52の白と36の黒、それら合わせて88。
それ以上でも以下でもない。たったそれだけのものから奏でられる音がいつまでも、俺を掴んで離さない。
これはきっと呪いだろう。でなければ、こんな苦しいはずがないのだから。
「私と組んでほしい」
「断る」
「……どうしても駄目なの?」
「何度も言ってるだろ」
はたして何度目だろうか、この会話は。正確な数は両の指で足りなくなってから数えることをやめた。
それだけ断り続けてきて、だというのに目の前にいる銀髪の女はそれでも誘うのをやめようとしない。
こうやって聞き流されているのはこいつだってわかっているだろうに懲りずに話しかけてくる。
「はぁ……どうやったらお前は諦めるんだ」
「あなたが私とバンドを組めばいいのよ」
「それじゃ駄目だろ」
何を言っているのかわからない、そんな風に思っているかのように首を傾げてくる。
ああ本当に、どうしてこうなったのだろう。別にこいつが全て悪いわけでもないし、だからといって俺が全て悪いわけでもない。それでいて第三者が絡んでいる訳でもない。
運が悪かった、そうとしか表しようがない。
「で、今日はライブの練習はしなくていいのか?」
そう聞くとあいつはしぶしぶといった感じで奥の部屋に消えていった。
初めて会ったのは1ヶ月前くらいだったか、それからあいつはしょっちゅうこのライブハウスに来てる。たまには俺を誘うためだけにも。
そも俺だって毎日バイトをしているわけではないのだからどれだけ来てるのかはわからない。
俺がここでバイトしだした時にはこうやって受付で話すことなど出来ないくらいには客がいたのだが、近くにカフェがあるライブハウスが出来ただなんだで最近あまり客は来ない。
まぁここ数年の流行りはガールズバンドなのだしそういう方が人気なのは仕方がないのだろうが。
あいつはあんなでもここらでは有名人らしく『孤高の歌姫』とかいう呼ばれ方をされているのを最近知った。
歌姫とは大きく出たものだなんて思うものだが、それを認めざるを得ないのもまた事実である。
あいつはいろんなライブハウスに出演していて、今日もそれがあるらしく今はその練習中とのこと。
そんななら最初からそっちで練習すればいいのにとは思うが、もし聞いたとしても俺を誘うためと答えてくるだろう。もしかしたらここが他所よりちょっと安いからというのもあるかもしれないが。
「暇なんだろうな」
なぜあいつがそんなにライブ回りをしているのかは知らないし、これといって興味もない。あったとしても多分俺みたいに誰かを誘うためなのだと思う。
少しばかりの自意識過剰。そんなわけあるはずないと笑い飛ばせばいいのだろうが、急に笑えば随分と声が響いてしまう。
あいつはいつも一人だ。他のところで待ち合わせをしているのか、それとも俺みたく誘った全員に断られているのか。
前者ならばそれでいい、他に見つかれば俺への誘いもなくなることだろう。しかし後者に関しては想像がつかない、あいつからの誘いを断るということが。
あの歌声を聴いて、それでも尚あいつの誘いを断れるやつなんて……そんな多くはいないだろうに。
なんてことを考えてしまったがどうせハードなライブスケジュール、それに見合った練習時間を受け付けないとかだろう。または単純にあいつの目にかかっていないだけか。
興味なんてない、そう思ってはいるものの暇な時間というのはそのようなものでも考えてしまいがち。俺は次の客を待ちながらあの時の事を思い出していた。
初めて見たあいつ、それはステージの上に一人立つ姿だった。対バンというやつで他のバンドは少なくても三人はいる中、あいつだけがたった一人でステージに上がった。
俺は後ろの方にいたからあいつの顔は見えなかった。それは前にいた客の盛り上がりが急に物凄くなったからというのもある。
──だがあいつが歌い始めると、周りは一気に静かになった。
ただ意識から外されただけなのか、それともすべての客が空気を読んで黙っただけなのか、どちらなのかは今では知りようもないことだ。
まるで海の底、山の頂上、空の果て。静かで、綺麗で、だけどどこか恐ろしかった。
それは聴いたこともない曲。こういったところでバイトしているということもあり流行りの曲、ちょっと古かろうと知らないことはあれど聞き覚えはあるものなことが多い。
だというのに知らない曲。後で聞いてみればオリジナルの曲だと言う。
誰が作ったのか。あいつの友人か、それともあいつが作ったのか。聞き忘れたそれだが今となっても大したことじゃない。
その時の俺は、指を動かしていた。
トントンと、人差し指と中指のみでリズムを取ってしまう。
昔からいつもそう、知らない曲や好きな曲を聴いてるときには無意識にやってしまう。
音が形を持って飛んでくる、そんな風に感じさせられたのはいつぶりか。恐らくそれは単純な上手さもあれど、その声量のせいでもあるのだろう。
火傷しそうなくらいの盛り上がりの中、ヒヤリとした冷たい風が吹いた気がした。
俺の過ちはその後、客が全員帰り軽く見回りをしていた時のこと。
つい置いてあるキーボードに目がいってしまった。もう一年以上やっていないそれに、吸い込まれるように足が進んでいた。
なんで、そんなことはあの時には考えられなかったが、今思えばあいつの歌声によって動かされた、と認めるしかない。
浮かび上がったのはあの歌声、あの曲のこと。楽譜はない、だがなんとなくでこうなのだろうというのはわかってしまって。
指が滑るように動いていた、一年という期間がまるでなかったかのように。その間何を思ったか、ついこの前のことだというのに覚えていない。
そして弾き終えた時、閉めた筈のドアが開いていて一人の女がそこに立っていた。
そいつは俺の方に近づいてきて、こう言った。
「私とバンドを組んでくれないかしら」
それが、全ての原因だ。
「……指が動いてるわね」
「……行かなくていいのか?」
「まだ時間はあるわ」
また気づかぬ間に指が動いていた。本当に嫌になる、いつまでもピアノに囚われている自分に。
「どうしてあなたは私と組んでくれないのかしら?」
「……突然だな」
「そうやってリズムを取っている以上、音楽は嫌いではないのでしょう?」
その問いに対し返す答えは単純だ。息をするかのような短い言葉で返すことができるはずなのに、喉奥で何かが詰まるかのような不快感を感じて発することが出来なかった。
「……好きじゃないさ、特にピアノは」
ゆっくりと、確かめるかのように答えを絞り出す。その言葉は誰に向いているのか、そんなことは考えたくもなくて。
「理由を聞いても?」
「人には知られたくないこともあるんだよ」
人間知られたくないことの一つや二つある。勿論大事な物の隠し場所とか、性癖とか、そんな程度の物なら山のようにある。
だがこれは違う、知られてないのならそれでいい。わざわざ誰かに教えようとも思わない。
「また来るわ」
「俺を誘わなければ歓迎してやるよ」
そう言うとあいつは店の外に消えていった。銀色の長い髪を少しだけ揺らしながら歩くあいつの姿から、何故だか目を離すことが出来なかった。
「嫌い、嫌い。ピアノは……」
ああ、声に出すことが出来ないどころか、思うだけで思考は靄がかかるかのように不明瞭。
一体なぜなのか、それは自分でさえもわからない。
バイトも終わり帰宅し、リビングに向かったところでうちで飼ってる猫が近づいてくる。
手を洗ってから少しだけ構っていると眠ってしまった。本当に猫の行動は理解できない、さっきまで元気だったくせに急に寝始めたりするのだから。まぁそれがまたいいのだが。
夕飯なに作ろうか、そう思い冷蔵庫を漁るがろくなものがない。ああ、そういえば今日何か買おうと思っていたのに忘れてしまっていた。
本当に慣れない。二年弱もの間やっているというのにこうやって忘れてしまうことがいまだにある。
自炊の方に関しては元からやることもあったのでそこまで酷くない。これに関しては母親が料理が壊滅的だったというのもあるのだが。
とりあえずありあわせで夕飯を作って食べる。それを食べ終え皿を洗ってソファーに座り込む。
「……テレビでも見るか」
することがなにもないのでテレビをつけると、そこには見たくない人物が映っていた。
ほぼ反射でテレビを消す、それでもその一瞬は目に焼きついてしまうには充分すぎる程で。
「はぁ……」
映っていたのは、俺の母親だった。
何故映されたのかはわからない、がどうせピアニストの紹介等だろう。偶々つけたのにこれなのだから本当についてない。
少し歩いてある部屋の前に立つ。そこは防音室で、我が家の開かずの間。鍵なんてないけど開ける気は更々なくて、中がどうなっていたかなんてもうあんまり思い出せない。
扉に触れる。冷たくて、重たい。それでいい、もう開けることなんて二度とないのだから。
ここで母親にピアノを教わっていた、物心ついた時からずっと。強制ではない、単純に好きだったんだ、ピアノの事が。
楽しくて、新しい曲を弾けることが嬉しくて、時間を忘れるかのようにやっていた。コンクールに出ていい結果を残すのも勿論だが、それで母親に褒められるのも嬉しかった。
でも母親は一年前、俺が高校に入る前に家を出ていった。
理由は知らない。聞かされていないし、聞きたくも。
あの時の父親は見ていられなかった。普段飲まない酒を飲んで、大人の癖に泣いていた。それでも母親を、その相手の事を責めることはしなかった。
昔から仕事熱心だった、でもそれからはまるで母親の事を忘れるためかのように更に仕事に力を注ぎ始めた。
俺は……どうだったか。泣いた、悲しんだ、強烈な印象を植え付けられている癖してそれは、まるで夢であったかのようにふわふわと、非現実的なものとなって残っている。
俺の人生においてピアノは全てだった。だけどそれ以上に俺の人生においてのピアノは……母親からのものだった。
母親の事は嫌いだ、母親の事が嫌いだ。だからこそ……
「ピアノは……嫌いだ」
くだらない、そんなことはわかっている。
でも俺はそう思うことしか出来なかった。
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互いを知ること
「私と……」
「断る」
「まだ何も言ってないでしょう?」
「お前が言うことなんて一つしかないだろ?」
バイトも終わり、今日は珍しくも忙しかったので疲れてしまった。さっさと帰ろうと店を出たところ、運悪くやって来たいつものやつにまた声をかけられる。
ため息。後数分早く店を出ていたら鉢合わせなかったのかと思えば嫌な気分になってしまう。
「今日は違うわ」
「自覚があるならやめろ」
「それはできないわね」
ため息をしたからか、そんなことを言ってくるが信じられるものか。会話をしながらも少しだけ歩く速度を速くする。どうせあれだこれだと言って誘ってくるのは目に見えている。
交差点のど真ん中というわけではないけれど、店の前という事もあってそれなりに目立つ。ましてや自分のバイト先の前だ、こんなところを見せたくはない。
というより、せめて声をかけるなら店の中にしてほしい。こいつは自分の容姿を理解しているのだろうか。
「……話を聞いて欲しいのだけど」
痺れを切らしてか突然手を引っ張られる。しかしそれは弱々しくて、振り払うのはとても容易い。
だけれどももしかしたらそれだけで折れてしまうんじゃないか、そんなことも思わされてしまい振り払うことが出来なかった。
「何あれ」
「痴話喧嘩?」
「こんな道の真ん中なのに……」
まるでわざと聞こえるようにしているのではないかと思わされる声が聞こえてくる。本人たちは気づかれていないと思っているのかもしれないが、自分の話というのはやけに聞こえてくるものだ。
誰かの視線を受けることには慣れてはいるが、このような視線は慣れていない。頭を軽く掻いて再びため息を溢す。
「わかったよ。取り敢えず移動するぞ」
「別にここでもいいと思うのだけど……」
現状がわかっていないかのようにそう言うので、彼女のてを取ったまま歩き出す。
ちょっとですまないくらいには恥ずかしいが、この原因は向こうなのだし文句を言わせるつもりはない。今はとりあえずこの場から早く立ち去りたい気分でいっぱいいっぱいだ。
「ちょ、ちょっと。もう少しゆっくり……」
「あ、悪い」
歩幅の違いというのはなんとも厄介で、ちょっと速く歩こうとすることすら出来なくなる。別にできなくはないが、意識してからそうするほど人間終わってはいない。
数分そうして歩いているとカフェが目に入った。周りから人が消えたというわけではないが、先程のような視線を向けてくる者は減ってきたので手を離す。
別にここで話し始めてもいいのだが、折角カフェを見つけたのでその中に入る。どれだけ長く話すかわからないけれど、立ち話もあれだ。彼女と顔を合わせないようにして入店する。
「で、話ってなんだよ」
「今日は素直なのね」
店にまで入ってしまったのだから今更断ることなんてできない、理由なんてそれしかない。
最も入店したのは俺の意思だから悪いのは俺。ああいや、元を辿ればこいつも悪いのだし両成敗か。
向かい合うようにして座るがあらぬ方を向く。パキリと、指を鳴らした。
「いつまでも今日みたいなことされると困るからな」
「困らせてしまったのなら謝るわ」
謝罪なんてものはいくらでもできる。本当に申し訳なさそうにしていれば少しくらい、と思ってみたものの別に俺は怒ってるわけではない。ただ今後の面倒になるのが嫌なだけ。
話始める前に珈琲がやってくる。歌を歌うくせに珈琲飲んでいいのか? なんてことを思っているのもつかの間、こいつは砂糖を7個も入れていた。
「……なにかしら?」
「それ、甘くないのか?」
「そうかしら? ちょうどいいと思うのだけど」
なんでもないかのようにそう言うが信じようもないことだ。自分の珈琲を飲む気も失せてしまい、そんな俺を全く気にせず珈琲を口にした。
こうしてみると随分と絵になると言うべきか。写真とか絵とか、そういう物の造詣はないが老若男女問わずにそうだと答えるだろう。
話がそれ続けるが家に帰っても特に予定もない。強いて言えば猫と戯れるくらいか。ああでも家に帰って猫と戯れたいので早く帰りたいというのもまた事実である。
彼女はカップを置き、少しだけ目を細めてこんなことを言ってきた。
「あなたのこと、もっと知りたいの」
一瞬思考が真っ白になって、頭の中で先の言葉が繰り返される。ああくそ、少し見た目がいいからといって騙されるな、こいつは俺をピアノに誘うやつだ。
「……その心は?」
「リサにあなたに誘いを受けてもらう方法を聞いたら、まずお互いの事を知るべきと言われたから」
「言葉足らずにも程があるだろ……」
俺はこいつの事を何も知らない。通う学校は勿論のこと何故俺の事を誘うのか、その理由すらも詳しくは知らない。先程言ったリサという人も、こいつの名前も。
唯一知っているとすればその歌声、ただそれだけ。いや、随分な甘党だということは先程知ったか。
当然逆も然りで、こいつも俺の事を殆ど知らない筈で。
「そうね……まずは名前から聞こうかしら?」
「……
「私は湊友希那よ」
それだけ言われて会話が止まる。ただただ無言のまま互いに珈琲を飲み進める。ああ、ちょっと甘く感じる。そうして数分の間の後、再び口を開いてきた。
「……そっちは何か聞きたいことはないかしら?」
「もうネタ切れなのかよ」
「仕方ないでしょう、他に何を聞けばいいのかわからないもの」
絶対こいつ友達少ないだろ。失礼ながらもそんなことを思わされてしまう。まぁ、俺も人に言えたものではないのだが。
会話というのは火種と同じで、一度途切れてしまえば盛り返すというのは難しい。が、こちらとしても聞きたいことが一つあったので丁度いい。
「なんでお前は俺の事をあんなに誘うんだ?」
「それはあなたの腕が……」
「時代はガールズバンドだぞ? バンドやりたいなら女を誘った方がいいと思うけどな」
「……私には目標があるの」
改まったようにそう言われる。目標、こいつはそう言った。夢と言わないということは手が届くレベルのことということか。
いや、違う。しなければいけない、そんな意志がその目からはっきりと感じ取れた。
「で、その目標ってのは?」
「FUTURE WORLD FES.に出場することよ」
「……本気か?」
「勿論、本気よ」
真っ直ぐにこちらを見つめられながらそう言われる。この分野における最高の舞台。それこそ出場するだけで有名になれるが、有名なバンドだろうと出場することが難しいというFUTURE WORLD FES.
それに出ようと言うのだ、それも学生のこいつが。バンドに関して多少の知識があるものが聞けば10人中10人が笑わずにはいられないだろう。
だがこいつは冗談を言っているという風には全く見えなくて。
「……理由はあるのか?」
「ええ、勿論」
「聞かせて貰ってもいいか? 勿論嫌ならいいが」
何がこいつをそんなに駆り立てるのか、それが気になった。こいつの歌ならバンドに拘らなくても事務所にでも入って歌手にでもなれるだろう。
だがフェスにここまで拘る理由。いつもならどうでもいいと聞き流しているようなそういったものが、不思議なくらいに気になってしまって。
「私の父の音楽を認めさせるためよ」
「……なるほどな」
湊、そんな名字をしたバンドマンを一人だけ知っている。メジャーデビューまでした有名
だった、そう、そのグループはすでに解散していて、その理由は詳しくは知らない。こいつがその人の娘なのかどうかはわからないが、話を聞く限りでは恐らくそうなのだろう。
「そういうことよ、だから私はあなたと組みたいの」
「俺はピアノが嫌いだ」
「……そう、気が変わったらいつでも言ってほしいわ」
母親のことが嫌いだ。勝手に家を出ていくのだから。
だからピアノも嫌いだし、やりたくもない。決めたんだ、もう二度とピアノは弾かないと。
あの出来事は気の迷いだ、体が言うことを聞かなかったのが悪い。ピアノを弾きたいなんて、もう思うはずがないのだから。
「で、質問は終わりか?」
「そうね、特に話すこともないわ」
「じゃあ終わりでいいか、金は……」
「自分の分は払うわよ」
「それはどうも」
もしかしたら奢らされるかもしれない、そう思っていた身としてはありがたい。
特別高くもないしバイトもしているのだから金銭的に辛いというわけではなかったのだが、やはり奢るという行為には少しばかり抵抗がある。
そういえば今何時なのだろうか、そう思い机の上に置いておいたスマホを開くと湊はその画面を凝視していた。
「猫、好きなのかしら?」
「まぁ人並みにはな」
「その待ち受けの猫は……」
「家で飼ってる……」
それより先の言葉を遮って湊は俺の手を両手で包むように掴んでくる。心なしかその瞳は先ほどと同じく意思に溢れ、しかしどこか輝いているかのように見えた。
「あなたの家、今度お邪魔してもいいかしら?」
「は? 駄目に決まって……」
駄目と言った瞬間、湊の周りの空気が物凄くどんよりとしたかのような気がした。俯かれため息すらつかれる。
目に見えたとしたらこいつの周りの空気は青黒く染まっていたのは間違いないだろう。
「……駄目なのかしら?」
「はぁ……わかったよ」
本当に駄目かと聞いてきた時のこいつは、まるで捨て猫かのように思わされた。なんだか物凄く悪いことをしてしまったかのような気がしてつい許可を出してしまう。
だが許可を出せばその空気は一転、凄い勢いで顔を上げこちらに視線を向けてくる。表情には全く出さない癖にわかりやすいやつだ。
「そうね、春休みの五日目でいいかしら?」
「はぁ……じゃあそれで。それにしてもお前が猫好きなんてちょっと意外……」
「ね、猫好きじゃないわ! これは……そう! あなたのことをもっと知るために……」
「あー、わかったわかった」
「そう、わかったならいいのよ」
もっともらしい、だけどバレバレの言い訳をし続けてきた。湊は一つ安堵したかのように息をつく。もしかしてこれでだまし通せたとでも思っているのだろうか。
これを指摘しても面白いだろうが、流石にこれ以上話が長引くのはあれなので今度の機会にでもしよう。
「それじゃあ」
「ん、じゃあな」
会計を済ませそれぞれ別の道を進む、どうやらあいつは俺とは反対方向らしい。
俺はあいつのことはどう思っているんだろう。可愛いけど鬱陶しい、だけど歌声だけは物凄いやつ。それが今までの評価で、言ってしまえばそれだけだった。
だが今回はそれに加えて甘党で猫好きで嘘が下手、ただそれだけのものが追加された。もしかしたら俺は今あいつのことは……そこまで嫌いではないかもしれない。
それだけの三つのことなのに。まぁ猫が好きやつに悪い奴はいない、それは当然なのだが……
「……帰って先に風呂入るか」
何を思っているんだ。俺の事を鬱陶しく誘ってくる、それもピアノに。嫌いじゃなければおかしいはず。
今日の風呂はちょっとだけいつもよりも熱くした。
主人公236236Pが早そうな名前してる
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関係ない
春休み、それは休みという素晴らしい響きはあるものの特段やれること、やりたいということが溢れるようではないもの。
学校における友人と言える仲の者がいないわけではないが、学校外で遊んぶ程のものではないし連絡先を交換しているわけでもない。
学校によっては課題が出ないところもあるらしいが、わが校ではそんなことはなく山、とまではいかなくてもそこそこの量が出た。
春休みというものは決まってそう長くない。気づけば既に4日も経ってしまったので帰ったら課題を終わらせるとするか、そんな事を考えながら客を待つ。
長期休暇ともなれば普段暇を潰すようなバイト先も客足は何倍ともなる。それもあって多少の忙しさは感じるが、元の数が少なければ倍にしたところでそれほどでもない。
なんてことを考えてればまた一人店に入ってくる。そいつは見知った顔で、迷わずこちらに向かってきた。
「あなた、後どれくらいで終わるのかしら」
「……あぁ、そういえばそんな話だったな」
「もしかして忘れていた、とは言わないわよね?」
「忘れてたよ、すっかりな」
「そう、それならまた今度……」
「いや、別に今日でいい」
忘れてたと言った瞬間のこいつの気分の下がり方はとてもじゃないが見てられなかった。悪いことをしたわけではないが、やはり少しだけそう思わされてしまう。
俺の家に来るという約束、忘れていたというのは真っ赤な嘘。湊は冗談で言ってるのかと思っていたというのが本音。
異性、それもそこまで深い関係でもない奴の家に行くなんて本気と思えという方が難しいだろう。
それに……別にどうだとしても不都合がつくわけでないのだから。
「両親の許可は必要ないのかしら?」
「どうせいないから気にするな」
「それって……」
「あー、後十分で終わるから待つなり帰るなりしてくれ」
言い方を間違えてしまったか、まぁ仕事で忙しいとかだと思ってくれるだろう。
知られて特に困ることではないがやはり知られたくはないものだ。哀れむかのような目を向けられるが気持ち悪くて、やはり失言だったと認識する。
湊は近くの椅子に座る。本当に待つのか、今ですら冗談ではないのかと思いながらも時間はゆっくりと進んでいった。
そして、バイトが終わった時にもまだその姿はあった。
「それじゃあ行きましょ」
「はぁ……本気か?」
「でなければわざわざ練習時間を削ったりしないわ」
「猫好きもここまでくれば勲章物だな……」
「こ、これはあなたのことを知るためよ!」
「あー、はいはい、わかったわかった」
自分のことはそこそこの猫好きだとは思っていたが、流石にこいつと比べてしまえば大したことないなと思わされてしまう。
猫好きというよりかは猫バカだな、などと考えながら道を歩いていた。
我が家にたどり着くまでの間に会話、それは今までなかったような話題を振られていた。バンドに誘われるといういつも通りのものがなく、猫の話で盛り上がっていた。
やっぱり家に入れないと突っぱねてもよかったのだが一度決めたことを流すのはいい気はしないし、何より他人の沈んでる様子を見るのは昔から嫌いなので出来なかった。
……それに、猫の話で盛り上がってしまったのも原因。
「勝手に部屋に入るなよ?」
「あなたは私を何だと思っているのかしら?」
湊が玄関からすぐ近くのあの部屋の扉を見つめていたのでそう釘を刺す。流石に大丈夫だろうが念のためだ。
見られたくない。それはこの部屋だから、こいつだから。
もやっとしたその考えも、飛び付いてきた猫によって吹き飛ばされた。アロマだとかそういうのに興味もないし知識もない、がこんなものなのだろうか。
「……相当懐かれてるのね」
「そりゃ飼い主だからな」
出ていった母親、面談等以外では殆ど帰ってこない父親、兄妹はいないのだから今一番一緒にいるのはこの猫だ。
元はといえば一年前捨て猫だったのを拾ったのが始まりで、少し時間はかかったが懐かれた。母親が猫嫌いだったのもあって憧れていたというのもあったのだと思う。
父親にはまだ見つかっていないが、隠れるように逃げていたのを覚えているのであんまり人には懐かないやつなのだと思っていた。
だが湊が近寄るのを拒否することなく、気持ち良さそうに頭を撫でられていた。
湊は心ここにあらずといった風に撫で続けている。現に目の前にいた俺が立ち上がっても気づいていない程には。
話すこともないし掃除でもするか、そう思って俺は二階に上がっていった。
掃除と課題の準備をして下に降りる。ところで湊はいつまでいる気なのだろうか、恐らく満足するまでではあるだろうが……あの様子ではいつになることやら。
いつ頃帰るつもりなのか聞こうとリビングに向かうがあいつの姿が見つからない。どうしたのだろうか、外には流石に行ってないと思うが……どこにいったのだろう。
もしかしてと思いあの部屋の扉を見てみたら、ほんの少しだけ開いていた。その事実に思わずカッとなって、その扉を開けてしまった。
「おい、勝手に入るなって……」
その扉を開けてまず最初に目に飛び込んできたのは彼女ではなく、猫でもなく、ピアノだった。
自らの半身と言っても過言ではないほどの時を過ごしたそれ。部屋の中心にでかでかと置いてあるそれを中心にだんだんと周りが見えてきた。
ああ、そういえばこの部屋はこんな感じだった。見回せばトロフィーや賞が置いてある。そして……その時に撮った母親との写真も。
頭が痛い。
手が震える。
喉に埃が入ったかのように気持ちが悪い。
一年ぶりに入ったその部屋は、記憶にうっすらあったそれと、何にも変わっていなかった。
「……ごめんなさい、この子が入っちゃって連れ出そうと思ったら」
その声で始めて湊の存在を認識する。その手に抱えられていて、鳴き声をあげている猫の存在にも。
この部屋に入ってから何か耳鳴りのようなものがする。それは何度も耳にしたもので、奏でたもの。床に、壁に、天井に、あのピアノに、音が染み付いている。
「……あなた、やっぱり凄いのね」
「……お前には関係ないだろ」
「関係あるわ、同じバンドのメンバーになる人の事は知っておいた方がいいでしょう?」
「ならないって言ってるだろ」
早くこの部屋から出てしまいたいのに足がそれを許さない。縛り付けるかのように動かせない、扉はやっぱり重くて冷たくて開けることができない。
「あなた、本当にピアノが嫌いなの?」
「……何回もそう言ってるだろ」
「これを見る限りはそうは思えないけれど……」
「……昔とは違うんだよ」
湊が見ているあの写真は何時のだったか、身長的には恐らく小学生の時のものだろうが……コンクールなんて出るのが普通だったからいちいち覚えていない。
どうしようもないくらいの笑顔をこちらに向けているその自分の顔、映っているピアノに母親の顔。
そのすべてにどんな感情を抱いたか……自分ですらわからなかった。
「……今日はごめんなさい」
「……目を離した俺も悪かったからいいよ」
夜風を求めて外に出た。湊も帰ると言っていたので少しだけ一緒に外を歩く。
あの部屋に入ってから体が妙に熱い、何かが沸き上がってくる、そんな風に感じさせられている。
今回の件に関しても誰が悪いというのはない。猫が部屋に入ってしまったのが悪いと言えばそれまでだし、湊が取り押さえ無かったのが悪いと言えばそれもそれだ。
だから俺が掃除に行ったのが悪いと言われれば、それもそういうことだ。
わかっていて、納得できるかどうかは別である。
「あなたがピアノをやめた理由って……いえ、なんでもないわ」
あんな楽しそうな表情をしていて、あんなに結果も残せていてどうしてピアノをやめたのか。湊はそれが気になって仕方がないのだろう。
だが聞いてこない。今日は悪いことをしたからと思ってか、この前聞くなと言ったからか。どうにせよ、それは俺にとって嬉しいことの筈で。
それじゃあまた。そう言って去っていく湊に対し、俺は後ろから声をかけていた。
「……母親がピアニストで、家を出てった」
これでわかるだろ? そう言うと湊は振り返ってくる。俺自身、どうしてこいつに言おうと思ったのかわからない。
見られてしまったから特に隠しておく必要がなくなった。そんな程度のものなのかもしれないし、これを言えばもう誘われなくなるかもしれないから、そう期待してのことかもしれない。
子供か、俺は。
俺は来た道を戻ろうと背を向けたところで湊に、待ってと呼び止められる。
「……ごめんなさい」
「別に謝罪の言葉が欲しかったわけじゃ……」
「でも」
風が吹いた。冷たくて、ザザッと木の葉が揺れて音を出した。
──あなたのそれ、ピアノとは関係ないと思うわ。
割り込まれるかのようにして発せられたその言葉は、風よりも冷たく感じさせられた。離れていて、木の葉の揺れる音で聞き取れなくてもおかしくないのに、嫌なくらいはっきりと聞こえてきた。
何も言うことが出来ない、否定をすることも、肯定をすることも。それだけ言って去っていく湊の後ろ姿をただ見ること以外、何も出来なかった。
「……簡単に言ってくれやがって」
そんなのわかってる。でもどうしてもそれを切り離すことが出来なくて、どうしてもそれは一緒のものだった。
俺は母親のことが嫌いだ、だからピアノのことは……
どうなのだろう、それが疑問に変わる前に思考をやめる。嫌いだ、大嫌いだ、そうでいい、そうあればいい。
「お前は何も悪くないよ」
膝の上に乗っかってきた猫の頭を撫でながらそう呟く。なんだか申し訳なさそうにしているように見えたのは、ついに俺の頭が可笑しくなってしまったからなのだろうか。
日が昇り、また沈んでもまだあの言葉が頭の中で反響し、結局その日は眠ることが出来なかった。
猫の名前はお好きに想像してください
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お願いがあるんだけど
「気持ちわりぃ……」
あれから二週間、それほど経ったというのにあいつの言葉はいつまでも楔のように俺の中で刺さっている。錆びれ、崩れることなく深々と。
だからこうして夜になるとそれを考えさせられて寝れなくなる。忘れようと顔を洗い、昔やっていたゲームを引っ張り出してみたものの効果はない。
考えなければいい、忘れればいい。そんなことは何度も思った、わかってる。でもそれは叶わない。
自分の意思ではないかのように勝手に浮かんできて、ヘドロみたいに思考の隅にへばりついて、どうにせよ眠りにつくことは出来なかった。
「……明日はバイトか」
あの日からあいつとは一度も会っていない。他のライブハウスの方がいいと思ったからなのか、それともキーボードのメンバーが見つかったからなのか。もしかしたら俺の話を聞いて誘うのをやめようと思ってくれたのか。
まぁどれにせよ来たなら来た、来ないなら来ない、それだけだ。どうであれ、誘いは断る一択なのだから俺には関係ないことで。
関係ない、そう、関係ない筈なんだ。うざったるくてしつこくて、やりたくないのに何度も誘ってくる。それから解放されたのだから少しくらい嬉しいと思う筈だ。
ならなんなのだろう。どうしてあいつのことを考えてしまうのだろう、どうして少しも嬉しくないのだろう。
目を瞑り思考をやめようと思うものの、やはりと言うべきか尚更強まるばかりで薄れることはない。そんなだから眠ることは出来ないまま時間が過ぎていった。
バイト中だというのに欠伸が漏れてしまう。結局あのまま寝ることが出来ず気が付いたら日が昇っていた。
徹夜は苦手ではないがやはり眠いものは眠い。幸いというべきなのは今日が平日ではなかったこと。授業中に寝ることはいいにしても、その行くまでの間がめんどくさくてありやしない。
入り口の扉が開く。記念すべき今日初めての客、その客は見覚えがあり、そして相変わらず一人だった。
いつも通り、だというのに少し緊張してしまうのはあの言葉のせいなのか。
「で、今日もいつも通りの用件か?」
「私はバンドを組んだわ」
不思議と渇いた喉から発したその言葉への返答。いつも通り開口一番に誘われるのだと思っていた俺はその言葉に驚きと喜び、そして不思議な安心感を抱いた。
喜びはわかる、わざわざ嫌いなものに誘われなくなるのだから。だがこれはなんだ、なぜ安心したのだろうか。
こいつがバンドを組めたことに対する安心? それは違う、こいつなら妥協なりすればいつか組めるというのはわかっていた。
寧ろ組めたとしてもこいつについていけなくてすぐに解散してしまわないかと不安なくらいである。
ではなぜ? それは…………
違う、それは違う、違わなければならない。
よもや決め込んだものを疑うなど愚か者のすることだ。ピアノのことは嫌い、どれだけ誘われようとこれだけは変わるはずはない。だから、そうであるはずがない。
そうだ、徹夜のせいだ。睡眠が足りないからこんなことを考えさせられてしまう。きっと寝て思考が回復すれば迷いなく嫌いと言い切れる筈で……
「どうかしたのかしら?」
「……いや、俺もやっと誘われなくなるなと思ってな」
「いえ、キーボードだけが見つかってないの」
ギリ、と奥歯が擦れた。なんとも運の悪い話、更に聞けば来月の初めの方にライブの予定が既に入っているらしい。それもこの地方ではまぁまぁ有名なところのものが。
「それで今キーボードを探しているの。あなたが入ってくれればそれは解決なのだけど……」
「やる気がないやつが入ったってしょうがないだろ。やる気のあるやつを探して誘え」
「ああやって指を動かしてるのだからやる気はあると思ったのだけど……」
「……それとは別だろ」
「それにやる気があったとしても実力がなければ意味がないわ」
だからあなたが私の知ってる中で最適なのと言われる。言われて悪い気はしない、褒められて嫌な人間など相当な嫌味を込められていなければそうなのだろう。その褒めてくる相手が素人ではないというのも相まってではあるのだろうが。
本当に気に入らない。
できればこいつとは話したくない、さっさと別の誰かを見つけてほしい。湊に誘われると、この気持ちが揺らいでしまいそうだから。
「……俺はピアノは嫌いだ」
「そう。でも気が変わったらいつでも言ってちょうだい」
そう言って湊はライブハウスから出ていった。話すためだけに来るなんて、俺がいなかったらどうするつもりだったんだ。
いつでも言えと言われても俺はあいつの住んでる場所なんて知らないし、よく行く場所だって当然知らない。
ましてや連絡先も知らないのだ、万が一、億が一気が変わろうとそれを知らせられるのはあいつがここに来たときだけで、それがいつになるのかはわからない。
でもその心配をする必要はない、だってこの気持ちは変わることはないのだから。
あいつの言葉が頭の中に残っている。わかってる、あいつの言ったことは正しい、それでも切り離すことはできない。
俺は母親のことが、ピアノのことが嫌いだ。それは絶対に変わらないし、変えるつもりもない。
変えたく、ないのだ。
あれから更に一週間後、湊はまたライブハウスにやってきた。だけど今回はいつもと違い一人ではなく後ろに見たことのない4人を引き連れて。
「後ろの人達は?」
「バンドメンバーよ」
湊を含め5人、そしてこの前は連れてきていなかったということは恐らくキーボードが決まったのだろう。無意識のうちにほっと息をついていた。
ツインギターでまだキーボードは決まってないなんてことがあるかもしれないが……まぁそうだろうと俺には関係のないことだ。
「湊さん、その人は?」
「新庄蒼音、私の言っていた人よ」
俺の名前が出た瞬間、黒いロングヘアーで胸のでかい子がびくりとした後俺の方を見た。反応を見るにあの人がキーボード担当なのだろうか。
それにしても湊はなんと言ったのだろうか。後ろの人達で驚いているのはその黒い髪の人しか見えなかったし、そう変なことを言われたわけではないだろう。しかし自分のことなのでやはり少しばかり気になってしまう。
「で、今日は練習してくのか?」
「もちろんよ、ライブまで時間がないもの」
そう言われたので受付を済ませると湊達は扉の中に消えていった。ただ一人を除いて。
「うーん、まさか男の子とは……」
「行かなくていいんですか?」
「少し話したいことがあってさ。あ、アタシは今井リサ、リサでいいよ」
……正直湊はこの人みたいな感じの人とは馬が合わないと思っていたのだが、バンドを組んだということはそうでもないのだろうか。
それにしても話したいこととはなんだろう。何かやらかしたかと思ったがそんな記憶はない。
「友希那とはどんな関係なの?」
「別に、なんでもないですよ」
「あの友希那が何度も誘ってたらしいからそうは思えないけどな~」
あと敬語じゃなくていいよ、そう付け加えられる。俺はなにも返さない、返せない。
あいつと俺とは別になんでもないのは事実である。赤の他人ではないにしろ、知り合いかと言われたら首をかしげる程度。どんな関係と言い表すには関係が薄すぎる。
そういえばリサという名前には聞き覚えがある。湊がその名前を出していたはずだ。ということはバンドを組む前からの関係、友達とかそういったものなのだろうか。
ふと気になって関係を訊ねてみれば幼なじみと返ってきた。なるほど、となればあいつとは長い付き合い。ならばしっかりと手綱を握って欲しいものだ。
「で、話は終わりか?」
「あー、これは話っていうかお願いになっちゃうんだけど……」
「お願い?」
俺とリサが会ったのはこれが初めて、関係といえるようなものは名前を一度聞いただけ。リサが湊になんて言われたのかはわからないが、お願いなんてされるようなことは思い付かない。
ライブハウスの代金をツケてくれとかならば突っぱねようと思ったが、彼女が発した言葉は不思議なものだった。
「友希那と仲良くしてあげてほしいんだよね」
「……俺がそうする必要はないだろ。そっちの方が付き合い長いんだし」
「それはそうだけど……アタシって音楽やめてた事があってさ。だから音楽の事は蒼音の方がわかってあげられると思って」
「俺は現在進行形で音楽をやめてるが」
リサは相当な世話焼きなのだろう、それはこの短い会話だけでもわかる。まぁ、幼なじみという補正込みであって誰にでもというわけでもないかもしれないが。
俺だってピアノはやめている。だったら俺よりも今音楽をやっているリサの方がまだいいだろう。
そもあのメンバー全員が音楽をやめていたわけではないだろうからそういったことはメンバーに相談すればいい。であるから、彼女のお願いを叶えてやる必要はなくて
「あれ、そうなの? 友希那は凄い腕前だって褒めてたけど……」
「もうやらないって決めたんだよ」
「え~、アタシも聴いてみたいんだけどな~」
「……そろそろ行かなくていいのか?」
「だね、あんまり長く話してると紗夜に怒られちゃうし」
メンバーだからこそ相談できないことはあるかもしれないから、そういう時にはよろしくね。そう言ってリサは扉の中に消えていった。
相談できないメンバーって、それは本当にメンバーと言えるのか? そんなことを思いながら次の客を待つことにする。
とんとんと、カウンターを指で叩く音だけが聞こえてきた。
そろそろバイトも終わりの時間、湊達が部屋から出てきた。他の客が来て、それが帰ってもまだ残っていたのだからそのやる気が伺える。
「あ、あのっ……」
「りんり~ん、早く帰ろ」
「え……あ、うん」
そんな彼女達の内の一人、りんりんと呼ばれたその人は俺に話しかけようとした素振りをしたが、紫色っぽい髪色をした背の小さい子に呼ばれ、その子の方に向かっていった。
何か用でもあったのだろうか。気にしたところでわかるはずがない。それにしても胸でかいな、そんなことを思いながら彼女の顔を見ているとふと目が合うがすぐにそらされる。
気づかれたか、この視線に。
女は視線に気づきやすいとどこかで聞いたことはあるがそれなのだろうか。少し申し訳ない気持ちになって、鼻の下を触れてみるが何の変化もない。
下心的なものは抱えていない。まぁ説得力は自分でも笑えるくらいにはないのだけれど、本当だ。
湊達が出ていって数十分後、俺もバイトが終わり外に出る。曇りの空はなんとも不安で、雨が降りだしてきてしまいそうな雰囲気がある。
雨は嫌いだ、理由は山のようにあるし、その全てはくだらないこと。降らなきゃいいなと思いながら道を歩く。
「来月のあの日は……バイトはなかったっけか」
湊達のライブの日、多分その日はバイトもないし予定もない。行ってみるかと思わされた、それはあいつらの音楽に興味があるから。
湊の歌声は素晴らしい、それだけは否定しないし出来ない。それだけでなくあいつがこれでいいと思って集めたメンバーでのライブ、それが気になった。
「そういえばあいつらのバンドの名前聞いてねぇや」
まぁ行けばわかるか、そんなことを考えながら空を見上げる。
当然空は灰色一色。ため息がまた一つ零れてしまった。
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どう思っているのだろう
音楽というのは目を瞑って聴いた方がいいとされる。
視覚からの情報が遮断されて聴覚が敏感になる。なんて理論的な事が言われているが、自分でそう思って、子供の頃からそう教わっていただけだ。
Roselia、そう呼ばれたバンドがステージの上に出てきた。そこには俺のよく知る奴がいて。
どんな演奏をするのだろう。そう思いながら演奏が始まるのを待つが、物寂しさに指先同士を擦り続けている。ああ、どうやら俺は随分と楽しみにしているようで。
湊はここでも人気者なのか、バンドを組んでることについての疑問の声が聞こえてくる。まぁ、孤高と呼ばれていた奴が突然バンドを組めばこうなるか。
開始前だというのに少しざわついている室内、それを始まりを告げるドラムがかき消した……
音の粒が溶け合って一つになっている。一曲目、二曲目と進む度にRoseliaの世界に吸い込まれていく。下手なメジャーバンドなんかよりもよっぽどいい、そうさえ思わされるのは知り合いだからか。
まさか、そこを誤るほど腐ってはいない。
こいつらがバンドを組んでから初めてのライブ。だというのに緊張している様子は欠片もなく、まるで楽しんでいるかのようにすら見えてくる。
未だに聞こえてくる周りから聞こえてくる言葉からしてどうやら音楽ライター達の目にも止まるほどらしい。
視線が自然とステージの上に持っていかれる。そう、視線がステージに持っていかれる。
こいつらの曲は目を瞑ることが出来なかった。なんでなのか、どう思わされてなのかはわからない。
指の動きに注目していたから、それがないわけでもない。しかし前の方ではないからそこまで見えるわけではない。湊の、Roseliaの人達の表情から目を離せなかった。
楽しそうな表情、特に湊がうっすらとだが浮かべているその表情から、目を離すことが出来なかった。
「ラスト、聴いてください」
まるで風邪でも引いたかのように思考が纏まらない。心の奥底に火でもついたかのような熱さが感じさせられる。最後の曲を聴いていると、それがより一層浮かび上がってくるように感じられた。
これはなんなのか、どうして浮かんできたのか、それは俺自身でもわかることはない。
今日はバイトはなく、しかしながらこれといった予定もない。家にいるとなんだか落ち着かないから行く宛もなく外をぶらつきまわる。
昨日の熱は未だに引いておらず、渦巻くようにして胸の中で確かに感じ取れる。ファンになった、言うだけなら簡単だが実際にそうなるとは思わなかった。
確かに凄いとは思っていた、確かに気になっていた。でもそれだけで、ファンというには程遠かったというのにそうさせられてしまった。
「あれは……もしかして湊か?」
ふと目についたその後ろ姿。長い銀色の髪が背中にかかっているのでそうではないかと思わされたが、顔は見えないので確証はない。
しかしその周りには沢山の猫がいた。腰を落として猫用のおやつをあげていてそこそこ懐かれている様子を見るに俺の予想は恐らく当たりで。
「あの……」
「はい……し、新庄君! どうしてここに……」
「散歩してたら偶々」
「こ、これは……そう! リサから猫用のおやつを貰ったのだけど持って帰るわけにはいかないから……」
声をかけてみたらやはり湊だった。振り向いて俺の顔を見た瞬間に立ち上がり聞いてもいない言い訳を言ってくる。
この前の口振りからこいつは猫は飼っていないだろうし、そんなやつに猫用のおやつを渡すやつなんていないだろうからそんなことはすぐに嘘とわかる。
ほんの少し顔を赤らめられる。昨日と同じ人物だとは思えないその姿はなぜだか見ていられなくて、俺は猫の方に視線を向け腰を落とす。
「……そういえばあなた、昨日来てくれたのね」
「なんで知ってるんだ?」
「ステージの上からはよく見えるものよ」
湊は再びしゃがんで猫の方を見る。俺の方にも一匹やってきたが撫でることはしない。俺には家で買ってるやつがいるのだから浮気をするつもりはない。ただ眺めるだけだ。
俺と湊は顔を合わせることなく、それでも会話は続いていく。
「あなたが昨日のライブどう思ったか、聞かせてくれないかしら?」
「よかったよ、凄く」
「そうじゃないわ、感想じゃなくて改善案が欲しいの」
そんなもの見当たらない、というわけはない。音楽において完璧という事象は表現として出すことはあれど、事実としてはありえないし、音楽をやっていた身としてはそれに気付けないということもない。
個々の技術面はどうこう言うつもりはない。それこそリサが少し遅れてしまう事があったのが気になったくらい。
だが初めてということで緊張をしていたということもあるのだろう。それにこれに関しては練習をしていればどうにかなる、ライブの回数を重ねれば緊張だって次第に和らいでいくだろう。
そも俺はベース経験者でもないのだから言えることもないし、未経験者に言われてモチベが落ちる、なんて事を言われてしまったら困る。
唯一経験したことのあるピアノ、まぁあれはキーボードなのだが……あれはよかった。あの人も緊張していたのかわからないが、音が少し硬いように感じさせられた。
ああ、懐かしい。俺もコンクールに出始めた頃はあんな風に音が硬かったような覚えが……
「……ああ、思い出すな糞」
「どうかしたの?」
「なんでもねぇよ、強いて言うならまだ音を合わせられるかなって思った」
苦し紛れの嘘ではない。Roseliaが結成されてからそう時間は経っていないのだから完璧に音が合っているということはない。
そも、一人でやるのと他人と合わせるのでは大違いだ。バンドを始めたばかりなのだから伸び代というものはそこかしこに転がっているだろう。
「そう、出来ればもう少し聞きたいのだけど……どこかで休憩しないかしら?」
「バンドメンバーとやってりゃいいだろ」
「こういうのは多くの人から聞いた方がいいでしょう?」
断ってしまえばいい、だがそれは出来ないのは何故なのか。ファンになった故か、俺にはわからなかった。
俺はさっさと移動しようと思ったが湊は猫と離れるのが名残惜しかったのか、言い出しっぺの癖して五分くらいその場を動こうとしなかった。
「……なるほどね、次の練習ではそこも意識してみるわ」
この前と同じカフェで珈琲を飲みながら話をする。こいつの砂糖の量は相変わらずで、覚悟していたというのに胸焼けがする。
「あれは……燐子?」
会話も途切れ、帰ろうにもお互いにまだ珈琲を飲み干していないので帰ることもできず二人して外にいた猫を眺めていた。
しかし少し視点を上にあげればそこには昨日のライブでキーボードをしていた人がいた。誰かを待っているのだろうか、周りを見回しながら立っている。
視線に気づいたのかこちらの方を見てくる。しかし俺らを見るなり驚いた表情を浮かべ、逃げるように小走りでどこかに行ってしまった。
「あなた、燐子に何かしたのかしら?」
「してねぇよ」
よもや、俺がそういうことをする人物に見えるというのか。人を見た目で判断するなとは幼い内に学ぶものだというのに。
あの人は待ち合わせ現場を見られたくないのか。もしそうでないとするならば……やはりこの前のあれに気づかれてしまっていたのだろうか。
「どうとも思ってないの?」
「何がだよ」
「燐子についてよ、自分と同じ楽器をしているのだから少しは気になっているのかと思って」
なんとも思っていない、そう言うのは嘘になる。ではどう思わされたのかと聞かれれば自分でもよくわからない。
でもなんとなくだがそれは、俺にとって嫌なものだということだけはわかる。でなければあれほど甘く感じさせられていた珈琲の苦味が戻るはずもない。
いや、これは元のものより遥かに強いもので。
「……俺のことは別にいいだろ、もう誘うこともないんだし」
「……それもそうね」
「そもそも練習しなくていいのかよ、お前の目的通りならコンテストもそう遠くはないだろ?」
「今は個人で課題曲をこなして貰ってるわ」
こいつなら休みなしの毎日二桁時間練習とかやってるのではないかと思っていたが、どうやらそんなこともないらしい。
そもこいつらは高校生、全員の都合が毎日合うはずもないし、ライブハウスだってタダで使えるわけではないのだから当然といえば当然なのだが。
「そういえば……あなたの家の猫は元気にしてるかしら?」
「そりゃあもうな」
「え、えっと……またお邪魔してもいいかしら?」
もう隠す気もないのか、なんの言い訳もせずにそう聞いてくる。
こいつは素直じゃない、そして一度決めたことは絶対に曲げない、そんなやつだ。三ヶ月に満たない付き合いだがそれくらいはわかる。
でもこうして顔を赤らめ顔をそらされながら、しかしチラチラとこちらを見ながら言われるのは慣れていない。
自分で理解しているのかいないのか。人を見た目で判断するなと思ったばかりだが、こいつには自分の見た目を少しは鑑みてほしいものだ。
「……ああ、いいよ」
表面上はあまり変わっていないが、言った瞬間ぱぁっと湊の周りが明るくなったような気がした。
それを感じると何故か湊の事を見ることは出来なくて、外を眺めながら珈琲を飲む。
誤魔化すために飲み込んだその珈琲は、先程とうってかわって甘く感じさせられた。
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この熱は
「雨……降ってきちゃった」
今日はあこちゃんからNFOをしようという誘いが来てて、何かお菓子と飲み物を買うだけと思いコンビニに来たのだけれど雨が降ってきてしまった。
すぐに帰るつもりだったし、天気も見ていなかったから傘なんて持ってきていない。この服はお気に入りのものだし、今日はもうお風呂には入ってしまったから体が濡れるのは少し嫌だ。
それに、約束の時間まではまだ暫くあるから。
早く止まないかな、そう思いながら雑誌コーナーの前で真っ暗な空を眺める。
こんな雨の日はいろんな事を思い出す。初めてのコンサートの日、上手くいかなかったあの日のこと。
彼を、新庄さんの事を知った日を、彼を好きになったあの日の事を。
彼は私がピアノを始めたきっかけだ。今日のように雨の中、そんな日にお母さんに連れて行かれたコンサート。
そこで新庄さんのお母さんの演奏を聴いて私もこうなれたら、なんて思った。
だけれどもステージの上に立つ自分を想像することなんてできなくて、あの人は私と住んでいる世界が違う、私はこうはなれないんだろうなとも思わされて一人落ち込んでいた。
でもその後の彼の演奏、それに私は心を奪われた。いや、演奏の前に彼がピアノの前に座った時には既に心引かれていた。
顔もよく見えないというのにそんな風にさせられた理由は一つ、紹介された彼が先ほどの女性と同じ名字で、私と年齢が同じだったということだけ。
なんだか見てるこっちまで緊張してしまったのは今でも覚えている。でも私の思いなんて届いてもいないかのように全く緊張した様子なく、とても楽しそうに弾く彼に酷く憧れた。
まるで遠い国の誰か、そう思わされた。そう、世界の違う誰かのようではない。遠い国、同じ世界で、限りなく遠くにいる人。
同い年な彼だからこそそう感じさせられて、私もこうなれるんじゃないかと思わされて。
あの時の心臓の高鳴りは物凄くて、それこそ演奏に打ち勝ってしまいそうなくらい煩かった。
あの時の演奏は今でも私の中で特別で、大事な物として残っている。
まるで何かが始まったかのような、そんな感覚は人生であれが始めてだった。
「思えばあの時は……まだ憧れてただけだったのかな」
あの後お母さんにお願いしてピアノ教室に通わせて貰うことにした。ピアノが楽しかった。どんどん上達して、上手くなっていくことが確かにわかったから。
でもピアノが上手くなる度に彼との差がどんどん広がっていってるような感じもした。彼が出来ることが私には出来ていないと、上手くなってしまったが故にわかってしまったから。
でもそれでよかった。諦めようとしなかった、出来なかった。憧れていたからそれが普通なんだと思えていた。ちゃんと練習して、私も大きくないコンクールでなら受賞をするくらいになることもできるようになれたから。
でもあの日、コンクールで失敗してしまった日。少し挑戦してみようなんて先生に言われてしまって挑戦をしたけれど、たくさんのお客さんに見られていると思ったら頭が真っ白になって、練習で出来ていたことが出来なかった。
悲しかった、恥ずかしかった。できるのならば消えてしまいたい。そんなことが頭の中で暴れ控え室で泣きそうになっていたところに彼はやって来た。
「あの曲難しいよね」
「ふぇっ……あ、あれは先生が私なら出来るって……」
「でも弾いたってことは自分でも弾けると思ったんでしょ?」
「そ、そうですけど……私は結局弾けなかったし……」
「やらずに成功するよりやって失敗しろ、母さんがよく言ってるよ」
一体どうして私なんかに話しかけたのか、それは今でもわからない。
暇だったからか、私の弾いたものが偶々彼の気になるものだったのか。それとも泣いていて目障りだったからなのか。
でも理由なんてどうでもいい。その言葉は確かに私に突き刺さったから。
今でも鮮明に思い出せる。言葉だけではない。あの時の彼の笑み、何か暖かい感情も全て。
彼は私の次の出番だからあんまりお話出来なかったけど去り際に彼は言った、いつか一緒に弾けたらいいねと。
それだけの言葉で溢れてしまいそうだった涙は枯れたように止まり、彼の演奏を聴こうと控えに向かい足は無意識の内に動いていた。
ステージの上で演奏する彼を見ることは少なかったわけではない。だけどこの時はいつもと違う風に思わされた。
先程まで話していた彼と、ステージ上で演奏している彼。それが同じ人物には見えなくて……
──まるで、王子様のように見えたから。
子供らしい、でもその思いは本物で。
それによって私の中の憧れは形を変えた。憧れるだけには留まらず、私は彼への恋に落ちていった。
「友希那さんとは……どんな関係なんだろ?」
この前あこちゃんと待ち合わせをしていた時にカフェで友希那さんと新庄さんが何か話しているのを見てしまった。
もしかして……付き合っているのだろうか。そう思うと胸が苦しくなる。でも私なんかがどうこう思っても何かが起きるわけではないし、起こせもしない。
彼は友希那さんの誘いを断り続けたというのをあこちゃんから聞いた。どうしてなのだろう、彼のピアノは私よりもずっと上手な筈なのに。
「確かRoseliaの……燐子さん?」
「はっ、はい……そうですけど……」
そんな風に考え事に耽っていたら突然横から声をかけられる。もしかしてファンの方だろうか、いや、私なんかにそんなものができるわけがない。
きっと友希那さんや氷川さんのファンで、偶々同じバンドの私を見つけたから声をかけただけ。そう思ってそちらを向くと……そこには新庄さんがいた。
頭が一瞬で真っ白になる。夢か何かかと思うほどに混乱し、思わず外に飛び出した。だけれど雨は未だに止んでないどころか先程よりも強くなっている。
まるで閉じ込めるように降るそれ、真っ黒に染まったかのようなその雨は視界を遮るほどに降り続け、走る車の明かりしか目に映らない。
「傘、持ってないんですか?」
彼も私を追ってか屋根の下に来てそう言ってくる。雨は止みそうにない、だけどこれ以上遅くなるといよいよ濡れて帰ることを覚悟しなければいけないから。
それもあるけど、ちょっとの期待を込めて私は頷いた。
「それなら……入ってきますか?」
「お、お願い……します」
急に顔が熱くなって彼の顔を見ることが出来なくなった。どんな表情をしているのか、それは自分でもわからない。視線を落とすのが最大限の抵抗、こんな顔見られたくなくて。
道を聞かれたので答える……嘘のものを。家までは遠くない、普通の道で帰れば5分程度で着いてしまう。少しでも彼と長くいたくて、つい嘘のものを教えてしまった。
「…………」
せっかくの時間なのに恥ずかしくて、何を喋ったらいいのかわからなくて会話をすることが出来ない。
望んだ今を夢想していた頃の私はどんな風なことを話していたのか。ああきっと、彼はまだ私にとって憧れで。
私に歩幅を合わせ、車道側を歩く新庄さんの顔は暗くて見えない。彼は今、どんなことを考えているのだろう。
いや、そんなことよりも何かないのか。そう思って頭を働かせていると、ついに彼から話を振られてきた。
「Roseliaは上手くいってますか?」
「は、はい……みんな一生懸命で……どんどん音が合っていってます」
一度話してしまえばこちらのもの、会話を途切れさせないように話す。その全てどうでもいいこと、それらに私と彼との関係性などありはしない。それでも会話をしていること自体が嬉しく感じられる。
一生懸命に話していると小さく笑われた。あの時の笑顔とは違い、どこか安心しているかのように。
「な、何かおかしなこと……言いましたか?」
「いや、もしかして俺って嫌われてるのかなって思ってたので」
「そ、それは……私、人見知りなので……」
目線が合ったらそらしてその次には逃げてしまったのだ、そう思われても仕方がないのかもしれない。
そんなことはないんですと説明しようと改めて彼の方を向くと、彼の傘を持っていない方の肩が少しだけ濡れていることに気がついた。
彼は優しい人だ、それは付き合いなんて言うのもおこがましいものだとしてもわかれている。
少しの隙間を更に詰める。水浸しになった地面を歩く度にほんの少しの水が跳ねる、錆び付いたかのような匂いが嫌に気になった。
「ここですか?」
「あ……はい、そうです」
家にたどり着き、そう言って私が屋根の下に行くと彼は帰ろうとする。
また会える、その確信はある。彼のいたライブハウスに行けば会えるだろうし、そうしなくたって彼と友希那さんの仲を考えればまた会うことはできるだろう。
ではそれに甘えてもいいのか、ただ会えればいいのか。そうじゃない、そんなものじゃない。気がつけば私は、今までで一番大きな声を出していた。
「あの!」
「……どうかしましたか?」
雨は未だに強い。叩きつけるような音がして、そんな遠くにいないはずの新庄さんが遠くにいるかのように感じさせられる。
ちょっとでも声を小さくしてしまえばかき消されてしまいそう、届かないまま消えてしまいそう。そんな風に思いながら私は声をあげた。
「あの時の約束……覚えてますか?」
また一段と、雨が強くなった気がした。
『りんりん、今日はあんまりチャットしないね』
『ごめんね、ちょっと考え事してて』
子供の頃、まだ小学生の頃のもの。それも対したことじゃない、ふと漏らしたようなもの。だからそう返されて当然で。
嘘を言われていないのは彼の口調からわかる。もしかしたら約束どころか私と子供の時に会っていたことさえ覚えていないかもしれない。
『りんりん、次のフロアでボスだよ』
「うん、気を引きしめていこ」
悲しかった、寂しかった、それは間違いない。あの約束を引きずっているのは私だけ、子供の頃からずっとそれにすがっている。
憧れていた、好きでいた。あの約束が私をピアノに向けさせていた。
なら覚えていないと言われた程度でこの思いは消えてしまうのか。そんなことはない、その程度で消えるものではない。
『ふっふっふ、あことりんりんの消えない闇の炎で燃やし尽くしてくれようぞ!』
燃料なんてこれから手に入れればいい、とにもかくにもこの思いは消えることはない。冷めて覚めようと、例え雨に当てられても焼き尽くすかのように燃え盛る。
私は彼の事が好きだ。長い間思っていたそれを、今日始めて、本当の意味で再確認した。
『うわーっ! りんりん、攻撃来てるよ!』
『ご、ごめん、ぼーっとしちゃってた』
……とりあえず、今はNFOに集中しよう。
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あいつと俺は
昔から運動が苦手だ。嫌いではないけれど、得意じゃないと言うのすら戸惑うくらいには苦手だ。
走ったりサッカーだったりの腕、特に指を使わない運動であれば中の下程度にはできる。しかし野球やバスケといったものはどうしようもなく苦手で。
「やったらこうだもんなぁ……」
今日の体育ではバスケをやったのだがパスを取り損ねて怪我をしてしまった。幸いと言うべきか酷くないし痛みが続いているわけでもないのが救いだろう。
ただこんなになってしまったので今日は料理をする気も起きない。帰り道に夕飯を買うためにコンビニに向かうことにした。
「昔からやってたら違ったんだろうか」
指を怪我するといけない。母親からそう言われて手を怪我する可能性のある運動はさせてもらえなかった。
無論子供同士の遊びならそれでいいとしても体育ならそうもいかない、と本来ならなっていたのだろう。
教師としてもそんなの関係ないと言いたかったのだろうが有名なコンクールで結果を出し続け、全国に行ってしまったりしたせいか教師側もそれを承諾した。
だから俺は野球もバスケも、休み時間のドッチボールすらやってこなかった。だから、というのは言い訳になるかも知れないが運動は苦手だ。
「……まぁ別によかったんだがな」
あの時の俺は仕方ないと割りきれていた、それでいいと思えていた。
確かに休み時間、外でドッチボールをしているクラスメイトを教室の窓から見るのは少し寂しかったし羨ましくなかったのかと言われれば否である。それでも俺にとってはそれよりもピアノの方が大事だったからよかったのだ。
……まぁ、今となってはなんであんなに好きだったのかと問いてしまうほどなのだが。
その経験のせいか本を読むことが多かったし、必然的に本が好きになってどんどんとインドアな人間に。
更に他人と遊んでも来なかったので友人関係も少ない、どうしようもない人間になってしまったものだ。
「いらっしゃいませー」
そんな声を聞き流しながら雑誌コーナーへ。立ち読みできることに感謝しながら週刊誌を読み、あらかた読み終えたところでカップ麺と飲み物を買ってレジに向かう。
「カップ麺は健康に悪いぞ~」
「……なんでこんなとこでバイトしてんだ?」
「何それ、アタシがバイトしてるのがそんなにおかしい?」
「まぁ、似合わないよな」
「あはは、まさか正面から言われるとは……」
馴れ馴れしい店員だなと思ったがその声は聞き覚えがあり、視線を向ければすぐに誰かわかった。
似合わないとは言ったものの見た目ではなく雰囲気の話だ。とてもじゃないがコンビニでバイトをしているようには思えなかったから。
「いやぁ、自分でも似合わないかなぁとは思ってるんだけども、Roseliaの活動のためにもお金が必要かなって」
「ああ、そういう」
ライブハウスだってタダじゃないし弦の張り替えもある。確かリサはベースだったし、ベース弦はギター弦よりも割高だからそういうのもあってだろう。
レジに商品を出すと指の怪我について触れられ、その後自分の手と見比べるかのように俺の手を見てきた
「蒼音の指って長いよね」
「そうか?」
「ちょっと羨ましいなぁ~。燐子も長かったし、ピアノやってるとそうなのかな?」
「……さぁな、俺はそういうのあんまり詳しくないから」
ピアノと指の長さに関係があるのかは知らないが、届くようにと毎日指を広げていたのだからそうなってもおかしくないのかもしれない。
「明日って時間ある?」
「5時くらいまでバイトあるからそれ以降なら」
「アタシ逹も丁度それくらいまで練習だし丁度いいじゃん。少し話がしたいんだけど……いいかな?」
「暇だしいいよ。そっちはどこで練習を……」
「いや、アタシがそっち行くからいいよ」
「はいよ」
商品を受け取って店を出ようとしたら呼び止められて、そんな会話をしてからコンビニを出る。話ってなんだろうか、考えてみるが思い付く気配もない。
まぁ明日になればわかるか、そう思って帰り道鞄からスマホを取り出した。
「で、話って?」
バイトが終わるとリサが店に来たが、ここだとなんだからと言われカフェに向かうことになった。
最近ここによく来るななんて思いながらいつもと同じく珈琲だけ頼む。リサは紅茶にお菓子と頼んでいたが。
「今回のも話っていうよりもお願いになっちゃうんだけど……」
「また湊の話か?」
「違う違う、今回はアタシ自身のやつ」
飲み物が俺とリサの前に運ばれてくる。リサは一口それを飲むがホットで頼んだので当然熱い。あちちと漏らしながらリサはそれを置く。
「えーっとね、今回のお願いっていうのは……アタシに音楽を教えて欲しいの」
「……俺はベースやったことないし、音楽はもうやってないって言っただろ」
「もう、でしょ?」
その目は真剣で、欠片の冗談も含まれていないのが嫌にでもわからされた。
「勿論技術面は自分でどうにかするけどさ、ここはもう少し強く弾いた方がいいとか、そういうのを教えて欲しいの」
「それこそ俺じゃなくてメンバーとやった方がいいだろ」
「それはそう、なんだけどさ」
まるで聞きづらいことを聞くかのように視線をあちらこちらに向けながら、いつの間にか運ばれていたお菓子を一つ食べ、自分に指を指しながら聞いてきた。
「……Roseliaで一番下手なのって、アタシじゃん?」
「……まぁ、そうだな」
「相変わらずはっきり言うなー……」
でもやめてた時期もあったんだししょうがないだろ、そう言いかけたところで真っ直ぐとこちらを見るリサを見てその言葉を飲み込んだ。
多分、リサが音楽を教えて欲しいと言ってきた理由は……
「アタシも上手くなっていってるって自覚はあるんだけどさ、どうにもみんなが凄すぎて、本当にアタシがここにいていいのかって偶に思っちゃうんだよね」
「他のメンバーから出てけって言われなきゃそれでいいだろ」
「そうじゃなくて、アタシはみんなにいて欲しいって思ってもらえるようになりたいんだよね」
自分の実力が足りていないのを自覚しているから音楽を教えて欲しいと、メンバーと一緒にいることに胸を張れるようになりたい、要はそういうことだろう。
「……でもそれ、別に俺じゃなくてメンバーとやればよくないか?」
「うーん……やっぱりさ、隠れて上手くなって驚かせたいって思っちゃわない?」
──お母さんが公演に行ってる間にたくさん練習してびっくりさせたいんだ!
リサが笑いながら言ったその言葉に、ふと昔父親に言ったその言葉を思い出す。
ああ、あの時は本当に母親が、ピアノのことが好きだった。それこそまるで、今の自分とは違う人物だと思ってしまうくらいには。
「……どうかしたの?」
「……なんでもねぇよ。わかった、手伝ってやるよ」
「ありがとう! 報酬は……アタシの手作りクッキーでどうだ」
「期待しとくわ」
「友希那にも好評だからね~、期待しといていいよ」
その言葉でつい顔をしかめてしまう。自分から提案するということは少なくとも不味くはないのだろうが、あの湊に好評となるとどれほど甘いのか、想像がまるでつかない。
ただ一度期待すると言った手前やっぱりやめると言うことも出来ない。俺のしかめた顔を見てかリサは不思議そうに訊ねてくる。
「どうしたの? 友希那の名前が出たら急に嫌そうな顔したけど」
「いや、あいつが好きってなるとどれだけ甘いんだろうなって」
「そこは大丈夫だから安心しなって」
それもそうか、もしあの珈琲と同程度に甘い菓子を渡されても処理に困るだけだ。
もしリサも湊と一緒で極度の甘党だからこう言っているのならば……隠れて湊に渡すしかないな、菓子を食べているリサを見ながらそう思う。
「それにしても友希那が甘いの好きってなんで知ってるの?」
「……ここで珈琲頼む時、あいつ滅茶苦茶砂糖入れるからそりゃわかるさ」
「ふーん、一緒にここに来た時があるんだ」
「言っても二回だけだぞ」
「二回もかぁ~。友希那がそんなに仲良くしてる人久しぶりに見たかも」
「二回でそれって……あいつ、友達いるのか?」
二回程度でそんなに言うのなら、あいつの交友関係はどうなっているのだろうか。それこそRoseliaしかないのではないか。
まぁ、それこそ俺が言えた話ではないのだけれど。
「クラスが違うからなんとも言えないけど、多分一緒に出かけたりとかはしてないと思うな」
「……つまりぼっちか」
「そこまでじゃないと思うけどね。まぁそういうわけだし、蒼音も引き続き仲良くしてあげて?」
思い出される嫌な記憶。親が出ていったと知れ渡った時のクラスメイトからの哀れみと興味、その二つが入り交じった視線は今でも思い出せる。
まるで檻に入れられたパンダ。あの時のあれは今でも鮮明に思い出せるし、出来れば思い出したくない。俺は、なにも悪くない筈なのに。
そこまで酷くないにしろ音楽に身を委ね、交友関係も少ない。
また少し知れた湊のこと。あいつに対して少しだけ、自分が重ねてしまって。
「そうだ、連絡先交換しようよ」
「急だな、別にいいけど」
「教えて貰うときもあった方がなにかと便利だしね~……ってアイコン猫なんだ」
「何か悪いのか?」
「いや~、なんか意外だなって」
猫といえば友希那も実は、と話を始められた。それはどんどんと派生していき、話が終わる頃にはリサの紅茶は冷めきっていた。
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記憶の底に
俺は本が好きだ。漫画やライトノベル、歴史書なんてものまでも偶に読む。ただ一番に好きなのは小説で、バイト代の殆どはこれに消えている。
小説を読んでいると偶に自分でない誰かになったかのように感じることがある。自分を小説の中の人物が上書きして、本当にそこにいるかのような。
そんな感覚が好きだ。暇を潰せるからというのもあるが、一番は自分の世界が広がる。そんな気がするから。
「いっぱい買っちったな」
信号で待っている間に買った本を鞄にしまう。まだ昼飯も食べてないしどこか寄っていこうかな、そんな事を考えながら歩いているとすれ違い様に声をかけられた。
「新庄さん……ですか?」
誰かと思い振り返るとそこにはリュックをしょって、右手にでかい袋を持った燐子さんがいた。
買い物帰りなのだろうか。少なくともまだ昼だから練習帰りということはないだろうし、これから練習に行くという風には見えない。
「この前はありがとう……ございました」
「いえ、大したことじゃないですし……」
そう言うと何だか変な空気に。それっぽく言ったが自分の家に人を入れるなんて大層なことだ、それも異性となれば更に。
そう言えばよかったのかもしれないが、変な風に誤解されるのもあれだ。気でもあるんじゃないかと感じられたらたまったもんじゃない。
こんな時に限って信号は中々変わらない。話す物も簡単には見つからないから、少し嫌だけどあの話題を出すことにした。
「あー……あの時の約束ってやつですけど……ごめんなさい、やっぱり思い出せませんでした」
「い、いえ、大丈夫……です。大したことじゃ……ないですから」
あのうるさい雨の中、確かに聞こえたその言葉。あの時は急だからというのもあった、しかし時間をかけて思い出そうとしたが本当に覚えていなかった。
そも会ったことすら覚えていないのだ、約束をしたかどうか、その内容までなんて覚えているはずもない。
でも覚えていないと答えた時のあの悲しそうな顔は、視界を遮るような真っ黒な雨の中でも確かに見えた。
今回だってそう、大したことじゃないと視線を下に落としながら答えるその姿はどこか悲しそうに見えてしまう。
だというのにそれがなんなのかを聞こうとすれば誤魔化される。隠されてしまうと気になってしまうのは仕方がないだろう。
「えっと、この後って時間ありますか?」
「は、はい……今日はRoseliaの練習もないので」
「それなら……どっか寄りませんか?」
俺がそう聞くと燐子さんは酷く怯えたようにひっと声を漏らす。やはり嫌われているのではないか、そう思わされてしまうような反応。
もしかしたら思い出せるかもしれない、そう思っての誘いだったのだがやはり急すぎたか。
駄目なら大丈夫ですよ。そう言おうと思ったのだが燐子さんは俺の言葉よりも早く、肯定の言葉を被せてきた。
「どこに……寄るんでしょうか?」
「……嫌ならいいんですよ?」
「だ、大丈夫……です」
「それなら……駅前のカフェにでも行きませんか?」
目線をそらされながら言われるのでやはり嫌なのだろうか。更に一歩引いたかのように答えられるので周りからは俺が暴力的な人間に見えてるかもしれない。
それも込み、単純な善意も込みで荷物を持ちましょうかと訊ねるがそれも大丈夫ですと答えられた。
単純に持たせるのが悪いと思ったのか、中に入ってるものが壊れやすいものなのか。はたまた俺のような人間に持たれたくないのか、そのどれかは俺にはわからない。
一歩だけ、俺と燐子さんの間の距離が遠のいた。
「おまたせしました~」
カフェに来たはいいものの先ほどのせいかなんだか話しづらい雰囲気を感じてしまい、結局注文するものが届いてくるまで話すことはなかった。
誘ったのはこちらなのだから流石に悪いと思い何を話そうかと思案する。
思い出せるきっかけとなるものが理想なのだろうが、それで思い付くなら苦労しない。
何でもいいとは思っているものの流石に変なことを聞くわけにはいかないし、とりあえずと当たり障りのないことを聞くことにした。
「今日は何をしてたんですか?」
「買い物に……行ってました」
「何を買ってたんですか?」
「えっと……」
そこで会話が止まる。答えにくいものなのか、やらかした。答えなくても大丈夫ですよと言おうとしたところで燐子さんの方から話しかけられる。
「新庄さんは……何をしてたんですか?」
「本を買ってました」
「本……好きなんですか?」
「そうですね、燐子さんは本読みますか?」
燐子さんは小さく頷いて、それに対し俺は小さく喜んだ。話の種が出来た、それもあるがもう一つ、もしかしたら本好きの人と話が出来るかもしれないという喜び。
数が少ないせいか知り合いに本が好きな人は一人もいない。それこそSNSの人とおすすめしあうくらいしか出来ないが、やはりネタバレ防止というのもあり話すことなど殆どできない。
だからこそ本について話せる人というのは欲しい。好きなもののジャンルが合っていればこの上ないが、別のジャンルを知れると思えば良いことだ。
「好きなジャンルとかってありますか?」
「特に好き嫌いは……ないですけど、クロスワードとかそういうのが……好きです」
「それなら今度俺の好きな本貸しましょうか?」
「な、なら今度私のお気に入りの本も……貸しますね」
お願いします、つい嬉しくなりほぼ反射でそう返した。何を貸そうか、出来ればマイナーなやつの方がいいだろう。
だがしかしきちんと面白いもの。クロスワードの本は持っていないが、クロスワードが好きならばあれとかいいかもしれない。
そんな事を考えているだけでとても楽しい。今どんな顔をしているのかわからないし、わかりたくもない。だがここまで楽しみだと思ったのは久しぶりだ。
ふと燐子さんの方を見ると顔をそらされてしまった。顔が少しだけ赤くなっていたが実は熱でもあるのだろうか。
「あの……えっと……」
「具合が悪いなら帰っても大丈夫ですよ?」
「い、いえ……そういうわけでは……」
ならいいのだが、一体どうしたのだろうか。結局俺は当初の目的も忘れ、約束なんて一切思い出す気配もなく数十分ほど話してから燐子さんと別れ家に帰った。
「あー、うるせー」
家に帰り今日買った本を読もうと思ったのだがどうやら近所で工事が始まったらしく、その騒音はなんとも激しいもので耳障り。
本来なら音楽を聴きながら本を読むことはしないのだが今回ばかりは仕方がない。騒音を聞き続けるよりはいいだう。
何を聴こうかと思ったが、昨日リサからRoseliaが練習している時の動画が送られてきたことを思い出した。
バックグラウンドとして聴くのはなんだか悪い気もするが他に聴きたいものもないし仕方ない。それにこれ一回だけでどうしたらいいのかを教えるわけではないのだし。
……あと、あいつらの音楽は嫌いじゃないから。
ページの捲る音、それは音楽に隠されて聞こえない。一度聴き終えたらいちいち本を読む手を止めてまでリピートする、それをさせられる程の力がこの動画にはあった。
無論本への集中が出来ていない証拠なのだがそれでもいい。というよりも途中から買ってきた本を読むのをやめ、燐子さんに貸すようの本をどれがいいかと積んである本から探していた。
一度読んだ本、しかしそれでも自分で面白いと思えた本。それでもこの耳から聴こえるものに勝るものは未だに見つけられなくて。
「にしてもほんとにいい音してるよな……」
俺はピアノ以外何もわからない。だから湊がどのような技術を用いているのかはわからないし他の楽器も同様だ。
だがいい音を出している、それだけは確かにわかる。こうして次の本を探す手を止めて聴き入ってしまうくらいには。
ここまでの演奏はライブハウスで長い間バイトしているといえ聴いた覚えがない。
これでいいかと本を探し当てると栞を挟んで閉じ、この演奏を聴くことに集中することにした。
「燐子さんの音って……」
確かに聴こえてくるキーボードの音は優しくて、どこか安心するかのような音で、この前のライブより遥かに柔らかいものが聴こえていた。
本人はあのように人見知り。というよりかはおどおどしているのは演奏にも反映されていて、少し音が他と比べて弱い。それでも上手だと思わされる。
自己評価だが音楽についてはなかなかに口うるさい方だ。というのも小さい頃からピアニストの母親の音を聴いていたのだしそうなるのも仕方がないだろう。
それでも素晴らしいと思えるこのキーボード、その音はどこかで聴いたことのあるようなもので……
「……聴き覚えがある?」
つい口からそう溢れてしまう。似たような、ではない。この音には聴き覚えがある。
勿論多少の誤差はある。しかしこの優しくて、安心するかのようなこの音は、記憶の底にあったものと照らし合わせれば一致した。
ということは俺は燐子さんの演奏を聴いたことがある、つまりはどこかで会っていたことがあるということだ。
しかもこうして覚えているということは……少なくとも一度ではないと思う。
ならこれはいつのものなのか、どこで聴いたものなのか。
それはコンクールで、何度も聴いたもの……
「っ……!」
イヤホンを外す、本に挟んだ栞が落ちる。だからどうした、それだからといって大したことではないだろう。俺には既に関係のないものだと何度自分で思ったものか。
ああ、そうわかっている。ならなんなのだろうか、このイラつきは。
「……寝るか」
外から聞こえてくる工事の音に漏らしたその声はかき消され、いつの間にカラカラまで渇いた喉に冷蔵庫から水を取り出して入れる。
寝室に向かう途中目に入ったあの部屋を、なぜだかわからず見つめていた。
彼女と会ったことがある。なら約束とは一体何なのか、もしかしたらあの部屋に入ってみればわかるのかもしれない。
だけど……ああ、昔を思い出すような事はしたくない。悪いけれど、彼女にはごめんなさいと偽ることにしよう。
「俺は……ピアノは嫌いだ」
何故だろう、本当によくわからないことばかりだ。それこそどうしてそう呟いたのかすらわからない。瞳を閉じて目を覆う。
だけれど瞳の裏に昔の光景が浮かんできて、そのせいか眠ることはおろか落ち着くことさえ出来なかった。
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私の気持ちは
私には目標がある。
大きな、とても遠くて届かないまま終わるかもしれない目標が。だけど絶対に、何をしてでもたどり着かないといけない。
だからそれのためには、全てを捨てる覚悟もある。
だというのに私は一体何を迷っているのだろうか。
事務所からの誘い。今まで断ってきたそれに二つ返事をする、首を縦に振る。たったそれだけ、その手をとるだけで私は長年の目標を達成することができる。
そうわかっていたというのにあの場では答えを出せなかった、出すことが出来なかった。以前の私であれば即答であったろうに、私は時間をくださいと言ってしまった。
その答えを曇らせたのはRoseliaの存在。私はあのバンドにどこか期待をしている。いや、期待と言うよりも確信に近いと思う。
Roseliaとでも、フェスに出ることは出来る……
「いえ、もう迷ってる時間はないわね……」
言われた期限は一週間。既に六日が経っていて明日には答えないといけない。
……いや、迷うことなんてない。Roseliaとでもフェスには出れる
長い間の目標がやっと達成できるのだ、それも確実に。ならばどちらを取るのかなんて明白で。
「私は……」
お父さんの音楽を、世間に認めさせてやる。だから……私は絶対にフェスに出なければならない。
部屋の電気を消す。もう決めた、早く日が過ぎてしまえばいい。そしてあの手を取ってすべてを早く決めてしまいたい。
無理矢理に時間を潰すために眠ってしまおうと思っているというのに全く眠れる気配がない。何故か、それは音が頭の中で響いているせい。でもそれは騒がしいわけではなくて、寧ろ心地のよいもの。
ならばなぜ眠れないのか。確かに睡眠導入に向いたものではないけれど、それは私がその音に聴き入ってしまっているからで。
それが何かはわからない。もしかしたら変な病気にでもかかってしまったのか。
音の流れていないヘッドホンを付けてみても全く消える気配がない。まるで私が眠ることを、私の決定を許さないかのようにその音は休むことなく響いている。
「……外にでも出ようかしら」
どうせ眠れないのなら外の風にでも当たって少しでも落ち着こう。そうすればこの音も消えてくれると信じて。
まだ着っぱなしだった制服から着替え外に出た。まだ夜遅くはないけれど暗くはなっていて、空には月が浮かんでいる。
行く宛もなく歩く。そういえば今日は帰ってから何も食べていない。ほんの少し思えばだんだんと思考を空腹に支配されてきた。
そんな事を考えていたらやがて歩くのさえめんどくさくなり、偶々辿り着いた川岸の手すりに手をかけ空に浮かぶ月を眺める。
この時間、周りには誰もいなくて私一人。川の流れる音、頭に響く何かだけが聞こえてくる。
ああ、残ってしまっているこの思考も、頭に鳴り響く音も、川のように流れてしまえばいいのに。そんなことを考えていると一つ、新しい音がやって来た。
「お前、なにしてんだ?」
その声の主は私の隣に移動して、だけど私と真逆に手すりに背中からもたれ掛かる。
「……バイト終わりかしら?」
「いや、散歩」
何でもないかのようにそう言ってくる。それもそのはず、彼は知らないのだから。ではなぜこんな風に隣にいるのだろう。いつもの彼なら会話がないならどこかに行ってしまいそうなものなのだが。
風が吹いた。ざわざわと葉が揺れて、髪の毛が視界に映り込んで見上げていた月を隠す。手でそれを払うと彼が声をかけてきた。
「お前ら、今大変なんだってな」
なぜそれを、どこからそれを。ああ、この事には構ってほしくない。決めたから、揺らいでほしくないから。頭の中で未だに響く音、それを強くしてほしくなかったから。
顔も合わせず、だというのにその言葉は真っ直ぐ私に刺さってしまった。
「……あなたには関係ないわ」
「ああ、俺には関係ない」
「それなら」
私に構わないで、そう言おうとしたところで彼は手に持っていた袋をこちらに見せてくる。
変哲の無いただの紙袋。中身も見えなければ予想もつかない。その中から彼が取り出したのはクッキー。それを一つ食べてから私に言う。
「リサから頼まれたからな」
また、またリサなのか。リサがいると音楽にちゃんと向き合えない。揺らいで、悩んで、迷ってしまう。
だけどこれは彼には関係の無いことだ。だから彼になんと言われようと、彼がリサになんと言われていようと揺らぐこともないし、迷わされることもない。その筈なのに……
「……あなたは、どうしたいの?」
「どうしたいって、何がだよ」
「わかってるでしょ。私にどうさせたいの?」
「俺がどうこうすることじゃないだろ」
リサのように優しくはしてくれない。冷たい、だけどそれは正しくて。私自身そうして欲しい筈なのに、不思議な感覚に襲われる。
今回だってそう。私が全部悪いのに、私の自分勝手でこう悩んでいるのに。だから構ってもらわなくたっていいのに、一人でいいのに、その筈なのに……
──私は、誰かの助けを求めてる。
「お前はどうしたいんだ?」
「……気持ちだけじゃ、音楽は出来ないわ」
お父さんの音楽を認めさせる。それだけを思っていた私が漏らすにはなんとも滑稽な言葉。
リサにも同じように返した、だけどあの時とは意味が違う。あの時は単純にリサの気持ちに対して、だけど今回は……私の気持ちに向けて。
息ができなくなってしまうくらいに胸の奥が締め付けられた。
「それはわかるけど……なんというか、あれだろ」
そこで彼の言葉は止まる。言いづらいことなのか、空に視線を移し、見えないはずの彼の顔が少し険しく見えた。
突然、強い風が吹いた。先程よりも強いそれによって髪が再び視界を隠し、手でそれを払う前に彼は言った。
「好きな事を我慢するのは……違うだろ」
手で髪を払った頃には彼は真っ直ぐ、どこでもないところを向いていた。その言葉は誰に向けたものなのか。私に対して、それはあるのだろうが……まるで、自分に言い聞かせるかのよう。私の勝手だけど、そう思わされた。
「別に、好きなんかじゃ……!」
つい怒鳴ってしまいそうになったが、それはスマホを急に私の目の前に突きだしてきた彼によって止められる。
それはリサとのメッセージ欄らしく。そこには一つの動画が貼られていた。そしてそこに映っていたのは……私と、Roseliaのみんな。
「本当に好きじゃないなら、こうはならないだろ」
再生されていくその動画。ヘッドホン等は付けていないが周りが静かだからよく聴こえる。
聴こえてからではない、画面を見た瞬間にわからされた。頭に響いていた音の正体はこれだと、私はこれに悩まされたのだと。
「私は……いつから……」
こんな風に、楽しそうに音楽をしていたのだろう。自分では気づかないようなことなのに、見せつけられることで無理矢理にでもわからされる。
私はRoseliaで奏でる音楽が、Roseliaが、好きなのだと。
胸にストンと落ちるようにそれは自然に、まるで最初からあったかのように理解できた。
でもそれだけ、それだけだ。Roseliaのことが好き、でもそれこそ気持ちだけ。好きというだけで結果を出せるとは限らない。
「……好きなだけでは、フェスに出れるとは限らないわ」
「お前がフェスに出るために集めたメンバーなんだろ? なら、いけるだろ」
「根拠もなくそんなこと言わないで!」
「ああ、根拠なんかない」
ならこんな、惑わせるような事を言わないで。言葉にならないそれを叫んでしまいそうになる。私は、私は……
どう、したいのだろう。
「お前はどうしたいんだ?」
「私……は……」
フェスに出場する。それより先に浮かんできたものは、Roseliaと音楽をしたいという感情だった。
でも、でも、でも、それでも私はフェスに出なければいけない。それが確実に、目の前に頑強な階段のようにあって、それに対抗するかのように細い蜘蛛の糸がある。
そのどちらを取るのか。そんなもの明白な筈で……
「俺は、お前らならフェスに出れるって思ってるぞ」
そんなこと、私の方が思っている。また風、少し冷えてきた。背中を押すかのようなそれは、私の選択を決めさせてきた。
スマホが震える。何事かと思い見てみると相手は事務所の人。ああ、悩みはもうない、既に消えた。
「はい……お願いします」
「ま、後悔しないようにしな」
後悔は……するかもしれない、しないとは言いきれない。でも、少なくとも今は、これでいいと思えてる。
「あなたには私の誘いを断ったこと、後悔させてあげるわ」
「……期待しないで待っといてやるよ」
そう言って彼はリサのクッキーを一つ渡して何処かに行ってしまった。
いつもと変わらないリサのクッキーの筈なのに、空腹からか、はたまた別のものかわからないがいつもより美味しく感じられる。
風は強い、それは未だにそう。夜ということもあり少しは肌寒いが……何か暖かかった。
三日後に会って話がしたいとメンバーに送る。紗夜、あこ、燐子と送り、最後にリサに送ろうとしたところで指が止まる。
──新庄君とリサは、どういう関係なのだろうか。
……いや、それは私には関係の無いことだ。それにどのようであれ、二人が関係を持てていたから今回のことはこうなれたのだ、二人には感謝をしなければならなくて。
「……風邪でもひいてしまったかしら」
自らの額に手を当てる。確かに少し暖かいが、普段と対して変わらない。ため息がこぼれ、それは風に乗って舞い上がる。
靴で軽く地面を叩く、小さく歌を歌ってみせる。私はこの上なく上機嫌で、だけれどメンバーと会う三日後が今から酷く憂鬱だ。
上手く言葉にできる自信はない。謝ったら許してくれるのか、三日後と言わずに今すぐの方がいいのではないか、ぐるぐると、ぐるぐると思考は溶けるかのように頭の中を染め尽くす。
悪いことはないはずなのに、自分で決めた筈なのに。上機嫌な心の裏で私は何かに苛立っている。何に、何故、そんなことすらわからなくて。
不思議な苛立ちは、結局その日に取れることはなかった。
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不可解な熱
肌に当たる弱々しい風を感じながら本のページを捲る。休日昼間の公園ということもあり、少しばかりうるさく感じられるもそこまで気にならない。
本来なら部屋で一人静かに読みたいものなのだが、如何せんあれだけうるさいと思っていた工事の音がパタンと止むと、ほんの少しうるさくないとそわそわしまうようになった。
……いや、これは違うか。静かだろうとうるさかろうと、集中出来ていないということは変わりない。そしてそれはこの前のことがあったからだろう。
あれからあいつがどうなったのか、俺はまだそれを知らない。知りたいと願っているわけではないが、いかんせん自分が関与したことなのだ、気になってしまうのも仕方がないだろう。
これは燐子さんに貸す予定の本で、折角だからということで読み直している。しかし読んだのもそこまで前の話でもないということもあり内容は殆んど覚えてしまっていて。
相変わらず自分を誤魔化すのは随分と苦手だ。文字は読める、だけれどその内容は浮かんでこない。浮かび上がるは空想ではなく現実で。
ため息と同時に本を閉じ鞄に入れる。一応栞を挟みはしたが、もうこれを開くことはないだろう。一度やめたことというのは再開するのに労力を要するものだから。
「あれ、蒼音じゃん。久しぶり~」
気晴らしに外に出て散歩すること数分、自販機で飲み物を買っているリサに遭遇した。鞄を持っているが制服ではないし休日なのに学校があった、というわけではないのだろう。
Roseliaはどうなったのか、それをいきなり聞けるほど命知らずではない。
湊には去り際に後悔させてあげると言われたが、その言葉に含まれた意味を読み取ることは簡単だった。当然、俺の勘違いである可能性はあり、関係のないことであり、あの後心変わりしていないという確信はない。
「何してたの?」
「別に何も。そっちは?」
「友希那とテストの勉強しようって約束だったんだけど、友希那はまだ寝てるのかわからないけど既読が付かなくてさ」
テスト、なんとも嫌な響きだ。そういえば俺もテスト近かったな、なんて事を思い出させられて少しだけ気分が下がる。
点数が取れないわけではないがそれでも面倒くさいのは確か。とは言っても普段授業以外で全く勉強しない、というわけではないので深刻な程辛いとは感じない。
しかし勉強会、そして湊とである。リサからは暗い雰囲気を感じ取れず、これで隠しているのならば大したものだ。となれば、答えというのは見えてくるもので。
「蒼音って今暇?」
「見ての通りだな」
「じゃああそこのカフェ行かない? 友希那が来るまででいいからさ」
断ってもいいのだけれど今は燐子さんに渡すようの本を持ち歩いているし丁度いい。このままリサを通して燐子さんに渡して貰おう。そんな事を考えながら俺たちはカフェに向かって歩を進めた。
「そういえばアタシ逹、バンド続けられることになったんだ」
「……そうか、そりゃよかったな」
「うん。コンテストは駄目だったけどあんな楽しそうな友希那を見るのは久しぶりだしアタシ、少し嬉しいんだ」
突然そんな会話を振られた。知りたかったことで、しかし既に知れていたこと。わざわざ礼をされるようなことでもないし、していないと俺自身思っている。
もしリサに頼まれていなかったら、俺は今回と同じことをしていただろうか。頼まれなきゃそんな状況だと知らなかったのだから、なんてものは関係ないとすれば……
ふと息をついた。カップから上がっていた湯気が揺れる。それは熱いからと意識したものではなく、無意識に漏れ出てしまったもの。
何かに安心している、どこかホッとしたかのような感覚を覚えた。何故だろう、何にだろう。そんなものこの状況であれば一つしかなくて。
Roseliaの音楽がこうして続いていることに安心している。どうやら俺は本当にRoseliaの演奏が好きらしい。
「そうだ、この前のクッキーどうだった? 甘過ぎたとかそういうのがあったら……」
「いや、美味しかったよ」
「よかった~。友希那以外に渡すことあんまりないから不安だったんだよね」
「他のメンバーには渡してないのか?」
「あ、いいねそれ。次の練習の時渡してみるよ」
そんな会話をしていると店の扉が開く。そちらの方に目を向けるとそこにはもはや見慣れたやつがいた。
湊は少し驚いた様子で俺の事を見てくる。まぁリサと二人の予定だったのだから俺がいたら驚くのは当然か。
「……どうして新庄君がいるの?」
「お前が来るまでの暇潰しとして誘われてな」
「ちょっと~? アタシはそんなこと微塵も思ってないんだけど」
お前の件についての話をしていたとはリサも言ってほしくはないだろうし、湊もそういうのは知りたくないだろう。
湊が来たのだし俺がここにいる理由はない、というよりいても邪魔になるだけだし早く帰るとしよう。
そう思うものの珈琲を一気に飲み干すにはまだ熱すぎるので、帰るにしてもちょっとはかかりそうだななんて考えていると湊が俺の隣に座ってきた。
リサの隣に座ればいいのに。一瞬そう思ったし言いかけたが、こいつが知ってるかはさておき俺はすぐ帰る。であれば話し相手とは正面に座っている方が話しやすいだろうしこのままでいいだろう。
珈琲から少しでも熱さが消えるのを待っている間に鞄から本を取り出し、忘れないうちにそれをリサに渡しておく。
「これ、燐子さんに渡しといて」
「ん? 別にいいけど……どうして?」
「いや、今度本貸すって話になったからさ」
「……あなた、燐子とも仲がいいのね」
仲がいい、どうなのだろうか。たまたま趣味が合った程度なのだからそれほどでもない気はするが否定はしておかない。そこの判別基準は人それぞれだ。
すると暇なのか、湊がその本をリサから取りペラペラととても読めない早さで捲っていくが丁度栞を挟んだところ程度で本を閉じた。
「お前らは本とか読まないのか?」
「たまーにね、恋愛小説とか」
「音楽雑誌ならたまに読むわ」
リサは予想より少しずれた回答、それに対し湊は相変わらず猫と音楽以外に興味がないらしい。わかっていたしどこかそんな返しを期待している自分がいた。
そう、そんな返しを期待した。なぜ期待したかなどわからない。だけれど自分のことだから期待したという事実だけはわからされる。
まぁ、理由なんてものは湊にはそうあって欲しいからなんて程度のものなのかもしれない。
そろそろかと思い熱さの和らいだ珈琲を飲み干して席を立つ。本も渡したし、湊も来たから俺がこれ以上ここにいる理由はない。
自分で飲んだ分の金を置き、荷物を持ってその場を離れようとしたところで湊から疑問の声をかけられた。
「もう帰るの?」
「お前ら勉強するんだし俺がいても邪魔だろ」
「あなたはしないのかしら?」
「用具持ってねぇしな」
なぜだろう、別に俺がいようがいまいが変わらないだろうにそんなことを。いや、むしろいたら邪魔になる可能性だってあるだろうに。
そんな俺と湊とのやり取りを見てか、リサはいいことを思い付いたかのように提案をしてくる。
「アタシと友希那に勉強教えてよ」
「なんで俺が……」
「もしかして蒼音って勉強苦手だったりする?」
「苦手ってわけじゃねぇけど、別に得意ってわけでもないぞ」
「なら余計いいじゃん。人に教えると理解しやすいっていうし」
そう言った後リサは店員を呼び珈琲を二つ頼んだ。リサは先程珈琲を頼んでいないし今あるジュースもまだ飲み終わっていない。
となればこれは俺と湊に向けてなのだろう。逃げ道を塞がれた、こうなっては帰ると印象が悪いだろう。
俺としてはわざわざ人との関係を悪化させるかもしれないことはしたくない。しかもそれがこいつらとなればそれは更に確かで。
勉強を教えるとしても何をすればいいのだろう、問題集とノートを開く二人を見てそう思う。今までそういったことをしたことはないし、学習塾等にも通っていなかったからどうすればいいかわからない。
特段することもなく二人の様子を伺ってみるが二人の様子は順調そのものだ。下手に話しかけた方が邪魔になってしまうだろう。これ俺がいる必要なかっただろ、そんな事を思いながら二人のノートを覗き見る。
リサはところどころ間違えてはいるものの大半は正解している。湊もそんな風なのかと思い見てみれば……ノートは見事赤字で染まっていた。
「お前、それ基礎の部分だろ」
「し、仕方ないでしょう。わからないものはわからないのだから」
「にしてもだろ……もしかしてお前、英語以外もこんななのか?」
「……赤点は取っていないから問題ないわ」
そう言って湊は黙りこみ目の前に座るリサが苦笑いしているのが見えた。この程度授業を不真面目でも聞いていれば理解が出来そうなものだが。
というか、Roseliaの作詞は誰がやっているのだろうか。それが湊なのであれば、それこそ英語は問題ではないか。
湊から一つペンを借り最初から説明していく。上手く教えられているのかわからないが、ここは基礎の部分なので教えるにしてもそんなにややこしくはない。
一通り教えてみて理解しているかと思い隣を見ると、湊の顔がとても近くにあった。
非常に整っていると改めて思いしる。思えば湊の顔をここまで近くで見たのは初めてで、彼女から視線を外せなくなっていた。
「……ちょっと」
数秒後、顔を少し赤くされる。ごくりと喉が鳴る。そうして新しい珈琲が運ばれてくると、俺は飛び退くように彼女から離れた。
熱を感じた。それは今目の前にある珈琲の熱さとは違うもので……
「……トイレ行ってくるわ」
逃げるかのようにして席を離れる。その熱は焼き焦がすかのようで、その場を離れたというのに体の内側で弱まる様子もなく存在して。
これは一体なんなのか。ピアノをしていた時に似たようなものは感じたことはある。でもそれ以外でこう感じさせられたのは初めてだ。
不可解で、だけど気持ち悪いということのないこの熱の正体は一体なんなのだろう。どれだけ考えてもその答えはでてくれなかった。
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昔の趣味
あれは一体なんだったのだろう。二週間が過ぎ、それでも尚鮮明に思い出せるというのに未だに尻尾も掴めないでいる。
あの後帰って熱を測ってみたが結果は普段よりほんのちょっと高い程度、感じていたものと比べれば低すぎると言い切れるほどのものだった。
「ここも人が減ったなぁ……」
学校のテストも終え、今日はバイトもないので久しぶりにゲームセンターに遊びに来た。と言っても連れがいるわけではなく一人なのだが。
ゲーセンには一時期来ていた。それこそバイトを始めた理由はゲーセンで使うようの金が欲しかったからだったりする。
しかしいざバイトをしていくとそっちが忙しすぎて、だんだんと来る気が起きなくなってしまうという事態に陥ってしまった。本末転倒とはこのようなもののために存在する言葉なのだろう。
最後に来たのはいつだったか。あの頃は人で溢れていて暑さを助長していたとまで思うが、久しぶりのゲームセンターは随分と静かで……勿論ゲームの音は耳障りな程に聞こえてはくるのだが、少なくとも溢れんばかりの人の姿はそこにはなかった。
廃れてしまったかからか、それとも時間が時間だからなのか。誰かとつるんでいたわけではないし、他人のあれこれを気にしたことはない。だけれども、何故だか随分寂しく感じてしまう。
「あれ、もしかして……蒼音さんですか?」
「ん?」
声をかけられらるなんて思ってもいなかった。もしかしてあの時いた人が覚えていたのだろうか、そんな風な事を思うが声が男にしては高いため、それと名前を言い当てられたためにそれはないと一瞬でわからされる。
「えっと、君は確か……?」
「ふっふっふ、そう、我こそはRoseliaの闇のドラマー。漆黒の……漆黒の……」
言葉につまりうーんと悩んでいるその子はRoseliaのライブでドラムを演奏していた子だった。
随分と悩んでいるようで腕を組み目を瞑って唸ってまでいる。この調子では暫く出なさそうではあるが、遮っては悪いと待つことにする。自分もこういうのにハマったことがあるものだ。もっとも数年前の話ではあるが。
「漆黒の天使、あこである!」
意味ありげにポーズを決めるあこちゃんの姿は、キマっているといえばそうだろう。漆黒の天使とは、それは堕天使なのではと思いはすれど口には出さないことにした。
「……今日は練習とかないの?」
「あ、はい。今日は練習が休みだからりんりんと遊ぼって話になって」
「燐子さんもこういったとこ来るの?」
はっきり言って想像がつかない。こういったうるさくて人が多いところは好まなそうで、加えてゲームとかには興味を持たなそうなものだと思ったから。
偏見でしかないが似合わないと思ったのだから仕方ない。そんなことを思っているとあこちゃんは首を横に振った。それは否定の意味であり、つまり俺の予想は間違っていないことを意味していて。
「りんりんは人が多いところが苦手だからあんまりこないんですよ」
「じゃあ君はどうしてここに?」
「予定よりもだいぶ早く着いちゃったから時間潰しもかねてババーン! と音ゲーしたいなって」
ババーンという擬音からしてやるのはあれだろうか。そんなことを考えながら店内を見ていると疑問を含んだ声で話しかけられた。
「蒼音さんもゲームするんですか?」
「あー、昔はしてたけど最近は」
「え~。じゃあNFOってゲームやってましたか?」
「やってたね、と言っても1年以上前の話だけど」
「それならあことりんりんと一緒にやりましょうよ! 復帰キャンペーンもありますし!」
燐子さんNFOやってるんだ、意外な事実を知りつつもその問いには了承の返事をしておく。
勿論やる理由なんていうのもなにもないのだが、逆にやらない理由もない。やめた理由も嫌いになったからではないのだしまたやってみてもいいだろう。いつまで続くかは知らないが。
「それにしても少し意外です」
「何が?」
「蒼音さんがゲームやるなんて。友希那さんと一緒でそういうのに興味なーいって感じなのかなって思ってたから」
興味がない、そんなことはない。では興味がある、それも正しいとは言えない。
ピアノをやめて、その癖まとわりついてくるそれから逃げるために夢中になれる何かが欲しくて、そんな時にクラスのやつが話してるのが聞こえたから始めただけ。
たまたま他の事より長く続けられた。こういうことを一切してこなかったから飽きるのが遅かった、俺にとってゲームとはその程度のものでしかない。
「そうだ! 連絡先交換しましょうよ、今度りんりんとやる時NFOに誘うんで」
「うん、いいよ。それより燐子さんとの待ち合わせは大丈夫なの?」
「もうちょっと時間あります。あ、蒼音さんも一緒にどうですか?」
「……俺がいたって邪魔でしょ?」
「そんなことないですよ~、りんりんも大丈夫って言ってくれる筈です!」
何処に行くのかと聞いてみればゲームのイベントらしい。誘われてしまったし、そんなにゲームがしたくてここに来たわけでもない。
だけどほんのちょっぴりとでも考えてしまったからか、頭にピアノのことがはっきりと浮かんでしまっている。
それがどうしようもなく嫌で少しでも忘れられるならと、買い物をしなければ無料ということで俺はその提案を了承した。
「りんり~ん」
待ち合わせ場所と言われた場所に着きそうになり、燐子さんらしき人が見えた瞬間あこちゃんは燐子さんの元に走って向かっていったのを見て、元気だなぁと思いながら俺もそこに向かう。
ゲームのイベントと言っていたが具体的には何をするのだろう。まぁつまらなくなければそれでよくて、最悪つまらなくたって構わない。頭がからっぽになれるのなら。
「りんり~ん、大丈夫?」
「ど、どうして新庄さんが……」
「偶々近くで会ったから誘ってみたの!」
やはりこういった趣味は知られたくないのだろうか。驚いたかのような、怯えたかのような声を出される。
最低限嫌われていないというのは本人の証言から既にわかってはいるが……俺がいたらやはり邪魔ではないだろうか。そんな事を考えているとあこちゃんに手を掴まれる。
「それじゃあ行こ~!」
燐子さんもあこちゃんに手を取られているようでそのまま会場らしきところに入る。その天真爛漫な性格は燐子さんとは正反対のように思えるが、それだからこそ馬が合ったりするのだろうか。
なんか保護者みたいになっちゃったな、そんな事を思いながら連れてかれるがままに会場を回る。
物販にイベント、NFOとのコラボキャンペーンなど様々なところに行ったが燐子さんはあこちゃん以上に買っていた。なるほど、どうやら想定外にNFOが好きらしい。
そんな中俺であるが、特別面白いと思うことはなかった。まぁほぼ知らないのだからそれも当然、だがつまらないと思うこともなくただただ時間が過ぎていった。
「あこトイレ行ってくる!」
「え……あ、あこちゃん……!」
少し長めの列に並んだが一向に前が進んでいない様子を見てか、あこちゃんはトイレの方に向かっていった。我慢していたのだろうか、走ったら危ないよと燐子さんが注意していた。
今日の話の中心はあこちゃんだったので彼女がいなくなれば会話もない。かといってスマホを目の前で弄る気も起きなくて燐子さんに声をかける
「あー……この前貸した本どうでしたか?」
「は、はい……凄く……面白かったです」
どうやら彼女は話題を作るのが苦手なだけのようで、一度話し出してしまえば話は殆ど途切れずに続けられてくる。
どこが面白かったか、なんて話をするだけでも退屈を紛らわすには充分、やはり誰かと話す時は好きな物についての話をするのが一番で。
「今度続き貸しますね」
「あ、ありがとう……ございます……」
クロスワードが好きと言っていたのでミステリー、しかしそこまで暗い雰囲気はないものを選んでみたが気に入ってもらえていたようで安心した。
しかし続きを貸すと言ったもののいつ貸せばよいのだろう。連絡先を交換すればそれは簡単に解決するが異性にそれを提案するのは気が引ける。
基本持ち歩いておいて偶々会うか、他のRoseliaメンバーと会った時に渡しておいてと頼んでおくか。まぁそれでいいかと自分で解決させそっちの本も楽しみにしておきますねと言っておく。
「えっと……いつなら……返せますか?」
「あー、リサとかに渡しといて貰えれば」
共通の知り合いというのはなんとも役に立つものだ、それを実感する。俺とリサも頻繁に会うというわけでもないが、他のメンバーに比べれば多い方だろう、ここ最近限れば湊と同程度程にも。
いやはやしかしこちらからあいつのバイト場所に行けば日付さえ合えば会えるのだし、渡して貰えさえすれば簡単に受け取れる。
やはり持つべきものは親しい仲、そんなことを思っていると燐子さんはちょっと残念そうな顔をしていた。
「……どうかしましたか?」
「い、いえ。なんでも……ないです」
どこか落ち込んだような、そんな雰囲気を感じさせられた。何故落ち込むのか、そう考え始めようとしたところであこちゃんが帰ってきた。
その後、その日は燐子さん側から話しかけられることはなかった。
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振り絞って
Roseliaの練習中だというのに全く集中出来ない。今日は個人個人で練習をしているのでそこまで問題ないが、もしこの調子で全体練習をしていれば確実に迷惑がかかってしまっていた。
いけないと何度も思ったけれどいつも通りにやることができない。なんでそんな風に集中出来なかったのか、理由は一つ。隣であこちゃんと話しながら練習している今井さんの方をチラリ見る。
ああ、今井さんと新庄さんは……どんな関係なんだろう。
友希那さんと新庄さんはどんな関係なのか。一時期、いや、今でも少なからず気になっているそれよりも深く気になってしまう。
話を聞くに今井さんと新庄さんが初めて会ったのはこの前湊さんに連れられて彼のバイト先のライブハウスでとのこと。
それが本当であるならばそれは最近。ならばそんなことはないと考えることはできて、だけどもしかしたらと考えさせられる。
人と人との関係なんて日進月歩では進まない。止まり、迷い、それでようやく進むのだ。ああでも、それは私に限った話かもしれなくて。
今井さんとあこちゃんみたいな人ならば、それこそたった一日で進みきることだって。
そんな考えに耽っていたら練習が終わっていることにも気が付かなくて、皆が片付けを始めている姿を見て私も慌てて片付け始める。
片付けが終わると友希那さんはすぐに帰ってしまい、それに続くように氷川さんもスタジオを出ていった。
新庄さんの事をどう思っているんですか、何度聞こうとしても友希那さんはこうやってすぐに帰ってしまうので聞くことができない。
練習中に聞くわけにもいかないし、練習前も音楽を聴いているのでそんなことを聞いて邪魔をしようとも思えない。
まぁ、私にそんな勇気があればの話なのだけど。
「燐子、これ渡しとくね」
「え……あの、これは……」
「蒼音から渡しといてって言われてさ」
今井さんから渡されたものはこの前蒼音さんから借りた本の続編。それを私に渡すとそれじゃと言って今井さんはスタジオを出ようとする。きっと友希那さんを追いかけるのだろう。
それはいつも通りのことだけど……気づいたら私は今井さんを呼び止めていた。
「ん、どーしたの?」
彼女はなんでもないかのように聞いてくるけど私は正反対に落ち着くことなんて出来なくて。鼓動が高鳴っている、口が簡単には開かなくて頭が真っ白になって、手を胸に当てて一つ息を吐く。
「今井さんは……新庄さんとどんな関係なんですか?」
「どうって言われても……別になんでもないよ?」
「そうじゃなくて……その……」
新庄さんと付き合っているんですか? 私はそれを、聞いてしまっていた。
気づかれたからというものだろうか、それとも荒唐無稽な事を急に聞いてきたからだろうか。驚いたような顔をしたまま今井さんは動かず、言葉を発しもしない。
先程それはないだろうと考えて、でも私が彼を好きになっているんだ。であれば他の人が彼の事を好きにならないという理由なんてありはしない。
それに……今井さんのような人ならば、彼が好きになってもおかしくなさそうだから。
友希那さんに聞けないことを更に踏み込ませたようなそれを何故今井さんには聞けたのか。彼女から話しかけてきてくれたから、確かにそれはあるだろう。でもそれ以上に、怖いからだ。
「ないない、絶対ないから」
「……本当……ですか?」
「ほんとも何も、アタシも蒼音もお互いのことそういう風に思ってないし」
手を左右に振りながら何でもないかのようにそう答える今井さんに、ならば何故こんな風に本を預かっているのか。
そう聞こうとしたところでふと気づく。それはただ単純に、彼女と新庄さんとの仲がそれだけいいということではないかと。
付き合っている訳ではない、でもその程度の仲ではある。今井さんは彼に対して恋愛感情を抱いていないというのは嘘ではない、隠されていない。
でも、それなのに、私はそんな今井さんより新庄さんとの仲が浅い。前から知っているのに、最初から好きなのに、私と彼は、ただの他人でしかない。
「もしかして燐子~……蒼音のこと、好きだな?」
なんちゃって~、とどこかおちょくるように聞いてくる。好きなのかと聞かれ頷くことすら出来ない。恥ずかしいとか、気づかれたくないからだとか、そんなものではない。
本人はいないのに、今井さんも彼の事が好きだというわけではないのに。この気持ちには欠片の偽りもないというのに。
ああ、でもそれも納得だ。こんな私だから、臆病で、踏み出せない私だから、彼と仲良くなることが出来ないのだろう。
牛歩などというものではない。遅いとか速いとか、そういう次元の話じゃなくて、きっと私は一歩や二歩、もしや半歩に及ばぬほどにしか進めていない。
「え、マジ?」
「…………」
「なんか意外というか……いや、悪く言ってるわけじゃないんだけどさ」
私は前を向けずに俯いてしまう。いつもなら沸き上ってくるであろう恥ずかしさも今はなく、ただただ悲しい。こんな自分が、どうして自分はこんななのかと。
「え、なに、何処が好きなの?」
「何処……と言われましても……」
「もしかして一目惚れ?」
「い、いえ……そういうわけでは……」
一目惚れ、どうなのだろう。新庄さんの演奏を始めて聴いた時、恋というには弱いけれど既に惹かれていた。見た目に惹かれたわけではないけれど……違う、と言うのも違う気がして。
知識はあるが経験はない。百聞は一見に如かずといいはすれど、その一度だって煙のように形を掴ませない。
「……あ、そうだ! 蒼音から本渡してもらってって言われたけど……今持ってる?」
「は、はい、持ってます」
今井さんに渡して貰えれば。そう言われ、だけどずっと渡せてなかった。すっかり忘れていたというわけではない。自分で渡したかったと、そう思っただけ。
他に理由といえるものがあるというのなら……これを渡してしまえば彼との関係も、なくなってしまうのではないかと思ったから。
どうせ出来ないことなのにそれを望んでいた。背伸びして、でもいざしようとなれば縮こまっちゃって。ほんと私は変わらない。
私の返答を聞くと今井さんはスマホを取り出す。それを耳に当てている様子から誰かに電話をかけようとしていることはわかった。
いったい誰に、そんな私の視線を感じてか私の方を見ながら今井さんは口元に指を立て相手と話し始めた。
「あー、今暇してる?」
誰と話しているのだろう、何を話しているのだろう。そんなこともわからないまま、私を置いてけぼりにして話は続く。
ちょっと待っててねと聞こえたので相手は友希那さんだろうか。話終えた今井さんはスマホをしまい私に話しかけてきた。
「燐子はこの後時間ある?」
「い、一応ありますけど……何かあるんですか?」
「ん~……内緒」
近くのコンビニに行ってみてと言って今井さんはスタジオを出る。今井さんは行かないのだろうか、そんなことを思った直後今井さんに本を貸せていないことに気づく。
言った側ではあるけれど忘れてしまったのだろうか。そう気づきはする癖に口には出せなくて。ああ本当に自分で返せる機会、それと勇気があればいいのに。
明日には絶対に渡そう、そう決めて先程の今井さんの言葉を思い出す。一体コンビニに何があるというのだろう、理由も教えてくれないので少し不安だがこんな風に言ってくるということは何かはあるのだろう。
去り際に残された、頑張ってねという言葉が胸に引っ掛かった。
今井さんに言われた通りコンビニにきたが、結果としては何故行ってみてと言われたのかわからなかった。からかわれた、というわけではないだろう。でなければ頑張ってねと言われた理由がわからない。
もしかして私がわかっていないだけなのかと思いもう一度考えてみてもやはりわからない。一体なんなのだろうと思い辺りを見回すと……ある人と目が合った。
「リサは一緒じゃないんですか?」
ああ、そういうことか。歯車が噛み合ったかのように理解できた。今井さんはこうなるように仕組んだのだろう。
喉から先が詰まったかのように声がでない。何をするべきかなんてわかりきっている、でも何を話すべきかは全くわからない。
「えっと……燐子さん?」
「あ、はい……本を渡したいと思って……今井さんに呼んでもらいました」
「そういうことですか」
嘘をつく、その場しのぎだけどそうするしかなかった。慌てるように鞄から本を取り出し新庄さんに渡す。
それを受け取ると彼はすぐに帰ろうとしてしまう。突然の呼び出しだったので用事でもあるのだろうか。待ってくださいと言うことすら出来ない、手を掴んで引き留めることも出来ない。
声にならない声が漏れる、手を伸ばすがそれは届かない。手を降ろして、そんな自分が嫌で項垂れてしまう。
結局私は止まったまま、前に進むことが出来ないままで……
「あ、そうだ」
声をかけられ視線を上げると彼は私の元に近寄ってきて連絡先交換しませんか? となんでもないかのように言ってきた。
お願いしますと反射で答えていて、連絡先を交換すると彼はそれではと言ってこの場を去っていった。
「…………」
きっと彼からすればなんでもないことなのだろう。本を貸し借りする以上しておいた方が楽だから、その程度でしかないかもしれない。
自分からできたことではない。それでも、私にとってこれは……
目を閉じて、スマホを胸に当てる。少し、ほんの少しずつだけど、暴れるように鳴っていた心臓の鼓動が落ちついていく。
私は家に帰るまで、スマホを手放す事は出来なかった。
「……はぁ」
その夜ベッドで横になりながらスマホを眺める。彼とのトークページ、文字ならもしかしたら、そんな事を考え眺め続けて早数十分。
本、どうでしたか? 打ち込んでそれを消す。ずっと好きでした。それは頭に浮かんだだけで打ち込むことすら出来ずに転げまわる。
「……このままじゃ」
新庄さんは魅力的だ。それは容姿的な事もあり性格的な事でもある。
かっこいい、大多数の人はそう答えると思う。優しい、関わった事のある人なら殆どはそう答えるだろう。
だから時間が経てば今井さんも、友希那さんも惹かれてしまうかもしれない。そうなればきっと私なんかではどうしようもない。
立ち止まっていても周りの人が助けてくれるかもしれない。今回みたいに彼の方から近寄ってきてくれるかもしれない。
だけどそれでいいのか、いいはずがない。だから、私は……
『今度、ご飯でも行きませんか?』
ほんの小さなものでも、感じとる事が出来ないほどだとしても一歩前に踏み出せる勇気を振り絞らないといけない。
恥ずかしさを感じないなんてことはない。それこそ胸は爆発しそうな程にうるさくなって顔まで真っ赤に染まりそう。
やっぱりやめよう、そう思って削除ボタンに指を伸ばして、でもそれもすることが出来なくて。
ここで出来なければいつするんだ、自分にそう言い聞かせ一つ深呼吸をして……
目を閉じて、力強く、その一文を送信した。
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イラつき
見渡す限りの本。棚に詰め込まれ目当ての物が紛れ込んでいたら探し当てることなど出来そうもないが、今日は特にこれといった目当てのものはないので何かないかと歩き回る。
新しく本を買おうと思いやって来たのはいいもののほぼ決めずにやって来た。そのうえこれだけは買おうと思っていたお気に入りの漫画の新刊も見当たらない。
こうなっては何も買わないという選択が一番賢いのだろうが、この店は家から遠いという訳ではないが近いという訳でもない。そんな店にやってきたのだからその選択は何だかもったいない気がしてその気は起きない。
そうは思うものの本当に興味をそそるようなものは何もない。これは何も買わずにどっか寄ってしまうか、そんな事を考えながら何かないかと探し歩いていると音楽雑誌のコーナーに着いた。
音楽雑誌などバイトの隙間に読む程度で買ったことはない。滞在する理由もないが折角なので見て回っていると立ち読みしていたのか、本を棚に戻している湊に出会った。
「あなたは……こんなところで何をしているのかしら?」
「こんなところで本を探す以外にすることあるか?」
「あら、音楽は好きじゃないんじゃなかったかしら?」
「……ここは偶々着いただけだ」
最近少しだけおかしなことがある。それは湊と話すと少し、ほんの少しだけ体が熱くなること。酷い時には胸が少し痛くなる、これはいったいなんだというのだろう。
調べてみたがこれといったものは見つからない。そも熱がないのだ、体が熱いのに熱がない。矛盾するようなことではあるが事実である。問題ないとわかっていながら、いや、問題がないからこそ気になってしまう。
「そういうお前は何してるんだよ」
「何って……あなたと似たようなものよ」
「そりゃそうか」
湊は手ぶら、俺と一緒で何を買おうかと探しているのかと思ったが、会話をしながらも視線は俺から外れて棚に手を伸ばしながら見回しているので買うものは決まっているのだろう。
目的もないしここにいる理由もない。こんなとこにくるくらいは探し回ったがよさげなものは見つからなかったので帰りはどこかに寄るとしよう。
はてさてどこに寄るものかと考えながらその場を去ろうとすると湊に呼び止められた。
「この後って時間あるかしら?」
「……一応あるが、何のようだ?」
「近くのカフェが二人で行くと安くなるって見て、折角だし誘おうと思って……」
「なるほど、じゃあ待ってるわ」
断る理由もないが受ける理由もない。あるとしたら金が浮くかもしれない程度だろうが、それならばその金で何かした方がいいだろう。
聞くにリサからそんな話を聞いたというのと音楽の話がしたいからとのことで。その答えに不思議なイラつきを感じながら湊が本を買ってくるのを待つことにした。
「……なんで受けたんだろ、俺」
本当にわからない。自分でも勝手に口に出ていた。まるで自分が言ったと思えないくらい無意識であるかのように溢れ出ていた。
偶々目に入った音楽雑誌、ピアニストの紹介をしていたそれが目に入るとまたイラつきを覚えた。
でもそれは、先程のイラつきとはどこか違うものだった。
何にイラついてるのか。二つ目のイラつきは何にイラついたのかは明確だというにも関わらず最初に抱いたイラつき、それが何に向けたものか何故なのか、それがわからなかった。
「男女だと余計に安くなるのね、都合がいいわ」
「……お前、意味わかってるのか?」
「カップル割って書いてあるけれど……要は男女でいればいいのでしょう?」
「……はぁ」
確かに言っていることは正しいがそれでいいのか、ため息をつきながら運ばれてきた珈琲を口にする。
相変わらず砂糖を大量に入れた珈琲を飲んでいるこいつからすれば俺なんてその程度のものでしかない。それは勿論俺も似たようなものである筈で。
「……そういえば最近はどうなんだ?」
「どうもこうもないわ。フェスに出場するために練習、それだけよ」
そんなことを言いながらもうっすらと口角が上がっている。なんやかんやいいつつもこいつ自身Roseliaで音楽をするのは随分と気に入っているらしい。
そういえばバイト先でライブをするらしいが、参加するバンドに余裕があると言っていたので提案しておくか。まぁまだまだ先の話ではあるのだけれど。
「新庄君は私達の音について何か思ったことはないかしら?」
「最近聴いてないからわからねぇな」
「それもそうね。それなら今度のライブの予定なのだけど……」
俺は燐子さんの音を昔聴いた事のある音だとわかったその日からRoseliaの演奏は殆んど聴いていない。最近はリサから送られてくることもないのでそれもあってだが。
何故聴かなくなったのか。難しく、ややこしい理由なんてものは一つもない。ただ単純に昔の事を思い出すのが嫌なだけ。
区切りをつけて忘れようとして、思い出さないようにした。我ながら女々しいとは思うものの思い出されるのだから仕方がない。
別に燐子さんは何も悪くない、ただ俺がそうなってしまうだけ。本を貸し借りしているのはなんともないというのに演奏の時だけそうさせるのだから質が悪い。
「……聞いてるかしら?」
「……あ、わりぃ、聞いてなかった」
聞き直してみたが湊は答えてくれなかった。聞いていた部分から察するに俺はライブに誘われてたのだろうが、どこか拗ねてしまったかのようにそっぽを向かれる。
行きたくないというわけではないが先程の理由の通り行きたいと思いきってるわけでもない。
珈琲を飲みながらスマホを弄っていると不機嫌な様子で湊からそのライブの日付を告げられた。
「……了解、場所は?」
「ここに来るときにあったライブハウスよ」
改めて言われなければ行かなかったものの言われてしまえば行ってもいいかなんて、ほんと自分でも揺れすぎだとは思う。
もし聴いてしまったらまた思いだしてしまうかもしれないが……俺はRoseliaの奏でる音が好きで、その二つを天秤にかけた結果行ってもいいと思えただけだ。
「……断らないのね」
「誘われたのに断るのはあれだろ」
「バンドの誘いは断ったじゃない」
「……それはまた別だろ」
珈琲を飲み終わったので席を立つ。会計は二人で割って、さらに割引まで入るのでだいぶ安くすんでいる。これならばほしい本を見つけたとしてもどうにかなるだろう。
「カップル割をご利用のお客様は写真を撮らせていただいています」
「いや、別に大丈夫です」
「そんな遠慮しなくても大丈夫ですよ」
悪気なしの善意100%、会計の後店員はそんな笑顔を見せながらそう言ってくる。ああ、やはり割引となれば碌なことなどありやしない。
カップルじゃありませんと言ってしまえば簡単に切り抜けられるのだろうがその場合支払いが追加されるかもしれない。
だが仕方ないし普通料金で払うか、そう思い再度財布を取り出した所で湊が不思議そうな声色で俺に尋ねてきた。
「なんで財布を取り出しているの?」
「お前話聞いてなかったのか?」
「別に写真を撮るくらいいいじゃない」
「……お前はそれでいいのか?」
「……? ええ、別に構わないけれど」
それを聞いてか店員は先程よりも強めの笑顔を俺に向けてくる。横で首をかしげながら本当にわからなさそうにこちらを見る湊が恨めしい。
写真を撮るといっても店側ではなく俺らの携帯でやるらしいのでカメラを開いて渡しておく。
「二人とも笑ってくださいね~」
無茶を言ってくれる、笑うなんて出来そうもない。そんな俺に対してか少しだけ不満そうな表情を浮かべながらも店員は二枚ほど写真を撮り、スマホを俺に返してくる。
「それじゃあライブの感想、頼むわね」
「……ああ、わかったよ」
そう言って別れた後、先程撮った写真を見る。
これだけのことだというのに信じられない程に緊張した。それこそかつてのコンクールの時と同じか、下手したらそれ以上に。
俺はなんともないような表情を浮かべてはいるが内心を知っている自分からすればこの写真は滑稽そのもの。
それに対し湊はいつも通りの様子。まるでなんともないかのようなその姿にほんの少しだけイラついた。人の心などしるよしもないが、間違いなくこいつは何もわかっていなさそうで。
無意識のうちに舌打ちをしてしまっている。何をこんなにもイラつかさせられているのだろう、どうしてこんなにイラつかさせられているのだろう。
もしかして、俺は……
「……馬鹿馬鹿しい」
イライラするのに理由も糞もあるか。睡眠不足とか栄養の偏りとか、理由なんていくらでもある。確かにカフェが安くなったのはあるが、それ以前に本を買えなかったのだ。原因はそれかもしれない。
むしろそうであれと思い込む。ならばとそのイラつきのままに先程の写真を消そうとして、しかしそうすることは出来なかった。
だから余計にイラついて、抵抗するかのようにスマホの電源を落とすことにした。
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気付かされて
空の向こうがうっすらと明るくなっていく。今何時なのかとスマホで時間を確認した途端にやって来た眠気に目を擦る。
あの奇妙な苛立ちと不思議な感情に悩まされ、寝なくてはという意思に逆らうように眠ることは出来ず、気がつけば朝になってしまっていた。
今日は休みでもなんでもなく学校がある。しかし幸いというべきか体育は存在しないので、徹夜をしたせいで怪我をするということもないだろう。まぁ座学に関しては仕方がない。
欠伸を大きく息を吸うことで誤魔化して、重たい体を起こし朝飯の準備をする。
「……ありゃなんなんだろな」
もしかして、そう何度も考えたものの一瞬で否定した。不思議な感情はピアノをしていた時に似たような物を感じていた、その苛つきは今までには感じてこなかった。
ピアノと似ていて、尚且つ苛つくとなれば……嫌いなのだろうか、あいつのこと。
それは何度も考えたものと真逆のもので、そうなのだろうかと思ってみたが俺の頭はそれをゆっくりと否定する。嫌いではない、それははっきりと言える。
嫌いではないというものはこうもはっきりと、確かめるかのように言えるというのに相反する感情に関しては感情的に、すぐに出すことしかできない。
これに違いがあるとするならば……なんなのだろう。
「……暇だな」
今は何時もより二時間以上早く、部活に勤しむわけでもないからこんな時間から学校に行ってもすることなどあるはずもない。かといって家ですることがあるのかと言われたのならそれも首を橫に振らざるを得ない。
この時間のテレビなぞ碌な物がやっていないし、今から寝てしまえば起きれる自信などありはしない。はてさてどうしたものか。
そんな俺はあの部屋に目を向けていた。暇ならばピアノでもしていればいいと、誰かが囁いてきたみたいに。
思い切り手をテーブルに叩きつけようとして、やめる。子供じゃない、癇癪を起こすのも物に当たるのもよくない。
怒りという感情は持続しないというけれど、ならばこの感情の名前はなんなのか。眠気すら吹き飛ばしたこの激烈な感情の名前が呆れや嘲笑とでもいうのだろうか。
顔を洗ってその思考すら流そうとすれば、逆に頭の中に塗りたくってしまったかのようにその思考は強くなっていく。
ため息をついて、座り込んで目を瞑る。子供ではないというけれど、こうして引きずることこそ何より子供らしいと自分が一番わかっている。
そう、これだからおかしいんだ。湊に対して抱いた感情はピアノに対して抱いた物と似ているというのはどういうことだ。
ピアノは嫌いだ。でも湊に対してはそれはないとはっきり言えてしまう。
好きだと、そんなものはあり得ないと考えるから、当然湊に対しても似たような風に考えてしまう。
そんな思考を遮るかのように電子レンジの音がして、出来上がった朝食をさっさと食べる。この前湊に勧められた音楽を聴きながら燐子さんから貸してもらった本を読んで時間を潰す。
ふと昨日撮られた写真を眺めてみた。相変わらずイラつかせてくる。何が、誰が。さぁ、何故だろう。
スマホの電源を切り、本の世界に逃げ出した。
「馬鹿ねみ……」
あんな朝を過ごした身からすれば授業なんてものを聞いていたら眠気が来てしまうのは当然で、その上抗う理由もないのでそれはもうゆっくりと寝させてもらった。
湊のように勉強が出来ない訳ではないのだから危機感は抱かないし、高二ともなればそんな生徒後ろを向けばちらほらいるのだから罪悪感なんてものも抱いていない。
しかしそんな風に寝ていたとしても眠いものは眠い、普段と比べたら格段に少ないのだから当然ではあるのだが。部活をしてるやつは大変だな、そんなことを思いながら帰路に着く。
今日はバイトもないので帰ってさっさと寝てしまいたいものだが夕飯を作る元気なんてあるはずもない。コンビニで適当に買っておこうと思い途中にあるコンビニに寄ろうと考え、欠伸を漏らしながらも歩き続ける。
買うにしても弁当かカップ麺か、はたまたパンにでもしてしまうか。なにも食わずに寝るという選択肢もあれど起きた後に空腹に襲われるのは簡単に予想できる。
まぁ着いてから決めればいいかと思った所でコンビニに着いたので中に入ると見知った顔が一人。気の抜けたような挨拶が店員から飛んできた後そいつから話しかけられた。
「お、偶然だね~」
「……そういえばお前ここでバイトしてたな」
「今日はないけどね」
リサも学校帰りなのか制服のまま、この時間なのだから当たり前といえば当たり前なのだが。話すこともない、適当に食べ物を手にとってレジに向かう。
「お~、リサさんの彼氏さんですか~?」
「違うって、友達だよ友達」
「……知り合いか?」
「アタシの後輩、バンドもやってるんだよ」
先ほどの店員はどうやらリサの後輩らしく軽く自己紹介をして解散、となるはずだったのだがリサがこの後時間ある? と聞いてきた。
勿論暇ではあるが、さっさと寝たいということもあり忙しいと答えるが、ちょっとだけと押されたので了承してしまう。
優しさではなく、断っても受け入れるまでなんやかんやで聞いてきそうだしさっさと終わらせる方が早いと思っただけだ。
「てかお前練習ないのか?」
「今日はなし、といっても自主練はするけどね」
ここで練習手伝ってなど言うのなら即座に断って帰ろうかと思ったがそんなことはなく、本当にただただ話がしたかっただけらしいので会話をする。
他の客の入りはない。というよりあったとしたら既に会計を済ませた俺に構っている方が問題だ。リサの後輩も暇だからなのか俺達の会話に耳を傾けている。
「……で、何の話だよ」
「あー……燐子と最近どうなのかなって」
「あ? 別に何ともないが」
「でも本の貸し借りしてるし、最近はご飯の約束もしたんでしょ?」
「……なんでお前が知ってんだよ」
連絡先を交換した日の夜に飯の誘いをされたのだが、その日は予定が入っていたので延期ということにしてしまった。
しかしながらどうとはどういうことなのだろう。別に仲が悪くなったわけでもないし特別よくなったわけでもない。
「そんなん聞いてどうした? 別にお前に関係ないだろ」
「い、いや~……あ、アタシそういうの結構気になっちゃうからさ~」
あははと誤魔化すような笑いをされる。一体なんだと思いつつも頭が上手く働かないのてわスルーする。
「じゃ、じゃあさ、友希那のことはどうなの?」
その問いを受けた瞬間、眠気によってか靄のかかったような頭の中が晴れていく。俺のこの迷いを知ってか、先程燐子さんの事を聞いたからなのか、はたまた話を途切れさせないようにとの親切心か。
言葉に詰まった俺を見て不思議そうな視線をリサは向けてくるので恐らく知られていなかったのだろうが、それでもドキリと心臓が鳴った気がする。
「……もしかして友希那のこと好きなの?」
「……んなわけあるか」
「蒼音、顔真っ赤だよ」
そう言われ顔を背ける。顔が赤い? なんだそれは。それではまるで……俺が湊の事を好きだと、言い当てられてしまっているようではないか。
俺があいつのことが好き? そんなわけあるか。それは朝思ったことと同じで、なのに今度は、今だけはハッキリと思うことは出来なかった。
「なんて、嘘なんだけどね」
「……帰る」
「あー、ちょっと待ってよ」
「もう教えるのもやめだ」
「ごめんってばぁ」
その場から逃げるようにしてコンビニを出た。流石にバイト中の身分で追っ掛けてくることはないはずだ。それにちょっとだけと彼女は言った、もうちょっとの範囲を越えている。
しかし、あの後輩の視線もムカつく。何やら面白いものを見るような目でこちらを見ていた。全て見透しているかのように、生暖かい目が向けられていた。
頭を掻く。イラつく、イラつく。湊が、リサが、あの後輩が。そして、俺自身にだ。
本当に寝不足かもしれない。家に牛乳は置いていただろうか。
『ごめんごめん、ちょっと言い過ぎちゃった』
ふとメッセージアプリに送られてきたそれを見て、ちょっとで済むものかと送り返してやろうかと思ったけれどやめる。きっと今は何を言っても裏目に出る、ボロが出る。
というか、あいつはバイト中に何をしているんだ。
『それにしても友希那の事が好き、ねぇ』
『違うって言っただろ』
『あんな反応見せられたら信じられないよねぇ~』
否定しているのにそう言ってくるのもそうだが、何処か納得している自分が何よりも。あんなやつのことが好きでたまるか。頭が悪くて、甘党で、猫が好きで歌が上手なだけのあいつのことを。
「……新庄君?」
後ろから声をかけられる。声だけでわかる。それは今一番会いたくなくて、一番会いたかった人物。ほぼ反射的に振り向くとやはりというべきか、そこには湊が立っていた。
その姿を見るだけで、声が聞こえただけで何故だか心臓の鼓動が速まってきた。その癖不快感は存在しないのはいつもの通り。眠気があるのも相まってか頭が働かない。
靄はいつの間にか濃くなって。
「……何か用か?」
「いえ、ただ見かけたから声をかけただけよ」
湊と会話すること一言二言、それだけして湊はこの場を去ろうとする。
じゃあなと答えることも出来ず、手を振ることさえ出来ずに足も動かせない。引き留めることも突き放すこともできなくて、俺はただ見送ることしか出来なかった。
高鳴り。胸のあたりに手を置いた。ああ、さっさと沈んでくれはしないだろうか。押し潰すように、握りつぶすように、手に力を込めていた。
川沿いを歩いているので色々な音がする。水の音、他の人の歩く音。話し声や犬の鳴き声など。そのお陰か心臓の鳴りも収まってきて眠気もうっすらと消えかけてきた。手すりに手をかけ目を瞑る。
こんな経験はない。誰かを嫌いになったことはあれど好きになったことなんてない。
これが本当に好きという感情なのか、異性に対しての好きというのはこういうものなのか。何もかもがわからない。
わからないけど……
「……そういう感じの本、家にあったっけか」
なんでもは知らない。知らないことは知らなくて、知っていることしか知らない。当たり前であることだけれど、一を知れば十や百までいかずとも二や三程度は知れるものだ。
ならばこの感情が一体何なのか、本当に嫌いなのかどうなのか、徹底的に調べ尽くしてみるのもいいだろう。
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ありえないこと
わからない、どれだけ悩まされてもわからない。
好きとはなんなのか。そのような本は探してみたが家にはなく、ネットで調べようにもよくわからないものばかり。
それならばそういった類いの本を買えばよいのだろうが、まだどこか自分の中で認めたくない部分があってなのか買いに行こうとはなれなかった。
「……燐子さんは持ってんのかな」
延期となっていた食事の話、いつにしましょうかと話し合った結果が今日だ。昨日そういえばと思い出して慌ててしまっていた。
女の人と会うなど……最近は不思議と多いな。だとしても慣れていない事はたしか。
まぁ回数が多いとはいえ今回は今までとは全く違う。今までは偶々出会ってというものだが、今回は事前に決めておいて向かうというものだ。きっと、これは天と地ほどの差があって。
時間はどれくらい早く着いていればなんてこともわからない。決めたのだからその通りに、なんてほど単純なものではないだろう。
どうせならこういうのもリサに聞いておけばよかったなと思いつつも予定の10分前に到着、流石にこれなら問題ないはずだ。まぁ予定より早くついているのに問題があるとするならばそれはなんともおかしい話なのだが。
まだ充分に早いし燐子さんは来てないだろう、そう思いつつも一応ということで辺りを見回す。待つにしても10分程度どうということもないと思っていたのだが、予想外にも店の近くに燐子さんは既にいた。
「どれくらい待ってたんですか?」
「い、今丁度来たところ……です」
視線をそらしながらそう言われる。彼女が手に持っているペットボトルの水が残り少なくなっているのを見て、嘘だなとわかってしまう。
いくら外が温かくなってきているとはいえ長時間待つのは辛いだろうに。そうは思いつつも時間よりそこまで待ってはいないだろうと区切りをつけ、店に入り席につく。飲み物なんて、飲みかけを持ち歩く人だっているだろう。
しかし不思議だ、これもある程度考えてみたがわかりそうにない。どうして燐子さんは俺と飯などに来たのだろうか?
勿論嫌というわけではない。単純にわからない、理由がないのだ。俺にも、彼女にも。
前々からこの店が気になっていて複数品食べてみたいからというのなら納得はいくが、それなら別に俺ではなくあこちゃんと来ればいい。
それならばあこちゃんが用事でもあるのかと思ったが、それならリサだっていいわけだし、わざわざ日を延期したのにということはそれもない。いったいなんなのだろう。
まぁこんなにあれこれ考えていようと嫌ではないのだしどうでもいい。もしかしたら俺が男で胃袋がでかいから、なんて本当に下らないものなのかもしれないけれど。
「あの……新庄さんは……どれにしますか?」
「え、あー……じゃあおすすめって書いてあるのでこれにします」
思考を遮られるかのようにそう聞かれる。席についてしばらくが経ち、メニューを眺めながら考えていたせいで既に決められたと思われてしまったのだろうか。
とりあえずおすすめと書いてあった物を頼むと伝えたが燐子さんは一向に店員を呼ぶ気配がない。
もしかしてまだ決まってないのかなと思ったものの、なんだか困ったように店員の方を眺めていた。どうしたのだろうと思ったがその原因はとても単純なもので。
最近にしては珍しく店員を呼び出すボタンのようなものがない。彼女は自らのことを人見知りと言っていたしこういったものはやはり苦手なのだろう。すいませんと声をあげれば近くにいた店員が俺たちの席にきた。
「俺はこれで、燐子さんは?」
「あ……わ、私はこれで……お願いします」
頼み終わってみたが会話がない。静かなままが悪いというわけではないが、折角の機会でなにも話さないというのもあれだ。
燐子さんもその事について迷っているのか下を向きながらもチラチラとこちらの方を見てきている。さてどうしたものかと考えているうちに飲み物が運ばれてきた。
どうして俺なんかと飯にきたのか、一番気になることはそれなのだが、やはりそれをいきなり聞いてしまうのは感じが悪いだろう。
はてさて何を話したものか。珈琲を飲みながら思案してそういえばこれがあったなと思い出したので口にする。
「この前の本どうでしたか?」
「凄く……面白かったです。私のは……どうでしたか?」
「そっちも凄く面白かったです」
こちらが貸したのはこの前貸したミステリー小説の続き、それもあってか燐子さんから渡されたのもミステリー小説。
このジャンルで面白そうな物は読みつくしたと思ったのだがやはり本の数は星の数とでも言うべきか、とても面白い上に今まで読んだことがない物だった。
「今日も……別の本を持ってきました」
「あ、ごめんなさい。この前の借りたやつ持ってくるの忘れちゃって……」
「い、いえ……今度返して貰えれば……大丈夫です」
そう言って燐子さんは鞄から本を取り出し俺に渡してくる。今回も同じくミステリー物、実は恋愛小説を借りたいんですがなんて申し訳なさあり、恥ずかしさもありで言える筈もなくその本を受け取った。
この本に恋愛要素でもあればいいのだが。そう思いながら本を眺めていると少し不安げな声で話しかけられた。
「もしかして……もう読んだこと……ありましたか?」
「いえ、これも初めてです」
「そ、そう……ですか。よかったぁ……」
ほっとしたかのような表情を浮かべられたところで料理が運ばれてくる。会話は一旦途切れ、俺達はそれを食べることにした。
燐子さんの方に運ばれたものはかなり少なく見えるがそれで足りるのだろうか、そう思った理由は考えないでおこう。俺は意識的に視線を上げた。
「今日は……ありがとうございました」
「感謝されることじゃないですよ」
「い、いえ……わざわざ時間を作って貰ったので」
強制されたわけではない、何かしら手助けしたわけでもない。であれば感謝なんてされることでもない。
むしろ本を返し忘れてしまった上にこちらは貸して貰ったのだ、感謝するならこちらからの方が正しいだろう。
「あ、あの……」
聞きづらいことを聞くかのように視線を落とし手を胸に当てながら声をかけられる。
なんですかと聞き返すと発されたその言葉は、何だか期待が込められているかのような気がした。
「新庄さんは……ピアノってまだ……やってるんですか?」
息が詰まる。どうしてそれをなんて思ったのは一瞬のこと。こちらが燐子さんの音に聞き覚えがあるのだ、その逆もあって然りだろう。
しかし何故それを聞いてきたのか、それがわからない。
声が枯れそうになりながらも絞るかのようにして聞き返した。
「……湊から……聞いてないんですか?」
そう聞くと察したかのような表情を浮かべた後目を伏せられる。なぜ聞いてきたのか、単純に自分もピアノをやっているから聞いてみた、そうではないだろう。だとするならばこのような表情をされる理由にならない。
であれば何故か。それが……あの時の約束というのに関係するものだからなのだろうか。
燐子さんと目が合う。どこか寂しそうな表情を浮かべそれ以上何も聞いてこない。
居心地が悪い。頭を何度か掻いた後それじゃあと言い残しその場を去ろうとすると、少し大きな声で呼び止められた。
「また誘って……いいですか?」
「……大丈夫ですよ」
何故、どうして、何もかもがわからない。
あの時の約束とは一体何なのだろう、何故燐子さんは俺を誘ったのか、誘うのか。
少し離れてから振り返ると燐子さんもその場を離れ始めた。
帰り道、イヤホンを付け様々な事を考えながら歩いていると唐突に肩を叩かれた。
一体誰だと思い振り向けば、そこにはまるで自分は何もしていませんよと言わんばかりに両手を顔の位置まで上げ笑顔を向けてくるリサがいた。
「……なにか用か?」
「別に、偶々見つけたからさ」
「なら俺は帰る」
「いーじゃんちょっとくらい」
歩みは止めないがリサは俺の隣を付いてくる。どうせ録でもない話、下らない話だ、それに長い話でもないだろう。
「で、どうなの?」
「……どうもこうもねぇよ」
どうなのと聞かれてもエスパーではないしなんのことかわかる筈もない。なんてことはなく、ニヤニヤとしたその表情がそれが何に対してのものなのか全て教えてくる。
「まだ認めてないんだ」
「……そういう本は持ってねぇからわかんねぇんだよ」
「ふ~ん。なら今度アタシが貸して上げるよ」
とびっきりのおすすめのやつをね、そう付け足され一瞬足が止まる。求めていた物、しかしこう易々と手に入るとなると戸惑ってしまう。
でもなんだか断りたさが。そう思ったのはこの気持ちがなんなのかわかってしまいそうだから。理由は多分、それだけだと思う。
「……随分と協力的なんだな」
「蒼音にも色々手伝って貰ってるからね。ほら、貰いっぱなしってなんか嫌じゃない?」
「……どうせお前は誰にでもそうなんだろうけどな」
湊関連だからなのか、それともこいつが誰にでもこうなのか。それが後者であるのだろうというのはなんとなしにわからされる。
「今度ご飯にでも誘っちゃいなよ」
まるで確信しているかのような物言い。否定もせず、だが受け入れることも出来ない。
しかしそこで一つ、あることが頭によぎるが直ぐ様それを否定する。そんなのありえない、俺が湊を好きだという可能性以上に。
「そういうもんなのか?」
「何のこと?」
「……いや、なんでもねぇ」
ご飯にでも誘ってみろ。したことはない、でもされたことはある。
ああ、それはありえない。そう、こんな風に誰かを好きなんじゃないかと迷わされているから、考えさせられているからこそこんな風に考えさせられるんだ。
これは思い上がりだ。思春期らしい、馬鹿みたいな男の勘違いだ。
燐子さんが俺の事を好きなんじゃないかなんて……
リサと別れ家に向かうその間、家についたにも関わらずそんなことはないとわかっていようとも、頭の中はそれでいっぱいだった。
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好きってなんだろう
好きってなんだろう。ふとそう思わされたのは何故だろう。
単純に自らがそれについてわからなくて、そうであるかのような感覚を覚えたからだろうか。それともそういったものを、誰かから向けられたと思ってしまったからだろうか。
「……ありえねぇよな」
日が沈み、うっすらとした雲に覆われながらも月はそんなもの関係ないと自らの存在を見せつけてきている。
否定して、そんなことはないと言い聞かせて、わかっているにも関わらずこんなにも考えさせられる。
カーテンを閉じ布団をかける。ああ、こう思われても向こうからしたら厄介極まりないし気色が悪いだけ、勘違いなんてものはされるだけで気持ち悪いものだ。
そうわかっていれど考えることをやめることは出来なくてため息一つ、部屋は明かりがほぼなく暗くなっている。しかしそれでも目を閉じて、手で覆って。
風邪でも引いたのか知らないが思考が収まる気配がない。寝てしまえばいいと思ったがそんな状態で眠れる筈もなくて。
好きってなんだろう。俺が湊に対して抱いているこれはそうなのか、燐子さんが俺に向けているのはそれなのか。
はたして俺がピアノに対して向けている気持ちは……本当に嫌いという感情なのか。
思考をやめようと考えてもその考えがある時点でどうしようもない。少しの頭痛を感じながらも頭の中ではピアノの音が流れ続けていた。
昨日の夜はよく眠れなかった。だからといってバイトは休むわけにはいかないので気合いで乗りきったのだが、こういう日に限って人が来るのは何故なのだろう。
しかし忙しいのも悪くはない。お陰様で頭の中からピアノの音は抜けきってくれたし二人の事を考えることもなかった。それに眠気も既に薄れてくれたし。
店から出れば日差しが肌を突き刺してくる。正午はとっくに過ぎているというのに元気なものだ、雲一つない空を見上げながらそう思う。
本を貸してあげるとリサに言われたものの昨日の今日で渡されるわけもなく、予定と言えるものは何一つとして存在しない。
帰って寝るか、それとも猫と戯れるか。どちらも魅力的ではあるが……本屋にでも寄るとしよう。
理由らしい理由はないが、パッと浮かんだそれ。あえて意味を付け足すならばどうせリサに貸してもらえるのだからとは思うものの、やはり自分でも少しくらい見ておいた方がいいなんて程度のもの。
まぁ、それを店員のところに持っていけるのかとなれば別の話だが。
「おや~? こんなところで奇遇ですね~」
さっそく本屋に向かおうと歩きだそうとしたところでそんな声をかけられる。
こんなゆったりとした口調の知り合いなんていただろうか、まだ曲の流れていないイヤホンを外し、そんなことを思いながら振り向くと二人の少女がいた。
「……リサの後輩か」
「モカちゃんって呼んでくれてもいいんですよ~?」
「モカ、知り合い?」
二人の内の一人はこの前リサと一緒にバイトをしていた女の子、どうやらモカというらしい。しかしもう一人は完全初対面。赤のメッシュが特徴的で俺の事についてモカに聞いていた。
「もち~。後リサさんとも仲がいいんだよ~」
「新庄蒼音です」
「……美竹蘭です」
どうやら二人は同じバンドのメンバーらしくこれから練習に向かうとのこと。
知り合いの知り合いなど気まずいだけだろうに。そんなことを考えながら、それなら早く行った方がいいだろと言ってその場を去ろうとしたがモカに呼び止められた。
「蒼音さんって~、音楽出来るんですよね?」
「……どこから聞いた、それ」
「リサさんが色々教わってるって言ってましたよ~」
余計な事を言ってくれた。別に言うなというわけではないけれど、あちらこちらに知れ渡ってほしいというわけでもない。昔から面倒事になりそうなことは嫌いなんだ。
「それで?」
「アタシ達来週の土曜にライブやるんですけど来ませんか~?」
「悪いがその日は予定ありだ、客が欲しいなら他を当たれ」
え~、と納得いかないようにモカは声を漏らす。教えてくれというものでないだけで、予定がなかったのなら行ってもいい。最も初対面に近い人間に教えを乞う人間などそうはいないだろうが。
まぁ何も予定があるというのは嘘ではない、その日は湊に誘われたRoseliaのライブがある。
元から約束していたものだから被せるわけにはいかない。それに……どちらを優先したいかと言われてもそちらだし。
「ちなみに~、予定ってなんなんですか~?」
「ちょっとモカ、聞く必要ないでしょ?」
「別にいいよ、隠す程の事でもないし」
Roseliaのライブがあるから。そう漏らした途端、面倒そうにしていた蘭ちゃんが食いぎみに俺に対して聞き返してきた。
「……それって、向こうの本屋の近くのライブハウスでですか?」
「そうだけど」
「お~、それならアタシ達と同じ場所だ~」
偶然というのは思わぬところで起きるらしい。まぁライブハウスが多いとはいえ被ることくらいあるだろう、そんなことを考えているうちに蘭ちゃんはモカの手を引っ張ってさっさとその場を離れていった。
モカが待ってよと訴えていたが蘭ちゃんは聞く耳を持たなかった。時間がまずくなったという可能性もあるが……Roseliaの話が出た途端だ、多分原因はそちらだろう。
理由はわからない。あの二人のバンドはRoseliaとライバル関係なのか、ただ蘭ちゃんが一方的にそう思っているだけなのか、俺は部外者だからわかるはずもない。
それに知る必要もない、気にはなるがそれだけだ。二人は何の楽器担当してんのかなと思ったが最後、俺はイヤホンをつけ本屋への歩みを再開した。
恋愛小説とは簡単に言ったものだがやはり王道とも言えるジャンル、その数ははかりしれない。それこそライトノベルとかまでにも広がってしまうしどれがいいかなんてわかる筈もなくて。
本のタイトルを見ながら偶に目に止まった物を手に取り元の場所に戻す。そんなことをしているだけで時間は一瞬にして過ぎ去っていく。
埒が明かないので今人気の恋愛小説は何かと検索し、出てきた本はどこにあるのかと探し回ってようやく見つけた。
今人気となればリサからそれが貸される可能性があるので見る必要だってないが、そう思いながら手を伸ばすとその本に向かって一つ、俺以外の手が伸びていた。
「あ、ごめんなさい」
「いえ、大丈夫で……」
その声は聞き覚えがあり、相手も同じなのか少し驚いたような表情をこちらに向けてきていた。
「新庄さんは……こういう本に興味、あるんですか?」
燐子さんの困惑した表情とゆったりとした服、普段気にしていないそんなところに意識が行ってしまう。だからこの問いにどう答えるか、そんなことも考えさせられてしまう。
興味があると答えてしまえばいい、今恋とは何なのかと迷っているから気になったと答えてもよい。でもそういうことを言うことは出来なくて。
「……リサから本を貸して貰うんで、知識として持っといた方がいいかなと思ったので」
嘘ではない、そうわかってはいるのに目をそらしてしまう。もしかしたら好かれているのではないのか、そんなことを考えさせられてしまっているから……昨日とは全く別、燐子さんを、意識してしまっている。
互いにそれ以上話すことはなく、しかしその場から離れることもなく。先ほどの本のことなど全く意識の外、視線をあちらこちらに彼女は向けている。
どうしたものか、居心地が悪いわけではないが空気は悪い。何かしら話すことがあれば、そう思いながら辺りを見回していると、奥の音楽雑誌コーナーに見覚えのある髪色。
もしやと思い少し身体を動かして全体を見てみれば、何の偶然か、そこには湊の姿があった。
驚きで一瞬体が止まる。離れているから確信はないが、音楽雑誌を立ち読みしているのでこちらには気づいていないと思う。もっとも、あの様子では隣にいたって気づきはしないだろうが。
急に一点を見つめたままの俺を不審げに思ったのかどうかしましたかと燐子さんは俺に声をかけ、後ろを振り向いた。
「あ、あの……この後お時間って……ありますか?」
「え……まぁ、あります」
「それなら、どこかに寄って……いきませんか?」
それを見た途端にそんなことを言ってきて、後ろの湊の方をチラチラと見ながら俺の答えを待っている。
ぞわぞわと背中を何かが昇ってくるかのような感じがした。虫が入ったわけではない、汗をかいたわけでもない、それは今まで感じたことのない不思議なもの。
了承すると燐子さんは俺に向けて先ほどの本を差し出してきたが、買わないので大丈夫ですと答えると、燐子さんは迷うかのようにその本を見つめた後レジに向かっていった。
「ほんと……なんなんだろうな」
この気持ちは、好きとは、恋とは、本当になんなのだろう。仮に俺が湊の事を好きだとしたら、今燐子さんに向けているこれはなんになるのか。
一人待っている間湊の方を見続ける。ほんとに音楽に真剣らしく飽きずに音楽雑誌を読み続けている。そんな姿から目を離せなくて……
「……新庄さん?」
「えっと、どこに行くとかあるんですか?」
「いえ、特には……決めてないですけれど……」
本を買い終えた燐子さんに声をかけられ湊から目をそらす。行きながら考えましょうと、彼女は逃げるようにその場を離れた。
本当に不思議だ。他の人になら気もかけないような些細な事が燐子さんに対してのみ気になってしまう。服や声、手に持つ鞄やその視線の動きにも。
それは……湊に対して感じたことがあっただろうか。そんなこと、向けていたとしても半ば無意識のためわかるはずもない。
ふと振り向くと、湊は丁度読み終わって帰ろうとしていたのか、こちらの方を向いていた。
チクりと、何かが胸に刺さったかのような気がした。それが何かはわからない、それが何故かもわからない。
湊から目を離し燐子さんと並んで外に出る。湊に対して抱いていた苛つきのようなものは感じない、だけど何か似ているようなこの感覚。
「どうか……しましたか?」
「……なんでもないです」
ああ、わからない。迷路か、推理か、難問か、ミステリーにででくるようなどれとも違う。
好きって、なんだろう。
そんな疑問が、いつまでも頭の中で暴れていた。
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羨ましかった
ライブというのはやはり緊張するものである。それが自分のものでないというのにこれ程考え込むものなのだ、当人達からしたらたまったものではないだろう。でもこの緊張は普段バイト先で行われているライブの時には感じない。
それは俺が店員ではなくただの客として観に来ているからなのか、今回行われるライブがRoseliaによるものだからなのか。信号が変わるのを待つ間そんなことを考えてしまう。
「来てくれたのね」
「……リハーサルはまだなのか?」
「もうすぐよ」
「他のメンバーは?」
「……時間に間に合えばそれでいいのよ」
それならば俺なんかと会話せずに少しでも早く行こうという心構えを持った方がいいだろうに。口には出さないがそんな事を思ってしまう。
「そういえばあなたは? まだ時間はあると思うのだけど……」
「……本屋に予定があってな」
家にいても落ち着けなくて、なんて言える筈もなくそれっぽい嘘をつく。そうと興味なさげに返事をされ、信号が変われば直ぐに歩き出す。
「一ついいかしら?」
しかし彼女は渡りきれば急に歩を止め、思い出したかのように振り返りそのように聞いてくる。一体何だと思いつつもその問いは一向にやってくる気配もない。
「なんだよ」
「…………いいえ、なんでもないわ」
一体何なのか、ライブハウスに着いてもそれについて話されることなく、それじゃと言う前に湊は中に入っていった。
一体何を聞こうとしていたのか。いいえと言うまでの間がかなり長かったしどうでもいいことということではないのだと思う。
気になるが気になった所で仕方がない。こういうのは一度答えてもらえなかったら二度と答えてもらえないものだ、気にするだけ無駄だろう。
本屋に行くかカフェに行くか少し迷ったが、暇な時間はあるとわかっていたので一昨日リサから借りた恋愛小説を持ってきている。それでも読むかと決めてカフェに入る。人目につく場で読むのは憚れるが、誰かに覗かれるということなどそうそうない。
恋愛というのは本当にわからない。好きとは何か、本に書いてある胸が痛いというのも、ドキドキするというのも、素直になれないというのも、それ以外のことも。
どれかを体感したことはあるのか、どれも体験したことがあるのか。思い出せないなんてこともないのだが……
本当に、好きってなんなのだろうか。ページを捲り、机の上を無造作に指で滑らせた。
わっ、と周りの人間は盛り上がる。ライブが始まりバンドが変わる度に盛り上がりは右肩上がりで、これからもまだまだ盛り上がっていくだろうというのは簡単に予想させられる。
では俺は盛り上がっていないのかと言われたらそれはまた別の話だ。音を聴いていたらそこは違うのでは、なんて思ってしまうのはとても勿体無いことだと周りを見回せばわからされる。
だとしても全てのバンドにどこか惹かれるものがあった。心に響くとは違う、感動させられるというのでもない。それが何かわからないまま次のバンドに。
『続いてはAfterglowの皆さんです!』
そういってステージに登ったメンバーの中にモカと蘭ちゃんが見えた。集中している様子がよくわかる。目配せをして、全員が頷くと同時に演奏が始まる。
Afterglowの演奏は今までのバンドに比べて、より一層目が離せなかった。音がどうとか、そういうものではない。全てのバンドにあった何か惹かれるもの、それが一際強く感じさせられて。
これはこの前のRoseliaのライブの時に感じたものと同じ。目を瞑れなくて、イラつきを覚えて……自分の中で何かが溢れて飛び出していきそうになる。
一体何なのか、少しもわからない。いずれ来るであろうRoseliaの演奏を見ればこれは何なのかわかるのだろうか。それともわからずじまいなのか。
蘭ちゃんの歌は上手い。それこそ今までのバンドの中では一番ではないかと思ってしまう程に。
この前湊の名前を出し、同じライブハウスでライブをするとわかった時蘭ちゃんは少し焦るように練習に向かっていた。
蘭ちゃんもギター付きとはいえボーカル。同じボーカル同士、多分ライバル関係みたいなものを蘭ちゃんは湊に向けて抱いているのだと思う。
目を細める。視界が薄らと白く染まる。眩しいな、少し。
そんな事を考えていたら次で最後の曲になってしまった。見落としてはいない、聞き逃してもいない、それでも時間は早く感じさせられた。
相も変わらずその演奏からは、目を離す事が出来なかった。
Afterglowの演奏が終わるとRoseliaの名前が呼ばれ、湊達がステージに上がった瞬間盛り上がりは更に苛烈になる。
胸が痛い。ああ、これはなんだろう。物理的ではない、なんだか締め付けられているかのような、そんな不思議な感覚を感じさせられる。あいつらは人気なのか、そんなことすら考えることが出来なくて。
頭も沸騰しそうなくらい熱くなっていて、今すぐにでも前に進みステージの近くに行きたくなってしまっている。
一歩、目の前の人に当たらないようにと歩を進めようとしたその瞬間に足が止まった。
まるで金縛りにあったかのように動かない、体が欠片も動かない。何かあったわけではない、演奏が始まると同時にそんな現象に襲われた。
それだけではない、不思議と喉が渇く。胸も頭も先程より熱くなり、それによって蒸発させられているかのようで。唾も脳髄も、消えて燃えて亡者になりそうだ。
何故だろう、ステージの上のRoseliaと俺との距離がとても遠くに感じられる。現実的な距離でいえばそう遠くはない。そのはずなのにとても遠く、違う世界にいるかのような遠さ。
鳥肌が立ってきている。どこまでも素晴らしい演奏で……
楽しそうな表情、奏でられる音、その全てが俺を魅了して離さない。
まるで餌を篭の前に置かれた鳥のよう。焦がれ、求め、手を伸ばす。しかしそれは手に入れることは出来ず、ただただ眺めることしか。
あぁ、どうして俺は……
──あのステージに、立っていないのだろう。
そう思った瞬間、全身に冷水をかけられたかのようなものを覚えた。熱くなっていた思考はピタリと止まり、しかし体は動かせないままで。
なぜそんなことを思うのか。湊の誘いを断ったのは誰でもない俺自身。そして断った理由はピアノのことが嫌いだから。
ならばこんなこと思うはずもない。本当にそうであるならば微塵たりとも思ってはいけないはずなのに。
「すごいね」
「うん、私達もあんな風に演奏できるのかな……」
演奏間に斜め後ろから小さくそんな声が聞こえてきたので顔を向けてみる。二人の視線はRoseliaに釘付けで俺に見られていることを気づいていない。
その二人もバンドでも組んでいるのか、それともこれから結成するのか。普段考えるとするならばそんなとこだが今回は別のところに目がついた。
その二人組の目は、憧れているかのような目をしていた。夢見る子供、まるでそんな風に感じ取らされる。
最後の曲が始まった。俺もステージに視線を戻すと、楽しそうに演奏をするRoseliaのメンバーの表情を見て気づく。
どうしてこんな風になっていたのか、何故こんな風に考えさせられるのか。その全て簡単で、単純なもので。
あぁ、俺は…………
楽しそうに演奏するやつらが、羨ましかったんだ。
「私達の演奏、どうだったかしら?」
その言葉で遠くに行っていた意識が戻ってくる。そう問いかけてくる湊の後ろにはRoseliaとAfterglowのメンバー揃い踏み、バンド間の仲はいい方なのだろうか。
「……よかったよ、凄くな」
「そうじゃなくて、もっと具体的に言ってくれないかしら?」
「感想ですか~? それならアタシ達にもお願いしま~す」
「ちょっと待ってください」
そう会話に割り込んできたのはRoseliaのギターの人、名前は……なんだっけか。
「湊さんは彼の事を評価しているみたいですが私は彼の事を知りません。そんな人から具体的にと言われましても……」
「アタシも、腕前もわからない人から言われても納得出来ないと思う」
彼女と蘭ちゃんの意見は至極真っ当であり俺もそうだと思う。
初心者ならばいざ知らず、腕前のある人間からすれば上手さもわからない人間からの意見など、相当切羽詰まってでもいない限り寧ろ邪魔にしかならない。
根本的なものであれば本人達も気づいているだろうし、細かいところは意見した側が間違っている可能性もある。それこそ個々の好みであるものかもしれない。
しかして腕前がわからないと言われてもどうしようもない。そう思っていたらモカがポン、と手を叩く。
「蒼音さんが演奏すればわかるんじゃないんですか~?」
名案を思い浮かんでしまったと口には出さないが、モカはわかりやすくそんな表情を俺に向け、それに続いて湊を覗いた全員の視線が俺に向かってくる。
「その……新庄君は……」
「それでいいなら。と言ってもどこでやるんだ?」
そう言うと湊は驚いたかのような視線をこちらに向けてくる。それを見てかリサも、燐子さんも不思議そうな視線を向けてくる。
それも当然か、今まであれほどピアノは嫌いだと言って誘いも蹴っていたのだ、頭でも打ったのかと心配されてもおかしくない。しかしそんな事はどうでもいい。
「う~む、ここを使うわけにはいきませんし~……どうしますか~?」
「それならここの近くで路上ライブしてる人をこの前見たぞ、時間的にも丁度いいんじゃないか?」
「さ、流石に路上ライブをしてもらうのは……」
「俺はそれでも……とは言ってもピアノがないと話にならないんだけど……」
「そ、それなら……私ので……大丈夫でしょうか?」
存在した二つの問題、まず場所に関してだがこんな突然の提案なのだ、許可を取っているはずもない。しかし路上ライブ程度初犯なら注意される程度で収まるだろう。赤髪の人の提案を受けることにした。
そして次の問題であるキーボードの確保、これも燐子さんの助けで無事解決した。
他にもピアノとキーボードの違いなどはあるのだが……二年程やってないのだ、それに比べれば微々たる物だろう。
「それじゃ片付けが終わったらね、すぐに終わるから待ってて」
リサがそう言うと湊と燐子さんを除いた全員がこの場を離れていった。目を険しくさせ湊は俺に聞いてくる。
「……どういう風のふきまわしかしら?」
「さぁ、酔っ払ったのかもしれないな」
それだけ言うと湊も控え室に向かっていき、燐子さんもその後に続く。
嫌いだ、嫌いじゃない。好きじゃない、好きだ。別々のものが混ざりあってどれがどれかもわからない。そんな状態だというのに頭はとてもすっきりしている。
外に出てベンチに座り赤色に染まる空を見上げる。空は雲一つなく、晴れ渡っていた。
案内されてやってきたのは駅から少し離れた場所。確かにここなら雑音は少ないので路上ライブをするなら理にかなってはいるのだろう。
ただ駅への道ということもあり人通りは多い、邪魔にならないところを探し演奏の準備をする。
「ごめんなさい、こんなことに協力してもらって」
「い、いえ……本当に大丈夫……です」
周りを見れば同じく路上ライブをしている人がちらほらと目に入る。
準備が完了し鍵盤に指を置くと指が震える。緊張からか、武者震いとでもいうやつか、それとも弾くなと心の片隅が叫んでいるからなのか。
息を大きく吸い、昔演奏を始める前にやっていたように指を動かしてみると震えはパッと収まった。
「……さて、何を弾けばいいのかな?」
「新庄さんの好きなもので大丈夫です。楽譜もありませんし」
「わかりました」
ギターの人、来る途中でリサから教えてもらったが紗夜というらしい。彼女からなんでもいいと言われたので一番弾きなれた曲を思い浮かべる。
ここは色々な音が聴こえてくる。人の歩く音、他のバンドの演奏、ペットの鳴き声。だけど、いつも聴こえていた母親のピアノの音は聴こえない。
鍵盤を指でなぞり、また一つ深呼吸をして、演奏を始めた。
あぁ、これだ。なくしたピースを見つけた感じがする、そしてそれがピタリとはまったような。指が勝手に動く、頭が真っ白になっていく。
真っ白になったものをある一つの感情が埋め尽くしてくる。楽しい、頭の中はそれ一色。あぁ、結局俺はピアノのことが……大好きなんだ。
「うっそ……」
「これは……」
声は邪魔だ、視界は邪魔だ、自分の世界に入り込む。もうピアノの音しか聴こえてこない、そしてそれは俺の奏でているもので。
音が皮膚から体の中に入ってくる、自分の血であるかのように身体中を駆け巡る。最高だ。終わらせたくない、ずっとこうしていたい。
そうは願うもののどんなものにも終わりはある。たった一曲、それだけなのに名残惜しさを感じながら演奏を終えた。
「蒼音さんすっご~い!」
「……まさか、これほどとは」
「これは流石のモカちゃんも驚きを隠せませんな~」
顔を上げるとそんな声が拍手と一斉に聞こえてくる。見回せばその中には知らない人もちらほらと。あぁ、そういえばここは路上だった。
わからない、どんな顔をすればいいのかが。大勢の前での演奏なんて数えきれないほどやった、それからの拍手も体に染み付くほど受けた。
だというのになんだか恥ずかしくなって、そして自分の意思でピアノを弾いたという事実を改めて感じさせられ、下を向いてしまった。
本当にこれでいいのか、ピアノが好きだと認めてしまっていいのか。もし認めてしまったのなら俺は、父親になんて顔をすればいいのだろう。
今ならこれも気の迷いと誤魔化せるかもしれない、そんなことを思いながら俯いたまま止まない拍手を受けていると、突如左手に痛みが走った。
「次、やるわよ」
「は?」
「観客からの期待には答えるべきでしょ?」
前を向くともう一回、そんな声が聴こえてきた。アンプがないのだから聴こえづらいだろうに、もちろん褒められているのだから悪い気はしない。
恐らく軽くではあるがつねられたのであろう左腕、未だにヒリヒリはするが……前を向ける力は貰えた。
しかしやるわよとは一体、まさかとは思うが……こいつも歌うつもりか? ここにはマイクなんてものはないというのに。
「お前もやるつもりか?」
「当然、嫌とは言わせないわよ」
「マイクあんのか?」
「声量には自信があるわ。曲は……そうね、あなたと会った時ので大丈夫かしら?」
初めて会った時の曲、忘れるはずもない。それは今日のライブでも聴いたもの。早速演奏を、と思ったところでリサの声が割って入る。
「友希那、蒼音はやったことないんだよ? いきなり合わせるなんて出来るわけ……」
「大丈夫よ」
リサと燐子さんが声を漏らす。Afterglowの人達も紗夜にあこちゃんも不思議そうな表情を向けている。そしてなにも知らない客たちは演奏をいまかいまかと待っている。
「あなたなら出来るでしょう?」
そう言うと俺の返事を待つこともなく、いつも通りの表情でこいつは前を向く。それとは正反対に不安そうな表情をリサと燐子さんから向けられる。
楽譜などない、だけど頭の中には存在する。あってるも間違ってるもない、もとより正解などないのだ、俺だけの楽譜がある。
フレーズと音を知っているのだ。そんなもの、どうにでもなる。
初めて聴いた時、こんな風だろうと決めつけた。
今日のライブ、ハッキリと輪郭を知ることができた。
ならば弾けない道理はない。目を瞑り、思い出しながら演奏を始めた。
俺と湊の音が交わる。あぁ、やはり演奏は楽しい。先程浮かんだ悩みなんて一瞬にして消え去った。父親なんて関係ない、母親なんて関係ない。
俺
ふと前を向くと前で湊が歌っている。後ろからというのもありどんな顔をしているのかはわからない、がどこか楽しそうというのはわからされる。
締め付けられるように胸が痛む、ドキドキするというのはこういうことだろう。
ピアノは好きだ。そう素直になれたから、ようやく認められたのかもしれない。
もうやめだ、自分に嘘はつくことは。ピアノが嫌いと言い続けて拘ったからといって生まれ変われる訳でもない。
だからこの感情も、どんな否定をしようとそれが事実。それなら……全部引きずってやろう。
俺は、湊の事が好きだ。
その日の演奏は多分これから先、一生忘れることは出来ないだろう。そう、思わされた。
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変わる時
久し振りに聴いた新庄さんの演奏は一日経った今でも頭の中に刻まれている。最初に聴いた曲は彼がコンクールでよく弾いていた曲でどこか懐かしい、そんな感じがした。
そして次に彼が弾いた曲は、私達の曲。友希那さんの歌声と一緒に聴こえてきたその曲はその日私が弾いたものと同じだけど全く違うものだった。
当然と言えば当然、新庄さんはその曲について全く知らないのだから。そもそもそれは私達の曲なのだから正解なんてものはハッキリとしていない。私のだって何度も工夫し、変えた結果できたものなのだから。
「──」
雑音が聴こえてくる。私は新庄さんの演奏を聴いてただただ圧倒された。
あの時聴こえてきた演奏を記憶のままに指に落とす。違う、こうじゃなくて、こう。あの時の演奏以外に頭に浮かぶものを振り払うかのように演奏を続ける。
ああ、邪魔だ。頭の中に浮かんでくるあの光景が邪魔だ。彼の笑顔が、友希那さんに向けて浮かべていたあの顔が浮かんでくる。
どう思っているのだろう、どんな関係なのだろう。振り払いたいのに、そうしようとすればするほど絡み付くように頭の中で根を張り出して、指に絡み付いて鈍らせてくる。
それを払い落とすため、もう一度初めからやろうとしたところで手が止まる。真っ暗闇にキーボード、自分の腕しか映っていなかった視界が広がっていく。
左手を見ればそこには私以外の手が。小さな手、誰のものなのかなどわかりきっていて、釣り上げられるかのように意識が浮上する。
「りんりん、もう時間過ぎてるよ?」
「それにしても燐子は凄いね、話しかけても気づかないなんて」
「ご、ごめんなさい……」
「いやいや、責めてるわけじゃないって。ほら、もう片付け入ってるよ?」
Roseliaの練習中だったのに自分の世界に入り込んでしまった。勿論悪いことなどないのだが時間を守れないとなるといいことではないと思う。
若干の反省をしながら片付けを始める。その最中に浮かぶのも先程と同じ、ついついため息が漏れてしまう。
「りんり~ん、今日の夜NFO出来る?」
「うん、大丈夫だよ」
やった~と喜ぶあこちゃんを横目に友希那さんの方を見る。綺麗、本当に私なんかとは大違い。
彼が友希那さんに向けたあの笑みの意味、ただ演奏が楽しくて漏れ出たものならいい。でもそうでないなら、あれが友希那さんだから出たものなら……
「そういえば湊さん、新庄さんはなんと仰っていたんですか?」
「新庄君? 何も聞いていないけれども……」
「そうですか、感想を求めていましたしメールか何かで既に聞いているものかと」
氷川さんの聞いている事は私も気になっていたこと。新庄さんは私の演奏に対してなんと思っているのか、気になって気になって夜も眠れなかった。
そんなになるならば連絡先も交換しているのだし、自分で聞けばよかったと今になれば思うものの昨日の時点では思い付かなかった。
ただ、思い付いたからといって聞けるかと言われたらそれはまた別の話。
「私は新庄君の連絡先を知らないわ。感想については今度会った時に聞こうと思っていたのだけど……」
片付けていた手が止まった。友希那さんは新庄さんの連絡先を知らない、聞き間違いでなければ確かにそう言った。嘘だと疑う反面喜んでいる自分がいる。
友希那さんが新庄さんの連絡先を知らないこと、私が知っているのに友希那さんが知らないこと。
友希那さんが、新庄さんが、互いの事を好きなのではないか。その可能性がほんの少しでも、揺らいだことを何よりも。
「なるほど、あれほどの演奏が出来る人からの感想を貰える機会はそうないと思ったのですが……」
「リサは確か知っているわよね?」
「知ってはいるけど……燐子、お願いできる?」
「え……わ、私……ですか?」
「そーそー、アタシからだとちゃんと見てくれるかもわからないしね~」
氷川さんと友希那さんから見えないようにこちらを向いてウインクを一つする今井さん。
今井さんからだと新庄さんは見ないかもしれない、そんなことは絶対ないだろうにそんなことを言ったのは……私のため。
「わかり……ました……」
「……燐子も新庄君の連絡先を知っているのかしら?」
「はい……本の貸し借りとか色々……便利なので」
「…………そう、ならお願いするわ」
暫くの沈黙の後、そう言って友希那さんは出ていった。今井さんもお願いねと私に念を押してから友希那さんを追っていった。
今日の天気は雨、それもとても強いもの。じめじめとしたものだけど不思議と気分は悪くない。雨の音が少しだけ心地よく感じられた。
「……どうしよう」
家に帰って数時間、なんと送ろうか迷い続けて決まっていない。いつも文であれば一瞬で送れるというのに新庄さんが相手の時だけはこんなにも緊張してしまう。
お母さんもお父さんも今日と明日は忙しいというので家には一人、そんなだからベッドに座り込んでずっと考えている。
書いては消して、消しては考え、考えては書き、消す。呆れてその回数すら数えなくなった時突然電話がかかってきた。
びくりとしてつい声が漏れ、相手の名前を見れば新庄さんの名がかかれている。それにより更に驚き一体何故と考え電話に出られない。
しかしだからといって待たせるわけにもいかない。わかってはいるが緊張が収まる様子はなくて一つ深呼吸、それでもスマホを持つ手が震えてしまう。
「も、もしもし……」
声も震える。どうして、理由なんて思い付かない。あれこれと思考を回して、回しすぎて、頭が真っ白に塗りつぶされる。
心臓は向こうに届いてしまうのではないかと思うほどに高鳴って、胸に手を当てて落ち着かせようと試みるが効果はなくて。
『リサから燐子さんから連絡がなければ電話してあげてと言われたんですけれど……何かありましたか?』
「……はぁ」
『……どうかしましたか?』
「い、いえ、なんでもないです……」
無意識のうちに溜め息が漏れてしまった。彼が連絡をかけてくれたのは今井さんが言ったから、ただそれだけの事実によって熱されていた思考が冷めてくる。
別に私に用があるわけでもない、話したいことがあるわけでもない。そう落ち込みはするとはいえ何も話さないというわけにはいかない。
幸い話題になり得るものはある、というよりも聞かなくてはいけないことがある。
「私達の演奏の感想……気になってまして」
『あー、そういえば伝えられてなかったですね』
全体として個人としてアドバイスとも取れるような感想。忘れないようにと近くにあった紙に書き、そしてその言葉を頭の中でもう一度確かめてみる。
必ずしもそれら全てが正解というわけではない。そういう考えもあるというだけのものなのだが、それらには納得できるだけの何かがある。
私達がうすらと感じていたことも、全く気づいていなかったことも。彼が上手だからと知っていなくても考えさせられるかのような。
『……こんな感じですかね』
「ありがとう……ございました」
『いえ、大したことではないですよ』
それじゃあ切りますね、彼がそういった瞬間私は待ってくださいと言っていた。どうしたんですかと聞いてくるその声以上に私の方が困惑している、なぜ私は呼び止めたのだろう。
沈黙が痛いくらいに感じられる、喉は渇いて既にカラカラになっている。聞くなと頭は訴えてくる、聞けと心は囁いてくる。
吐き出してしまいそうな程の緊張、ライブやコンクールで感じるそれと同じ、でも全く違うもので。
何度か深呼吸。暴れまわる心臓の鼓動が喧しい。
「新庄さんは……友希那さんのこと……どう思ってるん、ですか?」
聞いてしまった。求める答えは一つ、だけど今度は新庄さんが何も話さなくなる。私と同じく気持ちを落ち着けている最中なのか、それとも私の言うことが理解できないのか。
やっぱりなんでもないですと切り上げてしまいたい。だけど聞いたのは自分だから、やっと聞けたことだから、込み上げてくる酸っぱさを抑えながらただ待っていた。
中々答えないのは私の気持ちをわかっているからか、それとも恥ずかしいからなのか。彼は大きく息を吐いて、言った。
『湊の事は……好き、です』
たった二文字、ただそれだけの物なのにそれは、今まで受けたどの言葉よりも衝撃的だった。
込み上げていた酸っぱさも、心臓の鼓動もだんだんと収まっていく。だけど胸の痛みだけは、形を変えて残っていた。
弾けそうなものは突き刺すようなものに、焼き尽くされてしまいそうなものは凍えてしまうかのように。それだけは全く収まる気配もなく、私を蝕んでいる。
「……突然こんな事聞いてしまって……ごめんなさい」
『…………』
「また……お薦めの本……貸しますね」
そう言って通話を切ると同時、糸が切れたかのようにベットに仰向けで倒れ込んだ。お風呂は入ったけれど晩御飯はまだ、なのに食欲は少しもない。
ああ、なんだか笑えてきた。勝手に期待して、勝手に落ち込んでいる。自分では何一つきっかけを作れないというのに僅かな可能性には期待をしてしまう。
ああ、本当に……
「馬鹿みたい……」
スマホがまた連絡を知らせてくるが今は誰が相手だと確認する気も起きない。電源を消し、部屋の電気も消し、そのまま目を瞑り寝る体勢になる。
本当に馬鹿みたい。新庄さんからすれば私なんて、それこそなんだってないのだろう。もし彼と出会ったあの時にこの思いを伝えていれば、ずっと前に伝えられていれば、この結果は別のものになっていたのだろうか。
なんて、どうしようもないことだとわかっていることを考え、心地よいと感じていた筈の雨の音に苛ついてしまう。雨漏りでもしてしまったか、ああいや違う。涙なんて出せなくて。
それもどうしようもないことだからと気にしないようにと意識をして、私は意識を闇に溶かしていった。
「白金さん、大丈夫ですか?」
「……あっ、大丈夫……です」
「朝から体調がすぐれていないように見えましたけれど……今日の練習はお休みにしますか?」
放課後、氷川さんからそう話しかけられる。結局昨日はあのまま寝てしまい、今日の朝も食欲はなかった。
熱があるわけではない。ただ昨日の事を未だに引きずっているだけ。
「えっと……」
「無理はよくないですよ。湊さんには私から伝えておきましょうか?」
練習が出来ないなんて状態でないことは自分が一番わかっている。大丈夫です、そう言うべきだともわかっていて、思っていた。
だけど友希那さんの名前が出たその瞬間、喉元まで上がっていたその言葉が唾と共に飲み込まれていった。意思に反する様に、まるでそれが本音であるかのように。
「……はい、お願い……します」
今日は、友希那さんには会いたくない。
大丈夫、今日だけだから。明日には何でもなくなってる。胸の底の暗いこれも、悲しみも、全部忘れていつも通りになることが出来る。
そう、別に何かされたわけじゃない。湊さんが、新庄さんが悪いわけではない。どうしようもないことで、そうわかっているからこそ。
今日だけは、練習を休むことにした。
帰宅後何もする気が起きなかったので無理矢理に寝て、目覚めた時には二つメッセージが届いていた。
一つはお母さん、帰れるのが遅くなりそうだから晩御飯は自分で食べておいてねというだけのもの。
二つ目はあこちゃんから。お大事にねという内容がとても長く、そしてあこちゃんらしく送られてきていた。
「お腹……すいちゃったな」
もう丸一日何も食べていない、お母さんから送られてきた晩御飯という文字が消え去っていた飢餓感を思い出させてきた。
自分で作ってもいいんだけど……めんどくさくてそんな気は起きない。コンビニで何か買ってしまおうと思い外に出る。
雨は朝の時点で止んでいたのだけどあれほど強かった雨、道路には水たまりが幾つか目に入る。下を向き、間違えて踏んでしまわないように気を付けて道を歩く。
そうしてコンビニに着いたところであることに気がつく、財布を持っていない。落としたわけではなく忘れてしまった。
そんな馬鹿なと一瞬思ったが制服のまま着替えず、何も持たずにやって来たのだから当然と言えば当然。寧ろ何故気がつかなかったのだろう。
……ああ、何故もどうしても、わかりきっていて。
仕方がない、めんどくさいけれど帰って自分で作ろう。そう思い家に帰ろうとしたところで声をかけられた。
「燐子さん?」
それに対して零れた声は、道行く車の音にかき消された。鼓動がゆっくりと速くなる。
顔を見ることが出来ないのは何故だろう。恥ずかしい、それが少なからずあるのは事実なのだけど昨日のこと、それが胸を締め付けて顔を下げさせる。
呼ばれただけ、それ以上は言葉一つない。だからといって互いにその場を離れるわけでもない。
車の音とコンビニから聞こえてくる音、それしか聞こえてくるものがない世界を破ったのは、私だった。
ただそれは、言葉ではなかったのだけど。
限界だったのか、お腹が鳴ってしまった。
こんなの漫画以外で聞いたことがないと思ってしまうほどのもの。もしかして聞こえてしまったのではないかと新庄さんの方を見ると、こちらから目を離し頬を掻いていた。
顔から火が出そうとはこのようなことか。急に熱が出たのかと思うほどに顔が熱くて、更に深く顔を沈めさせてしまう。
「あー……家近いんで、何か作りましょうか?」
その言葉に驚いたが私は頷いた。私の家だってそんな遠くない、私をどう思っているかわからないが新庄さんは湊さんの事が好き。それはもうわかったこと。
それだとしても、私は新庄さんの隣を歩いていった。
「こんなものですけど」
家に上がらせてもらい暫く待つとご飯を出される。待っている間は落ち着かなくて部屋中を見回してしまった。
広い部屋、そう感じたのは事実部屋が大きいからではあるのだけど、それ以上に部屋に物が少ないのが原因だと思う。
話を聞く限り新庄さんはバイト帰りで、家についたらピアノをしようと思っていたらしく晩御飯は予め作っていたらしい。
その料理は私が作るものよりとても美味しくて、少しだけへこんでしまったのは内緒だ。
「…………」
会話はやはりというべきかない。昨日あんなことを聞いてしまったから重い空気が互いの間に感じられる。
何か話せる事を、そう思案していたら洗い物をしている新庄さんから声をかけられた。
「昨日のあれですけど……その、そういうこと、ですか?」
少し恥ずかしそうな声、不思議そうな声。顔をこちらに向けずに聞いてくる。
そういうこととはどういうことか。なんて聞くまでもなくわかってしまう。伝わってしまい恥ずかしいともあれ、伝わって少し嬉しいというのもある。
……そして、伝わっているのにああ答えられたのだと、少しだけ寂しかったり。
でもここで私がはいとその二文字を言うだけで全てが終わる。そう、その二文字だけで好きだと伝える事ができる。
好きだと、真っ直ぐに伝えられれば私にも可能性があるかもしれない。
振り向かせて、私に興味を持ってくれるかもしれない。でも私なんかが、新庄さんの恋を邪魔していいのだろうか。
諦めて、邪魔をしない方が新庄さんにとって、いいはずだから。
いいえと言ってしまおうとしたその瞬間、昨日新庄さんに言われたアドバイスを思い出した。私の音はどこか遠慮をしているようだと。音の強弱ではなく、表現が弱いのだと、
他人を持ち上げるかのような、バンドとしては間違ってはいないけれどそれでももう少し、自分を出してもいいかもしれない。
多分それは音楽以外にも現れているのではなく、音楽以外でそうだから、演奏に現れてしまっている。
変えたいと願っていた、変わりたいと願っていた。それはいつかだったけど、今でなければ何の意味もない。
だから……
「はい……私は新庄さんが好き……です」
一糸纏わぬ本音。たった一つ、偽りのないこの思い。好きだと、恋をしているという気持ち。
後悔を残さない為だとかそんなものではない。私が望む、これがいいと思える結末の答えを掴むため。友希那さんは彼のことをどう思っているんだろう、なんて奥底に抱きながらも手を伸ばした。
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深まる霧
何がなんだかわからない。
これは夢だと、そう思ってみても手をつねれば痛みが襲ってくるだけ。好きだと言われ、頭がおかしくなるくらいには困惑している。
俺が答えられずにただただ時間が過ぎ、これ以上外にいると親に心配されるからなのかはわからないが、また今度と言って燐子さんは帰っていった。
そうであるというのを全く予想していなかったというわけではない。そうなのではないかとうっすら思っていた。
でもそれを直接言われると、だからどうしたという程の衝撃。どうにも思考が動かなくて吐きそうなくらいに息が詰まった。
俺は湊が好きだ。それは俺自身わかっているし、認めている。そしてそれは燐子さんにも言っているもので、であれば俺には断るという選択肢が当然あったのだが……そうすることは出来なかった。
そもそもの話俺が彼女の言ったことの真意を聞いてしまったのが悪いと言われればそれまで、ならなんで聞いてしまったのか、それは自分でもわからない。
困惑している、頭の中がぐちゃぐちゃだ。でもこれは今日だけのもので、明日には何事もなかったかのように普通に言えるかもしれない。
なんて、あり得ないことを考えてしまう程度には現実から目を背けたくなってしまって。
「好き……か」
ふとそんな言葉が漏れる。考えたから、悩んでいたからわかる。好きというのは心地よいもの、難しいもの。でもそれ以上に怖いものだということを。
嫌だと言われたら、嫌われたら、想像したくないものだがもしかしたらと考えさせられる。そしてそれは俺だけが抱いてるものではない筈で。
俺は燐子さんのことが嫌いか? そんなわけがない。
告白されて迷惑しているか? むしろ嬉しさすら感じさせられる。
なら俺は、燐子さんに嫌われたくないか?
その答えは一つ。当然、誰であろうと仲がよい人間から嫌われたいなどと考える筈がない。
いや、仲がよいというのは語弊があるか。向こうからのものはその程度のものではないだろうし、こちらからは……恐らく、友人程度というのでは温くなってしまっているかもしれない。
そうであるならば、嫌われたくないのであれば、友人程度ではないほどに意識してしまっているのならば……
それは、好きと言ってもなんら間違いはないのではないか?
「……あほらし」
だとしても、どちらが好きだと言われたのなら迷いはすれど答えられると思う。馬鹿らしいと決めつけて、考えたくなくて逃げ出した。
今日はピアノを弾く予定だったし今からやろう。思考を捨てるように、追いかけられぬように。ピアノを弾くためにその場を離れようとしたのだが、そうはいかなかった。
原因なんて大それたものではない。猫がにゃあにゃあと側で鳴いている、ただそれだけ。
構え、まるでそう言っているかのように鳴き続けている。既に立ち上がったけれど座り直して猫を撫でる。
撫でてやるととても気持ち良さそう、ああ、猫というのは本当に愛らしい。ピアノは……明日は休みというわけではないのだからどうせ長くは出来ないのだし、今日は猫と戯れよう。
猫は好きだ、ピアノも好きだ。どちらの方がと言われたら……さて、どちらだろうか。
もし、こんな風に片方の好きを蹴ってもう片方の好きを取るというのなら……
駄目だ、どうしても考えてしまう。関連性なんてないはずなのに。ため息が溢れる、なぜ溢れたのかは俺ですらわからない。
「父さん……」
父親は母親が家を出ていった時なんて思ったのだろう。俺なんかには想像もつかないし、聞くなんてことが出きるはずもなかった。
ただ好きな人に離れられるというのは……やはり、辛いものなのだろうか。
忘れるように、吐き出すように、猫が寝るまで無心で撫で続けた。
学校も終わりバイトも終えた。一日の殆どが消え去るような長さではあるもののそれはあっという間に過ぎ去っていった。
考えて迷って、それこそ湊に対して考えていたときよりも考えた。
燐子さんは何故俺の事が好きなのか、そんなことから俺は燐子さんの事をどう思っているのかまで、全部。
好きか嫌いか、どちらか決めろと言われたら好きだと言い切れる。それは好きと言われたから意識をしているせい。それもあれど、それだけではないのは俺が一番わかっている。
他人からの感情というものは自分から出る感情と比べ気になりすぎる。それは自分で解決できないことで、わからないことであって。
自分のことを嫌いに思う人間のことを好みになることはないのは当然ではあるが、自分のことを好きな人間ならばどうだろう。感染、増殖、チョロいものだ。
「あ、蒼音さん!」
止まらぬ思考、それは前から飛んできた声に一時休止を強いられた。声の主はあこちゃんでその隣にはリサがいる、恐らく練習帰りなのだろう。
彼女達だけならどうともなかった、でもその両隣にいる二人、湊と燐子さんを見て止まっていた思考は倍以上の早さで巡りだした。
どうして二人が、燐子さんは湊に対してどう思っているのか。なんと声をかけるべきか、どうして四人なのか、なんて程度のものにまで思考が至る。
「……どうかしたのかしら?」
「……なんでもねぇよ」
様々にめぐる思考の中今もっとも考えているもの。それは湊ではなく燐子さんのことで、そちらの方に目線を向け目が合えば顔を赤くしてそらされる。
それはいつも通りではあるが一つ違うとするならば、俺も目をそらしてしまったことだろうか。
「そうだ。この前の蒼音、すっごくかっこよかったよ」
「あこもそう思いました! りんりんもそうだよね?」
「えっ……う、うん。凄く……かっこいいなと……思いました」
あぁ、本当におかしい。リサやあこちゃんに褒められるのは単純に嬉しい、それだけであるのに燐子さんから褒められると嬉しくはあるが、どこかに恥ずかしさが隠れている。
それに対し感謝の言葉を伝え、しかしその場で解散という訳にはいかない。リサが湊と、あこちゃんが燐子さんと話しているためだ。
だからどうしたと別れの言葉を残してその場を去る、大分前の俺ならば恐らくそうしていただろう。
そうしないのはこの悩みという名の霧を晴らすためにか、それとも、霧の中にあるものに魅せられてしまったのか。
「……そういえば、なんでお前ら四人なんだ?」
「ん? あー、紗夜は忙しいらしいからさ」
「そういう新庄君は? 買い物をしていた、というわけではなさそうだけど」
「バイト帰り」
話したい内容はこんなものではない、しかし肝心の話したい相手がこちらを向いてくれてないのだからどうしようもない。話す内容など……なくはないが、それが出来るかはまた別だ。
歩きながらでの会話なので時間制限付き。どうするべきだろうか、それとも話さず帰ってしまった方がいいのだろうか。そんな風に迷っているとあこちゃんから話しかけられた。
「そうだ! 蒼音さん今日の夜NFOやりましょう!」
「NFOって……確かあこと燐子がやってるゲームだよね? 蒼音もやってるんだ」
「やってた、だな。今は誘われたらたまにやるくらいだよ」
誘われたらやる、しかし自ら進んでやろうとは思わない。それこそあこちゃんから誘われなければ起動すらしない程度だ。
あこちゃんとやったのは数回程度でしかない、そしてその時は必ず……燐子さんもいる。
「あ、あこちゃん……私も……いいかな?」
「大丈夫! ですよね、蒼音さん!」
「……ああ、大丈夫だよ」
「それじゃあ帰ったら連絡しますね」
今まではなんともなかった。一緒にゲームをして、それにどうこう思うことはなかった。しかし今回はどうにも変な緊張をしてしまう。霧は濃くなるばかり、迷ってしまってなにもわからない。
湊が俺の事を不審げに見ているが何か変なことにでも気づいたのだろうか。一応自分の格好を見てみるが何も変なとこなどない。であれば……そんなにも行動に現れてしまっていたか。
「それじゃアタシ達はここで、じゃあね」
「……ん、またな」
「ほ~ら、友希那もなんか言いなって」
「……さようなら」
振り向き、俺に顔を見せないようにして湊はそう言ってすぐさま歩き出した。苦笑いしながらリサはその後を追いかけていった。
あこちゃんもその後を追いながらも未だにその場を離れない燐子さんに不審げな目を向けている。俺も何故かその場から離れられない。多分、燐子さんからの言葉を待っている。
「また今度……あ、蒼音……さん……」
「……ええ、また今度」
顔を真っ赤に染め上げて、下を向きながらそんなことを言って燐子さんはあこちゃんの所に走っていった。
頭が沸騰してしまいそう。こんな小さなことで心臓が今までにないくらいに鳴っている。喉が渇いて、舌を軽く噛んでみせる。
おそらく顔も真っ赤になってしまっているだろう、少なくとも先程の燐子さんといい勝負をしてしまうほどに。
名前で呼ばれるからなんだ、俺だって彼女にはそうしてる。ああでも、突然そうされて不思議なくらいに体が熱くなる。それは一度、感じたことのあるもので……
今まで燐子さんはこんな風に思っていたのだろうか、感じさせられていたのだろうか。もしそうなら……名前で呼び合ったら湊も同じようになるのか、俺も思えるのだろうか。
引っ掛かった赤信号、いつもなら気にもしないそれだけど、なんでか一つため息が零れていた。
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気になって
最近、色んな事が気になってしょうがない。今までなら気づきもしない、気づいたとしてもだからどうしたと無視していたものが嫌なくらいに。
そんなだからかよく疲れる。イラつきもして、小さく嬉しく思うこともある。
何が気になっているかはわかる。だけれども何故そう思うのか、それがわからないものばかり。
様々なものに意識が行きそれらについてどうこう思う。音楽をするものとして悪いことではないのだが……いかんせん熱が出たのかと思わされることがしばしばある。
「あなたのそれって……」
「ん? お前が勧めてきたやつだよ」
「そう。それで、どうなの?」
「ロックはわかんねぇ、でもだいぶいいもんだな」
こうやって新庄君が私の勧めた音楽を聴いていること、そしてその音楽についての感想。私達の音楽ではなくそんなことまで本当に、どうして気になってしまうのだろうか。
それだけではない。彼が他の人と一緒にいると視線が持っていかれる。私の知らない誰かでも、私が知ってる誰かでも、何故かわからないが意識してしまう。
それはリサでも燐子でも、青葉さんだったりにも向けられる見境のないもので。
「んで、用事ってなんだよ」
「用事?」
「いや、お前が聞きたいことあるって言ったんだろ」
そんなこと聞いていないなんて思ったが、ああ、確かに聞いた。一体なんだったか、こうやって覚えてないくらいに無意識で聞いたのだ、きっとそれなりのものがあったのだろう。
しかしながらそれは思い出せなくて、そもそもそんなものがあったのかもわからない。だけれどなんでもないわ、なんて言うことは出来なくて何かないかと思案する。
「ピアノの調子はどうなのかしら?」
「多分中学生の頃のが上手いくらいには下手になってて落ち込んでるわ」
「……とても落ち込んでる風には見えないのだけど」
「なんだ、わかるのか」
その顔はとても楽しそう。彼は実際に演奏をしているわけではなくただこうして話をしているだけだというのに。まるで始めたての子供のようだ。
話を聞く限りは成長を実感できるのが楽しいらしい。上手だった自分を知っているからこそ、それを目指してやるのが本当にとのこと。
彼は本当に楽しそうで、嬉しそうで何故か視線を離せない。小さく笑った彼を見ると胸の奥がチリチリと焼けるかのように熱くなってくる。
ああ、これもおかしなことだ。彼と一緒にいる誰かだけではなく、彼自身にも視線がいってしまう。
それにしてもあれで中学生の時の方が上手なくらいなんて中学生の彼はどんなだったのだろう。やめていなかったらどうだったのだろう。
もしそれなら彼は私の誘いを、受けてくれたのだろうか?
……いや、それは無しだ。燐子がRoseliaに入ってくれてとても感謝しているし、今新庄君が代わらせてくれと言ってきても私達は認めない。
それは時間の問題ではない。ただそうあれと思うから。それにこの前の彼の演奏に合わせて歌った時何処か違和感を覚えてしまったのもある。
その違和感は燐子の音に慣れたから、ではなく彼の演奏が遠くに聴こえたから。音の大きさの問題ではなく彼と私の演奏の筈なのに彼と私、別々でやってるように感じた。
彼の音はソロ。圧倒的で魅力的、それをするだけの力がある。だけれども周りに合わせない、合わせられない。周りの実力が足りないのではなく一人で道を開いていく。
それはピアニストとしては正解であったとしても、バンドマンとしては間違っている。バンドは一人では出来ないのだから。
「それで、リサはまだなのか?」
「……リサに何か用でもあるのかしら?」
「別にねぇよ。俺も予定があるけどリサが来るまで待とうとは思っただけ」
リサの名前が出てきてそれすらも気になって。事実リサがやって来るのは本当でそれを待っている。そしてそれを彼に話したというのも私からなのに。
カフェの中で偶々見かけ隣に座り、しかしなにもなかった。音楽の話、なんでもないことですら話す事はなくて。勿論することも出来たのだが……何故しなかったのだろうか。
やはり最近はおかしい、無意識でどうこうしていることが多すぎる。買い物をしすぎる、食べ過ぎるというわけではないから問題はないが……流石にどうにかした方がいいだろう。
「予定って?」
「……燐子さんに呼ばれてな」
彼がそう言った瞬間お店の中にリサが入ってくる。元は20分以上前にここで集合予定だったのだが、バイトが長引いてしまったらしくリサが遅れてきてしまった。
わざとではない、これは練習ではない。それであれば咎めるつもりはない。リサが新庄君に話しかけるが、用事があるからと言って新庄君はお店の外に出ていった。
軽く挨拶をして話もせず、本当にリサとあれこれするわけではないようで。ならば何故彼は私といたのか。
私を一人にしないためだったのか? 子供じゃないのだから別によかったのに、そう思うとなんでか胸の底が温まった。
それは子供扱いされたことにだろうか、でも苛ついているわけでもなくて。
「友希那、何話してたの?」
「別になにも」
「ん~、ほんとかな~?」
「嘘をつく理由はないでしょ」
そう、なにもだ。意味を持ったものはただの一つもなかった。別にそれで不都合はないしたからといってどうということはないはずなのに、なんでか寂しさを覚えて。
そんなことより新庄君が燐子に呼ばれた、それがなんなのか気になって仕方ない。やっとリサが来たというのに、彼は行ってしまったというのに考えるのはそればかり。
そんなもの私が関与するものではないのだから欠片も気にする必要はないとはわかっている。そのはずなのになぜこんなにも考えさせられるのか。
「どうしたの、友希那?」
「なんでもないわ」
なんでもない、熱はないし気分も悪くない。だからこれはなんなのだろう。言い表せないようなこの感じ、ざわざわと奥底が沸き立つような不思議なもの。
本当にわからない、やはり最近何かおかしい。大和さんや紗夜に聞けばわかるだろうか、そんなことを彼が聴いていたロックを片耳に流しながら考えていた。
「申し訳ありません、ジブンにはわからないです」
「いえ、こちらこそ変なこと聞いてしまってごめんなさい」
学校で大和さんにその事を話してみたが結果はこの通り、一体あれはなんなのだろう。迷えば迷うほど新庄君が頭に浮かんでくる。
本当に訳がわからない。どうして新庄君なのか、リサでも燐子でも、紗夜でもないしあこでもない。それが偶々なのか、それとも理由があるのか。
「あ、でもジブンも機材に関してならそうなっちゃいますね」
「大和さんも?」
「はい、他の人が使ってる機材だったりとか見たことのないものだと気になってしまって」
「……そういうものなのかしら?」
「ジブンは機材の事好きだからそうなっちゃいますね。湊さんが何に対してそう思っているかはわからないですけども」
好きだから? そういうものなのだろうか。でもそうであるならそれは猫だっていいはずなのにどうして彼だけになのだろう。
嫌いではない、好きかと聞かれたら……まぁ、そうだろう。でもそれはリサ等にも抱いているはずのもので何も特別なことなどないものなのに。
チャイムが鳴ったので席に戻る。気になるもののRoseliaの練習の時には気にならなくなれているのだからこのままで不都合はない。
だけどそれは練習の時だけ、こうして暇な時間であれば考えてしまう。
いや、授業の時間が暇というわけではないが古典ということもあり集中力が続くはずもない。周りを見れば始まったばかりというのに既にうつらうつらとしている人すらいる。
古典というのは苦手だ、というのも勉強に気を向けていなかったのだからわからないというだけ。
その中でも恋愛云々の物は特に苦手、その癖昔の人間はそういうものを書き記しがち。覚えればいいというわけではなく理解しなければならない。稀にリサから貸される本ですらわからないのだ、昔のものがわからないのだからそれで当然で。
この時登場人物がどう思っていたかなんてわかるはずがない。好きだからなんて、そんな特別なことなのだろうか。
いつもならうつらと眠気と格闘し始めてしまってもおかしくないのに今日に限ってはそんなことはなくて。
好きだから気になってしまう。その言葉が不思議と頭の中に残っていた。
新年もよろしくしてくれるかたはよろしくお願いします
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答えを
湊と別れ燐子さんの元へ。その足は重く一歩が小さく、そして遅い。別に重い荷物を背負っている等の訳ではないのだからその原因は精神的なもの。
別に嫌な訳じゃない。何も悪いことはしていないし喧嘩をしたわけでもなく、行くのがめんどくさいとか帰ってやりたいことがあるわけでも。
「はぁ……」
好きと言われてから会うのは二度目。この前はRoseliaの人が、その後のゲームでもあこちゃんがいたから一対一となるとこれが初めて。
人がいたからか、それとも気を使われてかはわからないけどこの前は続きを、告白の答えを聞かれなかった。正直、気が重い原因もそれなのだと思う。
「……また赤かよ」
湊と別れてから当たる信号全てが赤、時間まではまだまだ余裕はあるので問題ないがつい声で漏れてしまう。それはまるで俺に時間をくれるよう、それでいて惑わせるかのよう。
俺は湊
この前名前で呼ばれてドキリとした。たったそれだけかと言われてもそれだけでしかないのだけど、それはその程度なんてものじゃなくどうにも衝撃的で。
あの時の胸の鳴りは、熱さは、湊に勉強を教えていたときに感じたものと全く同じもの。
あの時は不可解だと、全くわからなかったそれだが今となってははっきりとわかる。それを燐子さんにも抱いたとなれば答えは一つで……
信号が青に変わったので進む。聞かれたらどう答えよう、それは当然今でも迷っている。でもそれ以上にもし、聞かれなかったらどうだろう。
俺は自分から言えるのか、ごめんなさい、またはお願いしますと。それとも……聞かれないのならそれをよしとして先伸ばしにするのだろうか。
そんなことよくないとわかっている。そうしないようにするべきで、であるならば答えなくてはいけなくて。グルグルと、渦潮のように頭の中で思考が回り続けている。
あれだけのこのこと亀の如くまでとはいかずとも、それなりの遅さで歩き続け目的地に辿り着いたのは約束の30分前。
もしかしたら既にいるのではないか、そんな不安を抱きながら周りを見渡せども燐子さんの姿は見当たらない。
流石に早すぎたか、そうは思いつつもこの間ご飯に行ったときは燐子さんが待っていたのだしこの方がいいだろう。
約束した場所はまたカフェ、先程もいたが珈琲一つしか頼んでないから胃に余裕はあり何も頼めない、なんてことにはならないと思う。
燐子さんを外で待つか中で待つか。外には座れるような場所はなく、だから楽をするなら中だろう。でもこの前彼女は外で待っていたし天気も悪くない、であれば外で待つべきだと思う。
「ま、待たせちゃい……ましたか?」
「あ、俺もさっき来たばかりですので……」
十分程待って聞こえてきたその声は燐子さんのもの、聞き間違える筈もなく振り返ると、息が止まった。
その服は今までの彼女の服とは全くの別物。それこそ今年のトレンドと検索をかければ名の知れたコーディネーターがあげていそう、そんな服。
とても派手とまでは言いきらないがそれでも目立ちそうな服。恥ずかしがりやな彼女とはかけ離れていて……普段とは違う彼女に見惚れていた。
「あの……似合って……ます……か?」
「……はい、似合ってますよ」
顔を赤くしていきながら、声も小さくしていきながらそんな事を聞かれる。
真っ直ぐには見ていられなくなって誤魔化すように道を歩く人を見れば、ちらりと燐子さんを見て何事もないかのように前を向き直し、再度ちらりと、そんな人すら見受けられる。
燐子さんもそれに気づいたのか、小さく声を漏らしながらさらに顔を赤くする。そんなならば、とならないのは……俺が燐子さんに好かれている知っているから。この格好にも理由があってだとわかっているから。
「……えっと、このお店でいいんですよね?」
もはや返事すら出来ないようで頷かれるだけ。店内なら見られないというわけではないが、不特定多数に見られ続けると感じる事はないだろうし幾許かはましになるだろう。
それに……じろじろと彼女の事を見られているのも面白くない。
「まだ早いですけど入りませんか? 予約とかって……」
「し、してないです……けど、多分大丈夫だと……思います」
カフェの中はすいているというわけでもなく混んでいるというわけでもなく中途半端、まぁ混みあっていて入れないというのが最悪なのでそれを回避できただけでも感謝するべきか。
お好きな席にと言われたので出来る限り人がいないところに、とりあえず俺達は何か頼む事にした。
「…………」
今日はいい天気ですね、この料理美味しいですね、珈琲お好きなんですか? 飛んできたのはそんな質問ばかり。
無論迷惑していないしそれが悪いとも言わない。しかしながら卓上が珈琲とホットミルクのみとなってから15分、そうなってからは一切話を振られなかった。
こちらから話しかければ何かしらの返答がある、長続きしないわけでもないがそれは世間話や自己紹介の延長線上のようなものばかり。
もしかして、聞くつもりはないのだろうか。あれは全て気の迷いでした、なんていうことはありえないだろう。それは今日、服装が何よりも表している。
無論、それが俺の勘違いだといわれればそれまでだが。
聞かれないのならばならば俺から言う、単純明快なそれだが実行には移せない。
正直なとこを言ってしまえば今日、正しくは燐子さんに会ってから、鼓動がずっと早い。
熱を持ったように熱く、胸を突き破りそうな程激しく。それほどだというのに痛いどころか不快感すらない。その不思議なもの、これもまた湊に対して抱いたものと同じで……
「あ、蒼音……さん」
「……何ですか?」
待つという意味合いを込めちびちびと飲んでいた珈琲も飲みきってしまった。それを見てか燐子さんは視線を俺からそらし、聞き逃してしまいそうな小さな声で言った。
「この前の……あの……その……」
また顔が赤くなり始めるのが見えた。忙しい人だ、なんて思うはずもない。
恥ずかしがりやなのに無理をして、そんななのに告白をして、そしてその時聞けなかった答えを聞こうとして。誰であろうと、俺もその立場なら顔を赤く染めるだろう。
結局その後は何も続かなかったが……言いたいことがわからないほど馬鹿ではない。なので俺から出来ることはひとつだけで。
「燐子さんからの告白、凄く嬉しかったです」
「…………」
今までされたことがないから、可愛い人からされたから、同じくピアノをしている人だから。そうじゃない、燐子さんだからそう思えている。
湊からはわからないが他の人からされても、おそらくよくわからないまま断っていたと思う。
「……俺は湊の事が好きです」
「そう……ですか……」
そう、これが俺の答え。俺は湊の事
その中で俺は、最も最低の選択肢を選ぶことにした。
「でも、燐子さんの事も好きです」
あなたが好きです、あいつが好きです、あなたとあいつのどっちも好きで選べません。
どれを選ぶべきかは難解で、代わりにどれを選んじゃ駄目かは決定的。だけど俺はその中で選ぶべきではないとわかりきった選択肢を選んでいた。
燐子さんの事が好き。それは今まで嘘だと思わされて、考えさせられて、しかしどう考えてもそうはならなくて。
でも今日燐子さんに会って、話して、それで間違いないと思ってしまった。
何故? 好きと言われて、そうあるべき行動をされた。それに触れて、もう自分では変わることが出来ないとこまで行ってしまった。
俺は……燐子さんの事が好きだ。
「だから告白に答えることは……まだ、出来ないです」
頭を下げる。俺はそれだけの事を言っているのだから。
「蒼音さん……」
それは駄目、今選べと言われても仕方のないもので、しかしながらその答えは用意していない。何も発する事なく、しかし頭は下げたままで時間が過ぎる。
今周りからどうこう思われようといい。ただその許しを、それだけを求めていた。
「……はい、わかりました」
その言葉は信じられないもので思わず顔を上げてしまう。それ以上は何も喋らず、燐子さんがホットミルクを飲みきるのを待ってから会計に。あんなことを言ってしまったのだから俺に払わさせて貰った。
「……蒼音さん」
「……何ですか?」
店を出て家まで送らせて貰って、いよいよ別れるというところで初めて話しかけられた。怒っているのか、悲しんでいるのか、表情からは読み取れない。
「待ってます……いつまでも」
その時見せられた笑顔は優しくて眩しくて、ドキリと心臓が鳴り……ズキリと、胸の奥で何かが痛んだ。
家に帰るも何もする気がおきない。鼓動は早く、熱は続いて、痛みもまた止まらない。
ピアノをすれば誤魔化せるかもしれない、そう思って何分経っただろう。実行に移すことはできず、というよりかはしようとしなかったという方が正しいだろうか。それら全てを納めたくなくて。
誰かを好きになって、そのくせ他の誰かを好きになる。それは本当に悪いことなのか。一生を誓ったわけでもないしまず付き合ってすらいないのだからそんなに、なんて考え出した自分が嫌になる。
今になって欠片もわかりたくなかった母親の事が少しだけわかる気がした。それが何より嫌で、振り払うように頭を掻く。
そんなことをしようと湊が好きで、燐子さんも好きという事実は変わらない。どちらも好きで、それだからどちらが好きかはわからない。
「俺から……」
もういっそ俺から湊に告白をすればどうなるだろう。多分あいつは俺にそんな感情抱いていないだろうから望む答えは返ってこない。であれば諦められるかもしれない。
でももし、
湊に好きと返されたら燐子さんの事、何もなかったかのように忘れられるのか。
期限はない、だけどそれは永遠ではなくて。先伸ばして忘れ去って、それが許されるものではないと俺はわかってる。
俺が好きなのだから湊にするべきなのか、俺を好きで、俺からも好きだから燐子さんにするべきなのか。自分のことなのに、いや、自分のことだからこそ、何もかもがわからない。
フェスそこそこ回したのにりんりん出なくて泣き
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罪を重ねて
好き、たった二文字な癖に複雑なもの。好きとは一体何なのか、ここ最近何度考えたかわからないそれ。
わかった気になって、でも実際には全然わかれてなくて。一度決めたのに歪めてしまう程度には脆くて、それだというのに自分の中では大きな存在で。
燐子さんに好きと言った、だけど湊の事も好きなまま。どちらが上なのか強いのか、それがわかっていたら苦労しない。答えなんてわからない、そもあるのかすらもわからない。
告白されて、名前で呼ばれ意識させられて。そんな程度、いや、俺にとって……多分、彼女にとってもそれは大きなもので。
「……わかんねぇよ」
選びますと俺は言った。なんて傲慢、俺に待たせるような権利はない。
あなたを迎える準備が出来ていないからというわけでなく、わからないから迷っている、だから待っていてくださいと。ほんと、我ながら最低だ。
わかってる、待たせれば待たせるだけこの胸の中の罪悪感は膨れていく。わからない、いつになったら、どのようなことがあったら選べるのか。
本を読めど、調べてみてもヒントもなにも乗っていない。もう解決策なんて見つからないからいつも通りに過ごしてみて、なんてこと出きるわけがない。
いつも通りに過ごそうと今まで通り何とも考えないなんて事はあり得ないだろうし、二人に会って何も変化ない、なんてこともあり得ない。
でも、そんな風に思わされていても時間というのは止まらない、早くもならずに遅くもならない。
これからどうしたらいいのだろう、なんて自分の事なのに、自分だけの事ではないから、何もかもがわからない。
「おや~? こんなところで奇遇ですね~」
「……別に、なんもおかしな事ないだろ」
「いや~、蒼音さんなら向こうの方が似合ってそうだったので~」
「ちょっとモカ、いきなり失礼だってば~」
バイト終わりに立ち寄った本屋、気分転換というよりかはちょっとした現実逃避として漫画コーナーを見ていたらモカに声をかけられた。
そしてそれを咎めるかの様に言う人はAfterglowのライブに出演していた子。覚えてますか? なんて言われてしまったので勿論と返しておく。
「あ、自己紹介してなかった。上原ひまりです、よろしくお願いします!」
「新庄蒼音です、よろしく」
それにしても……ふむ、燐子さんといい勝負かもしれない。なんて考えてしまい視線を本に向けて誤魔化す。
「蒼音さんは~、どんな漫画が好きなんですか?」
「なんでも、面白ければな」
「ほっほ~、それなら今度アタシのお気に入りを貸しますから、蒼音さんのお気に入りのやつ貸してくださいよ~」
わかったと流すとこちらにやってくる人が一人。先程モカが向こうの方がと指差した所からやって来たのは蘭ちゃん。
その手には一冊の本。何を持っているのかは知らないが向こう、音楽雑誌コーナーから来たのだから恐らくそれで。
「あ……どうも」
軽く頭を下げるだけで特に話す事もなく……と予想していたのだがそうはならなかった。
「この前の演奏……凄くよかったです」
「うん! 私なんか感激しすぎて、あの後ず~っと頭の中ふわふわしてたもん!」
「それはひーちゃんの頭が空っぽなだけなんじゃないの~?」
「ちょっと~、失礼な事言わないでよね」
よかったと言われ褒められて嫌な筈がない。恥ずかしさは確かにあるがそんなものは気にしたところでなくならないし、それ自体嫌と思うわけではない。
自分の演奏を聴いてそんな風に思ったのだと言われ嬉しいと思えている。あれは俺のものだと、母親は関係ないと思え始めていて。
「……そんなに褒められて嬉しかったんですか?」
「……顔に出てた?」
「ええ、まぁ」
「にっこにこですね~。いや~、眩しいくらいですよ~」
その言葉を聞いて更に恥ずかしくなり、ほんとにそうなのかと口元を指でなぞるが特に口角が上がっているとかはわからなかった。
となれば誇張なのか、どうであれ蘭ちゃんにも気付かれたのだからわかりやすかったのは確実。
嬉しい、それは事実だ。ずっと母親に、勝手に考えていただけだが縛られてきた。それを感じられずに音楽を出来るとなれば嬉しいと思えないというのこそ不可能というもので。
「そういえば新庄さんはどうしてここに?」
「……暇潰しだよ、なんかいいのあれば買おうかなってくらいで」
「蘭~、聞いて驚かないでね。なんと蒼音さんは、漫画が好きらしいんだよ!」
「いや、何も驚く要素ないけど」
「うっそ~、モカちゃん的にはビッグニュースだったんだけどな~」
「あ、蒼音さん、ごめんなさい。モカは元からあんな感じでして……」
別に気にしてないから大丈夫、そう言ってやることもなく帰ろうとしたのだが、折角だし途中まで一緒に帰りましょうよなんてモカに言われてしまった。
流石にそれはと思ったのに蘭ちゃんもひまりちゃんも駄目と言わないので断りにくく、本を買うのを待ってから四人で帰路につくことになった。
「あれ、珍しい組み合わせだね~」
帰宅途中そんな声をかけられて、ひまりちゃんもモカもその声の主であるリサに返事を返している。
折角思考から少し抜け落ちていたのに、やはりそうすることはいけないことだと示すかのようにその隣にはいつもの人物が。
胸が締め付けられるかのようで、まるで埃を吸い込んでしまったかのように息をするだけでも違和感が感じ取れる。
言葉を発せず目もそらせず。先程の違和感は膨らんで形を変えて、少し目を細められ見られているのが気になってしまう。
「湊さん、こんな時間まで練習してたんですか?」
「そうだけど……それが何か?」
バチバチと火花散りそうな程に鋭い視線を蘭ちゃんは湊に向けていて、それに対して湊は涼しい顔をしていて。
目線が俺からそれて蘭ちゃんに向かったこと、少しの安堵をしたがどこか残念に思う自分がいる。
やはり意識しているのか蘭ちゃんは湊と口論を、といってもほぼ一方的なもので、それも喧嘩というよりかはただの自慢をしているかのような。
少し苦笑いしているひまりちゃんを見ながらも終わる気配がないので少し離れリサもついてくるかのようにこちらにくる。
「蒼音、モテモテだね~」
「……アホ言うな」
「こんな美少女達に囲まれて蒼音さん、羨ましいですな~」
急なリサの発言にドキリと心臓が鳴った。男女比を今さら思い知らされたというものではなく、もしかして知られてしまっているのではないかと。
なんでもないかのようにその後も二人と話しているのだし……気にしすぎか、それにもし知っていたとしても話すとしたら二人きりの時かメッセージでだろうし。
「それにしても蘭、友希那さんの事になると本当に熱くなるよね」
「蘭は負けず嫌いですからな~」
一向に終わりそうにない二人の口論を見ながら会話をする。見えるのは二人、視線が向かっているのは一人。だけれど思っているのは二人、そしてその片方は蘭ちゃんじゃなくて……
「そういえば蒼音、メッセージ送ったんだからちゃんと見てよね」
「どうせあれだろ? 帰ったら見る予定だから安心しろ」
「モカちゃんその内容が気になっちゃいますな~」
「大したことじゃないって、ただ演奏したの送って色々と教えて貰ってるだけだから」
昨日の夜送られて来て、どうにも見る気にもならなかったので今日の夜に確認しようと思っていた。
もしかしてと思い聞いてみたが一人での演奏ということで安堵から一つ息をつく。もし二人のどちらかでも音が入っていたら聴くことに集中なんて出来なかったろうし。
「え、蒼音さんってベースもできるんですか?」
「違う違う、テンポとか音の強弱とかそういうのをね」
「成る程……わ、私にも教えてもらえませんか?」
突然の提案、受けてあげなければいけない必要はなくて、だけど断る理由もない。あるとするならば時間を取られるくらいではあるが、それこそ暇な時にやればいいので了承する。
それに記憶が正しければひまりちゃんもベースだろうからリサと比べて、というのでやりやすくもなるだろう。
暇な時間は出来れば作りたくない、だって燐子さんと湊の事を嫌にでも考えてしまうから。
そうするべきだ、それはわかってる。でもどうせ答えは出ないし、それが苦しくて甘えてしまいそうで。
待ってくださいと言ってしまったのだ、何よりしてはいけないのは一つだけ、甘えて答えを出すこと。それは自分でもいずれか後悔してしまうだろうし、きっと何よりも最低なものだから。
「蒼音の指導は厳しいよ、覚悟しといた方がいいかもね」
「ひえっ……が、頑張ります!」
「面と向かってじゃねぇんだから覚悟も何もねぇだろ」
それでもだよ、と言ってくるリサを無視してひまりちゃんと連絡先を交換する。
折角だからとモカとも交換させられて、そろそろかと思い湊の方を見たがまだ終わらないようで。
「モカはお願いしなくていいの?」
「モカちゃんは天才だから一人でできるのだ~」
そんな会話を聞き流しながら最近増えてきた連絡先の一覧を眺め、その後湊の方を見て何故か一つため息をついた。
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幸運を願い
アラームの音が部屋の中に鳴り響き、深くに落ちていた意識はつり上げられる。冬ではないので布団から出るのに覚悟がいる訳ではないのだがそれでも相変わらず誘惑は強い。
時間を確認してため息一つ、体を起こしてカーテンを開けると焼き焦がすかのような朝日に襲われる。
適当に朝食としてつまみながらスマホを確認していつもと同じ時間になれば、同じ格好に物を持って外に出る。
「めんどくせぇなぁ……」
今日は体育がある、それも一時限目から。憂鬱で仕方がない。動き回りたくねぇなと考え、しかしサボるというわけにもいかなくて。
目の前で色が変わった信号に足を止められる。今まで何度も経験したそれに今更どう思うわけもなく、周りに見える人と同じくスマホを弄って変わるのを待つ。
……ほんと、驚くくらいに普通だ。何がという訳ではない、俺自身の事。
好きと言われわからされ、決めなくてはいけないと思わされているのにこうやって普段通りに過ごしている。
勿論こうして考えているのだ、ほっぽりだしているわけではない。決めなくていいやと思っているわけでも。
悩んでいるのは本当だ、でも人生というのはそれだけじゃなくてしなくちゃならないことがそこそこある。これだってそう、したいしたくないとかそういうのじゃない。
でもこの時間に焦るくらいに考えて、なんてことは出来ない。朝だから頭が働かないせいか、焦っても出る筈がないと考えているせいか。
昨日と同じく連絡先一覧を眺めてみる。学校の奴らとバンド組、後は父親しかいないそれだけどそこに湊の名前は存在しなくて。
「……今度聞いてみるか」
自分から、恥ずかしいとかそんなもの感じない、と言えば嘘になってしまうのだろうがこの程度出来る……多分。
好きと思わされるのならばこうやって距離を詰めなければいけない筈で、その詰め方がよくわからないからこうやってわかるものからやっていくべき。
付き合いが薄いままならば決めようがない。もしもうちょっと踏み込んだらあいつなんて……となるかもしれないし、勿論その逆も。
「…………」
じゃあもう一人、それはそこに記されていて。こちらは湊と違って向こうもこちらの事が好きだとわかっていて、であるから名前を見るだけで妙に恥ずかしくて。
本当に好きなのかと何度も問いて、そして毎回好きだと結論が出て。疑いの思い、それは湊にも抱いたけれど同じ結果が出ていて。
どこが好きなのかと言われたら言い表しにくい、でもそれは湊にも言えること。
向こうが好きだから、それは否定しない。でも湊が俺の事を好きになったとしたらすっぱりといけるかとなればそれは別の話。
信号が青に変わり周りの人が動き出す。俺もスマホの画面を消して歩き出す。
今まではずっと向こうから。好きなのだから俺から誘ってみてもいいかもしれない。そんなことを思いながら学校への道を進んだ。
ああやっぱり二人の事を考えずにはいられない。前言撤回、普通なんて、そう思っているだけで形を変えてしまっていた。
帰宅後はピアノの練習を三時間くらいして、少し休憩と夜の町を散歩する。昔はこのくらいどうでもなかったのに、前が元気すぎたというのもあるだろうが。
締め切った部屋でやっているので外に出れば少しスッキリする。帰って再開するか、それともまた別の事をするか、そんなことをぼんやりと空を眺めながら考えていると後ろから声をかけられた。
「蒼音さん、こんばんは!」
聞こえてきたのはあこちゃんの声。こんばんはと振り向きながら返して、練習終わりなのか制服のままの彼女の隣にはもう一人。
「こ……こんばんは……」
声だけでドキリとして、顔を見ればそれはまた強まって。
変わっている。それは彼女を見る目か、それとも俺の思考なのか。どうであれなんだか気まづくて返す言葉を思い付かず頷くだけで。
あこちゃんはそんな俺を首をかしげ不思議そうな目で見て、燐子さんの方を見てまたおかしいなと首を傾げる。それがまた恥ずかしく感じさせてきて、多分それは燐子さんも同じで顔を伏せられた。
「……こんな時間まで練習?」
「はい! 実は今週末SMSっていうのがあって」
SMSとはこれまた大きなライブイベント、そこに招待されたとのことでそれに向けての練習、本番まで一週間を切ったということで練習時間も伸びてとのこと。
Roseliaは順調に勢いをつけているらしい。うちのライブハウスにやって来た客が話していたし、クラスでもその名が飛んでいた時には驚かされたものだ。
「そうだ! 今日イベントクエストやりませんか?」
「あー……確か明日までだっけ。でもそれやって大丈夫なの?」
「まだ全然やってなくて……でも三人ならすぐに終わらせられます!」
三人、それは当然俺とあこちゃんと、そして燐子さんということだろう。断りにくさもあれ、燐子さんの見上げるような視線によってか断りたくなくて。
断る理由もないのでそれを受ければ喜んでるあこちゃんに対し元気だなと感想を抱かされ、燐子さんも同じように思っているのか微笑んでいる。
意識せずともその優しい笑みに視線を吸い寄せられてしまって……
「よ~し。りんりん、早く帰ろ」
「え……あ……うん」
そう言ってあこちゃんが燐子さんの手を引っ張っていくとハッと我に返る。少し残念そうな顔を見せつけられた、もう少し話せたらと思わされた。
こんな感情を俺は湊に対して抱くのか。リサに手を引かれ湊が離れていったら残念だと思うのだろうか。
事実として起こらなければわかる筈もない、そんなものはどうでもよくてどう思わされるのか。だけど結局わからず仕舞いで頭を掻いて家に向かう。
ライブは今週末と言っていたが今週末はバイト、客としてはいけないけれど上手くいくことを願うことくらいはしてやろう。
目の前を何かが横切る。暗闇に隠れ、しかし2つの光るものがが見える。何かと思い近づきよく見てみればそれは黒猫で。
黒猫は不吉の象徴、迷信ではあるがそう言われる事がある。一体誰がそんなの言い出したのだろうかと思いながらも地域によっては幸運の象徴であるそれに、Roseliaのことを願ってやることにした。
「なんだ、今日はライブがあったんじゃないのか?」
「……」
SMSからの帰り、私は気がつけば新庄君のバイトしているライブハウスに向かっていた。
なぜオーディエンスが離れてしまったのか。それがわからなくて、それだけを求めて彼の元を訪ねることにした。
「新庄君は……私達、Roseliaが何か変わったと思うかしら?」
「突然なんだよ」
知らなければいけない。この前とは違うと言われたのだからそれをどうにかするために。
自分ではわからない、私達ではわからない。彼ならあるいは、そんな願いを込めて聞いてみたが彼は顎に手を当てたまま言葉を発しないでいて。
「……まぁ、仲良くはなったんじゃないか? この前もファミレスとか行ったんだろ?」
「……!」
それは思いもよらぬこと、音楽には一切関係のないことで……だけど聞いてしまえばそうとしか思えないこと。
仲良くなった、それだけならば聞こえがいい。でも言い換えれば? 緩くなった、ああ、いいはずがない、あっていいはずがない。
ああ、そういえば練習の時あこの私語が増えた、リサがクッキーを持ってくるようになった。紗夜がそれを学ぶようになって、燐子はなんだか緊張感が薄まっていって。
そして私は……それを、悪くないと思ってしまっていた。勿論百ある内の百悪いという訳ではないだろう、でもそれがほんの少しでも悪いとするならば……
「そう、ありがとう」
「で、他には?」
「これだけよ。それと……」
──これから私に話しかけないで
突き放すようにそう言った。彼は意味がわからないとこちらを見てくるが。言うべきことは言ったのでライブハウスを出る。
後ろからちょっと待てと彼の声が聞こえてきて、逃げるように私は走り出した。
どうしてもこうしてもない。甘えが悪いというならばそれを消そう、彼はRoseliaのメンバーではない、であるならば関わる必要はない。
たまに演奏を聴いて貰ってなどいたが……それだけ。元より彼と私の関係なんて何もなくて、であればなくなっても一切の問題があるはずもなくて。
胸が痛い。それは走っているから、そうであるはず、それ以外に原因なんてないのだから。
足が棒になったみたい、それでも走ることを止められない。振り返ってもし彼がいたら、何も変わらないままになりそうだから。
「はぁ……はぁ……」
川岸の手すりが見え、そこに体を預けて走るのをやめる。もう疲れた、手で支えなければ今にも崩れ落ちてしまいそうなほど。
どうして走ったのか、めんどくさくなりそうだから? 違う、怖かった。名前を呼ばれたこと? 違う、何がなのかはわからない、でもそれは確かなもの。
「ここって……」
息が整い始めて周りを見回せばふと気づく、ここはRoseliaが解散しそうになった時、新庄君に助けられた場所。これは偶然には思えなくて、それでも本当に偶然で。
彼にあんなことを言う必要はあったのか。
彼が関わるものじゃない、それはわかってる。でもそれは逆にその程度というもので、わざわざ口に出して伝えるほどのものではないはず。
そう、彼は私にとって、勿論その逆でもどうでもないはずだからどう思うこともないというのに、もう話しかけないでなんて言う必要は……
……いや、もうどうだっていいことだ、考える必要だってないだろう。今どうするべきか、それはRoseliaを昔のように、ただそれだけで。
「そのためには……」
明日の練習で全員にそう話そう。わかってくれるはず、わかってくれなくてもそうさせるつもりだ。
胸の痛みはまだ続いている。走っていたせいであると頭では思っていて、だけどそうじゃないと何かが訴えてきていて。
じゃあこれは何? それは誰も答えてくれなくて、胸にぽっかりと穴が空いたような気がした。
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捨てきれないもの
ピアノの音がする。それは俺の指先からで、目的もなくただ弾き続ける。
これから話しかけないでなんて湊に言われて一週間も経って、それでも未だによくわからない、実感がない。長い夢だと、そう言われてしまえば信じたくなってしまうほど。
一体どうしてかなんてわからない。もしかして何か悪いことでもしたのか、言ったのか。それとも元からそういうものが積もっていて遂に限界を迎えたからなのか。
「はぁ……」
大きなため息をつきながら立ち上がり部屋を後にする。もし先程の通りのものがないならば何かあったということでしかない。
あの時のあいつは、少しだけ怖かった。鬼のような形相とかそうではなく、切羽詰まったかのような何かを感じさせた。それこそ今すぐにでも崩れてしまいそうな。
そしてそれはRoseliaが何か変わったか言われ答えてから、であるならばそれはそういうことで。
「……聞けるわけねぇだろ」
連絡先を開いてリサとのメッセージ欄の所に行って、それで何もすることが出来ず眺めるだけ。
Roseliaが何かあったとするならばそれはあいつにも関係のあるもので、そんなものを気軽に聞けるほどの心は持っていない。
猫を撫でながら、しかしそれにたいし癒されるとか思うことは出来なくて。ああまで言われたのだ、待ち続ける方がいいと決めつけて、でも蹴飛ばされたかのように心は焦らされる。
湊とは仲はいいと言い切れないが悪い訳ではない、そう思っていた。でもああ言われたということはそれは、俺が勝手に思っていただけで……
スマホが電話を知らせてきたので相手を確認せずに出る。一体誰だと、悪戯だとしても今はあれこれ文句を思えることすらできなさそうだ。
『あ、あの……もしもし』
聞こえてきたのは女性の声、それは燐子さんのもの。ドキリと胸が鳴る、こんな時でもそれは変わらない。
「……何か用ですか?」
『明日会うことって……出来ますか?』
「明日ですか?」
『駄目……でしょうか?』
俺が湊に話しかけないでと言われた事を燐子さんは知ってるのだろうか。もし知っているなら明日会おうと言ってきた理由は一つしかなくて。
湊にああ言われ、であればもう悩む理由なんてない筈で。なのに俺はここで大丈夫ですと言うことが出来ない。つまり、俺は湊の事を諦めきれてないということで。
「くそが……」
『蒼音さん?』
「いえ、なんでもないです。ごめんなさい」
ついそんな言葉を漏らしてしまう。ふと燐子さんなら湊があんなことを言った理由を知っているかもしれない、なんて事を考えてしまった。
「……明日、どうしますか?」
『えっと……駅前に……1時くらいとか……どうでしょうか?』
知っているからなんだ、それを聞き出して何になる、俺は一体何を待っていたんだ。
俺はRoseliaじゃない、誘いを断り続けたのだから。であれば俺が関与出来るものではないはず。待ち続けた、でも自分からは何も出来なくて。
湊との縁が切れた、それはとても残念に思うし考えるだけで苦しい。でもその代わり、悩みといえるものがひとつ消えたと考えれば……
「それじゃあ明日それでよろしくお願いします」
『はい……ありがとうございます』
一体何に対しての感謝なのか、そう思いながらも電話を切る。もし俺が関与出来るとするならば……どうだろう、することは出来るのか。俺があいつらだったら、俺はどうしてたのだろうか。
「…………」
明日、どうなるのだろう。期待と不安が入り混じりぐちゃぐちゃになって気持ち悪い。
何に期待しているのか何が不安なのか、どちらも一つではなく、そしてそのすべてはわからない。
手が滑って開いたのはギャラリーで、そこに映るはいつか湊と撮った写真。縁は切れた、連絡先も知らない、であればアイツを示すものはこれと勧められた音楽のみ。
全部消してしまえと思い立って、でもそうすることは出来なかった。
人通りが多い。それは場所もあり時間の関係もあってのもので、燐子さんがいたとしても見つからないのではと思ってしまう。一応待ち合わせの時間にはまだ早いのだが、それでも十分前だ、彼女の事だからいるかもしれない。
どこにいますかと聞いてしまえれば楽なのだが、予定より早いのだし聞いていなかったら恥ずかしい。
とはいうものの探しに行って入れ違いになったとなっては馬鹿馬鹿しい。待っているとしたら申し訳ないが十分くらいは我慢してもらおう。俺もそうなのだからお相子のようなものだ。
そう考え、しかし周りの人を見れば男ばかり。それを見てどう思ったのだろう、自分ではわからないがスマホを取り出してメッセージを送った。
今どこにいますか? そう聞いて答えられた場所は隣の店の前。そんなまさかと思い見て見れば柱の陰になるような場所に燐子さんの姿が。灯台下暗しとはよく言ったものだ。
「ごめんなさい、気づけなくて」
「い、いえ……私も……気づけませんでしたから」
取り敢えずと近くのカフェに入る。何か話そうと思って、でもそれは飲み物が届くまで行われなかった。それは彼女がずっと俯いていて、とてもじゃないが話しかけられなかったから。
「蒼音さんは……湊さんに何があったか……知ってますか?」
「……いえ、俺も知らないです」
「……そう、ですか……急にごめんなさい」
「何かあったんですか?」
「実は……」
頼んだホットミルクを一口飲んで、次に深呼吸を一つすると燐子さんは切り出し始めた。
SMSの後から湊が厳しくなった、簡単に言えばそれで、だけどそれはその程度ではないらしい。どうやらSMSはうまくいかなかったようで、スタッフからも以前と何か違ったようななんて言われてしまったそう。
そのスタッフに言われたという言葉が引っかかって覚えがある。それは湊から聞かれたものと言葉違えど内容は同じ。であるならば……
「あれか……」
仲良くなったんじゃないか、何でもないかのように言ってしまったそれをあいつはそうだと捉えてしまった。
そんな馬鹿なと思えど否定しようがないくらい一致していて。じゃあなんだ、俺が原因だっていうのか? 認めたくない、しかし認めざるをえない。
だけどもう一つ、なぜあいつは俺に話しかけないでと言ったのか。Roseliaに何かあって、それをどうにかするには俺が邪魔だからああ言ったのだと俺は思っていた。いや、思っていたかったという方が正しいか。
俺はRoseliaじゃない、その問題に俺は一切の関係がない。なのにあんなことを言われたということは……
「……燐子さん、この後って予定ありますか?」
「予定ですか? ない……ですけれど」
「それならどっか行きませんか? 本屋とか」
そう聞けば燐子さんは驚いたかのように目を見開き、顔を赤くしながらも了承される。
ああ、そういうことか。なんの関連性もありゃしない。単純にあいつは、俺の事なんかどうでもいいんだ。寧ろ嫌い側によっているのかもしれない。でなければあんなこと言われる道理がない。
それならもう迷うことはない、壊れかけていた鎖もやっと壊れてしまった。燐子さんの方を見れば少しだけ鼓動が早くなっていく。決めれたからか、迷わなくなったからか、どうであれ好きという事実が俺の中で強まって。
この誘いは本心だ、湊の事を忘れようだとかそういうものは一切ない。ただそうしたいがための誘い。
後燐子さんも相当まいってる、問題が起こったのだから当然ではあるのだが少し疲れているように見えたからというのもあるのだけれど。
燐子さんが好き、それは偽りのないもので惑わされるものがなくて。でも湊に対して好きじゃないというのは、まだ思うことは出来ないでいた。
「何があったんだろう……」
一人こぼしたそれは湊さんのことではなく蒼音さんに向けられたもの。あの後本屋に行って一緒に色んな本を見てお話して、だけどそれだけだった。
その間にRoseliaの話は一つもなかった。蒼音さんのこぼした言葉から察するに友希那さんと何かあったのだと思う、でも友希那さんの名前を出す度顔をちょっとだけ歪める彼に聞けるはずもなくて。
彼ならもしかして知っているかもしれない、どうにかできるかもしれない。そう思ってのことだったのに、なんだかズキリと胸が痛んだ気さえしてしまった。
喧嘩でもしてしまったのだろうか、もしかして……告白でもされてしまって、彼はそれに答えてしまった。だから私から友希那さんの名前を出してほしくなかったのか。
いや、もしそれであるとするならば友希那さんに何があったか知っているかと訊ねた時にあんな辛そうな表情を、聞くのを躊躇わさせるほどのものをするはずもなくて。
それならなぜ、その謎は一つじゃない。一体何があったのか、それは当然として、どうして私に何も言ってくれないのか……
「はぁ……」
最低だ、考えてしまった自分が本当に。自意識過剰にも程がある。友希那さんと何かあった、それも良くない方向性のもの。
相談してくれたらよかったのに、そう思ったのは本当だけどその裏でどうして私に告白の答えを言ってくれないのか、なんてものさえ考えてしまった。
それだけならいい、こんな時でもというのはあるけれどまだその程度なら。自分で嫌になってしまうのはこの気持ち。残念、不安、疑念、それならいい。あんまり思いたくないけれど、自分が嫌に思わされる程のものじゃない。
「なんで……嬉しいなんて……」
自分でもわからない、わかりたくない。考えたくなくて壁に寄りかかりベッドに座る。でも感じてしまったそれは強まっていく一方で、なんだか怖くなって目を瞑る。
もう何も考えないと考えることで精一杯。真っ暗な中ギュッと枕を抱きしめていると電話の音が聞こえてきた。いったい誰だろうと思って見てみれば相手はあこちゃんで。
「もしもし……どうしたの?」
『えっとね、Roseliaの為に何かできることないかなって』
例えば、そう言ってあこちゃんは幾つもの案を出してくる。意味のなさそうなもの、もしかしたらと思わされるもの、それこそ皆でクッキーを持っていくとか、また全員でNFOをやるとか。
最初は沈み込んでいるかのような声だったのに、気がつけばあこちゃんの声がある少しだけ楽しそうな声に変わっていってる事に気づく。
多分それは後半になるにつれてRoseliaのみんなでなにかをして解決しようという意見が多くなっていったからというのもあるのだろうけども。
「あこちゃんは……Roseliaの事、本当に大好きなんだね」
『うん! だってRoseliaは超々カッコいいバンドだもん!』
なら私は? Roseliaのことは、友希那さんのことは?
……私も、Roseliaの事が好き、友希那さんのことだってそう。だから今のままじゃ駄目、Roseliaの為に出来ることを考えないと。
聞こえてくる楽しそうな声、それを聞けば聞くほど先程の感情なんて気にならなくなっていって、どうするべきなのかと考えて私からも提案していく。
蒼音さんにも手伝って貰って、そう考えた瞬間、なんだか黒いものが奥から沸き上ってきた。突然黙ってしまったものだからあこちゃんはどうしたのと聞いてきて、大丈夫とそれに返す。
蒼音さんに手伝って貰ったとして、それで上手くいったとしよう。でももしそれで二人の中が前より良くなってしまったとしたら? そう考えたら段々怖くなって。
だけど友希那さんと蒼音さんの事、それを思うとなんだか黒く重くて、焦げたかのような癖にへばりつくようなそれが溜まっていくかのような感じがする。
だから話題を変えた、もうこれについては考えないようにしよう。
でもそう簡単にいくはずもなく彼の事を考えてしまう。それでいいのか、自分に聞いて、自分では答えられなくて。あこちゃんに聞けるはずもないからそれについて一人で悩み続けていた。
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自分にしか
『あ、蒼音さんそっちじゃないですよ~』
『マッピングを済ませてないと……迷いやすいですから』
あこちゃんたちとNFO、何やら素材が必要ということでその手伝い。こんなことしてていいのだろうかとは聞けることは出来なくて。それに俺も素材を集めようかなと思っていたのでちょうどよかった。
ゲームをしているからといってRoseliaの事を何も考えていないというわけではないだろう。事実Roseliaの為にどうしたらいいか、始めるなりあこちゃんからそれについて聞かれたのだし。
『そういえばりんりん、りんりんって蒼音さんの事下の名前で呼んでるよね?』
『そ、それがどうかしたの?』
『なんか理由とかあるのかなぁって』
上ずったような声を漏らしながら、しかし理由を話すこともごまかすこともできないようだったので助け舟を出そうとしたがパッとは浮かばない。それに、俺自身聞きたいことでもあって。
『そ、それは蒼音さんだけじゃなくて友希那さんの事も……』
苦し紛れにか燐子さんがそう言うとピタリと急に静かになる。声がしないのは勿論キーボードを叩く音もしない。
これはやってしまったか、Roseliaのことはともかく湊の事は二人にはまだ決まづいことのようで。
『り、りんりん、蒼音さん! モンスターだよ!』
そう言われハッとなりそのモンスターと戦闘する。Roseliaのことは好き、勿論湊の事も好き、二人はそう思っている筈。これで嫌いだったなら……いや、Roseliaのことを考えるということはそうではないだろう。
明らかに先程より雰囲気が悪い。くだらないことでも言って和ませられれば良いのだけれど人付き合いの少なさ故かそうすることは出来なくて。
『友希那さんって蒼音さんのこと……どう思ってるのかな?』
「……さぁ、嫌いなんじゃない?」
『う~ん、それはないと思うんだけど……』
あこちゃんから突然そう言われる。わからない、それはそうとしか思えないということを否定されたことに対してではなく、俺が嫌いなんじゃないと疑問の形で返したこと。
ああ、わかりきっていることなのにまだ期待してるのか、してしまうのか、俺は。
『じゃあ蒼音さんは友希那さんのこと嫌いなんですか?』
『あ、あこちゃん……』
「好きじゃないよ」
そうきっぱりと言い切るとまた静寂が。これは紛れもなく自分のせいだけどそれをどうこう思う事も出来ず、そろそろ終わりますと言う。
しかしその場で中断ということができるゲームではないのでセーブポイントまで行ってゲームを切り、通話から逃げ出した。
一体どうしてあんなことを言ってきたのか、なんて考えはするが嫌な空気を作るだけ作って勝手に消えたのは俺。ああほんと、我ながら最低なやつだ。
──好きなんかじゃない
確認するかのようにそう呟く。そう、俺はあいつの事なんか、俺が好きなのは燐子さんだから。
好きだと言われたから言ったから、決めたから。その筈なのに壊れてしまったはずの鎖を意地汚く引きずっていて。
俺の事が嫌いなやつなんか、趣味が合ってるわけでもないやつなんかどうでもいいと思うことが当然であるわけで。
さっきはすいませんでした、二人に対しそうメッセージを送り燐子さんに思いを馳せる。
好きだ、間違いない。例え、もし、万が一湊が俺の事をそう思っていたとしても揺らぐものではない。
そう思うと頭痛がしてきてため息を吐く。期待するなと、するだけ無駄だと何度思ったらわかるのか。
大きくため息をつくと近くに寄ってきた猫をなでることにした。
「やっほー、久しぶりだね」
「別に、そうでもないだろ」
「そう? アタシ的には久しぶりな気がするんだけどなぁ~」
学校終わりのバイト中、入ってくるや否やそんなことを聞いてくるやつがいた。しかし二週間も経っていないのだし久し振りというのは少し違和感を覚えてしまう。
笑顔を絶やさず、そんな様子だったけれどリサは急に真剣な目をして俺に、話があるんだけどと言ってきた。
「残念ながら終わるのは先だから今日は諦めろ」
「ん~、待つのは駄目?」
「だいぶ先だぞ。というかお前、こんなとこで油を売ってる暇なんかあるのか?」
俺なんかに構ってるくらいならRoseliaの方に時間をかけた方がいいだろうに。時計を見ればバイトが終わるまで後40分もある、結局どんな用事であれここで話せることはない。
「もう知ってるんだ。それなら……」
「今日は駄目だ」
「さっきは駄目って言わなかったじゃん」
「大丈夫とも言ってないだろ」
「それなら明日ならいいの?」
「……そういうわけじゃねぇよ」
俺ができることなどなにもない。できたとして話を聞くとかその程度、それならやらんこともないが……いや、駄目だ。多分こいつは湊の事について話してくる。
それは聞きたくない、アイツに対しては何も思いたくない。好きとか、嫌いとか、どうしようもないことだから全てを忘れ去れるまでは。
「因みに友希那の事なんだけど……」
ほらやっぱり、口を開けば友希那友希那と言うようなやつだ、確信はなかったが予想なら簡単についた。そしてその答えというのも簡単なもので。
「余計やだね」
「どうして? 蒼音は友希那の事……」
「これ以上は後の客の邪魔になるからもう帰れ」
お客さんなんていないじゃん、そんな声が聞こえ続けるが無視し続ける。
どうせこんなの一時しのぎに過ぎないなんてのはわかってる、どうせバイト終わりにはリサからメッセージが送られてきていることだろう。でもそれなら無視すればいいだけの話。
気にしないようにと決めて、でもどうしても考えてしまうから遠ざけて。ああ、どうしてこうなってしまったのか。
元を辿ればその原因は俺だというのにまるで他人事のように、そう思いたくて思考を巡らせていた。
考えに耽っていたせいかバイトは体感すぐに終わった。スマホを手に取り、いつもならすぐさま弄りながら帰路につくのだが先程の通りで見たくない。
まだ空は暗くなり始めたばかりだから星でも見ながらというわけにはいかなくて、退屈になりそうだなとため息をこぼしながら店の外に出ると声をかけられる。
「……なんでまだいるんだよ」
「もうお客さんの邪魔になるからとかの言い訳はなしだよ?」
なんでまだ、幾ら寒くないとはいえ退屈だろうし、それに座るところもないというのに。そんなに聞きたい、または聞かせたいものなのか。
「蒼音はさ……アタシがRoseliaにお節介焼きすぎって思う?」
「知るか、常に見てるわけじゃないんだから。まぁ湊にはだいぶ焼いてんなとは思うけどな」
「やっぱりか~……はぁ」
大きなため息、それから先何も言われることはなくて。じゃあなと言って帰ってしまってもいいのにそれが出来ない、体がさせてくれなかった。別に悪いことじゃないだろと励ますことも。
「アタシ達今どうなってるのか……知ってるんだよね?」
「……まぁ、大体はな」
「それならさ……蒼音が友希那と話してくれないかな?」
意味が分からない、こいつは何を言っているんだ。メンバーでもない、嫌われている俺が一体何を話すというんだ。
「なんで俺なんだよ」
「……蒼音から言われたら友希那も考え直してくれそう、って思ったからさ」
「……自分で聞けよ」
俺がそう言うとリサの雰囲気が変わったような気がした。蓋が開いたというか、地雷を踏んだ、そんな感じ。
つい一歩下がってしまって、それを見てか手を掴まれる。ちょっと力を入れて振るえばその手は振り払えそうだった。だけど、そうすることは出来なくて。
「アタシだって、ホントは頼みたくなんかないよ」
別に大きくなければ迫力もない。なのに俺はその言葉に圧倒された。それならとか話を挟むこともまた出来ないでいると更に言葉を投げかけてくる。
「アタシの方が蒼音より何倍、何十倍も一緒にいるのに、蒼音はRoseliaじゃないのに」
その顔はまるで怒っているように見えた。でもその矛先は俺でない気がした。
「ずっと……ずっと友希那の事思ってる自信があるのに……」
声が弱まっていく、なのにその声はより確かに聞こえてきて。
「友希那は蒼音の音楽を認めてる、アタシは……一回やめちゃったから」
リサの瞳には、涙が浮かんでいた。
「Roseliaじゃないから、蒼音だったら……多分友希那は聞いてくれると思うから……」
そこまで言って泣いていることに気づいたのか俺の手を離し袖でそれを拭う。俺じゃなきゃアイツには、馬鹿な事をと頭で思って、でもそれを否定しきりたくなくて。
ここまで言われてそんなこと知るかと思うことなんかできる筈がない。でも一つ、俺には問題があって……
「……俺は湊に話しかけるなって言われたから無理だ」
「それって……SMSの後?」
「当日夜だな」
だから俺の話なんて聞いてもらえない、そう思ったのだけれどリサは俺の胸を人差し指で軽く押して言った。
「友希那の事、好きなんでしょ?」
「…………」
見透かされるような、真っ直ぐと見られると目をそらしたくなるがそうさせない力があって。別にと返せばいいのにそうできない、まるでそれが噓であるかのようで。
「それに、友希那は蒼音の事、嫌いじゃないと思うからさ」
「……は?」
「怒らせたりすること言ったわけじゃないでしょ?」
当たり前だと頷けばなら大丈夫と言い、それじゃまた連絡するねとその場を去ろうとするリサを呼び止めた。
「俺は話したいことを話すだけだ。大事なことは全部、お前達でどうにかしろ」
そう言うと彼女は驚いたかのように目を丸くして、その後笑って力強く頷いてその場を去って行った。
その後ろ姿を目で追い続けながら彼女の言葉を頭の中で繰り返す。
湊が俺の事を嫌いじゃない、一体何だっていうんだ。でもそれなら……
ずきりと胸が痛む。それは何度か感じたことのあるものだけど今回は今までで一番強いもので。
湊の事が好きなんでしょという問い、俺はそれに対してはいともいいえとも答えることが出来なかった。
俺がアイツに話したいことってなんだろう。俺の事を嫌いなのかと訊ねるのか、Roseliaはどうするのかと聞いてみるのか。言ったはいいもなにもかもがわからない。
俺はアイツの事を好きじゃない、今まで本心かどうか自分ではわからないけどそう思うことは出来ていたというのに、急にそう思うことが出来なくなっていた。
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自分は何者か
私は一体、何をしているのだろうか。ふとそんな事を考える。
為さねば成らぬことがあるからそれを成すために、動機はわかる、でもそれ以外がわからない。
何をすればいいのか、何でこんなやり方しかできないのか。何もかも全て。
「どうして……私は……」
何で私はこうも向こう見ずなのだろう。今更立ち止まることなんか出来ない、どうしたらと相談できる相手もいない。
メンバーにはあんな事を言ってしまったから、それ以外には……関係のないことだから、関与されることではないから。
自分でもわかっている、関係ない、関与されることではないと。そうわかっているというのに、関係のない人のことを考えさせられてしまうのはどうしてだろう。
「……燐子?」
すれ違ったその人を見間違うはずもない。向こうもそうなのか、お互い振り返って見つめ合う。久しぶりと声をかけることすら出来ず、だけどその状態のまま動けない。
燐子はあこと一緒であの時から練習に来ていない。なにか思うことがあるのか、それとももう来ないつもりなのだろうか……私のせいで。
声をかけられない、向こうからもそう、だけどお互いその場を離れようとしない。距離を詰めることも、視線もそらすことも。
「っ……」
ずきりと痛みが、ああ、これはいったい何なのだろう。突然やってきて蝕んできて、なんだか言い表せないような感情を抱かせてくる。
苦いもの、嫌いだから避けているそれだけどそれが私の中で作られるような気持ちの悪さ。吐き出せるならそうしたいけれど形はないものだからそれに苦しめられる。
これは罪悪感というものなのか、ならば謝れば消えるのか。でも、それを実行するわけにはいかない。強がっているわけではない、私はこうするしかないのだから。
振り返ったら自分がしてきたこと全部見えてしまって、先に進む道が消え足を取られ、何にもできなくなってしまいそうだから。
「やっと見つけた……って燐子じゃん、久しぶり~」
「お、お久しぶり……です」
「やっぱり久しぶりってなるよね。よかった~」
「どうか……したんですか?」
「ん? ああ、こっちの話だから気にしないで」
後ろからやってきたのはリサで、私達の近くに来るなり大きく息を吐く。少し急いでいたのか、それとも緊張からなのか。やっと見つけたというからには何か用があるのだろうが……多分Roseliaの事だろう。
そう思うとつい逃げ出したくなる。自信がない、問われたらきっとまともなこと、正しいことを返せない。それでも、これだけは絶対に逃げることは許されない。
「……何か用かしら?」
「まぁね。ただ……」
リサからの視線は私を通り抜けてその後ろの燐子に向けられる。燐子に話があるのか、それとも燐子には聞かれたくない話なのか。
少し悩むようにして、でも決めたのか強い目で私の事を見てリサは言った。
「友希那……蒼音と話、してくれない?」
その言葉は私の予想を裏切るものだった。てっきりRoseliaの事だと思っていたから身構えていたけれど、それでもその内容は私にとって拍子抜け、と思えるようなものではなくて。
むしろ逆だ、息が詰まって心臓が鳴る。何故? 彼に頼まれたのだろうか、彼に何か伝えたのだろうか。それともただ単に知り合い同士がギスギスしているのが嫌なだけなのか。
「……必要があるのかしら?」
「ある……って言ったら話してくれるの?」
「そんなことをする暇があるなら練習をするわ」
「そんなことって……」
燐子が声を漏らすがその通りでしかない。必要がない、話せば音楽が上達するのか、問題もわかるのか。必要がないから関係をどうこうする必要がなくて。
「そもそも、彼から聞いてないの?」
「話しかけないでって言ったんでしょ?」
「それを知ってるなら……」
知っているなら何故聞いてくるのか、彼と私のいざこざを解消しようという目的なら余計なお世話だし無駄なことだ。だって、元から問題なんてなくて私が一方的に言っただけなのだから。
そう言ってしまえばリサも納得するだろうか、きっとしてくれないだろうがそれは曲げられないもの、どうしようもないもので……
「どうしてそんなこと、言ったんですか?」
「彼はRoseliaじゃない……それだけよ」
「それなら……言う必要だって、ないじゃないですか!」
割って入ってきたそれは普段の彼女からは想像もつかないもの。気圧される、反論も出来ないまま一歩足を下げさせられる。彼女は一体何に怒っているのだろうか。
向けられる対象は私であるのは間違いない。燐子と新庄君は仲がいいから、そんな程度ではないだろう。
「……友希那さんにとって蒼音さんは……どんな人なんですか?」
「別に……」
どうでもない、そう答えようとしたが二人の視線にその言葉を飲み込まさせられる。私に何を言わせたいのか思わせたいのか、それもわからないまま仕方ないと思考を巡らせる。
新庄君は……音楽の話が出来る人だ、私と一緒で猫が好きな人だ。何故だか気になってしまう人だ、話しているといろんな事に気が向いて、だけどどこか落ち着くような人。後は……
おかしい、わからない。ふと抱いた違和感は膨れて頭の中がそれいっぱいになって……
──どうでもない人ならどうして、こんなにも考えられるのだろうか。
「どうしたの? 友希那」
「……いえ、何でもないわ」
答えられぬまま時間が過ぎていく。新庄君は私にとって何なのか、ただそれだけのものがわからない。
既にどうでもいいという答えは二人の視線もあれど、ここまで考えさせられたのにそう答えることは出来なくて。
「蒼音さんは……友希那さんの事が嫌い……なんですか?」
わからない、なにもかも全て。彼のこと、燐子が何故こんな事を聞くのか。嫌いということも、その意味も。
そんな私に対し、燐子は更に質問を投げかけてくる。
「それなら……蒼音さんの事が好きなんじゃ……ないですか?」
「ちょ、ちょっと燐子」
「……どうしたらそういう考えになるのかしら?」
私の言動からとれるものはそれとは正反対であろうもの、だけど心の奥底で納得させられてしまう。
「蒼音さんにだけそういう事を言うなんて……おかしいじゃないですか」
「……答えになってないわ」
口ではそういうものの頭の中ではそうもいかない。新庄君に言われたらその言葉に甘えてしまい、Roseliaを昔の様にできなくなりそうだと思ったから。
そんな言い訳ばかりが頭の中で浮かび続けて、でもよくよく考えたらそれは言い訳にならないもので。
思い返せば、彼にだけというのは今回だけのものではない。名字で呼ばれていること、連絡先を知らないことなどを気にかけさせられるなど全部、彼にしか抱かされたことのないもので。
「……心当たりはないん……ですか?」
「…………」
「まぁまぁ二人とも落ち着いて。それで、友希那は蒼音と話してくれる気になった?」
話す必要がないと言って、その明確な答えは一つも返ってきていない。彼と話せば練習にくるとか、これ以上余計な事をしないとか、そういうものが。
でも、嫌だと答えられない。それは私の中で抑え込んでいた新庄蒼音という存在が表に出てきたから、彼と話したいと思ってしまったから。
「……考えておくわ」
そう言って私はその場から逃げるように去る。二人は何やら話しているが離れたせいもあってか聞こえない。
新庄君と話したい、そうは思ったものの何を話したいのかはわからない。何から話せば、何のために話せばいいのかもわからない。
Roseliaのこと、音を取り戻すためにはどうしたらいいのか。それをわかることができるのなら、それを求めているのは間違いないけれど……本当にそれだけなのか。
目の前で猫が通り、周りに誰もいないことを確認してその子の近くに行く。そういえば彼も猫を飼っていたわね、なんてことを考えながらその子に手を伸ばす。
「やっぱり……」
猫は好き、それは隠しようのない事実だ。その前例があるからこそ好きというものがまったくわからないというわけではない。
猫と新庄君に対しての気持ちは同じでない。それははっきりとわかるというのに、彼を好きじゃないと思うと、そうと言い切ることは出来ないままだった。
新庄君と話したい。そう思った翌日になっても私は未だにそれを実行することを出来ないでいた。あんな事を言ってしまったからだとか、やっぱり必要ないからと思い直したからではない。
ただ話したいだけならば今日すぐにでなければ彼のバイト先に行ってみればいつかは会えるだろう。でもそうじゃなくて今日すぐにでも、そんな風にせかされている。
だけど彼の連絡先は知らない。燐子に連絡してもらうというのは……してほしくない。それが一番だとわかっていて、それでも嫌で。
気持ちを抑えきれない、だけどそれを確かにする方法はしたくない。それだから私は……
「……留守なのかしら」
インターホンを鳴らしてみたが誰も出て来る様子はない。私が今いる場所は彼の家の前。一度だけ来たことがあって、道もなんでか覚えていた。
ここなら間違いなく彼と会うことが出来る、そう思っていたのだが留守であるなら仕方がない。
空は暗くなり始めているというのに留守だなんて、こうしようと決めたからバイト先を覗かなかったのが裏目になってしまったか。
もしかしたら……居留守でも使われてしまっているのかもしれない。そうであるというのはあまり考えたくないものではあるのだけどありえないものではない。もう一度だけ鳴らしてみて、やはり反応はない。
明日ならいるかしら、そう考え、でもできるだけ早くがいいと思わされて。彼がいつ帰ってくるかなんてわからない、それにもし居留守でも使われていたら私は帰れない。
ため息一つ。今日はこれで最後と、インターホンを鳴らそうとした。
「……お前、何やってんだ?」
「リサから、あなたと話してって言われたから、その……」
後ろから声をかけられて振り返れば当然かのように新庄君が立っていた。素直になれない、リサの事を言い訳に使ってしまう。ただ私がそうしたいだけなのにそう言うことは出来なかった。
言葉が淀んでいる私の横を通り過ぎて彼は鍵を開ける。ああ、やっぱり私がどう思っていようと、彼は私の事を……
「……外だとあれだろ」
「……いいのかしら?」
「……うちの猫にまた会いたいって言ってただろ」
それだけ言って新庄君は私を置いて家の中に入っていった……鍵をかけずに。ふと笑みが漏れる、少しだけ嬉しいと思わさせられる。
彼が居留守を使っていなかったことか、彼に拒絶されなかったことか。私ですら言われるまで忘れていた約束を覚えていてくれたからか、彼もまた、何かを言い訳にしていたことか。
どうであれ、彼が嫌だと言わないのであれば有難くそうさせてもらおう。私も上がらせて貰って鍵を閉めて、リビングへと向かわせてもらった。
座らせてもらうと猫が寄ってきたので、彼の許可を取って膝の上に乗せる。彼も私の前に座り、だけど話しかける事なくそっぽを向いたまま。そっちを見てみてもなにもない、ただ壁が広がっているだけで。
互いに言葉にを発しないまま時間だけがすぎる。膝の上の猫がたまに鳴いて、それ以外には少しも音がしない。
あんな事を言ってしまったのだから私から切り出すべき、そうは思っていても何から、何を話せばいいのかわからない。
そんな私を見てか彼から話を切り出してきた。
「お前、Roseliaについてどう思ってるんだ?」
それを聞くということは……やはり全部知っているのだろう。それはリサによるものなのか、そんなのどうでのいい。隠す必要もない、だけどこれを話して何になる。音を取り戻すための道、それを私は知りたいのに。
でも新庄君はきっと無駄になることは聞いてこない、それは今までの付き合いで分かっているつもりだ。私ですら分からないそれを知るため、そうであると思い答える
「一緒にバンドをする場所よ」
「……それだけか?」
「他に何があるというの?」
「じゃあ、お前はなんだ?」
私は何者か、多分そのような問い。私は私、それ以上でもそれ以下でもない。そう答えればいいものの何故か詰まったかの様に口から出ない。
そうじゃないと、求められている答えが何なのか、それを奥底だけではわかっているかのような。
私は何者なのか。お父さんの夢を叶える為の、高校生の、猫が好きな。私は私、何度考えても出てくるのはそれだけで、何度出てきてもそうじゃないと思わされる。
湊友希那、それが私を表すもの。他でもない、Roseliaのボーカルの湊友希那、ただそれだけで……
……私は今、なんて思った? 余りに違和感がなくまた別のものかと思い思考を巡らせたが、それだけはこれは違うと思わず、極々自然なものであると思うことができた。
ふと彼の顔を見ると、ようやくわかったかとでも言いたげにこちらの事を見ていて……
「もう一回聞くぞ。お前にとってRoseliaは、なんだ?」
「私にとって……歌を歌える唯一の場所」
「お前は、誰だ?」
「私は、Roseliaの湊友希那よ」
「それを俺じゃなくて、あいつらに言ってこい」
手を私の事を追い払うかのように動かす。なんでこんな事がわからなかったのか、音を取り戻して誇りを取り戻す、そうするために、わかるまで顔向け出来ないなんて思っていた。
だけど私は、Roseliaのことが好きだから。わからなくても、そうしたいと思わされて。
「新庄君……ありがとう」
「……用が済んだなら帰れ」
彼はまたそっぽを向く。少しだけ顔が赤くなっていたような気もするが……部屋も熱くないし気のせいだろうか。
それよりもRoseliaのこと、少しわかったせいか思わされる事が沢山ある。みんなはRoseliaのことをそう思っているのか、みんなは演奏の時に何を思っているのか。
気になるそれは一人ではどうしようもない、だから今度みんなに許しが出れば聞きたくて。でもそれにはまずみんなが、私の事を許してくれなければいけなくて。
悩んでも仕方ない。駄目だと言われて、それで諦められるものではない。許しが出るまで頼み続けるだけ。
「そういえばもう一つだけ、言わなければいけない事があったわ」
「……なんだよ」
「この前はごめんなさい」
「……別に気にしてねぇよ」
だからこれからよろしく、そう言ってスマホを差し出すが彼はわかっていない様なので連絡先を交換したいと言えば渋るかのように、だけど交換してくれた。
あんな風だったのに見送りには来てくれるようで、ドアに手をかけ、ああそういえばこれを言い忘れていたと振り返る。
「忘れ物か?」
「いえ、言い忘れてたことがあって」
「まだあんのかよ」
「ええ」
わからなかった、正直なところ今でもよくわかっていない。でもこの気持ちを表すにはこの言葉しかない。知っているそれとはまた別のもの。この気持ちのこと全く分からないけど、そうであるということだけはわかってしまう。
「どうやら私、あなたの事が好きらしいわ」
「……は?」
「それだけよ。それじゃあまた今度……」
「待て、意味が全くわからないんだが」
「言葉の通りよ」
「そうじゃなくてだな……」
好きになった理由が気になるのだろうか、それは必要なものなのか。正直言ってしまえば私自身どうしてこんな風に思わされたのかわからない。
ただ燐子に好きなんじゃないかと言われ、そうであると思わされただけ。何故もどうしても知らないし、気になるものでもない。
そう言っても彼は納得していなさそう、だけど彼はそれ以上聞いてくることはなかった。
「そろそろ帰らないと。それじゃあまたライブに来てちょうだい……蒼音」
「……ああ、気が向いたらな」
その後彼が何か呟いたが聞き取ることは出来なかった。帰り道、少しだけ冷たい風が吹くがそれが気にならない程には身体が熱い。
これはなんだろうか、わからない。わからないけれど……なんだか気持ちがいいもので。
好きとは何だろう、それはわからない。好きならばどうなるのか、どうするべきなのか、調べようとすると妙に恥ずかしい。好きとはこういうものなのだろうか、本当に何もかもわからない。
好意というのを向けられるのはあまり好きではなかった、音楽に集中したいから、それの妨げになるものだったから。
そんな私が誰かの事を好きになっている、まるで笑い話だ。彼が私を好きだと言ったら……その時私は、なんて思うのだろうか。
「今度リサか燐子に頼んでみようかしら」
知ってしまったせいか、気になってしまったせいか。今まで欠片の興味も、少しの理解も出来なかったそういう本を読んでみたいと思うようになっていた。
求)感想
出)感謝
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恥ずかしがり屋が
朝目が覚めると日付が進んでいた。
当たり前だ、寧ろそうならないことなんてありえない。日付をまたいでから寝ればとか、その日のうちに目覚めればとか、そういったつまらないものはまた別。
昨日のこと、湊から言われたことは未だに信じられない。あれは夢だ妄想だ、そんな風に考えたから日付を確認して。
でもあれを夢だなんて思えるわけも、間違えるわけもない。だというのにため息をつく。
好きと言っても大雑把だ、でもああいう風に直接言われたのだから、恋している……と思っていいと思う。
全部、全部わからない。顔を洗っても頭の中はスッキリせずにまた大きなため息がこぼれてしまう。
いったい何時から、どうしてなのか。そんな当たり前のものからあれは本音なのかなんてものまで考えさせられて、でもその中で最もわからないもの、それはアイツがこぼした言葉によるもので。
「燐子さんからって……」
聞き間違えるわけもない。アイツは確かに燐子さんに言われそうだと思わされたと言った。
アイツが俺と話したのはRoseliaにとって必要だったから。そうリサが言って、多分その場に燐子さんもいたのだろう。
どうして、どうしてそんなことを言った。不満があるわけではない、ただ本当に不思議なだけ。
ただの冗談で言った。まさか、彼女はそういったことは言わないだろう。平時であればまだしも、バンドの危機と言ってもいい状況で。
「……考えても仕方ねぇか」
猫が寄ってきたので膝の上に乗せる。こういったことは本人に直接聞いた方が早いし正確だ。なんで言ったんですかと、ただそれだけで済む話。勿論ごまかされなければであればだが。
なんならリサに聞いてもいい、その場にいたというならばアイツの性格上なんでと聞いていそうだし。本人に聞くのは引けるしそうさせてもらおうか。
「……遅いんだよ」
呟いたそれは昨日と全く同じもの。遅い、好きだと言うのが遅い。なにも自惚れているわけではない、ただ、本当に言われるのが遅かった。
俺が燐子さんを好きになる前なら、迷いはじめであったならばこんなに考えることも迷うこともなかっただろう。
俺は燐子さんの事が好きと確かに思えた。湊に嫌われてしまったならばとかそうではなく、好きだと、純粋にそう思えた。
問題が解決したらあの時言えなかった答えを、俺も好きですと言おうなんてものも思っていたのに……
俺は今、迷ってしまっている。
それは悪いことか、考えなくてもわかること。言っていないからまだ大丈夫とか、少しでもそうは思えない。
あぁ、好きって何だろう。何度思ったかわからないその悩みをまた考えていた。
「久しぶり~、元気してた?」
「少なくともお前は元気そうだな」
あの出来事から四日、それだけ経ってようやくリサがバイト終わりの俺の前に現れた。
もっと早く来いとかそういうものを抱いていたわけではないが、ピアノが手につかないくらいには気にならされていた。Roseliaのこと、湊のこと、そして燐子さんの事を。
そんなならばさっさと聞いてしまえばいい、そうわかっていてもなんて聞けばいいのかわからないからじっと聞き続け、でもその中にRoseliaの話、湊の事は一切なくて。
「あ、ごめんね。アタシばっかり話しちゃってた」
「じゃあ俺からも幾つか聞きたいことあるんだが……いいか?」
「それならどっか寄ろうよ、立ったままだとあれだしさ」
それに、と付け足すように振り向いて招き猫のように手を動かした。
「もう一人いるからさ」
リサがそう言うと壁の向こうから覗き込むかのようにこちらを見てくるのは、今最も気にならされていた人。
目が合えば逃げるかのように壁に隠れてしまい、そんな彼女の背をリサが押して俺の前にやってきた。そこでも視線は俺とは全く関係ない場所に、その姿は俺に告白をしてきたなんてものが嘘であると思えるほどのもので。
「い、今井さん……私、やっぱり……」
「いまさら何言ってるの~? それに、蒼音も嫌じゃないでしょ?」
言葉も発せず頷くと、それじゃあ行こうとリサが言って歩き出し、俺が後を付けその後ろを燐子さんが。
偶に振り向けばやはり顔を伏せられる。ああ、彼女はこんな人なんだ。恥ずかしがり屋、それも俺が今まで会ってきた人の中でも上位に入り込んでしまうくらいには。
だけど、そんな彼女が俺に告白してきた、あの時何を思ったのか、俺にはわかるはずもない。でも、勇気を出してそうしたというのは間違いないだろう。
なのに俺はそれに対して答えることができないでいる。それがどうにも俺の心を締め付けてくる。
「あの……」
「……どうかしましたか?」
「いえ……なんでもない……です」
今日初めてかけられたその声は消えてしまいそうなもので、言いたかったのであろう言葉も飲み込まれて。
俺は何もしていない、することができない。迷わされているから、待っていますと言われたから。そうやって言い訳をすればするほど辛くなるのは俺自身で。
燐子さんの手に目が行った。理由なんかわからない、そういう趣味があるわけでもない。俺達は立ち止まってしまっていたからリサはだいぶ先に行ってしまった。
どこの店に行くのか検討はつくが確実ではない、だからちょっと早く歩かないといけない。それは勿論燐子さんにも当てはまるから……
「ちょっと~、二人ともなにしてるの~?」
前方からそんな声が聞こえたので俺も燐子さんもちょっと早めに歩き出す。好きだと言う程の勇気を出され、こちらもそうだと思っているのなら、俺からもそう示す行為をするべきだとわかっていて。
「…………」
なのに、俺はこの手を伸ばせない。子供が注射を刺されるのと一緒で少し我慢してしまえば一瞬で済んでしまうもの、だけどそうすることすら出来ない。
ピアノを弾くことしか出来ないその手を見て、燐子さんの事を見た。そして俺は、燐子さんの歩く速さに合わせる以外何もできないでいた。
「それで、聞きたいことって何?」
「あー……Roseliaはどうなんだ?」
「それは……」
カフェに着いて注文するなりそう言われ、とりあえずとリサに聞いてみたら突然顔を伏せられた。
こんな風に誘ってきたのだし、どうせ上手くいったのだろうと思い込んでいたがもしかして……
「ばっちりだよ。蒼音と、燐子のおかげでね」
「お前なぁ……」
「そ、そんな……私は別に……」
「そんなこと言わないの。勿論二人だけのとは言わないけど、二人がいなかったらこうはならなかっただろうしさ」
引っかかったとでも言いたげにニコニコとしているリサを見ると、少しでもやってしまったかと思ってしまった自分が馬鹿馬鹿しく思えてくる。
運ばれてきた珈琲を口にする。何故燐子さんは湊にあんな事を言ったのか、本人が目の前にいるのだから聞いてもいいのだが、やはり本人がいる場ともなれば気が引ける。そんな風に思っていたのだが……
「そういえば友希那に恋愛小説貸して欲しいなんて言われたんだけど、蒼音はなんか知ってる?」
突然言われたそれのせいでむせこんでしまう。大丈夫ですか? と燐子さんに心配されるが声が出せなかったので頷くしかなかった。
そんな俺の反応を見たのだから面白そうにリサは踏み込んでくる、と思ったのだがそんなことはなく俺が落ち着くのを待っていた。
「……どうした、いつもなら気にせず突っ込んでくると思ったんだが」
「失礼なこと言うな~。アタシだってそれくらいわかるよ」
それで、どうなの? それは俺に対して投げかけられているはずなのにその視線は俺の隣に向いていて。俺もそれにつられて隣を見れば妙に緊張したような様子でこちらを見ている燐子さんが。
これまた目をそらされて、そう思っていたのに今回はこちらの事をじっと見てきている。
隠せない。もとより隠す必要はないと思っていたが、そうすることは許されないとわかったから。
「……湊から、好きって言われた」
「……それから?」
「……それだけだ」
「もったいぶらなくてもいいんだよ?」
「何とも返してねぇよ」
納得していないかのような表情をリサは浮かべる。無理もない、俺がアイツの事を好きなことをコイツは知っているのだから。
それだからなんて返したか、何もなかったのか、それを聞き出したいのだろう。単純な興味もあるがそれは多分、燐子さんが最も気になることだから。
思い返せば燐子さんの事をどう思っているのかなんて聞いてきて、今から燐子さんが本を渡しに行くからと俺に伝えてきた。燐子さんが俺の事を好きなのだと前から知っていたのだろう。
そして知っているからこそ聞き出さなければと思っている。彼女は恥ずかしがり屋だから、知らなければならないから。
隣を見れば燐子さんは不安そうな表情を浮かべている。でもこれ以上に言いようがないと思っていると隣から声が飛んできた。
「蒼音さんは……友希那さんの事、どう思って……いるんですか?」
「……変わらないです。アイツの事はやっぱり好きで……」
「だけど、何とも返さなかったん……ですよね?」
「はい」
そう返すと燐子さんはほっと息をつく。一方リサはわかっていないのか俺と燐子さんの方を交互に見て、え? と声を漏らし続けていた。
「えっと……どういうこと?」
「そういう意味……です」
「ごめん、ぜんっぜんわからないんだけど」
「……そのまんまの意味だよ」
うーんと頭を抱えて唸っているリサを放っておいて残っていた珈琲を飲み干す。
不安そうな顔を見せ、答え次第でほっとした様子なのだ。きっと怖かったのだと思う、湊が俺に告白して、俺がなんて答えるか。
聞けない、そう思っていたけれどやっぱり気になりすぎるというのが本音。それにここまで答えてしまったのだし聞いてしまってもいい、そう思って聞くことにした。
「燐子さんは……なんで湊に俺の事が好きなんじゃって聞いたんですか?」
「ど、どうしてそれを……」
「……湊がそう言ってたので」
言葉を探すようにあちらこちらと視線を動かし、気づけばリサも頭を抱えるのをやめて燐子さんの方を見つめていた。
リサも知らないことなのか、どうにせよ俺もリサもただ待つことしかできない。
「えっと……ああでも言わないと友希那さんは……蒼音さんと話してくれそうに……なかったですから」
それが理由なのか、一体いつ湊が俺の事を好きなんじゃないかと思ったのか気になったがそれは聞かないでおこう。
Roseliaの為に仕方なく言った、そういうことなのだと思った瞬間、彼女はそれにと付け足した。
「もしそれで……蒼音さんが友希那さんの方が好きだと言ってたら……それまでですから」
彼女は笑みを浮かべながらそう言った。その笑みの裏に隠れた安心したように感じさせられる雰囲気も、俺には眩しすぎて見ていられなくて。
「えっと……さ、つまり蒼音は友希那の事が好きだけど、燐子の事も好きって事?」
「……まぁ、そうなるな」
最低だと罵られて当然だ、そう言われるようなことをしている、言っているのだから。今までそうでなかったのは燐子さんが飛びぬけて優しかっただけ。
そう思っていたのにリサは俺に対して、そっかとだけ溢しただけでそれ以上は何も言ってこなかった。
「そういえば夏祭り近いよね、その日って二人は暇してるの?」
「まぁ……予定はないな」
「私もない……ですね」
「じゃあ二人で行ってきなよ」
「そ、そんな……私なんかと……」
なんでもないかのようにリサはそんな風に聞いてくる。燐子さんは遠慮しているのかそんな風に言っているが、ちらちらとこちらを見ているのは俺も気づいている。
「俺は行きたいですけど……嫌ですか?」
「ほら燐子、蒼音もこう言ってるんだしさ」
「え、あの、その……私も行きたい……です」
それじゃ決まりとリサが軽く手を叩く。リサは来ないらしいので二人きりとのこと、燐子さんを見れば顔を赤くして俯いたまま。
ああ楽しみだ。夏休みなのだから楽しみなのは当たり前なのだが、好きな人と何かするとなればそれはより強くなるもので。
ああ、好きというのは心地好いものだ。こんなにも楽しみに思える、もう既に胸が高鳴り始めている。
早く夏休みになってしまえ、俺はそう思っていた。
好きというのは心地好いものだ。それは間違いない。
だけど胸に引っかかる何か、それも間違いなく好きというものによるものだった。
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理由を知りたくて
春になった頃にはあれほど望ましかった夏休みも鼻の先。今のところの予定はただ一つ、燐子さんとの夏祭り。まだそうではないというのに気分がいい、悪いはずもない。
ああ早くその日になってしまえと、その日の準備は何もしていないのにそう思わされる。それは持ち物のことでもあり、心の準備のことでもある。
昼休み、飯も食べ終えたしすることないなとスマホを開けば一件のメッセージが。なにかと思い確認をしてみれば学校が終わったら駅前で会いましょう、ただただそう簡潔に、たった一文で書かれていた。
それだけであるならばどうということはない。問題はその送り主、そこには湊友希那と書かれていて。
まっさらなメッセージ欄。例えるなら積もった新雪、それを踏み抜くかのようなもの。アイツは一体どんな気持ちでこれを送ったのだろう。
もし今日俺にバイトが入っていたならば、何かしらで遊ぶなどで断られたらとか、そういったことを考えた上でこの文を送ったのか。
幸い今日はフリーな為わかったと返そうとするもどうにも納得いかない。メッセージなのだし送れば取り返しのつかないものだからそれだけでいいのか、なんてことを考えてしまう。
送られてきたものを返すだけなのに、ただそれだけをどうするかと頭がこんがらがりそうなくらい考えさせられる。
ちょっと長くすればこっぱずかしいし、かといって短すぎるのもなんか嫌だ。少なくとも初めてのメッセージ、わかったとだけ返すのは許せないと勝手に思ってしまっている。
ほんと、なんでこんなことで考えさせられなければならないんだ。わかったでも了解でも、長ったらしくそれっぽい事を書いても結局は一緒。そうわかっていて、なのにこうも迷ってしまう。
湊は俺に送る時これでいいのかとか考えたのだろうか、少しは緊張したのだろうか。絶対に今わからないものであるくせに考えてしまい、どうせそんなことないんだろうなと思うとちょっとイラッとした。
それは憶測であるけれどどんどん加速していく。それは俺がこんなにも悩んでるのにというものからなのだろうか、それとも少しも恥ずかしいとかそういうものを抱いて
昼休みが終わるチャイムがなる。まだ教師はこないしさっさと返すか、そう思ったのだが次は移動教室なのでそうもいかない。
そのまま授業を二時間、その間に考えていたのだけれど納得のいけるものがでなくて、結局は終わったから向かう、なんてその場凌ぎに返していた。
「……いねぇのかよ」
顔を合わせたらまずなんと言おう、そんなことばかり考えていたのに約束の場所に湊は見当たらない。なぜだか普段より人が多い気はするが、その中に埋もれてというわけではない。
明確な時間を指定されたわけではないし学校だって違うのだからそれは当然、それでもため息は零れた。まあぁどうせ待つにしてもそう長くは待つことにはならないだろう。
早く来いよなんてことを考えてしまい、それを誤魔化すかのようにスマホを弄りながらも周りを見回し暫くするとようやく湊の姿が目に入った。
「待たせたかしら?」
「そうと言ったら?」
「ごめんなさいって言うしかないわね。でも、そんなには待ってないでしょう?」
時間を確認してみたところ十分程度、まぁそうだなと返したところで一つの疑問を抱く。あれ、十分しか経ってないのか? というものを。
体感ではもっと長かった、一時間とはいかないがその半分くらいは待っていた気分。だというのに時の流れは余りにもゆっくりで。
「それで、今日は何の用だ?」
また音楽の感想でも聞きに来たのか、それとも遅めの感謝でもしようというのか。
どうであれ湊が会いたいというからには何かしらの用件はある、そう思っていたのだが湊は首を横に振った。
「別に、何もないわ」
「……なら俺に会う理由はなんだよ」
「理由がないと駄目なのかしら?」
首を傾げられ、本当に何もないかのように湊は俺に対して不思議そうな表情を向けてまでいる。理由もない、ならば俺に合う必要なんてなくて。
それにコイツの事だ、必要がないのならば一人でも練習していそうなものなのだが。
勿論理由がないからといって嫌なわけではない。これで誰かとの約束より優先したとなればまた変わっていたのだろうが、まぁ好きな相手なのだ、嫌である筈もなくて。
「あ、友希那さんに蒼音さん。こんにちは」
「こんにちは。久しぶりだね」
「湊さん、今日は練習じゃないんですか?」
「そうね、そういう美竹さんは?」
「実は近くに新しいカフェが出来たらしくて、ひまりに一緒に行ってみないかって」
突然声をかけられ、誰かと思いそちらを見ればそこにはひまりちゃんと蘭ちゃんが。
この二人は俺らと違ってきちんとした目的があるらしく、ひまりちゃんの方を見れば楽しみというのがあふれんばかりに感じ取れる。
さて何をしようか、ただ突っ立ってるだけで過ごすのは馬鹿らしいしすることもなうえに疲れる。三人の話を右から左へと流しながら考えていたのだが、ひまりちゃんからある提案をされた。
「そうだ! 二人がよければですけど、一緒に行きませんか?」
俺と湊は目を合わせる。自分は別にいいけれどそっちはどうだ? そう目で会話をする。
そして互いになんの反応も起こさないでいるとひまりちゃんは、予定があるならそっちを優先してもらって大丈夫ですと言ってきた。
「いえ、することもなかったところだし……そうね、美竹さんがいいのならお邪魔させてもらおうかしら」
「アタシは別に大丈夫です」
「蒼音さんはどうですか?」
「……みんながいいなら俺もそうさせてもらうよ」
することがなにもなかったから助かった、でもそれは俺にとって手放しに喜べるものではない。
みんなというのは蘭ちゃんひまりちゃんは当然ではあるのだがもう一人、そちらの方に目をやればまるでなんでもないかのようにしていて。
二人きり、そんなことを意識していたのは俺だけなのか。馬鹿みたいじゃないか、そんな風に思わされてイラつかされて。
「ひまり、なんであの二人誘ったの?」
「そ、それは……スイーツが美味しいって話だし少し分けて貰えたらいろんなの食べられるかなぁって……」
「……また体重増えたって嘆いても知らないよ」
「ちゃんと私の分も分けるから大丈夫だってば!」
そんな楽しそうな会話を二人はしてる。同性だから同じバンドだから、そんなのはあれどきっと底の底まで仲がいいのだなというのは簡単にわからされて。
「……どうかしたのかしら?」
「……お前は良かったのか?」
「することがないまま過ごすよりはいいでしょう?」
ああほんと、気にしてるのが馬鹿みたいだ。やっぱりコイツなんか、そう思って顔を見れば、そう思い切ることは出来なかった。
「ふ~、大満足だよ」
「ひまり食べ過ぎ、財布やばいんじゃなかったの?」
「うっ……そうだ、お二人は何で一緒にいたんですか?」
「湊が駅前で会おうって言ってきたからね」
頼んだ物を食べ終わり今は飲み物を飲んで休憩中。こういったものは普段食べないが悪くはなかったが、また来たいというほどではない。
蘭ちゃんにバレたくないのか今回は砂糖まみれの珈琲ではなく紅茶を飲んでいる湊はなんだか満足気、やはり女子というのは皆こういったものが好きなのだろうか。蘭ちゃんが頼んだチョコレートを勧められた時は少し嫌そうな顔をしていたが。
「え、それじゃあ何か予定があったんじゃないんですか?」
「予定は本当になかったから安心してちょうだい」
「それじゃあなんで新庄さんに会おうなんて言ったんですか?」
「理由はないわ」
それは俺の知りたかったこと、でも今回のように理由なんてないと言われたこと。でも蘭ちゃんはそこで諦めずに湊を追及する、なにもないなんて事はないんじゃないですか、と。
そう言われると湊は顎に手を当てて考えるそぶりを見せる。その姿は何か理由となるものを探しているというよりかは何と言ったらいいかと迷っている風で。
「……会いたいから会う、何かあるとするならばそれね」
「だから、その会いたい理由を聞いてるんです」
「ちょっと蘭、友希那さん困っちゃってるじゃん」
湊は遂に困り顔になり再度考えるようにして、そうねと呟いた後、なんでもないかのように言った。
「好きだから、それだけよ」
その言葉を聞いた瞬間俺は固まった。珈琲に伸ばしていた手は勿論、突拍子すぎて理解できないと思考すらも。
もう一度頭の中で同じ言葉を流してみて、そこでやっと恥ずかしさが湧き上がってくる。
一体どういうことだと、いや、既に好きと言われているのだがそれにしても突然すぎる。恥ずかしげもなく、事実何かおかしなことを言ってしまったのかとでも言いたげに首を傾げられる。
「おい、どういうことだよ」
「言葉のままよ」
「だとしてもだろ、それにその事を他の人の前で……」
「隠すものでもないでしょ?」
「隠すもんだよ、恥ずかしいとかそういうのはねぇのか」
駄目だ、顔が赤くなってきていて思考もまともにできないでいる。知っていた、でも知っているのと言われるのでは全く違う。
百聞は一見に如かずなんていうけれど、二度目でも一度目と同じかそれ以上のもので。
意識しているのは俺だけ、そんな風に思ってさえいたのに蓋を開けてみればこれだ。恥ずかしい事を言ってきたのは向こうな癖に恥ずかしがってるのはむしろ俺で。
「恥ずかしがるものでもないでしょう、苦手なことだったり、知られたくないものでもないのだから」
「す、すいません! つまりお二人は……付き合ってらっしゃるんですか?」
「それは……」
「蒼音の返事待ちよ」
「え、じゃあここでまさかの……!?」
全員の視線が俺の方に向いてくる。冷静になりきれない思考、この期待されているかのような視線、それでも俺は答えることが出来なくて。
「まぁ、今すぐでなくともいいわ」
「……お前はそれでいいのか?」
「決めるのはあなたよ、私がどうこう言えたものではないわ」
その後はひまりちゃんからマシンガンのような質問攻めを受ける。それはもしかしたらスイーツ食べてる時より元気そうに思えるほど怒涛のもので。
そんなひまりちゃんを蘭ちゃんが抑えて質問が止んだところで湊は俺の方を向いてくる。
「そういえば蒼音、あなたはどうして私だけ名字呼びなのかしら?」
「……お前は名字の印象が強かったからな、名前を知った時父親のって言ってただろ」
「なるほどね。それで、いつまでそれを続けるつもりなのかしら」
言葉にはされてないが言いたいことはハッキリとわかる。今更変えようとなるとやはり恥ずかしくて、でも湊がこちらをジッと見ているせいで誤魔化すということは出来なくて。
「……わかった、これからは友希那って呼べばいいんだろ?」
「そうね……そうしてくれると嬉しいわ」
ああ、ほんと調子が狂う。そうしてくれれば嬉しいなんて、なんでもないかの様に言うべきことでもない、コイツらしくない。
ふと小さく、見落としてしまうくらい小さく湊は……友希那は笑った。それは今の俺にとってあまりに刺激的な物で。
「そういえばこの前あなたに話した曲の事なのだけど……」
友希那はなんでもないかのように話をしてくる。顔を上げてみれば先程の表情が噓かのような真剣そうな表情を。
いつも通り、見慣れたそれと先程の笑みとのギャップに、いつまでも顔が赤くなっていた。
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距離を縮め
約束の日の当日というのはどうにも落ち着かない。
朝起きて今日の天気を確かめる。雨だと言われ少し悲しくなって、星座占いなんて普段は気にならないものですらその結果に喜んだ。
ラッキーアイテムだという青のハンカチを部屋から探し当て、気になるあの人との距離が縮まるかもなんてものを変に意識してしまって。
「燐子、今日の夜でしょ?」
「は、はい」
「頑張ってね、応援してるよ」
練習も終わり後は時間が過ぎるのを待つのみ。今井さんからの励まし言葉を受け取りスタジオを出ようとしたところで友希那さんの方に目が行った。
同じ人が好き、それを知って、でもどうすることもなく何かが起きるわけでもなかった。
いつも通り、前と何も変わらない。互いに好きで、だからどうしたというかのように関わりが増えもせず、避けもしていない。
「友希那~、今日のお祭り一緒に行かない?」
「お祭り……そういえばそんなものもあったわね」
「折角だし行こうよ。因みにもう一人いるんだけどいいよね?」
「もう一人……蒼音かしら?」
友希那さんの口から出た名は聞き間違えるはずもない彼のもので、そしてその名を出すということは……やはり蒼音さんの事が好きだということ。わかっていても心臓がドキリと鳴ってしまう。
でも彼は今日私と祭りに行くからそれはありえない、でももしかしたら、なんて思うと怖くなってきてしまう。
私なんかより二人の方に、そう考えたくないことばかり考えて。
「残念だけど蒼音は……別の人と行くらしくてさ、アタシ達のとこには日菜がいるよ」
「そう、今日は予定もないし行ってもいいかもしれないわね」
「お、じゃあ帰ったらまた連絡するね」
言葉を濁すかのように今井さんがこっちを見て言うと、それに気づいてか友希那さんもこちらを見てくる。
まるで射貫かれるような視線は今井さんがスタジオを出ると更に強くなり、彼女はこちらに近づいてきた。
「……なん……でしょうか?」
「今日蒼音とお祭りに行くのは……あなたなのかしら?」
何だというのだ、ズルいとか羨ましいとかそういうことを思っているのだろうか。そう思ってくれているのなら……ちょっとだけ嬉しい。
それはただの嫉妬。私が彼女に抱いている物を彼女もまた抱いているならばちょっとだけ。頷いてと返せば考え込むかのような間の後、彼女は更に問いかけてきた。
「……もしかして燐子、あなたも彼の事が好きなのかしら?」
「……だったら……どうなんですか?」
静寂が私たちの間に漂う。氷川さんは既に行ってしまった、あこちゃんも今井さんについて外に出た。二人きり、会話は全くないけど離れることも出来ない。
「……蒼音が告白に答えてくれないのもそういうことなのかしら?」
それにも何も返せない、でも目をそらさないで見つめ合う。ああ、強い人だ、相変わらず。私が何と返そうと、なんと思おうと彼女は何も変えないだろう、好きだということ、その表し方、私に対して思うことも。
いつまでもこうしているわけにはいかないのでスタジオを出れば雨の音が小さく聞こえ始める。
「友希那さんは……恥ずかしくないんですか?」
「何のこと?」
「誰かを好きって……他人に知られたり、本人に言うこと……です」
「別に恥ずかしいことじゃないと思ってるから」
この前蒼音さんから聞いた話によれば、友希那さんは上原さんと美竹さんのいる前で告白の答えを聞こうとしたらしい。
そのせいで二人にはバレてしまったというのに友希那さんは少しの恥じらいもなかったようで。
隠しているのか、それとも本当に何とも思っていないのか。私だったら信じられない、一度はしたが半場自暴自棄のようなものだ。
もし彼女のように恥ずかしがらずにいられるならきっと彼との距離も縮められる。そう思うからどんな風なのかは知りたかった。
聞いてみた結果としては価値観が違った、それなら仕方がない。猫が好きな人もいれば犬が好きな人もいる。勿論逆にどちらか嫌いな人も。
それと一緒、絶対に変えられないところだからこうして恥ずかしがり屋でいるのも仕方がない。
降り注ぐ雨の音を聞きながらそう思ってしまったところを友希那さんはでも、と付け足してきた。
「もし恥ずかしかったとしても、関係ないわね」
「……え?」
「恥ずかしいからといって言わなかったり表さなかったら、伝わらないでしょ?」
ああ、これは仕方ないことだ。価値観の問題なのだから、考え方の根っこである話なのだから。
そもそも、私だって恥ずかしくても何度かそれを乗り越えた、小さく小さく進んできた。
なんて、どれだけ都合のいい言い訳をしても何が正しいのか、そうではいけないとはっきりとわかる。
友希那さんは、きっと私より一歩を大きく進めてしまう。当然だ、かけ声で始まったわけでも、仲良く一緒にゆっくりというものではないのだから。だから私は彼女より大きく進まななければならない。
わかっている、そう、わかっているのに……
「りんりん、友希那さんと何話してたの?」
「ううん、別に……なんでもないよ」
……遠慮をしているわけじゃない。足を引っ張るこの感情を無視できるならば私だって。
雨の音が少し、強くなった。
人混みは苦手だ。祭りだって、ゲームのイベントなら違うけれど正直好きではない。つまらないわけでもない、ただ人が多すぎるという一点に尽きる。
雨が降っている。昼と比べれば弱々しくてあってないようなそれだけど、そんな程度でも少し気分を下げさせるには充分で。
「待たせて……しまいましたか?」
「いえ、そんなです」
音のしない傘を指しながら約束の場所に向かえば既に蒼音さんが待っていて、この程度ならとでも思っているのか彼は傘を指していない。
彼だけではない。傘を指しているのは寧ろ少数派、周りを見てみれば指しているのは私を含めて数人ほどしか見当たらない。
「それじゃあ行きましょうか」
「……はい」
どこに、そんなもの決まってない。存在しないから悩まさられるのではなく、たくさんあるから悩まされる。どこにも寄らず、ただ隣を歩き続ける。
すれ違う男女の二人組は皆手を繋いでいた。ああ羨ましいとは思うけど、どうにもそうすることは出来なくて。
傘が邪魔だから、突然するのは失礼になるんじゃないか。言い訳はいくつもあるのだけれど、結局はただ、恥ずかしいだけ。
「そこのお二人さん、一つどうだい?」
そんな中突然声をかけられたので、蒼音さんと顔を見合わせた後一つ買う。これで両手も塞がった、食べているから話も出来なくなった。
祭りというからにはこういうこともあるし、楽しむというのだから仕方がない。別に楽しくないわけじゃない、嬉しくないわけじゃない。でも、少しだけ寂しくて……
「そういえば友希那から聞きましたけど、来週ライブやるんですよね?」
「え……あ、はい」
「行けるかわかんないですけど行けたら行くんで、頑張ってください」
「…………」
そんな雰囲気を感じてくれてか、私が食べ終えたのを確認してからそう話しかけられる。いつの間にか雨も止んでいたので傘を閉じ、そうしたからか少しだけ距離が寄っちゃって。
ああ、それは嬉しい。ほんのちょびっとでも近づいたこと、気遣いをされたのも偽りなく嬉しいのだけれど……でもやっぱり、引っかかるものがないわけではない。
変わってる、友希那さんの呼び方が。それだけの事が重く、深く私に突き刺さる。
呼び方がなんだ、名前呼びなら私だってされている。そう単純に思えたのならよかったのだけれど、めんどくさいことにそう思うことは出来ないでいた。
何故、どうして、なんて考えてもどうしようもないのに考えてしまう。
名字呼びから名前呼びに、本当にそんな些細なことが頭の中を埋め尽くす。
仲が良くなった、明確に距離は縮まっているはず。じゃあ、私は?
「……どうかしましたか?」
ずっと変わらない、変えれていない。好きと言われるほどではあるのだから完全にそうとは言わないけど、本当に小さなもので誤差ばかり。
その一方で友希那さんは直線的に近寄って行ってる。恥ずかしいとか怖いとか一切なしに止まらないまま進んでいる。それは、私には簡単に出来ないこと。
彼との関わりの回数は私の方がずっと多い、なのにその進み方は私と並んで、もしかしたらその先を行っているかもしれない。
今日言われた言葉が蘇る。想いを言わなければ表さなければ伝えられない。そんなの当然で、わかっていても出来なくて。
今日もそうだ、ほんの少しでも好きだと言ってないし、そう察させるような事はしていない。そんなでは距離を縮めるなんてできるはずもない。
恥ずかしいという感情が邪魔をしてくる。自分から提案出来ない、手を繋ぎませんか、たったそれだけの事を。
「あっ……」
ハンカチが落ちた、ポケットから落ちたそれは今日のラッキーアイテムのはずで。雨が降っていた後出し地面はびちょぬれ、ああもう散々だ。
それを拾おうと服が地面につかないようにしゃがんで手を伸ばすと何かに当たった。パッと手を引く、それは……蒼音さんの手だったから。
「ご、ごめんなさい……」
「い、いえ、こちらこそ……」
彼が拾ったそれを渡されて、私はそれを強く握った。想いでなら絶対に負けてない、その自負がある。
手が当たった時私はなんと思った、嬉しかった、後から恥ずかしさに襲われたけれどそれがどうでもよくなるほどに。
「あ、あの……」
「なんですか?」
距離を縮めるとは何なのか? 名前呼びならそうなのか敬語を捨てればそうなのか、隣を歩けば、一緒にお祭りにいけばそうなのか。
そんな複雑なことではない。それらも決して間違っていないが、もっと単純なものがある。それは……
「手を……繋いでもらっても……いいです……か?」
そう小さく言って手を動かすが蒼音さんからは何も返ってこない、言葉も、行動も。もしかして私の声は聞こえない程に小さなものだったか、それとも嫌なのか。
今なら顔から火が出てしまいそう、熱くてまともに考えられない。俯いたまま顔は上げられないが、彼の足がそこにあることから隣から移動はしていないのだとわかる。
どれだけ恥ずかしくても手は下げない、もうとは言わない、今だけは下がらない。
心臓が鳴り続ける。周りの音全て飲み込む程鼓動を刻み、一体何秒立ったのかすらわからない程の時間間隔の中で、指に何かが優しく触れた。
「……ごめんなさい、今は、これで」
指と指、掌には及ばない浅さでだけど、確かに手が繋がれた。
先程とは比べ物にならない勢いで心臓が鳴る、なんだかクラクラさえしてきてしまった。ああでも、恥ずかしいとかそういうもの全部飛び越して、どこか遠くに行ってしまって。
「友希那さんとは……こういう事、したこと……あるんですか?」
「……一回だけ」
でもあれはこんな風じゃなくて、と付け加えられる。噓を言われるとは思っていない、それでも心の奥底に、小さく黒いものができるのは確か。
恥ずかしいと感じるよりも強いそれは、指でだけ繋いでいたものを、確かに手で繋がせてくれた。
真っ赤に染まった顔が見える。ああ、彼もこんな顔をするんだ、私はどれくらいだろう。恥ずかしさによる最後の抵抗か、顔を逸らした。
友希那さんは彼のこんな姿を知っているのだろうか。私達は手を繋いだまま、道を歩き続けた。
射的、金魚すくい、型抜き。色々遊んでみたけれどどれもいまいち覚えていない。
家に帰りベッドに寝転ぶと今更になってため込まれていた恥ずかしさが爆発して寝転がり回る。
ああなんてことを、そう思うも遅くただただ自分のしたことが自分に降りかかってくる。
死んでしまいたいくらいの恥ずかしさに襲われながらも、出来るかどうかとは別で、もう絶対にしないとは思わされない。
楽しい、ではなく面白いでもない。気持ちいいというわけでもない言い表しようのない何か、それは……とても心地よいもので。
「蒼音さんは……」
迷惑じゃなかったか、彼は楽しめたのか。今日繋いだ手を翳しているとそんな事ばかり考えてしまう。手を洗うの勿体ないな、なんて思ってしまうくらいには今回の事は私には大きなこと。
それもそう、次もそうなるとは、できるとは限らない。だから一回一回を大切にしていきたい。次も、その次も、今日みたいになるとは限らない。
今日だけで一体どれだけの距離を縮められただろうか。彼からしたらほんのちょっとかもしれなくても、私からすればそれこそ星の距離程のもの。
二番目でもいい、思われているのならそれでいい、なんて思えるほどこの想いは小さくない。
彼からあなたが一番好きだと言われたくて、そうなりたくて。
未来を願って今を求めて。あなたが好き、言ったその言葉をそのまま返される日を、私はいつまでも待ち続ける。
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選ぶということ
異性と、それも好きな人と手を繋いだ。
不思議な感覚だ。時間が経って尚それは、手を洗っていないわけではないのにハッキリと残っている。
熱を、感触を、寸分の狂いなく今ここにあると錯覚しかねない程に覚えていて、でも何も手では触れていないという事実が物寂しさを与えてくる。
異性と手を繋いだ、今までで一番なかったかと言われたら勿論そんな筈がない。じゃあ、好きな人とというのは?
……これも初めて、なのかもしれない。
友希那と手を繋いだ事がある、それは事実だ。それはだいぶ前、更にアイツの事を好きでなかった時。
だとしても、そうしたという事実と記憶は残っていて……
「あの時は……どうだったんだっけ」
そもそもどっちの手でしたのかすら覚えていない。ただ恥ずかしい、そうは思っていなかったということだけは明確に思い出せる。
帰った後はこんなにも悶々としたか、そのことについてこんなにも考えたか。燐子さんと繋いだのと反対の方の手を見て、ため息をついてからソファーに倒れ込んだ。
「……気にしてんの、俺だけなんかな」
燐子さんもこんな風に考えてしまっているのか、友希那は……そもそも覚えているのか。
きっと、好きというものはこういうものなのだろう。気になって、気になって気になって仕方がない。それはなんでも変わらない。
「好き……か」
それで言うなら今の俺にとってピアノは何なのだろう。好き、そう言うことは簡単だ。嘘ではなく事実なのだから。
じゃあ心の底からそうかと言われたらどうだろう。一番かと聞かれたら……どうなのだろう。
引っかからないものが何もないかと言われたらそれは違う。でもそれは関係ないと思えているのだし、ピアノは好きだって心の底からそう言える。
でも俺は、全て投げ出してピアノだけを取る事ができるかと言われたらそんなことはない。何もかもにおいて一番かと断言できるかと言われたら、言うことは出来なくて。
そもそも一番以外捨てろというのがおかしいものだ。そんなストイックにいたらおかしくなってしまうし、それについて誰も怒ることはない。
でも好きな人というのはそうもいかない。俺は一番を選ぶ、選ばないといけない。
「…………」
二人のこと、どちらも好きだ。好きなところは日に日に増えて、頭の中はピアノ以上に二人が占めている。
何もかもが違う、そんな二人を好きになった。二人の共通点なんか、それこそ音楽をやっていることくらい。
「……俺からも、なんかしないとなぁ」
何処かに誘って、手を繋ぐにも俺から伸ばして。出来る事したい事全部やりきってから決めたい。そうせずに決めたくない。
中途半端で、なんとなくで後悔なんかしたらそれはなによりも酷いことで最低で、それだけは絶対に嫌だ。踏みにじるようなことはしたくない。
「……寝るか」
二人のうちどちらかを選べたとして、もう一人はどう思うのだろうか。
納得するのか、怒ってしまうか、それならいい。じゃあ、悲しんでしまうのか。俺の選択はその可能性を含んでいるというのが怖くて、恐ろしい。
もしかしたら母親も最初はこんな風に考えていたのかもしれない。目を閉じて、ずっとそんな事を考えていた。
長期休暇というのは常に望みに望んでいるもので、その中でも一番長い夏休みというのは特別だ。
友達と遊んだり家族と何処かに行ったり、楽しみになるような事が大量なのだが、それでも時間はまだまだ余る。暇かと聞かれればそうでもないと答えるが、忙しいかと聞かれれば暇と答える。
世間ではそうなのだろうが俺の夏休みは今のところ暇一色だ。積極的に遊ぶ友人はいないし家族とのあれこれもない。予定というものがあるとするならばそれこそバイトくらい。
「……はぁ」
だからこそ俺には理由がない。忙しいからと言うことが出来ないから言い訳が出来ない。二人のこと、誰にではなく自分に対して。
気持ちに嘘はない、でも行動に表せるのかどうかは全くの別物。恥ずかしいと強く思うわけではなく、何をすればとわからないからでもない。自分でもどうしてそうできないのか、全く分からない。
「ため息なんかついちゃって~、幸せが逃げちゃうぞ?」
「……嫌なもん出してるって思ってるからいいんだよ」
「偏屈だな~。なにか悩みでもあるの?」
「お前は関係ないさ」
信号を待っている間、隣にやってきたリサに話しかけられる。信号が変わって歩き始めても隣を付いてきて、渡り終えたところで前に出られ道を塞がれる。
「アタシはってことは、友希那か燐子のこと?」
「だったらなんだよ」
「別に、気になっただけだからさ」
その後近くの日陰を指さされ、どうと首を傾げてくる。リサは話したりないらしいし、俺も暇なので大丈夫だと伝えてそこに移動した。
「で、燐子とはどうだったの?」
「…………」
手を繋いだ、なんて言えるはずがない。同じバンドなのだし既に彼女から聞いている可能性もあるがそれでもだ。答えられず目線を外せば追及してこない。
流石に悪いかとリサの方をちらりと見れば、ニヤニヤと、なんだか馬鹿にされていそうなほどの顔を向けられていて。
「……お前、知ってるだろ」
「なんのことかな?」
「顔に出さない努力くらいしろ」
「蒼音だって、全然隠せてないよ」
何を馬鹿なと思えどカメラで撮っていたわけではないし確かめる方法などない。試しに顔を軽く触ってみたところでわかるはずもなく。
恥ずかしさを感じながら文句の一つでも言ってやろうかと思っていたところ、一つの声が割り込んできた。
「あなた達、何してるの?」
驚きもあれ、今を表す丁度いい言葉もないから黙り込む。リサの方を見ると目が合って、察してくれたのか彼女が友希那に説明してくれた。
「偶々あったからさ、特に何をしてたってわけじゃないよ」
そう、と形だけの返事をして友希那は俺の隣に来る。聴こえてくるのは目の前を通り過ぎる人の足音と車の音ばかり、隣からはなんの話も振られてこない。
燐子さんと繋いだ手、その反対の方に友希那がいる。手を繋がないか、なんて言えるはずもない。恥ずかしいからというのもあるが、ただ道行く人を眺めている奴にそう言うのが癪だから。
何を思ってそうしているのかはわからない。暇なのかそれとも観察でもしているのか、どうであれこいつは俺の事を視界の隅にすら入れてないということが、より強く友希那の事を意識させてくる。
「お前」
「貴方は」
そんなだから声をかけたけれど、それは突然こちらを向いてきた友希那の発したものとが重なった。
予想だにしなかったことで言葉を飲み込む。それは彼女も同じな様だったが、俺が続きを話さないからか一呼吸して、言った。
「貴方が私の告白に答えない理由……燐子の事を好きだから、で合ってるかしら?」
騒々しい程に思えていた周りの音が一気に遠くのものになった。知っていたのか、だとするならとリサの方を見るが首を横に振られる。
ならば……勘だろうか。ああでも、友希那の顔はそんな風ではなく、確かな事実を確認するかのようなもので。
そうだと単純に返す事も、だからどうしたなんて言うことは有り得ない。どのように言うべきか考えていると、なんとも陽気な音楽が流れ始めた。
その音源はリサからで電話がきたとのこと。数分程してそれを終わらせたリサは俺たちの方を見た。
「ひまりから会おって言われたんだけど……二人はどうする?」
「あー……俺はパス」
「なら私もそうさせてもらうわ」
そう言ってリサはこの場を去って二人きり。気まずさに戸惑いながらも友希那の方を見ると、彼女はハッキリと、目をそらさずにただこちらを見ている。
嘘は、つけない。どうせ通用しなさそうだし、そうしたくない。先程の問いに対しそうだと告げると彼女は目を瞑り、暫く考えるようにして再度問いかけてくる。
「貴方は燐子の事、どう思ってるの?」
「好き……じゃ足りないか?」
「いえ……それでいいわ」
好き、簡単で、それでいてどこまでも真理である答え。何がと聞かれたらどれだけ出るかは予想もつかない、どれくらいかと言われたら表し方がわからない。
でも求められているのはきっとこんな単純なものではない、そう思っていたのに彼女は何やら考え込んでいる様子。声をかければそれで大丈夫よと言ってきた。
その後また無言の空間が出来上がる。引っかかるものでもあるのか、友希那は手を口元にあて何かを考えている様子。
流石にこのまま時間がただ悪戯に過ぎていくのは望むとこではない。それにいつまでもこうして立っているのも疲れてきた、喉も乾いてきたしどこかによりたい気分だ。
それら全て先程言おうとしたことと丁度いい。
「お前、この後暇か?」
「そうだけど、それが?」
「なら……カフェでも行かないか?」
「確かに立ちっぱなしでいるのも疲れるし、そうしましょう」
隣り合って歩き出す、手は……繋いでいない。そうしようなんて言い出せるはずもなく、すれ違うカップルらしき人がやってるそれを見て手が少し寂しくなり握り込む。
こいつはそうしようと言えばしてくれるだろう。恥ずかしげなく理由もわからず、ただそうする。正反対だ、彼女達は本当に。
「なぁ……お前は燐子さんのことどう思ってるんだ?」
「感謝しているわ。同じバンドとしては勿論、衣装とかも全部やってもらってるから」
大きく息を吐く。正直安心した、そう思えるなら、それだけしか思わないのなら。
もし俺が思うような事を抱くのなら……いや、それは自意識過剰というやつか。それに、そういうのはコイツとは縁遠そうだ。
好きと言った。その言葉、決して軽んじていない。だけど選ばなくてはならないという事実は余りにも大きくて、逃げようにも逃げ道はないし間違えてもコンティニューなど存在しない。
ふと隣を見るとどうかしたのかしら? と聞かれたので、なんでもないと返していた。
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抱いたそれは
燐子の事をどう思っているのか。感謝していると返したその質問が未だに頭の中に残っている。
間違っていると思うわけではない。足りない、何かが。それだけでないとわかって、でもそれが何かわからない。
「どうした?」
「……なんでもないわ」
一体なんだ、何だというのだ。どうでもいいと割り切れない、思考がどんどん染まらされていく。
今度のライブの事を色々話したいと思っていたのにそれを切り出せず、蒼音と会話をしているのに少し聞き流してしまっている。
ふと近くにあった鏡に映った自分の姿を見る。ああ、わからない、なんて思っているのかわからない。
自分のこと、だけど自分じゃわからない、断片的にわかってきても本体が見えてこない。
「あそこ、見てみろよ」
そう指さされた窓の外を見てみてば子猫が数匹、彼は私の事を忘れてしまったかのようにそちらを見続ける。
いつもなら私もそうなのだろう、でも今はそうならない。窓の外を見続ける彼の横顔をじっと見続けていると、不思議な感情を抱かされる。
不思議なもの、でもそれは好きだという時ほどの暖かさはなくて、だからといって冷たいものではない。
きっとこれは何度も感じたことがある、日常的でないとしても珍しいものではない。でも、どうしてそう思うのかわからない。
──羨ましい、なんて
何故そう思ったのか、そしてその感情は、何故だか燐子に対して抱いたものに似ている気がした。
羨ましいと猫に対し抱いた、そしてそれは燐子にも似た者を。それらの共通点とはなんなのか、考えたところで出てこない。
ただ蒼音の横顔を見ていると、胸が締め付けられるかのような気がして……
「……なにか付いてるのか?」
「……いえ、気のせいだったみたい」
軽く顔を触りながら言ってきたのでそう返す。その後は子猫の方を二人で見ることにして、それはその子達が何処かに行くまで続いた。
その途中、何度か彼の方を見てしまった。何も変わらないのに、どうしてそうするのかわからないままその日は別れて。
「……やっぱり、なんでもないわね」
一人で猫のところに向かい頭を撫でるが、この子達が可愛いと思う以外に何もない。
羨ましいなんてやっぱり勘違いだったのか、でもあれはそれ以外に何と表すのか私にはわからない。
もしかして好きとはこういうもの、だとするならば燐子に対してこう思うことはおかしくて。
燐子も私に対して似たような物を抱いているのだろうか、それとも私だけなのか。明日燐子に聞こうかしらと考えながら猫の頭を撫で続け、昨日より暑いなと夏を感じていた。
「あれ~、湊さんじゃないですか~」
「お、ちゃんと働いてるね~」
「もちのろんですよ、なんてったってモカちゃんですから~」
練習帰り、リサが飲み物を買いたいと言うので一緒にコンビニに寄るとそこには青葉さんが。
他のお客さんも見当たらないということでリサは話し込んでいるので、折角だし私も飲み物を買うことにする。
私の好きな甘い珈琲は見当たらない、お茶でも買おうと思ったけれど私はいつもなら買わないようなブラックの珈琲を手に取っていた。
こんなもの苦くて飲めたものじゃない。でもそれは私のもので、例えば蒼音なんかはいつもこれで飲んでいる。
彼は一体どんな風にこれを口にしているのだろう。美味しいと持っているのか、それとも大人ぶっているだけなのか。
「あれ、どうしたのそれ」
「何を買うのかなんて私の自由でしょう?」
「そうだけどさ~……飲めるの?」
いつの間にか隣にいてそんな事を言ってくるリサを無視してレジに向かう。
会計を済ませ、しかし外は暑くて出たくない。リサが戻ってくるまで待とうと思ったところで青葉さんから話しかけられる。
「ひーちゃんから聞いたんですけど~、蒼音さんの事が好きってホントなんですか~?」
「ええ、そうよ」
「へぇ~、最近お二人はどんな感じなんですか~?」
「どんな?」
「ここが気になってるとか~、デートしたとか」
気になっている、とするならばやはりそう。気になって、でもそれだけ。どんな風にもない、連絡先がふと目に入れば目が行ってしまうし、彼は今何をしてるのかとか、そんなもの。
デート、というのは一緒にカフェに行くとかもそれに含まれるのだろうか。それともそんな程度じゃ駄目で、燐子みたいに祭りとかに行かないと……
ぞわりと背中を何かが駆け巡ったかのような気がした。ああ、これだ、この感情だ。羨ましいというものにとても似てる、でも圧倒的に冷たい。黒く、底冷えしてしまいそうな。
なんだろう、これは。私は
青葉さんを見るとこちらの言葉を待っているようで何も発してこない。質問の途中なのだから当たり前か、それならいっそ、聞き返してみるのもいいかもしれない。
「一つ聞きたいのだけれど、誰かと誰かの関係に羨ましいと思うのって、おかしいかしら?」
「つまり~、今そういう感じってことですか~?」
「まぁ、そういうことね」
青葉さんは数秒考えるようにして、ニヤニヤと笑みを浮かべながら答えた。
「おかしくないと思いますよ~、それだけ好きってことですし~」
「……青葉さんもそういう経験が?」
「さぁ、それは内緒ですね~」
そんな会話をしているとリサが戻ってくる。リサの会計を待ち、青葉さんのありがとうございましたというのを背に受けながら外に出た。
外は暑い、特に冷房の効いた店内から出たのもあり余計にだ。買った物を飲もうと袋から取り出したものは当然ブラック珈琲で。
「……苦い」
「も~、だから言ったのに」
蒼音の事を考えていたらつい買ってしまったそれ、手元にはこれしかないし仕方ないと一口だけ口にするがやはり私には合わない。
ほら、とお茶を渡されるが特段喉が渇いているわけではないので別にいいと断る。珈琲の蓋を閉じ、スマホで一つ連絡を送り、それが返ってきたので歩き始める。
「友希那~、そっちは家と反対だよ?」
「私は用があるの」
「そんなの言ってなっかったじゃん」
別に帰ってもいいと言ったがアタシも暇だからと答えられる。まぁリサがいるからどうこうというものではないし放っておくことにした。
目的の場所、蒼音の家の前で足を止め、インターホンを鳴らし彼が出てくるのを待つ。
これは……二回目か。あの時と一緒で彼が家にいるかはわからない、でもあの時と違って彼の連絡先を知っている。だから今何処にいるかと聞き、その答えがここだった。
「二人してなんの用だ?」
「聞きたいことがあったから」
「アタシは友希那についてきただけだから気にしないで」
そう答えると彼は私の事をジッと見てくる。それだけか? と聞いてきたのでそうだと返すとため息をつかれる。
「……お前は聞きっぱなしにするな、てかそれだけならわざわざ来ることもなかっただろ」
「駄目だったかしら?」
「……そういうわけじゃねぇ」
スマホを見てみれば確かに蒼音から何か用かと返信が来ていた。確かに連絡だけで済むと言われてみればそうだが、別に彼も駄目だと言っていないし問題ない。
それに……それでは少し、物足りない。後一つ、飲めなかった珈琲を渡そうと思ったというのもあるが。
「貴方、明日って暇かしら?」
「明日は予定ありだ」
「なら明後日は?」
「ちょっと友希那~、明後日は一日Roseliaの練習でしょ?」
リサから言われそういえばそうだとなり、それならば明々後日はどうかと聞けば了承が返ってくる。
その日はRoseliaの練習もない、予定も決められたし帰ろうかと思ったところ蒼音から一つ質問をされた。
「その日何するんだ?」
「何を?」
「そんな聞き方してくるんだからしたい事は決まってるだろ?」
明々後日、何をするか。そんなもの何も決めていない、でも二人の目がそうは答えさせてくれない。特にリサの興味津々と嫌でも感じさせるそれが。
さて何をするか、蒼音と何か出来ればとは思っていたが……なんと言ったものか。暫く考えて、そうだこれだと私は口を開いた。
「デート、しましょう」
「……は?」
ピタリと二人が固まったのがよくわかる。何かおかしなことを言ってしまっただろうか? そんな事を思っている私に対し、言葉の雨が降り注いできた。
「それにしても、友希那があんなこと言うなんて驚いたよ」
「リサには関係ないでしょ」
「まぁ、そうだけどさ。何か思うことでもあったの?」
「…………」
きっと青葉さんからその言葉を聞いてしまったから出てしまった、なんて単純なものではない。
羨ましいと思った、彼から何かと思われる何かに対して。そしてもう一歩踏み込んで、ズルいと、多分そう思ってしまった。
何に、燐子に。彼とそういうようなものをしたことがあり、なのに私はしたことがない。抱いている感情は同じなのに、そんなの不平等で。
なんで彼女だけ、そう思い始めると止まらなくて、だからこうして実行した。きっと私は彼女に対し妬ましい、なんて思ってしまったのだと思う。
こんな感情、子どもの頃玩具の取り合いで負けてしまった時以来だろうか。子どもっぽいでも構わない、これは紛れもない、私の感情だから。
「……リサ」
「ん、どうしたの?」
「デートって、何をしたらいいのかしら?」
リサが何もないところで躓いた。何かおかしな事を聞いてしまったのだろうか?
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渡し合い
「…………」
ショッピングモールの丸椅子に座り考え込む。昨日のこと、デートしましょうと言われたあれ。
友希那はいつもいきなりすぎる。突然連絡をよこしてきたかと思えばあんなこと、一体何の意図があるのだろう。
……いや、意図なんてわかりきっている。好きだから、あいつはそう答えるだろう。
「……まだ早いか」
なんの用もなくショッピングモールに来たなんてことは当然ない。待ち合わせ、その相手は燐子さんで、それまではだいぶ時間がある。
デート、とはどのようなものなのだろう。意味はわかる、問題はどこからそうなるのか。
気にかけてる相手と一緒に出かけるのがそうだとするならそれは一度ではない。
なら、今日のはどうなるのだろう。デートと……言うしかない。そう考えてしまったせいかいつも以上に緊張してる、昨日もろくに寝れなかった。
「もしかして……俺だけか?」
友希那は昨日ああ言ってきたのだし、そんな風に意識はしていなかったかもしれない。でも、燐子さんは?
俺は……正直言ってよくわからない。意識をしていなかったわけでもないし、緊張なんてありえないくらいしていた。ああでも、共通の趣味があったせいか男女の関係だと思い切ることはできていなくて。
「また……待たせちゃい……ましたか?」
「いえ。さっき来たばかりです」
「…………」
なんだか疑っているようだが今回ばかりは本当の事なのでどうしようもない。まぁそう言っても信じてくれないだろうし、悪い事ではないのだし別にいいだろう。
「どこか行きたいとこって……あったりしますか?」
「い、いえ……私は別に……」
「それならアイスでも食べに行きませんか? 外暑かったでしょうし」
「そう……ですね」
今回のデートとも言うべきこれは俺が誘った、だからといって一から百まで決めてはいない。本人に行きたいとこでもあればそれでと思っていたがそう上手くいかないようで。
それならそれで考えてはいたがやはり不安だ。上手くいくのか、楽しんでもらえるか。
なんて考えていたけれど一瞬にして何かがそれを覆い隠す。その正体は右手に当たる何かによるもので。
「ひ……人が多くて……はぐれちゃい……そうなので」
それだけ言ってこちらを見上げるその姿にあれこれ全部吹き飛んで、まさかと返して歩き始める。
多分誰も俺らのことなんて見ていない、だとしても恥ずかしいと思うのは仕方のないことで。顔は赤いだろう、熱も出始めたかもしれない。
彼女はどうか、なんて確認しようとすれば目が合ってしまい互いに逸らす。話すことなく、顔を合わせることもない。でも、手を離すことはなかった。
「燐子さんはどれにする予定ですか?」
「そう……ですね……」
燐子さんは真剣そうにメニューを見る。流石に並んでいる間ともなれば人の多さもあり、通り過ぎていくわけでもないので恥ずかしくて手は離してしまった。
自分から誘っておいてなんだが俺的にはどれでもいい。無難におすすめとあるものを頼もうかと考えていたところ声をかけられて。
「蒼音さんは……何にするんですか?」
「そうですね……おすすめってありますしあれにしようかと」
「なら私も……」
なんて会話をしていたら順番が回ってきていた。燐子さんは……俺と同じでいいのだろうか? 取り敢えず俺の分は先に頼んで視線を向ける。
先程の言葉的にそうであろうし、二つ目を頼もうとしたところ彼女は指をさして、これでお願いしますと店員に言った。
「払うんで大丈夫ですよ」
「い、いえ……これくらい自分で……」
「これくらいですし、誘ったのも俺なので」
半ば強引に金を支払いアイスを受け取る。燐子さんは納得してなさそうな表情を浮かべているが、既に払ってしまったものなのでどうしようもない。
席につき食べ進め、この後どうしましょうかとかRoseliaのこととか会話をし続ける。そんなだからか互いに食べるのは遅く、大きいものではないのにまだ半分程度にしか食べれていない。
アイスという品である以上溶け始めてくるのは仕方ない。まだそうでないとはいえだんだんとスプーンの通りが良くなってきてしまっているしさっさと食べた方がいいだろう。
そう思っていたのだけれど燐子さんからある提案をされて。
「あの……良ければ、なんですけれど……交換、しませんか?」
「え?」
「あ、いえ……その……」
聞き間違いでなければ交換しませんかと、何を? そんなもの、これしかないだろう。
味が異なるのだし交換しよう、そう捉えるのが普通なのだろうが、顔を赤く、そらされながら言われてしまえば気になってしまうのも仕方がなくて。
「駄目……ですか?」
「……いえ、そうしましょうか。折角味も違いますし」
ああ、よく回る口だ。いざ交換したはいいものの食べ進める事は出来ないまま時間は進み溶け始めてきた。
これは所謂間接キスとやらになるのだろう、が交換してしまった以上このまま捨てるという事はありえなくて。
覚悟を決めて一口、味なんてわかるはずもなく、代わりにただただ恥ずかしさだけが広がっていく。
くらくらしてしまいそうそれ、将来酒を飲んだらこんな風なのだろうか。であれば……確かに、溺れてしまっても無理はない。
さて燐子さんはどうなのかと目の前を見てみれば、どうやら彼女も同じようで顔が熱でも出しているかのように赤くなっていた。
自分もああなのだろうか。確かめる術はなく、アイスに触れた冷たい手では顔に触れてみても冷たさしか感じ取れない。
「あの……戻しませんか?」
「あ……そう……ですね」
このままでは食べきれる自信はない。嫌いなものというわけではないし、やろうと思えばできなくはないのだろうが、その前に自分がどうにかなってしまいそうだ。
そういえば友希那から貰ったあの飲みかけらしき珈琲、誰のか、なんてのはわかりきっていることで。
まだ口はつけていない、そうであることが唯一の救いだ。もししていたならば俺は今更なる羞恥心に襲われていただろう。
しかし、口をつけた回数や量など関係するものではない。その証拠として、一口しか互いに相手の物を食べていないが、それでもこんなにも返ってきた物を口にするのを戸惑っている。
俺と燐子さんはなんとかアイスを食べきったが会話はない。
なんと切り出したものか、目も合わせられずに時間だけが過ぎて、その静寂を破ったのは彼女から。
「よかったらこの後……本屋……行きませんか?」
「はい、大丈夫です。何か買いたい本でも?」
「えっと……はい、新しい本……買おうかなって」
そうと決まればということで本屋に向かう事に。最初は繋げた手、でも今度はそうすることは出来なかった。
燐子さんが本を探している間、折角だし俺も何か探すかと思いながら彼女の後をついていく。しかしあちこち見回せど興味をそそる物は中々見つからず、あったとしても既に持っているものばかり。
そんな俺とは反対に本を見つけたのか、燐子さんは本棚を眺めていた俺に話しかけてくる。
「蒼音さんも何か……買うんですか?」
「そうしようかなって思ってたんですけど、中々良さそうなのが見つからなくて」
「あの、それなら……私が探してみても……いいでしょうか?」
それは一体どういうことなのか、取り敢えず頷いてみると彼女は何処かに行ってしまった。と言っても走ってるわけでもないので後を追えばそこは新発売の小説が並んでいる場所で。
頷いてしまった手前もし既に持っている本を渡されたらどうしようかと考えていたがその心配はなくなって少し安心した。
あれでもないこれでもないと、本を手に取り元の場所に戻している。その様子は真剣そのもの、それはまるで自分のものを探している時よりも真剣そうで……
「あ、蒼音さん、これとかどう……でしょうか?」
そう言われ見せられた本、あらすじとタイトル、それだけでしか判断出来ないけど、好みであると答えるしかないもので。
不安そうな表情を浮かべている、だからありがとうございますと笑って答えれば彼女はほっと息をついて顔を逸らす。
そうしたら燐子さんは何故か俺にその本を渡さずにレジに向かおうとしたので呼び止めた。
「さっきの……お返しがしたくて……」
「あれは俺が好きでやったことなんで気にしなくても……」
「これも……私が好きでやってる……ことです」
筋は通っている、がそれとこれは別だ。形に残るものであるのもそうだし、値段もそうだ。でも彼女も譲る気はないようでそう伝えても頷いてくれない。
どうしたものか。これを承諾するのはなんか嫌、でも何を言っても彼女は断るだろう。それに、彼女がしたいと言ってくれたのだ、強く断ることなど出来るわけがない。
そうして悩んで、一つの答えを出した。
「じゃあ燐子さんが買う予定の方、俺に買わせて貰えませんか?」
「えっ、でも……それじゃあ……」
「形に残る物ですし、貰いっぱなしになるっていうのは……」
彼女は悩み始める。それでは意味がない、そう思っているのだろう。それはその通りで、値段だってほんのちょっとしか変わらない。
「それなら今度……ピアノ聴かせてください」
そう付け足せば彼女は折れたのかこちらに本を渡してくる。レジに並んでそれらを買って、本屋を出て最初に会った椅子に座ってそれらを交換する。
傍から見ればおかしな行動だが一々見る人もいないだろう。交換し終えて次はどうしようかと考えていると、燐子さんが本の入った袋をじっと見つめている事に気づいた。
「どうかしましたか?」
「蒼音さんは、友希那さんにも……こういった風に何かを交換したこと、あるんですか?」
「ない……わけじゃないですけど……」
ないです、と即答しようとしたところで踏みとどまる。そういえばリサから貰ったクッキーを渡したことがある、ああでも、あれは今回のとはまた違うもので。
「自分で買った物はないですね……貰った事も」
「……そうですか」
そして数秒後、彼女は微笑んだ。嬉しかったのか、何かが面白かったのか、わからないけれどそれは眩しくてドキリとして、今度は俺が顔を逸らすことになった。
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氷山の一角
「まさか被るとはな……」
友希那とのデート当日、待ち合わせ場所として指定された場所はショッピングモール。それは三日前に燐子さんに俺が指定したものと同じで。
何をするかというのは知らされていない。アイツは全部決めてきているのか、それともこの前の俺のようになんとなくしか決めていないのか。
十分前になっても姿を見せない彼女を壁に寄りかかって待ちながらそんな事を考える。
「時間にはまだ早いと思うのだけど」
「遅れるよりはいいだろ」
「それもそうね」
友希那がやってきて俺と同じように壁に寄りかかる。時間丁度くらいに来ると思っていたから予想外、早く起きたとかそんなだろうか。
隣り合ってさて何処に行くのかと内心身構えていたのに、友希那は一向にそれを教えてこない。それどころか話すこともなくただこちらを見つめていて。
「……なんだよ」
「どうかしたのかしら?」
「お前が……いや、なんでもない」
言い争ったところで何も起こらない、もしこんなくだらないことで険悪な雰囲気になってしまったら最悪だし黙っておこう。
ふと時計を見ればそろそろ本来の待ち合わせの時間、このまま何もしないで過ごしたいわけではないし彼女に訊ねることにした。
「何をするのか決めてんのか?」
「まずは映画を見ようと思ったのだけれど……」
何ともベタで、しかしデートと言って浮かんでくるものとしてそれはかなり上位に入ってくるもの。ちゃんと考えてきてたんだなと思うも意外ではあった。
言ってしまえば全部丸投げなんてことすらありえると思っていた。こいつは音楽と猫以外に興味がなさそうなやつだし。
しかし、さて、映画ときたか。映画を最後に見たのはいつだったか、テレビであればいざ知らず、映画館でとなれば……パッと思い出せる中にそれはなかった。
今やっている映画というのはなんなのだろうか、最近はテレビもあまり見ていないのでそこら辺は全くわからない。
「何を見るとかは決まってるのか?」
「それは……えっと……」
少し赤くした顔を背け言い淀まれる、もしかして決めていないのだろうか。
俺の興味のなさそうなものにしないために選ばなかった、というならば嬉しかったのだが友希那の反応を見るにそうではないらしい。
その反応は見覚えがある。それは友希那ではなくてもう一人、燐子さんがいつもしているもの。恥ずかしい、そう表すかのような。
でも友希那のこの姿、見たことがないわけではない。それは決まって猫関連、もしやと思って今日上映予定の映画を見てみると予想通り、そこには猫が主人公の映画の名が。
好きだと言う時ですら欠片も見せないその姿は新鮮で、なんだか弱々しく見えるからなのか、いつも以上に彼女の事が可愛く見えた。
「……調べてみたら猫が主人公の映画やるみたいだし、それにしないか?」
「……! そ、そうね。それにしましょう」
早く行きましょう、と彼女は歩き出す。何処か楽しそう、ホントにアイツは猫好きだ。ああ、でも……
アイツの楽しいに、俺はいるのだろうか? 燐子さんと繋いだ手を見て、そして既に遠くに行ってしまった友希那の方を見て一つ、ため息をついた。
「映画、よかったわね」
「……そうだな」
映画を一人以外で見たというなら鉄板とも言うべき感想の伝え合い。友希那は止まることなく猫の魅力を語っている一方、俺は彼女の話を聞くだけの案山子のようなものになってしまっている。
正直言ってしまえば、映画には全く集中出来なかった。つまらなかっただとか腹を壊したとかではない、その原因は目の前のコイツのせい。
猫が出るたびにゃーんちゃんだの可愛いだの、つい呟いてしまったのだろうが隣にいるもんだから気になってしょうがなかった。友希那の俺でない方の隣が空席だったのは唯一の救いと言ったところか。
ただ、うるさいと思わされる程ではない、怒っているわけでもない。もしそれが俺の隣に座っていた男がやっていたとしても何ともなかっただろう。
集中させられなかった理由、それはそれをしたのが友希那だったから、それだけだ。
「……あげないわよ?」
「……俺だってまだ残ってるからいらねぇよ」
今いるのはこの前燐子さんとアイスを食べた場所。黙って見続けていたせいだろう、欲しがっていると思われてしまったのでそれを否定する。
「そういえばお前、今日音楽の話全くしないな」
「嫌かしら?」
「気になっただけだ。しなかったことなかっただろ、多分」
友希那と顔を合わせ会話をして音楽関連の話を全くしない時、なんてのは一度もなかったはずだ。
どれだけ小さくても音楽の事、Roseliaの事は話していた。勿論、俺が指摘していなければこの後話していたかもしれないが。
「……そうね、音楽の話をしなかったことはなかったわ」
別になんでもない、流してしまうような話題。そうなる筈で、でも友希那は少し暗い顔をした。
何かおかしなことを言ったか、先程の自分の言葉を思い返し、しかしそんなものはなかった。であれば何故、と思考していると彼女は口を開いた。
「私、あなたの事を全然知らないわ」
「……なんだよ、急に」
「そのままよ。音楽以外で私は、あなたとまともに話したことがない」
それは些か話を盛っているような気もするが……彼女の中ではそうなのだろうか。どうであれ、それは心からのものだとわかる、わからされる。
「あなた一昨日、燐子と出かけたのよね?」
「……あぁ」
「それで、何をしたのかしら?」
「本を探したくらいだな、話すようなことは」
他にもあるがあの日一番とするならそれだろう。互いに本を買いあった、その程度だけど、あの本は何だか読むのに変な緊張さえした。
それを聞いてどうするのか、彼女はそうと呟き立ち上がり食べきったアイスのカップを捨て、俺に向けて当然かのように言ってきた。
「行くわよ」
「どこにだよ」
「本屋よ。嫌、とは言わせないわ」
あまりに唐突すぎる。嫌、ではないが……友希那は本を読むのだろうか。音楽雑誌ならわかるが小説とか、悪いが好んで読んでいるようなイメージはない。俺もゴミを片付け、友希那と隣り合って歩く。
何故急にあんな事を言ったのか、元から本屋に予定があったというわけではないだろうし、行くところがなかったし名前が出たから行こう、という風でもない。
嫌とは言わせないと言った。つまり、明確な理由があるはずで。
それは何だろう。俺の事を全く知らないと言っていたし、俺の趣味に触れようとでも思ったのか。それとも、燐子さんと俺が行ったからなのだろうか。
「……何か付いているかしら?」
「……気のせいだった、何でもねぇよ」
もし、もしそうだとするならば……この手を繋いだという事実、コイツは知っているのだろうか。知ったらしましょうと言ってくるのだろうか。
俺から手を伸ばす事は、やっぱり出来なかった。
「……本って色々あるのね」
「そりゃそうだろ」
「あなたのおすすめの本とかってあるかしら?」
一緒に本を探して数分、自分で探すのを諦めたのかそんな事を聞いてくる。
おすすめの本、となればいくらでもある。だが俺が持っているものであれば貸してやればいいし、出来ればそうではない方がいいだろう。
友希那が好きそうなもの、音楽関連と猫はともかくとして後は……なんだろう。
先程の彼女の言葉を思い出す。俺の事を全く知らないと言ったあの言葉、それは俺からしても同じだと気づいてしまった。
コイツの好きな物は、趣味は、そんなもの俺は知らない。好きな相手のことなのに、氷山の一角程度でしか知れていない。
「……お前、好きな物ってなんだ?」
「はちみつティーとかかしら。後は……そうね、リサのクッキーとかかしら」
「じゃあ趣味は?」
「趣味と言えるものはないわね、そんなものにかける時間があるなら練習をするわ」
それはどこまでも俺の知っている湊友希那で、でもそれはより深くで知れたもの。まだ俺は彼女の事を全く知らない、でも、聞いてわかることなんてほんの少ししかなくて。
「なんで急にそんな事を聞いてくるのかしら?」
「……お前の興味なさそうな本選ばねぇためだよ」
口ではなんとだって言える。勿論嘘ではない、でもその比率なんて微々たるもので。
どれにしようかと探し回って、でもそう簡単に見つからない。いつまでもそうして連れまわすのはよくないだろう。
仕方ない、俺も持っているが猫が主役の本にしよう。そう思いその本を探し、友希那にこれだと教えることにした。
「……これ、あなたも持っているのかしら?」
「嫌なら別のを探すが……」
「いえ、これでいいわ」
そう言って彼女はレジに向かって行った。時間的にはそこそこだが、季節のせいもあってか外はまだ明るい。
この後どうするか、アイツはどうしたいのか。友希那が返ってくるまでのちょっとの間、レジの方を眺めながらその事を考えていた。
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慣れないこと
「あのボスほんとキツかったー! ごめんね、りんりん。あこが足引っ張っちゃったよね」
「ううん……あれ、本当に難しいクエストだから……次はパーティーメンバー増やして……やってみよっか」
「うんっ! 蒼音さんとか誘って、ぜーったいクリアしよ!」
あこちゃんとショッピングモールのカフェにやってきて、昨日のNFOで勝てなかったボスのことについて話し合う。
未だに彼とやるゲームには慣れる気がしない。彼の事が気になっていつも通りに出来ないから。
でも……嫌じゃない、むしろ逆、出来るのならば積極的にしたい。だから、そうだねと返事をして余っていたケーキを食べきった。
「次はアクセショップに……って、あれ……
ねぇ、りんりん見て! あそこのショップにいるの……リサ姉かな?」
あこちゃんが指さした方を見れば今井さんの姿が。何を見ているんだろうと思って目を凝らしてみると、それが水着だとわかった。
海にでも行くのかな、なんて思ってたら声かけてみよ! とお会計を済ませたあこちゃんは走って今井さんの元に向かっていった。
「リサ姉~!」
「わっ! び、びっくりした~」
「ごめんなさ~い。リサ姉水着買いにきたの?」
「うん、実は今週末にひまりと海に行く約束してさ~」
持ってるの中学時代のだから、と言う今井さんに対しあこちゃんが自分も行きたいと言うと、今井さんはそれに許可を出す。
そしてあこちゃんは喜びそのままに私の方を向いて言ってきた。
「ねっ、りんりんも行こうよ!」
「……えっ……む、ムリ……ムリです……」
私には関係ないこと、そう思っていたから驚いた。でも無理、海なんて、しかもこの時期に。人は沢山いるだろうし、なによりも水着なんて絶対に。
「え~、絶対楽しいよっ、りんりん!」
「あこちゃん……でもムリ、です……」
「そっか……まぁりんりんとは海じゃなくても遊べるもんね」
あこちゃんはちょっとだけ残念そうな表情を浮かべ、それがどうしようもないくらいに胸を痛めてくる。
「でもま、水着見るのは付き合ってくれてもいいよね?」
「行こっ、りんりん! 最強にかっこいいやつ、見つけよ!」
「わ、私も……? ま、待って……」
結局その日は水着探しに付き合って、アクセサリーショップには行かなかった。
あこちゃんは私に似合う水着を探してくれようとしたけど私はそれを断って、それであこちゃんはまた残念そうな顔をして、それでもいつか絶対海に行こうねと言ってくれた。
行けたら……いいな、それがいつになるのかはわからないけれど。
帰宅後、あこちゃんと一緒にNFOをする予定があったので起動すると、トップページにお知らせが一つ。イベントかなと思い見てみれば、そこにはコラボのお知らせと書いてあって。
性能は……まぁまぁだけど、見た目は可愛くて欲しい。いったいどこでやるんだろうと思って調べてみると……
「ここって……」
週末に今井さんが行くと言っていた海の近くにある海の家、開催場所は何度見てもそう書いてある。
海に行かないと貰えない、でも限定装備は欲しい。私の中で二つの気持ちがせめぎ合って……勝ったのは後者だった。
……いや、どうだろう。これは言い訳かもしれない。本当に限定装備が欲しいだけなのか、海に行きたいのか、あこちゃんのあの寂しそうな表情が嫌で嫌で仕方なかったのか。
自分でもどれかわからないけれど……それでいい、わからないならそのままで。この気持ちが変わらない事の方が大切で、だから早くあこちゃんに連絡しないと。
連絡をしたらやってしまったという気持ちが襲ってきたが、やれたという気持ちもあふれてくる。
蒼音さんに告白して手を繋いで、それに比べればこんな程度と思えている。彼と出会わなければ……こうやって言うことも出来ていなかったかもしれない。
人は慣れていく生き物。最初は苦手でも、回数を重ねれば段々と薄れていく、Roseliaのライブでも過度の緊張をしなくなってきたのがいい例で。
ならば蒼音さんとのもいつか慣れてしまうのだろうか。それは今のところ、頭すら見せてくれていない。
「燐子さんの水着選びのお手伝いができるなんて、嬉しいです」
「まかせといてね、アタシとひまりで超似合うやつ探すから」
「お、お願い……します」
海に行きたいとあこちゃんに言って、でも問題が一つあって、私は水着を持っていなかった。
なくはないのだけれど昔のものだし、着れる自信もなく不安だったので今井さんと上原さんに頼むことにした。
勿論着ない、という選択肢がないわけではなかった。普通の服で行けば少し……いや、だいぶ暑いだろうけれどそれでも済む。
なのに買いに来た理由は単純で、あこちゃんから水着持ってるの? って聞かれてしまったから。それともう一つ、周りが全員水着となれば悪目立ちしてしまう、それがなにより嫌だった。
露出が派手なものでなければなんでもいい。そう思っていたのだけれど二人はじっと、見定めるように私の体を見ていた。
「な……なん、ですか……?」
「……前から思ってたんだけど、燐子ってスタイルいいよね?」
「そんなことは……別にスタイル……よくないです」
「そんなことあります!」
「うぅ……」
喜ぶべきなんだろうけど恥ずかしくて何も返せず、顔が赤くなっていくのが自分でもわかる。そんな私を置いて二人は段々と盛り上がっていき、まるで自分の事のようなはりきりを見せ水着屋さんに向かっていった。
二人の後をつけながら考える、蒼音さんは私の事をどう見ているんだろうと。二人のようにスタイルがいいと思っているのか、それとも何とも思っていないのか。
スタイルがいいと思っていると考えちゃうと何だか恥ずかしくなってくるが、彼が何とも思っていないのかと思うと、少し寂しい。
自分の体が優れていると思ったことはない。今までは勿論、二人から言われた今でもそう。
だからこの水着選びだって二人が選んでくれたものの中から、そう思っていたんだけれど……
「やっぱ燐子は黒だと思うんだよね~」
「燐子さんなら可愛いピンク系も着こなせると思うんですよね~」
「く、黒……? ピンク……?」
なんだってない、そういうものだと思っていたのに……
「じゃあデザインは? アタシはビキニタイプを押すね!」
「ここはむしろワンピースタイプじゃないですか?」
「び、ビキニ……? ワンピース……?」
何だか想像の遥か斜め上を行くくらいの二人に気圧されて……
「さぁ、どっちがいい!?」
二人のその言葉を頭が理解しきってくれず、沸騰してしまいそうになってしまっていた。
「ごめんね、燐子のペース考えずにガンガン言っちゃって」
「燐子さんの水着を選びに来たのに燐子さんの事置いてけぼりにしちゃってました……反省です……」
「いえ、そんな……」
何とか落ち着いた私に対し、二人は謝罪してきた。謝られることは何もされていない、寧ろ選んでもらっている立場なのにそうしないでいるのだから謝るのは私の方。
私のペースでと今井さんに言われ、店の中の水着を見て回る。あれもこれも見ているだけで恥ずかしくなってきてしまう、でもこんなにも協力して貰っているのだからどれがいいかと一生懸命に探して。
あれは可愛い、これは落ち着いてる。あそこの方にあるやつは……ちょっと露出が多すぎる。
二人と一緒に見て回って数十分、候補となりうるものは絞り終えた。何様だと言いたくもなるが恥ずかしいから、と二人にはお店の前で待ってもらうことにし、それらを持って試着室に入る。
「どっちが……いいのかな」
折角だから二人の意見を取り入れたい、でも片方に選んでもらったものをそのままというのは、何だかもう一人に悪い気がして。
ピンクのビキニと黒のワンピース、私はどっちを選んだ方がいいのだろう。考えて考えて、結局わからないまま時間が過ぎていく。
どっちがいいかなんて私には決められない。誰に見せるためのものではないのだから、そう思ったけれどふと、何故だか蒼音さんの事が浮かんできた。
……どっちが可愛いかなんて私には決められない、どちらがいいのかなんてわからない。そんなだから蒼音さんに見せるとするならどちらがいいのか、なんて考えてしまった。
「うぅ……」
また顔が赤くなった気がする、今度は爆発してしまったかのよう。ああでも、それなら選べそうだ。誰でもない、彼が好みそうな方を選べばいいのだから。
上原さんと今井さんに心の中で謝りながら二つの水着を見る。彼なら……多分こっちの方を好みそうだ。知らない事でも予想は出来る。
勝手だけど、理由なんてないけれどなんとなく、そう思った。
二人の事を随分と長く待たせてしまったし、お店を出たらまず謝ろう。そう思っていたけど、二人の間にいるその人を見て、一瞬頭が真っ白になってそうする事は出来なかった。
「あ、燐子さん! お疲れ様です!」
「お疲れ様。気に入ったの見つけられたみたいで安心したよ」
「……お疲れ様です」
どうして蒼音さんがここに、もしかして何を買っていたかも知ってしまっているのか。
彼と目が合うと、彼の事を考えて水着を買ったという事実が恥ずかしくて今日一番の熱を体が訴えてくる。そんな私の事を知ってか知らずか、今井さんが話しかけてくる。
「それで結局、どんなの買ったの?」
「そ、それは……」
二人には恥ずかしいからお会計終わるまで待ってくださいと言ってしまったが……ああ、見せてしまった方がよかったかもしれない。
でもチラリと彼の方を見ると伝わったのか、当日まで楽しみにしてるねと言ってくれた。
彼の事を考えて、彼が好みそうなのは、そう考えたけれどやっぱり見せるとなると話は別。勝手なものだからこそ彼には知られることもない、見られることも。
そう思っていたのだけれど……
「そうだ! 蒼音さんも今週末に海行きませんか?」
手にしていた袋を落としてしまうところだった。彼も海に来る、もしそんな事になったら彼が私なんかの水着姿を見てしまう。想像しただけで限界だ。
でも彼が予定があるからとそれを断ったのを見て安心し、だけど何処かで残念だと思う自分もいた。その理由はなんなのだろう。買い物に行くと言って歩き出した彼の背中を見ていると余計にわからなくなってくる。
あなたの事を考えて選びましたと言いたいのか、これでいいのかと聞きたいのか。感想を求めているのかそれとも……可愛いとか綺麗とか、そんな事を言われたいのだろうか。
「燐子さん、連絡先交換しませんか?」
「え、あ、はい……喜んで」
上原さんと連絡先を交換し、その後蒼音さんのいた方向を見るが彼の姿はもう見えない。それも当然、ため息をついてしまってそんな私を見てか、上原さんは一つ質問をしてきた。
「あの~……もしかして燐子さんって蒼音さんの事……好き、だったりするんですか?」
ああ、バレてしまった。これに関しては分かりやすすぎた自分が悪いのだけれどやっぱりこういうのを知られると恥ずかしい。そんなことないですと否定してもよかった、別に肯定しても何かが変わるわけでもない。
彼女は友希那さんも彼の事を好きだと知っている、そんな彼女がこの気持ちを知ったらどう思うのだろう。私には無理だと思うのか、面白がるのか無反応なのか。
色々考えてみて、この気持ちに噓は付きたくないと頷けば、応援しますねと彼女は言ってくれた。その後は二人と昼食を食べて解散することになった。
そこそこな時間だというのに外はまだまだ明るくて暑い。空には雲が流れていて至って普通、昨日や一昨日見たものとの違いなどわからない程度。
今週末のように大きな予定がない限りは毎日がこうなのだろう。勿論練習はあるしあこちゃんとも遊ぶ、そしてたまに蒼音さんに会う事があるのだろうけど、それらは特別と言えるものではない。
彼と過ごして、そうする事で距離を縮め仲良くなっていく。友希那さんに負けないために、彼にあなたが好きだと言って貰うために。
きっと彼女もそう考えているのだろうと、そんな日々が続くのだと考えると……何だか少し、怖くなった。
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茨と刺
夏休みも早い事でそろそろ半分程度になってしまった。それでも時間はまだまだある、ピアノをやっていなかった二年間、それを埋めるには足りないくらいだ。
課題はもう終わらせきったし完全に自由、夏休みが終わるまでずっとピアノの練習をして……というわけにはいかない。
燐子さんのこと、友希那のこと、それらはきっと何より優先するべきなのだろう。
こうやってピアノに逃げて、二人に合わない日がない程の行動が出来ず、そんななのにわからないと言い訳する。
もし下手を打って嫌われたりなんかしたら、しなければ済む話だが絶対にそうならないとは限らない。
それが嫌、好きだから、好きになってしまったから嫌われたくない。どれだけ自分勝手なものかはわかってるけど、ふと思うと怖くなってしまう。
でも何も進展のないままでは呆れられてしまうのではないかと、そう考えてしまうと泥沼だ。安全な道なんてない、何処を見回しても棘だらけで……
「……そりゃそっか」
この道を選んだのは誰でもない、俺自身だ。茨がある棘があるとわかっていながら選んだのは。
切り進むしかない、そうしなければ前に行くことができない。棘を恐れては、痛みを恐れては崩れてゆく道に飲み込まれる。
「…………」
スマホを見るに外では雨が降っているらしく、窓から眺めてみれば確かに大雨だ。まぁ今日も明日も外に出る用事はないし関係ないか、なんて思いながらソファーに寝転がる。
「痛いのは……嫌いだな」
痛いのは嫌い、人間誰しもそうだろう。一応好きだという人も探せば何人かいるかもしれないが、少なくとも俺は嫌いだ。
自分が嫌いだから人にはしたくない。誰かの怪我した瞬間なんて嫌でも頭の中に残る、それに自分が関与しているならば尚更。
ましてや、好きな人に対してそんなこと、したい筈もなかろうて。
俺が切り裂くべき茨、前に進むのを咎める棘。そのまま突き進めば大怪我してしまう。
それを切り裂いて、切り裂いて、やっと道が開けた時、その時の事を考えるべきなのだろうがあまりそうしたくない。
その茨は、棘は、自分よりずっとずっと大切なものなんじゃないか。そう思うと手が上がらない、足がすくんで動かない。
道を進むには棘を傷つけなければいけない。何かを得るには何かを失わなければならない。
頭痛がしてきた、でもこんな程度、もし傷つけてしまった時に比べればきっと吹けば飛ぶ埃のようなものなのだろう。
そんなだったら、そう思うと一緒に目を閉じて、崩れた道の底を眺めていた。
昨日の雨は嘘のように晴れている、そんな外を眺めながら今日も練習するかと思ったところでインターホンが鳴った。
宅配はなかったはずだし子どもの悪戯だろうかとドアを開いてみれば、どうやら悪戯ではなかったようで人の姿が二つ。
「ヤッホー、元気してる?」
「……こんにちは」
友希那はリサに引かれてやってきたのか息を切らしている。急ぎの用かと思ったがそうではないらしく、ではなにかと聞いてみれば目の前に友希那を突き出され。
「友希那ってば練習以外じゃ外に出なくてさ、それで連れて来たってわけ」
「……別に大丈夫って言ってるのにリサが聞かなくて」
「そんなこと言ってるけどさ、嫌だとは言わなかったじゃん」
「それは……」
外は暑い、見れば二人も汗をかいている。太陽に晒されいいことなんて一つもないし、入ってくかと聞けば二人共頷いたので家に上げた。
「涼し~」
「……なんも面白いもんねぇぞ」
わざわざやってきたのだ、家を見回すリサにそう言い冷たい飲み物を出すくらいはするかと冷蔵庫を開くと、友希那から小声で話しかけられた。
「その……にゃーんちゃんは……」
顔を赤くして、珍しく恥ずかしそうに。相変わらずだなと思いながら猫の元へ案内すると、友希那は俺の顔を一度見た後猫を撫で始めた。
嫌がる様子もないしアイツも覚えられているのか、なんて考えながらリサの元に戻る。お礼の言葉と引き換えに飲み物を渡すと、一口それを飲んでから話しかけてきた。
「この前送った写真、どうだった?」
「……なんて返答を求めてんだ」
「深い意味はないって。ありがとうとか楽しそうとか、そんなのだよ」
本音はどうだかわかったものじゃない、顔を背けながら俺も飲み物を飲む。
この前リサから送られてきた写真というのは燐子さんの水着姿を撮ったそれ、本人の許可を取っているのかは知らないがこうして聞いてきたということは送り間違えたのではなく故意ということで。
「それとも何、深い意味の方で捉えちゃった?」
「……」
「冗談だって、そんな怖い顔しなくたっていいじゃん」
「……気のせいだ」
その写真を送られたことはどうでもいいとは言わないが、一度見てしまった以上取り返しのつかないことなのでどうしようもない。
でもそれを見てどう思ったか、同じく過去形であるけれどどうしようもないものではない。
好きな人、露出は多くなかったがそれでもその水着姿を見て、まだ何もしていないけれど罪悪感を覚えた。よくないこと……とは言いきれない、でも自分の事が嫌に思えたのは事実だ。
好きという感情があるからそうなってしまう。浅くない、表面だけのものではない、それなのにそこに好きという感情を抱く。
あの水着は、燐子さんに凄く似合っていた。だけれどその格好は、普段の彼女の印象とかけ離れていた。
誰だっていいはずがない。であるけれどもし外見が全く一緒で中身だけが違う、そんな人がいたとしたら俺は、好きだと抱かずにいられるのか?
知っていれば勿論そうならない、でも知らなければ? もし俺が燐子さんのこと全部忘れ、そんな偽物を見たとして俺は好きじゃないと言えるのか?
俺は彼女が好きだ。恥ずかしがり屋なとこも、ゲームが好きだという意外な一面も、それ以外も全部ひっくるめてこその彼女が好きだ。
だから全部考えすぎ、彼女だからそう思わされる、彼女が恥ずかしがり屋だから罪悪感があるだけ。
そうだと自分に言い聞かせていると目の前に猫を抱えた友希那が座った。
「あれ、もしかしてその子って蒼音が飼ってる子?」
「そうね、今は眠ってしまっているけど」
小さく浮かべたその笑みに吸い込まれるように視線が行った。アタシも撫でていいと聞いてきたリサに対し適当に返事をしてしまうぐらいには。
数分程彼女らを眺めていると、友希那は突然こちらを向いて話しかけてきた。
「あなたは今日、練習はしないのかしら?」
「……お前らが帰ったらやる予定だ」
「それなら久し振りにあなたの演奏、聴かせてくれないかしら?」
そうやって聞いてくるのも音楽が好きだから、でしかないのだろう。だけれど俺の演奏を求めている、というのは不思議と気分がよくなってくる。
ずっと一人で練習していたし感想を聞いてみたい、というのもあるが。
「この子は……」
「あー……ここで寝かしとけばいいか」
「ソファーの上でいいかしら?」
ああと返せば友希那は猫をソファーの上に移動させるが、名残惜しいのかその場を離れようとしない。
俺は友希那から視線を外しその近く、猫の方に向け……
……ああ、本当に自分が嫌になる。ため息が零れ、どうしたのと聞いてきたリサに俺は、なんでもないと返していた。
「今日はごめんね、急にお邪魔しちゃってさ」
「今度から事前に連絡入れるくらいしろよ?」
「了解、と言ってもアタシ一人じゃこないけどね」
あの後ピアノを弾いて、それ以外何をすることなく彼女たちを送り出すために外に出る。
これからこいつらが何をするかは知らないが、友希那が家を出なくてと言っていたし何処かにでも行くのだろう。
俺もバイト以外での外出などそれこそ指で足りきるほどではあるが、流石に運動くらいはした方がいいだろうか。
「そういえばさ、蒼音って夏休みの課題の調子はどう?」
「終わらせた、やることも多くなかったしな」
「真面目~、友希那はどう、ちゃんとやらなきゃ駄目だよ?」
「やるわよ、私をなんだと思っているの?」
「そんな事言ってるけど、夏休み終盤になるといつも焦ってるじゃん」
「そ、それは……今年は大丈夫よ」
そんなことを話していたらリサが突然、そうだと声を上げ友希那を俺の前に押し出してくる。いったいなんだと俺も友希那もわからないでいると、リサは俺たちの手を取り繋げさせ言った。
「友希那の課題、手伝ってあげて」
「んな急に……」
「勉強を教えてってわけじゃなくて、やるとこちゃんと見ててほしくてさ」
勿論アタシも手伝うけど、なんて言ってくる彼女の言葉に噓はないかもしれないが、すべて言っているわけではない。
俺と友希那の事を思ってのこと、そんなことされなくてもと言う友希那とは既に手は離れている。
期限通りに出せないと練習も出来なくなるよ、という脅しに屈したのか、俺に視線を向けてきたのでわかったと口にした。
「それじゃあよろしくね、蒼音」
「……ごめんなさい」
「……そう思ってるなら早めに終わらせるぞ」
なんて会話をして彼女たちは去っていった。その背中を見つめ、先程繋がされた手を見る。
飽きるほどみたそれ、なんの変化もないけれどそこに残っている感覚は確かなもので……
「期限、か……」
もし決められていたら何か変わったのだろうか。例えば夏休み最後に答えてと言われていたら俺は今、焦るようになっていただろうか。
リサから送られてきたあの写真を見て、ずっと前から消せずに残していた友希那との写真を見て、ずきりと何処かが痛むかのような気がした。
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代償を払う
夢を見た。何の面白みも、オチもないつまらないもの。ハッキリ全て思い出せるかと言われればそうではなく、薄らと思い出すので精一杯。
外は明かりを取り戻してきているがまだ日は登っていない。意識はハッキリとしてきたが体を起こす気にはなれず、寝転がるようにしてスマホを手に取る。
「今日の練習は確か……」
練習はお昼頃からでそれまでまだまだある、かといってやることもない。蒼音やリサに聞かれたら夏休みの課題をしろと言われそうだが、どうにもやる気はおきないでいる。
期限通りにしさえすればなんでもよいし、今までもどうにかなってきたのだし、まだ焦り始めるものではないだろう。
「……期限といえば」
決まったのだろうか、蒼音が選ぶその日のこと。燐子と話して、それとももう決まったと、私が知らぬ間に決まってしまったか。
別にいつだろうと構わない、彼が燐子の事を選ぼうと……
ぞわりと、何かが背中を駆け上ったかのような気がした。
季節外れに冷たかったそれの正体はわからない。落ち着かない、落ち着けない、考えたくないけれど考えずにはいられない。
私は彼の事が好きだ、いつ好きになったのかはわからない。
私は彼の事が好きだ、どこが一番好きなのかはわからない。
私は彼の事が好きだ、多分、燐子には負けてない。
いや、いくら考えたところで選ぶのは私じゃない、彼だ。だからどんな結果だろうと私はそれを受け止めて……
パン、と乾いた音が部屋に響く。寝転んでいた体は上半身だけ起き上がっていて両手が合わさるように重なっていた。
目の前を小さく黒い何かが通り過ぎる。閉じていた手を開くと、そこには何もいなかった。
「うぅ、暑い~」
「そう思うから暑いんです。そもそもこの時期に長袖を着てくるのがいけないのでは?」
「だってだって、この服かっこよくないですか!?」
練習の帰り道、あこは紗夜に対しそんなことを言い、今度は私に向けて友希那さんもそう思いますよね、なんて聞いてきた。
彼女に乗って話すことが出来る燐子とリサは二人で会話中、紗夜の方に顔を向けてみるが彼女もなんと答えるべきかわからないようで困り顔をしている。
あこが着ている服がダサいというわけではないが、服のかっこいいかどうかなんてよくわからない。ただこちらを見上げてくるあこの事を無視できる筈もなく、でも噓を言うわけにもいかないから。
「……そういうのは私より燐子に聞きなさい」
「りんりんはかっこいいって言ってくれました!」
「それなら私たちに聞く必要もないでしょう?」
「そうじゃなくて~」
わからない、燐子から既に言われているならわざわざ私たちから求める意味が。
燐子が優しさから噓を付いているかもしれない、という風に疑っているわけではないようだし。
「どうしたの?」
「あ、リサ姉! この服かっこいいよね!?」
「サイコーにかっこいいよ」
話が聞こえてたのかリサがこちらにやってきてそんな事を言う。褒められて嬉しそうなあこは燐子の元に、それを見てリサは私たちに呆れたような顔をして声をかけてくる。
「二人共素直に褒めればいいのに」
「……私にはああいうものはよくわかりません」
「私もよ、それに燐子に褒められたのだからそれでいいでしょ」
「わかってないなぁ二人共」
ため息をつかれ私と紗夜は顔を見合わせる。暑さを我慢してまであの服を着て、私なんかよりずっとセンスのある人に褒められたのに私にも求めてきて、私にその意図はわからない。
褒められて嬉しいというのはあるだろうけど、私程度のセンスで褒められたところで得られるそれなど微々たるものの筈。
「わかってても言われたいって経験、二人もあるでしょ?」
誰かからだから言われたいっていうのもさ、続けるように彼女は言う。
わかってても言われたい? わかっているのに言われても何もない、誰かから、というのも関係ない。そう思ってはいるのだけれど何か引っかかる。
ふと隣を見ると紗夜は納得したかのような表情を浮かべている。彼女はわかって私にはわからない、それに原因はあるのかどうか、この引っかかるものは何か、全部わからない。
そんな事を考えていたら皆別れてしまいリサと二人きり、家までそう遠くないが話さずにいるには遠すぎる。先程のリサの言葉を頭の中で繰り返すと、やはり気になるものは晴れてなくて。
気になるけれど別に不都合があるわけでもない、だからそれは置いておいてもう一つの気になること、燐子と何を話していたのかを聞こうとする。
深い意味はない、ただなんとなく聞かなければいけない気がした。それは多分蒼音関連なのだろうと思わされて。
「明後日蒼音とデートしたいってことで、どうやって誘ったらいいかって話しててさ」
……面白くない、自分から聞いたことなのに、予想通りなのにそう思ってしまう。明日も休みなのに、なんてのはどうでもいい。理由なく、意味もなく、どこかイラつく。
私がこんな事を思ってるなんてリサは欠片も思っていないのだろう。リサの言葉を聞き流させながら溜まり始めた黒い何かは、ヘドロのように粘ったい。
「課題はちゃんとするんだよ?」
「……ええ」
気がつけば家についていてしまったらしい。今家の中には私一人、閉めたドアに寄りかかり付けた明かりを見上げてみるとため息が零れた。
先程感じた黒い何かは今にも体を突き破りそうな程に強くなっている。頭が痛いし耳鳴りがする、でも体調は悪くないし思考も明瞭だ。
恐らく私は燐子に嫉妬している、蒼音とデートをするというそれが許せない。
自分勝手だ、そんなにしたいのなら明日しようと連絡すればいいだけなのにそれだけじゃ駄目だと思う自分がいる。
ああ、リサの言葉が分かってきた。わかっていてもというのも、誰かからというのも。そういうことなのだろう。
鞄からスマホを取り出す。私が今やろうとしていることはよくないことだ、本当にするべきかとスマホを眺めて深呼吸をして、電話をかけた。
「……もしもし」
燐子は蒼音から好きだと言われているのだろうか。声に出して伝えられたことがあるのだろうか。
「明後日なんだけど、空いてるかしら?」
私は……ない。彼から好きだと言われたことが一度たりともない。
「それならデートしましょう。場所は……駅で、遠くに行きたい気分なの」
あなたは本当に私の事が好きなのか、優しさから何も言ってないだけなんじゃないのか。
電話を切る。よかった、間に合った。大きく息を吐いて、ずっと立ちっぱなしだった玄関の明かりを消して自分の部屋に向かう。
私は最低な事をした、その自覚はあるしそれによって何も思わないものがないわけでもない。
「…………」
嫉妬という名の怪物は何処かに隠れ、そのお陰で心は軽くなったかのようだ。
外を見ると雲が空を覆っている。雨が降りそうだ、多分それは、明日まで続くだろう。
予想通り昨日は止むことなく雨が降り続いていた。一昨日から嫉妬が何処かに隠れた代わりに言い表せないようなものを感じる。もし今日の事を知られたら、なんて思われるだろうか。
空を見上げる、天気予報では雨は降らないということだが一面黒い雲で覆いつくされている。
今更取り消せないし取り消すつもりもない。でも取り消せないから、取り消さないから不安になる。
虫のいい話だ、やったのは、しているのは自分だというのに知られたくないなんて思ってしまう。
駅について逃げるように日陰に入る。壁に寄りかかってなんとなく上を向いて、でもすぐに視線が落ちてしまう。
やっぱり嫌うだろうか、私の事を。燐子は、リサは、蒼音は、こんな私なんかと侮蔑して私を置いて行ってしまうだろうか。
「おい」
突然声をかけられ思考を中断させられ、誰だろうかとそちらを向けば蒼音の姿。ドキリとしたのは何故なのか、彼を見たから、ではないだろう。
こんにちはと言えばいいのだろうか、それともいい天気ねなんて言ってみればいいのか。黙りこくっているとため息が彼の方から聞こえ、その後すぐに話しかけられる。
「今日何処に行くか決めてんのか?」
「……いえ、特には」
遠くに行きたいなんて言った癖して何処に行くかは全く決めてない。
どこでもいい、どうでもいいというわけではなくどこでもいい。それには誰と、という条件がついてなら。
「行きたいところはないのか?」
「私は別に……あなたは?」
「俺もだな」
こういう時燐子ならどうしているのだろう、そもそもこうならないように全て決めているのだろうか。無言のまま時間が過ぎて、日陰にいるせいで彼の顔もよく見えない。
呆れられてしまうんじゃないか、そんなことすら考え始めた時、行くぞと声をかけられた。
「……何処にかしら?」
「さぁな、でも遠くに行くなら早くした方がいいだろ」
それに、と彼は続ける。
「お前とどっか行くにして、決めてたことのが少ねぇだろ」
「……それもそうね」
気にしすぎ……なのだろうか、ちょっとだけ力が抜けて大きく息を吐く。隣町か、そのまた隣か。もしかして終点まで行ってしまうか、何もかも決めてない。
彼が背を向けて歩き出す、私はその後をついて行く。彼に手を引かれたら、そう思ったのは何故だろう。はぐれたくないからか、それともただそうしたいだけか。
駅の中に入ろうとしてまた振り返って辺りを見回す。きっと手を引かれたいというのには、今日に限ればこれも理由の一つであるのだろう。
「お前、ここに来たことは?」
「……多分ないわね」
なんとなくで降りたそこ、駅を出て辺りを見回すが見覚えのありそうなものなどそれこそコンビニくらい。
もしかしたらライブをしに来たことがあるかもしれないが、覚えていないのだから関係のないことだ。
そっちはどうなのかと聞いてみるが帰ってきた答えは一緒、つまりここはお互いにとって未知の場所であるということで少しばかり不安になる。
「とりあえずどっか寄るか」
「そうね、カフェにでも寄ってこれからどうするか決めましょう」
彼は返事をしてスマホを弄り始めた。何をしているか覗き込めはしないから待っていると行くぞと言って歩き始めたので後を付ける。
カフェの場所を調べていて、今だってその場所を確認しながら歩いているのだろう。
優しいと思うべきなのだろう。実際そうだ、私は昨日スマホの充電をするのを忘れてしまって、それを言ってはいないが私がしないから調べてくれている。
なのにスマホを覗き込んでいる彼の事を見るとなんだか気に食わない。
だから私は、手を繋いだ。
スマホから視線がこちらに移り歩みも止まる。時が止まってしまったかのように互いは動かない、喋らない。でもドキドキと、なんでか私の体の中で暴れているのはわかる。
「……歩くの、早いわ」
「……悪かったな」
嘘、場所を確認しながらなのにそんな早いわけがない。でも彼は真に受けたのか歩くのが遅くなって、そのせいかスマホを見っぱなしではなくたまにこちらを向いてくれる。
会話なんてものはないけれど心音は向こうに届いているかもしれない、掴む力が強いなんて思われているかもしれない。
蒼音は一体どう思っているのか、私と同じように思っているのか。もしかして何とも思っていないのかもしれない、それは燐子と慣れてしまっているから、そして……
……なんて事を考えていたらカフェに着いたようで、手を繋いでいる理由もないので離して入店する。離れた手には寂しさが残り、しょうがないので自らの服の袖を掴む。
「この後どうする?」
「どうする、って言われても……」
何をすればいいかわからないし何ができるのかもわからない。特にしたいこともないしそれは彼も同じようで。
「じゃあ適当に歩いてなんか見つけたらそこ行くか」
そうしましょうと答えたはいいがここにはきたばかり、飲み物だってまだ届いていない。話すような事も思い浮かばずじっと彼のことを見る。
私としてはなんだって構わない、ずっとここにいて時間が過ぎるのを待つのだって。でもそれじゃつまらないだろう、彼が。
「あなた、普段燐子とはどんなことをするの?」
「何か食べたり買い物したり……だな」
「それ以外には?」
「それ以外……たまにゲームしたりとか」
飲み物が届いてそれを口にしながら話をする。これからどうすれば彼がつまらないと思わないのかと気になって聞いてみたが、どうにも燐子としていることは私としているそれとそんな変わらないらしくて。
唯一違うとすればゲームしたりということだが……それは私では無理だろう。面白い話でも出来たらよかったのだが、生憎そう簡単には思いつかなくて。
ふと窓の外に目を向けると、うっすらと何かが降って、水溜りに波紋を広げている事に気が付いた。
今の季節に雪など降るはずもないし、猫や犬が降るわけもない。であればこれは何か、わからないはずもない、でもわかりたくない。
「…………」
天気予報なんて当てにならないなんて思いつつも、これは蒼音とのデートの約束を横から奪った私への罰、なんて風にも思ってしまう。
「傘持ってるか?」
「ないわ、あなたは?」
「俺もだ」
準備しとくんだったと蒼音はぼやくがそれは私だって一緒。これでは何処かに行くなんてできない、私は別に構わないけれど彼は……
「……止むと思うか?」
「……無理そうね」
「だよなぁ」
あまりに強ければ弱まるのを待てばよかっただろう、しかしこの程度であれば待っていても弱まるよりも強くなっていくだろう。
嫌になるほど強くはない、でも気にならないほど弱くもない。明日は練習があるし風邪を引くわけにもいかないし、多少濡れるのは我慢して駅に戻ってしまった方がいいだろうか。
そんな風に考えていると彼は財布からお金を取り出し机に置き、頼んだ珈琲を飲み干して席を立つ。
「強くなる前に傘買ってくる」
「え……」
お金は払っといてくれなんて言っていたが、彼が置いていったのは彼の分だけでなく私の分を払ってもまだ足りるくらい。
これが一番、それはわかっている、私だって雨に濡れたいわけじゃない。
「はぁ……」
肘をついて外を眺めているとため息が出てしまう。暇だ、スマホの充電はないし一人では何もできることもない。
何故だろう、蒼音といてもそんな話をしていたというわけではなかった、なのに今更になってそれを感じている。
「……早く戻ってこないかしら」
その呟きに意味はない。暇だから、一人じゃ寂しいから、なんて子どもみたいな理由じゃない。雨が強くなってしまうのを心配してだ。
店の中の時計は見えないからどれほど待ったかわからない、でも少しは待ったはず、だけど雨のせいで遠くまで見えないせいか蒼音の姿は見えてこない。
……もしかしてだが私の事を置いて帰ってしまったのか。そんなこと彼はしないとわかっている、だからもしかしてだ。
手を繋いで歩いてたから長く感じただけで、実際の距離はそう離れていないというので駅で待っているのかもしれない。そうであれば充電のないスマホに連絡がきているから気づけてないというだけなのか。
でもここには彼に引かれるようにしてきたのだ、道なんて覚えていない。だから祈るようにここで待っているしかなくて。
おかしい、私は何を感じているのだろう。嫉妬とはまた違う今の空のようにどんよりとしたそれ、不安で不安で仕方がない。
こんな風に感じたのは子どものころ以来だろうか、落ち着かなくてどうしたらいいかわからない。またため息を一つ、紅茶を飲むがそれが晴れることはなくて。
それを幾度か繰り返しているとこちらに向かって歩いている人影が見えた。誰かはまだわからない、が期待を込めそれを見つめそれが蒼音だとわかると殆ど飲んでなかった紅茶を飲み干し、代金を払って外に出る。
「遅かったわね」
「そんな時間経ってないだろ」
体感であれば30分程は待ったと思うが、実際にどうかはわからないので噓だと断じることは出来ない。
思わず代金も払ってしまったので店の中に入り直すのは気が引ける。だいぶ濡れてしまった様子の彼は屋根の下にきてビニール傘を一本渡してきた。
「……この後どうする?」
「……あなたはどうしたいのかしら」
「別に」
彼のそれは答えてはいるが答えになっていない。
答えになってない、だけど……答えていないわけじゃない。
「……どうしようかしら」
「さぁな」
空を見上げ屋根の外に向けて右手を伸ばす。大雨だ、止みそうな気配すらない。
互いに傘はあるけれど一歩も踏み出さない、どこに行こうと提案もしない。それでも互いに、帰ろうとは口にしない。
「…………」
雨の音と水を跳ねる車の音、後は私の心音だけが聞こえてくる。暴れそうなほどじゃないのに、かき消されてもおかしくないそれは確かに聞こえてくる。
彼の方を見る、聞こえてくる音が大きくなった。ここに来るときに繋いだ手を見て、自然と彼のものに向けて伸びてゆき……
気づいたのか彼がこちらを見てきて思わず手を引っ込め顔を逸らす。どうして、というのは自分に問いてもわからない。
こんなことは始めて。リサから借りた本にもこういう描写は乗っていたし恐らく、彼が好きだからこうなるのだろう。
燐子も彼といるとこういう風になるのだろうか、ふとそんな事を考えたら、消えたはずの感情が一気に湧き上がってきた。
不安、先程よりも遥かに強い。一体何に対してと考え、なんとなく彼の事を見て気づく。
ああ、違う。何で抱いたのかじゃない、何で今まで抱かなかったのだろうか。知ってしまえばとどまるところを知らない、食い散らかすように不安が蝕んでくる。
もしかしたら嫉妬というのも元を探ればこれが原因なのかもしれない。
視線を彼の方に向けるとその不安は更に大きくなっていった。
目的もなく歩き回って、何もせずに雨を凌いだり何処かに寄って、そんな事をしていたら時間はあっという間に過ぎ去っていた。
電車から降りて駅から出る。雨は未だ降りやまず、外が暗くなり始めたのもあって視界を塗りつぶしているかのよう。
「ねぇ、蒼音」
彼は傘を指して雨の中を歩き出そうとしている。なんだと聞き返してくる彼はなんと思っているのか、今日の事をつまらなかったなんて思ってはいないだろうか。
屋根の下の私と空の下の彼、数メートル程度だけどあまりに遠く感じてしまう。
「あなたは音楽のこと、好きかしら?」
「なんだよ、急に」
音楽は好きだ、それと猫も、それは彼も同じはず。彼を見上げる、何が聞きたいのかわからないという風にこちらを見ている。
「私は好きよ……あなたの事も」
じゃあこれも一緒なのか、あなたは私の事が好きなのか。彼は顔を背けるが私は目をそらさない、何とも答えない彼を見ていると胸に穴が開いてしまったかのように落ち着かない。
「……あなたは燐子のこと、どう思ってるの?」
「……どうもなにも、お前と一緒だよ」
「それじゃあわからないわ」
わからない、それじゃわからない。予想はついたところで実際に言われないとそれは真実になりきらないから、わかっていても言われたいから、あなたに言われたいから。
「……言わなくてもわかるだろ」
「わからないわ」
わからない、わかるはずがない。だって……
「私はあなたに好きだって言われたこと、一度もないわ」
彼はこちらを向いて、だけど何も発しない。気にならなかった雨の音が段々煩わしく思えてくる、待てば待つほどそれは強くなっていって。
「……好きだよ、友希那の事も……燐子さんも」
多分そうなのだろうと予想はついていた、だけど実際に言われると安心か喜びか、色々混ぜこぜになったものを感じさせられる。
「私と燐子、どっちが好きかって決まってるのかしら?」
「……悪いけどまだ決まめれてねぇ」
何も悪くない、決めれてないならそれでいい。あなたの口から好きだと聞けた、それだけで今日のこと、したことを後悔はしていない。
「……そろそろ帰りましょ」
「……そうだな」
隣り合って歩き始める、そこに会話はない。私はあなたが好き、あなたは私を好き。改めて知ることができた、知ってしまった。
あなたはいつか選ぶ、私か燐子のどちらかを。それは待つべきことで、迎えてほしくない。
怖くて、怯えて、嫉妬して期待する。それらを知ってしまったのは良いことばかりではない、が悪いことでもなくて。
あなたがいつか私の事を好きでなくなってしまうんじゃないかなんて、今まで考えたこともなかったしこれから考える必要もなかったのだろう。
だけどもう考えずにはいられない。それはきっと代償だろう、誰によるものか、そんなもの、問うまでもなくわかりきっていた。
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不透明なもの
「はぁ……」
ため息がこぼれる。意味もなく天井を見上げるとまた一つため息がこぼれて今度は視線が落ちていく。
嫌なことがあったわけじゃない、困ったことと言うのは違うだろう。迷っている、ただそれだけだ。
どうすればいいんでしょうなんて聞ける相手はいない。恥ずかしいとか知られたくないだとか、それ程に付き合いの深い知り合いがいないから。
全部本当のこと、だけど全部違う。この悩みは、俺が一人でどうにかしないといけないものだから。
誰かに聞いてそれで曲げるのは駄目だ。俺の問題、俺に託された選択、であれば誰かに少しでも委ねることは許されない。誰でもない、俺自身がそう思っている。
好きと言われて好きと言って、それはいつまでも慣れないし恥ずかしい、そしてなにより嬉しくてたまらない。
いい加減決めないとなと思っていても決めれない、いい加減には決めたくない。
選択をしてしまえばそれで終わり、どうなるかはわからないがあっさりと。それが怖くて恐ろしくて、目をそむけたくなってしまう。
バイト行かなきゃなとイヤホンを付けながら外に出るが、雨が降ってるせいかなんだか憂鬱な気分になる。
最近雨ばかり、いつになったら晴れるのだろうかと思いながら歩を進める。
ああ、そういえば今日は気になっていた本の発売日だ。バイトまではまだまだ余裕もあるし、帰りは雨が強くなってしまうかもしれないし先に買ってしまうか。
本屋の方に足を向け、やっぱりやめた。イヤホンを外して再び歩き出す。
優柔不断だな、なんて思いながら歩いていると、またため息がこぼれた。
「蒼音さん、こんにちは!」
「お久しぶりです」
「……お久しぶりです」
こんな日に客なんてこないだろう。その予想は当たり退屈な時間を過ごし、バイトを終えて外を見ると雨は止んでいた。
雲は消えず太陽は見えていないが雨よりまし。この天気なら来る時に寄らなかった本屋に行ってもいいが、バイト終わりというのもあるのだろう、あまり行く気にはならなかった。
明日もバイトだし明日でいいか、なんて考えながら水溜りを避け歩いているとあこちゃんとひまりちゃん、蘭ちゃんに出会った。
「どうかしたんですか?」
「……なんでもないよ」
あこちゃんを見る、その隣を見る。そこにいるのは蘭ちゃんとひまりちゃん。見間違えるなんてことはない、わかってはいるけど、やっぱり少しだけ期待してしまう。
「蒼音さんってこの後用事ってありますか?」
「……ないかな」
「それならあこたち一緒に来てくれませんか!?」
どうやら三人はカフェに寄った後雑貨屋に寄るとのこと。別に俺は構わないが他の二人はどうなのかと聞いてみると別に構わないと言われる。
それじゃあ行きましょうとあこちゃん、そして何故か張り切っているひまりちゃんは元気に歩き出す。
「……すみません、突然こんなことになって」
「いいよ、寧ろ俺が混ざって迷惑ならないかなってくらいさ」
「あの二人はそういうの思わないですから」
「蘭ちゃんは?」
「そうだったら嫌だって言いますよ」
正直だな、と思いつつも嫌じゃないと言われてるようなものだから悪い気はしない。
ゆっくり歩いていると置いて行かれてしまいそう、ちょっとだけ歩幅を広げると蘭ちゃんも合わせてくる。
目的のカフェは遠いのだろうか、なんて前の二人を見ながら考えていたらそういえば、と隣から話しかけられた。
「湊さんとはどうなんですか?」
足が止まる、釣られてか蘭ちゃんも。
どうなのか、答える言葉は何一つとして浮かんでこない。悪くはなってないし進展といえるようなものもない、でも別にと答えるほど何もないわけではない。
好きになるだけでは駄目、それはもう一人にも起こってしまう事だから。
好かれるというのはわからない、数字があるわけでもないし読み取れるものでもないから。
「わかんない……かな」
「……そうですか」
今の友希那との関係、表すとしたら何になるのだろう。
恋人ではないけれど、知り合い程度ではないはずで。
友人では足りないが、親友とするには付き合いが短すぎる。
両想いというのは合っている、でもそれはあいつだけじゃなくて。
大きくため息をついてから歩き出す。こんな関係あいつと燐子さんだけ、名前をつけられないその関係は心地いい、抜け出したくないくらい。
でもこの関係はそれと一緒なくらい罪悪感が襲ってくる。好きだって気持ちに正しく答えられない、思い上がりだとしてもそれがとても辛い。
いつ出せと決められたら俺は答えられるのか、それはいつになるのだろうか。なんて考えてしまってまたため息が。
そうじゃない、決められたらと言われたのだからそんないつかを待つのは違う。
イライラする。蒸し暑い中空を見上げ、それだけを思っていた。
「蒼音さん、一口だけ、一口だけ食べさせてもらうことはできませんでしょうか!?」
「……まぁ、ひまりちゃんがいいなら」
「ありがとうございます~!」
俺の前に運ばれてきたスイーツを見ながらそんなことを聞かれる。その様子は迫真ともいえるもので断れず了承する。
お腹が空いていたわけでもないしなんとなく甘い物が欲しかっただけ、食べなれていないそれを頼んだ理由はそれだけだ。少量であるが美味しそうに頬張る彼女を見てそんな事を考える。
それを見て自分のスイーツを口にするとひまりちゃんがお返しにか自分のも分けますと言ってきたので断った。
好意を断るのはあれだが一口食べて満足だ、それに彼女もそうですかと言って幸せそうに食べ進めているし、作った人もあんな風に食べられる方が嬉しいだろう。見ているかは知らないが。
「蒼音さんって甘い物食べるんですね」
「食べるさ、蘭ちゃんも食べれないってわけじゃないでしょ?」
「そうですけど、なんかイメージと違うっていうか……」
「蘭~、決めつけるのはよくないよ~?」
甘い物は嫌いではないし苦手じゃない、ふと欲しくなる時もあるがそれだけだ。
角砂糖が大量に入った入れ物を眺めながら珈琲を飲むと甘い物を食べたせいか、ちょっとだけ甘く感じた。
「そういえば聞いてなかったけど、雑貨屋に行って何するの?」
「我が闇の力を封印し……え~っと……そんな感じの物を探しに!」
全員が食べ終え少しして、その質問にあこちゃんはそう答えた。その答えに蘭ちゃんは困ったような表情を浮かべ聞き返す。
「……それ、あたしが行く必要あったの?」
「カッコいい蘭ちゃんがいたらカッコいい物なんてすぐ見つかるかなって」
「そ、そう……」
その返答に照れたように顔を背ける彼女、俺も二人に対してはこんな姿をしているのだろうか。
そろそろ行こという提案を受け店を出ると、何かを見つけたかのようにあこちゃんが走り始めた。
「りんり~ん、偶然だね!」
「あ、あこちゃん……それに……」
目が合って、軽く頭を下げるとそのまま返される。その後彼女は二人に対して視線を向けたが、あこちゃんがそうだと発したせいかそちらに視線が行く。
「りんりんも一緒に雑貨屋行かない?」
「……えっと……」
「白金さんはこの後予定とかってあるんですか?」
「本を……買おうと思って、ましたけど……急ぎでは、ないので」
もしかして燐子さんが買おうとしている本は俺の買おうとしているものと一緒なのか、なんて考えていると彼女と再び目が合う。
本を買おうと思っていた、だけど別の事に誘われてそれを承諾しようとしている。それは本を買うのはいつでもできるからか、それとも……
「蒼音さん確か買いたい本があるって言ってましたよね」
「えっ、そんな事言ってたっけ?」
「も~、蘭はちゃんと聞いてたよね?」
ひまりちゃんが蘭ちゃんをつついてるのが見える、その理由は……知っているからだろう、でなければこんな噓はついてくれない。
誰から何処から、なんてのは今気にしてもしょうがない。蘭ちゃんがこちらを見てくる、じっと、察するように。
「……うん、言ってたよ」
「じゃあ折角ですし、蒼音さんは燐子さんと本を見に行ったらどうですか?」
「でもそれじゃあ……」
「大丈夫ですよ、私達にはカッコいい蘭がいますから」
蘭ちゃんの背中を軽く叩きながらそんな事を言って、あこちゃんが悩みながらもわかったと言うと彼女の手を引いてひまりちゃんは歩き始め、蘭ちゃんはその隣について行った。
見られていることに気づいたのかあこちゃんはこちらに手を振っている、よく見えないがひまりちゃんは頑張ってくださいという意図なのか親指を立てているのだろう。
手は繋がない、まだ彼女達に見られているから、なんて今は言い訳はできるがそれがなくなった時どうだろう。
「行きましょうか」
「……はい」
三人の姿が見えなくなって歩き出す。右手には何もない、彼女は逆で左手にだけ何もない。決めたわけじゃないのにそうなるように荷物を持ち替えた。
無理矢理は繋げない、繋ぎませんかなんて切り出せない。
空いた手同士がたまたま当たってしまい、ごめんなさいと言って引っ込めたその手を見て彼女を見て、目が会った。
そらされて、俺も遠くを見て。手を降ろして少しだけ近づく、今度は当たることなくそのままだった。
本を買った。燐子さんと俺の求めていたものは一緒で、二人してそれを手にした時にはお揃いですね、なんて言われてしまった。
その後外に出て、だけど互いに帰らない。会話はない、何もしていない、それでも足は動かない。
解決法なんて何処か寄りましょうと言うだけ、でも何処に行く? それがわからないからこうなってしまっている。
「暑い……ですね」
「そうですね」
見上げると空は変わらず雲で覆い隠されている。また雨が降ってもくるかもしれない、彼女の傘は見えない。
雨は降るだろうか。降るのを期待しているわけではない、だが降るなというと嘘になる。
そんなもの調べればすぐに出るだろう。でもそうせず彼女を見て、また空を見上げる。
わからない、わかるはずもない。この後の天気、明日の事に未来の事。
荷物を持ち替えると開いた手にまた手が当たる、今度はその手を繋ぐように。
それはどちらからなのか、そんなことさえわからなかった。
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夢を見て
「燐子さん……」
目の前に蒼音さんがいた。どうしてこんなことになんてわからない、とにかく目の前に彼がいて。
動かない、動けない。後ろの壁に背中を預け、崩れてしまいそうな足を無理矢理立たせ、視線は彼から離せない。
彼の両手が私の頭の横に、彼の顔が近くに。声が出ない、駄目と発することすらできなくて。
自然と手が動く。彼を突き放すのではなく、引き寄せるように。
何をされるか、なんとなく予想はつく。瞼が落ちていく、開いているべきだとわかっていても言うことを聞いてくれない。
彼との距離が後ほんの少し。近づく程に瞼が落ちていき、ついにそれは落ちきって……
パチリと、先程までのが嘘のように目が開いた。
「え……」
理解が追いついていない中、アラームの音と激しく鳴る心音だけが耳に入ってくる。そしてゆっくり、ゆっくりと浮かび上がってくるのは恥ずかしさ。
充分に涼んだ部屋、だが全身沸騰してしまいそうな熱を感じてようやく理解した。
あれは、夢だと。
アラームを消すことすらせず布団にくるまる。忘れろ、忘れてしまえと。でもそれはアラームが鳴り終えて、それでも消えることはなかった。
離れない、今朝の夢が離れてくれない。そんなだから練習で失敗してしまうしそれも一度程度ですむ筈もなく。
普段なら夢なんかすぐ忘れてしまうくせに、そもそも思い出すことすら出来ない癖して、今日ばかりは延々と襲われ続けている。
忘れようとして、でもそうすればそうするほど浮かび上がってきて。それは彼に関することだからか、それとも……彼との、あんな夢だったからか。
練習中でなければ倒れ込んでしまいそう、今でも顔を隠してしまうくらいに恥ずかしい。誰も知らないのに、私だけしか知らないのになんでかそうしてしまう。
あの夢を忘れたい、でもあの夢の続きを今すぐにでも見たい。
あれが夢じゃなく、現実に起きたとしたら……
「白金さん、大丈夫ですか?」
「えっと……何のこと、でしょうか?」
「何と言われましても、顔を赤くしたり抑えたりしてますので……」
体調不良を疑われているようで、大丈夫ですと返しても氷川さんの目は懐疑的なまま。少しでも気分が悪くなったら言ってくださいね、そう言って水を手渡して彼女は練習に戻る。
こんな考え全部流してしまおうと水分補給をして、やっぱり消えなくて大きく息を吐く。
友希那さんの姿が目に映り、じっと彼女の事を見る。たいした理由なんてなく、練習している彼女に吸い寄せられ離せない。
あまりに眩しいその姿に息が止まって、なんだか遠くに見えてしまって。
大丈夫とはなんだったか、やっぱり今日の私はどうかしてる。眩しくて、綺麗で、そんな彼女を見てずきりと胸が傷んで、指先から力が抜けていく。
「りんりん、今休憩中?」
突然、背後からあこちゃんに声をかけられた。どれほど見続けていたのか、私は友希那さんから視線を外しあこちゃんの事を見ると、もの寂しさと同時に安心感がやってきた。
彼女の事を見るあこちゃんの目は輝いている。御伽話によく出てくる憧れる少女のよう、私がかつて蒼音さんに抱いたそれのような。
「やっぱり友希那さんってかっこいいね!」
「……うん、そうだね」
そうだ、そうだろう。友希那さんは私と違って、私にない物ばかり持っていて……
「な~に言ってんの、二人共かっこいいよ」
「わ! びっくりした~」
「あはは、ごめんごめん」
背中を優しく叩きながらそう言ってきたのは今井さん。思考の海から引きずりあげられ、ふと、友希那さんの事を見つめ直してみれば彼女は私の事を見つめていて。
まるで、吸い込まれるかのような視線を向けられていた。
「ねぇ燐子、練習終わった後って時間ある?」
「えっと……大丈夫、です」
「なんの話するの?」
「今度のライブの衣装についてちょっとだけね」
それじゃあよろしくね、と言って彼女は練習に戻り私達も練習に。
今井さんの事を見ていると、練習場所まで戻ってからも私の事を見ていて、視線が合うと外された。話というのはライブの衣装についてだけではない、それくらいわかってしまう。
話すことも悪くないが練習を疎かにし過ぎるのもよろしくない。あこちゃんだって既に練習を再開している。
深く息を吸い、十分に集中をして鍵盤に指を置き、押す。それは曲通りのものだけど演奏とは言えないようなもので。
集中できない、曲の中に入り込めない。これでは私は部外者だ、曲の中での張本人になりきれていない。どうしたものかと考えていると唇に指が触れ、そんな程度でじわじわと顔が赤くなっていくのが自分でもわかる。
そんなままで今日の練習は終わってしまい今井さんと二人で外に出る。
「えっと……今井さん?」
「……あ、ごめんね、ちょっとぼーっとしちゃってたよ」
なんと切り出そう、頭を掻いている彼女はきっとそんな事を考えている。
ライブ衣装についてあれこれ話して、簡単に話がついた後やってきたのは無言の時間。聞きたいことがあるのは間違いない、でも、私にはその予想もついていないから私は待つことしかできなくて。
そして数秒、あるいは数分か、それほどの時間が経って彼女はようやく私の事を見た。
「えーっとさ……燐子、友希那と何かあった?」
「友希那さんと、ですか?」
「あー、言いたくないとかならいいんだけど……」
「いえ……友希那さんとは、何も……」
何か勘違いをされているのだろうか、私がそう返すと彼女はホント? とこちらを見つめてくる。
少しの怖さすら感じるそれに頷くと、彼女は大きく息を吐いて壁にもたれかかった。
「よかった~、アタシの勘違いだったみたい」
「いえ……ちなみにどうしてそう、思ったんですか?」
「なんか今日、二人共互いの事を意識してそうだったからさ」
私が彼女を意識していた、というのに心当たりはある。でもそれは私だけのはずで、友希那さんが私を意識だなんて……ありえるのだろうか?
「友希那さんが……ですか?」
「うん、たまーに燐子のこと見てたりしててさ」
気付かなかった? と聞かれ思い返し、でも思いつかない。もしそうだとしたら理由はなんなのか、それも思いつかない。
「そういえば友希那とはって言ってたけど、蒼音とは何かあったの?」
笑顔を向けて聞いてくる。答えに期待しているようで、それでいて面白がりそうな雰囲気は微塵も感じない。
ああ、わからない。こんなことを考えてしまうのだ、やっぱり今日はどうかしてる。
「今井さんは……」
「ん、どうしたの?」
「どうして私に……手を貸してくれるん、ですか」
きっと聞くべきではないのだろう。今井さんも困惑している、ああでもわからない、なぜ私に協力してくれるのかなど、聞くだけ損だとわかりきっているのに。
「えーっと……もしかしてお節介、だった?」
「い、いえ、そういうわけじゃ……」
—―どうして友希那さんだけでいいはずのそれを、私にもしてくれるんですか?
彼女の優しさからくるであろうそれ、理由なんてない、多分そう答えられる。わかってるけどわからないから、聞いてしまった。
友希那さんと私、付き合いでいえばそれこそ比べものにならないくらいは違う筈。それだけだからと言われればそれまで、私に先に相談されたからと言われてもそれまでだ。
彼女は何も答えずに飲み物を飲む。それは予想外で、段々と吸い込む息が深くなっていくのが自分でもはっきりとわかる。
「私もね、わかんないんだ」
そう答えると彼女は飲み物を一気に飲み干した。大きく息を吐き、私の事でもなく、まだスタジオに残る友希那さんの方でもなく、あらぬ方向を向いて話し出す。
「友希那には幸せになってほしいし、勿論それは燐子もで」
視線を戻され笑顔を向けられる。心臓が一度だけ、大きく鳴った。
「だからどうなってほしいのか、自分でもわからなくてさ」
それに対しなんと答えたらいいのかわからないでいると彼女が立ち上がり、彼女の顔が近くに来る。
「そういうわけだからさ、なんかあったら気軽に相談してね」
「ありがとう……ございます」
それだけ言うと彼女は去っていく。残されてもすることはなく飲み物を飲み干して、でもその場を去ることはできなかった。
今井さんがわからないといったそれは、きっと誰もがそう思っているのだろう。そも、正解なぞないのだから。
「蒼音さん……」
彼はきっと、最も悩んでいる筈だ。わからないと、嫌なくらいに、逃げ出したい程に。
スマホを取り出してメッセージを作成する。恥ずかしいとかの感情は驚くほどなく、送ってようやく少しだけ浮かぶだけ。
彼が好きなのは、私が好きなのは、友希那さんが好きなのは。わかりきって、でも知り尽くせてはいないこと。
鞄から一枚のチラシを取り出して、それをじっと見つめていた。
暑い。雲は流れ蝉が鳴き、地面を太陽が照らし熱が襲ってくる。
そんなだけど嫌だとは思わない。額の汗を拭って大きく息を吐いて目当ての人物を待ち続け数分、その人物がやってきた。
「すいません、待たせてしまって」
「いえ……私が早く、来すぎただけですから」
予定の時間よりずっと早い、そんななのにこんな会話は初めてでない。待ちきれなくて、待たせたくなくて。
蒼音さんとのカフェも慣れたもので、席につくと彼が私の分の飲み物まで注文してくれる。
彼を呼び出して、伝えたいことがあって、でも会話がないのまでいつも通り。遮ってしまわないように彼は黙ってくれて、私は何故か口を開けない。
飲み物が運ばれてきてようやく鞄から本を取り出し渡す。彼から返される自分の本は他の本とは別の場所に置いているからこれが何回目か、なんてのも全部覚えてる。
「これは……」
「この前渡された本がそういうのだったので好きかと思ったんですけど……読んだことありましたか?」
「いえ、この本はない、です」
その本は彼が買わなそうだと思って渡したものと似たようなタイトル。わざわざ買ってきたのだろうかとページを開く。
あこちゃんに好評だったけど彼はどうだろう、つまらない、なんてことはなかっただろうか。
「……」
私が本を読んでいたからか蒼音さんも読み始める。そうして数分、本から目を外して、でも気づかれないように彼を見る。
気に入ってくれるのか、それはいつも不安で仕方がない。そう怯えながらも本を読む彼を見てしまう。
ここにいるのは私と彼のみ、他のお客さんはいるけれど見知った人はいないから邪魔は入らない。珈琲を飲む彼を、ページを捲る彼を見続けていると、ふと彼がこちらを見てきた。
理由なんてないのだろうその行為、でも誤魔化すように急いで本に視線を落とす。気づかれたかもしれないということではなく、彼を見ていたというそれに恥ずかしさを感じてしまう。
もしかしたら顔が赤くなっているかもしれないから本を持ち上げ顔を隠す、なんでもないかのようにページを捲るが内容なんて入ってこない。
本を下げ、目だけ出すようにしてそろりと覗き見る。彼の視線は落ちていてホッと胸を撫で下ろし、だけど少しの寂しさを感じて。
「……はぁ」
今日彼を呼んだ理由、それをずっと切り出せない。彼から今日何をするんですかと聞いてくれれば言えるかもしれないが、でもそんなの待っていても来るとは限らなくて。
理由もない、目的もない、ただ一緒にいたいだけ。そうである時は聞かれたくないと願うそれを今は熱望している、もしそうなったら答えられるかは別だけど。
「そういえば燐子さん」
「は、はい……」
突然名を呼ばれ、少し裏返ったかのような声を出してしまう。もしかして、と期待し鞄を引き寄せた。
「今度のライブ、楽しみにしてますね」
「えっ……来るん、ですか?」
「はい」
駄目でしたか? なんて聞かれたから首を振る。そんなの聞いてない、来られて困ることなんて何もない、ただ緊張する、それだけだ。
そうならないくらい集中すればいい。わかってて、簡単で、されど難しいこと。
「た、楽しみに……してて、ください……」
「頑張ってくださいね」
緊張する、それは彼がライブに来ることなのか、彼に私の演奏を聴かれることなのか、どちらなのだろう。
似てるようで少し違う。両方かもしれない、好きな彼だからなのか、憧れた彼だからなのか。
でも好きだから憧れる、憧れたから好きになる。そんなの、全く違うから。
「蒼音さんは最近……どうなん、ですか?」
「……やっぱり楽しいですね」
笑いながら、なんともないかのように、恥ずかしげに、そんなのを期待していたけれど、彼は下に俯きながらそう答えた。
どうしてそんな顔をするのか、聞けるはずもない。ただ寂しそうにしている彼を見ていることしかできなくて。
「今度演奏聴いてもらって、何かアドバイスでもくれませんか?」
「そ、そんな……私なんかじゃアドバイス、なんて……」
「それなら聴いてもらうだけでも、誰かに聴いてもらいたいなって思ってたので」
それならと了承して、なんでそんなことをと考える。彼ならきっと私より上手で、立場としては逆の筈なのに。
先程の表情と何か関係しているのか、そんなことを思い鞄から手を離し、飲み物を口にする。
友希那さんは知っているのだろうか、ふとそう考え、頭を左右に振る。
「どうかしましたか?」
「い、いえ、なんでもない、です……」
彼女だけが知っているのが嫌ならば聞けばいい、ああでもあんな表情をされてしまったらそうすることもできない。
結局、今日の目的は達成することができぬままその日は解散してしまった。
「あ……」
日が落ち始めて地面がオレンジ色に染まってきて、今日の事を思い返しながら帰り道を歩いていると、すれ違った人に目が行った。
その人も私の事を見て立ち止まっている。銀色の髪に夕焼けが映り、幻想的なその雰囲気に吸い込まれた。
「……どうかしたかしら」
「いえ……なんでもない、です……」
目をそらし、閉じる、その行為になにも意味はない。暗闇で過ごす数秒、その間は何もなく、光が戻ってもそう。でも友希那さんはそこにいて私の事を見ている。
近くを車が通りすぎて、汗が流れるのを感じ取れて、そして彼女が口を開く。
「この後時間、あるかしら?」
長くはならないわと言われ頷き、ここではなんだからと歩き出した友希那さんの後を追う。
彼女との距離はほんの少しで、それこそ彼女の影を踏めるくらい。なのにとても遠く感じてしまって一歩がだんだん小さくなる。
気にしないようにと思っていることは余計に気になってしまう。なんでもそうだ、例えば今日の事だって。
聞くべきでない、そうわかってる。それに憶測にすぎないことだ、ああでも、思い返してみれば当てはまってしまう。
私が知らなくて、彼女だけが知ってる彼のこと。そしてそれは、彼にあんな顔をさせるもので……
「……はぁ」
下を向いてため息をつき、足が止まってしまっていたことに気付き少し早めに歩を進める。
結局のところ知ったところで私がどうにかできることなのかもわからない。触れられないならそのままでいい、触らぬ神に祟りなしだ。
「それで……何の用、ですか?」
友希那さんが足を止めようやく追い付いて、たどり着いたカフェに入店する。このカフェ、この前彼と来たところと同じだ、なんて事をぼんやりと考えていた。
カフェの中は涼しくて、生き返ったかのような感じさえする。冷たい飲み物だけ頼み、彼女の言葉を待つ。
「燐子は……不安になることってあるかしら?」
「えっと……なんのこと、でしょうか?」
「蒼音のことよ」
突然のその言葉はよくわからない。聞く理由も、その意味も。それに彼女はそういったものと無縁、勝手だけれどそんな風に思っていたから。
「怖いとか恐ろしいとか、私は彼の事を考えると、最近そんな風に思ってしまうことがあるの」
「それって……」
「勿論彼の事じゃないわ。
……いえ、彼の事なんだけど、彼の事じゃなくて……」
弁明するかのような彼女を見て、安心した。わかる、わからないはずがない。だから心の中で同意して、少し嬉しくなる。
私も抱くのだ、怖い、恐ろしいと。それは彼自身じゃなく、彼の関係に対して。
「……わかり、ます」
「……あなたもなのね」
「はい、思わないはず……ない、ですから」
友希那さんの事を見る。じっと、瞬きすら忘れてしまったかのように。そうすると彼女も私の事を見返してくる。
自分と蒼音さんとの関係、友希那さんと彼との関係、そしていつか訪れる未来、それら全てが痛いくらいの不安を押し付けてくる。
「……それだけよ、私が聞きたいのは」
そう言って砂糖を入れた珈琲を飲む彼女は先程とは違い、なんだか近くにいるように感じ取れた。
目の前で座っているのだからそれはそう、でもそうじゃない。彼女もそんな事を思うんだと、そんな風に知れたから。
だからこそ、許せない。
私と同じ風に感じてしまう彼女が知っている事を私が知らないという事。彼女自身じゃなくその事実と、知らない私が許せない。
だから今日あったこと、私は気がついたら既に聞いていた。彼と音楽のこと、それを知りたくて、知らずにはいられなくて。
「……どう言えばいいのかしら」
「知って……いるんですね」
「ええ、でも……」
友希那さんが窓から外を見る。言いたくないのか、言えないのか、どうにせよただ彼女の言葉を待つだけで。
「……燐子は、どこまで知っているのかしら?」
「どこまで……?」
「そうね……彼が音楽をやめていたことは?」
「え……」
これくらいは知っているかと言う風な様子で言われたその言葉はあまりに衝撃的で、信じたくなくて、嘘だと願ったけれど彼女の表情は真剣そのもの。
なんで、どうして、彼女の口は開かない。聞きたくて、でも聞きたくない。私の憧れた彼がピアノをやめていたなんて認めたくないから。
「……友希那さんはその理由、知ってるん……ですか?」
「ええ、でも……」
知っているけど言えない、言いたくない、再び窓から外を見る彼女からはそんな考えが読み取れる。
私も外を眺める。景色はオレンジ色に溶けて、いつか見た夢よりずっと現実味がなく幻想的だ。だからこそこれが夢だったらいいな、なんて思ってしまって。
「…………」
言葉はない。何を話せばいいかもわからなくて、今は何も聞きたくなくて。踏み込んでしまえばいい癖に、最初から聞かなければよかった癖に。
友希那さんと別れてカフェを出て、それでもまだ上の空のまま、ただ時間だけが過ぎていった。
「はぁ……」
真っ暗な部屋、ベッドに横になり電気もつけずにぼーっと天井を眺める。
ネットで彼の事を調べたら出てくるだろうか、なんてことを考えながらも実行する気がどうにも沸かない。
もう、よくわからない。私の憧れていた彼は音楽をやめていた、ただそれだけ。それに今は再開してる、いいじゃないか、終わりよければと言う言葉があるかのように、今がよければそれでいいはずなのにどうして。
憧れていた存在がそうなっていたことが悲しいのか、それとも彼がそうなってしまったことに思うことがあるのか、そんなことすらわからなくて。
……いつから、なのだろうか。私と再開する前から既にピアノを再開していたのか、それとも、私と再開した時には辞めていたのか。じわじわと、侵食されていくかのように思考が汚されていく。
思考はそれきりで、身体が電話をかけていた。着信待ちの音だけが鳴る部屋、私の中で心音が静かに響いている。
『どうかしましたか?』
その声を聞くと思う、改めて思う。私は蒼音さんのことが好きなんだな、と。
「蒼音さんは……ピアノのこと好き、ですか?」
『……はい、好きです』
「……そう、ですか」
よかった、と声が漏れた。その回答は、私の夢を叶えるために必要なものだから。
ずっと昔の言葉、彼は忘れてしまっているであろうそれを私は思い続けている。
『……突然どうしたんですか?』
「いえ……ただ、声が聞きたかっただけ、です」
今度あった時、その時こそ今日の目的を果たそう。彼がピアノを好き、それだけわかればもう、迷う必要はない。
その後少し会話をして電話を切る。また真っ暗な天井を眺めるけど先程とは違う。知れたから、彼のことじゃなく、私の本当の気持ちを。
彼を憧れていたから好き、好きだから憧れた、そんなの全部関係ない。
彼が好き、それに理由なんてない。ただそれだけ知れた。
目を閉じる。なんだか今日は、いい夢が見れる気がした。
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引きずられて
ピアノは好きですか? 何気ないその問いが頭の中に残っている。
はいと答えた。偽りない、心からの答え。今でもそれは正しいと思ってる、それでも思うところがなにもないというわけではなかった。
嫌いじゃなく好き、好きで好きで大好きでたまらない。それはわかっている、思っている。
ピアノの事を考える度に母親と父親が頭によぎってくる、お前はそれでいいのかとこちらを覗いてきて、その度縮こまってしまう。
関係ない、なんて切り捨てられる程大人じゃない、わかりましたと押し通されてしまうほど子供でもない。失ったものは大きすぎて、だからまだどこかで決めきれないだけ。
「えっと……なにかあった?」
「……別に、なんにもないさ」
これは俺の迷いであって、自分の答えは既に出ている。だからリサの心配の声も関係なくて、寧ろそうされるとなんだか辛さすら沸き上がってくる。
本当にめんどくさいやつだ。何度答えを出してもすぐに引っ込め、また出しては引っ込めて。決めてしまえばいい、後悔なんて飲み干してしまう度量を持てばいい。だが、そんな馬鹿のようにはなりきれない。
今日は買い物途中のリサと、それに付き合っていたひまりちゃんに出会い、お互い暇だと確認が取れたので音楽教えてと頼まれた。
なくなるものではないから教えたっていいのだが、教えるとなればリサはRoseliaの演奏を聴かせてくるだろう。
どうやら俺は、次のこいつらのライブを相当楽しみにしているらしい。聴くならとっておきたいから今は聴きたくない、なんて子供的な思考、だから断った。
ひまりちゃんのバンドの方なら、と思ったけれど自分達だけじゃ悪いからと言われてしまう。でもそのかわり、私達のライブも来てくださいねとも言われたが。
「それにしても今年はいつにも増して暑いね~」
「毎年そう言ってそうだな」
「正解。でも実際そうだからさ~……」
手で自らを扇ぐ、そんな程度で変わる筈もなく汗が流れてきた。日向で焼き焦げるのはよろしくないと日陰に避難しているのだが、やはりその程度で変わる筈もない。
「カフェかコンビニ、どっちか行きませんか?」
「賛成。蒼音はどっちがいい?」
「あー……カフェで」
「それじゃあ早く行こ、これ以上外にいると溶けちゃいそうだし……」
この二人は買い物帰りだし少し休憩したいだろう、そんな考えがなかったわけではないが、やはりこの暑さはコンビニのアイス程度で消せるものではない。
暑いと嘆くひまりちゃんの声を聞きながら、あまりの暑さからか陽炎の立つ道を歩いて向かうカフェは、実際よりずっと遠くに感じた。
カフェに着いて扉を開けると、世界が変わったかのように冷たい風が吹いてきた。寒すぎるなんて思ったのも一瞬で、すぐに気持ちいい程度に収まった。
席について冷たい飲み物を頼んで、見回してみればどの客もだらっとこの涼しさを満喫していた。
「夏休みももう終わっちゃうね」
「ほんと夏休みってすぐ終わっちゃいますよね」
リサが溢した一言に、ひまりちゃんがため息を付け足し同意した。後一週間程度、たったそれだけで今年の夏休みは終わってしまう。本当に日が経つのが早い、毎年そうだけど今年は特にそうだった。なんて、これも毎年言っている気もする。
今年が色々あったからか、物足りなかったからか、それとも去年の夏休みが何も無さすぎたせいか。どうにせよ夏休みが終わった後の事を考えると憂鬱で。
「ひまりは夏休みの宿題終わってる?」
「流石に終わってますよ!」
「あはは、ごめんごめん」
その話題を聞いてふと頭に浮かんだのは友希那の事。勉強があまり得意そうな風ではなくて、音楽と猫以外に興味を持たなそうなあいつのこと。
「なぁ、リサ」
「ん、どうかした?」
「友希那って課題終わらせてるのか?」
なぜあいつのことを考えた。気になったから、心配したから、それともあいつだからなのか。
「今週ライブあるし、流石に終わってるとは思うけど……」
「だよなぁ……」
なんだろう、その返答はどこか気にくわなかった。別に言い方とかそうじゃない。予想が外れたというだけなのか、よくわからないまま窓の外を眺める。
「どうしたの、なんか残念そうじゃん」
残念そうとはどういうことか。疑問を抱き、ため息が自分から聞こえてきてやっとそういう気分な事に気づく。
こういう風に期待するのはよくないことなのだろう、ああでも、そうあって欲しいと願わずにはいられない。
珈琲を口にする。甘くない、砂糖もミルクも入れてないからそれはそうだ。それの何処が好きなのかと言われたらわからないがいつも口にしている苦さ。
その筈なのに今日はやけに舌に残る、喉に引っ掛かるみたい。ぐっと、全部溶かして流し込むようにして飲み込んだ。
「でも昨日あこちゃんに会った時はまだ課題終わらせてないって言ってましたよ」
「あはは、この間その話したら紗夜に怒られてたよ」
あこちゃんといえば昨日NFOにログインした時彼女がオンラインと表示されていた、てっきり彼女も終わらせていたのかと思っていたがそうでもないらしい。
とはいっても彼女には燐子さんがついているし、全く進んでいないということはないだろう。だがどうか、燐子さんは優しすぎる面もあるから心配ではあるが……まぁ、真面目でもあるから大丈夫か。
「そういえば蒼音、明日あこが燐子と課題するって言ってたから行ってみれば?」
「俺はもう終わらせてるが」
「そうじゃなくて、嫌なの?」
そんなの俺に利点がない、だからといって断れるかどうかは別。頭でわかって、冷静に判断して、そうして答えは出せなくて。
嫌ではない、だけどしたいわけでもない。こうして悩まされる理由はたった一つ、燐子さんだけ。
悩む俺を見てか二人は顔を合わせる。何か企んでいるのか、口には出さず、頷くだけでこちらに視線を戻してきた。
「蒼音さんって教えるの上手そうですし、燐子さんも助かると思います」
「そうそう、燐子も感謝してくれると思うな~」
……断りにくい。罪悪感を感じるからじゃない、正当性を告げられたからじゃない。ただ煽られたから、俺の迷いの火を。
「……俺が行ったって邪魔、あこちゃんだってそう思うだろ」
「あこはそこら辺大丈夫だって、蒼音の事よく思ってるだろうし」
「この前蒼音さんのことかっこいいって言ってましたよ」
この二人、徹底的に断らせない気だ。まぁどうしても断りたいわけじゃない、邪魔になるかもしれないから、そう思っただけだ。
そうなりそうなら帰ればいい、とまで言われてしまえば逃げ道はない。わかったよと伝えると二人は顔を合わせ、上手くいったと言わんばかりに笑ってる。
「それじゃ、あこと燐子に知らせとくね」
そう口にしながらスマホでメッセージを打ち込んでる、行動力の塊みたいなやつだ。
どんな感情なんだろう、今の俺は。面倒とは思っていない、嬉しいというには語弊がある。
言い表せないような感情を抱きながら外を眺めていると、日陰に隠れている黒猫を見つけたのでその子の事を暫く見つめていた。
曇り空、しかも予報によればこの後雨も降ってしまうらしい。憂鬱さを抱え、足は重くなく、だけれどため息は漏れてしまう。
決められた時間はまだ先、とはいってもわざわざ時間を潰すほどのものじゃない。そろそろ出とくかと家の扉を開けた。
「えっと……」
見間違い、ではないだろう。上から下まで見回して、遡るかのように見直しても視界は変わらない。扉を開けると友希那がいて、鞄を抱え待っていたかのように俺の事を見ている。
言いにくいことなのか、一体いつからか、待てど待てども彼女の口からは何も発されない。目を剃らされてしまって、時間も有限なため、どうせこいつの事だからと、予想できることで話しかけた。
「……猫に会いたいなら悪いが今日は予定ありだ」
「いえ、そうじゃなくて……」
どうやら違うらしい。ならばなんだと、そうなれば予想はつかない。
友希那の視線はあちらこちらと泳ぎ、やっと俺の方を見たかと思えばまた目をそらす。そうして鞄を顔を隠す程にまで上げ、顔を見せないまま声を出した。
「燐子とあこと勉強するって聞いたから、その……」
友希那もくる、なんて誰からも聞いてない。そも今日勉強をするだなんて誰から、と考えても仕方がない。
勉強するなら自分も一緒にしたい、という理由であればそれはいいことだ。だけどあのなんとも言えない間、先程の視線の動き、もしかしたらと俺は聞いた。
「お前……さては課題終わってないな?」
ビクリと彼女が跳ねたように見えたのは気のせいか、でも関係ない。すぐさま否定の言葉が飛んで来ないというのはつまりそういうことで。
「そりゃ駄目だろ……」
「嫌……かしら?」
ライブが近いのだからそんなの駄目に決まってる、であればRoseliaのファンとして曇りない演奏を聴くためならばできることはしたい。
だからこの問いに対しての答えは一つしかなくて、それが嫌だと感じるかと聞かれたら……ありがたいとは思わない、でも嫌だとも。
「……それ、二人に許可は取ってんのか?」
「いえ、まだよ」
「そういうの先に向こうに伝えとけよ」
「あなたがいいって言うかわからなかったから」
友希那も勉強したいって言ってるんだけど大丈夫か、あこちゃんとのメッセージ欄にそのように打ち込んでいた手が止まる。
その言葉に隠れた意味、こいつ自身は気づいているのだろうか。そういうとここそ恥ずかしがれよ、なんて文句は心の内にしまっておく。
「あこちゃんは大丈夫だって」
「それなら行きましょう。
ところで勉強ってどこでするべきなのかしら」
「普段なら家でいいだろ」
家の扉を開けて数歩、移動距離としてはそれだけではあるのだが時間だけはだいぶ経っている。
「ちょっと早めに歩くぞ」
これでは昨日浮かんだ心配と全く一緒で、そんな風に感じさせてくれる彼女にちょっとだけを安心して。
空を見上げる。相変わらず空は曇っていて何も見えないから、よくわからなかった。
「りんり~ん、ここ教えて~」
「えっと、ここはね……」
燐子さんがこちらを見てきていて、でもそれはすぐにあこちゃんの方に戻る。教えている途中でもチラリと、それに気づかないふりをしてやり過ごす。
「蒼音、ここなんだけど……」
その言葉で俺も友希那に視線を戻す。カフェのテラス席にて俺が友希那に、燐子さんがあこちゃんに教えてる。
ここにやってきて二時間ほど、それだけ経ったにも関わらず会話の量は相変わらず少ない。
燐子さんと話せない。互いが教えているから忙しいというのもあるけれど、そんな中でも話そうとしたら丁度よく友希那から教えろと言われるから。
友希那ともそう多くは話せない。なんと話しかけられるかが見当たらないというのがあるけれど、単純に話していると集中できないというのを思うから。
唯一あこちゃんとは多少話せるのが救いか、でも彼女も燐子さんに教わっているのだからずっと話すというのはできなくて。
「やっと終わった~!」
「お疲れ様、あこちゃん」
「友希那さんもできましたか?」
「……ええ、それなりにね」
あこちゃんが大きく伸びをしてそう言うなり張り詰められたような空気が消えていく。
その空気を読んでか、それとも流されてか、友希那がまだ途中の課題ごと鞄にしまう。そうして俺の事をじっと見てきているということはつまり、そういうことなのだろう。
「これでライブに向けて集中できるし頑張るぞ~!」
「いい心がけね」
どの口が言うんだかと思いながらも、こいつは終わらなくても練習第一か、という事を考えるとなんでかため息がこぼれた。
燐子さんと目が合った、でも話さない、なのに視線は離さない。微妙な雰囲気なそれは、そういえばと言うあこちゃんの声で消え去った。
「蒼音さんはピアノのコンクールに興味ないんですか?」
「コンクール?」
「うん、りんりんがこの前コンクールに出たいって言ってたから、蒼音さんはどうなのかなって」
「あ、あこちゃん……」
どうなのだろう、正直よくわからない。嫌……かもしれない、でも出たいという気持ちがあるかもしれない。
自分でもよくわからなくて、頭がぐちゃぐちゃに塗り潰されるような感覚。
関係ないと考えても、全部引きずってやると覚悟しても、それでもまだ、俺の足は縛られている。
「……よく、わかんないかな」
「……別に嫌なら出る必要はないでしょう?」
「嫌じゃないさ、音楽は好きだからな」
女々しいな、なんて思ったところで変えられない、だから摩りきれるまで引きずり回せばいいのにそれすらしていない。わかってる、わかっていても、それだけだ。
「……みんなはこの後、どうするんだ?」
「あこは帰ってゲームしたいなぁって」
「私も帰って練習をするわ」
「えっと……私は……」
今日の予報は雨、であればこの問いの答えは一つ。それじゃあとあこちゃんについていくように燐子さんはついて行くように別れた。
二人の姿が見えなくなって、友希那と二人で帰り道を歩くがこれといった会話はないまま時間だけが過ぎていく。そうしてため息を一つ溢してから一つ問いかけた。
「……お前、明日とか時間あるか?」
「練習が終わった後なら、何か用でも?」
「何かってお前、課題終わらせられてねぇだろ」
「……いいのかしら?」
いいも何も放っておくわけにもいかないだろう、一人じゃやらないだろうし。
ありがとう、という言葉が返ってきて、こいつとも別れる場所になって向かい合う。
「……結局、どうなのかしら?」
「なんのことだよ」
わかっているけれどそう返す、でも彼女に答える気配はなくて。
「……後でまた考えとくさ」
「……そう」
明日とか明後日とか、一週間後には決められるかもしれない。今日だから、今だから整理がつかないだけ、後でなら、多分大丈夫。
「それじゃあ……また明日」
「ああ、また明日な」
そうして別れて空を見上げるが相変わらず太陽は見えそうにない。
足が重くて前に進まなくて、やっと家に着いたかと思うとタイミングよく雨が降ってきた。
鍵を開け、手をかける。そこまでして尚、家の扉を開けるのを酷く億劫に感じていた。
一年って早くて遅いですね
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好きであるが故に
俺には好きな人がいる。
好きで好きで、溺れてしまいそうなくらい好きで、その人の事を考えると息をすることすら苦しくなる。
手を伸ばしても届かなくて、振り向いてほしいけれど叶わなくて、だけどこの思いは捨てることができないままで……
なんて、小説に書かれている事を自分に重ねてみるけれどその世界に入りきれないでいた。
「はぁ……」
読んでいる途中だが本を閉じる。本を読むとその世界に飛び込んだようになってそれが好きで、なのに、今考えているのはまったくの別のこと。
「……どう、なんだろうな」
散らかった部屋を片付けるのが面倒なように、ぐちゃぐちゃとした思考をどうにかしようとすることがどうしようもなく億劫。
ピアノのコンクールの話を聞いた時、色んな物を感じていた。出たいという本能を、まだ早いんじゃないかという理性を。
出たくないという嘘か本当かわからない、わかりたくないものさえも。
「それじゃあ駄目なんだよな……」
仰向けに寝転がって目を閉じる。燐子さんと友希那の事、考えるべきはそれなのだろう。わかってる、わかっているけれど、片隅ではいつもピアノの事を考えてしまう。
別に今じゃなくたっていいのに、二人の事の方が先に決めなければいけないのに。
待ってますと言われたからいつまでも待たせている。改めて考えるとやっぱり、ずきりと頭痛のようなものも襲ってきて。
家の中にいるとこんなことばっかり考えてしまいそうで外に出る。頭痛に吐き気、目眩、体調不良と言うならばというものの嵐。辛い、苦しい、少し気を抜けば倒れてしまいそう。
ああ、ああ。そう、これでいいのだ。
きっとこれだけを考えるべきなのだろう。そうわかっている癖して逃げ出して、ふらふらと足を動かしながら宛もなく外を歩く。
「おや~? 蒼音さんじゃないですか~」
「……モカか」
「元気無さそうですね~、どうかしたんですか~?」
「……色々とな」
「大変そうですね~」
なんでもない、答えるべきはそれ、事実何もないのだから。だけれどそう言うことができないのは何故なのか。
誰かと待ち合わせでもしているのか、彼女はコンビニの壁に寄りかかったまま動こうとしない。風が吹いてざわざわと音がする。
別に目的があってここに来たわけじゃない、なんとなくで来ただけだ。だか来たのであればとアイスコーヒーを買って外に出ると、モカはまだそこにいた。
「リサさんがもう少ししたら来ますよ」
「リサに用はない」
「またまた~、何か相談したさそうな顔してるじゃないですか~」
どんな顔だ、そう言いかけて、でも言ってしまうとそれを認めてしまうことになりそうだから珈琲と一緒に飲み込んだ。
相談したい。そんなわけがない、そんな大したものじゃない。たとえどれだけ二人の事を考えていたとしても、ピアノのコンクールに出るのか、出ないのか、ただそれだけの話なのだから。
相談など、出来るわけがない。俺一人で悩むべき事で、解決するべきことだから。
「特別に~、モカちゃんが相談を聞いてあげましょうか~?」
「だからないって言ってるだろ」
どれだけ言ってもわからない、何度言ってもわからない。どんな風に思っているのか、自分でわからなくなり始める。
「あなた、何か困ってることでもあるのかしら?」
突然の第三者の声、もしやと思い向いてみればそこには友希那がいた。
「……ねぇよ、そんなの」
「本当かしら?」
一体いつから聞いていたのか。射貫かれるかのような視線を受けて、胸を貫かれるかのような印象を受けた。
一歩、その場から下がった。壁に背中が当たった、右の踵が壁に当たる。視線を友希那からそらした。
「蒼音さんは~、何か相談したいことがあるらしくて~」
「……ないって言ってるだろ」
「あ~、モカちゃん用事思い出しちゃった~」
壁から背中を離し、俺に視線を向けながらそう言ってきた。そんなものない癖にと言う間もなくモカはどこかに行ってしまう。リサを待っていたのではなかったのか。
気まずくなって珈琲を飲むが、遂に味覚までやられたか、あまり味がしない。飲み干して、ゴミを捨てることなく壁に寄りかかり続ける。
会話はなくてなんだか息苦しさを覚えるが、何を話したらいいのかよくわからない。これも全部モカがあんな事を言い残したから、なんて考えてたら友希那が隣にやってきた。
空を見上げ、ぼーっと流れていく雲を眺めていた。
「ねぇ、蒼音」
「あれはモカが……」
「何の事かしら?」
この後時間はあるか、そう言われたので首を縦に振る。
それにしても嫌になる、今年だけでこんな風に思ったのは何回目だろう。本当に俺はピアノが好きなのか、なんて考え始めて。
ああでも、二人の事が好き、それは確かなもので、だから何より優先すべきで。
もう一度空を見上げる。ゆっくりと流れる雲が、少しだけ羨ましく思えた。
何処に行くかと聞いてみたが、どこでもいいと言われたのでカフェにやってきた。
飽きるものではないけれど、友希那とも燐子さんともカフェに来すぎてる。どこか違うところにと考えてはみたが特に行きたいところもないし、二人もどこでもと言うことが多いから結局カフェで落ち着いてしまう。
友希那が珈琲に大量の砂糖を入れる。最初の頃は信じられないと思っていたがもう慣れたものだ、自分の珈琲が少し甘く感じてしまうのはいつまで経ってもなくなりそうにないけれど。
これといった会話もなく静かなまま時間が過ぎていく。何か用があるのか、ないのか、わからないしどちらでもいい。
珈琲が半分ほどなくなってようやく、彼女は口を開いた。
「あなたはコンクールに出るのかしら?」
手が止まる。こんな質問をしてきたのは偶然なのか、胸が締め付けられるようなものを感じた。
「……なんでそんなこと聞くんだ?」
「なんでって言われても……」
ただ気になっただけ、こいつはそう言うだろう。なんとなく、深い意味はなく。
そんな友希那にだから言うことができる、こいつが友希那だから言わなくてはならない。
コンクールにはでない、お前と燐子さんを待たせてるのにそんなことをするわけにはいかないと。
「……あなたの演奏を聴きたいから、しかないわ」
喉まできてた言葉は、彼女が発した言葉に押し戻された。
嬉しくて嬉しくて、クラクラしてしまいそうなそれ。
でも、だからどうした、それとこれとは別。彼女の期待を裏切ってしまうことになるけれど、それでもこっちの方が。
思ってるのに、わかってるのに、その言葉が頭をよぎって口の動きを鈍らせてくる。
「それで、どうなのかしら?」
じっとみられてなんだか恥ずかしくなってきて、それでも言わないといけないから、深く息を吸った。
「……コンクールには、でねぇよ」
「……理由は?」
正直に言うか、適当に誤魔化すか。迷ったけれど嘘をつく必要もない。
「お前と燐子さんの事もあるのにコンクールなんて出られないだろ」
「……それはどういうことかしら?」
「……どうもこうも、そういうことだよ」
少し低い声で言われ、座ってさえなければ一歩引いてしまいそうな圧を感じた。
怒っているのか、それとも意外だと思ったのか。じっとこちらを見て再度聞いてきた。
「それはつまり……私と燐子のせいってことでいいのかしら?」
「せいとは言ってないだろ」
「変わらないわよ」
喋れない。目を閉じて甘ったるい珈琲を飲む彼女を前に悪戯に言葉は吐けず、ただ思考をして待つことしかできない。
カップを置く彼女、瞳を開ける彼女、一挙一動に意識が持っていかれてしまう。
「あなたはピアノのこと、好きなのよね?」
「……そうだな」
「それならよかったわ」
いったい何がなのか、そう考えていると突然、彼女は俺の名前を呼んだ。
「私のこと、選ばなくていいわよ」
今、なんと言った?
選ばなくていい? 何を? そんなもの一つしかない。
嫌われたのか、呆れられたのか、考えて考えて、だけどわかりそうな気がしない、わかりたくない。
何かしてしまったかと考えて、どうにかできないかと思考して、でもやっぱり思い付かない。
友希那は俺から視線を外していて、両手を何故だか握りしめている。ふっと体から力が抜けて、入らなくて、手で身体を支えなければ倒れこんでしまいそうになる。
なんて聞けばいいのかわからない。頭の中で言葉が浮かんで消えて、数分、あるいは数時間考え続けているかのような感覚に襲われる。
「……どうしてだ?」
「どうしてって?」
「どうしていきなりそんなこと言うんだよ」
二人のうちどちらかを選ぶのに悩んでいる、そのうち片方が相手を選べと言ってきた。全部解決することだけれど俺はそれを許したくない。
どこまでも自分勝手、でも仕方がない。そう簡単に引き下がれるものであれば元より悩んでなどいやしない。俺は友希那の事が本当に好きなんだなと、今更ながらに、何度目かの再確認をさせられる。
「こうすればあなたは悩まなくて済むんでしょう?」
「……お前、俺の事が嫌いになったんじゃないのか?」
「そんなわけないわ。もしかして、そうなるようなことをした覚えがあるのかしら?」
よくわからない、だけど友希那が俺の事を嫌いになったわけじゃない、それだけわかると一気に安堵が襲ってくる。
けれどそれを味わう暇はない。あぁでも、悪いことをしたわけじゃないから謝るに謝れなくて、どう話すべきかわからない。
「……お前はそれでいいのか?」
「えぇ、構わないわ」
静寂が痛いくらいに体を刺してくるようになって、それを破るようにして出したのはそんな言葉。
彼女は何処か遠くを見ている。何を思って発したのかはわからない、けれどそれが彼女の本心だと認めたくなくて、それが嘘だと願って。
何もかもが気にくわないというわけじゃない。俺のためだとすること自体はいい、むしろ嬉しささえある。ただそのやり方だけだ。
「たまたま私だっただけで、この話を燐子が聞いていたのなら彼女も同じ事を言ってるだろうから」
「……どういうことだ?」
「わかってないのね……」
──あなたのピアノが好きだから、私がそれの邪魔になるくらいなら選ばれなくていいわ。
どこまでも力強く、だけれどもどこか弱々しく感じられる言葉だった。
そういうことだったのか、なんてわからない。俺のピアノにそんな価値はない、全部過去に置いてきてしまっているものだから。
「……演奏くらいいつでもしてやるよ」
「それは私への音楽でしょう? あなたがする、あなたのための音楽、私はそれが聴きたいのよ」
じわりと、何かが染み渡っていく感じがした。ティッシュを手に取り、しかし珈琲は既に飲み干していたから、それが自分の内で起きたことなのだと理解した。
そんなに言うならコンクールに出てやる、そういうわけじゃない。俺の音楽が好きだと言った彼女を説得するには、本気で、本心で答えなければならない。
「……なぁ、友希那」
「なにかしら?」
「お前って俺の事好き、なんだよな?」
「……突然何を言うのかしら?」
何って、意味なんてない。そうだと言えばそれだけで、隠すように違うと言われればそれだけ。本心から違うと言われたのなら……それまでだ。
「……ええ、好きよ。何度も言ったでしょう?」
顔をちょっと赤くしている。恥ずかしい、なんて思っているのだろうか。
友希那は言った、燐子さんも同じ事をと。もちろん本人がいないので確認のとりようがないが、そうであるならば、むしろコンクールに出なければ彼女にも悪くなってしまう。
決意の言葉、その前に一つだけ確認の言葉を入れる。
「もし俺が音楽をやめたらお前は俺のこと、嫌いになるか?」
「……どういうことかしら?」
「別に、気になっただけだ」
「そんなわけないわ」
ため息が聞こえてきた。当然だと呆れられたのか、そうであるならば……嬉しい限りだ。
「ありがとな」
「……突然何かしら」
口からは感謝の言葉が、あぁ、結局俺はそうしたいということなのだろう。騙して、隠して、それでもいつも簡単に掘り起こされる。
これは正しいことである、なんて言いきることはできない。友希那がそうしろと言って、俺もそうしたいと思っていて、ただそれだけだ。
「コンクール、出るって燐子さんに言ってみる」
「……そう」
それ以上はなにもない。残っていた珈琲を一息に飲み込んで、彼女の小さな笑みに胸を締め付けられ、だけどこれは全く苦しくなくて。
コンクールがいつなのか、それはまだ知らない。だけど多分、そう遠くはないことなのだろう。
いつまでもじゃない、決めるんだ。コンクールが終わったらどっちが好きなのかを。
俺には好きな人がいる。
その人の考えていると胸が苦しくなって頭がおかしくなりそうで。
手を伸ばすと取ってくれる人がいる、垂れ下がった手を引き上げてくれる人がいる。背中を押してくれて、一緒に休んでくれる人がいる。
外は明るい。今日はいい日で、そうなれば明日もきっといい日の筈で。
未来は一つだけ。後悔はしない、したくない、してはいけない。きっとそうなる、そうしなければ。
空では相変わらず、雲が泳いでいた。
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引っ掛かり
「……」
「友希那さん……どうか、したんですか?」
「大したことじゃないわ」
「ほんと~? 練習中もどこか上の空な感じあったよ」
「……そんなことないわよ」
こんな風な話をしているけれど、リサと燐子の言葉は右から左に流れていく。
頭の中に浮かんでいるのはこの前の事、彼の言葉。音楽をやめたら自分の事を嫌いになるかという、あり得ないこと。
きっと深い理由もない、聞いただけとか、そんな。
そうわかっている癖に、そうだと答えていたらどうなっていたのか、というのが頭に浮かんでしまう。
少し怖い、でも気になる。彼は、どちらを取るのだろうか?
「苦い……」
「やっぱりボーッとしてるじゃん」
砂糖を入れ忘れた、いつもなら一番最初にしているけれど、たまたまそうだっただけだ。
真っ黒の珈琲の中に砂糖を混ぜてじっと、起こした渦の中を見つめる。混ざって混ざってもう、元のものには戻らない。
「それで、二人共最近どうなの?」
「どう……とは?」
「それはもちろん……こういうさ」
砂糖を手に取り、それを私の珈琲の中に入れてくる。どういう意味か、きっと昔の私ならわからなかったのだろう。
再びそれをかき混ぜて、リサから顔をそらし燐子がこちらを見てきて、それを受けながら珈琲を口にする。
先程とは違って甘い、やはり苦いままで飲むというのはまだ理解ができない。
「特に何もないわよ」
「私も……特には……」
「ほんとかな~?」
「嘘なんてつかないわよ」
そも、リサが関与するようなことじゃない。私と燐子と、彼での問題で、それ以外は何も絡まなくて、絡ませてはいけなくて、絡ませない。
「それについて二人は思うことないの?」
「…………」
「関わることではないんだろうけどさ、もう秋だし、時間も無限ってわけじゃないし」
お節介なのはわかってるんだけどさ、なんていう彼女はきっと、蒼音にも同じことを言っているのだろう。
余計なお世話、ではない。このことのせいで練習に集中きてないわけじゃない、でもそうじゃないと言いきれるかというと……
いつでも、どこでも、何をしていても、彼が頭にいる。大きくなかったとしても隅っこには必ずあって、それに気づいてしまえば虫食いのように思考の中に潜り込んでくる。
それがあまりに自然で、無意識だから避けようがない。もしかしたら彼もこんな風に考えてくれているのだろうか。
ああ、また。
音楽が好き、彼は好き。滲んで、溶けて、一体どっちの方が強いのか、たまにわからなくなってしまう。
目標も、成すべき事も、歪んで迷ってしまったかどうかさえもわからない。
そんなだから、思ってしまったのだ。
音楽をやめた彼の事を嫌いになると答えたら、彼は音楽より私を取ってくれるのか、なんて。
自分なら答えを出せないそんな問い、浮かべるべきではなかったそんな問い。
足元が見えない未来は当然怖い、だけど待ち続けるのは……
珈琲に砂糖を追加する。そんな考え全部溶かして、混ぜて、一息に飲み干した。
珈琲にはそこそこの量の砂糖を溶かしていた。一つ入れたところで所詮、何も変わらなかった。
信号が変わるのが長い。だけどわざわざスマホを眺めるほどじゃないから理由もなく遠くを見る。
コンクールに出ると決めた、でも課題曲はわからない。それどころかどこでか、いつのものか、全く決めていない。
検索をかければすぐにでも見つけられるだろうけれど、一人ではあまり出たくない。
未だに怖いというわけじゃない、いや、なくはないけれど……燐子さんが出るのならそれと一緒がいい、そう思ったから。
「あ……」
その声はどちらが出したのか、信号が変わって歩き出してばったり、今までなかったわけではないがびっくりして互いに足を止めてしまった。
信号を渡り切ってない中途半端なところで話をするわけにはいかないので道を戻ると、すぐ様信号が変わって車が走り出す。
「えっと……燐子さん」
「は、はい」
「この後って時間、ありますか?」
答えは言ったか言わずか、どちらにせよ走る車の音で聞こえなかった、それでも彼女が頷いたのは見えた。
別に大した用事じゃない、コンクールに出ますと言うだけで、あわよくば一緒に出てくれませんかと聞くだけだ。
どこだってできる、数分程度で済むだろう。だけどこんなところで切り出すのは、なんて考えてしまって口が重くなってしまう。
「……何処に行くかって……決めて、ますか?」
「決めてないですけどそんな長い話でもないですし……」
頭で思っていることと口から出る言葉が噛み合わない。
自分から聞いておいて、それで何処かに行って数分で終えてしまったら彼女に悪いんじゃないかなんて思いながら、それでもそう易々と切り出すのはできなくて。
「それなら……蒼音さんのお家に行ってもいい、ですか……」
聞こえない程の声量のはずなのに、信号の音にすらかき消されてしまいそうなのに、それはどんな音よりも確かに聞こえてきた。
真っ赤な顔をして、なのにいつもと違って顔をそらさず向き合っている。なんて思った瞬間火傷してそうな程赤くなって背を向けられてしまったが。
「大丈夫ですよ」
頭は真っ白なままだがすぐにそう返答する。やっぱりなんでもないです、なんて言わせない、言わせたくない。だから取り消す間もなくそう返した。
それは彼女の勇気とでもいうものを無下にしたくないから……なんて浮かんできたけど綺麗事だ。嬉しいとは違う、何とも言えないものに塗りつぶされたから。
手をつないでまた信号が変わるのを待つ。こうしていると塗りつぶされたはずの思考が、心が、もっと深い色に変わっていくような感じがする。
「お昼ってもう食べてますか?」
「いえ、まだですけど……」
「それなら何か作りましょうか?」
沈黙が嫌というわけではない。この提案は単純に、話す理由が欲しかっただけ。
大したものを作れるわけでもないが返答はなんとなくでわかっている。何があったかと冷蔵庫を探していると返答がやってきた。
「蒼音さんの好きなもので……お願い、します」
予想通りの解答、なのだけど引っ掛かりがある。
好きなものでだけならばわかる、だが俺の好きなものでと。思い違いなのかもしれない、むしろそうである可能性の方が多いだろう。自意識過剰なのか、期待し過ぎなのか、どうにせよそれについては聞かないようにした。
心臓がドクリと脈を打つ。昼飯をご馳走、と言える程大したものではないが振る舞って、片付けも手伝ってもらって、向かい合いに座っているが口を開けないでいる。
二人きりという事、今飲んでいる熱めの珈琲。自分の中と外、形がないものとあるもの。熱の元はおそらくその二つ。
「あー……」
なんとなくで溢したその声は、会話が行われていなかったせいもあってかやけに大きく聞こえてきた。
気づけば珈琲は飲み切っていて、だからか熱が引いてきて黙る言い訳がなくなった。
いや、言い訳をしていたわけではなかったのだが飲み干して、それでもまだ苦いものがずっと残っている。
「燐子さん」
「は、はい……なん、でしょうか?」
頭を一度掻いて彼女の方を向く。こんな改まるようなことではない、わかっているのにこうなのは仕方がないことなのか。
「確かピアノのコンクールに出るん……ですよね?」
「まだ……決めてはない、ですけど……」
そらして、こちらを見てまたそらす。口ではああ言うけれど、恐らく彼女の答えは決まっているはずで。
だから責任はない、どう答えようと俺の勝手。そう、俺が出した答えが紛れもなく、俺の本音だ。
「俺は……燐子さんがいいなら、一緒に出たいって思ってます」
「……一緒に、ですか?」
「はい。一緒に、です」
そこを強調されると途端に引いていたはずの熱が、恥ずかしさに形を変えて混み上がってきた。でもきっと、彼女に比べたらそれはまだ可愛い方なのだろう。
俯いて、更には手で顔を覆い隠している。数秒、数分、恐らくそれくらい経ってようやく、彼女は指の隙間からこちらを覗いてきた。
「あ、あの……」
突然彼女は自分の鞄から一枚の紙を取り出しこちらに渡してきた。
大事に保管していたのだろう、シワどころか折り目一つない。ざっと目を通してみるとそれがとあるコンクールのものであることがわかった。
決めていないとはなんだったのか、そう思いながら目を通していると燐子さんが。
「実は……Roseliaのみんなにもまだ見せて……ないんです」
彼女は微笑みながらそう言った。それのせいか、それとも内容のせいか、熱を感じた。それも今日一番の。
「課題曲が決まったら、参加するかどうか決めようかなって思ってたん、ですけど……」
出るならそのコンクールと決めていたとのこと。
大きな声のわけではない、口調が強かったわけでもない。なのに彼女の言葉からは強い意志が感じ取れた。
因縁があるのだろうか、真相は彼女以外にわかるはずもないのだが……これまた何か引っ掛かるようなものが。
でもこれはさっきと違う、何が引っ掛かっているのかすらわからない。
「それじゃあ……そろそろ帰り、ますね」
「あー……送っていきましょうか?」
燐子さんは大丈夫ですと言いかけて、お願いしますと言い直してきた。
引っ掛かる、引っ掛かる。燐子さんの事を見るとそれが膨らんでいくことだけは確かにわかった。
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雨の日に
練習中、何故だか部屋に飾ってある写真が気になった。
集中しなければ、そう思って気にしないように、なんて上手くいくはずもなく、考えれば考える程それは頭の中で強くなっていく。
昨日も、一昨日も、その前の日も、毎日見ているはずなのにどうして。心当たりは……ないわけではない。
忘れたいこと、忘れたくないこと、忘れてはいけないこと忘れられないこと。ここの写真はその全て、でもこれに関与しているのは俺と母親だけの筈で。
だから、写真を見ていると燐子さんが浮かんでくる理由がどうしてもわからない。
彼女が何か関係あるのか、それともただただ彼女の事が……
ああ、でも、どうだっていい。別に不満も不安もないのだから。
嫌ではないし、嬉しいかと言われてもそういうものじゃない。
「……冷えてきたな」
ついこの前まで夏だったというのに、滝のように汗が出ていたというのに。蒸されるような、焦がされるような、そんな風だったのに。
窓を閉める。冷たい風に心地よさを覚えながら記憶に新しい暑さとの差に気温以上の寒さを感じていた。
「あー……」
やらかした。バイト中もしかしてと思い見ないようにしていたが、やはり雨が降っている。
いつもはなんとなしに天気予報を見ているのにこんな日に限って見なかった。運がないとでも言うべきか、なんて考えながら空を見上げる。
止んでくれればいいのだが、ザーザーと聴こえてくるそれから逃避するように思考すれど変化はない。
秋になって暫く、そろそろ長袖にしようかと悩んでいたのだが、まだいいかと思っていたのを咎められた気分だ。
このまま雨に打たれながら帰ったら風邪を引いてしまうかも、寒さに身震いを起こしながらそう考えて、壁に寄りかかってため息を漏らした。
「あなた、何しているのかしら?」
どうしたものかと迷っているとそんな声が。そこにはビニール傘を指してコートを着て、俺と正反対な格好をした友希那がそこにいた。
「見てわからないか?」
「もう夏も終わったというのにあなたはまだ半袖なのね」
「別に秋になったら長袖じゃなきゃいけないなんて決まりはないだろ?」
「そんなことを言うわりには随分と寒そうだけれど」
それとこれは別。決まりがないからサボっただけだし、サボったから痛い目を見ているだけ。
何を思ったか友希那は隣にやってきて傘を閉じて水を払う。話すことでもあるのか、そう思ったけれど彼女は黙ったままで。
「何か用でもあるのか?」
「別に、あなたが暇そうにしてるから」
「雨が止むのを待ってるだけだぞ」
「明日の朝まで止まないらしいわよ」
一時間程度ならば覚悟していたがそこまでなのか、仕方がないし風邪引く覚悟で帰ろう。なんて風に考え一歩歩くと友希那から傘を差し出される。
「傘、ないんでしょう?」
「準備がいいんだな」
折り畳み傘でも持っているのか、なんて思いながら彼女が先程まで指していた傘を受け取ると、彼女は首を横に振りながら言う。
「まさか、これ一本よ」
何を言っているんだと思ったけれど、こちらを見上げるその視線に冗談はなさそうだ。
つまりこれは……そういう提案か。
「……ちょっとくらい濡れたとしても文句言うなよ?」
「そうならないようにしてほしいのだけど」
「もしもの話だよ」
傘を開くとさっきと同じく友希那が隣に、違いと言えるのはその距離か。
自分で傘を持つのがめんどくさいから頼られた、憐れみから傘を渡された。俺だから、渡された。
雨を弾く音が聴こえている。少しばかり手が冷えるが、ほんの少しだし風邪を引く可能性に比べたら遥かにマシ。
こんな雨の日に外出している人間は少なく、友希那に歩幅を合わせると遅いなと感じるが、比べる対象がいないから比べようがない。
水溜まりを跳ねる車の音が、やけに大きく聴こえていた。
「明日空いてるか?」
「何か用かしら?」
「これ返さないとだろ」
友希那の家に着いて、貸してあげるわよと言われたから今日は傘を借りることにする。
いくらビニール傘とはいえ借りた物は返さないといけないし、なるべく早い方が当然良い。
「明日は……練習終わりでなら取りに行けるわ」
「いや、俺から返しに行くさ」
「律儀なのね」
「基本だろこんなの」
借りて、パクる気でいるわけじゃない。結局は信頼の話、疑われたくない。誰であってもそうだけれど、こいつには特に。
どこで練習するのかというのと何時くらいになりそうか、それだけ聞いて別れようとしたら待って、と呼び止められた。
「…………」
「どうしたんだ?」
真っ暗、というわけではないが明かりと言えるものは家から零れる程度のもの。
雨はバイト先を出た時よりも強くなっている。それもあるけれど、格好があれなため流石に寒い。
これ以上外にいると少ししか雨を浴びていないとはいえ風邪を引きかねない、そのため早く帰りたいのだが彼女はその口を紡いだまま。
ザーザーと、その音に世界が塗り潰されている。
──少し……上がっていかないかしら?
それなのに、いや、それだからなのか。はたまたその内容のせいなのか、なんにせよその声は妙によく聞こえてきた。
顔をそらした友希那が今どんな風な表情をしているか、見えない、わからない。
ドクリと心臓が一つ大きく鳴り、鼓動が速くなり、感じていた寒さは何処かに消えて。
世界を塗り潰していた雨の音も、気が付いたらどこか遠くのものになっていた。
「……親はいないのか?」
「今日は遅いって言われてるから……」
多分、帰ってくるのは30分後くらい。それを聞いてどう答えるのが正解なのか。
30分というのは決して短いものじゃない、でも長いかと言われたら言葉に困る。
でもそんなのは関係なくて、問題はそれが確定じゃないということで。
30分より遅いかもしれない、それならいい、なんの問題もない。だけどそれより早く帰ってきたら? 友希那の親と鉢合わせたら?
なんて説明すればいいのか。恋人ですと言うわけにはいかないし、友達ですと言って通せるようなものじゃないだろう。
「駄目、かしら?」
目的がわからない、もしかしてそんなものないのかもしれない。
でも、少なくとも俺は、どこか怯えを含んだようにそう聞かれて断れるわけがなかったのだ。
「飲み物は紅茶でもいいかしら?」
「……入れられるんだな」
「それくらいできるわよ」
呆れたような怒っているかのような言い方。彼女の部屋ではないのだけれど、それでも目のやり場に困ってしまう。
「寒くないかしら?」
心配しすぎだ、そう言いたいけれど心配してくれるのがこう……嬉しくて、なにも答えられない。
出された紅茶は温かい、というよりは熱い。湯気が出てるそれを口にする勇気はなく手でカップを触るだけに留めておく。
会話はない、窓は閉めているというのに雨の音が聞こえてくるかのようなほど静寂が広がっている。
「……こういう時、どんな会話をするのが正解なのかしら」
「……俺に聞くな」
そういうことがわかるほど経験豊富じゃないし、そういうことを知っている程知識もない。
ああだこうだと思い浮かんだことを片っ端から言ってみてもいいのだが、正解を探すのではなく、失敗をしたくない様な状況でそのようなことを行える筈もない。
気が付けば紅茶の入ったカップからは熱を感じなくなって、口にしてみれば嘘のように熱くてほんの少量しか飲むことができなかった。
両手の手のひらで腕を触ってみると、その部分は暖まる代わりに手のひらから熱が吸われていくかのような感じがする。
「雨はだいぶ強いみたいね」
「弱まる気配もないな」
「本当に明日には止んでるのかしら」
さぁ、でも台風が上陸するとかは最近のニュースで目にしていないし多分止むのではなかろうか。
段々と紅茶は飲めるくらいには冷めていき、手で熱さを感じながらも飲み進める。
「……蒼音は早く帰りたいのかしら?」
「まぁ……友希那の両親が帰ってくるより早くにはな」
覚悟が足りない、そうじゃない。
胸が締め付けられるかのような感覚、誰がそうしているのかなんてわかりきっていることだ。
そうされて、当然なのだから。そうしている
彼女のスマホが鳴る。それを確認して彼女はなんでもないかのように聞いてきた。
「ねぇ、もしお父さんもお母さんも帰ってこないとしたら……どう?」
「……は?」
先程言っていたことはなんだったのか、どうとはなんなのか、彼女はなんて答えてほしいのか。
言葉にすらならないものが喉まで昇ってきて、それを飲み込みながら思考をなんとかまとめようとする。
「……冗談よ、そろそろ帰ってくるよりらしいわ」
「……お前もそういうこと言えるんだな」
「例え話で言ったのにそう真剣に考えられるとは思わなかったから」
今俺はなんて思っているのだろう。安心してるのか、残念がっているのか。
既にぬるくなっていた紅茶と共に流し込もうとしたけれど、へばりついているかのように消えてくれなくて。
飲み干して、感謝の言葉を告げて帰ろうかと思ったら呼び止められる。その手には友希那が着ていたコートがあって。
「これ、着ていきなさい。風邪を引かれたら困るもの」
「……何を言ってるかわかってんのか?」
「おかしな事は言っていないと思うのだけれど」
「普通は男にコートなんか貸さねぇだろ……」
やっぱりこいつはズレている。どうやって断ろうか考えていると、無理矢理コートを持たせながら彼女は言った。
「あなた以外にはしないわよ」
「……心配するのは結構だけど、父親のを貸すとかはないのかよ」
「勝手にお父さんのを貸すわけにはいかないでしょう?」
それはそう、でもそうじゃない。俺だから、そう言われて嫌な筈がない。だけどそう易々と受け入れられるかと言われたら別。
受け入れることは簡単じゃない、でも断るのは嫌だから。
「……ああもう、汚しても知らねぇぞ」
「あなたならそうはしないってわかってるわ」
「絶対なんてことはないんだよ」
言い争っていたら友希那の親が帰ってくる。そろそろと言っていたしあまり時間はないだろうし、こちらが折れる以外に選択肢はない。
もしコートが女性ぽかったら迷っていたが、彼女がそういうのに興味がないだけか、どちらでもなかったからそれを着る。
サイズに関しては……まぁ、着れないことはない。
雨の具合はわからないが止んでることはないだろう。ビニール傘を借りようとして、再度呼び止められた。
「それじゃあ、気を付けて」
「また明日な」
雨は少し弱くなっているようで、貸されたコートのお陰もあってか寒さはだいぶ防げている。
いや、これは防げているというよりは……
額に手を当てる。手か、額か、それとも勘違いなのか。
原因は様々考えられるけれど……
「これで風邪だったら笑えないんだけどな……」
どうであれ、暖かいと、確かにそう感じていた。
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阻むもの
朝は憂鬱、それに大した理由なんてない。頭はあまり回らないし、そんな状態でアラームの音が鳴り響く。
まだ眠っていたい、そんな思いを抱きながらアラームを止めて布団から身体を出す。
今日がコンクールの課題曲の発表日。気になるけれど一人で確認する勇気はないから、スマホを手にしてははみるけれど画面は暗いまま。
ピアノの前に座る、鍵盤に指を置く。実際には弾かない、目を瞑って夢想するだけ。あの舞台で演奏する自分を、夢を叶える自分自身を。
「ふぅ……」
手が震えてる。小さく息を吐いてみたけれどそれが収まる気配は微塵も感じ取れない。
楽しみなのか、待ち遠しいのか、それとも怖いのか。多分それら全てなのは間違いないのだろうけど、そのうちどれが一番なのかと聞かれるとわからない。
きっと楽しみで待ち遠しい。ちょっとは怖いけれど私はあの頃とは違うからきっと大丈夫だ。
鍵盤に置いた指全てをゆっくり、深く落とす。適当に置いたから綺麗じゃないけどそんなのはどうだっていい、そう思ったけれど寧ろそれが悪手となって。
不安が指にこびりついて取れてくれなくて、それは心にも染み渡ってきて身体が少し冷えたような気がした。
わかっているのに、わかっているから……
「蒼音さん……」
思い人の名を呼ぶと少しはマシになったような気がしたのは気のせいだろうか。
窓を開けると、冷たい風が入ってきた。
「ピアノコンクール?」
「はい。今度開催するコンクールに……出場しようと思ってるんです」
「その話はしていたけれど、随分前の話じゃなかったかしら?」
「出るなら……これにしたいって、思ってましたから……」
Roseliaのみんなにコンクールの話をすると驚き半分、でも初めての話じゃないから意外とすんなりと受け入れられた。
コンクールに出たいというのは前々から言っていて、だけれど出るならこれと決めていたから時間が経ってしまった。
「でも、大丈夫? コンクールは人がたくさんいるから苦手って言ってたよね?」
「うん、それにこのコンクールは公開審査だから……見に来る人もたくさんいるんだ……」
「そ、それは緊張するね。大勢の前で一人なんて、アタシだったらヤバいかも……」
今井さんも、氷川さんも、あこちゃんも知らない理由。そして友希那さんでさえ理由の全ては知っていない。
だけれどもそれは蒼音さんにも言えなかったものだから全てを知っているのは私だけ。
尊きものだと思えるこの想い、清きものだと思えるこの夢、自分を変えるための道標。
大切だからこそ漏れ出さないように蓋をする。開けたら溢れてしまうかも、空気に溶けてしまうかも、だから大事に、大事に蓋をする。
「りんりん、平気なの?」
「平気じゃないけど……挑戦してみたいんだ」
誰でもない、私のため。
私じゃない、私の夢のため。
夢じゃない、ただ私のため。
「……そう。うまくいくといいわね」
「はい、ありがとうございます……」
「そうなるとコンクールの練習の時間が必要ね」
「はい、個人練習の時間を作って……課題曲の練習をしようと、思います……」
Roseliaの練習には支障が出ないようには、そう言うといちいち断らなくたっていいと今井さんに言われ、信頼されているのかと嬉しさを感じられた。
「ところでりんりん、課題曲ってどんな曲なの?」
「今日参加要項が発表されたから……サイトに書いてあると、思うんだけど……まだ私も、確認してないんだ」
「へえ、じゃあ見てみよっか」
今井さんがスマホを机の上に置きサイトを開く。私を含め全員がその小さな画面を覗き込み、課題曲はいったいなんなのかと探す。
「あ、あったあった! これだよきっと」
あこちゃんが探し当てたその曲は……あの時コンクールで弾いた曲と一緒だった。
偶然か、運命か。仕組まれたものじゃないことくらいわかってはいるけれど、ああでも、頭の中は真っ白になってまともな思考もできやしない。
「りんりん、どうしたの?」
「その……知ってる曲、だったから……」
全身の血が沸騰したかのように身体が熱い、心に黒い何かが重くのし掛かる。
手が冷たい。ほんとはそんなことないんだろうけど、顔に当ててみるとそう感じさせられて、なんでか知らないけど、震えてる。
「昔、コンクールに出た時に……演奏した曲なんだ」
「え、昔コンクール出た時ってだいぶ前でしょ?」
「その頃に高校生向けの課題曲を弾いていたの?」
私の意思じゃない、先生がこれくらいならできるって言ったから。難しい曲を弾いていた、みんながそれを手放しに褒めるからなんとも言うことができない。
嬉しくないかと言われたらそんな筈ない、嫌かと言われたらそれも思う筈がない。でも、でも、でも、やっぱり……
「頑張ってね、燐子。応援してるよ」
「……はい、ありがとうございます……」
遥か昔の事だというのに、蒼音さんに褒められたのと比べてしまうと……見劣りしてしまうなんて思ってしまうのはきっと、最低なことなのだろう。
だけど当然のことなんだと思ってしまうのは、仕方がないことなのだろうか。
「少しいいかしら?」
「えっと……なんでしょうか?」
練習が終わって、早速コンクールに向けて自主練習をしようと思っていたら友希那さんに声をかけられた。
集中しようと深呼吸をしようとした瞬間だったから変な声が出てしまい、皆から視線が向いて恥ずかしくなる。
「友希那~、邪魔しちゃ駄目だよ」
「……長くはならないわ」
なんと言えばいいのだろうか。怖いとまではいかなくても、そう感じてしまうかのような圧がある。
何か友希那さんの気に触れるようなことをしてしまったか、最近の事を思い返せど見つからない。
「二人で話したいから、リサ達は先に帰って貰えるかしら?」
「すぐ終わるんでしょ? なら外で待ってるよ」
そんなに大事な事なのか、でも友希那さんは長くはならないと言っていたし。
先に謝ってしまおうと思ったけれど息苦しさから声は出ない。早い鼓動、飲み込んだ唾が確かに感じられた。
みんなが部屋から出ていって、友希那さんは一つ息をついて話しかけてきた。
「……聞きたいのはコンクールについてよ」
「コンクールについて、ですか……」
単純に興味があるだけなのか、でもそれだけならば今である必要が、みんなを退出させた理由がわからない。
曖昧な質問であるから彼女が問う意味を探すことから。彼女は無駄なことは聞いてこない、そう知っているから思考を巡らせる。
ならば……そうして出てきた答えは肝を冷やさせるものだった。
「ご、ごめんなさい……」
「急に謝ってどうしたのかしら?」
「えっと……今日の練習に集中、しきれてなかったことに……怒っているのかと……」
集中していなかったかと言われたらそれは否、でも集中しきれていたかと言われたらそれも否。
友希那さんは大きくため息をつき、だけれど違うと言うから驚かされる。であればそれこそ何も思い付かないが……
「それについてはまた後で聞くことになると思うけれど、そうね……」
──今聞きたいのは蒼音とあなたと、コンクールの関係についてよ
恐ろしい程の静寂が部屋を埋め尽くす。そんな個人的な事だとは欠片も思わず、それで驚き思考が止まってしまった。
「言いたくないのならいいのだけれど」
「い、いえ……でも、なんて言ったらいいのか……」
少しは示されたとはいえこれでは大して変わってない。範囲が狭まったとしても、何処にあるかはっきりわからなければ誤差のようなものだ。
ああ、でも、ゆっくりと口は開いていた。
「蒼音さんは私の好きな人で、目標で、夢で……コンクールはそのための場所……です」
自然と言ったそれは自分でもはっきり聞こえ、顔が赤くなって視線が床に落ちる。
ああ、きっと笑われる。そう思って顔を上げてみると……彼女はじっとこちらを見ているだけだった。
「……そう、時間を取らせて悪かったわね」
それだけ告げて彼女は扉の方へ。もう終わりなのだろうかと思うとなんだか拍子抜け。
握った手を胸に持ってきて、息を止める。真っ白に染まった思考の中、私は彼女の事を呼び止めていた。
「私からも……いいですか?」
彼女が返事をしてこちらを見る。私が呼び止めた癖に何を話したいのか、何を聞きたいのかわからない。
その癖思考はゆっくりとしていて焦る様子はない。時間がゆっくりとなったかのような、そんな感覚の中、私の口は自然と動いていた。
「友希那さんにとって……蒼音さんはどんな人、なんですか?」
「どんな、って言うのは?」
その問いには答えず、なんでこんなことを聞いたのだろうと順序おかしく考える。
何を気になったのだろう、私はどんな答えを求めているのだろう。ふと、彼女から目をそらして鏡に映る自分の姿を見る。
ああ、きっと……
「…………好きな人よ」
随分と長い時間をかけて絞り出されたその言葉は、それと反比例するかのように短く、単純で、純粋なものだった。
無駄なことはない、あんなとかこんなとか、そういった装飾のないどこまでも簡潔なもの。
どんなところがとは聞かない、彼女はきっとわからないとか、全部とか、そういった答えを出すと思う。そんな目が潰れてしまいそうなほど純粋なものを言葉ではなく、表情でもなく、なんとなくで感じ取れる。
なんとなく、とは言うものの同じ人を好きになってしまったから感じ取ってしまうのは仕方がないのだろう。そしてそれは、彼女も同じはずで。
「友希那さんは、もし……」
喉から言葉が出かけたけれど、飲み込む。なにかしら、と彼女に視線を向けられて、そらしてしまう。
蒼音さんに選ばれなかったらどう思いますかなんて、簡単に聞いていい筈のないものなのに。
「なんでもない……です」
自信があるわけじゃない、寧ろ友希那さんと自分を比べて、私が勝っていることなんてそれこそ……と考えてしまう。
だから怖くて、不安。口から出かけた意図もわからない。共感を求めているのか、それとも彼女の口から聞いて安心したいのか。
この前彼女は言った、怖いのだと、不安だと。表面的なそれじゃない、その深層、もし選ばれなかったら彼の事を、どう思ってしまうのか。
私が抱いているものをまるっきり同じように考えているのか、私が考えていることは普通だと思いたいから。
……ああ、どうにせよだ。天井のライトが嫌に眩しく感じ取れた。
「邪魔しちゃってごめんなさいね」
「い、いえ……大丈夫、です」
彼女が扉を開けて部屋から出ていく姿を見送った。なんだか手が痺れる、少しだけならとその場に座り込む。
ずっと握っていた手を開く、そこには何もない。その手を何度か閉じたり開いたりして、ライトに向かって手を伸ばす。
届きそう、でも届かない。透けて見えそう、私の薄い薄い心の持ちようまで。
ああ、よく見えない。数秒の間、ぼーっとその手を眺め続けた。
「……練習、しなきゃ」
小さくため息をこぼしてから立ち上がる。指をキーボードの上に置いて大きく、大きく息を吸い、吐いた。
視界が暗くなっていく、狭くなっていく、でも頭の中はスッキリしない。だからそれを払うかのように冷えた指を躍らせた。
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一と多と
あ、と間の抜けた声が目の前から聞こえてきた。名指しされたわけではないが相手が見知った顔だから誰に向けたものかはわかりやすくて。
だけど呼び止められたわけではないしその隣を通り抜けようとすると今度は名前を呼ばれる。
「何か用?」
「別に、何もないですけど」
それだけで会話は終わり、だがそれじゃあと言って帰るのは忍びない。
向こうも同じような事を思っているのか、道の端に立っていた彼女は壁に寄りかかってこちらの事を見てくる。
「…………」
気まずい、というわけではない、ただ話すことがないだけだ。
壁に寄りかかる彼女の前を通ってというわけにもいかないだろうし、さてどうしたものか。
これで何かしらの予定があればそれを出して帰ってもよいのだが、コンクールに向けての練習しかすることはない。
であればだ。俺は彼女の隣で壁に背を預けた。
「蘭ちゃんはこの後何か予定は?」
「ないですけど、何か用ですか?」
「いや、特に」
ふぅ、と息をついて空を見上げる、何か話せる物でもあればよいがそんな話題は持ち合わせていない。
数秒、数分、それだけ経てば別れてもいいだろう。今日の夕飯はなんにしようか、なんて流れる雲をボーッと見ながら考えていた。
「新庄さんは最近、どうなんですか?」
「なんのこと?」
「えっと、ピアノの調子です」
「うーん……まぁまぁかな」
沈黙に耐えられなかったのか、彼女はそんな事を聞いてきた。
やればやるほど上手くなる、なんて時期は過ぎてしまって成長は緩やか。コンクールが近いことに焦りはあるがそれでも、楽しい。
子供の頃の自分に手を引かれ、今まで通った道をまた通って、そしてやがてまだ見ぬところへ。
コンクールという本番に向けどこまで出来るか、不安ではあるけど何よりも。
「そういう蘭ちゃんはバンド、どうなの?」
「アタシ、は……」
言い淀まれ、冷えた空気がよりいっそう冷たくなった気がした。
返ってこない答え、それは予想とはあまりに違うもの。なんとも居づらく感じてしまうが、無遠慮な俺の問いかけが原因なのだからそう考えてはいけなくて。
「あの、新庄さん」
「……何?」
「一つだけお願いしても、いいですか?」
断れる筈もない。頷くと、彼女は俺の手を掴み、どうにも真剣な表情で言ってきた。
「アタシと一緒に、カラオケ行ってくれませんか!」
「……は?」
気の抜けた声が漏れてしまったが仕方がない。もしかして俺は疲れているのだろうか、そんな事を考えながら、頷いてしまったが為にそのお願いを受け入れた。
カラオケとは名は聞けど、実のところ来るのはこれが初めてだ。
好きとか嫌いとか、行ったことがないのだから決めつけようはないのだが、行く理由がないから来たことがないだけ。
歌うことは得意じゃない、が嫌いでもない。それでもどれくらい上手なのだろうと確かめる程の情熱はないし……誘い誘われる知り合いなんてものもいなかった。
別に、始めてだからといって緊張するわけじゃない、ただその始めてでの付き添いが異性という事実が気になるだけ。
いや、これは緊張と言えるのか。燐子さんや友希那といる時といる時に抱くものと似てはいれど、それとは確かに別物で。
「……蘭ちゃんはこういうとこよく来るの?」
「アタシはあんまり……新庄さんは?」
「俺も全然、なんなら始めてだし」
彼女はバンドをしているのだから歌うのは飽きるくらいにしているだろうし確かに来ることは少ないか。なんて自己完結気味に考えを纏めている彼女は少し驚いたような表情を向けていて。
「新庄さん、カラオケ来たことないんですか?」
「そんな意外なものじゃないでしょ」
「それは湊さんとも、ですか?」
「そうだけど……それが何か?」
友希那こそカラオケなんて、と言っていそうなものだけど、蘭ちゃんの中でのあいつはそうではないのだろうか。
「それで、今日はどんな用なの?」
「あ、えっと……アタシの歌を評価、してほしくて」
「……それは俺である必要あったの?」
別に迷惑なわけじゃないと先に告げておく。だが別に俺じゃなくてもバンドの子やリサ、なんなら同じボーカルとして友希那とか、他の選択肢はいくらでもある。
なのに何故俺なのか、偶々出会ったからと言われてしまえばそれまでではあるのだが、でも多分、偶々ではないのだろうというのはあの感じから考えさせられて。
「みんな……甘すぎるから」
正当な評価をされていない、そういう風に彼女は感じているのだろう。とは言ってもバンドのボーカルをしているのだし下手な筈はないし、寧ろ上手いとまで行っている筈。
それに俺はあくまでピアノだけで歌に関してはどうこう言える知識も持っていない。だがまぁ、頼まれた事を断るほどではないからよいのだが。
「俺なんかでいいなら。でもまともな評価はできないかもよ」
「いや……湊さんと比べてどうかっていうのをお願いしたいんです」
「友希那と?」
頷かれたその真意、季節外れに燃えるかのようなその瞳。
きっと、そういうことなのだろう。
俺だって友希那の歌を聞いたことはそう多くない。ライブの時と、その他に数回程度。それを知っているかはともかくとして、求められているなら答えるのが筋というものだ。
負けたくない、彼女はそんな感情を友希那に対して抱いている。対抗心として、不安として。
「それじゃあ……どれがいいですか?」
「どれでも。歌いやすいやつでいいよ」
「それなら、これで」
知ってる曲、確か友希那に勧められた曲の中に合った気がする。
趣味は似てるのか。歌われるそれを聴きながら、そういえばどうやって友希那と比べるかなんて考える。
上手、言い表すならそうだろう。歌に関しては専門外、というほどではないけれどそうであることに違いない。
これが友希那だったらどうなるのか、なんて考えてはみたけれど結局は予想で、それは本物ではなくて。
一生懸命だ。それはそう、俺みたいに絡みの薄い人間に頼むのだから。彼女は俺がいることを覚えているのか、その燃え盛る瞳に映っているのは誰なのか。
相変わらず動いていた指を止め彼女の事を見る。どこか、遠くを見ているような彼女を。
「ふぅ……」
たった一曲、されど一曲。長さは、数はさほど関係ない。それに乗せた思いは明確にその曲の価値を表す。
一息ついて俺の方を見て、彼女はその感想を訊ねてきた。
「どう、でしたか?」
「よかったと思うよ」
「どこを直した方がいいとかはないんですか?」
「うーん……」
音楽というのは難しい。それもそうだ、だって答えなんて存在しないから。
どれだ、どこだ、なんだ、もしこれが友希那だったら、ふとそう考えて、モニターに数字が浮かんでいることに気がついた。
「凄い高得点だね」
「別に、点数なんていくつでも変わらないですよ」
本心か謙遜か、90点越えのそれを見た瞬間に顔を一瞬そらしたのは何故なのか。
学校のテストであれば勉強したってこんな点数取れるとも限らないし、凄いことではあると思うのだが。
「それで、どうなんですか?」
話を剃らすなと、そんな風な視線を向けられる。ここでありきたりであったり、その場しのぎの答えは許されるものではないだろう。
誘いを断らなかったのだ、きっとそうするべきで……
「蘭ちゃんはさ、歌ってる時何を考えてるの?」
「歌っている時、ですか?」
「そう、さっきのもそうだけど、ライブの時とかさ」
違和感という程のものじゃない、それこそそういうものだと思ってしまえばそうなってしまうほど。
音楽の価値とは乗せた思い、ではそれに乗せるものはなんなのか、何処に向かっているのか。
「……わから、ないです」
でも、と恥ずかしそうに頬を軽く掻きながら、目を剃らしながら答えた。
「みんなと演奏してる時は……楽しいって感じてます」
音楽における一と多は全くの別物、見た目ではなくそのあり方が。
だから、と結局はつまらない答えを出してしまう。
「比べること事態、間違ってるとは言わないけど気にしすぎるものじゃないと思うよ」
「そんなの……わかってるんですけれど」
ギュッ、と彼女の手が強く握られる瞬間を見た。
適当には答えたくない、でもどう言えばいいかはわからない。確かに求められているものは何一つとして答えられていないし、俺が言ってることだって所詮、ただの持論だ。
「じゃあ蘭ちゃんはさ、Roseliaで友希那の代わりに歌って友希那より上手く歌える自信はある?」
「……いきなりなんですか?」
「逆に友希那が蘭ちゃんの代わりに歌って、自分より上手く歌わられる感じ、する?」
「それはないです」
「つまり、そういうこと」
ソロではなく、バンドとしてあるから、周りとの関係、信頼、上手さとはそれら全部組み合わせたものになるから。
蘭ちゃんの歌から感じたものはそれらを求めているようなもの。決して足りないものを補おうというものじゃなく、押し上げるために欲しているような。
「でも、歌単体で見たら……」
「あー、それなんだけど」
ここまで引っ張っておいてなんだけど、蘭ちゃんの歌を聴いていて、友希那ならと頭に浮かべて思ったことがある。
酷いものだ、ああでも、仕方がないものだからしょうがない。
「俺、友希那の事を贔屓しないで見れる気がしなくてさ」
「…………」
「する気はないし、してる気もない。でも自信もないんだ」
だって、俺は友希那の事が好きだから。
ちゃんと見えているつもりになっているだけで盲目かもしれない。そうしたくないと思っているけれど、こればかりは源泉から歪んでしまうものだから。
カラオケの部屋にしてはおかしな静かな空間、だから、彼女が小さく笑う声がよく聞こえてきた。
「なんですか、それ」
「ごめんね」
「いいですよ。それに、いい話も聞けましたから」
仕方がないと思ったのか、彼女はそれで納得してくれて、誤魔化すようだから少し申し訳ないけれど、ああでも事実なのだからしょうがない。
それこそ公平性を保つというのなら二人の事を一切知らない何処かの誰かに頼むしかないが、それでは相手の事を信頼ができない。
であれば決めることなど機械くらいしか……
「どうかしたんですか?」
「いや、なんでもないよ」
画面に映ったあの数字、機械が判別しているのだし公平性は一番だろう。
まぁただ点数が高いから上手いかと言われればそうではないだろうし、それを頼りにするのはよくないだろう。
なんて考えていると、蘭ちゃんにマイクを差し出されていて。
「新庄さんは歌わないんですか?」
「俺?」
「せっかく来たんですから」
確かに付いてきただけとはいえ金はかかる、でも歌か……歌える曲など思いつかないが。
どの曲がと探し続け、結局選んだものは……友希那が歌っていた曲で。
その点数はお世辞にもいいものだとは言えなかったけど、まぁ、楽しかった。
「今日はありがとうございました」
「いや、俺も楽しかったから」
あの後数十分、三回程度互いにやってカラオケ店を出た。
楽しくはあったが……まぁ、誘われて暇であれば程度。一人でこようとは思わないが、まぁ、歌える曲がいろいろあればそうなのだろう。
「それじゃあ、また」
「うん、また今度」
連絡先を交換し、そんなことを言って別れる。
友希那と……燐子さんは難しいか。でも今度誘ってみてもいいか、そんなことを思いながら振り返った。
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伝え方
「いらっしゃいませー」
その声を一切無視して辺りを見回す。そうして、見つけてしまった。
「ねぇ」
「……なんですか」
自分でもこんな声が出るとは思わなかった。どこまでも底冷えした、歌では決して使わないであろう声。
それを聞いた彼女はこちらを見上げ、対抗心でも抱いているかのような目をこちらに向けている。
運がいいのか悪いのか、昨日の今日で彼女を見ることになるとは思わなかった。
「ここ、座ってもいいかしら」
「……いいですよ」
いや、運だなんて嘘、羽沢さんのお店にわざわざ来ておいてそれはないだろう。
ここならいるんじゃないかというのが頭の片隅にあったのだろうか。まぁ、そんなことはどうでもいい。
「…………」
睨まれている、そう感じてしまうのは気のせいか。でも仕方がない、多分、私もそのようなものを向けてしまっているかもしれないから。
「えっと……何になさいますか?」
「珈琲をお願いできるかしら」
珈琲が届けられて、席を指定したにも関わらず一言も会話をしていない私たちを見て羽沢さんは不安そうな表情を浮かべている。
届けられた珈琲に砂糖を入れかき回していると、美竹さんから話しかけてきた。
「湊さん、そのまま飲まないんですか?」
「……それが?」
「いえ、その……」
いつもなら否定したり誤魔化しているものだからか、明らかな困惑の色が見て取れる。でもそんなのはどうだっていい、ただ少し、イラついてるだけだ。
「……用があるなら早く言ってくれませんか?」
「昨日の事よ」
「昨日って……あ」
まるで言われるまで忘れていたかのような反応。珈琲を飲んで、甘くて、止まりそうにない。
「……見てたんですか」
「見られて困る事だったのかしら?」
「別に、大したことではないですから」
「大したことがない、ね」
どの口が言っているのだ、カラオケ店から蒼音と出てくるところを偶々見てしまったとまで言った方がよかったのか。
わかった上でそう言っているのであれば……舐められている。
まず最初に目を疑った、次にどうしてだと思考を巡らせた。そして最後に、彼女への怒りが浮かんできた。
八つ当たり、そうとも言うのだろう。でもこれは正当で、どうしようもなくて、そうでも思わないとどうにかなってしまいそうだったから。
珈琲を飲む、その味は感じなくて。
「歌を聴いてもらっただけですよ」
「なんとでも言えるわ」
燐子には抱かないようなこれ、どうして美竹さんには抱いてしまうのか。
横取りだから? 燐子とは距離が近いから? わからない、わからない。ああさては、美竹さんと蒼音との関係がわからなかったからか。ああ、でもどうでもいい、理屈なんてものじゃない。
ぐるぐると、ぐるぐると、何度も珈琲をかき回す。
「それなら新庄さんにも確認取ればいいじゃないですか」
「それは……」
そんなのわかっている。でも、でも……怖いから、そんなのできるわけがない。
目をそらす、壁に何があるわけでもない、だけど返す言葉が何もないからそれをじっと見続けていることしかできなくて。
「……もしかして、怖いんですか?」
ドキリと心臓が大きく跳ねた。
言い当てられてしまって、否定できなくて、肯定すらできない。だからなんだと、そんな風でいられればいいけれど、まるで体が小さくなってしまっているかのようで。
そんな私を見てか、小さく笑う声が聞こえてきた。その元は言わずもがな、抵抗しようにも声は出ず、睨み付ける事しかできない。
「湊さん、本当に新庄さんの事好きなんですね」
「だったら何なのかしら」
「いえ、別に」
身体が熱くなってきた。珈琲が温かいから、お店が外より暖かいから、そんな筈もなくて。
怒っている、じゃあなんで? それは彼女が彼と一緒にいたから。ならばそれはもう一人にも向けられるべきだ。
燐子にも……蒼音にも、同じように。
「本当に歌を聴いてもらっただけですから、安心してください」
「でも……」
「信じてもらえないなら……よくないですけど、湊さんは新庄さんの事も信じられないんですか?」
「そんなわけ……!」
どうして? なぜ私は彼に対してこんな無責任な信頼をどうしてできるのか。ましてや、私と燐子という前例があるというのにだ。
結局は自分が信じたいものがなにかというだけ、見た目が違うだけで中身は全くの同じだというのに。
ふっと身体が一気に冷えた。狭苦しかった視界がほんの少しだけ広がったような気もする。
「……ごめんなさい、少し熱くなりすぎてたみたい」
「大丈夫ですよ、でもちょっと意外だったので驚きましたけど」
「意外?」
「新庄さんの事を好きっていうのは知ってましたけど、こんなとは思わなかったので」
意外、なのだろうか。わからないから比較のしようがないけれど……無関係、ではないけれど彼女に伝わっているのだ、きっと彼にも。
そう考えるとこそばゆいが、嬉しさは違いなくある。
ほら、こんな風に彼の事を少しでも考えると止まらなくなって、それ以外に考えられなくなって、やがて音が聞こえなくなって、最後に目を閉じてしまう。
彼は音楽が相当好きなのだろう、そしてそれは私もだ。こんな風に、落ちるかのように意識が持っていかれる。
なら私は音楽と蒼音、どちらが……ああ、駄目だ、こんなの決められないし、そうするべきではないのだから。
でも、でも……彼は、どうなのだろうか?
「……聞いてますか?」
「え……ごめんなさい、聞こえなかったわ」
なにやら話しかけられていたらしく、釣り上げられるように意識が浮かばされる。
何を思ってかは知らないが一つため息をつかれ、恐らく先ほど言われたのであろう言葉を言ってきた。
「湊さんは新庄さんに好きって、伝えてるんですか?」
「ええ」
「ほんとですか?」
「……どういうことかしら?」
信用されていないのか、それとも嘘をついていると思われているのかは知らないが私は事実しか言っていない。
好きだと言っている、きちんと本人に。だから伝わっているはず、もし伝わってないというのなら……まさか、彼はそれがわからない程頭が悪いわけがない。
「心配してるだけですよ」
……私はどんな風に思われているのだろうか。まぁどうでもいい、私と彼の事は私と彼だけわかっていれば。
ああでも、私と彼の事、本当に全て何もかもわかっているのかと聞かれたら自信はない。
「好きって一言に言っても色々あるじゃないですか」
「そう間違われるようなものでは伝えてないわ」
「じゃあ、その強さは伝えているんですか?」
強さ? 好きという気持ちに強いも弱いもあるものなのか。
私はきちんと、そこを違えず伝えているはず。
「自分はこんなにもあなたの事が好きなのに、っていうのです」
「別に、示す必要はないでしょう?」
「必要はないですけど、意味はあります」
どれくらい好きかと、具体的に見えるわけでもないのに示す意味。
まず私はどれくらい蒼音の事が好きなのだろう。音楽と同じくらい、心臓が痛くなる程、燐子が抱くそれよりも……
ああ、なるほど、そういうことか。
「でもどれくらい好きか、なんて示せないじゃない」
「できるじゃないですか、湊さんなら」
「私なら?」
それは何なのか、答えは浮かばず珈琲を飲んでいる彼女の口が開かれるのを待つ。
そして、それは数秒後の事だった。
「歌えばいいんですよ」
「歌?」
「それが一番じゃないですか、湊さんなら」
歌う、一体何を? そんなもの決まっている、彼への思いをだ。
音楽は好きだ、彼の事も好きだ。であれば……それを溶け合わせればきっと、寸分の狂いもなく想いも全て伝えられる。
ああ、でも……
「私、そういったものは聴かないから……」
そう、所謂ラブソングとでも言うべきものは聴かない、聴いたことがない。
当然聴こうと思えば聴けるし、練習さえすれば歌うことはできる。でも、でも、それは違う気がして。
「作ればいいじゃないですか」
「私が?」
「他人の想いなんて口に出しても、なんの意味もないですし」
作る、私が、私の想いを、歌にのせて……彼のために。
ごくりと喉を空気が通った。不思議と更に身体が熱くなった気がする。
「……なるほどね、やってみるわ」
「手伝いましょうか?」
「大丈夫よ、一人でやりたいから」
「そうですか」
誰も関与しない、させない。これは私のものだ、彼へのものだ、口出しなんてさせないし許さない。
彼以外には見せない、聴かせない。彼だけが知ればいい、彼しか知らなくていい。
自然とそんな風に思えて、そうと決まれば早めに帰るにこしたことはないだろう。
お会計を済ませようと立ち上がり、ああ先に言わなければいけないことがあるなと美竹さんの方を見る。
「今日はごめんなさい」
それと、と彼女の答えを待たずに付け足した。
「今日はありがとう、感謝するわ」
「…………」
なんと言ったかははっきりとはわからないけれど、顔をどこかに向けながら小声で、まぁ、文句は言われてないのだろう。
会計を済ませて外に出る。冷たい風が襲ってくるが、曲の事を考えていると熱くなる身体からしたら気持ちのいい程度のものだった。
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伝えるとは
「やっほ~、元気してる?」
「……それなりにな」
「全くそうじゃなさそうだけど」
目についたコンビニで珈琲を買い、それを飲みながら帰ろうと思っていたところに声がかかる。
そいつの言うことは俺としては別にそんなことはないけれど、外から見ればそう見えるのだろうか。まぁ気にするようなものではない。
ため息一つ、ついさっき買った珈琲を飲みながらコンビニの壁に背を預ける。
リサの手には飲み物が入った容器と、その反対の手にはレジ袋が。透けて見える中身からスイーツが幾つか、容器の中身は期間限定と唱われているやつだろう。
彼女はそれらを口にすることなく立っている。視線はどこかに向いていて、特に話しかけられるわけでもない。
「何か用事でも?」
「ん、特にないよ」
そうか、とだけ返して誤魔化すように珈琲を再び飲む。相も変わらず会話の引き出しが少ないもので、頑張って引っ張り出したものは別のもの。
勝手に恥ずかしさを感じさせられて、そんな自分がより恥ずかしくて。
用事はない、となれば誰かを待っているのか。であればさっさと帰るのがよいのだろうが、話しかけてしまった手前そうすることは少しひける。
手に持つカップを揺らし、これは帰りの分は持たないだろうなと思い、勿体ぶるかのように少しだけ飲む。
「そういえばどうなの? コンクール」
「……まぁまぁ、だな」
駄目駄目かと言われればそんなことはない、完璧かと言われればそれもそう。だけど焦る気持ちはない、それに理由はないのだけれど。
昔は練習練習、暇さえあれば練習、なんて風だったのに変わってしまったものだ。
「練習、しなくていいの?」
「やるに決まってるだろ」
「そうじゃなくて。燐子はRoseliaの練習の後に自主練してるからさ」
Roseliaの練習、内容は見たことはないが密度は凄い筈だ。
恥ずかしがり屋な彼女の事だ、失敗したくないという思いはあるのだろう。立派な彼女なことだ、中途半端では嫌なのだろう。
だが家でやるならまだしも、練習のすぐ後にやっているのだ、俺の知らない何かしらの思いがあるのだろう。
「なら俺も練習量増やすか」
「不純だね」
「元から純粋じゃねぇよ」
人につられて何が悪い。燐子さんが頑張っているというのだ、恥ずかしいものを聴かせるわけにはいかないし。
思い立ったが吉日、理由もできたわけだし帰るとするか、そう思って背中を離すとカップから音がして。
……残りは半分もない、折角だし飲み干して捨ててから帰るとしよう。
「蒼音はさ、不安になったりしないの?」
「何がだ?」
「紗夜や友希那、燐子もだけどず~っと練習しててさ」
どの意味で、聞こうにも空を眺める彼女に声をかけることができない。
不安、仲間の体調か。ああそれは違うだろう、であれば部外者である俺には関係……なくはないけれど、聞くことではない。
「自分ももっと練習しないとって、思うんだけど……」
別に気にすることじゃない、なんて無責任なことは言えない。気になるのだからしょうがない、それが当然。
特に高校生なんて忙しいものだ、しかもリサはバイトだってしているし……知り合いも俺なんかよりもずっと多いだろう。
更には彼女の心配性というか、お節介とまで行きかねないものからすればそうなるのは当然で。
「別に悪いことじゃないだろ」
「でも……」
「思えるだけましさ、全くやらないってわけじゃないんだろ?」
「それは……そうだけど」
思えていればよい、ほんの少しでもやれてれば尚よし。それができていればいつか勝手にやるだろう。量より質という言葉もあるように、やりようなんてものはいくらでもある。
それに俺やそこらの人とは違うものをリサは持っているのだから。
「お前はどう思う?」
「リサ、言ってくれれば私は幾らでも付き合うわよ」
「……友希那、いつからいたの?」
「ついさっきよ」
「お前が下向いてるうちにな」
誰かを待っているのかと思ったし、であるとするならば相手は友希那だろうと思っていたがその通り。
そっか、とリサは空気に溶けてしまうかのような小さな声で呟いて、ゆっくりと視線を上げて空を見上げる。
「ん~! ありがとね、二人とも」
「私は何もしてないわ」
「こういうのは素直に受け取っとくもんだよ」
大きく伸びをしながらそう答える彼女。空元気、ではないだろうが吹っ切れたという程でもないだろう。
とはいえ友希那が来たのだし邪魔者の俺はさっさと帰るとしよう。そう思い歩きだそうとして呼び止められる。
「どこに行くの?」
「帰って練習だな」
「……そう」
それだけ、たったそれだけで後は続かない。それなのに俺の足は縫い付けられたかのように動かなくて。
「素直じゃないね、友希那も」
「……なんのことかしら?」
「蒼音と何処か行きたいって言えばいいのに」
「…………」
足を縫い付けるは自らの影、返答への期待が足を重くして、身体が影の中に吸い込められるかのようだ。
こちらとリサの事を交互に見て、俺に聞こえないような大きさで彼女はリサと話している。
その間は苦さが。珈琲とはまた違う気持ち悪くなってしまうような不思議なものが何処からともなく浮かんできていて。
「蒼音はどうなの?」
突然名を呼ばれ、目線をあちらこちらと動かしながら小さく、また意味もなく声を漏らすことしかできなかった。
──どう、なのだろうか?
期待をしているのか、練習しなければと思っているのか。冷たい風が吹いて、目を閉じた。
「ほら友希那、行ってきなって」
「でも……」
「でもじゃないよ、ほら」
友希那の背中をリサが軽叩き、倒れ混むようにしながら数歩前へ。彼女は振り向き、それに対しリサが手を振ったので彼女はこちらを見る。
ふっと、身体が軽くなったかのような気がした。
原因なんてわからない。ただ、そう感じたのは事実であって。
細く、途切れてしまいそうな声で呼びかけられる。手に持つカップが揺れ、そういえば中身はほぼ空だったな、なんて事を考えてしまう程には上の空で。
「……あなたはどう……なの?」
「俺は別に……」
ガシガシと頭を掻く。何が別にだ、しすぎとも言える程気にしているというのに嘘ばかり。今更恥ずかしがっているのか、それとも予定を破らせるのが嫌だと思ったのか。
「……リサと予定があるんじゃないのか?」
「そうだったけれど」
あんな風だから、そう呟いて彼女はリサを指差した。
声の大きさ的にリサには聞こえてないだろうに俺達が振り向いた事に気づいた彼女は手を振ってくる、となればなんと言おうと無駄なのだろう。
「何処か行きたいとこあるか?」
「えっと、大丈夫……なのかしら?」
その問いに肯定の意思を見せると、ならば行きたいところがあると言われる。
珍しい、普段ならばどこでもと答えられいつも通りカフェに行くのだけれど一体どこなのか。
どこに行くとかは聞かない。何処であろうと行くのだし、こいつに限ってそういう場所には行かないだろうから。
手を伸ばすと不器用そうにそれを取られ、何度しても慣れない感覚に身を委ねていた。
「あなたに聴いて欲しいものがあるの」
行きたいところがあるというのだからどこなのだろうと思っていたがやって来たのは喫茶店。これでは普段通りと思ったが、わざわざ言われる程なのだし相当なものなのだろう。
渡されたイヤホンを片耳にだけつけて、頼んだ珈琲を飲みながら曲が流れるのを待つ。
喫茶店とコンビニとでは味は違う、わかってはいるし飽きもない。ではあるけれど気紛れで砂糖スティックを手に取った。
「あなたが砂糖を使うなんて珍しいわね」
「たまにはな」
まぁ、一本丸々使いきるというわけではないけれど。半分ほど入れたところで友希那に渡してみれば、彼女はなんの迷いもなくそれを珈琲に入れる。
新しく気に入ったロックでも流すのか、それともRoseliaの曲でも流すのか、そう考えていた中で流れてきたものは思いもよらぬもので。
間違えてないか、そう指摘しようとして、やめた。真剣そうにこちらを見てる彼女にそんな事を聞けるはずもなく、何よりも彼女がもう片方のイヤホンを耳にしているから。
意味がわからず理解ができず、歌詞もメロディーもきちんと聴けそうになかった。だけれどもわざわざ聴いて欲しいものがあるとまで言われたのだし曲に意識を向ける。
曲が終わり、こちらを上目で見てくる彼女にゆっくりと問われる。
「どうだったかしら」
「どうもなにも……」
何を聞きたいのか。
聴かされたのはラブソング。その声は女性のものだったが聴いたことのない声で参考にするためなのか、歌詞への反応か自分が気に入ったから感想を聞きたいのか。
迷って、悩んで、答えられずにいるうちに声をかけ直される。
「なら、この曲を私が歌うとしたら?」
ラブソングは聴いたことはあるにしろ好んで聴くものではないから良しも悪しも対してわからないが、もしこの曲を友希那が歌うとするならば……
「似合わねぇ、かな」
この曲を友希那が歌うとするならば、そう聞いてまず最初に浮かんだことがこれだった。
それに対しての彼女の返答はそう、という簡素なものだった。何が、どうして、そんな風に聞かれると思っていたのに全く気にしていない様子で。
「なら逆にどんなものならいいと思うのかしら?」
ラブソングは誰が作ったか、というのが一番の問題。なら友希那らしい、自分の言葉で作られたものがいいだろう。
俺の意見なんて……
「……なぁ、友希那」
「何かしら?」
「これって練習の為か?」
「違うわ」
「ならRoseliaで歌う為のか?」
「それも違うわ」
「なら……」
ごくり、と喉が鳴っていた。
もしかして、もしかしてと思考が染まっていき……
「あなたに向けてのものよ」
珈琲を飲む。甘い、甘い、ここまで砂糖を入れた気はしなかったけれど、ああそうだかき混ぜ忘れてしまっていた、であれば甘くもある筈で。
なんだかくらくらさえしてきた、まともな思考ができていないのだけは自分でもわかる。ぐるぐると、ぐるぐると珈琲をかき混ぜて渦を作り出す。
「……それはまた、どうしてだ?」
「私には歌しかないから」
だから、その
「本当はあなたに言おうか迷っていたのだけれど私って、そういうのが苦手だから」
ようやく視線が外れたので背もたれに強く寄りかかる。暑い、熱い、火がついて燃え尽きてしまいそうな程。
沈黙。数秒、数分と時間が過ぎ、珈琲はいつの間にか飲み干していて、底に溶けきっていない砂糖があるのが確認できた
「その……お前が書くのか、それ」
「ええ、そのつもりよ」
「いつ、できる予定なんだ?」
俺の声は多分、震えていたと思う。自作のラブソング、自分にはこれしかないと言うほどの物を俺に。
望むように、祈るように、言葉を待った。
「出来上がり次第伝えるわ。でも、そうね……」
来月中には完成させるわ。
なんでもないかのように、確信もないのだろうがそんな風に言ってきた。
「……そうか、楽しみにしとく」
「えぇ、最高の物にしてあなたに届けて見せるわ」
先程飲んだ珈琲が逆流したかのような甘さ、苦さが俺を襲ってくる。沸き上がる熱さが、どこからか冷たさが。
期限はない、だけれども俺はある問いに答える義務がある。
来月中、その言葉は何よりも強く、深く、頭に刻み込まれた。
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罪の在り処
「燐子は今日もこの後練習?」
「はい……コンクールまで時間、ありませんから」
「そっか、頑張ってね」
Roseliaの練習が終わってコンクールの練習。時間はもうない、一分も、一秒ですらも無駄にできるものじゃない。
「えっと、りんりん」
「あこちゃん……どうしたの?」
Roseliaの練習からコンクールの練習へと切り換える意味を込めて目を閉じて、ゆっくりと深呼吸をしたところであこちゃんから話しかけられた。
なんだろう、彼女の瞳からは寂しさみたいなものが読み取れる。最近遊べてないことやNFOができていないことが不満なのだろうか。
ごめん、あこちゃん。でも今は駄目なんだ、コンクールが終わったら……全部終わったら一緒に、一杯遊ぼうね。
彼女らしくなく言葉はない、視線もあちらこちらへと向いている。言いにくいことなのか、私はその言葉を待つしかない。
「無理、しないでね」
「……うん、わかってるよ」
「……それだけ。頑張ってね、りんりん」
あこちゃんは嘘が下手だ、何を隠しているかはわからなくても何かを隠していることは用意にわかる。
他にも言いたい事があったのだろうにそれを全部飲み込んだ。何故? そんなものきまっている。
「……ごめんね」
あこちゃんが去って私一人になったスタジオでそう呟く。小さな声だがよく聴こえたのは罪悪感のようなものがそれをより強いものとしたからか。
また目を閉じ、深呼吸。指を足に当てリズムを取る。安心して、無理はしない、約束だから。
無理はしない、無理じゃない。できる、やれる、やらなきゃ、やらないと。
指を落とす、鳴らした音は部屋の中に嫌なくらい響いていた。
「お腹、空いたな……」
ふと、そんな声がどこからか聞こえてきた。ベッドに座り込んで息を吐くと一気に疲れがやってきた。
最後にご飯を食べたのは……昨日の夜、あれ、昼だっけ? どうにしろ目を覚ましてから食べていないのだけは覚えている。
お父さんもお母さんも仕事でいない。家には私一人、なんだか寂しく感じてしまうけど、とりあえずは何か食べよう、そう思って立ち上がろうする。
「あれ……?」
立てない、なんでだろう。足に力が入らなくて、手で身体を浮かすこともできず、ただただぼーっと目の前を見つめていた。
何もない、だけど視界はそこから動かせない。いや、その表し方は不適切か、どうにもそのような行為すら億劫で。
今日も朝から練習をしていたし疲れてしまったのか、ああでも……駄目、頭もうまく働いてくれてない。
今倒れ混んだらもう、起き上がれる自信はない。空腹で、思考も不明瞭、こんなになるまでしたからにはもう……
もう? もうなんだ? 私はこれで満足しているのか?
まさか、まさか、そんな筈はない、そんな風であってはいけない。
沸き上がってきた思いを使い、ベッドを強く押して立ち上がる。
取り敢えずは何か食べよう。何があったっけ、そんな風に思った直後にスマホの音が耳に入ってきた。
誰だろうと確認してみるとそれは予想外の人物で。
「ど、どうして……」
明日会えませんか、理由も場所も、時間もない、ただそれだけの簡素な文。
断るべき、そんなことはわかってる。実際にそうしてきたのだし、ごめんなさいと打ち込むだけで解決してしまうものなのだ。
なのに……なのに、そう返すことはできなくて。
大丈夫です、なんて真逆の文を返してしまっていた。
「……はぁ」
どうしてこんなことをしているのだろう。練習しないとと思ってるのに、焦ってるのに、どこか楽しみに思ってる自分がいる。
こぼれたため息は真っ白で、すぐに溶けて空に消えて行く。もう少し厚着しておけばよかった、なんてのは今更で。
「蒼音さん……」
呼ぶのはこんなことになった原因、彼からの申し出を断れる筈もなく受け入れてしまったけれど後悔はしていない、ただ何故今なのかだけがわからなくて。
集合場所となったのは喫茶店でも彼のバイト先でも、互いの家でもなく本屋さん、となればその理由は予想できる。
練習ばかりだから息抜き、ということなのだろうか。最近は本も読めていないしコンクールが終わった時に読む用の本を買っておくのも悪くないかもしれない。
「お久しぶりです」
久しぶりに会った彼の挨拶には返すことができなかった。
バクバクと破裂しているかのような音が身体の中で鳴り響き、何か喉に詰まりものがあるかのように息がうまくできなくて。
私が彼と会う時はいつもこうだったか、もう思い出せないけれどこうだったかもしれないし、こうじゃなかったのかもしれない。
「え、えっと……」
ようやく絞り出したものは言葉ですらなかった。
口にしようとした言葉は空気に溶けて消えていき、目を合わせることすら恥ずかしくなってしまってそっぽを向く。
「大丈夫ですか?」
「だ、大丈夫……です」
大丈夫じゃない、とは冗談でも言えないからそう返す。このままでは何もできないまま時間だけが過ぎてしまう、胸に手を当て大きく息を吸った。
「今日はどんな用……なんですか?」
そんな意気込んで尚勢いは転落するかのように落ちてしまい、先程以上の恥ずかしさにも襲われる。
「あこちゃんから、最近燐子さんが元気無さそうって言っていたので」
「……それだけ、ですか?」
「はい」
そうですか、と呟く中で落胆と歓喜、その相反する感情を抱いていた。
彼が心配したからじゃないという、最近会ってもいないから仕方のないことなのに抱いてしまう傲慢さ、会ってあげてと言われてないのにこうしてくれるという程度の事。
となればすぐに解散か、いやいやそんな訳がない、あってほしくない。ああでも練習をしなければいけないことを考えるならそれは喜ばしい筈で。
「どうかしましたか?」
「い、いえ、この後……どうするのかなって」
「本を見て昼飯でもって思ってましたけど……嫌なら」
「そ、そんなことないです!」
ぶんぶんと頭を振って否定し、思考を振り払う。理性が邪魔だ、練習の時間が削れているのは彼も同じ、であれば構わない、それでいいではないか。
彼から逃げてしまうかのように入り口の方に向かい、それでは意味がないから数歩戻ったのだった。
「今日は付き合ってくれてありがとうございました」
「い、いえ……こちらこそ」
あっという間だった。まるで世界に私一人取り残されてしまったかのように時間は溶け、本を買って昼食も済ませてしまった。
覚えてる、今日何をしたかどんな風に思っていたか。だからこそこれ程までに時間が過ぎている事が不思議でならない。
来るべきじゃなかった、練習しておくべきだったと、あんな風に考えさせていた理性は何処に行ってしまったのか。もう、全部蒸発してしまっていて。
だけれど来ない方がよかったと微塵も思ってないわけではない。息抜きのようなものだと頭では理解してる、だけれどもこれは、あまりにも甘くて痺れるような時間だった。
「練習、頑張ってください」
終わらせたくないと思ってしまっている、終わってほしくないと願ってしまっている。だけどそんな優しくない、終わりはもう目の前だ。
仕方がない、しょうがない。コンクールの練習をしなくては、そしてそれは彼も同じなのだから。私の言葉を待たず背を向けた彼に、手が伸びた。
「れ、練習……一緒にしませんか?」
なんと言ったのだろう、熱された頭はゆっくりと冷えていき、自分が何をしているのか自覚する。
私は彼の手を掴んでいた。冷えた頭がまた沸騰しだして、だけれどもその手は離さない、離せない。
「えっと、それは……」
「今から、です」
恥ずかしい、でもその手は緩めない。息が荒くなる、でも目はそらさずに。
「駄目、ですか?」
「……大丈夫です」
風が吹いた気がした。季節外れの暖かい風、どこか優しいものが肌を撫でた。
どうしてこうなってしまったのだろう、なんて全部自分のせいなのに現実逃避気味に考える。
一緒に練習しましょうと言うまではよかった。問題はその後、どこでそれをするか。
何処かのスタジオを態々借りようという話にはならなかった。つまり彼の家か私の家、どちらにするかという話になって。
それで私が誘った、私の家なら大丈夫ですと。今思い返してみれば熱くなって火傷して、肌を食い破って炎すら現れそうなものだ。
理性なく本能での提案、思案は何一つとしてなく願望だけでの発言、であればどうなるかはわかりきっていて。
「…………」
当然、こうなる。よくよく考えなくても当たり前、そもそも私は何を期待していたのだろう。
ピアノの音がする、それは私によるものじゃない。彼は今、私とは別の場所にいる。彼は確かに目の前に、だけれども凄く遠くの場所にいる。
手を伸ばせば触れられるだろうけど、声をかければ返ってくるだろうけど、そんなことしようと思えないからそういうことだ。
喉が鳴った、胸の前に持ってきた手は動かせない。心臓が激しく脈動するがそれは何故だろう、どちらなのだろう。
あなたのことが好きだからなのだろうか、それともあなたの音楽が好きだからなのだろうか。多分、どっちもで。
まるで金縛りにあったかのように身体を動かすことはできず、ただただずっと彼の演奏を聴いていた。
遠くの誰かを見るように、テレビの中の誰かのように、作り物の世界の誰かのように。
「そろそろ燐子さんも弾きますか?」
「……え?」
ふっと、声が零れると同時に身体を縛っていた何かが消えた。
言われた言葉の意味を考えてみたらすぐ気づく、それはそう、これは彼一人での練習ではないのだから。
提案したのは私、一緒にと言ったのだこうやって見続けるのを彼はよしとしないだろう。
「どうかしましたか?」
「な、なんでもないでふ」
焦りすぎて舌を少し噛んでしまい、気付かれてないだろうかと不安になってしまう。
身体が重いし胸が潰れてしまいそうだ、伸ばした背筋が冷えて頭がクラクラとさえしてきた。
こんなに緊張したのはいつぶりか。緊張、そう、緊張だ。視界がぶれた、立っているのか座っているのかすらわからなくなってしまうほどに。
彼の見ているところ、彼の演奏の後、そして弾くのはあの曲。私の演奏は彼に届くだろうか、いや、遠い場所にいる彼に私の演奏が届く筈がない。
怖い、恐ろしい、失望されるか、呆れられるか。隣を見てみれば蒼音さんは不安そうにこちらを見ている。
その不安はなんなのだろう。考えたくない事まで考えてしまうから無理矢理ピアノの前に座ろうとした。
「あ……」
躓いて、転びそうになる。無様だ、こんな調子でコンクールなんか出られるのか。無理だ、やっぱり私なんかじゃ……
「……燐子さん」
貴方は何も悪くない、だからその表情をやめてください。いっそ煽ってくれる方が、馬鹿にされる方がいい、だからそんな心配そうな表情を私なんかに向けないで。
手に何かが当たる。何かと思って見てみれば蒼音さんが私の手を握っていた。
「大丈夫です、燐子さんなら」
安心する、すっと心を覆っていたものが払われたみたいだ。
「俺がついてます、ってむしろ逆効果か……」
だから貴方は何も悪くないのだ、そんな事を言わないで。
「少し一緒に弾いてみますか? そしたら少しは緊張も解けるかも」
そうだ、とそんな事を言ってきた。ああ、もう限界だ、自分が自分でなくなってしまいそう。
私は今、蒼音さんに触れている。
「蒼音さん」
「なんですか?」
「……ごめんなさい」
貴方が悪いのだ、何もかも。
気付けば私は床に倒れこんでいた。彼を、押し倒すようにして。
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そこにある夢
夢を見た。
それは夢だから現実味がなくて、夢の癖にはっきりと覚えていて。
夢なのに、痛かった。
「…………」
ボーっとする、昼寝をしすぎた後みたいに頭が回らない、やっぱりあれは夢なのかと疑ってしまう程に。
そんなわけがない、あれが夢だと? 寝言は寝て言うものだ、冗談で済むものではないことぐらいわかっているはずだ。
目を背けてはいけないもの、誤魔化してはいけないもの。身体から力が抜け仰向けに倒れ混んだ。
眩しく感じさせる天井が煩わしくて手で目を覆う。このまま寝れてしまえばいいのに、だけれども当然そんなことはできず、静かな部屋にため息の音が寂しく響いた。
「俺のせい、か」
どうやら事態は俺の思っていたよりもずっと酷いらしい、とはいっても自業自得であることに違いはなく、悲観するには俺の罪は大きすぎて。
肩が痛いし首も重い、更に頭の中は今日のことでいっぱいいっぱいだ。
罪悪感、いや、感覚なんてものではないか。犯した罪が罰として俺にのしかかっている。
「はぁ……」
どうしてこんな風になってしまったのだろう、俺が悪いのはわかっている、ならどうすればよかったのだ。過ぎ去った過去に答えを求め、意味のない問答を何度も何度も繰り返す。
「馬鹿馬鹿し」
あざ笑うかのように声が漏れた。本当はわかっている癖に何を言っているのだ、彼女だって言っていただろう?
独り言が多くなってしまうけれど仕方がない、誰かに聞かせるわけじゃないけれど少しでも口に出さないと体の中で破裂してしまいそうなのだ。
どこで間違えた? そんなの最初からだ、どうすればよかった? わかっている癖にわかっていないふりをするなよ。
手を下ろし天井を見つめ今日、彼女に言われた言葉をもう一度頭の中で繰り返す。
『何度も、何時もずっと、ずっと待っていたのに、貴方は……』
思い出すだけでずきりと頭痛が、締め付けられるかのように胸が痛い。
ああ、そうだ、その通りだ、自分でもわかっていたけれど本人に言われるとやっぱり、くるものがあった。
彼女が言ったから、それも確かにあったのだろう。でもその中に彼女だからということはなかったか、本当に燐子さんだからというものはなかったのか。
……改めて考え直してみると自信が持てない、本当は微塵もなかったのかもしれないがあったのかもしれないと一度でも考えてしまえばもう、なかったと答えることなんてできなくて。
返す言葉はない、そんな俺に対して彼女は続けた。
『一つだけ……約束、してください』
断る権利は俺にはない、受け入れる義務が俺にはあった。だから聞く前に首を縦に振ったことに後悔はないし、反省もしていない。
『ごめんなさい』
よく覚えてる、彼女は本気だったのかもしれないがそれなり程度の力で握れらた右手には今でも感覚が残っている。
「確か、こんな風……」
手が勝手に動き、あるところに触れた。やはり現実味はない、今はそれほど恥ずかしいとは思わないけれど、明日には死んでしまう程の恥ずかしく思うのかもしれない。
初めてだった、今まで彼女がいたことなんてないのだから当然。
指は唇を滑り落ち、首をつたって胸を過ぎ、腹にまで行きベッドの上へ。
『……答えは、友希那さんより先に私にしてください』
喉が乾いた、だけれど立ち上がる力は沸いてこなかった。
翌日、学校は終わったけれどもバイトはない、だけれども家にはどうにも帰りたくないからふらふらとそこら辺を散歩感覚で歩き回る。
女々しいな、と自分を笑ったところで何か解決するわけじゃない。なんて、何度思ったかわからないことを考える。
やっぱり昨日の今日では解決してくれないようだ。
ピタリと足が止まった。意識をしたわけではない、勝手に足を止めていた。
いや、足だけじゃない。全身が、そして一瞬ではあるが思考までもが確かに止まり、数瞬後には一気に血が回りだし身体中熱くなり始め。
バクバクと心臓が鳴り響くのを抑え振り返りその場を離れる。今は、あいつとは顔を合わせたくないから。
「あ、蒼音さん!」
だけれども、どうやらそれを許してくれる程世界は優しくないみたいだ。
呼ばれる声に振り向けば、張本人であるひまりちゃんがこちらに手を振っている。その隣にいる蘭ちゃんが、そして……あいつもこちらを見ていて。
「なんでそんな遠くにいるの?」
こちらの気を知らないでそんなことを、重たい足を引きずるような感覚で動かして彼女達の元へ。
何か用事があるわけではないようで、別に何かをしていたわけではないらしく、寄ったところで行われたのは世間話のようなもの。
「蒼音さん、蒼音さん」
「どうしたの?」
突然ひそひそとひまりちゃんに話しかけられた。二人には聞かれたくないことなのか、今はその二人で話しているのだしわざわざ小さな声で話す方が疑われてしまいそうなものだが。
「蘭と友希那さんってあんなに仲よかったでしたっけ?」
「元から悪くはなかった気がするけど」
「それはそうですけど、今までは二人の間に火花が散っているのが見えるような感じだったのに……」
言われてみれば確かに、だけれど比喩のようなものだから表面上だけならどうなろうと不思議じゃない。今話している二人が腹の中に何を隠しているかなんてわからないのだから。
……まぁ、その火花というのは殆どが蘭ちゃんから発されているものだったし、友希那が感情を隠すなんて想像もつかないが。
「ひまり、何話してるの?」
「な、なんでもない!」
「大したことじゃないよ」
大したことではい、だけれど聞かれたら面倒なことになるだろうから隠すに越したことはない。蘭ちゃんがひまりちゃんに詰め寄っているが答えることはないだろう。
二人が話すということは当然、俺と友希那は暇というのに分類されることになり。ああ、気まずい。顔を見ることができなくて特に意味もなく近くの赤信号を眺めて。
「ねぇ」
「……なんだよ」
だけれどもそんな些細な抵抗も話しかけられてしまえば終わりだ、返答もぶっきらぼうなものになってしまうが、話しかけられたままで会話は続かない。
流石に態度が悪かったかと思っていると手を引っ張られ姿勢を崩され、彼女の顔が随分と近くに映し出された。
女性の顔が近くに、たったそれだけのことで昨日の事が、こいつじゃないとわかってはいるのに強く蘇ってくる。
「私、何かしたかしら?」
射貫かれたかのように錯覚する視線、それが真っ直ぐ俺に刺さっていた。
「……なんでもねぇよ」
やめてくれ、お願いだ。そんな真っ直ぐに、綺麗な瞳で俺の事を見ないでくれ。
ずしりと、風邪をひいてしまった時のように体が重くなる。
「湊さん、あたし達は帰りますね」
「ええ、わかったわ」
何があったのかわからないといった様子でひまりちゃんは慌てているが、そんなの知らないと蘭ちゃんは彼女を連れていく。
その場凌ぎのようなものだとわかっている、わかってはいるけれど一瞬でも友希那の目が俺から背けられた事に心の底から安堵した。
「それで……」
あまりに短い安堵、寧ろそれがあった分より強いものとして焦りが襲ってくる。背筋に冷たいものが流れて気持ちが悪い。
「……やっぱりやめておくわ」
「……どうしたんだよ」
「なら、聞いて欲しいのかしら?」
そうではない、どうも釈然としないまま時間だけが過ぎていく。
どうしたい、俺は一体何をしたい。昨日の事を彼女に知られたいのか、知られたくないのか、そんなことすらわからない。
「誰にでも聞いて欲しくないことの一つや二つくらいはあるものね」
「…………」
「それにあなたのことだから」
きっと、深い理由があるのでしょう? それだけ言って彼女はその場を去ろうとする
この理由が深いのか浅いのかなんてわからない、酷いことなのか優しいことなのかもそうだ。誰のために隠すのかすらも定かではない。
ただ、俺は帰ろうとしている彼女の手を掴んでいて。
「この後時間、あるか?」
なんて口にしていたのだった。
友希那に昨日の事、答えを出すなら私からと言われた事、それに対し何も返せなかった事を話した。その前の事は話すことはできなかったけど。
「そういうことね」
「……」
「他にも何かありそうだけれど、聞かないでおくわ」
こんなことになった比率としてはむしろその隠している事の方が多いし、彼女もそれは感じ取っているのだろう。
それを聞かないでくれるのは、少しだけ複雑だ。
「何もないのか?」
「なんのこと?」
「さっきの聞いてだよ」
場所を移すという程長くする気はなかったので道で立ったまま、一応邪魔にならないように端に寄ってはいるが。
手は既に離れていて、どうにも落ち着かないから後ろで組んでいる。
「別に、先でも後でも結果は変わらないでしょう?」
当たり前だ、その場で決めるのではなく決めてから行くのだから変わりなどするはずもないし、これを聞いて彼女に何かあるわけじゃない。
「それにしても、燐子がそんなことを言うなんてね」
それは彼女にしてみても予想外の事だったようで。リサやあこちゃんに聞いてみても同じ反応が返ってくるのだろうか。
「……なんだよ」
「いいえ、別に」
こちらをじっと見ていたから聞いてみたけれど返答はないに等しい。
ふぅ、と彼女は一息つき、誰に向けてか呟いた。
「意外……ね」
彼女が溢したその言葉は上手く聞き取れなかったが、恐らくはそう言ったのだろう。
何の事だ、何に向けてだ誰の事だ、くらくらとしてしまうほどに思考は回り。
「練習があるからそろそろ失礼するわ」
「悪いな、それなのに呼び止めちまって」
「時間には間に合うから大丈夫よ」
軽く手を振って彼女を見送りながら先程の言葉の意味について考える。
意外、流れからすればそれは燐子さんの言葉に思うことがあったということなのか。だけれどもそれならその前に言っていて。
確認なのか、それとも口から零れてしまったものなのか。もしかしたらなんの意味も持っていないものなのかもしれない。
「意外、か」
その言葉は空に消え、誰に拾われることもない。意外と取れるなら、思いも寄らぬのなら、そんな行動をされたのなら信頼されていると捉えてみるのもよいかもしれない。
口に手を当てる。
やっぱり昨日の感覚が深く根付いていて、今更になって酷く恥ずかしくなり、冷たい風が吹き付けてくる。
いつもならば身体が燃えるように熱くなっていた筈なのに、今日に限っては冷えてゆくばかりだった。
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背に抱えるもの
いつもと違う、という言葉には何の意味もない。それが言い訳になるわけじゃないし、他人からすればそんなの興味がない、そもそれがほんとかどうかすらわからない。
原因は探せば簡単に見つかるかもしれないし、どれだけ時間が経っても見つからないかもしれない。もしかしたら、それ自体が勘違いなんてことすら起こり得る。
「中学生かよ」
意味もない問答、何を求めているのだろう。確認、責任、自己満足、かっこいいとでも思っているのだろうか。
コンクールまでもう片手で足りるようになってしまい、今更になって焦ってみるが対して成果も出はしない。
楽しく、効率的に、ああだこうだと考えてはみれど結局はどれも満ちることなくそれなり程度、真剣にはなれるけど没頭はできなくて。
「子供の頃は……」
別に今でも子供だが、昔よりはそう感じる事が多いのはきっと、あの頃は純粋な気持ちでいられたからだろう。
過ぎて初めて気づくということは最近増えだして。
「…………」
気づいた、憧れた。燐子さんと一緒に練習したあの日、彼女に。
内容、確かにそうかもしれない。触れれば割れてしまうかのように繊細なもの、自らができないそれに思うものはあった。
でも、そうじゃない。一番は、憧れたのは、どこまでも深く集中した彼女のこと。
話しかけようとは思わなかったが、そうしても気づかなかっただろう。例え触れてみようとも気づいてくれなかったかもしれない。
音楽と自分だけの世界を作り、入るという昔はできていたものを彼女から感じ憧れ、そして僅かに嫉妬した。
今でも鮮明に思い出せる。あの瞬間彼女は硝子のように、シャボン玉のように綺麗で、儚げで……
俺はなんだ? 音楽という、曲という世界の中で一体どの立場なのだろう。
主役か語り手か、それとも観客か。それが正しいわけではないとわかっている、だが主役であるかのように振る舞えるということは意識をすればするほどできなくなって。
学び方を知り、技術を得て反省をする。何も間違えてない、正しきことだ。
でもそれは、確かに純粋さとは遠退いていて。
ともすれば、主役である事において何より大切なものは、そう意識しないこと。であれば俺にはもう無理で、燐子さんならありえることで。
なんて、それだけであったのならなんの問題もなかったのだけれども。
「はぁ……」
5分だけ休憩しよう、なんて実行して5分きっかりで済ませられる人間は果たしてこの世にいるのだろうか。
こんな風に下らないことでも考えてしまえば10分やそこらなど優に過ぎてしまう。
純粋さは過ぎ去ってしまえば二度と手に入らない、だけれど自覚をした瞬間から過ぎ去っていく。
音楽に、ピアノにどこまでも、透明な程の純粋さを持てる彼女の事を考えつつ窓から空を眺めていた。
晴れか雨、どちらが好きかと聞かれてもどちらともいえないと答えるだろう。
晴れだから気分がいいだとか、雨だとリラックスできるとか感じたことも考えたこともない。強いて言うならば雨の時は外出が面倒くさいくらいだが、そもそも外出自体そこまで頻繁にするわけではないからどうでもいい。
ザーザーと、開けたドアから雨の音が家の中にまで聞こえてくる。
「……で、何しに来たんだ?」
「雨、強かったから」
なるほど、傘を持っている癖に濡れてるということはそれだけ雨が強いということか。確かに、彼女の後ろに見える外は時間にしては黒く塗りつぶされていて。
「取り敢えず体拭いとけ」
「ありがとう」
風呂場からタオルを探して渡す。見る限りびしょ濡れという程ではなさそうだが風邪を引かれても困るので、体を拭かせて風呂場まで案内する。
「着替えはねぇぞ」
「そこまで濡れてないわよ」
どうだか、心配しすぎと言われればそうかもしれないが、こんなもんだと思う俺もいる。
勿論、友希那か燐子さんでなければこんなにはならないが。
「雨、止むと思う?」
「暫くは止まないだろうな」
飲み物を取ってこようかと聞いたがいらないという返答。
俺は背を向けたまま、言い表せないような居心地の悪さを感じながらその場に座り込む。
髪が濡れていた、寒そうだと思った。だから風邪を引いてしまわないようにと心配をして……
友希那は白い服を着ていた。ああ、いらない、こんなものは必要ない。
何故だか無性に恥ずかしくなって、膝を抱え俯き顔を隠す。熱は感じてはいないがむず痒さは襲いかかってくる。
暑い、暖房をつけたせいだ。あれだこれどと意味のない、関連性のないことばかり考えて思考を何処かに飛ばそうとしてみるがまるで効果がない。
俺は、何を求めているのだろう。
「ねぇ」
「なんだよ」
「こっちを向いて」
「嫌だね」
意地でしかない、期待はない。一度あったのだからもう一度もあるかも、なんて烏滸がましいことは思わない、思ってはいけない。
謙遜、傲慢、どっちもだ。唇を強く噛み、埋めるかのように顔を下に落とす。
やましい気持ちはない、邪な感情は彼女には似合わない。罪悪感に似た何かが埋め尽くした。
しかし細く冷たいものが首筋に当たったのを感じ顔を上げ、振り返ってしまった。
「何かあったの?」
「……何もねぇよ」
言えない、言ったら……どうなるのだろう。少なくとも嫉妬くらいはしてくれるのか?
ああだから、それが傲慢だ。相手を知ったつもりで、どう思ってくれるかを期待するなと、押し付けるなとわかっているはずなのに。
それでも尚そうしてしまうのはきっと、好きだという事実に押されてなのだろう。
逃げ出したい気持ちはありつつ、期待か恐れか、よくわからないまま会話もなく時間が過ぎていった。
「で、どうなのかしら」
「……どっちのことだ」
「どっちも何も、コンクール以外に何かあるの?」
笑えてくる、コンクールに向けて集中できてないことがモロバレだ。こんなんじゃ情けない姿を晒してしまう。
……いや、情けない姿ならもう、晒してしまっているか。
「聴かせて、あなたのピアノ」
「理由は?」
「あなたは正直だけど、私達みたいな人間は演奏を聴いた方がよくわかるでしょ?」
目を合わせる。どうやらある程度は乾いたようで、見る限りでは濡れているところはない。
目と目が線で繋がれたように、張った糸で引っ張られるかのように離せない。それだけではない、顔、体、果ては指一本動かすことはできなかった。
そんな中でも唯一と言っていい程動いていたのは心臓のみ。どくりと、体全体が揺れていると錯覚するような鼓動が止まらない。
凍ってしまったかのように動かない全身は、しかし沸騰したかのように熱を持つ。
あ、という小さな声が自らの口から零れていた。
「……わかった」
なんだ、なんと表せばいいのだろう。
戸惑い、緊張、それらは違う。歓喜、不安、それでもない。
その場を立ち上がってドアを開けなんとなく、一度振り返った。
「大丈夫なの?」
酷いとは思ってたけどここまでか、乾いた笑いが口から漏れた。
友希那はさっきの演奏を聴いてどう思っただろうか。怒る、心配、そんなもの通り越して呆れているに決まってる。
思考が染まっていく。不純物はよく目立つから小さなものでも過度に感じてしまい、感じてしまえばどんどんと拡がっていく。
今まで積み重ねてきたピアノへの思いがたった一日、この前の出来事に食い散らかされてしまっている。
「顔色悪いわよ」
「……元からこんなもんだよ」
「嘘ね」
彼女は俺の顔に手を添えた。
暖かい、さっきまで冷えていた癖に。何処かほっとして、感じていた焦燥感は収まり新たに思考に混じったそれは、とても優しかった。
「どうしたらいいのかしら?」
「……わかったら苦労しねぇよ」
「確かに、それはそうね」
過ぎたことはどうにもならないからこの感情だってどうにもならない。もしどうにかなったとして、どうにしたらいいのだろう。
歯車が外れたのではなく、狂ってしまったのだ。奥、はるか奥、目で見えず手で触れられない、そんなところでおかしくなってしまった。
「悩み事なら聞くわよ」
「遠慮しとく」
「……そう」
話せる内容じゃない、話したらどうなるか想像はつかないがそれだけは確か。
そんなことと切り捨てられるかもしれない、真っ正面から考えてくれるかもしれない。もし話したのなら……
……もしかしたら、彼女も。
「雨、だいぶマシになってしまったらしいわ」
「そうか、気を付けろよ」
一瞬、思考が全て塗り潰された。その招待は嫌悪で、期待。あぁ、本当に気持ちが悪い、いっそ、どうにかなってしまった方がいいんじゃないか。
「私は何かを捨てる事は悪い事じゃないと思うわ」
「…………」
「背負うことによって頑張れるかもしれないけど、そうでなければ重いだけだし何より、楽だもの」
わかってる、わかってるさそんなこと。だけれども落とせばもう拾う資格がない、捨てるということは傷つけることだと、わかっていないはずがない。
「だからわかった上で一つ、あなたに提案よ」
──コンクールの演奏は、私の為にして。
「……なんだよ、それ」
「別に聞かなかったことにして貰ってもいいわ」
「無理だろ、今更」
何故だか偶然その瞬間だけ雷が鳴ったとか、そんな事は起こらずその言葉はもう聞こえてしまった、そしてそれは無視できないことで。
「嫌でしょう、そんなこと」
嫌だと、強く否定できなかった。飲み込んでしまいそうだった、呑まれてしまいそうだった。今ならば、なんでも受け入れてしまうほどに思考は鈍くて。
嘘だか本音だか、何を意図してなのか。わからない、わからない、それをどうするのかすら決められない。
思考にぽつりと、新たな不純物が染み込んだ。
「……風邪、引くなよ」
「そっちこそ、万全の状態でコンクールを迎えなさい」
そう言って彼女はいつの間にか足元にいた猫に構い、満足したのか出ていった。
万全の状態、簡単に言ってくれる。だけれども、ああ仕方がない、あいつが求めているのだ、俺のそれを。
スマホを開いて明日の天気を確認すると、どうやら明日は雨らしい。
猫が飛びかかってくる。心配かけてしまったか、その日は一日中そいつのことを構ってやっていた。
最近トレーナー業にハマりちらかしてしまってます
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帳が落ちて
演奏が聴こえてくる、誰のものかわからないけれど、上手であることはわかるそれ。普段の私と比べたならば……多分、私の方が上手だろうが、練習と本番は全くの別物である。
今日の私はどうだろうか。いつも通り、練習通り、それ以上の物を引き出すことは出来るのだろうか。
「蒼音さんは……緊張、してるんですか?」
そんな問いを彼にぶつけたのは、はたしてどういう意味があったのだろう。口に出せねば爆発してしまいそうだったからか、私がそうなっているから彼にもそうあって欲しかったからなのか。
演奏が終わり、次の人がステージに向かっていくのが見えて。いつものように焦ったりすらできず、自分が自分じゃないかのように冷静で。
出番まで後どれくらいだろう。一分経って、三分が過ぎて、また別の人がステージに上がって。少しずつ、でも確実に本番が近付いてきている。
楽しみなのか怖いのか。何時もの壊れてしまったかのような心音は今日に限っては聴こえてこず、寧ろゆっくりと、止まってしまいそうな程のペースで鳴る心臓を掴むかのように胸に手を起き、大きく息を吐く。
身体に不調は何一つとしてない、むしろ不自然な程の絶好調。翼を授けられたかのようだ。身体は軽くて、今ならば空へだって飛び出せそう。どこまでも、止まれず、翼が溶けるまで。
「手を、出してください」
突然言われたその言葉に従い、彼に向けて手を伸ばそうとしたが動かなかった。一体どうしたのか、自らの腕を見てみれば小刻みに震えていた。
やはり緊張しているのか、そう感じるとだんだんと身体中に痺れが回ってくる。手から身体を、足までいって最後には舌の上に酸っぱい何かすら浮かんできたかのような。
だけれども、震えはすぐに止まった。彼が私の手を取って、彼の手が私の手を支えるようにしてくれて、それだけだ。だけれども実際には、引っ張られもしないのだから何の支えにもなっていない。
一瞬にして冷えていた身体が熱くなって、変な声が出そうになって、しかし、彼の手の違和感に気づいてそれら全ては押し沈められた。
「してますよ、緊張」
「ご、ごめんなさい。そんな風に見えなくて……」
「……騙すのが得意なだけですよ、色々と」
すぐにメッキは外れますけれど、というのはどういうことか。こうして触るまで、彼の手も震えていることに、冷たくなっていることに気がつかなかったのに。
聞き逃したことにして目を瞑り、大きく息を吸う。緊張しているのが私だけじゃないという事実に酷く安心させられ、そして、何故だかあの時の事を思い出していた。
でも、あの時のようにはならない、しない、させてやるものか。目を開いて、映るあなたに声をかける
「……蒼音さん」
「なんですか?」
このまま彼の手を握ってしまおうと力を込めたが実らず、ただ空気を掴んだだけに終わってしまった。ああ、どうやら緊張も抜けきっていないらしいが、だがこの程度何ともない。これならば普段あなたといる方が何倍も緊張する。
演奏が終わる。次は私の番、そして私の後に蒼音さん。順番もあの時と同じ、だけれどあの時と違うことは確かにあって。
「……見ていてくださいね」
私の震えは収まった、彼の震えは収まってはいなかった。確かに、バレてしまえば一瞬でメッキは剥がれ落ち、残るはただの男の子。
私はあなたの後ろを追い続けていた。遠い背中を、見えない背中を延々と。そして今日、ついに私は彼と並び立っている、だから、だから、今だけはあなたの先に行きます。
見ていてください、私の事を。それに言葉はいらない。だからこそ、私の名を呼ぶ声に振り返った。
「頑張ってください」
……返事はしない、恥ずかしがらない喜ばない。ステージへと向かい目を閉じ、開き、映る世界が、住む世界が切り換える。
ここには私一人、他には誰も存在しない。無音のその世界に、音を落とした。
きっと、人生においてこの時間というのは、ほんの刹那的なものでしかないのだろう。
だが、だが、その刹那は色鮮やかに、鮮明に刻みつけられる。子供をやめて、大人になって、そして死ぬまで、抜け落ちる事の無いものに。
やっと忘れ物を取りに来ることができた。これでようやく、私は本当の意味で未来に向かうことができるようになれたんだ……
私の演奏が終わり蒼音さんの演奏も終わり、私達は二人向かい合う。
お互い、このコンクールにかけた時間は計り知れないというのに終わってみれば一瞬で、だけれども熱された体は中々冷えてはくれなくて。
「お疲れ様、です」
「……お疲れ様でした」
夢を叶えてしまった。演奏したというのもあり、彼の演奏を聴くというのもあって疲れがあり、心地の良い倦怠感に包まれている。
夢を、願いを、望みを叶えて想いがなくなってしまうのではないかと不安に思っていた。だけれどこんなにも疲れているというのに、欠片も想いは薄れていない。
稀に感じていた、私の想いと夢、それらは同じなのではないかと。
「手を、出して貰っていいですか?」
そうして出された手に自分の手を重ねる。温かくて震えはなくて、彼の顔を見上げると何故だか安心して。
突然ドロリと、溶けるかのように視界が歪んだ。
疲れか安堵からか、どちらにせよそうなって倒れそうになったというだけ。歪んで、不思議とゆっくりと流れていく中倒れることなくいられたのは手を引かれたから。
強く、だけれど優しく。重ねていた手はいつの間にか握られていて。
「……蒼音さん」
「……どうかしましたか?」
まだ、一つ残している。
生きてきた意味、というには大袈裟ではあるが、今まで一瞬たりとも忘れたことのない夢がある。
「りんり~ん!」
声の方を向いてみれば、あこちゃんがこちらに向かってきていて、その後ろにはRoseliaのメンバーが見えた。
この後は、どうだろう、蒼音さんを含めみんなでご飯でも食べに行くのだろうか。先んじて二人きりでと彼に言えば、彼はそれを受け入れてくれるのか。
……まぁ、そこまで盲目ではないのだけれど。
それでも、だ。後でも先でも、いずれやらねばいけないことがある。それはけじめでも、区切りでもない。ただ私が、望んでいるだけ。
彼の手を引き、耳打ちをして手を離す。名残惜しさに数秒、視線さえ動かすことが出来なかったが、彼から送られる視線がなんだか面白くて、こちらに来るあこちゃんを迎える事ができた。
どうしたんですか、その顔は。あなただって私に対して似たような事を言ったことがあるくせに。
やり返してやったという風な優越感なのか、どうにせよ普段であれば絶対に言いもしないことではあったのだが、コンクールで麻痺してしまったか、全くもって気にならない。
「りんりん凄かったよ~!」
「ありがとう、あこちゃん」
飛び込んでくるあこちゃんを受け止めたが、どうにも力が入らずふらついてしまう。
身体が軽くなったかのようだ。肩の荷が降りたというべきか、穴が空いたとでもいうべきか。どうにせよ、終わってしまった事の話。
影が伸びていく。冷たい風は変わらないまま、空は紅く変わっていく、そしていずれは黒く、暗く、闇夜のそれに。
帳が落ちる。それは夜の訪れか、それとも、何かの終わりの証だろうか。
辺りは空色を残すことなく、だけれど星の光は家から漏れでた光や電灯など、人工物によって遮られている。
人気のなさが少しの寂しさを感じさせてきて、それからくるものもあり、季節もあり、身体を縮こませて抗ってみせるも大した効果はないようで。
足を止めて、一つ深呼吸をした。指を伸ばせばピンポンと、インターホンの音がした。
自分でしたくせにその音に驚かされて、白い息が零れたのが目に入る。待つこと数秒、扉が開かれた。
「ご、ごめんなさい。思ったより早く……来れたので」
「大丈夫ですよ、待ってたので」
招き上げられたのは彼の家、そう望んだのは私から。
外に比べれば遥かに暖かくて、まるで夢の中に迷い混んだかのようにほっとする。もしや夢ではと自らの頬を触ってみようとすれば、あまりの手の冷たさに変な声が出てしまう。
「座っててください、飲み物持ってくるので」
そんなに長くいるつもりはない。それは彼にもコンクール後に伝えたし、今日はお父さんもお母さんも家にいる。
だから寛げないのだが、いかんせん現状は寛いでいるとは言い難い。何せ、初めてではないにしてもあれやこれやと、気にならないはずもないのだ。
「……それで、何の用なんでしょうか?」
ホットミルクを差し出されて、私の好みを覚えててくれたかと嬉しくなる。
少し熱いくらいでまだ飲めそうになく、息を吹き掛けてみればゆらゆらと、水面が微かに揺れた。
「お願いが、あるんです」
緊張はしていない、不安もない。なら興奮でもしているのか、違う、そうでもない。
落ち着いている。全くの無感情というわけでもなく、揺れる蝋燭の火のような、石を投げ込まれた水のような。
ホットミルクにもう一度息を吹き掛けて、揺れた水面ごとを口にすると、身体の芯から暖かさが広がっていく。
これは夢でもなく望みでもなく、約束だ。あなたはそれを覚えていないかもしれない。私が覚えているだけでいい、私がそれを果たしたいだけだから。そしてそれは今日に果たしたかったのだ。
「一緒に、演奏してくれませんか?」
そう言えば、驚いたかのような彼の表情が目に入った。恐ろしい提案をしたつもりもないけれど、彼からしてみれば予想外であったものらしい。
一体、彼は何を予想していたのだろうか?
「……それだけ、ですか?」
「それだけ、です」
だけとは言えど、それが大したことでないのが事実。まぁ、そう思っているのは私だけかもしれないが。
暫く私の顔を見つめた後、彼は問いかけてくる。
「俺なんかで、いいんですか?」
「蒼音さんだからいいんです」
「……そうですか」
この問答の意味は何なのか。トクリ、トクリと、静かな空間に私の心音だけが響いている。だから彼の了承も、煩いくらいに私の中で響いていた。
書きたいなぁって思ってたけど気が乗らないでいたら感想もらってしまって世の中ありがたいものだなと思いました。
時間はかかるかもしれないですけど完結はさせたいと思っていますので
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浅ましく、欲深く
何時ぶりだろうか、この感覚は。
大失敗を起こした時か、ちょっとした悪戯が大問題になった時か。はたまた母が消えた時、それを父のせいにした時だろうか。
愉快、痛快、笑えてしまうくらいには愚かしい。まだ理由を知らなかったとはいえ、あれは人生をやり直したなら必ずやり直したいと思っている。
当然そうなることなどないのだから、後になって悔やんでいるのだ。
あの時と同じ、久しぶりに消えてしまいたくなった。
己自身の浅ましさが、あれもこれも全部イラつかせてくる。
「吐きそ……」
恋と、愛と、欲と。何時から俺はこんなにも欲深くなったのか、溺れてしまったのか。
無理もない、お前は悪くないと訴えかけてくるのが本能で、お前が悪いのだと責め立ててくるのが理性。まるで獣のような、後先考えず、自分勝手な思考回路。
唇に触れてみれば、ああ本当に、削ぎ落としてしまった方がいいんじゃないか。
愛する気持ちは純粋であるならばそれがいい、恋する心はそれがいい。理性を上回り、本能で好きだと想えるのなら、それにこしたことなどあるはずなく。
「自分勝手なやつ」
自虐をすれど、返ってくる言葉などあるはずもない。顔を覆い、締め付けられるような頭痛とは逆、破裂してしまいそうな痛みが襲ってくる。
恋して、愛して、そこまではいい、それだけでよかった。だが俺は欲した、そうなれば自分本意だ。
純粋であればあるだけいい、事実そうあれた。だけれど純粋でありすぎて濁ってしまって。
家に行きますねなんて言われてしまって、受け入れて、俺はその時なんと思っていたか。
薄汚い、欲にまみれた思考が、期待が、確かにあった。
後悔が役に立ったのか、今回は何も起こしていないし口に出してもいない。
だけれどもそう考えたという事を自らが許せない。やって後悔する程度のことなど、所詮はその程度なのだから。
ゴン、と大きな音がした気がする。何か落ちたのか、俺が堕ちたのか。どうだろう、確かめるのも面倒だ。
寝て起きたら全部夢でしたなんて事があったらいいのに。出来事も、感情も、全部泡のように消えてしまえば。
でも、そうしたら今日のコンクールは全て幻だったということになってしまう、あの心の揺さぶりが全て嘘だったということになってしまう。
「……それはやだなぁ」
そんなことあるはずもなかろうに、それでもそんなことを考える。
だがあれが幻なら、現実ではもっと上手くできるのだろうか。
ああ本当に、どこまでも強欲なやつだ。
無欲であれるということは幸せだと、薄れ行く意識は黒く塗りつぶされていった。
「いてて……」
身体中が痛い、床で眠ってしまっていたせいだろうか。
朝日は喧しい程に眩しくて、特に予定もなく付けたアラームが煩わしい。手を伸ばし、だけれど届かなくてため息がこぼれた。
普段から散らかしている気はないが、それでも普段よりも幾段と綺麗になってる部屋を見て嫌気が差す。
アラームを止めるためにスマホを覗くとメッセージが一つ、アラームを止めることをせず、瞬きさえせず、ただそれを眺めていた。
『今日会えるかしら?』
それだけのメッセージにあらゆる思考も、行動も止められる。縫い付けられたかのような視線は渇きによってか途切れ、思考もようやく動きだす。
何の用か、何処でなのか。今日とは書いてあるが、今日のいつなのか。動き出せば暴れ馬のように止まることなど知らなくて。
「…………」
会って、俺はどうしたいと思った?
向こうの用など決まっている。昨日のことを話して、それ以外のこともするだろうが主題はそれだ。ただそれだけなのだ。
会いたいと思った、理由はない。いいじゃないか、素晴らしいじゃないか、では俺は彼女に何を望んだのか。
称賛? 違う。
罵倒? 違う。
批評? それも違う。
俺が期待したことは……
「はぁ……」
別に、友希那にも望んだ訳じゃない。事実まだそれには早くて、いや、そも彼女がそうするようなとこ等想像もつかない。
三大欲求とはよく言うが、全く、そんなもの言い訳にしかすぎないのに。
恋と愛、そして欲。一体どれが最初にくるものなのか。
欲がなければ恋もなく、恋がなければ愛もなく、愛がなければ欲もない。なんて、どうでもいいことを考えるのは現実逃避をしているだけなのだろう。
でも、でも、なんて未練がましく思うのは全部、今日は予定があると返した自らの選択への後悔から。
取り消そうとして、既に既読が付いているからそうもいかない、付けたそうとして思い付かない。結局どうしたいんだなんて考えは頭の端に放り投げて。
「そういえば、飯無かったな」
リビングへ向かいながらそんなことを思い出し、まだお休み中の猫を起こさないようにそろりそろりと歩を進める。
何も考えないでいられればと座り込んでみるが、そんなことを考えている時点で結果はお察しだ。数分後、俺は家を出ることにした。
食材を買って、帰って料理して、そのあとどうするか。ピアノは……あまり気分じゃない。
頭は変に冴えてしまっているから眠れそうにはないし、課題やなんだが余っているわけでもない。
久しぶりにゲームでもしてみるのもいいかもなと考えていれば、ふと目の前に人影が見えた。
「今日は忙しいんじゃなかったのかしら?」
因果応報という言葉があるように、嘘などつくべきものではないのだろうと再認識させられる。例えそれが誰かに対してであろうと、自分自身にであろうとも。
「……これからバイトがあってな」
先ほど学んだばかりであろうに、またこうやって嘘をつく。これで後悔をすれば過去の自分を恨むのに、今の自分は未来のことなど二の次。
勉強にせよ、金銭にせよ、それらの計画性は比較的にあるというのに一体どうしてなのか。
出した言葉を飲み込むことなど出来るはずなく、白く色付く息の音すら確かに聞こえてくる。
「急いでるところ引き止めて悪かったわね」
「別に急いではないさ」
「なら、少しくらいは時間があるのかしら?」
「少しくらいなら……」
自らの口から漏れ出たその言葉。言って、それが耳に入って初めて理解する。
他人には嘘をつけるくせに、自分には嘘をつくことが出来ない。嫌になる、一体どうして悪い気の一つや二つしないのか。
「早く行きましょう」
悪いことじゃない、そんなことはわかっている。寧ろ断る方が悪いことであるのだろうが、そんな理屈的なものではない。
ああ、だけれども、先程より少し上機嫌な風に感じさせる友希那を見て、そんなことを思うことなど不可能なのかもしれない。
話すことはコンクールのこと。良いや悪い、今までの事からこれからどうするのかなど、そんなことばかり。
他人事ではないし、大したことがないというわけではないけれど、どうにも真剣に考えることは出来ていない。
相変わらず甘ったるい、舌の上に固形物でも浮かんできそうだ
「あなた、本当は今日バイトなんてないんじゃないのかしら?」
「……何でそう思うんだ?」
「全く時間気にする様子がないから」
言われてみれば、そう思って確認してみれば30分も経っていた。
急に気恥ずかしくなって顔を背ける。結局、嘘など簡単にバレてしまうものなのだ。
「それで、今日は何の用があるの?」
「……なにもねぇよ」
「隠し事?」
「隠してねぇよ」
とは言っても、先程まで嘘をついていた人間が何を言っても信用ならないだろうが。
黙り込んで、じっとこちらを見つめてくる。天敵に見つかった生き物というのはこんな気持ちなのか、鼓動がゆっくりになっていくのを感じていく。
「……嘘はついてないのね」
「なにもねぇって言っただろ」
「なにも、というのは嘘でしょう?」
言い当てられてしまって身体が硬直し、あなたは嘘が下手ねなんて言われるが否定はしない。上手いやつはここで少しの罪悪感も抱かないのだろうから。
「言いたくないこと?」
「言えないことだ」
こんなこと言わない方がいいだろうに、隠せないこと嘘をつけないこと、悪くはないが良くもない。
嘘が口から出れば虚しい事、なんてよく言ったものだ。
「……それは、燐子のことかしら」
違うと言えないのは言い当てられているから、そうだと言えないのは恐ろしいから。
一体どうしてなのか、人間破滅的なものを夢想してしまう。
もしここで本心全て晒け出してしまえばどうなってしまうのか、なんて絶対にしないことを考えて、小指の先が冷たくなる。
引かれる、軽蔑される罵倒される。どれであれ、その他であれ恐ろしいものだ。
言い返せず押し黙っていればため息が聞こえてきて、その主は憂鬱そうな顔をして窓の外を眺めていた。
「時間、大丈夫なの?」
「なにもないって言っただろ」
「嘘なんでしょう、それ」
きっと何かが食い違っている。勘違いでもされているのか、こちらを見ようともしない彼女は、何処か不機嫌そうにすら感じられて。
……ああ、いや、確かにそうか。これから燐子さんと会う予定があるなんて彼女に言える筈もない。当然逆もしかり、でもそれなら、それくらいならば言いたくない程度のものであって。
「本当に今日は何の予定もないんだ」
「……嘘、ではないのね」
「俺は嘘をつくのが下手らしいからな」
やっとこちらを見たと思えば、今度は珈琲を飲んで顔を隠してしまう。
俺も珈琲を飲もうとしたが、どうやらもう飲み干してしまっていたらしい。少し黒くなった底を見つめ、友希那の事を眼に入れた。
「お前は、俺に言えないこととかあるのか?」
「ないわ……まぁ、言いたくないことならあるけれど」
即答、それは隠すものなどないという信頼の表れか、それとも隠すほどのものなどないという事実からか。
あまりにきっぱりと言うから拍子抜け、だけれど友希那らしくもあり、俺は目を背けていた。
店を出れば風が身体を縮めさせてくる。いい加減手袋くらい用意するか、なんて考えながら空を見上げる。
曇り空、青空一つ見えていない。まるで閉じ込められてしまったみたいで。
「あなたは悩み事が多そうね」
「……突然なんだよ」
「別に、大したことじゃないわよ」
否定はしない、それは事実だから。悩み事の解決法など動くか、聞くか、無視するか程度しかありはしない、なら俺は何をしているかといえば……最後のものが大半であって。
「そういうお前は少なさそうだよな」
「そうね。なくはないけれど、大抵すぐ解決するから」
こちらを見てくるのはどうしてか。明白だ、でも、そうすることはできなくて。
「昨日のあなたは、楽しそうだったわよ」
突然の言葉に驚けば、何処か不機嫌そうな、そんな風な友希那の顔が目に入った。
どうすればいいのかなど俺にしかわかるわけがない。でも、俺にはどうするべきかはわからなかった。
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どうあってほしいのか
私は鈍感ではない。だけれど賢くもない。
それだから彼が何か悩んでいることはわかっても、何故悩んでいるのかまではわからない。どうするべきかも、何が出来るのかも。
言えないことと蒼音は言った。ならば関せず、放置すべきというのはわかる。わかるが、納得できるかは別の話。
燐子の事だと聞いて彼はなにも返さなかった。否定も肯定もなく、つまりそういうことなのだろう。沈黙というのは、わからずとも伝わらないものではないのだ。
「何があったのかしら」
言いたくないではなく、言えないというのであるからにそれは大層なこと。喧嘩なり、恋仲になるなり、私に言えないとするならばそんなところか。
前者であれ後者であれ、彼が言えないというのだから本人に聞くわけにもいかないからこうして一人考えている。
「私だけ……」
怒りはなく、あるものは疎外感。一人など慣れたもので、寂しいなど最後に感じたのはいつだったのか覚えていなくて。
ああ、それもそうか。彼がいて、Roseliaがあって、それに慣れてしまったからもう、駄目なのだ。
どうにかしたいと思うのが当然だろう、どうにかしなければと思うことが普通なのだろう。羨ましいと思うことは、きっとどこかおかしなこと。
無為に時間が過ぎていく。何をするでもなく、何を待つわけでもない。音もなくゆっくりと、視界だけが傾いて……
明かりが、上から降っている。
今が夢なのか現実なのか、それすらわからぬ夢心地。顔でもつねってしまえばいいのだが、これが夢だからなのか、単に億劫なのか知らぬが出来ぬまま。
紙が床に落ちていると、視界に入るわけではないが理解できる。私の視界に移るものも紙ではあるが、そこに書いてあることはあまりにも甘ったるくて、寝起きもあってか吐いてしまいそう。
こんなものをもし見られたのなら、どうともないが、それでもいい気分はしないと思う。その行動にも、ここに書いてある内容にも。
「……寒い」
季節もあって冷えきっていて、ああもしや、身体が動かないのは凍えて固まってしまったからかもしれない。なんて馬鹿らしい事を考える程度には余裕がある。
もぞもぞと、寒さへの抵抗を見せるためかほんの少しだけ身体が動かせるようになってきた。暫くは大したことなかったが、一分やそこらで上体を起こせる程度に。
それでもまだ立ち上がれないのだから、冬の朝というのは絶望的なものなのだろう。
「まだ早いわね」
時計を見てみれば朝の五時と、早すぎるといって差し支えない時刻。昨日何時に眠ってしまったのかなど知らないが、ともかく二度目の睡眠を咎めるものはないだろう。
実際、今日はRoseliaの練習もあるが昼過ぎから。むしろ万全を期すという体裁の元であれば推奨されるものでこそあるのだが……
「あなたは……」
口にするのは蒼音への曲、その一端。書いて消して、考え飛んで手直しては台無しで。
付けっぱなしの明かりを消して、床に落ちていた紙を拾い上げる。余裕など、ある筈もない。考えること思う事、わかる筈なのにいざ書き表そうとすれば夢のように消えてしまう。
昨日なんて少し進むどころか手直しも出来ず、ただ眺めるだけに終わっていた。
「……相談してみようかしら」
曲の内容ではない。これは私のことで、私のものだから、手など加えさせはしない。
昨日の事、どうも頭から離れてくれぬ。ぐしゃりと歌詞を書いていた紙を握り潰して投げ飛ばすが、目的とは外れ床に落ちる。
いくら考えても纏まらないからこうして何度か捨ててはみているが、結局出るものは似たり寄ったり。やはり今回のも前回のも、暗唱できる程に記憶しているのが原因なのか。
ため息が零れて、起き上がった筈の身体は再度机の上に突っ伏していた。
あれはあれ、これはこれと、そんな風な分別は出来ているつもりだったのだが、どうもそうではないらしい。公私混同と言うには少し違うかもしれないがそういうもの。
ぎゅっと、締め付けられるように胸が痛い。胸の中にあるもの全部吐き出して、吐き出して、吐き出して、吐き出すものがなくなって咳き込んだ。
「駄目ね、これも」
殴り書きのような汚い字、読める読めないは兎も角として、書き記したその内容に偽りはない。音楽では、自分の気持ちには嘘をつきたくはないから。
だが、駄目なのだ、羅列ではなく意味がいる。でなければわざわざ音楽とする必要がない。
難しい、面倒だ。ああ、だけれども、だからこそ、音楽というものは美しくあって人の心を射つことができる。
雑念を抱いてよいものなど出来る筈もなく、であるからには問題を解決しなければならない。厄介だが仕方のないことであり、望むこと。
曇り空の心の内、あるがままに手を走らせた。
彼の事、彼への曲の事、どちらも気になるような状態でする練習など結果は見えている。自らの首もとに手を置いて、首を横に振った。
宙ぶらりんな今、すべき事は単純明快。燐子の方を見れば今までよりも随分と調子がよさそう。コンクールを終え一皮剥けたか、荷が下りただけか、それとも……
全く、彼女は出来ていたというのに私は練習に集中する程度の事すら出来ていない。
中断してしまうのも申し訳ないし、解決まで持っていけるわけでもないのだから練習が終わったら聞こう。そう決めたのに、彼女を見て、強く自らの手を握った。
宙ぶらりん。自らを制御出来る筈もなく、集中なんてものは出来ることはないまま時間だけが過ぎていく。
「ねぇ、友希那」
「……なんでもないわよ」
「まだ何も言ってないでしょ」
全部勘づいている癖してよく言うものだ。気まずそうな表情を浮かべられて居心地が悪くなったかと思えば、彼女は燐子の方を見た。
ほらやっぱり、気づかれている。でもだからといってなんだ、強がって何も言えやしない。本当に歌う以外では不器用な口だと自分でも最近思うようになってきた。
そう思って尚行動できないのは、私自身の愚かさゆえだろう。
「聞いといてあげようか。喧嘩、じゃないんでしょ?」
「……大丈夫よ、どうにかするわ」
「できるの?」
「私は子どもじゃないのよ」
相談しようか、なんて思っていたくせしてこの様。
その後どうだったかなど言わずともわかること。集中をしていながら、不思議といつも以上に楽しそうな燐子の事を見れば、きっと意味のないこと、なんて言い訳ばかりして。
私は、子どもじゃないだけで大人にはなりきれてない。
ふと、気がつけば蒼音の事ばかり。予定もなく、寒いだけの空の下、ため息をついてみれば白い息が舞い上がる。
思考と行動が結びつかない。こんなにも彼の事を考えてはいても、彼のために何もすることが出来なくて。
一体何が、それは彼の事でもあり、私の事でもある。
イラついている、今日の練習の時からずっと。寝不足、栄養不足、理由となるものに思い付くものはあれどそうではない、そうではないとわかっているのだ。
私自身にイラついて、蒼音にも、そして燐子にも。
「……はぁ」
白い息を吐き出してぶるぶると、音でもたててしまうかのように震えてみれど、その程度で納められる程の熱など起こせるはずもなく。
それなりに厚着をしているしているつもりではあるのだが、この間リサから貰ったマフラーの端を摘まみ、もう一度首に巻いて見せる。
口が隠れて息苦しい。誰を待つわけでもなく、何をするわけでもなく。情けなさから一人過ごしている。
目の前になど誰もいる筈もなく、見上げてみてもそれは変わらず。絡み合うわけでもなく、綺麗に張り巡らされた電線を向こうに見ていたらアクビが出た。
喉が渇く。からからと、がらがらと、咳き込んでみても解決せず。声が思うように出せなくて、だけれどため息はつくことが出来てしまって。
ふと、明日には雪でも降ってきそうだと考えスマホを取り出すが、厚い手袋をしたままでは動かすことが出来ず、大した事でもない故に真っ暗な画面を覗き見るだけ。
「……言ってくれたなら」
言ってくれなければわかる事も出来ない私が悪いのに、言いたくないことだと知れている筈なのに。
私のためと彼のため。一体どちらのものなのか、混じり溶けてわからなくなってきた。
……認めればいいと、わかっている。言い訳ばかり思い浮かぶが、つまるところ彼の事が気になって仕方がない。
素直になるというのは存外難しいもので、元より素直であったとは誇張してでも思わないが、これは直そうとして直せるものなのか。
我が強く、誰も気にすることではない小さな事を隠し遠そうとしたり。ああ、気にしないでいたけれど思い返してみれば随分と馬鹿らしいこと。
なら、そんな私は一体どうしたいのか。だからそれがわからないと言っている。
では、そんな私は一体どうあってほしいのか。それは、最初からわかっている。
「あなたには、前を向いていて欲しい」
ああ、私は臆病になっていた。彼が嫌がるかもしれない事をするなど今更で、事実私は彼が嫌がっていたことをしていた。
……実際彼がどう思っていたのかは知らずとも、表面上では確かにそうだった。
そうとわかればすることは一つ。善は急げと言うもので、時間の事もあれ、退けばまた足踏みすることなど目に見えている。
立ち上がり、深呼吸。急に風が吹いてきて目を瞑る。
目を開けば、空は少し暗くなり始めてきていた。
一人が好きかと問われれば、嫌いじゃないと答える人が大多数だと思う。
煩わしいのは好きじゃないし、かといって一人きりということに喜びを抱く程でもない。極端に振り切るなど不自由極まりないことで。
「……遅いわね」
一時間、多分それくらいは経っていると思う。蒼音の家のインターホンを鳴らしてみたけれど反応はなく、ならば帰ってくるのを待とうと思い時間だけが過ぎている。
これで居留守でも使われていようものならば……駄目、そんなことを考えては。それに、彼ならばそんなことをしないだろうと思っている。
期待ではなく望みでもなく、それは信頼で確信だ。その信頼に漬け込もうとしている事に罪悪感がないわけでもないが、仕方がないことで。
コンビニで暖かいものでも買おうと思ったが持ち合わせがなく、時間もあってか寒さを耐えるのもそろそろ限界。
だから、早く来て欲しい。元よりまた後日で、などという考えは持ち合わせていない。
私と、彼と、今日この場で。そう決めたから。
だけれど不安になって、何度かインターホンを押してみたけれど反応はない。
外から見ればきっとおかしな人に見えるのだろう。そして、おかしな事だと自分でもわかってもいる。
スマホの充電がないわけでもないのだから、電話の一つでもしてしまえばそれで解決だ。何よりそんな長くを話すつもりもない。
だが言葉など、言葉だけだと、きっと伝わらない。彼の思いも、私の気持ちも、言葉だけでは足らなすぎる。
足が棒にでもなってしまいそうに辛くて、意思もあり、その場にしゃがみこんだ。
「……何してんだ」
なんと言おうと考え時間が過ぎ、ようやくその時がきた。立ち上がるとそれなりにしゃがんでいたからか、膝の辺りが痛くなる。
彼は賢いから、きっとわかっている。だから何も言わず、せずとも、白い息を吐き出した。
「……悪いけどまた今度な。今はちょっと、疲れてるんだ」
だけど、蒼音は私の事を無視して鍵を取り出す。
長い間待っていたのにとか、無視される事だとか、そんなことはどうでもいい。
「駄目よ。今、ここで」
「言いたくないって、言っただろ」
「なら言わなくてもいいわ。けど、私はあなたにそんな顔して欲しくないの」
彼の手を掴めば、ほら、止まってくれた。振りほどこうとすれば簡単な筈で、こちらを見る目は暗さもあって良く見えなかった。
「何で構うんだ」
「そんなの、あなたが好きだからじゃ駄目かしら?」
ああ、冷えてきた。いつもならどうだ、とりあえず上がるかとでも言ってくれていた気もする。こんな時でもそんなことをちょっとは期待すれど、目的には変わりない。
「……やっぱ駄目だ」
だから、その返答は予想外のものだった。
するりと彼の手が私から離れ、彼が鍵を回す。再度止めることはできず、声も発せず、ただ眺めるだけ。
「……ねぇ、一つだけ聞いて」
掠れたかのような声。絞り出すかのようで、水中かのように息苦しく、火花でも散っているかのように視界のあちらこちらが白く光る。
「私は、何があってもあなたの事が好きよ」
「……俺も、どうあったとしてもお前の事が好きだ」
時間が解決してくれる事なのか、あなたでなければ解決できぬことなのか。私では、どう足掻いたところで糸口にすら慣れぬのか。
それが情けなくて悔しくて、そのままドアの向こうに消えた彼の姿を見送った。
空はもう、星によって照らされていた。
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同意
八つ当たりだとわかっている、それが最低だと知っている。ならどうしてかなど、教えてくれるならば知りたいほどだ。
いつかなど、今度など、遥か彼方のもので叶う時なぞある筈もない。叶えることができるのならば、今のような俺なぞ存在しない。
駄目だ、眩しすぎて目でも潰れてしまったのか。張り裂けんばかりになる胸を、握りつぶすかのように握ってみても意味はなく。
俺の事が好きだから等と、簡単に言ってくれたものだ。嫌なのか? まさか、そんなことある筈もない。嫌なのは何処まで行っても俺自身。
俺はあいつの事が好きだ。当然、燐子さんの事もそうであって、その先がある。
ああいや、先なんて表し方は不健全。でも、でも、先としか表せない程に熱されている。
もしこの熱を晒けだしてしまえば嫌われてしまうかもしれない。予想だ、どうかは知らぬ、もし俺が同じことを言われたら? さぁ、どうだろう。
引いてしまう嫌悪してしまう。まさか、そんなことある筈がない。戸惑うだけか、きっと、奥底では舞い上がってしまうのか。
「……気持ち悪」
キスだとか、その先を思い描いて浮かぶのは罪悪感。だけならいい、それならいい。そうでないから嫌になる。
世の中順序というものがあって、守らねばならぬものがある。誰だって結果を知れてから過程を変えれるのならば苦労はしない。
だから期待など抱くべきではない。それはまだではなく、いつまでも。子供のような希望論、恐らくではあるがきっと俺は、そこらに溢れ読み疲れたような関係に憧れていて。
ああ、こんな考え、心の奥底を覗いてみれば嫌じゃない。
嫌じゃないからこそ、嫌になる。
「元気無さそうだね」
「色々あってな」
リサに呼び出され、開口一番そんなこと。鏡なぞまじまじと見ないからどんな風だか知らないが、見てわかるならばそれは相当。
電話やメッセージで済ませられないのかと聞いてみたら、できれば直接がいいなんて言われたものだから断ることもできずやってきたが、どこか恐ろしい。
別にリサの事が怖いというわけではなく、言ってしまえば勘のようなもの。ぞわぞわと引きずられるかのように背筋が伸びる。
「それで、わざわざ何の用なんだ?」
だけれども、勘というのは案外馬鹿にならぬものでこれまでの経験からそういう風な連想をしているというだけ。
連想、リサからとなれば音楽の相談はあれ、直接とならばそれは……
「友希那にさ、何かしたの?」
ほら、こうなった。
指の先から踵、歯の奥までもが浮き上がったかのように落ち着かなくて。
パキリと、指を鳴らしていた。
「……何もしてねぇよ」
「嘘つかないでよ」
「嘘って、俺が何かできると思ってるのか?」
「思ってないよ。思ってないから聞いてるの」
好意を無下にしてしまったこと、最低な人として真っ先に上げられるような行動をしたと、自覚はある。
後で謝ろう、なんて先送りにしても何か変わるわけでもなく、後悔が消えてなくなるわけでもなく、本当に意味がない。
「じゃあさ、何があったの」
「何がって、何の事だ?」
「全部だよ。友希那との事、それに燐子との事と蒼音の事」
付け足されたのは、今最も問われたく無かったこと。
黙秘であれ、逃走であれ、回避する手段はいくらでもある。あるけれど、ため息と共に壁に寄りかかった。
「……見てわかるものなのか?」
「今の蒼音の事を見れば誰でもわかるよ」
嘘は、得意じゃない。正直者であるという自覚はないけれど、人一倍程度であればそうなりえる。
駄目な時に大丈夫だと言うようなやつは嫌いだ、何かあってもないと言うやつも嫌いだ。馬鹿らしい、今の俺に全部当てはまる。
人間何処まで行ってもこんなもの。身体の中全てを吐き出すかのように長く息を吐くと、苦しさから咳き込んだ。
「……言いたくねぇよ、こんなこと」
「酷いことでもしちゃったの?」
「そんなこと……」
ない、とは言いきることかできなくて。
答えることが出来ないならば、歪んだ形に持ってしまったならそれはきっと酷いこと。
すれ違うならば、行き違うならば、きっと何処かで間違えてしまって。
「……あぁ、しちゃってるな、最初から」
何を間違えたのではない、全部間違えたのだ。あれもこれもそれもどれも、思ってみれば全てのこと。
……でも、嫌だな。そんなこと、思いたい筈があるわけもなく。
「……何を、何で悩んでるのか、アタシにはわかんないけどさ。でもさ、安心したよ」
「……何でだよ」
「悩めるなら、きっと心から考えてるんだろうなって、二人の事」
当然、むしろそれ以外あらゆるものが細事と言って差し支えない。
なのに、二人を思う気持ちが自分で何より許せなくて。
「でもさ、蒼音は自分の事も思って上げた方がいいと思うよ」
「……思ってるよ」
自分の事などどうでもいいと、口では言える、頭では復唱できる。なら、心の内ではどうなのか。
人間とは、ああいや、それは言い訳か。俺は、きっとどこまでも自分本位で、自分勝手だ。
悩みも、出来事も考えも、全てが俺が悪いことで、俺由来のものだから。
またため息。欲も、血も、思考の根元から何もかも吐き出すことでも出来ればいいのに。なんて、出来もしないことばかりを考えて。
「それと、一つだけ言っておくけどさ」
何事かと思えばいつにもなく真剣な表情な様子のリサ。気圧され、ごくりと喉を鳴らしてみれば、立てられた指が目の前にやってきて。
──友希那も、燐子も、悲しませたら許さないから。
「……わかってるよ」
「ならよし。ああそれと、一応教えておくけどさ」
「なんだよ、改まって」
指を戻され、常識を述べるような風に言われたその言葉は、なんとも信じがたいものだった。
「蒼音が二人に思う事って、二人もきっと蒼音に対して思ってることだよ」
じゃあね、と告げると同時にその場を離れ始めたリサを目線だけで追っていく。
求めているものは何か。説明、訂正、それらを得ることは叶わなくて。
「……なわけねぇだろ」
どうあって欲しいかさえもわからない。修行僧でもないのだから、俺は二人には好きであっては欲しくて、嫌われなどされたくなくて。
愛されたいと、求められたいと、思ってしまっているのだろうか。
「言ったら、怒られるんだろうな」
嫌われたくないなど、友希那に聞かれてしまえばどうなるかなど知れたこと。
それこそ不機嫌ですと、わからせるように見せつけてくる。
「言ったら、悲しまれるんだろうな」
好きであってほしいなど、燐子さんに聞かれたらどうなるかなど知れたこと。
それこそ悲しいですと、辛くなるほどにわからされる。
……馬鹿らしい。
わかっていて、でも逃げる。リサの言っていたことがどういう意味で、どういう事なのか理解できている。
なら何を悩むのか。それはどうせ、俺の願望だ。
こうあって欲しいと願って、押し付けて、気持ち悪いったらありゃしない。
だが確認する術などなく、そうあって欲しいと考えることでしか乗り切ることはできなくて。
「……燐子さんは」
彼女は、何を思ったのだろう。
行動以上の理由もない、もしくは俺みたいにうじうじと悩んでしまっているのだろうか。
軽く唇に指を滑らせると、無意識的に眼を閉じていた。
偶然とは、不思議と運命的なものばかりである。最も、起こらなかった運命的な事象が山のようにある中でたった一つだけ叶った、などという現実的な考えをすればそれは当然の事。
だけれどもこんな風なこと、望む望まぬどちらにせよ運命的といわずにはいられない。
「……こんにちは」
その声を耳にした瞬間、身体が飛び跳ねた。
服の中に氷を落としたかのような、ぞわぞわと何かが背中を駆け巡る感覚。実際には跳ねてはないと思うが、さて、もしそうだとしたら恥ずかしい限りである。
バクリと一つ、大きく鳴った心臓は少し足りとも収まる気配はない。
身体中が一瞬にして熱くなり目線が落ちて、それを無理矢理上へと矯正し、しかし瞑ることによってようやく事なきを得た。
「久しぶり、な気がしますね」
「……はい。そんな、気がします」
ゆっくりと開いた瞳の先に彼女の姿は移さない。人と話す時は目を見ろと言うし、知っていて、わかってはいるが、遥か遠くを眺めていた。
久しぶりとは言ったもののたかだか三日四日。それだけではあるが、そわそわと、慣れないことをするかのような落ち着きの無さが止まらない。
俺の視線が自らに向いていない事に気がついたのか、燐子さんは後ろを振り返ってみるがそこには何もありはしない。
「…………」
会話など、振れる筈がない。
それは俺だけなのか、彼女はそわそわとしてはいるがいつもとそう変わらない、気がする。
気づいていないだけなのか、気にしているのが俺だけなのか。彼女は、まるで何とも思っていないのか。
一歩、燐子さんに向けて歩を進めた。
「謝りたいことがあるんです」
「謝りたい……こと?」
ごめんなさいと、言うだけならば簡単なもの。内面も、外面も、これで変化など怒る筈もなく。
身体を屈めて地面に頭を付け、なんてことで解決するならば苦労はなく、どれだけの事をしようと自己満足。ほら、今彼女を目の前にして、罪悪感と、そして他にも何かはあって。
何について謝ったのか、決して口にはしないけれど。
「そ、それなら私も……謝りたいことが」
対抗でもするかのように、しかしじわじわと消え入るようにして彼女が発したものは、それより先は告げられることはなかった。
なかったが、伝わらないというわけではない。消え入るようなくせをして、それとは反対にゆっくりと顔が赤くなっていく。
内容など、それ一つで充分。
指先が震えるのは寒さからか。情けなくて、隠すように身体の後ろで手を組んだ。
「一つ、聞きたい事があるんですけど」
「……なんでしょうか?」
蛇足。その伝え話を馬鹿にはすれど、人間とはそうしてしまうもの。
だから俺が問いたそれも意味のない、そして必要のないものであったことなど、自分でも馬鹿らしいほどにわかっていた。
「どういうこと……でしょうか?」
「……いえ、忘れてください」
唇を噛む。強く、強く、その色が滲み出して流れ出るように。
この問いは何度目か。学ばないやつ、理解しないやつ、でも不安で、俺の事をどう思ってるんですかなどと、聞かぬ方がいいとわかりきっていることを聞いてしまっていた。
「わからないん、ですか?」
「わかってます」
わかっている、わからされた。でも、だから怖いのだ。
「燐子さんが思ってる程……俺はいい人じゃないです」
ここまでして、それでも胸の内に隠し込む。かっこつけて、よく見せているだけで、ほら、暴いてみれば録なものじゃない。
ここまでして、この行動には理由がない、意味がない、必要がない。嫌われたいわけでも、懺悔でも、彼女の想いを否定したいなどもってのほか。
本当に、蛇足というやつだ。
「……それなら、私だって蒼音さんが思ってるよりずっと、悪い人間……です」
「そんなこと……」
「あります」
だってと彼女が呟くと、俺は無意識に一歩退いていた。
「今蒼音さんが悩んでいること全部、元を辿ってしまえば私のせい……ですから」
「…………」
否定しろ。
悪いのは俺だ。
気持ち悪くて移り気で、サボり癖があって嘘つきなくせに正直者。そう、そうだ、悪いのは全部俺で。
「私は、蒼音さんの事になるとちょっとだけ、我が儘になっちゃいます」
チカチカと目眩がする。
「あなたの事が好きで」
キリキリと、締め付けられるかのような頭痛がして。
「あなたに好きであって欲しくて」
吐いてしまいそうな身体を、何とかして支える。
「また、我が儘を言っていいですか?」
「……なんでもどうぞ」
今、なんと言われたら断れるのか。ああいや、なんでも受け入れてしまいそう。それこそ手を繋げでも、キスをしろでも、なんでもだ。
ペットとかそんな風な、従順にでもなってしまった気分で彼女の言葉を待つ。
「自分に、嘘をつかないでください」
お願いですと、告げられた。
それだけを残し、今日はもう遅いのでと帰る彼女を後ろから眺める。少しだけ手が伸びて、だけれど足が動かない、声が出ない。
空を見上げてみれば、随分と身体が重たいことに今更ながら気がついた。
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