プレハブ分遣隊ZERO (Tibetan Brown Bear)
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登場人物紹介

・敷波

本名「式沢遥」分遣隊の駆逐艦。

地元出身者で実家が近所の、分遣隊駆逐艦の纏め役。料理が得意。

影が薄いが主人公。地元では顔の知れた「艦娘さん」

 

・衣笠

本名「澤渕未樹」分遣隊の現隊長。元軽巡洋艦。

天然気味でやる気が空回り気味の温泉好き重巡洋艦。

喫煙者なので禁煙にはめっぽう弱いし、煙草臭いと加古から消臭スプレーをかけられる。

 

・加古

本名「白崎悠里」分遣隊の副隊長。

前線帰りのベテラン艦娘。刺青とピアスを入れてるけど怖い人ではない。

黄色いラベルの某缶コーヒーの愛飲者。煙草は吸わないが酒に関してはザル。

 

・鈴谷

本名「平野真奈美」本隊所属の艦娘。

ノリの良さとJKみが高い世話焼きな裏主人公。元駆逐艦という経歴持ち。

分遣隊に色々な物を差し入れするが、持ってくる映画DVDのチョイスはマニアの領域。

 

・夕張

本名「辻石友香」分遣隊の軽巡。

オタク気質で部下の駆逐艦にナメられ気味の分遣隊メカニック担当。

コミケは高校の頃から毎年通う常連だがサークル参加した事はない。

 

・大井

本名「細見薫」分遣隊の軽巡。

普段は心優しい事務担当のお姉さんだが艦娘としての実力とキレた時の激しさは最強。

悩むときは死ぬほど悩むが一度覚悟を決めると何があっても曲がらず真っ直ぐ進む女。

 

・阿賀野

本名「山岸亜里沙」分遣隊の軽巡。

あーちゃんの愛称で呼ばれるゆるふわお姉さん。大好物はアイスクリームの白くま。

除雪作業のプロで大雪の日は大活躍するしスキーにも行く雪女みたいな人。

 

・響

本名「灰住鈴音」分遣隊の駆逐艦。ヒビキチャン

ミステリアスな女で経歴、生まれ、家族、年齢全て不詳。酒と煙草を愛する(依存する)ベテラン。

分遣隊の隊員の中で最年長疑惑があり、免許証の誕生年月日が昭和という噂も。

 

・那智

本名「仲原理香子」分遣隊の前任重巡。

天然気味で放任主義の温泉と酒好き重巡。実は鉄火場を潜り抜けた叩き上げの艦娘。

現在は退役し地元で就職してひっそりと暮らしているらしい。

 

・日向

本名「水前寺祥子」前線派遣部隊の戦艦。

常に部下の事を考える上司の鑑。かつて本隊に所属していた事がある。

山城とは腐れ縁だが艦娘としても人としても常に高く評価している。

 

・鈴谷

本名「奥寺加奈」北海道の地本で働く艦娘。

艦娘になる前の平野が特に懐いていた重巡でノリが軽いが気持ちは真っ直ぐな人。

人攫い(艦娘募集)の仕事ぶりは上司から「人事の手違い」と評価されるほど絶望的。

 

・瑞鶴

本名「赤木瑞槻」前線派遣部隊の空母。

空母になる前は阿武隈だった艦娘。年上女子に人生狂わされガール。

未だに狂わされっぱなしなので同僚の空母にアプローチをかけまくってる。

 

・川内

本名「渡瀬彩乃」舞鶴基地所属の軽巡(訓練教官)。

以前は大井と共に呉基地の船団護衛部隊に勤めていたが舞鶴に転属した。

夜戦についての膨大なノウハウを教え子に伝えたがるが我慢する日々。

 

・暁

本名「朝比奈優希」前線派遣部隊の駆逐艦。

響の同期で彼女よりも1ヶ月生まれたのが早いだけの同い年。

3姉妹の末っ子で何かと姉ぶろうとする癖があった。



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始まりの日

 長いサイドテールを揺らし、妙高型巡洋艦、那智は司令部の廊下を歩いていた。

 突然の呼び出しを受け、上官が待つ部屋へと向かっていた彼女は、何事だろうかと思いを巡らせていた。

 日本海を深海棲艦から守る防衛の要――酒田基地の艦娘部隊に身を置いている彼女には、直々に呼び出しを受ける理由に心当たりが幾つかあった。

 1週間前、日本海上に現れた深海棲艦の機動部隊と水雷戦隊が交戦した事や、爆装した深海棲艦の艦載機が山形方面に飛来し、爆弾を投擲する前に撃墜された事件も記憶に新しい。大湊の部隊が宗谷海峡突破を試みた深海棲艦部隊と交戦し、戦死――殉職者が出たというニュースもある。

 深海棲艦との戦争と、艦娘の登場からかなりの月日が流れているが、最近の深海棲艦の攻勢と勢力拡大は世界に、そして日本に深く暗い影を落としている。開戦以来数年ぶりの大規模本土攻撃を許してから1年、平和な勤務地の代表であった東北沿岸の基地は今や戦争の最前線に近づいていた。長いこと太平洋各地を転戦していた彼女は、この情勢から何らかの辞令が下るのではないか?と勘ぐっていた。

 そうこうしているうちに、那智は上官の待つ部屋へとたどり着いた。扉をノックし、反応を待つ。

 

「入って」

 扉の向こうから返事を聞いてから、那智はドアノブを回して中に入った。

 簡素な事務机や書類棚があるだけの、殺風景な部屋の中に、彼女――上官の山城がいた。 

 酒田基地の部隊の艦娘指揮官としては最上位の階級にいる。日本海配備の部隊では珍しい戦艦の艤装を配された彼女であるが、それは欠陥を含むと言われた初期ロットの扶桑型戦艦「山城」の艤装であった。

 二線級部隊、そう影で横須賀や呉からあだ名される酒田基地の艦娘を体言するような女であったが、叩き上げの、修羅場をくぐったベテランの艦娘である事は深く刻まれた目の隅と、何事にも動じない不動の表情が物語っていた。

 

「渡す書類があるわ、これを」

 机の上に書類を広げる、那智はそのうちの一枚を拾い上げた。

 それを読み終えないうちに、山城は話を始めた。

「分遣隊の話は聞いている?」

「いえ。でも噂話程度は」

 那智は自らの隊に流れる“噂”の話を反芻していた。

 酒田の部隊から何名かの艦娘を引き抜き、どこかに分遣隊を置くつもりだ、という話は聞いていた。那智の同期にあたる軽空母や、古参の軽巡洋艦はその話をいち早く嗅ぎ付けていたし、本隊の駆逐艦たちは分遣隊への移動を事実上の左遷ではないのか?と勘ぐって噂にしていた。

 もちろん、目の前の上官がその噂を知らない事は無いだろう。

「鶴岡の方に分遣隊を設置する事になったわ。司令の言葉を借りるなら『昨今の深海棲艦の脅威上昇に対処するため』というのが理由ね」

「……本当の思惑は?」

 那智の問いに、山城は小さなため息を吐いてから答えた。

「恐らく捨て駒よ」

 苦々しくはき捨てるような言葉だった。

「分遣隊という事で有事に臨機応変に対処できる、上層部そうは言っているけれど実際には本隊が出動するまでの時間稼ぎよ。去年の横須賀空襲や仙台艦砲射撃のような悲劇を起こさないための、ね」

「あれは……」

 と、言いかけた所で那智は言葉を飲み込んだ。

「上はミスを認めたがらない、横須賀や呉の連中は特にそうよ。あれは私たち現場の“落ち度”いいわね?」

 念を押すような言葉に、那智は「はい」の言葉と共に頷いた。

「私は彼女たちを消耗品にするつもりは無いわ。司令官も同じ心情でしょうね。そこで――」

「漁港に分遣隊を置くので、そこの隊長になれ、と」

 那智は言葉をさえぎる様に呟いた。前置きが長いんだこの人は、と呆れ半分なようだった。

「理解が早くて助かるわ」

 山城はどす黒い隅が浮かんだその目を僅かに細めて笑うが、それはほんの一瞬で元の表情へと戻った。

「風の噂で聞いていました」

「なら話は早いわ。そこで水雷戦隊の指揮を取って頂戴、当面の補佐に舞鶴からベテランも呼んであるわ」

 書類を纏め始めながら、那智は山城の目を見た。普段なら見せないであろう、鋭く、そして意思の篭った視線が那智へ向けられていた。

「絶対に殉職者は出さない事、それだけは肝に銘じて頂戴」

「ええ。それが水雷戦隊指揮官の務めですから」

 那智は気丈に答えた。

 水雷戦隊の隊長として長年勤め上げたキャリアが、そう答えさせていた。

 

 

 

 

 

 辞令の翌日、那智は荷物をまとめて酒田基地を離れ、噂の分遣隊へと向かっていた。

 場所は鶴岡にある小さな漁港。美しい海岸があり、東北の江の島とも呼ばれる場所だ。その漁港の名前と同じ軽巡を、昔から那智は知っている。

 分遣隊のある場所に降りてみると、そこは何の変哲も無い漁港であった。漁港の管理施設や、停泊する漁船、規模を考えれば地方の、それも田舎の漁港と表現するには適切な大きさだ。背後には、民家が連なる小さな集落と山だけがあった。なるほど、本隊の連中が秘密基地のようと言うのも頷けるか、那智はそう心の中で呟いた。

 

 その漁港の端、恐らくは未舗装の駐車場か、漁具置き場として使われていたであろうスペースに、その分遣隊司令部は設置されていた。

 設置したての司令部は、ただのプレハブ小屋だった。2階立て、白い外壁、窓とエアコン。掘っ立て小屋より遥かにマシだが、台風が来たら一発で吹き飛びそうな――そんな印象を那智へ抱かせていた。

「……プレハブ分遣隊だな」

 思っていた事が口に出た。なるほど、プレハブ分遣隊か、言いえて妙だと那智は心の中で笑った。

 おまけに、艤装の格納庫すらプレハブだった。出撃用のスロープ――元は漁船がそこにあったであろう空間――の前に設置されているそれを見て、あまりの粗末さに「左遷」を噂する駆逐艦の気持ちも手に取るように解った。

 

 輸送トラックが出入りし、職員による荷物の搬入作業で忙しい中、階段を上り、那智は司令部の中に入った。

 間取りを確認しながら、自分がこれから過ごすであろう隊長室、ブリーフィングルームなどを見て回る。段ボールが詰まれ、椅子や机などの備品を確認しながら、那智は一階へと戻ろうとした。

 そこで、プレハブの外に1人の少女が立っている事に気がついた。

 

 セーラー服に軍帽と艦娘には珍しい銀髪。肩から提げたオリーブドラブのダッフルバッグの大きさが、彼女の小さな体躯を物語っている。

 階段を下りる那智の姿に気がついて、少女も那智に向き直った。

「ベテランを1人付けると言っていたな。貴様か?」

 こくり、と銀髪の少女は頷いた。

「響だよ」

 暁型か、と那智は即座に理解した。

 だが、その風貌に那智はどこか既視感を抱いていた。

「……どこかで会ったか?前に見た覚えがあるが」

「横須賀の艦娘養成学校一期生。たぶん沖縄の撤退戦とレイテ湾でも。相変わらず忘れっぽい性格だね」

「ハッ」

 那智は思わず笑っていた。

 記憶と合致する暁型の「響」と同じだった事に、那智は安堵した。それと同時に、この人選に深く感謝していた。

「相変わらずだな、まだ先任か?」

「同期は空調の効いた部屋でふんぞり返っているか、海の底だよ。そっちこそ、まだ出世もせずにピンピンしているみたいだね」

 皮肉げな言い回しに那智は嬉しそうに笑った。

「縁が無くてな。おまけにこのご時勢で退役も先延ばしだ」

 那智は手を指し伸ばす、響は口元を僅かに吊って小さな笑みを浮かべ、その手を握り返した。

「また会えて嬉しい」

 心の底から出た言葉だった。響は黙って頷いた。

 それと同時に、那智には指揮官としての重圧も生まれ始めていた。

 

 波乱の予兆は近い。まだ見ぬ部下たちの姿を思いながら、那智はまた軍人の顔へと戻っていった。




【こぼれ話】
 元々これよりも前に「プレハブ分遣隊の前日譚が読みたいなあ」とTwitterで呟いていました。こいつ自分で言って自分で書いてるのかよ自給自足かよマジウケる。
 三日坊主で飽き性なので冒頭だけ書いてポイしていたものの、年末の冬コミで概念の物理書籍(第一弾が出る)との事で発起してマッハで書いてPixivに投稿した回。1月1日投稿ならキリがいいだろう、とか思っていたのに2日に投稿とか……
 概念の纏めで「那智が前任の隊長だった」「最古参は響」という情報だけを頼りに、本当に分遣隊が設置される事だけを書いたエピソードでしたが反響が多かったのは嬉しい誤算。やはり皆作品に飢えている……皆概念を作品として出力しろ増えろ(切実)
 タイトルの最後に「日」を付けたら統一感出るかな、というしょうもない試みを思いついたのはこの回。


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運命に辿り着く日

 艦娘になりたかった。

 

 遠い海の向こう、白い砂浜がみえる南洋で、人のために戦いたい。

 

 他の子たちと違う生き方を選んでみたい。

 

 広報の詠い文句に誘われるがままに艦娘になって、それから巡洋艦の適正があると伝えられ、あっという間にあたしは重巡洋艦加古になった。

 

 遠い海の向こうで、あたしは色んな人と出会った。

 

 世の中にはいい人ばかりじゃなくて、嫌な奴も変な奴もいっぱいいると、あの狭く小さな町を出てから、初めて知った。

 

 友達も沢山できた。

 

 でも、あたしはまだ本当の戦争を知らなかった。

 

 深海棲艦との戦いはお化け退治や害虫駆除なんかじゃない。

 

 殺し合いだ。

 

 

 

 あの日、たった1日の戦闘は、あたしから全てを奪った。

 あの瞬間から、思い出せる記憶は少なかった。

 気がついたらあたしは砂浜の上にいた。

 全壊した艤装を引っつかみ、勇敢な駆逐艦――名前も所属も知らない他の艦隊の――が引っ張ってきた。砂浜には、救援のヘリがやって来ていた。赤い十字の腕章を付けた艦娘もいた。迷彩服の兵士たちも。

 あたしの身体はボロボロだった。

 でも痛みは感じなかった。頭に巻きつけた包帯の端が、血で真っ赤だった事と、右肩が千切れかかっているかと思うぐらいに傷付いている事だけはわかった。

 艤装をパージし、担架に乗せられ、ヘリに担ぎこまれた私はキャビンに横たえられた。

 横には先客がいた。

 でも、彼女はもう息をしていなかった。

 覚えているのはそれだけだった。

 

 

 

 

 プレハブの指揮所から眺める風景は穏やかだった。平穏な海と潮風、朝の出荷を終えて静まり返った漁港。

 那智は、窓辺からその光景を眺めつつも、哨戒に出撃した艦娘たちが無事に戻ってくる事と、この分遣隊が抱える問題を考えていた。

 那智は部屋の中を見回した。

 彼女の部下である軽空母の隼鷹、駆逐艦の叢雲だけが部屋の中にいた。3人はこのプレハブの留守番――すなわち待機組だ。残りは定期哨戒のため、一昨日戦闘があった海域を重点的に見て回っているし、夜の勤務を終えた艦娘は宿舎に戻り睡眠についている頃だった。

 

「……人手が足りないな」

「……あんたが放任主義だからでしょ」

 那智の独り言に、叢雲の手痛い突っ込みが入った。

 

 分遣隊の戦力は現状でも十分と言えた。

 那智を筆頭に重巡2、軽巡の五十鈴、大井、軽空母の隼鷹、それから駆逐艦は響、長月、磯波、叢雲、霰、綾波と戦力としては“漁港のおまけ”と呼ぶには十分すぎる面子だ。

 しかし、分遣隊の結成から月日が経ち、深海棲艦との戦闘も落ち着いてきたこのタイミングで北方とインド洋での大規模作戦が実施され、大掛かりな異動が増えており、その余波はこの分遣隊にまで及んでいた。

 

「あたしが大湊に左遷になったばっかりに……本当にごめんなー」

 デスクで書類の仕事を続けながら、隼鷹は申し訳なさそうに話した。

「左遷……栄転の間違いじゃなくて?」

 隣でその手伝いをしていた叢雲が呟くが、隼鷹は首を左右に振った。

「あたしにとっては左遷だよ。ここじゃ酒も好きに飲めるし温泉も入れるしメシは美味いし戦闘も本隊ほどは激しくないし最高だと思ったのにさー」

「本音だだ漏れすぎでしょ」

 叢雲が呆れ気味に返すが、その顔はどこか寂しそうだ。

「高雄と大井は来週末には本隊に復帰しなければならん、隼鷹は来月に転属。となると、どうだ?指揮官の数が不十分だろう」

「哨戒が増えるだけでも厄介なのにあんたの放任主義が加速するだけでしょ……」

 那智の言葉に叢雲は頭を抱えた。

「まー、山ちゃんにはあたしからも伝えておくよ。司令官だって分遣隊が手薄になるのを避ける筈でしょ」

「どうだろうな。言ってしまうのは悪いが、これ以上ベテランが減るとこちらが困る。少なくとも駆逐艦の面倒を見れる巡洋艦がもう1人いればな……」

 と、話をさえぎる様に、那智が首からストラップで提げていた仕事用の携帯電話が鳴った。

「すまない。言った傍から本隊から電話だ」

 そう言うと、那智は通話ボタンを押しながら席を外し、電話に出た。

 

「仲原です」

『私よ』

 通話相手の表示と声は、那智がよく知る本隊の戦艦からだった。

『このあいだの人事異動の件だけど、当面の間は他所からの異動は無しよ。補充の人員もね。残念だけど』

 はあ、と相槌を打ちながらも、那智は予想していた最悪の結果が現実になった事に複雑な顔を浮かべた。

『代わりにそこの響の異動は取り消したわ。分遣隊からは動かないから安心しなさい』

「それはいいんですが……人員が少なすぎます。せめて分遣隊の負担を減らして欲しいです」

『無理ね』

 無慈悲な返答だった。

 那智は溜息を吐きたくなるが、ぐっと堪えた。

「……今回はそれだけですか?」

『まだあるわ』

 普段ならこれぐらいで終わる筈の短い電話なのだが、様子が違うようだった。

『説得して欲しい人がいるわ。特別に明日、神奈川まで行って欲しいの。隊長代理には1日だけ日向を付けさせるわ』

「ちょっと待って下さい、話が……」

 那智は混乱気味の頭を整理しようとしていた。単語の並びと理解が追いつかなかった。

『白崎って名前は知ってるわね』

「白崎……」

 と、名前を聞いて那智は不意にある顔を思い出していた。

 

 自分の記憶を手繰り寄せると、その名前に行き着く人間は1人しかいなかった。

 昔、横須賀の部隊にいた時の知り合い。養成学校では同い年だった“後輩”。

 長い黒髪を纏め、そして重巡洋艦加古の艤装を貸与された、あの女だ。最後に会ったのは1年前、南方での作戦へ向かう前に行われた、日本海の演習作戦に参加した時だった。

 

「ええ、知っています。“加古”の――」

『なら話は早いわ。風の便りで彼女が負傷して、前線復帰が無理になって、復帰を諦めて退役したがってるって話を聞いたわ。司令官にも話は付けてあるし、書類も整えてる。後は本人の意向次第って所ね』

「……負傷……まさか横須賀の艦娘リハビリセンターまで?」

 那智の言葉に、山城は「ええ」と返した。

『現状、酒田に呼べる人員で伝手がありそうなのは彼女だけよ。行ってくれるわね?』

 少しの沈黙が続く。那智は意を決したように答えた。

「行きます」

 

 

 

 

 横須賀には艦娘用のリハビリセンターが司令部の近くに設置されていた。リハビリ、とあるが半分は負傷から復帰した艦娘の再訓練施設のようなものだった。練習用艤装を付け、基礎的な動作を訓練するし、もちろん負傷した艦娘の肉体なリハビリも行ったりするし、精神的な重傷を負った艦娘に対するケアも行われたりする。ここが復帰への分かれ道で、もう満足に戦えない事が判明した艦娘は艤装を下ろしての内勤か、さもなくば除隊という選択肢を選ぶ事になる。

 高い壁と木々に囲まれたそのセンターの外周を、彼女――加古はランニングしていた。

 ジャージ姿のまま、一通りランニングを終えた加古は、荒れた息を整えながら、休憩のために屋外のベンチに座った。

 隣の自販機で何か飲み物を買おうか、と思いながら、加古は天を仰ぐように空を見上げた。

 

 ――青い。

 

 関東の春の空は澄み切っていた。しかし、加古は記憶を手繰り寄せ、南方で見たある日の空に比べれば、まだ薄汚れているな、と思い返していた。

 あの頃が何故か懐かしくなった。思い出したくもなかったのに。

 

 しばらくぼーっと空を見上げ続けていた加古の視界に、にゅっ、と顔が現れた。

「あ?」

 突然の来訪者に、加古は素っ頓狂な声を思わず上げる。来訪者用のIDカードを首から提げたその人物――長い髪をサイドテールでまとめた女性――を見て、加古はすぐに誰であるか理解した。

「な、なっちゃん?」

「よっ」

 那智はニッ、と笑った。それを見た加古は、思わず顔をしかめた。

「あんた、何でここに」

「ちょっとした“おつかい”でな」

 そう言うと、那智はそのまま加古の隣に腰を下ろした。

「調子はどうだ」

「……相変わらずだなそういう所」

 そりゃそうだ、と那智は呆れ気味の加古へと返した。

 

 ベンチ横の自販機で買った、黄色と黒のラベルの缶コーヒーを啜りながら、二人は他愛も無い話を始めた。

 リハビリはどうだ、最近はどうか?そんな世間話を一通り交わしてから。加古はすべてを話し始めた。

 南方で起こった事、自分の部隊に何があったか、そして自分に何が起きたか。

 

「……敵の打撃部隊本隊と正面からカチ会ってこの様だ。右肩も随分やられたよ。それから頭にも」

 そう言うと、加古は右袖をまくって見せた。肩から二の腕にかけて、ざっくりと広がった傷が縫い込まれていた。すでに治療は出来ているが、その傷を受けた時は目も当てられない状態だった事は想像に容易かった。

「生きてるのが奇跡だな。良かったじゃないか」

 那智の言葉に加古は頷いた。

「まあ、差し当たり大きな支障の出る傷じゃない」

 加古はそう言うと、くいっと缶コーヒーを煽った。

「ならいい。復帰は早いだろう」

「……でも後遺症が少し残ってる。傷も一生残るだろうって。医者に言われたよ」

 加古は自嘲気味な口調で続けた。

「命は助かったってのに、脳へ受けた傷のせいで、今まで以上に突発的に眠くなる事があるんだと。そればかりじゃない、ここで一通りテストもしてみたけど艤装と身体の反応も鈍くなってる。戦力としては可も無く不可も無く、だ」

 悔しさと、諦めと、失意が入り混じった声だった。

「前線への復帰は無理だ。あたしは艦娘として死んだようなもんだ」

 どうして?まだ望みはあるだろう、と那智は返した。

 加古は僅かに話すのを躊躇った。だが、少しの沈黙を置いてから答える。

 

「――“みんな”死んじまった」

 加古はそう呟いた。

「……それは聞いた。惜しい奴を亡くした」

「うんざりだ。良い奴ばかり先に死んでいく」

 頭を垂れ、アスファルトの地面に視線を落としながら、加古は黙った。

「艦娘になると決めた時から覚悟は出来ていたはずだ」

「……仲間を失うのは初めてだった」

「誰だって辛いさ」

 那智は呻くように呟いた。

「苦楽を共にした仲間を失うのは辛い。忘れるのが楽だと思った事もあったが、一生付き合うしかないさ」

 遠い目で、空を見つめながら那智も記憶を掘り起こしていた。

 忘れたくても忘れられない、そういった記憶を。

 

「……なあ、酒田に来ないか?」

「内地に?」

「ああ。人手が足りない。ニュースは見ただろう?」

 そう言われて、加古は入院中に見ていたニュース番組の事を思い出していた。

 確かに、内地にいた頃と比較して情勢は悪化しているように思えた。開戦時には「一番安全な海」として多くの艦船が避難していた日本海側で、深海棲艦が増え始め問題になっているというのは考えられない事ではあった。

「今は小康状態だが、いつぶり返しがあるか分からん。そうなった時に必要な戦力がいないと困る。まだ艤装が動かせるならウチに来い」

「言ったはずだ。復帰はしないって」

「悠里」

 那智が、彼女の“名前”を呼んだ。

 じっと、その相貌が彼女の目を見つめていた。加古は思わず複雑な気持ちから、顔を背けた。

 

「私の頼みだ」

「こういう時ばっかり……」

「そう言うな、養成学校からの仲だろう」

 加古は拒否しようとするが、那智はそれを抑えるように話を続けた。

「戦闘もそれほど激しくはないし、事務仕事も多い、前に出る事も少ないだろう。それにな」

 那智は口元に笑みを浮かべた。

「飯も美味いし空気は綺麗で、自然豊かでいい場所だ。温泉もある」

「もう退役届は書いた」

 加古は呆れながら答えるが、那智は首を左右に振った。

「破いて捨てろ。書類ならこっちですぐ用意するさ」

 那智は笑いながら言った。

「そろそろ時間だから行かないとな、いい返事を待ってる」

 那智は立ち上がると、空き缶をゴミ箱に入れた。

 

 去り際、那智は振り返ると一言だけ付け加えた。

「そうだ、傷が気になるなら刺青でも入れるといい。きっと似合うぞ」

「本気で言ってる?あたしが刺青?」

「本気?――ああ、まあな」

 那智はそう言うと、その場から去って行った。

 空き缶をゴミ箱に放り投げ、加古はベンチから腰を上げた。

 

 ――刺青、か。

 

 右肩の傷跡をシャツの上からさすりながら、加古は彼女の言葉を反芻した。




【こぼれ話】
 副隊長が分遣隊へと来るまでを描いた話。旧分遣隊の面子として、むか~し書いてたシリーズの名残で隼鷹と叢雲が出演。加古が前線で受けた傷と、シビアな現実に向き合おうとする話。「マッカン」「刺青」「昼寝癖」という分遣隊の加古にまつわる話を総回収する無茶苦茶な回でもある。あとすごいさり気なく那っちゃんの本名と日向の存在に言及してたりと、さらっと情報を盛り込んでみたり。


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彼女を失った日

 長い時間だった。

 軽巡洋艦の艦娘、阿賀野は窓の外に広がる濃霧の世界を見ながら、待機所で暇を潰していた。

 ブリーフィングも終了し、いざ出撃か――そう思った矢先に天候悪化で出撃の時間が先延ばしになったのだ。艦娘たちはで艤装の整備やメンテをしながら、あるいは仲間との雑談や読書などをしながら、基地の待機室で出撃を待っていた。

 阿賀野の座るベンチには、彼女の率いる前衛分隊――3人だけの偵察チームが座っていた。軽巡洋艦の艦娘、那珂と駆逐艦の霞だった。

「あーもう、北方の天候ってサイテーよね」

 不機嫌な顔で窓の外を眺めながら、霞は不満げな声をあげた。

 

 彼女たちのいる艦隊は北方海域に展開していた。前線基地は年中寒く、とくに冬季は深海棲艦以外にも天候相手に戦わねばいけなかった。もっとも、そういった場合は深海棲艦も活動が鈍るのだが。

 それでも、天候は不安定で今日のような濃霧もよくある事だった。

 

 阿賀野の隣に座る那珂は、阿賀野が暇をもてあまして見ていた防水手帳に挟まった写真に気がついた。

「あっ、それ」

「懐かしいでしょ」

 阿賀野はその写真を取り出して、那珂へと見せた。霞も食いつく。

「何それ、見せて」

 阿賀野は写真を見せた。防水になるよう、ラミネーターでしっかり加工されたそれは、養成学校の卒業式典後に撮られたと思しき記念写真で、礼装姿の少女が3人写っている。そのうちの2人は、霞の目の前にいた。

「舞鶴の養成学校、三期生で卒業した頃の写真ね。真ん中が私、右隣が那珂ちゃん」

「左は?」

 霞の言葉に、那珂が割って入った。

「妙高ちゃん!」

「同期の重巡洋艦。今地元の新潟基地勤務だね。直江津だったか……その辺の分遣隊にいるみたい」

 阿賀野がそう続けながら「あたしも地元で働きたかったなー」と付け加えた。

「……随分と仲が良さそうね」

 写真の3人は随分と明るい笑みを浮かべていた。

「3人とも同じ出身だったからね、私と妙高は同じ高校だったし」

 阿賀野がそういうと、那珂は「私は地本で知り合った!」と続ける。

「そもそも何で艦娘になろうと思ったわけ?舞鶴三期生って事はあの頃でしょ……」

 霞は写真を見ながら呟いた。どこにでもいる天真爛漫な少女たちの集まりにしか見えない。

 

 舞鶴の三期生、と霞が言うのも、その当時は反艦娘運動が真っ盛りだったからだ。今でも活動は続いているが、ソロモン海やレイテでの戦闘で多数の死者が出たこの年は、メディアや民衆からの艦娘、ひいては政府に対する反感が一番強かった時期だった。横須賀への空襲と本土の艦砲射撃を許し、戦争の現実を国民全員が再び感じてからは下火になるまで「少女を戦争へ送るな」「艦娘反対」の声は鳴り止む事は無かった。

 この頃の艦娘の応募者数は、開戦以来過去最低を記録していたのは霞も知る事実だった。

 

「私はね……お父さんの仕事に憧れてたけど、なるのが難しそうだったから、艦娘になって人を守る仕事に就こうかな、って思って艦娘になったの」

「お父さんの仕事って、何の仕事?」

「県警の交通機動隊員」

 霞の言葉に、那珂が代わって答えた。

「あー、それは……艦娘になって正解だったかも」

 霞の言葉にむっ、と阿賀野が不満な顔を浮かべるが那珂は笑ったままだった。

「あ、そうだ」

 那珂は思い返したように、待機室の片隅にあった冷蔵庫――その中に入っているであろう氷菓を指差す。

「アレ、食べる?」

「食べる」

 阿賀野は一転して顔を明るくして答える。

 ――阿賀野ちゃんの機嫌を直すには愛してやまない「白熊」が一番。

 霞はそんな事を那珂に聞かされていた事を思い出していた。

「寒いのによく食べれるわね……」

 呆れる霞を前に、阿賀野は楽しげな表情で答えた。

「アイスクリームは一年中いつ食べても美味しいでしょ」

 

 

 

 

 ようやく出撃の時間を迎えた3人は、バケツに白い絵の具をぶちまけたような霧の中、北方の海上を航行していた。

 阿賀野に言い渡された任務は、本隊から先行して深海棲艦を捜索するものであった。

 数時間前よりマシになったとは言え、濃霧の中、レーダーと海図のみで航行を続ける彼女たちにとって、この任務はまさに手探りでの捜索であった。

「レーダーはどう?」

 阿賀野は霞に訪ねるが、霞は首を左右に振る。

「ダメみたいね。岩礁やら座礁船まで拾っちゃって……まったく、ポンコツったらありゃしない……」

「今度新しいのに取り替えてもらわないと、死活問題だよね」

 那珂の言葉に、霞は頷いた。

「こちら阿賀野……あー、接敵なし。本隊への合流をお願いします。どうぞ」

 阿賀野は通信スイッチを離す。少しの後、ノイズ交じりの声が無線へと響き渡った。

『合流は許可できない。引き続き海域に留まり索敵を続けよ。どうぞ』

 後方にいるであろう、上官である戦艦の声が響き渡る。無駄によく通る声だな、と阿賀野は悪態を吐きたくなった。

「了解。通信終了」

 通信スイッチを離してから、阿賀野はため息を吐いた。

「まだ残れってさ」

「まぁ、しょうがないね。命令なら……」

 那珂もやれやれ、と言った顔を浮かべる。その時、霞が手に持った端末のレーダー画面を、突然食い入るように見つめ始めた。

 

「レーダーに感あり!嘘でしょ……これ……」

 レーダーに浮かぶ反応を数えながら、霞は息を呑んだ。

「大型艦6?」

 はっきりとレーダーが移動する6つの大きな影を捉えていた。少なくともこの反応の大きさは、阿賀野にも見覚えがあった。戦艦や正規空母クラスの艦影だ。それが、単縦陣のまま、こちらの方角へと接近してきていた。

「待って……別方向からも6?いや12……!?」

「こちら阿賀野」

 阿賀野は躊躇いなく無線のスイッチを押し込んだ。

「深海棲艦の大規模艦隊と接触、総数18隻、大型艦含む。包囲されつつあり、撤退を進言します」

 指揮官の顔だと、レーダーから顔を放して阿賀野を見た霞は息を呑んだ。

『撤退は許可できない、繰り返す、撤退は……』

 阿賀野は無線を無視すると、即座に海図をチェックする。

「ぐずぐずしてると包囲されるわ。10時方向に全速で撤退。那珂、後衛をお願い」

 那珂は黙って頷いた。

『方位250へ敵を引き付けつつ前進せよ、繰り返す、方位250へ敵を引き付けつつ前進せよ』

 無線から流れる新しい指示を聞きながら、那珂と阿賀野は顔を見合わせた。

「……どう思う?」

「命令なら」

 それ以上の言葉は交わさなかった。

「……こちら阿賀野。了解、これより方位250へ前進する」

 覚悟を決めた阿賀野は、霞を見た。まだ恐怖で顔をこわばらせる彼女に、阿賀野は優しく微笑んでから呟いた。

「気を引き締めて」

 深海棲艦の砲声、濃霧の向こうから響き渡る。

 主機が、唸り声を上げる。3人は走り始めた。

 

 

 

 

 大丈夫じゃないな。

 航空戦艦の艦娘、日向は目の前に佇む阿賀野を見て、そんな印象を受けた。

 生気の無くなった瞳は虚空を見つめ、俯いた表情は、ただただ暗い影に沈んでいた。

 

 戦闘は勝利で終わり、艦娘は無事に基地へと帰還していた。ただ1人、重傷を受け、基地に曳航された後に手当てむなしく死亡した艦娘を除いて。阿賀野が率いる前衛の偵察艦隊が唯一の損害だった。

 これから作戦に参加した艦娘たちがブリーフィングルームに集まり、デブリーフィングを行う予定となっていた。しかし、阿賀野は10分前だと言うのにその場所にいなかった。

 流石にまずいだろう、そう思って探しに出かけた日向が阿賀野を見つけた場所は、遺体の安置所の前だった。

 ドアの横に、うずくまったまま動かない彼女を見て、日向はどことなく不安な気持ちになった。

 

 こういった艦娘を何人も日向は見てきていた。沖縄、レイテ、トラック。基地に戻り、五体満足に見える艦娘でも、その内面――精神には修復できないほどの傷が付いている事がある。目の前にいる阿賀野もその1人に思えた。

「阿賀野」

 日向は声をかける。

「……日向さん」

 普段の明るさなど、とうに消えた、か細い声が返ってきた。

「デブリーフィングの時間だ。司令部のブリーフィングルームへ」

「はい」

 そのまま、ゆっくりと立ち上がる。

 覚束ない足取りのまま、阿賀野は日向の横を通り過ぎていく。

 その背中を見送りながら、日向は嫌な予感を感じ取っていた。

 

 

 

 

 デブリーフィングは順調に進んでいた。

 本隊の艦隊に勤めていた艦娘たちは、各々に報告を続ける。壁にかけられたホワイトボードの前で、状況を整理している指揮官――阿賀野に指示を飛ばしていた戦艦は、それぞれの艦娘の行動を評定する。

 いつものデブリーフィングであった。席が一つ足りない事を除いては。

 話も中盤に差し掛かり、指揮官である彼女は話を続け、議題を一時整理しようとしていた。

「今回の戦闘は極めて良い結果だった、こちらは“最小限”の犠牲だけで済んだからだ」

 阿賀野は不意に顔を上げた。

 その言葉が、言い回しが、心の中に黒い渦となって広がっていく。

「方位へ向かう彼女達の追撃に敵が固執したお陰でこちらの攻撃が通ったと言っても過言ではない。この前衛の偵察部隊の活躍無くして今回の結果は無かった。まあ、彼女については“運が無かった”んだろう」

 がたん、と椅子が跳ねて床に転がる音がした。

 声以外は何もなかった部屋に響いた音に、艦娘たちが反応する。

 立ち上がった阿賀野は、歩いて壁のホワイトボード前に立って説明する彼女の前へと向かっていった。

「……どうした阿賀野、席に戻――」

 言いかけた所で、阿賀野の握り拳が彼女の頬にめり込んだ。

 身体が揺れた。屈強な体躯の戦艦が、壁に打ちつけられる。

 すぐに阿賀野は彼女の襟元を掴んだ、部屋が割れんばかりの大声が響き渡る。

「ふざけるな!!」

 二発目の拳が、再度彼女の顔面へと叩き込まれた。

「お前の指揮で!お前のせいで死んだんだ!」

 床に崩れ落ち、反射的に防御の姿勢を取る彼女を前に、阿賀野は再び拳を叩き込もうとする。だが、すぐさま飛び出してきた他の艦娘たちが阿賀野の身体を取り押さえた。それでも尚、阿賀野は目の前の戦艦を殺す事で頭が一杯であった。

「こいつを外へ叩きだせ!」

 彼女の怒声と共に、外にいた警備の兵士が何事かと駆けつける。「殺してやる」「ふざけるな」と激昂し、暴れる阿賀野を前に、周囲の艦娘たちは絶句していた。

 警備の兵士に引きずられながら、阿賀野は外へと連れ出された。

 騒然としていた室内は不気味なほど静まり返っていた、駆逐艦も、軽巡も、重巡も全員が互いの顔を見合わせてから、指揮官である彼女の顔を見ていた。顔色も様々だった、阿賀野のように怒りを顔に出している者、失望や失意に顔色を曇らせている者、突然の出来事に不安の顔を浮かべる者、様々だった。

 

 彼女は立ち上がると、ようやく周囲と自分の状況を理解した。

 口の中が切れたのか、彼女は口の端から流れた血を親指で拭き取ってから、艦娘たちを一瞥した。

「……一時中断する。2030に再度集合するように」

 事の成り行きを黙って見ていた日向が代わって口を開く。その言葉に、艦娘たちは我に帰った。

 荒げた息を整える彼女を前に、日向はそっと耳打ちした。

「一旦休憩にしよう。いいか?」

「あ、ああ……」

 日向の言葉に、彼女は頷くと解散の指示を出した。

 

 すべての艦娘が部屋から出て行き、残るは彼女と日向だけになった。

 部屋が2人だけになったのを見計らってから、日向は口を開いた。

「随分と胆の据わった娘だ。まるで戦艦のようだったな」

「……戦闘で頭がおかしくなったんだろう」

 彼女はそういうと、拳を振り下ろして壁を叩いた。

「まったく、教育が必要だ、それと厳罰も!」

 息を荒げる彼女を前に、日向は懐からある物を取り出した。

 それを彼女の前へと突き出し、手へ握らせる。じゃらじゃらと金属音を立てるチェーンで繋がれた小さな金属板――ドッグタグだった。拭き取られてはいるが、打刻されたその名前や数字には乾いた血が僅かにこびり付いていた。

「何だ」

「彼女の同僚だ。君が言っていた“運の悪かった最小限の損失”の内訳だよ」

 日向の吐き捨てるような言葉に、彼女はさらに不満と怒りの色を顔に浮かべた。

「あの戦闘で部下は殺気立っている。もう少し言葉を選んだ方が良い、方便もだ」

 そう聞いて、彼女は日向ににじり寄ると、低く唸るような声で問いただした。

「……副官にも教育が必要なようだな?」

「事実を言ってるだけだ。そうでなければ階級章の星が増える前に君は“事故死”か“流れ弾で戦死”する事になる」

 日向は皮肉げな、薄い笑みを浮かべると部屋を後にしようとする。

「阿賀野については私に一任させてくれ。然るべき処罰を与える、君はこの後のデブリーフィングの続きで話す事を考えてくれ」

「部下を甘やかすな、あれは使い捨ての駒だ」

 苛立たしげな彼女の言葉に、日向は部屋のドアを開けながら答えた。

「……駒にだって人生と家族はある」

 日向の言葉に、彼女は答えなかった。

「何が呉のエリートだ。聞いて呆れるな」

 ドアを閉めながら、ぼそりと聞こえないほどの小さな声で日向は悪態を吐いた。

 

 

 

 

 翌日、日向は司令部の事務所で報告書を書いていた。

 先日の戦闘の報告書、そしてブリーフィングルームにおける阿賀野の上官暴行事件の報告書だ。

 彼女は営倉へと送られており、まだ詳細な処遇は決まっていなかった。殴られた戦艦本人は、一晩経ってからは考えを改めたようで、阿賀野に対して激怒はしていないようだった。

 しかし、日向のデスクに赴いては口々に異動か、または次の作戦の先鋒に立たせる事を強く進言していた。

 その意味を知っている日向にとって、阿賀野をどうするべきか、それが悩みどころになっていた。

 

 恐らく、あの戦艦は次の出撃で阿賀野を「処罰」するつもりなのだろう。

 再度、前衛に就かせる意味と編成を考えればそれは明白だった。次の出撃の危険度を考えればそれだけは避けなければいけなかった。

 次に提示されている左遷先についても問題があった。あの戦艦は、阿賀野を転属させるべきだ、とも進言していた。

 それも、今後、北方海域以上に大規模作戦が展開されると思しき、中部太平洋海域へだ。

 日向は考える。少なくとも、阿賀野の能力を考えればそれは妥当な判断と言える。エリートの艦娘では無いにせよ、日向自身が養成学校の教官であればA評定を出せるほどの実力を持った艦娘だ。

 しかし、今の阿賀野は事実上、艦娘としては不能とも言えた。心的外傷を受けたままの彼女を前線に放り込むのは、得策とは言えなかった。同じように前線に投入され、後を追った艦娘を日向は過去に何人か見ていた。

 

 考え抜いた日向は、徐に携帯電話を引っつかむと、デスクを後にした。

 真っ先に司令部の喫煙所に向かった日向は、すぐに携帯電話を取り出していた。周囲に人がいない事を確認してから、携帯電話を取り出す。

 北方と本土の時差を考えながら、日向は見知った顔に電話をかける事にした。

 数回のコール音の後に、通話が繋がった。

「ああ、久しぶりだな。何?相変わらず声が聞こえない?冗談を」

 親しげな口調で話を続けながら、もう片方の手で煙草を取り出す。

 お気に入りの銘柄――ここ北方では貴重品のそれを、一本抜き取った。

「ところで北方作戦の話を聞いたか?ああ、今現地にいる」

 通話相手の返事を聴き、日向は驚いた声を出した。

「……もうそっちにも伝わってたんだな。そうだ、ああ、あの“阿賀野”だ」

 口に煙草を銜え、ライターを探りながら話を続ける。

「その件で……少し手を貸して貰いたいのだが――」

 言いかけた所で、ライターを探る手が止まった。今度は驚きが声と顔に出た。

「……それもお見通しか。相変わらず察しがいいな」

 それも当然か、と日向は心の中で呟いていた。

 艦娘、それも戦艦クラスの世界第一号。あの女は、何でも知っていた。

「何とかして救ってやろうと思ってる。ああ、でなければ次の出撃で後を追いかねない。もうアイツは気にしちゃいないさ」

 数度言葉を交わすと、日向はその場で礼をした。テレビ通話でも無いのに。癖のような、反射のような行動だった。

「……感謝する。こちらの司令にも話を付けよう」

 ライターを取り出すと、日向は煙草の先端に火を付けた。

「相変わらず大した女だよ。酒田の指揮官にするのが勿体ない。どうせなら前線に復帰するか?砂羽」

 電話の向こうでは、通話相手が何やら小言を吐いていた。日向はそれを聞き流す。

「冗談だ。そろそろ切る。また話そう。じゃ」

 通話ボタンを切ってから日向は煙草を吸うと、ふうっ、と紫煙を吐いた。

「……相変わらず、だな」

 

 

 

 

 1週間後。

 阿賀野は、基地の飛行場に来ていた。

 エプロンの近くにある待機所のベンチに座り、窓から見える曇天の空と、たった今着陸し荷下ろしをしている輸送機――これから自分が乗って後送されるであろう飛行機――を眺めていた。

 彼女を見送る者はいなかった。そればかりか、ここから先の行き先や、自分への処罰すら知らなかった。

 しかし、阿賀野には不安は無かった。

 ただただ、空っぽの気持ちだけが心を埋め尽くしていた。

 

 暫くすると、待機所のドアが開いた。書類の封筒を抱えた日向だった。

「待たせたな。ようやく書類が揃った」

 阿賀野の隣に座った日向は、書類を自分の膝の上へ広げた。

「……まず君に何個か伝えたい事がある」

「はい」

 阿賀野は姿勢を正す。

「君は降格だ。そしてこの部隊から去る、転属だ」

「……はい」

 想定の範囲だったのだろう、阿賀野の表情は変わらなかった。

「私が前に居た東北の小さな基地。山形の漁港に哨戒や近海警備用の分遣隊がある。そこが次の勤務地だ。深海棲艦も滅多に出ない、駆逐艦たちの面倒を見るのが主な任務だろう」

「……左遷ですか」

 阿賀野は感情の篭ってない声で返した。日向は「まあ、名目上はそうなるな」とだけ答えると、命令書と書類を手渡す。阿賀野はそれを受け取ったが、書類には目も通さず、ただ無感情な視線を書類に落とすだけだった。

「降格処分と転属は已む無しだが、これでもかなり善処した方だ。本来であれば、もっと悪い形での処罰も有り得た」

「慰めてるんですか?」

 日向は答えなかった。返ってきた沈黙に、再び阿賀野は口を閉ざした。

 少しの間の後、日向は話を始めた。

「ここは組織だ。君のしたことは間違いだ、だが」

 一言だけ間を置き、念を押すように続けた。

「人として、感情としては何ら間違ってない。私はそう思ってる、とだけ伝えておこう」

「……」

 阿賀野は何も答えなかった。

 代わりに、涙だけが流れた。それを拭いながら、嗚咽を漏らす。

 小さく震える彼女の肩へ、日向は優しく手を置いた。彼女が落ち着くのを待ちながら、日向は話を続ける。

「この場所へ行った事はあるか?」

「いえ」

 微かに嗚咽が混じった声が返る。

「良い所だ。きっと気に入る」

 この基地では誰も聞いた事のない、優しい声色だった。




【こぼれ話】
 阿賀野がどうして分遣隊へ来る事になったかを描く話。元々概念のまとめで「あーちゃんは戦艦を殴って左遷された」という設定があったので、それのディティールを突き詰めて書こうと思ったのが切欠。
 分遣隊のゆるふわお姉さんポジションにある阿賀野に重い過去を背負わせる話になったものの、それだけで終わらせるのはあまりにも救いがないと思い、そこに彼女の理解者たる日向が手を差し伸べる展開を付け加えた。書いている内はそういうキャラにするつもりは無かったのに、いつの間にか物凄いイケメンに仕上がった日向師匠、何者。


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分遣隊の長い一日

 生ぬるい初夏の風を窓から感じながら、加古は分遣隊指揮所の二階から、夕焼けに沈みつつある漁港を眺めていた。

 午後の哨戒を終えた艦娘が戻ってきて、次は夜間の哨戒第一陣が出発の準備を始める頃合だ。

 いつもの一日だった。これから仕事を終える隊長はさっさとひとっ風呂浴びに温泉へ出かけるだろうし、帰還した先任艦娘は宿舎に戻って晩飯前の一杯を始めるだろう。

 夕方に起きたばかりの加古は、これから当直組の面倒を見る事になる。

 

 しかし、いつものように人手は足りなかった。

「シフト代われる奴、いないかな」

 ぎしぎしと鳴る安物の事務椅子にふんぞり返りながら、加古は缶コーヒーのプルタブを開けた。

 もはや何度目かもわからない愚痴だった。書類仕事を終えて退勤時間を待つだけの隊長――那智が答えた。

「補充は来る、最新鋭の軽巡が来るぞ、それから新人の軽巡たちもな」

「――でも来てない」

 すっからかんになった指揮所を見回しながら加古は付け加えた。

 駆逐艦たちの数だけはまだ揃っている方だが、ここにいる下士官や士官は今のところ那智と加古だけだ。

「その最新鋭の軽巡ってのも、アレか。北方で上官殴って左遷された問題児なんだろう?それと養成学校出たての新人か。下手すると駆逐艦たちよりもキャリアが下じゃないのか」

 加古が毒づくのも無理は無かった。

 

 分遣隊の仕事は暇と言えど、人手が足りなくなると相対的に仕事は忙しくなった。大規模作戦や異動などで、艦娘たちが多く抜けていった分遣隊は、日々の定期哨戒がやっとと言う有様だった。

 本隊が約束した人員の補充は遅々として進まず、書類は用意したものの細々な手続き等で遅れ続けていた。おまけに、寄越される予定の艦娘は北方海域で上官への暴力沙汰を起こして左遷された軽巡洋艦と、この漁港と同じ名前を持つ軽巡――養成学校の課程を修了したばかりの新人だった。

 

「……我々は“漁港のおまけ”だ、来るだけマシだと思え」

 那智はそう言うと、書類を纏めて封筒へ入れ始めた。

 

「ここでの仕事は思ってたのと違う」

 加古は缶コーヒーを啜りながらぼやいた。

「来る日も来る日もちっぽけな書類の仕事と、待機ばっかり。戦闘と言ったって、はぐれた雑魚を追い払うだけだ」

「それが地方の分遣隊の仕事だ、我々が毎日戦闘で多忙なら今頃この国は滅んでる」

 那智は、何を当たり前のことを、と言わんばかりの顔で答えた。

「それに、駆逐艦連中からは一歩引かれて見られてるし……」

「加古は加古でもこんなに風貌が悪いヤツはそう見かけないからな」

 加古はその言葉にムッとした表情を浮かべた。

 しかし面と向かって言われると反論できない。

 常に眠たげな目は明らかに人を遠ざけているように思えたし、耳に空けたピアスも、右腕と肩の傷を隠すように彫った龍と桜の花の刺青も、彼女を初めて見る人間に距離を取らせるには十分とも言えた。

「風貌が悪いは余計だ」

「概ね、駆逐艦連中に距離を置かれてるのは“前線帰り”で取っ付き難いからじゃないのか」

 那智の言葉に加古は反論しようとする。

「そうは言うけど、あんたや、あの響も……」

 実際、この分遣隊の前線帰りは他にも居た。

 

 目の前にいる那智その人も前線での勤務経験――それもまだ深海棲艦との戦いが手探りであった初期の頃から――各地を転戦している猛者であった。また、駆逐艦の中でもひときわ浮いている響は那智と同じか、もしくはそれ以上のベテラン艦娘であった。下手をすれば加古よりも経験豊富だと言える程には。

 だが、彼女たちは驚くほどこの牧歌的な田舎の分遣隊に馴染んでいた。

 まるで殺し合いという血と戦争の臭いがしない程に。

 

「折り合いを付けただけだ」

 那智は簡潔に答えた。

「戦場の真ん中に心を置き忘れるとそうなる。たまに夜中目が覚めたり、悪夢で起こされたりしないか?勤務中に、何かを思い出して固まってしまったりする事はあるか?」

 加古には思い当たる節があった。思わず、缶コーヒーに口を付けようとする手が止まった。

「部下は上司の事を細かく見ているものだ。なに、時間をかけてじっくりと片付ければいい」

 時間はたっぷりあるからな、私にはもうあまり無いが、と那智は付け加える。

「それに、ここは後方の中の後方だ。もう少し肩の力を抜け。温泉もある、メシは美味い、開放感のある職場。文句はないだろう?」

 目を閉じ、この分遣隊のみで得られる「特権」を那智は思い返す。

「仕事を済ませて温泉に浸かって酒を飲んで寝る。これ以上幸せなことがあるか」

「……まあ、それもそうだけどさ」

 

 少しの沈黙の後に、那智が首から提げていた仕事用携帯の着信音が鳴った。

「はい仲原です」

 那智はそれを手に取った。

 概ね、本隊の戦艦からだろう、と加古は考えてから缶コーヒーを煽って飲み干した。

 もう一本空けるか、と冷蔵庫にあったストックの事を思い出していた矢先、加古は那智の表情を見て思わず動きを止めた。

 

 分遣隊で未だ見た事がないほど、那智の顔は強張っていた。

 電話はすぐに切れ、那智は携帯を下ろした。

「……」

 那智は少しだけ思案すると、すぐに椅子を蹴って立ち上がった。

「出動要請だ」

「何だ、また深海棲艦か。どうせはぐれ艦隊じゃ――」

「深海棲艦の大型艦隊だ」

 那智は抑揚の無い声で伝えた。加古の顔が、一瞬で戦場にいた頃の顔へと戻った。

「規模は?」

「戦艦5、重巡8、軽巡・駆逐艦多数。沿岸部に接近中だ。本隊の方の哨戒部隊が発見した、今応戦してる」

 加古は思わず息を呑んだ。

 日本海側では、まず見かけない大規模な深海棲艦の部隊だった。

 

 ありえなくはない話だった。

 北方から、宗谷海峡や青函海峡を突破して大部隊が日本海へ突入する、というケースは実際に例があった。

 そもそも、日本海で今だに小型の深海棲艦がうろついている以上、この海溝のどこかに深海棲艦のホットスポットがある可能性も高いと言えた。だが、それはいつか起こりうると言われつつも来ないような、大きな地震のようなものだと艦娘たちは思っていた。

 だが、そのまさかの出来事が、今、目の前で起きていた。

 

「……非番の連中も全員呼び戻す、待機所の連中にも伝えてくる」

 呆気に取られていた加古は、すぐさま椅子を蹴って立ち上がった。

「漁港事務所が先だ、出航している船が無いか調べてくる」

 那智は急いで上着を羽織りながら、プレハブよりも何十倍立派な漁港の管理施設を見て呟いた。

「避難誘導は?」

 加古は頭の中に入れた緊急事態の手引きを思い出していた。

 深海棲艦による本土進攻を想定したプロトコルは何年も前に作られていた。まずは出航している民間船舶を可能な限り陸へと向かわせ入港させ、乗員を退避させる事、そして沿岸部の住民を内陸部へと避難させ、その間に艦娘たちは出撃し、敵を迎撃する。

 彼女たちの任務は敵を迎え撃ち、殲滅するためにある。

 だが、それ以上の戦力を相手にする場合、考えられる対応は一つしかない。

 最後の一兵まで抵抗し、時間を稼ぐ事だ。

 その直後、町内スピーカーが放送を流し始める。夕方の小さな集落に、反響する防災放送とサイレンが流れる。

「避難は県警と消防に任せろ、艦娘の仕事をやれ!」

 那智の言葉に後を押されるように、加古は急いで待機所へ向かった。

 

 数分後、非番の艦娘の呼び戻しと待機所にいる艦娘たちへの伝達を終えた加古は、指揮所へと戻っていた。海図を広げ、無線機を引っつかみ本隊からの情報を整理しながら、事態の把握に努める。

 少し遅れて、那智が指揮所へと戻ってきた。

「朗報だ、今出航している船は無い。今から漁港職員も全員避難するそうだ」

「まずは良いニュースだな」

 那智の言葉に、加古は答えた。那智は机の上に広げられた海図と、加古が書き加えていた情報を流し見しながら、事態を把握した。

「痛い所を突かれたな」

 那智はわざとらしく顔をしかめて言う。

「大規模作戦で主戦力を引き抜かれて部隊の再編も終わってないし、本隊の空母は大湊方面に皆出払ってる。残ってるのは我々だけだ」

 加古は「悪いニュースだな」と答えた。

「……新潟基地や大湊からの増援は?」

「要請しているが向こうも似たような状況だ。とは言っても近隣の空母戦力は祥鳳と飛鷹の2隻ぽっちだ、日本海沿岸の分遣隊もこちらと似たような面子だろう。期待は出来ん」

 那智は思わず口元に薄い笑みを浮かべていた。

「……私が艦娘になって初めての実戦を思い出すよ」

「レイテか、沖縄か?昔話はよしてくれ」

 加古は指揮所に設置したテレビの画面へと目を向けた。

 NHKのアナウンサーがニュース原稿を読み上げ、日本海沿岸での避難指示を呼びかけている。画面の淵にはL字のテロップが流れ「深海棲艦の大部隊が東北沿岸へ進行中」との文字や、避難所の情報が次々と表示されていた。

 似たような光景を昔にみた事がある。

 艦娘になる前、それも戦争が始まってすぐに見たあの光景だ。

「こうなったら、あるだけの戦力で迎え撃つしか無いだろう」

 那智は続けた。

「それが我々の存在意義だからな」

 

 

 

 

 ハンガーでは駆逐艦娘たちが出撃の準備を始めていた。

 艤装を背負い、装備に身を固めている。搭載している武器のチェック、そして弾薬の補充だ。

 加古がハンガーに入るなり、叢雲が加古へ報告する。

「準備完了よ副隊長」

 加古はちらり、と装備に目をやる。

 冷や汗が流れる。彼女たちに装備されているのは本隊で必要とされなくなった装備だ、そればかりか横須賀や呉などの部隊ではとっくの昔にお払い箱になった二線級どころか退役扱いされてもおかしくないような装備である。本数の少ない魚雷発射艦、耐用数ギリギリまで使い古された主砲、火力も不十分だ。分遣隊にはお似合いの武器――しかし今そこにある危機を迎え撃つには不十分すぎる装備だった。

「……出撃スロープに全員集合させろ」

 

 夕暮れに染まる街と山を背に、駆逐艦たちは分遣隊前の出撃用スロープ――昔は漁船が置かれていたであろう――に集合していた。がちゃがちゃと艤装を鳴らして、彼女たちが整列し、加古が点呼を取った。全員、揃っていた。

「全員揃った」

 横で海図を確認していた那智が、その言葉を聴いてから全員の前に立った。

「よし……この分遣隊初めてとなる全艦の出撃だ」

 待ちに待った、という訳ではないがな、と那智は付け加える。

「我々の仕事は本隊の支援、並びに阻止ラインを超えた敵艦への攻撃、そして――奴らの攻撃から市民を守る事だ」

 那智はすぅ、と息を吸ってから続けた。

「日頃の訓練の成果を見せ付けてやれ。出撃」

 駆逐艦娘の返事が幾つも重なり合った。

 

 

 出撃する頃には、夕日は沈み、すっかり薄暗くなった海と空があたりを埋め尽くしていた。

 加古が率いる分隊は、那智の分隊とは別行動で海上を航行していた。攻撃を試みる部隊を包囲するための布陣であった。

 

「……始まったな」

 酒田方面の海を見ると、そこでは遠巻きに砲声が響いていた。遥か遠くの水面に時折、水柱と主砲がうなり狂う砲火が、フラッシュのように煌いては暗闇の中に消えて行った。

『第一分隊、このまま前進し待機せよ』

「了解」

 加古は無線スイッチを押して答える。

 後ろを振り向くと、駆逐艦娘たちが加古の顔を見ていた。

 皆、初めての大規模戦闘に緊張している様子だった。無理も無いだろう、殆どが日本の沿岸から出た事が無い艦娘たちだ。遠い県から家族と離れて赴任してきた艦も居れば、この近所に実家があるような艦もいる。故郷を背にしている艦娘にとっては、多大な重圧だろう。

 

「副隊長」

 特型駆逐艦の1人が控えめに呟いた。

「どうした」

「本当に、本当に戦うんですか?」

 緊張と恐怖の混じった、震える声色だった。

 いつも相手にするのは、それこそ苦戦するような相手ではない、はぐれた単艦のイ級ぐらいだった。それ以上は本隊の部隊が始末しているか、あるいは自発的に海域から出て行ったりで、戦った事は無かった。それが、いきなり空母や戦艦、恐れ多き“人型”の深海棲艦を相手にする事になるのだ。それは恐怖以外の何者でもなかった。

 少しでも目を離せば、恐怖で歯をかちかちと震わせそうな彼女の姿を見て、加古は口元に小さな笑みを浮かべた。

「漁港のお守りだからな、あたしらが戦わなきゃ誰が戦う?」

「……」

 彼女が一層顔を強張らせた。

「あたしらはまさかの時の保険だ、主役はあっちだ」

 加古はその主砲の砲身で、遠く鳴り響く戦場を指し示した。

「全員で対処すれば何とかなる。これは一人の定期哨戒じゃない。だろ?」

 加古は後ろについて来ている全員の顔を見た。

「副隊長は不安じゃないんですか?」

「……ああ」

 小さな声で答えた。

 本当は嘘だ。

 どれだけのベテランでも、これほどの数の敵を前にすれば不安が頭を過ぎるのは当然だった。

 だが、それを顔に、口にした瞬間、すべてが解れてバラバラになる。戦う前に恐怖に殺されるのだ。

 それが上官に求められる嘘だった。

 

『第二分隊、敵と接触、これより戦闘に突入する』

 短く、明瞭な那智の声が無線を通して加古の耳へと入った。

 はっきりとした砲声が近くから鳴り響く。重巡の主砲が吼え、那智のシルエットが砲炎に照らされ、くっきりと闇夜に浮かり、遠くからでもよく視認出来た。

 全神経が研ぎ澄まされる。

「……戦闘準備!」

 後続の駆逐艦たちが一斉に主砲の安全装置を外す。

 加古は思考する。

 分遣隊の基準で言えば1年分はあろうかという備蓄の弾薬庫から、掻き集めた砲弾は果たして足りるだろうか?

 埃を被りつつあった魚雷は、この戦闘で足りるだろうか?

 使う用途すら見いだせなかった装備品たちは真価を発揮できるだろうか?

 

『くそ!何隻か突破した!叩き潰せ!!』

 那智の絶叫に近い声を無線越しに聴きながら、加古はその心配を頭の片隅へ放り投げた。

 ――畜生、これが戦争だ。

 

 

 

 

 那智はぼんやりと考えていた。

 

 自分が海の上に立っていないこと。

 艤装も身に着けていないこと。

 そして、ただ真っ暗な空を見上げていること。

 覚えている事は、突破を試みてきた戦艦相手に主砲の一撃を叩き込んだこと。それから爆発。

 もしや天国か、いや、地獄の方が適切だろうか?そんな事を考える那智の視界に、加古の顔が入った。

 

 かろうじて首を動かし、周囲を確認する。それはいつもの、見慣れた漁港の出撃用スロープだった。

 その向こうには、緊急車両のパトランプと、付近を慌しく駆け回る救急隊員や警察官、本隊の職員の姿が見えていた。

「やっと気がついたか」

「……ああ」

 ぼんやりとした意識の中でかろうじて返事をする。

 那智は、自分の身体が応急処置を施された上で担架に乗せられている事に気がついた。

 負傷し、運ばれた。それだけは確実だった。

「どうなった」

「どこから言った方がいいか……」

 加古は続けた。

「深海棲艦の艦隊は大打撃を受けて沖合いに壊走、増援の大湊の連中が全滅させた。民間人の死傷者、建物や船舶への被害は無し。数字上は大勝利だろうな」

 連中は遅れて来やがったがな、と加古は付け加えた。

「こちらの被害は……」

「まずあんただ。艤装全損、骨折、破片による裂傷、脳震盪……まあ生きてはいるが入院は必要」

「駆逐艦たちは」

 那智の言葉に、加古は押し黙った。

 何かを言おうとして、飲み込むような沈黙。

「何人かは掠り傷だ、3人が負傷、うち1人が重症だ。あんたより、ずっと悪い」

 誰だ、と那智に問われて加古は名前を挙げた。

 まだ若い特型駆逐艦の1人だった。この近所の出身で、中学を卒業してから艦娘になったばかりの。

「……」

 那智は沈黙した。

「本隊でも負傷や重症多数だ。想像以上の被害だ」

 加古は苦虫を噛み潰した顔で、呟いた。

 と、慌しい中、艦娘――叢雲が2人の元へと駆けてきた。

 息を切らしながら、何かを話そうとしていた。しかし、それは所々、途切れかかった。

「隊長!連絡が……今、病院に、搬送された……」

 彼女の名前を口にしようとして、叢雲はついに言葉に詰まった。

「ああ」

 那智は、重々しく返事をした。

 顔を見れば、その続きは言わなくても理解できた。

「……分かっている。仕事に戻ってくれ」

 その言葉に、叢雲は滅多にしない敬礼を返してから、踵を返して立ち去った。

「……約束を果たせなかったな」

 那智は、担架の上から全てを飲み込むように暗く静まり返った水平線を、ただ見つめ続けた。

 

 

 

 

 大規模攻撃から1週間後。

 加古は本隊の近くにある病院へ、足を運んでいた。

 

 あの戦いのあと、重・軽症者はその後病院へ搬送され、治療を受けていた。尤も、あの攻撃が再び起こる可能性に備えて、日本海沿岸は厳重な警備体制が敷かれている。大湊や舞鶴から来た大部隊が、日本海深部の深海棲艦の拠点を攻撃するために活動していた。

 分遣隊や本隊基地は、それら精鋭部隊の拠点として使われていた。加古たちを含む分遣隊メンバーは一時的に本隊に復帰し、沿岸での警戒活動に従事していた。酒田にいる指揮官たちの話が正しければ、大部隊による攻撃が今後起こる確率は0に近いだろうとの事だ。それだけ徹底した掃討が行われた。

 加古はようやく1日だけ休暇を取れたため、こうして那智の見舞いへ来たのだった。

 

 面会のため、那智のいる病室の前へとやってきた加古は、部屋から漏れるテレビの音に気がついた。

 昼のワイドショーの番組だった、日本海沿岸の深海棲艦大規模攻撃未遂事件についての報道で、コメディアン上がりの司会者が口うるさく艦娘部隊の不備と、接近を許した不手際を糾弾し、現政権への不信を声高らかに叫んでいた。

 それを、病院のベッドからただただ無表情で眺めている那智の姿があった。入院着で、体の各所に生々しく巻かれた包帯が見えるが、顔色は良く、すぐにでも艦娘として出撃できそうな様子に見えた。

 部屋に入ってきた加古に気がつき、那智はテレビの電源を落とした。

 

「よう。中々いい病院だな」

 加古の言葉に、那智は答えた。

「ああ。あの人(山城)が気を利かせてくれてな、市内の病院を手配してくれたよ」

「……大丈夫か、復帰は?」

 近場にあった椅子を手繰り寄せると、加古は腰を下ろした。

「まあ、焦るな。ゆっくり話そう」

 那智は加古を宥めた。

「結論から言おう。退役する事になった。」

「退役?」

 何を馬鹿な、と加古の喉から言葉が出掛かった。

「先延ばしになっていた退役の日が今来ただけだ。元々艤装の適正能力も落ちてきたからな、艦娘としての潮時という奴だ」

 那智は寂しく笑った。

「もう自分が二度とあの海の上へ浮かぶ事も、走る事も無いだろうと思うと名残惜しくもあるな」

「このご時勢なら、また声が掛かる事もあるんじゃ……」

「そうならない事を祈ってるよ」

 那智はそう答えるが、加古は一つ気がかりな事を思い出していた。

「それで、この先誰が分遣隊の指揮を――」

 そこまで言いかけて、加古ははっとした。

「まさか、あたしが隊長に?」

「暫定だがな」

 那智はそう言うと笑った。

「おめでとう“隊長”、これで「代理」の文字は無くなったな」

「おめでたくないな……」

 隊長として面倒な仕事もたくさんある事は加古は痛いほど知っていた。長らく分遣隊の指揮を執っていた那智の重圧も、そして彼女があの戦闘で何を背負い、何を失ったかもすべて知っている。

 でも、それは指揮官が背負わなければいけないものだった。

「安心しろ。本隊が気を利かせて新しい隊長を手配してくれるさ。それまでだ」

「ならいいけど」

 

「近いうちに、あの子の家族にも会いにいかなければな」

 那智は窓の外を眺めながら呟いた。

 その目は、遠く、澄み渡る初夏の空の向こうを見つめているようだった。

「……ああ、そうだな」

 相槌を打ちながらも、加古は「あたしも同じだ」と付け加えた。

「なあ、漁港の片隅にでもいい。慰霊碑を置いてくれないか」

「あの子の為に、か」

 加古の言葉に、那智は頷いた。

「……皆がそう言ってるさ、あんただけじゃない。漁港の人も、あの町の人も、仲間も、本隊の皆も、全員だ」

 そうか、と那智は答えた。




【こぼれ話】
 分遣隊に戦死者が出た話と、慰霊碑が作られるに至った理由を書こうと思ったのがこの回。物理書籍第一号でも少し触れられていたので「日本海の由良分」の慰霊碑について触れておこう、というのが書いた理由のひとつ。
 当人たちが来る前ではなく、分遣隊そのものを舞台にした暗い話なので最初書くのは少し抵抗がありましたが、やはりここは書くべきか、という思いで書いた一作。「過去」を巡る話としては一番のターニングポイントがこのエピソードで、この事件を機に様々な人々の人生が変わっていく話でもあったので、その上で描写したかったというのもあります。後日談として概念物理書籍第二弾が出た際に、あとがきである一篇に「この回に触発されて書いた」と書かれているのを目撃して変な声が出ました。


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彼女と出会った日

 夏らしい天気になってきたな、そう思いながら重巡洋艦・衣笠は自分以外誰も乗っていないバスの車窓から、海沿いの景色を眺めていた。真っ青に晴れ渡った空の下では、細波を寄せる濃紺の海が広がっていた。

 少し開けた窓から入り込む潮風が、彼女の亜麻色の髪をなびかせる。旅行だとすれば、これほど良いロケーションは無いだろうと衣笠は思っていた。実際には、新しい任務地へ移動しているだけなのだが。

 

 つい数ヶ月前、フィリピンのスービック海軍基地で働いていた彼女は日本へと舞い戻っていた。

 大規模作戦による異動が続き、内地で足りなくなった人手を補うために急遽お呼びがかかった彼女は、一路東北の海を守る酒田基地への転属を言い渡された。

 内地に戻れるなら万々歳だと彼女は上機嫌であったが、彼女の前に現れた新しい上官(山城)は開口一番に「申し訳ないけれど」と言い放った。そして「漁港にある分遣隊の指揮官として赴任して貰いたい」と続けたのだった。

 日本海側における深海棲艦の反攻作戦で犠牲者を出した分遣隊は、それが切欠で大規模な部隊再編の対象となっていた。人員不足と、精鋭部隊の日本海展開により事実上の休眠状態であった分遣隊を再始動させるため、退役した前任の代わりに衣笠が隊長として先んじて赴任する事になっていた。

 

 漁港前のバス停で停車し、衣笠は荷物を抱えてバスから降りた。

 エンジン音を上げてバスが走り去ってから、衣笠は周囲を見回してみた。

「なるほどね……」

 思わず声が出た。

 周囲に広がっているのは住宅が立ち並ぶ村落、そして漁船が詰める漁港と管理施設、これから仕事場となり、戦場にもなり得る日本海。上官から言われた通りの「漁港の分遣隊」が設置されるに相応しい環境だ。

 思っていた以上に田舎なんだな、そんな感想が思い浮かんだ。

「さーて、行きますか」

 書類が詰まったブリーフケースや、私物や着替えの詰まったダッフルバッグを手に持つと、衣笠は漁港へと向かった。

 スロープを降りて、周囲を見回す。漁港関係者や漁師の姿もちらほら見かけるが、艦娘らしい人影は見えない。上司から言われた「見れば一発でわかる指揮所」と言うのも見当たらなかったが、衣笠は勘で、一際大きな建物に目を向けた。

「ここかな……?」

 看板らしきものがあるか確認しようとしながら、衣笠は建物の出入り口前で立ち止まった。果たしてここで合っているのだろうか?衣笠は不安げに周囲を確認してしまう。

 

「……何やってんの?」

 後ろから声をかけられた。若い女性の声だった。

 反射的に振り返った衣笠は、近くの自販機から飲み物を買った帰りであろう、セーラー服の少女を見た。黒い髪を結い、気だるげな目を浮かべているその顔と、制服から衣笠はすぐに目の前にいる彼女が艦娘だと見抜いた。

 ――よかった、艦娘か。

 関係者を早々に見つけ、衣笠は声を返した。

「えーっと、分遣隊って何処に?この建物で合ってる?」

 と、衣笠は加古の姿を見て、威圧的に袖から見え隠れする刺青を見て少しだけ表情を強張らせた。

「あっ、えーっと……」

「ここは漁港の建物。分遣隊はあっち」

 加古はそう言うと漁港の近くにあるプレハブ小屋を指差す。

「あー……アレか……」

「毎回本隊から来る奴が皆間違えるんだよ。で、用件は?」

「ここに隊長として赴任する事になったんだけど……」

 その言葉を聞いて、加古は全てを察した。

「着任予定の艦娘?」

「そう!あなたは……“加古”の白崎さん?」

 そうだが、と加古は素っ気無く返した。

「私は“衣笠”、名前は澤渕未樹。よろしくね。分遣隊の指揮所はどこにあるの?」

 

 衣笠は漁港の管理施設とは反対方向へと案内され、ついに探していた指揮所へとたどり着いた。

 見てすぐに「ぼろい」と口に出掛かったが、衣笠は我慢した。

 2階建ての粗末なプレハブ小屋の指揮所だった。指揮所の出入り口近くにはどこからか持って来た、バス停にでも置いてあるような古いベンチが置かれており、階段下には赤色に塗られた煙缶が設置されており、少なくとも喫煙は出来るという希望はあった。

 そこから少し離れた場所に、プレハブの待機所があり、それから艤装格納庫――プレハブより僅かにマシ程度の急ごしらえと思しき施設――があった。出撃用スロープはすぐ近くで、艦娘の基地として最低限の体裁は保っていると感じた。

 

 ガラガラと引き戸を開けて、加古は中に入った。続いて衣笠も入る。

 応接用のソファーに寝転がって休んでいる艦娘と、雑誌を読んでくつろいでる艦娘が見えた。見た所、それは睦月型“長月”と暁型“響”だった。

「お帰り副隊長。後ろの人は本隊の人かい?」

 尋ねる響に、加古は「ああ、漁港の施設に行ってた」と答えながら、指揮所に置かれてる冷蔵庫に買ってきた飲み物をしまいこんだ。

「指揮所を間違えた。私の勝ちだね」

「今度1杯奢るよ」

 響は僅かに口の端を吊り上げて笑い、つれない様子の長月は「またハズレかー」と呟きながら雑誌に視線を戻した。

「えっと……何これ?」

「これからあんたの部下になる艦娘」

 唖然とする衣笠に対する加古の説明に、響と長月が反応した。

「新しく来た隊長かい?」

「那っちゃんの後任?来るのは明日じゃなくて?」

 突然の新任隊長の来訪に、思わず長月は姿勢を正す。響は起き上がると、その澄み切った青い瞳で衣笠をじっと見た。

 

 ――こりゃあ、やばい所に赴任しちゃったな。

 衣笠は苦笑いを思わず浮かべていた。

 

 

 

 

 その日の夜は赴任祝いとして宿舎で衣笠は歓迎を受けた。

 地元の漁港からおすそ分けして貰ったという魚介類を使った料理に、近所の農家からこれまた好意で貰った米や野菜もあり、至れり尽くせり――少なくとも海外派遣時の数億倍は豪華と言える食事に衣笠は舌鼓を打った。

 

 歓迎会も終わり、消灯時間を控えた宿舎の隊長室で、衣笠は情報を纏めていた。

 今回の歓迎会で初合わせとなった顔も多く、部下の顔と名前をすべて覚えていく必要があったからだ。

 寝間着に着替え、ベッドの上に座り、シーツの上に書類――全員分の経歴書を広げた。

「えっと、加古、阿賀野、由良、響、長月、皐月、陽炎、親潮……」

 すでにいる艦娘、明日以降着任する艦娘の経歴書を階級や艦種順に並べていく。

 

 隊長としての仕事第一歩は、この全員分の面子と経歴を覚えて、今後の分遣隊の活動へ生かす必要があったからだ。駆逐艦や軽巡の中には経験の浅い者や、逆に海外派遣など長く活動していたり、果ては前線への派遣で鉄火場を潜ったベテランもいるからだ。彼女たちをどう組み合わせて哨戒活動などのルーチンワークを進めていくか決める、それが隊長の仕事の一つだ。

 特に、明日からは深海棲艦主力艦隊の掃討任務を終えた舞鶴や大湊の艦隊が撤収し、各地の分遣隊が警戒待機から通常の哨戒任務へ戻る事もあり、早急に把握する必要があった。

 

 隊長として赴任するにあたり、全員分の経歴書には目を入れていた。

 多くの隊員は取るに足らないような、それこそ平凡な経歴と言えた。大抵の場合は学校卒業後か中退や休学後に入隊し、どこかの養成学校で訓練を受け、内海や比較的脅威的でない海域で仕事をした後にここへやってきた者が殆どだった。

 異色と言えるのは、響と呼ばれるあの艦娘――経歴の中に機密情報として黒塗りにされた箇所のある、この隊で最も古参の艦娘――と、副隊長の加古だった。

 

 本名は白崎悠里、入隊の時期から見ても古参の艦娘だが、彼女はかなり前線のほう、それこそ精鋭部隊と呼ばれるに相応しい部隊に勤め上げていたベテランだった。重巡・衣笠である澤渕とは同い歳であった。

 だが、その輝かしい経歴は南方海域でぷっつり途絶えていた。書類上は負傷による後送、艤装への反応能力低下により前線部隊から異動、酒田基地転属、そして分遣隊へ。

 

「加古、ね……」

 独り言を呟いてから、うーむ、と衣笠は唸った。

 隊長として赴任したばかりだが、おおよそこの分遣隊の雰囲気は掴めて来た。

 前線の部隊とは比較できないほど緩い。分遣隊をパートタイマーの州兵や田舎町の警察だとすれば、前線で戦っている部隊はさながらデルタフォースやSASと表現してよいぐらいだ。

 最低限、組織として、艦隊としての決まり事は守ってはいるが、どこかだらけた雰囲気がある。部隊の大規模再編で古参の艦娘3人ぐらいしか残っていないというのもあるだろう。

 副隊長に至っては、その古参の1人ながら書類の備考欄――前任の隊長が書き込んだものを見て、勤務態度に若干の問題ありと言えた。仕事終わりに温泉に一直線したり、待機所で昼寝をする事もある、と。フォローとして「指揮能力と艦娘としての実力は優秀である」の一文が添えられているが、普通の上司なら顔をしかめる話だろう。

 古参の艦娘とは距離感は近いが、衣笠に対しては遠慮気味な距離感がある。それでも、基本的に面倒見は良さそうだった。

 今後、もっとも衣笠と付き合いが長くなるであろう艦娘こそ、彼女だった。

「あー、もう。どうしよっか……」

 ベッドの上に倒れこみ、衣笠は仰向けになって天井を見上げた。

 

 思えば、貧乏くじであった。

 入隊して士官としての道を進み、養成学校を卒業し、実際に海外派遣に参加した経験もある。米軍の連絡将校としてサンディエゴで勤務する事も、精鋭部隊の一員としてトラック基地へ着任する事も、出来なくは無かったはずだ。

 しかし、同期に先を越され、言い渡された命令は内地への転勤。栄転かと思いきや、実際は田舎の分遣隊勤務だった。

 分遣隊への異動を同期に話した時は、周りから同情されたのを覚えている。「一体何をすれば分遣隊へ送られるの?」「上官でもぶん殴らない限りあそこへは行かないでしょう」等とも言われていた。

 キャリアは袋小路に入ったと言っても良かった。

 

「まぁ……悩んでも仕方ないよね」

 へへ、と笑ってから衣笠は起き上がって書類を纏めた。

 新しい職場で、それも隊長という職に就いたからにはやるしかないだろう。

 

 

 

 

 翌日、彼女は出撃用スロープに立っていた。

「夜間哨戒、行ってきまーす」

 手を振りながら、2人の艦娘――陽炎と親潮が日が沈みかけた日本海へと出撃していく。

 衣笠は手を振り返して見送りながら、やっと仕事一日目が無事に終わりそうな事にほっと一息ついた。

 

 今日は激務だった。衣笠に次いで、ようやく補充の軽巡洋艦、由良と阿賀野が着任し、残りの駆逐艦も来たからだ。衣笠も含めて、新人はオリエンテーションと称して粗末なプレハブ小屋の指揮所や待機所、格納庫を案内され、業務の説明や引継ぎ、そしてこの漁港とその周辺の事を教わり、それと平行して昼間の哨戒まで指揮しなければならなかった。

 これからは歓迎会と言う名の宴会が宿舎でまた行われる予定で、衣笠は夜間の当直として指揮所に残る手はずになっていた。歓迎会に出られないのは残念だったが、この分遣隊の雰囲気を考えれば、これから幾らでも部下たちと交流を持てるだろう――そう衣笠は考えていた。

「さて」

 出撃スロープ後ろの、指揮所に衣笠は向き直った。あとは副隊長から当直の引継ぎを行うだけだ。

 

 階段を上り、指揮所の二階へと入る。

 副隊長以外誰もいないはずのその部屋は、電気が夕方がついておらず、暗く静まり返っていた。衣笠は壁のスイッチを押し、部屋の電気をつける。蛍光灯が点滅し、暗い部屋が明かりに照らされた。

 副隊長のデスクに、加古がいた。机に突っ伏したまま、寝ていた。

 大方、昼寝をしたまま眠りについたのだろう。衣笠はため息をついてから、加古を起こそうとその肩に手を伸ばす。

 そこで、思わず衣笠の手が止まった。

 両腕に顔を横たえた加古の表情は、苦悶の色を浮かべていた。汗が額に滲み、かすかに瞼が動いている。

 具合でも悪いのか、そう思った衣笠だったが、加古は低く小さな呻き声を口の端から漏らしていた。

 衣笠は、意を決して加古の肩に手を沿え、揺さぶった。

「っ……!」

 がたり、と事務椅子のキャスターが揺れ、加古が飛び起きた。

 目を見開き、乱れた呼吸で肩を上下させながら、加古は思わず周囲を見た。

 見慣れた指揮所の光景、そして目の前には、隊長がいた。

 

「大丈夫?」

 衣笠は彼女の目を見た。

 猛禽類のように鋭い加古の瞳は、またいつもの眠気を纏った瞼に隠れた。

「うなされてた……悪い夢でも見たの?」

 心の底から心配している顔を、衣笠は浮かべていた。

 急に現実へと引き戻された加古は、息を整えようと、必死に呼吸を続けていた。

「あ……あぁ……」

 言葉が出なかった。

 まだ生々しい悪夢の中に、片足を突っ込んだままだった。

 衣笠は、そのまま彼女の肩を優しく掴むと、そのまま抱き寄せ、抱擁した。

「……大丈夫。もう大丈夫だから」

 衣笠に抱かれながら、加古の荒げた呼吸は徐々に収まっていった。

 

 少しの後、落ち着いた加古は衣笠が出したコーヒーを飲んでいた。

 いつもの缶コーヒーではないインスタントだが、加古は口に付ける度に少しずつ平静を取り戻していく気がしていた。

「少しは落ち着いた?何かあったの?」

 近くにあった事務椅子を手繰り寄せ、衣笠は加古の前に座った。

「最近、悪い夢を見る」

 加古は搾り出すように呟いた。

「悪夢だ。前はそうでもなかった、ここに来てからはそれほど多く無かったのに、最近は頻繁に見る」

「前の戦闘から?」

 多分な、と加古は返した。

「悪夢って、南方にいた頃の夢?」

 加古はその問いに、少しの間を置いて答えた。

「ああ、あの時の光景が……。でも、最近見る夢はこの場所が全部無くなって……皆が……」

 声を詰まらせる加古は、吐き出すのもやっという声で続けた。

「あたしの目の前で、皆が」

 手が微かに震える。また、ぶり返すように悪夢が脳裏にちらつき始める。

 だが、それを抑えるように衣笠は加古の手を握り、震えを止めた。

 

「大丈夫」

 衣笠は微笑を口元に浮かべながら答えた。

 人を安心させるような、カーテンの隙間から漏れるような暖かい日差しのような、そんな優しい笑みだった。

「私は指揮官、そうならないように部下を纏めるのが私の勤め。私が来たからには、もう誰も死なせない。あなたも、部下も」

 少しの沈黙が流れる。

 そして、思わず加古は吹き出した。

「ちょっと、何笑ってるの?」

 思わず衣笠が声を上げるが、加古は答えた。

「もう他の部隊がホットスポット潰して“”になってるのに、そんなマジなトーンで言われても」 

「結構本気よ?」

 ははは、と加古が控え気味に笑いながらも、むすっとした顔を浮かべる衣笠だったがすぐに元の柔和な顔に戻った。

 変わった奴が隊長になったもんだ、加古はそう思いながらも、幾分か救われた気持ちで、彼女の目を見て笑った。




【こぼれ話】
 分遣隊に現隊長の衣笠が赴任するまでを描いた回。衣笠と加古という隊長・副隊長コンビの馴れ初め回みたいなもんですねハイ。分遣隊の休眠期間(大規模作戦に伴う部隊再編)を描いた回でもあり、ここから現在の分遣隊につながる面子がようやく合流を始める……という展開になります。
 「スービックの海軍基地」「サンディエゴ(米海軍)への交換艦娘としての派遣」と言った世界観にちょいちょい繋がる雰囲気作りの単語も混じっていますが、今後拾われる事は多分ないでしょう。番外編書く時に使うかも。


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そこから旅立った日

 ひどく寒い。

 空調の利きも悪く、暖房器具の類が殆ど無い――火気厳禁のため禁止されている――薄暗い格納庫で、1人の艦娘が工具を片手に、艤装と向き合っていた。

 時折、工具でネジやボルトを外す音や金属音が響き渡り、かじかんだ手をほぐしながら、軽巡洋艦の艦娘、夕張は整備を行っていた。

 

「ああ――もう」

 呆れ果てながら、夕張は艤装の不調原因――パイプの不具合を発見した。

 予備部品はどこにあったか、そんな事を確認しながらふと格納庫の窓の外を眺める。鉛色の空は徐々に暗さを帯び始め、作業をしてからかなりの時間が経ったことを告げていた。

 

 夕張の勤務地――アリューシャン列島に近いこの基地――は現在、日本とアメリカの共用基地になっている。中部太平洋海域がレッドゾーンに指定され、未だに制海権を取り戻せてない以上、アメリカから日本へ向かう航路の中で比較的安全かつ距離の短い航路はここしか無く、海域を護衛する艦娘部隊にとって弾薬と燃料補給、修理用の施設が存在する数少ない中継基地の一つだった。

 

 とは言っても基地は最小限の機能しかない。基地の運営要員も、警備や施設運営、基地司令を含めてわずか百人程度。輸送機用の滑走路、兵舎、司令棟、弾薬庫、補給施設、簡素で小さな港湾施設があるだけの質素な基地で、挙句に常駐している日本側の艦娘はわずか6隻のみ。米軍側は護衛駆逐艦や駆逐艦、護衛空母といった艦娘が12隻ほど詰めているだけだった。

 

 艤装の整備作業を続ける夕張の元へ、1人の艦娘が現れた。

 目立つ金髪と特徴的な制服が、彼女が高雄型重巡の艦娘、愛宕である事を物語っていた。

 その片手には、白い湯気を吐き出すコーヒーのカップが握られていた。

「はい、コーヒー」

「ありがと」

 作業を中断した夕張は紙コップを受け取ると、そのまま息を吹いて冷ましてから一口すする。暖かいコーヒーが身体の芯へと染み渡る。口から吐いた息が、より白くなった。

「修理はどう?」

 愛宕の問いに、小休止中の夕張は顔をしかめながら答える。

「あー、多分燃料系のパイプ故障かなあ。パーツ交換でどうにかなるかも」

「必要な部品は?」

「予備艤装か……このあいだ横須賀の連中が放棄してったヤツから無事なの持ってくればいいでしょ」

 

 夕張は忌々しげに、格納庫の外にある“スクラップヤード”の事を思い出していた。

 北方海域での作戦行動に参加する、エリート部隊――猛烈な訓練をパスした志願者やベテランで構成された横須賀や呉の艦隊――はこの基地を前線基地、もしくは中継地点とする事が多い。大抵、そういった作戦時には戦闘により大破し、修復不能と判断された艤装をパージしてここへ放棄したまま撤収するのはよくある事で、この基地で保管されている補修パーツや消耗部品、果ては予備艤装まで、簡単な命令書一つ、果ては階級と部隊の肩書きを理由に持ち去られる事は多々あった。

 かと言って補充を要求しても、平時には脅威の少ない基地に回される物資など微々たるもので、あえなく艦隊の置いていった用済みのスクラップから使える部品を剥ぎ取って補修するというケースはままあった。本来なら規則違反ではあるが、ここでは例外だ。

 

「ごめんなさい。苦労かけるわね」

「そんな事ないわ」

 愛宕が気まずそうな、罰の当たったような顔を浮かべるので夕張は慌てて弁明した。

「人手が少ないのがそもそもの問題なのよ。本来だったら、この手の仕事は上から回されてきた工作艦か整備員がやる仕事でしょ。そっちには何も非は無いし……」

「……それもそうね」

 不意に、愛宕はすっかり空になった夕張のコップに視線を落とした。

「お代わりいる?」

「はい」

 夕張の返事に笑顔で答えると、愛宕は空の紙コップを受け取って部屋を出て行った。夕張は作業を再開し、艤装のエンジン部分の燃料パイプを取り外す作業を続けた。

 工作艦か整備員のやる仕事。夕張は自分がさっき口にした言葉を反芻していた。

 

 夕張の主な任務は、北方海域における艤装試験任務、言うなれば実験部隊の仕事だ。艤装開発部や民間の艤装製造メーカーの試作品を北方という極地で使用し、不具合や実際の性能に関してレポートを送る。地味だが、必要不可欠な仕事だった。南方海域で似た事をしている同期はすでに夕張よりも階級が上になり、給料も色が付けられ、本土へ栄転していった。

 一方の夕張は、いまだに北方海域でこの仕事を続けている。そればかりか、海上から戻っても人手不足という理由で、艤装の整備までやらされている。それを毎時間、毎日、毎週、毎月。繰り返しだった。

 

 我慢の限界だった。気候は悪く、戦闘以外の危険――濃霧、吹雪、荒波、凍結、自然そのものとの戦いすらある。凍り付いた薬室が原因で暴発した主砲で、あやうく片腕を失いそうになった事もあった。せめて、もっと別の場所で仕事が出来ればとも考えていた。転属願を上官である愛宕へ何度も出していたし、その都度上から許可が下りなかったと答えられていた。

 溜息が自然と漏れた。グリスや油で汚れた掌を見返す。

 

 ――自分は、今なにをやっているんだろう?

 

 

 

 仕事も終わり、ようやく自室に戻ってきた夕張は肩の力を抜いた。

 北方基地という小さな基地ではあったものの、米軍の施設を間借りしているだけあって個室の設備は豪華だった。ふかふかのベッドはあるし、シャワーとトイレも完備している。空調設備も完璧に機能しており、下手をすれば夕張の実家よりも豪勢な自室だと言えた。夕張にとってはこの基地における唯一の褒め所だった。

 艦娘の制服を脱ぎ、部屋着のジャージに着替えてから夕張はベッドの上にとりあえず転がった。

 

 仕事の疲れが、どっと身体から染み出るようだった。気を抜けばまどろみに落ちそうな感覚になり、夕張はごろごろと身体を動かしながら、ベッドの脇に放り投げたラップトップを広げて、起動した。

 夕張が持ち込めた娯楽品と言えば、入隊前から録画していたアニメの録画データが入ったハードディスクと、ゲームの詰まったラップトップ1台だけだった。親しくなった第7艦隊の艦娘から貰った日本公開前の映画DVDもあるが、大抵見終わると基地の休憩室や待機室に送られ、皆の暇つぶし用になった。

 

 ネットサーフィンでもしていると、動画投稿サイトに表示された「艦娘募集」の広告動画がふと夕張の目に入った。晴天の下で、綺麗な海の上を走る艦娘と、併走するイルカ。南洋で撮影したであろうそれを見ながら、夕張はそんな事あるわけないだろうと思いながら小さく笑った。

 

 ふと、艦娘になる前の事を思い出していた。

 親に頼んで旅費を出してもらって、貯めた小遣いで参加した年に2回のオタクの祭典。ネットで知り合った人達とのオフ会、学校の部活での友人との語らい。学校に張られた艦娘募集のポスター。進路について慌しい同級生、決まらない自分の進路。

 艦娘募集パンフレットの応募票に、自分の名前を書き込んだ事を思い出して、夕張は溜息を吐いた。あの時、さりげなく選んだ選択肢の結果が、このザマであった。

 養成学校での訓練はキツかったし、軽巡洋艦の訓練課程では指揮官としての仕事も兼任せねばならず辛かった。その後の大湊の勤務では階級章だけは立派な傲慢で無能な上官に苦労したし、部下の駆逐艦は自分よりも経験豊富で、命令には全く従わなかった。

 挙句に転属を言い渡され、地元の北海道より寒い、地の果てにあるような基地で燻り続けている始末だ。

 

 ため息を吐いてから、腹の虫が鳴いている事に気がついた夕張はラップトップを閉じて重たい腰を上げた。

 そろそろ食事の時間だった。

 

 

 

 

 基地の食堂は人もまばらで、青い迷彩服を着た米海軍の職員か、第7艦隊の艦娘がぼつぼつと食事をしているぐらいだ。共用基地で、設備も共同のため提供される食事はすべてアメリカの食事だ。こればかりは夕張の数少ない楽しみの一つだった。

 健康志向なサラダやチキンをトレーによそい、夕張は目立たない隅の席に座ると、黙々と夕食を摂り始めた。

 

 少しすると、見知った艦娘が現れて、夕張の元へと歩み寄ってきた。

「おーっすバリ」

 こんもりとマッシュポテトやローストビーフを盛ったトレーを両手に持って、夕張の同僚――天龍が隣に座った。

 天龍とはこの基地に来た時からの腐れ縁だ。夕張とタメの年齢だが、鉄火場をくぐった経験は彼女の倍以上だ。低燃費で聊か時代遅れとも言えるロートルの艤装を引っさげながら、この基地で夕張と同じ仕事をしている。暗く陰鬱な気持ちになりがちな夕張に比べて、彼女は毎日が楽しそうな雰囲気だった。

 喋り相手もいなかった2人は退屈凌ぎに世間話を始めた。 

「どうよ今日の装備テストは」

「最悪。私が開発者なら設計図焼き捨てるわ、ゴミよゴミ」

 レンズ豆のサラダを頬張りながら、夕張は呆れ気味に答えた。

「そっちは?」

「こないだ送られてきた試作連装砲の試験初日だ。大高重工製だったかな」

 天龍はマッシュポテトを忙しなく胃にかき込みながら答えた。

「結果は?」

 夕張の問いに、天龍は首を左右に振った。

「全然ダメだな、あそこの会社の兵装は魚雷以外ハズレだ。砲身引っこ抜いて鈍器にした方がまだ使える。凍結対策も万全じゃないし、北方での使用にゃ向いてない。それに電子トリガーがバグって暴発しかけたぞ」

「サイテーね」

 心底同情する夕張の言葉に、天龍はため息を吐いた。

「五体満足でほっとしてるよ。まァ、ケガでもすりゃあ内地に帰れたけどな」

「……そうね」

 夕張はそう言うと、食事の手を止めた。隣の天龍もつられて手を止めた。

「どうしたバリ、元気ないな」

「……国に帰りたい」

 ぼそり、と夕張は呟いた。手に持ったスプーンがトレーに落ちて、金属音が鳴った。

「寒いし、危険だし、仕事はサイテー、毎日同じ事ばかり」

S.S.D.D.(日が変わってもクソはクソ)ってか?バリも2年目だろ、今更ホームシックか?」

 そうかもね、と夕張は天龍の言葉に答えると、溜息を吐いた。

「こないだ横須賀から来た連中、カッコよかった。空母や戦艦も沢山いた……あんな艦娘になるんだ、って思いながら入隊したのに、ここでの仕事は……」

「テスト部隊なんて早々やれる仕事じゃねえだろ。でなきゃ死ぬか任期終えるまで燃料集めや船団護衛だ、軽巡になった時点で無理に決まってんだろ」

 天龍はあっけらかんとした口調で続ける。

「前線でクソみたいな装備を使って戦い死ぬ、そんな連中を減らしてやるのが俺たちの仕事だ。地味で面倒だが、誰かがやらなきゃな」

 天龍はローストビーフをがっつきながら、続けた。

「それにな、好き好んで殺し殺されの現場に行く必要はねえんだよ。前線から帰れば誰だってそう思うさ、俺でもな」

「それもそうね……」

 夕張はすっかり意気消沈しながらも、腹を満たすべく黙って食事を続けた。

 

 

 

 

 それから、いつものように日常は過ぎていった。

 

 1週間後、いつもの通り。

 

 2週間後、北方海域で作戦があった。

 

 3週間後、不祥事を起こした艦娘がこの基地を経由してから後送されていくのを見た。

 

 4週間後、日本海側で大規模な攻勢があったが、これを鎮圧したとニュースがあった。

 

 5週間後、いつもの通り。

 

 6週間後、いつもの通り。

 

 7週間後、

 

 8週間後、

 

 

 

 

 3ヵ月後。格納庫でいつもの仕事をこなしている夕張の前に、愛宕がやってきた。

「ぱんぱかぱーん!」

「は?」

 開口一番、愛宕は大げさな口調と笑顔で一枚の書類を掲げた。

「これ、何だかわかる?」

「えーっと……」

 愛宕が手でひらひらと振っている書類を見て、夕張は目を丸くした。

 何かの書類である事以外答えが見当たらず、夕張は質問で返した。

「それは何?」

「ヒントは、夕張ちゃんが今物凄くほしい物」

 凄く欲しい物、という言葉に思わず夕張は工具を手から落とした。

「へ?えっ?」

 素っ頓狂な声が喉から漏れた。

 欲しい物――それは転属だ。

 

「随分と骨を折ったのよ?司令への説得、空きのある本土の基地を探すのも苦労したし、夕張ちゃんの代わりに来る艦娘の手配もね」

「あ、ああ……」

 命令書だった。それは間違える事のない文面の書類であり、転属先が国内の基地である事も、そしてそれを承認する署名が記入された、本物の書類だった。

「本当に内地?日本よね?」

 まじまじと書類の文面を眺めながら、夕張は何度も愛宕と書類を交互に見た。

 あまりにも挙動不審なそれを見てケラケラ笑いながら、愛宕は説明した。

「本当よ。山形にある基地が部隊の再編中で偶然空きが出来たの。それからちょっとコネを回したりね?むしろ向こうの方から来てほしいってくらいだったけれど……」

 思わず夕張は書類に手を伸ばしかけるが、愛宕はお預けと言わんばかりに手を引っ込めた。

 すぐにでも書類を詳しく見たい気持ちを抑えながら、夕張は不満げな表情を浮かべる。

「た・だ・し、条件がひとつ」

 愛宕は口元に、いかにも悪そうな笑みを浮かべた。

「実家の会社の件、覚えてるわよね?」

「えっ、あ、あの?」

 実家、とは“愛宕”の生家がある神奈川の事だ。彼女の両親が経営している会社があり、人手不足である事が彼女の口からよく語られていた。

「戦争が終わったら、必ずうちの会社に来る事、それが条件。どう?」

「どうって言われても……いつ終わるかも分からないし、満期で辞めるにも当分先だし」

 夕張は困惑しながら答えた。いきなり“実家の会社に来い”と言われたら無理もない話だった。

「私は“辻ちゃん”の事を評価してるわ」

 夕張の本名で語り掛けられ、夕張は思わず姿勢を改めた。

「それはどういう……」

「この状況でも文句は言うけど投げ出したり自棄にならずに仕事をやり遂げれるし、艦娘としても1人の人としても、ちゃーんと評価してるわよ。だからこそ私が欲しい人材なの。私は満期で辞めて会社を継がなきゃいけないから、今後も考えないとね」

 成る程、そういう手で来たか、と夕張は納得した。

 しかし、頭の片隅で愛宕の実家の会社について情報を掘り起こすと、やや躊躇う気持ちも僅かにあった。

「えー……でも、杉ちゃん家の会社ってあの……」

「神奈川での勤務だから首都圏にもすぐに行けるし、盆と年末(コミケ)は確実に休暇を取れるよう手配するわよ。どう?」

 夕張は顔色を変えた。海の上で仕事をしている時のような、筋の通った凛とした顔だった。

「やります。絶対働きます」

「正直でよろしい」

 愛宕は満面の笑みを浮かべると、手に持った書類を夕張へと手渡した。

 

 

 

 

 1週間後。

 夕張にとって、待ちに待ったその時がやってきた。

 仲間たちに別れを告げ、送別会が終わり、わずかな私物を纏めた夕張は基地の飛行場に立っていた。防寒用のジャケットを着込み、わざわざ基地の待機所で温まろうともせず、曇天の空の下でそれを待った。

 

 定刻通り、それは爆音を響かせながらやってきた。

 4発のターボプロップエンジン、灰色に塗装された胴体と翼、赤い丸の国籍マーク。それはC-130H輸送機だった。基地の短距離滑走路でも離着陸が可能で、夕張たちにとっては慣れ親しんだ存在だ。艦娘用の小型港しかないこの基地にとっては貴重な運び屋だ。

 ランディングギアを出し、滑走路へアプローチを開始した機体は徐々に速度を落として着陸した。そのままエプロンへとタキシングする。プロペラの回転数が落ちていき、やがて定位置に止まった。

 

 いつもの補給物資の運搬ついでの便乗。この基地であれば当たり前の、だが自分が体験するには手は届かない光景だった。

 パイロットたちに挨拶を済ませ、夕張は機内を見回した。

 次の勤務地は日本本土――日本海側の防衛を担う東北の最前線、と言うと聞こえはいいが、実際には北方のこの基地と何ら変わりはない小さな基地だろう。それでも、慣れ親しんだ母国である事には変わりは無い。少なくともアリューシャン列島の端にあるような忘れ去られたような基地よりかは、はるかにマシだ。

 夕張は鼻歌を歌いながら、キャビンのシートに深く腰を埋めて、次の任務地に思いを馳せた。




【こぼれ話】
 夕張の過去を描いた回。前話からめちゃくちゃ間が空いた理由としては、前のアレでもう終りでいいだろうと思っていた矢先にふつふつと創作意欲が沸いてきて「あれ最終回って言ってないし続き書いても別にいいじゃん」と思ったのが切欠。まあTwitterで最終回についての構想も呟いてたしここで打ち切るのは勿体ないかなと。
 実は「戦後」に繋がる話が唯一盛り込まれた作品。どん詰まりで、灰色に囲まれた世界に閉じ込められていた夕張が殻を割って外の世界へ向かおうとする話……ですが要するに転勤するだけの回です。
 戦後は杉ちゃん家の会社でエナドリ缶山積みで仕事する羽目になるバリちゃんですが、毎年コミケに行けるので人生楽しそうですね。
 本当は米軍側の艦娘としてオリジナル艦娘の護衛空母や護衛駆逐艦娘を出したら面白いだろうなぁと思いましたが「戦艦少女でやれ」という危惧から削った思い出。ガンビア・ベイ持ってないし、あいつとサミーBだけじゃなあ……艦これに出ませんかねキャノン級護衛駆逐艦とかタコマ級フリゲートとか。


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私を見つけた日

 暑い。そんな7月の、じめじめと湿気を帯び始めた暑さに顔をしかめながら、エメラルドグリーンの髪を揺らして、彼女――重巡洋艦の艦娘、鈴谷は職場の出入り口から足を踏み出した。

 退勤時間の午後遅く、時間はすっかり夕方で陽が傾いた分、幾らか涼しいとは言え暑い事に変わりはない。ここは北海道なのだから7月も涼しいだろう、という楽観はかなり前から吹き飛んでいた。日本のどこに居ようともこの暑さから逃れられる事は出来ないだろう、そんな下らない事を考えては北方の基地勤めだったら毎日涼しいんだろうな、と更に下らない話を頭に浮かべていた。

 

 しかし、今の鈴谷は内地勤務の艦娘だ。それも後方基地で活動しているのではなく、各市町村にある地方協力本部勤め――それも艦娘募集をかける所謂「人攫いのお姉さん」であった。重巡・鈴谷という艦娘としてのキャリアも佳境に差し掛かり、艤装の転換か、さもなくば任期を終えて別の職に就くまで「艦娘になってみない?」と若者に声をかける仕事を続ける事になるだろう。

 

 駐車場に停めた自分の車へ向かう中、否が応でも見慣れたポスターが目に入る。

 少し色あせたポスター。艦娘候補生募集中という文字と、ラバウルかトラックか、南方の綺麗な海と島々を背景に撮影された特型駆逐艦たちの集合写真。「海の平和を、私たちの国を守る仕事へ――」等と書かれた煽り文句。

 

 そのポスターの横に、今日も彼女は壁に瀬を預けて立っていた。

 この小さな町の地方協力本部にとっては顔なじみの、鈴谷にとってはこの小さな町の数少ない“友人”のような子であった。

「おはよ、真奈美ちゃん」

「こんにちは、奥寺さん」

 彼女と挨拶を交わす。

 平日、いつもの日課だ。

 

 鈴谷にとって、彼女との出会いは春の終わり頃に興味ありそうに地本の前をうろついている少女を見つけた事が始まりだった。ぐいぐいと推すように地本の中へ連れ込んであれよあれよと艦娘募集のためのトークをして、艦娘募集のパンフや資料を押し付け、同僚から「奥寺に捕まったんじゃ運が無いな」とからかわれた翌日に、彼女はまた地本に顔を出してきて鈴谷が居るか尋ねたのだった。

 

 押しが強く天真爛漫な鈴谷に懐き、その後も頻繁に地本に顔を出しては、世間話を沢山した。そんな交流を続けるうちに、彼女が学校へなじめず、制服に着替えて家を出ても、殆ど学校に行ってない不登校の子である事、両親や通っている高校の教師が度々地本まで出向いてきては彼女の姿を探しに来ていた事を知った。

 どこか引っ込み思案で、放っておけない彼女に対して、鈴谷もまた可愛い妹のように接しては、親身に相談を引き受けていた。今では艦娘としての名前でなく、職場以外で人としての名前――奥寺加奈という自分の名前を呼ぶ数少ない仲にまでなっていた。

 

「どう、元気?今日は学校行った?」

「……行ってないです」

 彼女は首を左右に振った。そうかー、と鈴谷は答えた。

 いつもなら、彼女とここで2、3会話して、それから車に乗せて世間話でもしながら、彼女を家まで送るのが日課だった。

 だが、今日はいつもと様子が違ったように思えた。いつもより元気がない、そう鈴谷は彼女の表情から見て取った。

「そうだ、真奈美ちゃん」

「はい」

 鈴谷は車のキーを取り出し、彼女へちらつかせてから、ニヤリと笑って見せた。

「ドライブにいかない?」

 

 

 

 

 助手席に彼女を乗せて、愛車――北海道赴任の際に中古車屋で適当に見繕ってきた年季の入った軽自動車――を走らせて、2人はあてのないドライブへ出かけた。

 夕日が落ちる日本海を眺めながら、海沿いをただただ走り続ける。それこそ、現役の艦娘が未成年を勝手に連れ回しているという、傍から見れば問題のある光景ではあったが、鈴谷はただこうして、自由気ままに彼女とドライブをしたい気分だった。

 

 世間話に花を咲かせながら、車は段々と暗みを帯びていく空の下を走り続けていた。

 話のネタも尽きかけた頃、彼女はふと、違う話を持ち出した。

「奥寺さんは、どうして艦娘になろうと思ったんですか」

 彼女のその問いに、鈴谷はハンドルを握りながら答えた。

「そーだねー……強いて言うなら義務感みたいなものかな」

「義務感?」

「そう。あの頃は戦争もまだ始まったばかりで、大変な時代だったからさ。私に出来る事を探さなきゃ、人の役に立たなきゃって思ってばかりだった」

 遠い目で道路を見据えながら、鈴谷は続けた。

「正直しんどい選択だったと思うよ。周囲の期待を背負わなきゃいけないし、戦場にいた時は自分の命を懸ける必要もあった。それに仲間の命もかかっていたし」

 鈴谷は思った事を口にした。彼女は意外そうな顔を浮かべた。

「でもね。誰かの為に戦う事の使命感と、それを果たせた時の達成感ってのは、案外悪いものじゃなかったかな」

「艦娘募集の受け売り……?」

「真奈美ちゃんはエグい所を突いてくるね」

 彼女の返しに苦笑いを浮かべる鈴谷だったが、すぐに柔和な微笑に変わった。

 

「ところで話変わるけど、学校ってやっぱり馴染めない?」

 彼女は無言で頷いた。

 そうだろうな、と鈴谷は心の中で呟いた。

 幾度と無く彼女と世間話をしていくうちに、両親にも話せないような人生相談を受ける事は多々あった。彼女が、学校に居場所が見つけられない事や、自信の無さから来る劣等感に苛まれている事も、そしてこれからどうしていいかも判らない事を鈴谷は知っていた。

 閉塞的な毎日を送る彼女は、悪い方向へ進んでいるように思えた。

「真奈美ちゃん、ぶっちゃけると私も今ものすごく悩んでる事があってさ」

 鈴谷はいつもの調子で、そう告白した。

 突然の告白に、いつになく神妙な面持ちの彼女の前で、鈴谷は続けた。

「私もこう、岐路に立ってると言うか……具体的な未来が無いんだよね。艦種変更試験も落ちてるし、かと言ってこのまま艦娘を辞めるまで地本に居続けるのも違うような気がする。艦娘辞めた後の事もまだ考えてないし。でも、時間はあっという間で……」

 ハンドルを握る手に少しだけ力が入る。

「道だけは沢山あるのに、自分でも何をすればいいか」

 鈴谷にとっても現状は閉塞した日々だった。同僚も申し分なし、仕事は退屈だが平穏な日々、けれども満たされないモヤモヤした感情と、これから先を考えた時の不安。

「前に進むのを怖がっちゃいけないと思ってるんだけどな……」

 歳の離れた少女相手に自分は何を愚痴っているんだろうか。ふと、そんな気持ちになった鈴谷は話題を変えようとする。

 だが、彼女は至って真摯な気持ちで答えた。

「奥寺さんは……これからどうしたいんですか?」

「それは……」

 咄嗟に答えようとして言葉に詰まる。赤信号を見て、ブレーキを踏んで車を停めた。

 鈴谷は彼女を見た。その真っ直ぐ見つめる瞳――何かに悩んでいた今までの彼女と違う、力強い瞳――を見て、鈴谷は悟った。

「これから、どうしたいか」

 言葉を反芻しながら鈴谷は気がついた。彼女も変わりたい、変わろうとしたいのだ。自分を見て、そう決めたと思わせるには十分な気持ちが、その真っ直ぐな瞳にあった。

「決めた」

 鈴谷はそう言うと、青色になった信号を見てアクセルを踏んだ。

 いかに自分がちっぽけな事で悩んでいたのか、目標を見つけられないだけで何を焦って悩む必要があったのか。全て清々しく笑い飛ばしたい気持ちだった。

「……よし!決めた、今日はラーメン食べに行こう。私の奢り!」

「え?え!?」

 突然の提案に聞き返す彼女を横目に「うまいラーメン屋が近くにあるんだ」と言いつつ、鈴谷はハンドルを切って県道から脇道へと入った。

 

 

 

 

 

 うだるような暑さだった。壊れ気味の空調で何とか正気を保てる温度を維持している宿舎の自室で、ベッドの上に寝転がりながら、重巡艦娘の鈴谷はぼうっと天井を眺めていた。

 

 艦娘募集用ポスターは完全に詐欺だろうな、と鈴谷は心の中で思っていた。南洋の島々の白い砂浜で撮られた特型駆逐艦たちが完全武装でにこやかな笑みを浮かべる集合写真。実際は蒸した暑さの中で無理やり撮影しているのだろう、撮影終了後は汗だくで装備を脱いで空調の効いた場所に駆け込んだに違いない。

 今の時期――鈴谷が居る南洋の島々は、照りつける日差しと赤道特有の気温が相まってひどい物だった。それでも、異常気象に悩まされていた頃の日本に比べれば幾分かマシであった。

 

 あの年の夏、高校を辞めて彼女は艦娘になるため街を飛び出した。

 地本にいた特別親しかった艦娘――偶然にも今彼女が艤装を背負っている重巡、鈴谷――に後押しされ、艦娘の募集表を書き上げ、難色を示す両親を、生まれて初めて強く説得して艦娘になった。

 平野真奈美という名前の他に、特型駆逐艦「潮」という名前を持つことになった彼女は、新天地で艦娘として生きていく道を歩み始めた。

 あれだけ自信を持てずに学校にもいけなかった時代とは打って変わり、そこでかけがえの無い仲間たちと共に充実した日々を送った。

 

 同じ北海道から出てきた陽炎型、家業を引き継ぎたくないので艦娘になって家を飛び出してきた朝潮型、受験が面倒なので何となく艦娘になった白露型。共に養成学校の厳しい訓練を潜り抜け、下っ端の艦娘として結束した仲間たち。

 

 一緒に宿舎の相部屋で、ささやかな娯楽のB級映画を見てはゲラゲラ笑い、互いの境遇に共感を覚えたり、時には一緒に笑って、時には一緒に泣いた仲だ。

 そんな彼女たちと共に苦楽を乗り越え、佐世保基地に配属されてからは忙しくも充実した毎日だった。とは言っても、近海を移動する貨物船や客船の護衛や、哨戒任務、ごくたまに行われる掃討作戦の支援など、地味な仕事ばかりだったが。

 そんなある日、駆逐艦娘からのキャリアアップとして上官から艤装転換試験を薦められた彼女はそれに見事合格し、新しい艤装を与えられ、憧れの艦娘であった「鈴谷」になった。

 

 だが、その後に待ち受けていたのは、忘れ去ろうとしていた鬱屈とした日々の再来だった。前線部隊の配属となり、戦闘が増えるにつれて自分に課せられる期待や、周囲の艦娘と自分の実力とのギャップ、内地とは比べ物にならないきつい任務、それらが彼女に押しかかった。

 砲撃や雷撃、航行のテクニックひとつを取っても、周囲に追い付けなかった。指揮をする部下の駆逐艦に対しても、自分が適切な命令を下せているか、そもそも修羅場を潜った数でも圧倒的に上の彼女たちに、下に見られていないか?という不安がつきまとった。

 更に、当初に課せられた任務――主力艦隊の前衛となる長距離偵察任務や、連合艦隊の一員としての作戦行動――から早々にはずされ、前線より少し後ろからの補給任務や、哨戒活動と言った雑多な任務を就かされるようになってから、そういった不安はより大きくなる一方であった。

 そうした日々で生まれた言いようのない挫折感が、彼女の心に暗い影を落としつつあった。

 

 自室のドアがノックされる。返事を待つ間もなく、ドアを開けて艦娘が入ってきた。

 黒髪で、整った顔立ちをした眼鏡を付けた艦娘――上官の戦艦、霧島であった。

「鈴谷さん、そろそろ時間よ。準備をしなさい」

 はい、と霧島に促されるがまま、鈴谷は急いで部屋を出た。

 

 廊下を歩きながら、鈴谷は霧島からバインダーに挟んで渡された今日の輸送予定表に目を通した。前線のFOBに補給物資を届ける任務で、日を跨ぎ明日の朝にこの基地へ帰還するという長距離航海だ。鈴谷はその任務で護衛を担当する手筈だ。

 ひとたび基地を離れたら、あとはひたすら海の上だ。

「えーっと……今回の編成は?」

 自分と共に出撃する艦娘のリストを霧島に求めるが、霧島は「一番下」と答える。鈴谷は慌てて、自分が手に持ったバインダーの一番下に挟まれた書類に目を通した。

「しっかりしなさい。いつまでも内地気分が抜けないと困るわよ。今のあなたは海外派遣部隊の一員なんだから。日本だけじゃなく他国の艦娘もいるという事を肝に銘じて」

 霧島の説教めいた言葉に、はい、と鈴谷は答えつつ、げんなりした様子だった。

「それに今回の任務は舞鶴の主力艦隊への補給よ。輸送が失敗した日には佐世保艦隊の威厳というものが……」

 ぶつぶつと続く霧島の言葉に鈴谷は胃が痛む思いだったが、ぐっと堪えた。この人は根っからの嫌な上司じゃないし悪い人では無いから……と自分に言い聞かせながら、駆逐艦たちの待つブリーフィングルームへ一刻も早い到着を考える事にした。

 

 

 ブリーフィングを終え、出撃の準備をすませた鈴谷は基地の出撃用スロープへと向かった。すでに部下の駆逐艦たちは準備を始めており、用意された艤装を装着したり武装のチェックを行っている。

 

 鈴谷以外にも、様々な部隊の艦娘が忙しなく動き回っており、出撃用スロープから発進していく艦娘や、帰還してくる艦娘は途切れる事が無いように思えた。

 前線に一番近いこの基地は、大規模作戦の最中で慌しい空気となっている。佐世保のみならず、舞鶴、横須賀、呉などの部隊も展開しており、中にはタスクフォースと呼ばれるアメリカ海軍の艦娘部隊も混じっていた。

 とは言っても、精鋭の中の精鋭はここにはおらず、最前線――敵の海域深部への玄関口――のFOBで出撃を待っている。鈴谷がこれから補給物資を届けにいく、その場所だ。

 

 そんな中、一機の救難ヘリコプターが出撃用スロープ近くのヘリポートへと爆音を上げて着陸する。ローターの巻き起こす風が鈴谷の髪を強く巻き上げる程だった。

 何事か、と思った矢先に、着陸したヘリのキャビンが開き、基地の医療施設スタップが急いでヘリに殺到した。

 機内から担架で運ばれる艦娘を見て、思わず鈴谷は目を背けたくなった。血だらけの包帯が巻かれた頭部、応急処置はされているが深い傷を受けた肩と、血で染まった艦娘の制服。そのデザインから見て、古鷹型重巡のようだった。

 危険な状態である事は明白で、周囲の艦娘が彼女を「頑張れ」「助かるからな」と励ましていた。担架からストレッチャーに移されると、艦娘はそのまま基地内の医療施設へ搬送されていった。

 

 血の気が引く思いで様子を見守っていた鈴谷の隣に、準備を終えた艦娘――知り合いの駆逐艦、磯風がいつの間にか立っていた。彼女もその様子を並んで見守っていた。

「……横須賀の連中だ」

 ぼそり、と磯風は呟いた。「何でわかるの?」と鈴谷が磯風に尋ねると、彼女は答えた。

「さっき出撃から戻ってきた浦風から聞いた……全滅した部隊の生き残りらしい」

「……最後の一人」

 鈴谷は思わず声を出していた。

 精鋭部隊と言われる艦娘が、たった1人しか帰らなかった現実。

 それが、この前線での日常であった。

 

 

 

 

 制空・制海の両方を確保できない場所では、もっぱら輸送手段は彼女たち水雷戦隊の出番であった。最前線で戦闘を続ける艦娘たちへの強行補給――と聞こえはいいが、実際は「餌運び」と称される地味で危険な仕事だ。

 高速艇にありったけの物資を載せ、それを護衛しながら向かうだけあって、日本近海での商船護衛とは違う難しさがあり、護衛には非常に気を使った。それでも、高速艇すら使えず身体に持てるだけの物資を括り付けて移動する「鼠輸送」と称される補給方法に比べれば幾分かマシであった。

 今日は幸運にも、鈴谷たちは一度も敵と接触せずに目的地の島へと辿り着く事が出来た。

 

 島に接近すると、味方が見えてきた。砂浜にはFOB――複数のテントと、アンテナが伸びる通信設備、それから簡単な補給と整備設備があるだけ――が展開されており、鈴谷たち補給部隊の存在に気がついた艦娘が浜から手を振って合図をしていた。

 主機の回転数を落とし、速度を緩めながら転倒しないよう注意しつつ浜へと上陸する。

 

 浜に足が着き、陸地に上がった事を確認してホッとしながらも、鈴谷は出迎えた艦娘に敬礼で返す。艦娘の花形、正規空母の艦娘が敬礼をする。

「補給物資を届けに来ました、補給品のリストです」

「ご苦労様」

 少々無愛想な返事をしながら、空母の艦娘は受け取ったリストを、後ろに控えている旗艦と思しき艦娘へ手渡した。

 ようやく険しい片道が終わった事に安堵した鈴谷は、そのまま荷下ろしの様子を見ようと踵を返した。

 

「そこのあなた」

 後ろから声を掛けられ、鈴谷は振り返った。

 補給物品のリストを確認していた艦娘であった。すらっと伸びた背と纏まったスタイルに目を奪われそうになるが、その顔つきと茶髪のショートヘアは間違いなく一般人でもよく知るような、大物の艦娘であった。

 戦艦だ。

「名前と所属を聞いてなかったわね?」

 戦艦の艦娘に問われ、鈴谷は背筋を伸ばして敬礼を返した。

「佐世保第4艦隊所属、重巡洋艦鈴谷です」

 袖元に光る階級章から、鈴谷は思わず全身が緊張し背筋が伸びた。左官クラス、艦隊を現場で纏め上げる指揮官であろう艦娘だ。戦艦の艦娘はそれこそ花形の艦種で、最低でも左官クラスの人間がなれる物である。おまけに相手は“ビッグセブン”とも称される戦艦・陸奥だった。

 一方のその戦艦は、柔和な笑顔を口元に浮かべた。緊張している鈴谷を見て「取って食ったりはしないわ」と冗談めかして言った。

「私は舞鶴第1艦隊の陸奥、名前の方は奥寺でいいわ。堅苦しいのはナシで」

「奥で……」

 名前が、引っかかった。

 鈴谷の記憶の中に蘇るのは、かつて艦娘になる前に出会った“鈴谷”その人。底抜けに明るく、前向きだった、人生を変えてくれた人。

 鈴谷が艦娘になってから、地元の地本から姿を消しどこかへと転属して以来、彼女とは会っていなかったし、新人の駆逐艦娘が消息を追うのは無理であった。

 探し続けたその人なのか?いきなり言葉に詰まった鈴谷を見て、陸奥は目を丸くした。

「そんなに珍しい苗字でもないでしょ?それとも前に会ったことでも?」

 そう言われて、鈴谷は意を決したように――若干、潮だった頃の喋り方に引きずられながらも――問いかけた。

「えーっと、あ、あの、私の名前は平野真奈美です。人違いなら謝りますけど、もしかして下の名前は“加奈”ですか?北海道の基地にいた……」

 陸奥は思わず一瞬固まった。それから、すぐに鈴谷の肩を掴んで引き寄せた。思わず鈴谷は声を上げそうになるが、陸奥は鈴谷の顔をまじまじと見た。

「真奈美ちゃん……真奈美ちゃんなの!?」

 頷いた鈴谷を前に、陸奥――かつて“鈴谷”だった――は艤装を付けたままの彼女を強く抱擁した。心底嬉しそうな、そして懐かしそうな笑みを浮かべて。

「久しぶり!元気にしてた?」

 抱擁を解き、陸奥は鈴谷の顔を見るが、彼女の顔はすぐに涙でぐしゃぐしゃになった。

 色々なものが、堰を切ったかのように溢れ出ているようだった。

「お、奥寺さ……」

 名前を言おうとして、鈴谷は喉奥から漏れる嗚咽を堪えようとする。

 それを見かねて、全てを察したかのような陸奥は、もう一度鈴谷を優しく抱擁した。

「ごめんなさい、会うのが遅くなって。もう大丈夫よ」

 今度こそ、鈴谷は子供のように泣いた。

 

 

 

 

 駆逐艦娘だった頃、そればかりか艦娘でなかった頃のように泣きじゃくり続けた鈴谷が周りの視線に気がついて落ち着いた後、2人はFOBから離れた砂浜の、丁度いい流木に腰を下ろして夕日を眺めていた。

 あの頃――北海道にいた頃の――と同じ夕日と、夕焼けに染まる空を眺めながら、2人はようやく落ち着いて話を始めた。

 

「真奈美ちゃん、前線部隊に配属になったんだね」

「はい、色々あって」

「しかも“鈴谷”とはね……」

 最上型の制服をまじまじと見つめながら、陸奥は感慨深い様子で呟いた。

 自分の艤装転換前の艤装を背に、かつて自分が名乗っていた艦名を彼女が背負ったことに、陸奥はどこか数奇な運命のようなものを感じ取っていた。

「奥寺さんも、まさか“陸奥”になっていたなんて……」

 へへっ、と陸奥は笑った。

「どう?似合ってるでしょ」

 頭を飾るように付けられたアンテナを指でなぞりながらも、彼女は微笑む。だが、その顔もすぐに自嘲的な笑みへと変わった。

「実際装着してるとサイテーよ、アンテナの突起を壁に引っ掛けたりして最悪。空き缶に穴空けたりイヤホン引っ掛けるぐらいしか使い道ないんじゃない?」

「はぁ」

 感動の再会の余韻が一気に波のように引いていく気持ちになりながらも、鈴谷は「そう言えばこういう人だったよなぁ奥寺さん」と、昔を思い出して懐かしい気持ちになった。

 

 陸奥はそれから自分のこれまでを話し始めた。

 彼女を艦娘として送り届けた後に彼女の「これからどうしたいか」の言葉に奮起して、艤装転換試験を受けて見事「陸奥」の艤装への転換が決定したこと、舞鶴へ転属して後輩の艦娘を育成する事に尽力したこと、そして前線へ送られる後輩が不安でいてもたってもいられず自ら前線行きを志願したこと、そうして深海棲艦を千切っては投げている合間に階級が戦死したかと思うぐらい昇格し、いつの間にか艦娘としての任期も延長したこと。そして、自分を後押ししてくれた大切な後輩を探したが、多忙により適わないままここまで来てしまったこと。それを一通り打ち明けた。

 自分の選択が良かったかは正直わからない、と言いながらも、そう語る陸奥の横顔はどこか誇らしげで満足したものだった。

 

 鈴谷もまた、自分が艦娘になった事、駆逐艦から巡洋艦へ昇格したこと、前線部隊へ配属された事などを陸奥へと語った。

 一通り話終えると、相槌を打ちながら聞いていた陸奥は、諭すように優しく話始めた。

「で、真奈美ちゃん。今も色々悩んでるでしょ」

「……はい」

 やはり全て見通されていたか、と鈴谷は観念した。

 

 挫折、自分の限界、そして不安、全てを搾り出すように、そしてか細い声で語るうちに、鈴谷の喉元にまた微かな嗚咽がこみ上げて来た。

 全てを聞き終える前に、陸奥は優しく鈴谷の頭を撫でた。

「大丈夫。頑張ってるよ、真奈美ちゃんは」

 優しく語りかけながら、陸奥は続けた。

「やっぱり、私達似た者同士なのかもね」

「ぜんぜん似てないと思います」

 絶対似てるね、と陸奥は鈴谷の言葉に返した。

 

「私の力量じゃ全然追いつけないです、前線にいる皆にも、ましてや奥寺さんにも……」

「誰だってそんな短期間でいきなり追いつける筈ないじゃない。こういう事は焦らずゆっくりか、自分に出来る事や得意な事を伸ばす所から始めなきゃ」

 鈴谷の艤装になってからまだそんなに経ってないんでしょ?という陸奥の問いに、鈴谷は頷いた。

「おまけに佐世保の第4艦隊って事は、霧島(西宮さん)指揮の艦隊でしょ?あの子の性格からして真奈美ちゃんとは合わないタイプだろうし……違うかしら?」

 そんな事はないです、と鈴谷は言いかけたがこの言葉は喉に詰まって止まった。自分の感情で考えるなら、間違いなく図星だった。

「ここだけの話、佐世保の雰囲気に馴染めないなら、こっちに来てもいいのよ?こう見えて司令に根回し出来るぐらいのコネぐらいはあるし。何より私もいるからね」

 舞鶴はいつでも歓迎してるから、と陸奥は笑った。

「昔の私みたいに地本で未来の後輩発掘に勤しんでもいいし、どこかの分遣隊に勤務してのんびり仕事をしてもいい。私や後輩と一緒に鍛えなおして前線へまた戻ってもいい。もしあなたがそうしたいなら、私は喜んで手を貸すわ」

 鈴谷は、思わず目が潤んだ。目をこすって、必死に涙を拭った。

「険しい道を切り開くのも悪くは無いけど、別に楽な道を選んで歩いたっていいし、地図を見て自分の行きたいルートや目的地を気ままに決めるのも悪い事じゃないわ。全部、あなたの人生なんだから。好きにしたってバチなんて当たらないわ」

 陸奥は、鈴谷の目を見た。温かみを帯びるその瞳には、かつての自分と――そして、彼女にとって特別な後輩が映っていた。

 

「ねえ、真奈美ちゃん。あなたはこれから、どうしたい?」

 

 

 

 

 秋の昼下がり。暖かさが徐々に寒さに移り変わる季節。いつもより荒れるようになった日本海を窓越しに眺めながら、扶桑型戦艦の艦娘、山城は嘆息を漏らした。

 ここ、山形県の酒田基地は、南方や太平洋の前線とは無縁の平和な一日だった。インド洋方面での大規模作戦が終わり、各基地も一応は平静を取り戻しているようであった。

 しかし、大規模作戦後特有の人事異動――特に日本海側の「平和な基地」を中心とする使える艦娘の引き抜きは彼女の頭を悩ませていた。

 この規模の作戦後には退役や負傷の後送などで前線部隊に“空席”が出来る。その穴を埋める為には養成学校を出たての艦娘よりも、平穏な海域で雑務をこなしている艦娘を引き抜きたいという思惑が上層部にはあった。

 案の定、この酒田基地からも何人かお呼びがかかり、ここから太平洋側にある大型基地への転属が決まっていた。分遣隊から異動する人間が出なかったのは当たり前のことか、と山城は安堵はしたが、今度は大本である本隊の欠員を埋めなければならない。

 

 とは言っても、そう難しい物ではない。山城には階級章以上に古参としてのコネクションがあり、彼女と知り合いの基地司令や高官――彼女に対して恩義がある――は多く居た。

 そんな彼ら、あるいは彼女達から酒田基地に呼べそうな人員を回せるか交渉するのが、今日の山城の仕事であった。

 

 不意に、ドアがノックされる。「入るよー」と気の抜けた声と共に、1人の艦娘が山城の部屋へと入ってきた。

 背が低い、童顔の軽空母艦娘、瑞鳳であった。

「山ちゃん、仕事どう?」

 世間話に来たような口調で山城に語りかけるが、山城の顔は険しいままだった。

「山ちゃんと呼ばないでくれる」

 苛立たしげに書類を整理しながら、山城は瑞鳳の声に答えた。

 

 瑞鳳は勝手に部屋の隅にあったパイプ椅子を広げて山城の前に座った。

 図々しくも、山城が整理中の書類を勝手に拾っては目を通している。艦娘の現場指揮官である山城相手にそんな事をしようものなら部屋からつまみ出される行為だが、副官として酒田の艦娘ナンバー2の立ち位置にある瑞鳳だからこそ許される行為だった。

 山城はそのうちの一枚を手に取ると、瑞鳳へと渡した。

「重巡の補充はどうにかなりそうよ、この子がそう」

 手渡された書類に目を通しながら、瑞鳳は「可愛い感じの子ね」と感想を漏らした。

「奥寺が情報を持ってきたのよ。秘蔵っ子がいるってね」

「へー、カナちゃんが?」

 あの子は北海道の勤務だったっけ、と記憶を手繰り寄せている瑞鳳を前に、山城は書類から視線を外さずに答えた。

「今は舞鶴所属で内地に戻っているみたいよ。ゆくゆくは私と同じ指揮官でしょうけど、まだ現場が好きらしいわ」

「マゾだね」

「艦娘の病気みたいなものよ」

 山城はすっかり冷えたマグカップのコーヒーを飲み干した。

「この子の改装の準備も出来てるそうだから、航重改装後の訓練はあなたが教官役をやりなさい」

「その理屈なら山ちゃんも私に訓練される事になるよね?」

「……それだけは死んでも拒否するわ」

 ふと、山城は窓の外の空を眺める。

 まだ、この青い空の下で、あの破天荒な元重巡娘は元気でやっているのだろうか?そんな事を思い浮かべながら、山城は瑞鳳から書類を返してもらった。

 

 書類添付の写真には、堅苦しい表情の艦娘が写っている。元駆逐艦上がり、前線派遣経験あり、本人の希望で今から1年前に佐世保から舞鶴へ異動。名前は平野真奈美、艦種は重巡・鈴谷。

 報せを送ってきた彼女の「私の大切な後輩」という情報は、そこに載っていない。

 山城は舞鶴の知り合いに転属の話を持ちかけるべく、電話の受話器を取った。




【こぼれ話】
 夏コミでの分遣隊概念物理書籍を見て創作意欲が沸きに沸いた際に書いた一作。実は会場に持って行った端末に原稿データ入れていたが、帰宅後に半分近くリテイクして書き直した経緯があったり。(書き直し前は戦場から撤退する鈴谷が海上で陸奥と再会する展開で、「逃げ出す努力も時には必要」と鈴谷に諭す展開だった)半分くらいは陸奥回だったので増補版書きたいと思ってましたが、いつか番外編も書きたい所。
 実はあの台詞を中心に物語を組みなおしていて、平野(鈴谷)と奥寺(陸奥)という2人が同じ台詞を投げかけるという話にしたくて書いた作品。変えてくれた側と、変わった側が今度は別の立場で同じ問いを投げかける、という構図がお気に入り。
 概念を提唱している方のめっっっちゃ長いずーやん半生まとめを参考に話を組み上げましたが「恩師の元鈴谷との再会」の下りは完全にオリジナルで書きました。その方から8月末のイベントで直接「最高でした」の感想を頂けたのは至極恐縮でした。書いてて良かった。


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走り続けると決めた日

「響って昔何やってたか、聞いた事ある?」

 

 切欠は何の変哲も無い曙の一言だった。

 漁港の片隅に設置されたプレハブ建ての分遣隊、その“堂々たる司令部”階段下の喫煙所――実際には煙缶を置いただけの名ばかり喫煙スペースで、待機中の駆逐艦娘たちは雑談に興じていた。煙草休憩の名目で集まった彼女たちは、紫煙を吐きながら昨日の哨戒がキツかっただの、このあいだ釣りをしていたら大物が釣れただの、あの番組見た?等と他愛も無い会話をだらだらと続けていた。

 そのうち、誰かがそんな話を切り出したのだった。

 

「あー、アイツかぁ」

 喫煙休憩に入って二本目の煙草を口に銜えたまま、長月は記憶を掘り返していた。

「長月ってここでは響の二番目に長いじゃない。何か知らないの?」

「長いと言っても、アレだ、私は本隊に2回出戻りしてるいるし、それなら副隊長が長いんじゃないか?私もよく知らない」

 長月の隣で、煙草にぶら下がった灰を煙缶に落としていた皐月が頷いた。

「だったら那っちゃん隊長がよく知ってるんじゃないの?」

「那っちゃんはもういないだろ」

 長月が皐月の言葉へ突っ込むように答える。

「私が知ってるのは、前線帰りで、前の所属が舞鶴だった事くらいだ」

 でも噂なら幾つか知っている、と長月は続けた。

「噂話ではな、何でもヨーロッパ方面派遣部隊で地中海の奪還作戦に参加して、創設したばかりの艦娘部隊の教官やってたらしいんだよ。ロシア連邦海軍……黒海艦隊だって」

 さも本人から聞いて来たような内容であったが、長月の口調は半信半疑と言った様子だった。まだあるぞ、と長月は続ける。

「このあいだロシアで開発されたタシュケントの艤装作成にも一枚噛んでるらしい。何でも教官時代の響から取ったデータが火器管制のソフトウェアに一部組み込まれてるとか……」

 長月が言い終わらないうちに、皐月が吸殻を煙缶へ放り込みながら話に割り込む。

「ボクの聞いた噂話だと、両親のどっちかがロシアの人らしいって。後、パナマ運河奪還作戦に参加したんだって。沖縄の作戦にも参加したらしいよ」

「沖縄ァ?奪還作戦の時だとしてもかなり前じゃない」

 缶コーヒーを飲んでいた曙が驚きの声を上げる。

「でも那っちゃん隊長と同期だったって話は聞いた事あるよ。那っちゃん隊長の事よく知らないけど」

「あの人は放任主義だったな」

 皐月の言葉に長月は懐かしげに呟いた。

「でも、先任って噂じゃ経歴書に機密箇所があるらしいのよ。何があったの?」

 曙は怪訝な顔を浮かべるが、その問いに答えれる艦娘はいなかった。

「不正規作戦とかやってるような奴では無いだろうし……そもそも響の噂話ってどれが本当なんだ?本当に凄い経歴の持ち主なのか?」

 長月の問いに、皆が黙り込んだ。

 黙ってはいるが、全員が「それならどこかに保管されている経歴書を見れば早い」と思っていた。しかし、わざわざそれを試みる程でもない――そんな答えが全員一致で出ているのは明白だった。

 

 そのうち、午後の哨戒を終えた駆逐艦たちが戻ってきた。二階の隊長へ報告へ上がる艦娘や、喉の渇きを癒す為に真っ先に冷蔵庫へ向かう艦娘もいる中、話題のその本人が喫煙所へふらりと現れた。

 いつも通りの何を考えているかわからないポーカーフェイスの駆逐艦、響だった。

 

 煙缶の近くに設置されたベンチに腰を下ろすと、響はポケットからお気に入りの銘柄を取り出し、箱の底を人差し指で叩き、浮き出た一本を銜えて取った。

 喫煙スペースにいる全員が響をじっと見ていた。

「……何かあったのかい?」

 ライターを手に取ったまま止まった響を前に、長月は「ちょっと響に聞きたい事を話していた」と答える。響は「何だい?」と尋ねながら、ライターで煙草の先端に火を点けた。

「響が分遣隊に来る前に、何をしてたか聞きたくてな」

 ふぅ、と紫煙を吐きながら、響は一呼吸置いて長月の問いに答えた。

「想像にお任せするよ。どれも正解じゃないだろうし、間違いでもない」

 まーた適当にはぐらかして、と皐月はケラケラ笑う。

「それより曙。今日の晩御飯は?」

 響に尋ねられた曙は、気を取り直して答えた。

「漁港から魚の差し入れあったから……今日は久々に刺身と煮付けでどう?海鮮丼もいけるけど」

 おお、と喫煙スペースにいた艦娘たちがざわめき立った。そうこうしている内に話題は変わり、誰も響の過去について言及はしなくなった。

 

 

 その日の曙の料理はいつもと同じく大当たりで、終始ご機嫌な夕食であった。

 彼女の料理に舌鼓を打った響は、それから風呂に入り、一服し、歯を磨いてからいつものように宿舎の自室に入った。

 すでに時間は夜の10時で、就寝の時間が近づいているがまだ眠る気にはならず、机に置いたテーブルランプを点けてから、部屋の電気を落とした。自分のロッカーを開けて、ハンガーにかけた制服や私服をかきわけ、ブリキの缶を取り出す。

 随分前から使っている小物入れ用の平型缶だった。両手の平に収まるサイズのそれを取り出すと、響はイスに座って、机の上にそれを置いた。

 

 缶の蓋を開けると、そこには雑多な物が入っていた。

 捨てるに捨てられない小物、古い階級賞、あまり使う事の無い印鑑、普段持ち運ばないカードの類、それに混じって、一枚の写真を取り出した。

 響はそれを手に取った。

 

 部屋割りの都合で、自分だけしかいない部屋で助かった。そう思いながら響はその写真を眺めた。

 久しぶりに、写真の中の彼女に会いたくなった。

 

 

 

 

 ビーチパラソルが作る日陰の下、響はデッキチェアに背を預けながら海風と太陽の陽射しを、浜辺の真ん中で満喫していた。それこそ、ハワイやグアムのような観光地で見かけるような光景であった。

 しかし、彼女の服は水着でも私服でもない、艦娘の制服であり、その脇には太陽光に焼かれつつある完全武装の艤装一式が鎮座していた。彼女の周りには、当然ながら観光客どころか人の姿すら無かった。

 ここは太平洋のトラック島基地で、彼女は出撃に備えた艦娘である。警戒待機中の彼女は暇を潰していた。

 

「響ー!」

 遠くから彼女を呼ぶ声が聞こえた。響は、それが誰なのか声だけで理解した。

 彼女と同じ制服を着ている、暁型駆逐艦のネームシップ「暁」であった。彼女と違い、艤装を身に着けていない暁はとことこと歩いてきて、響が休んでいるビーチパラソルの下へ来てしゃがんだ。

「警戒待機解除だって、上がって休みましょ?」

「……もう少しここにいるかな」

 煙草を取り出し、口に1本銜えながら響は呟いた。

 暁は人懐っこい笑みを浮かべながら、響の隣にあるもう一つのデッキチェアに腰をかけた。

「じゃあ、私もー」

 どうぞ、と響は微笑んだ。

 

 響と暁は同期だった。性格には、暁は響よりも1ヶ月誕生月が早く、艦娘としてのキャリアは響の方が上だった。戦争が始まってから艦娘を志した彼女たちは、同じ部隊の艦娘としてすぐに打ち解けた。

 それこそ、家庭に居場所が無く、家を飛び出すように艦娘になった響にとっては、実の姉妹のような深い関係にあった。沖縄の奪還作戦、レイテ解放作戦、それから2人は初期の大規模作戦に参加し、世界を飛び回った。この地球に2人が行った事のない海は無かった、とも言えた。

 変に姉ぶろうとする暁と、それをからかう響は傍から見れば微笑ましい幼い姉妹であったが、酒も煙草を嗜む成人で、今までに屠った深海棲艦の数と潜り抜けた修羅場の数は、歴戦の艦娘である事を物語っていた。

 

「そう言えば、さっき新しい艦娘が来たみたいよ」

 とりとめのない会話を続ける内に、暁はそんな話を切り出した。

「新しい艦娘?」

「うん。私達と同じ舞鶴所属だってさ、増援として呼ばれたみたい」

「誰だろうね」

 少し興味が湧いてきた響は、ようやく腰を浮かして立ち上がった。

「見に行くかい?どこに居るのかな」

「指揮所にいるんじゃないかな――あ、煙草1本頂戴」

 暁の言葉に、響は口に銜えた半分まで吸った煙草を黙って差し出した。

「お姉ちゃんに吸いかけじゃないのはくれないの?」

「たった1ヶ月しか年上じゃないのに?」

 響の言葉に笑いながら暁はそれを受け取った。

 

 

 暁と響が指揮舎へと顔を出すと、司令官や艦隊指揮官との打ち合わせを終えた新しい艦娘が現れた。

 廊下ですれ違う前に、暁は声をかける。

「新しい艦娘さん?」

 気さくに話かけた暁に、そのツインテールの髪を揺らす艦娘――正規空母と思しき――は快く答えた。

「そうよ。舞鶴艦隊に新しく配属になった、正規空母の瑞鶴よ」

 なるほど正規空母か、と響は納得した。

「私は暁、長距離偵察部隊の艦娘よ、こっちは響」

「灰住なんて名前もあるけど、伊達と呼ぶ人もいる。好きに呼んでいい」

 暁と響は簡単に自己紹介をすませた。

 だが、彼女は、響の姿を見るなり引きつった顔を浮かべた。

 何かまずい物を見たような、そんな顔だった。

 

「ちょっと……待ってよ……嘘でしょ?」

 ぶつぶつとうわ言が漏れる。立ち尽くす彼女を前に、響は記憶の中から手繰り寄せた顔と名前を思い浮かべる。

「やあ。瑞槻、久しぶりだね」

「あ、あんた……」

 本名を呼ばれた彼女――瑞鶴はわなわなと震わせていた手を握り締める。一呼吸してから、気を落ち着かせた瑞鶴は平静を取り戻したようだった。

「――ここで会うなんて奇遇ね」

「何年ぶりだろうね?会えて嬉しいよ、本当さ」

 響はさっと手を差し出す、一瞬迷った後に、瑞鶴はその手を握り返した。

「忘れはしないわよ」

 強く握り返しながら、瑞鶴は言葉に静かな力を込めて呟いた。

「誰が忘れるものですか」

 

 瑞鶴が立ち去った後、隣で一部始終を見ていた暁は何事かと目を丸くしながら、響を見た。

 花形の正規空母、それこそ舞鶴の精鋭部隊にはお似合いの新鋭艦。そんな艦娘が響を知っている――と言うのは不思議な光景であった。もっとも、暁から見れば冗談みたいな経歴を持っている響には何があっても不思議ではない。

「さっきの正規空母、響の知り合い?」

 暁の言葉に、響は頷いた。

「ああ。昔水雷戦隊の新人指揮官だった、あの時は阿武隈だったかな?私が補佐していた」

「それだけの関係?」

「……それだけだと思うかい」

 響の複雑な顔を見て、暁は成る程、と理解した。伊達に長年組んでいるだけあって、彼女の性格とその言葉が、全てを物語っていると察した。

「……相変わらず響は女たらしね」

「向こうから告白して来たんだ。てっきり関係は自然消滅したものだと」

 肩を竦めながら、響は続けた。

「ま、後でじっくり話はしておかないとね……」

 

 

 その日の夜、とっておきの冷えた缶ビールを持って瑞鶴の自室へと向かった響は、この選択をした自分を呪いたくなった。

 最初こそ、積もる話を静かに片付けるつもりだった瑞鶴は、アルコールに踊らされるがままに感情を爆発し続けていた。近隣の艦娘から苦情が入るかと響は思ったが、幸か不幸か両隣の部屋は空室だった。

 すでに3本近くビールを空けた瑞鶴は大声で響に長年の感情を爆発させ続けていた。

「ほんっとサイテー!このクソ女!アバズレ!腐れ外道!」

「随分とご立腹のようだね」

 ちびちびとビールを飲んでいた響は、一向に収まらない瑞鶴の爆発に冷や汗を浮かべていた。

「あたしとの関係は遊びだったんでしょ!?」

 空になったビール缶を握りつぶしながら、瑞鶴は叫んだ。

「あたしがどんな思いで水雷戦隊の指揮をしてたか知らないでしょ!来る日も来る日も、慣れない業務や駆逐艦と作戦行動して、ようやく鳴れたと思ったら、煙みたいに消えちゃって!必死になって探して、それでも見付からなくて、忘れたくて横須賀まで行って必死に勉強して空母になって、古巣の舞鶴に戻って前線に来たら素知らぬ顔のあんたが居て、平静でいられると思うの!?」

「いなかったのはロシア政府からの公に出来ない仕事があってね、でもロシアの生活は楽しかったよ。黒海はとても良い場所なんだ」

「そういう話じゃない!!」

 机を破壊するかのような勢いで握り拳を叩き付けた瑞鶴は、すっかりアルコールが回った赤ら顔――酔いか怒りか解らない顔で身を乗り出し、響の襟元を掴んで引寄せた。椅子から腰が浮いた響は、声もあげずにじっと瑞鶴の目を見た。

 相変わらず綺麗な瞳だった。艦種転換で、軽巡から正規空母へと変わってもそれは同じだった。金髪だった頃に比べて更に綺麗になったかもしれない、と響は呑気に考えた。

「あたしが……あたしがどんな思いで……」

 わなわなと震えるその手は、やがて弱々しくなっていく。

「すまなかった。私に飽きて自然消滅したものだと、てっきり思っていた」

 響は呟いた。

「遊びだなんて思ってはいなかった。でも、ロシアに行く時に別れを言うべきだったと思う」

 瑞鶴の手が緩み、響を放す。

 がくり、と2人は椅子に腰を下ろす。頭を垂れた瑞鶴は泣いていた。

「ねえ、今別れるのなら、最後に私の願いを聞いて」

「何だい?」

 瑞鶴は顔を上げた。

「今晩だけは、私と一緒にいて」

 懇願するような言葉に、響は頷いた。

「いいさ……気が済むまで」

 

 

 

 

 1週間後、響たちはトラックから遠く離れた海の上にいた。

 彼女たちの任務は「パスファインダー」とも呼称される危険な長距離偵察だ。

 海を真っ赤に染める深海棲艦支配海域に突入し、敵海域の中から突破できそうな箇所を探す。それを元に、本隊の連合艦隊が「深部」を叩くためのルートを切り開く――実際には天候や状況に運も絡むが――という危険な任務である。

 まともな艦娘が付く仕事ではないため、こういった長距離偵察任務は自ずと各基地で最も手練のベテラン艦娘たち、それも水雷屋として長年勤め上げてきた軽巡や駆逐艦たちが行う事が多い。

 今日の出撃もまた、いつもと同じ面子であった。

 旗艦の軽巡1隻、響と暁、そして3隻の駆逐艦――舞鶴の主力部隊の栄えある駆逐艦娘たちで編成された部隊だ。この中で一番経験豊富なのは響で、事実上の隊長でもあるが、他も負けず劣らずで、開戦以降、幾多もの激戦を潜った女たちであった。

 

 バケツをひっくり返したような赤色に染まった海面を走りながら、深海棲艦の支配海域を通行するのはいつも肝が冷えた。

 しかし、いちいち気にしていたら務まらないのが長距離偵察部隊で、響は並みの艦娘が逃げ出したいと思うようなその海域を、警戒しながら進んでいた。

 

「……このルートで合ってるといいんだけど」

 双眼鏡を片手に周辺を警戒していた夕雲型の艦娘が呟く。

 海図を引っ張りながらルートを選定していた旗艦の軽巡は、困ったような声を上げた。

「予想よりも“行けそうな”ルートを選んだつもりだけど……静か過ぎるわね」

 その言葉に、併走して警戒していた響は少しの緊迫感を憶えた。

「静かすぎるのは、良くない」

「私もそう言おうと思っていた所」

 響の言葉に、暁が続ける。

「上手く行き過ぎてる」

 

 この任務において平穏無事という事は、まず無い。

 いつも、何かしらの敵と遭遇し生傷を増やして帰還するのが常な仕事だ。それなのに、このルートを選択してから駆逐艦の1隻とも遭遇はしていなかった。

 軽巡がレーダーの画面に目を光らせる。

 いつもなら軽口の応酬が続いていたが、いつしか全員が押し黙り、周囲の警戒を続けている様子だった。

 

「レーダーに感あり、距離180、方位は――」

 レーダーの画面に視線を落としていた軽巡の艦娘が、顔を上げた瞬間。水柱が針路上に立ち昇った。

 ――接敵か、いや、まだこちらも確認していない筈なのに。

「散開ッ!」

 そう響が考えた瞬間。軽巡は大声を上げて散開を指示する。その瞬間、6隻は一糸乱れぬ状態で散開する。遠距離からの砲撃を受けた際に行う基本行動だった。訓練と場数が物を言う。

 遠くから砲撃の炎が光り、砲弾が空気を切り裂く飛翔音が響き渡る。

 戦艦クラス……または「姫」クラスと称される最脅威目標からの砲撃だと響が知った瞬間、恐れていた事態が起こる。

 響の反対側へ散開していた艦娘が、水柱に飲み込まれた。

 その瞬間、爆発と炎が上がり、水しぶきが離れようとしていた響に張り付いた。水滴が海面に降りかかる中、ぼとぼとと金属の破片――特型駆逐艦の艤装だった物が降り注ぐ。

 それに混じって、水面に落ちていく制服の切れ端が視界に映ったが、響はそれを深追いしないようにした。

 “それ”は布だけではなかった。

 

 そして、砲弾が飛んで来た方向を見て響の背筋に冷たい物が走った。

 そこは、先ほどまで自分たちが通過していた地点であった。

アンブッシュ(待ち伏せ)だ!」

 アドレナリンが迸る絶叫に近い声が無線越しに響き渡る。

 完全な待ち伏せだった。偵察部隊は魔女の大鍋へと放り込まれていた。

「撤退します!私について来て!!」

 軽巡の頼り甲斐ある言葉に、残りの艦が呼応しようとするが、飛び交う砲撃の嵐がそれを妨害する。

 深海棲艦の航空機がいないのがせめてもの救いか、響にはそんな事を考える余裕があった。もっとも、それは一時的な物だ。脳裏の片隅に追いやった僚艦の戦死という事実だけは消える事は無い。

 頑張って旗艦へ付いていこうと、応戦をしていた夕雲型が踵を返そうとした瞬間、飛翔してきた砲弾が彼女の身体で爆ぜた。爆発と共に艤装の破片が撒き散らされるが、直撃を免れたのか水煙の向こうにあったシルエットは人の姿をまだ保っていた。

 だが、それも2発目の直撃で粉々に打ち砕かれた。

 

「戦死2名、まずいぞこれは」

 感傷に浸る間もない切羽詰った陽炎型の言葉に、軽巡は少しの間、沈黙した。

「響、こっちへ!」

 言われるがまま、響はスピードを上げながら軽巡の横につける。無線も必要ない程に距離を詰めると、軽巡は手に持った海図と偵察データを投げ渡す。響はそれを受け取った。

「頼んだわ、響なら突破出来る」

 そう言われ、響は黙って頷いた。

 

 軽巡は陽炎型へと指示を飛ばす。

「暁と響を援護するわ、私に付いてきて!」

 そんな無茶な、と彼女は声を上げるが、軽巡は覚悟を決めた顔を浮かべて話しかける。

「水雷屋の端くれなら――」

「――当たって砕けろ」

 わかってるわね?という軽巡の言葉に陽炎型は頷いた。

 彼女も駆逐艦娘として覚悟を決めた様子だった。2人は、暁と響とは逆の方向……今まさに追撃せんとする深海棲艦の大部隊へと針路を変える。敵の砲火を引き付けながら、時間を稼ぐため進んでいく。

 

「響ッ!」

 暁が声を上げる。

 私についてこい、そう語りかけるような力強い眼差しを向けられた響は頷いた。主機が唸り声を上げ、派手に海水を巻き上げながら2人の特型駆逐艦はぴったりとくっ付くように接近すると、速度を上げた。

 自分たちがどこを走っているかは大体の見当がついていたが、その先が包囲を脱出し友軍の確保する前線へ戻る出口なのか、それともすり潰され、水面に飲み込まれていく地獄への入り口なのかは知る良しも無い。

 海面から姿を現し、咆哮を上げて襲い掛かろうとするイ級を主砲で牽制し、蹴散らしながら2人は後ろも振り返らず進み続ける。

 速く。

 ただ速く。

 

 殿軍を勤めた友軍の砲声もいつしか途絶え、深海棲艦の砲声だけが響く中、2人はただ全速で走り続けた。

「思い出すよ」

 響は手に持った連装砲から空になった弾倉を引き抜いて投げ捨てる。

「レイテ湾もこうだった」

 落ちた空の弾倉が沈むよりも速く、新しい弾倉を連装砲に押し込みながら響は冷静に呟く。

「縁起の悪い事を言わないで、あれよりはマシでしょ?」

 暁が海面を蹴って飛び跳ねたイ級を空中で撃ち落す。連装砲の一撃で頭部を消し飛ばされたイ級が、暁の頭上を飛び越えて海面に激突する。

 豪雨のように降り注ぐ砲弾が水柱を何本も海面に作りあげる中、響は海面を踊り子のように舞いながら後ろを振り向く。速度を上げて追いかける深海棲艦の重巡と雷巡を見ながら、響は魚雷をすべて発射した。

 海面に吸い込まれた魚雷が、扇形に広がる。2本は外れたが、残りは命中し水柱と爆炎を上げる。

「魚雷はカンバンだよ、脱出まで持つかな?」

 すぐさま前に向き直ると、響は報告した。

「大丈夫よ、私ならまだ――」

 

 何かを言おうとした暁が、不意にある方向を向く。

 それに気が付いた瞬間、飛んで来た深海棲艦の小口径砲弾が鈍い金属音を立てて暁の艤装に命中する。その瞬間、主機から黒煙が上がり、暁はがくりと速度を落としていく。

 響は声を上げ、落伍しかけた暁の手を掴んだ。

 暁が驚きで眼を見開いたのは一瞬で、煙突から黒煙と炎が盛大に噴き出したのと、速度が目に見えて落ちていくのを見て、嫌に冷静な顔へと戻った。

 ――ダメだ。

 響が叫ぼうとした瞬間、暁は響の顔を見て微笑んだ。

「放して」

 懇願するような、泣き喚く子供を諭すような声だった。

 戦闘の音にかき消されるような小さな声は、何故か響の耳にはっきりと飛び込んで来た。

 

「ダメだ」

 ぐい、と力を入れて響は暁の手を引っ張ろうとする。

「お姉ちゃんの言う事が聞けないの?」

「1ヶ月生まれたのが早いだけで?」

 軽口が出たが、ばらばらと大雨のように水柱で巻き上げられた海水が前身を打つたびに響は焦った。辺りを見回すと、大量の深海棲艦が彼女たちを包囲せんとしていた。

 どうすればいい、と響は自分に問いかける。艦娘としての人生で、ここまでの窮地は無かった。

 余裕の無さが沈黙を生み始める。包囲の穴はどこか、彼女を引っ張り続ける事で速度はどれほど落ちるか、残弾は、深海棲艦の数は。

 そんな事を考えている内に、響は残酷な結論へと辿り着こうとしていた。暁がすぐに出した結論に。

「鈴音ちゃん」

 暁は、響の“名前”を呼んだ。

 

「先に待ってるから。走り続けて、何があっても」

 暁は連装砲を構えると、水面にその砲口を向ける。

「ダメだ!」

 響が大声を上げる。暁は、ニッコリと笑った。

 暁が連装砲のトリガーに指を掛けた。

「最後くらい、お姉ちゃんでいさせて」

 

 爆発音。

 水しぶきが上がり、その衝撃で響の手は暁の腕から剥がれた。

 速度を落とし、徐々に距離が離れていく中で響は必死に手を伸ばして暁に触れようとするが、腕は虚空を掴むばかりで彼女を捕える事は出来ない。響は速度を落として、彼女を再度掴もうとするが、近寄よろうとする響を拒むかのように連装砲が向けられた。

 暁は笑って、手を振ってから踵を返して、追撃してくる深海棲艦へと向き直る。

 機関が故障し、小さな爆発が起こる中、暁はその連装砲を振りかざして叫ぶ。

 空気を震わせる声――悲鳴ではない、荒々しい戦士のような叫び声が、響の耳へと突き刺さる。正視する事が出来ず、響は前を向いて全速力で海を走り続けた。

 

 砲声と爆発音が響の背中に反響するが、やがて、それは遠く離れるに連れて小さくなり、消えた。

 

 響が傷一つなく戻ってきた事は、驚愕と共に迎えられた。

 舞鶴の艦隊にとっては忘れられない一日であった。長距離偵察部隊の一人だけの帰還。全滅で終わらなかった事に艦娘たち、そして指揮官たちは驚いたが、響の報告が上がるに連れて、それは奇跡とは程遠い、犠牲の上に築いた結果だと誰もが知る事になった。

 

 大規模作戦の終了が上層部から伝えられ、ここトラックの前線基地ではひとまずの平穏が続いていた。

 あの出撃から2週間が立ち、深海棲艦の主力部隊を撃退した事で勝利に沸き立つ部隊も多かったが、手痛い犠牲を払った舞鶴の海外派遣艦隊は、どこか厳粛とした雰囲気に包まれていた。

 彼女たちは、内地での通常任務へ戻るため、トラックを後にした。

 

 

 

 

 舞鶴基地の宿舎屋上で、響はベンチに座りながら空を見ていた。

 屋上まで上がってきた瑞鶴は、晴れ渡った秋の青空を見ながら、響の下へと歩み寄った。

「ねえ、響」

 瑞鶴は響の名前を呼ぶ。

 反応は無かった。ただ、黙って虚空を見つめながら、長々と灰を蓄えたままの煙草を手に持ち続ける。煙草の煙だけが、風に揺られていた。

「響」

 もう一度瑞鶴は名前を呼ぶ。

 ようやく、響は目だけ動かして瑞鶴を見た。

「……どうしたんだい?」

 響は静かに尋ねた。瑞鶴は溜息を吐きながらも、響の隣に座った。

「どうしたもこうも無いでしょ」

 元気ないじゃない、と瑞鶴は続けようとするが、言葉が出なかった。

 あの出撃で何が起こったかは、報告書を読んだ瑞鶴には手に取るように解っていた。彼女にとって触れてはいけない部分に踏み込むのではないか、そんな怖さを感じてしまう。

 

 前線での任務を終えて帰国してから3ヶ月、彼女は一変してしまった。

 仕事はこなし続けていて、艦娘として海の上にいる事もあれば事務仕事をする事もある。後輩への指導も行っているし、完璧な仕事と言える。ただ、仕事中であってもプライベートの時間であっても、彼女はまるで抜け殻のように生きていた。

 会話は必要最低限。呼びかけても反応が無い時もあれば、丸一日ベッドから出てこない時もある。かと思えば明らかに溺れるように酒をあおる事もあり、酒に強い彼女が潰れる日も時おり見かけた。

 まるでロボットのように、ただ艦娘として生きているだけの彼女を見て周囲も避けているように思えた。本来であれば響とよくつるんでいる付き合いの長いベテランの艦娘たちがいたが、その艦娘は、あの太平洋の水面へ消えて二度と帰ってこなかった。

 他の艦娘たちも、響の階級と立場を考えて話かける事が中々出来ず、彼女へ積極的に接しようとする付き合いの長い艦娘と言えば瑞鶴ただ1人となっていた。

 

 2人の間に沈黙が続く間、響は煙草の火を消すと、また新しい煙草を手にって口に銜えた。

 慣れた手つきでライターを手に取るが、オイルが切れているのか、火花だけが散るだけで、フリントを削るジャリジャリとした音だけが響き渡った。

 見かねた瑞鶴が、ポケットから安物の電子ライターを取り出す。

「ほら」

「ん」

 短く返事をすると、響は瑞鶴にようやく煙草に火をつけて貰った。

 紫煙をふぅ、と吐きながら、響はまた押し黙った。

 瑞鶴は、ベンチに置かれた響の手にそっと手の平を重ねる。響はそれを拒絶せず、不意にぐっと握り返した。冷えた響の指は、微かに震えていた。

 沈黙と時間だけが流れる中、瑞鶴はただ、彼女が元通りになる事を心の中で祈る他なかった。

 

 

 

 

 翌週の舞鶴基地は忙しかった。

 午前中に大規模演習があり、それぞれの部隊が出払っていたこの日は膨大な事務作業が残っていた。瑞鶴もまた、基地のオフィスで上官である最近来た艦娘――陸奥と遅くまで書類仕事に追われていた。

 艤装転換を終えたばかりで「陸奥」としての日は浅かったものの、瑞鶴にとっては歳が近く親しみ易い雰囲気の新しい上官で、実際に1ヶ月前の赴任とは言え、気さくにあだ名や本名で呼ぶほどの仲になっていた。

 

「ねえデラ(奥寺)さん」

「何?」

 書類を整理していた陸奥に、瑞鶴は話かけた。

「響の事なんだけど」

「ああ、あの子ね。大方、言いたい事は解るわ」

 陸奥は渋い顔を浮かべながら書類を整理する手を止めた。

「どう接していいかわからない、って話でしょ?」

「そうだけど……」

 どうしていいのかわからない、という瑞鶴の言葉に陸奥は唸った。それから少しの間を置いて答える。

「あの子は多分、心の整理が追い付いてないんだと思う」

「心の整理?」

「そう。響が前線から戻った後、前任の隊長は響をいつもの任務につかせたでしょ?精神的なショックにならないように、敢えて仕事を与え続ける事で気を紛らわせる為だったんじゃないか、って思うのよ」

 そうすれば向き合える余裕がそのうち出来てくるから、と陸奥は続けた。

「でも、あの子の場合は様子が違う。亡くなったのは家族以上に親しかった戦友だって聞いてるし、後の4人だって、響とは公私で付き合いもあったという話は聞いているわ。トラックに帰還したあの日から、あの子は“壊れて”しまったんじゃないかと思うの」

 その話に、瑞鶴は思わず怖くなった。

「私だって、僚艦全員を一気に失うなんて事は無かった。まして、あの部隊で戦死した暁は一番付き合いが長かったらしいから、心の傷も治りづらいと思う。もしくは、もう一生治らないかも……」

「……そんな」

 瑞鶴は言葉に詰まった。

「私だって、大切な後輩が死んだなんて聞いたら立ち直れない」

 陸奥はデスクに飾った写真に視線を移す、そこには鈴谷だった頃の彼女と、艦娘ではない少女が笑って写っている。

 だからこそ、私は現場に居続けなきゃいけないんだけど、と陸奥は続ける。

「でも、艦娘となった以上は事実と向き合わないといけない。艦娘になるという覚悟はそういう事よ。これ以上酷くなるようなら、一度横須賀のリハビリセンターにでも連れて行くしか……」

 机の上に置いたコーヒーに陸奥が手を伸ばした瞬間、部屋のドアを荒々しく叩く音が聞こえた。

 

 勢い良くドアを開けたのは、彼女の部下の駆逐艦だった。

 走ってきたのか、ぜえぜえと息を切らしながら、その駆逐艦は部屋の中に上官がいた事に安堵した。ただ、それは一瞬ですぐさま不安な表情へと戻る。

 いきなりの出来事に陸奥は目を丸くするが、すぐに「どうかしたの?」と声をかけた。

「響が……響がいません!外出したきり戻ってこなくて」

「基地の外まで買い物にでも出かけたんじゃない?」

 陸奥が「何を大袈裟な」と言わんばかりの声で返すが、不意に書類を纏めている手が止まった。彼女の怯える声と状況から、ある可能性が脳裏へ浮かんでいた。

「……いつから?」

「夕方です、1700くらいから」

 陸奥は反射的に時計を見る。時刻は既に夜の2100だ。

「響と連絡は?」

「ダメです、携帯電話も、仕事用の携帯も置きっぱなしです。それから……」

 彼女は震える手で、一枚の紙を差し出した。

「これが響の机の上に」

 陸奥は急いで席を立つと、彼女の手から紙を受け取った。数行だけ読み終えた所で、陸奥の顔はたちまち青醒めた。その顔は一瞬で、報告に来た彼女にすぐさま向き直る。

「基地司令へ報告は?」

「まだです」

「今すぐ!私は待機中の部隊を呼び出すわ、復唱しなくていい、早く!」

 陸奥の言葉に、彼女は「はい!」と答えると部屋を走って後にした。

 何事か、と事態を見守っていた瑞鶴だったが、デスクに置かれた電話の受話器を掴み、すぐさま内線を繋ごうとしていた陸奥が瑞鶴にその紙を手渡した。

「何があったの?」

 まだ状況をよく掴めていない瑞鶴だったが、手渡された紙を見て瑞鶴は全てを理解した。

 響のたどたどしい筆跡と、それに踊る文字達。

 

 それは自殺を仄めかす内容の遺書だった。

 

「あの子、死ぬつもりよ。もしかしたら、もう遅いかも」

 陸奥の言葉に、瑞鶴の全身から血の気が引いた。

 

 

 

 

 真夜中の日本海を眺めながら、響は砂浜に腰を下ろしていた。

 秋の肌寒さを感じながらも、煙草の火と、後ろの道路の街灯だけがぼんやりと輪郭を照らす闇の中で、響はカウントダウンを始めていた。この煙草を吸い終わったら、すべてを終わらせる予定だった。

 

 響は簡単な遺書を書き、自室の机の上へと置いていた。止められるのも嫌だったので、自分の携帯も、仕事用の携帯も置きっ放しにしてきた。

 それから、適当な理由をつけて夕方に基地をそっと抜け出した。タクシーを拾い、人気の無い浜を選んで降りてから、そこで暫く物思いにふけった。幸い、誰も来る事は無かった。

 

 艦娘になった時の事。

 艦娘として忙しく駆け回り、世界中を旅した事。

 激しい戦闘の中で色々な出会いと別れがあった事。

 同僚と恋仲になって、結局別れて、また再会した事。

 大切な仲間たちが、全員太平洋に散った事。

 目の前で親友が死んでいった事。

 自分だけ、そこで生き残ってしまった事。

 

 煙草を一本、また一本と吸い終えるたびに思い出を振り返り、最後の一本を消費した。

 フィルターのギリギリまで吸い終えた煙草を捨て、全て吸い終えて空になった箱を脇へと置く。

 時間だった。

 

 艦娘の自殺はニュースになる。響も、恐らく新聞の片隅に名前が載るだろうし、親族にも悲しい報せが届くだろう。死を嘆く同僚もいるかもしれない。

 今この時間、もしかしたら響が基地に戻らない事に不安を感じている同僚や、遺書を見つけて必死に響を探そうとかけずり回っている同僚もいるかもしれない。

 でも、それは結局、いつか時間の流れに忘れ去られるだろう。ニュースは記憶になり、記憶は記録になり、いずれ埃を被り、古い遺跡のように埋もれ、やがて風化する。

 遺書をもう少し丁寧に書いておきたかった事を悔いたが、響は気にしない事にした。

 どうせ死ねば気にしなくていい。

 

 艤装を付けてなければ、海に浮く事はない。浮く者もごく稀にいるが、響は前者だ。

 打ち寄せる波が、裸足のつま先に触れる。冷たい感触を感じながら、響はただただ、暗闇に溶けた水平線の向こうへ行きたかった。

 ――そこで彼女に会えるだろうか?

 くるぶしまで波に漬かりながら、響はそのまま歩き続けようとする。

 

「随分季節外れの海水浴ね」

 不意に後ろから、声を掛けられる。

 響は振り向こうともしなかった。振り向いて確認するまでもない。

 足を止めて、その声の主に尋ねる。

「邪魔をしないで欲しいな、瑞鶴」

 後ろに立っているであろう正規空母に刺々しい言葉を投げかける。

 どうしてここがわかったんだい?と響は尋ねるが、瑞鶴は空を指差して「夜偵を飛ばした」と答えた。

「舞鶴から海の底にでも転属するつもり?深海棲艦になって帰ってきたら許さないわよ」

「笑いに来たのかい?それなら他所の奴を当たってくれないか」

 ポケットからスキットルを取り出し、中身をくいっと煽ってから、響は険悪な声色で瑞鶴の言葉に返した。

「笑いに来たんじゃないわ、止めに来たのよ」

「ならお断りだね」

 響は即答した。

 一歩、二歩と足を進める。冷たい海水が、ふくらはぎまで触れていく。

「……私の旅はもう終わったんだ、放っておいてくれ」

「馬鹿じゃないの」

 瑞鶴の静かな言葉を聞いて、響は足を止める。

 

 沈黙が流れる。

 打ち寄せる波の音と、髪を揺らす風の音だけが2人の間に響いた。

 沈黙を破るように、瑞鶴は口を開いた。

「何で、あんたが死ぬ必要があるのよ」

 瑞鶴の声は震えていた。

「また私を置いて、どこへ行くつもりなの?ねえ」

 響はすぐに答えなかった。

「彼女の所へ行けると思うから」

「行ってどうするつもりなの?“私は自ら命を絶って全てを投げ出して会いに来ました”って頭下げて言うつもり?」

 うるさい、そう言おうとした響だったが言葉は出てこない。

 お節介だと思う言葉が、今は不思議と懐かしく聞こえる。

「あの子は死んだ、でもあんたは生き残った。あの子にとって、響が生き残る事は本望だったに違いないわ」

 瑞鶴は、喉の奥から搾り取るようなか細い声になりながらも、続けた。

「だから、お願い」

 震えはじめた声は、今にも途切れて消えてしまいそうだった。

「もうやめて」

 

 ――足を進めたい。

 ――この冷たい海に、溶けるように消えていきたい。

 そんな気持ちが、瑞鶴の言葉にかき消されていくような、そんな気がしていた。

 

 響は口元を僅かに釣って微笑んだ。

 自嘲ともつかないそれは、寂しげな笑みへと変わった。響はスキットルをポケットへ仕舞い込みながら、振り返って瑞鶴を見た。

 瑞鶴は、今にも泣き崩れそうな顔をしていた。

 

 

 引きずられるように浜から連れ出された響は、そのまま道路へと戻った。

 急いで停めてきたであろう瑞鶴の車と、同僚の陸奥の車が車道の脇に停められていた。不安な表情を浮かべていた陸奥の顔が、響を連れてきた瑞鶴を見て安堵の表情へと変わった。陸奥はすぐさま携帯を取り出して上官に電話を掛ける。この騒ぎの顛末は基地司令にも届けられるだろう。戻れば大騒ぎに違いない。

 なるべく大事にしてほしくないな、とふてぶてしく思っていた響だったが、すぐに瑞鶴に引っ張られ、車の助手席へ手荒に押し込められた。

 さっきとは打って変わり、腹を立てている様子の瑞鶴は、運転席に座るなりご丁寧にドアへチャイルドロックまでかけると、窓から顔を出して「デラさん、この馬鹿送ってくる!」と叫ぶなりエンジンを回して急いで車を発進させた。

 

 基地までの道のりを走らせながら、気まずい沈黙が流れる。

 しばらくしてから、沈黙に耐えかねた瑞鶴が口を開き始めた。

「死ねば、あたしへの良いトラウマにもなるって思ってたでしょ。絶対忘れないだろうって」

「まあね」

 響は淡々と返した。

「元カノに一生消えない傷を残したいとか、あんたって本当にサイテーね。それとも」

 瑞鶴は溜息を吐きながらも続けた。

「“覚えていてほしかった”から?」

「……うん」

 響の返事に、瑞鶴は一際深い溜息を吐いた。

「忘れるわけないじゃない……ばか」

「だと思った」

 シートに背を埋めながら、響は微かに笑った。

「……ねぇあんた、自分のした事が分かってるでしょうね?非番の連中も呼び出して海からも捜索したし、隊どころか府警まで動員してあんたを探しに駆けずり回ったのよ。この落とし前はキッチリ付けさせて貰うわよ」

 苛立たしげに捲くし立てる瑞鶴を前に、響はげんなりとした顔を浮かべた。

「今さっき死のうとしてた人間相手に容赦ないね」

「当たり前よ」

 瑞鶴の運転する車は基地へと近づいていく。

「あんただって、泣く時は泣くのね」

 瑞鶴にそう言われ、響は頬を指でなぞる。生暖かい体液が、指先に触れた。

 ぼろぼろと、忘れようとしていた感情を思い出して、涙が溢れていた。

 

 

 

 

 分遣隊の自室で写真を眺めていた響は、それからの事を思い返した。

 

 基地司令官は怒ったものの、最終的に響を仕事へと復帰させた。前例の無い騒ぎを起こした割には寛大な処置と言えた。

 それから暫く艦娘として働き続け、艦娘として引退しようと思っていた矢先に山形の基地から呼び声がかかった。それも、響が昔前線で肩を並べて戦った一期生同期の数少ない生き残り、戦艦山城からの直接の命令であった。

 瑞鶴との関係も、今度こそそこで終わる事になった。彼女は、再び前線へと舞い戻る事を決めた。

 別れの朝に「あんたと会う事が無くなって清々する」と虚勢を張った瑞鶴は、結局、彼女と別れる寸前に堪えきれずに泣き出した。

 そんな彼女を見ながら、響は大きく手を振って別れた。

 願わくばまた会える日が来るといい――そうも思ったが、恐らくそれは叶う事はないだろう。 

 新天地の漁港分遣隊の仕事は決して平穏無事と言えるような事も無かった。不穏な空気の中で始まった田舎町の仕事でも、嵐がやって来て、過ぎ去った。

 ただ、今は平和そのものだった。願わくば任期が終わるまで、それか、この分遣隊が必要とされなくなる日まで平和である事を願うしかない。

 

 手に取った写真の彼女は笑っている。隣に座る自分は、今とそれほど変わらない。

 だが、写真に写る彼女は決して歳をとらない。

 記憶になり、思い出となった彼女の事をふと思う。一度は自分から会いに行こうとした、彼女を。

「……もう少し艦娘でいようと思う」

 独り言を口から漏らす。

 寂しげな微笑を浮かべてから、響はその小さな指で写真をなぞる。

「そっちに行くのは遅くなるけど、それぐらいは許してほしいな。まだ、ここにいる後輩の面倒を見なきゃいけないから……」

 そう言うのも無理はない。

 何人かが本隊へ異動となり、近い内に新しい後輩――特型駆逐艦がやってくる。この1人部屋状態の響の自室も、もうじき相部屋になるはずだ。新人が来れば忙しい日がくるだろう。楽しみなのか面倒なのか解らない気分ではあったが、響にとっては恐らく前者だ。

「それに、ここは飯も美味いし仕事も丁度いい。ここにいたら良かったのに」

 

 響はその写真を大事に缶にしまい込む。

 ロッカーへと缶を戻すと、テーブルランプを消して、そのままベッドへ入った。

 昼の疲れが眠気になって押し寄せる中、まどろみの中で響は懐かしい仲間たちに向けて心の中で「おやすみ」を呟き、そのままいつもの明日を迎えるため、眠りに落ちていった。

 




【こぼれ話】
 響が主役の回。概念のまとめで積み上げられた響もといヒビキチャンというミステリアスなキャラの過去を描く、という一作ですが完全に手癖を全開にして書いた回でした。帰省中ほかにやる事がなくひたすらこの回の原稿書いてた思い出。
 響本人から語られる物語ではなく、防人ガールズの各々が持ち寄った「響の噂」を供述していく形でストーリーを作ろうと思ったのですが上手くいかなかったので直感に頼って響の過去を描きました(冒頭はその名残)。この子何者なんですかね。ヒビキチャンヨクワカラナイ。
 元上官の恋人、苛烈を極める戦場、家族より親しかった戦友の喪失、尖った言い回しなど、かなり書いていて冒険した作品でしたが、いつもの作風はあんな感じです。
 あの時、「走り続ける事」を選んだ響が、解隊という「走り終える時」まで何を知って何を得たかは、いつか書いてみたいし、いつか来る地元出身の艦娘との出会いが彼女の心を変えてく話とかも欲しいですね。誰か書いて。


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道を選んだ日

 キーボードをタイプする音が事務室に響き渡る。

 時刻は夜中、窓の外は真っ暗で、節電のため部屋の半分は電気が落ちていた。そんな中、濃緑色の制服の上に、上着代わりの青い迷彩服を着た巡洋艦、大井はデスクに座りながら、仕事用のラップトップと向き合っていた。

 

 ここ、山形県酒田基地の庁舎に、艦娘、大井はいた。

 本来であれば隣町の漁港分遣隊――プレハブ建ての粗末なそれ――の事務室で、雑多な仕事をこなしたり哨戒中の駆逐艦たちに指示を飛ばしたりと、日常の業務をこなしている筈だったが、本隊の事務作業に助っ人が必要となり、急遽応援として短期間だけ本隊へ復帰していた。

 もっとも、仕事が終わればすぐにあの漁港へ戻る事になるが、分遣隊と比較にならない程の多忙な仕事に、あのプレハブの司令部が恋しい気持ちになりつつあった。

 今まで大井は本隊と分遣隊を行き来していたが、最近は分遣隊に長居して久しい。もしかしたら、今後イレギュラーな事態でない限りは分遣隊勤務で任期を終えるのだろうな、という事を薄々考えていた。

 

 

「大井先輩、お茶を淹れてきました」

 ニコニコと柔和な笑みを浮かべ、本隊の練習巡洋艦、鹿島がやってきた。

 その特徴的な銀髪を揺らし、愛らしい顔立ちを持つ彼女は広報の顔に据えられるには相応しい子だろうなと、大井はふと思った。

 両手に持ったお盆の上には、お茶が注がれた2つの湯呑みと、お茶請けの菓子が幾つか並んでいる。鹿島は湯呑みをそっと大井の座るデスクの上へと置いた。

「ありがとう、頂くわ」

 湯気を立てる熱い湯呑みをそっと手に取ると、大井は仕事の手を少し休めてお茶を啜った。鹿島はその隣――自分のデスクにも湯呑みを置くと、座った。

「大井先輩、そろそろ休憩にしませんか?ずっと働き詰めじゃないですか」

「んー……まあ、それもそうね」

 大井は壁にかかった時計の針を見て、もうそんなに時間が経ったかと思った。

 

 休憩しつつも、隣に座る鹿島はそれから矢継ぎ早に世間話をはじめた。

 楽しそうで生き生きとしている、と言うのが第一印象だった。酒田市内に新しく出来たレストランがよかった、とか、この間の艦娘募集説明会で鬼怒さんが鶴岡から来た女の子相手に力説していた、等と他愛のない会話ばかりであったが、普段よりも幾分か弾けた雰囲気で話している事は大井に伝わってきた。普段の仕事をしている彼女から想像も出来ないようなはしゃぎぶりだった。

 

 大井は、彼女から向けられる好意に薄々気がついていた。何故かは知らないが、本隊では大井を慕う者は多かった。だが、大井が知る限り好意の寄せてくる艦娘の中では、過度すぎる好意とも感じた。

 ――まぁ、養成学校にいた頃に後輩から告白された事もあったっけ。

 そんな思い出話を思い浮かべながら、お茶請けの最中を手に取って口にする。餡子の程よい甘さが口に広がり、書類仕事にかかりっきりの大井は、ほっとした気分になった。

 会話の話題は、鹿島の家族の話になり、それから簡単な身の上話へと移った。鹿島は、不意に大井へある話題を振った。

 

「大井先輩は酒田に来る前は何をしていたんですか?」

 その問いに、大井は自分の過去をふと思い出していた。

「特に面白い話じゃないけれどね。話せば、長くなるわ」

 

 

 

 

 大井――細見薫という本名でしか呼ばれていなかった頃の彼女は、まだ高校生だった。

 兵庫県に住み、家から離れた町にある商業高校に通う、どこにでもいる少女だった。

 

 冬を迎えたこの時期、校内の3年生棟は慌しい雰囲気だった。高校3年生と言えば卒業後の進路が決まってなければいけない時期で、進学先や就職先をどうしても決めなければ、という焦りのような物を誰しもが抱えていた。

 とは言っても、薫にはちゃんとした道があった。進学である。

 都会の大学に進学してから就職するという選択肢を選んだ薫にとっては抜かりは無かった、すでに推薦で入学が決定している大学があり、後は平穏無事に高校を卒業する事、すなわち、いつも通りに過ごしていればいいだけであった。

 

 昼休みに、薫は仲の良い友人達と共に、机を合わせて食事を取っていた。

 弁当を食べ終え、片付け終えて持ち寄ったスナック菓子をつつきながら、色々な話題に花を咲かせる。こうして友人たちと語り合えるのも、あと僅かだと言う事は高校3年の冬を迎えた誰もが感じていた。

 やがて、会話は誰もが避けて通れない進路の話になる。

 

「ねえ。A組のさっちゃん、就職決まらなかったら艦娘になるって」

「艦娘?めっちゃ危険じゃん」

 そんな物になるくらいだったらブラック企業の方がマシかも、と薫の友人は笑いながら呟いた。彼女たちの話を聞きながら、薫は艦娘という選択肢を取る人がいるのか、と意外に感じた。

「今テレビでめっちゃ叩かれてるじゃん。人気ないから応募したら絶対受かりそう」

 友人の言葉に、薫も「そうよね」と同意した。

 

 今年に入ってから暗いニュースが持ちきりで、世間は艦娘という存在に対して辛く当たり始めていた。長引く終わりのない深海棲艦との戦争が続く中、政府の広報が伝えるクリーンなイメージの戦争は覆されつつあった。

 マスメディアが、遠く離れたソロモン海での作戦で大量の戦死者を出した、という情報を政権批判に利用して以降、反艦娘運動はピークを迎えていた。艦娘募集に来ている広報の艦娘たちが、肩身の狭い思いをしているという話も無理は無かった。

 それ故に、今現場は引く手数多の状態と噂されていた。説明会に行った薫のクラスメイトが広報の艦娘に必死に説得された、という話からも明らかであった。

 

「いいよねぇ、薫はもう卒業待つだけだし。私なんか入試落ちたら後が無いわ」

 友人は心底羨ましがるように言ったが、薫は気を使って生返事を返した。

 本当は心のどこかで、安心感を感じていた。優越感を感じるのは憚れるが、周囲が忙しく動いている中で進路が決定し、安心を手に掴む事が出来た事実にほっとしていた。推薦に落ちていればこうはならなかっただろう。

 

「ねぇ?みんなこれ見て」

 友人の1人が、パンフレットを差し出してきた。友人たちが興味深々にそれを眺める。

 政府発行の艦娘募集パンフレットだった。そのパンフを見て、薫も興味を惹かれた。

「実はさっちゃんと一緒に私もパンフもらってきてさ、ボールペンも貰っちゃった」

「もしかして興味あるの、艦娘」

 薫の問いに、その友人が答える。

「いや全然、冷やかしみたいなもん。募集のお姉さんがすっごい綺麗だったから」

 どっ、と友人たちが笑い、薫も釣られて笑った。

 

 パンフレットをめくりながら、確かに綺麗だと薫は思った。戦艦、空母、巡洋艦、駆逐艦、潜水艦と言った単語と共に写っている彼女たちは、皆輝いているようだった。

 見た所、十代から二十代ほどの彼女たちは皆笑顔で、自信と誇りに満ち溢れているように思えた。制服も派手な物から地味な物までそろっている。薫が思い浮かべる、戦争というイメージとは正反対に思えた。

 何より、テレビで見たように彼女たちは海の上へ浮いていた。こうしてパンフレットを手にとって眺めていると、艦娘という非日常的な存在が身近に感じられるような気がした。意外と福利厚生もしっかりしていたし、具体的な収入を数字で提示されると、その身近さはより近くなった。就職の選択肢に艦娘を選ぶ子の気持ちもわからなくはない。

 そうこうしている内に、チャイムが鳴り、昼休みが終わりを告げようとしていた。

 くっ付けていた机を元に戻す中、放置されたパンフレットが薫の机の上に残った。

「これ、どうするの?」

「いらない、好きにしていいよ」

 薫の問いに友人はざっくりと答えた。薫は、どうしたものかと思いながら、暇つぶしに読んでおくつもりで、机の脇から吊った自分の学生鞄にパンフレットを入れた。

 

 

 

 

 放課後、授業を終えてホームルームが終わり、生徒たちはようやくその日の学業から開放された。後輩たちが部活動に精を出し始めるのを横目に、3年生たちは帰路へ就く。

 薫も、ようやく一息つき、鞄を提げて学校の玄関へと向かっていた。

 帰宅したら何をしようかと考える、レコーダーに撮り貯めた海外ドラマを見るのもよかったし、まだ読んでない漫画や小説を消化するのも悪くなかった。早々に電車に乗って早く帰宅してもよかったし、少しだけ寄り道をしてもよかった。

 どうしようか考える中、廊下を歩く生徒たちの合間を、教師が走って駆け抜けていった。

 

 何事だろうか、と思っていた矢先に、教師たちの切羽詰った声が響いた。

「下校は中止だ!みんな教室へ戻れ!」

 中年の数学教師が声を上げて周りの生徒たちに、教室へ向かうよう指示を出し始めていた。ざわざわと生徒たちが動揺する中、教師たちが慌しく駆け回る。

「もう下校した生徒はどうする?」

「それより避難の必要はあるか?もしアレがここに来たら」

「車を出す、とにかく下校中の生徒を1人でも戻らせるべきだ」

「どこが安全なんだ!?ここだって危ないかもしれないだろう!」

 教師たちが集まって慌しく相談を始める中、遠巻きにパトカーや救急車、消防車のサイレンが至る所から鳴り響き始めた。

「何……一体何よ」

 薫は不安になりながらも、教室へ急いで戻った。

 ホームルームが終わった後の教室に戻ると、そこにはクラスメイトたちが集まっていた。天井から下げられたテレビの電源が付いており、ニュース映像が流されている。

 それを見た瞬間、薫は思わず声を上げそうになった。

 

 そこには、爆発と火災に見舞われる都市――神戸と呉にある基地と市街地――と、空を覆う鳥の群れのような映像が映っていた。L字のテロップに避難情報が流れ、アナウンサーが切羽詰まった様子で原稿を読み上げている。

 深海棲艦の空襲だった。

 そして、画面に空襲を受けている地域や地区名がテロップで表示される。

 

 そこに、薫の家がある町の名前もあった。

 

 すべてが終わった絶望感に、薫は床に崩れ落ちた。気が付いた友人に支えられ、何とか薫は自分の席に座った。

 友人たちが励ましの言葉を投げかけるが、それすら耳に入らなかった。

 テレビをぼんやりと眺めながら、薫は家族の事が気が気でなかった。

 両親は共働きで、恐らくこの時間帯には家にいない筈だった。だが、もし家に帰宅していたら――恐らくこの状況では生きて帰れない可能性もある。遠景の中継カメラから流れる映像はぼんやりとしていて、あの見慣れた町並みの詳細はわからなかった。

 

 

 

 

 空襲が終わり、自宅への帰宅が許された薫は、すっかり日が暮れた中、かろうじて動いていた公共交通機関を使い、家へ帰ろうとした。電話は混線しており、家族にはメールも繋がらず、かくなる上は家が無事か、直接この目と足で確認する必要があった。

 消防車や自衛隊の車両が町の中を忙しく駆け回っている中、薫は見慣れた町並みが一変してしまった事をようやく実感した。火事により家が焼け落ちた、という光景はニュースの映像や実際の目で確かめた事はあったが、今や市内は至る所が火災で焼失しており、町の区画がぽつぽつと歯抜けのように失われている有様だった。

 ニュースが伝える事によると、被害が大きくなかったのは、深海棲艦の空襲が呉や舞鶴を標的とした物で、この町への爆撃は帰りのついで、つまり副次目標として選ばれた事に起因している。実際、爆風や衝撃波で窓ガラスが割れただけの家や、完全に無傷の家も多かった。

 いてもたってもいられない気持ちで、足早に町中を歩いていく。

 自分の家が近くなるうちに、薫は気がつくと走り出していた。

 坂を上る、公園を抜ける、路地に入る、角を曲がる。

 息を切らしそうになりながら、あと少しの場所で、薫は路肩に停車している見慣れた車を見つけた。それは両親――母と父が乗っている車であった。その車から出て、心配そうな顔を浮かべていた両親と、目があった。 

「お父さん!お母さん!」

 思わず叫んでいた。急いで駆けて、2人の元にたどり着いた。

「無事だったか、薫!」

 父と母の声を聞いて、2人が無事だった事に薫は安堵した。

 家族は、奪われずに済んだ。それだけで薫は緊張の糸が解けて、崩れ落ちそうになった。

 しかし、両親の顔は晴れていなかった。

「お父さん、家は……」

 薫の言葉に、父は黙って首を左右に振った。

 

 薫は、足を進めて曲がり角を曲がった。

 いつもなら、そこには我が家がある筈だった。

「……嘘、でしょ」

 思わず声が出た。

 そこには、焼け焦げた瓦礫だけが乱雑に転がる、がらんどうの空間があるだけだった。

 呆然とした薫は、覚束ない足取りで、まだ燻り続ける瓦礫の前に立った。

 そこは、玄関のはずだった。居間、キッチン、トイレ、脱衣所、風呂場、階段。間取りは鮮明に思い出せた、窓からみえる筈の景色も、薫ははっきりと確認した。

 間違いなく、ここは彼女の家だった。

 

 

 市の対応は早かった。その日のうちに近所の小学校の体育館が避難場所として開放され、多くの人々がそこで一晩を明かそうとしていた。

 着の身着のまま、それぞれの仕事場で着ている服、学校の制服という姿で体育館に集まった一家は、これからの事を相談していた。

 薫の父は、何とか繋がった電話で実家と連絡を取ると、暫くそこで暮らしていいという了承を2つ返事で取ってきた。少なくとも、避難所にずっと居なければいけないという事は無くなった。

 しかし、手放しで喜んでいる暇は無かった。家は粉みじんに吹き飛び、財産も殆ど失ってしまったと言うのが現状だ。

 細見一家はまだ救いのある方だった。近所では、避難が遅れて家ごと焼かれて亡くなった人や、学校や職場から帰宅したら家と家族を失っていた、という人すらいた。この町での爆撃の死者は奇跡的にもたった十数名で、テレビで報道されている舞鶴や呉、神戸への空襲と比較すれば微々たる物であった。

 言い返せば、この狭い町で、十数名の人が理不尽に命を奪われ、多くの人たちが人生をめちゃくちゃにされた、とも言えた。

 未だ放心状態の薫の前に、彼女の母は話しかけた。

「薫、今後の事なんだけどね」

「……うん」

 薫は母の顔を見た。今まで見たことがない程、母の顔はやつれていた。それでも、気丈に振舞って我が子に憔悴しきった姿を見せまいと、踏ん張っているようだった。

「お金は何とか都合してあげるから、薫、あなたはちゃんと大学に行きなさい」

「でも……」

 薫は思わず口ごもった。

 

 大学への進学については、前々から両親とよく相談していた。

 戦争が始まり、父の仕事がその煽りを受けて以来、家の経済状態が悪くなり始めたことは薫もよく知っていた。両親が、必死に働いて学費を稼ごうとしている事も知っていたし、娘が大学を卒業して職に就くことを、誰よりも望んでいるのも知っていた。

「そうだぞ薫、お前は心配しなくていい。大丈夫だ、父さんもアテがあるから」

 薫の父は気丈に答える。

 無理をしている。そんな事はよく分かっていた。

 

 避難所の中で誰かが流しているラジオのニュース音声が耳に入る。

「……深海棲艦の機動部隊は今日の夜未明、能登半島沖を通過後日本海を北上し……」

 腹が立った。

 

「……現在、大湊の艦娘部隊による追撃作戦が行われていますが、結果についてはまだ判っていないとの事です……」

 許せなかった。

 

「……広島県警察の発表によりますと、呉の爆撃による死者は257名に……」

 ふざけるな、と言いたかった。

 

 薫は、学校から持ってきた鞄の中身を漁る。

 教科書、プリントを掻き分けて、中に入っていたパンフレットを取り出した。艦娘募集パンフ、政府が艦娘になろうとする者へ向けた冊子。

 中に書いてある現職艦娘へのインタビューやFAQ、細かい説明など見向きもせず、パンフに挟まっていた一枚の書類――空白の志願票を見た。

 未来を台無しにされたのなら、復讐するまでだ。

 

 あの忌々しい深海棲艦というふざけた連中に。

 

「大学は行かなくていい」

 薫は意を決した。

 その真っ直ぐな瞳――理不尽に対する怒りと、正義感と、使命感に燃えた――を携えながら、言い放った。

「私、艦娘になる」

 

 

 

 

「――で、卒業まで父さんの実家で過ごして、卒業すると同時に艦娘になったわ」

 しみじみと昔の話を語りながら、大井はまだ暖かいお茶を啜った。

 隣で話を聞いていた鹿島は、姿勢を正してその話に聞き入っていた。背筋を伸ばし、まるで面接にきた新卒社員のようにキッチリとした状態だった。

「知りませんでした、大井先輩にそんな過去が……」

「いやいや、大分盛ってるわよ。町が爆撃されたってのは事実だし、家が吹っ飛んだのも事実だけど」

 大井は自嘲気味に笑った。

「でもね、あの後に市の復興事業で新居も手に入ったり、うちの損害も保険でどうにかなって、父のいた会社も新事業の成功で持ち直したし、結局私は無理に艦娘を目指す必要なんて無かったんだって、気がついたのよ」

「へえ……え?」

 大井の言葉に、鹿島は思わず首をかしげた。

「最初からあんなの判ってれば、艦娘になってなかったし今頃は大学卒業して大企業で働いて順風満帆な人生だったってのに……何で私は艦娘なんか選んじゃったのか……」

 ブツブツと呟きながら頭を抱える大井を前に、鹿島は慌ててフォローに入った。

「い、いえ!細見先輩が艦娘だったからこそ救われた人だってきっといた筈ですよ!落ち込まないでください!」

「……あなた、そう言うけどね」

 お茶請けの最中をかじり、お茶を飲みながら、大井は話を続けた。

「私が艦娘になってからなんて地味もいいとこよ。まあ、養成学校にいた頃に後輩から告白されたりとか色々あったけど……」

「その……養成学校にいた頃に告白してきた人って誰なんですか?」

 鹿島の問いに、大井は空になった湯呑みを盆に戻しながら笑った。

「秘密」

 えー、と不満の声を上げる鹿島を前に、大井は気を取り直して「さ、仕事の続きをしましょうか」と言い放つと、またラップトップと向き合った。

 お盆を手に給湯室に戻る鹿島の背中を見送りながら、大井はそこから先――誰にも語るつもりのなかった自分の過去を、思い出していた。

 

 

 

 

 夕日に照らされる南シナ海を眺めながら、軽巡洋艦、大井は海上を走り続けていた。

 彼女の部隊――呉の外洋派遣部隊に所属する艦娘たちはスエズ運河を超え、はるばるアジアまで物資を運ぶ貨物船や、重油を満載するタンカーを護衛中であった。華の海外派遣部隊と言えど、彼女たちの実態は何の変哲もない低脅威海域の護衛任務である。

 

 深海棲艦の登場で、かつて海を荒らしていた海賊たちは軒並み全滅するか、別の仕事に鞍替えしており、今は散発的に現れる深海棲艦を撃退し、航路の安全を確保する船団護衛が艦娘たちの主たる任務となっていた。

 大井がかつて望んでいた仕事――深海棲艦の大部隊との戦闘は、中部太平洋か北方展開の部隊に限られていた。

 今日、大井たちが担当する船団は貨物船とタンカー合わせて5隻の小さな船団だが、低脅威海域であっても南シナ海にはどんな危険が潜んでいるかわからず、たとえ平穏無事であっても艦娘が必要とされていた。

 

 周辺に潜水艦や駆逐艦が潜んでいないか、警戒しながらも大井は速度を上げて護衛の指揮を取っている軽巡洋艦の艦娘、川内に横付けした。

「この後の交代は?」

 大井は再確認のため、川内に尋ねた。

「次の交代要員は……えーっと、スービック基地の太田さん、星野さん、澤――」

「艦名で言いなさい」

 大井に諭され、川内は咳払いをしてから言い直した。

「スービック基地所属の駆逐艦、軽空母、軽巡、ほか3隻」

 そうじゃない、と大井はため息を吐きそうになった。

 全員同じ階級の艦娘しかいないこの部隊では、リーダーである川内が指揮を取る事になっていたが、部隊内でも夜戦馬鹿と呼ばれる女だけあり、指揮官よりも個人として戦うことに艦娘の能力を全振りしているような女だった。細かな場所で荒が目立つ。

「交代時間は?」

 大井の問いに川内は腕時計と計画書に目を落とす。

「1900、もうすぐだね。引き継ぎは私がやっておくから、大井っちは後方の警戒お願い」

「了解。くれぐれも失礼の無いようにお願いね」

 大井は欠伸を漏らしかけて、我慢した。今朝からぶっ通しの護衛であった。疲労もたまり始めていたが、バシー海峡へ入る前に交代がくれば、後ろに控える艦娘母艦に戻って休息できるし、古巣の呉まであと少しだった。

 ――次の出撃から私が代わるか。

 そんな事を考えた大井は速度を落とし、他の艦娘と位置を代わってもらいながら、後方の艦娘母艦の援護へと向かった。

 

 

 船団護衛を追え、久々に呉へと帰還した大井はほっとする気持ちだった。

 見慣れた日本の町並みは安心したし、古巣に戻った大井は日本の土を久々に歩いていた。とは言え、まだ作業は山積みであり、これから船団護衛の報告書を上司へ提出する必要があった。

 呉の司令部に向かった大井は、上官の待つ部屋にたどり着いた。

 ドアをノックして返事を待つ。間を置かずに「どうぞ」とドアの向こうから返事が来た。

 

 大井は部屋へと入る。中はデスクと書類棚があるだけの質素な事務室で、デスクの向こうには大井の上官――伊勢型戦艦のネームシップ、伊勢が書類に目を通している最中だった。

「やぁ、大井ちゃん。2週間ぶり?」

 大井に挨拶を交わす。大井は頭を下げた。

「3週間です。伊勢さん、報告書を持って来ました」

 ありがとう、と答えると伊勢は差し出された報告書を受け取った。

「どうだったスエズからの長旅は?」

 伊勢に問われた大井は「疲れました」と簡単に答えた。「だろうねえ」と呟いた伊勢は手始めに一枚、二枚と報告書の用紙を捲ってから手を止めて文面をじっくりと黙って眺め始めた。

「……何か書類に不備でも?」

「あ、ごめんごめん。何でもないよ」

 伊勢はあらぬ誤解を与えてしまった事を急いで詫びた。

「大井ちゃんの報告書さ、やっぱり同年代の入隊組に比べると一番出来がいいし出来上がるのも早いよね。みんな事務作業は二の次だから。きっちりそういう勉強してきた子はある意味強いよ」

「はあ」

 思わず生返事をしてしまうが、伊勢は「褒めてるんだけどなぁ」と言った。

 

「そうそう。大井ちゃんがいない間に問題があってさ。酒田基地に艦娘を1人異動させなきゃいけなくなったんだよね」

 伊勢は広げた書類を眺めて、表情を曇らせた。

「今更、酒田に異動させる艦娘もいないし、どこの部隊も人を引き抜きたくない状況でさ。お偉いさんも人選に手間取ってるみたい」

「まさか、ここの部隊から異動ですか?」

 伊勢は首を左右に振った。

「ないない。大井ちゃんは安心して。僻地なんかに行きたくないでしょ?」

 そういわれて、大井は安心した。

 酒田基地と言えば、東北沿岸を守る要所の一つであったが、低脅威海域、すなわち戦闘も滅多に無い平和な海である日本海を見張ってるだけの二線級艦娘で揃えられた袋小路、というのが呉の艦娘の総意であった。横須賀や呉のエリート部隊の艦娘からしてみれば、そこへの異動は左遷と同義だった。

 とは言え、最近では情勢も変わってきているようで、深海棲艦の活動が緩やかに活発化しているとの報告もある。異動の話が出てきたのもそれが理由だった。

「ああ、そうだ。来週から護衛任務の参加はしなくていいわ、大井ちゃんには別の仕事が出来たから。休暇明けからよろしくね」

「……別の仕事、ですか?」

 大井は思わず聞き返した。

「前の出撃前に艤装転換やるって話があったじゃない。それが来週から」

 艤装転換。そう聞いて大井は数週間前の話を思い出した。

 

 切欠は前線部隊を見た事だった。

 呉から出発した部隊が帰還し、彼女たちが好意と尊敬を持って歓迎される様を見た。少なくとも、海外派遣の船団護衛部隊として活動していた大井とは雲泥の差だった。大井が目に通した報告書には華々しい戦果が踊り、艦娘たちの間でも、その武勇伝が噂で流れてきていた。

 そうした話を聞くたびに、船団護衛という地味な仕事に甘んじている自分が空しく感じられるようだった。進学という道を蹴ってまで艦娘の仕事を選んだ彼女にとって、現在の仕事に劣等感を覚えるような、そんな気さえしていた。

 そこで巡洋艦としての花形――重雷装巡洋艦になるという選択肢を考えた大井は、前線部隊へ配属される可能性の高い、二次改装試験を受ける決断を下した。それを上官である伊勢に相談したのが数週間前の事であった。

 

 もう試験が始まるのか、そう思った大井は心なしか気分が明るくなった。

「とりあえずは柱島の試験場で4日間の実技テストね、各種マニュアルには目を通しておいてね。はいこれ」

 伊勢は、デスクの引き出しから分厚いマニュアルを数冊、大井へと手渡した。表紙には艤装メーカーのロゴと、「重雷装巡洋艦 球磨型 二次改装艤装」という文字が踊っている。

「ありがとうございます」

 大井は深く頭を下げた。

 本当は嬉しい気持ちで一杯であった、気を抜けば鼻歌でも歌いだしそうな状態であったが、何とか理性で抑えてから部屋を後にした。

 

 

 

 

 数日後、大井は真夏の空の下、広大な演習海域に立っていた。

 柱島――かつて旧軍の泊地があったその海域は、現在、民間船舶の立ち入りが禁じられ、代わりに艦娘用の演習場が設置されている。主に利用するのは呉の艦娘養成学校の生徒だが、艦種を変更する場合の試験や、二次改装試験を受ける艦娘たちも利用している。

 ここに来るのは、大井が艦娘になった時以来であった。

 

 蛍光色のテープが張られた演習用の艤装、訓練用のペイント弾が装填された青いテープを巻いた主砲。控えめに言っても工事現場の作業員のような格好であったが、大井には念願の二次改装艤装、大井改二と呼ばれる艤装であった。

 初めて身に着ける艤装だったが、履きなれた靴でハイキングへ出かけるように、慣れた手つきで艤装を使いこなしていた。

 

 教官役の艦娘が見守る中、大井は主砲を構える。

 駆逐艦の艦娘に曳航される、移動標的を照準に捉えながら、引き金を引き絞る。実弾とは比較にならないほどの粗末な砲声であったが、発射されたペイント弾は驚くほど綺麗に標的へ命中し、赤い塗料で染め上げられていく。

 曳航する艦娘や、教官が感嘆の声を上げる。

 次いで、艤装にフル装填された訓練用魚雷の発射訓練へと移る。自走標的――遠隔操縦方式の深海棲艦を模した標的――が放たれる中、大井はその魚雷を手馴れた手つきで発射する。

 航跡を引かない最新鋭の魚雷は、スッと標的へと向かい、見事に命中する。

 命中を告げるブザーを聞きながら、大井はどこか胸がすくような気持ちになった。

 

 その日の試験を終え、島に設置された休憩施設に戻った大井は一息ついた。

 艦娘用の簡易的な休憩施設や補給設備のあるそこには、すでに先客がいた。自販機とベンチがあるだけのそこには、軽巡の艦娘が座っていた。

 見た所、長良型だろうか。大井は身につけていた制服から察した。同じベンチに座ると、大井はその艦娘から話しかけられた。

 

「……凄いね」

 ふと、大井は軽巡から話しかけられた。

「さっき見たけどさ、あんな凄い機動は始めて見た。長いこと球磨型やってるの?」

「長くは無いわ」

 素っ気無く大井は返した。

「……あなたはどこの部隊?呉じゃ見かけない顔だけど」

「佐世保のスービック派遣部隊」

 スービック、というのはフィリピンにある基地だ。深海棲艦との戦いが勃発すると同時にフィリピン海軍が再度軍事基地として整備し、今ではアメリカや日本の艦娘たちが詰める東南アジア有数の艦娘基地だった。大井も聞き覚えがあった。

「随分遠い所から来たのね」

「うん、艦種変更試験の真っ最中」

 ふーん、と大井は返したが、そのまま流すのも悪いと思い会話を続ける。

「どの艦?」

「……金剛型」

「試験の調子は?」

「最悪。多分落ちるかも」

 自虐的なその言葉に、大井は気まずくなって言葉が出なくなった。世辞でもいいので、何か声をかけてあげるべきかと思った。

 だが、彼女は腕に付けたデジタルウォッチの数字を見ると立ち上がった。

「そろそろ行かなくちゃ。じゃあね」

 そそくさと休憩施設から出て行く彼女を見送りながら、大井は名前を聞きそびれた事を今更思い出したのだった。

 

 

 

 

 柱島演習場での4日間の二次改装試験を終えて、大井は呉へと帰還した。

 試験は、誰が見ても――大井本人ですら合格確実だろうと思える内容であった。後は合格という正式な結果発表を待つだけで、改二艤装への転換命令を受けるだけとなった。

 久々の事務仕事や駆逐艦への指導など、通常業務をこなした大井は、夕方に携帯のメールを受け取った。

 差出人は、父だった。

 

 自由時間に基地を抜け出し、大井は呉の駅前で父と再会した。

 去年の年末に帰宅して以来、数ヶ月ぶりとなる再会であった。「出張でここまで来たついでだから会わないか」というメールを見落としていれば、会う事もなかっただろう。

 鞄と紙袋を提げたスーツ姿の父と駅前で落ち合ってから、2人は手近な喫茶店に入って、注文したコーヒーを飲みながら、久々の親子の会話に興じた。

 

「これ、職場の皆と分けて食べてくれ」

 地元の銘菓が詰まったお土産の紙袋を手渡された大井は「ありがとう」と礼を言いながら受け取った。お茶請けには丁度いい菓子で、出来れば海外派遣中――船団護衛という日本が恋しくなる任務の時期――にあればよかったな、と下らない事を考えた。

「新しい家はどう?」

 大井は尋ねた。

 爆撃で家を失ってから、市の支援もあって新居――実際は集合住宅だが――に格安で入れる事になってから、ようやく一家は普通の生活へ戻れたという状態にあった。

「ああ、いい家だよ。前よりちょっと狭くなったけど、ずっといい」

 父はそう言うと、しみじみと続けた。

「まぁ、薫がいなきゃ母さんと2人だけだからな。その点じゃ、あの家は広すぎる」

 まだ任期終了はずっと先よ、と大井は釘を刺すように伝えた。

 それから、父と子の世間話は続いた。

 ご近所の人の話、最近の仕事の話、そして、話題は母の話へと差し掛かった。

 

「母さんは心配しているぞ」

「心配って……そんな大げさな」

 大井は笑ったが、父の顔は曇ったままだった。

 コーヒーを一際苦々しそうに啜りながら、父は続ける。

「家を失って、次は薫、お前を失うんじゃないかってピリピリしている。そっち関連のニュースを見る度に思い出すって、随分と気が気でないんだ」

 大井は思い出す。

 中部太平洋での作戦が実施され、米軍と共同の作戦が行われていた。詳細な内容はまだ機密になっているが、大まかな内容はマスコミ各社にも流れていた。横須賀や第7艦隊が苦戦している事は大井も耳にしていたし、すでに10名近い戦死者が出た事を大手新聞社がすっぱ抜いたのは記憶に新しい。

 当然、わが子が艦娘になった両親たちには気が気でない情報だろう。

「……それは」

 安心させる言葉を呟こうとしたが、父は更に続ける。

「母さんの同級生にも娘が艦娘の人がいてな。娘さんは前線に行って、最初の任期が終わる前に亡くなったそうだ。未だに遺骨の一つも戻ってこない、太平洋の海の底だ。鞄に収まる程度の遺品だけが戻ってきたと嘆いていた」

 もし薫もそうなったら……と父は続けるが、言葉に詰まった。

 これ以上は想像もしたくない、と言うのが表情から見て取れた。

「俺は薫が艦娘を辞めてほしいと――正直思っているが、いいんだ。薫が選んだ道なんだから父さんは応援するしかない。ただな、絶対に生きて帰ってきてくれ」

 絶対だからな、と更に父は念を押す。

「家は幾らでも建てる事が出来るが、人は死んだらそこで終わりなんだ」

「……当たり前でしょ」

 大井はそう呟いてから、ようやくコーヒーに口を付けた。

 カップに揺れる、真っ黒な液体に視線を落としながら、大井は縮こまった背中でテレビや新聞を眺める母の姿を想像した。

 

 心の中に、壁が現れたような気がした。

 

 

 

 

 大井が父と会った翌日。

 彼女はその日の業務を終えてから、司令部にある上官の部屋を訪ねる事にした。いつものように、その部屋には仕事中の上官、伊勢がいた。

「伊勢さん、相談があります」

 開口一番、大井にそう言われて、伊勢は書類作成のためキーボードを叩く手を止めた。

「少し時間がかかりそう?それとも“ながら聞き”でもいい?」

「大丈夫です、すぐに終わりますから」

 わかった、と言うと伊勢は仕事を再開した。

「まだ、酒田へ異動する艦娘の件、決まってないですか?」

「うん。決まってないよ」

 伊勢はキーボードを叩きながら続けた。

「内地の東北の基地に異動だから、みんな「左遷だ左遷だ」って騒いでいて気が気でないみたいだし、こっちも色々やり辛くてね……適任の子があまりいなくて」

「私、そこに異動できますか?」

 伊勢の手が止まった。画面から目を離し、大井へと向き直った。

「それってどういう……」

「言ったとおりの話です。酒田基地に異動できますか?」

 伊勢は、大井の言葉を理解できないようで、目を丸くしていた。

「あれだけ前線部隊へ行くって言ってたのに、何で?もう二次改装の許可も下りるんだし、別に行かなくたっていいでしょ?」

「その……心変わりというか」

 詰め寄られながらも、大井は久々に会った父との会話を思い出す。

「とにかく、その酒田基地への異動が可能かどうか、上の方に掛け合って貰ってもいいですか?」

「え、ええ……わかったわ、そう伝えておくから」

 伊勢はどこか釈然としない表情のまま、急いでデスクに置かれた電話を取った。

 

 基地の宿舎に戻り、一日を終えようとしていた大井はベッドに寝転がるなり特大の溜息を吐いた。天井をぼんやりと眺めながら、自分が伊勢へ持ちかけた話を思い出して、さらに大きな溜息を吐く。

 何を考えているのだろうか?自分の中でそんな感情が今更ぶり返してきた。

 

 父と会って話をしてからと言うもの、心の中にあった「迷い」に振り回された――そんな気がして大井は頭を抱えたくなった。

 あの改装済みの艤装を背に、新しい制服を着て主力部隊の一員として前線へと向かう。

 そんな栄えある選択肢、華々しい未来を、自分の手で握りつぶすような真似。

 

 今更、後悔の念が心の中に渦巻き始めた。

 

 

 

 

 翌日、午前の仕事を終えた大井の元に、伊勢が現れた。

 書類の入ったファイルを片手に、伊勢は待機所に現れるなり、大井へ外に出るように伝えた。待機所を出ると、周りに人がいないか確認して、こほんと咳払いをしてからファイルを手渡した。

「酒田基地への転属が決定したわ」

 そう伝えられた大井は、息を呑んだ。

 通ってしまったのだ、自分の意見が。

「それが書類よ、詳しい内容については追って知らせるわ」

 大井はファイルを受け取ったまま、固まってしまう。

 何か言おうとしたが、それを遮るように伊勢は続けた。

「大井ちゃんの事だから、たぶんどの基地に行っても上手くやれると思うよ。新天地は大変だと思うけど、私は応援しているからね」

 屈託のない笑顔だった。

 大井は愛想笑いを返しながら、内心、自分を呪いたくなった。

 

 大井は基地の休憩室に向かう。

 喫煙所、ベンチ、自販機など一通りの設備がそろったそこには、何人かの艦娘がいたが、前線帰りの艦娘だと気がついて誰とも会話する気持ちになれず、ベンチの端に座ると、自販機で買った缶コーヒーをちびちびと飲み始めた。

 気持ちを落ち着けようとした矢先に、大井の姿を見て休憩中の艦娘が近寄ってきた。

「柱島で訓練してた大井さん?」

 その言葉に、大井は記憶を手繰り寄せた。

 二次改装試験中に柱島演習場の休憩施設で出会った、軽巡の艦娘だった。名前を思い出せなかった大井は、そもそも彼女から名前を聞いていなかった事を思い出した。「また会ったね、隣いい?」と言いながら同じベンチに座る彼女を前に、大井はこの愚痴を誰か――目の前の部外者にぶつけたい気持ちになった。

 

「まだ呉にいたのね」

 大井の問いに、彼女は「転換試験が長引いちゃってね」と答えた。

「改装試験はどう?改二になれそう?」

 彼女の問いに、大井は首を左右に振った。

「試験は問題なかったわ、でも蹴って東北の基地に異動する事にした」

 途中まで普通に聞いていた彼女は、思わず大井の顔を二度見した。

「え?蹴ったの?」

「雷巡の一次改装のままで、酒田基地に転属よ。怖気付いて、急に前線へ出るのが怖くなって……気の迷いで逃げ道に飛びついたのよ」

 呆気に取られる彼女を前に、大井は自虐的な笑みを口元に浮かべて話を続けた。

「もう私が中央に戻る事は無いわ、キャリアの袋小路よ。酒田みたいな辺鄙な基地で任期を終える事になるんでしょうけど」

 バカみたい、と大井は付け加えた。

「笑うなら笑いなさいよ、こんなグダグダで迷走した――」

「別に、いいんじゃないの」

 彼女はあっけらかんとした顔で大井に言った。

「むしろ、羨ましいくらいだよね。暑くてじめじめした東南アジアや寒い北方の基地にずっといるよりかは、慣れ親しんだ日本の方が良いに決まってるし、平和が一番じゃん」

「……田舎の辺鄙な基地よ」

「それはそうだけど、いつだって家に帰れるでしょ?そんなに前線へ行きたいの?」

 大井は答えなかった。答えたくない気分だった。

 少しの沈黙が流れるが、彼女は大井の横顔で全てを察して、声のトーンを落として話を続けた。

 

「私の勤務地、海外にあるんだけど、毎日毎日色んな部隊が補給ついでに寄って行ったりするの。本土から来て、前線に向かう部隊の艦娘もよく見るけど、皆自信に満ち溢れたり、使命感を持ってるって気がする」

 周りにいる艦娘たちに聞こえないように気を使いながら、彼女は大井に話し続けた。

「でもね、そういう人たちが内地に帰還する時は来た時と人数が違っている。海から帰ってこれなかった人たちを、私は何人も見たの」

 大井は、缶コーヒーを握る手に力が入るのを感じた。

 自分が目を向けようともしなかった現実を、改めて見た気がした。

「例え帰ってきても、無表情で何キロも先を見る目をしている人もいれば、まるで魂が抜けちゃったみたいな人もいる。もちろん、そうじゃない人も沢山いるけど、そういう風になっている艦娘が何人か、必ずいる」

 そういう覚悟はある?と尋ねられ、大井は何も答えられなくなった。

 

 ――やっぱり、そうだった。

 自分が熱に浮かされていた事を知った。あの日、激情に駆られて艦娘になった日と同じように、自分が「前線での活躍」という熱に浮かされていた。

 そこに華々しい成功があると信じて、そこがどんな場所であるか知ろうとも思わずに。

 バケツ一杯の冷や水を、頭からかぶった気分だった。

 

「前線に身を置くのはそういう事よ。私は――その覚悟を決めて転換試験を受けたから」

 でも、ダメそう。と彼女は続けた。

「私なんて金剛型の転換試験もさっぱりだし、やっぱり軽巡のままなのかな。せめて重巡ぐらいにはなれたらいいと思ってるけど……」

「いいんじゃない?今更変えたって。あなたなら出来るかもしれないわ」

 そう言うと、憑き物が落ちた顔で大井はベンチから立った。

 じゃあ、と素っ気無く挨拶を交わすと、そのまま立ち去っていった。

 

 1人残された彼女は、不意に呟いた。

「重巡かぁ……」

 今更になって艦種を金剛型から重巡に変えたいと言っても大丈夫だろうか?そんな事を考えていた彼女は上官へ直談判の電話を入れるべく、席を立って急いで駆けて行った。上官に勧められていた艦種に、青葉型の二番艦があった事を、彼女は思い出していた。

 

 

 

 

 酒田基地の事務室では、全てを書き終わり、プリンターから吐き出された書類を纏めた大井がようやく一息ついていた。

 休憩を済ませてから1時間、ようやく仕事を片付ける事が出来て大井は肩の荷が下りる気持ちであった。時計の針を眺めてから、風呂を済ませて就寝するには十分な時間で仕事が終わった事に安堵した。

 閉じたラップトップと書類を小脇に挟み、席を立って事務室を後にする。

 誰もいなくなった部屋をもう一度見回してから、大井は照明のスイッチに手をかけながら、ふと艦娘になってからの自分を思い返した。

 

 前線に自分がいたとして、どうなっていただろうか?

 華々しく活躍して、その魚雷を振り回しながら深海棲艦を蹴散らし、艦隊決戦の花形として、艦娘として大成していたかもしれない。

 それとも。

 

 大井はそれ以上考えない事にした。

 少なくとも、今の彼女には彼女なりの満足できる生活があった。

 分遣隊での生活は平穏そのものであり、呉にいた頃とは違った個性的な同僚に囲まれているし、部下である駆逐艦たちの面倒を見たり、上官として指導する忙しい日々を送っている。もちろん、山のような事務仕事や雑務も残っているが、退役後の人生を考えればそれらは十分に役に立つ経験になるだろう。

 少なくとも、今はこの選択が後悔であったと思わない。

 

 大井は口元に微笑を浮かべながらも、事務室の照明を落とした。




【こぼれ話】
 大井が主役の回。概念まとめでは一切過去が語られなかった(と言うより出番が少なかった)大井がどんな理由で艦娘になったのか、そしてどういう経緯で分遣隊に来たのかという理由を書く為の回になりました。前2つと合わせて完全に自分の脳内設定全開で書きなぐった回でしたが思いのほか好評でした。
 8月末のイベントでアドバイスをもらった事もあり、別に概念の纏めで語られていなくても書けばいいじゃないか、と踏ん切りが完全についた回でもありました。
 衣笠の軽巡時代(同人誌の「艦娘募集パンフ」より参考にしたネタ)と、大井との馴れ初めを書く回でもあり、学生時代の大井の話や生い立ちも語りつつ、世界観を広げたりと忙しくなった結果17000字という長尺になりました。でも原作ゲームのボイスで絡みのある2人を書きたかったのでこれで良し。大井っちは当人の与り知らない所で、人を変える力のある人だったらいいな、と思っています。


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私が分遣隊に来た日

 初夏の風に乗って運ばれてくる潮の匂いが好きだ。自転車を漕ぎながらセーラー服を着た少女――今年で15歳になる式沢遥はそんな事を考えていた。

 漁港にある祖父の家へ向かうルートは、何度も行った事のある道のりだが、家が内陸にあり、山に囲まれて海が見えないという理由もあってか、山を越えて潮風がふわっと体をなで始める度に違う世界へ来たような気持ちになった。県道を抜けた時に見える景色は格別で、「東北の江ノ島」と呼ばれるに相応しい綺麗な情景が好きだった。

 

 自転車を漕いで、緩やかなカーブを描く県道を抜けて町へと入る。

 大きな商店もスーパーも、娯楽施設も無い、漁港と民家があるだけのその小さな港町に入る。立ち並ぶ民家、民宿、郵便局――子供のころから変わらない景色を通り過ぎる。

 道中、遥は自分と同じくらいの歳に見える少女とすれ違った。

 紺色に錨のマークを付けた帽子に、セーラー服。銀髪という目立つ髪の、青い目をした少女。それを見て、遥は相手が艦娘だと直感で分かった。

 煙草の匂いをかすかに漂わせた艦娘は、煙草で一杯になったビニール袋を提げて、そのまま漁港の方面へと向かっていった。

 

 見慣れた光景だった。

 この町の漁港には艦娘がいる。酒田にある基地から派遣された分遣隊が設置されていて、小規模ながら艦娘の部隊が常駐していた。深海棲艦の活動が活発化したため、近海の安全確保を理由に分遣隊が設置された、というのが理由だ。

 とは言っても、遥を含めて地元民たちはあのプレハブ建ての施設が到底艦娘たちが詰める日本海の防衛施設だとは思えなかったし、中には指摘されて始めて分遣隊が設置されている事に気がつく者もいる。漁港に用事がある人が、うっかり間違えて分遣隊の施設に入る事もあるし、逆もよくある事だった。

 つい最近、漁師を引退した遥の祖父も、この艦娘たちの事を話していた。

 皆可愛くて若いだの、彼女たちのお陰で安心して漁へ出れるなどと嬉しそうに、そして誇らしげに語っていた事を遥は思い出していた。

 

 そうこうしている内に、遥は祖父の家の前にたどり着いた。

 自転車の鍵を外そうともせず、そのまま家の前に自転車を停めたままにすると、自転車の籠に放り込んだスーパーの買い物袋――中に野菜や肉などの食材が詰まった――を手に、引き戸をがらがらと空けた。

「爺ちゃん、来たよー」

 遥の声に、部屋の奥から祖父の間延びした返事が返ってきた。

 この家に今住んでいるのは、遥の祖父だけだった。祖母と祖父の2人暮らしだが、祖母は急病で入院中で、今は祖父が独りで暮らしている。退院予定は早くても9月末であったが、タイミングを悪くして祖父が事故で足を骨折してしまい、今は遥と両親が、祖父の食事や買出し等の面倒をたまに見ている状態だった。

 

 遥も、最近足しげく祖父の家へ通う内に、段々と彼女――艦娘たちの日常を知るようになった。

 日々の定期哨戒として出撃していく艦娘もいるが、大抵の場合は彼女たちは漁港をぶらぶらしていた。平和そうに釣りへ興じている時もあれば、漁港の外周をランニングしていたり、ここから離れたコンビニへ買出しに行ってくる事も多々ある。彼女たちの談笑の声が、静かな漁港に響く事もままある。

 出撃を待機しているのか、それともやる事が無いのか、遥には知る由も無かった。それでも、漁港のスロープからその両足だけで浮きながら海面を走る彼女たちの姿に最初は衝撃を受けたし、ひとたび海に出れば彼女たちの表情は、陸にいる時よりも凛々しく(単に自分がそう思っているだけかもしれないが)見えた。

 艦娘たちの髪色も、制服も、顔立ちも、派手だったり地味だったり様々だったが、遥には遠いようで近い存在に思えた。

 学校にいるクラスメイトたちは、テレビや酒田のイベントでしか艦娘を見た事がない、と言う者も多くいた。しかし、遥にとっては日常生活に溶け込んだ、まさに「いつもの光景」として艦娘を頻繁に見ていた。

 

 晩御飯を作り終えた遥は、そのまま祖父の家で夕飯を食べて帰宅する事にした。

 今日の晩御飯――肉じゃがと、ほうれん草のおひたしと、味噌汁とご飯、漬物。簡素だが、祖母と母の手ほどきを受けた遥の得意な和食が、食卓へと並んだ。

「いただきます」

 祖父と遥の声が響いてから、テレビから流れる夕方のニュース番組をBGMに食事を始める。料理を箸で突きながら、祖父は満足げに食事を楽しんでいる様子だった。

「遥の料理は美味いなぁ、婆さん似の味だ」

「褒めたって何も出ないよ」

 祖父の言葉に冗談を返すが、遥は嬉しい気持ちだった。

 それから、少しの世間話を交わしながら、遥は今日すれ違った艦娘の事が気になり、祖父へと話を振った。

「ねぇ、漁港の艦娘って、どんな人がいるの?」

「艦娘?あぁ、あの分遣隊の?」

 ずず、と味噌汁を啜ってから祖父は言った。

「えーっとな、重巡洋艦ってのが2人いてな、軽巡洋艦ってのが2人、そして駆逐艦ってのが数人くらいだな、全員で8人はいるな。駆逐艦は大体遥ぐらいの背格好だ。戦艦やら空母やら、派手で強いのはいないがな」

「今日、来る時にセーラー服の艦娘とすれ違ったんだけど。その子も駆逐艦かな」

「髪の色は?」

「銀色だった、錨のマークが付いてる帽子の……」

 味噌汁のお椀を置いてから祖父は答えた。

「ああ、灰住か。あいつぁ煙草と酒が滅法好きでな、前に漁港の宴会に顔出した時はいい飲みっぷりだったもんだハハハ」

 漁師だった時のエピソードを思い出して祖父は笑った。

「酒に強いって聞いてたが、ありゃあ漁港で一番の酒飲みで、酒豪だよ」

「ふーん……」

 という事は成人済みの艦娘か、と遥は納得した。そうでなければ煙草を抱えて出歩いてる非行少女にしか見えないだろう。

「しかしまぁ、酒飲みであれ何であれ、艦娘がいるおかげで安心して漁に出れると考えりゃ文句はないさ。艦娘は漁港の守り神ってとこだ」

「深海棲艦、まだ出るの?」

 祖父は頷いた。

「一昨日も深海棲艦の駆逐艦だったが出て、分遣隊の艦娘が撃退するまで漁が中断になったって聞いた。1匹2匹程度のはぐれたような雑魚しか出てこないが、漁船と衝突したり撃たれたり、網を千切られた日にはもう大惨事だからな、死活問題だ」

 祖父の顔には険しい色が浮かんでいた。

 深海棲艦が出るようになってから、日本の漁業も様相が変わってしまったと言われている。祖父が漁師だった遥にとってはそれは身近な話であったし、祖父自身の口から幾度と無く話を聞いていた。祖父の知り合いには、深海棲艦の犠牲になり海から帰ってこなかった漁師もいるという。

「最近じゃ、日本海側で深海棲艦が増えてきてるって噂を分遣隊の仲原さんが話してるって、又聞きしてな。大事にならなきゃいいが」

 肉じゃがを箸で突きながら、祖父は食事を再開した。

 

 食事を終え、食器を洗って片付けると、遥は帰宅の準備を始めた。

 作り置きの手料理を容器にまとめてラップをかけて冷蔵庫へ入れ、明日の朝食としてレンジでチンして食べるように祖父に伝えてから、遥は祖父の家を後にした。

 既に日は落ち、空が夕闇に染まるマジックアワーになっていた。

 

 気分転換に海沿いを自転車で走っていると、漁港から出航する艦娘が見えた。

 来る前にすれ違った、銀髪の艦娘だと遥はかろうじて確認できた。こっちを見たような気がしたので、遥は自転車を止めて、大きく手を振ってみた。

 気が付いてないだろうか、と思った遥だったが、その艦娘はこちらに気が付いて手を振り返して見せた。

 

 ――見てくれてた。

 艦娘に手を振ってもらった、それだけの事が嬉しくなった遥は、上機嫌にペダルを漕ぎながら家路についた。

 

 

 

 

 

 数日後。

 その日の授業と部活動を終え、遥は市内にある自宅へと戻った。

「ただいまー」

 玄関の扉を開け、靴を脱いで遥は自宅に上がった。キッチンから母の「おかえりー」という間延びした声が聞こえてきた。居間では作業着姿のまま、仕事帰りの父が寝転がって再放送の時代劇を見ており、遥へ「おかえり」と短く声を返した。

 喉が渇いた。遥はそんな事を思いながらキッチンへ向かい、戸棚から湯飲みを取り、冷蔵庫からピッチャーを取り出して冷えた麦茶を注いで煽った。生き返るような気分だった。

「遥、今日はお爺ちゃん家には行った?」

 母の言葉に、遥は首を左右に振った。

「明日行く。そろそろ作り置きの煮物もなくなるだろうから……」

 たんと美味しい物作ってあげなさい、と母は微笑みながら返した。

 

 いつもの日常だったが、こんな日はいつまで続くのだろうか。そんな事を遥は考える。

 高校生の兄――二階の自室でゲームでもしてるであろう――はそろそろ進学か就職か、進路を決定しなければならない時期だったし、遥もそろそろ高校進学という進路を考えなければならない時期だった。

 進学先の高校を選ぶ事はもちろん、これからは受験勉強で忙しい時期に入るだろう。いずれ4人家族のこの家も兄の進学で3人になるし、学校の友人たちも進学でそれぞれ離れ離れになる者も出てくるだろう。

 だが、先の事を今考えても仕方ない――そう思って敷波は気を取り直して、暇潰しに母の料理の手伝いでもしようかと考えた。

 

 そして、

 非日常は突然襲ってきた。

 

「あ!?」

 部屋の中に突如としてブザーのような警報音が鳴り響く。

 こんな音が鳴るものは家に無く、テレビからもそれらしい音は流れていない。何事だろうと思った遥は、すぐにそれが自分の携帯電話から流れている事に気がついた。

 一体何だろうか、と思って反射的に携帯電話の画面を見た。

 メッセージが入っていた。遥は、それが災害時に流れる緊急速報だと知った。地震か?と思った遥だったが、画面に踊っていたのは「深海棲艦の大艦隊が接近中」という文字だった。

「深海棲艦……?」

 遥は思わず首を傾げたが、次の瞬間に時代劇の再放送を流していたテレビ画面に、緊急ニュースを告げるチャイムとテロップが流れ始めた。

 画面上に表示された「日本海沿岸に深海棲艦警報発令」の文字を見て、遥の背筋へ冷たい物が這った。それは数年前にニュースで見たあの光景だった。忘れもしない、空襲や艦砲射撃に襲われる、太平洋沿いの街の映像。太平洋戦争以来、日本人にとって何十年ぶりとなる本土への攻撃、戦争――

 

 そんな物とは無縁だと、どこか心の中で思っていた遥は、いきなりの事態に頭が真っ白になった。そんな馬鹿な、そんな筈は。

 居間で寝転がってテレビを見ていた父が、起き上がって目を丸くした。

 テレビの映像はすぐに切り替わり、慌しく動くテレビ局の報道フロアと、原稿を手にカメラの前に座ったアナウンサーが写された。

『番組の途中ですがここでニュースをお伝えします。先ほど5時45分ごろ、日本海上で大規模な深海棲艦艦隊が発見され、日本海沿岸に深海棲艦警報が発令されました。これに伴い、日本海沿岸の各都市に避難警報が……』

 遥は急いでテレビを食い入るように見つめた。

 

 こういった画面は過去に何回か見た事があった、地震による津波警報のように、避難指示が出ている沿岸沿いに、赤や黄色のラインが浮かぶようになっている。

 それを見て、遥は顔が青ざめた。

 自分たちのいる町は、深海棲艦の上陸・攻撃確実とされる地域のど真ん中にあった。

 

 防災放送のチャイムが鳴り、避難を指示するアナウンスが屋外に響き渡る。

 急いで料理の手を止め、ガスの元栓を切った母が、どたどたと部屋の中を駆け回った。

 部屋着姿の兄が急いで二階から降りてくる。兄も驚いた顔を浮かべていた。通帳と印鑑を急いで手提げ袋に入れた母が、エプロン姿のままで家を飛び出した。

 自宅の駐車スペースには、母と父の自家用車2台が停められていた。母が急いで自分の車に乗り込み、兄がそれに続いた。しかし、父はそれを見てからわざわざ自分の車へと急いだ。

 運転席から顔を覗かせた母が「早く乗って」と声をかけるが、父は首を左右に振った。

「俺は親父を見てくる、お前たちは先に避難しろ!後から行く!」

 切羽詰った父の声に、母はすぐに頷いた。

 遥は、そう聞いて母の車ではなく父の車の助手席へと飛び乗った。

「遥、お前は母さんの車に……」

「爺ちゃんが心配だからあたしも行く」

 遥はそう訴える。父は遥の目を見てから、黙ってエンジンをかけた。肯定と受け取った遥は、シートベルトを掛けて覚悟を決めた。

 

 走り出した車は、漁港方面から避難する大量の車とすれ違いながら、すぐに港町へと付いた。地域の防災放送がひっきりなしに鳴り響く中、目的地である見慣れた家の前へ車が停車した。

 エンジンを止めもせず、遥の父は急いで車を降りると祖父の家へと入る、続けて遥も中に入った。祖父の名を呼ぶ父の声に、部屋の奥から声が上がったことに遥は僅かに安堵した。

 松葉杖をつきながら、祖父は家電話の子機を片手に誰かと話しているようだったが、息子と孫の顔を見てからすぐに通話を切った。

「隆、何でここに来たんだ!?俺に構ってないで早く避難を……」

「そう言ってる場合じゃない!その足だけで避難するのは無理だろ!」

 息子の剣幕に思わずたじろいだ祖父だったが、電話を放り投げてからすぐに避難の準備を始めた。

「漁港の連中の安否確認は取れた、早く逃げよう」

「急いで車に乗って!早く!」

 そう言われるがまま、祖父は慌しい足取りで、不自由な足を松葉杖で何とか支えながら家を出て行こうとする。

 

 ふと、遥は窓の外を見た。

 

 祖父の家の窓から、漁港と港町の景色を一望する事が出来た。夕陽に染め上げられた海へ、漁港から飛び出る幾多もの影を遥は目にした。

 艤装を背負い、武器を手にし、綺麗な陣形を組んで海の上を走る少女たち。

 遥も、漁港から出撃する艦娘を見た事は幾度となくあった。

 しかし、今日は様子が明らかに違った。普段なら見かけない12人という大人数、それに混じって、駆逐艦と呼ばれる軽武装の艦娘とは違った威圧的な主砲を携えた巡洋艦の艦娘が、日本海へ向かって突き進んで行くのを見た。

 その勇壮なシルエットに、思わず遥は目を奪われたが、急いで祖父の後に続いて父の乗る車へと向かっていった。

 

 避難警報が解除されたのは、発令から数時間後の事だった。陽はとうの昔に落ち、辺りはすっかり夜になっていた。

 警察や消防に誘導されるがまま、より深い内陸部へ避難し、避難場所となった学校で、警報解除を待っていた遥とその一家はようやく自宅へ帰れる事に安堵した。

 ラジオに耳を傾け、テレビや携帯電話を注視して情報を漁っていた人々の顔に安堵の色が浮かび、何一つ損害がない――家も、店も、学校も、畑も、日常にある何もかもが無事――というニュースに胸をなでおろした人々は、横須賀や呉空襲のような悲劇や、艦砲射撃という悪夢が避けられた事を喜んだ。

 避難していた人々が徒歩や車で、避難所から自宅へと戻っていく中、遥の家族もまた、避難所から家へ戻る道についた。

 兄は母の車に乗って自宅へ、そして父と遥は、祖父を送り届けにあの港町へと向かった。

 

 車内は未だ緊張しつつも、警報が発令されたその時よりは落ち着いた雰囲気だった。

 しかし、車内の祖父の顔は晴れない様子だった。

「爺ちゃん、どうしたの?」

 父との会話に混ざろうともせず、黙っていた祖父は、遥の言葉に重たい口を開いた。

「……艦娘が無事かはわからんな、これじゃあ」

「艦娘?ああ、あの」

 遥は避難した時の光景を思い出した。

 漁港に設置された分遣隊の艦娘が、夕日を浴びながら出撃していく光景だ。

「由良にいるのは、皆駆逐艦や軽巡ばかりだ。普段のニュースや宣伝に出てるような空母や戦艦など居やしない。ニュースじゃ民間人の被害は無いと言ってたが……」

 祖父の表情に曇りが見えた。

「あの深海棲艦の数じゃあ、殉職者が出たかもわからん」

 その言葉に、車内は再び暗い空気になった。

 

 港町に戻り、遥と父と祖父は家へと戻った。「また何かあると大変だから、今日はここで泊まっていく」との父の言葉もあり、遥も素直にそれに従う事にした。

 遥は、避難する前に漁港を一望したあの窓の前に立った。

 外灯や車のヘッドランプで照らされた漁港は、一際明るく見えていた。帰還する艦娘たちの姿を見ようと思った遥は、漁港に詰める人数に驚いていた。

 警察官や、基地の職員と思しき人たちが忙しなく駆け回り、救急車も何両か停車していた。担架に乗せて運ばれる女性――艦娘と思しき人を乗せて救急車がサイレンを鳴らして発進していった。

 艤装を背負った若い少女たちもいたが、彼女たちの半数は憔悴しきっており、中には泣き崩れている者や蹲ったまま動かない者もいた。

 遠巻きにそれを眺めていた遥は、これが戦争の光景だと知って手が震えそうになった。

 

 

 翌日から、いつもの日常が戻ってきたように思えた。

 遥は祖父の家から自宅へ戻り、いつものように通学をしたし、父もいつものように仕事場へと向かった。

 だが、深海棲艦の大攻撃を告げるニュースは新聞とテレビにひっきりなしに流れていて、いつもなら長閑な空は、自衛隊の飛行機やヘリコプターが忙しなく飛び交う騒々しい空へと変わり果てていた。深海棲艦への反撃作戦と安全確保のため、民間船舶は航行を禁止されるか、あるいは限定される措置が取られており、テレビを見る限りでは報道各局が酒田へ押し寄せているようだった。

 遥は登校して早々、朝礼で担任から「深海棲艦の空襲・砲撃がいつ来てもいいよう、避難訓練の内容を思い出すように」と伝えられてから、ますます日常という物が戦争という、忘れかけた異物に支配されたような気さえしていた。

 つい最近まで漁師だった祖父が「たまにはぐれた深海棲艦と艦娘が戦闘する事が、この近所でもある」と言っていたのを思い出してはいたが、こうも大きな物は始めてであった。それだけ、昨日の事件がいかに大事件だったかを遥は痛感した。

 

 それから少しして、遥の住む町は平穏な日常へと戻っていった。

 深海棲艦掃討作戦の完了により、日本海側の安全度は例の事件以前まで戻った事、あの日の戦闘で1人の艦娘が殉職した事がニュースで伝えられて以降、この事件は記憶の片隅に忘れ去られて行った。

 だが、遥にとって、皆が記憶の片隅に追いやったあの日の出来事は、鮮明な記憶として脳裏に焼きついている。夕日が沈む日本海に向けて出撃していった、勇壮な艦娘たちの姿を。

 遥の心には艦娘になりたい、というもう一つの選択肢が生まれていた。

 

 

 

 

 

 秋のある日。

 遥は、学校を終えて帰宅してから、すぐに自転車に飛び乗って家を飛び出した。

 ペダルを踏み、山の合間を縫って伸びる県道を走り、漁港へと向かった。今日こそは艦娘に「どうすれば艦娘になれるか」と話を聞くつもりだった。

 自転車を漁港の近くに止めて、遥は漁港の中に足を踏み入れた。

 漁港の施設に溶け込むように、分遣隊の施設は存在している。それを見回しながら、遥はどうしたものかと思案する。

 艦娘に直接声をかける、と言うのも緊張するし、かと言って手近な施設のドアをノックするのも勇気がいる。いざ現地に来たはいいものの、遥は途方に暮れていた。

 

 また、日を改めよう。

 そんな事を考えようと、停めた自転車に戻ろうとして、遥は後ろに立っていた人影と目が合った。ひっ、と思わず遥は声を上げた。

 日本人離れした銀髪と、セーラー服と錨のマークが付いた帽子――艦娘だった。遥は、彼女が何度かすれ違った事がある駆逐艦だとすぐに気が付いた。

 

「……迷子?」

 銀髪の艦娘はそう呟くが、遥は首を左右に振った。

「艦娘でも見物に来たのかい」

「ちょっと用事があって」

 かちこちに緊張する遥だったが、銀髪の艦娘は気だるそうな瞳で遥を見てから、問いかけた。

「何の用事だい?艦娘と漁師、どっち?」

「えっと……えーっと……ちょっと艦娘の人に話を聞こうと思って」

「どんな?」

 そう問い質されて、遥は少し困った顔を浮かべた。

 いざ口に出すと少し勇気が必要だった。艦娘になるにはどうすればいいか聞きに来た、と答えるだけなのだが、本職の艦娘を前にすると緊張で尻込みしてしまう。遥は何とか勇気を振り絞って答えた。

「そ、その……艦娘になるにはどうしたらいいか聞こうかと」

「そう」

 銀髪の艦娘は、すっと二階建てのプレハブを指差した。

「案内するよ」

 

 彼女に案内されて、一緒にプレハブ建ての司令部に向かう中、その艦娘は簡単な自己紹介を遥にした。

「私は響、駆逐艦の艦娘だよ。灰住って名前もあるけど、少なくとも部隊じゃ私を響と呼ぶ。君もどっちか好きな方で呼んでいい」

 歩きながら、響は漁港の反対側を指差した。

「あっちは格納庫と待機所――仕事場だから、窓口はそこの司令部だ。次に用があるなら、こっちの司令部に行くといい」

 説明されている内に、2人は司令部の前に立った。

 遥は、いざ司令部を目の当たりにして緊張した。

「本当は上官に一報を入れるべきなんだろうけど、生憎みな非番か事務仕事中でね。私でよければ教えてあげようか?」

 お願いします、と遥は答えたが、その声は緊張で裏返った。

 

 先に響が風除けの扉を開け、戸を開けた。

 入り口から見えるプレハブの中は質素な物だった。

 その艦娘の言う通り、中はガラガラで、無線番をしている艦娘と、事務仕事中と思しき2人の艦娘がいるだけだった。どうやら備品の発注云々や報告書の話になっているのか、専門用語に混じって、軽く言い争いが起こっているようで、騒がしい雰囲気が玄関外の遥にも伝わった。

「ここはうるさいな……」

 響はそう言うと「そこで待っていて」と遥に伝えてから窓口に置いた艦娘募集パンフレットを手に取って、そそくさと入り口まで戻ってきた。

「外で話そう。それでいいかい?」

 遥は大丈夫です、と答えた。

 

 プレハブの階段下、そこには煙缶とベンチの置かれた喫煙所があった。

 そこに案内された遥は、響と並んでベンチに座った。相手が未成年という事もあってか、響は癖のように取り出した煙草の箱とライターを、思いとどまってポケットへ戻した。

「とりあえず志願票の書き方はこの中に載ってるから参照してほしい。後は書いたらここの窓口か、他の地本の窓口に提出するだけ、以上」

「それだけ……?」

「それだけ」

 響はキッパリと言い放った。

「艦娘の募集説明は長ったらしいからね。詳しい説明を受けたかったら酒田に行くといい。そこだったら色々と詳しく説明してくれる。大事なのは気持ちと覚悟だよ」

 響はぱらぱらとパンフレットを捲りながら続ける。

「イルカと並んで航行するCMが切欠なら、やめた方がいい。人生を棒に振る。前線で深海棲艦相手に死力を尽くして戦うか、でなければここみたいな場所で哨戒と事務仕事をするだけの生活だ」

 響の言葉に、遥は思わずプレッシャーを感じた。

「もっといい進路だってある筈だよ、艦娘になるという事は、最悪死ぬことを覚悟しなきゃいけない。志願する前にしっかり考えた方がいい。現職の本音のアドバイスさ」

 遥は思わず面を食らった。響は構わず続ける。

「どうして艦娘を目指そうなんて思ったんだい?」

 響の言葉に、遥はきゅっと拳を握った。

「あの日、ここで見たから。深海棲艦をやっつけに、あたし達の町を守ってくれた艦娘を。だから……」

 遥の声は途中で途切れそうになるが、響は割り込むように尋ねる。

「君は、ここの生まれかい?」

 遥は頷いた。

「爺ちゃん家が近くにあるから」

「もしかして、今年引退したあの人の……」

 はい、と遥は答えた。全てが腑に落ちたのか、響は頷いた。

「なら、止める理由はないね」

 そう言うと、響は募集パンフレットを遥へと差し出した。

「倍率的にもまず落ちないと思う、書類の不備には気をつけて、本隊の三隈って重巡ぐらい下手でなければ受かるはず。入隊前のアドバイスはそれぐらいだね。重ねて言うけど私だけじゃなく、本隊――酒田の方でも話を聞くといい。鬼怒っていう艦娘が上手く説明してくれるから」

「あ、ありがとうございます」

 パンフレットを受け取った遥は思わず頭を下げた。

 

 去っていく遥を見送ってから、響は喫煙スペースに戻るとベンチに再び腰掛けた。ようやく一息つこうと、反射的に煙草の箱とライターを取り出した。

 プレハブの階段を踏む足音が近づく、響は、書類仕事の休憩に入った隊長の衣笠だと気がついた。恐らくは響と同じ煙草休憩目的だろう。

 案の定、階段下の喫煙スペースにやってきた衣笠は、お気に入りの銘柄とライターを片手に響の隣に腰かけた。

「響、なんかさっき女の子と話していたみたいだけど、何かあった?」

 衣笠の言葉に、響は頷いた。

「未来の艦娘になりそうな子と、ちょっと話をしてた。式沢さんちのお孫さんだ」

「……え?」

 衣笠は急いで喫煙スペースから飛び出すと、あたりを見回して遥と思しき人影を見た。すでに人影は遠く離れて小さくなっていて、漁港の近くに停めておいた自転車に跨ると去って行った。

 行ってしまった、と衣笠はがっくりと肩を落として喫煙スペースまで戻ってきた。

「艦娘志望者が来たの!?うちに!?」

「そうみたいだね」

 響は煙草を銜えると、ライターで火を点して紫煙を吸い込み、美味そうに吐き出した。してやったり、と言う顔だった。

「何で人が仕事してる時にそういう事するかなぁ……呼んでくれたら、直々に手取り足取り説明してあげたのに!」

「隊長がやると却って逆効果かもしれなくてね」

 響のあっけらかんとした物言いに衣笠は一瞬だけムッとした顔を浮かべるが、響は嬉しそうな笑み――実際にはほんの小さな微笑を浮かべた。

「まぁ、あの子は必ず艦娘になるよ。私たちがここにいる意味をよく知ってるだろうからね。私も初めてだよ“艦娘冥利に尽きる”なんて思った事は」

 響は嬉しそうに笑った。

「……どういう事?」

 話を飲み込めない様子の衣笠を前に、響は返した。

「ラキスト1カートンくれたら教える」

「……あんたねぇ」

 衣笠の呆れ顔を前に、響は美味そうに煙草を吸った。

 

 

 

 例年通りに桜が開花する中、卒業式を終えた遥は必要な荷物を揃えていた。

 クラスメイトの殆どは進学を決定し、多くが県内の高校へ、中には県外の遠い進学校へと向かう中、遥は入隊を目前に控えていた。

 あの日、響という艦娘に言われた通り、志願票を片手に酒田基地まで訪れ、件の艦娘、鬼怒から一通りの説明を聞いた遥は志願票を提出した。試験にも受かり、晴れて入隊が決定した遥はあっさりと進路が決まり、受験で忙しいクラスメイト達を尻目に入隊準備に追われた。

 どうして艦娘になるのか、そんな言葉をクラスメイトに切り出されもしたが、遥の心は揺るぎなかった。両親も、兄も、果ては祖父と祖母も遥の決断に最初は面を食らった様子だったが、どうしても艦娘になりたいという遥の声を受けて、力強く後押しをしてくれた。

 15歳の春。

 彼女はこの小さな町を飛び出した。

 

 

 

 

 舞鶴基地。

 日本海の防衛を担う艦娘たちが詰める大基地、そこに艦娘の養成学校はあった。

 入隊式と宣誓を終えた遥は、真っ先にそこへと送られた。そして、遥は訓練初日に出撃用スロープの近くにある格納庫へ、他の訓練生たちと一緒に集められた。

 

 整列し、何が起こるか待っている間、赤い制服に身を包んだ艦娘がやってきた。

「やぁ、艦娘候補生のみんな。私が初頭訓練の担当教官、川内だよ。よろしくね」

 フランクな挨拶と、人懐っこい笑顔に訓練生たちは面食らいながらも「よろしくお願いします」と挨拶を返した。姿勢を正し、ガチガチに緊張する彼女たちを前に川内は話を続けた。

「とりあえず、今回は基本の基本、訓練用艤装を付けて港の内部を動き回る訓練から始めるね」

 そう聞かされて、候補生たちは互いの顔と川内の顔を見た。

 動揺していた。もうそんな事を?という驚きが見て取れた。それを見透かすように、川内は笑う

「いきなり航行だなんて驚く子もいるかもしれないけど、補助輪付きの自転車に乗るようなものだからね。私以外の教官や艦娘のバックアップも付いているし、今から装着してもらう訓練用艤装は誰でも使える基本中の基本みたいなものだよ。何ならそのへんの子供に装着しても使える代物だから」

 よし、じゃあまずは背負ってみようか、と川内は格納庫の隅を指差した。

 全員分の艤装がすでに用意されていた。

 格納庫で、遥ら候補生たちは訓練用艤装を装着した。

 蛍光テープが各所に張られた、白色に塗装された訓練用の煙突付き艤装を背負い、それから足に嵌める“船体”を装着する。鉄製でどう見ても重たいと遥は思ったが、どういう原理か、遥はそれを軽く背負う事が出来た。

 他の候補生たちも艤装を装着し、格納庫を出てスロープの前に集合、整列する。すべての訓練生が背負ったのを確認できてから、川内は話を始めた。

「さて、これから皆は艦娘としての記念すべき第一歩を踏み出す事になるけれど、まず先に教えておく事があるよ、いい?絶対にパニックにならない事、これが第一だからね」

 念を押す川内の言葉に、全員が返事をした。

「よし……じゃあ、海に向かって前進!」

 

 スロープを歩いていく。練習用艤装ががちゃがちゃと音を立てる。

 海に向かっていく、それだけで遥は緊張していた。

「わっ」

 思わず声が出た、遥が踏み出した右足は、沈むことなく水面へと浮いた。

 恐る恐る次の足を踏み出す、左足は同じように水面へと浮く。不思議な感覚であった、本来であれば沈むであろう足が、水面を踏み抜かないという光景はいざ自分が目の当たりにすると奇跡のような光景に感じられた。

 同じように、周囲の候補生たちも水に自分の身体が浮いている事に興奮している様子だった。ある者は驚愕の声を上げ、ある者は歓喜の声を上げ、またある者は改めて不思議な光景に困惑しているようであった。

 

「よーく覚えておきなよ!艦娘は艤装を付けている限り水に浮く。今は凄い事だと思うけど、退役して艦娘辞めるまでこれは「当たり前」の事になるからね。こんなのは物序の口に過ぎないよ!」

 にしし、と候補生たちに声を掛ける川内の声は実に楽しげだった。

「じゃあ、とりあえずは初歩的な訓練からだね。まずは――あそこにあるブイとブイの間、そこを目指して航行するよ!返事は?」

 川内の言葉に、候補生たちの威勢のいい返事が一斉に返った。

 

 時間はあっという間だった。

 実技訓練の終了を告げるアナウンスと共に、候補生たちはスロープから陸に上がった。整列し、教官の話を待った。

「どう?実技訓練初日は?」

 嬉しそうな顔で聞いてくる川内の顔を見て、遥は恐らく「疲れた」だの「大変だった」という答えを期待していように思えた。しかし、そこは艦娘の訓練教官だ、迂闊に答えると厳しい返事が返ってくるに違いないだろうと誰もが思った。

 どうしたものかと答えに困っている内に、返事を待たずに川内は答えた。

「多分皆疲れたとか大変だった、と思ってるだろうね。まぁ、私としては転覆する子がいなかっただけで満足だね。皆海に立つ事が出来て、ほっとしてるよ」

 去年は3分の1がここで転覆して悲惨な結果になったから、と川内は続けた。

 それを聞いて候補生たちは互いに顔を見合わせた。皆、一様に無事に航行出来た事を思い出して、それをクリアした事に安堵している様子だった。

「これで今日の訓練は終了!皆お疲れさま。訓練用艤装を返還してね」

 川内の一言で訓練は終了し、候補生たちの顔に疲れの色がどっと押し寄せた。それぞれが背負った訓練用艤装を外しながら、出撃用スロープの近くにあるハンガーへと向かっていった。

「あなた、式沢ちゃん?」

 背負った訓練用艤装を外し、ハンガーへ向かっている最中、遥はふと川内に呼び止められた。

「中々今日はいい動きだったよ。初めてにしては小慣れた感じだったね」

 ありがとうございます、と遥は反射的に頭を下げた。

 今日の遥の立ち回りは、ぎこちないながらも候補生の中ではかなりまともな方だった。遥が、祖父の家から眺めていた分遣隊の艦娘の動きを、見よう見まねでやってみただけだったが、褒められたのは素直に嬉しかった。

「今日はどうだった?まだ初日だけど」

「もっと厳しいものかと……」

 遥の口から、ぽっと本音が漏れた。

 それを聞き、川内は快活に答えた。

「まあ、最初はこんなものだよ。出来れば皆、楽しく元気よくやりたいよね」

 ウィンクとサムズアップを遥に返しつつも、川内は「でもまあ、厳しくないのは舞鶴の養成学校だけかも」と続ける。

「舞鶴はこんな感じだけど他所はどうかわからないけどね。呉と横須賀はここの何倍も厳しいし、最前線へ向かう選抜部隊は罵声暴力人格否定なんでもありのフルコースだけど。初等訓練の時点であんまりやりすぎるとちょっとね……」

 不穏な言葉に、遥は思わず表情が固まった。

 

 

 翌日からは本格的な座学がスタートした。

 舞鶴にある訓練施設の教室に集められた遥たち候補生は、分厚いマニュアルや資料と、筆記用具を片手に、訓練教官の入室を待っていた。

 時刻に違わず、訓練教官の艦娘が入室する。

 号令と共に、候補生たちが起立し、礼をした。

 遥は座学担当の艦娘に思わず見とれた。柔和な笑顔を携え、整った顔立ちをしているが、その手に持った教鞭と、瞳の奥に携えた鋭い視線は間違いなく艦娘である事を物語っていた。

「始めまして、今日から貴方達の座学担当となる艦娘の香取です」

 挨拶も程ほどに、香取は本題へと移った。

「座学では艤装についての詳しい解説、火器の使用手順、艦娘としての心得まで、ありとあらゆる知識を覚えてもらいます。ですが、その前に基本的な事――私たちが海にいる理由、深海棲艦についての話から始めたいと思います」

 香取は話を続ける。

「開戦からかなりの時間が経ってますが、おそらくここに居る世代であれば、深海棲艦の出没も開戦のニュースも見聞きしたでしょう。五洋の陥落、沖縄占領、各深海棲艦支配海域の奪還作戦。呉空襲、横須賀空襲、仙台艦砲射撃。日本海側での大規模反抗作戦も記憶に新しいです」

 それらの事件――特に最後の事件に遥は思わず気を引き締めた。

「情勢も安定してきた昨今、深海棲艦との平和的な接触を叫ぶ人々も出てきましたが、我々艦娘としての見解は「ありえない」の一言に尽きます」

 香取は険しい顔を浮かべながら、ある例を引き合いに出した。

「昔、開戦間もない頃――それも艦娘の運用がまだ手探りだった頃に彼らとコミュニケーションを図れると思い、武器を下ろして接触を試みた艦娘がいました。恐らく彼らとはETの様に平和に分かり合えるのだろうと、もしくはクジラやイルカのような知性を持った動物か何かだと思っていたのでしょう」

 この後の結果は分かりますか?と問われ、候補生たちは答えに困った。

 中々回答が出てこなかったが、香取はそれを待たずに自ら答えた。

「彼女はイ級を撫でようとして首を噛み千切られて即死しました。そういう事です」

 しん、と部屋が静まり返った。

 息を呑む者、顔を強張らせる者、覚悟を決めた者、様々な人たちの顔がそこにあった。

「私たちの仕事はスズメバチの退治や畑を荒らすサルの撃退などの「安心な駆除」ではありません、深海棲艦という脅威に命を賭けて戦いに挑む“戦争”である事を、必ず心の中に留め置いておくように。“艦娘”という存在の意義について学び、深海棲艦という敵を理解する事が、戦う事への第一歩になります……では、まず艦娘についてです。資料の4ページ目を開いて下さい」

 遥は、手の平に汗が滲むのを感じた。だが、気を引き締めてぎゅっとその手に力を入れた。艦娘になるのなら、覚悟しなければいけない道だ。

 遥はそう心に言い聞かせ、授業に集中した。

 

 

 

 

 

 養成学校での日々は、あっと言う間に過ぎていった。

 実技訓練は基本的な事からスタートした。まずは海を歩く事、そして基本的な航行訓練、ブイとブイの間を通ったり、僚艦と共に陣形を組みながら航行したりと徐々にハードルが上がっていき、完全武装した艦娘の護衛付きで、外海で出る事もあった。

 そして基地へ戻れば座学が続く。艦娘としてどうあるべきか、という心構えは無論のこと、海図の見方や艤装の応急修理、艤装や兵装の基本的な取り扱い方法、海上での各種艦娘・深海棲艦の見分け方など、海の上での仕事に必要な知識を全て叩き込まれた。

 そして実技訓練と座学の間にはトレーニング……体力作りの為の運動が待っていた。基地の外周をランニングして体力を付けたり、トレーニング器機を使った筋力トレーニングも必要とされた。これが一番厳しいと、遥含めて候補生全員が思っていた。

 しかし、遥はそんな忙しい勉学の日々に忙殺されつつも、苦しくも充実した日々を送っていた。候補生たちの間に連帯感が生まれつつあるのも感じていたし、食堂で振舞われる食事は数少ない娯楽となった。

 

 訓練を終え、食堂で晩飯を済ませてから、遥は宿舎の自室へと戻った。

 食事、風呂、就寝の前後と、様々な訓練や座学の間に挟まれる休憩時間のみが候補生たちに与えられる自由時間であった。遥は、殺風景な宿舎自室――4人の少女が雑に押し込まれるだけの部屋――に入った。

 すでにルームメイトの1人は戻ってきているようだった。長い黒髪をゆらした、小柄な少女が遥のベッドの上段に寝転がっていた。

「おかえり遥」

「ただいま、百合」

 養成学校で出来た初めての友人、同い年の彼女の名前は早坂百合。遥と真っ先に打ち解けた、天真爛漫な少女だった。今日は遥とは別の訓練海域で試験を行っていた。

「今日の訓練きつかったね、砲撃訓練どうだった?」

「まぁまぁ。百合は?」

「全弾命中。川内教官にべた褒めされた」

 羨ましいなぁ、と遥は呟いた。

「はやく任命されないかなぁ。あたし、戦艦がいい」

 天井を眺めながら、百合は期待に胸を膨らませている様子だった。

 

 遥や他の候補生は、まだ正式な艤装が与えられていない。

 全員が、共通している汎用の訓練艤装を使っているに過ぎず、この初等訓練が一通り終われば、次は正式な艤装の任命が下る。

 そこで初めて、彼女たちは正式な、軍艦の名前を背負った艦娘になる。

 

 

 

 初等訓練も終盤に差し掛かる頃、ようやく候補生たちに待ちに待った瞬間がやってきた。

 配備される艤装の任命である。

 

 艤装の任命は、艦娘候補生にとって最も緊迫するイベントだった。

 試験の合格発表のような物で、本人の適正から判断された艤装を任命される。その時点で、候補生は本名――両親から授かった名前のほかに、艦娘としての名前を授かる。多くは駆逐艦だが、中には軽巡や重巡を任命される者もいれば、いきなり空母や戦艦と言った強力な艦種に任命される者もいる。

 しかし、どの艦種に任命されるか、そしてどの艦になるかは候補生本人は知る由もない。訓練によって弾き出された成績が重視され、何より本人の素質も重要視されるというが、その選考方法は未だ機密事項として公開されていない。

 

 午前中の座学を終え、候補生たちは養成学校施設のある部屋へと集められた。同じように艤装任命を控えた候補生たちが待機し、今か今かと別室に呼び出される順番を待っている。

 まるで病院の診察待ちだな、と最初は思っていた遥だったが、あながち間違いでもなかった。手渡された書類に目を通すと、そこには艦娘になるために必要な処置に対する免責事項についても説明があった。

 そうこうしている内に、遥の名前が呼ばれる。返事をしてから、遥は別室のドアの前に立つ。

 ノックをし、ドアを開けて「失礼します」と一礼してから遥は部屋へと入った。

 机と椅子だけ置かれたシンプルなその部屋には、彼女たちを指導している教官の川内と1人の女性がいた。見慣れない人物であったが、遥はその桃色の髪を揺らした女性が工作艦として様々な基地に配備されている艦娘、明石である事にすぐに気がついた。

「始めまして、私が工作艦の明石よ」

 よろしくね、と続けた明石は挨拶もそこそこに、遥へ椅子へ座るように促した。

 川内と明石を前に、改めて艤装の任命を伝えられるとなると遥は面接でも受けるかのように緊張したが、そんな彼女を尻目に話は淡々と進んでいった。

「さてと、今日この日から任命される艤装が決まる訳だけど……式沢さん。この任命がどういう意味を持つかは、言えるかしら?」

 明石の言葉を受けて、遥は明石の後ろに控えた川内の顔を見た。うんうんと頷く彼女の目から、遥に完璧な返答――座学で教わった基本的な事の振り返りを言えるかどうか――を求めている事は明白だった。

 少しの沈黙の後に、遥は口を開いた。

「艤装を適合させる事による艦娘としての能力の最適化と、艦艇の名を受け継ぎ、艦娘として国防の責務を果たすため……です」

 よりによって最後がうろ覚えだった、と遥は焦ったが、明石は川内の顔を見ると微笑んだ。どうやら“正しい答え”だったようだ。

「そこまで言えれば、まぁ、合格点ね」

 川内は明石の言葉に黙って頷いた。明石は話を続けた。

「この任命は艦娘になるための、第二のステップよ。決して軽い話ではないし、伝えなければいけない重要事項も多いから、こうして面談形式で説明しているの。この任命から次の訓練コースや教官も変わる事になるわ……準備はいい?」

 明石に問われ、遥は「はい」と答えた。

 緊張感が増していく中、明石は机の上に置かれたバインダーを手に取ると、書類を捲っていった。

「あなたが任命される艦娘は、駆逐艦よ」

 明石の言葉を聞いて、遥はまず深呼吸した。

 駆逐艦――その艦種に任命されるのは予想の内だった。艦娘の総数で言っても、大部分を占めるのは駆逐艦だった。いきなり空母や巡洋艦に任命される訳でもなく、駆逐艦という艦種に収まったのは特段珍しい事ではなさそうだった。

 明石は遥の様子を伺ってから、話を続けた。

「艦級は、特型駆逐艦ね。綾波型」

「綾波型」

 その言葉に、遥は思わずその名に心を躍らせた。

 綾波型と言えば、そのネームシップである。ニュースでも目にし、座学でも耳にした“武勇伝”を持つ艦娘の1人だ。綾波の艤装を与えられた者が打ち立てた戦果は類を見ない物が多いと、遥もよく知っていた。海外での大規模作戦に参加する艦娘で、よく名が挙がるのもその証左だろう。

 だが、明石は次いでその艦名を口にした。

「綾波型駆逐艦2番艦――敷波」

「しき……なみ……?」

 疑問詞が浮かんだ。

「敷波ですか」

「そう、敷波」

 バインダーに挟まった書類から視線を外さないまま、明石はそう言い放った。

「もしかして考えていた艦娘と違った?」

 いいえ、と遥は答えようとしたが、知らない間に表情に出ている事を察してしまったのだろう。遥を横目に見た明石は「そうよね」と呟いた。

「毎回いるのよ、雪風とか島風とか、秋月型みたいなエリートや有名艦になれる!って思ってる子が。いいのよ正直に「予想してたのとハズれた」って思っても」

「え、いや、その……」

 見透かされた、その事実に遥は思わず混乱と羞恥の気持ちに襲われた。

 明石はそれを見て優しく微笑んだ。

「どの艤装が適合するかについては個人差があるし、誰だって自分が望んでいる艦娘になる事はないわ。でもね、しばらく経験や階級を積めば「艤装転換試験」を受けて別の艦や、別の艦級になる事も出来る。今落ち込まなくてもいいの、チャンスはまだあるから」

 明石は励ますように続けた。

「それに、私だって入隊したての頃は特型駆逐艦としてブイブイ言わしてた時期があったのよ?駆逐艦なくして艦隊なし、駆逐艦を笑う者は駆逐艦に泣く。敷波だって立派な艦娘よ?」

「は、はい」

 姿勢を正す遥を前に、明石は「正直でよろしい」と笑った。

「後は事前に聞いている通り、投薬での“慣らし”に入るわ。身体が艦娘に近付いて、髪の色や瞳の色が変わったりするけど、肉体的な後遺症は現れないから安心して頂戴」

 遥はそう説明され、思わず自分の髪に手を触れた。

 両親譲りの濃い黒髪を撫でる遥を見て、明石は補足するように続けた。

「大丈夫よ。“敷波”ならピンクとか紫とかメッシュとか、そういう髪色にはならないから。両親が自分の子だと認識できないくらい顔が変わる事も、羽が生えたりツメが伸びたり、後遺症で子供が作れなくなったりしないから安心して」

 思わず「大丈夫か?」と遥は思ったが、明石はそれすらも見抜く様に話を続けた。

「今の所、艦娘になる事で肉体への深刻な副作用や弊害が報告された事はないわ。医療的な施術も必要になるけど、入院の必要はないし、今まで通りの生活をすればいいわ」

 そう聞いて、遥は僅かに安堵した。

 後ろに控える川内が、笑みと共に遥へと語りかける。

「駆逐艦コースに進級おめでとう。引き続き私の指導で、駆逐艦娘としてきっちり鍛えてあげるから、覚悟しておくように。今後はもっと実戦的な訓練になるからね。“敷波”ちゃん!」

 艦娘としての名前で呼ばれた――その瞬間、遥は胸の奥底から熱い物がこみ上げる気がした。

 

 

 艦娘になるための処置が始まって翌日の朝。

 慌しく一日の始まりを迎える候補生で宿舎が騒がしくなる中、起床した遥は、ベッドから降りてきた百合と目があった。

「おはよう、遥」

「おはよ……?」

 遥は、百合の異変に気が付いた。

 髪染め途中に切り上げて出てきたような――そんな感じだった。同室の候補生も、百合の髪色を見て目を丸くしていた、残りの2人も同じように金髪や青髪が入り混じる、歪な髪色になっていた。

「もう変化が出始めてきたみたい、私“清霜”だからかな」

 そう言うと、彼女は髪を指差す。銀や紺の髪と、地毛が入り混じる奇抜な髪色になったそれを指でいじりながら溜息を吐いた。

「何か不恰好だから早く終わって欲しいなあ」

 窓ガラスを鏡代わりに、自分の髪を気にする彼女を前にして、遥も思わず自分の髪に手を伸ばし、ガラス窓に写る顔を見た。濃い茶髪だったので、自分の髪はさほど変化が出ていないように思えた。髪を少しだけ染めて、申し訳程度にイメージチェンジを図ったような、そんな程度の変化に思えた。

「あたしは全然変わらないなぁ。身体の反応が遅い?」

「遅いんじゃなくて、そういう艦娘なんじゃない?」

「そうかなぁ」

 遥はそう思いながら、資料を読み漁って見つけた「敷波」という艦娘の写真を思い出していた。それを見た遥の第一印象は控え目に言って“地味”だった。

 陽炎型のような派手さも無ければ、最近になって適合者が出始めた夕雲型や、最新鋭の武装ユニットが使用できる秋月型とは程遠い、地味な艦種に思えた。

 ただ、日常生活を送る上では派手すぎない艦娘だったとも思えた。少なくともカラフルな髪色では、日本の日常風景ではかなり浮くと見えた。

 

 教官にどやされないうちに支度を素早く済ませ、足早にいつもの一日が始まっていく。

 見慣れた光景だったが、遥が気がついたのは、他の候補生たちも、自分が任命された艦娘の名前を互いに教えあっているようだった。

 

 ――また一歩前進した。

 そう考えながら、遥は今日の訓練日程を思い出して気を引き締めた。

 

 

 

 

 

 

 砲声。

 演習海域に響き渡る轟音と水柱の中で、敷波は必死になって艤装を背に海上を走り回る。

 識別用の青色のテープが巻かれた各々の艤装や武装を手に、敷波は1秒でも長くこの海で生きながらえようと、後ろを付いて走る清霜と共に海上を駆け回っていた。

 駆逐艦「敷波」を任命されてから3ヶ月、訓練は厳しさを増していた。

 

『砲撃の餌食になりたくなければ素早い回避行動が原則!はい嵐ちゃん死んだ!!残り2人も巻き添えで死体袋!反応速度が遅い!!』

 険しく、激しい川内教官の声が無線から漏れる。これこそが、訓練教官としての川内の顔なんだろうか、と敷波は一瞬だけ考えたが、すぐに訓練に集中した。

 訓練砲弾やペイント弾で死ぬ事は無い、と敷波は聞いているが「当たっても痛くは無い」とは言われていないし、ペイントは簡単に落ちるとも言われていない。どっちにしろ当たるのは嫌だった。 手に持った連装砲のグリップをぎゅっと握りながら、敷波は後続の清霜へと声をかける。

「どっから撃って来てる!?11時?9時?」

「9時方向みたい!」

 その言葉に、敷波が左――9時方向を見る。

 敵艦役の教官らしき影を見た瞬間、主砲のマズルフラッシュを敷波は目撃する。

「来るよ、回避行動!」

 回避行動を取ろうと、敷波は針路を変更しようとするが、後続の清霜は反対の方向へと目を向け、そして叫んだ。

「さっ、3時方向、敵艦!」

「へっ!?」

 敷波が右を見て素っ頓狂な声を上げた瞬間。視界の端に敵艦役の教官が見えた。

 その赤いシルエットから、敷波は川内教官だと認識した。顔は見えないほど遠くだったが、何故か敷波は肉食獣の獰猛な笑みを携えた川内の笑顔が見えたような気がした。

 風を切る訓練弾の音を耳にした瞬間、敷波はすべてを諦めた。

 敷波と清霜が、訓練弾を当てられ海面へ派手に転び、撃沈判定が上がったのはそれから僅か1秒後の出来事だった。

 

 基地の出撃用スロープへと戻ってきた敷波たち訓練生は、もはやボロボロの様相であった。戦闘訓練が始まって1ヶ月、駆逐艦たちは訓練教官たちにのされるがままの状態だった。手玉にとられては撃沈判定を出され、不備や反省点を学んで行動しては、また打ちのめされて戻っていく。その繰り返しだった。

 一列に並んだ訓練生たちを前に、川内教官は1人1人に話を続けていく。

「嵐ちゃん、血気盛んに迎撃に出るのはともかく、周りが見えてなさすぎ。それと後続2人がやられそうになっても無視して見向きしなかったでしょ。アレがいっちばん悪い」

 姿勢を正しながらも、陽炎型の嵐は冷や汗を浮かべた。

「秋雲ちゃんは回避行動がワンパターンすぎ、スクリプトで動いてるNPCじゃないんだから予想されない動きを心がける事。水無月ちゃんは――状況判断は良かったけれど実行に移すまでが遅かった」

 川内の“悪かった”探しの番が近づくにつれ、敷波は緊張していく。

「敷波ちゃん」

「は、はいっ」

 正した姿勢がさらに強張る。隣の清霜も同じだった。

「一点に集中していたのが悪かったね。同じ標的に固執して、それ以外が注意散漫になったのはいけないね。常にどこから攻撃されるか注意しながら動く事が必要、いい?」

 はい、と敷波は答えるが、川内は微笑を口元に浮かべた。

「ただ、清霜ちゃんと連携が取れていたのは良かったし、今回攻撃側を手こずらせたのは敷波ちゃんと清霜ちゃんの2人組だけだった。そこは褒めよう」

「あっ、ありがとうございます!」

 敷波は嬉しさと恐縮の混じった声で返事をした。

 川内も笑みを返したが、それはほんの一瞬だった。

 

「さっ、みんな反省点が浮き彫りになった所で仕切りなおして、もう一度はじめるよ。今度はシチュエーションを変えて、護衛対象の船舶がいる前提での攻撃対応で、もう5戦ほどやってみようね。さ、駆け足で燃料と弾薬補充!」

 まだ続くのか、と訓練生の艦娘たちが顔を歪みかけるが、すぐに気を取り直した。

 強くなりたい。この人を超えたい。

 いつしか、そんな艦娘としての団結の心が、彼女たちにも生まれていた。

 

 

 

 それから数ヶ月、養成学校の卒業日まではあっという間だった。

 教官の艦娘に先導され、式典用の制服に身を包んで将校や先輩艦娘、家族らに見守られながら海上を行進するのは緊張したし、祝砲が鳴り、正式に彼女たちは艦娘として世に羽ばたく事が認めらた嬉しさで胸が一杯だった。

 養成学校の卒業式も終え、配属先が決定すると、艦娘たちは1週間の休暇を迎える。

 

 実家に戻って家族と過ごす者もいれば、訓練と座学の日々から開放されて羽目を外しに遊びに出かける者もいる、仲睦まじくなった同期と卒業旅行をする者もいれば、逆に1週間という長い休暇に困惑する少数派もいる。

 ただ、共通しているのは、この養成学校で日々を過ごした艦娘たちは今日からばらばらに各地へと散る事だけだ。どこかで再会を果たす者、同じ基地で働く者もいるが、多くはここが最後の別れ道となる。もう二度と会う事も無い艦娘も、中にはいるだろう。

 

 バックパックに余裕を持って収まるだけの荷物を背負い、遥と百合は舞鶴基地を後にして駅へと向かった。駅までの道は、運動も兼ねて歩きにした。

 バスやタクシーを使っても良かったが、2人のこれからを歓迎するような良い天気で、少しでも別れの時まで長く話していたかった――それが本音だった。

 

「新潟基地か……新潟ってどういう所なんだろうね?」

 新潟基地配属を言い渡された百合の言葉に、かつて家族旅行で新潟まで出かけた事のある遥は答えた。

「畑があって……あと田んぼがあって……うん、大体畑と川と町だけだね」

「えー、つまんないー」

 百合が露骨に嫌な顔をするが、遥はフォローのつもりで話を続けた。

「でも新潟市あたりは結構商業施設も遊ぶ所も一杯あるよ」

「だといいんだけどなあ」

 そうこうしている内に、2人は駅へとたどり着いた。

 

 切符を買いながら、2人はいよいよ別れの時間が迫ってきた事を実感していた。

「百合は新潟基地、私は酒田基地かぁ……」

 遥が呟いた独り言に、じゃあ近所だね、と百合は微笑んだ。

 

 養成学校を卒業した遥は、酒田基地への配属を任命されていた。

 川内教官から酒田基地への配属を伝えられたときは、どう反応していいかわからなかった。遥は、舞鶴や佐世保基地に配属になるだろうと思っていたし、呉や横須賀のようなエリートの部隊になるとは最初から思っていなかった。しかし、いざ蓋を開けると実家の近所にある基地へと配属される事になった。

 喜ばしいのか、期待していたのと違う落胆か。とにかく今は組織の下っ端の艦娘である以上、遥にとってはそれは絶対の命令であった。

 

「近所も何も、私の実家、酒田の隣町なんだよね」

「じゃあ、そっちの意味でも近所だね。羨ましいなぁ」

 百合は心底羨ましがっている顔だった。

 当然だろう、と敷波は思った。話を聞く限りでは彼女の出身地は遠く離れた山口県だと言う。そこと比較すれば、実家に帰省するのはかなりの遠出になる。

 そう言われると遥の配属先はかなり恵まれていると思えた。例え海外派遣任務を言い渡されたり、他の基地へ異動になったとしても、少なくとも実家の近所で経験を積むというのは悪くない選択肢ではないか、遥はそう自分に言い聞かせて納得させた。

 何より、あの“分遣隊”の本隊だ。

「もしかしたら遊びに行くかも。その時はよろしくね!」

「うん、こっちも遊びに行くかも」

 じゃあ、またいつか会おうね、と百合は屈託の無い笑顔を浮かべた。

 

 駅の階段前で手を振って別れ、それぞれ反対のプラットホームに向かう。

 遥は急いで自分の携帯電話を開くと、実家の電話番号へとかけた。父は仕事で、この時間帯は家にいる母が電話に出るはずだった。

 数回のコールの後に、電話は繋がった。

『もしもし?遥、どうしたの』

 母の声だった。

 興奮気味の遥は、事情の説明もそこそこに、母に一刻も早く情報を伝えたくて仕方なかった。

「ねぇお母さん、私の勤務場所、決まったよ」

『へぇ、どこの基地に配属になったの?国内?まさか海外の基地とかじゃ……』

 母の声は少しの心配を含んでいるようだった。

「ううん、違う。海外じゃないの」

 ならどこなの?という母の問いに、遥は答えた。

「酒田基地、ずっごい近くで働く事になった」

 嬉しそうな顔をするだろうな、そんな事を思っていた遥の予想は、甲高く上ずった母の声で的中する事になった。

 

 

 

 

 

 酒田基地。

 青函海峡を防衛し北方海域への睨みを利かせる大湊基地、規模は小さいが艦娘の戦力は充実している新潟基地、そして日本海防衛の最大拠点である舞鶴基地。それと比較すると庄内地方に設置されたこの基地は小さく、そして地味な存在であった。

 しかし、敷波にとっては生まれ故郷に最も近い基地であり、安心できる場所への配属であった。養成学校を卒業し、配属基地が決まった際に両親へ電話した際は、下手をすれば艦娘として卒業した時よりも喜ばれた気さえしていた。

 

 そんな酒田基地への配属を済ませ、諸々の手続きや引継ぎを終えてからの日々は地味そのものだった。

 毎日が訓練と哨戒の連続であり、砲撃や航行訓練と行った基本訓練から、決められた海域を哨戒して異常が無いか見て回るだけの日々が始まった。

 舞鶴、佐世保に行った同期や、海外派遣任務を言い渡され日本を飛び出していった艦娘を思うと、敷波は自分の仕事のスケールの小ささにギャップのような物まで感じていた。

 だが、自分が夢見た職を手にした喜びの方が、勝っていた。

 

 

 その日、いつものように一日を始めた敷波は、待機所にいた。

 この日の午前の訓練を終えた敷波は、休憩を挟み午後の哨戒まで暇を潰しており、基地の待機所に詰めっぱなしの状態であった。

 同じように待機所には出撃待ちか手持ち無沙汰の駆逐艦娘が何人か詰めていた。

 ベンチに座り、コーヒーでも飲みがら同僚たちと雑談を興じている敷波だったが、やがて待機所に自販機で買ってきたジュースと、読み回してよれよれになった雑誌を小脇に抱えた駆逐艦娘がやってきた。

「おはよ、敷波」

「おはよう、霞」

 敷波は彼女と挨拶を交わす。

 

 霞、と言うのはこの綺麗な銀髪の駆逐艦だ。

 朝潮型駆逐艦の艦娘であるが、鋭い目つきと顔立ちに、敷波は当初、若干のとっつき難さを覚えたが、話せば堅物でない事はすぐに分かった。むしろ本隊の駆逐艦の中では、お人よしの部類であった。

「どう?ここの生活は慣れた?」

 敷波の隣に座りながら霞は世間話を振る。

「まあ、多少は」

 敷波はそう答えながら、飲みかけだった缶コーヒーを一口飲んだ。

「学校卒業してすぐに艦娘になったんだっけ、大変じゃない?遠い場所での新生活って」

「近所だからあんまり遠くに来たって印象はないんだけど……」

「近所?どこの出身なの」

 そう問われて、敷波は「鶴岡」とだけ答えた。

「とても近所じゃない」

「でしょ。すぐにでも家に帰れるし、何なら自宅通勤だって出来るぐらいだし」

「由良分ならもっと近くよね」

 霞の言葉に、敷波はコーヒーを飲む手を止めた。

「……分遣隊かぁ」

 敷波は反射的に、ぼそりと呟いた。

 酒田基地の配属になった際に真っ先に思い浮かんだのは分遣隊の存在であった。自分が艦娘になる切欠となった、漁港配置の部隊だ。酒田に配属された際には自分がそこに配属されるものだとばかり思っていたが、実態はそうでも無く、順当に酒田基地の水雷戦隊に放り込まれていた。

 それでも、近所の配属になっただけでも良しとしていたが、憧れの部隊に一歩近付きながらも手が届かないのは、若干の歯痒さがあった。

「分遣隊の配属じゃなくて良かったわね」

 霞はそう呟いた。本心からそう言っているようで、思わず敷波はその顔を見た。

「分遣隊ってそんなに悪い所なの?」

 思わず聞き返すが、霞は頷いて肯定した。

「こっちで手に負えなくなった艦娘の受け皿、みたいな使われ方もするわね。イタズラ小僧の卯月はあっちに飛ばされたきりだし、とんでもない事しでかした陽炎に至っては任期終わるまであそこから出てこないでしょうね」

 はぁ、と霞はため息を吐いた。

「毎年、この時期になると本隊から引き抜きされて分遣隊へ異動する事が多いのよ。どういう選考基準かは知らないけど、もっぱら左遷じゃないかって噂よ」

 あなたもそうならないよに気を付けなさい、と霞は付け加えた。

 敷波は複雑な気持ちになるが、霞の言葉に混ざっていた「本隊からの引き抜き異動」という単語に耳を奪われた。少しだけ思案をしてから、敷波は霞へ尋ねた。

「異動の選考とかって、誰がやってるの?」

「多分、山城さんじゃないの?ここに来てる艦娘の何人かはあの人が引き抜いてきたって噂だし、確か陽炎が分遣隊送りになったのもあの人の指示らしいわよ」

 そう聞いて、敷波はふと考えた。

「ふーん……ありがと」

 手短に礼を言うと、敷波は缶コーヒーを急いで飲み終えてから足早に待機所から立ち去った。一人残された霞は、何事だろうと思いながら持ってきた雑誌に視線を落として暇つぶしを再開していた。

 

 

 基地司令部の中を足早に歩きながら、敷波は目当ての部屋を探していた。

 司令部の建物は来たばかりでまだ完全に把握できていなかったが、記憶を手繰り寄せて艦娘部隊の指揮官である戦艦――山城の居るオフィスを探す。階段を駆け上がり、2階まで来た所で、敷波は上官の1人である軽空母が廊下を歩いているのを見かけた。

 見間違えようの無い、緑基調の服と小さな背丈は、この部隊のNo2である軽空母の瑞鳳だった。急いで階段を駆け上がってきた敷波に気がついたのか、瑞鳳は振り向いて敷波を見た。

「あ、あのっ、瑞鳳さん」

 渡りに船だった。敷波は瑞鳳に声を掛けた。

「どうしたの敷波ちゃん、何か緊急の用事?」

 とことこと歩み寄ってきた瑞鳳を前に、敷波は「山城さんはどこにいますか」と尋ねた。そう問われた瑞鳳は素っ気無く廊下に立ち並ぶドアの一つを指差した。

「あの部屋だよ。何かあったの?」

「い、いえ、急を要する話じゃないんですけど……」

 ふーん、と瑞鳳は淡白に返事をした。それから、瑞鳳は笑った。

「何か急ぎの案件だよね?大方、深刻な話じゃないと思うけど、心配なら付いていてあげるよ?」

「えっ?あ、あの」

 全てを見透かすような言葉に敷波は困惑したが、瑞鳳はやや強引に敷波の手をとると「こっちこっち」と山城の部屋の前まで敷波を引っ張った。

 心構えがまだ出来ていない敷波は焦ったが、有無を言わせぬ瑞鳳に背中を押され、あっさりと部屋の前まで連れて来られた。

 

 瑞鳳はノックだけすると、返事を待たずにドアを開けた。

 中には、デスクで書類に判を押す作業をしていた山城がいた。度々基地の中で見かけていたが、こうして直に話すのは敷波にとって配属以来の事だった。敷波は改めて緊張した。

「山ちゃん、敷波ちゃんから話があるって」

 瑞鳳はあっけらかんとした声で伝えた。

「……何かしら」

 作業の手を止めた山城は、じろりと敷波を見た。

 相変わらずの目つきの悪さだった。隈の浮かぶその相貌に敷波は思わず萎縮しそうになるが、先ほどから頭の中で用意していた話を伝えようとする。

「分遣隊の事について話を伺いたいんですが、近々異動があるというのは本当なんですか?」

 山城はため息を吐いてから「また噂話になってるのね」と呟いた。

「どこの艦娘に吹き込まれたかは大方検討が付くけれど、分遣隊へは左遷ではなく“正当な”選考で配属される事になっているのよ。近々駆逐艦の誰かが行く事になるのは事実だけど……」

 誰かがあの分遣隊へ配属される。

 そう聞いて、敷波は居ても立っても居られず、本題を切り出した。

 

「分遣隊への異動を希望します」

 敷波は言い放った。

 言い切った。その事実で緊張感から開放されそうになるが、返ってきたのは沈黙だった。

 山城は表情を一切崩す事無く、瑞鳳は目を丸くしたまま敷波を見ている。

 迂闊な意見だったかと敷波は焦るが、山城はようやく口を開いた。

「それだけ?」

「はい。それだけです」

 敷波が答えると、短い沈黙が返る。

「自宅通勤したいからという理由なら無しよ、それとも今の部隊に何か不満でも?」

 山城の口調と顔に圧倒されながらも敷波は首を左右に振った。

「いえ。不満はありません。自宅通勤も考えていません」

 そもそも自宅通勤は結婚でもしない限りどのみち無理だろうに、と敷波は心の中で突っ込んだ。

「……分遣隊は予備部隊のさらに予備の部隊みたいなものよ。仕事の内容も雑務中心で、ここよりも勝手が違う。艦娘としてのキャリアを積みたいのなら、悪い事は言わないから五十鈴の指揮下で経験を積んだ方がいいわ。あなたの成績なら海外派遣部隊でも十分通用するはずよ」

 ですが、と敷波は言いかけて言葉に詰まった。

 一向に食い下がらない敷波を見て、山城は不思議がった。

「変な新人もいたものね。なら、どういう風の吹き回しで分遣隊行きを希望するの?」

 山城の言葉を受け、敷波は緊張しながらも話を始める。

 そう問われたら、こう切り返す。頭の中で何回も繰り返していた事を言うまでだった。

「忘れもしません。一昨年の7月です」

 

 あの日、夕日が沈む海に出撃していった艦娘を思い出す。

 遥が住む町を、そして人々を守るために出撃していった艦娘たちを。

 そして、戦いで犠牲になり、散って行った艦娘の事も。

 

「私は鶴岡で暮らしていて、祖父はあの漁港に居ました」

 山城は少しの間沈黙し、それ以上は聞かなかった。

 言葉の意味を理解するための沈黙。

 それから、山城の硬く結んだ口元に微笑が僅かに浮かんだ。

「どうしても?ギャップで幻滅しても責任は取らないわよ」

「構いません」

 敷波の返答に、山城は少しの間思案した。

「……考慮するわ。仕事に戻りなさい」

「ありがとうございます。失礼しました」

 敷波は頭を下げると、敬礼を返して部屋を退出した。

 

 彼女が出て行くのを確認すると、事の成り行きを見ていた瑞鳳は、山城に声をかけた。

「あの子、大物になりそうだよね」

「どうかしら。少なくとも舞鶴の学校じゃ良い成績だったそうだけど」

 経歴書の内容を思い浮かべていた山城だったが、瑞鳳は「ちがうよ」と訂正した。

「山ちゃん相手にあそこまで意見を通せる新人、中々いないって意味」

 山ちゃんと呼ぶな、と山城は間髪入れずに答えてから、瑞鳳の言葉に答える。

「でもまあ、ここまで気概のある子は初めてかもしれないわね。陽炎や卯月のような問題児と違うタイプの」

 久々に面白い奴を見た、と言わんばかりに山城は笑った。瑞鳳は、久しぶりに見せる皮肉でも嘲りでもない、山城の純粋で柔和な笑みに驚いた。

 

 

 

 数日後。

 いつものように基地の待機所で次の哨戒を待っていた敷波は、数日前から続く、一向に続報のない異動の件について、やきもきしていた。

 山城の「考慮する」という発言から、自身の分遣隊への異動が現実味を帯びていたものの、音沙汰がなかった。いつもように哨戒任務や訓練に明け暮れて気を紛らわせていたが、こうしていざ暇が出来ると、頭の中はそれで持ちきりになった。

 やはり、自分には過ぎた意見具申だったのだろうか?そんな気さえしていた。

 待機中の駆逐艦たちと雑談をして時間を潰しているうちに、待機所に来訪者が現れた。

 

「敷波ちゃんいるー?」

 どかどか、と駆逐艦たちが詰める待機所に先輩艦娘が入ってきた。エメラルドグリーンの髪を揺らす先輩の重巡艦娘――鈴谷だった。世話好きで誰よりも人懐っこく、元気な上官で、特に下っ端の艦娘に対する世話の焼きっぷりから駆逐艦娘の間でも慕われてる重巡だ。

「はい」

 敷波は返事をして鈴谷の前に立った。

「何ですか?」

「分遣隊への異動が決定したって、さっき山城さんから連絡あったよ」

「ほ、本当ですか!?」

 思わず敷波は声が上ずった。周囲の艦娘たちはそれを聞いて顔をしかめた。

「本当本当。近いうちに正式な命令が下ると思うから、早めに準備しといてね」

 後ろに控えていた駆逐艦たちが「しっきー、もう異動かよー」「何で分遣隊に行くんだよー」「あの分遣隊に!?」と声を上げるが、それを聞いた鈴谷は諭すように話を始める。

「分遣隊だって悪い所じゃないでしょ。あそこはご飯も美味いし景色が綺麗で……」

 力説を始める鈴谷を前に、駆逐艦娘たちは口々に突っ込みの言葉を投げる。

「平野先輩あそこの緩い空気が好きで行ってるんでしょ」

「完全に通い妻でしょあれは」

「舞鶴にいた頃のノリが忘れられないだけでしょ」

 もーうっさい、と鈴谷は冗談めかして怒るが駆逐艦娘たちもそれを笑い飛ばした。鈴谷は咳払いを一つしてから、敷波へと改めて向き直った。

「異動の希望理由、山城さんから聞いたよ」

「えっ?あ、あの……」

 突然の言葉に敷波は思わず言葉に詰まったが、鈴谷は優しげな笑顔を浮かべた。

「夢が適って良かったね。私は応援してるから、頑張ってね!」

 まぁ、向こうに行っても頻繁に会いに行くと思うけど、と鈴谷は続けて、またも駆逐艦たちに笑われた。

 

 鈴谷が去ってから、周りの駆逐艦たちはどっと敷波へ詰め寄った。どうして?何で?と駆逐艦たちは敷波を質問攻めにしたが、理由を話すべきか迷った敷波は中々答えを言い出せずにいた。

「分遣隊に自分から行くつもりだったの?」

 到底理解できない、と言った顔の霞が敷波に詰め寄るが、敷波は頷いた。

「うん。あたしから言った、そこで働きたい理由があったから……」

 その言葉に駆逐艦たちは顔を見合わせるが、敷波は意を決して話す事にした。

「日本海側で攻勢があった時に、深海棲艦を追い払って、あたしの町や家族を救ってくれたのは、あの分遣隊の艦娘だったから」

 ざわついていた駆逐艦たちが、しんと静まり返った。

 ある者はその単語を聞いてはっと我に返り、誰かはそれを聞いて何かを思い出した。

「……あの日、出撃していく艦娘を見て、あたしは艦娘になった。だから、分遣隊で働きたいと思ってた。海を守る仕事がしたいと思って、だから……」

 笑われるだろうかと思っていた敷波だったが、全員の反応は腑に落ちた様子だった。むしろ、不知火や満潮は姿勢を正して敷波を見ていたし、何人かは尊敬の念を抱いて敷波を見ている様子だった。

「その……ああ言って御免なさい」

 霞はばつが悪そうに呟いた。散々分遣隊についてこき下ろした事について、謝っている様子だった。

「全然大丈夫。緩そうなのは艦娘になる前から知ってるから」

 敷波はフォローするが、逆に自虐じゃないかと不安になった。その一方で、事の成り行きを見ていた親潮が不意に口を開いた。

「……分遣隊に行くなら、料理できると凄いモテるし尊敬されるよ」

 そうだな、と分遣隊の勤務経験がある誰かが同調した。親潮の言葉を切欠に、皆口々にアドバイスを始めた。

「そうそう、宿舎に家庭菜園あるし漁港から魚よく分けて貰えるからご飯は美味しいよ」

「宿舎のトイレ、鍵のかかり悪いから気をつけた方がいいよ」

「ずやさんの置いてった映画のDVD沢山あるからヒマだったらそれで潰したら」

「陽炎は気に入った子をコマそうとする癖があるから気を付けなさい。陽炎に何かされたら真っ先に私にチクって、全力で黙らせに行くから」

「先任の響って人、見た感じアレだけど物凄く頼りになる人だから、何かあったら頼るといいよ」

 矢継ぎ早にアドバイスを受けて敷波は思わず苦笑いを浮かべてしまったが、嫌な気持ちはしなかった。

 皆、何だかんだで分遣隊という存在が好きなように思えた。

 

 

 

 

 

 それからの1週間は目まぐるしい物だった。

 赴任してから早々の分遣隊への異動であったが、僅かな期間だけ同僚だった艦娘たちは敷波をちゃんと見送ってくれた。

 両親に異動についての話をした時は、もっと喜ばれた。晩飯を食べに戻って来い、だの、昼飯ぐらいは爺ちゃんの家で食べとけだの言われもして、敷波は小恥ずかしい気持ちになったものの、艦娘になった娘が近所にいるという安心感は親として見過ごせない物なのだろう、と実感した。

 

 そして、その日はついにやって来た。

 

 春の心地よい空気と、潮風を感じながら敷波はそこへやって来た。

 

 バス停へ降りてから、敷波は周囲を見回した。

 

 そこは何の変哲もない漁港とその港町で、小さな田舎町とも言えた。敷波――遥にとっては幼少期から何度も何度も訪れた、それこそ庭のような場所だった。

 あの山々の連なりも、立ち並ぶ民家も、その中にある祖父と祖母の家も、道沿いに建つ民宿も、鉄筋コンクリート作りの漁港施設も、防波堤も、見慣れた港湾も、スロープも、漁船も。

 すべては自分の日常であった光景。

 だが、今ここに立っている彼女は違う。

 ただの中学生の少女ではなく、使命と義務を背負った艦娘だ。

 

 発車するバスを横目に、敷波は荷物を担いだ。

 歩いて港へと入る。

 立派な漁港管理施設、その隣に建つ、プレハブ建ての司令部の前に立った。

 

 いざ見ると敷波は緊張した。

 手が届くほど身近ではあったのに、触れる事の出来なかった世界が、目の前にあった。

 深呼吸してから、敷波はそのドアを開けた。




【こぼれ話】
 ご存知主人公(?)の敷波が主役の回です。今まで本名設定が無かった敷波の本名と、彼女の生い立ちを語るストーリーです。最終回らしい過去最長の回になりました。主人公たる彼女に与えたい物語を、考えるがままに盛り込んだ回なので、ある意味四次創作か五次創作ぐらいの作品。
 でも敷波はこういう子であって欲しいんですよね。地元生まれの芯の強い艦娘で、その後の分遣隊の物語の軸にいてほしい人物です。今までの物語総まとめという感じも入れたかったので、カメオ的に馴染みの顔を沢山出してます。最終回っぽく仕上がったかな。

【あとがき】
 プレハブ分遣隊って何ぞや、という人はTogetterの纏めを見てもらったりするとわかりやすいと思います。長いので短縮版ある?という方は当方がpixivにまとめた「まとめのまとめ」をご覧ください。大体あんな感じの概念です。
 さて、pixiv版に掲載してから足掛け10ヶ月超(うちインターバル半年)という長い期間でしたがようやく完結、もとい一区切り付いたので後書きとさせて頂きます。
 事の始まりは概念について呟き始めた1年前。長らくゲームから離れていた(完全に距離を取った)コンテンツで面白そうな二次創作がTwitterでやってると聞いて、ずぶずぶと「分遣隊ワールド」にハマってしまってから自分も何か書きたい、と思いつつ「そうだ、前日譚の話を書こう」と思い立ったのが始まりでした。
 シリーズ名は「Fate/ZERO」とか「エースコンバットZERO」みたいに前日譚あるあるな安直な「ZERO」という単語をくっ付けただけという体たらく。メモ帳で適当に書いてから放置した作品ですが、実際に概念の物理書籍が出てから「書きたい」と思うようになり、1話をすぐに書き上げて完成・投稿と、かなり突貫で書き連ねたシリーズながら、好評を頂けたのは嬉しい限りでした。
 その後、1月半ばで書くだけ書いて更新停止、7月にまたやる気が沸いてきて夏にめちゃくちゃ書き上げまくり、何とか当初の予定であった最終回までこぎつける事が出来ました。これもひとえにTwitterのTLや実際に会って反応を頂いた皆様や、ブックマークを付けてくれた皆様から頂いたモチベーションあっての完走でした。本当にありがとうございました。
 もしかしたら「もうちょっとだけ続くんじゃ」みたいな感じで続きを出すかもしれませんし「前日譚はもういいから本編書こうや」と新シリーズに入るかもしれませんが、ひとまず最終回という形にします。
 応援ありがとうございました。またどこかでお会いしましょう。

・スペシャルサンクス
概念の設定や世界観形成に多大な影響を与えてくれた 月極さん
3話のイラスト本当にありがとうございました。平野外伝はいつか書いてみたいですね。

多大なインスピレーションとモチベーションを与えて下さった 非労働英雄さん
素晴らしい物理書籍を本当にありがとうございました。あの作品無くして今シリーズはありませんでした。

その他、概念の形成して下さった皆様
今作を見て下った皆様


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