもりだが、結果が出せなければ意味がない。

 乱れた妖力に翼を取られないよう体勢を整えつつ、文は後退する。巨体となったエレファントオルフェノクは一挙手一投足が武器と成り得る。ただ乱雑に振るっただけの腕でも、あれに当たればダメージは避けられまい。

 幸いと言えるのが、巨大化による弊害の一つだろうか。その大きさと圧倒的なパワーを得た代償に、エレファントオルフェノクは先ほどから音速の触手を飛ばしてきていない。放ち得る隙は多くあったはずだが、やはり突進態となった影響である程度の行動は制限されているようだ。

 

「おとなしく……してろ!」

 

『Burst Mode』

 

 巧はファイズの身のままドライバーからファイズフォンを抜き、フォンブラスターに変形させて引き金を引く。打ち込んだコードによってバーストモードとなった巧のフォンブラスターは、濃縮フォトンブラッド光弾を三連射でオルフェノクに射出した。

 されど文のスペルカードでさえ破れなかった装甲。オルフェノクに対する熱量、エネルギーの流動による衝撃を備えているとはいえ、通常攻撃と言って差し支えないフォンブラスターの射撃では決定打になり得ない。

 巨体から生えた人型の上半身、元の格闘態だったエレファントオルフェノクの身体。着弾した箇所から微かに灰が零れるが、エレファントオルフェノクはそれを手で掃うだけであっさりと修復する。一度の滅びを経験した怪物の強度は、並大抵のものではないらしい。

 

 巧は疾走する。エネルギー光弾による攻撃が通用しないのなら、直接この手で攻撃するしかない。鋼の爪先で大地を蹴り、振り抜いた右腕でエレファントオルフェノクの巨躯へ。その身体を支えるゾウの脚を渾身の力をもって殴りつける。

 続けて右脚を振り上げて横からの蹴りを見舞うが、全身に流れるフォトンブラッドの衝撃をもってしてもオルフェノクの体格は大して揺らぐことさえもなかった。

 眼前でぐらりと持ち上げられた大脚を見上げ、巧はすぐさまその場を後退する。直後、目の前で地面が抜けるかというほどの衝撃が響き、判断が一瞬遅れただけでこの身を踏み潰されていたであろう事実に微かに身が竦んでしまう。

 それでも息をつくことさえ許されない。揺れた地面に足を取られている隙に、エレファントオルフェノクは大地を蹴る。その巨体をもって突進を再開し、咄嗟に防御の構えを取った巧を難なく突き飛ばし、文より遥か後方――妖怪の山の断崖の壁まで吹き飛ばしてしまったのだ。

 

「……ぐっ……!」

 

「乾さん!」

 

 打ちつけられた痛みに肺が悲鳴を上げる。ファイズの胸部装甲(フルメタルラング)が備える酸素の供給も追いついていないのではないかと錯覚するほど、脳の痺れは巧の視界をちかちかと明滅させてくる。衝撃こそは大きいものだったが、スマートブレインが誇る強化スーツのおかげで巧へのダメージは最小限に抑えられていた。

 ぱらぱらと零れる小石を落としつつ、巧はその場に立ち上がる。

 以前この怪物と戦ったときは、エレファントオルフェノクは何を血迷ったかファイズを無視して傍にいた少女――巧の旅の仲間である美容師見習いの少女に気を取られていた。

 咄嗟に車の中に逃げ込み、怪物がその車ごと少女を押し潰そうとしていたところを見て、巧はエレファントオルフェノクが晒した隙に必殺の一撃(・・・・・)を打ち込むことができたのだが──

 

「こいつ……隙がない……」

 

 迫り来るエレファントオルフェノクは今なお突進を続けている。あの一撃を続けて受ければ、いくらファイズの性能といえど無事では済まないはず。

 

「(私には使えなかった……ファイズのベルト……乾さんはなぜ……?)」

 

 文は全身に響く衝撃に思考を馳せる。オルフェノクによって吹き飛ばされた痛みではなく、自身が使ったファイズドライバーがもたらした紅き閃光によるもの。予想通り、誰でも変身できるわけではないということは確かめることができた。

 ならば、目の前の男がファイズとして戦うことができるのにも理由があるはず。彼は自分のことについて語りたがらないが、その過去に何か秘密があるなら。ただの人間の身にしてファイズのベルトを使いこなす力があるのなら──ぜひとも、その詳細について取材をしてみたい。

 

「ちっ……! ぼーっとすんな!」

 

「えっ、ああ……はい!」

 

 断崖の傍に立つ文を抱き抱え、突進するエレファントオルフェノクから庇う。背後で断崖が叩き砕かれる音を聞き、背中に飛散した小石を受けつつ、巧は文の無事を確認してから再びエレファントオルフェノクの正面に向き直った。

 以前戦ったときよりも格段に強くなっている。それに生身の少女を完全に無視してファイズギアだけを狙っている様子を見ると、判断能力も以前より増しているのか。

 

 幸いこちらも以前この怪物と戦ったときに比べれば格段に戦闘経験を積んでいる。一度は王さえ打倒した巧なら、この程度のオルフェノクに負ける道理はない。

 しかし──長き戦いにおいて得た『装備』においては、決して万全とは言えなかった。

 

「(あれ(・・)も……あれ(・・)もない……か)」

 

 自身の左手首を見るものの、巧が望んだ『腕時計』めいたデバイスはない。当然、その手にない以上はファイズを拡張する装備の中で最強の力を誇る『トランクボックス』に似たツールもここには存在していない。

 今のファイズは開発された当初のそのままの状態でしかなかった。安定性と拡張性を重視されたこのシステムにおいて、それは最大限の力を発揮できないということである。

 

「(だったら……一か八かだ)」

 

 巧は一度はドライバーに戻したファイズフォンを再び引き抜く。親指でそれを開き、今度はフォンブラスターとは別のコードを入力しようと親指を動かす。

 

「写真でも撮るつもりですか? この距離じゃ新聞映えはしないと思いますよ?」

 

「そうじゃない。ちょっと試したいことがあんだよ」

 

 文は同僚のはたてが持つ携帯電話じみた形状のカメラを思い出したが、ファイズフォンにはカメラ機能は備わっていない。無論、巧がしたいのは写真撮影などでは決してない。この戦闘の最中にそんなことを考えるのは文くらいのものだ。

 エレファントオルフェノクの巨体がぐらりと揺れ、断崖を背にして振り返る。突進するしか脳がないとはいえ、あれだけの質量がぶつかってくるのは単純な脅威だった。

 

 生身の少女を囮にするわけではないが、あのときと同じような状況が作り出せれば──

 

 今のままでは必殺の一撃を放つ隙が無さすぎる。せめてファイズドライバーにマウントしてある円筒状のデバイスを手に取り、右脚に装備する程度の時間があれば。巧はそれを現実のものとするため、コードを打ち込む。

 もしも本当にスマートブレインが復活を果たしているのなら。ファイズのシステムを稼働させる人工衛星が変わらずこの世界でも光を届けてくれるのなら。

 巧にとって相棒と呼べる、かの『機体(マシン)』が。この呼び声に応えてくれると信じて。

 

 ─―『5』『8』『2』『1』――

 

 四つのキーを弾き打つ度に軽やかな電子音が鳴る。最後に打ち込んだエンターキーの電子音を合図として、ファイズフォンを走る赤いラインに認識完了を告げる光が灯った。

 

『Auto Vajin Come Closer』

 

 電子音声を聞き届け、巧はファイズの仮面の下に微かな不安を浮かべながらファイズフォンを閉じ、ファイズドライバーへと戻す。

 再びこちらへ突進してきたエレファントオルフェノクを回避しつつ攻撃の隙を探すが、巨体に見合わぬ機動力は体勢を変える際にもほとんど隙を見せない。崖に激突した直後の硬直を狙おうにも、またすぐこちらに方向転換してきてしまうのだ。

 

 どうせ奴が狙っているのはファイズギアのみ。確証はないが、あの姿では使徒再生も行えないらしい。このまま文を巻き込み続けてもいずれ怪我をさせるだけだろう。

 ならばいっそ、バラバラに逃げるべきか。こちらにのみ意識を向かせれば、隙を見出すことはできずとも文だけは逃がすことができるかもしれない。

 しかし、怪物(あいつ)が本当に文を攻撃しないという保障もないため、即断は危険だ。

 

「……やっぱ無理か……」

 

 巧は隙を見せないようにオルフェノクを警戒しつつ、妖怪の山の青空を見上げる。期待していた変化はまだ訪れない。巧は仮面の下で表情を歪め、仕方なくオルフェノクに向き直った。

 あの役立たず──と心の中で悪態をつく。

 そうは言っても詮無きこと。何せ、『あいつ』はもうどこにも存在しない。最期に巧に人類の希望を託し、オルフェノクの王によって破壊されてしまったのを見届けているではないか。届く相手のいないコールに怒りを向けても──きっと何も変わらない。

 

 フォンブラスターによる銃撃も無意味。必殺技を放ち得る隙がないのなら肉弾戦で装甲を削り取るしかない。巧はフォトンブラッドの流れる拳をもって、オルフェノクに向かっていった。

 

「(この距離じゃオルフェノクだけに当てるのは難しそうですね……)」

 

 文は翼を広げて軽く飛び上がり、ファイズとオルフェノクを空から見下ろす。スペルカードによる攻撃が通用せずとも、あの程度の弾幕は小手調べだ。本気で放ったスペルカードであれば、せめて装甲を破るくらいはできるはず。

 しかしてそれだけの威力を込めれば当然周囲にも被害が出るだろう。特定の対象だけを狙う誘導性能の弾幕も持っていないわけではないが、巧をオルフェノクから遠ざけなければ――

 

「乾さーん! ちょっと大きめの弾幕(スペル)を使いたいんで、そこから離れていただけますかー!?」

 

「ああ? お前、いつの間にそんなとこに……!」

 

 エレファントオルフェノクの突進を回避しながら打撃を続ける巧。守ろうとしていた文の姿が見つからなかったが、上空から聞こえてきた声に思わず空を見上げてしまった。

 すぐさま視線を下ろしてオルフェノクに向き直る。案の定、正面から突っ込んできたエレファントオルフェノクは巧を吹き飛ばそうと前足を思い切り振り上げた。幸いそれは両腕を構えることで防ぐことができたが、衝撃までは殺せない。

 後方に吹き飛ばされてしまい、巧はオルフェノクと距離を開かれる。咄嗟に身をよじったおかげで背中を打つこともなく両脚で着地し、地面を滑りながら体勢を立て直すことには成功した。が、これではエレファントオルフェノクの突進を促してしまうだけだ。

 

「ご協力、感謝しま――あやややや!?」

 

 文の手には巻き起こる疾風の妖力。光と束ねたカードの形が具現化する中、文は攻撃しようとしていたエレファントオルフェノクの変化に思わず目を見開く。

 巨体に生えた上半身、等身大と変わらぬそれがその手に宿した灰の塊。エレファントオルフェノクの剛腕の太さを優に超える灰色の大筒は、まさしく『大砲』としか形容できない露骨で攻撃的な威圧感を放っているではないか。

 

「と、飛び道具まで持ってるなんて聞いてませんよ!?」

 

 あんな得物を、いったいどこから現したのか。それともスティングフィッシュオルフェノクが手にしていた三叉槍と同様に、己の身を削り出して作った自らの一部とでも言うのだろうか。文に向けられた砲門の深さは、それが決してこけおどしなどではないと証明している。

 文はすでに攻撃の態勢に入っていた。轟音と共に放たれた光の砲弾を紙一重で避けられたのは奇跡と言っていい。咄嗟に身をよじったせいで練り上げた妖力を霧散させてしまったが――

 

「(まずい……避け切れな――)」

 

 オルフェノクの攻撃はまだ終わっていない。体勢を立て直すより早く向き直った砲門と目が合ってしまった文は、自らの背筋に冷たいものが走るのを感じてしまう。

 

 ――だが、その直後。鋼の弾丸が飛び交うような、甲高くも鈍い音が空に響いた。

 

「……ぐっ……がっ……ああ……!?」

 

 エレファントオルフェノクの背後から散った火花と共に、怪物が苦痛の呻き声を上げる。

 どこからともなく飛んできた実弾(・・)の雨を受け、エレファントオルフェノクはたまらずその手に持っていた大砲を手放した。

 さらりと灰に還る大砲に目もくれず、エレファントオルフェノクは予期せぬダメージに混乱している様子。そのまま巨体を動かし、攻撃の飛んできた背後を確認しようとする。続けて放たれた弾丸を両腕で防ぎつつ、オルフェノクは巧と共に――『それ』を目にした。

 

「…………!」

 

 ファイズの複眼に映ったのは、銀色の体躯をもって浮遊する機械仕掛けの鉄人(・・・・・・・・)だった。

 

 さながらバイクのホイールじみた左腕の車輪を盾と掲げ、回転する砲門からは絶えず弾丸の雨を放ち続けている。

 車輪でもあり盾でもあり、連射性能に優れたガトリングガンでもある『バスターホイール』。その威力を如何なく発揮する鉄人(マシン)の姿を、巧は誰よりも知っていた。

 

 彼の名は『オートバジン』。スマートブレインが開発した可変型バリアブルビークル。ファイズのサポートを目的に作られたその装備は、かつての戦いにおいても巧の旅路においてもその道を照らしてくれた――かけがえのない相棒である。

 

 やはり巧の信じた通り、一度はオルフェノクの王によって破壊されてなおここにある。復活したスマートブレインが再びこの機体を作り直したのだろうか。

 敵の恩恵を受けるのは(しゃく)ではあるが――元よりこの身に纏うファイズギアの力もスマートブレインの手によるもの。ファイズとして戦うのなら。ファイズの力が乾巧(たっくん)のものだと言ってくれた、あいつ(・・・)の言葉を信じるのなら。

 このマシンも――オートバジンも、スマートブレインのものではなく。共に歩む夢の道標として、巧自身の力として。迷いなくその先の未来を照らす真紅の輝きとすればいい。

 

「ぐぅ……あ……!」

 

 オートバジンは背部のフローターで飛行しつつ、その勢いのまま右の拳でエレファントオルフェノクを殴り飛ばす。重量も破壊力もファイズを上回る拳の一撃で、相応の重量を持つエレファントオルフェノクはぐらりと体勢を崩して倒れてしまった。

 そのまま方向転換し、オートバジンは飛行しながら主人である(ファイズ)のもとへ来る。

 

「お前……! 来んのが遅いんだよ!」

 

「…………」

 

 背部のフローターの出力を弱め、地上に降りたオートバジンに対し、巧は悪態をつく。ファイズフォンをもって呼び出してからここへ来るのに時間がかかったのは、やはり元いた場所からの距離が影響しているのだろうか。

 エレファントオルフェノクが倒れた隙を見て、文も地上へと舞い降りる。物珍しげにオートバジンの頭部を見上げながら、その技術と叡智に感嘆しているようだ。

 

「なんだかよくわかりませんが、今なら……!」

 

「……ああ、そろそろ決めさせてもらうぜ」

 

 巧は体勢を立て直そうとするエレファントオルフェノクに文と共に向き直る。突進態の大きさゆえに立ち上がるのに時間がかかっているようだが、その行動を成し得るだけの時間を与えるつもりは毛頭ない。

 オートバジンが文を庇うように立つ。ファイズドライバーの右腰にマウントされた円筒状のデバイスを手に取り、捻るようにしてそれを取り外す巧。

 先端についた照明が表すように、このデバイスは小型懐中電灯として設計された道具だった。しかし、スマートブレインの技術によって『そう偽装された』だけの性能を持つツールは、ファイズにとってはまた別の『武器』となる。

 右手に持ったデジタルトーチライト型ポインティングマーカーデバイス――『ファイズポインター』をその複眼に捉えながら。左手でもってドライバーに装填されたままのファイズフォンを撫でる。否、正確にはその背面に備えつけられたパネル状のプレートを取り外したのだ。

 

 巧はファイズポインターの溝にそのプレートを、ファイズギア全体の起動キーとなるメモリーカード型インターフェース『ミッションメモリー』を差し入れる。

 

『Ready』

 

 カチリと音が鳴ったと同時、ファイズポインターの円筒状の先端が引き伸ばされ、『キックモード』へと移行した。その際に鳴った電子音声は電化製品を偽装して作られたライダーズギアの戦闘形態、すなわち本来の武器としての役割を告げるもの。

 ファイズポインターを片手で持ち変え、そのまま巧はしゃがみ込む。右脚の脛の側面へそれをスライドさせるように取りつけ、足とポインターが垂直になるように固定する。

 その姿勢のままファイズドライバーにあるファイズフォンを開き、エンターキーを押下。

 

『Exceed Charge』

 

 電子音声が鳴るや否や、巧はファイズフォンに灯った赤い光を見るまでもなくフォンを閉じる。気怠げな姿勢のまま膝に腕を乗せ、ベルトから供給される赤いフォトンブラッドの熱が、全身のフォトンストリームを通じて右脚へと流れ込んでいくのを感じながら。

 ファイズの右脚に備わった『エナジーホルスター』。現在、そこに装備されたファイズポインターには、ファイズドライバーが生み出すフォトンブラッドの力が集中している。

 

「はぁっ!」

 

 巧は腕を振るい、その場を駆け出した。目の前にいる巨体はすでに動き始めている。ようやく起き上がり、迫るファイズに向けて顔を向けたところでもう遅い。

 大地を蹴り、巧は空中へと大きく跳び上がる。その場で小さく前転し、エレファントオルフェノクに向けて両脚を伸ばすようにして。エレファントオルフェノクの存在を捉えたファイズポインターは、赤く透明なレンズから一筋の閃光を放った。

 

 ポインティングマーカーデバイスの本領――赤く輝く光線は円錐状のマーカーとなり、鋭い先端を灰の徒花(オルフェノク)に向けたままファイズを待つ。逆に花と広がった後部の円は、巧が見下ろす視界の先に、エレファントオルフェノクの存在をしっかりとそのサークル内に捕捉している。

 

 崩れ落ちてくる灰の空。信じていた未来が、崩れ去ろうとしているなら。この身にまだきっと、やるべきことが残っているのなら。一秒、迷ってる暇なんてない――

 

「やぁぁぁああっ!!」

 

 巧は吼える。嵐のような時間を駆け抜ける。右脚を鋭く突き伸ばし、赤いマーカーの渦の中へと勢いよく蹴り込むようにして。

 直後、マーカーはファイズの身体を真紅の螺旋と包み込んだ。ドリル状に回転する光の円錐が巧ごとキックの一部と紅く突き進み、そのままエレファントオルフェノクの巨体を抉り穿つ。傷だらけの状況が続いても、決して可能性はゼロではないと――この鼓動に叫び立てる。

 

 一瞬の間の後、ファイズはエレファントオルフェノクの背後から現れた。

 光の粒子と変わり果て、マーカーと一体となったファイズ。真紅の閃光と共に蹴り放たれた必殺の一撃【 クリムゾンスマッシュ 】によって、巧はオルフェノクの身を光と貫いたのだ。

 

「ぐぁぁぁぁぁああああーーっ!!!」

 

 巧が振り返った先にて、青白い炎と共に断末魔の叫びが上がる。その身が砕け散ったわけではない。炎は青く、ただ光と音を放っただけ。

 ファイズの足から放出されたフォトンブラッドの渦がオルフェノクの全身の分子構造を、その灰の細胞の悉くを焼き尽くして破壊する。それをオルフェノクたらしめる存在のすべてをフォトンブラッドという真紅の衝撃をもって――正面から蹂躙する。

 

 エレファントオルフェノクはさながら砂の城を崩したように呆気なくさらさらと崩れ落ちていく。あれだけの巨体であったにも関わらず、その最期は儚いものだった。

 紅く刻まれた楕円と斜線――ファイズの紋章を表すそれがオルフェノクの死。揺るぎない崩壊を示す刻印。巧はファイズポインターによるクリムゾンスマッシュで何度もそれを見てきた。己が一撃をもってその身を屠る感覚は――決して心地良いものではない。

 

 灰の要塞が崩れ去った先に見えたのは安心した様子の文。そして無機質ながらどこか愛嬌のある雰囲気でその場に佇むオートバジン。

 さっきまで生きていた――否。変わらず死んでいた亡骸の身であった。死体として蘇ったオルフェノクの身は、大量の灰となって妖怪の山に積もる。それだけの重さであるのに、仮初めの命を青い炎と失ってしまった怪物の残滓は、やがて風と吹かれて木々の隙間へと消えていった。

 

「…………」

 

 巧は微かに残った灰の残滓を踏まぬよう、灰のない場所を歩む。文とオートバジンが待つ場所に戻ると、腰のファイズドライバーに装填されているファイズフォンを抜き、開いたファイズフォンの通話終了キーを押すことでファイズとしての変身を解いた。

 

「なんとか勝てたみたいですね……」

 

 文は変身を解いた巧の顔からさっきまで怪物だった灰の山に視線を馳せる。

 幻想郷に住まう人間さえ、あるいは妖怪でさえも彼らオルフェノクによってただの灰へと還っていく。一つ何かが間違うだけで死後にオルフェノクとして覚醒する。殺戮者も被害者も、共に灰となって朽ち果てるだけの最期。

 ゆえに灰を見ただけではそれがかつて人間だったのか妖怪だったのか、灰の怪物(オルフェノク)であったかなど誰にも分からない。風に吹かれて消えゆくだけの残滓は、埋葬すらされないだろう。

 

 巧の歩みに合わせるように、隣立つオートバジンの機体が振り返る音が無機質に響く。先ほどから気になっていたがオルフェノクとの交戦に突如として現れたこの機械仕掛けの鉄人は見たところ巧の――ファイズの味方として考えていいようだ。

 オートバジンはその場から動いていない。ただ巧が己のもとへ来るのを待っているだけ。

 

「ところで乾さん、その奇怪な機械はいったい……?」

 

「ああ、こいつは……俺の……」

 

 訝しそうにオートバジンを見ている文の問いに、巧は考え悩む素振りを見せる。言葉を探るような表情は口を(つぐ)んでいるというより、適切な表現が見つからないだけの様子。

 言葉を見つけるより先に、巧はオートバジンの傍へと辿り着いた。無機質な機械音を鳴らすオートバジンの正面まで歩いて来ると、巧はそのボディを見上げる。

 

 オートバジンの胸部にはファイズの複眼を模したような形状の紋章(エンブレム)があった。微かな出っ張りを見せるその真円に腕を伸ばし、おもむろに触れる。機体の『スイッチ』として設けられたエンブレムを押され、オートバジンは所有者である乾巧による――信号の入力を受けつけた。

 

『Vehicle Mode』

 

 軽やかな電子音声と共に、オートバジンは両腕を畳み背後の車輪を前方に下ろす。複雑な機構を忙しなく動かし、次の瞬間にはその姿は全く別のシルエットとなっていた。

 

 さながら機械仕掛けの馬――外の世界で見られるバイクらしき姿。可変型バリアブルビークルであるオートバジンの本来の形態。先ほどまでの『バトルモード』の姿から、銀色のボディに赤いラインが走るオフロードバイク─―『ビークルモード』へ。

 バイクの姿に戻った(・・・)オートバジンの座席(シート)を撫で、巧は不意にその機体に刻まれていた小さな擦り傷を見つける。

 そこで、巧は理解した。オルフェノクの王の一撃によって破壊されてしまったはずの機体。失われたはずのオートバジンがここにあるのは、新しく作り直されたからではない。きっと王の攻撃でバラバラにされた残骸が回収され、同じ機体が修理されたのだと。

 

 その証拠に、かつての旅で何度も困難を共にし、同じ道を歩んできた傷が──寸分の狂いもなく同じ場所に刻まれているではないか。

 ファイズ専用のツールとして開発されたオートバジンというビークル。それだけの性能を持つ機体を一から作り直すのはコストの都合もあったのかもしれない。パーツを回収して修理したほうが確実だっただけだろう。

 それでも巧は『この機体』と巡り逢えたことが少しだけ嬉しくて、思わず笑みを浮かべた。

 

旅の仲間(・・・・)――ってとこだな」

 

 性格のキツい美容師見習いの少女。真面目すぎて気持ち悪いクリーニング屋の男。そして、オルフェノクへの敵愾心と、とある少女への妄執だけで夢を目指していたあの男。友達と呼ぶには歪かもしれないが──それでも大切な仲間に変わりはない。

 それぞれが別々の夢を目指して旅立った。一人は灰となり、二度と会うことはできない。だからこそ、あのときと変わらぬ仲間、オートバジンと出会えたことが、なおのこと嬉しい。

 

 こうして仲間と再び会えた。一度は倒したオルフェノクが蘇っていることもあり、巧は共に夢を語った彼らとは別に――もう三人の『仲間』について想いを馳せる。

 鬱屈した道を(つる)の翼をもって切り拓いた少女。蛇の如く飄々(ひょうひょう)と生き抜き、朽ちることなく夢を這った男。そして、最期にようやく見つけ直すことができた本当の理想を馬の(ひづめ)と駆けた男。彼らもどこかに蘇っているのだとしたら──

 オルフェノクながら人の心を捨て去れなかった三名のうち、二名は灰と朽ち果てた。それでも再び巡り逢える気がしているのは、巧の己が身がオルフェノクとしての直感を忘れていないがためだろうか。これまでも何度も灰の夢を共にしてきた、別の意味での仲間たちと――

 

 たった一人、巧と同様に生き残った蛇のオルフェノク。彼は巧のようにスマートブレインによる細胞の崩壊実験こそ受けていないが、王を打倒した今ではそう長く生きられる身体ではなくなっているだろう。

 もしあの男がそのまま灰となっていたとしても、幻想郷(ここ)ならば──あるいは。

 なぜ自分がこうして蘇っているのか分からない以上は不安は残るが、一度は確かにオルフェノクとして朽ち果てた自分がここに立っていることを考えれば、夢を信じてみる価値はある。

 

◆     ◆     ◆

 

 未だ秋色の風情を残す妖怪の山。すでにその場を去った文と巧、そして今ではその遺灰ごと消えてなくなったエレファントオルフェノクがいた場所の崖上、右手に持った携帯電話状のデバイスでそれを撮影していた鴉天狗の少女が一人。

 姫海棠はたては、天狗組織にオルフェノクの記号を提供した『あの男』がもたらしたカイザギアの一部、携帯電話型トランスジェネレーター、カイザフォンの画面を見つめていた。

 

「文……やっぱり……」

 

 自前の携帯電話型カメラは今でもポケットに忍ばせてある。黄色くファンシーな本体にハートマークをあしらい、筆のストラップを着けたお気に入りの特殊なカメラ。普段から愛用しているそちらを使ってもいいが、今は取材より優先すべきものがあるため、解析性能に優れたカイザフォンのカメラ機能を使うことにした。

 折り畳み式の普段の携帯(カメラ)──あるいはファイズフォンとは違った構造をしている。アンテナのついた上部をスライドさせて半回転させることで開くタイプのカイザフォンは、上部に画面を設けることができない分、下部についた小さな画面を見るしかない。

 

 最初は使いづらいと思っていたが、幸いすぐに慣れることができた。一度慣れてしまえば変身用兼通話用を主としたデバイスとは思えないほどの性能で写真を撮ることができる。

 そもそもカイザギアには武器としての機能を隠す擬装とはいえ、元より写真の撮影を本領としたデジタルカメラ型のデバイスもあるのだが──

 普段から携帯電話を模したカメラを愛用していたからか、そちらは使ってみても手に馴染まず上手く扱えそうになかったため、愛用のカメラと似た形の携帯電話型デバイス、カイザフォンを使って撮影を続けていた。半回転式という点に目を瞑れば、普段使っているものと同じ感覚だ。

 

「(……っ! 何か来る……?)」

 

 はたては先ほど撮影したファイズやオルフェノクの画像を調べながら、鴉天狗としての感覚が捉えた何か(・・)の気配に振り返る。咄嗟にカイザフォンを閉じ、銀色のアタッシュケースに押し込んで背後の大木に飛び移った。

 ファイズギアと比べてやや大型のアタッシュケースを自身の横、片膝を立てて座る枝の隣に乗せ、木の幹に立て掛けるようにしておきながら──

 

 その直後、微かに山の陽が陰った。否、陰ったのは山の日差しではなく、どうやらこの場所だけであるようだった。

 ゆらりと舞い降りる、灰色のオーロラ状の『結界』らしきもの。その存在はこれまではたても幾度となく認識している外来からの接続、言わば外の世界へ繋がる境界と呼べるもの。またしても奴らが現れるのかと、無意識にカイザギアのケースに手を乗せる。

 手が震える。オルフェノクへの憎悪は確かにこの心に燃えているのに。それを解き放つための力がここにあるというのに――やはり呪われたベルトを使うのは、恐怖が拭えない。

 

「…………!」

 

 波紋を広げるオーロラの帳。そこに映し出された人影を見て、反射的にケースを強く掴む。

 ――が、現れたのは見覚えのある男だった。その男は妖怪の山にオルフェノクの記号に関する情報を提供してきたオルフェノクの男、黒い服装と帽子に身を包んだ壮年の男性。下の名前までは聞いていないが、男は 花形(はながた) と名乗っていた。

 灰色のオーロラから現れた花形ははたてもよく知る幻想郷の少女と一緒にいる。彼女はあまりはたてと関わることのない相手だが、里ではそれなりに知られた人物だった。

 

「(あれって……たしか道教の……どうしてあの男と……?)」

 

 現在、幻想郷の三大宗教とされる神道、仏教、道教のうち──道教の仙術をもってこの幻想郷に復活したとされる外の世界の古き聖人――聖徳道士(しょうとくどうし)。それはまさしく古代日本における伝説の為政者、『聖徳太子』その人である。

 天を衝くように束ねられた金髪はさながら羽角が如く。その徳の高さに相応しい荘厳な身なりと溢れ出るオーラは、彼女を知らぬ者でも一目見れば只者ではないと理解できるだろう。

 はたてから確認できた黒い耳当ての左側には『和』の文字。和を以て(とうと)しと為す。その思想を体現するが如く、袖のない服に装うスカートはかの偉人が定めたもうた冠位十二階の最上位、紫色に染められていた。

 

「……気分はどうかね」

 

「悪くはないな。青娥の計画を聞いたときはどうかと思ったが、なるほど……これなら」

 

 花形の低い声に対し、幻想の聖徳道士── 豊聡耳 神子(とよさとみみ の みこ) は己の右手を軽く握って確認する。

 1400年前に青娥より教わった中国の法、道教の術。一度の死を経験して仙人となった彼女の身体はすでに人間を超えて久しい。様々な方法で不老不死の策を講じてみたが、辿り着いた答えは思えば簡単なものだった。

 死の恐怖を乗り越えてその先へ――死して仙人に至る。恐れがなかったわけではないが、信頼のおける弟子の成功を見て自らもその秘法に至ろうと決意することができたのだ。

 

「あまり無理はしないことだ。尸解仙(しかいせん)とはいえ、その身には余る力だろう」

 

 笑みを浮かべる神子(みこ)に向き直り、花形はその自信を戒めるように語気を強めた。

 今、神子の身体には生来のものでも道教のものでもない力がある。本来はいくら徳に優れた超人とはいえ、生身の人間に刻み込める代物では決してない。

 一度の死を経て、憑代とした物体に肉体を再構築することで『尸解仙』として蘇る。宝剣を憑代として復活した彼女の場合は、仙人のランクの中では最低とされるその手法をもってしてなお衰えることのない徳の高さと生前のままの魂の輝きが、聖徳王として紛れもなく残っている。

 

 聖徳王と呼ばれた者――誇り高き王の器(・・・)。彼女ほどの存在の強さと、尸解仙として再構築された肉体をもってすれば――『その力』を受け入れるだけの素質としては十分だ。

 神子はそれを理解している。己の力を過信しているわけではない。ただ、知っているのだ。それが、己が往くべき光の道であるならば。

 やるべきことであるならば──求められる十の(こえ)のままに、王として振る舞うだけだと。

 

「ご冗談を。この程度で音を上げるようであれば……『帝王』など務まりますまい」

 

 神子の自信は過信でも慢心でも何でもなく。純然たる力に見合った余裕というモノに他ならない。それがたとえ過ぎた力であろうと、神子の器ならば受け止められる。どこまでも悠然と広がりゆく『地』の如く、帝王の威厳と聖人の風格を併せ持っている。

 

「……期待させてもらうとしよう」

 

 高い身長に見合った低い声。花形はそれだけ小さく呟くと、再び灰色のオーロラへと消えていく。ついさっきまで花形が立っていた場所には、微かな灰の残滓だけが残っていた。

 

「貴方こそ、その身に余る力に苦しんでいるでしょうに」

 

 消えゆくオーロラの彼方を見やりつつ、神子は神妙に一人言つ。

 彼女の身体に刻まれた『オルフェノクの記号』――それは汎用的な意味を持つ並みの個体のものではない。オリジナルの中でもさらに強大な力を秘めた悪魔が如き者の血。ヤギの特質を備えたオルフェノクが誇る最強の遺伝子である。

 それは紛れもなく、オルフェノクである花形自身の記号。他の何物でも代用することのできない、花形だけが持ち得る固有の記号(・・・・・)と呼ぶべきもの。

 王を守るためのベルトとして作られたカイザギア程度であれば、並みのオルフェノクの記号だけでも適合すれば使いこなすことができただろう。かつての子供たちや幻想郷の鴉天狗たちに宿した記号は彼らの身体に適合しなかったためか、カイザの力には耐えられなかったが。

 

 ─―しかし、これより神子が至ろうとしているのは『王を守るためのベルト』ではない。さしずめ『王のためのベルト』とでも呼ぶべき、帝王の如き力。禁断のベルト。

 

 それを装うためには並みのオルフェノクの力では足りないのだ。神子ほどの器でも、そのベルトを扱うには不足かもしれない。されど、花形の持つ記号に適合することができればそれが可能であると──答えは導かれた。

 花形の目的はオルフェノクの殲滅。それは幻想郷を守りたいという意思を持つ神子にとっても変わらぬ理想ではある。だが、神子は微かな引っ掛かりが拭えずにいた。

 

 神子は知らぬ、かつての戦い。再建されたスマートブレインは別世界にてファイズギアとカイザギアを含む三つのライダーズギアを回収していた。

 乾巧が使用していたファイズギアと、その仲間が使用していたもう一つのベルト。さらに王の手により破壊されてしまったカイザギアの残骸を回収し、復元を果たした。花形は他のオルフェノクと同様に蘇り、再びそれら三つを手に入れることに成功したのだ。

 そのうちの一つ、カイザギアは妖怪の山へ。残る二つのうち、ファイズギアは花形が育てた孤児の一人へ託されている。

 そして最後の一つのベルトは、まさしく龍の如き力を備えたオルフェノクによって強奪されてしまったようだ。かつての力を備えたままの花形であればいくら相手が強大なオリジナルの個体とはいえ、遅れを取ることなどなかっただろう。

 今の花形はかつて以上に不安定な身体のままだ。そこに存在しているのがやっとと呼べるほど脆弱な身体であるがゆえに、龍のオルフェノクから生還できただけで奇跡に等しい。

 

 神子は思案する。確かに青娥と花形の計画が最終段階に入れば、並み入るオルフェノクを殲滅することなど造作もないと思えた。しかし、その間にカイザギアの使用によって記号を持つ天狗たちが数を減らしていくのは幻想郷の為政者として見過ごせる話ではない。

 あまりにも非人道的すぎる――青娥と花形は必要な犠牲だと考えているようだが、果たして本当にあれだけの犠牲を出す必要はあったのだろうか──

 この幻想郷を苛む『悪意』がオルフェノクだけではないということなど、青娥も花形も、山の頂である天魔とてすでに気づいているはず。

 自身が宿す記号の定着にはまだ時間がかかるため、神子は賭けに出ることにした。

 

「さて、そこの鴉天狗。カイザのベルトを持っているなら、君に頼みたいことがあるのですが」

 

「――っ!?」

 

 一切の気配を殺していたにも関わらず、背を向けられたまま自身へ向いた言葉に怯む。はたては動揺から危うくカイザギアの入ったアタッシュケースを落としそうになったが、すぐに体勢を立て直してカイザギアのケースと共に大木の枝から飛び降りた。

 神子はゆっくりと振り向き、不敵な笑みを浮かべる。向かい合ったはたてはその威光と身の竦むようなカリスマに、あまりに超然とした神子の輝きに──どこか畏敬の念を覚えていた。




エレファントオルフェノクの大砲、本編では一度も使われたことなかったやつ。
あれって突進態のままでも使えるんでしょうか。

Open your eyes for the next φ's
第27話『疾走り続けても』


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第27話 疾走り続けても

 季節は春、秋色に染まる妖怪の山。ゾウの特質を備えたエレファントオルフェノクとの戦闘に際して再会することができた愛機のオートバジンを手で引きながら、巧は文と共に妖怪の山の紅葉を見上げて山道を進む。

 この山全体に広がる秋の色――紅葉の彩り。気のせいか、巧は妖怪の山を進むごとにより一層それらが強まっているような気がしていた。

 それだけではない。死後の命をもって人間を超え、さながら狼の能力を備えたオルフェノクとして覚醒した巧は鼻腔(びくう)(くすぐ)る『匂い』として一つの変化を捉えている。一定以上の能力を備えたオルフェノクは、人の身のままでもある程度その恩恵を受けられるという特性のためだ。

 

「この匂いは……」

 

 白狼天狗ほどではないとはいえ、鴉天狗として相応の感覚機能を持つ文もその匂いに気がついたのだろう。

 山の奥から漂ってくる匂いは紛れもなく秋の風物詩を思わせる。妖怪にとっても人間にとっても変わらず『秋』を感じさせる季節の色。千年以上もこの山に住まう文にしてみればそれは秋の到来と同義たる、甘く優しい『焼き芋』がもたらす香りである。

 

 その先――妖怪の山の中で最も秋が栄えた場所には、秋の力が局所的に集中する紅葉と豊穣の園が広がっていた。

 一点の歪みもない完全なる紅葉。これが四季異変に際した偽りの秋であるなどとは誰にも思わせないほどの純粋にして力強く、それでいて儚く寂しい秋の山。紛れもなく、この瞬間、この場所においては、幻想郷に確かな『秋』が訪れていると思わせるほどの圧倒的な気配。

 実る木々にはリンゴやブドウなどの果実が成っている。銀杏や栗などの木の実も豊かに実り栄え、その周囲にはマツボックリやドングリまでもが転がり落ちている。

 

 山にせせらぐ川の流れの近くで、束ねた紅葉の中に火を灯し。暖かい色合いの装いに身を包んだ二人の少女は焼き芋の風情を楽しんでいた。

 一人は黄色と橙色の衣装を身に着け、より深い茶褐色のロングスカートを纏う少女。服には稲穂や五穀を思わせる意匠を持ち、輝く金髪に装う赤い帽子には精巧なブドウのアクセサリーが象られている。

 少女―― 秋 穣子(あき みのりこ) は幻想郷の秋を司る『八百万(やおよろず)の神』の一柱だ。己が存在たる『豊穣を司る程度の能力』をもってして、幻想郷の秋に果実や穀物、農作物などの実りをもたらしてくれる。神としては強大な部類ではないが――秋という季節においてはなくてはならない存在なのだ。

 

「まったく迷惑なもんね。こんなおかしな秋、二度も見ることになるなんて」

 

 穣子(みのりこ)は素足のまま地面に積もった紅葉の絨毯(じゅうたん)に座しながら、神としての能力で育んだ自慢の焼き芋を頬張る。

 かつてと同様に起こされた偽りの秋。本来の季節が春であるからか、矛盾した季節の乱れは秋を司る神々の活動にも多大な影響を及ぼしているようだった。

 これだけ確かな秋の山中においても、暦の上では今はまだ春。秋が訪れるには早すぎる。

 

「そう? 私はこういうのも嫌いじゃないけどね。ほら、紅葉もこんなに綺麗だし」

 

 静かな微笑みを湛え、控えめに焼き芋を口にしたのは同じく金髪の少女。茜色と黄色のグラデーションを帯びた衣装のロングスカートには(かえで)の葉を思わせる切り欠きがずらりと並び、さながら裾を秋色に彩るフリルのようにあしらわれている。

 装う髪飾りはやはり楓の葉の如し。三枚に連なった葉で髪を彩り、淡い金色の瞳で山を染める紅葉を楽しむ少女の名は 秋 静葉(あき しずは) 。穣子と共に秋を司る八百万の神の一柱であり、彼女はその姉でもある。

 静葉(しずは)がもたらすのは木々を染める秋の彩り。自らを象徴する『紅葉を司る程度の能力』により幻想郷の秋を美しく繚乱させる秋の風。

 されどそれは豊穣の秋を司る妹――穣子とは違い、朽ちゆく葉という終焉を表すモノ。秋の持つ豊かさとは正反対の寂しさを象徴する静葉はどこか妹に羨望の念を覚えていた。豊穣という生。紅葉という死。その対比はまるで、妖怪の山を灰と染める生死の境(オルフェノク)にも通ずるものがある。

 

「姉さんはいいわよ。作物の方は紅葉と違ってすぐには(みの)ったりしないの」

 

「でも、信仰のおかげかな。即席で成長したお芋にしては、ずいぶん立派だわ」

 

 静葉と穣子は談笑しながら焼き芋を食む。秋めく紅葉も豊穣も、本来の幻想郷にあるべきではない光景。ただ数ヶ月分、時期が早まっただけだが、最も秋の強い接続地点はこの妖怪の山の川の近くにあるらしい。

 普段なら山の(ふもと)に安置された秋の(ほこら)に宿る八百万の神々。姉妹で秋を司る彼女らは秋の気配に誘われ、妖怪の山の中腹にて秋を具現化したのだ。

 人々からの信仰はあまり多くない彼女たちではあるが、それでも神である以上は信仰によって存在が成り立っている。紅葉と豊穣への信仰、収穫祭や紅葉狩りなどの祭り事、祝福が彼女たちへの信仰に繋がり、本人への信仰でなくともある程度は神の力として定義されるようだ。

 

「これはこれは、秋を司る神様のお二柱(ふたり)。今は春ですが……紛い物の秋でもよろしいので?」

 

 焼き芋の香りに惹かれて、疾風の新聞記者は二柱の神に声をかける。見知った顔の鴉天狗を見て静葉と穣子は声を返そうとするが、その隣に立つ外来人らしき男が気になったらしい。二人はまず、その存在に驚いた。

 妖怪の山はその名の通り昼夜を問わず妖怪が活発的な場所。不用意に人間が踏み入れば瞬く間にその餌食となってしまうことを、古来よりの神々である二人は知っている。が――

 

 八百万の神と定義される存在ではないとはいえ、山の神の異名を持つ天狗とてそれは承知しているはず。幻想郷でも特に古参の鴉天狗である文と一緒であるならば。彼女が連れているのなら、妖怪に襲われる心配はさほどあるまい。

 そもそも山に人間がいるという事実自体が問題であるのだが――大した神格を持たない二人は山の管理に携わっておらず。山の統制を担うのは天狗であるし、山に宿る主格の神も秋を司る彼女たちではない。文が見逃しているのなら、わざわざ忠告をするまでもないだろうと判断した。

 

「紛い物でも秋は秋。たとえ狂った季節でも、秋と定義されれば信仰は宿るのよ」

 

「どんな形であれ、そこに秋への信仰があるのなら私たちの出番だからね」

 

 静葉と穣子はそれぞれ答え、服についた落ち葉を軽く払いながら立ち上がる。ふわりと舞った紅葉の中に漂う甘い香りは、彼女たちが手に持つ焼き芋から。加えて、穣子は自らが豊穣の神として豊かな果実と生焼き芋の香りを纏い放っている。

 里には秋が来てないみたいだから、ほとんど妖怪の信仰だけど――と付け足す穣子は不満そうに、本来ならばもっと大きく育ち得たであろう、立派な焼き芋を頬張ってみせた。

 

「神様……? じゃあ、ここら一帯が秋になってんのもあんたらのせいか?」

 

 先ほどまでの秋景色を塗り潰すほどの周囲の秋に呆気に取られていた巧が呟く。地面に落ちていたマツボックリを一つ拾い上げると、それが昨日今日で落ちてきたとは思えない哀愁的な秋の気配を持つように感じられた。

 天狗だの妖怪だの、荒唐無稽な話も今では受け入れている自分がいる。傍から見ればオルフェノクも似たようなものだと考えれば、あるいはそんな話もあるだろう。

 

「せいっていうか……私たちは秋の力に従って幻想郷の紅葉と豊穣を司ってるだけ。ほら」

 

 言いながら、静葉が手をかざした遠方の緑は紅に染まる。ここより遠い山の一部に残った緑は静葉の紅葉を司る力により、緑の葉を紅葉に朽ちさせた。まるで一枚一枚丁寧に葉の色を塗り替えるように、緑の葉は少しづつ色を変えていく。

 続けて山から離れた別の場所の木にもその力をもたらそうとするが――静葉の能力を受けて紅に染まった葉は即座に散ってしまい、代わりに生命力に満ち溢れた緑の葉が成る。

 

「秋の景色が見られるのは秋の間だけ。秋のないところには、秋の景色は訪れないの」

 

 静葉が紅葉を宿そうとした木は山の麓にある霧の湖に近い場所のもの。燦々と照らす太陽が夏の日差しをもたらす霧の湖には、秋が踏み込む余地はない。

 故にいくら秋を司る神の力であろうと――夏に秋を持ち込むことはできない。当然、それが春であろうが冬であろうが同じことだ。秋を司る神の力は、秋を秋たらしめるべくその季節をもたらすというものである。

 既存の季節を塗り潰してまで秋をもたらそうという意思は彼女らにはない。それは神として自然の均衡を崩す季節への冒涜に等しい。

 そんな真似ができるのは季節そのものを司る神の仕業、あるいは自然そのものである妖精が暴走したことで自然そのものが狂い、疑似的に秋が訪れた――かつての四季異変くらいのものだ。

 

「だから、この辺はどうしようもなく秋ってわけ。体感的には9月から11月って感じね」

 

「9月から11月……ですか」

 

 静葉に続けられた穣子の言葉を聞いて、文は少しだけ思案する。

 巧の話が事実なら、彼は西暦2004年の1月の世界――仮にファイズの世界と定義し得る外の世界の並行世界の1月の時間軸から来ているはず。

 1月は秋ではない――となれば、やはり推測通りファイズの世界以外にも異なる世界が複数接続されていると見るべきか。妖怪の山以外の場所は偵察した限り変わらず春のままの場所と夏や冬の様相を呈しているものがある。ここまではかつての四季異変、季節の乱れと同じだ。

 

 しかし妖精の背中に扉は確認できず、暴走もしていない。それなのに自然はこうして変化し、狂い乱れた四季が繚乱している。その原因として、文は複数の世界から流れ込んだ異世界の風とでも呼ぶべきものの影響だと考えていた。

 気になるのは文が感じ取れた複数の風は、どれも『冬』の気配を帯びていたこと。幻想郷のものではない外の世界の風が、それぞれ別々のものでありながら。それぞれ別の『冬の風』と定義できるものだったのだ。

 文が感じた『外の世界の風』には、秋の気配を宿すものはなかった。冬でないにしても精々春から初夏に至るか至らないか――という程度のものばかり。

 あるいは複数の世界の風が混ざり合った結果として、かつての四季異変と同様に季節に異常が生じているのか。妖精由来の内側の力ではなく、別世界からの外部的な影響であるなら――

 

「そんなことより、おひとついかが? 怪物騒ぎで紅葉(もみじ)狩りも楽しめないけど、焼き芋ならたくさんあるわ」

 

「――っと。あやややや、それでは遠慮なく……」

 

 不意に差し出された焼き芋は黄色い断面から白い湯気を昇らせている。文は一度思考を止めてそれを受け取ると、がさりと手に触れるのは馴染みのある紙。八百万の神でさえ紙と使うは天狗組織の新聞なのか──とやや思うところがあるが、それはそれとして。

 ある程度息で冷まし、口に含んだ際の味覚はやはり紛い物の秋に実った命とは思えないほど豊穣の力が満ちていた。

 

「偽りの秋とは思えない味覚です。これだけで記事が書けそうですね……」

 

 その言葉に穣子は納得のいったように頷き、未だ燻る落ち葉から突き出た枝を掴む。はらりと舞い散る楓と共に、取り出された焼き芋はやはり秋の風に白い湯気を昇らせていた。

 

「そっちのお兄さんもどう? 姉さんの落ち葉で焼いた私のお芋。火加減ならバッチリよ!」

 

「いや……遠慮しとくぜ」

 

 天狗の新聞紙で丁寧に包まれ、真っ二つに分割された焼き芋は相変わらず暖かそうに──巧から見れば、必要以上に熱そうに湯気を放っている。

 あれを冷ましていたら本当に日が暮れてしまいそうだ。まだ日は高いが、焼き立ての芋など圧縮された熱の塊そのもの。どれだけ表面に息を吹きかけたところで、芯まで冷ますには尋常ではない時間がかかる。

 かつての旅においては嫌がらせで熱々の鍋を食事に出されたこともあった──かと思えば、皮肉のつもりか旗つきのお子様ランチなどを出されたこともあった。こんなものが食えるか、とぶちまけてやろうとしたが──すぐに考え直して旗を叩きつけるだけに(とど)めたのだが。

 

「よろしければ、ふーふーして差し上げましょうか? 風の扱いなら自信ありますよ?」

 

「……お前……喧嘩売ってんだろ……」

 

「冗談です。そんなに怖い顔しないでくださいよ」

 

 未だ湯気立つ熱そうな焼き芋を食べている様子を見ると、羨ましいという感情よりも不可解さの方が勝る。妖怪という存在は舌先に痛覚を持たないのだろうか……いや、思えばかつての仲間たちも同じだったかもしれない。

 

 乾巧の猫舌は彼にとってあまり思い出したくない幼少期を由来とする。この身を灰燼(かいじん)とせしめた忌まわしき炎は──彼の命と同時に家族までもを奪っていった。

 火事に巻き込まれて一度命を落とし、オルフェノクとして覚醒したあの日の出来事。巧はその自覚を持たないが、彼の猫舌はそのときの炎に対する本能的な恐怖心から来ている一種の精神疾患と呼べるもの。

 あるいは何らかのショックによりそのときの出来事を忘れてしまえば、精神的な恐怖(トラウマ)を由来とする猫舌さえも忘れられるということになる。もっとも、あくまで理論上はそうかもしれないというだけで、そんな悪夢(のろい)を簡単に忘れ去れるだけの器用さを持ち合わせていたなら苦労はない。

 

「……ったく……」

 

 かつて戦線を共にした男――あるいは忌むべきスマートブレインの二代目社長もかくや、という文の粘着質な性格に肩がやや重くなる。

 その爽やかな笑顔から察するに、本当に悪意があるわけではないのだろう。優しげに笑うその姿は、弱者を貶める明確な意図を持っていた彼ら(・・)とは似ても似つかない無垢さがあった。やはり、どちらかというと彼ら(・・)に近い。

 巧の仲間(あいつら)も、巧と同じように素直になれないところもあれば──巧の猫舌を直そうと努力してくれたり、巧の強さを認めてくれたりもしてくれた。長旅の中間地点として、洗剤や整髪剤の香りが微かに漂うあの場所は自分にとって居心地がよかったのだ、と思わせられる。

 

 文がすでに一つの焼き芋を食べ終え、その詳細を手帳に記している中。焼き立ての芋を里にでも配ろうと考えつつ、静葉と穣子は不意に『その気配』に気づいた。

 やはり山の神と謳われた古き妖怪であろうと、こと自然への知覚に関しては正真正銘の神に一歩劣る様子。すぐさま続いて文も気配を悟る。それは名もなき妖怪やオルフェノクといった怪物ではなく、文にとっても見知った顔で佇む少女だった。

 ばさりと舞い散るカラスの羽根。文や巧、静葉や穣子よりも高い目線の先、妖怪の山の崖上に立つは──天狗組織において文と並ぶだけの地位にいる古参の鴉天狗、姫海棠はたてだ。

 

「こんなときに焼き芋なんて、ずいぶんとのんきなのねー」

 

「……やっぱり、あのときの攻撃は貴方でしたか」

 

 崖上から見下ろすはたてに返しつつ、文は先の黄色い光弾を思い出す。練られた妖力によって放たれたものではない。天狗が持つ妖力にしては異質な力だったと記憶しているが、はたても何らかの力を手にしていたのだろうか。

 とすれば、ゾウのオルフェノクの存在を知らせてきたのも彼女なのだと推測できる。文でさえ巧と出会うまでは知り得なかったオルフェノクについての情報を、はたてがすでに知っていたのだとしたら。彼女がここに現れた理由──確証こそないが、文にはその心当たりがなくはない。

 

「どういうつもり? 異界の外来人を報告もせず匿うなんて……」

 

「別に匿ってるわけじゃないですよ。ただ、妖怪や怪物から保護してるだけで」

 

 はたては不機嫌そうに問う。飄々とした態度で返す文はちらりと巧へ振り返った。交わす視線の先ははたてと同じ仏頂面。普段のはたては笑顔の似合う明るく素直な少女と知っているが、巧に関しては出会ったばかりで笑顔など見た記憶がないという違いはあるのだが。

 

「……そう。今の(あんた)はただの新聞記者(ジャーナリスト)ってわけ……」

 

 共に競い合って新聞を発行していた文とはたて。二人は対抗新聞同士(ダブルスポイラー)として良きライバルと言えるほどの関係だった。

 それ故に、はたては知っている。文が誰に対しても例外なく丁寧な敬語を用いるのは、天狗組織の一員としての鴉天狗ではなく──ただ一人の新聞記者としての射命丸文(・・・・)なのだと。

 

 真剣な表情で、はたては覚悟を決めた様子で目を閉じる。

 練り上げられた天狗の妖力は、はたての伸ばした右手の先にて空間を歪め──取り出されたのはファイズギアよりもややサイズの大きい銀色のアタッシュケースだ。

 やはりそこにはSMART BRAIN(スマートブレイン)のロゴが刻まれ、ずしりとした重量がはたての右腕に重く圧し掛かってくる。

 その(ケース)に込められているのは物理的な重さの他に、これまで多くの者が使い果てていった幾多もの怨嗟と悔恨、そして、塗りたくられた夢と呪いの黄色い血。黒く淀んだ弔いの記憶。

 

 大きさの差異こそあるが、文はそのケースに見覚えがあった。だが、天狗として知覚できる霊的な空気の歪さはファイズギアの比較ではない。ファイズギアにも哀しい灰色の空気が宿っていると感じられたが、あのケースは別格。灰色というより──ドス黒くさえも思える。

 

「…………」

 

 アタッシュケースから取り出した鈍色のベルト──カイザドライバー。はたては黄色いラインが走るそれを自らの腰に装い、右腰にはX字状の特殊武装、左腰には正方形に近いデバイスの重さを左右それぞれで感じる。

 ベルトの背には白狼天狗の視力に並ぶ性能のデジタル双眼鏡、カイザポインターを装備。はたては自らの覚悟が鈍らぬうちに懐からあるものを取り出した。

 携帯電話型トランスジェネレーター、カイザフォン。黒い機体に黄色いライン、そしてカイザを象徴するミッションメモリーを装ったそれは、はたてが持つ『カイザギア』の要である。

 

「……姉さん、あれって……」

 

「ええ……たぶん……間違いないわ……」

 

 穣子はそれを見て静葉に問うた。神である二柱はカイザドライバーを装うはたてに何かを感じ取り、小さく吹き抜ける風と共に紅葉を散らして姿を消す。

 いつの間にやら積もった紅葉の中に灯っていた火も消えており、信仰の要となる秋の神がいなくなったことで周囲の『秋』は山の他の場所と同じように落ち着いた秋へと変わった。

 

「……あいつ……なんだってあんなもんを……!」

 

 はたての持つカイザギア──その細腰に装われたカイザドライバーの存在に、巧は目を見開いて過去の記憶を想起する。

 それは間違いなくオルフェノクの王によって破壊されたはず。その身を挺して王の動きを封じ込め、自ら諸共(もろとも)に必殺の一撃を促したあの男と共に。王の放つ使徒再生の触手によって打ち砕かれる瞬間を──巧はその目で確かに見届けたはずではないか。

 しかし、それはこの場に舞い戻った愛機、オートバジンとて同じこと。スマートブレインが再建されているかもしれない以上、オートバジンと同様に破壊されたはずのカイザギアが復元されていることも不思議ではない。それどころか、巧はすでにその可能性に思い至っていたのだ。

 

「お前、それが何なのか分かってんのか!? 今すぐそれを外せ!!」

 

 巧はそのベルトが、カイザギアがもたらす悲劇を知っている。崖を挟んで向かい合う少女とは初対面だが、みすみすそのベルトを使わせてしまっては──

 声を張り上げる巧の焦燥を正面から受け止め、はたては深く息を飲む。されどその覚悟が揺らぐことはなく──カイザフォンに備わったスライド機構を半回転させ、それを展開。アンテナが上を向き、ファイズフォンと同様に現れたテンキーの上に、震える親指を置いた。

 

「呪いでもなんでも……! 私がやらなきゃいけないのよ!」

 

 このベルトが何をもたらすのかなど、はたてもすでに知っている。それでもこの呪いから逃げてはならない理由があるのだ。

 静かに滑らせる親指でもって、『913』のコードを刻む。そのままはたてはコードの入力を完了するべく、テンキーの左上に位置している『ENTER』のキーを力強く押下してみせた。

 

『Standing by』

 

 低く重苦しい電子音声を聞き届け、はたては重厚な待機音を響かせるカイザフォンを再びスライド、半回転して閉じる。

 そのまま自身の顔の左前まで持ってきたカイザフォンをくるりと翻し、カイザの複眼を模したミッションメモリーを正面に向けながら。はたては覚悟を込めた呪詛の言葉を声に乗せた。

 

「……変身っ!!」

 

『Complete』

 

 カイザドライバーの接続部、斜めに構えられたコネクタに。左上から叩き込まれたカイザフォンが水平に倒される。同時に発声された電子音はやはりファイズギアに比べて低く、放つ閃光も走るラインと同様に黄色い──より高出力のフォトンブラッドを示す色。

 黄色いフォトンフレームははたての身を包んでいき、やがて結界を隔てた先の軍事衛星から電送された強化スーツが形成されていく。

 

 一瞬の後、消え晴れた光の中に佇む影──X字状に分断された紫色の複眼を有するは、呪われたベルトの戦士『カイザ』だった。

 異界の力が宿す法則か。あるいはライダーズギアに渦巻く想念によるものか。はたてはカイザの姿のまま無意識のうちに自らのネクタイを、あるいは襟元を直すような仕草を見せる。

 

「は……はたて……!?」

 

 文は、馴染み知った友人が未知の力を纏い、変身を遂げたことに驚いた。それが今でも一緒にいる乾巧と──ファイズと等しい姿の仮面の戦士であればなおのこと。

 そんなことも構わず、はたて──カイザは右腰に装備したX字状の銃器『カイザブレイガン』をその手に引き抜く。引き金を引けば、ファイズの赤よりさらに濃縮された黄色いフォトンブラッドの光弾が、生身の巧に対して真っ直ぐに飛来する。

 

「……っ!」

 

 文は咄嗟に葉団扇で風を起こしてそれを防ごうとしたが、光弾の速度は見切れない。が、はたてには巧を撃つ意思がないのか、光弾は巧の足元を撃ち抜いて小さな土煙を上げる。

 

「これが……カイザ……」

 

 はたては右手でカイザブレイガンのグリップを握ったまま己の左手を見た。全身に走るフォトンブラッドの衝撃ははたての身に負担をかけているが、体内に宿すオルフェノクの記号のおかげだろうか。苦痛と呼べるほどのものではない。

 左手をぐっと握りしめ、はたては巧に向き直る。紫色の複眼(エックスファインダー)で捉えるは、このカイザギアと同じ法則の世界から現れた異界の外来人。そして、彼がその手に持つライダーズギアの一つ、ファイズギアだ。

 

「はたて! いったい何のつもり? そのベルトはどうやって……!?」

 

「お前の知り合いか? ったく、どいつもこいつも……!」

 

 文の言葉によって巧は相手がスマートブレインのオルフェノクではないと判断した。ある意味ではあのような少女がスマートブレインの傀儡ではないと知って安堵もするが、まさかあの私塾(・・・・)の者たちと近い存在なのか──

 ならばこそカイザギアの呪いは現実のものとなる。純粋なオルフェノクであれば問題ないが、中途半端にオルフェノクの記号を宿した者が、その記号に適合できなかった場合──

 

『Ready』

 

 巧の思考を切り捨てるように、低く重苦しい電子音声が鳴る。はたてがカイザフォンから紫色の複眼を象ったミッションメモリーを抜き、カイザブレイガンのグリップに挿入したのだ。

 直後、カイザブレイガンのグリップエンドに光が灯る。黄色く力強いそれは、すぐさま直線状に伸び──さながら光の刃として定着したフォトンブラッドの塊と化した。

 

 カイザブレイガンは銃撃を主とする『ガンモード』から刀身を伸ばした『ブレードモード』へと形を変える。フォトンブラッドを光弾として放つのではなく、その輝きを刃として斬りつけるための形態。

 はたては銃底から伸びた黄色い光刃をまるで刀剣を逆手持ちするように振り上げ、流れる黄色いフォトンブラッドの衝撃そのものを斬撃とするべく崖を飛び降り、巧の持つケースを狙う。

 

「せやぁああっ!」

 

「ちっ……!」

 

 咄嗟にケースを持ち上げて盾代わりとする巧。ファイズの装甲に等しい強度を持つこのケースは滅多なことでは破壊されない。

 そのまま生身でカイザの腹を蹴り飛ばし、なんとかファイズギアをその手に取る。

 

『Standing by』

 

「変身!」

 

『Complete』

 

 赤い閃光と共に送られてきた強化スーツを纏い、巧は再びファイズとなった。背後に控えるビークルモードのオートバジンに近づき、巧はその左ハンドルを掴む。

 ベルトのファイズフォンからミッションメモリーを抜き、左ハンドルのグリップ上部程度の位置へそれを差し入れると、ミッションメモリーはカチリと小気味よくそこに収まってくれた。

 

『Ready』

 

 はたてのカイザブレイガンと同様の電子音声が左ハンドルから鳴る。しかしカイザのそれとは異なり、重くもなければ低くもない、軽やかな声のもの。

 

「はぁっ!」

 

 巧ははたてに振り返ると同時に、オートバジンから引き抜いた左ハンドル──グリップ状の先端から伸びた真紅に輝くフォトンブラッドの刃を、迫るカイザブレイガン ブレードモードの刀身に打ちつけて切り結んだ。

 オートバジンの左ハンドルはミッションメモリーを挿入することで、フォトンブラッドの光刃を伸ばし現したエナジーハンドルブレード『ファイズエッジ』として使用できる。

 

 光の出力は基本レベルの『ミディアムモード』。並みのオルフェノクの身体を灼き斬るのに十分なだけのフォトンブラッドが込められた特殊強化ガラス繊維製の刀身をもって、材質こそ同じだがそれを超える出力の黄色い刃と向かい合った。

 

 弾き交えてはファイズエッジを右手に持ち替えて再びカイザブレイガンと切り結びながら向かう相手の真意を探ろうとする。

 純粋な力ではカイザの方が上だ。しかし中身が人間と妖怪という点を差し引いても、ライダーズギアを用いた戦闘経験の差はギアの性能だけで埋められるものではない。はずだったが──

 

『Single Mode』

 

「……っ!」

 

 ファイズエッジとカイザブレイガン ブレードモードの刃を合わせる傍ら、はたては咄嗟の機転で腰に装うカイザドライバーからカイザフォンを引き抜いた。即座に『103』のコードを入力し、ファイズの腹に密接した状態で引き金を引く。

 カイザフォンは銃の形にスライド変形されシングルモードのフォンブラスターとなり、巧の腹に黄色い光弾を撃ち放った。

 巧が怯んだ隙に正面からカイザブレイガンの刃を打ちつけ、銀色に輝くファイズの胸部装甲を切り裂く。さすがにファイズのスーツを破壊することまではできないが──ばさりと舞った『灰』の残滓めいたものが、そのダメージを与えたはたてのカイザブレイガンに付着した。

 

「ぐっ……う……!」

 

 巧は苦痛に胸を押さえて後退。ダメージはさほどでもないが、カイザブレイガンの刃が放つフォトンブラッドの熱がこの身の芯にまで届いたのだろう。

 オルフェノクの身にフォトンブラッドの衝撃は少し(こた)えるものがある。幸い灰の残滓は火花に隠れて巧自身にも気づけぬ程度のものだ。文やはたてがそれを不審に思うことはなく、巧は再び赤い光の刃を構える。

 

 しかし、はたて──カイザは再びカイザブレイガンを振り上げたのも束の間。傍らに舞い降りてきたカラスの鳴き声に耳を傾けると、カイザフォンとカイザブレイガンをベルトに戻した。

 フォンブラスターだったカイザフォンは閉じられベルトの中央に。カイザブレイガンからはミッションメモリーを抜いて、再び右腰のホルスターに差し入れるようにして。

 

「…………」

 

 震える右手でもう一度、カイザフォンを抜く。スライドさせて展開しては、恐る恐る親指を通話終了キーへと導く。

 そのキーを押した瞬間──はたては仮面の下で強く目を瞑り、カイザの変身を解いた。

 黄色い光が収まり、はたては生身の姿を再び巧に晒す。ゆっくりと目を開いたはたてに対して、巧はついさっきまで自分を攻撃してきた少女でさえ心配していた。

 

 はたての身体には灰化の影響は現れていない。カイザギアの呪いが示す変身者の末路はその身についぞ現れず。

 すぐさまカイザフォンを閉じ、腰から外したドライバーと共にケースに戻すはたて。再び妖力で歪めた空間へとケースをしまったのだろう。一本歯下駄で地面を蹴って後退し、再び背後の崖上に飛び上がったかと思うと、はたては右手に天狗の葉団扇を出現させて巧の顔を見る。

 

「…………っ!」

 

 巧が口を開く前に、はたては葉団扇を仰いで突風を巻き起こした。吹かれた風に舞った紅葉と共に、いくつか舞い散るカラスの羽根。文でさえ、カイザという未知の存在に対する思考をまとめ切れていない頭では──飛び去るはたてを追うこともできない。

 

「どうして……はたてが……?」

 

 文の疑問は、未知のライダーズギアに対して。そして、何よりなぜはたてがそれを使って変身できたのか──という点。

 そして同じく深い思考に囚われた巧はファイズとしての変身を解き、カイザという存在の本当の恐ろしさを想う。かつてカイザとして戦っていた青年、巧の仲間と呼べたあの男は。自らの妄執に裏切られた。

 たった一つ抱いた信念さえ、黄色く擦り減らして(・・・・・・)――最期の戦いに挑み、散華したのだ。

 

◆     ◆     ◆

 

 ――ここは『冥界』と呼ばれる場所。死後の霊魂が辿り着く輪廻の庭たるこの世界は、厳密には幻想郷ではないが、同じ法則に繋がる一つの『世界』として、幻想郷はその世界との繋がりを許容していた。

 時の流れは幻想郷と共通。そちらの世界が夜であるなら、当然こちらも夜となる。

 

 別の位相に繋がる場所であるというのに、ここにも四季異変の影響はあった。

 春にも関わらず降り積もる雪景色。一面を染める白雪は、魔法の森に通ずる冬の様相。無辺の広がりを持つ冥界にてなお広大な和風のお屋敷の屋根さえ白く――冥界の雪は染め上げている。

 

「まだ四人……先は長そうね」

 

 転生を待つ幽霊たちがふわりふわりと漂う中──冥界に建てられたお屋敷、『白玉楼(はくぎょくろう)』の中庭にて、冬の景色に似つかぬ従来の春の芽吹き、冥界に咲き乱れた桜の花々を見上げながら。幻想の境界は憂いがちに呟いた。

 彼女の右手には四枚のカード。それぞれの札に戦士が描かれた写真めいた歴史の欠片。物語を紡いできた四人の戦士、四つの世界の法則がその『ライダーカード』の一枚一枚に純粋なる力として込められている。

 左手で取り出した残る五枚のカードはこれから導く予定の戦士たちの仮面。紫が導いた戦士はまだ四人だが、彼らの世界とは別に繋がっている法則がないとは言い切れない――

 

 八雲紫は枯山水の上に容赦なく積もった雪と、白玉楼庭園の桜が散らした花びらの不揃いな共演に愛しく曖昧な境界を覚えながら。その手に持ったカードを懐へ戻す。

 

 風雅に狂い咲く季節を愉しんでいるのは紫だけの様子。花より団子と言わんばかりに、まさしく雪のように積もった団子の山から一つの白を摘み上げて──

 偽りの冬に明るく冴える夜空の月を見上げ、隣に座った女性が団子を頬張った。

 

「そういえば、例の世界はどうなったの? なんでも、死者が生き返るとか。怖いわねぇ」

 

 この屋敷の(あるじ)を務める女性。空色の和服に白いフリルを装い、淡い桜色のミディアムヘアには同じく空色の帽子。さらにそこには彼女がすでに生涯を終えた『亡霊』であることを示唆するかの如く、死者の象徴である天冠の意匠が見られる。

 幽冥楼閣の亡霊少女── 西行寺 幽々子(さいぎょうじ ゆゆこ) はこの冥界、白玉楼にて幻想郷の幽霊たちの管理を任せられている西行寺家の令嬢であり、同時に現在の当主として八雲紫の友人でもあった。

 

「それならもう大丈夫よ。ファイズの世界の『(くさび)』はすでに招いてあるから」

 

 あとは彼らがなんとかしてくれるでしょう――と、紫は手にした扇で口元を隠す。これまで導いた世界の楔は四つ。やはり想定していた通り、予定通りにはいかず。本来の計画では紫の導きで初めて法則を統合するはずだったが──

 ファイズの世界の楔となる男、乾巧を招来する前から幻想郷にはオルフェノクの残滓が発生していた。龍騎の世界の接続を果たすよりも少し前に、すでにファイズの世界が繋がっていた可能性があるのだ。

 妖怪の山への接触および紅魔館の吸血鬼に現れていた症状。幻想郷全域を偵察していた藍の報告が正しければ、オルフェノクたちは乾巧よりも早く幻想郷に現れている。

 

 楔となる者を導いた後であるならば理解できる。外界の怪物たちが元の世界の法則を辿って幻想郷に現れることは想定していた。すでに彼らが倒したはずの怪人が蘇っていることも、紫は世界の記憶の残滓として発生し得ると考えていた。しかし──

 無限に広がる並行世界の中から何の法則も辿らずに幻想郷の座標を特定できるはずがない。紫が楔を導くよりも前に彼ら怪人が現れているのなら、何者かによる手引きがあるはず。

 あるいは紫の行動に先んじて世界の接続が加速しているのも──その者の思惑だろうか。

 

「あっちへ行ったりこっちへ来たり。幻想郷の賢者様は大変ね」

 

他人事(ひとごと)だと思って……貴方にも仕事をお願いしているはずだけど?」

 

 幽々子(ゆゆこ)はまたしても団子を口に放り込みつつ、笑顔で紫の話を聞いている。その様子を見た紫は、かねてより彼女に頼んでおいた仕事について切り出した。

 

「慌てなくてもいいの。それにしても……」

 

 口の中に団子を入れたまま喋る幽々子。もぐもぐと丁寧に咀嚼(そしゃく)し、やがて団子(それ)嚥下(えんげ)する。

 

「勝手に世界を繋げられるのは困っちゃうわね。ああ、お団子の次はお茶が怖いわ」

 

 白玉楼の中に漂う幽霊に伝えながら、幽々子は団子の皿から次なる白を摘み取った。それが最後の一つだと分かると、名残惜しそうにしながらもそれを頬張る。あれだけ積まれていたのに、ものの数分で食べ切ってしまった。

 団子も命も世界でさえも、あっという間になくなってしまうのが摂理(ことわり)。亡霊として死後の世界を管理する幽々子は『永遠』というものがあまり好きではない。

 月から来た蓬莱人たちはその身に永遠を体現する不老不死の存在。あらゆる命をその手に掌握することができる幽々子の能力、『死を操る程度の能力』でさえ、その永遠(たま)には(きず)をつけることができないのだ。

 永遠たる蓬莱人は幽々子にとって天敵と言える存在だ。生も死もない者が相手では、そもそも幽々子の力は通用しない。故に、幽々子は生と死を内包する生命こそを尊ぶ。特に生と死の両方を持ち、そのどちらにも固執しない半人半霊の魂を宿す者――白玉楼の庭師を務める少女を。

 

「……残念だけど、もう繋がってるみたい。貴方とは相性の悪そうな世界がね」

 

「ええ、冥界(ここ)にいても感じられるわ。不死者(・・・)特有の、いやーな匂い」

 

 幽霊が持ってきたお茶を飲み、幽々子は胸の中の微かな(わずら)いを洗い流す。季節の狂いに白く染まる冬景色、霊体の身にも堪える肌寒さには、この暖かいお茶が何よりの癒しとして幽々子の身を温もりに満たしてくれる。

 

 亡霊は幽霊とは違い一見すると生きた人間とほとんど変わらない。体温も低くはなく、生身と同様に触れることさえも可能だ。

 通常は死を自覚せず彷徨う魂が亡霊となるのだが、幽々子の場合は特例である。とある事情により閻魔(えんま)から冥界への永住を許可されており、決して輪廻を迎えることなく死後の霊たちを管理している身。

 死してから1000年以上ものあいだ亡霊を続けている彼女にとって、生と死の境界(・・・・・・)などはもはや幻想の果てに等しい世界。仮初めの夢、刹那の錯覚。変化のない冥界の風情さえ、瞬くような人生の中に必要だ。もっとも彼女の場合――それすらすでに終わっているのだが。

 

「さてと……私はそろそろ次の『楔』を招こうかしら。今度のは骨が折れそうだけど」

 

 紫は立ち上がり、少し歩いた先の空間に閉じた扇を突き立てる。まるで柔らかい肉を裂くように、何もないはずの空間に裂け目を切り拓いた。

 

「次の一人で楔は五人。(ハンド)はようやく『ストレート』ってところね」

 

 その手に再び取り出した四枚のライダーカードにはそれぞれ四人の戦士たちの仮面が描かれている。紫はそれを軽やかに弾き翻すと、それらは手品の如く瞬きまったく別の絵柄を持つカードに差し替えられていた。

 ─―白い面に装う黒と赤。聖杯に(こころに)刀剣(つるぎ)貨幣に(かがやく)棍棒(ゆうき)。四枚の札にはそれを示唆する別の絵柄があり、それぞれ2から5までの数字とそれに応じた数の紋章(スート)が刻まれている。

 

 紫はそれを一つに束ねて翻した。カードはまたしても手品の如くその絵柄を変え、一枚になったカードが示す絵柄はたった一振りの(スペード)のみ。その端では、最強を表す『(エース)』の文字が雄々しく名を示す。

 紫が最後にもう一度だけ、一枚の(カード)を占うように裏返すと──スペードのエースだったカードは、元のライダーカードに戻っていた。

 だが、それは先ほどそこにあった四枚のカードのうちのいずれでもない。これから紫が招き寄せる法則の物語。運命の一手。切り札(・・・)と成り得る(つるぎ)。銀色の仮面に赤い複眼を持ち、さながら刀剣を思わせる角を有したカブトムシの如き戦士を表すカードである。

 微かに青く輝くそのカードを持ち、紫は自ら切り開いたスキマの中へと消えていく。やがて彼女の身を飲み込んだ闇と共に、スキマも冥界の風に吹かれて滲むように消え果てた。

 

「トランプ……って言うんだったかしら? 百人一首も花札も、もちろんスペルカードバトルだって楽しいけれど……やっぱり、外の世界のカード遊びは一味違うのかしらね」

 

 湯呑みを盆に戻し、幽々子は庭の桜を見つめる。白玉楼の庭園にはたくさんの桜が咲いているが、その中にただ一つだけ、まったく花をつけていないものがあった。

 かつて優れた歌聖であった幽々子の父がその樹の下で命を絶ち、それを追うように多くの者がそこで死したことで生気を吸収し妖怪桜と成り果てた樹。生前の幽々子はその桜と呼応するように、死霊を操る能力を有していた。

 命あった頃の彼女は人を死に誘うだけのその力を呪い(いと)ったのだろう。彼女は自らの肉体をもってその妖怪桜を封印するために、父と同じく命を絶った。

 

 白玉楼庭園にて根を張る大樹――『西行妖(さいぎょうあやかし)』。その土の下に幽々子の死体が埋まっている限り、満開に至ることはなく。故にこの桜によって誰かが死に誘われてしまうこともない。

 生前の記憶を持たぬ幽々子は自ら行ったそれを覚えておらず、かつてはその封印を解くことで満開した西行妖の美しさを拝んでみたいと思ったこともあったのだが――

 幻想郷中の春を集めて桜に供給しようと試み、幻想郷の春が失われた『春雪異変(しゅんせついへん)』も博麗の巫女と普通の魔法使いによって阻止され、幽々子の封印が解ける――すなわち亡霊である現在の幽々子が消滅することは免れた。

 白玉楼に遺されていた書物の内容から、幽々子も西行妖の秘密については気づいている。何が復活するのか楽しみではあったが、それはきっと幽々子の求めるものとは違うのだ。だからせめて、桜の下に埋まった己の亡骸を保存することを死後(いま)の微かな趣味としよう。

 

 ――見えざる月を無月(むげつ)と呼ぶなら、咲かぬ桜もまた幽雅(ゆうが)(たの)しむ風情が月でも花でも弾幕でも、お団子は美味しいものね――と。

 幽々子は縁側を立ち、そこにあった団子の皿と空の湯呑みを幽霊たちに片付けさせる。

 

「切り札……ね。うちの剣士(なまくら)とどっちが切れ味が良いのか……楽しみにしておくわ」

 

 障子の戸を白い手で開きつつ、背後に見やった西行妖。枝に積もる雪は冬の景色としては真っ当なものだが、周囲に咲いた他の桜との対比を見ればかつて自らが起こした明けぬ冬の春、春雪異変を思い出してしまう。

 春という生。冬という死。はたして、狂い咲いているのはいったいどちらなのか――幽々子は冥界の庭に吹き込む(はる)の風にああ寒い寒いと(うそぶ)きながら、白玉楼の中へと戻って戸を閉めた。




秋がゲシュタルト崩壊してきた。そして秋の次はすぐにでも冬です。桜も楽しめます。

次回、第28話『紫紺の剣』


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【 広有斬運命事 ~ Till Where? 】
第28話 紫紺の剣


A.D. 2004 ~ 2005
それは、切り拓く運命の物語。

運命の切り札を掴み取れ!



 幻想郷の遥か上空──(あや)しき夢と雲間の(みち)を超えたその先に、『この世』と『あの世』の境界は存在している。

 生者の身では決して辿り着けぬ死後の世界。極楽浄土と呼べる場所ではないが、死した霊魂が転生を待つための輪廻の庭として、幻想郷とは別の紡ぎに広がる天涯の楽園。そこに至るためには、天空に透き通るような太古の結界──『幽明結界(ゆうめいけっかい)』という領域を超える必要があった。

 

 かつて幻想郷で引き起こされた春雪異変により、幻想郷と冥界の境界は緩やかなものとなっている。あらゆる封印と結界を無視して超える博麗の巫女の存在が、冬の郷に豊かに芽吹く春風と共に死後の世界の扉を叩いたからだろうか。

 

 幽明結界の封印が弱まって以来、もはや冥界は幻想郷の一部と言って差し支えない。純粋な生者であろうが、天空を目指すだけの飛行能力を備えていれば簡単に踏み入れる。

 ─―もっとも、生者の身でこの地に踏み入ろうとする者は強大な妖怪か、あるいは強大な妖怪を単独で退けるだけの力と勇気を持つ、極めて強大な人間たちに限られてはいるのだが──

 

◆     ◆    ◆

 

 冥界に建てられた広大な日本屋敷、白玉楼(はくぎょくろう)。世の果てに至るかのような長い長い階段を登り、咲かぬ桜の大樹を目指した先に──その庭園は冴えた空気を静かに湛えていた。

 春にも関わらず、不意に訪れた冬の気配は冥界の地に雪化粧を施し。大広間から見える中庭にはさながら波紋めいた雪が美しく刻まれている。

 それは五月になっても冬が終わらなかった春雪異変の(おもむき)か、あるいは空の気質に雪を呼び、(あるじ)自ら招いた緋想の雪景色か。冥界の外を見れば、それが比較的最近の異変たる四季異変に近いものだと分かる。

 当主である西行寺幽々子が持つ気質によるものなのだろう。そのためか、気象に影響を及ぼすような異変が起きた際、この冥界には冬や雪の力が働くことが多いのだ。

 

「……ここはもう少し短く切ったほうがいいかな」

 

 白い雪に彩られた白玉楼の中庭にて、ボブカットの銀髪に黒いリボンを結んだ少女が一人。白いシャツの上から深い緑色のベストを装い──そのまま流れ揺れるスカートには揺蕩(たゆた)人魂(ひとだま)の意匠が等間隔に描かれている。

 まだ幼く見えるほどの少女は、その身に似つかぬ二振りの刀剣を携えていた。

 

 一つは、高枝を斬り落とすために両手でもって振り上げられた長刀、『楼観剣(ろうかんけん)』。柄底に白い毛のようなものを装ったそれは、一振りで幽霊十匹分の殺傷力を持つと伝えられる業物の太刀。

 もう一つは、未だ腰の背の鞘に収まったままの短刀、『白楼剣(はくろうけん)』だ。こちらは人の迷いを断つ刀だとされ、妖怪によって鍛えられた楼観剣とは違って彼女の家系に連なる者にしか扱えないという不思議な霊力をもった脇差である。

 

 この白玉楼の庭師を務める 魂魄 妖夢(こんぱく ようむ) は、楼観剣の刃をもって庭木の形を切り整えて。己の傍に付き従うように浮かんだ白く大きな半透明の人魂に優しく触れた。

 生まれつき『半人半霊』という種族──生者の身と死者の身の半身(ハーフ)である妖夢(ようむ)は、生きた人間としての少女の姿と、死せる幽霊としての『半霊』という二つの自分自身の形を有している。

 隣に浮き従う大きな人魂は妖夢の半身、自分自身の半分だ。共に分かち合った魂として分断された片割れのもう一方は、幽霊でありながら生身の半分ほどの体温を持つ。常人より体温の低い半人と、幽霊より体温の高い半霊は、さながら人と幽霊を足して2で割った半人前(・・・)である。

 

「最近まで暖かったはずなのに……これも異変の影響ね」

 

 冷たい幽霊と違って自身の半身である半霊はほんのりと暖かい。季節外れの雪の庭では剪定作業にも手がかじかんでしまう。ただでさえ冥界は幽霊が多く気温が下がりやすいのに、冬ともなればその寒さは半人半霊の身にも(こた)えた。

 人肌程度の熱を有した霊的エネルギーの塊を抱き寄せ、妖夢は震えながら暖を取る。先日までの気温と辺り一面に咲く桜の花の様子を見れば、この冬の寒さが明らかな異変であると判断するのは容易だった。

 妖夢とて半分は人間だ。霊夢や魔理沙、そして紅魔館のメイドである咲夜などのように異変解決に奔走することも少なくはない。買い出しに際して赴いた顕界(けんかい)の様子や、噂で聞いた怪物の話も気がかりであるため、ある程度の仕事が落ち着いたこのタイミングで一度調査に向かいたい。

 

「幽々子様ー! 私もそろそろ異変の調査に向かいたいのですがー!」

 

 愛用の楼観剣を背中の鞘へと戻し、妖夢は縁側のほうへと声を張り上げる。しかし、生きた小鳥のさえずりや虫の鳴き声一つ聞こえないこの冥界の寒空には、主の返事は響いてこない。

 

「あれー? いないのかな? いつもならこの時間……」

 

 障子を開いて座敷を見てみるが、そこにも当主である幽々子の姿はなかった。

 彼女は気まぐれな蝶のような性格であるため、ふらっとどこかへ出かけることも多い。それ自体は特に気になることではないのだが──此度の異変に際して(あるじ)が自分に何も告げずいなくなったことに微かな不安を覚える。

 

 妖夢は仕方なく書き置きを残そうとしたが、都合よく座敷の座卓(テーブル)の上に紙と筆が置かれていることに気がついた。

 おそらくは幽々子も同じように書き置きを残して白玉楼を後にしたのだろう。紙の傍に置かれた小さな木箱についても気になるが、まずは桜の花の舞うようなその文字に目を通す。

 

「えーっと……『嘆けとて 月やはものを 思はする』……」

 

 その文字だけで、すでに妖夢は頭に雪の詰まったような思いを覚えていた。常春と謳われた思考をもってしてもその句の内容は氷解せず。妖夢の理解に春は来ない。

 

「……『お昼までには 帰ってこないわ』……」

 

 生前の西行寺幽々子が名高き歌人の娘だったからだろうか。蝶よ花よと舞い踊る、死霊の姫君が紡ぐ言葉は常人には理解しにくいものがある。聞き覚えのある歌なれど、妖夢にはその意味までは飲み込むことができなかった。

 さながら下の句のように付け足された追伸を見る限り、きっとしばらく帰ってこないだろう。上の句の続きが少しだけ気になりながらも、妖夢は小さな溜息を抑えられずにいた。

 

「幽々子様……」

 

 書き置きになってないです、と心の中で突っ込みを入れる妖夢。自由奔放で天真爛漫な主人の行動に頭を抱えると、隣に浮き従う半霊が自分を慰めてくれるような気になる。

 自分自身の分け身として生まれたときから一緒にいる半霊を優しく撫で、妖夢は書き置きの隣にある小さな木箱に視線を落とした。

 半霊が器用に開けてくれた木箱の中――妖夢の手の平より少し大きい程度の物体に、彼女は一切の見覚えがない。幽々子の置き手紙を机の上へと戻し、木箱の中から取り出したのは──

 

「なんだろ、これ……」

 

 ─―銀色に染め上げられた長方形の何か、ということしか分からない。機械的な意匠を思わせるそれは、正面に硬質なガラス状の物質が張られているようだ。

 複雑な機構を持ってはいるが、その正面のパーツには何やら軸のようなものが設けられており、直感的に『回転』しそうなものだと理解できる。しかし、これが何のための道具なのか、そもそも道具であるのかすらも分からない以上、それを動かすことなど叶うはずもない。

 

 この物体に込められた重さは、物理的なものだけではないと感じられた。まるで歴戦の剣士が使っていた剣を持ち上げたかのような、誇りの重さがこの手にずしりと伝わってくる。あるいは気のせいかもしれないが──

 視界の端でふわふわと揺れる半霊に気がつき、妖夢は思考を寸断する。どうやら木箱の中にはまだ何かが入っていると伝えたい様子。

 半霊の主張通り、妖夢は木箱の中に十数枚の『カード』らしき硬質の札の束を見つけた。

 

「カード……? でも、スペルカードとは違うみたい……」

 

 一度、長方形の物体を箱に戻し、今度は取り出したカードを両手に広げる。左上と右下にスペードのマークが描かれ、対応する数字がそれぞれ書かれた13枚の札。だが、それはどれも固有の絵柄と呼べるものを持っておらず、繋ぐ者のない鎖だけがだらんと垂れ下がっている。

 幻想郷の弾幕ごっこに用いられるスペルカードではないことは明らかだ。一見それは外の世界から流れたトランプにも似ているが、紋章(スート)と数字よりも大きく目立つ、何かを『捕らえる』ための鎖の絵が気になる。

 じっと見つめていると、まるで自分を失くしそうになる──そんな不気味な空白に、妖夢は底知れない恐れと不安を自覚しながら。カードを再び木箱の中へと戻した。

 

「…………っ!」

 

 ─―そのとき、不意に感じた不気味な気配。肌を貫くような刃の如き悪意。妖夢が覚えたのは、この(こころ)(からだ)を同時に震わせるような奇妙な戦慄だ。

 半霊と共に白玉楼の座敷を飛び出し、妖夢は枯山水の上の雪を踏みしめて中庭に出る。切り揃えられた立派な松の木を横目に低い塀を飛び越え、屏風が如き桜並木を(たた)えた広大な外庭へ。

 

「グァァ……ァァル!」

 

 薄く白んだ幽霊たちと雪染めの庭――そこに立つ異形は、白雪の中にひどく目立つ漆黒の怪物だった。

 動物の革を思わせる光沢質な皮膚は深い墨染の黒に染まっている。それはさしずめ、この雪景色という紙に一首、呪いの歌を綴ったかの如く。幽霊たちの気配を押し退けて妖夢の肌を切り刻む気配は、それ(・・)がこの幻想郷の存在でないと認識するのに十分だ。

 

 黒い怪物の肩や腕、頭に脚、全身の至るところに配された鋭い刃物状の器官は、怪物の存在そのものに『剣』の意匠を感じさせる。

 同時に、妖夢が気づいたのは──それがトカゲの姿にも似ているという点だった。

 不自然な人の形を得たトカゲが二本の足で立っている姿。怪人と形容するに相応しい異形の存在。その特徴は噂で聞いた怪物のものと一致する。

 右腕に設けられた鋭い剣、左腕に備わった斧状の刃もさることながら、トカゲの如き尻尾に無数に生え揃ったナイフはその切っ先の鋭さだけで妖夢の肌を貫くような悪意を放っている。

 

顕界(けんかい)で噂になってる怪物……? とうとう冥界(こっち)にも現れたのね……!」

 

 対峙したトカゲの異形──黒い皮革(ひかく)に覆われた『リザードアンデッド』に怯むことなく、妖夢は背中の鞘に納めた愛刀、楼観剣をするりと抜き放った。

 彼方(あちら)が節操なく無数の刃を掲げるのなら、此方(こちら)は鍛え抜かれた業物の刀をもって相対する。

 腰の背に携えた白楼剣は霊や迷いを断つ儀式的な面が強い。肉を斬ることも不可能ではないが、純粋な切れ味では楼観剣に劣るため、未知の外敵に対しては物理的な殺傷力で勝る楼観剣が適していると判断した。

 桜の花が刻まれた愛刀の柄を両手で握りしめ、妖夢はトカゲの怪物に楼観剣を構える。刃と刃の視線が交わり、リザードアンデッドも妖夢の方を見て右腕の剣を振り上げてくる。

 

 一瞬の静寂は両者の心の余裕の無さか。妖夢は感じた時の間に、一陣の刃を斬り込んだ。

 

「はぁっ!!」

 

 その剣戟の名は【 霊斬(れいざん) 】。踏み込む速度に霊力を乗せ、リザードアンデッドの振るう刃を打ちつけ弾く。続けて楼観剣を構え直し、そのまま渾身の左脚で回し蹴る【 薙髪(ちはつ) 】の一撃を見舞った後に、今度は下から切り上げる【 成仏(じょうぶつ) 】の刃で追撃。

 刃物を纏った装甲は高い強度を持とうとも、それを装わぬ皮革状の組織は霊力を込めた刃が通る程度のものであったらしい。

 

 斬りつけた皮膚の傷から緑色の血液(・・・・・)が舞うのを目に当たりにする。血が流れるということは、相手が間違いなく『生き物』である証だ。

 妖夢は眼前に迫った怪物の振るう刃を寸前で回避する。

 半人半霊ゆえの未熟者であるが、こと刀剣の扱いに関しては妖夢とて幻想郷随一のもの。先代の庭師であり、祖父でもある 魂魄 妖忌(こんぱく ようき) の教えは、今の妖夢を強くする指南書でもあった。

 

「どんな異形であれ、それが生物なら……! 心の臓を貫けば、花と散るはず!!」

 

 怪物の僅かな隙を見逃すことなく、妖夢は刀を水平に構えて霊力を高める。師の教えを自らの糧とし、その身に宿した『剣術を扱う程度の能力』でもって、この身体を、この霊魂を。揺るぎなく剣と一体とする。

 迷いなく一閃するは──楼観剣の切っ先を垂直に突き立てる【 霊突(れいとつ) 】の一撃。寸分の狂いもなく、その刃は確かに怪物の心臓を穿ち抜いていた。

 

「グゥ……ア……!」

 

 どろり、と。怪物の胸から血が溢れる。黒い皮革を染めゆくそれは、妖夢の見知った赤色の血ではなく。やはり皮膚を斬ったときと同じ不気味な緑色のもの。

 未知の怪物だからって警戒して損したわ──などと、妖夢は自らの剣技に慢心しつつ、役目を終えた楼観剣を怪物から抜こうとした。

 

 ――しかし、力を込めて引き抜こうとしても──楼観剣はぴくりとも動かない。

 

「…………?」

 

 柄から感じるこの感覚。脈動する生命の鼓動。ぎっしりと張り詰めた筋肉は、心臓を穿ち抜いているにも関わらず。その身を貫いた楼観剣の刃を押さえ込んでいたのだ。

 

「嘘っ……!?」

 

 慢心に満ちていた妖夢の表情が蒼褪める。目の前に怪物の剣が振り下ろされるのを見て、咄嗟の判断でなんとか後退できた。

 リザードアンデッドは自らの胸に深々と突き刺さった楼観剣の刃を掴み、何の苦もなくそのまま引き抜いてしまう。とさ、と雪の上に落とされた楼観剣は、疑いようもなくその刀身を緑色の血に染め──流れゆく緑の血液は白玉楼庭園の雪の上に確かに緑色の染みを滲み広げている。

 

「……信じられない……こいつ……不死身なの……!?」

 

 手応えはあった。間違いなく心臓を貫いたはず。それなのに、怪物はしっかりと二本の足で立ち。雪の大地を踏みしめてゆっくりとこちらに向かってくるではないか。

 愛刀の楼観剣は怪物の傍に落ちている。距離を取るために刀を手放してしまった以上、再びそれを手にするには怪物に接近しなくてはならない。

 手元にある武器といえば、この腰に携えた白楼剣が一振りだけだ。楼観剣と二刀をもって戦うことはあれど、盾代わりに携行している幽霊用の脇差一つで未知の怪物を相手にするには些か心許ない。弾幕ごっこの延長線として、霊力を込めた光弾をぶつけるという手もあるが──

 

 ただ弾幕を撃ち放つだけでは決定打には成り得まい。業物たる楼観剣でも霊力を込めてようやくその身を切り裂ける程度。おそらく本気の霊力を込めた弾幕を放ったところで、怯ませる程度が限界だろう。

 それ以上の威力を持つスペルカードはいずれも楼観剣頼りだ。白楼剣のみで発動したところで、十分な効果は期待できないかもしれない。

 博打になるが、一か八か──妖夢は腰の背の鞘に携えた白楼剣の柄へと左手を伸ばした。

 

「ブルルォォオッ!!」

 

「!?」

 

 ――正面の怪物からではない咆哮。妖夢は慌ててその先に視線を向け、迫り来る野獣の如き牙に対して白楼剣を抜く。

 逆手の形で引き抜いた白楼剣をその左手に構え、霊力を込めた結界を盾と成して。不意に現れたもう一体の怪物の突進からなんとか身を守ることができたが、直撃こそ免れたものの勢いまでは殺し切れず、妖夢は砕け散った霊力の盾と共に後方へと吹き飛ばされてしまう。

 響く苦痛に顔を歪める妖夢。幸い地面には雪が積もっているため、落下のダメージ自体はさほどのものではない。白楼剣を握る左腕にはビリビリとした衝撃が残ってはいるが、魂魄家の家宝たる白楼剣はあれだけの衝撃を受けていながら傷一つなかった。

 

 左手の白楼剣を杖代わりにして立ち上がると、半霊もすぐさまこちらに合流してくる。

 現れた怪物はリザードアンデッドと同じく全身に皮革めいた黒い皮膚を持ち、金属状の器官は枷めいた鎖の如く至るところに配されていた。

 赤い毛皮と両肩に突き出した刺々しい牙や(ひづめ)の意匠はイノシシの要素を思わせる。腰に帯びたベルト状の装飾具、互いの身を喰らい合う蛇の円環は不死の象徴だろうか。

 人型や腰に象られた蛇の意匠といい、大まかな特徴はリザードアンデッドと共通している。となれば、このイノシシの怪物もトカゲの怪物と同様、心臓を貫いたところで死なない不死性を備えた同種の怪物と見て間違いない。

 

 漆黒の皮革にいくつもの(びょう)を打ちつけたような姿を持つ彼らは、太古より星の生物の祖として遺伝子を刻み、不死ゆえに『アンデッド』と称された。

 その名を知る由もない妖夢だが、アンデッド──死なずを意味する呼び名の通り、彼らは生きても死んでもいない完全なる異端の生物として、闘争に特化した力を秘めている。

 

 妖夢は突如として現れたイノシシの異形──『ボアアンデッド』をリザードアンデッドと同時に警戒しつつ、それがどこから現れたのかを探る。半霊と共に視界を広げ、妖夢は二体の怪物に加え、さらに三体目(・・・)の怪物の気配を白玉楼庭園の奥から察知した。

 

 上空から幕を下ろした灰色のオーロラ。冥界の雪と幽霊に馴染んで気づくのが遅れたが、彼方の空に広がるそれは波紋を広げて一つの黒を産み落とす。

 それはやはり全身を皮革で覆い、腰には不死の象徴たる『アンデッドバックル』と呼ばれるベルトを有した異形の存在。

 全身に突き出した棘と甲殻質な漆黒の装甲、頭部に一際雄々しく伸びた角はカブトムシの意匠を思わせる。ヘラクレスオオカブトの如く強大な威圧感を放つ怪物、『ビートルアンデッド』を見て、妖夢は無意識のうちに白楼剣の柄を強く握りしめ、身体の震えを誤魔化していた。

 

「うっ……さすがに不死身の怪物をこれだけ相手にするのは……ちょっと……」

 

 かなり──いや、とてつもなくまずい。ただでさえリザードアンデッド一体に対して何の対策もできておらず、楼観剣を取り戻すことさえままならないのに。同じく不死性を備えているであろう怪物が二体も増えれば、状況は極めて絶望的だ。

 幸い、今この冥界にいるのはすでに死した幽霊だけ。いかに怪物といえど、幽霊を殺すことなどできるはずもない。

 それを可能とするのが白楼剣なのだ。実体を持たぬ幽霊さえ斬りつけ成仏させる。魂魄家の者にしか扱えぬこの剣なら、ひょっとしたら──

 不死の怪物の魂そのものを斬りつけることで、霊的なダメージを与えられるかもしれない。

 

「幽々子様、この身に代えても白玉楼はお守りします……!」

 

 主兵装となる楼観剣を持たず、副兵装たる白楼剣のみで戦うことは滅多にない。それでも彼女の剣術を扱う程度の能力は、修行の成果を何倍にも引き上げてくれている。

 白楼剣の柄を右手に持ち替え順手で構える。不安は残るが、楼観剣を失ったときのために白楼剣だけで戦えるように修行もしてきた。

 この身は一人で半人半霊。たとえたった一人でも、自己と呼べる半霊は共にあるのだ。

 故に捧げる全身全霊。二刀の片割れを失い、孤独に苛まれたとしても。半分の身体にすべてを込めて。相手がどれだけ強大であろうとも、この真剣に誓った覚悟は折れはしない。

 

 三体の怪物の中央に立つビートルアンデッドが右腕を上げる。それを合図に、左右に控えていたリザードアンデッドとボアアンデッドが妖夢へと向かった。

 トカゲの刃は鋭く振りかざされ、大地を蹴ったイノシシの牙は真っ直ぐ妖夢の身を突き飛ばそうと迫ってくる。

 なんとか攻撃を逸らすべく、妖夢は弾幕を撃ち放とうと左手に霊力を込めたが──

 

「グゥ……」

 

「ブルゥオ……」

 

 二体の怪物は不意に動きを止め、後方に控えるビートルアンデッドと共に『何か』の気配に怯むように白玉楼庭園の奥を見た。その反応を訝しんだ妖夢も一瞬遅れ、魂が震えるような悪寒を感じ、無意識のうちにその気配の先へ視線を向ける。

 冥界と顕界の境界を無視して雪の道から姿を見せた怪物は、これまでの怪物とは比較にならないほど不気味な気配と──狂気さえ覚える、恐ろしいまでの闘争心を放っていた。

 

 漆黒の皮革に、残虐的なまでに突き出した刃の如き棘。ヘラクレスオオカブトを禍々しく歪めて産み落としたかのような暗く半透明な装甲に、頭部に突き出た角状の器官、兜の側面に長く垂れ下がった銀色の鎖。

 だが、怪物が身に装うベルト状の装飾品はビートルアンデッドたちとは違う。二匹の蛇が喰らい合う意匠ではなく、緑色の心臓(・・・・・)を模したかのような特徴的なものだ。

 紫紺(・・)黄金(・・)の色を持つ怪物は凶悪な大顎を力強く食いしばり、鬼の如き形相で妖夢と三体の怪物を等しく睨みつけている。怪物は湧き上がる本能のままに唸り声を上げ、その右手にカブトムシの頭角を思わせる長大な剣を現した。

 破壊剣『オールオーバー』の名を持つ大剣はその身に宿す始祖たる力の具現だろうか。瞳に映るすべてを破壊し尽さんばかりの衝動が、その紫紺の怪物――切り札(・・・)たる心の剣を突き動かす。

 

「そんな……また新手……!?」

 

 この場に現れたさらなる異形の怪物の気迫に、妖夢は本能的な恐怖を覚えさせられた。トカゲもイノシシもカブトムシも、半人半霊たるヒトでさえも例外なく。すべての生物を等しく貫く原初の恐怖。その一端を、あの怪物は有している。妖夢は、それを本能で悟ったのだ。

 

「…………」

 

 紫紺の怪物は黄金の仮面の下から真紅の瞳を輝かせ、三体のアンデッドに向かっていく。振り上げたオールオーバーをもって、なぜか妖夢の方へは見向きもせず。真っ先にリザードアンデッドの身体を斬りつけた。

 怪物の傷口から飛び散った緑色の血液は再び白玉楼庭園の雪を染め上げる。

 背後から迫ったボアアンデッドの突進にも怯むことなく、紫紺の怪物は左手でその頭を掴み、持ち上げることで雪の地面に叩きつける。

 そのまま首を持ち上げ、紫紺の怪物はボアアンデッドの身体を勢いよく蹴り飛ばした。

 

「えっ……?」

 

 怪物同士が戦っている──その奇妙な光景に、妖夢は思わず声を漏らす。このベルトの形状が異なる唯一の怪物は、怪物にとっても敵と考えていいのだろうか。

 ビートルアンデッドが出現する際、妖夢は灰色のオーロラから現れるのを確かに見ている。現れる瞬間こそ見ていないが、おそらくはリザードアンデッドとボアアンデッドも同じようにオーロラから出現したのだと考えられた。

 しかし、どことなくヘラクレスオオカブトらしき意匠を感じさせるが、地球上のいかなる生物とも明らかに異なる、この紫紺の怪物だけははっきりと、雪深き道の彼方から現れた。冴え渡った冬空の冷気を切り裂くように、まるで死者がこの黄泉の地へと踏み入るように。

 

「なんだかよく分からないけど……今なら……!」

 

 三体の怪物が紫紺の怪物に気を取られている隙を見て、妖夢は雪の上を走る。白楼剣を再び鞘へと戻し、リザードアンデッドの攻撃から身を退く際に手放してしまった楼観剣をもう一度その手に握りしめた。

 やはり白楼剣と同様、こちらも傷一つない。せっかく刀が業物でも、使用者がそれを手放してしまっては意味がないと自分を叱責し、妖夢は怪物に向き直る。

 

 怪物たちは例外なくその身から緑色の血を流している。雪の地面を染めゆく淀んだ緑色は、もはやどの怪物のものかも分からない。

 これだけの傷を負いながらも死ぬことのないこの存在は本当に不死身なのだ、と。妖夢は決して殺すことのできない永遠の存在、主である幽々子が苦手とする幻想郷の蓬莱人たちを思い出していた。死なないということは、生きてもいない。だが、それは生者と死者の性質を併せ持つ半人半霊とて同じではないか?

 妖夢は自分の胸に左手を当て、この胸の心臓が確かに動いていることを確認する。続けて触れる自分自身、半霊には命の鼓動と呼べるものはない。

 

 不意に耳に届いたパキン、という音。何かが割れたようなその音は、リザードアンデッドのベルトから聞こえた。

 次の瞬間にはボアアンデッドのベルトから再び同じ音を聞く。彼らが等しく腰に装うベルト状の装飾品、アンデッドバックルの双蛇の円環が左右に分かたれた音だった。開いたバックルの中にはそれぞれ『♠2』『♠4』の意匠が刻まれ、二体の怪物は目に見えて憔悴(しょうすい)している。

 

「グゥ……アッ!!」

 

「ブルゥ……ブォア!!」

 

 紫紺の怪物はとどめとばかりにオールオーバーを激しく薙ぎ払う。リザードアンデッドとボアアンデッド、二体の怪物をまとめて斬り裂くと、それらは緑色の光に包まれた。

 

「倒した……? いや、カードに変えた……の……?」

 

 妖夢は不死身だと思っていた存在が光と共に消失したことに驚いたが、次の瞬間には、はらりと舞い落ちた二枚のカードに気がついた。

 カードは紫紺の怪物の右腰に装われたカードホルダー状の小箱(ケース)に吸い込まれる。二枚のカードを収め、怪物は少しだけ爛々(らんらん)と輝かせていた瞳の色を微かに落ち着かせたようにも見えた。

 

 なぜ貴様がここにいる?

「Uriinokokagamasikezan?」

 

 最後に残ったビートルアンデッドは紫紺の怪物に問いかける。その言葉は妖夢には理解できないが、怪物はゆっくりとビートルアンデッドに振り返り、その瞳を睨んだ。

 黄金の角と漆黒の角。二体の怪物は互いにヘラクレスオオカブトの意匠を思わせる。体色やベルトなどは大きく異なっているが、その姿はよく似ていた。故に得物も共通の法則を持っているのだろう。ビートルアンデッドはその右手に長大な剣、紫紺の怪物が持つものと同じオールオーバーを具現する。

 打ち合う二振りの破壊剣オールオーバー。鋭く振り下ろされた紫紺の怪物の剣は、ビートルアンデッドが左腕に具現した堅牢な大盾によって防がれてしまう。

 

 圧倒的な防御を誇るビートルアンデッドの『ソリッドシールド』は、その剣を受け止めた。確かにその衝撃を受け止めた、はずだった。

 次の瞬間、ソリッドシールドには深い亀裂が入り、紫紺の怪物が振るうオールオーバーの一撃に耐えかねて粉々に砕け散る。

 たとえ祖たる象徴が異なれども、紫紺の怪物は一度その盾を破壊しているのだ。オールオーバーの重さと威力、彼自身の覚悟の輝きをもって。異なる種にして同じ名を持つその鉄壁を、紫紺の怪物は記憶に残るあのとき(・・・・)と同じように砕いてみせた。

 

 ビートルアンデッドは最硬の盾を破壊されてなお怯むことなくオールオーバーを振り上げる。今度は紫紺の怪物が左手に具現したソリッドシールドがそれを受け止め、盾は主たる紫紺の怪物を守り抜く。

 同じ剣、同じ盾であろうと、込めた覚悟の違いだろうか。紫紺の怪物が持つソリッドシールドは揺らぐことなく、向かうオールオーバーの刃を重厚に防ぎ切っている。

 怪物は盾を消失させ、横薙ぎに振り払ったオールオーバーでビートルアンデッドが持つオールオーバーを弾き飛ばした。

 白玉楼の庭、雪積もる冥界の白き園に、漆黒の刀剣が深々と突き刺さる。そのまま袈裟懸けに斬り裂かれたビートルアンデッドは胸から緑色の血液を吹き上げ、苦痛の呻き声を上げて数歩、後退。流れる緑血の伝う先、腰に装うアンデッドバックルが、乾いた音を立てて開いた。

 

 この感覚……その黄金の角……貴様は……

「Ahamasik……Onustonnoguoonos……Ukaknakonok……」

 

 ビートルアンデッドは静かに口を開く。紡がれる言葉は彼らが有する太古の言語。あらゆる生物に通ずる身でありながら、それは彼らにしか理解できない固有の言葉だ。

 開いたバックルの中には『♠A』の意匠が刻まれている。紫紺の怪物は破壊剣オールオーバーを水平に構え、ビートルアンデッドの胸に突き立てた。

 緑色の光と共に消えゆく漆黒の怪物。やがて最後に残ったのは一枚のカード。

 リザードアンデッド、ボアアンデッドと同様、ビートルアンデッドもその法則に従い、自らの身をカードに封じ込められる。

 そのカードも、同じく怪物の右腰のケースへと吸い込まれていった。

 

「…………」

 

 この場に現れた三体の怪物をカードに『封印』し、紫紺の怪物は天を仰ぐ。額から流れた緑色の血が、どこか涙のように頬を伝って落ちていく。

 ゆっくりと振り向き、怪物は妖夢を見た。先ほどまでの闘争心はいくらか和らいでいるようだが、溢れんばかりの気迫に本能が震え、妖夢は咄嗟にその手の楼観剣を強く構える。

 

 紫紺の怪物は右手のオールオーバーを消失させ、小さく唸りを上げた。まるで妖夢に大した怪我がないことを安心するかの如く。

 全身から流れる緑の血は絶えず白玉楼の雪を染めている。その身の損傷が大きいのか、あるいは精神的な影響か。紫紺の怪物はその場に膝を着くと、力なく倒れ伏してしまう。

 

「えっ……ちょっ……!」

 

 妖夢が驚いたのは、怪物が倒れたからではない。傷だらけの怪物の身が歪み、紫紺と黄金の装甲から姿を変え──

 ボロボロの現代衣服を身に纏った、外来人らしき人間の青年が姿を現したからだった。

 

「あなた、人間だったんですか……!?」

 

 背の高い成人男性らしき姿。整った茶髪に、どこかの組織の職員制服にも見えるボロボロの黒いジャケット、濃紺のジーンズと首元や指に装う数々の装飾品。

 しかし、その傷から流れる血は明らかに人間のものではなかった。先ほどの不死の怪物と同様、青年の身体からは緑色の血が流れている。それなのに、外見は人間と変わらない。

 

「……人間だった(・・・・・)……か。そうかもしれないな……」

 

 青年―― 剣崎 一真(けんざき かずま) は微かに呟く。自嘲が込められた言葉に、青年は後悔など微塵も残してはいない。

 友と世界。大切なものを失わないために、大切なものを犠牲にしろと、運命が告げるのなら。この身を剣と振りかざせばいい。運命にだって屈さず戦い、そして勝ってみせる。

 

 (こころ)に刻んだ(つるぎ)の誓い。運命というカードに勝つ最後の切り札は、幻想の札と掲げられた。

 

◆     ◆     ◆

 

 幻想郷の外に繋がるいくつもの世界。そのうちの一つ。かつて53体の不死者(アンデッド)たちが星の支配権をかけて争った歴史を持つ、固有の法則を宿す世界。

 未だ秋の風情を残す冬空の下、人の気配のない研究所の一室にて、青年――剣崎(けんざき)は銀色のアタッシュケースから取り出した数十枚のカード──『ラウズカード』を机に並べていた。

 

 剣崎はスペードを除くダイヤ、ハート、クラブそれぞれのカードを見つめ、腕を組んで小さく息を吐く。トランプのスートと同じ紋章を持つ数十枚のカード群は、いずれも絵柄に空虚な鎖が描かれているだけだ。

 本来ならば、これらのカードは全て厳重に保管されているはずである。彼がこのカードを手にすることができたのは、カードの保管を担う男からの強い信頼を得ているからに他ならない。

 

「…………」

 

 広げたカードを再び束ねて、剣崎はそれを懐にしまう。自分のしたことは、正しい。そう信じているはずなのに、どうしても心のどこかで引っかかりを覚える。

 

 ラウズカードの管理を担っていた男は剣崎の先輩であり仲間でもあった。当初は別の人物に管理されていたのだが、男はカードに封印された不死の法則を研究し、大切な友を苦しみから救う方法を探すため、カードの管理を名乗り出たのだ。

 男も早々に察知したのだろう。終わったはずの戦いが再び始まってしまったことを。不死の法則が失われ、空白(ブランク)を示す鎖が垂れ下がっているだけのラウズカードを見れば、否が応にもその事実を理解してしまう。

 

 剣崎の姿を見た彼は、ひどく驚いた様子だった。

 当然だ。世界と友を守るために人間(ヒト)であることを捨て、運命との戦いに身を投じた剣崎一真が、戦いが終わって間もないにも関わらず、再び仲間のもとに姿を見せたのだから。

 

 戦いが再び始まったのならきっとあの男も戦いを拒まないだろう。彼が守ったこの世界を、再び不死なる争いに巻き込むなど──見過ごしていい話ではない。

 そのために受け取ったのだ。あの男の手から、封印の解かれた51枚(・・・)のカードを。その力を引き出すために必要な、あの『ベルト』を。

 ――だが、あの男を共に戦わせるわけにはいかなかった。剣崎という男は故意に人を騙せるような性格ではない。あれ以上あの男と共に居続けたら、自分が剣崎一真ではない(・・・・・・・・)ということに気づかれてしまうと判断したが故に。カードを得た彼──いや、彼女(・・)は。それを避けようとした。

 

「仕方がないとはいえ、心苦しいのう……」

 

 剣崎一真の姿が(かすみ)がかっていく。歪み始めたその姿がおもむろに形を変え、やがてその幻は(うつつ)のものとなる。

 背の高い成人男性だったその姿はすでに幻の果てへ消えてしまった。今ここに立っているのは、若いようにも、老けているようにも見える幻想的な女性の姿。タヌキめいた茶色の装いに、身の丈ほどの豊かな尻尾を湛えている。

 赤みがかった茶髪に木の葉を一枚乗せて。眼鏡の先から覗く瞳は老獪(ろうかい)さに満ち、あの男にとって誰よりも大切な友である男の姿を(かた)ってしまったことに心を痛めていた。

 

幻想郷(あっち)の亡霊嬢に送ったのを含めて、これで51枚。あとは奴らを封印していくだけか」

 

 女性の名は 二ッ岩(ふたついわ) マミゾウ 。かつて外の世界における『佐渡(さど)』の土地より幻想郷に招かれ、自らの意思で幻想郷へと踏み入った『化け狸』だ。

 彼女はその種族ゆえに、妖術をもって万物を『化けさせる程度の能力』を持つ。自らを別の人物に化けさせ、その姿を騙ることが可能であるがために、幻想郷の管理者たる八雲紫は彼女を『この世界』へ派遣したのだろう。

 

 この世界の法則に由来する怪物はトランプの枚数と同じ、53体。そこにあり得ざる54体目が生まれた際、この世界には束の間の安寧がもたらされた。

 だが、53番目と54番目。そのうち、幻想郷にこの世界の法則を繋ぎ止める54番目の存在だけを招き寄せれば──

 世界は54番目の存在、53番目の存在を『最後の切り札』と定義。その定義に従い、双方の世界には全生物種の意思(・・・・・・・)が介在することで、生態系の再編(リセット)が始まることとなる。

 

 それを避けるためにマミゾウが残る52枚のラウズカードを手に入れる手筈だったのだが、やはり封印されているはずの怪物はすべて解放されてしまっているようだ。これもやはり、八雲紫が言っていた水面下の悪意──世界の接続を勝手に進めている何者かの手によるものだろうか。

 

「それにしても……」

 

 マミゾウは懐から先ほどしまった51枚のラウズカードとは別の、一枚のラウズカードを取り出す。それは本来ならばこの場にあってはならないカード。剣崎一真が自らを犠牲に守った友が、生涯持っていなければならないカードだ。

 そのカードには『ハートの2』の紋章(スート)と数字が刻まれている。しかし、これもすべてのラウズカードと同様、そこに描かれている絵柄は垂れ下がった封印の鎖だけ。

 

 53番目の存在に人の心と姿を与えていたそのカードは、今は何も封じられてはいない。カードを管理していた男から剣崎一真の姿でこれを受け取ったマミゾウは、その男から『あの喫茶店の前に落ちていた』――と聞いている。

 もしも、他の世界で死んでいった数々の怪物が蘇り、幻想郷で暴れているなら。あるいは死からの再生ではなく、まったく同じ存在(・・・・・・・・)を如何なる方法か具現化することができるのだとしたら。あちらの世界でアンデッドたちを具現化された際に、こちらにおいては何が起き得るのか──

 

「……不穏じゃな。このまま何事もなければいいんじゃが……」

 

 ハートの2のラウズカードを懐へとしまう。あまり悠長にしていれば、妖術で眠らせたあの男が異変に気づいてここまで追って来てしまいかねない。

 全てのラウズカードを失った53番目の存在の恐ろしさは、この世界の法則を垣間見た八雲紫から聞いている。

 ただでさえ今の幻想郷は混沌とした異変に見舞われているのだ。あのような闘争心の怪物を受け入れる余裕などはない。――54番目の存在と化した剣崎一真だけなら、まだいいが。

 

「――剣崎ッ!!」

 

 研究室の扉を開き、黒髪の男が声を張り上げる。かつての戦いで破損して以来、自らの手によって修復したばかりのベルトを手に持って。

 しかし、すでにマミゾウは幻想の境界を超えて元の世界へと戻っていた。はらりと舞った木の葉を一枚だけ残して、もはやそこには幻想的な力の残り香一つない。

 

「まさか……トライアル……いや……ティターン……カテゴリー10か……!?」

 

 剣崎一真が自分を裏切るなんてありえない。その信頼が、彼の思考を掻き乱している。これまでも仲間の姿を騙る敵が現れているために、その可能性が彼の脳内を染め上げてしまっているのだ。当然、真面目で融通の利かない性格である彼には、異世界から現れた化け狸などという荒唐無稽な存在が思いつくはずもない。

 自分とて仲間を裏切る気などない。剣崎には『本当に裏切ったんですか』と問い詰められたこともあったが、それも謎を解くために必要なことだった。

 それなのに──自分がカードを管理するなどと言っておきながら、この失態だ。彼は後輩にその純粋さを利用されるなと忠告した。その痛みが、自分自身の心に突き刺さる。行き場のない怒りと無力さ、仲間の信頼を裏切る結果になってしまったことを悔やみ、拳を壁に叩きつけた。




剣崎の怪人態の色は生前の韮沢靖氏が描いたイラストを参考にしています。
橘さんには申し訳ないけど、ベルトとカードを持ってくる方法はこれしか思いつかなかった。

次回、第29話『自分の可能性』


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第29話 自分の可能性

 冥界に建てられた日本屋敷、白玉楼。四季異変の影響により、春にも関わらず庭園には白雪が積もっている。

 雪と桜に加えて、日の沈んで夜となった今は静かな月の光が輝いていた。

 冷たい空気に冴えるは真円に満たぬ光。冥界といえど月明かりの優しさは現世と同じ。変わらず夜を染める輝きをもって、月はこの白玉楼の雪を眩く照らしている。

 

 幽霊たちが纏う霊気と冬の冷気が混ざり合い、冥界の気温はいつもより低い。それでもここに眠る人間──らしき姿を持つ青年、剣崎一真が凍えずに済んでいるのは、この白玉楼の座敷に施された生者のための術が効いているおかげでもある。

 

 剣崎は身体の内側から湧き上がる獣の本能に抗っていた。意識が焼き切れそうになるほどの狂気じみた闘争心が、自分自身を切り刻む。

 この身はすでに──人間であることを捨てている。不死の法則を身に宿した剣崎は、生物の理を超え、二度と老いることも死ぬこともない永遠の存在と成り果ててしまっている。

 

「ぐっ……うぁああ……!!」

 

 白玉楼の一室、畳の上に敷かれた清潔な布団を溢れる汗で濡らしながら。剣崎は自分を失くしそうになるほどの苦痛に顔を歪め、必死に闘争心を抑え込む。

 だが、決して屈しない。こんな痛みに──運命に。この心に輝く剣を折るつもりはない。

 

「…………っ!!」

 

 獣の本能に思考が掻き消され、剣崎は目の前にいる大切な友を斬り裂く運命を見た。自身と同じ存在だが、緑と黒の異形に身を染めた友は、淡い緑色の輝きと共に消え果てる。一枚のカードとなってしまった友が舞い落ちると──漆黒の石版が、剣崎を『最後の勝者』と認めた。

 

 人の身に戻った剣崎の両手は緑色の血に染め上げられている。獣の本能に、アンデッドの運命に抗い切れず、自らの手で大切な友を、世界を。滅びへと導いてしまった。

 

(はじめ)っ!!」

 

 絶望と懺悔に満ちた声で友の名を叫ぶ。同時に、剣崎が開いた視界には古めかしくも美しい日本屋敷の和室の様子が映し出された。

 布団の上で額の汗を拭い、剣崎はそれが何より見たくない最悪の悪夢であったことを少しだけ安堵する。想像することさえしたくない運命ではあったが、それが現実のものでないと分かっただけで心の慟哭(どうこく)が和らいだ。

 怪物との戦いでボロボロだった彼の身体には白い包帯が丁寧に巻かれている。頬や首など身体の一部には未だ緑色の傷が残っているが、処置のおかげで出血は止められているようだ。

 

「ここは……」

 

 自分はさっきまで未知の雪原にいたはず。友との戦いを永遠に拒むと誓い、運命との戦いにいつか必ず勝利すると覚悟を決めたあの山での戦いから。たった一人で愛用のバイクを走らせ、剣崎は自ら望んで獣となったこの身を少しでも世の役に立てるため。

 人間という生き方を友に捧げ、自分は世界各地の争いや悲しみを断ち切るただ一振りの剣として生きる道を選んだ。

 自分は彼とは二度と会ってはならない。触れ合うことも許されない。自分たちが出会えば、運命は必ず自分たちに戦いを強いる。どちらかの勝利、戦いの決着を求めてくる。

 

 剣崎が友と永遠に別れ、運命と戦い続けることを選んだとき、その悲しい戦いは終わったはずだった。

 ――否。永遠に戦いを決着させないという選択肢を取り、その上で剣崎が戦いを拒み続けることで、どちらかの勝利──すなわち、戦いの結末を永遠に引き延ばした。

 

 そのはずなのに、あの山から長い旅路を超え、迷い込んだ幻想の雪原にて、永久に封印したはずのアンデッドたちが再び暴れているのを目にしたのだ。

 怪物に襲われている見ず知らずの少女を助けようとして、剣崎は思わずアンデッドとしての異形の姿で彼らと戦ってしまった。

 力を使ってしまっては運命に隙を見せることになる。それでも、あの怪物に襲われている少女を見捨ててしまおうなどと、ほんの僅かでも考える前に──身体が動いてしまっていた。

 

「お前も、こんなに苦しかったんだな……」

 

 獣の本能に逆らい続け、闘争心を抑えるだけで気が狂いそうになる。目の前に戦うべき本能を運命づけられた不死の怪物がいたのならなおさらだ。

 あいつは、こんな途方もない苦しみを耐えながら人間になろうとしていたのか。剣崎は不死の存在と化す前にも底無しの闘争心に支配されたことがあったが、あのときの人間としての苦痛などは比較にならない。

 

 剣崎が友や仲間の顔を想っていると、不意に部屋の(ふすま)が開く音を聞く。布団の上で体勢を整えてその先を見つつ、剣崎は自ら封印した怪物が宿るカードを身体の中にて強く想起。この闘争心を抑えるために、三枚のカードの力を借りる。

 廊下から姿を見せた銀髪の少女、魂魄妖夢は心配そうな表情で畳の上に腰を下ろした。

 

「大丈夫ですか? かなりうなされてる様子でしたけど……」

 

 妖夢の声とその姿を見て、剣崎は彼女が先ほど襲われていた少女と気づく。やはり大した怪我は負っていないようで、無事に守り切ることができたのだと安心できた。

 

「君が手当てしてくれたのか?」

 

 剣崎は布団の傍に置いてあった薬箱と、そこから取り出されたであろう胃腸薬や頭痛薬、風邪薬など、時代錯誤ながら様々な効能を持つ薬品を見つける。

 どこか既視感のある薬の選び方に、剣崎はいつぞやの出来事を思い出しながら。背中に物々しい刀剣の鞘を携えた銀髪の少女に問いかけた。

 

「あ、はい。その身体にどの薬が効くのか分かりませんでしたが、一応……」

 

 妖夢は少し怯えた様子で襖の近くに正座している。人ならざる緑色の血を流すこの男は先ほどまで異形の怪物だったのだ。怪物に感じたあの気迫と闘争心は、ただこちらを向かれただけで意識が凍りかけたほど。

 それでも今は人の姿をしている。その身に流れる緑の血は気がかりだが、この男の持つ生命力は紛れもなく彼が『生者』であると証明してくれている。

 

 目の前で傷つき倒れた人間――らしき姿を持つ者を放置するわけにはいかない。見たところ外来人と思しきこの青年がどうやって冥界まで足を運べたのかは疑問だが、妖夢は不安を覚えながらも青年を手当てすると決めた。

 月の技術を由来とする永遠亭の薬品ならば相手が未知の生物だったとしても効果があるはず。白玉楼に常備しておいた永遠亭の薬を使って、傷の手当てまではできた。

 外傷とは別に激しく苦しんでいる様子もあったが、医学の心得がない妖夢には彼がなぜここまで苦しんでいるのか判断することができず。一応は胃腸薬や頭痛薬なども用意してはみたが、不用意に投薬して症状を悪化させてしまってはまずいと思い、傷の手当てだけに留めていた。

 

「……サンキュー、君は優しいんだな」

 

 人ならざる怪物となってしまった自分にも手を差し伸べてくれる人がいる。剣崎はそれがどうしようもなく嬉しくて、思わず人としての喜びを思い出す。

 共に戦ってくれる仲間がいた。共に自分を信じ、『彼』を信じてくれた人たちがいた。そのおかげで、剣崎は『彼』を守り抜くことができた。

 真っ直ぐすぎた性格が故に友達の少ない人生だったが──信じてくれた仲間が、確かに自分にはいたのだ。

 

 人を信じて裏切られることもあった。その度に信頼を悔いて、二度と信じないと誓っても。また再び人を信じて、また裏切られることもあった。剣崎はそれを自分の甘さだと戒め、拭い去るべき弱さだと思っていたこともある。

 それでも、自分と向き合ってくれた数少ない友達の一人は言ってくれた。『百回人を裏切った奴より、百回裏切られてバカを見た人間のほうが、僕は好きだな』と。

 こんな自分でも心配してくれる人がいる。一人で戦ってるわけじゃないと気づかせてくれる友がいる。たとえ人を捨て、不死の怪物になり得ようと。決して孤独なだけじゃない。

 

「その血の色……やっぱり、あなたもあの怪物と……」

 

 妖夢の言葉に、剣崎は少しだけ目を伏せる。本当はあまり人と関わるべきではない。人々と関われば、いつか必ず人として生きているあの友と出会ってしまう。

 もし出会えば二人は本能に逆らえず、再び戦いを始めてしまうだろう。そしてどちらかが勝てば、彼らが命がけで守ったものがすべて消える。

 決して戦ってはいけない。近くにいてはいけない。少しでも戦いの可能性を避けるために、剣崎は人々の暮らしから離れて人間としての生き方さえも友のために捨て去った。

 

「…………」

 

 無関係の少女を戦いに巻き込んでしまうわけにはいかない。手当てをしてくれたというその優しさには感謝しているが、元より剣崎には生死という概念は失われている。このままここを去ったところで、死に至ることは決してない。

 少女の手当てのおかげか、身体の痛みは大分和らいでいるようだ。あるいは不死の怪物と化してしまったこの身体の潜在的な再生能力も影響しているのか。

 

 斬り捨てたアンデッドのものか、自分自身のものかも分からぬ緑色の血に汚れた右手。生命の色を感じさせぬ不気味なその血に視線を落としつつ、剣崎は如何なる理由か再開されてしまった不死なる戦いに唇を噛んだ。

 アンデッドとしての剣崎の本能が訴える。運命の代行者が戦いを呼びかける。剣崎は心の中に浮かんだ漆黒の石版を己が拳で打ち砕き、感謝と別れを告げるべく、妖夢に向き直るが──

 

「――うぇっ!?」

 

 そこで、剣崎はこの世ならざるものを視界に捉えた。妖夢の背後からふわりと顔を出した、白く半透明な人魂を思わせるような何か。

 否、それは紛れもなく人の頭ほどの大きさで空中を漂う人魂そのもの。妖夢の半霊は雲のように彼女の周りを流れ揺蕩(たゆた)い、やがて正座する妖夢の膝の上に(くび)を下ろして落ち着く。

 

「ゆ、幽霊……!?」

 

「あ……驚かせちゃいましたか?」

 

 妖夢は膝の上に白く(かす)む己が分け身を優しく撫でながら、慌てた様子の剣崎に申し訳なさそうな顔を見せた。

 幽霊の存在に一瞬で剣崎の体感温度が下がる。障子の彼方に見えた一面の雪原もさることながら、意識して見渡せばその雪景色の中には(かす)かに移ろう幽霊たちが漂っているではないか。

 深々(しんしん)と降り積もる雪の中に狂い咲く桜。そこに揺れるこの世ならざる者たち。剣崎が白玉楼の中から見た光景は、それが現実のものではないと思わせるのに十分だった。

 

「もしかしてここって……天国……とか……?」

 

 現実ならぬ幻想が、剣崎の思考を雪の冷たさで覆い尽くす。不死である自分が辿り着けるはずのない浄土を連想してしまうが、すぐさまそこに剣を突き立て詰まった雪を掻き分ける。

 

「厳密には違うんですが……似たようなものですね」

 

 妖夢はここが冥界という領域に建てられた白玉楼であることを説明する。一般的に連想される死後の世界、天国や地獄といった場所のいずれにも該当しないが、死後の世界であることは疑いようもない事実である。

 幽霊たちは動植物の死後に生じる魂の気質のようなもの。それそのものは気質の具現であって、すべてが死者の霊魂であるとは限らない。

 幻想郷の妖精が自然の具現であるのと同じように、幽霊たちは気質を象徴する霊体であるのだ。故に、無機物の幽霊もあれば事象や概念さえ幽霊となることもあり得る。冥界にいる幽霊はほとんどが生物のものだが、鳥や獣、虫たちの幽霊でさえ鳴き声一つ発することはない。

 

 幻想郷についても説明をしておくことにした。正確にはこの冥界は幻想郷ではないが、すでに幽明結界の境界は曖昧になって久しい。結界の管理者である八雲紫の怠慢か、今では冥界も幻想郷の一部と言える。

 外来人が幻想入りを果たすことは珍しくはないのだが、冥界に現れるという話は聞いたことがなかった。現れるとしても、外の世界ですでに死者と定義された幽霊くらいのもののはずだ。

 

「えっと……じゃあやっぱり……俺は死んじゃったのか……?」

 

 剣崎は不安そうな顔で妖夢に問う。焦燥からか布団から身体を起こし、妖夢と向かい合うように律儀に正座しながら。

 ただでさえ緑色の血で傷ついた顔が見る見るうちに蒼褪めていくように見えた。見たところ全身に流れるその血は緑色であろうに、どういう理屈であるのか先ほどまでは血色のいい顔をしていたのだが──

 

 自分がすでに死者かもしれない──という恐れ。妖夢は剣崎の不安そうな顔からそう解釈したが、実際に彼が恐れているのはそこではない。

 もしも自分が、不老不死(アンデッド)となったはずの自分が如何なる理由か本当に死んでしまったら。たった一人で現世に残されてしまった()のほうが、最後の勝利者(・・・・・)と定義されてしまうのでは──そこまで考えて、剣崎はすぐに思い直した。

 

 先ほどもこの目で確かに見届けたではないか。封印したはずのアンデッドたちがこの場所で暴れている様を。それならば、剣崎が覚悟を決めた瞬間から延長され続けた戦いは、すべての参加者(アンデッド)の再参戦という形で再び活性化してしまっていると考えるべきだろう。

 全参加者が健在であるならば剣崎やあの友が最後の勝者と定義されることもない。怪物の再出現という観点で見れば守るべき人々にとっては脅威、剣崎にとっても見過ごすことのできない事態と言える。

 それでも、この地に怪物が現れてくれる以上は自身が戦い封印することができる。自分とてその参加権を得ている以上、友を除くすべての怪物を封印すれば、すべては元通りのはずだ。

 

「そこが不思議なんです。見たところ、あなたはまだ死んでいません。いえ、生きてもないように見える。生と死のどちらをも、失ってしまったような……」

 

 そう言いながら、妖夢は微かに目を細めた。彼が異形の怪物の姿で不死なる怪物と戦っていたことは鮮明に覚えている。

 今なお微かに残る緑色の傷痕が揺るぎない証拠だ。結果的に妖夢は彼の剣技によって助けられているのだが、あのときの姿で感じた本能的な恐怖は簡単には拭い去れない。

 

「私はそういった人物をよく知っています。人間の身を捨て、不老不死の存在と成り果ててしまった者は、生きることと死ぬことのどちらもを奪われ──そのどちらでもなくなる」

 

 永遠の月の都から逃れた二人の罪人。月よりもたらされた不死の霊薬を飲み、不滅の存在となった蓬莱の人の形。彼女らは先ほど妖夢が戦った怪物たちと同じくその身に永遠に朽ちることのない不死の法則を宿してしまっていた。

 目の前にいる男は自分を怪物から助けてくれた恩人かもしれないが、同時に異形の怪物となった存在でもある。

 

「あなたは何者ですか? あの不死の怪物たちと、いったいどういう関係なんですか?」

 

 刃金(はがね)の如く研ぎ澄まされた妖夢の青い瞳は容赦なく剣崎を貫く。剣崎は何も答えず黙ったままだ。幻想郷に噂される異変の怪物との関係も気になるため、最大限の警戒を解くことなく。妖夢はいつでも目の前の男を斬れるように姿勢を正す。

 斬れば分かる──などと考えていたのは今より遥かに未熟だった頃の話だ。それを自覚していながらなおもこうして未知の恐怖に切っ先を向けそうになる。今はただの人間にしか見えない彼だが、紫紺の怪物となっていたときの姿はこの世のどんなものよりも恐ろしかった。

 

 互いの余裕の無さが時間を張り詰めさせる。何時間もこうしていたように思えたが、体感的な時間が引き伸ばされていただけで実際は数分程度も経っていない。

 妖夢は膝の上で身をよじる半霊が腕をつんつんと(つつ)いてくるのを感じ、ようやく思い至る。

 

「……あっ、そうだった」

 

 半霊がふわりと傍に漂うのに伴い、妖夢は相手の素性を問う際の礼儀を想起した。いかに相手が異形の怪物となったとはいえ、今は人間の姿であるのだ。

 仮にも客人としてこの白玉楼に招き入れ、幽霊たちに運ぶのを手伝ってもらって一時的にこの座敷にて身を休ませている。なればこそ、こちらも人間相手として向き合うべきだろう。

 

「す、すみません。こういうときはまず自分から名乗るべきでしたね」

 

 こほんと一つ咳払いをし、妖夢は渦巻く恐怖心をなんとか飲み込んで冷静な心を装った。

 

「私は魂魄妖夢。この白玉楼の専属庭師と、当主の剣術指南役を務めています」

 

 その当主は今は不在ですが──と付け加えながら、妖夢は幽々子の部屋がある背後の襖の奥を一度振り返る。

 彼を正当な客と扱っていいのか、妖夢は明確な判断がつけられずにいた。幽々子がいてくれたら何の心配もなくその指示に従っていられるのに、彼女が外出中の今は来客を一人相手にするだけで無用な緊張に精神を支配されてしまう。

 あの怪物の姿を見てしまっているならなおさらのこと。妖夢は必要以上に背筋を正し、未熟ゆえの自信のなさを切り伏せるように、膝の上で両手の拳を握りしめた。

 

 剣崎が向かい合った妖夢の気配は熟練の剣士を思わせるもの。だが、ふとしたときに年齢相応の少女らしさが垣間見える。

 その不釣り合いな精神がどこかいつまでも甘い純粋さを捨てられない自分に似ているような気がして、剣崎は妖夢の前で小さな笑いを零した。

 張り詰めた緊張感を持っていたのはお互い様だったかもしれない。あまりに人と触れ合わな過ぎて人としての精神が摩耗していたのか、こうして人と話して笑うのはひどく久しぶりな気がした。あの戦いからさほどの時間は経っていないのに、すでに仲間の顔が懐かしく思える。

 

「剣術指南役? よくわかんないけど……なんかかっこいいな!」

 

 緊張を解いた笑顔を見せる剣崎。無垢なる刃を思わせる純真さで妖夢と向かい合い、自身もまた剣崎一真の名を名乗る。

 よろしく──と思わず差し出しかけた右手には己か怪物かもつかぬ緑色の血が残ったままだ。そのまま握手を取らせるのは申し訳ないと思い、咄嗟にその右手を引き戻した。

 

 剣崎の親しみやすい雰囲気にどこかきょとんとした様子の妖夢だったが、その笑顔を見て彼が警戒すべき存在でないと心で理解する。

 心の中に浮かんだ、紫紺の怪物に対する恐怖が少しだけ氷解した──ような気がした。

 

「…………」

 

 妖夢も張り詰めた緊張を忘れ、自然な振る舞いと落ち着く。互いの名を理解し、打ち解けることはできただろうか。先ほどの怪物や彼が至った異形の姿についてなど、その口から訊きたいことは妖夢の思考に雪崩の如く押し寄せてきているのだ。

 誰にでも話したくないことはあるだろう。先ほどまでは彼の怪物としての側面にばかり気を取られていたが、幻想郷においては妖怪に類する存在など珍しくはない。

 だが、今は時期が時期だ。幻想郷全域に未知の怪物が確認されている現状、少しでも怪物に関係するのならその情報を得ておきたいというのが本音である。

 

 この未知の郷、死後の世界にいるなどと説明されて彼も混乱しているはずだと考え、妖夢は疑問の刃を再び突きつけることを躊躇(ためら)った。

 彼の思考が整うまではこの白玉楼の座敷でゆっくり休んでいてもらおう。その意図を伝えようと、妖夢は静かに言葉を紡ごうとするが──すぐに剣崎の様子に違和感を覚える。

 

「ぐっ……う……っ!」

 

 不意に自らの胸を押さえて苦しみ、顔を歪めて声を漏らす剣崎。この身に感じられる超常的な意思は間違いなく『あの存在』が自身に戦いを促すときのもの。緑色の心臓がズキンと疼き、全身の血管に強い闘争心が満ちていく。

 間違いない。普段は機械で計測されていたものだが、彼らと同じ不死の存在となった今ならばこの身体で、アンデッドとしての本能で理解できる。

 

 ─―アンデッドの出現。彼らが発する本能的な攻撃バイオリズムが運命の代行者と呼べる全生物種の意思を通じてこの身に伝わり、戦いが始まることを直感で悟った。

 本能のままに剣を振りかざせばきっとこの少女も──妖夢も戦いに巻き込んでしまうことになる。否、そんなことは絶対にさせない。この身の刃が砕けても、すべての人を守り抜く剣となると誓ったのだ。

 きっとあいつ(・・・)も奴らが出現する度にこの声に苛まれていたのだろう。そう思うと、この想いを貫かんと踏み躙る不躾(ぶしつけ)な催促も、あいつ(・・・)との繋がりを感じる数少ない要素と思えなくもない。

 

「け、剣崎さん? どうしたんですか!?」

 

「妖夢ちゃん……君はなるべくここを動かないでくれ……!!」

 

 剣崎は額に汗を浮かべ、内なる闘争心に負けないように自らを律しつつ妖夢に告げる。54番目の存在となった剣崎を抑えるためのアンデッドの力は今は三枚。あいつはたった一枚でも人の心を捨てずに耐えたのだ。この程度で屈するわけにはいかない。

 この身に宿した三枚のカードのうち、ビートルアンデッドが封印された一枚のカードを右手に取り出す。

 今は戦士と誇った『あの仮面』を有してはいないが、心までは怪物にあらず。たとえ醜い姿に堕ちたとしても、この心に(つるぎ)がある限り──

 見えない力に導かれるように、剣崎は座敷を飛び出していく。白玉楼の広大な敷地においても不思議と迷うことなく、ただこの本能が感じる呼び声のままに幻想の雪原を目指した。

 

「剣崎……さん……?」

 

 妖夢は突如として表情を変えた剣崎に困惑した。彼が手にしていたカードらしきものは、先ほど紫紺の怪物の姿で怪物を斬った際に緑色の光と現れたものであろうか。

 そこまで考えて、妖夢は幽々子の書き置きと共に見つけた未知のカードを思い出す。もしかしたら、あのカードもそれに類するものなのかもしれない。妖夢は座卓の上に置いてある木箱を開き、中の奇妙な物体を押し退けて──10枚(・・・)のカードを取り出した。

 

「あれ……数が減ってる……?」

 

 今なお変わらず空虚な鎖だけが描かれたカードたち。しかし、先ほど見たときは確かに13枚存在していたはずだが──

 再び数え直そうとした直後、妖夢は肌を震わせるような激しい衝撃音を聞く。その音に驚いて、手にしたカードを木箱の中に落としてしまった。

 轟音が聞こえたのは先ほど怪物たちと戦った場所と同じ中庭の先。おそらくは塀の外の庭園に再び例の怪物が現れたのだろう。半霊に木箱を持たせ、妖夢は楼観剣と白楼剣をしっかりと背負い直す。この(こころ)に強く気合いを込めながら、剣崎を追って桜の舞う白玉楼庭園へと向かった。

 

◆     ◆     ◆

 

 白玉楼庭園。本殿を囲う敷地内の中でも特に立派な桜並木が咲き誇るこの庭に、白く美しく降り積もった雪景色の中には似つかぬ、漆黒の怪物は存在していた。

 鈍く光沢を放つ漆黒の皮革に打ちつけられた鋲の意匠。腰に装った双蛇の円環もさることながら、白玉楼の座敷から飛び出し怪物と対峙した剣崎の本能でもって確かに理解できる。

 

「あいつ……やっぱり……」

 

 目の前にいるのは紛れもなくアンデッドの一体。それもかつて剣崎の職場、戦士として戦う際の拠点だった始まりの場所を、単独で壊滅せしめた存在――

 深い緑色の甲殻色と背中に突き出した昆虫の(はね)の如き意匠は、無数の群れで農作物を食い荒らすバッタやイナゴなどの特徴を思わせる。

 その見た目通り、イナゴの能力を備えた『ローカストアンデッド』は剣崎にとって因縁深い相手でもあった。彼にとって、この怪物は運命の歯車を狂わせた元凶とも言えよう。

 

「…………」

 

 ローカストアンデッドは背中の翅を静かに震わせつつ、剣崎を睨む。あちらにもかつての記憶は残っているのだろうか。

 剣崎も無意識に握った己の拳が怒りに震えているのを感じた。この怪物があの場所を襲撃したせいで、どれだけの仲間が犠牲になったのか。戦士としてまだ日が浅かった剣崎にとって、あのときこの怪物を封印することができた事実は誇り足り得ただろう。

 しかし、多くの仲間たちを守り切ることができなかったのもまた事実。幼い頃に目の前で家族を失った剣崎は、その絶望が何よりも耐え難かった。

 加えてその混乱の最中、最も信頼する先輩の裏切りを知ったことが、剣崎の心にさらなる絶望を突きつけた。

 それでも剣崎は立ち上がることができた。たとえどれだけの人に裏切られようとも、戦士として戦い抜くと誓ったのだ。二度と目の前で誰も死なせはしないと──

 

 目の前で無数のイナゴと散り乱れるローカストアンデッド。その光景を剣崎はよく知っている。アンデッドとしての攻撃力を失うことなく無数の群体となって拠点や仲間を襲撃した忌むべき攻撃手段。

 これだけ分散されていては気配も散り散りだ。愚直に剣を振ったところで雲を断つようなもの。四方八方に散逸してしまったローカストアンデッドの気配は、剣崎の本能でも掴みがたい。

 

「……っ!!」

 

 再びあの異形(すがた)になってしまうべきか──刹那の思考を貫く直感。無数の群体と散ったローカストアンデッドの気配に紛れ、別のアンデッドが接近している。

 そのことに気づいた瞬間には、すでに剣崎の視界に青白い雷光が迫っていた──

 

「剣崎さんっ!!」

 

 虚空より飛び迫った蒼白の雷光に楼観剣の刃を斬り込み、両断する。剣崎の言葉を無視してこの場に現れた妖夢の剣が、剣崎の身を雷から守り抜く。

 されど放たれた電撃の威力までは殺せず、斬られた電撃は左右へと分かたれ妖夢の周囲に満ちる雪を焼き焦がして炸裂した。

 

 舞い上がった白煙に顔を歪めつつ、背後に守った剣崎の身を案じる妖夢。数十歩先の雪景色、冥界の上空に広がるオーロラから現れたもう一体の怪物は、茶褐色の毛皮を備えたヘラジカのような怪物だった。

 掲げた金色の双角は微かにパチパチと輝き、放電の残滓を見せる。ヘラジカの能力を備えているとはいえ、不死たる法則は戦いのために自然の力を振るうのか。

 その身に発電器官を備え、電撃を自在に操る『ディアーアンデッド』の力は必ずしもヘラジカの遺伝子に由来しない。アンデッドの能力は生物の進化を望む意思にこそ応じ、生物の法則を超越した『不老不死』という性質もあって、常識を超えた戦闘能力を身に着けることがある。

 

「妖夢ちゃん……!? 来ちゃダメだ!!」

 

 現れた妖夢に声を張り上げる剣崎。ローカストアンデッドとディアーアンデッド、二体のアンデッドがこの場にいる状況で、自らの闘争心を抑えながら妖夢を守る。先ほどは上手くいったが、次こそ本能に理性を飲まれ暴走しない保障などない──

 ─―そこで、剣崎は自らあの姿になって戦おうとしている自分に気がついた。心の中の自分自身を意思の拳で殴りつけ、意識を強く引きしめる。今、この身の内には先ほど封印した三体のアンデッドの力があるではないか。

 

 忌むべき不死たるあの姿──紫紺と黄金の怪物たる『ジョーカー』の力を頼らずとも。剣崎自ら望んで『54番目のアンデッド』と成り果てたあの異形へと至らずとも。

 切り札たる存在に成り果てた剣崎は、今はかの友と同じ。それはすなわち、彼と同様の能力をもその身に宿しているということを意味する。

 ならば仮面を失っていたとしても──この身に封じた数枚の『ラウズカード』をもって。

 

「(二度となるな……! あの姿に……! ジョーカーの姿に……!!)」

 

 二体のアンデッドを前にして緑色の心臓が激しく疼く。身体が張り裂けそうな衝動を必死で抑え込み、剣崎はジョーカーとしての力の一部をその身に表出させた。

 ジョーカーとして戦うためではない。彼の腰に現れた緑色の心臓を模したベルトは、友と同じくその身の異質さを示す器官。

 不死たる緑色の生き血が流れた『ジョーカーラウザー』を腰に出現させると、剣崎は先ほど手にしたラウズカードのうちの一枚、ビートルアンデッドが封印されたものを再び取り出す。

 

「……力を貸してもらうぞ、カテゴリー(エース)!!」

 

『チェンジ』

 

 絞り出した叫びと共に──手にしたカードをジョーカーラウザーのバックルの溝に通す。強靭なカブトムシの絵柄を宿したカードを覚醒(ラウズ)させ、剣崎は自らの腰からどこか電子的にも聞こえる原始の声を聞き届けた。

 その瞬間、力と共に歪む身体。剣崎の肉体は生身の人間の姿から形を変え、アンデッドと同様の異形の姿へと変わり、一体の獣として全身が変異する。

 だが、その姿は剣崎が拒んだジョーカーとしての姿ではない。先ほど彼がその身で封印せしめたアンデッドの一体。カードに封印されたビートルアンデッドの姿そのものだった。

 

「か、変わった……!?」

 

 漆黒の皮革を備えたカブトムシの怪物となり、剣崎は右手に破壊剣オールオーバーを現して二体のアンデッドに立ち向かっていく。

 その光景を見て、妖夢は困惑の声を上げることしかできなかった。先ほどまでよりかは理性的に剣を振るっている様子の剣崎──らしき怪物だが、紫紺の怪物ほどではないにしろどこか荒々しさが否めない。

 必死に自分を抑え込んでいる──そんな様子が見て取れる。妖夢はそこで、あの未知のカードが剣崎にとって重要な意味を持つのだと直感した。

 

 半霊が持ってきてくれた木箱を受け取る。やはりそこには銀色の物体といくつかのカード。後者はおそらく剣崎が手にしていたカードと共通の法則を持つものだろう。

 確証はないが、妖夢はこのカードが宿す霊的な気配と、今の剣崎の姿から似たものを感じ取っている。加えて手に持った銀色の物体からも鋭く運命を切り拓く剣の如き気配が感じられるのだが、もしこれも同じ力なら。

 妖夢にはこの物体が何なのかは理解できない。しかし直感的に分かるのは、この物体と剣崎一真の存在が引き合っていること。自分には分からずとも、彼ならばきっと理解できる。妖夢はなぜかそんな気がして、その手に掴んだ物体――『ブレイバックル』を剣崎の元へ投げ渡した。

 

「剣崎さん! これを!!」

 

 無数の群体と散ったローカストアンデッドと電撃を放ち続けるディアーアンデッドの二体に対し、ジョーカーの能力を使い、ビートルアンデッドとなって戦っていた剣崎。

 理性と本能の狭間で苦しみ続け、軋む身体を無理やり動かしていたが、妖夢の声が耳に届いたことに気がついた。

 頭を染める戦いへの欲求を振り払う。放たれたディアーアンデッドの電撃を右手に構えたオールオーバーで受け止め、それを振り下ろすことで群体となった状態のローカストアンデッドを雷光の斬撃をもって焼き払いつつ、そのままオールオーバーを投げ飛ばす。

 ローカストアンデッドは群体を維持できずに単体へ戻り、ディアーアンデッドは真っ直ぐに突っ込んできたオールオーバーを避け切れずに激しい火花を生じさせて仰け反らされた。

 

「…………!」

 

 獣じみた闘争心に一瞬だけ自我を失っていたらしい。剣崎自身の理性が働いたのか、ビートルアンデッドの姿は生身に戻り、剣崎一真としての姿を取り戻す。

 全身を貫く闘争心から少しだけ解放され、雪の大地に膝を着くと同時、はらりと舞った一枚のカードはビートルアンデッドが封印されたもの。

 妖夢から投げ渡された物体――ブレイバックルを手にした剣崎は、二体のアンデッドを前にしている状況にも関わらず、思わず目を見開いてその重さを両手でもって確かめた。

 

「これは……俺のベルト……!? どうして……!?」

 

 見紛うはずはない。微かな汚れも傷跡も、寸分の狂いなく。それはかつて自身がアンデッドと戦うために用いていたベルトのバックル、誇りと掲げた戦士の証だった。

 だが、その力は自身がジョーカーと成り果ててしまった際に手放したはず。世界を滅ぼさずに友を救うためとはいえ、自らアンデッドと化すことを望み選んでしまった自分にはもう、その仮面を装う資格などはないのだと。

 腰に生じたジョーカーラウザーに押し退けられるように零れ落ちたそのベルトを拾い上げた覚えはない。本当なら、このベルトはまだあの山奥に──そうでないにしろ、その場にいた友や仲間が回収してくれているはず。今、ここにあるはずがないのだ。

 

 どうしてこれがここにあるのか──などと考えている暇もない。多少怯ませたとはいえ、目の前には依然として二体のアンデッドが存在している。

 一体に戻り翅を震わせるイナゴの怪物。双角に紫電を纏わせるヘラジカの怪物。不死なる彼らを打倒し得るのは、ジョーカーの力だけではなく。ここにある、誇りの剣をもってして。

 

「……そうだよな。あのとき、確かに誓ったじゃないか」

 

 剣崎は自らの身体から舞い落ちたカード──ビートルアンデッドが封印されたラウズカードを拾い上げる。スペードのスートと(エース)の文字が刻まれたそれは、他のどのカードよりも剣崎にとって思い入れのある一枚だ。

 雪の大地を力強く踏みしめて立ち上がる。左手に持ったブレイバックルの正面に、スペードのエースたるラウズカード、ビートルアンデッドが封印された『チェンジビートル』を装填。

 

「俺に戦士(ライダー)の資格があるなら……! 戦えない、すべての人のために! 俺が戦う!!」

 

 透明なガラス質の中に雄々しく宿るカブトムシの意匠。剣崎はブレイバックルを自らの腰に当て、その端から無数のカードが腰をぐるりと一周するのを感じ取る。

 やがてカードは『シャッフルラップ』と呼ばれる赤い(ベルト)として剣崎の腰に固定され、さながら心臓の鼓動を思わせるような脈動が鳴り響いた。

 

 指輪とブレスレットに彩られた両手を開き、両腰へ。そのまま右肩と共に、右手の甲を前にしてゆっくりと左上へと突き上げていく。

 剣崎の視界に移る自らの右手。緑色の血は変わり果ててしまった自分自身の証明。されどこの心に刻んだ、覚悟の誓い、かつて抱いた誇りまでは。決して変わることはない──

 

「変身っ!!」

 

 強く放った発声と共に、剣崎は掲げた右手を占うように翻す。正面に手の平を向けつつ、即座に左腕を右上へと振り上げて左へ戻す。同時に右腕を腰へと持っていき、ブレイバックルの右側に設けられた黒い引き金、『ターンアップハンドル』を掴む。

 左上へ払う左腕を剣の如く掲げながら、右手でもってハンドルを引くと、バックルの正面にあるガラス質の窓が軸を基点に一度、くるりと回転。

 そこに現れたのは、鮮やかな真紅のパネルに金色に刻まれたスペードの紋章だった。

 

『ターンアップ』

 

 機械仕掛けのベルトが風と笑う。知らないという罪、知りすぎる罠。剣崎はこの身を縛りつける運命に、動けなくなる前に。心に掲げた(つるぎ)を、研ぎ澄まされた勇気にして。

 この身を突き動かすのは戦士としての義務でも使命感でも、ましてや怪物としての、アンデッドとしての本能でもなく。

 そこにいる人々を守りたい。運命に負けたくない。剣崎一真が戦う理由は、自分が生きたかけがえのない世界に生きるすべての人々を、心から愛しているから。

 

 ブレイバックルから溢れた青い光のゲートが、カード状の(とばり)として浮き上がってくる。目の前の闇を照らすように、強く鋭い光が剣崎の前に現れる。

 カブトムシの意匠と輝く光の帳──『オリハルコンエレメント』は回転しながら正面のローカストアンデッドを弾き飛ばしつつ、やがてスペードの角を上にしてその動きを止めた。

 

「…………」

 

 目の前に揺れるはかつてその身に抱いた愛と誇りの輝き。スペードのマークとヘラクレスオオカブトの力強さを模した戦士としての自分自身。

 深く呼吸を整える。両の拳を握り締め、心に刻んだ勇気の刃を再び、振りかざすために。

 

「――うぉおおおっ!!」

 

 剣崎は雪の大地を蹴って走り出す。気合いを込めて光へ向かう。オリハルコンエレメントの輝きに触れると、やがてその青き輝きは剣崎一真を戦士たらしめる『(つるぎ)』として。

 光の帳を通り抜けた剣崎は、生身の姿でもアンデッドの異形でもない鎧を纏っていた。それは先ほど変じていたビートルアンデッドと同じ力を宿すもの。されど乱れ暴れる異形の力ではなく、純粋に人々を守るための剣たる覚悟。

 

 紫紺の強化スーツに覆われたその身体に纏うは、猛き刃金(はがね)を思わせる白銀の装甲。胸には力強くスペードの紋章を掲げ、そして頭部にはヘラクレスオオカブトの頭角を思わせる剣の如き強靭な切っ先、丸く優しさを(たた)えた真紅の複眼を有している。

 そしてブレイバックルを宿した腰の左側には、ベルトに帯びたホルスターと共に勇ましき刀剣が収められていた。

 目の前のローカストアンデッドに対して蒼き拳を打ちつける度、剣崎の左腰に揺れる白銀の刀剣。赤き複眼でその動きを捉え、背後のディアーアンデッドへの警戒も決して怠らず。

 

「うぇいっ! うぇあっ!!」

 

 戦えない人々の想いをこの拳に乗せて。自分がみんなの代わりに戦うために。剣崎が振るう人間の意志は、白銀と紫紺に彩られた『ブレイド』と呼ばれる戦士。かつて太古の封印から解放されたアンデッドを再び封印するべく造り出された──人類の叡智と呼ぶべきもの。

 

「あれは……仮面……?」

 

 半霊と共にその光景を見つめる妖夢が怪訝な顔で呟く。剣崎が生きた世界のとある研究機関によって開発された『ライダーシステム』は、アンデッドに対抗するべく、人間とアンデッドを融合させるという技術で成り立っていた。

 その法則が妖夢にアンデッドと同じ気配を感じさせたのだろう。されど異形の姿を隠さんとする銀色の仮面、ブレイドの姿は、決して彼らと同じ怪物ではないと思わせてくれる気がした。

 

 最初期に造られたライダーシステムの第1号と続いて完成した第2号のブレイド。どちらも同じくアンデッドの力を借りながら、人類をアンデッドから守り抜くため。

 その姿を見た一部の人間は都市伝説として彼らを語った。その身に仮面を装い、人知れず人類のために戦う正義のヒーロー。この世界のどこかにいる『仮面ライダー』という噂として。

 

「アンデッド……お前たちを封印する!!」

 

 仮面ライダーと呼ばれた戦士。幻に染まる雪を超え、再びブレイドとなった剣崎一真はかつての誇りを再び掲げる。左腰のホルスターに備えられた蒼銀の剣、醒剣(せいけん)『ブレイラウザー』の柄を握りしめ、右手で鋭く抜き放つ。

 重厚に輝くスペードの意匠が象られた銀色のナックルガードに、深い蒼穹の色を思わせる剣の柄。甲虫の如く雄大な刀身は黄金の紋様を走らせ、煌びやかに月の光を照り返した。

 

 ブレイラウザーの切っ先越しに真紅の複眼をもって睨みつけるは二体のアンデッドたち。右手で構えた剣に左手を添えながら、剣崎は自らの身に人間としての血を感じる。

 この身体に流れるのは変わらずアンデッドとしての緑色の血。されど魂に伝う誇りは今なお赤く熱く、人間としての血を忘れてはいない。

 不死なる異形の姿としてではなく。もう一度、運命を切り拓く(つるぎ)と在れるなら。まだ自分に、仮面ライダーを、ブレイドの名を名乗る資格があるのなら。

 再び立ち向かおう。何度だろうと立ち上がろう。この胸に抱く覚悟は変わらず、呪われた運命と戦うために。されど今は、永遠の切り札(・・・・・・)を切ることなく。最強の『(エース)』を誇りと掲げて。




剣崎に雪が似合うイメージがあるのは、間違いなく冷やし土下座のせい。
強制封印でプライムベスタ化した場合って対応するプロパーブランクはどうなるんでしょう。

本当は前回の時点で変身させたかったんですが、上手く仕上げられませんでした……

次回、第30話『迷いと共に』


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第30話 迷いと共に

 剣崎一真の変身に際し、妖夢の半霊が持っていた木箱が静かに光を灯した。

 内に秘められていた10枚のラウズカード、ただ空虚な鎖が描かれただけの空白(ブランク)の札が勇ましき波長に従い、ふわりと宙を舞う。

 如何なるアンデッドも封印されていない状態の『プロパーブランク』と呼ばれるラウズカードはスペードのスートに対応する覚醒機(ラウザー)のもとへ。白玉楼に残された10枚すべてがブレイラウザーの柄に収まり、彼の手には13枚のスペードスートが再び揃った。

 

 しかし──すでにアンデッドを封印し固有の絵柄を有しているのは、今はまだ三枚のみ。他のすべては封印の器となるべき空白でしかない。

 ならばかつてと同じように──永久なる封印から逃れた、彼ら不死身の怪物を。この剣をもって封印するだけ。

 たとえ異なる地平、妖夢の語った幻想郷という場所。冥界と呼ばれた浄土であっても。そこにアンデッドの恐怖があるのなら、安寧を奪う者がいるのなら──この()運命(かれら)に突き立てよう。

 

「…………っ!」

 

 ライダーシステム第2号、ブレイドのスーツを纏った剣崎一真。蒼く装うこの鎧は、アンデッドとしての内なる力よりも剣崎自身の魂に相応しく輝く。

 ブレイバックルに装填したチェンジビートル──スペードのエースたるラウズカードの力を借りることで、封印されたビートルアンデッドと剣崎一真の肉体を融合(・・)させた。

 

 人間とアンデッドを一時的に融合させることで、さらなる力を引き出してアンデッドと戦わせる。そのために、アンデッドと融合を果たす高い適性――『融合係数』を備えた剣崎は、ライダーシステムを開発した組織に選ばれた。

 

 ヒトが地球を制した背景には、進化論で説明できない理由が存在する。その謎を究明するべく設立された『人類基盤史研究所』――通称『BOARD(ボード)』と呼ばれる研究機関の技術(システム)。BOARDは、太古の地層より発掘された謎の結晶体から、ラウズカードを発見した。

 カードに封印されたアンデッドを研究することで、ヒトが星を制した歴史、すなわち『人類基盤史』について調べていたが──

 とある一人の研究員の独断によって、封印されていたアンデッドが解放されてしまった。組織はそれを再封印するべく、アンデッドの力を利用したライダーシステムを開発。当時研究員だった一人の青年と、外部からスカウトした剣崎一真をアンデッド再封印の任に就かせたのだ。

 

「うぇいっ!!」

 

 覚悟を乗せた剣崎──ブレイドの剣が閃く。醒剣ブレイラウザーの刃が重く深く、忙しなく翅を震わせるローカストアンデッドの身体を斬りつけ、緑色の血を走らせる。

 

 アンデッド封印という大任の真相は、組織が犯した過ちの尻拭いに過ぎない。その事実を知ったのは、組織を裏切ったはずの仲間──ライダーシステム第1号の適合者として選ばれた、剣崎が最も信頼する男の口からだった。

 たとえ組織に利用されているだけだったとしても。剣崎は歩みを止めず。それはきっと、裏切り者と糾弾される覚悟を持って組織を離れた彼も同じだろう。

 如何なる理由であれ、アンデッドは罪のない人間を襲っている。そしてそれらと戦うための力がここにある。故に、剣崎は。愛する人類のため、剣を振るう理由をこの胸に宿して。

 

「妖夢ちゃん! 早くここを離れるんだ!」

 

「何を言ってるんですか! 剣崎さんこそ休んでいてください!」

 

 剣崎は醒剣ブレイラウザーをもって。妖夢は名刀、楼観剣をもって。二つの刃をかざして向かう怪物から視線を外すことなく、互いの身を案じて声を上げる。

 電撃を放つディアーアンデッドから距離を取るのは得策ではないと判断し、妖夢は雪の大地を蹴って接近した。楼観剣の間合いに踏み入ると同時に、ディアーアンデッドの電撃を誘発させない近距離で戦闘を続ける。

 ローカストアンデッドは剣崎の反応を(うかが)っているのか再び群体に散る気配はないらしい。こちらも距離を詰め、妖夢に近づけさせないようブレイラウザーの刃を振り下ろした。

 

「せめて戦う力を奪うだけでも!」

 

 近くにブレイラウザーの剣戟を聞き届け、目の前の怪物と向き合う妖夢。

 相手が不死身の存在であることは分かっている。だが、先ほどの戦闘を見る限り、不死身といえどダメージは受けているはずだ。ならば、再び立ち上がる気力が消えるまで、できる限りの攻撃を続けるしかない。

 左手に霊力を込めた光のカードを構築──疑似的なスペルカードをその手に出現させる。このカードに込めた力をもって、アンデッドの戦意を少しでも削るために。

 

断命剣(だんめいけん)冥想斬(めいそうざん)!!」

 

 緑色に湧き上がる霊力を楼観剣の刃に纏わせ、長大な霊力の刃と成して振り下ろす。発動された妖夢のスペルカード【 断命剣「冥想斬」 】は激しい斬撃を奏で、ディアーアンデッドの金色の双角を一部、叩き斬ってみせた。

 紫電を纏う金角が緑色の血と共に雪の大地へ落ちる。痛みに悶えている様子のアンデッドを見ると、やはり命までは奪えなくとも大きな損傷を与えればその身を消耗させられるようだ。

 

「やった……!」

 

 妖夢は確かな手応えに小さく笑みを零す。しかし決して油断せず、ディアーアンデッドが両手に具現させた、七支刀めいた金色の双剣を見逃すことなく、それが振り抜かれる直前に雪の大地を強く蹴って軽やかに後退。

 距離を取れば再び電撃が飛んできてしまうかとも思ったが──どうやら角の一部が折れてしまったせいで、体内に生じた電流を上手く調整できなくなっているらしい。

 不死身の特性こそあれど、ダメージの治癒にはそれなりの時間がかかる様子。かといって、このまま攻撃を続けても、相手が不死である限り完全に撃破することはできないだろう。

 

「おお……! 結構やるな……!」

 

 ローカストアンデッドと対峙する剣崎は妖夢の剣(さば)きに感嘆しつつも、纏うブレイドの左手首にあるべきものがないことを訝しんでいた。

 ライダーシステムを強化する目的で開発されたその装備は、今のブレイドにはない。本来ならば変身と同時にこの左腕に現れるはずのそれは、どうやらこの場所で取り戻したブレイバックルには備わっていないようだ。

 仮にそれがあったとしても、今はほとんどのラウズカードを失っている状態。システムの起動に必要なカードも、システムの真の力を発揮させるためのカードも、今の剣崎は有しておらず。だが、それでもこの魂を、人を守る意思を──鞘に納めてやるつもりはない。

 

 この手にあるアンデッドの力は今は三枚。変身に使っているスペードのエース──チェンジビートルを除いた二枚の力を使うべく、剣崎はブレイラウザーを左手に持ち替えた。

 白銀の刀身を下に向けて逆手で持つ構えを取る。続けて右手でブレイラウザーのナックルガード部分を掴み、透明のカードホルダー『オープントレイ』を開く。

 扇状に展開されたオープントレイの中にはリザードアンデッドとボアアンデッドを封じ込めたそれぞれ二枚のスペードのカード。その他に、先ほど取り戻したばかりの10枚のプロパーブランクが収納されていた。

 

 剣崎と向かい合う二体のアンデッド、ローカストアンデッドとディアーアンデッドに反応し、空白の鎖を描いた二枚のプロパーブランクが微かに光る。

 スペードの5とスペードの6――プロパーブランクは封印するべきアンデッドの紋章(スート)数字(カテゴリー)が定められており、対応するアンデッドと向き合うことで相手のスートとカテゴリーを知らせてくれるのだ。

 

 しかし、今はまだ封印できる状態ではない。まずはアンデッドを無力化すべく、剣崎はオープントレイからトカゲの絵柄が刻まれた一枚のラウズカードを手に取った。

 リザードアンデッドが封印されたスペードの2『スラッシュリザード』を右手で取り出し、左手に逆手持ったブレイラウザーの刀身、読み込み口となっている根本の溝へと滑らせる。

 

『スラッシュ』

 

 ブレイラウザーが奏でる電子音声と共に、ラウザーの基部に設けられた電子版、そこに刻まれた赤い数字が瞬き始めた。

 5000と表記されていた数字は軽やかな音声を鳴らしつつ4600へ低下。右手のラウズカードを正面に掲げると、それは青白い光の(とばり)と化してブレイドの胸部装甲(オリハルコンブレスト)の全体に融合し、広がり馴染んでいく。

 ブレイドの身に追加で融合したリザードアンデッドの力が一時的に発揮され、ブレイラウザーの切れ味をより鋭く硬く強化していった。

 剣崎はオープントレイを閉じ、白く力強い光に染め上げられたブレイラウザーを再び右の順手に持ち替えるが──直後、ローカストアンデッドは雪を蹴り上げて高く跳び上がる。

 

「……っ! うぇいっ!!」

 

 迫るローカストアンデッドの急降下蹴りを刀身で防ぐ。衝撃に少し後ずさったが、決して退くことなくブレイラウザーを横薙ぎに一閃。剣崎は目の前の怪物に対し、スラッシュリザードの効果で強化された斬撃【 リザードスラッシュ 】を見舞った。

 スペードのカテゴリー2、リザードアンデッドの力は切断能力の強化。その能力を封印せしめたラウズカードを使って増大した切れ味による斬撃は、空気さえ容易く切り裂き剣圧を届かせるほどの切断力を備える。

 

 正面から斬りつけられたローカストアンデッドは両腕を構えたが、イナゴの甲殻ではトカゲの刃を受け止められず、緑色の血を撒き散らした。

 されど本来ならば胴体まで届いていたはずの剣圧が、今はローカストアンデッドの腹にさえ届いていない様子。かつての戦いにおいてはこの一撃をもって腹部を直接貫いたことで、かの怪物を封印できるほどに弱らせたのだが──

 此度の戦いにおいてはリザードスラッシュの剣圧を見舞ってもその腕を斬り落とすことさえ叶わず。剣戟が浅い──というよりは、かつてよりも怪物の装甲が強化されているような。それに、先ほど受けた跳躍からの急降下蹴りも想定していたより重い衝撃だった。

 

「(前に戦ったときよりも、強くなってるのか……?)」

 

 初めてローカストアンデッドと剣を交えたのは、剣崎がブレイバックルを受け取り、ブレイドとして戦い始めてまだ二ヶ月程度の頃。今ほどの戦闘技術も経験もなく、カテゴリー5に分類される下級アンデッドといえど苦戦は必至だった。

 しかし、今は同じ相手を前にしても十分に戦えるだけの戦闘経験を積んでいる。それに加えてこの身は『冷酷な戦闘マシン』とまで謳われた最凶のアンデッド、ジョーカーと同等の存在と化しているのだ。湧き上がる闘争心を抑制しているとはいえ、人間であった頃よりも戦闘能力が落ちているはずはないと思いたい。

 それとも、ジョーカーとなった自分が自分の身体を上手く動かせていないのか──

 

 逡巡は刹那の間に。剣崎は、腕から緑色の血を滴らせるローカストアンデッドに対して追撃を仕掛けるべく、今度はブレイラウザーを正面へと突き出す。

 その一撃は放つ剣気から気づかれていたらしい。強化されたままの刀身で放った二度目のリザードスラッシュは再び跳躍したローカストアンデッドの身体に当たることはなく、虚しく冷たい空気を穿つ。

 突きの隙を埋める間もなく空を見上げる剣崎。

 迫るローカストアンデッドのキックを斬り上げで迎撃しようとするものの、剣を持ち上げる前に胸部装甲に空中回し蹴りを受け、その衝撃によって剣崎は後方へと蹴り飛ばされてしまう。

 

「ぐぅ……っ!」

 

 またしても緑色の心臓がドクンと高鳴る。――まずい。あまり戦いを長引かせてしまっては、この耳元で囁く運命の声に、戦いを促す悪魔の如き声に身を委ねてしまいそうになる。すぐに立ち上がり、剣崎は雪の大地を踏みしめた。

 

「きゃあっ!」

 

 そこへ妖夢も吹き飛ばされる。片方の角を折られて電撃を使えないディアーアンデッドを微かに甘く見ていた節があった。そのせいで、自覚なき油断の隙を突かれてしまった。

 七支刀めいた双剣の十字斬りを楼観剣で凌いだのはいいが、直後に放たれた正面への蹴りまでは防ぎ切れなかったのだ。

 されど妖夢の剣技と弾幕、スペルカードによる片角の損失もあり、すでに相手のほうも全身に誤魔化しようのないダメージを負っているのが見て取れる。

 

 まだまだ──と顔を歪めつつ立ち上がる妖夢。ブレイラウザーを構え直した剣崎は妖夢に心配の声をかけた。

 大した痛手は負っていないようで、すぐさま楼観剣を構え直した妖夢を見て安心する。

 

「グ……ルゥオ……ッ!」

 

 不死ゆえの生命力で強引に片角を再生しようとしているのか、ディアーアンデッドの頭部右側が微かに盛り上がり始めた。それを示唆するように、雄々しく突き立つ左の角と呼応して走る紫電が失われた角を再び生やそうとしている。

 ふらつきながらも双剣を構え、妖夢に近づき歩もうとしている怪物に気づき、剣崎は妖夢の身を守るべく、未だリザードスラッシュの効果が残ったブレイラウザーを振り下ろした。

 

「はぁぁぁっ……うぇあっ!!」

 

 空気を鋭く斬り裂き、舞い上がった白雪が剣圧の形を浮き上がらせる。風を寸断して突き進んだリザードスラッシュの刃がディアーアンデッドの身を裂き、その周囲におびただしい緑色の鮮血を飛び散らせた。

 そのダメージがディアーアンデッドの最後の気力を断ち切ったのかもしれない。怪物は力なく双剣を手離し、仰向けに倒れ込むと同時、腰に装うアンデッドバックルがパキンと開く。黒き双蛇の円環、不死の意匠が囲う内側には『♠6』の紋章(スート)数字(カテゴリー)が刻まれていた。

 

 すぐさま右手のブレイラウザーを左手に持ち直し、先ほどと同じようにオープントレイを展開。並んだラウズカードの中からスペードの6に対応するプロパーブランクを抜き取る。そのままディアーアンデッドに向けてカードを鋭く放った。

 空気を切って進むプロパーブランク♠6がディアーアンデッドの腹部に突き刺さるのを見届けると、アンデッドは淡い緑色の光と化してカードに吸い込まれていく。

 

 プロパーブランクは対応するアンデッドを封印した『プライムベスタ』へと変化。スペードの6たるこの一枚はディアーアンデッドを宿す『サンダーディアー』と呼ばれるラウズカードとなってヘラジカの絵柄を映し出した。

 サンダーディアーは先ほどの工程を逆再生するかのように剣崎の──ブレイドの手元へと戻っていく。カードを右手で掴み取った剣崎は紫電纏うヘラジカの絵柄へと視線を落とした。

 

「剣崎さんっ!」

 

 妖夢が声を張り上げる。彼女の身を守ることを優先したせいで、死角のローカストアンデッドの行動に対処が遅れてしまったらしい。

 イナゴの能力を有した驚異的な脚力で遥か高度へと跳び、背中の翅を震わせることで冥界の空を滑空するアンデッド。

 ブレイラウザーに宿ったリザードアンデッドの能力、リザードスラッシュはすでに効果が切れてしまった様子。だが、この手にはまだ封印したアンデッドのカードが残っている。

 

『サンダー』

 

 右手に持ったままのプライムベスタ、サンダーディアーをブライラウザーの溝に滑らせ読み込ませる。これまで何度も行ってきたカードの覚醒(ラウズ)を果たし、剣崎はブレイラウザーにディアーアンデッドが持つ固有能力を宿らせた。

 軽やかな電子音声を奏で、ラウザーの表示が4600からさらに3400に低下。されどそれだけのAP、ラウザーが持ち得るカード使用限界のエネルギーを消費して得られる能力は消費AP相応の威力を誇る。

 バチバチと青白い電流を纏わせ始めたブレイラウザーの雷鳴、雪原を照らす稲光はまさしくディアーアンデッドが放っていた電撃とまったく同じ力の証明であった。

 

「うぇいやっ!!」

 

 上空のローカストアンデッド目掛けてブレイラウザーの切っ先を突き上げる。当然、その刃が滑空するイナゴのアンデッドにまで届くことはない。

 しかし、ブレイラウザーが纏う【 ディアーサンダー 】の輝きが、青白い電流を生み出して空気を切り裂いていく。激しい雷鳴を轟かせ、瞬く間に絶縁破壊を成し得るだけの電圧をもって右脚を軸に上空から蹴り迫るローカストアンデッドの身に、ヘラジカの紫電を走らせていく。

 

「ギギギィィアアッ!!」

 

 落雷に打たれたような衝撃がローカストアンデッドを襲う。さっきまで隣に立って戦っていたディアーアンデッドの力が、自らの身を焼き払ったことを困惑しているのか。ダメージに耐えかね落下すれど、雪は優しく受け止める。

 ブレイラウザーから放たれたディアーサンダーの電撃によってローカストアンデッドの翅は激しく焼け(ただ)れていた。

 もはやイナゴの翅は飛翔や滑空のために動くことはないだろう。ヘラジカの角のように不死の生命力をもって再生されれば元の飛翔能力を取り戻すはずだが、剣崎一真と魂魄妖夢、二人の剣士を前にして悠長に再生力を高めるなどという大きな隙が見逃されるはずもない。

 

「これでとどめだ!!」

 

『タックル』

 

 再びオープントレイからカードを引き抜き、ラウズする。今度はジョーカーの姿でリザードアンデッドと共に封印したボアアンデッド、イノシシの能力を封じ込めた『タックルボア』の力をブレイラウザーに覚醒(めざめ)させる。

 スペードの4を示すプライムベスタは使用者にイノシシの如き突進力を与える力。剣崎はブレイドとしてビートルアンデッドと融合した身体の内から、それとは別にボアアンデッドが備える野生を感じた。

 ブレイラウザーの刀身を下に向け、右肩を前にして雪の大地を猪突猛進に駆け抜ける。

 

「うぇぇぇぇええええ─―――うぇっ!?」

 

 気合いを込めた雄叫びと共にローカストアンデッドに【 ボアタックル 】の一撃を見舞おうとしたが、剣崎の突進はアンデッドの身体に当たることはなかった。

 ディアーサンダーを受けてダメージを負った身体でなお、その脚力をもって再び空中へと跳び上がったローカストアンデッド。

 さすがに焼かれた翅では空中に留まることはできないようで、素直に雪へと着地。剣崎を飛び越え、遥か背後の位置に立たれたことで予期せず妖夢への接近を許してしまった。

 

「…………っ!」

 

 ディアーアンデッドに蹴り飛ばされた痛みがまだ残っている様子の妖夢。ダメージはさほどでもないが、身体が軋むほどの衝撃ではあった。

 楼観剣を構える腕が震える。まるで戦えないというほどではない。深手を負った怪物を戦闘不能にすることはできるはず。

 

 イナゴを思わせる強靭な右脚が迫り来る。弾幕ごっこに慣れた妖夢はそれを視認することができたが、咄嗟に楼観剣を打ちつけて防ぐことしかできず。

 妖怪の肉さえ容易く切り裂くこの楼観剣をもってしても、霊力を込めていなければローカストアンデッドの右脚の装甲を傷つけるのがやっとだが、それでも己が身を守ることはできる。

 

「お願い、半霊!」

 

 妖夢の呼びかけに応え、冥界の空気の中を飛び進む彼女の半霊。質量を持つ霊的エネルギーの塊たるそれは渾身の力で自らに霊力を込め、ローカストアンデッドの装甲の少ない腹部に突っ込んでいった。

 自身の分け身たる半霊を疑似的な使い魔と成して突撃させ、攻撃手段と成す。かつては永夜異変の解決に赴いた際に重宝した【 半幽霊 】の技が思わぬ形で役に立った。

 

「しまった……! 妖夢ちゃん、大丈夫か!?」

 

「ええ、この程度なら問題ないです!」

 

 ボアタックルを避けられたことで体勢を崩した剣崎が声を上げる。妖夢から見ればブレイドの姿はローカストアンデッドの向こう側。しかし、それはかの怪物を挟み撃ちできる立ち位置になったとも見ることができる。

 半霊の突進で妖夢と距離を開けられたローカストアンデッド。自らの腹を押し退かせる霊体に苛立ったのか、アンデッドは半霊の身に荒々しく爪を立てた。

 

 己が半身を乱雑に掴まれ、妖夢は痛みに顔を歪める。

 この痛みは半霊との繋がりの証明、もう一人の自分自身と共に在る証拠。精神と感覚を共有する霊体、それは魂という急所を常に表出させるに等しい最大の弱点とも言えるが──

 

「グッ……グォア!!」

 

 同時にその存在は、半人半霊である妖夢しか持ち得ぬ最大の武器でもあった。

 半霊から不意に放たれた霊力の剣閃、【 六道怪奇(りくどうかいき) 】の連撃がローカストアンデッドの腹を切り裂く。それは妖夢が習得した遠隔攻撃用の通常ショットであるが、半霊は妖夢自身という端末として彼女の術を遠隔で送り込むことができるのだ。

 人間でありながら人間にあらず。半人半霊という存在は、人間と妖怪のどちらにも立つことができる曖昧な種族。それは人間の身でアンデッドと化した剣崎一真も同じなのかもしれない。

 

「剣崎さん、この一撃で決めます!」

 

 妖夢は六道怪奇によって損傷した腹部を押さえ苦しむローカストアンデッドを警戒しつつ、怪物の背後にてブレイラウザーを構え直した剣崎へと告げる。

 ローカストアンデッドの隙を見た半霊はふわりと漂い再び妖夢のもとへ。妖夢は自身の霊力からなる光の札を右手に具現。

 疑似的なスペルカードとして構築したそれを掲げ、束ねる霊力をその発動に備えた。

 

「……分かった! 君の動きに合わせる!」

 

 妖夢の手の中で光の札が弾ける。その光景をブレイドの複眼で捉えた剣崎は、ラウズカードとは異なるカードの輝きの意味を知らずとも答えた。

 先ほども使用したスペードの2のプライムベスタ、スラッシュリザードをブレイラウザーのオープントレイから抜き、先ほどと同じ動作でブレイラウザーの刀身の溝にラウズする。

 

『スラッシュ』

 

 変わらず無機質な電子音声を響かせる剣崎一真のブレイラウザー。表示された残存エネルギーはさらに低下し、それに対応するようにブレイラウザーにトカゲの力が満ちる。

 

人符(じんふ)現世斬(げんせざん)――」

 

 研ぎ澄まされた霊力によって、楼観剣の刃に付着した緑色の血がするりと落ちた。妖夢の声には幽かな淀みもなく、ただ静かに力強く。

 妖夢の楼観剣には湧き上がる霊力が勇気となって輝く。剣崎のブレイラウザーには再び発動されたスラッシュリザードの効果が運命を切り拓く誇りとなって光を放つ。

 

 正面と背後を同時に警戒するローカストアンデッドは腹から伝う緑色の血で足元の雪を怨嗟と染め。狂いなく己が身を貫く闘志、二人の剣士の眼光に、果たすべき『不死なる戦い』の結末を夢幻の楔と垣間見た。

 

 楼観剣の鞘を自らの左腰へと下ろし、刃を収めて構える妖夢。腰を低く落とした独特の構えは、幼き頃に祖父から学んだ魂魄家の流派を切り拓くもの。

 一歩、雪を踏みしめ前へ。力強く踏み込み、妖夢は左手で持った鞘と右手で持った柄を滑らせる。鞘走る一刀、妖夢が翔ける閃光の如き居合と共に、楼観剣の刃が月の光を返した。

 

「やぁぁぁああっ!!」

 

「うぇあいっ!!」

 

 刹那の一撃。二振りの刀が互いに駆け抜け、緑色の血を舞い上げる。ローカストアンデッドは妖夢の放った【 人符「現世斬」 】と剣崎の放ったリザードスラッシュをすれ違い様に斬り受け、二人の背中に己が鮮血の飛沫を見届けた。

 どさり、と。雪の大地に、イナゴの能力を有したアンデッドが倒れ伏す。

 ローカストアンデッドのアンデッドバックルが割れる音。振り返った妖夢はその事実をその目で確かめると同時、楼観剣を鞘に納め、冷たく冴える冬の夜空に鍔鳴(つばな)りの音を聞く。

 

「剣崎さん……お願いします」

 

 同じく振り返った剣崎と目が合う。妖夢の言葉に小さく頷いた剣崎は、ブレイラウザーのオープントレイから微かに輝く一枚のプロパーブランクを引き抜いた。

 仰向けに倒れ伏したローカストアンデッドに投げるは、かの怪物が腰に開くアンデッドバックルの中の象徴、スペードの5と同じもの。回転しながら風を切って進むプロパーブランク♠5は、怪物の腹に突き刺さる。

 淡い緑色の光となって、ローカストアンデッドはラウズカードに封印された。イナゴの絵柄を宿したプライムベスタ『キックローカスト』として、それは再び剣崎の手元へと飛来する。

 

「…………」

 

 ブレイドの赤い複眼が、ラウズカードとなったローカストアンデッドの絵柄に視線を落とす。かつての出来事を脳裏に思い浮かべ、剣崎は再び仲間のいない状況でアンデッドと戦うことになってしまった運命を呪うことしかできなかった。

 

 オープントレイにカードを戻してトレイを畳む。ブレイラウザーを左腰のホルスターに差し戻すと、剣崎はブレイバックルのターンアップハンドルを再び引き、スペードの意匠が施されたパネルを裏返す。

 再び現れたカブトムシのカード。スペードのエースたるチェンジビートルの絵柄。バックルからカードを引き抜くと、剣崎の正面に投影された青い光の帳──オリハルコンエレメントが彼の身を通過。ブレイドのスーツは光と分解され、ブレイバックルへと戻った。

 

 生身の姿に戻った剣崎の肌に突き刺さる風。不死の身体といえど、冥界に吹き込む冬の風は剣崎の体温を容赦なく奪っていく。

 それ以上に、無関係の少女を彼らと戦わせた事実に──心がどこか凍てつくようだ。

 

「……ああ、そう……だよな。……説明、しなくちゃだよな」

 

 渇いた笑いを零す。妖夢の迷える視線へ返す言葉に、剣崎らしい力強さはない。

 腰から取り外したブレイバックルと、バックルから引き抜いたチェンジビートルをボロボロの衣服に、汚れたBOARD職員制服の懐へとしまって。

 ローカストアンデッドが残した緑の血を隔てて向き合う剣崎と妖夢。二人は互いに、知らないという罪を、知りすぎるという罠を。運命を切り拓くために。互いの視線に答えを求めた。

 

◆     ◆     ◆

 

 白玉楼座敷、夜。二体のアンデッドとの戦いからさほども時間は経っていないが、月の光が雲に隠れたせいで先ほどよりも夜の闇が深い。されどそこに漂う白き幽霊たちがぼんやりと闇夜を照らしており、この世ならざる青白い光が白玉楼の庭園を儚げに染めている。

 

 剣崎一真はボロボロだったBOARD職員制服から新しい自前の現代衣服へと着替えていた。彼らが知る由もないが、五代雄介や津上翔一、城戸真司や乾巧らの服と同様に、八雲紫が元の世界から調達したもの。

 白玉楼の現当主――西行寺幽々子に振る舞う料理の腕前を有した妖夢の厚意にて、剣崎はすでに数ヶ月ぶりとも言える人間としての食事を終えている。

 冥界のものを口にすることは古来より『黄泉戸喫(よもつへぐい)』と呼ばれ禁忌とされているが――幽明結界がまともに機能していない今なら現世に帰れなくなるようなことはない。

 アンデッドとなって以来は食事も睡眠も生物としての命を繋ぐためのものではなかったが故に、自分でも気づかぬうちに軽視していたらしい。妖夢は人間の食事が不死の生物となった剣崎の口に合うか不安だったようだが、亡霊の舌を唸らせる腕前は不死者にも通じたようだ。

 

「…………」

 

 座敷の座卓を挟んで向き合う剣崎と妖夢。剣崎の瞳は仲間との別れと友との別れ、運命に振るい続けた精神の摩耗で切れ味を落としている様子。

 されど、真摯に向かう妖夢の視線は、青く鋭くどこまでも無垢に研ぎ澄まされている。剣崎はそこに、剣士としての誇りを見た。

 かつては戦えないすべての人々と共に在るために、剣を持たぬ彼らに代わり、自らが彼らの剣となって愛する人々を守る、戦えないすべての人のために戦うと誓った。

 

 だが、妖夢は『戦えないすべての人』には含まれないのだ。自ら剣を振るってアンデッドに立ち向かう覚悟を持ち、あまつさえ殺すことさえ不可能な不死の怪物たちにも臆さず無力化しようと諦めない。

 剣崎が妖夢に見た眼差しは、まだブレイドとなったばかりの頃の自分を思わせる。

 曇りなく真っ直ぐな、誇りに満ちた切っ先。すぐに砕けてしまいそうな、張り詰めた刃金。きっとそれは、かつての剣崎一真と同様に。無邪気に人類の平和のためと言えるような愚直な素直さを秘めているのだろう。

 同時に、剣崎はその揺るぎない瞳の中に──運命そのものに立ち向かえる強さを見た。

 

「……アンデッド。もう知ってると思うけど、あいつらは不死身の怪物だ」

 

 俯きがちに言葉を紡ぐ剣崎の言葉に、妖夢は息を飲む。その名の通り不死の身体を持つ彼らアンデッドを、生物として殺すことは決してできない。

 彼らを真の意味で無力化するには、太古より続く儀式──ラウズカードへの封印が不可欠と言える。本来は太古の地層から発掘された52枚のラウズカード、彼らはそこから解放されているため、あるべき場所に再び封じるために。

 

 太古の時代。人類がまだ地球の支配権を持たぬ遥かなる一万年前。地球が有するすべての生物種たちは、この地球の支配権を手に入れるための、大いなる戦いを繰り広げていた。

 一万年周期で開催される『バトルファイト』と呼ばれる不死なる戦いの儀。各生物の代表として選ばれた53体のアンデッドによる、一体の勝ち残りを懸けた生存競争。最後の勝利者となった者には、自らが司る種族をこの星に繁栄させる権利と、あらゆる望みを一つだけ叶えるほどの万能の力が与えられる。

 悠久の時を超えて現代まで受け継がれ続けてきた星の儀式、バトルファイト──それらは地球に存在する生物たちの『より優れた種に進化したい』という想いから生まれた、地球という星が持つ大いなるシステムによって仕組まれたもの。

 そこに善意や悪意などという思惑はなく、ただすべての生物の共通理念により、太古から続く聖戦、種の繁栄と星の支配権を勝ち得るためのバトルファイトは続いていた。

 

「アンデッドに……ラウズカード……それに……バトルファイト……? ですか……??」

 

 顔を上げた剣崎の視線が過去を想起し鋭く閃く。それに反比例するように、あまりに壮大な物語を聞かされて混乱気味な妖夢の青い瞳が、俯きがちに光を廻す。

 妖夢の理解を示す呟きは力なく、不安そうな瞳にはどこか迷いの色を帯びていた。

 

 アンデッドという存在は、不死身の怪物であると共に、地球に存在する生物の始祖となった怪物でもある。

 一万年前の戦いにおいて勝ち残ったのは、全人類の祖先たる一体。ヒトの祖たる『ヒューマンアンデッド』という存在。バトルファイトに勝利し、彼は望みを叶えて封印された。彼の勝利により、この地球には彼が司る『人類』という種が繁栄したのだ。

 もしカブトムシの祖たるビートルアンデッドが勝利していれば、地球はカブトムシが支配する星となり、トカゲの祖たるリザードアンデッドが勝利すれば、地球はトカゲによって支配された星となっていただろう。

 しかし、53体のアンデッドのうち、如何なる生物の祖でもない存在──『ジョーカー』が勝ち残ってしまった場合は別である。

 自らが司る生物を持たないジョーカーはバトルファイトを円滑に進めるための舞台装置に過ぎず、ジョーカーが勝ち残ったところで星の支配者は決まらない。それどころか本人の意思には関係なく、バトルファイトを管理する『統制者』と呼ばれるシステムによって、地球上に存在するあらゆる生物──既存の生態系はリセットされてしまう。

 

 すべての生物にとって、ジョーカーは種を滅ぼす死神でしかない。それは人間にとっても同様である。だが、現代に蘇ったアンデッドたちによる現代のバトルファイト、西暦2004年から2005年までに起こった戦いにおいて、ジョーカーには変化が訪れていた。

 現代の戦いで、ジョーカーは一万年前と同様に数々のアンデッドを手にかけ、不死の身をその能力でもって封印してきた。その過程で出会った一体、一万年前の勝利者であるヒューマンアンデッドを封印したとき、ジョーカーは封印したラウズカードからヒューマンアンデッドの──人の心を知った。

 ヒトという生物は奇妙な心を持っている。ジョーカーはその干渉により、戦い続けるだけの己を虚しく思い始め、あらゆるアンデッドと融合してその姿と力を得るというジョーカーの特性をもってして、ヒューマンアンデッドの姿を──『人間』という姿を借り受けた。

 人間の姿と心を得たジョーカーは再び元の姿に戻ることを厭い、度重なる本能の慟哭に苦しめられながらも、やがて人間として生き、剣崎一真というかけがえのない友と、多くの仲間を手に入れることができた。

 そして彼らは共に戦い、剣崎と仲間たちは人の姿のジョーカーと共にアンデッドから人々を守り抜き。当初はジョーカーという存在がもたらす結末からライダーたちの輪に受け入れられることはなかったが、剣崎の導きにより、彼らは仲間として互いの信頼に至る。

 

 剣崎の記憶における一年ほど前の出来事、彼が生きてきた『ブレイドの世界』において発生した、人類にとって二度目のバトルファイトは──全生物種の意思によって再開された、本来のバトルファイトではなかった。

 西暦2001年に解放されたアンデッドと、BOARDの理事長だった男によって恣意的に捻じ曲げられてしまった──現代の戦い、偽りのバトルファイト。

 男は自らが造り出した『人造アンデッド』となり、バトルファイトの参加権を得ることでこの星の支配権を手に入れようとしたが──とあるアンデッドの反逆により、その目論みは潰えることとなる。

 そして剣崎の仲間が友を信じる剣崎を信じ、最後の一体となるそのアンデッドを封印。世界にはたった一体、如何なる生物の始祖でもないジョーカーが勝ち残ることとなった。

 

「もし本当にあいつを救う方法がないなら……俺の手で封印してやるつもりだったんだ」

 

 ジョーカーの勝利。統制者の定義によってバトルファイトは決着し、ルールに従って生態系のリセット、世界の破滅は始まった。

 かけがえのない友を封印してしまうことを拒めば、バトルファイトの決着、この星のシステムによって地球上のあらゆる生物が死滅する。だが世界を救うことを選べば、ようやく人の心を得たジョーカーは再び空虚な封印の鎖に自由を奪われ、二度と剣崎や仲間たちと出会うことはなくなるだろう。

 友か世界か。選ぶことができるのは一つだけだった。本来ならば、どちらか一方しか救うことはできないはずだった。

 剣崎は深く深く悩み抜き、破滅の使者たちを絶えず退け続け──やがて答えを出した。

 

「……ええっと……つまり……自分がアンデッドになってしまえばいい……と?」

 

 先ほどの戦いで傷ついた剣崎の腕から、人ならざる緑色の血が垂れている。妖夢はその様子を見て小さく問う。剣崎は妖夢としっかり向き合い、悔いなき瞳で頷いた。

 

「…………」

 

 ライダーシステムは人間とアンデッドを融合させるもの。それはアンデッドと融合する力を持つジョーカーの能力を疑似的に再現した技術だ。

 そしてアンデッドとの高い融合係数を持つ剣崎は、戦いの中でさらに融合係数を高めていき、やがてはジョーカーのそれに匹敵するほどの数値へと近づいていく。

 過剰に高まった融合係数で変身を続ければやがては54番目のアンデッド──『第二のジョーカー』となってしまうという危険性があったのだが──

 

 剣崎はそれを逆手に取り、自らジョーカーと成り果てることでバトルファイトの参加権を獲得。残るアンデッドが二体という状況を作り出し、バトルファイトを強制的に再開させることで世界の滅びを回避した。

 戦いの続行を強いる統制者に対し、剣崎は友との──ジョーカーとの戦いを拒絶。本能に逆らい続けるべく、友との永遠の別れによって、友と世界の両方を救うことができた。

 

「でも、それじゃあ……剣崎さんは……!」

 

「あいつと会えないのは寂しいけどさ。今でもどこかにいるってだけで、救われるんだ。封印しちゃったら、あいつがどこかで笑顔でいるって、考えることもできないもんな……」

 

 アンデッドとしての本能、バトルファイトという地球のルール。統制者という星の法則が定めた運命と永遠に戦い続ける道を選んだ。

 人間としての生き方を過去の彼方に迷いと捨て──不老不死の怪物と成り果ててまで。

 

「でも、俺は運命に負けたくない。きっと、いつかどこか、遠い場所で。あいつとまた会えるって信じてるんだ」

 

 小さく笑って答える剣崎。後悔さえ残さず歩む道に、恐れるものは何もないはず。彼が抱いた誇りの中に、妖夢は永遠という名の心の強さを見ることができた気がした。

 

「それが……剣崎さんの覚悟……私には……」

 

 目の前の男は──想像を絶するほどの覚悟を背負っている。妖夢の思考は迷いと共に。自分には人を守らなければいけないという想いで自己を捨てるほどの強さはない。剣士としても未熟なこの身、ただ一人で戦うことさえ不安で押し潰されそうになったほどだ。

 

 妖夢は半分人間としての使命感で、これまで多くの異変を解決してきた。人間として妖怪を討つ覚悟、主たる幽々子を守り抜く心構えは十分にあるはず。それでも、見ず知らずの他人を守る理由を剣に求めてしまう。

 だが、剣崎が自らの運命を友に捧げてまで剣と生きたのは、彼が誰よりも強い使命感と義務感を持っていたからではなく。ただ、多くの人々を愛していたからに過ぎなかった。

 

 人類という種そのものを──彼は愛している。それが剣崎一真の剣を振るう理由。妖夢も頭ではその尊さを理解しているが、魂で受け止めることができない。生きていることと死んでいることの意味に、自分自身を捧げる覚悟ができない。

 不死とは、生きても死んでもいないということだ。対して妖夢のような半人半霊は正しく『生きても死んでもいる』状態と言える。どっちつかずの自分自身、迷いに刃を濡らして曇るは必然であろうか。

 

 妖夢は今一度、師の在り方を思い出す。剣崎一真の在り方は祖父に似ている。まるで己の重さを天秤から外してしまったかのような、どこか空虚で仙人じみた魂──

 否、師である魂魄妖忌はそうであったかもしれない。されど剣崎の想いはきっと違う。彼は運命に負けたくないと言った。故に選んだのだ。たとえ永遠を賭しても、運命と戦う道を。

 

「剣崎さんの部屋はあちらに用意してありますので、しばらく白玉楼(ここ)に泊まっていってください。空き部屋はかなりありますし、幽々子様──あ、えっと、当主も許してくれると思います」

 

「でも……」

 

「私なら心配いりません。こう見えても、妖怪退治を務める程度の腕はあるので!」

 

 剣崎の憂いを一刀のもと断ち切る。妖夢が背中に携える楼観剣の柄を指さすと同時に、彼女の傍に控えていた半霊がぴょんと軽やかに飛び跳ねた。

 妖夢も剣崎と共に戦う覚悟を決めた様子。剣崎にとっては望ましくないが、彼女も自分と同じく、人を愛していると。肩を並べて剣を掲げた剣士の心は、どこか小さな繋がりを見出すのに十分な時間だった。

 一瞬の迷いの後、剣崎は再び小さな笑顔を見せる。戦士として仮面を装った日の自分によく似た無垢な少女。妖夢の誇りを見ていると、大切なものを失わずに済む気がした。

 

 自分のせいで誰かが傷つくなら。たとえ一人でも彼女が戦うなら。そうならないように傍に居て守り抜けばいい。

 あのとき友に語った、自分の言葉を思い出す。彼女は友が守ろうとした小さな少女よりは強く、怪物たちとも戦えるかもしれないが──

 それでも剣崎にとってはかけがえのない、全ての命であることに変わりはないのだから。




ボアタックルは外れるもの。ただし、トライアルEが擬態した偽物のブレイドは除く。

次回、第31話『不死なる運命』


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第31話 不死なる運命

 白玉楼の敷地内に二体のアンデッドが現れ、妖夢と剣崎の手によりそれらが封印されて数時間が経っている。すでに冥界の夜は明け、二度目の四季異変によって雪積もる白玉楼庭園には暖かい日差しが満ちていた。

 本来ならば幻想郷と同様、この冥界も春の温もりが訪れているはず。されど冷たく漂う幽霊たちと共に、冴える空気は冬の様相から変わってはいない。

 

「幽々子様……いったいどこに……」

 

 妖夢はいつも通り、食事担当の幽霊たちと共に白玉楼の台所で朝食を作っていた。異変解決に赴く際は携行している二振りの刀は今は持たず、代わりに愛用の刀剣の次に手に馴染むであろう包丁をもって食事の支度を進めていく。

 鬼火の如く(かそ)やかな炎をもって丁寧に肉を焼きながら。妖夢の思考には未だ帰らない当主の姿が浮かんだ。

 昼食までには戻らないと書いてあったのは妖夢にも伝わっているが、まさか夕食や翌日の朝食にまで戻らないとは。死してなお何より食事を愛し、幽霊たちや妖夢が作った料理を幸せそうに食べる幽々子が未だに姿を見せない。当主の身を案じて妖夢は無意識に手を止めていた。

 

「おとと……」

 

 自身の無意識を正すもう一つの自分。半霊の存在が危うく焦がしかけた肉に気づかせてくれる。ある程度の調理を終え、妖夢は残る支度を幽霊たちに任せて台所を後にした。

 

 ―――

 

 広大な白玉楼に無数に存在する空き部屋の一つ、今は剣崎に貸し与えられたこの部屋で、彼は一年間に渡る戦いを共にしてきたブレイバックルを見つめている。先日は迫るアンデッドの存在に対し、かつてと同じく咄嗟に変身して戦ったが──

 やはり疑問は拭えない。どうしてこのベルトがここにあるのか。どうして妖夢がこれを持っていたのか。

 剣崎の思考を染める闇を切り払うように、背後の襖がすっと開く音を聞く。真剣な表情で部屋に立ち尽くし、手にしたそれから視線を外してその気配へと振り返った。

 

「あ、剣崎さん。起きてたんですか。……よく眠れましたか?」

 

 どうやら先ほどから何度か声をかけられていたらしい。ブレイバックルの重さの中に秘めた剣崎の想い出は単なる戦いの記憶にあらず。友や仲間と共に剣を振るい、大切なものを守り続けた戦い。そのすべてが──ここには宿っている。

 

「妖夢ちゃん、一つ訊きたいことがあるんだけど……どうして君がこれを……?」

 

 ブレイドへの変身に用いるライダーシステムの起動デバイス。ブレイバックルと呼ばれるそれを妖夢に見せ、剣崎は彼女に問う。

 彼女はこの力について知らない様子だった。人類基盤史研究所──BOARDの機密情報であるライダーシステムの存在が公に知られているはずがないため、当然だろう。仮に仮面ライダーの噂があったとしても、機能の詳細までは『あの本』には記載されていないはずだ。

 

 剣崎にとって数少ない友人である──追い出されたアパートに代わる第二の拠点とした住居を貸してくれた青年。彼が書いた『仮面ライダーという名の仮面』なる本は、剣崎一真らの戦いを記録したもの。

 幻想郷という──剣崎が生きた世界とは別の空間において、妖夢がその内容を知っているとも思えない。剣崎たちライダーの噂さえ知らなくて当然だ。

 そんな彼女がなぜこのベルトを、ブレイバックルを持っていたのか。剣崎は友との最後の戦いにおいて、あの山でこれを手放している。友や仲間、あるいは信頼するBOARDの所長の手で回収され、厳重に保管されていると思っていたが──彼らにいったい何があったのだろうか。

 

「それが……私にもよく分からなくて……幽々子様の書き置きと一緒に置いてあったんです」

 

「幽々子って……ここの当主の人だっけ。それじゃあ、その人に訊くしかないか……」

 

 先日、妖夢から詳しく聞いた話を思い出す剣崎。西行寺幽々子という女性、この冥界の白玉楼を管理する亡霊の女性は、魂魄家が代々仕えるやんごとなき家系だという。これだけ広大な屋敷を有するとあらば、さぞ高貴な人物なのだろう。

 ブレイバックルを懐へとしまい、剣崎は腕を組み思案する。顔や腕に負っていた傷はすでに癒え、身体を清めたことで緑色の血も残ってはいない。

 封印できたアンデッドはまだ五体だが、これだけでもジョーカーの闘争本能はかなり抑えられている。これなら再びアンデッドが出現したとしても湧き上がるジョーカーの本能に理性を飲まれることはないはず。剣崎はそのことを少しだけ安心しつつ、戦いへの気を引き締めた。

 

「私もいろいろと訊きたいことがあったんですが、いつ戻るのか……」

 

 妖夢も無意識のうちに腕を組む。その直後、背後の襖からふわりと漂う香りに誘われ、剣崎が表情を変えた。不死の身となってからはまったく意識しなくなってしまった、生物としての本能。何かを食べるという生物として当たり前の行為を、先日に続いて想起させられる。

 

「……この匂い……もしかして……」

 

「あっ、そうだった」

 

 剣崎が匂いに釣られて組んだ腕を解くと同時、妖夢はここへ来た理由を思い出す。朝食の用意ができたから呼びに来たのだ。

 白玉楼にて転生を待つ幽霊たちの存在に、今なお慣れない様子の剣崎。それでも先日から同じ屋根の下で()きる彼らの案内を受け、すでに朝に果たすべき基本習慣は終えていたようだ。

 

「…………」

 

 廊下を歩きながら妖夢が深く切り込む思考の霧は、剣崎が変身した姿について。彼はあの姿をアンデッドと融合してアンデッドと戦うためのシステムと言った。

 妖夢も詳しいことは知らないのだが、真偽はともかく情報の速さで有名な天狗の新聞でそれに近いものの情報を見たことがあるような気がする。

 

 比較的親しい射命丸文の新聞でなかったため信用に足るかは不明だが、幻想郷で確認される未知の怪物――『怪人』と呼ばれる存在は、アンデッドが持っていた不死性について一切触れられていなかった。

 二足歩行を果たす妖怪以外の怪物という点は彼らアンデッドにも共通する特徴。だが、最も特徴的な不死身の性質について記述がないということは、同一の種ではないのか。

 幻想郷に蔓延る怪物はアンデッドだけではないと直感が告げる。そして怪物たちと戦う仮面の戦士の存在は、新聞で知り得た通り。

 

 剣崎が変身したライダーシステム第2号――ブレイドなる存在は彼が生きた世界で『仮面ライダー』と呼ばれていたらしい。噂に聞く仮面の戦士と特徴が一致するが、おそらくはアンデッド以外の怪物と同様、剣崎以外の仮面ライダーも存在するのではないか。

 彼は妖夢自身の手で変身に必要なブレイバックルという道具を渡されるまで、仮面ライダーとしての力を失っていた様子だった。ならば、それ以前から確認されていた仮面の戦士の存在は彼以外の人物。妖夢の直感も含まれているが、それらはブレイドとアンデッドだけではない。

 

「(それに、剣崎さんの魂の気質──これって、やっぱり)」

 

 半分人間で半分幽霊である妖夢だからこそ理解できる剣崎一真の異質さ。最初は彼の話を聞いて彼が不死身の怪物だから奇妙な魂の気質を持っているのだと思っていた。

 アンデッドも同様の理由で特別視していなかったが、彼が持っていたブレイバックルに宿る器物の気質としての幽霊も同様に奇妙なもの。外の世界からただ現れただけの外来人、仮に剣崎の言う通り、西暦2005年から来たという時間の差異を考えても彼の魂にはもっと根本的な違いがあると思わせられた。

 妖夢は霊について鋭い知見を持っている。彼女の直感は、剣崎が単なる外来人ではないと告げている。魂の気質から考えるに──外の世界と極めてよく似た別世界の住人だろうか。

 

「これ、もしかして君が? すげえ、めっちゃ本格的だよ!」

 

「さすがに朝からステーキはきつかったですかね? ついいつもの癖で……」

 

 座卓に向き合い豪勢な朝食を目にする剣崎。仮にも自分が死後の世界にいるということを忘れさせるほどの料理を見て、少年のように目を輝かせる。

 妖夢の職務は庭木の剪定と剣術指南。しかし幽霊たちの手では仕事にも限界があり、本来の職務とは別に、当主である幽々子の食事を用意することもある。が、幽々子の胃袋は亡霊として以上に人を超えているのだ。

 寝起きでも空腹であれば肉でもなんでも喰らうだろう。食事の直後でも次の食事についてを考え、おやつ代わりに山と積もった団子を頬張るような健啖なる春の蝶。

 宴会ならざる場において幽々子以外の人物に食事を振る舞ったのはかなり久しぶりだったため、つい一般的な思考から外れてしまっていた。

 

 ――いただきます、と両手を合わせた剣崎は意にも介さず。思わず幽々子の胃袋を想定して作ってしまったそれを笑顔で味わう。

 不死の肉体となった剣崎一真にとって食事は生命維持に必要なものではないはずだが、彼はアンデッドとしての運命に抗い続ける『人』であろうと願った。こちらも客人として剣崎を見る以上、食事はその契り。

 そもそも普段から食事を振る舞っている幽々子は亡霊ゆえに不死以前の話だ。食事そのものが完全なる娯楽の範疇にあり、桜と雪と月の明かりと、弾幕のように楽しむだけの風情に過ぎないもの。妖夢は半生の身として食事は必要だが、純粋な人間ほどの頻度では必要としない。

 

「もぐもぐ……ほほいえばほんへはいの……」

 

「はい?」

 

「……んんっく……えっと、幻想郷って言ったっけ。この顕界(した)の世界ってどうなってるんだ?」

 

 咀嚼をそのままに言葉を紡ぎ始める剣崎。初めはうまく聞き取れなかったが、すぐに飲み込み改めて発せられた言葉を、妖夢は自然に理解することができた。

 剣崎一真は紛れもなく外来人だ。おそらくは幻想郷を有する本来の外の世界とは別の世界、それも西暦2005年という時空の差異こそあれど、その点を除けば身なりや性質は外来人として考えられるものである。

 さすがに不老不死の外来人が現れたことはなかったが、その特徴だけなら幻想郷にも例外がまったくいないわけではないし、妖夢とて彼女ら永遠の蓬莱人とは面識もある。

 

「いつもなら、妖怪たちと少しの人間がいる――まぁ、それなりに平和な世界でした」

 

 今は未知の怪物たちの発生という大規模な異変によって妖怪たちの秩序が乱れ始めている。包み隠さず幻想郷の現状を話したのは、剣崎一真が自分と同じ、異変という曇り空を切り払う蒼天の剣、雲一つない切っ先があると思ったから。

 怪物たちは常に幻想郷に現れているわけではない。顕界においてその様子を確認したわけではないが、天狗の情報網をもってしても怪物の出処は一切掴めておらず、神出鬼没に現れる怪物に対処するしかないとなると――

 やはり妖夢もこの目で見た通り、冥界における例の『灰色のオーロラ』。あれが顕界にも現れ、何もないところから湧き出るようにして怪物たちは出現しているのだろうと判断できた。

 

「妖怪……」

 

 剣崎は妖夢の言葉にあった聞き馴染みの薄い言葉を復唱する。言葉自体は知っているが、それは空想の存在として、両親を失う前の無垢な幼少期から認識していた。

 この冥界に幽霊が漂うのと同じように。生者たちの世界、忘れられた幻想たちの楽園である顕界には、人や妖怪や妖精たちが集うのだという。先日、妖夢から話では聞いたが、この目で見た幻想は冥界の幽霊だけ。妖怪という存在は目にしていない。

 

 妖夢の言葉通りなら、この幻想郷は人間と妖怪が互いの意味を尊重し合い平和的なバランスを保っているらしい。だが異変に際してその秩序が乱れ、一部の妖怪は本来の原始的な存在――人間を喰らう化け物に戻りつつある。

 アンデッドの存在に加えて妖怪にも襲われるとなれば、戦う力を持たぬ無力な人間などひとたまりもないだろう。

 剣崎は再び覚悟を決めた表情を見せ、綺麗に平らげられた朝食の皿から視線を上げた。

 

「戦えない人々がそこにいるなら……放っておくことなんてできない」

 

 懐にしまったブレイバックルを強く握りしめ、剣崎は続ける。たとえ直接襲われなくても、アンデッドの戦いに巻き込まれて亡くなった人を知っているから。

 友には怪物なれど人の心があった。一人の写真家を戦いに巻き込んで死なせてしまったことを悔い続け、その家族を守り抜くと誓ったのは、彼がまだ怪物のうちに、無意識に人であろうと願っていたからなのかもしれない。

 

 冥界の幽霊は物理的な手段で殺傷することはできないため、ここに怪物が現れたとしても、そのせいで誰かの命が失われることはないはず。

 幽霊だけを残して白玉楼を後にするのはやや不安ではあるが――致し方あるまい。

 

「……不思議ですね。貴方なら、そう言ってくれるような気がしてました」

 

 使用人代わりに働く幽霊たちがせっせと食器を片付けてくれる中、妖夢は小さな微笑みを浮かべて立ち上がる。己が意思たる半霊が、妖夢の部屋から持ってきてくれた愛用の二刀一対。楼観剣と白楼剣を受け取り、慣れた手つきで背中と腰に装い整えて。

 規格外のアンデッド──ジョーカーとしての体質か。あれだけの肉を胃に収めた直後だというのに、剣崎は迷わず妖夢の目線に頷く。怪物じみた消化力で──すぐさま力に変えたようだ。

 

◆     ◆     ◆

 

 まだ日は高く、黄泉の朝食からさほども経っていない。妖夢と剣崎は白玉楼の座敷を後にし、雪道を進んで『白玉楼階段』を下っていた。

 下を向けば深々と散る立花の舞。あの世とこの世の境界を結ぶ奈落の底に見て取れる。もし雪に足を滑らせてこの永遠に続くような階段を転げ落ちれば命はないだろう。もとより命と呼べるものがあれば、の話だが。

 

 長い階段の両脇には坂道に並び立つ桜並木に白く美しい雪が積もっており、どこまでも続く闇の中、灯火めいた幽霊の光に照らされ、桜と共に妖しく輝く。

 文字通りこの世のものではない美しさに思わず見惚れそうになるが、気を引き締めて。

 

「…………っ!」

 

 妖夢と共に階段を下り続け、不意に吹き込んだ風に顔を覆う。先ほどまでの空気の流れ、風と呼べるかさえ怪しい死後の世界の冷たさではない。まさしく春風と呼ぶに相応しい、どこか肌寒くも暖かく、生者の力を実感させるもの。

 この身に宿す魂で──『冥界を抜けた』ことを実感する。目を開いた剣崎が見たのは、春の芽吹きと舞い散る桜吹雪。微かに染める雪と共に、霊たちが青空を漂っている。

 

「うぇええ……っ!?」

 

 先ほどまで歩いていた階段は足元にはない。足元を流れる雲間は、自分が空中に立っていることを示してくれていた。

 正確には剣崎と妖夢は空中に立っているわけではない。妖夢はともかく、剣崎には自由に空を飛ぶ力はない。

 彼らがこの場に、雲の上の空に留まることができているのは、その足元――冥界と顕界、すなわち、あの世とこの世の境界たる『幽明結界』がこの領域全体に広がっているからだ。

 

 振り返ればどこまでも吸い込まれそうな幻想的な光の先に見える、決してこの世とは交じり得ぬ死後の世界、冥界。先ほどまで自分が歩いていた階段は、紛れもなく幽霊たちの住まう屋敷である白玉楼へと続く長い長い階段である。

 ここは冥界でも顕界でもない、その狭間。本来ならばここを通り抜けられる者は限られているのだが、今は幽明結界があまり機能していないために歩くこともできる。

 

 幽霊のように薄く透き通っていて気付かなかったが、どうやら自分たちが立っているのは空中そのものではなく、ぼんやりと光る奇妙な力場のようだった。妖夢から聞いた話にあった、冥界と顕界の境界――生者と死者の狭間たるこの場所には、不思議な妖力が働くらしい。

 

「これが……幻想郷……」

 

 幽明結界の上から広がる雲間を見下ろす。そこに見えたのは、古きよき日本の原風景。昔話に登場するような、幻想的な秘境――幻想郷の光景だった。

 気になった点はいくつもある。しかし最も異質なのは、そこに『季節』と呼べる風情があまりに節操なく繚乱していたということだ。

 目立つ山には紅葉が、湖や竹林には夏の日差しが。そして最東端の神社やその他の場所には春色の桜たちが咲き誇っている。加えて鬱蒼と茂る森には冥界と同様の白雪が積もっていた。

 

「見ての通り、幻想郷には再び四季が乱れています」

 

 剣崎に振り返った妖夢が真剣な顔で告げる。再び――と言った言葉通り、幻想郷はかつて今と同じような状況に陥ったことがあると、妖夢は剣崎に対して説明した。

 

「あのときは未知の怪物なんて現れていませんでした。此度の異変には関係がないのか……」

 

 続けながら妖夢は彼方に見える、巨大な扉へと視線を送る。一見すれば雲の上に突き出た荘厳で見上げるほどの大扉。襖めいた意匠を持つそれは壁などの仕切りを持たず、ともすれば何の意味も持っていないように見える。

 されど、この扉こそが真の意味における幽明結界そのものであり、冥界と顕界を扉という形で隔てる概念的な仕切りとなっている。言わばこの結界自体があの世とこの世の境界であり、今は剣崎たちがいる狭間の領域そのものを形成しているとも言える。

 結界として物理的に何かを遮断する機能は西行寺幽々子が起こした春雪異変以来、未だに完全な形では修復されていないが、この世とあの世を繋ぐ『扉』としての機能は健在のようだ。

 

「ここから先は顕界――幻想郷と呼ばれる世界です。無害な幽霊しかいない冥界とは違って凶暴な妖怪も多いので、慎重に――」

 

 天空の花の都とでも形容すべき美しき空。桜と雪の舞い散る幻想的な狭間にて、剣崎に振り返ったままの妖夢の背後に浮かぶ白い影。

 ふわりと降りたそれは、春の到来を告げるような無垢な笑顔で妖夢と顔を合わせた。

 

「春ですかー?」

 

「ひゃわぁあっ!?」

 

 再び正面を向いた妖夢の目の前で、白いワンピースを身に纏った少女が笑う。同じく白い帽子に白い羽、春風めいた豊かな金の長髪を湛えるは、幻想郷の春の要素が人の形を成した妖精。自然の具現たる妖精の中において『春告精(はるつげせい)』とも呼称される存在である。

 少女の名は リリーホワイト 。春告精の役割通りに『春が来たことを伝える程度の能力』を有しているはずなのだが、現在の幻想郷は本来の春に加えて様々な四季が繚乱している。いかに妖精でも、混沌とした季節に馴染めないようだ。

 

 今が本当に春であるのか確証が持てない様子のまま、笑顔でこちらに逆に問う。妖夢はその姿に驚いて思わず声を上げてしまうが、すぐにそれが馴染み知った春告精であると認識した。

 

「な、なんだ。ただの妖精か……驚かせないでよ、もう!」

 

 高鳴る胸を静かに抑える妖夢。まだ見ぬ未知のお化けでも出たのかと肝が冷える思いを拭う。冥界に住まいて幽霊と共に月日を過ごし、自身もまた半霊を伴う身でありながら、妖夢はお化けの存在を苦手としていた。

 リリーホワイトの飛翔の軌跡に沿うように舞い散る桜の花びら。未だ冬の気配を残す冥界の霊気が流れ込むこの境界の領域においても、幻想郷が持ち得る本来の春を目覚めさせる。妖精自体に強大な力はないが、彼女らの活動は四季を芽吹かせるための切っ掛けとなるのだ。

 

「…………!」

 

 春眠暁を覚えず――その理を体現するかの如く呆けた雰囲気のリリーホワイトが不意に表情を変える。冬と春の入り混じる境界の中、一瞬で張り詰めた空気の変化を感じ、春告精の存在に気を取られていた妖夢と剣崎も来たるべき害意に備えて気を引き締めた。

 

「妖夢ちゃん……! あれって……!」

 

 剣崎が目にしたのはリリーホワイトが振り返った背後の空。幻想郷へと至る狭間の空路、幽明結界の大扉を覆うように。広がった灰色のオーロラは、まさしく白玉楼にてアンデッドの出現を見届けた例の帳だった。

 妖夢は剣崎に対して小さく頷く。剣崎のようにアンデッドの存在を知覚できるわけではないが、妖夢とてオーロラの向こうから放たれる悪意を魂を震わせる気配として察知している。

 

「……っ! 何か来ます!」

 

 一瞬の静寂の後、灰色のオーロラが波打った。そこから現れたのは、やはり漆黒の皮革に鋲を散らした意匠を持つ――おそらくは不死の法則を備えた二体の怪物。

 その姿に見られる共通点は、やはり白玉楼に現れたアンデッドたちと同じ。ならば彼らも同じく不死身の怪物たちであると考えるべきだろう。

 

 一体は漆黒の翼を大きく広げたコウモリめいたアンデッド。耳障りな超音波で視覚に頼らず獲物を索敵する『バットアンデッド』は、まさしくコウモリの祖たる不死生物として狙ったものを確実に射貫く正確な注視能力を持つ。

 続いて植物のツタ沿いにオーロラから伝い降りたツタ植物の祖たる『プラントアンデッド』は、その名の通りツタ植物を自在に操り自らの手足同然に行使する能力を備えていた。

 

「キキキキキキィ……!」

 

「シュルシュルシュル……!」

 

 甲高く鳴き声を上げるコウモリの祖。巻きつく蔓草を擦らせるツタ植物の祖。二体のアンデッドはオーロラから現れ、幽明結界の微かに光る領域に降り立つ。

 揺らめくオーロラが雲上の空に影を落としている。コウモリの祖が故に日光を苦手とするバットアンデッドは雲上で活動するため、灰色のオーロラの性質をもって幽明結界の光の屈折を捻じ曲げているのだ。

 雲の上の空だというのにこの場所には影が差している――直射日光の当たらぬ領域となったこの幽明結界の地において、バットアンデッドの能力は十全に発揮される。

 

 プラントアンデッドは全身に巻きついた緑色のツタを擦らせ合い、三叉状に分かれたツタ植物の右腕を撫でながら眼前の獲物を睨みつけた。

 彼らアンデッドの目的はバトルファイトの完遂。自らの種族の繁栄こそを願い、戦っているはずなのだが――

 バトルファイトに関わりのない人々をも襲う理由は、やはり一万年前の戦いで勝利した人類の始祖、ヒューマンアンデッドに対する憎悪の念からだろうか。自分たちを差し置いて繁栄を貪っているヒトという種が気に入らず、求める理想の世界のために排除しようとしているのだろう。

 

「は、春ですよー!!」

 

 リリーホワイトは対する二体の怪物の威圧感に怯みながらも声を上げる。白く微かな薄羽を広げ、両手を前に出して春を告げた。

 自然の象徴たる彼女ら妖精は、言語という伝達手段に囚われず、桜の開花などといった自然現象、あるいは非常に幻想郷らしい『弾幕』をもってそれを果たすことがある。特に春の芽吹きに呼応して興奮状態となった際は激しい弾幕をもって出会う者たちに春を知らせるのだが、今は交わる季節への混乱と未知の怪物への困惑で、自衛のため咄嗟に弾幕を展開したようだ。

 

 桜の花びらが如く優雅、かつ鮮烈なリリーホワイトの通常弾幕。自然の一部たる彼女らは一対一の弾幕ごっこに興じることが少ないため、スペルカードを使用するという発想に至ることができなかったらしい。

 二体のアンデッドの皮膚にいくつもの光弾が命中する。しかし所詮は妖精の力、自然を集めた一撃でもない限りはあまりに微かなものでしかない。

 当然それは大したダメージにならず、リリーホワイトは自らが放った弾幕ごとバットアンデッドの羽ばたきに吹き飛ばされ、幽明結界を超えて雲下の幻想郷へと落ちていってしまった。

 

「…………っ!」

 

「剣崎さん! 今は目の前の敵に集中してください!」

 

 リリーホワイトが落下したのを見て、剣崎は表情を変える。が、妖夢が妖精の概念を続けて説明したことで落ち着きを取り戻すことができた。

 妖精は自然が擬人化したもの。たとえ死して消滅を迎えても自然が存在する限り同一個体として再発生する。彼女らは厳密な意味で生物と定義されたものではないため、その身の安否を心配する必要はないのだという。

 そもそも妖精は元より自由な飛行を可能とする。あの程度では『一回休み』にも至らないはず。そんなことより、今は眼前に立ち塞がる二体のアンデッドを最大限に警戒すべきだ。

 

「シュルルッ!!」

 

 妖夢の一瞬の隙を突く触手の一撃。眼前に飛び迫ったツタ植物を咄嗟の抜刀で切り払い、妖夢は視界に閃く楼観剣の刃と飛び散る緑色の鮮血を見届ける。

 あのツタを切り裂くのは容易。この二体の怪物も白玉楼に現れた者たちと同程度なら、死に至らしめることはできずとも楼観剣の切れ味をもってすれば、無力化まではできる。

 

「よし、刃は通る……!」

 

 霊力を込めていない斬撃でもツタの切断は可能だった。少なくとも、先日戦ったイナゴの怪物やヘラジカの怪物ほどの強度はない。外殻の堅牢さに特化した怪物でないのであれば、霊力さえ込めればその装甲を切り裂くのは簡単だと知り、(こころ)勇気(つるぎ)が光を帯びる。

 あとは彼らを封印可能域まで消耗させるだけだが――もう一体の怪物が動きを見せた。

 

「キィ――――ィイッ!!」

 

「あ……っぐ……!」

 

 耳を(つんざ)き、頭を貫く音ならざる音。バットアンデッドが放った超音波が頭蓋を揺さぶる振動となって、楼観剣を構える妖夢と、変身のためにブレイバックルを取り出した剣崎の動きを否が応にも止めさせる。

 たとえ脳髄が揺らいでも決して楼観剣を手放すことはない。先日の戦いと同じ過ちは繰り返さない。妖夢は歯を食いしばり、左手に形成した光のスペルカードで空を切った。

 

「……魂符(こんふ)幽明(ゆうめい)苦輪(くりん)!!」

 

 その宣言と共に光の札が輝き散る。直後、妖夢の傍に漂っていた彼女の半霊、妖夢の頭ほどの大きさを持つ人魂であったそれが光と歪み、白く朧気に形を変えた。

 妖夢のスペルカード【 魂符「幽明の苦輪」 】は自らの半霊に『半人』としての機能を一時的に分け与える技法。この力により、妖夢の半霊は先ほどまでの霊魂の形から妖夢の姿を投影し、本体より薄く半透明なままだが妖夢の姿と同じものとなる。

 妖夢と同じ姿をしているがこれは半霊。生身のままの感覚機能は五感に依らず、霊体として機能している。超音波という物理的な空気の振動は、霊体である半霊の妖夢には通用しない。

 

「…………!」

 

 半霊の妖夢は霊体の身で形成した青白い楼観剣の形を振るってバットアンデッドの身体を切り裂く。実体の楼観剣ほどの威力はないが、超音波を放ち続ける怪物を怯ませる程度なら十分なだけのダメージを与えられた。

 本来は半人の動きを模して追従させ、妖夢の残像として追撃を与えるためのスペルカードだが、窮地を脱するため独立した動きをさせたことで本来よりも短い効果時間しかない。ただの一撃を与えただけで、幽明の苦輪の効果で妖夢の姿を得た半霊は元の形に戻っていた。

 

「変身!!」

 

『ターンアップ』

 

 懐から取り出したチェンジビートルのカードをブレイバックルに装填する剣崎。掛け声と同時にベルトを装い、腰元のターンアップハンドルを引くことで自らの正面にオリハルコンエレメントを展開する。

 青白く輝く光の帳は、剣崎の眼前に飛び迫るプラントアンデッドのツタを弾き返した。ただ一部、その光を逃れたツタが剣崎の腕を切り裂き、緑色の血を散らして。

 

「っ……うぇいっ!!」

 

 気合を込めて幽明結界の虚ろな足場へ踏み込む。勇気と駆け抜けるはかつてと同じ誇りのままに、剣崎はオリハルコンエレメントを潜り抜けて再びブレイドのスーツを纏う。駆ける勢いを緩めぬままに、その手でブレイラウザーを引き抜き怪物を切りつけた。

 妖夢の楼観剣と同様――否、妖怪に鍛えられたかの名刀に比肩するほど、あるいはそれを上回るほど。BOARDという組織が作り上げた覚醒の刃は、不死の皮革を容易く切り裂く。

 

「剣崎さん、まだ封印できませんか!?」

 

「残念だけどまだ無理みたいだ!!」

 

 妖夢の声が雲上の空に響く。ブレイラウザーを左手に持ち替え、返答する剣崎はブレイドの赤い複眼で二体のアンデッドを睨んだまま、ブレイラウザーのオープントレイに指をかけた。

 

「(やっぱり……俺のプロパーブランクは反応しない……か)」

 

 ブレイラウザーを引き抜いた時点で分かってはいたが、オープントレイを開いた状態でもそれは変わらない。

 ベルトに装填したスペードのA、チェンジビートルを除いた12枚すべてのスペードスートがここにあるが、未だ如何なるアンデッドも封印されていない8枚の空白の札、プロパーブランクは一枚たりとも輝いていなかった。

 剣崎の持つスペードスートのプロパーブランクが反応しないということは、向かうアンデッドがスペード以外のスートを持つということに他ならない。

 

 封印するアンデッドが決められているプロパーブランクでは、対応していないアンデッドを封印することは不可能だ。剣崎が持つスペードのプロパーブランクの中に彼らを封印できるものは存在しないが――

 そういったアンデッドと遭遇した場合に必要となる『もう一種類の空白(ブランク)』を、ブレイラウザーは備えている。スートやカテゴリーに関わらず対象を封印できる共通(コモン)の封印、されど封印後のカードに使用制限を設けてしまうため、あまり優先して使うべきではないものではあった。

 

「キキィッ!!」

 

 剣崎がプライムベスタを使おうとした瞬間、バットアンデッドが再び甲高い声を上げる。赤く広げた両翼から、無数のコウモリの群れが飛び迫ってきたのだ。

 

「くっ……!」

 

 咄嗟にオープントレイを閉じ、ブレイラウザーを構え直して迫るコウモリの群れに対処していく。アンデッドと同様に緑色の血を流して落ちるも、アンデッドの身から分裂したコウモリは死滅してもすぐに本体へ還元されてしまう。

 アンデッドの体力が続く限り放たれ続ける無数のコウモリ──これらは生物でありながら彼らにとっては単なる攻撃手段、幻想郷的に言えば『弾幕』と呼べるものでしかない。

 

 かつて在りし日、信頼する先輩たる男、ライダーシステム第1号の装着者だった男はこのコウモリの群れにも決して狼狽せず。その手に持った拳銃型の覚醒機(ラウザー)で一匹一匹を正確に撃ち落としてみせた。

 得物こそ違えど実際にその攻撃を対処してみて分かる。忙しなく翼を動かし、飛び回り続けるコウモリを正確に狙って撃ち落とすなど――並大抵の射撃精度では到底成し得ないのだと。

 

 幽明の苦輪を発動した直後で霊力が整い切っていない妖夢もバットアンデッドが放つ無数のコウモリに刀を振るっている。

 緑の血は散れど、どれだけ斬っても数は減らず。弾幕ごっこに慣れた妖夢ならすべてを回避するという手もあったが、避けてばかりでは永遠に勝負はつくまい。多少の傷を負ってでも、これらのコウモリを切り開いて本体を攻撃しなければ戦いは終わらないはずだ。

 スペルカードで一掃するか――と再び霊力を左手のカードと具現させる。右腕だけで振るう楼観剣には切り込みの重さが不足してしまうが、時間稼ぎに身を守るだけなら十分だろう。

 

「断命剣……! ――っ!?」

 

 再び楼観剣に霊力を纏わせて放つ断命剣「冥想斬」を発動しようとしたが、背後から迫ったプラントアンデッドのツタに気づき、それを寸前で回避したことで集中させていた霊力が微かに途切れてしまう。

 それだけではなく、無数のコウモリを避けるパターンから外れてしまったことでまだ霊力の整い切っていない楼観剣を振るわざるを得なくなった。

 スペルカード発動には足りない霊力。放たれた斬撃は目の前のコウモリたちを斬り払うことには成功したが、これではただ霊力を込めただけの通常の斬撃と変わらない。晒してしまった隙を埋めようと再びプラントアンデッドに向き直るが――妖夢の判断は間に合わなかった。

 

「しまった……!」

 

 放たれたツタは楼観剣を握る妖夢の右腕をしっかりと縛りつけ、動きを封じてしまう。半霊から六道怪奇のショットを放つことでコウモリへの対処はなんとかなっているが、利き腕を封じられた状態では楼観剣を振るうことができない。

 霧散した霊力を搔き集めて再び半霊に半人の機能を与えようとするも、やはり正面のプラントアンデッドはそんな悠長な真似を許してはくれないようだった。

 

「大丈夫か!?」

 

 剣崎が妖夢の腕に絡みついたツタを切断しようとする。しかし、バットアンデッドはさらに攻撃の手を強め、コウモリの一匹一匹からも超音波を発してブレイドを苦しめる。これではその対処に精一杯で妖夢のもとへ向かえない。

 狙うなら俺を狙え――と声を上げたい。いくら幻想的な力を持つとはいえ、妖夢は生身の少女であるのだ。戦うために造られたライダーシステム、ブレイドの方がアンデッドの攻撃に耐えられるのは間違いない。

 自分は孤独じゃない。決して一人で戦っているわけじゃない。妖夢の目を見て想う。剣崎はかつて、仲間たちと共に。そして今は、同じく人でありながら人ならざる妖夢と共に。

 

「剣崎さん! ここは私が食い止めます! 貴方だけでも……!」

 

「何バカなこと言ってんだ!」

 

 必死に光刃を放ち続ける半霊を横目に、妖夢は左手で抜いた白楼剣で右腕のツタを斬ろうとするが、今度はその隙に放たれたツタをもって左腕と胴体までもが自由を奪われた。そんな光景をただ見ていることしかできないなど、剣崎には認められない。認めたくはない。

 

「(俺にも何かないのか……! あんな感じの、何かが……!)」

 

 バットアンデッドの超音波で意識が遠くなりかける。絶えず迫る無数のコウモリを切り捨て続け、プライムベスタを使う暇すら見出せないまま。剣崎の思考には、妖夢が放った魂符「幽明の苦輪」の姿が残っていた。

 自分が動くことができなくても動かせるもの。自分の手足と動かせるだけの力。妖夢の半霊に等しい、一心同体の相棒とも呼べる、そんな心強い力が──

 そこまで考えて、剣崎は共に運命に立ち向かったもう一振りの『(つるぎ)』を思い出した。

 

「(そうだ……いるじゃないか。俺にも……心強い、頼れる相棒が……!)」

 

 超音波にも惑わされず、コウモリを斬り続け。そのまま剣崎は自身の思考をブレイドのシステムの中枢として。研ぎ澄まされた思考をライダーシステムの信号に変え、この頭蓋の奥の意志を彼方で待つ『相棒』への呼び声と届けるために。

 友と別れ、仲間と別れ、仮面ライダーとしての自分と別れ――人間としての自分とさえ別れたあの日から。共に歩み続けた道。その先の未来を、運命の切り札と駆けてくれた力。

 

 剣崎と共に冥界へと誘われたそれ(・・)は──蒼く疾走する閃光となりて、この境界に現れた。

 

「キキィギァァッ!!」

 

「シュルルゥギャアッ!!」

 

 灰色のオーロラを突き破りながら、白玉楼階段への道から舞い降りた蒼穹の鉄馬は二体のアンデッドを前輪の衝撃でもって強く殴り飛ばす。予期せぬ来訪者に対処できず、バットアンデッドとプラントアンデッドはそれぞれコウモリとツタによる猛攻を阻まれた。

 

 この場に現れた一機のバイク。夜空めいた濃紺のボディに蒼く美しく透き通ったスペード状のカウルが特徴的なそれは、ライダーシステム第2号、ブレイドのためにBOARDによって開発された対アンデッド戦闘用の高性能ビークルだ。

 ブレイドのシステムとリンクしたコンピュータを持つため、ブレイドの変身者――剣崎の意思によって自由に遠隔操作できる機能を備えている。共に冥界に誘われたときからかの雪庭に置いてきたばかりのものを、この機能で呼び戻すことができたのだ。

 剣崎が戦士として選ばれた日から共に歩んできた『ブルースペイダー』と呼ばれるバイクは、かつての戦いで何度も遂げたように、此度においても怪物に対する反撃の一歩となった。

 

「の、乗り物……!?」

 

 無人のままアンデッドを突き飛ばし、剣崎のもとへ旋回するバイクを見て、妖夢が困惑の表情を見せる。ライダーシステムが騎士(ライダー)たる所以。仮面ライダーと称された戦士たちの名は、この歴戦のバイクと共に掲げられている。

 ブルースペイダーの衝突によってプラントアンデッドが吹き飛ばされ、その勢いのおかげで妖夢と繋がっていた怪物のツタは引き千切れてくれた様子。未だ身体はツタに絡められ自由に身動きを取ることはできないが、少なくとも怪物の支配下からは逃れられた。

 

 プラントアンデッドとバットアンデッドは衝撃に確かなダメージを負っている。さらにバットアンデッドはブルースペイダーの出現で灰色のオーロラを突き破られてしまったことで、そこから差し込んでくる雲上の陽光に怯み動けないようだ。

 剣崎はブレイドとしての赤い複眼でブルースペイダーを見やる。複眼と同じ色の赤い座席(シート)、濃紺の車体の中で特に目立つそこへ跨り、左腰のブレイラウザーからカードを引き抜く。

 

「……もう一度、俺と一緒に戦ってくれ」

 

 呟くようにバイクに語る。手にしたプライムベスタ──スペードの6たるサンダーディアーをブルースペイダーの機体、タンクの上部に備えられた『モビルラウザー』の溝へと滑らせた。

 

『サンダー』

 

 ブルースペイダーのモビルラウザーからブレイラウザーと同じ無機質な電子音声を聞く。同時に青白く放電を始めた車体にしがみつき、剣崎は右手でアクセルグリップを引き絞る。急激な加速に前輪が持ち上がるが、剣崎――ブレイドが体勢を崩すことはなく。

 疾走(はし)る稲妻、轟く雷鳴。ディアーアンデッドが備える雷をそのまま纏い、蒼い電流と一体化したブルースペイダーは剣崎を乗せ、紫電となって。

 

「シュル……ギュアアッ!!」

 

 直撃。ブルースペイダーにディアーサンダーの力を宿す【 サンダースペイダー 】の一撃をもって、放電する車体はプラントアンデッドの身体に電撃と突進の衝撃を与えた。青白く帯電しつつ後方へ吹き飛ばされるアンデッドを視認し、今度はすぐさまブルースペイダーから降りて妖夢の方へと駆け寄っていく。

 彼女の身体に絡みついたプラントアンデッドのツタを丁寧に切断し、解放する。ただ拘束されていただけであったようで、妖夢の身体にはさほどのダメージはなかったらしい。

 

「……っ! 今なら……!」

 

 自由の身を取り戻すや否や妖夢が霊力を溜め始める。白楼剣を鞘に収めつつ、楼観剣を振り上げ構えながら、妖夢は陽の光に怯むバットアンデッドを睨んだ。

 目を閉じ気を研ぎ澄まし、心の中に札を掲げる。光と散った意思のスペルカードを発動させ、妖夢は向かう不死の怪物に目を見開いて。蒼白の霊気と共に、掲げた楼観剣を振り下ろす。

 

「――断迷剣(だんめいけん)迷津慈航斬(めいしんじこうざん)ッ!!」

 

 霊力によって長大な刀剣と輝き伸びた楼観剣の波動をもってして。未だ距離のあったバットアンデッドを離れた位置から一刀両断せしめんほど。

 妖夢の放った【 断迷剣「迷津慈航斬」 】は断命剣「冥想斬」の刃をさらに強化した高出力の斬撃だった。彼方の空に届くほどに巨大化した光の刃がバットアンデッドの身を深く斬り裂き、淀んだ緑色の血を噴き上げさせる。

 迷津慈航(めいしんじこう)。迷いの世界から悟りの彼岸へ渡す船。己が迷いを一刀に断ち、向こう岸へと届かせる刃は、不死の存在であるアンデッドでさえ「ぶっ殺してやる」ほどの気概を込めて。無論、さすがに気概だけでは実際に不死(それ)を死へ誘うことはできなかったようだが――

 

 その一撃を受けたバットアンデッドの腰から渇いた音を聞く。紛れもなく不死生物の象徴たるアンデッドバックルが開いた音。それは彼らにとって、仮初めの死を意味するものだ。

 

「すみません、またしても助けていただいて……」

 

「それなら俺の方もだ。昨日は、君が来てくれなかったら危なかったしさ」

 

 妖夢はブレイドの姿のままの剣崎に向き合い感謝の言葉を続けた。サンダースペイダーを受けたプラントアンデッドもバットアンデッドと同じく、すでに限界を迎えアンデッドバックルが展開している。

 蛇の円環の内側に刻まれた『♥7』と『♦8』の刻印は、やはり紛れもなく彼らがスペードスート以外のスートを持つことを示していた。

 

 剣崎はブレイラウザーから鎖の描かれた空白のカードを二枚抜き取る。どちらも端にスートとカテゴリーのない共通用の『コモンブランク』と呼ばれるもの。

 この未知なる幻想の郷にて取り戻すことができたプロパーブランクはスペードのものだけであったため、スペード以外のアンデッドを封印するにはスートやカテゴリーを問わないこのカードを使うしかない。

 コモンブランクで封印したアンデッドは封印後に『ワイルドベスタ』と呼ばれるラウズカードとなり、対応するスートのラウザーに通すまではラウズカードとしての能力を使用できなくなるという制限があるのだが、対応するプロパーブランクがない以上は仕方あるまい。

 

 ジョーカーの姿であればその能力をもって強制的にプライムベスタとして封印できる。が、理性を維持できるかさえ危うい怪物となり果ててまで下級アンデッドのプライムベスタを取る必要性は高くないと考えられた。

 何より剣崎自身がライダーの誇りをもって人類を守ると誓ったのだ。たとえ異なるスートの力が使えずとも、自分には仮面ライダーの資格があると。

 手にした二枚のコモンブランクを、倒した二体のアンデッドに投げようとするが──

 

「ギィ……」

 

「シュル……」

 

 剣崎はまだカードを放っていない。にも関わらず、アンデッドは虚空から飛来した二枚のラウズカードによって淡く空を染める緑色の光を放ち、封印されてしまう。

 

「うぇ!?」

 

 ブレイドの赤い複眼が捉えた光景は紛れもなく。たった今封印しようとしたアンデッドが、別の何者かによって封印されてしまった──

 カードが放たれた方向、アンデッドたちよりも上空を見る剣崎と妖夢。幽明結界の朧気な光とブルースペイダーによって切り裂かれた歪な雲の果て、剣崎は見慣れない人影を目にした。




橘さん曰く面白いカテゴリー8です。
そして相変わらず一話の文字数と話の区切りをいい感じに調整する技能がボドボドすぎる……

次回、第32話『切り札は自分だけ』


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第32話 切り札は自分だけ

 冥界と顕界の狭間、幻想郷上空の雲海たる幽明結界の領域において。妖夢と剣崎はバットアンデッドとプラントアンデッドを打倒した。

 しかし、コモンブランクをもって封印しようとしたとき、彼方の空から飛来した──剣崎のものではない空白(ブランク)のラウズカードが、二体のアンデッドを封印してしまったのだ。

 

 妖夢と剣崎が見上げた空。灰色のオーロラさえ晴れた青空には春と冬の入り混じった幻想的な風が吹いている。

 幽明結界の輝きを見下ろすように、アンデッドが封印された二枚のラウズカードを手にする存在は、剣崎にとっては未知の人物。されど妖夢にとっては馴染み知った妖怪の姿だった。

 

「ふぉっふぉっふぉっ。さすがの働きじゃな。いや、期待以上じゃ」

 

 豊かな尻尾を湛えた老獪なる化け狸――二ッ岩マミゾウ。空中に座するかの如く足を組み、左手に二枚のカードを持ったまま。右手でもって、腰元の徳利(とっくり)を朗らかに仰ぐ。葉っぱを乗せた茶髪に立つ狸の耳が、マミゾウの笑いに合わせて軽やかに動いた。

 

「…………!?」

 

 剣崎が見たのは空に座す化け狸が手にした二枚のラウズカード。先ほど倒したバットアンデッドとプラントアンデッド、それぞれを封印した♦8『スコープバット』と♥7『バイオプラント』はコウモリとツタ植物の絵柄を宿している。

 もし共通用のコモンブランクで封印したのであれば、それらはスートを持たないワイルドベスタとなるはず。しかし、マミゾウの手にある二枚のラウズカードは紛れもなく♦8と♥7のスートとカテゴリーが確認できた。

 それは対象のアンデッドに対応したプロパーブランクをもって封印したプライムベスタであるということ。剣崎の手元にはスペードスートに対応したものしかないが、ダイヤとハートのスートに対応したプロパーブランクまでもが──もし仲間たちの手から失われているのだとしたら。

 

「なんであんたがそのカードを持ってるんだ? 誰なんだ……あんたいったい!!」

 

 懐に二枚のプライムベスタをしまったマミゾウに対し、剣崎はブレイドの姿のまま声を張り上げる。狸のそれと思わせる豊かな尻尾に耳。何食わぬ顔で空に浮かぶ超常の力。人ならざる妖しき気配を放つこの存在こそが妖夢の言う妖怪だろうか。

 悪意の有無までは判断できない。こちらを試すような微笑からは邪気を感じ取れないが、彼女が厳重に管理されていたはずのプロパーブランクを持っている以上、一度はすべて封印されたアンデッドを再び解放せしめた張本人、あるいはその関係者という可能性は高い。

 

「えっと……たしか佐渡(さど)の……二ッ岩マミゾウさんでしたっけ?」

 

「知り合いなのか?」

 

 緑色の血を振り払った楼観剣を鞘に収めつつ妖夢が言う。見上げる化け狸の姿は、その名と共に幻想郷において強い影響力を持つ人物と知られていた。

 かつて幻想郷に無数の小神霊――まだ生まれたばかりの小さな神霊たちが大量発生した奇妙な異変、『神霊異変』。原因こそ外の世界の古き時代に『聖徳太子』と崇められた聖人、豊聡耳神子が幻想郷に復活する予兆、そのあまりの徳の高さから本人も意図せず神霊たちが集まっていただけのものだったが――

 その復活を危惧したとある大妖怪によって、外の世界から『妖怪の切り札』が招かれた。幻想を排斥する外の世界においてなお強大な妖怪としての力を失わず、無数の狸を従える古今無双の化け狸。彼女は、かの聖人への対抗手段である。

 

 本来ならば復活した聖人、妖怪の撲滅を(うた)う豊聡耳神子への対策として外の世界の佐渡の地より呼び寄せられたはずだったのだが、当の神子は神霊異変を感知した霊夢と魔理沙によって打倒され、すでに神霊異変に関わる事象は大方終息していた後だった。

 妖夢も神霊異変の際は異変解決に赴いたためにそのことはよく知っている。マミゾウは当初の目的を果たせなかったが、すでに神子と同様に幻想郷の住人となると決め、幻想郷の理に従って生きているようだ。

 その後は宇佐見菫子の計画によって博麗大結界が破壊されかけた大異変などにも関わり、計画の阻止や菫子への報復に一役買っていたらしいが、こちらについては妖夢は詳しくない。

 

「いったいどういうつもりですか?」

 

「なんじゃ、幽々子から聞かされておらんのか?」

 

 妖夢はマミゾウにその意思を問いかける。ブレイド──剣崎も相手から悪意と呼べるものが感じられないのもあり、妖夢が楼観剣を収めたのを見て自分もブレイラウザーを左腰のホルスターに戻した。

 ブレイドと妖夢の姿を見て訝しげな表情を見せるマミゾウ。妖夢が話を理解していなかったのか、あるいは妖夢には理解できないだろうと判断して幽々子が話さなかったのか。

 

「ま、(じき)に分かるじゃろうて。そんなことより、ほれ。次が来るぞい」

 

 ふわりと幽明結界の光に降り立ったマミゾウは剣崎と妖夢の背後に視線を示す。振り返った二人の視界には先ほどと同じ灰色のオーロラが広がっていた。

 放たれる気配と剣崎だけが感知できるアンデッドの闘争心は揺るぎなくこの境界の先から。この地に出現した何体ものアンデッドと同じく、再び新たなる不死の怪物が、このオーロラの彼方から現れようとしている。

 

 波紋を広げる灰の天幕から現れたのは、やはり漆黒の怪物だった。

 だが、それは今まで現れたどのアンデッドよりも深く暗く。あるいは剣崎のライダーシステムに通ずるような鎧じみた装甲を身に纏っている。

 漆黒の強化皮膚に走る金色の傷跡。胸部の装甲は銀色の心臓を模し、万物を嚙み砕かんと備わった頭部の大顎は力強く。ハート型の赤い複眼の先には獲物を見据える自然界の捕食者が如き双眸を光らせて。

 触角や大きな複眼を備えたこの怪物はまさしくヒョウモンカマキリの始祖たる怪物。一万年前のバトルファイトにおいて最強の不死者(アンデッド)と称された『マンティスアンデッド』だ。

 

「…………っ!」

 

 ハートスートのカテゴリー(エース)。伝説的な強さを誇るその存在を前に、剣崎はあるべき友の姿を否が応にも思い出してしまう。

 目の前のマンティスアンデッドの腰にあるのは紛れもなく双蛇の円環を象ったアンデッドバックル。それは仮に最強と謡われたとはいえ、下級アンデッドの一体、他のアンデッドたちと変わらぬ証明と成り得るもの。

 されど友――人の心を得たジョーカーは、己が能力をもって他のアンデッドと融合を果たし、その姿と力を借りて剣崎たちと共に一人の『仮面ライダー』として戦っていた。その際に融合していたのが、このヒョウモンカマキリの祖たる不死生物、マンティスアンデッドだったのだ。

 

「剣崎さん、連戦になりますが……!」

 

「あ、ああ……! 大丈夫だ、まだ戦える……!」

 

 するりと抜かれた妖夢の楼観剣――刃金の擦れる音を耳に聞き、剣崎は気を引き締める。こちらも再びブレイラウザーを引き抜いては正面に構えた。戦闘直後の疲労はあるが、不死の剣士と不生の半人、どちらも人並み以上の体力はある。

 先ほどの戦闘ではプライムベスタを使う暇がなかったのは好都合だったかもしれない。最強のカテゴリーA、マンティスアンデッドほどの個体を相手にして、APを使い果たした状態で勝てるとは思えないからだ。

 一度はサンダーディアーのカードを使っているが、ブルースペイダーに搭載されたモビルラウザーとブレイラウザーはAPを共有していない。先ほどの戦闘ではサンダースペイダーを発動してしまっているが、ブレイラウザーが有するAPは初期値の5000のまま残っている。

 

「ハートのエース……待っておったぞ」

 

 マミゾウは二人の剣士と対峙するカマキリの祖を見て静かな笑みを浮かべる。懐から取り出した一枚のプロパーブランク、淡く輝き反応するプロパーブランク♥Aに視線を落とし、それが間違いなく己が目的としていた伝説のアンデッドだと確信を強めて。

 

「…………」

 

 マンティスアンデッドは静かに息を吐き、姿勢を低くして向かう剣士たちに構える。

 その身を覆う漆黒の装甲はマンティスアンデッドの固有の能力によって形成された有機的な外殻装甲だ。他のアンデッドと変わらぬ皮革の上から追加で『カリスベイル』という鎧を纏っているため、その姿は通常の個体とは一線を画す。

 カテゴリーAが共通して持つ『チェンジ』の能力の名の通り、アンデッドの身にして仮面ライダーに変身したかの如く。正確にはアンデッドを参考にBOARDが開発したライダーシステムの方が、ジョーカーの融合能力とカテゴリーAの特殊装甲を再現しているのだが。

 

 カリスベイルの名を由来とするのか、マンティスアンデッドは一万年前のバトルファイトにおいて、他のアンデッドから『カリス』と呼ばれていた。

 屈んだ姿勢から結界を蹴り、瞬くような速度で疾走する漆黒。さながら閃くカマキリの鎌と振り上げられた右手。

 音速に達し得るとも思えたそれは春の空気を一閃し、風を切り裂いて妖夢の首へ向かった。

 

(はや)い――っ!」

 

 咄嗟に身を退いてマンティスアンデッドの手刀を回避する。首の寸前をかすめた刃の如きそれが放つ風圧、感じる真空は妖夢の肝を冷やした。

 攻撃を外した隙を見逃さず、妖夢はそのまま正面へ楼観剣を振り下ろす。されどマンティスアンデッドは即座に左腕を掲げ、落ちる刀の一撃を防いでしまう。カリスベイルの装甲に覆われた腕は楼観剣を防ぎ、火花を散らした。

 こちらも攻撃を防がれた硬直で隙を晒す。気配こそ感じることができたものの、妖夢は自身の腹に迫るマンティスアンデッドの右拳を視認した上で対処が間に合わず。

 

「がはっ……!」

 

「――そこだっ!」

 

 妖夢が殴り飛ばされたことに焦燥を覚えるものの、臆することなくブレイラウザーを振るう剣崎。拳を突き出したままのマンティスアンデッドを側面から斬りつけることで、火花と散る装甲に傷を与えることができた。

 多少怯んだ様子を見ればダメージはあるはず。カリスベイルを纏っているおかげでアンデッドとしての緑色の血が確認できず、それがどれだけの損傷になっているのか分からない。

 

「…………」

 

 マンティスアンデッドはハート型の赤い複眼で剣崎を睨み、疾風の如き速度でブレイドに対して足払いを放つ。ライダーシステムを纏った剣崎の体重は相応のもののはずだが、マンティスアンデッドの脚力はそれを物ともせず、ブレイドに変身している状態の剣崎をいとも容易く転倒させてみせた。

 倒れたブレイドの胸部装甲を踏みつけるマンティスアンデッド。並み居るアンデッドたちを封印せしめてきたブレイドでさえ赤子を相手にするかのよう。

 

 妖夢は楼観剣に霊力を込めて駆け抜け、大きな隙を見せないように肘打ちを放つ。それはアンデッドの胸部を打ちつけるが、これ自体はあくまで連撃の要となる初撃。続けて放つ蹴り上げを当て、楼観剣の柄をさらに強く握り締めて。

 いざ、袈裟懸けに斬り込もうとした瞬間に――迫る左腕。妖夢は楼観剣でその手刀を防御。

 

「ぐっ……! マミゾウさん! なぜ見てるんです! 一緒に戦ってください!」

 

(わし)にも色々あってのう……話せば少し長くなるがよいか?」

 

 悠長に背後の空に浮き座し、煙に巻くような物言いをするマミゾウを他所に。妖夢は声を震わせながら楼観剣に纏わせていた霊力を解き放ち、幻想的な剣技と成した。

 

「じゃあいいです!」

 

 薄紅色に輝く剣、光と放った斬り上げは弓張る月の如く。強く声を張り上げ、妖夢は数歩下がった位置から【 弦月斬(げんげつざん) 】の一撃を見舞い、アンデッドの胸部装甲に散る火花を見届ける。

 

「…………ッ!」

 

 妖夢の剣技は斬撃という弾幕の一種。予期せぬ距離から放たれた攻撃に怯み、マンティスアンデッドは踏みつけていた剣崎の身を解放していた。

 自由の身を取り戻した剣崎は即座にスペードの6たるプライムベスタ、ディアーサンダーをラウズし、ブレイラウザーに蒼き電撃を宿らせる。即座にブレイラウザーを突き上げるも、雷鳴は虚空を裂いて春空の彼方へ消えた。

 5000を表記していたAPは3800へ低下する。されど効果を維持したままのディアーサンダーは、今なおこのブレイラウザーに有するカテゴリー6の能力として付与されたまま。

 

「やぁぁぁあっ!」

 

 気合を込めた叫びを上げ、妖夢は前方へ駆け抜けながら薄紅色の妖気を湛えた楼観剣を横一文字に一閃。突進に斬撃の要素を加えた【 生死流転斬(しょうじるてんざん) 】を見舞い距離を詰めつつ、再び楼観剣を構え直し、翻す。

 続いて放った二連撃の斬り上げは先ほどの弦月斬と同様に、弧状に斬撃を上げマンティスアンデッドの身を裂きつつ、怯んだそれを再び斬り上げる【 天界法輪斬(てんかいほうりんざん) 】だ。

 

「…………!」

 

「っ……はぁっ……!」

 

 怒涛(どとう)めいた妖夢の攻めに押されるマンティスアンデッド。相変わらず血を流さないためダメージのほどは分からないが、渾身の霊力を込めて放ち続けた斬撃は相手に攻撃の手を許さない波状攻撃として働いている。

 だが、息づく暇もないのはこちらも同じ。体力と霊力を注ぎ込んだ刹那の連撃は瞬く間に妖夢のすべてを奪い、怪物を前にしている状況で息が切れてしまう。

 このままでは来たるマンティスアンデッドの攻撃に対処できない。先ほど受けた拳の一撃は霊力で強化した身にも響く衝撃。鈍く根幹を揺るがす痛みは、妖夢の意識を薄れさせた。

 

「――妖夢ちゃん、伏せて!」

 

 背後から聞こえた剣崎の声に振り返ることなく──妖夢は咄嗟に身を屈める。直後、妖夢の頭上には蒼白く輝く雷鳴、ディアーサンダーが走り抜けた。

 妖夢を陰としてマンティスアンデッドの視界から隠れていた剣崎。構えるブレイラウザーから放つ蒼白の雷光で、妖夢の連撃に向き合っていたマンティスアンデッドを貫いた。衝撃に光が散り、アンデッドは堪らず呻き声を上げる。

 

 動きを見せた剣崎に気づき、妖夢は地を蹴ってマンティスアンデッドから距離を取った。先ほどまでのマンティスアンデッドであればそれすら許さなかったかもしれないが、ディアーサンダーを受けて全身を電流に苛まれている状態の怪物は、離れる妖夢を気にする素振りもない。

 

「……グゥウ……!」

 

 白い煙を上げるマンティスアンデッドを前に、剣崎はオープントレイを展開。開いた扇状のケースから迷わず二枚のカードを抜き取り、自らの手で封印したプライムベスタ──♠5『キックローカスト』と♠6『サンダーディアー』のカードへ微かに視線を落としながら。

 

『キック』

 

『サンダー』

 

 二枚のラウズカードを続けてラウズ。ブレイラウザーの溝に走らせるカードには、それぞれイナゴの祖たるローカストアンデッドとヘラジカの祖たるディアーアンデッド。二体のアンデッドの力を感じ、カードは青き光となりてブレイドの装甲へ。

 ラウズカードの中の絵柄が、封印する前のアンデッドの姿を映し出す。高く跳躍するイナゴの始祖と、蒼白い電撃を放つヘラジカの始祖。カードはそれぞれの動きを忙しなく再現する。

 

『ライトニングブラスト』

 

 この身に満ちるイナゴとヘラジカ。スペードの5とスペードの6。ブレイラウザーから響く無機質な電子音声は、単なるラウズのコールに非ず。定められた複数のラウズカードを読み込ませることで発動する『コンボ』の掲示。

 これまで多くのアンデッドを撃破し封印してきたブレイドのカードコンボは、カテゴリー6たるディアーアンデッドの電撃の属性を宿した、まさしく落雷の如き衝撃を起こすもの。

 

「はぁぁぁあっ……うぇいっ!」

 

 剣崎は刃を下にしたままのブレイラウザーを高く掲げ、気合を込めて大地へ突き刺す。光を帯びた幽明結界の領域に、ブレイラウザーは雄々しく突き立てられた。

 この身に(みなぎ)る覚悟と勇気。たとえ嵐が吹き荒れようとも、恐れずそこへ飛び込んでいく。躊躇(ためら)う瞬間、きっとその闇はこの身を飲み込むだろう。故に――何も迷わずに。

 

「はっ! ……うぇぁぁぁあいっ!!」

 

 ローカストアンデッドの力を借りた跳躍力で高く跳ぶ。すでに電撃を受けて身体を硬直させているマンティスアンデッドに目掛け、ブレイドはディアーアンデッドの力を借りた蒼白の雷光を身に纏う。

 そして蹴り放つ、イナゴとヘラジカ双方の力を束ねた【 ライトニングブラスト 】の一撃は、強靭なる脚力と轟雷鳴り響く紫電の閃光をもって──剣崎一真の揺るぎなき意志のままに。

 

「グゥ…………ォォオッ!!」

 

 突き立てたブレイラウザーを背後に置き去り、雷光と翔け抜けたブレイドの飛び蹴り。マンティスアンデッドの胸を蹴り穿ち、電撃はカリスベイルを貫通して流し込まれ、キックの衝撃と合わせて不死なるアンデッドの身体には甚大なダメージが届いた。

 (ほとばし)る電光と溢れる力がマンティスアンデッドとその周囲を爆発させる。不死の身そのものこそ砕けまいが、爆ぜ散るエネルギーは幽明結界の光の中でなお鮮烈に。その爆炎は地上からでも観測できるほどだっただろう。

 

 鈍く黒煙を昇らせる胸を押さえ、マンティスアンデッドはふらつきながら後ずさる。膝を着いて肩を揺らすその姿は、血を流さずとも誤魔化しようのない傷を負っている証拠だ。

 

「……くっ……まだ戦うつもりなのか……」

 

 さすがに最強のアンデッドと呼ばれるだけの存在。今ある手札では最大威力を誇るライトニングブラストの一撃を受けてなお、相当の深手を負わせはしたものの、アンデッドバックルの展開には至らない。

 ブレイラウザーのAPはまだ残っている。息を整えた妖夢もマンティスアンデッドへの追撃を行うだけの余力を取り戻したようだ。

 不死身の再生能力を持つアンデッド、目の前の怪物が再び万全の力を取り戻す前に、剣崎は背後の光に突き立てたブレイラウザーを取り戻そうと焦ってしまう。目の前の相手がかつての友と同じ姿をしていたからだろうか。咄嗟に背後の剣に手を伸ばし――思わず怪物に背を向けて。

 

 ――甘い!

「――Iama!」

 

 瞬間、膝を着いていたマンティスアンデッドが鎌の如き手刀を振りかざす。引き裂かれた空気が突風の層を作り出し、ブレイラウザーごと剣崎を吹き飛ばした。

 

「ぐっ……うわぁぁああっ!!」

 

「剣崎さんっ!!」

 

 幽明結界の領域は無限に広がっているわけではない。突風に吹き飛ばされた剣崎は、結界の外にまで追いやられてしまう。

 油断していたわけではないが、踏み止まることができなかった。飛行能力を持たない剣崎ではリリーホワイトのようにはいかないだろう。いくら不死身の肉体を有するとはいえ、目線の高さに雲が浮かぶこの場所から自由落下すればどうなるのか。できれば想像さえしたくはない。

 

 妖夢は慌てて落下した剣崎を追って光の足場を飛び立つ。ふわりと地を蹴り、楼観剣を鞘に収め、怪物に背を向けて幽明結界の場を後にした。

 マンティスアンデッドは不用意に隙を晒した妖夢に追撃を仕掛けようとするが――

 

「…………ッ」

 

 背後に感じた絶対的な気配に足を止める。疑いようもなくその身を貫く原初の本能。最強と呼ばれたハートのカテゴリーAには、恐れるものなど存在しない。

 ただ一つ、すべてのアンデッドにとって『終焉』足り得る『切り札』を除いては。

 

「ふむ、まだ調整が必要じゃが……ひとまずはこれでいいじゃろう」

 

 振り返ったマンティスアンデッドが見たのは、眼鏡の奥の双眸に妖しげな光を湛えた化け狸、二ッ岩マミゾウの姿。されど、その身には幻想郷に在り得べからざるもの――異形の『ベルト』が備わっていた。

 腰に走る銀色には深い緑に染まった心臓めいた意匠。中心に溝を持ったそれは、この幻想郷においては剣崎一真だけが有しているはずの――『ジョーカーラウザー』だった。

 

 ……バカな……なぜ貴様が……

「……Agamasik ezan……Anakab……」

 

 切り札たる象徴は腰に装うジョーカーラウザーだけではある。しかし、マンティスアンデッドはかつての戦いを思い出し、目の前の化け狸に本能的な恐怖心を覚えざるを得なかった。

 

「ジョーカーの細胞と(わし)の幻術――これで実験は成功というわけじゃ」

 

 マミゾウはジョーカーラウザーを優しく撫で、視線を上げてマンティスアンデッドを見る。

 先ほどの戦闘で剣崎一真が流した緑色の血液を採取し、二人が戦っている隙にそれを解析していた。マミゾウは自らの幻術と剣崎一真の血を組み合わせることで、疑似的ながらジョーカーとしての力を再現したのだ。

 ただ化けただけでは力の本質を模倣できない。本当の意味でジョーカーの力を再現するには、紛れもなくジョーカーそのものである剣崎一真の細胞が必要だった。

 

 無論、それはこの身にアンデッドの──ジョーカーの細胞を取り込むということ。如何に幻想の排斥を乗り越えた大妖怪といえど、生物としてはあまりにイレギュラーなその力に馴染めず、マミゾウは細めた目の中に老獪な笑みを浮かべつつも、額に滲んだ汗を拭う余裕もない。

 

 マンティスアンデッドが感じる気配は第二のジョーカーである剣崎のそれではなく。有史以前からこの星のバトルファイトを活性化させる舞台装置として生きてきた、正真正銘の『最初のジョーカー』に近い原始的なもの。

 純粋な妖怪であるマミゾウは人間の遺伝子を持たぬがゆえ、そちらの方に波長が近かったのだろうか。剣崎一真のように根底に人間としての情報を宿すジョーカーとはまた異なった気配。

 

 忌まわしきその力……ここで封印する!

「Urus Niuuf Edokok……Arakihc Onos Ikihsawami!」

 

「おっと……っ……血気盛んじゃな……! お互いそろそろ無理はできんじゃろ……!」

 

 疑いようのない傷を負ったマンティスアンデッドは古代語で言うや否や、鎌と振り乱した手刀をかざしてマミゾウの首を狙う。全身の細胞が、妖怪としての自分自身が不死の法則に飲まれそうな錯覚を覚える中、マミゾウは逼迫(ひっぱく)しながらもその攻撃を凌いでいた。

 

「…………っ!」

 

 不意に掠めた一撃がマミゾウの頬に傷をつける。ほんの少しずれていたら、マンティスアンデッドの手刀はマミゾウの首を斬り落としていたかもしれない。馴染まぬジョーカーの力に身体を苛まれ、動きが鈍っているが、それは先の戦闘で消耗した相手も同じ。互いに少し気を抜けば勝機を失うということを、本能から理解している。

 さらりと零れる化け狸の血。頬を伝うそれを拭い、マミゾウは己が右手に付いた『赤』を見た。この身に宿すジョーカーの力の片鱗、幻術をもって再現したジョーカーラウザーの本質とは異なる血液の色。

 

 二ッ岩マミゾウは人間ではない。しかし、外の世界の人間社会において共に生き、ブレイドの世界とは異なる紡ぎ、人類の祖先がヒューマンアンデッドであるという事実が存在しない並行世界の地球で。彼女は長らく『人間』の姿に化けながら、幻想なき現代の世を生きてきた。

 生き方は大きく異なれど、それはまるで友によって救われ──人間として生きることを許された、かつてのジョーカーの如く。

 人間の中で生きてきた者にだけ宿る人間の心。この血の赤は狸としての、妖怪としての肉体を証明するものだが、同じく地球に生きる人間の血の色と共通した、限りある命の証。

 

「……『本当に強いのは人の想い』……じゃったな……」

 

 内なるジョーカーの力が伝える意識、剣崎一真ではない本来のジョーカーの意思が、自分の心に何かを告げた気がした。

 向かうマミゾウの気配が一層強まったことに気がついたマンティスアンデッドが地を蹴って距離を取る。ジョーカーの波長がさらに強まり、マンティスアンデッドはマミゾウの姿に重なる緑と黒のジョーカーを、あるいはヒューマンアンデッドの幻影を垣間見た。

 

 両手を正面で組み合わせ、立てた中指と人差し指。解き放った妖力はマミゾウの周囲に無数の葉っぱを散らし、一斉に煙に包まれたそれらは瞬く間にヒトの形を取った。蒼く輝く妖力の光弾は無数の人型に――霊長の象徴を掲げるものとして。

 

「その言葉にしばし付き合ってやるぞい……! 壱番勝負(いちばんしょうぶ)霊長化弾幕変化(れいちょうかだんまくへんげ)!!」

 

 ジョーカーの語る人間の強さを乗せて。いざ尋常に、マミゾウはその札の名を叫ぶ。発動されたスペルカード【 壱番勝負「霊長化弾幕変化」 】は蒼く力強く、勇猛なる魂の色の如くマンティスアンデッドに襲いかかっていった。

 蒼き光弾、小さな人の形をしたそれらが放つ弾幕に怪物が呻く。同時に、マミゾウが腰に装うジョーカーラウザーに『人の強さ』と呼べるような赤い光が満ちていく。

 アンデッドの血の色を思わせる緑色の心臓を模していたそれは──マミゾウの放った弾幕、人間の強さに呼応するように。緑色の心臓は、優しく力強い真紅の心臓へと染まっていく。

 

「グゥ……! ォォオ……ッ!」

 

「……! 今じゃ!!」

 

 マンティスアンデッドのバックルが開き、そこに『♥A』の刻印が現れたのを見逃さず、マミゾウは懐から一枚のカードを放った。

 胸にも装うカリスベイル、その中心に突き刺さり、ハートスートのカテゴリーAに対応するプロパーブランク♥Aは、対象となるマンティスアンデッドを封印した。手元に飛び戻ってきたそれを掴み取り、薄紅色のハートの中でカマキリが鎌を広げる絵柄に視線を落とす。

 

 プライムベスタの名は『チェンジマンティス』。マミゾウはそれを懐へしまい、今度は自らが腰に装ったベルト──ジョーカーラウザーだった(・・・)それを見た。

 緑色の心臓は真紅の心臓に変わっている。右腰に備わっていたラウズカードのホルダー『ラウズバンク』も中心にも黄色いハートの意匠が象られ、禍々しい雰囲気を放っていたジョーカーラウザーは印象を変えていた。

 心臓の意匠の周囲を走っていた鈍色は美しい金色に。宿すアンデッドの血ではなく、人間としての、この星に生きる生物としての赤い血を示す『カリスラウザー』に。マンティスアンデッドの呼び名を掲げるそれは、ジョーカーがカテゴリーAとの融合を前提に書き換えた力だった。

 

(わし)だって、仮にも切り札(・・・)と呼ばれたんじゃ。……期待には応えてやらんとな」

 

 世界に対する『統制者』の切り札、ジョーカーの力を宿して。かつての神霊異変において妖怪の切り札と招かれたマミゾウは、この幻想郷におけるたった一枚の切り札に。いつか、どこかの未来に、悲しみが終わる場所を目指せるなら。

 心に剣、輝く勇気。奇跡と纏う切り札は自分だけ。もし剣崎一真が──54番目の存在である第二のジョーカーが幻想郷から消え去ったとしても。その法則は、マミゾウの手に残るのだ――

 

◆     ◆     ◆

 

 秋めく紅葉、妖怪の山。その麓、間欠泉地下センター入り口付近に噴き上がる灼熱の泉は大地を硫黄(いおう)の煙で満たし、地底世界の旧地獄から溢れた地霊の残滓を湛えている。

 溢れる妖気と地霊によって変質してしまったのか、あるいは臭気を放つ硫化水素の影響か。この山に住む仙人――茨木華扇が立てた『キケン! 有毒ガス充満につき死にたい奴だけ近寄ってよし』の立て札は朽ち果てていた。

 

 間欠泉は地熱由来の天然温泉を地表にもたらす。されど発生するガスは人体に悪影響を及ぼし、旧地獄に封じられた怨霊たちは取り憑いた妖怪の精神をまったく別のものに変えてしまう。加えて、怨霊は内なる欲望から様々な金属を生み出すのだ。

 富への欲望からは金が。生きたいという欲望からは水銀が。そして、人を殺したいという欲望からは砒素(ひそ)が。

 かつては霊夢や魔理沙もその欲望に魅入られ、河童を利用して金を採掘しに来たことがあった。華扇の言葉で怨霊の欲望から溶け出す金属には水銀や砒素という猛毒の物質も含まれていると知り、それらを恐れて手を引いたのだが。

 華扇が危険の立て札を設けたのは硫化水素に関してでもある。が、実際に漂っている有毒ガスの濃度はさほどのものではない。真に危険なのは、人間も妖怪も問わず精神に悪影響を与え、存在を狂わせる怨霊。華扇はそれを危惧し、誰も近づけないようにしたかったのだが――

 

「ブレイドの世界の楔も組み込めた……か。今のところはまだ順調と考えていいのかな」

 

 死なない人間なんていない。だからこれは近寄っていいという立て札だ。そう解釈した霊夢の言葉を思い出し、華扇は朽ち果てた警告の立て札を見下ろす。

 霊夢の言葉通り、死なない人間なんていない。それが普通だ。幻想郷でさえ蓬莱人という存在は異質なもの。月の都における永遠の法則を体現してしまった彼女らはもはや、人間どころか生物の領域さえ超えている。

 八雲紫が招いた『ブレイドの世界』の楔、剣崎一真も同様に――不死の法則を身に宿す。永遠に生き続ける呪われた運命を背負う彼に、もはや生死の概念はなくなっている。

 

「気掛かりなのは世界の接続……この程度なら修正は効くけど……」

 

 ざわめく不安を胸に、華扇は空を見上げた。間欠泉がもたらした温泉の湯気、その煙が覆う空は白く虚ろに地霊の影を映し出す。

 アンデッドの存在も不可解なもの。グロンギやアンノウンは倒された怪人が時空のズレで復活した可能性もあるが、アンデッドに関してはラウズカードから解放されない限り同種の個体が現れることはない。

 あるいはマミゾウの言った通り、具現化された同一存在が矛盾回避のために統合されたのだろうか。紫の言葉を借りるなら『同名の同一ファイルを同じフォルダにコピーした』ような状態。具現化されたコピーとオリジナルの情報がまったく同じで、後に追加されたコピーの側にオリジナルの情報が統合、同一存在と定義されたのだとしたら。

 ラウズカードから封印を解くことなくアンデッドが存在し、かつすべてのカードがプロパーブランクと化した理由にも納得がいく。

 しかし、本当にそんなことが可能なのか。できたとして、いったい誰が何の目的で。

 

「貴方はどう思う?」

 

 間欠泉地下センター入り口付近、濛々(もうもう)と立ち込める白い霧。失われた古の妖気を感じるそれに、華扇は問う。

 白い霧は天然温泉の湯気と袂を分かち、やがて一ヶ所に(あつ)まり小さな背丈の少女の形となっていく。幻想郷から失われ、忘れ去られた太古の妖気。それらを湛えた霧が密となると、そこには一糸纏わぬ姿で温泉に浸かる――幼げながらも剛健なる一人の少女がいた。

 

 絢爛(けんらん)たる橙色の長髪は天蓋(てんがい)に映る月が如し。そこから突き伸びる(ふた)つの角は力強く、彼女が遥か古の幻想郷に名を響かせた『鬼』であることを証明してくれる。

 頬に差す赤色は人智を超えた酒気に。温泉に浸かりながら鬼の秘宝たる酒器、『伊吹瓢(いぶきひょう)』と呼ばれる紫色の瓢箪(ひょうたん)を傾け。杯に注ぐこともなくそこから流れる酒を仰ぎ()み下した。

 

(あいつ)の計画は小難しくてよくわかんないけどさ。せっかくの春が台無しにされるのはねぇ」

 

 萃まる夢、幻、そして百鬼夜行。一度は幻想郷の地を離れた鬼たち。されど彼女だけは幻想郷を忘れられず――幻想郷に忘れられてなおこの地を愛した。

 少女の名は 伊吹 萃香(いぶき すいか) 。かつての華扇――『茨木童子』と同様、千年前の妖怪の山を支配していた『山の四天王』の一人である。

 鬼の肝臓は人間、ひいては酒豪とされる天狗のそれとも比較にならない。温泉に浸かったままの状態であるというのに、伊吹瓢に満ちていた酒はあっと言う間になくなってしまった様子。滴る酒の雫を舌に、萃香(すいか)は口惜しそうに眉を歪め、伊吹瓢の中身を覗き込む。

 

「こんなんじゃ花見もできないよ。また幻想郷のみんなを(あつ)めて宴会させようかな」

 

 両手首に巻きついた枷とそこに繋がる鎖を鳴らし、空っぽになった伊吹瓢を揺らす萃香。中身は底を突いてしまったため、水音の響きはない。

 しかし、たった今なくなったはずの中身はすぐに伊吹瓢に重みをもたらし、ちゃぷちゃぷとした水音を取り戻した。続けて揺らせばとぷんとぷんと重みを増し、萃香の手には充分に満たされた酒瓢箪が蘇る。

 温泉のお湯が入ってしまったわけではない。伊吹の名を持つ鬼の秘宝、伊吹瓢には無尽蔵に酒を湧き出させるという特性があるのだ。

 内側に施された『酒虫(しゅちゅう)』という精霊の分泌液が消えない限り、この伊吹瓢に酒が尽きることはない。と言っても、転倒防止のため一度に出る酒の量は伊吹瓢の体積までなのだが。

 

「貴方はいつだって呑んでるじゃないの」

 

 華扇は溜息を吐きつつ、呆れた様子で萃香を見下ろす。同じく山の四天王だった身もあって萃香のことは昔から知っているが、彼女が素面だった姿など数百年以上前の記憶。常に酔夢を想う姿こそ、鬼の本懐なのか。

 瞬間、萃香の姿は再び白い霧と散った。彼女が持つ『密と疎を操る程度の能力』は自らの存在、さらにはあらゆる物質や事象の『密度』を操ることができる。

 

 それは凝集と散逸、集合と散開。物の集まりという概念を自在に変え、人妖の精神さえも萃めて散らす能力。

 自らの密度を疎と散らして。萃香は分子の一つ一つが妖力の塊たる『霧』として幻想郷に散っていた。故に、幻想郷全域を活動場所とする彼女に決まった住居はない。あるいは、結界に覆われた幻想郷という秘境そのものが、密であり疎でもある伊吹萃香の居場所なのかもしれない。

 

「酒気帯び運転(ライダー)ね。外の世界じゃ罪に問われるわ」

 

「そっちこそ、そのうち鬼の『酒気(シュキ)』を帯びることになるんでしょ?」

 

 妖気を放つ霧は再び萃香の姿に戻る。今度は温泉の中ではなく、華扇の隣に立つように。身体を再構築する際に妖気で具現化された袖のない衣服は白く、膝下まで届くロングスカートは白く波を走らせた紫色のもの。

 両手首と腰の枷に繋がる鎖の先には三つの分銅を結び──頭と胸には赤く大きなリボンを、左の角には紫色のリボンを結んでいた。

 

 幻想的に赤らんだ萃香の頬。されどその視線は夢幻を貫く鬼の威光。吐き出す息こそ酒色の呼気なれば、萃香は華扇に告げられた言葉を皮肉げに笑って受け流す。

 嫌なこと言うわね――と。華扇は萃香に眉をひそめた。袂を分かった鬼の力、茨木童子としての右腕は今も華扇の屋敷に封じてある。されど、この懐に眠る鬼の力は自ら宿したものとは異なるもの。いずれ纏う朱色(あけいろ)の鬼は、あるべき己を見失い、外道に堕ちた『悪鬼』の象徴だ。

 

「……次に招く楔は今までより幻想郷(こっち)に馴染みやすいかもね。相変わらず、世界自体の法則はもう繋がってるみたいだけど」

 

 視線の先、華扇が見上げた空の中には白い湯気。流れ込む異界の法則は鬼としての生来の感覚でもって本能的に理解できてしまうもの。大自然の妖気が虚ろと歪み、醜く歪んだ『妖怪』のありえた可能性。

 大自然の力が醜く歪み捻じ曲げられた怪異、さしずめそれは魔と化した(すだま)。幻想郷の妖怪たちに余計な影響などを及ぼさなければいいのだが――

 

 仙人として賢者として、何より『鬼』としての仕事を果たすべく、華扇は動く。八雲紫が導く第六の楔の繋がりを強固にするため、ふわりと地を蹴って。白い湯気と地霊の残滓が漂う間欠泉地下センター入り口付近、通称『地獄谷』と称される地を飛び去っていった。

 

「それにしても、人でもあり鬼でもある奴がいるなんて……大した世界があったもんだぁね」

 

 萃香は今一度伊吹瓢に口をつける。酒虫の体液が生み出した鬼の酒。酒気の度数こそ人間の酒を遥かに超えた豪酒だが、酒虫本体を伴わない伊吹瓢では酒の質がやや落ちる。瓢箪に施された分泌液によって生成されているため、その味は大したものではない。

 無限に酒が湧く鬼の秘宝、萃香の伊吹瓢。いつでも酒が飲めるという利点こそあれば、多少酒の質が低かろうとも、酒器としての価値は落ちず。

 しかし、それでもやはり──たまには、天下一品の銘酒を味わいたい気分にもなる。

 

「そいつがもし本当に、我々と並ぶほどの存在なら……あいつ(・・・)の血が騒ぎそうだ」

 

 かつて幻想郷には多くの鬼がいた。鬼たちは人を(さら)い、人々は鬼を討つ。人と妖怪の循環は古くは鬼と共に。されど鬼の圧倒的な力を前に、人はいつしか正面から戦うことを忘れ、策を弄して鬼たちを葬っていった。

 鬼は狡猾な者、姑息な者、卑怯な者――そして何より『嘘』を嫌う。鬼たちは人から誇りと勇気が失われたことを嘆き、地上を去り、遥か遠くの『鬼の国』へと移り住んだ。

 

 長らく幻想郷から鬼がいなくなったことで、人々は鬼の存在を忘れてしまっていた。鬼退治の方法さえ忘れ去られ、幻想郷から失われた鬼の力は忘却の果て。

 それでも萃香だけは人を見捨てられず、幻想郷に戻って来ていた。自身の能力で己を霧と散らし、幻想郷中に広がることで宴会を見守っていた。

 鬼である自分が宴会に加われば、また恐怖されてしまう。拒絶されてしまう。鬼と人間の恐怖の循環は人々が手放した関係。萃香はそれを心の底で恐れ、幻想郷の宴会を遠くから眺めることしかできなかった。

 

 そして、いつかの春。かつて西行寺幽々子が西行妖の解放のために、幻想郷中の春を集めた春雪異変により、春が失われ冬が続いたとき。幻想郷の桜は咲いた端から瞬く間に散り、あっという間に春は終わってしまい、宴会もほとんど開催されることもなく、暑い暑い夏の到来を見ることとなった。

 こんなに悔しい年もない――と。萃香は己が能力をもって幻想郷の人妖の想いを(あつ)め、宴会に次ぐ宴会を催させる『三日置きの百鬼夜行』なる異変を起こす。願わくば、もう一度。鬼と人の信頼を、勝負と恐怖の循環を取り戻せれば――

 

 萃香の望みは叶うことはなかった。されど、宴に漂う霧を怪しんだ霊夢たちが萃香の存在を突き止め。紫の手引きによって萃香は幻想郷の人妖から洗礼を受けた。

 幻想郷の鬼退治。失われた真剣勝負ではなくスペルカードルールによる人と鬼の決闘。こうして萃香も幻想郷の一部と認められ、幻想郷に鬼を呼び戻すことこそできずとも、伊吹萃香という鬼はここに揺るぎなく。

 もはや姿を消す必要もない。幻想郷の住人として、萃香は受け入れられた。かつてのような関係こそもはや幻想の果ての記憶なれど、『すべてを受け入れる幻想郷』の想いのままに。

 

 伊吹萃香は異変を起こし、誰に負けることなく弾幕勝負を制したはず。それでも人を攫うことをせず、鬼の時代を取り戻すことができなかった理由は──

 幻想郷と共にすべてを受け入れる要として在る、博麗霊夢の力によるものであったのだ。




2021.04.03
『仮面ライダー』、50周年おめでとうございます!
昭和、平成、令和と続く仮面ライダーシリーズそのものの50周年でもありますね。

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響  三   
き  之   
逢  巻   
う      
鬼      


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【 鬼のかがやき吉野山 】
第33話 響き逢う鬼


A.D. 2005 ~ 2006
それは、語り合う明日の物語。

ぼくたちには、ヒーローがいる



 幻想郷の遥か地の底たる地底世界。そこに広がる旧地獄は、幻想郷に馴染めなかった嫌われ者たちの楽園として広がっていた。

 ここが旧地獄として切り捨てられた際に廃墟となるはずだった街──『旧都(きゅうと)』。それは現在、地上のルールに従わず、旧地獄で生きる荒くれ者や嫌われ者たちを受け入れる、忘れられた都となっている。

 

 幻想郷を去り、鬼の国とは異なる地を目指した一部の鬼は、余った地獄の土地に新しい社会を築き上げた。彼らは地上を追われた妖怪を受け入れ、やがて旧都は勢力を増し──それを危険視した地上の妖怪は、地底都市を認める代わりに条件を出した。

 それは、地底の怨霊を封じること。そうすれば、如何なる妖怪も地底世界に踏み入れさせないという相互不可侵を約束する。

 かつてお燐が意図的に怨霊を解放した間欠泉異変の際に、その関係は形骸化してしまったが──今でもとある一人の鬼を筆頭に、地底の繁華街、旧都は輝き溢れる活気に満ちていた。

 

◆     ◆    ◆

 

 地底と地上を繋ぐ数少ない通り道。渇いた風の吹き抜ける『幻想風穴』と呼ばれる洞穴に、この旧地獄に生きる二人、嫌われ者の妖怪たちがいる。

 一人は暗い茶色の服装に身を包んだ少女。同じく茶色いリボンをもって後部にまとめられた金髪と、衣服に結びつけられた三対の黄色い留め具はさながら蜘蛛の腹と複眼めいており、丸く膨らんだスカートには幾重もの金の帯。

 鬱屈とした暗闇の風穴には似つかわしくない明るい性格ながら、少女―― 黒谷(くろだに) ヤマメ は様々な病気を振り撒く『土蜘蛛(つちぐも)』としての力を地上で(いと)われ、この地底に移り住んだ。

 

 もう一人の少女――暗闇から人を襲う『釣瓶(つるべ)落とし』と恐れられた怪異。白い装束を纏い、緑髪の短いツインテールをふわりと揺らした幼げな少女は、自らの全身がすっぽりと入るほどの大きな釣瓶――木製の井戸桶から小さく顔を覗かせ、闇の果てを見る。

 表情にこそあまり滲ませないものの、この地において キスメ と呼ばれる彼女の心には見た目の可憐さと内気な性格には似つかぬ凶悪さがあった。

 釣瓶落としの本懐に従い人を襲う。地底という環境ゆえに人と遭遇することはあまりないだろうが、もし迷い人を見つければ、彼女は問答無用で首を刈り、桶に入れて持ち帰るだろう。

 

「…………」

 

 虚空に繋がった縄に吊られ、桶に入ったまま宙に浮いているキスメの隣。自ら編んだ蜘蛛の巣に腰掛け、先ほどからこちらを隠れ見ている(・・・・・・)者たちの気配に対し、ヤマメはいい加減不快なものを感じてきたところだった。

 いくら気配を殺したところで妖怪の知覚を誤魔化すことはできない。否、気づいたのは少し前だが、もしかしたら──もっと前から見られていたのだろうか。

 キスメも同様に、すでにその気配には気づいている。肌に突き刺さる視線は明確な敵意を滲ませているが、意識していなければヤマメたちでさえ気づけなかったかもしれない。

 

「私たちに何の用か知らないけどさ。……こそこそ隠れてないで出てきたらどうだい?」

 

 ヤマメは蜘蛛の巣から降り、キスメもその高さに合わせて虚空から伸びる縄をゆっくりと降ろす。さほど声を張り上げたつもりはなかったが、暗闇と静寂の幻想風穴、岩肌に返る音は木霊(こだま)のように反響した。

 ぴちょん――と、微かに雫の落ちる音。未だ姿を見せもせず、周囲から感じるいくつもの気配は不意に消え、そこには束の間、地底らしい渇いた風だけが通り抜ける。

 

 ─―その直後。二人は、先ほどの気配とは比較にならないほど強大な妖気を感じた。

 

「な……っ!?」

 

 薄暗い幻想風穴の彼方の闇、空間などあろうはずもない場所から凄まじい勢いで突っ込んでくる、木でできた『山小屋』――らしきもの。

 それは側面から突き出した漆黒の節足を乱雑に振り乱し、岩肌を打ち砕いて進む。やがて岩壁に大きくぶつかり、その衝撃でバラバラに砕けた山小屋が木片と散った。響く咆哮は不気味に鋭く、幻想風穴におぞましく木霊する。

 

 砕けた山小屋の中から現れたのは、人の身の丈を遥かに超える巨大な蜘蛛の怪物だった。

 漆黒の身体に真紅の四対眼、さながら虎のそれを思わせる黄色い縞模様。鬼が如く剥き出された大顎の牙は、それが如何なる伝承に由来するものか疑う余地もなく理解できるもの。

 

「グォォォォーーーーォォォォオオッ!!」

 

 見た目に違わず、その蜘蛛はやはり虎に似た咆哮を上げる。暗闇の中に爛々と真紅の眼を輝かせ、ぶつかる度に周囲の岩を砕き、微かな落石を全身に受けながら。

 洞窟が湛える静かな風と地底の妖気を薙ぎ払い、怪物は深い地底の奥深くを目指し――ヤマメとキスメはその驀進(ばくしん)に巻き込まれぬよう、咄嗟にそれぞれの方向へ飛んで怪物に道を譲ってやることしかできなかった。

 

 怪物の進行方向に見えるは果てなき暗闇。一瞬だけ生じた灰色のオーロラに飲み込まれ、巨大な蜘蛛は姿を消し。次の瞬間にはそのオーロラも地底の闇に掻き消えてしまう。

 その虚ろな光の波間に、ヤマメとキスメは二人の人影らしきものを見た──気がした。

 

「あれって……土蜘蛛だよね? ヤマメの知り合い?」

 

「……いやぁ……あんな知り合いにゃ心当たりないねぇ……」

 

 異形の大蜘蛛――まるで幻想郷らしからぬ姿をした『土蜘蛛』らしき怪物。それは紛れもなく黒谷ヤマメと同じ伝承の妖怪だ。ここにいる少女とは似ても似つかぬながら同じ妖気を宿した怪物(それ)について、キスメは思わず本人に問う。

 かの化け物には心当たりなどはない――と。ヤマメの答えは至極当然。あれはツチグモ(・・・・)であって土蜘蛛に非ず。幻想の紡ぎと別の理たる、異なる因果にて歪み育った怪異なのだから。

 

◆     ◆    ◆

 

 幻想風穴を超えた地底の道。暗い岩肌に覆われた天蓋の大地は春だというのに寒く、太陽の光の届かぬ地殻の下には冷たく渇いた風が吹き込んでくる。

 地上と過去を結ぶ道──『地獄の深道』と呼ばれるこの地には、旧地獄で最も栄える旧都へ渡るために、巨大な岩の谷と流れゆく地獄の川に一本の大きな橋が()けられていた。

 

 かつては渡る者の途絶えた橋と呼ばれたものの、相互不可侵の条約が多少緩んだおかげで霊夢や魔理沙を始めとした強者が訪れることもある。地底に用がある者は少ないが、地底から地上へ向かう者や、あるいは何らかの理由で地底に迷い込んでしまった者もここを通っていくのだ。

 

「地上はいつにも増して賑やかそうね。まったく……(ねた)ましいわ」

 

 この古びた地獄の橋、頭上の天蓋を見上げてぽつりと零す金髪の少女。やや高く伸びた耳と同様、地殻の下の嫉妬心に相応しい不健康な白い肌をした彼女は、鈍く淀んだ緑色の瞳を光らせて見えざる地上の空を心に想う。

 橋を守護する『橋姫(はしひめ)』と呼ばれる妖怪、波と揺れる金色のショートボブを風に靡かせた 水橋(みずはし) パルスィ は『嫉妬心を操る程度の能力』を有していた。

 

 茶色い衣に、青く黒く装うスカートは深く湧き上がる嫉妬の如く。特に理由なくあらゆる事象を妬み羨み己の妖力に変換する。故にその精神には陰鬱なものを宿していながら、地底に封じられた彼女自身の性格はさほど暗くはなく。この旧地獄においては友人も少なくないらしい。

 

「そうかい? 旧都だって地上に劣らず賑やかなもんじゃないか」

 

 岩肌に囲まれた橋の前、パルスィの隣に力強く着地しつつ、どこか体操服めいた趣の白い装束と蒼く長いスカートの女性が少女の声に返す。

 ふわりと舞った金色の長髪は剛毅(ごうき)な立ち居振る舞いに反して流れるように美しく、純然たる力を讃える輝きの如く。着地の際にカランと音を立てた下駄に加え、両手両足の首に装った鋼の枷と、そこに結ばれた鎖が重なり鳴る。

 

 慎重さなど欠片も感じさせない粗野な所作で飛び降りたにも関わらず、女性が左手に持つ大きな杯に満ちた酒は一滴たりとも零れていなかった。(たぎ)るような赤の中に五芒の星を黄色く宿すその杯は、女性が額に掲げる立派な一本角(・・・)と同じ意匠のもの。

 雄大なるその象徴が示す通り、彼女―― 星熊 勇儀(ほしぐま ゆうぎ) は紛れもない『鬼』であった。

 

 千年前に語られた『山の四天王』の一人、名を『力の勇儀(ゆうぎ)』。かつての幻想郷において、妖怪の山の支配者として君臨していた力の具現たる彼女も。人間から勇気と誇りが失われたことに失望し、かの地を去った。

 多くの仲間がいる鬼の国ではなく古く寂れた旧地獄を選び、ここに新しい都を拓いたのも自らが否定され忘れられた者であるという自覚を胸に刻み込むためだろうか。鬼の強さは単一の個にして完結しており、人の恐れを必要としないが――勇儀はその力がほんの少しだけ寂しかった。

 

「ただ……そろそろ仲間に入れてもらいたいもんだねぇ。地上(あっち)のお祭りにさ」

 

 勇儀は左手に持った大きな杯、鬼の秘宝である『星熊盃(ほしぐまはい)』を仰ぎ傾け、湛えた波を一息で飲み干す。この杯は注いだ酒の質を一瞬で向上させ、如何なる安酒であろうと最高品質の純米大吟醸酒(じゅんまいだいぎんじょうしゅ)ほどの次元に引き上げてくれるのだ。

 ただ、時間経過によって酒の質は劣化していくため、急いで飲まなければ損をしてしまうことになるのだが――この大盃には一升もの酒が入る。余裕をもって優雅に飲んだとしてもその味を落とすことなく楽しむことができるのは、無双の(きも)を持つ彼女ら鬼くらいのものだろう。

 

「心配しなくてもよさそうよ。もう地底(こっち)にもその影響が出てるみたい。私たちみたいな日陰者(ひかげもの)にもしっかりと向き合ってくれるその誠実さ、眩しすぎて……地殻(はら)の底から妬ましいけどね」

 

 酒のなくなった星熊盃を手元から消失させた勇儀の言葉に返すパルスィ。隣に立つ鬼と共に見上げた地底の天盤からは、地上と地底の狭間の大地に染み込み純化された気質の具現、薄紫色に輝く小さな石片が舞う。

 地上においては桜が咲く季節、春に見られる光景。地底の天蓋(そら)から静かに降り注ぐ美しい鉱物の欠片は『石桜(いしざくら)』と呼ばれ、桜の木の下に埋められた人間の死体が朽ち、残された魂が徐々に地へ沈み、純化され、罪と欲の色に煌く石として結晶化したものだ。

 

 それ自体は地底では珍しいものではない。春に桜が咲くように、時期が訪れれば人間の死体から零れた魂も石桜となる。見る者によっては禍々しく、あるいは空虚な輝きかもしれないが、地底に住む者にとってはそれは毎年見られるありふれたもの。

 パルスィが注目したのは、その石桜に加えて本来同時に起こり得るはずのない現象が起きていたことだった。

 春の象徴たる石桜と共に清く降り注ぐ──幻想的な細雪(ささめゆき)。はらりはらりと闇に舞う白は、春も半ばだというのに、吹き込む風と共に冬の寒さを肌で思い出させるかのよう。

 

 勇儀はいつかの冬の日、地上の人間がこの地底に踏み入ったことを懐かしんだ。地上に噴き出した間欠泉と、それに伴う怨霊の調査に訪れた巫女か魔法使いか、彼女らは遥か太古の人間たちを思わせる力強さと度胸に満ちていた。

 願わくばもう一度、今度は手加減した上でなく本気で拳を交えてみたい。勇儀の胸に秘めた祈りは、いつか再び地上の強者と戦いたいがために。

 地底の世界は勇儀たちのような荒くれ者にとっては力だけが物を言う楽園のような世界である。故に一度は捨てた地上の世界に、もはや未練も興味もない。が──

 そこに血沸き肉躍るだけの戦いがあるのならば。再びかの地を目指してみたくもなる。

 

「おや? あそこに見えるのは……もしかして地上からのお客さんかな?」

 

 古びた橋の彼方に馴染みのない気配を感じ、勇儀は己が向けた視線の先にどこか自身と似た気を抱き有した人間を見つけた。

 この捨てられた地獄においてなお妖怪を警戒する様子もなく、多少の困惑はあれど悠々と荒れた岩道を歩く姿。それは紛れもなく、この旧地獄の恐ろしさを知らない地上世界(へいわなせかい)の住人だろう。

 否、ここからでは遠くてあまりよく見えないが、あの異質な装いはあるいは──

 

「不思議な場所にー、迷い込んでもー」

 

 抑揚のない声で慣れ親しんだ童謡を口遊(くちずさ)む体格の良い男が一人。今ある状況に合わせ、童謡の歌詞を替えて歌い歩くは、幻想郷らしからぬ現代的な衣服に身を包んだ外来人(・・・)だった。

 

「もー、もー、もー、もー、問題ないさと頑張ろうー、っと」

 

 落ち着いたシャツとボトムスに黒いコート。岩肌を飛び越えて着地し、腰に装ったベルトの左側、銀色に輝く三枚の円盤が重なり揺れる音を聞く。男は慣れた様子で足場の悪い地底の岩場を軽やかに渡り、大きな橋の前に立った。

 幻想郷の外の世界、異なる紡ぎから(いざな)われた男の名は 日高 仁志(ひだか ひとし) 。されど彼には生まれ抱いた本名とは別に、己の名として語り得る『もう一つの名前』が与えられている。

 

 自然と共に鍛え、人の心を清く貫き。鍛錬の末に辿り着いた者だけが至る大自然の力。世界に満ちる妖気と変異の響きを借り、彼らは人ならざる境地へと変わり果てる。古く戦乱の世より続く人守りの組織から授かった『ヒビキ』の名を、彼は大切にしていた。

 それは高鳴る鼓動の如し。鬼の如く峻烈に唸る大地の声、あるいは山林を越えて伝う烈火が如き(つづみ)の音色。遥か古の時代から受け継がれたその名は、今のヒビキにとって何代も継承され続けた灯火を証明するものだ。

 

 如何にその胸に雄大なる炎の音色を宿していようと、暗い洞窟はどうしようもなく冷える。静けさと薄暗さに満ちた地底の洞窟、地獄の深道で。ヒビキは大きく派手なくしゃみを一つ。

 

「……せめて香須実(かすみ)と連絡取れりゃあなぁ」

 

 むずむずとした鼻をこすり、ヒビキは暗闇に白い息を吐きながら。その脳裏に浮かんだのはこの未知の洞窟、地殻の穴に迷い込んでしまう少し前の記憶。

 それはある冬の日。大いなる自然の歪みに(まみ)え、ヒビキたちは荒れ狂う魑魅魍魎(ちみもうりょう)の大群を(しず)めて大地を清めるための儀式を終えて――早くも一年の月日が過ぎ去ったとき。

 

 ヒビキは一人の少年と再会した。共に歩んだ道の中で、少年はヒビキから多くを学び、成長していた。友として弟子として、彼はヒビキからたくさんのことを教わったが――それはヒビキも同じだったのかもしれない。

 二人の弟子のうち、一人は師である彼と同じ道を。そしてもう一人は、道こそ異なれど同じ理想に輝く夢を。彼らと共に鍛え続け、自らの明日を歩むということ、強く生きていくということの意味を。ヒビキは師として己が背中をもって、あるいは隣立つ友として語り、伝えた。

 

 彼らの鍛錬に終わりはない。常に自分に負けないために。己の弱さに打ち勝つために。鍛えて鍛えて鍛え抜いて。果てなき道に迷うことなく。

 初めて南の島にて出会ったときと同じ、凍てつく冬の日差しを眺めて。太陽が照らす輝き、明日なる夢を語り合い。ヒビキは再会の喜びを抱き、少年に再び師として向き合った。違えた道に関係のない――人生の師として。

 あれから数日が経ち、変わらず己の戦いに挑もうとしていたとき。またしても発生した怪異から人を助けるべく、仲間たちの伝えた地点に赴き、大自然の力が具現化した怪物を清めようと。

 霧深い山の奥深く。奇妙な気配が漂う岩場へと踏み入ったのが、最後の記憶であった。

 

「ったく、雪まで降ってきちゃってもー……うん?」

 

 昔から機械に疎いヒビキは携帯電話という便利な連絡手段を有してはいない。普段の連絡も仲間の携帯を借りるほどであるが、元よりこの幻想郷においては外界の電波に依存する道具が役に立つことはないだろう。

 妙に冷え込む岩肌の道、はらりと舞った白を手に受け止めて。ヒビキは天蓋の闇より降ってきた雪を見上げ──ここが紛れもなく洞窟の中(・・・・)だという揺るぎない事実を思い出した。

 

「どーなってんだこりゃ……」

 

 依然として降り続ける、雪の結晶たち。空を見上げてもそれなりに高い岩の天盤があるだけ。どこを見渡しても空の見えるような穴などはないし、岩肌のあちらこちらに突き刺さったような薄紫色の仄かな明かりがなければこれから歩む道も見えないほど。

 この雪は岩肌から、あるいはこの洞窟の上方、何もない虚空から降っている――そうとしか考えられない。その奇妙な光景に、ヒビキは思わずその雪を両手に受け止め声を漏らしていた。

 

「外来人たぁ珍しいお客さんだね。よくここまで死ななかったもんだ」

 

旧地獄(こんなところ)まで来てのんきに歌える肝っ玉……なんて妬ましいの」

 

 地底の橋の前、雪降る奈落の暗闇にて、ヒビキは自身に向いた女性らしき声へと振り返る。古びた橋を渡る二人の女性は、ヒビキにとっては見慣れぬ幻想的な服装。されど彼女らにとっては地底らしい妖怪としての姿であった。

 勇儀とパルスィは地上世界の様子には詳しくない。しかし地上の幻想郷が今、未知の大異変に襲われ、博麗の巫女が動き出しているという噂は聞いていた。

 

 この地底にまで影響が及んだ以上、旧地獄の妖怪も無関係ではいられまい。

 数日ほど前に旧地獄の中心――地霊殿から奇妙な気配を感じていたが、あそこは旧地獄においては特異点とも呼べる場所である。地底全体のルールから逸脱しているところがあり、鬼の勇儀でさえ不用意に手を出すことが(はばか)られたのだ。

 だが、この幻想風穴から地獄の深道――旧都に続くこの領域にまでそれが及んだのなら。あるいは地上で騒がれているらしい未知の怪物とやらも。それらと互角以上に戦ってみせるという外来人の戦士なる存在も。もしかしたら、この捨てられた地獄の廃墟で出会えるかもしれない。

 

「おっと。君たちさ……その……悪いけど、もし出口とか知ってたら……」

 

 橋の向こうから現れた二人の女性に向き直るヒビキ。一人は額に立派な角を備えており、一人は深い緑眼と尖った耳。どちらも見慣れぬ奇妙な出で立ちに加え、どこか妖しい特徴が気になったものの、深く詮索しようとはしない。

 情けない話だが、いくら鍛えていようと未知の洞窟においてはどうしようもなく。大自然と共に鍛え、自然との向き合い方はそれなりに身に着いていると思っていたが、ここまで無垢なる幻想を目にしてしまえば、否が応にも自分の無力さをまざまざと理解させられてしまう。

 

「…………っ!」

 

 ヒビキはこの未知の洞窟に慣れ親しんだ様子の少女たちに声をかけた。――そのとき。大地が砕けるような音が耳を打ったと同時、震える岩の足場がヒビキの足を捕らえたのだ。思わず体勢を崩しそうになるが、咄嗟に両足で地を踏みしめる。

 局所的な地震ではない。そう錯覚するほどの衝撃は、目の前の雄大な角を持つ女性が大地を踏みつけたがため。勇儀が一歩踏み出したその右足は、何の妖術も使わずただ物理的な力のみで、周囲の大地を揺るがした。

 それはまさしく怪力乱神(かいりょくらんしん)。説明のつかない荒唐無稽な事象。勇儀が有する『怪力乱神を持つ程度の能力』は、彼女の身体能力を語るものか。天の見えざる地底の洞窟にて雪が降るのも――彼女が持った怪力乱神、理を無視した法則が影響しているのかもしれない。

 

「挨拶代わりだ、持っていきな!!」

 

 一瞬だけ揺れに足を取られ、硬直したヒビキに向かう勇儀。鍛え抜かれた剛腕を振りかざし、地底の空気を砕きながら、貫き進む拳を放つ。

 対するヒビキもその拳をまともに喰らわぬよう、微かに硬直した足が動かせないゆえに正面から受け止めた。女性らしい細腕にしっかりとついた筋肉、されどその整った身体からは想像もつかないような──まさしく鬼の如き一撃。

 同じく鍛え抜かれたヒビキの両腕はそれを防ぎ切った。本気で殴ろうとしたわけではないが、勇儀はその反射神経と判断の良さ、何より鬼の拳を受け止めるだけの腕力に口角を上げる。

 

「ちょっと、勇儀! そんないきなり……!」

 

 鬼特有の血の気の多さが妬ましいと心に滲ませ、ヒビキと同じく勇儀の地均(じなら)しに足を取られていたパルスィが慌てた。

 勇儀の顔を見れば分かる。地上と地底を結ぶこの橋で、地上から現れた外来人。幻想郷の噂に聞く未知の怪物が地霊殿にも現れたのだとしたら、いっそ自ら地上にでも赴いてしまおうかと思ったほど。きっと彼女は、異変に関わる存在と拳を交えるのが待ち遠しかったのだろう。

 

「よく受け止めた! いいよ! その調子でもっと私を楽しませておくれ!」

 

 勇儀はさらなる喜びを胸に湧き上がらせ、ヒビキの腕を押さえて強引に抉じ開ける。力を込めていなければあわや骨が折れかねんほどの膂力(りょりょく)に、ヒビキは思わず表情を変えた。

 

「女の力じゃない……! まさかお前、童子(どうじ)たちの仲間か……?」

 

「童子? まぁ、いつだかはそう呼ばれたこともあったねぇ」

 

 勇儀はヒビキの問いに訝しげな表情を見せながらも、力を緩めることはない。しかし本気で拳を振るわず、ある程度の手加減をしているのは相手のためではなく。

 地底にまで現れた貴重な外来人、おそらくは未知の怪物か、それと戦う人間か。そこに類するであろう者をみすみす再起不能に陥らせてしまってはもったいないと、勇儀の本能が叫びを上げているからだ。

 互いに後退し、距離を取る。ヒビキは拳を固めるも向かう拳を凌ぐためだけに振るい、勇儀はその腕を試すために。人間であるヒビキの拳は勇儀にまで届く距離にないが、鬼である勇儀の拳は、その三歩先――鬼の三歩、すなわち目に見えるほとんどの範囲に届く。

 勇儀とヒビキが互いに向き合わせたそれぞれの拳が、地底の闇を切り裂き貫き進み――

 

「そこまで!」

 

 嫉妬心に歪んだ声と共に、両者の前におぞましい負の想念が込められた緑色の光が走った。それはまるで二匹の蛇の如く緑眼を光らせ、闇色の空間を滑るように昇っていく。不気味な力の波動を前に、ヒビキは思わず本能的に怯んで後退。勇儀も興を削がれ、パルスィに向き直った。

 

「勇儀とまともにやりあうなんて、あなた……本当に人間なの……?」

 

「ええ……? お前らこそ、その力はいったい……」

 

 パルスィの問いに、ヒビキは困惑の色に満ちた声を漏らした。

 ヒビキの前に振るうは揺るがぬ怪力乱神。そして目の前を走った緑眼の蛇。幻想的と言えば聞こえはいいが、それらはこの薄暗い地底に相応しい――忌み嫌われ失われた力である。

 

 少し拳を交えただけだが、勇儀はヒビキの力に何かを感じたらしい。スペルカードルールが制定されて以来、鬼らしく妖怪らしい力と力のぶつかり合いはほとんど味わえていなかったものの、弾幕ごっこはそれなりに楽しかった。

 しかし、やはり拳を打ちつけ合う力の勝負は、心が躍る。相手を人間の強者と認め、勇儀はヒビキにこの旧地獄と呼ばれる場所がどういうところであるのかを説明した。

 

 世界に忘れ去られ幻想となった者たちが集う場所。さらにそこにさえ居場所のない嫌われ者たちが住み着いた深い地の底。稀にそのどれにも該当しない外の世界の人間が迷い込んでしまうことがあるが、その多くは妖怪に襲われ帰らぬ人となる。

 地上で起こっている異変の影響で幻想郷には未知の怪物が発生しているという。勇儀の説明に加えて現状を説明したパルスィの言葉には、ヒビキに対する微かな期待の色が込められていた。勇儀と拳を交えて無事でいられる人間の強者は少ない。が、パルスィの目が認識した気配は紛れもなく人間のそれであった。

 心身共に鍛えられた力は、力試しとはいえ鬼の目にも適うほどの領域に至っている。地上からの噂に聞く未知の怪異と戦えるらしい超人の存在に、もしこの男が該当するのなら。パルスィは勇儀が認めたこの男が、その超人と呼ばれる者であることを願って、異変についてを話した。

 

「幻想郷に旧地獄……ねえ……」

 

 ヒビキは彼女たちから聞いた説明を頭の中で形にする。忘れられた妖怪や妖精。自然や恐怖といったものが具現化した大いなる怪異、魑魅魍魎。ヒビキはそれらと似た存在を奇しくもよく知っていた。

 勇儀たちが語った幻想郷なる秘境の話は聞いたことがなかったが、自然とヒビキの思考において既知の情報と未知の情報が二重の音となりて共鳴していく。

 跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ)する百鬼夜行、(あや)しく語られる化生(けしょう)の類は、彼にとっては『幻想』などではない。

 

「おや、意外と動じないもんだね。外来人ってのはもっと大騒ぎするもんだと」

 

 視線を伏せて思案するヒビキの表情に、勇儀は彼の中に力だけでない清らかさを見た気がした。妖怪や地獄と聞いて恐怖したり混乱したり──取り乱すようなことは決してなく。微かにひそめた眉と逸らした視線の中に、何かしらの響き(・・)を感じて。

 

 パルスィもただ驚くだけではないその様子に何かを感じたようだ。本来ならば外来人という存在は結界に近い地上の領域にこそ現れるはずだが――外の世界とは縁のないこんな場所に現れたのはやはり、異変の影響か。

 そう考えても、この男は地上で起きている怪物騒ぎに関係している可能性がある。地底にまで影響が及んだこの状況で現れた外来人など、怪しんで然るべき者。

 きっと勇儀もパルスィと同じ思考に至っていたのだろう。もしくは単に力強い人間であったからか。パルスィもまた、勇儀と同じくこの男を妖怪の餌にしてしまうのが惜しくなった。

 

「異変の影響かもしれないけど、旧地獄(こんなところ)に外来人が現れるなんて前代未聞よ。妖怪だらけで危ないことに変わりはないけど、まずはせめて旧都に――」

 

 パルスィは相変わらず周囲から感じる妖怪の気配に意識を割きつつ、安全のためにこの男を旧都まで案内することを提案する。旧都も荒くれ者の妖怪が日夜を問わず騒ぐ百鬼夜行そのものと呼べる場所だが、理性なき獣同然な妖怪の多いここよりかはマシなはずだ。

 

 地獄の深道を繋ぐ太鼓橋の上で、旧都側の岸から視線を返し。勇儀とヒビキの方へ振り返ったパルスィは、二人が先ほどまでの様子とは打って変わって、神妙な表情で何かの気配を警戒していることに気づく。

 最初は外来人を狙う地底の妖怪を警戒しているのだと思った。突き刺さるような露骨な妖気はパルスィにも分かる。されどそれらは鬼である勇儀を恐れ動くことができないはず。

 

「二人とも……どうかしたの?」

 

 外来人である彼に対してはどの程度の力量か分からない。しかし旧地獄において紛れもなく最強の存在である勇儀でさえ、気配の相手を掴みかね反応できない様子。

 旧地獄に移り住んだ太古の鬼、勇儀。彼女が知らない相手ということは、まさか――

 

「「走れ!!」」

 

 パルスィの思考を寸断する怒号。尖った耳先に走る声はヒビキと勇儀の双方から発せられ、地底の空気を打ち震わせた。

 その言葉の意味が分からず、一瞬反応が遅れる。が、直後に感じた未知の気配、パルスィの五感に突き刺さる悪意が彼女の知覚に『何か』の襲来を伝達した。

 

 暗闇を切り裂いて走る一条の白――それは刃の如く張り詰めた蜘蛛の糸(・・・・)。弾丸じみた速度で飛来し、たかが一瞬、されど一瞬の隙を見逃すことなく、一直線にパルスィへと飛び迫る。

 

「はぁっ!!」

 

 ありったけの妖気を込めた勇儀の拳が、正面からそれを殴り散らした。続けて固めた拳を開き、伸ばした右腕の手の平から妖力の光弾を飛ばし。天盤の一部を砕き割ったそれは、岩肌に隠れていた『女』らしき人影を地に落とす。

 そちらは不意の攻撃に受け身を取り損なった様子だが、油断はできない。たった今、糸が飛んできた方向の真逆。自らの身をもって蜘蛛の糸を繰り、振り子の要領で飛び迫ってくるもう一人の人影――『男』らしきそれは、パルスィの背中に刃の如き爪を振りかざしていた。

 

「たぁっ!!」

 

 咄嗟の判断でその身を蹴り上げるヒビキ。蜘蛛の糸を伝って飛んできた人影は女の人影と同様に幻想風穴側の岸に叩きつけられ、隣合った女の人影と共に立ち上がる。

 

「っ……! 妖怪……? いや……違う……!」

 

 ゆらりと立った二つの人影。石桜が放つ薄明かりに照らされ、ぼうっと紫色に染まるは、それぞれ人間に近い男と女の姿。黒い和装を纏う長身痩躯の男と、白い和装を纏う虚ろげな女の二人はどこまでも不気味な視線でパルスィたちと向き合った。

 パルスィの知覚は相手の妖気からではなく、かの人影から感じた奇妙な嫉妬心に依る。あれらは人でも妖怪でもない。否、どちらかと言えば妖怪に近いのであろうが、幻想郷の妖怪としてあるべき『幻想』を一切帯びていないのだ。

 

 人が見れば人に見えよう。(あやかし)が見れば、あるいは妖と見紛おう。

 しかしてそれらはいずれにもあらず。人と妖、どちらの気配も等しくありて、どちらともつかぬ不浄の骸。おびただしき自然の邪気を孕んだ──単なる土塊(つちくれ)の人形と呼ぶべきモノ。

 

「なるほどねぇ……こいつらが地上で噂の怪物って奴かい?」

 

 怪物と言うには貧相な見て()れだけど、と。勇儀は等しく黒髪を湛えた二つの人影を見る。

 見た目のほどは如何にも貧弱そうな人間のそれ。勇儀にとって奇妙だったのは、それらが自分のよく知る妖怪――『土蜘蛛』の妖気を宿していたこと。

 勇儀やパルスィの知る土蜘蛛、黒谷ヤマメと目の前の男女とでは特徴が合致していない。だが、先ほど放たれた蜘蛛の糸が彼奴らの力によるものであれば、あるいは一種の同族なのか。

 

「……立派な妖気を湛えた妖怪……うちの子の餌になってもらいます……」

 

「……震えるような強くたくましい気配……さぞかし美味なことでしょう……」

 

 痩せこけた頬を震わせ、黒装の男――『ツチグモの童子』が告げる。その声は男の姿に似つかぬ可憐な女のもの。続いて紡がれるは白い太腿を晒した白装の女――『ツチグモの姫』の口から。されど、その声は男のように低い。

 童子と同様に頬に刻まれた蜘蛛の糸を思わせる意匠の如く、どこか粘り気を含ませた(いや)な口調で。ツチグモの『童子と姫』――(つが)いの怪異は、静かに息を吐き洩らす。

 

 するり――それぞれが装う黒と白の装束は首へと束ねり、裸身を晒した二人の身体は一瞬にして漆黒の外殻に覆われた。

 頭部と四肢は歪み変じた虎縞模様の甲殻へ。溢れる妖力が形を成し、それらは人とはつかぬ異形の姿に変わる。首元に結わえた衣をひらりと流し、童子は蜘蛛を思わせる怪人――『怪童子(かいどうじ)』の姿となった。

 同じく隣に立つ姫もまた同様の異形へと変わり果て、こちらはその長い黒髪をおぞましく歪ませた不気味な蜘蛛の化生として人の形を成す『妖姫(ようひめ)』の姿に至る。

 ツチグモの怪童子と妖姫。それら二つの異形は己の変異を終えるや否やと口を開き、再び先ほどと同じように、暗闇に白く輝く蜘蛛の糸を吐きつけ──目の前の勇儀とパルスィを狙った。

 

「少しはそれらしい姿になったじゃないか。遊びがいがあるってもんだ!」

 

 蜘蛛の糸を手刀で弾き、勇儀は不敵な笑みを零す。パルスィは咄嗟に己が緑眼を光らせ、自身に飛んだ蜘蛛の糸を緑色の炎と燃え尽きさせるが、今はこれら未知の怪物を相手にするよりこの外来人を安全な場所まで送るべきだ。

 見知らぬ怪物に背を向けるのは愚行。しかしそれは彼女が一人だった場合の話。今、この場所には、地底において今も古くも(なら)ぶもの()き『鬼』がいる。

 山の四天王の一人、力の勇儀。パルスィは怪物を彼女に任せ、外来人に向き直った。

 

「今のうちにこっちへ――」

 

 パルスィがヒビキに声をかけるが――ヒビキは悠然と歩み出し。あろうことか勇儀と怪物が睨みを利かす場へと踏み込もうとしているではないか。

 いくら腕に自信があろうと、あれだけ異質な妖気を持つ怪物を相手にしようなどと思うまい。無謀な試みを叱責すべく口を開きかけたパルスィだったが、揺るぎない足取りで歩を進めるヒビキの闘志を見て声を失う。

 微かな恐れをも深く呑み殺し、ただ己の心を信じて。ヒビキは一切の迷いなく、瞳の奥に熱き炎を込めながら。ツチグモの怪童子とツチグモの妖姫に向かい合う勇儀の眼前へと躍り出た。

 

「お前たちの方から出てきてくれるなら、こっちとしてもありがたいな」

 

 歪む怪異、うごめく邪気。二つの異形に向かい合い、ヒビキは腰に装ったベルトの右側、小さく折り畳まれた音叉(おんさ)を右手に取る。

 黒塗りの柄に輝く金色(こんじき)は炎の如く雄々しく。手首を振るって開かれた内側にはやはり黄金色(こがねいろ)に施された鬼の形相。その先に延びる白銀(しろがね)の双角は清く美しく焦げくすみ、どこか歴戦の鼓動を伝える勇ましき音色を──研ぎ澄まされた響きを宿しているかのよう。

 

 古き戦乱の時代より受け継がれ、現世の技術をもって伝承された力。紡ぐ妖術と歩む叡智。そして鍛え抜かれた肉体に、すべての意志を伝えるため。

 ヒビキは手にした『変身音叉(へんしんおんさ)音角(おんかく)』が掲げる二股の白銀、音叉としての機能を果たす鬼の双角を、地獄の深道に架かる太鼓橋、その両脇を彩る(あか)欄干(らんかん)へと軽やかに打ちつける。

 

「…………」

 

 不意に、この古き地獄の底には似つかぬ清らかな音色が響き渡った。

 それは鈴の音のような甲高い囁きのようにも、鐘の音めいた重厚な響きにも聞こえる、神秘的な純音。音叉という道具が存在する遥か以前の記憶を呼び覚ます始まりの波動。まるで透明になったみたいに──清く透き通った太古の()を奏でて。

 

 右手に震える音角(おんかく)をゆっくりと自らの額へ近づけるヒビキ。その身は音と共鳴し、ヒビキの額に鬼の形相を浮かび上がらせる。落ち着いた金色に鈍い輝きを放つそれは、音叉の柄に輝ける金色のそれと同じ『鬼面(きめん)』と呼ばれるもの。

 額に灼熱を感じ、ヒビキが音角を下ろすと、それは再び折り畳まれて右腰へ。

 

 妖気は紅く、闘志は熱く。滾る炎を(こころ)に抱き、燃ゆる鼓動、奏でる鬼道は誰がためか。高まり唸る自然の気配はこの荒涼たる地底においてなお強く。ヒビキの身に共鳴する音叉の音色は、人の限界を極めて鍛え抜かれた彼の身体に――妖しくも力強い『紫色の炎』を燃え上がらせた。

 

「はぁぁぁぁぁあああっ……」

 

 湧き上がる妖気に打ち震えながら、童子と姫が微かに後退る。紫炎の中に立つ影、ヒビキは直立不動のままだらりと両腕を下に落としたまま、静かにゆっくりと息を吐く。

 燃える紫色が自身の衣服を焼き散らしていくことさえ気にせずに。額に鬼面を残しつつ、生まれ持った己が肉体が、大自然と共にある『異形』のそれに変じていく感覚に身を委ね──

 

「――たぁっ!!」

 

 響く一声。おもむろに上げた右腕で、身体に纏う紫炎を払い退ける。晴れた妖気の中に佇んでいたのは、先ほどまでの『人間』としての姿ではなかった。

 見慣れぬ姿に相容れぬ、この旧地獄においてはあまりに馴染み深きその気配。外の世界から現れたであろう外来人が持ち得るはずのない古の妖気に、パルスィと勇儀は思わず目を見開く。

 

「そんな……嘘でしょ……?」

 

「……驚いたねぇ。まさか、こんな時代に同胞(・・)と巡り逢えるとは」

 

 勇儀たちの視界に映るは艶やかな光沢を返す紫色の戦士。胸に架かる銀の装いと真紅に滾る両腕の拳。頭部は眼も口も鼻もない無貌となり、代わりに歌舞伎めいた隈取りを紅くあしらい、額に浮かべた金色の鬼面をその象徴と掲げる。

 鬼面の双角から伸びる二つの白銀は戦士の頭頂部から後頭部をぐるりと巡り、やがてこめかみを抜けて前方に。勇儀の一本角と等しいそれは、立派な『二本角』と突き出していた。

 

「…………」

 

 天蓋に輝く石桜の紫光と舞い散る雪。地底の暗闇に、微かに降りかかる紫の火の粉を受け。深い革色の(ふんどし)を腰帯と装い、その正面に三つ巴の鬼火(おにび)を描いた円盤を備えた異形の存在。頭に伸びる角もそうだが、何よりその気配こそが疑いようもなかった。

 幻想郷とも外の世界のそれとも異なる紡ぎ。勇儀たちが感じた気配は、この地に伝承される幻想的なものではない。

 されど、それは紛れもなく。『鬼』と恐れられる者の妖気に他ならないのだ。

 

 どうして人が鬼に――パルスィの思考を染める疑問。鬼は人に非ず。人は鬼に非ず。決して交わることのないそれらは、遥か古の時代に信頼関係を断ったはず。地上においては異変の影響で異なる紡ぎとの接続が成されていると噂に聞くが――

 まさか件の怪物や外来人たちが別世界から現れているという話は本当なのか。人でもあり鬼でもある、そんな存在が実在するなら。荒唐無稽な別世界とやらの存在も現実味を帯びてくる。

 

「……危ないから下がってな」

 

 鍛え抜かれた鬼の姿へと至ったヒビキ─―その名の所以(ゆえん)たる『響鬼(ひびき)』の姿。紫色に輝く強化皮膚は石桜の煌きを反射し、妖しくも清く美しい光を差し照らしていた。

 ヒビキは赤い拳を開いて太鼓橋の上に立つパルスィとその正面に立つ勇儀を制す。無貌の面で睨みつけるは、本来ならばこのような場所にいるはずのないツチグモの童子と姫(・・・・・・・・・)の怪人態。

 

「……鬼か……」

 

 ツチグモの怪童子が女の声で呟く。古来より続く鬼と妖の戦いは、彼が生きた『響鬼の世界』の法則。此度の異変に際して接続された多くの世界と同様、語り継がれる魑魅魍魎たちの妖気は、幻想となることなく幻想郷に受け入れられた。

 怪童子と妖姫はそれぞれ己が右腕を蜘蛛の足めいた強靭な爪へと変じさせる。岩をも貫き穿ち得る鋭さを秘めた刃、それは鍛えられた鬼の皮膚さえ引き裂かんほどのもの。

 

 ゆっくりと歩を進めていたヒビキは不意に姿勢を低くし、おもむろに大地を蹴る。山野を駆けるが如く軽やかに、それでいて一歩一歩を踏みしめる脚の力は和太鼓を打ち鳴らすかのように力強く確実に。歩みと拳の動きに合わせ、涼やかに冴え鳴る鈴の音色(おと)

 爪を振り上げて襲いかかってきたツチグモの怪童子の腹を蹴り上げ、地底の岩場に叩きつける。それを目で追い振り返った妖姫の表情は異形ながら怒りに歪んでいるようにも見えた。

 

 この身体は受け継がれた鬼として。されど鍛えた心は鬼に非ず。ヒビキは鍛錬の末に鬼の力に至ったが、鬼であるということは『鬼であってはいけない』ということ。それを弁え、ただ鍛え抜いた力を振るい破壊を成すのではなく。

 拳に込めるは祈りの音。悪意と邪気に歪んだ怪異を、自然の想いに代わって清めるため。ヒビキは鬼の音色を広く届けるための太鼓として、その名に掲げた『響き』を奏でるのだ。

 

 大地と語る明日の夢、空と木々が紡ぐ鼓動。受け継がれゆく幻想は、勇ましく鳴り響いた。




誰もが思いつく鬼と土蜘蛛の地底。洞窟いいね。
せっかく旧地獄にヤマメがいるのに尺の都合であんまり関わらせられないのが寂しいぜ……

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    三  回 

   四   
誘  之   
う  巻   
奈      
落      


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第34話 誘う奈落

 私、水橋パルスィは、石桜と雪が舞う地の底で不思議な男の人に出会った。
 その外来人(ひと)の名は――ヒビキ。
 そのヒビキさんに幻想郷のことを語った私たちは、そこで大変なものを見てしまう。

 今、私たちの目の前には、勇儀でさえ知らない『鬼』がいる――


 季節通りの石桜と、季節外れの細雪。二つの季節が混じり合う旧地獄の橋の前で、艶やかな紫色が鬼火と灯る。はらり舞った妖しげな火の粉が散る暗闇の中で、『響鬼』――鬼の姿に変わり果てたヒビキは身体を慣らすように右腕を回し、紅く染まった鬼の拳を握りしめた。

 

「っし……行くか……」

 

 さながら仮面とも言うべき異形の相貌に変わりはなく。ヒビキは紫色の無貌の口に当たる部分から静かに息を吐きつつ、対する二つの異形に向かう。

 ツチグモの怪童子と妖姫は放たれる鬼の気配に一度は怯んだものの、すぐに湧き上がる殺意を形とした蜘蛛の脚の如き爪に力を込めた。

 たとえ相手が鬼であろうと、自分たちの成すべきことは決まっている。愛する『我が子』のために必要な餌は、今や人の肉よりも高純度な力。この秘境の地に在る幻想の妖怪たち、それらが持つ妖気と邪気のエネルギーは彼らの『子』を育てるための最上の糧だ。

 

 鋭く吐きつけられた蜘蛛の糸を避けながら、ヒビキは自然の祈りを込めた赤い拳を振り上げる。この力をもって成すは『破壊』ではなく『浄化』――その意味を胸に燃やし抱き、燃え上がる炎の鼓動に(こころ)を震わせて。

 荒れ狂う自然の歪みに対して人知れず戦う鬼たち。別名『音撃戦士(おんげきせんし)』と呼ばれる存在には、今もなお長く紡がれ続ける歴史がある。

 同じ自然の力を纏いて異形の姿となる鬼、化け物だと恐れ拒まれながらも人々と共に戦う彼らを支えるべく、吉野の土地にて人守りの組織は生まれた。とある鬼の弟子であった青年の名を由来とする『猛士(たけし)』の集いは、鬼も鬼ならざる者も、共に苦難を分かち合い人々を守るために。

 

「勇儀、あの外来人……間違いないわ」

 

「そうだねぇ。どうやら、力を試す必要もなかったみたいだ」

 

 人の身から鬼の姿へ至った外来人の男を見て、パルスィと勇儀が言葉を交わす。

 目の前にいるのは間違いなく『鬼』――それも幻想郷の者ではない。外の世界にだって、人でありながら鬼である存在などいるはずがない。少なくとも、紛れもない鬼である勇儀自身でさえ、そんな話は聞いたことがなかった。

 呪詛や怨念によって鬼と化す人間の伝承もあるにはあるが、勇儀の前で焔と揺れる鬼にはそういった邪気がない。この瞬間に鬼と堕ちたのではなく、今なお人としての心を残したまま肉体だけを鬼に変じた。まるで、鬼の力を人の身で我が物としているかのよう。

 

 パルスィが聞いた地上の噂、幻想郷と接続された並行世界の存在が事実だとすれば、そこにいるのは幻想郷や外の世界とは異なる歴史を持つ異界の鬼。

 否、あるいは人であるのか妖怪であるのか。気配を感じる限りではまさしく勇儀と同等の鬼のそれだが、この姿に至る前までは疑いようもなく人間の気配を放っていたはず。

 

 思えば勇儀の驚きは先ほどこの男を見つけた瞬間からだっただろうか。もしかしたら、勇儀には彼が姿を変える前から鬼の気配が感じられていたのかもしれない。

 いくら喧嘩っ早い勇儀でも、弾幕もなしに生身の人間にいきなり殴りかかるような真似はしないだろう。思わず拳が出てしまったのは、彼が勇儀と同じ鬼の力を宿していたからなのか。

 

「……はぁぁあっ……」

 

 身体に鬼の力を込めていくヒビキ。赤い拳に滾る力を表出させ、手の甲から真紅の爪を突き出してみせる。全身に巡らせた気を練り上げ、深く息を吐くと同時に鋭く生え揃う左右の拳で対の爪。響鬼の持つ【 鬼闘術(きとうじゅつ)鬼爪(おにづめ) 】は、童子や姫と戦うために鍛えられた彼の技である。

 

「はぁっ!」

 

 吐き出され続ける蜘蛛の糸を鬼爪をもって切り裂き、童子たちと距離を詰めていく。闇の中に白く走る糸は、赤く振り乱された鬼の腕に阻まれ響鬼の身まで届かない。

 鬼の走力をもって瞬く間に接近したヒビキは振るう鬼爪を刃の如く突き上げ、同じく蜘蛛の爪を振り上げようとしていたツチグモの怪童子の腹を刺し貫く。

 腹の傷から白い体液を溢れ流し、童子はくぐもった声を漏らす。すぐさまそれを蹴りつけ、岩肌に叩きつけると、爪の返しが怪物の腹を抉ってさらに多くの体液が溢れた。それを見たツチグモの妖姫は微かに後退りながらも、黒い長髪を震えさせ、鬼に対する怒りを見せている様子。

 

「グゥ……ウ……」

 

「おお?」

 

 腹を押さえながら立ち上がり、怪童子はヒビキを睨む。普段ならこの程度のダメージだけで奴らは逃走を図るはずだが――身体の芯まで深く貫いた傷さえ苦しみつつも妖気を込めては癒してしまう。これほどの再生能力は、ヒビキの知るツチグモの童子にはない。

 違和感を覚えたが、彼らは自然の妖気から生まれた邪気の塊。いかようにも性質を変え得る可能性があると判断し、過去の戦いとの相違を訝しみつつ、さらなる追撃に備えた。

 

 ツチグモの怪童子が地面に手を触れる。その動作にヒビキは両爪を構えた。力を込めた鬼爪をもって、己の属する鬼の組織、猛士(たけし)の記録にもないツチグモの怪童子の新たなる性質を見極めるべく、意識を集中させて。

 不気味な妖気が地を伝う――それを肌で感じ取ったそのとき。ヒビキの動きを許すことなく、怪童子の手の平から大地に張り巡らされた蜘蛛の糸が、響鬼の足を捕らえた。

 視線を落としてそれを見る。足に力強く粘りつく白い糸は強靭に絡まり、しっかりと大地に結びつけられていた。鬼の力をもってしても簡単には千切れず、顔を上げては微かに焦る。

 

「おっと……」

 

 予期せぬ行動に反応が鈍っていた。続けて吐きつけられた蜘蛛の糸はヒビキの両腕を縛りつけてしまい、力を込めてそれを引き千切ろうとするも、やはり従来以上の力が加わったツチグモの怪童子の糸は幾度も戦ってきたこれまで通りとは行かせてくれそうにない。

 

「……鬼さんこちら……手の鳴る方へ……」

 

 たん、たん、と。軽やかに打ち鳴らされる拍子と共に、妖しく粘り気のある声が歌う。全身に纏わりつく強靭な蜘蛛の糸に全身を拘束され、上手く動けない。ツチグモの怪童子の不気味な歌声のままに、ヒビキは彼らのもとへ引きずり込まれていく。

 童子たちの力はここまで強いものではなかった。やはり過去の文献や記録、ヒビキの経験以上の力が今の彼らには備わっている。この幻想郷なる土地の影響か、それとも再び『あの災い』が起きようとしているのか。

 この戦いは単なる仕事に収まるものではない――ヒビキの直観は己の拳に力を込めさせる。本来ならこの程度の糸、何ら気に留めることもなく容易に引き裂けるはずだが――

 

 足元の蜘蛛の巣によってじりじりと相手の領域へ引きずり込まれる。されどヒビキの焦りは自身が傷つくことではなく、見ず知らずの少女たちに危険が及びかねないため。

 手品じみた術を目の当たりにしたものの、ヒビキは彼女らにツチグモの怪童子たちを近づけさせないよう、深く大きく息を吸い込んだ。

 ヒビキがおもむろに口を開くと、紫色の無貌を示す響鬼の形相に鬼が如き大口が現れる。強靭な牙を有した大顎を穿ち、肺に燃え滾る妖気を紫色の炎に変えて怪童子へと吐きつけた。

 

「グギャァァ……ァァア……!!」

 

 蜘蛛の糸ごと紫色の炎に焼き尽くされ、ツチグモの怪童子はその身を飛び散らせる。歪み変じた自然の邪気と共に激しく砕け散るは木の葉や土塊。ただ妖気によって歪んでいただけの傀儡(くぐつ)でしかない童子たちに、自然にありふれた生物らしい要素はない。

 響鬼の有する術の一つ――内なる妖気を炎と成して吐き出す【 鬼幻術(きげんじゅつ)鬼火(おにび) 】の威力は、これまでも幾度となく童子たちを撃破してきた、ヒビキの鍛錬の成果である。

 

 己が身を拘束する蜘蛛の糸が紫炎に焼け落ちたことで自由の身を取り戻したヒビキ。未知の行動を取るツチグモの怪童子に思考を乱していたせいか、もう一体いるはずの怪物――ツチグモの妖姫の気配を見失ってしまった。

 否、理由はそれだけではない。この未知の場所たる暗闇の洞窟。ここには童子たちを遥かに超えるだけの、高濃度の妖気が満ち溢れているのだ。

 その思考も一瞬。次の瞬間には背後に迫った気配なきツチグモの妖姫――正確にはヒビキ自身の内なる妖気にも匹敵するほどの強大な力が満ちるこの領域で、自然が歪んだだけの異物である妖姫の妖気が紛れてしまっている。故に、その気配に反応するのがほんの僅か、遅れただけ。

 

「…………!」

 

 ――降り迫るはツチグモの妖姫が掲げる蜘蛛の爪。だが、その一撃は鬼の怪腕に阻まれた。

 

「こいつらとは()り慣れてるようだけど……やっぱり旧地獄(ここ)じゃ戦いづらいかな?」

 

 女性らしくしなやかながらある程度の筋肉をつけている――とはいえ、ヒビキや怪物のものに比べたら美しい細腕。勇儀は、己が腕を遥かに凌駕する大きさの剛腕と剛爪をいとも容易く受け止めてみせた。

 ツチグモの妖姫は見た目以上の力を誇る鬼を前に後退することさえ適わず、微かに血を流しただけの勇儀によって腕を掴まれ、地面に激しく叩きつけられる。

 あまりの衝撃に旧地獄の大地が砕き割れ、微かに地盤が沈むほど。それでも妖姫は自身の肉体に妖力を巡らせ、損傷した身を少しづつ再生していく。勇儀の力に驚いたヒビキはそれを察するのが遅れたが、地底世界の濃密な妖気に慣れ親しんだ勇儀はそんな猶予を見逃さない。

 

「パルスィ! 用意はいいね!」

 

 掴んだままの妖姫を地面に引き摺り、橋にて待つパルスィに向けてそれを放り投げる。妖姫と橋姫、共に姫の名を関した者ながら、どちらも秘める妖気は暗く淀んだもの。

 勇儀の問いにこくりと頷いたパルスィは瞬く間に目の前まで迫ったツチグモの妖姫を恐れることもなく、その場を動かず。湧き上がる嫉妬心に濁った緑眼を淡く光らせ、旧地獄の大地から緑色に輝く蛇が如き弾幕を這わせ上げた。

 どこまでも他者を見上げては妬み渇くことしかできないその緑眼の怪物は、パルスィの意思のままに理由なき嫉妬の対象である万物を喰らう、誰しもが持ち得る醜き感情の矛先として。

 

「妬み尽くせ……! グリーンアイドモンスター!!」

 

 歪んだ想いに似つかぬ明るい笑顔で、パルスィは心の中に掲げた札の名を叫んだ。

 本来ならば弾幕ごっこという遊びのために用いるスペルカード。だが、それは今は地底に害成す悪しき異形を滅ぼし得るだけの殺意を込めた、本気の弾幕。

 ツチグモの妖姫の身に喰いついた緑色の大蛇は泡立つかのように嫉妬心を膨らませ、醜く歪んだパルスィの弾幕――【 妬符(ねたみふ)「グリーンアイドモンスター」 】と化しては地底を嫉妬の光をもって淡く緑色に染め上げる。

 手から伸ばした白い糸を伝い、なんとかそれを振り切ろうとするツチグモの妖姫をどこまでも追い続け。緑色の目をした見えない怪物、嫉妬(・・)は決して相手を逃がすことなく。

 

「グゥゥ……ゴォォァアアッ!!」

 

 蛇の形をした緑色の光弾の群れに次々と襲いかかられ、ツチグモの妖姫は全身に突き刺さる嫉妬という妖気の波動に耐え切れず、木の葉と土塊を散らして弾け飛んだ。

 

「嫉妬する価値もないその空虚さ……返って妬ましいわ……」

 

 はらはらと舞い散る木の葉に包まれ、パルスィは自らが放った妖気の残り香に呟く。ツチグモの妖姫が砕けた残滓、乱れる不浄の邪気が地底の妖気に掻き消え、その不快な気配を感じながら眉をひそめた。

 おぞましき嫉妬の輝きが消えたことで旧地獄の闇には再び石桜の煌きが戻る。ぼうっと薄く、淡い紫色に染め上げられた太鼓橋の前。鬼と橋姫の二人は、異形の外来人に向き直った。

 

「さて、いろいろと訊かせてもらえるかい?」

 

「最初は保護するつもりだったけど……その姿を見て事情が変わったわ」

 

 不敵な笑みを見せてヒビキに問う勇儀に、訝しげな緑眼を光らせたパルスィが言葉を続ける。張り詰めた地底の空気に等しい二人の視線に貫かれたヒビキは、童子の白い体液がついた鬼爪を静かに収め。深い紫色に彩られた響鬼の姿のまま――堅牢なる頬の皮膚を指で掻いた。

 

「ははっ……幻想郷……ね。よく言ったもんだ……」

 

 妖怪――ヒビキの知る怪異とは異なる幻想の概念はここに現実として在る。彼の世界にて語られた魑魅魍魎もまた幻想ならざる怪異として存在していたが、ここではそれは幻想でありながら実在しているのだ。

 話で聞いてまとめていた思考が、肌を貫く妖気と目の前で起きた事象に搔き消される。ここは自分の知っている世界ではない。その事実は、話ではなく実感としてヒビキの胸に打ち響いた。

 

◆     ◆     ◆

 

 地底世界、旧地獄。地獄の深道と呼ばれる岩肌の洞窟、古びた大きな太鼓橋の上。勇儀とパルスィは紫色の鬼――響鬼を前にして、此度の異変に関わる存在と認めた。

 滲み溢れる気配は幻想郷の者でなく。それでいて外の世界には在り得ざる紛れもない怪異の象徴。放つ気配は疑う余地もなく鬼のそれであるのに、見た目と気配、持ち得る妖気以外に関しては典型的な外来人であるのだ。

 

 この地底に現れたという点が不可解であるが――おそらくそれは異変の影響。だとしても気なるのは、この存在が鬼であるのか、はたまた人間であるのか。

 鬼の特徴も人の特徴も備えている。地上に噂される怪物としても、それらと戦う超人としても見ることができる。この場に現れた蜘蛛の怪異を打ち倒したところを見ると後者のようだが、放つ気配は清らかなれど奴らと同じ自然の妖気そのもの。

 未知の怪物と同じ妖気を纏いて、未知の怪物となって戦う姿を見てしまえば、そう簡単には信用できまい。まして外の世界とも異なる別の紡ぎから現れた、異界の外来人ともなれば――

 

「…………」

 

 ヒビキは異形の相貌であった己の顔面から力を抜く。妖気を纏い紫色の無貌と化していたそれは淡く白い光に包まれ、首から上のみがヒビキ本来の生身へと戻った。

 されど首から下は依然として紫色の鬼、響鬼としての強靭な肉体のまま。パルスィたちが感じる気配は首から上のみが人間のそれで、それ以外は鬼のものという極めて奇妙なものであったことだろう。ヒビキは人間としての朗らかな表情を湛えつつ、パルスィたちへ笑いかける。

 

「いやぁ、ごめんね。驚かせちゃったみたいだな」

 

 愛想の良い笑顔で語る男の雰囲気に、敵意らしいものは一切感じられない。それでいて周囲の妖気に対する警戒を怠らず――己が背後につけ入らせる隙もなく。

 パルスィは本能的にこの男が只者ではないと理解した。戦いに慣れているわけではない彼女ですらそう感じたのだから、力の何たるかを知る勇儀はとうに悟っているはず。

 

「まだ名前を聞いてなかったね。私は星熊勇儀。こっちの辛気臭いのは水橋パルスィだ」

 

 勇儀も変わらず笑顔を見せながら返した。己の名に続いて親指で差した友の名を告げると、ヒビキは相手の警戒が微かに和らいだのを感じ取ったのか、自身も未知の妖気に包まれたこの領域で少しだけ緊張を解く。

 パルスィは未だにヒビキに対する不信感がある様子。されど勇儀とヒビキはその身に宿す等しき鬼の気配によってどこかしら通ずるところがあるようで──互いに響き逢っているような。

 

「ヒビキです。結構、鍛えてます!」

 

 名乗るや否や赤く染まった右手を振り上げ、己が顔の右前で小さく振るう。小指と薬指を曲げた手の平で眼前を切り示してみせ、シュッ──と声に出して。

 

「ああ。そいつは十分、身に染みたよ。外にはまだここまで鍛えてる奴がいたんだねぇ」

 

 人を超えた力に至りながらも人の心を忘れていないヒビキという男。勇儀はすでに地上の幻想郷から失われて久しい『強き人間』を見て喜びを抱いた。彼にあるのは力だけでなく、かつての鬼たちが人に求めていた誇りと勇気という強さ。

 彼が鬼の国に現れればさぞかし盛大な歓迎を受けただろうに。忘れ去られた幻想郷との深い繋がりを持つ旧地獄にて出会えたのは、なんとも皮肉めいた巡り合わせだった。

 

「……たぶん、こいつはかなり特別な方だと思うけど」

 

 呆れた様子で肩を竦めるパルスィを横目に、勇儀は地底の天蓋を満たす闇の中、集う妖気の群れを鬼の眼光で威圧する。

 近くにいるパルスィや近い気配を持つ勇儀ならまだしも、旧地獄の洞窟に棲みつく一部の妖怪はヒビキの鬼としての気配に気づいていないらしい。異界の存在であり人と鬼の混ざり合った気配はパルスィでさえヒビキが変身した姿――響鬼の姿を目にしなければ分からなかったほど。

 

「ここじゃあちょっと落ち着かないかもね。私に着いてきなよ」

 

 勇儀の視線で奇妙な気配を持つ外来人を襲おうという妖怪たちは身を退いた様子。それでも隙を見出せば即座に牙を剥くような無法者ばかり。地底世界にも地上と同等のスペルカードルールは機能しているとはいえ、地上以上にそれを無視する荒くれ者は多いのだ。

 

 そもそも地底世界に法などあってないようなもの。パルスィもそれを弁えているために、落ち着いて話をするなら地底世界における唯一の町へ向かうことに異存はない。彼女らの住居がある旧都ならそれなりの秩序もあり、人間であろうと不用意に襲われることはないだろう。

 

 地獄の深道に架かる太鼓橋にて歩を進める勇儀とヒビキ。パルスィは少しだけ背後を振り返り、そこに感じたいつも通りの地底の妖気、そこに微かに異質なものを覚えつつ、旧都に向かう勇儀とヒビキについていく。

 あの違和感は気のせいだったのだろうか――パルスィは橋姫として長らくこの橋を守ってきたが、一瞬だけ感じることができた未知の気配は彼女の記憶にない。

 先ほどの怪物の仲間がまだどこかに潜んでいるのか。そう考えもしたが、あれだけ奇妙な気配が残っていればさすがに気づくはずだ。この暗闇と地底の妖気に『影』として隠れ忍べるような者でもない限り、そこには見慣れた地底の妖怪しかおるまい。

 

 パルスィはやはり気のせいだったと自らを納得させて旧都への道に向き直る。打ち捨てられた旧地獄に相応しい古びた大橋は、先へと歩むにつれて華々しく絢爛な意匠を見せていった。

 

◆     ◆     ◆

 

 地獄の深道を越えて、橋の向こう岸に至っては軒並み出迎える瓦屋根。勇儀の導きに従って、ヒビキは薄暗い中にぼんやりと灯る提灯(ちょうちん)がいくつも並んだ『旧地獄街道(きゅうじごくかいどう)』を行く。

 漂う地霊に道行く妖怪は都へ向かうヒビキたちとすれ違い、気の良い勇儀は馴染み深いであろう連中に挨拶をしつつ、微かな雪化粧を施した冷たい石の道を進んでいった。

 

 街道を抜けて地底に響き渡る妖怪の喧騒を耳に聞き。勇儀たちは地底世界にて唯一にして最大の都市である『旧都』へと辿り着く。先ほどまでの荒涼とした地獄の岩肌が嘘のように、その楽園は古臭い妖気を忘れさせる活気に満ちていた。

 未だなお舞い散る天蓋の雪は、地の底を染める宵に白く冴え。されど虚ろな石桜の煌きは旧都が照らす、さながら地底の不夜城の如き輝きに掻き消されてしまっている。

 地底であるがために空に太陽が昇ることはない。絶えず夜の暗さが空を染める地でありながら、そこは妖怪たちの百鬼夜行。日夜を問わず栄える奈落の大江山は、月の(さかずき)に眠らない。

 

 右を見ても左を見ても人ならざる妖気を有した異形の怪異。ヒビキも首から下は彼らと似て非なる怪物じみた姿だが、このどこか京の都を思わせる地底の繁華街――冬の気配が満たされた旧都の道で、ヒビキは少しだけ目立っている。

 人と鬼の入り混じった気配は、旧都の者たちの目には奇異に映るだろうか。じろじろと見られる居心地の悪さを覚えながら、ヒビキは隣にて歩く勇儀の一本角に視線を誘われていた。

 

「…………」

 

「私の角が気になるみたいだね」

 

 ヒビキの視線に気づいた勇儀が隣を歩むヒビキに顔を向ける。彼女の額に突き伸びた真紅の一本角はこの旧地獄を束ねる『鬼』の象徴。気質や妖気は異なれどヒビキの鬼としての、響鬼としての二本角に等しいものだ。

 今は生身の頭を晒しているヒビキに角は生えていない。鍛え上げた肉体を変じて至る鬼の力はあれど、それはヒビキの生来のものでなく。語り継がれた力を鍛錬の末に得ただけ。

 

「んー? まぁねぇ。気になるっちゃ気になるなぁ」

 

 この地に誘われたときから感じる気配に、ヒビキもすでに気づいている。向かう相手が自身と通ずる気を持ち、生身にして己が鬼の身と同じ角を掲げるなら。この旧地獄と呼ばれる忘れられた奈落において──人々の恐れによって伝わる『妖怪』が実在するのだとすれば。

 自然の力が歪み変じた化け物ではなく、伝承通りの怪異として存在すると言うのなら、ヒビキは勇儀の気配とその絶大な力、語られる怪力乱神の気迫に。他人事ではない心当たりがあった。

 

「……勇儀は鬼よ。ヒビキさん……だっけ? あなたと同じでね」

 

 二人の後に続いて歩くパルスィの言葉を背後から聞き、ヒビキは微かに目を見開く。

 ――やっぱりか、と。自らの予想が答えとなり、ヒビキはどこか安心したような、それでいて未だ自分の心に整理がついていないような、複雑な気持ちを覚えた。

 

 ヒビキの知る鬼とは古来より人間が鍛え至った自然の化身。木々と大地と空と風と──あらゆる自然の力を借り、歪みし万物を奏で清める音の伝達者。それは妖怪として語られる破壊の怪物ではなく、同じ自然の力にて変じた化け物たる魑魅魍魎に立ち向かう『人間』の道だ。

 されどここにいる鬼は──ヒビキの知るものではない。まさしく現し世の伝承に語られる通りの力の具現。まるで人の気配など感じさせない圧倒的な鬼の妖気は、彼女が生まれながらの鬼であることを証明していた。

 

 その姿は恐怖の象徴となる古今無双の鬼。地獄に名立たる者の気迫は歴戦の戦士であるヒビキの魂を一度は戦慄させたほどのもの。

 だが、それもまた無為な破壊を望む化け物ではなく。ヒビキとは異なる法則の鬼でありながら、彼女もまたどこか清らかな音色を魂の中に宿しているような。猛き闘争を求めて燃ゆる様は、受け継がれる鬼たちの始まりの時代――戦国時代の戦士たちを連想させる、気高き血生臭さ。

 

「鬼ねぇ……幻想郷(こっち)じゃ、俺みたいなのは珍しくないって感じかな?」

 

「まぁ、そうでもないけど……そんなところね」

 

 ヒビキはパルスィの方に顔だけ向けて問う。鬼そのものは古の幻想郷において珍しくない。――否、正確には『珍しくなかった』と言うべきであろう。

 今の幻想郷に鬼はほとんどいない。鬼の切り開いた地である旧地獄にさえ、勇儀を始めとした少数の鬼が見られる程度。かつて幻想郷にいた鬼たちは鬼の国に移り住んでしまい、ここが切り捨てられる前の本来の地獄であった頃にいた獄卒の鬼たちは、地獄の縮小化に伴いこことは断絶された新たな地獄で働いている。

 外来人に旧地獄の事情について説明しても仕方ないと判断し、パルスィは鬼という存在が今は勇儀とその友人くらいしかいないことを述べた。伝承においては彼女の種族である橋姫も鬼の一種と考えられることもあるが――どうやら幻想郷における鬼の定義には満たないらしい。

 

「そういう君は橋姫だな? 鬼の嬢ちゃんと同じくらい分かりやすいかもな」

 

 背後から感じる鬱屈とした妖気を肌で感じつつ、ヒビキはパルスィの種族を言い当てた。日々の鍛錬と共に自然の力が歪んだ怪異を相手にしているが故に、語り継がれる妖怪について知らず知らずのうちに人より詳しくなってしまうのは当然だ。

 それもヒビキの生きた世界における古い文献としての知識でしかなかったが、どうやら世界を隔てても同じ名の怪物は同じ名の妖怪として幻想郷にも伝わっていた様子。種族を当てられたパルスィは少し驚いた表情を見せるも、すぐに不条理な妬ましさを湛えた顔で視線を逸らした。

 

「……そんなに滲み出してたかしら」

 

「ああ、いつもより三割増しで駄々洩(だだも)れさね」

 

 自覚がなかったらしいパルスィの様子に勇儀は思わず苦笑を零す。鬼の力に至るほど鍛えられ研ぎ澄まされているとはいえ、幻想なき世界を生きる外来人にさえ伝わるほどのおびただしい嫉妬の波動が、まさしく彼女の前にいるヒビキ自身を対象としていたからだ。

 隣り合って歩き、共に響き逢う鬼と鬼。自身が鬼と認められなかった妖怪であるから、鬼という種族そのものを妬んでいるのか。あるいはもっと単純に――いつも一緒に隣を歩いていた勇儀の傍に、自分ではなく他の誰かがいるという事実からか。

 勇儀はそんなパルスィの歪んだ素直さに、()し姫と呼ばれるだけの所以を覚えていた。

 

「さ、ここなら安全だよ。少し前から使わせてもらってる、私の家さ。一人で暮らすにはちょっと大きすぎるからね。部屋は余ってるし、人間一人を泊めるくらいなら問題ない」

 

 勇儀が足を止めた先にあったのは旧都の軒並みの中に目立つ、立派な建物だった。彼女は少し前から使っていると言ったが、遥か古の時代にこの地を切り拓いた太古が鬼の言う少し前とは、いったいどれほど過去の話なのか。

 旧都の彼方に見える荘厳なお屋敷――地霊殿ほどの大きさはないにしろ、あちらは無数の動物たちや幾人もの妖怪と共に、地底で最も恐れられる妖怪が住む場所。勇儀一人で住まう個人邸宅とは機能も役割も違う。

 旧地獄に生きる鬼はあまり多くない。その中で紛れもなく最強の力を誇る元『山の四天王』の彼女は、旧都を切り拓いた代表者として山に等しい地位に仕立て上げられた。勇儀と同じ鬼でさえ面白がって認め、いつしか彼女の住まいは──旧都の代表に相応しいものとなっていったのだ。

 

「泊める……って……もしかして俺をか?」

 

「こんな地獄の淵で、行く当てなんざないだろ? 大丈夫、取って食いやしないよ」

 

 頼りがいのある笑顔で語る勇儀に、ヒビキは少しだけ面食らう。自身もまた鬼ではあるが、自然の歪みならぬ純粋な伝承の『妖怪』たる鬼の存在は、さすがに彼の知識にも薄い。相手をどれだけ信用していいか分からなかったが――

 少なくとも彼女は自分を鬼として信用している。そしてその胸の内から響く清らかな魂の鼓動は、決して不浄な妖気を宿した化け物としてのそれではない。

 

 本来ヒビキのいるべき世界、彼女らの語った外の世界なる場所には今はまだ帰れそうにないのだという。(しか)らばこの地に留まらざるを得ないものの、当然、ヒビキには幻想郷にも旧地獄にも心を休められる場所はないのだ。

 頭ではまだ妖怪への対応ができていないが、この身と同様に強く鍛えられた心で。ヒビキは相手を一体の妖怪ではなく一人の女性として、微かに遠慮しつつも、その提案を受け入れた。

 

「もちろん、タダで泊めてやるつもりはないけどねぇ。なぁ、パルスィ?」

 

「さっきの怪物について、あなたのその姿について。いろいろ聞かせてもらいたいわ」

 

 交わる眼光。宿す気配は清らかなれど、鬼の気迫と橋姫の緑眼は、おどろおどろしくヒビキの身を貫く。形式上は地底の妖怪として他者を威圧する魂の咆哮。されどその本質は、古来より行き場を失った地上の嫌われ者たちを受け入れる、優しい暖かさを秘めた鬼灯(ほおずき)の色。

 

「そのくらいなら、お安い御用だな」

 

 自然歪みし魔の脅威には、今も晒されている人々がいよう。彼の世界に渦巻く妖気が消えることは決してない。そこに自然がある限り、絶えず魔たる怪異は現れる。

 それでも彼の世界における鬼は彼だけに非ず。信頼できる仲間たれば、きっと人々を守るための力は世のために風と雷と威吹き轟く。ヒビキはそれを信じて、今はこの地に牙を剥く自然の歪みに拳を向ける覚悟を決めた。

 たとえ異なる空の地平でも。己が知る化生のすべてを、鬼と橋姫に伝えるとしよう。彼女らとて守るべき少女には違いあるまいが、それらは祈り待つ人ではない。ヒビキと肩を並べて戦えるだけの力を示した者たちに、いつかの弟子たちのそれにも似た強い眼差しと響く炎を感じ取った。

 

◆     ◆     ◆

 

 勇儀の家に招かれたヒビキは今もなお頭だけを晒した鬼の姿のまま、立派な座卓に向かい合い勇儀とパルスィに自分が見てきた妖怪――その伝承を語る。

 古より妖怪と伝えられた怪異。されどその本質は幻想郷に存在するような、本当の意味で妖怪と呼べるものではなく。人々の恐怖や信仰などが具現化した抽象的な概念としてではなく、遥か昔から大地に根付く自然の妖気、それらが歪な地脈の乱れなどにより変異し、大いなる怪物として具現したもの。

 

 それらは自然発生する一種の災害のようなものだったが、ある時期において人為的にその活動が仕組まれ始めたことがあった。

 変異の力によって生まれた化け物を育て、より強く大きくしようとする悪意。その起源が何十年前か、何百年前かはヒビキの属する猛士でさえ知らない。本来ならばただ生まれただ暴れるだけの現象だった怪物は、その荒魂(あらみたま)を導く番いの怪異を伴い始めたのだ。

 それがこの旧地獄にて勇儀とパルスィたちも出会った男女一対の怪異、童子と姫。彼らは同様に自然の歪みから生じ、己が子たる怪物に肉や体液などの『餌』を与え、自然の循環の一部として育む。人を喰らい成長した怪物は、世界を輪廻させる血か、あるいは単なる本能の獣なのか。

 

「あいつらは童子と姫って言ってな。『魔化魍(まかもう)』を育てる親みたいなもんだ」

 

 木々と大地と空と風。巡る命が乱れた果てに至る、歪み変じた魑魅魍魎。魔化魍と呼ばれたそれは、ヒビキたち『鬼』と起源を同じくする大自然の化身である。

 地震や竜巻に等しいその事象。災害とされた魔化魍を操り、何らかの目的を果たそうとしていた未知の悪意の存在に、猛士は気づいていた。その根源と接触することができた鬼もいたが、ついぞ真実は闇の中。

 例年通りなら成体の状態で人々を襲う魔化魍が現れることは多くはなく、鬼たちの仕事も激しくはないはずだったが――彼ら童子と姫の手によって育てられ調整されたことで、ヒビキにとっては一年ほど前である『あの時期』は異常なほどの魔化魍の出現に追われていた。

 思えば、今でこそ弟子であり友として親しい少年と出会ったあの瞬間からすでに。彼らの悪意による魔化魍の変異は始まっていたのかもしれない。

 

 童子と姫を生み出していたとされる見えざる悪意たち。彼らでさえ恐れたのは、世界そのものの妖気が狂い、無作為に魔化魍が湧き出る最悪の事態――終焉の始まり。

 戦国時代最強とされた伝説の魔化魍の名からか、『オロチ』と称されたその現象は童子と姫を統べる彼ら悪意でさえ望まぬこと。

 空が、海が、大地が。木々も風も何もかも、あらゆる自然が歪みて染まり、災禍の具現たる魔化魍を絶え間なく産み落とし続ける。童子も姫も関係なしに乱れ狂う未曽有の百鬼夜行は、命あるもの悉くを喰らい尽くしてこの世界を滅ぼしてしまうことだろう。

 妖は人が故に在るモノ。人が失せれば妖もまた露と消え、それは幻想郷に生まれし妖怪たちに通ずる。鬼である勇儀はそうなるまいが、人の嫉妬を糧に生きるパルスィはよく理解できた。

 

「魔化魍……魔と化した(すだま)ってところか。確かに、幻想郷(こっち)じゃ聞かないね」

 

「それで、その……オロチとかっていう現象? それはいったい、どうなったの?」

 

 幻想郷に在らざる未知の怪異を知り、妖怪の新たな可能性を並行の空に想う勇儀の隣。他人事ならぬ神妙さで問うパルスィの口調は、話に聞く限りどこか空気の似た彼の世界――響鬼の世界とも呼ぶべき場所と同じことが起きる可能性を、この幻想郷にも危惧しているかのよう。

 

「なんとか食い止めたさ。あのときは俺も必死で、仲間がいてくれなかったらさすがに俺も喰われてたかもな……」

 

 幻想郷の妖怪とヒビキの生きた世界における魔化魍は違う。自然の具現たる魔化魍は人の恐れを必要としないのかもしれない。それでも、童子たちを操る存在から鬼たちの方へ接触してきてまで、その厄災を知らせてきたのだ。

 オロチという災いは彼らにとっても不都合があると考えて間違いない。だが、魔化魍を故意に生み出し人を襲わせる悪意のために戦ってやるわけではなく。

 ただ乱れる災禍を鎮めるため。多くの人々を、彼らが生きるこの大地を清めるため。ヒビキは本来それを成すべき宗家の鬼に代わり、たった一人で荒れ狂う魔化魍の群れに勇み飛び込み儀式を行った。駆けつけた仲間たちがヒビキを守り、彼がオロチを清める要となりて。

 

 年の始まりに祈った通り、また生きられるように。いつでも背後に死が笑う鬼の生き方に約束された明日などない。だからこそ、森羅万象、自然の全てに感謝して悔いなき今日を良く生きる。それが鬼の修行の第一歩だ。

 共に語らう夢の如く。明日なる道に輝く鬼道。大地と共にあるすべてを尊び生きる。それは己も獣も人々も変わりなく――在るべき自然の循環なれば。生も死もまた、共に背負う灯火だと。

 

「オロチが終わっても魔化魍は現れ続ける。倒し切れる相手じゃないしな……」

 

 さすがに出現頻度は元通り、全国で一年に100体程度にまで落ち着いてきている。オロチの影響で異常発生していた魔化魍も勢いを弱め、猛士の仕事も安寧を取り戻した。

 元より関東圏内だけを担当とする猛士関東支部所属のヒビキも数日ぶりの出撃であったが、出動していない期間においても当然、鍛錬を怠ることはなかった。

 一年ほど前のオロチ現象の過酷さを忘れず、悪意が育てた魔化魍に対し。今なお鍛え抜かれた肉体は衰えることなく、猛き炎の如く悠然と魔化魍を響き清める鬼として燃え立っている。

 

「ってことは……あいつらが育ててるはずの魔化魍がまだどこかにいるってことね」

 

 パルスィはヒビキの言葉に小さく眉をひそめてみせた。話に聞いた通りの童子と姫は先ほどの戦いで撃破を見届けている。されど彼らが育成していた化け物――魔化魍なるものの姿は見受けられなかった。

 旧地獄であれば無力な人間などほとんどいない。だがヒビキたちは番いの異形が妖怪の持つ力を狙っていることにすでに気づいていた。

 ヒビキが知る童子たちは魔化魍に与える餌として人間の肉や体液を求める。しかしこの幻想郷という特殊な地、人ならざる勇儀やパルスィが狙われたとしたら、おそらくは人間よりもエネルギー効率の良い餌として旧地獄の妖怪を喰わせようとしているのだろう。

 

 ここに生きる妖怪たちはその力を地上で疎まれた嫌われ者たちばかり。あるいは魔化魍が相手でも自力でそれらを退けられる者も多いかもしれない。だが、それが人の生きる地上に出ないとも限らない。現に地上にも未知の化け物が現れていると聞いている。

 相手がヒビキの語った魔化魍であれば、幻想郷の妖怪に似た特徴としてその噂が勇儀たちの耳に届いていてもいいはずだ。そうでないということは、また別種の怪物という可能性もある。

 

「そういえば、元の姿には戻らないのかい? そっちの姿の方が旧地獄らしいけど、鬼と人の入り混じった気配ってのは、気持ち悪くて慣れないねぇ」

 

 同じ座卓に向き合うヒビキの姿に、勇儀がついぞそれを口にした。顔だけ人の身を晒し、首から下は紫色の光沢を放つ鬼としての肉体のまま。忌避された幻想が集う旧地獄でさえ異形と呼べる姿と気配に――勇儀は苦笑気味に頬を掻く。

 

「いや、ね。俺もそうしたいのはやまやまなんだけどさ。ほら、俺の変身見てただろ?」

 

 そう言いながらヒビキは右手を額に掲げ、音角をかざす動きを再現する。焔と燃えたヒビキの肉体は妖気に包まれ鬼の姿に至ったが、鍛え抜かれた彼の身とは別に纏っていた衣服は燃ゆる妖気に耐え切れず焼け落ちていた。

 変身時は紫色の炎に覆われていて特に気にならなかったが、もし、あのままの状態がその堅牢な皮膚の下にあるなら。気を抜いて変身を解けば、人目に(はばか)られる姿となっているはず。

 

「もしかして、そういうこと?」

 

「そういうことです」

 

 深刻そうな表情で頷いたヒビキにまたしても苦笑する勇儀。普段なら変身の際は欠かさずキャンプに代えの服を用意しておくのだが、こうして未知の場所に迷い込んでしまった状況においてはそう簡単に着替えを取りに戻ることもできそうにない。

 勇儀たちのような幻想的な妖怪としての鬼や、それに類する妖力、魔力を持つ者なら、たとえ衣服が燃えても妖術で構築したものを即座に装うこともできるが、それは妖怪の身に合わせた変異の術。鬼に鍛え至ったとはいえ、仮にも外来人のヒビキに求めるのは酷な話だ。

 

 生憎と勇儀の家に男物の着物はない。それでも旧都の仕立て屋に顔を出せば適当なものを見繕ってくれるだろう。ともあれ、それまでは常に力を込めて変身を維持し続けなければ──

 

「ねぇ、ここに置いてあるのって……あなたの荷物じゃない?」

 

「……ええ? おお、本当だ……っていうか、俺が用意したのより多いぞ……?」

 

 勇儀と向き合っていたヒビキはパルスィの声に振り返る。彼女の手はこの忌まわしき嫌われ者の地、古き妖気が漂う都には似つかわしくない近代的な荷物を示した。

 それはヒビキが用意したものとは別。キャンプに戻れば衣服はあるが、パルスィが示したそれは一度や二度の戦闘を前提に考えられたものではなく。長きに渡って野宿することができるほどの備えであったのだ。

 この場所に来ることが予め分かっていた──などということがあるはずもない。勇儀はその様子を見て訝しんだが、すぐにそれが『あの妖怪』の仕業だと感づく。異世界との接続や未知の怪物の噂、地上から持ち込まれた妖しげで胡散臭い話は、ほとんど彼女に収束すると言っていい。

 

「(だとしたら、こいつも私も今は駒の一つ……ってわけかね)」

 

 小さく笑みを零した勇儀の思考。浮かぶ八雲はヒビキの炎と同じ色。幻想郷の境界を司る彼女が指した一手なら――その(かく)はやがて遥けき王を取るだろう。

 金、銀、角、飛車、歩。王将気取りで駒を指すのはいつだって彼女ら賢者たちだった。されど勇儀は知っている。王将でさえ、盤上においては駒の一つに過ぎないということを。彼女らが誰より幻想郷のために動いているということを。

 

 この地底に誰にも邪魔されない楽園を築くことができたのも、賢者たちのおかげ。勇儀は怨霊を見張るという契約の上で成された自由に対し、賢者たちに感謝している。

 妖怪の賢者――八雲紫。あいつがこの地へ招いた異界の鬼であればきっと。それは必ず、意味のある手だ。ただ賢者の意思に従うだけというのも癪ではあるが、この男の存在は地底へ魔化魍なる怪物を認める証として機能する。

 祭りの本番にはまだ早いと響く鼓動が告げていた。今は準備を楽しませてもらおうじゃないか、と。自身と共に鍵と成り得るだろう存在──ヒビキが向ける紫色の背中を瞳に映して。

 

「……ちょっと、あんまり見ないでくれる?」

 

 怪訝な表情で振り返るヒビキ。その言葉を受けた勇儀は鬼と人が切り替わる瞬間を少しだけ見てみたいと思った己を収め、おとなしく鬼の姿から目を背ける。視界の外から微かに差し込む白い光は、ヒビキが顔だけを晒したときに放たれたものと同じ光だった。

 不意に、勇儀の背後から鬼の気配が失せる。今感じられるのはただの人間の気配。強く鍛えられているものの、彼女にとっては少し物足りない力強さ。

 妖気の波動こそ大きく変わったが――その心から伝わる清らかさは、変わることはなかった。




自然の具現という点においては、魔化魍は幻想郷の妖怪よりも妖精たちに近いかもしれない。

      次
    三  回 

見  五   
え  之   
ぬ  巻   
悪      
意      


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第35話 見えぬ悪意

 私、水橋パルスィは、幻想郷で起きた異変に関わる不思議な男の人、ヒビキさんと出会った。
 ちょっと見た感じはとぼけたヒビキさん。でも、そのヒビキさんは私たちの目の前で、紫の炎に包まれながら姿を変えて、土蜘蛛みたいな気配を持つ二体の化け物と戦った――


 荒涼とした奈落の大地――その深淵に、闇に溶け込む『黒』が一つ。降り注ぐ石桜と細雪の美しさを拒むように、黒衣を纏った無機質な人影はこの幻想の中でひどく浮いている。

 その身を覆う黒は肌の一切を覆い隠しており、深く被った帽子と顔を染める黒布は人影の目元を残しすべてを闇に包んでいた。

 

 それは影。右手に掲げた落ち着いた金色の錫杖に設けられたいくつもの計器をもって、影はこの地の気温と湿度を、あるいは満ちる妖気の濃度を計測している。

 地獄の深道にて土塊の骸と散った童子と姫の残滓と呼べる微かな邪気は、この錫杖の中に再び吸収された。吸い出された邪気はどこか実験器具めいた小瓶に宿り、漆黒の人影がその瓶を黒く染まった手袋を装う手でもって抜き取ると、影はそれをおもむろに自らの懐へと忍び込ませる。

 

「…………」

 

 ただ黒の隙間から目元だけを見せる姿。伺えるそれは極めて小さなものだが、虚ろに闇を見上げる痩せこけた頬と高い背丈は、ツチグモの童子によく似ているようだった。

 闇を見上げた影――童子と姫を『生み出した』存在。だが、この黒もまた『クグツ』と呼ばれる人形に過ぎず。彼らクグツを作りて童子と姫や魔化魍を操る悪意によって動かされるだけのまさしく傀儡(かいらい)。操り人形たる骸。

 大いなる自然の一部を使い、故意に邪気を込めて歪める悪意の指先――クグツは破壊されてしまった童子と姫が遺した彼らの『子』を、空なき幻想の闇にて想う。

 そこには、旧地獄の闇空を鈍く切り裂く灰色の極光、オーロラと呼べる幕壁が現れた。

 

「グォォォォオオオオッ……!!」

 

 (おぼろ)に浮かび上がる禍々しい大蜘蛛の化生は、この地の妖気を喰らった獣。本来あるべき京の都の伝承に依らぬ、南の島にて生まれた異端の個体と同じ力。

 虎縞模様を装う蜘蛛はやはり虎が如き牙を剥き──恨めしく咆哮する。従来ならば現れるはずのない場所、鹿児島県南西部の島にて生み出されたそれは『屋久島(やくしま)のツチグモ』と称され、かつて鬼に浄化されていた。

 されどクグツは親たる悪意が得たとある法則を手繰り、ここにまったく同じ怪異を従えた。この地の妖気を喰らいさらなる力を得た魔化魍、それらを用いて世界を歪めて弄ぶ。

 

「…………」

 

 金色の錫杖に備わった計器が示すは以前よりも高く強大な値。気温や湿度、その場の妖気に頼ることなく『過去』から作られた魔化魍。

 新たに生み出されたのではなく、ただクグツと同じ法則を持つ『世界』の記憶を引き摺り上げ、言わば清められた邪気をそのまま復活させ具現した──失われし妖気の亡霊と呼べる怪異。

 彼らクグツにも彼らを生み出した悪意たちにもそんな技術はない。それらは異界における殺戮の民族や獣の君主、鏡像の怪物や灰の使徒、不死の始祖と同様に『十番目の世界』が誇る叡智によって世界の記憶より生じた骸だ。

 倒された怪物を倒された後の存在のまま世界そのものの記憶から再現――具現化する。そんなことを可能とするのは、『九つの世界』のすべての記憶を備えた夢の揺り籠だけである。

 

 クグツは、無機質ながらもどこか寂しそうに、揺らめくオーロラの彼方へと消えていった。

 

◆     ◆     ◆

 

 忘れられた雪の都、旧都。地殻の下に栄える楽園に太陽の光が差すことはないが、豊かに活気づいた喧騒は昼と夜とで異なった顔を見せる。

 絶えず提灯と石灯籠(いしとうろう)が不変の輝きをもたらしていようと、今は地上は朝。地底では認識しづらい夜という時間が終わったことを、旧都の街並みはその喧騒の彩りをもって教えてくれた。

 

 闇を染める白は二度目の四季異変に際してこの旧地獄に舞った雪。かつての間欠泉異変と同様に煌く幻想、されどそこには本来同居するべきではない石桜の輝きがある。春と冬が入り混じる境界は、()しもの怪力乱神でさえ見るのは四季異変以来だった。

 

 この地に招かれたヒビキは、勇儀とパルスィに魔化魍についてを語り。おそらくは八雲紫が用意したであろう彼の私物――と言っても生活に困らぬだけの十分な衣服の替えだけではあったが、その新しい服に袖を通している。

 勇儀とは別の住居を持つパルスィは今はここにはいない。彼女は橋姫として旧地獄の橋の近くにいる自分にこだわり、地獄の深道に近い旧地獄街道に住居を持つようだ。

 

 旧都の中でもそれなりの大きさに目立つ勇儀の家、ヒビキは与えられた空き部屋にて朝を迎えた。されど、日差しと呼べるものがこの地の底に差し込んでくることは決してない。

 

「…………」

 

 受け継がれてきた鬼の証。ヒビキの手に鈍く輝く変身音叉・音角は鬼へ至るための波動をもたらす引き金に過ぎない。鬼の力の本質は、深き山にて(こも)り鍛えた勇士にこそ辿り着くことができる大いなる自然の代弁者たる心と身体。

 鍛えの足らぬ未熟者がこの音叉の調べを受けたところで、その身に余る波動に打たれるだけ。よほどの鍛え方をしていない限り、音角をもって鬼の姿に燃ゆることはない。

 

 鬼になる。それは、変身できるようになるということではなく。己の中に絶えず湧き上がる恐れと戦うことだと──ヒビキは二人の弟子に語った。

 何度も転んで傷つくことがあっても。(あざ)を作って打ちひしがれたとしても。身体の鍛え方が足りなかったとき、せめて心だけは強く鍛えて。自分自身に、負けてしまわぬように──

 

 音角をしまい、ヒビキは身体を慣らす。慣れない旧地獄の環境だが成すべきことを終え、勇儀の導きに従って朝食を取り、彼女に先日説明した魔化魍の話に続き、今度はヒビキ自身のことをある程度、説明する。

 簡単に話せば『鍛えて鍛えて鍛え抜いた戦士』――それが鬼。心も身体も自然と共に、炎と風と雷と共に。音を伝える響きとなりて、歪みし万象を奏で清めたらん者。

 ただ鍛えただけでは足りず。ただ強くあるだけでは不足。己が道を正しく清め、揺るがぬ鬼道に輝き燃える。故に、鬼は鬼であってはいけない。憎しみを心に燃やし響いてはならぬのだ。

 

猛士(たけし)……って言ったね。あんたみたいな鬼が他にもいるたぁ、驚きだね」

 

 勇儀は座卓に向かい合うヒビキの話を聞いて遠き酔夢の彼方を想う。鬼の国へと去ってしまった仲間たち。地上の空に霧と散る親友の伊吹萃香。そして、しばらく会っていないが、山の四天王に連なる勇儀自身と萃香を除く二人。

 彼らと共に強き人間たちと拳を交え杯を交えていた頃は日々が輝きに満ちていた。今は人も鬼もその繋がりを失い、もはや愛しき(たけなわ)は遥か幻想の果て。

 

 強き人の心。強き鬼の力。目の前のそれはそのどちらをも響き備えた猛き炎。加えて地上にて始まる未知の異変――祭りの象徴たる異界の外来人ともなれば、勇儀の興味は伊吹瓢より零れる酒の如く、尽きることなく湧きては絶えず溢れ出る。

 地の底、無間の日々に光を求めず。それでも腐らぬ勇儀の心に火を灯し。一度は拳を交えたこの男と杯を交えてみたいと想うも、ここには人の肝が耐え得るような酒など一滴もない。

 

「……それで、魔化魍とやらの居場所は分かってるのかな?」

 

 勇儀は真剣な表情で向かい合うヒビキに問う。童子と姫は向こうから現れたが、肝心の魔化魍の方は夜が明けても姿を見せなかった。この地底に満ちる妖気の中、慣れない異質な妖気が漂っているのは感じられるが、萃香のそれを思わせるような散り散りの妖気は深い霧めいており掴みどころがないのだ。

 奇妙だったのは童子と姫についても同様。ヒビキと出会った直後、まるで無から生じたかのように突如として異質な妖気を感じたかと思うと──すぐに目の前に現れた。

 

 一切の気配を完全に断てるのならわざわざ気配を剥く必要はないはずだ。それなのに姿を見せてからというもの、気配を隠す素振りはなかった。勇儀は、それらが気配を消して隠れていたのではなく。その瞬間にその場に現れた(・・・・・・・・・・・・)としか認識できなかった。

 地上に聞く噂において別の世界との繋がりがあるのだとしたら、あの暗闇の中で童子たちが現れた際、何らかの結界を超えて並行世界から出現した──勇儀の推測はその可能性を見ている。

 

「それなら心配いらないよ。俺には、頼れる仲間たちがいるからな」

 

 おもむろに立ち上がったヒビキを見上げ、勇儀は彼が叩いた左腰の円盤に注目する。重なり揺れる三枚の銀色には幾何学的な模様が刻まれており、煌びやかに光を反射していた。

 

「なんだい、そりゃ?」

 

「まぁ、見てな」

 

 自信を見せるヒビキの様子を訝しむ。歩み勇儀の家を出る彼についていき、二人の鬼は活気に満ちた旧都の軒並みに顔を出した。

 ベルトの左側に結びつけられた三枚の円盤を取り外し、ヒビキはそこに視線を落とす。それぞれ三枚の面が視界に映るように片手で広げ、空いた右手をもって右腰に備えた変身音叉・音角を取り外した。

 変身の際と同じように右手を振るって音叉を開く。金色の鬼面が顔を出すと同時、展開された鬼の角――銀色の双角が勇ましく突き伸ばされたのを確認し、ヒビキはそれで円盤を叩いた。

 キーン、キーン、キーン──と。三枚の円盤それぞれを一つずつ打ち鳴らし、清らかな音を聞く。すると、銀色だったそれらは赤く、青く、緑色に、色彩の波紋を広げていった。

 

「ピィィーイイッ!」「バウッ、バゥウウッ!」「ウォウッ、ウォオウッ!」

 

 赤く染まった円盤は刃の如き翼を広げ、鷹を思わせる鳥の形に。青く染まった円盤は四肢を地に立たせ、狼のような獣の形に。そして緑色に染まった円盤は大きな腕を振り上げ、さながら猿にも似た出で立ちで己の胸を打ち鳴らしてみせた。

 猛士が開発したサポートメカ。戦国時代より続く『音式神(おんしきがみ)』と呼ばれた陰陽道の使者を、現代の技術をもって再現した機械仕掛けの獣。科学と呪術を組み合わせ、鷹や狼といった動物の霊魂を宿すことで自立させる。

 それらは現代において『ディスクアニマル』と称され、童子や姫、魔化魍の情報を集める道具として、あるいは鬼たちの修行や戦闘のお供として、猛士の活動に貢献してくれているのだ。

 

「今はお前たちが頼りだ。魔化魍の気配を探ってくれるか?」

 

 ヒビキは自前のディスクアニマルたちに指示を出す。本来ならば魔化魍の大まかな場所は猛士の一員やサポーター、その他の人員がこれまでの出現記録などから導き出し、ある程度の予測を立てた上でディスクアニマルにも協力してもらうのだが――

 一年前のオロチ現象の兆候があった時期のようにこれまで通りとはいきそうにない。こんな地の底の洞窟に、ツチグモの童子と姫――すなわち魔化魍『ツチグモ』を育成する存在が現れているからだ。

 ツチグモの育成環境はおよそ気温15度、湿度70%ほどの気候。通常通りならそうあるべきだが、かつての異常事態においても、今においても。魔化魍の出現条件と合致しない。

 

 幻想郷なる未知の場所に迷い込んでしまっている現状、猛士の人員からのバックアップを受けることもできないだろう。荷物には着替えしかなく、ディスクアニマルの持ち合わせも今は緊急用に常備しているこの三枚分だけ。

 赤い鷹に似た『茜鷹(アカネタカ)』、青い狼のような『瑠璃狼(ルリオオカミ)』、緑色の猿を模した『緑大猿(リョクオオザル)』。ヒビキの言葉に小さく鳴いて了承しつつ、彼らは石桜の輝きに光を反射しながら軒並みを抜けていく。

 

「それじゃ、頼んだぜ」

 

 鮮やかな色合いの三色が飛んでいくのを見て、旧都の妖怪たちが驚くが、風のように空を翔け、軽やかに地を走るそれらは瞬く間に旧都を飛び出して魔化魍の気配を探りに行った。ヒビキはそんな彼らにシュッと顔の前を切る動きを見せ、笑顔で出撃を見届ける。

 

「動物霊の式神ってとこかい。旧地獄って言っても、畜生界(ちくしょうかい)とは無縁なんだけどねぇ」

 

 勇儀は銀色の円盤が鳥獣の形に開いたことには驚いたものの、その役割が初歩的な式神のそれであったことのギャップに愛らしさを覚えた。

 小さく苦笑し、ヒビキと共に(ひと)混みの中を器用に抜けていった彼らを見届けると、勇儀はその彼方に馴染み深い妖気を見る。

 見紛うはずもない。この旧都においてここまで純粋な嫉妬の波動を抱く者は多くなく。勇儀の広い人脈の中においても彼女にとって親しい友人と言える──水橋パルスィの姿だ。

 

「さっき派手な色合いの小さいのが飛んでいったけど……あなたの?」

 

「ディスクアニマルって言ってな。そうだな……まぁ、式神っちゃ式神みたいなもんかな」

 

 パルスィの問いに対し、勇儀の言葉を借りて説明するヒビキ。もはや闇の先へと見えなくなった彼らの気配はどこか伝統的なもののようでもあるのに、やはり外の世界特有の機械仕掛けの技術も感じさせる。その不思議な違和感は、これまでの外来品ともまた違っていた。

 

 生粋の現代人であるヒビキは戦国時代から受け継がれる音式神の術式――すなわち陰陽道に連なる呪術の類に秀でているわけではない。さらに言えば、現代の世では当たり前に普及している機械にさえ疎いのだ。

 自前のバイクや自動車どころか、携帯電話の一つさえ持ち合わせぬヒビキはディスクアニマルといった機械仕掛けの式神を構築する知識もない。それでも、長年付き添った仲間と言える彼ら。猛士の一員と言ってもいいディスクアニマルは彼の手に馴染んでいる。

 古くは平安の世、陰陽師によって組まれた式神は音の波長による呪術をもって火や紙などを操る秘術であった。それが長い年月をかけてより洗練されていき、戦国時代には構造こそ違うがすでに今のディスクアニマル──円盤の姿で眠る動物たちと同型の音式神があったらしい。

 

 多くのディスクアニマルは奈良県吉野郡にある猛士の本部で作られる。ヒビキが魔化魍退治の任において用いる移動用のバイク、サポーター用の自動車と同様、そのディスクアニマルも猛士本部からの支給品として関東支部で運用されているもの。

 新装備の設計や関東支部での調整などはヒビキの幼馴染である女性が行っており、猛士の一員である彼女の手に依る。ヒビキも変身道具や装備のメンテナンスなどで長く世話になっていた。

 

「あの小さい奴らが魔化魍の気配を探し出してくれるってさ」

 

「ふうん。役に立つといいけど……」

 

 勇儀はお手並み拝見といった様子で小さな期待を込める。パルスィの目から見ても、ディスクアニマルと称された式神(デバイス)は微かな妖気しか帯びぬ機械(からくり)の産物に見えた。古来から受け継がれたと言っても、それはあくまで手法と技術のみ。実際に戦国時代の鬼たちが使っていたものをそのまま利用しているわけではない。

 だが、現代の科学技術は古代の陰陽術に比肩するほど優れているものだ。幻想郷に、まして旧地獄に住む妖怪はあまりその恩恵を受けることがないものの、猛士が受け継いだ戦国の技術を再現した人類の叡智は、鍛え抜かれた鬼たちほどではないが、猛士の立派な戦力である。

 

 鬼について。魔化魍について。少ない言葉で勇儀とパルスィは情報を理解し合った。ヒビキから聞いた話は勇儀からパルスィにも伝わっている。

 猛士の関東支部に属する鬼は現在、十人。ヒビキを含めた彼ら鬼たちはそれぞれシフト表を組んで魔化魍の討伐に当たり、担当でない者は心身が衰えぬように鍛えておく。オロチ現象に際してはそれすら間に合わないほどに多忙を極めた一年間だったが、今ではヒビキ一人が抜けたところでさほど大した影響はない程度には落ち着いてきていた──はずだった。

 気掛かりなのは地獄の深道に現れたツチグモの童子と姫。猛士の記録にない性質と、屋久島で出会った個体に似た色合いから察するに、おそらくは彼らの子たるツチグモも。ヒビキの懸念には、童子たちを生み出す悪意の手か――あるいはオロチの再来という最悪の予想があったのだ。

 

「…………」

 

 戦国時代にその名を掲げ、この世のすべてを喰らい尽くすと伝わる災禍、オロチ現象。もし再びそれが起これば、どれだけの人間が犠牲になるのだろう。

 ヒビキの仲間である他の鬼たち、猛士に所属する戦士たちは幻想郷(ここ)には招かれていない。猛士のサポートも受けられない状況で、たった一人、自分の身体一つでオロチを浄化し鎮めることなど、本当にできるだろうか。

 一度オロチの脅威を目にしたヒビキはその恐ろしさを知っている。清めの儀式を行う際に現れた魔化魍の数は、十や二十を優に超え、百や千に至らんばかりの怪の群れ。

 

 仲間と弟子と守るべき人と。それらが語る明日を想えばこそ、命懸けで儀式を終えることはできたが、再びあの戦いに赴いたとして無事に生きて帰って来られる保障などはなく、あのときの勝利も半ばは奇跡と言っても過言ではない。

 加えて言えば、オロチの浄化には鬼の響きを重ねるに適した土地が必要になる。魔化魍の脅威が初めて確認されたと思われるこの異界の地に都合よくそれがあるとも思えない。この奇妙な胸騒ぎが気のせいであることを願いつつ、ヒビキはいずれ帰りを待つ仲間たちの記憶に祈った。

 

「さて、これからどうしたもんか……っと、うん?」

 

 深く思考するヒビキの右腰が馴染みある振動を受け止める。右腰に収めた変身音叉・音角が小刻みに示す響きは、ヒビキには共感し得ぬ携帯電話のバイブレーションにも似ていた。ヒビキがおもむろにそれを取り出すと、旧都の遥けき闇から先ほどの煌きが舞い戻ってくる。

 

「ピィィッ! ピィィッ! ピィィッ! ピィィイイーーイイッ!」

 

 甲高い鳴き声を上げつつ飛ぶ茜色の鷹に、強く唸りながら地を走る瑠璃色の狼。それらに続いて拳で駆け戻る緑色の大猿たちに、ヒビキは低く視線を落として訝しんだ。

 

「なんだお前ら、もう戻ってきたのか?」

 

 変身音叉が伝えるディスクアニマルの帰還の知らせはヒビキも馴染み知った機能である。しかし、今回は妙に早い。

 地殻の下の洞窟とはいえ、この旧地獄は地上に等しい広さが体感できる。満ちる妖気が肌に伝える感覚、虚ろな果てしなさはヒビキにもこの地獄の広大さを理解させた──にも関わらず。ディスクアニマルたちはなおも忙しなくヒビキの周囲を回って己の鳴き声で(まく)し立ててくる。

 

「ずいぶんと早かったじゃない。まさか、もう見つけたの?」

 

 訝しげに茜鷹たちを見るパルスィの傍らでヒビキが音角を開く。チャキンと鳴った金属音を合図として、茜鷹はしなやかに羽を畳み銀色の円盤――ディスクの姿へと戻った。茜鷹のディスクは慣性の法則に従ってヒビキの左手に収まり、それを音角へ。

 音角の柄底に設けられた接続部に茜鷹の中央に空いた穴を合わせ、ディスクを嵌める。左手でもって音角を再び閉じると、鬼面が掲げる銀の双角がディスクの面に微かに触れた。そのまま円の(ふち)に指をかけ、勢いよく回転させる。

 ディスクの面を音角で読み取ってはヒビキ自身の思考へと伝達する。鬼が習得する基本的な能力として、ディスクアニマルが記録した情報は五感を伝う波長となりて鬼の思考へと響くのだ。

 

「……当たりだな」

 

 どこへともなく視線を向けて、音角が奏でる音に集中していたヒビキが口を開く。間違いない。茜鷹が聞いた音、感じた気配はすべてヒビキの思考へ送られている。そこに紛れもない怪異――この旧地獄にて歪み変じた魔化魍『ツチグモ』の脅威を確認することができた。

 

「なるほど、どうりで早かったわけだ」

 

 茜鷹が察知した魔化魍はこの先――旧都の入り口である旧地獄街道に。つい先日も勇儀たちと歩いたそこに現れたのであれば、ディスクアニマルたちの帰りが早いのも納得がいく。

 だが、安心してもいられない。童子と姫を相手取った地獄の深道には剥き出しの岩肌と大橋ぐらいしかなかったが、旧地獄街道には地底の妖怪たちが構えた賑やかな軒並みが揃っている。旧都の一部と言えるその地の妖怪が勇儀やパルスィほどの者ばかりならいいが、妖怪といえど無力な子供もいるかもしれない。

 これまでは関東地方全域を活動範囲としていたため、この場所から旧地獄街道へは相対的に極めて近くに感じられるものの、ここへ来るまではそれなりに歩いたと記憶している。猛士のデータベースによる出現地点の予測と先回りが出来ていない以上、対応は遅れざるを得なかった。

 

「お疲れさん。しばらく休んでてくれ」

 

 音角からディスクのままの茜鷹を外しながら、それをベルトの左側に戻して言う。眼下の瑠璃狼と緑大猿にもそれが伝わったようで、二匹は軽やかな跳躍を見せると同時、茜鷹と同様に色を失った銀色の円盤の姿に戻ってヒビキの左手へ。そのまま彼の左腰へと収められる。

 

 ヒビキの視線は微かな咆哮を響かせる闇色の果てに。意識を集中させてようやく感じられる程度だったそれは、悪意を増して妖気をさらに高めている様子。

 地底に満ちる妖気を喰らったか、あるいは──

 静かな瞳に小さく宿す闘志。清らかなれど紅蓮と滾るその炎に、勇儀は紛れもない害悪の存在を確信した。

 橋姫という種族柄、悪意に近い波動を感じやすいパルスィもその不気味な妖気を掴んでいる。旧都の妖気を伝う歪んだ気配が嫌われ者の妖怪たちの肌に悪寒を走らせ、その感覚で見えざる彼方の怪物を認識したか、あるいはそれを目にしたのか、妖怪たちは表情を変えた。

 

 旧都の雰囲気が一変する。魔化魍が放つ妖気は幻想郷には馴染まぬ異質なもの。旧地獄の悪意に慣れ親しんだ妖怪たちでさえ戸惑い、旧地獄街道にてその姿を見た者の一部は慌てて旧都まで走ってくる。その騒ぎは、妖気と共に『怪物』の出現を何よりも証明しているように思えた。

 

「どうやら、あまり悠長にしてられる状況じゃなさそうだ」

 

「こんなに近くに出るなんて……ちょっと厄介ね」

 

 勇儀とパルスィは魔化魍と呼ばれる怪異、響鬼の世界の法則に依る怪物の姿を知っているわけではない。だが、この肌を伝う妖気は先日地獄の深道にて戦った童子と姫にも似ている――否、それ以上に強く醜く乱れ歪んだおびただしきもの。

 ここまで歪な妖気は幻想郷でも旧地獄でも他に類を見ない。自然らしさを残すそれは童子たちのものより幾許かは妖怪らしくあるが、その『質』自体が外の世界の自然。

 幻想郷の自然ですらない。木々や風の如く感じられる息吹に込められた呪詛、幻想などあるはずのない常識の世界、そこからもたらされた異界の怪異がこの旧都の近くにて渇き呻いている。

 

「…………」

 

 鬼となって走るべきか。生身で走り向かうよりは各段に早く着くだろう。しかし、わざわざ万全の体力を移動で消耗してしまっては、この未知の領域に現れた魔化魍ツチグモ、恐らくはさらなる力を備えているだろうそれに対してどれだけ戦えるか。

 思考は一瞬。ヒビキは己が横目を走り去る妖精や妖怪たち、鬼ほどの力を有さぬ無力な存在が彼方の気配に怯え逃げ去る様を見る。

 

 童子たちは勇儀とパルスィを見て魔化魍への餌と認識していた。ヒビキの推測通り、純粋な人間の少ないこの旧地獄において奴らが求める血肉は妖怪の持つ力。荒れ狂う厄災を前に何もできずに怯えるのは、ヒビキたちが守ってきた人間も、未知の妖怪も差異はない。

 猛士、そして鬼――それは古来より妖どもの悪意から人を守ってきた者たちの集い。されど同じく魔化魍の牙に怯える命があるのなら、妖怪であろうが人と変わらず。ヒビキの中にそれほど深い思考は元よりなく、ただ内なる炎が響くままに。人妖(ひと)助けのために――音角を握りしめた。

 

「ん?」

 

 ――その瞬間。妖気の満ちるこの旧都の中において。ヒビキはそれを塗り潰すほどの『鬼』の妖気を己の背後に感じ取る。

 勇儀もパルスィも等しく感じたその気配。咄嗟に背後を振り返ったヒビキの視界には、勇儀と同格と呼べるほどの妖気を帯びた白い霧――その中に鎮座する紫色のバイク(・・・・・・)があった。

 

「これって……外の世界の乗り物?」

 

 変身した状態の響鬼に通ずる紫色の光沢を放つ大型のアメリカンバイク。それはやはり幻想郷にあるべきものではないが、ふわりと晴れた白い霧が持つ妖気はこの旧地獄では馴染み深いと言える失われた鬼の力。

 パルスィの疑問はそれが外の世界の空気を帯びていたことにある。勇儀もそれを疑問に思っているようだが、彼女が感じた妖気が自分のよく知る『友』のそれであったことの方が気になる。

 

「こいつは……俺のバイクだな。なんでこんなところに……?」

 

 最も強い疑問を抱いていたのは他ならないヒビキだった。彼が目にしたバイクは、彼が猛士本部からの装備として支給されたもの。魔化魍討伐のシフト表に左右されず、柔軟な出動を目的とする『特別遊撃班』に任命されたヒビキのために用意された専用の機体だ。

 低めの車高に重厚な機関、紺碧に染め上げられたボディに走る銀色のパーツ。その身に刻まれた猛士の紋章は、それまでは大型二輪免許さえ持っていなかったヒビキが自慢とする相棒――猛士の備品である『凱火(がいか)』と称された炎の如き騎馬(バイク)の証。

 それそのものは力強いエンジンを持つ通常のバイクに過ぎない。国内で入手することは極めて難しい機体であれど、鬼の力を秘めることなく人のための乗り物として生み出されたはず。

 

 だが、ヒビキは──見慣れたはずのそれに、宿るはずのない清らかな鬼の力を見た気がした。

 

「……考えてる時間はないか」

 

 旧都の騒ぎはすでに大きく広がっている。魔化魍の持つ特殊な性質(・・・・・)は、この地に住む妖怪、ひいては幻想的な意味を持つ『鬼』でさえ手を焼くことだろう。

 勇儀の家に用意された自身の服。そして長距離移動手段を望んでいたところに都合よく現れた凱火。そのどちらもが自分を導いているような気がして尽きぬ疑問に頭の中を支配されるが、無辜の命の嘆きが響く炎となりて思考を燃やした。

 

 一度、己の心を静かに清め。揺らめく炎を打ち正す。刀剣を鍛えるが如く心を叩き、右手に持った音角を手首の振るいで再び開く。

 冴える双角、輝く鬼面。左手の指先で軽やかにそれを叩き、耳と魂に鬼の波動を聞いて。

 

「たぁっ!!」

 

 額に浮かぶ鬼面と、ヒビキの全身に燃え上がる清く妖しき紫色の炎。振り上げた右腕で炎を振り払い、そこには一人の鬼――またしても衣服を燃やし散らした『響鬼』が立つ。

 

「それじゃ、行ってきます! シュッ!」

 

 鈍く輝く紫色の肉体のままの姿。同じく紫色に煌く凱火に跨り、双角掲げる響鬼としての強靭な頭そのものをヘルメット代わりの兜として。背後に振り返りつつ──霧から現れた凱火に困惑する勇儀とパルスィに向け、己が眼前を右手で払う仕草を見せた。

 眠れる獅子を呼び覚ます。猛る炎が凱火に宿る。唸るエンジン音を聞き、ヒビキはそのアクセルを引き絞った。

 

 ――凱火、走る紺碧。その輝きが向かう先は旧都の入り口、旧地獄街道。いつもの感覚で走らせたつもりだったが、機体にどこか鬼の力が感じられたのは気のせいではなかったのか。普段以上の馬力と速度がヒビキを襲い、少し狼狽える。

 だが、好都合だ。旧都の真ん中を走り抜ける凱火に妖怪たちは驚き闇色の空へ飛ぶが、このバイクはかつてヒビキが乗っていたものと同じでありながら大きく違う。単なる特別遊撃班の移動用という範疇を超え、その性能は『鬼』が操るに相応しい怪物じみたものとなっている。

 もし仮に停車に失敗してしまっても、今の凱火ならばそう簡単には廃車(おしゃか)にならぬだろう。

 

「勇儀、私たちも向かうわよ」

 

「あ、ああ。そうさせてもらおうかね」

 

 想像以上の速度を見せた凱火に驚きながらも、パルスィは冷静に言う。答えた勇儀は、凱火をもたらした霧に馴染みある妖気を感じて思考を奪われていた。

 千年前に失われたはずの鬼の力。妖怪の山の力の頂点として君臨していた四天王、その一人である『彼女』の力――密を疎と散らしてもたらされたそれが、同じ山の四天王である勇儀には考えるまでもなく理解できる。

 おそらくは八雲紫が用意したであろうヒビキの衣服に加え、この場に霧と現れた騎馬(バイク)の存在。疑う余地もなく、幻想郷の賢者たちはあの男――ヒビキを何らかの要としている。

 

 地上にて噂される怪物どもの存在が魔化魍だけに限らないのなら、きっと繋がる世界さえも一つではないはずだ。旧都からでは距離があり正確に掴むことはできなかったが、地霊殿の方に見られた奇妙な気配も――今、彼方の闇から感じられる妖気とは異なっていた。

 地霊殿に現れたとされる怪物は魔化魍ではない。魔化魍ではない怪物が幻想郷に現れているのなら、その世界に対応する外来人も存在するのではないか――

 

 勇儀は己が邸宅の瓦屋根を一度振り返り、淡く抱いた想いを胸に、少し笑みを零す。

 旧都の入り口方向、旧地獄街道から感じられる不気味な気配、咆哮と共にさらなる濃さを滲ませてきた魔化魍の妖気を手繰り、パルスィと共に旧都の天蓋(そら)を舞い飛びながらその場を去った。

 

◆    ◆    ◆

 

 旧都の妖怪たちは漂う未知の妖気と鬼と化した人間らしき者に関して喧騒する。ある者は家屋の中へと隠れ、ある者は彼らの向かった旧地獄街道に興味を示し。この場において最も強い妖気を宿す勇儀の家の上に、視線を向ける者は誰もいない。

 失われた古の妖気は白い霧と(あつ)まり、瓦屋根の上に萃夢の鬼――伊吹萃香の存在を象る。鬼ほどの絶大な妖気であれ、霧と散らして内に潜めば同じ鬼にさえ気取られはしないのだ。

 

「……この私が飛車(サポーター)扱いたぁね。やれやれ、王将(けんじゃ)様はお忙しいこって」

 

 勇儀の家の屋根の上、古びた瓦屋根にて胡坐(あぐら)を掻きながら、萃香はざわめく旧都の街並みを見下ろす。自ら表立てない退屈さを噛み潰し、顔を曇らせて。

 賢者という存在は自ら表に立つことなく次の一手を思考する隠者たちばかり。紫の指示でヒビキのバイク、凱火をここに用意し、他の戦士の愛機(・・・・・・・)と並んで走ることがあっても劣ることのないよう鬼の力を込めたが――

 古代文明の戦士のために作られた、人には過ぎた性能のもの。神の力を受けて変質した超常的な龍の如きもの。あるいは鏡の世界を行き来する次元跳躍機能を備えたものに、紅き血と共に鉄人となるもの、不死なる記憶を覚醒させるものもある。

 本来は人々の世界において市販されていただけの極めて一般的なバイクに鬼の力を宿したものの、何れも化け物揃いのマシンに並ぶほどの性能をもたらせているかどうか分からない。

 

 そこへ、萃香の隣に羽ばたき寄り添う見えざる何かが一匹。それは微かな気配として萃香に己の存在を知覚させながら、次の瞬間には不可視であったその姿を現した。

 鮮やかな浅葱(あさぎ)色の(わし)を模したディスクアニマルの姿。茜鷹に似ているが、色の他に嘴などの細部が異なったそれは、自身を構成する円盤に光学迷彩の機能を設け姿を消すことを可能とした新型の音式神である。

 猛士関東支部の開発部、ヒビキの幼馴染たる女性が設計・考案した『浅葱鷲(アサギワシ)』――とその透明化機能。響鬼の世界の理に依るそれらディスクアニマルも、凱火やヒビキの衣服と同様に今回の計画のために賢者たちによって用意されたもの。

 茜鷹や瑠璃狼、緑大猿といった初期型のディスクアニマルにも光学迷彩の機能は追加で設けられたのだが、その先駆けとなったのが新型として開発されたこの浅葱鷲であった。

 

 萃香は控えめに羽ばたく浅葱鷲の嘴を軽くつついて小さく笑う。視界の端ににょろりと伸びた細長い金属を見ると、今度はその笑みを苦いものに変えて屋根の隙間からそれを摘まみ上げた。

 

「お前はまたそんなとこに入って……壊れても知らないよ?」

 

 瓦と瓦の隙間に挟まっていた鈍色(にびいろ)の蛇。コブラめいた腹の広がりを物ともせず、するりと姿を埋めていたディスクアニマルは水中での動作を可能とした『鈍色蛇(ニビイロヘビ)』という特殊な機体だ。河童の道具もかくやという防水性は元より、水圧を裂くような遊泳速度は水辺にて成長する魔化魍の探索に役立ってくれる。

 ディスクアニマルとしての機能か、込められた蛇の魂の本能によるものか、命令を実行していない際は目を離すとすぐ狭いところに入り込みたがる性質があるようだ。

 

 萃香は尻尾を摘まんだ鈍色蛇をそっと目の前の瓦屋根に降ろし、続いて遠方から伝わるまた別の音式神の気配を見る。旧都に並び立つ家屋の屋根から屋根へと器用に跳び移り、最後に大きく放った跳躍をもって萃香の正面に着地した橙色(だいだいいろ)の輝き。

 黄色く赤くその身を染める獅子の音式神は『黄赤獅子(キアカシシ)』と呼ばれ、瑠璃狼と同型の四足獣として活躍する次世代のディスクアニマル。鮮やかなその色合いは瑠璃狼よりも目立ってしまうが、透明化の機能は彼らにもある。

 萃香は自ら放った三つのディスクアニマルがすべて戻ったことを確認すると、指をパチンと鳴らしてそれらを再びディスクの姿に戻した。浅葱鷲、鈍色蛇、黄赤獅子は鮮やかな色だったその身を無骨な銀色に落とし、皆一様に円盤となりて萃香の手へと軽やかに受け止められる。

 

 三枚のディスクアニマルを腰に装った帯の左側へと結びつけ、萃香はおもむろに立ち上がり、腰の円盤が擦り奏でる音を耳に聞く。

 鷲と蛇と獅子の魂がそれぞれ込められた式神も、起動時以外は眠りについている。今はその見た目通り、精密な情報機器を畳んだ銀色の円盤――記録媒体となるただのディスクでしかない。

 

「華扇は上手くやってくれてるかなぁ。……ああ、今はたしか『茨華仙』だったっけね」

 

 瓦屋根に立ち大きく身体を伸ばす。両手首と腰に結ばれた三つの鎖、それらの先に結ばれた三つの分銅を揺らし。

 ディスクアニマルとは反対側――腰帯の右側に備わった金属製の小さな笛。片手で吹き鳴らすためのホイッスルじみたそれも、畳まれた状態で分銅と同様に微かな音を立てながら揺れた。

 

◆     ◆     ◆

 

 薄紫色に淡く染まる天蓋の下、旧都の大通りから離れた旧地獄街道は、都ほどの賑やかさはないもののある程度の軒並みが揃っている。

 そこにオーロラと共に現れた巨大な蜘蛛の化生――漆黒の身体に虎縞模様の毛皮を備えた魔化魍ツチグモ、中でも特異な『屋久島のツチグモ』と呼ばれた個体が吠え立てる。

 

 咆哮と震えた地底の妖気、それが異質なものであることは怪物と相対する数人の鬼たちにも肌で理解できた。彼らはそれぞれ己が力に覚えのある若き鬼たちだが、ツチグモの奇妙な性質に対応できていない様子。見知った土蜘蛛の妖気とは掛け離れた姿に、困惑の色を隠せていない。

 

「っだぁっ!!」

 

 光ある旧都の街並みを突き抜けて、(はし)る凱火から飛び出す紫紺。響鬼の肉体は強靭な脚力でもってバイクを立ち、ブレーキもかけぬままに勢いのまま飛び蹴りを見舞う。

 屋久島のツチグモの鼻面に渾身の【 猛士式鬼蹴(たけししきおにげり) 】を叩き込むと、予期せぬ一撃に怯んだ怪物が少し後退。続いて乗り捨てられた凱火が蜘蛛の脚を一つ打ちつけ──微かに体勢を崩させた。

 

「おうおう、やってるねえ。私も仲間に入れてくれよ」

 

 地の底に滾る力の象徴――勇儀の声。この場に現れた鬼と鬼、方や異質な妖気を湛えた見慣れぬそれと、この奈落の底、旧地獄に生きる者なら誰もが響く名として知る元『山の四天王』の一人。ツチグモと対峙していた鬼たちはその気配と声に気づき、安心したような顔を見せる。

 

「っと、勇儀の姐御! このバケモンはいったいなんなんだ!?」

 

「いくらぶちのめしてもビクともしねえ、まるで雲でも殴ってるみてえだ……!」

 

 鬼たちの焦りはツチグモの妖気、その異質極まる存在の力そのものに対して。鬼の拳は鍛えの足らぬ未熟者のそれであっても他の妖怪を超える純粋な打撃となるが、あくまでそれは純粋な打撃の域を出ていなかった。

 魔化魍とは自然の力が歪み変じて具現化した精霊の一種。人々の恐れによって生まれた妖怪というよりは、幻想郷においてはどちらかと言えば妖精に近いと言える存在。

 

 故に、その性質は自然そのものである妖精の如く。どれだけの拳を叩き込み撃破しても、遅くとも数日後には再生を果たしている妖精と同様、魔化魍を完全に滅ぼすことはできない。自然が歪んだままである限り、消滅の兆しを見せることはない。

 ツチグモもその例に漏れず、ここに歪んだ妖気が残り続ける限り――単純な通常攻撃をもって撃滅することは叶わず。ただ力だけが足りたところで、自然の歪みまでは拭い去れないのだ。

 

「蜘蛛だけにか? そいつは傑作だねぇ」

 

「笑ってる場合じゃないでしょ! こいつ、童子たちよりさらに異質な妖気だわ……!」

 

 余裕そうに笑ってみせる勇儀に対し、ツチグモを警戒していたパルスィが言う。悪意と呼べるほどに歪んだ妖気は、それがつい最近生じたものではないことを示している。まるで古来から語り継がれた妖怪たちの伝承――これが土蜘蛛の正しき在り方のような。

 この旧地獄においては土蜘蛛という妖怪は黒谷ヤマメという少女として存在するはず。この怪異、ツチグモと呼ばれた魔化魍の存在は、パルスィに異界の伝承を受け入れさせるに十分なだけの気迫を持っていた。

 猛士式鬼蹴を放ち後方に着地していたヒビキに振り返り、同じ法則の妖気を見る。ツチグモの身に突っ込んでいってはその脚にぶつかり倒れた凱火を見て少し焦りを見せた様子だったが、そこに込められた鬼の力のおかげか、大した傷が残っていないことに安堵の溜息をついていた。

 

「ここは私らに任せて、あんたらは街道(ここ)の連中を都まで避難させといてくれ」

 

 どれだけ殴りつけようが朽ちぬ妖精じみた妖怪に、体力自慢とはいえ疲労の色を見せていた鬼たち。彼らに振り返り、勇儀は成すべきことを告げてやる。

 妖怪の山の大将と呼ばれた四天王の一人、彼女の言葉は地底においても揺るがない。その意思を理解した鬼たちは小さく頷き、勇儀を案ずる必要もなくその言葉に従った。

 

「さて、と。見てくれは確かに大物だが……単なる力自慢ってわけでもなさそうだ」

 

 勇儀は旧都に生きる鬼。されど力のみに酔い痴れ生きてきた若き者、力のみを信じて生きてきた古き者のどちらとも違う精神を持つ。山を去って千年の時を超え、未だに鬼として心身を忘れず、力と共に心を鍛え続けることの意味を失わず。

 清らかなる鬼の魂。この身に燃え滾る熱き響きを息吹き抱き。悪しき力に染んだ化生を、古き鬼の力をもって在るべき姿に清めん。

 

 ─―打ち鳴らせ、遥か。地下深くから満たす音を。遠く聞こえた祭囃子に幻想を見る。高鳴る鼓動に心を震わせる勇儀の傍にもう一人、石桜の如き紫色の輝きを持つ鬼が立つ。

 響く鬼、咆える蜘蛛。見上げる無貌は二本角。共に仰ぐは一本角。後方に控え妖気を練り上げるパルスィを背後に。二人の鬼は妖しく歪んだ虚ろな妖気に気高く向き合い、咆哮を耳にした。




どうしても導入編の中だけで主人公のバイクを出しておきたかった。
山野を駆けて太鼓を叩く鬼でもちゃんとライダーです。ちゃんとライダーなんです。

      次
    三  回 

   六   
輝  之   
け  巻   
る      
音      


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第36話 輝ける音

 絢爛たる旧都の大通りを少し離れた旧地獄街道の真ん中で。闇夜の天蓋に煌く石桜と細雪を掻き消すように、地の底を満たす妖気の中、大蜘蛛の化生が怒号を上げる。

 京の怪、八束(やつか)(はぎ)()べ揃え。選ばれた一族に従わぬ『まつろわぬ民』の蔑称として、かの『ツチグモ』は京の都の伝承に名を連ねた。その恐れを由来とする自然の怪異、魔化魍。京都に伝わる妖怪でありながら、その個体は鹿児島の南にて生まれ育った『イレギュラー』であった。

 

「グォォォーーーォォォオオオッ……!」

 

 旧地獄街道の軒並みと敷き詰められた石の道。虎縞模様の大蜘蛛『屋久島のツチグモ』は紅蓮に滾る八つの目を輝かせて煌びやかな都の入り口に立つ。

 ヒビキはその怪物を知っていた。猛士のデータベースに残る魔化魍ツチグモとしてではなく、実際に己が屋久島の地で戦った個体として。かつて自らの手で打ち鳴らし、清め祓ったはずのそれが、かつてと同じ姿でここにいる。

 艶やかな紫色に染んだ鬼、響鬼の姿となっているヒビキはその無貌の下、固唾を飲んだ。放たれる悪意は明確に、ただ生まれ落ちただけの怪物ではなく。童子と姫より上の何かによって故意に性質を書き換えられた個体。それは黒衣に身を包んだクグツによるものなのか――

 

 童子と姫を必要としていたこの屋久島のツチグモは、今はまだオロチによる影響で発生したものではない。されど、何らかの悪意によって従来のツチグモとは異なった性質を持っていることもまた間違いはないだろう。

 ヒビキが気になったのはやはりその環境。京都に生じる個体も、屋久島で生じた個体も、どちらもツチグモは一定の気温と湿度を確保しなければならない。それはツチグモに限らず、あらゆる魔化魍に共通する事項だと猛士のデータベースには記されていたはずだ。

 しかし、ツチグモの生育環境は気温15度、湿度70%が要る。渇いた地に雪の降る旧地獄街道にはほとんど植物がなく、荒涼とした殺風景な岩肌に絢爛な都が建っているだけ。そんな地獄の土地でどうやって、自身が育つに必要な環境を用意できたのか。

 この旧地獄は地底世界の名の通り、地の底。森と呼べるような場所はなく、ツチグモが育つべき環境はここにはないはず。そこだけが──微かにオロチの可能性を脳裏に(よぎ)らせていた。

 

「お前、屋久島にいた奴だな? 明日夢(あすむ)と初めて出会ったときのことだから、よく覚えてるよ」

 

 ある冬の日のこと。屋久島行きのフェリーで出会った少年、後に鬼の道とは関係のない人生の師弟として、あるいは友として語り合う明日を共に歩む彼と初めて知り合った日。森で再会した彼に鬼の姿を見られたことが、始まりの君だった。

 ─―心が震える場所を探して、誰にもできないことを見つけ出せ。鬼になるということだけが自分の弟子であるということではない、と。ヒビキは少年に語った。

 それが君の『響き』。今、少年は鬼とも猛士とも関わりのない明日なる夢に輝いている。たとえ行くべき道が違っても、ヒビキは彼を、出会ったときから自慢の弟子だと想っている。

 

「……やっぱり、妖気も姿の特徴も土蜘蛛のもんだね」

 

「童子や姫よりも強い気配……こいつがヒビキさんの世界における土蜘蛛なのね」

 

 旧地獄街道の建物を高く並列(なら)ぶは三十尺にも届かんばかりの身の丈と、石の道に重く突き伸びる脚で示す、千数百貫はある目方。

 勇儀とパルスィは異形たるその姿を見て、やはり黒谷ヤマメの姿を連想した。それは彼女らの知る土蜘蛛とは大きく異なる姿と妖気。ただ土蜘蛛であるという気配だけは漠然と伝わってくるし、姿も伝承で語られる妖怪としての土蜘蛛のそれに近いもの。

 だが、どうしても。おびただしく歪んだ気配は異界の怪異と認識せざるを得なかった。

 一切の幻想を帯びぬ土蜘蛛。それは幻想郷に受け入れられ、地底世界に受け入れられた『幻想』としての土蜘蛛ではなく、響鬼の世界で生まれ歪み変じた魔化魍――ツチグモ(・・・・)。そこには妖怪らしい気配はなく、ただ穢れ乱れた自然の妖気と練り上げられた悪意と邪気が渦巻いているのみ。

 

「ああ、ツチグモだ。その反応からすると、幻想郷(こっち)にもいるみたいだな」

 

 赤い隈取りをあしらった無貌、紫色の鬼は勇儀やパルスィと共にツチグモの姿を見上げる。微かに顔を傾け、勇儀たちの言葉に返すと、ヒビキは己が腰の背へと両手を回した。

 腰帯として装う『装備帯(そうびたい)』と呼ばれる褌の一種。響鬼への変身に際して妖気と共に具現するそれは、変身前のヒビキが帯びていたベルトが変化したもの。その背には二振りの棒――屋久島の霊木を削って作られた立派な(バチ)が収められている。

 腰の背からそれを取り外し、手元に空いた輪に指を通してしっかりと保持。派手に振り乱しても手放してしまうことがないよう、鬼の握力を加えて握り締めた。

 

 赤く塗り上げられた柄が雄々しいそれは『音撃棒(おんげきぼう)烈火(れっか)』と称される、太鼓の鬼である響鬼にとってのバチそのもの。その先端に鬼灯の如く輝く真紅の石は『鬼石(おにいし)』と呼ばれ、薄く透き通った結晶じみた美しさを持っている。

 左手に握る音撃棒の先端には大きく口を開いた鬼の貌、()。右手に掲げるものの先端には硬く口を閉ざした鬼の貌、(うん)

 一対のバチはそれぞれ先端に紅い鬼の貌を象った鬼石を備え、響鬼の両手に紅く灯る。

 

「鍛えた甲斐を見せてやるぜ」

 

 抑揚のない、それでいて気合を込めた覚悟を胸に。音撃棒・烈火を構え、眼前のツチグモに向き合う。対する八つの目が輝いたかと思うと、勇儀もパルスィもすぐさまその動きを悟った。

 

「おっと……!」

 

 ツチグモの口から吐き出される蜘蛛の糸は、童子や姫などの比ではない。単純な大きさからもたらされるその太さは、一本一本が束ねられているせいだろうが、巨木にも匹敵する。そんな糸が怒涛の勢いで旧地獄街道の地面に叩きつけられたのだ。

 幸い咄嗟に左右に飛ぶことができたため、被害を受けた者はいない。容易く土の地面を抉るその威力は、蜘蛛の糸という粘着性の拘束力を無視しても単純な破壊力として脅威だった。

 

「はっ! 見た目に(たが)わず豪快な奴だね! 気に入ったよ!」

 

 蜘蛛の糸と呼ぶには激しすぎる奔流に見向きもせず、勇儀は高らかに喜びの声を上げる。ツチグモの八つ目と同じ真紅の瞳で見合い、虎の如き大顎を広げたその姿を見て。

 

 直後に再び吐きつけられた白い輝きはパルスィの正面に飛ぶ。これだけの質量、嫉妬の炎で一度に燃やすのは難しい。弾幕を射出して相殺することもできそうにない勢いで迫ってくるそれに、嫉妬の妖怪は密かに練り上げた妖力を心の中で桜と咲かせた。

 心象に浮かべるは一枚の札。攻撃のために考案されたそれを防御のために。愛犬の遺灰で枯れ木に花を咲かせんが如く、パルスィが抱く嫉妬は桜舞う弾幕としてその眼前に花開く。

 

「……華やかなる仁者(じんしゃ)への嫉妬……!」

 

 パルスィが広げた手の平からは嫉妬色に輝く緑の(たま)。見事な桜を咲かせてみせた仁者への妬みを抱いた狡猾な老人、己が灰によって桜を咲かせることができなかった無念は、橋姫の妖力を増大させる嫉妬の波動となりて。

 スペルカードと定義された【 花咲爺(はなさかじい)「華やかなる仁者への嫉妬」 】の軌道は桜色の光。蜘蛛の糸を前にして、その光は五枚の花弁と尾を引いた。

 いくつもの桜が乱れ咲く。薄紅色の輝きは淡く美しく、昔話に伝わる灰の祝福を思わせるが――その本質はそれを羨んだ者の嫉妬心。儚く見えても嫉妬を糧とした強靭な花びらとなる。

 

「……っく……!」

 

 パリン、パリンと次々砕けゆく桜色の花弁を見届け、パルスィは眼前に開く口に怯んだ。弾幕のおかげで一波目は防ぎ切れたが、ツチグモは再び蜘蛛の糸を吐こうとしている。

 今度はさらなるスペルでそれを凌ごうと力を込めた瞬間、背後に鬼の妖気を感じた。

 

「はぁぁぁぁああっ……はぁっ!」

 

 響鬼の両手に掲げられた音撃棒・烈火。左右それぞれの鬼石は内側から紅蓮に滾る妖光を灯し、鮮烈な炎の色に燃え上がる。

 ヒビキ自身の鍛え抜かれた心身から注がれた炎の気を込め、表出する。さながら松明の如き炎を湛えた音撃棒・烈火を虚空に振りかざし、ヒビキはその炎を左右二つの火球と成してツチグモへと叩き込んだ。

 蜘蛛の糸は焼き切れ、炸裂した炎によってツチグモは呻きを漏らす。鬼爪や鬼火と同様、魔化魍と戦うために編み出された響鬼の技、音撃棒・烈火を用いた【 鬼棒術(きぼうじゅつ)烈火弾(れっかだん) 】は、魔化魍に大しては効果的な攻撃と成り得るものではない。

 それでも、童子や姫ほどの相手であれば場合によっては一撃で葬ることもある鬼の術。たとえ魔化魍が相手だとしても、単純な威力でもってその動きを抑制するには充分だ。

 

 口の中に燃え移った炎を牙を擦り合わせて消す大蜘蛛。ツチグモにとってそれがどれだけのダメージかは分からないが、ヒビキはいずれにせよ、それだけで魔化魍を倒し切ることはできないと悟っている。鬼棒術・烈火弾の火力が足りぬこともあろうが、それ以上に役割が違うのだ。

 

「おっ、やるねえ。やっぱりその姿になると気迫が違うね!」

 

 ツチグモが放った蜘蛛の糸を避け、旧地獄街道の建物の上に立った勇儀。今一度、鬼のヒビキの力を楽しもうとしているのか、若き鬼たちの誘導で力なき人妖がいなくなった旧地獄街道を寂れた祭り場と見るかのように。

 もし自分も当事者でなかったらすぐにでも屋根瓦に腰かけ星熊盃を煽りたい気分だが――観戦するよりもっと楽しいことが目の前にある。今は酒の味わいに背を向けるとしよう。

 

「大丈夫か? えーっと……パルスィだっけ?」

 

他人(ひと)のことを心配していられるその余裕、妬ましいわ!」

 

 音撃棒を構えながらツチグモを警戒し続けるヒビキに心配され、パルスィは声を上げる。目の前に迫り来るツチグモの大脚は槍の如く研ぎ澄まされており、不用意にパルスィの方へ振り向いたヒビキの身を穿ち抜こうとしていた。

 パルスィは咄嗟にヒビキを突き飛ばし、残った妖力でスペルカードを発動する。振り抜かれたツチグモの脚が貫いた場所にはすでにパルスィの姿はなく――

 左右それぞれに、二人のパルスィ(・・・・・・・)として分かれた彼女がツチグモの横へと舞い浮いた。

 

「スペルカード……謙虚なる富者(ふじゃ)への片恨(かたうらみ)……!」

 

 まったく同じ気配を持つ二つの姿。鏡像めいた同一の妖怪が左右それぞれに現れ、さしものツチグモも困惑している様子。

 続けて放たれた【 舌切雀(したきりすずめ)「謙虚なる富者への片恨」 】の効果により、昔話の老夫婦が与えられた大きな葛籠(つづら)と小さな葛籠の選択権の如く、二人のパルスィはそれぞれツチグモに向けて、共に緑色に輝く大きい光弾と小さい光弾を放ち続ける。

 小さい光弾はツチグモの皮膚に当たっても小さく弾けるばかり。反対側にて炸裂する大きな光弾に苛立ちを覚えたのか、その射出者たるパルスィに向け、ツチグモは大顎を開いた。

 

 迫る大牙に微かに目を見開いた──大きい光弾を放っていた方のパルスィ。哀れにもツチグモの大口に飲み込まれ、いとも呆気なくその餌食となってしまう。

 その様子を目にしたヒビキは肝を冷やすが、勇儀は街道の屋根から飛び降りて笑うのみ。

 

 一人の少女が魔化魍に喰われた──という凄惨な光景。だが、血飛沫や悲鳴などは一切そこになく。ただ魔化魍の口から零れた微かな光だけが旧地獄街道に差し込んで。炸裂するは嫉妬の爆発、幻影のパルスィによる輝きの奔流。

 すかさずツチグモの背後に控えていた本物(・・)のパルスィが大きな光弾を放つ。二人分の嫉妬を一身に、波動に苛まれた屋久島のツチグモはぐらりと体勢を崩して勇儀に大きな隙を見せた。

 

「勇儀!」

 

「……見えた! その隙、もらったよ!」

 

 勇儀が響鬼の横を走り抜ける。美しく振り乱された金の長髪に揺れる黄金の妖気。その右腕に蓄えられた古の力は、鬼という絶大な妖怪の不条理さを込めた渾身の一撃。

 

怪力(かいりょく)――乱神(らんしん)――!!」

 

 弾幕ごっこという遊戯に抑制された『鬼』の本懐、スペルカードという枠組みに押し込んだ無秩序の具現。語られる怪力乱神(・・・・・・・・)そのものが、荒唐無稽な力の事象として勇儀の拳となる。

 鬼の身に秘める太古の妖気を宿し振り抜かれた【 鬼符(おにふ)「怪力乱神」 】の波動を掲げ、勇儀は屋久島のツチグモが見せた隙を射貫くように一歩を踏み込んで。

 

 ─―それは、殴打と呼ぶには圧倒的すぎる衝撃。勇儀の拳がツチグモの腹に叩き込まれたその一瞬、妖気そのものと言っていい自然の精霊の身を微かに歪めたほど。余波によって生じた波動は弾幕となりて紫色の大渦を撒き散らし、荒ぶ突風が周囲の家屋から屋根瓦を剥ぐ。

 

 そのまま殴り抜け、ツチグモは背後の大岩にまで吹き飛ばされた。スペルカードという仮初めのルールの形式を取ってはいるが、その本質は鬼である勇儀の本気を込めた技。悪意ある怪異に与える殺意と歓喜の証明――山を崩すほどの絶大な破壊力。

 地底の大岩に叩きつけられたツチグモは月面の穴(クレーター)めいた跡を岩肌に刻み込み、そのままだらりと動かなくなる。いくら強大な妖怪と言えど、鬼の本気の拳を正面から受ければ是非もない。

 

 ――それが『妖怪』であれば。

 

「……なるほどねぇ。そのひねくれた妖気は本物ってわけかい」

 

 動かなくなったと思ったのも束の間のこと。ツチグモはぱらぱらと小石を落としつつ、岩肌に埋もれたその身を起こしてみせる。普通の妖怪であれば肉塊と化していてもおかしくない一撃を受けてなお、魔化魍には致命傷足り得ぬのだ。

 若き鬼たちの言った通り、まるで雲か柔らかい布団でも殴りつけたような手応え。過去に八雲紫と手合わせしたときにも似た感覚を覚えたが、確かにこれでは暖簾(のれん)に腕押しというもの。

 

「いやはや……とんでもない力だな」

 

 ヒビキは勇儀が放った拳の余波で無惨な姿となった軒並みの一部を見渡す。魔化魍の攻撃でさえここまでの影響は多く見られるものではない。無論、猛士と鬼が在る限りそんな行いを許すつもりはないのだが。

 さながら嵐でも過ぎ去ったのかと見紛うほどの荒れ様を前に、鬼という存在の圧倒的な力を改めて恐れる。語られる地平が違えば自分も同じ怪異と恐れられたのだろう。

 否、戦国時代においてはヒビキの生きた世界でも。『鬼』とは化け物の象徴であったのだ。

 

「妖気からしておかしいと思ってたけど、想像以上の怪物(ばけもの)だわ……」

 

「確かに厄介な相手だが――」

 

 ふわりと着地したパルスィは異質な妖気を持つ魔化魍ツチグモに対して。突き出した拳を下げてそこに視線を落としつつ、振り返った勇儀はヒビキに対して。

 

「こんな奴らを相手にしてきたあんたなら、攻略の糸口くらいは見えてるんだろ?」

 

 蜘蛛だけに。と付け加えた勇儀は再び正面のツチグモに向き直る。変わらず咆哮を上げて威嚇するその様からは本体へのダメージが見て取れない。

 全くの無傷というわけではないようだが――身体の一部を破壊する程度が限界か。自然そのものに近い妖気は、単純な物理攻撃では根本的なダメージを与えることができないらしい。鬼の力を込めた拳ならあるいはと思ったが、やはり妖気に妖気をぶつけるだけでも妖怪とは異なる性質の歪みを祓うことはできない様子。

 

 ヒビキは勇儀の問いに少し考える素振りを見せつつ、音撃棒の柄を強く握る。猛士の定義に当たる概念とは異なるとはいえ、この幻想の地にて『鬼』と呼ばれる存在の力ならばと考えたものの、ヒビキの期待に反してツチグモが消滅の兆しを見せることはなかった。

 従来通り魔化魍の討伐にはとある波動(・・)が必要だと改めて思う。多少性質が変わったとて、相手が魔化魍である限り戦い方の基本は通ずるのだと、装備帯の正面に装う三つ巴の紋を想いながら。

 

魔化魍(あいつら)はちょっと特別でな。……清めの波動を込めた『音』じゃないと倒せないんだ」

 

 猛士において『鬼』が必要とされる最たる理由は、魔化魍の性質にある。彼らは力の極致とも呼び得る勇儀の一撃を受けてもなお砕けぬ身を持つ堅牢な──否、不可思議極まる歪んだ妖気によって成り立っている。

 ただ堅牢であるだけなら近代兵器によって破壊も可能だろう。それこそ勇儀の拳であえれば打倒は容易。それが叶わぬ理由は、それらが自然そのものの精霊ゆえに他ならず。

 

 人の恐れや負の想念が自然の力に宿り、生まれたもの。あるいは悪意によって育まれ故意にその在り方を歪めたもの。魔化魍と呼ばれた自然の怪異はその力の歪みが残り続ける限り幾度でも蘇る。それは何百年も昔から変わらぬヒビキの世界の法則だ。

 

 だが、魔化魍は永く見れば不滅ではあるものの、個体においては不死ではない。力をもってその形を砕くことはできずとも、歪んだ自然を浄化することで終わりなき再生を一時的に阻止することができる。

 その方法が――鬼の持つ『清めの音』による浄化。古来より受け継がれた秘伝の気を練り上げ、鍛え抜かれた特別な楽器によって響き奏でる『音撃(おんげき)』と呼ばれる技法。

 物理的な攻撃が根本へと通用しない魔化魍に対抗するには、古の鬼たちが編み出したその方法をもって撃破するしかないとされているのだ。

 響鬼が両手に握る音撃棒・烈火はその名の通り、音撃を伝えるためのバチ。先端に灯る鬼石から清めの音を発し、それを振り乱して魔化魍の身に『太鼓』を打ち鳴らすためのものである。

 

「音……? 音ねぇ」

 

「ああ、だから太鼓のバチなのね」

 

 勇儀はまたもや両腕を組んで深く思考する。パルスィはどこか納得した様子でヒビキが手にする二本の棒を見やり、その『音』という浄化手段に合点がいった表情を見せた。

 だが、山の四天王と呼ばれた鬼の拳を受けて未だ健在の怪。魔化魍を倒すにはやはりヒビキの言った通り特別な方法が必要らしい。勇儀の力が足りなかったわけではなく、魔化魍という存在そのものが『生き物』として物理的な構造をしていないのだという。

 妖怪とも妖精とも、無機物とも有機物ともつかぬ怪異たちはこれまでも、猛士が生まれる以前から鍛え抜かれた鬼たちによって魂を清められ――在るべき自然の姿へと還されている。

 

「俺の音撃なら倒せるはず……だとは思うんだけどな」

 

 長く猛士の鬼として戦いを続け、多くの魔化魍を清めてきた。それでもやはり一年前の戦い、悪意やオロチによって変化した特殊な個体なども視野に入れざるを得ない。

 

「――まぁ、やれることはやってみるさ。いざとなったら、フォローよろしくな」

 

 自分の音撃をもって確実に撃破できる保障はないが――元より魔化魍を打ち倒すには音撃をもって抗する以外にない。

 ヒビキは考えても分からないことは行動をもって求める性格だ。思考を染める穢れを振り祓い、左手の音撃棒・烈火を一度くるりと回してみせると、再び強く握りしめツチグモへと構えた。

 

「私たちはあいつを足止めしてればいいわけね。……勇儀?」

 

 どれだけの力をもってしても自分たちには魔化魍を倒すことはできない。それは幻想郷(こちら)側に定義される『鬼』でさえも例外ではなく。

 清めの音と呼ばれる力を持たぬ我々では荒れ狂う魔化魍の動きを抑制するのが関の山。ならば、確実――とは言えずとも、魔化魍に対して効果的なダメージを与えられる『専門家』に任せることとしよう。その理解を確認しようとパルスィは勇儀に振り返ったが、姿は見当たらず。

 

「…………」

 

 悠々とツチグモの前に歩み出る勇儀。その表情は不敵な笑みを崩さず、度重なる攻撃で苛立ちを募らせた紅蓮の八眼に晒される。剥き出された虎の牙は、それが元は自然の一部であったことなど白雪冴える忘却の彼方へ霞ませるような醜悪な邪気を放っていた。

 勇儀は両の拳を腰に据え、瞳を閉じて大きく息を吸う。肺に取り込まれた空気と共に炎と滾る地底の妖気。ヒビキの鬼火と同様の手順ながら、勇儀のその妖気は魂に灯る一枚の札と共に。

 

「――ヒビキさん、耳を塞いでおいたほうがいいわ」

 

 右手を前に出して淡い緑色の結界を張ったパルスィの声に、響鬼は紫色の無貌のまま不思議そうに首を傾げた。

 その言葉の意味もよく分からないまま、一瞬そのまま耳を塞ぐ素振りを見せる。が、ヒビキの両手には音撃棒・烈火が携えられている。耳を塞ごうにも、一度この音撃棒を腰の装備帯の背に戻さなくてはならない。パルスィにその意味を問おうとヒビキが口を開いた――その瞬間。

 

 ――音が、消え去った。

 

 ツチグモの声も、微かに吹き抜ける地底の風も。小さくとも確かにあった旧地獄の環境音が完全な静寂となり、無音の世界で嵐が巻き起こる。

 続いてヒビキが認識したのは、数十貫はある鬼の身体を吹き飛ばさんほどの爆発的な圧力そのものだった。それが『音圧』であると分かったのは、肌で感じる空気の振動が自分が馴染み知った音の波動によるものに似ていたがため。

 音撃棒を手にしたまま両腕を前に交差し、吹き飛ばされぬように大地を踏みしめて。顔を上げた先、少しづつ癒えゆく耳が聞き届けた轟音に意識を向ける余地もなく。

 

 勇儀が誇る【 鬼声(きせい)「壊滅の咆哮」 】が放つは、天蓋を割り砕くだけの息を込めた単純な大声。本来ならばその余波を妖気の弾幕と成して解き放つのだが、今は全てのエネルギーを空気を震わせる『音』とした。

 ツチグモに聴覚があるのかどうかは分からないが、その身に響く音は確かにダメージとなっている。もっとも、清められたわけではなく純粋な音波による衝撃。ただ相手を殴りつけるそれが拳から声に変わっただけで、ヒビキの語る『音撃』と呼ばれるものになってはいないのだが――

 

「……っと、効いてるんじゃないかい?」

 

「清らかさが足りなすぎると思うわ。そんなのただの大声じゃない……」

 

 ゆらゆらと立ち上がるツチグモを見て落胆する勇儀。パルスィが結界を張っていたおかげで音波によるダメージはこちら側へは届いていないが、ヒビキは鼓膜を打ち破るほどではないものの耳の機能が一時的に麻痺するだけの音を聴いて頭蓋が軋んでいる。

 勇儀とパルスィの会話が微かにでも聞こえたのは鍛え抜いた肉体の甲斐か。すでに取り戻した聴覚をもって、ヒビキは声という音の手法から自身も同じく声で戦えることを思い出した。

 

「(あの剣……どこ置いたっけなぁ)」

 

 オロチを鎮めてからはしばらく用いることがなかったため、失念してしまっていた。今は手元にないが、もしこの地に招かれておらずともディスクアニマルたちが猛士の関東支部から持ってきてくれるだろうか。

 響鬼の鍛え抜かれた肉体にさらなる『装甲』を加える猛士本部の技術の粋。鋼の鬼と呼ばれた男が鍛えた音撃を増幅させるための剣(・・・・・・・・・・・・)があれば、如何なる魔化魍にも対応できるはずだ。

 

 しかし――ディスクアニマルたちの増援と同様、幻想郷や旧地獄の地に外の世界からのサポートが期待できるとも思えない。衣服の替えや移動用の凱火だけが用意されてはいるが、その経路も不明。今はただ、限られたディスクと己の肉体だけを駆使して戦うしかない。

 ならばこの身に宿る炎の気を高め、本来は『夏』にのみ発現させる力を燃やし現わそうと試みようか。否、微かにそう逡巡したヒビキはすぐにその思考を捨てた。

 結果は分かっている。その姿への変身のためだけにさらなる鍛え方を要求される夏の時期限定の力。普段通りの鍛え方しかしていない今のままでは、真紅の炎(・・・・)に滾る境地には到底届かない。

 

「……っ! ツチグモが動くわ! こっちに向かってくるよ!」

 

 壊滅の咆哮の影響で停滞していた動きが変わる。肌に伝わる妖気でそれを感じ取り、脚を突き立てたツチグモの姿を見たパルスィは、勇儀とヒビキにそれを告げた。

 雷鳴に匹敵するほどの鬼の大声。それを超える自然の音など、本物の落雷くらいのものだろう。自然の具現たる魔化魍にはやはり物理的な音の衝撃など大した影響がないのか。微かに動きを鈍らせてはいたものの――

 振り乱される柱が如き蜘蛛の大脚を突き立てながら、ツチグモは大顎を広げて驀進する。

 

「グォォォオッ!!」

 

 鬼として地を駆け抜け、ヒビキは正面で交差させた音撃棒・烈火でそれを止めた。続けて振り上げた右の烈火でツチグモの脚を殴りつける。

 しかし、地底の妖気を喰った影響か。ツチグモの肉体はやはり彼が知るものよりも硬くなっている。無貌の下で強く気を引き締め、今度は左の烈火を振り上げて力を込めたが――

 

 ツチグモの脚が激しく振り乱されたことで、左手に握っていた音撃棒が打ち飛ばされる。強く保持していたつもりだが、鬼の握力さえ振り切るほどに、今のツチグモは力をつけてしまっているらしい。これ以上の力をつける前に、勝負を決めたいところだ。

 続けて吐きつけられた蜘蛛の糸の奔流を咄嗟に後退して回避しつつ、遠くに落ちてしまった左の烈火を一瞥。背を見せぬようあえてそれを無視し、ヒビキは右手に握った烈火に炎を込めて。再び鬼棒術・烈火弾を形成すると、片手のみの音撃棒でそれをツチグモの大口に叩き込んだ。

 

「……グゥ……」

 

 微かに怯みを見せたツチグモ。やはり口内への攻撃は致命傷にならずともそれなりの衝撃になるようだ。その隙を突き、ヒビキは装備帯から音撃の要となる『音撃武器』を取り外そうと、左手で三つ巴の鬼火を描いた腰の真円に触れたが――すぐに死角からの気配に気づく。

 

「……なんだ……? この気配……」

 

 ヒビキは本能的な判断力で装備帯から手を離し、ツチグモから距離を取る。勇儀とパルスィに並び、未だ動かないツチグモを警戒しつつも周囲の気配にも気を配り。

 魔化魍や童子たちのものではない。そのどちらもを兼ね備えているような奇妙な感覚。それに加えどこかクグツらしくも妖怪らしくもあるような、自然と恐怖と悪意が混沌としたような――それでいて極めて薄く隠れた気配。

 

 勇儀とパルスィは先日、地獄の深道で童子たちと戦ったときに、それと同じ気配を天蓋の先に感じていた。地底の妖怪かとも思ったそれは、童子たちとの戦いを『見ていた』のだ。

 ――気のせいではなかったのか。と肝を冷やすと同時、その気配は彼らの周囲に姿を現す。

 

「…………」

 

 地底の天蓋から音もなく降りた五つの影。旧地獄街道の瓦屋根に立ち並ぶは、さながら忍者めいた黒装束に身を包んだ人型の怪物。黒く模様を刻んだ白狐の面を装い、人とも獣とも、魔化魍とも妖怪ともつかぬ独特の気配でこちらを見下ろす。

 五体もの『魔化魍忍群(まかもうにんぐん)白狐(びゃっこ)』は――確かにそこにいるのにまるで何もいないかのような空虚な気配を放っていた。

 それは、ヒビキですら知らない気配。見たこともない魔化魍。少なくとも現代の世に現れたことは一度もなく。猛士の古い文献を見直せばそれが戦国時代にも現れた『化け狐』の由来となった魔化魍だと理解できたかもしれないが、少なくとも今の彼には見覚えのない存在だった。

 

「忍者……? これまたけったいな奴らが出てきたもんだね」

 

 勇儀は余裕を見せつつも行動を決めあぐねていた。ツチグモは未だ健在。加えてこの魔化魍忍群まで相手にするとなると、さすがに鬼の全力を出す必要が出てくるかもしれない。そうなれば最悪の場合、旧地獄街道が更地と化すことになる。旧都を愛する勇儀としても、それは決して望ましいことではない。

 魔化魍忍群・白狐たちはそれぞれ瓦の屋根から飛び降り、ツチグモの正面に並び陣取った。この大蜘蛛を守るかのように懐から取り出した小鎌を構え、真紅の爪を湛えた白い手でそれを握りしめる。下級の妖獣に近い気配だが、その立ち居振る舞いは忍者そのものだ。

 

「こっちも相手にしなきゃいけないのね」

 

 五体の忍者と一体の蜘蛛。それらをまとめて警戒しつつ、パルスィが言う。ヒビキはその傍ら、見たことも聞いたこともないはずのそれに疑問を感じていた。

 記憶を手繰れどもその姿はヒビキの見識にはない――そのはずなのだが気配が奇妙だ。一度も見たことがないはずのその存在、狐の面をした忍者の如き魔化魍――なのか。空虚な気配に本能的な既視感を覚える。戦国時代を生きた自分自身が、かつてそれらと戦っていたような。

 

「……戦うしかないってことだな」

 

 頭蓋を過った虚ろな記憶を誤魔化し、ヒビキは右手に握った烈火・吽を長剣の如く両手でもって構え立てた。

 先ほど放った鬼棒術・烈火弾と同様に、音撃棒・烈火に炎の気を込める。今度は鬼石に宿る炎を灯火として放つためではなく、紅く激しく燃え上がる火の柱をそのまま『刃』とするために。

 

「はぁぁぁぁあっ……!」

 

 発声と共に音撃棒の先から燃え上がるは熱く滾る炎の剣。ヒビキ自身の鍛錬に加え、音撃棒に備わる鬼石の改良によって実現した【 鬼棒術(きぼうじゅつ)烈火剣(れっかけん) 】を刀と携えて。

 舞い散る火の粉は地底を染める雪のように淡く。その妖気に呼応するかの如く大地を蹴った白狐を切り伏せ、炎の気を加えて振り払う。

 

「はぁっ!」

 

「えいっ!」

 

 勇儀が放つは青き光弾。大地に壁に岩肌に、跳ねて爆ぜては黄色く染まる。清廉な青と絢爛たる黄色、二つを織り交ぜた通常弾幕は魔化魍忍群に炸裂した。

 妖怪としての意地を込めたパルスィの光弾も同様に、禍々しい嫉妬心には似つかぬ美しい青と黄。環状に配置されたそれを正面へと収束させ、勇儀の弾幕に怯んでいた一体の白狐に鋭く注ぎ込むと――狐面に亀裂が入る。

 続けて放った光弾は魔化魍忍群・白狐の身を突き飛ばし、旧地獄街道の壁に打ちつけた。そこへ勇儀がさらなる追撃を試みようと拳を振り上げたが――

 魔化魍忍群・白狐の一体は淡く虚ろな緑色の炎と化して消えてしまう。人魂めいた灯火をふわりと昇らせ、そこに微かな妖気の残滓だけを残して跡形もなくなってしまった。

 

「……消えた? パルスィがやったのか?」

 

「いや、私は何も……」

 

 緑色の炎はパルスィの妖力に似ている。だが、やはり彼女の言葉通りそこに嫉妬の気配は一切感じられなかった。

 童子たちを倒したときの感覚ともまた違っている。どちらかと言えば妖精を倒したときに近い、妖気そのものが消滅したときのような感覚。違和感は残るが、無力化はできているのか――

 

「なるほど。奇妙な手応えだけど、倒せなくはないってことだね」

 

 ツチグモのような魔化魍とは異なり、それは音撃に頼らずとも撃破できた。幻想的な弾幕で倒せるのなら、勇儀の拳があれば取るに足らない相手だ。

 だが、同時にツチグモも警戒しなければならないとなると話は別。いくら鬼の頂点といえどこれほど力をつけた魔化魍に後ろから襲われれば治癒不可能な傷を受けかねない。ヒビキが烈火剣をもって二体の白狐を()き斬り、ダメージを与えて後退した瞬間を見て勇儀は声を上げる。

 

「ヒビキ、こっちは私たちが引き受ける! あんたはそのデカブツを頼んだ!」

 

 勇儀の声に小さく頷くヒビキ。されどこの手にある音撃棒は一本のみ。左手に携えるべき烈火・阿は今なお旧地獄街道の後方に落ちたままだ。

 不用意に取り戻そうとすればツチグモに糸を吐かれるだろう。まだ四体も残っている魔化魍忍群が邪魔する限り、そこに近づくことすらままならないかもしれない。それでも考えたところで状況は変わらず。ならば多少強引にでも、音撃に必須となるそれを取り戻すべきか。

 

「…………っ!」

 

 パルスィは白狐と戦いながら、隙を見てその場から離脱。逃げるためではない。ヒビキの無貌から微かな憂いを感じ取り、その視線の先に音撃棒・烈火を見つけたから。

 咄嗟の判断で魔化魍忍群の上を飛び越え、恐れ怯むことなく烈火・阿を拾い上げる。木製とは思えぬ神秘的な重さを両手で持ち上げると、自分ではツチグモを倒せない不甲斐なさを鬼への嫉妬と込め、振り上げた右手に掴んだそれを渾身の力でもってヒビキのもとへと投げ渡した。

 

「ヒビキさん、これを!」

 

 耳に届いたパルスィの声に一瞬だけ振り返るヒビキ。左手で受け取った烈火を強く握ると、そこには橋姫という鬼に満たぬ鬼の伝承が感じられた。

 隙を見せる前に再びツチグモに向き直り、左手の音撃棒に炎の気を込める。そこに現れたのは彼の属性たる赤き炎ではなく。パルスィの嫉妬として燃え上がる緑色の炎。ヒビキは淡く地の底に輝く嫉妬の色に少しだけ驚くが――その炎を己の知らぬイレギュラーな鬼棒術・烈火弾と成し。

 

「っだぁっ!!」

 

 発声、爆ぜる清濁。鬼の妖気による炎と、歪んだ嫉妬の爆発。二つの属性が備わった異質な弾幕はツチグモの顔面に激しく炸裂する。油断することなく未だ熱を帯びる音撃棒・烈火を腰の背へと戻し、気合を込めて顔を上げた。

 勇儀とパルスィの方に感じられる魔化魍忍群の気配に背を向けながら、ヒビキはぐらりと体勢を崩したツチグモを前に大地を蹴って高く跳躍。薪を割る斧が如く。鈴鳴る響きを高らかに。小気味良い音を奏で、紫紺の鬼は黒と黄色の虎縞模様を装ったツチグモの背へ。

 振り落とされぬようにしっかりと踏み止まりつつ、もう一度、腰に巻いた装備帯の正面に設けられた円盤、三つ巴の鬼火を描いたそれを右手で掴んでは、素早く装備帯から取り外す。

 

 取り外した円盤――響鬼にとっての音撃武器、太鼓と成り得る『音撃鼓(おんげきこ)火炎鼓(かえんつづみ)』をツチグモの背に()しつけると、歌舞伎めいた見得の声と共に妖気のオーラと化し、手の平大だったそれは実際の和太鼓と同等と呼べるほどに大きく広がっていった。

 赤い縁の中に(うるし)と塗られた真円、その正面に描かれた金色の三つ巴は鬼火と揺れ、それが炎の性質を持つものだと示し。

 音撃鼓・火炎鼓から鳴り響く独特の律動(リズム)。ヒビキはその音に精神を委ね、魂を持って鼓動に乗る。再び腰の背から引き抜いた音撃棒・烈火を両手に握り、浄化の祈りを炎の響きと込めて。

 

「いよっ!!」

 

 振り上げた二振りの烈火。音撃棒と呼ばれた鬼のバチを鼓動に乗せる。打ち鳴らされた太鼓の音色は万物を清め奏でる波紋となりて、ツチグモの身に叩き込まれた。

 烈火の鬼石が火炎鼓を叩く音にツチグモが軋みを上げる。巨大な八脚を振り乱して暴れるその身体から振り落とされないようしっかりと踏みしめ、響鬼は揺るがぬ意思で太鼓を叩く。

 

 ――(ドン)(ドン)打々音(ドドン)打鼓(ドコ)打鼓(ドコ)打鼓動音(ドコドン)

 

 軋む大蜘蛛の上で鬼火が舞う。清らかな律動に合わせて真紅の軌跡が地底に閃く。自然の妖気と自身の妖気、伝う力が燃ゆる音となり――悪しき歪みを清め祓う祈りとなる。

 それが『音撃』と呼ばれる鬼たちの祭儀。鼓膜と頭蓋を透り抜けて、魂に直接響かせる清めの音。勇儀の放つ大声のようにただ大きな音というわけではなく、全身を震わせる心音めいた落ち着きのある鬼の鼓動。

 

 天蓋(おおぞら)(あお)地底(だいち)には(ほし)。遥か遠くの地平線から、溢れ輝く未来(ひかり)の如く。たとえ傷ついても、強く立ち上がるため。自分だけに見える道、始まり走る明日のため――繰り返す『響き』。

 故に、そこに不快な(いびつ)さは一切存在しない。元より歪んだものを清めるための美しき音色。ただ純粋な浄化という想いだけを音と伝える、自然の代弁者たちによる神楽。大地に捧ぐ舞。

 

「はっ! せいっ! だぁっ!!」

 

 旧地獄街道の道において、高らかなる太鼓の音が響く。強き鬼の発声と共に、音撃の波紋は確実に魔化魍に清めの音を注ぎ込んでいく。

 両腕を大きく派手に振り上げるのではなく、手首をしならせることで軽やかに。刹那を刻む律動は、炎の如く激しく。

 呻くツチグモの前では魔化魍忍群・白狐を相手にする勇儀とパルスィ。ヒビキの儀式を邪魔しようとするそれらを阻み、慣れ親しんだ妖気による弾幕で魔化魍忍群への攻撃を続ける。

 

「はぁぁああああっ……!」

 

 一つ振るう度に全身の体力が持っていかれる。それでも決して音撃の手を緩めず、残る力を込めて両手のバチを素早く振るう。左右交互の連打を重ね、音撃鼓へと打ちつけて。音撃のリズムが最高潮に達したとき、ヒビキは両手の音撃棒をゆっくりと空へ掲げた。

 

 ――()ッ。

 

 己が頭上で二つの烈火(バチ)を打ち鳴らす。屋久島の霊木が奏でる清らかな音は、さながら戦いに赴く鬼たちの無事を願う火打石の如く。

 一瞬の静寂の後、ヒビキはそれを眼下の音撃鼓・火炎鼓へ向け、渾身の力で振り下ろした。

 

「――火炎連打(かえんれんだ)(かた)ぁっ!!」

 

 腹の底から滾る声でもって、ヒビキの両腕が炎の如き双棍を叩き込む。ツチグモに設置された音撃鼓・火炎鼓への連打が音撃となり、その清めの音が広げる大いなる波紋は旧地獄街道の彼方まで響く調べとなる。

 師を持たず独学で、さらに猛士において最年少で鬼となった彼が有する最初の音撃。刀を打つ炎と舞う火の粉のように軽やかに打ち鳴らすそれは【 音撃打(おんげきだ)火炎連打(かえんれんだ) 】と呼ばれていた。

 

「…………!!」

 

 清めの音を直接叩き込まれたツチグモは咆哮を上げることすら叶わず、内なる邪気を祓われたことで歪んだ妖気の肉体を維持できなくなり――

 その身は、骸と散り果てる。渇いた音を立てて炸裂した大蜘蛛、枯れ葉と土塊を舞い上がらせながら砕けた邪気は吹きゆく地底の風の中、微かに流れ虚ろに消えていく。ツチグモが爆ぜたことで足場を失ったヒビキはそのまま真っ直ぐに落下し、石の道に力強く着地を果たした。

 

 勇儀とパルスィが放った通常弾幕、青と黄色の光弾が残る魔化魍忍群を全て蹴散らす。緑色の鬼火となって消える様子はやはり奇妙だが――気配もすでに消えていた。

 音撃と同時に命中した光弾によってツチグモと魔化魍忍群は共に等しく祓われた。それを認識した二人はヒビキに振り返り、ツチグモの残滓たる木の葉を舞い受ける鬼の姿へと向き直る。

 

「……ふぅ……」

 

 修羅と見紛う無双の妖気。羅刹と違わぬ剛毅なる肉体。それらを備えた紫紺の鬼であれど、光差す旧地獄街道にて艶やかな紫色を照り返す響鬼は思わず疲労の声を漏らした。

 左手の音撃棒をくるりと回し、両手のそれを再び腰の背へと収めると、元の大きさに戻った音撃鼓・火炎鼓がヒビキの手に落ちてくる。再び装備帯に戻し、改めて勇儀たちに向き直った。

 

「良い音だ。……さすが『響きの鬼』だね」

 

「鍛えてますから」

 

 遥か彼方の記憶を覚ます、地上が楽土の祭囃子。鬼の律動を思わせる太鼓の音に、勇儀はヒビキに鬼としての――祭りを盛り上げるような和太鼓奏者への賛辞を送る。

 ヒビキもどこか鬼として彼女に向き合う意志を見せているのか。あるいは無意識に鬼の貌を解くことなく。紫色の無貌の状態、響鬼としての顔のままで。勇儀の言葉を受け止めてみせた。




鬼は嘘を嫌うので正直に言います。スペルカードも鬼棒術も描写したくて欲張りました。

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第37話 歩みゆく明日

 天蓋に煌く石桜と雪。微かに舞うそれらに加え、鬼たちの勝利を祝福する不浄の骸が残滓と散る。この地底世界、旧地獄にはあるはずのない地上の自然――それも外の世界のものであるはずの枯れ葉や土塊が旧地獄街道に注ぐと、歪んだ邪気はすっかり霧散していた。

 音撃による魔化魍の浄化はここに果たされた。炎と放つ音撃棒はこの手に馴染む。打ち鳴らす音撃鼓の響きもやはり変わらず。

 しかし、こうして屋久島のツチグモを祓い清めてなお、ヒビキは違和感が拭えなかった。

 

「…………」

 

 万華鏡の如く移ろう自然の化身、魔化魍と呼ばれる災害に決まった形はない。大まかな呼び名としてこそ妖怪の名を冠し、恐れ伝えられた化け物としての姿を持つが、それらは人や獣と同様に死に生まれては異なる特徴を持ち育つものだ。

 それは花や草木も同じ。一度滅ぼした個体がまったく同じ個体として生まれるはずがない。にも関わらず。一つの自然の要素であるはずのそれは、かつてヒビキが打ち倒した屋久島のツチグモと寸分の狂いもなく同じ(・・)だった。音の響きも、烈火(バチ)の通りも、その何もかもが――

 

 否、正確にはすべてが同じだったわけではない。以前戦った屋久島のツチグモと比べ、新たな能力や強靭な肉質など、強化されている点も数多く見受けられた。

 それでもその本質的な要素は、ヒビキに「あのとき屋久島で戦ったツチグモ」と同一個体だと思わせた。不自然な強化を施されているのも気になるが、ヒビキの直感がそれを悟ったのだ。

 

「……まさか、な」

 

 燻る煙は滾る炎をも鈍らせる。ヒビキは一度大きく息を吸い、魂に響く炎に酸素を供給すると、頭の中を染める淀みをすっかり燃やし散らして。

 勇儀とパルスィは自分たちが倒した魔化魍忍群の気配とヒビキが倒したツチグモの気配が去ったことを確認している。微かに残った邪気も地底の妖気に掻き消え、そこには本来あるべき旧地獄街道の空気が蘇りつつあった。

 妖怪たちが戻ればすぐにでも昨日と同じ旧都の輝きが戻ってくるだろう。勇儀もそれを安心し、一度旧都の大通りまで戻ろうとするが――彼女はヒビキと共に、その気配(・・・・)を感じ取る。

 

「…………!」

 

 振り返った勇儀たちが目にしたのは、さっきまでツチグモの残滓が漂っていた場所の上空。薄暗い闇に石桜の輝きがぼんやり灯る天蓋の狭間。

 ――そこに淡く美しくもどこか禍々しく広がる『灰色のオーロラ』だった。

 

 ツチグモが叩きつけられたことで巨大なクレーターを刻んだ大岩の上、虚ろな帳と落ちた光の幕壁が波紋を広げる。水面から顔を出す魚の如く、それは黒く染まった一つの影を現した。鈍く落ち着いた色合いの金色を錫杖と掲げて。

 現れたのは黒衣の人影。丸みを帯びた帽子と黒い布で顔を覆い隠したそれは、勇儀たちには見て取れないが、ツチグモの童子と同じ顔、同じ背丈をもった『クグツ』と呼ばれるものである。

 

「何者か知らないけど、その閉じこもった悪意……気に入らないねぇ」

 

 すでにこの場にはツチグモの邪気も魔化魍忍群の気配もない。それでも大岩の上に立ち灰幕を背にこちらを見下ろす影――クグツの気配は、鬼である勇儀でさえ思わず息を飲むほどの深い悪意を湛えている。

 相手はツチグモの童子と同様に痩せこけた長身の男の姿。殴れば折れそうな細身は先日倒した貧相な化生と同じであるのに、こちらは魂を直接貫くような威圧感を見せているのだ。

 

 パルスィの方を見れば同じく正体不明の威圧感に竦んでいる様子。尋常ではない汗の量から察するに、鬼よりも精神的な妖怪として漆黒の人影が放つ悪意をより強く受け止めているのか。

 

「この気配……人形……?」

 

 パルスィは微かに震える自らの腕を掴んで抑える。嫉妬を操る橋姫として、彼女は藁人形に五寸釘を打ちつける儀式を執り行うこともあった。その知識が空虚な気配として相手の存在を無機質な骸――それそのものに命を持たぬ『人形』だと理解させる。

 勇儀もヒビキも、相手に対して覚えている感覚は見上げる黒衣の影への恐れではなく。その瞳の奥に秘める純粋な悪意。呪いそのものを煮詰めたような視線が宿す意思に対して。

 

「クグツ……やっぱり悪意(おまえら)の仕業か」

 

 歴戦の鬼たるヒビキもまた、鍛え抜いた筋肉が硬直する感覚に一筋の汗を流す。相手が悪意によって操られるただの端末であることは猛士本部、吉野の調査ですでに理解しているというのに、冷たい手で心臓を掴まれるような感覚――本能的な畏怖が未だ慣れない。

 

 童子や姫を生み、魔化魍を操るクグツと呼ばれる存在。吉野が記した情報では古くからクグツの存在が知られていた。長らく現代の世に現れていなかったものの、やはりオロチ現象が起きた一年前の年から再び現れ始めた者。

 そして関東支部の長たる男に直接接触してオロチの兆しを知らせた『あの二人』――おそらくは悪意の中心、これまで多くの魔化魍を生み出し育ててきた元凶とも呼べる彼ら。吉野はそれを、人為的な手法で魔化魍を操る根幹と定義した。

 オロチ現象の終息に際し、クグツやそれらも目立った行動を見せていなかったのだが――

 

「お前ら、また厄介なことしやがって……今度は何を企んでんだ? ええ?」

 

 ヒビキは変身を解かず、響鬼としての無貌のままでクグツを見上げる。相手が如何なる思想のもと動いていようと、無辜の命を喰らう魔化魍の存在を許すわけにはいかない。自然の摂理であるというなら致し方あるまいが、彼らはそれを歪めているのだ。

 響鬼の世界における鬼とは歪んだ自然を清める者。クグツの気配の奥に感じられる悪意の根源、その底なしの威圧感にも怯み慄くことなく。ヒビキは見上げる黒衣に問いを投げた。

 

「…………」

 

 神経を穿ち射貫くような冷たい視線でヒビキを見下ろしたまま、クグツは言葉を発さない。続けてその傍に立つ勇儀に対しても同じ視線を向けると、右手に持った金色の錫杖、様々な計器を設けたそれを何もない虚空――旧地獄街道の妖気満ちる闇空へと掲げてみせた。

 

 不意に動きを見せたクグツに二人の鬼は身構える。だが、その動きから悪意を感じられなかったパルスィだけは困惑の表情を浮かべて。

 錫杖に装備された試験管状の小瓶に蓄えられていく黒い『何か』。ツチグモら魔化魍の邪気にも似ているが、エネルギーとも物質とも呼べないような不可解なそれを回収すると、クグツは掲げた錫杖をゆっくり下ろす。

 そのままおもむろに背を向け、クグツは自らが現れた灰色のオーロラに向き合った。ヒビキは未だ身を竦ませる悪意に身体が硬直していたが、その動きを目にしては咄嗟に声を張り上げる。

 

「あっ、ちょっと! 待てよ、おい!」

 

 顔だけで振り返ったクグツの視線は依然として空虚に冷たく。勇儀にさえ感じ取れなかった微かな『寂しさ』のようなものを、気のせいか――ただパルスィだけが見て取って。

 

「え……?」

 

 パルスィと向き合ったクグツは視線を逸らし、そのまま正面へ向いて灰色のオーロラへと消えてしまう。クグツを呑み込んだ鈍い曇天めいた色合いの幕壁は霧と失せ、残滓さえも漂わせることなく旧地獄街道の闇空から消えてなくなってしまった。

 歪な自然を煮詰めた人形。ただ操られているだけのはずのクグツに覚えた違和感。あるいはそれは橋姫という嫉妬を扱う種族が故の錯覚か。パルスィは、クグツが何かを『妬んでいる』ように見えた。無論、確証などはなく。その視線からそんな雰囲気を感じただけではあるが――

 

 ヒビキはクグツの重圧から解放されて息をつく。勇儀もヒビキほどではないが、その圧倒的な悪意に額に汗を滲ませていたようだ。

 その誰もが気づかぬうちに呼吸が疎かになっていたらしい。肺に満ちる空気は地底の妖気を含むが、脳に染み渡った。そして、次に頭蓋に芽生えたのはあの灰色のオーロラに対する疑問だ。

 

「おやっさんに相談したいとこだけど……まぁ無理だよな」

 

 無意識的に緊張していたせいで力が抜けず、変身を維持していたままだったが、クグツが去ったことを確認すれば頭だけ変身解除をしてヒビキとしての素顔を晒し出せる。

 

 ヒビキは、この地で起きている魔化魍についての異変、新たなる性質やクグツたちの再出現について、おやっさん――ヒビキが所属する猛士関東支部の支部長にして、本部である吉野の事務局長を務めるあの男を頼りたい気持ちが拭えなかった。

 吉野や関東支部の文献を調べてもらえれば少しは手がかりが掴めたかもしれないが、今ここでそれを言っても仕方がない。幻想郷と通ずるこの旧地獄、博麗大結界と呼ばれる法則に閉ざされたこの秘境では、勇儀たちの言葉通り、外の世界との連絡手段はほとんどないと言っていい。

 

「あの黒いやつ……クグツって言ったか。やっぱりその名の通り、操り人形ってわけかい?」

 

 武者震い以外でこの身が強張るのは久しぶりの感覚。額の汗を拭って拳を固めた勇儀は微かな興奮を胸に抱き、ヒビキに問う。

 感じられた妖気と悪意はあの人形からではなく、その視線の奥に宿る操り手――傀儡師たる者の邪気。その本体と直接対峙したわけではないにも関わらず、鬼である勇儀を微かでも慄かせるほどの歪んだ悪意は彼女の身を刺し貫く悪寒として明確に伝わってきていた。

 人形を用いた呪術に詳しいパルスィとは違い、勇儀はクグツの物理的構造までは見抜くことができなかったが――

 精神を凍てつかせる鋭い気配は、その操り手と言える背後の『何か』からだと感じ取れた。

 

「……そういう話みたいだな。ただ生憎、俺はその本体のほうには会ったことないんだ」

 

 ヒビキは語る。――クグツでさえ鬼の前に姿を現すのは稀なことだった。猛士の調べですでにあのクグツらが魔化魍の幼体や、それを育てる童子と姫を生み出していることは知っている。だが、実際にクグツ自体と戦う状況はあまり多くない。

 たとえ遭遇したとしても凄まじい重圧感で熟練の鬼でさえ容易には動けなくなってしまう。クグツが持つ特殊な念動力のようなもので吹き飛ばされれば、その隙に奴らは消える。ディスクアニマルたちがクグツを発見することもあるが、その多くは破壊されてしまい奴らの情報を持ち帰ることができない。

 クグツでさえ、そうなのだ。それを操る本体――猛士が定義した『悪意』と呼ばれる存在が鬼の目についたことはこれまで一度もなかった。

 ただ一時、かの『オロチ現象』が起きた一年前の出来事を除いては。

 オロチの到来を告げてきた男と女の二人組。姿こそ童子と姫によく似ていたが、その声は見た目通り男は男のもの、女は女のものという大きな差異がある。そして、彼らが纏う衣服はどこか明治の頃を思わせる――さながら旧都の民のような和の装いという特徴があったという。

 

 まともに言葉を交わすことができたのはヒビキもおやっさんと慕う猛士の事務局長のみ。されどそれを一方的に視認し、追跡を試みようとした一人の鬼がいた。

 息吹く風の属性を持つヒビキの仲間、吉野が抱える鬼の宗家に生まれたかの男。夏の日差しの下、クグツの操り手と思しき気配を持つその二人を追い、ディスクアニマルたちを使ってなんとか尻尾を掴もうと画策していた。

 ついぞ見失ってしまい、その正体を知ることこそできなかったが、ぱたりと邪気が途絶えたところを見るに奴らは結界の中に消えた。そのとき、風の鬼は周囲に奇妙な『洋館』を見たらしいのだ。その報告を受け、猛士はそれら男と女の一組を『洋館の男女』と呼称するようになった。

 

「クグツを介してもあれだけの邪気が感じられるなんて……とんでもない奴らね」

 

 いつも通りの平静を取り戻せた勇儀とヒビキ。彼らとは違い未だ己が肝を冷ややかに貫くおぞましい気配に微かに震えているパルスィが妬ましげに呟く。

 魔化魍そのものは古来よりただの災害――自然現象の猛威に過ぎなかった。そこまでは幻想郷の妖怪と同様、地質の妖気が具現化して形を成しただけの『事象』だった。故意にその在り方を捻じ曲げられ、歪んだ自然の化身として育まれ。魔化魍はいつしか彼ら悪意の手による変質を遂げてしまったのだろう。

 猛士が対策をすれば悪意たちはそれを超えてまた新たな実験を試みる。表面上には分からないその繰り返しは何百年も行われてきたが、一年前の戦いでは特にそれが顕著だった。

 

 今にして思えばあの変化はオロチ現象の前触れか、それを食い止めるための介入だったのかもしれない。最終的には鬼たちの手でオロチは鎮められたものの、やはり吉野に敵対する悪意は未だ魔化魍の調整を諦めてはいないのだ。

 その根幹を倒すことができれば鬼たちの戦いも終わりが来るのだろうか。否、魔化魍との戦いは自然との戦い。たとえそれを調整する意思が消え失せようと、自然の化身は生まれ続ける。

 

「ま、とりあえず厄介なもんは倒せたね。これで少しは旧都も安心ねぇ」

 

 勇儀は少しだけ悩むような素振りを見せたが、すぐにその憂いを火の粉と散らした。黒装束を纏ったクグツや洋館の男女と呼ばれる存在についても気になるが、ヒビキと同様に勇儀も思考による結論を好まない。考えても分からないことなら、動けばいいという方針だ。

 迷い悩むことも時には必要だが、それはきっと今じゃない。師と仰ぐ背中に導かれて進んできたわけではない勇儀とヒビキ。語る明日のために、今の自分ができることを切り拓くのみ。

 

「……あっ、そういえば服……まぁいいか。どうせこのまま勇儀の家に戻るしな」

 

 顔だけ変身解除を果たした状態のヒビキはまたしても衣服を失ってしまったことに気づくが、先日の時点で自分の服がこの旧地獄に用意されていることは確認済みだ。勇儀曰く八雲紫なる人物が用意したのだろうとのことで、自分の荷物が自分の知らないところで移動されているというのは気掛かりなものの、正直なところ助かっている。

 勇儀の家からここへ至るために使用したバイク──猛士の備品である凱火についてもそうだ。こちらに関してはただヒビキの前へ用意されただけではなく、不可解に鬼の力を込められ強化されている。いくら思考が無意味とはいえ、さすがに何の疑問も覚えないわけにはいくまい。

 

 胡散臭いが、悪い奴じゃない。八雲紫についてそう語った勇儀の言葉を信じ、ヒビキはひとまずその懸念を保留とした。

 鮮烈なる鬼の炎によって燃え尽きた衣服の残滓はどこにもない。物理的な炎ではない妖気によるもの、現代の布を容易く焼き散らす熱なれど、それはヒビキにとって馴染み深い灯火である。

 

「……変身の度に服を燃やしてたんじゃ、いつか全裸で暮らすことになるよ」

 

「うーん……そうなんだよな。猛士の支援もないし、さすがに何着も無駄にはできないよな」

 

 パルスィの言葉にヒビキは心に燻る不安を淡く吐露した。自らの世界で戦っていた際は猛士から支給される服を使い捨てる形で変身し、ほとんど気にしていなかったが、幻想郷(こちら)では用意された衣服を使い切ってしまえば肌に馴染む服を着られなくなる。

 無論、そうなれば旧都の仕立て屋にて男物の服を購入すればいいのだろうが、ヒビキは旧都について勇儀から聞いた程度のことしか知らないのだ。

 普段使っている金銭が旧都においても使えるのか分からないし、見てくれこそ京の都を思わせる風景だが、ここは妖怪たちが暮らす旧き地獄。こちらの常識が通用しないことは明白だろう。

 

「服を燃やさず変身する方法とか、何かないの? 鬼の歴史、そっちでも長いんだろ?」

 

「あったらいいけどなぁ。少なくとも、俺はそういう話は聞いたことがない──」

 

 勇儀の問いに記憶を探りながら答えるヒビキ。言い切る前にその脳裏に微かに浮かんだのは、戦国時代の鬼たちを記した古い文献の内容だ。

 今でこそ現代の鬼たちは変身の際に着ていた衣服までもが砕けてしまうことが必定。されど遥か古の戦いを記した鬼の変身にて、衣服が燃えるという記述はなかったとされている。単に記す必要がないと判断されたのか、それとも古の鬼は服を燃やさず変身できたのか。

 

 いずれにしても、実際に戦国時代の鬼たちの戦いをこの目で見たことはないし、見ることもできない。変身時に服を燃やさない方法としては一切聞いたことがなかったが、むしろ変身時に服を失ってしまう現代の方が鬼としては異質なのかもしれない。

 もし仮にそのような形で変身できるのなら理想的だ。猛士の備品として配給されているとはいえ、いちいち服を燃やしてしまうのは些かもったいないと感じてしまう。特別な理由がない限り、着ている衣服を維持したまま変身することができるのなら、それに越したことはない。

 

「最悪、着るものがなくなったら旧都の甘味処(かんみどころ)ででも働いて買うさ。俺、安物しか着ないしな」

 

 確立された手法ではないし、何よりその方法も分からず。ヒビキはやはりその思考を取り払い、結局いずれはこの旧都の衣服を頼ることにする。

 猛士関東支部――表向きは東京の下町にて安らぎをもたらす甘味処『たちばな』として経営されているその店で、ヒビキは弟子の少年やその友人らと共に働いていた。レジ打ちなどの技術は拙いが、その話術や人懐っこさで多くの客を招いてきたのは紛れもない事実である。

 

 西暦2005年の1月、冬の日に少年と出会い。2006年の始まりにオロチを鎮め、そしてその一年後、2007年の冬には少年と再会できた。思えば、自分の鬼としての道はいつも冬の時期を基点にしていたのではないかと、旧都に微かに積もった雪を見て想う。

 夏にこそ馴染む炎の気を持ちながら、記憶に深い思い出はいつも冬の空に。こうして旧地獄に迷い込み、勇儀たちと出会ったのも。少年と再会してからさほども経っていない、ヒビキにとってはまだ今年――2007年の冬から。

 現在の幻想郷は外の世界と同様、西暦2020年の春。四季の歪みもあれど、先日、勇儀に語られたその時空のズレはヒビキにとっても当然、衝撃的な話として聞いている。

 ヒビキは己が生きた世界において世話になった猛士関東支部の面々、支部長である男やその娘、猛士の者として共に魔化魍と向き合ってきた彼女らの顔を思い浮かべつつ凱火を起こした。

 

◆     ◆     ◆

 

 この地の名は『地霊虹洞(ちれいこうどう)』。旧地獄の一部、旧都の温泉街に通ずるこの洞窟は地上との距離も近く、天盤の上には魔力の満ちる魔法の森が広がっているとされる。

 微かに悪意の邪気が残るこの場所にて、その暗闇に相応しい幻想を帯びた土蜘蛛と釣瓶落としが対峙しているのは──

 本来ならば雪と寒気が吹き抜ける冬の環境には生じるはずのない『夏の魔化魍』だ。

 

「グォォォム……」

 

 泥まみれの身体は石桜の煌きに不気味に照っている。田んぼから這い出したような醜悪な泥の塊じみたそれは、無貌に青く若い稲を生やした不快な出で立ちで唸りを上げた。

 

「こいつ……妖怪……?」

 

「気配は泥田坊(どろたぼう)みたいだけど、なんで地霊虹洞(こんなところ)に……」

 

 地底の土蜘蛛、黒谷ヤマメが向き合うは魔化魍。隣に浮く桶の中で同じくそれを見つめるキスメと共に、妖怪らしい気配の中に帯びる邪気を訝しんでいる。

 幻想なき泥田坊の気配を持つそれは確かに魔化魍の一種ではあるが――ツチグモのように見上げるほどの巨体というわけではない。ぼたぼたと肥沃な泥を地に落としつつ、泥濘(ぬかる)んだ足取りでヤマメたちに近づくは『旭村(あさひむら)のドロタボウ』と呼ばれる異形の怪人――等身大の魔化魍(・・・・・・・)である。

 

「地上で噂の怪物って奴だね……! 先手必勝!」

 

 人型としてみればかなり大柄な体格であると言えるが、巨人というほどではない。顔のない泥だらけの身体に植わった泥臭い稲の苗の香り。夏の色を感じさせる情緒ある風といえど、そこに滲む邪気を思えば是非もなく。ヤマメは眉根を寄せて両手に妖気を灯らせる。

 

「それっ!」

 

 ヤマメが両手を大きく振るうと、解き放たれたいくつもの青い光弾は彼女の周囲に散らばっていく。その直後、光弾はすぐさま色を赤く変えたかと思うと、それぞれが一斉にドロタボウ目掛けて向かっていった。

 輝く光弾は右から左から。果ては前から上からも。蜘蛛の糸のように張り巡らされたヤマメの通常弾幕を前に、ドロタボウはくるりと背を向け甘んじてそれらの炸裂を受け止める。

 

「グォ……ム……」

 

 微かに動きが滞った様子のドロタボウに一瞬拍子抜けするヤマメだったが、すぐに彼女はその表情を変えた。泥まみれの身体がボコボコと泡立つ不快感に目を背けそうになるも、ヤマメと同様にキスメもその変化に目を見開いている。

 背中にびっしりとひしめくはタニシめいた小さな殻。それらがヤマメの放った弾幕を受け、泥の塊として剥がれ落ちた。ドロタボウの身体から流れ出る泥に禍々しい邪気が感じられる。それは怪物の身体の一部としてではなく──泥を溢れさせた本体と等しいほどのもの。

 

 泥は瞬く間に歪な人の形を象り、そこに『もう一体のドロタボウ』として立ち上がったのだ。

 

「分裂した……!?」

 

「くっ……いったいどうしろってのさ……」

 

 二体に増えたドロタボウ。その光景に思わず声を上げて驚愕するキスメに対し、ヤマメは弾幕を当てた際の奇妙な手応えに違和感を覚えていた。

 火力が不足していた──というわけではないことは相手の反応で分かる。紛れもなく相手の身を裂き散らすだけの一撃を与えたが、砕けた泥はもう一体の怪物となって具現した。このまま何の策もなくスペルカードでも使おうものなら、再び怪物の分裂を促してしまうかもしれない。

 

「(それに、妖怪を攻撃したときとも違う……この感じは……)」

 

 ただの泥の塊に弾幕をぶつけたとは考えられない違和感。さながら雲でも撃ち抜いたかのような空虚な感覚は、相手に物理的なダメージこそ与えられども根本的な攻撃の意味としてはあまり効果がないように感じられた。

 不用意に手出しすることはできない。かといって怪物を野放しにしておくことも危険だ。先日、幻想風穴を通り抜けていった巨大な土蜘蛛らしき怪物と同様、目の前の泥田坊らしき怪物にも幻想郷には似つかわしくない露骨な邪気が満ち溢れている。

 ぐちゃりと不快な音を立てて泥まみれの身体を緩慢に動かしながら、二体のドロタボウはヤマメとキスメに近づく。

 

 そのとき、二人は泥と稲の香る夏色の風に混じり、微かに鬼の妖気と酒の香りを感じた。

 

「……グゥ……ゥム……!?」

 

 風を切り裂く蒼い音。分裂して生まれた方のドロタボウ──背中にタニシの殻を持たず少し小柄なそちらに目掛けて飛来した円盤は青い縁に象られた三つ巴の鬼火を刻み、手の平大だったそれが歌舞伎めいた声と共に大きく広がっていく。

 響く律動。突き上がる旋律。子たるドロタボウの身体に設置されたその『音撃鼓』は、ただ静かに鼓動を続け、来たる鬼の音を待つ。

 

 刹那、視界を染める白き霧。地霊虹洞から続く温泉街、そこから流れた水蒸気によるものではない。太古の時代に失われた鬼の力。妖怪の山を統べていた大いなる力。

 霧はやがて絢爛なる橙色の髪を砕けた月と湛えた鬼の少女を象りその場に現した。

 少女――伊吹萃香は生まれもった鬼の肉体のまま、彼女にとっての生身のままで両手に携えた蒼穹のバチを振り上げ、霧から変じた身をそのままにドロタボウへ叩きつける。

 

 空気を砕くかのような和太鼓の音。しかしヒビキのそれとはまた異なる、炎の激しさというより風の清らかさを思わせる音。萃香が振り下ろした『音撃棒・山背風(やませ)』の先端に輝く蒼い鬼石は音撃鼓に清めの音を届け、その邪気の真髄に揺るぎなく響く。

 動きを止めたドロタボウは萃香が生身で放った音撃に耐え切れず、内なる邪気と木の葉を激しく爆ぜ散らして消滅した。

 両手の音撃棒・山背風を右手に束ねつつ、元の大きさに戻った音撃鼓を左手で受け止める萃香。気だるげにまとめた二振りの音撃棒を右肩に乗せ、左手の音撃鼓を手元から消失させる。

 

「もう夏の奴まで出てくるかぁ。まったくもう……めんどくさいな」

 

 ちらりと目を向ける相手は最初に現れたドロタボウの親個体。彼らのように夏に出現するタイプの等身大の魔化魍は、特定の音撃で倒さなければ分裂してしまう性質があり、さらに言えば夏の魔化魍は童子と姫の手引きにより勝手に増殖していってしまう。

 比較的小さいとはいえ際限なく増え続けるが、それは本来は夏だけに起き得る事例だった。響鬼の世界においても、オロチによる異常事態を除けば夏の魔化魍が夏以外に出現することはまずないと言っていい。

 されどその異変は幻想郷においてこそ。こちらの季節は四季異変の影響で雪が降る冬の気候。本来ならば春という点を差し引いても、こんな環境ではドロタボウなど生まれ得ない。

 

 怪訝そうな表情で自身を見つめるヤマメとキスメに振り返り、萃香は右手の音撃棒を消失させる。自信ありげに片目を瞬いてみせ、右腰に装ったホイッスル状の道具を手に取った。

 鈍く落ち着いた金色に群青の彩りを持つそれ──『変身鬼笛(へんしんおにぶえ)音笛(おんてき)』を己が胸の前で振るい、正面に折り畳まれていた双角を鋭く開く。萃香の角と同様に雄々しく突き伸ばされた角の内側にはヒビキの音角と似た鬼の形相が象られていた。

 

 鬼面を正面に向け、萃香は音笛(おんてき)を口元に寄せる。微かに目を細めた萃香はそこへ、今なお酒色の熱を帯びた吐息を優しく吹きかけ。管を通った空気によって奏でられた音に共鳴した音笛は独特の波動と妖気を震えさせた。

 それをそのままゆっくりと自らの額へと近づける。萃香の額に浮かび上がるは、音笛の波長と等しく刻まれた鬼の面。ヒビキのそれとはまた意匠の異なった金色の貌。

 今度は音笛を右側に振り抜くと、萃香は音笛を持った右手で勢いよく目の前の空気を薙ぐ。

 蒼白く吹き荒れる疾風――竜巻の如く萃香を包み込む妖気の波動、旧地獄においては滅多にない突風に煽られ、ヤマメやキスメ、ドロタボウでさえ舞い散る木の葉から顔を守っていた。

 

 激しく荒ぶ旋風の中。萃香は太古から続く己の力とは異なる、異界の鬼の力(・・・・・・)に身を委ね──

 

「はっ!」

 

 軽やかながら力強い発声と共に、群青の手刀が風を断つ。吹き荒れる竜巻を内側から切り裂き、姿を見せたのは──『伊吹萃香』ではなかった。

 振り下ろした左手を構えたままに雄々しく放つは、変わらず『鬼』の気。されどこの地に招かれたヒビキと同様、その姿は幻想郷の法則から成るものではない響鬼の世界の鬼である。

 

「鬼の伊吹(いぶき)。……もとい、威吹鬼(いぶき)。見参! ……ってね」

 

 艶やかな光沢に煌く漆黒の皮膚に包まれ、萃香の身体は本来の身体よりもいくらか高く大きくなっている。身体つきこそしなやかな女性のままだが、体格の違いは萃香を知る者が見ても同一人物とは思えないであろうほどの背丈だ。

 無貌の顔面を走る隈取りと両腕は果てなき青空を思わせる群青色に染まり、立派に掲げていた大きな双角はどこへやら消え失せ、代わりに額の鬼面からそれぞれ伸びた三本角(・・・)が主張している。胸に架かる楽器の管めいた金色の装甲と革色の褌を伴う装備帯をその身に備え、萃香は腰帯の右側に音笛を戻した。

 反対側の左腰には三枚のディスクアニマルが待機状態で結ばれている。今はまだ銀色の円盤の姿で眠っている浅葱鷲、鈍色蛇、黄赤獅子の三体は萃香がこの『威吹鬼(いぶき)』と呼ばれる鬼の力を纏うと決めたときから、共に行動している仲間として機能してくれていた。

 

 音撃戦士、威吹鬼。風の如く吹き抜けるその力の本領は、管に息を送りて奏でる管楽器による音撃。されど夏の魔化魍は太鼓による音撃――音撃打以外で攻撃した場合、己が力を分裂させて増殖してしまうという性質がある。

 本来ならば金管楽器状の音撃武器を得物とする威吹鬼はそれに倣い、在るべき鬼の元ならざる奇しくも同名の鬼、伊吹萃香に纏われて。先ほど消失させた音撃棒を具現した。

 その力の起源である響鬼の世界本来の威吹鬼は猛士の根幹、宗家の生まれであった若き青年。彼が管による音撃のみでなく太鼓による音撃も行えるよう鍛錬に用いられていた音撃棒・山背風の蒼く美しい鬼石の色を輝かせ、威吹鬼の姿に変身を遂げた萃香はそれを両手に握りて構える。

 

「童子たちの姿が見えないのが気になるな。あんたたちが倒したの?」

 

 (しろ)い無貌に青い隈取りを湛えた鬼の顔を微かに振り向かせ、背後のヤマメたちに問う。夏の魔化魍といえど、現代のものであるならそれを育む童子たちの存在は確認されているはずなのだが――ドロタボウの童子と姫はこの場に姿を見せていない。

 怪訝そうな表情で顔を向き合わせるヤマメとキスメの反応を見て、萃香は彼女たちが倒したわけではないと知った。

 静寂の洞窟を吹き抜ける生温(なまぬる)い風。温泉街に漂う地熱の色を帯びた心地よいものではなく、幻想郷とは別の紡ぎから放たれる夏の日の湿度。肌寒い洞窟内に吹き込むものとしてはあまりに異質なそれは、その違和感に正面へ向き直った萃香の瞳が映し出す、灰色の幕壁から。

 

 背後に控えるヤマメやキスメと共に──萃香は鈍き帳から現れる白装束(・・・)人形(クグツ)相見(あいまみ)えた。

 

◆     ◆     ◆

 

 ――幻想郷とは異なる紡ぎ。響鬼の世界と呼ばれた場所と同じ法則を持ちながら、それは本来この世界にあるべき『物語』ではない。

 青空と笑顔の世界、可能性と居場所の世界、鏡像と願いの世界。それらに加えて今は灰と夢の世界、切り札と運命の世界、鍛錬と明日の世界に生きた『悪意』たちが導かれ、幻想郷と等しく異なる物語を内包する『器』――『十番目の座標』として機能している。

 

 この地平は十番目。されど彼ら(・・)の物語は六番目として。日高仁志、ヒビキと名乗る鬼と同じ世界を生きた悪意――魔化魍を操る根源。猛士によって洋館の男女と呼ばれた二人は、元あった響鬼の世界より転移された『洋館』にて実験を続けていた。

 明治の頃を思わせる身なりの良い和装を纏った男と女は、洋館の一室に設けられた暗闇の中で。様々な機器や薬品に囲まれつつ、机の上のケースと向き合いながら小さく言葉を紡ぐ。

 

「ねぇ、幻想郷(あっち)にも鬼が出たって話、聞いた?」

 

 白い和装と美しい簪を着けた女が問うた。壁に立てかけられたいくつもの錫杖、鈍い金色の輝きを放つ計器つきのそれらを一瞥すると、真剣そうな表情で透明な(ケース)の中に視線を落とす男に――ツチグモの姫と同じ顔(・・・)を向ける。

 女の姿から発せられたのは紛れもなく女の高い声。童子や姫とは異なり、彼らは姿に違わぬ声を持つ。男は縁のない眼鏡の奥に覗く双眸を光らせ、そのまま口を開いては男の低い声を発した。

 

「あーーうん。聞いてるよ。なんか、よくわからない妖怪が手引きしてるらしいね」

 

 茶色の羽織を纏った眼鏡の男は暗い茶髪を掻き分け、向き合う(ケース)の中の小さな塊――さながらイガグリやウニめいた棘だらけの黒を見ている。

 両手に携えたピンセット状の特殊な棒か、あるいは単なる木の枝にも見えるそれで掴んだ植物の葉を黒い棘の塊に触れさせ、目に見えることのない波動が微かに大きくなるのを感じながら。

 

「……どうする? まだ調整段階だけど、強化版の武者と鎧を使う?」

 

 女は白い和装の懐から二つほど、男が見ているものと同様の棘だらけの塊、黒いイガイガを取り出す。やはり目で見ることはできないが、男と女にだけはそのイガイガが放つ波動がケースの中のそれよりも弱いことが分かっていた。

 童子たちに飲み込ませることで彼らの装甲を強化できる物質。かつてオロチの災いが見られた一年前の年にも使用したことがあるが、今回のそれはさらに強力なものに調整中だ。

 

 魔化魍や童子たちの変化と成長に、猛士の鬼たちは対応して新たな戦法を試してくる。だがそれに対応して悪意と呼ばれた男と女もまた新しい要素を童子たちに加える。この世に鬼という存在が現れて以来、二つの力は互いにそれを繰り返してきた。

 鬼たちの活躍でオロチ現象が食い止められ、世界のすべてが滅びることが回避されたのは彼らの計画通り。自然の循環と輪廻をもって魔化魍を操るには、オロチという災いは彼らにとっても望ましい終わりではない。

 だが、自分たちの実験と研究を邪魔するのであれば排除するのみだ。実験のために生み出した魔化魍を育てるのは童子たちに任せ、その産物として生まれた魔化魍の処理は鬼たちに任せればいい。そうすることで、自分たちは自分たちの本分である『研究』に専念することができる。

 

 彼らにとって、童子たちも鬼も等しく。己が存在意義たる実験のための道具でしかないのだ。

 

「まだちょっと早いかな。鬼以外(・・・)の仮面の奴らが出揃ってからでも遅くはない」

 

 男は一度、作業の手を止めて女に振り向き答える。彼女の手に携えられた黒いイガイガを見ると、その波動が以前のものよりも強いながら未だ安定していないことが伝わってきた。

 

「それに……今はこっちの方に集中したいしね」

 

 再び透明なケースに向き直り見下ろす男。その波動は女が手にしていた装甲強化用のイガイガよりもさらに強く、かつて鬼たちの手から奪取した吉野の武器に匹敵するほど。あの武器は波動が強すぎて、こちら側でそれを抑えなければ調べることすらできなかったが――

 

 あのときはまだ未覚醒の段階だった『最強の童子と姫』によって無断で持ち出され、結局は鬼たちのもとへ戻ってしまった。吉野の技術を解析できるかと思ったが、どうやら結果的には鬼の戦力を強化することになってしまったらしい。

 もっとも、それがオロチを鎮めるための力の一部となったのなら成果としては十分だ。鬼に利用されたことになるというのがやや癪ではあるものの、世界のすべてが滅ぶよりはマシだろう。

 

「あら、噂をすれば」

 

 洋館の一室に吹き込んだ風が髪を撫で、女はその気配に気づく。その瞳には、部屋の中に広がった灰色のオーロラが映っていた。

 幻想郷に現れたクグツと同様に、オーロラに波紋を広げて顔を出す人影。その顔はやはり童子やクグツ、洋館の男とも同じ顔立ちではあるが、張り詰めた気配はその何れとも違う。邪気の濃度は通常の魔化魍を遥かに凌ぐほどであり、童子と呼べる低俗さには収まらない。

 

 武者の如き漆黒の鎧に、連獅子を思わせる白く絢爛な頭髪。内側が血染めの真紅に染まった外套を纏い、その腰元にはおぞましい気配の刀を携えている。

 童子や洋館の男と同じ顔に装うは、左目を覆い隠す赤い仮面のようなもの。その奥から覗く瞳に映るものは、あるいはすべてが血塗られた怨嗟に染まっているかと思わせんばかりに。

 

 その怪異の隣にもう一人。そちらは洋館の女や姫と同じ顔をした女の人影ではあるが、やはりこちらも隣に立つ童子と同じく鎧めいた甲冑に身を包んだ武人の如き出で立ち。暗く褪せた深い茶髪を馬の尾と束ね、己が隣に在る童子と同様の黒い額当てを着けていた。

 並みの魔化魍を超える邪気は姫の方も等しく、彼女は右目を覆い隠す紫色の仮面、鎧を彩る白い装飾と黒衣の裏地に映える紫色の美しさが、虚ろな気品と底知れぬ威圧感を滲み出させている。

 

「……例のものは完成したか」

 

 連獅子の如き童子――それは世界を滅ぼす『現象』としてではなく、その名の由来となった伝説の魔化魍に仕える者たち。かつて戦国時代最強と謳われた魔化魍『オロチ』の親にして従者となるべき道を選んだ『オロチの童子と姫』であった。

 洋館の男女とは異なりその声は童子として共通の女の声。空気を凍てつかせるほどの邪気を湛えながら、童子と姫という枠組みの中において、童子の声はやはり高く通る女のものとなる。

 

「あともう少しかかる。と言っても、あとは最終調整だけだから。そんなに焦らなくていいよ」

 

 顔を上げてオロチの童子と向き合った洋館の男。同じ顔をしたそれに不快な違和感を覚えないではないが――元となる悪意が異なれども、今は目指す未来を同じとしている。

 女の方も自身と同じ顔をしたオロチの姫に眉根を寄せている様子だが、その感情は洋館の男もまた同じ。視線を落として調整段階にある黒いイガイガの入ったケースを見つつ、男は眼鏡を少し上げて進捗を伝えた。

 オロチの童子と姫は互いに小さく顔を見合わせ、意思を合わせるかのように微かに頷く。今なお緩やかに揺蕩う灰色のオーロラを背にしたまま数歩だけ後ずさりながら。

 

「……我々は『鬼岩城(きがんじょう)』にて待つ。我が子の怒りを買わぬよう、精々気をつけるがいい」

 

 紫色の仮面で右目を覆い隠したオロチの姫が言う。その声はやはり魔化魍の姫としての低い男のもの。それだけ伝えると、彼女らは背後のオーロラに溶けて消え、その彼方にぼんやりと映し出された鬼の如き岩の城に吸い込まれていった。

 二人の怪異を呑み込み、オーロラはやがて洋館の一室から消え失せる。旧地獄街道にクグツが現れたときと同様、オーロラが消えた場にはあれだけ強かった邪気の欠片さえも残っていない。

 

「……『血狂魔党(ちぐるまとう)』……ね。なんで今さらあんな連中が出てきたんだろうねぇ……」

 

 洋館の男がその名を小さく口にする。その組織の名は──遥けき過去、戦乱の世において没したはずだった。オロチを首領と仰ぐ魔化魍たちによる組織。単なる自然現象であった魔化魍を束ねたのはオロチ自身であるのか、それともそれを育む童子たちか。

 そのような組織の名は古い文献で微かに見た程度。自分たちと同じ顔をした者たち、童子と姫という同じ構造の者たちながら──洋館の男女はその組織と関わりを持っていない。

 

 深い海の底に眠る岩の城、鬼岩城。鬼と敵対する身にして、鬼の意匠を持つその居城は乱れ狂うオロチへの供物が如く、鬼の血を求めている。

 彼らの持つ妖術は洋館の男女も知らなかった未知の法則。猛士のものでも、自然由来の陰陽術でもない。この世界(・・・・)の存在から聞いた話の通り、あの灰色のオーロラが世界を繋ぐのなら、その異質極まりない力の正体は──

 化身忍者(・・・・)。洋館の男女や鬼たち猛士の組織も知らぬ物語に依るもの。それはかつて戦国時代の響鬼の世界に時空を超えて現れた『異世界からの来訪者』がもたらしたものなのかもしれない。




かもしれない、かもしれないだけです。たぶん名前が同じなだけで関係ないです。たぶん。

次回、EPISODE 38 話83第『双龍 / 水の心と火の希望(いのち)


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【 幕間『 境界の物語 2003 ~ 2005 』 】
第38話 双龍 / 水の心と火の希望


 博麗神社。多くのベ・ジミン・バに加え、ズ・グジル・ギとズ・ガルガ・ダの襲撃を乗り越え、撃破を果たしたその翌日の昼。霊夢とあうんは五代と共に、もう一度だけ自分たちが有する情報の交換に努めていた。

 西暦2001年の1月からこの地に誘われた五代雄介。クウガの力にグロンギの存在。そして、八雲紫が語った計画とはいったい何なのか。

 霊夢の思考に浮かんでいたのは紫の言った『九つの物語』という言葉だ。五代雄介が生きたクウガの世界、グロンギたちとの戦いを一つの物語と定義するなら、九つの物語とは――五代雄介の他に、幻想郷に招かれるだけの意味を持つ物語がまだ八つは存在するのか。

 

 空は昨日と変わらず快晴の青を見せている。はらはらと舞う桜の花びらは紛れもなく春のそれだが、本来の季節にも関わらず、今ある四季異変の様相を思えばそれもまた異質に見えた。

 

「……噂に聞く『仮面の戦士』ってやつ……もしかして五代さんの他にも……?」

 

 境内の石畳にて桜を掃く箒の手を止め、霊夢は懐から取り出したカードを見つめる。バーコードじみた仮面を描く灰色の絵柄から伝わる気配、底知れぬ破壊衝動のようなものは、やはり見ていて気持ちのいいものではない。

 その不気味なカードを再び懐へと戻しては、箒の柄をぎゅっと握る。曖昧な不安感を誤魔化すように、霊夢は目を閉じて一度小さく深呼吸をしてみせた。

 

 そのとき、不意に賽銭箱の傍に止めてあったビートチェイサー2000が高い嘶きを上げる。

 

「っ!?」

 

 その音に驚いて思わず箒を手放してしまったが慌てることなく。霊夢が賽銭箱に近づき、ビートチェイサーのコンソールを覗くと同時、神社の戸を開けて五代とあうんが顔を出す。

 

「これって……霧の湖? いったい誰が……」

 

 コンソールに浮かび上がったのは幻想郷の地図の一部だ。妖怪の山から流れる川の先、霧の湖が拡大された座標が示されている。

 霊夢の通信札に呼応したビートチェイサーの無線機の音は、五代の耳によく馴染んでいる音。だが、それは同時に未確認生命体の出現を意味する、あまり聞きたくはない音。

 共に戦線を乗り越えた刑事との他愛ない会話を楽しむこともあったが、彼の本分は元より未確認生命体――グロンギの対策だ。そして、その役割は冒険に背を向けた五代も同様である。

 

「とにかく、そこに行ってみよう」

 

 誰がこの座標を送ってきたのかは分からない。が、霊夢も五代も、己の勘が叫ぶ。この信号が示す場所に向かえと。

 霊夢は五代の言葉に小さく頷き、手にした箒を神社に立てる。五代は目の前のビートチェイサーに跨り、備えつけられていたヘルメットを被った。

 キーを入れてはエンジンを強く唸らせる。スタンドを上げてはゆっくりと機関に熱を灯らせる。霊夢はふわりと宙に浮き、一度頭を染める不安を晴れ渡る青空の彼方に吹き飛ばして。

 

「あうん、あんたはここで待ってて!」

 

「は、はい! 気をつけてください、霊夢さん!」

 

 霊夢は心配そうに狼狽えるあうんに声をかけ、五代と共に博麗神社の境内を抜けていった。

 

◆     ◆     ◆

 

 紅魔館。真司と美鈴、そして咲夜たちがゼブラスカル ブロンズを撃破し、シザースに変身したルーミアとの出会いから一日が経つ。

 彼女が語ったベージュのコートの男性はおそらく神崎士郎ではない。かといって、真司たちには帽子と眼鏡を身に着けているとされるその人物には特に心当たりがなかった。カードデッキを持っているということは仮面ライダーであるのか、それとも神崎士郎と関わりのある真司の世界の誰かなのか――

 

 美鈴たちも自分たちが持ち得る情報を改めて確認している。真司は自身が『戦いのない歴史』の西暦2003年の1月から幻想郷に来ていることを認識した。

 幻想郷の時空は彼が元いた龍騎の世界とは異なり、現在は西暦2020年の春。その差異もまた真司を混乱させるものの大した影響はなく。元より四季異変や幻想郷という存在そのものが現実離れしているのだ。

 2002年にカードデッキを手にし、2003年までの一年間を戦った。そしてその過去そのもの、歴史そのものが神崎兄妹の祈りによって再編され、真司の記憶にはライダーとしての戦いが失われた一年間と、この幻想郷にて取り戻した戦いの記憶が混在している。

 

 考えることは得意ではない。真司は紅魔館の客室で、咲夜が淹れた紅茶に口をつける。深く優しい香りに包まれると、やはりどこか自らが生きた世界の喫茶店を思い出すようだ。

 

「…………!」

 

 カップを置いた瞬間。不意に、真司は頭蓋を鋭く貫く甲高い金属音に耳をしかめる。疑いようもなく、それは鏡の中の世界からの来客を告げる知覚。仕事の合間に美鈴を呼び、真司と共に紅茶の休憩を与えていた咲夜も表情を変えた。

 ミラーモンスターとの契約を交わしていない美鈴もブランクデッキを持つ以上はその気配に気がついている。ただ三人がすぐに動くことができなかったのは、ミラーワールドからの反応がここを含めて二つ――それぞれ同時にまったく異なった場所のモンスターを示していたからだった。

 

「館内に一匹……それに霧の湖の方にも……二匹?」

 

「私はお屋敷のお掃除もあるし、紅魔館(こっち)の方を片付けるわ。……あなたは城戸さんと湖の方へ」

 

 紅魔館に現れた気配はディスパイダーに満たない程度のもの。あまり大きいとは言えず、咲夜は自分一人で十分だと判断した。目線でそれを伝え、美鈴も了承して頷く。

 霧の湖といっても紅魔館の目の前からその向こう岸までその名を冠している。おそらくは里側の領域に現れたのだろう。ここからでは気配がやや遠く感じられ、その個体の強さまでは感じ取ることができない。

 幸い、霧の湖の規模は大きくなく、さほど時間をかけることなく到着できるはずだ。

 

「俺が言うことじゃないかもしんないけど……あんま無茶すんなよな!」

 

 真司は咲夜にそれだけ言うと、美鈴と共に紅魔館の客間を出る。つい最近――彼にとってはほんの数日前までの癖で水色のジャケットを羽織って外に出ようとしてしまったが、窓から差し照らす日差しの通り外は真夏日の気候である。

 未だ四季の異常に混乱する思考を燃やし散らし、真司はジャケットを持たずに外へ出た。

 

◆     ◆     ◆

 

 霧の湖。その名の通り白い霧に包まれて遠くまで見ることができない場所。されど今は灰色のオーロラが霧を遮っているのか。あるいはその境界の先へ流しているのか。霧の湖は、普段の昼よりかは幾許か見通しがよくなっており、その霧の中には三体の影が映し出される。

 

 ……まずは 妖精からだ

「……ラズパ ジョグゲギ バサザ」

 

 白い霧を不快そうに手で払いながら呟く男。パーマがかった黒髪と素肌に纏った革色のジャケットは、ズ集団であるバッタ種怪人『ズ・バヅー・バ』の人間態が好む服装だ。彼はこの場に二体の怪物を引き連れて現れ、小さな妖精たちを視界に収めた。

 左の二の腕に刻まれたバッタのタトゥを撫でると、男の身体は腹部に埋め込まれた魔石ゲブロンの力によって変化する。彼の内から湧く闘争心を醜く具現化した姿、グロンギとしての怪人態――それは土色の身体にヒビ割れめいた顔の溝とベージュの布をマフラーの如く装ったもの。

 

 行け お前たち 奴らから 力を奪え

「ギベ ゴラゲダヂ ジャヅサ バサ グバゲ ゾ ヂバサ」

 

 背後に控えていた二体の怪物はズ・バヅー・バの知るクウガの世界の怪人、すなわち彼の同族に当たるグロンギではない。本来ならば交わるはずのない異世界、龍騎の世界の法則に由来する鏡の世界の怪物――ミラーモンスターだった。

 ヤギのようでもウシのようでもあるその特異な体躯は人型の異形に捻じ曲げられてなお立派な双角を掲げ、さながらレイヨウの怪人と呼べる雄々しい野性味を力強く放っている。

 

「ギギギィィィイイッ……!!」

 

「ギィッ、ギィッ、ギィィイイッ……!!」

 

 二体のうちの片方は深い紫色の身体に黒い装甲を纏い、紅い目と螺旋状の双角を持つ。その腕には刃を生やし、武器としてこれまた螺旋状の双角を模した大型の槍を構えたレイヨウ型ミラーモンスター『ギガゼール』だ。

 もう一体は同じくレイヨウに似た姿を持つが、こちらはくすんだ金色の身体に鈍色の装甲を纏っている。真っ直ぐ伸びた角は刺突力よりも切断力に優れたハサミを思わせ、こちらもやはりハサミめいた巨大な刃を武器と構えた『メガゼール』と呼ばれるレイヨウ型モンスターである。

 

「第6号……!」

 

 そこへビートチェイサー2000に乗った五代雄介が現れた。晴れているとは言い難いが、戦闘に支障をきたさない程度には薄まった霧の中、ズ・バヅー・バは余裕そうに腕を組む。

 

 クウガか こんなところに 何の用だ? ここには リントは いないぞ

「クウガバ ボンバ ドボソビ バビン ジョグザ? ボボビパ ギバギゾ パ リント」

 

「相変わらず何言ってんだか分かんないけど……あんたが未確認(グロンギ)だってことは分かったわ」

 

 バイクを停めてヘルメットを外した五代の隣にふわりと霊夢が着地する。びしっと力強く大幣を掲げ、敵意を込めた視線で正面に立つバッタ種怪人を睨んだ。

 

 腕を組んだまま表情の見えない無機質な顔で微かに顎を動かし、二体のミラーモンスターに指示を出すズ・バヅー・バ。ギガゼールとメガゼールはそれぞれ螺旋状の筋肉を備えた強靭な脚を活かし、武器を構えて遥かな跳躍を見せる。

 五代は戦士として戦ってきたその経験から、霊夢は日々の弾幕ごっこで培った反射神経からクウガの世界の法則に依らぬモンスターの攻撃を避けるが、忙しなく動くその動きを掴めない。

 

「うぎぎ、目の前をうろちょろと鬱陶しい奴らね! こいつらもグロンギなの?」

 

「あのバッタみたいな奴は前に倒したことがあるけど、それ以外は……」

 

 博麗神社や人間の里でも交戦したことのあるベ・ジミン・バを彷彿とさせる動き。ヤギやウシを思わせる軽やかなステップは手にした武器の勢いもあり、霊夢たちを翻弄した。

 

「あっ! あのモンスター! たしか佐野の……!」

 

 霊夢と五代のすぐ傍に立ち込める霧。彼方にてオレンジ色のスクーターを停めた真司と、その隣にふわりと着地した美鈴がギガゼールとメガゼールの姿に注目する。

 真司の記憶においてはそのモンスターはとある仮面ライダーとの契約を交わしていた契約モンスターの一種であり、レイヨウのようにも見える鏡像の怪物は、彼も戦ったことのある相手だ。

 

「……でも、契約モンスターの気配じゃない。野生のモンスターなのか?」

 

 レイヨウ型ミラーモンスターと契約した仮面ライダーの存在を、真司は知っている。根は悪い奴ではないのだろうが、あまり性格が良いとは言えないような自信家の青年だった。もっとも、真司の知るライダーなどほとんど歪んだ性格の奴らなのだが。

 その仮面ライダーと出会う以前にもレイヨウ型のモンスターと遭遇し交戦したことがあったため、おそらくはそれらと同様に同種の別固体であろうことに気がつく。以前これらと戦った際はあろうことが小学校に現れ、多くの児童たちが理由なき恐怖に慄くこととなってしまった。

 

 だが今はそれ以上に気になるものがある。少なくとも野生のモンスターとしての気配を持つギガゼールとメガゼールの他に立つ異形、こちらについてはその気配自体が奇妙なもの。

 

「真司さん、あのモンスターの気配……」

 

「俺も気になってた。あいつだけモンスターの気配を感じない……」

 

 後方で腕を組むバッタじみた怪物はおそらく龍騎の世界の法則に由来するミラーモンスターではない。クウガの世界に存在したグロンギという怪物、ズ・バヅー・バの由来など知る由もない真司たちだが、その違いは感覚的に伝わってきた。

 怪訝そうな表情でズ・バヅー・バを睨む美鈴の言葉に返す真司もまた、モンスターよりも理性的な佇まいを見せる怪物を訝しむ。その正体も気になるものの、今はまずミラーワールドからの来訪者たちを撃破すべき。

 湖に差す光の加減か風によるものか、立ち込める霧によってあまり良くは見えないが、おそらくは真司たちよりも先に霧の湖(ここ)にいた二人の人物がギガゼールたちに襲われているようなのだ。

 

「…………」

 

 薄くぼやけた霧のベールを隔て、霊夢と五代、美鈴と真司が集う。そのまま槍を振り下ろしたギガゼールの一撃を避けつつ、紫紺の身体を蹴り飛ばして両足を広げる五代。腰を丸く両手で覆い、その身にアークルを出現させると、いつも通り右手を左前へ。

 微かな霧以外は何もない虚空に龍の紋章が象られたカードデッキを向けることで、真司は己が腰にVバックルを装う。霧の向こうに映る人影の顔こそ見えないが、奇しくも真司の構えは隣合う五代と似た、右腕を左側へと鋭く突き上げるもの。

 

 晴れ渡る笑顔の物語を背負う男は太古から続く戦士の力を。信じる願いの物語を背負う男は合わせ鏡が映し出す騎士の鎧を。異なる世界を生きた二人の男たちは、決して交わるはずのない物語と歴史を超えて。この幻想郷――忘れられた地に、等しき覚悟を込めた『一声』を重ねた。

 

「「変身っ!!」」

 

 アークルの左側に固めた左の拳を包み込む。Vバックルの正面に龍の紋章が輝くカードデッキを叩き込む。

 二人は共に両腕を広げて己が全身を誇示するが五代は手を開いて肘を伸ばし、真司は拳を固めたまま肘を曲げて。同じ『変身』という行いながらその差異は世界の差異。古代リントが生み出した戦士『クウガ』と神崎士郎が作り上げた騎士『龍騎』の姿が、ここに並び立った。

 

 不意に吹き込んだ風が二人を遮る霧を少し晴れさせる。夏の色を帯びた陽を浴びて虚ろに輝くは、青空の如く爽やかなクワガタムシの赤い装甲と、鏡の如く張り詰めた龍の灼熱(あか)い鎧。

 微かにその鮮やかさに目を向けた二人。クウガと龍騎の赤い複眼が、互いの姿を認識した。

 

「また別のライダー……!? でも、デッキがない……?」

 

「あれは……クウガ!? ってわけでもない……のかな……?」

 

 真司と五代の疑問は霧の中に吸い込まれていく。その姿もそうだが、真司はすべてのライダーが共通して持つはずのVバックルがクワガタムシの戦士にないこと、五代はリントの霊石を宿すアークルが龍の如き騎士にはないことに違和感を覚えた。

 驚いているのは二人だけではない。幻想郷の歴史に存在しない未知の戦士がここに二人。それもそれぞれ五代と真司から聞いた話に当てはまらない存在が、この場に一人現れたのだ。

 

「霊夢? ええ……? こ、これはいったいどうなってるの……!?」

 

「……なんだか面倒くさいことになってきたわね。とにかく、話はあとよ!」

 

 美鈴の困惑も霊夢の困惑も必定。だが、霊夢はすでにその可能性には辿り着いていた。五代雄介以外の存在も異なる世界から現れる可能性に。クウガの物語とは別の物語から、それぞれ別の戦士が招かれているという予感に。

 五代と真司、霊夢と美鈴。その誰もが未知の戦士について聞きたいことはあるが、今は目の前にいる怪物――グロンギとミラーモンスターの相手をすべきだと判断し、霊夢は燃えるような願いに抱かれた龍の騎士から目を逸らし、バッタとレイヨウ、それぞれの怪物に対して向き直る。

 

 あれが バルバの言っていた 異世界のクウガ……

「ガセグ ギデ デギダン バルバ ギゲバギン クウガ……」

 

 興味深そうに顎を撫でる怪人態のズ・バヅー・バ。因縁深きクウガに続いて向ける視線の矛先はミラーワールドの法則を宿した鏡像の騎士。

 無機質ながら悪意に満ちた異形の貌をニヤリと歪めると、ズ・バヅー・バはおもむろに右腕を上げる。頭の上でパチンと指を鳴らし、霧の湖の空にいくつものオーロラを展開した。

 

 また新手が来るのか――と身構えていた霊夢の予想に反して気配はない。代わりに、オーロラの彼方へと霧が吸い込まれていくことで湖の見晴らしがさらに良くなる。怪物は満足そうに霧のなくなった湖の空気を吸い込むと、そのままゆっくりと上げた右腕を下ろした。

 

 オーロラの役割はただ霧を吸い上げるだけではない。ズ・バヅー・バの意思によって接続された異界から『建造物』らしきものを突き出し、自然豊かながら人工物の気配などはなかった霧の湖にいくつもの鉄骨――建物の支柱と呼べるものを現したのだ。

 脚部に螺旋構造の筋肉を等しく持つバッタのグロンギとレイヨウ型ミラーモンスター。ズ・バヅー・バの跳躍に続き、ギガゼールとメガゼールもそれぞれ後方に飛んでは鉄骨に足を乗せ、跳ね回るように次の鉄骨へと跳び移っていく。

 霧がなくなり透き通るような青空を夏の日差しが照らすこの湖に、空を見上げれば太陽の逆光が目を眩ませる。そんな状況で、ズ・バヅー・バたちは上空から絶え間なく襲ってきた。

 

「くっ……!」

 

 今度は 青くならないのか?

「ボンゾパ ガゴブ バサ バギンバ?」

 

 五代はズ・バヅー・バの上空からのキックを両腕で受け止め、それを抑えたまま怪物のグロンギ語を聞く。言葉の意味こそ理解できないが、五代は怪物がクウガの力に何か別のものを望んでいるように思えた。

 霊夢と美鈴は上空から迫るギガゼールとメガゼールの攻撃を回避しつつ、弾幕で牽制。相手が空を跳ね回るのなら、こちらも相手の領域へ踏み込むだけだ。

 

「空から攻撃しようったって無駄よ! こっちだって飛べるんだから!」

 

「真司さん! と、そっちのクワガタみたいな人! 地上から挟み撃ちをお願いします!」

 

 大地を蹴って空へ飛び上がる二人。幻想の流儀に従い、主に空中で行われる弾幕ごっこと同様に、少女たちは何の苦もなく怪物が制圧する空の領域へと踏み込んでいく。

 

「っしゃ! 絶対撃ち落としてやるからな!」

 

『ストライクベント』

 

 真司はカードデッキから取り出したアドベントカードをドラグバイザーに装填し、右腕にドラグクローを装備する。霧の湖に映ったドラグレッダーを呼び出すと、背後にそれを控えさせて勢いよく右腕のドラグクローを突き出した。

 ドラグレッダーの咆哮と共に火球――ドラグクローファイヤーが空を焼く。霊夢を攻撃しようとしていたギガゼールを狙ったつもりなのだが、その一撃は軽やかな後退で回避されてしまった。それどころか怪物が不用意に動いたせいで危うく霊夢の身に当たりそうになってしまう。

 

「うわっ! 危ないじゃない! そこの鉄仮面!」

 

「ごめんっ! ってか、後ろ後ろ!」

 

 憤慨する霊夢に謝罪しつつ、真司は霊夢の背後に迫ったズ・バヅー・バの攻撃を警告する。何とか振り返ったものの反応が間に合わず、霊夢は咄嗟に腕を交差させて正面からの蹴り込みを防ぐ。ダメージは抑えたが、その勢いによって地上へと叩き落されてしまった。

 

「ちっ……! やってくれるわね……!」

 

 視線を上げてただ一人、空で奮闘している美鈴と戦っているズ・バヅー・バを睨む。すぐさま空へ戻るが、このまま戦闘を続けても初対面の赤き騎士との連携不足や軽やかな怪物の動きについていくことができず、まとめてやられてしまう可能性が高い。

 人間の里で五代雄介――あのときはまだ白かったクウガと初めて共闘したときはこんなことはなかったのだが、相性の問題だろうか。

 霊夢は袖から取り出したお札をホーミングアミュレットとして放ち、美鈴は紅色の結晶じみた礫の光弾を舞い上がらせては雨のように怪物にぶつける。どちらも大した威力はないが、狙い射る必要もほとんどなく相手に当たるため消耗も少なく使い勝手の良い弾幕として扱っていた。

 

「相手は第6号……それと似たような動きをする怪物……だったら……」

 

 クウガとしての赤い複眼。マイティフォームの赤が怪物たちのいる青空を見上げる。過去にも一度は倒したことのある未確認生命体第6号――ズ・バヅー・バの能力は、その見た目通りバッタの遺伝子を宿した驚異的な瞬発力と跳躍力にある。

 かつての戦いにおいて第6号と交戦した際、五代雄介は『もっと高く跳べたら』と望んだ。赤い姿たるマイティフォームとて常人を遥かに超えた身体能力を持つが、第6号の軽やかさに追いつくにはまだ足りない。

 五代の望みは霊石アマダムに届いた。遥か古代の力を力強く呼び覚ました。第0号との戦いで力を失ってしまったアークルも霊夢の力に反応してマイティフォームの力を取り戻している。ならばきっと。第6号に追いつくための『青の力』さえもこの身に取り戻せているはず――

 

「……大丈夫。いける……今なら!」

 

 五代は小さく息を吐きつつ、己を鼓舞する。空では霊夢と美鈴が三体の怪物に苦戦し、遠距離攻撃を持つ真司も霊夢たちへの誤射を危惧してドラグクローファイヤーの射出を躊躇してしまっている。かつて勘違いとはいえ、人を殺めたと思い込んだ恐怖が燻っているのだ。

 その微かな恐れを感じたのか五代は冷静に腰に装うアークルを優しく両手で覆う。五代の望みに呼応するように、赤く力強く輝いていた中央のモーフィンクリスタルには爽やかな青空と湖の水面を思わせる優しい『青』が灯された。

 赤く鮮烈なるマイティフォームのままのクウガは右腕を左上に突き出し、左手を右腰に添える己が身に馴染んだ構えを取る。そのまま変身の際と同じく右腕を右側へゆっくりと滑らせながら、左手を左腰へ。水のように揺蕩(たゆた)う静かな心で、五代は霧色の視界に強く飛沫の声を上げた。

 

―― 邪悪なるもの あらば ――

 

―― その 技を 無に帰し ――

 

―― 流水の 如く 邪悪を 薙ぎ払う 戦士あり ――

 

「超変身っ!」

 

 泡と弾ける覚悟の一声。広げた両腕をもって五代――クウガの赤い身体は青く染まる。堅牢な装甲は面積を減らし機動性に特化させ、複眼とモーフィンクリスタルの透き通るような青はさながら水の心を思わせる青のクウガ──『ドラゴンフォーム』と呼ばれる姿。

 霧に包まれた湖の畔において、五代は水龍の象徴を宿した脚力で強く大地を蹴る。軽やかな跳躍で天高く鉄骨の上に着地し、目の前に立つズ・バヅー・バに対して両腕を大きく縦に広げた龍のような構えを取った。

 

 龍の如き意思は赤き火龍(ドラグレッダー)を伴う真司とも、中国に伝わる拳法めいた動きは紅魔館の門番を務める美鈴とも通ずる。だがその振る舞いは龍騎のように激しく力強いわけでも、美鈴ように煌びやかに美しいわけでもない。ただ静かに、空を映す湖の如く。

 明鏡止水。生まれた世界は異なれど、ドラゴンフォームに至ったクウガの心は、真司がこれまで向き合ってきた静かなる鏡の世界のように、ただ向かうズ・バヅー・バを映し出していた。

 

「青くなった……!?」

 

 大幣を水平に構えて目の前のギガゼールの槍を受け止めていた霊夢が視界の青空(クウガ)に驚く。ズ・バヅー・バは霊夢から視線を外し、青き姿となったクウガに気を取られているようだ。

 

 そうだ その青がいい

「ゴグザ ゴン ガゴグ ギギ」

 

 ドラゴンフォームとなったクウガに満足げな言葉を発するズ・バヅー・バ。五代はその声に固く握った拳を返すのではなく、流水のようにしなやかな手の平の構えで向かう拳を受け流す。クウガの力に馴染んだ彼は知っているのだ。この形態の能力を。

 あらゆる要素がバランスよくまとまった基本形態のマイティフォームに比べ、ドラゴンフォームは瞬発力や敏捷性、走力や跳躍力といった機動性に優れている。その分、パンチ力やキック力は大幅に低下し、総合的な戦闘能力ではマイティフォームに劣ってしまっている。

 

 ズ・バヅー・バのような俊敏な動きの相手や高所へ向かう際には適しているのだが、徒手空拳で戦うには向かない。その不足を補うための『方法』も、一応はクウガの能力として存在こそしてはいるが――

 怪物を正面に警戒し続ける今の状況ではそれに適したものを探し出す余裕はない。霧の湖には流木の一つも落ちておらず、手すりといった都合のいいものは存在せず。かつての戦闘では咄嗟に光を見出すことができたものの、今この状況においては『長きもの(・・・・)』が見つけられなかった。

 

「しまっ……!」

 

 霊夢が小さく漏らす声。余所見は一瞬だった。だが、その僅かな隙に大幣を蹴り上げられ、霊夢はギガゼールの脚力によって手にした大幣を打ち払われてしまう。

 無防備になった身を蹴り込まれ、霊夢は腹を抑えて空に舞い上げられた。苦痛に顔を歪めながらも体勢を整えるが、今度は美鈴と交戦していたメガゼールのハサミめいた刃が迫る。

 

彩符(さいふ)彩虹(さいこう)の風鈴!!」

 

 そこへ妖力を込めた虹の波紋が輝いた。美鈴が放った【 彩符「彩虹の風鈴」 】は煌びやかな虹色の光弾を弾幕と成し、彼女を中心として大きく広がっていく。霊夢を狙うメガゼールはそれを見て後退し、ギガゼールも素早く霊夢から距離を取った。

 スペルカードを発動できるギリギリの妖力を行使した美鈴。通常弾幕程度なら苦もなく放てるが、咄嗟の判断で本気のスペルカードを使えば、さすがに無視できない消耗が身を襲う。

 

「なんだかよくわかんないけど……! たぶん今がチャンス!!」

 

 地上からその光景を見上げ戦況を把握していた真司。固く拳を握ると、傍に控えるドラグレッダーに意思を伝えた。

 ドラグレッダーの前足の爪に掴まり、龍の飛翔を利用して天高く青空に舞い上がる。うねり荒れる龍の軌跡に飛沫を上げる湖を背後にやがて鉄骨に跳び移り、真司はメガゼールが美鈴に気を取られこちらに気づいていなかった隙を突いて背後から羽交い絞めにした。

 

 龍と契約した騎士の力をもってメガゼールを掴み上げ、遠心力をもって美鈴たちとは逆方向の空へと投げ飛ばす。いかに跳躍力に優れたレイヨウのモンスターといえど、飛行能力を有しているわけではない。空中では自由に動けず、真司の右腕のドラグクローと視線が合ってしまった。

 

「っだあああああっ!!」

 

「グギィィィイ……ィイイイッ!!」

 

 鉄骨に強く足を踏みしめ、引き絞った右腕を正面へ突き出す。背後に踊るドラグレッダーが吐き出した灼熱の火球(ドラグクローファイヤー)が空を焼き抜け、空中で狼狽えるメガゼールを爆散させた。

 真司が指示を出すまでもなくドラグレッダーはモンスターが喰らった命――輝く光球として現れたエネルギーの塊を吸収する。それを見届けると、真司はドラグクローを消失させた。

 

「へへっ、どーよ!」

 

 不安定な足場ながら力強く立ち、少し調子に乗って虚空を指さす真司。餌となるエネルギーを捕喰したドラグレッダーは満足そうに空を舞い、湖の水面を鏡としてミラーワールドへと帰っていく。先ほどと異なり、鏡面への突入は微かな飛沫をも伴わない。

 

「真司さん! 後ろです!」

 

「え?」

 

 メガゼールを撃破した真司の耳に美鈴の声が届く。隙を見せた真司に対し、霊夢と美鈴と戦っていたギガゼールが螺旋の槍を構えて真司のいる鉄骨に跳び移ったようだ。そのまま振り抜かれた一撃に背中を殴りつけられてしまう。

 バランスを崩した真司は足を踏み外し、鉄骨から落下し──かける。なんとかギリギリのところで足場を掴み、宙吊りの形にはなったが空中に突き出した鉄骨からの落下は免れた。

 

「くっ……またこのパターンかよ……!」

 

「……やっぱり……パンチ力が弱くなってる……!」

 

 鉄骨から鉄骨へと跳び移り、ズ・バヅー・バを追いかけながら拳を交える五代。しかしかつてと同じく。予想通り、ドラゴンフォームの打撃力では大した威力になっていない。それでも、ここでマイティフォームの姿へと戻れば、今度はグロンギに追いつけない。

 ズ・バヅー・バは一度、最上段の鉄骨から霧の湖の地上へと飛び降りている。バッタの強靭な脚力を備えた身体は落下の衝撃さえ何の影響もないらしい。次に怪物は五代を弄ぶように空中に突き出した鉄骨へ飛び乗った。

 早く上がって来いクウガ──とでも言いたげに手を招く怪物。地上に降りた五代は今一度、脚に力を込めて飛び上がろうとするが、青い複眼をもって見通した霧の湖に、五代は求めていた『長きもの』――かつて古代リント文明の碑文解読を担っていた女性が導いた答えを見つけた。

 

「霊夢ちゃん! これ、ちょっと借りるよ!」

 

 五代が足で蹴り上げ右手に掴んだのは、霊夢が上空から取り落とした大幣。かつて友たる女性に言われた通り、碑文に記された通り『水の心の戦士、長きもの(・・・・)を手にして敵を薙ぎ払え』と。掴んだ大幣を両手に構え、棒術を思わせる動きで振り回したとき──

 清らかな水の音色が鈴と響く。霊夢の大幣はクウガの『モーフィングパワー』――変身の際と同じ波動によってその姿と材質を変えた。

 霊石アマダムが発するは宿主が望んだ対象の物質を原子レベルで作り替える力。五代雄介の身を戦士クウガのものに変じさせるも、グロンギの肉体を怪物のものに捻じ曲げるもその能力によるもの。その干渉は霊夢の大幣を原子分解し、五代(クウガ)の武器として再構築を果たした。

 

 蒼穹の空を思わせる群青の柄に走る金色は水龍の如し。柄に刻まれた文字と両先端の青い宝玉はまさしく古代リント文明が生み出した戦士のための武器として機能する証明。変化を遂げたそれは両端の先を鋭く突き出し、五代雄介――クウガの身の丈ほどの長さまで一気に伸びる。

 

「ちょっと! ちゃんと元に戻るんでしょうね!」

 

 ふわりと宙に舞う霊夢は自身の大幣が見慣れぬ姿になったことに驚いた。右手でかつて大幣だった棒状の武器――『ドラゴンロッド』を背中越しに構え、青いクウガは空を見上げて霊夢に左手のサムズアップを見せて安心させる。

 すぐさま鉄骨の上のズ・バヅー・バへ向き直り、ドラゴンロッドを右手に遥か跳躍。それなりの重みはある長柄の武器だが、元よりそれを前提に在る機動力は少しも減衰を見せていない。

 

「霊夢! バッタの方はクワガタの人に任せて、私たちは真司さんを!」

 

「あの鉄仮面……! まったくもう、世話を焼かせるんだから!」

 

 美鈴の声に気づいて真司に向き直る霊夢。鉄骨にしがみついている真司を貫こうとするギガゼールに対し、二人は霊力と妖力を合わせて鮮やかな三色と七色の波動を輝かせた。

 

「夢想――」

 

「――風鈴っ!」

 

 霊夢と美鈴の声が力強く重なり、二つの彩りが混ざり合う。

 共に鮮やかな光の色を散らすそれは霊符「夢想封印」と彩符「彩虹の風鈴」を掛け合わせた即席の合同スペルカード。美鈴を中心に広がる虹彩の波紋は霊夢が放った三色の光球を包み込み、湖上に弧状の虹を描いて煌びやかに空を染めた。

 真司――龍騎を狙っていたギガゼールは二人が共同して放った弾幕によって霊力と妖力のエネルギーを叩き込まれ、真司の身に螺旋の槍を突き立てる直前にて爆散を遂げる。熱風に煽られ体勢を崩すも、真司は龍騎としての握力でなんとか掴んだ鉄骨からの落下を免れているようだ。

 

「真司さん、無事ですか?」

 

 少し屈んで真司に手を伸ばす美鈴。霊夢はズ・バヅー・バと戦う五代の方へ向かい、真司の対応を美鈴に任せた。

 青空はすでに陰った群青の色を見せている。日が暮れる前までに倒せなければ、怪物に加えて妖怪たちまでもが現れるかもしれない。視界の悪さも厄介だが、幻想郷において夜とは妖怪のための時間。人間のための時間である日中との境界こそを──『逢魔ヶ刻』と呼ぶように。

 

 ……やはり こうなるか ……だが まぁいい

「……ジャザシ ボグバスバ ……ザガ ラガギギ」

 

 ズ・バヅー・バは右腕でドラゴンロッドを受け止めながらギガゼールの最期を見届けていた。そこから生じたモンスターのエネルギーに対し、左腕に装った腕輪(グゼパ)を向けると、ギガゼールが喰らった命のエネルギーはその勾玉へと吸い込まれていく。

 力強く確かな光を灯したグゼパ。ズ・バヅー・バは青のクウガに等しいだけの脚力をもって正面のクウガを蹴り飛ばし、己が右腕を横に広げることで再び背後に灰色のオーロラを呼んだ。

 

「逃げる気? そうはさせない!」

 

 霊夢は空を蹴って鉄骨を飛び上がるズ・バヅー・バを止めようとする。その瞬間、今度は怪物の意思で霊夢の横から飛び出した新しい鉄骨が凄まじい勢いで突っ込んできた。

 五代と霊夢はその光景に冷たい汗を流すが、不意の攻撃も弾幕ごっこに慣れた霊夢には命中せず。咄嗟に背後へ下がったことで鉄骨が空を切る風圧を受け、回避できた。しかしその行動によって怪物はさらに遠く、もはや止める余地もない。

 

「ちっ……!」

 

 反則じみた挙動を見せる灰色のオーロラに八雲紫のスキマを思い出して苛立つ霊夢を他所に、ズ・バヅー・バはエネルギーを湛えたグゼパを左腕に輝かせオーロラへ向かい――

 

「こういうときこそ……! もっかい来い! ドラグレッダー!」

 

 美鈴の妖怪としての腕力で引き上げてもらった真司。仮面ライダーの武装を纏ったままの男を引っ張り上げる力に少し慄いたが感謝し、すぐさまドラグバイザーを開いてデッキから一枚のアドベントカードを引き抜いた。

 ドラグバイザーに装填するは契約モンスターたるドラグレッダーそのものが描かれた契約の証。仮面ライダー龍騎の力の大部分を占める『アドベント』の効果を司るカードである。

 

『アドベント』

 

「グォォォオオッ!!」

 

 再び召喚された赤き龍が湖の鏡面から顔を出す。群青の空を裂いて舞い、ドラグレッダーは無双の炎を湛えて逃げ行くズ・バヅー・バの身に体当たりを見舞った。

 

 衝撃によって高空から霧の湖の畔へ叩き落されてしまったズ・バヅー・バは自慢の脚力を駆使する間もなく。不意の攻撃で着地もままならず、浅い水辺へ全身を叩きつけられたことで水飛沫を上げながら苦痛の声を漏らした。

 鉄骨の上から飛び降りた青いクウガに向き合い体勢を立て直す。この距離では逃走も困難と判断したのか、ズ・バヅー・バは五代に対してバッタめいた四肢を振り乱していく。

 

 拳打も脚打もすべてが無意味。海原に眠る水龍の棒――ドラゴンロッドを手にした青のクウガはそのすべての攻撃を流水の如く受け流し、揺蕩う波と薙ぎ払う。

 シャン、シャン、と。小気味よく響く鈴の音色と共に。五代は水のように舞いながら、絶え間なくズ・バヅー・バに棍を連打。横一閃に薙ぎ払った一撃がズ・バヅー・バの腹部を深く捉え、その身体を水辺の彼方まで突き飛ばした。五代は呻く怪物の隙を見逃さず――水面を蹴る。

 

「……っ! うりゃあああっ!! だあっ!!」

 

 ドラゴンロッドを真っ直ぐに構えて一度、水龍の跳躍。ぱしゃりと跳ねた飛沫を背にして、五代の清流はズ・バヅー・バの胸に鋭く突き立てられた。

 青き宝玉が光を灯す。アークルの中枢たる霊石アマダムから供給された封印エネルギーが五代の四肢を通じ、その手に構えられたドラゴンロッドへと流れ、それはグロンギに対する最も致命的な光として無慈悲に輝く。

 クウガの放ったドラゴンロッドの一撃。水龍の舞いに等しき【 スプラッシュドラゴン 】はかつての戦いと同じく、ズ・バヅー・バの胸に古代リントの封印の文字を刻み込んだ。

 

「……グ……ォォオ……ッ……オ……!!」

 

 封印の文字が強く輝く。光はやがてズ・バヅー・バが腰に装うゲドルードのバックルに到達し、その赤銅の意匠に亀裂を生じさせた。

 魔石ゲブロンにまで届いた封印エネルギーの奔流を内側から溢れさせ、ズ・バヅー・バは激しい水飛沫を上げながら霧の湖の畔にて鮮烈に爆散を遂げる。雨のように降り注ぐ湖の飛沫を青い装甲に受けながら、五代は手にしたドラゴンロッドの水を払いつつ構えを解いた。

 海の如き群青の鎧とは異なる色味の、青空めいた水色の複眼。滴る雫は切なげな涙の色を帯び、水辺にて怪物を殺した五代雄介の微かな心の痛みか、戦いを続けることの悔しさとして。

 

「どぉわっ!? ……痛ってえ……!」

 

 地上から近い鉄骨に降りていた真司は不意に足場が消失したことで浅い水辺に落下する。先ほどの位置よりはかなり低い位置であったため、尻を打ちつけるだけで済んでいた。

 ズ・バヅー・バを倒したことにより、彼が現していたオーロラも消えた。そのせいでオーロラから突き出していた鉄骨という足場も霧と消失したのだ。

 

 背後にて聞こえた声と水飛沫の音で五代は見知らぬ赤き騎士に対して振り返り、左手を差し伸べる。少し遠慮がちに「大丈夫?」と問う声は、それが人ならざる異形の仮面を装う騎士であろうと相手を人間として認める五代の意思。

 対する真司も遠慮がちに「ど、どうも」とだけ返しながらその手を取った。クワガタめいた異形の顔からは表情など伝わるはずもないが、青い鎧の戦士からは敵意などは一切感じ取れない。

 

「その姿……あんたも仮面ライダーなんだよな……? っていうか、人間だよな……?」

 

「……仮面ライダー? いや、クウガだよ、クウガ! ……ニュースとかで見たことないかな?」

 

 五代の手を取って立ち上がった真司は未知の戦士へ問う。舞うように地上に降りた霊夢と美鈴も、異なる二人の戦士にはいくつもの疑問があった。

 アークルの中枢たる霊石アマダムは五代から戦意が失われたことで五代を生身の姿へ戻す。期せずして真司も同じタイミングでVバックルから龍騎のデッキを引き抜いた。共に生身となった二人の青年、五代雄介と城戸真司は問いに詰まり、隣に立つそれぞれの少女の目を見る。

 

「九つの物語……か。やっぱり、紫が言ってたのって……そういうことよね」

 

 無事に蒼き水龍の棒から大幣へと戻った愛用のそれを受け取り、霊夢は思考した。その手の大幣を霊的に消失させると、巫女服の袖を合わせて腕を組みながら口を開く。

 

「間違いない。この幻想郷に招かれつつある『仮面の戦士』は──全部で九人(・・)いるわ」

 

 夏の夕空に消える風。霊夢の直感(かくしん)は、再び薄ら霧に染まっていく湖にて強く心に灯っていた。

 

◆    ◆    ◆

 

 霧の湖の上空、微かな霧の果てに白い雲が浮かぶ夕空は、夏の日の風情を思わせる。そんな静かな晴天の玉座にただ一柱。風雨を司る幻想郷の神たる八坂神奈子が、紫色に輝く一枚のお札を手に、眼下の世界を神霊として遍く見下ろしている。

 八雲紫が印を刻んだ特製のお札は霊夢がビートチェイサー2000に宿らせたものと同じ力を持つもの。神奈子は紫から受け取ったこの札に意思を送り、霊夢たちにこの場所を知らせた。

 

「……まずは第一の楔と第三の楔の接触。霊夢なら簡単に受け入れてくれるだろう」

 

 それを懐にしまうように、神奈子は紫色のお札を消失させる。もとより蛇のように鋭い目をさらに細めて懸念するは、幻想郷に『九つの物語』を定着させるのにやや時間がかかってしまっている点であった。

 当初の予定通りなら問題はないが、今は世界の融合が想定よりも早く進んでいる状況。さらには幻想郷に未接続の世界の怪物が現れているという報告もあり、計画の進行を少し早める必要があった。元より不安定な接続ゆえ、事を急くのは危険な選択だったが――

 

 このままいけば無事に九つの楔の幻想化(・・・)は完了する。しかし決して楽観視はできない。八雲紫も八坂神奈子も理解している通り、想定外の事態が起こることなどすでに想定済みだ。

 

 ――そっちはどうだい?

 

 神奈子の思考は神力の導きとなりて。こことは別の場所にいるもう一柱の神のもとへ繋がる。今は遥か地底の淵にいる洩矢諏訪子との念話を交わし、神奈子はその声を聞いた。伝わる意思に心を傾け、計画が進行していると確かに認める。

 赤く神さびた衣の内から鈍い深緑のカードデッキを取り出して。神奈子は雄々しき双角を掲げたバッファローの頭部の如き金色のレリーフに視線を落としながら小さく呟いた。

 

「冒険家と記者ならそれなりに気が合うだろうね。はてさて、あちらさんはどうなるやら」

 

 デッキに呼応して神奈子の胸に小さく揺れる鏡に深緑の怪物が影を差す。彼女の思考にはやはりミラーモンスターの出現音が響いているが、霧と雲に紛れた幻想郷の気配に包まれて眼下の真司と美鈴にはそのモンスターの気配は感知されていないようだ。

 いよいよこちら側の物語が動き出す。神の立場から幻想郷を弁護(・・)するが如く。神奈子は手にしたデッキを再び懐にしまい、小さく微笑みを見せると、交錯した笑顔と願いに背を向けて霧の湖の空から姿を消した。

 バッファローを象った深緑のカードデッキが伝えるはかつての戦いでそれを使っていた者の想念だろうか。冷徹な現実主義者のそれが神たる彼女にさえ『永遠の命』というものに興味を抱かせ、計画を無視してまで剣崎一真のもとへ赴こうとも考えさせられたほど。

 

 戦争を司る一面もある風の軍神は、茜色の空に溶けて。ただ吹きゆく夏色の風の中、霊夢の霊力と美鈴の妖力が霧の湖に反射して架かった──『消えない虹』を、その背中で見届けていた。




北岡さんとめぐみさんのデート回だったと思うんですが、龍騎のファイナルベントで構えを取ってるとき、ドラグレッダーの舞いで周りの水飛沫がばしゃばしゃってなってたやつ好き。
青いクウガがドラゴンロッドを振り回してるときに鳴るシャンシャンって涼しげな音も好き。

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    第  回 
天  40   
使  話   
の      
   呼         
妬  び         
む  声         
光            


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第39話 天使の呼び声 / 妬む光

 ここは幻想郷の地の底、旧地獄。古明地さとりが当主を務める地霊殿にて、翔一がアギトの力とマシントルネイダーをもってお空とお燐をここまで送り届けた次の日。

 気を失った状態の二人をバイクに乗せて飛ぶのは大変だったが、マシントルネイダーを包む光の結界は彼女たちが振り落とされる心配を拭い去ってくれた。

 さとりは最初こそ驚いた様子だったが、翔一の心を読んで二人が無事であることを確かめると、安心して助けてくれたことに感謝する。しかし、あまり楽観視はできないという。

 

 地上の異変に際して併発したであろう二度目の四季異変。地底に降りしきる季節外れの雪と寒さを灼熱地獄跡の熱で凌ぎ、彼らは情報を整理する。

 翔一は目を覚ましたお空も加え、改めてアギトの力についての詳細を説明した。さらには香霖堂で聞いた通り、自身が2003年の時空からこの2020年の幻想郷に来てしまっていることについても情報を交わしておいた。

 フォルミカ・ペデスたちとの戦闘から意識を失ったままのお燐は、自らの部屋であるこの一室で眠っている。ギルスへの変身によって醜くしわがれてしまった彼女の手も、今では元の白く美しい手に戻っているが――お燐からは今も内なる(ギルス)の侵食に苦しんでいる様子が伝わってきた。

 

「…………」

                     

 自分が自分でなくなる恐怖。蒼褪めた表情で悪夢に苛まれ続けるお燐の痛みを、翔一は間接的に理解できる。だが、アギトとギルスでは感覚も異なろう。

 己が身体が腐り落ちるかのような錯覚を真に共感できるのは翔一の生きた世界においてただ一人ギルスとなってしまったあの男だけ。水泳選手の道をギルスによって奪われたあの青年以外にはいない。不幸中の幸いか、お燐と違って傍に立つお空の力は今は安定しているようだ。

 

 この場の人妖がお燐の部屋にて話していたとき、不意に光が頭蓋を染めた。翔一もお空も、眠っているお燐までもが脳への鮮烈な光によって顔を歪めたその様を見て、さとりは第三の目でもって彼らの心に天使の影が過ったのを見る。

 もはや疑う余地もない。それはアギトの力を狩り尽くすモノ。神の命令を受けて地上に降りたる、殺戮の天使。オーヴァーロードと呼ばれる存在の使徒――アンノウンの出現である。

 

「さとり様はお燐の傍にいてあげてください。怪物の方は私たちが向かいます!」

 

「戻ってきたら、みんなにおいしい野菜スープでもご馳走しますよ! 待っててください!」

 

 お空と翔一はさとりに不安を伝えないよう自分たちらしい笑顔でそう言った。もっともさとりにとってはその気遣いさえも筒抜けであるが、二人はそのことを自覚しているのだろうか。きっと、そんなことを意識して行ったつもりもないのだろう。

 さとりの許可で地霊殿庭園にて栽培されている野菜は自由に使っていいらしい。翔一は灼熱地獄跡の熱と人工太陽の光で育った立派な作物を心に思い浮かべつつ、約束する。

 

「気をつけてください。……何やら、アンノウンとも違う……異質な妖気を感じますので」

 

 地霊殿を去ろうとする翔一とお空にそう伝え、二人が強く頷くのを確認。さとりはギルスの力によって不安定な状態に陥ってしまったお燐に付き添い、彼女の額に滲んだ汗を拭った。

 

◆     ◆     ◆

 

 雪積もる忘れられた旧都。勇儀の家の客間と呼べる場所で、ヒビキは勇儀とパルスィに魔化魍の対策を懸念している旨を伝えていた。

 本来ならば猛士という全国規模の一大組織が、それぞれの地方を担当して出現する魔化魍のデータを参照に座標や条件を算出、鬼たちに情報支援をして魔化魍討伐を担わせる。だが、今は猛士の支援どころか、魔化魍を直接発見してくれるディスクアニマルの持ち合わせすらたったの三枚だけ。耐久力もあまり高いとは言えず、一体でも破壊されれば索敵は相当難しくなるだろう。

 

「昨日みたいに旧都の近くに出てくれたら気配で気づけるんだけどねぇ」

 

「……まぁ、さすがに地上の方に出られたりしたら、私たちにもお手上げだけどね」

 

 旧地獄の妖気に慣れ親しんだ勇儀とパルスィならその異質な妖気をすぐに察知することができる。と言っても所詮は彼女らの知覚が届く旧都の範囲だけ。知覚の外や地上の世界にまで出られてしまえば、その気配を掴むことは叶わない。

 萃香ならこういうときお得意の妖術でなんとかできるんだろうけど――と思考する勇儀。純粋な力に長けた勇儀は萃香と比べて、妖怪らしい術などの扱いは不得手としていた。

 

 本来は数日に及ぶ地質や気候の調査と情報の解析、何日間もの待ち伏せと幾人もの鬼の助力をもって立ち向かうべき魔化魍という大いなる自然の脅威に対して、今のままではあまりに無力ではないかと思わされる。しかしそれでも自らが鬼なれば――語る明日は笑いをもって迎えたい。

 

「…………」

 

 大地と共に唸る烈火が如く。ヒビキは力強く抱いた覚悟を炎と灯し、旧都の街並み、客間の丸窓から見える賑やかな景色に鬼灯めいた視線を向けた。

 ――そこに、小さな煌きが一つ飛び込む。緑色の四肢を器用に動かして地を跳ね、ヒビキの周囲を軽やかに跳び回るは、仲間も愛用しているディスクアニマルの一体だった。

 

 両生類たるカエルの魂を宿した水陸両用の機体。この『青磁蛙(セイジガエル)』と呼ばれるディスクアニマルは、鮮やかな青緑色のボディに高い跳躍能力を持っているが、戦闘能力はさほどでもない索敵用として用いられる。

 ヒビキ自身はこの機体を使ったことはないのだが――ヒビキより少し上の世代の鬼たちや、彼らから教えを受けた若き鬼がこれを使用するところをよく見ていた。

 

 丸窓から勇儀の家に飛び込んできた、ヒビキもよく知る機体の一つ。誰が放ったものかは分からないが、それはきらきらと行灯の光を照り返しながら湿った鳴き声を上げ、ヒビキや勇儀を導くように家の中から外へ出る。

 旧都の街並みに誘われたヒビキら三人は、奇妙な振る舞いをするディスクアニマルが伝えたいことがなんとなくだが理解できた。懸命に跳ね回る青磁蛙は、彼らを『案内』したいのだ。

 

「ついて来いって言ってるみたいだな」

 

 勇儀の家の前に停めておいた凱火からヘルメットを取り、そのまま被る。ヒビキは怪物騒ぎの影響かやや人通りの少なくなった旧都の軒並みを軽やかに跳び抜ける青磁蛙を追うため、凱火に跨ってエンジンを入れた。旧都の門を抜けて深く暗い闇へ進む緑の蛙が目指す先は──

 

「……へぇ、地霊殿(あそこ)に出たのかい。魔化魍にしちゃあ、ずいぶんと度胸があるじゃないか」

 

 勇儀の呟きを聞き、パルスィは覚悟を決めた表情で彼女と向き合い頷く。何やら未知の気配が入り混じっていて気づくのが遅れたが、どうやら青磁蛙が示しているのはこの地底で最も畏怖される妖怪『(さとり)』の屋敷――その近くに現れた魔化魍のようだ。

 怨霊も恐れ怯む少女が獣たちと住まう地霊殿。多くの怨念を纏い帯びたその地質と環境は魔化魍という自然の怪異にとっては最高の餌場と定義できるのかもしれない。

 

 ヒビキも青磁蛙が導く先に魔化魍がいるということは長年の経験でおおよそ理解している。彼らは凱火を、あるいは己が飛翔の妖力を用いて。青磁蛙と共に地霊殿へと向かっていった。

 

◆     ◆     ◆

 

 旧地獄。その中心に建つ荘厳なお屋敷、地霊殿と、広大な旧都の狭間には古く寂れた怨霊たちの荒れ地が存在する。

 まさしく地獄の荒れ様とでも言わんばかりの岩肌の群れは、旧都が建てられる以前の古き地獄の在り様そのままの場所として、今でもおぞましき地獄の妖気を強く湛えていた。

 

「ウォォォ……ォォォォン……」

 

 石桜の輝きでぼんやりと照らされる薄紫色の地、この仄かな闇の中に低く不気味な声が響く。並みの妖怪を遥かに超える巨体ながら、ツチグモのように怪物じみた姿と形ではなく。それはまるで純粋な巨人の如く、人の形をした四肢をもって闇を(むさぼ)っている。

 猿に似た顔面にオウムのようなクチバシ。顔と腰は無造作な剛毛に覆われ、赤毛に包まれた尻尾を生やしたこの怪物は──猛士より『奥多摩(おくたま)のヤマビコ』と称されている魔化魍だった。

 

「「でっかくなったねえ……もっと声を喰って、さらに強くなるんだぞ……」」

 

 奥多摩のヤマビコの顔の近くに突き出した岩場に座り、荒れ果てたこの場には相応しくない軽装を帯びた二人の男女――『ヤマビコの童子』と『ヤマビコの姫』が声を重ねて言う通り、この魔化魍が喰らっているのは厳密には闇そのものではない。

 地底の闇に漂う怨霊たちの魂。それらが生前に抱き発した苦悶の『声』を糧とし、そこに含まれる負の想念、歪んだ妖力を喰らって、魔化魍ヤマビコはさらなる力をその身に宿していく。

 

「……アンノウン……! じゃない……?」

 

「あれは……山彦(やまびこ)? にしては、なんかすごく……でっかい!」

 

 銀色のボディを持つバイクを走らせて、翔一はこの場に辿り着いた。フルフェイスのヘルメットを外してバイクにかけると、お空もその隣に舞い降りて向かう巨体を見上げる。

 お空が肌で感じた怪物の気配は幻想郷の妖怪に近い。彼女が理解した通り、奥多摩のヤマビコは音の反響現象『山彦』の由来となった魔化魍だ。すでに科学的に解明されていながら、その現象は妖怪として、あるいは魔化魍として。今なお幻想郷にも響鬼の世界にも紛れもない『怪異』の一種として存在している。

 

 だが、お空はそれが幻想郷の妖怪としての山彦ではないとすぐに理解した。自身の知る山彦はここまでの巨体ではないし、何より放つ妖気に一切の幻想がない。

 音の反響という現象そのものが邪気を湛えている。大自然そのものの具現といった様子は、お空だけでなく日本の妖怪にさほど詳しいわけでもない翔一にさえ底知れぬ威圧感を与えた。

 

「うーん……変だなぁ……」

 

 ─―この状況に強い違和感が拭えない。翔一もお空も確かにアンノウンの反応を感知してここに来たはず。しかし、ここにはアンノウンらしき存在の姿が確認できない。翔一は疑問を抱いたが、お空は目の前の歪んだ妖気を持つ怪物に驚き、ここに来た目的を忘れているようだ。

 

「鬼?」

 

「鬼じゃない?」

 

「眩しいぞ!」

 

「お前ら、眩しい!」

 

 巨体を誇る奥多摩のヤマビコに気を取られていた二人に対し、黄色い袖の衣をまとった男が崖の上から威嚇する。闇に響く高い声は、ヤマビコの童子としての女の声。さらに続けてまくしたてるように、赤い袖の衣に身を包んだヤマビコの姫が咆えた。

 猿を思わせる軽快な動きで崖上から飛び降り、歯茎を剥き出しにして威嚇を続ける。彼らにとって翔一とお空が等しく持つアギトの光は、鬼ならざれども忌むべき輝きとして。

 

「鬼じゃないよ! 地獄鴉!」

 

 アンノウンではないことは明らか。お空も翔一も慣れない妖気と迫る童子たちの攻撃に翻弄されているが、この身に伝わる妖気はアンノウンに比べれば小さなもの。

 翔一が右手を左腰に突き入れる構えを取り、己の腰にオルタリングを現したのを見て、お空も内なるアギトの力をもって翔一と共に戦おうと試みる。先日、神奈子から受けた干渉によってアギトと八咫烏の力自体は安定しているため、落ち着いてアギトの力を引き出そうとするものの。

 

「ぐっ……! うう……!」

 

「お空ちゃん!」

 

 脳髄に瞬く光に身を焼かれる。翔一の声で心を取り戻したが、どうやらアギトと八咫烏の力そのものは安定していても、未だお空自身の肉体に完全には馴染んではいないようだ。

 

「やっぱり、無理しないほうがいいんじゃないかな」

 

 先日も地霊殿で語った通り、やはりお空はお空として戦うべきだ。アギトの力になど頼らずとも彼女は強い。生身のままでも十分にアンノウンと渡り合える。その身に可能性の光があるのなら、お空のままで――君のままで変わればいい。

 翔一の言葉に小さく頷き、お空は表出しかけていたアギトの力を収める。代わりに八咫烏の力を表層に現し、右腕の制御棒を支柱として全身の妖力を核融合のエネルギーに変えていく。

 

「だったら……せめて私の力で!」

 

 その身に漲る神の波動。されど天使の長たる世界唯一の創造神ではなく、八百万の神々の一柱に連なる太陽神の使い、八咫烏と呼ばれた黒き(カラス)の祝福をもって。

 アギトの力は未だ自分のものと定義できないが、八咫烏の力は空白だった彼女の身によく馴染んでいた。八坂神奈子と洩矢諏訪子の采配通り、大いなる器をもった地獄鴉の少女は何ら不具合もなく八咫烏の神性を我が物としている。

 漆黒の翼に羽織った白いマント、内側に宇宙を描いたその端に凶星めいた光を灯し。お空は、そのまま流星の如く核熱の光弾を放ちながら闇色の空へ舞い上がっていった。

 

 光弾は猿を思わせる軽快な動きを見せていたヤマビコの童子と姫に襲いかかる。暗い大地を無差別に爆撃する彼女の弾幕【 シューティングスター 】の熱を受け、相変わらず歯茎を剥いて甲高い威嚇の声を上げ続ける童子たちも己が身を案じたのだろう。

 童子も姫も、衣服を首に束ねり変わる。秘めていた妖気をもってその身を捻じ曲げると、ヤマビコの童子と姫はそれぞれ、やはり猿によく似た『ヤマビコの怪童子と妖姫』となった。

 

「よし、俺も……!」

 

 頭上を滑空するお空を見上げ、すぐさま童子たちに向き直る翔一。怪物の変化に驚きつつも、腰に輝くオルタリングを目覚めさせるため右手を突き出す構えを取ろうとするが――

 

「うわっ!?」

 

 その瞬間、翔一が立っていた土の地面が彼の身体をいとも容易くひっくり返す。背中を打ちつけ、苦痛に顔を歪めながらもその理由を確かめると、そこには大海を思わせる白銀の甲羅がお空の放つ光を返し輝いていた。

 その甲羅には、見覚えのある小さな羽根が生えている。振り返り、ゆっくりとこちらに近づいてくる姿は、翔一がかつて倒したことのある相手。ローマ兵じみた装甲に緑色のマフラーを装った怪物。ウミガメに似た超越生命体『トータスロード テストゥード・オケアヌス』である。

 

「そうだ……! このアンノウン……!」

 

 立ち上がって体勢を整え、向かう白銀のアンノウンを睨む。トータスロードに分類される彼らには、あらゆる大地を溶融させ水のように泳ぐことができる能力があるのだ。

 その被害者たちは人知れず土の中――人の手の届くはずのない縄文時代の地層にさえ生き埋めにされた者もいた。それも、埋めた痕跡さえ一切残すことなく。

 

 記憶の想起と同時、翔一の背後にもう一体の怪物が姿を現した。テストゥード・オケアヌスと同様に土の地面から這い上がり、翔一の身を羽交い絞めにして筋肉を引き絞る怪物。赤銅の甲羅を輝かせるは、リクガメに似た超越生命体『トータスロード テストゥード・テレストリス』だ。

 

「翔一さんっ! 大丈夫!?」

 

 お空はヤマビコの怪童子と妖姫の頭上から光弾を落としつつ、右腕の制御棒を大砲代わりとして出力した妖力を放つ。オルタフォースが込められていない純粋な妖怪の力、八咫烏の力によるお空の光弾は、テストゥード・オケアヌスの甲羅に着弾した。

 彼女がそれを知る由もないが、その装甲は一度はアギトのライダーキックさえ受け止めた強度を誇る。アギトの力を帯びぬお空の通常弾幕では傷の一つもつけられない。

 

 自身の攻撃では不足。しかし、ヤマビコの童子たちを無視すればこちらも翔一の方へ向かうだろう。それを阻止しようとお空は空中から怪童子と妖姫の意識を自分の方へと向けることに努める。奥多摩のヤマビコ本体の動きも警戒するが――アンノウン側への対処ができそうにない。

 

「おっと、今回のお相手はヤマビコさんか? 連チャンはキツいけど、頑張ります!」

 

 旧都の側から闇を抜けて走る紺碧。その場に凱火を停め、ヘルメットを外したヒビキは彼方に見上げる猿が如き魔化魍を見た。

 ヒビキの傍に着地した勇儀とパルスィも滲み溢れる魔化魍の気配を肌で感じる。地霊殿に近いこの場所には浮かばれない怨霊たちも多く、その負の想念が入り混じって不快な感覚が拭えないが、この旧地獄においてそれはあまり珍しいことではなく。

 勇儀もパルスィも伝わる不快感に違和感を覚えたのは、そこにこの無辺の暗闇には似つかわしくない未知の光と、地の底には相応しくない天上の意思を思わせる神秘の気配を見たがため。

 

「……ちょっと待って。先客がいるみたいだわ。あいつは……地獄鴉?」

 

「それにこの感じ……魔化魍でも童子たちでもない奴がいるね。これはいったい……」

 

 ヒビキが語った存在には該当しない未知の超越生命体。アギトの世界の法則に由来するアンノウンという怪物を、パルスィも勇儀も、ヒビキでさえも当然知るはずはない。それは魔化魍に対するお空と翔一も同じである。故に――この場において既知と未知は等しいものだった。

 

「……っ! ここは危ないから、早く逃げてください!」

 

「あんまり無茶はするもんじゃないぜ。……ここは俺たちに任せときな」

 

 翔一とヒビキは邂逅する。されど互いは未だ互いの力を知らない。対するアンノウンと魔化魍と同様に、彼らの知識にはそれぞれ『アギト』と『響鬼』に関する情報はない。

 どちらも無力な、それでいて勇気のある人間。ただその認識から『自分以外の外来人』という特徴を察するのにさほど時間はいらなかったが――今はその追及よりも目の前にいる神の使徒を、自然の権化を討ち果たす。成すべきことを成すために。

 

 己が身を拘束するテストゥード・テレストリスに肘打ちを見舞う翔一。羽交い絞めにされていた状態から抜け出し、振り向きざまの回し蹴りで距離を与えては、腰に装うオルタリングにさらなる光を(おこ)す意志を強く抱く。

 ヒビキは翔一の正面にいた白銀――テストゥード・オケアヌスの両ヒレをがっしり掴み、生身であるが鍛え抜かれた腕をもって体勢を崩させると、そのまま正面蹴りで突き飛ばした。怯んだ様子もない怪物を眼前に、右腰から音叉を外し、地底の岩に軽く打ちつける。

 

「「はぁぁぁぁあっ……」」

 

 アギトの世界に生きた男と、響鬼の世界に生きた男。二人は背中合わせに構えた。

 右手を鋭く手刀と伸ばして息を吐く。オルタリングが染める光は、人類が辿り着いた可能性という居場所。翔一が魂に芽生えさせたアギトの力。

 清く震わせた双角を額に息を吐く。変身音叉・音角が響かせる音は、鍛え抜いた人間を語った目指すべき鍛錬という明日。ヒビキが燃やし現わす鬼の鍛え方。

 居場所も明日も、共に象徴すべきは未来という道――二人は色こそ異なれど、重なる声を合わし、白光と紫炎に包まれていく。それらは眩く力強く、地底の闇の中に確かに灯っていた。

 

「変身っ!」

 

「たぁっ!」

 

 弾ける光と炎の競演。二つの輝きは闇に散り、アギトと響鬼の姿をここに現す。二人は互いに背後に生じた奇妙な気配に振り返ると、赤い複眼と紫の無貌にそれぞれを映し。

 

「……あれ? もしかして、あなたもアギトだったんですか?」

 

「アギト? よく分かんないけど、そっちは鬼って感じじゃなさそうだな」

 

 翔一は思考する。自分以外のアギトの存在もいないわけではない。されどその波動は、神というよりはどこか妖怪に近いもの。ヒビキにとってもそれは等しく。目にした金色の輝きは鬼と呼ぶにはあまりに神秘的な波動に満ちすぎていた。

 その力の正体こそ知らねど彼らは直感をもって理解する。人ならざる身に伝わる光の意思、炎の気。この男は目の前の未知(てんし)未知(ようかい)と戦い──抗うことができるだけの力を秘めていると。

 

「うん? 外来人が鬼になった……? どういうこと?」

 

「それはこっちのセリフよ! あの金色の奴、あなたの知り合いなの?」

 

 お空は上空からゆっくり舞い降りつつヒビキの変化に疑問を抱く。男が放つ気配は紛れもなく旧地獄に名立たる鬼のもの。されど幻想を帯びぬその気配は彼方のヤマビコの妖気に近いそれ。パルスィが目にしたアギトの気配もアンノウンに通ずる超常の力だ。

 

「なんだかややこしいことになったね……まぁいい、今やるべきことは分かってるだろ?」

 

 勇儀もまた二人と同様に疑問を覚えたが、幻想郷に在らざるべき異形を捨て置くこともできまい。鬼としての拳を固め──向かう悪意に掲げた闘志のまま。勇儀はヤマビコの怪童子と妖姫に突きつけられた敵意の視線に対し、お空と背を合わせる。

 かつて山の四天王と呼ばれた彼女が宿すは地上から忘れられた鬼の力。その背にて掲げられるは地獄の鴉に宿りし黒き太陽、八咫烏の力。等しき二人の赤き目は童子と姫を貫いた。

 

「鬼!」

 

「鬼だ!」

 

 ヤマビコの童子も姫も鬼の妖気を放つヒビキと勇儀に牙を剥く。テストゥード・オケアヌスとテストゥード・テレストリスはアギトの力を秘めた翔一とお空に意識を向け、パルスィはただ一人、怨念を喰らうヤマビコの姿を見上げている。

 今のところはこちらに敵意を向けているのは童子たちと亀の怪物だけ。奥多摩のヤマビコ本体は妖力の吸収に努めているのか、こちら側に攻撃を仕掛けてくる気はないようだ。

 

「ま、そういうことだな。よろしく、シュッ!」

 

 ヒビキは背後にて赤銅の大亀を相手取る金色の戦士――翔一(アギト)に右手を切る。すぐさま向き直るは大海の意匠を持つ白銀の大亀、緑色のマフラーを装ったテスドゥード・オケアヌス。正面に向かい来るそれに対し、ヒビキは腰の背から音撃棒・烈火を抜いた。

 振り下ろされる刃が如きヒレを受け止める灼熱の赤。清めの音を奏でる鬼石なれど、魔化魍ならざる未知の使徒に対してはそれは単なる物理的な結晶に過ぎず。響鬼の世界の法則が通用しないアンノウンという存在に、ただ硬いだけの意味しか持たぬそれを叩きつける。

 

 親しみやすい挨拶に頷き、翔一もまた向き合う赤銅――テストゥード・テレストリスに光の拳を見舞う。背後の男の反応とは異なり、これまでも戦ってきた相手の手応えに違和感はない。

 

「やるねぇ、金ピカ! こりゃあ私たちも負けてらんないね!」

 

 勇儀は嬉しそうに賞賛の声を上げながらヤマビコの怪童子と対峙する。背中合わせに構えるは闇の空から降りてきたお空。彼女が相対するは、怪童子と対を成すヤマビコの妖姫だ。

 

「キキィイッ!!」

 

 ヤマビコの童子たちに二人が放った弾幕――鬼の妖力と核熱の光弾が炸裂する。アンノウンに比べ気配も弱く、通常弾幕だけで怯んだ様子が見て取れた。

 幻想郷の妖怪、山彦に似た気配は奇妙ではあったが、どうやら後方に見上げるべき巨大な山彦の怪物やアンノウンたちほどの強さはないらしい。お空はそう判断し、核の力を左脚に込める。

 

「そりゃっ!」

 

「おらぁあっ!」

 

 お空は電子めいた光が廻る左脚――『分解の脚』を高く掲げて妖姫に駆け出し。己が妖力を強く込めた左脚を流星の如く振り下ろした。そのまま踏みつけた妖姫に核熱のエネルギーを放射し、放たれた【 メルティング浴びせ蹴り 】はヤマビコの妖姫に致命傷を与える。

 そのまま重厚な鉄に覆われた『融合の脚』をもって怪物を蹴り飛ばした直後、彼方の闇にてそれは枯れ葉と土塊となって呆気なく爆散を遂げた。

 

 勇儀も向かうヤマビコの怪童子に鬼の膂力を込めた踵落としを見舞い、地面を砕かんばかりの衝撃で怪童子の頭を叩き伏せる。

 鬼の力は純粋な衝撃だけでお空の核熱の力に匹敵するほど。それだけで怪童子は白い体液を身体中の亀裂から溢れさせ、続けて勇儀に蹴り飛ばされた直後に妖姫と同様に爆ぜ散った。

 

「勇儀、危ない!」

 

「うおっと……」

 

 間髪入れずにパルスィの声を聞く。その瞬間、勇儀が立っていた場所に巨大なヤマビコの脚が振り下ろされた。怪物の動きを警戒していたパルスィのおかげでその攻撃を回避できたが、巨体ゆえの質量は旧地獄の岩肌を容赦なく叩き崩すだけの破壊力を有している。

 

「ヒビキ! この山彦みたいな奴もやっぱり音撃ってのじゃないと倒せないんだろ?」

 

 親を殺されて怒っているのか、こちらに敵意を向け始めたヤマビコを見上げながら勇儀が問う。ヒビキはテストゥード・オケアヌスと向き合ったままそれを肯定した。だが、明らかに魔化魍とは異なる法則の怪物に手こずっている様子。

 鬼棒術・烈火弾をもってしても強靭な甲羅を向けられ防がれる。鎧のない腹を狙えばそれなりのダメージは期待できるだろうが、超常的な気配の怪物は器用に地中を泳いでしまう。魔化魍たちも確かに人智を超えていたが、こちらは自然界の法則すら大きく超越しているように思えた。

 

「あいつは私たちが引きつけておくから、ヒビキさんと金色の人はそいつらを!」

 

「気をつけたほうがいいよ、鬼の人! そいつら、なんかすっごく変な手応えだから!」

 

 巨大なヤマビコの怪異はパルスィと勇儀――そしてお空の弾幕をもって足止めを受けている。その攻撃が魔化魍に対する根本的なダメージとなることはないが、妖力による純粋な衝撃は奥多摩のヤマビコの行動を妨げていた。

 翔一はヤマビコの目線の高さまで飛んだ三人を見上げ頷く。落ち着きを失わずに全身のオルタフォースを集中させると、アギトが頭部に掲げる金色のクロスホーンが鋭く開く。

 

 闇の地に似つかぬ神秘の波動が場を包む。両手を広げて構えた翔一の足元に光の紋章が輝く。右肩をゆっくりと前に出し、己の右脚に人類が抱く可能性の具現を集約。

 目の前のテストゥード・テレストリスに対して、この身に秘めた光の意志を放つために。

 

「…………!」

 

 力を解き放とうとした瞬間、テストゥード・テレストリスはその波動を感じ取ったのか再び暗い大地の中へと溶けるように潜り消えてしまった。

 だが、決して焦らず。翔一は強化皮膚(アーマードスキン)の肌を伝うアンノウンの気配に集中し、込めた光の力を散らすことなく今度は背後のテストゥード・オケアヌスに向き直る。

 

「はぁぁあっ!!」

 

 翔一は殺気に気がついた様子のテストゥード・オケアヌスの甲羅に渾身のライダーキックを叩き込んだ。こちらの力が減衰していることもあってか、かのアンノウンの装甲を一撃で打ち破ることは、かつてと同じく叶わず。しかし――

 

「……! そこだっ!!」

 

 背に受けたライダーキックの衝撃に硬直した隙を見逃さず、ヒビキはテストゥード・オケアヌスの無防備な腹に鬼棒術・烈火弾を灯した音撃棒を直接突き立てる。目の前で炸裂した妖気の炎は天使の身に深く刻まれ、テストゥード・オケアヌスは頭上に青白い光輪を掲げ爆散した。

 

「そこの鬼さん! 危ないので少し離れててください!」

 

 遠くから聞こえてきた金色の声――その名を知らぬ翔一の声に、ヒビキは一瞬困惑する。されど金色の戦士がサーフボードのように乗り回す『それ』と、背後の地面から湧き出たテストゥード・テレストリスの姿を見て素直に後退。

 翔一はオルタフォースの力で姿を変えたマシントルネイダー スライダーモードの上に立ったまま、超高速で地を掠め。寸前で車体を横にし、その勢いのままヒビキに奇襲をかけようと飛び出したテストゥード・テレストリスの身体にマシントルネイダーを激突させた。

 

 輝きの力を純粋な体当たりとしてぶつけるアギトの荒業、その名は【 ドラゴン・ブレス 】。頭部のクロスホーンこそすでに閉じているが、マシントルネイダーに満ちたオルタフォースの波動はそれをまともに受けたテストゥード・テレストリスの頭上に光輪を生じさせ、爆散させる。

 

「うわっ!」

 

 ヤマビコと戦っているお空が声を上げた。闇を薙ぎ払うように振り抜かれた剛腕は風圧を生み、それなりに大柄な体格とはいえヤマビコに比べたらか弱い少女でしかない彼女を容易く後方へ吹き飛ばしてしまう。弾幕による攻撃もほとんど効いていないようだ。

 お空はそのままゆっくりと地面に着地。後方を振り向けばアギト──翔一と紫色の鬼がアンノウンたちを倒すことができたらしく、こちらに向かってきてくれているのが分かった。

 

「こいつ、いったいどんだけの怨念を喰らったんだか……」

 

「ツチグモに比べてもかなりの妖気ね……弾幕がまるで効いてない……!」

 

 地に降りた勇儀とパルスィが語った通り、それは魔化魍退治の専門家であるヒビキの目から見ても明らかなもの。旧地獄の怨霊、その慟哭の声を喰い続けたヤマビコは体表も硬く成長し、ツチグモに与えた音撃が通用するかは分からない。

 されど響鬼は有している。体表の硬い魔化魍――すなわち『蟹』などの甲羅を持つものに対し、硬い装甲の先へ響かせるための音撃。それこそ炎の如く、一気呵成(いっきかせい)に畳み掛ける律動を。

 

「これ以上暴れられたら旧地獄が崩れそうなんでね。じっとしててもらうよ!」

 

 激しく荒れ狂うヤマビコに対する宣告。勇儀の魂に青く輝く光の札はスペルカードとして。彼女が見上げ放った【 怪輪(かいりん)「地獄の苦輪(くりん)」 】は青白い鬼の妖力のエネルギーをリング状に具現させ、ヤマビコの両手と両足をがっしりと縛りつけることで拘束する。

 

「怨念の強さなら……橋姫(わたし)だって負けてないわ!」

 

 続けてパルスィが地に手をつき、発動したスペルカードによってヤマビコの胸に妖力の釘が打ちつけられた。薄暗い朱色の釘はヤマビコの妖気を抉り、呪いを帯びたパルスィの意志によって怪物の身体から怨念のエネルギーを漏洩させる。

 嫉妬の波動をもって具現した巨大なる妖気の釘。パルスィが己の内に燃え上がる妖力を込めて発動した【 恨符(うらみふ)「丑の刻参り」 】は藁人形に釘を打つ儀式のように相手の身からその力を削り取っていった。

 溢れ出す負の想念に身悶えるも動くことはできないヤマビコ。翔一はスライダーモードのマシントルネイダーに乗り、そのままヤマビコの胸まで翔け上がりながらクロスホーンを展開。足に込めたオルタフォースの輝きにマシントルネイダーの加速を乗せて――己を解き放つ。

 

「ったぁぁああっ!!」

 

 光の声と共に闇色の空を一閃。アギトが放った一直線のライダーキックはマシントルネイダーの飛翔の勢いを加えた【 ライダーブレイク 】となり、高く見上げる位置にあったヤマビコの胸へ閃光の如く炸裂した。

 パルスィの釘を足底でもってさらに深く打ちつける。オルタフォースの輝きこそ魔化魍にとっては致命傷にならず。しかしトドメには至らずとも、損傷は与えることができる。

 

 蹴りの反動で翻り、再び大地に降り立った翔一は──魂に本能的な焦りを植えつけられた。

 

「…………!?」

 

 ヤマビコは勇儀の地獄の苦輪で拘束されて動くことができない。四肢を縛りつけられているにも関わらず、パルスィの釘を無視して放つは己が『山彦』たる本領だろうか。

 奥多摩のヤマビコは胸に受けた『光』を、輝く妖力の光弾として──反響(・・)させたのだ。

 

「……っ! パルスィ!」

 

 勇儀が声を上げる。光の向かう先にいるパルスィに対し、即座にヤマビコの拘束を解いて彼女を守ろうとするが、力こそ無双ではあるが速度はさほどでもない鬼には間に合わず。パルスィは眼前に迫る妖力の光弾に咄嗟に目を瞑るものの──

 

 ――何も、起こらなかった。

 

 勇儀もヒビキも翔一も、お空でさえもパルスィの身に直撃する光弾を見届けた。しかし、そこに物理的な衝撃は何一つなく。パルスィの身にもダメージと呼べるものは通っていない。

 

「なんとも……ない?」

 

「今の光は……いったい……」

 

 微かに身に感じた変化を憂いと飲み込み、パルスィは自らの両手に視線を落とす。勇儀は未知の戦士に通ずる超常的な光を訝しむが、見たところ彼女にも別条はないようだ。おそらくヤマビコは自らの能力をもって衝撃とエネルギーを反射しようとしたが、勇儀の拘束とパルスィの呪いによる怨念の漏洩もあって、光の反射が限界だったのだろう。

 その割には光の放射ではなく光弾という指向性をもった反射だったのが気になるが――今は考えるよりもヤマビコの撃破が先だ。先ほどのヤマビコの行動に驚いてパルスィも勇儀もスペルを解いてしまっているが、翔一のライダーブレイクを受けたヤマビコは大きく体勢を崩し始めた。

 

「さて、今度こそ俺の出番ってわけだな」

 

 咄嗟に光だけを反射したものの衝撃をすべて受け切り、ヤマビコは後方に倒れる。それを目にしたヒビキは音撃棒を腰の背に戻し、鬼の脚力をもって山が如きヤマビコの胴体を軽やかに駆け登っていった。

 パルスィの釘を受けて怨霊が漏れ出しているとはいえ通常のヤマビコよりも硬い体表。ヒビキとてヤマビコとの戦いに慣れているわけではない。これまでせいぜい六体程度しか倒したことがないが、鍛え抜いた今の自分なら焦らず、落ち着いて臨むことができる。

 

 腰に装った装備帯の正面から音撃鼓・火炎鼓を取り外す。ヤマビコが仰向けに倒れたことで水平になったその胸に火炎鼓を押しつけ、オーラ状に広がった音撃鼓(それ)を眼下に音撃棒を抜く。

 

「……っ、はっ! やっ! だぁっ!」

 

 無貌に吸い込む地底の空気。振り下ろす音撃棒・烈火の音色は、ツチグモに放った火炎連打とは異なり、両手のバチを同時に振るう力強さ。

 ――ドン、ドン、ドン、ドンと。二つを一度に叩きつける大きな音。速度はないがパワーをそのままぶつける音撃にヤマビコは苦悶の声を上げるが、音撃鼓の波動に自由を奪われている。勇儀の地獄の苦輪ほどではないが、音撃鼓には魔化魍の動きを封じ込める効果があるのだ。

 

「はぁぁぁぁあああああっ……! 一気火勢(いっきかせい)の型ぁッ!!」

 

 今一度大きく振り上げた音撃棒をもって太鼓を叩く。一気呵成の気合と共に、打ち鳴らすは響鬼の音撃【 音撃打・一気火勢 】の型。

 清めの音を叩き込まれたヤマビコはその力に耐え切れず土塊と枯れ葉を撒き散らし爆散する。おびただしい邪気も地底の妖気へと消え失せ、ヒビキは元の大きさに戻って落下した音撃鼓・火炎鼓を受け止めつつ、はらはらと舞い散る枯れ葉の中で倒したヤマビコの邪気に既視感を覚えた。

 

「…………」

 

 それはツチグモを倒したときと同じ──かつて打ち倒した魔化魍、種別や特徴といった要素だけでなく、かつてとほとんど同じ手応えを持つもの。あのとき倒した個体がまったく同じままここに蘇ったとしか思えない。それほどまでに、この怪物は奥多摩のヤマビコ(・・・・・・・・)だった。

 奇しくもその疑問は魔化魍の消滅を遠く見届け、無言で響鬼を見つめるアギトも同じく。かつて倒した亀の怪物、トータスロードもまた翔一にとってはまったく同一の個体。一度破壊したはずの天使(アンノウン)の肉体が──倒したままのそれと変わらぬ性質で純粋に強化され復活していたのだ。

 

「この気配……鬼だよね? あれ? さっきは人間だったような……」

 

 お空は音撃棒と音撃鼓を装備帯に戻した響鬼を見る。その気配は紛うことなき鬼でありながら一切の幻想を帯びておらず。たったいま消滅した魔化魍と似た特徴があるが、お空は人間の姿から鬼となった男から一切の邪気を感じられなかった。

 勇儀とパルスィの視線はお空の隣に立つ金色の戦士へ。こちらもまた先ほど倒された亀の怪物に通ずる超常的な神秘の気配を湛えているが、二人はそこに殺意や害意を感じていない。

 

「なんか美味しいところだけ持っていっちゃったみたいで悪いな、青年」

 

「いえいえ、そんな。あんな大きい怪物も倒せちゃうなんて、すごいですね!」

 

 未知の異形に対するとは思えぬ朗らかさで、変身したままのヒビキと翔一が言葉を交わす。まるで隣人と話すような雰囲気を崩さぬまま、ヒビキは顔だけ変身を解いて向き合った。

 

「ヒビキです。結構鍛えてるんで、これくらいならいつもやってます!」

 

「俺、津上翔一って言います。本当の名前は別にあるんですけど、気にしないでください!」

 

「うん? 奇遇だな。俺も本名じゃないんだ。まぁ、あだ名みたいなもんかな」

 

 紫色の鬼の言葉を受け、白光と共にアギトの姿は消える。金色の戦士は翔一としての生身を晒し、いつも通りの柔らかい笑顔を輝かせていた。

 アギトの一種か鬼の一種か――彼らの認識に当て嵌まらぬ未知の力。翔一もヒビキもそのことについては気になるが、それはきっとお空も、勇儀やパルスィも同様のことだろう。

 

「……マイペースな二人ねぇ」

 

 こんな状況でも自分らしさを損なわない二人の在り方に困惑するパルスィ。彼女は自分の内に生じた微かな光――気のせいと拭い去ってしまえるようなそれを少しだけ疑問に思いつつも、どこか似た雰囲気を覚える翔一とお空を見る。

 思えばヒビキも勇儀も共通した精神を備えていると言えた。未知の存在と遭遇し、また別の外来人が現れた今、深く頭を悩ませているのは自分一人だけであるようだ。

 

 どうやらマイペースが過ぎるのは二人ではなく自分を除く四人全員であったらしい。もう少し緊張感を持ってほしいんだけど、と独り言つ彼女の言葉は闇に消え。三人は鬼や魔化魍についての詳細を、二人はアギトやアンノウンについての詳細を、それぞれ互いに交わすことにした。

 

◆     ◆     ◆

 

 怨霊集う荒れ地の頭上、石桜の輝きも届かぬ深い闇の天盤にて。一人の少女――否、一柱の神は、その岩肌の壁にカエルの如く静かに張りついていた。

 奇妙な帽子と蛙の絵が描かれた紫紺の衣服は両生類らしい意匠を持つものの、少女の姿は人そのもの。その手に吸盤などは一切ないが、滲み溢れる神力が彼女の権能を具現している。

 

「魔化魍があの力に干渉できるなんて……アンノウンの影響を受けてるのかな」

 

 諏訪に語られる土着の神――洩矢諏訪子はカエルのように丸い目を光らせ、岩肌から跳び立つように空中を泳いだ。姿勢を維持するためにぱたぱたと両手を仰ぎ、自らを安定させると、やや余り気味の袖をふわりと舞わせて眼下に輝く神の光と鬼の灯火を見下ろす。

 

「…………」

 

 楕円形に潰れた瞳孔が闇の中から微かな光を集め諏訪子の視界を開き。神が見届けた新たなる光の因子が芽生える先は、嫉妬という負の想念が渦巻く地殻。

 彼らはまだその変化に気がついていないようだが、その理由はアギトの世界の人類と同様に、ただ可能性が植えつけられただけであるため。未だ覚醒には至っておらず、その力の片鱗が表出する予兆もない。

 こうして『アギトの力』が分散した原因は、おそらく津上翔一を名乗る沢木哲也が旧地獄に導かれ、一度はその力を引き摺り出されてしまった影響か。身体を抜けた力が再定着に至る前に再び放ったことで、意図せずしてその力の一部が外部に漏れ出てしまったのか――

 

 神の目をもってして今見る限りでは、すでに再定着と安定化は果たされている様子。これ以上、幻想郷にアギトの力を宿す者が現れることはないだろうと安心し、暗い大地から遥かな跳躍をもって舞い戻る青磁蛙がカエルの形からディスクに戻るのを見る。

 諏訪子は無機質な銀色のディスクへと戻ったそれを右手で受け止め、労わりの声をかけた。

 

「うん、ご苦労さま。神奈子もこれ使えばいいのにね。せっかく蛇のやつもあるんだし」

 

 ディスクとなった青磁蛙を懐にしまい、続けて左手でもって明るい黄緑色の物体を取り出す諏訪子。長方形の板めいた金属の箱は龍騎の世界の法則に依る、カードデッキと呼ばれるもの。そこには丸く大きな目を左右に配し、舌を伸ばした生き物を正面から見た顔が金色のレリーフとして象られていた。

 諏訪子が手にする黄緑色のカードデッキの四隅には植物のゼンマイに似たしなやかな意匠が輝いている。確かに特徴は似ていなくもないのだが、彼女は化身と司る両生類とはどこか違うその様相に、生物としての分類を根本から異とする『爬虫類』めいた印象を受けた。

 

「言いたいことはいろいろあるけど……これ、カエルじゃなくてカメレオンだよねぇ」

 

 地底に満ちる冬の空気でひんやりと冷えたデッキに視線を落とし、苦笑する。この手に伝うデッキの想念は、彼らの戦いを生きた一人の騎士のもの。

 巨大企業グループの総帥という立場にいながらなおも超人的な力を求める、欲望に満ちた戦いの動機はあまりに俗物的だったかもしれない。だが、かつてこのデッキを使っていた男が語った人間社会の生存競争において、己を不可視と溶け込ませる力は確かなものだっただろう。

 

 遠き神代の世、諏訪大戦において敗北を喫した諏訪子は知っている。人の世も神の世も、古くも今も変わらず他人を蹴落とす醜い争い。

 それは神崎士郎が定めたライダーバトルと変わらぬ理だ。今はこの幻想郷にこそその戦いは機能していないが、結局は九つの物語に尺度を広げて同じことが起こるだけ。もはや己の時代が終焉を迎え、裏方に回った神は『人間はみんなライダーなんだよ』という思想を空虚に受け入れた。




ヒビキさんは変身って言わないから、どうやって声合わせようかと考えた結果。
翔一くんもヒビキさんも息を吐きつつ変身するので、そこで合わせる結構な荒業で解決だ。

Open your eyes for the next φ's & blade
次回、第40話『知らないベルト / 未知のライダー』


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第40話 知らないベルト / 未知のライダー

 二度目の四季異変の影響により、鮮やかな紅葉に染められた妖怪の山。微かな灰を帯びたその景色は従来の秋ならばよく目立つものだが、至るところに雪や桜や夏の日差しが繚乱する今の幻想郷ではそれを彩る一部に過ぎない。

 射命丸文と乾巧が共に歩く山の道を染めるは、オルフェノクに殺された者たちの残滓か。あるいはオルフェノク自身の亡骸か。どちらともつかぬ灰色の無彩(いろど)りである。

 

 この幻想郷にて再会を果たしたオートバジンと共に、巧は文と共闘してエレファントオルフェノクを撃破した。その後に文は同僚の鴉天狗である姫海棠はたてが未知の戦士が変身したのを目の当たりにし──当初の疑問を拭って、巧から『カイザ』という戦士について訊く。

 

 巧の知る情報では、カイザのベルト──カイザギアと呼ばれるそれはファイズギアと同様、誰にでも扱える代物ではない。不適合者を弾き飛ばす安全装置があるファイズギアとは異なり、カイザギアは不適合者が使った場合、その身を灰と朽ちさせるらしい。

 一部の者はそのベルトに適合することができたのだろう。変身を解除しても灰化することなくカイザギアを使用することができた。だが、純粋なオルフェノクならざる身にてカイザで在り続けることができたのは、乾巧が戦い抜けた2003年から2004年の歴史において、ただ一人だけだ。

 

「……そんなものを使って、はたては大丈夫なんでしょうか」

 

「さぁな。俺には何とも言えない。……でも、あの様子じゃ問題ないのかもな」

 

 文の憂いに対し、巧は文から聞いた姫海棠はたてという少女の振る舞いを思い出してみる。もし彼女が純粋なオルフェノクなのであればカイザギアの使用に躊躇は見せないだろう。元よりライダーズギアは彼らの王を守るため――オルフェノクのために作られた装備。ベルトの適合条件など関係なく、すべてのオルフェノクが扱うことができる。

 もし彼女がかつてのカイザギアの使用者と同じく『オルフェノクの記号』を宿しているのだとしたら、ベルトへの恐怖も頷けた。変身解除の直後にすぐ灰化に至らなかったところを見ると、おそらくは彼と同様に、彼女もある程度は呪われたベルトに適合することができているのか。

 

「(でも……なんだ……? この感じは……)」

 

 巧はその男の最期――彼が散ったその真意を知っている。その目で見たわけではないが、海岸に残されていた遺灰とその場の状況から見て、彼はオルフェノクに殺されたのだ。それもきっと、巧もよく知る――馬の特質を備えたオルフェノクに。

 最期こそ怪物によって首を折られたことが致命傷となったのだが、彼はその前からそう長くない命だった。かつて一度の死を迎え、スマートブレインの技術によって蘇生を果たし。オルフェノクの記号を植えつけられて不完全な形で適合したカイザギアを使い続けたことで少しづつ記号を擦り減らしていった結果――

 これまでもその男が見てきた私塾の友人たちと同様に、自身もまたカイザの呪いに苛まれ。灰と朽ちゆく指先に底知れぬ恐れを滲ませたまま、オルフェノクの手によって殺された。

 

 巧はその事実を知らない。ただ、彼が知っているのは男の生き様とその死の結果だけ。それでも狼の特質を備えたオルフェノクの嗅覚か。巧は、微かに芽生えた不安感を拭い去れなかった。

 

「おや? 乾さん、あれ……なんか山の方に落ちてきてません……?」

 

 文が怪訝そうな表情で空を指す。秋らしく少し曇った夕空、その光を遮る小さな影。薄くぼんやりと輝く彼方の光から妖怪の山へと落ちてくるは、二つの人影のようだった。

 新たなる怪物の襲撃かと身構える巧と文。ファイズギアを手に――未知へと向き合って。

 

◆     ◆     ◆

 

 妖怪の山の上空。冥界へと続く幽明結界から落下した剣崎を追い、妖夢は青く堅牢な装甲に包まれたブレイドの左腕を掴んでいる。

 冥界から吹き込んだ冬の空気が満ちる幽明結界の場で戦っていたためかひんやり冷たいその手甲。されど伝わる彼自身の血の温もりが、生者と死者の狭間たるを示して。

 

「これ以上減速できない……! やっぱり私一人じゃ……」

 

 幽明結界にてバットアンデッドとプラントアンデッドを倒した後に出現したマンティスアンデッド。その封印を果たすことはできず、こうして空の領域から叩き出されてしまった。妖夢は幻想郷に住まう者として最低限の飛行能力があるが、剣崎にはそれがない。

 ブレイラウザーはブレイドの左腰――ラウザーホルスターに戻されている。空中でうまくそれを掴み取ることができたはいいが、ブレイドには飛行能力がなく雲が浮かぶ高さからの落下を止めることができない。

 妖夢は飛行能力をもって剣崎の落下を阻止しようとするものの、彼女は半分幽霊とはいえ半分は人間の少女。刀剣を振るう技巧はあれど、一人で成人男性を持ち上げる力などなかった。

 

「妖夢ちゃん! 手を離してくれ! 俺はアンデッドだから、大丈夫!」

 

 ブレイドの赤い複眼で妖夢の青い瞳と向き合いつつ、剣崎はそれが冗談ではないと告げるために右手で腰に装ったブレイバックルのターンアップハンドルを引き、その中からチェンジビートルのプライムベスタを引き抜いた。

 バックルから投影された青い光の帳――オリハルコンエレメントが妖夢を巻き込んでブレイドの身に通過する。変身の際であればその光は衝撃を伴うが、ブレイドの姿から生身の姿へ戻るための変身解除においては、何ら物理的な影響を及ぼさない単なる光のスクリーンとなる。

 

「何か空を飛ぶ能力でもあるんですか!?」

 

「やったことはないけど……ジョーカーとしての能力ならできるはずだ!」

 

 生身へ戻り真剣な目で言う剣崎に向き合い、妖夢は問う。彼から得られた答えは、妖夢にとって受け入れ難いものだった。

 右手だけでラウズカードを懐にしまい、腰に帯びたブレイバックルも取り外して懐へ。あれだけの高さから落下すればその衝撃は大きなものとなる。単独で飛行可能な妖夢とて、巻き込まれれば怪我をしてしまうかもしれない。ならば自分が多少の恐怖を堪えて、上手く着地できれば。

 

「(今ある中で使えそうなカードは……カテゴリー5か……)」

 

 ブレイドに変身したままの着地でもよかったが、不死身の再生力を持つ自分とは違いブレイドの鎧は形のある無機物だ。スーツには損傷箇所を自己修復する機能があるが、ブレイバックル自体が破損すれば変身自体が不可能になる恐れもある。

 できればアンデッドとの戦闘以外でそんなリスクを負いたくはない。剣崎は本能に飲み込まれないように慎重にジョーカーラウザーを現し、その手にスペードのカテゴリー5――ローカストアンデッドを封印したキックローカストのプライムベスタを取り出した。

 

 バッタに通ずるイナゴの始祖であれば、その(はね)をもって飛翔することもできる。さすれば高所からの着地も容易であろう。今この状況においては完全な飛行能力を備える『トンボの始祖』こそが理想的だったのだが――ハートのカテゴリー4に当たるプライムベスタはここにはない。

 

「アンデッドの姿になればきっと大丈夫だ。……信じてくれ!」

 

 その目に向き合う瞳に嘘はない。元より全力の飛行でも常人なら間違いなく死を免れぬ落下速度を抑えられず。妖夢はただ真剣な力強さを灯す剣崎に対し、不安そうに頷くことしかできなかった。ゆっくりと剣崎の腕から手を離し、妖夢は己の飛行速度でもって剣崎を追う。

 

『キック』

 

 ジョーカーラウザーの溝にラウズされたキックローカストのプライムベスタは光となって剣崎の手元から消失。同時に封印されていたローカストアンデッドの能力が覚醒され、剣崎一真の肉体をイナゴの始祖たる不死生物に捻じ曲げる。

 ただがむしゃらに成すがままに背中の翅を震わせ、確かに落下速度を緩めつつ。ローカストアンデッドとしての肉体が誇るイナゴの力をもって──なんとか妖怪の山への着地を試みた。

 

◆     ◆    ◆

 

 翅の羽ばたきにより空気抵抗を生み、緩やかに落下速度を落としながら茜色に染まる木々の中へと落ちていく影。イナゴの祖たるローカストアンデッド、その姿を借りた剣崎一真(ジョーカー)は強靭な不死の皮革に枝が当たる感覚を覚え、昆虫の脚で着地する。

 ローカストアンデッドが有するイナゴとしての翅と跳躍力に優れた脚、そして柔らかい枯れ葉を湛えた木々と落ち葉が微かな緩衝材となり、なんとか無傷で着地することができた。

 

「ふぅ……なんとかなったか」

 

 イナゴの怪物はおもむろに夕空を見上げて彼方の雲を見る。その複眼は雲の隙間に微かに見える幽明結界の光を捉えたが、あの高さから落下して無事であるこの身が信じられなかった。

 

「剣崎さん! 無事……みたいですね」

 

 自らの霊力で飛行しふわりと着地した妖夢。安心したように胸を撫で下ろすが、見上げる剣崎の姿は白玉楼に出現したローカストアンデッドのものである。バトルファイトのために在る戦闘能力を剥き出しにしたその姿に気圧され、少女は微かに表情を強張らせた。

 腰に装うジョーカーラウザー、本来のカテゴリー5にあるべきアンデッドバックルではないそれだけがローカストアンデッドとの違いとして。

 

 53番目の存在――最初に存在したジョーカーはバトルファイトの舞台装置として生まれた。純粋なアンデッドたる彼の男は、人間の姿と化すためにハートのカテゴリー2、ヒトの始祖たる不死生物と融合し、その姿を借りることで人間になろうとしていた。

 だが、剣崎一真は後天的にジョーカーに至った、かつては人間だった存在である。ゆえに純粋なジョーカーとは異なり、人の姿になるためにカードを必要としない。身体に走る緑色の波動を少しづつ抑えていき、生まれ持った自分自身へ――せめて魂魄(ありよう)だけは人たらんと。

 

 かつてBOARDの研究施設を多くの仲間ごと壊滅させた憎き敵の姿を借りることになるとは、あのときは想像もできなかっただろう。

 剣崎の身体に融合していたローカストアンデッド、その鎖たるプライムベスタ──スペードのカテゴリー5、キックローカストのラウズカードがはらりと落ちる。融合が解かれ、剣崎一真の肉体は腰にあったジョーカーラウザーの消失を伴って生身に戻り、異形の様相を影に潜ませた。

 

「見つけましたよ……っと」

 

 冬の冥界ほどではないが少し肌寒い秋の山――その夕空から舞い降りる声に剣崎と妖夢は振り返る。鴉の羽根を伴ってゆっくりと着地する天狗を見て、二人は身体を硬直させた。

 

「…………」

 

 背後の木々を掻き分けてこの場に姿を現したもう一人。剣崎にとってはどこか懐かしささえ覚える現代的な衣服に身を包んだ茶髪の青年。眉をひそめて怪訝そうにこちらを睨むその表情には愛想など欠片もなく、明確にこちらを敵視しているようだ。

 髪についた枯れ葉を軽く叩き落としつつ──巧は先にここに辿り着いていた文の横に立つ。

 

「あれ? 妖夢さん? どうしてここに……?」

 

「天狗の……うぅ……厄介な妖怪(ひと)に見つかっちゃったな……」

 

 茜差す妖怪の山の木々を抜け、姿を見せた鴉天狗と外来人の二人。妖夢にとっては山を活動場所とする天狗がそこにいるのは何らおかしいことではないが、文にとっては冥界にいるはずの庭師が山の中腹にいることには疑問があった。

 新聞記者として振る舞う際は常に営業的な愛想を絶やさぬはずの文の表情を見れば分かる。剣崎の方を見れば咄嗟に腕の傷を隠し、緑色の血を誤魔化そうとしているが――

 

 文の横に立つ外来人らしき男の視線も剣崎へと。妖夢はその反応で確信した。この二人は、怪物の姿――アンデッドの姿になった剣崎を見てしまっている。

 全身に負った微かな傷や腕の傷から流れ落ちる血までは隠し通せない。剣崎もそれを理解しているが故に、普段なら笑顔で警戒心を解こうとするはずだが、緊迫した表情のままだった。

 

「奇妙な気配……乾さん、あの人間もオルフェノクだと思いますか?」

 

「いや、そんな感じじゃない。……その様子だと妖怪ってわけでもなさそうだな」

 

 文と巧は人ならざる不気味な血の色を帯びた剣崎一真を警戒したまま、二人だけで言葉を交わす。巧の記憶ではオルフェノクに至ったからといって血の色が変わるなどということはないし、何より一瞬だけ見えた怪物の姿はオルフェノク特有の死灰の色ではなかった。

 どうやら幻想郷に生きる妖怪という可能性も薄いらしい。問いに返す巧の言葉を聞いた文は向かう剣崎に対し、また別の異界の風を見る。

 

 妖夢と剣崎は同じく向かい合う存在に対して緊張の汗を滲ませ、最適な弁明の言葉を発することができないまま。妖怪の山の夕空に鳴く鴉たちの声さえ耳に入らない。

 文が剣崎に異界の風を見たのと同様、妖夢も巧に対して異質な魂の様相を見ていた。剣崎と似た異界のそれと思える魂の質。しかしただそれだけではない、奇妙な何かを宿しているようにも見えるのだ。

 それはさながら一度『死』を経験して──その本質を悟ってしまったような。冥界の箱庭に漂う幽霊たちにも似た魂を疑問視する。奇妙だとも思ったが、妖夢は剣崎に対して問いを投げた。

 

「剣崎さん、あの人の気配……まるで死人です。アンデッドという可能性は?」

 

「……上級アンデッドなら人の姿にもなれるはずだ。でも……そんな気配は感じない」

 

 彼の思考に走るは一部の個体、純粋に太古より存在するアンデッドでありながら、人間の姿を模倣することができる『上級アンデッド』と称される者たちだ。

 後のトランプの由来となったラウズカードのカテゴリーにおいては(エース)から10(テン)を超える三種の絵札。騎士(ジャック)女王(クイーン)(キング)を表すそれら、四つのスートにそれぞれ対応する計12体の強大なアンデッドたちを想起する。

 だが──この身を滾らせるような不死の闘争心は、彼からは感じられなかった。

 

 文と巧、妖夢と剣崎。それぞれが未知となる『怪人』たるような気配に、無意識に相手を敵と認識しかける。しかし、狼の特質を備えた灰の死者も、運命の切り札たる永遠の不死者も、どちらも向かい合う世界の物語には存在しないものだ。

 ファイズの世界においては人類の歴史にバトルファイトなど関与していない。ブレイドの世界においては誰がどのように死のうとも、オルフェノクとして覚醒することなど一切ない。

 

 不意に、灰を帯びた歪な風が文の髪を撫でる。同時に剣崎の身に淡く疼く闘争心。二人はその身に覚えた悪寒に表情を変え、確かに感じた変化に対して横へ振り向いた。

 その反応を見た巧と妖夢も二人に続く。四人が目にしたものは、この幻想郷の結界を局所的に歪ませる灰色の幕壁。オーロラと呼べる波紋から姿を現した──威圧的な外来人の男である。

 

「……お前の持っているベルトをよこせ」

 

 耳と鼻にピアスを装った男、ファイズの世界において二度の命を終えた 青木(あおき) は重苦しい口調で告げる。サングラス越しに眉をひそめると、巧たちの姿を睨みつけるその表情に暗い影のようなものが浮かび上がった。

 直後、男の姿は大柄な異形の怪物――猛り狂う雄牛を人型に歪めたような灰色へと変わる。ウシの特質を備えた『オックスオルフェノク』に変化した彼の側頭部には、その身に不釣り合いなほど巨大に捻じれた双角が掲げられていた。

 重厚すぎる肩の装甲はやはり見た目通り重いのか、悠々と大地を踏み歩く。荒々しく鼻息を吹き鳴らす気迫、文や巧たちに放つ闘志はどこか闘牛めいているようにも感じさせた。

 

「ちっ……オルフェノクか……!」

 

 ファイズギアのケースを()く開いてベルトを取り出す巧。文はその様相に驚いていないが、妖夢と剣崎は向かう灰色の死者の変化に驚きの表情を隠せない様子だ。

 だが、ここに現れようとしているのは死から蘇ったオルフェノクだけではない。剣崎の本能に伝う闘争心が示す通り、オーロラの向こうにはまだ二体の影がある。波紋を広げ姿を現すは、寿命の短いオルフェノクとは正反対の存在、永遠とも言える命を持った二体ものアンデッドだった。

 

「シャアアッ……!」

 

「グォォオオオッ……!」

 

 一体は漆黒の身体の右半身に暗い緑色の甲冑を纏った堅牢なる騎士。葉を思わせる節足の装甲を帯びたそれは、スペードスートのカテゴリー7に対応する三葉虫の祖たる不死生物――『トリロバイトアンデッド』と呼ばれる存在。

 そして同時に現れたオレンジ色の怪物はその毛皮に独特の模様を刻んでおり、やはり不死なる始祖の法則に従い古傷を隠すような漆黒の皮革を装っている。

 こちらも同じくスペードスートに分類され、その中においてはカテゴリー9と称される種。BOARDによってジャガーの祖たる不死生物と定義された『ジャガーアンデッド』と呼ばれたアンデッドの一種だ。

 

 二体の怪物はそれぞれ己が肉体(ぶき)をもって剣崎たちを狙い駆け抜ける。トリロバイトアンデッドは左腕に突き出した刃の如き爪を振りかざし。ジャガーアンデッドは風のような瞬発力で地を疾走し、目にも止まらぬ速さでジャガーのそれより遥かに凶悪な三本の鉤爪を振り上げた。

 

「アンデッド……! 狙いは俺なのか……!?」

 

 迫り来るジャガーアンデッドの爪を寸前で回避しつつ、懐からブレイバックルを取り出しながら怪物を蹴り込んで距離を取る剣崎。

 この身はすべてのアンデッドから恐怖され憎悪されるジョーカー。されど本来のジョーカーに比べればその波動は薄い。なればこそ彼らは率先してバトルファイトを破滅させる終末の存在を排除しにかかるのか。

 同時にやはり彼らはかつてと同じ行動理念にも即している。バトルファイトに関係なく、前回の勝者である人類という種族が気に入らないらしく、妖夢にも牙を剥いている。

 

 巧は歯を食いしばって迫り来るオックスオルフェノクの拳をファイズギアのケースで防いだ。背後に控える文を守るための行動だったが、やはりオルフェノクの目的はファイズギアの奪還の様子。彼女には目もくれず、ケースを奪おうと拳を広げる。

 その隙を狙って、巧は渾身の力で向かう怪物の腹に蹴りを入れた。雄牛めいた重量のそれを突き飛ばすことは叶わなかったが、この身もすでに人としての命を終えている。ファイズとして戦い抜いてきた経験もあって、オックスオルフェノクを怯ませて後退させることができた。

 

 ケースを開いてファイズギアを取り出す。巧は腰にファイズドライバーを巻きつけ、ファイズフォンを手に。瞬くような速度でコードを入力し、それを閉じて天に掲げた。

 先ほど向き合っていた距離のままやや離れた位置に立つ剣崎もまた、突き飛ばしたジャガーアンデッドと向かってくるトリロバイトアンデッドに隙を見出し。懐から取り出したブレイバックルにチェンジビートルを装填すると、すぐさま腰に装って右手の甲を右正面に向ける構えを取る。

 

「「変身!!」」

 

『Complete』

 

『ターンアップ』

 

 重なり合う発声と共に赤い閃光と青い光板が薄暗くなってきた妖怪の山を染めた。衛星から電送されたスーツを纏い、乾巧の身はファイズの姿に。対する剣崎一真は融合係数の上昇によりこちらへ向かってきたオリハルコンエレメントの通過を見届け、ブレイドの姿へと。

 赤と青。たとえ異形の怪物と堕ちようとも、人間として生きる血の色と人間として戦う誇りの色。二人は未知なる仮面の戦士を、それぞれ黄色く丸い複眼(アルティメットファインダー)赤い複眼(オーガンスコープ)に映し出した。

 

「なんだありゃ……? 新しいベルトか……!?」

 

「うぇ!? 仮面ライダー……!? でも、あの姿は……!?」

 

 二人の戦士は赤と青の光と共に現れた互いの姿に狼狽えている。

 それは巧の記憶にない未知のベルト。スマートブレインが開発した三本のライダーズギアの中には存在しない、フォトンブラッドを帯びぬ力。

 剣崎にとってはアンデッドとの融合を感じさせない無機質なもの。BOARDが開発したライダーシステムにおいて一切聞いたことのない、ラウズカードを用いていない機構だ。

 

「……やはり、乾さんの他にも……」

 

「剣崎さんの他にも、仮面ライダーが……?」

 

 ブレイドを見た文の呟きに重なるように、妖夢がファイズを見て呟く。巧と剣崎は隣り合う黒き戦士と青き戦士に対する疑問を拭い去れないまま、目の前に襲い来るジャガーアンデッドとトリロバイトアンデッド、オックスオルフェノクへの対処を強いられていた。

 巧と共にいた文に、剣崎と共にいた妖夢に対し、彼女らもまた訊きたいことはある。しかし今は悠長に言葉を交わしている場合ではない。文と妖夢は互いに視線だけを交わして力強く頷き、それぞれ天狗の葉団扇と楼観剣を抜く。

 

「やぁっ!」

 

 大地を蹴って縫うように振り抜かれた妖夢の楼観剣と、ブレイド──剣崎の振るうブレイラウザーの切っ先がジャガーアンデッドに迫っていった。

 だが、その脚力はやはりジャガーの始祖たる不死生物の能力。即座の判断で地を駆け、アンデッドは二つの刃から逃れてしまう。疾走をもって視界から失せた怪物は妖夢の背後に現れた。

 

「妖夢さん、気をつけてください!」

 

 文もまたジャガーアンデッドに劣らぬスピードで風を切り、妖夢を狙うその背中に天狗の妖力を込めた青緑色の光波【 疾風扇(しっぷうせん) 】を放った。地を走るそれはジャガーアンデッドに命中し、その意識を逸らすことに成功する。

 だが油断はできない。相手は一体だけに非ず。剣崎はジャガーアンデッドを斬り損ねた直後に向かってきたトリロバイトアンデッドの爪とブレイラウザーの刃を交えて。文は横から闘牛の如く大地を駆け抜けるオックスオルフェノクの双角を視界に捉えた。

 目の前には空を舞う鴉天狗もかくやという速度で地を駆けることができるジャガーの怪物。どう対処しようかと思考する刹那、後方からのフォトンブラッドが二体を撃ち抜く。

 

「やや、感謝します!」

 

「礼はいい、お前は空から攻撃しろ!」

 

 文は手にしたフォンブラスターでオックスオルフェノクとジャガーアンデッドを牽制してくれた巧に振り向くが、やはり通常の射撃ではその程度の意味しかない。文は自慢の黒い翼をその背に現し、上空から弾幕を放つべく怪物たちの頭上へ飛ぶ。

 目の前の少女がいきなり空へ上がったことに驚いたのか、ジャガーアンデッドはほんの一瞬だけ狼狽えた。その隙を見逃すことなく、文はここぞとばかりに空中を裂く風を放つ。疾風扇を刃と増やし地を駆けず空に飛ぶ【 烈風扇(れっぷうせん) 】はなめらかに怪物の毛皮を切り裂いた。

 

 裂けた肌から緑色の血を流す様は確かな手応えを感じさせる。このまま押し切れれば未知の怪物を倒せるかもしれないという期待の中、文は相手から感じられる生命力が減衰していないことに違和感を覚えた。表面上のダメージはあるものの、生命までは削り切れていないような──

 

「そいつらは不死身なんだ! 倒すことはできない!」

 

「ええ!?」

 

 地上から声を張り上げた剣崎の言葉に耳を疑う。一瞬の驚きが隙となったのか、オックスオルフェノクが自らの手に現した拳状の鉄球が視界に迫っていることに気づくのが遅れた。咄嗟に身をよじって回避することはできたが、バランスを崩して地面に落下してしまう。

 

「痛ったた……倒せないって……どういうことなんです……?」

 

 翼を収めて体勢を立て直す文を守るように妖夢が立った。楼観剣を構えて続く鉄球を切り払うものの、その重量を受け微かに表情を歪めている。

 放たれた鉄球はオックスオルフェノクの両拳を大型化したような造形であり、どうやらその手元と鎖のようなもので繋がっている様子。遠くに投げても灰の細胞で構築した鎖で繋がれている限り、武器(それ)を失うことはないようだ。

 傷を負ったジャガーアンデッドのスピードは微かに落ちている。不死身といえどダメージの積み重ねは間違いなく残っている。オックスオルフェノクより後方から迫るトリロバイトアンデッドに弾幕を放って接近を阻止する文だが、強い妖力を込めても微かに怯む程度の効果しかない。

 

「あいつらはアンデッド。不死の怪物です。無力化には封印するしかない……」

 

「封印ったってなぁ……お前らならなんとかできんのか?」

 

「ああ。俺たち仮面ライダーは……そのために。人類を守るために奴らと戦ってるんだ」

 

 妖夢の説明に巧が問う。それに力強く答える剣崎の言葉に、巧は上手く呑み込めずとも彼らもまた自分と同様――誰かの夢を守っているのだと感じた。

 巧はバーストモードのままのフォンブラスターにコードを入力し残弾をチャージ。気だるげにオックスオルフェノクに銃口を向けると、三度の引き金で九発の光弾を放った。

 

「……そうか。だったらオルフェノクの方はこっちで相手するぜ」

 

「オルフェノク……? あの灰色の怪物のことか?」

 

「あいつらは死んだ人間が蘇ったものです。あの赤い光がよく効くみたいですよ?」

 

 巧の言葉に剣崎が問う。それを説明した文の言葉に、妖夢は複雑な気持ちを覚えた。ここに集うは互いにとっての未知(ししゃ)未知(ふししゃ)――剣崎一真という不死者に加え、赤い光の戦士たる青年から感じた死者らしき魂の気質は気のせいなのだろうか。

 そんなことを考えている余裕はない。妖夢はファイズの放った光弾に気を取られそちらに注意を向けたオルフェノクを無視し、音速で疾走(はし)り来るジャガーアンデッドを心の眼で捉える。

 

「見切った!」

 

 風を切るジャガーの爪を引き抜いた白楼剣で受け止め。その隙を縫って楼観剣の刃を斬り込む。文の烈風扇で負った傷もあり、明確に動きを滞らせているのが分かった。

 

『キック』

 

「うぇえええいっ!!」

 

 続けて風を裂く爪を後退して避けると、背後からブレイラウザーの電子音声と剣崎の気合を聞く。キックローカストのプライムベスタをラウズしてローカストアンデッドの力を宿したブレイドの脚力、イナゴの如き飛び蹴りを見舞う【 ローカストキック 】をもって、ジャガーアンデッドを遥か後方へと蹴り飛ばした。

 先ほど妖夢が放った【 炯眼剣(けいがんけん) 】の一撃も相まってアンデッドとしての耐久値を超えていたのだろう。速度に特化したジャガーアンデッドはアンデッドバックルを展開し、すかさず剣崎が放ったプロパーブランク♠9のラウズカードを受けて封印される。

 

 スペードの9たるジャガーアンデッドを封印したプライムベスタは『マッハジャガー』と呼ばれるもの。カードは風を切って剣崎の手元へと飛来し、剣崎はそれをオープントレイに戻した。

 

「なるほど、そうやって封印するんですねぇ」

 

 ジャガーアンデッドがラウズカードに封印される様を見届けつつ、文は赤い下駄をもって大地を蹴る。夕焼け空のように赤い瞳はオックスオルフェノクをしっかり捉え、音速で翔け抜けた風圧が周囲の落ち葉を舞い上がらせる。

 風の如く地を翔け一瞬でオックスオルフェノクの背後まで移動した文。その移動から間を置かず、後方に風の弾丸を撃ち放つ【 天狗ナメシ 】をもって灰の身体を微かに削った。

 

「ぐっ……!?」

 

 死角からの攻撃に怯んだ様子のオックスオルフェノクに対し、巧は腰に装ったファイズドライバーの左側、四角い銀色のケースからデジタルカメラとしての機能を持つツールを取り出す。鴉の眼の如きレンズを宿すそれは、間違いなくカメラとして開発されたもの。

 デジタルカメラ型パンチングユニット──『ファイズショット』と呼ばれるデバイスをその手に持ち、閃く視線は紅く滾る闘志を拳に宿さんがために。

 舞い散った紅葉に視界を遮られてしまったオックスオルフェノクは巧の動きが見えていない。スマートブレインによってカメラという擬装を伴って作られた武器。ただのカメラならざるそれは、ファイズフォンから抜き取られたミッションメモリーの挿入で在るべき本当の機能を現す。

 

『Ready』

 

 ファイズの複眼を模したミッションメモリーがレンズを覆う。この時点でカメラとしての機能は失われ、形を変えてグリップとなったフレームを右拳に嵌め握り締めると、ファイズショットは高精度の撮影機能を誇る『マルチデジタルカメラモード』から『ナックルモード』へ。

 

『Exceed Charge』

 

 そのまま左手をもって開いたファイズフォンのエンターキーを押下。聞き馴染んだ電子音声と共に供給されるフォトンブラッドが右腕のフォトンストリームを伝いファイズショットへと流れ込むのを見届ける間もなく、大地を蹴って。

 紅葉の中を突き抜けて疾走する本能のまま。狼狽えるオックスオルフェノクがこちらに気がつき、巨大な鉄球を振りかざす。足を止めずに姿勢を低くしてそれを回避すると、巧――ファイズは迸る閃光、真紅に輝くフォトンブラッドに満たされたファイズショットを拳と振り抜いた。

 

「やぁぁぁぁあああっ!!」

 

「ぐぅぅうっ……があぁああっ!!」

 

 真っ直ぐに突き抜けるファイズの拳はファイズショットの威光を纏い。その先端に輝く赤き光がオックスオルフェノクの腹に楕円と斜線を刻みつけた。

 背後に浮かんだ同様の赤と共に、その身は光を帯びた拳による【 グランインパクト 】の衝撃をもって吹き飛ばされる。

 妖怪の山の大木に背を打ちつけて青白い炎を爆散させると、オックスオルフェノクは自らの形を維持することができず儚く灰と崩れ去った。

 オルフェノクの死を見届け、巧は積もった灰から目を背けて右手からファイズショットを外し、グリップを畳んでミッションメモリーを抜き取る。それを再びベルトの左側のケースへとしまいつつ、ミッションメモリーをファイズフォンに戻しながら文たちの方へ向き直った。

 

「くっ……!」

 

 最後に残ったトリロバイトアンデッドに対して楼観剣を振り下ろす妖夢。己が妖力を注ぎ込んだ刀身は他のアンデッドたちには通用したが、三葉虫の始祖たるこの怪物は先ほどよりもさらに硬い装甲で刃を弾いてみせる。

 

「このアンデッド……尋常じゃないくらい硬い……!」

 

「妖夢さんの剣でも()が立たないとなると、ちょっと厳しいですね……」

 

 どことなく白銀の輝きを帯び始めたようにも見えるトリロバイトアンデッドの甲冑。その身にはアンデッドとして何らかの硬化能力を持っているのか。

 文も持ち得る弾幕はそのほとんどが風の性質を持つものだ。物理的な衝撃においては妖夢の剣戟という手法には及ばない。やはり出し惜しみせずスペルカードを使うべきか。その思考は二人の視線を未だ人間と──味方と断定できない剣崎と巧の身に向けさせる。

 もしもあの男が気配通りの怪物(てき)なら、不用意に力を消耗しすぎるのは得策ではない――と。

 

『スラッシュ』

 

『サンダー』

 

 風雨(あや)の思考は凪となり、蒼天(ようむ)の思考には雲がかかる。だが、剣崎一真に迷いはなかった。左手に逆手持ったブレイラウザーの溝へ二枚のラウズカードを続けてラウズする。

 スラッシュリザードとサンダーディアー。それぞれリザードアンデッドとディアーアンデッドが封じられたプライムベスタを使い、二枚のカードによるコンボは剣崎の身に追加で融合した能力をもって、右手に持ち替えたブレイラウザーに一時的な切れ味の強化と青白い電流を付与。

 

『ライトニングスラッシュ』

 

 ローカストキックの発動で5000から4000に低下していたAPが、さらに2400まで低下する。その数値を見ることなく右の順手に構え直したブレイラウザーを振り上げ、高く跳躍。

 

「うぇいっ!!」

 

「グォォ……ォォオッ……!!」

 

 両腕を掲げて防御を試みたトリロバイトアンデッドを頭上から一刀のもと断つ。強化された刃にさらに蒼白の雷光を纏わせた斬撃――【 ライトニングスラッシュ 】はその装甲を両断することこそ叶わずとも、体内に直接響く電撃をもって怪物を怯ませた。

 同時にトリロバイトアンデッドが全身に帯びていた白銀の輝きが失われる。傷ついた鎧から緑色の血を溢れさせながらも、アンデッドバックルは未だ硬く閉ざされているようだ。

 

 剣崎はブレイラウザーを振り下ろした直後の隙を狙われ、トリロバイトアンデッドに蹴り飛ばされる。電流に苛まれて本調子が出せないのか、距離は取られたがダメージはほとんどない。

 

「グゥゥ……ゥゥル……!」

 

 強引に電流を振り払って強靭な爪を振るう怪物。目の前にいた文と妖夢は地を蹴って後退し、先ほど剣崎が放った青白い光とは対照的な『赤い光』に照らされた背後の闇へ振り返る。

 

『Ready』

 

 剣崎がライトニングスラッシュを放つ瞬間、後方へ移動しオートバジンのもとへ向かっていた巧が、その左グリップにミッションメモリーを挿入した。無機質な電子音声と共にそれを引き抜き、薄暗く夜に堕ちた妖怪の山にファイズエッジの紅き輝きを灯す。

 右手にファイズエッジを持ったまま。すかさずファイズドライバーに収まったままのファイズフォンを左手で開いては、先ほどと同じようにエンターキーを押し、乱雑にそれを閉じて。

 

『Exceed Charge』

 

 またしてもファイズドライバーから供給されたフォトンブラッドが右腕のフォトンストリームを通じて流れていく。ファイズショットのときと同じく、右手に携えたファイズエッジの刀身に、フォトンブラッドのエネルギーが満ちていく。

 

「はぁっ!!」

 

 巧はトリロバイトアンデッドから離れた距離のまま地を掠めるように、逆袈裟掛けにファイズエッジを振るった。すると、その切っ先から生じた赤い光の波が地を疾走する。

 

「……グォ……ォオ……!?」

 

 赤い光――放たれたフォトンブラッドの波はトリロバイトアンデッドの身を捉えた。帯を巻くように赤が広がり、不死なる身を真紅の円筒に包み込む。溢れるエネルギーが力場を生じさせているのか、トリロバイトアンデッドの体躯を空中に浮かび上がらせて。

 如何に強靭な肉体を有していようと空中、それもフォトンブラッドの拘束の中では踏ん張ることもできず。闇を切り裂く光を湛えた戦士の疾走――気合の声を上げて迫る巧に成す術もなく。

 

「せいっ! うらぁあっ!」

 

 無防備な体勢のままのアンデッドにファイズエッジの剣戟を。左から右へ、右から左へと続け様に見舞った一閃に、重なる真紅の軌跡を見る。

 相手がオルフェノクではないためか、蒼白い炎も灰の残滓も巻き上がることはない。空中でその身を斬り裂かれたトリロバイトアンデッドは先のライトニングスラッシュのダメージもあり、硬化能力が解けていたところにフォトンブラッドの斬撃を受けてその場に力なく倒れ伏した。

 

 ファイズエッジというフォトンブラッドの刀身にさらなるエネルギーを纏わせて相手を滅多斬りにする――ファイズの剣技。

 純粋な切断能力より刀身に流動するフォトンブラッドの衝撃による内圧をもって対象を破壊することを重視した【 スパークルカット 】の一撃は装甲の硬いトリロバイトアンデッドの体内にまで深刻なダメージを与え、戦闘不能に陥らせることができたようだ。

 

 スパークルカットを放ち切ったことでフォトンブラッドの熱が弱まり、力強く輝いていた刀身の光が静かなものへと落ち着いていく。そんなファイズエッジの様子に目を向けることもなく、巧は自ら倒したトリロバイトアンデッドを見下ろした。

 トリロバイトアンデッドが腰に装うアンデッドバックルが音を立てて開く。双蛇の円環はオルフェノクレストとは似つかぬが、どちらも再生――永遠性を表しているように思えた。

 

 ブレイラウザーを持ったままの剣崎がトリロバイトアンデッドに近づく。その身には永遠の命が宿っており決して死ぬことはないが、体力を使い果たしたのだろう。もはや少しも動きを見せず、抵抗する素振りもない。

 入れ替わるようにすれ違い、巧はアンデッドから離れてオートバジンのもとへと戻る。ファイズエッジを左ハンドルに戻し、ミッションメモリーを引き抜いて再びベルトに収まったファイズフォンへ戻しつつ、暗い夜空にぼんやり浮かぶ――虚ろな月を見上げて。

 剣崎はオープントレイからプロパーブランク♠7を取り出し、その胸へ突きつけるようにカードを落とす。淡い緑色の光が日の落ちた妖怪の山を微かに染めたかと思うと、アンデッドはラウズカード──『メタルトリロバイト』と称されるプライムベスタとして封印された。

 

 巧と剣崎、ファイズとブレイド。二人は振り返り、互いを捉えたまま立ち尽くしている。

 どちらからともなく、巧はファイズドライバーからファイズフォンを取り出し、それを開いて通話終了キーを押下。剣崎はブレイバックルのターンアップハンドルを引き、スロットからチェンジビートルのプライムベスタを引き抜いた。

 またしても赤い閃光と青白い光が妖怪の山に輝く。巧の全身を覆うフォトンフレームの消失と共に、剣崎の身体を通過するオリハルコンエレメントの消失と共に。

 二つの光は闇に消え、幻想郷に存在するはずのない力を纏った青年たちが──生身へと戻る。

 

「文さん、あの外来人の青年は……人間……ですか?」

 

「……奇遇ですねぇ。私も妖夢さんに同じことを訊こうと思ってました」

 

 彼らの身から感じられる気配は妖夢と文にとって、奇しくも通ずるものがあった。乾巧の気配は姿や肉体こそ人間らしいものだが魂と呼べる霊的な想念の波動は、目を閉じれば幽霊であると錯覚できるほどに、あまりに死の気配を帯びすぎている。

 対する文の意見も同じ。剣崎一真から流れる緑色の血と人ならざる者の気配に、天狗として太古よりの時代を生きたこの心身に原初の本能を植えつけられるような。あらゆる生物を根底から威圧するような秘めた闘争心を見る。

 

 そして、その共通点は先ほど撃破した異形の怪物と同じ特徴でもあった。乾巧の死色の気配と灰の匂いはオルフェノクの、剣崎一真の緑色の血と恐ろしき闘争心はアンデッドの。

 この目に映る姿は紛れもなく人間のものであれど──それらと戦いを終えた今ならば否が応にも結びつけざるを得ない。彼女らの視界に立つ二人の外来人は、怪人(やつら)と殆ど同じ気配なのだ。

 

「君は……BOARDの人間じゃないのか? そのベルトはいったい……」

 

「BOARD……? 知らないな。……そっちこそ、スマートブレインの関係者か?」

 

 剣崎と巧は互いにそれぞれが装うベルトを一瞥した後、再び目を合わせて真剣に問う。もし彼がBOARDの関係者であれば、同じライダーシステムの資格者として剣崎が知らないはずはない。だが、剣崎はアンデッドの力に頼らないライダーなど聞いたこともなかった。

 向き合う男がスマートブレインの者ならば、やはりファイズギアの奪還を目的としているのだと推測できる。しかし、見たところ彼はファイズギアのことを知らない様子。それどころかオルフェノクの存在さえ認識していないらしい。

 

 二人の疑念が拭われぬまま妖怪の山は涼しげな夜風に包まれる。この場で問いただしたいことは多いが、夜の山は妖怪の巣窟である。ここに留まることは危険だと判断した文と同様、妖夢もそれを認識したようだ。

 幸い今この場に他の天狗の目は届いていない。天狗の立場で侵入者を匿うことは憚られる。普段でさえ厳しいのだから、怪物騒ぎで殺気立った山の者に見つかれば文とて面倒事は避けられまい。特に、その規律を重視する白狼天狗の椛に見つかることだけはできるだけ避けたかった。

 

「今日はもう遅いですし……詳しい話は私の部屋で聞かせてもらいましょう」

 

 月明かりでぼんやりと照らされた夜の山に、守り神たる者たちの目――カラスの存在が一匹もいないことを確認しながら。文は彼らを部屋に招くことにする。

 鴉天狗の身としては白狼天狗の視力がどこまでのものかは正確には分からない。もし一人でもこの場所を観測している者がいたとしたら、すでに大天狗への報告と共に増援の天狗たちがここへ集まってきていることだろう。

 天狗の目は鋭いが、妖怪の山とてそれ以上に大きい。怪物騒ぎで混乱している組織にはまだ見つかっていないはずだと祈り信じて、文は妖夢を含む三人をひとまず自らの領域へと案内した。




怪人系主人公のお二人。片方はすでに死んでいて、片方は永遠に死ぬことができない……

次回、STAGE 41『決して交わらざるべき物語』


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第41話 決して交わらざるべき物語

 幻想郷ならざる別の時空。九つの物語に連なる『彼ら』にとって、それは十番目の世界と定義できる場所であった。

 クウガ、アギト、龍騎――そしてファイズ、ブレイド、響鬼。それらに加え、残る三つを束ねた九つの物語がこの世界を座標として収束されている。九つの法則を宿しているという条件は現在の幻想郷と共通してはいるが、ここには紫が求める『楔』に当たる者はいない。

 

 九つの世界が歪に混じり合った境界線。灰色のオーロラと似た現象か、寸断された空と雲、建造物の先にはまったく異なる景色が広がっている。

 この境界の先には別の世界が続いているように見えるが、それはもともと別の世界だったものを強引に『この世界』へ押し込んだため。一つの世界の中に九つの世界が混ざり、十番目の世界はそこに紡がれてきた九つの物語を内包する混沌の様相を呈していた。

 境界の先へ一歩踏み出せば、そこは別の法則に満ちた領域。同じ世界の中でありながら、別の世界に踏み込んだような。この世界という器に九つの世界という泡が漂っているような現状であれば、世界同士の接触による対消滅――かつて(・・・)のような『滅びの現象』は起きないようだ。

 

「…………」

 

 人間と呼べるものはここには存在しない。世界の融合が成される前、元の世界にいた人間たちは世界ごと情報(・・)として記録された。

 ある者はそれを生け贄――『女神』への供物だと称したが、すでに人間としての死を迎え、人ならざる異形の怪物――オルフェノクとなったこの男はそうは思っていない。

 

 ここはファイズの世界を基準とする領域の一角である。混じり合う九つの世界のうち、自身が生きた場所、自身が社長として君臨していた企業、スマートブレインの本社ビルにて。鋭角の意匠を持つ奇妙なオブジェの直下、男は上等な椅子に座って机の上のパソコンと向き合っている。

 

「こうなる気はしていましたよ。前社長。……やはり、貴方は邪魔な存在のようだ」

 

 机にそっと拳を乗せる。口調こそ落ち着いたものではあったが、画面に映るヤギのオルフェノクに視線を落とす 村上 峡児(むらかみ きょうじ) の表情には怒りの色が滲んでいた。

 震える拳を握りしめたまま視線を動かす村上。またしても三本のベルトをみすみす奪われた部下たちの愚かさ、自身の愚かさ。ひいてはスマートブレインという組織、オルフェノクという種族そのものへの怒りが彼の心を染めていく。

 だが、その矛先はすべて一人の男に集約されていった。オルフェノクでありながら人類に味方をする異分子。スマートブレインの創業者にして村上の前任者を務めていた男に。

 

 彼の視線の先に映るは幻想郷にて妖怪の山に助力する花形という男だ。ヤギの特質を備えた個体とは思えぬ超常的な力と速度をもって、かつてはスマートブレインが保有する三本のライダーズギアを強奪された。そして、またしても回収と修復を終えたそれらすべてがあの男の手の中へ。

 

「……だが、今はあのときとは違う。我々には心強い味方がいるんですから」

 

 腹の上で指を組み合わせ、村上は自信に満ちた笑みで椅子の背もたれに寄り掛かった。

 この世界に在るのはファイズの世界の法則に依るもの――死灰から蘇った彼らオルフェノクだけに非ず。

 別の世界の法則を宿した様々な協力者が、同じ志を持ちてここに集まっている。殺戮を遊戯とする太古の民族も、神の勅命を受けた獣の君主たる天使たちも。果ては幼い兄妹の祈りによって生まれた鏡像世界の怪物から、動植物の始祖となった不死生物たちまでもが。

 村上本人はその存在を信じていなかったものの、異世界には妖怪などというおとぎ話さえ実在の怪物として存在しているらしい。

 幻想郷などという特異点を観測してしまった以上は自然の猛威が化け物となろうことも受け入れざるを得なかった。

 

 自嘲気味に笑う村上の正面、この社長室の机の前。奇妙なオブジェを覆うように、灰色のオーロラがカーテンめいてゆっくりと降りてくる。

 それは村上も与えられている『世界を超える力』の一端として馴染み深い。如何なる原理か誰にも分からないが、それは協定を結んだほぼすべての同士たちが扱える共通の能力だった。

 

「君たちオルフェノクのお仲間になったつもりはないけどね」

 

 オーロラから姿を現したのは赤いジャケットと明るく遊ばせた金髪が目立つ少年だ。いくつものアクセサリーを装い、そう告げる口調にはどこか軽薄さが感じられるが、その眼光には歴戦の経験が宿っている。

 少年の名は── キング 。彼はこの姿(・・・)ではそう名乗る。その姿もバトルファイトの勝利者である人類の特徴を模倣したものに過ぎず、彼のあるべき『本来の姿』ではない。

 

 ブレイドの世界の法則に由来する怪物。彼はコーカサスオオカブトと呼ばれるカブトムシの始祖として、遥か太古の地球に生み出されたアンデッドの一種だ。

 ヘラクレスオオカブトの始祖であるビートルアンデッドとは近い種ではあるが、バトルファイトにおいてはそれらも敵同士。圧倒的な力で戦いを進めていたものの、一万年前の戦いでは人類の祖に敗北し、勝利者の座を明け渡した。

 あれから一万年後。次に開催されたバトルファイトは、人類の傲慢によって引き起こされた偽りの戦い。本気で剣を振るう価値のない、まるで子供の遊戯のような退屈な儀式であった。

 

 アンデッドや仮面ライダーたちは戦っているのに、ほとんどの無関係な人間は何も知らずのんきに暮らしている。そんなバカバカしい空虚な戦いに嫌気が差し、彼はその間違ったバトルファイトを滅茶苦茶にしてやろうとした。

 目的など始めからない。誇りなんて誰にもない。勝ち残っても何も得られるものはない。なればこそ、この時代に解放されたことを利用して『面白い』ことを起こしてやるだけだと。

 

「そっちの君もそうだろ? みんなそれぞれ違う目的があるってことさ」

 

 キングは同じオーロラからスマートブレイン本社社長室へと踏み入ったもう一人に声をかける。絢爛な和装に身を包んだあどけない少女は肩まで伸びた己が茶髪を飾る骨の髪飾りを優しく撫でると、敵意とも親しみともつかぬ視線でキングを一瞥する。

 柔和な顔立ちながら無機質ささえ感じられる瞳を正面の村上に向け、少女は唇を開いた。

 

「わたしは、言われた仕事をこなすだけ」

 

 少女のように見えても、彼女もまたここに在るすべての存在と同様に人ならざるもの。幻想郷の妖怪に似た気配を有してはいるが、それらとはまた違う異質な気。幻想の一切を帯びず太古から紡がれる原初の妖気だけが形を成したような、醜く歪な邪気に満ちた不浄の化生。

 響鬼の世界の法則に由来する魔化魍という怪物――その一種として少女はおぞましい邪気を湛えて存在している。

 

 この姿のままであれば、そのような邪気は誰にも感じ取られることはないだろう。されど彼女もまた自然の淀みたる魔化魍の本質として。戦国時代の響鬼の世界にて語られこの地に呼び寄せられた知性ある『ヒトツミ』の名のもと。古より共に生きる『もう一つの貌』を骸と晒した。

 

「俺ァ鬼どもの血を思う存分かっ喰らえりゃァそれでいい」

 

 白銀の形相は魔化魍にして鬼の如く。般若(はんにゃ)を思わせる有角の鉄仮面は柔らかな少女の相貌を湛えていた顔面に浮かび、先ほどまでの少女の声とは異なる男の声で発する。

 鈍く響くような声色と恐ろしき怪物の貌は、彼女がヒトツミと呼ばれたる所以。あるいは二口女とも呼ばれる伝承の妖怪、一つ身(ヒトツミ)に二つの魂あり。少女も怪物もどちらも彼女という存在であり、彼であるのだ。

 それだけ告げると魔化魍ヒトツミの顔面は朧と消え失せ、再び少女の顔が現れる。

 

「ええ、もちろん弁えていますよ」

 

 まるで客人の相手をするかのように計画の協力者に笑みを向ける村上。ゆっくりと椅子から立ち上がり、背後の大きな窓へと歩みゆくと、その外には混じり合った世界の景色が見えた。

 

「…………」

 

 昼と夕暮れが寸断された空には真っ二つに裂けた雲が浮かぶ。人々の喧騒一つ聞こえない街並みには有象無象の怪物たちが蔓延り、その上空をトンボ型の青いミラーモンスターやエイとツバメを混ぜたような魔化魍が翼を広げて飛んでいく。

 星々の瞬きの如く、地上にも上空にもいくつものオーロラが生じては消える。その度に怪物たちが現れては消え、人のいないこの世界では何をするでもなくただ在るだけ。

 

「ひっどい世界だよねぇ。まぁ、僕はこういうカオスな感じ、正直嫌いじゃないけど」

 

 村上の隣に並ぶようにキングもまた窓辺に立った。ポケットに両手を突っ込みながら眼下を見下ろし、スマートブレインの社長室からこの世界の一部――ファイズの世界を『再現』した領域に視線を落とす。

 本来あるべきファイズの世界は、幻想郷に接続された後、情報となって消滅した。厳密にはこの十番目の世界のとある概念――『女神』とも称されるものに吸収された。その上でファイズの世界の一部、このスマートブレイン本社が存在するとある一区域が再現され具現化されたのだ。

 

「こいつら全部喰い尽くせば、ちったァ腹の足しになるか?」

 

「うわっ、その顔でいきなり後ろに立つのやめてよ。結構びっくりするからさ……」

 

 キングの背後にて魔化魍の貌を晒したヒトツミが重苦しく呟いた。背後に怪物の気配があることは分かっていたが、少女だと思っていたそれが異形の相貌を剥き出しにしていると予想外の光景に不思議と人間らしい感情を覚えさせられる。

 すぐに少女の顔に戻ったヒトツミはつまらなそうに窓の外を見渡しながら、妖力で歪めた空間から白い手毬(てまり)を取り出して。やがて景色から興味を失い、その手毬を床へと打ちつける。

 

「我々の望みは、オルフェノクの未来。ですが、来たるべき破壊のためには協力は惜しまないつもりです。それはきっと、彼ら──他の世界の者たちも同じでしょう」

 

 村上は眼下の世界を見下ろしたまま隣に立つキングに告げた。オルフェノクという不完全な命は、この世に留まるべきものではない。すでに死した人間としての命が長くは紡ぐことができないという呪いを帯びている。

 だが、それを解決してオルフェノクを完全な存在にすることができるものもいた。それこそが村上が見定めた──彼らにとっての『方舟』となり得る存在。

 

 人間が死して覚醒した不完全な命から人間という要素を捨て去り、純粋なるオルフェノクとして確立させることができるオルフェノクの王たる者。

 その復活には多くのエネルギーが要る。そのエネルギーとはオルフェノク自身という生け贄である。多くのオルフェノクのために同族を犠牲にして王に捧げる必要があるのだが、自らの死を拒む者も当然いよう。

 中にはその救済を恐れて王を殺そうとする者も現れるかもしれない。そんな蛮行を阻止するため、王を守るために作られたのが、オルフェノクの手でオルフェノクを殺すための力、スマートブレインの技術によって開発された三本のベルト──ライダーズギアであるのだ。

 

「オルフェノクの王……だっけ? 僕を差し置いて王様を気取られるのはちょっと気に入らないけど、たしかに寿命ってのがあるとめんどくさそうだ。君たちは普通より短いらしいしね」

 

 村上の言葉に返すキングは、自ら『そのくらい強い』として名乗った(キング)の名を揺るがす概念に反感を持つ。

 その子供じみた慢心によく知る王様気取りの同族を思い出し、苦笑すると、村上は彼がまさしく王を殺そうとしていた愚かなオルフェノクであったことに憐れみも覚えた。たとえ無双に近い力があっても、王を殺そうという思想を持っていては何の意味もない。

 

 王の祝福に預からなければオルフェノクに未来はない。かつての戦いでは王が死に、すべてのオルフェノクが時を待たずして滅び去ることが確定してしまったようだが――今回こそは再びオルフェノクの未来を掴んでみせる。

 二度と邪魔はさせない。かつてと同様に、この身を王に捧げてでも。そのために異世界の法則を宿した怪物たちと協定を結び、特に上級アンデッドと呼ばれる存在の力を借りている。

 

「……てん、てん、てん。てんじん、さまのお祭りで……」

 

 表情もなく手毬を突きながら、和装の少女は歌う。その姿だけを見れば、彼女が魔化魍であるなどとは誰も思うまい。

 窓辺の傍、ヒトツミのすぐ傍に再び灰色のオーロラが舞い降りた。そこから現れたのは、かつてヒトツミと同じ戦国の世を生きた骸、オロチの童子だ。

 連獅子めいた白い毛と赤い仮面を装った派手な出で立ちの男。その気配を悟ったヒトツミは眉一つ動かすことなく、突いていた手毬を両手で持って──正面の窓へと顔を上げる。

 

「……仕事か?」

 

「我らが悲願……オロチの復活のためだ」

 

 可憐な少女の声に返す、男の顔には似つかぬ細い女の声。ヒトツミはオロチの童子の言葉を受け、妖力で歪めた空間にそっと手毬をしまうと、童子が現したオーロラへ消えていった。

 

「…………」

 

 オロチの童子はやはり表情のない無機質な顔で村上とキングをそれぞれ一瞥すると、自らも現した灰色のオーロラへと溶け──響鬼の世界を再現した領域へと戻っていく。彼らの居場所もまた、情報として吸収された世界のコピーに過ぎない。

 洋館の男女が住まう場所と同じく、そこは響鬼の世界の法則を具現化させた場所ではあるが、彼らが向かう先は深い海の底。戦国時代の妖力を湛えた鬼岩城と呼ばれる居城だ。

 

 彼らの目的は、やはり鬼たちに倒された魔化魍の中で、未だ復活の兆しを見せない戦国時代最強の存在を現世に現すこと。

 世界を喰い尽くす『現象』としてではなく、その最果てに現れたるべき災い。あらゆる魔化魍を超越する単一にして無双の百鬼夜行――魔化魍『オロチ』の再誕である。

 オロチの童子たちにとってはそれほど過去の話ではない。が、現世を生きる響鬼の世界の存在にとっては何百年も過去、戦国時代の戦い。当時、一人の鬼によって永い眠りにつかされたかの怪物を現代の世界に蘇らせるには、幻想郷の妖怪が持つ妖力やそれに類する力が必要だった。

 

「面白そうなこともなさそうだし……僕も自分の領域(せかい)に戻ろうかな」

 

 キングは退屈そうにポケットから携帯電話を取り出す。外の世界では年代物とも思えるような折り畳み式のそれは、彼が偽りのバトルファイトに駆り出された2004年においてはごくありふれた最新式のもの。

 世界こそ違えど時代の近い2003年を生きた村上もまた有するものは折り畳み式の携帯だ。最新の機器を模して開発されたファイズギア、そのうち携帯電話たるファイズフォンもその時代に相応しい機能と見た目を持っている。――しかしながら、ここに令和(・・)の時間はない。

 

 十番目の世界そのものは西暦2009年の因果を示している。そしてクウガの世界は2000年から2001年を、アギトの世界は2001年から2002年を。それぞれ異なった時間の座標を示しているが、幻想郷に通ずる外の世界と同様の『西暦2020年』の因果を示す場所はどこにもない。

 

「あいつらの言う通り、こっちで無理やりジョーカーを復活させたら面白いかもね」

 

 そう独り言ちたキングは相変わらず2004年――その歴史を戦い抜いて2005年を迎えたブレイドの世界、自らが生きた本来の世界の日付を示す携帯の画面を閉じる。

 本来のジョーカーは人間に染まり、堕落してしまった。人間として生きようとするジョーカーまでもが情報となり、この世界のどこかにあるとされている『女神』の揺り籠に吸収されてしまっている様子。

 オルフェノクやアンデッドたち、魔化魍と同様に、世界に刻まれた記憶からまったく同じジョーカーを具現化したら、いったいどのような振る舞いを見せるのだろうか。本能に飲み込まれてジョーカーとしての舞台装置となるのか、あるいは人間らしさを見せてくれるのか。

 

 自分以外のアンデッドはバトルファイトの再開を目的に動いているだろう。キングの言うあいつらとは、それを目的とした同族――否、封印すべき競争相手たち。

 アンデッドの中でも最強たるジョーカーに次ぐ能力を誇る12体もの上級アンデッド、その最高位に位置する四体は『カテゴリー(キング)』と称される。

 まさしくキングの名はその格の通り。彼はスペードスートに当たるカテゴリーK――トランプで表すところのスペードのキングそのものであり、コーカサスオオカブトの祖たる不死生物として多くのアンデッドを倒してきた。

 本来のバトルファイトであればアンデッド同士の戦いで敗れた者は漆黒の石板、バトルファイトの統制者によってラウズカードに封印される。しかし、かつての偽りの戦いにおいても今回の戦いにおいても、統制者の意思を執行する漆黒の石板――モノリスは現れない。

 アンデッドの総意として復活させるべきは、ジョーカーか。それとも統制者か。キングはただ面白いものが見たいだけ。多くのアンデッドたちのようにバトルファイトを再開させたいという意思はないが――彼ら全体のその目的は共通して『物語の終着点』を蘇らせることにあった。

 

「理由は異なれど、目指すべきものは皆同じ……奇妙な巡り合わせだ」

 

 オーロラに消えゆく赤いジャケットの背中を見送る村上。キングは自ら現した灰色のオーロラをもってブレイドの世界の一部を具現化した領域へと戻っていった。

 村上たちオルフェノクの意思は、その未来に王の祝福という安寧をもたらすこと。一度は倒産したスマートブレインをファイズの世界の記憶から具現化させ、自らの居場所として定着させることで、再びその理想に――灰に塗れた手を伸ばす。

 

 人は泣きながら生まれてくる。だが、死ぬときに泣くか笑うかは本人次第。そう語った自らの過去に従い、二度目の死を笑って迎えてなお灰色の夢を見て。

 方舟の名を冠したオルフェノクの王――『アークオルフェノク』の目覚めのため。村上という男は、スマートブレインという企業は。グロンギたちがン・ダグバ・ゼバを求めるのと同様に、アンノウンたちがオーヴァーロード テオスの肉体を伴う再臨を願うのと同様に。

 彼らの未来を約束する王――アークオルフェノクの目覚めを、今一度夢と見ている。

 

 オルフェノク、アンデッド、魔化魍。それぞれが因果を交わし合う法則は交わる座標の境界線、幻想郷に『目的』を重ね。

 共に行動するは彼らが最強と認める存在の復活のために──幻想の物語を喰い破るのだ。

 

◆     ◆     ◆

 

 十番目の世界。束ねられた歴史は記憶の器となりて、九つの世界を具現するフィルムの役割を果たしている。

 しかし、ここは九つの物語のいずれにも該当しない十番目。とある歴史が一つの区切りを迎えた転換点として──物語のない世界を成り立たせていた。

 

 この地には九つの法則が収束している。この世界そのものに物語はないが、この世界は九つの物語を一切の歪みなく許容している。

 グロンギ、アンノウン、ミラーモンスター、オルフェノク、アンデッド、魔化魍。そして今なお幻想郷にも接続されていながら、彼女らの前には姿を見せていない三種の異形も含めた九つの怪人たちが、この九つの世界を呑み込み拡張された十番目の世界に蔓延っている。

 

 ─―彼らは世界の記憶に過ぎない。一度倒された者、封印された者。それらすべてが元あった世界の記憶から具現され、死後の自分と統合されて。

 死を持たぬアンデッドでさえただ解放されただけではない。ブレイドの世界の記憶を元に具現化された始祖たちが本来の自分と重なり、矛盾する自己を元の世界が否定している。

 ブレイドの世界の自分と、具現化された記憶の自分。すでに封印された前者の自分とコピーによって生じた後者の自分が同一と定義されることで、弱い自分は元の世界から消え去った。

 

「ちっ……死に損ないが……」

 

 彼もまたブレイドの世界に存在したアンデッドの一人。上級アンデッドと呼ばれる高位の個体であり、今ある姿が示す通りに人間態を持っている。

 漆黒のコートとサングラスを装った男―― 伊坂(いさか) は、まるでクジャクの如く威圧的な振る舞いで眉をひそめ、黒いグローブを着けた手を逃げ行く灰の怪物に向けた。

 

 その手から放つ火球は同じく黒の装いを纏う男、ファイズの世界を生きた花形を狙う。極めて高い能力を持つオリジナルのオルフェノクとはいえ、不完全な状態のまま具現再生された弊害はその身の衰弱として。

 人間の姿のまま身体から灰を零し、なんとかそれを回避することができたが、爆発の衝撃に吹き飛ばされて近くの岩場に肩を打ちつけてしまった様子。それでもなお、立ち上がった。

 

「あの男に従うのは癪ですが……これも我々の目的のためだ」

 

 伊坂の隣で同じく高圧的な視線を向ける不死の男。灰色のスーツに黄色のネクタイを結び、短い茶髪を整えた知的な眼鏡を装った彼は、溜息混じりにそう呟くと、己の右手に鈍く輝く一枚の羽根を出現させる。

 さながら(ワシ)を思わせる傲慢な振る舞いで小さく鼻を鳴らし、男―― 高原(たかはら) は手にした羽根を鋭く投げ、飛来する過程で三つに分裂したそれは花形の身体へと突き刺さっていった。

 

 本来ならばこの程度の攻撃、意に介す必要すらない。だが、数十年の時を経て限界を迎えた状態――ファイズの世界における2003年の自分自身を元として具現されてしまったために、今の花形は上級アンデッドたちに抗えるだけの力を有していない。

 ただでさえ朽ちかけた身体の上に龍のオルフェノクと交戦したことで、誤魔化しようのない傷を負ってしまっているのだ。

 

 ボロボロと灰を零す身体に力を込めて、花形は死後に獲得した自らの戦う姿、オルフェノクとしての自分を現す。

 今は人間の姿となっている二体の上級アンデッドに向き合い、花形の顔には黒い影の模様が浮かぶ。その直後、彼の姿は灰色に歪み変じ──捻じれ伸びた巻き角の意匠と柔らかな毛皮の意匠を併せ持つ、峻厳にして慈悲深き『父』たるヤギの特質を備えたオルフェノクと化していった。

 

「…………」

 

 一度ならず二度までもスマートブレインの研究室を襲撃し、三本のベルトを強奪したオリジナルのオルフェノク──ヤギに似た『ゴートオルフェノク』。その強さはスマートブレイン現社長であり同様にオリジナルたる村上峡児でさえ手を焼き、取り逃がしたほど。

 花形がその姿を晒した瞬間、アンデッドたちの視界から灰色の怪物は消えた。オーロラをもって別の場所――別の世界の記録へ逃げたのではない。不死の怪物の視力をもってしても捉え切れないほどのスピードを繰り、音を振り切って瞬く間にアンデッドたちの背後を取ったためだ。

 

「…………っ!」

 

 迷いを見せることなく、伊坂と高原も本来の姿――アンデッドとして生まれ持った異形の肉体を晒す。二人は一瞬の光に包まれた後、青い羽根と黒い羽根をそれぞれ散らした。

 

「速すぎる……本当に死に損ないか……?」

 

 漆黒の身体の右半身に金色の意匠を纏った禍々しい鳥人、どこかカラスのようにも見えるが、(ワシ)の特徴を伴うその姿は、スペードスートの『カテゴリー(ジャック)』に分類される、ワシの始祖たる不死生物『イーグルアンデッド』のものだ。

 高原は花形――ゴートオルフェノクの恐るべきスピードに驚愕の声を漏らしつつも冷静に対処する。黒く歪な翼で空に舞い上がりながら、両腕に装備した長大な爪をもって相手を引き裂く。

 

「怯むな。相手は所詮、死んだ人間だ。俺たち不死生物(アンデッド)が恐れる必要はない」

 

 低く冷静な口調で呟く伊坂の姿は蒼い身体に漆黒の装甲を帯びた、こちらも歪な鳥人。突き出た肩の装甲には目玉めいた意匠の派手な羽根が生え揃っており、胸元にぎょろりと睨む不気味な眼球も伴って、この怪物がクジャクの始祖たる不死生物『ピーコックアンデッド』たるを示す。

 

「喰らえ……!」

 

 高原――イーグルアンデッドと同格たる、ダイヤスートのカテゴリーJに分類されるピーコックアンデッド、伊坂は自らの蒼く派手な翼を広げ、そこから無数の羽根手裏剣『アイダート』を射出することで花形の逃げ場を封じる。

 避け切れなかったものの多くがゴートオルフェノクの身から灰を削り取り、蒼白い炎を上げさせるが、花形はそれでも足を止めず、速度を緩めずにピーコックアンデッドを狙った。

 

「……甘いな」

 

「ぐ……ッ……ぅう……」

 

 伊坂の笑みと共にその手に長大な大剣『スウォーザー』が具現される。青い柄を握り締めては、クジャクの尾を模した漆黒の刀身で花形の腹を深く貫いて。

 

「ふんッ!」

 

 すぐさまその剣を引き抜き、コート状の黒い下半身から右脚を振り上げてゴートオルフェノクを蹴り飛ばす。

 深い傷を帯びた花形の腹からはおびただしく、血のように暗い死色の灰が溢れ出した。

 

「……こんなところでは……終わらせん……!!」

 

「何……!?」

 

 ゴートオルフェノクは膝を着いた状態からなおも右手を前に掲げ、世界を引き裂かんほどの圧倒的な衝撃波を放つ。空気を揺るがす波動はピーコックアンデッドを容易く吹き飛ばし、叩きつけられた背後の木々を圧し折らせるほどの破壊力を見せた。

 立ち上がる寸前に、伊坂は目の前まで花形が迫っているのを見る。スウォーザーを振るおうとしても速度が足りず花形の攻撃を許し、身体を持ち上げられて全身に拳を叩き込まれる。

 

「人間が……! 調子に乗るな……!」

 

 ピーコックアンデッドはゴートオルフェノクに火球をぶつけ、爆発に乗じてその拳打から逃れる。翼を有し飛行を可能とする身でありながら、受けたダメージが想像以上に大きく、その着地には膝を着かざるを得なかった。

 身体に刻まれたいくつもの傷からは緑色の血が流れ出る。もう少し反応が遅ければ、己が腰に装うアンデッドバックル──JからKの上級アンデッドだけが持つ金色のそれを開いてしまっていたかもしれない。

 通常のアンデッドが持つものとは違い、上級アンデッドのバックルはただの蛇を表したものではなく、蛇の骨が互いを食い合うような意匠を持つ。下級個体であれば黒いバックルだが、彼ら上級の存在はアンデッドが共通して持つベルトの意匠さえ金色に輝く特別なものだ。

 

 火球を受けて微かに退いたゴートオルフェノクに、今度は上空から羽根の雨を降り注がせるイーグルアンデッド。こちらも上級アンデッドたる身として金色に輝くアンデッドバックルを持ち、死に損ないであるはずの死人が見せた隙を目掛けて、上級アンデッドとしての全力を振るう。

 

「…………」

 

 花形はもはや力も速度も発揮できず。ただ青白い炎に包まれゆく身体を微かに動かし、自らの背後に灰色のオーロラを形成する。溢れる死灰を抑え、花形はそのまま境界に消えた。

 

「逃げるつもりか……? 往生際の悪い……」

 

「まぁ待て。あの様子ではどうせそう長くは持たん。俺たちの仕事は終わりだ」

 

 ゆっくりと舞い降りたイーグルアンデッドは虚ろに歪みながら眼鏡の男、高原としての人間態に戻る。その隣で長剣、スウォーザーを消失させたピーコックアンデッドも同じくサングラスの男、伊坂としての人間態に戻った。

 生来のアンデッドたる彼らにとって人間の姿に『戻る』という表現は適切ではないが、人間社会に溶け込む必要がある現代のバトルファイトにおいては、それが正しいのだろう。

 

「まずはジョーカーの復活だ。奴がいなければ、バトルファイトは始まらないらしいからな」

 

 アンデッドたちにとってジョーカーは最悪の障害物でしかない。しかし、バトルファイトを管理する統制者にとっては必要なシステムということだろう。

 すべてのアンデッドの悲願である万能の力、バトルファイトの勝者の座を手に入れるには再びバトルファイトを開催する必要がある。そのためには、バトルファイトを真にバトルファイトたらしめるジョーカーの存在が不可欠のようだ。

 上級アンデッドならざる身で人間に化けていたマンティスアンデッド──カリス。あの存在がジョーカーだったのであればすべて合点がいく。下級アンデッドであるカテゴリーAが人間態を持つことはないが、ジョーカーの力でヒューマンアンデッドに擬態していたなら。

 

「カリス……今度こそ約束を果たそう。今度こそ、偽りのない本当のバトルファイトで」

 

 高原が思考に浮かべるは共に最後に戦うと約束を交わしたマンティスアンデッド。かつては憎きジョーカーに封印され、姿と力を奪われていたが――

 たとえ今回の戦いにおいてすでに封印されていようと、再びそのラウズカードを取り戻そう。カリスの名は高原――イーグルアンデッドが友と誓ったマンティスアンデッドのもの。断じて仮面ライダー如きの真似事をするジョーカーが冠すべき名ではない。そう強く心に抱き燃やして。

 

◆     ◆     ◆

 

 統合された世界の境界、ファイズの世界として具現化された領域の中。スマートブレイン本社ビルの社長室で、村上は当面の障害と成り得る存在の排除を認めた。

 花形前社長の居場所を突き止められたのは、幻想郷からこちらに情報を送る協力者のおかげである。村上は彼女のことを全面的に信用しているわけではないが、それはあちらも同じだろう。二人は互いに利用価値を見出しているだけだ。

 

 灰色のオーロラが社長室に幕を落とす。九つの世界のいずれでもない世界座標の特異点、幻想郷が存在する一つの世界と接続された暗き帳は、二人の人影をそこに現した。

 一人は、村上が選び抜いたオルフェノクの精鋭、オリジナルの中でも特に強大な力を持つ四人のメンバーで構成された『ラッキークローバー』の一人たる者。

 他を威圧するワニの如き風貌で佇む黒人の男。大柄な体格に鍛えられた筋肉を帯び、青く神秘的な中華風の女性に付き添う彼の名は ジェイ という。

 どちらも日本人ではないが、二人は祖国を離れてなお自らの力を一切揺るがすことはない。

 

「助かりましたよ。貴方のおかげで、予定より早くあの男を始末することができた」

 

 村上は椅子に座ったままの態度を崩すことなく、幻想郷からの来訪者――青い髪に蝶の如き双輪を象った邪仙と向き合う。感謝を告げる相手は、逃走した花形を居場所を伝えてくれた人物――霍青娥であった。

 彼女は幻想郷を裏切りこちら側についたと見なしていいのか。目を細めて妖しく笑う姿にどこか危うい深さを感じさせるが、元より村上は心の底では誰も信用などしていない。

 

「それは何よりですわ。それで、約束したものはちゃんといただけます?」

 

 青娥は湛えた微笑を崩さぬまま羽衣を揺らして歩む。邪仙と称された由来は、その手法だけに非ず。彼女が志す善悪の境界によっても語られる。彼女は目的のためなら手段を選ばない。善も悪も関係なく、ただ自分がやりたいことを何よりも優先するのだ。

 相手が望み、自分がそれを望むのなら、行きつく先が破滅でも。自分が『良い』と思ったことであれば、辿る未来が最悪の結末になろうと。彼女はその行いを躊躇することはないだろう。

 

「ええ、勿論。これは協力のお礼です。どうぞ、貴方の研究とやらに役立ててください」

 

 デスクの引き出しから取り出したデバイスを見やりつつ、村上は椅子を引く。青娥に向けられた余裕ある微笑は、向かう彼女と同様に拭えぬ胡散臭さを滲ませている。

 青娥はその顔と風格から、一瞬だけ村上が有するオリジナルのオルフェノクたる姿――灰色よりも美しい純白を見た。他のオルフェノクと違って全身の装甲は薄く生身に近い。さながら茨の如く突き出したいくつもの棘と、透き通った頭蓋を持つ怪物。

 頭蓋の中に白く咲き誇る薔薇が示すは彼が『ローズオルフェノク』と呼ばれる強大な個体であること。村上の自尊心が現すのか、装甲や武器といったものをほとんど帯びぬ姿はバラの特質を備えたオルフェノクに相応しい。幻影と映った一瞬は、すぐに生身の村上に戻った。

 

「ふふっ……確かに、受け取りました」

 

 ゆっくりと立ち上がった村上の手から青娥の手に渡されたもの。スマートブレインのロゴが刻印された銀色のデバイスは青娥の手よりもやや大きい。下部に設けられた三つのボタンのうちの一つを押すと、それはファイズフォンのように画面を開いた。

 画面に視線を落として表面上の笑みに心からの笑みを微かに滲ませながら、スマートブレインの情報端末――『スマートパッド』から専用のメモリーカードを引き抜いては懐へしまう。

 

 そこに込められた情報はオルフェノクの記号と呼ばれる遺伝子データの一種だ。オルフェノクをオルフェノク足らしめる要素として最も重要な因子であり、各オルフェノクの固有の能力を記録するものとしても機能する。

 彼女が受け取ったそれは神子に宿る花形の固有記号――ゴートオルフェノクの記号と同様に、村上峡児という男だけが持つ特殊な記号だ。

 ローズオルフェノクの記号とでも称すべきその因子はデータおよび灰の粒子としてスマートパッドのメモリーカードに記録されている。青娥は協力の対価として、そのデータを受け取った。

 

「そう睨まないでほしいわね。……心配しなくても、悪用(・・)なんてしませんから」

 

 青娥は自身を見つめる――睨みつけていると言ってもいい猟犬の如き視線に告げる。剥き出しの不信感を突きつけるジェイは、青娥に淀んだ悪意を見ていた。

 そう思われても無理はない振る舞いであるが、彼女はそれを心外だと捉える。彼女に悪意はない。しかし、善意もない。村上は道教の思想に疎いため、彼女がそれを必要とする理由が分からなかったが、今は花形を倒せただけで十分だ。

 もし彼女が見た目通り何かを企んでいるのだとしても問題はない。たとえオリジナルのオルフェノクの力が利用されようとも、本来の記号の所有者である自身に抗うことはできない。記号を埋め込んだだけの存在が、純粋なオルフェノクとして覚醒した者に及ぶはずがないのだ。

 仮に三本のベルトが束になって立ちはだかろうと、村上にはそれを蹴散らすだけの力がある。

 

「Mr.ジェイ。彼女をあちらの世界――幻想郷まで送り届けてもらえますか?」

 

 村上は花形の死から実行できる様々な未来を夢想しながら言う。青娥と同様に花形抹殺の任を担った異世界の怪物二体もまた信用できないが、この十番目の世界の総意に従う、九つの法則に連なる者ならばまだ安心できる。

 それぞれの目的が果たされた後であればこうはいくまい。今はただ一時的な協定を結んでいるだけ。九つの世界を束ねる『あの組織』が自分たちに何を求めようと、それは変わらない。

 

「……Yes, Boss.」

 

 ジェイはどこか不服そうに、それでも己が力を超える強者と認めた村上に従う。黒く大きな手を背後にかざすと、彼の後ろには再び灰色のオーロラが形成された。

 世界を渡る灰色のオーロラは十番目の世界の『とある存在』の恩恵によって与えられた力。一度は倒され、あるいは封印され、あるいは浄化された九つの世界の異形の怪物たちがかつての記憶を持って蘇り――その身に宿し持った未知の異能。

 故に、青娥はその力を有してはいない。万物の境界を操る八雲紫であれば単独で世界を越えることができるが、いくら道教の仙術に優れていようとまったく異なる法則の因果を辿った別の世界に赴くことはできない。それを補うには、彼らのオーロラの力を借りるしかないのだ。

 

 オーロラの先に揺らめくのは青娥も見慣れた自然豊かな日本の原風景、幻想郷の景色。こことは異なる世界の、さらにその山奥に存在する結界の中の楽園に局所的にオーロラを繋げることができるのは、とある人物のおかげだ。

 それは幻想郷からこちらに情報を与えた霍青娥でも、幻想郷に各世界の楔を招いた八雲紫でもない。組織の者はそう言っていたが、ファイズの世界に由来する存在――オルフェノクだけを統率する立場にいる村上には詳しい情報までは与えられていなかった。

 別世界の状況は大まかにしか掴めていないものの、おそらくはアンデッドたちを統率する上級アンデッドという集団、魔化魍たちを統率する血狂魔党という集団も同様であると判断できる。

 

「それでは、ごきげんよう」

 

 スマートパッド本体を蒼い中華装束の懐に収めながら、青娥は笑う。オーロラの波から吹き込んだ風が羽衣を揺らしつつ、空色の髪を靡かせた。

 

「引き続き幻想郷(あちら)の偵察をお願いします。花形前社長(あのおとこ)は──ただで死ぬとは思えない」

 

 黒い靴をふわりと浮かせ、灰色のオーロラへと振り返った青娥に対して。村上は真剣な表情でそれだけ告げる。

 青娥はその言葉に何も返すことなく、ただ首だけを傾けて振り返った笑みをもって頷き。村上とジェイのみが残されたスマートブレイン社長室の神秘の気配と共に、姿を消した。

 

「……精々(せいぜい)、我々の役に立ってくれることを期待していますよ」

 

 青娥を元ある幻想郷へと誘った灰色のオーロラに向け、村上は小さく独り言つ。揺らめく波紋の中に一匹の蒼い蝶――儚く舞う命の灯火が如きモルフォチョウが入り込む様を見届けながら。やがてオーロラも掻き消え、社長室にはただ静寂だけがもたらされた。

 

 ラッキークローバーの一員たるジェイにはまだ別の仕事が残されている。彼はその遂行のために別のオーロラを形成した。幻想郷に接続されるものとは違う、この十番目の世界の別の座標に繋がるオーロラ。

 三本のベルトの奪還もまたジェイの仕事ではある。しかし、今はそれより重要な目的のため。村上が彼にも伝えていない『王の目覚め』のため――必要な世界の記憶(・・・・・)を集めに別の領域へ。

 

「…………」

 

 村上が自信に満ちた笑みを浮かべて見上げる社長室の二階、手すり越しに見える通路には一人の女性が立っていた。青と黒の近未来的な意匠を持つスーツにはスマートブレインのロゴが大きく刻まれ、彼女がこの会社のイメージガールだと示している。

 短く切り整えられた黒髪に疾走(はし)る青のメッシュ、髪型と同様に短い青と黒のスカート。それらはスマートブレインの威光を表すモルフォチョウをモチーフとしているようだ。

 

 個人の名前として自ら名乗るわけではない。ただスマートブレインから与えられた役職として、彼女は『スマートレディ』という製品に近い無機的な名で呼ばれている。

 人間なのかオルフェノクなのか、はたまた生物であるのかさえ定かではないその女は、オーロラへと消えたモルフォチョウが見た膨大な情報を処理し。それをデータとしてまとめることで村上のパソコンへと送っていた。

 

 青く、妖しく、どこか淑やかに麗しく。底知れぬ不気味さを湛えて微笑むその表情と服装の青さは、邪仙とも称された仙人――霍青娥に通ずるものを感じさせる。

 表面上を見れば近しい雰囲気だが、スマートレディは親たるスマートブレインに揺るぎない忠誠を誓っていた。

 たとえ如何なる命令が下ろうと、彼女は会社のためであれば眉一つ動かさずに実行するだろう。その精神もやはり青娥に近いのかもしれない。されど、彼女とは違い青娥には特定の拠り所に執着することなくすべての判断を自らの基準で決めるという蝶に似た自由意思がある。

 

 善悪の境界を持たない点もどこか似ているものの──スマートレディはただ、スマートブレインという企業にすべての判断を委ねているだけ。必要なのはスマートブレインという会社そのもの、組織そのものであり、それを統率し得る『社長』の是非については拘りを持たないのだ。




伝わるかどうか分かりませんが、某オブザレイズのカレイドスコープ的な感じに似てるかも。

次回、STAGE 42『賢者の誤算 Lost Phantasm』


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第42話 賢者の誤算 Lost Phantasm

 無数の目玉がぎょろりと蠢く異空間、幻想郷の境界に切り拓かれたスキマの中。妖怪の賢者、八雲紫は三つの裂け目に映し出された境界の先を観測していた。

 向こう側からはこちらを見ることができない特殊な結界を通してその先へ。紫が向ける視線の彼方はそれぞれ三つ。霊夢と美鈴がいる霧の湖、お空と勇儀がいる旧地獄、文と妖夢がいる妖怪の山の景色だ。

 彼女らはそれぞれ五代と真司、翔一とヒビキ、巧と剣崎の言葉を借り、彼らが生きた世界の物語を知る。場所と時間帯もあってか少ない言葉で簡単に説明し、あまり深くは語らず。

 

 霊夢と五代は博麗神社に、美鈴と真司は紅魔館に戻った様子。帰りを待つ者たちを心配させないため、交換できた情報はそれぞれの勢力で共有する。

 同じくお空と翔一は地霊殿に戻り、勇儀とヒビキとパルスィは旧都へと戻っていく。文と巧、妖夢と剣崎に関してだが、こちらは帰るべき場所が冥界の白玉楼という高所にある領域であり、そう簡単に戻ることができないらしい。

 妖夢の力では剣崎を抱えて冥界まで飛んでいくことができない。鴉天狗たる文の力なら可能かもしれないが、すでに夜も遅く、今晩は彼女の領域で朝を待つつもりのようだ。

 

 剣崎一真が所有するブルースペイダーなるバイクは幽明結界に取り残されてしまっている状態。妖怪や妖精の手に渡り悪用されるのを防ぐため、マミゾウに頼んで一時的に預かってもらうこととしよう。アンデッドなどの怪人の手に渡るのだけは避けたいところだ。

 紫は静かにそれらを見渡すと、納得したように三つの裂け目を優しく閉じる。続いて小さく手を振って目の前に現すは、九つの紋章――ライダーズクレストを表した仄かな輝きだった。

 

「…………」

 

 古代リント文明において戦士を表す象形文字。その紋章はクウガの世界と繋がっていた。大きく角を広げた龍の顎の如き形。その紋章はアギトの世界と繋がっていた。燃え上がる龍の闘志を秘める意匠。その紋章は龍騎の世界と繋がっていた。

 楕円に斜線を描くものはファイズの世界と。スペード型に広がった剣に似たものはブレイドの世界と。巡る三つ巴めいた鬼火の鼓は響鬼の世界と――それぞれ繋がっていた(・・・・・・)

 

 今の紫では境界の痕跡こそ観測できれど、実際にその世界へ行くことができない。繋がり自体は保たれているものの、その『経路』が形成されていないのだ。

 世界そのものが消滅したのであれば、消滅した後の無の世界には行けるはず。しかし実際には歪んだ世界の形が見えるだけで、結界に阻まれているように向こう側の世界には行けない。

 

「想定通りの想定外、でもここまでの想定外は……想定になかったわ」

 

 九つの紋章のうち六つまでもが未だ観測できていない別の世界に収容されている。そこまでは判断できたが、六つの世界との接続は未だ残っているにも関わらず、それらの世界を内包する十番目の世界とでも呼ぶべきものの座標が特定できない。

 おおよその予想はつく。それはきっと、あの力と同じ法則に依る世界だ。紫はそう心の中で考えながら、スキマの中にしまったベルト──『ディケイドライバー』に想いを馳せた。

 

 次元を超える『旅人』の性質。あのベルトと同様、あの世界――『ディケイドの世界』はありとあらゆる時空を無作為に漂っている。ディケイドライバーの法則を辿れば行けるかもしれないと思ったが、成し得なかった。

 ディケイドライバーはあくまでディケイドの法則に過ぎない。十番目の世界は便宜上ディケイドの世界と呼ばれているが、それはあくまで『彼』がディケイドに選ばれたから。

 真の意味でその世界を定義するには、正しく『門矢士の世界』と呼ぶのが相応しいのだ。

 

「あと少し……だけど」

 

 無限に広がる万物の隙間の中に、とある世界を旅していた門矢士を拘束している。意識を操って夢の中に誘っており──肉体も連れ去った時点のまま変化することはない。

 ディケイドの力は、世界を破壊する力。幻想郷だけでなく、幻想郷が存在する『外の世界』にまで影響が及ぶ。そんな力が敵に回れば、この物語はそれで終わり。何より、このディケイドの力がなければ九つの世界の座標を掴むことさえできなかった。

 

 門矢士が持つ『世界を渡る力』。ディケイドが持つ『世界を繋ぐ力』。そのどちらもが揃ったことで、紫は幻想郷とは何の関わりもない世界を辿ることができた。座標を特定し、それぞれの世界の楔を幻想入りさせることができた。

 ─―ディケイドの世界に紡がれる物語はない。故に、門矢士も幻想郷の楔としては機能しない。だが、彼には彼の役割がある。九つの楔をすべて引き入れたとき、すべてを破壊し、すべてを繋ぐための最後の鍵として。

 紫は役割を終えた六つの紋章から目を離し、残る三つの紋章を見る。それぞれカブトムシの背中、レールめいた真円、コウモリに似た牙と翼。もう少し様子を見るつもりだったが、それぞれの世界はそれまでの六つの世界と同様に歪み始めていた。道が消えるのも時間の問題だろう。

 

「……これはちょっと、急いだほうがいいかもしれないわね」

 

 紫は懐から三枚のカードを取り出す。カブトムシに似た雄大な角、桃を割ったような電車の仮面、誇り高き吸血鬼を思わせるカボチャめいた複眼。それぞれの戦士がいる世界へと繋がる道をゆっくりと歩み、まずは一歩――自由と正義をかざす最高速の物語へ。

 すでにそちらの世界の技術は拝借している。あとは楔を幻想郷に繋ぎ留めることで、彼方の世界の物語、法則を『記録』していくだけ。

 覚悟を決め、紫はカブトムシの紋章へゆっくりと溶けていく。天高くそびえ立つ世界遺産の塔、そこに似つかぬ白い豆腐を持った青年に向かって。妖しさを孕んだ微笑みを湛えながら。

 

◆     ◆     ◆

 

 夜を迎えた妖怪の山。灰に染められた崖の下で、神子はその身に刻み込んだ記号が呼応するのを感じていた。

 肌を伝う異界の光と共に、灰色のオーロラは神子の背後に現れる。振り返った彼女が目にしたのは、宿した記号の波動と同じ──ゴートオルフェノクの姿。

 

「……そうか……やはり……」

 

 神子は眉をひそめた。全身に誤魔化しようのない傷を負い、おびただしい灰を零しながら身体を引き摺る姿を見て、彼――花形の命が尽きかけているのだと理解させられる。

 彼を狙うスマートブレインの者の攻撃だろうか。これだけのダメージを受けてしまえば、いくら強大なオリジナルの個体といえど死は免れまい。

 

 身体から零れる灰を抑えるも、肉体を再生する速度が追いついていない。傷口から燃え上がる青白い炎もその身体を苛み、花形自身もそれを理解しているが故に、身体の再生に意識を集中するよりも。全身に残った最後の力を右手に輝き現し、オルフェノクエネルギーの塊として。

 

「受け取れ……」

 

 力なく膝を着いた状態のゴートオルフェノクはさらさらと崩れゆく右腕を神子に差し出す。右手の平の上に輝く光の球は、神子の頷きを見るかのようにゆっくりと浮かび上がり。

 ゴートオルフェノクの遺志たる誇り、金色に輝く想いとなって、神子の身体に刻み込まれた。

 

「ぐっ……うう……!!」

 

 絶大なエネルギーが神子の身体を染め上げる。細胞の一つ一つが金色の光に染められ、神子の全身に凄まじい力の奔流が注ぎ込まれる。

 身体から青白い炎が燃え上がる様が神子自身からも見て取れた。熱はないものの、この身の内に蒼く滾る波動が、強く全身を苛む激痛として感じられる。

 

 ただの人間であれば、その干渉をもって彼女の心臓は焼失していただろう。エネルギーに耐え切れず灰と朽ち果て死に至るか、あるいはオルフェノクとして覚醒するか。

 ゴートオルフェノクの記号に順応しつつあった神子は、尸解仙という死の超越者、一度の死を超えて仮初めの肉体を己が存在とすることで仙人に至った者として、その精神の徳の高さから人間を超えている。

 耐えるのだ。人としての身を灰と朽ちさせることなく、仙人として──尸解仙として、ゴートオルフェノクの力だけをその身に取り込む。本来ならば花形の協力のもと、ゴートオルフェノクの記号に少しずつ馴染むことでその法則を宿すつもりだったのだが――

 

 神子の身体から青白い炎が消える。精神的なエネルギーの光を表すそれは、物理的な熱を伴い、身体を焦がすものではない。

 乱れていたオルフェノクエネルギーが身体の奥底で整っていく。神子が有する仙人としての力と、花形から受け取ったゴートオルフェノクの力。死んだ肉体に馴染んでくれるのは、この身体に刻み込んだオルフェノクの記号に適合できていたおかげだ。

 

 苦痛から解放され、己が右手に視線を落とす神子。その身はオルフェノクになったわけではない。ただ一部の鴉天狗たちと同様に、記号を宿しているだけ。だが、ゴートオルフェノクが持つ固有記号は、オルフェノクの力を受け入れる器にもなる。

 彼女は尸解仙のままオルフェノクに至ることなく――純粋なオルフェノクと同等の記号とエネルギーを宿した。それも、花形という極めて強大なる個体の力、オリジナルと同じ力を。

 

「…………」

 

 蒼白い炎に包まれ、だらりと力なく右腕を下ろした花形に真剣な視線を向けて。ゆっくりと頷いたのを最期の合図とするかのように、ゴートオルフェノクはその肉体を維持できず――灰と崩れ落ちた。

 聖徳王として生まれ持った奇跡の異能はこの胸に。神子が有する『十人の話を同時に聞くことができる程度の能力』はただ十人の声を聞き分けられるというだけではない。

 

 人間も妖怪も問わず、あらゆる者の十の欲を聞き分ける力。彼女は生まれついた頃からこの力をもってして多くの悩みを聞き、為政者として正しく人を導いてきた。あるいは聖人として、超人として。人の先に立つ輝きの象徴として振る舞ってきた。

 道教の仙術をもって人を超え、尸解仙に至ったこの身。その耳で、花形がその胸に抱き燃やした最期の願いを――欲を聞き。彼が伝えたかったことを、神子は何も問うことなく理解する。

 

「……私も覚悟を決めるとしましょう」

 

 もはや物言わぬ灰の山と化した協力者の亡骸を見下ろし、目を閉じてその死を弔う。すでに死んでいるのは彼も自分も同じ。だが、死を超えて生きている異例の命は、オルフェノクと尸解仙の親近感に、何か奇妙な気持ちを抱かせる。

 神子は目を開く。花形の欲から聞いたことを、覚悟として胸に抱く。自分自身にそう在ることを戒めるように、神子は己が右腕を鋭く横へ広げ――自らの装いを光と変えた。

 

 その姿は、まさしく帝王が如し。袖のない衣服を纏っていた先ほどまでの服装は変わらず、そこに自ら定めた冠位十二階の最高位を表す、紫色の威光に染まった外套を羽織っている。

 襟を立てた外套を装い、神子は心を切り替える。かつて一人一人と対話をしていた聖人としての自分を隠し、道教の指導者として多くの人間を導く仙人の自分に。

 

 そこへ不意に、幻想郷らしい風を感じ捉えた。神子が目にしたのは、崖の上からふわりと舞い降りる一人の鴉天狗の姿。

 黒く冷たい秋の夜風に乗りながら、姫海棠はたては神子の外套と同じ紫色のスカートを揺らして。怪訝そうな表情で向き合う神子と視線を交わし、神子はその姿に自身の正しさを見た。

 

「ほう、上手く適合できてるじゃないか。私の選択は正解だったらしい」

 

 自信に満ちた表情で告げる神子。はたては使用者を死に誘うカイザギアを使っても灰化に至っていないようだ。そのベルトの使用の前提として、他の鴉天狗たちと同様、彼女には一般的なオルフェノクが共通して持つ記号を埋め込んでいたが――

 花形から提供された『教え子』の一人が持つ記号を追加で宿すことでライダーズギアへの適合率をさらに高めた。無論、それだけでカイザギアを使いこなせる確証はなかったが、どうやら神子のその判断は正しかったようだ。

 

 はたての身にはとある青年、花形の教え子の一人であり、他の教え子たちと同様にスマートブレインの技術によって一度の死から蘇生を果たした男の記号が宿っている。

 教え子たちの多くはただ記号を埋め込まれただけで、人間の限界を超えることはできなかった。カイザギアの使用権限こそ獲得できるほどには適合できたが、そのいずれも変身解除後には灰と化してしまう、不完全なオルフェノクの記号だった。

 唯一カイザギアを使い続けることができた男も完全な適合ではなく、記号を消費することで変身を続けていられただけ。当時はまだ花形が社長を務めていたスマートブレインが目論んだ『人工的なオルフェノク』の覚醒には誰も至らず。――ただ、一人の青年を除いては。

 

 澤田 亜希(さわだ あき)。彼は仲間たちの中で唯一、記号を埋め込まれたことによるオルフェノク化を果たした。クモの特質を備えた『スパイダーオルフェノク』として新しい力を手に入れたが、結局は彼も自覚する通り、不完全なオルフェノク、失敗作の一つに過ぎない。 

 一度は力に溺れ多くの人を手にかけてしまったものの、とある少女への恋慕と、オルフェノクでありながら人の心を捨てなかった、狼の如き男への借りを返すため。三度目の生を具現化によって受け、人の側に立っている。

 幻想郷に招かれた乾巧にファイズギアを渡したのも彼だ。その彼の持つ固有の記号、スパイダーオルフェノクの記号が、花形の手から神子の手へ。そして今――はたての身に宿っている。

 

「神子……だっけ? どうして私を退かせたの? あのベルトが必要なんでしょ?」

 

 夜も更けた妖怪の山にて、神子の目を見て冷静に問うはたて。日中、乾巧が変身するファイズと交戦したはたては初めてカイザギアを使用してから数時間は経過している。灰化の予兆が見られない以上、適合は成功したと見ていいだろう。

 神子の意思を帯びたカラスに伝えられ、あのときは交戦を中断させられてしまった。ファイズギアを取り戻すことを目的に駆り出されたというのに、退かされたのだ。

 

 納得のいっていない様子のはたてに刻まれたスパイダーオルフェノクの記号は、ゴートオルフェノクの記号と違ってオルフェノクとしての潜在的な力はそこまで大きくない。大した負荷をかけることなく、はたての身体に固有の記号として定着している。

 そんな記号を埋め込まれて。カイザギアを使うという覚悟を試されて。協力者であるはずの花形が選んだ男から乾巧へ渡されたであろうファイズギアを取り戻す。その意図がはたてには理解できない。それでも青娥よりかは信用できるだろうと判断し、やむなく神子の言葉に従った。

 

「予定が変わった。あの男はおそらく──」

 

 神子は悠然とした微笑を不意に消して、真剣な口調で小さく呟く。困惑するはたてがその言葉の意味を理解できないでいると、神子はちらりと自身の背後を気にする素振りを見せた。

 

「いや、今は言うまい。それより、カイザのベルトを見せてもらえるかな?」

 

 王者の如き威厳を崩すことなく神子は歩み寄る。その身体にはゴートオルフェノクの記号がもたらす絶大な力の負荷がかかっているはずだが、彼女はそれを表情に出さず。余裕を失うことなく自信に満ちた態度で振る舞っている。

 はたてもまた記号による負荷を表情に出してはいないが、神子とはたての記号はその強さが桁違いと言っていい。もし神子に埋め込まれたゴートオルフェノクの記号がはたてに宿っていれば、彼女は無事では済むまい。神子でさえ、尸解仙でなければ危ういほどだ。

 

「……どうするつもりなの?」

 

 天狗としての妖力で歪ませた空間からカイザギアのアタッシュケースを取り出すはたて。怪訝そうな表情のままそれを神子に渡し、彼女がその中身のギアを確認する様子を見る。

 

「思った通り。微かな残滓ではあるが……『記号』の採取に問題はない」

 

 神子の表情に再び戻る微笑。僅かに細められた瞳に映るは、それぞれ携帯電話やベルト、デジタルカメラや双眼鏡たるデバイスの上に位置する十字状の特殊武装――カイザブレイガンと呼ばれる武器であった。

 尸解仙に至ってなお修行を忘れず道士として鍛え上げられた神子の眼が見るは、彼女でさえ見逃してしまっていてもおかしくない無に等しい残滓。吹けば消えてしまいそうな小さなものではあるが、それは間違いなく『オルフェノク』だけが持つ灰の細胞の粒子だ。

 

 乾巧を斬りつけたカイザブレイガンにそれが付着している。無論、それだけで神子の推測が正しいとは断定できない。はたてが使う以前にカイザに変身していた鴉天狗が倒したオルフェノクのもの、と考えるのが最も合理的な推論だろう。

 だが、これまで天狗組織で倒してきたオルフェノクの中にはここまで強大な反応を持つ『固有の記号』を持つ者はいなかった。オリジナルと見られる個体も中にはいたが、撃破した後の灰の気配を見てもそれは変わらず。

 これだけ微かな灰でありながら狼の如く他を威圧する牙の如き気配は、まさしくオリジナルの中でも上位に位置する血。精錬すればゴートオルフェノクに匹敵する力となるかもしれない。これまではカラスや天狗の報告でしか確認できなかったが、もし直に出会えたとしたら――

 

 神子は頭の中に構築していた計画を一度白紙に戻し、この『狼の記号』を用いた計画を組み直すことを検討する。

 オルフェノクの記号とは情報に過ぎない。物理的な細胞ではないため、たったこれだけの小さな灰の残滓であろうとその情報は揺るぎなく採取できる。人間の髪の毛や爪の欠片から遺伝情報を手に入れるのと同様、個体の一部が少しでも残っていれば問題はない。

 この灰の残滓から『ウルフオルフェノク』と定義できる個体――乾巧の固有の記号を得る。そしてその情報を仙術で精錬し『狼』と親和性の高い天狗の一部に埋め込む。当初は鴉天狗だけに記号を与えるはずだったが、まずはファイズギアの奪還よりそちらの研究を優先しよう。

 

 神子は古めかしい実験器具に灰の残滓を回収し、カイザギアをはたての手に返すのだった。

 

◆     ◆     ◆

 

 夜。闇に包まれた霧の湖畔は、昼よりもさらに妖しく真紅の洋館を不気味に映す。すでに美鈴も真司も戻っており、咲夜やパチュリーたちにも彼らが聞いた物語――『クウガ』と呼ばれた戦士の物語をある程度伝えていた。

 夕暮れの中から戻ってきた二人がその話をして数時間。すでに日は落ちて久しいが、妖怪や妖精という魔物ばかりが住まう紅魔館において、夜の休眠が必要な者は少ない。

 

「ふぁ……ああ……今日もよく働いたわ」

 

 二階のバルコニーから月を見上げ、十六夜咲夜は人間としての疲労を零す。いくら人並外れた能力を有しているとはいえ、メイド長としての業務と仮面ライダーとしての戦いが重なれば疲労が募るのも当然のこと。

 時間を操る程度の能力をもってすれば無限にも等しい休憩時間が取れる。従来通り、そうやって数々の激務をこなしては一人だけ止まった時間の中で休憩を取り。彼女の優秀さと労力を思えば、紅魔館で働く無数の妖精メイドたちには成し得ない特別な休み方も咲夜には必要だった。

 

「能力は……使えるわよね」

 

 咲夜は先ほどの戦闘――美鈴たちが霧の湖に向かった直後、紅魔館の中に出現したミラーモンスターと戦っていたときのことを思い出す。

 今この場で改めて能力を行使し、少しのあいだ紅魔館の周囲を停止、空を舞う妖精がぴたりと止まったことをその目で確認する咲夜。やがて時間停止を解き、再び肌を撫でる夜風を感じると、どこか安心したような顔を見せ。懐にしまったナイトのデッキを微かに訝しんだ。

 

 紅魔館に現れたミラーモンスターはさほどの強敵ではなかった。ダークウイングと協力すれば単独で撃破することは容易だった。地下の図書室に現れたため敬愛するお嬢様の友人たる、パチュリー・ノーレッジを巻き込んでしまう危惧はあったが。

 無論、パチュリーとてレミリアに匹敵する戦闘能力を持つ。体力と身体能力の問題さえクリアすれば吸血鬼と肩を並べて戦うこともできるだろう。咲夜の懸念は彼女に対してではない。その戦闘中、攻撃を受けそうになったパチュリーを守ろうとした瞬間のことだった。

 

 モンスターが放った光弾から彼女を守ろうと、咲夜はナイトに変身したままの状態で能力を行使しようとした。止まった時間の中で攻撃を逸らそうとした。

 ――結論から言えば、それは無事に成し遂げられた。咲夜の意思に答え、紅魔館の時計は動きを止め。チクタクと時を刻む懐の懐中時計の音も静寂に消えていた。パチュリーを光弾から守り通すことはできたのだが──自ら時間停止を解く前に、周囲の時間が動き出していたような。

 

「……気のせい、だったのかしら」

 

 今は問題なく時を止められる。何ら制限を受けることなく、停止と解除を自由に行える。あのときと違いがあるとすれば、モンスターと対峙しているときか――あるいは『仮面ライダーに変身している』ときか。

 咲夜は後者の可能性を一度試そうと、懐からナイトのデッキを取り出そうとするが――そのとき夜色の彼方から届く馴染みある魔力の気配を感じて、デッキをメイド服に戻した。

 

「あら、お嬢様。ずいぶんと遅いお帰りですね。いったいどちらに?」

 

 主を心配させぬよう、変わらぬ笑顔でレミリア・スカーレットの振る舞いに向き直る。赤い靴を鳴らし、バルコニーに降り立った吸血鬼は月を背に。すでに日の落ちた幻想郷においては不要となった──畳んだ状態の日傘を咲夜に渡す。

 咲夜はフリルのあしらわれたピンク色のそれを魔力でもって虚空にしまい、空間を飛ばすことで当主の部屋に戻しておいた。

 

「ちょっと幻想郷の現状を調べようと思ってね。それより、何か変わったことはあった?」

 

「変わったこと……ですか。そういえば、美鈴が霧の湖で奇妙なやつと出会ったと」

 

 静かな口調で向けられたレミリアの問いに対して、咲夜は少しの思考の後、レミリアに答える。美鈴と真司が語った戦士の存在は咲夜にとってもやはり神崎士郎が開発した仮面ライダーを思わせるが、どうやらそうではないらしい。

 デッキがあるべき腰には宝石めいた光が灯っていた。騎士の兜があるべき場所には剥き出しの複眼が昆虫めいた闘志を輝かせていた。特徴は似ているが――龍騎とは根本から異なる者。

 

「奇妙なやつ? 何それ」

 

「なんでも、赤かったり青かったりするクワガタムシのような仮面の戦士だとか」

 

 レミリアは咲夜の言葉に左右半々で赤と青を装う、八意永琳のような仮面ライダーを思い浮かべる。そんな月の頭脳を思わせる奇抜な天才ライダーなどおるまい。クワガタムシという言葉から思考をやり直すと、レミリアは思考に走る紅色を見た。

 霧の中に張り巡らされた無数の紅い鎖。その中の一つが繋がる『運命』に、赤や青、緑や紫といった様々な色へ姿を変えるクワガタムシめいた奇妙な仮面の戦士を垣間見る。

 

 クウガ。咲夜は美鈴と真司の口からその名を聞いたのだという。神崎士郎やミラーワールドの法則に依らない戦士。レミリアは、それが龍騎の世界とは異なる世界の者であると確信した。それは、別世界の存在であると。

 運命を操る程度の能力をもって観測した未来の一つ。複雑に絡み合っており正確には判断できないが、おそらくその存在もフランドールの灰化現象に直接関わる世界ではない。あくまでただの勘でしかないものの、数多くの運命を見てきたレミリアの勘は霊夢のそれに等しいものだ。

 

「あいつは今どうしてる? あの赤い騎士の……キット……なんとかだっけ?」

 

「……城戸、ですわ。城戸真司。今は眠ってます。お嬢様にご挨拶をと思ったのですが……」

 

 レミリアは思考の中に入り混じる境界――『九つの物語』の一部を運命として観測した。咲夜から聞いた『仮面の戦士』なる存在が、龍騎――城戸真司以外にも現れることは想定済み。見えた物語の数が正しければ、それらもおそらく九人存在する。

 ただ厄介なのは、やはり九つの物語がバラバラに混在してしまっているせいで、思考を結ぶ運命の鎖を選んで観測することができないこと。

 相変わらず紅い瞳に映る運命は混沌。幻想郷の先に繋がる未来には何もない。それでも賢者たちの働きだろうか。当初は三つか四つ程度の因果しか観測できなかったときとは違い、九つの因果が観測できた今では交わる鎖の乱れ方もだいぶ安定してきてきるように見える。

 

「そんなのいらないって。あいつの人柄は『見て』分かってるから」

 

 これから起きる運命が正しいのかは分からない。九つの世界の可能性が入り混じったこの幻想郷の運命は、レミリア・スカーレットの瞳をもってしても完全には見えず。ただでさえ不安定な運命、確信をもって口に出せるほど揺るぎないものではない。

 運命を操る。――否、運命を変える。城戸真司が歩んだ過去の道は分からない。彼女が見て取れるのは運命であり歴史ではない。

 それでも、彼が『やがて辿る』運命において、レミリアは彼が過去に抱いた覚悟を見た。決められた運命を変えるという意思。確定された因果に抗う炎。幾度、輪廻を迎えても。散っていったライダーたちの想いを無駄にはしないと。同じ志を持つ『占い師』に誓って。

 

 運命なんて信じない、とでも言わんばかりのバカの決断に、少女は賭けてみたくなった。

 

◆     ◆     ◆

 

 紅魔館地下室、大図書館。すでに幻想郷の日は落ちて久しいが、吸血鬼と魔女を筆頭とするこの屋敷は未だ紅き月の光に眠らず。月の意匠を湛えたナイトキャップを揺らし、百年の歳月を生きた魔女は静謐な机に向かい、調べ物をするときにだけ装う眼鏡越しに『それ』を見た。

 

「…………」

 

 パチュリー・ノーレッジが視線を落とす先は、美鈴が持ち帰った腕輪らしきもの。彼女が言うにはそれは霧の湖で撃破した怪物――ミラーモンスターならざる別種の生物がその手首から落としたものなのだという。

 彼女らはその名を知らぬズ・バヅー・バと呼ばれたグロンギ。共に戦った戦士の言によれば未確認生命体第6号と称された怪物は、死の際にその装具をその身から落とした。

 

 グロンギ族がその手に携える腕輪、グゼパなる装備は、本来ならばクウガの世界において殺したリントの数を数えるための計測器に過ぎない。いくら技巧に優れた『ヌ集団』と呼ばれるグロンギが造り出したものとはいえ、特別な力は込められていなかった。

 だが、今は違う。クウガの世界の法則など知らぬはずのパチュリーにも分かるおびただしいまでの悪意の発露。ここに込められた力は、間違いなく幻想郷の者たちから力を奪うことを目的として生み出されているとしか思えない。

 腕輪に蓄積した情報とエネルギーは紛れもなく妖怪や妖精たちが持つ霊力、あるいは妖力と定義される幻想的なエネルギーだ。奴らはそれを回収して、いったい何を企んでいるのか。

 

「レミィや咲夜が言っていた世界とも違う……やっぱりそういうことね」

 

 グゼパが刻む法則は、ミラーモンスターやカードデッキが存在する龍騎の世界の法則とは違う。美鈴や城戸真司が出会ったという戦士は、推測通り異世界の存在と考えるべきか。

 紅魔館にモンスターが現れたのと同様、未知の怪物が現れた理由がそちらにあるのなら、やはり件の戦士とこの腕輪は同じ法則を由来とする世界のものだろう。

 

「パチュリー様、頼まれていたものを持ってきました」

 

 図書館の彼方――照明の足りない薄暗い闇の中に浮かび上がる影。司書として仕える小悪魔の静かな声が、パチュリーの思考に切り込まれる。

 小悪魔が持ってきたのは、少し前にパチュリー自身が書き留めた膨大な資料だ。フランドールの身体に現れた灰化の現象と未知のエネルギーについて調べた情報のすべてをここに再び用意させたのは、幻想郷の法則とは違う『三つ』の世界の法則についての差異を参照するため。

 

「ありがとう、小悪魔。ちょっとまた調べたいことがあるから、一人にしてくれるかしら」

 

 視線を分厚い本に落としたまま、パチュリーは司書たる契約者に告げる。図書館の主たるパチュリーの意向により妖精メイドさえもこの時間は姿を消している。小悪魔もその言葉に従い闇の中へと消え、そこにはただ静寂とパチュリーだけが残された。

 

 パチュリーは机の引き出しから長方形の板状の箱を取り出す。咲夜や真司のものとは違い、何の意匠もない未契約(ブランク)のカードデッキ。

 霧の湖から帰ってきた美鈴が『不思議な気』を感じる――としてパチュリーに渡した腕輪と共に、その道具に疑問を抱いたパチュリーが所望し美鈴の手から受け取ったもの。少女は自ら記した本と共にそれを机の上に乗せ――手の平をかざして残る力の波動を感じ取る。

 

「美鈴のデッキ、フランの灰、それにこの奇妙な腕輪……どれも違う世界のもの……」

 

 外の世界のものではない。カードデッキ以外のそれは龍騎の世界のものでもない。フランドールの身体を苛む灰の現象も、未確認生命体なる怪物が有していたこの腕輪も。パチュリーは自分が観測していない世界の法則だと、その質量や構成情報から理解した。

 この世界のものでないのならこの世界の知識をいくら調べたところで答えには辿り着けまい。これらを知るには、これらがあった元の世界の情報を手繰らなければ正しい結果は得られない。

 

「……レミィの眼には、もう全部見えてるのかな」

 

 パチュリーは溜息まじりにフランドールの灰化現象についてを記した本と閉じ、呟く。親友たるレミリアが観測できる運命は、その変化も含めて紅い鎖の先に在る。しかし今の幻想郷においては交錯する世界の歪みが先の運命を霧に隠す。

 運命を操る吸血鬼の眼をもってしても、完全には世界の運命を見通せない。古今東西のあらゆる魔法を調べた七曜の魔女の知識をもってしても、異世界の法則には答えが出せない。

 

 ここに在るだけですでに三つ。レミリアが言っていた接続のペースを考えると──今頃はおそらく九つだろうか。それだけの世界がすでに幻想郷と繋がっている。あくまで推論だが、親友の感性に寄り始めているせいか。自分の勘というものにどこか奇妙な自信が湧いてくる。

 

「ふふっ。なんだか面白くなってきたわ。……魔法使いって、こういうものだったわね」

 

 誰もいない図書館で、パチュリーは思わず笑いを零す。まだ100年あまりしか生きていない――魔女としては未熟者。だが、幻想郷という閉ざされた世界では新たに得られる魔法も少ない。思えば、新しい魔法の研鑽も疎かになっていたかもしれない。

 生まれつき魔法使いという一種の妖怪たる身。人間から魔法使いになった種族とは違う。魔女と称されるパチュリー・ノーレッジは、人を超えた速度で魔法を身につけていく。

 

 森に住む普通の魔法使いや七色の人形遣いなどのように貪欲な魔法の研鑽は必要ない。ただ生きているだけで、その暮らしそのものが魔導である。

 彼女の人生に魔法のなかった瞬間はない。人としてではなく魔として生まれ、魔女としての生き方のみを歩んできた。人間の生き方などは知らないが――もしも彼女が人間の魔法使いであったなら、未知の事象、見えざる魔法の研究に限りある命を躍らせていたのだろう。

 

 魔法に恋の名を冠す。酔狂な白黒(にんげん)盗人(まじょ)――魔理沙の気持ちが少しだけ分かった気がした。

 

◆     ◆     ◆

 

 無辺に広がる深淵の闇。淀んだ力の波動が満ち溢れたこの世界、この空間は八雲紫が万物の境界に切り拓いたスキマ空間によく似ている。

 不気味な気配が漂うこの場所には紫の世界のように無数の目玉がひしめいているわけではない。妖気というよりはむしろ、とてつもない信仰を受け続けた神の気配に近いものが漂っており、目玉の代わりに無数に配置された『扉』が──この世界の異質さを際立たせていた。

 

 左右も上下もなく境界もなく、ただ扉に次ぐ扉が一面を染めている。ここは世界を『裏側』から監視するための領域であり、紫が引く境界の世界と似た性質を持つ無限の世界。幻想郷の創設を担った賢者のうちの一人が住まい、管理している場所。

 万物の『背後』に至るそれは『後戸(うしろど)』と呼ばれる神の法則を紡ぐ扉だ。それを内包するある種の宇宙、秘匿された裏側という概念そのものとして、ここは『後戸の国』と呼称されている。

 

「まさか、同じ世界の別の時間軸に行かされることになるなんてねぇ」

 

 無数の扉に覆われるように広がる(そら)に、ただひとり。神々しい金髪を長く湛えた女性――究極の絶対秘神と呼ばれた『神』がいた。

 見るべからず、聞くべからず、語るべからず。その名を知ってはいけない。その姿を記憶してはいけない。秘匿された四季の狭間にて、幻想郷の賢者の一人―― 摩多羅 隠岐奈(またら おきな) は一人座す。彼女が腰掛ける荘厳な椅子は紫色の扉を模しており、虚空に静かに浮かぶようにそこに在る。

 

 幻想郷を裏から支える神秘そのものは笑う。右腕を肘掛けに乗せ、頬杖をつく形で背もたれと右腕に体重を掛け。

 後戸の神、地母神、能楽(のうがく)の神、養蚕(ようさん)の神、障碍(しょうげ)の神、あるいは宿神であり星神であり、被差別民の神でもある。深い緑色のスカートと黄土色の上衣、同じく暗い金色を帯びた前掛けは柄杓の意匠を持ち、様々な側面を持つ神性、仏とも習合された神威を誇示するかの如く。

 

 そのいずれも彼女を表す本質ではない。彼女は自らそう在る通り、秘匿された存在。本質を明かすことのない『秘神』たるが彼女の本質と言える。

 走る金色に突き出した黒を独特な帽子と被り、彼方の扉を見つめる金色の瞳。隠岐奈(おきな)が権能として有する『あらゆるものの背中に扉を作る程度の能力』は、その名の通り万物の背に後戸を形成し、この後戸の国と呼ばれる世界に接続することができる能力だった。

 

 かつては度重なる大異変に見舞われた幻想郷がどれだけ機能しているか確認すべく、自分の力を誇示する目的も合わせて、幻想郷に『一目で異変と分かるが深刻な被害のない異変』を起こし、その経過を見守っていたこともあった。

 表向きは部下たちの後任を探す目的で──としている。その異変こそが、後戸越しに部下たちの能力を使わせ、幻想郷の妖精や妖怪を強化することで様々な変化を目論んだもの。妖精の強化によって自然の力が溢れた異変――すなわち幻想郷が繚乱した四季異変である。

 季節の狂いはあくまで妖精の暴走に際する副次的なものに過ぎない。隠岐奈の狙い通り、幻想郷の住人たちは姿なき異変首謀者に驚き恐れ、秘神の存在を深く記憶に刻みつけたことだろう。

 

「七つ目の楔も手に入った。しかし、時間がない……最悪、これに頼ることになるか」

 

 隠岐奈は呟き、右腕で頬杖をついたまま、左手をもって懐から『あるもの』を取り出した。暗い世界の中でなお微かな光を反射し、鈍く白銀の輝きを放つ装甲はどことなく機械仕掛けの『カブトムシ』のようにも見える。

 手の平より少し大きい程度のカブトムシに似たそれは、その見た目からは想像もつかないほど絶大な力を持つのだ。秘神と呼ばれた賢者でさえその使用を躊躇うほどに。

 

 みだりに使っていい代物ではない。下手に使えば『今ある時間』すべてが消えかねない。隠岐奈はそれを心に戒め、白銀の装甲を持つカブトムシ型のデバイスを再び懐へしまう。

 その力を用いれば過去や未来に飛ぶことも可能だ。起きた事象をすべてひっくり返すこともできる。だが、幻想郷のことを想えば失敗した際のリスクも大きい。

 

 右腕の頬杖から頭を上げ、隠岐奈はその指をパチンと鳴らした。すると、椅子に座った彼女の目の前に風折烏帽子(かざおりえぼし)を被った二人の少女が現れる。

 茗荷(みょうが)の葉を持つは深い桃色の装束を纏った茶髪の少女、 爾子田 里乃(にしだ さとの) 。竹を持つは暗い緑色の装束を纏った海松(みる)色の髪の少女、 丁礼田 舞(ていれいだ まい) 。どちらもフリルを伴う前掛けを白く装い、側頭の髪を長く伸ばしたショートヘア──あるいはセミショートといった出で立ちで秘神の前に跪いた。

 

二童子(にどうじ)よ、楔の幻想化による歪みの除去は任せた。私にはまだ仕事がある」

 

 隠岐奈の部下たる二人の少女、里乃(さとの)(まい)は『二童子』として長らく彼女に仕える存在だ。究極の絶対秘神、摩多羅(またら)神である隠岐奈に従い、賢者の目となり手足となる。

 かつては人間だったがもはや両親もすでに遠く亡くなり、隠岐奈の魔力によって人ならざる存在へ成り果てる以前の記憶もない。ただ従順な傀儡として操られ、逆らう思考すら持たない人形として隠岐奈の道具となる。優秀ではあるが、時折見せる失敗も在るべき人間らしさ故か。

 

「はい、お師匠様。私たちに任せてください!」

 

「僕たちなら、きっとお師匠様のお役に立てます!」

 

 少女らしく柔らかな口調で答える里乃。少年のように朗らかな声色で答える舞。二人はそれぞれ己が右腕の手首に装った同じもの――黒い腕輪を隠岐奈に見せた。

 手首を留める帯は銀色に、何かを装着するであろう手甲部分には接続部めいた円の意匠が施されている。二童子が持つ能力や人を超えた肉体と同様に、それらもまた隠岐奈が彼女らに与えたもの。本来繋ぐべき七番目の世界、その同一の世界にして異なる時間線に続く因果から持ち出された装備である。

 

 隕石の被害を乗り越えて復興を進める七番目の世界の第一時間軸。隕石の被害が遥かに大きく、地球の海を干上がらせてなお微かに生き残った人類だけが存続する第二時間軸。彼女らに渡した装備は、後者の時間軸にしか存在しなかった。

 しかし、幻想郷に招く楔は前者の存在でなくてはならない。理由は不明だが、後者における同一人物を招いたとしても幻想郷の歴史に、かの因果――物語は定義されない。

 

 隠岐奈が小さく顎を動かし、その合図を見て二人の少女は後戸の果てに消える。閉じた扉は周囲の歪みに溶けて消え、無限に連なる扉のうちの一つと成り果てた。

 幻想郷に繋がる世界の法則は九つの物語。その歴史の記録のために招かれた楔は今はまだ六人。あと三人、来たるべき時までに定着を果たさなければ、破壊者の世界(・・・・・・)に打ち勝つ(すべ)は潰える。

 

「地獄の組織も動いているようだが……どちらが先に『資格者』を見つけられるかな」

 

 長く帯びた右腕の袖を撫で、己の右腕にも二童子と同じものが宿っていることを確かめながら。隠岐奈は誰にともなく闇の中で自信に満ちた微笑を零す。

 魔力の具現か、その手に現した一輪の薔薇は、不可能(・・・)奇跡(・・)を意味する青色に染まっていた。




2021.11.03
東方靈異伝 ~ Highly Responsive to Prayers.
25周年おめでとうございます! 東方Projectの歴史そのものの25周年でもありますね。
今年は仮面ライダーの歴史が50周年なので、だいたい半分くらいなんですね……

東方の歴史も Over "Quartzer"、四半世紀を超えて。これからも、よろしくお願いします。

次回 43『太陽男』


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【 今昔太陽兜 ~ Flower Beetle 】
第43話 太陽男


A.D. 2006 ~ 2007
それは、天を往く正義の物語。

天の道を往き、総てを司る



 妖怪の山の反対側。博麗神社からそう遠くない南東の地には広大な自然に満ちた領域が広がっている。人間の里からはやや距離のあるこの場所も――異変の影響か。再び訪れた四季異変によって本来あるべき『春』の趣とは別に、秋や冬などの異質な装いを見せていた。

 だが、この一帯において何より強く輝きを放つ場所はどこまでも雄々しく揺るぎない。まるでそれがただ一つ、決して枯れることのない花であるのだと示すように。

 

 南向きの傾斜となったすり鉢状の草原には真夏の日差しを受けて金色に輝く向日葵(ひまわり)が狂い咲いている。草原の一面を黄色く彩る無数の花、嫉妬と羨望、あるいは憧憬の眼差しに満ちたそれらは、天に座す無双の輝き――真なる太陽を見上げて。

 吹き抜ける風もやはり夏の色。背の高い向日葵たちの隙間を縫い、器用に飛び回る妖精たち。彼女らが手にする小さな向日葵は自然の霊力が具現した彼女らの一部なのだろう。

 

 幻想郷の住人は、この地を『太陽の畑』と呼んだ。四季異変の影響で春には在り得ざる向日葵の繚乱が見られるものの、この地本来の妖気は失われてはいない。

 それは、『今の』幻想郷とは少し違う――『(ふる)き』幻想郷を思わせる残り香。結界に阻まれ、空からの視点をもってしてもそれを目にすることは叶わないが――彼女(・・)の館は、そこにある。

 

◆     ◆     ◆

 

 緩やかな夏の風は煌びやかな向日葵の花々を揺らしている。微かな妖力を帯びたその風は、この太陽の畑を誰よりも愛する一人の妖怪――若い女性の緑髪をも優しく撫でていた。

 肩までの長さに整えられた緩やかなウェーブヘア。やや癖のあるその髪に陽光を受け、フリルとレースを伴う白い日傘をくるりと回しながら。

 

 真紅の瞳を細める彼方の光、日傘を背へと傾けて―― 風見 幽香(かざみ ゆうか)は空を仰いだ。傘を持たない左手の平を天に向け、顔に落とした陰でもって鮮烈なる光から目を守り。

 白く装うカッターシャツには小さな汚れ一つない。さながら枯れることを知らない花の如く、ゆったりと広がる赤いチェックのロングスカートもまた彼女の悠然たる佇まいに等しく。スカートと同じ色と柄のベストを纏い、その首、胸元には黄色く可憐なリボンを結んでいる。

 

「眩しい太陽、一面のひまわり畑。……あのときの幻想郷を思い出すわね」

 

 四季のフラワーマスターとも称された春夏秋冬の花の妖怪。彼女は夏や向日葵に関わらず、すべての季節、すべての花々を愛している。

 幽香(ゆうか)の思考に浮かぶ花園はかつて目にした六十年周期の大結界異変だ。前回はたしか十年ほど前だっただろうか。その原因は外の世界から流れた幽霊たちが花々に憑依したことで、季節を問わずに幻想郷中のすべての花が繚乱するというものだった。

 無論、妖怪として長い時間を生きる彼女がそれを見たのは一度や二度ではない。六十年周期という期間の長さから忘却してしまうことも多かったが、花にまつわる大異変ということで事情を知らない若き少女、多くの異変解決者に黒幕と疑われたことも記憶には新しい。

 

 だが、今回のそれはどちらかというと比較的近年にも起きた四季異変に近いものだろう。咲き誇る花々からは死の香りを感じない。これらは春に降り注ぐ真夏の日差しが語るように、季節の異常によって活気づけられた草花本来が持つ力強さだ。

 中には妖精の憑依によって開花したものもあるようだが、幽香はこのように花の目覚める季節を無視した現象があまり好きではなかった。

 春の花は春に、夏の花は夏に。それぞれ咲くべき世界があるからこそ、花は美しい。千紫万紅を謳う百花繚乱もまた美しい光景には違いないが――それは本来あるべきものではないのだ。

 

「まぁ、それはそれとして。せっかくだから楽しませてもらうわ」

 

 季節外れに狂い咲く自然の美もある。それもまた愛しい。誰の手にも依らない自然現象であるのなら、花の化身たる風見幽香もどこかの地に仇花を咲かせたかもしれない。

 ここに在る無数の花はまさしく夏そのものの中に。季節外れでもなんでもない、春の境界を打ち破って現れた夏を想い、正しく咲いている。花も人も同じく、霊ある限りは力強く咲き誇り、やがて霊が去れば散っていくだろう。

 そこに花が咲くのなら己もここに在ればいい。花咲く園こそが己の居場所。幻想郷が再び開花を遂げたのなら、花の妖怪も幻想郷と共に目覚めを迎えるべきか。

 しばらく異変もなく退屈な日々が続いていたが――心の蕾が瞼を開ける。今一度、かつて目覚めた大結界異変と同様に。幻想郷中に咲き乱れた季節外れの花々を、愛でに行くとしよう。

 

「ふふっ、見ているんでしょう? こっちへいらっしゃい。怖がる必要はないのよ」

 

 湛えた笑顔を崩さぬまま、幽香は振り返る。いくつもの妖精たちが無邪気に舞う太陽の下、こちらを見ている存在に気がついたためだ。

 向日葵の隙間から顔を出したのは、夏の日差しに相応しい鮮やかな羽根、アゲハチョウの翅を携えた妖精の少女だった。水色のショートヘアには黄色く小さな幼虫めいた触角を持ち、(さなぎ)の意匠を持つ緑色の衣服を纏う神秘的な雰囲気を装うも、妖精らしく靴は履いていない。

 

「アゲハチョウの妖精……エタニティラルバだっけ? どうかしたの?」

 

 夏にこそ真価を発揮するはずの彼女――アゲハチョウの妖精たる エタニティラルバ にはどこか元気がない。美しい翅は力なく畳まれ、鱗粉も薄く色褪せてしまっている。気配こそ妖精だが、その本質は妖精以上の存在として幽香も特別視していたのだが――

 以前に彼女と出会ったときに見た『神』に近い原初の気配が感じられない。無論、妖精であるはずの彼女が神の力など持つはずはないのだが、幽香はアゲハチョウの要素に直感的にその素質を見ていたのだ。

 氷の妖精と比肩するほどか、それ以上の可能性が彼女にはあった。少なくとも幽香はそう感じた。幼虫の触角、蛹の殻、成虫の翅――その過程すべてを併せ持つ特異な姿は、単純なアゲハチョウの妖精としてのそれではなく。虫の身にして神と崇められた『常世神(とこよのかみ)』を思わせるような。

 

「なんか力が出せなくて……前に季節がおかしくなったときは凄かったんだけどなー」

 

「もしかして夏バテ? と言っても、今は春だけど。この日差しじゃあ仕方ないのかもね」

 

 太陽の畑における最も強大な妖気を追って幽香の元に辿り着いたのだろう。彼女の力はこの周辺の妖怪の中でも別格だ。もし地球に太陽がなければ、この向日葵たちはすべて幽香の方を向いていたかもしれない。

 ラルバの言葉に幽香はある可能性を考える。どの妖精を見てもラルバと同様──背中に扉らしきものはなく。前回の四季異変と同様のそれではないことは明らか。

 ラルバが語る想い出は、その扉があったときの強化、妖精としての能力の底上げを指している。彼女の背に扉がない以上は前回と同様の恩恵は得られない。そのことに気づいていないだけなのか、あるいは別の理由なのか。

 

 幽香はとぼけるように言葉を返し、ぐったりとした様子のラルバに苦笑を向けた。彼女の様子を見る限り、それは扉の有無に依らぬもの。扉があった頃どころか、普段よりも元気が足りていないように見える。

 もしかしたら本当に夏バテなのかもしれないわね、と考えた幽香は、漏らした苦笑を隠すことなく。夏に相応しい妖精になった(・・・)くせに──といった思考を込め、白い日傘を静かに閉じた。

 

「ああ、そうそう。さっきからずっと気になっていたんだけど――」

 

 ラルバから少し距離を取るように、その場を数歩。幽香は背後に感じる妖精の気配、妖精らしい気配の中に感じていた違和感に。背を見せたことで向いた悪意に対し、口を開く。

 

「――あなた、妖精なんかに化けて何がしたいのかしら?」

 

 幽香はふわりと振り返り、畳んだ日傘の先端を視線の先のラルバに向けた。

 アゲハチョウの妖精、エタニティラルバ。数いる妖精の中でもそれなりの高い力を秘めた存在として知っていたが、彼女から感じられる気配は彼女本来のものではない。

 妖精でも妖怪でもないような──幽香の知覚が捉えたそれは、感覚的な違和感として。

 

「……え?」

 

 ラルバはその言葉の意味が上手く理解できなかった。だが、それは『エタニティラルバ』という個の性質が想う一瞬。今のエタニティラルバは本能的な焦りを感じ、緊張を悟られないように幽香に困惑の表情を滲ませている。

 その反応が引き金となったのだろう。幽香はどうせ相手は妖精――消滅させてもすぐに蘇る自然の具現に過ぎぬ有象無象であると認識した上で、間違っていても普段から虐めているような存在だしいいか――と。未知の気配を放つ『妖精に極めてよく似た何か』を射貫く構えを取る。

 

「いったい何のこと──」

 

「言いたくないならいいのよ。中身まで一緒なのかどうか……私が確かめてあげる」

 

 問いの意味を聞き返す。ラルバの想いに反して、幽香にはもはや問答の意思はなかった。向けた日傘の先に弾幕の光が灯るのを見て、ラルバは思わず表情を変える。

 

「ちっ……!」

 

 少女は額に伝う汗も拭わぬまま。こちらを見下ろす花の妖怪に向けて手の平からいくつもの光弾を放った。少しの同様も見せぬ幽香はその攻撃を傘も開かず、閉じたままのそれを横に薙ぐことで呆気なく掻き消してしまう。

 幽香が微かに目を見開いて驚いたのはその攻撃の意図に対してではない。光弾を放って後退したラルバの姿が虚ろな光と共に歪み――歪な怪物の姿に変貌してしまったからだ。

 

 小柄な少女の姿は、もはやどこにも残っておらず。醜く膨れ上がった緑色の甲殻はどこか昆虫のサナギじみた異形と化し、少女だった姿の倍近くまで肥大化している。

 見ているだけで嫌悪感を促す不気味な骸。苦悶の表情を浮かべたような顔面には、まるで己が眼窩に両手の五指を突っ込んだような意匠を持っていた。

 

 それはこの幻想郷には存在しない異物。外の世界にも、まして『彼ら』が存在した世界の地球にも存在するはずのなかった――決して招かれざるべき来訪者たち。

 遥かなる宇宙の果てより舞い降りた侵略者たちは、地球の昆虫や節足動物に酷似したその姿――異形の様相から『ワーム』と呼称されている。

 幻想郷に接続された異世界、七番目の世界のとある時間軸において。それは二度目(・・・)の隕石と共に飛来した。厚い装甲に覆われた彼ら『サナギ体』のワームは、その見た目通り鈍重であるものの、堅牢な鎧に守られており並大抵の攻撃では致命的なダメージを与えることができない。

 

「あら、蝶が(さなぎ)に戻っちゃったわ。退化までできるなんて、さすが妖精ね」

 

 幽香は驚いた様子を見せたものの、すぐに余裕そうな笑みに戻る。異形の怪物、サナギ体のワームを目の前にしていても。肥大化したワームの右腕、その巨大な爪が迫り来てもなお悠然な態度を崩さず、花びらの如く緩やかに後退する。

 

 ワームの能力は『擬態』。それも昆虫の特性としてただ周囲の景色に溶け込むというものではない。直接対峙した生物の特徴を寸分の狂いなく自らの遺伝子に転写し、姿や声、思考や感情、記憶や能力。人格に至るまでの全情報を完全に模倣してしまう。

 完全なる同一人物の複製と言える擬態能力。幽香は向かう怪物の能力を看破することこそできなかったが、この怪物がエタニティラルバ本人ではないと気づくことができた。否、実際には微かに疑問を抱いた程度で、相手が本物だろうと偽物だろうと撃ち抜くつもりでいたのだが――

 

「…………」

 

 振り抜かれるワームの爪が空気を裂く。単調な攻撃を回避するのは簡単だが、太陽の畑(ここ)で暴れられるのは好ましくない。

 上手く引き付けてから攻撃を回避しなければ、怪物は遠くの標的を狙おうと無差別な攻撃を仕掛けてくるだろう。そうなれば――太陽の光を浴びて元気に育った向日葵(この子)たちが傷つけられてしまう。本気のスペルカードを放とうにも、自ら花を散らすのは忍びない。

 

 そんなことを考えられる程度には、幽香の思考には余裕が満ちていた。何せ、怪物の攻撃はあまりに稚拙で、本当に妖精を相手にしているかのようだったのだ。

 子供の遊びに付き合っているのと似た感覚がある。元より人間の子供と同程度の知性しかない妖精に擬態していたためか。今は紛れもない緑色の怪物の姿であるものの、思考の方向性や行動パターンはエタニティラルバのそれを思わせる。

 最初は未知の怪物に驚いて少し警戒していたが、これならスペルカードを使う必要すらないかもしれない。見たところ装甲の強度はそれなりにあるようだが、弾幕ごっこにおける遊びの弾幕ならいざ知らず。大妖怪たる風見幽香が放つ本気の光弾なら、穿ち貫くことなど造作もない。

 

 ワームは必死に幽香を追いつめようとしている。――その背中に、一つの石が投じられた。

 

「花に虫が引き寄せられるのは当然だが、少し品がないな」

 

 太陽の畑の丘の上。傾斜となった大地の坂の上に、太陽を背にした影が浮かぶ。背丈や声からそれが若い男であるのだと分かるが、幽香やワームからは逆光で顔が見えない。

 

「だ、誰っ!?」

 

 サナギ体のワームは喉を震わせて奇怪な声を漏らす。それに重なり、ワームが擬態したエタニティラルバの声が発せられた。その声はワーム生来のものではなく、ラルバという妖精の声帯を模して似た『音』を発しただけに過ぎない。

 されど、その音も、その音を発しようとした意思も擬態元たるラルバのもの。エタニティラルバ本人が持ち得ぬ悪意と殺意を湛えてはいるが、それ以外は紛れもなく彼女そのもの。記憶も人格もラルバと同じものである。

 ワームによって擬態されてしまっている以上、本物のエタニティラルバはこのワームに殺されている可能性が高い。幽香もすでにその事実に思い至っているが、特に気にせず。

 妖精など、普段から散っては生じる現象でしかない。早ければ二日か三日以内にはまた顔を出すだろう。

 

 妖精(ワーム)の問いに男は小さく息を漏らす。太陽の畑の坂の上から見慣れた緑色の怪物を見下ろしながら。向日葵を揺らす風に、短くもやや長く――癖の強い黒髪を靡かせた。

 眩い光を背にして、青年は風見幽香のそれをも上回る自信と余裕に口角を上げる。右手には一丁の豆腐を湛えたステンレスボウルを持ち、ズボンのポケットに突っ込んでいた左手をゆっくりと持ち上げて。その左手には力を込めず、胸の前へ、顔の前へと、少しづつ高く挙げていく。

 

「おばあちゃんが言っていた。世の中で覚えておかなければならない名前は、ただ一つ――」

 

 左手の人差し指をもって高く天を指す。青空に力強く輝く太陽を示すかのように、男は黒い作務衣めいた独特の装いのまま、高圧的に低く――自信に満ちた声で言葉を紡いだ。

 

「――天の道を()き、(すべ)てを司る男。天道(てんどう)総司(そうじ)

 

 光の陰りが男の顔を晒す。揺れる向日葵と夏の日差しの下、揺るぎない正義を己が胸に掲げた青年は、選ばれし者の名を花と虫に告げる。

 天道総司。その名は彼が誇りとする『おばあちゃん』の姓を戴くもの。生来の名とは異なるもう一つの名であれど、日の下にて輝ける名を失えど。天の道は常に彼の道としてそこに在る。

 

「なんだかよくわかんないけど……邪魔をする気なら相手になるよ!」

 

 サナギ体のワームは苦悶の形相めいた異形の顔面に、エタニティラルバの顔を映し出した。遺伝子に転写された情報がそこに浮かび上がっただけで、実際に顔だけをラルバのものに変えたわけではない。

 幻影めいた少女の苛立ちはすぐに消える。ワームの不気味な鳴き声と共に、その肥大化した右腕の爪が空へと振り上げられ、天道の頭上に灰色のオーロラを形成した。

 

 灰色のオーロラはこちらの世界とあちらの世界を繋ぐ。揺れる波紋から飛び出したのは、召喚者と同じ姿をした緑色の異形。やはり昆虫の蛹めいたサナギ体のワームである。

 その総数はエタニティラルバに擬態した個体を含めて計5体。天道の周囲に降りた怪物たちは一斉に爪を振り下ろすが――男は表情一つ変えず。

 長く鋭い脚をもって一体を蹴り飛ばす。左腕の肘をもって背後の個体と距離を取る。右手に持った豆腐を崩さぬよう静かに、それでいて力強くワームたちを退けていく。

 強靭な鎧を持ったサナギ体の装甲に打撃を与えるためではなく──ただ怪物と距離を取ることが目的。天道はそのまま大地を蹴りつけ、軽やかな甲虫の飛翔を思わせる動きで太陽の畑の坂からすり鉢状の傾斜を飛び降りる。それだけの動きをしてなお、豆腐には亀裂一つ存在しなかった。

 

「少し下がっていろ。知り合いと同じ顔で不気味かもしれないが、奴は人間じゃな――」

 

 五体ものワームと向き合い、坂の下にいた幽香に背を向け、顔だけで振り返り。ワームという存在の危険性を示そうと口を開いた瞬間。己の正面にいた一体のワーム──エタニティラルバに擬態していた個体が、その右腕から渾身の妖力(・・)を込めた光弾を放った。

 葉の形に似た黄緑色のエネルギー弾。その羽ばたきは天道が右手に持っていたステンレスボウルを直撃し、呆気なく跳ね飛ばすことで美しい絹ごしの豆腐を微塵に砕いてしまう。

 

 太陽の畑の土の上――ぐしゃりと音を立てて潰れる豆腐。カランと渇いた音を奏で、天道の手元から失われたボウルは落下を遂げた。

 光弾は妖精の妖力とワームが持つエネルギーを併せ持ち彼方へ飛ぶ。幽香の頬を掠めて飛び去ったそれは、彼女の身体に傷をつけることはなく。――しかし。

 

 高純度のエネルギーを内包した一発の光弾は幽香の背後に咲き誇っていた向日葵を直撃する。この地の妖力を吸い上げて強靭な植物となっていたのか、向日葵はそれを筒状花(とうじょうか)の正面で受け止めてしまった。

 ワームが放った光弾は妖力を解放し、その場で爆発(・・)を遂げる。周囲の向日葵も、豊かな土壌も巻き込みながら。妖精が放ったものとは思えないほどの衝撃と炎を撒き散らし、輝かしい向日葵畑の一部を派手に吹き飛ばす。

 白い煙を上げるワームの右腕は、誰に気づかれずもラルバのそれと同じ妖気を湛えていた。

 

「「…………」」

 

 天道の右手にはボウルがない。巴里(パリ)まで赴き入手した極上の豆腐は、哀れにも土の上で無惨な姿と朽ち果てている。それを見下ろす彼の視線には、誰よりも悔恨が強く。

 幽香の背後には立派に咲き誇っていた向日葵がない。溢れんばかりの日差しの下、一生懸命生きてきた花々は、焦げた花びらとなって呆気なく散ってしまった。その跡を見つめる彼女の視線には、誰よりも哀しみの色が強く濡れる。

 

 男の思考の中に、サナギ体のワームには光弾を放つような能力はなかったはず――などといった考えはない。女の思考の中に、妖精の能力を模倣したのならこれほどの火力を出せるはずはない、などといった考えはない。ただ二人の思考に宿り灯るは、哀しみと悔しさと、そして──

 

「あははっ! 油断したねー! 私が擬態した奴は、最初っから人間じゃないんだよ!」

 

 自分の行いに一切の痛みを感じていない、愚かで憐れで度し難い――(さなぎ)への怒りである。

 

「……おばあちゃんが言っていた。男がやってはいけないことが二つある」

 

 天道は怒りに震える声を胸に抑えつつ、伏せた目を己が右の拳に落として語る。もはやどこかも分からぬ秘境の地、向日葵の咲き誇る未知の草原であろうと。向き合う悲劇の象徴に対する想いを捻じ曲げることはないのだ。

 これまでも幾度となく相対してきた異形の存在。宇宙の彼方より飛来した隕石と共に現れた、招かれざる者たちを前に。天道総司は近づく者を焼き滅ぼす太陽の如き正義を掲げた。

 

「女の子を泣かせることと、食べ物を粗末にすることだ……」

 

 サナギ体のワームを射貫く視線はどんな包丁よりも鋭く研ぎ澄まされている。ただ冷たく静かに、大海原を裂く水魚を思わせるような冴えを宿して。

 

「……そうね。哀しくて泣いてしまいそうだわ。それとも、泣くのはあっちの方かしら」

 

 心の中で向日葵の死を弔った幽香も、ワームたちに向き直った。目を伏せて哀しみを見せるものの、胸の奥にしまったそれはもはや仮初めの色に過ぎず。続けて睨みつけた視線には太陽の日差しよりもずっと強い無慈悲なまでの殺意を込めて、地に向けた日傘の持ち手に両手を乗せる。

 

「え……えっと……私、女の子だよ……?」

 

 無意識のうちにラルバの姿へ戻る怪物。静かな笑顔を湛えながら一切の憐憫を感じさせない瞳の女に対し、妖精としての記憶が魂を怯えさせる。冷静な無表情ながら力強い視線の男に対し、かつて打ち倒されたサナギ体のワームとしての記憶が肉体を委縮させる。

 エタニティラルバは少女だ。天道の語る『男がやってはならないこと』には該当しない。そして今、まさしくそれを述べた彼自身によって泣かされそうになっている女の子である。

 

 ――彼女が本物のエタニティラルバであれば、きっとその認識は間違っていないのだろう。

 

「言いたいことはそれだけ?」

 

 最初は完璧に模倣された妖精の気配に騙されたものの、今なら分かる。幽香は純粋な笑顔を向けた相手を、もはや妖精だと疑うことはない。

 これらは自身の愛した花を蹂躙する、妖精以下の存在であると。この地球(はなぞの)に最初から居場所などない――虫けら(ワーム)だと。

 そんなこと言ったら世界に花を広げてくれる本物の虫たちに失礼かしらね。そんな思考を頭に、小さく開いた赤い瞳で偽物のエタニティラルバに向き合った。

 

 天道は豆腐を失った右手を顔の横に添える。その胸に宿る闘志を蜜とし、輝きの徒たる彼の力を自らのもとへ引き寄せるために。

 太陽の畑に差し込む日差しが空の光を屈折させた──ように見えた。きらりと反射したそれは、錯覚などではない。実際に空間を捻じ曲げ、時空を突き破って現れた『それ』が大結界さえも超越し。薄く冴える翅を震わせて風を切り裂いたのだ。

 幻想郷とも外の世界とも異なる地平、天道総司が生きた世界から招かれた来訪者。真紅の装甲は陽光を明るく照り返し、雄々しく立派に掲げた頭角を前にして──天道の右手に収まる。

 

「…………っ!」

 

 その姿、真紅のカブトムシ──を模した機械仕掛けの甲虫に、ラルバは見覚えがあった。否、それを知っているのはエタニティラルバの記憶ではない。彼女を模倣した元ある細胞、ワームとしての遺伝子が、その世界の情報を知っている。

 ラルバだったものはその力を警戒し、息を飲むようにサナギ体の姿に戻った。

 

 揺るぎなくワームに向き合い、天道は風を受けて衣服の下に装っていた白銀のベルトを腰と晒す。彼が幼い頃から有していたその『ライダーベルト』は、長き年月に渡る彼の鍛錬と共に、常に傍に置かれていた。

 バックルに当たる部分は空虚に平たく空いている。まるで来たるべき時まで鍛え続けていた天道総司の運命を予見していたかのように。

 だが、黒く染まったその領域に、今は成すべき正義がある。天道は右手に持った真紅の甲虫、カブトムシ型自律メカ『カブトゼクター』に選ばれた己の道を語るが如く、口を開いた。

 

「……変身」

 

 決意を宿す発声の後、手にしたカブトゼクターを右腰へ持っていき、右側からライダーベルトの正面に設けられた漆黒の領域へスライドして差し入れる。

 カブトムシの六つの足が帯を掴むと、ライダーベルトの正面にバックルとして固定された。

 

『HENSHIN』

 

 重く低く、力強くも無機質に。天道の腰に巻かれたベルトが電子音声を鳴らす。それを合図として、彼の全身は幾何学的な六角形に包まれていく。

 それはまるで昆虫が巣を作るように。あるいは未熟な己を堅牢な蛹に覆い隠すかのように。否、それは天道総司にとって、身を守るための盾でもなければ身を隠すための蓑でもない。

 

 六角形は重なり装甲を紡ぎ、漆黒の強化スーツを形成。その上から鈍色の甲冑を纏わせ、肩や胸、主に上半身に重厚な甲殻を装わせる。

 天道総司の姿は生身の人間という虚弱な幼虫から――強靭な鎧を持つ『蛹』となった。

 

 変身の衝撃は風圧となって向日葵を撫でる。その風に思わず顔を覆った幽香は、ワームが散らした花びらが土の上から舞い上がり、鈍色の鎧を纏う戦士の姿を彩る様を見る。

 太陽の光を強く照り返し、鈍色は力強く輝いている。触角めいた二つのアンテナを有する戦士の複眼は、天に広く晴れ渡る『青空』を思わせるような蒼穹の色をもって怪物と向き合った。

 

「……! 姿が、変わった……?」

 

 幽香の赤い瞳に映る戦士――宇宙の彼方より舞い降りたワームに対抗するべく、とある組織が開発したもの。人類の叡智の及ばぬ領域から、侵略する者と抵抗する者の源流を等しくして。人類の希望たる『マスクドライダーシステム』は作り上げられた。

 その最初の完成形。鋼の鎧に青き複眼、そして全身を走る真紅の意匠は、太陽に祝福された者の証。光を支配せし『太陽の神』と呼ばれたマスクドライダーシステム第1号――『カブト』の輝きである。

 彼が願うことならばすべてが現実になるだろう。カブトに選ばれし者ならば。それが偽りでないと思わせるほどに、カブトとして在ることを望んだ男の道は揺るぎなく。

 

「…………」

 

 重厚な鎧を帯びた『マスクドフォーム』と呼ばれる形態。カブトムシの蛹めいた姿となった戦士、天道総司はゆっくりと虚空に手をかざした。

 瞬間、カブトゼクターが現れたときと同じように太陽の光が屈折する。空間が歪み、そこから重なる次元を超えた『ジョウント』なる移動方法をもって彼の手に武器が出現する。博麗大結界さえも越え、世界と世界を隔ててなお、ジョウント効果は空間を跳躍させ、カブトゼクターやその武器を天道の手元に招き寄せた。

 

 カブトの手元に現れたそれは持ち手の下部に斧の刃が設けられた短銃だった。カブトのための武器として開発された『カブトクナイガン』を手に、天道は一歩踏み出す。

 彼が身に装う厚き装甲と同じ、漆黒と鈍色、そして真紅の意匠を持つ刃の銃口を向けて。引き金を引けば、ジョウントによるエネルギー供給を受けた赤き光弾がワームへと放たれる。

 

「シュギュルルル……!」

 

 エタニティラルバに擬態していたワームは顔面で受けた光弾に苦悶を零す。しかし、堅牢な鎧に守られたサナギ体は未だ甲殻を打ち破られてはいない。

 肥大化した右腕の爪で背後に控える四体ものサナギ体に合図をかけ、指導者を含む五体もの軍勢は一斉に天道(カブト)と幽香に襲いかかった。

 

 冷静にカブトクナイガンの『ガンモード』を構えるカブトは一歩も退かない。幽香はゆっくりと白い日傘を持ち上げ、その先端をワームの群れに向けて眉一つ動かさず。

 カブトとなった天道の黒い指先を伝い、カブトクナイガンの内部に圧縮された高密度のエネルギーが充填される。それに呼応するかのように、幽香が掲げた日傘の先端にも光の蕾を思わせる輝きが強く結びつけられた。

 天道はそのまま引き金を引く。幽香は日傘の持ち手に優しく指をかける。二人の意思は等しく混じり合い――片や超高圧のイオンビーム光弾、片や花開く幻想の光弾として解き放たれた。

 

「グギュアアアッ!!」

 

「ギュルルシャアアッ!!」

 

 マスクドフォームのカブトが放ったカブトクナイガン ガンモードの高圧光弾――通常の射撃をさらに超えた出力の【 アバランチシュート 】は迫る一体のサナギ体の甲殻へ幾度も炸裂し、流れるエネルギーによって堅牢な装甲ごと怪物を内側から爆散させる。

 対する幽香の光弾は、やはり通常の弾幕を超える力。不気味なまでに鮮やかな朱色の花はどこかガーベラの花の形に似ているが――

 その中心を染める黒はさながら虚空に穿たれた孔の如く。ふわりと風を切る【 幻想春花(げんそうしゅんか) 】は一つ、二つ、三つと。柔らかくも恐ろしく、優雅ながらも威圧的に。サナギ体に笑いかける。逃げ場などないのだと告げるかのように、幽香の意思を代行する弾幕は怪物を花と散らした。

 

「……ほう。物騒な手品、というわけではなさそうだな」

 

「手品でもなければ舎密(セイミ)でもない。これはただのガーデニングよ」

 

 天道――カブトの青い複眼が幽香の赤い瞳と視線を交わす。互いの目は、それぞれに対する好奇の色を示し。

 二度目の四季異変に際して狂い咲いた幻想郷。そこに異形の怪物と仮面の戦士がいると、風は噂を運んできてくれた。花を撫でるように、幽香の耳に届いた便りによって、彼女はその目で直接確かめずとも『怪物』と『戦士』について聞き及んでいた。

 怪物とは、目の前に蠢く緑色の異形、五体から二体を撃破して三体となった蛹たちが該当すると考えて間違いないだろう。となればやはり、隣に立つ鈍色の蛹こそが。無機質な鈍色の装甲を鎧と纏う男こそが──幻想郷に招かれた『仮面の戦士』に該当するのだと考えられる。

 

 日傘から光のエネルギーで出来た花を飛ばした幽香に対し、天道は動きにこそ出さずとも多少は驚きの感情を抱いていた。

 無力な少女に擬態したワームの思考が読めず、そのワームが光弾を放ったことも天道の思考を逸脱していたが、一見すれば人間にしか見えないこの女もまた似たような力を放ったことで一つの推論に至る。

 この世には宇宙から飛来した地球外生命体などという荒唐無稽な話があるのだ。事実、そんなおとぎ話のような空想は星を襲い、天道から家族も安寧も何もかも奪い去った。

 なればこそ、あるいは本当に――ヒトならざる力を持つ怪異の類も実在するかもしれない。

 

「ふっ、面白い奴だ」

 

「お互い様ね」

 

 仮面の下で小さく笑う天道へ返すように、幽香は口角だけを微かに上げる。互いにその存在は未知であり、常識を超えた力を有した者と認める一瞬。

 されど彼らはどちらも並みの存在を遥かに超えた精神性を持っていた。天に座す無二の光、あるいは決して枯れることのない花の如く。風に吹かれても大地に根強く、その太陽は揺るぎなく咲き誇っている。

 

 正面から迫る二体のワームを撃破した二人は、今度は左右から迫るサナギ体に視線を向けた。期せずして背中合わせの形となった天道と幽香のそれぞれの正面に据えられた二体のワームに対し、彼らは今一度同時に構えを取る。

 天道は右手に構えたカブトクナイガン ガンモードによる通常射撃でワームを牽制。幽香も同様に日傘の先端から放つ通常の光弾、弾幕と呼ぶには控えめな射撃で怪物を狙う。

 

「シュギュルルッ!」

 

 やはりサナギ体の甲殻は厚い。本気の光弾とはいえ、一度や二度の炸裂で打ち破れるほど脆くはないようだ。

 天道と幽香の正面からそれぞれ迫るサナギ体は爪を振り上げ、接近戦を試みようとする。

 

「甘いな」

 

 ――その動きも、天の道には示されている。振り上げられた爪に対し、天道は右手のカブトクナイガンを軽く真上へ放り投げた。すかさずそれを空中で掴み取るが、彼が手にしたのは短銃(ガンモード)としてのグリップではない。

 銃として機能していたカブトクナイガン ガンモードの銃身に当たるスプリング状のバレル。柄底に銃口の先が来るようにして持ち、逆に先ほどまでのガンモードにおいてはグリップであった部分を外に向ける形でそれを持ち替えたのだ。

 ガンモードでの柄底は正面に向けられ、その下部に設けられていた斧の刃が大きく広がる。射撃を目的とした形態から、ただ持ち手を変えるだけで、カブトクナイガンは斧としての機能を発揮する戦斧形態――『アックスモード』としての側面をもたらしていた。

 

 カブトクナイガン アックスモードの刃を振り上げ、ワームの爪を弾く。その僅かな隙を縫うように、ジョウントにより送り込まれるエネルギーを圧縮し。アバランチシュートの際と同様に強化されたエネルギーを斧の刃へ充填する。

 爪を弾いたままの姿勢からエネルギーの波動に包まれたカブトクナイガン アックスモードを袈裟懸けに振り下ろし、天道はワームの胸部を両断した。

 アックスモードによる【 アバランチブレイク 】の一撃はサナギ体の甲殻を破壊し内部にまでエネルギーを送り込み、堅牢な装甲ごと怪物を呆気なく爆散させてしまう。緑色の爆風がカブトの装甲を仰ぐが、その衝撃は妖力で育った向日葵の花びらを少し舞い散らせる程度のものだ。

 

「甘いわね」

 

 天道の背後を守るように立っていた幽香の正面、振り下ろされたワームの爪は、幽香がおもむろに開いた日傘によって防がれる。日光や紫外線はもとより、弾幕さえも遮ってしまう無双の花。彼女の日傘は、この程度の攻撃では傷一つつかない。

 そのまま日傘を肩に掛け、ワームに無慈悲な笑みを向ける。右手で優雅に日傘を差し、ただゆっくりと左手だけを持ち上げて――

 込められた光のエネルギーはいくつもの白い花となってワームに射出される。扇状に花開くように、五方向へと舞い散る花の弾幕。幽香のチャージショットたる【 フラワーシューティング 】は接近していたワームに直撃し、五方向の六連射──すなわち三十発もの光弾がワームの腹部へまとめて炸裂した。

 圧倒的な妖力は刹那の間もなくワームに流れ込み、即座に爆散させる。緑色の爆風はやはり幽香の鮮やかな緑髪を撫でるが、妖怪としての身は日傘を構える必要性すら見出さない。

 

「ギュルル……シュギュルルル……!」

 

 最後に残った一体のワームはエタニティラルバに擬態していた個体だろうか。もはやラルバらしさを見せることもなく、ただワームの本能に従った軋みを上げる。

 幽香と天道は背中合わせの状態から、再び共通の敵へと視線を向けた。初めに幽香が気づいたのは、ワームの変化である。サナギ体の不気味な緑色の甲殻が少しづつ赤褐色に変わっていき、体温が上昇しているのか白い蒸気を発しているのだ。

 ぐらぐらと昇り立つ陽炎(かげろう)は真夏の日差しによるものではない。赤熱したワームの甲殻が空気を熱し、大地を熱し、その温度差によって生じたもの。やがてワームの甲殻たるサナギには微かな亀裂が入り、亀裂はどんどんその隙間を大きく広げていった。

 

 天道は重厚なマスクドフォームの仮面の下で眉をひそめる。幽香が知らぬワームの特性、それは相手が可能性を秘めた成長期間(サナギ)たる所以。

 ワームの甲殻は高熱化に耐え切れず崩れ落ちる。ボロボロと剥がれるように、あるいは灼熱の温度に溶けていくように。サナギという堅牢な装甲を失って、ワームの内なる姿――不完全な鎧を脱ぎ捨てた『成虫体』の姿を晒す。

 蛹という段階を乗り越え、ワームはまさしく地球の昆虫と同様に『脱皮』を行うのだ。

 

「……脱皮したか」

 

 カブトの青い複眼が見据えるは、かつて一度倒したことのある相手。地球の節足動物、蜘蛛によく似た姿に、暗い青紫と赤色を放射状に混合させた不気味な色合い。いくつもの蜘蛛の脚が突き出す両肩を持つは『アラクネアワーム ルボア』と称される種だ。

 

 蜘蛛のワームは低く姿勢を屈めたかと思うと、速やかに大地を蹴り上げる。幽香はその反応を決して見逃さなかったものの──次の瞬間には、それを見失ってしまった。

 余所見をしていたわけではない。瞬きをしたわけでもない。しっかりと目を細めて動きを見ていたはずなのに、正面にいたはずの成虫体ワームの姿が──今はどこにも見当たらない。

 

「消えた……?」

 

 思わず一度は見開いた目を再び細める幽香。微かな残像だけを残して、その場から消えてしまったアラクネアワーム ルボアの気配を探る。

 気配はまだ残っている。が、それを掴んで知覚することができない。そこにいるということが分かるのに、ただその気配に集中するということだけで、箸で蝿を掴むような。

 

 そこへ知覚を超えた速度の爪が迫る。たまたま殺気を感じて日傘を構えられたが、それを見てから構えたのでは決して間に合わなかっただろう驚異的な速度。どこから攻撃が来たのかを確かめることさえできぬ一瞬。

 近くにいた天道も殺気を見て対処しているものの、変わらずそれ自体に反応できているわけではない様子。マスクドフォームの装甲に幾度も打撃を受けつつも、目では終えていない。

 

 成虫となったワームが発揮する驚異的な超高速移動能力──『クロックアップ』と称されるそれは、物理法則を超越せんばかりの相対性を持つ『時間』への冒涜だった。

 

 ただの超高速移動であれば、音速を優に超える速度の物質が通った空気の層が破壊され、凄まじい衝撃波が周囲の向日葵を散らしていただろう。しかし、怪物の姿を実際に捕捉することは叶わずとも、残像を見ればそれが奇妙な挙動をしていることが分かる。

 幽香が気づいた違和感は、ただそれだけであった。ワーム自体は鴉天狗の飛翔を上回る速度で移動しているのに、突風も起きなければ攻撃を受けた際の質量も変わらない。まるでワームの動きだけが不自然に早送り(・・・)されているような。

 天道総司の生きた『カブトの世界』の法則――ワームという存在の能力を知らない彼女には、その概念を推し測る術はない。自身にかかる時間流を捻じ曲げ、通常とは異なる時間の流れに突入するクロックアップの仕組みなど、一目見ただけで理解できるはずがないのだが――

 

 愛すべき向日葵たちへのあまりの影響の無さ。妖精の羽ばたきでさえ揺れる彼らの花びらが、目で追うことすらできない速度で動く生物の風圧を受けないなんてありえない。そんな猛烈な違和感が、風見幽香の記憶から。一度は手合わせしたことのある紅魔館のメイド長(・・・・・・・・)を連想させた。

 

「ギュルゥルルルル……!」

 

 不意に、アラクネアワーム ルボアの姿が幽香の目に留まった。先ほどまでのスピードでは移動し続けることができなくなったのか、隙を晒さぬように右腕の爪から蜘蛛の糸を放つ。今の速度ならば、幽香もふわりと避け切ることは容易だ。

 しかしいつまた怪物が規格外の速度で動き始めるかは分からない。幽香は自身の移動速度こそ遅いものの、飛び交う光弾を視認して回避する弾幕ごっこを幾度となく行ってきた。超高速の飛来物を視認することは不得手ではなかったはずなのだが――あの速度はさすがに異常としか言いようがなかった。

 

 そのとき、ワームが動きを止めた瞬間を見計らった天道は己の左腰に左手を添える。ライダーベルトの正面に備わったカブトゼクター、彼自身から見て左向きに突き伸びた、真紅のカブトムシの雄々しき頭角『ゼクターホーン』に触れつつ前へと起こす。

 激しく唸る駆動音と共に走る電流。加速度的に速くなる律動に重なり、天道が身に纏うマスクドフォームの装甲が少しずつ隙間を開いていく。重厚な音を立てて蒸気を噴き出し、腕から胸へ、やがて頭部を守る『兜』でさえも。

 その変形を待たぬうちに、天道総司はカブトとしての右手でゼクターホーンを掴み取った。

 

「……キャストオフ!」

 

『CAST OFF』

 

 力強い発声と共に右手で掴んだゼクターホーンを右側へ倒す。さらに激しく迸る青白い電流を伴い、カブトゼクターは背中の円を開くように腹部を後方へ展開させる。開かれた内部機関からは真紅の閃光を発し、これより発動する機能を掲示。

 奇怪な鳴き声を上げてこちらを威嚇するアラクネアワーム ルボアは右腕を突き出した。正面に佇むカブトに向けて、地球の蜘蛛に似た遺伝子から白亜の糸を鋭く射出する。

 

 天道の動きに一切の怯みはない。迫る蜘蛛の糸は、その直後。カブトのスーツから勢いよく解き放たれた装甲――『マスクドアーマー』の分離(パージ)によって掻き消された。

 腕、肩、胸、そして頭。カブトの全身を覆っていた重厚な装甲は、それ自体が重量級の飛来物としてアラクネアワーム ルボアに向かって飛んでいく。当然、怪物もそれを受け止めるつもりはない。成虫となってさらに強化された豪腕を振るい、襲い来るそれらを容易く薙ぎ払った。

 

「…………」

 

 飛び散ったマスクドアーマーの先に立つ(あか)き影。漆黒の強化スーツはそのままに、今まであった鈍色の鎧を脱ぎ捨てた、細身にして美しくそれでいて力強い姿。

 兜の中にしまわれていた真紅の角がカブトの顎を中心に持ち上がり、顔の正面を覆う形で額の先に掲げられる。雄々しく分かれた一本角となり、青い複眼に誇り高き光を灯して。

 

『CHANGE - BEETLE』

 

 その立ち居振る舞いは不動のままに。鈍色の鎧は流麗な輪郭を見せる真紅の装甲となり、青い複眼を分かつように突き伸びた角は先ほどまでとは大きく印象を変えている。

 カブトゼクターの操作により、天道は『キャストオフ』を果たした。その姿はワームの脱皮と同様、重厚な防御を誇る鎧を失うことで至る完全体。マスクドライダーシステムとして成虫(・・)への到達を意味する――『ライダーフォーム』と呼ばれる形態である。

 

 緋色に輝く装甲は、太陽の畑を染める黄色の中で眩く存在を主張していた。真夏の日差しを抱いたその在り様はまさしく天に無二たる光の如く。

 きらりと反射する陽光が幽香の緋色の瞳を眩ませる。思わず眉を寄せる胸中は、奇しくもカブトを見やるように風に煽られた向日葵たちの眼差しと同じ嫉妬と羨望によるものなのか。

 

 いったい誰の強さが信じられる? 己が道を決めるのは自分だけ。常に最強最速を求める者にこそ、運命は絶えず味方する。

 目に見えるスピードを遥かに超えて、心の時計を疾く走らせ、巡る明日のその先へ――

 

 天に咲く正義。太陽の如き道。選ばれし者は空を目指し、散りゆく花びらと共に翅を広げた。




おばあちゃんが言っていた。カブトと対応させるのは天子でもよかったけど……
天子だと『比那名居』で天道方式の自己紹介をさせるのがめちゃくちゃ難しい、ってな。

次回 44『誰よりも速く』


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第44話 誰よりも速く

 夏の日差しが降り注ぐ太陽の畑に、紅く光を返すカブトの装甲。それは伝説と称された幻の希少金属『緋々色金(ヒヒイロカネ)』と呼ばれる物質で出来ている。

 外の世界では失われたはずのそれはカブトの世界において、紛れもなく実在した。幻想郷にて観測される緋々色金と同じものが、あちらにおいては『ヒヒイロノカネ』なる金属としてマスクドライダーシステムの素材となり――その装甲の強化のために用いられている。

 

 幻想にして現実。だが、カブトの世界に存在する幻想は、それだけではない。外宇宙より飛来したワームに対抗するためにはただ強く堅牢なだけの鎧では足りず。万物を切り裂く刃だけではまだ不足。

 必要なのは、ワームのクロックアップに対抗し得るだけの圧倒的な『速さ』だった。

 

 特殊相対性理論において、光速を超えることができる物質は存在しない。だが、もし初めから超光速で移動する粒子が存在したとしたら。加速によって光を超えることは叶わなくとも、存在しているだけで常に光より速く動く粒子があったとしたら。

 人はそれを『タキオン』と呼んだ。光より速く駆け抜け、今も未来も過去にする。幻想郷の外の世界でさえ未だ発見されていない粒子の一つだが、カブトの世界ではそれさえもすでに運用され、システムに組み込まれている。

 タキオン粒子。マスクドライダーシステムの根幹をも定義する超光速のエネルギー粒子。異なる時間の流れを見出し、相対性理論の壁を超える。そのための機能が、カブトには備わっている。

 

「……クロックアップ」

 

『CLOCK UP』

 

 ひらひらと舞い落ちる向日葵の花びらの中、天道総司は小さく呟く。腰に装うライダーベルトの右側、サイドバックルとして設けられた『スラップスイッチ』を軽く叩くと、その意思を信号として受け取った自律メカ──カブトゼクターが電子音声を奏でた。

 その瞬間、カブトの全身にはタキオン粒子のエネルギーが駆け巡る。ワームのクロックアップと同様の機能を発動し、カブトはワームだけに許されたはずの『クロックアップ』の世界に人間として踏み込んだ。

 ――速度を超え、時間を超え、誰よりも速く明日を見に行く。その目から見れば、自分たちについて来れない世界の速度は止まってしまったように見えたことだろう。

 

 否、正確にはほんの僅かに、ゆっくりと動いている。風に吹かれて散った向日葵の花びらが空中に漂い、静止しているように見えるものの、極めて遅く緩やかに風に流されている。

 遥かなる空に舞う鳥たちの羽ばたきも、向日葵を求めて舞い降りた羽虫たちも。例外なくクロックアップの世界を認識できず、カブトやワームには止まって見えるほどゆっくりと動くことしかできない。

 それは風見幽香も同じだった。いくら妖怪として強大であろうと、クロックアップした存在を目で追うことができる者は、クロックアップが可能な存在だけ。

 

 向日葵の花びらが張りついたように浮かんでいる。そんな奇妙な光景の中で、ワームはカブトから見て等速で右腕を振り上げた。

 実際は目にすることも不可能な速度である。人間も妖怪も、その眼球では捉え切れない瞬間と瞬間の隙間を縫うが如く、クロックアップしたワームは活動することができるのだ。

 

「ふっ、はっ!」

 

「シュルルギュルルッ!」

 

 クロックアップしたカブトもまた、ワームの成虫体に等しいライダーフォームの機能をもって、人間を遥かに超えたスピードで活動することができている状態にある。

 音速を超えて風を切り裂いたワームの鉤爪は、同じく音速を超えたカブトの手刀に振り払われた。続けて放った右拳をもって、彼らにとっては等速と変わらぬ超音速の打撃を叩き込む。

 

「ギュルルッ……」

 

 同じ速度の流れにあれば、天道総司の右に出られる者はそうはいない。一番強いのは俺だからな、と言わんばかりの圧倒的な佇まいに、アラクネアワーム ルボアは思わず怯んだ。

 振り上げられたカブトの右脚によりワームは遠くへと蹴り飛ばされてしまう。開けた平原に叩き込まれつつも、ワームは蜘蛛の糸の如く粘り強く立ち上がった。

 

「…………」

 

 天道総司は常人を超えた速度の中、ワームの姿に過去を思い返している。

 彼の世界における西暦1999年。東京の渋谷区は、隕石の落下によって壊滅的な被害を受けた。衝撃は建物を粉々に吹き飛ばし、おびただしい数の犠牲者を出し、幼い頃の天道総司もまた家族を失ってしまった。

 だが、隕石が地球にもたらした災害はそれだけではなかったのだ。隕石に包まれるように付随していた地球外生命体――後にワームと呼ばれることになる生物の種が地球に蔓延り、その擬態能力とクロックアップをもって瞬く間に人類を脅かす存在となってしまった。

 1999年の『渋谷隕石』の復興も未だ途上。そんな中で、未確認の宇宙生物に対抗する手段など、そう都合よくあるはずがない。――あるはずが、なかった。

 

 天道総司が初めてカブトゼクターに選ばれし日、西暦2006年から35年前。渋谷隕石の28年前に当たる1971年にも地球に隕石が落下し、ワームが訪れていたのだ。

 否、正確に言えば彼らはワームではない。後に襲来する第二のワーム──1999年のワームとは敵対する種族らしく、人類にワームに対抗するための技術を提供してきた。

 1971年時点において、やがて来たると予言された1999年のワームとの区別のために、最初に現れたワームの種族は現地住民の意を込め『ネイティブ』と呼称される。ネイティブたちは敵対するワームを倒すべく、人類に協力を志願。やがて『マスクドライダー計画』を発案した。

 

 来たるべき災いに備えて、人類とネイティブは秘密裏に特殊武装組織『ZECT(ゼクト)』を結成。組織の結成に携わった二人の男のそれぞれの息子が、マスクドライダー計画の根幹を担う『資格者』として選ばれることとなる。

 天道総司が家族を失ったのは隕石による被害ではない。人類とネイティブの間に生じた亀裂を隠したかったネイティブによって彼の両親は殺害されてしまった。

 その17年後。ついに訪れた1999年の渋谷隕石で、両親に擬態したネイティブは命を落とした。その際に父と同じ顔をした怪物から、天道総司はマスクドライダーシステムの資格者として選ばれた者の証――ライダーベルトを受け取った。

 なぜ父を殺した怪物が、父のように振る舞い自分にライダーベルトを託したのか。あるいは父の人格を模倣した際、その遺志が怪物の思考に影響を及ぼしていたのだろうか。

 

 天道はそれから七年間。掴むべき太陽の神(カブト)の覚醒を待ち続け、己を鍛え続けてきたのだ。

 

◆     ◆     ◆

 

 クロックアップ。天道の口からその言葉が聞こえた直後、幽香の視界から二つの影は消え去った。瞬く間もなく残像だけを残し、音もなく気配だけが周囲で戦っている。

 

「今度は私だけ置き去り? 異界の虫はせっかちなのね」

 

 傍に立っていたカブトまでもがワームと共に超高速の世界へ消えた。幽香の赤い瞳には微かな残像しか映っていない。妖怪としての感覚は紛れもなくそこに悪意と妖力を帯びた怪物と、天道総司と名乗った外来人の男の気配が戦っていると示してくれているのだが――やはり目で見ることは叶わなかった。

 一瞬の後には影らしきものが視界の端に映る。瞬くよりも速く、次の瞬間には背後にて衝撃が走る。残像と呼べるものを視界に捉えることはできるが、それ以上は何も見えないのだ。

 

「……相変わらず残像しか見えないわ。いったい何が起こってるのかしら」

 

 ただ一人残されてしまった幽香は退屈そうに独り言つ。超高速の世界に至ったカブトとワームにはその呟きは悠久に等しく引き伸ばされ、決して届くことはない。

 同じくクロックアップしている彼らの息遣いも、拳や爪が空を切る音も、装甲を打ち合う打撃の音までもが。刹那の狭間に掻き消え、幽香の耳には一切聞こえることはなかった。

 

 本来ならばクロックアップした存在の『残像』を見ることすら、常人には不可能。されど幽香は常人を遥かに超えた妖怪である。時間の流れが異なる速度を認識することまではできていないが、その影響を残像という形で認識できた。

 彼女にとってはほんの一瞬。されど彼らにとっては長い長い時間の戦い。あちらを見てもこちらを見ても極めて微かな残像が映る程度。向日葵にはほとんど影響がないことだけが僥倖(ぎょうこう)だ。

 

◆     ◆     ◆

 

 異なる時間流へ突入してから、4秒は経過しただろうか。クロックアップによって引き延ばされた時間の中では、それがどれだけの時間になっているかは分からない。彼らにとっては銃弾も雨粒も静止した絵画のようなもの。

 超高速の世界では打撃の音がくぐもったように空間に響き渡る。音さえも静止したように飛んでいかず、しばらくその場に留まったのちに遅れて響き渡っていくためだ。

 

 天道は蜘蛛に似たワームと拳を交える中で奇妙な違和感を抱いていた。相手が未知の存在に擬態し、光弾を射出できるようになったという点だけではない。それを差し引いても、ワーム自体の強さが以前に戦ったときより格段に上がっていると感じられたが故に。

 先ほどまでは子供程度の知性でただ力を振るっているだけだったはずなのに、成虫体に脱皮してからは動きが変わったかのよう。マスクドライダーシステムを知っていると思わせんばかりに機敏な動きになっている。

 打撃の重み、装甲の強度。そのどれもが過去の同一個体(アラクネアワーム)よりも優れている。しかし天道はやはり一切怯むことなく。カブトの仮面の下で小さく口角を上げ、迫る鉤爪を避けて殴り返す。

 

「ふっ、ワームにしてはなかなかやるな」

 

「シュギュルルルッ!!」

 

「だが……せっかくの豆腐を台無しにした罪は償ってもらう」

 

 静止に近く遅延した世界の中で、天道は静寂に響くようにワームに告げる。至近距離で吐き出された蜘蛛の糸さえも首を微かに動かして回避し、迫る怪物の勢いを殺すことなく肘打ちをもって背後に叩き伏せる。

 アラクネアワーム ルボアは己が攻撃を鮮やかに受け流され、背後に追いやられていた。クロックアップを果たしたところで質量や衝撃は増大していないはずなのに、カブトが持つ本来の性能、マスクドライダーシステムの出力がワームに響く。

 

 草原に叩き出されたワームに背を見せつつ、天道の右手の指先が腰のカブトゼクターへと誘われる。カブトゼクターの三対の足でもあるその銀色は、マスクドライダーシステムに信号を伝えるキーの一種。自らの腰を見ることもなく、天道はその三つのキーを押下していく。

 

『ONE』『TWO』『THREE』

 

 一つ、二つ、三つ。親指の腹で確実に、ライダーベルトに横向きに装填されたカブトゼクターの左側に突き出した三つの足――この状態では上を向いている『フルスロットル』と呼ばれるキーを自身から見て左から順番に押した。

 重厚な鎧を纏っていたマスクドフォームからキャストオフを果たし、ライダーフォームとなった今の状態ではカブトゼクターの角――ゼクターホーンは反転して右側を向いている。角の裏地たる金色を正面に向け、カブトムシの背中側へ翻って後部へと倒されている。

 天道はフルスロットルを押下し終えた後、展開されたカブトゼクターの頭を押さえて正面の円を閉じつつ、右側に倒されていたゼクターホーンを右手で掴み、再び左側へと勢いよく戻した。

 

「……ライダーキック」

 

 背後から迫り来るアラクネアワーム ルボア。強靭な爪を振り上げつつ、こちらへ突っ込んでくる怪物に対してか。天道は誰にともなく静寂の中に死の宣告を謳う。

 ベルトから迸る青白い電流を装甲や頭の角に受けながら、ゼクターホーンを右へ倒した。

 

『RIDER KICK』

 

 カブトゼクターの操作と共に、低く響き渡る電子音声。カブトの頭角を巡る電流は瞬く間にその右脚へと収束し、タキオン粒子のエネルギーを走らせ光を放つ。天道自身はその場から動くこともなく、ただ勇ましく愚かに迫り来るアラクネアワーム ルボアの姿を背に立ち尽くし──

 

「はぁっ!」

 

 不意に振り上げたカブトの右脚が天を切る。閃光を纏い、風を貫き。左足を軸として翔け抜けた右脚をもって、背後のワームに対し渾身の回し蹴り――【 ライダーキック 】を見舞う。タキオン粒子のエネルギーを込めたその一撃は、ワームの装甲を切り裂いた。

 

 激しく迸る電流と共に、強さという自信が身体を溢れ出す。その強さを、己の誇りを信じることができるなら。きっと(すべ)てが力になる。

 絶えず自分の限界を抜き去って──昨日より速く。天を往く正義を右脚に乗せて、穿ち抜かれたアラクネアワーム ルボアは青白い爆炎を伴い、カブトの前にて天命を終えた花と散った。

 

『CLOCK OVER』

 

 静止した時間の終わりを告げる音。カブトゼクターが知らせた電子音声は、天道総司の意識をクロックアップの世界から通常の時間の流れに引き戻していた。

 空に張りついていた向日葵の花びらが風に乗って儚く地に落ちる。それは先ほどまで目にしていた絵画のような光景ではなく、紛れもない現実。時の流れに漂うように、散りゆく花は等速のままに舞い落ちていく。

 超高速の世界は限られた時間の中でしか使えない。ワームも同様に起こり得る『クロックオーバー』という現象がなければ、カブトといえど超高速の世界に閉じ込められただろう。それは超加速の制限時間でもあると同時に──彼らと通常の時間を繋ぐ命綱でもあるのだ。

 

 青白い爆炎が通常の時間流に揺蕩う空気を吹き飛ばす。濛々と舞い上がる白煙は夏色の日差しに照らされた風に掻き消され、そこに立つカブトの緋色だけを眩く刻む。

 天道総司はライダーフォームとしての姿のままに、ゆっくりと右手の人差し指で天を指した。

 

「……あら? もう終わっちゃったの? 散った花びらが地面に落ちるよりも早かったわね」

 

 風見幽香の目には一瞬。僅か5秒を数えるまでもなく戦いは終わった。幽香には引き延ばされた時間の中までは観測できていなかったものの、その戦いの残像だけは見えており──

 

「戦うのは久しぶりだったのかしら? 少し動きが鈍かったわよ」

 

 陽光に細められた(あか)い瞳がカブトの緋々色金の装甲を射貫くように見る。残像だけを見ても、あまりに長い時を生きた妖怪にはその些細な動きが悟られていた。天道総司という男のポテンシャルに相応しくないような動きの矛盾が。

 幽香とてついさっき出会ったばかりの男のすべてを知っているわけではない。ただ感覚的に理解できるのだ。この男は、あの程度の戦い方で満足するはずがない──と。

 それは、幽香が天道に自分とどこか似た部分──自由を求める道を見たからかもしれない。

 

「……見えていたのか?」

 

「いいえ? まったく」

 

 自らの背に伝えられる言葉に、天道は顔だけを少し傾けて幽香へ問う。ただの人間とは思えない相手ではあるが、それを考慮してもクロックアップを見切ることができる存在などこの世にそうそういていいはずがない。

 ワームの突然変異個体である『白いサナギ体』であれば、通常の速度からクロックアップを視認することもできるだろうが──彼女はワームのことを知らない様子だ。

 

 ゆっくりと振り返り、カブトとしての青い複眼で幽香を捉える。仮面の下で小さく溜息を零しながら、天道はワームやネイティブらしき様子もなければ人ですらない不気味な気配を帯びた女性を前にして。目の前の『怪異』に対する警戒をそのままに──戦う意志だけを胸にしまった。

 

「この一年間も鍛え続けていたんだがな。どうやら、その目は誤魔化せないらしい」

 

 天道の意思に従うように、腰に帯びたライダーベルトからカブトゼクターが外れる。足を伸ばして翅を広げ、飛び去る甲虫はジョウントによって空間を跳躍した。

 光の狭間に消えゆくそれを見やることもなく、天道はカブトの装甲が再び六角形の情報片となってベルトに集約していくのを感じる。低くも小さな音を立て、やがてすべてを受け入れたライダーベルトは信号を消し──天道総司をカブトの姿から生身へと戻していた。

 黒い作務衣は冬の日の異国から誘われたままの在り様。狂った季節の夏の色、照りつける日差しの下にはあまり相応しくない装い。それ以上に、幻想郷らしくもあり異端でもある服装。

 

「腕が鈍ったのね。でも……『しかたないじゃない』なんて言わないだけ立派だわ」

 

 飛び去ったカブトゼクターを彼方へと見やりつつ、消えゆく狭間を見送って。微かに髪を撫でた夏色の風を感じつつ、幽香は天道に向き直る。

 夢と幻の記憶に少し酔い痴れながら。門番には彼のような存在こそ相応しいと胸に想った。

 

◆     ◆     ◆

 

 やや夕暮れの色を見せ始めた太陽の畑は向日葵の影を伸ばし、幻想的な光景を見せている。この地には人や妖怪が住める建造物らしきものの影は見当たらないが──その妖気を誰よりも知る彼女は、そこに独自の結界を設けていた。

 妖精がいくら飛び交おうがぶつかることのない別位相の領域と呼べる場所。よほど妖気の流れに聡い大妖怪でもない限りは、太陽の畑に建てられたこの館に気づくことはないだろう。

 

 夢幻の色香を漂わせる不思議な館。そこに水辺はないはずなのに、どこか紅魔館にも似た独特の湿度を帯びている。

 今昔において揺るがず。それでいてどこか変化も感じられる幻想郷の在り方──(ふる)き気配を帯びたその屋敷は幽香ただ一人が住む邸宅として。太陽の畑の結界内に(かそ)やかに建てられていた。

 

「たしか、天の道……天道総司とか言ったっけ? あなた、人間にしては強いのね」

 

 艶やかな蜜の香りを漂わせつつも、無意識に他者を威圧する花弁の如く。幽香の瞳は結界内に建てられた屋敷に招かれた天道総司の表情を見る。

 奇妙な植物の意匠が施されたテーブルに向き合い、手元のハーブティーには手もつけず。天道は明らかに人ならざる者の不気味さを隠そうともしない風見幽香に言葉を返した。

 

「その口振り……やはり人間じゃないのか。……ワームの擬態というわけでもなさそうだが」

 

「私は……そうね。あなたの素敵な在り方に(なら)ってみようかしら」

 

 自分の在り様を天道の在り様に重ねるように、わざとらしく思考する素振りを見せる幽香。その振る舞いは花のように可憐でありながら、静かに獲物を狙う食虫植物のようでもある。

 

「風を見やり、(かそ)やかに香る女……風見幽香。一言で言うなら……『妖怪』ね」

 

 再びこちらを向いた緋き瞳が細められたのを見て、天道は微かに眉をひそめた。自分の在り方を模倣されたことに対してか、あるいは妖怪などという荒唐無稽な話で誤魔化そうとした女の態度か。すべてを見透かしているような目つきが天道総司を不快にさせる。

 万物を等しく見下ろす太陽が如き者の視線の中、彼は自分が花になったかのような気持ちを覚えさせられた。だが、この気持ち、自らの顔に滲む苦い表情は。これまで自分が対してきた相手とよく似ているのかもしれない。

 自分が無二の太陽であると信じて疑わないかのような。風見幽香と名乗った女の在り方は、自らを模倣するまでもなく自分と似ているのだ。そう思い、天道は小さな苦笑を零していた。

 

「あら、信じてない? あなたも見たでしょう? 太陽の畑(ここ)にいる小さな妖精の一匹や二匹くらい」

 

 太陽の畑に生じる自然の具現は、天道もしっかりと目にしている。あまり信じたくはない光景ではあったが、背中に羽を持つ人間の少女めいた存在は空を飛んでいたのだ。サナギ体の撃破に伴う爆発に驚いたのか、ほとんどは鳥と同様に逃げ散ってしまったが。

 ただの仮装──と笑えるほど拙いものではなく。少女の質量を支えるには明らかに不足と言える小さく脆弱(かよわ)い羽をもって、妖精と称された彼女らは空を飛んだ。それは物理的な意味合いにおける飛翔というよりは精霊や幽霊、まさしく『妖精』と呼ぶに相応しい幻想的な振る舞い。

 

 幽香の家から窓の外を見る。夕暮れに落ちた太陽の畑には、もはや忌むべきワームの影はない。その代わりに蝶のような羽を持つ妖精たちが楽しそうに遊んでいる。

 向日葵の花を手に空を漂う幻想的な少女たち。つい先ほど倒したワームは、彼女らによく似た特徴を持つ少女に擬態していた。おそらく、この地に住まう妖精とやらの一匹がワームの犠牲者となったのだろう。

 サナギ体のワームには光弾を放つような能力はない。だとすれば、その力は擬態元たる妖精と呼ばれる存在の力。見た目だけなら人間の子供にしか見えないが、あれだけの攻撃力を遊び感覚で放つことができるのは脅威と言えよう。あるいはワーム本来の力も合わさっているのか──

 

 たった今まで怪物が存在していた場所で変わらず遊ぶ様子からは危機感がまったく見られない。先ほどの戦いを見ていなかったわけではあるまいが、もう忘れているのか。どうやらワームが擬態した個体と同様、妖精というのは頭の中まで子供と同等らしい。

 目の前にいる『妖怪』が見た目の若さには相応しくない威圧感を秘めているから少しは神秘的な存在なのかと思ったが、見ている分には本当にただ普通に遊んでいるだけの少女たちだ。羽を持ち、空を飛んでいるという点を除けば、だが。

 ──人ならざる妖精とはいえ少なくとも一人がワームの犠牲になっている。天道はその事実に拳を固めながら想う。子供は宝物。この世で最も罪深いのは、その宝物を傷つけるものだ、と。

 

「……俺はパリにいたはずだ。この気温と湿度……まさか日本なのか?」

 

「少なくとも、モスクワじゃないのは確かね。その格好、あなたも外来人なんでしょう?」

 

 かつておばあちゃんより伝えられた教えを胸に抱きつつ、肌に張りつくような慣れ親しんだ暑さを飲み込んで口を開く。溜息混じりに口をついた疑問は向かい合う幽香に対して。

 

「…………」

 

 天道の記憶においては一年前の出来事。ワームの殲滅を目的に組織されたZECT(ゼクト)は人類の脅威たるワームを着実に減らしていった。ワーム襲来から28年も前にすでに地球に訪れていたワームの亜種──ネイティブの技術たるマスクドライダーシステムによって。

 人類とネイティブは協力関係を続け、共に1999年に現れたワームと敵対していた。だが、天道総司の父がネイティブに殺害された理由──ネイティブへの疑惑と不信感の通り、ネイティブは人類の味方などではなかったのだ。

 地球を襲うワームを殲滅し、先住民たる人類さえも『ネイティブ』に変えて。地球の支配権をネイティブが奪う。ZECT上層部は幹部組織にさえ極秘として──その計画を進めていた。

 

 ZECTの上層部たるネイティブが発動したのは、人類のネイティブ化。全人類にネイティブの繭たる隕石の欠片を配布し、そこに特殊な信号を送ることで全人類をネイティブと同じ存在に変貌させてしまうという計画である。

 その被検体として選ばれた少年がどれだけ凄惨な地獄を味わってきたか。自ら望んでネイティブとなった男がどれだけ人類に絶望していたか。人間の母親から生まれるはずだったネイティブの少女は、自分が人間ではないと知ってどれだけの葛藤を胸に抱いたことか。

 そんなことは天道にとってどうでもよかった。ただ世界に在るべき人類がネイティブなどという先住民気取りの余所者の手に落ちようとしている事実が許せず。天道総司という世界における『正義』そのものを無視したネイティブが気に入らず。

 人間もネイティブも関係ない。だが、自分のために世界を捻じ曲げるのは間違っている。世界を変えたければ、まず自分が変わることだ。その道を名に示し、天道総司はネイティブとしての道を選んだ悲しき男に引導を渡し。ZECTによる人類ネイティブ化計画に終止符を打った。

 

 その一年後、天道はその戦いを共にした『友』と別れ。天道の名の下に偉大な教えを受けて育った者、ネイティブとして生まれ人間として生きてきた者の二人の妹のために。最高の豆腐料理を味わわせてやりたいがため、フランスのパリまで足を運んだのだが──

 手に入れた豆腐は花と散ってしまい、未知の草原にて帰り道さえも分からない。俺としたことが不甲斐ない──と頭を抱えつつも、ワームの存在を想えばあまり楽観視もしていられなかった。

 

「……なるほどな。俺はまたわけのわからない世界に連れて来られた……というわけか」

 

 パリの歴史的建造物を前に豆腐を持ち歩いていたら、不意に自分の名を呼ばれたような気がした。それ自体は特に不思議なことではない。たとえ異国の道を歩いていても、天道総司の名を知る者は少なからずいるものだ。

 だが──声の主を見つけることはできなかった。振り返った直後、深くまとわりつくような不快な風に煽られ、咄嗟に手にした豆腐を守りつつ顔を覆ったが、視界を開いた瞬間にはパリの景色は幻の果てへと消え失せてしまっていた。

 夢を見ているのか。そう錯覚する間もなく、天道は向日葵を掻き分けた先の地平で見慣れた異形を見た。地球からほとんど一掃したはずのワームが女性を襲う様を。一年の空白こそあれど、なぜワームが再び現れたのかという疑問を抱きつつも、迷うこともなく天を往き。

 

 天道にとって、こうしてまったく未知の異世界に足を踏み入れるのは初めてではない。ZECTの研究か何だか知らないが、幾度も時空の彼方とやらに誘われ、自分と同じ顔をした青年──望まずネイティブにされてしまった人間の青年と拳を交わした経験がある。

 この地は時空の彼方ほど殺風景ではない。むしろ居心地は悪くないと思わせる暖かく優しい風と絵画のように美しく広がる向日葵畑は天道の心を落ち着かせた。

 外来人──幽香が放ったその言葉から考えるに、おそらくここに迷い込む『外』の人間はあまり珍しくないのだろう。なぜ自分がこんなところにいるのかまったく理解できないが、心地よい光景は窓の外ばかり。風見幽香の視線を一身に浴びるこの椅子の上は、ひどく居心地が悪かった。

 

「へぇ、飲み込みが早いのね。もしかして経験済みかしら? 説明が楽で助かるけど」

 

「……説明だと? あぁ、ぜひ聞かせてもらいたいね。俺をこんなところへ呼んだ理由をな」

 

 静かに目を閉じながら手元のハーブティーに口をつける幽香に対し、天道は彼女への不信感を隠すつもりのない口調でそう告げる。

 両腕を組み合わせたまま長い脚を組み、テーブルに向き合う姿勢を取るのが難しいがゆえ右肩を幽香に向き合わせる姿勢。椅子の横から脚を出す形となって、壁の窓には背を向けた。

 

「残念だけど、あなたを招いたのは私じゃない。まぁ、心当たりはあるわ」

 

 白い花柄のソーサーにティーカップを置きつつ冷静な口調で答える。幽香は同じく強大な妖怪と恐れられる幻想郷の代表者の顔を思い浮かべた。胡散臭い笑顔と纏わりつくような不快な妖気の気配は相変わらず好きになれないが、それはあちらも同じだろう。

 天道総司と名乗った男は、服装や気配から見ても間違いなく外来人だと断定できる。そして先ほど至った『仮面の戦士』と呼べる姿を想えば、今の幻想郷に起きている異変と関わりのある者だと推測するのは容易だった。

 幻想郷に現れた怪物とそれに対抗し得る戦士。まさしく幽香が聞いた話と合致するその情報から、彼が太陽の畑に現れたのは何かしらの理由があるのだと思い至る。それが賢者の采配によるものなのか、あるいは運命の巡り合わせによるものなのかまでは分からないが──

 

「誰だか知らんが、気に入らないな。この俺をわざわざ呼び出しておいて姿も見せないとは……」

 

 幽香は幻想郷の妖怪として長い長い時間を花と共に生きてきた。生きる者と死にゆく者への罪と罰を司る地獄の閻魔にさえ「貴方は少し長く生きすぎた」と忠告を受けるほどに。

 故に知っている。天道総司を幻想郷へ招いた紫色の花を。生と罪の色に満ちた桜の如く、紫色に香る花の名を。誰よりも幻想郷を愛する彼女が何の目的で彼を連れてきたのか、幽香にはやはり想像することしかできなかったが──あまり興味もない。

 花は咲き、やがて枯れる。その盛衰を見届けることができるのなら、多くは求めず。きっと数多の花々の生と死を見送るために、風見幽香は枯れない花の如き強さに至ったのだ。まるで静止した世界にてすべてを置き去りにしてしまったように、彼女は強く咲き続ける。

 

 世界の在り様に流されず、前に突き進む意志が天道総司の語る『天の道』という正義であれば、それを見送る幽香の意志はさながら『地の花』とでも呼べる正義。同じ大地に揺るがず咲き誇り続け、時には花びらとなって天を舞う風の如く。

 生きることも死ぬことも──咲くことも枯れることも、閻魔が裁くべき罪という。賢者の意思など知ったことではないが、幽香は刹那を楽しむ一輪の花として。

 正義を語る者の道、天の道とやらの傲慢さに。彩り咲くべき(つち)を見繕ってやりたくなった。

 

「あの怪物やあの力について、こっちにも訊きたいことはたくさんあるの。あなたさえよければ、この館を花瓶として使ってもらっても構わないけど……どうかしら?」

 

 柔和な笑みの中に冷ややかなものを秘め、幽香は両肘をテーブルに乗せながら言う。組んだ両手の指の背に顎を乗せ、向日葵の種のように細い瞳孔で天道を見つめている。窓の外から差し込んだ夕陽を取り込み、彼女の緋色の瞳は妖しく輝いていた。

 私の花になってみる気はない? と、天道総司に瞳で訴える。それは悪意や打算から成るものではない。彼女の本心は他者には理解され辛いが、ただ危険な妖怪であるがゆえに。一人の女性として当たり前に持つ優しさや暖かさ、陽だまりの如く人を思いやる心が伝わりにくいのだ。

 

「…………」

 

 天道はその瞳にゆっくりと向き合う。悪意と呼べるものは感じられないが、ただ純粋な善意で言っているわけでもない。

 だが、むしろそのほうがいい。見ず知らずの男を家に泊めようとする女よりも、来訪者が持つ情報を目的として引き出そうとする女のほうが信用できる。もし風見と名乗ったこの女が妖怪としての本性を現したとしても、この手にカブトゼクターを呼べることは確認済みだ。

 

「こんなところに迷い込んで、天にも地にも道はないんじゃない?」

 

 空はすでに群青の色が深くなり始めている。強者特有の笑顔は並み居るものを怯ませるだけの威圧感があるのかもしれないが、等しいだけの精神を持つ天道には鏡の如く。

 ――大丈夫よ、部屋なら余ってるし。と付け加えた幽香の言葉で、天道は幽香の口車に乗ってやることにした。

 幻想郷に誘われて、行く当てなどはない。さらにワームまでもが出現しているとなれば、夜を超えるべき宿は必要となるだろう。

 その対価としてワームやマスクドライダーシステムについての情報を、否が応にも提供することになってしまうだろうが──このわけのわからない場所についてのことも聞くことができれば幸いだ。嘘を吐けば必ず見抜かれる。風見幽香の瞳には、そう思わせるだけの妖気があった。

 

「まぁいい。しばらくここの世話になってやる。またあいつらが現れるかもしれないからな」

 

「ええ、しばらくお世話をしてあげるわ。たっぷりの水と肥料と愛情を込めて、ね」

 

 天と地の間に道はできた。細く小さく慎ましくも、繋がりたるは互いの利用価値を認める契約として。幽香にとっては妖怪だらけの楽園に放り出された外来人を保護するという意味もあり、天道にとっては未知の郷での宿という意味もあり。

 その本質は『知らなければならない』という想いを引き金とするもの。天を往く道は妖怪が蔓延る秘境の正体を。地に咲く花は彼が至った戦士や異形の怪物についての情報を。

 

 表面上は信用する。それを示すために、天道は手元に用意されたティーカップを手に取る。程よく暖かく優しげな香りを漂わせる黄金(こがね)色のハーブティーに口をつけ、天道は目の前の『妖怪』がもたらした条件(・・)を喉へ通した。

 様々な茶葉を知る天道でさえこれまで感じたことのない味。不快なものは一切ないのに、自分の知識にない『美味しさ』に微かに目を見開いたと同時。

 満足そうな笑みを浮かべる風見幽香に対し、少しだけ眉をひそめる感情を覚えさせられた。

 

◆     ◆     ◆

 

 草木も眠る丑三つ時。すでに秋へと至り始めた風が微かに漂う夏の夜。四季異変に際して歪んだ季節の色は、蒸し暑さの残る晩夏の月夜に儚い蛍火(ほたるび)を灯らせていた。

 博麗神社から近い場所の小さな道、人間の里へと至る方角に続くその道において、数多のホタルを引き連れた虫の妖怪──『妖蟲(ようちゅう)』の一種たる少女は己が身を震わせる。向かう相手は自分とまったく同じ顔と姿をした鏡映しの自分自身── リグル・ナイトバグ そのものだった。

 

「あんた、いったい何者なの?」

 

 額に汗を滲ませながら、(ほたる)の妖怪であるリグルは目の前の自分自身に問う。つい先ほどまでは醜悪な緑色の異形を持つサナギめいた怪物であったのに、それは自分の存在を確認するや否や自身と寸分違わぬリグル・ナイトバグへと変貌を遂げた。

 白いシャツに裏地を赤く染めた黒いマントを羽織るように纏い、丸く膨らんだ濃紺色のズボンを装う姿。少しボーイッシュな印象を受ける緑色のショートヘアを整えた頭の先からはホタルらしい触角が生え揃っている。

 

 水面に映るが如き自分の姿そのものを前に、リグルは小さく息を飲む。ただじっとこちらを見つめる相手は妖気の気配も微かな動きの癖も自分とまったく変わらない。この瞬間、悪意に満ちた不気味な笑みを浮かべるまでは、偽物は自分なのではないかと不安になってしまっていたほど。

 

「気味が悪いな……! みんな! あんな偽物やっつけちゃってよ!」

 

 リグルは黒いマントを夜風にはためせかせながら、周囲を漂うホタルや蛾に伝える。妖怪としては虫の特質を持つリグル、その存在はあまりに矮小で虚弱ではあるが──

 虫への恐れは彼女の力として語られる。リグルが有する『蟲を操る程度の能力』は自らの言葉をもって号令となし、同族たるあらゆる虫を自らに従わせることができるというもの。羽虫の一匹から世界最大の甲虫まで、妖蟲に従う手足となるのだ。

 

 だが、その場に集った虫たちは困惑したように周囲を蠢くのみ。地を這うムカデも空を舞うハエもがリグルの声を聞いているが、同じく目の前にいる者もまたリグルである。その事実が呑み込めず、わけもわからず翅を震わせている。

 目の前の事象が理解できないのはリグルとて同じことだ。あるいは、もしも自身の持つ能力までもが相手にもあるとすれば。見た目だけでなく力も同じだとすれば。この虫たちはそれぞれの能力の影響を受けて、どちらに従えばいいか分からなくなっているのではないだろうか──

 

「嘘……! そんな……そんなことって……!」

 

 混乱の羽音が頭蓋の奥を染める。それでも考えている暇はない。目の前の自分は、いつも自分がしているのと同じように。その手に緑色の妖力を込めて光弾を放ってきた。

 咄嗟にそれを避ける。こちらも同じように光弾を放つが、寸分の狂いもなく同じ動きで避けられてしまう。だが混乱している分、こちらのほうが動きが鈍っている。相手のリグルは普段のリグルよりも冷静な振る舞いで──こちらが避け転がった場所へと的確に緑色の光弾を放った。

 

「うぐっ……!」

 

 光弾がリグルの身体に炸裂する。マントを焦がした妖力のエネルギーが身に響き、弾幕ごっこ以上の力が込められたそれに本能的な命の危機を覚えさせられる。

 地に伏せたリグルを見つめるムカデやダンゴムシたち。普段なら友として接している彼らの視線も、今は敵意なのか心配なのかも分からず。目の前に迫る勝ち誇った顔の自分を見上げ、その手に光弾のエネルギーが輝くのを見て。リグルはただ歯を食い縛ることしかできない。

 

 ――そのとき、二人のリグルの間を縫って、一匹の『スズメバチ』が夜を切り裂き現れた。

 

「…………!」

 

 無傷のリグルは無機質な装いを持つ機械仕掛けの来訪者、黒と銀のボディに黄色い薄翅を備えるスズメバチ型自律メカ『ザビーゼクター』の鋭い針による攻撃に後退。三対の足で器用に腕輪型のデバイスを持ち、飛び運ぶように舞うそれは傷ついたリグルに優しく寄り添っていた。

 

「スズメバチ……? でも、生き物じゃない……の?」

 

 自身が操り招き寄せたものではない。こんな存在はこれまで目にしたことがない。どこから現れたのかも分からない未知の昆虫──機械仕掛けのスズメバチを前に、リグルは痛みの走る身体をなんとか立たせる。

 ザビーゼクターは立ち上がったリグルの左腕に『ライダーブレス』と呼ばれる銀色の腕輪型デバイスを装着させた。手甲部分を手首に当てるだけで、黄色く染まったベルトたる部分は自動的にリグルの手首に合わせられていく。サイズも長さも自動で調整され、手首に違和感などはない。

 

「な、何、これ……どうすればいいか分かる……気がする」

 

 ライダーブレスに視線を落とした瞬間、リグルの思考には奇妙な記憶が浮かんできた。豆腐を買った記憶、とある戦闘集団の部隊長を務めた記憶。そして、戦闘において最も重要なこと。一人一人の協調性を重んじる『完全調和(・・・・)』の理念を。

 自分ではない誰かの夢を、起きながらにして見ているような。まるでどこかで眠る誰かの想いが、己の中に流れ込んだような。

 リグルは無意識のうちに右手の平をそっと差し出す。スズメバチ型自律メカ、ザビーゼクターはゆっくりと翅を震わせ、リグルの手の平よりも少しだけ大きいボディを優しく乗せた。

 

 銀色の腕輪(ライダーブレス)を装った左腕を胸の前へ。そこへ、手に取ったザビーゼクターを持っていき──

 

「変身!」

 

『HENSHIN』

 

 力強い発声と同時に、背中を持ったザビーゼクターを斜めに接続。ライダーブレスの黒い円へと繋がったそれを垂直になるよう少し回すと、ZECTが開発したマスクドライダーシステムの起動を告げる電子音声が夜風に響き渡った。

 蜂の巣を思わせるような六角形の黄色い光がリグルの身を包む。ザビーゼクターの複眼やシグナルの輝きと共に、リグルの全身は漆黒のスーツと白銀の装甲に覆われていく。

 

 まるで蛹を思わせる強靭にして重厚な鎧。白銀の一部には警告色たる鮮やかな黄色が目立ち、その意匠も相まってこれがスズメバチの力を宿すものだと示している。

 胸部はやはり蜂の巣めいた形を思わせる独特の構造に。兜にも装う同様のそれが緑色に輝くと同時、マスクドフォームと呼ばれる形態の『ザビー』は、この幻想郷の地に変身を遂げた。

 

「…………」

 

 褐色の複眼でもって自らの両手に視線を落とすリグル──ザビー。頭の中を染める羽音が静まったことを自覚する間もなく、頭蓋に瞬くホタルの光の通りに仮面の下にて口を開いて。

 

「第一小隊は敵の退路を封じて! 第二、第三小隊はそれぞれ左右から強襲!」

 

 ありもしない記憶が蘇る。あるいは『影』の隊長として指導者を演じた男の記憶。だがそれはリグルのものではない。器物に宿る想念は、ライダーブレスとザビーゼクターの二つがここに揃ったがゆえか。

 リグルはまるで部下の『蟻』が如き兵隊にそれを告げるかのように、空を舞うホタルや蛾、地を這うムカデやダンゴムシたちに指示を出す。

 消えゆくカブトの世界から零れ落ちた記憶の粒が、女神の揺り籠を伝い。奇しくも同じマスクドライダーシステムを纏った少女に、かつてザビーだった男(・・・・・・・・・・)の戦闘経験をも与えた。

 

 妖気を帯びた虫たちはリグルの指示に従い、もう一人のリグル──再びサナギ体のワームの姿を晒したそれに襲い掛かる。

 それらも所詮は虫に過ぎない微々たる力。リグルから供給された妖力のエネルギーで強化されているとはいえ、その本人とてさほど強大な妖怪ではない。だが、その数を武器とした蟲の大群は、たった一体の怪物を確実に追い詰める『生きた弾幕』として機能する。

 光弾の如く輝くホタルや闇に紛れて地を這うムカデ。その隙間を縫うスズメバチの戦士は、マスクドライダーシステムとして選ばれし者の拳を。あるいは振り上げられた毒針の如き剛脚をワームにぶつけ、緑色の異形に覆われた不気味な怪物を的確に貫くような戦いぶりを見せていた。

 

 その様子を見つめる、一人の男らしき影。眼鏡と帽子、ベージュ色のコートを装う姿は幻想郷に似つかわしくない外来的な要素を思わせるもの。

 満足そうにザビーの戦いを見ていたようだったが、その表情は怒りの色に滲み始める。

 

「ついにカブトの世界までもが……おのれ……ディケイド……」

 

 拳を固く握り、怨嗟の言葉を紡ぎ漏らしながら。マスクドフォームのザビーが純粋な格闘、主に蹴り技(・・・)を駆使した戦いでサナギ体のワームを見事に撃破したことを見届け──

 背後に現した灰色のオーロラ、波打ち揺蕩うその境界へと。滲み溶けるように消えていった。




理論上は最も速いカブトと自機としての移動速度は最も遅い幽香。実は対照的な二人だった。

次回 45『俺が正義だ』


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第45話 俺が正義だ

 ──幻想郷の地底にあるものとは違う。異界の底に切り拓かれた正真正銘の『地獄』。紅蓮の炎と深淵の闇が広がる奈落の世界にて死者の魂を浄罪する場。現実とも幻想ともつかぬ黒き領域で、幾人もの執行者たちが『それ』と向き合っている。

 それは、その場に集った被験者たちを一人残らず薙ぎ倒した。体躯こそ片手に収まる程度だというのに、振るう力は屈強な男たちの肉を裂き、骨を砕き、命こそ奪わぬまでもその尊厳を容赦なく踏み(にじ)り──叩き潰す。

 不意にそれは牙の矛先を変えた。己が守るべき一人の少女を目がけ、蒼白く噴き出す軌跡と共に。自身もまた、その矛先と向き合い、手にした大鎌を振り上げる。

 ぶつかり合う闘志と闘志。青い大顎と鈍色の刃が(しのぎ)を削り、地獄の底に火花を散らしながら。己の誇りの何もかもを打ち砕かんと暗闇を切り裂く闘志に晒され──肉と骨が悲鳴を上げる。

 

 脳裏に過る記憶の鮮烈さに思考を焼き尽くされ、彼女はそこでようやく目を覚ました。

 

「…………っ!」

 

 現世の世界と死後の世界──此岸(しがん)彼岸(ひがん)を繋ぐ『三途(さんず)の川』の霧の中。無限に等しい川幅は彼岸へ渡る幽霊たちの罪の重さで変わるとされ、清らかながらも未練の淀みが浮かび上がる水の中にはすでに絶滅した魚の霊だけが漂っている。

 死の色が満ちるこの領域には生者の声はない。川が流れる微かな音ですら、ここにはほとんどないのだ。

 

 その静寂を伝うように、のんきで怠惰な溜息が一つ。幻想郷(しがん)の側に泊められた木製の舟の上にて。青と白を彩るロングスカートの着物を装った一人の女性が、その長身を舟いっぱいまで伸ばしながら、両手を枕代わりに束の間の休息を謳歌している。

 三途の川の水面を幽かに撫でる死の風は、死者を冥府まで導く船頭──幻想郷の『死神』である 小野塚 小町(おのづか こまち) の髪をも揺らしていた。

 肩まで伸びた朱色の髪を真紅の珠で二つにまとめて、髪と同じ色をした瞳を霧深い空に。死神の代名詞たる大きな鎌は舟の横に立てかけてある。切れ味に欠けるこの大鎌は純粋な殺傷目的で持ち歩いているわけではないが、ただ死神らしく在るために──彼女なりのアピールとして。

 

「ふぅ、やれやれ。なんであたいが資格者なんかに選ばれちゃったかねぇ……」

 

 長い脚を組み替えながら、小町(こまち)は傍に置いていた近代的な意匠を持つ銀色のベルトを持ち上げる。機械的な構造を持っているものの、三途の川の水気を帯びても壊れることがないと約束された強度の装具。彼女が手にする『ライダーベルト』はシグナルが青かった。

 天道総司が有するベルトとほとんど同じだが、選ばれし者の運命は大きく異なっている。

 

「お偉いさんの決定だって話だし……仕方ないけどねぇ。仕事が増えて大変だよ」

 

 右手で掴んだライダーベルトをだらりと垂らし、訝しむように眺める。本来ならばこれを使うべき者は同僚の死神たちにも多く候補がいたはずなのに、『あの力』は並み居る死神たちを容易く薙ぎ倒してみせた。

 資格者を選ぶ選定の儀。その場に召集され、目の前で同僚たちの覚悟が否定されるのを見て、自分はこの場所にいるべきではないと思っていたのに。

 あの力は自分を選んでしまった。如何なる運命によるものか──万物を両断せしめんばかりの大顎を持つそれは、その場にいた()()()()()を守るためだけに呼ばれた自分を選んだ。

 

 死者の罪を裁き罰を科すための地獄の組織──『是非曲直庁(ぜひきょくちょくちょう)』。幻想郷担当の役職の一つ、三途の川の渡し守として、死神の小野塚小町はこの大組織に所属している。

 ただ死神と言っても死者を迎えに行く者とは役割が違う。彼女の仕事はあくまで幻想郷で死んだ人間や動物たちの霊を舟に乗せて、渡し賃を受け取り、彼岸まで送っていってやることなのだ。

 

「小町、またサボっているのですか?」

 

「きゃん!?」

 

 微睡みの朝靄を払うように突きつけられた声に、小町は明鏡の如き正しさを見る。思わず零れた悲鳴じみた声は、それが組織の上司たる少女──地獄の『閻魔(えんま)』であるがゆえ。

 

「サボってなんかないですよ、ちょっと休憩してただけです」

 

 渡し舟の上で横になっていた小町は、自身の顔を上から覗くように見下ろす少女に弁明する。三途の川の水より冷たい目線にいたたまれなくなって上体を起こし、座ったままの姿勢で手にしたライダーベルトを妖力で歪めた空間へと押しやって。

 不安定な舟の上から此岸へ降りる。幻想郷の大地は小町の黒い下駄をしっかり受け止め、彼女に安定した足場を与えてくれる。

 本体たる小町がいなくなったことで三途の川に浮いていた霊木の小舟は霧の中へ。死神としての妖力で形成されていたそれは彼女の意思のままに、役目を終えた弾幕のように消えていった。

 

「休憩時間は小半刻前に終わったはずですが……まったく仕方ないわね」

 

 幻想郷随一の長身を誇る小町と同等、あるいは少し低い程度の身長を持つ少女は、仰々しい役人めいた濃紺の装束には似つかぬ童顔を呆れ顔に染め、溜息を吐く。

 黒く短いスカートには誕生と死の象徴たる紅白の意匠を。右側だけを長く伸ばした短めの緑髪に装う厳かな帽子は彼女が死者の刑罰を司る閻魔という存在であると、否が応にも認めさせるような威厳を湛えていた。

 

 楽園の最高裁判長、 四季 映姫(しき えいき)・ヤマザナドゥ は小町の上司に当たる閻魔であり、是非曲直庁に所属している地獄の役人の一人として日夜忙しく働いている。

 鬼が造った地獄の組織において、死者が増えすぎて人手が足りなくなったために、地獄を収める十王たちはそれぞれ最も力のある『閻魔王』を名乗った。それにより七回に及んでいた審判を一度に収め、地獄の裁判を効率化したのだという。

 閻魔は王に当たる十人だけではない。その役割を分担するため、様々な異界で信仰を受けた『地蔵』が閻魔の任に就くとされる。幻想郷の地蔵として選ばれ、幻想郷の閻魔となった四季映姫は、その名に楽園(ザナドゥ)閻魔(ヤマ)たる意味を込め──『ヤマザナドゥ』を名乗っているのだ。

 

 最高裁判長といえど所詮は小さな幻想郷の中だけにおける話。地獄の組織、是非曲直庁においては彼女とて一介の閻魔に過ぎない。だが、この小さな幻想郷の中においては絶大な権力と賢者に等しい叡智を持ち、その言葉には地獄の判決たる重さがある。

 幻想郷の死後の罪を裁く重大な役職を持つ映姫(えいき)が地獄からこちらまで顔を出したのは、部下のサボり癖を叱責するためではない。周囲に誰もいないことを気配で確かめ、少女は口を開いた。

 

「本部はすでに新たな資格者を発見したようです。小町、回収に向かうわよ」

 

 呆れ顔の様相を霧の果てへと覆い隠し、映姫は真剣な顔で告げる。舟に立てかけてあった大鎌を右手で拾い上げ、右肩に掛けるように持った小町はその言葉を飲み込めず、困惑していた。

 

「えぇ……? 私もですか? あの青いクワガタ、全然言うこと聞いてくれないんですけど……」

 

「……当然でしょう。貴方の仕事への責任感の無さは、『戦いの神』には相応しくない」

 

 ばつが悪そうに愛想笑いを見せる小町に対し、映姫はまたしても呆れた声で言う。

 本来ならば彼女は『あの力』の選定候補にはおらず、それを見守る自身の護衛のために招集されたというのに、まさか被験者の死神が全員あのデバイス──『ゼクター』と呼ばれる機械仕掛けの昆虫一匹に敗北してしまうとは。

 青い装甲を持つクワガタムシ型自律メカはその大顎で映姫を襲った。護衛の役割として、小町は大した切れ味を持たない大鎌でそれに応戦し、クワガタムシの攻撃を阻止した。あるいはその覚悟がゼクターに認められたのか、クワガタムシは小町を選んだのだ。

 

 マスクドライダーシステム第1号と称されるカブトムシが『太陽の神』であれば、計画の最終段階に生まれたそれは『戦いの神』と呼ばれるだけの圧倒的な力を秘めていると伝えられている。その力の強大さは、映姫も小町も実際にその目で見た通り。

 あの力は危険すぎる。是非曲直庁の決定でなければ、大切な部下にあまり危険な任を負わせたくはない。

 だが彼女は選ばれてしまった。その運命はすでに決まっていたのだと思わせるほど呆気なく。多くの死神たちが大怪我を負ってまで行われた選定試験が、茶番だったのではないかと思ってしまうほどに──小町はあっさりと選ばれてしまった。

 映姫はそのことにどこか疑問を覚えていたのだが、それもまた組織の意思だ。自身もまた是非曲直庁に『選ばれし者』であるように、閻魔らしく振る舞うのみと考え。黒衣の懐から『罪』の文字が刻まれた木製の平たい(しゃく)──『悔悟(かいご)の棒』を取り出しつつ、その先で己が口元を覆う。

 

「そう、貴方は少し向こう見ずすぎる。でも、だからこそあの力に選ばれたのかもしれません」

 

 閻魔たる者は如何なる物事にも左右されることはない。自分の中に絶対の基準を有し、あらゆる是非の判決を言い渡す。それは決して何色にも染まることのない『黒』の如く。あるいはすべての色彩を拒み跳ね返す『白』の如く。

 そう在らねばならないと自分に言い聞かせているからこそ。映姫は無意識に、小町への信頼と彼女の強さ。その正義が認められたことを喜ぶ小さな微笑みを悟られまいと、口元を隠したのだ。

 

◆     ◆     ◆

 

 幻想郷、太陽の畑。じりじりと照りつける夏の朝陽は向日葵たちを祝福する輝きとなるが、人間や妖怪にとっては過酷な暑さをもたらす灼熱でもある。

 眩い黄色の中に人知れず建てられた館は、結界の中にまで太陽の光を差し込ませた。同時に涼やかな夏の風も運んでくれるため、近代的な冷房設備など存在しないにも関わらず、さほどの暑さは感じられない。

 

 天道総司は風見幽香の館で新聞を広げていた。先日の夜に聞いた幽香の話と合わせ、彼女が気まぐれで受け取っている『天狗』の新聞に目を通しつつ、記憶を反芻(はんすう)する。

 ──幻想郷。妖怪。太陽の畑。話で聞いただけではほとんど実感できなかっただろう。だが、天道は実際にその目で向日葵畑を舞う妖精を見ている。風見幽香が放った花のような弾幕の力も思えば、それが真実だと認めさせられてしまう。

 この草原を照りつける夏の日差しも本来ならば在り得ざる光景だという。暦の上では春であるはずが、今の幻想郷には無秩序な春夏秋冬が節操なく繚乱している。その現象自体は過去にも一度あったようだが、今回は未知の怪物と仮面の戦士を伴う『異変中の異変』であるらしい。

 

「…………」

 

 この館に予め用意されていた自身の衣服も不可解だ。夏に相応しい涼やかな装いながらも黒く揺るぎない自分自身を風に流されることのない馴染みある服装。紛れもなく自分の所有物であるはずのそれが、この未知の郷──幻想郷にすでに存在している。

 先日は風見幽香にそれを問うた。だが、彼女もこの衣服を用意した覚えはないという。自分をこの地に招いた『妖怪の賢者』なる存在が用意したと考えるのが自然だが、やはり天道にも幽香にもその目的が分からなかった。

 普通に考えれば、クロックアップを行うワームに対抗するには同じくクロックアップを行使できるマスクドライダーシステムが不可欠──というだけ。されど、二人は等しく、この地に『カブト』が招かれた理由はそれだけではないと。本能的なものが訴えるのを感じていた。

 

「あら、朝食の用意をしてくれたの? 自分の立場を忘れちゃったのかしら」

 

「そのセリフ、食べてから言ってもらいたいね」

 

 小さな館に設けられた庭園の花々へ日課の水やりを終えた幽香。見慣れた食卓の上に見慣れぬ彩りが添えられているのを見て、その奥で新聞を広げる天道総司へと問う。

 自分の家であるかのようにくつろぐ男は幽香を見もせず。変わらず真剣な表情で天狗の新聞に目を通す様は自分の料理に相当の自信があるようだ。

 どれほどのものか、幽香はテーブルの上を彩る一人分の軽やかな朝食を前に座る。天道はすでに食事を終えているのだろう。右も左も分からないはずのこの幻想郷、妖怪が住まう未知の館で。それもこの短時間でこれだけの料理を用意できるということは、よほど手慣れているらしい。

 

「…………」

 

 質素だが色鮮やかな花々と野菜の調和。里で購入したばかりの美しい絹ごし豆腐。どのような調理を行ったのか見当もつかないが、一見すれば地味に思えるこの料理たちは、窓から差し込む幻想的な真夏の日差しを受けてキラキラと輝いているようにも見える。

 妖怪としての食事は人間の血肉を必要とするもの。このように人間が食べるような食材を使った料理を見るのは何十年ぶりだろう。

 人間の里の名家が記す『幻想郷縁起(げんそうきょうえんぎ)』なる書物においては、危険度・極高、人間友好度・最悪とまで称された凶悪な妖怪として認識されている風見幽香。この館に人間が踏み入ることはほとんどないと言ってもいいため、人間の真似事たる食事にはあまり縁がなかった。

 

 無意識に喉を通った唾液の感覚に、幽香はこの料理を『美味しそう』だと思っていることを気づかされる。外来の人間が作った人間の料理、人の血肉など入っているはずがない。何より妖怪として最も大切な人間の恐怖の感情が微塵も込められていない。

 ただ花見の供として味わっていた酒の(さかな)として。さながら人間の真似事として形だけ倣ってみた食事とは何もかもが違う。幽香は、その欠片を箸に乗せ──訝しげに己の口へと運んだ。

 

「……大したものね。勝手に他人(ひと)の家のキッチンを使うだけのことはあるわ」

 

「当然だろう。料理の腕で俺の右に出る者など……今はまだほんの数人しか知らない」

 

 丁寧な咀嚼と嚥下の後、幽香は天道の料理の奥深さと味わいを素直に賞賛する。別段美食家というわけでもないし、食に特別なこだわりがあるわけではなかったが──少なくとも、その一口だけで人間の真似事の中では最も美味しい料理だと言えた。

 無論、妖怪として喰らう人間の血肉や恐怖は美味しいとは別の概念で、妖怪の本能を満たすための存在意義めいた理念である。そちらとは比較ができないため、一概には言えないが。

 

 天道は自分の料理に絶対の自信を誇っているが、それでも自分が作った料理を食べてもらい、その味を認めてもらえれば嬉しい。新聞越しに浮かべた不敵な笑みと共に、その思考にて寡黙で愛想が悪いが心優しい妹と、料理の師匠──人類の宝と呼べる老人の顔を思い描く。

 スポーツも語学も音楽も何もかもを得意とする天道総司。だが、最も得意であるはずの料理だからこそか。彼は自分の上を行く存在を知っていた。

 尊敬するおばあちゃんの教えに従い、揺るぎなき己の道──天の道を往く。そのために、天道は自身が唯一であると盲目に信じるのではなく、上を見れば上を知り、その強さと在り方を学んでさらなる高みを目指そうとする。絶えず自身が信じ続ける通り、常に最強の存在であるために。

 

「それよりこの家の食材はどうなってるんだ。正体不明の肉に正体不明の香草、まともに使えたのは春の野菜と豆腐だけだったぞ。新鮮なサバの一尾くらい常備しておいたらどうだ?」

 

「注文の多い料理店ねぇ。残念ながらサバはないわ。幻想郷には海がないもの」

 

「……例の博麗大結界とかいうやつか。まったく……厄介な土地に連れて来られたもんだ」

 

 新聞を下ろし、天道は幽香に顔を向けて文句をつけるが、幽香の心に苛立ちは湧いてこなかった。彼女の心に芽生えたのは感心と疑問、そして興味深さだけ。その対象は、これほど無礼で傍若無人な男の料理の味が、なぜこれほど繊細で奥深いのか──というもの。

 一切の歪みのない調和に加え、個性までもが失われず生きている。まるですべての花々を等しく太陽が照らすように、すべての要素が輝いている。

 妖怪の家にある食材など外来の人間にはほとんど使うことができなかっただろうに、天道総司は自分が知り得る人間の食材だけを使ってここまでのものを作ってみせた。相応の食材と時間があれば、それこそ完成する料理は天上のものと呼べる味わいになってもおかしくはない。

 

 試しに最高の食材を用意して最高の料理を作らせてみても面白いかもしれない。それを食べてみたいという気持ちもなくはなかったが、彼をこの家に泊めたのは彼の手料理を味わうためではなく、ワームやマスクドライダーシステムについての情報を得るためだ。

 先日は幻想郷についてを教える対価として怪物の名と戦士の名を知ることができた。擬態やクロックアップというワームの性質、それに対抗するシステムの性能などについても理解できたが、あくまで先日起きたことについてだけ。

 なぜ地球外生命体であるワームがこの星に存在しているのか、なぜ彼はそんな怪物たちと戦っているのか。マスクドライダーシステムは誰がどのようにして作ったのか。嘘を吐けば見抜かれると理解しているようで、彼は事実のみを語ったものの──まだ隠していることも多いはずだ。

 

「ごちそうさま。美味しかったわよ。これなら自分の店を持てるんじゃない?」

 

「遠慮しておくよ。俺は天の道を往く男。一つの大地に根を張るべき存在じゃないからな」

 

 幽香は煽るように細めた目で微笑みかけるが、その心に偽りはない。されども、儚い花びらに風を吹かせるが如く、天道総司の反応を楽しもうという意思も嘘ではなかった。

 

「…………」

 

 微かな静寂と虚ろに舞う風が窓の外の向日葵を揺らす。朝陽に照らされた向日葵たちは鮮やかな彩りを見せているが、その明るさには見合わない不気味さもある。雲一つない蒼天の如く、二人は互いの視線に込めた意味を剥き出しにしていた。

 天道が読んでいた天狗の新聞はテーブルの上に畳まれ、幽香が手にしていた箸はすでに今朝の役目を終えた食器に等しく添えられている。

 

 自分以外の者が用意した食事を終えた幽香は、心の中にかつて自身に『仕えていた』者たちを思い浮かべた。

 夢と幻の館にて──湖の煌きを感じながら幽夢(ゆめ)を見ていたこと。それはすでに失われた幻想郷の記憶。もはや今の幻想郷に彼女のいた(ふる)き世界はない。彼女も天道総司と出会うまではそのことを忘れていたのだが、先日の出来事をきっかけに、眠れる恐怖を(つぼみ)として。

 己の名に『風見』の姓を抱くようになったのは──いったいいつからだっただろうか。

 

「風見幽香、だったな。お前、まだ俺に隠してることがあるんじゃないのか? どうやら嘘は言っていないようだが……すべてを語ったわけじゃないだろう」

 

「あら、奇遇ね。私もあなたに同じことを言おうと思ってたわ。……気が合うのかしらね」

 

 先に口を開いた天道の言葉を受け止め、幽香は意外そうな顔で天道と向き合う。返す幽香の言葉を受けて、あちらも意外そうな顔を見せたのは如何なる縁であるのか。

 どちらも嘘は言っていない。ただ言う必要がないと判断したことを伝えていないだけ。無意識に相手は外来の人間だと高を(くく)っていた幽香も、妖怪とはいえワームについて何も知らない部外者だと甘く見ていた天道も。思ったよりも鋭く食えない奴だ、と。互いは考えを改めるのだった。

 

◆     ◆     ◆

 

 二人の問いはどちらも互いの腹の内を白日の下に暴き出す光となる。少ない時間でもって、二人はそれぞれカブトとワームについて。幻想郷についての多くのことを知ることができた。それこそ、互いが語り得るほぼすべてと言っていい情報を。

 幽香が知り得たカブトの世界の物語は、天道総司にとっての西暦1999年に東京の渋谷に落下した隕石、それに伴うワームの発生。1971年に現れたネイティブによって発案されたマスクドライダー計画の産物、カブトゼクターを用いてそれらを倒し。2006年から2007年までの一年間を戦い抜いたこと。

 1999年のあの日──両親に擬態したネイティブの死から七年間、天道は幼き日に受け取ったライダーベルトを装う()()()()()()まで心身を鍛え続けた。やがて覚醒したカブトゼクターを手に取り、忌むべきワームを倒し続け、一年後にはネイティブとも決着をつけた。

 

 そして最後の戦いから一年が経った日のこと。天道は西暦2008年の1月からこの幻想郷に招かれている。パリの市街から迷い込むようにして、この2020年の時空──彼の知り得ぬ元号、令和の幻想郷に誘われた。

 この幻想郷で噂に聞く限り、異世界の存在が招かれているとしても。異なる世界の存在までは分かるが、異なる時間の存在を招く理由が分からない。幽香はそのことについて天道に問いかけてみたものの、彼が知っているのは己が世界のことだけであるらしい。

 幽香とて天道総司をここに連れてきた者──おそらくは妖怪の賢者である八雲紫の目的までは知る由もない。そちらについて天道から問われても、彼女には答えることはできなかった。

 

「ワームもネイティブも、話で聞いた限りじゃ大した違いはなさそうね」

 

「ああ。だが、人間も同じかもしれないな。命そのものに、善も悪もあるものか」

 

 幽香の言葉に対し、天道は一年前の戦いを思い出す。全人類がネイティブにされかけた、人類の否定、世界に対する天の道の否定。

 ある男は人間でありながら人類に失望し、人間であることを辞めて自らネイティブとなった。ある男は人間でありながら人間の実験動物として使い捨てられ、ネイティブと成り果ててなお。最期には人間としてこの世界の未来を天道総司に託した。

 とある女性に擬態したネイティブが、女性が身籠っていた胎児まで複製したことがある。生まれる前の人間だった胎児は、やがてネイティブの母胎からネイティブの子として出生し。誰の擬態でもない自分だけの記憶と人格を持ち、ネイティブながら人間として生きてきた。

 

 あるいは全人類をネイティブに変えて地球を支配しようとしたネイティブもいる。あるいはZECTの一員として、部下たちを誰よりも思いやり、信頼し、心配する一人の人間の男として彼らを導いたネイティブもいる。

 ワームとて同じことだ。たとえ人々を殺めたワームだとしても。人間に擬態した際にあまりにも強すぎる人間の人格にワームとしての意識を乗っ取られてしまうことがある。

 自分が仇だと思い、追い続けたのは自分(にんげん)に化けた自分自身。その事実が毒のようにとあるワームの心を刺した。

 サソリに似たワームは一度はその事実に絶望したものの──人間としての心を失わず。自分自身さえ含めた『すべてのワーム』を殲滅するため、あえて残存していたワームを率いて天道の前に立ち。いつか交わした()()を果たさせたのだ。

 擬態元だった自分自身も、その姉も殺したワーム。他にも多くの人の命を手にかけた彼に慈悲を与えることはできず。天道は約束通り、彼を含めたすべてのワームに引導を渡した。

 

 人間もワームもネイティブも、花々でさえも関係なく。この世界に生きとし生けるものすべての命が等しいのだと。

 誰しも争いのない世界を望んでいる。ワームやネイティブは殺戮や支配という形でそれを実現しようとした。ただ方法を間違えてしまっただけだ。人間一人一人の力で、異なる種族とも向き合えるよう己を変えていけるなら。きっとそんな未来は遠くない。

 太陽は如何なる存在をも等しく照らし出す。それが世界であり正義。それが天道総司だ。

 

「この幻想郷(せかい)には、まだ怪物や戦士がいると言ったな」

 

「ええ、私も実際に会ったことはないけど。ワームやカブトとは違うみたい」

 

 幽香の話を頭の中で瞬時に整理し、幻想郷の在り方と現状を理解する。天道はその怪物がワームの変種の可能性を考えたが、彼女から聞く限りでは擬態やクロックアップという能力を行使していないらしい。

 あくまで単なる噂だ。そこまで話が伝わっていないだけということもあるが、ワームと相対してそれらの情報が一切ないというのも気になる。

 彼女の言葉通り、幻想郷といくつもの別の世界が繋がっているかもしれないということが事実であるなら、それらも別の世界の法則を由来とする存在であるのか。

 ならば戦士というのもマスクドライダーシステム以外の技術である可能性が高い。並行世界と呼べる地平に如何なる存在がいるのか、天道は少しだけ興味があったが──それがどんな相手であれ、こちらにはクロックアップの能力がある。よほどの者でなければ苦戦はしないだろう。

 

「そっちについても詳しく訊きたいところだが……少し気になることがある」

 

 天道はまとめていた思考を収め、日差しの照りつける窓を見やる。ズボンのポケットに両手を突っ込んだまま窓際へと歩を進めては、その先の景色を見た。

 朝方から太陽の畑の空を舞っていた小さな妖精たち。彼女らの羽ばたきが、何やら乱れているような。先ほどまでは楽しそうな様子だったが、今は何かに怯え慌てているように見える。

 

「あなたも気づいた? 妖精だけじゃない。花々や草木もざわつき始めてる」

 

「……どうやら、またワームが現れたらしいな。少し待っていろ、片付けてくる」

 

 妖精たちの反応を見て、幽香と天道はそれを確信した。ガチャリと手にしたライダーベルトを懐にしまう天道を見やりつつ──幽香も立ち上がる。

 軽やかに指を弾いては妖力を解き放ち。少し香しい花の色が舞うと同時、食卓を彩っていた花柄の食器たちは瞬く間に消え失せた。妖怪としての力か、魔法の力によるものか。それらはいつのまにやらキッチンのシンクへと移動され、一人でに水流によって汚れを洗い流している。

 

「一人で行かせると思って? あなたに散られたら、私が困るんだけどね」

 

「ずいぶんと見くびられたもんだ。……まぁいい。好きにしろ」

 

 夏の朝陽は太陽の畑に建つ洋館を容赦なく照りつけている。ここに迷い込んだ際の冬服とは打って変わって、今の天道の服装は夏に相応しい軽やかな装いだった。相変わらず、誰とも知れぬ者が用意した自身の衣服には心地よいものを感じないが──致し方あるまい。

 

 天道は小さな洋館の扉を開き、天空から差し照らす容赦のない眩さに目を細める。この地に踏み入る前の最後の記憶が冬のパリであったがためか。遮るもののない快晴の空から注ぐ光は、妖怪じみた気味の悪さをも感じさせた。

 右手の平で瞳を守りつつ見上げた灼熱の太陽は自身を歓迎などしていない。当然だろう。一つの地球(ほし)に太陽は二つと要らず。

 自身が世界を照らす太陽であるなら、蒼天に輝くそれは単なる代行者に過ぎないのだから。

 

「…………」

 

 不意に視線を下ろし、小さな館に振り返った天道は微かに目を見開く。自身の様子に首を傾げる風見幽香に対してではない。館の傍にて存在を主張する見慣れた『それ』に対してだ。

 

「なるほど。そういうことか」

 

 太陽の光を受けて真紅に輝く一台のバイク。カブトの装甲に等しい緋々色金のボディはヘッドの先端にカブトムシめいた雄大な頭角を掲げ。纏うは漆黒、装うは白銀、それらはまさしくマスクドライダーシステムの──カブトのための特殊強化マシンとして設計されている。

 本来ならば天道総司の衣服と同様、この地に存在するはずのないもの。カブトゼクターと同じくZECTによって開発された『カブトエクステンダー』は目も眩むほどに酔い痴れんばかりの陽光を鮮やかに照り返す。

 それは天道総司がかつての戦いにおいて共に戦火を駆け抜けた友。マスクドライダーシステムの性能を殺すことなく、クロックアップにさえ等しくついて来ることができる機体。選ばれし者のためのマシンも、ゼクターと同様に天道と同じ道を往く。

 

 ゆっくりと優雅に館を出た幽香も、天道が視線を注ぐそれに目を落とした。太陽を直接見たと錯覚してしまうほど激しい反射光に目を細めつつ、見覚えのないそれを眺めながら。その機体に妖怪のものではない──『神』たる存在の力、その微かな残り香を感じ取る。

 天道総司の衣服に感じられた八雲紫の妖力とは明らかに違う。幽香も直接対峙したことはないが、かつての四季異変に際して幻想郷全域から感じられた未知の気配、秘匿された神秘。それに似た気配が、この真紅の乗り物から感じられた。

 だがそれも一瞬のこと。天道の衣服に残っていた微かな妖力と同じように、カブトエクステンダーに残っていた神秘の気配もすでに消えてしまっている。気のせいなどではない。幽香の知覚は確かにそれを捉えていた。ただ──もはやそれを確かめる手段が失われてしまっただけだ。

 

「昨日まではこんなものなかったはずだけど……これも賢者の仕業かしら」

 

「賢者というのは都合がいいな。遠慮なく使わせてもらうとしよう」

 

 カブトエクステンダーの座席に用意されていた黒いヘルメットはさほどの熱を帯びていない。この灼熱の日差しに晒されていたのなら、漆黒に染まったシートも同様に熱されていてもおかしくないはずだが、少し暖かい程度。

 確かに暑さはあるが、幻想郷という不思議な環境の気候のせいだろうか。涼やかに吹き抜ける風は無慈悲に照りつける日差しほどの気温を感じさせない。

 都会の街並みが起こす光の乱反射、その効果による気温の上昇現象がないことに加え、この洋館の周囲のみが独特の爽やかさ、妖しき水の気配を帯びている。どこを見渡しても水場のようなものは見受けられないのに、まるでここが『湖』の近くであるかのような奇妙な感覚。

 

 天道はそのことには言及せずにカブトエクステンダーのシートに跨った。黒いヘルメットを被り、エンジンを入れると、太陽の畑に似つかぬ工業的な音と排気が空気を微かに黒く染める。幽香はその匂いに少しだけ眉をひそめていたが──

 小さな溜息と共に、ワームに花々を蹂躙されるよりはマシか、と思考を切り替えて。頭の防護のつもりか。漆黒のフルフェイスヘルメットで顔を覆った天道が振り向く先で、幽香はカブトエクステンダーの後部に設けられた排気管防護翼(テールビュー)、座席とは到底呼び難いそのパーツに腰をかける。

 

向日葵(この子)たちの反応からすると……怪物はあっちの方角ね。ほら、急ぎなさい」

 

 風とざわめく向日葵の声に耳を澄まし、幽香は北西の空に(あか)い視線を向けながら。バイク本体とは水平を向くように、天道の背中に自身の右肩を向けた。

 妖怪の身に頭部の防護は必要ないだろうが、それにしてもあまりに不安定な座り方だ。移動するだけならさほどのスピードを出す必要はないとはいえ、カブトエクステンダーの後部に人を乗せることに違和感を覚える。

 そこに人を乗せたのは時空の彼方から『妹』を救い出した際のただ一度きりくらいのもの。かつては最高級のサバを一尾、箱ごと縛りつけて運んだこともあったが、それ以外には何かを乗せたことはない。

 振り落とされるんじゃないぞ、と。忠告するように告げて。天道は黒いヘルメット越しに向日葵畑の先を見る。カブトに選ばれし者といえど、その身はただの人間でしかない天道総司に向日葵の声や妖力の気配などは伝わらない。だが、彼もその先に何かを感じていた。

 

 幽香を乗せて唸りを上げるカブトエクステンダー。真紅の装甲に覆われた状態のそれは、変身直後のカブトの鎧に等しい『マスクドモード』と呼ばれる形態である。

 太陽の畑の夏の日差しを受け、その機体は眩い煌きを返しながら向きを変える。これより向かう先は太陽の畑の北西。幽香にしか届かぬ向日葵の声、草木のざわめきはその先の草原地帯を示している。天道がそれを知る術はないが、逃げ惑う妖精たちを見てもそれは間違いないだろう。

 

「…………」

 

 真紅の機体は幽やかに香る花と共に──天に等しき道を往く。結界で隠されているはずの小さな洋館の上にて『扉』を開く影は、その背を見つめていた。

 

「期待しているぞ。……(ふる)き『幻想郷』の妖怪よ」

 

 天空の玉座に腰かける様はまさしく秘神。左手の上に鼓を浮かせ持ち、誰にも知られることのない絶対の位相にて、金色の髪を揺蕩わせる幻想郷の賢者、摩多羅隠岐奈は呟く。自然の流れに聡い幽香にさえ気づかれることなく。

 背後の扉へ戻ることもなく、隠岐奈は彼方の真紅を金色の瞳で見届けながら姿を消した。

 

◆     ◆     ◆

 

 疾走する緋色の煌きが向日葵畑の狭間を抜けていく。天道が繰るカブトエクステンダーの後部に腰かけた幽香は、草葉のような緑髪を薙ぐ風に顔色一つ変えず、優雅に夏の日差しを浴びる金色の向日葵たちを眺めている。

 走れども走れども青空の下を満たす向日葵の景色に変わりはないのだが──幽香は見慣れぬバイクが唸り震える度に、この幻想郷に在らざるべき異形の気配が近づくのを感じていた。

 

 太陽の光が屈折する。歪み切り拓かれた青空を越え、先日と同じ真紅のカブトムシが天道総司の意志に応え、この太陽の畑に姿を見せる。

 カブトエクステンダーに並走するように緋色の甲殻を開き、翅を広げながら、六つの脚から噴き出す軌跡めいた『スラスタースリット』による推進力をもって──

 天道総司の傍を舞い往くカブトゼクターは、昆虫の限界を遥かに超えた速度を出して飛ぶ。

 

「──変身」

 

『HENSHIN』

 

 黒いヘルメットに風圧を受けながら、その下で口を開く天道。力強い宣言と共に、カブトゼクターはいつのまにか天道の腰に装われていたライダーベルトへと収まる。

 鳴り響く電子音声を聞き、その身体は幾何学的な六角形、カブトというマスクドライダーシステムを構成する情報の構造体に包まれていった。

 その身を包む漆黒の強化繊維──『サインスーツ』。同時に纏うはヒヒイロノカネ製のマスクドアーマー。強靭に強靭を重ねたマスクドフォームのカブトを乗せてなお、マスクドモードのカブトエクステンダーはスピードを緩めることなく太陽の畑に敷かれた土の道を駆け抜ける。

 

「…………」

 

 不意の変身にも幽香は驚かない。その緋色の瞳の先に、討つべき虫を見ているがゆえ。同じく重厚な鎧に身を包んだ天道(カブト)も、マスクドアーマーに覆われた青い複眼をもって、視線の先に立つその存在を捉えていた。

 左手はカブトエクステンダーのハンドルグリップを握ったまま。右手だけを離し、カブトの黒い手の中に時空を寸断するジョウントの波動を感じて。歪んだ陽光を切り裂いて現れた緋色と黒の短銃、カブトクナイガンを正面に構え、天道は前方の異形に向けて引き金を引く。

 

 太陽の畑を超えた草原、向日葵畑を抜け少し見晴らしの良くなった地平にうごめく何体ものサナギ体。カブトクナイガン ガンモードの銃口は太陽に向かい光と閃いた。

 ジョウントにより供給される真紅の光弾がサナギ体の緑色の甲殻に炸裂する。だが、やはりその一撃もアバランチシュートには満たぬ通常の射撃でしかない。重厚な鎧を撃ち破るほどの火力はないが、開戦の狼煙(のろし)としては十分だ。

 一体のサナギ体が受けた銃撃に振り向き、その場にいたすべてのサナギ体が気づく。すでに彼らと戦っていた二人の妖精も同様に、カブトエクステンダーを停めてゆっくりと降りた天道総司──マスクドフォームのカブトと、その後部パーツから優雅に舞い降りた風見幽香に振り向いた。

 

「……っ! あれ? 太陽の畑によくいる奴……? 敵じゃないの?」

 

「そっちのゴテゴテした鎧の奴は……こいつらの仲間ってわけじゃないよね?」

 

 広々とした草原地帯でワームと相対していたのは幼さの残る少女たち。自然の具現によって生まれ、消滅と発生を繰り返す妖精たちは、個体としての年齢こそ見た目に相応しいかもしれないが、自然そのものたる要素は悠久の時を生きていると言っていい。

 

 氷の妖精であるチルノは一瞬、後方から飛んできた光弾に幻想ならざる異質さを感じたものの、目にした花が幻想的な妖怪──風見幽香であったことに安堵した。かつての四季異変における偽りの夏では日焼けを思わせる小麦色の肌をしていたチルノだが、今は氷の妖精らしく透き通るように白く美しい肌の色をしている。

 同様にチルノと同じ方向を見たエタニティラルバもそちらに気を取られるが、彼女が乗っていた緋色の乗り物(バイク)と、それを繰る機械仕掛けの装甲を帯びた戦士に本能的な警戒心を抱いた。

 

「あの蝶に似た妖精は……昨日のワームが擬態していた奴か?」

 

 天道はカブトの青い複眼に映るアゲハチョウの妖精──エタニティラルバの存在に疑問を持つ。その姿は見紛うことなく、先日撃破したワームが擬態していたものだ。

 ワームは通常、擬態する対象を生かしておくことはない。当然だ。まったく同じ顔、まったく同じ遺伝情報を持つ個体が二人も存在すれば、あらゆる物事に齟齬が生じてしまい、ワームとしても動きづらくなるために。故に、ワームは人間に擬態した際に相手を殺害する。それは相手が妖精であれ、おそらく条件は同じことのはず。

 見たことのない清涼な色合い──爽やかな氷の冷たさを思わせる妖精と共に戦っているラルバを、天道はその死体か、もしくは彼女が生きているうちか、奇しくも同じ相手に擬態してしまった別個体の怪物(ワーム)だと推測した。だが、その予想はゆっくりと自身の隣へ歩む幽香に否定される。

 

「たぶん、あれは本物のエタニティラルバね。前に会ったときと気配が同じだわ」

 

 人間である天道には決して知り得ない神秘を放つ、神に近づく蝶の妖精。真夏の妖精(よる)の夢を思わせる曖昧で不安定な素質ながら、幽香は究極の絶対秘神だけが辿り着いた永遠の幼虫(エタニティラルバ)の常世神たる微かな可能性を見た。

 それに確証を与えるものは何もない。ただ、そんな気がする──という程度のもの。幽香がそれを知る由もないが、常世神を調伏せしめた『本人』でさえ推測に留めたのだ。

 

 自然の生命力の具現たる妖精たちはそこに自然がある限り、何度でも再生する。彼女らは見た目こそ人間の少女に近いものの、自然のエネルギーが物質化して擬人化されたようなものであり、生物ではない。幻想郷の妖精とはそういうものだ。

 妖怪よりも純粋な神秘を帯びた自然の生命力そのもの。個体としての情報は何度消滅し『一回休み』を迎えても次の発生には持ち越され、個人として蘇るため、妖精に死という概念はない。

 妖精の存在そのものと言える自然由来の妖力──自分自身の生命力を失わない限りは。

 

「……いい加減な存在だな。だが、それを聞いて少し安心したよ」

 

 ワームの脅威によって失われた世界の宝物はいない。天道は幽香から伝えられた妖精という存在の在り方について心の中で胸を撫で下ろし、不快な軋みを上げてこちらに近づいてくるサナギ体の群れを青い複眼でしかと見据える。

 地を蹴り駆け走るサナギ体を前にしても天道は焦ることはない。彼がゆっくりと歩を進めたのは、マスクドフォームの鎧が重すぎるせいではなく。その精神に余裕が満ちているから。

 

「おばあちゃんが言っていた。この世に不味い飯屋と……悪の栄えた試しはない」

 

 右手に持ったカブトクナイガン ガンモードの柄を左手に持ち替えつつ呟く。続けてカブトクナイガンの銃身を右手に持ち替え、重厚な斧の刃を外に向けたアックスモードとして、それを構えることもなく歩みながら。

 ひしめきあっていた数体のワームが一斉にカブトに襲いかかる。夏の虫が光に惹かれるように、幽香や妖精を無視して天道だけを狙ったのは、その腰に輝く真紅がためか。

 

 横一閃に振り抜かれたカブトクナイガン アックスモードの刃がサナギ体の甲殻を裂く。単なる通常攻撃の範疇に過ぎないその斬撃はワームを撃破することはできない。だが、見た目以上に深く鋭く刻まれた斧の刃は、ワームたちを仰け反らせた。

 間髪(かんはつ)を入れずに天道は手元のカブトクナイガンをジョウントによる空間跳躍で消失させる。腰を低く落とした斬撃の姿勢から悠然と立ち上がり、腰のカブトゼクターを左手で起こし。

 

 キャストオフ──その一声と共に、右へ倒されたゼクターホーンが青白い電流を迸らせた。




天道も風見も、どっちも生まれ持ったものではない後天的な姓という地味な共通点が。
まったく関係ないですが緑・赤・白のカラーリングで風見の姓は仮面ライダーV3を思わせる。

次回 46『希望という花』


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第46話 希望という花

 陽光差し照らす晴天の下、豊かな緑に満ちた草原で、鈍色の鎧が紫電を纏う。天道は重厚な装甲を帯びたマスクドフォームのカブトとしての黒い右手で腰のライダーベルトに装うカブトゼクターの角を掴み、電流と共にそれを右へ倒した。

 

『CAST OFF』

 

 特殊な分子間力によって結合していたマスクドアーマーが分離(パージ)される。走る電流に運動エネルギーを持たせ、飛散した装甲は周囲のサナギ体に直撃。放つ衝撃と装甲の質量がそのまま武器となり、二体のサナギ体はそれに耐え切れず、緑色の炎を上げて爆散を遂げた。

 

 カブトの周囲を覆っていたサナギ体が盾となったおかげで、指向性もなくバラバラに飛び散ったマスクドアーマーのパーツがチルノやエタニティラルバ、幽香らに当たることもなく。天道の予測通り、怪我を負う者はいない。

 失われた装甲はワームにダメージを与えつつ、ジョウントによって空間を超え消失する。タキオン粒子を応用した空間跳躍効果を複眼の端に見届け、天道(カブト)は額に真紅の頭角(カブトホーン)を掲げた。

 

『CHANGE - BEETLE』

 

 天道はマスクドフォームからライダーフォームへの『脱皮』(キャストオフ)を果たし、カブトゼクターから響く電子音声と青く閃く己の複眼を気にせぬまま悠然と歩を進める。

 先ほどは愚かにもこちらへ向かってきた怪物は二体。分離したマスクドアーマーによって撃破した個体は二体だ。脱皮を見届けてからこちらへ迫る残り四体のサナギ体ワームは、先の二体よりかは少しばかり慎重な性格をしているらしい。

 太陽の光を受けて輝く緋色の戦士は流麗にしなやかにワームの爪を避ける。派手な動きを見せることもなく──天道は天道らしく、最低限の動きだけで隙を晒さず怪物の腹に拳を叩き込む。

 

「すっげー! なんかかっこいい姿に脱皮した! もしかして、カブトムシの妖精!?」

 

「うわー! 初めて見た! 夏って感じだね! エンジョイしていこうぜー!」

 

 目を輝かせてカブトを見るチルノと、同じく緋色の夏らしさを見て笑顔を咲かせるエタニティラルバ。いずれも優雅なものを感じさせる象徴のはずが、妖精という枠組みにおいては無邪気な子供じみた感性しか備えていない。

 マスクドフォームの重厚さを警戒していたらしき妖精二匹は、ライダーフォームとなったカブトを見て目も眩むような鮮やかさに酔い痴れている様子。ただ鎧を脱ぎ捨てただけだというのに、その外見の変化で先ほどまでの警戒心を捨て去ってしまったようだ。

 

「妖精は相変わらず元気いっぱいねぇ。妖精が元気だとお花も元気になるから良いけどね」

 

 ワームに背を向けてはしゃぐ妖精らしさに呆れつつ、幽香はその賑やかさに少しだけ嬉しそうな笑みを零す。

 妖精など守る義理はないのだが──目の前の笑顔が散ってしまうのは見たくない。ゆっくりとその手に現した白い日傘を持ち上げつつ、その先端からワームに向けて花の光弾を放った。

 

「ギュルルル……!」

 

 顔面に光弾を受けたサナギ体が軋み声を上げる。真夏の太陽がもたらす日差しに関係なく、内側から急激に体温を上昇させたサナギ体のワームは甲殻に亀裂を見せた。

 幽香の攻撃によって鎧を傷つけられたわけではない。ワームのサナギ体たる所以、その身の可能性──真の力を破り現さんがために。

 隣に立つもう一体もまた、同様に灼熱の蒸気を噴き散らしぐらぐらと陽炎を立ち昇らせる。醜悪な緑色はその高熱に耐え切れず──ボロボロと崩れ落ちていく。

 それぞれ二体のサナギ体が晒すのは、どちらも等しく地球の蜘蛛に似た成虫体の姿だ。

 

 その特徴は先日天道(カブト)が撃破したアラクネアワーム ルボアに似る。暗い青紫と赤色を持っていたそれとは違い、この場に脱皮を遂げた二体は異なる配色。

 一体は漆黒の身体に警告色めいた黄色のドクロ模様を放射状に配した不気味な姿。色合いこそ蜂や虎などの生物を思わせる黒と黄色の混合色だが、この個体も背や肩に突き出した蜘蛛の脚が示す通り『アラクネアワーム フラバス』と称される蜘蛛の力を持つワームである。

 

 もう一体は死者の骸を思わせるくすんだ灰色の身体に走る悪意のような漆黒の放射模様。隣に立つ黄色ほどの鮮やかさや派手さはないが、こちらも不気味な冷たさを放つ色合いをもってその身の蜘蛛らしさを示している。

 灰色の体躯に黒の装いを持つ蜘蛛のワームは『アラクネアワーム ニグリティア』と称され、それぞれかつてはZECTによって定義された名称を持つ怪物たちであった。

 

 天道も一度は倒したことのある相手だが、油断はできない。先日のワームと同様にこれらも以前より強くなっている可能性がある。一年間の空白があるとはいえ、天道はその間もいつ訪れるか分からない脅威のために自己鍛錬を欠かしていなかった。

 それでもクロックアップの世界では一体のワームを相手に()()から見て()()もの時間をかけてしまった。風見幽香の言う通り、自分の腕が微かに鈍ってしまったのだと認めざるを得ない。

 

「あちち……! って、こっちも脱皮した!」

 

 氷という自然物から生じたチルノは氷の妖精である。冷気によって成るその身体は熱に極めて弱く、ワームが脱皮した際の余熱を羽に浴びただけでダメージを負いかけたが、そのおかげで背後で姿を変えた怪物に気づくことができた。

 最下級の妖精であればそのまま消滅していてもおかしくなかっただろうが──チルノは幻想郷の妖精の中では最強を自負するほどの存在である。格上の妖怪とも戦い、神にさえ恐れず戦いを挑む蛮勇も、その力あってのこと。もっとも、あくまで妖精という範疇に限った最強だが。

 

「シュギュルル……!」

 

 蜘蛛に似た特徴を持つワームの成虫体、アラクネアワーム フラバスとアラクネアワーム ニグリティアはそれぞれ真紅の複眼と蒼穹の複眼を輝かせ、片腕を振り上げる。

 鋭い爪の掲示を合図として、草原の上空には夏の日差しを遮る灰色のオーロラが現れた。一体、また一体と数を増やしていくサナギ体のワームを軍勢と成し、優に20体を超えたそれらが不気味な緑の体躯をもって襲い来る。

 見ているだけで不快さを与える醜悪な歪さ。だが、チルノとラルバはそれらに決して怯むことなく、強大な妖怪に対するかのように。ひしめき合うサナギ体の群れへと向き直った。

 

「(あの奇妙なオーロラ……やはりワームが操っているのか)」

 

 天道はサナギ体を産み落としてはすぐさま消えた灰色のオーロラを想う。かつての戦いにおいては見たこともないその光は、先日も虚空からサナギ体を現していた。

 幻想郷の存在に擬態したことで獲得した能力かとも思ったが、不意に数を増やしたワームに困惑している妖精の様子を見る限り、そうではないらしい。そのことについて気になるものの、まずは怪物(こいつら)の殲滅が先だ。

 一度はジョウントによって消失させたカブトクナイガンを再び右手に召喚する。掴むべきはアックスモードとしての柄だが、斧の刃を上に向けるのではなく、それを下向きに逆手持って。

 

 重厚な鎧に相応しいカブトクナイガン アックスモードの斧の構成部分だけがジョウントによって消失。外装パーツとして存在したそれが失われることで、その中に秘められていた黄金色(こがねいろ)に輝く刃が白日の下に晒され、薄く鋭く流麗な光を返した。

 触れた空気さえも切り裂くほどの切れ味はカブトクナイガンの第三の形態として在る。ライダーフォームの速度に相応しい『クナイモード』のそれをもって天道は怪物へと歩んだ。

 

 天道自身の動きは揺れる花のように緩やかなもの。されどクナイモードの刃が舞うように閃くためか、振り上げられたそれはワームたちの目に留まることもなく。

 一閃に次ぐ一閃、天道の周囲にひしめき合うサナギ体を鋭く切りつけ、怯んだその隙にカブトクナイガンの内部に充填されるタキオン粒子のエネルギーを小さな黄金の刃へと輝かせていく。

 

「ふっ……!」

 

 最後に一度だけ、大きくそれを振り抜く。込められたエネルギーを解き放ち、蒼白く輝く短剣の刃でもって周囲のサナギ体をまとめて切り裂くと、それは【 アバランチスラッシュ 】という一撃となって数体のワームを爆散させた。

 緑色の爆風の向こうから迫る気配を見逃すことなく、天道は前方のアラクネアワーム フラバスが射出した蜘蛛の糸をカブトクナイガン クナイモードの刃を振り上げて切り捨てる。

 

「私たちも負けてられないね! チルノ! スペルカードの用意はいいかい?」

 

「あたぼーよ! 一匹残らず蹴散らしてやるぜー!」

 

 二匹の妖精はそれぞれ夏に煌く氷のように、あるいは青霄(せいしょう)に昇る蝶のように。己の生命力たる自然のエネルギーを、思考の中に浮かべた札と満ち溢れさせる。

 ラルバの(はね)には陽光をキラキラと反射する細やかな鱗粉。チルノの羽には空気中の水分を吸いつけて凍らせた霜の美しさ。二つの自然は妖力を交えて解放され──スペルカードとして。

 

「凍えろ! アイシクルフォール!!」

 

「舞い上がれ! ミニットスケールス!!」

 

 声を合わせて二人は叫ぶ。幻想郷の自然を彩る妖精たちは、夏に相応しいそれらの輝きを遊びではない本気の力を込めた弾幕として草原に解き放った。

 チルノの氷の羽が仰ぐは夏の湿度を涼やかに凍らせる【 氷符「アイシクルフォール」 】の凍てつき。何もない空に突如として現れた氷柱(つらら)の雨は、小さく細くも確かに鋭く、群れるサナギ体へと降り注いでいく。

 対するラルバの蝶の翅が羽ばたくは、その背に湛える煌びやかな鱗粉を夏の風に乗せて撒き散らすアゲハチョウめいた舞い。一つ一つは目視できぬ粉塵の如き小ささであれど、それを束ねて光弾と成すは【 蝶符「ミニットスケールス」 】の刃としてサナギ体の甲殻を切り裂いた。

 

 氷の妖精は『冷気を操る程度の能力』を。アゲハチョウの妖精は『鱗粉を撒き散らす程度の能力』を。それぞれ駆使した自慢の弾幕でもって、ワームに対抗する技と成す。

 ただの氷柱の雨も、取るに足らない光弾を含んだ鱗粉も。それだけではサナギ体の鎧を貫くにはまったく不足であったことだろう。

 だが、この幻想郷に生きる妖精たちの力は、自然の力そのものを味方につけた妖力となる。特にチルノとラルバの二匹に関して言えば、並みの妖怪以上の力を持つのだ。

 本気の妖力を込められた氷と蝶の弾幕。妖精とは比較にならないほど強大な存在である妖怪の幽香でさえ──彼女らが放った弾幕が数体のサナギ体を爆散させる様子に感嘆を覚えていた。

 

「ほう、ただの妖精かと思ったが……それなりに戦えるらしいな」

 

 緑色の爆風を掻き分け、妖精たちは晴れ渡る草原の地にて二体の蜘蛛と向き合う。微かに振り返ってその様子を見た天道総司もまた、妖精の存在に詳しい幽香と同様、二人の想像以上の戦力に感心しながら夏の日差しに褪せる緑の風を見た。

 チルノとラルバのスペルカードによってこの場に集ったサナギ体はすべて撃破された。二体のアラクネアワームがそれぞれ吐きつける蜘蛛の糸を避けつつ、カブトはその手に構えたカブトクナイガンを消失させる。

 幽香はあえて前に出ず、ワームたちの動きを探っている様子。妖精たちがアラクネアワーム フラバスとアラクネアワーム ニグリティアの正面へ突っ込んでいくのを見届けている。

 

「そっちの蜘蛛みたいな奴らも、あたいが倒してやる!」

 

 チルノの手にはさらなる冷気のエネルギーが青白く込められていく。本気のスペルカードを放った直後で自然の力は万全ではないものの、通常弾幕として言えば十分以上の力。その身に残った余力を後先考えず、怪物へと放とうとしたのだが──

 二体の成虫体ワームは通常のサナギ体よりも機敏な動きで妖精に反応する。アラクネアワーム フラバスが振り上げた右腕の爪に弾き飛ばされ、チルノは両手に込めたエネルギーを霧散させてしまった。

 吹き飛ばされてしまったものの氷の羽を動かしてなんとか勢いを緩める。背後にいたラルバが受け止めてくれたが、ラルバともども怪物に大きな隙を晒すこととなった。追撃が来ることを恐れて二人はすぐに立ち上がり、ラルバと共に正面に立つ二体の蜘蛛の異形と向き合う。

 

 ──その直後、アラクネアワームたちの姿が不気味な光に包まれた。溶けゆくような滲みゆくような、泡沫に映ろう曖昧な幻影を纏ったかと思うと、次の瞬間には二体のアラクネアワームの姿はまったく別のものに変わっていたのだ。

 清らかな水を湛える霧の湖に住まうチルノにとっては、それは毎日目にしていたもの。水辺の少ない太陽の畑に住まうラルバにとっては、あまり見る機会のないもの。

 ワームたちは寸分の狂いなく、自らの姿を『チルノ』と『エタニティラルバ』に変えていた。

 

「うわっ! あたいたちの姿になった!?」

 

「そうだった! こいつら擬態できるんだった! 一回休みになって忘れてたー!」

 

 鏡映しの自分自身を前にして驚くチルノ。ラルバは一度、サナギ体の状態のワーム──太陽の畑に現れたアラクネアワーム ルボアに脱皮した個体によって擬態されていたが、その際にワームの襲撃を受けて消滅したことで記憶の一部が欠落していたらしい。

 悪意に満ちた笑みを浮かべて本物(オリジナル)と向き合った擬態チルノと擬態ラルバは地球の節足動物たる蜘蛛の特徴を備えるワームとしては異質な、それでいて妖精としては極めて自然な『飛翔』という行為を遂げた。

 氷の羽と蝶の翅を震わせ、自由に夏の空を舞う。それだけを見れば幻想郷の夏らしい妖精たちの姿なのだが、彼らは自然の化身に擬態したワームたちだ。その手に輝く自然のエネルギー、冷気とアゲハチョウの要素を込めた光の弾幕は、殺意と害意の雨となって地上に降り注ぐ。

 

「妖精に擬態したことで飛行と弾幕の能力を手に入れたか……厄介だな」

 

 天道はカブトの青い複眼をもって青空を仰ぐ。ワームとの戦闘に当たって直上から攻撃を受けることはほとんどなかったため、慣れない動きではあったが、擬態の対象が妖精であることもあってか弾幕の密度はさほどのものではない。天道にとっても回避は容易だった。

 大地を抉る光弾の輝きはまさしく遊びなどではない本気のもの。マスクドフォームの重厚な装甲であれば無傷でやり過ごせるかもしれないが、機動力を重視したライダーフォームではその威力にどれだけ耐えられるだろうか。

 

 擬態された本人たちは共に空へ向かい、上空にて戦っている。そのおかげで地上に降り注ぐ弾幕はさらに密度が低下したが、天道が厄介だと感じたのは絶え間なく振り注ぐ弾幕の雨に対してではなく。擬態妖精たちが空を舞い続けているという点にあった。

 純粋な人間である天道に幻想的な飛行能力などはない。カブトクナイガン ガンモードの対空射撃をもっても、自由に空を飛べる妖精(ワーム)を相手にするにはあまり効果的とは言えないだろう。

 

「あたいは負けないよ! 最強の妖精だもん!」

 

「あたいだって負けるもんか! 最強の座を賭けて勝負だ!」

 

 爽やかに晴れ渡る水色の空にて氷の弾幕をぶつけ合うチルノとチルノ。妖精という種族において最強と謳われたその誇りをもって、二人は降り注ぐ氷の雨を器用に回避しながら、その手の平から向かう弾幕と同じものを無作為に放ち続ける。そのどちらも、相手には当たっていない。

 

「夏に相応しいのは私だよ! 弱いやつは地に落ちな!」

 

「冗談じゃない! 落ちるのはそっちよ! その(はね)、撃ち抜いてやる!」

 

 健やかに咲き誇る向日葵の直上にて鱗粉の弾幕を放ち合うラルバとラルバ。アゲハチョウのそれによく似た翅は大きく、的になりやすいかもしれないが──二人は向かい合う自分自身が放つ鮮やかな光弾の雨を優雅に避けつつ、手から同じものを撃ち出す。

 

 アラクネアワーム フラバスは湖上の氷精に。アラクネアワーム ニグリティアは神に近づく蝶の妖精に。それぞれ寸分の狂いもなく擬態し、二体のワームは彼女ら妖精の能力まで完璧に模倣してしまっているようだ。

 自然のエネルギーも弾幕の精度も同じ。ただやはり、自分自身を相手にして混乱している本物のほうが動きが鈍く、よく知る自分の弾幕でありながら対応が遅れ気味な様子。だが、ワームのほうもその僅かな隙に気づいていないのか、ただ無邪気に──無作為に弾幕を放っているだけ。

 

「やっぱり、知性のレベルも擬態元の影響を受けるのね」

 

 眩い太陽の光に目を細めながら、幽香は空を舞う妖精たちを見上げている。

 先ほどまでは威圧的な振る舞いでサナギ体のワームたちを統率していたにも関わらず、妖精の姿に擬態した瞬間からワームの知性は妖精並みにまで落ちたように見えた。

 天道の話では彼らは柔軟に他者の記憶や人格を吸収していき、技術や文明を模倣、地球の支配権を得ようと企む高度なものであったはず。

 

 有象無象のサナギ体の多くは、擬態すらせずに数をもって攻めてきたという。あるいは擬態したとしても、姿や声はもちろん記憶や人格さえ完璧に模倣できるが、擬態する側の観察力が足りていないせいで『本質』が再現できていない場合があるらしい。

 ワームには擬態の得意な個体もいれば苦手な個体もいるということなのか。妖精にも取るに足らない有象無象もいれば、チルノやラルバのような強大な個体が生まれることもある。

 単純な個体差と言ってしまえば、人間も妖怪もワームも同じなのだろう。

 

 成虫体が擬態したとはいえ、擬態の精度で言えばサナギ体とあまり変わらなさそうな二体のワーム──今はチルノとラルバの姿になっているアラクネアワームたち。幽香は本質の再現性に欠けたそれらを偽物であると判断した。

 擬態チルノには夏の空を凍てつかせんばかりのやる気と本気が感じられない。擬態ラルバからは先日と同様、常世神を思わせるような底知れぬ神秘の気配が感じられない。それらはあくまで感覚的なものに過ぎないが、純粋に姿や能力を模倣したとしても──幽香の目は誤魔化せない。

 

「相手が空を飛んでいるなら……俺は未来を掴むまでだ」

 

 幽香と同様に空を見上げている天道はカブトとしての仮面の下で呟く。

 ライダーフォームのカブトには飛行の機能は備わっていないし、人間である天道総司にも空を翔ける能力などあるはずもない。それでもなお、彼は天を目指すだけの自信があった。

 

 この手はすでに未来を掴んでいる。そしてこれからも、掴み続ける。その誇りを現すべく、天道はゆっくりと持ち上げた左手の中に空間を引き裂く波動を感じる。

 激しく唸る電流が迸り、手の平という極めて小さな領域で空気が乱れる感覚。カブトゼクターやカブトクナイガンを呼び起こす際のジョウントによく似ているものの、ただ空間を跳躍するだけのそれではない。

 過去と未来を繋ぐ時空の接続。タキオン粒子の波動が溢れ出し、カブトが持ち上げ広げた左手の中に、雄々しく角を突き立てる新たな光が姿を現す。

 彼の知る『現在』のそれはすでに破壊されてしまったが、天道の呼び声に応え、その輝きは遥かなる『未来』から。それを再び掴もうと、天道は左手をもってそれに触れようとするが──

 

「何……?」

 

 未来からの輝きは天道の指先を受け止めることはなく。再び青白い電流と共に消失する。手元に呼び出したはずのそれは時空の裂け目へと舞い戻ってしまった。

 乱れた時空が元に戻る。引き裂かれた空気の傷跡が夏の風に吹かれて消えてしまう。今一度それを望もうと掴んだ左手を開くが、そこに時空の歪みが生じることは二度となく。

 過去と未来を等しく覆すほどの絶大な力を持つ『あのゼクター』が現れることはなかった。

 

「……仕方ない。天を目指す手段は他にもある」

 

 天道(カブト)は掲げた左手を静かに下ろしながら、仮面の下で小さく溜息をつく。

 速やかに振り返ったその青い複眼が見るは緋色の輝き。この草原に停めたカブトエクステンダー マスクドモードは、そのままの姿ではただ大地を駆け抜ける強靭な機体(バイク)でしかない。

 

 怪訝そうな表情でこちらを見る幽香の視線も気にすることなく、天道はそのシートに跨る。左手でハンドルグリップを握りしめたまま、右手の指先をもってコンソールに触れた。複雑なコードを入力し、信号の決定を告げるキーを押下する。

 これより至るはこの機体の脱皮。マスクドライダーシステムと同様にマスクドモードの名を冠すカブトエクステンダーは、カブトの装甲に等しい緋色の輝きに──迸る電流を走らせて。

 

『CAST OFF』

 

 カブトエクステンダーのコンソールより発せられた電子音声の直後、分子間力で結合していたフロントカウルが夏の炎天下に弾け飛ぶ。

 機体のマスクドアーマーを解き放つことで内から現れたのは、無骨な鈍色の装いを持つカブトムシめいた姿。流麗ながらもバイクらしい見た目をしていたマスクドモードのカブトエクステンダーの姿とは大きく異なる、もはや異形とも呼べるような怪物じみた機体(マシン)だった。

 

 バイクの前輪は左右に分かたれ、そのままの後輪と掛け合わせたトライクめいた形に。カウルを失って剥き出しになった内部構造からはやはりカブトムシの頭角めいた『エクスアンカー』と呼ばれる雄大な(ほこ)を突き出して。

 機体後部を持ち上げられることによって、カブトエクステンダーのキャストオフは果たされる。マスクドモードの装甲を解き放った鈍色のボディは、色合いこそカブトのマスクドフォームのそれに近いものの──機能としてはライダーフォームに相応しい『エクスモード』の形態である。

 

「また(いか)ついのが出てきたわねぇ」

 

 飛散したマスクドアーマーの風圧に目を細め、髪を抑えていた幽香がカブトエクステンダー エクスモードのボディに視線を落とす。天道からさほど距離を取っていなかったにも関わらず、その装甲が当たることがなかったのは天道の意思によるものだ。

 カブト自身に備わった装甲のキャストオフに関してももちろんのこと、このカブトエクステンダーにも搭乗者の意思を信号として受け取り、物体認識機能も合わせてマスクドアーマーのパージにある程度の指向性を持たせ、任意の方向にのみ飛ばすといったことができる。

 

 天道はカブトエクステンダーのハンドルグリップを握り、鈍色の機体を強く激しく唸らせた。しかして()け抜ける道は眼下の大地に非ず。さながら羽化を遂げた甲虫の如く、その身に開いた(はね)を震わせるように──

 ヒヒイロノカネ製の強靭なる機体がプラズマ化したイオンの波動で浮き上がる。その出力にバイクとしての加速力を与え、カブトは己が愛機をもって草原の上空へと舞い上がっていった。

 

「さて、どっちの妖精がワームの擬態だ?」

 

 視界を染める青空の中、同じ姿をした二人一組の妖精たちが弾幕を交わしている。相変わらず、妖精特有の気配など知る由もない天道にはどちらが本物なのかは分からない。

 チルノたちは蒼穹の中に眩く存在を示すカブトエクステンダー エクスモードの鈍色の輝きに気がつき、こちらに振り返った。弾幕を放つ手を止め、必死に自分が本物だと主張する。

 性格に関しても彼女らについてよく知っているわけではないし、何よりワームの擬態能力ならばその差異を見抜くことは極めて困難だ。いくら何度でも再生する妖精とはいえ、本物ごと撃ち抜くような真似もしたくはない。

 

 思考は一瞬。天道の心には最初から答えが見えている。右手をハンドルグリップから離し、その手を腰に装うライダーベルトの右側──スラップスイッチへと。

 時間を超えた加速をもたらすその力の引き金へ、天道はカブトとしての右手を滑らせ──

 

「…………!」

 

 二匹の妖精はその動きを決して見逃さない。妖精に擬態しているままでは構成情報が妖精のものに寄せられてしまい、ワームとしての能力が行使できなくなってしまう。彼女らはそれを避けるべく、擬態を解いて成虫体のワームとしての姿を晒した。

 擬態チルノはアラクネアワーム フラバスの姿に。擬態ラルバはアラクネアワーム ニグリティアの姿に。本来の姿を晒した以上は幻想的な妖精の力の大半を失い、飛行すらままならなくなってしまうが──クロックアップという能力は、それを補って余りあるほど強大な力である。

 

「かかったな」

 

 だが、天道総司は右腰に持っていった右手でスラップスイッチを叩くことなく。あくまでクロックアップする素振りを見せただけに留めた。

 ワームがクロックアップを行おうと成虫体の姿を晒した一瞬の隙を突き、左手でカブトエクステンダーのコンソールを操作してヘッドライトの先からパルスビームの光弾を放つ。青白い波動はそれぞれ二体のワームを直撃し、白煙を登らせながらそれらを草原の地に叩き落としてみせた。

 

「おお! やるじゃん! 赤いの!」

 

「さすがカブトムシの妖精! 夏のヒーローだね!」

 

 本物のチルノとラルバは光弾の爆発に一瞬驚いた様子だったが、地に落ちゆく怪物の姿を見届けてカブトを賞賛する。カブトエクステンダーが高度を下げ、降りていくのを見届けながら、二人は仲良くハイタッチを決めて夏の日差しと束の間の勝利に酔い痴れた。

 

『ONE』『TWO』『THREE』

 

 すかさず両手をハンドルから離し、座席(シート)に立ち上がりエクスアンカーの先へと歩む天道。同時にカブトゼクターのフルスロットルを右手の親指で丁寧に押下し、右側へ倒されたゼクターホーンを左側へと引き戻す。

 自動走行機能により自由に大空を舞うカブトエクステンダーは天道をエクスアンカーの先端に乗せたまま、真っ直ぐに急降下して光弾のダメージに動きを鈍らせている状態の二体のワーム、そのうちの一体たる黄色と黒の装いのアラクネアワーム フラバスに向けて突っ込んでいった。

 

「ライダーキック……!」

 

『RIDER KICK』

 

 敵は眼前。天道は死の宣告と共にカブトゼクターのゼクターホーンを再び右側へ倒す。迸る青白い電流を視界に閃かせ、その稲妻は額の角に、右の脚に。

 さらには足元のエクスアンカーにさえ光が灯る。身体に滾るタキオン粒子のエネルギーを湛えたまま、彼は待つ。やがて弾けた閃光と同時、カブトの身体は、大地へ解き放たれた。

 

 カブトエクステンダー エクスモードの機能の一つ。前方に掲げるエクスアンカーの先端にカブトを乗せ、それをさながらカタパルトのように勢いよく突き出すことでカブト自身に絶大な運動エネルギーを与えて弾丸の如く『射出』する。

 大地へ向かう機体に飛ばされ、カブトは渾身の力を込めたライダーキックに自由落下の勢いとエクスアンカーの衝撃を乗せ──こちらを見上げる蜘蛛のワームに彗星と流れ落ちていった。

 

「はぁっ!」

 

「ギュルルゥゥゥアアーーッ!!!」

 

 大きく横一文字に振り抜いた右脚でもって、天道はアラクネアワーム フラバスの外殻を切り裂いた。満ち溢れたタキオン粒子のエネルギーがワームの身体に流れ込み、その肉体を黄色く明るい爆炎と共に打ち砕く。

 ライダーキックの威力にカブトエクステンダー エクスモードによるエクスアンカーの射出力を組み合わせた一撃は【 エクステンダーキック 】と称され、ライダーフォームのカブトが持ち得る最大威力の必殺技として存在していたが、天道にとってはあまり放つ機会のないもの。

 

 黄色い爆風は夏の風に掻き消える。まだ油断はできない。カブトの複眼をもってもう一体のワームを探すも、この身を包む強化スーツ──サインスーツが感じ取る微かな時空の乱れで対象がすでにクロックアップを遂げていることを理解した。

 カブトエクステンダーによるパルスビーム光弾の直撃を受けてこれほど早く行動ができることは天道の予想になく。十分な隙を作れるだけのダメージを与えたはずだったのだが。

 

 先日に続く戦いですでに戦闘の勘は取り戻している。一年間の空白も返上できる程度には、天道のカブトとしての戦いもかつてと同じ万全なものとなっているはず。

 それでもなお、一度倒したはずの怪物が天道の予測を超えているということは。やはり当初の認識通り、かつて倒した個体と同種の──否、かつて倒した個体と同一個体(・・・・)と呼んで差し支えないだけの特徴を持つそれらが、確実に以前戦ったときよりも強化されて幻想の地に存在している。

 

「……クロックアップ」

 

『CLOCK UP』

 

 アラクネアワーム フラバスを撃破した姿勢から立ち上がったそのままの状態で、天道は隙を見せることなく右腰のスラップスイッチを軽やかに叩く。

 いくら最小限の行動で抑えたとはいえ、相手がクロックアップしているなら容易につけ入ることができただろう。それでも天道の方に迫るワームの気配はない。違和感を覚え、異なる時間の流れの中、この場に存在するもう一体のワーム──アラクネアワーム ニグリティアの姿を探す。

 

「……! 狙いは風見幽香か……!」

 

 天道が見たのは灰色の外殻を持つ蜘蛛のワームが、この加速した世界においては無力な一輪の花を儚く摘み取ろうとしている光景だった。

 こちらもあちらも、共に等しく速度を超えた時間の中に。カブト自身の走力自体はさほどのものではない。どちらもクロックアップしている状態であるならば、マスクドライダーシステムもワームも速度に差はないのだ。

 すでに幽香の眼前まで接近したアラクネアワーム ニグリティアが強靭な爪を掲げた右腕を振り上げ突き進む。タキオン粒子を観測するだけの動体視力を持たず、クロックアップの世界を認識することができない彼女には、目の前まで迫ったそれを視認することもできないだろう。

 

 咄嗟に右手に現すカブトクナイガン ガンモード。もはや間に合わないと悟りながらも諦めず。それを掲げて引き金を引こうとするが──天道はそこで違和感に気づいた。

 ワームは風見幽香の目の前まで迫っているのにも関わらず、あともう数歩の距離を詰めようとしない。ほんの僅かな距離なのに、ワームは自身の爪が届かない位置から動こうとしていない。

 

「ギュ……ギュ……ギュルル……!!」

 

 ──否、ワームは動こうとしていないのではない。()()()()()()()()()のだ。

 視線を落として見れば、アラクネアワーム ニグリティアの両脚は大地から芽生えた植物の茎に絡め取られている。引き抜こうと強く脚を動かしても、妖怪じみた強度を持つ茎はその細胞繊維に一切の傷をつけることなく、しっかりと怪物の動きを封じている。

 

 風見幽香が持つ『花を操る程度の能力』は、普段は花の向きを変えたり枯れた花を蘇らせる程度のものでしかない。されど一度(ひとたび)彼女が本気を出せば、その概念に伴うあらゆる要素を操り、茎やツタによる拘束や巨大な植物による圧殺さえも可能とする。

 ワームは正面に立つ女が妖怪であるということは知っていた。だが、それが旧き世界より召し上げられた『選ばれし者』であるとは知らず。

 もはや一歩も動くことはできない。目の前の女は静止に等しく遅延した時間の中に取り残されているというのに──ワームの思考は速度を超えた速度にまとわりつく花弁への恐怖を抱き。

 

「────」

 

 クロックアップの原理は、世界を違わず異なる時間流へ移動するというもの。それはワームもマスクドライダーシステムも変わらない。故に、厳密には異なるもののクロックアップしていない者から見れば『ただ速すぎて見えない』だけのこと。

 別の世界に移動しているわけでもなければ実際に不可視と化しているというわけでもない。ただ速すぎるが故に見えなかった存在が、動きを止められてしまったということは。

 

 アラクネアワーム ニグリティアの複眼が幽香の唇の動きを捉える。相手から見れば不自然な挙動で振動し瞬くように残像をもたらす姿ではあるものの、完全にこちらの姿を捉えられてしまっていることだろう。

 ゆっくりと唇が開かれると同時、緋色の瞳が緩やかにワームの青い複眼へと合わせられる。怪物が肌で感じ取るクロックオーバーの感覚と共に、その花びらは無慈悲な笑顔と花開いた。

 

「──つかまえた」

 

 静止していた風が幽香の髪を再び撫でる。細やかに乱れ動いていた残像の塊は、すでに等速の次元へと引きずり降ろされて。

 ワームの脚を捉えていた植物の茎が一瞬で胴体まで伸び絡まると、さらに強く締めつけ動きを抑制。両腕から連続で放つ蜘蛛の糸でさえ、彼女には当たらない。微かに首を動かしただけの幽香は瞬き一つすることなくそれらをすべて回避し──ゆっくりと歩を進めた。

 

 クロックアップの最中に蜘蛛の糸を射出することがなかったのはワームとしての慢心か。再びクロックアップを果たそうとワームは全身に力を込める。しかし、それは叶わない。

 掲げられた左手が拳という蕾を開く。咲き誇る手の平に、何より眩い太陽の如き光が灯り。

 

「ギュルルゥゥーーーォォオオオッ!!」

 

 天下の大地、黄金の向日葵が妖力の波動と咲き誇る。その爆炎は灰色を帯び、風見幽香の目の前にて刹那の花びらと散っていった。

 砕け散ったワームの外殻はあまりの熱量に瞬く間に掻き消えてしまう。夏の日差しより激しい爆風を涼しげな顔で見届けると、幽香は白く美しい肌を刺す陽光に再び日傘を差し構える。

 

「罠を張っておいてよかったわ。あの速さじゃ、追いつけないしね」

 

 幽香に敵意を向ける者へのみ反応して対象を絡め取る植物の茎は、その周囲にひしめくように張り巡らされていた。花を操る彼女の能力をもって構築された広範囲の罠として、幽香自身の意思に依らず自動的に反応するよう結界を組まれていたのだ。

 本気の妖力を込めた植物の茎はクロックアップの世界に追いつくほどの速度でワームを絡め取り、幽香の目の前にて拘束した。たとえ幽香本人がクロックアップの速度を認識できずとも、クロックアップが発動される前に彼女の能力を受けた草花は彼女の意思通り、ワームの敵意を感知して動きを封じ込めていく。

 

 あとは拘束されたワームを──目の前にて無力となったその花を摘み取るだけ。幽香にはクロックアップに追いつく速度こそないものの、知性で負ける道理もなく。

 かつて天道総司が行ったように、通常の時間からクロックアップを打開する正義(つよさ)がある。

 

「……見くびっていたのは俺のほうだったらしいな」

 

 天道(カブト)もすでにクロックオーバーを遂げ、正しい時間の流れの中で風見幽香を見やる。その姿は煌く陽光に照らされた、一輪の花を思わせるが──

 どれだけ美しさを飾ろうとも、その本質は強大な妖怪なのだ。この女は、ただ可憐なだけの花と形容できるほど小さく儚い存在ではなく。瓦礫の下でも輝き咲く希望という名の花なのだと。

 

◆     ◆     ◆

 

 晴れた夏空の下、ワームの撃破を見届けた妖精たちが舞い降りた。すでにサナギ体も成虫体もいなくなった草原にふわりと足をつき、それぞれ薄い氷の板を思わせる羽と鮮やかなアゲハチョウのそれに似た翅を揺らして。

 幽香の威圧的な妖気を向けるべき相手はもういない。カブトの性能を振りかざすべき地球外生命体はここにおらず。妖精も妖怪も人間も、張り詰めた空気を夏の日差しに蒸発させている。

 

「はぁー、()っつい! あのときの夏はサイコーだったんだけどなー」

 

「そうだねぇ。なんだか今回の四季異変は力が全然湧いてこなくてつまんないわ」

 

 清涼な水色の髪を腕で搔き上げ、額の汗を拭うチルノ。氷の妖精としてのそれは汗というよりは自身から溶け出た水分なのかもしれないが、彼女にとっては同じものだ。

 かつての四季異変に際しては背中に生じた後戸の影響で妖精の力が強化されていた。自然の具現たる本質を増幅され、満ち溢れる妖力と全能感で暴走に近い状態に陥ってしまったこともある。まるで人間のように肌を小麦の穂に似た褐色に染めて。

 チルノ自身はそれを紛うことなき夏の勲章──日焼けであると認識していた。異変の首謀者として後戸を形成していた秘神、摩多羅隠岐奈と初めて遭遇した際は強制的に退去させられてしまったのだが──

 

 二度目に彼女に挑んだ際は、今もこうしてチルノの隣にいるラルバの背中の扉からもう一度あの空間へ突入した。相変わらず妖精としての知能しか持たないチルノには隠岐奈の言葉の意味がよく理解できなかったものの、ラルバの扉は本来は夏の季節に当たるのだという。

 しかし、ラルバの背中に生じていた扉は春夏秋冬のいかなる季節にも該当しなかった。季節の変わり目──『土用』と称される境界の属性となっており、チルノはその扉を通って秘神に辿り着いたのだ。無論、彼女はただ近くにいた妖精の背中を借りただけだが。

 究極の絶対秘神がエタニティラルバにただのアゲハチョウの妖精としてではなく、常世神の可能性を見たのもそれが理由だ。

 夏の象徴でありながら土用の季節を持つ永遠の妖精。季節を操る秘神に最も効果的と言える土用の季節を意図せず備えて戦いを挑み、本気ではなかったとはいえスペルカードルールをもって勝利してみせた最強の妖精。秘神と呼ばれた賢者は、その二匹の妖精を強く特別視していた。

 

「その割には、ずいぶんはしゃいでたように見えたけどね」

 

 相変わらず花に等しく子供を慈しむように妖精を見る。彼女らを特別視しているのは、風見幽香もまた同じ。彼女らがただの妖精の領分に収まる存在ではないということを、誰よりも妖精に近い場所で生きてきた幽香は知っていた。

 そして天道総司もまた、人間の──外来人の領分に収まる存在ではない。生命を凌駕するだけの精神、季節の隙間にも相応しい魂を紅い鎧の中に秘めているような。

 

 揺れる緑髪のウェーブヘアから覗く緋色の瞳で、彼女は少し遠くに停まっているカブトエクステンダーに視線を向ける。

 天道が離れてなお空から旋回して地上に舞い降りたその機体は、所有者の操作によって再び真紅の装甲を纏い、鮮やかな緋色の輝きを照り返すマスクドモードの形態へと戻っていた。

 

「……そろそろこの日差しも辛くなってきたし、あたいは霧の湖に帰ろっと」

 

「あんな寒いところよくいられるねぇ。私は太陽の畑が一番だなー」

 

 チルノの氷の羽、その先端からぽたりと冷たい雫が落ちる。少し体力を消耗した様子の彼女は、かつての四季異変において褐色の肌をしていた頃ならこの程度の暑さなど何とも思わず乗り越えていただろう。

 夏の暑さに強く寒さに弱いエタニティラルバは霧の湖の気温を想像したのか、袖のない自身の両腕を抱き寄せて身震いしてみせる。

 今でこそ四季異変の影響で霧の湖にも夏の日差しが照りつけている。霧に包まれて気温が上がりにくいことだけがチルノにとっての救いだが、ラルバにとってはその涼しげな霧でさえあまり心地良いものではなかった。

 

 ラルバが見やった遠方の向日葵畑。太陽の畑にはその日差しを遮るものは何もない。アゲハチョウの妖精としては青霄(せいしょう)を舞うに最も適した環境である。

 四季異変の以前から顔見知りだった二人らしく、霧の湖の方角へと飛び去るチルノに手を振るラルバ。チルノもまた手を振り返し、天道(カブト)と幽香は青い複眼と緋色の双眸(そうぼう)でそれを見送った。




天道も幽香も、戦うときは激しく走ったり動いたりせず悠然としている。あと子供には優しい。

次回 47『天と地にて咲く』


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第47話 天と地にて咲く

 清涼的な爽やかさを帯びたチルノが去ったことで、太陽の畑の北西の草原に夏の暑さが舞い戻った気がする。気温は変わっていないのだが、冷ややかなる氷の妖精がいなくなったためにその場の印象が大きく変わっただけだ。

 ラルバはチルノほどの体力がないのか、先の戦闘で疲れてしまった様子。暑さには強く、すぐに移動する必要もない。少しのあいだ休憩してから太陽の畑に帰るつもりのようだ。

 

 天道も幽香も、ワームを倒した以上はここに留まる理由はない。無から怪物を現していた灰色のオーロラについて気になるものの、もはや影もなく。

 ライダーフォームのカブトとしての緋色の煌きはそのまま。ラルバは変身前の天道を知らないため、その姿に違和感を持つことはない。そして、生身の彼を知っている幽香も。彼が変身を解かない理由に疑問を抱かず。

 それは幽香にとっても慣れ親しんだ妖気──もう一つの気配がこちらに迫っているがゆえ。

 

「……プットオン」

 

『PUT ON』

 

 天道は微かに陰った太陽の光に見向きもせず、腰のライダーベルトに装うカブトゼクターの頭を左手で押さえる。同時に右手でもって右へ倒された状態のゼクターホーンを左へ。裏返って金色を見せていた角を元の位置へと戻した。

 走る電流と共に響く電子音声は天道総司の意志のままに。どこからともなくジョウントによって空間を跳躍して現れた鈍色の装甲が、キャストオフに際し細身のライダーフォームを晒したカブトの身に迫り来る。

 現れたマスクドアーマーは再びカブトに重厚な装甲をもたらした。強い分子間力をもって強固に結合し、赤く流麗な装甲は鈍色の中へ。それは、一度ライダーフォームに至った状態からマスクドフォームへと形態を戻す『プットオン』と呼ばれるマスクドライダーシステムの機能だ。

 

「……っ!」

 

 太陽の照りつける天空から飛び迫った、地上の流星。真昼のホタルを連想させるような黒き瞬きは(はや)き影となりて、マスクドフォームのカブトへと飛び蹴りを見舞う。

 だが、天道はすかさず鎧を帯びた右腕を持ち上げることでその一撃を防いだ。カブトの右腕を叩きつけた赤いローファーは堅牢な防御を誇る装甲に傷をつけられず、重さをも伴うマスクドアーマーを纏う天道を仰け反らせることもできない。

 逆に反動で翻った少女は蹴りの姿勢からくるりと一回転し、後方に着地する。裏地を赤く染めた黒いマントを舞わせ、緑色のショートヘアから伸びる昆虫めいた触角を揺らしながら。

 

「昼間のホタルなんて──珍しいわね」

 

 黒い甲殻じみたマントに陽光を照り返すはリグル・ナイトバグ。幽香は夜に輝くべき蛍の妖怪が太陽の下に現れたのを見て興味深そうに微笑を零した。装甲への衝撃による風圧が花を揺らすが、天道はラルバの驚きも特に気にすることなく蛍の妖怪へとゆっくり向き直る。

 

「その力、どうやら妖怪らしいな。この俺に何の用だ?」

 

「あんたに恨みはないけど、組織の命令だからね。そのゼクターを渡してもらうよ!」

 

 カブトとしての青い複眼がリグルの夜空に似た緑色の瞳に向けられる。マスクドアーマーを傷つけることこそできなかったらしいが、その衝撃はワームの攻撃にも等しいだけの波動として天道の認識を揺るがしていた。

 この少女は妖精と呼べるほど儚い存在ではない。──すなわち『妖怪』の領域であると。

 

「組織だと……? ZECTならとっくに解散していると思っていたが」

 

 リグルは天道(カブト)が腰に装うカブトゼクターを指して強く答える。天道の認識通り、ワームの殲滅を目的として結成されたZECTは一部のネイティブたちから成る上層部の壊滅と同時に解散されているはずだった。

 もはや人類を襲うワームが現れることもなく、ネイティブも人類に敵意を持たない数人だけ。ZECTという組織はすでに機能を失い、存続させる必要がなくなったのだ。

 

 天道の記憶では、それは一年も前の話だった。今さらZECTがゼクターの回収を目的とするとは思えないが、一度倒したはずのワームがこの幻想郷と呼ばれる世界において姿を見せている。何らかの理由でワームが復活を遂げたのなら──ZECTが再結成されていてもおかしくはない。

 

「ぜくと? 何それ? 私は死神に……って、危ない危ない。その手には乗らないわ」

 

 天道の言葉に疑問符を浮かべるリグルは慌てた様子でそれ以上の情報に口を(つぐ)んだ。一応はその組織とやらを探られまいとしているのだろうが、すでに組織の存在を明かしてしまっている以上は情報の秘匿性に疑問を抱かざるを得ない。

 勝手に口走られた『死神』という言葉に幽香が微かに眉を動かす。幻想郷で死神といえば、かつて六十年周期の大結界異変に際して幻想郷の開花に深く関わっていた者。外の世界の幽霊の渡しをサボっていた女性の顔が思い浮かぶ。幽香は、そのときに彼女と戦ったことがあった。

 

「……やはり妖精だったか? 妖怪にしては……あまり知性が感じられないな」

 

「残念ながら、妖怪ね。あまり一緒にされたくはないけど……妖怪界隈(わたしたち)もピンキリなのよ」

 

 カブトの装甲を蹴りつけた衝撃と、幽香のそれに近しい妖力の気配から妖怪だと思っていたが、リグルの振る舞いはチルノやエタニティラルバに近しいものだった。

 そのお仲間かとも考えたが、どうやら当初の認識通り妖怪で間違っていないらしい。溜息混じりにそう答えた幽香は諦観(ていかん)したように「人間やネイティブと一緒ね」と付け加える。

 

「もしかしてバカにされてる? まったく良い度胸だわ! 妖蟲界隈(わたしたち)を舐めると痛い目に遭うって、思い知らせてやる!」

 

 リグルの表情に怒りの色が滲んだのを合図に、土の下に隠れていたムカデやダンゴムシが這い出してきた。太陽の畑の中心に比べると数は少ないが──この草原にもいくつか咲いている向日葵、その周囲を舞っていたミツバチなどもリグルの下へ集ってくる。

 白いシャツの懐から取り出した銀色の腕輪──ライダーブレスを左手首に当てると、黄色い帯がリグルの手首に合わせて調節された。

 左腕を正面に構えたまま、右手をそっと前に差し出し。空間を超えて虚空からこの場に現れた、黄色い薄羽のスズメバチ型自律メカ、ザビーゼクターの機体(ボディ)をその手に掴んだ。

 

「変身!」

 

『HENSHIN』

 

 高らかな発声と同時にライダーブレスの接続部へザビーゼクターを装着。右手でもって傾けさせることで、認識の完了を告げる無機質な電子音声を聞く。

 リグルの身体は左手首を中心として輝き広がった幾何学的な六角形に包み込まれた。やがて装甲の構築が完了すると、そこには華奢で小柄な少女の姿は存在せず。妖怪としては矮小な部類に当たる彼女の身体は重厚な鎧に覆われ、マスクドフォームのザビーとして変身を果たしていた。

 

「……ザビーだと……? なぜあの妖怪が……」

 

 先ほどまでの小柄な体躯からは想像もつかないほどの鎧。白銀の装甲に走る黄色いスズメバチの意匠と蜂の巣に似た胸部を見て、天道はZECTが抱く特殊部隊の先鋒としてその針を振りかざしていたマスクドライダーの栄光を己が脳裏に思い返した。

 組織のエリート部隊の隊長として活躍していたザビーというライダー。その性能自体は特出していないものの、ZECTが有する武装兵士たちを率いた集団戦法を得意としている。変身者の戦術もあり、何体ものワームを倒してきた。

 

 その変身者は一定ではない。ザビーゼクターの思考回路は、ザビーには相応しくないと判断した資格者を容赦なく切り捨てる非情さを持っている。

 開発を担ったZECTでさえも資格者を選ぶゼクターの意思を捻じ曲げることはできない。ザビーゼクターは幾度も資格者を転々と変え、やがて認められる者は誰もいなくなった。

 

 すべてのゼクターを束ねる最強の剣を強化するためのパーツとして、天道はその力を借りたこともある。人類のネイティブ化を推し進めていた最強のネイティブ──かつては人間だったあの男との戦いでその剣が砕けてしまったとき、ザビーゼクターも停止したと思っていたのだが──

 

「その反応……あの黄色いのもマスクドライダーシステムとやらのお仲間みたいね」

 

 重厚な兜に覆われた天道の表情は伺えない。しかし、青い複眼越しに白銀と黄色を装うライダーの姿を見て、彼が仮面の下で小さく呟いた言葉は幽香の耳にも届いていた。

 

 思考を巡らせる天道を他所に、リグルは左手首に装うライダーブレス──そこに備えつけられたザビーゼクターの黄色い薄羽を手甲側に展開して裏返す。

 白銀の装甲の各部が微かに浮き上がりつつ、電流を走らせては鈍い駆動音を響かせて。

 

「キャストオフ!」

 

『CAST OFF』

 

 発声と共にザビーゼクターの羽根を掴み、手甲側に来ていたそれを反対側へ。スズメバチの腹部から伸びる針を外側に向けることで、ザビーゼクターを半回転させた。

 再び鋭く鳴り響く電子音声。さらに強く迸る緑色の電流を走らせ、ザビーのマスクドアーマーはゼクターからの命令に従って勢いよく飛散する。その上半身を覆っていた装甲を捨て去ることで、ザビーはよりスズメバチらしい姿に。

 

『CHANGE - WASP』

 

 金色(こんじき)のボディは流麗なスズメバチの腹部を連想させる。琥珀色(こはくいろ)の複眼は獰猛な肉食昆虫のそれらしく鋭利に研ぎ澄まされ、まさしく『ライダーフォーム』に至ったザビーの誇りを眩く表しているかのようだ。

 細身ではあるが、その姿は昆虫としての完全体。頭部に掲げた触角状のアンテナから余剰電流を逃がすと、リグルはザビーの複眼にカブトゼクターの角を倒す天道(カブト)の姿を見届ける。

 

「……キャストオフ」

 

『CAST OFF』『CHANGE - BEETLE』

 

 向かう戦士と同じように、こちらの装甲も虚空の果てへ。等しくライダーフォームの姿を晒し合った二人のマスクドライダーは、それぞれ誇り高き蜂のように、天に輝く甲虫のように。

 リグルは思考に走る戦士の記憶に従うよう構えたが、天道は特に構えを見せず、それでいて一切の隙のない佇まいのまま──

 

 ザビーの左拳がカブトの装甲を掠める。続けて振り上げられた黄色い右脚を掲げた左腕で受け止めるカブト。それを払い、今度は正面へ拳を突きつけ。

 その一撃も後退で回避される。天道はその隙を埋めるよう、隙を狙って再び振り上げられた左脚に打ち合わせるように、ザビーのキックを目掛けてカブトとしての右脚を振り上げた。

 

「「クロックアップ!」」

 

『CLOCK UP』

 

 打ち合う互いの脚が衝撃を撒き散らす。そのまま天道はライダーベルトの左右に設けられたスラップスイッチのうち、右腰に当たる部位を叩いて声を上げる。

 同時にリグルもザビーの身に装われた銀色のベルト──正面にZECTの紋章が刻まれた『ゼクトバックル』の上部を撫でるようにスライドした。カブトのものとは違い、叩くのではなく指でなぞることで発動する『トレーススイッチ』を起動させ、二人は時間を超えた速度の中へ。

 

「消えちゃった……? 透明になったの?」

 

「よく見て。目で追えないけど、凄いスピードで動いてるから」

 

 向日葵の陰に隠れたラルバに対して、幽香は微かな残像と揺るぎない気配を感覚に捉えたまま告げる。ラルバがもし単なる妖怪であればその差異には気づかなかっただろうが、彼女は自然そのものの化身たる妖精だ。この草原の地に未だ残る二つの『不自然』が、目には見えないながら彼女の知覚には観測されている。

 不自然に揺れる向日葵や草原に咲いた小さな花の動きから、そこに何かがいることまでは確信を持てたようだが──やはり妖精の動体視力では物理的にその動きを捉えることはできない。

 

「全然見えない……鴉天狗よりずっと速いのかも」

 

 ラルバは向日葵の陰から目をこらしている。幽香の瞳には映る微かな残像も、ラルバには見えていない。妖精として自然の流れには聡い彼女だが、無知ゆえか音速を超えた質量による風圧の発生といった物理的な影響の齟齬には特に違和感を持っていないようだ。

 

 超音速の世界では、赤と黄色の装甲が太陽の光を反射して閃いている。晴れ渡る蒼穹、鈍く輝く褐色、それぞれの複眼がそれぞれの装甲の色を受け止め、向かう相手の拳を、脚を、風を切るそれらをライダーとしての性能で相手取る。

 カブトとして一年間の戦いを遂げた天道総司に比べれば、マスクドライダーシステムなど知らない幻想郷の住人であるリグル・ナイトバグの戦闘技術はあまりに拙い。弾幕ごっこに依存している彼女の戦力は、格闘戦という条件においては人並み程度のものでしかないはずだった。

 

「…………!」

 

 天道は無意識のうちに相手をザビーとして。ZECTの精鋭部隊の隊長だった完全調和を尊ぶ男、あるいはその後任者であった小心者ながら狡猾な男、そのどちらかを相手にしている感覚を蘇らせてしまっていたらしい。

 相手はそのどちらでもない。まして天道の友と呼べる暑苦しい男でも、ただ一度だけザビーを装ったことのあるZECTの幹部でもない。今の(ザビー)は──彼女(リグル)である。

 

 ザビーというライダーには備わっていない力が天道を襲う。それはリグルが自身の妖力を込めて放ったもの。蛍の妖怪として蓄えた煌びやかな緑と黄色の光弾が、ザビーの左手から地上の彗星を思わせる瞬きで撃ち放たれたのだ。

 微かな瞬間に込められた妖力で咄嗟に放たれたそれに大した威力はない。だが、予想外の攻撃に思わず後退した天道は、相手が妖怪であることを思い出す一瞬に微かな隙を見せる。

 

『CLOCK OVER』

 

 光弾の炸裂に距離を取られた天道のカブトゼクターから響く音。同時にリグルのザビーゼクターも奏でたそれは、速度を超えた時間の終焉を告げる音。

 

「ライダースティング!」

 

 ザビーとしての仮面の下でリグルは高らかに宣言した。スペルカードに等しい言葉。それ自体に意味のない、単なる攻撃意思表示。スペルカードバトルに慣れたリグルの本能がそうさせるのか、あるいは彼女の思考に流れ込むかつての資格者の記憶によるものか。

 その言葉を実現させるのはリグルの左手首に装われたライダーブレス──そこに輝くザビーゼクターの本領である。リグルはライダーフォームのザビーとして装うザビーゼクター、外側に腹部の針を向けたそれを正面に構えて。

 黒と銀を纏うボディの背部に設けられたオレンジ色の小さなスイッチ、ゼクターのエネルギーを解放するフルスロットルと呼ばれる起動キーを右手の平で叩きつけるように押し込んだ。

 

『RIDER STING』

 

 ザビーゼクターが放つタキオン粒子が、その腹部の針──鋭く伸びた『ゼクターニードル』の先へと輝き迸っていく。満ち足りた青白い波動を掲げ、リグルはカブトの腕力をもって虫たちを振り払った直後の天道へと──黄色い左拳、輝く針の先を振り抜く。

 

「はぁっ!!」

 

 紫電が如きタキオン粒子の閃光を纏うゼクターニードルによる穿孔の一撃。リグルが鋭く放ってみせた【 ライダースティング 】は迸るエネルギーを一点に集約させ、カブトの真紅の装甲を破り貫かんと一直線に迫り来るが──

 

 ──その一撃は、カブトに届くことはなかった。

 ゼクターニードルの先端が装甲に触れるや否やという直前、天より零れ落ちた光弾がザビーの左腕に命中し、そのエネルギーと威力をもって彼女の攻撃を強引に弾き伏せたのだ。

 

「────ッ!?」

 

 命中の直前に対象を逸れた左腕に鈍い痛みを覚え、仮面の下で顔を歪めるも束の間。リグルは空を見上げた複眼に映る、雨の如き光弾の群れ──弾幕に小さな悲鳴を上げる。

 

「ひぇぇ」

 

 花の香りを漂わせる金色の光弾が降り注ぐ一瞬。弾幕ごっこの範疇を超えた密度の弾幕に晒され、上空からのそれに成す術もなく。

 咄嗟に両腕で頭を守り、怒涛の如きそれらに備えるが、大地に爆ぜ散る土煙は瞬く間にザビーの姿を覆い隠していく。あわやその光弾は天道にさえ襲いかかろうとしたが、彼は持ち前の直感と戦闘経験をもって即座に地を蹴り後退し、一発の被弾も許すことなく、素早くその場を離れた。

 

「なんとなく分かってきたわ。クロックアップの対抗策。タネが割れれば簡単ね」

 

 草原を満たす土煙を見やる幽香は優雅に日傘を差し開いて天道の傍へ。この地は太陽の畑から少し離れており、彼女が愛する花々の姿は少ない。

 二人のクロックアップが果たされる少し前にすでに手を打っていたのだろう。彼女はその宣言の直前、天空に向かって弾幕の光を放っていた。その光が幽香の意思に従い時間差で舞い戻り、クロックアップが終了する瞬間を見計らって的確にリグルを狙ってみせた。

 

 クロックアップの最大持続時間は現実時間でおよそ10秒ほど。タキオン粒子の影響で僅かな誤差はあるかもしれないが、少なくとも幽香が二度の観測で得られた情報は天道の認識ともあまり相違ないものだった。

 幽香は自身の弾幕のことを誰よりも知っている。その時間の終わりに合わせ、一発の嚆矢(こうし)を皮切りに、破壊の光に瞬く雨を白昼の蛍に向けて流星と成すなど、彼女にとっては造作もない。

 

「大した洞察力だが、クロックアップ中に移動されたらどうするつもりだ?」

 

「さぁ、どうなるのかしら。ふふっ、今から対策を練るのが楽しみね」

 

 未だ濛々(もうもう)と立ち込める土煙を眺める天道と幽香。リグルの気配はまだ消えていない。殺すほどの妖力を込めたつもりはないため、ザビーというマスクドライダーの強度を知らない幽香でもそれが死んでないだろうことは容易に想像がついた。

 薄れ始めた土煙の中に見えるのは、そこに立つ人影。不動の立ち居振る舞いで佇む姿は──ザビーのものではない。

 

 やがて土煙は草原の風に吹かれて晴れ渡った。同時に眩く差し照らす日光に霞んだ、白昼の月明かりが空の彼方に虚ろに浮かび上がる。

 そこに禍々しく影を落とすのは、月光に死色の雫を煌かせる()()()()

 背後にリグルが変身したザビーを控えさせながら薄紫色の光を掲げる長身の女性。妖しく照らされる彼岸花色の髪を二つに結んだ死神は、幽香がかつての大結界異変に際して戦った相手。

 

「……よかったよかった。あんたもそいつ(ザビーゼクター)も無事みたいだね」

 

 三途の水先案内人、小野塚小町は小さく振り返る。力なく頭を抱えて震えるザビー(リグル)は小町が生じさせた光に守られており、一切の傷を負っていなかった。

 幽香の弾幕はこの程度の薄い結界に阻まれるほど弱くはない。小町は無限の川幅を持つ三途の川を渡す死神として『距離を操る程度の能力』を持ち、この薄紫色の光が空間を捻じ曲げ、上空から降り注いだ弾幕の着弾距離を無視させたのだ。

 迫る光弾は結界に触れ、結界の中を通ることなくその下の地面に直接炸裂する。地面は黒く焦げてしまっているが、跳躍した距離の中にいる小町とリグルには何の影響ももたらさない。

 

「お兄さん、悪いこたぁ言わない。黙ってそいつ(カブトゼクター)を渡してくれるかい?」

 

 新たなる来訪者に警戒の色を強めた天道(カブト)に対し、小町は鮮やかな朱色の瞳を向けて告げる。仮面の下に隠れた表情は小町には見えないだろうが、構えることこそないが他を威圧する佇まいからは友好的ではないものを感じたようだ。

 言葉にせずとも意図は伝わる。小町が指さし示したカブトの腰、ライダーベルトに(あか)く装われたカブトゼクターを一瞥(いちべつ)することもなく。天道は複眼の奥の眼光でその申し出を一蹴する。

 

「ま、そう言って簡単に渡してくれたら死神(おむかえ)はいらないってね」

 

 小町はやれやれといった様子で目を閉じ、ザビーの姿らしくもなく怯えた様子のリグルについてもか、静かに溜息をついた。

 右手に持った大鎌を豪快に振り下ろし、草原の大地に刃を突き立てると、溶けゆく妖力がその大鎌をどこかへ消失させる。距離を操る能力の応用なのか、自由に出し入れができる空間へとそれをしまうことで。

 空間を歪めて左手に現したライダーベルトを腰に巻きつけると、小町の腰の背で自動的に接続され帯として固定される。青いシグナルを帯びたベルトは、その差異を除けば天道と同じものだ。

 高く天へと伸ばした右手を掲げ、小町は頭上に輝く太陽と背中を見守る月の狭間にて──

 

「さぁ、出番だ! ()()()()()()とやら! ()()()()にその力、見せてもらうよ!」

 

 歪んだ距離の妖力が導く光。青空へ届く小町の高らかな掛け声に合わせ、月明かりが朧げな虹を生む。環状に広がるその輝きはさながら神の降臨に足る(GATE)が如し。

 

 白昼の月明かりを裂いて空間が捻じ曲がる。その光の先より現れしは──戦いの神。青い装甲を持つクワガタムシ型自律メカ『ガタックゼクター』の名を持つ破壊の化身は、小町の召喚に応じてその翅を震わせ大地へと飛び迫る。

 神は素直に小町の右手に収まってくれるほど従順ではない。音速に迫るほどの勢いをもって蒼き軌跡を噴き出し進み、小町の身を貫かんと大顎を開いて。

 

 ひらりとかわした小町を掠め、蒼穹を帯びた牙が草原の大地を穿つ。抉り散らした土を()ね、月明かりの虹(ムーンボウ)の光を返す蒼は再び空へと舞い上がり、今度は小町の首を断ってみせようと大鎌めいた牙を鳴らす。

 小町は紫色の光を切ってガタックゼクターの距離をずらした。その微かな間を掴み取るように、スラスタースリットを輝かせる蒼きクワガタムシの装甲を後ろから強引に抑えつける。

 

「ったく……! 本当に手がつけられない暴れん坊だね……!」

 

 ガタックゼクターは選定の儀において小町を資格者として選んだはずだ。だが、資格者として選ぶことと戦士として認めることは違うというのか。戦いの神は今なお小町の力を試そうと容赦なくその牙を振るってくる。

 死神の身を妖力で強化した腕でガタックゼクターを掴んだまま、右腕を右後ろへ高く掲げ。

 

「変身ッ!」

 

『HENSHIN』

 

 掲げた蒼を振り抜いて──腰のベルトに横から滑り込ませる。金色を帯びたその輝きは、マスクドライダーシステムの集大成たるもの。ネイティブたちがワームに対抗すべく発案したマスクドライダー計画の最終段階、戦いの神とまで呼ばれたその力。

 六角形の情報片が小町の身体を包み込んでいく。砦を思わせる白銀の鎧にはやはり蒼を装い。明るく晴れ渡る青空のようでも、夕暮れを追う夜空のようでもある深い群青色のマスクドアーマーとして、小町に戦いの神を纏わせていく。

 

 されどそれは未だクワガタムシのサナギに等しい姿。真紅に輝く複眼を頭部に湛え、両肩に巨大な二門の砲塔を構えた威圧的な装甲といえど、それは『ガタック』の真の姿には足り得ぬマスクドフォームの姿であった。

 それでも並み居るワームを殲滅するには十分すぎるほどの戦力を有している。彼女の背後に控えるザビー(リグル)も、向き合うカブト(天道)の隣に立つ幽香も。果てはさらにその後方から向日葵の陰に隠れてこちらの様子を伺っている妖精のエタニティラルバでさえ、絶大な気迫を感じているようだ。

 

「…………」

 

 青い装甲と赤い複眼。カブトとは真逆の配色を帯びたガタック。その名と姿を身に纏い、小町の思考には誰とも知れない記憶が満ちていく。

 少年に擬態したワームに月の虹を見せてやりたかった。その一瞬の想いはかつてガタックだった者の記憶だろうか。もはや夢の果てに掻き消えた淡き情景を振り払うと、小町はマスクドフォームのガタックたる己が両肩に力を込める。──それは、開戦を告げる合図として。

 

 天道と幽香に向かい撃ち出された超高圧のイオン光弾。ガタック マスクドフォームの両肩に備わった『ガタックバルカン』という砲門は、サナギ体の甲殻を打ち破るだけの火力を持つエネルギーを放つことができる。だが、それも今この場においてはただの牽制手段に過ぎない。

 

「くっ……!」

 

 たった二発の光弾で大地が巻き上がり、破壊の炎を爆ぜ散らす。幽香は咄嗟に左手を向け、花の妖力を込めた結界を張るが、身体を軋ませるような爆風の衝撃は完全には取り除けない。その一瞬の隙を好機と見定め、威風堂々たる戦士の気迫に息をつかせる暇もなく。

 

「キャストオフ!」

 

 小町は高らかに宣言する。腰に装着されたガタックゼクターの大顎、あるいは角とも定義し得るゼクターホーンと呼ばれるそれを黒い指先で掴み取る。

 クワガタムシの二本の牙のうち、横向きに装ったその身から見れば上側を向いた右のもの。それを外側へとひっくり返すことで背面へと回すと、連動した下側(ひだり)の牙も外側へ裏返った。

 

『CAST OFF』

 

 勇ましく鳴り響く律動と共に、ガタックのマスクドアーマーが弾け飛ぶ。上半身に厚く装われていた白銀の装甲が解き放たれたことで、内なる鮮やかな紺碧のボディと走る金色の意匠が美しく剥き出される。

 頭部は蒸気を帯びながら側頭部からせり上がる左右のクワガタムシの双牙を角として。熱く漲る真紅の複眼に光を灯し──ライダーフォームとしての蒼き姿をここに顕現する。

 

『CHANGE - STAG BEETLE』

 

 戦いの神と呼ばれし者の真の姿をここに。未だ帯びるキャストオフの熱と蒸気を払わぬままに、小町は虚空へ消えゆくマスクドアーマーを複眼の端に見届ける。

 太陽の光に輝くカブトと月の光に煌くガタックの装甲は、天と地にて咲く一対の花が如く。

 

「ほら、立てるかい? えーっと、蜂の妖怪だっけ?」

 

「蛍だってば!」

 

 背後のリグルに振り返ることもなく告げる小町。彼女の能力に助けられたことにより、リグルの身体にもザビーの装甲にも大したダメージは残っていない。ザビーの姿であるがゆえに蜂らしさを見せていた蛍の妖怪はすぐに立ち上がった。

 天道と幽香も戦意と戦意に対し、またその構えに等しく向き直る。幽香は戦うのに最適な位置を取るべく、草原の地を蹴って軽やかにカブトの背後へ控えるように下がった。

 

 リグル(ザビー)の構えは左腕の針を拳と共に掲げる蜂の姿。隣に立つ小町(ガタック)はクワガタムシに似た威圧感で拳を構え──大顎の如き威圧感で戦いの神たる名を証明する。

 天道(カブト)の構えは、一見すると構えとは呼べない。ただ堂々とそこに立ち、拳を向けることも武器を持つこともない構えなき構え。それでも、カブトムシめいた悠然さに隙などはなかった。

 

『CLOCK UP』

 

 三者三様の宣言と共に鳴り響く三つの音。天道と小町が素早く叩いたライダーベルトのスラップスイッチが起動するのに重なるように、リグルもまたゼクトバックルのトレーススイッチを撫でるように指を滑らせる。

 相変わらず幽香には超音速の世界に踏み込む権利はないが、もう何度目かの観測、実際に目視することは叶わずともその対抗策は彼女の中で盤石なものとなりつつあるようだ。

 

 ──カブトとガタックがぶつかる瞬間。そのとき、変化が起こった。

 

 空に輝く太陽とその光を返す白昼の月が緩やかに重なり合う。太陽の光は月の陰に隠れ、日中にも関わらず遮られた日差しは草原一帯を影に包み込む。

 それは外の世界でも幻想郷でも起こり得る『皆既日食』と呼ばれる現象である。だが、太陽と月の軌道を考えれば、今この瞬間にそれらが重なり合うことなどあり得ない。

 時間を超える世界の法則──それ以上の何かが、光の在り方に影響を及ぼさない限りは。

 

「ぐっ──!?」

 

「うわっ──!?」

 

「きゃ──!?」

 

 クロックアップの世界の中で、天道と小町、そしてリグルが感じたのはそれだけではなかった。赤と青、そして黄色の装甲を等しく薙ぎ払う絶大な風圧がそれらすべてを吹き飛ばし、十把一絡げにして草原の上に叩き伏せたのだ。

 圧倒的な衝撃は全員の変身を強制的に解除するほどの威力を見せ、それに伴い三人はクロックオーバーを遂げた。外部からの奇襲など考えられない。彼らは皆、時間を超えた速度の中で戦っていたはず。仮に速度を超えた攻撃が来たとしても、それは彼らと同じ速度のはずである。

 

「な、何が起きたの……!? 私たち、クロックアップしてたはずなのに……!」

 

 なんとか受け身を取りつつ草原に転がったリグルが目を回す。衝撃で外れてしまったのか、彼女の左腕にはザビーの資格者であることを示す銀色のライダーブレスがない。

 同じく生身の姿を晒した天道がその可能性に気づく。ひらひらと舞い落ちる花びらは周囲に咲き誇る向日葵や可憐な色のものではない。ここではないどこかを思わせる、禍々しく異質で不気味な薄紅色の花。

 彼はこの場所では手にすることができなかった『クロックアップを超えたクロックアップ』の概念を、この幻想郷において誰よりもよく知っていた。──そして、その絶大な力をも。

 

『HYPER CLOCK OVER』

 

 天道たちと同様に拭い切れぬ混乱に苛まれている幽香が、その気配に気づいた。太陽と月が重なる奇妙な光、皆既日食の空に照らされ──

 

 そこに現れしは、神々しくも見える白銀の鎧を纏うマスクドライダーだった。

 

 その姿は天道が変身したカブトによく似ているが──異なる点も多い。

 頭部に掲げる雄大な角は幽香が知っているカブトが持つものよりも強く大きく、遥かに雄々しく天を衝く。真紅であるはずの装甲も白銀を多く帯び、背中や両手足に装う翼に似た器官は無機質な音と共に静かに閉じる。

 腰に装うカブトゼクターはそのまま。だが、左腰にもう一つのカブトムシ型ゼクターを装備している。白銀に輝くその光は、見るだけで尋常ならざる力を秘めていると実感させるかのよう。

 

「こいつは……! さすがにあたいの手には負えないね……!」

 

 変身を解かれた小町はその表情と声色に焦りと驚きの色を滲ませる。ライダーベルトから外れたガタックゼクターは虚空の果てへと飛び去り、同じくカブトゼクターやザビーゼクターもジョウントによってどこかへ消えたようだ。

 手元に紫色の光を現し、先ほどしまった大鎌を手繰り寄せては、小町はそれを大きく振るう。横薙ぐ光の刃と共に、彼女は距離を飛び越え、ここではないどこかへと消え去っていった。

 

「なんなのあれ……! 聞いてないんだけどー!!」

 

 リグルも未知の存在に混乱しているが、ライダーブレスが左手首から失われていることに気がついて辺りを見回す。しかし、彼女の近くにそれは落ちていない。

 皆既日食の不気味さに伴うカブトに似た存在の気配に耐え切れなくなったのか、リグルは一度それを探すことを諦めた。未知なる白銀を睨みつけ、大地を蹴り上げ震う翅のままに飛び去る。

 

「…………っ!」

 

 時空の光を刻む水色の複眼が自身を捉える感覚。幽香は眩い輝きを放つそれにどこか既視感のようなものを覚えた。それは天道が変身したカブトに対するものではない。もっと遠く、かつて自身が失ったであろう何か──

 不意に、突風が吹き抜ける。小さな花や向日葵を撫で、甘い香りが空を舞う。幽香も天道もその風に煽られ──舞い上がった花びらに顔を覆い、視界を開けた次の瞬間には、すでに。

 

 未知の来訪者はただ幽香にとって()()()()()()()だけを残して、姿を消してしまっていた。

 

「あれは……カブト……? でも……」

 

 幽香は白銀の輝きを帯びた未知のマスクドライダーを想う。それが消えた瞬間、皆既日食によって暗く陰っていた空は光を取り戻した。白昼の月もすでに夕暮れに落ちつつある空にぼんやりと浮かび、太陽はオレンジ色の光をもって向日葵の影を高く伸ばしている。

 

 天道はその存在をよく知っていた。かつて手にした力──否。それはやがて手にする力でもある。すでに失われたものだが、彼はそれが再び生み出されるという事実を知っている。紛れもなくその手に一度、掴み取った未来であるが故に。

 幽香もまたその姿ではないにしろ心当たりがないわけではなかった。吹き抜ける風の色も、あの白銀に輝く戦士が帯びる妖気に似た気配も。どちらもかつて自身が失った旧き己の妖力に近いものだった。夢と幻の世界に君臨し、あるいは最強の妖怪とも称された──在りし日の己に。

 

「未来の俺か……?」

 

「過去の私なの……?」

 

 奇しくも重なり合うように呟かれた、天道と幽香の言葉。その心当たりはどちらも的を射ているが、二人は思考に走らせる記憶の想起に苛まれ、互いの呟きが耳に入らず。過去と未来、どちらとも考え得る『それ』は彼らにとって他人とは思えぬ存在。

 天道総司の出現に伴い、つい先日まで失われていたはずの『旧き己』の記憶が蘇ったのもあれが関係しているのか。幽香はすでに消え失せてしまったその気配と妖気を想う。

 

 夕暮れの風に撫でられ向日葵の花が揺れる。その背に隠れていたエタニティラルバは、目の前で起きた出来事に混乱していた。

 自然の具現たるその身は、向日葵の茎を両手でしっかりと握りしめて。不安そうに落とした視線の先に、ラルバは見覚えのない──否、さっきまでその目で見ていた戦士が身に着けていた腕輪のようなものを見る。

 恐る恐る拾い上げるは、ザビーへの変身に際して必要となるライダーブレス。未知なる来訪者の攻撃で外れてしまったリグルの装具だったそれは、この場にて、エタニティラルバの手へと。

 

「何だろ……この感じ……」

 

 少女の思考に流れ込む誰かの記憶。迅影が如き部隊の一員として戦っていたこと。隊長の失墜に乗じ、自らが新たなる資格者になろうとしたこと。

 ザビーへの執着に心を苛まれ、ワームに(くみ)してまでそれを追い求めた記憶。そしてあるときには誰かの誕生日を祝わされた嫌な記憶が。ラルバは無意識に、ライダーブレスを握りしめた。

 

◆     ◆    ◆

 

 幻想郷では数少ない、人間が安全に暮らせる場所──人間の里。その外れの空き地には、人間も妖怪も分け隔てなく受け入れる立派なお寺が建てられていた。

 仏教とは人間のためにあるもの。そんな浅く小さな固定観念を捨て去り、この『命蓮寺(みょうれんじ)』は人妖の平等を訴えている。人間と妖怪の共存など、千年前の幻想郷ではそれこそ幻想であったのかもしれないが──

 幻想郷は大きく変わった。人間と妖怪は完全に平等とまではいかないだろうが、スペルカードルールの制定により少しはそれらの双方が納得のいく形に保たれている。

 

 人間も妖怪も神も仏も究極的にはすべて等しい。命蓮寺の住職を務める魔法使いはそう語った。ゆえに遥か千年もの昔、彼女は妖怪に与している姿を人に見られ、悪魔と罵られて人間の手で魔の世界の果てに封印されてしまった。

 彼女はただ、人間も妖怪も関係なく──すべての命を平等に見ていただけなのに。

 

 今、この命蓮寺には彼女によって救われた妖怪たちと、そんな妖怪たちが彼女に抱く尊敬と親愛によって千年もの封印から復活することができた僧侶が住んでいる。

 千年前と比べて少しは平和になったものの、まだ人の心にも妖怪の心にも救いは必要だ。そんな幻想郷の痛みを救済すべく、命蓮寺の僧侶と妖怪たちは日々、御仏(みほとけ)の教えに従って修行を続けている。少しだけ、ほんの少しだけの破戒(おさけ)を伴いながら。

 質素で落ち着いた雰囲気を湛えた妖怪寺。本来は厳格な静謐(せいひつ)さに満ちているはずの空間なのに。その日はどこか──宴会とも見紛うような騒々しさを隠すことができないでいるようだった。

 

「何この状況……」

 

 ──命蓮寺の大広間。畳と障子に彩られた純和風の一室にて、濃紺の頭巾から爽やかな空色の髪を波打つように流した少女が呟く。

 雲を思わせる白い法衣はロングスカートの裾に富士山めいた青い紋様を。雷鳴めいた金色の袈裟(けさ)を身に着け、丁寧にその場に正座する 雲居 一輪(くもい いちりん) は幻想郷でも他に類を見ない『入道使い』と呼ばれる珍しい妖怪である。

 羽織るように肩まで伸びた頭巾の布は彼女の心を示すように深く青く、ずっしりとした荷を表すかの如く、一輪(いちりん)が己の肩を落としている様を視覚的にも分かりやすく伝えているようだ。

 

「こんな退屈なお寺、抜け出してさ。二人で美味しいお団子でも食べに行かない? 素敵なお店を知ってるんだ」

 

 一輪に寄り添ってそう告げるのは彼女の見知った相手。冷たい手で馴れ馴れしくも彼女の手を取り、()()とは思えない蠱惑的(こわくてき)な口調で少女に甘く囁きかけてくる。

 普段の青緑色とはまた少し違う海のように深い水色の瞳で一輪を見つめるのは、一輪と同じくかつてこの命蓮寺の僧侶に救われ、恩を抱いている『舟幽霊(ふなゆうれい)』の少女だった。本来ならこんな軽薄なナンパじみた真似をするはずがないのだが──

 水兵を思わせる白と青緑色のセーラー服はいつも通りの装い。春先ではあるが半袖のそれと、短い丈のスカートともズボンともつかぬ下衣。胸元には赤いスカーフを結びつけ、短く切り整えられた黒髪には幽霊舟の船長らしく、セーラー服によく似合う水兵帽を身に着けている。

 

 少女の名は 村紗 水蜜(むらさ みなみつ) 。その装い通り、あるいは『ムラサ船長』とも呼ばれる立派な人物であるのだが、今の彼女からはその誠実さが感じられなかった。

 舟幽霊の性質か、少し退廃的な湿度を帯びた黒髪には村紗(むらさ)本人のそれではない異質な霊力による青いメッシュが見て取れる。白い表情に装う黒縁(くろぶち)の眼鏡という知性の証明もそうだが、その口調も雰囲気も──普段の村紗水蜜を知っている一輪にとっては違和感でしかない。

 相変わらず水気を帯びた霊力からは不気味な気配を感じるが、微かに漂うこの磯臭(いそくさ)さは──

 

「え、ええっと……その……」

 

 同性である自分に執拗に情熱的な目を向けてくる、気でも触れたような友人。同じ寺にて修行する仲間の奇異な視線に耐え兼ね、一輪は言葉を濁しながら目を逸らす。

 

「……ムゥウ……」

 

 ちらりと見やったすぐ正面の領域には、入道使いである一輪の心強い相棒がいた。

 自在に形と大きさを変え、様々な姿を模倣することができる雲の妖怪。まさしく『見越入道(みこしにゅうどう)』と称されるそれは、厳つい老人めいた男性の顔だけを雲として現し、巨大な両の拳以外の肉体を見せない『雲山(うんざん)』と呼ばれる存在である。

 相棒である一輪の視線に気づくものの、彼としても動くことはできない。柔らかな雲の身体に体重をかけ、彼の身を背もたれ代わりにして深い眠りに落ちてしまっている者がいるからだ。

 

「……ぐぅ……ぐぅ……」

 

 豪快に腕を組みつつ雲山に背を預ける長身の女性が一人。雄々しい虎を思わせる金色の短髪には黒い色が混じっており、そこに神秘的な蓮の花の飾りを結んでいる。

 臙脂色(えんじいろ)の衣服に虎柄の腰巻、紅蓮の如きロングスカートは雄々しく広がり、白い袖と共に装う法力に満ちた環状の白き布は彼女が命蓮寺の本尊たる七福神が一柱、かの『毘沙門天(びしゃもんてん)』であると輝き示している。

 

 厳密には彼女── 寅丸 星(とらまる しょう) は毘沙門天そのものではない。彼女もまた命蓮寺の住職に救われた妖怪、日本には存在しない『虎』への畏怖から生まれた妖獣の一種だったが、毘沙門天の弟子としてその代理を担っているのだ。

 人間からも妖怪からも多大な信仰を寄せられる神の代行者、命蓮寺の本尊としてあるまじき醜態を晒し続け、(しょう)はまったく気にする素振りを見せず。雲山が遠慮がちに揺らしてみたり、声をかけたりしてみても彼女は起きる気配もなく、大きないびきを上げて眠りこけている。

 

「……なんや……もうこれ以上……食われへんて……」

 

 仮にも神の威光を代行する身であるというのに、先ほどからこの調子だ。気が小さい雲山は無理やり叩き起こすわけにもいかず、迂闊に動いて彼女を落としてしまうこともできず、ただ一輪と同じように相棒を見やることしかできない。

 星の金髪に隠れて目立たないが、その髪の一部にはやはり彼女のものではない異質な霊力による黄色いメッシュが生じていた。虎の妖獣であるため違和感こそないが、その妖力に混じって奇妙な獣臭さも感じ取れる。

 何よりやはり、村紗と同様に雰囲気が違いすぎる。星は寺の業務を放って眠ってしまうほど本能に忠実な妖怪ではない。規律と戒律を誰よりも正しく守り、命蓮寺の名に恥じぬ輝きとして誇り高く振る舞うような性格であるはず。それなのに──今の彼女には彼女らしさがまったくない。

 

「二人とも、いったいどうしちゃったの……? 聖様(ひじりさま)までいなくなっちゃうし……」

 

 頼みの綱の命蓮寺代表──この寺の住職を務める偉大な僧侶は不在の状況だ。一輪はまるで別人となってしまった村紗と星を交互に見やり、青空のように透き通った瞳に心細さを滲ませる。雲山もまた眉尻を落とし、どうしようもない不安と心配に苛まれているようだ。

 

「いなくなる……なくなる……『泣く』……?」

 

 一輪の言葉に反応してか、雲山の柔らかい雲の身体で眠っている星が虚ろに言葉を繰り返す。不意に彼女が動いたことで雲山はバランスを崩して雲の身を霧散させかけてしまうが、星はその前に自らの意思で彼の身体から飛び降りた。

 命蓮寺大広間の畳敷きの床に星の体重が落ちる。長身とはいえ、本来は在り得ざるほどの重さがずしんと床を軋ませる。

 まるで熊が冬眠から目覚めたかのような衝撃と共に一輪と雲山は互いに目を丸くして驚く。目を閉じたままの星が右手の親指で自らの顎を押し、力強く首を鳴らす様を訝しげに見届け。

 

「俺の強さは、泣けるでぇ!!」

 

 開かれた星の目は、普段の神々しい琥珀色とはまた少し違う、荒々しい金色。その気迫と共に、自信と度胸に満ちた山吹色の声が響き渡る。

 いつの間に取り出したのか──その手に握られていた無数の懐紙が無造作に舞い散った。

 

「うぅ……聖様……早く帰ってきてください……!」

 

 涙はこれで拭いとけ、と言わんばかりに視界を踊る白の群れ。意味の分からない混沌とした状況に疲れ果て、一輪は少しだけその懐紙を頼りたくなった。

 肩を竦めて溜息をつく青い瞳の村紗水蜜。声を張り上げた後はまたすぐ雲山に背を預け、何事もなかったかのように再び眠り始める黄色い瞳の寅丸星。どちらももはや、一輪と雲山が知っている二人の在り方ではない。

 命蓮寺の静謐な空気はいったいどこへ行ってしまったのか──入道使いの少女は、この寺の要とも呼べる住職の帰りと共に、あの落ち着きが戻ることを、ただ信じることしかできなかった。




舟幽霊だけに難破……ナンパ……なんでもないです。
東方的には『憑依』は夢の世界との入れ替わりなので霊体にも憑依できます。たぶん。

次回、第48話『俺、ようやく参上!』


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【 俺たちのエモーション 】
第48話 俺、ようやく参上!


A.D. 2007 ~ 2008
それは、過去と刻む時間の物語。

時刻を超えて、俺、参上!



 人間の里に至る道は多いものの、中にはあまり用いられることのない寂れた場所もある。手入れのされていない地蔵や墓石が不気味な気配を漂わせており、その負の想念が妖怪たちを呼び寄せてしまうためだろうか。

 淀んだ雲が散りゆく空の下、じっとりとまとわりつく湿気を帯びた空気が流れる。失意に濡れた心を慰め、誰もいない道を一人寂しく歩むは、やはり妖怪の少女であった。

 

 空色のショートボブは雨上がりの空気に艶やかな色を見せ、同じく爽やかな空色のベストとスカートは彼女自身に空の在り方を表しているかのよう。

 その手に大切そうに持つ紫色の唐傘(からかさ)は、彼女自身が『唐傘お化け』と呼ばれる妖怪、唐傘の付喪神たる所以。少女としての 多々良 小傘(たたら こがさ) はこの傘こそが本質と言える存在だ。その本懐は己が能力たる『人間を驚かせる程度の能力』をもって驚いた人間の心を喰らうというものだが──

 

「はぁ……今日も驚いてもらえなかったなぁ……」

 

 この令和の時代──2020年にもなろうという世の中に、唐傘などで驚く人間は多くない。もっと物理的で直接的な方法で人間を襲う妖怪が跋扈する幻想郷において、ただ人間を驚かせるだけの妖怪が脅威と見なされることはなかった。

 小傘(こがさ)は肩を落とし、人間の驚きによってのみ得られる妖力が不足して切なそうに音を鳴らすお腹を押さえる。見上げた自身の唐傘には妖怪らしい巨大な一つ眼。だらんと伸ばされた赤い舌。ぽたりぽたりと滴る雨の雫は──あるいは自分自身の心が流す涙でもあるのだろうか。

 

 そこへ不意に、雨でも風でもないものが舞う。晴れゆく雲の隙間を縫って、微かに生じた灰色のオーロラ。その波紋から現れた黄色い光球が小傘の背中に飛び込んだ。

 身体(からだ)の中に何かが入ってくる感覚。同時に軽い衝撃が弾け、小傘の周囲に白い砂が散る。

 

「────」

 

 砂はやがて一ヶ所に集まり、両腕と両脚を持つ人に近い姿を象った。だが、それは人と定義するにはあまりに歪なもの。

 まるで身体を横一文字に両断したかのように、頭と腕を持つ上半身が地面から生え、その頭上に両脚を持つ下半身が浮いている。砂で出来た身体は白くさらさら流れ落ち、その度に循環して形を保っている。その不自然な在り方に加え、全体的な特徴はコウモリの姿にも似ていた。

 

「ひぃ!? な、何!?」

 

 自分の目の前にて怪物の姿を象った砂の塊に、小傘は素直に心から驚く。髪と同じ色をした空色の右目も、唐傘から垂れた舌と同じ真紅の左目も見開き、素足に履いた下駄をからんころんと鳴らして後ずさる。

 砂の怪物はじりじりと小傘に歩み寄った。頭上の両脚がゆっくりと歩を進める度に、腰から下のない怪物の上半身もこちらに近づく。

 コウモリの翼のように広がった袖から伸びた右手を持ち上げ、同じく翼に似た背中のマントから白い砂を零した怪物は、悪魔の囁きにも似た声を奏で──少女にある言葉を告げた。

 

「お前の望みを言え……どんな望みも叶えてやろう……」

 

 さらさらと流れる砂の音を含んだ声。小傘はコウモリの怪物の言葉を聞いて思考を曇らせる。妖怪とも思えぬ異形を前に、幻想郷で噂される怪物の存在を思い出した。

 だが、怪物は自分を襲う素振りを見せず、不安定な砂の身体は今にも崩れそうなほど儚い。

 

「私の……望み……?」

 

「お前が払う代償はたった一つ……」

 

 静かに流れゆく砂の中に精神だけが宿ったような歪な在り方。小傘はそこに、古びて捨てられ忘れ去られた哀れな置き傘──使われなくなった傘の未練が付喪神となった自分自身、唐傘お化けと成り果てた己の在り方を見た。

 人に忘れ去られる。あるべき時間から零れ落ちる。指先から流れていく砂のように、誰の記憶からも抜け落ちた存在はそこから前に進むことのできないまま──幻想となる。

 

 小傘は思考に雨を降らせた。自分の望みは決まっている。怪物が謳う代償とやらを聞き届ける間もなく、自分自身とも言える唐傘を握りしめて。

 自分のような哀れな捨て傘の付喪神を。これ以上、増やしてしまわないために──

 

 よりも、先にまず。このどうしようもなく切ない空腹を満たすために、少女は口を開いた。

 

◆     ◆     ◆

 

 鬱蒼と生い茂るはどこまでも続く深遠なる木々の群れ。肌寒い秋の風が撫でる紅葉は緩やかに舞い散り、獣の足跡が刻まれた土の地面に枯れ葉を積もらせていく。

 妖怪の山の麓には広大な樹海──『妖怪の樹海』とでも称すべき領域があった。昼でも薄暗くどんよりとした空気は、美しく舞う紅葉さえも異質に見せるほど醜くおびただしい負の想念の坩堝となっている。

 神々の住まう妖怪の山は人間が踏み入るべき世界ではない。人間の里との境界に広がるその樹海は、放つ禍々しさをもって力なき者の歩む未来(さき)を警告しているようでもあった。

 

「……ふぅ、今日はいつにも増して(やく)が濃いわね」

 

 この淀んだ空気を一ヶ所に集めるは、鮮やかな緑色の髪を赤いリボンで束ねた少女。首を覆うように胸の前に下ろしまとめた髪を右手で撫でながら、左手に浮かべた『厄』を周囲へと散らして自身のオーラと定義する。

 おびただしいフリルを装う真紅のドレス。そのスカートには緑色の渦めいた模様が刻まれ、くるくると回りながら厄を吸収していく彼女の優しげな不気味さを際立たせた。

 

 流し雛の象徴たる『厄神様(やくじんさま)』は厳密には神ではない。忌み嫌われるための偶像として、その存在は妖怪の一種と定義された。

 この妖怪の樹海に満ちる厄を担い、人間と妖怪の領域を二分する。近づくだけで人も妖怪も不幸にするほどの厄を請け負って、少女はただ一人。この妖怪の樹海にて厄を祓う。再び厄が持ち主の元へ戻らぬように、誰にも近づけさせない妖怪の領域で。

 妖怪── 鍵山 雛(かぎやま ひな) は誰もを不幸にする厄を一身に帯びていた。ただし彼女自身が厄によって不幸になることはない。あくまで周囲に湛えているだけで、彼女自身の内に取り込んでいるわけではないからだ。

 厄神として、それを処理するのが仕事となる。重ねて言えば、妖怪の領域である山へと向かおうとする愚かな人間に警告してやることも多い。ただでさえ山は妖怪が多いのだ。それに加えて近年では外から現れた神々までもが山に立つ。人間の居場所など──樹海(ここ)より先には存在しない。

 

「人間の気配……? また誰かが山に迷い込んだのね。まったくもう……」

 

 (ひな)は髪と同じ翡翠の色の瞳を気配のある方角に向ける。いつぞやの巫女や魔法使いのような強者などそうはいまい。不運にも山に迷い込んでしまった人間であるなら、帰らぬ人となる前に里まで追い返してやらねばならない。

 それにしても、こんな奇妙な異変が起きている最中に迷い込んでしまうとは。厄は樹海の外に漏れていないはずだが──極めて不運な人間もいたものだ。

 そんな不運な人間や妖怪から不運そのもののエネルギーたる厄を回収しているのに。世の中にはどうしようもなく不運な奴もいる。それはさながら、厄神の力さえ及ばぬ『特異点(とくいてん)』のよう。

 

◆     ◆     ◆

 

 肌にまとわりつくような不快な風の中、幻想郷に似つかわしくない近代的な服装に身を包んだ青年が一人。長めに切り整えられた黒髪の上に落ちた枯れ葉も気にせず、ただ鬱蒼とした樹海の道を不安そうな面持ちで進んでいく。

 両手で押し引く自転車は彼の記憶に宿る大切な一年間。大切な友と過ごした時間を走り抜けたかけがえのない思い出の品だが、そのタイヤは鋭い石を踏みつけて穴が開いてしまっている。

 

「ど、どこだろ……ここ……」

 

 空を見上げれば爽やかな青空が見える──が、見えるだけ。暗く淀んだ樹海の中には、その光があまり差し込んでこない。

 外の世界から迷い込んでしまった 野上 良太郎(のがみ りょうたろう) はどうしようもない心の不安を紛らわせるために独り言ちた。ポケットから取り出した折り畳み式の携帯電話を指で開き、容赦なく圏外と表記された画面に視線を落としては自身のあるべき時間を想う。

 

 不気味な虫や鳥の鳴き声が聞こえる奇妙な樹海に来て半刻。いつも通り自転車を繰り、落とした財布を求めて交番に向かっていたとき。

 良太郎(りょうたろう)は偶然落ちたビール瓶の破片を踏み、破れたタイヤは良太郎から自転車の制御を奪い、下り坂へ(いざな)っては彼を自転車ごと並木の中へと突っ込ませた。痛みを堪えて立ち上がり、顔を上げた頃には──

 そこに見慣れた景色はなく。どこを向いても木々しかないこの未知の樹海の中にいたのだ。

 

「携帯も繋がらない……どうしよう……また姉さんに心配かけちゃうな……」

 

 折り畳み式の携帯電話を畳んでは再びポケットの中へ戻す。これまでも奇跡的な偶然によって自転車ごと木の上に引っ掛かったり、三度連続して飛んできたボールに頭を打たれたり、ありえないような不運に度々見舞われてきた人生だった。

 たまたま自転車がパンクしてはたまたま不良たちのいるところに突っ込んで転び、財布を取られるだけならまだ良い方。拾った空き缶をゴミ箱に捨てようと思えば、上手く入らず跳ね返った空き缶が不良の背中に命中する。当然、不良の怒りを買って痛い目を見ることとなる。

 道に迷って長らく家に帰れないこともよくあったが、今回は場所が場所だ。暗くならないうちに帰ることができなければ最悪クマなどの野生動物に襲われる危険もある。そうなれば、もはや笑い話では済まされまい。

 

 自分が強くならなければ姉を悲しませてしまう。不安にさせてしまう。それだけが彼にとって忌むべきことだったが、不運ばかりは如何ともし難かった。

 あるいは、その不運こそが運命の分岐点だったのかもしれない。たまたま拾ったあの落とし物が、まさか未来を守る戦いの運命(レール)へ乗り入れる切符(チケット)となってしまうだなんて。あの頃の自分には想像もつかなかったことだろう。

 良太郎にとってその戦いはつい数日前までの出来事だ。長い戦いを終えたのち、彼は戦士としての役目を終えた。2007年の日々を駆け抜けて、未来へと至る『列車』を見送ったのが昨日までの記憶。きっとそのすべてが、必要なものだったと分かる日が来るはず。

 

 ──未来はこれからも続いていく。どこまでも続いていく。それを守り抜いた誇りは今も記憶の中にある。

 なればこそ、誓ったのだ。命懸けで守った未来で待つ彼らとの再会を。いつか、未来で。

 

「……おぉおっ!?」

 

 大切な記憶に想いを馳せていたのが仇となったか。良太郎は落ち葉を湛えた傾斜に足を取られ、見事に滑って転んでしまう。

 自転車はそのまま樹海の果てへと滑り落ち、良太郎の視界から消え失せた。だが、そんなことを気にしてはいられない。もう何度目かの転倒──傷や痣に加え疲労によってまともに踏ん張ることもできず、緩やかな傾斜をどこまでも転がり落ちていく。

 柔らかい落ち葉の上であったことに加えてさほど高い位置ではなかったためか、良太郎の身体はすぐに水平の地面に落ち着かされた。石片などがなかったのは不幸中の幸いとも言えるが、またしても愛用の自転車を失ってしまったのは手痛い。せっかくバイト代を貯めて買ったのに。

 

 慣れているとはいえ痛いものは痛い。お気に入りの白いセーターも派手に汚れ、赤いマフラーはボロボロの状態だ。

 姉が振る舞うひじきサラダや青汁は効いているのだろうか──などと考えながら立ち上がり、服についた汚れを手で払っていると、良太郎は視界の隅に見覚えのあるものを見つけた。

 積み重なった落ち葉の中に斜めに立つようにして埋まっていたそれを手に取り、確信する。

 

「これって……パス……? なんでこんなところに……?」

 

 鈍い黒色を帯びた長方形の板。やや厚みのあるそれは二つ折りの構造になっており、中にチケットを入れるための透明な板が貼られている。

 それは紛れもなく良太郎が一年間の戦いにおいて手にしていたもの。とある『列車』への乗車権限を証明する『ライダーパス』と呼ばれるものだ。黒い板状の箱にはレールめいた真円が刻まれており、さながら分岐点でも表すかのような特徴的な線の意匠が組み込まれている。

 

「そこの貴方、こんなところにいたら危ないわよ? 早く帰りなさい」

 

 不意に背後から聞こえた声に対して、良太郎は拾ったライダーパスをポケットにしまいながら振り返った。

 深い緑色の樹海に見合うような、目立つような。暗い真紅色のドレスは落ち着きを感じさせるものの、素人目に見ても分かる周囲のオーラは本能的な危険をも感じさせる。まるで人形を思わせるゴシック調の装いの少女を見て、良太郎は彼女が遠くから声をかけてきたことを訝しんだ。

 

「ええっと……できればそうしたいかな……」

 

「あっ、私に近づかないで。不運が伝染(うつ)っちゃうから」

 

 未知の樹海で人に会えたことに安心して少女──鍵山雛へと歩み寄ろうとする。だが、その一歩は雛の言葉で制止されてしまった。

 良太郎は自分の不運を幾度も呪ったことがある。この不運で誰かを巻き込むことを何より恐れていた。それでも、初対面の少女からの言葉と考えればそれは無慈悲に心を貫く。

 力なく謝る良太郎の声は小さい。少女に届いたどうかも定かではないが、良太郎は歩みを止めた。対する雛の方は良太郎の勘違いに気づいたのか、小さな苦笑を零してそれを訂正する。

 

「その格好……外来人(そとのひと)かしら。ちょっと言い方が悪かったわね」

 

 雛は幻想郷の妖怪を知らないであろう良太郎に自身の在り方を伝えた。厄を周囲に湛え、それを帯びることで人間や妖怪の不運を回収する。雛自身を不幸にすることなく幻想郷全体の不運を少しでも軽くするために。

 流し雛という儀式と厄神というある種のシステム。それを説明するために、雛は外来人の青年に幻想郷という空間についても説明した。

 一度に説明されては混乱するのも無理はないだろうと思い、丁寧に分かりやすく、かつ妖怪に対する恐怖を無視できぬよう。この幻想郷では妖怪は牙を抜かれて久しいが、無力な存在ではない。無知な外来人など、こんな樹海にいれば格好の餌食として二度と未来を歩めなくなる。

 

「よ、妖怪って……本当に……」

 

 良太郎は混乱と恐怖で目を回しそうになったが、記憶に新しい一年間の戦いで彼は格段に強く成長している。蒼褪めていく顔に説得力こそないものの、話を聞いただけで気絶することはなんとか避けることができた。

 難しい話にも恐怖にも、人智を超えた化け物にも慣れている。──慣れてしまった、というべきかもしれない。それほどまでに、野上良太郎が生きた世界での『物語』は凄絶なものだった。

 

「……それにしても、とんでもない厄ねぇ。よくここまで死ななかったもんね」

 

「あはは……こういうの慣れてるから……」

 

 少女の心配そうな表情に、良太郎はこれまでの経験を思い出していた。その始まりたるきっかけとなったライダーパスを拾ってからの一年間、多くの時間を救って多くの過去に触れ、彼の記憶を紡ぐ砂の一粒となっていった。

 その役目を終え、つい数日前の記憶。ライダーパスを持ち主に返し、良太郎は戦いのない時間を取り戻したはず。それなのに、なぜ返却したばかりのライダーパスがここにあるのか。

 

「大丈夫、貴方の厄も私が受け止めてあげるわ」

 

 雛から見た良太郎の不運は尋常ならざるものだった。厄と厄が重なる交差点の真ん中にでもいるかのような──不自然なまでの運の悪さ。

 最初は貧乏神(びんぼうがみ)疫病神(やくびょうがみ)にでも()かれているのかとも思ったが、どうやらそうではないらしい。異常としか思えぬほどの厄の強さに憐れみを感じ、雛はただ追い返す前に彼の厄を少しでも取り除いてやろうとした。

 両手を腰の前で合わせ、丁寧に立つ。そのままくるくると回り踊り、雛の回転に合わせて周囲に厄が漂い始める。不気味な紫色のオーラはただの人間にも目視できるほど濃く、ゆっくりと回る雛のもとへ良太郎の周囲から、木々の隙間から、その厄が吸い込まれるように集まっていく。

 

「一度に全部は吸い切れないけど、これで少しはマシになったはずよ」

 

「よくわからないけど……ありがとう」

 

 良太郎の目にも見える膨大な厄が雛の周囲に漂っている。あれが自分の不運の象徴なのだと思うと、そのおびただしいほどの負のエネルギーに眩暈がしてくるようだ。

 近づいただけで不幸になるというのも頷ける。それだけの禍々しさがそこに満ちている。その気に当てられたか、あるいは未知の樹海にいることへの緊張感と不安が積み重なったか。

 

「……まだ顔色が悪いわね。辛いならそこの山小屋で少し休んでいったら?」

 

「ご、ごめん……妖怪とか幻想郷とか、ちょっと混乱してて……」

 

 良太郎は雛が示した方向を見た。雛は自分が近づくことで再び厄を返してしまわぬよう、あえて距離を取った状態でいる。古びた小屋ではあるが、雛曰く立地や風水の関係で妖怪が近づきにくい安全な場所に建てられているらしい。

 強大な妖怪であれば踏み込める程度だが、知性なき妖怪ならばまず近づくまい。樹海に迷い込んだ人間が一時凌ぎに用いる仮初めの宿として用いられていたもののようだ。

 

「うん……ありがとう。でも、僕はもう行くよ。この落とし物を届けないといけないから」

 

 山小屋を見て、良太郎は蒼褪めていた己の表情を強く変えた。左手首に装う腕時計に視線を落とし──それが壊れていないことに安堵すると同時、今の時刻を確かめて。雛に感謝と別れの言葉を告げて、怪訝そうな彼女に背を向ける良太郎。

 ゆっくりと持ち上げた左手で山小屋の木の扉に手をかける。財布も自転車も失ったが、現代的なデジタル表記の黒い腕時計は今も良太郎の左手首にしっかりと着けられている。

 

 良太郎が扉を開こうと左手に力を込めたとき──時計は『10時10分10秒』を指し示した。

 

「えっ?」

 

 ぎぃ──と開かれた木製の扉の先に溢れる光を見て、雛は思わず小さな声を漏らす。その光の先に、無辺の砂漠と虹色の極光が広がる景色が見えたような気がしたから。

 鈍い音を立てて扉は閉じる。その光景の意味を確かめようと、雛は不快な神聖さの領域に強引に踏み込んで扉を開く。──しかし、そこには砂漠も光も、良太郎の姿さえもなかった。

 

「消えた……? 外の世界に帰ったの……?」

 

 山小屋の中に人の気配はない。もはや良太郎の姿は、ただ一人──鍵山雛の記憶に残るのみ。

 

◆     ◆     ◆

 

 ──人間の里。四季異変に狂った幻想郷で数少ない、本来の春の芽吹きに包まれた場所。美しく咲き誇る桜の彩りは、博麗神社に通ずる人間の居場所たる証明だろうか。

 この場所は妖怪にとって必要な存在である人間を守るために──その数を減らさぬよう管理するために在る。ゆえにここで故意に人間の命を奪うことや、巻き込んでしまう恐れのある妖怪同士の決闘も賢者に見過ごされることはない。

 

 だが、そんな人間の里も。閉塞的な厭世観(えんせいかん)に苛まれ、何もかもを忘れ去って刹那的な快楽だけを謳歌する人々で溢れ返ってしまったことがある。

 度重なる天変地異、抗えない自然の災害。それらへの恐怖がそうさせたのか。何をしても未来は変わらない。ならば何をしてもいいじゃないか。誰もが皆一様に『ええじゃないか』と(はや)し立てる様には──明日への希望もなく。

 自由に享楽的に生きる人間たちによって里の秩序は乱れていった。そこで立ち上がったのが人心を掌握し、荒れ果てた人々の希望と成り得る時代の象徴、幻想郷の宗教家たちである。

 

 八百万の神々を信仰する巫女、仏の教えに至らんとする修行僧。そして(タオ)の導きのもと不老不死を目指す仙人。それぞれ己が宗教を担い、幻想郷で最も活気に満ちた決闘法、スペルカードバトルという手法をもって人々の期待と人気を一身に背負う。

 後に『心綺楼異変(しんきろういへん)』と呼ばれることになるこの奇妙な異変は、幻想郷の宗教家たち──神道、仏教、道教のそれぞれの誇りを懸けて戦い合い。最後はそれらが一つとなって力を合わせ、元凶となる妖怪を打ち倒し、平和で堅実で、少しだけのんきな人間の里の営みを取り戻したのだった。

 

「────」

 

 賑やかな喧騒に満ちた人間の里において、開けた場所の一角に人だかりが出来ている。軽やかな旋律と共に面白おかしく語られるは、もはや過ぎ去った心綺楼異変のあらましだ。

 

 舞い散る桜の花に似た──淡く柔らかな薄紅色の長髪。妖艶とも可憐とも、あるいは勇ましくとも恐ろしくとも取れる不思議な舞い。チェック模様を刻んだ水色の衣服を装うは、件の心綺楼異変の元凶として宗教家たちに調伏された妖怪だ。

 丸く膨らんだ桃色のロングスカートには笑顔と泣き顔を表現した切り込みが施されており、細い脚を覗かせている。

 

 少女の名は (はたの)こころ 。妖力により周囲に浮かぶいくつもの能面が示す通り、彼女はお面という道具が妖怪化した一種の付喪神たる『面霊気(めんれいき)』という種族の妖怪である。

 飛鳥時代、聖徳太子から秦河勝(はたのかわかつ)に与えられた六十六枚の面は、長い長い時間をかけて妖力を溜め、妖怪となり。付喪神としてはまだ生まれて間もなかった彼女だが、その出自ゆえに他の付喪神とは一線を画すほど強大な妖力を宿すこととなった。

 

 心綺楼異変は彼女が意図して引き起こしたものではない。静かに生きていた面霊気は自身を構成する六十六の面のうち、『希望』の感情を司る一枚を失くしてしまった。それにより、聖徳太子と秦河勝という二人の偉大な人物の妖力を持つ彼女の力が、里に多大な影響を及ぼしてしまっていたのだ。

 面そのもの、感情そのものが本体と言えるこころはその存在を暴走させていた。里を調査に来た宗教家たちと矛を交えたのも、彼女らが集めてきた希望を自らの一部と加えて少しでも里に正常な在り方を取り戻そうとしていただけ。

 希望の感情を奪われた里の人間たちは、こころと同様に感情を暴走させ、結果として刹那的な厭世観に苛まれた。やがてすべての感情が失われてしまう最悪の状況になるというとき、異常に気がついた宗教家たちは力を合わせ、こころを調伏したことで一時的に場を収めた。

 

 そして秦河勝の面の製作者である聖徳太子、幻想郷の豊聡耳神子が新たな希望の面を作ったことで彼女の暴走も落ち着き、この異変は無事に終息を果たすこととなる。

 ただ神子が新しく作った希望の面はこころ曰く『あまりに完璧すぎる』らしく、感情が完全に揃って再び物言わぬ面の集合体(ただのどうぐ)に戻りたくないこころは滅多に使いたがらなかったようだが。

 

「これにて、第一幕は終了。ご観覧ありがとうございましたー」

 

 両手の扇は失せ、美しく舞っていたこころが頭を下げる。その表情は一切変わらず、ただ無機質に口だけを動かして礼を述べる。

 彼女は未だ感情というものを学習している身。やがて能楽の神とも称された秦河勝の面として生まれた出自に従い、これまでの経験を生かした舞踊と語り──能楽をもって人間の里を沸かす花となって。

 意図せず暴走した結果とはいえ、異変の元凶となったことは事実。彼女は人里近くの寺で世話になり、こうして里で舞いを披露している。彼女にとって、それは贖罪とも言えるのだろう。

 

「これが疲れと満足の表情。今日もたくさんの感情を学べたわ。やったね」

 

 細やかな拍手と共に声援を送られる。妖怪としてまだ未熟なこころは自身の表情というものを持たない。六十六のお面を付け替えることによって感情を表すことしかできず、彼女自身はいつだって無表情のままだった。

 お面に頼ることのない、自分自身の自我というものを確立させる。新しい希望の面を取り込んで、ただの道具に戻ることなく自らの表情として再定義する。

 無表情に装う無機なる面ではなく、面霊気という表情ある妖怪へと成長するために。

 

 希望を巡る宗教戦争から数多の感情を学び、彼女は格段に安定していた。だが、真なる己の表情を得るには未だ遠い。心綺楼異変が解決された際には博麗神社の敷地にて能楽を披露していたが、すでにそちらの営業も落ち着いて久しい。

 今はこうして人間の里に赴き、彼女のお面を制作した聖徳太子である豊聡耳神子、彼女に居場所を与える妖怪寺住職の二名による保護下で、己が()の修行に努めているのだ。

 

 先の宗教戦争を戯画的に表現した演目──『心綺楼(しんきろう)』の第一幕を終えたこころは華やかな舞台を降り、この場を提供してくれた里の人間たちに感謝を述べる。質素だが丈夫な舞台も修行僧たちの手によって片付けられた。

 

 ──不意に彼女の心が何かを感じ取る。様々な喜怒哀楽が渦巻く人間の里、平和な場所に似つかわしくないもの。道行く人間たちのざわつく声は、こころに不安と焦燥を感じさせていた。

 

「……はっ! 何かあっちから強い感情の波動を感じる……! これは……恐怖?」

 

 感覚の源は里の正門がある方角。妖怪に襲われれば人間は恐怖しよう。それを助ければ感謝をも覚えよう。こころはこれまでその感情を目当てに人助け紛いのことを行ってきたが、これもお寺の修行の成果だろうか。

 気づけばそんな打算もなく、ただ無意識に人間を救いたいがために、大地を蹴り上げていた。

 

◆     ◆     ◆

 

 人間の里の中心から外れた道。人通りこそ少ないものの、人間たちが平穏に暮らす家屋は多く存在し、当然ながら彼らのほとんどは妖怪に抗うだけの力を持たない。

 それを守るのが人間の里という領域そのもの。妖怪の行動を制限するという秩序をもってこの里そのものを守り、里の人間たちを人間の里という機能をもって保護している。妖怪が暴れることなどあってはならないはずだったのだが──

 

 しかし、その秩序ももはや意味を果たしていないと言わざるを得ない。当たり前のように働き、晴天の下を歩いていた男は、まさしく異形の怪物に襲われていた。里は妖怪からの保護を前提にしたもの。その『怪物』に対しては機能しない秩序である。

 今の幻想郷には妖怪とは別の脅威があった。目の前に舞い降りた濃紺は夜空を思わせる深さに満ちており、コウモリめいた漆黒の翼を広げて男の視界を闇夜に似た恐怖に染め上げる。

 

「ば、化け物……! 誰か……!」

 

「そうだ、もっと驚け。それが契約者の望みだからな……」

 

 蒼褪めた体躯を持つコウモリの怪物は、不気味な笑みを浮かべながら歩む。腰を抜かしてそれを見上げ、男は届くことのない祈りの声を上げた。

 今まさに刻一刻と、男の死の秒針は刻まれていく。命の灯火にも似た小瓶の砂が──さらさらと流れ落ちていく。響く自身の心音に重なり、そんな音を聴いた気がした。

 

 そこへ振り抜くは一陣の刃。青白い妖力の薙刀(なぎなた)を携えたこころが、怪物の眼前を一閃する。

 

「妖怪……? いや、もっと異質な……最近噂になってる未知の怪物ってやつかな」

 

 桃色のスカートをふわりと揺らしながら着地するこころ。警告の意を込めて刃を当てず、あえて後退を促す形で怪物に距離を取らせた。背後の男に振り向くことなく、男に痛み苦しむ感情がないことを感じ怪我がないことを悟る。

 自身の妖力を薙刀の形と成した青白いエネルギーのそれを構え直しながら、こころは目の前のコウモリの怪物を見つめたまま、男にその場から逃げるように伝えた。

 

 異形の怪物。それはコウモリの翼らしさを思わせる奇妙な形。両耳は長く突き伸び、些細な音も聞き逃さない鋭さを帯びている。強く噛みしめるような歯はどこか悪鬼の如くとも感じられ、さながら魔人とも言うべき禍々しい空想の恐怖を思わせる。

 こころの印象通り、それは人間のイメージから形を得た『イマジン』なる怪物だった。彼女が相対するは、かつて母親の形見として大切にしていたものを失い、魔人と契約してでもそれを探し出したかった男が想像した肉体。

 外の世界では有名な『卑怯なコウモリ』という物語から連想された、どっちつかずの卑怯者の具現。闇夜めいた濃紺の翼を持つ──『バットイマジン』と称されるイマジンの一種である。

 

「……この気配……妖怪か。こいつは都合が良い。驚かせる相手が増えた……」

 

 バットイマジンはこころに気づいた様子。周囲の人々は怪物を恐れ、こころが怪物と対峙している隙を見て安全な場所に避難する。

 今は心綺楼異変のときのような感情の喪失した状況ではない。誰もが恐怖を抱き、その戦いを観戦しようなどと思う暇もなく。ただ生きるために里の中心地へ近い場所へと。

 

 イマジンはすでに現在に繋がる道の途絶えてしまった『失われた未来』から時間を超えて現れた存在だ。彼らは未来の人間であったが、因果の断絶に伴い己の過去(すべて)を失ってしまっている。故に、現代の人間の記憶に触れてそのイメージから仮初めの肉体を形作る。

 かつてはただの可能性の一つに過ぎなかった己が未来を今と繋げるべく、様々な策を講じて未来への分岐点を自分たちの時間に繋げようとしていた。だが、同じく自分たちと同じ未来から時を超えた同族が過去の人間に力を貸し、あろうことか自分たちが存在する未来を否定したことで彼らの未来は完全に消滅した。

 如何に時間を超えようとも自分が存在する時間そのものが消えてしまえばイマジンたちは存在することはできない。本来ならばその時間が消えたことで、彼らイマジンはたまたま時の狭間に残留していたために消滅を免れた個体を除いては、二度と現れることはないはずだった。

 

 こころは自身の妖力で形成した青白い薙刀を構える。里での戦闘は避けたいところだが、未知の怪物が人間を襲う様を見過ごすわけにはいかない。意を決し、強く握りしめた薙刀を高く大きく振り上げる。

 袈裟懸けに振り下ろし、怪物の身を斬りつける瞬間──こころの背中に光球が飛び込んだ。

 

「見つけたぜ……! コウモリ野郎!」

 

「あっ」

 

 視界に白い砂が溢れたと同時、砂は()()()()()()()を形成した。だが、こころの目の前に生じたそれは対峙していたコウモリの怪物とは大きく異なり、地面から生えた上半身の頭上に自らの下半身を浮かせた奇妙な姿を象っている。

 その出現に気づいたこころは思わず声を漏らした。怪物と自身の間に積もった白い砂、悪鬼の如き形相の双角の怪物は、丁度こころの薙刀を受け止める位置にいたためだ。

 

 勢いよく振り下ろされた薙刀はそのまま白い砂の怪物を切り裂く。まるで砂上の楼閣を蹴り飛ばしたように、砂の塊は薙刀によって呆気なく形を散らした。

 だが、舞い散った砂はまたすぐに形を取り戻し、こころの眼前で上半身と下半身が不自然に分断された砂の塊──『未契約体』のイマジンとして成り立っている奇妙な姿へと戻っていく。

 

「何しやがんだてめえ!! 俺がせっかくかっこよく決めようと……!!」

 

 白く流れる砂は絶えず双角の悪鬼を象った形を保っている。器用に空中の下半身を動かして振り返り、腰から上の上半身を地面から生やした身体でこころを見上げながら憤る姿は、おとぎ話にでも登場するかのような空想上の鬼の姿に似ていた。

 身体の一部に刻まれた意匠は、あるいは『桃』の果実──だろうか。桃と鬼、そのどちらをも象徴する古き空想の物語を、日本中のほとんどの人間と同様にこころも聞いたことがある。

 

「砂の怪物……? いったいどこから現れたの?」

 

「はぁ? 砂だと……?」

 

 薙刀についた砂を軽く振り払いながら、こころは砂の怪物に表情なき困惑をもって問う。この怪物を形成する白い砂は、先ほど自分の身体から出てきたように見えた。

 まさかかつて自身も参戦した『完全憑依異変』の元凶──貧乏神と疫病神の最凶最悪の姉妹に等しいだけの憑依能力を持つ悪霊の一種なのか。だが、今の脆さを見る限り戦闘力は高くない。

 

「ってぇ! なんじゃこりゃあ!? 俺の身体はどこ行っちまったんだよ、ええ!?」

 

 悪鬼の如き砂の怪物は自身の姿に気づき、どうしようもなく狼狽(うろた)えているようだった。さらさらと流れ落ちては再び紡がれ、形を成しているもののあまりに儚い。ただ積もっただけの砂の塊に、戦う力などほとんどないのだろう。

 砂の中に精神だけが宿ったような歪な在り方は、奇しくも付喪神に似ていた。だが──

 

 ただ忘れ去られるだけのものではない。偉大な人物に愛されたお面の付喪神たる秦こころと同様に、この桃めいた鬼も。大切な誰かに『覚えていてもらえる』自分を知っている。己が持ち主と呼べる者を、相棒と呼べる存在を。過去と刻んだ、大切な──自分だけの本当の記憶と時間を。

 

「……つまらんお喋りはそのくらいにしておくんだな……!」

 

 バットイマジンはその在り方を羨んだのか。あるいは煩わしいと思ったのか。己が実体すら持たない未契約体の同族──イマジンに対して覚えた感情を拭うように、誰かと『契約』を交わすことによって『完全体』となったその身の力を振るう。

 右手から零した白い砂が形を成し、柄にどこか傘のそれに似た持ち手を備える白銀の長剣となる。連なる牙や翼のような刀身はさながら閉じたコウモリ傘のようでもあった。

 

「ちっ……! 仕方ねえ! ちょっとだけ身体貸りるぜ、お面女ッ!」

 

「……おお……!? なんだ……!?」

 

 砂の怪物は迫り来るバットイマジンを睨みつけ、今ある力で成せることを成すために。砂の身体を儚く崩し、その中から再び黄色い光球となって浮かび上がる。光球は荒々しくもどこか優しく、こころの胸へと飛び込んでいく。

 少女の身体から零れるように散る白い砂。悪鬼の如きイマジン──『桃太郎』の物語よりとある不運な青年のイメージによって象られた怪物は、こころの身体へと()()を遂げてしまった。

 

「…………っ!」

 

 鈍い音を立てながら、こころの蒼い薙刀がバットイマジンの剣を受け止める。そのまま乱暴な振る舞いでバットイマジンの腹を蹴りつけ、強引に距離を取りながら手にした薙刀の切っ先を振るい砂を払い落とした。

 水色の衣服の袖からさらさらと零れる白い砂が里の地に注がれる。そのスカートから落ちる砂もまた、少女の可憐なローファーの周囲を白く染めていく。

 淡い桃色の前髪には、彼女のものではない霊力から成る赤いメッシュが生じていた。

 

「ほう? 貴様、何のつもりだ?」

 

「今から見せてやるから、よく見とけ! えーっと……パス……パス……」

 

 イマジンに憑依されたこころの長髪は赤い電流を帯びたように無造作に逆立つ。荒々しく放つ妖力は優雅さなど微塵も感じさせず、彼女の瞳までもを赤く染め上げる。

 そして、普段のこころを知る者にとっては考えられないほどに。その表情には明確な『怒り』の感情が浮かび上がっていた。

 薙刀を持ったままの右手を下に向け、左手でバットイマジンを指差しながら吐き捨てる。

 

 お面に頼ることなく自身の表情をもって感情を表す。彼女が望んだ自我の極致だが、それは他者の感情である。

 こころ本人のものではなく、彼女の身体に憑依した者の人格。鬼と桃太郎のイメージを併せ持つイマジン──とある青年により『モモタロス』と名付けられた存在のものだった。

 

 モモタロスはこころの身に憑依したことで仮初めの肉体を得ている。本来ならば契約に頼ることなく自分だけの過去と時間を手に入れたことで本当の身体を備えているはずなのだが、どういうわけか今の彼には砂の器しか残っていないようだ。

 砂の身体のまま持ち出した『あるもの』をこの手に取り出そうと、自身の精神(なか)にしまっておいたそれを探る。たとえ実体を有していない姿だとしても物を持ち運べる身として、イマジンは他者に憑依したときでさえ自身の持ち物を憑依対象の持ち物としても定義できるはずなのだが──

 

「やべえ……! どっか落っことしちまったか……!?」

 

 確かに持ってきたはずのそれが無い。いつだって涼しげな無表情を湛えていたこころの表情にも焦りと不安が生じるが、やはりそれも彼女ではなくモモタロスとしてのもの。

 

「だったらこいつで……! ん……? お……!? あぁ……!?」

 

 頼りにしていた道具がないと分かるや否や、すぐさま思考を切り替える。右手に携えた薙刀には十分な切れ味があり、完全体のイマジンを相手にしても不足はない。モモタロスはこころの細腕が嘘のような腕力でそれを振るい、怪物に向き直った。

 ──しかし。モモタロスの意に反し、こころの身体は行動を拒むかのように硬く動かない。能楽を思わせる舞いにも似た奇妙な動きを見せつつ、少女は再び全身から白い砂を散らす。

 

我々(わたし)精神(なか)に……入ってくるな!」

 

「うおおッ!?」

 

 ──自身の身体を好きに操られる感覚に耐え兼ね、こころは衣服の間から零れる砂と共にモモタロスを叩き出した。肉体の主導権を奪い返され、モモタロスは再び白い砂の塊となって里の大地に放り出される。

 未契約体の姿のまま訳も分からずただこころを見上げることしかできないモモタロス。それを見下ろすこころの表情には何も宿っておらず、そこから感情を伺うことはできない。その表情の代わりとして、彼女の額には怒りと敵意と警戒心を表す般若(はんにゃ)の面が真紅(あか)く浮かび上がっていた。

 

「自力で俺を追い出しやがった……!? こいつ……もしかして……!」

 

 ただの人間であればイマジンの憑依に抗うことはできない。モモタロスがそれを知る由もないが、通常は妖怪であれその力には抵抗できない。一度憑依された者はイマジンの意思によってのみ肉体の主導権を取り戻すことができる。

 だが、その呪縛を自らの力で解き放つことができる者も存在した。如何なる時間の改変においても己を失わない揺るぎなき柱。彼らの時間より『特異点』と称される者は、イマジンの憑依を受けても己の人格を閉ざすことなくその肉体の本来の持ち主として君臨することができる。

 

「何が目的か知らないが、里で暴れるなら我々(われわれ)が相手になるぞ」

 

「バカ野郎! 俺は敵じゃねえ! あっちだ、あっち!」

 

「え、そうなの?」

 

 青白い薙刀を眼下に積もった砂の怪物に向け直して告げるこころ。表情のない顔から放たれる抑揚のない声に迫力や緊張感といったものはないが、額に斜めに装った面は神妙な霊力と厳かな雰囲気を漂わせる狐の面に変わっていた。

 六十六枚の面から成るこころの人格は無数の感情の集合体だ。一つの人格さえも感情が集まったものでしかなく、そのすべてが秦こころと定義できる個にして全の精神(こころ)

 そのすべてを己と呼び指す彼女たち(こころひとり)の一人称は『我々』となることがある。すべての感情が同じ方向を向いていれば、あるいは調和の取れぬ一つ程度の心など、追い出すことなど造作もないかもしれない。

 

 こころは知る由もなかった。その無数の感情こそが、互いを記憶する時間の証明。たとえ一つの心が忘れられても、自身に宿る別の心がそれを思い出してくれる。世界に定義されたものとは大きく異なれど、その在り方は、紛れもなく彼らが呼ぶ特異点の法則そのものだということに。

 

「この女……特異点か! 面倒なことになる前に……潰すしかないなッ!!」

 

 バットイマジンは再び長剣を構えてこころへと迫り行く。コウモリの翼で仰ぐ風圧をもって里の大地を駆け抜けることで、一瞬のうちに距離を詰めようとするが──

 

 そのコウモリじみた鋭い耳が逃さず捉えた音が、バットイマジンの動きを鈍らせた。

 

「何っ……!?」

 

 ──天空より響き渡る時を超えた警笛。イマジンたちの砂の身を震わせる音。バットイマジンもモモタロスも等しく、それを知らぬこころでさえも。あるいは忌まわしき、あるいは親しみ深き、あるいは聞き馴染みのない調べに空を見上げる。

 不意なる運行(ダイヤ)に足を止めたバットイマジンの頭上──人間の里の空には七色に滲む光の裂け目が生じていた。

 

 裂け目の向こうは光に輝く世界。ただ時の流れのみが存在する時空の狭間。それは何もない空間に線路(レール)を形成し、裂け目からどこか近未来的な意匠の『列車』を現す。

 白いボディに黒を装い、流れるように配された赤いライン。車体の前面に配された赤き桃の意匠は、さながら時間という川を流れゆく桃の果実のよう。

 

 空を引き裂いては地上へ舞い降りる龍が如く、白き列車は長く編成した車両をうねらせ、進む先にレールを生み出してはその上を行く。列車が過ぎ去った空にレールが残ることはなく、形成される過程をまるで砂時計をひっくり返すように逆に辿っては、また無へと消えていく。

 

「ちぃっ……!」

 

 怪物の眼前を過ぎる列車──『時の列車』と呼ばれるそれはその名の通り時間の流れを運行する一種のタイムマシンと呼べるもの。バットイマジンは忌まわしきその列車の経路から素早く身を退くが、視界に白き列車が満ちたせいで一瞬だけ特異点(こころ)の姿を見失ってしまう。

 

 列車はすぐに通り過ぎる。再び空へと舞い上がり、光の裂け目へ消える。ただそこに、この地に相応しくない現代的な服装の青年を一人残して。

 外来人の青年は右手に握りしめたライダーパスによって、かの『デンライナー』に乗車する権限を取り戻していた。今はその真価たる時間の超越を遂げることなく、彼がいた妖怪の樹海からこの人間の里へ赴くための単純な交通手段として、山と里を繋ぐ長い距離だけを遥かに超越した。

 

「良太郎! お前、なんでここに……!」

 

 里の地面にて上半身と下半身を逆転させた砂時計じみた姿のまま。モモタロスは驚く。それはいつか別れた友の姿。忘るることなき友の名前。たとえ幾星霜の時を迎えても、深く刻まれた記憶は決して零れ落ちることはなく。

 モモタロスの最初の依代となった青年──野上良太郎は、彼の姿をイメージした人間だった。桃太郎の物語から彼が名づけた単純な名前も、今ではかけがえのない『繋がり』の証として。

 

「……話はあと! モモタロス、行くよ!!」

 

「ああ! 今度こそ……! かっこよく決めてやるぜ!!」

 

 バットイマジンと向き合うようにして、良太郎は砂のモモタロスとこころに背を向ける形で立っている。長き戦いを共に過ごした相手に交わす言葉はそれだけで十分なもの。背後の(イマジン)に対して振り返ることもなく、ただ目の前の(イマジン)を見て。

 良太郎が右手に持つライダーパスに意思を伝えると、彼の左手には彼自身が備え持った霊力(オーラ)──あるいは『チャクラ』とも呼ぶべき身体の生命エネルギーが『フリーエネルギー』とでも称される超常の力となって具現した。

 白く溢れたフリーエネルギーは一本のベルトを形成していく。自動改札を思わせる機械的な銀色の帯に進入禁止のマーク、矢印が刻まれたそれを左手で軽やかに振るい、腰に装う。

 

 彼の腰に宿るはライダーパスの恩恵により自らのオーラで具現した『デンオウベルト』と呼ばれる解放器。赤、青、黄、紫の四色のスイッチを象った銀の帯に黒き意匠を刻み、霊力の駅に当たる中心部にはレールの意匠を持つ灰色に曇った真円が組み込まれている。

 

 モモタロスは良太郎の呼びかけに応じて再び砂の身体を崩した。舞い散る白い砂の中から黄色く輝く光球としての自身──『精神体』の己を現し、彼の生きた世界の法則により特異点と定義された青年、野上良太郎の身体に憑依を遂げる。

 彼の身に一つとなった現在(いま)と未来。赤く迸る電流と共にその黒髪には赤いメッシュが生じ、黒く未来を見据えていた両の瞳も揺るぎなき真紅の色を灯す。

 

 左手でデンオウベルトの中心部、そのすぐ傍に配置された四色の『フォームスイッチ』のうち、己が装う未来の色と同じ赤いものに触れたと同時。デンオウベルトの中心に設けられた灰色の真円、分岐器を思わせる『ターミナルバックル』には鮮烈なる赤の力が満ち溢れる。

 

 激しくも高らかに、己が想いの強さでもって導く未来──始まりを告げる旋律(ミュージックホーン)が響いた。

 

「変身ッ!!」

 

 良太郎とモモタロスの声は一つに重なり、その身を屈めては右手を高く掲げる。その手に持ったライダーパスを素早く振りかざし、ターミナルバックルの前を通過させて。

 

『ソードフォーム』

 

 無機質ながらも力強い電子音声が鈍く発せられた瞬間、ベルトを中心として良太郎の身体からは二人のオーラを由来としたフリーエネルギーの波動が満ち溢れた。

 眩い真紅のレール、そのパーツを思わせる金属片となって飛び散り、それらは再び良太郎の身へ舞い戻っては彼を覆うようにその身体に宿る。

 黒く強靭な霊力由来の強化スーツ──『オーラスキン』はあるいは鎧の如き皮膚として。そして腕や脚の一部には白い装甲を纏い、全身に走る銀色、頭部の天頂から胸を一文字に下る路線めいた意匠を伴い、列車の如き戦士の姿となってなお──その変化には未だ終わりはなく。

 

 その身を囲うようにして、また別のレールめいたオーラが浮き上がる。運行される数々の装甲は、どれも白を基調として鮮やかな赤色を湛えたもの。

 一つ一つが皆一斉に、戦士となった良太郎のスーツに連結する。どこか頼りなく弱々しい印象だった黒の戦士は、胸部や両肩、脚などに熱き強靭さを伴う赤き装甲を纏い、頭部のレールを伝って降りる仮面の到来を待つ。

 戦士の顔を覆う赤い複眼は在るべき位置(えき)へ停まり、一刀のもと両断された桃の如く別れた。

 

「桃の……仮面……?」

 

 不意なる未知の来訪者に対して、こころは混乱と困惑を表す猿の面を装って呟く。怪物に向き合う戦士について、自身と同じく『仮面』を宿す者の噂を聞いたことがあった。

 だが、それは仮面というただ一点においてのみ。その戦士の理は彼女の記憶にはない。

 

「俺、ようやく参上ッ!!」

 

 身体を慣らすように右腕を回し、右手の親指をもって己を指し示す。宣言と同時に右手を大きく横へ振り払い、見栄を切るように左手を開いて前へ突き出す。

 

 ──時の運行を守る戦士。その身の力こそ、野上良太郎が生きた世界における法則の守護者たる存在。彼は選ばれし特異点にのみ許された『電王(でんおう)』の権限(ちから)をもって多くの人々を救い、仲間と共に時の流れという揺るぎなき秩序を維持してきた。

 たとえ一度は返上した資格でも。未来が求めるのであれば戦おう。始まりはいつも突然であるのだ。流れる時間の波を捕まえたあの日の出会いも変わらず、幾度の過去を経てなお。

 

 忘れたくない時間。失いたくない記憶。誰にとってもかけがえのない、今までとこれからを守り抜くため。

 それを奪う未来からの侵略者に再び抗うべく、良太郎は望む。誰より高く、昨日より高く。

 

 過去と未来。重なり合う心と心。幻想の砂は杯を満たし、零れゆく時間(とき)を刻み始めた。




いろいろと書きたいシーンを全部詰め込んだら過去最大級に長くなってしまった。欲張ったぜ。

次回、第49話『レールの上の喜怒哀楽』


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第49話 レールの上の喜怒哀楽

 時の列車、デンライナー。次の駅は、過去か、未来か──


 桜の花が舞い散る天下──人間の里。吹きゆく春風は里の軒並みを暖かく抜けていくが、そこに人通りはない。この場に現れたコウモリの怪物、バットイマジンの脅威から逃れるべく無力な人間のほとんどが比較的安全な中央区域へと避難し身を隠したためである。

 薄紅色の桜並木と日本古来の木造建築が立ち並ぶ領域。今、この場に存在するのはイマジンの存在に立ち向かう面霊気の秦のこころと、人間を襲おうとしていたバットイマジンの姿。

 

 そして、こころの記憶には存在しない桃の仮面を持つ列車の戦士──電王の姿のみである。

 

「貴様……電王か……!」

 

 バットイマジンはかつての契約者がイメージした己が姿、悪鬼の如く剥き出したコウモリの歯を食い縛る。暗い蒼穹の体躯から冴える緋色の双眸をもって向かう戦士を睨み、自らの記憶に確かに残る忌まわしき存在に怨嗟の声を漏らす。

 在るべき時間を失ったイマジンたちに『過去』と呼べるものはない。本来ならば繋がるはずのない時間に零れてしまった因果の残滓たちには、彼らにとっての現在を証明する過去など存在しないはずだった。

 だが、記憶とはすなわち過去──過去とはすなわち記憶である。時の運行を守る電王との戦いを記憶しているバットイマジンにとって、それは揺るぎない過去の証明だった。

 

 彼は電王に変身した特異点と戦った記憶を持っている。それは今あるこの身の記憶ではない。彼は一度、電王によって撃破され精神ごと消滅を遂げているはず。

 自身が存在していた未来(げんざい)の記憶ではない。とある男の力を借りて、歴史の分岐点となる時代に赴いた際。時間の改変を阻止すべく現れた過去の電王と戦い、敗北した記憶。その忌まわしき記憶がバットイマジンにとっての過去として──『再生』された肉体ではなく精神に宿っていた。

 

「よく分かってんじゃねえか。おい、お面女! 危ねえから少し下がってろ!」

 

 良太郎──の身体を借りて変身しているモモタロスが高らかに答える。赤い桃を模した電王としての仮面、あるいは『電仮面』と呼ばれるそれは鮮やかに赤く、モモタロスの熱き闘志を表すかのような(つるぎ)の如き複眼の冴えを見せていた。

 その姿は良太郎の身に宿ったモモタロスのオーラによる赤い電仮面と赤い装甲を伴うもの。モモタロスの荒々しく力任せな戦い方に見合った『ソードフォーム』と称される形態だ。

 

 モモタロスは背後のこころに振り返ることなく告げ、腰に装うデンオウベルトの両側に備えつけられた列車型武装を取り外す。四つ存在するうちの二つを両手に持ち、それらを重ねるようにして連結。無造作に上空へと放り投げ、腰に残る二つを素早く取り外しては落ちてきた先の二つを挟み込むように連結させる。

 四つのパーツはここにすべてが繋がった。鈍い黒色と銀色を帯びるそれらはやはり列車のように長く繋がり、それでいて前部の重なりが厚みを備える独特の形を成立させる。

 

 編成された『デンガッシャー』の柄を右手に握りしめるモモタロス。その闘志は柄たるパーツの機能によりオーラとして先端に集約し、フリーエネルギーに変換されて何もなかった先端の部位に真紅に輝く長大な刃──『オーラソード』として具現した。

 滾るような闘志がエネルギーの刀身に灯る。その武装は様々な形を成す変幻自在の武装の基本となる第一の形態──ソードフォームの名に相応しい長剣たる『ソードモード』の形態である。

 

「言っとくが、俺に前振りはねえ。最初から最後まで徹底的にクライマックスだぜ!」

 

 ソードモードとなったデンガッシャーの剣の峰を己が右肩に乗せつつ、バットイマジンを左手で指差しながら啖呵を切る。過去も未来も流れる時は、その瞬間においてはいつでも現在(いま)。故にどんな時代に在ろうとも、自分の在り方に正直に、クライマックスの精神で挑むのだ。

 

「はっ! 途中から参戦しておいて何を言ってる!」

 

「ごちゃごちゃうるせえ! 俺は細かいことは気にしない主義なんだよ!」

 

 バットイマジンの言葉に返すはデンガッシャーの切っ先。そのまま腕を振り払い、モモタロスは眼前の怪物へと駆け抜ける。互いに一閃されたそれぞれの長剣が鍔迫り合い、静かな春の色に満たされた里に冴える剣戟の音を響かせた。

 コウモリ傘を思わせる白銀の長剣に連なる牙──その隙間を縫うようにデンガッシャー ソードモードの真紅の刀身、オーラソードが喰い込んではフリーエネルギーの波動を迸らせる。

 

「電王……」

 

 こころはその様に古くから語られる『桃太郎』の在り様を見た──気がした。

 

 ただ剣と剣を打ち合わせるあまりに原始的な戦い。こころが描く舞踊という戦いの縮図やスペルカードバトルに通ずるような、誰かに魅せるための美しさなど欠片もない。だが、どこかその戦い自体を楽しんでいるとも取れる仮面の戦士の振る舞いの中に、能楽の美を感じさせた。

 

 縦一文字に振り下ろされたデンガッシャー ソードモードの刃は翻るバットイマジンの翼を裂けなかったが、返す刃で振り抜かれる白銀の長剣の横一閃もまたモモタロスの咄嗟の判断による後退に追いつけず空振りに終わる。

 バットイマジンは攻撃を外した隙を埋めるように左の翼を仰ぎ、隙を突こうとしてきた電王を風で仰ぐことで距離を取る。体勢を崩したモモタロスに今度は再びバットイマジンが攻め入り、右手の剣を垂直に振り下ろすものの、やはりその一撃もデンガッシャーに防がれた。

 

 戦っているのはモモタロスの精神ではある。だが、その身体は電王に変身している野上良太郎のもの。虚弱で体力もなく運も悪い良太郎は戦士に向いていない。されど彼の精神は誰よりも強く、モモタロスの精神さえも友として共に戦う決意を抱かせた。

 ただ身体を預けるだけではない。彼もまたモモタロスの依代たる特異点として、電王の資格を持つ戦士として。たとえ一人になったとしても臆することなく戦ってきた。

 身体に満ちるイマジンの精神に同調して剣を振るう。イマジンを支配するのではなく、イマジンに支配されることもなく。

 僅か一年前までは一切縁のなかった戦いという行いの渦中にいながらも、長き戦いを乗り越えた良太郎は向かう相手に対する違和感の正体に気づいた。それは既視感というべき感覚かもしれない。単純に姿や声もそうだが、戦い方や攻撃の対応などの様々な点に見覚えがある(・・・・・・)のだ。

 

「(モモタロス、このイマジン……前に倒したことがあるような……)」

 

「あん? そうだったか? ま、契約者のイメージが似てりゃあそういうこともあるかもな」

 

 共に向き合う良太郎の心の声を聞いてモモタロスが記憶を想起する。だが、良太郎と共に一年間の戦いを乗り越えた記憶と過去こそあれど、今まで倒してきたイマジンの詳細などあまり意識していなかったらしい。

 その曖昧な記憶も良太郎との出会いを想起すれば少しずつ浮かび上がってくる。良太郎と初めて会った日のこと。特異点への憑依を知らずに遂げて、最初は後悔したものの、イマジンとして戦うより電王として戦ったほうが楽しいと分かり、僅かに抱いた悔恨さえも燃やし尽くしたこと。

 

「(うーん、そういうことなのかな……)」

 

 良太郎は電王としての姿で思考する。この身に重なり剣を振るうモモタロスの言葉通り、同じイメージから生まれたイマジンは同じ姿の肉体を伴って現れる。精神体の人格こそ別の存在であるが、彼らの肉体は曖昧なイメージにより形成されたもの。

 故に同じ姿や似た特徴の個体が形を成すことも珍しくはなかった。されど、この個体はそれらとはどこか違う。確証を持って言えるわけではないが、ただこのイマジンの見た目が記憶にある者と似ている──というだけではない。

 初めて電王に変身してイマジンと戦った記憶。当初はわけもわからずただ逃げ回ることしかできなかったため、彼とてその戦いのすべてを記憶しているわけでもない。が──

 

 ()()としか思えない。記憶に残る存在をそのまま目の前に映し出したような奇妙な違和感。あのときのイマジンと一切の差異もなく、ただ()()()()という範疇を遥かに超えているのだ。

 

「(…………!)」

 

 モモタロスが再びデンガッシャー ソードモードを振り下ろす。バットイマジンの肩を袈裟懸けに斬りつけようとする一撃は、電王に変身している良太郎の肉体によるもの。かつてと同様に身体が勝手に動く感覚にはすでに慣れているはず。

 しかし、その一瞬に遅延が生じる。今までは等しく狂いなく動いていたモモタロスの意識と良太郎の身体だったが、先ほどから少しずつほんの僅かな誤差があった。

 電王の皮膚──黒い強化スーツたるオーラスキンから滲む砂。その身を覆うモモタロスのオーラから具現化された赤い装甲『オーラアーマー』の隙間からも白い砂が零れ落ち、その同期の歪みでイマジンへの一撃は回避される。

 

「どうした良太郎! さっきから動きが鈍くなってんぞ! 気ぃ抜いてんじゃねえ!」

 

「(ご、ごめん……! うわっ、ちょっと……! モモタロス! 前見て、前!)」

 

 自身の胸──内に宿る良太郎の意識に向けて声を上げる。自分に対して声をかけるという形は奇妙なものだが、相手が内側の意識にある以上そうならざるを得ない。

 その意識から逆に向けられた注意の声に、モモタロスは再び良太郎の身体を前に向ける。

 

「バカめ……! 隙を見せたな……!」

 

 デンガッシャーの刃を寸前で回避したバットイマジンの剥き出しの歯を伴う口が、少しだけその歪な口角を吊り上げたように見えた──ような気がした。

 

「……っ! やべっ……!」

 

 その食い縛った歯と同様に鋭く尖った白銀の刃が電王の眼前に迫る。振り下ろしたばかりのデンガッシャーではそれを打ち払うには遅すぎる。せめて少しでもダメージを軽減しようと、モモタロスは己が闘志(オーラ)を胸のオーラアーマーたる『ビブレストプレート』に集中させた。

 

「はっ!」

 

 ──その切っ先は電王の胸を覆う装甲に届くことはなく。後方から聞こえた軽やかな声と共に、(おきな)般若(はんにゃ)(おうな)火男(ひょっとこ)。それぞれ喜びと怒りと哀しみと楽しみを表す四つの能面が霊力を纏いては弾幕の如く飛び──バットイマジンの身を退ける。

 そのまま前に躍り出たこころの舞い──己が霊力をもって具現した青白い薙刀を両手に構え、バットイマジンの翼を縦一文字に切り伏せた。

 刃は鋭く濃紺の肉体を裂き、その身から白い砂を撒き散らす。可憐なローファーで里の地を蹴りつけ、再び怪物から距離を取ると、こころは柔らかなスカートを揺らし電王の前に立った。

 

「お、お面女……!? お前それ……もしかしてお化け……!?」

 

 霊力にふわりと舞った桜色の長髪と共に、彼女の周囲に浮き上がるいくつものお面。電仮面越しにその様を見たモモタロスは、こころの身体から放たれる神秘的なオーラと禍々しい妖力の気配に慄き、幽霊などの怪異を想起する。

 少女が背を向けたまま顔だけで振り返ると同時、喜怒哀楽の面が一斉にこちらを向いた。

 

「ヒィ!?」

 

 喜びに輝くような翁の面、怒りに燃えあがるような般若の面。そして哀しみに濡れたような姥の面に、楽しみに躍るような火男の面。そのいずれも装う者のいない空虚な能面であり、ただ霊力によって浮いているだけの面を結ぶ紐はだらりと垂れるだけ。

 そんな不気味な光景を目にして、モモタロスは思わず声を漏らす。掲げる能面は表情豊かであるのに、それらを従えるこころ自身はポーカーフェイスのような無表情を崩さなかった。

 

「まだ舞える? えーっと……桃鬼(ももおに)?」

 

「誰が桃鬼だこの野郎! 俺にはモモタロスって名前があんだよ!」

 

 こころの表情こそ無機質なれど、その言葉にはしっかりと力強い意思が灯っている。桃を模した電仮面に表情はないが、返すモモタロスの言葉には怒りの色が滲んでいた。

 無力だと思っていた少女の思わぬ戦力とお面の幽霊のような在り方に少し戸惑ってしまったものの、すぐに気持ちを切り替える。モモタロスの闘志の分岐器は良太郎の肉体を自身の前に立つ少女の隣へと進ませ、デンガッシャーを冴えさせて。

 同じく薙刀を携えるこころと隣り合い、一つの電仮面といくつもの能面が並び立つ。優雅に凪ぐこころと荒々しく乱れるモモタロスの対比はさながら──静と動を体現する演舞や能の如く。

 

「(この子……もしかして……)」

 

 良太郎はこころの静かな表情の中に宿る覚悟を見た。そして妖怪の樹海で出会った少女の言葉を思い出す。幻想郷は人間と妖怪が生きる場所。それらは本来相容れぬ関係であったが、それぞれを存在させるために必要な循環であると。

 人間と妖怪、どちらもを存在させるためにはどちらか一方が滅んではいけない。そうでなくとも人との交流を愛しく思う者もいる。人間と共に時を過ごし、向かう悪意を打ち倒す仲間として矛を持つ者もいる。それはまるで、イマジンでありながら特異点に味方する彼らのように。

 

「私は面霊気の秦こころ。一緒に戦ってやるから、覚悟を決めやがれ!」

 

「な、なんだぁ……? 急にテンション変えやがって……」

 

「間違えた。こっちが真面目なときのお面。敵はあっちだって、さっき聞いたわ」

 

 こころはモモタロスのオーラに感化されたのか、紅く滾るような般若の面を装って憤る。その可憐な怒号を聞いたモモタロスも良太郎も困惑していたが、こころはすぐさま神妙な霊力の狐の面を装い直すことで仕切り直した。

 

「よくわからねえが……俺のクライマックスを邪魔するんじゃねえぞ!」

 

「お客さんがいないのがちょっと寂しいけど……私の舞いの最大の山場(クライマックス)も披露してあげよう」

 

 再びバットイマジンに向き直る桃と狐の二つの仮面。真紅に輝くデンガッシャーの刀身と青白く灯る霊力の薙刀は、それぞれモモタロスとこころの在り方を映し出しているかのよう。

 

「ちっ……! せめて幻想郷(こちら)の特異点だけでも潰させてもらう……!」

 

 白銀の長剣を構えながらバットイマジンは器用に両翼を操り大地を蹴った。砂を撒き散らす風圧によって急接近してきたものの、狙いは電王ではない。強靭なオーラアーマーを纏う戦士より、妖怪とはいえ少女の生身を晒すこころの方が弱いと判断されたのか。

 モモタロスも良太郎もそう解釈したが──実際にはバットイマジンの目的は最初からこころであったのかもしれない。

 

 こころは向かう怪物の長剣を舞い散る桜の花びらの如くひらりと避けてみせる。その動きに合わせるように、流れる動作で薙刀を振り抜いてバットイマジンの身を切り裂いた。散った白い砂さえ太陽の光を受けてきらきらと輝き、彼女の舞いを演出する。

 不意なる一撃に思わず後退したバットイマジンの隙に対して、こころは振り返る動きに合わせて薙刀を消し、再び白い狐の面を装ったと同時。こころの薄紅色だったスカートはその怒りを帯び、電王のオーラアーマーと同じ鮮烈なる赤に染まった。

 全身から溢れる青白い霊力のオーラを毛を逆立てた狐の威嚇に見立て、大地に片手をつく。

 

「よくも里を襲ったな……! 吼怒(こうど)妖狐面(ようこめん)!!」

 

 霊力は牙を剥く狐を模してこころを包む。発声と同時に大地を蹴り、こころは巨大な狐の幻影を纏いながらバットイマジンに向かって上空から襲い掛かる。放物線を描く形で霊力の牙を振り下ろし、狐の霊力は怪物に喰らいついた。

 こころが放つ【 吼怒の妖狐面 】は彼女が宿す怒りの感情を狐の霊力として具現させたもの。突進に際して噛みつく幻影の痛みをもって、その大顎はバットイマジンの身を削りゆく。

 

「ぐぁっ……!」

 

 バットイマジンは再び破れた黒き翼の傷から白い砂を零しつつ、苦悶の声を上げる。その一撃で距離が離れてしまったが、こころは相変わらずその表情を変える気配はない。

 

「誰も守れなかったらどうしよう……憂嘆(ゆうたん)長壁面(おさかべめん)……!!」

 

 怒りに満ちた狐のオーラが消えると同時──こころは声を震わせて里の安否を憂いた。どんよりとした憂いを帯びた増女(ぞうおんな)の面を装いつつ、変わらず無表情のまま額の面と同じ憂いの面を周囲にいくつも浮かび上がらせ、赤かったスカートを今度は青く染める。

 青白いオーラは涙の如く濡れてゆっくりと正面に向けられたこころの右腕を伝い、ただ不安に苛まれる寂しさと心細さを体現するように、こころの周囲を漂いては怪物をじっと見つめた。

 

「くだらん……! そのふざけた仮面ごと叩き潰してやるまでだ……!」

 

 バットイマジンは先の一撃で受けた傷などすぐに再生し、意にも介さず長剣を構え直す。衝撃をもって距離こそ取られてしまったものの、ダメージはほとんどない。怪物は里の大地を強く蹴り、コウモリの飛翔によってこころのもとへと急接近する。

 

 ──こころの周囲に浮かび上がった増女の面はその動きを見逃さない。バットイマジンがこころに近づいた瞬間、その一定距離への接近を引き金として自らを弾幕と放ったのだ。

 四つの面が一斉にこころ本体へ向かう外敵を迎え撃つ。こころの【 憂嘆の長壁面 】は一度発動されれば、こころ自身の意思に関係なく一定距離以内に存在する敵を狙うこころの独立武装(オプション)じみた振る舞いをする。

 それはある程度の距離にこころに仇名す者が存在していれば敵の動きさえ関係なく。こころが動きを見せていないにも関わらず不意に放たれた能面を受け、思わず足を止めてしまったバットイマジンは受けた能面の力で微かに身を硬直させる。それ自体には大した威力はなかったが──

 

「この手で里を守れるなんて、最高だー! もってけ! 歓喜(かんき)獅子面(ししめん)!!」

 

 怪物が動きを止めている隙にこころは獅子舞を思わせる白く豊かな(たてがみ)を湛えた赤い獅子の面、その大きく開いた口から顔を出す。喜びに満ちたその声色と共に、やはり憂いに青く染まっていたロングスカートは爽やかな黄緑色に染まっていた。

 獅子の面はがこんと下顎を降ろし、歯の隙間から見せていたこころの顔を晒す。軽やかに大地を蹴り上げ、こころが微かに後ろへ跳ねた瞬間。歓喜を表す獅子の面は、その大口から極大の熱線を溢れんばかりに吐き出した。

 

 業々と燃え上がる炎は春の暖かな空気を灼熱に吹き飛ばし、増女の面が放つ光弾に苛まれていたバットイマジンを激しく焼き焦がす。放たれた【 歓喜の獅子面 】の一撃を受け、長剣を取り落としてしまった怪物を前に、こころはスカートを桃色に戻しては再び狐の面を被り直した。

 

「(すごい……)」

 

「なんだよ、結構やれんじゃねえか!」

 

 流れるような一連の攻撃はさながら舞台の上の神楽を見ているかのよう。良太郎とモモタロスはそれぞれ同じ肉体、同じ電仮面の向こう側に見える桜色の髪の舞いを──ではなく、少女の強さを賞賛した。

 この手に握るデンガッシャーの無機質な重みが示す通り、これは舞踊ではない。紛れもなく命を奪い合う正真正銘の戦いであるのだ。そうあるべきにも関わらず、秦こころと名乗った少女の戦い方は、そのまま舞台の上でも通用するほどに美しく、どこか面白おかしく人を魅せる。

 

「でもあのふわふわしたお面、やっぱり気持ち悪ィぜ……」

 

「(そう? あの電王みたいで賑やかだし……かっこいいと思うけどな)」

 

 それぞれが意思を持つかのように動き回るいくつもの能面は不気味ではあるが、それを見る彼らにとってはかつて変じた自分たちの姿を連想させるものでもあった。現在と未来が繋がる証である最高潮の姿は、良太郎にとっては理想の形態。

 しかしモモタロスと──彼と同じく良太郎の身に憑依したイマジンたち、引いては良太郎以外のすべての者にとって、その姿はこころの能面と同様に受け入れがたいものだった。

 

 良太郎もモモタロスも等しく思い浮かべるはクライマックスの極致たる最強の電王。重なる記憶と想いが連結した、いつか辿る未来への希望と言える──不格好な混沌。

 相変わらずセンスねえな、と呟くモモタロス。確かにその姿は良太郎以外の誰からも不評ではあったが、その強さは確かなものだ。かっこよく戦うことを信条とするモモタロスにとっても、見た目以外は受け入れられている。

 モモタロス以外にも良太郎に憑依している残り三人のイマジンたち。彼らともう一つ、彼らとの絆を象徴するものがなければ、あの姿に至ることはできない。すべての心が一つにならなければ実現しない奇跡の力。今は離れてしまっている彼らは、いったいどこで何をしているのか──

 

「お前ら、勝手に盛り上がるなよ! ちったぁ俺にも楽しませろ!」

 

 今はいない彼らの記憶を大切な過去へとしまって、電王の黒い指先がこころと怪物を指す。歓喜の獅子面を受けて弾き飛ばされてしまったコウモリ傘じみた長剣は里の大地に放り出され、バットイマジンのイメージを失ってさらさらと白い砂へ還っていく。

 武器を手放したバットイマジンはこころの薙刀を翼ある両腕で防ぐことしかできない。そこへ電王としての脚力で駆け抜けたモモタロスは勢いよくデンガッシャーを振り下ろし、こころの薙刀と合わせるように怪物の翼を斬りつけた。

 二つの刃がそれぞれ濃紺の皮膜から白い砂を溢れさせる様を見届ける。モモタロスが感じていた微かな不調──良太郎の肉体との遅延ももはやない。己の身体から零れた砂は気のせいだったと切り捨てながら、モモタロスは電王の右脚をもってバットイマジンを遠く蹴り飛ばした。

 

「ぐっ……貴様ら……!」

 

 砂を零し続けるバットイマジンは苦悶の声を漏らす。再びその手に長剣を形作ろうと試みるも、イメージの足りぬ身体では現れた白い砂はただ砂のまま流れ落ちるだけ。

 

「行くぜ……! 俺の必殺技、パート2!」

 

『フルチャージ』

 

 モモタロスはデンガッシャーを左手に持ち替え、右手で取り出したライダーパスを指先に持ち、デンオウベルトへと近づける。中央に宿るターミナルバックルにかざされた瞬間、赤く迸る電流と共に無機質な電子音声が鳴り響いた。

 ターミナルバックルに灯る赤い光は刻まれた分岐器の意匠を境として忙しなく明滅を繰り返す。良太郎とモモタロスのオーラは増幅され、高まるフリーエネルギーが電王の身を伝って右手のデンガッシャーへと満ちていく。刀身のオーラソードは、漲る力を溢れさせてさらに紅く鮮烈な輝きを放ち始めた。

 

 ライダーパスを無造作に放り捨て、左手のデンガッシャーに右手を添えて両手で握る。垂直に立てられたデンガッシャー ソードモードの刀身には赤い電流が走り、モモタロスの意思を警笛として、オーラソードそのものが物理的に切り離されて空へ舞う。

 廻り飛び進みながら青空を裂く赤き剣先。モモタロスはそれを見上げることもなく、ただ右手に構え直した刃のないデンガッシャーの柄を掲げて。視線の先にて砂を零すバットイマジンをしかと見据えながら、その場の虚空に対してデンガッシャーを大きく袈裟懸けに振り下ろした。

 

「せりゃっ! はぁっ!」

 

 気合を込めた掛け声と共にまずは一閃。刃のないデンガッシャーの振りに合わせ、天空を舞っていたオーラソードが里の家屋を切り裂きながらバットイマジンへ向かう。持ち手の動きをトレースし、柄なき刃は袈裟斬りの弧を描いて飛来したのだ。

 その一撃はバットイマジンの肩を引き裂き、またしても白い砂を散らした。重ねて返す刃を振り上げ、今度は左から右へと横一閃の薙ぎを見舞う。オーラソードは再びその動きに合わせ、バットイマジンの肉体を横一文字に斬りつけた。

 誤魔化しようのないダメージに白い砂を噴き上げながら、バットイマジンは苦しむ。かつて見たものと同じ。どれだけの距離を離そうとも決して逃れることの叶わぬ赤き刃。ソードモードのデンガッシャーが誇る──オーラソードの切り離しによる極めて長大な射程(リーチ)を持つ斬撃。

 

 イマジンたちの目的は時間の改変。過去を書き換えて別の未来へ至るために。彼ら侵略者から見れば、時の運行を守る電王の存在は路線を阻む障害物であっただろう。

 過去を壊すことなど、誰にも許されない。誰もが大切な自分自身の存在を奪われぬよう、電王は如何なる時間においても必要とされる。その時間に存在する──その時間を証明することができる特異点を選んで。

 零れ落ちる砂のように──誰も時間(とき)を止めることはできない。その定めを侵す者、イマジンたちの罪を。今と未来が一つになる瞬間、良太郎とモモタロスは絶えず阻み続ける。

 

 未来を紡ぐのは現在(いま)を生きる者の想いなのだ。それぞれの時間に在る、この世界の行方を。

 

「どりゃああっ!!」

 

 最後に天高く振り上げたデンガッシャーを真っ直ぐ振り下ろし、やはりその振りに呼応して彼方のオーラソードが眼前の空を裂く。赤く迸るその一撃は、バットイマジンの全身を縦一文字に両断してみせた。

 刃と柄──オーラソードとデンガッシャーの繋がりはどれだけ離れようと揺るぎなく。過去と未来がどれだけ切り離されようとやがてあるべき時間に繋がるように、二つの心は等しく重なり合う。電王が放つ【 エクストリームスラッシュ 】は、モモタロスが誇る『俺の必殺技』なる呼び名のまま、イマジンに最期の時を宣告した。

 頭上から大地まで鋭く振り下ろされた刃が土を砕く。巻き上がる砂煙はその衝撃によって里の土が零したものだけではなく、バットイマジンを構成する記憶(イメージ)という白い砂の残滓を含めて。

 

「ぐぁぁぁああああーーーっ!!」

 

 全身から零れ落ちる白い砂を抑え切れず、バットイマジンは天を仰いだ。光と砂を溢れさせ、誰かの記憶に頼ることでしか存在できない仮初めの肉体はフリーエネルギーの奔流によって激しく炎を噴き上げさせ、怪物にとっての記憶と同じ爆散を遂げる。

 焼けつく大地に突き刺さっていたオーラソードはデンガッシャーのフリーエネルギーを伝うようにモモタロスの手元へと戻り、デンガッシャーの柄へと鈍い音を立てて再連結。刀身に宿る熱を払うと──モモタロスはデンガッシャーの峰を右肩に乗せて、舞い散った白い砂を見た。

 

「へへっ、決まったぜ!」

 

 電仮面の下で得意気な笑みを零し、モモタロスは電王としての左腕で腰に帯びたデンオウベルトを掴む。自動改札じみた腰元のスイッチを押しながら取り外すことで、ベルトは電王のオーラスキンからフリーエネルギーを回収していった。

 電王の鎧はその黒い皮膚と共に再び野上良太郎のオーラへと還元される。ただし、彼自身のオーラによって生じていたものはあくまで基礎となるオーラスキンと白く頼りない装甲部分のみ。強靭な真紅を示していた電仮面や胸部装甲(ビブレストプレート)は、モモタロスのオーラによるものだ。

 

 モモタロスの存在そのものを純粋なオーラというエネルギーとして現した精神体。それは先ほどまでの黄色い光球の姿ではなく、桃と鬼を混ぜ合わせた怪物の姿。だが、実体を持たないその形はどこか曖昧で不安定な半透明の霊体じみたものでしかない。

 その精神が良太郎の肉体から離れたと同時、エネルギーを失って色褪せた電王の鎧は砕け散ったレール状の霊力となって消えていく。鎧を構成していた二つのエネルギーをそれぞれ良太郎とモモタロスのもとへ還しながら。

 良太郎のオーラを変換して具現化されていたデンオウベルトも、同じくその武装たるデンガッシャーも消失する。電王としての変身を解いた良太郎の元に残るのは、モモタロスが必殺技の行使に際して乱雑に投げ捨てたばかりのもの。

 電王というシステムの根幹を司るライダーパスを拾い上げ、良太郎はそこに視線を落とした。

 

◆     ◆     ◆

 

 バットイマジンの撃破を遂げ、平和な静けさを取り戻すことができた人間の里。電王と呼ばれた仮面の戦士が放った剣の一撃によって爆散した怪物の残滓を前に。秦こころは小さく屈み、すでに霊力の薙刀を消失させて空いた右手をもって記憶の粒たる白い砂に触れる。

 

「この砂……あの桃鬼と同じ……?」

 

 白く細い指先を濡らす白い砂。荒さを感じさせない絹のような柔らかさの砂だが、どこか寂しげで空虚な印象を覚える。それは先ほど自身の薙刀でうっかり打ち崩してしまった砂の怪物──モモタロスと名乗った桃鬼の身体と同じもののようだ。

 風がないにも関わらず、砂はやがてこころの指先から消えてなくなる。目の前に積もっていた残滓も含め、それらは蒸発するように跡形もなく消え去っていた。

 

 良太郎はジーンズのポケットにライダーパスをしまい、憑依を解いて未契約体の姿で腕を組むモモタロスの上半身を見下ろす。頭上に下半身のある全体の体高こそ等身大ではあるものの、地面から腰より上の上半身を生やす未契約体の姿ゆえ必然的に目線は低くならざるを得ない。

 

「会いたかったぜ、良太郎!」

 

「モモタロス、いったい何が起きてるの? それに、その身体……」

 

 さらさらと流れる砂は絶えずモモタロスの姿を象りながら彼の騒がしさを表現する。良太郎が気になったのはその姿だ。最初に出会った一年前、共に戦い抜いた時間において見慣れた砂の身体、未契約体の姿。だが、それは今あるべき姿ではないはず。

 彼は過去を持たないイマジンでありながら良太郎たちとの一年間の戦いを経て、その時間に自らの過去を得ることができた。良太郎と過ごした時間、その繋がりがかけがえのない過去の証明として、良太郎との『契約』を超えた揺るぎない完全体の姿を手に入れている。

 それなのに、こうして良太郎と向き合うモモタロスの姿は実体を持たぬ砂の身体のまま。契約者がイマジンを忘れたり、契約者自身が死亡することで憑いているイマジンが消滅することはあれど、繋がりを持っている状態の完全体のイマジンが未契約体に戻る例は見たことがない。

 

「それが俺にも分かんねえんだよ。気がついたらなんか変な場所にいやがるし、カメもクマも小僧もどっか行っちまうし……」

 

 苛立つように砂の身体で腕を組むモモタロス。彼にとって己の身体とは、記憶(イメージ)とは。ただ自分の存在を証明する過去というだけではない。

 良太郎と共に戦った時間そのもの。良太郎と共に過ごした思い出そのもの。それを失ってしまえば、砂の味しかせぬ歯を食い縛るような想いがモモタロスを貫くのも無理はなかった。

 

「モモタロス……」

 

 良太郎は居心地の悪そうなモモタロスを見て小さくその名を呟く。

 イマジンの肉体は契約者のイメージに依るもの。しかし、良太郎はモモタロスの姿を忘れてなどいないし、モモタロスに関する記憶も零れ落ちることなく残っている。かつて一度、記憶を失ってしまったときのようにモモタロスに関する記憶が消えて繋がりが薄くなってしまったということもあまり考えられなかった。

 

 誰かの記憶に依存しなければ存在することすらできない他のイマジンたちとは違う。良太郎と同じ時間を過ごしたモモタロスたちは、未来に生じた可能性ではなく。現在にも等しく存在する──確かな自分自身を持っているはずであるのに。

 モモタロスが実体を失っている理由は分からない。あるいは、これまで幾度となく世話になってきたデンライナーの所有者──『オーナー』と呼ばれた人物ならば何か知っているだろうか。

 

「…………」

 

 今の良太郎にはライダーパスがある。望めば彼の意思でデンライナーを呼び寄せることができるし、チケットさえあれば時を超えることも可能だ。だが、良太郎はその権限にどこか拭い切れない不安感を覚えていた。

 妖怪の樹海から人間の里へ、時の列車たるデンライナーに乗車して赴いたとき。そこには、自分以外のありとあらゆる乗客が()()()()()()()()()()()のだ。

 

 一般乗客は一人たりとも存在せず、明るく愛想の良い客室乗務員の女性も、ある事情によって己の未来を失ったものの良太郎と同じ特異点として消滅を免れた女性──今は幼い少女の姿となっている彼女も。

 そして、頼ろうとしていたデンライナーのオーナーさえも不在。モモタロスの言った通り、デンライナーには共に戦ってきた仲間、イマジンたちの姿も見つけられなかった。

 

 いくら正規のライダーパスを持っているとはいえオーナーの不在時に勝手に乗車したことは不味かっただろうか、と小さな不安が募る。

 オーナーはチケットを持たない者の乗車や不正な時間移動に対しては極めて厳しい対処を取るが、ただ無慈悲なだけの人物というわけではない。時の運行に影響を及ぼさない程度であれば融通の利く一面も見せてくれる。

 彼がデンライナーにいないこと自体は珍しくはなかったが、デンライナーに誰一人いない状況というのが良太郎にとっての嫌な予感を芽生えさせていた。あの賑やかさそのものを走らせている列車の中核、食堂車さえ冷たく無機質な静寂の中。

 モモタロスが実体を失ってしまったことと何か関係があるのだろうか。そして、幻想郷と呼ばれる未知の場所に迷い込んでしまったこと、倒したはずのイマジンが出現していること──

 

「それにしても、また良太郎と一緒に戦えるなんてよ。久しぶりに派手に暴れられるってもんだぜ! 最後に戦った奴は確か……辛気臭ぇ幽霊野郎だったもんなぁ」

 

 沈んだ空気を拭うため、あえて話題を切り替えるようにモモタロスが良太郎を見上げて言った。明るい声で元の元気を灯してみせるため、モモタロスは己自身の姿に関してではなく、これまでの良太郎との記憶を振り返り──再び彼と共に戦う郷愁じみた感情に身を委ねる。

 

「え?」

 

「ん?」

 

 良太郎はモモタロスと視線を合わせた。モモタロスが語った『辛気臭い幽霊野郎』などといった存在に心当たりはない。

 良太郎が最後に戦った相手は自分たちの未来を懸けて最後の戦いを挑んできたイマジンたちの首魁──彼が生み出した死神のイマジンだったはず。それ以外にも多くのイマジンがいたが、モモタロスたちとの今生の別れになりかけたあの戦いは深く記憶に残っている。

 それに、聞き間違いでなければ、モモタロスは『久しぶりに暴れられる』と言ったような。

 

「……久しぶりって、ついこのあいだ見送ったばかりだよね?」

 

「はぁ? お前、いったいいつの話をしてんだ……?」

 

 最後の戦いを終えて自分たちの時間を守り抜き、本来繋がる未来への路線を取り戻すことができたあの日から数日。良太郎にとって、その戦いはつい最近起きたばかりの出来事だ。

 

「いつって……たった数日前だよ。2008年の1月12日。……モモタロス?」

 

 ──忘れるはずがない。共に戦った過去と記憶がモモタロスたちの存在を証明してくれた日。チケットなどなくとも、その記憶は良太郎の心に刻まれている。だが、その言葉を聞いたモモタロスは砂で出来た肉体を微かに震わせながら、訝しげに良太郎の顔へまじまじと視線を注いだ。

 

「おいおい、マジかよ……」

 

 モモタロスは良太郎の真剣な表情を見て、それが冗談などではないと確信した様子。であるならば、考えられる可能性は一つ。モモタロスは良太郎にそれを伝えるべく、砂の詰まった精神で自分の記憶を遡る。

 彼にとって2008年の1月12日とは確かに良太郎と別れ、デンライナーに乗って良太郎にとっての現在を去った日。そこまでは良太郎の認識と共通している。しかし、モモタロスにとってそれは数日前ではなく、すでに一年以上も過去の記憶だった。

 

 さらりと砂が滴る口を開いて、モモタロスは自分が知っている『現在』を説明する。モモタロスは良太郎と別れてデンライナーに乗ったが、実体を持って良太郎とのライダーパスの共有が無効となったことで乗車権を失ってしまった。

 オーナーの計らいで人数分のライダーパスを手にし、乗車権を取り戻すことができたのち、再び現れたイマジン、消滅した未来におけるイマジンではなく別の時間に残留していた言わば『はぐれイマジン』とでも称される存在との戦いで、良太郎と再会することとなった。

 そのイマジンたちを率いていたのが辛気臭い幽霊野郎と呼べる男だったのだが、モモタロスはその戦いすら過去──2008年10月4日の出来事として覚えている。

 

 モモタロスの話を聞いて良太郎もようやく認識の齟齬を飲み込めた。二人の記憶が間違っているのではない。この違和感の正体は、二人が存在している時間──それぞれが生きる『今』の時間が一致していないためだと。

 良太郎が生きている今の時間は2008年の1月である。モモタロスが生きている今の時間は2008年の10月を懐かしめるほどの未来である。元よりイマジンたちは未来に生きる存在であるが、己が過去を得たことでそれは本来ある未来とは違う時間のはず。

 答えは一つしかない。良太郎とモモタロスはそれぞれ別の時間からここに来ているのだ。

 

「ねぇ、君。こころちゃん……っていったよね。今が西暦何年かって……分かる?」

 

 自分とモモタロスが認識しているそれぞれの時間のどちらが正しいのか。今が何年(いつ)かを確認するために──良太郎はモモタロスと共にこころへ振り返り、落ち着いて問いかける。

 

「たしか今は第135季だから……外の世界は西暦2020年だったかな」

 

 こころは外来人らしき青年に一瞬戸惑ったが、お寺でよく見かける二ッ岩マミゾウから幻想郷と外の世界の暦について聞いたことがあった。

 自身も困惑しているが、向き合う青年と怪物の心もまた困惑していることが伝わってくる。

 

「2020年……?」

 

 得られた答えに良太郎は目を丸くした。予想していた時間、自分が記憶する時間ともモモタロスが語る時間とも当てはまらない、12年もの大きな差異。

 これまでもデンライナーの事故や暴走などで予期せぬ時間に落とされることはあったが、自分が知る時間よりも未来に来たのは初めてだった。それにしては周囲の景観は未来というよりは過去を思わせる──どこか明治時代のそれじみた古めかしい街並みをしているような。

 

 幻想郷と言っただろうか。樹海で出会った少女曰く、ここは外から来た人間にとっての常識を超えた妖怪たちの楽園であるのだという。

 モモタロスとの繋がりを頼りに、デンライナーの自動走行機能をもって(ここ)へ来る際、窓から見えた景色に良太郎の知る現代日本の風景は存在しなかった。それどころか、春夏秋冬が繚乱する光景は、それが現実であることすら否定させるような幻想に満ちていた。

 

 ここは良太郎の知っている時間とは違う。そして、良太郎が生きるべき『電王の世界』と呼べる場所とも違う──別の空間。

 今までも多くの出来事に巻き込まれてきた良太郎の直感が告げる。ただイマジンが暗躍しているだけではない。もっと別の何かが起きていると。どうやらモモタロスもそれを感じたようだ。

 

「こっちにも訊きたいことがある。お前たちは……何者だ? その砂の怪物は……?」

 

 先ほどまでの荒々しい振る舞いとは打って変わって落ち着いた雰囲気を見せる外来人の青年。まるでお面を切り替えたように冷静になった彼に対し、こころは静かに問うた。

 

「……ごめん。僕のままで君と話すのは初めてだったよね」

 

 良太郎は優しげにこころに笑いかける。他者の感情が読み取れるこころが見る限り、自身もまた混乱と困惑の中にいるはずなのに。相手を警戒させたり、怖がらせたりしないように柔らかい口調をもって少女に接する。

 こころの表情は変わらない。絶えず装う無表情に、神妙なる意を示す狐の面を掲げ。胸に不安を感じながら、こころは白い砂で出来たモモタロスの上半身を見下ろす。

 

 自身も先ほどこの怪物に憑依されたばかり。荒々しく粗暴な在り方を体現し、彼の精神のままに操られていた。となれば──こころは再び良太郎に視線を戻す。

 彼もまた自身と同じように、身体に宿った怪物の在り方を体現させられていたのだろう。それが彼の近くに砂の姿で存在しているということは、こちらこそが彼の本来の性格なのだ。

 

「僕は野上良太郎。モモタロスは僕の仲間……頼れるパートナーってとこかな」

 

 友との再会を喜ぶ感情と、友が身体を失っていることを哀しむ感情。そのどちらもが、良太郎の心から伝わる。本当は他にも仲間がいるんだけど、と付け加えた良太郎の言葉通り、寂しさと表現できる感情も微かに芽生えているようだ。

 良太郎の呟きは様々な感情──その波動に濡れている。あらゆる感情を受容して御し切る才覚。こころは良太郎の揺るぎなく冴える黒い瞳に、自身と同じ『心の器』たる何かを感じていた。




電王関連のレールを敷いていくのに忙しくてこころちゃんの扱いが若干空気になってしまいがち。

次回、第50話『そういう表情( かお)してるでしょ?』


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第50話 そういう表情してるでしょ?

 静けさを取り戻した人間の里に、暖かな春の香りが吹き抜ける。バットイマジンの撃破を遂げて落ち着いた穏やかさを取り戻してはいるものの、この静寂は里の本来の在り方ではない。

 やがてざわざわとした喧騒が静かな里を包み込んでいく。避難していた人間たちが顔を出し始め、里に怪物が現れたことへの恐怖と不安感は一気に里全体へと伝染していく。こころが感じ取った感情の広がりは、緩やかな春風を超えて瞬く間に拡大していった。

 

 彼らのうち何人かは青空を見上げている様子。あのとき良太郎は咄嗟にデンライナーを走らせてしまったが、あれだけ大きな車両が上空から舞い降りれば、里にいた者たちにその姿を目撃されていてもおかしくはない。

 いくら無力な砂の身体とはいえ怪物そのものたるモモタロスもだ。この姿を見られたらまた彼らを不安な気持ちにさせてしまうだろうと考え、良太郎は見下ろした上半身に告げる。

 

「モモタロス……僕の中に戻ってて」

 

「……ああ、そうしたほうがよさそうだぜ」

 

 白い砂で出来た未契約体の身を崩したかと思うと、ふわりと舞った黄色い光球、幻影じみた赤い怪物の霊体が良太郎の身体に重なった。

 その意識を表層に出すことなく、野上良太郎という特異点の精神に隠れる。人格は良太郎のままであり、モモタロスは憑依ではなく潜伏という方法で静かに良太郎の精神の中へ紛れ込んだ。

 

(ここ)じゃ話しづらいな。……ちょっとこっちに来て」

 

 こころが感じる周囲の疑惑は収まらない。怪物でなくとも、現代的な衣服に身を包んだ外来人の良太郎はやはり里では目立つ。ざわざわと広がりゆく感情をその身に受け止めてしまっている彼に対し、この場で怪物について訊くことは得策ではないと判断して声をかけた。

 良太郎の腕を掴み、人々の間を抜けて里の正門へと向かうこころ。立派な門を抜け、踏み均された道に出ると、こころは駆け足を緩めて良太郎の手を離す。

 

 里の外に出れば飢えた妖怪が彼を襲うかもしれない。されど、こころは里の外ながら人間にとって安全な場所を知っていた。

 妖怪こそ確かに存在してはいるものの、人妖を問わず分け隔てなく接する静謐なお寺。あるいは妖怪寺とも揶揄されていながら、多くの人間たちに支持されている場所。

 同じく妖怪神社と称される最東端の神社──博麗神社とは違い、こちらは妖怪がいてなお人間の来訪者も数多く存在している。その理由は、里から遠く離れている上に道中が荒れた獣道しかない神社と比べて、里に近く道筋も整えられているためか。あるいは別の理由もあるのだろう。

 

◆    ◆    ◆

 

 人間の里の外れにある立派なお寺。かつて幻想郷の空に『宝船』が確認されたとき、三人の異変解決者がそれを追って多くの妖怪たちと弾幕の光を交えた後に建立されたもの。とある魔法使いが住職を務めるこの寺の名は『命蓮寺(みょうれんじ)』という。

 こころと良太郎は(おごそ)かな雰囲気を湛えた山門の前に立ち、その威光を高く見上げた。

 

「……ここならたぶん大丈夫」

 

 額に装った女の面と共に振り返るこころ。仏教の拠り所たるこの場所は、付喪神として修行する彼女の帰る場所とも言える──良太郎にとっての『姉が待つ喫茶店』に等しい場所。

 

「お寺……? あっ、ちょ、ちょっと待って……!」

 

 良太郎がその神妙な雰囲気と静かな霊力に気圧される中、こころはただついてきてとだけ告げ、山門を超えて寺の敷地内に入っていく。慌てて良太郎も彼女の後を追い、厳格な静寂に満たされた命蓮寺の参道に踏み込んだ。

 立派な瓦の屋根、等しく並べ揃えられた石灯籠に、広く設けられた長い石作りの階段。信仰する神仏たる『毘沙門天王』の名を御旗に掲げた木造建築の寺院を前に。

 良太郎はこころと共に境内へと歩を進め、慣れない空気に辺りを見回す。古びていながら重厚なオーラを秘めた巨大な鐘楼(しょうろう)に参拝客のための手水舎(ちょうずや)、それらが寺の敷地内に確認できた。

 

「いつもは人がたくさんいるんだけど、今は異変の影響で全然いないみたい」

 

 命蓮寺の広い境内には数珠を手にした数人の修行僧たちがいる。それ以外に人の姿は見当たらず、こころの言う通り、一般の参拝客らしき者は一人も見つけることはできなかった。

 丁寧に手入れが施された境内には質素ながら趣があるが、妖怪もいるのだと思えばただ神秘的なだけではなく──どこか禍々しさも感じられるような。

 

「(おい、良太郎……)」

 

 不意に思考に走った声を聴いて、良太郎は自身の内に想いを馳せる。里の人間に見つからないよう自身の中へと隠れていてもらったモモタロスの意思。その思念を聞き届けると、良太郎は自身が装うズボンの裾からさらさらと砂が零れ落ちていることに気づいた。

 白い砂は良太郎の中から舞い散り現れ、やがて双角を掲げたイマジンの姿を象る。それはやはり、上半身と下半身が逆転したままの未契約体──先ほどまでと変わらぬモモタロスの姿。

 

「匂うぜ……イマジンの匂いだ」

 

 砂の身体を揺蕩(たゆた)わせ、モモタロスは彼方に見える命蓮寺本堂を睨む。賽銭箱と本坪鈴(ほんつぼすず)を設けた古びた建物。その周囲には千体地蔵が立ち並び、本堂の奥からは人のものか妖怪のものかも分からぬ読経の声が聞こえてくる。

 イマジンが共通して持つ独特の気配──モモタロスはそれを『匂い』と形容していた。

 

「もしかして、さっきのイマジンの契約者?」

 

 良太郎はモモタロスに合わせていた視線を命蓮寺本堂に向ける。良太郎にはイマジンの気配は分からない。イマジンとの契約の証として、その身から白い砂──記憶の粒を構成する『時の砂』を零す者がいれば、それをイマジンが憑いた者の証明として見ることはできる。

 

 イマジンとの契約。それは、繋がらないはずの別の未来、自分たちの時間に本来あるべき時間の流れを繋げ、歴史を変えて捻じ曲げるための儀式。イマジンたちは、ただ未来に生じただけの自分たちに『過去』という存在証明を求めた。

 本来の時間も──イマジンたちが存在する時間も。時の流れという不安定な道筋に生まれた別れ道。イマジンたちの介入により、本来繋がるはずだった時間さえもがその影響を受けて曖昧な未来の中に取り残されていた。

 とある一人の男は、特異点ゆえに己の時間が繋がりを失っても存在を保っていた。ただ、過去を失ったことで空虚に落ちた記憶に寂しさだけを植えつけられて。

 

 自分たちの時間を無理やりにでも成立させるべく、彼は自分たちの時間に存在していた無数の精神を引き連れて現代──時の分岐点たる西暦2007年へと降り立った。精神は現代の人間の記憶を借りてそのイメージから仮初めの肉体を作り、イマジンと呼ばれる存在となって憑いた相手に契約を持ちかける。

 契約者の望みを叶える代わりに、その記憶を辿って過去へ飛ぶこと。イマジンはその先の過去で暴れ、破壊の限りを尽くして歴史を変える。当初、良太郎たちはその『破壊』自体が歴史改変のための行為なのだと思っていたのだが──

 その破壊はあくまでカムフラージュだったのかもしれない。イマジンたちが飛んだ過去には必ず良太郎がよく知る男がいた。彼らの目的は、その男を破壊に巻き込んで殺すことだった。

 

「ああ、俺も思い出してきたぜ。あのコウモリ野郎、たしか前に倒したときは──」

 

 モモタロスも良太郎と同じくバットイマジンの既視感が気になっていた様子。先ほど倒した怪物とかつて倒した怪物の共通性を想い、モモタロスは良太郎と同じ一つの可能性を憂う。

 

「おーい。何してるの? あなたたちについて、いろいろ訊きたいんだけどー」

 

 本堂の正面まで歩みを進めたこころは良太郎へ振り返った。良太郎とモモタロスは一度その思考を収め、互いに顔を見合わせて小さく頷く。

 かつて戦ったバットイマジンの記憶。確証はないが、あれがかつてと同じ個体なら。記憶に陰る懸念を胸に抱き、二人はこころの導きに従って命蓮寺の境内を進み、本堂へ向かっていった。

 

◆     ◆     ◆

 

 静かな落ち着きに満たされた命蓮寺の本堂。立派な仏像が鎮座する厳格な領域を超え、その先の廊下に出る。

 ただの廊下を包む木製の壁──板張りの床でさえどこか神秘的。良太郎が目にしたそれは何の変哲もない木の素材のように見えるが、この寺全体が古き法力を帯びているのだ。

 

 こころの案内に従って、命蓮寺の居間へと進んでいく。丁寧に掃除された床は埃や汚れといったものはあまり確認できないが、良太郎たちにとってよく知るものがあった。

 イマジンを形作る白い砂──記憶という時間を構成する粒。こころもその砂を訝しんでいるようだが、今はそれ以上によく知る襖の向こうに知らない霊力を感じ、そちらが気になる様子。

 

「良太郎……近いぞ」

 

「……うん」

 

 命蓮寺の廊下に時の砂が落ちているということは、この場所にイマジンかその契約者が存在することの証左である。

 廊下に落ちている白い砂は居間への襖の下へ続いている。

 ──イマジンの気配を匂いという形で感じ取ることができるモモタロスもまた、その感覚を揺るぎなく確信した。間違いなくこの先の部屋に、()()ものイマジンがいる。

 良太郎とモモタロスの雰囲気を察し、白い砂と未知の霊力を訝しんでいたこころも表情こそ変わらないながら居間を警戒しつつ、いつでも霊力の薙刀を現せるようにしながら襖を開いた。

 

「…………」

 

 ゆっくりと襖を開いたこころはその隙間から見える四つの影に一瞬だけ息を飲む。だが、すぐにそれが自分のよく知る命蓮寺の住人であることに気がつくと、強く引き締めていた警戒を微かに緩めて左手をかけた居間の襖を大きく開いた。

 こころの目に映ったのは自身と同じくこの寺の世話になっている者たち。住職たる魔法使いに救われ、彼女への恩義をもって仏教の道に進んだ妖怪たちである。

 

 濃紺の頭巾を纏った水色の髪の少女は、隣に浮かぶ薄紅色の雲の妖怪と共に怪訝そうな表情で正面の将棋盤を見下ろしている。だが、対局しているのは彼女でも雲の妖怪でもない。入道使いたる雲居一輪とその相棒たる雲山は──舟幽霊と虎の妖怪の対局を観察していた。

 一輪の視界に映る二人の少女が持つ異質な霊力を彼女は知らない。舟幽霊の黒髪に宿る青いメッシュも、虎の妖怪の金髪に紛れ輝く黄色いメッシュも──

 

 湿度を帯びた水兵服を装う黒髪の少女は知的な青い瞳を将棋盤から不意に開いた襖へと向ける。舟幽霊の村紗水蜜は次の一手を迷いながら己が顎先に指を当てていたが、廊下に立つ人物に対して眼鏡の奥の目を丸くした。

 同じくその相手であった虎柄めいた金髪の女性、寅丸星も優勢の余裕を帯びた振る舞いで腕を組んでいたのだが──村紗と同様に襖の先の来訪者へとその荒々しい黄色の瞳を向けて驚く。

 

「えっ……りょ……良太郎……!?」

 

「な……嘘やろ!? ほんまに良太郎か!?」

 

 村紗は丁寧な正座を崩して手にしていた駒を無作為に置き、将棋などしている場合ではないとばかりに盤面に背を向けて立ち上がる。

 星も楽にしていた胡坐(あぐら)を解き、村紗が適当に置いた駒で逃れようのない詰みを体現してしまった将棋盤にも気づかぬまま、それをひっくり返さんほどの勢いで立ち上がった。

 

 二人は良太郎を知っている様子であるが──良太郎のほうは二人の少女に心当たりはない。

 

「どうして僕の名前を……? えっと……君たちは……?」

 

「ああ、この身体のままじゃ分からないよね。っと」

 

 良太郎の問いに対して村紗は自分の身体に視線を落としながら濡れた声色で呟く。その言葉の直後、立ち上がった二人の服から見慣れた白い砂が零れ始めた。命蓮寺の居間の畳に容赦なく注がれるそれを黒い瞳に映して、良太郎は目の前に象られた砂に表情を変える。

 

「ウラタロス、キンタロス!」

 

 村紗の身体から溢れた砂はウミガメを思わせる亀甲紋様を帯びた怪物の姿に。星の身体から流れた砂はクマと斧の意匠を思わせる毛皮を纏った怪物の姿に。

 そのどちらもやはり、上半身と下半身を逆転させた未契約体の姿。白い砂の流れるままに二体のイマジン──モモタロスと同様に良太郎の仲間として一年間の戦いを共にした者たちの形を、この命蓮寺にて現し宿す。

 

 ウミガメの姿たるは浦島太郎の記憶(イメージ)から形作られた『ウラタロス』の姿。クマの姿たるは金太郎の記憶(イメージ)から生み出された『キンタロス』の姿。良太郎は視線の低い砂の身の彼らに対し、この地で再会できたことに喜びの感情を表した。

 命蓮寺の居間へと踏み入って将棋盤の傍に揺れる砂に向き合う。彼らもモモタロスと同じく本来は良太郎と共に戦った記憶と時間が証明する過去を得て、誰かの記憶に頼らない自分自身の肉体を持っているはずなのだが──やはりどういうわけか再び実体を失ってしまっているようだ。

 

「ふぅ……やっと出てくれた……」

 

「散々な目に()いました……うっ……身体が……」

 

 イマジンが身体から出ていった二人の少女は力が抜けたようにその場に腰を落とし、将棋盤のそれぞれ向かいに敷いてある座布団に座り込む。村紗の黒髪に宿っていた青いメッシュはいつの間にか消え、その海の如く青い瞳が元の翡翠色に戻ったと同時。彼女の表情を知的に飾っていた黒縁の眼鏡も消えてなくなった。

 星の黄色い瞳も毘沙門天の代理らしく神々しい琥珀色に戻る。金髪に帯びた虎縞模様の黒髪に紛れる黄色いメッシュも消え、寅丸星の虎の妖力から熊に似た気配は完全に消失した。

 

「ええ……? いったいどうなってるの……?」

 

「よくわからないけど、貧乏神や疫病神みたいに人妖(ひと)の身体に憑依するみたい」

 

 居間の奥で困惑する一輪に対し、こころはその傍へと寄り添いながら村紗と星の様子から先ほど自分の身にも起こった出来事を想起しつつ伝え、二体の砂の怪物を見る。

 

「怨霊の類ではないみたいだけど……」

 

 村紗は一輪に振り返り、こころの言葉に付け加えながらこめかみを押さえた。この身に憑依を遂げていた者は紛れもなく霊体──精神だけの存在でありながら、自らの存在を砂の塊としても現せるらしい。

 それは幻想郷にいる幽霊や怨霊の特徴とは大きく違う。見た目から考えるに、やはり幻想郷で噂になっている未知の怪物と考えるのが自然だろう。

 

 幻想郷に定義される『怨霊』とは、現世に未練を抱いた幽霊の一種だ。その霊体は冷たい幽霊とは異なり、炎のような高熱を帯びている。

 肉体こそが資本の人間や獣と異なり神や妖怪はその精神こそが主体となっており、物理的な損傷に対しては耐性があるものの、精神への干渉に対しては弱い。特に、その身を怨霊に憑依されてしまい、精神を乗っ取られてしまえば、妖怪としては死を迎えたに等しくなる。

 この霊体──亀や熊の姿に似た砂の怪物たちには妖怪の精神を奪おうとする意志がないのだろうか。ただ、己が肉体を持たぬがゆえに仮初めの居場所を求めていただけのようにも見えた。

 

「……毘沙門天様の代理として、一生の不覚です……」

 

 村紗と共にこころたちへ振り返る星。彼女もまた精神を憑かれ、肉体を疲れさせていた様子。彼女は命蓮寺の本尊たる神仏、毘沙門天の威光を代行する身でありながら、未知の霊体に容易くこの身体を明け渡してしまった己を深く恥じ入る。

 今までの自分の行動はあまりに自分らしくなさすぎた。それは村紗も同様だが、このような失態が毘沙門天様本人に、その使者である部下に見られたらと思うと、申し訳が立たない。

 

 意図せず勝敗の決してしまった将棋盤を境として、二組の纏まりに別れる。襖とは反対の障子側には一輪と雲山、こころ。そしてイマジンの憑依からようやく解放された村紗と星が集まり、自分たちが未知の霊体に憑かれてしまっていた事実を伝えた。

 四人の少女に加えて一体の雲の巨体が将棋盤越しに眺めるは、この幻想郷の地に見慣れぬ三体もの砂の怪物。鬼か亀か熊か、日本の童話を思わせる姿を模した怪物たちの砂時計じみた奇妙な出で立ち。そして──

 床から上半身を生やし頭上に下半身を浮かべた異形に対しても何事もなく向き合い、あまつさえ喜びの感情を見せながら対話する外来人らしき青年もまた、幻想郷(ここ)に在るべきではない姿だ。

 

「お前ら、なんでこんなとこにいやがんだ? ハナタレ小僧はどうしたんだよ」

 

 変わらず砂の姿のまま、モモタロスは自身と同じ未契約体の同族──ウラタロスとキンタロスに問いかける。

 等しく良太郎の仲間である二体のイマジンはモモタロスに向き合い直し、その姿がやはり自分たちと同様に実体を失っていることに気づいた。

 さらさらと流れる白い砂は絶えず命蓮寺の畳を染めゆくが、すぐに本体へ還っていく。

 

「モモの字も一緒やったんか。そんなら話は早いな」

 

「リュウタなら今も行方知れず、だよ。センパイと一緒かと思ったんだけど……」

 

 長大な一本角を掲げた熊。眼の意匠を持たぬ無機質な顔面に口角を下げた唇の形を湛え、キンタロスは己が砂を揺蕩わせて腕を組む。同じく三本の角めいた鋭角を戴いた亀、六角形の亀甲紋様に、やはりウミガメのそれに似た口を持つウラタロスが己が肩を竦めて問いに答えた。

 

「ウラタロス、この世界……幻想郷っていうみたいなんだけど」

 

 良太郎は樹海にて出会った少女の話を思い出しながら見下ろす砂色の亀に語る。人間と妖怪と、それ以外も共に生きる秘境。良太郎にとって少し気になったのは、幻想郷に流れ着く存在が『人々から忘れ去られたもの』──という点だ。

 すべての記憶から失われ、在るべき時間から零れ落ちたものは世界に存在できない。時間から居場所を失ってしまった者は本来ならばデンライナーの乗客となり、いつか思い出してもらえるまで時の中へと旅立っていく。

 似ているのだ。幻想郷という場所は──忘れ去られた者を乗せるデンライナーの在り方と。

 

「幻想郷のことなら一応分かってるつもりだよ。問題は、この身体だよね」

 

「良太郎がいれば変身はできるやろうけど、実体がなくなってもうた原因が分からんな」

 

 ウラタロスは砂の味しかしない渇いた唇を噛みしめて己の身体を憂う。命蓮寺の住人たちに憑依していたためか、キンタロスともどもすでに幻想郷についてのことは理解しているらしい。幻想郷全体の四季が乱れ狂っている現状もその目で確認しているようだ。

 

「やっぱり、ウラタロスたちも……」

 

 良太郎と過ごした一年間の時間で得た過去と実体。それらはやはり、ウラタロスとキンタロスからも失われてしまっている。ただ、言葉通りの意味で彼らの記憶がなくなっているわけではない。その身を証明するものがなくなっているのだ。

 だからこそ原因が分からない。良太郎かイマジンか──どちらかが彼らを忘れてしまっているなら分かる。だが、互いが互いの存在を覚えており、戦い自体も覚えているのに、なぜ──

 

「おい、ゲンソウキョウ……って何の話だ? 仲間外れにすんじゃねえよ」

 

「僕から話すよ。こころちゃんたちにも、イマジンについて知っておいてほしいし」

 

 不満そうに砂を零し、モモタロスが良太郎を見上げる。優しげな表情でモモタロスに向き直り、良太郎は続けて正面を向くことで、将棋盤の向こうの障子側に視線を送った。

 濃紺の頭巾を纏った少女と薄紅色の雲の巨体。無表情に装う能面の少女に加え、湿度を帯びた水兵服の少女と、雄々しき虎を思わせる金髪を持つ長身の女性。そのいずれも、きっと良太郎の想像通り、人間ではないのだろう。

 見るからに妖怪そのものである雲の巨体について、良太郎はまず何よりも気になったが──それはおそらく未契約体のモモタロスたちを見た彼女たちも同様のはず。

 

 できる限り彼女らを警戒させないよう、良太郎も小さな恐怖を抑えて向き合うことにした。

 

◆     ◆     ◆

 

 一人の特異点と三体のイマジンは幻想郷に導かれた物語と記憶を。一人の特異点と四人の妖怪は電王の世界に刻まれた因果と時間を。それぞれ理解し、誤魔化し切れぬ混乱の中に在りながらも今起きている事象と合わせ、それが紛れもない事実であるのだと判断することができた。

 

「あなたたち、イマジン……っていうんだ」

 

「よ、妖怪……だと……? こいつらが……!?」

 

 すでに雲山の手によって将棋盤が片付けられた命蓮寺の居間、人数分の座布団は容易されているものの、未契約体のイマジンたちは下半身が頭上にある都合上それに座ることができない。仕方なく座布団の上に上半身を湛え、幻想郷の妖怪たちと向き合う。

 こころは訝しげに砂色の鬼を見つめ、モモタロスは怯えながら少女の無表情を見る。他のイマジンも妖怪たちも、彼らほど態度には表さずとも考えることは同じのようだった。

 

「未来から現れた精神……ねぇ」

 

 一輪の呟きは良太郎が語った概念を反芻する。彼女の隣に控えめに浮かぶ雲山も、同じく難解な話の理解に少し時間を要している様子の村紗と星も良太郎の話を改めて確認しているが──過去や未来といった時間の複雑さには、主観的な解釈を入れざるを得なかった。

 

 良太郎が彼女らに話したのはイマジンという存在の基本的な情報に関してだ。未来に存在する人間たちが時間の繋がりを失ったことであらゆる過去を失い、精神だけの存在と成り果ててしまった者たち。

 今の姿も良太郎という宿主のイメージから形作られた仮初めのものであるのだが、時間の断絶を経た彼らにとって未来の人間であった頃の姿など最初から無かったに等しい。今は実体こそ失っているが、この姿こそが自分自身を証明する大切な記憶である。

 

 過去の改変を目論むイマジンたちとの戦いの本筋(・・)についてはまだ話さない。一度に多くの情報を開示してもさらなる混乱を招くだけだろう。

 それでも最低限知っておいてほしい情報はまだ残っている。良太郎は少しずつ慎重に、敵対するイマジンたちと戦う電王について、そして時を超える未来の列車──デンライナーについてのことを自分自身の言葉で語った。

 今はただイマジンが過去を変える目的で動いていること、そのイマジンたちを裏切って時間を守るために戦ってくれるモモタロスたちのこと。そして彼らと共に戦う電王についてを知っておいてもらう必要がある。一度その戦いを共にした以上、特に彼女(こころ)には知る権利がある。

 当初は自分も深く理解できる話ではなかった。デンライナーや時間のことについては今でもすべてを完璧に理解しているとは言えないため、自分の言葉でどれだけ伝わるかは分からない。

 

「ハナさんもナオミちゃんもオーナーもいないけど……デンライナーが無事なだけマシかな」

 

「モモの字がパスを失くしてへんかったらの話やけどな。ちゃんと持っとるやろな?」

 

「ば、バカ野郎! 俺がそんなヘマするわけねえだろうが! ……な、良太郎?」

 

 流れる砂の身のまま、ウラタロスとキンタロスがモモタロスに向き直る。デンライナーに誰もいない事情は彼らも知っていたようで、モモタロスは動じない。ただ彼らの言葉に少し狼狽えてしまったのは、彼らの懸念に心当たりがあったから。

 デンライナーを操るために必要なライダーパスはしっかりこの場に存在する。それを証明してみせようと、モモタロスはさらりと砂の流れる時を刻みつつ、良太郎のほうへ振り返った。

 

「パスならちゃんとあるよ。……僕は落ちてたのを拾ったんだけどね」

 

 良太郎は苦笑しつつ懐からライダーパスを取り出し、ウラタロスたちに見せる。一年前、最初にこれを拾ったのは運の悪さゆえに。凄絶な戦いの運命に巻き込まれることになってしまった呪いの片道切符としてこの手に与えられたのかもしれないと思った。

 だが今では違うと断言できる。これはきっと、彼らとの出会いを導いてくれた小さな希望。どこまでも運が悪い自分のために神様が与えてくれた──『幸運の星』だったのだ。

 

 一度はこれをオーナーに返却してなお、この地で再び手に取ることができたのも良太郎に残った小さな幸運のおかげか。

 ただ運が悪いだけではない。彼らとの出会いの切っ掛けも、彼らと育んだ時間も。良太郎の弱さと運の悪さを少しだけ──ほんの少しだけ克服させてくれている。良太郎はそう信じていた。

 

「……なんや、やっぱり落としとったんやないか」

 

「本当、良太郎がいてくれてよかったよ。時間がズレてることは少し気になるけど……」

 

「うるせえ! お前らだって自分のパスはどうしたんだよ?」

 

 呆れた様子で腕を組むキンタロスに続けるように、ウラタロスが肩を竦める。彼らもモモタロスと同じ時間から来ているようで、良太郎一人だけが2008年の1月から来ていることに違和感を覚えながらも良太郎との再会を素直に喜んでいるようだ。

 良太郎ほどではないが、モモタロスもライダーパスを失くしてしまったり、デンライナーから一人振り落とされてしまったり──幾度となく不運に見舞われていることは否めない。良太郎の不運が伝染したのだろうか。

 

 実体を持たなかった彼らは良太郎に憑依し、電王に選ばれた良太郎に便宜上の所有権があったライダーパスを共有することで、モモタロスたちはデンライナーに乗車していた。だが、戦いを超えて彼らは過去を手に入れ、実体化を遂げた。

 存在を成立させた彼らは良太郎とパスを共有することができず、デンライナーへの乗車権限を失ってしまったが──オーナーの計らいで全員分のライダーパスを用意してもらえている。

 

「正規の手続きが必要とかで、オーナーが全部持ってったやろ。忘れたんか?」

 

「えっ? あれ? そうだったっけ……?」

 

「そのとき、センパイはデンライナーに残ってて、一緒にいなかったからね」

 

 不幸中の幸いと言っていいのか、彼らは再び実体を失ってしまっている。ライダーパスが一つしかない状況であっても良太郎との乗車権限共有は問題なく機能し、彼らはデンライナーに乗車することができるだろう。

 オーナーが不在の状況ではルール自体が機能していないとも言えるため、その抜け道にも大した意味はないのかもしれないが、少なくとも不正な手段での乗車には該当しないはずだ。

 

 モモタロスが持っていたライダーパスはかつて良太郎が電王への変身に使っていたものと同じ。デンライナーの制御を司る本来(メイン)のそれを便宜的に預かり、モモタロスの乗車権限として与えられていたため、モモタロスが持っていたものだけは手続きが必要なかったのだ。

 そちらは今は良太郎の手に戻り、それとは別にあったモモタロス用のライダーパスは手続きのために別の場所で管理されている状態にある。

 オーナーが改めて用意してくれたモモタロスたちの分のライダーパスを『ターミナル』と呼ばれる時間の分岐点を観測する巨大な駅舎にて登録するため、オーナーは彼らから再びライダーパスを回収し、ウラタロスたちは一時的に列車から降りた。

 無期限の乗車チケットを有するもう一体のイマジンはライダーパス自体が必要なく、別の場所で時間を潰していたのだろうが、モモタロスが彼らの帰りを待っていたときだった。

 

 デンライナーにいたはずの自分は、客観的に見てそこから消えたのだろう。チャリンと落とした知恵の輪だけをそこに残し、モモタロスは──否、ウラタロスもキンタロスも別の場所にいたイマジンも。ターミナルにいたすべてのイマジンたちでさえもが例外なく。

 砂の一粒も零さずに一瞬にしてそこから消失してしまった。モモタロスが知るのは、気がついたら夢を見ているような曖昧な空間の中に漂う自分自身。彼はその場から見えた幻想的な景色に迷い込み、霊体化した状態で未知の空を飛び回り。時代錯誤な街並みにて人々を襲うコウモリを見て、咄嗟にそこへ飛び込んだのだ。

 そこから先は良太郎が知る通り。デンライナーを操って現れた良太郎の姿。モモタロスは良太郎に憑依して電王となり、そのコウモリ──バットイマジンを撃破することができたのだった。

 

「まだ分からないことも多いけど……良太郎さんだっけ? これからどうするの?」

 

「……それは……これから考えようかな……」

 

 外来人の青年に対し、一輪は憂うように問いかける。良太郎はウラタロスから聞いた奇妙な話に底知れぬ不安を感じていたようで、少し遅れて一輪に力なく笑いかけた。

 

「よかったら、命蓮寺(ここ)を使っていいわ。よく人間を泊めるし、部屋もたくさん余ってるから」

 

「えっ……でも……」

 

 こころが相変わらずの無表情で呟いた申し出に対して、良太郎は遠慮がちにイマジンたちを見下ろす。こころもこの命蓮寺の世話になり、寝床を与えられている身。半ば家族同様の存在として命蓮寺に受け入れられている彼女は星の表情を見た。

 星とてこころの表情からその意図を読み取ることはできない。だが、仏の教えを伝える寺、毘沙門天の威光を代行する虎の妖獣は、命蓮寺の本尊として彼を見過ごせなかった。

 

 命蓮寺代表である住職は不在の状況。されど命蓮寺が祀る神仏の代行者はここに。住職を担う魔法使いの信仰を一身に受ける本尊でありながら、彼女もまたその魔法使いに救われ彼女を尊敬する立場にある者でもある。

 星は己が尊敬している住職が信仰している毘沙門天の代行者に加え、今この場においては尊敬している住職の代理を務めている。その奇妙な関係性もまた命蓮寺の在り方であるのだ。

 

 怪物を連れた外来人など里には受け入れられまい。星は住職の意思に代わり、野上良太郎を命蓮寺に受け入れることにした。きっと、自身を救った住職──かの魔法使いもそう言っただろう。

 

「いいじゃねえか。それなら遠慮なく使わせてもらおうぜ!」

 

 良太郎のもとへ集う砂の姿。モモタロスたちは白い砂を零しながら少女たちに向き合う。こころから見ても、その異形は里で見たバットイマジンと変わらない怪物のもの。

 未契約体であるか完全体であるかという存在の違いを除けば、その見た目に大した差はない。

 

「えっと……その……申し上げにくいのですが、イマジンの皆さんはちょっと……」

 

「なんだよ、ケチくせえな」

 

 住職不在の寺で住職の代理を務める本尊という奇妙な立場の星が告げる。純粋な人間である野上良太郎だけなら泊められるが──モモタロスたちに対しては未だ懸念が残っていた。

 

「いくらここが妖怪寺とはいえ、その姿だとみんなが怖がるんだよ」

 

「あと砂で床が汚れる」

 

 理由は単純。村紗とこころが答える通り、怪物であることを自ら証明する姿は命蓮寺の修行僧たちに不要な警戒を抱かせてしまう。人間の里に代わる安息地としてここを訪れる無力な人間たちも、イマジンがいては不安に苛まれることだろう。

 人間と妖怪の共存は命蓮寺の──その住職の理想である。しかし、妖怪は人間を襲わなくてはならない以上、実現は遠い。あるのはスペルカードルールありきの表面上の利害の一致だけだ。

 

「そらしゃあないなぁ……」

 

「女の子に入るのは趣味じゃないけど、僕は君たちに憑いたままでもOKだよ?」

 

 キンタロスは残念そうに視線を伏せつつ再び腕を組む。その身からさらさらと零れる砂は彼らの意思に非ず、自分たちではどうすることもできない。誰かの肉体に憑依すれば未契約体の姿でいる必要もないため──ウラタロスは渇いた砂の身に似つかぬ濡れた声色で告げた。

 

「「却下!」」

 

 村紗と星の一蹴がぴしゃりと砂を震わせる。一度その身を明け渡し、長らく自由を奪われてしまっていた彼女らにとって、それは過去の呪縛を想起させる。

 舟幽霊の少女は入道使いの少女と共に、人間の手によって地底の世界に封じられた。毘沙門天の代行者はその立場ゆえ恩義に報いることもできず、ただ神仏として輝き続けた。救われるばかりの自分たちが、大切な恩人に何も返すことができなかった時間。その悔恨を。

 

 今の自分たちには自由がある。かつて幻想郷に間欠泉が噴き出した際、その流れに乗って地底の封印が解け、一輪や村紗たちが星と再会し、かの魔法使いの復活を求めたとき。彼女らは千年の絶望さえも強く乗り越え、ついに恩人の復活を果たした。

 イマジンの憑依はその暗き封印の時間を思い出させる。深淵の中で時が経つ痛みだけを感じることしかできなかった嘆きを。毘沙門天の代理という立場ゆえに、誰よりも大切な恩人が、自分たちを守るように人間の手によって封印される様を見殺し──千年間も何もできなかった苦しみを。

 

「なんて、冗談だよ。まぁ、僕たちにはデンライナーがあるしね」

 

「ほな、俺らは先に戻っとるで」

 

「良太郎! もう二度と一人で無茶すんじゃねえぞ!」

 

 それぞれの砂の塊は三者三様にさらさらと音を刻みながら立ち上がる。と言っても、彼らの体高は何も変わらない。組まれていた頭上の脚が真っ直ぐ伸ばされ、その下の上半身はそのまま彼らの感覚だけが命蓮寺の畳の上に立った。

 良太郎は幾度かイマジンに頼らず一人で戦おうとしたこともある。だが今は一人ではない。確かな繋がりをそのままに──束ねる仲間と絆の力として、彼らは精神(ここ)にいてくれる。

 

「うん。何かあったら、すぐに呼ぶよ。みんな、ありがとう」

 

 良太郎の言葉に三体のイマジンは砂の身体を頷かせる。砂の身体を一身に集約させ、一粒残らず精神に還すと、彼らはそれぞれ赤く青く黄色く、優しく光るオーラとなって命蓮寺の居間から姿を消した。

 憑依した特異点──良太郎がここにいる限り繋がりは残っている。彼らがデンライナーに戻ったとしても、良太郎の意識を通じて思念を交わすことができる。良太郎がかつての戦いで宿していたイマジンは四体だったのだが、今は残る一体とは繋がっていないようだ。

 

 たとえ実体化を遂げていたとしても、憑依したイマジンの契約が完了しない限り、宿主との繋がりは残っているはず。それなのにあの『龍のイマジン』とだけ繋がることができないということは、彼の身に何かあったのだろうか。

 時間さえ隔てていなければ彼らとの繋がりは揺るぎないはずなのだが、時間の狭間と呼ばれる空洞においてはその意識が阻まれることがある。それだけ深い場所──地の底の果てとでも呼べ得るような深淵に一人でいるかもしれないというのであれば、良太郎も心配が拭えなかった。

 

「(デンライナーのみんなに……リュウタロス……どこ行っちゃったんだろう)」

 

 モモタロスたちの話を聞いても掴むことができなかった、彼らの所在。オーナーはターミナルに向かったようだが、それ以外の乗客は『いつの間にか消えていた』のだという。

 その詳細はウラタロスやキンタロスも知らない。オーナーと同様にどこか別の場所に行っているだけということもあり得るが──

 自分たちもまたその場から消失し、未知の場所に現れていた以上。彼女らも同様と考えることもできる。イマジンでないにしろ、彼女らも時間の中にしか居場所がない存在であるのだから。

 

◆     ◆     ◆

 

 そこは暗闇の中。冴える細雪と虚ろな石桜の輝きが微かに照らす地の底で、一人の少女が空虚な笑顔を湛えながら軽やかなスキップを刻み歩む。

 荒涼とした地底世界──旧地獄にいるというのに楽しそうに、されどその笑顔にはどこか感情を感じさせない無機質で空っぽな精神を思わせるような歪さを纏わせて。

 

 淡い緑色に染まった髪は緩やかに波打ち肩まで伸ばし。黒く広がる帽子に黄色いリボンを装い、翡翠の瞳が闇を見る。

 少女の名は 古明地(こめいじ) こいし 。黄色い上衣と花柄を帯びた緑色のスカートを揺らし、胸元に掲げる青い(まぶた)第三の眼(サードアイ)の存在が示す通り、彼女は嫌われ者たちが住む地底世界において最も恐れられる地霊殿の主──古明地さとりの妹たる『(さとり)』の一種である。

 

 だが、姉と違って第三の眼(サードアイ)の瞼は開かれていない。黒く艶やかな睫毛を下ろし、固く閉ざされたその眼はもはや何も見ることはなく、誰の心をも読むことはできない。

 彼女は己が心を、自我意識を捨て去った。覚としての能力を捨て、無意識の存在となった。故に彼女には自分の意識が分からない。ただ流れるように虚ろに生きているだけ。路傍の小石を思わせる、誰の目にも止まらぬ無意識の具現。

 姉のさとりでさえ彼女の心を読むことはできなくなってしまった。だが、それでいい。彼女はその能力ゆえに疎まれることも嫌われることもなくなった。同時に好かれることもなくなってしまったが、後悔などはしていない。そう感じる心さえも、閉ざしてしまっているからだ。

 

「えへへ、お姉ちゃんとお揃い!」

 

 第三の眼を繋ぐ青い神経(コード)に包まれながらこいしはくるくると笑う。その手に持った機械仕掛けのベルトらしきものは、さとりが手にした『Gバックル』と極めてよく似ているものの──地底の怨念を抱いたかのような歪な想念は、希望の象徴であったさとりのそれとは大きく異なる呪いじみた執念として宿っている。

 どこで手に入れたのか──それにはやはりさとりのベルトと同じ『神の力』が宿っていた。

 

「うん、そうだよー! 君にも、ってことは、あなたにも?」

 

 ただ一人、こいしは誰もいない場所で誰にともなく答えを返す。楽しそうに嬉しそうに、振る舞う彼女に我はなく、その表情はただ、無意識に生きているだけの発露に過ぎず。

 

「私のお姉ちゃんもとっても優しくて、だーい好き!」

 

 手に持ったベルトを妖力の渦の中に消失させるようにしまい、両手を広げて姉への愛を誇示してみせる。

 話す相手はどこにもいない。彼女はいつからか聞こえてきた精神(こころ)の中の声と友達になり、いつの間にか仲良くなっていた。少年と思しきその声の主は姿が見えない。だが、それは無意識の住人となり果て、誰からも気づいてもらえなくなった彼女もまた、同じような存在かもしれない。

 

「え? 本当は僕のお姉ちゃんじゃないけど……って? なにそれー。変なの!」

 

 頭の中に聞こえてきた声の奇妙な言葉に無邪気に笑いながら、こいしは地底の岩場を下っていく。意識せずとも、考えずとも。ふらっとどこかに遊び向かっては、誰の目にも留まることなくいつの間にか帰ってきている猫のように。

 彼女は何度か地霊殿に帰っている。だが、存在を知覚されることすら滅多にない。姉のさとりに見つけてもらえることはあれど、彼女でさえ必ずこいしを認識できるわけではないのだ。

 

「……お姉ちゃん、会いたくなっちゃったなー」

 

 両手の指を腰の背で組み合わせ、黒いショートブーツを纏う右足の爪先を後ろに下げて、冷たい地底の大地へ乗せる。虚ろな光を湛えた瞳は彼方に朧気に──地霊殿の明かりを見た。

 

「そうだねー! せっかくできたお友達だし、あなたも紹介してあげる!」

 

 無邪気に笑うこいし。花柄のスカートをひらりと揺らし、その裾から白い砂を舞い散らす。軽やかに大地を打ちつける靴の音は、さながら思考に流れる旋律に合わせた舞の如く。

 その笑顔はただ無意識に在るもの。普通の人間が喜びから不意に笑ってしまうように、彼女もまた笑顔を形作ることを意識していないという点は同じ。彼女の場合、それは笑顔に限ることなく。躍るような動きも言動も、一挙手、一投足、その思考さえも。すべてが自分の意識に依らない不意なる行動でしかない。

 人格がないわけではないのだが──その喜びも悲しみも意識の外側にあるのだ。夢を見ているのと変わらず生きる。何も考えてはおらず、ただ行動のみがそこにある。

 

 自分自身ですら次に自分が何をするか予測できないだろう。表情はあれど己の中の心を閉ざしてしまったその在り方は、自分の中に揺るぎない心を確立しようとしているものの自らの表情がない秦こころと正反対の性質を持っていると言える。

 彼女の内に宿るイマジンもまた刹那的な感情に従って生きる無邪気な『子供』だった。憑依した相手の波長が似ているからこそ、それはこいしと心を通わせ、友達になることができたのだ。

 

「……早く会いたいなぁ。お姉ちゃん」

 

 こいしの空虚な笑顔に微かな我が灯る。それはこいし自身の心ではなく、翡翠の瞳を紫電の色に染め上げたイマジンのもの。

 緩やかなウェーブヘアには同じく波打ち揺れる長い紫色のメッシュが生じている。異質な霊力から成るそれは、こいしの指先を黒く丸みを帯びた帽子の(つば)へそっと導かせ──

 首元には微かに軽快な音を漏らし続ける、黒いヘッドホンめいた虚像(イメージ)が浮かび上がっていた。




平成ライダー屈指の大所帯の電王+幻想郷屈指の大所帯の命蓮寺=めちゃめちゃ大所帯。

自分の表情も自覚できておらず、ただ今在る気持ちだけで生きてるためさっきまで自分が考えてたことも忘れてしまう。そんなこいしちゃんの在り方、あの人に似てるかも……というサブタイ。

次回、第51話『感情騎乗 × 環状軌条』


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第51話 感情騎乗 × 環状軌条

 人間の里の外れにある妖怪寺、命蓮寺。イマジンたちの存在によりどこか賑やかさを湛えていたが、彼らが時の列車たるデンライナーに戻ったことで本来の落ち着きを取り戻している。

 すでに夜明けを迎え、丁寧に掃除された境内には春の朝陽が差し込んでいた。

 

 命蓮寺の廊下や畳に残っていた白い砂はなくなっている。村紗や星を始めとした多くの修行僧たちは修行の一環としても命蓮寺の掃除を行っており、この程度の砂であれば翌朝を待つまでもなく綺麗にすることができる。

 仏教徒の朝は早い。さほど遅い目覚めというわけではなかった良太郎が起きる頃には、すでに寺の全員が朝の日課を終えているようだった。

 良太郎は用意された見慣れぬ部屋、見知らぬ寺の一室にて。ありえるはずのない見慣れたものを手に取り袖を通す。それはここに持ち込んだ覚えのない自分の着替え。似た衣服を用意したわけでもないだろう。聞いた話の通りなら、この幻想郷は明治時代後期の文明であるはずだ。

 

「……やっぱり変だよ。僕がここに来ることが分かってたみたい……」

 

 小さく呟いた言葉は命蓮寺の静寂に吸い込まれる。命蓮寺の修行僧たちにそのことを訪ねてみたものの、村紗や星も含めて知っている者は誰もいなかった。

 自分がこの地に迷い込んだのは偶然ではない。懐から取り出しぎゅっと握りしめたライダーパスの微かな重みに視線を落とし、己が存在が特異点たるがゆえの未来のレールに想いを馳せる。

 自分がこの地に招かれたことも、やはり自身が特異点であるためか。再びライダーパスを手に取ることさえ、何者かによって仕組まれていたのか。

 

 部屋に用意されていた今朝の食事はすでに終えている。お寺の食事らしく質素ながら栄養の取れるものを胃に収め、良太郎は修行僧の案内に従って命蓮寺の境内へと歩み出た。

 眩しく輝く太陽が懸念に憂う良太郎の瞳を微かに細めさせる。不意に下ろした視線の先に、良太郎は命蓮寺の境内──石畳を淡く彩る桜の花びらを掃く妖怪らしき少女の姿を見つけた。

 

「ぎゃ~て~、ぎゃ~て~、はらぎゃ~て~♪」

 

 手にした竹箒に撫でられ躍る花びら。少女が口遊むは門前にて聞き覚えた仏の教え。緩やかなウェーブを湛えたショートボブの緑髪には犬のそれに似た茶色い垂れ耳を備え、その身に装う薄い茶色のワンピースには花を模した緑色の留め具があしらわれている。

 門前の妖怪小娘、山彦(やまびこ)たる 幽谷 響子(かそだに きょうこ) は命蓮寺に入門して日の浅い妖怪だったが、今では立派な修行僧として朝早くからお寺の掃除を担っているようだ。

 

 掃き掃除をしていた響子(きょうこ)の視線が命蓮寺本堂に向き、良太郎に気づく。一度その手を止め、明るい笑顔を見せると、少女は朝の日差しにも負けない力強さで元気よく声を張り上げた。

 

「命蓮寺の戒律の一つ! 挨拶は心のオアシス! おはよーございます!!」

 

 良太郎が少し怯むほどの大声で挨拶した響子は彼についての話を聞いてるのか、見慣れぬだろう服装の外来人を見ても訝しむことはない。

 山彦の本質は音の反響現象である。外の世界はおろか幻想郷でさえそれが証明されかけた彼女にとって、山彦という妖怪としては消滅してもおかしくなかった。しかし、命蓮寺に入門し、読経を覚えたことで、普段暮らしている妖怪の山でそれを練習していたとき──

 誰もいない山で読経の声がするということで妖怪の面目は保たれ、消滅を回避できたのだ。

 

「あっ、うん……おはよう」

 

「声が小さい!」

 

 控えめに挨拶を返す良太郎に対し、響子はぴしゃりと跳ね返す。山彦の性として、音に音を返す意思があるのなら同じレベルの大きさを求めてしまうのは仕方のないことか。

 

「お前がうるせえんだよ、朝っぱらから!」

 

 良太郎は黒髪に赤く滾る霊力のメッシュを帯びさせ、己の意思に関係なく逆立った髪に纏う電流のようなオーラも気にすることなく、今度は響子に怒号めいた声を返す。

 瞳に宿る赤色が語る通り、それは彼自身の言葉ではない。

 デンライナーにいたモモタロスが良太郎との繋がりを通じて戻り、彼の身に再び憑依した姿。言わば、今の彼は『M良太郎』と呼ぶべき状態。特異点であればイマジンの憑依に抗うことができるが、良太郎は持ち前のオーラの少なさもあってか、よほどの意思がなければ振り払えない。

 

「なんだ、大きな声出せるじゃん!」

 

「うおおッ!? そ、それ以上近づくんじゃねえ!!」

 

 嬉しそうに尻尾を振りながら、響子は波打つ緑髪と垂れ耳を揺らして近づく。山彦という妖怪に生物学的な共通点こそないものの──その外見はモモタロスが苦手な犬によく似ていた。

 

「あ、こころさんも! おはよーございます!」

 

「おおー。おはよーございます!」

 

 命蓮寺の境内にふわりと舞い降りるは桜の花びら。否、よく似た薄紅色の髪を柔らかく靡かせた面霊気の少女である。少女、こころは同じく桜の色めいたスカートを揺らしながら、命蓮寺の上空から並んだ石畳の上へゆっくりと着地する。

 元気よくそちらに手を振る響子に挨拶を返したこころの視線は良太郎へ。やはりこころにもイマジンの気配自体を感知することはできないが、感情の波がその差をこころに理解させた。

 

「良太郎、だっけ? 今はあの鬼のイマジンが憑いてる?」

 

 こころ自身にも確証はない曖昧な感覚。良太郎の人柄を詳しく知らないものの、怒りと呼べる感情を湛えた心は先日会話した良太郎らしからぬ荒々しい波動だ。その傍にいたイマジンの感情を思えば、今の状態の彼にはモモタロスと名乗ったイマジンが憑依していると判断できる。

 

「だから鬼じゃねえっつってんだろ! いい加減覚えやがれ! お面女!」

 

「お面女じゃなくて、こころ。そっちこそ、いい加減覚えやがれ!」

 

 良太郎の意思を無視して憤るモモタロス──M良太郎に対し、こころも負けじと赤い般若のお面を装う。

 未来に在った本来の自分、時間の断絶に伴いイマジンと成り果てる以前の過去を持たないモモタロスにとって、感情とは今ある自身の証明。良太郎と過ごした一年間と、そこから得られた小さな過去を証明する自分自身のすべてだ。

 こころの感情も言わば自分自身そのものであれど、それを表現するにはお面を被るしかない。誰かの肉体を借りなくてはならない身とはいえ、自由に己の表情を変えることができるイマジンという存在に、微かな羨望を覚えていることに──こころは気づいていなかった。

 

 互いが互いの怒りに感化されている。それを見かねた良太郎がモモタロスから身体を返してもらおうとしたとき、不意にM良太郎が怒りに満ちた表情を変えた。

 こころから視線を外して何かを探るように訝る。良太郎の肉体を通じてモモタロスが感じたのは、命蓮寺の周辺──そのどこかから感じられる特有の感覚。彼が言う『匂い』だった。

 

「(モモタロス?)」

 

「良太郎、やっぱ匂うぜ。……まだどっかにいやがる」

 

「(……うん。僕もそう思う。あのイマジン、たぶんまだ生きてるよね……)」

 

 先日感じられたイマジンの気配に続いて感じられるまた別の気配。カメ公たちじゃねえ、と付け加えたモモタロスの言葉通り、今はウラタロスたちはデンライナーにいるはず。やはりかつて戦ったときの記憶と同様、先日倒したはずのバットイマジンはまだ生きている可能性が高い。

 

「……ん?」

 

 気配を探っているうちに、M良太郎は自身の足元が不自然に動いたことに気づく。石畳の一つが不意に動き、思わずそこから足をどけた瞬間。並べられている石畳の一つ一つがゆっくりと位置を変え、土の地面があるべき場所に風の通る空洞が生じた。

 石畳の隙間の空間から伸ばされた女性の白い手。M良太郎はその光景に驚き、思わず数歩ほど後ずさる。石畳をどけて境内の下から顔を見せた一人の女性に対し、M良太郎は目を丸くした。

 

「よいしょっと」

 

「おおお?」

 

 連なる石の下から姿を現したのはやや背の高い若き女性らしき人物。長く緩やかなウェーブを帯びた茶髪は頭の周辺だけが紫雲めいた鮮やかな菫色に染まり、その境界に美しいグラデーションを纏わせた不思議な色彩を放っている。

 白い衣服を覆うように羽織る黒い法衣はどこか洋風とも取れる意匠を感じさせるが、彼女にとってそれは仏教と魔導のどちらをも兼ね備える魔法僧侶たる証とも言える。

 ふわり舞う純白のロングスカートをぱたぱたと払いながら、黒いブーツで元に戻した石畳の上に立つ女性── 聖 白蓮(ひじり びゃくれん) は、この命蓮寺の代表として知られる慈悲深き住職であった。

 

「おおおお……?」

 

 石畳と土の隙間に人が存在できる空間などないはず。そんな物理的な常識を捻じ曲げ、彼女はここに現れた。常識が通用しない幻想郷なる場所については聞いているが、良太郎の身体を借りてそれを目にしているモモタロスは理解が追いつかない様子。

 境内の掃除を一通り終えた響子は別の場所へ掃除に向かったのか姿が見えない。石畳をめくって確認してみるものの、モモタロスにはその隙間の先に何の空間も見ることはできなかった。

 

「あ、白蓮(びゃくれん)。神子のところに行ってたのね。一輪が心配してたよ」

 

「あら? 帰りは朝になるかも、って。(しょう)に伝えておいたはずだけど……」

 

 こころの言葉に白蓮は少しだけ不思議そうな顔をする。信仰する毘沙門天の弟子にしてその代理であり、かつ自身を慕う妖怪でもある寅丸星に行く場所を伝えていたはずの白蓮。それが一輪たちには伝わっていないということを知り、彼女は自らの頬に手を当てる。

 その伝達の不備にこころは心当たりがあった。星の身を支配していたイマジンの存在だ。

 

「……話せなかったのかな。クマみたいなのに憑依されてたし」

 

「くま……?」

 

 命蓮寺の直下にはもともと空間が存在していた。人間と妖怪の平等を求める白蓮が意図し、妖怪の撲滅を謳っていた豊聡耳神子の墓──『夢殿大祀廟(ゆめどのだいしびょう)』の解放を封じる目的で、あえてその真上に命蓮寺は建てられたのだ。

 だが、今は豊聡耳神子は命蓮寺の直下にはいない。妖怪の巣窟たる寺の下に道教の拠点を構えるのは不適切だと判断し、神子は己が仙術をもって幻想郷とは異なる場所に『仙界(せんかい)』と呼ばれる仙人固有の特殊な空間を切り拓いた。

 彼女の仙界はありとあらゆる隙間に繋がる。どれだけ小さな隙間であれ、術者本人が認める来客であれば即座に己の仙界に接続し、招くことができる。

 奇しくもそれは、乗車権限さえ有していれば如何なる出入口からも入場することができるデンライナーの駅──『時の砂漠』と同じように。

 

 神子は命蓮寺の直下という立地を厭って仙界に移動したはずなのだが、場所を問わない手軽さゆえ、白蓮は命蓮寺の石畳をめくったその隙間から神子の仙界──そこにある道場『神霊廟(しんれいびょう)』へと赴いていた。

 妖怪に与する僧侶と妖怪に敵対する道士。矛を交えるのは必然であったものの、幻想郷の宗教勢力を代表する二人は現在の幻想郷にとって不可欠な人物と言える。里の人間たちの希望を背負う者として、神道の代弁者たる博麗の巫女にも匹敵し得る宗教的指導者である。

 異変に際しては二人が協力することもあるだろう。かつて起きた完全憑依異変では、本来交わるはずのない仏教と道教の代表として白蓮と神子が手を組んでいたほど。此度の異変においても、聡明な指導者と認める相手の意見は参考になるため、敵地である神霊廟で話を聞いていたのだ。

 

「……良太郎」

 

「(うん。間違いない。この人……)」

 

 モモタロスと良太郎は気がつく。彼女の神秘的な法衣の裾から、自分たちがよく知る時間の一欠片──イマジンをその身に宿す者の証明たるもの。時の砂が微かに零れ落ちたことに。

 

「それで、こっちの人のことなんだけど──」

 

 こころが白蓮に対し、良太郎についてを語ろうとする。少女の桜色の瞳が白蓮から良太郎に向いた瞬間。良太郎の身から溢れた赤い霊体が、彼女の身へと叩き込まれた。

 その瞳が赤く染め上げられ、逆立つ髪には赤いメッシュが宿る。ぼんやりとした虚ろな表情には一瞬だけ怒りの表情が満ちたものの、すぐに猿の面を伴わない困惑の表情に変わっていた。

 

「お嬢さん、ちょっと話を聞かせてもらえるかな?」

 

 モモタロス──が憑依したこころ、言わば『Mこころ』と呼べる状態で目にしたのは、自身が先ほどまで憑いていた良太郎の姿。されど、それは青い瞳を持ち、知的な黒縁の眼鏡を装った冷静な表情を湛えたものだった。

 涼やかに流した前髪を撫で、優しげな口調で白蓮に問いかけるは、黒髪に青いメッシュを宿した良太郎。ウラタロスが憑依した状態の『U良太郎』と呼べる状態の野上良太郎である。

 

 Mこころは再び怒りの色を表情に湛えてU良太郎の胸倉へ掴みかかる。こころと良太郎の身長差ゆえに少し高い位置にあるそれを引っ張って顔を近づけ、憂いの表情に向け怒号を飛ばした。

 

「こら! スケベ亀! 邪魔すんじゃねえ!」

 

「センパイ、どこ入ってるわけ?」

 

「てめえが変なタイミングで入ってくるからだろうが!」

 

「ここはセンパイより、僕が適任だと思うけどな」

 

 眉間にしわを寄せて凄んでも少女の表情ではあまり迫力がない。モモタロスの精神から滲み出るオーラは赤い霊気として溢れているように見えるが、やはりこころ自身の感情ではないためか額に掲げるお面は般若とはならず、平常時の女の面のままである。

 良太郎の身体に憑依したウラタロスは少しずれた眼鏡を指先で装い直し、爽やかながらも湿度を帯びた微笑を零してMこころの手を優しく解くと、紳士的な振る舞いで白蓮に向き直る。

 

「ええっと……あなたは? こころのお友達?」

 

「そんなところです。きっと、これも運命なんでしょう。僕は貴方を見たとき……」

 

 白蓮の問いに対して艶やかな溜息混じりに彼女の手を取るU良太郎。少し驚いたように目を丸くする白蓮は思わぬ熱意に少し後ずさり、首から提げる緑色の数珠を揺らした。

 魅惑の色に濡れた言葉を飾り──ウラタロスは良太郎の声と姿のままに白蓮に語り始める。

 

「てめえはいちいちまどろっこしいんだよ! どけ!」

 

 磯臭い亀のしそうなことは荒れ狂う桃の鬼にとって慣れ親しんだ煩わしさ。湿った空気の色香を引き裂き、MこころはU良太郎を突き飛ばすと、そのままイマジンの気配を漂わせる僧侶の胸倉を強引に掴んで引っ張る。

 こころ自身の背丈も幻想郷の少女としてはそれなりの長身であるのだが、先ほどのU良太郎と同様に白蓮の身長もこころよりもやや高いがゆえ、Mこころの赤い瞳は白蓮の表情を見上げた。

 

「おい、てめえ! そんなとこに隠れてても分かってんだよ! さっさと出てきやがれ!」

 

「ちょっとセンパイ……! ダメだって! これ、身体はこの女性(ひと)のなんだから!」

 

 白蓮の黒い法衣から落ちる白い砂。彼女の深層(なか)にイマジンがいるのは明白だ。だが、先日感じた気配と同様に。モモタロスにはただ曖昧にイマジンの匂いが分かるだけ。それがどのような個体であるのかまでは判別できない。

 良太郎の顔のまま憂いの表情を見せるウラタロスに手を離され、Mこころは白蓮から距離を取る。滲む怒りと警戒を帯びたこころらしからぬ言動に、白蓮は困惑の表情を見せていた。

 

「こころ……?」

 

 不安そうに呟く白蓮の様子を見る限り、その表層にイマジンの意識はない。モモタロスでさえ、この距離でなければ気づけなくてもおかしくなかっただろう。

 センパイのせいで怯えちゃってるじゃない──と溜息をつくU良太郎の言葉に耳を貸さず、Mこころは相変わらずこころらしからぬモモタロスとしての表情で白蓮に向き直る。どれだけ深層に潜んでいようと実際に目で見た以上、その身から零す砂は誤魔化し切れない。

 白蓮の表情が変わる。Mこころは来るかと身構えるものの、その反応は意外なものだった。

 

「まぁ、いつの間にそんなに表情豊かになったの? 私の教えが良かったのかしら」

 

「お、おお……? なんか、やりづれえな……」

 

 嬉しそうに両手を合わせながら微笑む白蓮に詰め寄られ、今度はMこころのほうが後ずさる形になる。

 掴みどころのない雲のような振る舞い。モモタロスはその在り方に、星空の下に花の香りを漂わせる女性──野上良太郎の姉に似たものを感じた。もっとも、目の前の僧侶から感じられるのは花の香りではなく、仏門に相応しいような線香の煙とイマジンの匂いだけであったが──

 

 ──不意に風雅な竹の音を聞いたと同時。白蓮の紫色の瞳に、鮮やかな()()()光が灯った。

 

「……野上! あぁ、よかった!」

 

 再び白蓮の表情が変わる。今度はモモタロスにもはっきりと分かるイマジンとしての気配を表出させて。柔和な金色の瞳を緑色に染め、茶髪に紫色のグラデーションを帯びた緩やかな長髪が横髪を伸ばすと同時。前髪にはさらに長い緑色のメッシュが生じた。

 だが、その変化は一瞬のこと。すぐに白蓮の身体から溢れた白い砂がその足元で形を成し、上半身と下半身が奇妙に逆転した砂の怪物──未契約体のイマジンを象っていく。

 その砂の塊はすぐに漆黒の身体を伴い、揺るぎなき完全体の姿をもってそこに具現した。

 

「お前……オデブじゃねえか! お前も幻想郷(こっち)に来てたのか!」

 

「デネブ! デネブです!」

 

 瞳も髪も元に戻った白蓮から現れた姿を、Mこころの赤い瞳が見上げる。僧兵を思わせる体格に頭巾と鉢金を装い、下半身には漆黒の腰布を長く垂らし。胸には鮮やかな緑色の装甲を纏い帯びた怪物は、良太郎もよく知る人物と契約を交わしていたイマジンだ。

 とある人物との契約を果たし、彼はその過去の姿と一年間の戦いを超えて存在を得た。モモタロスたちと同様に過去という証明を手に入れ、完全体の肉体を得ることですべての時間において己の存在を成立させているのだ。

 良太郎の姉の婚約者であった人物のイメージによって、彼──『デネブ』には牛若丸(うしわかまる)の物語から連想された武蔵坊弁慶(むさしぼうべんけい)の意匠がある。それは鴉天狗の象徴も伴うカラスの怪物(イマジン)たる証左。

 

「うおっ……!」

 

 モモタロスがデネブの存在に驚いた直後、彼の精神が宙を舞う。特異点の性質を持つこころが彼の隙を突き、その身に宿る無数の感情をもってイマジンの精神を追い出したためだ。

 

「また勝手に入って……どういうつもりだ!」

 

「好きで入ったんじゃねえよ! カメ公の野郎が……!」

 

 自身の足元に象られた砂の塊に向けて霊力から成る青白い薙刀を向ける。さらさらと砂を零すモモタロスは不満そうにこころへと抗議の声を上げるが、こころは無表情ながらも額に飾る般若の面を外そうとはしない。

 だが、今はそれよりも。いつの間にかウラタロスが抜けている様子の良太郎も、砂のままのモモタロスも──こころと共にその視線を完全体のイマジンへと向けた。

 

 これまでモモタロスたちと向き合えたのは彼らが無力な砂の身体でしかなかったためか。己が実体を伴う完全体のイマジンを前にして、こころは無意識に身体が強張るのを感じた。あくまで見せかけのために現した薙刀を握る手が微かに汗ばむ。

 不意に完全体のイマジンがモモタロスたちに背を向けた。対する相手は彼が憑依していた女性。白蓮に向き直り、デネブが彼女と目を合わせた瞬間。こころは思わず薙刀を強く握りしめる。

 

「勝手に入ったのは俺が悪かった。謝る!」

 

「えっ……? あ、はい……?」

 

 デネブは銀色の銃口めいた指先を己が(もも)に当て、深々と頭を下げた。自分の身体から溢れた砂が怪物を象ったことにも驚いただろうが、白蓮はその怪物が自身に頭を下げている光景に丸めた目を瞬かせる。

 彼女を攻撃するのではないかと思ったこころは面食らった様子で手にした薙刀を下ろし、足元のモモタロスと共に。不思議と見た目ほどの威圧感を持たない振る舞いに安堵した。

 

「……このイマジンも良太郎の仲間? こっちのやつと違って素直そう」

 

 相変わらず無表情ゆえ感情を読み取ることはできないが、モモタロスは自身を見下ろすこころの目線に返す言葉が見つからず。

 つまらなそうに目を背けては姿を消す。おそらくは、デンライナーへと戻ったのだろう。

 

「(良太郎。彼の姿、ちょっと気になるよね……)」

 

「(そういや、あの野郎……なんで実体化してやがんだ?)」

 

「(…………グゥ……)」

 

 良太郎の思考の中に流れ込む三色の声はデンライナーにいるイマジンたちのもの。ウラタロスの疑問に続き、モモタロスも「俺たちは砂のままだってのに──」と不満を零す。先ほどから静かなキンタロスに関しては、ただ眠っているだけだ。

 モモタロスたちもデネブも、一度は共に戦った宿主との時間をもって契約に依らない自分自身の身体を手に入れ、実体化を遂げている。

 同じ条件であるはずのモモタロスたちが己の実体を失っているにも関わらず、なぜデネブだけが実体を保っていられるのか。良太郎は頭の中の声に小さく頷き、振り返るデネブに声をかけた。

 

◆     ◆    ◆

 

 デネブは白蓮に己の名を告げ、イマジンたちや良太郎の説明を終えている。身体の自由を取り戻したこころと共にイマジンについて認識を確認し合い、彼女らはデネブから受け取った可愛らしい包装の小さな飴玉に視線を落とす。

 良太郎は完全体のデネブと向き合っていた。その姿は過去の一年間でも慣れ親しんだもの。初めて彼と出会ったときも、彼はすでに姉の婚約者と契約を交わした完全体の姿だった。

 

「はい、野上にも。デネブキャンディ、どうぞ!」

 

「ありがとう……あの、デネブ。その姿のことなんだけど……」

 

 黒い頭巾と銀の額当ての下──金色の仮面から覗く緑色の瞳には柔和な優しさを湛え。良太郎の手よりも遥かに大きい彼の手の平にはいくつもの小さな飴玉、彼のお手製たるデネブキャンディが優しく乗せられている。

 控えめな口調で切り出された良太郎の言葉を耳にして、デネブは少し目を伏せた。微かな沈黙の後、視線を良太郎に向け直して鴉の(くちばし)めいたその銀色の口から言葉を紡ぐ。

 

 彼の契約者──良太郎の姉の婚約者だった 桜井 侑斗(さくらい ゆうと) という男の若き時間の姿、青年だった頃の契約者と、かつてと同様に行動を共にしていたとき。

 天を衝くビルも、道路を走る自動車も。町行く人々までもが蒸発するように消えていった。おそらくはイマジンによる過去改変の影響だろう。過去で破壊された建物、死んだ人間は未来に存在することはできず、過去が書き換わると同時に現在から消滅する。

 過去改変が成されても、その時間より未来に改変される前の世界を覚えている者がいれば歴史は正しく元に戻る。一時的な過去改変による現在への影響は、これまでも見られたものだ。

 そして、その影響を受けたのは侑斗(ゆうと)もデネブも同じ。侑斗は特異点ではないものの、ある事情により疑似的に特異点と同様に時間への耐性を持ち、ある程度なら過去改変に抗い存在を復活させることができるはずである。

 

 だが──二人はある違和感に気づいた。イマジンが過去で建物を破壊するだけなら分かる。奇妙だと思ったのは、その破壊が()にまで及んでいたから。如何にイマジンといえど、無辺に広がる空そのもの、ひいては電王の世界そのものと呼べる空間を消し去るなど──

 二人の疑惑は一つの可能性に。この消滅現象はイマジンによるものとは違う。漠然とした焦燥と不安が彼らを苛む中、二人は世界と共に消えた。

 消えたあとに見たのは夢のように曖昧な世界の光景だった。デネブはそこで実体を失い、再び精神だけの存在となってしまい──混乱の中にいたとき、彼は姿なき侑斗の声を聞いた。

 

 ──デネブ、契約だ。俺の望みは、お前を『あっち』の世界に連れていくこと。そこで『俺』を知っている奴を探せ。そいつが俺の記憶を──俺たちの世界の『歴史』を持ってる。

 

 虚ろに聞こえてきた言葉は要領を得ない。彼も消えゆく己に焦っていたのか、余裕なくまくし立てるようにデネブに告げて。最後に「野上を頼む」とだけ言い残し、侑斗の気配は消失。デネブは夢から覚めたように不思議な場所にいた。

 霧霞(きりかす)む空の下に見えた奇妙な道場へと思わず飛び込み、そのまま白蓮の深層に宿ったのだ。

 

「でも、侑斗は絶対に生きてる! 俺が覚えてるし、消えてないのがその証拠だ!」

 

「再契約……したんだ。桜井さんとじゃなく、今を生きている侑斗と……」

 

 デネブが声を荒げて訴える通り、時間の改変によって特異点ではない侑斗が消えたのならデネブ自身とて彼を忘れてしまっているはず。そして、契約者が死亡したのであれば繋がっているイマジンも消滅を遂げるだろう。

 だが、デネブは彼を覚えている。ここに存在している時点で、イマジンとして消滅したわけではないのは明白だ。

 過去の桜井侑斗──若き日の侑斗はもはや、本来の時間、良太郎が知る姉の婚約者たる桜井侑斗と同じ未来を歩むことはできない。彼はとある力の制約によって己が存在した時間を削って戦い、代償として多くの人々に忘れ去られ──『現代の桜井侑斗』は存在を失った。

 

 すでに良太郎の姉の婚約者と、良太郎と共に戦った桜井侑斗の二人は、別人となっている。自分自身の存在を消してでも守りたかった時間を守るために。

 自身と婚約者の間に生まれた未来の特異点。自分たちの娘を世界から隠し通し、彼女が存在する未来そのものを隠すことで、今がイマジンたちの未来へと繋がることを阻止したのだった。

 

「二人とも、桜井侑斗という青年について、何か知ってたら教えてくれ!」

 

 張り詰めた心で白蓮とこころに問いかけるデネブだったが、二人はその名に心当たりはないらしい。侑斗が言っていた『俺を知ってる奴』とは、彼女たちのことではないのだろう。

 

 デネブが寂しそうに肩を落とす。その直後──白蓮とデネブは上空から強い敵意を感じた。

 

「「危ない!」」

 

 白蓮とデネブの声が重なり、僧侶は己が『魔法を使う程度の能力』により強化された身体能力をもって、振り下ろされる『傘』の一撃を受け止める。その衝撃は大きく、力強く踏みしめた白蓮の足元で命蓮寺の石畳が叩き割れるほど。

 大柄な体格のデネブは咄嗟に動き、両腕を広げて自らを盾とするようにこころや良太郎を守り抜く。畳まれた状態の唐傘による攻撃は白蓮が止め、砕けた石の破片からはデネブが守った。

 

「あなたは墓地の……いったい何の真似? 入門希望なら門を叩いてほしいわね」

 

 だらりと不気味な舌を伸ばした紫色の唐傘は閉じた状態のまま、自身を受け止める白蓮を見つめる。それを握る付喪神──多々良小傘の表情は白蓮か、あるいは命蓮寺そのものに対する破壊衝動を宿すのか、普段なら赤と青の虹彩を持つ瞳はどちらも濃紺に染まっていた。

 

「(いや、この感じ……私やこころと同じ……?)」

 

 小傘を無力化するべく、白蓮は唐傘を受け止めたまま右脚を薙いで少女の脚を狙う。だが、普段なら取るに足らない妖怪なれど、今の彼女はそれを見切った。

 不意に妖力を注がれた小傘の唐傘は白蓮の目の前でその身を開く。ばさっ、と派手な音を立て、地味めな紫色の傘が勢いよく展開すると同時。白蓮は広がった傘に視界を奪われ、小傘の後退を許してしまった。からんからんと下駄の音を鳴らし、少女は白蓮から軽やかに距離を取る。

 

「このくらいで十分だろう……だが……」

 

 小傘は鋭く細めた暗い瞳でこころと良太郎をそれぞれ一瞥しつつ、水色の衣服から白い砂を零しながら苦々しい表情で舌打ちする。

 広げた傘を再び畳むと、それを手元から消失させて──上げた左手でパチンと指を鳴らした。

 

「……! こ、これは……!」

 

 白蓮が驚いたのは小傘の背後に生じた灰色のオーロラらしきもの。幻想郷で起きている此度の異変で何度か目にしたことがあるが、正体は分からない。命蓮寺の境内がオーロラから流れる空気に満たされるのを感じた直後、白蓮はすぐにその先の異形を見る。

 一つ、二つ、さらに続けて三つ。波紋を広げたオーロラはそこから鮮やかな群青の体躯に作業着めいた赤いコートを纏う人型の怪物を産み落としていった。それらは両肩に銀色の管に似た鉤爪を装い、ガスマスクに似た銀色の頭の頂点と口元には鋭い掘削機の意匠を持っている。

 

「あれ? こいつ、たしか電王だよ……!」

 

「丁度いいや、あのときの借りを返してやろうよ」

 

「ひゃはははっ! やるよ! やっちゃうよ!」

 

 オーロラの向こうから現れたのはモグラのイメージから象られた空想の魔人。それぞれ左腕を斧たる『アックスハンド』、掘削機たる『ドリルハンド』、鉤爪たる『クローハンド』として振りかざしながら、モグラを思わせる怪物たち──『モールイマジン』たちは高らかに声を上げた。

 

「聖? 今の音はいったい……!?」

 

「怪物……!? こいつらもイマジンってやつ?」

 

 命蓮寺の本堂から焦燥の色を見せ現れるは、先の轟音を聞きつけた修行僧たち。寅丸星と村紗水蜜はそれぞれ別の戸を開き、命蓮寺境内に存在する三体ものイマジンを見る。

 

「(……どうやら、こっちじゃなかったみたいだね)」

 

「(ちっ……! 紛らわしいんだよ……!)」

 

 良太郎の思考の中に響く、ウラタロスとモモタロスの声。先ほど感じられた気配はデネブのもので間違いなかったのだろうが──それはあのイマジンとは関係なかった。むしろ、近くにいたデネブの気配に紛れてあの契約者に気づけなかったのだ。

 間違いない。良太郎の中で彼女を見るモモタロスは衣服から白い砂を零す多々良小傘こそをコウモリのイマジンの契約者と断定する。あの動きは、かつて戦った相手のものとよく似ている。

 

「電王……この場で貴様を潰す!」

 

 濃紺の瞳で良太郎を睨み、小傘はそう呟くと、その身から溢れた砂が彼女の足元で怪物を象る。砂はやはり濃紺の肉体を持つ完全体のイマジン──コウモリのイメージから生まれたバットイマジンを形成し、力が抜けた小傘は小さな悲鳴を零してその場に腰を抜かして座り込んだ。

 

「あのイマジン……たしか昨日倒したはずの……」

 

「やっぱり、まだ生きてたんだ……あのときと同じ……」

 

 こころは先日の記憶を、良太郎は先日に加えて一年前の記憶を想起する。

 イマジンとは契約者のイメージから生まれる想像の怪物。たとえ肉体が破壊されても、自身を形作る精神が欠片でも残っていれば、再び契約者の記憶(イメージ)に触れて肉体を再生できる。あのとき散った砂の一部が逃げていたのだ。

 濃紺の翼を広げるバットイマジンを前にして、良太郎は心の中に熱い闘志を灯らせる。もはや一年前のように逃げ惑うだけではない。強く己を戦士と構え、ポケットの中で眠るライダーパスによる波動をもって、左手に現したデンオウベルトを腰へ巻きつける。

 

「デネブ! 君はそっちのイマジンをお願い!」

 

「わかった! 野上も、無理はするな!」

 

 白蓮たちと共に三体のモールイマジンと向き合うデネブに告げる良太郎。両手で数え切れないほどのイマジンの軍勢を単独で退けた彼ならば、この程度の数の敵に遅れは取るまい。

 

「変身っ!」

 

 覚悟を込めた一声を呟き、良太郎は右手のライダーパスをデンオウベルトにかざす。白い光のレールが舞い散り、再び還っては良太郎の鎧たるスーツを形作る。彼自身のオーラによって形成されたフリーエネルギーの強化スーツは、黒と鈍色だけを湛えた無機質なもの。

 装甲と言える装甲はほとんど何も帯びておらず、頼りない弱々しさを抱く外見なれど、それはすべての仲間たちを繋ぎ留める駅。変身の際の電子音声もなく、力もあまりに弱い不完全な形態ではあるが、この『プラットフォーム』は良太郎にとって初めて電王となり、敵に立ち向かった思い出のある覚悟の証だった。

 

 向き合うバットイマジンをしかと見据えながら、良太郎はデンオウベルトに設けられた四つのフォームスイッチ、その一番上にある赤いものを押そうと、左手の指でベルトに触れる。

 

「(良太郎、せっかくだから僕にやらせてよ)」

 

「えっ……? ウラタロス?」

 

「(あっ、こら! カメ! 抜け駆けしてんじゃねえ!)」

 

 不意に思考を濡らす海色の声と共に、良太郎の身体が自然に動く。赤いスイッチを押そうとしていた指先はその下の青いスイッチへと伸ばされ、艶やかな手つきでそれに触れたと同時。ターミナルバックルは青く染まり、水泡を思わせる軽やかな旋律が波のように流れ響いた。

 

「変身!」

 

『ロッドフォーム』

 

 右手に持ったライダーパスがターミナルバックルの前を通過した瞬間に響く電子音声。

 青く波打つ光と共に、電王の周囲にレールめいたオーラが浮かぶ。それらはいくつもの白い装甲を運び、廻り翻ってはオーラスキンを帯びた電王に連結。

 一つ一つがそれぞれ刃を入れた魚の如く開き、内なる蒼穹の色を見せながら電王の肩や胸に亀甲紋様を刻んだ堅牢な鎧を纏わせていく。ソードフォームにおいては正面に見せていた真紅を背中へ追いやり、良太郎は青き潮騒を思わせる亀の甲羅めいた装甲に包まれた。

 

 最後に時間というレールの海を舞い泳ぐウミガメの意匠が頭部のレールを伝い、やがてあるべき位置までその身を収めると、ウミガメはヒレを角とし、甲羅に施されたオレンジ色の複眼を晒す。青き電仮面を装い──良太郎は『ロッドフォーム』となった電王の姿で怪物と向き合った。

 

「言葉の(ウラ)には針千本。千の偽り、万の嘘。それでもいいなら……」

 

 ウラタロスは電王となった良太郎の身体を借りて言葉を濡らす。右腕の肘を曲げて黒く細い指先を遊ばせると、表情など伺えないながら流れるような視線を六角形の複眼に込めて。

 

「お前、僕に釣られてみる?」

 

 右手の指先に力を込めぬまま──猫の顎でも撫でるかのような仕草で怪物を指す。それを挑発と受け取ったのか、バットイマジンは歯を食い縛って白銀の剣を形成した。そのまま右手の剣を掲げると、またしても灰色のオーロラが浮かび上がる。

 オーロラの先から現れたのは先ほどと同じモグラの怪物。やはり最初に現れた者たちと同様、青い身体に赤いコート、左腕にそれぞれドリルハンドとクローハンドを装うモールイマジン。

 

「(気をつけて、ウラタロス。このオーロラ、完全体のイマジンを何体も……)」

 

「どういう仕組みか分からないけど……厄介なものに変わりはなさそうだね」

 

 ちらりと見やった複眼の端には三体のモールイマジンと向き合うデネブ、そして白蓮たち。星と村紗に加え、遅れて駆け付けた一輪と雲山が怪物に構える。

 ウラタロスと共に在る良太郎──U良太郎は再び目の前のバットイマジンへと向き直り、そこに控える新たな二体のモールイマジンたちを見た。手元を見もせず、U良太郎はデンオウベルトの左腰に備わったデンガッシャーのパーツを二つ取り外す。

 

 それらを繋げ、迫るモールイマジンの爪を右脚で蹴り上げながら──続けて右腰から取り外したパーツをそこに接続。舞うように翻り、もう一体のモールイマジンを蹴りつけると、右腰に残る最後のパーツを先端に連結させ。

 完成したのは四つのパーツをすべて一直線に繋ぎ合わせた長大な『棍』だ。ウラタロスが得意とする棒術に合わせ『ロッドモード』となったデンガッシャーを矛の如く鋭く構えることで、それはウラタロスのオーラによって電王の身長に比肩するほどの長さを帯びる武器となった。

 

「おお、青くなった。だったら私も……」

 

 こころの表情は変わらず。だが、電王の姿を見た彼女の心境は、別の仮面を装うことで己の色を切り替える在り方に面霊気に通ずるものを感じさせる。手元に現した面は、その霊力をこころとリンクさせ、彼女のロングスカートを桃色から蒼褪めた憂いの色に切り替えさせた。

 

 デンガッシャー ロッドモードを構えた電王の背後から青白いオーラを帯びた鬼婆の面が飛んでくる。それはモールイマジンたちの肩を掠め、その背後に控えられる。

 こころが放った【 憂心(ゆうしん)鬼婆面(おにばばめん) 】は、鬼婆の面を装った幻影体の自分を相手の背後に設置することで機能するもの。薄く朧気な青白い憂いは、静かにモールイマジンへと振り返り、本体であるこころ自身と鬼婆の面越しに目を合わせる。

 そこに繋がる青白い霊力の糸。それはさながら釣り糸のように、こころの手元に結ばれて。

 

「それっ!」

 

 不意なる攻撃に怯んだモールイマジンに対し、U良太郎はデンガッシャーを振り上げて長いリーチを活かした殴打を放つ。

 怒涛のような連撃を浴びせ続け、もう一体のモールイマジンの攻撃も流水と薙ぎ。遠く蹴り飛ばした最初のモールイマジンを逃がすまいと、U良太郎はデンガッシャーを両手で構える。再び鋭く振り下ろしたそれは先端からウラタロスの霊力(オーラ)による光の釣り糸──青く輝く『オーラライン』を放ち、モールイマジンの首元にその先の針を引っ掛けた。

 手元の『デンリール』を回してモールイマジンを釣り上げる。こちらに迫ってきたそれを見てはデンガッシャーからオーラの糸を消し、再び振り薙いでは腹を打ち、遠くへ突き飛ばす。

 

「えいっ!」

 

 今度は続けてこころが引き戻した己の右手に従うように、モールイマジンの背後に控えていた幻影体のこころが霊力を伝って勢いよく舞い戻った。

 青白い波動の奔流に飲み込まれ、モールイマジンは自身を突き超えてこころの顔へと翻り装われていく鬼婆の面と共に、こころのスカートとロッドフォームの装甲、冴える二つの青を見る。こころ本体の顔へ舞い戻った鬼婆の面は、はらりと落ちては再び霊力となって消えた。

 

「そろそろ三枚に下ろすよ、こころちゃん?」

 

 恋人にでも囁くかのように告げたU良太郎に、こころは何も返さない。残念そうに溜息をつき、U良太郎は左手で取り出したライダーパスを青く輝くターミナルバックルへとかざした。

 

『フルチャージ』

 

 青い光を走らせるベルトに目もくれず、U良太郎は右手に水平に構えたデンガッシャー ロッドモードを槍の如く投げ放つ。一直線にモールイマジンの胸へ突き刺さったそれは、小さく胸へ食い込みその身に青白く輝く六角形の力場『オーラキャスト』を展開した。

 ウラタロスのオーラにより生じた光の網で相手を捕縛する【 ソリッドアタック 】を見舞うと、霊力の光とオーラキャストに身動きを封じられたモールイマジンを目掛けて。U良太郎、ロッドフォームの電王は素早く駆け出す。

 

「はぁっ!」

 

 命蓮寺の石畳を蹴って跳躍。己の右脚を鋭く突き伸ばし、飛び蹴りの形でモールイマジンへと向かっていく。放たれた電王の蹴り──【 デンライダーキック 】を正面から受けた怪物は、激しく注がれるフリーエネルギーの奔流に耐え切れず、砂と爆炎を上げ呆気なく砕け散った。

 

「さて、お次は──」

 

 爆風と共にその手に舞い戻ったデンガッシャー ロッドモードを左手に受け止め、U良太郎はロッドフォームとしてのオレンジ色の複眼で、残るもう一体のモールイマジンを流し見る。

 

「(頑張っとるやないか良太郎! 次は俺に任しとき!)」

 

「ええっ!? キンちゃん、ちょっと待って!」

 

 U良太郎の思考に響くは山吹色に輝く声。良太郎は青く満ちていた心の中に、今度は黄色い光が宿るのを感じた。ウラタロスの精神を阻みながら、デンライナーから良太郎の肉体に憑依したのはキンタロスの精神体。代わりに、ウラタロスの精神は時の列車へ戻っていく。

 艶やかなその振る舞いは力強い熊の如き無骨さに変わり、キンタロスが憑依した『K良太郎』となった身体で左手のデンガッシャー ロッドモードを高く放り投げた。

 

 空いた左手の指をもってデンオウベルトを彩る四つのスイッチのうち、黄色いものに触れ。山の朝靄を切り拓く陽光めいた金色の旋律に、K良太郎は眠気を覚ますように耳を傾け──

 

「変身!」

 

『アックスフォーム』

 

 堂々と胸を張った力士にも似た佇まいで右手のライダーパスを振りかざす。黄色く染まった状態のターミナルバックルの前を通過すると、高らかな電子音声がその土俵入りを認めた。

 

 黄色く輝くオーラが溢れ、ロッドフォームの電王はその装甲を分離(パージ)。青色だったそれらは前後を入れ替え翻り、一度は開いた装甲を再び閉じることで黄色い面を前へ向ける。そのままプラットフォームとなった電王の黒いオーラスキンに連結されていき──

 胸に無骨な漆黒を湛えたままの黄色を帯び、仕上げとばかりに頭部の路線を伝うさらなる黄色の到来を待つ。紙で折られた兜を思わせる菱型の形状を持つ黄色の電仮面は、顔面を二分するほどの雄大な(まさかり)の如き意匠を前へと突き出し。電王の姿を『アックスフォーム』へと改めていた。

 

 上空から落下したデンガッシャー ロッドモードを右手で掴み取り、己がオーラに染め上げ長大だったそれを元の大きさに縮小。その先端を取り外しては再び上空へ放り投げる。続けて真ん中のパーツを取り外し、残った本体を天に掲げ落ちてきたパーツをそのまま連結。

 最後に左手に持ったままのパーツを本体へ重ねて接続すると、薄く格納されていた刃がキンタロスのオーラを受けて本体の半分程度まで巨大化。強靭な刃たる『オーラアックス』となったそれを下に向け、K良太郎は左手の指で黄色い電仮面を装う己の顎を力強く押しては首を鳴らす。

 

「俺の強さにお前が泣いた。涙はこれで拭いとき!」

 

 アックスフォームへの変身に際してどこからともなく舞い散った懐紙吹雪。その右手に携える雄々しき手斧──『アックスモード』となったデンガッシャーに、全身から放つ熊の如き逞しさを備えたその身は、キンタロスのイメージ元たる金太郎の在り方に相応しいものだった。

 

「どや、完璧なタイミングやろ? これは泣けるでぇ!」

 

「(最悪だ、バカ熊! 俺の出番がなくなっちまうだろうが!)」

 

「(まったく……ずっと寝てたくせに、こういうときだけ鼻が利くんだから)」

 

 輝き満ちる自信を己の中へ語り、K良太郎は思考に赤と青の声を聞く。時の砂漠に在るデンライナーから響く声は、良太郎という繋がりを通じてそこに宿るキンタロスにも伝わっていた。K良太郎は電仮面の下の表情を力強く引き締め、怪物に向き合う。

 残るもう一体のモールイマジンが振り下ろしたクローハンドに身構えるこころ。だがその一撃は不動のままこころの前に出たアックスフォームの電王が己の身体をもって受け止めた。

 

 堅牢な装甲を帯びたキンタロスの揺るぎなき振る舞いは、電王を仰け反らせることもなく。攻撃を仕掛けたモールイマジンの左腕のほうがその身に鈍い痛みを覚え、あまりの手応えの無さに怯みながら電王の仮面を見上げたほど。

 K良太郎はその場で腰を深く落として屈み、デンガッシャーを持たぬ左手の平を広げて正面へ突き出す。力強い掛け声と共に放たれた『張り手』をもって、モールイマジンを突き飛ばした。

 

「今度は黄色……その感情に一番近いのはこれかな?」

 

 アックスフォームへと至った電王が帯びるのは金色に近い黄色。こころは再び面を切り替え、鬼婆の面を火男の面へ。同時に青かったロングスカートは喜びに満ちた黄緑色へと染まり、こころは己の両手に彼女自身の霊力から成る青白い扇子をそれぞれ一つずつ現した。

 

「……狂喜(きょうき)火男面(ひょっとこめん)!」

 

 額に装う奇妙な火男面とは裏腹に、無表情のまま両手を振り上げ喜びを表現する舞いを見せるこころ。彼女自身の霊力が喜びに躍るのか──その舞いを盛り上げる『花火』が次々と打ち上がり、煌びやかな大輪の弾幕をもってモールイマジンを攻撃する。

 キンタロスが散らす懐紙吹雪にこころが放った【 狂喜の火男面 】による打ち上げ花火。祭囃子でも聞こえてきそうな派手な舞台に乗り切れず、モールイマジンは彼らに近づけない。

 

「ほな、仕上げと行こか!」

 

『フルチャージ』

 

 花火の鮮やかな輝きに気分を良くしたK良太郎は左手に取り出したライダーパスをデンオウベルトのターミナルバックルにかざす。黄色いフリーエネルギーが全身に迸り、右手に携えたデンガッシャー アックスモードを遥か上空へと放り投げた。

 再び深く腰を落とし、足腰に力を溜めて。そのまま力強く大地を踏みしめ、命蓮寺の石畳が砕けんばかりの勢いで跳び上がる。空中で回転するデンガッシャーの柄を右手で掴み取り──

 

「そりゃあっ!」

 

 落下の勢いと振り下ろす斧の重さをフリーエネルギーに乗せ、黄色く迸る波動と共にデンガッシャー アックスモードの刃でもって、モールイマジンを頭上から唐竹(からたけ)の如く叩き割る。光を放つ雄大な一撃を受け、モールイマジンはやはり白い砂と共に爆散を遂げた。

 

「……ダイナミックチョップ」

 

 石畳に湛える砂の上、叩きつけた斧を大地に伏せたまま。K良太郎は揺らめく陽炎(かげろう)と共に顔を上げる。その手に残る金色の熱を拭わず、ひらり舞い散る懐紙の中。

 輝き放ったアックスフォームの一撃──【 ダイナミックチョップ 】の名を攻撃の後に宣言し、重みのある斧を軽く持ち上げ、黄色い電仮面でもって残るバットイマジンへと向き直った。

 

「まぁいい。契約者の望みはすでに叶えた……」

 

「こ、こんなこと望んでないよ……!」

 

 二体のモールイマジンを倒されたにも関わらずバットイマジンに焦りは見えない。自身の背後で震えながら立ち上がり、涙目で訴える小傘へと振り返った怪物は、濃紺の翼と長い爪を有した剛腕で。ただ人を驚かせるだけの無害な妖怪である小傘の胸倉を掴んで牙を見せる。

 

「……契約完了だ」

 

 その言葉と共に怪物は少女から手を離す。同時に小傘の身体には、その身を縦に二分するほどの大きな『裂け目』が生じていた。深く緑色の歪みを湛えたその穴へおもむろに飛び込むと、バットイマジンは小傘の内側(なか)へと姿を消してしまう。

 小傘の身体に生じた裂け目──時間への繋がりたる『過去の扉』を辿って、怪物はここではないどこかへ消えた。砂の残滓を零しつつ、小傘は再びその場に座り込む。

 

 裂け目といっても肉体的な出血を伴う物理的なものではない。ただ己の『記憶』を覗かれただけ。すでに裂け目は消えてなくなっており、小傘自身にも何が起きたのか分からない様子でへたり込んだまま狼狽に目を瞬かせている。

 確かに小傘は望んだ。この空腹を満たすために人々の驚きが欲しいと。だが、それは秩序を乱してまで里を、命蓮寺を──何もかもを無差別に破壊することでなど求めていなかったのに。

 

「あっ、こら! 待たんかい!」

 

 キンタロスは良太郎の身体を借りた電王の仮面越しにそれを見た。これまで何度も良太郎と共に目にしてきた、イマジンによる契約の完遂。

 イマジンが望みを叶える代償として求めるのは、契約者の『時間』だ。契約者が強く想った記憶が過去へと繋がり、イマジンはその繋がりを辿って過去の時間に赴くことができる。そこで何かを破壊すれば、その影響は現在にまで及び、イマジンが目的とする過去の改変が成される。

 

「何、今の……? あのコウモリのイマジンはどこに行ったの?」

 

 スカートの色を元の桃色に戻したこころが問う。表情こそ変わらないが、肌を微かに濡らす額の汗と、斜めに被った大飛出(おおとびで)の面が彼女の驚きを表現していた。

 両手で頭を抱える仕草を見るに、見た目以上に動揺していることは間違いない。

 

 良太郎はキンタロスの憑依を解いてもらい、腰からデンオウベルトを外すことで生身へと戻る。デンライナーに戻ったイマジンたちを心の記憶(なか)に思い描きながら、自分本来の黒い瞳でこころへと向き直った。

 イマジンが求める時間はすでに可能性を断ったはず。彼らがどれだけ過去を変えようと、もはや良太郎たちが守った未来が覆ることはない。

 漠然とした不安を胸に、良太郎はイマジンの契約についてこころに語った。すでに三体のモールイマジンを倒したデネブたち──彼と共に戦っていた白蓮たちも含め、イマジンと契約者の間に生まれる繋がりを語る。イマジンが向かった場所が、過去という不可侵であるはずの領域だと。




7月7日なので夏の星と縁の深そうなデネブ。たまたま時期が重なりました。
ゼロノスを出すのはもう少し先になりそうですが、せっかく七夕なので早めに投稿……

それにしても長い。電王編、必要文字数が多くなりがち。活躍のバランスはあまりよくない……

次回、第52話『時計仕掛けのクライマックス』


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第52話 時計仕掛けのクライマックス

 春の空気に包まれた命蓮寺境内、現れたモールイマジンたちはすべて撃破した。だが、それらを呼び出したバットイマジンは契約を完了し、契約者である多々良小傘の記憶を辿って過去の時間、彼女が強く記憶しているどこかの時間へ飛んでしまった。

 イマジンによって過去の扉を開かれた精神的な負荷によるものか、小傘はその場の石畳にへたり込んだまま動かない。

 少女は呆然とした様子で(うつむ)き、どこを見つめるでもなく虚ろに瞳の光を落とす。

 

「過去……」

 

 力なく座り込んだ状態の小傘を見つめて、こころは表情なく呟いた。

 小傘のことはよく知っている。命蓮寺の墓地でよく見かける、人を驚かせるだけの妖怪。忘れ去られた名もなき傘が付喪神となった彼女の存在は、大切に保管された由緒正しき能面が付喪神となったこころとは出自こそ大きく異なるが──

 同じ付喪神という妖怪としての意識か。こころは自分が能面として使われていた自分の時間を思い出していた。聖徳太子によって道具としての生を受け、後に能楽の神とまで呼ばれることとなる秦河勝によって使われた六十六枚の面。その輝きに満ちた──かけがえのない『過去』を。

 

「(野郎、飛びやがったか……!)」

 

 デンライナーにいるモモタロスの声が思考に響く。良太郎との繋がり越しに見えたイマジンの行動は紛れもなく。これまで何度も目にしてきた、イマジンによる過去への跳躍。

 成すべきことは決まっている。良太郎はライダーパスの機能によって生成された一枚の切符──時を超える列車への乗車券となる『ライダーチケット』を右手に取り出す。

 カードに似た形状のそれはただデンライナーに乗車するだけでなく、過去や未来の時間に降りるために必要なものだ。だが、生成されたばかりのチケットは無記名。未だ如何なる日付も刻まれていない『ブランクチケット』のままでは、特定の時間座標に向かうことはできない。

 

 ゆっくりと小傘へと近づき、良太郎は少女の頭にブランクチケットをかざす。すると、赤いラインを刻んだ何もない黒の札には小傘の記憶に宿る濃紺のコウモリ、バットイマジンの全身が映し出された。

 その下にはデジタル表記で記載された西暦と日付。小傘が強く記憶する時間──契約によって望みを叶え、契約者に強く想起させた記憶。バットイマジンが向かった時間を示すものだった。

 

「2019年8月15日……僕にとっては未来の日付だけど……」

 

 ブランクチケットから正式に日付を刻んだ状態となったライダーチケットを手に、良太郎は小傘の虚ろな表情を見る。2008年の1月を現在の記憶とする良太郎にとっては、彼女は未来の記憶を持っていることになるが──今いる2020年(ここ)こそが未来の時間なのだ。

 この日付を覚えてる? と少女に問う良太郎。小傘は一瞬だけ戸惑う素振りを見せたが、すぐにそれが自分にとって忘れたくない記憶であると思い出す。

 

 捨てられてしまったのなら、必要とされないなら。自分から必要とされる存在を目指せばいい。小傘は努力を続け、ベビーシッターや鍛冶師など様々な方法で人間たちに必要とされようとしてきた。その努力が──ついぞ報われた日。里の子供に遊び相手として必要とされた、初めての日。

 

「(おい良太郎、早く追わねえとイマジンが過去を書き換えちまうぞ!)」

 

「ちょっと待って。もしかしたら、『あれ』ならリュウタロスと繋がれるかも……」

 

 正確な日付が刻まれたライダーチケットを左手に持ち替え、良太郎は今度は右手で懐からあるものを取り出す。ここにはいないもう一体の仲間、雷雲の中を舞うドラゴンのイメージから生まれたイマジンたる『リュウタロス』と繋がれるかもしれないと思ったから。

 良太郎の手には鮮やかな真紅に輝く携帯電話じみたもの。それは一度の無茶が祟り、イマジンたちが消滅を遂げてしまった際。繋がりの欠片のようなものが形を成し、みんなといつでも繋がれるために生まれた想い出。

 畳まれていた状態のそれを片手で開き、左下にある紫色のキーを押そうとした瞬間。赤い携帯電話から零れた砂が良太郎の右手の指を伝って落ちていき──

 

 ついにはその形ごと砂と朽ち果て、良太郎の手からはただ白い砂だけがさらりと流れ落ちた。

 

「そんな……どうして……!」

 

 たった今まで手にしていた絆の証は形なき砂の山に。四体のイマジンを繋ぎ留める駅、良太郎という特異点へ彼らを結ぶための繋がりの楔は、呆気なく消えてなくなってしまった。

 

「聖、あれ……!」

 

 良太郎は慌てる暇もなく一輪の声に振り返る。水色の瞳で白蓮を見る彼女が指すは、命蓮寺境内に設置された手水舎だ。丁寧に手入れが施されたその設備が、同じく振り返った白蓮の視界においても変わらず。

 

 ──水の一滴も残すことなく、屋根も柄杓も含めたそのすべてが、その場から消失した。

 

「…………!」

 

 己の目を疑う光景に思わず息を飲む白蓮。それを訝る猶予もなく、今度は視界の端で虚ろに瞬く鐘楼の方に視線を向ける。立派に掲げられた木製の柱も、重厚に存在を主張する釣り鐘も。やはり手水舎と同じように揺蕩(たゆた)い滲み、最初から存在しなかったように消えてしまった。

 

「いったい何が……」

 

「イマジンが過去で暴れてる……! このままじゃ、今の時間も滅茶苦茶にされてしまう!」

 

 狼狽える白蓮の呟きに、緑色の瞳に焦燥の色を浮かべたデネブが声を上げた。

 時間とは川の流れのようなもの。上流に石を置けば、その影響は下流にまで及び後の流れを変えるだろう。過去で何かが変わればそれは現在と未来さえも変える。過去で破壊された寺の設備は、その時点からこの寺には『存在しなくなった』のだ。

 

 またしても視界の端で何かが瞬く。今度は命蓮寺から近い人間の里の高い塀が消失し、その先に続く建物までもが消えていく。

 不意に建物が消える様を見た里の人間たちは驚き、怯え、混乱しているようだった。

 

「里にまで……! ど、どうすれば……!」

 

 目の前で起きる破壊であれば白蓮とてそれを止めることができたかもしれない。仏の教えを伝える寺の代表として、人々の助けとなれたかもしれない。だが、如何に魔法の力を得た法力の担い手といえど──過去という手の届かない領域への干渉に対してはどうすることもできなかった。

 

「(良太郎! 今はとにかくイマジンを追って、過去に向かわないと!)」

 

「(せや、これ以上の被害が出たら、修復し切れんようになるで!)」

 

 良太郎は自らの手の中で砂と散った想い出(それ)に思考を染められていたものの、すぐに思考に響いたウラタロスとキンタロスの声に冷静さを取り戻す。

 過去がどれだけ書き換えられようとイマジンを倒すことができれば元に戻るはず。本来あるべき時間を覚えている者が一人でもいれば、特異点の記憶を基点に未来でその記憶を持っている人々の記憶から正しい時間は修復される。

 しかし、完全に時間が書き換わってしまうか、元の時間を覚えている者がいなくなれば、イマジンによって破壊された時間は正しい歴史として刻み込まれてしまう──

 

 砂に塗れた手を払い、良太郎は右手でライダーパスを取り出す。それを開き、小傘の記憶から日付を刻んだライダーチケットを差し込んで閉じる。透明の板から見えるチケットには、やはりバットイマジンの姿と『2019.08.15』の表記。

 覚悟を決めた良太郎の意思に応じ、命蓮寺の上空にて歪んだ光が虚空へレールを敷いていった。高く響く警笛と共に、姿を見せた時の列車──デンライナーはその車体を境内に停車させる。

 

「デンライナー……たしか、この列車で時を超えるんだっけ」

 

 こころにとって、その列車を見たのはこれで二度目。村紗や星、一輪は話でこそ聞いているが、それを知らない白蓮ともども実際に見るのは初めてのことだ。

 白い車体に赤い意匠を伴い、狭く小さな窓を並べた姿はやはり近未来的なもの。外の世界の技術を知らない彼女たちにとっては連想のしようもないが、その様相は列車──現代の日本において普遍的な電車というよりも、さらなる速度を求めて生み出された『新幹線』の姿に似ていた。

 

「私も行く。同じ付喪神として……大切な時間が壊されるのは見過ごせない」

 

 良太郎の表情に向き合い無表情の瞳に強い意思を灯らせる。額にて装ったこころの能面は、その真剣さと本気を込めた神妙なる狐の面。

 誰にとっても大切な時間はある。大切にされた想い出、道具として愛された記憶。それを奪われたら、失ったら。きっと哀しいという感情さえも抱くことなく、最初からなかったことになってしまうのだろう。

 

 忘れられることは辛い。所有者の強大な力を由来として付喪神となった彼女は、捨てられたわけではない。大切に保管されて、しかし放置され、道具として必要とされるまま、持ち主への恨みを抱くことなく面霊気という妖怪へ至ることとなった。

 だが、小傘のような忘れ傘の付喪神は道具として使われていた時間に自分以上の執着があるはず。大切な記憶を失い、過去(じかん)を失い、大切だったことさえも忘れてしまうなど──

 

 こころは聖徳太子と秦河勝、二人の持ち主の顔を思い出す。もっとも、聖徳太子のほうはお面として作られて以降は会うことがなかったため、面霊気として幻想郷に来てから出会った豊聡耳神子に対する記憶しかないが。

 面霊気となって以降も大切な時間はある。聖白蓮は妖怪の自分でさえも受け入れてくれた。お面としての身を形作ったのが聖徳太子──豊聡耳神子という親だとすれば、彼女は妖怪としての心を育ててくれた『もう一人の親』と呼ぶべき存在。二人は、奇しくも父と母であるかのよう。

 

「えっ……でも……」

 

「(バカ野郎! そんな危ねえ真似させられるかよ! 特異点でもねえくせに……ん?)」

 

 良太郎の呟きに重なるように、その心の中でモモタロスが憤る。良太郎にしか聞こえていないその声がこころへの叱責となることはなかったが、モモタロスは自身がデンライナーの中から良太郎の心へと伝わるように発した言葉に、彼女に憑いたときのことを思い出していた。

 

「(そういえばこいつ、特異点じゃねえか!)」

 

「特異点……? こころちゃんが?」

 

「(ああ、間違いねえ。最初に会ったとき、自力で俺を追い出しやがった!)」

 

 内なる心に伝わるデンライナーからの声を聞き、良太郎は自分自身へ向けて問いかける。モモタロスとの繋がりを持たないこころには良太郎が一人で喋っているようにしか見えないが、その存在を知る彼女には見えざる意思との会話を訝しがられることはない。

 

 特異点。それはあらゆる時間改変の影響を受けない、時間の流れの中に在る基点。どれだけ時という川の流れが変わろうと、その流れ自体が()き止められてしまおうと、その石だけは揺るぎなくそこに在り続ける。

 未来から現代に現れたイマジンという存在は時間という要素に縛られている。故にその憑依も時間による影響と定義されるのだろう。特異点はただ時間改変の影響を受けないだけでなく、時間の概念に制約を受けたイマジンの憑依にも抗うことができるという特性を持っているのだった。

 

「…………」

 

 こころの力強い瞳を見て、良太郎はモモタロスに似たものを感じた。

 元の在り方を失い、新たな身体となって。お面という道具から面霊気へ。未来に生きる人間からイマジンという異形の怪物へ。失った過去は取り戻せない。だからこそせめて、今ある時間を守り抜くために。

 モモタロスたちイマジンには、思い出せるような過去などなかった。だが良太郎と出会ってからのことは全部思い出せると、彼らは言った。

 たった一日でも、一瞬でも。忘れたくない時間はある。こころにとって、六十六枚のお面として使われてきた時間と秦こころという妖怪として生きてきた時間。どちらも大切なように。

 

「……急ごう。もうあんなこと……絶対させない」

 

 良太郎は強く覚悟を抱く。同じく覚悟の色を見せたこころの表情に向き合い、その思考にかつて自分たちの過去において見た凄惨な時間の破壊を思い出して。

 オーナーであればチケットもパスもないこころを時の列車に乗せることを許可しなかったかもしれない。それでも良太郎は彼女の意思を否定できない。大切な時間を、かけがえのない過去と未来を奪われる痛み。その怒りと哀しみを、良太郎は誰よりもよく知っているから。

 

 ライダーパスを持ったままデンライナーに近づくと、白い車体の一部が横に開く。どこか時計の内部機構にも似た独特な匂いのする車内に踏み入り、少し段差のある入り口へ振り返ってこころの手を取っては彼女を時の列車の食堂車へと招く。

 一度こころは命蓮寺の境内へと振り返り、列車の中から白蓮たちに向けて口を開いた。

 

「白蓮、みんな。小傘をお願い!」

 

 それを聞き届けた白蓮は状況がいまいち掴めていないにも関わらず、力強く頷く。

 虚ろに瞳を伏せたままの小傘を優しく介抱し、白蓮は「こっちは私たちに任せておいて」と。こころもその答えに頷き返すと、やがて白い車体は無機質な音を立てて扉を閉じ、二人をその身へと包み込んだ。

 

 椅子やテーブルが備えつけられた食堂車。白い壁には小さな窓。未来的な意匠のカウンターなどを持つその内装を見て、こころはあまりに幻想郷らしからぬその光景に息を飲む。良太郎はその車両を超え、デンライナーの先頭車両へと向かった。

 良太郎と共にこころが辿り着いた場所はデンライナーの運転室(コックピット)である。独特の赤いライトに照らされた空間、その前面に広がる命蓮寺の境内。画面と呼べる壁に映し出されたデンライナーの視界を見るように──運転室の中心にはやはり未来的な意匠のバイクが設置されていた。

 

 自らの左手に現したデンオウベルトを素早く腰に巻き、良太郎はフォームスイッチの赤を押す。やる気に満ちた旋律を聴きながら、そのまま右手に持ったライダーパスを強く握りしめる。

 

「変身!」

 

『ソードフォーム』

 

 ライダーパスをかざすと同時に白いレールのオーラが散り、オーラスキンとなり。身体に満ちるモモタロスのオーラが生み出す真紅のオーラアーマーをその身に纏い、良太郎はこの幻想郷の地において再びM良太郎として──ソードフォームの鎧を持つ電王としてその顔を上げた。

 

 モモタロスの意思を帯びた電王は、運転室に備わったバイク──白いボディに青いライン、鳥の(くちばし)めいたカウルと黄色いヘッドライトを持つ『マシンデンバード』へ跨る。

 ライダーチケットを込めた状態のライダーパスを右手に持ち直すと、M良太郎はそれを目の前のコンソールへと挿入した。

 刻まれた日付がデンライナーへと認識させる電子音。彼らからは確認できないが、デンライナーは己が前面に方向幕と飾る赤き桃の意匠にデジタル表記で2019:08:15の日付を示していた。

 

「……飛ばすぜ、しっかりつかまってろよ!」

 

 右手のアクセルグリップを幾度か廻して時の歯車に熱を灯らせる。ただ目の前に映る未来だけを見据えながら、赤い電仮面の下、良太郎の口はモモタロスの意志を発した。

 運転室の手すりを掴み、こころは不安な気持ちを表情に出すことなく力強く頷く。次の瞬間、こころが高らかに響き渡る警笛を聞いたかと思うと──

 

 マシンデンバードのホイールが回転し、その動きに連動して列車が動く。前方の画面が示す通り、無から生じたレールを空へと伸ばしていきながら、デンライナーは光の穴へ突入した。

 

◆     ◆     ◆

 

2019年 8月15日

 

 それは幻想郷の過去。月夜に満ちる空の下、無惨にも破壊された家屋は紫色の傘を持つ少女──多々良小傘の光弾によって打ち砕かれてしまったもの。だが、その破壊は彼女自身の意思に非ず。

 時を超え、この時代の小傘の精神に生じたイマジンが彼女の身体を支配しているのだ。

 

「はぁあっ……」

 

 少女が纏う水色の衣服から零れ落ちる白い砂。やがて砂は小傘の目の前でコウモリめいた人型を形成し、濃紺の肉体を伴って完全体のバットイマジンを象る。

 眠りから覚めたような感覚を覚えた小傘は目の前に立つ異形に目を見開いた。そして、次の瞬間には焼け落ちた里の家屋と倒れる人々の姿を見る。

 

 人を驚かせる生き方の傍ら、鍛冶師やベビーシッターとして働くための人間の里を、自らの手で襲ってしまったという悪夢が脳裏に蘇った。

 ──それは決して夢などではない。小傘はバットイマジンに憑依されながらその光景を見ていた。身体の自由が効かない中に見えた幻は、紛れもなく現実。ただ自分自身が共に寄り添うべき人間たちの帰る場所を、彼らの未来を。その手で壊していったというどうしようもない事実。

 

「ひっ……何……これ……」

 

 バットイマジンは自らの行いに怯える小傘に振り返る。鋭い眼が小傘に向き合うも、彼女は困惑と恐怖からその場を動くことができない。怪物は自身の手に現した砂を己がイメージをもって白銀の長剣へと変え、小傘に向けて振りかざした。

 イマジンと契約者の繋がりは契約の中だけに在る。すでに望みを叶え、2019年という過去に飛び、契約を完了した時点でバットイマジンは小傘との繋がりがなくなっている。契約者である小傘が死のうと、そのイメージの消失からこのイマジンが消滅することはない。

 

 目の前に迫る切れ味に目を瞑る小傘。彼女にとって、その手に備える唐傘は自分自身も同然だ。冥界の庭師が伴う半霊に等しいそれを盾代わりにするなど考えつかず。ただ恐怖のままにその刃を己の視界から閉ざすため。

 

 その瞬間──小傘はどこからか高鳴る警笛と、荒れる機械の駆動音めいた響きを聞いた。

 

「俺、参上ォッ!!」

 

 破壊されゆく人間の里の上空に灯る光。それは虚空へレールを伸ばし、白い車体のデンライナーを現す。デンライナーはその前面を象る赤い桃の意匠を展開し、先頭車両の運転室から一筋の白い光を放った。

 ソードフォームとしての赤いオーラアーマーを纏った電王、その身をもって繰るマシンデンバードの前輪を高く持ち上げながら、M良太郎はデンライナーの運転室から飛び出したのだ。

 

「グゥ……ッ!」

 

 マシンデンバードというデンライナーの操縦桿を射出し、列車ではなくバイクとして単独で走行を遂げた電王──M良太郎。着地の衝撃も気に留めず、そのまま右手のアクセルグリップを力強く引き絞ることでマシンデンバードの車体をバットイマジンへと激しくぶつける。

 

「よう、待たせたな」

 

「電王……やはり追ってきたか」

 

 小傘の目の前にてマシンデンバードを落ち着かせ、車体を斜めにして片足を着く。桃の仮面を向けて投げかける言葉は、バットイマジンに対してのもの。だが、その言葉に含めた微かな優しさは、彼の背後でその姿を見上げる小傘に対しても意味を持っていた。

 長剣を持つ怪物は忌まわしき電王を鋭く睨みつける。電王の背後で小傘に寄り添うこころもまた、バットイマジンにとっては煩わしい要素。電王に変身している青年と同じ、特異点としての素質を持つ者。過去改変の影響を受けない特異点は、彼らにとっては邪魔な存在でしかない。

 

「だが、特異点がどちらも現れたのは好都合だ。このまま過去の中に消えてもらう!」

 

 バイクの衝突で突き飛ばされたバットイマジンは長剣を振りかざし、そのまま電王へと向かって翼を広げ、里の大地を駆け出した。

 特異点と言えど、それはただあらゆる時間改変の影響を受けないだけである。過去の自分が殺されようと、自分が生まれる前に親を殺されようと、現在の自分は健在のまま、自身の記憶から過去の自分も復元される。仮に過去そのものがすべて消え、その時間軸の時間そのものが消滅したとしても、特異点だけはただ一人、その影響を受けずに存在が残る。

 

 ただ、それはそれが『時間改変による影響』である場合においてのみ。それ以外は何も特別なことがないため、今を生きている自分自身が殺されたり、時間を超えることなく自分を産む前の親が殺されてしまえば、その特異点は正しい時間の中で正しく死に至ることとなる。

 不死身というわけではない──良太郎はオーナーから聞いた言葉を強く覚えている。この戦いに約束された安全などない。時間というものは極めてデリケートなのだ。如何に自分が特異点だろうと、想像もつかない出来事は確かに起こる。

 

 たとえば、特異点たる存在が生まれた瞬間の時間座標。自身の誕生という時間そのものを完全に消し去られてしまったり、その時間の流れに影響があった場合──

 それは時の運行を司る法則でさえ想定していないタイムパラドックスを引き起こし、特異点でさえ時間の中から消滅を遂げるかもしれない。そうでなくとも、生まれる時間の変化によって記憶はそのままに生きてきた時間が書き換わってしまい、身体だけが幼くなってしまうこともある。

 

「あなたは……お面の付喪神の……?」

 

「早く逃げたほうがいいわ。こっちは私たちがなんとかするから」

 

 人々が恐慌に逃げ去った里の大地にゆっくりと停車するデンライナー。こころはそれが止まるより早く列車を飛び出し、小傘に背を向けて薙刀を構える。

 目の前の背を飾る薄紅色の長髪を不安そうに見上げ、振り返る無表情に装う狐の面と向き合い。再び正面を向いてバットイマジンを警戒するこころの言葉を聞き、小傘は立ち上がった。

 

「よくわからないけど……気をつけて……!」

 

 紫色の唐傘をぎゅっと握りしめ、周囲を確認する小傘。破壊された家屋や倒れた人々の姿はこれまでの幻想郷はあってはならなかった光景。無論、これからの幻想郷にもあってはならないはずの惨劇。こんな事態を避けるための幻想郷──スペルカードルールのはずなのに。

 

 幻想郷の管理者たる賢者は姿を見せない。2019年の小傘にとっては今こそが現在だが、これは過去の光景なのだ。それも現在の幻想郷が知る本来の歴史ではない、時を超えたイマジンによる未来からの介入──改変されつつある歴史。

 人を脅かすために存在する妖怪も、それは妖怪として生きるために。決して人がいなくなることを望んでいるわけではない。まして捨て傘の付喪神である小傘は未だ人間に必要とされたいのだ。本心では逃げ惑う人々を安全な場所に避難させてやりたいのだが──

 正体不明の悪霊に身体の自由を奪われていたとはいえ、この里の惨状を引き起こしてしまったのは紛れもなく自分自身。いくら弁明しようとも、妖怪の言葉など信用されるはずがない。

 

「あっ、唐傘のお姉ちゃん! やっと正気に戻ったんだ!」

 

 己の不甲斐なさに震える手で唐傘を握りしめると、目線の下から幼い声を聞く。里に住まうその少年は、かつてベビーシッターとして面倒を見ていた子供の一人だ。妖怪の子守りは親からは不審に思われていたが、自身を必要とする人間の心は確かに彼から感じられた。

 

 小傘の言葉は無垢な心に真意を届ける。小傘が操られていたことはすでに理解していたようで、その伝達に不都合はなく。小傘の在り方を知る里の大人たちも受け入れ、小傘の誘導に従って避難を進めてくれる。

 明確に里への害意を向ける異形の怪物──バットイマジン。その姿があまりに幻想郷らしからぬ悪意に満ちていたからか。小傘への警戒は里の人間たちから拭い取られているようだ。

 

「ちっ……邪魔をするな……!」

 

「そう焦るなよ! せっかく来たんだから、もうちょっと楽しもうぜ!」

 

 バットイマジンの振りかざす長剣と、電王が振り抜いたデンガッシャー ソードモードの刀身が打ち合う。迸る火花が散る傍ら、すでにライダーパスを抜いておいたマシンデンバードは自律走行機能をもってデンライナーのコックピットへと戻っていく。

 時間をかけてはいられない。過去での戦いはそれ自体が歴史改変に繋がる。そして過去で里が破壊された事実が人々の記憶に定着してしまえば、未来までもが破壊されたままとなるだろう。

 

「おらぁっ!」

 

 交わす剣戟の最中に声を上げ。M良太郎は電王の強靭な脚力をもって、バットイマジンの腹を正面から蹴りつける。それに怯んだ隙を突き、デンガッシャーの刃を横一文字に一閃。

 

「……怒声(どせい)大蜘蛛面(おおぐもめん)!」

 

 8月らしい夏の夜風に白い砂が舞い散り、怪物が後退した瞬間を逃さず、今度はこころが赤頭を伴う(しかみ)の面──『土蜘蛛』を演じる際に用いられる面を装う。赤く怒りに満ちたその息を真白き蜘蛛の糸と成し、バットイマジンへと解き放って。

 大蜘蛛の面から放たれた【 怒声の大蜘蛛面 】の糸は強い粘着性をもってバットイマジンの身を蜘蛛の巣状に拘束した。月夜に照らされた濃紺の暗翼も、もはや羽ばたくことさえできない。

 

「グゥ……ッ!」

 

 バットイマジンは蜘蛛の糸に縛られた身体に、こころと電王、それぞれが持つ青白い薙刀とデンガッシャー ソードモードの斬撃を斜め十字に受ける。コートめいた両翼は白い砂を噴き出し裂かれ、蜘蛛の糸もまた切断されるものの、ダメージは紛れもなく刻み込まれていた。

 

 こころは壇上から舞うように大地を蹴る。軽やかに大地に背を向けて、薄紅色の長髪を翼の如く翻しながら。きらきらと霊力に散り消える青白い薙刀を捨て去り──月光(つき)を遮る影となる。

 

「スペルカード──」

 

 空中で呟いた語りはその手に輝く光の札と共に。こころは弾けた一枚の札を本気の意味を込めたスペルカード宣言の代わりと成し、込めた霊力を額に装う面へと変える。

 強い霊力を帯びた狼の面。バットイマジンの背後に着地したこころの視線はお面に覆い隠されることなく、斜めに被ったお面と等しく睨みつける冷たい無表情で怪物の背中と向き合う。

 

「俺の必殺技──」

 

『フルチャージ』

 

 バットイマジンが背後を警戒すると同時──今度はM良太郎が左手に取り出したライダーパスをデンオウベルトへとかざす。怒声の大蜘蛛面を放って怒りに赤く染まったこころのスカートはそのまま赤く、赤い装甲を帯びるソードフォームの電王もまた、真紅のオーラを滾らせ。

 

「パート2ダッシュ!」

 

「怒面、怒れる忌狼の面!」

 

 その場を動かず横一閃に振り薙がれたデンガッシャー ソードモードの刃、オーラソードの赤い閃きが夜の空気を切り裂き進む。その切っ先に対しても躊躇わず、こころは全身に纏った狼の霊力を巨大な牙と成した【 怒面「怒れる忌狼の面」 】をもって喰らいつく。

 M良太郎が放ったエクストリームスラッシュは最初に見せたときとは異なり──縦ではなく横。撫で斬るように迫る真紅を伴い、二つの怒りはまったく同時にバットイマジンを引き裂いた。

 

「ぐぁぁぁああっ!!」

 

 正面から受けたオーラソードの一撃。背後から受けた青白き狼の牙による一撃。そのどちらもが仮初めのイメージで構成された夜空の映し身を砕き、バットイマジンは霊力とフリーエネルギーの奔流の中に激しく爆散を遂げる。

 オーラソードが再びデンガッシャーに戻るのを見届け、M良太郎は満足げに仮面の下で笑う。微かな不満があるとすれば、それは忌狼の能面を解いて隣に降り立った面霊気の活躍である。

 

「ったく、俺の見せ場を持ってくんじゃねえよ」

 

「……見せ場はこうして決める。これが勝利を喜ぶ表情」

 

 狼の如く飛びかかっては慣性のまま向こう側──すなわち電王の隣に着地したこころ。デンガッシャーの峰を肩の装甲に乗せつつ、M良太郎は自分一人だけがトドメを刺すことができなかったことを口惜しんで見せるが、少女の鮮やかな振る舞いに親近感を覚えていた。

 妖怪に至る以前から誇り高き面として。数多の能を演じてきた彼女はその在り方を魅せることを得意としている。喜びの翁を面と掲げ装う少女に表情はないが──良太郎も、その身に宿るモモタロスも。こころの隠さぬ感情は伝わっているようだ。

 

 湿度を伴う夏の空気が震える。炎を上げて砂と散ったバットイマジン、その残滓に残った契約者のイメージ。それが砕けた死の破片を強引に捻じり上げ、時計の針を滅茶苦茶に逆回ししたかのように、散った量を遥かに超えて──澄んだ夜空へと巨大な砂の集まりを巻き上げていく。

 

「(センパイ、そんなこと言ってる場合じゃないみたいだよ)」

 

「(イメージが暴走しよったで! はよデンライナーに戻ったれ!)」

 

 桃の電仮面越しに見える夜空に舞い上がるは、巨大な翼の如く広がりゆく白い砂。イマジンの肉体は破壊したが、その内に宿る契約者のイメージは消えず、行き場を失って『暴走』を始めてしまったのだ。

 思考に響くウラタロスとキンタロスの声。良太郎と共にそれを聞き届け、モモタロスは手にしたデンガッシャーに意思を送ってフリーエネルギーの結合を解く。元通りに分解されたそれらはデンオウベルトのサイドバックル──その腰の両側に収まり、電王の両手を文字通り自由(フリー)にした。

 

「ギィィィィイイッ!!」

 

 里の家屋を、夏の夜風を震わせる鳥獣の叫び。天に舞った砂はその身を暴走したイメージのままに現し、新たな砂の肉体を形成した。

 誇り高く白い体躯に高貴さを思わせる金色の彩りを備えた、歪な姿。コウモリめいた左の翼に、タカを思わせる右の翼。カラスの骨のような頭部にハチに似た腹部の針を掲げるその姿は、おおよそ空を飛ぶ生物を乱雑に詰め込んだ醜さと美しさを同居させる。

 

 イメージの暴走より生まれる怪物は『ギガンデス』と呼ばれる。それらは空と地と海、それぞれの世界に住まう生物のイメージを宿し、歪んだイメージのままに現れ、元となったイマジンの意思を持たずに破壊の限りを尽くす。

 コウモリとタカのそれぞれの翼を虚ろに羽ばたかせ、腹部の針を絶えず乱れ撃つ。大地を穿つ無数の針と仰ぐ突風は里を破壊していくが、巨大な体躯で空を飛ぶ『ギガンデスヘブン』を相手に、電王やこころのそのままの戦力では(いささ)か不足であろう。

 

 そのために必要な力。M良太郎は変身を解かず、かっこよく放り投げたライダーパスを拾い上げる傍ら、素早く大地を駆け出す。マシンデンバードを格納した状態にあるデンライナーの運転室へと飛び込んで、夜空を舞う怪物を視界に捉え。両手で強くグリップを握りしめた。

 

 M良太郎の意思のままに引き絞られたスロットル。激しく唸る機関の熱。デンライナーはうねり舞い上がる龍の如く、長く編成した車体と共に高く空へ翔け、ギガンデスヘブンの周囲を取り囲むように空中にレールを敷いて走行していく。

 電王としての右手でマシンデンバードのコンソールを操作すると、四号車両以降の客車は分離され、時の砂漠へと格納される。運転室たる先頭車両を含め四両編成となったデンライナーは、それぞれが形を変えた。

 先頭車両は上部を開き、四門の砲台を持つ『ゴウカノン』を。そこに連結した一号車両は横を向き、犬の頭部に似た『ドギーランチャー』を。二号車両は猿の手を思わせる投下兵器『モンキーボマー』を、三号車両は先端にキジのような武装を備えた『バーディーミサイル』を展開する。

 

「おとなしくしてやがれ!」

 

「ギィィィィッ!」

 

 空中にて猛攻を繰り返すギガンデスヘブンの動きに追従し、客車を切り離したことで『バトルモード』に変形したデンライナーが、M良太郎の操作で開いた砲門に光を灯した。赤き桃の意匠を掲げた先頭車両──ゴウカノンの名の由来たる『デンライナー ゴウカ』は激しく燃ゆる業火の如く、天の巨獣に向けてすべての砲門を吼え立てさせる。

 ゴウカノンによる光弾。ドギーランチャーから放つ砲弾『ドギーバーク』の弾幕。モンキーボマーが投下したいくつもの爆弾『モンキーボム』の炸裂に、標的を追うバーディーミサイルによる容赦のない爆撃。

 密度は激しいものの──誘導性能を持つ鳥のミサイル以外はことごとく外れてしまった。

 

「野郎……! ちょこまかと動き回るんじゃねえ!」

 

「(ちょっとモモタロス、やたらめったらに撃ちすぎだよ……)」

 

 ギガンデスヘブンは器用に翼を動かしてバーディーミサイルのダメージさえも軽減してしまっている。良太郎は無作為にも程があるモモタロスの攻撃に呆れるが、いつもならこの程度の適当な攻撃だけでも十分に撃破できていたはずだ。

 イメージの暴走で生まれた怪物なれど従来より強くなっているのか。弾薬はフリーエネルギーによって補填されるとはいえ、このまま戦いが長引けば時間の改変が果たされてしまう。

 

「なんかすごいことになってるな……」

 

 人間は避難したとはいえ、こころは里の上空でこれだけ派手な争いが起きている光景にかつて自身の過失が発端となった心綺楼異変を思い出した。

 夜空を彩る爆炎は花火と呼ぶには華がない。弾幕ごっこの美しさには到底及ばぬが、その激しさだけはやはり本気の火力と相手を撃破する意思が込められた殺傷の応酬。

 

 ふわりと舞い上がり、デンライナーの近くに赴くこころ。巻き込まれないように気をつけながらギガンデスヘブンの動きを観察するが、こころの弾幕ではやはりあの巨体に対して効果的ではないと思わされる。

 こころは面霊気として『感情を操る程度の能力』を有している。怪物の怒りを増幅して冷静さを失わせることで動きを単調化してみようとも試みたが、暴走したイメージの塊には感情と呼べるものさえも存在していない。こころの知覚に伝わる怪物の想いも、ただ荒ぶる破壊衝動だけ。

 

「……? 雨……?」

 

 こころは不意に頬を濡らした天の雫を訝しみ、空を見上げた。月を隠す叢雲は在らず、夜空は晴れやかに澄んでいるのに。ぽつりぽつりと滴るそれは、やがて激しく降り始める。こころはそこに、馴染みある妖力の波を見た。

 小さな雲の妖力が束ねり局所的に降りしきる雨と成る。自慢の髪が濡れないように獅子舞の面と衣を頭上に掲げ、傘代わりにすると、こころは地上から迫る『傘』の連なりを目にした。

 

「そっちのには負けるけど、わちきの列車も時代に追いつくよ!」

 

 古めかしい紫色の唐傘をいくつも連ね、さながら長く編成した列車の如く空を舞う。付喪神の少女、多々良小傘はそこに立ち、自慢の唐傘を回して妖力の雨を降らせた。

 彼女が弾幕と成すは【 化符(ばけふ)「忘れ傘の夜行列車」 】というスペルカードだ。忘れ去られた哀れな捨て傘の怨念を形成し列車と繋ぎ、デンライナーと並走するように雨降る夜空の風を切る。

 列車の忘れ物には、傘が多い。時の砂漠に雨は降らないため、デンライナーに傘が忘れられることはないが。

 

 ギガンデスヘブンの翼とデンライナーの車体が静かな雨に濡れていく。微かな妖力を帯びたその雨粒は、そのひとつひとつが遍く傘が流す涙。小傘と同じ忘れ傘たちの悲しみである。

 

万年置き傘(わたしたち)の恨みを思い知れ! 雨符(あめふ)雨夜(あまよ)の怪談!!」

 

 小傘は同胞の無念を胸に、スペルカードを解き放つ。彼女の周囲に集った青白い妖力の波動が激しく散り、雨となり。それは単なる雫ではなく、妖力のエネルギーで形成された光弾そのものが、さめざめとしきり泣く涙雨の如くギガンデスヘブンに降り注いだのだ。

 恨めしき自身の悲しみを怪談と成した【 雨符「雨夜の怪談」 】は広範囲に放たれる弾幕の雨としてギガンデスヘブンの動きを封じ込め──ダメージこそ少ないながら隙を生じさせていた。

 

「(あの子、契約者の……!)」

 

「なんだかじめじめしてきやがったが、チャンスだ! 礼を言うぜ、唐傘女!」

 

 M良太郎は再びギガンデスヘブンの周囲にレールを浮かべ、デンライナーを旋回させる。その円の中央に捉えた怪物を目掛け、先頭車両たるデンライナー ゴウカ、連結された一号車両から三号車両までのすべての武装を一斉に解き放つ。

 ゴウカノン、ドギーランチャー、モンキーボマー、バーディーミサイル。先陣を切る桃太郎の意思に続くように──イヌとサルとキジのお供たちが鬼たる空想の怪物を爆炎に染め上げた。

 

「ギィァァァァアアアッ……!!」

 

 虚ろな羽根を撒き散らし、やがて暴走したイメージの具現は砂へと還っていく。デンライナーの猛攻により爆散したギガンデスヘブンは里の夜空を明るく照らし、微かに残されたイメージの渦もフリーエネルギーと共に幻想郷の過去の中にて掻き消えた。

 

 こころと小傘は静かに止みゆく雨の下、高らかな警笛を上げて地上へ降りたデンライナーと共に大地へ足をつける。濡れた土の泥濘を掻き分け、無から生じたレールが里の道に並べられていくのを眺めつつ、二人の少女はそれぞれ未来的な列車のオーラに幻想らしからぬ波動を見た。

 

「ちょっとだけ手こずったが、今回も余裕だったぜ!」

 

 デンライナーの白い扉が横に開き、ソードフォームの電王が姿を見せる。疲れを解すように腰を捻りつつ、M良太郎は軽やかに腰に帯びたデンオウベルトを外した。

 赤いレール状のオーラが散り消える最中、電王のオーラアーマーは良太郎とモモタロスのそれぞれの精神へオーラとして戻る。生身の姿に戻った良太郎にはモモタロスは憑いておらず、精神体のままデンライナーの中に帰ったようだ。

 

 良太郎は二人に怪我がないことを安心しつつ、月夜に照らされた里を見渡す。バットイマジンによって破壊されてしまった里の建物は、火の上がっているものや跡形もなく消し飛ばされてしまったものもあるが──

 この地に特異点がいる限り。未来に人々の記憶がある限り──決して過去をイマジンによって破壊されたままにはしない。そのために、電王である者は特異点でなくてはならない。

 

「これは……」

 

 同じくこころが見渡した夜の里、どこからともなく聞こえてきた時計の針が動く音。チクタクと刻まれる旋律に合わせ、世界はその針を逆向きに廻し始める。

 砕けた家屋は遡る時のままに元の姿に再生し、土の地面に倒れた亡骸は流れた血も受けた傷も残さず目を開け、何事もなかったかのように立ち直る。

 無惨な姿に破壊された人間の里は、時間の中に刻まれた特異点の記憶を基点とし、未来に残る幻想郷の人々が覚えている『改変される前の記憶』から、正しい時間、正しい過去の在り方へ修復されていったのだ。

 

 それが時間と共にある特異点の役割。特異点がいる限り、特異点自身が知らぬ記憶であろうと、未来の人々の記憶を辿って本来の歴史が再構築され、過去改変は阻止される。

 ただしそれはあくまで『覚えている過去』のみ。誰もがそれを忘れてしまったり、覚えている人間が未来に一人も残っていなかったり、間違った形で記憶してしまっていれば、その時間は間違った形で修復されることとなる。

 たとえ正しく覚えていなくても、秘匿された記憶であっても。──記憶こそが時間(・・・・・・・)なのだ。

 

「覚えていれば……それはなくならない」

 

 良太郎は胸に刻まれた想いを呟く。どれだけ時間が書き換わってしまっても、大切な想い出は記憶の中に残り続ける。記憶が確かである限り、過去の中にそれは在る。大切な姉が、大切な婚約者を忘れても。

 良太郎の過去には確かに、彼と、彼女と、新しい家族と過ごした時間は残っていた。

 

「もしかしたら、今はこころちゃんの記憶が基点になってるのかも」

 

 特異点の記憶が時間を修復するということを説明し、こころもまた特異点であるらしいことを思い出す。特異点自身の記憶はあくまで過去再生の基点でしかなく、実際に時間を修復するのは未来の人々の記憶ではあるが、幻想郷の存在であるこころの記憶の方が基点に成りやすいだろう。

 少し過去に想いを馳せつつ、こころは表情のない顔で良太郎の背後に視線を向けた。背後にあるのはデンライナー。過去を元に戻し、イマジンの襲撃がなかったことになった今の人間の里では、先の惨劇を忘れた人々にとってもあまりに目立つ異物になっているはず。

 

 良太郎はこころと共にデンライナーで元の時間に戻ろうと、こころの視線の先へ振り向く。

 

「そら、驚け~!!」

 

「うわぁっ!?」

 

 目の前に広がったのは紫色の唐傘。不気味な一つ目に、だらりと伸びた赤い舌。小傘はけらけらと笑いつつ、心の底から驚いた良太郎から妖怪としての糧を得る。

 

「やったー! みんなあの変な列車ばかり見てるから、驚かせやすそうと思ってたんだー!」

 

 唐傘を畳みながら下駄を鳴らし、右目を閉じてウインクしてみせる小傘。髪も衣服も右目も水色の少女は、ただ一つ赤い左目をもって一つ目の伝承を持つ唐傘お化けたる自身を演じて見せようと。小さく舌を出し、人を驚かせるだけの無害な妖怪はそのままその場を去っていった。

 

「さっきのことを覚えてるのは、私たちだけってことね」

 

 こころの認識通り、小傘の振る舞いにも、いつも通りに里を往く人々の振る舞いにも、先ほど起きた惨劇に怯える様子はない。

 襲撃がなかったことになったため、彼らの記憶からも先ほどの出来事はなくなっている。それを覚えているのは、在るべき時間を失ったモモタロスたちを除けば特異点だけである。

 

 良太郎は未だ驚きに高鳴る心臓を落ち着かせつつ、デンライナーを見る人々のざわめきに居心地の悪さを覚えながらも、こころと共にその白い車体へと踏み入った。

 こころが目にした食堂車には異形の怪物──赤と青と黄色を帯びた三体のイマジンの姿。

 

「あぁ、マジで死ぬかと思ったぜ……」

 

「センパイ、驚きすぎ。まぁ、僕も釣られちゃったのは悔しいけどね」

 

「モモの字には、あれくらいで丁度ええやろな」

 

 少しだけ目を丸めた様子を見せるも、こころの表情は相変わらず静かなものであった。だが、赤い鬼と青い亀と黄色い熊。それぞれの意匠を帯びた実体のあるイマジンを見て、その感情には少しばかりの波が立つ。

 それは命蓮寺の居間で見た砂の姿のイマジンたちと同じ特徴だ。しかし彼らは寺で見た不完全な砂の形とは違い、明確な実体を持った──境内に現れたデネブというイマジンと同じ身体がある。良太郎の話では契約していない状態のイマジンは砂の身体になるのだと聞いていた。

 

「昨日見たときと姿が違う……」

 

「おう、この姿の俺らを見るんは初めてやったな」

 

 小さく呟いたこころの声に答えるは、デンライナーに設けられた食堂車の座席にどっしりと腰を下ろしているキンタロスの声。

 デンライナーの車内(なか)は悠久に流れる時の砂漠と同じ性質を持つ。ゆえに正しい時間に存在することができず、時間の中にしか在れないイマジンはこのデンライナーの中においてであれば、契約を交わすことなく完全体と同等の実体──自分の身体を持つことができる。

 本来ならば彼らは良太郎と一年間の時間を過ごし、過去を手に入れたことでそんな条件に頼らずとも、如何なる時間においても完全なる実体を持って動くことができていたはずなのだが。

 

「やぁ、こころちゃん。さっきは精神体で会えなかったけど、改めてよろしく」

 

 ウラタロスは優しく爽やかな口調ながら、どこか湿度を伴う声色でこころに声をかけた。過去へ来る前にデンライナーに乗ったときは彼らの姿が見えなかったが、良太郎の身に宿って精神体となっていたらしい。

 平時であれば時の砂漠と同じ条件を持つデンライナーの車内、ここでは疑似的な完全体の姿でいるのが一番落ち着く。彼らに未来の人間であった頃の記憶はないが、本質的には元を辿れば人と同じ存在。生身の手足を持つこの身体はかけがえのないものである。

 

 やがてデンライナーはライダーパスの所有権を持つ良太郎の意思に従い、出発地点たる元の時間座標──2020年の春を目指して自律走行を始めた。

 ゆっくりと前方にレールを広げ、再びどよめき立つ人々の声を後にし、時の列車は月夜の空へと掲げた軌条を登って真っ直ぐに舞い上がり、そのレールの先に時空を超える光の穴を形作る。

 

「…………?」

 

 こころとイマジンたちの様子を眺めていた良太郎が、不意に窓の外に視線を向けた。夜が故に人通りの少ない暗い道。里とはいえ妖怪たちに怯え暮らす人々は、よほどの理由がない限りそそくさと家屋の中へと戻ってしまう。

 そこへ通り過ぎたとある人物の影。いつだって過去へ向かえばその時間に存在していた、かつては正体が分からなかったために『過去の男』と呼んでいた者。

 

 ベージュのコートに同じ色の帽子を装う姿は、ほとんどの者が和服を纏う人間の里においては少しだけ異質な洋風の衣だ。それは大切なものを守るために世界から忘れ去られ、やがて今ある時間においての自分自身を消滅させた男──姉の婚約者であった桜井侑斗の姿ではなかったか。

 

「(……そんなはずないよね)」

 

 ──それは見間違いであったのだろう。デンライナーの車窓から顔を見ることまではできなかったが、目深に被る帽子の下、月夜の光に反射したのは眼鏡の輝きであったのかもしれない。良太郎の知り得る2007年の桜井侑斗は、眼鏡など掛けてはいなかったはずだ。

 そうでなくとも、彼は未来を守るために戦い、過去と未来、すべての時間から消滅を遂げている。いかに過去の時間へ赴けど、姉の婚約者であった『現代の桜井侑斗』はもういない。

 

 2019年の夏の日。過去の幻想郷。時間の修復を終えた特異点は、時を超える列車に乗って。前方のレールは未来に生まれ、後方のレールは過去に消え。

 やがてデンライナーは2020年──彼らにとっての現在へ続く光の穴へと姿を消した。

 

◆     ◆    ◆

 

 月夜に静まる人間の里。2019年の夏は地上にオオカミやカワウソ、オオワシなどの動物の霊魂が現れた異変が終息を迎えていた頃だ。後に『動物霊異変』と呼ばれるそれは、奇しくもイマジンたちと同様に人間に憑依し、人格さえ操る動物霊たちによる異変であった。

 

 高らかな警笛を奏で上げながら光の穴へと消えていく列車。光の消失を夜空に見届け、この里の寺子屋で教師を務める半人半獣の妖怪は声もなく呆ける。

 夜空を飛ぶ列車が月夜に消える様を見て、この辺りで騒ぎがあったような気がして駆けつけたものの、満月に足りぬ欠けた月の下で。夏の暑さか焦燥感か、額に汗を浮かべたワーハクタクの女性──上白沢慧音は自分がなぜこの場所まで慌てて走ってきたのか上手く思い出せないでいた。

 

「おっと、失礼……」

 

 列車が消え去った夜空から視線を外せぬまま、考え事をしながら歩き出してしまったため、慧音は人にぶつかってしまう。咄嗟に謝罪の言葉を紡いだものの、ベージュのコートを纏ったその姿は人間の里ではあまり見慣れない不思議な装いだった。

 それを一瞬訝るが、すぐに思考は別のものに切り替えられる。そそくさと立ち去った男性はその懐からきらりと光る何かを落として、慧音の目の前にてそれを置き去りにしていったのだ。

 

「あの、何か落とされまし……」

 

 月の光を反射して慧音の青い瞳に映る銀色。それを拾い上げつつ、男性を呼び止めようとするが──慧音が顔を上げた頃には、すでに先ほどの男性は姿が見えなくなってしまっていた。

 

「懐中時計……か。止まってしまっているようだが……何か文字が刻まれているな」

 

 手にしたそれは白銀色の輝きを帯びた小さな懐中時計だった。アラビア数字が刻まれた文字盤は幻想郷的というよりは外の世界からの漂流物めいた、近代的なものを感じさせる。見た目に損傷はないが──内部機構に問題があるのか、その針は動いていないようだ。

 龍頭の上の輪に結ばれた黒い紐を垂らし、慧音は手の平に触れる感覚から裏面を見る。刻まれていた文字は英語であったものの、歴史に強い彼女はその文章を読み取ることができた。

 

──過去が希望をくれる(the past should give us hope.)──

 

 言葉の意味は分からない。しかしその文字を見た瞬間、脳裏に響く時計の針の音。未だ手にする懐中時計は止まったままだというのに、頭蓋に知らない記憶が浮かんできた。

 褪せた竹林を駆け抜けるような風雅な旋律。牛の鳴き声を思わせる列車の警笛。静まった人間の里には聞こえぬ音。ただ慧音の思考に流れ込んでくる、誰かの記憶という名の時間の座標。

 

「……っ、なんだ……今のは……」

 

 守りたかったものを守ることができた男の記憶。最愛の人と、共に育む未来の象徴。だが、そこに自分はいない。代わりに若き日の自分自身を、新たな時間と刻みながら。

 一瞬だけ夢を見ていたような感覚だった。慧音はその刹那の曖昧な感覚を気のせいであったと拭い去ることもできず──

 己が手に宿る銀色の懐中時計に視線を落とし、濡れた夜風にその蒼銀の長髪を揺らしていた。

 

◆     ◆     ◆

 

 そこは荘厳な彩りに満ちたとある居城の一室。見渡せば美しい調度品や絵画などが見られ、一見すれば、豪華な装飾が施された貴族の屋敷のように見えるが──

 彼らにとっては何よりも退屈な楽園。灰色の安寧が約束された、空虚な牢獄だ。

 

 ここに在る住人は三人。一人は精悍な狼の如き双眸の男。鋭く着崩したタキシードの黒は、月下に吼える獣が如く。また一人はあどけない美しさを残した中性的な少年。湿度を帯びた水兵服は、霧の水面に揺蕩える遊魚が如く。

 そしてもう一人は無機質な無骨さを湛えた岩のような巨漢。燻る雷鳴を思わせる重厚な燕尾服に身を包み、残る二人と共に──その『扉』の隙間から漏れる歪んだ光に視線を向けていた。

 

「……これは……」

 

 タキシードの男が蒼く冴える瞳を細める。硬く鎖で閉ざされた禁断の扉。その先に見える光は、過去と未来を超えた叡智。

 彼方から感じられる未知なる波動はこの世界のものではないのか。夏の空に舞い飛ぶカブトムシの羽音に加え、春の風に駆け抜ける列車の警笛。時間という概念への冒涜。

 それらが互いに干渉し、この『生ける城』にぶつかり合い、『何か』が起こっている──

 

「ねぇねぇ、なんか変じゃない?」

 

「様子、おかしい……」

 

 不安そうに呟く水兵服の少年も、怪訝そうに眉根を寄せる燕尾服の巨漢も。タキシードを着崩した男も、その扉を開くために必要な三つの鍵をそれぞれ持つ。

 彼らはこの城に囚われた『調度品』でありながら、この屋敷においてある程度の権限を持つ。すでに城主が失われて久しく、新たなる王が城主となって以来は自由を得ているはず。それでもこの退屈な牢獄に戻ってきてしまうのは、この城が彼と──彼の父親との繋がりを感じさせる場所でもあるからだろうか。

 

 光を放つ扉の先で何が起きているのかは分からない。彼らはこの扉を開く権限を有しているにも関わらず、それぞれが持つ鍵をその手に取り出すことさえしなかった。

 不用意に開けば、その扉は過去と未来を繋ぐ。

 それこそ、それはそこから何を解き放ってしまうか分からない──パンドラの箱。

 

 歪む光は一瞬だけさらに強く輝きを増す。思わずその眩さに顔を覆った三人は、その身が時を超える浮遊感に包まれたことに、ついぞ気づくことはなく。再び顔を上げた頃には扉の隙間から漏れていた光は失われ、ただ元ある通りの重厚な鎖と、重く佇む扉が鎮座しているだけだった。

 

「……なんだったんだ……今のは……」

 

 タキシードの男は狼の知覚が捉えた違和感に息を飲む。すでに光の残滓もなく、狼の聴覚に届いていたカブトムシの羽音も、列車の警笛も。もはや聞こえてこない。水兵服の少年と燕尾服の巨漢も彼と同じく。本来は混ざり合うはずのない力の軋轢に──どこか小さな懸念が芽生えていた。




20000文字オーバーだと……?
まったく文字数が調整できていない……もうちょっと短くしたかった……

小傘を活躍させたくて雨を降らせたら現実でもなんかやたら雨が続き始めました。
2019年8月15日は東方星蓮船10周年で、仮面ライダージオウ最終回の10日前でもあります。

次回、第53話『運命 ♪ ハートブレイク』


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【 亡き父の為のコンチェルト 】
第53話 運命 ♪ ハートブレイク


A.D. 2008 ~ 2009
それは、受け継がれる音楽の物語。

ウェイクアップ! 運命の鎖を解き放て!



 月夜を明かし、妖怪たちの時間に終わりを告げた霧の湖。冴える薄霧は陽光と共にその地を満たしては、紅く鮮やかな紅魔館の敷地を染めていく。

 じりじりと照りつけるは狂った四季における夏の朝陽。静かな湖を住処とする氷の妖精のおかげか、吹き抜ける風は夏の暑さに清涼的な涼しさをもたらしてくれる。

 差し込む日差しを抑えるように、仰々しい窓に設けられた真紅のカーテンは少しだけ開かれ、その陰にて、吸血鬼──レミリア・スカーレットは当主の間にて彼方に運命を仰ぎ見た。

 

 運命は絶えず霧の中。紅く交わる鎖は──九つ。今まで見えていた九つの世界の因果を繋ぎ留めるもの、その『最後の一人』がようやく彼女の目をもってして確認できたのだ。

 それが誰なのかはまだ分からない。だが、運命はきっと向こうからやってくるのだろう。

 

◆     ◆     ◆

 

 霧に包まれた紅魔館の敷地内、真紅の外壁を守護する門番は一人立つ。普段は白昼の夢を微睡みと見ているのだが、その日は妖怪特有の第六感か。奇妙な胸騒ぎを感じていたため、どうにも目が冴え立派に門番としての職務を全うしていた。

 紅美鈴は門前にて、外来人らしき見知らぬ男の不敵な笑みに警戒心を抱く。ただ迷い込んだだけにしては、滲み出る悪意と呼べるもの、気を使う程度の能力で感じ取れる張り詰めた威圧感。

 そういったものに加えて──ただの人間ならざる異質な魔力が伝わってきたがため。

 

「あの……外来人の方ですか? 要件ならば私が……」

 

 不敵に笑う若い男に対して問いかける。無意識に表情が引き締まり、身体が臨戦態勢に入るのを感じる。この男は、紅魔館に対する敵意を隠すつもりがないらしい。相手がどれだけ異質な魔力を備えていたとしても──見た目はただの人間。それでも、決して油断はしない。

 

「君の美しさに……乾杯」

 

 その身に黒いスーツを纏った若い男、 津上(つがみ) カオル は甘く優しい声で呟く。直後、彼の顎と口元、首にかけて、加えてその端正な瞳にステンドグラスを思わせる耽美的で鮮やかな紋様が浮かび上がった。

 瞬く間もなく男の身は虚ろな光と共に歪んでは姿を変える。霧を貫く陽の光、差し照らす朝陽に揺蕩(たゆた)う蒼穹の鎧。それはさながら、名高き芸術家によって生み出された神秘的な彫像の如く。

 

◆     ◆     ◆

 

 忌まわしき太陽に照らされ紅く輝く命の花。香る運命が嘆きを奏で、恐怖と屈辱の彩りが鼻をくすぐる。紅茶と呼ぶには鮮やかすぎるその紅は、彼女の心を満たす悪魔の嗜好品。この館にて食料と定義された哀れなる人間の鮮血を冒涜的にブレンドしたもの。

 

 城戸真司の血ではない。吸血鬼ほどの強大な妖怪は、単独で幻想郷の秩序を乱しかねない力がある。実際に、人間を襲うことが禁じられ矮小化した幻想郷にて、すべての妖怪を支配しようとした大異変──スペルカードルール制定の発端となった『吸血鬼異変』も、彼女ら吸血鬼によるものであった。

 吸血鬼が本気で人間を襲えば幻想郷の秩序は瞬く間に瓦解する。幻想郷に必要だったのは妖怪の本能を否定する抑止力ではなく、人間と妖怪の循環を重視した(ルール)だったのだ。

 

 そのために幻想郷の賢者は、外の世界にて存在を失った人間、死者や自殺志願者などを幻想郷の食料として引き入れ、幻想郷のバランスを維持。その恩恵を優先的に配給し、特に物理的な人間の血肉を必要とする一部の強大な妖怪たちに供給している。

 この血も、その人間のものだ。生きた人間の首筋に牙を突き立てるより遥かに鮮度は落ちるが、幻想郷の秩序を乱すわけにはいくまい。彼女は、賢者たちほどではないが──面白い運命を見せてくれるこの郷を愛している。

 

 高価な葉を()して()れた紅茶の中に、深く愛しい恐れを抱いて。生来の吸血鬼である誇り高き少女は、白いティーカップに小さな指をかけ、ゆっくりとその紅色を牙に染み込ませていった。

 

「…………」

 

 茶葉と温度と人間の血液──その美しい組曲を穢す、微かな不協和音。舌先を痺れさせる不快なノイズに眉根を寄せ、レミリアは自身の隣で瀟洒に佇む十六夜咲夜の顔を見上げる。

 

「……余計な苦みを感じたわ。今度は何を入れたの?」

 

「里で手に入った珍しい薬草を少々。いえ、毒草だったかしら。とにかく、貴重ですわ」

 

 いつも通りの笑顔で答える咲夜の言葉にこめかみを押さえ、レミリアは再びカップに視線を戻した。自慢の紅茶、上質な人間の生き血に妙なものをブレンドする癖さえなければ、咲夜はメイドとして非の打ち所がないのだが。

 カップを揺らして小さく溜め息を零し、残った紅茶を飲み干してカップをソーサーに戻す。

 

「それで、美鈴の報告ですが──」

 

 咲夜が真剣な表情で声色を切り替える。最も距離が近い美鈴に城戸真司の動向を監視させていたが、期待したような面白い動きを見せてくれない。彼をこの館に招き入れてからまだ数日しか経っていないものの、レミリアはその褪せた紅さに失望を覚えていた。

 あの男は運命を変える赤色ではなかったのか。変わらず日々の報告を耳に聞いても、募る想いは退屈ばかり。

 二度目の溜息を吐きそうになったところ──不意にレミリアは表情を変えて立ち上がる。

 

「お嬢様?」

 

 咲夜の疑問符にも振り返ることなく、レミリアは真紅のカーテンを微かに開き、吸血鬼の弱点である日光に顔をしかめながら窓の外を見る。この思考に退屈以外の高鳴りを与えてくれる、紅い旋律。不快であることは変わらないが──その『気配』は何をもたらすのか。

 咲夜の紅茶に似たノイズを感じる『それ』は、紅魔館庭園にてやはり美鈴と拳を交えていた。

 

「何あの馬みたいなやつ……またミラーモンスター?」

 

「いえ、その気配は感じません。美鈴の言っていたグロンギなる存在でしょうか……」

 

 レミリアと咲夜が見たのはどこかステンドグラスのような芸術的な彫像を思わせるウマに似た怪物だ。神殿か教会か、耽美的な美しささえ感じさせる漆黒の体躯に、深い蒼穹の装甲。二本の脚で立つその姿は『怪人』と形容するに相応しい。

 蒼褪めた馬──その姿が表す名を、レミリアは馬の怪物に見る。まるでそれは、終末の黙示録に現れる病苦の象徴。第四の騎士が己が使いと駆る死神のよう。

 

 少し前にも紅魔館にシマウマ型ミラーモンスターが現れているらしい。彼女はそのとき屋敷にいなかったが、咲夜の報告で聞いている。どうして私の屋敷には馬ばかり現れるのか──などと思考しつつ、レミリアは咲夜の言葉から、此度現れた蒼褪めた馬の正体がミラーモンスターではないのだと知った。

 美鈴と城戸真司が霧の湖にて交戦したグロンギであるならば、情報を得るには丁度いい。だが、紅色の直感が告げている。この馬の怪物は、まだ見ぬ未知の法則を有していると──

 

「…………!」

 

 その瞬間、レミリアは思わず息を飲んだ。馬らしくもなく鈍重な動きを見せていた怪物が、美鈴の背後に()()()()()()を浮かび上がらせ、それを彼女の首筋に突き立てようとしたのだ。

 死角からの攻撃といえど、気を使う程度の能力をもって周囲の気配を感じ取れる彼女はその牙を咄嗟の反応で回避することに成功する。

 蒼馬の怪物が放った『吸命牙(きゅうめいが)』による攻撃は、レミリアにとってそれが龍騎の世界ともクウガの世界とも違う──別の世界の存在であると確信させるに十分だった。

 

「咲夜、念のため城戸真司もあいつと戦わせなさい。面白いことになりそうな気がするわ」

 

 小さく口角を上げるレミリアには、相変わらず完全な形では運命は見えない。だからこそ、ただ直感だけを信じ、紅く譜面を紡ぐ感覚に愛おしさを覚える。

 瞼を閉じて広げた五線紙の上に、無作為に並べた音符はどんな旋律を奏でてくれるのだろう。静かに頷いては姿を消した咲夜の活躍を期待し──レミリアは孤独に針を進める時計を見た。

 

 ──そのとき。当主の間の扉がガチャリと開かれ、紅い部屋に友の気配が流れ込む。

 

「レミィ! 金色のコウモリ、見なかった!?」

 

 紅き少女は静寂を破る音を聞き、黒く小さな背中の翼をぴくんと震わせた。不意に開かれた扉の先に見るは、荒く息を乱して扉に片手を着くパチュリー・ノーレッジの姿である。

 

「どうしたの? パチェ。そんなに慌てて、珍しいじゃない」

 

「金色のコウモリよ! 魔法の森で捕まえたんだけど……館内で取り逃がしたみたい」

 

 陰鬱な雰囲気を拭わぬままに、知識と日陰の少女は微かに紫色の瞳を輝かせる。ダウナー気味な彼女の性格をよく知るレミリアはその在り方に少しだけ興味が湧いたが、月を隠す叢雲が如く、目先の事象に意識を向けられる。

 パチュリーが語った『金色のコウモリ』などという存在に心当たりはない。それより、レミリアは当主の間の窓から見下ろす紅魔館庭園──蒼褪めた馬と騎士たちの戦いに向き直る。

 

「残念だけど、見てないわね。それに……今はそれどころじゃないの」

 

「そう……見かけたら教えてちょうだい。あの異質な魔力は、きっと異変解決の役に立つわ」

 

 喘息を患う身に加え、ただでさえ体力が少ない。少し歩き回っただけで乱れてしまった呼吸を整える傍ら、パチュリーは思考する。

 紅魔館全体を対象とした感知魔法の反応を見る限り、まだ館内にはいるはず。妖精メイドや使い魔までも感知されてしまう上、相手が奇妙な魔力を持つため正確な座標までは掴むことができないが、この身に伝わる魔力は先ほど逃がした獲物のものに間違いない。

 

 実際にそれを見たわけではないレミリアと違い、パチュリーは気づいていた。奇しくもそれは、レミリアが興味を示す蒼褪めた馬の怪物と同じ法則の因果より来たるもの。

 幻想郷に結ばれゆく交響曲の第九番。招かれた楽章を紡ぐ音符の一欠片であることに──

 

◆     ◆     ◆

 

 紅魔館と魔法の森を隔てた霧の湖。そのうち、森に近い側には色褪せて朽ち果てた『廃洋館』が打ち捨てられている。

 外の世界から流れ込んだのか、元から幻想郷に存在していたのか。栄華に輝く紅魔館とは対照的に、手入れの成されていない古びた洋館には誇りや鮮やかさなど何もない。ただ退廃的で耽美的な終焉の象徴。紅魔館が生の美徳(カルペ・ディエム)に溢れているのなら、こちらは死の美徳(メメント・モリ)を思わせた。

 

「どうして僕は……こんなところに……」

 

 そんな廃洋館の正面に立つ青年は、漂う霧の中に虚ろな夢の跡を見ながら。ただ一人、夏の色に濡れた白昼の風にストールを揺らして不安の声を零す。

 気弱そうな表情に相反したパンキッシュなジャケットと、血染めの外套を思わせる真紅のボトムス。少し長めに切り整えられた茶髪の風貌は、彼が紛れもなくこの幻想の領域に在るべきではない外の世界の者であると示していた。

 

 青年── 紅 渡(くれない わたる) はついさっきまで自身がよく知る世界を見ていたはず。知り合いの結婚式に出席し、バイオリンの演奏を披露する直前。

 天空より遥かな時空を超えて現れた未知の存在と相対し、彼は仲間と共にそれらと激しい戦いを繰り広げた。

 兄と、友と、同胞と。(いさか)いを超えて手を結んだ者たちと共闘し、等しき敵を退けて。その翌日、未知の敵についての情報を得ようと、バイクに跨って道を疾走していたとき。視界を染める紫色の闇の中、無数にうごめく目玉に見つめられ、彼はこの地に誘われていた。

 

 その背後には彼が繰る真紅の鉄馬。先ほどまで自身が乗っていた大型のバイクだ。黒いボディに重厚感と威圧感を持つそれは『マシンキバー』と呼ばれており、その身にはコウモリめいた双翼の意匠が誇り高く刻み込まれている。

 その後部に手をかざし、渦巻く暗闇の波動から現れたシックなバイオリンケースを手に取って、(わたる)はそれを優しく開いてはその中に視線を落とす。

 棺の中に眠るは『ブラッディ・ローズ』の名前を与えられた世紀のバイオリンである。己が父と母の手により一から作り上げられたそれは渡が生まれる以前に完成し、渡の傍に在り続けた。そこに込められた想い、二人の奏でる音楽は、さながら渡と血の継承を同じくする兄弟のよう。

 

「……父さん」

 

 この身に流れる血は人間のもの。そして同時に、人間ならざる者の血。一人の男は人間でありながら三度(みたび)、闇の鎧を纏い。己の生き様を誇りと掲げて散っていった。一人の女は人間ならざれど、人間との恋に落ちる同胞を訝しみ──己も同じ禁忌を犯した。

 紅渡は人間ではない。同時に人間でもある。魔法の森の近くに建てられた香霖堂が人間と妖怪のどちらをも示す場所に在るように、彼もまた人間とそうでないものの混血である。

 そして、その愛は。紅渡という命と同じく、一つのバイオリン、ブラッディ・ローズと名づけられた芸術品としても生まれ落ちていた。

 

 どれだけ削り方をこだわっても、どれだけ塗装をこだわっても──届かなかった。生まれたときからずっと傍にあったこのバイオリンを、父の魂に至るほどの奇跡の逸品を。自らの手で超えることはついぞ叶わなかった。

 一度、この名器が自身の迷いによって傷ついてしまったこともあったが、渡は気づいたのだ。この音楽を完成させるのに必要なのは技術でも製法でもない。ただ、愛という祈りなのだと。

 

「…………」

 

 父と母の愛をその手に抱き上げ、傍らに寄り添う弓と共に握りしめる。聴く者はいない。ただ自分自身の祈りのために。どうか道を示してほしい。瞼を閉じては願いを込めて、渡はブラッディ・ローズの弦へと右手の弓をそっと乗せる。

 右手を心の譜面に沿わせる度に震える祈りが顎へと伝わってくる。低く胸に響き渡る己の音楽を奏で、最後に強く弓を引き絞り──薔薇を摘むように優しく右手で弦をつまみ、(はじ)く。

 

 心の涙を拭うその演奏で霧を払うことはできない。道は未だに見えぬままだが──廃洋館を背にしていた渡の背後から、控えめながらも賞賛の意が込められた拍手が届いた。

 観客など誰もいないと思っていた渡は少しだけ驚いたが、すぐにその音の方へと振り向く。

 

「……素敵な演奏ね」

 

 陰る表情に小さな微笑を見せるは、金髪のショートボブに三日月の意匠を湛えた黒い帽子を装う少女。黒と白の衣服を纏い、夜を思わせる静かな声で賛辞を送った。

 この廃洋館こそを居場所とする存在は人に非ず。ただ音という存在だけが気質として具現化し、物理的な事象を引き起こす現象そのもの。ポルターガイストとも称される『騒霊(そうれい)』は、音楽を愛する者たちとなって生まれている。

 騒霊ヴァイオリニスト、ぼうっと淡くその場に現れた ルナサ・プリズムリバー の手には丁寧に手入れが施された年代物のバイオリン。渡はそれを見て、彼女も演奏者なのだと悟った。

 

「ほんとほんと、プロのヴァイオリニストかと思ったわ~!」

 

「まぁ、ルナサ姉さんほどじゃあないけどねー」

 

 暗く陰鬱な雰囲気を纏うルナサのもとへ舞い降りるように、今度は絹のように柔らかな声が聞こえてくる。続いて、さらにその声に追従して跳ねる音符のように軽やかな声。二人の少女は自分たちの姉──長女であるルナサ・プリズムリバーの傍に立った。

 

 淡い薄紅色の服装に身を包む少女はルナサの妹。薄い水色のウェーブヘアを雲と和らげた、次女である メルラン・プリズムリバー だ。騒霊トランペッターとして知られる彼女はその手に立派なトランペットを持ち、笑顔で渡の表情を見る。

 赤く明るい衣服を纏う少女は二人の妹。短めに切り揃えた亜麻色の髪を揺らす騒霊キーボーディスト、三女に当たる リリカ・プリズムリバー はどこか悪戯(いたずら)っぽく呟き、近くにシンセサイザーを浮かべていた。

 ピアノめいた鍵盤の端についた小さな羽根をはためかせながら、そのキーボードはリリカに付き従うように宙を舞う。さらにそれだけではなく、ルナサのバイオリンも、メルランのトランペットも。彼女らが手放したにも関わらず──落ちることなくその傍の空中に漂っている。

 

「……えっ、あっ……ありがとう……ございます」

 

 渡は演奏を褒められたことに確かな嬉しさを感じつつも、不意に空から舞い降りた少女たちに驚きの心を隠せず。多くの悩みと戦いを乗り越え、成長はしているとはいえ、ただでさえ人見知りの激しい内向的な彼にとってはその光景は簡単には飲み込めそうにない。

 打ち捨てられた廃洋館──『旧プリズムリバー邸』に騒霊として生まれた三人は音の幽霊であるために血縁というものはない。ただ、彼女たちを生み出す原因となった少女の願いが、とある三姉妹の霊魂を模しただけだ。

 ゆえに彼女らはプリズムリバー三姉妹と称されている。ルナサ、メルラン、リリカはそれぞれが暗く陰鬱に、明るく楽しそうに、あるいはどちらともつかずに。一目で外来人と見抜いたその青年を必要以上に驚かせぬようにそれぞれの楽器の『幽霊』を指をパチンと鳴らして消失させる。

 

「演奏も素晴らしかったけど……その子、並の代物じゃないわね」

 

 ルナサは渡が手にするブラッディ・ローズに興味深そうな視線を向けた。

 弦楽器全般を得意とするルナサであるから気づけたのか、その楽器に込められた想いは、これまで自分が見てきたどんな楽器よりも強く気高い。

 ルナサ自身が愛用するバイオリンも、かのストラディバリウスも裸足で逃げ出す名器──の幽霊とされるが、彼が持つものは世界的な名声こそなくともそれらを凌ぐほどの逸材であろう。

 

「これは……父さんの形見なんだ。両親が二人で作った、世界に一つだけの祈り……」

 

 暖かい優しさを込めた瞳でブラッディ・ローズと向き合う渡。これまでも多くの道に迷い、その度にブラッディ・ローズの音色に導かれてきた。父の祈りが込められたそれは、渡にとっては自分自身の証明でもある。

 一度は絶えず戦いを促すその音色に忌まわしさを感じ、自らの手で叩き壊そうとしたこともある。それもまた渡の人生。受け継がれる音楽は、血染めの薔薇の如く、鮮烈で残酷で、儚い。

 

「……感じるわ。その子の幽霊から、貴方を見守ろうとする意思を……」

 

「幽霊……? えっと、それはどういう……?」

 

 ルナサの瞳に込められた慈しみめいた想いを見て、渡はその言葉の意味を聞き返す。

 気質の具現である幽霊は動植物だけでなくあらゆるものに宿っている。事象も概念も器物さえも問わず、渡のブラッディ・ローズにも気質たる幽霊は在る。

 その想いがルナサにも伝わってきていた。彼女が持つバイオリンは楽器としての実体を持たない幽霊のみの存在であるため、そちらから見れば渡のものは生者と言えよう。その魂が、在り方が。渡の生き様を最後まで見届けようと──まさしく幽霊じみた想いで彼の傍に存在している。

 

「私たち、騒霊っていう種族なのよ~。ポルターガイストってやつね」

 

「見たところ、君、外来人でしょ? 私たちが幻想郷について教えてあげるよ」

 

 天空を吹き抜ける金管楽器めいたメルランの声。軽やかに跳ね躍る鍵盤楽器めいたリリカの声。廃洋館を見上げては少女たちに向き直り、幽霊という言葉に湧き上がる恐怖と微かな親近感を覚えた渡──かつて『お化け太郎』とも呼ばれたその身に寒気が走った。

 それでもすぐにこの場から逃げ出そうと思わなかったのは、ブラッディ・ローズに導かれ、自らの意思で戦ってきた経験が彼を強くしたためか。

 ──あるいは、彼女たちが抱く音楽を愛する気持ちが、渡とよく似ていたからかもしれない。

 

◆     ◆     ◆

 

 紅魔館の廊下を通り抜け、小さな金色の翼をはためかせるコウモリめいた生物が舞う。行き交う妖精メイドたちに見つからないように、大きく輝く真紅の眼を不安に曇らせながら、立派な牙を湛えた、顔に翼を持つような一頭身のそれが深く溜息をついた。

 自分を捕らえた魔女の支配から脱出したはいいものの、ここがどこなのかも見当がつかない。周囲に漂う不気味な魔力は自身が生きた世界の遥か過去の時代を思わせる血生臭さに満ちているが、あの魔女が放った魔法は──

 金色のコウモリは小さな体躯からは想像もつかないような機敏な動きで魔女の拘束から抜け出すことができた。この未知の場所に迷い込んでから離れ離れになってしまった相棒を探したいのだが、薄暗い真紅の洋館には人ならざる従者たちが多く、迂闊に動けば見つかってしまう。

 

「あの女……とんでもない魔女だぜ……」

 

 コウモリは自らが生きた元の場所に想いを馳せる。その世界には13種類の『魔族』が存在していた。彼はそのうちの一つ──『キバット族』と呼ばれる種の誇り高き貴族の出身であり、歴史にその名を残す名門『キバットバット家』の嫡男(ちゃくなん)たる『キバットバットⅢ世』である。

 

「……っ! やべっ……! また誰か来る……!」

 

 キバットは鋭敏なソナーの役割を果たす両耳をぴくりと震わせて跳ね上がった。微弱に放っていた魔力の超音波が反響し、自分を狙っているであろうこの洋館の住人の接近に気がつく。多く存在する妖精メイドたちと比べて、その気配は強く感じられた。

 慌てて花瓶の陰に隠れ様子を伺う。現れたのは真紅の髪に黒いベストを装う有翼の少女。魔力の気配があの魔女に似ているため、おそらくは魔女に仕える使い魔か何かであろう。

 

「どこ行ったんだろ。金色のコウモリなんて目立つと思うけどな……」

 

 小悪魔は赤い髪の側頭部に突き出したコウモリの翼を揺らしながら周囲を探る。やはりキバットを探しているようだが、キバット族の特殊な魔力はそう簡単には魔力感知に引っ掛からない。ただやはり金色の翼は視覚的に目立つため、目視で見つかってしまうのは時間の問題であった。

 

「金色の……コウモリ?」

 

「あ、外来人の。館内で逃がしちゃったんですけど、見かけませんでした?」

 

 キバットが花瓶の陰で様子を伺っていると、今度は反対側からもう一人の人物の気配を掴んだ。こちらは感じられる魔力から見てどうやら純粋な人間であるらしい。

 城戸真司は小悪魔の言葉に興味を抱いた様子で聞き返した。ジャーナリストとしての好奇心が疼くのか、金色のザリガニや髪の毛が生えたカエルに類するその存在に取材者の目が光る。

 

「見てないけど……探すなら任せてよ! 俺、子供の頃はコウモリ捕りの真ちゃんって──」

 

 真司が自信に満ちた笑顔を見せつつそう語ろうとした瞬間、キバットのソナーには無から生じたとしか思えない唐突な気配が伝わる。小悪魔も城戸真司もそれを予測することはできず、まさしく時間を止めてその場に現れた──人間のメイド長に驚きの感情を覚えさせられた。

 

「城戸さん、怪物が出たわ。一緒に戦ってくださる?」

 

「うおっ……! 相変わらずいきなり……! ってか怪物!? モンスターか!?」

 

「さぁね。気配は違ったけど……あなたが霧の湖で出会ったグロンギとかいう奴かも」

 

 十六夜咲夜の言葉は冴えるナイフのように的確に要件だけを告げた。真司は不意に現れた彼女に大袈裟に驚いてしまうが、すぐに言葉の意味を理解する頭の回転を見せる。

 小悪魔も怪物については理解しているため、やはりモンスターが現れたのだと悟った。咲夜の言う通り、真司の近くにはミラーモンスターの気配はない。だが、彼とてモンスターならざる怪物と交戦した経験がある。力強く頷き、真司と咲夜は美鈴が待つ紅魔館庭園へと向かった。

 

「怪物……? もしかしたら、そこに渡も……!」

 

 キバットの耳に届いた魔力の波動ならざる声という波長。その言葉を耳に聞いて、彼の脳裏にはステンドグラスめいた美しき悪意が過る。

 自身が仕えた誇り高き血の運命。自身が友とする尊き親子の血統。キバットはもしかしたらこの地で離れ離れになってしまった彼のもとへ戻れるかもしれないと淡い期待を抱いた。

 小さな悪魔の少女に見つからないように、真司の背中にひっそりと息を潜めしがみついて。

 

◆     ◆     ◆

 

 霧の湖の畔──紅き館の反対側。幻想郷についての説明を受けた渡は先ほどまで手にしていたバイオリンを背後のバイク、マシンキバーの座席に乗せていた。

 マシンキバーの後部には翼めいた形状のパーツが突き出しており、バイオリンケースを括りつけられるスペースはない。それでもこの楽器を持ち歩くことができているのは、このバイクが人智を超えた技術を持つとある種族──渡の母と同じ一族、その王たる者の命令で造られた魔術的なものであるからだ。

 王の鎧と共に生み出されたこの機体は強大な魔力を帯びている。その波動は機体に『シャドウベール』と呼ばれる不可視の結界をもたらすことで搭乗者を疾走の風圧から守ったり、超自然的な魔術の力で虚ろに歪めた空間にはある程度のものを格納することができる。

 

「幻想郷……ここには君たちみたいな騒霊や妖怪が……?」

 

 渡はルナサたちが語った言葉を繰り返し呟く。一度はその存在に驚いたが、思えば自分が今まで戦ってきた敵や見てきた事象、幼い頃より母に聞かされた魔族の物語。そして己が身に流れる魔の者の血を思えば、あながち受け入れがたいということもなかった。

 きっと今まで自分が奏でてきた音楽も同じだったのだろう。魂を喰らう怪物が古来より人々を襲っているなど──実際にその目で見なければ到底受け入れがたい話であるのは間違いない。

 

「そーいうこと。今は異変の影響で、わけのわからない怪物もいるみたいだけどね」

 

「異変が落ち着いたら、ぜひ私たちのライブも見に来てほしいわ」

 

 得意気に答えるリリカに続き、柔らかな表情で微笑みかけるメルラン。音楽を愛する少女たちのおかげで、未知の場所に誘われてしまった渡の心にも少しずつ音が戻っていく。まるで音叉に楽器を合わせるように、三人の声は渡の音楽から不協和音を取り除いていった。

 

 ──微かな静寂が訪れる。その瞬間、渡の耳に響く弦の音色。忘れるはずもない、父の願い。渡が聴いたのはマシンキバーの座席の上にて悲痛に叫ぶ、革色のバイオリンケースであった。

 

「これは……」

 

 ケースを開けば美しい張りを見せるブラッディ・ローズの弦が独りでに震えているのが見て取れる。奏でる音に旋律はなく、ただ渡を鼓舞するように。歌うのではなく、訴えるように。それはいつだって渡を導いてきた魂の音色。人の心の音楽を守るために戦う、渡にとっての意思の譜面。

 

「いろいろと教えてくれてありがとう。僕、行かなくちゃいけないんだ」

 

 渡の顔つきが変わったのを見て、ルナサはブラッディ・ローズの音色に耳を傾けた。ルナサにとって、それは美しい音色ではあるものの、言葉として聞き取れるものではない。だが、彼女には理解できる。ブラッディ・ローズに込められた──渡の父の魂の願いが。

 ブラッディ・ローズの幽霊は器物としてのものを遥かに超えた熱い想いに満ちているようだ。どこか生き霊に近い、血の色さえも思わせるような真紅に滾る心の色。覚悟を抱く人間の音。

 

「その子の幽霊が言っているわ。戦え……って。それがあなたの……運命なのね」

 

 渡はケースを閉じ、ブラッディ・ローズをマシンキバーの後部に生じたシャドウベールへと包み込ませる。暗闇の波動は不可視の結界となり、それなりの大きさを持つバイオリンケースを魔術的な空間へと格納させた。

 ルナサに対して力強く頷き、同じくシャドウベールの中から取り出した真紅のヘルメットを被る渡。その両手にグローブを身に着けてはマシンキバーのハンドルを握りしめ、その心臓(エンジン)に気高く嘶く誇りと共に、炎の如き熱を灯らせる。

 真紅の鉄馬は主たる者の意思に応えた。馬のモンスターの脳が込められたフロントカウルをもって睨むは、霧の湖の彼方。ブラッディ・ローズが示す、この心が示す場所──紅魔館。

 

 強く(ハンドル)を引き絞り、紅き馬は甲高い音色を掲げて目指すべき終止符へと疾走していった。

 

「…………」

 

 霧の彼方へと去っていく渡を遠目で見送りながら、少女たちはそれぞれ懐から異界の力を纏ったあるものを取り出す。

 メルランが手にするのは淡い金色と微かな赤に彩られた──音叉のようなもの。鬼の顔を象ったそれは重厚な金属の質量を感じさせるのに、抱く音は天空を舞うように爽やかなものだ。

 

「姉さん、あの人がこの子たちと同じ世界の楔なのかしら?」

 

「……音の波長が違う。似ているけど……この子たちとは別の世界の存在ね」

 

 ルナサの手に宿るのは鈍く銀色にくすんだ音叉。やはりメルランのものと同じく鬼の顔を持ち、暗く静かながら強く秘める想いを持つルナサのように、地味な外見からは想像もつかぬほど激しく力強い音を抱き有している。

 そしてリリカが取り出したのは(たぎ)るように赤い鬼の顔に漆塗りが施された角と柄を持つ音叉だ。こちらは仰々しい色合いに反し、軽やかで親しみやすい──それでいて虎に似た強さを持つ音が宿っている。同時に、リリカらしい狡猾さ、まるで盗人のような太々(ふてぶて)しさをも感じさせた。

 

「あいつ……私たちに何をさせたいのかな」

 

 リリカは怪訝さを込めた瞳で自ら手に持つ音叉に視線を落とす。彼女らにそれを渡したのは、同じく音楽を愛する者として演奏を共にすることもある妖怪だ。

 かつて様々な道具が意思を持ち始め、空に逆さまの天守閣が現れた異変において、雷雲の中より姿を見せた和太鼓の付喪神。今では近代的な外の世界のドラムを依代としているようだが──つい最近会った彼女には、元あった通りの和太鼓に似た音の波長がより強く感じられた。

 

 それはまさしく豪華絢爛に花開く、鬼の舞を思わせるほどの──(かぶ)き唸る雷鳴の鼓動(ビート)。あるいは(やぐら)に灯る炎の如く、流る虹霓(プリズムリバー)旋律(メロディ)を輝かせる律動(リズム)

 戦国時代のそれを思い出させんばかりに原始的(プリスティン)な太鼓の音は、彼女らの耳に強く響いていた。

 

◆     ◆     ◆

 

 紅魔館の庭園にて、蒼褪めた馬の怪物──ステンドグラス状の体組織を備える異界の種族がその鼻息を荒立てる。

 剥き出す歯は草をすり潰すためのものであろう。されど十字に切れ込み四方へ開くその顎は馬の口とは似ても似つかない。一目で異形と分かる大口から吐息を零し、怪物と向き合う美鈴は先ほど目にした馬らしからぬ『牙』のようなもの──半透明の飛行物体を思考に浮かべて憂いた。

 

「咲夜さん! 真司さん! こいつ、吸血鬼じみた真似を……!」

 

「ええ、見てたわ。お嬢様が気分を害す前に、さっさと片付けるわよ」

 

「吸血鬼じみた真似? 何それ、こいつ、何してくんの!?」

 

 庭園へ駆けつけた二人に対して忠告を放つ美鈴。己が首筋を狙って放たれた二つの牙は、紛れもなく自身が(あるじ)と認める吸血鬼と同じ『血を吸い上げる』者の振る舞いだった。

 だが、実際に顎で噛みつくのではなく、エネルギーの牙そのものを遠隔で放ってくるとは。美鈴は反射的に避けられたが、人間である二人が喰らえば一瞬で命を吸い取られてしまいかねない。

 

「三人掛かりならすぐに終わるだろうから……気にしなくていいわ」

 

「な、なんだよ! 気になるだろ!?」

 

 咲夜は自分が見たものを説明しようとしたものの、やがて考えを改める。牙を背後に現して死角から吸血を行うなど、実際にその目で見なければ理解しがたい事象であろう。言葉で説明しても無意味だと判断し、懐からナイトのデッキを取り出す。

 慌てて龍騎のデッキを取り出しつつも、真司は咲夜の言葉に納得のいかない表情を見せた。説明を面倒がっている様子の咲夜に声を上げるが──すぐに彼らの表情は別の色に染まる。

 

「えっ……!?」

 

「な、これは……!?」

 

 不意に耳に届いたのは夏空に舞うカブトムシの羽音だろうか。重なり響くは大河を流れる桃のように、緩やかに迫る列車の警笛。遠く聞こえた重厚な竜の咆哮も同様に気のせいであったのかもしれないが──彼らの全身が捉えた『時空の歪み』は錯覚などではない。

 視界のすべてが乱れて捻じ曲がる。目の前にいる怪物も、庭園に咲く花々も。傍に立つ者たちもが歪んだ鏡に映ったように、その形を変えては思考を揺さぶる衝撃を散らす。否、それは時空の歪みに際する視覚的な影響に過ぎないものだった。

 

 美鈴と咲夜は周囲に起きた変化に狼狽えたまま互いの顔を見合わせる。三つの力が乱れた果てに、やがて耳を貫く軋みの中、カブトムシの羽音と列車の警笛と竜の咆哮は掻き消され──

 

「なんだ……!? ど、どうなってんだよ……!? ……っ! おい、ちょ──」

 

 真司の混乱が形を成す余地もなく。美鈴と咲夜を含め、彼らは蒼褪めた馬のファンガイアを前にして。乱れ歪んだ時空の奔流に巻き込まれ、紅魔館の庭園から──その姿を消してしまった。

 

◆     ◆     ◆

 

 紅魔館全体を震わせる力の乱れに表情を変えて、レミリアは己が部屋の窓よりその光景を目にした。庭園にて起きた先ほどの事象。それは、彼女が見た運命の中にはなかったもの。

 

「……! 咲夜たちが……消えた……?」

 

 時間と空間の流れが歪んだことは肌に伝う感覚から理解できた。咲夜が時間を止めて現れる際にも同じ感覚がある。しかし、今の事象は咲夜の能力によるものではない。もっと別の何か、別の力が相互作用し、咲夜たちを別の場所へと飛ばしてしまったのだ。

 三つの世界の軋みが時空を歪める力をもたらしている。レミリアが運命の中に垣間見たカブトムシと列車、そして城を背負った竜の中にあった──鎖に封じられた扉らしきもの。

 

 ()()()()()()という強大な力が一つの世界に束なったことで互いに影響を及ぼし合い、何らかの不具合が生じたということなのか。三つの力のいずれでもない龍騎の世界の法則、カードデッキを持っている咲夜たち三人だけがその影響に巻き込まれてしまったのだろう。

 その結果がもたらす事実は、紅魔館庭園に未知の怪物が野放しになってしまったということ。妖精メイドたちでは戦力にはなるまい。門番を失った門を見つけた侵入者が取る行動は一つだ。

 

「気は進まないけど……私が行くしかないみたいね」

 

 飲み込んだはずの二度目の溜息をついぞ吐く。城戸真司を向かわせたのが裏目に出たか──などと舌打ち混じりに思考を結び、レミリアは紅い魔力と共にその右手に現した特注の日傘、健康的な人間の柔らかい臓物を思わせる可憐な薄紅色のそれを伴い。

 少女は控えめに日光を差し照らす窓を忌まわしげに開きながら、その翼と日傘を広げた。

 

 紅い霧が彼女の左手にて結晶めいた長槍と成り、放たれる。悪魔の心臓をも射貫くその一撃は、中心(ダブルブル)を狙ったものではない。ただ怪物の足元を穿ち抜き動きを止める。役割を終えた真紅の槍は再び紅い霧と還り、文字通り霧散を遂げた。

 夜色の翼も、鮮血色の日傘も。彼女の誇りを演出する旋律の如くふわりと風に乗り。レミリア・スカーレットは紅魔館の当主として自らの足で降り立ち、不遜なる怪物に緋色の視線を向ける。

 

「どういうつもりか知らないけれど、吸血鬼(わたしたち)の同類にしては気品が足りないわ」

 

 槍を放った風圧によって舞い上がった庭園の花びら。淡い黄色と無垢な白。水色のものに紫色のもの。そのどれもが、唯一揺るぎない運命という真紅を飾るため、儚く愛しく舞い落ちる。

 

「私の屋敷に踏み入る気なら……相応の振る舞いを身に着けなさい」

 

 ──運命は言った。お前の居場所はここにはないと。幼く可憐な声色ながらも冷ややかな威圧を込めた忠告。

 しかし、向かう相手もまた誇り高き血を持つ者。とある世界において13の魔族を超え、今やその頂点に立つ『ファンガイア』と称される種族の一体である。

 彼らの運命は他種族の命を吸い上げて己が力に変えること。あるいは芸術的とも思えるステンドグラスの如き身を備え、馬の彫像に似たその個体──『ホースファンガイア』は掲げた己の右腕を左手で叩くことで、砕け散ったその身の一部を零し。己が足元にて美しい長剣を形成した。

 

「相応の振る舞いだと? 齢100にも満たぬお嬢さんが、面白いことを言うじゃないか」

 

 ホースファンガイアの全身に配された蒼穹のステンドグラスは万華鏡。悪意に歪んだ男の顔を合わせ鏡に映し出し、向き合う真紅に嘲笑をぶつける。

 足元に象られた長剣を右手で掴み拾い上げ、ホースファンガイアはそれを構えた。

 

「その目もガラス細工なのかしら? そんなに若く見えるだなんて、お世辞が上手いのね」

 

 真紅の言葉に蒼穹は曇る。互いに誇りを譲らぬ貴族の如きプライドを掲げ。見た目こそ幼子であれど、500年以上もの歳月を生きた吸血鬼にとって、容姿の幼さだけを蔑む悪意に意味はない。

 対する怪物の万華鏡(ステンドグラス)に映る姿もまた、若い男の外見に反して悠久の歳月を生きていた。

 

「……なるほど。その日傘……それにその魔力。我々の音楽を飾るには丁度いい」

 

 両肩に象られた翼の意匠を溜息と揺らし、ホースファンガイアはレミリアの種族を悟る。交わし合う言葉は運命を見る儀式。双子のペテン師が夢見る、誠実と憂鬱。怪物の狙いは分からないが、レミリアは太陽の光を返す蒼穹のステンドグラスに忌まわしさを覚えた。

 蒼褪めた馬は剛脚をもって疾走する。振りかざされた蒼穹の長剣に打ち合わせるようにして、少女は己が左手に紅い霧の魔力で象った真紅の長槍を形成し、牙剥く殺意の一撃を凌ぐ。

 

「(……殺すのは簡単……だが……)」

 

 肌身に感じる魔力の質は確かに強力なもの。されどこの程度ならば、レミリアにとっては退けることなど造作もない。あえて急所を狙わず足止めに留めたのは、未知の法則を備えるこの怪物から情報を得ようと思ったがため。

 日傘を差しながらでは本気の戦闘を行いづらいという弱点を差し引いても、吸血鬼は強大だ。左手だけで振るう魔力の槍にも相応の膂力が込められ、怪物の剣と不足なく渡り合う。

 

 不意に、甲高い剣戟の音を奏でる紅と蒼の狭間にまたひとつ。ホースファンガイアとは別の馬の(いなな)き──そこに蒼穹ならざる真紅が響き渡った。

 紅き槍と蒼き剣が弾き合い、互いに距離を取りつつ、少女と怪物は現れ来たる気配を見る。

 

「外来人……? でも、この感覚は……」

 

 耳に聞こえたのは機械的なバイクのエンジン音。そのノイズの中に、確かに宿るのは紛れもなく生きた馬の鼓動。流れるオイルは誇り高き血であるのだと証明するかの如く、真紅に染まった一台のバイク──マシンキバーは紅魔館の庭園にて力強く滴り落ちた。

 レミリアが見たのは現代的な衣服に身を纏った一人の青年。マシンキバーからゆっくりと降り、外したヘルメットをバイクに置いて、幼げながら精悍な顔つきで怪物のもとへと歩み出す。

 

「渡! 会えるって信じてたぜ!」

 

 青年のもとへ舞い降りる小さな翼に対し、レミリアは紅い視線を向けた。青年──紅渡はその金色が備える真紅の瞳と目を合わせ、小さく頷いてはそちらと等しく怪物に向き直る。

 

「金色のコウモリ……パチェが言ってたのはあいつか?」

 

 キバットバットⅢ世が放つ魔力は微かながら異質。なるほど、彼女(パチェ)が興味を持つのも納得がいく、と刹那の思考を過らせ、レミリアは周囲の空気が張り詰める感覚を覚えた。この場に現れた外来人らしき青年と金色のコウモリ、彼らを見る怪物の眼差し。

 ステンドグラスを帯びた蒼穹の怪馬は明らかに彼らを警戒している。確かに奇妙な魔力を備えてはいるものの、吸血鬼である自分を差し置き、生身の人間と矮小なコウモリに対してだ。

 

「……キバット!」

 

「よっしゃあ! キバって行くぜ!」

 

 渡はホースファンガイアから視線を外さぬまま、高らかに友の名を呼ぶ。歓喜に翻る金色の翼は旋回しながら、大きな口を開いては鋭く研ぎ澄まされた牙を見せ。

 バイクの運転に際して着けていたライディンググローブは渡の手から外されている。渡は右手を高く掲げて己が周囲を羽ばたくキバットの背を掴み、自らの目の前に差し出した左手に寄せた。

 

「ガブッ!」

 

 キバットの双牙は渡の左手に強く突き立てられる。されどその肌を傷つけることはなく、ゆえに血が滴ることもなく。

 ファンガイアの王族に仕えるキバット族の名門、キバットバット家。その使命を果たさんがため、継承者に噛みついてはその身に宿す神秘の波動──『魔皇力(まおうりょく)』を流し込む。

 渡の頬には誇り高きファンガイアの証たるステンドグラスの紋様が浮かび上がった。その極彩(いろどり)は牙、あるいは翼。瞳に現れる同様の意匠もまた、同族の血を受け継ぐファンガイアへの威圧。

 

「…………!」

 

 レミリアが感じたのは渡の戦意。それだけではなかった。彼の中に湧き上がる力、先ほどまで感じていた異質な魔力。微かだったそれが爆発的に増大し、さっきまでの弱々しさなど見る影もないほどに強く燃えるように活性化していったのだ。

 馬の怪物──ホースファンガイアはそれを知っていた。渡を見た瞬間から、それが王たる鎧の継承者であるということを。この矮小なるコウモリがそれを有しているということを。

 

 魔皇力と称されるエネルギーが渡の中で整っていく。気高く奏でられる笛の音と共に、渡の腰に幾重に連なる白銀の鎖が巻きついていく。

 鎖はやがて一つに混ざり合い、力強さと美しさを兼ね備えた真紅のベルト『キバックル』として具現化した。鎖の意匠を帯びたその帯は腰の両側にそれぞれ三つの呼子笛(よびこぶえ)を備え、正面のバックル部分には魔法陣めいた刻印と止まり木となるべき一条の橋が渡されている。

 

 鋭く高鳴る笛の音色。渡は静かに息を込め、右手に持ったキバットを正面へと突き出した。

 

「──変身!」

 

 紅く滾る宣言はここに果たされる。右手を翻しつつ、キバットを腰元に寄せる。キバックルの止まり木(パワールースト)へと彼の足を繋ぎ留め、さながら木に止まるコウモリの如く上下逆さまにその身を装填。キバックルは『キバットベルト』として完成を遂げた。

 同時に逆さになったキバットの紅い瞳が瞬く。瞼を閉じているのではない。瞳の輝きそのものが紅く明滅し、漲る波動と共に渡の全身に満ちる魔皇力が白銀の彫像として形成される。

 

 やがて彫像は砕け散った。掻き消えた魔皇力の残滓から姿を現したのは、すでに紅渡の姿ではない。ただ何も始まらぬ闇の中に隠れていた自分を脱ぎ捨てるように。閉ざされていた扉をその足で叩き壊すように。ありったけの強さで。

 目に見える不安を数えるよりも、目には見えない繋がりを信じていたい。自分の音楽(おと)が謎を解くイメージを、自分が世界に存在している意味を証明するために。運命(さだめ)因果(くさり)を──解き放つ。

 

「……これは……」

 

 レミリアの真紅の瞳が捉えたのは異世界の法則。白銀の彫像を破り現れたのは、人ならざる異形の血族。その王たる誇りを示す『鎧』だった。

 ()の者の肌を包む黒は竜の皮革(ひかく)。彼の者の双肩と右脚を守護する白銀は強い魔力が込められた砦。彼の者の胸に滾る真紅は心臓の具現たる力強さを誇り、漆黒の血管を伴い満ちる魔皇力の波動に熱く鼓動を続けている。

 月の光を思わせる金色の複眼は牙か翼の如く鋭く万象を威圧し睨めつけ。ただそこに存在しているだけで。佇むだけで。レミリアとホースファンガイアに底知れぬ魔力を感じさせていた。

 

「やはり……お前は……『キバ』……!」

 

 ホースファンガイアは蒼穹の剣を握りしめたまま震える。力の差を飲み込み己を抑え、忌まわしきその名を零す。

 渡が纏うは王のための鎧。ファンガイアの王のために献上された力の証。名を『キバの鎧』と称されるそれは本来、純血の継承者のために鍛えられたもの。だが──

 

 紅渡はファンガイアの血を宿す。されど、その身には同時に人間の血も流れている。ファンガイアが何より忌む穢れた血。ファンガイアの掟に背いた罪の証。

 ファンガイアと人間は愛し合ってはならない。決して交わってはならない。その禁忌を破り、生まれてしまった呪われた存在。

 女王の血を引く彼の者は、王に等しき力を備えた。一度は王座に君臨したとされるその愚かしき罪を座より引きずり降ろすべく、ホースファンガイアは己が王が纏うべき鎧に剣を向ける。

 

 紅き血が刻む運命の系譜。親から子へ渡る音楽。誇り高き旋律は、追憶の幻想と奏でられた。




キバっぽい音楽用語とか芸術用語をにわかなりに使っていくスタイル。いや、奏法。
スペルは違いますけど祈る(Pray)奏でる(Play)が同じ音なの素敵ですよね。

関係ないですが2022年は東方紅魔郷と仮面ライダー龍騎がどっちも20周年です。同期!

次回、第54話『交響曲 ♪ 紅のデュオ』


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第54話 交響曲 ♪ 紅のデュオ

【 KIVATRIVIA 】
みんな、知ってるか?
チュパカブラとは、主に南米で目撃される未確認生命体、UMAである。
赤く大きな目、鋭い爪や牙を持ち、ヤギの血液を吸い取るという。
その正体は毛の抜けたコヨーテだとされるが、宇宙人という説もあるそうだ。


 薄く白めく霧の帳。悪魔の居城を彩る魔力の渦は、そんな揺蕩いを鮮烈に切り裂くほど力強い。荒く鼻息を奮わせる蒼穹の冥馬、ステンドグラスの意匠に彩られたホースファンガイアは向き合う真紅に冷ややかな感情を突き立て──長剣を握る右手に熱を込める。

 真紅はその矮躯を見た。月めく仮面(キバ・ペルソナ)に映る蒼穹は、彼がかつて一度倒したはずの相手。されど渡は知っている。ファンガイアの死に、永遠の安寧などない。たとえ骸と散り消えど、残された者の未練がその無念を冥府の淵より呼び戻すことがあると。

 

 ただ、訝しむべきはそこに明確な意思、生前の人格と呼べるものがあることだった。

 死の淵より蘇ったファンガイアは同族の力を吸収して知性なき怪物として復活した亡者に過ぎない。だがこの個体は違う。紛れもなくかつてと同じ意識を保ち、自分自身の自我を有している。

 

「渡、こいつ……!」

 

「……うん。(めぐみ)さんと……初めて会ったときの……」

 

 怪物と向き合う真紅──キバの鎧を纏った渡。腰のキバットベルトに宿すキバットバットⅢ世の言葉を耳に聞き、ホースファンガイアの既視感に在りし日の記憶を紡ぐ。

 ファンガイアと敵対する組織があった。ステンドグラスの荘厳さとは反対の、それでいて等しくもある爽やかな美しさ。素晴らしき青空たる戦闘組織。そこに属する一人の女性と初めて知り合った日に見た、浅ましき蒼穹。

 荘厳な群青は青空とは相容れぬ深き美しさを湛え、その女性の生命(いのち)を喰らおうとした。ただ父の音楽が示すままに戦っていた渡はファンガイアと拳を交え、やがて撃破した。ファンガイアの王の証、真紅の鎧を纏う自身もまた──その高潔なる青空の意志の標的となりながら。

 

 キバの鎧が微かに構えると同時、その身を縛る封印の(カテナ)が擦れ合う。渡の身に装われるこの鎧は、その絶大なる力を何重もの鎖でもって封じられているのだ。

 第一に造られた運命の鎧は王座を表すもの。第二に造られた闇の鎧は、すべての種族の頂点たる威光を証明するもの。そして第三に造られた黄金の鎧──『黄金のキバ』の鎧は、第二に造られた闇と同様にあまりにも強すぎる力を恐れられた。

 黄金のキバは己が身に満ちる輝きを鎖の中に封じ、その力を秘匿された。真紅と白銀を伴う今のキバの鎧は、その絶大すぎる黄金を隠す仮面。真の姿を縛るための、仮初めの殻でしかない。

 

「ブルルォォオッ!」

 

 霧を貫く光を返しながら、蒼きステンドグラスが閃く。荒立てる鼻息と共に、ホースファンガイアの長剣は紅魔館庭園に満ちる微かな霧を一刀のもと切り裂いた。

 それを受け止めるは紅渡が身に纏いしキバの鎧──幾重もの(カテナ)に双肩を、右脚を、その全身を拘束され封印された『キバフォーム』の装甲。

 じゃらりと擦れる鎖の調べを奏で上げ、渡は長剣の一撃を白銀の左肩で凌いだ。無防備になった腹に真紅を伴う右拳を突き出し、その身に滾る王者の風格、紅き魔皇力の波動を叩き込む。

 

「…………」

 

 奇しくもキバの鎧と等しき真紅、レミリア・スカーレットはその戦いを傍観していた。あえて彼らと距離を取り、己が城たる紅魔館のバルコニーへと飛び退いて。紅く気高く天と地の境界を主張する鉄柵に優しく座しながら、少女は見下ろす真紅と蒼穹に想いを馳せる。

 

「あの不自然な魔力……それにあの鎧は……」

 

 紅魔館庭園を染める微かな霧を伝う、己が魔力に等しき真紅の波動。心地よいものではない。全身を震わせる威圧感、自身と同等の鮮烈さを持つ力が、自身の視線の先にいる。紛れもなく不快な感覚。だが──

 レミリア・スカーレットはその未知の不快感に、咲夜の紅茶とは違うものを感じていた。

 

「はぁっ!」

 

 振り上げられるキバの右脚。重厚な白銀、その装甲の上からさらに鎖を巻きつけた鎧。それは重さによって威力を上げるためではない。キバの鎧が秘める真の力、真なる威光、その最大の輝きを何よりも強く抑えるため。

 重く蹴りつけられたホースファンガイアは庭園を抜け、塀を抜け。紅魔館正門の正面に叩き出された。手にしていた長剣はすでになくなり、元のステンドグラスと砕けて散っている。

 

「……ちっ……!」

 

 鈍く立ち上がるホースファンガイアのステンドグラスに映る、若い男の苦い表情。津上カオルは忌まわしきキバの鎧を、その真紅を双眸に映しながら、苦悶の声を零す。

 彼が見るは悠々と歩み迫る王の姿。真紅と白銀を伴うキバの鎧。その手は右腰へと伸び──

 

「……決めるぞ、渡!」

 

 キバットの言葉と共に渡が動いた。キバットベルトの両腰に備わる『フエッスロット』の右側、自身の右腰に装われたそれから三つあるうちの一つの『フエッスル』を抜く。

 巨像を象った黄金でもなく。魔竜を象った茶褐色でもなく。誇り高き双翼の意匠を象った真紅のそれ──『ウェイクアップフエッスル』を手に。

 その理は呼子笛。覚醒を促す運命の音色。渡はそれを腰のキバットベルトの正面へ。逆さに吊るされたキバットバットⅢ世の口へ。大きく開いたそこへ装填し、その下顎を軽く閉じさせる。

 

『ウェイクアップ!』

 

 強く宣言したキバットは、フエッスルを咥えたまま渡の腰に在るキバックルから離れた。金色の翼を忙しなくはためかせては渡の傍を飛び舞いながら、彼が纏うキバの鎧、その姿が己が正面へと両腕を広げる構え──翼を伸ばすコウモリめいたそれを見る。

 キバットは咥えたウェイクアップフエッスルに気高き魔皇力を伴うコウモリの息を吹き込んだ。呼子笛に伝う風は隙間を吹き抜け、張り詰めた空気を鋭く貫く真紅の旋律を奏で上げる。

 

「…………!」

 

 ──深く漂う魔力の霧。レミリアがその紅き瞳に映すは、かつて自身が幻想郷の空を染め上げたものと似た──古き魔力を帯びた真紅の濃霧。

 面妖なる因果も運命を感じさせるに相応しい音色ではあったが、レミリアが驚いたのはその霧に対してではない。霧が伴う事象。彼女が思わずキバの鎧から視線を外し、空を見た理由。

 

 たった今まで薄く白い霧が漂っていたはずの昼間だった紅魔館は、誇り高き月の明かりでもって庭園を照らし出す、深夜の美しさを持つ側面へ変貌を遂げ。

 ──その濃霧は吸血鬼たる身が肌で感じられる、正真正銘の『夜』を訪れさせていたのだ。

 

「月……」

 

 レミリアは夜天に座す光──弓張る弦と反り返った三日月を見上げつつ、声を零す。昼から夜への時間の変化。咲夜たちを連れ去った時空の歪みによるものか。否、先ほど感じた時空の乱れは今はない。感じられるのは、この身の血を震わせるような紅く鮮烈な魔力だけ。

 

 キバの鎧を纏う者は低く腰を下ろしたまま、正面へ広げた両手をゆっくりと顔の前で交差させる。翼を畳みゆくコウモリ。真紅の両掌は金色の複眼を覆い隠し、次なる運命を見た。

 不意に身を上げ、渡は重厚な白銀に包まれた右脚を高く振り上げる。蹴り上げられた土が舞い、その軌跡は漆黒の空に冴える弧月を描いて。

 月の光を返して鈍く輝く白銀に寄り添うように、キバットは翼をはためかせる。禁断の笛が奏でる音色を受けたその帳は、冷たい鎧に綻びを生じさせ──封印の『カテナ』を解き放った。

 

 (とざ)された白銀の中より姿を見せたのは、真紅の翼と三つの『魔皇石(まおうせき)』を帯びたキバ本来の右脚。おびただしい魔力を纏いし『ヘルズゲート』と呼ばれる禁忌の威光。

 高く右脚を上げたまま、渡はその力の一点に月の魔力を注ぎ込むように、右脚の翼を広げた。

 

「ふっ……!」

 

 大地に着いた左足をもって高く大空へ跳び上がる。月を背にして光を受けて、キバの右脚はより狂おしく、逆吊る翼の誇りを示す。

 月の光が導く先はホースファンガイア。夜天の下には相応しくない蒼穹。その冥馬に対し、渡はヘルズゲートを開いた状態のキバの右脚を向け──紅く迸る魔力と共に死の宣告を下した。

 

「はぁぁっ!!」

 

 闇の中で聴こえてくる、不思議な呼び声。宿命の旋律(メロディ)。時の中へと迷い込む、虚ろな霧を切り裂くように。冷たい殻を打ち破り、逃げられない運命に立ち向かい、キバの鎧の継承者は今ここに。未知の園にて力を解き放つ。

 一人一人奏でる音が違うように──運命もまた同じ。故に彼はただ、彼だけの音を。自分だけの運命の演奏を胸に抱き、真実が知りたいがために。未来への地図を描いてゆく──

 

「────ッ!!」

 

 真紅の翼は宵闇を穿ち、煌く蒼穹に触れた。ホースファンガイアの声は静寂に掻き消え、キバの右脚──ヘルズゲートの力がその胸へと逃れ得ぬ絶望を叩きつける。

 紅き右脚に込められた三つの魔皇石。(そら)と、水と、地と。三つの世界を司る翡翠色の結晶体が、凄まじい魔皇力を滾らせる。その波動はキバの足底たる『魔斬口(まざんこう)』より解き放たれて。

 

 圧壊。夜天より舞い降りるキバの一撃。怪物の胸部を穿った【 ダークネスムーンブレイク 】により、その身は哀れにも紅魔館庭園にて背を打ちつけ夜空を見上げることとなった。その大地に、大いなるキバの紋章を魔力と共に刻みつけて。

 絶大な魔皇力の奔流は蒼穹の肉体を砕け散らせた。そこには炎も熱もなく、黒煙が立つこともない。ただファンガイアの命の証明、ステンドグラス状の破片を美しく夜空に舞い散らせ。きらきらと蒼褪めた光を返すその雨は、皮肉にも王たる鎧──キバの勝利を祝福するが如く。

 

 やがてその右脚は再び封印の(カテナ)に縛りつけられる。ヘルズゲートが冷たい白銀の中に包み込まれると同時、魔力の霧は晴れ──

 夜天は晴天の空へ。浮かんでいた三日月の幻影もまた、白昼の彼方へと溶け消えていった。

 

「…………」

 

 そこに残るのは虚ろな力の残滓だけ。足元にて圧壊せしめたファンガイアの命。儚く浮かび上がる白い光球は、これまでホースファンガイアがその吸命牙をもって喰らってきた人間の生命力だ。あるいは『ライフエナジー』とも呼ばれるそれは、死後も力となって残る。

 それはただ純粋なエネルギー。キバは光球を見上げ、然るべき者への施しとして回収する。先代の王が捕らえた獣たち。先代の血を引かぬ継承者たる渡にも仕えてくれる彼らのために。

 普段ならばその回収を代行してくれる竜が現れるのだが──待てどその気配は感じられない。

 

「……うん? おーい、どうした? エサの時間だぞー」

 

 キバの鎧の傍へと舞い降りたキバットが怪訝そうに空へと問う。青空には未だ巨竜の影はなく、ただふわふわと白い光球が浮いているのみ。

 渡は仮面の下、金色の複眼の下で目を伏せ思案した。その思考の月を叢雲に染めるは、紅魔館(ここ)とは別の洋館の前にて聞いた話。あの少女たちは、この世界が元の自分の世界とは違うと言っていなかったか。それが間違いないのなら、王の居城たるあの竜が姿を見せない理由もまた──

 

「渡、ちょっと呼んでみてくれ。こういうときのためのフエッスルだ」

 

 金色の翼を器用に動かし、真紅の両目がキバへと向き直る。渡はその言葉に小さく頷くと、キバットのいないキバットベルト──キバックルの右腰のフエッスロットへと手を伸ばす。手に取るのは先ほどの一撃に使用した真紅ではなく、魔竜の頭を象った茶褐色のもの。

 その背に城塞の意匠をも持つ『ドランフエッスル』を引き抜こうとする──が、その瞬間。

 

 どこからか現れた蜘蛛の糸。絹を思わせる白き一条の光がライフエナジーの光球を掠め取り、それを引き寄せることで瞬く間もなく持ち去ってしまった。渡とキバットはすぐにその先を目で追おうとしたものの、金色の複眼(オムニレンズ)真紅の複眼(キバットスコープ)はどちらもその姿を捉えることはできず。

 ただ、霧染めの白昼へと薄く消え入る──()()()()()()()めいたものの残影だけを除いては。

 

「…………」

 

 渡は微かに見えたその鈍色に心当たりはない。だが、奇妙な胸騒ぎを感じ、静かに俯く。真紅の洋館に背を向けたまま、塀の傍へと停められたマシンキバーのもとへと歩もうとする。重なり響く鎖の音、魔斬口の紋章が地を踏む音を奏で、渡は一歩を踏み出した。

 

「待ちなさい」

 

 ──不意に背後から感じた深い魔力に足を止める。昼間だというのにキバの傍らを横切る数匹のコウモリたち。夜の眷属たるそれらは霧と消え──キバの複眼を微かに背後へ傾けさせる。

 

「さっきのはどういう手品? ぜひともタネを教えてほしいわね」

 

 レミリアはふわりと舞い降りた。その目は紅く、真紅の鎧を見据えている。刹那の夜が明けた朝陽、太陽の輝きを防ぐ特注の日傘をその手に添えながら。

 昼を塗り替え夜にする。そんな魔術は吸血鬼でさえ莫大な魔力を必要とするもの。かつてレミリアも満月が偽りのものにすり替えられていた異変を暴く際、明けない夜を実現したことはあったが、それは咲夜の時を操る能力を応用し、運命の法則に干渉したまでのこと。

 単身でそんな芸当が可能なのは、境界という概念を操るスキマ妖怪くらいのものだ。

 

 ただ魔力の霧で太陽を遮るだけなら彼女にも容易。しかし、あの月は。真なる月の光は。ただ空を闇に染めただけではない。妖怪たちの時間としての理を持つ『夜』を呼び招いたとしか──

 

「あのお嬢ちゃん……さっきまで俺たちの戦いを見ていた……」

 

 レミリアの紅霧のような瞳。キバの月光のような複眼。それぞれが向き合い、異なる運命の旋律を奏でる。キバットは薄紅色の少女が放つ威圧的な魔力に打ち震えた。

 キバの傍を舞うキバットはその鎧を纏う渡に告げる。あの少女は只者ではない。もしかしたらファンガイア──中でも王に選ばれし『三つの駒』に匹敵するほどの存在かもしれないと。

 

「もう一度使わせてみれば分かるのかしら?」

 

 小さな笛の音色一つで、今ある昼を夜へと変えた。そんな魔法(メロディ)があるのなら、ぜひとも譜面を見てみたい。レミリアは無粋を承知で、その帳に指をかけた。

 湧き上がる魔力がオーラとなってレミリアの左手に集約していく。魔力は真紅の槍を形成し、レミリア自身の身の丈を超える長槍となって圧倒的な力の波動を放っている。それを見たキバットは思わず息を飲み、渡もまた少女へと身構えようとするが──すぐに状況の変化は訪れた。

 

「…………」

 

 空には陰りが生じている。夜が訪れたわけではない。ただ空の雲が表情を変え、太陽を隠しただけ。それだけであれば吸血鬼にとっては喜ばしいことなのだが、訪れる未来に眉をひそめると、レミリアは小さく溜息を吐いた。

 肌を撫でるは濡れた風。湿った空気がもたらす運命の匂い。レミリアがつまらなそうに左手から魔力の槍を消失させ、特注の日傘を畳んで同じく消し去ったのは、彼女が吸血鬼であるがゆえ。

 

「……やめた。そろそろ雨が降りそうだし」

 

 吸血鬼はあらゆる種族を圧倒し得る強大な生物である。紅渡が生きた世界──『キバの世界』におけるファンガイアと同様に、それは誇り高く夜を支配する月となる。

 だが、紛れもない魔族、揺るぎなき生物種として君臨するファンガイアとは違い、幻想郷に定義された吸血鬼とは妖怪の一種であった。伝承や逸話を由来とし、その存在は空想の中の存在として忌むべき呪いを付与される。日光や白銀など多くの弱点を持つのも吸血鬼の特徴である。

 

 弱点の一つとしてあるのが『流れる水を渡れない』というものだ。雨が降れば地を伝う水が流れとなり、レミリアはその上を超えることができなくなる。

 逆にその弱点はレミリアだけのものに非ず、多くの吸血鬼に共通している。レミリアは妹であるフランドール・スカーレットの行動を抑制するため、親友のパチェが魔法を使って紅魔館の周囲に雨を降らせることにも納得していた。

 ただ、その場合はレミリア自身も紅魔館に帰れなくなってしまうのだが──

 

 日光は傘で凌げばいい。銀の杭も治癒に時間がかかるだけ。ニンニクは匂いが苦手なだけだし、イワシの頭や柊の枝、十字架などに関しては彼女たちにとって脅威でもなんでもない。

 それでもやはり損傷を受けることなく行動を制限される流水だけは如何ともしがたかった。

 

「…………」

 

 レミリアが振り返り、紅魔館の扉に手をかける。彼女の背後で静かな雨音が鳴り始めるが、紅く荘厳な屋根が設けられた扉の前ではレミリアの翼に雫が滴ることはない。

 ギィ……と重苦しく扉を開き、少女は微かに背後へ顔を向ける。小さな翼越しに見るは、美しくも雄々しく、冷たい雫に真紅を濡らした鎧。銀の鎖と月色の複眼を雨に染めたキバの姿。

 

 やがて鎖はその身から解けていく。ぱたぱたと翼を舞わせる金色のコウモリに見守られながら、青年の身体から離れていく鎖の波動が消えゆくと同時、彼は元の生身の姿へと戻る。

 滴る雨の雫。茶髪の先を伝い、幻想郷らしからぬ装いを──あるいは涙のように濡らして。

 

「貴方……名前は?」

 

 レミリアは先ほどまでの力強さが嘘のように儚く見えた青年へ問う。濡れた前髪で隠れた目元にはどんな光が灯っているのか分からない。

 青年の傍を飛んでいた金色のコウモリは忙しなく、レミリアと渡の顔を交互に見ていた。

 

「……渡。紅渡」

 

 小さく呟くその名を聞いて、レミリアは微かに目を見開いた。彼はその場に立ち尽くし、ただ雨に打たれている。思考に渦巻く旋律は、雨音よりも激しく彼の頭蓋に響いていた。

 

(くれない)……運命を変える紅色(Scarlet)……ふっ、そういうことね」

 

 ただ虚ろに雨に濡れる姿に鮮烈さはない。だがレミリアはすでに目にしている。誇り高く力強く、真紅に振る舞う王者の鎧を。彼女自身はその名を知らぬキバの鎧が宿す紅き輝きを。その名に満ちる真紅を尊び──少女は思わず微笑を零した。

 手繰る鎖のその先へ。彼女がいつか目にした運命の導。それは同じ紅色を名に抱く紅美鈴でも、赤き龍の炎を纏う城戸真司でもない。

 永遠に紅い幼き月──レミリア・スカーレットの辿る運命は、奇しくも同じ紅き波動。吸血鬼の在り方を思わせるようなコウモリの翼。あるいは『牙』とも呼べる鎧の継承者であったのだ。

 

「レミリア・スカーレットよ。その(あか)さ……私の運命に相応しいわ」

 

 少女の声は気品を感じさせるが、どこか玩具に喜ぶ子供のようでもあった。これまで見えなかった最後の鎖。ついに譜面に終止記号が浮かび上がった瞬間。新しい運命を見つけたレミリアは、楽しそうな彼女とは打って変わって悲哀の色を見せる渡に振り返る。

 渡は遠慮がちに顔を上げて少女と向き合った。未知の郷にて迷える霧に運命を見失い、右も左も分からないままで手を取り合えるのは小さな翼の友人(キバットバットⅢ世)だけ。だが、渡の憂いはそこではない。

 

「何をしているのかしら? そんなところにいたら風邪ひいちゃうわよ。入りなさい、渡」

 

 レミリアは渡に向かって手を差し伸べた。それは当主として、彼を紅魔館へと招き入れる意思。濡れた捨て犬を拾い上げるように──その首輪に繋がれた運命の鎖を引き寄せるように。

 渡は不安そうな顔で狼狽える。僕のことですか? と問わんばかりに、己の顔を指で指した。

 

◆     ◆     ◆

 

 静かに雨に濡れる紅魔館の窓越しに、深い雲が優しく微笑む。紅魔館に招き入れられた渡は背の高い妖精メイドたちの背に生えた羽に少しだけ驚いたが、目の前のソファに腰かける少女もまた人ならざる翼を持つ者。

 妖精メイドが手にしているタオルで渡は濡れた髪を丁寧に拭われる。衣服も同様に、優しく拭われては雫を落とす。だが、その鮮烈な紅さのソファには居心地の良さはなかった。

 

「あ、あの……もう結構です……自分でできますから」

 

 渡は遠慮がちに妖精メイドに声をかけた。少女の手からタオルを受け取り、彼女はぺこりと一礼しては部屋を出ていく。渡は己の茶髪の雫を拭い、テーブルの上を飾る白いティーカップ、揺蕩う水面に映る自分の顔と向き合った。

 渡はファンガイアの血を引いているが、ファンガイアは吸血鬼ではない。紅茶の表面に自らの顔を映し出すことができないレミリアと違って、光は渡の存在を肯定し、その姿を反射させた。

 

「…………」

 

 レミリアは小さなティーカップを手に取り、妖精メイドが淹れてくれた紅茶を味わう。紅い瞳で渡を見つめながら、脳裏に響く運命の音色に耳を傾けている。

 ──舌先を彩る味覚はあまりに普遍的。咲夜のように余計なものを混ぜ込んだりしないのはいいのだが、面白みに欠ける味。客人に出すにはこれで十分だろうと、少女はそれを飲み干す。

 

「……な……何か……?」

 

 渡も同じくティーカップを手に取るが──レミリアの冷たい目線が気になった。紅き血の如く滾る色をしているのに、その奥から突き刺さるような威圧感は暗く、夜の闇を思わせる。

 

「お、おい。渡。やめとけって……」

 

 傍に浮かぶキバットは躊躇なく紅茶を飲もうとする渡を止める。相手が何者か分からない状況で、それも人ならざる者と分かっているのに。出されたものを素直に飲むのは危険であると。

 吸血鬼の少女はソファの上で脚を組み替えつつ、溜息混じりにパチンと指を鳴らした。

 

「お呼びでしょうか? お嬢様?」

 

 現れたのは咲夜ではない。彼女が時空の乱れに巻き込まれて消えてから、妖精メイドたちを統率しているのは少し格上の程度の妖精メイドだ。規律も何もあったものではない。咲夜の教育のおかげでそれなりに使える程度にはなっているものの、所詮は妖精である。

 赤い髪飾りを着けた最上級の妖精メイド。紅魔館の地下室に進入しようとする者の排除を命じられるほど、並みの妖精を遥かに超える強大な個体を呼びつけ、レミリアは渡を見て言った。

 

「そいつをお風呂に入れてやって。……じめじめしてて鬱陶しいわ」

 

「かしこまりました、お嬢様」

 

 妖精は一礼し、渡の腕を掴んで立ち上がらせる。ある程度の雫は拭ったものの、雨の匂いまでは消えていない。その気質が渡の魂さえも濡らしているのか、レミリアには不快だった。

 濡れた空気は震う弦の音色さえも曇らせる。落ちた旋律は濁り、月の光を虚ろな帳に隠す。

 

「こちらへどうぞ」

 

「えっ……ちょっ……あの……」

 

 渡は妖精メイドに導かれては客間を退出していった。扉が閉じる直前に一礼し、キバットもまた連れていかれる渡を追いかけるように慌ててぱたぱたと翼をはためかせ、飛んでいく。

 

「……月が出る頃には晴れてくれるといいけど」

 

 窓の外は今も変わらず。ざぁざぁと降りしきる煩いに今一度息を零し、少女は目を閉じた。

 

◆     ◆     ◆

 

 紅魔館の大浴場は外観のおぞましい真紅に似つかぬ、優しい湯を湛えていた。渡は遠慮がちにその身を清めながら、普段の自分が使っていた慣れ親しんだ風呂──小さな温もりを思い出す。

 

「……ねぇ、キバット。あの子……いったい何者なのかな」

 

「さぁな。だが、ファンガイアって感じじゃなかった。もしかして本当に……」

 

 見渡す限りの泉の色は柔らかい乳白色に染まり。渡はその長い脚を伸ばせるだけの広さを持つ湯に浸かりながら、いつもの癖で。自分が落ち着く姿勢をもって。浴槽の端に座り込み、自らの脚を抱える体育座りの姿勢で湯の水面に映る自分と向き合う。

 小さなバイオリン型の風呂桶はここにはない。キバットは仕方なく紅魔館大浴場に備わった大理石模様の丸い風呂桶に乗り、ぷかぷかと湯を揺蕩いながら渡の憂いを拭うタオルを差し出す。

 

「渡、気をつけろよ。嫌な予感がするぜ……」

 

 キバットの紅い複眼が渡を見る。あの少女──レミリア・スカーレットと名乗った真紅はファンガイアではないのだろう。等しき魔力を湛えていたものの、ファンガイアたる心の音を有してはいなかった。

 渡はこの大浴場にて、すでにキバットにも幻想郷のことを伝えている。廃洋館の前で三人の少女たちから聞いた話を噛み砕き、友たる彼と『幻想』という概念について共有している。

 

 初めは受け入れていない様子ではあったが、キバットには何か心当たりがあるのだろう。キバの世界において、魔族とは『人間族』を含めて13種類。すでに絶滅した種族も在るが、その多くは古来より人間によって語り継がれ、時を超えて長く伝承されてきた。

 幽霊と呼ばれたもの。妖精と呼ばれたもの。あるいは化け物、あるいは妖怪。UMAなどといった呼び名で何百年にも渡って恐怖や好奇の象徴となった。

 

 キバットバットⅢ世はまだ若い。己が始祖たるキバット族の歴史も、己が仕えるべきファンガイア族の歴史も、実際にその目でもって見てきたわけではない。だが──幼少期からの教育でそれがどんな伝説を持っているのかを知っている。

 人間の命を吸い喰らう夜の魔物──それはコウモリめいた翼と共に。幾百の年月を経て変わらず若く、後に『吸血鬼』と恐れられた恐怖はワラキアの領主の逸話と合わさり、語り継がれて。

 

「……うん。でも、きっと大丈夫だよ。あの子は……大丈夫な気がする」

 

 渡は小さく微笑みながら、白く濁った湯を両手に掬い上げ、指の隙間から零す。彼女が本当にファンガイアと伝承を同じくする怪物、吸血鬼であったとしても。その恐れは渡の心を縛る鎖にはならない。

 それは彼がファンガイアの母を持つ混血の落胤であるからではない。自分をこの屋敷に招いたのは、ただ吸血鬼として己が血を喰らうためではないと、渡は確信している。

 彼女が魔力を束ねて真紅の槍を現したとき。そこにあったのは好奇心と興味と楽しむ心だった。強く高潔な誇りある魂を抱いているのに、子供じみた刹那の快楽を求める──強者の矜持。

 

「分かるんだ。あの子……レミリアちゃんの心の音楽は、なんとなく父さんに似てた」

 

 誰しもが奏でている心の中の音楽。自分だけの旋律(メロディ)。渡は父の誇りに触れ、その音楽を守っていきたいと望んだ。戦う理由のなかった自分に、ただブラッディ・ローズの音色に従うだけであった自分に。己の意思でキバの鎧を纏わせてくれた──父の言葉。

 どうすればその音楽が聴こえるようになるか、問うたこともあった。その答えは自分で見つけろと、父に叱責されたこともあった。

 紅渡の父親は、渡が生まれる前に亡くなっている。渡が生前の父に逢ったのは、母親から受け継いだキバの鎧に伴う古き城、魔竜が秘める禁断の扉の向こう。過去の世界に触れたから。

 

 渡の魂には、鮮烈に輝く父親に似た在り方──レミリア・スカーレットの音楽が届いていた。

 

◆     ◆     ◆

 

 大浴場を後にした渡は新しい衣服に着替えていた。自分が持ち込んだ覚えのない、自分が確かに所有する服。なぜこれがここにあるのか、妖精メイドたちに聞いてみたものの、それを知っている者は誰もいなかった。

 妖精メイドたちは口を揃えて言う。それはお嬢様の指示であると。その多くは遊んでいるようだったが、白い服や赤い服を纏った少数のメイドたちは真面目に働いているようだった。

 

 渡は案内のままに客間へと戻っていく。真紅に彩られた廊下を歩み、広く設けられたその部屋に辿り着く。妖精は渡に深く一礼すると、自分の仕事へ戻っていった。

 軽く会釈をして返し、ゆっくりと紅茶を楽しんでいるレミリアに向き合ってソファに座る。

 

「さて、紅渡。私があんたをこの屋敷に招き入れた理由……もう分かってるでしょ?」

 

「…………」

 

 渡は大きなソファに座りながら肩を狭める。少女はキバの鎧を目にしたのだ。ファンガイアとの戦いをその目で見れば、興味を示してしまうのだろう。

 答えなくてはならない。だが──ファンガイアとは単なる悪ではない。人と同じだ。奇しくもそれは幻想郷の理と同じように、人間と妖怪と同じように。それそのものに善悪など存在するはずがない。人を襲うことも悪意からではなく、自然の循環からだ。

 レミリア・スカーレットに悪意は感じられない。渡はキバットと目を合わせつつ、僅かな逡巡を見せた後、覚悟を決めて言葉を紡ぐ。

 

 キバの鎧を受け継いでから長く戦ってきた。激しく鮮烈な一年間を経た最後、渡は異なる父親を持つ兄と共に等しきキバの鎧を纏い、ファンガイアを統べる王の怨恨を打ち砕いた。

 その音色が、物語の果て。王の血を引く兄は種族の頂点に君臨する支配者としてではなく、種族のよりよい未来のために奮闘する、とある企業の社長として生き、ライフエナジーに代わる新たなエネルギーの開発を進めた。

 ファンガイアが人間を襲う必要がなくなれば、彼らは手を取り合って生きていける。それは幻想郷のルールに等しい新たな平和。強者が弱者を喰らうだけの世界を否定する一つの組曲だった。

 

 人間とファンガイア。二つの血と運命を持つ渡は、その架け橋になりたいと望んでいる。二つの種族は、きっと分かり合える。人間として。ファンガイアとして。生きる道はどちらか一つではない。彼はただ、彼として。『紅渡』として──生きていくことを選んだ。

 選ばれし女王として君臨した母親。強き人間として生き抜いた父親。渡が受け継いだものは王の鎧と古き城、そしてキバットというかけがえのない友。ただ、それだけではない。

 揺るぎなく──誇り高く。この(こころ)に流れる音楽。たとえ傷ついても、立ち上がる強さを。

 

「ファンガイアに……キバの鎧……ね」

 

 レミリアは渡の話を聞いて、紅い瞳にまだ見ぬ運命の譜面を映していた。相変わらず歪な霧の中、手繰る鎖のその先は朧気な闇に閉ざされている。

 だが──その霧の隙間から溢れ出す感情は。輝き放つ黄金は、気のせいだったのだろうか。

 

「そこのコウモリもどき、キバットとか言ったかしら? 貴方も生命力を吸うの?」

 

あいつら(ファンガイア)と一緒にすんなって。俺様は人間と同じ食事だけで十分だ」

 

 ぱたぱたと翼を仰いで抗議するキバット。キバットバット家はファンガイアの王に仕える名門であるが、まだ若いキバットバットⅢ世には王に対する忠誠は深くない。むしろ幼き頃より友として一緒に過ごした渡の相棒として、その身にキバの鎧を与えている。

 レミリアは室内を舞うキバットを眺めながら膝の上に奇妙な生物を招いた。痩せこけた身体に赤く大きな瞳。それはキバの世界においても、外の世界においても。等しく『チュパカブラ』と称される吸血の魔物(UMA)である。

 その名が表す生物とはまったく違うが、レミリアはそれを『ツパイ』と呼んで可愛がっていた。奇しくも同じく、酒を好み、チュパカブラの生態通りに動物の血液を好物としている。

 

「そう。この子と違ってエサ代が安く済んで助かるわ」

 

「俺様はペットじゃねえっての!」

 

 膝の上でチュパカブラ──ツパイを撫でるレミリアに対し、キバットは大きな紅い瞳を鋭く細めて怒る。レミリアはその様子をどこかチュパカブラに重ねて小さく微笑を零した。

 

 ファンガイアは血を吸わないらしい。代わりに、ライフエナジーと呼ばれる生命力のようなものを吸い上げ血肉や嗜好品としているようだ。幻想郷ではそんな名前のエネルギーは確認されていないが、おそらくは純粋な生命力、あるいは魂と呼べるもののことだろう。

 レミリアにはそれがどういうものなのかは分からない。だが、もしあの馬の怪物──ホースファンガイアが砕け散ったときに現れた七色の光球。あの迸るような魂の波動がライフエナジーの具現であるのだとしたら。

 似たようなものを見たことがある。それはキバの世界とは異なる地平の理。龍騎の世界に基づくミラーモンスターの撃破による光球の現出。ミラーモンスターが喰らってきた命のエネルギー。

 

「(あれがライフエナジーと同じものなら……)」

 

 時空の歪みに伴い、十六夜咲夜は消失した。同時に紅美鈴と城戸真司も消えてしまっているが、レミリア・スカーレットに焦りはない。

 運命は霧の中。されどまったく見えないわけではない。数日中に、彼女らは戻る。それが見えているからこそレミリアはライフエナジーについて思考を馳せることができる。

 

 咲夜や真司がいなければミラーワールドへ行けるミラーモンスターの撃破は難しいだろう。吸血鬼であるレミリアはどうあってもデッキを使えず、生身のままでは当然ミラーワールドへは赴くことができない。

 だが、ファンガイアの撃破によってモンスターのエネルギーと同質のもの──ライフエナジーを得ることができるのなら。愛しい妹(フランドール)の肉体維持に必要なエネルギー供給が滞らずに済むか。

 

「あの……僕からも聞きたいことがあるんだ。君はいったい……何者なの?」

 

 レミリアは再び渡の顔に視線を向ける。強い意志を秘めた瞳。この地においても迷いなく、外来人の身で幻想を切り拓く。そんな在り方を見て少女は思わず口角を上げた。

 

「……その目、幻想郷については知ってるみたいね。じゃあ、もう分かってるでしょ?」

 

 冷たく呟く言葉に渡とキバットは息を飲む。明言せずとも伝わるのだ。その声に込められた意味、彼女が紛れもない吸血鬼なのだと。

 背中の黒く小さな翼。開いた口に見える鋭い牙。白磁の如き肌の色。そして何より、彼女の気配。魂が奏でる運命の音。夜の恐怖を煮詰めたような、深く鮮烈な血の色こそが確たる証拠。

 

幻想郷(こんなところ)に迷い込んで……どうしたらいいか分からないって顔ね」

 

 よほど不安そうな顔をしていたのか、少女は面白がるように渡の表情を覗き込んで笑う。くすっと零した微笑の中に冴える小さな牙を見せて、レミリアは運命の鎖を受け入れた。

 

「そうね。少しの間だけ紅魔館(ここ)を使わせてあげるわ。世話は妖精メイドたちに任せるから」

 

 レミリアは渡の顔を見てそれだけ言うと、ソファから降りて絨毯に足をつける。妖精メイドを呼びつけて紅茶の後片付けをさせ、小さな黒い翼を動かして渡に背を向けた。

 確かに渡には行く宛はない。未知なる秘境に迷い込んで、衣服の替えこそなぜか用意されていたものの、持ってきたのは愛馬たるマシンキバーとキバットが抱くキバの鎧、あとは父の形見である世界にただ一つのバイオリン──ブラッディ・ローズだけだ。

 渡は傍を舞うキバットと目を合わせた。思考する間もなく少女は一人と一匹へ振り向く。

 

「……もうすぐ、貴方のお城が来るみたいだからね」

 

 微かに振り向いたレミリアの顔は、流るる横髪に隔たれ見えない。ただ冴える牙を伴う小さな唇が動く様だけを見届け、渡はレミリアの身がコウモリの群れと散り消える瞬間を見た。

 

「なんだぁ……? あいつ……」

 

 キバットは訝しげに霧と消えるコウモリ──吸血鬼たる少女が部屋を去る様を見届けていた。

 

◆     ◆     ◆

 

 紅魔館地下大図書館。無数の古書や魔導書が見渡す限りの本棚を満たし埋めるその光景に、カビ臭い空気と埃の舞いを淡く漂わせて。

 この静謐の主、パチュリー・ノーレッジは雪崩れ落ちた本の下敷きになっていた。

 

「むきゅー」

 

 愛しい本たちに押し潰され、知識と日陰の少女は項垂れる。これらの本のすべてを理解するだけの知恵はあっても、それらの質量を押し退けるほどの腕力は彼女にはない。

 不意に訪れた時空の歪みによる震動を感知したはいいが──その影響で崩れてきた本に巻き込まれてこの状況だ。これでは計測できた歪みを調べることもできない。パチュリーはなんとか身体に魔力を込めてなんとか本の群れをどかそうする。

 しかし、無理に踏ん張ったせいで貧血の症状に苛まれ、少し意識を手放しそうになった。魔力と知識に自信はあれどあまりに虚弱な自分の肉体を呪いながら、少女は使い魔を呼び出す。

 

「小悪魔ー。助けてー。小悪魔ー!」

 

 司書たる悪魔は未だ現れず。蚊の鳴くような脆細い声が届かぬことは承知の上。魔力による命令の波動をもって彼女を呼びつけているのだが、それすら届いていないのか。主に命じられた金色のコウモリ探しに集中してしまって、気づいていないのかもしれない。

 埃の煩いに小さく咳込み、溜息を吐く。そのとき、現れたのは己が親友たる吸血鬼であった。

 

「何やってるの? パチェ」

 

「……助けてもらえるとありがたいんだけど」

 

 パチュリーが相変わらず眠そうな目でレミリアを見る。レミリアもまた返すように溜息を吐くと、指をパチンと鳴らして放つ魔力の波動のみで無数の本を吹き飛ばしてみせた。

 またしても埃が舞う。パチュリーは再び咳込みながらなんとか立ち上がり、服を払った。

 

「もっと本を大切に扱ってほしいわ」

 

「注文が多いわね。それより、調べてほしいものがあるの」

 

 薄紅色の衣を揺らして、レミリアは懐から図書館の照明を返す煌びやかな破片を取り出してみせる。地下たるこの図書館からは遠く見えざる蒼穹の色を思わせる、鮮やかな結晶。それは先ほど紅渡が撃破したホースファンガイアの一部、ステンドグラス状の体組織だった。

 

「……これは……」

 

 パチュリーはその破片を受け取る。先ほど渡の──キバの一撃で怪物が砕け散った際、きらきらと降り注ぐステンドグラスの破片は瞬く間に消滅していった。だが、レミリアが微かに魔力を込めたおかげで、この破片だけは存在を保っているのだ。

 ステンドグラスの破片を見つめるパチュリー。見ようによってはそれはレミリアの妹たるフランドール・スカーレットの羽根にも似ている。きらきらと光を返す薄い結晶片。パチュリーが感じた魔力の質は──先ほどまで追い求めていた金色のコウモリが放つ魔力と極めてよく似ていた。

 

「パチェが言ってた金色のコウモリ、見つけたわ。外来人の男と一緒に招いてある」

 

「外来人……? もしかして、城戸真司とは別の……仮面ライダーってこと?」

 

 陰鬱な雰囲気で顔を上げるパチュリーに対し、レミリアは神妙な面持ちで向き合う。彼女が問うた言葉は龍騎の世界における鏡像の騎士たちを指す言葉。だが、おそらく彼はまた別の世界から訪れた者だ。九つの鎖を運命に見たレミリアは、九つの世界を知っている。

 虚ろな霧の中に見えたそれら九つの世界。どうやらそれぞれの世界には別の法則を持つ仮面の戦士、龍騎の世界における呼び名を借りるのであれば『仮面ライダー』と呼ぶべき者たちが存在しているようだ。

 ──キバの鎧。彼はそう言っていた。さすれば、彼のいた世界はキバの世界と呼ぶのが相応しいだろう。ミラーワールドの法則に由来するものではない。紅渡曰く、その鎧はレミリアの知らない種族──ファンガイアと呼ばれる存在によって生み出された、王のための鎧なのだという。

 

「美鈴も湖で未知のライダーに会ったと言っていたわ。グロンギと戦う戦士と……」

 

 パチュリーは深く思考する。その話はすでにレミリアにも伝わっているものの、パチュリーには九つの世界の運命を見通す力はない。ただ自らの魔法をもって、手に入れた物質を調べて少しでも友の眼に追いつくだけだ。

 グロンギの腕輪から得られた情報と美鈴が聞いてきた話。霊石を腰に宿す仮面の戦士。さらに加えてフランドールの身から零れた灰の粒子と、取り逃がしてしまった金色のコウモリから得られた魔力のサンプル、レミリアから受け取ったステンドグラスの破片。

 レミリアの曖昧な観測だけでは九つの世界の深奥まで知ることができない。パチュリーの地道な研究だけでは九つの世界の情報をまとめることができない。二人は自然にそれを理解していた。

 

「それより、さっきの凄まじい時空の歪みは何? ……レミィがやったの?」

 

「……うんにゃ。運命の悪戯ってやつかな」

 

 レミリアは魔法で本を片付けるパチュリーに答える。適当に選んだ本を拾い上げ、ぱらぱらとページをめくってはその難解さに眉をひそめると、レミリアはその本を後ろに放り投げた。パチュリーは魔法をもって手も触れず、それを空中で受け止める。

 運命は彼らを見ている。紅渡と城戸真司が──そして咲夜と美鈴が。顔を合わせることがなかったのは、如何なる因果であろうか。

 紅渡の辿る運命を観測しようと試みた。だが、曖昧に混ざり合った霧の中では正しき鎖の先がよく見えない。レミリアの瞳に映る運命はどれもはっきりせず、霞む朧月の如く虚ろに揺蕩う。

 

「まるで万華鏡ね」

 

 小さく呟く。幾重にも連なった鎖。水面に映る月の光。乱反射する祈りは願いと共に、金擦れる不快な音楽を軋ませている。

 見えぬ運命に想いを馳せるのも悪くない。未知への好奇は長く生きたからこそ。魔法使いとして魔導の研鑽を続けるパチュリーも同じ心境であろう。

 レミリアが見た運命の欠片。パチュリーが導いた法則の欠片。砕けた鏡を貼り合わせるように、千切れた楽譜を繋ぎ合わせるように。やがて、それは一つの大いなる祈りとなって蘇る。

 願わくば、それがさながらフランドールの在り方を思わせる『破壊』でなければいいのだが。




鳥類のファンガイアはいないけど、すべてのファンガイアは鳥の意匠があるらしいですね。

次回、第55話『弦奏 ♪ エリュシオンに血の雨』


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第55話 弦奏 ♪ エリュシオンに血の雨

【 KIVATRIVIA 】
みんな、知ってるか?
ホブゴブリンとは、悪戯好きで残忍な妖精、ゴブリンと似た妖精だ。
本来の獰猛なゴブリンとは違って、親切で気立てが良いらしい。
人間に友好的な種族なため、家事の手伝いをしてくれることもあるそうだ。


 霧は晴れ、代わりに闇が真紅を包み込む。濡れた空は未だ雲がかかっているが、淡い月明かりと共に舞い降りた風がその嘆きを拭い去っていくかのよう。

 紅魔館がより強く紅さを主張する夜。人々が寝静まる今こそ──妖怪の時間である。

 

「…………」

 

 吸血鬼の居城に誘われた青年、紅渡は小さな友人と共に。客間のテーブルの上にて開いた大切なバイオリンケースの中へと視線を落としている。

 棺の中に眠るは、父が祈りを込めて完成させたブラッディ・ローズの輝き。シャンデリアの明かりを返し、艶やかに鮮やかな樹脂の色を見せる奇跡の芸術品。その美しさの真価は、見た目ではない。込められた想いが奏でる、己が誇りを燃やして生き抜いた男と、その血を継ぐ者の祈り。

 

「父さん……僕はこれからどうすればいいんだろう……」

 

 未知への恐怖。幻想郷という秘境に誘われ、紅魔館という屋敷に招かれ。行くべき道が見つからない。その憂いは──迷いは。渡らしさと言えばあるいは音色の一つに数えられるだろう。だが、渡は確かに成長していた。ただ悩むだけの闇の帳など、すでに打ち破っている。

 傍を舞うキバットがその弱さを叱責しようと口を開きかけた。その瞬間、渡は顔を上げた。

 

「ダメだ……! 僕は決めたんだ。僕は、僕として生きるって……!」

 

 時を超え、父と肩を並べ。共に戦った時間を──無為にしないために。渡は父と同じ祈りを胸に抱き、共に生きる。そうして父から受け継いだ命を受け取った。

 ブラッディ・ローズの音色は父の祈り。同時に、それは自分自身が込めた祈りでもある。

 

「(強くなったな……渡……! グレイトだぜ……!)」

 

 キバットはニヤリと口角を上げると、器用に翼を動かしてサムズアップめいたポーズを取った。渡はブラッディ・ローズを宿したバイオリンケースを閉じ、慈しむように革色に纏われた柔らかい毛皮を撫でる。

 不意に客間の扉がガチャリと開く音を聞いた。姿を見せたのは、自身をこの屋敷に招いた吸血鬼ではない。寝間着めいた薄紫色の衣を纏った七曜の魔女、パチュリー・ノーレッジだ。

 

「げっ……! あの魔女……!」

 

 その姿に嫌悪を抱く。キバットが表情を歪めたのは、その少女が自身を研究対象として捕えようとした本人であったからだ。またしても捕まってしまってはたまらないと思い、慌てて渡の後ろに隠れる。日陰の少女は小さく溜息を吐くと、眠そうな目でキバットを見た。

 

「……パチュリー・ノーレッジよ。先日は失礼したわね。もう貴方を捕まえる気はないわ」

 

 そう告げる彼女からは警戒心は感じられない。キバットも同様に警戒を解くと、渡の背から姿を現してパチュリーを見る。

 渡はキバットの様子が気になっていたが、特に追及せずパチュリーに対して会釈する。

 

「紅渡、と言ったわね。それに、キバットバットⅢ世。話はレミィから聞いてるわ。ファンガイアとやらの破片を調べたから……貴方たちが持っている異質な魔力についてもすでに解析済み」

 

「俺様たちの異質な魔力って……魔皇力のことか?」

 

「……魔皇力っていうのね。あのエネルギー」

 

 パチュリーはキバットの問いに答えず、手にした本に筆を走らせる。パタンと本を閉じ、手元からそれを消失させる。こほんと一度咳払いをすると、パチュリーの背後の扉から彼女の半分ほどの身長を持つ緑色の怪物が姿を現した。

 小さな角に長く伸びた鋭い耳。子供じみた背丈をしているにも関わらず、厳つい顔は年老いているようにも見える。その歪で醜悪な怪物は、盆の上の紅茶をテーブルの上へと並べていった。

 

「な、何……あれ……」

 

 三人分の紅茶を置いて去っていく小鬼の背を見て、渡は小さく呟く。ファンガイア以外の魔族を知らないわけではないのだが、あのような生物は初めて見た。

 キバットも驚いているように見えたが──どうやらその驚きは渡とは少し違うようだ。

 

「あれは……ゴブリン族か? ファンガイア族が絶滅させたと聞いていたが……」

 

 冴える赤い複眼に映る姿は紛れもなく『ゴブリン族』と称される種族の特徴を有していた。キバの世界に存在する13の魔族の中でも彼らは極めて獰猛で好戦的な気質を持ち、同族間での争いも絶えることはなかったという。

 その性質ゆえにファンガイア族と対立し、彼らは絶滅してしまったはず。だが、キバットはすぐに思い出した。ここは自分たちが存在する世界とは別の地平。並行世界とも定義し得る場所である。彼らが絶滅を回避していてもおかしくはない。

 そもそも魔族の定義からして違うのだろう。キバの世界に存在するゴブリンと幻想郷に招かれたゴブリンは根本から意味が違うのか、残忍さやライフエナジーへの渇望が一切見られなかった。

 

「……ああ、あれはホフゴブリンっていう生き物らしいわ。座敷わらしみたいなものね」

 

 幻想郷の賢者によって人里へ招かれ、紆余曲折あって現在は紅魔館にて働いている醜く歪な小鬼たち。人に仕え、家事を手伝うその存在は『ホフゴブリン』と呼ばれる。

 見た目は小鬼そのものだが、仕事は丁寧で、妖精メイドたちよりも役に立っているようだ。

 

「どちらかというと、ホビット族に近いのか……?」

 

 キバットはパチュリーの落ち着きを見て警戒を緩めていく。もしキバの世界におけるゴブリン族と同様に、狩った他種族の肉を喰らい骨を集めるような蛮族であれば、いくら吸血鬼の館とはいえ使用人として雇うことなどまず不可能であろう。

 強者に隷従して絶滅を逃れる弱者。力こそないが、知恵でもって生存を選ぶその在り方は獰猛なゴブリン族とは正反対の臆病な性質を持ち、現在も存続している『ホビット族』に似る。

 

 あるいは、ホビット族とゴブリン族との血を継ぐ混血(ハーフ)なら、あの小鬼のような存在として産まれ落ちるのだろうか。

 キバットはそれを想像し、共に生まれ育った混血の親友──渡の苦悩を投影して涙を飲んだ。

 

「……そんなことより……あなたたちの世界についてもっと教えてくれるかしら?」

 

 パチュリーは紅いソファに座ってテーブルに向き合う。渡も同じく向き合い、ホフゴブリンが持ってきた紅茶のティーカップを持つパチュリーに視線を合わせた。

 未だ不審がっている様子のキバットは翼の先で自分の正面にある紅茶の表面に触れる。ぺろりと己の翼爪を舐め、紅茶に毒などが入っていないか確かめると、両の翼で包み込んで器用にカップを抱き寄せる。

 

 ゆっくりと紅茶を飲んでいくキバットを横目に、渡は静かに口を開いた。そして、自分が今までファンガイアと戦ってきたことを語る。

 偉大な音楽家と、誇り高き女王の子として生まれてきたこと。それは掟が許さぬ禁断の愛であったこと。母より託されたキバの鎧を纏いて、父の祈りのままに人の心に流れる音楽を守ってきた、キバの継承者としての──紅渡としての一年間の戦い。

 レミリアに語ったファンガイアの性質についてはパチュリーも聞いているらしい。そのため、渡とキバットは自分たちが生きた世界──キバの世界の魔族や在り方についてを深く語った。

 

「人間とファンガイアは、きっと共に生きていける。父さんと母さん……人間とファンガイアの血を受け継ぐ僕が……その繋がりになりたいんだ。そして、僕の音楽でみんなを幸せにしたい」

 

 パチュリーは渡の理想に幻想郷を重ねた。人間と妖怪が共に生きるこの郷。スペルカードルールという法が制定され、互いが必要以上に傷つけあい、否定し合うことがなくなった楽園。キバの世界においてその法則が宿るのだとしたら、それは誰もが等しく愛することができる音楽という一つの秩序──人の心に彩りを与える芸術なのだろう。

 されど、その道は未だ遠い。ファンガイアは今でも人間をただの食事と見ている者が多く、家畜と共に暮らすなどありえないと──渡の兄である王の言葉すら唾棄する者が大半だ。

 

 問題はそれだけではない。ファンガイアが渇望するライフエナジーに代わる新たなエネルギーを開発したとしても、王の法を認めぬ者が兄の王座を奪いに来る未来がある。

 時を超えて未来から現れた新たな勢力は『ネオファンガイア』と呼ばれていた。彼らは王の在り方を拒み、我らが理たらんと謀反を起こした現王否定派、ファンガイア至上主義者たちだ。

 

「あっちは今頃、どうなっていることやら……」

 

 キバットは不安そうに顔を伏せる。未来から来た渡の息子、素晴らしき青空の意志を継ぐ戦士たち。そしてファンガイアの王たる渡の兄と、その家臣たる従者たち。彼らの力があれば新たな敵を退けることもできるだろうが、自分たちがそこにいられないのが歯痒い想いを募らせる。

 

「……自分たちの世界が気になっているようだけれど……まだ帰すわけには……」

 

 パチュリーがそれを言い切る前に、その手の紅茶が波打ち揺れる。波紋を広げた残響は地震などではない。客間のテーブルに立てかけてあった渡のバイオリンケースの内側(なか)から、旋律ともつかぬ不思議な音が響いてきたためだ。

 頭の中に直接聞こえるようなブラッディ・ローズの弦の音。独りでに震えるその音色は、幾度となく渡が耳にしてきた──戦いの序曲。宿命を告げるオーバーチュア。

 

 怪訝な顔でティーカップをソーサーに戻すパチュリー。その音色がバイオリンのものであることくらいは分かるのだが、奏者がいないにも関わらず閉じたままのケースの中身だけが不自然に音を奏でている。

 湖の向こう側の廃洋館に住まう騒霊の仕業か──? と思考する間もなく、渡が席を立った。

 

「あっ……ちょっと……!」

 

 パチュリーの制止も聞かず渡とキバットは客間を飛び出していく。革色に毛皮を装うバイオリンケースを手に取って、渡は思考に巡る父の祈りに突き動かされるように部屋を出て行った。

 

「……そのバイオリンも調べておきたかったのだけど」

 

 閉じる扉を見送りながら、今一度ティーカップを手に取る。渡が持っていったバイオリンケースには、微かながら彼の身に宿っている魔皇力の残滓と呼べるものを感じた。

 残滓ながらその強さは尋常ではない。まるで呪いのように──棺の中に込められていたのだ。

 

◆     ◆     ◆

 

 渡は紅魔館庭園に停めておいた真紅の鉄馬、マシンキバーに跨り先を目指す。紅いヘルメットのバイザー越しに見届けるは、ブラッディ・ローズが導いた祈りの果て。月夜の下を疾走するバイクをもって、霧の湖を超えた向こう側へと向かっていく。

 ブラッディ・ローズのケースは、今一度マシンキバーのシャドウベールにしまってある。たとえ距離を隔てても、その音色は渡の思考に届き──父の祈りとして渡の胸に意志を刻む。

 

「キバット!」

 

 ヘルメット越しに声を上げる。マシンキバーの疾走に等しい速度で月下を舞う金色のコウモリは足の爪で渡のライディンググローブを外すと、その左手に噛みついた。

 キバットの牙から魔皇力が流れ込む。宿主の力を活性化させる『アクティブフォース』。王たる波動が紅渡の身に眠るファンガイアの血を呼び覚まし、その頬と首にステンドグラスの色を浮かび上がらせていく。

 

 静寂の夜に鳴り響く──禁忌を謳う笛の音色。渡の腰に走る鎖は紅くベルトを象り、キバックルとなって。キバットが翼をもって羽ばたき、自らその止まり木へと逆吊られ──

 

「……変身」

 

 渡の身は白銀の彫像に包まれる。やがて誇り高く砕けるその身は、キバの鎧を継ぐ者。マシンキバーと共に夜を走る。月の光を受けて、狂おしく真紅に輝くファンガイアの鎧。されどその心に奏でる音楽は紅渡自身のもの。彼だけの祈りと音楽。

 紅き残光が闇を斬る。マシンキバーの尾灯が宵闇の譜を刻み、その鉄馬は嘶きを上げる。

 

 ──霧の湖。月明かりに照らされた静寂の園は、妖精の住処とされる。その場に、冷ややかなる双眸で月夜を仰ぐかのように。白む霧色のドレスを纏う若い女性が立っていた。

 彼女の手には一挺のバイオリン。己が顎にてそれを挟み、右手の弓で弦を撫で弾く。奏でる音色は霧を伝い、美しい音楽を響かせていた。

 妖精たちは蜜に誘われる羽虫の如くその音色に引き寄せられる。長い茶髪を霧に濡らした、その女性が奏でる音色に酔い痴れる。やがて、女性は自らの顎に極彩色の悪意を映し出した。

 

 次の瞬間、霧の湖の空に浮かび上がったいくつもの牙。半透明の真紅をもって、妖精たちの首に捕食者の譜を刻みつけていく。

 女性── 宮澤(みやざわ) ひとみ は人間(ヒト)に非ず。空に浮かべた無数の吸命牙を導き、誘き寄せた妖精たちのライフエナジーをその身に喰らう魔族の頂──純血のファンガイア。バイオリンによる演奏を操り獲物を誘い出すことで捕食する、狡猾な狩人であった。

 

 首に半透明の牙が突き刺さった妖精は声を上げることもできず、己が命の色を失い、牙と同じく半透明になっていく。

 哀れにも命を吸い取られた自然の化身は、朽ちたステンドグラスの如く褪せ、力なく空を飛んでいたままに──パリンと渇いた音を立てて呆気なく砕け散ってしまった。

 月明かりを受けてきらきらと輝く妖精たちの破片。それらは吸命牙の行使に際して顎と首にステンドグラスの模様を浮かべて憂うひとみのもとへ降り注いでは、霧の湖の水面へと落ちていく。

 

「……足りない。この程度では」

 

 ひとみは弓とバイオリンを下ろし、首の極彩色を剥き出したまま呟く。不意に彼女が霧の彼方を見たのは──その耳にて不快なバイクのエンジン音、鉄馬の嘶きを聞いてしまったがため。

 

「あいつは……!」

 

「……ひとみさん……どうして……」

 

 マシンキバーを畔に停め、鎖の音を鳴らしてその地に降りる者。キバの鎧を纏った紅渡は、腰のキバットベルトから外れて宵を舞うキバットの声を聞き、複眼の下で目を見開いた。

 海外でも活躍を期待されたヴァイオリニスト、宮澤ひとみ。彼女は渡のもとへ破損したバイオリンの修復を依頼しにきたこともあった。音楽を愛する者に悪人はいないと、渡は穢れなき無垢な心で信じていた。

 

 彼女もまた、この地にて再び倒したホースファンガイアと同じ、すでに倒した相手。ファンガイアの遺伝子は無作為な神の悪戯によるものが多く、特性は遺伝することはない。あるいは一度倒した相手であろうと、似た特性の個体がどこかで生まれるかもしれないが──

 それはファンガイアとしての姿と能力のみ。宮澤ひとみという一人の姿、ファンガイアの人間態までもが同じ存在として蘇ることなどありえるはずがない。

 キバットもまた、渡と同様に狼狽えた。理性を失った生ける死体(リビングデッド)などではない。完全なる死者の蘇生など、ファンガイアの魔術すら遥かに凌駕した異常な技術力だと言わざるを得なかった。

 

「待っていたぞ……キバの継承者」

 

「渡……! やっぱりおかしいぜ……! こいつは、確かに死んだはずだ……!」

 

 不敵な笑みを浮かべて渡──キバへと向き直るひとみ。その手の弓とバイオリンを虚空に消し去り、顎と首、胸に刻まれたステンドグラスの模様をぼんやりと輝かせる。

 湖の畔に散った儚げな命の欠片を見た渡には、キバットの焦燥による声は届いていない。

 

「……あなたは……音楽を何だと思っているんですか……!」

 

 渡の張り裂けそうな想いが月夜に響く。それを聞いた彼女の表情は、ひとたび不意を突かれた驚きに染まり。すぐに興味深そうな笑みへと変わり、過去──1986年の時代へと思いを馳せる。

 それは忌まわしき記憶。大切なバイオリンを無力な人間の戦士に破損させられた屈辱。

 

「いつだったか……同じことを問われたこともあった」

 

 女性の言葉に滲む不気味な波動。やがて魔皇力が強くなり、キバの首へ影が迫る。それは彼女の背から突き出したステンドグラス状の体組織だ。

 硬質な細胞から成るにも関わらず奇妙な弾力と柔らかさを併せ持つ軟体動物の触手めいたもの。まさしく(タコ)の足と呼べるものが──キバとなった渡の首に強く巻きついたのだ。

 

「だが、答えるまでもない……!」

 

 ひとみの姿は月明かりに揺れる水面の如く。虚ろに波打ち光と歪み──その真躯を晒した。

 膨れ上がった真紅の体躯。全身に配された吸盤の意匠。見る者に不快感を与えるような蛸の姿の怪物──歪んだ異形たる『オクトパスファンガイア』であった。

 水棲生物の意匠を持つ個体はファンガイアの分類において『アクアクラス』と定義され、その名の通り水中や水辺での活動を得意とする。霧を帯びた湖の畔は、タコの怪物である彼女にとってはまさに絶好の狩場だった。

 

 タコの触手が引き締まっていく。かつて戦ったときよりも格段に強く、渡の首を絞める。丸みを帯びた柔らかさなれど、その無慈悲さは冷たい月の嘆き。満月に引き裂かれた貴婦人の肖像。キバの鎧はこの程度では砕けないが、これではまともに動くこともできない。

 キバットベルトから外れている状態のキバットは自由だ。忙しなく月下を舞い、渡の身体を拘束しているタコの触手にガブリと咬みつき牙を立てる。

 かつてと同じならばこの一撃で怯んでいたはずの怪物は一切の反応も見せずに拘束を続けた。

 

「このタコっ! 離しやがれ!」

 

 強く牙を突き立てても弾性のある触手は噛み千切ることが難しい。ぐにぐにと形を変え、上手く突き刺さらない牙の先からは血の一滴も出ない。

 オクトパスファンガイアは、煩わしげにさらなる触手でキバットを弾き飛ばした。

 

「キバット!」

 

 ちゃぽんと湖に落ちたキバットは慌てて飛び出し、水気に濡れた身を振るう。友の身を心配して余所見をしてしまった渡は、一瞬だけオクトパスファンガイアから目を離してしまっていた。

 

「渡!」

 

 首を縛られ動けぬ状態のまま、キバットの声が耳に届く。目の前に迫る魔皇力の塊、タコの墨を模した漆黒の光弾が撃ち出されては、渡の身にて小さな爆発を起こす。その衝撃で拘束からは解放されたものの、動けぬまま直撃を受けてしまった。

 キバの鎧は相変わらず傷の一つもつかない。だが、鎧を纏いし継承者への負担は考慮されていない。元よりこの鎧はファンガイアを統べる王が纏うべきもの。純血の継承者にこそ相応しい玉座。人間の血を宿し、長く人間として生きてきた渡は鎧の耐久力と肩を並べてはいないのだ。

 

「ぐぅっ……!」

 

 いくらキバの鎧を纏っていようと、ファンガイアの攻撃を受ければ痛みは必定。王を名乗ったことこそあれど、彼は純血のファンガイアとして玉座に座ったわけではない。

 ゆっくりと歩を進めるタコの異形を前にして膝を着き、その傍へとキバットが舞い降りる。

 

「こいつ、前よりずっと強くなってやがる! 気をつけろ、渡!」

 

 タコの口から吐き出される墨という漆黒の光弾。いくつもの爆発を生じさせ、キバはその隙間を縫うように転がって避ける。

 巻き上がる黒煙に紛れながらオクトパスファンガイアの目を欺く渡。咄嗟にマシンキバーに搭乗し、その勢いをもって怪物に突っ込んでいくが──怪物もまた機敏な動きでそれを避けた。

 

「シャァアアッ……!」

 

 オクトパスファンガイアは自らの両脚をぐるりと巻き上げる。すると、環状になったその両脚は生物としての骨格を捻じ曲げるように車輪の形を模した。

 通常の生物であれば異常とも思える変化だが、それは彼女がタコの意匠を有するがゆえか。軟体動物には骨格など存在しないのだろう。車輪となった己が両脚を自在に操り、オクトパスファンガイアは渡が繰るマシンキバーの疾走に並ぶ速度で車輪を回転させる。

 迫る触手を跳ねのけ、渡はバイクの手綱(ハンドル)を握り隙を探した。かつてはこの触手をバイクに括り、強引に自動車へと叩きつけることで運命の一撃をぶつける隙をもたらしていたのだが。

 

 霧の湖の周辺にはそんな都合の良いものはない。湖に叩き落とそうにも、相手はアクアクラスに分類されるタコのファンガイアだ。むしろ相手に利を与えてしまう可能性がある。

 いつまでもこうしてバイクを走らせているわけにもいくまい。何か解決策を見出さなくては。

 

「……っ!?」

 

 突如、渡の目の前に突き立てられる一条の蜘蛛の糸。真白く大地を抉るその一撃は、弾丸よりも力強く土煙を巻き上げた。

 思わずマシンキバーのブレーキを引いた渡。キバとしての複眼をもって見上げる月夜の空には、見慣れぬ灰色のオーロラが広がっている。──否。それは見たことがあった。ただの一度だけ、その視界の端にて瞬くように。一度だけ目にしたことがある。

 

 昼に戦ったホースファンガイア、馬の意匠を持つは哺乳類たる『ビーストクラス』と定義される個体。

 それを撃破した際、ライフエナジーの光球を掠め取っていった蜘蛛の糸が消え去った先。一瞬だったためにその全容を視認できなかったが、瞬く速度で放たれた白亜の光はまさしく──

 

「チューリッヒヒヒヒ……♪」

 

 オーロラより舞い降りるは黒いタキシードに身を包んだ若い青年。波打つ黒髪を霧に濡らし、その右手に携える奇妙なネズミのパペットを震わせては、左手の白手袋から伸びる蜘蛛の糸を己の指から切り離す。彼── 糸矢 僚(いとや りょう) もまた、純血のファンガイアとして生を受けし者だ。

 

「あいつ! まだ生きてやがったのか……!?」

 

 キバットの驚きも渡と共に。糸矢(いとや)もまた渡が戦ったことのある相手だ。黄金のキバの力をもってして致命傷を与え、その最期こそ見届けることはなかったが、もはや再起不能と言って良いほどに追い詰めたのだが──ファンガイアとしての再生能力が桁違いなのか。

 ──渡とキバットはその真意を知らない。キバによって致命傷を与えられた彼は、逃げおおせたその先で。紅渡が愛した女性──現代におけるファンガイアの女王に引導を渡されたことを。

 

「邪魔はさせない……貴様にも……クイーンにも……!」

 

 不気味な笑みを浮かべていた彼は不意にその笑みを拭い去り、自らの顎と首にステンドグラスの模様を浮かび上がらせる。

 その背に突き出すは月の足元に這い寄る八つの節足。さながら捕食者の威嚇をも思わせる八束の脛を夜に掲げ、奇人は右手に備えたネズミのパペットを夜霧の闇に消し去った。

 

「愛してるぞーっ! (めぐみ)ーーーっ!!」

 

 高らかに月夜へ叫ぶ糸矢は、またしても不気味な笑顔で空を仰ぎ。月明かりが彼の身を照らした瞬間、その身は彼の本質──ファンガイアとしての姿へと変化を遂げる。

 美しき七色の煌きを返す耽美的な悪意の具現。極彩色の捕食者。悪趣味な荘厳さを隠すことなく湛えた蜘蛛の如き異形。

 その背にいくつもの節足を長く突き出し背負う『スパイダーファンガイア』は、おぞましく膨れ上がった頭部の複眼をもってマシンキバーから降りた渡──キバの継承者へと向き合った。

 

「……マズいぜ……渡……!」

 

 背後には真紅の鉄馬に等しい速度で車輪を滑らせるタコの如き異形、オクトパスファンガイア。そして目の前には、節足動物の分類──『インセクトクラス』に定義される蜘蛛に似た意匠を持つスパイダーファンガイアが漆黒の体躯を鈍く輝かせている。

 思考は一瞬。その隙を突くように、白亜の糸と暗澹(あんたん)の墨が前後から飛び迫る。渡は咄嗟にマシンキバーのシャドウベールを展開することで、己が身を守りつつマシンキバーを降りた。

 

 爆風が晴れぬ間に、オクトパスファンガイアの車輪が空を裂く。キバの首を狙って放たれた飛び蹴りを咄嗟に避けると──マシンキバーは馬のモンスターの脳が埋め込まれた思考力をもって自律走行し、独りでにシャドウベールの狭間へ消えた。

 渡が避けた先にはスパイダーファンガイア。蛸の足が巻き上がった車輪の刃は、そのまま蜘蛛の怪物へと当たる。

 ステンドグラスの細胞が砕けることこそなかったが、衝撃は確かに伝わっているようだった。

 

「ぐぶっ……何をするっ!!」

 

「……貴様、人間の女を愛しているそうだな。掟に背くとは、愚かな奴だ」

 

 スパイダーファンガイアはその身に糸矢僚としての表情を映し出し、万華鏡の如く憤る。怒りに震える蜘蛛のステンドグラス。そこに向き合うオクトパスファンガイアもまた宮澤ひとみの表情を映し、愚かな同族への侮蔑を隠すことなくその瞳に込めた。

 その対話も刹那の間。二体のファンガイアは湖上の月を背にして。体勢を整えた渡、キバの鎧の継承者に向き直る。真紅の蛸の怪物は、車輪を元の蛸の足に戻しては長い触手を掲げていた。

 

「くっ……」

 

 渡は目の前の敵に構えを取る。──怪物たちが動きを見せた、そのときだった。不意に紅く強い魔力の波動を感じて、宵に染まった空を見る。

 狂おしく輝く光。その譜面に一滴の血が滴るように──永遠に紅い幼き月が舞い降りる。

 

「がっ……!?」

 

「うぁっ……!?」

 

 その波動に気がつくや否や、二体のファンガイアの背にて魔力が炸裂した。続けて放たれた真紅の魔力によるコウモリの如き使い魔。月夜に翼を広げる吸血鬼、レミリア・スカーレットが掲げる紅き魔法陣より、それそのものを弾幕と成したコウモリ型のエネルギーが飛翔する。

 レミリアが放った【 サーヴァントフライヤー 】はその一つ一つが独立してそれぞれ二体のファンガイアへと襲いかかっていき、再び紅く火花を咲かせた。

 

 渡とキバットはその姿に夜の王たる在り方を見る。ふわりと地に降り翼を畳み、夜天の下ゆえに日傘を持たずに悠々と歩むその佇まいは、伝承に語られる吸血鬼のカリスマを体現していた。

 

「待たせたわね。渡」

 

「お前、レミリア・スカーレットとかいう……! どうしてここが……!」

 

 不敵な笑みを見せるレミリアに対し、キバットは渡の腰にて逆さまになったまま問う。彼女にはブラッディ・ローズの音色は聞こえていないはずだ。

 ファンガイアの出現を知らせるあの音色が紅魔館の客間にて響いたとき、彼女はその場にいなかった。

 仮にその音を聞いていたとしても、そこに込められた祈りまでは伝わるまい。渡のようにいつどこにいてもブラッディ・ローズの叫びが聞こえたり、その音を聞くだけで目指すべき場所が分かるような者など。紅渡本人を除けば──ブラッディ・ローズの製作者である彼の両親くらいだ。

 

「これだけ強い魔力があれば嫌でも分かるわ。その波動……魔皇力っていうんだって?」

 

 レミリアは小さく溜息をつくと、キバ──渡に視線を馳せては二体のファンガイアに向き直る。彼女の身は月に照らされ夜霧に紛れる黒と散り、無数のコウモリとなってそれらの間を通り抜けていく。やがてキバの隣にて集ったコウモリの群れは──レミリアの姿を再構築した。

 

「それにしても、蜘蛛と蛸? 昼間の馬が神の軍馬(スレイプニル)ならビンゴだったのにね」

 

 紅と紅。キバとレミリアが対する怪物は、八つの足を持つ節足動物。光ある楽園の綺想曲。そして、八つの足を持つ軟体動物。満月に引き裂かれた貴婦人の肖像。

 奇しくも等しき足の数。少女はその共通点を見て、神話に名立たる八本脚の神馬を想う。

 

「その魔力……! 今この場で叩き潰す!」

 

 オクトパスファンガイアは茹だった蛸の如き真紅のステンドグラスに表情を浮かべ、再び地に立つ二本の脚を車輪と変えた。

 震う刃で地を削りながらファンガイアに匹敵するほど気配を放つ妖怪──吸血鬼たるレミリアに対して接近する。その口から漆黒の墨を吐き散らし、魔皇力による爆風を迸らせるも──

 

「遅い」

 

 月夜の下、少女は紅く舞いを見せる。オクトパスファンガイアの光弾を、その車輪による突進を、小さな翼のはためき一つで、風の流れに乗り(かわ)す。

 霧の湖の畔であれど、そこは彼女にとって紅魔館のダンスホールとも変わらぬ舞台。少女の紅い目に映った真紅はその視線に射貫かれ、自ら放った爆発による黒煙が掻き消える光景を見た。

 

「……っ!!」

 

 小さな翼は風圧を起こす。晴れゆく黒煙の中に見えたのは、レミリア・スカーレットの指先から閃く紅き光弾。それはさながら小さな槍。あるいは矢。真紅の爪を光と放つ、魔力の針とも呼べる鋭いエネルギーの刃。

 月夜の下にて放たれた光弾の群れ。彼女の通常ショットとして定義された【 ナイトダンス 】はサーヴァントフライヤーより威力は勝るが拡散性能のない直線攻撃として用いられる。

 

 炸裂する紅き光は血の如く。怯んだオクトパスファンガイアの隙を突いて、渡は軟体の身にキバとしての蹴りを叩き込んでは翻って距離を取る。

 レミリアはサーヴァントフライヤーの魔法陣を上空に留めて、自らは蜘蛛へと向き直った。

 

「さぁ、今度はあんたの番よ」

 

「くっ……来るな!」

 

 悠々と歩むレミリアは右手に束ねた紅き魔力で長槍を形成する。スパイダーファンガイアは後退しながら、蜘蛛の糸を吐きつけた。それは容赦なくレミリアの右手首を縛りつけ、構えられた魔力の槍は霧散してレミリアの手元から消えていく。

 好機と見たスパイダーファンガイアは躊躇なく襲い掛かったが──レミリアは退屈そうな表情で左手の指をパチンと鳴らした。

 夜空に留まった魔法陣が再び紅く輝きを増す。放たれたサーヴァントフライヤーはレミリアのもとからではなく、設置されたその場所からコウモリの光弾として怪物へと向かった。

 レミリアの使い魔たるこの魔術は本体の意思があれば遠隔武装(オプション)として第二の射出点となる。設置しておけば、固定砲台としても扱えるのだ。

 

 スパイダーファンガイアの身体に降り注ぐサーヴァントフライヤー。遊びではない本気の魔力を込めた吸血鬼の弾幕は、ファンガイアといえど堪えよう。

 キバの世界の魔皇力とは異なる幻想郷の魔力。馴染まぬ波動にステンドグラスの細胞が打たれて軋みを上げる。スパイダーファンガイアは蜘蛛の脚力でその場をすぐに離れた。

 だが、すぐにレミリアの手から放たれた紅い魔力の鎖が怪物を縛りつけ、強引に引き戻す。

 

「ぐぅっ……!」

 

 紅き鎖は蛸の触手よりも頑丈に。レミリアはファンガイアの身を縛っては吸血鬼の膂力をもって背後へと引っ張り上げた。霧の如き魔力を束ねた【 チェーンギャング 】は、運命という抽象的な概念を鎖の形に象ったものである。

 その鎖から逃れることは決してできない。それは、どこまでも対象を追いつめる運命そのもの。奇しくも渡が蹴り飛ばしたオクトパスファンガイアとぶつかり、二体は二人の前に落ちる。

 

「…………」

 

 レミリアの鎖は霧散する。純血の吸血鬼と混血のファンガイア。歩む威圧は王の如く。レミリアは己が左手に束ねた魔力で再び真紅の槍を形成し、渡はキバとして帯びる腰のキバットベルトから真紅の翼を象ったウェイクアップフエッスルを手に取った。

 交わし合う指先の調べは真紅と真紅。どちらも同じ──鮮血の色。レミリアの手元に輝く真紅の槍は純粋な魔力の塊たる『光弾』として在り、渡がキバットに咥えさせた呼子笛は──

 

『ウェイクアップ!』

 

 眠れる魔力を覚醒させる鍵。両手を開き、目の前で交差させると同時。キバットが吹き鳴らした禁断の旋律によって、霧の湖は変わらず月夜を湛えたまま。真紅の濃霧が立ち込める。レミリアはその白い肌に──己と等しき真紅を感じていた。

 人間とファンガイアの血を受け継ぐ渡はレミリアの鎖によって引き摺り出された蜘蛛の異形に。誇り高き吸血鬼の血を宿すレミリアは、渡の一撃によって突き飛ばされた蛸の異形に対して。

 

「必殺──」

 

 レミリアが宣言した紅き札の名。己が身に宿す魔力を左手の槍に込める。その胸に抱いた一片のカードを想い、幼きその身の背丈を超える長槍を掲げながら。

 その威光を見るように、渡は右脚の鎖を解き放つ。封印を解かれたヘルズゲートは、その内なる禁忌──『デモンズ・マウント』を晒した。本来ならばキバの世界における『トライシルバニア銀』によって白銀であるはずのそれは、満ち溢れる魔皇力によって真紅に染まっている。

 

「……この力は……やはり……!」

 

 オクトパスファンガイアが自身のステンドグラスに映すは焦燥の色。キバットバット家の嫡子が奏でる音色に共鳴したのか、幻想の吸血鬼が纏う真紅も魔皇力と同じ力を放っていた。

 あってはならない。キバの世界の法則に依らぬ者が、我らの力を宿すなど。怪物は自らの触手を硬質化させ、槍を掲げるレミリアに向けて鋭く伸ばし突きつけるが──

 

「──ハートブレイク」

 

 ふわりと左手を下ろすその瞬間、空に走る禍々しき風圧。紅き魔力を込めた光弾は、その速度を伴いさらに長大化し、加速を遂げながらオクトパスファンガイアへと突き進む。

 触手が伸びる速度よりも速く。その一撃は【 必殺「ハートブレイク」 】の名を冠す巨大な弾幕の一種として。

 旋風を巻き起こしながら疾走する真紅の槍。魔力そのものたるそれはオクトパスファンガイアの胸部の黒へと突き刺さり、パリンと小さくステンドグラスを貫いた。湧き上がる魔力の奔流がその身へと流れ込み、少しずつ極彩色が浮かび上がるにつれ、真紅の槍は魔力に還って霧散する。

 

「……ぐぅ……あ……」

 

 胸を押さえてよろめくオクトパスファンガイア。全力を込めたつもりはないとはいえ、殺すつもりで放った一撃を耐え切るその姿を見て、レミリアは微かに目を見開いた。

 レミリアはすぐに翼を広げて後退し、軽やかに飛び退く。蛸の触手が飛んでくる気配はないが、夜天にて湧き上がる絶大な魔皇力の気配──キバが放つ王の力に巻き込まれぬために。

 

 夜空を見上げるスパイダーファンガイアが見たのは、三日月に映る影。翼を広げた右脚を天へと掲げ、止まり木に宿るコウモリの如く逆さに吊られた王の鎧。

 キバはくるりと翻る。ヘルズゲートの切っ先、魔斬口の頂を眼下の蜘蛛へと向け直して。

 

「はぁぁああっ!!」

 

 紅霧の具現。運命の代行者。渡は月明かりと共に舞い降りる。夜風を切り裂き、静かなる墓標をスパイダーファンガイアへと刻み込むために──

 瞬間。夜霧に揺蕩う蜘蛛の異形は予期せぬ動きを見せた。己が指の先より迸る白き糸を伸ばし、巣を張るように広げてみせたのだ。それは、キバの一撃を受け止めるための盾などではなく。

 

「何っ……!?」

 

 蜘蛛の糸に捕縛されたのは胸に穴を穿たれた状態のオクトパスファンガイアだった。蛸の異形は同族たる蜘蛛の異形によって引き摺り寄せられ、身代わりとして捧げられる。

 スパイダーファンガイアはがっしりとそれを掴んで天へと掲げた。蜘蛛の糸と脚に拘束された彼女は、もはや動けない。ぎょろりと蛸の眼を向け直した夜空に輝けるは、遥かなる魔皇力を湛えたキバの右脚である。

 穿通。広げたヘルズゲートの名の下に、オクトパスファンガイアは紅き王の宣告を受け止める。レミリアのハートブレイクによって穿たれた胸の穴に、キバの魔斬口が叩きつけられ──

 

「────ッ!!」

 

 その身は深き七色に染まり。ダークネスムーンブレイクの一撃をもって賜った魔皇力の光に耐え切れず、儚くも美しく、ステンドグラスの欠片となって砕け散った。

 月光を返し耽美的に煌く命の破片。それはキバと等しくスパイダーファンガイアにも降り注ぎ、血の雨の如く無慈悲な楽園を象徴する涙となって。

 スパイダーファンガイアの咄嗟の行動に反応する暇もなく、渡は蜘蛛の脚に蹴り飛ばされる。ウェイクアップを行使した直後だったとはいえ、油断していたわけではなかったのだが。

 

「チューリッヒヒヒヒ……♪ ガーリックククク……♪」

 

 スパイダーファンガイアは淡く己を虚像と歪ませ、糸矢僚としての人間態に戻る。月夜の旋律(かぜ)に波打ち揺れる黒の長髪を靡かせ、不気味な笑顔でパペットを取り出しながら。

 右手にて嵌めたネズミのパペットの中へと、オクトパスファンガイアの亡骸から溢れ出た輝ける命の光──ライフエナジーの光球が吸い込まれていく。そして左手に嵌めたアヒルのパペットをもって、もう一つの光球を取り出した。

 

 右手に宿るはオクトパスファンガイアのライフエナジー。そして左手に宿るは、渡がこの世界に誘われて再び倒した馬の異形、ホースファンガイアが遺したライフエナジーの光球だった。糸矢はその二つを回収し、己が所有物として密かに隠し持っていたのだ。

 頭上に掲げられる二つのパペット。同時に、ライフエナジーの光球は霧の湖の空へと二重螺旋を描きながら浮かび上がっていく。砕け散った命の破片、ステンドグラスの欠片を伴いながら。

 

「渡っ! やばいぜ!!」

 

「え? な、何? 何が起こってるの?」

 

 天へ召し上げられゆく二つの魔皇力とライフエナジー。ステンドグラスの残骸を空の一点に集約させ、糸矢はそのエネルギーを月明かりの下で一つの力に捻じ曲げていく。

 キバットはそれを見て声を上げた。渡も息を飲み警戒するが、レミリアは絶大な魔力の反応こそ感じられどもそれが何を意味するのか分かっていない。

 

 霧の湖が波紋を広げる。濡れた風が震える。糸矢の頭上──遥か天空の月夜にて。死んだ二体のファンガイア、その残滓たるライフエナジーはさらなる魔皇力(ちから)をその亡骸()に宿していき──

 

「砕かれし我が同胞たちの魂よ、大いなる力となって甦れ!!」

 

 糸矢は空を仰ぐ。その瞬間──霧の湖に光が生じた。遍く夜を照らすが如く、魔皇力を解き放ちながら、霧の湖上に巨大な幻影(かげ)が浮かび上がる。

 月明かりを返すステンドグラスは七色に。あるいはシャンデリアにも似た意匠を抱く、歪な城塞めいた骸。それはファンガイアに伝わる死者たちの亡霊であり、同族たちの墓標でもあった。

 

「大きい……」

 

 レミリアはその巨躯を見上げる。古びた調度品を思わせるが、放つ威圧感と存在感はただのアンティークとは言い難い。

 奇妙な異形のシャンデリア──蒼きステンドグラスに極彩(いろど)られた『六柱(ろくちゅう)のサバト』に嫌悪感を抱くレミリア。人の顔や獣の骨、翼などの生物的な意匠を持つにも関わらず、剥き出しの歯車や骨組みは無機質な機械仕掛けの要素に満ち、そのアンバランスさが酷く不気味に感じられた。

 

「チューリッヒヒヒ……!」

 

 糸矢は六柱のサバトを顕現させた後、灰色のオーロラを現して消えてしまう。レミリアはその動きに気がついたが、六柱のサバトが放った青い光弾が大地を抉り、その回避のために糸矢に対して反応することができなかったのだ。

 本来ならば六体のファンガイアの生け贄を必要とするはずの六柱のサバト。だが、蘇ったファンガイアには一体で三体分のライフエナジーが宿っていたのだろう。

 鈍く軋みを上げながら、キバとレミリアに容赦なく魔皇力の光弾を放ち続ける異形。城とも呼べ得る大きさであるのに──何の浮力も感じさせず幽霊のように空に浮かんでいる。

 

 六柱のサバトはその巨躯のすべてが純粋なる魔皇力とライフエナジーの塊だ。大きさに反して、物理的な質量は一切ない。エネルギーから成るオーラの怪物。それがサバトの本質であり、死んだファンガイアたちの怨念が生みし意思なき亡霊であった。

 絶えず光弾を放ち続けるサバトの攻撃を避けつつ、レミリアもまたその手に現した真紅の魔槍を放ってサバトを狙う。しかし、込めた魔力が薄いためか魔槍は深き装甲に弾かれてしまった。

 

「面倒なものを(あつら)えてくれたもんね……」

 

 月明かりを返すステンドグラスは幻想的で美しいものだ。その芸術品が殺意を込めて自分を狙う異形のシャンデリアでなければ、その美しさを楽しみたいとも思えるのだが。

 夜空の月を仰ぐのは嫌いではない。しかし倒すべき敵が常に自分より高い位置に在るというのは不快だ。レミリアは小さな翼を羽ばたかせ、魔力をもって霧の湖上へと舞い上がっていく。

 

「レミリアちゃんっ!」

 

 渡はキバとしての月色の複眼で夜を舞う紅き吸血鬼の軌跡を追う。六柱のサバトは接近してきたそれに意識を向けているのか、彼女のほうに光弾を集中させた。

 いかに吸血鬼といえど六柱のサバトほどの魔皇力を直に受ければ致命傷は免れまい。キバの鎧を纏う渡であれば別だが、吸血鬼とはいえ生身の少女がそれを喰らって無事でいられるほど魔皇力は儚く弱いエネルギーではないのだ。

 

 憂いに反して、少女は不敵な笑みを崩さぬままサバトの周囲を旋回していた。光弾はレミリアの小さな身体を掠めるが、直撃するようなことは決してない。

 弾幕ごっこ。幻想郷に生きる少女たちの遊び。スペルカードルールに則った弾幕勝負に馴染んだレミリアにとって、この程度の光弾、この程度の密度では弾幕とすら呼べはしなかった。

 

「(でも……こっちの攻撃も通りにくい)」

 

 紅き光を鋭く放つナイトダンスをもってしても──やはり傷をつけられない。相応の威力を持つスペルカードを使えば霊体だろうと消し飛ばすことも可能だが、いつもの遊びの弾幕ごっこ以上の魔力を込める隙を狙われてしまえば、光弾を避け切れないかもしれない。

 六柱のサバトは質量を持たないにも関わらず、物理的な破壊を巻き起こしている。その身を構成する魔皇力とライフエナジーの塊でもって本能のまま暴れ、機械仕掛けの竜の首を思わせる両腕を振るい大地に土煙を上げる。

 霧の湖の畔を打ち砕く暴力的で無慈悲な膂力。死者たちの怨念が集約されただけの亡骸とは到底思えぬほど物質的な実体を持ち、ファンガイアのオーラそのものたる骸で地を抉っていった。

 

「デカいのが相手なら、あいつの出番だ! 頼むからちゃんと来てくれよ……!」

 

 レミリアとサバトの空の舞いを不安そうに見つめるキバットは祈るように目を細める。今までも幾度か相手にしたことのある六柱のサバトという歪な巨躯。それと戦うには、対するだけの巨大な戦力をこちらも招く必要があると判断したのだが──

 幻想郷(ここ)は自分たちの住んでいた世界とは隔たれた秘境の楽園。法則すら違えた未知の座標にて、キバの世界に存在しているであろう『あいつ』がこちらの世界まで来てくれるだろうか。

 

「…………」

 

 渡はレミリアが六柱のサバトの気を引いている隙に、落ち着いてキバットベルトの右腰、魔竜の頭を象った茶褐色のフエッスルを手に取る。

 それは昼にも使おうとした、ドランフエッスルと称されるもの。偉大なる竜の咆哮を模した音を響かせることで、かつてファンガイアの王が手懐けた最強の竜を呼ぶための笛だ。

 

 13ある魔族の一角、膂力においてはファンガイアさえ超える竜の種族たる『ドラン族』たち。力の象徴であった彼らはやはり他の種族と同様にファンガイアによって支配され、最強と呼ばれた巨大な竜さえ彼らの手に堕ちた。

 その脅威を、自らの力として呼ぶことができる笛が、キバの鎧には在る。渡はその笛──ドランフエッスルに設けられた小さな唄口を。腰の正面にて逆さに吊られたキバットに咥えさせた。




キバの13魔族の設定、結構好きなんですけど本編だとほとんど出てこなくて少し寂しい。

次回、第56話『ノクターン ♪ 君に捧ぐ』


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第56話 ノクターン ♪ 君に捧ぐ

【 KIVATRIVIA 】
みんな、知ってるか?
ドラゴンとは、ヨーロッパ文化圏で共有されてきた伝説上の生物である。
吸血鬼の始祖にも通ずるとされ、ドラキュラとは『竜の息子』という意味を持つ。
実際はドラキュラ公ヴラド三世の父がドラゴン騎士団に所属していたことからの異名らしい。
そしてルーマニア語で竜、すなわちドラクルは、残虐非道な『悪魔』の象徴でもあるのだ。


 キバの黒い指先が湛える、透き通るような小さな呼子笛。その頂に、茶褐色を帯びた魔竜の頭を象って。

 その笛の名はドランフエッスル。キバットバットⅢ世が口に咥え、紅きベルトより飛び立ち渡の傍の空を舞い、月を抱く夜空を見上げて。七色の煌きを返すサバトに向かって息を吸う。

 

『キャッスルドラン!』

 

 強く高らかなる宣告と共に、魔皇力を伴うキバット族の息が小さな笛の管の中へと吹き込まれた。深く重厚な音色が霧の帳に響き渡り──月夜を震わせる魔力を解き放つ。

 その祈りは届くだろうか。因果の地平を違えた果て、()の竜が眠るキバの世界まで。

 

 月下の湖上で舞いを見せる二つの影。一つは霧の湖を照らす調度品。シャンデリアめいた異形の骸を晒す六柱のサバト。もう一つは巨躯に対して小さな翼を翻す吸血鬼であった。レミリアは青い光弾を難なく避け、剛腕による風圧さえ物ともしないが──

 絶え間なく放たれる光弾の隙間を縫いながら放つナイトダンスでは威力が足りない。僅かな隙を見つけて放つ魔力の槍さえも、ステンドグラスの装甲に小さな傷をつけるのが関の山である。

 

「……っ!」

 

 この巨躯をどう貫こうか、思考する刹那。レミリアは生暖かい夏の夜風に、震えるような魔力の昂ぶりを感じた。

 咄嗟に翼を仰いで風を切り裂く。空中にて後退するレミリアの前で、六柱のサバトが抱く中心の球体、宝玉と見紛う美しさのそれに青白い光が灯る。一瞬の判断で隙を晒した己が愚を呪うが、やがて間もなく解き放たれるであろう波動に備えて魔力の盾を形作ろうとした──その瞬間。

 

「グォオオオッ……!」

 

 少女の耳に届いたのは鈍き竜の唸り。歪んだ夜空の境界を引き裂き現れ、レミリアの視界に踏み込んだのは、その身に不釣り合いなほど小さな翼を──それでいてレミリアの身の丈の何倍もある大きさのそれを仰ぎながら悠々と天を舞う巨竜(ドラゴン)の姿だった。

 暗い紫色の鱗を湛えた竜は、その背に──否。その身を『城』に包み込んでいる。城塞そのものから四肢と尾を、翼と首を突き出して。己が背に中世欧州の意匠を持つ天守閣(キープ)を背負っている。

 

「キャッスルドラン……! よかった……」

 

「よっしゃあっ! いけいけーっ!」

 

 渡はキバットが咥えていたドランフエッスルをキバットベルトの右腰に戻し、夜空に座す巨竜を見る。それは、キバの鎧と同様にファンガイアの王が有していた財産だ。

 ドラン族最強の種である『グレートワイバーン』はファンガイアの王によって支配され、彼らの技術力をもって改造を施された。王の居城と一体化し、生ける城(・・・・)となり王の所有物としてのみ生きることを許された。

 ()の竜の名は『キャッスルドラン』という。王の死後に主が不在となった城を、渡は女王の血を継ぐ息子として受け継いだ。キバの鎧の管理を担うキバットと共に。

 父と母の愛を遠く想いながら──友とたった二人だけで、父が生きた紅邸で過ごしたのだ。

 

「城を背負った巨大な竜……ようやく来たわね」

 

 六柱のサバトと向き合っていたレミリアはその巨躯に目を奪われる。サバトもそうだが、これだけの巨体を浮かべるには小さすぎる翼をもってどうやって飛んでいるのか──などと些末な疑問が生じるが、それは歪な形の翼を持つ己が妹(フランドール)も同様であったか。

 幻想郷には翼を持たずに空を舞う者など多くいる。妹の翼について言及した博麗の巫女も翼なき身にて飛翔を遂げる人間なのだ。

 

 城塞と一つになった巨竜──キャッスルドランは月夜に吼えている。レミリアの身を守るようにサバトの前にて立ち塞がり、月を遮る影となりながら。

 レミリアが運命の中に垣間見たものと相違ない姿の魔竜。幻想なき身にして、幻想を体現するが如き(ドラゴン)の在り方。それはまさしく、キバの鎧と同じ因果より来たるもの。

 その咆哮もまたドランフエッスルに等しく。魔力に満ちた月夜の空を響き震わせていた。

 

「グォォオッ……!」

 

 キャッスルドランは己が主君たる王の意思に代わり、今はキバを受け継ぎし渡に従う。紅魔館に匹敵するほどの巨躯、生物とは思えぬ建造物の質量をもって、六柱のサバトへと渾身の体当たりを見舞う。砕け散ったガラスの音は、サバトを覆うステンドグラスから聞こえてきた。

 

「…………!」

 

 六柱のサバトはそれだけでは朽ちず。剛腕でキャッスルドランの側部を殴り、またしても霧の湖にガラスが砕ける音が響く。湖に落ちゆく破片は、キャッスルドランの身に備わるいくつもの窓が叩き割れたもの。──されどそれは、彼にとって鎧に過ぎない。

 青白い光弾はキャッスルドランの身を襲う。またしても砕ける窓の硝子。城塞にも軋みが生じ、魔皇力の爆発を受けたキャッスルドランは鈍い唸り声と共に、激しい飛沫を上げて湖の中へ。

 

「おいおい、しっかりしろ!」

 

 キバットの激励を受け、キャッスルドランは水中で眼を光らせる。湖から飛び上がり、雫を迸らせながら、身体に漲る魔皇力のエネルギーを光球と成して六柱のサバトに叩き込む。

 サバトも意思なき亡骸を震わせて光の壁を張った。魔皇力の光弾は防がれ、届かぬ爆炎が虚しく月夜の空を染め上げる。

 今一度、キャッスルドランは鈍き咆哮を上げる。霧の湖の水面を震わせる竜の響き。その音色は大いなる境界を越え、魔皇力を伴う旋律となって──同族たるドランの血を呼び覚ました。

 

「グゥルルッ!」

 

 再び歪む空。そして湖もまた光を屈折させ、空間が捻じ曲がる。結界を超える来訪者。その到来を告げる不思議な感覚。レミリアの肌に伝わった竜の咆哮は、先ほどのものと比べて遥かに小さいものだった。

 振り返ったレミリアが見たのは、霧霞む湖面から顔を出した小さな竜の姿。キャッスルドランの半分にも満たぬが、同様に城の意匠を湛えた紅き鱗の竜だ。

 金色の屋根に廻る風車を高く掲げながら、真紅の両翼を羽ばたかせてキャッスルドランの傍へと舞い上がる。グレートワイバーンの幼体を改造した『シュードラン』は、その身の親とも呼べるキャッスルドランと共に魔皇力の光弾を吐き出し、六柱のサバトが纏う光を打ち破った。

 

「おっ! シューちゃん! ナイスだ!」

 

 キバットは二体のドラン族の活躍を見上げながら忙しなく羽ばたいた。サバトとドラン。二つの魔皇力がぶつかりあい、幻想郷の夜空には凄まじい力が響き渡る。

 やがてシュードランはキャッスルドランの背中、城塞を湛える屋根にその足を乗せた。城と城の合体により、失われていたドラン族本来の力が目覚める。眠れる竜の真の力。キャッスルドランの完全なる力を呼び覚ます鍵となって、シュードランは己が魔皇力をキャッスルドランに捧げる。

 

「グォォオオオオオーーーッ!!」

 

 双眸を輝かせたキャッスルドランは一際大きく咆哮を上げた。同族との接続を遂げ、闘争本能を覚醒させたドラン族最強のグレートワイバーン。ファンガイアによって城に改造されてしまったとはいえ、その誇りは完全に死んでしまったわけではない。

 キャッスルドランの喉に湧き宿る力。絶大なエネルギーを秘めた魔皇力の塊。シュードランとの二体分の力を込めて、解き放たれた巨大な光弾は湖を震わせながら六柱のサバトに命中した。

 

 だが──

 

「…………っ!」

 

 六柱のサバトは健在であった。黒煙を掻き分け、悠々と空を舞う耽美なる煌きは、変わらずその美しさを月夜に湛えながら厳かにして不気味な旋律を奏でている。

 以前ならばこの一撃で致命傷を与えられていたはずだ。やはり蘇ったファンガイアだけでなく。蘇ったファンガイアのライフエナジーによって生み出されたサバトも進化しているのか。

 

「渡、あの竜も貴方の仲間なんでしょ? ずいぶんと手こずっているみたいだけど」

 

 レミリアはキャッスルドランの攻撃に巻き込まれぬよう、渡の傍に降りた。その左手から真紅の槍を消失させ、二体の争いを見上げたまま問う。

 渡は己が眷属たるキャッスルドランについてをレミリアに語った。ドラン族の中でも最強を誇る種の全力をもってしても破壊できない六柱のサバトの恐ろしさも付け加えるが、レミリアの表情に恐怖や憂いの色はない。

 蘇ったサバトは、キャッスルドランの力をもってしても完全なる撃破は困難なのだろうか。

 

「……だったら……」

 

 渡は月色の複眼に闘志を灯らせ、歪む夜空の異形を見る。キバットベルトの背部を探り、奏でるべき音色を手繰り寄せようとするが──使おうとしたフエッスルはそこにはなかった。

 

「ねぇ、キバット。あのフエッスルはどこに……?」

 

 友に向き直ってその呼子笛の在処を問う。キバの鎧のすべての(カテナ)を解き放ち、黄金のキバたる真の力を覚醒せしめる禁断の鍵。

 ファンガイアの王をして『魔皇竜(まおうりゅう)』と呼ばれた黄金の竜を呼び覚ます、かのフエッスルは、今はキバの身にはない。元より黄金のキバはその絶大な力ゆえに厳重に封印され管理されてきたものだ。その覚醒をもたらす黄金の竜を呼ぶための笛も、キバットが管理していたのだが──

 

「……あっ! やべえ……! あいつが持ったままじゃねーか!」

 

 かの魔皇竜はキバットの友である。もはや笛の音色を奏でるまでもなく、キバの継承者の意思に応じて現れた。それが今までの戦いにおける、信頼という繋がりだ。

 だが、ここはライフエナジーの回収でさえフエッスルの使用を求められた未知の郷。遠く離れた幻想郷なる地において、魔力を伴わぬその信頼が届くとも限らず。やはり、真のキバを覚醒させるための音色を奏でる必要があると判断したのだ。

 

 ──その笛はキバットの手元にもない。どうやら元あるべき形、魔皇竜の身体の一部であるそのフエッスルは、魔皇竜自身の身体へと戻っているらしい。彼を呼ぶための笛を彼自身が有しているという矛盾にしばし頭を抱えるキバットだったが、すぐに湖の上の怪物に意識を向け直した。

 

「他に手がないなら、一緒に行くよ」

 

 レミリアの紅い瞳は再び月夜の煌きへと向き直る。可憐な真紅の靴で大地を蹴り、小さな双翼で闇を切り裂いて。キバの鎧を打ちつけるような風圧を巻き起こし、吸血鬼の少女は六柱のサバトを欺くような疾走の影を残した。

 渡もまた少女に続く。その身に纏う鎧には翼こそないが、月を湛える夜の空は彼を受け入れる。ただ一度の跳躍をもってして、渡はキャッスルドランの背たる城塞の屋根に着地した。

 

 その血に刻んだ父の祈り。自らの祈り。渡の心の音楽とキバの鎧が一つになったとき、天を切り裂く真紅の翼を湛えることができ、夜色の空を自在に舞うことも可能となる。

 だが、それもまた、魔皇竜の羽ばたきを伴う覚醒の音色──黄金のキバの力を必要とするもの。黄金のキバに至ることができない今はその翼を得ることができない。

 

 渡自身の生身の姿から夜空への『飛翔』を遂げるあの姿へ変わることも不可能ではない。しかしその選択は極めてリスクが高いのだ。全身の魔皇力を一気に解放し、己自身の存在さえも生まれ変わらせる禁断の翼。ファンガイアの歴史に伝わる、あってはならぬ忌まわしき力。

 最悪の場合、理性さえも失わせ振るう魔皇力のままに暴走する危険性も秘めている。それはもはや、人間でもファンガイアでもない別の何か。さながら、鳥でも獣でもないコウモリ(かれら)のように。

 渡が望む両者の架け橋とは真逆の存在──どちらにも牙を剥く怪物と成り果ててしまう。

 

「グォォォオオオッ!!」

 

 キャッスルドランの咆哮が月夜の空に響き渡り、渡の思考を熱く断ち切る。その音を合図として、レミリアが弾かれたように六柱のサバトへと突っ込んでいった。無謀とも思える正面からの接近だが、彼女はその身を掠めるように光弾の嵐を避けていく。

 薄紅色のドレスに触れる魔皇力の光弾。何の音なのか、カリカリと奇妙な音を響かせながらその弾幕の雨を抜けていく吸血鬼の少女。

 万華鏡めいた鎧に靴を乗せ、その身を蹴り上げて垂直に上昇する。物理法則を捻じ曲げるような吸血鬼の身体能力をもって直角に急上昇し、レミリアはサバトの頭上にて翼を広げた。

 

「──天罰」

 

 小さな唇が符の名を紡ぐ。眼下のステンドグラスを見下ろし、その先に設けられた彫像めいた獣の顔と向き合う。

 その一言を導にし、レミリアを中心として巨大な魔法陣──六芒星を模した(あか)が広がった。

 

「スターオブダビデ!!」

 

 紅き光はレミリアの言葉と共に鮮烈な魔力を込めたレーザーとなって迸る。その熱は堅牢な鎖のように、六柱のサバトを取り囲む鳥籠のように。魔法陣に沿って流れゆく魔力のエネルギーをもって、サバトの動きを完全に封じ込めた。

 レミリアのスペルカードである【 天罰「スターオブダビデ」 】は、聖書に連なる文字を刻んだ神への挑戦状。十字の信仰を持たぬ吸血鬼である彼女にとって、洗礼など怖くはない。

 

 悪魔と呼ばれたその血の誇り。聖なる名さえ我が物に。紅き結界を貫くように、レミリアは蒼き魔力の弾幕を激しく解き放つ。一つ一つの力はさほどでもない。それでも六芒星の魔法陣によって拘束されたサバトは、そのすべてを受け切るしかなかった。

 キャッスルドランの吐き出す魔皇力の光弾も受け、六柱のサバトには確実なダメージが入っている。されどその身に滾るライフエナジーが膨大なためなのか、すぐに修復が始まってしまった。

 

「……ちっ、渡! 同時に決めるわよ!」

 

 レミリアは六柱のサバトの頭上にて高らかに声を張り上げる。渡はそれを月色の複眼で見上げ、キバとしての身で小さく頷いた。

 翼の如く両腕を広げ、斜めに高く伸ばしてはキャッスルドランの背を駆け抜ける。城塞の屋根を疾走する鎧から、この身を封じる(カテナ)の音が鳴る。一度(ひとたび)強く蹴り上げ、渡は魔竜の(あぎと)の前へ。

 

「ふっ……!」

 

 キャッスルドランの口から解き放たれる魔皇力。その奔流に乗り、キバは右脚を突き出し六柱のサバトへと突き進む。竜の咆哮に共鳴し、右脚のヘルズゲートは紅き翼を開いて。

 

紅符(あかふ)、不夜城レッド!!」

 

 レミリアは六柱のサバトの頭上にて、己が胸の前で手を開く。指先を広げ、自身の心臓を抱くようにして。さながら聖杯や翼を思わせる手の形。激しく湧き上がる紅き魔力の霧は集い、レミリアの周囲に絶大な力となって集約していく。

 高らかに宣言された【 紅符「不夜城レッド」 】の発動に際して、レミリアは両腕を広げてその魔力を解き放った。

 十字架の形に具現した紅きオーラの波動は、魔槍の如く六柱のサバトを貫く。滾る紅熱をもってステンドグラスを焼き払い、スターオブダビデの結界も合わせて獲物の逃げ場を完全に封じ込め。レミリアの真紅の双眸に映るのは、キャッスルドランより放たれたキバの鎧の継承者──

 

「はぁぁあっ!!」

 

 キャッスルドランの咆哮に伴う魔皇力の波動(ブレス)に乗った、キバの一撃。熱く迸る本能のままに、ウェイクアップフエッスルに頼らず覚醒を遂げた真紅の右脚。

 解き放たれたダークネスムーンブレイクは、六柱のサバトの結晶体を穿ち抜いた。

 

 六柱のサバトの背後より、キバの鎧は舞い降りる。霧の湖の畔に着地し、右脚のヘルズゲートは役目を終えてデモンズ・マウントを白銀の中に包み込む。再び封印のカテナに縛られた己が右脚を見やることもなく、渡は夜空に振り返った。

 亀裂より溢れる光。その収斂を待たず、サバトの魔皇力が行き場を失っていく。やがてステンドグラスの内より鮮烈に爆ぜ、夜を明るく染め上げるほどの炎と共にガラスの破片が飛散した。

 

「…………」

 

 少しずつ夜は闇を取り戻していく。激しい炎の光は失せ、静かなる月明かりが舞い戻ってくる。宵の空に、ぼんやりと輝く二つの光球──ライフエナジーの塊を浮かび上がらせながら。

 キャッスルドランは小さな翼を仰ぎながら、そのうちの一つへと喰らいついた。

 

「グォォオオッ!!」

 

「よーく噛んで、しっかり食えよー!」

 

 エネルギーの塊であるはずのそれを丁寧に咀嚼し、嚥下しては噯気(げっぷ)を放つ。渡のキバットベルトから離れたキバットも、キャッスルドランの食事を見届けていた。

 城塞の屋根より分離したシュードランもまた、残る一つのライフエナジーを捕食しようと舞い上がるが──疾風の如く闇を切る紅き影、吸血鬼のスピードにその光を持ち去られてしまった。

 

「あれ、あんたも欲しかったの? 悪いけど、こっちのは私が貰っていくわ」

 

 手の平の上に光球を浮かべてシュードランに振り返る。レミリアにとって必要なのは、自身の糧たるエネルギーではない。ミラーモンスターが喰らった命に代わる、フランドールへの力の供給源だ。咲夜が得たエネルギーのおかげで、彼女の身体にはまだ余裕があるようだが──

 

「グルルゥ……」

 

「……わかったわかった。じゃあ、半分こね。これならいいでしょ?」

 

 大切な妹の身が朽ちゆく事実は不安だ。それでもフランドール・スカーレットは強大な吸血鬼である。原因不明の灰化現象にもある程度抗うことができ、すぐに対処が必要というわけでもない。レミリアは口惜しそうにこちらを見つめる小さな竜に慈悲を与えることにした。

 光球を分かち、一つは己が魔力で別の空間に貯え。もう一つをシュードランへ受け渡す。施しを受けた幼竜はその光を喰らい、満足げに飛び去っていった。

 

 シュードランは宵に染まる空へと消えていき、やがて空間に走った波紋と共に消える。現れたときと同様に時空を超えたのだろうか。レミリアにとっては、それがファンガイアの技術による空間転移なのか、乱雑に結ばれた幻想郷と別の世界の繋がりなのかは分からず、興味もなかった。

 

 霧の湖は昼にこそ深い霧がかかる。だが、夜にもまったく霧がないわけではない。薄く霧がかった虚ろな空を見上げ、少女は小さく溜息を零しながらすぐに訪れる運命を憂う。

 紅き瞳が映す運命の観測に依らぬ視覚。渡も同様に見て取れた、東の空を灼く無慈悲な光。

 

「……このまま日傘を差して帰ってもいいけど……」

 

 レミリアは目を細め、彼方に見える朝焼けに眉根を寄せる。続いて地上に降り立ったキャッスルドランの地響きを肌で感じながら、その巨竜のつぶらな瞳を見上げた。

 シュードランとの接続を解除したキャッスルドランは闘争本能を抑えた温厚な気質に戻っている。巨大な足で大地を踏みしめ、キバの継承者を見下ろしている。

 巨竜は自身を見上げる吸血鬼のオーラに何かを感じたのか、レミリアに視線を合わせた。

 

「ちょっと疲れちゃったし、中に入ってもいい?」

 

 鎖と解れたキバの鎧を流し見る。生身の姿を晒した渡に対してレミリアは問うた。夜明けの日差しは少しずつ霧の湖に入り込んできているが、夜明けと共に満ち始めた霧のおかげでさほどの明るさは未だない。その霧こそが、吸血鬼にとっての安寧をもたらすのだろう。

 渡とキバットが微かに顔を見合わせた。それを見ることもなく、レミリアはキャッスルドランの鎧たる城──王たる者の要塞たる城壁に触れる。

 

 吸血鬼は太陽の光に弱い。それは渡が生きたキバの世界でも伝えられている概念だ。もっとも、彼女がキャッスルドランへの入城を求めるのは、単なる興味と好奇心からだろうが。

 一般的に語られる吸血鬼は『招かれていない屋敷には踏み入れない』という弱点を抱えているはずだ。されど、レミリアにはそんな概念は通用しない。たとえ敵地であろうと、如何なる場所にも問答無用で踏み込める体質だ。

 博麗神社に入り浸り、永遠亭に侵入し、人間と同様に他者の家に上がり込める。ただ、吸血鬼の弱点としてのその制約を持っていないというだけで、無条件で侵入できるわけではないのだが。

 

「グォォオオオッ……」

 

 キャッスルドランの正門に近づくレミリア。巨竜の咆哮は、己が守護する王の居城への侵入者を阻む威圧的な響き──ではなかった。

 共にサバトと戦ったことで仲間意識が生まれているのか。竜と等しき血を宿す吸血鬼の系譜がドラン族に何かを感じさせるのか。あるいは、少女が心に秘める音楽に惹かれたか──

 

「嘘だろ……? あいつ、キャッスルドランに懐かれてるのか……?」

 

 キバットは巨竜の振る舞いを見て意外そうに目を丸くしていた。高潔な誇りを持つドラン族最強のグレートワイバーン。たとえファンガイアの王の傀儡と成り果てたとはいえ、最強の生物であるドラゴンとしてのプライドは失われていないはずだ。

 その竜がファンガイアならざる存在に対して、何の警戒心も持たずにどっしりと構えている。王の居城たる巨竜に躊躇なく近づき、不遜にもその扉を小さな手で引っ張る者を前にしてなお。

 

「渡ー! これ、どうやって開けるのー?」

 

 中世欧州を思わせる城の意匠は紅魔館にもよく似ている。レミリアは幾重もの鎖に包まれた扉に手をかけているが、吸血鬼の膂力をもってしてもビクともしないらしい。

 彼女は数歩下がりつまらなさげに扉を見つめる。霊夢ならこの程度の施錠、得意のインチキ技で簡単に解くことができるだろうが──レミリアには破壊以外の開錠法は思いつかなかった。

 

「……キャッスルドラン、お願い」

 

 渡は巨竜を見上げてその瞳と向き合う。小さな唸りを聞き届けると、キャッスルドランの正門たる扉を縛る鎖は独りでに解かれ、じゃらじゃらと鈍い音を立てて竜の体内に消えていく。やがて重々しい音を奏で、巨大な扉はゆっくりと開かれていった。

 扉の中に見えるは暗闇。だがそれも一瞬のこと。すぐに廊下の両壁に配された燭台に火が灯り、ぼんやりと闇が照らし出される。古き魔力に包まれた城に踏み入り、渡はレミリアを招いた。

 

◆     ◆     ◆

 

 薄暗い廊下に灯る小さな炎。渡とレミリアが歩むはキャッスルドランの体内──と定義するにはやや不正確。グレートワイバーンたる彼と一体化した城そのもの、あくまで建造物たるその領域である。

 竜の鼓動や唸り声は聞こえてこない。この城は竜の肉体であると同時に王のために設けられた動く要塞。魔術的な方法で切り拓かれているため、外観以上に広く静寂さえも感じさせる。

 

「思ったより広いじゃない。これなら退屈しなさそうね」

 

「ファンガイアの魔術で無理やり広くされてるんだ。空間でも弄ってるんだろうな」

 

 興味深そうに辺りを見回すレミリア。歩むにつれて明かりと広さは増していき、その建造物が竜の纏っているもの以上の体積を有していることに気がつく。キバットの説明を耳にしたレミリアは納得した様子を見せた。

 外から見たときも確かに巨大な竜ではあった。背負うものも相応の建造物であったが、竜自体の大きさを含めてそれは倉庫と呼べる程度の大きさでしかなかったはず。だが一度入り口に踏み入れば、中はまさしく城と形容する他ない巨大な建造物であるらしいことが明らかになっていく。

 

「ふーん。咲夜の能力みたいなもんかしら」

 

 その法則を彼女は知っている。キバの世界の技術など知る由もないが、似たような技術は幻想郷にも存在する。彼女の屋敷たる紅魔館もまた、見た目こそシンプルな洋館だが十六夜咲夜の時間を操る程度の能力を応用した空間拡張能力によって物理法則が捻じ曲がっているのだ。

 内部の広さを拡張し、見た目以上の広さを持たせる。その能力は咲夜の力で維持しているのではなく、紅魔館自体に定義された法則であるため、咲夜自身が存在せずとも成り立っている。彼女が維持に割く力は必要なく、彼女が不在の今も維持されているはずである。

 

 この城にもたらされた法則もきっと同じく、術者の存在を維持に必要としないのだろう。ファンガイアの魔術師か何かがこの城に施した能力だろうか。あるいはこの竜自身の能力という可能性もあるが、レミリアにはさほど興味はない。

 それよりも、今はこの城を心ゆくまで探索したい。未知の城に踏み込む経験など、ここ数百年はまるでなかったことだ。

 永く生きるほど必要なものばかりになって困る。レミリアは咲夜にそう語ったことがある。日常のどうでもいいことが重要になってくると。咲夜は逆に永く生きるほど必要なものが減っていくと思っていたようだが──好奇心というものはむしろ長生きするほど必要とされるものだ。

 もっとも、500年以上の歳月を生きたレミリアとて妖怪としてはまだまだ若輩であるのだが。

 

「あの……レミリアちゃん……あんまり動き回られると……」

 

 渡はキャッスルドランの廊下を歩みながらレミリアに優しく忠告しようとする。この城は外敵を阻む要塞としての側面を持つ城。ファンガイアの女王だった母から譲り受けただけの王の遺産だ。彼とて城の機能をすべて把握しているわけではない。

 キバの鎧の継承者である自分の意思で招き入れた客人という扱いの彼女に対して、キャッスルドランの防衛が働くとも思えないが、それでも好き勝手に触られたら安全を保障できないのだ。

 

「……渡、もういないぞ」

 

「えっ?」

 

 キバットの言葉に振り返る渡。客間まで案内しようとしていた彼女の姿は、もはやそこにはない。たった今まで気配はあったはずなのに、すでにどこかへ行ってしまったようだ。

 

「だ、大丈夫かな……」

 

 見たところレミリアはキャッスルドランに懐かれている様子だった。よほどの無茶を働かなければ何かが起こるということもないだろうが──この屋敷には『彼ら』がいる。

 キャッスルドランの意思とは別の独立した種族。ファンガイアと同様に人間の命を喰らう種族の、それぞれの『生き残り』たちが、この城のとある場所で生きている。彼らの怒りを買わなければいいのだが──

 

 彼らも渡の、正確には渡の父親たる天才的な音楽家の仲間だ。彼らは渡の父との約束を尊び、ファンガイアの王が没して自由になった今でもキャッスルドランの牢獄に身を置くことで渡を守るという使命を胸に抱いている。

 ある者は牙を剥く狼の如く鋭く吼え、ある者は揺蕩う水の如く優雅に舞い。そしてまたある者は轟く雷鳴の如く大地を踏みしめる。それぞれが渡の──キバの力の一部となって戦うのだ。

 

◆     ◆     ◆

 

 キャッスルドランの内装は荘厳ながらどこか古びた印象を受ける。紅魔館の内装と地下室の意匠のおよそ中間といった、煌びやかさと退廃的な不気味さを掛け合わせたような印象だ。レミリアは帰るべき紅き居場所に似た美しさを見て、芸術作品を尊ぶように目を細める。

 ファンガイアにしてはなかなかセンスがあるじゃない──などと心に素直な感想を抱きながら、やや紅さの足りない古びた城を歩んでいく。

 

 不意にレミリアは人の気配を覚えた。暗闇に続く廊下の先、吸血鬼としての暗視能力をもって見えた灯火の先。その扉の彼方から人の気配──あるいは人ならざる者の気配を。扉は厳重に封印されていた痕跡があるようだが、今は鎖も鍵も何もかもが解放されている。

 歩むべき廊下には必ず魔力の灯火が闇を照らしているというのに、その扉へ至る道の壁にだけは燭台に光がなく、訪れる者を拒むかのような暗闇が広がっているという不気味な光景だった。

 

「……へぇ」

 

 そんな扉の先に何かの気配があるのなら、彼女は迷わず。絢爛な明るさに背を向け、ただ静かな闇へと歩んでいく。小さな手で重い扉を開くと、そこには地下へと続く階段があったのだ。

 

「本当に紅魔館(うち)と似てるわねぇ」

 

 物理的にありえざる構造。キャッスルドランは翼をもって空を舞う竜である。空を飛ぶ建造物のどこに地下空間を設けられるというのだろうか。

 考えられる可能性は一つしかない。キバットが語ったように、ファンガイアの魔術で空間が拡張されているのなら、この城もレミリアの居城たる紅魔館と同様に存在しない空間を切り拓いて地下空間としているのだろう。

 レミリアは地下空間の不気味な廊下を抜けていく。壁に灯る燭台は先ほどの内装のものよりもさらに古びて朽ち果てており、手入れがされていないにも関わらず、レミリアの歩みに応じて彼女が通った場所にのみ炎が灯る光景は、魔術的というより儀式的な雰囲気さえ感じられた。

 

「ここに渡の妹でもいたら……さすがに運命を感じちゃうわね」

 

 己の在り方とキバの継承者を重ねて笑う。薄暗い灯火の先にて辿り着いた扉を前に、レミリアは湧き上がる好奇心を抑えられずにいた。

 まるでクリスマスプレゼントを開封する子供のように。紅い瞳に揺らめく燭台の火を煌かせて。少女は扉の前でパチンと指を鳴らす。古びた魔力を帯びた扉は、ゆっくりと開かれていき──

 

「……っ」

 

 薄暗い廊下には見合わぬ明るさに、微かに瞳孔が収斂するのを感じる。扉の先にあった部屋は、レミリアが想像していたような陰鬱な地下牢ではなかった。

 部屋を照らす美しいシャンデリアやアンティーク調のテーブル、キャビネット。紅魔館の客間を連想させる調度品の数々を見て、ここが地下室であるという認識を持つ者は稀だろう。紅魔館の地下室、彼女の妹の部屋も薄暗さこそあれど客間と相違ない調度品に満たされた格調高い部屋ではあるのだが──

 

 一瞬の眩さにもすぐ慣れる。レミリアは妙に広いにも関わらず空虚な印象を持つその部屋を見て、すぐに理解した。この部屋はこれだけ豊かなものに恵まれているのに、その一切に自由というものがない。玩具を弄ぶための箱庭とでも形容できる冷たい牢獄だと。

 その空間は『ドランプリズン』と呼ばれる場所。大きな窓から差し込む光も、地下へと続く階段を下りてきたという事実に矛盾した奇妙な光景ではあるが、それ以上に気になるものがある。

 

「……ずいぶんと可愛らしいお客さんだな」

 

 正面のテーブルに備えつけられた椅子から低い男の声が聞こえた。椅子は背もたれがテーブル側に向いており、その顔を窺い知ることはできない。

 男はゆっくりと椅子を立ち、漆黒のタキシードを着崩した精悍な人間の姿を明らかにする。ドランプリズン内に踏み込んだレミリアを品定めするような不躾な視線は、男の粗野な振る舞いを感じさせた。

 

 餓えた狼めいた鋭い気配。微かに蒼く輝いた瞳に射貫かれるも、レミリアの紅い瞳はその荒々しい在り方に背くことなく向き合っている。

 どこかコーヒーの香りを漂わせる男へと歩み寄ると、豪奢ながら寂しげな部屋を見渡した。

 

「退屈な部屋ね。こんなところに一人でいるなんて……よほどの物好きなのかしら」

 

 レミリアは青年の目の前にあるテーブルに近づいてその表面を撫でる。アンティーク調の家具はどれも趣があるものの、ただ与えられただけといったもので、壁に架けられた絵画や燭台などもただ在るというだけ。貴族の一室を利用しているだけの牢獄に相違ないだろう。

 そんな場所に好き好んでいるというのであれば、あるいは筋金入りの引きこもりか。狼めいた若い男という存在自体はまったく似つかぬが──牢獄にも似た空間に閉じこもっているのであれば、やはり妹に似た立場だと思えた。

 

 文字通り幽閉されているのかとも思ったが、レミリアが見た限りではこの空間は施錠されていなかった。封印が施されていた形跡こそあったものの、すでにその重い鎖も解かれている。フランドールと同様に出ようと思えばいつでも出ることができるはずだ。

 見た目通りの性格だと決めつけるなら、この男は自由こそを尊ぶだろう。こんな退屈な場所に留まって束縛されることを好みそうにないと感じられた。

 ちらりと窓を見る。歪んだ空間の果てに辿り着いたこの場所に差し込む陽光も、どこか現実味のないもの。レミリアとしては肌を焼かぬ空虚な輝きとして、こちらのほうが都合が良いのだが。

 

「いろいろ事情があってな。あいつが招いた客なら信用に足るだろうが……まぁいい」

 

 男は溜息混じりにタキシードのズボンに手を突っ込み、光差す窓の方を見る。思考の中に響くは過去の記憶。強く生き抜いた人間の音楽。彼の血を継ぐその息子。王の血を引かぬ身でありながら女王の意思によりキバの鎧の継承者となった男。

 悩み多き人生を送るだろう、俺の息子(そいつ)を助けてやってほしい──その願いに応えるため、加えて王によって目覚めさせられたキャッスルドランの闘争本能を少しでも鎮めるため。

 

「それに、()()()は一人じゃない」

 

 鋭い眼光を持つ男は再びレミリアに視線を向ける。蒼く湧き上がる気配は人間のものではない。姿こそヒトであれど、レミリアにはその魔力の異質さが伝わってきていた。

 今この場に。ドランプリズン内に在る気配は、彼を含めて三つ。それに今まで気づかなかったのは、キャッスルドランの中に満ちている古き魔力が感覚を鈍らせていたからだろうか。レミリアがそこで目にしたのは、不意に姿を現したもう二人の人影だった。

 

 一人は水兵服に身を包んだあどけない振る舞いの少年。もう一人は揺るがぬ巨像の如き燕尾服を纏った巨漢。それぞれ翡翠色の気配と紫電色の気配を帯びているような感覚があり、レミリアは疑うこともなくそれらを人ならざる者と見る。

 彼らはファンガイアではない。ファンガイアによって故郷を奪われ、親や兄弟、仲間たちを殺され、己が種族の最後の生き残りとなってしまった魔族たちだ。

 一度は憎きファンガイアの王によって無機なる収集品として城に囚われてしまったこともあったが──王の死後は自由の身となり、やがてとある男との約束のため、ここへ舞い戻った。

 

 彼らにとって、ここは忌むべき牢獄でもあり、()との繋がりを証明する居場所でもあるのだ。

 

◆     ◆     ◆

 

 ──紅魔館、地下室。薄暗い部屋にぼんやりとした燭台の光が灯っているだけの世界。砕けたテーブルや引き裂かれた肖像画、ボロボロに破れたぬいぐるみが落ちているが、それは乱雑に打ち捨てられたものではない。

 荒廃した雰囲気の部屋とは思えぬほど、そこは埃一つなく綺麗に片付いている。牢獄と思わせる冷たい空間なれど、どこか血生臭い色と少女のあどけない柔らかさを兼ね備えているような。

 

「……退屈だな」

 

 歪な翼は灯火に煌く。宝石めいたそれらを揺らし、吸血鬼の少女は溜息を零した。

 白い右手の平からはさらりと灰が零れる。フランドール・スカーレットの灰化現象は未だ回復の兆しを見せてはおらず、供給されるエネルギーのおかげで進行こそ止められているものの、完全な解決には至っていないままだった。

 吸血鬼の生命力に加えてフランドールが吸収したミラーモンスターのエネルギーによる魔力の再生。未知のエネルギーによる肉体の灰化は追いつかず、肉体の再生速度の方が上回っている。

 

「……誰?」

 

 不意にフランドールが背後の扉に視線を向ける。薄暗い部屋がぼうっと灰色に照らされ、そこにありえるはずのないオーロラのようなものが浮かび上がっているのを目にした。

 その存在は、地下室の扉からではなく。オーロラの向こうから現れる。どこか亡霊じみた希薄さを有しているのに、揺るぎなく力強い暴虐性を秘めているような不気味な存在──ラフなグレーの上衣は着崩され、左肩を大きく露出させている若い少年。

 無骨に波打つ黒髪をオーロラから吹き込む風に靡かせた彼は、不敵な笑みを浮かべながらゆっくりとフランドールのもとへ歩み寄る。その手に、小さな銀色のアタッシュケースを携えて。

 

「へぇ。まだ生きてたんだぁ。……思ったよりしぶといじゃん」

 

 底知れぬ威圧感を感じさせる少年からは生気というものが感じられない。フランドールは食事として加工された状態ではない『生きた人間』を見ることはあまり多くないのだが、彼はかつて見たそれとは大きく異なる気配を持つ。

 生きていない──すなわち死んだ人間。だが明確に言葉を発し、動いている。ただ動いているだけの死体と定義するには、奇妙な話だが死んでいるように感じるのに命の炎さえ見て取れる。

 

「お兄さん……どこかで会ったことあるような」

 

 モルフォチョウを思わせるような青白い炎。その肉眼で見たわけではないが、少年の在り方から感じられる死せる生気に、フランドールは既視感を覚える。

 彼女は紅魔館地下室に幽閉されていた。あくまで過去形なのは、すでに彼女がその束縛を失い、紅魔館内を自由に出歩けるほど安定したからだ。今は未知の灰化現象の原因解明のため地下室での謹慎を命じられているだけであり、地下室の施錠には最初から何の意味もない。

 フランドールは『ありとあらゆるものを破壊する程度の能力』を持つ。たとえどれだけ強固な鍵であろうと、その能力にかかれば壊せてしまうため、彼女を幽閉することなど不可能なのだ。

 

 彼女は鍵を壊すことができるにも関わらず。495年間、自らの意思で地下室にいた。外に出ることもできたが──居心地が良いという理由で閉じこもっていただけである。

 そんな彼女も外の世界の楽しさを知った。幾度か紅魔館内やその外へと赴いて未知を楽しんだことがある。外出した際に多くの存在と接触したが、この少年とも会っていただろうか──

 

「それだけ馴染んでれば十分かな。僕はもう……飽きちゃったから」

 

 少年は微かな笑みを浮かべ、手にしたアタッシュケースを乱雑に放り投げる。ロックすらされていないその箱は、落下の衝撃で開いて中身を散逸させた。

 フランドールはそれらに目を奪われる。霊夢や魔理沙たちと出会うまでは地下室に置いてあった古い本くらいにしか興味を持たなかった彼女は、アタッシュケースから零れ落ちた銀色のベルトとビデオカメラめいたそれに触れる。

 三つ落ちたうちの一つ、銃のグリップにも似ているが銃身のないそれを手に取ると、その冷たさからどこか虚ろな灰のイメージが感じられたが──それ以上に伝わってくるものはなかった。

 

「……何これ……」

 

 銃のグリップめいたそれは下部に音声認識器らしき穴が開いている。ケースの内部に残っていた紙切れはこの機械のマニュアルだろうか。そちらについても気になったが、今はそれ以上に意識を奪われる感覚が──この身の細胞を打ち奮わせる音楽として響く。

 フランドールの全身の血がざわつくような感覚。未知の現象により肉体が灰化していく感覚にも似ているものの、例の灰化はまだ起きてはいないようだ。

 灰色の細胞が訴える。この身を灰と朽ちさせようとしている何かが叫んでいる。それはさながら自然を超越した『龍』の如く。吸血鬼の始祖に通ずるドラゴンの咆哮が湧き上がるような。

 

「僕の『記号』に適合することができたのは……君が初めてだよ……」

 

 少年の言葉は虚ろに不気味。冷たく霞む灰の色。どこか嬉しそうにも聞こえたが、フランドールが顔を上げてその表情を確かめようとしたときにはすでに彼の姿はなかった。

 閉ざされた地下室に吹き込む風は止み、オーロラもすでに消えている。ただその場に微かに、少年が立っていた場所に。フランドールの身から零れるものと同じ──灰の粒子を残して。

 

「……ああ、そういうことね」

 

 フランドールはすでにこの場にいない少年への興味をすっかり捨て去り、アタッシュケースの中のマニュアルに目を通した。495年ものあいだ地下室で本を読んできた彼女には、実際に紅魔館の外で得られる体感的な経験があまりない。

 されど知識だけは、まだ100年あまりしか生きていないとはいえ、生粋の魔女たるパチュリー・ノーレッジにも比肩しかねないほどのものを有している。もっとも吸血鬼と魔女では魔法の扱いに差があるため、フランドールがその膨大な知識量を活かせたことはないが。

 

 ──その知恵が、知識が。未知の法則を脳内で収斂させる。この世界にない情報、幻想郷が存在する世界には存在しない知識を、一片のマニュアルから読み取って。

 記された内容と己の推測を含めて──彼女は己を『灰化』させる力の真実に辿り着いていた。




キャッスルドランともう一体のドラゴン。なんで彼だけ非実在生物モチーフなんでしょうね。

次回、第57話『ピッツィカート ♪ 僕だけの音楽』


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第57話 ピッツィカート ♪ 僕だけの音楽

 キャッスルドランの中、ドランプリズンと呼ばれる特殊空間。ここは間違いなくキャッスルドランという城の内部ではあるのだが、物理的な座標としてはどこにもないとも言える場所だ。ファンガイアの王が手に入れた『収集品』たちを置いておくための、ただの牢獄である。

 そこにはすでに牢獄としての機能はない。ただ座標として見つかりにくいだけの城の一室となってしまったその空間に、人ならざる者の気配は四つ。

 

 一人はタキシードを着崩した男。狼めいた蒼き気配で佇むは 次狼(じろう) という名を名乗る月下の獣であった。今この場においては人の姿をしているが、それはファンガイアと同様に古き遺伝子に刻み込まれた──別の肉体の様相でしかない、仮初めの姿として定義されるもの。

 もう一人は湿度を帯びた水兵服を装った少年。碧色の気配を場に満たし、どこか海にも似た底知れなさを感じさせる彼は、この姿においては ラモン と名乗っている。少女を見ながら楽しそうに振る舞うも、老獪な(したた)かさを思わせた。

 さらなる一人は岩の如くどっしりとした燕尾服の巨漢。紫電めいた気配をその身に抱き、石像とさえ思わせるような不動の在り方で腕を組むその男は、この姿では (りき) と名乗っているようだ。

 

「……ファンガイア、じゃないわね」

 

 この場に存在する魔たる者、その最後の一人。吸血鬼たるレミリア・スカーレットの紅き双眸が彼らを見渡す。紅渡にも同様に感じられた、異なる地平に在る法則なれど同じ血を思わせる気配。吸血鬼に等しき法則を備えた気配が、彼らからは感じられない。

 気配の色は蒼と碧と紫。どこか咲夜と美鈴とパチュリーを思わせる色の組み合わせ。紅渡の魂が紅色であるのなら、奇しくもそれは紅魔館の牙たる自分たちと同じ気配の色を宿す者たち。

 

「お前も、どうやら俺たちの仇敵とは違うらしいな」

 

 タキシードの男──次狼はズボンのポケットに乱雑に両手を突っ込み、少女を見下ろす。ラモンと力、二人の表情をちらりと見ると、彼は再びレミリアの瞳に視線を合わせた。

 

「名刺代わりだ。俺たちの姿を見せてやる」

 

 次狼は静かに息を吐き、両手をポケットから引き抜く。その身に蒼い電流めいたオーラが走ったかと思うと、彼の身は瞬く間に蒼穹の体毛を纏った獣へと変わっていった。着ていたタキシードをもその身に取り込み、二本の脚で立つ狼の怪物へと変貌する。

 双眸は、少女と等しき真紅となり。額に突き出した金色の一本角は、さながら月夜にて己を示す誇り高き者の証。

 次狼と名乗る男はキバの世界に13ある魔族の一つ、狼男の系譜たる『ウルフェン族』の最後の生き残りである。真の名を『ガルル』といい、一族復興のためにと、彼は長らく尽力してきた。

 

「狼男……ってこと? 紅魔館(うち)じゃ咲夜の担当ね」

 

 レミリアはウルフェン族としての真躯を晒した次狼に対して、お返しとばかりに不躾な視線を向ける。ファンガイアほどではないが、秘める魔皇力はなかなかのものだ。迷いの竹林に似たような獣がいたわね、と思い返しつつ──続いて残る二人の魔族を見る。

 ラモンの身に走った緑色の光は泡を伴いながら彼の姿を変えていく。やがて光は収まり、そこに翡翠の鱗を纏った半魚人の怪物を映し出した。彼は半魚人たる『マーマン族』の最後の生き残りであり、真の名を『バッシャー』という。

 最後に残った(りき)の燕尾服には紫電のオーラが迸り、鈍く唸る雷鳴と共に彼の姿を変じさせていく。至ったのは、死体のように冷たい岩の巨像であろうか。棺桶めいた意匠に捻じれ歪んだ剛腕を有するは、人造人間を始祖とする『フランケン族』の最後の生き残り──『ドッガ』である。

 

「ねぇねぇ! キミ、本物の吸血鬼なんでしょ? よろしくね!」

 

「俺たち、渡、仲間……よろし、く……!」

 

 ロココ調の意匠を帯びた半魚人の怪物、マーマン族のバッシャー。ゴシック調の意匠を纏う人造人間の怪物、フランケン族のドッガ。どちらもレミリアと同じ真紅の眼で彼女と向き合い、冴えるような鋭い気配で互いの在り方を測り合うようにその場に佇む。

 一瞬の静寂。やがてバロック調の意匠を抱いた狼男の怪物、ウルフェン族のガルルが前に出た。収束していく魔皇力と共に、蒼きウルフェンの肉体はタキシードを装う男へと戻っていく。

 

「俺の名はガルル。ファンガイアに滅ぼされた、誇り高きウルフェン族の生き残りだ」

 

 哀しげに表情を伏せた男は、この姿では次狼と名乗ってる──と付け加え、ちらりと残る二人を見やった。溢れる泡沫と燻る紫電に包まれ、仮初めの人間態へと姿を変えたバッシャーとドッガ。二人を目線で指し示し、それぞれの名前と種族を告げる。

 どちらも次狼と同じく己が種族の最後の生き残り。ラモンと力、そして次狼は、それぞれマーマン族とフランケン族、ウルフェン族の絶滅をたった一体のみで免れた同じ境遇の三体である。

 

「お前のことは知ってる。レミリア・スカーレットだったか」

 

「あら、少しは有名になったのかな。ブラム・ストーカーに執筆の依頼はしてないけど」

 

 貴族の礼儀に則って名乗ろうと思った矢先のこと。自分の名を告げられ、レミリアは少し驚いた表情を見せる。次狼曰く、特殊空間であるはずのこの部屋──ドランプリズンの中からはキャッスルドランの外の光景が見られるらしい。

 城主を基準とした映像であれば、屋内であっても見ることができる。そうでなくとも、この城、キャッスルドランが放つ魔皇力による探知は、あらゆる場所を映し出すことができるようだ。

 

「……俺たちは、この城にある『時の扉』で()()を見た」

 

 真剣な声色で告げられた次狼の言葉に息を飲む。レミリアは運命という言葉に、他人事ではない何かを感じていた。

 ラモンと力も小さく頷いている。自分が運命を操る程度の能力を持つ吸血鬼であるということまで知られているのだとしても、それは決して相手を謀る冗談などではないと告げるような。

 

「運命……?」

 

「キバの鎧を継承する者。あいつの助けになれればいいが……」

 

 微かに目を細めたレミリアは思考に浮かべた青年の姿に紅色の波動を見る。次狼が見た運命とやらが何なのかは、彼女には分からない。ただ、彼女に見て取れるのは九つの世界と幻想郷とが交じり合った歪な法則の螺旋。捻じれ絡まった鎖の手繰る先でしかないのだ。

 静かに語る言葉を読み取るに、彼が見た運命もキバの鎧を纏う渡の辿る未来であろう。如何なる手段でその理を垣間見たかは知らないが──

 

 次狼は不意に己がタキシードの懐から一枚のカードを取り出した。それは占いに用いられる西洋の札。タロットカードと呼ばれるものだ。その一枚の札は、一般的に知られるような、ただ絵柄を宿すだけのものではない。

 車輪めいたものが描かれた札──『運命の輪(Wheel of Fortune)』。それを正位置の向きで手に持つ次狼が目を落とすのは、万華鏡の如く、渦巻くように変わりゆくカードの絵柄だ。

 次狼は揺らめく絵柄のカードを鋭く放り投げ、部屋の中心に在るテーブルへ落とす。表向きに落ちた正位置の座標、運命の輪。そのカードはすでに元の絵柄を失い、映像を映し出していた。

 

「どうやら、この城の主がお前を探しているらしいな。そろそろ奴のもとへ戻ってやれ」

 

 カードが映すのは見知った顔の青年。キャッスルドランと呼ばれる古城を受け継ぎ、キバの鎧の継承者となった男。彼はキバットバットⅢ世と共にこの城を歩きながら、ちょっと目を離した隙に見失ってしまったレミリアを探しているようだ。

 次狼は不意に右手を上げると、その無骨な指を弾き鳴らす。ドランプリズンの中に奇妙な魔力の波動が満ち溢れ、自分の周りに薄暗い闇の帳が舞い降りたと気づいたときには──

 

「じゃあ、レミリアちゃん。お兄ちゃんによろしくね」

 

「俺たちは、ここに、いる……」

 

 ──ラモンと力の声が遠く耳に消えゆく最中。レミリアは、その場に存在していなかった。

 

◆     ◆     ◆

 

 キャッスルドランの天守閣。城主の領域たる『マスターハウス』には、その下のどんな場所よりも豪奢な王のための調度品が揃えられている。かつてファンガイアの王だった男が己が居城としていた、まさに選ばれし者のための空間だ。

 真紅と黄金に彩られた玉座の下には薔薇の花弁が敷き詰められている。巨大な絵画や漆黒のカーテンの向こうから差し込む太陽の光。そのすべてが、王の存在を輝かせるためのもの。

 

「レミリアちゃん、どこ行ったんだろ……」

 

 厳かな玉座に腰を下ろしている者は、今はいない。この王座にあるべきは渡の兄たる、当代のファンガイアの王──すなわち『キング』である。渡と同じ母を持ちながら、異なる父を持つ言わば異父兄弟。どちらも女王たる母親の血を引いていることは同じだが──

 渡はとある人間の男を父に持つ。対してキングとなった渡の兄は、先代の王たる血を引く純血の継承者。本来ならばこの城もキバの鎧も、彼に与えられるはずのものだったのだ。

 

 誇り高き王の間にてキバットに向き合う渡。マスターハウスの権限であれば、キャッスルドランの全空間を知ることができる。レミリアを探すためにキャッスルドランの最上階たる天守閣、この場所へ赴き、王の部屋である一室に足を踏み入れていた。

 目の前にある玉座に目を落としては紅色の旋律を胸に抱く。かつては一度、渡自身もこの玉座に座ったことがあった。それはキングとなりながらも哀しい運命を背負った兄への贖罪。自分自身がキングの称号を名乗ることで、すべての敵から兄を守ろうとしたがゆえに。

 

 先代の王はファンガイアにとって偉大な存在だったのだろう。新たなる王を認めぬファンガイアたち、中でも女王に次ぐ権限を持つ『司教』は、自身が長らく仕えてきた当代のキング、渡の兄であるその男に失望した。

 あらゆる災いはキングである兄へと降りかかる。それはキングの宿命なのだ。それを悟った渡は黄金のキバを纏うその力を示し、我こそが王であると宣言した。

 複雑に絡み合ういくつもの運命の鎖。愛すべき者の死、一族の掟、腹違いの兄弟。すべての怨恨、憤怒と因縁。今でこそ手を取り合えるが、渡と彼の兄は長く辛い哀しみを連ねていた。

 

「渡……」

 

 キバットは渡の視線が玉座に向いていることに気づいた。気遣うように目を伏せるが、渡の瞳は哀しみに濡れたかつてのものではない。

 遥けき過去、1987年においては今は亡き父と共に。己が生き抜く現代、彼にとっては現代たる2009年においては、母の血を分けた兄と共に。同じく王たるファンガイアを打ち倒した。一族にとって聖獣たるコウモリの意匠は王の証。その宿命を──等しく蹴り砕いて。

 

 再びキバットに向き合った瞬間、渡は背後に不思議な気配を感じた。魔皇力の満ちるキャッスルドランの空間が捻じ曲がり、空気の流れが変わった感覚。

 違和感を覚えた渡はそのまま背後へと振り向く。キバットも同様に渡の背後に視線を向けた。

 

「……っ、ここは……?」

 

 魔皇力の波動と共に舞い降りたのはレミリア・スカーレット。次狼によってキャッスルドランの空間が操作され、レミリアは地下空間たるドランプリズンから天守閣たるこのマスターハウスへと瞬間的な転移を遂げていたのだ。

 互いの気配に二人は気づく。共に目を合わせた渡とレミリアは城主の領域にて再会した。

 

「あっ、レミリアちゃん。よかった……」

 

 渡は見失ってしまった少女が無事であることに胸を撫で下ろす。キバットも安心している様子だが、レミリアの思考には先ほど聞いた次狼の言葉が万華鏡の如く残響しているようだ。

 

「(運命……か)」

 

 一度目を閉じて再び己の力に頼る。紅き鎖を手繰るが如く、霧の帳を切り裂いて。そこに見えたのはやはり要領を得ぬ鎖の螺旋。ただ見えるだけで、何も伝わらない。不安定な未来という嵐の中を覗いただけの、自分の能力による光景とは到底思えぬ乱雑さ。

 いったいどれが正しい運命なのか──あるいはすべてが辿るべき可能性なのか。キバの世界の法則に由来する運命さえも、そこにキバやファンガイアがいるか否かでしか判断することができないほど。

 

 ──不意に城が微かに揺れた。地震の可能性を一瞬考えたが、この城の外観を今一度思い出す。巨大な竜と一体化したこの城は翼を持ち、空を舞うのだ。王の間を飾る豪奢な窓に目線を向け、この城がまさに空を飛んでいることを理解する。

 空に在れば地震などとは無縁だろう。この揺れは城自体が移動要塞たる証明。巨竜の翼をもって天を舞い、おそらくは渡の意思か──それを汲んだ竜の意思によって飛翔を遂げているのだ。

 

「そういえばこの城、飛べるんだったわね」

 

 マスターハウスに光差す窓へ歩む。レミリアは紅き魔力で手元を霞ませ、歪む空間から薄紅色の可憐な日傘を取り出した。

 少女の身には少し大きめな日傘を差し開き、キャッスルドランのバルコニーに出る。降り注ぐ陽光は吸血鬼の肌にとって天敵だが、それは日傘で防げる程度のものでしかない。

 

 巨大な時計台がそこにないという点を除けば紅魔館の屋上にも似た、キャッスルドランの屋上の領域。さすがに空を飛んでいるため風が強く感じられるものの、弾幕の直撃さえ受け止める特注の日傘は天空の突風を受けても軋み一つ上げはしなかった。

 キャッスルドランが目指しているのはレミリアの居城たる屋敷──紅魔館。鼻につく独特の匂いは、先ほどまで雨が降っていた証明だ。霧の湖の周辺、紅魔館の敷地内を含む大地には雨に打たれた痕跡がある。

 昨日のものではない。ついさっき降ったらしい新しい痕跡。されども上がったばかりであれば、空に雨雲一つないというのは奇妙だ。霧の湖の上空は眉をひそめたくなるような晴天である。

 

「……まさか」

 

 レミリアは先ほど見た運命の中に一瞬だけ見えた光景を思い出す。ただ見えるだけでいつ起こるかすら分からぬ因果。その鎖が指し示す理を悟り、望まぬ未来に眉根を寄せる。

 彼女を追って屋上へと出た渡とキバットは、今なお天空に在るキャッスルドランから飛び降りる彼女を見て驚いた。小さな翼でもってキャッスルドランから離れていき、レミリアは己が帰るべき紅魔館の正面へとふわりと着地する。

 渡もまた、キャッスルドランのマスターハウスへと戻ってはエントランスへと駆け下りた。鈍い地鳴りを響かせて地に降り立つキャッスルドランの揺れを感じると、彼も城を後にする。

 

「おい、なんだってんだ?」

 

「どうしたの、レミリアちゃん?」

 

 キバットと渡はキャッスルドランから出てレミリアに駆け寄った。レミリアは自らの能力で見た運命と勘が導く予感に焦燥めいた不安に表情を曇らせ、紅魔館の庭園へと踏み入る。相変わらず、紅魔館内には咲夜と美鈴、そして城戸真司の気配はないが──

 庭園の端に紫色の影を見つける。紅魔館の壁に肩を預けながら、呼吸を整えている様子のパチュリーであった。ゆっくりと歩み寄るレミリアが見たのは、庭園に残る『交戦』の痕跡である。

 

「……あぁ、レミィ。戻ってきたのね……」

 

 力なく顔を上げるパチュリーはレミリアを見て安心した表情を浮かべる。外傷はないが、顔色がよくない。調子の悪いときに無理をしたせいで、不健康で病弱な身体に負担をかけてしまったのだろう。息を荒げ、咳込みながらも、戦闘によるダメージ自体はほとんどないようだ。

 

「お、おい。大丈夫か?」

 

 キバットが心配そうにパチュリーを気遣う。一度は自身を捕えようとした魔女であれ、長く渡と共にキバとして人々を守ってきた意思は揺るぎない。足取りのおぼつかない様子のパチュリーを支えようとするが、キバット族の小さな身体ではできなかった。

 パチュリーは再び苦しそうに咳込むと、紅魔館の外壁に右腕をつきながら左手で自分の胸に触れる。ぼうっと淡い光が溢れると同時、パチュリーの蒼褪めた表情は少しだけ和らいでいく。

 

「……レミィ、少し面倒なことになったわ」

 

「ええ、わかってる。止めようとしてくれてありがと、パチェ」

 

 真剣な表情でレミリアに向き合うパチュリー。紫色の瞳でもって見つめる真紅の瞳には、すでに

彼女が伝えたいことは映し出されていた。もっとも、微かに一瞬、知覚できただけで、レミリアがその運命の到来を待つまでもなく一連の因果は過去となってしまったようだが。

 何らかの魔法を使ったのか、呼吸を整えたパチュリーは紅魔館の外壁から離れて自らの足で地に立つ。彼女が見渡した紅魔館の庭園は雨の痕跡で微かに泥濘(ぬかる)んだ状態になり、強い力が加わったらしき地面には抉られたような跡があった。

 

 弾幕ごっこの痕跡──というにはもう少し暴力的な様相。特殊な光子の残滓と強いエネルギーの影響。魔皇力ではない。レミリアの紅き双眸にも同様に見て取れたそれは、さながら吸血鬼としての在り方で永らく目にしてきた『血液』にも似た、光のエネルギーと呼べ得るようなものだ。

 

「……いったい何が……」

 

 渡は依然として不健康で病弱そうながら先ほどよりも安定したらしいパチュリーの表情を見やり安堵すると、紅魔館庭園に残る交戦の痕跡を見渡して呟く。

 妖精メイドたちの姿が見られないのも気がかりだ。紅魔館内にはあれだけの人数がいたにも関わらず、主人たるレミリア・スカーレットの友人に当たるパチュリー・ノーレッジの介抱に来る者が誰一人としていないのだろうか。

 自らの魔法で呼吸を整えることができる彼女には妖精の手助けなど不要ということなのかもしれないが──せめて一人くらいは付き添いの者がいてもおかしくはないだろうと、渡は思う。

 

「あなたには伝えてなかったわね。私には、血を分けた妹がいるのよ」

 

 レミリアが渡に告げる。すでにパチュリーが息を整えた今、雨で泥濘んだ庭園で立ち話をすることもあるまい。花壇や土は泥濘んでいるとはいえ、紅魔館庭園には石造りのタイルが敷き詰められている。レミリアは足を彩る小さな赤い靴を泥に汚すことなく、屋敷の扉を開けた。

 

「……フランドール・スカーレット。レミィの妹は、強大な能力に見合わぬ不安定な精神を持ってしまった吸血鬼」

 

 少女たちと共に紅魔館のエントランスに入り、真夏の陽光の眩さよりもなお鮮やかな真紅に目を細める渡とキバット。パチュリーが語るは、レミリアの妹たる恐ろしき波動、紅魔館地下室に住む吸血鬼の話だ。

 廊下を歩みながら少女は語る。すでに日傘を閉じて手元から消失させたレミリア自身が説明する必要もなく、友人の妹のことを積み重ねた知識と見識で丁寧に話していく。

 

 495年間幽閉同然に閉じこもっていた吸血鬼の少女。今でこそ安定の兆しを見せているが、此度の異変に際して彼女の肉体に奇妙な灰化現象が起きたことも告げた。

 渡には心当たりがなく、キバットもそんな現象は聞いたことがないという。レミリアとパチュリーも、フランドールの灰から得られる情報はキバの世界の法則とは違うことを知っていた。

 

「あの子が一人で外に出るのはまだ危険だから、雨を降らせて留めてきたんだけど……」

 

 紅魔館の応接室に渡たちを通し、パチュリーは真紅のソファに腰掛ける。吸血鬼の特性として、流れる水を渡れない。その弱点はレミリアの妹であるフランドールにも共通するものだ。パチュリーはフランドールが紅魔館を出ようとする際、彼女の精神や振る舞いから危険と判断した場合に魔法で雨を降らせてその道を断つ。

 いつもなら無益な戦闘を行うまでもなく、フランドールは雨を見て屋敷へ戻るのだが──

 

「それでも、あいつは雨の中を突っ切って出て行った、ってこと?」

 

 レミリアがパチュリーに問いかけながら、同じく応接室のソファに座ってパチンと指を鳴らす。その一瞬で、目の前のテーブルには人数分の紅茶が──現れない。すぐに咲夜が不在であることを思い出したようで、応接室に入ってきた妖精メイドに口頭で紅茶の用意を頼んでおいた。

 

「…………」

 

 深刻そうな表情で頷くパチュリー。続けて語る彼女の言葉からは、混乱と不安の色が滲む。フランドール・スカーレットは、外に出ようとしたところ、雨を見て眉根を寄せた。普段通りであれば、そのまま踵を返して自分の部屋へと戻っていたはずである。

 だが、彼女は見慣れぬ銀色のアタッシュケースを手元に取り出したかと思うと、その中に秘められていた『謎のベルト』を腰に装い、右手に持ったデバイスに『変身』と告げたのだという。

 

 渡とレミリアはパチュリーの言葉に聞き覚えがあった。渡がキバの鎧を纏うときにも、その言葉を口にする。渡は自身が長らく戦ってきた自らの言葉として、レミリアはその変身を僅かに一度、目にしただけであれど、運命の旋律が如き確かな言葉として己の耳に聞いている。

 さらに加えてレミリアにとっては、それはパチュリーと同様に仮面の戦士──城戸真司の言葉からこちら側で定義した『仮面ライダー』なる存在が自らを変える際に用いる言葉。その力を手にした十六夜咲夜も──異界の存在ながらその力を使う城戸真司も。変身の際には口を揃えていた。

 

「フランは、変身したわ。青白い光を放つ不気味な仮面の戦士に」

 

 それはキバの鎧などとは縁遠い無機質なもの。パチュリーは未だキバの鎧さえ目にしていないが、使い魔に観測させた咲夜と城戸真司が変身した姿、鏡の法則に依る騎士のことは知っている。フランドールが至った戦士は、そのいずれとも合致しなかった。

 失踪を遂げたフランドールの捜索に妖精メイドを向かわせ、パチュリーは自身への介抱よりもそちらを優先させた。レミリアは親友の身を案じていたが、パチュリーと同様に今のフランドールを一人にするのは危ないと判断したらしい。

 妹の身から零れゆく灰についてはまだ分かっていないことが多い。さらに加えて未知の戦士へと至ってしまった大切な妹──フランドールを野放しにしておくというのは危険すぎるのだ。

 

「青白い光、ね……そっちに何か心当たりはある?」

 

 レミリアは期待せずに渡とキバットにその戦士について問うてみる。やはり、二人はその戦士について知らなかった。

 幻想郷各地で確認される仮面の戦士、龍騎の世界における名からその総称を仮面ライダーと定義した存在。咲夜や彼女が見たルーミアと同様に、フランドールも外来の力を手にしてその存在へと変身してしまったのだろう。その詳細が得られないというのは不安であるが──

 

 灰化に関しては、まだモンスターのエネルギーは足りているはず。仮に尽きてしまってもしばらくはフランドール自身の生命力で肉体を維持できる。だが真に危険なのはフランドールと相対した者のほうだった。

 彼女は元よりありとあらゆるものを破壊する能力を持ち、思い立った時点で無差別な破壊を行うことがある。さらに加えて未知の戦士に変身するという新しい玩具を手に入れてしまったのなら、その衝動に歯止めが効かなくなるかもしれない。

 少し気が触れており情緒不安定とはいえ、フランドールは495年以上もの歳月を生きた吸血鬼。世間知らずなれども聡明で理知的な人物ではあるものの、秘めた狂気は誰にも理解できない。

 

「……こっちでも魔法で探してみるわ。少しだけ時間をちょうだい」

 

 妖精メイドが持ってきた紅茶のティーカップを手に取るパチュリーの表情は芳しくない。魔法で補っているとはいえ、本来ならばスペルの詠唱さえ満足に行えないほどの貧血と喘息、体力不足の三重苦であり、身体の調子が良いときでなければ滅多に戦ったりしないのだ。

 先ほどは未知の戦士に変身したフランドールを止めるべく、魔法で雨を降らせて彼女と交戦したばかり。彼女には姉の親友たるパチュリーを傷つける意思はなかったのか、パチュリーは疲労こそあったものの無傷であった。

 魔法の維持と不本意な交戦で体力を使い切ったパチュリーには、変身したことで流水を克服し、去りゆくフランドールを止める術はなく──そのまま彼女の外出を許してしまったのだろう。

 

「無理はしないで。パチェにまで何かあったら、とっても困るわ。とってもね」

 

 レミリアもティーカップを手に取っては静かに揺らす。心配を滲ませた言葉を紡ぐと、カップを傾けて妖精メイドが淹れた紅茶を味わった。不味くはないのだが、相変わらず咲夜に比べてパっとしない味である。

 咲夜や美鈴がいてくれたら、パチュリーに無理をさせる必要もなく妹を止められたか。あるいは自分が運命に惹かれて渡の魔皇力を追い、館を離れていなければ──

 

 過去を悔いるも詮無きことである。レミリアの紅い瞳が映すは歴史ではない。これから歩むべき運命なのだ。過ぎ去った歴史ばかりを見つめていても運命は変えられない。

 いつぞやの歴史家、うちにはもういる知識人に対して告げた自らの言葉を胸に刻み込む。

 

「(……流れる水を克服した……だって?)」

 

 霧のように消え失せる紅茶の味を忘却の(はて)へ押しやり、レミリアは深く思考した。パチュリーの言葉について想いを馳せる。吸血鬼の弱点たる『流水を渡れない』という特性は正確には体質ではなく、精神的なものだ。流れる水を越えて渡りたくない──そんな無意識のセーフティが吸血鬼の行動に制約をかけるというもの。

 言わば猫舌の人間が過去のトラウマから熱いものを口にできなくなったのと同じ、本能から成る防衛行動である。その場合、炎や熱いものなどに対するトラウマを忘れてしまえば一時的に猫舌を克服できてしまうように、吸血鬼の本能に何かしらの干渉があったとしたら。

 

 ただ変身しただけ、鎧を纏った程度で克服できるようなものではない。太陽光であれば鎧によって肌を隠せば日傘と同様に凌ぐことができるだろうが、流水に関しては精神的な問題であるため、変身した程度で無視できるようなものではなく、視界に映れば身体が流水と認識するはずだ。

 

「…………」

 

 フランドールが変身したその戦士は、彼女の精神に何らかの影響を及ぼしている──可能性がある。吸血鬼を含む幻想郷の妖怪は肉体こそを主体とする人間や動物と異なり、精神が主体なのだ。ゆえに肉体へのダメージには強いものの精神に対しては耐性が低い。

 怨霊による憑依が妖怪にとって致命的なのはそのためだ。未知の力を手にして流水という弱点を無視できるほど精神への影響を受けたのだとしたら、無事に連れ戻せてもその影響が残ったままになるかもしれない。

 

 ──紅渡は深刻そうな表情で思考するレミリアの様子を見つめていた。どこか見た目相応の子供じみた振る舞いをしているのに、その風格は500年以上の歳月を生きた吸血鬼そのもの。あるいは己が父親に似た心の音楽を奏でる紅き在り方の少女。

 渡には彼女の妹の事情は分からない。吸血鬼とファンガイアは異なる存在であるが、渡が生きたキバの世界においても、吸血鬼という伝承は古くから語り継がれ、その弱点も伝わっている。

 その吸血鬼が雨によって流れる水を無視して超えたという話は確かに奇妙ではあったが──

 

「まぁ、考えても仕方ないわね。そこのあんた、渡の荷物をまとめてきて」

 

 一度深く溜息を吐く。レミリアは運命を見ても答えの出ない思考に愛想を尽かし、ソファの傍に立っていた妖精メイドに声をかけた。

 彼女は一瞬戸惑った表情を見せたものの、礼儀正しく一礼して紅魔館の応接室から出ていく。

 

「荷物? どういうことだ?」

 

「あんだけ立派なお城があるなら、紅魔館(うち)に泊まる必要はないでしょ?」

 

 ぱたぱたと翼をはためかせながらレミリアに疑問を投じるキバット。少女は小さな魔族に等しき真紅の瞳を合わせ、屋敷の外で呑気にあくびをしているキャッスルドランを示す。空間拡張魔術の影響か、内部こそ城と呼べるほど広いものの、外観自体は紅魔館を上回るほどの大きさではない。それでも相当な巨体ではあるが。

 外の世界──元あったキバの世界においてはやはり魔術か何かで姿を隠していたのだろう。そうでなければあれだけ巨大な竜が人々の生きる現代社会で目立たないはずがないのだ。

 

 レミリアが紅き瞳をもって幾度か見た外の世界は、このような神秘を排斥する拒絶と否定の世界だった。それゆえに、妖怪の賢者である八雲紫は幻想郷を創り上げたのだから。

 かつてはレミリアも外の世界にいた。幻想を拒絶する外の世界では吸血鬼の存在が否定されつつあったために、遥か東の国、幻と実体の境界を越えて──この地に紅魔館ごと引っ越してきた。

 

「それに、あんたたちはあの城にいたほうが良い気がする。……勘だけど」

 

 運命を見ての言葉ではない。これまでに観測してきた無数の未来から500年の経験を乗せた感覚によるもの。勘の鋭さにおいては博麗霊夢には及ぶまいが、その何十倍もの年月を生きた吸血鬼の予測は、20年程度しか生きていない渡にとっても意味のある言葉となる。

 彼女は思考した。ファンガイアはキバの世界において『現実として』根付いているのか。キバの世界には、幻想を排斥する意思がないのか。彼らやキャッスルドラン、キバットといった魔族。こちらから定義する神秘そのものは、幻想郷という妖怪たちの居場所を必要としないらしい。

 

「……ふっ」

 

 自分たち吸血鬼とは違い、ファンガイアは人々を襲っているから存在の否定を免れたのだろうか。あるいは、そもそもキバの世界と外の世界は別々の並行世界であるがゆえに、まったく異なる法則によって幻想の否定が発生しないのか。

 常識と非常識の境界。幻想が常識であるなら、それは現実と変わらない。ならば自分たちもまた獣のように人々を喰らっていれば、幻想郷に踏み込むこともなかったのだろうか──

 

 らしくない思考に自嘲するレミリア。吸血鬼はファンガイアではない。奴らにどれだけの矜持があろうとも、怪物として人々を襲っているのであれば、その誇りとやらも程度が知れる。それに、幻想郷に来たことに悔いはない。

 神秘を否定する外の世界にいるよりずっと面白い。幻想郷(ここ)へ来た当初は、自分たちと同じ境遇でありながら腑抜けた妖怪たちに怒りを覚え、彼らを率いて幻想郷の支配を目論んだこともあった。後に『吸血鬼異変』と呼ばれたそれは、スペルカードルール制定の発端となったのだという。

 

「出ていけ、なんて野暮なことは言わないわ。ただ少し……そうね。部屋を変えるだけ」

 

 紅魔館からキャッスルドランへ。ただ渡とキバットには在るべき場所を移ってもらうだけ。妖精メイドが持ってきた渡の荷物を本人に投げ渡すと、キバットは訝しげにレミリアを見る。

 

「……その言い方、まるでキャッスルドランも紅魔館(ここ)の一部みたいじゃあねえか」

 

「まぁ、間違ってないんじゃない? きっと、そう遠くないうちに私のものになるんだし」

 

 どこか遠くを見つめながら呟いたレミリアの言葉に、キバットはない首を傾げた。パチュリーもまた、その言葉の意味が分からないでいたが、親友の在り方はよく分かっているつもりだ。運命が見えにくいと言っていたが、そのような片鱗を見て取ったのか。あるいは──

 ただの冗談ということも十分に考えられる。パチュリーが知るレミリアの在り方はまるで運命そのものによく似ていた。気まぐれで飽きるのが早く、それでいて永遠に底の見えぬ力を有する。

 

「なんだそりゃ? やらねーっての!」

 

 呆れたように怒るキバット。控えめに紅茶へと口をつける渡は、少女の言葉に妄言以上の何かを感じ、同じく紅き運命を憂うようにレミリアの表情を見る。

 ちらりとこちらに視線を向けた彼女の瞳には、気高い真紅に似つかぬ音色が込められていた。

 

◆     ◆     ◆

 

 ここはどこかの世界。幻想郷ならざる天涯の地平。かつて彼ら(・・)にキバの世界と呼ばれた場所は、選ばれし九つの世界の一つとして──その『座標』へと召し上げられている。

 巡る風の匂い、肌に伝う世界の音色。そのどれもが本来あったキバの世界そのものではあるが、そこは本来キバの世界があるべき座標ではない。

 ある者の意思によって『世界そのもの』が別の場所へと引きずり上げられた今、ここはまったく同一の法則を持つキバの世界でありながら、その複製とも呼べる仮初めの境界でもあった。

 

「ぐぅっ……貴様……なぜ……」

 

 高潔さと信念の強さを思わせる白いジャケット。さながら脱皮したての蛇にも似た美しさを抱いたそれは、短く切り整えた暗い茶髪の青年によく似合っている。だが、その表情も衣服も、向き合う相手によって傷つけられていた。青年は、ステンドグラス模様の瞳に怒りを込める。

 

「……それが『運命』だったのですよ。──『キング』」

 

 丸い眼鏡を指で押し上げ、漆黒の祭服を纏った長身痩躯の男は告げる。キングと呼ばれた青年はまさしく、その称号に相違なきファンガイアたちの王であった。

 左手にだけ着けられた黒い革手袋の下には、その手の平と甲にキングを表す紋章が刻まれている。先代の王と女王の血を受け継ぐ純血のファンガイアたる彼は、その座を継いで当代のキングとして君臨していた。

 かつての王たる父とは違い、人間を食料として支配するのではなく、異なる父を持つ弟──渡の目指した理想、人間とファンガイアが手を取り合って共に生きていける世界を実現するために。

 

「いや、キングには相応しくない……蛇め……!」

 

「がぁっ……!」

 

 黒衣の男は眼鏡越しの双眸にステンドグラス状の光を灯らせ、細く骨ばった腕を振るう。アゲハチョウの鱗粉にも似た魔皇力の波動は、美しくも雄々しく舞い上がり、触れたものすべてに激しい爆発を起こしては青年の白いジャケットを焦がしていった。

 力の差だけであれば、本来は青年のほうが上。青年はキングとして選ばれた純血の継承者であり、対する相手は過去の時代より先代の王に仕えてきた神官──司教と呼べる存在である。

 

「今の無能なキングを否定し、我らが王を取り戻す。真のキングはただ一人……」

 

 震える手で丸眼鏡を取り払いながら、漆黒の牧師服を纏う男、王に仕える三つの駒の一つであるファンガイアたちの賢者──『ビショップ』は神経質そうな早口で独り言つ。彼が理想とする真のキングは、渡の兄である今のキングとは程遠いのだ。

 目の前に在るはビショップにとって認められぬ当代の王。継承者たる青年の名は 登 太牙(のぼり たいが) 。彼が女王の(はら)より産まれたその瞬間から、彼に仕えてきた。王の振る舞いに傷をつけぬよう従者として真摯に努めてきたはずだ。

 

 だが、女王として相応しくなかった当代の女王を独断で処刑したとき、太牙(たいが)はビショップに激しい怒りを向け、感情のままに拳を振るい始めた。

 自分は王に仕えていたのに。王を傷つける存在を処刑してやったというのに。愛という不条理を理由に、これだけ敬虔に仕えてきた我が身に対して、どうしてこのような仕打ちを。ビショップはキングの甘さに失望し、キングさえもその座には相応しくないと判断した。

 掻き集めたライフエナジーをもって先代の王──今のキバの世界が刻む西暦2009年から見て22年前、西暦1987年に死んだ過去のキングを蘇らせ、自らはその糧となって散っていったが──

 

「私には……やるべきことがある……!」

 

 眼鏡を外したビショップは己の顎にステンドグラスの意匠を浮かべ息を吐く。一度は過去のキングの復活に己が全てのライフエナジーを捧げることで命を失った男。されど彼もまたキバの世界を含む九つの世界を束ねる意思によって『二度目の生』を受けた。

 ビショップの企みで蘇った過去のキング、かつての王であり太牙の父でもあった男は、不完全な復活で自我を失っていた。ファンガイアといえど死んだ者を完全な形で蘇らせることはできない。意思を持たぬ生きた死体(リビングデッド)となるだけ。

 それを承知の上で、ビショップは亡き先王を屍鬼(ゾンビ)めいた怪物に貶めてまで蘇らせたのだ。それを傀儡とし、憎き太牙をキングの座から引きずり降ろし、あるべき時代を取り戻すため。

 

「バカな……!」

 

 太牙は白いジャケットを汚す()()()も気にせず、今はここにはない運命の鎧と闇の鎧、それらを抱く蛇とコウモリに想いを馳せる。それは己の身を守るためではなく、大切な者たちを傷つけられないために。

 死んだファンガイアが人格をそのままに蘇ることなどありえない。それは太牙も理解している。実際にそんなことが可能ならば、とうに自身も渡も共に愛した女性──当代の『クイーン』として選ばれてしまった最愛の人を取り戻したいと願っている。

 

 だからこそ太牙は狼狽し、ビショップに隙を見せてしまった。一度は死んだはずのビショップが自分の知っているそのままの人格でここにいる。それは完全なる死者の蘇生。ファンガイアが持つ技術を遥かに超えた、未知の法則。それは喜ばしき事象では決してない。

 渡と自分が共に死力を尽くし、二つのキバの鎧、黄金の鎧と闇の鎧を纏って倒したはずの過去のキング、初代以上と呼ばれた怪物でさえ本来の自我を備えて蘇るということをも証明していた。

 

「くっ……渡……!」

 

 咄嗟の機転で致命傷こそ免れたものの、もはやファンガイアとしての姿を晒して応戦する余力もない。キングともあろう者が死者の亡霊に油断するなど──と己を恥じ入るが、今は無様を承知でビショップの攻撃から逃げ続けるしかなかった。

 太牙にとって気になったのは、死んだはずのビショップが復活したことだけではない。彼が姿を見せる前、自分はとある企業の社長として、ファンガイアが喰らうライフエナジーの代わりとなるエネルギーの開発──人間とファンガイアの新しい未来のために精進していたはずだ。

 

 渡の友たる戦士が、同じく青空の意思を宿した女性と結婚するのだという。その知らせを聞き、自身は社長たる立場ゆえに出席が遅れたが、そこへ現れた『未来からの怪物(ネオファンガイア)』に応戦、ひとまずはそれらを退け、対策のために仲間たちと相談しようと試みたところ。

 

 ──世界が崩壊を始め、建物も青空も自分たちでさえも、霧の如く消滅を始めたのだ。

 

 ネオファンガイアによる攻撃ではない。この時代、この世界そのものを消してしまったのなら、未来に続いている世界も消滅してしまうはず。それならば過去からの干渉か。キャッスルドランの深奥に備わった扉を使えば、過去の世界へ介入できるが──

 思考する間もなく、自分はただ何も存在しない無の世界を漂っていた。空も地面もない、まるで夢の中にいるような虚ろな場所において、目の前にあった薄光に触れた瞬間、自分はよく知る元の世界、己の会社の前にいた。

 死んだはずのビショップが現れ、自分は纏うべき『運命の鎧』も『闇の鎧』も有してはおらず、純血のファンガイアとしての能力もなぜか本来のものよりも落ちてしまっている。人間態のままで襲い来るビショップさえまともに退けられず、今に至るというわけだ。

 

 理由は分からないし、何が起きているのかも分からない。ここは本当に元あった通りの世界なのだろうか──考えがまとまらぬながら、太牙は咄嗟に目の前の空間に手を伸ばす。

 傷ついた身体で見た光景は幻などではない。そこには不意に灰色のオーロラが現れていた。

 

「なんだ、これは……?」

 

 自分が意図したものではない、謎のオーロラの出現に戸惑うものの、このままではわけもわからぬままビショップに殺されてしまうだけ。せめてこの状況を渡たちに伝えられれば。微かな祈りを込めて、太牙は揺蕩(たゆた)うオーロラカーテンの中へと踏み入った。

 脚を引きずりながらビショップの放つ鱗粉の爆炎に紛れるようにして光を超える。それがどこに繋がっているのか分からないが、柔らかく澄んだ風は、どこか幻想的なものを感じさせた。

 

「逃がすものか……捻り潰してやるよ」

 

 己が顎のステンドグラスめいた煌きを消し、眼鏡を掛け直したビショップ。閉じゆくオーロラを自らの干渉でもって強引に開くと、彼もまた光の帳へと踏み入り、その境界を超える。

 その先は、キバの世界とは別の法則を抱く因果。忘れ去られた幻想を宿す神秘の秘境だった。

 

◆     ◆     ◆

 

 ──幻想郷、妖怪の山。今は二度目の四季異変に際して、春にも関わらず見事な紅葉に彩られており、涼やかな秋の風が微かな灰の粒子を巻き上げては散らしている。

 その中腹に座すは──麓の博麗神社よりも少しだけ新しく立派な印象を受ける別の神社だ。

 

「桜が咲いても、紅葉が散っても、やるべきことは同じよね」

 

 白い巫女装束に走る青は誠実さと信仰の証か。健やかな木々の葉を思わせる緑色の長髪にヘビとカエルの髪飾りを装う少女は、手にした竹箒で境内の紅葉を丁寧に掃除していく。

 風に揺れる青いロングスカートには大幣めいた模様が描かれており、彼女の清き振る舞いと共にその身を『巫女』としての立場に在ると表していた。

 しばらく前にこの幻想郷に引っ越してきた、外の世界の神社である『守矢神社(もりやじんじゃ)』には二柱の神が存在する。山のパワーバランスの一角を担う天と地。それぞれ八坂神奈子と洩矢諏訪子。今はその神々はこの場におらず、その権能の一端を担う代行者がここに立つのみ。

 

 守矢の巫女──『風祝(かぜはふり)』たる 東風谷 早苗(こちや さなえ) は神々の力をその身に宿して奇跡の権能を行使することができる選ばれし人間であった。

 神の奇跡を代行しているうちに、やがて彼女自身でさえも信仰の対象となり、それは人間の身でありながら神としての側面も併せ持つ『現人神(あらひとがみ)』へと至ったのだ。

 外の世界の常識を捨て去り、幻と実体の境界を越えて。幻想郷の住人となった早苗(さなえ)は妖怪の山にて巫女を続け、麓の博麗神社の巫女と諍いになったり、異変の解決に奔走したりしていた。

 

「それにしても……神奈子様と諏訪子様はいったい何をなさってるんだろう……」

 

 幻想郷に来てからは親元を離れている。幼い頃から自分の傍にいた二柱の神々が言わば親代わりだが、その二人は自分に何も告げずにぱたりと姿を見せなくなってしまっていた。

 十中八九、この妖怪の山にも確認できる四季異変──ひいては幻想郷各地に怪物が出現しているという異変に関わることだろう。己自身も巫女であり、幻想郷の人間である。本来ならば彼女らに許可を取って異変の解決に赴くところなのだが。

 

 ──不意に視界の端に灰色の輝きが散る。視線を向けた先に広がっているのは、妖しく波打つオーロラカーテン。幻想郷の怪物はこの灰色の帳から現れると聞いている。早苗の心に張り詰めるような緊張と警戒が走るが──

 そこから現れたのは怪物などではなく、白いジャケットを纏った傷だらけの青年であった。

 

「えっ……! だ、大丈夫ですか!?」

 

 境内の石畳を巫女らしからぬ洋風のローファーで駆け抜け、竹箒を捨て置きながら傷ついた青年へと駆け寄る。鳥居の近くに倒れた青年は血──らしきものを流していた。だが、その血は早苗が見知った人間の色ではない。

 人ではないことを証明するかの如き『青い色』。一瞬、その不自然な血を見て早苗は足を止めてしまうが、すぐにオーロラから現れたもう一人の人物に対してさらに強い警戒心を抱く。

 

「神父さん……? ここは教会ではなく神社ですよ?」

 

 オーロラから現れた長身痩躯の男、漆黒の牧師服を纏う眼鏡の青年は早苗に気づく。すぐに彼女から興味を失い、境内の石畳に転がった青年、登太牙に向けて手に光を灯した。

 それが攻撃の意思であるということは傷ついた青年の状態や、男の滲み溢れるような悪意からすぐに理解することができる。早苗は咄嗟に手元に大幣──霊夢が扱うものとは少し違う、長方形の紙を一つだけ帯びたそれを現すと、その場に突風を巻き起こした。

 

「…………」

 

 風に煽られた黒衣の男、ビショップは軽やかに後退し、鳥居の外へと出る。その背後は参道たる階段であったが、彼は階段から落下するギリギリのところで踏み留まっていたようだ。

 早苗は太牙に近寄りながら傷を見る。爆発で焼けた肌や裂傷の痕、流れる青い血は境内の石畳を染め、ただでさえ悪い顔色がさらに蒼褪めていく。

 このまま放っておけば間違いなく──この青年は死んでしまうだろう。たとえ人ならざる存在だとしても、早苗は彼を助けたいと願った。右手に霊力を込めて傷に癒しの祈りを与えるが、早苗は知らぬファンガイアたる魔族の身に神の霊力は相性が良くないのか、治癒が遅い。

 

 そうしている間にも、ビショップは手に光を灯す。早苗ごと太牙を焼き払うつもりらしい。

 

「……逃げ……てくれ……」

 

 太牙はか細い声で早苗に伝えるが、彼女は逃げようとはしなかった。このままでは自分だけではなく、この少女までもが犠牲になってしまう。キングとしての力が不完全な自分では、以前よりも力を増しているビショップから彼女を守り切ることはできない。

 残る気力をすべて注ぎ込んで、搾り出した魔皇力をもってビショップに渾身の一撃を与えるべきか。──否、今の自分の力では怯ませることが限界だ。意識を保つのがやっとの現状においては、この少女を巻き込んでしまう恐れもある。

 そんなことを考えていた──そのときだった。巫女らしき少女は太牙の左手を掴むと、すぐ傍の神社へと避難させようとしたのだ。少女の腕力では成人男性を持ち上げることはできないながら、せめて少しでもビショップから距離を取らせようとした──その瞬間のことである。

 

「……っ!?」

 

 早苗と太牙の手が触れ合った瞬間。そこに眩い光が生じた。その両者も、ビショップでさえも、予期せぬ閃光に両目を覆う。溢れる波動は紛れもなく魔皇力らしき気配を帯びてはいたが、どこか八百万の加護を思わせる神々しさをも伴うような。

 ビショップと早苗が目を開けた瞬間──そこに登太牙は存在していなかった。彼の手を掴んでいた早苗でさえも困惑の表情を浮かべながら、掴むべき左手を失った己の左手に視線を向ける。

 

「……何が起きた? まさか『あの技術』が発動したというのか……」

 

 登太牙は消滅したわけではない。それはビショップも知っているキバの世界の技術。彼が生きた世界において、ファンガイアを実験体として弄んだ人間の男がいた。ある特定の生物の個体情報を別の生物の個体へと移植する技術──『個体能力移植技術』と呼ばれるもの。

 かつて太牙はその男── 神田(かんだ) と名乗る研究者の技術を己が物とし、自身の育ての親たる人間、青空の意思を持つ組織の長の命を救う際。彼をファンガイアと融合させて一つとしたのだ。

 

「ありえない……『奇跡』でも起きぬ限りは……」

 

 ビショップは早苗の身体に、登太牙のファンガイアとしての能力が個体移植による融合を遂げたことを理解した。だが、すぐに現実視できるわけでもない。本来、個体移植とは激しい苦痛を伴うはず。あるいは太牙が自らの研究で何らかの調整を施したのだろうか。

 人間の科学とファンガイアの魔術。それを加味しても、これほど容易く個体移植が成功するとは到底思えない。

 そこでビショップは魔族たる肌に感じた、魔皇力ならざる神の波動を思い出す。目の前の少女はただの無力な人間だと思っていた。だがもしこの少女が特別な力を持っていたのだとしたら。

 

「貴様……何をした」

 

 丸眼鏡を指で押し上げながら、冷静な声で問うビショップ。早苗には特に何かをしたという自覚はない。ただ死にそうになっていた青年の──片手にだけ黒い革手袋を着けた左手を掴んだだけ。太牙が有していた個体移植の魔術が発動したのは、偶然だったのだ。

 それを成功させたのはキバの世界や真紅の法則に依る『運命』ではない。確定された必然さえも神の祈りによって覆す『奇跡』という祝福。

 守矢神社の風祝たる東風谷早苗が生まれ持つ『奇跡を起こす程度の能力』が早苗の意思に依らず太牙の身に宿る魔術に作用し、様々な要因が重なって完全なる個体移植を成功させた。

 

 早苗は不意に消えた太牙に驚いていたが、個体移植の影響か。彼女の思考には太牙の記憶が流れ込む。翡翠の色を宿す瞳にステンドグラスめいた極彩色を浮かべると、視線を落とした己が左手、その手の平と甲の両方にある紋章が浮かび上がっていた。

 魔眼と薔薇。コウモリの翼めいた意匠。それは紛うことなく登太牙の左手、革手袋の下にあったはずの『キングの紋章』である。

 今、彼女の身体には当代のファンガイアの王たる者──登太牙の()()()が在る。キングとしての能力こそ純粋なファンガイアには及ぶまいが、彼女はもはや、ファンガイアに等しい存在だ。

 

「私にもよくわかりませんが……この幻想郷では常識に囚われてはいけないのですよ!」

 

 目の前に立つ黒衣、今の自分と同じ魔力を持つ者に大幣を突きつける。

 この身体の細胞(なか)には先ほどの青年が生きている。何が起きたのかは分からないが、早苗はそれを感覚で理解した。

 彼の意識は途絶えてしまったようだが、死んだわけではない。己の中で別の誰かが眠っている。奇妙な感覚ではあるが、神を宿しているのと似たようなものだろうか。これまでも守矢の神をその身に宿し、神の奇跡と権能を代行してきた早苗にとっては、すぐに馴染めることだろう。

 

 ビショップは早苗の身体に太牙が融合したのを見ても冷静な思考を崩さない。目の前の少女は紛れもなくキングの能力を宿した人間であり──同時にファンガイアでもある。死にかけの王ならば取るに足らないはずだったが、少し状況が変わった。

 幻想郷は未知の能力を宿す者が多く存在するのだという。聡明な彼は能力の判然としない巫女を警戒し、自身の背後にオーロラを形成した。

 ゆっくりと後退していくと、その身は灰色の幕壁の中へと消えていく。やがてその全身を飲み込み、灰色のオーロラはステンドグラスの意匠を浮かべた早苗の瞳──その視界から姿を消した。




「一度目偶然、二度奇跡。三度目必然、四、運命……」
Roots of the King。キングと守矢の純血の継承者。青くて白くて蛇っぽい、教会と神社です。

次回、第58話『ラプソディ / プレイ・オン・タイム』


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【 幕間 『 境界の物語 2006 ~ 2008 』 】
第58話 ラプソディ / プレイ・オン・タイム


 霧の湖の近くに在る悪魔の洋館、紅魔館。メイド長の十六夜咲夜や門番の紅美鈴、加えて騎士たる力を持つ外来人の城戸真司が時空の歪みによってどこかに消えてしまってからまだ数日も経っていない。フランドールの捜索のため、妖精メイドも数を減らしていた。

 じりじりと照りつける真夏の日差しは霧の湖から流れ込む霧をさらに濃くしているよう。四季異変に際して歪んだ夏の光、それは吸血鬼の天敵であり、夜の闇を暴く無慈悲なものだ。

 

「……性懲りもなく、また紅魔館(うち)に来たのね」

 

 レミリア・スカーレットは己が居城たる紅魔館の屋上に立ち、空を見上げる。忌まわしき眩さは特注の日傘によって遮ることができるが、日傘を手にしたままではあまり激しい戦闘を行うことができなくなってしまうだろう。

 彼女が眉をひそめたのは不快な日光に対してではなく、その光を遮る天の緞帳とも呼べるもの。されど安寧を穢す『灰色のオーロラ』の出現に対してであった。

 敵は夜まで待ってくれるほど紳士的ではない。視界に映るオーロラは曇天めいた灰色に染まっており、この下だけであれば日陰となって日傘なしでも戦えるかもしれないと希望を抱くべきか。

 

「グォォオオッ……!」

 

 ──そのとき、紅魔館の傍で光が屈折した。真夏の日差しは捻じ曲がり、そこに今までなかった巨大な建物──城を纏った竜が顕現する。

 シャドウベールの波動を境界として紅魔館の近くで姿を消していたキャッスルドランが灰色のオーロラの出現に気づき、ドラン族の魔皇力で隠していたその姿を晒したのだ。

 それは仮初めの城主となっている紅渡の意思でもある。姿を現したキャッスルドランは丸い瞳でレミリアを見ると、頭上に浮かぶオーロラに対する警戒の意味を込めた鼻息を噴き鳴らした。

 

「あら、見えないと思ったら。そんなところにいたの?」

 

 レミリアは少し驚くが、すぐに小さく微笑む。キャッスルドランはずっとそこに隠れていたわけではない。ファンガイアの力による別の位相、キバの世界の法則に基づく特殊な領域に身を隠し、必要に応じてこの場に出現しただけ。

 シャドウベールはその通り道でもあり、隠れ蓑としての機能も持つ。たとえどれだけの距離が離れようとも問題はない。キバの継承者たる者の意思があれば、同じ場所に眠っている真紅の鉄馬、バイクたるマシンキバーであろうともすぐに駆けつける。

 そしてドランフエッスルの音色を奏でれば、キャッスルドランもいつでも現れてくれる。

 

「キバット、あれ……!」

 

「……間違いねえ! 昨日もファンガイアを出したやつと同じだ!」

 

 キャッスルドランの屋上に顔を出した渡とキバットもまた紅魔館の空に浮かび上がるオーロラを見上げた。吸血鬼にとっては望ましくない晴天の空、光差す真夏の朝には相応しくない、曇天色の帳が紅魔館の敷地内に不気味な影を落とす。

 渡はすぐさまキャッスルドランの中へと戻った。歪んだ構造を通っては、エントランスから城を出るつもりであろう。レミリアは吸血鬼の身をもって、紅魔館の屋上から飛び降りる。

 

「そこの妖精、パチェに伝えて。周囲の警戒を怠らないでおいて、って」

 

 紅く小さな靴で紅魔館の正面へ軽やかに着地し、庭園の手入れをしていた妖精メイドの一人へと告げる。妖精は慌てた様子で一礼すると、そのままレミリアの言葉をパチュリーの耳へ届けるべく屋敷の中に消えていった。

 左手に魔力で構成した真紅の魔槍を具現化しようと試みるレミリア。しかし、すぐに肌に感じた奇妙な歪みに気づき、魔力の集中を無意識に解いてしまう。

 

 違和感は紛れもない感覚として空気を変える。それは渡と初めて接触したときと同じ、その場の何かが決定的に捻じ曲がる感覚。

 咲夜が時間を止めて現れる際に感じるものと似た──『時空の歪み』と呼べるものである。

 

「……っ、また……!」

 

 レミリアは咲夜たちが消えたあの光景を思い出してしまった。今度は誰が歪みの果てへ消えるのか。パチュリーや小悪魔、妖精メイドのいずれかか。キャッスルドランが抱える渡たち異邦の者たちなのか。あるいは──自分自身がその歪みに巻き込まれてしまうのだろうか。

 

 思考の刹那、レミリアは天に響き渡る高らかな『警笛』を耳にした。それは遥か過去の記憶たる外の世界で聴いたことのある、列車の到来を告げる音。

 そのまま彼方を見上げる。少女が目にしたのは、天空に金属のレールを敷いては霧の湖の上空を走行する『列車』のような何かであった。長く編成したその身で空を翔け、オーロラの直下を走り抜ける姿は幻想的ではあるが、前面に赤い桃の意匠を設けた姿は未来的なものである。

 

 キャッスルドランもその違和感に気づいた様子。寝ぼけ眼を大きく見開き、天空を睥睨すると、歪む空間から突如として現れたそれ──近未来的な意匠を持つ白い列車を警戒する。

 高らかな警笛を鳴り響かせ、悠々と空を舞う列車は幻想郷にあるべきものでは決してない。

 

「……列車……?」

 

 灰色のオーロラへの警戒も緩めず、空の列車に視線を向けて。運命を垣間見たときに見えた光景に、あんなものがあったような気がして、万華鏡が如き記憶を手繰ろうとする。

 

 やがてキャッスルドランから渡とキバットが出てきた。灰色のオーロラを見て城の外に出てきたのだろうが、すぐに彼らも天空に響き渡る警笛に気を取られて、そちらに意識を向けている。

 彼らの反応から見るに、あの列車は彼らの──キバの世界の法則に依るものではない。

 

「な、なんだぁ……? ありゃ……?」

 

「キバットも知らないの……? あれはいったい……」

 

 渡の傍から出てきたキバットがぱたぱたと翼を動かしながら大きな赤い目を丸くする。近未来的な意匠を持つ白い列車は、中世欧州風の意匠を持つキャッスルドランとは似つかない。渡もそうだが、キバットもあんな列車は──少なくとも()()()()()()()()()

 あるいは別の法則を辿った世界であれば共闘していたのかもしれない。だが、それはこことは異なる物語。キバの世界が刻んだ歴史においては、その法則と交わったことは一度もなかった。

 

「もしかして……あれ……こっちに向かってきてない?」

 

 渡が呟いた言葉にレミリアは眉をひそめる。列車は突如として無から現れた。灰色のオーロラを介さず、さながら咲夜たちが消えたときとよく似た時空の歪みを伴って。

 あれが何なのかは分からない。おそらくは九つの世界の法則、そのいずれかに該当するものなのだろうが──

 このまま放置すれば、時空の歪みの影響なのか、前方に生成するレールに乱れを生じさせている様子の未知の列車はこのまま真っ直ぐ進行し、紅魔館へ突っ込んできてしまうだろう。

 

「グォォォオッ!」

 

 キャッスルドランは小さな翼を広げ、その巨体を空へと持ち上げる。レミリアたちを地上に残したまま、彼方の空より舞い迫る白き列車を睨みつけ。

 魔皇力を持たぬ未知の列車。キバの世界には在り得ぬ『時の列車』に威圧の咆哮を放った。

 

◆     ◆     ◆

 

 白い壁に包まれた車両の中にはいくつものテーブルと長椅子が備わっている。モモタロスたちは時間の中と同じ法則を持つ車内にて、完全体に等しい肉体を有していた。

 デンライナー車内、食堂車の長椅子に座る良太郎は、過去の世界──2019年の人間の里で見た人物について思考を巡らせる。

 姉と婚約し、良太郎の義理の兄となった男。桜井侑斗は19歳の頃の自分自身に未来を託し、現在という時間から存在を消し──過去の自分にまったく別の人生を歩ませ始めたはず。

 現代の彼──本来の桜井侑斗はもう存在しない。やはり、他人の空似であったのだろう。

 

「……良太郎、どうかしたの?」

 

 こころが彼を気遣う。その表情に変化はないものの、装う面には憂いを意味する老婆の顔があった。真剣な表情で思考する良太郎を見て、何かあったのかと心配してくれたらしい。良太郎はなんでもないよと答え、左手首の腕時計に視線を落とす。

 過去の世界において役に立つことは難しいだろうその時計。現在の時刻に合わせられたそれは、良太郎が生きた世界において市販されていたものであり、過去の時刻に合わせる機能はない。

 

「久しぶりの時間旅行で酔ったんとちゃうか? たしか時差ボケとか言うたやろ」

 

「キンちゃん、それ、たぶん使い方間違ってるって……」

 

 長椅子に座ったまま腕を組んでいるキンタロスの言葉に返すウラタロス。食堂車のカウンターに肘を乗せ、備わったソーサーからコーヒーカップを手に取ると、ピンクや水色など派手な色合いのクリームがたっぷり乗ったそれに口をつける。

 かつてはとある客室乗務員によって淹れられていた『いつものコーヒー』ではあるが、チューブ状の設備から注ぐだけであれど、淹れ方に差異があるのかウラタロスの表情は芳しくなかった。

 

「おいナオミ、俺にもコーヒーくれ」

 

「……今はセルフサービスだよ、センパイ」

 

 モモタロスの言葉に対し、口元にクリームをつけたままのウラタロスが答えると、彼は居るべき者の不在をようやく思い出した様子。彼女らがいないデンライナーは少しばかり広く感じるが、いなくなってしまった原因は未だ不明のままとなっている。

 デンライナーの所有者、すなわちオーナーたる人物がここにいない理由は分かっているものの、客室乗務員の女性と特異点の女性──今は少女の姿である彼女らの行方は分かっていない。

 

「僕にとっては、あんまり久しぶりって感じはしないけどね……」

 

 良太郎はついこのあいだモモタロスたちが乗るデンライナーを見送ったばかり。ライダーパスを返却し、戦いの日々に別れを告げたあの日からまだ数日も経っていない。

 別の時間から来たモモタロスたちは、良太郎の知らない『幽霊野郎』との戦いを経験しているらしかったが──良太郎にとって最後の戦いの記憶は死神を模したイマジンと、その契約者たるイマジンの首魁を倒したというものだ。

 2008年を現在とする良太郎。モモタロスが口にした辛気臭い幽霊野郎という存在については気になるものの、未来のことを聞いてしまっていいのだろうかという想いも胸に燻っている。

 

「……っ!」

 

 ──そのとき。良太郎を含む、その場の全員が空気に違和感を覚えた。デンライナーが高らかな警笛を奏で上げたその瞬間、時空を超えて空気が変わる感覚。

 過去や未来へ向かう際に似ているが、すでにデンライナーは2020年へと戻ってきているはずだ。次なる時間の座標を指定していない限り、勝手に別の時代へ飛ぶことはない。デンライナーの計器が示す時間も現代たる2020年で相違ないようだ。

 

 モモタロスとウラタロス、そしてキンタロス。良太郎とこころの思考に響くは馴染み知った警笛に加え、夏に舞うカブトムシの羽音と天に唸るような竜の咆哮めいた音。

 不意に窓の外を見たモモタロスは、そこが人間の里でも命蓮寺周辺でもないことを悟った。

 

「あぁ? どこだ……ここ……?」

 

 デンライナーの車窓から見える景色は過去へ向かう際に見た場所──命蓮寺ではない。モモタロスが見たのは、デンライナーの車内における完全体の彼の身と等しい赤色の建造物。真紅の洋館を傍らに持つ霧の湖であった。

 その先に見えた真紅の洋館に目っを奪われた次の瞬間、デンライナーの車体が大きく揺れ始めた。ガタガタと断続的に衝撃が走り、レールの生成に不備が生じているのだと理解する。

 

「センパイ、デンライナーの様子がおかしい……!」

 

「このままやとあのけったいな建物に突っ込んでまうで! (はよ)う止めんと!」

 

 ウラタロスとキンタロスもデンライナーの異常に気付いたらしい。原因は判然としないが、デンライナーが通る路線の生成システム──『物質生成照射装置』が何らかの影響により不具合を起こしているのだろうか。

 自律走行はその不具合に対応できず歪んだ路線を突き進み、デンライナーの進路に影響を与えてしまっている。キンタロスの言葉通り、対処しなければ列車はあの館へ落ちるだろう。

 

「良太郎、あれ……!」

 

 こころにとって、紅魔館自体は幻想郷に馴染み深きもの。誰より早くそこから視線を外した彼女が見たのは、デンライナーの正面にて翼を広げる巨大な竜の姿だ。城とも呼べる要塞じみた建造物をその身に背負い、小さな紫色の翼で天を舞うもの。

 電王の世界においてその法則は存在しない、13魔族の一角を担うドラン族。キバの世界に依るグレートワイバーンのとある個体──キャッスルドランと呼ばれる『キングの居城』である。

 

「グォォォオオオッ!!」

 

 巨竜は列車に向けて咆哮を放つ。ビリビリと震える空気はデンライナーの車内にも響き渡り、ウラタロスとキンタロスも反対側の窓からその姿を目にした。

 過去たる2019年の時代から戻ったデンライナーは、その機能でもって再び時空を超えたのではない。幻想郷に招かれた三つの力、時の流れに干渉するそれらが重なり合い、時空の歪みによって時を走るデンライナーごと本来向かうべき場所とは異なる場所に出現してしまったのだ。

 

「ちぃっ……!」

 

 ギガンデスの一種か。それにしては暴走したイメージではなく、生物らしい確かな存在感を感じさせる。モモタロスは咄嗟にデンライナーの先頭車両、運転室へ向かい、自動操縦モードであったデンライナーの操縦桿、バイクの形を成すマシンデンバードに跨った。

 時間の中と同じ法則を有しているデンライナーの中だけで機能する疑似的な完全体の身をもってマシンデンバードのハンドルを握り、キャッスルドランから距離を取ろうと舵を切り──

 

 ──旋回、そして地にレールを敷く。天上から舞い降り、白き列車は紅魔館の傍に停車した。

 

◆    ◆    ◆

 

 紅魔館の傍、キャッスルドランの近くに降りたデンライナーは粗野な振る舞いで前方にレールを敷き、マシンデンバードの操作によって鉄路に火花を散らす。

 金属の擦れる音を警笛で掻き消し、未来を進み過去より戻った列車はその場に鎮まった。それを見下ろす巨竜も静かに舞い降り、地響きと共に紅魔館の傍らに着地。時を超える力を持つ者同士、巨竜と列車には親近感があるのだろうか。

 

 停車したデンライナーの車体は無機質な音を立てて扉を開く。蒸気めいた排気と共に、横向きに動いた近未来的な扉を展開したかと思うと、列車はその奥から良太郎とこころの姿を現した。

 

「良太郎、大丈夫?」

 

「う、うん……なんとか……」

 

 こころは良太郎の手を取ってデンライナーの食堂車から外に出る。モモタロスたちは精神体となって良太郎の身体に戻っていた。良太郎は危うくデンライナーから放り出されかけたが、こころが手を掴んでくれたおかげでなんとか落ちずに済んだらしい。

 幸い、怪我こそしていないものの、とうに慣れたはずの乗り物酔いが再び蘇る。ふらつく足取りで列車を降りると、不気味な真紅の洋館の傍に立つ城のような竜の威圧感を見上げた。

 

「竜……?」

 

 圧倒的な存在感に加え、誇り高き振る舞いを感じさせる巨竜。ギガンデスの類にしてはどこか落ち着いている。確証はないが、それは過去を書き換えることを目的とした悪意のない、従順な番犬めいた者の眼をしていた。

 渡たちもまた、未知への警戒心は良太郎たちと同じ。彼らは巨躯を見上げる良太郎たちとは異なり、城めいた高さこそないものの、東洋の龍に近い長さを持つ近未来的な列車に視線を向ける。

 

「……列車……だよね……?」

 

 空を飛んで現れた、紅き桃を前面に抱く謎の列車。渡はその白き車体を見て、傍らを舞うキバットバットⅢ世に話しかける。キバットは小さく翼を動かし、渡と向き合っては再びデンライナーに視線を向けた。

 未来的な意匠──そこまで考えて、渡は未来から現れたネオファンガイアを思い出す。22年後の時代から2009年の時代に訪れた自分の息子が戦う敵に対して、渡も知っていることは多くない。列車の中から現れた青年と少女、彼ら二人は自分たちの敵として考えていいのだろうか──

 

「てめえら! 危ねえじゃねえか! 急に出てきやがって!」

 

「な、なんだぁ? お前らこそ、いきなり突っ込んでくるんじゃねえ!」

 

 デンライナーの扉から外に出た良太郎の傍に、時間の概念で形成された砂が積もる。白く流れる砂は上半身と下半身を逆転させた不可解な形で悪鬼の姿を象り、双角のイマジン──モモタロスの未契約体となって、キャッスルドランを背にする渡たちへと憤った。

 キバットはモモタロスの姿に驚き、渡と目を合わせる。すぐに目線を下に向けて砂の怪物の顔を睨みつけると、キバットもまたモモタロスの啖呵に真っ向から己の魂をぶつけていく。

 

「……モモタロス、今はそれどころじゃないみたいだよ」

 

 互いの未知に向き合う刹那。二人の青年、良太郎と渡は気づいていた。この紅魔館の上空、灰色のオーロラから現れる者の存在に。

 歪む光の天幕は上空に広がる美しき波間を落とし、カーテン状の壁となって震える。良太郎の言葉を聞いて、モモタロスも来たる戦闘に備えて精神体で彼の身へと戻っていった。

 

 光は二つの影を現す。一つは不気味な漆黒と緑色の外皮を帯びた怪物。おぞましく全身に紫色の鞭めいた意匠を纏う爬虫類に似た異形。微かに白い砂を零すその身はかつて良太郎たちが撃破したはずの『カメレオンイマジン』に相違なかった。

 続いて現れたのはベージュ色のスーツに立派な弁護士バッジを着けた女性だ。怪物と共にいることに違和感はあるものの、彼女── 夏川 綾(なつかわ あや) の姿に奇妙な点はない。

 しかし、その女性がただの人間ではないことを渡とキバットは知っている。弁護士という地位も彼女が自らの力で得たもの。されどそれは、想いし相手に罪を償わせるための()()だった。

 

「キバット……あの人は……!」

 

「ああ、間違いない。確か、あいつは……」

 

 その記憶は紛れもなくかつて戦い倒した相手だ。ファンガイアとしての人間態も変わらず、やはり津上カオルや宮澤ひとみなどといった者たちと同様にこの地に蘇っている。理由は不明であるが、彼女は渡の父に求めていた贖罪をすでに叶えているはずだ──

 キバの世界より来たるもの。電王の世界より来たるもの。ゆえにそのどちらもレミリアとこころの記憶にはない。カメレオンの怪物とスーツを纏った女性に対し、二人は未知の力を見た。

 

「……ほう、特異点か。それにそっちの奴は……なるほどな」

 

 カメレオンイマジンは興味深そうに呟くと、良太郎と渡の姿をそれぞれ一瞥しては、隣に立つ夏川を見る。小さく頷いた彼女に対し、カメレオンイマジンもまた異形の顔面を醜く歪めてニヤリと口角を上げてみせた。

 渡はキバットと意思を重ね、レミリアと共に怪物に対して臨戦態勢を取る。おそらくはファンガイアではない。見たこともない異形を警戒し、同時に白い列車から現れた謎の青年にも注意しながら。レミリアとしてもこころに彼の正体を聞くまで、味方と判断することはできまい。

 

 懐から取り出したライダーパスを右手に持ち、良太郎もまた心に宿るモモタロスと意思を重ねる。傍に立つこころと共にカメレオンイマジンに対する警戒を強めた。

 近くにいる弁護士らしき女性はイマジンの契約者だろうか。無関係の人間を人質として連れているにしては、女性に恐怖の感情が一切見られない。自らの意思でそこにいるのは確実だろう。

 

「おっと、ここでお前らと戦うつもりはない。これにて契約完了だ。じゃあな!」

 

 カメレオンイマジンは右手の平を向けて良太郎たちを制止する動きを見せ、近くにいた女性へと向き合ったかと思うと、女性の身体に生じた裂け目に飛び込んだ。

 深々と続いている緑色の深淵には果ては見えない。これまで良太郎たちが何度も見てきたイマジンの行動。それは紛れもなく契約の完了に際する『過去への跳躍』に間違いないものだ。

 

「(あの野郎! 過去に……!)」

 

 良太郎の視覚を共有しているモモタロスが彼の中で呟く。契約の内容は不明だが、良太郎がここに来ることか。それともデンライナー、あるいはあの城のようなものの存在が関係するのだろうか。少なくとも良太郎やこころ、モモタロスはあの女性を知らないが──

 今は対処を優先すべきだと判断する。ライダーパスからブランクチケットを取り出し、良太郎は女性へと向き合った。過去の扉はすぐに閉ざされ、女性は力が抜けたようにその場に膝を着く。

 

「すぐに追わなきゃ……!」

 

 ブランクチケットを手にした良太郎はイマジンの契約者たる女性、夏川綾に近づく。その頭上にチケットをかざし、明確な日付が刻まれたライダーチケットとなったそれに視線を落とした。カメレオンイマジンの全身に加えて1986年2月10日の日付を見て、それがイマジンの向かった過去の時間であると確信する。

 デンライナーはすぐ近くに停車しているはずだ。停車の際には少し衝撃があったものの、これまでもその程度のダメージは経験している。運行に支障をきたすようなことはない。

 

「…………」

 

 良太郎がライダーチケットをパスに込めようとしたときだ。目の前にいる女性が静かに笑った。彼女の顎にはステンドグラス状の不気味な模様が浮かび上がっており──

 それを不審に思う暇もなく、良太郎の背後には夏川綾の捕食器官たる吸命牙が出現した。

 

「「危ない!」」

 

 霧に伝う声は渡とレミリアのもの。ファンガイアなど知らぬ青年は、夏川をただの人間と思って近づいたのだろう。彼女の中に入っていったカメレオンらしき怪物も気になるが、キバットの眼にはイマジンという存在の本質は映っていなかった。

 レミリアは左手に紅き槍を。渡は右手にキバットを持ち構える。しかし、良太郎のすぐ傍に出現した吸命牙が彼の首に届くほうが早い。二人のスピードをもってしても間に合わず。

 

 良太郎の近くにいたこころは無表情のまま大地を駆け、彼を突き飛ばした。鋭く振り下ろされる吸命牙に対して青白く現した薙刀を振るい、二つの牙をまとめて打ち払う。

 夏川は小さく舌打ちをすると、その魔族たる真の肉体を露わにする。魔皇力に包まれたステンドグラスの細胞がその身を変質させていく様を目の当たりにし、こころも彼女から距離を取った。

 

「これで道は繋がった……あの男のいた時間に……」

 

 インセクトクラスに分類されるミノガに似たファンガイア。漆黒の体躯にオレンジ色のステンドグラスを纏う『モスファンガイア』は、ミノガらしからぬハチドリめいた口吻(こうふん)を湛え、右手でもって自らの胸に触れる。すると再び先ほど閉じた緑色の裂け目が現れた。

 緑色の裂け目に手を突っ込み、やがてモスファンガイア自身は己の内に生じた過去の扉へと吸い込まれていく。自らの扉の中に消えていく姿とその異形を見て、良太郎は微かに慄くが──

 

「あ、ありがとう。でも、今のはいったい……」

 

「良太郎、それよりあいつを追わないと。過去が書き換わる前に」

 

 こころの手を取って立ち上がった良太郎は礼を言う。目の前から消えた異形は確かに、人間の肉体を変じさせて現れた。砂という形で、人間の精神から溢れ出たものではない。現に弁護士らしき女性がそこに倒れていないことがその証明だ。

 彼女に憑依していたイマジンが外に出てきたのではない。女性自身が怪物の姿に変貌したのだ。加えて、自らの過去の扉に入るなどという光景も見たことがなかったもの。

 

 幸いにして彼女の記憶からライダーチケットを得ることはできた。良太郎は手にしたライダーパスにライダーチケットを込めると、こころに頷いてデンライナーへと向かっていく。

 キャッスルドランの傍に停車された列車は二人を受け入れ、空に路線を架けて走っていった。

 

「……あいつら、どこに行ったの?」

 

「さぁ……」

 

「たしか、過去がどうとか言ってたな……」

 

 レミリアは空に舞い上がったデンライナーの消失を見届けると、渡とキバットに向き直って問うた。当然、電王の世界の法則に基づく過去への跳躍、イマジンという存在の行動について、キバの世界の住人たる彼らが知る由もない。

 ファンガイアの女性と共にいた怪物の存在は気になるが、未知の列車に乗り込んで消えていった青年も謎が多い。彼も、ファンガイアの女性と怪物もいったいどこに消えたのか。

 キバットは青年と共にいた少女の言葉を思い出し、それらの向かう先が過去だと推測した。

 

「なるほど、あれが異世界の技術か……」

 

 不意に聞こえた低い声。レミリアと渡が振り返った先、キャッスルドランの正面には、見知った男がいた。かつて渡の父との約束を交わし、大いなる竜の城に残った狼男の血族。ウルフェン族の最後の生き残り──次狼と名乗るガルルの人間態である。

 一度会っただけだったとはいえ、その魔皇力を忘れてはいない。レミリアは渡と共にキャッスルドランに近づき、紅魔館のすぐ近くでのんきに眠そうにしている魔竜の正門の前に立つ。

 

「あんた、外に出られたのね」

 

 レミリアの言葉で、渡とキバットは彼女が次狼と出会っていることを知る。キャッスルドランではぐれてしまった際にドランプリズンに迷い込んでいたのだろう。

 次狼を含むキャッスルドラン内の三体の魔族は、この城に囚われているわけではない。ただキャッスルドランの暴走を抑えるため、そしてとある男との約束を果たし、渡の力となってやるためである。かつてはファンガイアの王に幽閉されていたが、今は自由を取り戻しているのだ。

 

「……過去に行く手段ならある。ついてこい」

 

 次狼は右手の親指を背後に向けてキャッスルドランを示す。彼の案内に従って、城の深奥まで進んでいくと、薄暗い廊下にぼんやりと存在を主張する古びた扉が鎮座していた。

 

「俺の仕事はここまでだ」

 

 厳重に封印された扉の鎖は解かれ、次狼は手にした三本の鍵を使ってその扉、過去と未来を繋ぐと伝えられている『時の扉』の封印を解いていく。

 微かに溢れる光。次狼はその波動に微かに眉をひそめると、ただそれだけ言って魔皇力の波動に包まれた。レミリアが瞬く間には、すでに次狼の姿は消えており──その場を去ってしまった。

 

「またこの扉を使うことになるとはな……向かう時間は分かってるのか?」

 

「……うん。夏川さんなら、きっと僕たちの時間から22年前──1986年を目指すと思う」

 

 渡は先ほど彼女が呟いた言葉を思考に浮かべる。あの男がいた時間。それはつまり彼女が妄執を抱く渡自身の父に対する想いを残したあの時間のことだ。

 2008年から22年前となるその時代に、渡はまだ生まれていない。それでも父が生きていたその時間に、渡はキャッスルドランが抱く時の扉を超えて赴いたことを強く覚えている。

 

 キバットの問いに、かつて自分たちが赴いた時間に想いを馳せて答える渡。父と母が出会い、父が命を落とすこととなった時間。かつては大切な人を死なせてしまった後悔から、自らが生まれることを拒み、父と母が結ばれることを阻止しようとしたこともあった。

 キャッスルドランの時の扉にゆっくりと手をかける。扉の隙間から微かに溢れる光は、渡が願う過去に応じて道を作った。

 それは奇しくもデンライナーに似た法則。チケットを必要とせず、かつての魔術師がキャッスルドランの魔皇力をもって設けた『時を超える力』。渡自身は自らが知る現代より未来へ行ったことはないが、キャッスルドランが存在している時間からならば過去から訪れる者もいるだろう。

 

「未来の運命なら何度も目にしてきたけれど……『過去』に向かうのは初めてだわ」

 

 レミリアは渡と共に扉の前に立つ。重々しく開かれた扉が放つ光に目を細め、彼方より流れ込む微かに今とは違う空気──魔皇力を肌で感じる。

 ここより歩むは過去の世界。西暦1986年と言っていたか。それは、レミリア・スカーレットがまだ幻想郷を訪れていない時間である。

 咲夜も美鈴も、パチュリーもフランドールも、紅魔館でさえそこには存在しない。そんな時間にいったい何があるのだろうか。1986年という時間に想いを馳せて、彼らはその光へ踏み込んだ。

 

◆     ◆     ◆

 

 西暦1986年2月10日。霧の湖には未だ紅き悪魔の屋敷はない。当然、今の幻想郷で起きている二度目の四季異変の影響もなく、湖は2月らしい冬の寒さに包まれているようだ。

 冷たく冴える夜風に満ちた霧の湖の空は宵闇に包まれ、麗しき月の光を輝かせている。

 

 虚空より現れたのは緑色の裂け目から姿を見せたモスファンガイア。渡が生きる2009年からは23年前、レミリアやこころが今を生きる2020年から見れば34年前となる過去の幻想郷に夏川綾という者は存在していないはずだが、自らの身体に生じた過去の扉を通ることで正規の手段ではない時間跳躍を果たしたのか。

 現れたモスファンガイアのステンドグラスの身体からは白い砂が零れ落ちる。砂はやがて彼女の足元に集まり、その傍らにて怪物の姿を象ると、カメレオンイマジンの身体を実体化させた。

 

「どうして……紅……音也(おとや)……」

 

「誰だって? 感傷に浸ってる場合じゃないぞ」

 

「……分かっている。行くぞ、イマジン」

 

 モスファンガイアの体組織に映る夏川綾の表情。それに答えるカメレオンイマジンは己が身より砂を零しながら、契約の理由となった望みと記憶の内容を叱責する。

 この時間に訪れたのはモスファンガイア──夏川綾の記憶。紅渡の父たる男への未練を繋がりとして、彼女は西暦1986年という過去の時間に想いを馳せながらカメレオンイマジンと契約した。この幻想郷にはその男は存在していないだろうが、彼女の目的は彼に会うことではない。

 

「電王……! やはり追ってきたか!」

 

 カメレオンイマジンは紅魔館のない霧の湖上に浮かんだ光を見上げた。警笛を響かせながら舞い降りる白き車体、時の列車たるデンライナーは過去を書き換えようとするイマジンたちにとっては忌まわしきものである。

 デンライナーはかつて紅魔館が存在した──否。後に紅魔館が現れるであろうその場所に停車。横向きに開いた扉から飛び出した良太郎は怪物に向き直ると、心に響く声に耳を貸す。

 

「(良太郎、このキラキラしたやつ……イマジンの匂いがしねえぞ!)」

 

「……やっぱり……この幻想郷にはイマジン以外の怪物が……」

 

 モモタロスが言うイマジンの匂いというものは良太郎には感じ取れないものの、命蓮寺で聞いた話の通り、この地に現れる怪物はイマジンだけではないようだ。彼の知るイマジンという怪物は、人間に憑依することはあれど、自ら人間に化けるということはなかったはず。

 あるいは完全に人間の時間を乗っ取ってしまったはぐれイマジンか。モモタロスの言葉が事実なら、その可能性も薄いかもしれないが──

 ステンドグラス状の組織を持つ怪物は長く伸びた耳で背後に響く旋律を感じ取ったのだろうか。良太郎たちに向き合うカメレオンイマジンの隣で、モスファンガイアは背後へと振り返る。

 

「渡! こっちのやつ……魔皇力を感じねえ! 俺の知ってる魔族じゃないのか……?」

 

「……キバットも知らない……魔族じゃない怪物……? もしかして……」

 

 キャッスルドランの時の扉を超えた渡とキバット、そしてレミリアは霧の湖の畔、未来の時代に紅魔館が建つその場所に現れた。

 モスファンガイアの存在はかつて倒したこともあり知っている。しかし、その近くに立つ緑色の外皮を備えた奇妙な怪物、どこかカエルのようにもカメレオンのようにも見え得るそれについては見覚えがない。

 キバット曰く、魔皇力を感じない──と言ったのはそれがあまりにも薄すぎたためだ。厳密には一切ないわけではないという。怪物然とした見た目をしているのに、その魔皇力が『人間並み』にしかないらしいのだ。見た目こそ怪物だが、その魔皇力はそれを人間だと伝える。

 無論、そのような奇妙な生物はキバの世界に伝えられる13魔族のいずれにも該当しない。

 

「(なんでもいい! 行くぜ、良太郎!)」

 

「……考えてる暇はねえ! キバっていくぜ、渡!」

 

 カメレオンのイマジンと向き合う特異点の青年は己が心に伝う砂色の声に。ミノガのファンガイアと向き合う混血の青年は己が傍らにて舞い飛ぶコウモリの声に。それぞれ耳を傾け小さく頷くと、彼らはそれぞれ慣れ親しんだ動きで右手にそれを掴んだ。

 良太郎の手に宿るはライダーパス。その意思に応じて腰に現れたデンオウベルトの赤色を押し、耳に馴染み深き旋律を聴く。

 渡が差し出す手に噛みつくはキバットバットⅢ世。流し込まれる魔皇力は人間とファンガイアの混血たる彼の血を呼び覚まし、その腰に巻きつく鎖は紅く歪みてキバットベルトを形成する。

 

「「変身っ!」」

 

『ソードフォーム』

 

 雄々しきミュージックホーンを奏でるデンオウベルトのターミナルバックルに、ライダーパスが通過。同時に向き合う怪物越しに、気高き笛の音を奏で立てるキバットベルトのパワールーストにキバットバットⅢ世が逆さ吊りの形で止まった。

 フリーエネルギーと魔皇力。異なる世界のそれぞれの力が二人の青年を包み込んでいく。やがて怪物たちを挟むように立つ二人は、桃を模した列車と、コウモリを模した吸血鬼の鎧を纏いて。

 

「……あれは……なんだ……?」

 

「へぇ、もしかして、別の世界の鎧かしら」

 

 変身を遂げた電王とキバ。それぞれの隣に立つこころとレミリアは興味深そうに彼方に立つ異色の戦士を見る。同様に電王の赤き桃の複眼(ペルシアスキャンアイ)とキバの月色の複眼(オムニレンズ)に映る互いの姿を見た戦士たちもそれらに意識を奪われるが、すぐに倒すべき怪物、イマジンとファンガイアへと向き直った。

 

「そこの面霊気と一緒にいる桃みたいなの! ファンガイアの仲間かしら?」

 

「あぁ? ファンガイア? 知らねえな! 俺たちはそこのイマジンに用があんだよ!」

 

 電王となった良太郎の意識の表層にはモモタロスが現れている。ソードフォームの赤き装甲に満ちる自らのオーラを滾らせ、モモタロスは良太郎の身体を借りては向かうレミリアが放った言葉に声を返した。

 レミリアの言葉を聞いたこころは彼女の隣に立つキバの継承者について考えた。イマジンならざる怪物を確認した今、それと向き合う未知の戦士は幻想郷に現れている未知の法則のうち──それらと戦う意思を持つ戦士であるのだろうか。

 同様に向き合う電王──モモタロスの言葉を聞いた渡もこころと等しく。幻想郷で確認される未知の怪物、ファンガイアならざる存在と向き合う未知の戦士に、我々に敵対する意思はない。

 

「……とりあえず、今は共闘しよう。話はあとで聞く」

 

「(うん。見たところ、あの子たちもこの怪物と戦うつもりみたい)」

 

 こころの言葉を隣で聞いた良太郎はモモタロスに肉体を貸したまま彼に意思を伝えた。渡はレミリアと互いに向き合い小さく頷き、吸血鬼の隣にてキバフォームの構えを見せる。

 

「キバット! あの子たちからファンガイアを遠ざけないと!」

 

 渡は正面を見据えたまま、自身の腰に止まるキバットへと告げた。桃を模した仮面の戦士も、お面を被った少女もおそらくはファンガイアを知らない。先ほどのように再び背後から吸命牙に狙われたら、今度こそ対処できないかもしれない。

 地を駆け抜けるキバと共にレミリアも紅き槍を構えて疾走する。闇の色に包まれた霧の湖の畔、月光に照らされた漆黒の翼を翻し、瞬くようなスピードで──モスファンガイアに接近した。

 

「なんだか新鮮な気分だよ。見知ったいつもの場所に、私のお屋敷がないなんて」

 

 魔力で構成した紅き槍はモスファンガイアの左腕に防がれる。パリンと割れたステンドグラス状の体組織は、その一撃で砕けたものではない。その破片を零すことで、モスファンガイアは破片を長剣に変えて右手に掴んだのだ。

 自らの細胞から成した長剣を振るっては、レミリアを後退させる。すぐさま向かってきたキバの蹴りを見切ろうとするも、レミリアへの警戒もあって長剣による対処が遅れてしまう。

 

 こころは手元に青白い薙刀を現し、カメレオンイマジンに向けて振るった。その軌跡から滲むように妖力の光弾が溢れ、イマジンに向けて放つ。モモタロスが憑依した状態の良太郎──M良太郎は電王としての姿で腰を探り、四つのパーツを取り外した。

 手に取ったパーツを器用に組み合わせ、それらをソードモードのデンガッシャーとして構える。モモタロスの荒ぶる意思のまま、こころの弾幕を軽やかに搔い潜ってイマジンへと接近する。

 

「おらぁっ!」

 

 振り下ろされたデンガッシャーの一撃は当たらなかった。カメレオンイマジンは、かつて戦ったときと同じように不可視となってしまったのだ。姿が見えない状態のまま刃を回避されたことで、M良太郎は二の太刀の矛先を見失う。電王の複眼にも姿は映っていない。

 モモタロスの心の焦りは良太郎にも伝わっている。不可視の姿となれるイマジンに加えて、今は未知の怪物──背後から飛来する半透明の牙を持つ吸血鬼めいた者も存在しているのだ。

 

「くそっ、どこ行きやがった……!?」

 

「(……何か変だよ、あのイマジン。どうしてこんな何もないところに……)」

 

 肉体の主導権はモモタロスの意のままに。良太郎は冷静に思考すると、カメレオンイマジンの目的について考えていた。

 イマジンの目的は過去の改変のはず。首魁たるあの男が滅んで以降にも消滅を逃れたはぐれイマジンたちは、過去の人間に成り代わって時間を奪うことを目的としている。だが、こんな場所では破壊すべきものは何もなく、このイマジンは契約者の人生を乗っ取る素振りを一切見せない。

 

「赤いの! 後ろだ!」

 

 背後から力強い声が聞こえる。振り返ると、目の前にカメレオンイマジンが迫っていた。M良太郎は咄嗟にデンガッシャーを振るい、背後のそれを斬りつける。しなるカメレオンの舌めいた鞭に弾かれ、本体を切り裂くことはできなかったが、攻撃を防ぐことはできた。

 良太郎はモモタロスに任せた身の中で、見知らぬ鎧の腰元にて喋るコウモリ──キバットバットⅢ世に驚く。モモタロスも同様に驚いている様子だったが、今の肉体の主導権を持たない良太郎に比べて思考する余裕がないらしい。

 ただ単に元から深い思考を得意としないモモタロス。渡が纏うキバの鎧が蹴り飛ばしたモスファンガイアの立つ位置に後退したカメレオンイマジンを見て、微かに歯痒い想いを募らせる。

 

「はぁっ!」

 

 モスファンガイアは口吻から撒き散らした蛾の鱗粉を爆発させる。体表のステンドグラスと同じ色をしたオレンジ色の炎が巻き上がり、一瞬だけ視界を奪われてしまった。

 渡はキバットの放つソナーで爆炎の中を探ろうとする。が、その隙にそのまま突っ込んできたカメレオンイマジンの紫色の鞭を目にしたため、咄嗟に超音波による索敵を中断して軽やかに後退、それを回避した。

 爆炎の中から突っ込んできたのはカメレオンイマジンだけではない。自らの鱗粉に紛れて長剣を構え、現れたモスファンガイアは先ほどまで対峙していたキバではなく電王に向かっていく。

 

「ちぃっ……なんだこいつ……!」

 

 火花を散らして交わる剣戟。モスファンガイアの長剣に打ち合わされたデンガッシャー ソードモードの赤き刀身は、放つフリーエネルギーの波動を未知のエネルギーたる魔皇力とぶつけあって不思議な色を放っているように見えた。

 カメレオンイマジンの鞭の一打一打を手の平で払う渡も同様に、怪物の持つ精神のオーラから成る鞭の乱打に自らの魔皇力を打ち合わせ、その拳から奇妙な光が滲むのを見ている。

 

 ──渡は目の前のイマジンと向き合うので手一杯。その最中、良太郎の背後に牙が迫った。

 

「隙だらけよ、赤いの」

 

 キン、という軽やかな音と共にモスファンガイアの吸命牙は弾かれる。電王の背後を守るように位置取ったレミリアの槍は半透明の牙を打ち払い、魔皇力にも似た紅き魔力をもって目の前に立つ怪物──キバの世界の魔族たるファンガイアと向き合った。

 即座に後退するモスファンガイアの口吻にオレンジ色の光が灯る。それが先ほども見た爆発する鱗粉を放つ予兆だと見抜いたレミリアは、その局所を目掛けてナイトダンスを解き放った。

 

「ぐっ……!」

 

「……ファンガイア。吸血鬼の伝承を持つ化け物らしいわ。一緒にされても困るけど」

 

 モスファンガイアの口吻にナイトダンスの紅き光を炸裂させて動きを抑制。背後の電王に怪物の名を告げると同時、ちらりとキバたる渡を見やる。

 渡はキバの法則に依らぬカメレオンイマジンと対峙しつつ、こころを守るよう立ち回る。互いは素性を知らぬ身であろうと、彼は見知らぬ少女を無視して戦える性格ではなかった。

 

「(きゅ、吸血鬼……?)」

 

 モモタロスの意識と共に振り返り、紅き少女の翼を目にする良太郎。彼女の言葉を聞く限り、おそらくそれを語った少女の身こそ吸血鬼と呼ばれる怪異なのだろう。

 幻想郷には妖怪が存在する。厄神や騒霊に加え、面霊気と出会った彼にとって、もはやそれは疑う余地もない。その背筋に冷たいものが走った原因は、一歩間違えば先ほども首元に飛来した牙によって己が命を吸い上げられ、干からびた骸と化していたかもしれないという恐怖からだ。

 

「……なるほど。確かになんとなく吸血鬼っぽいかも……」

 

「それで、そっちのカメレオンは? あんたたちなら何か知ってるんでしょ?」

 

 ファンガイアの性質を聞いたこころは呟く。その言葉に対して、レミリアはモスファンガイアの長剣に自身の魔槍を打ち合わせながら背後を振り向くことなく彼女に問うた。こころもまた目の前のカメレオンイマジンに青白い薙刀を構え、迫る鞭を弾き交えては渡を守るように立ち回る。

 

「こいつらはイマジンとかいう。過去を変えるために未来から来た精神体……だって」

 

 こころの薙刀は霊力で編まれたエネルギー体だ。青白く輝くそれは、レミリアの魔力から成る紅き魔槍と奇しくも対を成すかのように虚ろに光を放っている。イマジンの性質を語りながら、こころは踊りながら迫る鞭を舞うように避け、イマジンを後方に蹴り飛ばした。

 相手取る怪物と距離を取り、同じタイミングでモスファンガイアを突き飛ばしたレミリアも軽やかなステップで後退。こころとレミリアは立ち並び、それぞれ傍らに電王とキバを伴った。

 

「未来から来た……? 渡、それって……」

 

「……うん。もしかしたらネオファンガイアと何か関係が……」

 

 渡はキバの鎧を装う姿のままに己が腰元のキバットベルトに視線を落とす。コウモリたる身に相応しく逆さ吊りに留まったキバットバットⅢ世が湛える真紅の複眼に目を合わせると、かつて己も拳を交えた未来からの脅威についてを切り出した。

 キャッスルドランと同じ技術によるものか。渡たちはファンガイアの王を打倒し、友の結婚式に出席していた際、奇しくも自らが向かった過去と同じ時の流れの先、22年後の『未来』より新たな敵の襲来を見ている。

 未来から来た渡の息子──渡よりもむしろ渡の父によく似た彼が語ったネオファンガイアという勢力。こころが語った未来から来た者の存在から、その関連性を考えずにはいられなかった。

 

「私としては、なんでそのイマジンとやらがそっち側についてるのか気になるけどねぇ」

 

「いろいろ事情がある。そっちこそ、ファンガイアの気配を宿した奴が隣にいるし」

 

 レミリアの視線がソードフォームの電王に向けられる。その身に変身しているのは野上良太郎。紛れもなく人間であるが、彼の肉体にはイマジンが宿っている。デンライナーから姿を現した白き砂の異形を目にしているレミリアは、その気配の類似性に気づいていた。

 この青年はイマジンと共に剣を振るっている。そしてそれは、渡も同じこと。こころが気になった点も、紅渡の身からなのか、あるいはその身に纏う鎧からなのか。ファンガイアと同じ気配を滲ませているということだ。

 二人の疑念はそれぞれが行動を共にする未知の戦士、おそらくは外の世界の戦士の一人であろう良太郎と渡に対して。イマジンとファンガイア、それらは例外なく敵というわけではないのか。

 

「……ま、それはお互い様ってわけね。今はこいつらを片付けるのが先よ、面霊気!」

 

「言われなくても分かってるぞ、吸血鬼。我々に異論はない。幻想郷の敵は、我々の敵だ!」

 

 レミリアとこころの目線は等しく二体の怪物のもとへ。彼女らもすでに理解しているいくつかの世界。異なる地平からの来訪者たち。それらは未知の怪物と矛を交える運命をさながら能楽の如く演じてきたのだろう。

 キバフォームの紅を帯びた渡は魔皇力を滾らせる拳をもって構え。ソードフォームの赤を纏うM良太郎はフリーエネルギーの波動に満ちたデンガッシャー ソードモードを構える。

 

 刹那の間合い。カメレオンイマジンは再び時の砂から成る身を不可視と変え、モスファンガイアは煌く鱗粉の光を口吻に湛え始めた。爆発する鱗粉に紛れ、魔皇力を込めた長剣で切りかかってくるつもりであることは、先ほどの動きからすでに予測できている。

 問題は不可視となってしまったイマジンのほうだ。ファンガイアの動きに気を取られすぎれば、見えざる一撃を受けてしまう。吸命牙と長剣の両方を警戒しつつ、さらには不可視の怪物からの攻撃も同時に警戒しなくてはならないのだ。

 しかし、吸血鬼の少女はその経験からか。己が目にした運命からなのか。不意に思考に芽生えた万華鏡の光に身を委ねると、ニヤリと口角を上げては勝ち誇ったように真紅の双眸を細める。

 

「……鱗粉と不可視化。どうやら、敵のお二人さんは相性が悪かったみたいね」

 

「なるほど、そうか。渡! カメレオンのほうはあいつらに任せたほうがよさそうだ!」

 

 小さく呟いたレミリアの言葉。その意味に気づいたキバットは、キバットベルトの止まり木にて声を張り上げた。渡が意味を訊こうと視線を下げた瞬間、モスファンガイアが撒き散らした鱗粉が周囲に爆発の炎と煙を大きく巻き上げていく。

 こころもまた、その光景を見てレミリアの意図に気づいたようだ。どうやら彼女は、あえて怪物たちから距離を取ることでこの鱗粉の噴霧を誘っていたらしい。そして、その目的こそは──

 

「(……! 見て! モモタロス! あそこ!)」

 

「あぁ? 丸見えじゃねえか! へへっ、こりゃ好都合だぜ!」

 

 内なる良太郎の声に従いモモタロスは電王としての複眼を向ける。そこには、モスファンガイアの鱗粉によってくっきりと形を浮かび上がらせたカメレオンイマジンの姿があった。たとえ不可視となろうと、この煙と鱗粉の中では身を隠すことはできないということだ。

 先ほどまでは二体の距離が大きく開いていたために干渉し合わなかったのだろうが、レミリアとこころが肩を並べると決めたとき、電王とキバの距離が近づいた。そのため、それらを相手に取るイマジンとファンガイアという怪物もまた、互いの距離を近づけざるを得なかったのだろう。

 

「そりゃあっ!」

 

「ぐっ……!」

 

 デンガッシャー ソードモードの刃が、鞭を振るう直前のカメレオンイマジンの身体を斬りつける。白い砂を溢れさせ、もはや透明化は無意味だと判断したのか、不気味な緑と黒の体色を露わにしながらモスファンガイアを睨みつけるカメレオンイマジン。

 モスファンガイアもまた煌く鱗粉と同色のステンドグラスを帯びた肉体でもって敵を錯乱しようと試みているが、キバットが放つソナーによって質量の有無は明確に焙り出される。

 

「はぁっ!」

 

「くっ、う……!」

 

 魔皇力を秘めたキバの右脚、封じられたヘルズゲートの銀で蹴りつけ、モスファンガイアを鱗粉の外に蹴り飛ばす。爆炎によるダメージこそ多少残っているものの、渡の肉体への損傷はさほどでもない。レミリアは小さな翼を振るい、不快そうに煙と鱗粉を仰ぎ払いながら溜息をついた。

 

「……服が汚れちゃったわ。どうしてくれようかしら」

 

 レミリアの紅い視線が二体の異形を貫く。その左手に(かがや)く魔槍を構え、渡と共に掲げる一撃のために。同様に霊力から成った青白い薙刀を構えたこころも、M良太郎の傍らにて立ち並ぶように位置を変える。

 吸血鬼と面霊気。二人の心に見据える運命は一枚の札。己が力を言葉と成した、弾幕ごっこのための共通認識。スペルカードと呼ばれるそれは、幻想郷の者にとっての等しき攻撃宣言だ。

 

夜符(よるふ)、デーモンキングクレイドル!」

 

「我々の(うれ)い……! 憂面(ゆうめん)……杞人(きじん)地を憂う……!」

 

 紅く弾けた札の名を叫ぶ。レミリアは自らの魔力を螺旋の渦と成し、その身に纏ったかと思うと、大地を蹴っては音を置き去りにするほどの速度で空気を穿って突き進んだ。己が身そのものを魔槍の如く、きりもみ回転してはモスファンガイアに一瞬で接近。

 その風圧だけで爆煙の一切は晴れ、大地を削り吹き飛ばしてはモスファンガイアを翼の一撃でもって打ち上げた。放たれた【 夜符「デーモンキングクレイドル」】は、仇為す魔族を空という揺り籠へと叩きつけるようにして。

 

 蒼く零れた札の名を呟く。こころは己が霊力を地表に満たし、憂う姥面を装っては悲観に暮れた感情で自らの頭を抱えるように面から溢れる嘆きを零した。

 すると、月の光に照らされた霧の湖の大地から噴き上がるように青白い霊力の奔流が空を目指し解き放たれる。いくつもの姥面が装う者なき亡霊となりて、逃げ場を失ったカメレオンイマジンの身を宵闇の空へと押し上げるように、蒼き怒涛は涙となって天を目指していった。

 こころが抱いた【 憂面「杞人地を憂う」 】は、彼女の憂いを面と成して。たとえ敵がどこにいようと、大地に満たした嘆きは的確に対象の直下から吹き上がり、空へと誘う弾幕となる。

 

「さぁ、今よ! 渡、キバット!」

 

「叩き込め、良太郎! いや、今はモモタロスだっけ?」

 

 二体の怪物は空中に打ち上げられている。レミリアやこころは自身たちとは違い、空を自由に飛ぶ能力を持たないであろう彼らを空という身動きの取れない領域に追いやることで大きな隙を作り出すことに成功したのだ。

 それぞれ吸血鬼は自身と同じ紅き血の運命を宿す牙に。面霊気は自身と同じいくつもの面を心に抱く感情の分岐点に。振り向き信じるその名を叫ぶ。

 モスファンガイアは翅を持たぬミノガの幼虫。カメレオンイマジンは翼を有さぬ爬虫類。どちらも身動きの取れないまま──ただ重力に従うまま、せめて地に在る者たちへ向き合った。

 

「うん……! 一撃で決めるよ、キバット!」

 

「よっしゃあ! キバって行くぜ!」

 

『ウェイクアップ!』

 

「(モモタロス! 今ならあっちの怪物に邪魔される前に倒せるかも……!)」

 

「へっ、わざわざ言われるまでもねえ! こっちは最初からクライマックスなんだよ!」

 

『フルチャージ』

 

 渡の指先は右腰に備えるウェイクアップフエッスルを取り出し、それをキバットに咥えさせる。下顎を軽く叩いては、気高く吹き鳴らされる魔皇力の旋律を耳にして。

 M良太郎の左手が素早く取り出し、デンオウベルトのターミナルバックル、その正面を通過させるは、時の列車への乗車権となるライダーパス。赤く瞬く光、満ち滾るフリーエネルギーの波動は右手の長剣、デンガッシャーに集約した。

 

 開かれる白銀。解き放たれる紅。すでに宵を見せる霧色の空は、満ちていた月を朧に染め、月齢を無視して三日月に変える。キバの鎧の右脚、ヘルズゲートを解放しては、真紅に染まったデモンズ・マウントを帯びたそれを振り上げ。渡は左脚の跳躍をもって、黒き空へと高く翻った。

 

「はぁああああっ!!」

 

 キバの気合いが宵闇を紅く切り拓く。真紅の右脚を突き出し、落ちゆく夜の帳の如く。霧染めの月明かりに照らされたモスファンガイアの身に、ダークネスムーンブレイクの一撃を見舞う。その勢いと重みを受けて、怪物は成す術もなく大地へと叩き込まれた。

 その身に流し込まれる絶大な魔皇力はモスファンガイアの細胞を破壊し、オレンジ色に統一されていたその身に死の色である極彩色、深い七色のステンドグラスが美しく鮮やかに輝き始める。

 

「俺の必殺技、パート3! はぁあっ! でりゃあああっ!!」

 

 電王の咆哮と共に赤き刃が宵闇を切り裂いていく。振り下ろされたデンガッシャー ソードモードのオーラソードは本体から分離して、カメレオンイマジンの腹部をエクストリームスラッシュの一撃でもって深く鋭く穿ち貫く。

 地上にて振り乱されるデンガッシャーの本体に追従するように、夜色の空にて月明かりを受けた真紅のオーラソードは無慈悲で豪快な舞いを見せた。

 右と、左と、そして月を背にして一閃する刃。最後に振り抜かれたデンガッシャーの振る舞いに従う赤き刃はモモタロスのオーラから成るフリーエネルギーを滾らせ、怪物を切り裂いた。

 

「「ぐぅぁあああああああっ!!」」

 

 天に燃ゆるカメレオンイマジンの断末魔。空中で滅多切りにされた怪物は、ある男が夢を叶えるために大金を望み、その契約を繋がりとして童話『カエルの王様』からカメレオンをイメージして生み出された仮初めの肉体だった。

 その魂も、未来に生きては過去を望んだ名もなき人間であったのだろう。イマジンたちの人格は過去を持たぬ未来人の精神。その肉体だけが、怪物たるイメージの具現であるのだ。

 

 地に爆ぜるモスファンガイアの叫び。あるいは、その名は背徳という名の井戸。その身を包むステンドグラスは隠れ蓑であったのだろうか。人間を騙り、夏川綾という女性として弁護士の地位についた彼女は、渡の父親たる男に求めた贖罪を口実にしていただけだった。

 本当の理由は、ただ彼に振り向いてほしかっただけなのだ。ただ一つ、その運命を信じたかっただけだった。そんな妄執も、彼が奏でた、美しき花々たちへの旋律をもって、終止符として。

 

 イマジンの肉体は炎と共に爆散。ファンガイアの肉体は、ステンドグラスの細胞が光を伴って砕け散る。イマジンたちの肉体の死と違って、ファンガイアの最期に爆炎は伴わない。

 そして死した二体の残骸からは行き場を失ったイメージとライフエナジーが溢れ出した。

 

「ふぅ、なんとかなったわね。案外やるじゃない、そっちの桃仮面」

 

「桃仮面じゃねえ、モモタロスだ。まぁ、この身体は良太郎のもんだけどな」

 

 振り向いたレミリアに対して向き直る電王は舞い戻ったオーラソードをデンガッシャー本体で受け止め、その刃の峰を右肩に乗せる。

 破壊したカメレオンイマジンの肉体があった直下には白い砂の粒が散った。さらさらと風に吹かれて消えゆくそれは、もはや次なるイマジンの肉体を生み出す糧にはならないだろう。

 レミリアが見上げたライフエナジーの光球は、ふわりと漂って月明かりの空に浮いている。

 

「……それで、訊きたいことはいろいろあるけど……」

 

「うん……君たちも……やっぱり……」

 

 こころはキバの鎧に向き合う。その表情は感情を感じさせないが、額に装った面は神妙な振る舞いを見せる狐の面。イマジンとファンガイア、それぞれを倒した戦士たち。幻想郷に招かれている外の世界の存在であることは、もはや疑いようもない。

 渡もまた、その身からキバの鎧を解くことなくこころと電王に向き直った。1986年の2月。過去の時間である幻想郷に吹き抜ける冬の風に鎖を鳴らし、月明かりの下に静寂が満ちる。

 

「グォォオオッ!」

 

 宵の静寂を破る咆哮。時空を超えて現れたキャッスルドランの存在に、M良太郎とこころは再び驚いた。

 過去(ここ)へ来る前にも見た謎の巨竜。現代にいたはずのレミリアたちが、時の列車もなくこの時代に現れたのはこの竜の能力によるものなのか。さながらこの竜はデンライナーと同様に時空を超える能力を有しているのだろう。

 

 時の扉を抱くキャッスルドランは、自ら時を超える力を持つ。それは彼が単独で成せるものではなく、時の扉を超えて別の時間に赴いた者に追従する能力でしかない。彼は、時を超えた渡とレミリアの座標を追ってこの1986年の幻想郷に現れただけだ。

 王の居城は霧の湖付近に停車しているデンライナーをちらりと一瞥し、鼻息を噴き鳴らすと、地響きを伴う歩みをもって空に浮かんだライフエナジーに近づき、それを喰らおうとする。

 

「よーし、今日もしっかり、よく噛んで食えよー!」

 

 キバットは渡が纏うキバの鎧の腰元から離れ、ぱたぱたと羽ばたいてはキャッスルドランの食事を見届けようとした。

 ライフエナジーを喰らえばドランプリズン内に留まっている次狼たちへのエネルギー供給も成され、キャッスルドラン自身のエネルギーにもなるため、この回収は必要なことだ。

 

「それで、モモタロス……だっけ? よく分かんないけど、まずはあんたたちについて──」

 

 レミリアが電王の姿のままのM良太郎に告げる。あの未知の列車は何なのか。イマジンと戦うその身の力は。彼女の瞳に映し出された九つの運命は要領を得ないのだ。それらが別々の世界から来ていることは分かる。それでも、詳細を問わねば全ては憶測の域を出ない。

 それは対するこころたちも同じことだ。キバの鎧について、キャッスルドランについて。問いただしたいことはあるだろう。レミリアとて渡が生きたキバの世界についてを詳しく知るわけではないため、彼の言葉を引き出すがてら、情報の対価としてこちらの情報を語る必要はある。

 

「…………っ!」

 

 その瞬間、レミリアの肌にも、こころの肌にも伝う波動。動きを止めたキャッスルドランが見上げるはライフエナジー。デンライナーの中にいるウラタロスとキンタロスにもその感覚は伝わっていた。

 少し遅れて渡と良太郎もその感覚に気づく。渡にとっては馴染み深きライフエナジー。ファンガイアが喰らってきた人間たちの生命力が塊となって洗われたもの。良太郎にとってはよく知るイマジンの存在力。契約者が思い描いた、イメージという空想のエネルギー。

 

 ライフエナジーの光球は鼓動する。宵の空に浮かんだまま、直下に積もった時の砂、カメレオンイマジンの残滓たる白い砂を吸い上げるように浮かび上がらせると、そのイメージは乱れたフリーエネルギーによって暴走の兆候を見せ始める。

 イメージの暴走。それは良太郎とモモタロスが幾度となく見てきたものだ。暴走したイメージは行き場を失って形を成し、ギガンデスと呼ばれる巨大な怪物として具現してしまう。

 だが、ファンガイアのライフエナジーを伴うそれは──ただのギガンデス化ではなかった。

 

「……! キバット、あれ……!!」

 

「な、なんだ……!? いったい何が起きてやがんだ……!?」

 

 渡とキバットはおぞましい光景に息を飲む。レミリアとこころもそれを見上げ、M良太郎も思わず身震いした。

 乱れ歪む力の奔流。モスファンガイアが喰らってきたライフエナジーの塊に、カメレオンイマジンの肉体であった時の砂、かつての契約者のイメージが混ざり込み、境界を超えた一つの力と溶け合ってゆく。魔皇力とフリーエネルギーをも帯びたそれは、妖しく禍々しく変質を遂げ──

 

「「グギゴォォオオオオッ!!」」

 

 時間と音楽。暴走したイメージと犠牲となった者たちのライフエナジー。混ざり合った異形は巨大な骸となりて、冬の夜風にその身を晒す。

 重なり合う咆哮はフリーエネルギーで空気を揺るがすギガンデスの叫びであろうか。その響きに軋み合うように轟くは、穢れた魔皇力で霧の湖面を震わせる六柱のサバトの嘆きでもある。

 異なる二つの歪みが融合を遂げたそれは──『ギガンデスサバト』とでも形容し得るものだ。

 

「ちっ……! また暴走かよ……! 良太郎っ! 気ぃ引き締めていくぞ!」

 

「(気をつけて! このギガンデス……! いつものやつと雰囲気が全然違う……!)」

 

 不気味な巨躯を見上げる電王。ギガンデスらしき異形の怪物には見慣れぬステンドグラスの意匠がある。それは先ほど未知の戦士が撃破したファンガイアと呼ばれる怪物と共通するものだ。キラキラと月明かりを返す怪物は、その残滓から生まれ出たのか。

 シャンデリアめいた巨躯に不釣り合いに生えた翼や牙。ムカデにも似た尻尾と、バラバラに生え揃った意味を持たぬ四肢。それらは天と地と海のギガンデスを強引に詰め込んだような。

 M良太郎はこころと共にデンライナーに戻ると、その操縦席にてデンライナーを進行させた。

 

「あれは……六柱のサバトなのか……?」

 

「……さっきの怪物……イマジンっていうのと混ざり合ってる……?」

 

「あいつら、あんな列車で何をするつもりなのかしら」

 

 ギガンデスサバトと成り果てた無秩序なエネルギーの塊は、キバの複眼でそれを見る渡にとっても、その傍らを舞うキバットにとっても異質。六柱のサバトと呼ぶには、あまりにも物質的で生物的な要素を持ちすぎていた。

 モスファンガイアを撃破したときに浮かび上がったライフエナジーの光球に、あの未知の戦士が撃破したイマジンの残滓、白い砂のようなものが取り込まれてしまった影響なのか。

 レミリアはその巨躯へと接近する空を飛ぶ列車を訝しむが、すぐにその疑惑は解消される。

 

「あら、大した戦力じゃない」

 

 デンライナーはその武装を最大限に展開し、様々な攻撃を繰り広げる。フリーエネルギーによる砲弾や光線などでギガンデスサバトを攻撃しているが、六柱のサバトの性質を併せ持つそれに対して、その攻撃はあまり効果的なダメージになっていないらしい。

 キャッスルドランも口から吐き出す魔皇力の光弾をもって攻撃しているものの、今度はギガンデス側の性質──時の概念を持つ砂とイメージの具現に対して魔皇力が阻まれているようだ。

 

「僕たちも行こう。一緒に攻撃すれば、なんとかなるかもしれない」

 

「ああ、あいつらのエネルギーと、魔皇力を組み合わせることができれば……!」

 

 渡は自身のキバットベルトの止まり木へとキバットを受け入れ、レミリアと共にキャッスルドランへ飛び入る。そもそもが生物であり、城であるキャッスルドランにはデンライナーにおけるコックピットと呼べるものはないが、その意思は竜に伝えることが可能だ。

 キバはキャッスルドランの屋上の天守閣に当たる位置へ乗り、レミリアと肩を並べる。そしてその隣にて旋回を遂げ、並走するデンライナーの先頭車両からは電王とこころがその姿を現した。

 

「私とレミリアがスペルカードで動きを止める。その隙に……」

 

「おっと、指図は無用よ。あんたはいつもみたいに楽しそうに舞ってなさい」

 

 デンライナーの先頭車両に立つこころはその手にカードを翻す。霊力を込めたその札を見せ、隣に立つ電王──M良太郎の意思、ライダーパスを有する者の思考で自律走行するデンライナーでギガンデスサバトと対峙しつつ、レミリアに声をかけた。

 キャッスルドランの天守閣に立つレミリアも同様に自身の魔力を込めた札を手に取る。隣に立つキバ──渡と同様に、目の前のギガンデスサバトと対峙。手にしたカードそのものに意味はないが、普段から行っている弾幕ごっこ通りの手順を踏むことで、魔力を操る手綱と成すのだ。

 

「……まったく、協調性がない奴だな。演舞には向いていないタイプ」

 

 こころは無表情のままに額に装った猿の面で困惑と呆れを表現してみせながら、キャッスルドランの天守閣から飛び出し、ギガンデスサバトへと舞い飛んでいったレミリアの紅き軌跡を見送る。すぐに自身も軽やかにデンライナーから舞い上がり、対する悪意へ飛翔した。

 ふわりと舞い上がった二人は巨躯の周囲にそれぞれ位置取ると、吸血鬼としての魔力と面霊気としての霊力。それぞれを解き放ち、挟み込むようにギガンデスサバトへとスペルを宣言する。

 

憂符(ゆうふ)……! ()き世は()しの小車(おぐるま)……!!」

 

 青白いオーラと共にこころのスカートの色が悲しみを表す青に変化。止め処なく押し寄せる憂いの感情を牛の小車に喩え、沸き立つように溢れ出した【 憂符「憂き世は憂しの小車」 】の波動に連なり、いくつもの姥面が霊力を伴ってこころの周囲にて浮かび上がる。

 姥面は一つ一つが悲しみと憂いを帯び、光弾となってギガンデスサバトへと誘い込まれていっては、どこまでも纏わりつく憂いそのものとなって青白く揺蕩い、巨躯の動きを鈍らせた。

 

「……冥符(めいふ)紅色(あかいろ)の冥界……!!」

 

 こころの反対側で紅き魔力を解き放ったレミリアも、自らのカードを宣言。両手を広げて魔法陣を展開し、その隙間から滲み出す深紅の血液──鋭く刃を模した弾幕を環状に溢れさせることで美しき血の演舞を披露する。

 滴り落ちるは紅き血の雨。宵空に透き通る闇の色に暗く染まったそれは、死せる大地に葬られた咎人の呪いが如く。その雫そのものが意思を持つように、降り注ぐ血液の弾幕をもってギガンデスサバトが纏うステンドグラスへ染み込むように刻みつけられていく。

 レミリアのスペルカードである【 冥符「紅色の冥界」 】は呪いを帯びた吸血鬼の血を弾幕と成して放つもの。冥界からの誘い手のように、その深き血は対象を紅色の闇へと引きずり込む。

 

「よし、今なら……!」

 

 憂いの姥面と魔力を帯びた血液。負の想念を連想させるそれらがギガンデスサバトの動きを抑制し、ギガンデスとしての怪力による殴打も、サバトとしての魔力による光弾も、吸血鬼と面霊気の魔力と霊力によって封じ込められているようだ。

 キバの複眼でそれを目にした渡は二人の活躍に好機を見る。まだ名も知らぬ隣の列車に振り向いては、継承者たる者の意思をもってキャッスルドランに魔皇力を収束させた。

 対するM良太郎もギガンデスサバトの動きが止まった瞬間を見計らい、隣に浮かぶキャッスルドランの天守閣に立つ者とタイミングを合わせ、電王の権限でもってデンライナーの兵装を起動。

 

「俺たちの必殺技! 喰らいやがれっ! クライマックス刑事(デカ)砲!!」

 

 M良太郎の雄叫びと同時に、デンライナー ゴウカの砲台たるゴウカノンから収束された膨大なフリーエネルギーの光線が照射される。それに伴って、すぐ傍に待機していたキャッスルドランも喉を震わせ咆哮を放つと、その口から魔皇力による高密度のエネルギー光線を解き放った。

 

「「グギュ……ギギ……ゴゴォオッ……!!」」

 

 デンライナーより放たれたフリーエネルギーの奔流と、キャッスルドランより放たれた魔皇力の奔流。二つの力は軌道にて交わり、一つの道となってギガンデスサバトの器を穿つ。重なり響く唸り声はイマジンとファンガイアの苦悶を帯びて、宵の空を濡らした。

 

 フリーエネルギーと魔皇力は混ざり合いながら七色の輝きを溢れさせ、巨躯より時の砂とステンドグラスの破片を飛び散らせる。やがて光は中枢たる核に到達し、着弾を見届けたレミリアとこころは怪物から距離を取るように後退。

 ふわりと舞い上がり、それぞれキャッスルドランとデンライナーへ戻っては、異なる二つの世界の力に苛まれるギガンデスサバトが浮上していく様を見る。

 やがてデンライナーとキャッスルドラン、それぞれの力を束ねた【 クライマックス刑事砲 】によって、その身は溢れんばかりの光を灯したかと思うと──おぞましい声と共に爆散を遂げた。

 

「……なんで刑事(デカ)?」

 

「ん……? そういや、なんでだ……? まぁ、ノリだ、ノリ!」

 

 デンライナーのパンタグラフより後ろに立つこころは傍らに立つ電王に問う。時の列車と魔竜の城、それらの合わせ技に刑事らしき要素はないはずだが。

 モモタロスは自分でもなぜその名をつけたか分かっていないらしい。ありもしない記憶がどこかで心に映り込んだか。ガコンと音を立ててゴウカノンが収納されゆく最中、こころとM良太郎はゆっくりと空を舞い進むデンライナーの上から、キャッスルドランに視線を向ける。

 

「やるじゃねえか、そっちのデカいのもよ!」

 

 キャッスルドランは自らの天守閣にキバとレミリアを乗せたまま、ギガンデスサバトが遺したライフエナジーの光球を喰らう。すでに暴走したイメージとの繋がりは切れているらしく、純粋なファンガイアのライフエナジーと定義されたそれに悪影響などはないだろう。

 M良太郎から投げかけられた言葉に、渡も振り向く。なぜか自慢げに胸を張るレミリアを横目に、渡も列車とは思えぬ兵装の数々に対してキャッスルドランに匹敵する戦力を見ていた。

 

「そっちの列車こそ、いろいろと凄かったと思うよ……」

 

 渡と同様、腰のキバットベルトで逆さに留まるキバットもまた同様の感想を抱く。自分たちはキャッスルドランの時の扉でこの過去の時代へ来たが、この列車はそれ自体が時を超えるのだろうか。イマジンの存在であれば、やはりそれも未来の技術なのだろう。

 問わねばなるまい。傍らに立つレミリアと目を合わせ、その意図が等しいことを知る。別の世界の技術。それはネオファンガイアに関わるものか。そして──その列車を操る戦士の正体を。

 

「とりあえず、元の時代に──」

 

 レミリアが口を開いた直後のこと。再び、全身を震わせるような時空の歪みが霧の湖を襲う。キャッスルドランもそれを感じた様子で、デンライナーから離れるように翼を動かして宵色の空を後退した。

 乱れる時空の歪みは月明かりに照らされたデンライナーの身を包み込む。車体の上に乗っていたM良太郎は思わずパンタグラフにしがみつきそうになったが、力強く車体の上で踏ん張る。

 

「(この感じ……! もしかしてまた……!?)」

 

「うおおおっ!? やべえ! こころ! 早く車内(なか)に戻れ!!」

 

 揺らぐ世界の歪みが広がっていく感覚。その意味を察した良太郎とモモタロスは一つの肉体のもと、こころと共にデンライナーの車内へと戻る。時空の歪み、フリーエネルギーの乱れにより再びレールの生成と自律走行機能に不調をきたし始めたデンライナーは、そのまま時空の穴へと消えていった。

 渡たちはその軌跡を見送ることしかできない。彼らの世界について詳しい話を訊きたかったのだが、戦士たちは列車の先頭車両へとその身を収めると、光の先へ見えなくなっていく。

 

「いったい何が……」

 

「渡、それよりも……妙だぜ。どうして勝手にサバトが生まれたんだ……?」

 

 やがて何もない夜空となった天空の果てを見やる渡。キバットベルトのパワールーストから外れたキバットと渡自身の意思、その二つが重なり、キバの鎧はじゃらじゃらと鎖と解れてキバットの身へと戻る。生身の姿へと戻り、キャッスルドランの天守閣にて肌寒い夜風を感じながら、傍らに飛ぶキバットの疑念の声を聞いていた。

 キバットが語った通り、六柱のサバト──総称としてサバトと呼ばれるライフエナジーの亡霊は自然発生するようなものではない。ステンドグラスの細胞から蘇生されたファンガイアと同様に、貴族階級以上のファンガイアの手によって人為的に生み出されるもののはずだ。

 

 彼らは知る由もないが、死んだイマジンのイメージが暴走して生まれるギガンデスという怪物はイマジンの撃破を引き金とし、暴走したイメージから自然発生する。だがそれとは違い、サバトが発生したからには、その糸を引く者が必ずいるはずなのだ。

 しかし、キャッスルドランの天守閣から見渡してもそのような存在は見つけられなかった。あの神出鬼没の灰色のオーロラをもってして、すでにこの場所を去った後なのだろうか──

 

 ──あるいは、モスファンガイア自身が今際の際に、自らの魂をサバトの贄として捧げたという可能性もなくはない。その場合、復活したファンガイアには貴族階級以上の能力が備わっていると考えられるが、それほどの力は感じられなかった。

 渡たちは見えざる悪意に少しばかりの不安と懸念を残しつつ、キャッスルドランの中へと戻っていく。時の扉を超えて訪れた過去の道筋に従い、やがて城は時空を超える光に包まれていった。

 

 過去と未来を繋ぐ道のり。電王の世界の法則に連なるは、時の砂漠と呼ばれる場所。

 

 極光帯びる七色の空の下には無辺に広がる砂漠と峡谷。一粒一粒が時間を表し、その流れが時間の運行そのものとしての意味を持つ、言わば時間という概念そのものを場所として定義したような砂の世界。その荒涼なる大地に、長く編成された時の列車は存在した。

 西暦1986年の幻想郷、霧の湖から離れ、時間の中にデンライナーを突入させたことでレールの生成機能は不具合を解消している。

 デンライナーの自律走行をもって時間の中のレールを進み、時空を超えて元の時代、西暦2020年の幻想郷──元の座標の命蓮寺へと戻ろうと、良太郎たちはデンライナーの食堂車にいた。

 

「それにしても、あのカメレオン野郎……あんな時代に来て何がしたかったんだ?」

 

「……うん。僕も気になってた。改変するようなものなんて何もなかったはずなのに……」

 

 モモタロスの疑問は良太郎も感じていたことだ。イマジンたちが当初、2007年の時代に現れたときはとある男の指示で『分岐点の鍵』となる存在を抹殺し、過去を書き換えることで自分たちの未来を確固たる時間として確立させようとしていた。

 その目的が潰え、その男共々多くのイマジンが存在の根幹を失い消滅したことで、残ったイマジンはモモタロスたちのように自分たちの時間を得ることができた者に限られたはずである。

 今はどういうわけか倒したはずのイマジンが復活してしまっているようなのだが──

 

「まったく、気味が悪いよねぇ……敵の目的が分からないってのはさ」

 

「あのキラキラしたミノムシみたいなんも、よう分からんかったな。どないなっとるんや」

 

 ウラタロスとキンタロスも不気味な違和感が拭えない様子。1986年のあの場所には大きな湖の他には何もなかった。人の姿もなく、彼らの目的である破壊に伴う対象者の抹殺は到底成し得ないような場所であったと思わざるを得ない。

 未来の確定に伴う消滅を免れたイマジンたち──はぐれイマジンには、別の目的がある。それは人間と契約し過去へ飛ぶことで、その人間の肉体と人生をそのまま奪うということ。

 憑依したまま過ごせばその肉体を自分のものと定義して、その時代で人間として生き続けることもできるだろう。だが、あのカメレオンイマジンが契約したであろう人間は──どうやらそもそも人間ですらなかったようだ。

 吸血鬼らしき少女曰くファンガイアと呼ばれる存在。妖怪である秦こころにも憑依できる以上、イマジンにとって憑依対象は人間でなくても構わないのだろう。

 

 復活したカメレオンイマジンがはぐれイマジンと化していたとしても、あのファンガイアの女性の肉体を奪おうとする意思は見られなかった。それどころか、何かの目的を共有しているようにすら見えた──

 彼らの目的はいったい何なのか。イマジンたちと同様に、イマジンを統べる存在である『あの特異点の男』までもが復活しているかもしれない。その意思のままに行動している可能性もある。

 

「…………」

 

 そして、ファンガイアの女性、契約者の記憶からイマジンが過去を目指した後のこと。イマジンですらない女性が、自らの過去の扉に触れ、そのまま自分自身の記憶に依る過去の世界へと跳躍を遂げてしまったという事実。

 あのような出来事は良太郎の電王としての戦いに前例がなかった。ファンガイアと呼ばれる怪物の能力なのか、それともあるいは、復活したイマジンの能力に変化が起きているのか。

 食堂車の座席に座るこころと向き合い、良太郎はこの秘境の怪物について思考を馳せていた。

 

◆     ◆     ◆

 

 西暦1986年、幻想郷。紅魔館の存在しない時代の霧の湖。月明かりを伴う湖面は妖しい光を空へと返し、薄い霧の中にはちらほらと自然が具現化した妖精の姿が見て取れる。

 そんな自然の狭間に不気味な砂が舞う。黄色い光球から零れる砂は、刻む時間の証明だ。

 

「…………」

 

 黄色い光球は少しずつ形を伴いそこに具現する。さらりと零れた砂の身を成し、やがて精神体であったその身を完全体──契約を果たした状態の姿となる。

 漆黒の肉体に走るは禍々しい赤色。頭部に突き出た双角は悪鬼めいたそれを連想させるが、深くおぞましい悪意を滲ませるその在り方は、姿こそよく似たモモタロスとは正反対だった。

 

「悪の組織は、永遠……」

 

 自らの頭に生えた右の角を右手で撫でて呟く怪物。紛れもなくその身はイマジンであり、自らの時間の消滅に伴い消え去ったイマジンの中には含まれなかった個体、はぐれイマジンと定義される存在である。

 その姿をイメージした者は凶悪な犯罪者。どこかでモモタロスの姿を目にしたのか、実体化したイメージは漆黒の体躯という相違こそあれどモモタロスに極めてよく似たもの。

 さながら(ネガ)(ポジ)を反転させた姿という表現が相応しい存在。彼もまた一度は撃破され、死を遂げたのだが、他のイマジンと同様に復活した。だが、他のイマジンとは違い、彼は今の良太郎たちが存在した世界である()()()()()()()()を出身とするイマジンではない。

 電王の世界を基準とする世界のいくつもの可能性の一つ。電王の世界とキバの世界が極めて近い位相で融和した、ある種の並行世界。それは、デンライナーの面々が犯罪者たちを取り締まる警察機構としての役割を持つ『デンライナー署』という役職を有していた別の位相の世界である。

 

「……ククッ……フハハッ……」

 

 悪鬼の手には時の列車への乗車権となるライダーパスが握られていた。さらりと舞い散る時の砂を帯びたそれは、良太郎たちが乗るデンライナーのものではない。

 別の世界、彼が生きた電王の世界──別の法則と融和した『電王とキバの世界』とでも呼ぶべき並行世界から持ち出された、予備のライダーパス。それはすでに彼自身のオーラによって禍々しく変質し、電王としての機能も歪んでいる。

 

 彼の元々の契約者がイメージした童話は『一寸法師』の物語。さながら鬼が手放した秘宝を得た英雄の如く、その悪鬼はこの境界、この時代に落ちたライダーパスを回収することに成功したようだ。自らの手で導いたギガンデスサバトを、忌むべき戦士たちへの目眩(めくら)ましとして。

 西暦2020年。元の時代に存在する『今の契約者』のもとへと戻るべく、悪鬼はライダーパスを空へ掲げる。その意思に従い、理の果てより舞い降りた列車は──悪鬼を乗せて時空を超えた。




書きたいことが多すぎて文字数が増えすぎる。最近ちょっと大幅にオーバーしすぎですね……
最初の頃は15000文字を目標に書いていたんですが、余裕で30000文字を超えてくる……
過去最大級に長くなってしまったパート2。それでもギガンデスサバトの描写はしたかった……!

六柱のサバトってプローンファンガイアが生み出した個体だけを指した名称なんですよね。
仮面ライダー図鑑ではサバト全体の総称として定義が変わったみたいなので、そう扱ってます。

       次
    第  回
豆  59  
腐  話  
の     
如     
   く        
熔  清        
け  き        
る  道        
太           
陽           


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第59話 豆腐の如く清き道 / 熔ける太陽

 燦々(さんさん)と照りつける真夏の日差し。四季異変に狂い歪んだ太陽の畑は、本来の季節が春であるにも関わらず、その傾斜を眩く黄色に染め上げる向日葵の花々に満たされている。

 自然の具現である妖精たちも夏の影響を受けて強大な個体が育ち、その手に自らの写し身である向日葵の花を手にして空を舞っていた。

 

 そんな太陽の畑にて、結界に覆われた場所に建つ館が一つ。風見幽香は外来人である天道総司を泊まらせている自らの住居で食事を楽しんでいる。それを手掛けたのは、館の主人である幽香ではない。客人である天道の料理の腕を買い、用意された食材で相応の『美味しい』を求めて。

 

「……幻想郷には海がない、と言っていたな」

 

「そうね」

 

 テーブルに向き合い、天道と幽香は皿の上に漂う味噌の香りを楽しむ。幽香が味わうのは天道の得意料理の一つである和食であった。あまり西洋文化に馴染みのない幻想郷、明治時代の日本から隔離された秘境では、その食材を用意するのは難しいことではない。

 箸でもってその身を切り解し、欠片を乗せては口に運ぶ。二人はこの幻想郷では取れないはずの海の魚を煮込んだものである『サバの味噌煮』を楽しんでいた。天道はそのことに疑問を抱くが、この衣服も、自身でさえも──

 

 本来ならばここに在るはずのないもの。閉ざされた楽園といえど、外の世界と繋がりを持っているのは明確だ。幽香が語った幻想郷の賢者なる存在が関わっているのは間違いない。

 だが、今は思考の時ではない。食べ物を前に余計な思考を馳せていては、せっかくの料理が冷めてしまう。食事とは神聖な時間なのだ。サバの出所は気になるが、天道はその思考を収めた。

 

「……まぁいい。こいつをどこから調達したかは、今は聞かないでおこう」

 

 ほかほかの白米をサバの一切れと共に頂く。電気で動く炊飯器もないというのに、この幻想郷の技術は自分が生きたカブトの世界に等しいだけのものがあるらしい。

 妖怪の技術というのは不気味だが、見たところ明治時代後期程度の文明しかないにも関わらず、ここまで現代の技術を再現できるというのは天道にとっても驚くべきことだった。

 食事を終え、幽香は食器を魔法か妖怪の力らしき手品めいた方法で流し台へ持っていく。

 

「それで、あのとき現れた『もう一人のカブト』についてだけど……」

 

 軽く指を振るうだけで流し台に置かれた食器の汚れが水をもって落とされていく。幽香の思考に走るのは、先日の昼、太陽の畑から少し離れた平原で目にした──カブトらしき何か。天道総司が変身したカブトによく似ていたが、違う。

 緋色の装甲を帯びたそれとは明確に違うが、その意匠は極めてよく似ていた。頭角がより大きく突き伸び、全身に神々しい白銀の装甲を纏っているという違いだけを除けば、ほぼ同じ。

 さらに気になったのはその存在が自分の知っている妖気を持っていたことであった。外の世界の法則を抱きしマスクドライダー、カブトに幻想の力があるはずがない。それも、己がかつて失った旧き妖気など。

 

 天道総司はそのカブトを知っている。自身が至った──否。至るべき未来の可能性というべきか。万物を超越し、時空さえ覆すその力は、すでに本来の時代では失われた。だが──

 未来をすでに掴んだ男の手の中。天道総司が目指した時の果て。白銀のカブトムシを模したあのゼクターは天道の呼びかけに応え未来から現れるという性質を持っているのだ。それが選ばれし者の宿命。天道自身が紛れもなくそれを手にするという因果の証明。

 しかし、先日もその力を手にしようと天道は望んだはず。これまで通りであれば問題なく掴めていたはずの究極のゼクターは、一度はその手に現れたものの──すぐに消えてしまっていた。

 

「……あれは未来から来た俺自身だ。と言っても、信じられないだろうな」

 

「未来から……? それに、あなた自身……? 詳しく聞かせてもらってもいいかしら」

 

 幽香が耳にした言葉は奇しくも彼女の推測に近いもの。失われた旧き妖気を持つことから、この時代ではない──過去から来たものと思っていたが、むしろ逆。あのカブトは現在よりも未来から現れた者であるらしい。

 それに、天道総司自身だって? 幽香はあのカブトが旧き自分自身──風見の姓を抱く以前の自分、ただの『幽香』であった自分が有していた太古の妖気を持っていたため、遠い過去の時間より現れた在りし日の己自身の可能性を見ていた。

 無論、今の幽香自身にかつてカブトとなって未来へと赴いた記憶などはない。あるいは幻想郷に接続された並行世界と同様、あり得た別の並行世界からの来訪者という可能性もあった。

 だが疑問は残る。それが本当に未来の天道だったとして、なぜ旧き自分の妖気を持つのか──

 

「あいつの左腰にあった白銀のゼクター。あれは、時空を超えるほどの力を──」

 

 天道が重々しく口を開く。その力について語ることはあまりしたくなかったようで、渋々といった様子のまま未来から来たカブトについてを話そうとする。

 その瞬間だった。幽香の館に変化が起こる。あのカブトが現れたときと同じ、太陽の畑が湛える空気そのものが震えるような感覚。室内にいてもなお感じられる、不愉快な時空の歪み。

 

「……残念。お話はまたあとで聞かせてもらうわ」

 

 緋色の瞳で窓を見やる。椅子を立ち、幽香は期待を込めて館の玄関へと踏み出した。天道も同様にその感覚には気づいた様子。ライダーベルトを右手に取り、いつでも変身できるようにその腰に巻きつけると、幽香と共に館に備わった木製の扉を開き──太陽の畑へと出た。

 

「……っ!」

 

 天道と幽香が同時に目を細めたのは眩い陽光に対してではない。黄色い向日葵たちを抱く太陽の畑。その中心から、()()()()()()()()()が吹き込んできているからだ。

 何もない場所の空間。二度目の四季異変で今は夏のはずのこの場所において、あり得ざるほどの凍えるような風。それでも分かる。この冬めいた雪風は、ここと繋がったどこかの空気だと。

 

◆     ◆     ◆

 

 深々と降り積もる真冬の雪。地上世界と同様、四季異変の影響はこの地底世界にも現れている。やはり本来の季節は春にも関わらず、旧地獄の忘れ去られた繁華街、旧都の軒並みは冷えゆく冬の空気に満たされていた。

 その空を染めるは吹き抜けることなき地殻の天盤。如何に高く見上げるべき天涯であれど、地の底の世界に雪など降るはずはない。この現象も幻想郷の幻想たるが所以なのか。

 

 この地に住まう怪力乱神。説明不可能な事象そのものたる怪異。かつて妖怪の山の四天王として語られた鬼の存在が、この旧地獄、地殻の下にさえ煌き舞い落ちる細やかな雪の一片を認めているのかもしれない。

 あるいは、ここが単なる地の底ではなく旧地獄という一つの世界として定義されているからか。語られる怪力乱神が語る通り、この地が冬となれば雪が降るのは理由なく必然であるのだ。

 

「……ヒビキさんも、あのアギトとかいう戦士については知らないのね」

 

 星熊勇儀と肩を並べて歩くヒビキの隣、水橋パルスィは白い息を吐きながら問う。彼女らが先日の戦いで出会った未知の戦士、神々しい輝きを放つアギトなる存在は、どうやら響鬼の世界から来たものではないらしい。幻想郷に接続された並行世界が複数あるという噂の通りであれば、やはりそれは別の世界から現れた存在なのだろう。

 地霊殿周辺の荒れ地で遭遇した怪物は魔化魍ではなかった。パルスィはその際にアギトが放った眩い光の一部をその身に取り入れてしまったが──特に身体に異変などはないようだ。

 

「別の世界ねぇ……いったいいくつあるんだろうな」

 

「ま、今は考えたって仕方ないね。それより、温泉街(ここ)が無事で安心したよ」

 

 からんと鳴らした下駄の音。手首足首の枷は鎖を鳴らし、勇儀の足を止める。ヒビキの言葉に返した勇儀の憂いは、その視線を賑やかな歓楽街──『旧地獄温泉街』に向けさせた。

 旧都の大通りから中心近くへと向かった先、そこには忘れられた雪の街道の寂しさなど掻き消すような大きな温泉街がある。勇儀が元締めを務めるこの温泉街へとヒビキたちが足を運んだのは、そこが魔化魍の被害を受けていないか確認するためである。

 

 ついでに、変身の際に焼け落ちてしまうヒビキの衣服も何着か調達しておこうか、という勇儀の提案で彼もここへ来ることになったのだが、やはり燃やすことを前提に衣服を購入するというのは些か惜しく感じる。旧都のお金を持たない以上、厚意に預かるというのに。

 ヒビキは勇儀が温泉街の経営で得た稼ぎで何着かの衣服を見繕ってもらった。勇儀は竹を割ったように気にするなと言ってくれたが、この地ではヒビキといえど無力な外来人であるのだ。

 

「……この硫黄の匂い、温泉に来たって感じがするな」

 

 冬景色に染まる旧都の寒さを打ち砕く、白く立ち込める温泉の湯気。旧地獄の地熱で暖められた天然の温泉は、ゆで卵にも似た独特の香り──硫化水素の匂いを漂わせている。残り少ない自前の衣服のまま温泉街を見渡し、ヒビキは日本の名湯に想いを馳せていた。

 猛士の鬼として関東地方の魔化魍を相手にしていた際はよく現地の名産品を楽しんでいたものだ。従来であれば魔化魍の出現は年に数体程度で、鬼一人のシフトも多くなかったため、そのくらいの余裕はあったのだが──

 ヒビキの記憶に新しい一年前、オロチ現象が起きていた年においては一年のうちに尋常ならざる数の魔化魍が出現し、鬼たちを総動員してもシフトが間に合わないほどだった。

 

 今ではオロチも収束を遂げている。魔化魍の出現も従来通りには落ち着いていた。ヒビキ一人が抜けたとしても、猛士には優秀な鬼たちがいるため、人手が足りなくなるようなことはそうそうないだろう。

 それに今の猛士にはヒビキが弟子として育てた『強き鬼』がいる。消防士の父を失い、父を乗り越えるべく修行を始めた若き少年。かつては鬼の修行の厳しさに泣き言を繰り返し、言い訳と共にすぐに投げ出してしまうような男だった。

 今では彼も立派な鬼──猛士の一員として確かな成長を遂げた戦士である。もう一人、ヒビキが弟子としていた少年、医師を志した彼とは別の道を目指し──ヒビキの背中を追う鬼となって。

 

「お前さんも魔理沙と同じ勘違いをしているな。この匂いは怨霊の怨みがもたらすもんだ」

 

 硫黄そのものは無臭なんだよ、と付け加える勇儀は温泉街の顔馴染みに挨拶し、魔化魍の存在に注意を促すと、彼方に見える天然温泉の白い湯気に視線を馳せてはヒビキへと振り返る。

 

「せっかく来たんだし、温泉に入っていったらどうだい? 安くしとくよ」

 

「……こんなときにゆっくり温泉に浸かるだなんて、鬼たちの神経が妬ましいわ」

 

 旧地獄温泉街には目立った被害はない。それでも旧都の入り口、旧地獄街道に魔化魍ツチグモが現れたことはすでに妖怪たちの噂から伝わっているだろう。

 それでもなおこの温泉街が本来の活気を失わず、旧都の歓楽街としての賑わいを保っているのは、勇儀という柱がいるためか。

 山の四天王と呼ばれた星熊勇儀の存在はこの地底において語り合う明日の象徴。来たるべき明日を語らえば、鬼が笑う。この地の温泉郷は、湯煙の奥に揺らめく魂と鬼火の拠り所であるのだ。

 

「こんなときだから、だよ。身も心もさっぱりして憂いを洗い流そうってねぇ」

 

 はらり舞い散る雪の一片は旧地獄温泉街の熱を受けて幻想的に煌いている。勇儀はその冬の象徴に奇妙な共演を見せる春の彩り、天盤の岩から薄紫色の光を散らす石桜の美しさを楽しみながら、鬼の酒器である秘宝──自らの懐に妖力と宿す星熊盃に想いを馳せる。

 萃香の持つ伊吹瓢とは違い、こちらは空の状態から酒を生み出すことはできないが、それが酒でさえあれば注ぐだけで上等なものに変えてくれよう。

 旧地獄温泉街にて売られている酒の中で最も安いものをそれに注いだとしても、鬼の酒器の力で最高級の酒となる。ただ、その酒はすぐに劣化を始めるため、売り物にはできないのだが。

 

 ──魔化魍の気配はここにはない。平和そのもの。そう感じられたそのとき。

 

「……っ!」

 

 のんきに温泉に浸かっている地底の妖怪たち。地底に残った一部の鬼たちと同様に、パルスィは不意に旧地獄温泉街に走った異質な空気の歪みに違和感を覚えた。

 歪む波動。乱れる風穴。勇儀とヒビキも等しく肌身に感じ取ったそれは、旧都の空気と温泉の湯を震わせながらこの地に別の空気を流し込む。湯煙に満ちた冬の歓楽街は温泉の熱気で暖められているとはいえ、冷たい雪の空気。そこに、真夏を思わせる熱き風が舞い込んできた。

 

 時空の歪みは明確な乱れとなって冬と夏の空気を掻き混ぜる。ヒビキたちの脳裏に響くのは耳で聞いた音か否か、カブトムシの羽音と列車の警笛。そして竜の咆哮。三様に入り乱れた混沌の中、歪みはさらに大きく捻じ曲がり、旧地獄温泉街を包み込む。

 勇儀はパルスィを守るように立ち構えた。ヒビキはその歪みの原因こそ分からずとも、全身をビリビリと震わせるような異常な感覚に悪意を感じつつ、その胸に響く鬼の闘気を燃やし現す。

 

「おっと……こいつは……」

 

「悪いな、勇儀。温泉に浸かるのはまた今度になりそうだ」

 

 その歪みは尋常なものではない。歴戦を誇る鬼の二人でさえ、その正体を掴みかねている。遥か太古の時代を知る勇儀も、魔化魍に詳しいヒビキにも、時空の歪みなど知る由もなく。

 

「パルスィ! 来るな!」

 

「ちょ、ちょっと! 勇儀! ヒビキさん!?」

 

 勇儀が咄嗟に振り返り、時空の歪みの源流に顔を背けて声を上げた。パルスィが巻き込まれないように制止し、彼女が驚いて足を止めた瞬間。乱れ歪む時空の波動は温泉街の一部に集約し、その場に湛えた冬の空気ごと──勇儀とヒビキの二人を吞み込んでしまったのだ。

 一際強い突風に目を覆った隙に二人の姿はなくなっていた。歪む時空の彼方から吹き込んできた夏の風についてを考えれば、あるいは二人はこことは別の場所に転移してしまったのか──

 

「……消えちゃった……いったいなんだったの……?」

 

 夏の木々を思わせる青々しい香りだけを微かに残して、時空の歪みは収束する。冬の旧地獄には似つかわしくない、向日葵めいた夏の色。乱れた空気もすでになくなり、旧地獄温泉街にはいつも通りの冬の空気が満たされていく。

 温泉に浸かっていた妖怪たちもその異変に顔を見合わせて困惑している様子だった。パルスィもその歪みの原因が分からず、底知れぬ不安が心に芽生えさせられる。

 

 加えて、そこにあったのは微かな嫉妬心。彼らだけが真なる鬼の魂を持ち、必要とされたのか。そんな羨望と劣等感が、彼女の地殻(たましい)に宿った『光』に──ほんの僅かな『闇』を宿していた。

 

◆     ◆     ◆

 

 時空は乱れ歪み、太陽の畑に一条の冬が差し込む瞬間。夏の暖かさに満ちていたその向日葵畑に冴える空気を切り込むように、その風の中に温泉らしい硫化水素の香りを含めて。

 

「……来るぞ」

 

 天道は歪みの彼方にいつか自身が手にしたカブトムシの羽音を聞いた。傍らにて夏の眩さに目を細めた幽香も、日傘の下にてその音を聞いているだろう。聞き覚えのない列車の警笛と竜の咆哮も合わせて、それらは幻聴だったのかもしれないが。

 夏の園には在り得ざる凍てつく空気。向日葵の花々を冷たく揺らし、太陽の畑の傾斜の果てに、二人の人影が姿を現した。

 

 一人は現代的な衣服に身を包んだ人間の男。鍛えられた肉体は30代を迎えてもなお衰えず、響く鬼の名に恥じぬ魂を抱いている。混乱した様子で周囲を見渡しているところを見ると、どうやらこの太陽の畑に現れたのは彼自身の意思によるものではないようだ。

 そしてもう一人は──ヒビキと同様に戸惑いながら巨大な向日葵と顔を見合わせる大柄な体格の女性であった。こちらは幻想郷に馴染む妖気を持つ鬼──かつては山にいた星熊勇儀である。

 

「あら、旧地獄の鬼? 珍しいわね。地上に出てくるなんて」

 

「……お? あんたは確か……いつぞやのお祭り騒ぎで見た顔だね。って、地上だって?」

 

 同じく幻想郷に生きる幽香はその顔に見覚えがあった。秦こころの暴走により、人間の里から希望という感情が抜け落ちては、刹那的に生きるようになった彼らの厭世観から起こった宗教大戦。心綺楼異変の折、人々の騒ぎに乗じて彼女らも里などに赴いて戦いを観戦していたのだ。

 地底の鬼ほどの豪傑。花の大妖ほどの怪物。どちらも易々と人の前に姿を現せる存在ではない。異変によって人々が正常な判断力を失っていたからこそ、彼女らはそれを楽しめた。普段の里であれば、変装もなしに堂々と鬼や妖怪が立ち入ることはできないだろう。

 

 幽香の声に気づいた勇儀は、思わず空を見上げた。周囲の明るさから奇妙だと思っていたものの、実際に天を仰いでみれば真なる太陽の眩さに否が応にも目を細めさせられる。

 隣に立つヒビキも同様に空を見上げ、ここが天下の地上であると理解した。肌寒く冷える旧地獄とはまったく違う夏の暑さ。温泉街の熱もあったとはいえ、白雪に覆われた冬の都から夏の畑への転移は、その気温差もあって現実味を失わせる。

 ヒビキも幽香たちへと向き合い、等しく隣に立つ人間の青年──おそらくは自分と同じ幻想郷の外から招かれたであろう者の顔を見た。彼もまた、現代衣服を纏う自分を同じ目で見ている。

 

「なんで地上に……? 旧地獄温泉街には地上への道なんてないはずなんだけどねぇ」

 

「そういや、ここに飛ばされるときに変な音がしたなぁ。虫の羽音とか、電車の警笛みたいな」

 

 勇儀は不思議そうに頭を掻く。ヒビキも勇儀と同様に奇妙な三種の音を耳に聞いており、彼らはそれが関係しているものだと考えた。幻想郷の四季異変、この太陽の畑が夏の季節を帯びているのだとしたら、カブトムシらしき虫の羽音も不自然なものではないのだろうか。

 天道はヒビキたちが現れる際に微かな時空の乱れを感じ取っていた。カブトゼクターに選ばれた資格者である身、クロックアップを多用するワームを相手にしていればその変化には聡い。

 

「……その様子だと、敵……というわけではないようだな」

 

 いつでもカブトゼクターを呼べるようにと戦意を掲げていたその在り方を収める。天道は静かに口を開くと、彼らに語りかけた。

 幽香が大した警戒もなく話しかけた相手は、額に立派な角を掲げた鬼。見て呉れこそ若い女性であるが、その威圧感は若い女性に擬態した強大なワームに似た底知れぬ闘争心を滾らせるようなもの。高位のワームが擬態した女だと考えていたが──

 こうして距離が近づいた今でも、彼らは明確な敵意を向けてこない。特定の人間に擬態し続ける習性を持つ高位のワームであったとすれば、人ならざる敵意が滲み出しているはずだ。

 

「あのゼクターの影響か……? かなり時空が不安定になっているようだ……」

 

 天道と幽香が等しく目にした先日の光景。過去と未来を等しく覆すだけの力を持つ『あのゼクター』を持つ存在。あれがかつて目にしたものと同じなら、それはクロックアップを超えた更なるクロックアップの力を行使し、時空を超えて現れた未来の自分自身。

 時間への冒涜による時空の乱れか。しかし天道は過去にもその力を使っている。あの力単体ではこれほどの影響は出ないはず。あるいは別の力と干渉し、相互に影響し合っているのか──

 

「そんなことより、そっちのあなたも外来人? 今の幻想郷で外来人といったら……」

 

「おや、その口ぶりだと……そっちにいる外来人も、やっぱりあれかい?」

 

 幽香の問いは地底の気配を帯びた男、人の身でありながら鬼に似た妖気を持つヒビキに。そして幽香に返す勇儀の疑問は──幽香の存在に竦まぬ胆力を持つ男、天道に対する疑問。

 どちらも興味を抱くは接続された並行世界の、異なる法則を有せし『力を持つ外来人』だ。

 

「……っと、どうやらお喋りしてる時間はないみたいだな」

 

 互いの存在について、その世界について。知りたいことはある。しかし、ヒビキが感じた空気の変化、地底の旧地獄街道でも感じたあの感覚により、その場にいた4人の人妖は等しく自らが肌に感じた『それ』へと振り返った。

 太陽の畑に降り注ぐ陽の光を遮るは、気温の高い場には相応しくない極光の幕壁。本来は極点に近い座標で見られるべきであろうその空間の歪みは、オーロラの形を成した結界である。

 

「灰色のオーロラ……また現れたか」

 

 天道もまた目を細めてそれと向き合う。波打ち揺れる灰色の光は、彼にとってはこの太陽の畑で見た現象。ワームを出現させた未知の事象だった。そしてヒビキにとっては、旧地獄で目にしたもの。童子たちや魔化魍こそ出現の瞬間を見てはいないものの、それらを生み出し育てる、見えざる悪意の傀儡──クグツはあのオーロラから姿を見せた。

 そのどちらにとっても、それはこの幻想郷で初めて目にした現象である。カブトの世界におけるワームも、響鬼の世界における魔化魍も。どちらも灰色のオーロラなど介さない。

 

「あんたらもあれを見たことがあるって様子だね。だったら、するべきことは分かってるな?」

 

「ええ、お手並み拝見といこうかしら。そっちの外来人(あなた)も手伝ってくれる?」

 

 己の右拳を左手の平に叩きつけ、彼方に浮かび上がった灰色のオーロラを見上げる勇儀。遠目からではその規模は分かりにくかったが、その光に映し出された影は五つ。等身大の大きさから察するに、そこにいるのは童子と姫、あるいはクグツだけなのであろう。

 幽香は陽光を遮る白い日傘をくるりと回しては、彼方に見上げる灰色のオーロラを見上げたままヒビキに語りかけた。天道もヒビキもどちらも戦う意思は同じ。彼らは共に、光の下へ向かう。

 

 太陽の畑、その中心。幽香の館から少し離れた傾斜の先にぼんやりと輝く灰色の光。

 

 彼らはオーロラの直下まで辿り着いた。淡く不気味に輝くその光は、彼らの到来を待っていたかのように、緞帳の如くその身を落としては帳に波紋を広げる。

 一つ、二つ、三つ。続けて解き放たれた醜悪な緑色。成長途中のサナギを思わせるは、まさしくカブトの世界の遠い宇宙から地球へと飛来した遥かなる外宇宙の生命体。ずんぐりと丸みを帯びたサナギ体のワームを三体吐き出すと、オーロラはまた別の二体を産み落とした。

 

 漆黒の装束に朱と紫の衣を装う長身痩躯の不気味な男。痩せこけた頬に差す鋏の意匠は、同時に現れた朱と紫の装束に白い衣を纏う儚げな女とよく似た出で立ち。二人は虚ろな視線でサナギ体のワームたちの中に立っては、揃って己が左手の二本指を噛み合わせる。

 長い爪を帯びた人の手は歪に膨れ上がり鈍く殻を纏い始めた。しゃきん、しゃきんと、指を鋏に見立てて動かすままに、それは紛れもない蟹の鋏となって彼らの肘から上を覆い尽くしていく。

 

「うわっ、なんだこりゃ……虫か何かか?」

 

「妖怪か……? よく似ているが……何かが違う……」

 

 ヒビキが目にした異形は骸。三体ものサナギ体はワームの成長段階であり、彼の世界においては存在し得ぬ法則。共に立ち並ぶ天道が見るのは、傍目では人と同じ姿を持つ傀儡。若い男女の姿を模した不浄の人形たちは魔化魍の親たる『バケガニの童子』と『バケガニの姫』であった。

 

「鬼が二人に……(あやかし)一人。残る男は人間か……」

 

「ちょっとまとめて……我が子の餌となってもらいましょう……」

 

 姫が口を開けば、その声は低い男のもの。童子が返して言葉を紡げば、その声は高い女のもの。陰陽二元論の理は自然の在り方がゆえか。彼らはまるで男女の声帯を取り違えたかのように、己に見合わぬ声で語った。

 バケガニの童子と姫は掲げる異形の鋏を胸に添え、やがて纏う衣はするりと首へ移ろい、捩じれゆく妖力と共にその身を変じさせる。

 かつてヒビキも戦ったことのある魔化魍、磯の香りに不浄の邪気を宿す『バケガニ』の親たち。その身はやはり蟹の甲羅や鋏の意匠を思わせる人形の異形、怪童子と妖姫と成り果てて。

 

「ギシュルルルッ!!」

 

 迫るはサナギ体のワームたち。緑色の甲殻を纏ったその身の、肥大化した爪を振るい上げ、三体ものそれらはこの地で未だ互いを知らぬヒビキと天道、そして彼らと共に在る勇儀と幽香に対して襲いかかった。

 重い装甲がゆえか鈍重な彼らは天道の蹴りによって突き飛ばされて後退。続けて迫ったバケガニの童子が振るう鋏も、ヒビキの腕に受け止められ、返す回し蹴りで遠く後退する。

 

 天道が構える右手に向かいてジョウントを遂げた真紅。空間跳躍によってこの場に現れたカブトゼクターは彼の手に収まり、それを右腰へ持っていっては対するワームを見据えたまま。そして、ヒビキは右腰に結びつけた変身音叉・音角を手に取り、それを開く。

 指で弾いて鳴らした音叉に響くは純音。それを己の額に掲げ、その全身に紫の炎を纏い──

 

「……変身」

 

『HENSHIN』

 

「……たぁっ!」

 

 天道は右手に持ったカブトゼクターをライダーベルトに装填。ヒビキは右手の音角を腰へ戻し、滾る紫色の炎を右腕を振るって払う。

 六角形の情報片は瞬く間に天道の姿をマスクドライダーシステムの装甲に覆い、鈍色の甲冑となって彼をマスクドフォームのカブトへと変身させる。紫色の炎を払って鍛え上げたその身に鬼の妖気を顕現させたヒビキの肉体は、艶やかな紫の皮膚を持つ響鬼の姿へと変身していた。

 

「ほう……これは……」

 

「ま、やっぱお前さんもそうなるよな」

 

 天道は未知の法則を宿す鬼、響鬼の姿へ至ったヒビキを見た。互いに向き合うヒビキの無貌もまた、カブトが纏う鈍色の装甲──ZECTの叡智たるマスクドアーマーに向けられる。

 猛士が伝える誇り。ZECTが生みだした技術。そのどちらも彼らが知り得る世界の理にはない。されどヒビキはこの幻想郷、忘れ去られた旧地獄においてもう一つの未知を見ていた。アギトなる光の戦士もまた、響鬼の世界には存在しない法則である。

 対する天道は別の理を持つ戦士や怪物と遭遇してこそいないが、幽香の話からマスクドライダーシステムやワームとは別の理を持つもの、カブトの世界とは別の世界から現れ来たる者の存在を知っている。まさしく鬼と呼べるその姿からは、どこか幻想郷の妖怪に似た波動を感じた。

 

「ずいぶんと重そうな鎧を着込んだね。動きが鈍くなるんじゃないかい?」

 

「驚いたわ。それらしい妖気を持ってはいたけど……こうなると鬼そのものねぇ」

 

 勇儀と幽香もそれぞれ、夏の空の日差しに鈍色の輝きを返す装甲と紫色の煌きを帯びる肉体に、未知なる法則を見る。勇儀はカブトの装甲を一瞥し、すぐにワームへと向き合うと、表情も知性も伺えないその無機質な在り方に頭を掻いた。

 魔化魍ほどの化け物ならいざ知らず──童子や姫などの気配しかない。彼らと違い、知性の程も大したことがない様子を見ると、此度の戦いはあまり楽しめそうにないと感じられてしまう。

 

「まぁ、いいさ。さぁ、そこな緑のサナギども! 一つ手合わせ願おうか!」

 

 昂ぶる魂はヒビキが放つ鬼の妖気を受けてのものか。勇儀は久方ぶりの地上で右腕を振るい肩を慣らし、草原に踏み込んでサナギ体に接近。そのまま妖気を込めた左の拳を叩きつけた。

 

「ギュゥ……ゥオ!」

 

 サナギ体の重厚な装甲に対して、まずは軽い妖力を込めたジャブ程度の一撃。様子見のつもりで放ったとはいえ、鬼の力であれば並みの妖怪は大打撃を負うだろう。その衝撃によってサナギ体のワームは吹き飛んだものの、装甲を打ち破ることは叶わず。

 続けて、真横から振り下ろされたまた別のサナギ体の爪を持ち上げた右腕で受け止める。堅牢な装甲に特化しているためか攻撃能力は低いらしく、その打撃は容易く防御できた。

 

 バケガニの怪童子と妖姫はそれぞれ振り上げた蟹の鋏をもって幽香と天道に迫る。鋭く強靭な爪は蟹の鋏らしく内側に挟み込まなければ切断力はないのか、打撃武器としての性能のままその重みをマスクドフォームの装甲へ打ちつけた。

 されどカブトの装甲は、マスクドフォームにおいてはワームのサナギ体すら大きく上回るもの。如何に自然の妖力を集めた怪童子と妖姫の肉体といえど、マスクドアーマーに傷はつかず。

 

「……何?」

 

 打撃においては、その一撃は防いだ。だが。天道は怪童子の鋏から溢れた緑色の泡が、マスクドアーマーの厚き装甲に──白く煙を上げゆく様を目にした。

 高熱を発生させているのか、魔化魍の性質を帯びたそれは不快な音を立てて──

 

「ちょっと痛むぞ」

 

「ちょっと熱いよ」

 

 怪童子と妖姫の鋏より滲む泡は、ZECTが誇るネイティブの技術、地球上の技術さえ超えたヒヒイロノカネ製の装甲を微かに溶解させ始めた。重厚な装甲であるがゆえに、その浸食は天道の身にまで達してはいないが、あろうことかマスクドライダーシステムの装甲を溶かすとは。

 仮面の下で表情を変える。純粋な戦闘力こそサナギ体程度にしか持たぬだろうこの怪物たちは、どうやら人間の科学技術とは相容れぬ、未知なる超常の力を持っているのだ。それこそ、幻想郷の妖怪の如き、幻想──あるいは神秘と呼べる力。

 

 天道はすぐさま怪童子を蹴り飛ばした。マスクドアーマーは純粋な打撃に対しては極めて強固な装甲として機能するものの、ZECTはワームとの戦闘を前提としてこれを開発した。幻想郷などという未知の秘境、科学を超えた大自然の叡智、妖怪との交戦など想定されているはずがない。

 

「青年、あんまり近づきすぎないほうがいいぞー。そいつら、溶解泡を出すからな」

 

「……ご忠告、痛み入るよ。できれば、もう少し早く言ってほしかったがな」

 

 ヒビキが気の抜けるような声で天道に言う。マスクドフォームの硬く厚い手で装甲を撫でるが、幸い溶かされた装甲は一部のみ。表面だけを微かに溶かされた程度で、やや耐久性が低下しているようだが、この程度なら次の変身時には修復されているだろう。

 すぐ傍にいるバケガニの妖姫は再び溶解泡を散らしつつ、左腕の鋏を振り上げた。天道はジョウントによって手元に呼び現したカブトクナイガンの柄を掴むと、アックスモードで振るう。

 

「ぐぅ……っ」

 

 カブトクナイガンの斧としての刃で切りつけられたバケガニの妖姫は、白い体液を噴き出しつつよろめくように後退していった。

 そのまま再び接近しようとしてきた怪童子に対し、幽香が傘の先から光弾を放って牽制するのを見届けながら、天道はカブトクナイガンを反対向きに持ち替えて妖姫に向けてガンモードとしての引き金を引いて撃ち放ったイオン光弾で、妖姫たちの接近を阻止する。

 幽香の反応を見るに、この鬼らしき男の言葉から察するに。これらは幻想郷の妖怪ではない。

 

「そいつらは童子と姫っていうんだ。魔化魍って怪物を育てる親なんだとさ」

 

 勇儀は目の前のサナギ体を殴り飛ばして、ヒビキと背中を合わせて互いの死角を守りながら言った。背後のヒビキも同様にサナギ体を殴り飛ばした様子を見届けると、今はその魔化魍はいないみたいだけど、と付け加えて肩に腕を置きつつ腕を鳴らす。

 そろそろ飽きてきた頃合いだ。勇儀は右の拳を握りしめると、互いを守るように身を寄せ合ったサナギ体たちに紅い瞳を向けて威圧する。ヒビキもまた、響鬼としての無貌でそれらを見た。

 

「じゃあ、私からは先に言っておこうかしら。そいつらワームには、相手の姿に擬態する能力があるのよ。なんでも、遠い宇宙の果てから隕石と一緒に落ちてきた地球外生命体だとか」

 

「何? 擬態だって?」

 

 いざや一撃をもって粉砕せしめん。その気概で妖力を束ねかけたとき、幽香が日傘の下で小さく唇を開いた。眩い日差しに勇儀と等しき真紅の眼を細め、本来ならば尊き花々と共に生きる自然の一部であるはずの虫たちを憂う。

 同じ星にて生まれていれば、あるいは花の蜜を運び担う導き手となれただろうか。異なる星より現れたために花々を踏み荒らすのなら──その怒りを代行せざるを得ないと。

 

 勇儀が幽香の説明に問い返す。すぐに目の前のサナギ体に向き直ると、彼らは緑色の骸を真夏の日差しに捻じ曲げるように自らの細胞ごと歪ませていった。

 一瞬の間にて作り替えられた彼らの遺伝子。細胞の一つ一つに定義されたワームとしての能力。それらの真価を発揮して、今、勇儀たちの前に立つは──まさしく幻想郷に住まう妖怪たち。

 

「なるほどな。そういう類の怪異ってわけか」

 

「良い度胸じゃないか。私ら鬼を前にして、嘘と偽りで欺こうったぁねぇ」

 

 ヒビキと勇儀は姿を変えたワームを見て冷静に思考する。二体のサナギ体はそれぞれの姿を星熊勇儀と風見幽香の姿に。外見も記憶も思考も、すべてをコピーするワームの擬態能力。彼らが成り済ますは、鬼の一本角と花の如き日傘だけではない。

 滾る鬼の力。咲き誇る大妖の力。細胞レベルでの擬態を遂げた彼らは、彼女らの遺伝情報さえも正確に模倣しており、その肉体が宿す鬼の膂力と花を操る能力さえも身につけている。

 

 だが。それはあくまで擬態した瞬間のもの。自らに擬態されたことではない。擬態という欺瞞で鬼を謀ろうとした不義。勇儀たち鬼が何より嫌う──嘘。ワームが擬態した直後に芽生えた勇儀の魂の怒りまでは、勇儀に擬態したワームには宿っていない感情だ。

 ゆっくりと地を踏みしめ、幽香と己の姿に擬態したままのサナギ体たちへと接近していく勇儀。擬態幽香の能力で全身に纏わりつく(ツタ)を強引に引き千切り、鏡映しの己と拳を打ち合わせた。

 

「……っ!!」

 

「私に化けたと言ってもそんなもんか? これなら化け狸の方が張り合いがあるね!!」

 

 勇儀の拳は擬態勇儀の拳と激しくぶつかりあい、周囲の花々を風圧で揺らす。風に散りゆく花びらの美しさに似つかず、その剛毅な妖力の圧力は同じ膂力を有するはずの擬態勇儀を狼狽えさせ、怯ませた。

 ワームという種が持つ共通の擬態能力は等しいもの。されどその力をどれだけ我が物としているかはワームそれぞれの個に委ねられる。種を統べる位置に立つ高位のワームであれば、より高度な擬態を可能としていた。しかし、サナギ体程度の能力では──

 

 擬態勇儀の拳に亀裂が入る。そこから細胞の機能が死滅していき、慌てて腕を引いた擬態勇儀は擬態をやめ、元のサナギ体の姿に戻っていた。

 所詮は虫による擬態。勇儀という一人の鬼が持つ在り方、そのすべてを模倣することは能わず。彼女の表面しか見えていない虫如きに、四天王たる鬼の真なる拳が再現できるはずもなく。

 

「…………!」

 

 勇儀の拳一つでサナギ体は吹き飛び、擬態さえ維持できなくなった。それを見ていた擬態幽香も額に汗を浮かべ、手にした日傘を捨て去って全身の妖力を光弾と束ねて勇儀を射貫こうとしているようだ。しかし──その動きも本物の風見幽香が導いた太陽の畑のツタによって動きを抑制され、妖力を解放することができなくなる。

 擬態幽香が彼女を見たときにはすでに遅く。幽香の日傘の先に収束した妖力は太陽の如く輝き、解き放たれたフラワーシューティングは五方向への光弾を一方向に纏めて炸裂した。

 

 吹き飛んだ先の個体に対しては勇儀が追い打ちを掛ける。擬態幽香もまた擬態を維持できなくなり、サナギ体に戻っては甲殻から光を零し。先ほどまで擬態勇儀であった個体に対しては、勇儀が古来より受け継ぐ鬼の妖力をもって真っ直ぐに拳を叩き込むように、その緑の甲殻を穿ち抜く。

 

「「ギュシュルルルルゥウッ!!」」

 

 どちらも緑の炎を上げて、爆散を遂げるサナギ体。それらは太陽の畑に吹き込む夏の風によって仰がれ、欠片も残さず消滅した。

 勇儀と幽香が撃破した二体のワームを見届け、同時に動いていたヒビキと天道もまた、猛士にて鍛え上げられた鬼の肉体とZECTにて開発されたマスクドライダーシステムで向き合うバケガニの童子と姫に対し、それぞれ響鬼とカブトの力を解き放とうとする。

 

 魔化魍バケガニを育てる者たる童子と姫。彼らは怪童子と妖姫として、蟹の甲羅と鋏爪を帯びた異形の怪物となっている。その鋏から溢れる不浄の泡は、自然の妖力を帯びた溶解泡として触れた万物を容易く溶かしてしまうのだ。故に、接近して戦うことは極めて危険な行為と言えよう。

 

「近づかなければいいだけだ」

 

「ま、そういうことだな。ちょっと荒っぽいことするけど、驚かないでくれよ」

 

 天道は手にしたカブトクナイガン ガンモードを右手に構える。ヒビキは鍛え上げた肉体のまま地を駆け走り出し、あわや溶解泡が届こうかという範囲まで近寄りかけた。

 マスクドフォームのままのカブトの青い複眼で目にしたその行いは、自ら語った怪物の間合いに踏み入ってしまうようなもの。何を考えているのか──幻想郷に招かれたであろう異世界の戦士、その在り方を確かめるべく、天道は様子を見る。

 ヒビキはバケガニの妖姫が左腕の鋏を振り上げた瞬間を見計らい、紫の無貌に口を開いた。己が身そのものと定義し得る響鬼の身をもって、その口から滾る鬼の妖力たる紫色の炎を放つ。

 

「ぐぎゃあああッ……!」

 

「はぁっ!」

 

 紫色の炎に包まれて燃え上がるバケガニの妖姫。ヒビキが太陽の畑を駆け抜けながら、止まることなく放った鬼幻術・鬼火を受け、妖姫が動きを止めた隙に。そのまま疾走の勢いを殺さぬままに振り抜いた掌底を打ちつけてバケガニの妖姫の肉体を正面から打ち砕く。

 白い体液と共に砕け散ったその身は魔化魍を育てる者であれど、魔化魍そのものではない。自然の力が歪み生まれた存在ではないため、清めの力を持つ音撃でなくとも撃破は可能だ。

 

「……どちらが怪物か分からないな」

 

 天道は不動のまま。機動力に欠けるマスクドフォームの身で無駄に動くことなく、カブトクナイガン ガンモードの銃口をバケガニの怪童子に向ける。通常射撃の光弾は怪童子の蟹の甲羅を帯びた左腕の鋏によって防がれてしまったが──

 それはただの牽制に過ぎない。本命たるタキオン粒子の収束を終え、粒子から電離した高純度のイオンエネルギーを、カブトクナイガンの銃口より解き放つ。

 白く輝く光は怒涛の如く湧き上がるアバランチシュートの一撃として夏の風を裂き、バケガニの怪童子の左腕の鋏では受け止められず。圧倒的なエネルギーにより、怪童子は爆散を遂げた。

 

「シュギュルル……!」

 

 現れた二体のサナギ体は勇儀と幽香に倒され、バケガニの童子と姫はヒビキと天道に倒された。残った最後の一体、誰にも擬態しなかったサナギ体はそれらを時間稼ぎに用いていた様子。擬態にエネルギーを使うことなく、育ち切った全身の細胞に熱を込め始める。

 赤熱した甲殻は虫らしい緑色のそれを溶け歪めるように色を変え、迸る熱は真夏の太陽の日差しよりも熱く、太陽の畑に揺らめく陽炎を立ち昇らせた。

 

 崩れ落ちた甲殻の中より現れたのは、サナギの身を破りて脱皮せしめた成虫体。地球の昆虫たるホタルの姿によく似た『ランピリスワーム』である。その姿は漆黒の身に纏い帯びる蛍光色の緑を甲殻として灯らせるように己が全身に配して、不浄の骸めいた緑色の頭で見るは──

 さながらホタルの臀部にあるべき器官を拳と成したような右腕。ぼんやり淡く輝く球体を先端に有したランピリスワームの右の拳は、全身の発光エネルギーをプラズマとして放つ力を持つ。

 

「あら、またホタルなの? ……あのとき戦ったのはハチだったかしら」

 

 脱皮を遂げたワームに向き合う幽香と天道。幽香の思考に想起されたのは先日の記憶だ。二体のアラクネアワーム──蜘蛛のワームを撃破したあと、夏空の彼方より飛来したのは幻想郷の妖怪、リグル・ナイトバグ。彼女自身はホタルの妖怪であったが──

 マスクドライダーシステムなる力を手にした彼女はスズメバチを模したゼクターを使って黄色と黒の戦士へと変身を遂げた。それは紛うことなきハチのマスクドライダー、ザビーである。

 

「サナギが脱皮したってところか? 真っ昼間にホタルってのも映えないねぇ」

 

「……っと、それだけじゃあないみたいだな。この気配……奴さんが出てきそうだぞ」

 

 勇儀とヒビキもまた、地球の法則に依らぬランピリスワームのおぞましき悪意と向き合いながら。カブトの世界の遠き宇宙より舞い降りた怪物、脱皮を遂げたそれに加え、揺らめくオーロラの彼方に浮かび上がるは巨大な影。

 太陽の畑の花々を踏み荒らすようにその姿を見せたのは、紫がかった赤い体色を持つ巨大な蟹の怪異であった。

 背中の甲羅に無数のフジツボを背負うように帯び、全長8mはあろうかという巨体でオーロラを潜り抜け、夏空の下に現れた響鬼の世界の自然の具現たる魔化魍──『房総(ぼうそう)のバケガニ』。それは己が両爪の鋏をガチガチと鳴らし、童子と姫の仇のつもりかヒビキたちを見下ろす。

 

「これがあなたの言っていた魔化魍? ずいぶん変わった妖気をしてるのね」

 

「感じた通りだよ。こいつらはいくら殴っても、響鬼(あいつ)の音じゃないと倒せないんだとさ」

 

 軋みを上げつつ巨大な鋏を振り上げる房総のバケガニ。幽香と勇儀はその一撃を軽やかに避け、それぞれ天道とヒビキの隣に再び並び立つ。

 バチバチと放電を始めるランピリスワームの右腕を警戒しつつ、幽香は紅い瞳をヒビキと勇儀に向けた。ふわりと差した日傘を手にしたまま、優雅に花の香を纏いながら、彼らに忠告する。

 

「脱皮したワームもとっても厄介よ。カブト(かれ)ならついていけるから、見守りましょう」

 

 幽香がそう言った瞬間、ひまわり畑に風が吹いた。舞い散った黄色い花びらの一枚が揺らめくままに、勇儀とヒビキの視界からランピリスワームの姿が消える。それも、一瞬のうちに。

 

「ん? あれ? あのホタル……どこ行った?」

 

「……クロックアップっていうらしいわ。なんでも、時間の流れを変えて動けるんだとか」

 

 言い切る間もなく、幽香と勇儀の左右からほぼ同時に鋭い爪の一撃が飛んできた。ワームが二体に分身して攻撃してきたのではない。複数体いるのではないかと思わせるほどの超高速で、残像を振り切りながら二人それぞれに連続で攻撃してきただけ。

 その『連続』のタイムラグが限りなく小さいのだ。クロックアップなる力は、瞬きの間に時間を飛ばすようなもの。純粋な超加速能力というわけではないが、自身に流れる時間流そのものを捻じ曲げるタキオン粒子の干渉により、鬼と大妖の目にも留まらぬ速度で自在に太陽の畑を駆け巡ってワームの腕力を振り乱す。

 

 幽香と勇儀はそれぞれ日傘と己が腕でもって、それを受け止めた。クロックアップしたワームを視認していたわけではない。長き時を生きた妖怪としての経験による感覚。知性なきワームが放つ剥き出しの敵意を感じ取れれば、速度を追えずとも対応は難しくない。

 勇儀が疑問を抱く通り、幽香がすでに知っている通り。その速度はワーム自身にかかる時間流の変化。純粋に超高速で動いてるわけではないため、その疾走には大した風圧は発生せず、彼女らが受けたダメージも速度に伴わぬ小さな衝撃に過ぎなかった。

 ランピリスワームの行動が早送りされているだけ。超加速による運動エネルギーの増大もなく、音速を優に超えたその疾走を遂げても空気の層が破壊されて爆音が響くこともない。

 

 天道が感じたマスクドアーマーへの打撃も同じく大した衝撃ではなかった。バケガニの妖姫が放った溶解泡で耐久性が低下しているとはいえ、それでもなお強固な鎧。

 彼はそんな安全な鈍重を捨てる。カブトゼクターの角を起こし、一気にそれを右へと倒す。

 

「……キャストオフ」

 

『CAST OFF』『CHANGE - BEETLE』

 

 クロックアップを果たしたワームを常人の目で捉えることは、通常は不可能。だが、マスクドライダーシステムに備わる複眼であれば、成虫体ワームの複眼と同様にタキオン粒子の流れる目でもってその時間流を捕捉することができる。

 天道は不要となったマスクドアーマーをキャストオフによってパージ。ファンデルワールス力の結合が解かれた重厚な鎧はいくつもの部位に分かれながら、カブトの真の姿を晒した。

 

「ギギギ……」

 

 解き放たれたマスクドアーマーのパーツを受けたバケガニはンキィ、ンキィと軋みを上げつつ、目の前に立つ真紅を見下ろす。

 ライダーフォームとなったカブトの青い複眼、雄々しく抱く角の下で見るは、図体ばかり巨大で鈍重な動きの魔化魍バケガニではなく、知覚の外で駆け回る白昼のホタル。

 勇儀と幽香に向き直りながら、天道(カブト)は彼女らを狙い疾走するランピリスワームを警戒した。

 

「重たそうな鎧を捨てたのはいいけどなぁ。あの速さについていけるだって? 本当か?」

 

 鬼の拳を構えてバケガニと対峙する響鬼(ヒビキ)は横目でカブトのキャストオフを見届け、幽香の言葉を思い出す。確かに甲冑を脱ぎ去ればその重さの分だけ素早くなるだろうが、あの怪物は鍛えに鍛え抜いた鬼ですらその目では追い切れない速度。

 肌身に伝わる感覚においてはワームと呼ばれた怪物の存在を感知できるものの、風圧もなければ残像すら見えないその動きは、実際に接触されなければそこにいるのかさえも正しく認識しかねるほどだった。

 

 巨大な体躯を誇るバケガニが動く。肥大化した蟹の鋏を振り上げ、ワームの動きを探るべく静止していたカブトの身に振り下ろされるは、カブトの何倍もの大きさを持つ剛爪。ヒビキはライダーフォームのカブトの能力を知らず、背を向けて佇む彼に危険を告げようとするが──

 複眼に映る残像を追い、天道はライダーベルトの右腰に備わったスラップスイッチを叩く。

 

「クロックアップ」

 

『CLOCK UP』

 

 太陽の畑の大地に巨大な爪が抉り抜ける。土を穿ち上げ花々を散らすその膂力に、幽香は微かに眉をひそめた。それは、天道総司の命ではなく、花を心配しただけのもの。

 そこにカブトの姿はない。ヒビキも勇儀も幽香でさえも、共に等しく見失った真紅の行方。緋色の輝きを返すライダーフォームは、全身に満ちるタキオン粒子の導くままに異なる時間流へと突入した。それを認識することができるのは、クロックアップの世界に踏み入った彼らだけである。

 

「ンキィ、ンキィ……」

 

 房総のバケガニは鋏の矛先を見失って混乱している様子だ。ヒビキは先ほどのワームと同様に一瞬にして姿を消したカブトに驚いたが、すぐにバケガニの動きに気づく。背中のフジツボからじわじわと滲み溢れる泡は、童子と姫が有していた溶解泡と同じ能力。

 背中の甲羅を向けてゆっくりと歩み寄って来る怪物。巨大な蟹の鋏を振り回さずとも、その泡は肉体が変化した生体皮膚である響鬼の身を容赦なく溶かすだけの大きな脅威である。

 

「おっと……! 危ない危ない……あっちのすばしっこいのは青年に任せた方がよさそうだ」

 

 あの青年が変身した緋色の戦士はワームと呼ばれた謎の怪物と同じ能力を持っているのだろう。相対性理論を覆すだけの時間への干渉をもって、それはヒビキたちの認識の外へと消えた。なればこそ、こちらは元より鬼の音撃でもってのみ土へ還せる魔化魍へと向き直る。

 ヒビキは腰の背に携えた音撃棒・烈火を両手に抜き放つと、その先端に設けられた真紅の鬼石、燃ゆる闘志を体現したかのようなそれに響鬼が抱く炎の気を込めて──

 ぼうと灯った炎の塊を大きく振り上げ、バケガニに対し鬼棒術・烈火弾として解き放った。

 

「ンギギギィ……!」

 

「シュギュルルルゥ……!」

 

 蟹の甲羅にて炸裂する烈火弾の衝撃。いくつかのフジツボは剥がれたが、それでもバケガニの背より滲む溶解泡は止まることなくブクブクと溢れ出す。

 クロックアップを遂げた天道とランピリスワームはヒビキのその一瞬の動きの中、烈火弾がバケガニに着弾するまでの微かな時間の中で幾度も拳を交える激しい攻防を繰り広げていた。

 

「ギュルルッ!」

 

 ランピリスワームが突き出した右腕の球体は、ホタルの臀部の発光器官に似る。バチバチと紫電纏うそれは太陽の下、ぼんやりと輝いていたその淡い光を強めると、その先端から空気を切り裂くプラズマの電熱を解き放ってきた。

 しかし、如何に成虫体へと脱皮を遂げ、クロックアップまで使いこなす個体であろうと、所詮はただのワーム。歴戦の経験を積む天道は軽やかに首を動かし、その連撃を回避する。

 

「…………」

 

 接近してきたランピリスワームを回し蹴りで突き飛ばし、天道はジョウントによって手元に呼び寄せたZECTの兵器を起動する。

 片手で持つことができる小型武装。持ち手の上部のスイッチを押すことで四つの発射口を扇状に開いたそれは、対ワーム用として開発された『ゼクトマイザー』と呼ばれるもの。彼の操作により起動し、発射口から無数の誘導爆弾『マイザーボマー』を射出し始めた。

 

 小さなカブトムシを思わせる紅い爆弾はそれぞれが意思を持つように縦横無尽に飛び交ってはランピリスワームに立ち向かっていく。一つ一つは小さく弱いものの、無数に飛び出したそれらに翻弄され、ランピリスワームはプラズマの放射も満足に行えない。

 クロックアップを遂げた天道(カブト)とワームが肉薄する中でも機能する小さな爆弾たち。同様の機能を有したマイザーボマーは、異なる時間流の差に遅れることなく一斉に爆発する。

 大量の小型爆弾の炸裂を受け止めたランピリスワームが吹き飛ぶと同時、時間は元に戻った。

 

『CLOCK OVER』

 

「ギュゥ……ルル……」

 

 共にクロックオーバーを遂げ現実時間に戻ってきた天道とランピリスワーム。マイザーボマーの炸裂によってダメージを負っているが、今一度クロックアップを行使しようとする意思と、それを可能とするだけの体力は残されている様子だ。

 だが、その意思は叶わなかった。ランピリスワームは吹き飛ばされてクロックオーバーを遂げ、自身が房総のバケガニの正面に追いやられてしまっていたことに気づけなかったのだ。

 

「……ギュ……!」

 

 ぶしゅ、と嫌な音が響く。バケガニが甲羅のフジツボから零した溶解泡が、ランピリスワームの肩に滴り落ちた。軋むような不気味な音と共に、巨大な鋏が迫り──

 ランピリスワームは自身の甲殻が溶けゆく熱に苦しむまま、バケガニの鋏に挟み込まれる。

 

「あいつ、いったい何をしようってんだ……?」

 

「あのデカいの、ワームの仲間ってわけじゃないのかしら」

 

 勇儀と幽香がその行動の意図を掴みかね、バケガニを警戒しながら微かに後退。必死にクロックアップを遂げて脱出を試みるランピリスワームだったが、クロックアップはあくまで自身にかかる時間流の変化。速度や筋力が増すことはないため、バケガニの鋏からは抜け出せない。

 

「まさか……」

 

 ヒビキはバケガニの行動に覚えた疑問から魔化魍の性質を思い出していた。かつて自身が生きた響鬼の世界において、彼らを相手にしていた戦いの記憶。

 魔化魍は自然の妖力が歪み落ちて生まれたもの。しかし、童子や姫の導きによる変異は有るべき魔化魍の性質にも変化を及ぼしている。

 本来ならば太鼓ではなく『弦』での音撃が効果的な魔化魍バケガニ。太鼓の鬼であるヒビキは、房総半島における戦いまではバケガニとの交戦経験がなかった。それでも猛士のデータベースから情報は得ていたし、予め彼らの行動パターンもある程度は把握していた。

 

 その上でなお困惑したのは、海辺にて育ったバケガニが甲羅に宿すフジツボ。ヒビキが知り得た情報には、鬼の皮膚をも溶かすほどの溶解泡を持つ事実などなかった。過去の個体よりも進化し、房総のバケガニは新たな力を身に着けていたのだ。

 童子と姫による特性の付与なのか──それらを操る見えざる悪意の謀か。魔化魍は、彼ら親たる不浄の骸に導かれるまま。歴戦の鬼でさえ知らぬ未知なる能力を身に着けることがある──

 

「……ワームを……食っている……?」

 

 天道がライダーフォームの複眼で見やる魔化魍の行動。右の鋏で掴んだランピリスワームを蟹が如き口腔にて噛み砕き、ワームの甲殻をも容易く破壊していく。

 口からも溢れる溶解泡がその装甲を溶かし、バケガニの咬合力でもってワームはほとんど抵抗もできずに捕食されてしまった。天道は知る由もないが、魔化魍は成長のための栄養に餓えている。自らを育ててくれた童子と姫でさえ、何の躊躇も見せずに喰らってしまうほどに。

 

「ンギィ、ンギギギィ……!」

 

 溶解泡を伴う唾液を口から零しながら、両の鋏を掲げて軋む怪物。そのおぞましさに、ヒビキも天道も、勇儀も幽香もただ静かに息を飲むだけ。

 ヒビキにとっては未知の存在、カブトの世界の外宇宙より飛来した異物(ワーム)。そんなものを喰らった魔化魍がどのような成長を遂げるのか想像もつかず、音撃棒・烈火を握る手に力が入る。

 勇儀も拳を構え、バケガニの行動に備えるが──瞬間。見上げるほどの巨躯が、消え失せた。

 

「何っ……!? ぐぁっ……!?」

 

「勇儀っ!」

 

 燻る真紅の甲羅が一瞬にして目の前に現れ、勇儀は対応する間もなく巨大な鋏によって打ち上げられてしまった。しっかりとバケガニを警戒していたヒビキも、その動きを捉えることはできず、勇儀への接近を許してしまったことに気づいたのは、そのあとのこと。

 鬼の力をもってしてダメージは最小限に抑えた。高く空へと打ち上げられるも、幻想郷の少女たちが等しく備え持つ飛行能力によって空中で体勢を整え、太陽の畑の草原に着地を遂げる。

 

「……最悪ね」

 

「ああ、まさか……ワームの能力を取り込むとは」

 

 風見幽香の瞳にタキオン粒子の流れはない。それでも、カブトの装甲を纏う天道と同様にそれに気づけたのは、幾度もワームの動きを、天道総司の動きを目にしていたがゆえ。

 房総のバケガニは、ランピリスワームを喰らったことでその身にタキオン粒子を得たのだ。

 

「……冗談じゃないぜ……まったく……」

 

 ヒビキは無事に立ち上がった勇儀を見て安心するも、バケガニへの対処に頭を悩ませる。あの動きが先ほどバケガニに喰われたホタルの怪物、鬼の動体視力でも捕捉できないほどの動きを見せたワームなる存在の能力であると、彼らの反応から察することはできた。

 しかし、猛士の修行のもと鍛え抜いた響鬼(ヒビキ)であろうと、クロックアップなどできるはずがない。鬼の妖気を音撃棒・烈火に乗せるも、烈火弾の一撃は瞬く間に消えた怪物には当たらず。

 

「そっちの赤いの! あんたならさっきみたいに追いつけるんだろ?」

 

「バケガニに近づくなら、さっきの重そうな鎧を纏い直したほうがいいぞ、青年!」

 

 ライダーフォームのまま機を伺う天道(カブト)に対して、勇儀とヒビキが声を上げる。確かにマスクドフォームの装甲すら溶かす泡を思えば、ライダーフォームの薄い装甲で接近するのは得策ではないかもしれない。だが、ヒビキが語ったその選択肢を取ることは──もはやありえないのだ。

 

「悪いが、そうもいかない。あの姿のままだとクロックアップできないんでね」

 

『CLOCK UP』

 

 言うや否や、天道は右腰のスラップスイッチを叩いて最高速の世界へ。全身に満ちるタキオン粒子の流れに身を任せ、自身と同様に時間の流れを捻じ曲げたバケガニと相対する。ぶしゅぶしゅと溶解泡を噴き出す甲羅のフジツボを警戒し、天道は接近を避けた。

 ゼクトマイザーの火力では不足。ならばと手元に現したカブトクナイガンの銃把(グリップ)を握りしめて、ガンモードの状態でイオンエネルギーを収束。高密度のアバランチシュートを解き放つ。

 

「ンギ……ギィ……!」

 

「……ん?」

 

 その一撃は紛れもなくバケガニの顔面に命中した。硬い甲羅ではなく、柔らかい部分を狙い射貫いたのだが、その身の一部を破壊することはできても完全な撃破に至っていない。

 見たところその巨体ゆえ生命力も並外れていることは分かる。それでもこれだけの火力をもってして生命力の減衰すら起こらないとは。天道は幽香が語った変わった妖力という言葉、その呟きに返された金髪の女性──勇儀の言葉を思い出す。

 

 響鬼(あいつ)の音でしか倒せない、その意味は。文字通り、倒すことができないものと考えれば、いくらクロックアップして追いついたところで魔化魍(あれ)に有効打はないこととなる。

 天道が気になった点はそれだけではない。あの魔化魍なる化け物は、一撃を受けた時点ですでに通常の時間流に戻っているのだ。クロックアップの制限にはまだ達してはいないはずであり、この状況でクロックオーバーを遂げることを選ぶ理由はないはず。それならば、あるいは──

 

『CLOCK OVER』

 

 様子見のため、天道もスラップスイッチを叩くことで能動的にクロックオーバーへ至る。共に通常の時間流に戻って冷静にバケガニの動きを見ると、一つの可能性に思い至った。

 

「ワームの細胞が馴染んでいないのか……?」

 

 いくら成虫体のワームを捕食してみせたとはいえ──異世界の法則。自身の身体に馴染ませるのには時間がかかるのか、魔化魍はランピリスワームの遺伝子を完全に自分のものにすることはできていないようだ。

 マスクドライダーシステムのそれと比べ、成虫体ワームのそれと比べ。どうやら力は半分以下。ワームのクロックアップが10秒ほどであるなら、魔化魍は3秒程度が限界らしい。

 

 ギチギチと間接を軋ませ、鋏爪を持ち上げては悠然と歩み迫るバケガニ。振り落ちるその一撃を避ける。鈍重な動きはクロックアップさえしていなければ回避は容易であろう。振り回されるそれらは勇儀も幽香も簡単に避けているが、飛び散る溶解泡が厄介だ。

 ヒビキもそこが懸念であった。勇儀と同様、彼らほどの腕力ならば、振り下ろされる鋏を自らの筋肉で受け止めて攻勢に出ることもできる。ただ考えなしにそれを受け止めれば、甲羅のフジツボから溢れる溶解泡の餌食となってしまうことは明白。

 クロックアップする魔化魍。カブトのクロックアップでなければそのスピードには対応できず、響鬼の清めの音でなければ自然の妖気を浄化することはできない。必要なのは、二人の力だ。

 

「ちょこまかと……! 喰らいな! 金剛螺旋(こんごうらせん)!!」

 

 勇儀は右拳に込めた妖力を黄金の螺旋と解き放つ。バケガニ自体は巨躯であり、その的は大きく当てやすいはずなのだが──

 心に砕いた光の札、鬼の力を波打つ鞭の如くしならせ薙ぎ払う【 光鬼(こうき)「金剛螺旋」 】の一撃を振るうが、再びクロックアップした房総のバケガニにそれが当たることはない。

 

「面倒だね……いっそこうなったら……」

 

 巨体に見合わぬ動きで駆け巡る房総のバケガニ。たった数秒程度の超加速ではあるが、連続して発動できるのは厄介だ。クロックアップによって物理的な速度や筋力自体は増大しないとはいえ、元々が大きな質量を持つ巨体。あれで殴られれば、相当の衝撃になる。

 動きを捉えられない敵への対処法など一つしか思いつかない。勇儀は切り札たるスペルカードを心の内にて輝かせる。湧き上がる太古の妖力は、勇儀の周囲に黄金の波動(オーラ)を立ち昇らせ──

 

「ちょっと、何をする気?」

 

四天王(わたしたち)の切り札だよ。こいつをぶっ放せば、文字通り──『必殺』だ」

 

お花畑(ここ)が更地になっちゃうわ。それに、あなたが言ったんでしょ? 音がどうとかって」

 

 幽香はその妖力に危機感を抱く。鬼という強大な存在が滲み溢れさせる太古の妖力、その絶大な気迫に微かに慄いてしまったのあるが、それ以上に。愛すべき花々の楽園、この地の向日葵たちが不条理な力の具現に圧し潰されてしまうことに。

 眉根を寄せて、不機嫌そうに声を返した幽香は勇儀の言葉を思い出させるように釘を刺す。鬼の本気を見たことがない幽香だったが、伝う気迫はそれが虚仮脅しではないと理解させた。

 

「……ああ、そうだったねぇ」

 

 口惜しくも妖気を収める勇儀。風と靡いてふわりと舞い上がっていた金色の長髪も、ゆっくりと落ち着いては重力に従い艶やかなるままに流れ落ちる。

 ランピリスワームの質量であれば、クロックアップを追えずとも攻撃を防ぐことはできていた。しかし、房総のバケガニは巨体。腕一本で防げるほど小さな衝撃ではなく、迫る鋏の衝撃に幾度となく全身が浮き上がる。

 加えて妖力で全身を保護していなければ、溶解泡までもが容赦なく皮膚を溶かし始めるだろう。幽香は鬼ほどの剛毅な肉体を持っていないものの、決して枯れることのない花たる日傘で溶解泡を凌いでいた。バケガニは鬼の妖力を厭うのか、勇儀とヒビキばかり狙っているが──

 

「あら? クロックアップの頻度が減ってきてるわね」

 

「ワームを喰らったとはいえ、その質量が仇になっているというわけか」

 

 幽香は勇儀たちにバケガニの相手を任せる。鬼の肉体ならば、ある程度の打撃には耐えられるだろう。囮と言えば聞こえは悪いが、それは幻想郷において最強を誇る種族に対する信頼という名の礼儀とも言える。

 ランピリスワームは、等身大の怪物。その一体を加速させるに足るタキオン粒子だけでは房総のバケガニほどの巨体を満足にクロックアップさせるには些か不足であったらしい。

 

 天道と等しくそれを理解する。幽香は飛散する溶解泡を日傘で受け止め、天道は首だけを微かに動かしてその飛沫を回避。

 マスクドアーマーすら溶かし得る泡でも溶けぬ日傘の強度に慄く天道であったが、それは人類やネイティブの科学力を上回る妖力という概念を帯びているのだろう。

 

 クロックアップは本来、生体にタキオン粒子を巡らせて時間の流れを捻じ曲げる事象。ワームもマスクドライダーシステムも等しく、やがて訪れるクロックオーバーがなければ、タキオン粒子の流れによって多大な負担を受け、細胞へのダメージとなる。

 その行使を想定された装備であれば連続して発動しても負担は抑えられるのだが、バケガニに関してはクロックアップなどできるはずがない構造でありながら、喰らった遺伝子とタキオン粒子で強引に発動しているのだ。本来の使用者たちよりも全身への負担が強いのは当然と言えよう。

 

「……いやぁ、参ったなこりゃ」

 

 ヒビキはなんとかバケガニの猛攻を凌いでいた。バケガニ自身もクロックアップに慣れていないのは当然。普段以上の軋みを上げる己が殻に戸惑う最中、フジツボから噴き出す泡でもって混乱を表現して見せている。

 それでも気づけば瞬く間に目の前に迫る巨体。振り抜かれた鋏に対して受け身を取るのが精一杯で、筋肉を張り詰めて少しでも溶解泡のダメージを堪えることしかできず。

 魔化魍の浄化のために必要な音撃の要、音撃鼓・火炎鼓をその身に設置する隙がない──

 

「隙がないなら、作り出せばいい。……クロックアップ」

 

『CLOCK UP』

 

 天道は再びスラップスイッチを叩いてタキオン粒子の真価を発揮する。舞い散る向日葵の花びらと溶解泡の飛沫。それらが視界で静止したように緩やかに浮かぶ中、ライダーフォームの機動力をもって房総のバケガニへと接近していく。

 たった数秒といえど、クロックアップを可能とするワーム以外の怪物と交戦した経験などない。この魔化魍なる未知の存在は、等身大のワームとは立ち回りも気配も何もかもが違う。

 

「……くっ……」

 

 クロックアップの世界にて置き去られぬスピードで落ちる鋏。見上げる巨体と戦うことなど天道の経験にあるはずもない。頭上より落ちる鋏は天道自身の戦闘センス、七年間もの鍛錬の結果もあって何の苦もなく回避することはできた。

 だが、ZECTが誇る装甲とはいえマスクドアーマーに及ばぬ程度のもの。機動力を求めた結果、流線形のフォルムと軽量のヒヒイロノカネで構築されたライダーフォームのそれは、純粋な打撃にこそ応じれど──

 ぶしゅう、という不快な音と共に緋色の装甲が白い煙を上げる。マスクドアーマーで受けたときとは明らかに違う、深く染み渡る音。鬼の皮膚すら溶かすその溶解泡は、ZECTの叡智をも容易く浸食し、バケガニの腹の下へと潜り込んだ天道を容赦なく襲う。彼はそれを覚悟の上として。

 

『ONE』『TWO』『THREE』

 

 背部の甲羅より零れる泡は腹の下にいれば直撃はない。細かな飛沫がライダーフォームの装甲を溶かしつつあるが、それは束の間のこと。天道は装甲の接続部、隙間たるサインスーツから肌をも撫でゆく泡の熱に仮面の下で顔を歪めながらも、冷静にフルスロットルを押下。

 

「……ライダーキック」

 

『RIDER KICK』

 

 カブトゼクターの角を引き戻してタキオン粒子を解き放つ。青白く迸る電流を身に纏い、天道はバケガニの腹の下にて背を向け、振り上げた右脚で回し蹴りを放った。

 硬い甲羅のない柔らかい部位に音速の右脚を叩き込み、その身体を下から蹴り上げる形となる。渾身のライダーキックを炸裂させたものの、バケガニは依然として生命活動を維持していた。

 

「ンギィ……! ンギギィ……!!」

 

『CLOCK OVER』

 

 蹴り上げた感触もワームとはまったく違う異質なもの。右腰のスラップスイッチを叩いて求めたクロックオーバーの感覚と共に、房総のバケガニも現実時間へと引き戻される。

 やはり、あの生物はワームとは違った意味で、地球上の生物とは根本的に違うのだ。妖怪という定義に等しい、生物的構造を持たない生物。まるで枯れ木や土塊でも蹴り上げたかのような奇妙な違和感に、特定の方法でしか倒せないという話に説得力を持たせる。

 

 それはすでに理解していること。天道がライダーキックを放ったのは、バケガニを倒すためではない。共にクロックアップの世界に追いつき迫り、その身に『隙』を生じさせるためだ。

 天道は己が蹴り上げを受けてひっくり返り、甲羅を地に伏せ悶えるバケガニから距離を取る。

 

「おお? 急にひっくり返ったぞ……? もしかして、そっちの青年がやったのか?」

 

 ヒビキは音撃棒を両手に、瞬く速度で後退したカブトを見やった。緋色の装甲はかつてヒビキが受けたときと同様、バケガニの泡によって焼け爛れている。

 鬼と違い、その装甲は皮膚の延長に非ず。ヒヒイロノカネを含んだ強靭な外部装甲であり、その損傷は必ずしも天道自身の傷に直結しているわけではないが、ライダーフォームゆえ装甲の範囲は狭い。機動力に長けた形態であるため、微かにスーツの中にまで浸透してしまったようだ。

 

「……思い切ったわねぇ。せっかくの綺麗な装甲が溶けちゃってるじゃない」

 

「無駄口を叩いている暇はないぞ。魔化魍(やつ)にはタキオン粒子の衝撃も効かないらしい」

 

 悠長に振る舞う幽香を一顧だにもせず、天道は肩や背中に残る熱と痛みを気力で振り払う。

 猛士に名を連ねる歴戦の鬼たちほどではないにしろ、天道総司とて太陽に選ばれるその瞬間まで七年間もの鍛錬を続けてきた男。その手に輝ける未来を掴んでなおも鍛える心身にこそ、天を往く者の道は在る。

 

 マスクドライダーシステムのスーツはゼクターから受けた信号を基にライダーベルトがその都度構築するもの。たとえ装甲に損傷を負おうと、再び変身すれば元に戻る。当然、鬼の治癒力を持たない天道自身の傷はそうもいかないが──

 この程度の痛みで膝を着くような鍛え方はしていない。天道はカブトとしての青い複眼をもって、未知なる自然の具現、それに対抗し得る力を持つであろう異世界の鬼へ一瞥を向けた。

 

「……だ、そうよ。鬼のお二人さん。素敵なお花を咲かせてもらえるかしら?」

 

 裏返ったままぶしゅぶしゅと溶解泡を噴き出すバケガニを見て。幽香はくるりと回した日傘の下、かつて妖怪の山を支配していた力の鬼と、彼女にとっては未知たる清めの鬼を見る。

 

「ンギギィ……!」

 

 バケガニが強靭な脚を地面に突き立てた。その原始的な怪異に知性があるとは思えない。それでも魔化魍の本能がそうさせるのか、すぐにでも起き上がろうとしていた。

 勇儀は滾る妖力を己が右の拳に束ねる。如何に威圧的な鬼の力。山を統べるだけの圧倒的な力の具現であろうと、魔化魍の身を砕き散らすには不足──否。力そのものが足りていないわけではないのだが、必要な力の種類が違う。

 

 故に、勇儀が放つ拳は怪物に向けたものではなく。美しき緑に映える太陽の畑の大地へと。己が直下の足元目掛けて、身を屈めた勇儀は。その絶大な拳でもって地面を殴りつけた。

 光に満ちる力。それらは地を伝い、青白く輝く妖力の波となってバケガニの身を縛りつける。

 

「よっしゃ、捉えた! 逃がしゃしないよ……! ヒビキ!!」

 

 勇儀が振り返るは機を伺っていたヒビキの紫色の無貌。山の四天王たる勇儀は純粋な力こそ山において最強を誇っていたが、妖術の類は他に劣る。それは彼女が正面からの一騎打ちを好む精神を有していたからだ。

 こんな状況でなければ、向き合うバケガニとも一騎打ちと興じたかった。瞬く速度に駆け巡り、泡を散らしてすべてを溶かす怪異とも、真剣勝負を果たしたかった。

 

 だが、それはまた次の機会としよう。今はそれ以上に力強い妖気を誇る異界の鬼がいる。いつか彼と本気の拳を交えるその日を心待ちにして、此度の戦いは彼に花を持たせよう。

 そのための光。バケガニの脚を拘束する青白い光輪は、旧地獄の地に現れた奥多摩のヤマビコを拘束した地獄の苦輪の極致。勇儀が誇る【 枷符(かせふ)咎人(とがびと)の外さぬ(かせ)」 】というスペルカード。

 

「……っ!」

 

 不得手とする妖術だからか。本来は光輪を攻撃の意図でぶつけるための弾幕。それを拘束に用いているためか。勇儀の青白い光輪はバケガニの溶解泡に耐え切れず、徐々にその形を失っていく。切れ目が生じた光輪が、少しずつ短くなっていったのだ。

 だが、それを見届けるつもりはない。勇儀がバケガニを拘束した瞬間を見計らい、ヒビキは間もなく大地を駆けた。鬼の脚力で跳躍すると、ひっくり返ったバケガニの腹に着地。

 腰の装備帯から外した音撃鼓・火炎鼓を魔化魍の腹に押しつけ、その巨大化を確認する。

 

「はぁっ!」

 

 両手に握りしめた音撃棒・烈火。その右手に振るう吽の鬼石。閉じた口を掲げた鬼面を火炎鼓の巴紋に叩きつけ、その一撃で響く炎の波動を滾らせて。

 軋み啼く房総のバケガニ。ぶしゅぶしゅと溶解泡を噴き出す甲羅のフジツボは、背中を地に向け仰向けになった状態では響鬼の身体に直撃することはない。それでも噴き出す泡の勢いは変わらず激しく、飛び散る飛沫が肌を焼く。

 かつての戦いでも肌身に染みたその痛み。音撃棒・烈火を振るい、続いて左の阿の鬼石を打つ。一つ一つの振りを大きく強く、交互に打ち鳴らす。その度に溶解泡の飛沫が舞い上がる。

 

「だぁっ! せやぁっ!!」

 

「ンギィイッ! ンギギギィッ!!」

 

 音撃鼓・火炎鼓を帯びたバケガニの腹に亀裂が入る。かつて戦ったときは真っ先に背中の甲羅に音撃鼓を取りつけてしまったため、溶解泡によって音撃鼓を溶かされてしまった。

 それだけではない。不用意に近づいたせいで左腕に溶解泡の直撃を受け、片腕が使えなくなってしまったのだ。

 失った音撃鼓は志を同じくする猛士の仲間に新しいものを届けてもらったが、激しく焼け爛れた左腕は鬼の治癒力をもってしてもすぐに元通りとはいかない。

 弾き飛ばされた音撃棒の片方も捨て置き、決死の想いで右腕だけを振るうことで、なんとか片腕だけで音撃打を叩き続け、房総のバケガニを浄化できたことを覚えている。

 

 だが、今は。すでに浄化せしめた相手との再戦。それも両腕、両の音撃棒を万全の状態で使える。勇儀のスペルカードによる拘束も重なり、音撃鼓による邪気の抑制も合わさって、バケガニはほとんど一切の行動を許されず。

 飛び散る飛沫は痛みを伴う。未知の法則による超高速移動能力も厄介だったが、こうして叩き伏せている状態ではその能力も行使できないらしい。

 ヒビキは鬼の筋力を最大限に活かし、左右交互の大きな振り──その終幕を叩きつけた。

 

「はぁぁああっ! 猛火怒涛(もうかどとう)の型ぁああっ!!」

 

 滾る烈火の気合いと共に、焔を帯びた鼓動が灯る。それまで交互に打ちつけていた連撃の締めとして、左右の音撃棒を同時に振り下ろす。

 細かな連撃でもって清めの音を流し込んでいた音撃打・火炎連打の発展形。左右交互の連撃という点では共通だが、それは手首の動きを活かした素早さではなく、鬼の肩の強靭さで振るい上げる大きな振りの左右連撃。波打つ炎の波濤が如き【 音撃打・猛火怒涛 】の銘を持つ音撃である。

 

「……ンギ……ギィ……!!」

 

 全身に響く清めの音がバケガニの邪気を打ち祓っていく。その力に耐え切れず、それは枯れ葉や土塊と化して砕け散り、流れる風のまま自然のもとに還っていった。

 落ちた音撃鼓を片手に受け止め、装備帯へ戻す。バケガニの浄化を見届けたヒビキは背中に残る痛みを堪え、微かに力を抜いて顔だけ生身の姿を晒した。その表情には、疲労の色が滲む。

 

「……お疲れさん。相変わらず良い響きだねぇ!」

 

 バシンと背中を叩いた勇儀の賛辞に思わず顔を歪めるものの、すぐに笑顔を形作って向き直った。溶解泡の飛沫で微かに溶けた背中の表層には鬼の身にしてなお痛みが残る。それでもそれを悟られぬよう、鍛えた心身で振る舞い、顔の前でシュッと右手の指を振り払ってみせる。

 

「あのオーロラも消えちゃったみたいね。それより、あなたたちについて──」

 

 幽香は眩い日差しに目を細め、すっかり元の晴天に戻った太陽の畑の青空を見やった。魔化魍やワームを出現させていた灰色のオーロラはすでに消失している様子。これ以上、今この場に怪物が現れることはないだろう。

 房総のバケガニが暴れたことで太陽の畑の花々は少し荒れてしまっていた。そのことに心を痛めるが、すぐに鬼たちに向き直り、天道を一瞥しては言葉を切り出す。

 ライダーベルトからカブトゼクターを引き抜き、変身を解除した天道。夏空の彼方へ飛び去って行くカブトゼクターを見送ることもなく、幽香と等しく鬼たちのほうへと向き直ったが──

 

「うおっ……また……!?」

 

「この感じ……旧地獄温泉街(もとのばしょ)に戻そうってわけか……!?」

 

 勇儀とヒビキ。そして幽香と天道。全員が感じた時空の歪みは、ここに再び生じる。四季異変の影響で真夏の空気を満たしている太陽の畑には相応しくない、冷たく鋭い冬の風。

 瞳を乾かすようなその凍てつきに顔を覆い、幽香はその視界に白雪を帯びゆく向日葵を見た。

 

「あら、もう行っちゃった。鬼ってのはずいぶんと忙しいのね」

 

 幽香は口惜しそうな表情で溜息混じりに呟く。冬の風を孕んだ時空の歪みの消失を見届けると、その歪みに巻き込まれた勇儀とヒビキはすでにこの場からいなくなっていた。最初に感じた空気と同じ感覚。恐らく、彼らは元の場所に戻ったのだろう。

 少し雲が出てきた空の陰りに気づき、幽香は白い日傘を畳んでは消失させる。歪みの近くにいた一輪の向日葵へと近づくと、黄色い花びらを染める雪の一片(ひとひら)を自らの指先で払い落として。

 

「…………」

 

 天道の思考には花を慈しむ幽香の姿ではなく、別のものがあった。この幻想郷には自身とワーム以外にも別の戦士や怪物がいる。それはすでに聞き及んでいた通りのこと。

 鬼や魔化魍なる存在。それらがそのうちの一つであることは疑いようもないだろう。そして、それはおそらく。自身が存在したカブトの世界に由来するものではない。ワームの侵略に抗う天道の世界に、鬼などという戦士がいた記録はないのだ。

 やはり当初の推測通りということか。カブトの世界から招かれた自身とワーム。それらに加え、また別の世界から現れた者。それがどれだけの数であるのかは、彼らには知る由もない。

 

◆     ◆     ◆

 

 無辺の闇。幾多もの扉が浮かぶ深淵の狭間にて、秘匿された神はその手に宿す白銀のカブトムシに視線を落とす。青白く時空を乱す波動に打ち震える輝き。最果てより生まれし究極のゼクター。過去と未来を覆すだけのその力に、摩多羅隠岐奈は忌むべき事象を垣間見た。

 キバの世界の法則を持つキャッスルドランがその身に抱く、時の扉。電王の世界の法則を持つデンライナーが備える、時を超える力。そして、カブトの世界の法則を持ち、タキオン粒子の干渉によって因果を否定する──このゼクター。

 

 その三つの力が、この世界、この幻想郷に多大な負荷を掛けている。隠岐奈はこの事態が起こる可能性に気づいていた。そのために、このゼクターの真の機能を使っていなかった。

 ──にも関わらず。このゼクターの影響が及んでいる。隠岐奈ではない。別の誰かがこの力を使ったのだ。隠岐奈が所有し、手放していないはずの──この白銀のゼクターが持つ力を。

 

「……まぁいい。まだ修正は容易である。二童子たちの働きに感謝しなくてはな」

 

 隠岐奈は椅子に座ったまま、左手の内にて眩く輝くカブトムシを消し去る。ジョウントによって在るべき未来へ返したのではない。究極の秘神たる隠岐奈が持つ絶対の神力でもって、彼女の所有空間にしまっただけだ。

 後戸の加護を持つ二童子たち──爾子田里乃と丁礼田舞。元は人間の少女であった彼女たちは、隠岐奈の神力によって人間の領域を超えて久しい。

 同じくカブトの世界から得たマスクドライダーシステムを使い、隠岐奈が想定した歪みの除去を担っている。時空の歪みの具現たる不純物──バグとも呼べるワームを撃破することで。

 

「…………」

 

 金色の瞳で見据えるは、幻想郷へと繋がる扉の一つである。後戸の国に浮かぶ無数の扉はどれも隠岐奈が管理し、その先の座標もすべて理解している。彼女が迷うことはない。

 闇の中に浮かんだ椅子ごとその扉へと近づく。仰々しい木製の開き戸は、どこか日本の城を思わせるような剣呑な雰囲気を放っていた。

 その取っ手に触れる必要はない。近づくだけで開いた扉を前にして、隠岐奈は自身を拒絶するように走った稲光(いなびかり)を無視し、そのまま彼方の世界、幻想郷の上空へと踏み込んでいく。

 

 扉の先は、紫電の立ち込める肌寒い雲間。九つの世界から流れ込んだ風による四季異変、かつて隠岐奈自身が起こしたそれに等しい影響に見舞われている幻想郷においても、四季など関係ないと言わんばかりに荒れ狂い乱れる嵐──雷雨の如き様相である。

 座標としては太陽の畑の直上に当たる。夏の影響が及んでいる場所だからか、この激しい嵐も夏らしいと言えば夏らしい。だが、隠岐奈は知っている。これは、自然に依るただの嵐ではない。

 

「この魔力……覚えがあるな」

 

 肌に伝うは古き魔力。太古の妖力と言い換えてもいい。吹き荒ぶ風も、轟く雷も。そのすべてが純粋なエネルギーによるものだった。

 この幻想郷上空でしか発生していない特殊な嵐。地上への影響は皆無であり、そして幻想郷上空においても極めて小さい一部の領域でしか発生していない特異点だ。魔力による嵐は特殊な結界に封じられており、地上たる太陽の畑からは確認できまい。

 

 かつて、とある妖怪が幻想郷を『ひっくり返そう』とした。幻想郷全体のヒエラルキーを丸ごと覆そうとしたその妖怪は、とある英雄の末裔を誑かし、その秘宝を振るって幻想郷中の力なき弱者たち、利用されるだけの道具や無力な弱小妖怪に強大な力を与えたのだ。

 強弱関係をひっくり返し、すべてを逆さまにしようとした小さな妖怪の企み。その下剋上は博麗霊夢や霧雨魔理沙、十六夜咲夜など、妖しき道具をも手懐けた者たちの活躍で阻止され、首謀者もお尋ね者として追われ続けているのだが──

 

 その『逆様異変(さかさまいへん)』の影響は首謀者たる『天邪鬼(あまのじゃく)』が英雄の末裔に使わせた秘宝の力の残滓という形で幻想郷に残っている。

 古き伝承において鬼を退治した一寸法師の一族。その末裔に当たる『小人(こびと)』の少女が受け継ぎし鬼の秘宝。所有者の願いを叶えるとされる『打ち出の小槌』は、それを己が欲望のために利用した愚かな一人の小人によって、彼が手にした城を逆さまにひっくり返してしまった。

 願いを叶える打ち出の小槌の代償によって、小人族は鬼の住む世界に真っ逆さまに落ちていった。そんな歴史を知らない今の当主、英雄と愚者のどちらの血をも等しく受け継ぐ少女は、小人が虐げられたという偽りの歴史を天邪鬼に吹き込まれ、天邪鬼の下剋上に同調してしまっていた。

 

「輝く針の城……か。虚栄に(すが)った名だ」

 

 嵐と言っても降りしきる雨はない。ただ雷鳴を伴う魔力の風が黒雲を吹き抜けるなか、隠岐奈はその雲海を抜けた。台風の目を思わせる静寂。嵐の中の不協和音。轟々と唸る風が止んだその一点にて、小人族が背負う戒めの象徴たる巨大建造物は在る。

 遥けき過去の物語。我欲に目が眩んで打ち出の小槌を振るい続けた愚かな小人がもたらした城。天守閣は地に向いており、その城は上下逆さまになった状態で嵐の空に浮かんでいた。

 

 隠岐奈は誰にともなく独り言つ。荘厳な椅子を後戸の彼方に追いやり、秘神の衣を揺らしながらゆっくりと。逆さ天守閣の頂──本来なら地に在るべき石垣の底面の上に立つ。

 その城の名は『輝針城(きしんじょう)』。奇跡の代償でひっくり返ったそれは小人族が手にした栄光も財宝も、すべて遥か地の底に打ち捨てて。その立派なだけの居城には、もはや何も残されてはいない。

 

「こんな激しい嵐の中、誰かと思ったら……賢者様が直々に来てくれるなんてね」

 

 輝針城の中で最も広い面積を持つ底面(いただき)の領域。石垣の底に立つ隠岐奈は、背後から聞こえてきたしなやかな雷鳴へと振り向いた。

 悠々と舞い降りるは桔梗模様のバスドラムに腰掛け、脚を組んだ女性である。魔力の嵐に波打ち靡く赤髪は肩まで伸び、白のジャケットとスカートを纏った姿。その内に装う黒地に赤いチェックの装束と周囲に浮かべた六角形のシンセドラムも合わさり、その様相はさながら雷神が如く。

 

「古臭い鬼の妖気を感じたもんでねぇ。案の定、再び小槌の魔力が溢れ出しているな」

 

 隠岐奈が金色の瞳で睨みつけた相手は自ら腰掛けていたバスドラムを妖気で歪めた空間に消失させる。同様に周囲に浮かべていた赤い巴紋のシンセドラムも消し去り、身軽になったその身のままの振る舞いで、隠岐奈と同じ輝針城の底面に降り立った。

 カチャリと鳴らして着地した靴は革製のブーツ。その踵にはバスドラムを叩くためのビーターが備わり、独特な形状をしている。女性は赤い目で隠岐奈に向き直り、口を開いた。

 

「貴方には感謝してるわ。ただの道具でしかなかった私に、妖怪としての命を与えてくれた」

 

 広い底面に共に立ちながらも距離がある。周囲に吹き荒れる嵐の中でも、和太鼓の付喪神として使用者を失わぬまま自我を得た彼女── 堀川 雷鼓(ほりかわ らいこ) の声は雷鳴のようにはっきり通った。

 和太鼓の付喪神であった雷鼓(らいこ)は逆様異変の折、その身に道具として強大な力が芽生えたのを感じていた。それは幻想郷において下剋上を目論んだ天邪鬼が小人の末裔に使わせた、打ち出の小槌による鬼の妖力。

 同時に、道具である身に湧き上がる、禍々しく凶暴な意思。雷鼓はその妖力に自我を乗っ取られそうになり、和太鼓である己が身を捨てて外の世界のドラマーの魔力を受け入れた。

 

 今の彼女はドラムを依代とした付喪神である。鬼の妖力を捨て、新たなる奏者を手にして小槌の呪いを振り切ったのだ。

 自分自身そのものを捨てかねない危険な賭けではあったが──その目論見は成功した。打ち出の小槌が魔力を回収する時期に入っても、彼女の力が奪われることはない。

 元より彼女は小槌によって付喪神化した存在ではない。元より太鼓の付喪神として存在していたときに、打ち出の小槌による強化を受けていた。その付喪神化は、あるいは秘神の力なのか。

 

「この魔力嵐は天邪鬼の仕業か? 長らく大人しかったが、また厄介なことを……」

 

「……そう。打ち出の小槌は再び力を取り戻した。その力で……幻想郷を真の楽園に変える」

 

 隠岐奈と雷鼓はそれぞれ金色と緋色の瞳をもって互いに向き合う。秘神と呼ばれた賢者の力も、外の世界の魔力を受け入れた妖怪も、どちらもその力は互いにとって未知数だ。弾幕が届く距離を保ったまま、彼女らは嵐の中にて静寂の間合いを貫く。

 雷鼓の思想は逆様異変のときと同じもの。小槌の魔力に囚われていた付喪神たち、彼女らに己と同じく自らの依代を別の力に置き換える方法を伝え、小槌の呪いを解いて回った。それは自分たち道具が自由に生きられる楽園のため。

 彼女の赤い瞳は本気である。鬼の妖力に乗っ取られている様子はない。彼女自身の意思だ。

 

「それは鬼の力だ。付喪神(おまえたち)の力じゃあない」

 

「あら、打ち出の小槌だって、付喪神(わたしたち)と同じ道具でしょ? 仲間みたいなものよ」

 

 隠岐奈は小さく溜息を吐きながら雷鼓に忠告する。気づいているのかいないのか、彼女はやはり、鬼の妖力か──あるいは別の何かに思考を汚染されているらしい。逆様異変に隠岐奈は直接の関わりを持たないが、賢者としてその顛末は知っている。

 和太鼓の身を捨ててまで自立を望んだ彼女は、『誰か』の記憶に思考を同調させているようだ。それも、人間に対する深い恨み。憎悪や殺意とすら呼べるほどの──禍々しい負の想念に。

 

 使用者を失わず、捨てられることなく付喪神となった──奇しくも隠岐奈と関わりが深い秦こころと同様の生い立ちを持つ妖怪、堀川雷鼓。彼女が人間への怨みを抱くとは思えない。

 となると──考えられる可能性は一つ。彼女は、九つの物語のいずれかに影響を受けている。

 

「……反逆者に何を言っても無駄か。はぐれ者(エクストラボス)同士……仲良くしようじゃないか」

 

「そうもいかないのよ、総大将(ラスボス)。鬼の妖力だって、今では道具(わたし)道具(ちから)だわ」

 

 雷鼓が懐から何かを取り出すのを見て、隠岐奈は微かに鬼の妖気が強まったのを感じた。彼女がその手に持つのは、ドラムを叩くスティックでも、太鼓を叩くバチでもない。それは音階の調節を行うための音叉らしき道具であった。

 燻る漆黒を帯びた鬼の角を宿す、遥か太古から受け継がれし音叉。戦国時代の技術で鍛えられたそれは、響鬼の世界の法則を持つ『変身音叉・音角』そのもの。

 雷鼓が持つ変身音叉は現代のものとは色も構造も違う。金色の鬼面の下には折り畳むための機構が存在せず、真っ直ぐ打ち延ばされた柄の部分と剥き出しのままの音叉部分が鈍く冴える。

 

「鬼の妖力……なるほど。そういうことだったか」

 

 隠岐奈は雷鼓が同調してしまった記憶の正体を理解した。それは遥か戦乱の時代、人々のために戦い、魔を祓う鬼として生きた男の記憶。

 されど、男は守ってきた人々によって最愛の恋人を殺されたのだ。それも、自分がただ鬼というだけの理由で。人ならざる鬼の身を持つという(おそ)れから、男は信じていた人々に否定され、たった一人の女性を失った。

 絶望と慟哭。人間への怨みに染まった鬼は、やがて魔に堕ちた。人間の生き方を捨てて魔化魍に与し、その身を悪鬼に貶めて。それが、今の雷鼓に重なる──とある鬼の記憶だ。

 

「今すぐにそれを手放さなければ……少し痛い目を見ることになるぞ」

 

 向き合うように隠岐奈も自らの右腕を持ち上げる。その手首に装うは漆黒の帯と円形の接続部を掲げた腕輪型のデバイス。カブトの世界の法則を宿した『ライダーブレス』と呼ばれるものだが、それは幻想郷に繋がった法則とは別の因果から手にした力。

 天道総司を招いた時間軸からではなく、隕石の被害が渋谷という地点だけでなく、地球上の海を干上がらせるほどの影響をもたらしたカブトの世界の別の時間軸。そちら側にしか存在しなかった叡智である。

 

 その思考の残滓は、隠岐奈の思考にも流れ込む。それを使っていた男の記憶。海を失った地球を統べるZECTの切り札たる男。彼は人類の未来も地球の存続も度外視し、ただ己が誇りと美しさに殉じようしていただけの不気味な武人だった。

 左手に取り出した魔力の具現、蒼く染まった一輪の薔薇を見やり、隠岐奈は再び視線を雷鼓へと向ける。青い薔薇を捨て、武道の型めいた動きで両腕を重ね、右腕を突き出し──

 

 そこへ舞い込んだ黄金の甲虫が一匹。雄大な三本角を掲げたカブトムシ型自律メカが、隠岐奈が右腕に装う黒いライダーブレスの接続部へと自ら斜め向きに留まる。

 嵐によって青い薔薇の花弁が舞い散る世界で。隠岐奈は自己愛と陶酔の金色に宿命を告げた。

 

「変身!」

 

『HENSHIN』

 

 起動した黄金の甲虫。三本角を持つコーカサスオオカブトを模したもの。海なき世界のZECTが誇る三機の叡智──『カブティックゼクター』における最強の一機。隠岐奈の宣言と同時、黄金のゼクターは独りでにカチリと回転を遂げる。

 光を灯したシグナルのままに、それは最強のマスクドライダーシステムを展開した。隠岐奈の全身に広がりゆく黄金の輝き。究極のゼクターの運用を前提に生み出された、神が祝福した力。

 

『CHANGE - BEETLE』

 

 漆黒の強化スーツに纏う黄金の鎧は強く大きく右肩を突き出し、頭部に掲げる三本角は威圧的な顔面を遮る牙の如く備わっている。

 時空の光を湛えた複眼は、光速を超えた証である透き通るような水色の輝きに満ち。腰に帯びたゼクトバックルが刻んだ文字が示す通り、カブトの世界の第二時間軸におけるZECTが誇る最強の戦力として、とある一人の武人に与えられた『コーカサス』の威光を示していた。

 

 その光を目にした雷鼓もまた、手にした音叉に禍々しい妖気を込める。右手でもって振り抜いたそれを見やることもなく、内側に振り上げた左脚の踵、ブーツのヒール部分に備わったビーターにぶつけて、遥か古より受け継がれし始源の音を打ち鳴らした。

 響く清らかな純音を耳に聴き、雷鼓は足を下ろして右手に持った黒い音叉を額に掲げる。

 

「……歌舞鬼(かぶき)

 

 小さく呟くその名と共に、静かに湧き上がる鬼の力。雷鼓の額に浮かび上がった鬼の面は金色に鈍く光を照り返し、その身を包み込む妖力でもって輝針城の底面に淡く美しく、薄紅色の桜吹雪を巻き上げた。

 ただ和太鼓の付喪神であったその身は染まる。外の世界の演奏者(ドラマー)の力。それすら超える異世界の鬼の力。禍々しくも清らかに、その力に共鳴して激しさを増す疾風と迅雷の喝采を聴き──

 

「んん~~っ、はぁっ!」

 

 さながら壇上にて魅せる歌舞伎役者の如く、上体をぐるりと廻しては右腕を払い、左腕を前へと突き出し見栄を切る。

 嵐の中、逆巻き舞い散る桜の花びらはその身を飾る。無骨な血の匂いに満ちた鬼の姿を。

 

「……派手な装いだ。能楽の神たる私に対する皮肉のつもりか……」

 

 桜吹雪を払い、己を晒す雷鼓の姿を見た隠岐奈は黄金の三本角を湛えた仮面の下で小さく笑う。それは奇しくも隠岐奈が祖とする伝統の能楽、歌舞伎の絢爛(けんらん)さを思わせる出で立ち。

 漆器の如き射干玉(ぬばたま)の肌は強靭な鬼の筋肉と張り詰め。胸に頭に、その腰元に。装う鎧は翡翠(ひすい)にも似た鮮やかな緑色。両肩や腰に煌く黄金色(こがねいろ)に加え、その右肩から歪に突き出した異形の剛角は血に染まっていた。

 

 黒き無貌の右半分は愛しき人間への義を宿す穏やかな翠色を隈取り、短い角を帯びる。反対側の左半分は、忌まわしき人間への怒りに滾る(あけ)染めに隈取られ、その怒りの強さを体現するかのように、左側の角ばかりが大きく乱れ突き伸びる。

 腰に纏う装備帯は金色(こんじき)。その正面に携えるは金色の(ふち)(あか)き巴紋を刻んだ音撃鼓。鍛えに鍛えてやがて人に裏切られ、心までもが鬼に堕ちた鬼の姿──音撃戦士たる『歌舞鬼(かぶき)』の姿である。

 

「私の薔薇に彩りとして加えてやろう。反逆者(うらぎりもの)の赤い血と、屈辱の涙をな」

 

「鬼の目に涙は似合わないのよ。それより私が、貴方への鎮魂歌(レクイエム)を響かせてやるわ!」

 

 眩き黄金は水色の複眼を。朱色と緑色を帯びる鬼は黒き無貌を。それぞれ己が正面にて向き合う異界の法則に向けた。

 輝針城の周辺にて激しく吹き荒れる魔力の嵐は城の底面に立つ彼女たちにとってそこまでの強風ではない。台風の目にも似た静かな地点。されどその影響は無風ではなく、隠岐奈が散らした青い薔薇の花びら、雷鼓が舞わせた薄紅色の桜の花びら。それぞれが美しく交錯する。

 

 深い青色は不可能を突きつける色。あるいは奇跡の証明。淡い桜色は人間の居場所を求める色。あるいは散りゆく未練の残滓。

 ──ひらり。その二つの花弁が神と鬼の狭間を抜け。異なる二色(ふたいろ)のそれらが重なった瞬間。

 

「「…………!」」

 

 隠岐奈(コーカサス)雷鼓(歌舞鬼)は輝針城の底面を蹴り上げ、互いの意思を否定すべく──己が力に身を任せた。




星熊勇儀と風見幽香。どちらも「ゆう」の名を冠す……強キャラのお二人。
そしてヒビキさんと天道も平成ライダー主人公の中では素のキャラで強キャラ感に満ちてますね。
幽香は一応カブト陣営だけどクロックアップできないからやること少なくなりがちです……

前回に引き続き、異様な長さはご容赦ください。クロスオーバー回ですので……!
せっかく導入編を書き切って邂逅&共闘させられるので、書きたいことを全部書いてしまいます。

強大なライダーには可能な限り6ボスやEXボスなどの強大な人物を充てたい所存です。
なかなか変身先の匂わせがないキャラは、高確率で平成二期以降のライダーに対応しています。

Open your eyes for the next φ's & blade
次回、第60話『誰がための剣 / 灰色の旅路』


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第60話 誰がための剣 / 灰色の旅路

 ──妖夢と剣崎が幽明結界から落下を遂げ、妖怪の山に落ちてから一日が経った。

 季節外れの紅葉に染まった妖怪の山。すでに太陽は没し、昼の色を拭い去ったその地は、本来は春のはずの幻想郷、乱れ歪んだ秋の月夜に鮮やかな楓の葉を彩っている。

 天狗たちの領域の一つである山のある地点には、射命丸文に与えられた住居が存在していた。

 

「なるほど、アンデッドにライダーシステム……ブレイド……ですか」

 

 文は己が住居たる領域でブレイドの世界についてを聞きつつ、その手に携えた文花帖に万年筆の先を走らせる。

 妖怪の山にて乾巧を受け入れた文は、ファイズとなった彼と共にオルフェノクを撃破した。その後日、遠い空の雲間の彼方、幽明結界の果てから、この地に落下してくる影を見た。それが冥界の庭師たる魂魄妖夢と──ブレイドたる戦士を名乗る剣崎一真という男であった。

 

 アンデッドなる怪物は太古の地層より復活した不死の生命体であり、彼が生きた世界に現存する生物の始祖たる存在であるらしい。そして、それらを封印したカードというものも、剣崎の手から見せてもらうことができた。

 剣崎一真には紛れもなく人ならざる者の風がある。それも、彼自身が悪意と語ったアンデッドと等しいもの。

 だが、彼の振る舞いや妖夢の対応から見るに、幻想郷に敵対する意思はないようである。

 

「……仮面ライダー、だったか。お前、たしかファイズにもそんなこと言ってたな」

 

「ええ。風の噂で聞いた戦士の名でしたが……彼の他にもいそうですね」

 

 巧は三人が集う丸い座卓から一人だけ距離を取り、壁にもたれかかる形で脚を伸ばして座っている。文の緋色の瞳に視線を向けて、あわや新聞にされそうになった自身について。仮面ライダーという聞き馴染みのない名前を称されたことを覚えている。

 ブレイドの世界において、それはBOARDという組織が開発したライダーシステムを纏う戦士。その活動が世間の目につき都市伝説となって広まった際に呼ばれた名前であるのだという。

 

「君も仮面ライダーみたいなやつになっていたけど……あれはいったい何なんだ?」

 

 真剣な顔で巧に問う剣崎。巧はその真っ直ぐな在り方に微かに眉をひそめ、揺るぎない剣の如き彼と目を合わせた。

 剣崎はこれまで多くの人に裏切られてきた。その純粋さは、幾度も剣崎の足枷となった。未知の戦士たる巧のことも当初は警戒し、共闘してくれた恩こそあれど、すぐに馴染むことはできなかったのだが──剣崎の精神は、ジョーカーと成り果てても変わっていない。

 どれだけ裏切られても人を信じてしまう。どれだけ傷ついても愛しき人間という生き物を嫌いになれない。だからこそ、100回裏切られてなお、次の101回目を信じる。剣崎一真の戦う理由は、人類という種を愛しているがため。

 最初は語る口調が重かった様子の剣崎であったが、気づけば巧の人間らしさを信用していたのだろう。妖夢の言葉も重ね、文の質問もあり。巧たちは剣崎の戦い、BOARDのライダーシステムやアンデッドについてを大まかに知ることができた。

 

 巧は、その曇りなき刃の如き目が少しだけ恐ろしかった。灰に塗れた狼の如く、巧は人と関わることを好んでいない。

 ──人に裏切られることが怖いんじゃない。俺が人を裏切るのが怖いんだ──と。かつて旅路を共にした少女に語ったことがある。それは自分に自信がないから。どれだけ人として生きようと、所詮、この身が死灰に塗れた怪物でしかないと、知ってしまっているから。

 それでも──彼には受け入れてくれた仲間たちがいた。滅ぶべき灰の使徒たる自分のことを。

 

「……ファイズ。あの怪物……オルフェノクどもの王を守るために作られた力だとよ」

 

 幾度も激戦を繰り広げてきたであろう誇り高き剣の在り方から目を逸らす。巧とて多くの戦いを経験し、多くの涙を見てきた。灰を被った小さな花にも似た巧の心は、眩く光を返す刀剣の閃きを直視することができない。

 丸い座卓の上に用意された湯呑にはまだ湯気が立っている。ちらりと横目で見やったそれに口をつけることもなく、彼女の分のそれを平然と飲む妖夢の舌の強さに少しだけ羨みを覚えて。

 

「だがな、俺はあいつらの王様とやらを守ってやるつもりはない」

 

 ゆらゆらと沸き立つ湯気。ただ眺めていても冷めるのには時間がかかるだろう。巧はぐっと握り締めた拳に悲哀を込め、王の宿主となってしまった少年のことを思い出す。

 九死に一生を得た子供たちの中から生まれるとされる王たる者。アークオルフェノクと呼ばれたそれは、その名が意味する『方舟』の通り、オルフェノクに力を与えては急激な進化に耐え切れず崩壊しつつある細胞を完全な状態に固定することができる。

 

 その力があれば、オルフェノクである巧も長く明日を生きられる道を手にしていたことだろう。しかし、巧は人を捨てた完全なオルフェノクとしての未来など望まない。王の祝福に背き、人々を守る花として散っていく最期を選んだのだ。

 一度は敵対した友と肩を並べ、やがて王を撃破した巧は悔いなく夢を語って灰と散ったはずだ。そして自ら倒したオルフェノクと同様に、巧自身も理由の分からぬまま、復活を遂げている。

 

「……俺が守りたいのは、人が一生懸命に生きて掴んだ……『夢』ってやつなんだよ」

 

 自らの手の平に視線を落とす巧。その表情を見た剣崎は確信した。彼もまた、自分と同じように人間を愛しているのだと。人々を怪物から守るために、戦士として振る舞うことができる強さを持っている。剣崎から見れば年下の巧だが、その強さは紛れもなく──

 仮面ライダーの名に相応しい。傷ついた剣崎の心に微かな温もりを取り戻させてくれた不器用な優しさに、思わず小さな微笑を零す。照れ隠しのつもりか、巧は不快そうに眉をひそめた。

 

「えっと……あなたも剣崎さんと同じ……『仮面ライダー』ってことですよね?」

 

 妖夢は湯呑を置いて言う。スマートブレインやライダーズギアについて、巧はほとんど語ってくれなかった。代わりに文が手帳にまとめた情報から、巧が生きた世界、ファイズの世界についての情報を得ることができたのだが。

 BOARDが開発したライダーシステム。スマートブレインが開発したライダーズギア。奇しくもそこにライダーという言葉が共通しているのは──ただの偶然であろうか。

 初めて聞く情報を既知の情報に当てはめ、妖夢が認識したファイズという存在。巧はもうそれでいいと言わんばかりに呆れた様子で小さく溜息をつくと、そろそろ冷め始めた湯呑を手に取っては一気に飲み干す。

 二人の話をまとめた文花帖に目を通し、文は巧について抱いていた疑問を再び巡らせる。なぜか聞いてはいけないような気がして、胸に留めておいたのだが──姫海棠はたてがカイザなる戦士に変身したことで、その説明からある可能性を見ていた。

 

 ライダーズギアはただの人間には使えないはず。オルフェノクのために作られたものであるのだから、当然とも言えるが──

 巧曰く、人間はオルフェノクの記号というものを埋め込むことで、オルフェノクにしか扱えないライダーズギアを限定的に使えるようになることがあるという。

 はたてがカイザギアを使えたのも、巧が知る人間の青年が記号を宿していたことであのベルトを使えたのと同じく、その影響かもしれないと。

 一度ファイズギアでの変身を試みた文は不適合によって弾かれてしまった。彼女は記号を持たないため、それは必定だ。そう考えれば、巧がファイズに変身できる理由は二つしか考えられない。巧の身体にもオルフェノクの記号とやらが宿っているのか、それとも、あるいは──

 

「乾さんがファイズになれる理由も……その記号にあると解釈してよろしいでしょうか?」

 

「……まぁな。そんなとこだ」

 

 文の問いに表情を曇らせながらも答える巧。彼の肉体に宿りしは、人間の身体に刻みつけられた記号などではない。

 使徒再生によって塗り替えられた本質ですらなく。ただ普通の人間として命を落とし、誰に頼ることなく自らの力だけで灰の細胞を目覚めさせた選ばれし者(オリジナル)。紛れもなく純粋なオルフェノクそのものなのだが──巧は未だそれを彼女らに話すことができないでいた。

 

「(オルフェノクの記号……乾さん……って人から感じた変な気質はそのせい……?)」

 

 妖夢の視線は巧の表情へと。鋭さと柔らかさを併せ持つ、不器用な狼のような在り方に見るは、幽明結界から落下した直後に見た気配と同じだ。

 半人半霊の感覚が伝える奇妙な魂の気質。まるで、すでに死の本質を悟ってしまったかのよう。彼らの語るオルフェノクなる存在が死を遂げた者たちならば、その記号による影響なのか。

 

「それより、剣崎さん……でしたっけ? そろそろ本題に入りたいのですが……」

 

 巧を訝る妖夢の視線に何かを感じながらも、文は手にした文花帖の白紙のページを開きつつ剣崎に向き直る。文にとって最も問いたかったことの一つ。ブレイドに関してのことは大まかに理解できた。未だ語られざるは、彼の身から流れる緑色の血について。

 幽明結界の彼方より落下してきた剣崎一真は明らかに異形の肉体だった。オルフェノクのような虚ろに儚い死灰の怪物ではない。彼らが語った不死の生命体、アンデッドと呼ばれる怪物。緑色の血も、まさしくアンデッドのそれである。

 

 アンデッドにもオルフェノクの記号に類するものがあるのだろうか。──否。もしそうだったとしても、全身に流れる血まで緑に変わり、異形の姿に変わり果てることができるものなど、もはや人間とは呼び難い。

 妖夢はすでに事情を知っている様子であった。文の真剣な表情での問いに同調することもなく、どう対応すればいいのか悩んでいるようで、おろおろと剣崎と文の表情を交互に見る。

 

「よせ。……誰にだって訊かれたくないことぐらいあんだろ。ほっといてやれ」

 

「…………」

 

「……気を使わせちゃったかな。大丈夫、俺は自分で選んだんだ。……運命と戦う道を」

 

 巧は窓の外を眺めたまま、文の言葉を制止する。彼の言葉には哀しみが滲み、新聞記者としての文の好奇心をも抑えさせるかのよう。

 思わず口を噤んだ文と気を使ってくれた巧の優しさに微笑を零した剣崎。自らの手に視線を落とし、滲んだ緑の傷跡に友との戦いを思い出すと──真実を語り出す。

 

 バトルファイトを終わらせないためにジョーカーに成り果てたことは、剣崎にとって悔いるべき過去ではない。巧が死灰の怪物となった過去とは違い、それは死による事象ではなく、運命に抗う剣を振るい続けることで、自らの意思で至った道。友を救うために望んだことだ。

 剣崎の話を聞いた文と巧は静かに息を飲む。その静寂の中──妖夢が不意に表情を変えた。

 

「……剣崎さん」

 

「ああ、……っ……奴ら……また……」

 

 妖夢が感じたのは、研ぎ澄まされた剣の如き感覚に伝う、不気味な魂の気質。剣崎が疼く本能に顔を歪めたのは、ジョーカーたるこの身に戦いを促す統制者の意思。

 それは、この妖怪の山──射命丸文の領域にアンデッドが出現したという証明である。

 

「お二人とも、どうかしまし……っと、あやや」

 

 剣士としての鋭い表情で、それぞれ楼観剣と白楼剣、そしてブレイバックルを手に取った妖夢と剣崎の様子を怪訝そうに見やる文。その意図を問おうとするや否や、文の部屋の窓際に一羽の鴉が舞い降りた。

 窓際にいた巧は不気味な眼光の鴉が傍に現れたことで驚き、窓際からそそくさと離れる。やがて鴉は室内を器用に飛び、文の肩に優しく乗った。

 

 妖怪の山の偵察用として放っていた文の使い魔たる鴉。妖力を纏うそれは、文の忠実なしもべとなってこの領域を探っていたのだ。

 肩に立つ使い魔の小さな鳴き声を聞き、表情を変える文。手にしていた文花帖を閉じ、万年筆と共に懐にしまうと、おもむろに立ち上がっては巧のほうへと首を傾けて振り返った。

 

「……乾さん。例の奴ら、また現れたみたいですよ」

 

「ああ、そんなこったろうと思ったぜ……」

 

 巧はオルフェノクの出現を感知する能力などは有していない。純粋なオルフェノクであれど、その身は一度は死した人類の進化種に過ぎず。奇しくもそれは不死なる生物の祖先たるアンデッドと正反対の概念。

 アンデッドの切り札たるジョーカーは同じアンデッドの出現を感知できるのだ。その身に満ちる緑色の血が、細胞が、統制者が強いるバトルファイトの本能に訴えかける。

 妖夢はアンデッドではないが、半人半霊という身ゆえ、アンデッドが持つ生者でも死者でもない奇妙な魂の違和感を疑似的に感知できるのだろう。

 

 これまで自身の世界にて巧がオルフェノクの出現を把握していたのは、旅を共にする仲間たちの知らせによるものだった。

 ファイズフォンに伝うコールの内容は、クリーニング屋の青年、あるいは美容師を目指す少女からの助けを求める声。今は鴉の鳴き声によってそれを知り、ファイズギアを手に取るのだった。

 

◆     ◆     ◆

 

 妖怪の山、中腹。変わらず紅葉と灰に彩られた秋の様相を駆け抜け、文と巧は空を舞う鴉を追いかけて文の領域から外に出る。鴉が伝えたオルフェノクの出現は、文の領域からそう遠くない場所であった。オートバジンを繰る必要もなく、揺らめくオーロラのもとへ。

 同様にアンデッドの気配を追いかけて文の領域を飛び出した妖夢と剣崎も巧たちと同じ場所にて空を見上げた。秋めく空に浮かぶは灰色のオーロラ。鈍色の光に波打つ境界の幕壁。その帳には、やはり暗く虚ろな影が浮かび上がっている──

 

 紅葉に満ちた山の大地を踏みしめ、文はその手に天狗の葉団扇を出現させた。妖夢は背に帯びる楼観剣の柄を握り、いつでも抜き放てるように万全の構えを取る。

 ドクン。剣崎一真のジョーカーとしての心臓が高鳴った。バトルファイトの参加者として戦いを運命づけられた者の終わりのない衝動。歯を食いしばり、人間としての理性を強く胸に抱きながら光に向き合う。同時に、オーロラの彼方から吹き込む異界の風に、文は死色の灰を見た。

 

「シュゥゥ……ゥウッ……!」

 

「ギチ……ギチ……!」

 

 揺蕩う光の帳より出づるはまず二体の怪物。一体は全身に満ちる緑色に漆黒の皮革を帯び、頭に伸びた一対の翅と不気味な口吻、柔らかな白い体毛で首を覆う者。ハートスートのカテゴリー8に当たる()の祖たる不死生物──『モスアンデッド』であった。

 その隣に立つもう一体は漆黒の皮革に毒々しい真紅の様相を帯びた異形だ。全身に遍く纏われた節足動物の脚じみた器官、刺々しく突き出す刃の如き意匠。その右肩にムカデの頭部を掲げるは、ハートスートのカテゴリー10。ムカデの祖たる『センチピードアンデッド』である。

 

 二体のアンデッドは妖夢と剣崎に向き合い底なしの悪意を放っていた。アンデッドの血を持たぬ妖夢でさえ肌身に感じられる闘争心は、剣崎のジョーカーとしての本能を引き出すような原始的な生命力に満ちている。

 背に帯びた楼観剣を抜き放ち、怪物へ構える妖夢。剣崎も手にしたブレイバックルにスペードのエースたるチェンジビートルのプライムベスタを装填しては、そのバックルを腰に装着した。

 

「おっ、やる気満々じゃん。いいねぇ、こいつは楽しめそうだぜ」

 

「あまり派手な真似はするなよ。俺たちの目的は、あくまでベルトの奪還だ」

 

「……ちっ。うっせえな、分かってるよ。いちいち命令するんじゃねえ」

 

 オーロラから姿を見せたのはアンデッドたちだけではなかった。それは剣崎一真にとっては何ら奇妙な点のない普通の人間にしか見えない二人組だった。

 一人は奇しくもアンデッドと似た意匠のレザージャケットを纏う茶髪の男。パンクな振る舞いを感じさせるチョーカーを着け、ガムを噛みながら不死の怪物たちを見やってはその剥き出しの闘争本能に感心する。

 その隣に立つはサングラスを着けたデニムジャケットの男だ。こちらも短い茶髪を整えており、サングラスを懐へ戻すと、軽薄な言動の 赤井(あかい) を苛立った様子で叱責した。

 赤井もまた不服そうな表情を見せては、偉そうに命令する 緑川(みどりかわ) に舌打ちする。二人は正面へと向き直り、己が顔面に虚ろな異形の影を浮かべた。

 

 ──その瞬間、変貌を遂げる二人の青年。灰に染まった骸の怪物は、彼らが一度の死を経験して覚醒した新たなる人類種の姿である。

 赤井は筋肉質な灰の肉体を縛る(かご)めいた無数の棘に覆われ、その頭も拘束具を思わせる棘の籠を帯び。全身の棘が示す通り──サボテンの特質を備えた『カクタスオルフェノク』としての真躯を晒した。

 緑川もまた、赤井と同じオルフェノクとしての灰の肉体へとその身を変える。昆虫特有の薄翅を帯びたその身に似つかぬは強固な肩の鎧。そしてそれがカマキリの特質を備えた異形であるのだと証明するかのように──両腕に鋭利な鎌を掲げた『マンティスオルフェノク』の姿であった。

 

「さっさとベルトを回収するぞ。またあの女の喋り方に付き合うのは御免だからな」

 

 マンティスオルフェノクは正面の文と巧を見据えたまま、己の隣に立つカクタスオルフェノクに告げる。二人は妖怪の山の紅葉に染まった大地に蒼褪めた裸身の影を映し出しては、巧が手に持つアタッシュケース──ファイズギアに視線を向けた。

 文は手に構える葉団扇(うちわ)に風を宿す。巧は素早くケースの中からファイズドライバーを取り出し、すでにマウントされたツールと共にそれを腰へと巻きつけると、そのままファイズフォンを開いて555の変身コードを入力し、認識完了を告げる音を聞いてはそれを月夜へ高く掲げ──

 

「「変身!」」

 

『ターンアップ』

 

『Complete』

 

 ブレイバックルとファイズドライバー。剣崎と巧がそれぞれのベルトにその魂を込めたことで、青白いオリハルコンエレメントと真紅に輝くフォトンフレームが宵闇を照らす。

 その眩さに顔を覆ったアンデッドとオルフェノクは、光の先に忌むべき記憶の仇敵を見た。

 

「巧、って言ったよな? あのムカデのアンデッドには気をつけろ。強力な毒が……」

 

「剣崎……だったか? そっちも気をつけとけ。オルフェノクには使徒再生って能力がある」

 

 ブレイドとしての赤い複眼で二体のアンデッドに向き合う剣崎。ファイズとしての黄色い複眼で二体のオルフェノクに向き合う巧。それぞれの傍に控える妖夢と文も得物を構え、不死者と死者の敵意を見る。

 隣に立つ巧の方を見やることもないまま、剣崎は仮面の下で口を開いた。モスアンデッドもセンチピードアンデッドも、どちらも戦ったことのある相手。その封印を果たしたのは、彼ではない。そのときはまだ友と呼ぶに至っていなかった頃の──あの男(ジョーカー)だった。

 

 されど剣を交えた感覚は残っている。アンデッドたちの能力も把握済みだ。一度は自らの浅慮が原因で、自分に居場所を与えてくれた青年の大切な家族を危険に晒してしまったことがある。

 センチピードアンデッドが持つ特殊な毒は、無垢な少女を激しい高熱に苦しめた。アンデッドの毒を取り除くには、そのアンデッドが持つ抗体が必要となる。

 その抗体を得るために剣崎はアンデッドとの交戦をあの男に一任した。そのときは無事に解毒を成功させたのだが、この幻想郷で封印を解かれたアンデッドは以前よりもさらに強くなっているらしい。変身している状態なら多少は防げるだろうが、生身の少女たちにとっては危険だ。

 

 巧の記憶に想起されるオルフェノクも同様、彼らはさながら即効性の毒とも呼べるオルフェノクエネルギーを有している。灰の細胞を突き伸ばして形成した触手や棘、剣やガスといったものからそれを注入し、人間をオルフェノクに変える選定の儀。

 一度その行為を受け入れてしまえば、心臓は一瞬で灰と化し、そのまま死ぬか灰の細胞を目覚めさせるかのどちらか。新たな灰の心臓を覚醒させる者など──犠牲者のほんの僅かでしかない。

 

「使徒再生?」

 

「触手だの棘だの、身体に刺さったらヤバいんだよ。すぐに死ぬか、オルフェノクにされる」

 

「……そっか。ならきっと、俺は大丈夫だ。言っただろ? アンデッドは死なないって」

 

 剣崎はブレイラウザーを引き抜く。月の光を照り返す白銀の刀身は美しく、さながら剣崎の誇り高き精神を表すかのよう。だが、アンデッドの力に染まった歪な煌きは、剣崎自身が不死ゆえ己が命を勘定に入れ忘れた危うさをも滲み出している。

 巧は地を駆けるアンデッドとオルフェノクを牽制すべくファイズフォンを引き抜いた。手慣れた指の動きでコードを入力し終えると、上部を傾けてフォンブラスターと成し、銃口を向ける。

 

「お前なぁ……もうちょっと自分を大切にしたほうがいいと思うぜ」

 

「ああ、よく言われる。たぶんだけど、君もそうだろ? 俺にはなんとなく分かるよ」

 

 掲げるブレイラウザーに左手を添えて構え、剣崎は仮面の下で小さく笑う。巧の印象は、最初は無愛想で冷たい人間だと思った。出会った当初のあいつ(・・・)に近い──誰かと関わることを拒んでいるだけの一匹狼気取りだと。

 少し話せば分かる。そんな上っ面の印象は彼の本質などではない。人の心を知ったあいつによく似た──どこか己の運命を悟ってしまったような、儚い心の持ち主なのだ。

 

 フォンブラスターの引き金を引き、巧は迫るオルフェノクにフォトンブラッドの光弾を見舞う。巧が剣崎に抱いた印象は、世界中の洗濯物を本気で真っ白にしたがるようなお人好し。何の宿命も持たずして、オルフェノクと戦う道を選んだあいつ(・・・)の在り様。

 曇りなく真っ直ぐに夢へ突き進むその魂に幾度となく鬱陶しさを覚えた。暑苦しく夢を語るその無垢さにやりづらさを覚えた。そして数え切れないほどに──どうしようもない憧れを抱いた。

 

「あやや、お二人とも、なんだか相性が良さそうですね。似た者同士なのでしょうか?」

 

「ええ……? そうは見えませんけど……とにかく今はあいつらを倒さないと!」

 

 文と妖夢もそれぞれの覚悟を胸に抱き、疾風を仰ぐ天狗の葉団扇、妖怪が鍛えた楼観剣でもって、それらを振るい弾幕を撃ち放つ。

 天狗の妖力と半人半霊の霊力を込めた光弾はフォトンブラッドの光弾に続き、怪物たちへと瞬く間に迫っていくのだが──

 それを撃ち放つ直前のことだった。ハートの8たる蛾のアンデッド──モスアンデッドが自らの薄翅を震わせたかと思うと、煌びやかな鱗粉を散らしたのだ。

 きらきらと舞い散るそれらは月明かりを反射し、どこか美しさを感じさせる輝きを返す。

 

「シュゥ……ゥウ!」

 

 放たれた光弾は蛾の鱗粉程度なら容易く突き抜け得るだろう。されどそれはただの鱗粉に非ず。モスアンデッドが有する始祖の能力は、鱗粉に触れたエネルギーの運動方向をまったくの正反対に跳ね返し、反射させるという性質を持っていた。

 鱗粉に触れた文と妖夢の光弾はまるで鏡にぶつかった光の如く屈折し、異なる方向へ乱反射した幻想郷の光弾は、ブレイドとファイズがそれぞれ帯びる銀色の胸部装甲へと炸裂してしまう。

 

「……っ!」

 

 胸部を覆うフルメタルラングへの衝撃は小さい。文たちも牽制のつもりで放った光弾だったのであろう。だが、不意に受けたダメージは巧を一瞬だけ怯ませた。

 その隙を狙って迫ったマンティスオルフェノクの鎌を避けることには成功するが、飛散したカクタスオルフェノクの棘までは凌ぎ切れず。ファイズの装甲のおかげで大ダメージこそ回避できたものの、巧は後退を余儀なくされる。

 

 ブレイドの胸部装甲たる『オリハルコンブレスト』にかかる衝撃もまた大きくはなかった。自己修復機能を持つ『オリハルコンプラチナ』で構築された装甲は、この程度の衝撃では傷つかない。妖夢の牽制目的の光弾を受けてもダメージはないが──

 一度戦った相手の能力を失念していた。その隙にセンチピードアンデッドの爪が迫る。ムカデの毒を帯びた爪でスーツを切りつけられるものの、その毒は剣崎の身までは届かない。

 されど二撃目の爪をブレイラウザーの刃で防いだところに正面からの蹴りを受けてしまった。

 

「ぐっ……! 天音(あまね)ちゃんを苦しめた奴に気を取られて、こっちの能力を忘れてた……!」

 

「あのアンデッド、どうやら私たちの弾幕を跳ね返すみたいですね……」

 

 剣崎がセンチピードアンデッドと向き合いブレイラウザーを構えると同時、妖夢も楼観剣を構え直して近接戦闘に備える。

 蛾の祖たるモスアンデッドが撒き散らす鱗粉によって、光弾などのエネルギーは反射されてしまうらしい。かつて剣崎もディアーサンダーを跳ね返されたことを思い出した。妖夢はそれならばと楼観剣を握る柄に力を込めて、弾幕を伴わぬ純粋な斬撃でもって怪物たちへと向き合う。

 

「……飛び道具は使えないってことか」

 

「それって私詰んでません?」

 

 巧はフォンブラスターの形態となったファイズフォンに視線を落とすと、その形状を元に戻して腰に帯びるベルトたるファイズドライバーへと戻す。

 未知の怪物が放った銀色の鱗粉は触れるだけでも脅威だろう。距離を取って射撃をすれば反射され、だからと言って不用意に接近しすぎればその鱗粉をまともに受けかねない。

 幸い、その範囲はさほど広くはない。月の光を受けてキラキラと光る幻想的な鱗粉は、どうやらモスアンデッドの周囲のみに散っている様子。あの怪物はオルフェノクと疑似的ながらも共闘するつもりなのか──

 その鱗粉を味方たるオルフェノクに当てないよう、自分の周りだけに展開しているらしい。

 

「知るか。その団扇(うちわ)みたいなやつでぺちぺちやってりゃいいだろ」

 

 巧はファイズとしての黄色い複眼で妖夢と剣崎の戦いを見る。白銀に研ぎ澄まされた業物の剣をもって正面から向き合い、アンデッドやオルフェノクと肉薄する距離で戦っていた。

 彼らが怪物を引きつけている隙にオートバジンの左ハンドルを握りしめる。ファイズフォンから取り外したミッションメモリーを装填すると、そのまま引き抜いてファイズエッジと成す。

 

「……冗談ですよ。あの程度の鱗粉、天狗(わたし)の風ですぐに吹き飛ばせます」

 

 妖夢の楼観剣のような接近戦の得物を持たぬ文には、弾幕を跳ね返す鱗粉に対してまともな攻撃手段がない。ならば、その鱗粉自体を吹き飛ばしてしまえばいい。

 手にした天狗の葉団扇を大きく仰ぐと、そこには紅葉を巻き上げる小さな竜巻が発生した。

 

「おっと、やっぱり私を狙ってきますよねぇ……」

 

 文は鴉天狗としての目で自身に迫るオルフェノクの触手を見た。剣崎と妖夢はそれぞれモスアンデッドとセンチピードアンデッドに苦戦している様子。マンティスオルフェノクとカクタスオルフェノクは文の意図に気づき、同時に使徒再生の触手を放ってきたのだ。

 すぐさま赤い一本歯下駄で大地を蹴って、自身が生みだした小さな竜巻に乗る。その上昇気流で夜空へ高く舞い上がると、彼女が足場として象った【 天狗の立風露(たちふうろ) 】は文の意思のままに消失を遂げた。

 その風に軌道を歪められた触手は文の足元を通り抜け。空中で翻った文は黒い翼を広げ、そのまま再び足元に小さな竜巻を形成すると、その中心の渦巻き目掛けて踵落としを見舞う。

 

「何っ……!?」

 

「なんだ……ぐぉっ!?」

 

 マンティスオルフェノクとカクタスオルフェノクは視界から消えた文を訝る間もなく、頭上から叩き落された強烈な突風に灰の細胞を削り取られた。

 天狗という圧倒的な暴風の具現。吹きつけられた風に怯んだマンティスオルフェノクは上空を見上げる。そのまま右脚を疾風の如く降り落としてきた文の【 天狗のダウンバースト 】をまともに喰らってしまい、鎌を構える暇もなく地に叩き伏せられてしまった。

 

 灰色のカマキリを踏みつけて立ち上がった文はカクタスオルフェノクと目を合わせる。赤い目をニヤリと細めた彼女は、背後に馴染み深い妖力を感じて──

 文の意思のままに舞い上がる漆黒の翼。幾多もの鴉たち、文の使い魔である彼らが一斉に夜空を翔け、カクタスオルフェノクへと襲いかかっていく。妖力を帯びているとはいえ、ただの鴉たちを(けしか)ける【 暗夜の(つぶて) 】では、カクタスオルフェノクにダメージを与えることはできない。

 

「その鱗粉、吹き飛ばさせていただきます!」

 

 暗夜の礫たる鴉たちに背後のカクタスオルフェノクを相手取らせている刹那、妖力の風を込めた葉団扇を振り抜いた。その風は紅葉を巻き込み舞い散る死の灰をも飲み込む【 楓扇風(ふうせんぷう) 】となって木々を揺らし。

 地面から巻き上がる突風は竜巻と化してモスアンデッドの鱗粉を散逸させていく──

 

 ──はずだったのだ、が。文は目の前の怪物、さながらガスマスクめいた意匠の頭部を持つモスアンデッドとこの距離で向き合って初めて気がついた。

 光弾を反射させていたのはただ鱗粉の散布による現象ではない。この鱗粉を張り巡らせることで、あらゆる干渉を跳ね返す結界じみた反射の力場のようなものを形成していたのだと──

 

「きゃあっ!」

 

 自ら放った風に煽られ吹き飛ばされる文。その鱗粉は、否。モスアンデッドの反射フィールドは風さえも跳ね返してしまう。

 飛び道具が通用しない──という次元ではない。まるでバリアだ。これでは妖夢の剣、ひいてはブレイドなる戦士が振りかざす剣による斬撃さえも反射されてしまうだろう。

 

 鴉の群れを散らしたカクタスオルフェノク、文が吹き飛ばされたことで自由を取り戻したマンティスオルフェノクが再び文を狙って使徒再生の触手を放つ。すかさず妖夢がモスアンデッドから距離を取り、文を守るように立ち塞がっては振るう楼観剣の刃で触手を斬り落としてくれた。

 

「……大丈夫ですか、文さん!」

 

「いやぁ、どうでしょうね。これは困りましたよ……」

 

「その軽口が叩けるなら大丈夫です。でも、確かにあの怪物を見くびっていました……」

 

 妖夢は背後で倒れる文に対して振り向くことなくその安否を問う。すぐ立ち上がった文は妖夢の傍らに立ち、黒いスカートについた紅葉や白い灰を払い落した。

 四体もの怪物を挟んだ彼方に見えるファイズとブレイドに視線を向けて意思を見る。妖夢と文はどちらの怪物もまだ馴染みがない。だが──彼らはこの怪物たちと幾度も戦っているはずだ。

 

「おい、どうすんだ。あのアンデッドとかいうの、お前の専門なんだろ?」

 

「ええっと……たしか前に倒したときは……」

 

 巧は赤熱するファイズエッジを構えながら傍らに立つ剣崎に問う。文の風さえも跳ね返された以上、あの鱗粉の周囲は直接攻撃さえも反射する。フォトンブラッドを帯びたファイズエッジの刃でさえも本体には届かないかもしれない。

 かつてモスアンデッドと戦った経験を思い出す剣崎だが、彼にはハートの8たるそれを封印した経験はない。ただ「奴と戦え」という言葉のままに、あの男に促されては怪物と戦い──

 あの男が封印した。やがて人間として生きようとした最初のジョーカー。剣崎一真の友となった仮面ライダーが。

 

 彼はどのように戦っていただろうか。まだ剣崎との繋がりが薄かった、あのときの彼は。剣崎を囮に利用してバリアの隙間を狙い射ようとしていたはず。

 その手段が見つからない。ただ我武者羅に戦っていた剣崎には、それが見つけられなかった。

 

「ちっ……! 考えてる暇はねえ。まずはオルフェノクの方からなんとかすんぞ!」

 

 巧は剣崎の答えを待つ間もなく駆け出した。ファイズエッジの刃を振るい、マンティスオルフェノクの腕の鎌と切り結ぶ。

 フォトンブラッドの光熱はオルフェノクの身には堪えよう。じりじりと焼けつく光が灰を零すのを見て、マンティスオルフェノクはファイズの腹を蹴り飛ばそうとするが、巧はその右脚を左腕で受け止めては振り抜く刃で怪物を一閃。

 吹き溢れる灰は血の如く。だが致命傷とはならず。かつて現れたマンティスオルフェノクは、ファイズの攻撃によって倒された。しかし、それは乾巧によってではない。

 

 ファイズギアを使用できる者はオルフェノクの記号を持つ者である。すなわち、オルフェノクであればその多くの者が使用できる。とある事情で奪われたファイズギアを使いファイズへの変身を遂げた赤井──カクタスオルフェノクが憂さ晴らしのために彼の命を手にかけたのだ。

 

 オルフェノクたちも元は人間である。巧にも仲間と呼べる者はいたが、彼らに関しては仲間意識などないのだろう。ただ威張りすぎている緑川が気に入らないという理由で、赤井はファイズとなって彼を──マンティスオルフェノクを殺害した。

 その記憶は彼らには残っていないのだろうか。自分を殺した相手と肩を並べて戦うなど、考えられるのか。巧はそれが疑問だったが──

 

 ファイズの複眼(アルティメットファインダー)に映った一条の鎖を見やる。センチピードアンデッドが放った鎖鎌、一万年前の闘争心が込められた『ピードチェーン』が鋭く迫り、素早く後退する巧。

 剣崎の話ではこの怪物は毒を持つらしい。飛び道具と呼べる鎖鎌にもそれが含まれているのかは不明だが、用心するに越したことはないだろう。鎖を回収した怪物は、文に注意を向けた。

 

「……っ!」

 

「はっ、余所見してる場合かよォ!」

 

 文を守ろうと再びフォンブラスターを構えようとする。しかし、すぐ傍には鱗粉を纏うモスアンデッドがいる。フォトンブラッドの光弾を放てば、またしても跳ね返されてしまうかもしれない。一瞬の躊躇を見逃さず、カクタスオルフェノクは全身に装うサボテンの棘を飛ばした。

 

「危ないっ!」

 

『サンダー』

 

 咄嗟の判断でブレイラウザーにラウズカードを滑らせる剣崎。オープントレイから取り出したのはスペードの5たるプライムベスタ、ディアーアンデッドが封印されたサンダーディアーである。その力を己が身に融合させ、ブレイラウザーの切っ先から青白い電流を放ってカクタスオルフェノクの棘を撃ち落とす。

 始祖たる放電はカクタスオルフェノクのもとへと飛び迫るものの──モスアンデッドが撒き散らした鱗粉の反射フィールドは健在だ。ディアーサンダーもまた、剣崎のもとへと跳ね返った。

 

「お前……あの鱗粉のこと忘れたのか?」

 

「……いや、思い出した。あのバリアの突破方法……!」

 

 微かに焼け焦げたオリハルコンブレストを撫でながら立ち上がる。剣崎の思考にて芽生えるは、かつての戦い。ただひたすらに剣を振っていた自分を利用し、あの男が見出したモスアンデッドの弱点。それを巧に伝えようとするが、彼らの間を裂くようにピードチェーンが飛来した。

 

「めんどくせえな……!」

 

 巧と剣崎はそれぞれ反対方向に転がって避ける。ファイズエッジを地面に突き立て立ち上がり、幾許かはダメージを与えたであろうマンティスオルフェノクに再び刃を向ける。

 妖夢も同じことを考えていたのか、楼観剣を構えてはマンティスオルフェノクに接近した。

 

「シュゥ……ゥウ!」

 

 鱗粉を纏ったまま口吻から毒の矢を放つモスアンデッド。文は風を巻き上げそれを振り払うと、葉団扇を振るっては風の刃たる烈風扇を放つ。しかし変わらず、鱗粉によって形成されたバリアは文の弾幕を打ち返してきた。

 それは想定の範囲内。確認のために放ったそれが跳ね返ってきても、文は小さい動きで回避することができる。

 モスアンデッドは再び口吻から毒の矢を放った。鱗粉の反射は自身には適用されないのか、あるいは内側からならすり抜けられるのだろうか。文は毒の矢を避けながら眉根を寄せる。

 

「ずるいですねぇ……あっちばかり飛び道具を使えるなんて」

 

「あれが奴の弱点なんだ。あの毒の矢を放つ瞬間、その隙間(すきま)にだけ鱗粉のバリアがなくなる」

 

 文と剣崎が向き合う相手はモスアンデッド。剣崎曰くその鱗粉のバリアは無敵ではない。あちらから攻撃を放つその瞬間にのみ、反射フィールドに隙間が生じるのだという。

 ゆえに狙うは一瞬。再び怪物が長い口吻に光を灯らせたそのとき。剣崎一真は即座に動いた。

 

「そこだ!!」

 

 未だディアーサンダーを帯びたブレイラウザーを振るい、青白い電流を迸らせる。瞬く間に突き抜けた稲妻が鱗粉の隙間を抜けモスアンデッドの口吻に直撃すると、キラキラと舞い散った鱗粉が美しく散逸を遂げた。

 怯んだ怪物は再び鱗粉を纏おうとするが、文と剣崎の二人はその動きを見逃さなかった。

 

「──させるもんですか!」

 

『マッハ』

 

「はぁああっ! うぇいっ!!」

 

 文が全身に纏う風は音速に至る鴉天狗の飛翔。その身をもって突風を巻き起こし、旋風となりて疾走する【 疾走風靡(しっそうふうび) 】で怪物に接近する。

 剣崎もまた慣れた動きでブレイラウザーのオープントレイを展開すると、その中からスペードの9たるプライムベスタ、ジャガーの始祖であるジャガーアンデッドが封印されたマッハジャガーを手に取りラウザーの刀身へラウズ。

 

 風を帯びた天狗の疾走。マッハジャガーを用いて発動した【 ジャガーマッハ 】による一時的な加速。その瞬くような速度を目で追えず、モスアンデッドは二人の接近を許してしまう。

 文と剣崎はその無防備な身に風の弾幕と覚醒の斬撃を見舞い──噴き出す緑色の鮮血を見た。

 

「ギシュ……ゥウ……」

 

 ふらつきながら後退するモスアンデッド。しかし、剣崎は速攻を悔いた。ディアーサンダーとジャガーマッハの発動により、ブレイラウザーに残されたAPは2200。あと一枚くらいであればプライムベスタをラウズできるだろうが──コンボによる必殺技には足りない。

 APをチャージするにはカテゴリーJからKの上級アンデッド、総称を『エマージュカード』と呼ばれる特殊なラウズカードが必要となる。今はそれが手元にはなく、APの回復には変身解除が必要だった。

 当然、敵を前にしている状態でそんな悠長な真似は許されない。この速攻で封印できればと思ったのだが──モスアンデッドのアンデッドバックルは未だ展開の兆しを見せていなかった。

 

「はぁあっ!」

 

「せやぁああっ!」

 

 その間、妖夢と巧は冴える閃きの楼観剣と真紅に輝くファイズエッジを構えていた。月下に淡く照らされたカクタスオルフェノクの放つ棘を器用に避け、あるいは斬り落とし、そのまま接近してX字を描くように交差して一閃する。

 マンティスオルフェノクを倒し切りたかったのだが、そちらに意識を向けていては飛散するカクタスオルフェノクの棘に対応できないのだ。そのためファイズエッジのフォトンブラッドで弱ったマンティスオルフェノクが動けぬ間に、カクタスオルフェノクへと猛攻を仕掛けた。

 

「くそっ……うぜえ……!」

 

 身体から溢れる白い灰と燃ゆる青白い炎。されど致命傷には至っていないのか、カクタスオルフェノクはすぐに炎を振り払うと、立ち直ってしまう。

 生身の妖夢の方を向くと、カクタスオルフェノクは全身から再び棘を放つ。あの棘にオルフェノクエネルギーが込められているのだとしたら、妖夢の心臓が危うい。半人半霊がオルフェノクに至ることがあるのかは不明であり、加えて巧は妖夢の出自を知らないが──

 無意識に妖夢を守るように駆ける。ファイズエッジでは捌き切れぬ量の棘を背で受け止めると、ファイズのスーツに微かながら青白い炎が灯された。巧は、仮面の下で痛みに表情を歪める。

 

「……っ! 危ない!!」

 

 背後のカクタスオルフェノクに振り返る巧は、その耳に剣崎の声を聞いた。妖夢と巧の猛攻で怯んだ正面の怪物に注意を向け、疎かになっていた方向から迫る鎖鎌。センチピードアンデッドが放ったピードチェーンが、ギラリと月の光を纏い巧へ飛来し──直撃するはずだった。

 

「……何だ……?」

 

 なんと、ピードチェーンは巧の前で砕け散ってしまったのだ。空中で粉々に消え、その端を掴んでいたセンチピードアンデッド自身も困惑している様子。自らの四肢も同然の武器が何の前触れもなく破壊されたことに対し、悠久の時を生きるアンデッドさえ狼狽えている。

 巧にもそれはすぐには理解できぬこと。カクタスオルフェノクがそんなことも気にせず立ち上がったが、今度は暴力的なまでの破壊の光弾──真紅のエネルギー弾が怪物の身に炸裂した。

 

「ぐぁああっ!」

 

 カクタスオルフェノクは光弾の爆発によって呆気なく吹き飛ばされる。小さな光弾であるものの、その破壊力は絶大。恐るべきは、それがオルフェノクにとって極めて有効に働くエネルギーであるフォトンブラッドではなかったということ。

 未だ鈍く全身を苛む強い衝撃に表情を歪める怪物はマンティスオルフェノクと共に立ち上がる。カマキリとサボテン。人ならざる死灰の貌で見上げるは、月夜より舞い降りる紅き闇。

 

「……しっかり避けてほしいわね。私はベルトの力で遊びたいのに」

 

 紅と白を装う少女は月を思わせる柔らかな金髪を秋風に撫で。煌びやかな七色の宝石を伴う歪な翼を揺らしながら、妖怪の山へと降り立つ。

 冴える悪魔の瞳は真紅。吸血鬼として生を受けたフランドール・スカーレットが見るは、彼女にとっては忌むべき退廃の象徴である灰の怪物──オルフェノクたちだった。

 フランドールの身には灰の記号が刻み込まれている。彼らの中でも最強に至るほどの絶大な力。龍の咆哮を思わせる力強さを持つ、オリジナルと呼ばれるオルフェノクの固有の記号である。

 

「だ、誰だ……?」

 

「あの子は……紅魔館の……?」

 

 その様子を見ていた剣崎と文も不意なる来訪者に驚いていた。小柄な少女ながらその振る舞いはまさしく強者のそれ。圧倒的なオーラを放つ姿に、思わず剣崎も慄く。

 文にとってはよく知る幻想郷の住人だ。かつて紅魔館に赴き取材した際に彼女に話を聞いたことがある。ありとあらゆるものを破壊する力は、迫る隕石さえも微塵に砕いてみせた。

 ──その気になれば月を砕くこともできるという。文たち天狗が恐れる鬼に等しき規格外の力。伝承こそ違えど、吸血鬼という存在は、その名の通り『鬼』に似ているのだと。

 

 センチピードアンデッドは鎖を失ってなお闘争心を収めていない。ムカデの頭部から吐き散らす猛毒の体液をもって、今度は剣崎たちに襲いかかった。

 モスアンデッドもまた口吻から放つ毒の矢で襲いかかるが、先ほど受けたダメージの治癒は成し得ていない様子。鱗粉のバリアを張る余裕も見せず、ただ不意に現れたフランドールによって場が混乱している隙に原初の知性でもって文と剣崎を倒すつもりのようだ。

 

 その攻撃もまた通らない。二体の怪物が放った毒液と毒の矢。そのどちらも、狸の腹太鼓めいた場違いな音と共に現れた巨大な塀によって防がれる。古びた白い塀には緑色の毒液が降りかかり、軽い音を立てて毒の矢が突き刺さった。

 役割を終えた塀──幻術によって生み出された『ぬりかべ』は消失する。間髪入れず、すぐさま月夜の空が光ったかと思うと、今度は青白いカエルやウサギの弾幕がアンデッドを蹴散らした。

 

「やれやれ、ようやく見つけたぞい。悪魔の妹、フランドール・スカーレットよ」

 

 月明かりを背にして舞い降りるは老獪なる化け狸の頭領、二ッ岩マミゾウだ。彼女は丸い眼鏡をキラリと光らせ、豊かな尻尾を揺らしながら妖怪の山に降り立つ。

 フランドールは古き妖力を帯びた化け狸を興味のなさそうな目で見やり、口を開いた。

 

「あんた、誰?」

 

「二ッ岩マミゾウ。いや、そうじゃな。今は──」

 

 七色の翼を揺らして振り返るフランドールの問いに返すマミゾウ。その名は古今無双の化け狸として外の世界の狸たちに名を知られ、幻想郷においては平安の大妖『(ぬえ)』によって招かれた妖怪の切り札として知られている。

 紅魔館の地下空間に閉じこもり、ただ本ばかりを読み漁っていたフランドールは幻想郷の情勢に詳しくない。幻想郷で起きてきた異変についても、あまり認知していないだろう。

 

 そんな彼女も、ある目的によって必要とされることもある。あらゆるものを吸収し尽くし己が力として取り込む無敵の神獣を、彼女の力でもって『破壊』させるため。あるいは旧き地獄の底より這い出た最凶にして最悪の怨霊を悪魔の屋敷から追い出すため。

 長らく力を振るうことがなかった彼女にとって、それは退屈を殺す紅い好奇心の供物。地下室の空虚な楽園を貪るよりも楽しいことを、自分を倒した霊夢と魔理沙以外に対しても見出すことができた。そしてそれは、彼女が灰の使徒たる少年から受け取り、手にした新たな力も同じ──

 

「…………」

 

 マミゾウの意思に応じ、彼女の腰元に神秘的な太古のベルトが現れる。美しい銀色に走る金色は、その中心に人の心を表す真紅のハートを湛え、分かつ中央の溝から原始の闘争心を滲み沸かせていた。

 フランドールが微かに敵意を向けたのは、それが吸血鬼の本能をも慄かせる気配を持っていたからだ。ジョーカーの力たるそれは、彼女の身体に不完全ながら定着している。

 

 マミゾウは腰に装ったカリスラウザーに視線を落とすことなく、懐から一枚のラウズカードを取り出した。ハートのAたるプライムベスタ、最強のアンデッドと称されたマンティスアンデッドが封印されたチェンジマンティス。その絵柄には、鎌を広げるカマキリの意匠が刻まれていた。

 

「変身」

 

『チェンジ』

 

 小さく呟いた意思と共に、その手に掴んだチェンジマンティスをカリスラウザーの溝へと通す。封印されたカテゴリーAの力を覚醒(ラウズ)することで、ジョーカーの融合能力をその細胞と自身の幻術でもって再現し、マミゾウの身体は一瞬だけ暗い影の帳に包まれる。

 次の瞬間には飛沫と散った影。その内より現れるは、ハートスートのカテゴリーA、マンティスアンデッドとの融合を遂げた幻想郷の切り札(ジョーカー)

 

 その姿はマンティスアンデッドそのものである。ライダーシステムの起源となったジョーカーの融合能力、ゆえにカテゴリーAが纏うべきカリスベイルもまた差異はない。

 腰に帯びたベルトだけがアンデッドバックルではないという違い。ジョーカーは伝説と謳われたマンティスアンデッドの力を思うままに掌握した。やがて、その意思は奇しくもそれを起源に開発されたライダーシステム、仮面ライダーの心を得ては人々の希望となるべく戦う道を選んだ。

 

「──カリスとでも名乗っておこうかのう」

 

 漆黒の身体に赤いハート型の複眼。マンティスアンデッドの呼び名たる『カリス』の名を掲げ、ジョーカーの力でその姿を我が物とするマミゾウ。

 全身に流れる赤い血が、ジョーカーとしての緑色の血を拒んでいる。未だ細胞の融合は完全とはいかず、あまり安定していない。だがそれゆえに彼女がジョーカーの本能に囚われることもない。理性の維持と引き換えに苦痛はあるが、この力にはそれを受け入れるだけの価値がある。

 

「あれは……カリス……!? ど、どうして……!?」

 

 マンティスアンデッドの姿に変身を果たしたマミゾウを見て、再びかつての友を垣間見る剣崎。だが、それは在り得ざる光景だった。

 カリスと呼ばれた戦士はマンティスアンデッド。ジョーカーはその姿と能力を借りた。後天的にその姿に変身できるのは、ジョーカーだけであるはずなのだ。それを可能とするジョーカーはただ一人──否。世界と友を救う代償にジョーカーとなった自分の二人だけのはず。

 

 彼女が腰に帯びているそれは、紛れもなくジョーカーラウザーに他ならないもの。自分の他にもジョーカーに至った者がいるとでも言うのだろうか。

 そんなことはあってはならない。この身に滾る闘争本能は、彼女への殺意を剥き出しにはしていない。その小さな事実だけが──彼女をアンデッドだと認識せずに済む数少ない希望であった。

 

「お姉様の指示? 私を連れ戻そうってわけ? それとも、あの秘神の差し金なのかな」

 

 フランドールは訝しげにマンティスアンデッドの黒き鎧を睨む。その名も姿も能力も、すべては純然たるアンデッドのもの。だが、それがジョーカーの力であるならば、人の心を得たジョーカーの在り様にも通ずる。

 たとえ人の手に依らぬアンデッドの融合だろうと、人を愛し守り抜く意思があれば。その異形もまたブレイドの世界における『仮面ライダー』と定義できるのだろう。

 

 吸血鬼としての魔力で歪めた空間から銀色のアタッシュケースを取り出すフランドール。真紅の光より現れたケースを開き、そこから機械的な意匠を持つ銀色のベルトを取り出しては両手で腰に巻きつけた。

 フランドールの細い腰に装われるはスマートブレインが開発した三本のライダーズギアのうち、最初期に造られた『デルタギア』というツールの一つだ。高濃度に圧縮されたフォトンブラッドは白く染まり、彼女が腰に装備した『デルタドライバー』の流動経路(フォトンストリーム)として深く刻まれている。

 

「まぁ、いいや。相手は誰でも構わないから」

 

 デルタドライバーの正面に宿るミッションメモリーは、逆三角形を模した戦士の仮面。不気味な白と黒の意匠を帯び、マミゾウが変身したカリスと向き合っていた。

 すでに役目を終えたケースは再び歪んだ空間の中に消える。フランドールは右手に持ったデバイス──銃身のない拳銃のグリップ部分だけにも似た銀色のそれをゆっくりと持ち上げ、その人差し指で引き金を引きながら顔の横に添えた。

 彼女が持つ『デルタフォン』は携帯電話と呼ぶにはあまりに特殊な形状だが、宿す機能としてはファイズのものやカイザのものと同じ、携帯電話型の変身用マルチデバイスに分類されるものだ。ただ、そこには数字が刻まれたテンキーなどは存在せず、小さな音声認識器(マイクロフォン)があるだけ──

 

「……変身」

 

『Standing by』

 

 静かに呟いたその言葉が、音声認識によってデルタフォンのとある機能を起動させる。無機質な電子音声と共に奏でられる待機音を聞き、フランドールは右腕を下ろした。

 デルタドライバーの右腰に備えられたビデオカメラ型デバイスたる『デルタムーバー』の後部、そこにデルタフォンの接続部を収めることで──それら二つを一つのデバイスと合体させる。

 

『Complete』『DELTA』

 

 ──その瞬間。フランドールの身はデルタドライバーから形成された青白いフォトンフレームに包まれ、月夜に落ちた妖怪の山を眩く染める光が迸った。

 フォトンブラッドの出力は標準値においては赤く。二倍の経路を用いれば黄色く。そしてさらに精錬すれば青く染まり、特殊な技法を用いて圧縮すればさらに強く白く染まる。その白いフォトンブラッドこそが、最初期に造られたライダーズギアでありながら最も強大な出力を実現させたこのベルト──『デルタ』のベルトの力だった。

 

 黒いスーツに走る白いフォトンストリームは『ブライトストリーム』と呼ばれており、恒常的に維持可能な限界出力を示している。胸や肩などの本来は装甲を強化する部位さえもそれが配され、特徴的な逆三角形の意匠はその流動を加速させる技法として用いられていた。

 ファイズに似た円形の複眼は曙光の如きオレンジ色に染まり、額にも備わった逆三角形の意匠によって悪魔めいた眼光を帯びている。フランドールはデルタとしてのオレンジ色の複眼をもって、マミゾウが変身した未知の戦士──カリスの名を持つマンティスアンデッドへと向き合った。

 

「あぁ、やっぱり、気持ち良いね。ベルトの力って……」

 

 フランドールの身に湧き上がる闘争心はアンデッドのそれに似ている。元より歯止めの効かない破壊衝動を有していた彼女の身に刻まれたオルフェノクの記号、それも強大なオリジナルの個体が持つものは、デルタギアの影響を強く受けている。

 デルタの胸部に備わっている『デモンズ・スレート』と呼ばれる装置は変身者の脳神経に特殊な電気信号『デモンズ・イデア』を送り込み、闘争心を搔き立ててデルタとしての能力を向上させる機能を有しているのだ。

 

 それは正しく適合すれば強大な力をさらに強化することができる。しかし、かつてこのベルトを使った者たち──ただ記号を持っていただけの人間たちはそれに耐えられなかった。

 脅迫観念に近いほどの闘争本能を無理やり引き出され、彼らの精神はデルタの力に取り込まれてしまい、その力に病的な執着を抱き依存してしまうほどの異常な行動を見せた。あろうことか同じ境遇の仲間同士で殺し合ってでもデルタギアを奪い合うほどに、彼らはこの力の狂気に囚われてしまっていた。

 それだけ危険な電気信号であるが、フランドールの身にはそこまでの影響はない。むしろ、その狂気の波長は彼女自身が持つ狂気と親和性を見せている。奇しくも、このベルトを使っていた龍のオルフェノク──無垢さと残酷さを併せ持つ少年と同じように。

 

 それでもまったく影響がないというわけではない。デモンズ・イデアはフランドールの吸血鬼としての本能さえも汚染し、吸血鬼が厭う流水への恐怖を曖昧にしているのだ。

 不安定な精神に働きかけた電気信号によって歪みを与えられ、今のフランドールには普段以上の狂気と破壊衝動が在る。だがその波長に適合した彼女は、人間のような精神崩壊は見せない。

 

「あいつ……! なんでデルタのベルトを……!」

 

「また新しいベルトですか……? じゃあ、彼女も記号を……?」

 

 巧はフランドールが変身したデルタの姿に息を飲む。文はその姿を初めて見たが、その見た目の類似性からファイズやカイザに近いものを見た。デルタと呼ばれたその戦士は、やはり巧も知っているファイズの世界の戦士であるらしい。

 妖夢もすぐに楼観剣を構え直しては、巧の傍に立ちながら剣崎を見やる。彼はマミゾウが変身したカリスに気を取られ、今この場にいる他の怪物への警戒が疎かになってしまっている。

 

「シュゥ……ゥオッ!」

 

 緑色の血を流したままのモスアンデッドが、薄翅を広げて飛翔した。零れる鱗粉は月の光で銀色に輝くが、そこには反射フィールドの形成はない。

 ジョーカーに近い気配を持つ存在。剣崎を含めた二体目のそれを前に恐怖し、判断能力が鈍ったのか。モスアンデッドは傷ついた身体のままカリスへと向かう。口吻に湛えた毒の矢を射出し続けるも、そのすべては弾幕の回避に長けたマミゾウの反射神経で避けられてしまった。

 

(わし)の目的は悪魔の妹(フランドール)じゃが……まずはこいつらを片付けるのが先じゃな」

 

 マミゾウはカリスとしての左手に赤いハートの意匠を帯びた長弓を出現させる。しなる弓は白銀の刃と研ぎ澄まされ、張るべき弦を持たぬそれは、ジョーカーとしての武器をマンティスアンデッドのカリスベイルで覆った無二の武器。

 漆黒のグリップを握り構える『カリスアロー』の引き金を引き、放たれた一条の矢は圧縮されたアンデッドのエネルギー。輝ける矢は【 フォースアロー 】としてアンデッドの身を穿った。

 

「ギュゥ……!」

 

 散った鱗粉と共に怪物が怯んだのを見逃さず、マミゾウは己が腰に備わったカリスラウザーからハート型の『ラウザーユニット』を右手で取り外しては、そのままカリスアローの持ち手の先端へ、ハートを重ねるようにしてそれを接続する。

 すぐさまマミゾウは右腰のラウズバンクから一枚のラウズカード、ハートの6に当たるプライムベスタを取り出し、モスアンデッドに見せつけるように翻す。

 タカの祖たる不死生物『ホークアンデッド』を封印した『トルネードホーク』をカリスアローの先端、ラウザーとなったハートの中心の溝へと──前へ滑らせるようにして覚醒(ラウズ)した。

 

『トルネード』

 

 カリスの身に追加で融合するホークアンデッドの力のままに、疾風を帯びたカリスアローは引き金を引き絞られ、荒ぶる竜巻の如き光の一矢を放つ。

 マミゾウが放った【 ホークトルネード 】の矢はモスアンデッドを貫き、緑色の血と銀の鱗粉を噴き上げさせ。モスアンデッドが腰に帯びるアンデッドバックルを展開させた。

 それを見逃すことなく、彼女は右腰のラウズバンクからプロパーブランク♥8を取り出す。

 

「シュゥ……ゥウ!」

 

「……何じゃ?」

 

 プロパーブランクを放つ直前、モスアンデッドが奇妙な動きを見せた。口吻から毒の矢を放ったのはいいが、その標的がマミゾウではなくマンティスオルフェノクだったのだ。マンティスオルフェノクはそれを受け入れ、自身の中にアンデッドの矢を取り込む。

 そのままマミゾウの手から飛来したプロパーブランク♥8はモスアンデッドに突き刺さった。緑色の光を放ちながらアンデッドは封印され、ハートの8たるプライムベスタ『リフレクトモス』はマミゾウの手へ戻った。

 

 マンティスオルフェノクはいくらオルフェノクといえどアンデッドの毒の矢には耐え切れなかったのか、その場に膝を着いて息を切らしている。

 ただでさえダメージを受けた身体に、なぜそのような攻撃を受け入れたのか。マミゾウは疑問を覚えたものの、すぐにリフレクトモスをラウズバンクに戻してフランドールの方を見やった。

 

「へっ、ちょうどいい……お前のベルトもこっちに寄越せ!!」

 

 フォトンブラッドの損傷(ダメージ)により身体から灰を零すカクタスオルフェノクは、全身から放った棘でデルタとなったフランドールに襲いかかった。しかし、やはり無作為に飛び散らせるだけのそれは弾幕とは呼べず。幻想郷に生きる少女は、動くことなくその弾道を見切る。

 その不躾な攻撃がフランドールの気に障ったのだろう。彼女は仮面の下で小さく溜息をつくと、デルタとしての黒い手を自らの右腰、デルタドライバーの右側に装うデルタムーバーへと持っていった。

 デルタフォンのグリップを握りカチリと捻ってそれを引き抜く。デルタフォンと合体した状態のデルタムーバーは『ブラスターモード』と呼ばれ、まさしく銃としての形を示していた。

 

「ファイア」

 

『Burst Mode』

 

 デルタムーバー ブラスターモードを顔の横に持っていき、呟くように告げる。その音声認識で起動した『バーストモード』の音声を聞き、右腕を真っ直ぐ伸ばして銃としてのデルタムーバーを正面へと構えた。

 オレンジ色に灯るレンズ状の銃口。その一つがフランドールの細い指で引かれた引き金によって青白い光を放つ。ブライトカラーに至るほどの熱量が、光弾となって飛び出した。

 

「ぐぁ……ぁ……っ!!」

 

 ファイズやカイザのそれを上回る圧倒的な出力。最初期に開発されたデルタギアは、予め強化を前提として設計されたファイズほどの拡張性を持たないが──

 カイザのダブルストリーム以上の絶大な出力でもってその差を補う。並大抵のオルフェノクは、その白いフォトンブラッドの、最大出力にも至らない光弾の射出で致命傷を負うだろう。オリジナルの個体ですらないカクタスオルフェノクが、それに耐えられるはずもない。

 

 本来ならば死にゆくオルフェノクは青白い炎に包まれて灰となる。だが、デルタの攻撃によって倒される者のみ、その身には炎と呼ぶには鮮やかすぎるほどの『赤』に燃ゆるのだ。

 赤紫かマゼンタか、あるいは明るいピンクとでも形容できる奇妙な炎の色。デモンズ・イデアが作用し、オルフェノクの細胞を燃やし特殊な炎色反応を見せているのか。フランドールはその炎をオレンジ色の複眼に映し、デルタムーバーを下ろす。

 

 鮮やかな赤い炎を上げて朽ちゆくカクタスオルフェノクにゆっくりと近づいていき、フランドールはスーツの全身にも流れるブライトストリームの衝撃を振り抜いた。左拳を正面からぶつけようとするものの──

 その拳は燃え続けるカクタスオルフェノクの手に受け止められた。じりじりと灰化し零れる身を顧みず、ブライトカラーのフォトンブラッドに削られていくその身の痛みも忘れ──

 

「くそ……が……っ!」

 

 その異形が睨むのはデルタではない。様子を見ていたセンチピードアンデッドに対するものだ。カクタスオルフェノクは赤く燃え広がる自身の左腕を力なく持ち上げると、その先端から突き出した使徒再生の触手でセンチピードアンデッドの心臓を貫いた。

 青白いエネルギーが触手を伝い、流れ込んでいく。元より不死であるアンデッドは、その力によって心臓を燃やされたとしても死ぬことはない。故に、オルフェノクとして覚醒することもないだろう。

 

 フランドールはその行動を訝しんだものの、すぐに赤い炎に包まれて灰と化したオルフェノクの残滓を見下ろし、退屈そうに顔を上げては背後の戦士たちへと振り返った。

 悪魔(デルタ)の仮面に表情はない。されどその下に隠す少女の思想は、滲み溢れる狂気として。

 

「お前、なんでそのベルトを……! あいつは……三原(みはら)はどうした!?」

 

「君はあのときの……! どうしてジョーカーの力を!? (はじめ)と何か関係が……!?」

 

 巧と剣崎が抱く疑問は必定。巧の仲間が持っているべきデルタギアは、本来ならばここにあるはずがない。そしてカリスラウザーとラウズカードを用いてアンデッドの姿に擬態できる者は剣崎が友とする本来のジョーカーだけであるはずなのだ。

 どちらも彼らに動揺を与えてしまっており、その狼狽は明確な隙となって生じる。アンデッドの細胞を毒の矢として受け入れたマンティスオルフェノクは傷口から漏れる灰の粒子に微かな緑色の血を含ませながら立ち上がった。

 残されたセンチピードアンデッドもまた胸元の傷から燃え上がる青白い炎を即座に癒し、身体に馴染んだ異種族の力、オルフェノクエネルギーの感覚に震えるように立ち上がる。

 破壊されたはずのピードチェーンは彼の細胞によるものか。再びその右手に形成されていた。

 

「……っ!」

 

 放たれたピードチェーンの鎌を視認し、即座に楼観剣を振るう妖夢。何とか弾くも、その膂力に押されて剣崎のもとへ後退させられてしまう。

 使徒再生の触手を突き伸ばしてきたマンティスオルフェノクに対し風を巻き上げることで触手の弾道を曲げ、自身と巧を守る文もまた、迫る触手に追いやられては巧のもとへ引き下がった。

 

「くっ……あいつら……さっきまでと動きが……!」

 

「確かに変ですね……それに、先ほどの二体の行動も気になります……」

 

 妖夢と文は疲労が残る身体で怪物たちに構える。二人が思考に抱く疑問は拭えず、戦いへの集中力を僅かに欠いていた。

 モスアンデッドが放った毒の矢、カクタスオルフェノクが放った使徒再生。それは彼らにとって味方と定義し得るマンティスオルフェノクとセンチピードアンデッドへ。毒の矢といえど命を削る毒ではないのか、使徒再生といえど不死生物には効かぬのか。

 それぞれ怪物に変化が起きている様子はなく、その行動に何の目的があったか分からない。

 

蟷螂(カマキリ)とは縁があったものじゃな。どちらの鎌が鋭いか試してみるかのう?」

 

 カリス(マミゾウ)の声色には融合したアンデッドの影響か、微かなエコーがかかっている。そのハート型の複眼──『インセクト・ファインダー』が映し出す万華鏡の如き視界には、マンティスオルフェノクが灰と共に流した微かな緑色の血が捉えられていた。

 左手で構えたカリスアローの先端はマンティスオルフェノクに向けられている。マミゾウの身に融合を遂げているマンティスアンデッドと同様、奇しくもその姿はカマキリに似るものだ。

 

「ほざけ……!」

 

 マンティスオルフェノクはマミゾウの挑発に乗らず、その両腕の鎌を振るう前に再び口から放つ使徒再生の触手で攻撃を試みた。しかし、その攻撃もカリスアローのしなやかな刃、鎌とも呼べる鋭さで打ち払われる。

 触手を口腔に戻す一瞬の隙を突き、マミゾウはラウズバンクから三枚のカードを抜いた。カリスアローには残存APを表記するBOARDの装備に似たシステムはないが、有する初期APは7000。先ほど使用したトルネードホーク、1400の消費によって5600まで低下している。だが、それでも次なる一撃──三枚のカードを用いたコンボを放つのには十分だ。

 

 その指先を彩る三枚のプライムベスタにはそれぞれの絵柄が宿っている。ハートの4たる『フロートドラゴンフライ』にはトンボの始祖が、ハートの5たる『ドリルシェル』には巻貝の始祖が。再びその手に取り出すトルネードホークには、翼を広げるタカの始祖がその威を示す。

 

『フロート』

 

『ドリル』

 

『トルネード』

 

 カリスアローに備わったラウザーユニットに続けて三枚をラウズ。それぞれのプライムベスタは光となって舞い上がり、カリスたるマミゾウの身に追加で融合を果たした。

 湧き上がる始祖の力はマミゾウの細胞を変異させ、アンデッドとしての力を強める。

 

『スピニングダンス』

 

 告げられた電子音声のままに、マミゾウはトンボの始祖たる浮力を借りて大空へと舞い上がる。幻想郷に生きる妖怪としての飛行能力を伴わぬ、遥か太古の天を目指す力。カリスアローを構えずその左手に添えたまま、マミゾウは膝を上げて姿勢を変えた。

 吹き荒れる旋風に身を包み、その身は螺旋を刻む。タカの風を纏いて疾風となり、さらに加わる巻貝の渦でもって、己自身で大空を穿ち貫かんばかりに月夜の空より鋭く舞い落ちていき──

 

「はぁっ!」

 

「ぐぅっ……ぁ……! がぁああっ!!」

 

 疾風を伴う螺旋はマンティスオルフェノクの身を貫く。カリスが誇る【 スピニングダンス 】の一撃によって、朽ちゆくだけの灰の肉体は呆気なく打ち砕かれる──はずだった。

 

「……おや……これは……」

 

 マンティスオルフェノクは灰の肉体から緑色の血を流しながらも砕けた身体を再生し、そのまま立ち上がってしまったではないか。腰に帯びたオルフェノクレストが歪んでいるようではあるが、アンデッドの矢を受けたことでその身にアンデッドの力を取り込んだのか。

 すでに死した人間であるからこそそのような無理が通ったのだろう。オルフェノクエネルギーによって強引に馴染ませているらしく、かなり憔悴している。

 

 死なないオルフェノク。短命であることがオルフェノクの最大の弱点だが、それを克服した今の相手はオルフェノクの王の祝福を受けた状態に近い。その力への適合もよほどの幸運が必要なのだろうが、マンティスオルフェノクは奇跡的にアンデッドの不死なる心臓を我が物としていた。

 

「ギチギチ……ギュチチ……ッ!!」

 

「……ムカデの怪物? どうしてか分からないけど……気に入らないわ」

 

 フランドールはデルタとしての姿のまま、迫り来るセンチピードアンデッドに向き直る。彼女の身に刻まれたオルフェノクの記号、龍が如く咆哮する力が訴えるのか、彼女はムカデに似た怪物に嫌悪感を覚えた。

 自分がそうあった記憶は一切ない。ただ記号が微かに覚えている。龍にして王たらんこの身に、ムカデの分際で歯向かってきた愚か者の存在。我が身に鞭打つ卑小な度胸の、あの男を。

 

『Ready』

 

 腰に装うデルタドライバーの正面からデルタの仮面を模したミッションメモリーを引き抜くと、右手に持ったデルタムーバー ブラスターモードの上部へカチリと装填。デルタムーバーの銃口に当たる『ソルティックレンズ』を伴う銃身が前方に大きく伸びる。

 ミッションメモリーの挿入により伸びた銃身は『ポイントシリンダー』となり、その身は『ポインターモード』へ変形した。

 フランドールはポインターモードのデルタムーバーを顔の横に持ち上げ、呟くように告げる。

 

「……チェック」

 

『Exceed Charge』

 

 デルタの複眼越しに、フランドールの真紅の双眸がセンチピードアンデッドを射貫いた。デルタドライバーが生成した膨大なフォトンブラッドが全身のブライトストリームを伝い、青白い光となって右手のデルタムーバーへと供給されていく様を見届けることもなく。

 銃身が伸びた状態のデルタムーバーの銃口をアンデッドへと向け、引き金を引く。オレンジ色のソルティックレンズが青白く輝いたかと思うと、三角錐状のフォトンブラッドが射出された。

 

「ギュゥ……ッ!」

 

 青白い三角錐は怪物の胸を穿通する。それそのものは単なる標的捕捉用のマーカーに過ぎず、物理的な殺傷力を持たない。ただし滲み溢れるフォトンブラッドの波動がじわじわと対象の体力を奪い続け、激しい光熱は身体の自由さえ奪っている。

 フランドールはデルタムーバーを右腰に戻し、デルタの脚力を宿す両足で地を蹴った。軽やかに跳躍を遂げた彼女は、空中で姿勢を変えて鋭く飛び蹴りを放ち、三角錐の中へ。

 

 やがて一つとなった少女と閃光。蒼白の螺旋に包まれ、その一撃は悪魔の鉄槌となりて──

 

「はぁっ!」

 

「ギュゥ……ォオオ……ッ!!」

 

 死の螺旋はセンチピードアンデッドを貫いた。その背後に姿を現したデルタは青白い閃光と共に刻まれた三角形──Δ(デルタ)の紋章へ振り返る。赤く炸裂する鮮烈な炎は、本来はオルフェノクのみが放つ記号の発露であるはずだったが──

 デルタが放った【 ルシファーズハンマー 】の直撃を受けても、不死の生物が死に至ることはない。それでも絶大な破壊力を伴うその一撃に耐え切れず、怪物はアンデッドバックルを展開した。怪物の背後に振り返るフランドールには、そのベルトの内側に刻まれた意匠は見えない。

 

「……へぇ、死なないんだ。そういう生き物なのかな」

 

 赤く燃ゆる怪物を後ろ回し蹴りで突き飛ばし、妖怪の山の断崖に叩きつける。デルタの性能か、あるいはデモンズ・イデアに思考を汚染されたフランドールの攻撃性か。その無慈悲な衝動に慄く巧と剣崎、文と妖夢が一瞬、動けなかった瞬間を見計らい。

 マミゾウは右腰のラウズバンクからハートの10たるプロパーブランクを取り出し、センチピードアンデッドへと投げつける。

 プロパーブランク♥10は確かにセンチピードアンデッドに突き刺さった。アンデッドバックルを展開した状態のアンデッドに正しく対応するカードを使用。空白のカードは淡く緑色の光を放ち、プライムベスタとして問題なく封印することができる──そのはずであったのだが。

 

「何じゃと?」

 

 光は青白い炎と共に掻き消され、緑色の血と微かな灰を零すその身から弾き出される。憔悴しているとはいえ、センチピードアンデッドは健在だ。マミゾウの手元に帰ってきたラウズカードは、投げたときと同じく封印の空白たるプロパーブランクのままであった。

 死にゆくカクタスオルフェノクの使徒再生を受けたことで、その身に灰の心臓めいたものが形成されているのか。アンデッドの身に不純たるオルフェノクエネルギーが正しく適合したのは、まさしく偶然の産物と言っていいだろう。

 今際の際に賭けに出たカクタスオルフェノクの判断が奇跡的な結果を見せたらしい。その影響は大きく、不死の身に帯びた不純な死がラウズカードによる封印を拒絶している。

 

 封印できないアンデッド。そもそも死なないことを考えれば、それは極めて大きな脅威となる。だが、その力を受けた個体が下級アンデッドであることが幸いし、見たところ個体の戦闘能力はさほど高くはないようだ。

 オルフェノクがアンデッドの力を宿したのも、アンデッドがオルフェノクの力を宿したのも、どちらもかなり強引な手段と言える。馴染まぬその力に消耗し、見るからに苦痛を帯びていた。

 

「ぐぅ……はぁっ……!」

 

「ギチチ……ギチギチギチ……!」

 

 それでも彼らは人の領域を超えた怪物である。死して人類の先へ進化した灰の使徒。不死にして太古より生物の始祖となった種の代表。奇しくもそれらは、それぞれ短い寿命と進化という未来の象徴。永遠の寿命と始祖という過去の象徴。どこまでも対称的な存在であった。

 

「あのアンデッド……封印できないのか……!?」

 

「そ、そんな……! いったいどうやって対処すれば……!?」

 

 剣崎はブレイラウザーを構えながらセンチピードアンデッドを見やる。同じく楼観剣を構え立ち並ぶ妖夢もまた、センチピードアンデッドが力なく立ち上がり、腰元のアンデッドバックルを再び閉ざしてしまう様を見届けた。

 マミゾウがなぜか持っていたハートスートのプロパーブランクで封印できぬのなら、剣崎が持つコモンブランクを投げても同じように弾かれるだけだろう。

 死なぬがゆえの封印であるのに、それすらできないのならばいったいどうすればいいのか。

 

「落ち着いてください。必ず方法はあるはずです。それより、あちらも……」

 

「……ああ、あのオルフェノク、前はすぐ死んだはずだ。不死身になってんのか……」

 

 文が葉団扇を構えて見やるマンティスオルフェノクはアンデッドのものらしき緑色の血を流している。隣でファイズエッジを構える巧と違い、文はかつてファイズの世界に出現していたあのオルフェノクについては知らないが──その血から大体の想像はつく。

 剣崎一真が後天的にアンデッドと化し、不死身となった話が結びついた。巧も同じ意見であり、おそらくあのオルフェノクは限定的にアンデッドの細胞を宿し不死の命を得たのだろう。

 それはさながら、人間が記号を得ては限定的にオルフェノクの性質を宿すのと同じように。

 

「ぐぅ……ああ……!」

 

 マンティスオルフェノクは緑色の血を流しつつも死してはいない。否、死ななくなったというべきか。その身にアンデッドの細胞を宿してしまった以上、如何にフォトンブラッドの衝撃を与えたところで完全に撃破することはできまい。

 アンデッドの細胞の恩恵か、灰と朽ちる肉体も治癒される。徐々に体力も回復しているのか、マンティスオルフェノクは紅葉に彩られた妖怪の山の大地を蹴り上げ、鎌を振り下ろす。

 

「妖夢ちゃん!」

 

『メタル』

 

 剣崎は狼狽する妖夢を守るように立ち塞がり、鋭い鎌の一撃をブレイラウザーの刀身で受け止めた。そのままオープントレイから引き抜いたスペードの7たるプライムベスタ、トリロバイトアンデッドが封印された『メタルトリロバイト』のラウズカードをラウズ。

 ブレイドのスーツに三葉虫の始祖たる存在を融合させることで、その装甲にさらなる硬化能力を与える【 トリロバイトメタル 】を発動し、続けて振り下ろされた左の鎌を胸部装甲で凌ぐ。

 

「はぁっ!」

 

 硬化した装甲への一撃が弾かれ、マンティスオルフェノクが仰け反った瞬間を見計らい、剣崎はブレイラウザーを振り抜いて怪物を斬り飛ばした。

 咄嗟の判断でプライムベスタを使用してしまったために残るAPは僅か。もはやAPを回復しない限り、これ以上のカードは使えない。幸い、トリロバイトメタルの効果は続いている。

 妖夢は剣崎に礼を言うと、冷静さを欠いていた自身を恥じ、気を引き締めて構えた。だが、敵はマンティスオルフェノクだけではない。オルフェノクの記号とやらを宿したであろうセンチピードアンデッドまでもが健在なのだ。

 

 文はちらりとデルタを見やる。不意に現れた謎の戦士、紅魔館の少女が変身しているこの仮面ライダーも警戒が必要だ。センチピードアンデッドが動いたため、そちらへの意識が削がれてしまうものの、目の前の怪物と距離を取りつつもデルタの気配は決して見逃さず。

 センチピードアンデッドが吐き出した毒液をしっかり見て避ける。葉団扇を振るって風圧を巻き起こし、ムカデの祖たる怪物を微かに仰け反らせ、その隙に巧はファイズドライバーに装填されたファイズフォンを開いた。

 怪物から目を離さぬまま左手の指でエンターキーを押下。その全身に、光の熱が灯される。

 

『Exceed Charge』

 

「やぁあっ!」

 

 赤熱化したファイズエッジの刀身でフォトンブラッドの斬撃を見舞うスパークルカットを放つ巧。センチピードアンデッドはオルフェノクの記号を宿した。その身にフォトンブラッドの衝撃は効果的であると判断し、袈裟懸けに右肩のムカデを斬りつけたのだが──

 緑色の血と微かな灰を零すや否や、オルフェノクの記号による影響か。不死身たるアンデッドの身は即座に再生した。死なないとは聞いていたが、再生能力もまた優れているというのか。

 

「……ん?」

 

 仮面の下で歯噛みする巧とは裏腹に、マミゾウはその一撃に意味を見出す。斬り落とされた右肩のムカデはそのままに、新たに生えたムカデを傷つけた際。その右肩の一部からは白い灰が零れていないことに気づいたのだ。

 さらに、マンティスオルフェノクにダメージを与え続ける剣崎と妖夢の働きにも意味があった。こちらも不死の性質を宿しているようだが、厳密には純粋なオルフェノクとしてそうなったわけではない。

 

 アンデッドの性質を宿した。それによって本来は単なる意匠に過ぎぬオルフェノクレストが、アンデッドバックルのように左右に分かたれているのだ。無論、アンデッドではないマンティスオルフェノクの腰部にはアンデッドらしきスートもカテゴリーも刻まれてはいない。

 だが、その身に刻まれたアンデッドの細胞、ただそれだけがアンデッドと定義できるなら──

 

「……剣崎一真よ、あのオルフェノク、封印できるかもしれんぞい」

 

「え……? そんなバカな……!」

 

「試してみる価値はあると思うぞ? コモンブランクならいくらでも持ってるじゃろ?」

 

 マミゾウはカリスアローの刃で前方の灰色を示した。剣崎は信じられないといった様子で驚いているが、言葉を交わす相手がカリスの姿だからか、無意識に受け入れてしまう。

 確かに腰に帯びたオルフェノクレストは、アンデッドバックルのように展開していた。だが、本当に封印など可能なのだろうか。

 

 剣崎はこれまでもアンデッド以外の怪物とも戦ったことがある。アンデッドの細胞を宿した人造人間とも呼べる、改造実験体。彼らは統制者の意思で選ばれた不死なる始祖たる存在ではない。

 故に、バトルファイトの敗退者としての座席の意味を持つラウズカードをもって封印することはできなかった。それならば、当然オルフェノクが封印できるはずがないとも思えるが──

 

「……っ! うぇいっ!」

 

 思考を馳せる暇もなく次なる触手の一撃が迫った。ブレイラウザーを振るってそれを斬り払い、剣崎はマミゾウの言う通り、ブレイラウザーの機能で生成したコモンブランクをマンティスオルフェノクに向けて投げつけてみる。

 マンティスオルフェノクに突き刺さったそれは淡い緑色の光を放ち、その身体を染めていく。カードの絵柄は変わらず、空白の鎖のまま。マンティスオルフェノクがカードに吸い込まれていく様子はなかった。

 だが、コモンブランクは明確にオルフェノクの身体から『何か』を吸い上げている。緑色の輝きそのもの。怪物の身体ではなく、そこから滲み溢れる光だけが、カードに封じられていき──

 

 パリンと渇いた音を立て、コモンブランクは力なく砕け散ってしまった。やはりラウズカードでオルフェノクを封印することはできないらしく、ただ隙だけを晒す。

 剣崎が再び放たれた触手に装甲を打たれ、激しい火花を散らして後方へ仰け反ってしまう。

 

「ぐぅ……っ!」

 

 攻撃を受けた直後にトリロバイトメタルの効果が失われた。硬化した装甲に受けたダメージは少ないが、晒した隙は小さくない。

 やはり無駄だったか。そう感じたが、剣崎は向き合うオルフェノクからアンデッドの闘争本能が消えていることに気づいた。そこへさらなる触手が迫り、思考は再び寸断される。

 今度は妖夢が彼を守るように楼観剣を振り上げ、マンティスオルフェノクの触手を弾く。

 

「……! 乾さん、あのオルフェノク……!」

 

「あのカードの力か……? なんでもいい、今なら……!」

 

 センチピードアンデッドを吹き飛ばして隙を作った瞬間を見計らい、文はマンティスオルフェノクを見やった。先ほどまで傷口から灰と共に緑色の血を流していたようだが、今は通常のオルフェノクと同様に灰だけを零しているのだ。

 コモンブランクを受けた影響でアンデッドの細胞だけを吸収され封印されたか。巧たちはラウズカードについて詳しくないが、今のあの怪物がただのオルフェノクに戻ったというなら──

 

「真っ赤な果実。命の収穫。みんなまとめて、私の手の中」

 

 不意に、その場をおぞましい圧力で染め上げる破壊の宣告が放たれる。巧も文も剣崎も妖夢も、オルフェノクとアンデッドでさえもがその紅き声色の主を見やった。

 フランドール・スカーレット。彼女は悪魔(デルタ)を纏う姿のまま、紅き魔力を右手に宿し、掲げ。

 

「──スペルカード。禁忌、クランベリートラップ」

 

 パチンと指を鳴らしたと同時、彼女の魔力は魔法陣を模した使い魔となって広がった。魔法陣はマンティスオルフェノクを囲うように浮かび、その周囲を旋回しながら青色と赤色の光弾を放ち、じわじわと逃げ場を閉ざして追いつめる。

 鋭い鎌でもって光弾を切り伏せ続けても無意味。次から次へと迫る光弾はやがてオルフェノクの全方位から近づき、フランドールがデルタとしての右手をぎゅっと握った瞬間のこと。

 

「ぐぁぁあああーーーっ!!!」

 

 波打つ怒涛の如き光弾は、それをさながら紅き果実を掬い上げるように。マンティスオルフェノクへと激しく炸裂し、その身を青白い炎に包み上げて灰へと還した。

 フランドールのスペルカード【 禁忌「クランベリートラップ」 】に逃げ場などはない。それが普段の弾幕ごっこであればいざ知らず。これは悪魔の殺意を乗せた死の弾幕なのだ。

 

 開いた手の平からは灰が零れる。デルタの力ではなく、フランドール自身の弾幕で倒したため、マンティスオルフェノクに赤い炎が上がることはない。

 ゆらゆらと揺らめく青白い炎。彼女はそれをオレンジ色の複眼に映すと、溜め息をついた。

 

「……やっぱり、赤いほうが好きだな」

 

 小さな呟きと共に振り返る。巧と文は気を引き締め直した。この場所に在る脅威は怪物だけではない。怪物に等しき破壊衝動を秘めた悪魔のベルト──デルタギア。それを帯びた悪魔の妹。巧は名も知らぬ吸血鬼の少女までもが、無慈悲な力の具現として存在している。

 マンティスオルフェノクが灰と散ったのを見計らい、センチピードアンデッドが再び行動した。今度はフランドールに対して襲いかかり、ムカデの節足を振り上げる。

 

「ちっ……」

 

 一度はルシファーズハンマーを受けた怪物。フランドールはその一撃を腕で受け止めるが、この怪物が殺せぬことは理解した。たとえ吸血鬼の魔力でも、倒せはしないだろう。

 デルタの右腕でもって怪物の腹に肘を打ち込むと、デルタムーバーの光弾で怪物を撃ち貫く。

 

「剣崎さん、封印できないアンデッドへの対処法は……!」

 

「……分からない……あれが改造実験体ならなんとかなったかもしれないけど……」

 

 妖夢は楼観剣を構えてセンチピードアンデッドを見やる。フランドールが相手をしているものの、倒すことのできない怪物への対策はまだない。

 剣崎が思考に浮かべるは、BORADの研究員であった男が生み出した人工的な不死生命体。不死たる彼らの細胞を利用して生み出されたそれは、完全な不死ではなかった。ラウズカードによる封印を受けつけずとも、剣崎が放つ最大の一撃で消滅させることはできたのだが──

 あのアンデッドは統制者に選ばれた53体のうちの一体。紛れもなく、完全な不死生物である。

 

「不死身の生物を倒すことなどできんじゃろう。無論、その身を『破壊』することも、な」

 

 マミゾウはカリスとしての複眼でちらりとフランドールの方を見た。デルタの聴覚はその呟きを聞き届けたのか、センチピードアンデッドを蹴り飛ばすと、マミゾウへと振り返る。

 

「……何それ。挑発のつもり? 私に破壊できないものなんてないわ」

 

 フランドールの声色には不快そうな苛立ちが見て取れた。そのままセンチピードアンデッドへと視線を戻すと、彼女はデルタムーバーを右腰に戻して右腕を胸の前に持ち上げる。黒い指先、手の平の上、そこにはフォトンブラッドの圧力以外、何もない。

 見えざる光はそこに確かに。フランドールだけが認識し得る、万物の特異点、破壊の目。物体の最も緊張した一点。彼女はそれを、自らの手の平の上に移動できるのだ。

 

 ありとあらゆるものを破壊する程度の能力。己が生まれ持った力でもって、フランドールはその見えざる点を「きゅっ」と握り潰す。まるで小さな果実を砕くように。あまり大した力も込めず、自身は対象に触れることもなく。

 その瞬間。センチピードアンデッドは緑色の血を噴き出し、内側から粉微塵に吹き飛んだ。

 

「うおっ!?」

 

「な、なんだ……!?」

 

 フランドールの能力を知らない巧と剣崎は、何の前触れもなく粉々に飛散したアンデッドに驚く。周囲の紅葉を緑色に染め、砕け散った破片は辺りに転がっていく。

 文と妖夢も不意の破壊には驚いたが──彼女の能力についてはある程度は理解していた。

 

「驚いたかの? あやつには、物体だろうが生物だろうが破壊できる力があってのう」

 

「……なんだそりゃ。だったら最初からそうしろよ……」

 

 老獪に笑うマミゾウ(カリス)に対して静かに告げる(ファイズ)。だが、それは決定打には成り得ない。形が残らぬほど粉微塵に砕いても、圧倒的な力で肉体を消滅させても。それは彼らアンデッドに対しては一時的な無力化に過ぎず。

 不死にして不滅。それがアンデッドという不死生物の本質だ。たとえフランドールがデルタギアの性能を楽しもうとせず、いきなり自身の能力で対象を破壊しても無意味だったことだろう。

 

「でも、いくら肉体を破壊したって、アンデッドを倒すことなんて──」

 

「その通りじゃ。じゃが、不死の肉体はオルフェノクの力も再生できるもんかのう?」

 

 マミゾウの狙いはそこではない。フランドールを嗾けてアンデッドの身体を破壊させた理由は、巧のスパークルカットでムカデの頭を斬り落とした際に、再生を遂げた部位からは灰が零れていなかったことに気づいたがため。

 フランドールの目の前でセンチピードアンデッドの細胞が集っていく。再び怪物の肉体を形成し直し、不死たる生物はその名の所以たるがままに、元の姿へ。

 だが、マミゾウの予測通り、その傷だらけの身体からは一切の灰を零してはいなかった。

 

「今のあやつは純粋なアンデッドとして再生したはず。つまり……こうじゃ!」

 

 再び手にしたプロパーブランク♥10を鋭く投げ放つマミゾウ。力なく立ち上がるセンチピードアンデッドは、砕け散った身を再生するのにエネルギーを使い果たしたようだ。最初からアンデッドバックルが展開した状態で、その身体は再生されていた。

 胸に突き刺さった空白のカードがセンチピードアンデッドを淡い緑の光に染め上げる。カードに宿る絵柄は収束し、漆黒のムカデを描いて怪物の身をすっかり封印して。

 カードはプライムベスタ『シャッフルセンチピード』となり、マミゾウの手元へと戻った。

 

「私を化かしたの? ……良い趣味だわ。(タヌキ)め」

 

「見ての通り、狸じゃよ。ああ、この姿はカマキリじゃったか」

 

 デルタのオレンジ色の眼光に射貫かれても、威風堂々たるカリスは揺るがない。芝居がかかった所作で肩を竦めてみせるが、それもマミゾウの挑発の意図か。

 青白く燃え上がる足元の灰を蹴り上げ、フランドールはマミゾウへと静かに向き直る。

 

「剣崎さん、あの姿……私たちが幽明結界で戦ったアンデッドですよね?」

 

 妖夢の視線はやはりカリスの姿となっているマミゾウに対して。剣崎たちは一度、カリス、すなわちマンティスアンデッドと交戦している。そのときに現れたマミゾウとも顔を合わせているが、彼女があの怪物を封印し、カードを得たのか。

 なぜ彼女がジョーカーの力を有しているのかは分からない。あの雲上の空で、一体何が起きたのだろう。剣崎は思考を巡らせるが、そのとき。月夜の風吹く妖怪の山に時空の乱れが生じた。

 

「ぐっ……なんだ……!?」

 

 涼やかな秋の風を切り裂くように、歪んだ空間から吹き込むは冴えるような冬の風。文が感じたその風、妖夢が感じたその気質。それは紛れもなく、妖怪の山の風ではなく。不意なる歪みに驚いた剣崎も知っている、死後の魂が誘われる世界──冥界の風であった。

 マミゾウに対して訊きたいことが多くある妖夢ともども、剣崎の身は妖怪の山を切り裂いた冬の風に包まれる。やがて紅葉と灰を巻き上げたその風は、山の地に微かな雪化粧を施して。

 二人の剣士を冥界に引きずり込んで消失。やがて残されたのは、冷たい雪の残滓だけだった。

 

「消えた……?」

 

 目の前から突如として消え去った二人を見て、文はその様子を訝る。肌に感じた時空の歪みは、あのオーロラが出現する感覚と似ていた。歪みの彼方から吹き込んだのは冥界の風。彼らは冥界に飛ばされてしまったとでもいうのか。

 文の思考を寸断するように、デルタの姿のフランドールが巧と文を鋭い眼光で射貫いた。

 

「……相手は誰でもいい、って言ったよね」

 

 白いフォトンブラッドの重圧がブライトストリームを通じて妖怪の山を踏みしめる。その光熱は紅葉と灰に染められた大地の微かな雪を瞬く間に溶かし、滾る力を示す。

 右腰からデルタムーバーを引き抜こうとしたフランドールは、巧──ファイズの姿に何かを感じている様子だ。それが龍の記号に依る記憶の想起なのか。フォトンブラッドの輝きにデルタと同じ力を感じたがためか。それは、彼女自身にさえ定かではなく──

 

 無意識にファイズエッジの柄を握る手に力を込める巧。文もまた未知なるベルトの戦士に対し、額に滲んだ汗を拭う余裕もなく構える。

 ──その瞬間。フランドールの眼前を吹き抜けるかの如く、一条の光が矢として横切った。

 

「おっと、どこへ行くつもりじゃ? 我々の計画にはお前さんが必要なんじゃがのう」

 

「邪魔するつもり? あなたが相手してくれるのなら、それでもいいけど」

 

 マミゾウが左手に構えるカリスアローは、フランドールを狙う。矢筒なきその長弓に番える矢は要らず。ただ込められたアンデッドのエネルギーが光となり敵を穿つ。奇しくもそれは弾倉などなくとも己がフォトンブラッドを弾丸と成すデルタムーバーの在り様と等しく。

 

 フランドールは仮面の下で小さく溜息をつき足を止めた。マミゾウの方へと振り向くと、銃として引き抜こうとしていたデルタムーバー ブラスターモードを別の意図で引き抜く。

 そのまま銃把(グリップ)を顔の横に持ち上げ、再び彼女は仮面の下にて口を開き、肉声でコードを入力。

 

「スリー エイト トゥー ワン」

 

『Jet Sliger Come Closer』

 

 数百年を生きた吸血鬼にとって流暢に馴染むは、幻想郷で使われている日本語ではなく。元より海の彼方の地にて用いられた異国の言語。フランドール・スカーレットが外の世界にいた頃に使用していた英語でもって、馴染み深きその発音をデルタフォンに告げた。

 デルタフォンの電子音声を聞いてコードの認識を悟る。その意味を知る者は、ここに二人。

 

「……っ、やばい! 逃げんぞ!」

 

「な、何です? どうしたんですか?」

 

「とにかくここを離れんだよ! ()()に巻き込まれたら、無事じゃ済まねえ!」

 

 デルタギアを使用しているフランドールの他に、かつて己が生きたファイズの世界でその脅威を見ている巧もまた、彼女が告げた音声コードの意味を理解していた。

 彼の焦燥が文に伝わることはない。それでもせめて彼女だけでもこの場所から離れさせようと、強引にオートバジンの後部へと座らせては、ミッションメモリーを抜いたファイズエッジをオートバジンの左ハンドルに戻す。

 

 黄色い複眼で背後を見やりつつ、巧はオートバジンのスロットルを捻った。文の理解も追いつかぬまま、その疾走をもって安全な場所──文の領域へ向かう。

 木々も多いこの場所で、巧も知る『あれ』と向き合うのは極めて危険だと判断した。オリジナルたるオルフェノクでさえ一方的に退ける力。オートバジンなど比にならぬ、()()

 

 時空を引き裂く音を聞き、激しい轟音と共に現れたその巨躯を見上げ。文は言葉を失った。

 

「な……っ!」

 

 轟くようなエンジン音を響かせて舞い降りるは、オートバジンの数倍はあろう機体。球体じみた特徴的なホイールは水平に浮力をもたらし、後部に設けられた五基の内燃機関はその推進力だけで山の木々を根こそぎ吹き飛ばしかねないほどの仰々しさを放っている。

 それはバイクと呼ぶには異形すぎた。そのすべてが万物を破壊するためだけに造られたと言っていいような、紛れもない兵器。

 

 フランドールがデルタフォンによって呼び出したのはスマートブレイン社が有する最先端技術の粋を結集して開発された、超高速アタッキングビークル──

 まさに悪魔(デルタ)が操るに相応しい怪物。その名も『ジェットスライガー』と呼ばれる機体である。

 

「ふふっ……」

 

 フランドールはオートバジンに乗って去っていく巧と文を一瞥すると、すぐに興味を失ったようにマミゾウへ向き直った。そのまま軽やかに跳躍し、ジェットスライガーに搭乗。座席にゆっくり腰かけると、左右に設けられた円形操縦桿をそれぞれの手で掴む。

 

「こ、こりゃたまげたのう……」

 

 正面に向き合うマミゾウもまた冗談としか思えぬ巨大兵器を見上げ、思わず声を漏らした。ファイズの世界についてはあまり詳しく知らないが──ここまで戦闘に特化した乗り物がこの幻想郷に持ち込まれようとは。

 だが、彼女もまた操るべき乗り物を有している。懐から取り出した木の葉に妖力を込め、己が傍らに投げると、狸の腹太鼓にも似た軽やかな音と共に。煙を上げ、バイクが現れた。

 

「何それ? ただのバイク? 面白くないわね」

 

「見くびってくれるな。こいつの性能はジョーカーのお墨付きじゃぞ」

 

 普遍的に存在する赤いバイクだったそれはカリスの放つ『シャドーフォース』と呼ばれる特殊なエネルギーに呼応し、その姿を変える。マミゾウがその身に纏うカリスベイルと同様の鎧が、その名もなき機体を包み込んだ。

 ただのバイクをマンティスアンデッドの力で造り変えた機体。漆黒のボディに走る金色は力強くも美しく、赤いシートとライトは人間の血を示すが如く。

 カリスの鉄馬たる『シャドーチェイサー』として。マミゾウの傍らにて、その威光を見せた。

 

「さて、何をして遊ぼうかの」

 

「弾幕ごっこ」

 

「……ああ、パターン作りごっこか。それなら儂も得意分野じゃよ」

 

 両手に握った操縦桿を捻ってはジェットスライガーと共にふわりと舞い上がったフランドール。マミゾウはシャドーチェイサーに跨りながら、それを見上げて息を飲む。

 あれだけの巨躯を支えられる浮力がどこから湧いているというのだろうか。それもあろうことか爆発的な推進力で滑空しているのではなく、安定した状態で平然と滞空しているではないか。

 

「さぁ、綺麗に避けてみせてよ。すぐに花火になっちゃったら、つまらないから」

 

 ジェットスライガーのコックピットに在るは操縦桿だけではない。最先端技術の粋たるそれは、ファイズの世界においては西暦2003年に実用化されているにも関わらず、極めて高精度なタッチパネル型のコンソールが設けられている。

 フランドールはデルタの指で器用にそれを操作し、眼下に見下ろす漆黒を捕捉した。画面の中に見据える対象をターゲットに設定し、右下に配置されたパネルに人差し指で触れる。

 

 ガシャン、ガシャン。鈍く仰々しい音を立て、ジェットスライガーの両側面が展開した。格納されていた幾重ものミサイルが顔を出し、それらが一斉に解き放たれる。

 一つ一つに『SMART BRAIN』のロゴが刻まれた弾頭、高濃度の圧縮フォトンブラッドが大量に満たされた数十発もの『フォトンミサイル』が──捕捉対象となったマミゾウ(カリス)へと発射された。

 

「くっ……! 言ってくれるわ……!」

 

『トルネード』

 

 シャドーチェイサーのモビルラウザーにトルネードホークをラウズ。車体に竜巻を纏わせ、速度と敏捷性を向上させる『トルネードチェイサー』を発動しては、マミゾウは決死の覚悟でシャドーチェイサーのアクセルグリップを捻って前へ。

 疾風と共に疾走し、後方にて爆発する衝撃を受けながらフォトンミサイルを回避。普段のスペルカードルールに近い動きで弾幕を避けるが、フォトンミサイルの爆発は山を激しく揺るがす。

 爆炎による煙も吹き荒ぶ風が掻き消してくれるおかげで、視界が遮られることはない。

 

「待っておれ、すぐに──!」

 

『フロート』

 

 幻術で具現化したバイクを変化させたシャドーチェイサーを乗り捨てて、再び手元に具現化したカリスアローにハートの4たるフロートドラゴンフライをラウズ。

 トンボの祖たる『ドラゴンフライアンデッド』が封印されたそれを自らに融合させ、湧き上がる浮力でもって翼も持たず空へと舞い上がる。己が妖力を伴わず、不死なる始祖の力で自由な飛行を可能とする【 ドラゴンフライフロート 】を発動すると、マミゾウは空中を翔けた。

 

 カリスとしての身のこなしでフォトンミサイルを避け、ジェットスライガーへと接近。そのままコックピットを目指し、カリスアローの峰をフランドールに向けて振り抜く。

 すぐに反応した彼女はデルタムーバーを引き抜き、マミゾウに向けてその引き金を引いた。

 

「……っ!」

 

「もらったぞい!」

 

 デルタムーバーは白い光を解き放つことはなかった。すでにバーストモードによって溜まっていたフォトンブラッドを撃ち尽くし、弾切れとなっていたのだ。マミゾウはその隙を見逃すことなく、空中で旋回する勢いを乗せたカリスアローの鋭い刃を振り下ろす。

 だが、フランドールもまたその一撃を受けることはない。右手にデルタムーバーを持ったまま、ジェットスライガーの操縦桿を左手だけで操作。車体の両側面下部に設けられた姿勢制御用のブースターを最大出力で稼働させる。

 青白いフォトンブラッドの奔流が放たれ、その凄まじい風圧に吹き飛ばされるマミゾウ。ドラゴンフライフロートで滞空力を備えているため地上へと叩き伏せられることはないが──

 

「チャージ!」

 

『Charge』

 

 フランドールがデルタムーバーに告げたコードのままに、そこには再びフォトンブラッドが充填される。引き金を引けばオレンジ色の銃口が青白く輝き、光弾が射出された。

 マミゾウは咄嗟に木の葉を化けさせ、ぬりかべを形成してデルタムーバーの光弾を防御する。返すようにカリスアローを引き光の矢を放つものの、再び姿勢を変えたジェットスライガーの側面に弾かれてしまい、フランドールには当たらない。

 

 再び互いに構える二人。カリスアローとデルタムーバーの先が睨み合う。だが、二人は山の空で起きた変化によって構えを解かぬまま微かに戦意を削がれていた。

 ばさばさと音を立てて舞い降りる数十羽の鴉たち。その目はギロリと鋭く冷たく二人を睨む。

 

「……ちょっと派手に動きすぎたかな」

 

 ジェットスライガーのコックピットに座したまま周囲を見て、フランドールは独り言ちた。ただでさえ巨躯なる機体で暴れ回り、弾頭兵器(フォトンミサイル)による爆撃まで行ったのだ。山の眼である鴉天狗たちに悟られぬ道理はない。

 彼女は小さく溜息をつき、デルタムーバーをデルタドライバーの右腰に戻す。そのまま立ち上がり、ジェットスライガーの車体から飛び降りると、自分が先ほどまでいた空を見上げた。

 

 時空を乱す力はジェットスライガーの機能にはない。高精度な自律走行機能を持たぬ機体には、呼び出しや撤退に応じるだけの機能がある程度。そのはずなのだが、空に浮かんだままのジェットスライガーは、フランドールの意思に応じ再び時空を裂いてどこかへ消える。

 

 マミゾウもゆっくりと地に舞い降りた。今はドラゴンフライフロートの効果で自在に空を飛べているが、どういうわけか()()姿()()()()()()()()()()()()()()()()のだ。

 それはおそらくフランドールも同じことだろう。外の世界──それも並行世界の法則に由来する力を使って『変身』している場合、どうやら幻想郷の法則に由来する能力、主に幻想郷の名のある人妖全般が可能とする、ただ『空を飛ぶだけの能力』までもが制限されてしまうらしい。

 

 先ほどの戦闘ではフランドールの能力が生きているか試す意味もあった。彼女のありとあらゆるものを破壊する程度の能力は変身していても健在。そして自身の化けさせる程度の能力も問題なく使うことができた。

 だが、フランドールは変身した状態では一度も自力で飛行していない。やはりマミゾウと同様に変身時の飛行は不可能であると考えられる。

 変身したことで重量が増加し、自力での飛行が難しくなる──ということなのか。吸血鬼ほどの膂力ならば多少の鎧を纏ったところで加わる重みなど無に等しいはずだが、自身も同じく変身した状態での飛行を試みて、明確とは言えぬながら分かったことがあった。

 

 この力は、幻想郷の法則そのものに微かな影響を与えている。外の世界の戦士、仮面ライダーと呼ばれるこの力を纏うことで、自身の幻想が抑制され、常識に押し込まれる。

 ただ、この仮説においては飛行以外の能力が使えることの説明がつかなくなるのだが──

 

「…………」

 

 フランドールは再び右腰からデルタフォンを抜く。今度はデルタムーバー ブラスターモードとしてではなく、その接続を解いてグリップ部分たるデルタフォンのみを。

 数少ないキーの一つである手元の通話終了キーを押下すると、青白いフォトンフレームを残してデルタのスーツが電子の光と消失。やがてフォトンフレームも消え、少女の姿が生身へ戻る。

 

「そろそろ観念したかの? おとなしくこっちに──」

 

 月明かりを返す七色の結晶は翼と揺れた。マミゾウはフランドールの紅い瞳から戦意が失われていることを悟り、カリスとしての姿のまま彼女に手を差し伸べる。

 だが、フランドールは手元に灯した真紅の魔力を放ち、マミゾウの足元を爆ぜ散らした。

 

「くっ……!」

 

 マミゾウは巻き上げられた土煙に顔を覆ってしまう。その衝撃と爆風に紛れ隠れるようにして、吸血鬼の少女は夜空の彼方へと消えていった。

 月に叢雲は宵を染め。すでに遥か遠くへ飛び去った彼女を追うだけの体力はもはやマミゾウには残されていない。微かに取り込んだはずのジョーカーの細胞、アンデッドの血が、化け狸としての身体に激しい拒絶反応を見せている。

 

 カリスラウザーによるアンデッドとの融合はライダーシステムではない。有史以前から連綿と続くバトルファイトの法則。統制者が定めた星の摂理。ジョーカーという存在のみに許された原初の理である。

 如何に古今無双の大妖怪といえど負担は大きい。マミゾウは手元に一枚の木の葉を取り出すと、それを化けさせてラウズカードを模したカードに変化させた。

 

 ブレイドの世界には存在しない、マミゾウが自らの幻術で生み出したカード。スートが在るべき場所にはそれがワイルドベスタであることを示す、円に十字を刻むもの。如何なる系統にも分類されぬ『ワイルド』のスート。

 絵柄は胸に木の葉を抱いたタヌキの姿。そのカテゴリーは──2。本来の世界において、ヒトの祖たるハートの2を模し、マミゾウは自らの種族たる(タヌキ)をカテゴリー2と成したのだ。

 

 彼女が手にするその一枚はラウズカードではない。ただ木の葉を変化させて作り上げた疑似的なワイルドベスタ。だが、それはアンデッド化しつつあるマミゾウの細胞に、化け狸の遺伝子を思い出させるために必要な儀式的なものである。

 カリスアローを消失させると、空白だったカリスラウザーにラウザーユニットが戻る。手にしたスートなきカテゴリー2たる『スピリットラクーン』をその溝に滑らせると──

 タヌキの絵柄を宿すカードは妖力と散り、マミゾウの漆黒の甲冑へと融合を遂げていった。

 

『スピリット』

 

 己が正面に浮かび上がった白い帳が彼女の身を通り抜け、マンティスアンデッドと融合していたマミゾウは元の姿へと戻った。

 不意にその身に訪れた疲労と消耗に思わず片膝を着く。苦痛に咳込み、吐き出した血をその手で受け止め、視線を落とせば──それがまだ赤いことに微かな安心と焦燥を抱いて。

 

「……やれやれ、気まぐれなお嬢さんじゃ」

 

 宵に浮かぶ月を見上げて立ち上がる。飛び去る悪魔はすでに見えざる闇の彼方へ。此度の異変、その結末。すべてを破壊し、すべてを繋ぐ楔。それに先んじて『破壊』すべきもののために、かの破壊神の力が必要であったのだが──致し方あるまい。

 冷たい風が肌を撫でる。マミゾウは小さく溜息をつくと、煙に包まれるように姿を消した。




アンデッドとオルフェノクってモチーフが被っている個体多い気がします。
書いていて何度もマンティスオルフェノクをマンティスアンデッドって書きそうになりました。
何度もセンチピードアンデッドをセンチピードオルフェノクって書きそうになりました。

書く度に最大文字数を更新していっているような……書きたいことを節操なく書きすぎですね……

次回、第61話 話16第『果てしない炎の中へ / 光なき地殻』


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第61話 果てしない炎の中へ / 光なき地殻

 本来は春のはずの幻想郷。同じ紡ぎにある地底の世界、旧地獄にも、地上と同様の四季異変は影響を及ぼしている。はらはらと舞い散る白い雪は、旧都の中心に建つ地霊殿の周辺を淡い冬景色に染め上げ、冴える空気で満たしていた。

 アギトの力を宿している翔一とお空が二人の鬼と一人の橋姫と共に戦った日から数日。その場において彼らから聞いた話を地霊殿にて共有し、さとりにもその存在は伝わっている。

 

「鬼……ですか」

 

 さとりは地霊殿の居間と呼べる空間で彼らの心を見ていた。向き合った状態でソファに座り、神経(コード)を伴い絡みついた第三の眼(サードアイ)でもって翔一を見る。

 彼の言葉を疑っているわけではない。彼が嘘を得意としないことは知っているし、何より地底に鬼がいることはさとりも承知の上。しかし──お空も同様に語った存在、人間から鬼へと変わり、自在に人へと戻ることができるような者など聞いたことがない。

 

 ただ人から鬼へと至る。嫉妬の感情によって橋姫というある種の鬼へと至った人間は旧地獄にも存在するし、あるいは妖気や霊を喰らって『人鬼』と成り果てた者も歴史上存在している。だが、それは不可逆的な変化のはずだ。仮に人間に戻ることができても、何百年、何千年もの時を必要とすることだろう。

 にわかには信じられなかったが、彼やお空の心象には紛れもなくその存在が映っていた。記憶と呼び得るほどに確立した妄想──ではない。お空と翔一はまったく同じ存在をその心に映し出している。その目で実際に同じものを見ていない限り、同じものが心の中に映ることはあり得ない。

 

「ヒビキ……って言ってました。あの(ひと)も翔一さんと同じ外来人って感じで……」

 

「……あのさ、お空ちゃん。その翔一さん……っての、ずっと気になってたんだけど……」

 

 さとりの第三の眼には彼らが心に思い浮かべる全てが映し出されている。それを忘れてしまっているのか、自分が見た記憶をどうにか説明しようとするお空に対し、翔一はこの地霊殿に来てから気がかりであったことを打ち明けた。

 その心の中もすでにさとりには悟られている。彼が言わんとしていることも、さとりにはすでに分かっている。その心象と同時に心に映る記憶を見るに、彼にとっては重要なのだろう。

 

「うん? どうかしたの?」

 

 翔一以上とまではいかないにしろ、さとりを大きく超える身長のお空。ソファに座ったその身を傾け、隣にいる翔一に向き合う。

 さとりと同様、その胸にはもう一つの眼が在る。ただしそれは覚が抱く読心の眼、瞼を伴うものではなく。その身に喰らった八咫烏の威光として(かがや)く赤の眼と呼ばれるもの。

 

「俺、ずっと翔一くん、って呼ばれてたんだ。そっちのほうがしっくりくるんだよね。だからさ、できればそう呼んでほしいなーって。お燐ちゃんが目を覚ましたら、あの子にも伝えて──」

 

 そう遠くない過去の記憶。この幻想郷、旧地獄に誘われる前。自分が生きたアギトの世界において、彼の居場所の象徴。記憶喪失の自分を受け入れてくれたあの家族は比較的年の近かった少女がそう呼んでくれたのを切っ掛けに、自分を『翔一くん』と呼んでいた。

 彼女は『翔一さんって感じじゃないでしょ?』と笑って。年上の自分を相手にしても、友達のように接してくれる。深い記憶の傷に苛まれたときも、その笑顔に救われ、輝きを取り戻せた。

 

「……っ、あたいなら、ここにいるよ」

 

「お燐……!」

 

 力ない足取りで地霊殿居間に降りてくるお燐。さとりは彼女の顔を見て、思わず立ち上がった。お空と翔一も彼女に気づき、壁に手をついて進む彼女の身を案ずる。

 間欠泉地下センターの戦いで、お空とお燐にはアギトの力が宿されてしまっている。お空は八坂神奈子という神の干渉によってその身の力が八咫烏の神性と習合し、発現こそ難しいものの安定はしているのだが、お燐の場合は何の神性も持たぬ妖怪ということもあってアギトの力が歪んだ形で根付いてしまっていた。

 歪んだ形で目覚めたアギト。それは翔一もよく知るあの男と同じ。己が身をアギトと成すのではなく、独立した力そのものが『ギルス』となって宿主を苛む、極めて不安定な在り方だ。

 

「……ごめん……俺のせいで……」

 

 翔一は己の浅慮を悔いる。パンテラス・ルテウスと戦う際に自分がもう少し周囲に気を配っていれば、彼女たちは力を宿さずに済んだかもしれない。

 己が拳を強く握る。姉と同じ痛みを背負わせてしまった。還らぬ家族と同じ、深い苦しみを。

 

「……津上さん」

 

 彼女らはあなたのせいだとは思っていない、そう伝えようとした。第三の眼で見て確かに確認したその想いを、翔一の憂いを拭うために告げようとしたところ、お燐とお空、翔一の三人が不意に顔を歪めたのを見てさとりは口を噤む。

 その場に倒れ込んだお燐を介抱しつつ、彼女の心に在る歪んだ光の渦を見れば認識できる脅威。それはやはり紛れもなく、アギトの力を抹殺するために現れるアンノウンの気配だった。

 

「さとりさん、また奴らが……!」

 

「お燐とさとり様はここで待ってて! じゃあ、行くよ! 翔一くん!」

 

 彼らが抱く光に伝う、魂を貫くような光の気配。翔一とお空は立ち上がり、アギトの力をもって感じ取ったアンノウンの気配を追う。

 廃棄された灼熱地獄の跡地。旧地獄全体のエネルギーを管理する、地霊殿深奥の炎へと。

 

「……さとり様……」

 

 額の汗を拭わぬままお燐が口を開いた。翔一とお空を見送ったさとりは、動物たちに手伝ってもらいながらお燐をソファに寝かせてやろうとする。だが、すぐに彼女の言葉を聞いて気を引き締めた。彼女曰く、翔一らが去った直後、また別のアンノウンの気配を感じたというのだ。

 

「戦うしか……ないのね」

 

 再び意識を失ったお燐を地霊殿の動物たちに任せ、さとりは妖力で歪めた空間から一本のベルトを取り出す。

 白銀を帯びた機械仕掛けの腰帯。正面にメーターを設けたそれは、かつてアギトの世界で人類の叡智として生み出されたもの。名をGバックルと呼ばれる道具。

 本来ならばこれだけでは何の意味もない。されど洩矢諏訪子の力によって書き換えられ、ベルトそのものをG3システムと定義し直されたこの力は、かつてと同じ信仰を宿す。

 アギトならざる人間(ヒト)の力。さとりはベルトを強く握り、不安を打ち消すように立ち上がった。

 

◆     ◆     ◆

 

 地霊殿直下、旧灼熱地獄。あるいは灼熱地獄跡とも呼ばれるこの場所に、滾る炎と光は宿る。亡者の罪を焼くことはなくなれど、その炎は死体を燃やしてさらに勢いを強めていく。

 火力の調整はお燐の仕事であったが、お燐が内なるギルスの侵食に苛まれて動けないため、その仕事を代わってくれているのは妖獣に近い進化を遂げた地底の動物たちだ。彼らはその場に現れた神秘の光、超常の悪意を警戒し、唸り声を上げている。

 

「…………」

 

 旧灼熱地獄の炎の狭間。広大な敷地の中に立つ影は二つ。雄々しき蛇が如き頭を掲げ、神官めいた装束を纏う、コブラに似た超越生命体。その手には大いなる翼を広げた意匠を宿す黄金の錫杖を持つ──『スネークロード アングィス・マスクルス』の威光である。

 もう一体は真紅の体躯にやはり神官めいた装束を纏いしヘビに似た怪物。神話に語られる怪物の如く、頭髪を無数の蛇と成し、雌々しき振る舞いと高い唸り声には女性らしさを滲ませるものの、その手に掲げる毒蛇めいた不気味な鞭より放つ悪意と共に、アギトの世界に依らぬ異界の動物への憐憫などないのだと示すかのよう。

 共に蛇の超越生命体と定義されるその怪物は『スネークロード アングィス・フェミネウス』と呼ばれている。アギトの世界において警視庁が定義したその名は仮初めのもの。元より神に仕える天使たちである彼らに、人間が呼び得る名などない。ただ種の頂点である誇りを除いては。

 

「やっぱり、あいつら……!」

 

 乱れ歪んだ冬の境界は地霊殿の外側ばかり。そのさらに深奥たる旧灼熱地獄は、そんな寒さとは無縁の灼熱に満ちている。

 翔一はお空と共にその地に降り立ち、不気味な気配を放ち佇む二体の怪物と向き合った。

 

ΑGITΩ(アギト)……」

 

 アングィス・マスクルスが己が手甲に神への忠誠を示す印を刻む。翔一が見るはコブラに似た超越生命体。その傍らに立つ雌々しき毒蛇もまた、彼にとって一度は戦ったことのある相手。かつて自身を受け入れてくれた少女、彼女の家庭教師として訪れた女性を襲った存在。

 

 じりじりと焼けつくような熱が翔一を襲う。灼熱地獄跡の炎は絶えず揺らめいており、八咫烏を喰らったお空の身にこそさほどの影響はないものの、アギトの力を宿すとはいえ人間である翔一の体力を奪っている。

 幸い、この場所はまだ灼熱地獄跡の炉に当たる深奥の最果てではない。地霊殿の空気が吹き込む余地のある断崖の岩肌。核熱の通り道でしかない。とはいえ──

 早々に決着をつけなければ、炎の熱によって消耗し、敵に致命的な隙を見せてしまうかもしれない。あるいは炎熱に耐性を持つ超越感覚の赤、フレイムフォームとなって戦うべきか。

 

 このような環境においては超高熱の力を自在に操る『燃え盛る業炎』こそが理想的なのだが──アギトの力が分散してしまっている今、あの姿に至ることはできないらしい。

 刹那の思考は熱に払われ。いざや怪物が動こうとした瞬間。旧灼熱地獄に風が吹き込んだ。

 

「……っ!?」

 

 荒れて渇いた地獄の果てに似つかぬ、霧に濡れた風。夏らしく湿った熱が籠ってはいるものの、旧き地獄の炎が揺らめくこの場においては即座に渇き散り消えて。

 歪んだ時空の彼方よりその姿を見せたのは現代的な衣服に身を包んだ人間の青年、城戸真司と、緑色の中華服を纏った赤髪の女性、紅美鈴であった。二人は不意に誘われた灼熱地獄跡地の光景に驚き、辺りを見回している。

 

 お空も翔一もまた彼らの出現に驚いていた。ただ時空の歪みを認識していたのだろうか、彼らを挟んで翔一たちの向こう側にいる二体のアンノウンは狼狽えた様子がない。

 考えてみれば奇妙だ。アギトの力を狩る目的ならばなぜこんな場所に現れたのか。お空やお燐、自身を狙う目的であれば地霊殿の周囲に現れるはず。なぜ、あえて距離のあるこの場所を選んだのか──翔一の思考は意図したものではなく、無意識に抱いた疑問と呼ぶべきものであった。

 

「痛ってて……! ってか熱っ!? な、なんだよ!? どこだここ!?」

 

「こ、ここって……! もしかして旧地獄の……? ど、どうしていきなり……!?」

 

 真司と美鈴は灼熱地獄跡の熱に苦しむ。されどすぐに立ち上がり、状況が理解できないながらも目の前の怪物を警戒。アングィス・マスクルスとアングィス・フェミネウスの二体から後退して、翔一やお空と並び立つようにその場に立つ。

 自分は先ほどまで紅魔館の正面にて未知の怪物と相対していたはずだ。不意に竜の咆哮や列車の警笛を聞いたかと思うと、気づけば歪んだ空間に巻き込まれてこの場所にいた。

 向き合う相手も未知ではある。だが、紅魔館で見たステンドグラス状の美しさとはまた異なる意匠。神々しさを思わせるような神官めいた装束。さながら神の使いが如き超常的な怪物──

 

「…………」

 

 ちらりと互いの顔を見やる二人。その面構えが紛れもなく戦士のそれであることを、彼らは考えるまでもなく理解できた。

 美鈴とお空も、互いのことはよく知っている。最初に出会ったのは幻想郷に超巨大な人型の影が浮かび上がった頃。正体は守矢の神々が誂えた単なる広告用の大型アドバルーンであったのだが、その存在を切っ掛けにして、幾度となく拳を交え、弾幕の光を交えたこともあった。

 

 正面に向き直り、二人はそれぞれ杖と鞭を撫でる二体の蛇の君主(スネークロード)を見る。

 真司が懐から取り出すは、終わりのない戦いを恐れぬ証。燃ゆる龍が刻印された漆黒のカードデッキ。何もない正面へと突き出し、己が腰にVバックルが装着される感覚を確かめ、右腕を鋭く左上へ突き伸ばす。

 翔一は右手を左腰へ突き入れ、前に突き出し胸の前へ引き戻す。己が腰に現れる真紅と金色の光、オルタリングは熱くなる身体と心、それに従う本能の証。

 そのまま深く息を吐きながら、右手の手刀をゆっくりと正面に突き出し──魂に光を灯す。

 

「「変身っ!」」

 

 熱き炎と燃え上がる鏡の闘志。眩き光と解き放たれる人類の可能性。二つの輝きは共に旧灼熱地獄の光と炎の中に溢れ、彼らの姿を変えていた。

 龍騎とアギト。決して交わることのない法則の中に在る戦士。真司と翔一はそれぞれの構えで立ち、二体の蛇に似たアンノウン──スネークロードと呼ばれる超越生命体へと向き合う。

 

「やっぱり、あんたも……仮面ライダーってわけじゃないんだよな」

 

「そういう君も、アギトじゃない……よね。見たところ、鬼でもなさそうだし」

 

 龍騎の格子状の仮面(ソリッドフェイスシールド)から覗く赤い複眼(レッドアイ)で見るは光を帯びた戦士の姿。この幻想郷に来て、クウガなる未知の戦士と共闘した真司は、自らの知らぬ、神崎士郎が開発した仮面ライダー以外の戦士を可能性と見た。

 クウガと名乗った戦士によく似ている。されどその身は黄金。清らかなる炎を思わせる彼に近い在り方は似るが、こちらは太陽めいた超常的な神々しさを放っているような。

 

 アギトの漆黒の頭部(ハードシェルヘルム)に設けられた真紅の複眼(コンパウンドアイズ)で見るは、鏡像と重なって変身を遂げた騎士の姿。翔一もまた、この幻想郷で未知の法則を宿す『鬼』──響鬼なる存在と肩を並べている。

 だが、隣に立つ騎士はどこか悲願に濡れた痛みを帯びているように感じられた。内に秘める炎の闘志は熱く滾るのに、その鎧は、どこか冷ややかな正義なき願い。

 無機質な金属。響鬼と名乗った鬼と違い、生体的な皮膚──あるいは肉体を晒してはいない。

 

「鬼ぃ……? 幻想郷(ここ)って、天狗や吸血鬼だけじゃなくて鬼までいんのかよ……!」

 

「びっくりするよねぇ。でも、ほら。今はそれどころじゃないみたい」

 

 翔一は賢者の如き静かな構えを崩さぬまま、しっかりと向き合う相手を隣の騎士に示す。翔一にとって、アンノウンはアギトの力を抹殺するために舞い降りた天使たち。彼らの目的がかつてと同じであれば、狙うのは自身やお空であるはずだ。

 微かな疑問は未だ燻っている。彼らが動物たちしかいないはずの旧灼熱地獄に現れた理由は何なのか。鬼と肩を並べて戦った際に鬼が狙われたことにはまだ納得できる。

 彼は鍛えて鬼へと至ったと言っていた。となれば、人間の領分を超えた進化を厭うアンノウンが鬼を狙うのも道理。解せないのは、そもそも人間ですらない妖怪まで狙われたこと。単にアギトの力を狩ることだけが目的ではないのか──そんな刹那の思考も、翔一の無意識の中に在りて。

 

「あれ? 真司さん! さ、咲夜さんが……! 咲夜さんがいません!!」

 

「なっ……!? 嘘だろ……? ここに飛ばされるときにはぐれちゃったのか……!?」

 

 揺らめく炎の帳の中で美鈴が声を張り上げる。紅魔館の正面から時空の歪みに巻き込まれて旧灼熱地獄に飛ばされた真司たち。そこには確かに十六夜咲夜がいたはずだ。それなのに、同じタイミングで巻き込まれたはずの彼女がこの場所に存在していない。

 狼狽える真司の隙を突くように、スネークロード アングィス・フェミネウスが動いた。咄嗟に両腕を構えて防御するも、振るわれた禍々しい鞭──『邪眼の鞭』の一撃がその腕を払いのける。続けて腹部へ蹴りを受けてしまい、粗削りな岩肌に背中を叩きつけられてしまった。

 

「ぐうっ……!」

 

 美鈴はそんな真司の様子を案じるが、すぐに動き出した。拳に虹色のオーラを集め、アングィス・フェミネウスの顔面を目掛けて解き放つ。その一撃は怪物──彼女の蛇が如き頭髪に絡めとられ、美鈴は思わず腕を引いた。

 振るわれた邪眼の鞭を避けつつ、体勢を立て直して距離を取る。煌びやかな七色の弾幕を放って牽制しながら、背後より振り下ろされたアングィス・マスクルスの『審判の杖』を回避する。

 

「こいつらもモンスターの気配を感じない……!」

 

「モンスター? そいつらはアンノウンっていうみたい。私たちの力を狙ってるらしいわ」

 

「なるほど……湖で戦ったグロンギとかいう怪物ともまた別の存在みたいね……!」

 

 やはりというべきか。ブランクとはいえカードデッキを持つ美鈴でも、彼らからミラーモンスターの気配を感じ取ることはできない。美鈴の背中を守るように立つお空はその重厚な制御棒を伴う右腕でアングィス・フェミネウスの身を殴りつけ、牽制する。

 正面に向き合ったアングィス・マスクルスの審判の杖を両腕で受け止める美鈴は、怪物が長杖を振り下ろした隙を突いてその腹に正拳突きを見舞った。

 妖力で強化されたその拳は超常的な天使の肉体にも確実なダメージを与え、後退させる。

 

「はぁっ!」

 

 アギトの身をもってアンノウンに追撃を仕掛ける翔一。お空とのコンビネーションでアングィス・フェミネウスを岩肌に叩きつけるが、背後に立つアングィス・マスクルスの攻撃に対処を余技なくされたため、壁際に追いやった怪物にさらなる追撃を行うことはできなかった。

 

「……っしゃあ! 俺も……っ!?」

 

 すぐに立ち上がった真司は己が顔の前で拳を握り、再び二体のもとへ向かおうとする。しかし、異変に気がついた。

 美鈴たちのもとへと駆け出そうとしていた右脚が──なぜか地面に片膝をついているのだ。

 

「え……?」

 

「あれ……?」

 

 真司の身体も──アングィス・マスクルスと向き合う美鈴の身体も。まるで神経が石になってしまったかのように動かない。彼らは気づいていないが、アングィス・フェミネウスが持つ邪眼の鞭。アングィス・マスクルスが持つ審判の杖。そのどちらにも、打ちつけた対象の神経に蛇の呪いを付与し、石のように動けなくしてしまう能力があるのだ。

 翔一はそれを彼らに伝えていなかったのではない。知らなかっただけだ。その呪いは同じ天使の肉体、および同じ神秘を宿すアギトの肉体には通用しない。故に、かつて戦ったときにその効果を受けていなかったため、そういった能力があること自体、そもそも気づいていなかった。

 

「……っ! 危ないっ!!」

 

 お空は咄嗟に動く。再び審判の杖の餌食となろうとしていた美鈴を突き飛ばし、審判の杖が振り落とされるより先にアングィス・マスクルスの胸へと制御棒を突き立てる。その先端に核熱の光を輝かせ、瞬くような判断力で即座に弾幕を接射した。

 激しい爆発に吹き飛ぶ怪物。目の前でそれを起こしたため、お空の身にも爆風と衝撃が及ぶが、核融合を管理する彼女がその程度の反動でダメージを受けることはない。

 

 だが、吹き飛ばした先、岩肌に背を叩きつけたアングィス・マスクルスは怯むことなく動けなくなった真司を見る。ぎょろりと動く蛇の眼が、龍騎の格子状の仮面と向き合って──

 怪物は手をかざす。その瞬間、真司の背後に渦巻くような次元の断層が生じたではないか。

 

「うおっ……!? なんだこれ……!? また吸い込まれ──」

 

 紅魔館から自分たちを引きずり込んだ時空の歪み、その裂け目にも似ている。だが、それは原因不明の渦などではなく。目の前のアンノウンがもたらした天使の権能。漆黒の渦は周囲の熱気ごと真司を吸い上げ、彼を呑み込んでは消えた。

 美鈴もお空も、翔一も。不意にその場から消えてしまった龍騎の存在に一瞬だけ驚いたが、すぐに旧灼熱地獄の上空──揺らめく炎が立ち上っていく彼方の天盤からの叫びを聞く。

 

「うぉおおおっ!? な、なんだよこれ! どうなってんだよ!?」

 

「真司さん!? なんでそんな高いところに……!?」

 

 アングィス・マスクルスが捻じ曲げた次元断層、空間を貫くワームホールめいた風穴で、真司は遥か上空の天盤まで転移させられたのだ。

 かつてアギトの世界で超能力者たちを抹殺していたのと同じ手法。対象を次元の裂け目に吸い上げ、何もない天空へと転移させてはそのまま落下させて殺す。幸いにして、ここは天という概念のない地の底。空の高さには限りがあり、天盤の岩肌は彼らの目の届く先にある。

 

 呪いに苛まれ動けない身体に鞭打って真司は無理やり動いた。軋む神経は石の如く。されど抗う意思は炎の如く。何とか灼熱の岩肌にしがみつくことができたものの──

 騎士の仮面で見やるはアングィス・マスクルス。振り抜かれた審判の杖は、凄まじい突風を刃と成して放ってきたのだ。突風の刃は空中で動けない真司の身体を寸断しようとしたが、咄嗟の判断で岩壁から手を離したおかげで、落下による回避には成功する。

 

 ──砕けた岩肌に光を見た。真司がそれを訝る間もなく、突風の刃の衝撃によって砕けた天盤の岩が微かに零れ落ちる。それを合図として、灼熱地獄の天盤の一部が崩れ落ちてしまった。

 

「……っ!」

 

 呆気なく落下する龍騎の身を空中で受け止めるは、強靭な妖怪の身体を持つお空だ。美鈴も空を飛ぶ能力と妖怪の膂力を持つが、アングィス・マスクルスの審判の杖を両腕で受け止めてしまったため、その腕の神経に石化の呪いを受けてしまっており、飛行はできても真司を受け止めることはできなかっただろう。

 

 黒い翼を舞い上がらせ、赤き騎士の鎧を纏う者をゆっくり落ろす。お空はそのまま迫り来るアングィス・フェミネウスの邪眼の鞭を右腕の制御棒で打ち払った。

 制御棒はあくまでお空という炉の制御を司るもの。八咫烏の権能の一部であり、己自身の神経が通った腕ではない。言わば武装であるため、スネークロードの神経石化の呪いを受けないのだ。

 

「お空ちゃん、そっちの人のこと、頼んだよ!」

 

 翔一は一度は戦ったことのあるアンノウンに対して冷静に。されど自らの手で倒したことのあるわけではないそれらに対して慎重に。

 真司をお空に任せ、自身は天使の呪いを受けぬアギトの肉体をもって前に出る。神の光を帯びたその身であれば、審判の杖や邪眼の鞭を受け止めても動けなくなることはない。

 

 未だ燻る麻痺の呪いをようやく振り払い、立ち上がった美鈴も拳ではなく弾幕による攻撃を試みた。怪物が巻き起こした突風によって炎が揺らめくも、美鈴の七色の弾幕はその程度の風で弾道が歪むほど弱い力ではない。

 紅魔館に架かる虹の如き光。煌びやかに彩る【 彩雨(さいう) 】は、神の祝福を受けたアンノウンたちの肉体に炸裂し、翔一が鋭く解き放つアギトの蹴りと共に彼らを突き飛ばした。

 

 真司もようやく立ち上がることができた。全身の呪いを覚悟の炎で焼き尽くし、騎士の仮面で二体のアンノウンを見る。そこで、真司は己が頭蓋に馴染みある忌まわしき感覚が響いてきたことに気づいた。

 アングィス・マスクルスの杖に触れぬようにその身を蹴り飛ばした美鈴も、同じく表情を変えて砕けた灼熱の天盤、それらが崩れ落ちた瓦礫の山を見渡す。

 ──そこにあるのは、旧灼熱地獄上階、地霊殿の地下通路を渡す床を構成する材質である。美しきステンドグラスに彩られたそれは、灼熱地獄跡の天盤が崩れたことでこの地に砕けて降り注いだのだ。

 

 揺らめく炎の光がステンドグラスの破片に映り込み、幻想的な煌きを放っている。そこから感じられる気配、頭蓋を劈く金属音。デッキを持つ者にしか掴めぬ感覚。

 それらは当然、デッキを持たずアンノウンと戦う翔一とお空には感じ取ることはできず──

 

「ブルルォオオッ!」

 

 炎を映し出すステンドグラスの反射より、不意に飛び出す影。唸るような咆哮を上げ、アギトの背中に向かって激しい突進を繰り出す金属質の獣。

 真司は龍騎としての脚で駆け出し、その身に渾身のタックルを見舞うことで突き飛ばした。

 

「今度はモンスターかよ……!」

 

「また別の怪物……? いったいどこから……!?」

 

 ステンドグラスの鏡面を通ってミラーワールドから現れた怪物に、翔一は驚く。当然、アギトの世界においては鏡の中の世界など確認されていない。荒く鼻息を噴き立てるイノシシ型ミラーモンスター『ワイルドボーダー』に、真司は個人的な憤りを覚えた。

 あのモンスターが真司の同僚を誘拐した男を密室内から襲ったため、その場にいた真司が誘拐犯として扱われてしまった。喰い殺された真犯人への憐れみもあるが、何より真司の弁護を担当した男、仮面ライダーであったその男の策略で、あわや真司はドラグレッダーとの契約を履行できず、その餌として喰われかけたのだ。

 

 再びバカ正直に突進してくるワイルドボーダーの肉体を避ける真司。こちらもバカ正直に正面から受け止める──ような真似はしない。一度、それと戦っている真司は知っている。ワイルドボーダーの突進は自動車一台を突き飛ばすほどの破壊力を持つと。

 正面から受け止めようものなら、仮面ライダーになっていようと大ダメージは避けられない。

 

「あれはミラーモンスター。ガラスなどの反射物を通り、鏡の世界から現れる怪物です」

 

「鏡の世界……? なにそれ……すごい……!」

 

「確かに気になるけど……アンノウンも放っておけないよね……!」

 

 美鈴の説明で気を緩めていたお空も、翔一の言葉で再びアンノウンへと向き直る。魔化魍という妖怪に似た存在については共闘した鬼たちから聞いていたが、どうやらこれらはアンノウンとも魔化魍とも関係のない存在のようだ。

 アングィス・マスクルス、アングィス・フェミネウスはそれぞれの杖と鞭を手に再び迫り来る。お空は制御棒と弾幕で、翔一はアギトの肉体で。麻痺に抗い、それぞれへ向き合った。

 

「ブルォオッ!!」

 

 ワイルドボーダーの突進を再び避け、真司は転がりながらドラグバイザーを展開。旧灼熱地獄跡の岩肌に激突し、再び天盤が崩れ落ちてはステンドグラスの破片が煌く。

 Vバックルからアドベントカードを取り出し、それをバイザーに装填しては龍の頭部を閉じた。

 

『ソードベント』

 

 地の底たる旧地獄においてもその名は轟く。どこからともなく飛来した龍の尾、ドラグレッダーの尾を模した柳葉刀。ドラグセイバーの柄をその手に握り、真司は振り返ったワイルドボーダーの胴体を渾身の一撃で斬りつけた。

 ミラーモンスターの装甲は相応に硬い。だがミラーワールドにおいて上位に位置する力の具現、龍たるドラグレッダーの尾はそれを容易く切り裂く刃となる。

 

 ワイルドボーダーは自身の胸、突き出した砲門めいたそれに青白い光を灯した。一度この怪物と戦った真司はその意味を察して後退する。

 光は砲弾となり、その胸から解き放たれた。ガードベントのカードを装填してドラグシールドを装備する余裕はない。間に合わないと判断して、真司は咄嗟にドラグセイバーを水平に構える。

 

「ぐぁあっ!」

 

 ドラグセイバーの刀身をもって光弾を受け止めるが、その威力までは殺し切れない。炸裂した衝撃に吹き飛ばされ、真司はそのままドラグセイバーを手放してしまった。

 転がった先でアングィス・フェミネウスと目が合ってしまい、真司は慌てて再び後退する。

 

「ブルゥォオオッ!」

 

 ワイルドボーダーは突進の勢いをそのままに、今度は美鈴とお空のもとへ突っ込んできた。壁に激突するまで止まれぬほどの突進力ではあるが、もしそうなればその勢いは殺され、一瞬だけ隙ができるはず。しかし、怪物にはそれがない。

 美鈴は見逃さなかった。あのミラーモンスターは野生動物ほどの知能しかないであろうにも関わらず、その本能から巧みにミラーワールドの法則を利用しているのだ。

 

 突進の勢いを止めることなくそのままステンドグラスの破片に突っ込んでいき、ミラーワールドに突入。その後、別のステンドグラスを境界としてミラーワールドから突進してくる。

 結果として直線的な動きしかしていないのに、四方八方からイノシシの突進が迫ってくる形になっていた。それはさながら、真っ直ぐにしか飛行していないのに、空間を超えて様々な方向へと自由自在に舞うことができるあの巫女──博麗霊夢のように。

 もっとも、あのモンスターの場合はステンドグラスの鏡面という出入口に限られているが。

 

「全然追いつけないし、鏡の世界に入られちゃどうしようもないよ!」

 

「落ち着いて! 私ならあのモンスターの気配を探れるから……出てきた瞬間を狙う!」

 

 お空の嘆きは美鈴も感じていたことだ。ただでさえミラーワールドに入れるのはカードデッキを持つ仮面ライダーとミラーモンスターだけ。真司一人に任せるという選択肢もあるが、こちらにはモンスターならざる異形も二体。

 それならば確実に撃破できる方法を実行するべきだろう。美鈴は自らもカードデッキを持つ者であることを利用し、ワイルドボーダーがミラーワールドに戻ったことを確かめ。

 アンノウンの攻撃を避けつつ、脳髄に響く金切り音、ミラーモンスターの気配に集中し──

 

「そこだっ!」

 

 掴んだ気配はモンスターのもの。カードデッキ越しに伝わる鏡像の気配。それに加えて美鈴が生まれ持つ、気を使う程度の能力で感じ取ったモンスターの気。

 真司でさえ認識できないその感覚を掴み、美鈴は後方のステンドグラスに彩雨を放つ。

 

「ブルゥモォッ!?」

 

 虹色の弾幕を受けて怪物は足を止めた。背後のアンノウンたちが真司と翔一に気を取られている隙に、美鈴とお空は己が妖力を練り上げていく。

 輝き散ったステンドグラスの破片の如く、美しき七色に煌く虹霓の妖力。旧灼熱地獄に燃え滾る炎の如く、高温高圧に鍛え上げられた核熱の妖力。二人の力は二枚の光を形成し、スペルカードとなって砕ける。次の瞬間、美鈴とお空はそれぞれ己が力の奔流を激しき弾幕として解き放った。

 

「揺るぎなき気高さを、紅魔館の門番たる希望(いのち)をここに! 華想夢葛(かそうゆめかずら)っ!」

 

「熱くなる(からだ)(こころ)も本能も、一つに熔け合え! ニュークリアエクスカーションっ!」

 

 美鈴の周囲から放たれる青い光弾は砕け散る(かずら)のように乱れ溢れ、怒涛の弾幕となってワイルドボーダーを襲う。一つ一つの炸裂は小さいが、彼女が放った【 幻符(げんふ)「華想夢葛」 】はその圧倒的な物量で怪物の逃げ場をなくしていく。

 そこへ、一切の容赦なく降り注ぐ無慈悲な太陽。赤熱した巨大なる光球がゆっくりと迫り、動けなくなった怪物の装甲に触れてはその熱で金属質の身を融解させ。

 爆発。星の誕生を思わせる膨大な光。旧灼熱地獄の大地と岩のすべてを揺るがす勢いで、お空の放った【 核熱「ニュークリアエクスカーション」 】はモンスターの身を焼き尽くした。

 

「うおっ……すっげ……」

 

 再び手に取ったドラグセイバーでアングィス・フェミネウスの邪眼の鞭を払う真司は、その圧倒的な破壊力に感心していた。ワイルドボーダーの撃破に伴い、浮かび上がったエネルギーの光球を見て、紛れもなくモンスターを倒せたことを理解する。

 その一瞬の隙を突いて、アングィス・フェミネウスは真司の腹を蹴り飛ばした。そのまま翔一と戦っていたアングィス・マスクルスと共に、ミラーモンスターのエネルギーのもとへ着地。

 

「…………」

 

 ワイルドボーダーの光球は、ふわりと漂い二分される。ちょうど半分に分かれたかと思うと、アングィス・マスクルスとアングィス・フェミネウスの二体にそれぞれ吸収されたのだ。その顎でもって喰らうように、二体のスネークロードは己が肉体に光を取り込んでいく。

 

「あいつら、モンスターのエネルギーを……!」

 

 蹴られた腹を押さえながら二体の怪物を見る真司。その光景は紛れもなく、自分たちライダーが契約モンスターに餌を与える光景そのもの。

 しかし、それを喰らいし怪物は鏡像の世界に生きる絵空事の獣ではない。真司は知らぬ神の世界より舞い降りた天使たち。アギトの世界と龍騎の世界に直接的な繋がりはないが、奇しくもそれは神にとっての被造物たる人類、その人類が生み出した被造物たるミラーモンスターを喰らう、隔絶された捕食連鎖。

 アンノウンの肉体に満ちるミラーモンスターのエネルギーは、その鏡像の法則をも定着させた。真司と同様に怪物と向き合う翔一もまた、天使の身に滾る未知の波動に思わず息を飲む。

 

「よくわからないけど、あのイノシシが倒せたなら……!」

 

 お空はワイルドボーダーの遺したエネルギーを喰らったアングィス・マスクルスとアングィス・フェミネウスに向き合う。アギトの力を宿したこの身に感じられる気配は紛れもなくアンノウンの気配。だが、どこか鏡越しに映し出されたような、奇妙な感覚。

 ──アギトの力を持たぬ美鈴も、アンノウンが放つ歪な気配を感じ取っていた。美鈴固有の能力である気を使う能力による感覚ではない。カードデッキを持つ者としての、ミラーモンスターを知覚する感覚。それが、龍騎の世界の法則にはないはずのアンノウンから感じ取れている──

 

「……っ!?」

 

 不用意に駆け出したお空を制止しようとした美鈴は二体の怪物が境界を超える様を見た。時空の歪みや灰色のオーロラに消えたわけではない。先ほどのワイルドボーダーと同様に、周囲に散らばったステンドグラスの破片、その鏡面を超えたのだ。

 やはりワイルドボーダーと同様、等身大以上の体積を持つ怪物は手の平ほどの大きさの破片へと何の苦もなく通っていく。ミラーワールドの境界には、大きさの制約などないのだろう。

 

「あのアンノウン、ステンドグラスの破片に入っちゃった!?」

 

「まさか、ミラーモンスターの能力を身につけたの……?」

 

 お空の驚きはアンノウンの行動に対して。だが同じくその光景を見た美鈴は冷静に、アンノウンがミラーモンスターのエネルギーを喰らったという事実を考察した。先ほどのワイルドボーダーと同じようにステンドグラスの破片を境界としてミラーワールドへと踏み入ってしまったらしい。

 

「……ってことは、鏡の世界に入れるようになったってことだよね」

 

「えぇ……? マジかよ……!?」

 

 アギトの赤い複眼でもその光景は確認した。翔一もまたこれまでアンノウンが見せたことのない行動から、話で聞いただけのミラーモンスターの性質、ミラーワールドという鏡の世界についての関係性を結びつける。

 その意味を理解できぬ真司ではない。アンノウンという未知の存在、それも打ちつけた相手の行動を縛りつける二体もの強敵を相手にして、仮面ライダーとしてミラーワールドに踏み入ることができるのは──自分ただ一人。たった一人で──それらを相手にしなくてはならない。

 

「……って、迷ってる場合じゃないよな……!」

 

 意を決して拳を握る。今ミラーワールドに入れるのは龍騎(じぶん)だけだ。だが、何もミラーワールドの中だけで戦わなくてはならないわけではない。

 奴らはミラーモンスターの法則を取り込んだかもしれないが、純粋なるミラーモンスターではないのだ。9分55秒という制約。ミラーワールドの滞在時間という制限は、神崎士郎が造った仮面ライダーと同様にあるかもしれない。

 せめて時間を稼ぐだけでも。奴らを鏡の世界から追い出すだけでも。真司は覚悟を決め、いざミラーワールドへと踏み込もうとした。──そのとき、傍にいた美鈴が口を開く。

 

「待ってください! 私も……行きます。このデッキを使えば……変身できるんですよね?」

 

 美鈴は懐からカードデッキを取り出して真司に問うた。真司の腰、Vバックルに装填されている龍騎のデッキとは違い、美鈴が持つものには何の意匠も刻まれていない。契約しているモンスターの存在しない、ブランクデッキと呼ばれるもの。

 それを用いても変身することは可能である。だが、契約モンスターの恩恵を受けられない以上、人間が生身で戦うよりはマシ程度の戦闘力しか得られないという欠点があった。

 真司もその姿で戦った経験がある。どんなライダーよりも弱く、野生のモンスターの一体にさえ苦戦し、まともな戦いにもならない仮初めの鎧。それでも、戦うだけの覚悟を持てば、騎士として揺るぎなく鏡の世界に存在できる。

 

「……わかった。でも、そのデッキじゃ俺みたいには戦えない。分かってると思うけど」

 

「大丈夫です。せめてミラーワールドにさえ入れれば……あとは私の力で戦えます」

 

 真司は美鈴が変身するという想いに葛藤した。ただの少女であるなら、真司は間違いなく全力で止めただろう。しかし──

 紅美鈴は無力な人間の少女ではない。生身でも龍騎と肩を並べ、戦うことができる。そんな彼女であれば、たとえ無力なブランクデッキを使っても。並みのライダーと同等以上の戦闘力が得られるかもしれない。真司は淡い期待を抱くが、すぐに振り払った。

 ブランクデッキの騎士は弱い。それは真司が誰よりも理解している。美鈴に予め説明してあったその弱さを再度伝え、あくまで怪物を鏡の世界から追い出す目的でその機能を使うべきだと。

 

「……っ!」

 

 ステンドグラスの破片から気配を感じ取る。鏡の世界からの来訪者、脳髄に響く金属音は、美鈴と真司に。神の使命を抱く者の到来、魂を貫く光の感覚は、お空と翔一に。それぞれ四人は同時にその感覚を掴むと、背後からの攻撃を回避する。

 アングィス・マスクルスとアングィス・フェミネウスはすでにミラーワールドの法則を我が物としているらしい。流れるように素早く移動し、再びミラーワールドへ突入していった。

 

「考えている暇はない……! 真司さん! 私も……変身!」

 

 美鈴はブランクデッキをかざした。己が腰に巻きつけられるVバックルを見ず、目の前にあるステンドグラスの破片を真っ直ぐ見据えながら、左手のカードデッキをVバックルへと叩き込み、両腕を広げて己が心に覚悟を灯す。

 折り重なる鏡像が美鈴の全身を包む。そのスーツは色褪せた濃紺。何の力も灯らぬ色。名もなき騎士には意匠もなく、ただ無機質な金属の鎧を纏うのみ。

 

 その姿は仮面ライダー。神崎士郎が造り上げた鏡像の騎士であることは間違いない。ただし契約モンスターの能力を伴わぬその身は、本来の性能の一割程度の力も引き出せていない仮初めの姿でしかない、龍騎の世界において『ブランク体』と呼ばれる鎧であった。

 それでも構わない。ミラーワールドへ踏み込む通行証としての機能はある。あとは生まれ持った妖怪としての力で十分だ。真司と美鈴は互いに顔を見合わせ、同時に鏡の世界へ踏み込んだ。

 

「……っ、あれ?」

 

 境界を超えた先は先ほどと変わらぬ炎と岩の景色。動物や怨霊の姿が一つもなく、左右が反転しているという違いを除けば。

 本来ならば鏡面の先には現実世界とミラーワールドを繋ぐ狭間の領域、四方を鏡に覆われたディメンションホールと、そこを通過するためのライドシューターが存在するはずなのだが、どういうわけか今はその領域を超える必要なく、現実世界とミラーワールドが直接繋がってしまっているようだ。

 いつかそんな夢を見た気がするような。あるいは鏡を使わず変身できるようになったことと関係し、現実世界とミラーワールドの距離がさらに縮まって境界が曖昧になっているのか。

 

「ちょっと気になるけど、まぁいいか……」

 

 独特の環境音を響かせるミラーワールドには本来存在するはずのない怪物が二体。アンノウンであるアングィス・マスクルスとアングィス・フェミネウスだ。真司と美鈴は鏡像の騎士たるその身を構え、麻痺効果のある審判の杖と邪眼の鞭を警戒し、不用意に接近せぬよう気をつける。

 

「たしか、これをこうやって……」

 

 美鈴はブランク体の腰に帯びるVバックル、その正面に装填されたブランクデッキから一枚のカードを引き抜いた。緑色の光を背景に描かれた無骨な長剣は、ドラグセイバーのように龍の意匠を帯びているわけでもなければ何の迫力もない。

 それを視認すると同時に、ブランク体の左腕に装備された無機質な召喚機『ライドバイザー』が自動的に展開される。予期せぬその動きに驚くものの、すぐにカードを装填した。

 

『ソードベント』

 

 電子音声と共に虚空より舞い降りる長剣。何の力も持たない『ライドセイバー』は美鈴のもとへと飛来するが、あまりに大雑把な座標の指定のためか、その手に収まることなく美鈴とアングィス・マスクルスの間の大地に向かって。その力ない刀身を下にして突き刺さってしまう。

 

「えぇ……? あぁ、もうっ!」

 

 真司はすでにアングィス・フェミネウスと交戦を始めていた。美鈴は怪物と長剣、それぞれを交互に見た後、審判の杖を警戒しつつも、咄嗟に怪物に接近してライドセイバーの柄を握り、大地から引き抜いてはその勢いのままアングィス・マスクルスの腹を蹴り飛ばす。

 左手にライドセイバーを持ち替え、もう一度右手でデッキを探るが、どうやらモンスターと契約していないデッキには遠距離からの攻撃を可能とするカードは入っていないらしい。指先に伝うカードの内容には、あまり期待できなかった。

 そんな刹那の間に、アングィス・マスクルスは審判の杖を構えて接近してくる。両手でライドセイバーを構え持ち、その杖に触れてしまわぬように切り結ぶことで攻撃を防ごうとしたが──

 

 ──真っ直ぐ伸びているだけのシンプルな刀身は、その中心から呆気なく圧し折れてしまった。

 

「うわっ!? 折れた!?」

 

 打ち合わせた衝撃は確かに美鈴の手に伝わってきた。その衝撃を刀身で受け止めようとしたはずなのに、見るからに貧弱な長剣は刃ですらない杖と打ち合っただけで折れていた。これでは自らの拳で戦った方がマシなのではないかと思うほどに、ライドセイバーは力なく。

 折れた剣など持っていても仕方あるまい。すぐに柄だけとなったをそれを捨て、続けて振り下ろされる審判の杖に気の波動をぶつけて勢いを相殺。転がって怪物の背後に立ち、大地を蹴る。

 

天龍脚(てんりゅうきゃく)っ!!」

 

 右脚に込めた妖力を解き放ち、アングィス・マスクルスの腹へと飛び蹴りを打ち込む。溢れ出す虹の光を衝撃波と成した【 天龍脚 】の一撃で怪物の身を押し退けるが──

 アングィス・マスクルスはすぐに立ち上がり、またしても審判の杖を持ち上げる。美鈴は再びデッキに指を置くものの、たったいま使用したライドセイバーの他に残るカードは僅か三枚。盾を装備するガードベントのカードは今は使う必要がない。ミラーモンスターとの契約を可能とするカードは、契約対象となるモンスターがいない今は使えないだろう。

 

 残る一枚は、美鈴がブランクデッキを手にしたときに初めて目にしたカードだ。深い闇が渦巻くような絵柄を持つ『封印(SEAL)』の能力を宿したアドベントカード。

 彼女は咄嗟にそれを引き抜き、絵柄をアングィス・マスクルスに向けるようにしてかざす。

 

「…………!」

 

 本来はミラーモンスターを封じ込めるためのそれは、ミラーモンスターの法則を取り込んだアンノウンにも本能的な恐怖を覚えさせたようだ。

 アングィス・マスクルスは蛇のそれに似た不気味な眼をぎょろりと動かし、力なきブランク体の美鈴から距離を取ると、背後に落ちていたステンドグラスの破片を鏡面として消えていく。

 

『ストライクベント』

 

「だぁあっ!!」

 

 真司は右手に装備したドラグクローを正面に突き出し、背後に呼び出したドラグレッダーの火球を解き放ってアングィス・フェミネウスを背後のステンドグラスに押し出す。

 ミラーワールド内でも容赦なく燃え上がる旧灼熱地獄の炎と共に、猛き龍の咆哮は爆炎となってアングィス・フェミネウスに炸裂。そちらもまた、境界を越えて実像の世界へ戻った。

 

「……ごめん、伝え忘れてた。あの剣、あんま役に立たないって……」

 

「そ、そうですね……まさか折れるなんて……」

 

 二体のアンノウンを強引に実像の世界へと引き戻すことに成功した真司と美鈴。かつて、自身もブランク体の身でライドセイバーを折ってしまったことを思い出しながら、自身とよく似た姿でありながら龍の意匠と鮮烈な赤さを伴わぬ美鈴に向き合う。

 鏡映しのような騎士の姿。真司にとっては、それはまだ仮面ライダーとして戦う覚悟の灯っていなかった、鈍色にくすんだ弱さの象徴。美鈴にとっては、辛く苦しい終わりのない戦いに身を投じてきた、揺るぎない気高さの象徴。

 

 ドラグレッダーほど強大な個体がそうそういるとは思えない。美鈴はあくまでミラーワールドに踏み入るためだけにこのブランクデッキを使用したのだ。叶えたい願いも今は持っていない。契約すべきミラーモンスターを見つける必要もないだろう。

 格子状の仮面に覆われた複眼でもって見やるは、ミラーワールドにも等しく散らばったステンドグラスの破片。そこには、金色の戦士(アギト)と霊烏路空が戦っている姿が映し出される。

 

「…………」

 

 一瞬だけ気を緩めてしまったが、戦いはまだ終わったわけではない。真司と美鈴は自らが押し出したアンノウンを追撃すべく、鏡像の騎士たる身をもって、ステンドグラスを通り抜けた──

 

「あ、あれ? 割れちゃいましたよ?」

 

「……っ、そ、そうだった……! 来た道! 来たときと同じやつから戻って!」

 

「ええっ……!? そ、そんなこと言われたって……!!」

 

 赤い龍騎は小さなステンドグラスの破片を通り抜けられたが、ブランク体の美鈴が後に続こうとしたところ、その破片を踏み砕いてしまったのだ。

 ブランク体の仮面ライダーに限り、ミラーワールドからの脱出は最初に入った場所からに限られる。真司は小さな破片越しに声を張り上げ、それを美鈴に伝えた。もはやどこから突入したかなど覚えていなかったが、このまま留まればその身は粒子化を始めてしまう。

 

「……あれか!」

 

 無数に散らばった破片を探している時間はない。美鈴は自らが通った気を探り、それを掴むことで、最初に入ったステンドグラスの破片を見つけることに成功した。

 それが砕けていないことに胸を撫で下ろし、破片を割らぬようにそっと鏡面を通り抜ける。

 

「…………」

 

 ミラーワールドから現実世界に戻った美鈴はブランク体の変身を解く。アングィス・マスクルスとアングィス・フェミネウスはそれぞれ審判の杖と邪眼の鞭を振るうものの、すでに動きを見切ったお空と美鈴は容易くそれを回避した。

 お空は内に宿すオルタフォースの波動と共にアギトたる翔一の傍へ。美鈴は懐に戻したブランクデッキの祈りと共に龍騎たる真司の傍へ。それぞれ隣り合う戦士と並び、力を解き放つ。

 

「「スペルカード!」」

 

 重なる二人の少女の声に伴い、その指先に現れた虚像の札に妖力が灯った。輝き散った光と共に、お空と美鈴の周囲には核熱の炎と虹霓の光。奇しくも彼女らの隣に立つアギトと龍騎の誇りを示す光と炎。それぞれの力を逆転させたかのような、二人の妖力が湧き上がる。

 

「はぁぁあっ……!」

 

「……っしゃあ!」

 

『ファイナルベント』

 

 少女たちの力に呼応するように、戦士たちも己が力を解き放った。翔一は地につく足に力を込めて、龍が如き構えを取ると、足元に具現したアギトの紋章を脚へと束ね。真司は左腕のドラグバイザーを開き、腰のカードデッキから取り出した一枚のカードを装填しては力強く閉じる。

 

「──鴉符(からすふ)八咫烏(やたがらす)ダイブ!!」

 

「──気符(きふ)地龍天龍脚(ちりゅうてんりゅうきゃく)!!」

 

 お空は黒き翼を広げた。美鈴はその健脚で大地を蹴った。それぞれ二人は高く舞い上がり、同様に跳躍を遂げたアギトと龍騎と共に。鋭く突き伸ばした己が右脚を怪物に向ける。

 その光は、その炎は、どちらも奇しくも龍が如く。六本に開いたアギトのクロスホーンも、うねり舞うように踊る龍騎の炎も、語られる伝承こそ違えど共に龍を表すもの。そしてその力は重なる二人の少女と呼応し、より強く、より気高く──

 

「「はぁあああっ!!」」

 

 翔一(アギト)が放ったライダーキックは、お空が放った【 鴉符「八咫烏ダイブ」 】の核熱の炎と同時に、アングィス・マスクルスの胸を貫いた。八咫烏ダイブは本来両腕を広げて飛び込むように行うスペルだが、彼女に宿るアギトの力の影響だろうか。無意識的に、その力が集約された右脚を突き出し、ライダーキックと同様の飛び蹴りを放っていたらしい。

 真司(龍騎)が放ったドラゴンライダーキックは、美鈴が放った【 気符「地龍天龍脚」 】の虹霓の光と同時に、アングィス・フェミネウスの胸に叩き込まれた。どちらも元より飛び蹴りの形であり、それぞれの炎と光が混ざり合うことで、一つの技のように美しく怪物を射貫く。

 

 地獄の底にて爆散を遂げる、二体の天使。スネークロードたちは、その頭上に光輪を浮かべたのち、やがて唸り声を上げてはその肉体を失った。

 爆ぜ散った天使たちはそれぞれ小さな光球を浮かび上がらせる。それは本来アンノウンが持つはずのない、喰らった人間の生命力。ワイルドボーダーのエネルギーを得て、その身に留まっていたミラーモンスターのエネルギーが二分されて現れたのだ。

 真司が指示を出すまでもなく、旧灼熱地獄跡の天盤(そら)をうねり舞うドラグレッダーはそのどちらをも捕食。自らの身体に吸収することで、満足したようにそのままミラーワールドへ戻った。

 

「……今の龍……君の仲間?」

 

「ま、まぁ……仲間……みたいなもんかな」

 

 翔一はアギトとしての姿のまま、龍騎たる真司を見た。アンノウンを倒すや否や、鏡面から現れた赤い龍に驚いたが、それが光球を喰らっただけで元の世界に戻っていったのを見て、再び構えを取ろうとした気概を解く。

 真司にとって、ドラグレッダーは長らく戦いを共にした仲間、のようなものだ。だがそれはあくまで契約関係に過ぎない。契約に背く素振りを見せれば、すぐさま真司に牙を剥くだろう。

 

「さっきの怪物、アンノウンって言ってたけど──」

 

 美鈴がその正体をお空らに問おうとした。その名はついさっき聞いたばかりだ。戦闘中であったため詳しい説明は聞きそびれたが、自分たちの力を狙っている、とはどういうことなのか。真司も灼熱の環境で変身を解く。過酷な熱は身体を苛むが、命に関わるほどではない。

 同じく変身を解いた翔一からも、自分たちと同じ意思が感じられた。霧の湖にて龍騎の世界にはないクウガなる未知の存在と出会った真司や美鈴と同様、翔一とお空も旧地獄にてアギトの世界にはない響鬼という未知の存在に遭遇している。

 異なる世界の戦士や怪物。それらが一纏めに幻想郷に存在しているということ。それぞれの認識は、巡り合ったまた別の存在から、さらなる確証を持たせようとしていた。

 

「……っ!?」

 

 交わし合う言葉も僅か、その束の間。再び吹き込んだ風は旧灼熱地獄の渇いた空気を微かに湿らせ、冬の業火を夏の霧で濡らす。

 ふわり浮き上がった足では踏ん張ることもできず、真司と美鈴は時空の歪み(もとのばしょ)へ消えていった。

 

◆     ◆     ◆

 

 地霊殿正門前。荒れ果てた岩の大地にて、ばさばさと音を立てて舞い降りるはカラスに似た超越生命体。漆黒の骸を嘴と帯び、天使とは思えぬ禍々しき翼を抱いた異形の鳥獣。さとりが目にしたのは奇しくもペットたるお空と同じ、鴉の翼だった。

 

 Gバックルを腰に巻き、彼女は『クロウロード コルウス・クロッキオ』に向き合う。アギトの世界において、すべての鴉たちの創造元として君臨する黒き天使。

 だが、それはさとりが生きる幻想郷と、それに伴う外の世界には刻まれぬ理と因果である。

 

「……G3システム、装着」

 

 本来ならただのバッテリーメーターとしての機能しかないベルトに意思を込める。洩矢諏訪子の干渉により、アギトの世界で受けた信仰を束ねたその力は、Gバックルそのものに人類の叡智たるG3システムのすべてを統合させていた。

 大規模な設備など必要なく、さとりのその一言で、Gバックルは赤き光を灯す。さとりの全身に現れるは、蒼く力強い機械的な装甲。未熟ながら誠実な、かの『第4号』を模した力。

 

 胸には白銀の装甲を帯び、警視庁の誇りを示す桜の代紋を掲げている。未ださとり自身のままの顔で見下ろすは、自らの手元に現れた戦士の兜。

 蒼銀に彩られた曙光の如きオレンジ色の複眼に向き合い、さとりはそれを己が頭に装った。

 

「…………」

 

 コルウス・クロッキオの不気味な眼は、G3システムの叡智を纏い、揺るぎなく『G3』としてそこに立つさとりを睨みつける。

 臆することはない。さとりの第三の眼では、天上の意思たるアンノウンの心を読むことはできない。されど、この身には決して逃げぬ『ただの人間』の強さが宿っている。

 さとりはG3システムに込められた想念を肌で感じ取り、思考に浮かんだ名を口にした。

 

「GM-01、アクティブ!」

 

 その宣言と共にさとりが持ち上げた右手には一丁の短機関銃(サブマシンガン)が現れる。小さくとも確実な威力を誇る警視庁の武器。G3の状態での運用を前提に開発された『GM-01 スコーピオン』は、本来はG3システムと共に持ち運び使用するもの。

 それもまたG3の一部として信仰の一つと召し上げられた。神の力で統合され、今ではG3たるさとりの意思のままに。支援車両(Gトレーラー)との連携も必要なく、さとり個人でアンロックできる。

 

 引き金を引けば弾丸が旋回し突き進む。ただの人間の力はそのままではアンノウンには届かない。しかし、幾度も強化を重ね、神の力も加えられ、その力は理に喰らいつく。

 コルウス・クロッキオの黒き身体に数発の銃弾が当たるのを見て、さとりは追撃を試みた。

 

「ギュルルッ!」

 

「っ!?」

 

 背後から聞こえた両生類の如き鳴き声に気を取られる。さとりが振り向いて目にしたのは、地霊殿の窓、極彩色に輝くステンドグラスの鏡面から飛び出してきた一体の怪物。カードデッキを持っていない彼女には、それの出現を感知する術はなかったのだ。

 窓を砕くわけでもなく、境界から現れた異形──赤と黒の毒々しい体色を持つ人型の怪物。イモリ型ミラーモンスター『ゲルニュート』は、巨大な十字手裏剣を振るいさとりを狙う。

 しかし、目を瞑ったその刹那に、さとりの身体を引き裂く痛みと衝撃は襲ってこなかった。

 

「あ、あなたは……たしか紅魔館の……?」

 

 目を開けた彼女がG3のオレンジ色の複眼越しに見たのは、蒼く瀟洒なメイド服。揺れる銀髪は美しく冴え、コルウス・クロッキオとゲルニュート。二体の怪物が静止している時の中においても凛とした振る舞いを見せる。

 紅魔館のメイド長、十六夜咲夜。彼女もまた、旧灼熱地獄に転移した真司や美鈴と同様、時空の歪みによって旧地獄へ転移させられていた。ただ、彼らとは少し座標の違うこの場に。

 

「その声、地底の(さとり)ね。今は話してる余裕はないから……(ここ)を見てくださる?」

 

 咲夜はすでに動き始めた時間の中で、背中合わせのままさとりに告げる。微かに上体だけで振り返って自らの胸を指で叩くと、メイド服の懐から取り出したナイトのデッキを虚空にかざし、己が正面に立つゲルニュートを蹴り飛ばした。

 右拳を左側に構え、ミラーモンスターたるゲルニュートを見据えながら戦う覚悟を決める。

 

「変身!」

 

 Vバックルに装填したナイトのデッキが起動し、咲夜の身体を幾重もの鏡像が包み込む。濃紺のスーツを纏い、騎士の甲冑を装い、仮面ライダーナイトとなった咲夜は、襲い来るゲルニュートの十字手裏剣にダークバイザーの刀身を打ち合わせた。

 背後では翼を羽ばたかせ、滑空するように突進してくるコルウス・クロッキオに対し、さとりがGM-01 スコーピオンの射撃で対抗している。しかし、やはりそれを止めるには威力が足りず。

 

「ぐぅっ……!」

 

 さとりが纏うG3システムは、アギトの世界において運用された初期のもの。旧式の機体では大した戦力にならず、アンノウンと戦うには些か不足。更なる発展形と言えるG3の強化型たる機体は、今はまださとりの元にはない。

 それでも鎧に宿る信仰と叡智は確かなもの。華奢で力ない妖怪のさとりとはいえ、G3の装甲でもってなんとかコルウス・クロッキオの突進を受け止め、損傷は回避できた。

 

『アドベント』

 

 ダークバイザーでゲルニュートを切り伏せた咲夜(ナイト)が見かね、デッキから取り出したカードを装填。無機質な電子音声に続いて鳴り響いたコウモリの鳴き声を聞き届けると、虚空より舞い降りたダークウイングの突進によってコルウス・クロッキオは吹き飛ばされる。

 

 体勢を立て直しながら礼を告げるさとり。体力のない彼女だが、G3のバッテリーに込められた神の力と人間の信仰により、そのエネルギーは無尽蔵に近い状態を維持している。

 重厚なパワードスーツとはいえ、電子制御により運用は容易。過度な消費によってエネルギーが枯渇しない限り、機体の動きが鈍ることはない。

 ゲルニュートとコルウス・クロッキオは立ち上がる。不気味なイモリとカラスの悪意は旧地獄に満ち、さとりと咲夜を狙う。二人はそれぞれ己が持ち得る最大の力を放つ覚悟を決めた。

 

「この一撃で決めさせてもらうわ!」

 

『ファイナルベント』

 

「……GG-02、アクティブ!」

 

 奇しくも隣り合う異形の二体を前にして、咲夜はダークバイザーにカードを装填。さとりは手元のGM-01 スコーピオンを右手に構えたまま、また別の武器を具現した。左手に現れたのは武器というより簡易的な構造の筒。漆黒のフレームに覆われたそれを、さとりはGM-01 スコーピオンの銃口に接続することで小型のグレネードランチャーと成す。

 完成したのは今あるG3の中で最も威力の高い『GG-02 サラマンダー』である。さとりはそれを構え、再び突進の構えを取ろうとしたコルウス・クロッキオに向けて引き金を引いた。

 

「グ……ギュ……ッ!!」

 

 直撃。しかし、高威力とはいえ、人類の技術では天使に届かず。爆炎は散れど、GG-02の一撃はコルウス・クロッキオの鋼の如き翼に防がれてしまった。

 GG-02 サラマンダーも度重なる強化を受けて一度はアンノウンを撃破しているはずだが、この幻想郷に蘇った彼らもまた強化を遂げている。加えて、今のG3システムは神の力で信仰と妖力を性能に変える幻想の鎧だ。ただ無心で撃ち放っただけではその真価は発揮されない。

 

「……っ」

 

「はぁあああっ!」

 

 空中にてダークウイングの翼を纏い、手元に現したウイングランサーを骨子として螺旋の闇に包まれた咲夜。コルウス・クロッキオを仕留めきれず、隙を晒したさとりを守るように、自身を暗夜の槍と成して旧地獄の空を突き進む。

 やがて螺旋はクロウロードたるコルウス・クロッキオの黒き翼を穿ち貫いた。ナイトが備え持つファイナルベント、飛翔斬によって、GG-02の一撃を受けていた天使は激しく爆散を遂げる。

 

「戦い慣れていない様子だけど……本当に大丈夫?」

 

「……ええ。お気遣いなく。それより、見れば見るほど不思議な怪物ですね」

 

 ダークウイングの翼を解いた咲夜が立ち上がる。さとりはゲルニュートを見て、仮面の下で眉をひそめた。

 言語化不可能な神の理を宿していたアンノウンとは異なり、こちらは野生動物に近しい原始的な精神を宿している。咲夜の心を読んで確かめた限り、ミラーワールドなる世界を自在に行き来するミラーモンスターという怪物であるようだ。

 咲夜が時間を止めた状態で戦わない理由も彼女の心を読んで理解できた。どうやら普段であれば無制限に使える時間操作の能力も、スペルカードルールに従った遊びの戦いならいざ知らず。命を奪い合う本気の戦闘においては精密な調整が難しく、長時間の維持が困難であるらしい。

 

「(GG-02 サラマンダーの残弾は2発……仕留め切れるかしら……)」

 

 さとりの思考は一瞬のもの。即座に襲いかかってきたゲルニュートの十字手裏剣を手にした銃器で防ぐ。そこへ咲夜がダークバイザーを切り込むが、怪物は軽やかに大地を蹴り、旧地獄の岩肌に張りついてしまった。

 天盤に向けてGG-02を構えるさとりであったが、ゲルニュートが薄紫色にぼんやりと灯る石桜の煌きに触れ、ミラーワールドの境界へと消えてしまったことに小さく舌打ちを零す。

 

「どこから襲って……きゃあっ!?」

 

 デッキを持たないさとりにはゲルニュートの気配を知覚できない。咲夜が感じた気配をさとりに伝える前に、さとりは足元に落ちていた小さな石桜の欠片から飛び出した粘着性の液体により左腕を絡め取られてしまい、石桜に映るゲルニュートに捕捉されてしまった。

 咲夜がダークバイザーを構え、その小さな石桜を鏡面としてミラーワールドへと踏み込もうとするも、すでにその鏡面にはゲルニュートの姿はなく。

 

「くっ……」

 

 背後から迫った十字手裏剣の一撃をダークバイザーで受け止める咲夜。時間を止めながら本気の戦闘を行うことは難しい。スペルカードルールに慣れてしまったことに加えて、今は身に馴染まぬ異世界の法則を用いて変身しているのだ。

 それはさとりも同じ。野生動物に等しい思考とはいえ、その心を読んで攻撃に対応することはできる。だが、馴染まぬ力を纏っているためか、やはり本気の戦闘をしているためか。

 咲夜の時を操る程度の能力も、さとりの心を読む程度の能力も、普段のようには使えない。

 

「キュルルアッ!」

 

 石桜の欠片から飛び出すゲルニュート。咲夜がその気配を掴んだ頃には、すでにその十字手裏剣の刃はさとりの眼前に。彼女の左腕は粘着性の液体で絡め取られて拘束されているが、その右手に構えられるはGG-02 サラマンダーというグレネードランチャー。

 しかし、いくらG3の装甲を纏っていようとも古明地さとりは非力な妖怪。GG-02ほどの威力を誇る武器を片腕が使えない状態で撃ち放てば、その反動は彼女の右腕を破壊しかねない。

 

「……ぐぅ!」

 

 G3の堅牢な頭部ユニットがなければさとりの小さな頭蓋は砕かれていただろう。逆袈裟懸けに振り上げられた十字手裏剣によって、G3の頭部ユニットを弾き飛ばされてしまったさとりは、額から微かに血を流しながら叩き伏せられてしまった。

 無機質な兜に覆われていたさとりの薄紫色の髪が地底の空気に晒される。渇いた音を立てて転がっていくG3の頭部を見やることもできず、さとりは見上げる異形に息を飲む。

 右手には未だGG-02がある。これを撃ち放てば、少なくとも怪物に対してダメージを与えられるだろう。しかし、やはりその大きな反動は無視しがたい。

 

 一瞬の逡巡は明確にさとりの隙を生んだ。振り下ろされる十字手裏剣を防ぐ暇もない。咄嗟に目を瞑り、目の前の相手に対して視界を閉ざすという愚行を犯すが──

 ──その瞬間。怪物の悲鳴と共に、激しい銃声と炸裂音が鳴り響き、瞼の先に閃光が迸った。

 

「グギャアッ!!」

 

 思わず目を開いたさとりは、吹き飛ばされるゲルニュートの姿を遠く見る。振り向いてみるが、ダークバイザーを構える咲夜(ナイト)も驚いている様子。

 彼女が撃ち放った弾幕ではないらしい。周囲にはそれほど強大な怨霊も動物たちも確認できず、お燐やお空がこの場所に来てくれたわけでもない。馴染まぬ力の中、紛れるように感じられたのは見知った妖力であったような。

 さとりはそのどこか馴染みあるような力に、ぼんやりと浮かび上がる幻影の如き姿を見た。

 

「こ、こいし……?」

 

 幻影はその存在を認識した瞬間からゆっくりとその形を表していく。虚ろだったそれは、さとりの記憶にある姿に色と形を伴っていき──やがてさとりの妹たる古明地こいしの姿となって彼女の視界に現れた。

 黒い帽子に黄色い衣服。緑色のスカートには花柄の模様。ただ、そこにはさとりの知らぬ歪な妖力。こいしの瞳には彼女のものではない紫電の光と、明確な『感情』の色が宿っていた。

 

「……お姉ちゃん虐めたの、お前?」

 

 やはりこいしらしからぬ紫色のメッシュを揺らしながら、帽子の下から怪物を睨みつける。その首を彩る小さな黒いヘッドホンからは絶えず軽快な音楽が漏れ響き、場違いな旋律に地底の空気を震わせるかのよう。

 ゲルニュートはその問いに答えない。怪物に対する問答にさとりも咲夜も意図を理解しかねるが、どうやらその意図は──()()()()()()()宿()()()にとっても大したものではなく。

 

「お前なんだ。……じゃあ、倒すけどいいよね? 答えは聞かないけど!」

 

 こいしはその手に紫色の光を灯す。淡い緑色の光と交じり合い、独特の色を帯びたそれは、さとりにとってよく知る古明地こいしの妖力。だが、その半分は彼女も知らない。知るはずがないものだ。こいしに憑依したイマジン、リュウタロスという存在のオーラから生じるフリーエネルギー。電王の世界の法則から成る未知のエネルギーである。

 リュウタロスが憑依したこいし──『Rこいし』は光弾を解き放った。無意識の中に入り込むその一撃は、ゲルニュートの目の前で消失したかと思うと、次の瞬間にはその体表で炸裂する。

 

「グギュギュギャアッ!?」

 

 ゲルニュートは不意に炸裂した光弾の直撃を受け、吹き飛ばされた。何が起こったのか分からず、キョロキョロと周囲を見渡している。先ほどまでは認識していた様子だが、光弾を受けた直後からこいしの姿を見失ったのだろう。

 さとりには見えている。こいしの無意識は誰にも認識されなくなるほど強大なもの。されど、彼女がこいしの姉であるからか。今のこいしが帯びる歪な力に気がつき、その存在を今なお捕捉することができていた。

 こいしの存在に宿る違和感のようなもの。明確な自我と感情を振りかざしているその在り方は、見た目こそ(こいし)そのものであっても、彼女らしさなど微塵も感じさせない。

 

「……ギュ……!」

 

 どうやらゲルニュートは彼女の姿を再び認識し始めた様子。同様に見失っていたであろう咲夜もその姿を認識していた。こいしの完全なる無意識が影響しているならば、さとり以外の者が彼女を認識するのは困難であるはずなのだが──

 ゆっくりと歩み寄るRこいしを脅威に感じたのか、ゲルニュートは反撃することなく背後に落ちていた石桜の破片に飛び込み。そのまま戦闘を放棄してミラーワールドへと消えていった。

 

「……あれ? どっか行っちゃった。ちぇ、つまんないの」

 

 退屈そうに小石を蹴り上げ、Rこいしは唇を尖らせるように言う。ゲルニュートが去ったことを確認すると、さとりは右の手の平に込めた妖力の熱で左腕を絡め取る粘着性の液体を焼き払い、左腕の自由を取り戻すことに成功した。

 さとりはそのままGバックルを操作して首から下に装うG3システムを解除。遠く離れた位置にあった頭部ユニット共々それらは消失し、腰に帯びたGバックルへと統合されていく。

 

「まったく、どうしていきなり旧地獄(こんなところ)まで飛ばされたのかしら……」

 

 咲夜も同様にナイトのデッキをVバックルから引き抜き、変身している姿を解く。さとりに手を差し伸べ、優しく「立てる?」と声をかけた瞬間。

 彼女は思わず差し出したその右手をすぐに引っ込めた。咄嗟に振り向いたその背後にて、渦巻く時空の歪みが渇いた旧地獄の空気に霧染めに濡れた夏の風を吹き込んだのだ。

 

「……っ、また……!」

 

 旧地獄の冷たい空気ごと、時空の歪みの近くにいた咲夜はその渦に巻き込まれる。抵抗する暇もなく、彼女は微かに見えた歪みの彼方、馴染み深い魔力を帯びる紅き館のもとへと吸い上げられ、地霊殿正門前から姿を消した。

 さとりの能力で一瞬だけ見えたのは咲夜の心中。彼女はその歪みを見た際、ここへ来たときのことを思い出していたらしい。どうやら、あの歪みの影響は、今この瞬間に初めて起きたわけではない。十六夜咲夜はあの時空の歪みを一度通り、紅魔館から地霊殿正門前に現れていたようだ。

 

「いったい何が……」

 

「お姉ちゃん! 会いたかったよ!」

 

 さとりの思考を寸断するように明るく朗らかな声が響く。その声は、さとりも馴染み深い妹の声。いつも明るく振る舞い、心を閉ざした自我なき感情。ただ無意識の発露でしかないはずのその楽しげな声に、さとりは明確な違和感を覚えていた。

 姉に会えて嬉しそうなこいしはさとりに近づく。似合わぬ紫色のメッシュを揺らし、首元のヘッドホンから軽快な音楽を鳴らしながら。

 

 ──違うのだ。確かにどこか虚ろに楽しそうな振る舞いはこいしに似ている。姿も声も古明地こいしとして見て間違いない。だが、姉であるさとりには分かってしまう。

 最愛の妹である彼女。古明地こいしは、その楽しそうな心の中に自我など宿していない。

 

「あなた、こいしじゃないわね」

 

 自分のもとへ駆け寄ってくるこいしに一言、牽制の意を込める。こいしはその言葉に一瞬驚いた様子で目を見開いた。彼女らしい空虚な妖力の中に、微かに(ほとばし)る紫色のオーラ。その瞳を染める同じ色の光。無意識の中に宿る違和感に、さとりは確かに向き合う。

 

 こいしの心は、さとりにすら読めはしない。読心の能力を厭い、心を閉ざした彼女には、思考と呼べるものは存在しない。何も考えていない者の心など読める道理がないのだ。

 本来ならばそのはずであった。だが、今はこいしの精神を染める無意識というノイズに混じり、何か別の者の心の波長が見えるような気がする。

 ──こいしの中に、()()がいる。ここが旧地獄であることを思えば、あるいは怨霊に憑依されたという可能性もあったが──怨霊でさえ、こいしの存在を認識することは難しいだろう。

 

「……見つかっちゃった」

 

 Rこいしはニヤリと口角を上げた。不敵な笑みでさとりを見るこいしの表情には、明確な意識と感情が見て取れる。見慣れた顔の見慣れぬ表情に、さとりは心を凍てつかせた。

 さらり、零れ落ちる白い砂。こいしの身から溢れたそれは、さとりの前で姿を形作っていく。

 

「僕、リュウタロスっていうんだ。……よろしくね、お姉ちゃん!」

 

 龍にも似た白い砂の塊は人型の上半身を地面から生やし、その頭上に浮かぶ下半身、やはり龍のそれらしき両脚を揺らす。

 どこか紫電を思わせる異形の怪物は、電王の世界の法則を由来とするイマジンだ。野上良太郎と行動を共にしていたリュウタロスなる存在である。彼もまた良太郎との繋がりに己が過去と記憶を手に入れ、完全体を得ていたのだが、やはり他のイマジンと同様、未契約体に戻っていた。

 

「なっ……え……?」

 

「あはは! お姉ちゃん、びっくりしてる! リュウタは私の友達なんだよー!」

 

 人体であれば上下を逆転させたと言える異形の姿、その白い砂に困惑するさとり。ただ揺れ動く砂の塊は龍の如き怪物を象り、肉体と呼べるものはないらしい。

 砂の中に精神だけが宿っている。在り方は幽霊や怨霊に似ているのだろうか。たしかにこいしの中にあった心はこの怪物──リュウタロスと名乗った存在で間違いないのだろう。しかし、彼にはこいしの肉体を奪おうとする悪意がないように見えた。

 

 リュウタロスが抜けたこいしは笑顔を見せる。さとりが知るいつも通りのこいしの在り方。ただ無我であり無意識であり、自分のやりたいことだけを実行する夢遊病の極致。

 奇しくもそれは過去と記憶を持たず、ただ今ある想いだけでやりたいことだけを楽しむかつてのリュウタロスと同じ。されど今のリュウタロスは違うはずだ。良太郎との繋がりを経て過去を得た彼は、子供らしくあれど確かに成長したはずである。

 ──さとりはそんなことを知る由もない。リュウタロスの過去についても。こいしの無意識なる精神に影響を受け、リュウタロスがかつての在り方へと戻ってしまっていることも。

 

 こいしの能力は『無意識を操る程度の能力』。それは他者の無意識にも介入することで、自分を認識させなくしたり他者の無自覚の行動を促すことができる力。その影響を受けてリュウタロスを己の無意識の行動に従わせたのだ。

 それもまた無意識。こいしが意図してリュウタロスの無意識を操ったわけではない。お互いに同調し、その在り方が重なったことで、こいしは無意識のまま無意識を操った。

 彼女の空虚な自我にはリュウタロスの強制憑依も通用しない。リュウタロスの楽観的で享楽的な在り方にはこいしの無意識がよく馴染む。二人はそれを理解しないまま、意気投合していた。

 

「やれやれ、まさかG4システムを奪われちゃうなんてね」

 

「無意識というのは恐ろしいものね。よもや神の目すらも欺いてみせるとは……」

 

 不意に満ちるは神々の霊力。冷たい冬の旧地獄に満たされた空気をも強張らせるように、そこに現れたのは洩矢諏訪子と八坂神奈子。山の神社に祀られし二柱の神だった。

 諏訪子はこいしを見ながら興味深そうな笑みを見せるが、神奈子はどこか感心したような表情で腕を組んでいた。さとりもこいしも彼女らの降臨に気がついた様子。どうやら神々にとって今、用があるのはこいしの方だけであるらしい。

 こいしはその言葉にきょとんとした顔になるが、すぐにそれが何を意味しているのか理解する。彼女にとっては『それ』を奪ったという自覚はなかったのだが──無意識下の行動で気がついたら手にしていたようだ。姉のさとりと()()()()()()()を懐から取り出し、神々に見せつける。

 

「えへへ、お姉ちゃんとお揃いなんだー! このベルト、G4システムっていうの?」

 

 その手に在るはさとりのものと同型である機械仕掛けの腰帯。名も等しくGバックルと呼ばれるバッテリーメーターだった。これもまた、アギトの世界においてG3システムと同様に開発された対未確認生命体戦闘用強化外骨格及び強化外筋システム。

 第三世代たるG3の後継機として設計され、禁断の兵器とされた『第四世代(GENERATION-4)』である。

 

 その名は『G4システム』。警視庁のとある天才科学者によって考案・設計されたものの、人体の限界を無視し、強引な挙動でもって装着者に過度な負担をかけ、やがては死に至らしめてしまう悪魔のテクノロジー。設計者は自らその過ちを悔い、開発に着手することなく設計図を封印したはずなのだが──

 それを盗み出し、開発に踏み込んだのは陸上自衛隊だった。研究されていた超能力者との接続機構をも完成させてしまい、存在してはならない兵器、G4システムは自衛隊の手で運用された。

 

「まったく、G4の管理は神奈子の仕事でしょ? しっかりしてよね」

 

「返す言葉もないわね。でも、G4チップがなければ、あのシステムは動かない」

 

 さとりへと与えられたG3システムの管理を担当していた諏訪子が神奈子を叱責する。神奈子はたしかに守矢神社にてG4システムを厳重に管理していたのだが、どうやら気づかぬうちに地上に進出していた古明地こいしに侵入され、持ち出されてしまっていたらしい。

 本来ならば神の知覚によって、心を閉ざした覚妖怪の発見など容易。如何に誰にも見つからない無意識の存在とはいえ、物理的な存在である彼女は電磁波などのセンサーには反応するし、結界に踏み込めば自動的に感知される。

 それすらすり抜け、神の目を欺くことができたのは、神奈子が龍騎の世界の法則を由来とするカードデッキを手にして以来、その神格に流れ込んだ()()()()()()の記憶のためか。神の在り方にさえ影響を及ぼす()()()()()()()()()に、微かに囚われていたのか。

 

 自らの失態を悔いる間もなく、神奈子はただのバッテリーメーターでしかないはずの腰帯を腰に巻きつけながら楽しそうに舞い踊るこいしを見やった。

 あのベルトも神奈子と諏訪子の干渉によって、そのシステム全体をGバックルに統合。今のG3システムと同様、ベルト単体でG4システムを装着することができる。しかし、その起動には別途G4システムの制御AIたるプログラムを記録した『G4チップ』が必要となるのだが──

 

「G4チップ? もしかして、これのこと?」

 

 無機質で機械的。退廃的な死の想念を纏う呪いのベルトを腰に巻いたこいし。彼女はその無骨な腰帯に似つかぬ可憐な服から、一枚の小さな記録媒体を取り出した。

 透明なケースに込められたそのチップには、G4の文字と開発元の紋章が刻まれている。

 

「……諏訪子。どういうことかしら?」

 

「あーうー。私もやられちゃってたみたい。いやー、参ったね」

 

 装着者の脳神経とG4システムのAIをダイレクトリンクさせるプログラム。本来はG3の強化のために構築されたものだが、神奈子はそれにG4システムの根幹となるプログラムを移動させ、万が一G4が奪われた際の保険として残していたはずだった。

 諏訪子が管理していたはずのG4チップまでもが奪われていることに、神奈子は怪訝な目つきで彼女を見る。自身もGバックルを奪われている以上強く責めることはできないが、これではG4は完全な状態で運用されてしまう。

 

 妖怪がそれを装着した場合の負荷は未知数。あの兵器はAIの意思だけが主体。たとえ装着者が死んだとしても、G4は中の死体を無理やり動かして戦闘を続行する。フレームの中に脳と神経を持つ肉の塊が詰まっていれば、その生死は問わない。

 人間には不可能なのだ。常に最適化された挙動を強い続け、思考さえも許さぬほどの精密な動きを求め続け、ただ淡々と機械的な処理を行うAIの動きに追従するだけの無我に至ることなど。

 

「とにかくあれを取り戻すわよ。あれは人間には過ぎたシステム。無論、妖怪にもね」

 

「わかってるって。そのためにG4の反応を追って旧地獄(ここ)まで来たんだから」

 

 神奈子と諏訪子は真剣な表情で懐からカードデッキを取り出し、それぞれ左手で持って正面へとかざす。ミラーワールドと現実世界の融和が進行しつつある今の幻想郷において、鏡を必要とせず、彼女らの腰にはVバックルが装備された。

 神奈子のものは雄大な角を左右に伸ばしたバッファローのレリーフを持つ、深い緑色のデッキ。諏訪子のものは左右に大きな目を持ち、舌を伸ばしたカメレオンのレリーフを持つ明るい黄緑色のデッキ。

 左手のデッキを左腰に滑らせ、右腕の拳と入れ替え回すように構える神奈子は、右拳の甲を正面に向けた雄々しきポーズで。同じく左手のデッキを左腰へ持っていき、右手を右から左へと流しながら、その右手の指をパチンと弾き鳴らした諏訪子は、左に置いた右手を下ろさぬまま。

 

「「変身!」」

 

 それぞれ同時に右手を下ろすと共に、左手のデッキをVバックルに装填する。神奈子と諏訪子は幾重もの鏡像に包まれ──神崎士郎が開発したスーツを纏った。

 神奈子が纏うは機械的なバッファローの如き騎士。深い緑色の強化スーツを覆う鎧は鈍色の重厚さを呈し、複眼の存在しない頭部は歯車やキャタピラなど、メカニカルな印象を感じさせる。その姿、軍神たる神奈子に相応しき『ゾルダ』は、まさに軍事兵器めいた風貌だった。

 

 諏訪子が纏うは黒い強化スーツに鮮やかな黄緑色の装甲を纏ったカメレオンの如き騎士。その両肩は左右に突き出したカメレオンの角や尻尾を表しているのか。その全身に配された赤い意匠は、獲物を捕らえる長い舌を表しているのか。

 やはりカメレオンらしき巨大な両目は複眼にあらず。丸みを帯びたそれは大きく張り、左右それぞれに放射状のスリットがある。諏訪子は己が『ベルデ』の姿に、(カエル)らしさを抱くことなく。

 

「もしかして、私と遊んでくれるの? やったー! リュウタ、戻ってきていいよー!」

 

 閉じた第三の眼を揺らし、こいしは左右に伸ばした両腕を正面に向ける。変わらず楽しげに振る舞うリュウタロスもまた戦意を向ける神奈子(ゾルダ)諏訪子(ベルデ)に対して右目の前でピースをしてみせると、砂の身を崩し、紫色の光球となってこいしの身体に吸い込まれた。

 こいしの瞳に浮かび上がるは紫色の光。だがすぐにそれは消え失せ、元の緑色の瞳が戻る。リュウタロスはこいしの精神の深層領域に滑り落ち、彼女の無意識に主導権を奪われたのだ。

 

「(……やっぱり強制憑依できないや。こいしちゃんって、自我が強いなぁ)」

 

「逆だよー。私には自我なんてないもーん。憑依してもしがみつけないんじゃない?」

 

 傍目から見れば独り言。内なるリュウタロスの呟きに返したこいしは、特異点であろうとも抗い難いほどの憑依力を持つリュウタロスの憑依すら意に返さない。

 自我や意識を持たぬ彼女は、無意識こそが意識の主体。心の中にぽっかりと開いた虚無の空洞には、こいし自身があえて身を委ねない限り、イマジンの居場所すら存在しなかった。

 

 こいしは手にした透明のケースからG4チップを抜き取ると、Gバックルから伝う何者かの想念。死を背負う男の記憶から得た情報で、それをGバックルに接続する。やがてG4システムがそれを認識した瞬間、Gバックルのシグナルが力強く点灯した。

 同じくGバックルを帯びるさとりは息を飲む。自身が用いるものとは同じ見た目であれど別物。さとりが帯びるは生を背負う者の意地。こいしが帯びるは、死を背負う者の──冷たい覚悟。

 

「G4システム、装着」

 

 カラカラと回る走馬灯めいた記憶。一枚一枚を瞬くうちに切り替えるその絵は、こいしの無我の中で触れられることなく動き出す。

 彼女の身には強化スーツと共に黒く無機質な装甲が纏われていった。走る鈍色と黄色はそのシステムの危険性を示すのか。G3よりも重く堅牢な鎧、その左肩に刻まれるはG4の文字。こいしはGバックルのメーターに赤い光が灯るのを見届けることもなく。

 

 手元に現れた頭部ユニット。どこか冷たい死の色に濡れた青い複眼と向き合って、その兜を己が頭部へと装着する。後頭部で接続されたそれは、こいしの空虚な笑顔を無機質な機械で覆い隠し。オートフィットしたG4のスーツを纏った無我の申し子、こいしと一つとなったのだ。

 

「こいし……」

 

 生身のさとりが憂う。さとりは自身に与えられたGバックルに触れて以来、本来のG3システムの装着者の記憶が流れ込んできていた。アギトの力を持たずしてアンノウンに抗い続けた『ただの人間』の記憶。あるいは別の因果であればG4の恐ろしさを知っていただろう。

 しかし、今のさとりにあるのはG4システムが完成に至ることのなかった世界線、自衛隊がG4の設計図を持ち出すことのなかった因果におけるアギトの世界の記憶。本来のG3装着者であれ、G4システムがどのような兵器なのかを知る由もない。

 それでも伝わってくる退廃的な死の想念。こいしが纏う黒き鎧が帯びる深い悲しみ。あの兵器が自らの纏うG3のような希望の象徴ではないことはさとりにも理解できた。

 

 こいしはG4の感触を確かめるように右手を握り、開く。やがてこいしの無我なる思考に伝わるG4システムの制御AIは、目の前に立つ二体の騎士を認識した。

 アギトの世界にて開発されたG4にはゾルダとベルデという鏡の騎士の情報はない。神崎士郎が造り上げた龍騎の世界の仮面ライダー、それらを正体不明(アンノウン)として識別する。こいしはAIの動きに逆らうことなく、ただ無我のまま身を委ねた。

 右大腿部に装備された短機関銃(サブマシンガン)──G3のものと同型である『GM-01改四式』を右手に取ると、こいしは何も考えずに、余計な思考も動きも一切なく、その重い引き金を力強く引く。

 

「……っ! 躊躇なしか……!」

 

 神奈子は機動力の足りぬゾルダの身で何とか回避する。ゾルダのスーツに馴染んでいなければ、その重さに足を取られていたかもしれない。G4の挙動に思わず悪態を吐くものの、その在り方は最初から分かっていた。

 諏訪子もまた横に転んで回避。重い装甲を持つゾルダと違い、軽やかなベルデがGM-01改四式の射線から逃れること自体は容易であったが、少ない装甲では直撃のダメージは致命的だろう。

 

「あれ? 私、いま撃っちゃってたの? なんだか身体が勝手に動いちゃったみたい」

 

 相変わらずこいしの思考は空っぽのままだ。その空っぽの精神に、G4というAIの完全にして最適化された挙動が叩き込まれる。装着者はただ何も考えずにG4の動きに従い、思考さえ許さぬ絶対の動きに順応するしかない。

 少しでも逆らえば、少しでも余計な思考をすれば。G4は装着者の意思を無視して最適な挙動を強制的に実行し、甚大な負荷によって筋繊維や脳神経を破壊するだろう。

 

 だが、古明地こいしに限っては。そのようなことは一切なかった。彼女には余計な思考を馳せる自我などない。何もない空っぽの精神に付随するだけの肉体はこいしの意思によって動くものではない。故に、本来ならば同調不可能なG4に、ほぼ完全な形で同調することができているのだ。

 

「何も考えてない無我の妖怪と、完璧な計算で動くAI兵器。最高の相性だねぇ」

 

「……こっちとしては最悪だけどね。あのAIに同調できる奴なんて、彼女くらいかしら」

 

 諏訪子は左の太ももに巻きついた黄緑色のカメレオン型召喚機『バイオバイザー』の口から飛び出た赤い舌を掴み、伸ばし上げる。神奈子はVバックルの右腰、ジペット・スレッドに装備された中型拳銃型の召喚機『マグナバイザー』を手に取った。

 そうしている間にもGM-01改四式の銃口は絶えず神奈子たちを追いかけてくる。神の眼でもって反応し、その引き金が引かれるよりも先に射線から外れていなければ大ダメージは免れない。

 

「おもしろーい! 何もしてないのに、身体が勝手に動く! (らく)ちーん!」

 

 明るく楽しげに振る舞うこいしの声とは裏腹に、G4は冷ややかに精密に、完璧に計算され最適化された挙動で神奈子にGM-01改四式の銃口を向ける。神奈子が僅かな隙を見つけてマグナバイザーの引き金を引くも、G4は即座に対応し、堅牢な装甲で防いでしまう。

 ゾルダが持つアドベントカードには高威力のものもある。それこそ、爆撃に等しい砲撃を行うことも可能だ。だが、不用意な破壊力はこの旧地獄の天盤崩落にも繋がりかねない。こちらも精密な調整を行えれば威力を抑えることもできるが──

 

 常に最適な挙動でこちらを排除しにかかるG4を相手にして、そんな悠長な真似が許されるとも思えない。ならばせめて、少しでも時間を稼ぐことで機を見出すまで。

 神奈子はちらりと諏訪子を見やると、マグナバイザーの上部スライドを引き、マガジン部分のカードスロットを露出させる。デッキからカードを抜き、基底(そこ)に入れてはマガジンを閉じた。

 

『ガードベント』

 

 己が足元から鏡像を超えるが如く現れるは、屈強な鋼の盾だった。その大きさこそゾルダ自身の半分程度だが、厚みを持つ鋼の盾を軽々と持ち上げ、身を守る壁として構えた神奈子は、それから襲い来るGM-01改四式の凄まじい連射をそれだけで凌ぎ切る。

 アンノウンにさえ致命傷を与えるほどの威力の銃弾をこれだけ受けても、ゾルダのガードベントたる『ギガアーマー』にはほとんど傷もなかった。

 射撃は無意味だと悟ったのか。あるいは込められた信仰と装着者の妖力を残弾に変換する神の機能でも追いつかぬほど消耗が激しいのか。G4は手元の銃を大腿部に戻して接近してくる。

 

「神奈子! 悪いけど、しばらくそいつの相手を頼んだよ!」

 

 バイオバイザーの舌を伸ばした諏訪子は右手でデッキからカードを抜くと、左手に持ったバイオバイザーの舌、クリップ状になったその先端にカードを挟み込む。そのまま手を離せば、カードは自動的に縮みゆく舌に取り込まれ、バイオバイザー本体の中に装填されていった。

 

『アドベント』

 

 無機質な電子音声を聞き届けた諏訪子(ベルデ)は旧地獄の天盤を見上げる。迫り出した岩場には、石桜の破片が刺さっている。その煌きを境界としたのか、そこにはさっきまでいなかったはずの不可視の幻影が浮かび上がっていた。

 緑色の体色を伴って現れたのは、自らの体色を操ることで姿を消すことができる怪物。ベルデと契約しているカメレオン型ミラーモンスター『バイオグリーザ』であった。

 

 大きく張り出した両目と全身に配された赤い舌の意匠は主人(ベルデ)と同じ。よく似た姿のモンスターが傍らに降り立ったことを確認した上で、諏訪子は命令する。

 バイオグリーザは小さく頷き、生身のまま立ち竦むさとりを抱き抱えて高く跳躍を遂げた。

 

「……っ!?」

 

「安心していいよ。そいつは私の契約モンスターだから」

 

 額から流れる血を左手で押さえるさとり。ゲルニュートとの戦闘で傷ついた額の痛みが、同じく無機質で作り物じみた印象を受ける鏡像の怪物(ミラーモンスター)に本能的な恐怖を抱かせる。

 それを使役しているであろう黄緑色の騎士は言った。この怪物は敵ではないのだと。さとりも自身にGバックルを与えた諏訪子が変身する瞬間を見ている。神という存在がどれだけ信用できるか分からないが、少なくとも今の彼女に悪意はない。

 

 かつて自身のペットであるお空に無断で八咫烏の力を与えたことに関して、さとりはそれもまた旧地獄や幻想郷のためであると黙認した。八坂神奈子が語るエネルギー革命とやらに興味はなかったのだが、お空に与えられた能力で灼熱地獄跡の炎が再燃し、破棄された旧地獄に光が戻ったのも事実。

 あの二柱に対する心境は複雑だ。彼女らが幻想郷の未来を考えているのは理解している。自身を守るように立つバイオグリーザには野性的な本能は感じられない。自身もダメージによって激しい戦闘は行えそうにないため──今は守矢の二柱を信用して戦いを見守ることしかできなかった。

 

「悪いことは言わない。早くその(スーツ)を解きなさい。G4(それ)を使い続ければ、いつかは──」

 

 神奈子(ゾルダ)こいし(G4)の接近に伴いマグナバイザーを下ろしている。右腰のジペット・スレッドに戻すのではなく、あえてそれを打撃武器としても活用することで、驚異的な射撃性能で追いつめてくるG4の懐に潜り込んだのだ。

 漆黒の鎧を纏うこいしはただ脱力してG4に動かされているわけではない。こいし自身がG4のAIと脳神経を直結させられ、その電気信号によって脳からの命令で四肢を動かしている。そこにこいしの無意識的な行動によるAIへの追従が加わり──

 

 何も意識せず完璧な動きを可能とするG4。神奈子の警告も意に介さず、ただこいしは無意識に身を委ねたG4の動きに心地良さすらも感じている。ゾルダの近接格闘さえも凌ぎ、G4は既知のAIに陸上自衛隊の格闘術をも組み込んだ挙動による一撃で神奈子を殴り飛ばしてしまった。

 

「(こいしちゃんばっかりずるーい! 僕にもそれやらせてよ!)」

 

「んー? いいよー!」

 

 こいしは空虚な無意識の中に響いた内なる声に答える。リュウタロスはこいしの心の中が絶えず空っぽであることにすっかり慣れてしまったのか、あるべき意識を押し退けて強制的に憑依するのではなく、こいしに主導権を譲ってもらう形でその意識を表出させた。

 G4の青い複眼に一瞬だけ灯された紫色の光を見て、神奈子はゾルダとしての仮面の下で冷静に思考する。もしG4の挙動がこいし特有の無我による順応であれば。G3を、G4を設計した天才科学者が構築した『人間を超えた領域(AI)』に従うことができるのが、その無意識ならば──

 

「へへっ! 今度は僕が──」

 

 RこいしはG4として顔を上げる。右大腿部に装備されたGM-01改四式を再び手に取ろうと、リュウタロスの意思で右腕をそのグリップに近づけた。

 一瞬だけ生じた微かなタイムラグを見逃す神奈子ではない。すぐさま右手に持ったままのマグナバイザーを前方に構えていつでもG4を撃てるように引き金に指を乗せる。

 どのような動きを見せるのか。神奈子がその動向を見極めようとしたときのことだった。

 

「……っ!? ぐっ……ああ……っ!? うぁああっ……!?」

 

 ──その瞬間、G4の背部から不意に激しい火花が散り始める。肩部からは排熱のための白煙を噴き出し、こいしの声で響くリュウタロスの絶叫に思わず神奈子は銃を下ろした。

 G4は明らかに正常な挙動をしていない。自身にかかる凄まじい負荷に頭を押さえようとするものの、その動きはすぐに矯正され顔を上げると、神奈子に接近しようと右脚を前に出すのだが、苦しむ上半身の姿勢制御のためにすぐ左脚の位置が矯正され、それに応じて右脚も姿勢制御のために位置を変えた。

 

 標的である神奈子を排除すべく動くAIの意思。思考と動きを無理やり矯正し、その負荷に伴う苦痛によってそれどころではない装着者の意思。それぞれが相反し、どちらも実行できぬままただ無為に装着者の体力とG4システムのエネルギーが消費される。

 かつて、アギトの世界──第二の楔である津上翔一を招いた因果とはまた別の並行世界。そこで起きた悲劇と同じ。G4の装着者に、余計な思考は必要ない。AIが機能している最中に不用意な行動を取れば、システムは装着者に牙を剥き──『ただ肉の部品(パーツ)であれ』と負荷を強いるのだ。

 

「(な、何これ!? リュウタ! いったい何したのー!?)」

 

「……わかんない……っ! 身体が全然動かな……!! うわぁっ!?」

 

 過剰な駆動音を鳴らしながら装着者を無理やり動かすG4。その鎧に宿るはこいしの肉体だが、感覚を共有しているリュウタロスはG4の動きについていくことができず、予期せぬ方へ強制的に身体を動かされ、凄まじい負荷に苛まれている。

 リュウタロスにはG4のAIに順応するだけの無我の境地など初めから無かった。ただ無邪気に子供らしく、こいしの無垢さに同調していただけ。楽観的な『楽しさ』という自我はAIにとって邪魔な思考でしかない。

 G4とダイレクトリンクした脳の信号が自動的に機体の動きと同調する。先ほどまではこいしの無意識で順応できていた動きだが、リュウタロスには到底馴染めない。

 動く度に悲鳴を上げる身体。過度な負荷に関節が外れかけるも、G4はそれを考慮しない。

 

「こいしっ!」

 

 明らかに異常をきたしている様子のこいし(G4)に声を上げるさとり。バイオグリーザの傍を抜けて、傷ついた身体でふらふらと近づこうとするも、G4の危険性をよく知る神奈子はさとりをこいしに近づけまいとしてマグナバイザーの引き金を引いた。足元を掠める実弾の弾痕に後退り、さとりは神奈子を見る。

 小さく首を左右に振り、彼女の行動を制止。あれに近づけば命はない。あそこに古明地こいしの意思はなく、ただAIの動きに翻弄されているだけ。

 もっとも古明地こいしには元より大した意思などないのだろうが──完全な制御下にないG4はあまりに危険である。装着者のバイタルが正常ではない状態で誰かが近づけば、朦朧とした意識で見たものを敵と誤認した装着者の意思を認識し、AIは自動的に攻撃を仕掛けるだろう。

 

「「うぁぁああああっ!!」」

 

 こいしとリュウタロスの叫びが、彼女の中で重なる。周囲に聞こえているのはこいしの声だけ。だが、その声に乗せられているのはいったいどちらの痛みなのだろうか。

 完全で精密な動きが鈍りつつあるのを見て、諏訪子はバイオバイザーにカードを装填した。

 

『ホールドベント』

 

 ベルデの手元に現れるはバイオグリーザの眼球を模した放射模様の小さな玉。出っ張った円盤に近い掌大のそれを左手で掴むと、諏訪子は左腕を伸ばすようにしてそれを投げつける。

 手放しても繋がったまま。ヨーヨーのように伸びるワイヤーを伴う指輪が諏訪子(ベルデ)の中指に結び付けられた状態で、中距離武器として用いられる『バイオワインダー』は突き進む。この指輪と糸、そして先端にある楕円体(だえんたい)すべてが、ベルデの武器であるのだ。

 

 バイオワインダーはホールドベントの名の通り、円盤の重さを利用してG4の周囲を取り囲んでいく。強靭なワイヤーが全身に絡みつき、こいし(G4)はその身を拘束された。

 圧倒的なパワーに千切れそうになるワイヤー。諏訪子は何とかその動きを抑制して叫ぶ。

 

「神奈子! 今だ!」

 

 手にしていたマグナバイザーを右腰に戻し、神奈子は駆け出した。重厚なゾルダの身においてもその動きに遅れはなく。常日頃から神々しき注連縄や御柱を背負い奉る軍神の力は、兵器というものの重さをよく理解している。

 G4の冷ややかに青い複眼が接近する神奈子(ゾルダ)を認識した。その右腕の拳は彼女へと振り抜かれ、バイオワインダーの拘束を引き千切る。だが、諏訪子による拘束によってその動きには僅かな隙が生じていたのだろう。神奈子はその一撃を何とか寸前で回避し──

 

 懐に接近し、神奈子はGバックルの内側にある緊急離脱スイッチを押下する。装着者、あるいは神の力を帯びた者の手でしか起動できぬそれは確かにその信号を認識した。

 黒く重厚な装甲(スーツ)はそのまま消失。残されたのは、Gバックルを腰に巻いたRこいしだけだ。

 

「……うぁ……ぁあ……」

 

 過負荷によって甚大なダメージを負ったこいしが姿を現す。白い煙と火花を伴い、こいしはその場に倒れてしまった。

 紫色の瞳はすでにこいしらしい緑色の瞳に戻っている。ゆっくりと開かれ、朧気な視界の中で自身を見下ろす神奈子と諏訪子の顔を確認するも、まずは内なる友の存在に意識を向け。

 

「……()たた……リュウタ……大丈夫……?」

 

「(ご……ごめん……! 僕、何かしちゃったのかも……!)」

 

「どうして急に変になったんだろー……あんなに簡単に動かせたのに……」

 

 こいしはG4を操ることに何の意識もない。ただ無意識のままに空虚に在り続けていただけ。リュウタロスの自我には到底不可能であったそれを、こいしはただ、いつも通りで居続けるだけで容易に制御していた。

 倒れ伏した状態から起き上がろうとする。左腕を地面に立てるがそれは支えにならず、こいしの体重に耐え切れずにぱたりと地面に倒れてしまう。こいしはそれを他人事のように見ていた。

 

「あれー……? あらら……腕が動かなくなっちゃったみたい……」

 

 無茶な動きに順応し切れなかったこいしの肉体は見た目こそ傷がなくとも、神経や関節、骨や内臓などに甚大なダメージを負ってしまっている。動かそうとした方向とは逆に無理やり動かされた左腕の感覚はすっかり消えてしまっていた。

 痛みはあるのか、悲しみはあるのか。こいしはそれを残念そうな表情で眺め、ごろんと仰向けになる。

 こいしがリュウタロスの意識を表出させず、自身でG4を操っていたときも負荷はあったのだ。ただ、無意識によって完璧に順応できていたうえに、こいし自身の無意識と無自覚によって負荷に気づけなかっただけ。こいしの知らぬ間に、その身は確かにG4に苛まれていた。

 

「G4を返してもらうわよ。そのシステムの危険性は、身に染みて理解できたはず──」

 

 神奈子(ゾルダ)がこいしのGバックルに手を伸ばす。こいしは何を考えているのか。神奈子の顔をじっと見つめ、ただ抵抗もせずに仰向けに横たわっていた。

 きっと何も考えていないのだろう。心の中にリュウタロスを宿したまま、こいしは再び無意識の中に消えていく。神奈子と諏訪子の目をもってしても認識できぬ、空虚な意識の外側へと。

 

「ありゃ、また見失っちゃったか……まぁいいや。G4の反応は追えるしね」

 

 G4が装着を解除した時点で諏訪子(ベルデ)のバイオワインダーは解かれていた。その手にバイオワインダーの指輪がある以上、装備されていることは変わりなく、彼女の意思次第で再びそれを具現し、射出することは可能である。

 すでに誰の視界にも映らなくなってしまったこいしの姿を探るも、こいしを認識することはできない。何者かの気配が残っていることは分かるのだが──地底の妖気に紛れてしまっていた。

 

「いったい、こいしに何が起きて──」

 

 諏訪子の指示によってミラーワールドへと戻っていくバイオグリーザ。その消失を見届けると、さとりは神奈子と諏訪子に問いを投げようとする。

 その言葉が最後まで紡がれることはなく。さとりは不意に全身を襲った寒気と、凄まじい怨念の奔流に思わず口元を押さえた。怨霊の心を読んだときにも近い不快感。額から流れる血を押さえることもできないほど、今すぐに吐き戻しそうになるほどの、おぞましい感覚。

 

 こんな不気味な想念は旧地獄の怨霊にすらない。肌に伝う感覚はお空やお燐の放っていた輝きに近いものの、どこか神々しさのあったあの光とは比較にならない、呪われた闇を感じさせる。

 

「…………っ!?」

 

 顔を上げたさとりが目にしたのは、絶えず底知れぬ怨嗟を放ち続ける妖怪の姿。元より在るべき彼女らしい『嫉妬』の感情を無作為に撒き散らすは、橋姫たる水橋パルスィであった。

 その様子は尋常なものではない。何者かの想念に強い影響を受け、自身の在り方を曖昧にしてしまっているのか。彼女の緑色の眼は、普段の万物に対する嫉妬に加えて、ある特定の一つに対する強い妄執の意思を湛えている。

 

 剥き出しの嫉妬心と歪んだ妄執の想念がさとりの第三の眼を通じて流れ込む。怨霊の憎悪を直接流し込まれるような不快感に苛まれるが、さとりは吐き気に耐え切った。

 全身をビリビリと震わせる波動は、やはりお空やお燐、翔一が有していた神の光(オルタフォース)と同じ──

 

「やれやれ、今度は橋姫か……G4の想念に影響されちゃったかな」

 

「どうやら旧地獄の怨霊たちにも影響を受けているみたい。我々で対処するしかないわね」

 

 パルスィは地霊殿とは反対方向、旧都より歩いてきてはその歩みを止めた。冷静に言う諏訪子と神奈子は変身を解かぬまま、目に見えるほどの嫉妬に渦巻き、何者かの想念に苛まれている様子の彼女に向き合う。

 神奈子は再び右腰のマグナバイザーを手に取った。諏訪子は左手に装備されたままのバイオワインダー、その指輪から強靭なワイヤーを伴う円盤状の球体、ヨーヨー型の本体を出現させる。

 

「…………」

 

 緑色の瞳で地霊殿を見るパルスィ。嫉妬を込めたその一瞥の後、彼女は神奈子と諏訪子に向き直っては両の拳を握りしめ。

 手の甲を正面に向け、両腕を左右に広げると、そのまま腰の前で交差させるように両腕を下ろす独特の構えを取る。彼女の内に満ちたオルタフォースは、その腰にベルトを具現した。

 

 アギトのオルタリングにも、ギルスのメタファクターにも近しいような、神々しさと禍々しさを両立させたもの。くすんだ鈍色は瞼の如く、さながらさとりが生まれ持つ第三の眼の如く。

 賢者の石を秘めし『アンクポイント』と呼ばれるベルトは、不気味な真紅の眼球を見開いた。

 

「変身……!」

 

 パルスィの重く呪いを込めた一言で、腰のベルトに緑色の怨嗟が灯る。やがて一瞬のうちに解き放たれた神の光(オルタフォース)により、その身は歪に変異していく。

 黒く生物的な強化皮膚(ミューテートスキン)に加え、緑色に剥き出す外骨格。どことなくアギトらしき龍の様相をも感じさせるが、ギルスにも似た生々しい生物感、その境界を思わせる異形。胸部に鈍く輝くワイズマン・モノリスによってアギトの力こそ制御できてはいるようだが──

 赤い複眼は小さく、突き出す角はクロスホーンではなく、常に展開された形。枝のように乱雑に突き伸びた『アギトホーン』を掲げて、パルスィは下ろした両腕を再びゆっくりと構える。

 

「あれは……津上さんやお空が変身したのと同じ……? アギトなの……?」

 

 さとりにとってその姿は翔一やお空が至ったアギトと相違ないが、滲み出す歪んだ想念はノイズ混じりの濁流。力強く食い縛るような歯牙に、背中に抱く昆虫めいた異形の翼。その差異はどうしようもなく従来のアギトをアンノウンじみた存在に誤認させた。

 万物を等しく睥睨する神の眼には映る。心の在り様に左右されぬアギトの真の姿が。パルスィが至りし姿は、アギトとしては正しく覚醒していた。だが、その歪んだ心、嫉妬の奔流に加えられた()()()()()()の記憶、怨嗟が入り混じり──

 ギルスのように不完全な覚醒を遂げたわけではない。正しく覚醒し、完成した上で在り方を歪められたアギトは、黄金と白銀を湛えた光ある姿には至らず。汚濁に染んだ妄執に支配され、翔一やお空の至ったアギトとは異なる進化を遂げた『別の可能性のアギト』へと分岐して。

 

 光なき地殻の下の嫉妬心。翔一が魔化魍ヤマビコとの戦闘でアギトの力を含む光を跳ね返された際、その光の直撃を受けたパルスィはアギトの力を獲得していたのだ。ただ深層に眠るだけであったその力は、パルスィの嫉妬心と呼応してしまった。

 自分が選ばれし鬼ではないという劣等感か。奇しくも手にしたアギトの力との共鳴か。その力はパルスィにとある男の記憶を宿し。

 本来在るべきアギトとは別の形で進化を遂げて、正しく完成してしまった姿。津上翔一や霊烏路空の光ある姿とはまた別の──言わば『アナザーアギト』とでも呼ぶべき存在となっていた。

 

「……アギトは……私一人でいい……!」

 

 爛々(らんらん)と輝く真紅の複眼にぼんやりと緑色の光が灯る。すぐに赤へと戻り、アナザーアギトは己が思考を染める想念、本能。熱くなる心のまま、自らの嫉妬心に従う。

 その目的は自分以外のアギトの根絶。ただ自分だけがアギトで在ればいいという願い。脅迫的な正義感と使命感に駆られた、独善的な妄執であった。

 何かを訴えるように疼く右腕さえ気にせず、パルスィは全身にオルタフォースを滾らせていく。迸る嫉妬心のまま、ただ魂に湧き上がる本能と記憶、光なき衝動に突き動かされた。

 

 動き始める未来の可能性に、虚ろに褪せた意思。混ぜこぜになった感情に身をやつして──




アギトと龍騎といえばミラクルワールドを思い出す。ライドシューターないよ……(いつもない)

次回、EPISODE 62『極光』


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第62話 極光

 十番目の世界。それは九つの世界を一つに集約し、歴史の特異点となった場所である。ここには今の幻想郷と同様に、これまで物語として刻まれてきた九つの法則があった。

 それは絶えず流れ移ろう。まるで世界そのものが遍く世界の帳を、旅しているかのように。

 

「……いよいよか」

 

 喪服めいた漆黒の装い。憂いを帯びた表情を蜘蛛の巣めいたベールで覆った女性は、旋律を紡ぐかのような美声で小さく呟いた。

 1999年、カブトの世界に舞い降りた高位のワーム。その細胞は自身が選んだとある人間── 間宮 麗奈(まみや れな) という女性の姿を模している。それはワームの特性をもって彼女のすべてをコピーし、擬態したが、その人格や意志はワーム本来のものを強く滲ませていた。

 

 彼女はその擬態を一時的に解く。現れた真の姿は成虫体のワーム。かつて擬態元の記憶と人格に自我を塗り潰されていたとき。自分でもある彼女が愛した男によって殺された、真っ白な美しさを湛えた甲殻類の遺伝子。

 地球の蟹の一種、シオマネキに似た『ウカワーム』としての身を晒して、擬態麗奈(れな)は自らの白く大きなハサミ状の爪を撫でつつ、無数の棘を帯びた殻に覆われたその身のまま光を見上げた。

 

「この計画が完遂されれば、俺たちの目的に一気に近づく」

 

 低く雄々しい声で返すのは異形の獅子。僅かに青錆びた黄金の装甲を有するは、その右腕に鋭い鉤爪を装った『レオイマジン』だ。すでに契約を達成しており、完全体としての肉体を伴いここに立つ彼は、イソップ寓話『金のライオンを見つけた男』のイメージから実体化している。

 

「まるで仲間にでもなったかのような口ぶりですね。……人間の精神如きが」

 

「……何だと?」

 

 黄金の獅子は異形の相貌を歪めて振り返った。そこにいたのは、出現したオーロラを潜り抜けてこの場に現れた誇り高き魔の血族。漆黒の牧師服を揺らしながら歩んでくる男は、指先で丸眼鏡を押し上げながら早口で述べる。

 キバの世界において王家の宰相としての座を持つ男、ビショップ。彼はそのままレオイマジンの傍を通りすぎると、ウカワームが見上げた光──選ばれし者だけが触れられる力の塊を見た。

 

「この力は偉大なキングの復活にこそ相応しい。人間の想像から生み出されたような空想の産物に与えるなど、愚かしいにも程がある……」

 

「……勘違いするな。それを決めるのはお前たちじゃない。それに……」

 

 ビショップは絶大なエネルギーを収束しつつある巨大な光の塊から目を下ろし、レオイマジンを蔑むように笑う。それに明確な不快感を覚え、レオイマジンは白い砂を零しながらビショップに近づいた。

 右腕の鉤爪でこの男を貫けば容易く潰れてしまいそうな長身痩躯。不健康そうに骨ばった外見をしているが、その身に湛える魔皇力はキングに直接仕える者として不足はないだろう。

 

 不遜な獅子の在り方に不快感を覚えたのは彼も同じ。痩せこけた頬から顎へとステンドグラス状の模様を浮かべたかと思うと、その姿は煌びやかな彫像じみた怪物となる。エメラルドの如き色を美しく輝かせ、双角の如く生えるは白鳥の首の意匠──

 その顔面に抱く蝶のレリーフは無貌となり。ビショップは生まれ持った姿、アゲハチョウによく似た至高の芸術たる『スワローテイルファンガイア』としての肉体を晒した。肩に象られた女神の彫像も伴い、彼の誇りはインセクトクラスにおいて最高の貴族階級たる在り方を表している。

 

「あくまでこの身体が人間のイメージを元にしているだけだ。俺たちは消えた時間に繋がる過去を得るために未来から来た人間の精神体。好きでこんな姿をしているわけじゃない」

 

 スワローテイルファンガイア──ビショップは表情の伺えない不気味な無貌でレオイマジンへと向き直って見せる。

 誰もが求める究極の力、自分たちに再び命を与えた奇跡の祝福。彼らの頭上にて輝ける揺り籠の如き安寧──女神の名を冠したその力の一端は、アゲハチョウめいたステンドグラスによって反射し、ビショップのファンガイアとしての姿を美しく煌かせた。

 その名は禁欲家と左足だけの靴下。歪んだ陶酔をもって成し得る秩序は、ビショップの高潔でありながら神経質、美しくも醜い精神と同様、敬愛すべき王を屍として蘇らせる矛盾を孕む。

 

「人間の文明は我らワームのものだ。あの地球(ほし)の支配権は我々が手に入れる」

 

「人間など、我々ファンガイアの家畜として生きていればいいのですよ」

 

 ウカワームとスワローテイルファンガイアは、それぞれ純白の甲殻と極彩色のステンドグラスを力と共に収めては人間の姿に戻っていく。どちらも怪人態とは似つかない漆黒。間宮麗奈としての姿は喪服を装い、ビショップとしての姿は牧師服に身を包んでいた。

 どちらにとっても人間など利用すべき生き物でしかない。肩を並べて生きることなどありえないのだろう。振り返ることもなく自分たちの領域へとオーロラを超えていく二人を見て、レオイマジンは溜息をつかずにはいられなかった。

 

 なぜ人間を見下す種族、ワームとファンガイアが人間の姿に至れるというのに、元より未来の人間であるはずの自分たちイマジンが人間の姿を取れないのか。過去の時間すら持たず、己が実体すら人に頼り。人間の身に憑依しない限りは人間として生きることさえも許されないというのか。

 

「……あまり人間を蔑ろにされると、俺たちイマジンの存在にも影響が出るんだがな」

 

 電王の世界だけで完結していた元の法則ならいざ知らず。今は九つの物語に連なる法則が一つの座標で混ざり合っている状態。女神の名を冠したあの叡智によって『記憶の檻』に閉じ込めている九つの世界の人間が死に絶えれば、イマジンの未来もない。

 過去に生きる人間がいなくなってしまった状態で、どうやって未来の人間に繋がるというのか。レオイマジンを含むイマジンたちにとって、人間とは守るべきとも言うまいが──

 少なくとも存在してくれなければ、過去の時間も姿でさえも、自分たちにはないのだから。

 

「皮肉な話だ……」

 

 見上げる輝きは黄金の装甲を輝かせる。彼らイマジンの悲願は、自分たちを西暦2007年の時代に送り込んだ未来の特異点の復活。どうやらあの青年は自身が生み出し契約した最後のイマジン、死神たる『デスイマジン』と同化しており、未だ時間の中で眠っているようだ。

 

 ワームの目的は種を束ねる傀儡の復活であるという。人間であったはずのその男は、ワームとも敵対する種となり、最強のネイティブたる『グリラスワーム』へと至ったようで、ワームはそれを復活させ仮初めの指導者とするのだと。

 ファンガイアは今ある王の存在が気に入らない者が多いらしい。宰相たるビショップの権限でライフエナジーを献上させ、かつての王──先代のキングたる『バットファンガイア』の自我を伴う再生を果たし、今の王を打倒して本来あるべき誇りを取り戻すことが目的なのだという。

 

 レオイマジンは疑問を覚えていた。どうやら彼らとも別の世界の存在、グロンギやアンノウン、ミラーモンスター。そしてオルフェノクやアンデッド、魔化魍。彼らもまた、自分たちの頂に立つ存在の具現化による復活を目的としていると聞いている。

 なぜ多くの怪人たちが復活を遂げているというのに、その最果ての存在と言える者たちだけがこうも(ことごと)く復活していないのか。

 あの組織の者は『楔となる者はその力ゆえ復活に必要なエネルギーが多くなる』と言っていた。彼らが何を知っているのか、自分たちは利用されているだけなのではないか。考えても答えなどは出せない。レオイマジンは灰色のオーロラを超え、電王の世界を写した領域へと戻っていった。

 

◆     ◆     ◆

 

 昼下がりの博麗神社。博麗霊夢と五代雄介が共に愛した快晴の青空はそこに。桜舞い散る境内において、幻想郷全体に見られる乱れ歪んだ季節の影響はなかった。

 否。本来の季節である春と重なり、四季異変による春が芽吹いているのかもしれない。

 

「…………」

 

 縁側に腰かける霊夢は日課の掃除を終わらせ、帚を立てかけたまま一枚のカードに視線を落としていた。それは五代が初めて博麗神社を訪れたあの日、賽銭箱に入っていたらしいのを彼が見つけてくれたもの。ぼんやりとした仮面らしきものが描かれたカードである。

 

 無彩色であるのにマゼンタ色の威圧感を放つそれからは、どことなく八雲紫の妖力が残っているように感じられた。

 書かれた英字は明治時代の文化で令和の時代を生きる幻想郷の住人にとって読み取ることは造作もない。しかし、英単語としては存在しないその言葉に、文字は読み取れども確証は持てず。

 

「(KAMEN RIDE(カメンライド)……って書いてあるのかな。仮面ライダーと何か関係が……?)」

 

 仮面ライダー。その言葉は霊夢にとっては馴染みのないものであった。五代雄介が変身する戦士クウガと似た仮面の存在、霧の湖で出会った紅美鈴と共にいた者──城戸真司。彼が変身するものが、仮面ライダーなる鏡像の騎士であるのだと、本人から聞いている。

 ──おそらく世界と法則を隔てれど、五代が至ったクウガも等しき存在なのだろう。そして紫が語った『九つの物語』というものが世界を指すのなら、それらはきっと、全部で九人存在する。

 

「(やっぱり、五代さんの名刺とも違う感覚……)」

 

 不気味な仮面のカードの他に、その手に取り出すは五代から受け取った名刺だ。彼の名前と共に朗らかな顔の親指が描かれたその一枚は、奇しくもカードという形状としては似ているもの。この仮面のカードがクウガの世界を由来としているのなら、触れて伝わる微かな気配も五代雄介の持つ気質と似ているのではないかと思ったが──

 やはり異なる。霊夢はその名さえ知らぬ『ライダーカード』は、クウガの世界より来たるものではない。霊夢とて気質を読み取ることは得意ではないが、それでも推測はできた。

 

 スペルカードとは違う未知のカードといえば、霧の湖で会った鏡像の騎士、仮面ライダー龍騎。あの戦士もまた、カードらしきものを使って戦っていたはずだ。

 ただ、それとも違うように感じられる。気質に関してもそうだが、確証はないにしろ霊夢の勘が同じものではないと訴える。あるいは、九つの物語のいずれにも該当しないのでは、と──

 

「まぁ、いっか」

 

 深く考えることは得意ではない。彼女はいつだって天性の勘に従い、異変を解決してきたのだ。それに情報が少なすぎる。八雲紫が語った九つの物語が仮面ライダーと呼ばれるものの法則を持つ世界、そして外来人を指すのなら、霊夢が知るのはまだ二人だけだ。

 霊夢は無彩色のライダーカードと五代の名刺を懐にしまうと、縁側に後ろ手をついて透き通るように晴れ渡る青空を見上げる。

 

 雲一つない青空。晴天。かつて幻想郷の人妖から気質が溢れ出し、様々な天候が繚乱した異変があった。二度に渡り博麗神社が倒壊してしまった『緋想異変(ひそういへん)』を思い出したのは、見上げる青空が霊夢の気質である『快晴』であったがため。

 日照り続きだったのは神社の周りだけであった。とある『天人(てんにん)』の退屈凌ぎで引き起こされたその異変は、晴れの気質を持つ者の空に絶え間なき晴れを。雨の気質を持つ者の空に絶え間なき雨をもたらし続けていた。自らの気質を制御し、望んだ気象を手繰り寄せた者もいた。昇る緋色の霧を追い、目指した『天界』の頂で、霊夢は異変の首謀者を打ち倒したが──

 

 緋色の空は、大地を揺るがす災禍(さいか)の兆し。博麗神社を倒壊させた最初の地震は、来たる大地震の試し打ちであったらしい。霊夢は地震を起こした天人に神社の建て直しを任せ、そのときに天人の提案で地下に地震を封じ込める『要石(かなめいし)』が埋め込まれた。

 幻想郷全域を滅ぼしかねないほどの大地震は未だ訪れていない。ただそのエネルギーは消滅したわけではなく、あくまで博麗神社の要石に抑え込まれ、封じられているだけ。

 誰の意思によるものではない、自然災害たる地震を防ぐためには天人の要石が必要だった。だが天人は博麗神社を自らの好きに作り変えることで、天界だけでは飽き足らず地上の博麗神社さえも自らの領域としようと目論んでいたらしい。

 せっかく建て直された博麗神社だが、それを良しとせぬ八雲紫によって、天人との戦いの余波で神社は再び倒壊。今度は天人の手が加えられていない、博麗神社らしく地上らしい元の在り方で、萃香たちの手で再び建て直された。大地震を封じてくれる要石だけはしっかりと残したまま。

 

「良い天気だよね」

 

 霊夢の隣に腰を下ろし、同じように後ろ手をついて青空を見上げる青年。五代は禍々しい漆黒の雲も、地震の兆したる緋色の雲もない、清々しい晴天に笑顔を零して嬉しそうに呟いた。

 

「ここまで真っ青だとちょっと気持ち悪いけどね。まぁ、嫌いじゃないけど」

 

 人妖の身より昇り出でた気質。かつて緋想異変に苛まれた幻想郷で、小野塚小町は霊夢に言った。快晴の空には雲がない。日光も地上の生気もすべて素通り、昼は暑く、夜は冷える。曲がったことはしないが、融通は効かないし無慈悲で優しさの欠片もないと。

 何もかもが真っ直ぐで、遮るものなど何もない。そんな霊夢の気質があの異変の際、とある天人の力によって緋色の霧となり昇り、彼女の頭上だけを快晴の空に晴れ渡らせていたのだろう。

 

「緋想異変……か。まったく、こんなに天気も良いのに。嫌なこと思い出しちゃったわ」

 

 ふぅ、と小さく溜息をつく霊夢。あれ以来、博麗神社には鬼や天狗の技術を用いてさらなる強化が施された。たとえ直下型の大地震が起きてもそう簡単に倒壊はしないだろう。それに博麗神社の地下には要石が埋め込まれている。どんな地震も抑え込んでくれるはずだ。

 ただ一つ心配であるのが、蓄積されたエネルギーは要石を抜いた瞬間に爆発するということ。もし抜かれてしまえば、これまで抑圧され続けてきた大地の怒りは一瞬で幻想郷を壊滅させてしまうかもしれない。

 抜かなければいいのよ。あっけらかんとそう言った天人と同様に、霊夢もさほど大して深刻に考えていない。博麗神社の地下に埋め込まれた要石は、極めて巨大なものであるのだ。掘り起こして抜くことなど到底できるはずもない。それを自在に操るのが、かの天人だけであるがゆえ。

 

「……よっと。たしか、日照り続きの夏でしたよね? 私もずっと見てましたよ」

 

 本殿裏の森からふわりと飛んで石畳の上に降りてくる高麗野あうん。彼女は少し前、摩多羅隠岐奈が引き起こした最初の四季異変に際して、その背中の扉から妖力を受けたことでただの石像から妖怪の身となった狛犬だ。

 緋想異変の当時は彼女はまだ妖怪として成立していない、ただの一対の狛犬像。ただしそこには確かに守護者としての魂が宿っており、あうんは妖怪になる以前から博麗神社を見守っていた。

 

「おかえり、あうんちゃん。それで、そっちの様子はどうだった?」

 

 霊夢はあうんに振り返ってその帰還を歓迎する。彼女には博麗神社からの偵察として、幻想郷に起きている異変を調査させていた。本来なら霊夢が自ら調査に向かうべきだったが、小さな不安が拭えなかった。自分は今、博麗神社(ここ)を離れるべきではないと。

 あうんには己が魂に宿す()()()()()()()()()()()()()によって神社などの神や仏を祀る場所への接続(アクセス)が可能となっているため、何が起こるか分からない他の場所へ赴くよりも能力によって即座に向かうことができ、すぐに能力で戻ってこられる神社やお寺を優先して調査させていた。

 

「守矢神社にはそれらしい人はいなかったです。命蓮寺の方ですが、こっちには五代さんみたいに仮面の戦士に変身して怪物と戦う外来人がいました!」

 

 喜々として報告するあうんは尻尾を振りながら自分が見てきたものを伝える。狛犬に宿った神霊として博麗神社を長く見守ってきたとはいえ、彼女はまだ生まれて数年程度の妖獣。大した妖力も持ち合わせず、知能も一般的な下級の妖怪程度にしか持っていなかった。

 記憶を辿って足らぬ言葉で説明するが要領を得ない。命蓮寺にいた人間の青年は秦こころたちと共に怪物と戦っていた様子。赤や青や黄色の面を切り替える姿は、面霊気にも似ていたという。

 

「桃みたいな仮面がパカっと割れて、空を飛ぶ列車に乗ってどこかへ行っちゃいましたけど……」

 

「も、桃……? 列車……? よくわからないけど、それが本当ならそいつで三人目……か」

 

 あうんの説明を聞いてもいまいちその様子はイメージしづらい。霊夢が思考に思い浮かべるは、まさに桃の果実を頭に被って変身を遂げる奇抜な戦士。まさか果物を頭から被って変身するような奇特な戦士などさすがにおるまい。

 なぜか舞台に踊る秦こころが喜びそうな、オンステージな想像を再びやり直し、霊夢は桃という観点からまたしても天界の我がまま娘を思い出してしまった。

 

 天界は何不自由ない楽園だと伝えられている。だが、祖先の功績から修行することなく天人へと至った『天人くずれ』──本来あるべき高潔な在り方を持たぬ少女は、その空虚な楽園に退屈し、天界の秘宝を無断で持ち出して地上に赴き、傍迷惑な『異変ごっこ』を繰り広げた。

 自分勝手な理由で異変を起こすだけならば幻想郷でもよくあることだ。霊夢はそういった妖怪を何度も調伏している。それでもあの天人は別格であろう。天界で暮らしながら、ただ暇潰しだけが目的で地震を起こしたのだ。

 

 博麗神社を倒壊させ、あまつさえ自分のものにしようとした。天界という無限にも等しい広大な領地を持っているというのに、地上にまで別荘を求めた。あろうことか、幻想郷の最大の要である博麗神社に。

 お遊び気分でそのような暴挙を行った天人に、八雲紫が怒るのも無理はない。彼女は自ら望んだ通り、多くの人妖と戦い、敗北し。やがて八雲紫の手によって天界へと追い返されたのだった。

 

「あれ、いいの? 霊夢ちゃん。あうんちゃんって、神社を守ってくれてたんじゃ?」

 

「この子には狛犬の能力があってね。狛犬に自分を宿したまま、別の場所にも行けるのよ」

 

 五代の疑問に対して霊夢は縁側から降りながら返す。あうんは博麗神社の狛犬、守護神獣としてその存在自体が結界の強化に繋がり、守護者としての役割を果たしている。彼女が調査に向かったことで博麗神社の結界が弱まってしまうのでは、と五代は懸念した。

 しかし、問題はない。高麗野あうんは単独にして一対の神獣。狛犬でありながら対となる獅子の性質も併せ持っているため、その身は一人で二人。元の自身たる石像、狛犬に本体を宿したまま、具現させた分身を別個に存在させられる。

 

 今この場に実体化しているのは本体である狛犬から分離したあうんである。たとえ彼女が神社を離れたとしても、本体を残している限り、博麗神社にもあうんがいる。誰かが侵入しても、すぐに気づくことができるだろう。

 ──もっとも、あうんは妖怪としてはあまり強くはない。ただ狛犬と獅子という守護神獣として博麗神社の守りを強化するだけ。外敵と交戦した場合、勝利はほとんど期待できないが。

 

「……そっか。なんか……すごいね。幻想郷の子って」

 

 長らく冒険をしても巡り合えぬであろう、妖怪という存在。神や妖精、幽霊など。霊夢の語った通り、この小さな秘境には想像も及ばぬ力を持つ存在が多くいる。未確認生命体第4号と呼ばれた自分もまた、あるいは幻想郷の人妖たちと等しき力を持ってしまったのだろう。

 

「そうね。でも、五代さんだって──」

 

 霊夢は博麗神社の境内、土色の上をゆっくりと歩みながら口を開く──その瞬間だった。

 

「……っ!?」

 

 これまで数多くの異変を解決してきた直感。天性の勘。霊夢の感覚を貫くような、全身の神経が引き裂かれんばかりの凄まじい負の予感。

 この身の肌で感じる何もかもが一瞬で書き換わったかのような。首筋に流れる冷たい汗を拭わぬままに、霊夢は空を見上げるが──そこにあるのは先ほどと変わらぬ快晴の空。

 気のせいであったのか。否、そんなはずはない。確かに変わったのだ。この博麗神社境内の空間そのものが。幻想郷すべての空間そのものが。本来あるべき理の座標から別の場所に──

 

 再び霊夢の知覚に戦慄が走る。今度は霊夢だけではなく、五代とあうんも共に気づいた物理的な音の波長。ビートチェイサー2000に備わった霊夢の霊力的な通信札を伝い、永遠亭の者に渡しておいた同様の通信札からの通信が入ったのだ。

 霊夢が意図したわけではないのだが、お札がビートチェイサー2000の機能を模倣し再現したのだろうか。奇しくもその音は、五代にとっては馴染み深い、元ある通りの無線通信の接続音。

 

「はい、五代です!」

 

 本殿前まで回って向かい、賽銭箱の傍に停めてあるビートチェイサー2000へと近づく。端末を指で操作して本体と同化した通信札をビートチェイサーの無線として起動すると──

 

『……っ! 五代さん? 霊夢はいる!? 永遠亭に、大量の怪物が……!!』

 

 切羽詰まった雰囲気を感じさせるのは鈴仙・優曇華院・イナバの声。その背後では激しい戦闘の音が聞こえてきた。爆ぜ散る弾幕の音に紛れて聞こえてくるのは、怪物の鳴き声だろうか。日本語としては聞き取れぬ複雑な言語を聞くに、未確認生命体もそこにいる。

 五代はすぐに表情を変え、霊夢へと振り返った。その通信の内容は霊夢にも聞こえているだろう。霊夢はそちらも気になったが──先ほど感じた感覚は永遠亭で起きた変化によるものか。

 

「れ、霊夢さん! 大変です! 守矢神社にも命蓮寺にも、怪物が出現してます!」

 

 間髪を入れずにあうんも声を張り上げる。神仏の守護者として、あうんは守矢神社や命蓮寺に霊体として赴いた際に、簡易的な接続を成しておいた。あくまで自身の妖力を分けた疑似的な結界であり、戦闘能力と呼べる力はない。

 その結界でもって感じ取ったのはおびただしい数の怪物の出現であった。山の上の守矢神社にも、里に近い命蓮寺にも、同時に怪物が出現している。怒涛のように流れ込んでくる情報量に耐え切れず、あうんはすぐに接続を切ってしまったが──その光景は脳裏から拭えなかった。

 

「な、何、これ……」

 

 視野を広げて博麗神社境内から幻想郷を見下ろす。霊夢の目に映るは秋めく紅葉の山に雪化粧に彩られた冬の森。じりじりと日差しの照りつける真夏の湖や竹林は、変わらぬ二度目の四季異変の様相であった。

 そこに広がる無数のオーロラ。幻想郷の至るところに、あの忌まわしき灰色のオーロラが出現している。山も、森も、湖も。ありとあらゆる場所にそれが出現しているのだ。

 

 幻想郷中にそのオーロラが出現しているということが示す事実は一つ。あのオーロラが何をもたらすかを、霊夢もあうんも五代も知っている。

 最初にそれを見たときと同様、霊夢は人間の里の方角を見た。里にも人間の自警団やワーハクタクの上白沢慧音がいるが、彼らだけでは灰色のオーロラから出現する未確認生命体に対抗するには不足だろう。加えて、霊夢たちはグロンギ以外の怪物も確認している。

 何の情報もない未知の怪物まで出現しているのなら、里の人間に何があってもおかしくない。

 

「里が……!」

 

 焦燥に心を焼かれ、霊夢は境内の石畳を蹴り上げる。急いで里へと向かおうとするが、視界に広がった灰色に空への道を阻まれてしまった。

 揺蕩い移ろう灰色の極光は、鈍き幕壁となり。霊夢は咄嗟に退いて、再び境内の石畳に着地。

 

「霊夢さん! やっぱり神社(ここ)にも……!」

 

「……こいつらも未確認生命体……じゃないみたい……」

 

 あうんと五代の二人に振り返る霊夢は、博麗神社にも等しく現れた灰色のオーロラ、そこから出現する怪物たちを見た。

 揺らめく灰色より零れ落ちるは二つの影だった。歴戦のクウガである五代曰く、そのどちらもが未確認生命体として過去に現れたものではないらしい。霊夢が肌で感じた感覚の違い、直感が示すは、それらが異なる世界から現れたまったく別の生物であるのではという予感。

 

「グゥォォオ……!」

 

「キュル、キュルルッ!」

 

 不死の皮革を纏いし異形は百獣の王たる獅子の如く。荒々しい毛皮に漆黒の装甲を帯び、どこか美しささえ感じさせる流麗な金色の(たてがみ)は靡き。

 細やかな鋲の意匠をその身に刻むはライオンの祖たる不死生物。ブレイドの世界の法則を運命と宿した『ライオンアンデッド』は、スペードスートのカテゴリー3として右腕の鉤爪を撫でながら博麗神社の境内に降り立ち、低く唸りを上げて威嚇の意を示す。

 

 湿度に濡れた緑色の皮膚を持つ異形は、まさしく語り継がれる『河童(かっぱ)』そのもの。爬虫類めいた不気味な様相に緑色の体毛と甲羅を持つ『秩父のカッパ』は、かつて響鬼の世界の埼玉県秩父市に出現した夏の魔化魍だった。

 (クチバシ)のように尖った口からは軽やかに特徴的な鳴き声を発しており、ひたひたと濡れた水かきで石畳を踏みしめ、夏にしか出現しないはずの等身大の魔化魍として霊夢たちに迫り来る。

 

「あれって……もしかして河童ですか?」

 

「たしかに似てるけど……たぶん幻想郷とは別の世界の河童ね……」

 

 霊夢たちは幻想郷において河童という妖怪を知っている。妖怪の山の麓、川や沢に存在するは、幻想郷における天狗や鬼と変わらない少女の姿で在る妖怪たちだった。しかし、今目の前にいるは紛れもなく河童の妖気を持つ怪物。それらは幻想郷にあるべき幻想を一切有しておらず、少女とは似つかぬ異形の相貌でもってこの場に存在している。

 もう一体の怪物もやはり未知。霊夢たちは知り得ぬカッパという魔化魍が生き抜くための本能に満ちているのに対し、こちらもまた知らぬライオンアンデッドという不死の生物は、自分が生きることに対してではなく──ただ湧き上がる闘争本能に従って荒々しく鉤爪を振り上げていた。

 

「……湖で出会った変な怪物たちとも違う……よね。もっと生き物っぽい感じ……」

 

 五代は振り下ろされたライオンアンデッドの鉤爪を後退して回避。霊夢と目配せしつつ、そのまま自身の腰に手をかざし、己が体内に秘められた霊石アマダムのモーフィングパワーをもって腰にアークルを現す。

 ただの直感でしかなかったものの、霊夢も同意見のようだ。妖怪でも、グロンギでもない未知の怪物たち。それらは霧の湖で出会ったミラーモンスターのような無機質さも無い。

 ──片や生物の祖たる不死。片や自然の具現たる魍魎。どちらも滾る生命力に満ちている。

 

「クルゥパッ!」

 

 秩父のカッパが吐き出す透明の粘液はライオンアンデッドと向き合っていた五代に迫っていくが、あうんが咄嗟に解き放った光弾によって境内の石畳に散らされる。粘液は空気に触れて固まっていき、やがて白く変質しては石のように硬質化した。

 即座に反応した霊夢が大地を蹴る。秩父のカッパの側面から飛び蹴りを見舞い、五代の隣に立ち構えて。左手で取り出した数枚のお札に霊力を込め、それらをライオンアンデッドに放つ。

 

「こいつらを倒さない限り、里には向かえそうにない……か……」

 

 霊夢もあうんも、五代も同じ考えだ。幻想郷中に出現している謎のオーロラ、博麗神社にも現れたそれは境内を覆うように張り巡らされている。まさしく、この幻想郷の要たる境内を結界として隔絶するかのように。

 秩父のカッパとライオンアンデッドを前にし、五代はそれらが怯んだ隙に腰のアークルに力を込めた。右腕を鋭く突き伸ばし、慣れ親しんだ動きで秘めたるアマダムの力を解放する。

 

「変身っ!」

 

 両腕を広げる一瞬、その身は戦士と変わり果てる。古代より受け継がれた戦士の力。五代雄介の肉体は霊石アマダムのモーフィングパワーにより原子・分子レベルで再構築され、人間の在り方を超えた強靭なる鎧の異形、戦士クウガとして生まれ変わった。

 霊夢の封印を司る霊力に呼応し、かつての戦いで砕けた霊石は万全に戻っている。今のクウガは基本的な形態として十分な力を発揮できる赤い姿。マイティフォームと呼ばれる形態であった。

 

「これじゃ助けを呼びに行くことも……!」

 

 あうんの焦りは必定。境内の周囲は揺らめく灰色のオーロラに覆われ、境内を出ることも、ここから空へ飛び立つこともままならない。オーロラに突っ込んで向こう側に出られる保障はないし、もしこちらの常識が通じない異世界に出てしまい、取り残されてしまえば厄介だ。

 この怪物たちを倒すことで灰色のオーロラが晴れるかどうかは分からない。それでも、今までは現れた怪物たちを撃破し切る頃にはその幕壁は消えてなくなっていた。いつの間にか消えていた、という方が正しくはあるが──

 いずれにしても、ただこのオーロラが消えるのを待つわけにもいくまい。怪物たちはグロンギと同様に自分たちに襲いかかる。希望を捨てず、この未知の怪物たちを倒すべきと判断した。

 

「あんまりモタモタしてられないわ! 五代さん! 一気にケリをつけるわよ!」

 

 飛び交う弾幕。カッパの放つ粘液は空気に触れれば固まり、あれに当たれば身動きを封じられるだろう。ライオンアンデッドの鉤爪は極めて強靭で、あうんが放った妖力のエネルギーを野良犬の形と成して放った弾幕も、右腕の一振るいで掻き消された。

 奴らの狙いは時間稼ぎなのか。自分たちをここに足止めしておくことが目的なのかと思うほど、決定的な攻撃をしてこない。ただの勘だが、微かにその可能性が脳裏を過り、霊夢は早々に大技を放つことにした。

 

 五代はその声に小さく頷いて返す。クウガの赤い複眼に映るは、グロンギならざれどグロンギに似た動植物の特徴、猛き獅子の遺伝子を宿した怪物。言うなればライオン種怪人とでも形容し得る異世界の始祖──ライオンアンデッドの姿。

 霊夢の赤黒い瞳が映し出すは、妖怪ならざれど妖怪に似た伝承の具現、河童の特徴を持つ怪物。言わば異世界の河童と呼べ得るは魔化魍と呼ばれし自然の猛威──秩父のカッパの姿。

 

「おりゃぁああっ!!」

 

「──霊符、夢想封印っ! 『(しゅう)』っ!!」

 

 足に熱を込めて駆け出した五代は石畳を蹴り上げ飛び上がり、空中で前転。そのまま右脚を鋭く突き伸ばし、ライオンアンデッドに渾身のマイティキックを炸裂させる。

 幾度の打撃を交わし合い、それなりに確かなダメージを与えた上での渾身の一撃。如何に未知の怪物であろうと、生物としてこれだけの衝撃には耐えられまい。

 

 スペルカードと定義したお札を掲げて、練り上げた霊力を七つの光球として具現させた霊夢は、通常の霊符「夢想封印」を発展させた【 霊符「夢想封印 集」 】を発動した。

 湧き上がる霊力の光球は霊夢の意のままに秩父のカッパを追いつめる。ただでさえ対象を逃がさない夢想封印にさらなる誘導性能を加え、そのすべてを一点に集中させる『集』の名。見たところ異質な妖気とはいえ、幻想郷の河童と相違ない妖力量の怪物なら一撃で仕留められるはずだ。

 

「……っ!?」

 

 怪物を蹴り飛ばした五代。お札と光球の奔流を叩き込み切った霊夢。二人は蹴りの反動と霊力の鎮静化に伴い境内の石畳に着地するが──やがて見やった怪物の反応に息を飲む。

 ──ライオンアンデッドと秩父のカッパ。どちらも、損傷を負いながらも立ち上がったのだ。

 

「倒し切れない……どうして……!?」

 

「嘘っ……! 霊力は十分に込めたはずなのに……!」

 

 クウガのマイティキックは未確認生命体──グロンギに対して封印エネルギーを注ぎ込み、その内なる魔石ゲブロンに干渉して肉体を爆散させる刻印を放つもの。されど相手がグロンギではなくとも、強大な衝撃と封印エネルギーの奔流により、並大抵の怪物であれば十分な致命傷を与えられるだけの威力はある。

 霊夢の夢想封印 集も同様だ。純粋な威力という面ではマイティキックに及ばぬながら、多重に展開される霊力の波動を確実な追尾をもって一点に集中させている。たとえ封印という干渉に縁のない存在であろうとも、その怒涛の霊力であれば並みの妖怪などひとたまりもないはず。

 

「グゥ……ォオ……」

 

「クルル……クルルル……」

 

 ライオンアンデッドは裂けた胸の皮膚から緑色の血を流しつつも、軋むバックルを強引に手で押さえつけ、そのまま五代に向き直る。秩父のカッパは夢想封印の直撃を受けた直後こそ硬直していたが、すぐに立ち上がると、石畳の上にどろりと緑色の細胞を零した。

 

 二人は知らない。アンデッドという存在は如何なる攻撃でも倒すことができないと。それを無力化するためには封印が必要だが、霊夢の力とは方向性が違う。あらゆる封印を問答無用で解く力はあれど、あらゆるものを無条件に封印する、という能力は持ち合わせていない。どちらかといえば霊夢の力はクウガの持つ封印エネルギーに近いのだ。

 仮に夢想封印をアンデッドに当てたところで、ラウズカードとして封印することはできなかっただろう。無論、そのような法則自体、霊夢たちには知る由もなかったのだが──

 

 秩父のカッパは零れ落とした自身の細胞と共鳴する。春色の昼下がり、渇いた石畳の上でなお湿度を失うことなく。分かたれたそれはカッパの妖力を伴い、瞬く間に魔化魍カッパの姿を形作っていく。

 やがて完全に二本の足で立ち上がったそれは、落ちた細胞の塊の数だけ成長を遂げる。本体たる親のカッパを含めて、その総数は四体──

 

 夏にのみ出現する魔化魍は異質。通常の魔化魍と同様に清めの音でしか浄化できないという点は等しいが、それ以上に厄介な点がこの分裂能力だった。夏の鍛錬を帯びた鬼の『音撃打』以外の音撃、さらには当然ながら音撃以外の攻撃に対しても反応し、自らの細胞を分離させて自身と同様の異質な妖気を分け与え、新たなる個体として単純にその数を増やしていく。

 魔化魍は元より幻想郷の妖精に等しい自然の具現。自然の妖気の塊そのもの。乱れ歪んだ不浄の邪気は自然から成る力の源流が断たれぬ限り、いくら身を分けても力の減衰は起こり得ない。

 

「ふ、増えちゃった……!? こんなの、どうやって倒せば……!?」

 

 あうんはじりじりと後退った。分裂したカッパは分身体などといった幻ではない。ただ純粋に秩父のカッパが能力をそのままに四体に増えた。口から吐き出す粘液も四体分となっており、如何に弾幕ごっこに慣れた彼女といえど回避に専念せざるを得ない。

 ライオンアンデッドも先ほどと変わらぬ動きで霊夢たちへと迫って来る。振り下ろされる鉤爪は風圧だけで木々を裂くほど。相変わらずあうんの弾幕による妖力の犬たちはいくら噛みつけど振り払われ、霊夢の弾幕もクウガの打撃も──完全なる不死の生命体であるアンデッドを殺すには至らない。殺すことは不可能なのだ。

 

 アンデッドを封印するには、対応するプロパーブランク、あるいは対象を指定しないコモンブランクといった空白のラウズカードが必要となる。唯一の例外として、ジョーカーの能力であれば撃破したアンデッドを強制的にプライムベスタとして封印できるが──

 そのいずれもここには存在しない。霊夢たちはそもそもその存在すら知らない。倒すことができないのならばせめて、と。霊夢はお札に込めた霊力の方向性を変え、封印という干渉を押しつけるのではなく、霊力で拘束することにした。

 夢符「封魔陣」。このスペルカードならば結界化した霊力の力場で、封印という理論ではなく霊力の波をもって物理的に対象を縛りつけられる。河童に似た怪物──秩父のカッパのほうは下手に攻撃をすれば再び分裂するかもしれないと判断し、霊夢はライオンアンデッドに向き直った。

 

「──夢符、封魔陣!!」

 

 あえて接近しつつ、ライオンアンデッドの足元にお札を叩きつける。光が周囲を取り囲み、ライオンアンデッドが鉤爪を振り下ろす直前。足元に形成された結界の陣が上空へ向けて霊力の奔流を立ち昇らせた。怪物を焼く清らかな光は確かなダメージを与え──

 本来の目的はそこではない。霊力の波はしっかりとアンデッドを縛りつける。動かなくなったライオンアンデッドの処理はすぐに思いついた。封魔陣の余波が消えぬ段階で、霊夢はすぐに行動に出る。

 

 倒せない怪物ならば、倒す必要はない。霊夢は普段から意識しておらず、実行できるかどうかすら分からなかったが──今はそれしか思いつかなかった。

 空間の接続。霊夢は自らの意思に依らず空間を繋ぎ、瞬間移動めいた挙動を可能とする。普通に動いたらできていただけで、改めてどうすればいいのかは分からない。だが、この力ならば。さながら八雲紫のスキマめいた方法で、この怪物を別の場所に転移させられるかもしれない。

 

 思考はまだ途中である。いったいこれほど危険な怪物を、どこに飛ばせばいいのか。その答えを一瞬で出すことができなかった。怪物は封魔陣の拘束を振り払い、鉤爪を振るう。

 咄嗟に石畳を蹴って後退。今度は、あることに気づいた五代が霊夢に向けて声を張り上げた。

 

「霊夢ちゃん! あの河童みたいなの……!」

 

 攻撃すれば分裂する。秩父のカッパに対して霊夢はそう判断した。だが、実際には『攻撃しても分裂する』であったらしい。ライオンアンデッドの拘束に際して放っていたカッパたちは、二体が五代とあうんと交戦していた最中、残る二体は後方へ退避していたようだ。

 それらはなんと地に伏せ自らの首を伸ばし、あろうことか頭を丸ごと石畳に落とした。べちゃりと不快な音を立て、頭部は首から下を生やして成長し、もう一体のカッパに。頭を失ったカッパはすぐに元の頭を再生してしまう。

 放置したところでカッパは分裂してしまうらしい。しかも、本体である最初のカッパからではない。本体から分裂したカッパからさらに増え、おそらくは増えたカッパからさらに増え──

 

「ああ、もう……! いったいどうすりゃいいってのよ……!」

 

 不用意に攻撃することは憚られたが、拘束すべきはカッパのほうであったのか。霊夢は六体もの数に増えてしまった緑色の異形を見渡しながらも、背後に迫るライオンアンデッドが振り下ろす鉤爪を手元に現した大幣の柄で受け止める。

 吹き込む風の色。今度はブレイドの世界とも響鬼の世界とも違う境界。灰色のオーロラは再び波打ち、また別の怪物を現した。

 咄嗟に正面のライオンアンデッドを蹴り飛ばし、後退しては再び距離を取る霊夢。あうんも五代もカッパたちと距離を取り、新たに現れた怪物に対して視線を向け、それらと向き合った。

 

「……フッ……」

 

「ハァ……ァア……!」

 

 死灰の色に染まりし異形は野に立つツクシの如く。ツクシの特質を備えた『エキセタムオルフェノク』は、その名の通り両肩や頭部にスギナの胞子茎である土筆(つくし)の意匠を湛え、同様の意匠を持つ長槍を構えて博麗神社の境内に降り立った。

 鈍き極光を返す煌びやかなステンドグラスを纏いし異形は、さながら紫色や橙色の輝きを帯びた美しきハサミムシの彫像。両肩にはアーチめいた意匠を、その頭部と両腕には己が誇りを掲げるが如き鋭い鋏を設け。インセクトクラスに分類される『イヤーウイッグファンガイア』が運命に刻む真名。──封印された化石、もしくは縫製機械。その名は語られることもなく。

 

 やはりそれらも霊夢たちは知らない。ファイズの世界の法則を由来とする人類の進化系、死者が蘇って灰の細胞を得たオルフェノクという存在。キバの世界の法則を由来とする魔族の頂点に立つ種族、ファンガイアという存在。

 エキセタムオルフェノクが構える長槍は自身の特徴に似たツクシの意匠。イヤーウイッグファンガイアは両腕に突き伸びた鋏状の刃を重ね合わせ、ハサミムシたる意匠のままそれを構える。

 

「また新手……!?」

 

「こっちのライオンと河童も、まだ倒し方が分からないのに……!」

 

 五代とあうんは冷静な立ち回りで周囲を見渡した。不意に現れた怪物を警戒しながらも、すでに存在していたライオンアンデッド、六体ものカッパに対する警戒も疎かにはせず。

 不死の怪物は殺せない。不滅の怪物は倒し切れない。アンデッドと魔化魍。それら特定の手法を用いることでしか撃破できない存在に加えて、現れたのは新たなる種族。速度に優れた使徒再生で対象の心臓を焼き尽くす脅威に、吸命牙によって対象の死角から生命力(ライフエナジー)を吸い上げる脅威──

 

「……っ!?」

 

 どうやって対処すべきか。そう思考した瞬間。境内の石畳が大きく揺れた。身体の芯まで震わせるような激しい揺れが身を襲う。奇しくも先ほど想起したばかりの、緋想異変と同様。博麗神社を倒壊させるほど──というわけではないが、明確な規模の地震。

 その揺れは収まったかと思えばさらに激しく訪れる。耐震性を強化した博麗神社が揺れに耐え、強靭な木々で組んだ柱や屋根瓦からぱらぱらと木々の欠片が零れる。怪物が引き起こしているわけではないのか、どうやら揺れによって使徒再生の触手と吸命牙の狙いを定め辛いようだ。

 

「……ちっ……!」

 

 揺れを踏みしめながらエキセタムオルフェノクがツクシの長槍を杖代わりに立つ。虚無僧めいた面を霊夢に向け、その籠の隙間より使徒再生の触手を放った。イヤーウイッグファンガイアも狙いが定まらないながら、霊夢の背後に吸命牙を現す。

 そこへ突っ込むは下級アンデッドと自然の具現たる魔化魍が故に、人の進化したオルフェノク、魔族の一種として長い年月を生きたファンガイアほどの高い知能を有さぬ二種。

 ライオンアンデッドの鋭い鉤爪と、秩父のカッパたちが吐き出した透明の粘液が迫り。

 

 ──その瞬間。博麗神社に激しい轟音が響き渡り、すべての視界は湧き上がる土煙に染んだ。

 

「今度は何が……!?」

 

 晴れぬ土煙の中、霊夢は覆っていた顔を上げ、周囲を見渡す。立ち込める土煙の中ではあうんの姿も五代の姿も見えないが、声を聞く限り、その安否は確認できた。

 ただ危惧すべきは視界の悪さ。土煙のせいで視界は閉ざされてしまい、これでは増えたカッパを含めて九体にも及ぶ怪物たちの動きに対処できない。霊夢は一瞬だけ焦燥に焼かれるが──

 

── 天にして大地を制し ──

 

 濁り染まる土煙を伝う、青空の如く清く透き通った声。凛とした覚悟の中に、どこか傍若無人な力強さは、荒々しくも遥かなる在り方を高らかに。

 舞い降りた人影は長い髪を振り乱す。手にした剣は煙の中でも誇り高く真紅に輝き、残光を引きながら振るわれたそれは、同じく土煙の中では輪郭の影しか見えぬ怪物たちを切り裂いた。

 

── 地にして要を除き ──

 

 アンデッドを切り裂けば緑色の血液が飛び散る。オルフェノクを切り裂けば鈍く淀んだ灰が噴き上がる。魔化魍を切り裂けば白い体液が零れ落ちる。ファンガイアを切り裂けばステンドグラスの破片が砕けて煌く。

 人影はそれらをその程度の斬撃で倒すつもりなどなかった。ただ、自身の在るべき場所に蔓延る下賤な愚物たちを取り除き、自らに相応しき足の踏み場を用意しただけに過ぎない。

 

「この声……」

 

 土煙はやがて晴れゆく。五代とあうんも広がる視界の中に、さっきまではいなかった人物の姿を見た。霊夢が呟いた心当たりの通り、その荒々しい在り方に似つかぬ美しい声は、まさしく天界の楽園に座す雲の上の存在──天人が抱くもの。

 振るわれた剣圧にふわりと舞い上がっていた彼女の長髪。雲の上の青空を映し出したかのような鮮やかな色のそれが腰へと降りゆく。頭に被った黒い帽子には、天界の桃、その果実と葉を乗せるようにあしらい。

 

 その身に纏う衣服、雲の色が如く白いそれは天衣無縫。同じ白を帯びる前掛けには七色の極光を虹と刻み、広がるロングスカートは雲より下の人々が見る青空の色。

 石畳を踏みしめるブーツは茶色く、大地の色。加えて自身が最も誇り高く胸に宿すは、己が瞳と同じ緋色のリボンを結び。己自身が『天にして大地』であると力強く掲げるかのようだった。

 

「──人の緋色の心を映し出せ」

 

 緋色の瞳は真っ向からライオンアンデッドを見る。広がる天の在り方に──青空に。恐れるものなど何もないのだと言わんばかりに。

 その手に輝くは揺らめき燃え上がる炎。否。それは剣の形をしていた。白く美しい手に握り締められた金色の柄。その先から刀身の形をした炎が揺れている。

 それは炎のようであれど、炎に非ず。万物の本質である『気質』。生物や非生物、事象や概念を問わず、ありとあらゆるものに存在するそれを、長剣の形に圧縮し押し固めたものである。

 

「げっ、あんた……!」

 

 霊夢は晴れた土煙の先の人物に露骨に嫌そうな顔をした。かつて博麗神社を倒壊させた張本人。クウガの姿でそれを見る五代雄介にとっては知らぬ者。かつての四季異変に際して生まれた高麗野あうんにとっては妖怪として初めて見る者。

 彼女の一族が仕えた者は神霊となり。仕えた彼女の一族もその恩恵を受け、天へ至った。仙人を経て修行の果てに天人となった者たちとは違う、紛い物の天人くずれ。それでも選ばれし者の力は天人として揺るぎなく。

 自信に満ちた表情で手にした(あか)き剣を振るう。揺らめく炎の切っ先をライオンアンデッドたちに向けるは、かつての緋想異変の実行者──天界の頂に住まう天人。 比那名居 天子(ひななゐ てんし) であった。

 

「博麗神社が面白いことになってるって聞いたから降りて来てみれば……何よこれ?」

 

 合計九体にも及ぶ怪物を前にしても天子(てんし)は怯まない。絶対的な自信は天に降り注ぐ七色の極光の如く。決して灰色の光などに負けぬ、確かな力強さを持っている。

 比那名居天子がその身に宿す気質は『極光』。極地の空に光と架かる磁場の乱れ──すなわちオーロラである。

 

 彼女はその手に握る天界の秘宝──あらゆるものの気質を司る『緋想の剣』を持ち出し、天界の最上層たる『有頂天(うちょうてん)』から地上へと降臨した。万物の本質を暴き出す揺らめく刃でもって灰色の幕壁を切り裂き、この場に現れたのだ。

 緋想の剣に秘められた能力は『気質を見極める程度の能力』。その剣は向き合う相手の気質を見極め、気質を緋色の霧として具現化し、それが如何なるものであろうとも必ずその本質を切り裂き弱点を突くことができる、最も効果的な気質へと変化する。

 加えて、天子の気質である極光は他のあらゆる天候の影響を一つに纏めた万能の気質。すべての気質の力を混ぜ、完全なる無の気質に塗り替える力を宿して、灰色のオーロラさえ打ち破った。

 

「オルフェノクにアンデッド、魔化魍にファンガイア! 怪人たちの宴会かしら?」

 

 切り裂かれた灰色の裂け目は小さい。だが、隙間から差し込む極光により七色の揺らぎが灰色の裂け目を広げていく。快晴の青空に揺らめく七色のカーテンは不可思議な光景だが、数多の天候が繚乱した緋想異変においては霊夢も赴いた雲上の有頂天で目にしていたものだ。

 

「オル……? 魔化……? あんた、こいつらを知ってるの?」

 

天界(そら)からずっと見てたからね。それに、紫にいろいろ聞かされたわ」

 

 霊夢の問いに振り返らず答える天子。河童の吐き出す粘液もそうだが、エキセタムオルフェノクが飛ばす使徒再生の触手も、イヤーウイッグファンガイアが突き立てる吸命牙も、如何に弾幕ごっこで回避に慣れた少女たちとはいえ、この数を相手に余裕はない。

 粘液攻撃にはほとんど殺傷性はないだろう。石畳に着弾したそれは白く固まるが、石畳が砕ける様子はない。

 厄介なのはオルフェノクの使徒再生とファンガイアの吸命牙だ。前者はその速度ゆえに避け切れず、霊力の消費を伴う防御手段を強いられ、後者は必ず背後という死角に現れるがゆえに後方まで警戒していなくてはならない。どちらも、霊夢たちには当たった際の影響は計り知れなかった。

 

「気をつけてください。あの河童、攻撃してもしなくても分裂して……!」

 

 あうんは粘液を回避しつつ、秩父のカッパの行動に注視した。不用意に攻撃すれば分裂を促してしまう結果となるが、かといって他の怪物との交戦に意識を割きすぎれば、その隙にカッパたちは能動的な分裂を始めるだろう。

 されど天子は不滅の魔化魍にも不死のアンデッドにも。他者を同族に変えるオルフェノクに対しても、魂の髄から生命力を吸い上げるファンガイアに対しても、恐れを抱くことはなかった。

 

「あの河童みたいなのは魔化魍の一種。特定の音でしか倒すことはできない。でも──」

 

 天子はニヤリと口角を上げる。緋想の剣を天に掲げると、その揺らめきはより緋く。六体ものカッパから緋色の霧を立ち昇らせたかと思うと──

 

「緋想の剣よ! 不浄の邪気を清め祓う音を! 響く自然の気質をその身に宿せ!」

 

 カッパたち魔化魍の気質を見極め、緋色の刃には本来そこにあるはずのない気質が宿る。鍛えに鍛え抜いた鬼たちがその魂に抱く清らかなる音。響鬼の世界に伝わる音撃という気質、属性が剣となり、そこに清めの音を具現させる。

 それは音として聞こえてくるわけではない。極光と揺らめく炎に似た気質の塊。緋想の剣の刃を振るい、尾を引く緋色の軌跡を纏いて、天子は清めの音の属性を持ったそれを構えた。

 

「はぁぁああっ!!」

 

 己が霊力を込めた緋想の剣を横一線に薙ぎ払う。長大化した気質の刃により、六体のカッパは纏めて一気に切り裂かれた。

 白い体液が噴き上がる余地もなく、それらは歪んだ妖気の髄より清められ。さながら元の世界において鬼による音撃打を受けたときと同様に、邪気を失った土塊や枯れ葉となって砕け散る。

 

「す、すごい……あの怪物をこんな簡単に……!」

 

 ぱらぱらと降り注ぐ枯れ葉の破片を見やりながら感嘆する五代。あれだけひしめいていた秩父のカッパたち。霊夢の夢想封印でも倒せず、あろうことかその衝撃を利用して分裂してしまうほどの異形も、清めの音によって跡形もなく。爆散を遂げては自然の一部と還り去った。

 

「……まったく、相変わらずね」

 

 霊夢は柔らかな苦笑を浮かべながら天子の目立ちたがりっぷりを見る。一度目の出会いこそ最悪だった。緋想異変の首謀者として、博麗神社を打ち壊し、幻想郷そのものを人質に取り、ただ退屈凌ぎのために異変ごっこに付き合わされた。

 それでも彼女は天人。正式な修行を経た真の天人ではないとはいえ、実力も教養も、その誇りも天人の名に相応しいほど持っている。

 

 深秘異変と共に発生した都市伝説異変、その影響で発生した、人妖の魂が他の人妖に憑き重なる完全憑依異変の際はどうやら天界の催事に必要な(たん)を勝手につまみ食いしたことでしばらく地上へ放り出され、輝針城の城主たる小人と行動していたようだ。

 その後は茨木華扇の本体たる奸佞邪智の鬼、茨木童子を打倒すべく、共に肩を並べて戦ったこともある。彼女の助言と力がなければ、霊夢とてあの四天王の一角には勝てなかっただろう。

 

「緋想の剣が再現できるのは、清めの音だけじゃない!」

 

 天子はその緋色の目で怪物の動きを見切る。振り抜いた緋想の剣で背後に浮かび上がった吸命牙を斬り払うと、直後の隙を狙われ突っ込んできた使徒再生の触手を上体を反ることで回避する。視界に映るはオルフェノクとファンガイア。それらの気質も刃に集め──

 だん、と境内の石畳を踏みしめる。天人のみが扱える緋想の剣とは別に、天子が継承した大地を司る者の能力。生まれ持つ『大地を操る程度の能力』で地面を揺らし、怪物の足を取る。

 

 そこへ振り抜くは緋想の気質。オルフェノクの気質を見極めた刃には緋色の霧を紅き血と流れる光子、フォトンブラッドの光熱を纏わせ。ファンガイアの気質を見極めた刃には、奇しくも同じく真紅の波動、誇り高き魔皇力の力強き奔流を纏わせ。

 フォトンブラッドはオルフェノクの灰色の細胞を焼き切った。魔皇力はファンガイアのステンドグラスの体組織を斬り砕いた。どちらも最も効果的なエネルギーとして、緋想の剣は己が能力によって相手の気質からそれを再現する。

 エキセタムオルフェノクとイヤーウイッグファンガイアはそのダメージに後退。零れる灰とステンドグラスに胸を押さえ、忌まわしき揺らめきを持つ真紅の剣を睨みつけるように顔を歪めた。

 

「……ちっ……!」

 

「……ぐぅっ……っ!」

 

 その隙を見逃す霊夢ではない。彼女は手にしたお札に霊力を込め、ホーミングアミュレットとして放つことで怪物たちを吹き飛ばす。まだ大技のスペルカードを放てるだけの霊力は練り切れていない。しかし、天子のおかげでかなり戦況は良くなった。

 この灰色を帯びたツクシの怪物や七色の煌きを持つハサミムシの怪物は、その立ち振る舞いからどうやら不死というわけではない。自分たちの攻撃でも問題なく倒すことが可能と確信した霊夢は、心の中で小さく安堵する。

 そもそも倒すことが不可能だと思われていた河童の怪物も、緋想の剣であるならば浄化して消滅させられるらしい。あとは不死身のライオンだが、こちらも彼女の剣ならばあるいは──

 

「……っ、ちょ、ちょっと! 後ろ!」

 

「ん?」

 

「グォォオッ!!」

 

 天子の隙は一瞬だった。それを突いて迫りゆくライオンアンデッドの鉤爪。彼女は灰色の触手と極光色の吸命牙を斬り払う傍ら、そちらまでその意識が回っておらず。

 ──あわや引き裂かれるその瞬間。天を劈く雷鳴が轟き、迸る紫電の光が獅子を穿ち貫く。

 

「総領娘様、あまり勝手に行動されては困ります。また緋想の剣を持ち出して……」

 

 オーロラの裂け目より舞い降りたのは、地上と天界を結ぶ狭間の雲間──『玄雲海(げんうんかい)』を舞い泳ぐ妖怪の女性。地震の兆しを知らせる天の存在として、その雲は白と緋色を彩る美しき羽衣を纏った出で立ちでゆっくりと石畳を踏みしめる。

 黒い帽子に触角めいた長さの紅いリボンを結んだ彼女は『竜宮の使い』と呼ばれる種族。天界の重鎮、比那名居一族の末裔として名高き天子のお目付け役として、 永江 衣玖(ながえ いく) はこの幻想郷の地に遣わされた。

 長いスカートは荒れる空の如く黒く。柔らかな雲に似た優雅さの中に秘めた、荒れ狂う雲海の在り方も隠すことなく。衣玖(いく)は天界の秘宝をその手に不敵に笑う天子へいつも通りに告げる。

 

「こんなに楽しそうなこと、黙って見ていられるわけがないでしょ?」

 

 天子は緋想の剣の柄を握る手に力を込めながら答えた。地上から見れば何不自由ない楽園の頂、有頂天。長らくそんな世界で生きてきた彼女にとっては、いつまでも変わらぬ楽園は退屈で空虚なものでしかなかった。

 その淀んだ空を切り裂いたのが境界揺らめく紫色の雲だった。天子は不意に天界を訪れた妖怪の賢者、八雲紫にあることを頼まれたというのだ。

 

 緋想の剣が秘める能力を引き出すことができるのは天人だけ。それも選ばれし一族のみが気質を見極める力を操ることができる。ただの人間や妖怪が手にしたところで、それは炎の如く揺らめく気質の刃を振るうことができるだけの、ただの長剣でしかない。

 本来の持ち主である天人が持つことによってのみ発揮されるその力。八雲紫はその能力を求めたのだろう。数刻ほど前に姿を見せた彼女は、かつて天子が博麗神社を我が物としようとしたときに見せた怒りを向けてくることもなく。

 やがて少し先の未来で、博麗神社に怪物が集まる旨を告げ。霊夢たちの力では打倒できぬ不死と不滅。あるいは苦戦を強いられるであろう灰色と七色に、天の威光を見せてほしいのだと。

 

「あの紫が……ねぇ」

 

 話を聞いた霊夢にとってもそれは意外だった。幻想郷を誰より愛し、結界の管理者として自身と役割が被っている──八雲紫。あいつは天人を嫌っていると思っていたのだが。

 どうやら天子もそう思っていたらしく、天界に八雲紫が現れたときはかなり驚いたらしい。

 

「……やれやれ。地上の妖怪にも困ったものだわ」

 

 衣玖は迫るイヤーウイッグファンガイアに向けて指先から青白い稲妻を放つ。迸る雷光は雷鳴を伴い、ステンドグラスの細胞を打ち砕くが、込めた妖力が足りていないのかファンガイアは怯むことなく接近してきた。

 ならばと光を込めた一撃。衣玖の右手に渦巻き纏われゆく羽衣は螺旋となりて。右腕を引いては接近してきたイヤーウイッグファンガイアの腹を目掛け、ドリルとなったそれを突き出す。

 

「はぁっ!」

 

「ぐぅ……っ!?」

 

 激しい稲光を伴う螺旋の拳、掘削機めいた【 龍魚の一撃 】によって腹を穿たれたイヤーウイッグファンガイアは煌びやかなステンドグラスの破片を散らしながら後退していく。

 やはりスペルカードに満たぬ程度の技では威力が足りず、まだ撃破するには至らない。

 

「すべて断ち切れ! 非想非非想の剣!!」

 

 天子は緋想の剣に込めた自らの霊力を気質として噴き上げた。スペルカードと定義された天子の技能、万物の気質を断ち切る【 非想「非想非非想の剣」 】によって、巨大な気質の光刃となった緋想の剣の刀身を勢いよく一閃。

 この剣技を放った理由は怪物を撃破するためではない。あらゆる気質や天候の影響を無効化する気質をもって、灰色のオーロラを斬りつけたのだ。

 切り裂かれたオーロラは非想非非想の剣の効果でその力を失い、断絶される。境内を覆っていた灰色の幕壁は綻び消え、やがて本来そこにあった通りの春の日差しが博麗神社を彩り始めた。

 

「これって……」

 

「今なら里に向かえる……! 天子! ここは任せたわ!」

 

 五代が見上げた青空には相変わらず雲一つない。ただ周囲に沸き上がる緋色の気質、霧となったそれらが浮かび上がったものを除いては。

 霊夢は幻想郷中に現れた怪物の対処、特に戦う手段を持たない人間たちが多く住まう人間の里に向かうべく、境内の石畳を蹴り上げて空へ舞い上がる。

 いざや空気を蹴り飛ばし、里の方角へ飛び立とうと思い立った、その瞬間のことだった。

 

「……っ!?」

 

「あっ、霊夢ちゃん!?」

 

 天子に対して声をかけては正面へと向き直った目の前。霊夢の視界が闇に染まったかと思うと、ぎょろりとこちらを見つめる無数の目玉がひしめく裂け目の中へ吸い込まれる。その光景に驚いた五代はクウガとしての姿のまま、足元に開いた裂け目に気づかず。

 突然の出来事に反応することもできず、五代雄介はそのまま闇の中へと落ちていった。

 

「えっ!? れ、霊夢さん!? 五代さん!?」

 

 どちらの闇もすぐに閉じ。あうんはいきなり両者が消え去ったことに慌てふためく。ついさっきまで傍で戦っていたはずの二人は、もはやどこにもいない。

 

「ん? あれ? 霊夢はどこ行った……?」

 

「……あの見覚えのある隙間(スキマ)、間違いなく、彼女の仕業でしょうね」

 

 エキセタムオルフェノクとイヤーウイッグファンガイア。さらに残ったライオンアンデッドの殺意を相手にする天子もようやく気づく。霊夢たちが消える瞬間を見逃さなかった衣玖は冷静にその事象を理解し、幻想郷の管理者──妖怪の賢者たる存在を思考に浮かべた。

 八雲紫。地上に生きる彼女の思考は天上の存在でさえ掴み取れぬもの。境界を曖昧にする紫色の雲を掴むが如く、その在り方は誰にも分からない。

 

 幻想郷に怪物を蔓延らせる灰色のオーロラ。天子がもたらす極彩色のオーロラ。奇しくもそれらに似た灰色と極彩色。オルフェノクとファンガイアは境内を駆ける。

 あうんは咄嗟にスペルカード、犬符「野良犬の散歩」を発動して現した数体の野犬たちを怪物に襲いかからせ、弾幕めいたそれらは噛みついていくが──やはり足止めにしかならない。

 

「電符、雷鼓弾(らいこだん)!!」

 

 衣玖は胸の前で構えた両手を一気に突き出す。あうんによって足止めされた怪物たちが一瞬動きを止めた隙に、周囲の空気から静電気を掻き集めて自身の妖力と掛け合わせた。彼女の手元から落雷めいた轟音が鳴り響くと同時、青白い電撃の光球が飛び出す。

 バチバチと稲光を迸らせながら解き放たれた【 電符「雷鼓弾」 】はすぐさまあうんの野良犬を振り払ったエキセタムオルフェノクに接近すると、激しい雷鳴を轟かせて雲と散り消えた。

 

「ぐぁああっ!!」

 

 オルフェノクはその光球を手にしたツクシの槍で叩き落そうとしたのだろう。だが、光球はその意図が行われる前に自ら拡散し、電撃を弾けさせる。

 不意なる光に目が眩み、対応できなかったエキセタムオルフェノクは正面から衣玖の電撃に身を焼かれ、灰の細胞の悉くを破壊され。青白い炎を上げては、さらりと灰へ還った。

 

「……ちぃっ……!」

 

 光と電撃は拡散したため、イヤーウイッグファンガイアにも影響を与えた。腕に生えたハサミの刃で電撃こそ防御できたものの、煌びやかな身体に反射する光までは無視できない。怪人態の身は複眼ゆえに目を閉じるというわけにもいかず、視界は青白い光に染まる。

 それも一瞬のこと。あうんの野良犬はすべて蹴散らされているが、天子がその一瞬を無視するつもりはない。

 イヤーウイッグファンガイアの視界が元に戻ったとき。彼が見た比那名居天子は周囲に小さな岩を浮かべて立っていた。下部の尖った岩の台にも似たそれは神聖な天の在り方を表す注連縄を飾り。まさしく小型の『要石』として、天子の独立装備(オプション)めいた力となって傍に控えている。

 

「……いざ仰げ! 我らが天の在り方を!」

 

 腕を組んで経つ天子に、イヤーウイッグファンガイアは慢心という名の隙を見た。自らは相手と距離を取り、その要石を警戒していると見せかけて──

 彼女の背後に浮かび上がったのは極彩色の双牙。魔皇力で形成されたそれは瞬く間に天子の首に迫り、その牙を突き立てる。あうんも衣玖も、どちらも声を上げる暇もなく。

 

「何っ……!?」

 

 イヤーウイッグファンガイアの牙が感じ取った音は、ズブリと肉を貫く音に非ず。キン、と刃がぶつかるような、不快な金属音にも似た音。あろうことか、どれだけ鍛えた強靭な筋肉であろうと貫き穿つファンガイアの吸命牙は、天子の首の皮膚に弾かれたのだ。

 天人は、天界に成る仙桃を食べている。天界の桃は食べた者の身を鋼のように硬くし、如何なる刃も通さない強固な鎧の如き肌を与えるという。

 もっともそれは強く気を張っていなければ成し得ぬこと。普段の生活ではそこまでの強度はないものの、こと戦闘時において周囲の気質を理解し、力を込めれば。それは彼らファンガイアが知るキバの鎧の強化皮膚、名高きドラン族の革で造られたスーツの如き堅牢さを誇ることだろう。

 

「ふふん。背後なら隙だらけだと思ったか? 天はすべてを見ているんだよ」

 

 にやりと笑みを浮かべる天子は腕を組んで慢心を強めた。やはり隙だらけにも見えるが、彼女の周囲に浮かんだ小さな要石はそれを補う捕捉機(ビット)の役割を持っている。

 ハサミの刃を構えて接近するイヤーウイッグファンガイアはそれに捉われた。いくつもの要石を同時に浮かべ、それらは気質の具現たる緋色の光熱を解き放つ。細く射出された気質の塊はレーザーのように真っ直ぐに敵へ向かい、イヤーウイッグファンガイアの装甲を焼き貫いた。

 

「気符、天啓気象の剣!!」

 

 石畳を踏みしめる焦げ茶色のブーツは大地と共に。天子は力強く駆け抜け、振り抜いた緋想の剣に込めた願いを緋色の気質として。紅く滾るエネルギーはフォトンブラッドにも魔皇力にも似ているが、それは万物の気質を収束させた幻想の光。天子自身の波動である。

 天子の持つスペルカード【 気符「天啓気象(てんけいきしょう)の剣」 】は真紅の軌跡を残しつつ、イヤーウイッグファンガイアを一刀のもと両断した。

 この札は特定の気象が生じているときに使えばより強い力を宿す。今は天子自身の気質から成る極光の天気と灰色のオーロラの残滓があり、緋想の剣はその気質を纏めて吸収、二つのオーロラのどちらをも強制的に終了させては絶大な破壊力を得ている。

 

 緋想の剣に金属質の刃はない。ただ燃え上がる気質の炎を刃と成して。切り裂かれた対象は物理的なダメージよりも気質に対する霊的なダメージ、炎熱の如き痛みを感じるだろう。

 やがてステンドグラスの極彩色には鮮やかな七色の輝きが強まり、その身に深い亀裂が宿り。

 

「……がぁ……ぁあ……っ!!」

 

 激しく砕け散るイヤーウイッグファンガイア。煌びやかなステンドグラスの破片を撒き散らしながら絶命するその姿は、儚く散りゆく灰となって死ぬオルフェノクとは対照的。

 奇しくも長命な種族であるファンガイアと急激な進化ゆえに短命であるオルフェノクとは、見た目の華やかさ以上に対照的なものがあった。

 青白い炎を上げながら白い灰と朽ちるオルフェノクも、極彩色の輝きを伴いながらステンドグラスと砕け散るファンガイアも、激しい轟音と共に爆散するわけではない。

 

 灰色と七色の二種は倒した。そして同じ色を持つ二つのオーロラもここにはない。残っているのは長命でも短命でもない命にして命ならざる命のみ。

 老いることも死ぬこともない存在──天人めいた在り方を生まれ持った始祖。スペードスートのカテゴリー3、ライオンの祖に当たる不死生物、ライオンアンデッドだけであった。

 

 下級アンデッドとはいえ、数万年単位で封印と復活を繰り返し、幾度も戦いを見ている遥かなる生物進化の起源。人間が生まれ変わったオルフェノクや、長寿といえども数百年から数千年程度で老いてゆくファンガイアとは歴史の長さが違う。彼は天子たちの戦いを観察していたようだ。

 

「お前、生まれつき不死なんだって? 修行もせずに不老不死なんて、大した身分だ」

 

「総領娘様が仰っても、あまり説得力がありませんね」

 

「私は大した身分だからいいんだよ。なんたって、大地を司る名居(なゐ)の一族の眷属だからね」

 

 天子は鉤爪を撫で上げるライオンアンデッドに向き合って呟く。衣玖の言葉通り、彼女も同じく修行せずに不死となった者だ。

 ライオンアンデッドは両腕を掲げた先に光を輝かせ、広げた手の平にエキセタムオルフェノクの灰とイヤーウイッグファンガイアのステンドグラスを吸い上げる。一時的にオルフェノクの記号と魔皇力を宿した獅子は、天子にゆっくりと向き直った。

 本来なら宿るはずのない力。一度は封印されたはずの身から如何なる技術か具現化され、解放され。何らかの変化を施されているのか。

 不死の肉体という種族の利点を活用した怪物の身に走る絶大な負担。人類を進化させるオルフェノクの記号。魔族に在るべき魔皇力。アンデッドの身に、それら二つは余りある。

 

「グォォオ……ォオオ!!」

 

 苦痛に呻いているのか。目に映るものすべてを破壊する意思か。ライオンアンデッドはその血に相応しき獅子が如き咆哮を上げ、左手からは使徒再生の力を帯びた灰色の触手を。右手からは紅き魔皇力を帯びた極彩色の吸命牙を撃ち放った。

 やはり馴染まぬ力。アンデッドの力を加えて強化されてはいるが、本来の使徒再生ほどの速度はなく、吸命牙は対象の背後に浮かび上がらず直線的に放つことしかできない。

 

 衣玖の雷光は灰色の触手を撃ち抜き、焼き払う。あうんの野良犬は極彩色の牙に喰らいつき、咬み砕く。どれだけ冷静に物事を観測できる経験と遥かなる記憶を持っても、ライオンアンデッドはカテゴリー3に当たる下級アンデッドでしかないのだ。

 天子と衣玖。そしてあうん。三人の少女を恐れた結果として、身に余る力を取り込んだ結果、獅子としての敏捷性と余裕があったはずの体力を不用意に失い、比那名居天子の接近を許す。

 

「はぁぁああっ! 気炎万丈の──剣っ!!」

 

 振り上げられた緋想の剣は燃ゆる気質を滾らせ輝く。もはや触手も吸命牙も意味を成さぬ場まで踏み込んだ天子の威光は、金色のたてがみに美しく照り返った。

 あるいは黄金。あるいは鉄の塊。それがいくら不死なる始祖であろうと、皮革を纏いし獣如きに遅れを取るはずがない。

 一閃に次ぐ一閃は絶え間なく獅子の皮革を裂き緑色の血を撒き散らしていく。瞬くような速度で激しく刃を振り乱し、反撃を許さぬ猛勢で攻め立てる。

 天子が発動したスペルカード【 剣技「気炎万丈の剣」 】でバラバラに引き裂かれたライオンアンデッドは全身から緑色の血を噴き出し、取り込んだ細胞から灰の残滓とステンドグラスの破片を溢れさせ。やがては成す術もなく、腰に帯びたアンデッドバックルを展開した。

 

 仰向けに倒れ込んだライオンアンデッドにはもはや戦う力はない。バックルの中には『♠3』のスートとカテゴリーが刻まれているが、天子のもとにはそれを封印することができるラウズカードがない。プロパーブランクもコモンブランクも存在しない。

 それでも天子は余裕の笑みを崩さなかった。あらゆるものの気質を写し取る緋想の剣があれば、封印のためのカードは要らず。ライオンアンデッドが持つ不死の闘争心、バトルファイトの法則は気質となり、その炎の如き刀身へと宿っていき──

 

 天子がそのままバトルファイトの法則という気質を宿した緋想の剣をライオンアンデッドの胸へ突き立てると、獅子の始祖たる怪物は淡い緑色の輝きを放ちながら封印されていく。

 舞い落ちた一枚の札はプライムベスタ『ビートライオン』となって、天子に拾い上げられた。

 

「……何だこれ? ライオンのカード? ふふん、偉大な私にはピッタリだわ!」

 

 彼女の記憶の中には存在しないラウズカードという太古の札。されど勇猛なる獅子の絵柄を抱き有したその一枚に雄々しき誇りを感じ取り、満足げにそれを懐へしまう。

 八雲紫から聞いたのはアンデッドという存在が不死であるという事実に加えて、その法則と気質を用いれば倒せぬながら封印は可能だということだけ。ラウズカードについての説明は一切受けていない。

 

 ──不意に博麗神社に訪れた空気の流れ。それを感じ取り、衣玖が表情を変えた。彼女は地震を伝える竜宮の使いとして、大気の流れを読み取り、生物の気配や気象の兆候をある程度ならば予測することができる『空気を読む程度の能力』を備えている。

 彼女の黒い帽子から伸びるリュウグウノツカイの触角に似たリボンが風に揺れ、緋色の瞳で彼方の空を見上げた瞬間。そこには先ほど天子が切り裂いたものと同じ灰色のオーロラが現れた。

 

「どうやら次が来るようですね。連戦になりますが、休んでいる暇はないみたいです」

 

「ま、また新しい怪物ですか……? 霊夢さんたちはいったいどこに……」

 

 袖に揺れるは深海魚のヒレめいたフリル。パチパチと迸る紫電を携えた右手に、いつでも螺旋を穿つ構えを取る。あうんは慣れぬ戦いで疲労して、怯えるように立ち竦んだ。

 灰色を破るは三体もの怪物。ゆっくりと境内に降り立つ姿はおぞましき殺意に満ち溢れた異形を備えた、クウガの世界において未確認生命体と呼ばれる存在である。そのどれもが、腰には悪魔の形相を思わせる赤銅色のゲドルードを帯びていた。

 

 未確認生命体第9号、ウミウシ種怪人『ズ・ミウジ・ギ』は濡れた鮮やかな皮膚を揺らめかせ、ぐじゅりと不快な音を立てて軟体動物の遺伝子を持つ触腕を掲げる。未確認生命体第10号、ウツボカズラ種怪人『ズ・ガズボ・デ』は壺が如き食虫植物の遺伝子を持つ口を開き、迎える少女たちを威圧する。

 そしてもう一体。未確認生命体第11号、タコ種怪人『ズ・ダーゴ・ギ』もやはり、ズ・ミウジ・ギと似た軟体動物の身体を不気味に揺蕩わせると、吸盤を持つ八本もの触手を振るい上げた。

 

「グロンギまでお出まし? 退屈嫌いは気が合いそうだけど、生憎、殺戮の趣味はない!」

 

 疲労の募る身体で対峙しても、天子は臆さない。三体のグロンギから立ち昇る緋色の気質を緋想の剣に纏わせ、その刃には古代リント文明が生み出した叡智の光を灯らせる。

 天子自身が意識してその気質を選んだわけではない。気質を見極め、切り裂く。緋想の剣自身が持つ能力でもって、自らの刀身に封印エネルギーを宿したのだ。

 

 それは彼らグロンギにとっては忌むべき輝き。同族たちの悉くを封印せしめた、西暦2000年のクウガの世界においては、蘇った自分たちに封印ではなく死という終焉をもたらした光。

 皮肉にもそれが明確な弱点として定義されてしまったのは、彼らの悲願である儀式(ゲゲル)のために。




そのままだと53000文字くらいあったので、さすがに分割することにしました……

緋想の剣、分かりやすく言うとレジェンドプレートを持ったアルセウスのさばきのつぶて。
夏の魔化魍の音撃打以外の攻撃による分裂ってドロタボウくらいしか出てこなかったような気が。

次回、STAGE 63『夢と現の呪 outer the visible light』


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第63話 夢と現の呪 outer the visible light

 燻る深淵の坩堝(るつぼ)。何もない暗闇の中、ただ不気味な目玉がいくつも浮かび、虚空より突き出した道路交通標識がその狭間の不自然さを物語っている。

 紅白の巫女と赤き鎧の戦士は、そのおぞましい闇の箱庭に無造作に放り出されていた。

 

「……っ! ここは……?」

 

 ぼんやりと輝く目玉の他に光源はない。ただ無辺の闇の中、空と地の境界さえ曖昧な漆黒を踏みしめ、五代雄介はクウガとしての複眼でその世界と向き合いながら拳を構える。

 思考に浮かぶのは、この幻想郷に誘われた瞬間の記憶。第0号との戦いを終えて旅立ち、異国の地にて子供たちに2000の技の一つであるジャグリングを披露してみせた後。当てもなく冒険の行き先を探していたところ、その闇は訪れた。

 不気味な視線がぎょろりと蠢く。紛れもなく自身を西暦2001年のクウガの世界から連れ去った境界。おぞましくクウガの強化皮膚(ブラックスキン)を撫でる妖力は、幻想に疎い彼にも理解できるほど強い。

 

(ゆかり)……いったいどういうつもり? 里が危ないのはあんたも分かってるでしょ?」

 

 大地があるのかないのか。立っている感覚さえ掴めない闇の宙を茶色のローファーで踏みしめ、霊夢は不気味なまでに声の響かない空に向かって問いかける。

 返事はない。ただ吹きゆく漆黒の妖気を伴う風を受け、紅白を装う巫女服の袖が揺れた。

 

「っ!?」

 

 歴戦の戦士である五代雄介が風の彼方に振り返る。霊夢もその気配を掴み、五代と同じタイミングで闇の果てを見やった。

 ぼんやりと白く浮かび上がる人影は形を成し、コツコツと地を踏み歩む女性の背中を象っていく。やがて冒涜的なまでのフリルを伴うロングスカートを帯びた女性、八雲紫の後ろ姿をその場に現すと、夕暮れ時の光の如く。黄金に輝く長髪をふわりと翻して振り返ってみせる。

 

「ちょっと予定より遅くなっちゃったわね。ごめんなさい、二人とも」

 

 夕闇を湛えた紫色。あるいは黄昏を思わせる黄金。逢魔ヶ刻に相応しい光と闇の色のどちらとも取れる、八雲紫の瞳の色。向き合う霊夢と五代は共に境界の管理者を訝った。

 幻想郷を愛しているはずの彼女は自らの意思で怪物たちを招いたのか。彼女が語った『逢魔異変』の真意とは何なのか。そもそも彼女が怪物を招いたのであるなら、博麗神社に現れた幾多もの怪物の撃破を天子に依頼するのは奇妙だ。

 この異変が始まって以来、最初に紫に会ったときから、霊夢の違和感は拭えない。彼女は「彼と怪人たちの撃破を続けてくれる?」と言っていた。自分たちに怪物を倒させるのが目的であったのか? それならなぜ怪物を招いたのか。世界を繋げた目的は。戦士たちを連れてきた理由は──

 

「ああ、里のことについては何も心配しなくていいわ。すでに手は打ってあるから」

 

 今すぐにでも里へと赴こうとする霊夢を諫めるように優しい口調で告げる紫。霊夢も五代も共に見た、幻想郷全域に例のオーロラが出現していたあの光景。怪物の出現は幾度か目にしていたが、あれほどの規模で発生するなど尋常な事態ではない。

 幻想郷が内側から食い破られかねないほど。結界の管理者として、楽園の守護者として、そのような惨劇が見過ごせるはずもない。

 それは紫も同じはず。今こうしている瞬間にも、幻想郷には怪物が現れているだろう。先ほども現れた不自然な妖怪や皮革の怪物など、倒すことができないあれらにどう対処するというのか。

 

「でも、こんなことしてる場合じゃ……!」

 

 未だ異変の全容は掴めていない。それでも人を襲う怪物を無視できない。紫が何を考えているか知らないが、こんなところで燻っている理由など──

 不意に紫は懐から何かを取り出した。白く楕円形を帯びた何か。霊夢はそれを見て、見たことがないはずなのに、あるはずのない不自然な記憶を想起する。

 いつかの夢。いつかの幻。無辺に広がる荒野の中、幾多もの戦士が亡骸となった凄惨なる光景。その頂点に立つ『世界の破壊者』が、己が腰に帯びていた『ベルト』に相違なく──

 

 紫はその白い楕円形、中心に透明のレンズを備えた『ディケイドライバー』を腰に当てた。自動的に展開された帯が白いドレスに固定され、霊夢はその姿に息を飲む。

 左腰のライドブッカーからライダーカードを取り出し、紫はそれをドライバーへと装填した。

 

『カメンライド』

 

 奏でられるは破壊の旋律。ディケイドライバーのレンズに赤く映し出される、誇り高き翼と牙の紋章。絶え間なく続く待機音の中、周囲の闇さえも震わせて。

 霊夢と五代はその力に対して構えた。紅血の匂いを思わせるような不気味な魔力と音楽の流れに向き合い、霊夢は愛用のお札をその手に掲げて。五代はクウガとして馴染んだ構えを取る。

 

「変身」

 

『キバ!』

 

 バックルを閉ざせば紅く灯るレンズに映る紋章は正しき角度に回る。甲高い蝙蝠(コウモリ)の鳴き声じみた笛の音色と共に、紫の身体は白銀の鎖を纏い帯び、やがて美しき彫像を象り──

 砕け散るは芸術の極致。ファンガイアの技術で造られたはずのキバの鎧。ディケイドライバーに込められた『トリックスター』と呼ばれる秘石によって、本来そこには存在しないはずの魔皇力、ファンガイアの誇りをその身に宿して。

 

 八雲紫はキバの世界の法則を持つライダーカードを使用することにより『ディケイドキバ』へと至ったのだ。漆黒の皮革(スーツ)に紅き鎧、白銀を纏う意匠に月色の複眼。ただ腰にキバットバットⅢ世がおらず、ディケイドライバーを装備している点だけが異なる。

 霊夢も五代もその姿を知らない。吸血鬼じみた魔力を己が身に感じれど、キバの世界の法則など彼女らは知る由もなく、ただその尋常ならざる迫力と想念に臆する魂を奮い立たせる。

 

「さぁ、私たちの運命を奏でましょう」

 

 左手に現すは艶やかな愛を湛えた一丁のバイオリン。右手に携えた弓を乗せ、爪弾き奏でられる魔力の奔流に。紫の妖力とキバの魔皇力が混ざり合った式神、コウモリの形にも似た魔力の弾幕が霊夢へと解き放たれた。

 咄嗟に結界を展開しようとするも間に合わないと判断する。霊夢は腕で顔を覆い、迫り来るコウモリの群れを受け止めるが、やはり未知の魔力はダメージとなって身体を苛む。

 返すように構えたお札を博麗アミュレットとして解き放つものの、ディケイドキバは優雅な振る舞いを崩すことなくバイオリンと弓を下ろし、軽やかな跳躍で闇色の宙へと逆さ吊りになった。

 

「……っ! あんたも仮面の戦士の一人ってわけ? そいつはいったい何番目なの!?」

 

 煤けた巫女服を気に留めず、あたかもコウモリの如く宙吊りのまま腕を組む紅き鎧の戦士を見上げる霊夢。何が起きているのか分からないながらも五代は彼女の傍へ駆け寄る。

 足元たる空中から溶け消えるようにスキマへ沈み、紫は霊夢と五代の視界から消え去った。

 

「これは九番目の楔ね。そしてこれが──」

 

 背後に聞こえた紫の声に心臓を掴まれる感覚を覚える。即座に振り返るが、振り抜かれたキバの紅い拳からは鎖に似た魔力の波動が迸り、二人は共に吹き飛ばされた。

 紫が纏うディケイドキバの手が左腰からカードを取り出す。それは霊夢がイメージしたものとは異なれど、あうんが命蓮寺で見たという桃の仮面らしき特徴を帯び──

 思考が続くより先に、紫はバックルを開いたディケイドライバーにそれを収め、閉じる。

 

『カメンライド』『デンオウ!』

 

 高らかなる宣告は警笛の如く闇を打ち震わせた。赤いレンズには分岐器に似たT字が浮かび上がり、ミュージックホーンめいた旋律に合わせ流れる時間の欠片が集い始める。

 周囲を巡りし路線を走る列車。白と黄色を帯びた赤き装甲は紫の妖力を糧としているのか。秘石トリックスターの能力でオーラからフリーエネルギーへと変換されたオーラアーマーが装備されていき、やがて頭部に現れ来たる赤い桃の仮面が停車すると、それは二つに分かれ複眼となった。

 

「八番目の楔」

 

 いつの間にか手元から消えていたバイオリンと弓。紫が新たなる姿へと至ったのを見て、五代と霊夢は小さく息を飲む。

 紫は電王のライダーカードを使用して『ディケイド電王』へと変身を果たした。特異点ならざる身にして、イマジンの憑依もなく。秘石の力により再現されたオーラはモモタロスと同一のもの。赤い装甲を纏う姿は紛れもなく彼の波動によるものだが、そこにあのイマジンの人格はない。

 

「……変わった……!?」

 

「桃の仮面……あうんちゃんが言ってたのはこれのこと……? でも、どうして紫が……」

 

 ディケイドライバーを撫でる紫──ディケイド電王の姿に微かな畏怖を覚える。張り詰める闇の宙は、すべてを繋ぎ、すべてを破壊する力の前に妖しく歪む。

 その力は、世界を破壊するために生み出された。あらゆる世界の法則を宿し、その力を我が物とする世界の破壊者、仮面ライダーディケイド。幾多もの世界において、悪魔と恐れられ、大いなる意志のもと戦士たちの力を写し取る力は──『カメンライド』と呼ばれている。

 

「ここから出たければ、私を倒していきなさい」

 

 なぜ紫が変身しているのか、何の目的があって自分たちと戦うのか。霊夢たちには理解できない。桃の形をした仮面に阻まれ紫の表情は読み取れないが、相変わらず人を食ったような挑発的な笑みを湛えているのだろう。

 その意志を問うても、もはや答えは得られまい。霊夢は紫が左腰の白い板、ライドブッカーから再び一枚のカードを取り出し、開いたバックルへと装填しては閉じるのを見て札を構える。

 

『アタックライド』『オレサンジョウ!』

 

 高らかに響き渡ったディケイドライバーの音声に従うように、ディケイド電王は腰を低く屈めて脚を開く。次なる攻撃が来るのか、と。霊夢と五代は防御の姿勢を取り構えたが──

 

「俺、参上!」

 

 雄々しき振る舞いで自らを指し、腕を振り開いて左手を前に突き出すポーズ。モモタロスらしい力強い在り方で主張するその言葉以外に、特に何かが起こるわけでもない。

 何も存在しない無辺の闇の中。しーんとした不気味な静寂だけが、僅かに時を忘れさせる。

 

「え、えっと……?」

 

「だからなんだってのよ!」

 

 五代は不意なるその行動の意味が理解できず、拳を構えたまま首を傾げた。霊夢も同様、ただの虚仮威しとしか受け取れぬクライマックスな宣言に呆れながら怒った。

 紫もまた何か目的があってこのカードを使用したわけではない。彼女もまたディケイドの能力の全容を知るわけではないのだ。数多の法則を宿す並行世界、それぞれに記録された仮面ライダーの歴史。その戦力を写し取った叡智の欠片──『アタックライド』のカードを用いただけ。

 

「……ふむ。これはちょっと違ったかしら」

 

 ポーズを崩しつつ呟く紫。こほんと一度咳払いをしては、再び左腰のライドブッカーを開く。

 

「っ! はぁっ!」

 

 五代は咄嗟に闇色の地を蹴り上げた。彼女が何をしようとしているかは分からないが、それをみすみす許すわけにはいかない。不意打ちめいた攻撃を行うことに抵抗はあるものの、五代雄介には八雲紫という人物の在り方は理解できないのだ。

 比較的等しいと言える霊夢も全てを知っているわけではない。妖怪の行動原理はグロンギと何が違うのだろうか。彼にとっては、どちらも等しく『未確認生命体』である。

 

 クウガの拳はディケイド電王の左手に受け止められた。八雲紫の妖怪としての腕力なのか。ディケイド、あるいは電王が誇る力なのか。五代の拳は動かない。

 再び装填されるカード。ディケイドライバーのレンズに光が灯り、彼女はバックルを閉じる。

 

『カメンライド』『カブト!』

 

 右手で閉じられたディケイドライバーが灯すのはカブトムシの意匠だった。クワガタムシであるクウガに向き合うように、有機的な細胞から成る古代リントの戦士の鎧へと相対するかのように。ディケイド電王はヒヒイロノカネの装甲を帯びていき──

 六角形の情報片に包まれてはその姿をZECTが開発したマスクドライダーシステム第1号、その姿を模した『ディケイドカブト』へとカメンライドによる変身を遂げさせる。

 水色の複眼を分かつように迫り上がった真紅の角を掲げ、クウガの腹へ拳を叩き込んだ。

 

「……っ! また変わった……っ!」

 

 五代はクウガの腹部へ受けた打撃に後退しつつ、またしても未知なる姿へと変わった紫に驚く。カブトの世界の法則を宿すその姿は、己が腰にカブトゼクターを装備していないという点を除けば本来のカブトと相違ない。──もっとも、五代も霊夢も実物を知らないが。

 紫の指先が再びライダーカードを手に取った。残像を引くカブトの姿が描かれたカード。彼女は五代が体勢を立て直すよりも早くバックルを開くと、そのカードを装填しては閉じる。

 

『アタックライド』『クロックアップ!』

 

 一瞬にして全身に行き渡ったタキオン粒子の波動がディケイドカブトに流れる時間の速度を捻じ曲げる。特殊相対性理論の壁を超え、八雲紫はクロックアップを遂げた。

 当然、ディケイドライバーにはカブトの世界の技術であるタキオン粒子など存在しない。これもまた秘石トリックスターによる事象の再現であり、カブトの能力を再現したこの形態であれば本来想定された使用者としてクロックアップを行使できるのだ。

 不意に視界から真紅の戦士が消え去ったのを見て、五代と霊夢は焦燥を覚える。八雲紫の妖気が満ちたスキマ空間において、彼女の存在を妖気から探し出すのは極めて困難と言えるだろう。

 

「ぐぁあっ!」

 

 刹那の間に五代の背後へと回り込んでいたディケイドカブトはその勢いを緩めぬまま回し蹴りを放ちクウガを蹴り飛ばした。

 すぐさま構えを取り直して背後に向き直るが、すでにそこに紅き影はなく。時空を超えた認識外の速度で駆け巡るタキオン粒子の流れに従い、その閃光はすでに霊夢のもとへ。気配を知覚できる速度ではないが、霊夢の勘は咄嗟に結界を張ることで打撃を防御させた。

 

 赤い戦士であるマイティフォームのクウガではクロックアップした存在を捕捉できない。たとえ機動力に優れた青い戦士、ドラゴンフォームに至ったところで、あそこまでの脅威的な速度、否。時間の法則性すら否定した領域など届くはずもない。

 望むべくは五代自身もかつての戦いで変身した『緑の戦士』──天馬の如き超感覚を持つ姿こそが理想的なのだが、その真価を発揮するために必要な『射貫くもの』がここにはないのだ。

 

「捉えたっ!!」

 

 霊夢には音速を超えながらも時間流の変化によって風圧一つ起こさぬ速度に対応するだけの動体視力はない。ただ、その反応速度は普段の弾幕ごっこで鍛え上げられている。加えて生まれ持った物事の本質を見極める天賦の直感力により、偶発的にそれを捕捉した。

 接近するディケイドカブトには霊夢の動きは緩慢に見えていることだろう。たとえ相手の動きに合わせて反撃を目論んだとしても、クロックアップした者にとってはゆっくりとそれを行おうとしていることが見て取れる。知能の低い怪物相手でもない限り、反撃(カウンター)は当てられない。

 

 そのことを知ってか知らずか。霊夢は気取られやすい反撃行動ではなく、後退しつつ攻撃すると見せかけて、ディケイドカブトの足元に常置陣を張り巡らせた。

 後退する霊夢の攻撃に意識を向けていた紫は足元の常置陣を踏んでしまい、微かに流れる霊力の波動に一瞬だけ動きを止められる。その隙に緩慢な動きの霊夢はすでにお札に込めておいた霊力を紫へ向け炸裂させ、博麗アミュレットとしてディケイドカブトの緋々色の装甲に叩きつけた。

 

「まさか、あんた……」

 

 濛々と煙る霊力の名残に包まれながらこちらを見るは水色の複眼。晴れゆく視界において、八雲紫の意思を湛えたそれは霊夢と五代を品定めするかの如く蛍のように輝く。

 霊夢は紫が最初に変身した真紅と白銀の吸血鬼に加え、その次に変身した桃の仮面を纏う列車の如き戦士、そして今まさに変身している時空を超えた速度のカブトムシを頭の中で結びつけて一瞬の思考の末に答えを見つけ出した。

 九つの物語。それはすなわち幻想郷に導かれた九人の戦士たちの歴史。紫が言っていた九番目の楔に、八番目の楔。そしてあの赤きカブトムシが七番目であるなら、それが意味するのは──

 

「相変わらず大した直感ねぇ。でも、それだけじゃ足りないんじゃないかしら?」

 

 再び紫は左腰のライドブッカーからライダーカードを取り出す。すでに紫は霊夢が答えを見つけたことに気づいたようだ。この地獄めいた暗闇の中、彼女が選んだものは。

 燻る妖艶。清らかなる(つづみ)()を宿す、六番目の楔たる『鬼』の力を宿した一枚だった。

 

『カメンライド』『ヒビキ!』

 

 閉じられたディケイドライバーのバックル。レンズに映し出されるは三つ巴の鬼火。猛る烈火の如き電子音声と共に、ディケイドカブトは燃ゆる紫炎に包まれる。

 やがて紫炎を祓い現れたのは艶やかなる紫色の皮膚を湛えた筋肉質の戦士だった。歌舞伎役者の如く縁取る顔面には(あけ)を装い。額に浮かぶ鬼の相貌。雄々しく突き伸びた双角はクウガやカブトの昆虫らしい力強さとは根本的に異なる、古来よりの伝承に由来する異形のもの。

 

 それはまさしく、鬼の角に他ならない。ディケイドライバーに込められた秘石トリックスターは人が辿り着き得る鍛錬の境地、鬼の力を再現し。元ある世界の自然の祈り、太古の妖気とも呼べるエネルギーさえ寸分の狂いなく写し出し。八雲紫は『ディケイド響鬼』へと変身を遂げていた。

 

「お、鬼……!?」

 

「……っ! この妖気……その角も紛い物じゃないってわけ?」

 

 滾る妖気は五代の肌身にも伝わるのか。伝承の怪物たる鬼の姿を見て、握る拳が微かに強張る。霊夢は幻想郷における鬼の存在を知っているが、やはり幻想を帯びぬ妖怪らしき気配は先ほど博麗神社の境内で戦ったカッパ──魔化魍と呼ばれた存在に近しい独特の妖気。

 それでも一度は千年前の山の四天王たる茨木童子と弾幕ごっこに依らぬ本気の死闘を繰り広げた霊夢には分かる。天子と肩を並べ、伝承通りに『鬼を斬った』ことで封印せしめた、血染めの桜が如き鬼。あの理不尽なまでの強さに等しい、紛れもない鬼としての妖気を持っているのだと。

 

「これでも一応、鍛えてるの」

 

 力強き無貌には似つかぬ妖艶な口調で呟く。その腰には(ふんどし)に近い装備帯も、音撃鼓もない。変身音叉とディスクアニマルを伴うべき腰帯の左右には、ただ左側に閉じた状態のライドブッカーを有するのみ。

 八雲紫自身の妖気が満ち溢れたこのスキマ空間において、ディケイド響鬼である今の彼女が放つ鬼としての妖気は異質だ。だん、と暗闇を蹴り上げ迫る圧倒的な力を前に、霊夢は鬼への本能的な畏怖に足を竦ませそうになったが──すぐにその意図に気づいた。

 

 紫は鬼の圧倒的な膂力で霊夢を殴りつけようとしているわけではない。一瞬だけ振り上げられた左腕の拳に気を取られて、防御の構えを取ろうとしたが、彼女の右手がすでにライドブッカーから一枚のカードを取り出していることに気づいたのだ。

 どうやらそれは五代も同じ様子。クウガとしての脚でこちらも地を駆けディケイド響鬼に迫る。霊夢を守るように鬼の拳を受け止めた五代は、振り上げられた右脚に蹴り飛ばされた。

 

「ぐっ……!」

 

 ディケイド響鬼といえどその力は本来の響鬼と同じ。鍛え上げられた鬼の筋力は魔石ゲブロンの力で人を超えたグロンギの筋力にも等しく五代の内臓にダメージを与える。

 その瞬間を見計らい、霊夢も紫に接近。至近距離で光弾をぶつけようとするものの──

 

『アタックライド』『オニビ!』

 

 紫がディケイドライバーにカードを装填し閉じる方が早い。霊夢が見たのは、隈取りをあしらっただけの無貌であった鬼の相貌が、顔面を裂くようにその口元に大口を開く様だった。その口腔に美しささえ見出せる清らかな紫色の光が灯ったかと思うと、次の瞬間。

 解き放たれるは鬼の妖気。紫色の炎として現出した妖気そのものが霊夢の目の前で燃え上がり、あわやその身を焼き尽くそうとしたのだ。

 火の粉が見えた時点で咄嗟に身体を翻したおかげで直撃は避けられた。ディケイド響鬼が放った鬼幻術・鬼火に霊夢は巫女服の一部を焼き払われ、スライディングして紫の近くから離れる。

 

「あっぶな……! 本気で殺すつもり!?」

 

「まさか。あなたがこの程度で死ぬはずないでしょう?」

 

 悠然とした振る舞いでそう言ってのける紫に、霊夢は小さく舌打ちした。響鬼としての無貌には大顎も複眼もないが、紫のあっけらかんとした口調のせいか少し微笑んで見える。

 五代は霊夢の身を案じて駆け寄るが、今の紫に近づくことは危険だと判断したのだろう。彼女が傍で立ち上がるまで近くに立って守るように構えたまま、ディケイド響鬼の姿に向き合うことしかできない。

 ただ「大丈夫?」と気休め程度に声をかけて、霊夢に大した怪我がないことを安堵するばかり。八雲紫の目的は判然としないものの、今は彼女を無力化することを考えるしかなかった。

 

「そっちも本気で来ないと、いつまで経っても終わらないわよ」

 

 ディケイド響鬼の赤い指先がライダーカードを取り出す。今度は無骨で野性的であった響鬼とは異なり、精悍な鋭さを秘めた刀剣(スペード)の如きカブトムシに似た剣士の姿を宿す札。

 すぐさまそれをディケイドライバーへと装填し、紫は力強い鬼の両手でバックルを閉じる。

 

『カメンライド』『ブレイド!』

 

 運命を切り拓くような電子音声の後に、霊夢と五代は思わず息を飲んだ。ディケイドライバーの赤いレンズから溢れ出した青白い輝きがカブトムシの紋章を伴う光の壁となって出現し、こちらに迫ってくるではないか。

 霊夢は咄嗟にお札に霊力を込め、迫り来るオリハルコンエレメントに向けて同様に霊力の光壁をもたらした。

 奇しくもBOARDが開発したライダーシステムの光と同様に、青白い光の壁となり。そのままオリハルコンエレメントへと向かっていくは霊夢が有する結界術の一つたる【 警醒陣(けいせいじん) 】だったが、やはり咄嗟に展開した程度の等身大の結界は──

 

 渇いた音を立てて呆気なく砕け散る。その先から現れたのは紫紺の鎧。白銀の装甲を纏いて赤き複眼で駆け抜けるは、その腰に誇り高く携えた醒剣ブレイラウザー……ではなく。

 ライドブッカーの先から刃を形成した『ソードモード』のそれを振るう剣士の姿だった。

 

「たまには接近戦も良いでしょ?」

 

「ちっ……! 何がしたいのか知らないけど、そこまで言うなら付き合ってやるわ!」

 

 赤く丸みを湛えた複眼が見せるは八雲紫の不気味な笑みか。刀剣めいた頭角を有するヘラクレスオオカブトに似た剣士、秘石トリックスターの能力でビートルアンデッドと人体の融合を再現し、その身に纏う『ディケイドブレイド』の姿となって霊夢へと肉薄する。

 霊夢は大幣の柄でライドブッカー ソードモードの刃を受け止めたものの、やはり生身の少女の筋力ではライダーシステムのパワーに押されてしまう。

 

 霊力で強化した大幣がメキメキと軋みを上げるのは必然であった。霊夢は咄嗟に後退してお札の弾幕を放つも、やはり心のどこかで紫を攻撃することに抵抗を覚えているのか。無意識に普段の弾幕ごっこに等しいだけの出力で放っていたらしい。

 ディケイドブレイドの銀の装甲、オリハルコンプラチナで造られた鎧に霊力の光弾が当たるが、僅かに手加減された威力のそれでは元よりアンデッドの細胞を由来とする鎧は傷つかない。

 

「……霊夢ちゃん……!」

 

 鬼の膂力で蹴り飛ばされた腹部を押さえて立ち上がる五代。あちらが剣を使うならこちらも剣を使うべきであろう。戦士クウガには赤と青、そして感覚に優れた緑の姿の他に、重厚な鎧と優れた膂力を誇る(むらさき)の姿があるが──

 やはり緑の戦士と同様、その真価を発揮するには『切り裂くもの』を手にしてモーフィングパワーによって武器を形成する必要がある。

 あの戦士(ディケイドブレイド)が持つ剣──ライドブッカー ソードモードを奪えば構築し直せるか。あるいは霊夢の大幣、刃を持たぬただの棒状の物体ではあるが、それでも切り裂くものには変化し得る。

 

 ただ問題は、あの変幻自在の戦士がそんな隙を許してくれるかどうか。仮に紫の戦士へと至ったとしても、その鎧の重厚さ故に素早い相手には対応できなくなる。

 今はどんな動きにも対応ができる赤い戦士、マイティフォームで戦うべきなのだろうか──

 

「……っ!」

 

 迷っている場合ではない。お札を構える霊夢に対して、ディケイドブレイドは再びライドブッカー ソードモードの刃を構えて駆け出した。

 五代はその背に隙を見出すと同時に走り抜け闇を蹴って跳躍。剣士の背中に拳を向ける。

 

『アタックライド』『メタル!』

 

 だが、霊夢と向かい合ったまま紫はディケイドライバーにカードを装填した。ライドブッカー ソードモードの切っ先を迫る五代に向けることもなく、ただ立ち尽くすその身は金剛の如き白銀の光に包まれ、そのまま殴りつけたクウガの拳に衝撃を返す。

 並大抵の攻撃では傷の一つもつかぬほどの堅牢さを秘めたその輝きは、ブレイドの世界におけるトリロバイトアンデッドの硬化能力。かの怪物との融合さえもその力は再現した。

 

 それは本来、スペードスートのプライムベスタ、カテゴリー7と呼ばれるメタルトリロバイトのラウズカードを用いて発動されるライダーシステムの機能である。

 ディケイドブレイドはそれに倣い、アタックライドという形をもってその効果を使用。発動した装甲の硬化能力、トリロバイトメタルにより、背後からの攻撃は無力化されてしまったのだ。

 

「あら、あのたくさんの目玉、ただの飾りだとでも思ってたのかしら?」

 

 岩をも穿ち抜くクウガの拳でさえ痛みが走る。クウガの赤い複眼に映るディケイドブレイドの姿は白銀の輝きを落ち着かせていき、すぐに先ほどのままの紫紺へと戻っていった。

 どうやらこの空間に満ちている無数の目玉はそれらすべてが八雲紫に視覚情報を与えているらしい。故に背後からの奇襲など意味を為さないのだろう。

 五代にとっては自身をここへ招いた存在であり、霊夢にとっては長らく使命を共にした妖怪であり──そんな彼女に対して不可解な点はいくつもあるのだが、五代が感じた違和感はどうしようもなく目の前に。

 

 なぜこれほどまでに多くの姿に至れるのか。なぜそのすべてが全く異なる性質を持ち、まるでそれぞれが何の関係もないかのように、全く異なる姿をしているのか。

 加えて、なぜ攻撃をしてきているにも関わらず──彼女から一切の敵意が感じられないのか。

 

「…………」

 

 いくら自分たちの身を守るためとはいえ、やはり五代雄介は暴力を好まない。自分たちとは全く異なる価値観で多くの人間を殺戮してきた未確認生命体たちとは違い、目の前に立つ仮面の戦士、八雲紫は妖怪とはいえ人と同じ姿をしていたのだ。

 戦士への変身は霊石アマダムや魔石ゲブロンを用いて肉体を変化させるのと同じだろう。グロンギたちと決定的に違うのは、やはり暴力や破壊を楽しんでいる素振りがなく、悪意や敵意と呼べるものを放っていないということ。

 言葉も通じる。それならば話し合って戦う理由を問うことだってできるはずだ。そんな思考が五代の覚悟を僅かに曇らせ、戦士クウガとしての本来の力を発揮し切れていなかったのだろう。

 

「五代さん! ぼーっとしないの!」

 

「あっ、うん!」

 

 霊夢の声で五代は我に返る。紫が再びバックルを開いたのを確認し、次なる攻撃に備えて五代は地を蹴って後退。ディケイドブレイドから距離を取った。

 ライドブッカー ソードモードを一度畳み直し、元のままの『ブックモード』へ変形。そのページを開き、内部に宿る『クラインの壺』と呼ばれる機構から幾重もの次元を隔てた無限の空間へとアクセスを遂げる紫の指先。再び取り出したのは、黄色い複眼を持つ黒き戦士のカードだ。

 

『カメンライド』『ファイズ!』

 

 バックルを閉じると、ディケイドブレイドの全身に走るは赤い光のライン、フォトンフレームが形成されてはそのまま真紅の輝きが闇を満たしていく。

 紫紺のスーツの代わりに現れゆく漆黒のスーツ。胸や肩を守る白銀の装甲は奇しくもブレイドと似ているが、その隙間を通るフォトンストリームの輝きはそれがファイズの世界でのみ用いられるフォトンブラッドのエネルギーであるということを紛れもなく示している。

 

 完全に閉じた空間たる八雲紫のスキマ空間には衛星電波など届くはずもない。イーグルサットの電波に頼らず、彼女は『ディケイドファイズ』へと変身を遂げた。

 秘石トリックスターはライダーズギアの運用に必要となるオルフェノクの記号も、その武器たるフォトンブラッドも。ファイズの本体(スーツ)そのものを転送する役割を持つイーグルサットの電波さえ、その身一つで再現してしまう。

 左腰へと収めたライドブッカーをブックモードから今度はソードモードのグリップ部分を斜めに曲げ、銃口となる先端部分を僅かに伸長させた『ガンモード』に変形させて真っ直ぐ構えた。

 

「くっ……!」

 

 ガンモードとなったライドブッカーの銃口から解き放たれるのは、フォトンブラッドの光弾ではない。クラインの壺から無限に供給されるエネルギーの正体を知っているのは、おそらくは世界の破壊者と呼べる存在を祀り上げた大いなる意志のみであろう。

 自身を狙って放たれたそれらを何とか回避する五代。霊夢たちほど高速の飛来物を避ける経験に長けているわけではないが、一年間ものあいだ凄惨な殺戮を行うグロンギたちと拳を交えてきたのだ。命を奪い合う本気の戦いという点においては、霊夢たちよりも彼に一日の長がある。

 

「(紫の持っていたカード……あれって……)」

 

 霊夢は続いてこちらに向いた銃口と射線を合わせぬように冷静に立ち回りながら思考する。ディケイドライバーに込められたカードは間違いなく、博麗神社の賽銭箱から見つけたあのカードと同様の意匠を持っていた。

 そのカードは今も懐にしまってある。だが、紫が持っていたものには戦士らしき仮面と力強い波動が感じられた。それに引き換え、霊夢が持つ一枚は無彩色かつ虚ろな輪郭のみ。

 何もない空白の一枚と言える──言わば感光した写真。それでも、無彩色であるにも関わらずどことなくマゼンタ色の威光が感じられたあのカードは、あのベルト(ディケイドライバー)とよく似た力を帯びていた。

 

「……っ! 霊夢ちゃん! 危ない!!」

 

 思考を寸断するは闇の妖気を震わせる五代の声。間違いなく背後への警戒も怠っていなかったはずだが、やはり紫の妖気が満ちたこの空間では判断が鈍る。

 背後の闇を切り裂き、唸るようなエンジン音を響かせて現れたのは一台のバイクだ。五代雄介が駆るビートチェイサー2000とは大きく異なる意匠。ディケイドライバーと似た色合いの鮮やかなマゼンタ色を前面に帯び、黒と白に無彩(いろど)られたそれは破壊者のための騎馬。

 高らかに嘶く『マシンディケイダー』は闇を抜けて疾走し、霊夢は身を屈めてそれを回避。

 

「少し疲れてきちゃったから、助っ人を呼んだわ」

 

 黄色い複眼と赤いフォトンストリームで深淵を照らす姿のまま、紫は言ってのける。五代も霊夢も知らぬマシンディケイダーというバイク。それは駆るものが駆れば世界の境界さえ超える旅人のための超常的なマシンであるのだが──

 自律走行機能こそあれど、それ自体はただのバイクだ。攻撃手段など助走をつけて突進する程度しかない。ただ進行方向に突っ込んでくる、それだけであれば霊夢や五代にも回避は容易。

 だが、霊夢はファイズの仮面を纏う紫の見えざる表情に何かを感じ、咄嗟にバイクから離れた。

 

『アタックライド』『オートバジン!』

 

 再びディケイドライバーに装填されるカード。ディケイドファイズの銀色の指先で込められ、バックルが閉じられるままに、ドライバーは再び破壊の宣告を謳う。

 その瞬間、楕円に斜線を描いた紋章がマシンディケイダーの前方から機体を通り抜けた。紋章が触れた先からファイズの世界の歴史を帯びた法則が機体を別のものに作り替え、一瞬のうちにそれはバイクの形から人型らしき形に変形する。

 マシンディケイダーはアタックライドによってファイズのバイク、オートバジンへと姿を変えたのだ。まずビークルモードへと『変身』したかと思うと、自動的にバトルモードへと『変形』し、背部のフローターで浮き上がりながらバスターホイールの連射で空から霊夢を襲う。

 

 霊力の結界を盾のように展開することで実弾の雨を防ぐことはできた。本気の霊力を込めているものの、やはりあちらも本気の威力で攻撃をしてきている。

 それにこちらの相手をしている隙に、紫が攻撃をしてくれば同時に対応できるかどうか──

 

「やっぱり来たわね……!」

 

 オートバジンの攻撃を防いでいる相手の隙を狙う。霊夢は当然、それを警戒していた。そのまま背後に迫ってくることを理解していれば、背後が見えずとも相手の気配を探ることはできる。ディケイドファイズが放つフォトンブラッドの熱を感知し、霊夢は足元へ消えた。

 万物の境界にスキマを開く八雲紫の能力。奇しくも霊夢の結界術は、空間を無視するという点においてその能力によく似ている。

 あえて接近を許し攻撃が届く寸前で霊夢は足元の結界に落ちた。彼女は【 亜空穴(あくうけつ) 】と呼ばれる特殊な結界通路を用いて別の場所、ディケイドファイズの背後に現れる。

 

 そのまま紫の背後にスライディングキックを放つは【 幻想空想穴(げんそうくうそうけつ) 】と称される霊夢の空間跳躍能力の十八番。瞬時に姿を消し、亜空穴を通り抜け、敵の攻撃タイミングをずらしながら攻撃する。この動きでさえ、彼女にとっては『真っ直ぐ』に過ぎない、無自覚な挙動であるのだ。

 

「あら」

 

 背中から霊夢のキックを受けて前に出され、オートバジンのバスターホイールの連射を受けてしまうディケイドファイズ。フルメタルラングに実弾の雨が当たるが、オートバジンはすぐに攻撃をキャンセルした。

 そのまま背後を振り向けば迫り来る霊夢と五代(クウガ)。二人の蹴りを胸に受けて、紫は微かに後退る。ゆっくりと降りてくるオートバジンのフローターによる風圧を受けては小さく微笑んだ。

 そのままオートバジンのハンドルを掴むと、ファイズエッジとして引き抜き大きく振り抜く。

 

「さすがに良い動きね。それで、私が何をしたいのか分かった?」

 

「その口振りじゃ、答えるつもりはないってわけね……」

 

 蹴りの反動で距離を取った位置に立ち構える霊夢と五代はそれぞれ構えた。相変わらず紫の余裕ぶった笑顔は仮面に隠されていて見えないが、八雲立つその在り方は霊夢にとっては慣れ親しんだ胡散臭さである。

 疾走するはオートバジンと共に。夢に虚ろに幻の如き闇の中、真紅の残光を引いてディケイドファイズは地を駆ける。ファイズエッジを振るう先は、赤きクウガを纏う五代。

 オートバジンはあえてバスターホイールを構えず己が質量をもって霊夢へ殴りかかった。

 

「……っ! 熱い……!?」

 

 真紅の光熱を帯びた斬撃を両腕の装甲で受け止めようとするものの、すぐにその紅き熱が装甲を貫通して届き得るものだということに五代は気づく。

 自身(クウガ)の世界には存在しないフォトンブラッドというエネルギーに対しても動じず、すぐに回避に専念する動きに集中した。返し放つ拳はすぐに避けられ、晒した隙は最小限に次の攻撃に備える。ただファイズエッジを構えられては、拳は光熱にやられるだろう。

 

 五代は紫がファイズエッジを構えた瞬間を見計らった。その手を蹴り上げて、彼女の手からその得物を払い落とすように打ち上げる。

 それを掴めば成し得るはず。紫のクウガとなって戦うのに必要な、かの巨人の如き剣を。自らの身を変えるモーフィングパワーによる再構築で、自身の得物へと作り変えることが──

 

「えっ!?」

 

「あれっ!?」

 

 五代が見上げていたファイズエッジはその紅い輝きと共に消え失せた。同時に、少し離れたところでオートバジンと戦っていた霊夢も声を上げる。振り向けば、さっきまでそこにいたはずの機械仕掛けの鉄人、オートバジンも姿を消しているではないか。

 スマートブレインが開発したそれらに一瞬で姿を消す機能はない。されどこれは世界の破壊者がもたらしたもの。マシンディケイダーの能力であれば、その場で次元を超えることも可能だ。

 

「世界の破壊者を相手にするなら、もう少し警戒したほうがいいんじゃない?」

 

 神経を逆撫でるような紫色の声を聞いたと思った直後。そんな柔らかい声色には似つかぬ強靭な脚力による蹴りが五代を後方へと蹴り飛ばす。

 腹を押さえ立ち上がり、傍に駆け寄ってきてくれた霊夢の心配を耳にして意識を強く保った。

 

「……破壊者……? あんた……本気で幻想郷を破壊するつもりなの……?」

 

「いいえ。破壊するのは幻想郷じゃなくて、九つの物語を繋ぎ束ねる()()()の世界……」

 

 紫は再びライドブッカーを開いては一枚のカードを取り出す。カードの絵柄を霊夢たちに見せることもなく、右手にそれを持ったまま言葉を紡ぎながら。

 左手だけでバックルを開いてディケイドライバーの溝へとカードを装填し、すぐに閉じる。

 

『カメンライド』『リュウキ!』

 

 無辺の闇に閃くは光源なき幾重もの鏡像だった。それらはディケイドファイズを包み込み、熱き血潮に滾るような赤きスーツの騎士へと塗り替えていく。その身に纏うは黒と銀、龍の意匠を抱く哀しき願いの代行者。

 ただ深く果てしない闇の中、光を返すような反射物など存在しない。だが、ミラーワールドへの接触がなくとも。秘石の力は無双なる赤き龍、ドラグレッダーとの契約さえ再現した。

 

 格子状の鉄仮面に灯る赤き複眼(レッドアイ)。その滾るような騎士の在り方は、妖雲にも似た紫の在り方には似つかない。

 五代と霊夢はその灼熱(あか)き姿に対する記憶を無視できなかった。紛れもなく霧の湖にて肩を並べて怪物たちと戦った存在。五代の姿を見て『仮面ライダー』の名を口にしたのは、彼の知らぬ龍騎の世界における13人の騎士の一人、仮面ライダー龍騎として戦った城戸真司という男である。

 

「その姿……やっぱり……!」

 

「……うん……霊夢ちゃんも気づいたよね……」

 

 これまでの紫の姿を見て何も感じなかったわけではない。全く異なる姿。全く異なる力と性質。そして紫が語った九つの物語が九つの戦士を意味するのであれば。紫が言った通り、最初に至った吸血鬼の鎧が九番目の楔であるならば。

 目の前に立つ『ディケイド龍騎』はまさしく仮面ライダー龍騎の姿に相違ない。すなわち霊夢の推測通り、彼女はおそらく、九つの物語を由来とするすべての戦士に変身できるのだろう。

 

『アタックライド』『ストライクベント!』

 

 見覚えのある姿に思考するも束の間のことだ。紫はすぐにライドブッカーからカードを抜くと、開いたディケイドライバーにそれを鋭く差し込みバックルを閉じる。

 高らかに発せられるは龍騎の左腕に装備されたドラグバイザーと同様の語句。されどディケイド龍騎にとってドラグバイザーはただの篭手に過ぎず、ディケイドライバーが謳うは無機質な電子音声というよりは力強い咆哮に似たもの。

 いったいどのような原理なのか。ディケイドライバーで生成されたはずの龍騎の力、ストライクベントの発動によって出現したドラグクローは、ディケイド龍騎の頭上の空間を歪めて空から舞い降りるように落ちてくる。ドラグレッダーの頭を模したそれを右手の拳に受け止め──

 

「はぁっ!」

 

 両脚を大きく開いてはドラグクローを装備した右手を後ろに引く。拳を前に突き出し、紫が龍の大顎を拳と掲げた瞬間、五代はクウガとしての複眼にあるはずのないものを見た。

 ディケイド龍騎の背後に宿る龍の姿。存在しないドラグレッダーを幻視する。闇の中に映し出された幻影か、あるいはミラーワールドの法則がもたらした鏡像なのか。そんなことを考えるまでもなく、ドラグクローの口に灼熱の炎が灯された。

 

 さながら実物の龍騎がドラグレッダーと共に業火を放つかのように。ディケイド龍騎はその場にドラグレッダーそのものを伴わず、ドラグクローの咆哮によって激しい炎を放ったのだ。

 吐き出されたドラグクローファイヤーは火球となりて、咄嗟に両腕で防御するクウガを襲う。

 

「うわぁああっ!!」

 

「五代さんっ!」

 

 激しい爆炎を上げて吹き飛ばされる五代を心配して見やる霊夢。如何にクウガの装甲が強靭とはいえ、ドラグクローファイヤーは込める力次第では並のミラーモンスターを一撃で屠り得るほどの火力を秘めている。ダメージを最小限に抑えても、すぐには立ち上がれなかった。

 赤黒く煤けた装甲を押さえる余裕さえない。これほどの激痛を覚えたことがないわけではないのだが──何より不気味なのがあまりの敵意の無さだ。不気味なまでに親しげで、これほどの一撃をぶつけてくるのに、仮面の下には柔和な笑みすら感じさせる。

 

 闇を照らす炎は瞬く間に消え失せる。ただ無辺の妖気だけが満ち溢れたこのスキマ空間に、炎が燃え移るものなど何もない。

 霊夢はなんとか膝を着いて立ち上がろうとする五代に駆け寄る──ことはせず。紫の思惑通りに行動するというのは癪ではあるが、このままではただただ無為にこちらが消耗するだけだ。ならばせめて、少しでも紫の自由を奪ってやる他にない。

 不幸中の幸いか、五代は先ほどの火球で後方に吹き飛ばされている状態。今なら持ち得る最大の霊力を込めたスペルカードを発動しても、彼を巻き込んでしまう危険性はないだろう。霊夢は紫がドラグクローファイヤーを放った直後の隙を突くように──ありったけの霊力を解き放った。

 

「……神霊! 夢想封印!!」

 

 無辺の闇は再び眩く照らされる。霊夢は自身の十八番たる夢想封印を最大限に活かし、その誘導性能と威力を純粋に強化した【 神霊「夢想封印」 】を紫に放つ。

 湧き上がる霊力の光球は霊符「夢想封印」の比ではなく、巨大で雄々しい。相応の霊力を消費することになるが、威力もそれだけ増しているのだ。ディケイド龍騎は迫る輝きを見て一歩たりとも動かず、緩やかな光球の接近をただ見やる。

 

 霊夢は見逃さなかった。ディケイド龍騎の赤い指先が再びライドブッカーへと伸びるのを。自ら放った神霊「夢想封印」の光球、七つの輝きの隙間からそれを見たが──

 すぐに紫は手にしたカードをドライバーへと装填する。彼女は知っているのだ。長らく見守ってきた霊夢のスペル。夢想封印という弾幕に対して、回避や逃走は時間稼ぎにしかならぬと。

 

『カメンライド』『アギト!』

 

 宣告の瞬間。夢想封印の輝きを上回らんほどの激しい閃光が闇を照らし出す。神の光たるオルタフォースの奔流はディケイドライバーの秘石トリックスターから放たれ、一瞬のうちにディケイド龍騎の姿を黄金と白銀を装う神々しき肉体へと変えていた。

 真紅の複眼を伴う頭部に突き伸びた双角、クロスホーンを展開し、紫は『ディケイドアギト』へ至ったその身でオルタフォースを纏い輝く拳を──その剛脚を振るって光球を叩き落とす。

 

「ふっ! はっ! はぁあっ!」

 

 紫自身の妖力に加え、アギトのオルタフォースをも束ねたその拳と脚は霊夢の渾身の霊力を払い退けていった。

 その対処はクロスホーンを開いていればこそ。さしものディケイドアギトとはいえ、これほどの霊力の奔流は紫の妖力とオルタフォースで強化された身でも相当の力を込めて打ち払わなければならない。最後の一つに向き合い、紫は手刀でその光球を真っ二つに寸断した。

 

「…………」

 

 すべての光球を叩き伏せ、周囲に霊力の爆発が巻き起こる。その風圧を漆黒の強化皮膚(アーマードスキン)に感じながら、紫のクロスホーンは鋭い音を立てて閉ざされた。

 夢想封印の光球を死角としていたのか。霊力が収まりゆく闇の中に霊夢の姿はない。ディケイドアギトの赤い複眼で見えぬのならと、紫はこの空間に浮かべた無数の眼から受け取る情報に意識を集中するが──

 すぐに慣れ親しんだ気配を感じる。アギトの知覚ではなく、八雲紫として幻想郷を見守ってきた感覚がゆえ。相手を蹴りつけようという意思を隠さず、それでいて妖怪でさえ受け入れ、幻想郷の住人として宴の輪に迎え入れるほどの『すべてを受け入れる力』を持つ幻想郷の要。

 幻想空想穴によって紫の背後に瞬間移動した霊夢は、飛び蹴りの要領で右脚を突き出した。

 

「せやぁあっ!」

 

 ──だが。ディケイドアギトは右脚を振り上げると霊夢の脇腹を重く回し蹴り、彼女を遥か遠くへと蹴り飛ばしてしまった。その身は霊力で強化していたものの、生身の身に破壊者たる代行者の一撃には耐え切れず、内臓が歪むほどの激痛に眩暈を覚える。

 パンパンと両手を払うディケイドアギト。先ほどまでは柔らかな笑みを湛えていたように見えた紫の振る舞いも、今では冷酷な無表情に見えてならない。──もっとも、どちらにしてもその顔は仮面に隠されているのだが。

 

 手元に現した大幣を杖代わりにして立ち上がった霊夢だが、すでにその足は震えていた。恐怖や痛みによるものではない。博麗神社での戦いからこのスキマ空間での戦いで、霊力も体力もかなり消費しており、疲労が霊夢の身を苛んでいるのだ。

 今まで戦ってきた怪物はどれも強敵だったが、なんとか倒すことができた。しかし、今だけはどうしようもない。ただでさえ八雲紫は幻想郷の管理者であり、他に類を見ない唯一無二の大妖怪である。それに加えて、いくつもの未知の戦士に変身できる手札の多さ──

 

 巫女服の上からでは視認できないが、痣になっているであろう脇腹を押さえる霊夢。茨木童子と本気の戦いを繰り広げたときにも等しい絶望感。地獄の淵にてただ一人、鬼と戦ったときにも似た死の感覚を前に、霊夢は眩む思考で目の前に立つ金色の戦士を睨むことしかできなかった。

 

「……はぁ……はぁ……」

 

 虚勢を張っているのがやっととは悟られていないだろうか。ちらりと横目で見やる五代のほうも同様であるらしい。激しい炎に()かれて傷ついた身で何とか立ち上がり構えを取っているものの、やはり彼も疲労と消耗は大きいようだ。

 ディケイドアギトの赤い複眼は霊夢とクウガを等しく見やる。その漆黒の強化皮膚にも、黄金と白銀を帯びた装甲にも、傷をつけることができなかった。

 あるいはどれだけの傷をつけたとしても別の姿に変身するだけで再構築されてしまうのかもしれない。本体を消耗させようにも中身は幻想郷でも最高位に位置する大妖怪。加えて彼女の領域と言っていいこのスキマ空間では、無尽蔵とも言える彼女の妖力がそこら中に満ち溢れている。

 

「…………」

 

 数刻ほどにも思えた一瞬の静寂。その均衡を破ったのは紫の溜息だった。この深く暗い不気味な力に満ちた闇の中、今は輝きを放っていないにも関わらず眩く感じられるほどの神々しさを纏った戦士は静かに顔を上げる。

 

「十番目の世界を破壊するために必要なのは、すべてを繋いで受け入れるだけの力」

 

 力強く雄々しいアギトの大顎からは想像もつかない美しい声。仮面の下は神妙な無表情を湛えたままに、八雲紫は真面目な口調で言葉を紡ぎ始める。

 相変わらず敵意はない。だからこそ、霊夢と五代は警戒を解かなかった。ずっと敵意のないまま攻撃を続けてきた相手に対して、構えもなく戦っていた彼女に対して。油断などできまい。

 

「……何を言って……」

 

「それに、それを実行するのは私じゃなくて、貴方よ。霊夢」

 

 五代は霊石アマダムの効果でも治癒し切れない深い痛みを滲ませた声を漏らして彼女に問うが、その言葉を振り払うかのように紫は告げた。

 呼吸を整えて手元の大幣を消し去った霊夢は震える手でお札を取り出し、紫へと向き合う。

 

「っ、私が世界を破壊するって……どういうこと? それに、十番目の世界って……?」

 

 尽きぬ疑問を思わず零すも、相変わらず紫は何を考えているのか分からない振る舞いのまま佇むのみ。だが、霊夢は真意の読めない仮面越しの表情よりも如実に語る、不気味な妖力の渦に彼女の意思を垣間見た。

 神秘的なオルタフォースさえ塗り潰すような力の奔流に、霊夢は息を飲む。幻想に疎い五代でも分かるほどの濃密な妖気を前にして、二人は軋む身体に力を込めた。

 もはや神々しき光の波動はどこへやら消し去って──そこにあるのは八雲紫の深い妖気のみ。

 

「残念だけど、質問タイムはこれでおしまい。貴方にはこう言ってほしかったわ」

 

 ふわりと持ち上げられるはディケイドアギトの左手。湧き上がる力は渦巻き、より強く昇華していき、このスキマ空間中のすべての妖力を束ねていくかのように彼女の指先へ集っていく。

 

「『だいたいわかった』……ってね」

 

 小さく呟かれたその一言。この一瞬だけ、仮面の下の口元には、先ほどまでの柔和な笑みを再び浮かべて。同時に、紫は左手の指をパチンと弾き鳴らした。

 ──その瞬間。満ち滾っていたすべての妖力が意思を持ったかの如く弾幕へと変わる。眩い光の形をしているのにも関わらず、どこか暗い闇を思わせるような。光と闇の境界を、矛盾し相反した二律背反そのものを──彼女は己が力と成して。

 

 それはかつて現実と幻想の境界を分け隔てた紫の能力。幻想郷を常識の世界から切り取った結界、その法則をいくつもの弾幕のパターンとして切り分けたものの一部である。

 今ではスペルカードとして定義されている【 結界「夢と(うつつ)の呪」 】は闇を呑んだ。このスキマ空間を染め上げるかのように、紫の弾幕は霊夢と五代の逃げ場を閉ざすかのように不気味な結界で深く覆い尽くしていく。──もっとも、この空間には元より逃げ場など存在しないのだが。

 

「夢符……!」

 

 見渡す限りの弾幕の雨。光とも闇ともつかぬそれらはただの目晦まし。霊夢は一度、その弾幕を見ている。かつて幻想郷に終わらぬ冬が訪れたとき、桜の芽吹きを白雪が覆い尽くした春雪異変の折。冥界と顕界の境界を引き直せと、彼女に文句を言いに行った日。

 思えばあの日から、八雲紫という妖怪を特別に認識し始めたのかもしれない。きっと幼い頃から博麗の巫女として会っているはずなのに、紫とはそのときが初対面だったかのように。

 

「二重結界っ!!」

 

 目の前に迫る不気味な二つの光球を視認すると同時、霊夢は残る霊力を振り絞って自身と五代を守る結界を形成した。これだけの弾幕の渦、幻想的(ファンタズム)なまでの奔流を前に、回避経験に長けた自身はともかく五代の方は結界を用いて守らざるを得ない。

 霊夢が引いたのは二重の結界だった。本来それは弾幕の軌道を誤認させる領域で相手を混乱させ射貫くために考案したものだが、四角い空間状に展開された【 夢符「二重結界」 】は紫の弾幕に対する盾とも成り得る。

 

 この結界はただ衝撃を防ぐためのものではない。光弾が接触すればそれは結界へと吸い込まれ、内側から放たれる。つまり弾幕は結界に触れた時点で向きを変えてワープするのだ。それを二重に張ることで内側から放たれた弾幕は再び外側にワープし、元の弾幕とぶつかり相殺される。

 

 こちらに向かう二つの光球。一つは夢。泡沫となりて儚く散るも、それは乱れる弾幕の雨となり見境なく四方八方に飛び散っていく。一つは現。霊夢と五代をそれぞれ捕捉し、弾けた玉の中から真っ直ぐ二人に向かって襲いかかっていく。

 それらは霊夢の結界に吸い込まれた。ただ硬いだけの盾では、八雲紫の夢幻のような弾幕を止めることはできなかっただろう。紫が霊夢の弾幕をよく知っているように、霊夢もまた、紫の弾幕をよく知っている。その向きを反転させることで相殺し続けなければ、五代雄介を守れないのだ。

 

「くっ……! 五代さん!」

 

 残り少ない霊力で何とか結界を維持する。こちらは結界の起点として前へ伸ばした両腕に霊力を込め続けているというのに、絶えず弾幕を放ち続ける紫は持ち前の妖力とスキマ空間に満ち溢れた備蓄妖力で何の負担もなく余裕そうに結界を維持している。

 誰がどう見ても、このままではジリ貧でしかない。霊力が尽き果てる前に、紫を止めなくてはならない。霊夢は五代の名を叫び、その目の合図をもって彼に言葉なく指示を出した。

 長い付き合いでもないが、意思は伝わり、五代は広がりゆく結界に沿うように疾走する。

 

「はぁっ!」

 

 霊夢の結界と紫の結界。二つの結界がぶつかり合い、弾幕の光が迸る。そんな禍々しくも美しい輝きの中、五代の拳は闇を切り裂いて突き進む。

 紫は弾幕を放つ結界を維持したまま、霊夢の結界と鍔迫り合うまま。五代に直り、その左腰からカードを取り出しては、五代の拳を受け止めるその直前、ディケイドライバーにカードを装填。

 

『カメンライド』『クウガ!』

 

 赤いレンズが映し出すのは古代リント文明において戦士を表す文字。紫にとって、ディケイドにとって。それはクウガという『仮面ライダー』を表すライダーズクレストだ。

 その身は一瞬のうちに変わる。秘石トリックスターは今だけ霊石アマダムと同質の力を宿し、モーフィングパワーによって漆黒の強化皮膚を、赤と金を彩る有機的な装甲を具現する。

 

「…………」

 

 クウガの拳を受け止めるのは腰のベルト以外まったく同じ姿をした『ディケイドクウガ』の手の平。

 五代はクウガとしての仮面の下で驚きを隠せなかった。今なお結界の外で弾幕を操っているにも関わらず、その勢いを緩めることなく反応してみせたことに対して。殴りつけた手の平が、まるで柔らかい布団でも打ちつけたかのような不自然な手応えであったことに対して。

 そして何より──自身と同じクウガの姿にまで、こうして変身してみせたことに対して。

 

 その一瞬が明確な隙となった。紫は五代を回し蹴りで吹き飛ばすと、またしても左腰のライドブッカーからライダーカードを取り出す。それは今まで用いてきたカードとは意匠が違う。戦士の顔が描かれているわけでも、戦士の技や武器が描かれているわけでもない。

 そこには、ただクウガの紋章が描かれていた。青い背景に金色を飾るように古代リントの戦士の文字。クウガのライダーズクレストだけが雄々しく刻まれている。

 

 五代は蹴り飛ばされた先ですぐに立ち上がって構えた。まるで鏡でも見ているかのような相手の姿に対する違和感に慣れない。ディケイドクウガはそんな五代の様子も気にせず、手にした一枚のライダーカードを手に掲げてみせ、お互いの真紅の複眼(コンパウンドアイズ)を見合わせるように真っ直ぐ向き直る。

 

「──ディケイドに、物語があってはいけないの」

 

 小さく呟いたその言葉の意味は五代にも霊夢にも理解できない。紫はディケイドクウガとしての黒い指先で掴んだままのカードを開いたディケイドライバーに投げ込むように装填した。

 

『ファイナルアタックライド』

 

 その動きを見届ける前に、五代は腰を落として両腕を広げる構えを取る。そのまま焼けつく熱を右足の裏に感じつつ、霊石アマダムから送られる力を右脚に集中させながら夢と現の境界に渦巻く弾幕の中を、滾る熱の痛みを右脚に受けては力強く駆け抜ける。

 

 紫はディケイドライバーに右手を添えた。その瞬間から弾幕を途切れさせたのは、目の前に迫る戦士の姿を恐れたからではない。ただ五代雄介という男に向き合うため。

 紫が維持していた弾幕と結界が消えると同時、霊夢の霊力も尽き果て倒れる。二つの結界は共に消滅し、そこには妖力と霊力の残滓、そして湧き上がる二人のクウガの力の波動のみが残った。

 

『ク ク ク クウガ!』

 

 閉じられたディケイドライバーが奏でるは破壊の宣告。ディケイドクウガに向かって走り抜ける本来のクウガと同様、紫は秘石の力から生み出されたエネルギーが己の右脚へと収束していくのを感じながら。すべての戦士にそれぞれ宿る『ファイナルアタックライド』を切る。

 ディケイドクウガは五代雄介ではない。そこに疾走は要らず、右足の熱でもって足元の闇を照らすのみ。迫り来る本来のクウガ──五代雄介が戦士クウガの戦い方に加えた、2000の技の一つ。助走による空中前転などは、八雲紫の中にはない。

 

 五代は闇を蹴り上げた。そのまま両脚を抱え込みながら、慣れた動きで空中前転を挟んで。その遠心力と助走の勢いを織り交ぜた速度のまま、ディケイドクウガに右脚を突き伸ばす。

 紫もまた、その場から闇を蹴って跳躍。五代に向けて右脚を伸ばし、その蹴りに向き合った。

 

「おりゃああああっ!!」

 

「はぁぁあっ!」

 

 流星の如く蹴り迫る五代(クウガ)のマイティキックに打ち合わせるように、八雲紫(ディケイドクウガ)のマイティキックが宵の明星の如く明け昇る。

 その輝きは金色。西の空へ光を灯すように、五代の前方には──夜が降りてくる。

 

 接触。それは一瞬。クウガの右脚とクウガの右脚。マイティキックとマイティキック。まったく同質の封印エネルギーを帯びたその一撃が、お互いの右脚を鋭く蹴りつけた。

 その衝撃は凄まじい風圧となって周囲の妖力を掻き消すように炸裂。おびただしくひしめいていた目玉も、霊力の残滓も。封印エネルギーの奔流は五代と紫を中心としてこの空間に迸る。

 

「…………っ!」

 

 倒れた状態でそれを見上げる霊夢は思わず顔を背けた。同じ力同士が反発しているのか、二つの封印エネルギーは対消滅を起こすように一面の闇を真っ白に染め上げ──

 夢と現の呪。幻と実体の境界。霊夢の意識は夢幻泡影の如く。五代と共に闇の中へ霧散した。

 

「少しやりすぎでは? 貴方らしくないですね」

 

 虚ろに漂う真っ白な意識の中、誰かの声が聞こえた──ような気がした。今が夢なのか現実なのかも分からぬ曖昧で空虚な微睡(まどろ)みの中では、それが誰かは分からない。

 自分は今どうなっているのだろうか。たしか闇の中に倒れ伏していたはずだったが、何か柔らかいものに包まれているような、揺り籠に眠るような安らぎと共に、懐かしい匂いを覚えた。

 

「なりふり構っていられなくなりまして。それより、そちらの様子は如何(いかが)です?」

 

「問題なく維持できています。でも、本当によろしいのですか? あまり時間はありませんよ」

 

「ええ、私たちの計画に変更はありません。此度(こたび)のご協力、改めて感謝いたしますわ」

 

 もはや二人の会話は霊夢の耳には届いていなかった。五代も同様に深い意識の深淵に誘われてしまっており、紫と誰かの声は聞こえていない。

 幻想郷の管理者たる八雲紫は、また別の世界を管理する妖怪の女性に礼を述べた。紫らしからぬ真摯な敬意を込めた振る舞いと共に、ディケイドライバーのバックルを開いてはモザイク状に歪む光を伴って──ディケイドクウガの姿から柔らかなドレスを纏った生身へと戻る。

 

 白と黒を丸く彩った衣服に身を包んだ女性に向き合っては(したた)かに微笑む紫。対する女性は長く膨らんだ赤い帽子を満たす己が紺碧の髪を撫でながら、溜息をついた。

 不服そうにむにゅりと歪められた口元は、それがあまり好ましくない手段であると物語る。

 

「長い夢は精神を蝕む。夢と現の境界を操られるのは困りますが、今は認めましょう」

 

 左手に持った青い本を開き、その内容に目を通しながら。女性は致し方ないと言った様子で紫に告げた。紫とてそれはすでに承知している。彼女としても幻想郷を危険に晒すような真似は可能な限り控えたかった。

 秘神を名乗っているくせに目立ちたがりで手段を選ばない、あの賢者とは考え方が違う。だが、どちらかといえば穏健派で事なかれ主義の紫でさえ、今はこの方法しかないと判断した。

 

「……それでは、良き現実(ゆめ)を」

 

 紫に背を向けるように振り返っては、ふわりと揺れる赤い帽子。女性の長い髪を収めたそれは、まるで尻尾を思わせるように後頭部から伸びている。

 それとは別に本来あるべき場所に持っている、牛のそれに似た尻尾を揺らして。目の前の空間にスキマじみた歪みを広げ、女性はその彼方の不気味な世界──観覧車や西洋風の城の影に彩られた場所へと歩んだ。

 

 霧散するように裂け目は消えてなくなる。残された紫はスキマを広げて二つのハンモックを作り上げると、すっかり眠ってしまった霊夢と五代を寝かせて再びスキマの中へ。

 あとは彼を呼び起こすだけ。必要な条件は全て整った。あの青年が手筈通りに動いてくれれば、このマゼンタ色の物語は真実を写し出すだろう。

 

 色の三原色の一つ、()()の境界。本来は紫色とされる領域も、光の中ではマゼンタと呼ばれる色となる。それは赤と紫を混ぜ合わせたような色彩であり、すなわち赤は霊夢、紫はその名の通り八雲紫を表す色であるのだ。

 赤を人間とし、紫を妖怪とする、人間と妖怪の境界。そしてマゼンタとは、脳が補う光の波長によってのみ存在する色。可視光には『存在しない』色であり、幻想の色に他ならない。

 それでも紫が(うつつ)の色としてそれを見るのは──全てを受け入れる彼女(あかいろ)を信じているがために。




絶対すべての仮面ライダーにカメンライドする必要なかったですよね。でも書きたかった。

ディケイドといえばつい先日、よく似たゴージャスな仮面ライダーのベルトが発売されましたね。
ベルトの裏に2009って書いてあったけどライドケミーカードを使ってるので令和ライダーだ。

次回、第64話『幻想大戦』


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【 ネクロフォトグラフ 】
第64話 幻想大戦


A.D. 2009 ~ XXXX
それは、遥かなる旅路の物語。

全てを破壊し、全てを繋げ!



 音楽、時間、正義、明日、運命、夢、願い、居場所、笑顔。九つの物語は一つの幻想へと束ねられ、揺らぐ境界の中に新たなる物語を紡ぎ、終わりなき十番目の物語と一つになる。

 それは彼の物語。破壊から生まれる創造を担うだけだった戦士は、旅の途中に星を見た。

 

◆     ◆     ◆

 

 ──博麗霊夢の目の前には、ただ無辺の荒野が広がっている。それを夢だと認識できたのは、確かに記憶に残った光景、紛れもなく見覚えのある地獄絵図であったがため。

 今ならば分かる。凄惨な戦いに身を投じる戦士たち。そのどれもが仮面を装い、超常的な波動を纏っている。彼らが幻想郷に招かれた『仮面ライダー』なる存在だと。九つの物語に定義された、導かれし戦士たちなのだと。

 

 一度はすでに目にした殺風景な断崖の荒野。それゆえか、その熾烈な戦いの渦中、霊夢は巻き込まれることなく冷静な視点でその光景を俯瞰することができていた。

 見渡す限りの争いは確かにそこに。九つの物語、その法則を由来とする戦士たちの数は、とても数え切れるものではなかった。招かれた戦士たちは九つの物語ゆえに九人だけではなかったのか。その物語に名を連ねる仮面の戦士たちは、一つの物語につき一人というわけではなかったのか。

 

「……っ!」

 

 紅蓮の龍が吼え立てる。霊夢自身も現実で目にしたことのあるそれは、鏡映しのようによく似た漆黒の龍と共に、ただ一人構えもなく立ち竦む『それ』に牙を剥く。

 交差する烈火が破壊者を焼き尽くした。そう思った刹那。爆ぜ散る炎を掻き分け、マゼンタ色の輝きが二匹の龍を同時に貫く。もはや物言わぬ屍と化したそれが横たわり、燻る煙は晴れて。

 

「ディケイド……」

 

 知るはずのないその名を思わず零す。逆光に佇む悪魔の姿は、ただ一度だけ夢の中で目にしただけのもの。今この目で見ている景色も明晰なる夢。それを自覚した上で向き合うものの、なぜか幾度となくあれを見ているような気さえする。

 額には深い紫色の輝きを湛え、緑色の複眼は鋭く歪み、世界を憎悪の眼で睨めつけるかのようなおぞましい想念。霊夢は数多の屍が並ぶこの荒野にてそれを見た。

 

 激情。絶えず湧き上がる怒りと悲しみの衝動。かの破壊者から感じられるのは、ただそれだけ。腰に宿す白いベルトこそ紫が身に着けていたものと同じだが、あの戦士に変身しているのは決して彼女ではない。

 いったい何に突き動かされているのだろう。あの戦士は、何のために生まれたのだろう。霊夢の思考は虚ろで曖昧な夢幻に染まり。やがて真っ白な光に包まれ、現実の世界に戻されていった。

 

◆     ◆     ◆

 

 ──ここは、九つの世界のいずれでもない場所。すべての物語を排斥し、否定する。幻想の悉くを拒み捨て去った、常識と現実の世界。

 十番目の世界ですらないそこは、結ばれたすべての世界の中で唯一。妖怪たちの存在を受け入れ肯定する非常識の楽園──『幻想郷』を有する世界である。

 

 本来、仮面ライダーの物語を持つ如何なる世界とも結びつくはずのなかった世界。交わるはずのなかった境界。ただ現実と幻想のバランスを、常識と非常識の秩序を幻想郷と共に守ってきた天秤。それは今や幻想郷を基準とし、九つの物語に由来する法則が接続されてしまっている。

 

「…………」

 

 八雲紫は冷たい夜風にドレスを揺らし、ただ名もなきビルの屋上に佇んでいた。

 彼女が愛した幻想郷は、この『外の世界』がなければ成立しない。この世界で否定された幻想が、幻と実体の境界を超えて幻想郷へと招き込まれる。そして外の世界で忘れられ、幻想となっていくほど幻想郷での妖怪は存在を肯定される。

 

 十番目の世界の理。ディケイドライバーに残る因果の欠片を伝い、九つの世界の仮面ライダーを招き入れた。それを楔として打ち込み、九つの物語を幻想郷に繋ぎ留めた。

 その影響で楔に引き寄せられた元の世界は幻想郷へと引き寄せられるだろう。外の世界に九つの世界が融合を始めれば、やがて世界は対消滅を始め、滅びの現象によってすべての世界が滅び去ることになる。

 紫はその影響のすべてを幻想郷に受け入れた。外の世界という基盤を失ってしまえば幻想郷は存在できない。博麗大結界を蓋として、滅びの影響をすべて幻想郷に閉じ込めたのだ。

 当然、そんなことをすれば世界一つ分の滅びを幻想郷が担うことになってしまうのだが──

 

「……幻想郷はすべてを受け入れる。それはそれは残酷な話ですわ」

 

 愛しき楽園(せかい)に刃を向ける。その覚悟はすでにできていた。紫は自ら招いた戦士たちと、幻想郷に名立たる人間たち。妖怪たちの力を信じ、無力な外の人間を危険に晒すことなく幻想郷の中だけで処理しようと、世界と世界の境界を捻じ曲げて幻想郷に接続した。

 外の世界以外からやってくる者たち。オーロラを超えて現れる者は紫の結界に阻まれ外の世界に出ることはできなくなっている。こちらの因果を訪れるには、まず幻想郷にしか出られないように細工をした。

 

 幻想郷にも無力な人間はいる。里の人間たちは一人残らず結界で包み込み、彼らに気づかれぬうちにとある方法──かつて月の都の者たちが幻想郷に移り住もうとしたあの異変の折、月の賢者が取った方法と同じやり方で里の人間を別の場所に保護した。

 あらゆる者の夢を管理するあの妖怪の女性は、同じ一つの世界の管理者として八雲紫も尊敬している。彼女に頼むのは月のやり方に倣うようで癪だが、これが最も合理的な方法だったのだ。

 

「感謝する。八雲紫。これでようやく、九つの物語を束ねることができた」

 

 不意に吹き込んだ風は紫のドレスを優しく揺らす。振り返った彼女が見たのは、自身のスキマと同様に境界を超える灰色のオーロラ。怪人ならぬ身でその力を行使し自在に操って別世界から姿を見せたのは人間の男だった。

 ベージュ色のコートと、同じ色のチューリップハットを身に纏い、年代物の眼鏡から覗く双眸は純粋な妖怪である八雲紫の姿を見ても臆することなく。男はそのままビルの屋上を歩み進む。

 

「やはり貴方の仕業でしたのね。もう少し私たちのことを信用してもらいたいですわ」

 

「差し出がましかったかな? そちらの仕事が少しばかり遅いと感じたものでね」

 

 紫が微かに不快そうな表情を浮かべたのは男の存在に対してか。あるいは幻想を否定し排斥する外の世界の風がゆえか。男の顔に不躾な一瞥を向けると、すぐにビルの屋上から一望できる冷たい現実の世界。煌びやかな夜景へと視線を向けた。

 あそこには多くの人間たちがいる。妖怪の存在を信じず、過去の遺物と忘れ去った者たち。それでも彼らの否定があってこそ幻想郷は幻と実体の境界を用いて妖怪を肯定する。外の世界の人間が滅びれば、幻想郷もまた滅亡を迎える。ただ結界で隔絶された、地続きの世界がゆえに。

 

「…………」

 

 本来は交わるはずのなかった世界と世界。仮面ライダーが存在する世界とは、それこそ縁もゆかりもなかったこの世界に。楔を打ち込むという形で()()()を結びつけることができたのは、様々な世界を渡る旅人だというこの男から受け取った『座標』のおかげだった。

 男は紫にこう伝えた。いずれディケイドという存在がすべての世界を破壊すると。ディケイドの存在が世界と世界を結びつけ、世界同士の融合による対消滅という形でいくつもの世界を滅びへと導くと。

 

 ただ話を聞いただけであればくだらない与太話と一蹴していたかもしれない。それが男の謳う虚ろな幻想ではないと理解できたのは、紫も外の世界に及ぶ影響を見てしまっていたから。今でこそ自身の能力で進行を食い止めているものの──その変化は確実に。

 かつて、とある世界に起きていた滅び。ビルや空が、街が。オーロラに飲み込まれる形で消滅を始めていたのだ。

 

 男はこう言っていた。この世界の滅びは世界融合の余波によるものに過ぎぬと。十番目の世界に結びつこうとしている九つの世界の影響力が強すぎて、関係のない世界までもがその潮汐力に耐え切れず崩れ去ろうとしているのだと。

 その支えとなる柱が仮面ライダーであるらしい。仮面ライダーのいない世界は融合の余波に耐え切れず、近い座標にある世界から少しずつ滅んでいくのだとか。

 世界の座標など観測しようもない。宇宙さえ世界が内包するものだ。その外側からの観測など、それこそ人が想像し得る神の御業に等しい。紫にさえそんな芸当は不可能である。

 

 紫は男から受け取った一枚のライダーカードが持つ理を辿り、無数の世界を旅していた門矢士に接触。彼が持つディケイドライバーを手に入れ、さらにその情報から九つの世界へ赴き、幻想郷にすべての世界の柱となる仮面ライダーを楔として幻想郷に打ち込んだ。世界を融合させるのではなく、世界に刻まれた『法則』だけを取り込んだ。

 柱たる楔を失った世界は潮汐力に耐え切れず崩壊するだろう。されどただ滅び去るだけであればそれを復元することは可能だった。幻想郷に招いた九人の戦士たちの物語、九つの物語を幻想郷に記録し、それぞれを幻想とすることで、幻想郷そのものに彼らの物語を覚えさせ、特異点となった幻想郷の記憶はすべてが終わった後に世界を再生させるはずだった。

 

 だが、九つの世界は紫の予想とは異なる消滅を遂げた。繋げたはずの道は閉ざされ、融合による対消滅ではなく、一つの世界が九つの世界を纏めて取り込んでそれらを吸い上げたとしか思えないような奇妙な状態になっていた。

 男が言っていたものとは大きく違う。彼は自分にも想定外だと言っていたが、どうにも信用しがたい。彼は世界法則の統合、楔の誘致に関して、紫に一任すると言っていたはずなのに。どういうわけか九つの世界に由来する仮面ライダーの力を幻想郷の住人に与えていたらしい。

 紫の意図しないところで世界の接続が加速していたのもそのためか。楔を招く前の世界がすでに繋がっており、その世界の怪人が先に現れていた理由か。

 接続が遅いというのであれば、先んじて楔を呼び招けばいい。それなのに、なぜあえて世界の柱ではなく変身に用いるための道具ばかりを掻き集め、幻想郷の者に与えていたのだろうか。

 

 未だに分かっていないのはこの男の腹の内ばかりではない。そもそも世界と世界の融合とは紫も観測したが仮面ライダーの世界における話である。仮面ライダーとは縁もゆかりもない幻想郷および外の世界には何の影響もないはずだ。

 ありとあらゆる因果に開かれた無数の並行世界には実際にほとんど影響はなかった。あったとしても、それはやはり仮面ライダーにまつわる世界ばかり。関係のない世界には当然何も起こってはいなかった。

 なぜこの世界だけが局所的に潮汐破壊の影響を受けているのか。紫はこの男がこの世界に来たことが原因かとも思ったが、紫の観測ではこの世界の滅びの現象はそれ以前から起きている。ならばなぜ? 何の関わりもないはずのこの世界の座標を、いったい誰がどうやって掴んだ?

 座標に関して言えばこの男も同じ。彼はいったいどうやってこの世界の座標を見つけたのか。

 

「信用してもらいたい……か。それはお互い様だろう。いったい何を企んでる?」

 

「その言葉、そっくりそのままお返ししますわ」

 

 眼鏡の奥から覗く男の双眸は不信感を隠す素振りもなく紫の胡乱(うろん)な微笑を睨みつける。彼女にとって、そういった目で見られるのはいつものこと。ただ揺蕩う雲の如く振る舞い曖昧で不安定な境界の中に佇む紫色に、真の意味での信用などは必要ない。

 信用されているのはあくまで八雲紫という大妖の実力と行動だけ。それは幻想郷の中においても変わらないのかもしれない。

 あるいは紫にとっても同じことなのか。自らが組み上げ操る式神でさえも道具の一つでしかない。部下として信用し扱うのではなく道具として使役する。そうあったほうが正しく彼女らは機能する。八雲の名を与えた九尾の狐でさえ、紫個人ではなくその能力を信用していた。

 

 ただ一人。紫が信頼するのは大結界を担う紅き巫女。そして彼女もまた、紫の在り方を無意識のうちに信頼している。紫の行うことの正しさ、誰よりも幻想郷を愛し、幻想郷のために動いている紫の意思を信じているのは、ただ己が勘を信じているに過ぎない。

 互いにシステムに対する信頼でしかないのか。八雲紫は幻想郷の管理者権限(アドミニストレータ)として。博麗霊夢は幻想郷の防衛機構(ファイアウォール)として。それでも、ただそんな言葉だけは語れぬ、幻想的な繋がりの中で。

 

「……まぁいい。回収したディケイドライバーをこちらに渡してもらおう」

 

 男は紫に手を差し伸べた。その手が求めるのは十番目の世界の楔として存在するべき男が用いた破壊の力。ディケイドという『悪魔』の仮面をもたらすもの。

 ディケイドライバーはかつて世界を掌握しようとした秘密結社が造り出した、次元さえも破壊し創造するだけの力を秘めた究極のベルトだ。男にとって、如何に世界の完全なる融合を阻止するためとはいえ、それだけ危険なものを得体の知れない妖怪に預けておくのは不安なのだろう。

 

 紫が懐から取り出したのは白い楕円に透明のレンズを宿したバックル。ディケイドライバーは彼女の手に。されど、彼女は妖艶な笑みを浮かべるばかりで男にそれを渡すつもりはない。

 すぐさまビルから見える夜景へと振り返ると、紫はそれを街に向けて放り投げた。虚空に生じた裂け目はその切れ端にリボンを結んだスキマの深淵となり、ディケイドライバーはその境界の中に吞み込まれる。

 

 ディケイドライバーを呑み込んだスキマはそのまま消失してしまう。紫は湛えていた微笑を夜の闇へと消し去り、ただ静かに吹きゆく外の世界の冷たい風をその身に感じながら。

 揺蕩い揺れるドレスの裾。紫色の衣を隠す黄金の長髪を男に向けたままの状態で佇んでいた。

 

「……ディケイドに与するというのか?」

 

 男は明確な苛立ちを込めた視線で紫の背中を睨む。彼女へ詰め寄ろうと一歩を踏み込んだ瞬間、男の正面──紫の背後には空間を歪めるほどの妖力の渦が具現した。

 それらはすぐに二つの妖獣を象り、捻じれた境界は瞬く間に外の世界の風に消える。

 

 紫と背中合わせになるように男に向き合うは二体の式神。一体は紫によって直接の構築をもって組み刻まれた式を持つ最強の妖獣、九尾の狐。八雲藍は袖を重ね合わせた拱手の姿勢で立ち構え、溢れる絶大な妖力を収めることなく男を睨んでいた。

 その隣に構えるは藍の式神だ。紫によって構築された式ではないため、八雲の姓を与えられてはいないが、最強の妖獣たる九尾の妖力を供給されているその身は並みの妖獣を優に凌ぐだけの力を秘めた化け猫、橙である。

 

 藍は袖の中から不死なる鳳凰の意匠が象られた茶褐色のカードデッキを取り出した。橙は懐から冴える白虎の意匠が象られた群青色のカードデッキを取り出した。

 どちらも龍騎の世界の法則に由来する仮面ライダーの力。されど楔となるべき戦士のものでも、男が与えたものでもない。茶褐色のものは神崎士郎の残留意思によって託されたライダーバトルの舞台装置であり、群青色のものはミラーワールドを観測するため、紫が橙へと与えたものだ。

 

「二人とも、下がりなさい」

 

 紫は背を向けたまま小さく口を開く。その意思により藍と橙はデッキをしまうが、向き合う男を威圧するオーラは収めることなく数歩下がって紫の傍らに控えるように立つ。

 生身の人間であるはずの男にとってこれほどの妖怪を二人、それも仮面ライダーとしての力をも加えた相手に。──橙こそは未熟かもしれないが。

 本来ならばその底知れぬ圧力に身を竦ませてもおかしくないだろうに、男に恐怖の表情はない。それどころか彼は二体の式神を品定めするかのように一瞥すると、すぐ紫に視線を戻す。

 

「そう睨まないでくださるかしら。言ったでしょう? 私には秘策がありまして」

 

「博麗の巫女……か」

 

 ゆっくりと振り返りつつ静かに語る紫の言葉には強い自信が感じられた。虚ろで曖昧な雲の中、ただ彼女の話をしているときだけは、その紫色の雲間に光が差す。

 男もその口調には揺るぎなきものを感じたのだろうか。未だに不信感は拭えていないようだが、先ほどまでの研ぎ澄まされた猜疑心を収め、彼女が語る計画の危うさを憂う素振りを見せる。

 

「……決して忘れるな。ディケイドは世界を滅ぼす。すべての仮面ライダーを。そして、やがては八雲紫をも、博麗の巫女でさえも滅ぼすのだ」

 

 男は伏せた視線を今一度、紫へ戻し。強い口調で警告すると、吹きゆく風にベージュ色のチューリップハットを押さえ、背後に灰色のオーロラを出現させては後退していく。

 ゆっくりとそのオーロラに溶け消えていく男の姿は見えなくなる。ディケイドライバーを回収しようとしていたのは紫への不信感の現れでしかない。その気になればオーロラを駆使してスキマに干渉できたが、そうはしなかった。

 

 もしも紫がディケイドの力を制御し切れず破壊の影響を受けるのであれば、もはや協力関係など必要ない。そう判断して今は紫のもとに預けておこうと判断したらしい。

 灰色のオーロラが少しずつ消えていくにつれ、藍と橙は張り詰めていた妖力の緊張を解く。

 

「紫様、十番目のあの男も、楔? として招き入れるんですか?」

 

「ちょっと違うわ。彼にはもっと大切な役割があるの」

 

 先ほどまでこの場にいたベージュのコートを着た中年の男と同様に十番目の世界の法則を宿した男について、橙は紫に問うた。

 厳密に言えば、どちらも十番目の世界の住人というわけではない。どちらも世界を超える旅人、世界間旅行者の性質を持った特殊な存在であり、特定の世界を拠り所としない。それでも必ず己の生まれ故郷と呼べる世界があるはずだが。

 

 一人は自分の世界を『ディケイドの世界』と定義され、居場所を失った。されど旅人たる自身の意思で、どの世界も自分の世界でないのならどの世界も自分の世界であるのだと。自らの居場所をすべての世界に見出し、あらゆる世界を旅する存在としての自分を受け入れた。

 一人は自らの存在さえも曖昧にして、すべてを破壊するディケイドの存在を憎みあらゆる世界を旅してその災禍を伝えて回った。なぜ自身がディケイドを憎悪するのか、その理由さえ虚ろな帳に覆い隠して。

 

 十番目の男の名は、門矢士。そしてそれを追い続けるは先ほどまで紫と対話していた男、ディケイドの力を憎み糾弾し続ける謎の存在── 鳴滝(なるたき) という男。

 紫の計画でクウガからキバまでの世界を繋ぐ楔、九人の仮面ライダーは幻想郷に呼び込めている。そして十番目となるディケイド、門矢士は今なおスキマの中。万物の境界たるそこは幻想郷と外の世界の狭間であり、その法則は未だ幻想郷の結界の中に接続されてはいない。

 もっとも、ディケイドの法則など存在しないに等しい。仮面ライダーディケイドが宿す十番目の法則とはすなわち破壊の法則。とある男が語った通り、すべての世界において創造は破壊からしか生まれない。そのための破壊を代行するのが、ディケイドという存在である。

 九人の戦士たちが結んだ九つの物語、それらの法則や因果さえ悉く破壊してしまう恐るべき力。だが、その力は──上手く扱えば『真なる十番目』に対抗する唯一の手段となり得るだろう。

 

(くさび)とは仰いますが……世界を繋ぎ留める目的であれば(かすがい)(くさり)の方が適切では?」

 

 紫の言葉に首を傾げる橙の不理解とは裏腹に、拱手の姿勢を崩さず口を開いた藍は元より備えた九尾の狐としての遥かな知性により紫の言いたいことを瞬時に理解する。だが、橙も口にしたその言葉、ただ『楔』という表現には微かな違和感が残っていた。

 彼女らに与えられるのは行動指針と妖力の供給のみ。あくまで命令だけが資本であり、主が何を考えているのかまでは知らされない。だからこそ、藍や橙は自らの思考によって主の求めるものを正確に把握しようと試みるのだ。

 日本語としての楔とは『楔を打ち込む』という形で用いた場合、物と物を割り砕いて分離させる意味を持ち、転じて誰かと誰かの仲を引き裂いたりするときにも使う言葉だ。

 

 藍の疑問もまた、紫にとっては想定内のこと。正しく言葉を認識しているがゆえに、自身の得意分野である計算以外の分野においても正しい疑問を持つことができる。

 小さく微笑みを浮かべた紫は自身に絶対の信頼を置いてくれる藍を見つめ返した。彼女に命じた通り、八雲紫という個人を妄信するのではなく、自身が本当に認めた者の実力と行動だけを信用に足るか否か判断しようとしているのだろう。

 その問いに答えるために紫は静かに口を開いた。現代日本の技術によって栄えた大都市の一角、澄み切った幻想郷の夜空とは違い、月も星も微かに虚ろに朧に染まった冷たい空を見上げて。

 

「統合と分離。接続と断絶。創造と破壊。それはまったく逆の意味と機能を併せ持つ」

 

 藍の言いたいことは理解できる。敵勢力の二分や、仲を邪魔する。分断の意味ばかりが目立ち、木々を圧迫して固定するという接続の意味合いはあまり強くない楔という言葉。なぜ世界を繋げる役割を与えた重要な存在に、そのような曖昧な呼び名を設けたのだろうか。

 

 紫にとって、それは彼らが『境界』であることの保障に他ならない。幻想郷に呼び込んだ九人の仮面ライダーたち。それは幻想郷に九つの世界の法則を繋ぎ留め、幻想として宿し刻みつけておくための『創造』の楔でもあり──

 やがて来たるべき時にはその繋がりを打ち砕く。さながら十番目の法則のように『破壊』の楔の役割をもその名に込めて。

 紫はいつも通り深い雲のように曖昧な言葉でふんわりとその意図を伝えると、自らの胸の前にそっと差し出した掌に小さな光弾を灯しては、妖力の塊たるそれに矢尻めいた形を与える。

 

「それに、楔ってなんだか弾幕の形に似ていて素敵でしょう?」

 

 あるいは鱗のようにも見える輝きは、まさしく小さく鋭い三角形を模した楔の形。多くの少女たちが交わし合ってきた、幻想郷流の美しき対話。弾幕を構成する光弾の中でも特に普遍的な種類のそれは、藍もよく使う形状である。

 たとえ交わらざるべき仮面ライダーたちの世界と向き合おうとも、幻想郷は幻想郷の在り方で。創造と破壊の境界。そして弾幕に似た形を持つ呼び名。

 紫が九人の戦士たちに、そして()()()()()()()に託したのは──彼女なりの誇り(プライド)なのだろう。

 

◆     ◆     ◆

 

 幻想郷の境界。それは幻想郷でもあり外の世界でもあるが、結界の中という意味においてどちらにも属さないと言える場所。広義で言えば八雲紫のスキマ空間もそう呼べる。しかし、この場所はスキマ空間のような不気味でおぞましい闇に包まれてはいなかった。

 方角で言えば幻想郷の(うしとら)だろう。ここには博麗大結界、そして幻と実体の境界を統べる結界の管理者──巫女曰く「私と仕事が被ってる」と言える妖怪の賢者が住んでいる。

 

 ──八雲邸。便宜上そう呼ぶべきこの屋敷は、物理的に存在しているかさえ定かではない。

 

「……う……ぐっ……」

 

 赤いセーターの上から黒いコートを纏った青年は屋敷の居間にてその身を起こす。現実と幻想の境界。世界と世界の狭間。続く旅の最中に様々な戦いを経験してきたが、青年にとってあの一瞬は思考すら許されぬ混沌であった。

 短く切り整えられた茶髪越しに頭を押さえ、清潔な布団の上から起き上がり、瞳を開けて周りの景色を確かめる。されど、彼──門矢士はその光景に心当たりがない。

 古めかしい和風建築の家。豊かな自然に彩られた庭。加えて、現実味のない空の虹霓(こうげい)──

 

「……ここは……どこなんだ……?」

 

 コートを着たまま布団に寝かされていたというのも気が利かないもんだと眉をひそめながらも、首から提げていたマゼンタ色のトイカメラまでもがそのままという点には少しだけ安心感を覚えつつ。士は縁側に丁寧に置いてあった自前の革靴を履き、八雲邸の小さな庭へと出る。

 

 頭痛がひどい。自分がなぜここにいるのか思い出そうとすると、脳裏に鋭い閃光が走るような痛みを覚える。まるで自分があの日の旅路、最初の一歩を踏み出す前のことのよう。すべてを失い、記憶や役割さえも失くしていたあの頃のように。

 幸い、あのときと違って自身の過去に関するすべての記憶を失っているわけではない。しっかりと思い出せるのだ。長い旅路。友と、仲間と。世界の崩壊を止めるべく始まった、あの旅を。

 

「…………」

 

 門矢士はとある世界に生きた普通の人間であった。ただ一つ、常人にはない力。さながら八雲紫の能力の一部にも似た、世界と世界の境界を超える力──『世界を旅する力』とでも呼び得る力を持っていたという点を除いて。

 最初は並行世界を観測できるようになった妹の見た景色に触れたことから始まった。だが、妹は士とは違い、両親を失った恐怖から境界を超えることはできなかった。

 やがて士は別の世界を旅することを楽しみ始めた。裕福な家庭に生まれつつも家族の愛を受けられず、どこまでも孤独を感じていても。異なる世界への好奇心がその寂しさを忘れさせた。小さな箱庭を飛び出して、大鷲が如き翼で旅立てた。

 妹を自らの世界に置き去りにして、さらなる寂しさを与えていたことに気づかずに。

 

 士はその能力を見出され、世界の融合を引き起こしすべての世界を滅ぼすという『仮面ライダー』を、彼らの生きる世界を破壊するための『世界の破壊者』として召し上げられた。そうして破壊を遂行し、新たなる創造をもって秩序を維持するために。

 元より士が有していた『世界を旅する力』を利用し、融合の基準点となっていた九つの世界から九人の仮面ライダーの力を再現、ある組織は士の能力を昇華した『ディケイド』を造った。

 ディケイドとなった士はその圧倒的な力で様々な世界を破壊してきた。世界は無数に存在する。僅かな世界を犠牲とするだけですべての世界を守れるなら、それは破壊者として成すべきことなのだと自らを戒めて。

 だが、それは間違いだった。自分は利用されていたのだ。世界を掌握したいと願うあの組織によって傀儡の『大首領』として祀り上げられ、邪魔な仮面ライダーを殲滅する舞台装置を演じさせられていただけだった。士はその戦いの中でディケイドの力と、記憶をも失ってしまい──

 

 気づけばいたのは名もなき世界。仮面ライダーのいない平和な世界。そこで出会った少女の家に住まわせてもらい、歪んだ写真を撮り続けるだけの日々。

 そして、その日は訪れた。柱となるべき仮面ライダーのいない世界は他なる世界の存在の余波に耐え切れずに崩壊を遂げていく。士が仮初めの居場所としていた少女の世界──『夏海(なつみ)の世界』とでも呼べるかもしれないあの場所は、ひどく呆気なく滅びていった。

 こんなものなのか。記憶も力もない己には、世界の終わりを止める術はない。そう嘆く士が目にしたのは、少女が持っていた何か。

 崩壊の中で出会った謎の青年が言っていた言葉を思い出す。九つの世界を旅して世界を救えと。バックルとカード。それらが何を意味するのか分からなかったが──それを手にした瞬間。

 

 士の中に歴史が芽生えた。そこから先は長い旅。ただ身体が覚えている、その力の使い方だけで戦い続け。多くの世界を旅して、仲間を作り、やがては自身を鍛えた組織とも相対し。

 世界を失っても。存在さえ失っても。自分の旅は無駄ではない。ディケイドに、門矢士に物語が存在しないというなら。すべての世界を旅する歴史。その旅路こそが、門矢士の物語なのだと。

 ──これからも世界を繋ぎ、物語を繋ぐ。その答えを見つけた今の士に、迷いなどはない。

 

「気持ち悪い空だな……それになんだか変な風も吹く……」

 

 見上げる虹霓に眉をひそめる士。様相は違うが、その奇妙な光景は自身がかつて存在した夏海の世界、無慈悲な滅びの現象を思い出させた。灰色の極光と七色の虹霓。大きく異なる光であれど、意味する境界は等しい。

 首から提げた愛用のトイカメラに視線を落としてはそのファインダーを覗き込む。背面からではなく上部から覗き込む形状のそれは、レンズ越しに写す光の中、不気味な裂け目を見せた。

 

「うおっ!?」

 

 空間を裂くような闇の中にひしめくは無数の目玉。士が驚いたのはそれだけではない。裂け目の中から上半身をもたげるようにして顔を出す女性の姿を見たがためである。

 白いドレスに白い帽子。美しい金髪に紫色とも金色ともつかぬ瞳を有する女性の姿に驚き、士は思わずファインダーから目を逸らした。──が、肉眼で見ようと顔を上げても、その姿はどこにもない。

 幻だったのだろうか。そう思考する一瞬の隙間もなく、士は先ほど感じた風が全身に纏わりつく感覚を覚えた。次の瞬間にはファインダー越しに見た女性が幻想の彼方より現れる。

 あたかも自身を世界の敵と憎むあの男がそうであったのと同じように。灰色のオーロラを超えてくるかのように。その女性は何もないところから滲み現れるように、ゆっくりと歩んできた。

 

「そこの通りすがりの旅人さん。ちょいとお時間いいかしら?」

 

 現実味のない幻想的な立ち居振る舞い。人間のようにも見えるし、そうでないようにも見える。あるいは年若い少女にも、あるいは妙齢の女性にも。すぐ目の前に立っているのに、どこか遠くに立っているような気さえ感じさせる不思議な存在。

 八雲紫は門矢士に対し、初めて自ら正面立って接触した。敵意はないと示す柔和な笑顔も、深く連なる雲間の如く。士にとっても、誰にとっても、信用しがたい胡乱な在り方にしかならない。

 

「……お前、いったい何者だ? っていうか、通りすがってるのはあんただろ」

 

「あら、そこを突っ込んだのは貴方で二人目ですわ。やっぱり、相性はぴったりみたいね」

 

 士は紫から数歩後退り、自分を見定めるような不躾な視線を向けてくる不快感を隠す素振りもなく眉をひそめた。無意識のうちに再びトイカメラに手を添えると、ダイヤルをつまむ。

 

「不気味な奴だな……それより俺はどうしてこんなとこ……ろ……に……」

 

 説明のつかない不快な視線と風の中、意趣返しのつもりか女性の姿を勝手にフィルムに収めてやろうとファインダーを覗き込み、シャッターを切った瞬間。

 士の脳裏に吹き込む紫色。それは失われていた記憶というよりも、己が身にかかる負荷から深く押し込んでいたもの。長い旅路の果てに辿り着いた答え。その後に起きた二人で一人の探偵と肩を並べて戦ったあの日のあとに、次なる道を選び──

 

 光写真館の背景ロールに映し出された絵は忘れようもなかった。まさに先ほどファインダー越しに目にした深淵の境界。無数の目玉がひしめくスキマの闇。士はそこから伸びる白い手に誘われ、境界を超えた。

 その瞬間まで写真館であったはずの神社を一歩出て、静寂に満ちる森の中。聞いた声は目の前に相対するこの女のものであったことは間違いない。

 そこから再び闇に囚われていたのだ。長き旅において戦力としてきた、ディケイドとしての士の持ち物、ライダーカードを収納したライドブッカーとディケイドライバーそのものを奪われて。

 

「……っ! お前……! 俺のバックルとカードをどこにやった!?」

 

「クレジットカードは作らない主義とお聞きしましたけど?」

 

「とぼけるな! お前が俺のディケイドライバーを奪ったんだろ? さっさと返せ!!」

 

 奪われたものを取り戻すべく、士は不気味なドレスの女を睨みつける。フリルだらけの衣装の上からではスタイルのほどは伺い知れないが、女性にしてはそれなりの長身にしろ相手はまだ年若い少女と見て取った。その細い手首を掴み上げてやろうとしたところ──

 確かにその手に掴み取ったはずの腕は煙のように消え失せる。何の手応えもなく、まさしく雲を掴んだかのよう。一瞬だけ狼狽えたが、士はすぐに背後に感じた不気味な気配に振り返った。

 

「……お前……人間じゃないのか」

 

 八雲紫は士に見下ろされる形で縁側に座っている。優雅な左扇で唇を隠し、光とも闇ともつかぬ独特の色合いの瞳に柔らかい微笑を湛えては、その問いをただ沈黙でもって肯定する。

 彼はすでに理解していた。光写真館の背景ロールの導きによって。世界線が切り替わる基準点の誘いによって。

 士は世界を超える度にその法則を理解するのだ。ある世界では未知の言語を母語と同様に操り、ある世界では触れたこともないバイオリンを自在に演奏し。その世界に一歩を踏み入れた瞬間から門矢士にはその世界で起きていることの基本的な情報が『役割』と共に刻まれる。

 

 本来なら、その知識は士がかつて大いなる破壊者としてすべてを知っていたがゆえの技能であった。記憶を失っていても、役割と能力は無意識に発揮されていた。

 しかし、幻想郷に関しては違う。士は仮面ライダーとの繋がりのなかったこの世界、この楽園を訪れたことはないはずだ。それなのに、その思考には在る。幻想郷という場所が結界で隔離された秘境であると。人間や妖怪たちが共に生き、弾幕という火花を散らし合っているということを。

 

「名もなき世界……」

 

 根幹となる仮面ライダーを持たないこの世界に名前はない。ただその世界の中に一部としてある結界に閉ざされた領域、幻想郷という楽園から見れば、その世界は『外の世界』と呼ばれる。あくまで幻想郷の内側からの呼称に過ぎず、世界そのものを定義する名ではない。

 その情報と常識を得た士はやはり自身の姿を訝った。世界を訪れれば知識と能力が己が身に宿るのは分かっている。だがその場合は、士自身の衣装もそれに合わせたものに変わっているはずなのだが、相変わらず自前のコート姿はそのままだ。

 ならば能力はと試してみる。知識の中にあった少女たちのように、その手に弾幕の光を灯してみようと試みた。──どうやらそれはできない。今あるのは幻想郷に関する知識だけのようだ。

 

「門矢士。貴方の旅は世界を繋ぎ、九つの物語を『永遠の歴史』として定義した」

 

 縁側に座ったままの紫が不意に言葉を紡ぐ。不敵な微笑はすでに消え失せ、神妙な面持ちで語る紫の口調には、先ほどまでの曖昧な在り方はなく、ただ力強く誠実に。

 ディケイドの法則を見た紫はすでに知っているのだ。門矢士の旅、その戦いの在り様を。

 

「何……?」

 

「本来は幻想として忘れ去られ、消滅するはずだった仮初めの物語たち。その在り方は歪められ、正しき物語たちは別の因果に引き寄せられてしまった……」

 

 士が巡った世界はある男によって道筋を立てられた九つの世界。クウガからキバまでのそれらを超えてなお。その旅はさらなる別の世界にも赴き、様々な世界で人々を繋ぎ、物語を繋ぎ、やがて世界を繋いで歴史の一部と織り成してきた。

 本来想定された破壊とは異なる旅。士も一度言われたことがある。貴方は九人の仮面ライダーを破壊しなくてはならなかった。だが仲間にしてしまった。それは大きな過ちだったと。

 

「……どういうことだ。俺たちの旅が間違いだったとでも言いたいのか?」

 

 自らの旅を否定されるのは初めてではない。士自身でさえも『破壊』という言葉の意味が上手く掴み取れず、ただ光写真館に導かれるまま旅してきた世界で。仮面ライダーの名を持つ戦士たちと肩を並べて戦い、手を取り合い、彼らの笑顔や音楽を取り戻してきただけのこと。

 破壊とは単純に考えるならば仮面ライダーの力を失わせることか。あるいは変身者を殺害しろということか。どちらも士にとってはできないことだった。

 

 戦う理由を知っている者たち。自分にはない信念を掲げて仮面を纏う英雄たち。士はその仮面を借りて十の姿に至る。彼らの抱いた誇りを否定することはできない。

 記憶なき破壊者である己の贖罪なのか。士は無意識のうちにディケイドの力による物語の破壊を拒んでいた。たとえ創造のためでも、記憶を失う以前とは異なり、その犠牲を許せなかった。

 

「いいえ。結果的にはそれでよかったはずだったわ。貴方の旅はこれからも世界を繋ぐ。その度に新たな物語が刻まれ、仮面ライダーの物語は永遠に色褪せない輝きを放ち続ける」

 

 それはある男の思惑通り。ディケイドに破壊された世界は記憶に残り、忘れ去られるはずだった物語たちは新たなる創造をもって最果ての因果に繋ぎ留められた。ディケイドを生み出した組織の目論見、破壊者の力による全並行世界の掌握さえ、あの男は利用した。

 一度は九人の仮面ライダーたちと手を結んでしまったのはあの男にとっても誤算であったようだが、本来の役割を見出し、宿命を受け入れ、自ら迸る『激情』に身をやつしてすべての仮面ライダーを破壊し、物言わぬカードたちを墓標として。

 そうして破壊を続けた先ですべての世界は永遠の歴史として刻まれた。その代償として、数多の世界を犠牲にした破壊者は、その身さえも破壊されることを望み、幕を下ろした。

 

 その願いは、仲間たちの願いではなかった。士が築き上げてきたものは揺るぎなく、彼を覚えている仲間たちによって、ディケイドは──門矢士は蘇った。

 それがディケイドの物語。ありえざる十番目の物語。そしてその旅は、未だ終わりを迎えず。

 

「でも、それは独立した別々の物語。九つの物語は交わらず、それぞれの世界を成すもの」

 

「…………」

 

 紫が語るのは歴史の矛盾だ。確かにディケイドによって世界を繋がれた物語は破壊されて永遠の歴史となった。そしてディケイドの存在を否定することで、世界は破壊による創造を迎え新たなる物語を刻み始めた。そして、ディケイドは自らの仲間たちに肯定されて復活した。

 結びつくはずのなかった世界が結びつき、破壊された世界が永遠に残る。ディケイドの介入がなくては世界は忘れ去られるはずであったのに、ディケイドの行いによって世界は存続し、破壊という手段をもって維持される──矛盾。

 

 本来それらの世界たちは繋がるべきものではなかった。だが、ディケイドの誕生によって世界に引き寄せる力が発生し、多くの世界は融合による対消滅を始めてしまった。

 すべての世界を征服したいと望む大いなる組織と、すべての仮面ライダーを忘れさせたくないと願う意思の板挟みとなったディケイドの宿命。

 あえて一度物語を破壊することで『世界の破壊者(ディケイド)に立ち向かった者』という理を刻み、最果ての因果にそれを観測させ、その仮面ライダーの歴史は消滅の先で次の物語を紡がれる。

 英雄たちの記憶。遠い未来でそう定義づけられた法則。本来ならばその中には存在しないはずだった、ただの破壊者、システムの一部でしかなかったディケイドさえも。仲間と、旅と、終わりなき物語に導かれ、紛れもない英雄の一人となり。刻まれたのだ。

 

 クウガからキバまでの九人の仮面ライダー。それ以前に存在した者たちも、その後に生まれゆく者たちも。絶えず最果ての因果、英雄たちの記憶に刻まれ続ける。その輪廻こそ破壊から生まれた創造に他ならない。

 だが紫には小さな懸念点があった。ディケイドが破壊した九つの物語は『二種類』ある。一つは正しき歴史の中で生まれ最初に紡がれてきた、言わば『原典』と呼ばれる世界。もう一つは記憶を失った士が旅路と巡り、多くの仲間を作ってきた『再編』と呼ばれる世界。

 

 後者は前者が希薄化する中で己が存在証明のために消滅を拒む世界自身が原典の世界を模倣して生み出した世界。九つの物語はその想いを(わだち)と成して、新たな物語を生み出した。

 それはある者たちに『リ・イマジネーション』と呼ばれる。欠けた隙間を埋めるため、仮初めの物語として形作られたもう一つの歴史。原典世界を踏襲して再編された、九人の戦士たちだ。

 

「貴方、仮面ライダークウガ、五代雄介の名に心当たりはあって?」

 

「五代……? クウガなら知ってる。……小野寺ユウスケ。俺の旅の仲間だ」

 

 紫の問いに自信を持って答える士の思考にはある青年の姿があった。九つの世界を繋ぐ遥かなる旅路、その最初に立ち入った第一の世界。それがクウガの世界。士にとっては自分に仮初めの居場所を与えてくれた少女とその祖父に続き仲間となった彼は、その世界の住人だった。

 小野寺ユウスケは最初に存在した原典のクウガの世界から生じた『再編されたクウガの世界』の存在なのだが、その歴史は正しき因果に刻まれた。

 

 ディケイドの存在が生み出した仮初めにして真実の理。士が果たすべき使命は仮面ライダーの歴史を繋ぎ留めることであり、それは『クウガ』でさえあればよい。原典だろうが再編だろうが関係なく、クウガの存在を破壊すればクウガの歴史は永遠に刻まれる物語となる。

 だが、正しく歴史を証明するにはただ破壊するだけでは足りない。仮面ライダーの力を否定するだけの力をもって物語そのものを破壊する。そうしてライダーカードという『写真』を記憶として最果ての因果に深く繋ぎ留める。それが世界を救いつつ仮面ライダーの歴史を救う方法だ。

 

「……やっぱり。私が言ってるのは『ユウスケ』じゃなくて『雄介』よ」

 

 小さく溜息を零した紫は、扇を畳んでスキマへ消し去る。門矢士の旅は無意味ではない。それは紫も正しく認めている。

 世界の征服を企む巨大組織の狙いは、計画を邪魔する仮面ライダーたちをディケイドに倒させることだった。仮面ライダーの歴史が消え去るのを止めたい男の狙いは、ディケイドを代行者として破壊と創造を繰り返し、最果ての因果に記憶させることだった。

 どちらも破壊ではある。ただしその破壊は創造を前提とした可逆的なもの。世界や歴史はたとえ破壊されれど、繋ぎ留める者の想いによって復活する。実際にディケイドが破壊した全ての世界はその戦いの記憶から新たな物語を紡がれ蘇った。

 少女の覚悟によって自らをも破壊したディケイドが彼女らの願いから復活したように。破壊から生まれる創造は、世界や人々の意思により破壊されたものと同じ世界を再構築する。

 

 再編された世界もある意味ではディケイドに破壊された。自らの力で物語を進めるべきであった再編世界の仮面ライダーたちは、門矢士と接触したことで物語の道筋を変えた。本来ならそのまま倒され、破壊されてカードとなり永遠の記憶に至るはずだった。

 士は彼らに仮面ライダーの誇りを見たのだ。原典も再編も関係なく、仮面ライダーの名前と力を継承したのであれば、それは紛れもなく英雄の証である。

 記憶を失っている士に自覚はなかったが、それはディケイドによる破壊の否定だ。破壊を拒み、ただ九つの世界の仮面ライダーを仲間とした士は、男の意思に反して世界を繋げてしまった。

 

「同じだろ」

 

 繋がった世界は融合による対消滅という運命を決定的なものにした。それは元よりディケイドの存在が招いた現象だが、曖昧な記憶から創造された仮初めの因果たちを破壊することなく肯定し、九つの道を数珠繋ぎに最果てへと導いてしまった。

 並行世界は無数に存在する。だが再編された歴史を正史だと認めたらどうなるのか。それは本来あった歴史の否定に他ならないのだ。

 十番目の法則に否定された原典世界は消滅を始めた。人々の記憶に残ったのはただディケイドによって行使される『力』としての仮面ライダーの法則でしかなかった。

 あの男の言う通り、士は再編された歴史における九人の仮面ライダーを破壊すべきだった。それを忘れ、仲間にしたせいで、幻想となっていったのは本来の歴史。原典世界の仮面ライダーたちの戦いの歴史。再編世界が確立され、原典世界は希薄化し──やがてその影響は確立したはずの再編世界にまで及んだ。

 

 不安定になった世界同士は引き寄せ合って互いに否定し合う。それは尺度を変えれば仮面ライダー同士の戦いでもある。とある世界ととある世界、二つの世界にそれぞれ存在した仮初めの英雄たちは、己が世界の存続のために対する別の世界の英雄たちと争い続けた。

 世界の融合を加速させていた悪意の狙いもあっただろう。それでも融合の直接的な原因は紛れもなく、世界の破壊者、ディケイドが誕生したがゆえ。

 

 そうして引き起こったのが英雄たちの大戦。原典世界が失われれば、それを基点として生まれた再編世界もまた消滅していく。士は世界を消滅から救いたいという想いで旅を続け、世界を繋ぎ、結果として自らが旅をして仲間としてきた彼らの世界までもを消し去ってしまったのだ。

 

「ええ、同じね。どちらもクウガであることに変わりはない」

 

 紫は士の疑問に答える様子もなく、それでもどこか失望と諦観の色を漂わせ。白い手袋を着けたしなやかな左手を持ち上げ、そのまま器用にパチンと指を鳴らした。

 不意に空間が裂ける。紫と士の間に生まれたその裂け目はやはり深淵の中に無数の目玉を設けており、両端を可憐なリボンで結んだもの。

 士はそこから零れ落ちる白に思わず手を出していた。無機質なレンズと向き合う一瞬、彼はそのまま地面に落下しそうになったディケイドライバーを掴み取ると、消えゆくスキマを見届ける。

 

「どういうつもりだ?」

 

 帰ってきたディケイドライバーは紛れもなく本物だ。腰に着けていないバックルだけの状態ではライドブッカーは出現していないが、手に触れる感覚でそこに力として在ることは分かる。されどなぜ、彼女が自分にこのディケイドライバーを返したのかまでは分からない。

 八雲邸庭園に立ったままの士はその真意を問うべく縁側に座っているはずの紫に顔を上げて向き直る。──が、そこに彼女の姿はない。やはり背後に感じた悪寒に対し、咄嗟に振り返る。

 

「世界が融合を始めたのは、ディケイドが誕生したからだそうよ」

 

 相変わらず神出鬼没な振る舞いで士の背後に、振り返った士から見るなら正面に立つ紫。小さく開いた唇から紡ぐは、門矢士の記録。

 ディケイドの力とはあくまで士の存在から造られたもの。世界を繋ぎ、別世界へと渡りゆく力の根源は仮面ライダーとしての性能ではなく、門矢士という『存在そのもの』なのだ。

 

 その役割は、あの男──士の知らぬ本来の歴史、正しき因果における原典の『キバ』を継ぐ者と同じ名と姿を持った青年、紅渡が語った通りのものである。

 再編世界の仮面ライダーたちを破壊し、希釈化されて不安定になった仮面ライダーの歴史を繋ぎ留めること。ディケイドという名もすべては門矢士という存在に与えられた、必然的な理。

 大いなる組織はそれを利用していただけに過ぎない。ディケイドライバーの開発を行ったのも、概念的なディケイドの力に『形』を与えただけ。

 

 最果ての因果は求めた。それは原典たる九つの物語の総意。あるいはそれを英雄と持て(はや)した無辜(むこ)の声たちの総意。それぞれの世界は自らの意思を英雄の勇姿でもって形と成し、自らの世界を司る柱たる英雄の名前を名乗っては世界の破壊者、ディケイドに接触した。

 彼らは世界そのものの意思。紅渡の姿と力を持つ『キバの世界』は、受け継がれる音楽の物語を背負う代行者。人間とファンガイア、その他の魔族やすべての生命たちを背負う代弁者である。

 

「貴方にはやってもらいたいことがあるの。お願いできるかしら、ディケイド?」

 

 紫の言葉に対して無言を貫く士。彼女の口調からか。その試すような胡散臭い瞳からか。やはりどこか、自分に九つの世界を巡る旅を持ちかけたあの青年、紅渡のような、全能者めいた超越的な振る舞いは居心地の悪さを覚えざるを得ない。

 

 自分にこの力が宿ったのはなぜなのか。ただ妹と暮らすだけであった自分になぜこのような力が芽生えたのか。士は旅を経てなお、その記憶を取り戻すことはできなかった。

 今ならば分かる。これは自分に与えられた最初の役割だったのだと。たとえ記憶が薄れ、想いが淡く希薄化してしまっても。レンズの中に写した箱庭が、ファインダー越しに永遠となるように。切り取った歴史の一部を大切に刻み込み、その一つ一つをアルバムに収めていけばいい。

 

「……ああ、だいたいわかった」

 

 写真一つ残っていれば、その記憶は色褪せない。存在を証明するもの。それこそがディケイドの力と共に生み出されたライダーカードという欠片の役割である。

 自分がすべきこと。それはこの地に誘われたときから心のどこかで気づいていた。九つの世界を旅してきた道筋の導は光写真館の背景ロールによるものではない。そこにいた己の存在そのものがもたらしていた無意識下の影響だったのだろう。

 招かれた自分の服装はいつもと変わらない黒いコート姿。それは『門矢士であれ』という暗示。それを求めたのが目の前の妖怪なのか、この世界そのものなのかは分からないが──

 

 ならば自分らしく振る舞うだけだ。いつもと変わらず、あるがままに。奇しくもそれが幻想郷を抱くこの世界、仮面ライダーの存在しない名もなき世界の要、博麗霊夢と同じ在り方なのだとは、門矢士が知る由もなかった。

 ──博麗の巫女も、世界の破壊者も。どちらも動けば世界が自ずと動き始める。あらゆる法則が通用せず、すべてを等しく見通すは観測者なきレンズの如く万有を見る眼。

 彼の在り方は境界を司る色。可視光の外側、赤と紫の果て。霊夢を表す赤色と(ゆかり)を表す紫色。それぞれの外側、唯一無二の赤紫。見えざるどこかの座標で結びつく──マゼンタ色なのだ。




あけましておめでとうございます(激遅)
2024年は仮面ライダーディケイドが15周年です。おめでとうございます!

門矢士の妹は門矢小夜さんといいます。そういえば、霊夢の元ネタは奇々怪界の……

世界ってなんだろう。わからなくなってきた。だいたいでいいんです。だいたいわかれば。
宇宙に星々があるみたいに、世界もきっと可能性の中に星々みたいに散らばってるんでしょう。

次回、第65話『ネガとポジの境界』


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第65話 ネガとポジの境界

世界の破壊者、ディケイド。いくつもの世界を巡り、その瞳は何を見る──



 すべてを破壊する。それは門矢士の揺るぎない在り方。ファインダー越しでしか世界と向き合えなかった青年は、旅を続け、仲間を作り、遥かな旅そのものが己が世界だと見出した。

 そこに生まれてしまったのはディケイドの物語。ありえるはずのなかった、マゼンタ色の旅路。彼は最後に、何かを破壊することでしか存在することができなかった悪魔としての無慈悲な己自身さえも破壊してみせた。

 ──その破壊は、否定に非ず。何かを肯定するための破壊。創造のための破壊。それは破壊とは逆の『すべてを受け入れる』という能力を持つ博麗霊夢と同じ理である。

 

 世界の破壊者として振る舞わなくていい。いつも通り、世界を写す旅人として気ままに──

 

◆     ◆     ◆

 

 晴れ渡る青空の下、春色の風が境内に花びらを散らしていく。数多の怪物が一同に会した博麗神社は、今や戦火を収め平穏を取り戻していた。

 もはやそこには怪物の影はない。幻想郷のすべてに出現していた灰色のオーロラ、境界を超えるオーロラカーテンもすでに姿を消しており、ただ幻想郷らしいのんきな在り方だけがある。

 

「……うぅ……痛たた……」

 

 縁側に腰かけたまま紅白の巫女は目を覚ました。右手でこめかみを押さえ、走る痛みに顔をしかめつつも、ゆっくりと開けた瞼に朧気(おぼろげ)ながら馴染み深き境内を見る。

 博麗神社。霊夢の記憶に新しい戦いの場。されど怪物たちとの戦闘中、彼女自身と、彼女と肩を並べていた戦士クウガは境界の深淵に飲み込まれた。

 闇の中で弾幕の光を交えた記憶。九つもの仮面を装う旧知の妖怪。混乱の連続と脳髄への負荷で頭痛は絶えぬが、それ以上に超常的な仮面の戦士の蹴りを生身で受けたのだ。頭の痛みよりも先に内臓が潰れかねんばかりの衝撃をまともに受けた痛みに苛まれているはずなのだが──

 

「夢……? そんなはずは……」

 

 巫女装束の裾を持ち上げて自らの腹を確認するが、痣らしきものはない。確かに凄まじい激痛と共に腹部への蹴りを受けた感覚はあるのに、もはや痛みさえ残っていなかった。

 あれはただの夢であったのだろうか。それにしてはこの目で見たもの、この身体に受けた感覚の記憶が鮮明すぎる。あるいは万物の境界を操る彼女のことだ。夢と現実の境界を曖昧にし、起きた事象を夢として処理してしまったとしてもおかしくない。

 

 微かに覚えている夢の終わり。八雲紫と話していた女性の姿と声は霊夢の交友関係にある人物のもの。かつて幻想郷が月の都の遷都先に選ばれ、生命力という穢れを厭う月の民たちの侵略行為によって『浄化』という名目で地上が月面環境化(ルナフォーミング)されかけたことがあった。

 一切の生命力を持たない機械仕掛けの蜘蛛。山の巫女曰く火星探査機にも似たそれらが幻想郷を這い回り、月都の最先端技術、ルナテクノロジーによって幻想郷の生命力は根絶(じょうか)される。月の民が幻想郷を穢れなき浄土に変えようとした理由は、月が襲撃を受けていたからだった。

 古来より月への恨みをぶつけては己が純化した憎悪を振りかざす狂気の仙霊は、もはや千年前の出来事により月の頭脳たる八意永琳も、永遠と須臾の姫君たる蓬莱山輝夜をも失った月の戦力では撃退することができなかった。

 その理由は先の二名を地上に追放してしまったがゆえだけではない。自らの存在さえ名もなき憎悪に純化され、無名の存在と成り果てた狂気の仙霊は、同じく月への恨みを持つ『地獄の女神』と手を結んでしまい、地獄を由来とする穢れた生命力の先兵たちで月を満たした。

 

 月の都が地獄の穢れに汚染されてしまうことを恐れた月の賢者は、少しでもその進行を食い止めるために、夢の管理者たる『(バク)』に依頼し、月の都を丸ごと『夢の世界』へと移すことで無辜なる月の民たちを地獄の穢れから遠ざけることに成功する。

 本来の月の都は賢者の力によって凍結され、穢れの蔓延を防ぐことで無人の都とした。その間に幻想郷を第二の月の都とするべく、地上へと使者を向かわせていたのだが──

 当然、そんな勝手な理由で幻想郷を奪われることを良しとする霊夢たちではない。彼女らは夢の世界の通路を使い、凍結された月の都へと向かい、月を侵略した元凶である異変首謀者たる狂気の仙霊と地獄の女神を幻想郷流のスペルカードルールでもって撃退した。

 

 夢の支配者、 ドレミー・スイート 。月の民たち自身にさえも気づかれぬまま彼らを夢の世界に再現した月の都へと移し、一時的な避難所として夢を操っていた獏という妖怪。

 霊夢が先ほど見た夢の中にも、彼女らしき姿を見た気がする。紫と会話をしていた内容は上手く思い出せないが、夢の世界と幻想郷、それぞれを管理するほどの権限と能力を持つ彼女らが一緒にいるというのはどうしても嫌な予感が拭えない。

 普通ならば夢の内容にわざわざ一喜一憂したりしなくていいのだろうが──紫とドレミーは共に夢の世界へと踏み込むことができる存在。そして霊夢も月の都遷都計画に際して、月の民が使っていた連絡通路から生身で夢の世界へと踏み入ったこともある。

 ただの夢だと捨て去れない。ここは幻想郷なのだ。夢の内容でさえ、現実に確かな影響を及ぼすこともある。外の世界から夢を通じて幻想郷にドッペルゲンガーを形成した存在が現れたことや、抑圧された夢の世界の人格が完全憑依異変の影響を受け現実で暴れ出したこともあったのだ。

 

「……っ、そうだ、五代さんは?」

 

 霊夢はふと縁側から振り返って座敷を見やる。座布団を枕代わりにして眠りこける青年の姿は、まさしく霊夢が夢の中で肩を並べて戦った戦士クウガの変身者に他ならない。

 昼下がりの陽光が差して照らす明るさに満たされた部屋、陽だまりの中で気持ちよさそうに眠りこける五代雄介を揺すって起こす霊夢。

 寝ぼけ眼を擦ってのんきにあくびをする五代を見て、どこか自分に似た朗らかな波長、争いなど無縁であるべき柔和な笑顔の彼に、痛みやダメージは残っていないのだと安心した。

 

「あれ? 霊夢ちゃん……? さっきの人は?」

 

「私にもよく分かんないんだけど、夢ってことになった……のかな」

 

 九つの仮面を自在に纏う八雲紫と戦った実感は、もはや夢に等しい幻の彼方。彼女が夢の世界で語った言葉も気になるが、今はそれ以上に確認しておくべきことがある。

 スキマの中に引きずり込まれる直前、霊夢たちは博麗神社境内で怪物たちと戦っていた。その結末を、彼女たちは知らないのだ。すぐに縁側から降りた霊夢に続いて五代も靴を履き、庭園から神社の正面に回って拝殿前の境内へと向かっていくが──

 

 すでに比那名居天子や永江衣玖の姿はない。灰色のオーロラも、怪物たちの姿もどこにも見られなかった。

 霊夢の霊力で倒せなかった河童も、クウガのキックで倒せなかった不死身の獅子も、二人抜きで倒してくれたらしい。たしかに天人が持つあの緋想の剣ならば、特定の攻撃手段でしか倒せない怪物であろうとも、対象の気質を吸い上げて変化させることで無条件での撃破が可能であろう。

 

「あれはいったいなんだったんだろう……」

 

 霊夢の思考に浮かぶのは、神社に怪物が現れる直前の一瞬、幻想郷全体の空気が切り替わったような感覚だった。灰色のオーロラが現れる感覚ではない。空気が捻じ曲がる感覚は確かに似ているのだが、どちらかというと接続というより、強制的な転移に近い。

 幻想郷そのものの座標が切り替わった。上手く言葉にできない感覚だが、霊夢は何となくそう感じた。幻想郷自体が丸ごと、別のどこかに位置を変えてしまったような奇妙な感覚。

 

 先ほど思考に思い返した月の都遷都計画の内容に繋がりを覚える。まさか紫が言っていた『里への対処』とは、そういうことなのか。

 ありえない話ではないだろう。夢の支配者たる獏の力を借り、無力な里の人間に気づかれることなく彼らを夢の世界へと避難させたということなのか。月の民と同じ方法を選ぶなど、一度は月の都に大敗を喫して力の差を思い知らされている彼女らしからぬ手段と言えよう。

 だが、もしそうならば、彼女の目的は何なのか。当初は紫が幻想郷に怪物たちを呼び招いているのかと思ったが、この異変が始まってからの彼女の振る舞いを見ても、どうやら彼女は怪物たちを倒してもらうことを望んでいるらしき素振りであった。

 彼女は言っていた。幻想郷を破壊することが目的ではないと。無論、長く幻想郷を愛し見守ってきた彼女が幻想郷の終焉などを望むはずがない。

 ──だからこそ分からない。霊夢の勘をもってしても、この謎の異変の真相に辿り着けない。

 

「あうんちゃんもいないみたいけど……」

 

「大丈夫。妖力は感じるわ。狛犬に自分を宿したまま別の場所に行ってるみたい」

 

 今や博麗神社にいる者は霊夢と五代の二人のみ。狛犬の高麗野あうんは自身の能力を使い、博麗神社の狛犬に己が存在を残したまま神霊である魂のみを他の神仏のもとへ飛ばしている。山の上の守矢神社や、里に近い命蓮寺を再び見て回っているらしい。

 霊夢自身も一度境内からふわりと宙に浮く。空へ舞い上がり、幻想郷の最東端に建つ博麗神社、高く上がれば幻想郷を一望できる高台の上空から幻想郷全体を確認してみるが、どうやら怪物を出現させていたあのオーロラはどこにもない。ひとまず安心すると、霊夢は地上へと降りた。

 

「あれだけたくさんあったのに……逆に不気味ね」

 

 あうんの報告では守矢神社にも命蓮寺にも。ビートチェイサー2000の通信では永遠亭にも。幻想郷中に出現していたオーロラ、おそらくそれが意味する事実は怪物の襲来。それが今は一つたりとも現れていない。

 自分たちが紫のスキマの中にいた間に幻想郷で何があったのか。考えたところで答えは出まい。霊夢は一度小さく溜息をつくと、あうんの守護を帯びた博麗神社を振り返り見上げた。

 

「……仮面ライダー、か」

 

 腕を組みながら神社を見上げ思考する霊夢。五代はその名を知らなかった。彼の生きたクウガの世界において、クウガはクウガ、あるいは未確認生命体第4号と呼ばれる。

 仮面を纏う異形の戦士の法則は、クウガの世界以外にもあった。そして霊夢たちが実際に会ったことがあるそれは、霧の湖で出会った龍騎のみ。彼が存在した世界では、同様に仮面を纏う戦士は仮面ライダーと呼ばれているらしい。

 

 霧の湖に赴いてグロンギと戦った際に僅かな時間、肩を並べたのみ。もう一度彼に会えれば少しは他の法則について何か分かるかもしれない。語り聞いた情報はあまり多くなかったが、出会った場所と、彼と共にいた紅美鈴の存在を考えれば、おそらくは紅魔館にいるはずだ。

 霊夢はそれがただ『龍騎』とだけでなく、仮面ライダーという別の名を持っていたことについて少しだけ考えてみた。例えばクウガの世界のように戦士がクウガだけであれば、クウガという名前以外には必要な名前はない。

 だが、もし仮面ライダーと定義できる者が同じ世界に複数いたなら。ついさっき現と交わる夢の中で見た光景、あるいは最初に夢で見た地獄絵図を思い返す。

 そこにひしめく仮面の戦士は九人どころではなく、何百人単位で戦ってはいなかったか。それもただ一人、たった一人であの地獄の光景を生み出した最悪の存在、世界の破壊者を相手として。

 

「俺も仮面ライダーって名乗っていいのかな? ほら、仮面するし、バイクにも乗るし」

 

「まぁ、間違ってはないんじゃないかしら」

 

 五代は爽やかな振る舞いで自分のシャツに刻まれたクウガのマーク、古代リント文明における戦士を表す象形文字を見下ろしたり、博麗神社境内に停められたビートチェイサー2000の傍で己が腰に眠るアークルを服の上から撫でるような仕草をした。

 はしゃいでいる、というよりは少しだけ気持ちが楽になったのか。あるいは自分と同じような、ただ戦うために選ばれた哀しき宿命の担い手が自分の他にいてほしくないと思いつつも、心のどこかでは孤独に戦い続ける異形の戦士としての自分に寂しさを感じていたのだろう。

 

 英雄はただ一人でいい。涙と血に染まった拳で切り拓ける未来など痛みに満ちているに決まっている。誰も拳を振るわなくていい、ただ青空のような笑顔が広がる世界。

 ようやく戦いを終えて冒険家としての日々を取り戻したというのに、倒したはずの未確認が蘇ってしまっており、未知の世界に招かれては未知の怪物とも戦わなくてはならない。そんなどうしようもない痛みが豪雨となりて心を濡らす。

 

 それでも五代は自分の拳を再び涙に染める覚悟を決めた。自分一人が悲しみを背負っていけば、やがていつかは青空になる。そう信じて再びクウガとして立ち上がった。

 ──たった一人。異形の仮面を帯びて。そんな孤独な世界に灯る、異世界の龍の咆哮。自分と同じく仮面を装い人々を守るために戦っている戦士が別の世界に存在しているのだと知ったときは、彼もまた拳を涙に染めてしまうのだと悲しくもあったが──同時に嬉しさも覚えていたのだ。

 

「超変身、仮面ライダークウガ! ……なんか、不思議としっくりくるなぁ……」

 

 のんきにポーズを決める五代の笑顔は、痛みに耐える仮面ではない。心の底から誰かの青空足り得る温もりとなる、彼の2000の技の一番最初の特技である。

 その笑顔を見ていると、霊夢も自然と笑顔になれた。思わず零した笑みは、霊夢自身も五代がたった一人で戦い続けた苦しみをその振る舞いから感じ取っており、無意識のうちに彼の在り様に救いを求めていたからだろうか。

 

 正確には五代は本当の意味で一人で戦っていたわけではない。五代の傍にはいつも仲間がいた。自分を信じてくれた刑事。古代碑文を解読してくれた友。幼き頃の恩師に、この身の異常に親身になってくれた、あの刑事の友たる司法解剖専門医。

 彼らの助けを得て、五代は彼らの意志と共に戦った。だが、戦士としてはただ一人。クウガの世界、五代雄介が生きた世界において、仮面ライダーと定義できる者はクウガ以外には存在していないのだ。拳をもってグロンギと戦うことができる者は、五代雄介をおいて他にいなかった。

 

「とりあえず、一応は里の様子を確認しておいたほうがいいかな。五代さんも──」

 

 まったく信用がないわけではないとはいえ、紫の言動には底知れぬ不安と不信感がつきまとう。念のため人間の里の様子を確認しようという旨を告げようとしたとき。

 

 不意に、博麗神社の境内に不気味な風が吹き込んだ。霊夢の黒髪と巫女装束の裾を揺らすその一条の冷たさに、今は春の温もりに満たされた桜の木々に似つかぬ違和感を覚える。

 季節の違和感ではない。その風は間違いなく、人間の里で薔薇の匂いと共に感じたあの空気と同じもの。紫のスキマから感じたものにもよく似た怜悧な風──

 鳥居の方向、幻想郷に向き合うように拝殿を背にして振り返った霊夢は一瞬だけ浮かび上がった灰色のオーロラカーテンを見た。境内を撫でるように過ぎ去ったそれを帳として、鳥居の下に現れていたのは人間の男。ベージュ色のコートを纏った、外来人と思しき眼鏡の男性だった。

 

「……っ、誰……!?」

 

 人間らしからぬ不気味な気配。不敵な笑みを浮かべ、何の前触れもなくそこに立っていた男に対し、霊夢はすでに消え去った灰色のオーロラへの警戒も合わせて身構えた。

 五代も同様にその存在に気がつき、クウガへの変身こそせずとも拳を構えては男に向き直る。

 

「博麗霊夢、そして五代雄介。もうじきこの世界には『ディケイド』が現れる。自分たちの世界を守りたいと思うのであれば……用心することだ」

 

 男は鳥居の下からその先に踏み入ってくることもなく、どこか現実味のない響きを伴う声色でそう告げた。霊夢と五代、それぞれの顔を見つつ、眼鏡の奥から覗く双眸でもって彼らの歩む未来を見定めているかのような振る舞いで。

 彼が何を伝えようとしているのかは分からない。目を離したつもりはなかったのだが、気づけば男は五代の背後に立っており、その気配に驚いた五代は咄嗟に振り返って飛び退く。

 

「ディケイド……?」

 

 告げられたその名を思わず零す五代。彼には心当たりはない。しかし、同様にその名を耳にした霊夢は記憶にこそないはずのその名に何かを感じていた。

 自らの意思ではない。それは己が記憶ですらない。ただ虚ろで曖昧な夢の中、凄惨な地獄絵図の中に佇む悪魔の如き戦士の姿。マゼンタ色の威光でもってあらゆる世界を貫き砕いていた圧倒的な力の具現。霊夢はその眩き姿に対して夢の中、無意識のうちに幾度となくその名を口走っていた、ような気がする。

 

「そう。あれは世界の破壊者であり、すべての仮面ライダーの敵だ。すでに仮面ライダーの法則が接続されたこの世界も、奴の手によって破壊されるだろう。それを阻止できるのは──」

 

 謎の男の不敵な笑みはいつの間にか消えている。揺蕩うオーロラの如く神出鬼没な振る舞いで、それこそ霊夢がよく知る八雲紫にも似た妖しき挙動で。

 男は再び霊夢と五代の視界から姿を消した。博麗神社境内を通り抜けるように吹き抜けた灰色のオーロラカーテンの揺らめきを伴って、幻想を否定する不快な風の残滓だけを残して。

 

「──君だけだ、博麗霊夢」

 

 すでに消え去った男の声が博麗神社の境内を吹き抜ける。不自然なほど近くで、真後ろから聞こえたようにすら感じて思わず振り返ったが、拝殿があるだけで誰もいない。

 狐につままれたよう──と表現するのも癪だ。霊夢は眉をひそめ、あの胡散臭い境界の大妖怪を思い出しながら謎の男が言っていた言葉を脳内で反芻する。

 

「まったく、どいつもこいつも──」

 

 どうしようもなく、溢れ出るのは深い溜め息。わけのわからないことに付き合わされることには慣れている。これまでも多くの異変、多くの災禍を巫女として解決してきたのだ。ただ思わずにはいられないのが、八雲紫を始めとした大いなる存在どもの語り口。

 霊夢は苦笑する五代の傍ら、彼と共に青空を見上げた。幻想郷の守護者、博麗の巫女。空を飛ぶ不思議な巫女とも呼ばれた己が天性の能力で、幾度も舞い上がり一つとなった世界。

 

 彼女の『主に空を飛ぶ程度の能力』はただ文字通り空を飛ぶことができるというだけではない。博麗霊夢という存在そのもの、彼女の在り方そのものが、幻想郷に等しい。

 ありとあらゆる法則から宙に浮くという法則。法則に縛られないという独自のルールを持つということ。それは重力でさえ、結界でさえ、封印でさえ。博麗霊夢という存在を縛りつけることができないということを意味している。

 

 奇しくもそれは『彼』とよく似た在り方だ。あらゆる法則を受けつけない。逆に言えば、それはあらゆる法則に干渉されず、その絶対性を破壊してしまうということ。

 法則、すなわち世界の破壊者。加えてそれは霊夢自身の存在そのものでもある。自分自身の存在そのものを己が力としているのは、霊夢だけではない。おそらくあの男はそこに可能性を見出したのだろう。かの破壊者とはまったく逆の、全てを受け入れるという在り方に期待を込めて──

 

◆     ◆     ◆

 

 優しく吹き抜ける暖かい風。忘れ去られ否定された者さえも受け入れる、どこか現実味の感じられない風に黒いコートをはためかせて佇むは、あらゆる世界から拒絶された異物だった。

 これまでも何度も経験してきた世界の境界を超える感覚。歪む光、移ろう空。そんな空気の切り替わりと共に、青年──門矢士は脳裏を染める不快な雲の在り方に溜め息をついた。

 

「──もっと分かりやすく伝えられないのか」

 

 思わず口をつくは奇しくも霊夢と同じ意思の発露。この身に何かを伝えようとする意思たちは、なぜどいつもこいつも遠回しで分かりにくい伝え方しかできないのか。あの男も、もう少し丁寧に説明してくれれば少しは運命も違ったかもしれないだろうに。

 それはこの名もなき世界に訪れてからも同じこと。八雲立つ紫色の妖気を纏ったあの女、人間ならざる存在もまた、自らに旅を促したキバたる青年と同様に、その語り口は要領を得なかった。

 

「ここがあいつの言っていた幻想郷(せかい)か……」

 

 見上げる青空に不気味な虹霓はない。ただどこまでも吹き抜ける爽やかな色、その晴れ渡る笑顔のような世界には灰色のオーロラも現れてはいない。

 舞い散る桜の花びらと肌を撫でる暖かさは、この場所が春色の陽気に包まれていることの証左。時空を超える世界間移動の旅路において、士はこれまでも様々な時間、様々な空間を渡り歩いてきた。自分がいた冬の時間との差異もすぐに受け入れ、コートの肩に乗った花びらを払う。

 

「…………」

 

 士はあの女に言われた言葉を思い返していた。黄昏が如き金髪の女。逢魔が如き紫色の瞳。その在り方に惑わされず、自分と世界のピントを合わせるように──カメラのダイヤルに指を添える。見下ろすファインダーの中、幻想郷と呼ばれた小さな楽園へと向き合って。

 自分に与えられた役割。それはあるがままの服装から考えるに、自分自身、門矢士であれというものだろう。それが世界の破壊者としての自分なのか、それとも世界を渡り歩くただの旅人としての自分なのかまでは、分からない。

 

 八雲紫は、こう言った。ディケイドは必ず世界の歪みを引き寄せる。ディケイドの存在によって誘い出された世界の歪みの根源──『本来の物語には存在しない異物』を破壊しろ、と。そうすることで自ら希釈化してしまった物語たちへの贖罪とせよ、と。

 幻想郷に誘われた九人の仮面ライダーの法則に対応する九つの異物が、遠くないうちに現れるのだという。士にはその異物とやらが何を意味しているのか分からなかったのだが、まぁ、だいたい分かるだろうとあまり深く考えないことにした。

 これまでも多くの世界を旅し、多くの物語を繋いできたのだ。幻想郷(ここ)でやることもきっと同じ。己の勘に従い、ただ真っ直ぐに突き進む。たとえそこに壁があろうとも、強大な敵が立ち塞がろうとも。さながら博麗の巫女にも似た在り方で、門矢士はその世界の『異変』を解決(はかい)する。

 

 ──異物が混入したら、排除しないと。

 

 去り際にそう呟かれた八雲紫の言葉。意味など理解できるはずもない。言葉通りに受け取れば、それは世界に侵入した歪みとやらを取り除く意思なのであろうが──

 八雲紫の在り方に詳しくない門矢士でさえ。どこか、その言葉に不気味な意図を覚えていた。

 

◆     ◆     ◆

 

 幻想郷、人間の里。霊夢と五代はそれぞれ飛行とビートチェイサーの疾走をもってこの地に辿り着いた。本来ならば活気に溢れているはずの場所であったが、そこにはもはや人々の気配はない。上白沢慧音の能力によって里の歴史が隠されているというわけでもなかった。

 開けっ放しの門の前には誰もいない。その先を超えて進んでみても、やはり人の姿は一切見られない。霊夢はなんとなく予想がついていたが、その光景が意味する事実に一人で辿り着いた。

 

「やっぱり……里の人たちはみんな夢の世界に……?」

 

 かつて月の賢者が獏に依頼したように、紫も同様に無力な里の人間を夢の世界に避難させているのだろう。たしかに夢の世界であればドレミー・スイートの思うがままだ。現実と寸分違わず同じ人間の里を夢の中に再現し、誰にも気づかれることなく安全に保護することができる。だが、無力な人間たちは長時間の夢によって精神を蝕まれてしまいかねない。

 もしも紫が彼らを夢の世界に避難させていたとしても、安心はできないのだ。霊夢は力強く拳を握り、誰もいなくなってしまった無人の里で、活気の名残である家屋を見渡してみた。

 

 そこで違和感に気づく。どうやら五代も気づいたらしい。そこに人が存在しないのは言わずもがな、自然の変化さえも滞っているのだ。

 月の都の幻想郷遷都計画を阻止しに月へ向かった際に、月の都が凍結されていた光景を思い出す。無人となった月の都はさらなる変化を停止させるために月の賢者の権限で一切の変化を引き起こさないよう時間の流れや空間そのものが『永遠』という形で止まっていた。

 凍り付いた永遠の都。物理的に冷凍されていたわけではないが、そう錯覚させるほどに変化なき冷たい都には寒々しさが感じられた。幻想郷における人間の里も幻想郷の賢者によって凍結されているのだろう。現に、自然な風の一つも吹いていなければ、舞い散る桜の花は止まっている。

 

「…………」

 

 かつて幻想郷の満月が遥か太古の月にすり替えられていた異変の折に、八雲紫は月の異変を暴くため己の能力で明けない夜をもたらした。表立っては永夜異変と呼ばれたあのときの異変と同様、彼女は今回も里に何らかの術を施しているらしい。

 幻想郷全体の夜を止めたときとは違い、人間の里の時間と空間を論理的に停止している。ここはもはや昼も夜もなく、過去も未来も存在しない、独立した時空として定義されているようだ。

 

「じゃあ、ここにいた人たちはみんな安全な場所に避難できたってことだよね」

 

 帰る場所も安心みたいだし。と楽観的に呟く五代。彼には永夜異変についての知識も月の都の遷都計画に関する知識もほとんどないが、霊夢が落ち着いている様子からさほどの心配は必要ないと判断したのだろう。

 実際に保護されている夢の世界の人々を確認したわけではないが、紫とて里の人間は幻想郷の心臓とも呼べ得るほど大切に思っているはず。

 人がいなければ妖怪は存在できない。夢を通じて幻想郷の妖怪たちに里の人間の恐れを供給できれば、実際に彼らが現実の幻想郷に存在していなくとも妖怪との繋がりは果たされる。

 

 長時間の夢による精神への悪影響だけが心配だ。彼らにとって帰るべき場所であるこの地を守り抜き、笑顔と青空が広がる人間の里を無事に取り戻すため、五代と霊夢はこの戦いを終わらせるという覚悟を、その胸に強く抱く。

 ふと、霊夢は疑問を覚えた。無力な人間は避難させられている。何の確証もないが、八雲紫への無意識の信頼と夢の中で見たドレミー・スイートの存在から霊夢は勘でそう確信している。だが、里にも人間に扮して生きている妖怪はいるはずだ。

 昼は人間の酒場として、夜は妖怪のための酒場として営まれている店の看板娘。里の子供たちが通う寺子屋の教師たる半人半獣。その他にも妖怪の身分を隠し里に踏み入る妖怪も多いが──

 

「慧音や他の妖怪はどうなってるのかな。ちょっと寺子屋まで様子を見に──」

 

 里に何かあれば霊夢が五代雄介と初めて会ったあのときのように、幻想郷の歴史を編纂するワーハクタク、上白沢慧音が里の歴史を喰らって外敵から里そのものを隠すだろう。だが、おそらくは賢者の意思で里の人間そのものがいなくなったこの里で、彼女らはどうしているのか。

 

「……っ、霊夢ちゃん!」

 

 不意に五代が少女の名を呼ぶ。その声に意識を引っ張られてようやく気づくことができた。停止した里にあるはずのない風が髪を撫でていたことに。

 やはり冷たく怜悧な風。その正体は紛れもなく灰色のオーロラがもたらす外の風。寺子屋の方角とは少し違うが、里の中心に近い場所の上空にそれが現れているではないか。

 霊夢と五代は互いの顔を見合わせて頷くと、それぞれ己が霊力と愛機をもってそこへ向かう。

 

◆     ◆     ◆

 

 閑散とした人間の里。大通りと言える場所にはやはり灰色のオーロラが広がっていた。虚ろに揺らめくその帳はここではないどこかと繋がっており、時間も空間も停止してしまった無人の里に冷たい外の世界の風を送り込んでいる。

 オーロラはその彼方に三つの影を浮かび上がらせた。一つはその中心から帳を裂くようにその姿を現し、その左右に付き従うように、残る二体がゆっくりと誘い出てくる。

 

 不気味な形相は地を這うヤモリが如く。中心の一体は爬虫類めいた意匠を帯びた異形の怪物であった。その手の平には壁に張りつく吸着機能を備えた滑り止めを持ち、腰にはやはりズの階級を表す赤銅色の悪魔を模したベルト状の装飾品、鈍く輝くゲドルードが装備されている。

 未確認生命体第13号、ヤモリ種怪人『ズ・ジャモル・レ』は無人なる人間の里の地を踏みしめて周囲を訝った。肌身に伝うその感覚は直感的な違和感として里の異常を伝えさせたのだろう。

 

 なんだ? いったい 何が 起こっている?

「バンザ? ギダダギ バビグ ゴボ デデギス?」

 

 なぜ誰もいないのか──ではない。ただ彼の地より送られる怪物たち、下級のグロンギたちには幻想郷の構図や地理などは伝えられていないため、人間の里の機能さえ知らない。原始的な文明しか持たぬ彼が違和感を覚えたのは、この地の時空が停止していることだ。

 遥か太古の時代。リントとグロンギが争い合っていた世界において、彼らは細かな自然の変化を感じ取れるほどに鍛えられていた。この肉体が、明らかにこの場所の異変を感じている。

 

 風がない?

「バゼグ バギ?」

 

 妖怪の仕業なのか?

「ジョグ バギン ギパザ バボバ?」

 

 ヤモリめいた怪物の左右に控えるは同じくズ集団に属する二体の怪物。それらは鏡映しのようによく似ており、さながら双子のネズミとも呼べ得るような哺乳類の意匠を持っていた。

 二体はそれぞれ未確認生命体第12号と定義され、極めてよく似たその姿から警視庁により一度は同一個体と誤認され捜査に影響を及ぼしたこともある。

 

 第12号Aと呼ばれた一体はネズミ種怪人『ズ・ネズマ・ダ』と呼ばれる存在。もう一体はその死後に現れた同個体の血族であるのかもしれない。かつてはゲゲルの遂行を果たせず時間切れによってゲドルードの機能が作動し、自爆という形でその命を散らしてしまったが、その直後にゲゲルを始めた同種の怪物がいた。

 こちらは第12号Bと称されるもう一体のネズミ種怪人。その名を『ズ・ネズモ・ダ』と称され、ほとんど同じ外見、能力をもってゲゲルを進めたが、五代の活躍によって倒された者だった。

 

 ここは リントの 匂いがしない 別の場所に 行くべきだ

「ボボパ ギバギグ ビゴギン リント デヅン ダショビ ギブデビザ」

 

 待て そう焦るな それに 俺たちの 目的は 今は リントじゃない

「ラデ ゴグ ガゲスバ ゴセビ ゴセダヂン ログ デギパ ギラパ ジャバギ リント」

 

 殺意の享楽に逸るズ・ネズマ・ダの言葉を制止するズ・ジャモル・レ。同じくズ・ネズモ・ダも無力な人間を殺害することに餓えている様子だが、その手首に備わった腕輪──グゼパが意味する通り、彼らの目的はリントならざるリント、妖怪の力を奪うことだ。

 あえて人間の里に現れたのは彼らの意思なのか、あるいは幻想郷の二つの結界によって灰色のオーロラの座標を狂わされ、この地に現れてしまったのか。

 

 ズ・ジャモル・レたちはそこへ耳に聞き慣れぬ忌まわしき異音を聞く。古代には存在しなかった機械仕掛けの馬の嘶き。ビートチェイサー2000のエンジン音とタイヤが土を駆る音を聞き、空を舞ってこの地に降り立った博麗霊夢の傍に立つリントの男──五代雄介の姿を見やった。

 

「あいつら、また性懲りもなく里に……!」

 

「未確認生命体第12号……! やっぱ二匹いたのか……! それに第13号も……!」

 

 霊夢にとってはやはり未知なる怪物。五代にとってはやはり過去に戦ったことのある相手。ズ・ネズマ・ダに関してのみ言えば形式上は警官隊の銃撃で倒したという報告になっているが、実際はゲゲルの時間切れによるゲームオーバーが引き起こした自爆による死だ。

 残る二体は赤い戦士──マイティフォームのクウガとして紛れもなく引導を渡している。すでに一年以上も前の記憶ではあるが、この拳に伝う悲しみと暴力を振るう辛さは拭い去れていない。

 

 リント それも 二人もだ

「リント ゴセロ ドググビン ロザ」

 

 ようやく 殺せる 俺の獲物だ

「ジョグ ジャブ ボソゲス ゴセン ゲロボザ」

 

 僅かな警戒を見せたズ・ジャモル・レの反応を気にすることなく、五代と霊夢の存在に気づいた二体、ズ・ネズマ・ダとズ・ネズモ・ダはすぐに駆け出した。霊夢は咄嗟にお札を構え、五代はビートチェイサーから降りるや否やアークルを現す構えを取るが──

 すぐに二体のグロンギは動きを止める。ネズミの聴覚か、それとも本能的な感覚か。二体のネズミ種怪人だけではない。様子を伺っていたズ・ジャモル・レまでも、自身の視界の先にいた五代と霊夢ではなく、背後を振り返って何かを警戒し始めた。

 

 その理由を、すぐに五代と霊夢も悟ることになる。今は人間の姿ではあるが、体内に埋め込まれた古代リント文明の遺物、霊石アマダムによる神経状組織による力か。生身のままでも強化された五感に伝う、元の世界でよく聞いた、自動二輪車が唸る音。

 霊夢はその身こそただの人間である。ゆえに一瞬の反応が遅れた様子。それでも音という明確な変化はすぐに聴覚に届いてきた。霊夢と五代、二人は等しく怪物たちと同じ方向を見る。

 

「…………」

 

 里の彼方より現れた『その男』は里の大地を擦り止めるタイヤの音を奏でた。黒と白に彩られた異質なバイク、派手なマゼンタ色を前面に装うマシンディケイダー。

 次元さえも超えるその叡智よりゆっくりと降り、黒いコートを纏った青年はその地に立つ。

 

「……! 人間……!? いや、あの格好……外来人なの……?」

 

 霊夢はいざ戦おうとした二体のグロンギが別のものに振り返ったことに拍子抜けしたが、現れた男が外来人であることに気づいた。彼が乗っていた乗り物、霊夢が知る五代のビートチェイサー2000と等しい『バイク』という機体を見て、それは揺るぎなき確信へと変わる。

 青年は漆黒のコートを春風に揺らし、恐れ怯むことなくグロンギたちを見渡した。微かな疑問を抱きながらも、自らの在り方に迷いを持たぬその姿。霊夢は一瞬だけその在り方に奇妙な既視感を覚えた。

 

 ──門矢士は世界を超えた。在るべき世界から因果を超えて、幻想郷に踏み込んだ。誰もいなくなった人間の里を次なる己が世界とし、向き合う異形に新たなる物語を見て。

 霊夢と五代もその男へと意識を向ける。彼が何者なのかは分からない。あるいは何の力も持たぬ人間であるなら、わざわざこの場に現れはしまい。加えて現代的な衣服と乗り物を有している点を見れば、霊夢にとってもそれが五代と同じ『仮面ライダー』であるのだと推測できたが──

 

 丁度いい あいつも 俺が 殺してやる

「チョグゾ ギギ ガギヅロ ゴセグ ボソギデジャス」

 

 ズ・ネズマ・ダはその佇まいに苛立ちを覚えたのだろう。霊夢と五代を無視し、そのまま大地を駆けて漆黒のコートを纏う青年に向かっていく。

 同じくネズミの能力を宿したズ・ネズモ・ダも共に駆け出した。二体はそれぞれ鏡映しのように息の合った動きで同時に爪を振りかざし、何の構えもなく立つ青年へと襲いかかる。

 

 霊夢は一瞬だけ息を飲んだ。青年は怪物に対し一切の恐怖を抱いていない。それどころかまるでネズミたちのほうが追い立てられるべき獲物だとでも言わんばかりの、森羅万象を圧壊せんとする破壊的な衝動に、どこかおぞましきマゼンタ色の威光を垣間見る。

 青年──門矢士に無駄な動きはなかった。迫り来る二体のグロンギ、ズ・ネズマ・ダとズ・ネズモ・ダの動きを完璧に見切ると、ただ僅かな動きだけでその爪の舞いを難なく避けてみせた。

 

◆     ◆     ◆

 

 何の工夫もない単調な動き。遥か古代の、それも戦いを知らぬ民族であれば一方的に虐殺できただろう。されど戦うために生み出されたリントの戦士はその弱き拳を赤子のように捻ったという。それはきっと、長く続いてきた英雄たちの物語の始まりだったのかもしれない。

 あるいは太陽の如き神の代行者にも、鏡の世界で生き残る龍の咆哮にも、ただネズミの遺伝子をもたらす魔石ゲブロンに頼っただけの怪物は勝てはしない。

 その系譜は連綿と続いている。灰の使者を灰へと還す紅き閃光。不死の運命と永遠に戦い続ける紺碧の剣。自然の祈りに己を捧げ鍛え抜いた鬼。さらには天の道を往く真紅の一本角にも、過去と未来を正しく繋ぎ流るる桃の列車にも、誇り高く血の音色を奏でる夜色の牙と翼にも。

 

「──グロンギか」

 

 門矢士はその名をよく知っている。その姿をよく知っている。ヤモリとネズミという個体こそ知らずとも、クウガの世界において遥か古代の戦場を血に染めた彼ら殺戮種族のことを、世界の破壊者という役割を拝命した瞬間から理解している。

 彼らと刃を交わしたこともある。されど彼らの文化圏で育ったわけでも、その法則を学んでいたわけでもない。だが、振るわれる爪を避ける傍ら、士は小さく溜息をついてはその口を開いた。

 

 悪いな 俺はそう簡単にはやられない

「パスギバ ゴセパ ゴグ バンダン ビパ ジャサセ バギ」

 

 口を開いたのは十番目の法則。すべてを破壊し、すべてを繋ぐ因果の調停者。青年、門矢士は不安定で曖昧な過去という記憶を、己が在り方をその身に宿し、どこで学んだのか、あるいは特異な能力なのか。ついぞ判然とすることがなかったグロンギの言葉でそう告げた。

 

「「……!?」」

 

 長い脚を振り上げ、眼前を一閃すれば二体のネズミ種怪人は蹴り倒される。魔石ゲブロンで強化された肉体、生身の蹴りを受けたところで何のダメージにもならないが、ただの人間、ただのリントだと思っていた男がグロンギ語を話したことに怯んだのだろう。

 すぐに体勢を立て直し、二体はそれぞれ向き合ってはそれが聞き間違いでないと知る。彼らにとって、それは今までに前例のないこと。グロンギ語はグロンギにしか扱えない。グロンギ以外の生物がグロンギ語を用いて発声することなど、クウガの世界の因果にはあり得ぬことだった。

 

「……っ! 今、あいつ……!」

 

「うん、俺にも聞こえた。あの人、グロンギの言葉を……」

 

 霊夢と五代も聞き逃すことはなかった。紛れもなくクウガの世界を生きた五代雄介にとっても、それは信じられぬこと。原典たる彼の世界でも、物語の希薄化によって『再編された』クウガの世界においても、グロンギ語とは言語学者にさえ解明できなかったとされる。

 同時期に用いられていた古代リント文明の言語であれば解析し、その意味を解読することはできたが、彼らリントと敵対していたグロンギの言語については文献が一切残っていないのだ。

 

 それで お前たちの 目的はなんだ?

「ゴセゼ ゴラ ゲダヂン ログデギ パバンザ?」

 

 二体のネズミ種怪人を見やりながらパンパンと手を払う。理論上は普通の人間の滑舌でも発声し得る音だが、グロンギ以外の者にとってその言葉は文字列として脳に入ってこない。

 青年の言葉を遠くで聞いていた五代と霊夢はそれを複雑な音の羅列としか聞き取れなかった。

 

 貴様 リントの分際で なぜ俺たち(グロンギ)の言葉を

「ビガラ ヅン ザギゼン リント バゼゾ ボドダン グロンギ」

 

「さぁな。たまたまそういう役割だった、ってだけだろ」

 

 向き合うグロンギ、士にとってはどちらでも良い。ズ・ネズマ・ダか、ズ・ネズモ・ダか。そのどちらかが己が言語をもって士に問いかける。すでに相手の言語に付き合うのに飽きてしまったのか、士は自らの世界、渡り歩いた世界において馴染み深き一般的な日本語で返した。

 ただゲゲルに興じるだけの下級のグロンギには見下すべきリント共の言語を理解しようとする意思はない。そもそもズ集団程度の者はそれを理解できるだけの知能を持つ者が多くない。かつての戦いにおいても、リントの言葉を学ぶことができた個体は僅かだった。

 

 ネズミ種怪人たちは首を傾げるだけで士の言葉に返答しない。やはりグロンギ語でなければ意思の疎通はできないのだろう。もはや交わす言葉さえも不要だと判断して、士は黒いコートから白く楕円を帯びたバックル──灰色のレンズを持つディケイドライバーのバックルを取り出した。

 

「あのベルトは……!?」

 

 士の腰に押し当てられたそれを見て霊夢が目を見開く。間違いない。あれは夢の中で見たもの。そして、誘われたスキマの闇の中で八雲紫が腰に帯びていたもの。

 鋭い音を立てて士の腰には銀色のベルトが巻きつく。正面の白い楕円を留め金とし、腰帯として機能したディケイドライバー。霊夢の思考には不安と焦燥の光と影がオーロラの如く瞬く。

 

「ちっ……あいつ……肝心のカードを……」

 

 自身の左腰に装うライドブッカーのページを開き、士は苦虫を噛み潰したように表情を歪めた。クラインの壺へと繋がる無限空間の書架、仮面ライダーの物語という膨大な歴史をアーカイブしたその世界を探るものの、士の指先に伝わるそれは彼が求めた一枚の写真(ライダーカード)ではない。

 一度は奪われた上で返還されたディケイドライバー。それに付随するライドブッカーもこの手に取り戻すことができたが、かつての戦いでも用いた最も大切な一枚、門矢士自身を他の誰でもなく揺るぎなく仮面ライダーとして定義するものが、ここにはない。

 

 世界の破壊者と呼ばれた。すべての仮面ライダーの敵だと恐れられた。そして、存在そのものが悪魔だと蔑まれた。それでもかけがえのないもの。失いたくないもの。

 すべてを破壊するだけの墓標たる仮面でも──それはすべてを繋ぐただ一つの祈りなのだ。

 

「ディケイド……」

 

 生身のままグロンギと戦う青年を見て、霊夢が胸に抱いたのは小さな恐れだった。あのベルトは間違いなく夢の中で見たもの。そして紫が使っていたもの。世界の破壊者と呼ばれたマゼンタ色の仮面ライダーが用いていた装備に相違ない。

 博麗神社に現れた男の警告を思い出す。ディケイドは世界を破壊する。すべての仮面ライダーの敵であると。それを鵜呑みにしていいほど信用できる男ではないかもしれないが──

 

 ただ、己の勘だけは他の何より信用に足る要素である。霊夢は冷たい汗の流れを感じ、ぎゅっと握り締めた拳の中に己の不安を振り払う力強さを込めることができなかった。

 その様子を訝った五代は彼女を心配するように、いつも通りの優しさを込めて声をかける。

 

「あの人も……仮面ライダーなのかな?」

 

「分からないけど……あの感じ……たぶん……」

 

 脳裏を過った悪夢の光景に判断が鈍っていたものの、五代の声に気づいた。確かに不審な外来人だが、見た限りは生身の人間。楽園の巫女たる霊夢の保護対象である。

 腰にベルトを装えど、青年は仮面の戦士に変身しようとしない。もしあれが紫が使っていたのと同じものであれば、九つもの仮面を変幻自在に纏うことができるはずだ。否、しないのではなく、できないのかもしれない。

 スキマ空間で見た紫の変身した姿は、九人の英雄たちの姿。ベルトこそ同じなれど、あの凄惨な悪夢の中で見たマゼンタ色の戦士の姿はなかった。それに気になるのは、あの言葉。

 

 十番目の世界。九つの物語の先に、十番目の物語があるのなら。博麗神社の賽銭箱で手に取ったあのカード、あの一枚の写真に描かれた存在。ただ虚ろな輪郭だけが灰色に描かれたあれは。

 

 霊夢の直感が導き出した答えは、その懐に眠る一枚のカードへと指先を伸ばしていた。

 

「……! 他のカードまで……どうなってる……?」

 

 二体のネズミ種怪人を相手にしても上手く立ち回れていたが、さすがに生身では限界がある。だが、纏うべき仮面の叡智はライドブッカーの中にはなかった。幾度ページをめくり、その指先でもって無限の世界を辿れども、手に入れたはずの歴史の欠片が──

 ()()()()()()()()()ときと同様、力なき灰色の絵柄となって失われている。最初に望んだ一枚のカードとは違い、そのものがないのではない。カードとしては存在しているのだが、その力だけが抜け落ちてしまっている。

 長い旅路で得た友との絆。繋ぎ束ねてきた数多の世界。かけがえのない歴史を証明する欠片が。もはや色褪せた空虚な残滓と化し──士の心には失意に濡れた悔恨の念が溢れ出した。

 

「──っ!」

 

 迫る拳はネズミ種怪人のもの。されど、その一撃が士を襲うことはない。迸った弾幕の光が輝き爆ぜ、ズ・ネズマ・ダとズ・ネズモ・ダを爆風で吹き飛ばしたのだ。

 そのまま士の前に着地する霊夢の隣に五代が立つ。構える二人の瞳には力強さが灯るのみ。

 

「その力……弾幕ってやつか。あんたが博麗の巫女なのか?」

 

 左腰に開いていたライドブッカー ブックモードを閉じ、士は霊夢の背中に問いかけた。霊夢はその言葉に僅かばかりの驚きを覚えたため、思わず背後の士へと振り向いてしまう。

 

「私を知ってるの? いや、それより、そのベルト……」

 

 霊夢の視線はやはり士が腰に帯びるディケイドライバーへと向かう。だが、グロンギたちは悪魔も巫女も区別はしない。ただ狩るべきリントとして殺戮の対象と成すだけ。その荒々しく残虐的な闘争心は、遥か太古の時代から絶えず血生臭い享楽だけを滲ませて。

 士は左腰からライドブッカーを引き抜いた。一瞬の隙を見せた霊夢と五代の狭間を縫うように、ガンモードへと変形させたそれの引き金を軽く引く。白く輝き溢れる光弾は怪物を怯ませた。

 

「ぐっ……!」

 

 本来ならば仮面ライダーとして用いるべきものを生身で撃ったために、士の右腕には軋むような痛みが走る。微かに眉を歪めただけで、その表情は仮面の如く痛みを見せることなく。

 風の消えた人間の里。その銃撃で生じた爆風により、一瞬だけ風圧が生じた。舞い上がる硝煙に混じり、エネルギーの波動に紛れて揺れる霊夢の巫女装束。その揺らめきが灰色のオーロラを思わせるのか。紅と白の装いに古代の戦士を垣間見たのか。

 

 不意に士の視界に飛び込んだのは霊夢が右手に持つ一枚のカードであった。それは灰色の絵柄だけを持つカードとして力を失っているが、感じられる気配は紛れもなく士の記憶にあるもの。

 

「そのカードは……! どうしてお前がそれを?」

 

「はっ? な、何? この不気味なカードがどうかしたっての?」

 

 士に問いかけられた霊夢は目の前で起きた光の炸裂と士の言葉に混乱を見せた。彼女の思考の中では未だに答えが定まっていない。この男がただの人間であるのなら博麗の巫女として守るべきだろう。だが、あの乗り物やベルトを見るに、紛れもなく仮面を装う戦士の一人。

 加えて己が勘が警鐘を鳴らすのだ。オーロラから現れた男の言葉に従うわけではないが、天性の直感が告げている。悪夢の中で見た地獄絵図。世界の破壊者という災禍を見過ごすなと。

 

「霊夢ちゃん! 前!」

 

 五代の言葉に再び正面へと向き直る霊夢。迫り来るネズミ種怪人たちを蹴りで突き飛ばして距離を取るものの、その間を縫って現れたズ・ジャモル・レの鋭い爪には後退せざるを得なかった。五代は変身する隙すらも見出せず、二体のネズミ種怪人を相手している。

 一体は霊夢が弾幕をもって相手することができるが、残る二体を同時に相手取っている状態ではアークルを現すこともままならない。

 せめて少しでもその隙を設けてやろうと考え、霊夢は込めた霊力を圧縮したお札をばら撒き、博麗アミュレットと成して三体のグロンギに向けて撃ち放った。ライドブッカー ガンモードの射撃を上回る爆発が発生し、再び停止した人間の里に一瞬の爆風が吹き荒れ──

 

 そこへ光が灯る。五代雄介の知らぬ彼らの新たな力。かつての戦いにおいては備えていなかったはずの、ズ・ジャモル・レによる攻撃が迫る。

 怪物はその腕に装った腕輪──グロンギがゲゲルにおいて狩った獲物の数を数える際に用いるグゼパという装飾品の、その内に溜め込んでいたエネルギーを解き放ったのだ。

 数多の妖精や妖怪の力を吸い上げてきた叡智。それを破棄することで、その力そのものを妖力の光弾としてさながら弾幕の如く。五代と霊夢の前で炸裂させ、二人を爆風でもって吹き飛ばす。

 

「うぁあっ!」

 

 油断していたつもりはない。だが、戦士クウガと言えどグロンギのすべてを知るわけではない。かつての戦いでは見せなかった謎の光に対応できず、背後の士の傍に叩き伏せられる。

 霊夢も同様であった。未知の妖怪を相手にしても決して隙を見せず、悠然と立ち向かう博麗の巫女でも、この地に現れた青年の存在がゆえか。脳裏を染める悪夢の光景に微かな懸念を覚えてしまい、一瞬の反応が遅れたのだろう。

 

 五代と共に士の傍らに倒れ伏した霊夢はズ・ジャモル・レの姿を睨み見上げる。彼らは幻想郷の存在する世界とは別の、クウガの物語を有する世界から現れたはず。霊夢が違和感を覚えたのはその力の質だった。肌身に伝わる妖力の波は、紛れもなく幻想郷の妖怪が持つ気と同じもの──

 

「くっ……」

 

 その手に取り出したはずの一枚のカードは手元にない。爆発に際して取り落としてしまったのだろうか。霊夢はそんなことを気にする余裕もなく、すぐに体勢を立て直す。

 懐から取り出そうと試みるは別の一枚。それは博麗の巫女としての覚悟を込めたスペルカード。五代も立ち上がり、眼前の敵への隙を最小限にしてアークルを現そうと腰を両手で覆う。

 

「……そういうことか」

 

 濛々と走る土煙さえもが風のない里で停止する。不自然に消えたそれらを前に、門矢士はただ神妙な表情を浮かべて佇んでいた。ズ・ジャモル・レはその在り方に苛立ちを覚えたようで、左右のネズミ種怪人に目配せし、それらを士に(けしか)けてくる。

 そこへひらりと舞い落ちるはたった一枚のカードだった。幻想郷の少女たちが交わす弾幕の名を刻んだスペルカードではない。鏡の世界の契約を表すアドベントカードでも、太古の戦いにおいて切り札となるラウズカードでもない。

 

 それは色を失った写真。あるべきマゼンタ色の光を喪失してしまった、ただ虚ろで希薄な仮面の輪郭だけを持つ『カメンライド』のためのライダーカード。停止した人間の里において、それでもなお重力に従うようにひらひらと舞い落ちるそれを、門矢士は己が右手の指先で掴み取った。

 

「っ!?」

 

 霊夢と五代は息を飲む。視界に満ちるはマゼンタ色の光。幾何学的に歪み始めた人間の里には、先ほどまでなかったはずの自然の風が吹き抜ける。

 どこか灰色のオーロラのようにも見える、揺らめく時空の乱気流。まるで迷走するパラレルワールドに飛び込んでしまったかのような、万華鏡のような視界の変化に戸惑いを隠せない。

 

「この世界も、俺たちの世界も。みんなまとめて救ってやる!」

 

 ただ己が在り方を貫く。その揺るぎない宣言と同時に、士が手にする空白(ブランク)のライダーカードには光が舞い戻った。

 現れた絵柄は先ほどまでの輪郭の真の姿。門矢士が真に装うべき仮面。マゼンタ色の兜、漆黒のバーコードめいたそこに、ただ力強く万物を睥睨する緑色の複眼を設けた破壊者の姿。

 士は腰に装うディケイドライバーのサイドハンドルを掴み、白い楕円を垂直の形に展開する。

 

「あんた、いったい何者なの……?」

 

 不意に吹き荒れた未知の風に佇むは黒衣の旅人。灰色のオーロラは万華鏡の如く揺らめき移ろい瞬いて。さながら砕けたレンズ越しの世界のように里の空を歪み捻じ曲げていく。

 指先にカードを掲げ、士はゆっくりと右腕を持ち上げながら顔を上げた。向き合うは彼の世界に由来せぬ異物。クウガの世界の理より現れた三体の怪物。その中心に立つ一体たるヤモリ種怪人、ズ・ジャモル・レは、ただのリントならざる威圧的な気配に一歩、後退る。

 

 九つの物語。その道の先に歩み見た、真実の裏側(ネガ)昭和(ふる)き英雄の神話、二つの黒き太陽。やがて辿り着いた歴史の最果てで、それらは互いを否定し血に染めた。

 あるいは纏う仮面に異なる意味を宿した伊達なる姿の五侍もいた。振るう真剣に込めた願いは、その名に仮面ライダーの法則を持たずとも、一つの世界の要となりて在り続ける。士はその久遠の旅路の果てに掴んだのだ。どこまでも己がままに。ただ遍く世界を渡り往く、旅人として──

 

「通りすがりの仮面ライダーだ、覚えておけ!」

 

 己が在り方を疑うことのないように。自分の存在を確かめるように。力強く噛みしめたその想いは、これまでも幾度となく自身に刻み込んできた揺るぎなき意思。

 ──見上げる星に、それぞれの歴史は輝いている。それらを線で結んだ先、破壊と創造の輪廻を超えた先で、彼らの物語は紡がれ続ける。

 

 目の前に広がっていた九つの道。今は振り返れば思い出せるその道が、やがて一つに重なって。新しい夜明けへと続く道を、新しい風が通り抜ける道を──切り拓いていくのだろう。

 

「……変身!」

 

『カメンライド』

 

 高らかなる宣言と共に翻す。指先に掲げたライダーカードの裏側を彼方に向け、それをそのままディケイドライバーの本体へと叩き込む。灰色のレンズは真紅に染まり、そこに悪魔めいた意匠を刻んだ破壊者の紋章を写し出した。

 唸る旋律と高鳴る光明に手慣れた様子でサイドハンドルへと両の手を沿える士。勢いよくそれを閉ざすと、写し出されていた紋章は角度を変えて正しく輝く。

 

『ディケイド!』

 

 破壊の棺は雄々しく謳う。その淵より瞬き溢れた幾重もの虚像が士の身へと束ねり集い、やがて無彩色のスーツとなり。真紅のレンズから前方へ飛び出した数枚の薄い板、次元の境界を定義するそれら『ライドプレート』が戦士の仮面を刺し貫き、その身をマゼンタ色に染めていく。

 万物を睥睨する緑色の複眼は力強く輝き。額を光彩(いろど)る黄色い結晶は世界を見定め。九つの物語と十番目の旅路を経て、ここに世界の破壊者は──『ディケイド』は顕現した。

 

 黒と白を刻む胸の十字は罪業の証。大いなる玉座に祀られし悪魔の象徴。掲げる十字架に背負う意味は、それがただ世界に仇為す者であることを示すものではない。

 己を『十番目』と成す楔。九つの世界を破壊するだけのものではなく、自らを十番目の道として物語を紡いでいく意思。彼の鎧に満ち滾る最果ての鉱石『ディヴァインオレ』が叫ぶ理に、もはや門矢士は大鷲の双翼に縛られぬ極光を見た。

 終わりなく歩むは彼の物語。これからもずっと続いていく数多くの世界を見守り、破壊と創造を繰り返す。それが世界の破壊者という存在が往く己が世界、旅路という名の物語なのだ。

 

 ただ、我が道を往く。誰もが旅の途中。本当の自分自身に出逢うために。それぞれの世界が戦うことを恐れるなと。通りすぎずに向き合うことを求め、道を探し選ぶ意思を問う。

 その瞬間に決断するすべてで、未来は理想にも絶望にも変わっていくだろう。だからこそ、己が信じた道を走り続ける。レンズ越しに切り取ってきた景色を、涙で濡らさないために。

 

 世界は目撃する。九つの物語を繋いだ最果ての理。十年紀に刻まれた遥かなる旅路の物語を。




── 私の処へやってきたあんたは全てを破壊する目をしていたわ! ──
あらゆるものを破壊する少女曰く、在りし日の博麗の巫女は破壊者の目をしていたようです。

全然関係ないですが『Re:imagination(リ・イマジネーション)』って『Re:im(レイム)』が入ってて素敵ですよね。
実軸(Re)虚軸(Im)の境界を表す名前で霊夢(Re Im)とも解釈されることがあるみたいです。
すなわち現実と空想。実数と虚数。数学に長けたゆかりんならやりかねないネーミング。

普通に考えて神仏のお告げや予知夢を意味する霊夢からでしょうが、考察は楽しいですからね。

次回、第66話『箱庭』


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第66話 箱庭

 人間の里に、もはや人の姿はない。境界を司る妖怪の干渉によって時空は停止し、風の吹かない領域と化したこの場所はその恩恵により物理的な破壊を免れるだろう。

 それは怪物の攻撃から里を守るためなのか。あるいは、ディケイドという破壊の象徴が存在することによる世界そのもの──結界によって守られた里そのものの崩壊を恐れたためなのか。

 

「…………」

 

 空っぽの時代(ほし)と化した小さな里で、博麗霊夢が見上げる歴史(ほし)。ズ・ジャモル・レの腕輪(グゼパ)から放たれた光弾の爆風で倒れ伏していた彼女が見たのは、夢の中で見た悪魔の特徴と同じもの。黒と白を帯びたスーツに、マゼンタ色に輝きし破壊者の在り方は──

 この幻想郷さえも破壊してしまいかねないほどの、圧倒的な存在感。正面立って向き合っているわけではないにも関わらず、その迫力はまるで全身を震わせるかのようであった。

 

 すぐ傍で霊夢と同じように倒れている五代も、それを感じているらしい。先ほどまで対峙していたグロンギの悪意など比較にならぬほどの激しい気迫に、戦慄にも似た感覚を覚える。そのマゼンタ色の意思を纏う男の在り方は落ち着いているのに。戦士の鎧からは破壊の衝動が感じられた。

 

 リントでは ない グロンギでも ない お前は いったい 何者だ?

「ゼパバギ リント ゼロバギ グロンギ ゴラゲパ ギダダギ バビ ロボザ?」

 

「……さっき言っただろ。それとも、お前たちの言葉じゃないと伝わらなかったか?」

 

 その気迫はグロンギにも感じられるのだろう。戦慄した様子で問いかけるズ・ジャモル・レは、自身が生きたクウガの世界においては在り得ざる存在を訝る。バーコードじみたライドプレートを装う仮面、マゼンタ色の相貌に設けられた碧緑色の複眼(ディメンションヴィジョン)を相手に向けて、ディケイド──門矢士は溜息を零しながら仮面の下で口を開いた。

 その言葉さえ、日本語であるためにグロンギには伝わらない。一部の個体は日本語を学び操ることができていたはずなのだが、一度は五代雄介──現代のクウガに倒され、如何なる理由か復活を遂げた今の状態では、かつて得たはずのその知識の一部を喪失してしまっているようだった。

 

 通りすがりの仮面ライダーだ 少しはリントの言葉を覚えておけ

「ドゴシグ ガシザン カメンライダー グボギパ ゴボゲデ ゴベゾ ボドダン リント」

 

 門矢士は再び学んだ覚えのないグロンギ語で告げる。思考にその法則を思い立てるまでもなく、生まれ育った世界の言葉と同様に異種族の言語を操ってみせる。

 その法則を理解して喋っているのではない。ただ身体が知っているのだ。世界の破壊者で在れと願われたそのとき、大いなる座に召し上げられたときから。その役割は刻み込まれている。

 

「カメン……ライダ……?」

 

 グロンギ語の語彙にはないその単語にズ・ネズマ・ダは首を傾げる。リントが生み出したクウガという戦士と同様に、それはリントの文明にしか存在せぬ固有名詞なのだと理解した。

 

 クウガ ですらない これが バルバの言っていた 『ディケイド』か

「ゼグサ バギ クウガ ボセグ ギデ デギダン バ バルバ──『ディケイド』」

 

 ズ・ジャモル・レはグロンギの巫女たる存在から聞き及んだその名を想起した。思考に思い出される薔薇の香りと共に、目の前の存在に聞いたそれとの特徴を見定める。

 ──世界の破壊者。それはすべての仮面ライダーを破壊する者。そして同時にすべての怪人をも破壊する者。仮面ライダーと怪人。これまで正しく秩序を維持してきた、始まりと終わりの円環。その結びつきを、その因果を。その世界を。次なる創造のための破壊をもって無に帰すもの。

 

「……っ! ディケイド……って……!」

 

「やっぱり……あいつが……」

 

 すでに立ち上がっていた五代はズ・ジャモル・レのグロンギ語、聞き取ることができた最後の語彙にのみ意味を見出すことができた。さながら自身が変身するクウガの名を、かつて未確認生命体第3号と燃え盛る教会で対峙した際に聞き取ったのと同様に。

 ディケイド。その名は霊夢も知っている。彼女にとっては夢の中で見た存在。なぜか呟いていた知るはずのない名前。五代にとっては博麗神社に現れた謎の男が警告していた名前として。

 

 お前を 殺せば 俺は すぐにでも 『メ』 になれる!

「ゴラゲ ゾ ボソゲダ ゴセパ ググ ビゼロ バセスビ メ!」

 

 その圧倒的な威圧感に動きかねていたズ・ジャモル・レを差し置いて駆け出すズ・ネズマ・ダ。ディケイドの存在自体はグロンギ全体に共有された情報であったのだろう。だが、その恐ろしさを実感することができた個体は限られていた。

 兄なのか弟なのか。はたまた真に血縁であるのかさえ定かではない。もう一体のネズミ種怪人、ズ・ネズモ・ダも同じく士に向かって鋭い爪を振りかざし迫る。

 

 それらを写し出すは門矢士の心。まるでファインダーを覗くかのように不用意に動かず。それら二体を視界に収め、獲物を狩る哺乳類動物特有の俊敏性で襲いかかってきた二体のネズミに対して左腰のライドブッカーを鋭く引き抜き、それをソードモードとして横一文字に一閃した。

 

「はぁっ!」

 

「ギィ……ギ……グ……ッ!」

 

 迸るは赤い鮮血。止まった里の大地を濡らす太古の血。右手に持ったライドブッカー ソードモードの刃を左手で撫で上げると、立ち上がってきたズ・ネズマ・ダを再び一閃。

 ズ・ジャモル・レはその無慈悲な剣閃に悪魔の如き意思を見た。戦うことや暴力を厭いながらも覚悟を抱いてがむしゃらに戦っていた西暦2000年のクウガ、五代雄介とは違う在り方。戦うこと自体を知らぬながら、民を守るために己が命の全てを懸けてグロンギの封印に身を捧げた誇り高き戦士、遥か紀元前の英雄──最初のクウガとも違う在り方。

 

 その在り方はどこか、グロンギたちが最も恐れる最高位の王。リントもグロンギも、ありとあらゆるものをただ殺すための獲物としか認識していないような暴虐の極致──

 最強のグロンギの名を欲しいままに無辜の殺戮を繰り返したン・ダグバ・ゼバを想起させる。

 

「ふぅんッ!!」

 

 振り上げた右脚は、鉄槌となりて。飛び迫るズ・ネズモ・ダを叩き伏せた。その一撃には破壊の意思が込められている。触れるものすべてを破壊し尽くすディケイドの力。されどそこに無差別な暴虐性はない。あるのはただ、守りたいものを守るための士の意思。

 霊夢と五代はその在り方に小さな光を見た。ある者は人間の自由のために。ある者は誰かの笑顔のために。己が傷ついても戦う意思。それこそが──『仮面ライダー』の在り方なのだろう。

 

「……五代さん!」

 

 三体のグロンギに向き合うは世界の破壊者。それを見て、霊夢は傍らに立つ五代に声を上げる。小さく頷いた彼はディケイドが敵の相手をしている隙に自らの腰を丸く手で覆った。

 鋭く伸ばす右手でもって空を裂く。笑顔の物語を背負う者──その意思を言葉に込めて。

 

「変身っ!」

 

 赤く滾るは炎の如く邪悪を打ち倒す戦士。マイティフォームの鎧は陽光を返し、力強く晴れ渡る五代の闘志を示している。迷いがないわけではない。その痛みさえも炎の如く燃やし散らす覚悟を灯すのだ。迷い曇った灰色の空のままでは──誰の笑顔も守れないのだと。

 心清く身体健やかなる者はアークルと共に在りて。クウガとなった五代雄介はその健脚をもって駆け出し、光り輝くグゼパを掲げたズ・ジャモル・レを殴りつけてはネズミたちへと向き直る。

 背中越しに仮面を向けては右手の親指を立てる五代の顔は、届かぬながら笑顔として。

 

「クウガ……だと……?」

 

 士は目の前で拳を振るう戦士の姿に驚いた。その名も姿も知っている。かつて自身が旅した九つの世界の一つ、最初に踏み入ったクウガの世界で出会った戦士。それは彼にとって始まりの一歩と成り得た青空の如き笑顔の象徴。旅の最初の仲間であった男のものだ。

 遥かな旅はまだ続いている。その旅の途中──幻想郷と呼ばれる秘境へ招かれる直前、士は士の知るクウガたる青年と引き離されてしまっている。世界を超える基点となっていた写真館で別れて以降、彼がどうしているかは分からない。

 

 ──八雲紫は言っていた。ディケイドの法則が記録した仮面ライダーの歴史は、本来ならば士が出会い仲間としてきた者たちとは別の存在を基準にしているのだと。

 古代リント文明の戦士──クウガ。その世界においては仮面ライダーの名は存在しない。されど永久に限りなく続いていく英雄たちの系譜の中、とある一つの境界と成り得た座標は、紛れもなく最果ての因果に刻まれし仮面ライダーとして定義された。

 門矢士はそれを見て確信した。戦い慣れているわけではないようだが、直向(ひたむ)きにがむしゃらに、自分にできる限りの全力を尽くしている様。士の知っているあのクウガのようにのんきで楽観的な明るさを湛えつつも、決してそれを闇に貶めまいと戦う姿は、揺るぎなき空の如く。

 

 誰とも知れぬみんなの笑顔を守るために戦っている。あの青年こそが、最果ての因果が定義した最初の歴史──『原典』のクウガなのだろう。

 それでも士はあえてそれを『本物』と形容することはしなかった。たとえ原典から生まれ本来の物語から乖離してしまった別の理の物語だとしても。共に旅をして掴んだ絆。青空の如く晴れ渡る心で、とある女性の笑顔のために戦う覚悟を決めたあの青年も。

 紛れもなく()()()()()()()()だった。決して偽物であったなどとは思わない。誰かの笑顔を守り抜くために自らを闇に貶めてでも戦おうとした彼の覚悟を否定する意思は、士にはなかった。

 

「……あんた、名前は?」

 

「えっ? あっ! 俺、五代雄介って言います! 冒険家、いや、クウガやってます!」

 

 不意に投げかけられた質問に思わず振り向き隙を晒してしまう五代。目の前に迫ったズ・ネズマ・ダの爪を咄嗟に受け止め、名乗りと共に拳を返せたのは、一年間もの過酷な戦いを経て少しは戦闘技能が向上していたおかげだろうか。

 如何に異形の怪物を相手にしているとはいえ肉を殴り骨を軋ませ血が滲む。そんな暴力と暴力の応酬にだけは、どれだけそれを繰り返しても永遠に馴染むことはない。

 慣れてはいけないのだ。五代雄介は、その感触に慣れてしまうことだけは決して受け入れない。正義のためであれば暴力を振るっていい──などと、そう簡単には認めてしまわぬように。

 

「そうか。だいたいわかった」

 

 士は仮面の下で呟く言葉をもって戦士クウガに返す。振り下ろされたズ・ネズモ・ダの爪を身を退いて回避する傍ら、振り向きざまにライドブッカー ソードモードを振り抜いてその爪に弾き当て、研ぎ澄まされたディヴァインオレの刀身でもってそれを砕く。

 目の前にいるのは戦士クウガに他ならない。遍く無数に存在する可能性の枝葉。その根幹となる原初の『クウガの世界』の存在。本来あるべきオリジナルの存在であろう。

 

 物語の再編(リ・イマジネーション)が果たされた世界の住人ではない。最果ての因果が記録した第一の歴史。五代雄介と名乗った男の振る舞いを見て、士は自身の知るクウガ──あの青年と同一の力の根源を有しながらその決定的な在り方の違いに原典と再編の差異を垣間見た。

 雄介であって、()()()()ではない。馴染み知ったクウガの法則を持ちつつも、それは友と呼べるあの男とは別人なのだ。士はその違和感を飲み込み、無数に存在する世界(クウガ)(いしずえ)に肩を並べる。

 

「門矢士だ。そっちの巫女が博麗霊夢だな」

 

 背中越しに仮面を向けて、複眼の端にちらりと見やるは紅白。あの八雲紫という不気味な妖怪が語った通りならば、幻想郷の結界を司る博麗の巫女。当代のそれは霊夢という名前であるらしい。彼女に接触することが、この世界で第一にすべきことなのだという。

 

 幻想郷を内包するこの『名もなき世界』の要であるとされる博麗霊夢が、己もよく知るクウガの世界、と言っても自身が知る世界の原典と言える別世界だが。

 そのクウガの世界の要たる当代の戦士クウガ、同じくユウスケの名を持つ男と共にいることに、士は無意識ながらどこか因果のようなものを感じつつ、確信に近い直感で霊夢の名を問うた。

 

「やっぱり私たちを知ってるのね……あんたには訊きたいことがたくさんあるわ」

 

「……今はとにかく、こいつらを片付けるのが先だ。いいな?」

 

「なんだか上から命令されてるみたいで気に入らないけど、仕方ないわね」

 

 夢の中で見た破壊者の姿に霊夢が感じたのは恐怖か敵愾心なのか。あの断崖の荒野を仮面の骸で満たした悪魔と本当に同一の存在なのか。

 問わねばならない。このマゼンタ色の威光に輝く通りすがりの来訪者。どこか既知の枠組みから逸脱した特異点の正体を。だが、やはり彼の言う通り、目の前にはグロンギも存在する。これらを無視して悠長に話し合いなどできるはずがない。霊夢は小さく頷き、お札を構えた。

 

 世界の破壊者は今、ここに。隣に立つは笑顔と青空を背負う者たち。今はディケイドの姿として存在する門矢士のそれぞれの傍らにて、晴れやかなる空色の心は意思を重ねる。

 紅白の衣を揺らして霊験(あらた)かなるお札を構えるは博麗の巫女。紅く黒く、雄大な炎の如く拳を構えるはリントの戦士。

 ライドブッカー ソードモードの研ぎ澄まされた刀身はそれぞれの覚悟を映し出す。右側の面に博麗霊夢の表情を、左側の面にはクウガの仮面に覆い隠された五代雄介の表情を。それはさながら次元を切り裂くその刃を──ディケイド自身を境界として、二つの法則(せかい)を分かつかのように。

 

「えっと、門矢さんって呼べばいいのかな?」

 

(つかさ)でいい。俺の方が年下みたいだしな。気を抜くなよ、ユウス……いや、五代雄介」

 

 突きつけた切っ先を正面に。士は右側に立つ五代の言葉にそう返した。少年のような明るさとは呼び難い、若くしてどこか達観したような雰囲気。同じクウガながら同じ人間ならず。その物語は法則こそ同一の起源を持ちつつも、自分の知るクウガとの差異に未だ慣れず。

 別の世界の同じ人物であれば顔も体格も同じものであろう。だが、原典と再編の差異はただ単純に異なる歴史を辿った同じ人間というわけではない。再編世界は原典の物語を再編成して生まれた世界であるのだ。

 

 並行世界の同一存在、並行同位体と呼ぶべきものとは少し違う。歩んだ歴史の流れから分岐した枝葉のような世界なのではなく、ただ原典となる世界の根幹を成す法則だけを抜き、安定しやすいように写し取った世界──すなわち再編された世界(リ・イマジネーション)である。

 原典世界と同様、再編世界を基準と成す無数の並行世界も存在しよう。士の知るユウスケと同じ顔をした並行同位体も数多の世界には存在しよう。

 それは、再編世界の並行世界。原典世界の並行世界とは繋がらず、別の法則として枝分かれした因果を生み出し続けている。心優しき青年であったあのクウガでさえも──あるいはちょっとした世界線の変化で。グロンギの如く凶悪な思想を持った殺人鬼と化していたのかもしれない。

 

「年下って認めてる割にはずいぶんな振る舞いね。まぁ……どうでもいいけど」

 

 士の左側で溜息をついた霊夢はお札に霊力を込めながらも呟いた。短い会話を終えて、すぐさま目の前に立つ三体のグロンギに向き直る。

 気がかりなのはグロンギたちが持つ謎の腕輪。あそこには自分の知る幻想郷らしいエネルギーの塊、妖怪や妖精が持つ妖力と呼べ得るものが感じられた。それに、中央のヤモリが放ってきたのは間違いなく弾幕ごっこで用いられる光弾。なぜ奴らがその力を扱えるのか。

 

 思考する暇はない。ズ・ネズマ・ダとズ・ネズモ・ダが再び駆け出してきたのを見計らい、霊夢も手にしたお札をばら撒いて攻撃する。ホーミングアミュレットとして散らばったそれらは的確に怪物を狙い射貫き、霊力の爆発と共にダメージを与えていく。

 だが、やはりズ集団の端くれ。霊夢は知らないが最下級と言えどグロンギの戦士として選ばれるだけの力はある。本気の力を込めたとはいえ、スペルカードに満たぬ弾幕では力不足であった。

 

 お前は 俺たちの 新たなる ゲゲルに 邪魔だ!

「ゴラゲパ ゴセダ ヂン ジャラザ ビ ガサダ バス ゲゲル!」

 

 振り下ろされたズ・ネズマ・ダの爪をライドブッカー ソードモードの柄で受け止める士。そのまま腹へ蹴りを打ち込み、背後から迫ってきたズ・ネズモ・ダを斬りつける。

 先ほどまでならばその一撃で怪物を仰け反らせることはできたはず。しかしたった今斬りつけた相手は異形の肉体から赤き血を迸らせつつも、怯むことなく力強い振る舞いで士に掴みかかっては齧歯類(げっしるい)のそれを彷彿とさせる牙を閃かせた。

 どうやら何か小細工をしたらしい。不自然に湧き上がっているような謎の力は、かつての戦いで感じられたグロンギの気配に不純物が混ざっている。どこか現実味のない、幻想的な力──

 

「ぐっ……!」

 

 大地を這う爬虫類が如き動きで五代に迫ったズ・ジャモル・レ。クウガとしてグロンギと戦ってきた五代も謎の力を感じている。受け止める拳から感じられる奇妙な感覚。それは先ほどグロンギが放ってきた、彼らにはなかったはずの光弾のエネルギーと同じ。

 不意に、ズ・ジャモル・レの腕輪(グゼパ)についた勾玉が光を灯した。その輝きは悪意と殺意をもって人々を虐殺する邪悪なる者には似つかぬ清らかな力。どこか霊夢の弾幕にも似た優しさを湛えた、青空の如く神秘的な波動。

 

 すぐに組み合っていた身を解き、大地を蹴って後退するが、直後に振り抜かれた腕は手首に装うその腕輪から妖力という幻想的なエネルギーを光弾として放ってきた。

 両腕を交差させてその爆発を防ぐものの、焼けつくような痛みに仮面の下で表情を歪める。

 

 これが 妖怪の力! 新たに得た この力で 殺してやる!

「ボセグ ジョグバ ギン ヂバサ! ガサダ ビゲダ ボン ヂバサゼ ボソギ デジャス!」

 

 ズ・ジャモル・レの腕輪は今なお強く光り輝いていた。あの不自然なまでの筋力も含めて考えれば、あの腕輪にはただ貯えたエネルギーを光弾として飛ばすだけではなく──

 そのエネルギーを自身の神経組織、魔石ゲブロンを中心として広がる神経系に流し込むことで、身体能力を強化できるのだろう。

 大地を蹴って迫ってくるズ・ジャモル・レの拳をなんとか避ける。大地を殴りつけた拳は人間の里の地面を砕き、地鳴りと共に亀裂を入れてしまった。元よりグロンギはゲブロンの力で凄まじい力を手に入れていたが、そこに妖力が加わることで以前よりも格段に強化されているのだ。

 

「……まったく、相変わらず趣味の悪い奴らだな」

 

「さっきもこいつらと話してたみたいだけど、なんて言ってるか分かるの?」

 

 怪物たちの猛攻を搔い潜りながら口を開いた士の言葉を聞き、五代も拮抗した状況ながら問いを投げかけることができた。

 戦いながらズ・ネズモ・ダも痺れを切らしたのか、まだ数個しか並んでいない腕輪(グゼパ)の勾玉を一つずらす。本来それはゲゲルにおいて自身が殺したリントの数を数え、一人を殺しては一つずらして数を記録していくためのもの。九進法を用いるグロンギは九人を殺した時点で一の位を繰り上げ、九の位の勾玉を一つ、九人分としてカウントする。

 ズ・ネズモ・ダがずらしたのは一人分の勾玉。それをマイナス、つまり逆向きにずらして殺した数を一つ減らすことで、勾玉は光り輝き、ズ・ネズモ・ダの身体へと妖力を流し込んでいった。

 

「だいたい分かる。どうやら、今まで殺した妖怪の力を取り込んで強くなったらしいな」

 

「まぁ、そんなところでしょうね。あの感じは間違いなく幻想郷に存在する力だわ」

 

 士はライドブッカー ソードモードという得物がある分、リーチの長さを活かした距離で戦えている。その言葉に返した霊夢もまた、弾幕ごっこという遠距離戦を得意とする身。間合いを取った状態での戦闘が適している。

 対してクウガは得物を振るう形態もあるものの、そのいずれも無から生み出すことはできず、あくまで霊石アマダムが伝えるモーフィングパワーによって物質を再構築することで武器と成すことができるだけだ。赤き戦士、マイティフォームでは徒手空拳で戦うしかない。

 

 どこか達観したような雰囲気で冷静に怪物の能力を分析する二人よりも前方で、五代はひたすら拳を振るう。この距離では光弾の発射を見ても回避は難しいだろう。

 振り上げられたズ・ジャモル・レの右脚。そこにはやはり未知のエネルギー。妖怪から得た力であろうか。グロンギらしからぬ神秘的な波動を帯びたその右脚は、五代の鎧を掠めていく。

 

「…………」

 

 五代も一年間の戦闘経験で培った観察眼は衰えてはいない。至近距離で拳を交えながら、僅かに距離が離れた一瞬の隙にズ・ジャモル・レの身体に満ちる妖怪のエネルギーを考察。

 少し前の夜のことだ。幻想郷に来て間もない頃、博麗神社で白いクウガとして戦っていたときの状況を思い出す。あのときは自身の横を通り抜けた霊夢の弾幕に何かを感じ、咄嗟に自分に向けて夢想封印を放ってもらった。

 彼は知らないが、霊石アマダムは霊夢の霊力に反応して全身の神経に力を行き渡らせ、生命力を活性化させることで深い亀裂に苛まれたその結晶の傷を癒したのだ。

 

 空の果てより舞い降りた未知の鉱石、アマダム。リントはクウガの要たる石をそう呼んでいた。それはグロンギたちを異形の怪物へと変貌させる魔石ゲブロンと同じものである。ただ同じ時代を生きた異なる部族によって、同じ由来で手にしたその石の呼び名が違うだけ。

 

 それは相応しき者の意志を叶えるだけの力を秘めた物質だった。それらを手にしたグロンギは、より強く惰弱なる命を殺すための力を求めた。遥か古代のリントはグロンギとの戦いを嘆き、同じ悲しみを繰り返さないために力を身に着け、彼らを封印する『封印エネルギー』というものを生み出して行使した。

 そしてかつての戦いにおいて、五代も。より強くなっていくグロンギたちに対抗すべく、生死の境で自身に施された電気ショックの衝撃を由来として新たな力を得た。

 

 すべては意志を叶えるアマダムの力。眠っていた力を捧げ、宿主に変化をもたらす。おそらくは此度の現象も同じであろう。

 死より蘇り、さらなる強さを望んだグロンギたちは、殺害した妖怪のエネルギーを魔石ゲブロンの力で己がエネルギーに変えた。かつての力を取り戻そうと望んだ五代は、霊夢が清らかな祈りを込めた霊力をアマダムの真髄へと取り込み──その意志の力でアークルの損傷を全快させた。

 

「おりゃああっ!」

 

 振り抜く拳に込めるは悲しみ。傷つく人々の涙。仮面の下に痛みと迷いを隠して、五代はただみんなの笑顔のためだけに。戦いたくないという己が本心(よわさ)を振り払う。

 真っ直ぐ放たれた拳は無意識のうちに取り込んだ力を湧き上げたのか。あるいは傍で灯る霊夢の弾幕が、アマダムに感応したのか。その拳は、目の前のズ・ジャモル・レを殴り飛ばした。

 

「……っ! はぁあっ!」

 

 すぐさま迫ったズ・ネズモ・ダにも打撃を見舞う。ただ、やはり強靭な肉体だ。自身が一度はアークルの傷によりクウガとしての力を失い、白くなった痛みが未だ燻る。

 かつての戦いで得ていた『(きん)の力』。この身を死なせたくないと願ってくれた仲間たちの祈りによって、心臓へ迸った電気の衝撃と共に得た力。あの力は、どうやら第0号との決戦でアマダムに深刻なダメージを負ってしまって以来、この身体から消え去ってしまっている様子だ。

 

 力を込めてもあの独特のビリビリとした感じが身体に伝わってこない。あるいはもう一度、電気ショックを受ければ取り戻せないか。一度目こそ本当に心停止に陥っていたが、二度目に関しては強敵を倒すために健康な身体で受けたものだ。

 当然、健康な身体に電気ショックなど危険な行為である。友たる女性にも止められたが、必要なことだと押し通して施術してもらった。それ以外に、選べる道などなかったから。

 

 五代が殴りつけたズ・ネズモ・ダに対して、士は逆袈裟掛けにライドブッカー ソードモードを振り上げる。迷いと悲しみを振り払おうとする五代とは対照的に、士の振るった剣閃には躊躇いや曇りといったものは一切ない。

 ただ無慈悲なだけと言えば破壊者たらんとする悪魔の威光をも覚えよう。だが、そうではない。そこにあるのはグロンギのような暴力への享楽ではなく。

 士は仮面の下に憤怒を隠していた。剣に乗せるのは悲しみではなく怒り。誰かの大切な世界を、笑顔を傷つける者たちに、万物を破壊せんばかりの怒りを湧き上がらせている。

 倒れ伏し、再び立ち上がった怪物に向き合っては──その手に一枚のカードを取り出して。

 

『アタックライド』『スラッシュ!』

 

 ディケイドライバーに叩き込まれたカードは中央に輝く赤いレンズ越しに光を灯す。士は力強く握り締めたライドブッカー ソードモードの柄から迸る波動を感じ、そのままそれを幾度も幾度も振り下ろしていった。

 ただ一振りの長剣であるはずのそれは、発動された【 ディケイドスラッシュ 】により幾重もの虚像を重ね、一度の振りで複数の剣閃を走らせる。

 決して無為な幻などではない。振るわれたそれらは一つの例外もなくすべて、(まば)らに乱れ散った万華鏡の如き剣戟となってはズ・ネズモ・ダの身体を引き裂いていく。

 

「ふぅんっ!」

 

 トドメとばかりに虚像の刃を束ねて一閃。ディケイドの法則がもたらす力は、世界の理を超えて滲み溢れる。世界を写す力の根源、秘石トリックスターがそれを満たすのか。

 十年紀を超えた先の因果で生まれた世界の破壊者。その刃は、リントとは関わりのない身でありながらも等しき力を輝かせ、斬り刻んだグロンギの身体に封印エネルギーを刻み込む。

 

 ズ・ネズモ・ダの赤銅色のゲドルードは光溢れる亀裂に苛まれ──やがてそれを解き放った。

 

「グギァァァアアアッ!!」

 

 魔石ゲブロンはその力に接触して、激しい爆炎と共にズ・ネズモ・ダを塵芥と成す。続いて士はすぐにライドブッカー ソードモードの柄を折り曲げ、刀身を収めた。

 ガンモードと化したライドブッカーの銃口をズ・ネズマ・ダに向けては、引き金を引く。

 

 これが ディケイドの力 なのか……!

「ボセグ バボバ ヂバサン ディケイド……!」

 

 放たれた光弾はライドブッカーが秘めるクラインの壺より無限に供給される未知のエネルギー。並行世界を経由する幾何学的な螺旋の渦に、三次元的な既知の概念は通用しない。

 

「符の(いち)夢想妙珠連(むそうみょうじゅれん)!」

 

 霊力を解放した霊夢の宣言が光を放つ。鮮やかな光彩に満ちた霊力の光球はふわふわと色とりどりに空を舞い、夢想封印ほどの輝きには満ち足りぬながら美しく軽やかに。

 丸く溢れたそれらを一直線に繋げ連射する【 符の壱「夢想妙珠連」 】をもって、霊夢はズ・ネズマ・ダの身体──犠牲となった妖怪たちの妖力で強化されたその身へと弾幕をぶつける。

 

『アタックライド』『ブラスト!』

 

 炸裂する霊力の余波を見届けぬまま、士は再びディケイドライバーへとカードを装填。真っ直ぐ腕を伸ばして向けたライドブッカー ガンモードそのものを幾重もの虚像と成し、そのまま幻影の如く増えたマゼンタ色の銃口から揺らめく無数の光を放つ。

 先ほどのディケイドスラッシュと同様、それは一挺の銃でありながら複眼越しに垣間見た世界のように、疎らに乱れた【 ディケイドブラスト 】となりて様々な位置から発射された。

 

 鬱陶しい 光め! ネズモの 仇を 討ってやる!

「グドド グギギ ジバシレ! バダビゾ グデデ ジャスン ネズモ!」

 

 絶え間のない弾幕の炸裂に耐えかねたらしきズ・ネズマ・ダが齧歯(げっし)を軋る。グゼパの勾玉、その九の位をずらし、輝く奔流を光球と成して放ってきた。

 妖力から成るエネルギーの塊にゲブロンのモーフィングパワーを加え、より攻撃的な振る舞いで空を裂く幻想的な波動。だが、幻想郷に馴染まぬグロンギは、霊夢たちが得意とする弾幕ごっこの基本的なルールを理解していなかった。

 

 ズ・ネズマ・ダが狙ったのは仮面や鎧を持たぬ生身の少女。ただのリントたる見て呉れの霊夢であれば、容易く殺せると判断したのかもしれない。

 霊夢は小さく溜息をつくと、ひらりと構えたる両手のお札に意志を込めた。符の壱に次ぐ第二のスペルカードを心の中に描き表しては、両腕を胸の前で交差させてその札の名を宣言する。

 

「符の()陰陽散華(おんみょうさんげ)!」

 

 目の前に迫る光球に恐れはなく。ただ大きいだけの光の玉など、弾幕とは呼べはしない。むしろ大きい弾ほどその密度は大したことはないものだ。旧地獄の最奥にて出会った地獄鴉の少女が放つ灼熱の太陽の如き光球は、その見た目よりも実際の質量(当たり判定)は小さかった。

 

 スペルの宣言と同時に霊夢の姿は消えてなくなる。僅かにカリカリと霊夢の身を掠める音を聞いたものの、その光は彼女に直撃していない。

 亜空穴によって霊夢はズ・ネズマ・ダの背後に移動していた。そこから放つは朱色(あけいろ)に桃色を装ったかのような鮮やかな色合いの陰陽玉。淡く華やかに散るは、桜に幕。芒に月。風情を伴う香りと共に、幾重にもばら撒かれた【 符の弐「陰陽散華」 】が弾み散っては怪物を殴りつける。

 

「グゥ……!」

 

 振り向けばそこに霊夢はいない。弾んで跳ねる陰陽玉の群れと共に、お札を放つ霊夢はあちらへこちらへ彼此(ひし)五月雨(さみだれ)

 グゼパに宿した光弾を放って霊夢を撃ち落とそうとするも、神出鬼没に現れ消え続ける彼女には当たらない。それどころかせっかく身体を強化するために用いていたエネルギー、ゲブロンの力でグロンギとしての肉体に定着させていた妖力までもを解き放ってしまい、光は失せた。

 

「……とどめよ! 符の(さん)魔浄閃結(まじょうせんけつ)!!」

 

 気配を見上げたズ・ネズマ・ダの視界には陽光が煌く。空を遮る影となりて振り抜かれた霊夢のお札を額に受けて、己が足元より湧き上がる青白い霊力の奔流に、強靭なグロンギとしての肉体を清らかに焼き払う神仏の護光が如き波動を見た。

 それは魔を祓い清める博麗の結界術。壱、弐に続く符の参に紡いだその名を掲げ、霊夢は眼前に立つ怪物を【 符の参「魔浄閃結」 】の洗礼でもって封殺する。

 

 動けぬ怪物をその場で蹴り上げる昇天脚の衝撃をもってして上空へと打ち上げ、魔浄閃結の光に包まれながらも足掻こうと試みるズ・ネズマ・ダに最後の裁きを下すように。

 周囲を跳ね回っていた陰陽散華の陰陽玉は一斉にそこへと集い、空にて鼠を花火と散らせた。

 

「ゴォォ……グァァァアッ!!」

 

 頭上にて爆ぜ散る怪物の熱を肌に感じ、霊夢はすぐさま顔を上げる。見やる彼方の正面に立つはすでに持ち得るすべての妖力を己が身に捧げた爬虫類の姿だ。

 ズ・ジャモル・レは全身に滾る妖力を思うがままに振り抜いて五代を殴打。幻想的な力の爆発を伴う衝撃に五代は吹き飛んだが、咄嗟に受け身を取ったためダメージはさほど大きくない。だが、距離を取られてしまった。

 

 その隙を縫うように飛んでくる光弾。弾幕ごっこに慣れている霊夢は身体を傾ける程度で無駄な動きなくそれを回避できたが、五代はそういった戦い方には慣れていない。飛び道具を扱う未確認生命体も確かに存在はしたものの、弾幕というレベルでの連射や掃射には縁がなかった。

 

「ぐぅっ……!」

 

 大きく転がるように避けてしまったことが仇となり、続く光弾に対処できず。避けた先に向いた腕輪の光弾は真っ直ぐに五代を狙い、クウガとしての装甲に炸裂する鈍く熱い痛みをもたらす。

 

「五代さん! ああいう自分を狙ってくる弾は引きつけてから小さな動きで避けるのよ!」

 

「えっ? そういうもんなの?」

 

幻想郷(こっち)の戦いだとよくあるパターンだわ。回避のコツは、弾道をよく見ること!」

 

 霊夢の言葉にヒントを得るも束の間、ズ・ジャモル・レは左腕に込めたエネルギーを再び大きく振り払ってきた。どうやら今度は特定の対象のみを狙い射貫くものではなく、無作為に光弾の雨を撒き散らす──文字通りの『弾幕』の射出という手に出たようだ。

 

 クウガの複眼が捉える超人的な感覚の賜物か。四方八方へと飛び散っていく光弾は人里の家屋に着弾すれども、なぜかその一つ一つの動きが速度を伴って視認できる。霊夢にとっては常日頃から当たり前に認識している感覚だが──

 五代にとっては新鮮な感覚。弾をしっかりと見るだけでここまで景色が変わるのか。まるで放たれる弾幕の帳を俯瞰(ふかん)して見下ろしているかのように鮮明な光景を垣間見て、静かに息を飲む。

 

「おい、そんなこと言ってる間にどうやらパターンとやらが変わったみたいだぞ」

 

 五代と同様に弾幕に縁のないはずの士が冷静に言う。ズ・ジャモル・レが放つ光弾の雨は最初は不規則に散った緩やかかつ乱雑でまとまりのないものであった。

 先ほどまでの集中的な自機狙い弾に比べ、今は角度こそ前方に集中しているが無作為にばら撒かれた弾幕が自分たちを襲うのみ。その多くは関係のない方向へ飛んでいくため、自分に向いた弾道のものだけを意識していれば避けることは容易い。

 

 弾数こそ多いものの密度の低いそれらは弾幕に馴染みのない五代たちであってもさほど警戒することなく回避できていた。

 だが、ズ・ジャモル・レがさらに力を込めたことで密度が増していき、やがて視界をほぼすべて覆い尽くしてしまうほどの激しさで光弾の雨は例のオーロラも斯くやという緞帳の如き振る舞いで荒れ狂う。そこに必要とされるのは──もはやパターン化のできぬ『気合い避け』のみだった。

 

「うおっ!? 霊夢ちゃん! こういうときはどうやって避ければ……!?」

 

「基本の避け方は一緒! ばら撒き弾も弾道固定弾も、まずは弾道をしっかり見て──」

 

 お札を構えて光弾を避けるいつもの戦い。いつもは空で行っているそれを、地に足をつけて行っているだけ。そんな当たり前のスペルカードバトルじみた戦いに、霊夢は口を閉ざす。

 これは本気の戦いである。いくら弾幕を避けたところで、相手はルールに則った降参などはしてくれない。絶え間なく撃ち続けることができるは通常ショット。その程度の力ではグロンギほどの再生力を持つ怪物を倒せはしないだろう。

 

 すぐに考えを改める。馴染み知った力による弾幕という在り方に思考を持っていかれてしまったが、手にするべきはスペルカードルールにおける勝利などではない。

 本気の殺し合いに決め事(ルール)などないのだ。霊夢は再び、亜空の狭間へ飛び込もうとするが──

 

「……やれやれ。ちまちま避け続けるのも面倒だ。こういうときは決めボム(こうする)に限る」

 

 すでにブックモードへと戻していた左腰のライドブッカーから一枚のカードを引き抜いては独り言つ士。

 右手の指先で掲げたライダーカードに描かれているのは青く光り輝く無地の背景にバーコードめいたディケイドの紋章を持つもの。人差し指でトントンとそれを叩き、左手で引いて開いたディケイドライバーのバックルへと放り入れるように叩き込む。

 

 ズ・ジャモル・レが放ち続ける弾幕は正面に向かう放射状。弾源(あいて)に近寄るほど弾速も密度も増すだろうが、離れた位置にいればむしろ光弾の軌道を見極めやすいと言える。

 それをすでに理解していたのか。あるいは数々の世界を渡り歩いていたときのように、この地に踏み入った時点で幻想郷におけるスペルカードバトルの知識や技術までもを役割として受け入れていたのだろうか。

 弾幕の理を知らぬグロンギが放った高密度のばら撒き弾、その数秒間の僅かな隙。極めて小さな時間の隙間でありながら唯一光弾の飛んでこない『安地』を見繕い、士は一つ、切り札(ボム)を切る。

 

『ファイナルアタックライド』

 

 カードを受け入れたディケイドライバーは赤き光を色彩(いろど)る『ワールドファインダー』のレンズに世界の破壊者を意味する紋章を写し出していた。

 士の両手でサイドハンドルは閉じられ、正しき角度を向いた紋章は終焉を告げる。

 

『ディ ディ ディ ディケイド!』

 

 白き破壊の棺が応えるは歴史の欠片たるライダーカードの祈り。今だけはただ、カードであるという共通点だけを持つスペルカードとの繋がりを抱いて。

 ワールドファインダーは士の正面に幾重もの光を帳と成して虚像の如く奉る。それらは人の身の丈に等しきライダーカードを模したもの。ただ立ち並びゆく写真の道はさながら門が如く相応しき者の到来を待ちいたり、ズ・ジャモル・レへの道筋となる十枚の帳となり。

 

 士はディケイドとしての脚力をもって高く跳躍した。その場に連なる十枚の光の帳も付き従い、先に在るものはズ・ジャモル・レを捉えたまま、士に近いものは士を追うようにそのまま上空へと昇っていく。

 ここに歩むべき道は刻まれた。空高く宿るディケイドの突き出した右脚に、斜め向きに真っ直ぐ沿うは十枚の光の帳たるライダーカードたち。

 そこへ吸い込まれるように士は一枚目の光へと蹴り込む。一枚を貫き、続く二枚目を深く貫き、三枚目、四枚目と。光の帳を超える度に、輝き満ちる歴史の道は士自身を楔と定めるが如く。

 

「はぁぁあっ!!」

 

 眩き破壊の威光に滾る咆哮を前にして、もはやズ・ジャモル・レが左手より放ち続ける弾幕は意味を為さなかった。光弾の雨を遮る光の帳を自らの脚で打ち破りつつ、ディケイドはやがて自らを意味する十枚目の光を超えて。鋭く伸ばした右脚の先に、終焉を指し示して。

 見果てぬ先の年代記(クロニクル)。その風に乗り、駆け抜ける。次元の壁を否定し次の世界へ繋ぐオーロラの如き揺らめき。強さというカードを揺るぎなく誇りに変えて、いつか辿り着くべきゴールの場所を目指し続けるために。

 

 旅の終わりは、新たなる旅の始まりだという。一つの物語が終焉を迎えれば、やがて次の物語は紡がれる。その繰り返しを永久なるアルバムに収める役割を抱きし者。

 終焉。破壊。すなわち、別れ。それはただ哀しいだけのものか。最果ての因果へと問いかけるは世界の破壊者という役割を持つ者ではなく、道なき道に次の『創造』を求めた男の叫び。

 

「グォォォーーーオオオオッ!!」

 

 ディケイドの右脚が刻みつけるはマゼンタ色の旅路。ズ・ジャモル・レは自身が生きた世界とは異なる因果を由来とするもの、されど同じ力を意味するものに、二度目の死を見る。

 次元を引き裂く一撃は【 ディメンションキック 】と呼ばれる破壊の一手。グロンギの戦士たる怪物の傷を秘石トリックスターの叡智で黄金の輝きに染めて。大空を裂く断末魔の叫びと共に溢れ出るは、紛れもなく封印エネルギーの奔流だった。

 

 そこに込められたのはクウガの法則に非ず。ただ、世界を破壊するために生まれたディケイドの法則である。ディケイドにとって、グロンギの持つゲドルードに封印エネルギーが反応するというクウガの世界の法則などは関係ないのだ。

 その存在とその力は破壊そのもの。ディケイドの意思をもって破壊の対象となれば、その一撃によって無条件で破壊される。ディケイドが封印エネルギーを宿しているというわけではない。

 

「……っと。ま、こんなもんだろ」

 

 爆ぜ散った命の熱を前に、士は大地を踏みしめる。パンパンと手を払う仕草と共に振り返れば、緑色の複眼をもって映し出す二人の眼差しに自分とは違う居場所の境界を見た。

 少女の表情には得体の知れない疑惑を。戦士の複眼には答えの見えぬ異物への違和感を。

 

「ディケイド……」

 

 小さく呟かれた霊夢の言葉は風なき里の静寂に消えていく。共に戦っていた際はその自然な振る舞いと在り方を受け入れてしまっていたが──それがどれだけ異質であるのかを如実に示すような不自然すぎるマゼンタ色に、霊夢の直感は不気味さを訴えていた。

 なぜ外来人らしき彼がグロンギの言葉を話せるのか。なぜあのときの紫と同じ姿に変身しているのか。なぜあの悪夢の中にその姿を見せたのか。

 

 霊夢が胸に抱く恐れはそれだけではない。博麗神社に現れた謎の男は、ディケイドは世界を破壊する悪魔だと言った。すべての仮面ライダーを滅ぼす災厄であると。

 ただ鵜呑みにするには荒唐無稽な話かもしれない。それでもあの悪夢が思い出させる。あのマゼンタ色の悪魔はすべてを破壊する。それだけの絶対性を有しているという事実への説得力を。

 

「またその目か。お前らの言いたいことはだいたい分かってる。俺は──」

 

 世界にとって不倶戴天の敵。存在してはならない異物。そう扱われることには慣れている。これまでも歩み旅した様々な世界で恐れられた。世界の破壊者として蔑まれた。自分の存在そのものが世界を繋ぎ合わせ、あらゆる世界を無に帰してしまうのだと。

 そんなことは士の知ったことではない。居場所などなくても存在する。たとえあらゆる世界から拒絶されても門矢士はここにいる。

 

 ──そのとき自分がいるその場所を自分の場所と成せばいい。自分が今いるその場所で、自分が本当に好きだと思える自分の在り方を目指せばいい。

 奇しくも士が見出した、世界の破壊者ではなく旅人としての己が道。それはかつて五代が未来を見失った少年に届けた言葉に似ていた。たとえ歩む世界の先が見えなくても。青空を染める灰色が道を阻んでも。その雲の向こうには、どこまでも、青空が広がっている。

 

 出会ったことのないはずの男の言葉が、士の在り方に宿っている。本人の口から聞いたわけではない。誰かから聞き及んだということもない。そもそも士はその言葉そのものを知らない。それでもどこか共通した想いを胸に宿すは、彼が受け継いだ九つの物語を、歴史と背負っているから。

 

「えっと、たしかディケイドって呼ばれてたよね。一緒に戦ってくれてありがとう!」

 

 戦士クウガは右手を差し出す。クワガタムシめいた異形の頭部に表情はない。仮面と定義されたその兜には赤い複眼と強靭な大顎を掲げるのみで、感情的な変化はない。

 不思議とそれを彼自身の笑顔だと受け取ることができたのは、彼と相対する者の常なのか。

 

「は? 何だって?」

 

 マゼンタ色に走る黒いバーコードの意匠で向き合う仮面。クウガと同様に表情なき、それでいて異なる色の緑色の複眼の下で、士は眉をひそめた。

 リントが誇るは唯一無二の戦士であるクウガ。されど今はその手を拳と成さず、誰かと繋がるために開かれた手。かつて再編されたクウガの世界を訪れた際、士は五代雄介とは違う男が変身したクウガによって一方的な攻撃を受けた。

 今でこそ理由は分かる。自分の世界を破壊すると聞いていた者が現れれば、その世界を守りたい者、守るべきものがある者は戦うべき理由を拳と掲げるだろう。

 

 それも一度ではない。クウガの世界を超え、その男とはわだかまりを解いて友となった。続いて訪れた再編されたキバの世界において、今度はキバによって迫害を受けた。その男とも絆を結び、次に訪れた世界でも、そのまた次の世界でも。ディケイドたる門矢士はその都度に謂れなき糾弾と淘汰を受けた。

 たった一人ではその心は疲弊してしまっただろう。だが士には仲間がいた。たとえどれだけ己が存在を否定されても、戦い続けることができた。

 

 そういった過去を経験しているからこそ、少しだけ面食らってしまう。自分の知るクウガとはずいぶんと印象の違う男の振る舞い。あるいは彼のように、自分を悪魔だの破壊者だのと告げて回るあの男に会っていないのか。

 訝しげな視線を仮面越しに送る士の不信感に気づいたか、五代はディケイドの仮面と自分の右手を交互に見やると、差し出した右手をゆっくりと引いてはグっと握り締めて親指だけを立てる。

 

「あんたが何者か知らないけど、少なくとも今は敵だとは思わない。それでいいでしょ?」

 

「……お前ら、俺について何か言われたんじゃなかったのか? そういう目だったぞ」

 

「ええ、言われたわ。紫と同じくらい胡散臭い男にね。でも、あんたはそんな奴には見えない」

 

 世界を破壊すると言われても実感は湧かない。確かに相応の威圧感はあるが、それはどこか説明のつかない感覚的なものだ。こちらに敵意を向けてくるわけでもないし、明確な意思をもってこの幻想郷を破壊しようとしているようにも見えない。

 霊夢はその感覚に既視感を覚えた。未知なる戦士に対する疑惑と不信感。されど肩を並べて共に戦ってくれた者は、幻想郷を、この里を守る確かな力となってくれた。

 

 思考を深く手繰るまでもない。それはあのときと似ているのだ。この異変を知り、初めて人間の里で赤銅色のバックルを身に着けた未確認生命体と弾幕の火花を散らしたとき。

 五代雄介という男、霊夢が最初に見た仮面の戦士、クウガと初めて出会ったときのことと。

 

「その根拠は?」

 

「勘よ」

 

 溜息混じりに問われた言葉に対し、霊夢は胸の前で組んだ腕を解いては士に右腕を高く掲げる。自分の勘に絶対の自信を持つ彼女は立てた親指に揺るぎなき意思を込めた。

 古代ローマで、満足できる、納得できる行動をした者にのみ与えられるその仕草。力強く親指を立てて誇りを示すそれは、五代雄介と共に戦った霊夢にも在り方が影響しているのだろう。

 

「正直、あんたも信用できるか分からないけど、あの変な男の言葉よりは──」

 

 五代が霊夢の振る舞いにどこか懐かしさを覚えかけたその瞬間。クウガと化した肉体の耳、常人の何倍も優れたその知覚に、おぞましくも聞き覚えのある羽音を聞く。

 その正体に思い至るよりも前に彼の身体は動いていた。クウガとして顔を上げ、その赤き複眼で捉えた残影は空を裂き。瞬くよりも速く翔け、楔の如く鋭く研ぎ澄まされた光の弾が迫り来る。

 

「……っ!?」

 

 里の大地は土煙を上げた。本来ならば土を抉り深い穴を穿っていたであろうエネルギー。それは時空の停止した里を傷つけることはできず、ただそこに乗っていた土だけを散らして消え失せる。それを実感できたのは、足元に瞬いた光の爆ぜる音が、さながら銃弾の衝撃であったから。

 

「な、何っ!? また新手!?」

 

 霊夢は思わず光弾──らしきものが飛んできた方角を見上げるが、すでに影はない。里の上空を見渡すものの、例の灰色のオーロラは現れていない。

 五代も士も霊夢と同様、空を見上げて敵を警戒していた。耳に聞こえてくるのは不快な羽音。ディケイドとクウガという人間を超えた叡智を纏う戦士たちには、その微かな音が届いているようだが、生身の少女に過ぎぬ霊夢には前触れもなく光弾が降ってきたように感じただろう。

 

「……聞こえるか、この音」

 

「うん。……かなり速いみたい……」

 

 背中合わせに空を見上げる、マゼンタ色と滾る赤。そして再び風を裂き、羽音は再び光を灯す。殺意を帯びた鋭い光弾は里の大地を撃ち、またしても土煙を上げた。

 撃ってきた方角は先ほどとは違う。人が持つ原始的な本能に対して不快感を呼び起こさせるこの羽音はおそらく──(ハチ)のもの。薄く震う羽は低周波を放ち、凄まじい速度で空を飛んでいる。それゆえに光弾を撃ってくる位置が一定していない。五代と士はそこに焦燥を覚えた。

 

「くっ……!」

 

 続けて放たれる光弾。今度は死角からだ。五代は右肩を掠める痛みに振り向くが、やはり複眼に映るは薄翅を震わせて空を翔け抜ける何かの残像のみ。

 大地を乱れ撃つ光弾の音は、あるいは雀の鳴き声にも似ている。次から次へと降ってくる光弾を放つ者の位置を揺るぎなく捕捉するには、赤い戦士(マイティフォーム)では不足。

 天馬の如き感覚に頼るべきか。クウガには従来の感覚を何倍にも強化し、見えざるものさえ見抜いて射貫く形態がある。だがその真価を発揮するには『射貫くもの』が必要だ。クウガのモーフィングパワーをはっきりと伝える得物に相応しき形がなくては、天馬の感覚は意味を為さない。

 

「霊夢ちゃん、拳銃とか持ってる……わけないよね」

 

「えっ? な、何? 拳銃? どういうこと?」

 

 かつての戦いにおいては自分を信頼してくれる刑事の男がいた。本来ならば五代のような民間人に渡すなどもっての外。それでも自分を信じてくれた。彼は刑事として携行を許可されているその拳銃を、まだ未確認生命体の一種でしかなかった自分に貸し与えてくれたのだ。

 クウガとして霊石(アマダム)の力を十全に操る境地には未だ達していない五代雄介。一部の強大な未確認生命体のように何の関わりもない小さな形を任意のものに作り替えるほどの技量はない。無論、何もないところからそれを作り出すような──それこそ凄まじき力もない。

 

 射貫くもの。銃として握り手(グリップ)を持ち、引き金がなくとも銃身と呼べる重みを持ち。玩具でも構わないから、せめてその形を手にできればそれをモーフィングパワーでクウガが手にすべき得物へと姿を変えられるはずなのに。

 それがない状態で天馬の如き感覚の戦士──緑色の戦士になったとしても、ただ隙を生じさせるだけだろう。

 そこでふと思い立つ。ここにいるマゼンタ色の戦士は、たしかあの左腰の板を銃として扱ってはいなかったか。あるいはそれが銃ではなくとも、グリップと銃身さえ持っているならば──

 

 死ぬがいい クウガ

「ギブグ ギギ クウガ」

 

 一瞬の思考が隙となったか。羽音がピタリと止んだ瞬間。聞こえた不気味な言葉と共に、五代の背後に疾風が舞う。

 それは先ほどのようなエネルギーによる光弾ではなく、形ある有機的な物質。獰猛な殺意に鋭く研ぎ澄まされた一本の針。それがクウガの左肩の装甲を穿ち貫通(つらぬ)き、赤き血を迸らせたのだ。

 

「ぐぁあっ!?」

 

 思考を容赦なく引き千切る激痛に声を上げる。心の中に緑色の戦士を思い描いていたことが仇となってしまったか。実際に緑色の戦士にはなっていないが、五代の意志を反映する霊石アマダムは微かにその能力の一部をマイティフォームから遷移しかけていたようだ。

 

 僅かに増した感覚の鋭さに、従来の数倍の痛みが襲いかかる。雷の力を帯びた金色の緑の戦士でフクロウの如き未確認生命体の矢を受けたときの痛みにも匹敵し得る、意識を失いかねないほどの激痛に膝を着き、五代は己が左肩を押さえた。

 左肩を貫通し地面に突き刺さっているのはやはり巨大な針。どくどくと流れる左肩の血が自分(クウガ)の右手を染めていくことも構わずに、五代は振り返っては顔を上げて黄色い蜂の姿を視認する。

 

「やっぱり……第14号……!!」

 

 心当たりの通り、その姿は未確認生命体第14号。人々の虐殺を楽しむ未確認生命体、グロンギと呼ばれる怪物たちの殺人ゲームにおいて、初めて飛翔という手段を用いた者。

 スズメバチに似た黄色い体躯に黒い帯状の装飾品を纏っており、黒い複眼と触角、獲物を喰らう獰猛な大顎に加え、どこか威圧的な網目状の装束は今まで現れてきた個体よりも遥かに高い知性と戦闘能力を示唆している。

 その腰に鈍く輝くゲドルードのバックルの色は──銀色。彼らはゲゲルの資格を有する最下級の戦士であるズ集団のランクから昇格を果たし、白銀のベルトを許された『メ集団』だ。

 

 ──未確認生命体第14号、ハチ種怪人『メ・バヂス・バ』と称される怪物は、余裕そうな表情で震う薄羽で里の上空に舞い留まり、右腕に備わった毒針の射出口を撫でる。

 右手の甲に宿るは魔石ゲブロンが表すグロンギの痣。彼の誇りたるスズメバチのタトゥだ。

 

「……っ! 五代さん!」

 

 霊夢はクウガに駆け寄った。その装甲の赤には似つかわしくない、赤黒い血の色。右肩と比べて左肩ばかりが暗く染まっているのを見て、小さく息を飲む。

 赤い装甲に滴る五代の血がより鮮やかに目立っていくように見えたのは、彼の血の色が変わったからではない。五代の体力が落ち、激痛によって精神力に影響が出始めたからか。マイティフォームの赤い装甲がアマダムの出力の低下により、力なき白い装甲へと変わってしまったから。

 

 クウガの双角、その能力の統制を司る『コントロールクラウン』は短くなり。滾る炎の如く赤い複眼とアークルの中心に輝くモーフィンクリスタルは、曙光を思わせる朱色に染まり。

 戦士はやがてグローイングフォームと成り果て、ついには左肩を押さえていた右手も地につく。

 

 残るは 9×2+8=26 これ以上は ゲゲルの 進行に 関わる

「ボボス パ バギング ドググド ゲギド ボセギ ジョグパ ババ パスビ ギン ボグン ゲゲル」

 

 メ・バヂス・バは薄羽を震わせて里の上空を旋回し、左腕に装った腕輪(グゼパ)の勾玉を確認しては独り言つ。九の位の勾玉が二つ、一の位の勾玉が八つ。合わせて26人分の妖怪のエネルギーは、彼が今までに殺害した妖怪から奪った妖力であった。

 光弾の射出に際して消費したエネルギーは妖怪三人分の力に相当する。必要なエネルギーをここから抽出すれば、まだ光弾の射出による攻撃を実行することは可能だろうが──

 

 グロンギの本懐は生命(いのち)を殺すこと。だが、そのためにはより高位のゲゲルに勝ち上がり、獲物を殺す権利を得る必要がある。此度のゲゲルはかつてとは違うのだ。

 殺した妖怪の力をグゼパに吸収して溜め込み、その数を計上しなくてはならない。下手にそれを消費してしまっては、せっかくカウントした獲物の数をみすみす減らしてしまうこととなる。

 

 命拾い したな

「ギボヂヂ ソギ ギダバ」

 

 異形の大顎から零すは口惜しげな溜め息。スズメバチの遺伝子を持つ未確認生命体らしく不快な羽音を空に響かせ、メ・バヂス・バはふわりと里の空を舞い上がった。

 右腕に宿す毒針は一度放てば再び生成するのに少し時間がかかってしまう。その隙を補うためにグゼパの光弾を放つという戦術を身に着けたが、こればかりに頼っていてはゲゲルの殺害規定数に届かなくなってしまいかねない。

 放つ針の毒性のほどはただ人体に急性アレルギー反応を引き起こす程度。強靭な細胞を持つクウガに対してはその毒はあまり意味はなく、ただ鋭い針で殺傷することができるだけ。妖力による光弾をもってしても、クウガを殺すには腕輪の力を使い切っても足りないだろう。

 

 今ここでクウガの相手をするのは効率が悪いのだ。ただでさえ『メ』のゲゲルには、従来よりも厳しい時間制限(タイムリミット)が設けられている。メ・バヂス・バはそんなリスクを避けてより多くの獲物を狩ることにした。

 どんなに弱い個体でも妖怪(ジョグバギ)を殺して力を奪えば一人分。ただし有象無象に等しい無力な妖精(ジョグゲギ)を殺せば、何度でも復活する分、九匹で一人分。どちらを狙うもプレイヤー(ムセギジャジャ)の自由だという。

 

「待ちなさいっ!」

 

 去り行くメ・バヂス・バに向けてお札を放つ霊夢だが、やはりその速度は捉え切れない。すでに見えなくなってしまった影を追うより、霊夢は五代の傷に寄り添うことにした。

 すでに白いクウガから生身へ。意識は残っているものの、溢れる血は痛みを物語っている。

 

「……新たなるゲゲル、か」

 

 蜂の羽音は遠い彼方に消えていく。それを見届けた士はディケイドライバーのバックルを開いて虚像と消え散るディケイドの姿から生身を晒した。

 かつて旅した、再編されたクウガの世界においてもゲゲルはあった。それは戦うリントの女性、すなわち女性警察官のみを特定の場所で一滴の血も流さずに殺害するというルール。従来のゲゲルとは異なり、聖なるゲゲルと称されていたそれは──ある存在を蘇らせる儀式であった。

 

 このゲゲルにも何かがある。従来のゲゲルとの差異を知っているわけではない。ただ受け継いだ九つの物語が、その歴史が、士の知らない世界との違いを訴えている。

 なんとなくそんな気がする──という程度。それでも、一度は破壊者として召し上げられた者の無意識が叫び立てるのだ。原典たるクウガの世界において行われていたゲゲルとの違いを。かつて旅した、再編されたクウガの世界で行われたゲゲルとの違いを。

 漠然とした違和感。これも自身が理由もなくグロンギ語を話せるのと同じ、世界の破壊者としての役割がそうさせるのか。士は強く拳を握り締めると、痛みに膝を着く五代に手を差し伸べた。




 未登場グロンギ ズ集団は全て出せました まだメ集団にいっぱいいますけど
リド グジョグ グロンギ グベデ ザゲ ラギダパ ズ ラザギ ママギ ギラ グベゾビ メ

博麗霊夢を数字にすると890106(ハクレイレイム)で、三つに分割すると89/01/06を表しており……
西暦1989年1月6日は昭和天皇が崩御された前日であり、昭和と平成の境界であるのだとか。

実際は1月8日からが平成だったらしいので、完全にたまたまですね。境界って言いたいだけか!

次回、第67話『パラレルワールド』


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