風の石空の夢 (さびる)
しおりを挟む

通い路(かよいじ)1

『通い路』1~10
佐為とヒカルが出会い、中学囲碁大会に出るまで
(主な登場人物…佐為・ヒカル・導師・あかり・白川先生・塔矢アキラ・磯部秀樹・筒井・加賀)


気が付くと、 ヒカルは見慣れない部屋にいた。

ベッドでも布団でもなく、板の間に寝かされ、体にはふんわりと布がかけられていた。布には焚き染められた鄙びた香りがした。

 

ばあちゃんのハンカチの匂いみたいだ。病院のわけがないよな。当たり前だけどさ。

そう思うと、何故かくすりと笑いがこみ上げてきた。とその時、声がした。

 

「目覚めたか?」

 

ヒカルが気がついたのを感じて、明り取りの窓の近くでなにやら読んでいた男が振り向いた。

ヒカルと男は目を合わせた。しばし、黙って、お互いに品定めをするように相手を見つめた。

 

相手は烏帽子を被り、狩衣を着ていた。ヒカルは、その服の名前は知らなかった。この部屋だったら当然の服装だと思っただけだった。

 

「そなたは驚いているか?」

 

ヒカルは首を横に振った。驚くって何を。ヒカルには自分がここにいることも男の存在も至極当たり前のような気がしていた 。

それでも…これは夢かも知れない。夢だったら俺は靴を履いてる筈…。

 

ヒカルは自分が素足で寝ているのに気が付いた。見回すと、部屋の入り口にスニーカーと靴下がきちんと揃えて置かれている。

俺もしかして夢の中で靴を脱いだのかな?いや、これは夢ではなく、もしかして現実?

 

男は、ヒカルの様子に構うことなく、自分の話したいことを話していた。

 

「そなたは私の待ち望んでいた者に相違ない。前にもあったが…まあそれは良いとして。

とにかくそなたはきっと疲れているであろう。時の旅は疲れる。もうしばらく横になっているがよい。導師が来られるまで、まだ間がある。」

 

男は文机の傍にあった鈴を鳴らした。

召使らしい男が戸口の手前で頭を下げて畏まった。

 

「菓子と茶を持て。」

 

召使はそれだけ聞くとすぐに下がり、間もなく盆を運んできた。

「腹が減っておるだろう。唐菓子だ。ゆっくり食すが良い。」

男は立ち上がると、部屋から出て行った。

 

一人になると、ヒカルは体を起こした。

俺は別に疲れてないよな。

 

立ち上がり、背伸びをし、体をほぐすように動かしてみた。体がほぐれると頭も動き出したかのようだった。 辺りを見回して思った。

 

ここはどこだろう。何故ここにいるのだろう。

 

そういう疑問がやっとヒカルに湧き出てきた。庭を見ると、整えられているわけではないが、それとなく風情のある草木が目に入った。 部屋には殆ど家具がない。書見台と文机と敷物が2枚ほど置かれていた。

 

ヒカルは板の間に置かれた盆を見た。茶は薬草の匂いがした。菓子は揚げ菓子だった。

ヒカルは、一つつまんで口に運んだ。甘みが少ないが、噛みしめるとなかなか美味しい。

「ふーん。ドーナツっていうところかな。」

初めて声を出してみた。

盆に乗っていたのをすべて食べてしまうと、お茶をぐっと飲んだ。

ウーロン茶じゃないけど中国茶かな。

 

そんなことを思っていると足音がした。先ほどの男だ。

 

「起きられたか。良かった。導師が来られたところだ。」

 

一人かなり年配の男が一緒にいた。

付き従っていた召使が灯台を置き、敷物を3枚並べた。

 

「佐為。これは、まだ若いお子じゃな。そなたが、このお子を呼び寄せたのか?」

「分かりませぬ。これは異国の衣装。ですが、きっと時の旅をしてきたものに違いありませぬ。 私には分かります。私の待ち望んでいた者に違いありませぬ。」

佐為は熱心に言った。

 

導師は、ヒカルに訊ねた。

「そなたはきっと、この場は初めてに相違ない。どうしてここに参るようになったか話してくれまいか。」

 

ヒカルは、どう話していいか分からなかった。

「俺、よく分からないんだ。気が付いたらここに寝かされていた。ここはどこなの?」

 

「おそらく佐為が気がつかぬ間に呼び寄せたのよ。前と同じことだ。」

 

佐為と呼ばれた男は言った。

「私が呼び寄せたのなら、この子はきっと才溢れる子に違いありませぬ…。」

 

導師は、そう思ってはならぬというように頭を横に振った。

「決め付けるのは良くない。そなたの悪い癖だ。ところで、子よ。そなたの名前を教えてくれまいか。」

「俺はヒカル。進藤ヒカルだよ。あんたは導師さんで、そっちが佐為って言うんだな。」

 

ヒカルに佐為と呼ばれた男はその言い方にちょっと不服そうだったが、導師は微笑んだだけだった。

 

「そなたは怖がっておらぬな。見知らぬ場所にいて恐ろしゅうはないのか?」

「それってあんた達が怖いかってこと?怖くないよ。よく分かんないけどさ。俺、ここにいて危ない目に会いそうにないもの。それとも何かよくない事があるの?」

 

導師は言った。

「そなたが落ち着いた子で頼もしく思える。目覚める前に何があったか教えてはくれまいか。そなたのいた所はどのようなところかを。」

 

「俺のいたのはこことは全然違うよ。ここはどこなんだ。ここってさ、なんだか、テレビドラマのセットみたいだよ。あんた達の着てるものもさ。

俺は近所の友だちと祖父ちゃんの家に遊びに行ってたんだ。祖父ちゃんは俺のお父さんのお父さんだよ。

祖父ちゃんのうちにはお蔵があるんだ。今はただの物置だよ。そこで遊んでいたら、碁盤を見つけたんだ。

俺はそこに何かきらっとした小さな石を見つけたんだ。一緒にいた奴は見えないって言うんだ。でも俺には見えた。

それで、その石を手にとった。それっきりだよ。それで気が付いたら、ここにいたんだ。これって夢じゃないんだよね。」

 

「現実だ。そなたはやっぱり選ばれし者だ。」

佐為は嬉しそうに言った。導師は危ういものを見るように佐為を見た。

 

「ヒカルと申すものよ。私にはこれがそなたにとっての夢か現実か答えることはできない。」

「現実に決まっています。」

佐為は、きっぱりと言った。

 

ヒカルは、何て強引な男だろうと佐為を見た。

「どっちでもいいけどさ。ここはどこなんだ。それで、俺はどうなるわけ?前にいた所に戻れるのか?」

 

佐為はアッサリ答えた。

「戻れる。前もそうだった。だが、戻る前にそなたの棋力を知りたい。」

 

ヒカルは面食らった。そして初めて不安に思った。

 

何だ?キリョクって?

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

通い路2

『通い路』1~10
佐為とヒカルが出会い、中学囲碁大会に出るまで
(主な登場人物…佐為・ヒカル・導師・あかり・白川先生・塔矢アキラ・磯部秀樹・筒井・加賀)


佐為は呼び鈴を振った。

召使は予め言付かっていたらしく、すぐに碁盤を捧げもってきた。

これって、碁じゃねえか。俺と碁を打とうって言うのか?

ヒカルは、佐為が話す前に言った。

「いいか。俺、碁なんて打ったこと、ないからな。何でも勝手に決め付けるな。」

 

佐為は驚いたようにヒカルを見た。

「碁を打たないと。いや、打てないのか?そなたは。では、何故ここに来た。」

ヒカルは頭にきた。それは俺が聞きたい。

「お前、さっき、こっちの導師さんが言ったのを聞いてなかったのかよ。佐為が気がつかぬ間に呼び寄せたって言ったじゃないか。 俺は来たくて来たわけじゃない。」

 

佐為は憮然として言った。

「私がそなたのような者を呼び寄せる筈がない。碁を打てない者など私には用がない。」

その言い方に、ヒカルはカチンと来た。

「お前のような奴と。打てたとしても俺はどんなに頼まれても打つものか。 碁なんてくだらないよ。詰まんないものだ。」

「それは違う。碁こそ生きるすべてだ。尊いものだ。」

佐為もむっとしたように言い返した。

 

導師は興味深そうに二人の様子を見ていた。

それから、佐為に言った。

「ヒカル殿は碁を打てないとな。だが折角用意した碁盤だ。佐為。わしと一局打つか。そなたの相手には不足じゃが。 一局打ったらわしは帰る。」

 

導師は、石を三つ碁盤に置いた。それから佐為と導師は碁を打ち始めた。

 

祖父ちゃんが打つ碁とは何か違って見える。碁盤や石が違うからか。

しかしそうじゃないとヒカルは思った。

佐為は、ヒカルの存在を忘れたように碁を打っていた。ヒカルは盤上を指が行き交い、石が置かれる様をじっと見つめていた。ヒカルの頭にそれは、しっかりと植えつけられた。ヒカルは初めて碁を打つのを真剣に見たと思った。

勝負が付いた時、ヒカルには二人の呼吸が聞こえる気がした。先ほど碁をけなした事を 、佐為をけなしたことを、もうすっかり忘れていた。

とっても面白かったと、そうヒカルが言おうと思った時、佐為は導師に言った。

「この子は私には無用の子です。 戻せるものなら早く戻してやりたいが、碁が打てぬとなるとやり方がわかりませぬ。」

 

ヒカルは急に気持が冷めた。それからひどく頭にきた。もう前の世界に戻れるかどうかなど、眼中になかった。 どうでもいい。無用の子といわれたのが癇に障ったのだ。偉そうに澄ましている、この佐為という男をぎゃふんと言わせてやりたかった。だがどうすればいいのか。

「無用の子で悪かったな。俺もお前の顔を見たくないさ。そうだ。導師さん。俺をあんたの家へ連れて行ってよ。」

 

導師は言った。

「私はそなたを戻せるかどうか分からぬよ。」

「いいよ。導師さん。こいつだって、できないって言ってるんだから。勝手に呼び寄せやがって、気に入らなければほっぽリ出す奴なんだ。信用できないよ。」

 

佐為はむっとした様子でヒカルを見て何か言おうとした。だが、ヒカルは佐為を無視して、スニーカーを持ち土間へ降りた。靴下と靴を履き終わると、導師に言った。

「さあ、行こうぜ。導師さんの家にさ。」

 

 

 

導師は特に何も言わなかった。

だが門の外へ出る前に一言ヒカルに言った。

「もう日が落ちる頃なので、大丈夫とは思うが、それでもその衣服は目立つ。これをかけるがよい。」

導師が差し出した長い布をマントのように纏い、足まで覆い隠すと、ヒカルは導師の後に続いた。

 

やがて町並みが途切れ、林の奥へと分け入る小道へと入った。すぐに小さな邸に行きあたった。二人が近づくと、40歳前後に見える男が 導師を迎えに出た。

「ここがわしの住まいだ。この男はわしの弟子の冶吉という。ここでは何も気を遣う必要はない。」

 

冶吉はヒカルの見慣れぬ衣服を見ても驚かず、淡々として見えた。

ヒカルを部屋に招き入れると、導師は早速言った。

「さて、そなたの話をもう少し、詳しく聞きたい。 そなたがずっとここにいれば、佐為の役に立てるかも知れぬが。しかしそなたは戻るべきだ。 戻る手立てを考えねば。ヒカル殿の暮らしていたのは江戸ではないのだろうな。」

「江戸?」

時の旅とか言ってたけど本当なのか?ちょうど学校でやったところだ。えーと、“いやでござんす ペリーさん”…だから、 1853年だっけ。140年ぐらいかなあ。

「江戸って、江戸時代のことだよな。俺がいたのは、それが終わってから、140年位かな。今は江戸じゃなくって、東京って言うんだよ。」

「京都はまだあるかな。」

「京都?あるよ。東京から新幹線で2時間くらいかな。」

「2時間?新幹線?よく分からぬが、まあおいおいに聞こう。 ところで、ヒカル殿は確か碁盤のところで石を見つけたといっていたが、誰か近くに碁を打つ者がいたのかな。」

「うん。おれの祖父ちゃんだよ。相当強いらしいよ。何ていったけな。とにかく有名な強い人を負かせたって。いつも自慢してる。」

「そうか、そなたの祖父殿が碁が強いのか。そなたはそれを見ても打つ気持はおこらなんだか。退屈に思うか。賭け事が好きになれぬか。」

「分からないけれど。でもさっき見たの。導師さんと佐為が打ったのは、とっても面白かった。俺、見ていて夢中になっちゃった。あっ、でも、これは 、あいつ、佐為には絶対言わないでよ。佐為って偉そうで本当に頭にくる奴だから。」

 

導師は可笑しそうに笑った。

「やはりそなたは来るべくしてここに来たのかも知れない。そなたの物怖じしない態度を見るとそう思えてならない。だが、とにかく、今はそなたが 元の場所へ戻る手立てを考えねば。」

導師は少し考えていた。

「そなたが手にしたという石は今どこにあるのか。どこかに落としたのか…。」

 

ヒカルはそう言われて、気が付いた。上着のポケットを探った。出てきたのは、くしゃくしゃのハンカチだけだった、それからズボンのポケットに手を突っ込んだ。

「あった。これだ。」

ヒカルは8ミリほどの小さな石の玉を取り出した。それを導師に良く見えるようにと、灯台の傍に近づけた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

通い路3

『通い路』1~10
佐為とヒカルが出会い、中学囲碁大会に出るまで
(主な登場人物…佐為・ヒカル・導師・あかり・白川先生・塔矢アキラ・磯部秀樹・筒井・加賀)


ヒカルが気が付いたのは、救急車へ運ばれるためストレッチャーに乗せられる時だった。

「あっ。ヒカルが目を開けたよ。」

あかりが、そう叫んだのが聞こえた。

特にどこも悪くないということで、ヒカルは、数時間後には病院から家に戻ったが、薬が効いていたらしく、家に戻ってすぐ寝てしまった。

まる一晩寝入って、翌朝目が覚めると、ひどくお腹が空いていた。

 

「それだけ食べられれば大丈夫そうね。でも今日はお休みしなさい。学校には連絡したから。」

母親はほっとしたようにそう言った。

午後になるとあかりがやってきた。

「ヒカル、元気になってよかったね。本当に驚いたんだよ。急にばたっと倒れて。救急車が来るまで、ヒカルったら10分くらいは気絶してたもんね。」

その後あかりは学校であったことを色々話していたが、ヒカルはそれを殆ど聞いていなかった。

 

一人になった時ヒカルは考えた。

たった10分なのか。俺、変な夢みたな。でも本当に夢なのかなあ。

夢だと思ってはいても、心のどこかでは、実際に起きたことのような気がしていた。

 

すっきりしない気分でずっとぼんやりしていたヒカルは、急に気が付いた。

そうだ。石。石だ。石があれば本当に起きたことだ。

ポケットに手を突っ込んで、ヒカルは、まずったと思った。

母親は毎日、前の日にヒカルが着ていたものを洗濯していたのだ。ヒカルは急いで、母親のところに行った。

「お母さん。昨日着ていた服は?」 「あそこよ。もう乾いたから。明日、学校に着ていけるわよ。」

「あのさあ、ポケットに何かなかった?」

「ポケット? なかったわよ。いつもちゃんと調べてるから確かよ。」

幼稚園の頃一度、ティッシュに包んだ団子虫を一緒に洗濯して以来、母親は用心深くなっていた。ヒカルが6年生になっても、それは変わらなかった。

 

 

石はなかったんだ。少し残念な気持を抱きながら、ヒカルは服を受け取ると、部屋に戻った。

「あーあ、あれはやっぱ夢だったんだ。」

そう言いながらも、一応、ズボンをさかさまにして振ってみた。すると、ぽとりと石が落ちて床に転がった。ヒカルはその石をじっと眺めた。

やっぱ、夢じゃなかったんだ。本当のことなんだ。そういや、あかりはこれが見えなかったんだし、 お母さんも見えないんだ、きっと。

 

ヒカルは思い切って石を手に持ってみた。だが、何も起こらなかった。 窓から入る日の光にかざしてみたが、やはり変わりはない。赤っぽい石はただ鈍い光を放っているだけだった。

石じゃなくてあの碁盤が怪しいのかな。この石は一体何なのだろう。

ヒカルはしばらく手のひらで石を転がしていたが、それから石を机の引き出しにそっとしまった。

 

 

翌日学校へ行くと、クラスでは、ヒカルが救急車に乗ったという噂で持ちきりだった。

「いいなあ。」

「俺、救急車はないけど、パトカーに乗った事あるぞ。」

「なんだ。お前、何か悪いことしたのか。」

わーという笑い声がした。いつもならヒカルは真っ先にその輪に入っているのだが、今日は、うっとおしかった。

 

 

ヒカルの頭には夢のようなあの出来事があった。

やっぱ夢かもしんない。そういや、夢に出てきた導師さんが夢か現実か答えられないって言ってたよな。

そう思った時、佐為の顔が浮かんだ。何故かヒカルにはその顔が勝ち誇ったように見えた。

くそー。あいつ。あいつを何とかへこましたいぞ。

ヒカルの心は何故か佐為に対する対抗心でいっぱいになった。

夢か現実か、また会えるのか分からなかったが、そんなことはどうでも良かった。

とにかく、あの佐為をぎゃふんと言わせたい。でもそれには碁ができないと駄目そうだしな。

ああ、碁かぁ。祖父ちゃんに頭を下げて教えてもらうしかないか。

碁かぁ。退屈そうだな。

 

祖父に教えてもらうというのにも踏ん切りがつかないまま、学校から帰ると、母親は留守だった。

「何か面白いことないかなあ。」そう言って、ヒカルはテレビの番組表を見ようとした。

新聞を 取り上げると、折込広告がどさっと床に落ちてちらばった。

面どくせえなあと、それを片付けていると、社会保険センターの文化教室のちらしが ヒカルの目に入った。

「へえ、囲碁教室だって。初心者毎週土曜? 土曜日って明日だよな。」

 

 

翌日の午後、ヒカルは囲碁教室の後ろの方にすわり、あくびをしていた。

囲碁教室って思ったとおりだな。退屈じゃんか。先生は、何言ってるかさっぱり、分かんねえし。それにおじさん、おばさんばっかじゃん。 祖父ちゃんに教わった方がましだったかもな。

ヒカルがそこに来た事を後悔をし始めた時、講師の男が言った。

「では、講義はここまでにして、対局に入りましょう。」

講師は、みんなが対局の準備を始めると、にこやかにヒカルのところに来た。

「キミは進藤君だったね。碁は初めて?」

「はい。全然何も知りません。」

「そう分かりました。で、どうして碁に興味を持ったの?」

「祖父ちゃんの相手をするため。」

「お祖父さんには教えてもらってないの?」

「うん。全然。内緒で、驚かせたいから。」

「そうですか。」

講師はちょっと笑った。

 

「では石取りゲームをしてみようか。」

「いいかい。こうやって……」

講師は碁盤の隅に石を置きながら説明した。

「それでね。で、僕がこう打つと、ホラ、僕が石を取って僕の勝ち。」

「そうかあ。」

これって結構面白くないか。ヒカルは思った。

2、3度ヒカルの相手をすると、講師は言った。

「後は、見学していてくれるかな。」

ヒカルは、ゆっくり、対局している人たちの間を回ってみた。

どれもあんまり面白いとも思えなかった。佐為と導師さんの碁とは大違いだ。

そう思うと、ヒカルの頭には、二人が打った碁盤の模様がばあっと浮かんできた。

 

 

家に戻ってから、ヒカルはごろっと、ベッドに転がった。

石取りゲームは面白かったけどさ、何かもっと手軽に、ちょちょいと打てるようになる方法はないのかなあ。ぱぱっとさ。 碁ってやっぱ、しち面倒くさいわ。

 

翌週、ヒカルは、囲碁教室の講習が終わった後、ため息をついた。

「あら、どうしたの? ヒカル君。」

先週、知り合ったおばさんが声をかけた。

「うん。あのさ、ここって毎週1回だろ。上手くなるのに時間かかりそうだなって思ってさ。」

「そうねえ。ここだけじゃだめねえ。私たちはお仲間で打ち合ってるけど。」

もう一人のおばさんが言った。

「強い人たちは、碁会所に行ったりしてるけれど、私たちの腕じゃあね。」

「碁会所って?」

「ああ、駅前にあるけれど、私たちの腕じゃ打てないわよ。あ、ヒカル君、1回500円はかかるわよ。」

 

ヒカルはそれを背中で聞いていた。碁会所があるという駅の方へ向かった。

碁会所ってなんだ? 祖父ちゃんは行ってるのかな? 

 

駅前のビルの4階に、ヒカルは囲碁サロンという文字を見つけた。

500円、持ってねえけど、どんなところか、覗くだけならタダだろ。強い奴って、佐為みたいな奴がいるのかなあ。

 

恐る恐るドアを開けて覗くと、受付の女の人がヒカルを見た。

「あら、こんにちは。どうぞ。」

「ここって誰でも碁が打てるの?」

「打てるわよ。棋力を教えてくれれば、適当な相手を紹介できるし。」

あ、やべ、棋力だってさ。

ヒカルは棋力という言葉に敏感に反応した。

「ううん。俺碁を始めてまだ1週間だから。ちょっと、見るだけだけど、いい?」

受け付けの人は笑った。

「そう。見学ね。いいわよ。ゆっくりどうぞ。」

ヒカルは、煙をくゆらせながら、打ち合っている人たちの間を回った。

やっぱ、おじさんばっかだな。それに強いって言ってたけど、あんまり面白そうじゃないなあ。

 

その時、ヒカルは隅の方で一人で黙々と石を並べている男の子に気が付いた。

小学生だな。俺と同じくらいの年だ。

ヒカルは、その子の方へ歩み寄った。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

通い路4

『通い路』1~10
佐為とヒカルが出会い、中学囲碁大会に出るまで
(主な登場人物…佐為・ヒカル・導師・あかり・白川先生・塔矢アキラ・磯部秀樹・筒井・加賀)


ヒカルがその子に声をかけようとした時、サロンのドアがぱっと開いた。また子どもだった。

「いらっしゃい。」

受付の人が言ったが、その子はそれを無視して、ずかずかとサロンに入り込んで辺りを見回した。

「塔矢アキラっている?」

「アキラ君?いるわよ。」

そういって受付の人は隅の方をチラッと見た。

ヒカルがあっけに取られていると、その子はヒカルを通り越し、石を並べている男の子にずかずかと近寄った。

 

「お前と打ちに来たんだ。」

その子は挑戦的な口調で言った。

「いいよ。打つよ。」

アキラは振り返って、笑顔を見せた。

それを見てヒカルはアキラって奴は中々良さそうな奴じゃん。そう思った。

 

「棋力はどれくらいなの?」

「子ども名人戦優勝。」

「ほんと、すごい!」

「そんなこと全然思ってないくせに。なにがすごいもんか。お前が出てないのに。」

図星を指されたアキラは困ったように黙っていた。

「お前。自分が出ると、ほかの子がやる気をなくすからって言ってるそうだな。本当にやな奴だ。陰でこそこそ威張っててさ。だからボクはお前に勝ちに来たんだ。」

そう言ってその子はアキラの向かいに座った。

「みんなにボクを認めさせるにはお前に勝たないと。ボクは磯部秀樹。ボクが勝ったら、お前、磯部秀樹に負けたってちゃんと言えよ。」

「うん。分かった。磯部秀樹君ね。覚えたよ。握りは僕でいい?」

「お願いします。」

二人は頭を下げた。

 

ヒカルは二人の様子を興味深く見つめていた。

 

磯部秀樹は、ひどく腹を立てていた。 プロになるとかは考えていなかったが、自分は碁が強いという自負は相当なものだった。

折角の子ども名人戦で優勝できたのに。こいつのお陰で台無しだった。 俺を無視して小学生の中で一番強いのはこいつだと皆が噂している。どんな強そうな子かと思えば、こんなにへらへらしている奴だったんだ。 院生でもなく、プロでもなく、自分の父親の碁会所でちやほやされてる奴。

こんな奴、絶対叩きのめしてやる。

 

 

ヒカルは磯部秀樹の様子から何となく終わったんだなだと感じた。その通りに間もなく対局は終わった。磯部秀樹は「負けました」って 下を向いたまま小さな声で言った。

傍らでその対局を見ていた若い男がその磯部秀樹に言った。

「キミの地に拘るような発想はアキラには通用しないよ。まあ、どのみち、これは白模様にどかんと打ち込んでシノギ勝負に持っていくしかなかったようだね。」

そういうと、笑って彼の肩をぽんと叩いた。

「いやあ、キミは充分強いよ。ただ相手が悪かったねぇ。」

その子は下を向いたまま、「ありがとうございました」と言った。アキラも「ありがとうございました」と頭を下げた。 磯部秀樹は、その言葉も耳に入らないように、そそくさと碁サロンを出て行った。

 

解説を加えた若い男が聞いた。

「ところでアキラ?今の子、誰だい?」

「えっ?誰だっけ。忘れちゃった。」

アキラは名前を忘れたことをちっとも悪びれていなかった。

 

いい奴だと思ったけど、この塔矢アキラって奴も…。

ヒカルはそれから出口の方へ向かい、受付の人に言った。

「面白かったよ。また見学に来てもいい?」

「あら、見学ね。ま、いいわよ。みんなの邪魔しなければね。」

 

帰りの道々、ヒカルはブツブツと呟いた。

それにしても、碁をやる奴って、どうしてこう高飛車なのが多いんだろうな。

あの磯部秀樹って子、あいつ、自信満々だったけどな。感じ悪かった 。負けて打ちのめされている姿は流石に少しばかりかわいそうな気もした。でも、もし、あいつが勝ってたら、どんなに威張りちらしたことだろう。

だけどなぁ、アキラって奴も、そういう態度を見せないだけで、自分より弱い奴は全く眼中にないんだな。 名前を忘れても平気だったしな。

なんだかなあ。自信がある奴って、みんな、どっか佐為に似てないか。

碁ってそういう奴が強いのか?そうするとトンでもないものなんだな、碁っていうのは。

 

それでも、ヒカルは思った。

でもあれは面白かったよ。絶対。夢の中であの二人が打った碁は。

ヒカルは二人の指先が、碁盤に飛び交う様を、また頭の中で追っていた。

 

翌週、碁の講習会が終わると、ヒカルはまた囲碁サロンに出向いた。

その日はアキラは居なかった。

「こんにちは。また見てもいい?」

「あら、君。進藤君ね。本当に来たのね。折角だから、誰かと打ってみる?」

「ううん。いいよ。だって俺。まだ、全然打てないよ。」

その時、アキラがサロンに入ってきた。

「市河さん。こんにちは。」

「あら、アキラ君。いらっしゃい。」

「どうしたの?」

アキラはそう言って、ヒカルを見た。

「ええ、見学ですって。碁を始めてまだ2週間なのよね。」

「へえ。それで一人で碁会所に?」

不思議そうにアキラが言った。

「だって、碁の教室は週一回だし、打つ友だちも誰もいないしさ。全然進まないから。 ちょっとここに刺激を受けにきたんだ。」

「ボクが相手しようか?」

 

アキラはこの日、気分がよかった。父が自分の碁を褒めてくれたのだ。そんなことは滅多にない。

それに父相手にもうすぐ2子置きになるという。

アキラにとっては、父が期待していてくれるというのは一番の喜びだった。

ボクは自分の力を自覚して真っ直ぐプロの道を歩いていこう。そういう気持で碁会所にやってきたのだった。

「超初心者の相手をお前が?」

「うん。いいよ。」

ボクはプロになるんだから。囲碁界の上に立ち、後のものを引っ張っていくのだから。

それにここでのいつもの指導碁も、超初心者の相手も、ボクにとっては大して違わないよ。

 

ヒカルは、慌ててポケットを探った。

「じゃあ、お金払わなきゃ。」

「あ、今日は特別ね、サービスでいいわ。」

受付の女の人は笑って言った。

 

ヒカルは、アキラと向かい合った。

「お願いします。」

アキラがいうのを聞いて、ヒカルも慌てて言った。

「お願いします。」

アキラとの“対局”はヒカルには結構面白かった。

でもしばらく打つと、ヒカルはアキラに言った。

「もういいよ。こんな相手させて悪かったな。」

アキラは、内心ほっとした。ヒカルがあまりに下手でやってられなかったからだ。というより、まだ碁になってないし…。

「別にいいよ。たまには、こうやって遊ぶのも。」

アキラはそう言った。ヒカルは石を片付けながらアキラに聞いた。

「この前、一人で石を並べてただろ。あれは何してたの?」

「棋譜並べのことかい?自分が打ったものや上手な人の対局を覚えていて、並べてみるんだよ。勉強になるからね。」

その時、声がかかった。

「アキラ先生、指導碁をお願いできますか?」

年配の男の人だった。アキラはその男のテーブルに行ってしまった。

 

一人になったヒカルは石を手にした。

棋譜並べか。そういうのがあるのか。そういやあ、祖父ちゃんも、いつも一人で石を並べてたよな。

そう思いながら、盤に石を三つ置いた。そのまま、頭にあった佐為と導師の一局をヒカルは盤に並べ始めた。するとあの時の興奮が蘇ってきた。

石をすっかり並べ終わった時、ヒカルは盤上を見ながら、何故か深い満足感を覚えていた。

「俺、いつかこういう碁を打ってみたい。」

初心者とは思えない言葉がヒカルの口から漏れた。

 

しばらくその盤面を眺めた後、ヒカルが石を片付けようとした時、アキラの声がした。驚きを隠した声だった。

「これ、キミが並べたの?」

「うん。俺さ。ついこの間、たまたまこの対局を見たんだよ。それから急に碁を打って見たくなったんだ。 いきなり碁を始めたのはそういうわけ。」

ヒカルはあっさり言った。どうせこいつは俺のことをすぐに忘れる。あの磯部秀樹でさえ、忘れちゃったんだから。

 

ヒカルは、石を片付け終えると、出口に向かった。

「進藤君。このチラシをもって行くといいわ。子ども囲碁大会があるのよ。」

受付の女の人が渡してくれた。

「へえ。ありがとう。それってもしかして、この間の子が勝った奴と違うの?」

「あれとはまた違うのよ。子どもの大会もいろいろあるのよ。」

そうなのか。子どもの大会っていろいろあるんだ。

 

ヒカルがチラシを眺めながら碁サロンを出ていくと、アキラは尋ねた。

「ねえ、市河さん。あの子は一体誰なの?」

「進藤ヒカル君よ。なんでも2週間前から、碁を始めたんですって。近くの保健センターの囲碁教室に通ってるらしいわ。」

「本当に?」

半分疑わしげにアキラは言った。

「ええ、まだ石取りゲームからちょっとしか進んでないって言ってたわね。先週も来て、アキラ君が子ども名人と打ってるのを見てたわよ。」

 

先週ヒカルを見た記憶はアキラには全くなかった。磯部秀樹と打ったことすら殆ど忘れかけていた。

「進藤ヒカルね。ふーん。」

アキラはそう呟くと、ヒカルが出て行った戸口をじっと見つめた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

通い路5

『通い路』1~10
佐為とヒカルが出会い、中学囲碁大会に出るまで
(主な登場人物…佐為・ヒカル・導師・あかり・白川先生・塔矢アキラ・磯部秀樹・筒井・加賀)


「昨晩、ヒカル殿はわしの目の前から、突然去っていった。」

導師はそう切り出した。

佐為はそれを聞くと、ほっとしたように言った。

「私はあの子が元の世界に戻れるようにと願いました。願いが聞き届けられたのですね。あの子は誤ってこの時代に来てしまったのですから。」

導師は言った。

「いや、あながち誤りとは言えぬぞ。あの子は石を持っていた。」

 

「石を?これと同じものでしょうか?」

佐為は、自分の耳につけていた石を外して見せた。

「そう、その石と同じものだ。わしが見間違う筈はない。」

「対の石をあの子が…。これは時を下り、或いは、さかのぼって、優れた碁打ちを捜し求める石なのです。それを虎次郎 は手にしたのです。虎次郎が亡くなった時に、私は彼と共に対の石も失いました。 石は私の元に戻ってこなかった。それ以来、この一つ残された石を使って、私は求めてきたのです。もう一度、心ゆくまで、自分が望む碁が打てるようにと。」

 

「わしは何となく感心せぬよ。佐為は虎次郎に影響力を持ち過ぎては、おらなんだか。自分の時ではないところで、力を使うのは感心せぬ。良くないことが起きるぞ。己の分を心得よ。佐為。」

「そうでしょうか。虎次郎は喜んでおりました。私はここで虎次郎を鍛え、虎次郎と共に時の旅をして、思う存分あちらの世界で碁を打ってきたのです。あの あまたの強豪たち。この平安の御世ではなし得ぬことでした。嬉しいことに何より彼らの追い求めていたものは、私の求めていたものと同じ 、果てしない碁の高みでした。」

 

導師は首を横に振った。

「わしは、そなたが得た力を悪用しているとは思わぬ。そなたほどの腕があれば、より強い者を、対等な者を相手にと、求めるのは当然と思っている。だからこそ私はそなたを大陸へ送り出すのに苦心している。残念だがそれはまだ叶わぬが。そなたは、しかしその強い思いで、時を選んでしまった。」

「それでも私の術もまだまだです。上手くいったのは、虎次郎ただ一人だけ。なのに、私も彼もこれからという時に、虎次郎は死んでしまいました。彼との時を戻すことはもうできませぬ。

今回、やっと私の願いが再度聞き届けられたと思いましたに、あのような子が現れるとは。」

 

導師は深い思いを致すように話をした。

「わしは、いや、これはわしの勘に過ぎぬのだが、あのヒカルというお子は、誤ってここに現れたとは思わぬ。わしの勘が正しければ、ヒカル殿は必ずまた、ここに舞い戻るぞ。」

佐為は眉をひそめた。

「何故にです?ヒカルと申す子は、碁を打ったこともなければ、碁に対する関心も何もないというに。」

 

導師はちょっと、笑った。

「はは。さてな。そうであろうか。わしは子どもの頃は思うこととは反対の言葉をよく口にしたものよ。だから 分かるのだが。きっと、そなたは真っ直ぐな良い子でそのようなことはなかったかも知れぬが。」

導師はさらに続けた。

「そなたとヒカル殿との間には、もしや何か通じるものがあるのではないか。でなければ、何故、虎次郎殿の持っていた石をヒカル殿は拾えたのか。わしの家に着いてから、ほんの少しばかり話をしたのだが、ヒカル殿の祖父がかなりの碁の腕の持ち主だそうだ。」

 

佐為はそれを聞いて、ちょっと、目をつぶった。ヒカルのことを思い出そうとした。佐為の頭に浮かんだのは、敵意を剥き出しにして、自分に 刃向かって来る子どもの姿だった。佐為は苦笑した。

「考えてみれば私も大人げがありませんでした。初めて出会ったのです。もう少し時間をかけて、じっくり、あの子と話すべきでした。もしかしたら、あの子は、碁は打てずとも、私を時の旅に連れ出す力、私を誘う役目を持っているのでしょうか。老人に は時の旅は辛いものでしょうから。」

 

「わしには分からぬことだ。人がどのような縁で繋がりを持つのか。ただ、ヒカル殿は、いきなり、この見知らぬ世界に迷い込んでも、揺るぎもせず、己を貫き通す強靭さを秘めている。これは稀に見る素質だ。」

「確かに、考えてみればそうです。あまりにも平然として見えたので私にも配慮が足りませんでした。少々手ひどく扱ったかも知れませぬ。多分あの子は二度とここへはこないでしょう。もしも 再びここに現れたなら、私は言葉を慎んで、あの子に思いやりを持って接しましょう。」

 

そう言うと佐為は手にしていた石を指でそっと挟んだ。

「私がこの石をこうやって、光にかざし、願いを籠めると、対の石が光ったのです。虎次郎の持った石が私の石と時を越え、同時に。石を持つ二人の気持がぴったりと合った時に。2つの石が同時に光にかざされると、時の扉が開くのです。虎次郎はそうやって幾度もやって来てくれました。」

 

そう言って、佐為は石を光にかざして見せた。赤く透き通った光が辺りにきらめいた。

「そう、そのきらめきが大きな輪を作り広がった時に、ヒカル殿は…」

導師は最後まで言葉を言えなかった。

 

 

大きな光の輪のあまりに強い瞬きに佐為も導師も思わず目をつぶった。

その二人の耳に声が聞こえた。

 

「ああ、何だよ。なん何だよ。また。いきなりだ。毎日何度やっても今まで何も起こらなかったのに。明日は約束があるっていうのに。そういう時に限って、余計なことが起きるんだよな。またここに来たのかよ。」

 

そう言いながらヒカルは佐為を睨んだ。今回はヒカルは気を失うこともなく佐為の前にすくっと立っていた。

佐為は「余計なこと」というヒカルの言葉を耳にし、つい今しがた思いやりをもってヒカルと接すると決めていたことなどすっかり忘れて、ため息とともに言っていた。

 

「ヒカルとやら。また来たのか。そなたも懲りぬ子だな。」

 

その一言に今度はヒカルがぶっちぎれた。

「懲りないって?まただって?お前がきっと余計なことをしたんだろう。佐為。でなきゃ、俺がここへ来るわけがないだろ。」

二人はまたも睨み合った。これが二人の2度目の出会いだった。

 

導師はその二人を見て、噴出しそうになるのをこらえていた。

いつも穏やかで、憎らしいほど落ち着いている佐為をこのようにムキにさせるとは、ヒカル殿は、それだけで立派に時を越えてくる意味があるというものよ。

 

しばらくして導師は言った。

「さて、この事態をどうするか、よく考えねば。」

「また戻ってもらえばいいことです。」

 

ヒカルは佐為のその言葉を無視し、導師に言った。

「折角来たんだし、帰り方も分かってるしさ。俺、導師さんの家にまた行きたいな。」

「そうか、それは嬉しいことだが。実はわしはこれからちょっと、一人で出かけねばならぬ用事があるのだ。その間は、ヒカル殿は人目につかぬよう、この佐為の邸にいたほうが良い。

ここには虎次郎殿が着ていた衣服があろう。佐為。それをヒカル殿に着てもらってはどうか。ヒカル殿の姿はあまりに目立つ。 髪型もだが特にその衣服は。」

 

それだけ言い終わると、導師はそそくさと出て行った。

二人切りになると、ヒカルと佐為は気まずそうに無言でしばらく向かい合っていた。

 

やっと佐為は言った。

「導師が言われたように、着替えるか。ヒカル。いや、ヒカル殿。」

「いちいち殿つけなくて、ヒカルでいいぜ。佐為。」

ヒカルのその言葉遣いに、思わず言い返したくなるのを抑えて佐為は言った。

「分かった。そうしよう。」

呼び鈴を鳴らすと召使に言った。

「子ども用の水干をもて。」

 

間もなく、ヒカルの前に水干が運ばれてきた。ヒカルは物珍しそうにそれを広げながら言った。

「俺、着方が全然分からないぜ。」

「私が手伝おう。虎次郎にも私が着せてやったのだ。」

 

初めて着る水干は、不思議な感触がしたが、ヒカルは何となく開放感を感じていた。それはヒカルがこの時代の住人ではないからかも知れなかった。

佐為はヒカルが脱ぎ捨てたジャージを手に取り、畳みながら言った。

「これは、まか不思議な布だな。」

「それ、寝るときに着てるんだ。いつもはこの前来た時のような服着ててさ。」

ヒカルはそう言いながら靴下を脱いだ。それを見て佐為は訊ねた。

「ヒカル。素足で寒くないか?」

自然に出た言葉だった。

ヒカルは、それに初めて素直に答えていた。

「全然。平気だよ。でも、ありがとう。」

佐為は、それを聞いて、ヒカルも可愛げなところがあるなと少しばかりほっとした。

しかし、そうやって、服を着替え終わると、することがなくなり、二人はまた気詰まりな沈黙の中に沈んだ。

 

沈黙を破ったのはヒカルだった。

「ここはどこなの?」

前から訊ねようと思っていたことだった。どこか懐かしい感じがする場所。

時の旅とか言ってたけどここは絶対日本だろ。導師さんも佐為も変わった日本語を話すけど、分かるもんな。

「ここは京。平安の都の西の方角に当たる。」

「へえ、ここって平安時代なのか。」

「ヒカルは確か導師には、江戸から140年近く経っている時に暮らしていると言ったそうだが。」

「うん、そうだよ。」

そう言ってから、ヒカルは不思議に思った。

「何で江戸を知ってるの?」

 

「前に一度そなたのように、ここに時の旅をした子どもがきた。虎次郎という名であった。その虎次郎が江戸に暮らしておったのだ。」

「へえ。それで、どうなったの?」

ヒカルは興味深そうに聞いた。

「もう以前のことだ。虎次郎は大人になって良き碁打となったが、流行り病で亡くなった。」

それから佐為は少し考えて言った。

「虎次郎は幼い時より並々ならぬ囲碁の腕を持っていた。碁を極めたいと真剣に願った 時、ちょうど私が時の中へと送った石を手にしたのだ。 虎次郎は私に石を戻すことなく、亡くなった。そなたは時を経て虎次郎が持っていた石を拾ったのだ。それでここに来たのであろう。」

 

「この石だろ。」

ヒカルはジャージのポケットを探り、石を取り出した。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

通い路6

『通い路』1~10
佐為とヒカルが出会い、中学囲碁大会に出るまで
(主な登場人物…佐為・ヒカル・導師・あかり・白川先生・塔矢アキラ・磯部秀樹・筒井・加賀)


佐為はそれを受け取ると、じっと眺めた。確かに対の石だ。

「私は石を耳につけている。」

そう言うと文箱の蓋を開け、中から縒った丈夫な絹糸を取り出した。それを石にあけてある小さな穴に通し輪にして、ヒカルに 渡した。

「そなたは耳につける訳にも行くまいから。これを首からぶら下げるが良い。」

ヒカルはもらった石を嬉しそうに首にぶら下げた。

「佐為とお揃いなんだね。」

それから少し得意そうに言った。

「お母さんも友だちもこれが見えないんだぜ。この石は俺にしか見えないし、さわれないんだ。」

 

佐為はそれを聞いて、ヒカルとは縁があるという導師の言葉を改めて思い出していた。

「ヒカルも、虎次郎と同じく、私と何か繋がりがあるのかも知れぬな。だから、そなたには、この石が見えるのだ。この御世のものが見え 、時の旅ができる。きっとそうなのだ。」

 

ヒカルは、佐為に親しみを感じてきた。

案外いいい奴なんだ。佐為って。きっと昔の人間だから、今の奴とちょっと違うだけでさ。

佐為とこの不思議な石で繋がっていることが、その気持を強いものにしていた。

 

「ところで、ヒカル。黒船を知っているか?虎次郎が江戸に暮らしていた頃、異国よりやってきた船だ。」

「黒船?うん。」

「それは江戸のいつ頃か?」

「いつ頃って、江戸の終わりだよ。」

「すると、その後、そなたの住む東京が始まったのか?」

「始まった?そういうことになるのかな?明治時代になったんだ。俺は平成生まれさ。」

 

佐為は分からぬというように頭を振った。

「幕府は今どこにあるのか?」

「幕府ぅ?」

何言っているんだ。こいつ。江戸幕府って言うんだよな。ところで幕府ってなんだっけ。

「幕府とは国を治めるところだ。この京の都には帝がおられて、国を治めている。」

「ああ、そうか。幕府って言わないんだ。今は。それって、東京にあるよ。それと帝って天皇のことだよね。東京に 住んでるよ。」

 

「そうなのか。それでは、京はどうなっているのであろう?」

「どうもなってないよ。あるよ。」

「京の御所はどうなっているのであろう。」

そういえば、祖母ちゃんが行ったって言ってたな。そこに。

「俺の祖母ちゃんが、この前そこに行ったよ。花がきれいだから見に行ったらしい。」

 

「そうか。様変わりしているのであろうな。」

「よく分からないけど、この時代とは違うんじゃないの。」

「ヒカルは京へ行ったことはあるのか?」

「ない。」

修学旅行の行き先が変わって、ヒカルはまだ京都へ行ったことがなかった。

「そうか。虎次郎は京へ行ったことがあって、その時の京はもう、この平安の御世とはひどく隔たった場所に思えたものだ。ヒカルの時代ではさぞ、 変わっているのであろうな。」

「多分ね。でも昔の建物は残ってるのもあるんだよ。」

ジャージの衣服を見ながら、佐為は言った。

「碁は変わりないのであろうな。」

「そんなの分かるかよ。俺に。碁、知らないんだから。」

 

佐為はため息をついた。

そうであった。この子は碁を知らぬ子であったな。

ヒカルはその佐為のため息が腹立たしかった。

こいつのため息はなぜか頭にくるんだよな。でも碁って変わるものなのか?

「虎次郎は、この時代と同じ風に碁を打ってたの?」

「いや。少々異なっていた。決まりが少々。だが碁に変わりはない。碁盤の目も同じ広さであった。」

 

それからその時を思い出し、いとおしむように続けた。

「虎次郎の時代には実に様々な者が碁を打っていた。この平安の御世とは何よりもそれが違った。皆、碁に心血を注いでいた。何よりも私の心を熱くする碁打が大勢いた。」

佐為はそう言うと、その頃に思いを馳せるように、遠くを見つめた。

ヒカルはその佐為の顔を見つめながら、佐為にとって碁がどんなに大切なものなのかをおぼろ気に感じ取っていた。

 

 

 

 

 

佐為は色々ヒカルから聞きたかった。しかし、碁については、聞いても無駄なのだ。ため息を押し殺し、佐為はヒカルに聞いた。

「そなたは普段何をして暮らしているのか?」

「俺?俺、小学生だよ。えーと、学校に通っているんだ。来年からは中学校へ行くんだ。」

「ほう、学校というのは学び舎だな。」

学び舎というのは昔の言い方だろうとヒカルは思った。

「佐為は何をしてるの?」

「私か。私は碁を教えている。」

へえ。そんな仕事があるのか。今と同じじゃん。

ヒカルは囲碁教室の講師のことを思い出していた。

 

「ヒカルは学問をしているのなら、訊ねたいが。私は虎次郎の時代にお城碁を打ってきたが。

あれは、将軍の元で、打つものであった。もし、幕府が無くなったのなら、どうなったのであろう?名人碁所はどうなったのであろう?」

 

ヒカルは困った。佐為が知りたいのは分かるが、何なんだ。オシロ碁?名人碁どころ?

「あのね。そんなの、小学校で教えるかよ。俺、聞いたことないよ。オシロ碁に名人碁どころなんて。」

そう言ったが、急いで佐為がガッカリしないように付け加えた。

「でも今も碁を教えるのを仕事にしている人はいるよ。」

 

佐為はいつのまにか、碁の話をしている自分に苦笑した。

「すまぬな。そなたの通う学校では、どのようなことを習うのか?碁はやっていないのだな。」

「うん。やってないよ。授業は退屈さ。算数はまあいいけど、国語とか社会は好きじゃないんだ。一番好きなのは体育だ。」

「たいいくとは?」

「運動をするんだよ。」

佐為は少し顔をしかめた。

「私は、体を動かすのはあまり好かぬ。」

ヒカルは佐為を見た。

結構引き締まった体つきに見えるけどな。

 

その時、足音が聞こえた。導師が戻ってきたのだ。部屋に入りながら、導師は満足そうに言った。

「二人とも、仲良うやっておるな。」

そう言うと、布包みを差し出した。

「ヒカル殿の髪型だがな。これをかぶるとよいだろう。」

包みを開くと、みずらに結った髪の毛が出てきた。

「へえ。カツラだね。これ。」

ヒカルは面白がって、それをかぶってみせた。

 

「ほう、なかなかに立派じゃ。これで、外を歩いても一応一安心じゃな。それほど出歩くことはなかろうが、用心にこしたことはない。」

ヒカルは鏡を見たかったが、ないので残念に思った。外を見ると、少し日が傾いていた。

3時か4時くらいかな?

そう思っていると佐為も外を眺めて言った。

「もう、夕餉の時刻ですね。」

 

間もなく、三人の元に、膳が運ばれてきた。干物と野菜の汁物と飯という質素なものだった。

食事が済むと、導師は言った。

「ヒカル殿はすぐ戻られるか?」

「この前戻った時、ずいぶん時間が経ってると思ったのに、10分しか経ってなかったよ。」

「10分とはどのくらいか?」

「えーと…ゆっくり六百数えるくらいだよ。」

 

佐為が頷くように言った。

「ヒカルが明日までここに居たとしても、その10分より出ることは、まずあるまい。虎次郎の時もそうであったが、時の旅とはそういうものなのだ。こちらの時とヒカルがいた場所ではともに時の減り方が同じではないのだ。 そしてその時間は、常に同じという訳ではなく石を持つ者の力加減で微妙に変化するようだ。」

そうなのか。何か良くわからないが、その程度だったら構わないよな。

「俺、もう少しここに居たいな。」

ヒカルがそう言うと、導師は楽しそうに言った。

「わし達はまた碁を打つが、ヒカル殿はそれをゆっくり見れるわけだ。」

「うん。」

ヒカルは目を輝かした。

 

ヒカルは碁が好きでないというのにと、その様子を見て佐為はちょっと不思議に思ったが、何も言わなかった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

通い路7

『通い路』1~10
佐為とヒカルが出会い、中学囲碁大会に出るまで
(主な登場人物…佐為・ヒカル・導師・あかり・白川先生・塔矢アキラ・磯部秀樹・筒井・加賀)


その日、ヒカルは一晩中、佐為のもとで碁の手ほどきを受けた。

どういう訳で、そうなったのか、ヒカルにはよく分からなかった。とにかく何故か、あの取り澄ましていた佐為がヒカルに碁を教えることに急に熱心になったのだ。

佐為は無からの手ほどきと思っていたようだが、ヒカルは囲碁教室に通っていたから、理解もことのほか早かった。 そのことも佐為を喜ばせたようだった。

その様子をしばらく見ていた導師は、いつの間にか引き上げてしまった。

灯台の薄暗い灯の元で、佐為とヒカルは夜通し打ち続けた。 空が白み始めた頃、さすがにヒカルは、碁盤の前でうつらうつらし始めた。それに気がついた佐為はヒカルに戻るようにと言った。

 

 

時を越えて自分の部屋に戻ると、ヒカルはそのまま、ベッドにもぐりこみ、朝までぐっすり眠った。

翌朝、目が覚めると疲れもなく、ひどくすっきりした気分だった。

朝ごはんを食べながらヒカルは首に下げてある石を確かめ、佐為はあれから寝たのかなとぼんやり考えていた。

 

午後になるとヒカルは葉瀬中へ出かけた。あかりに中学の創立祭に誘われていたのだ。あかりには中学生の姉がいるので、模擬店のチケットがあるという。

だが約束の時間に校門のところで待っても、あかりは来なかった。

「そういや、俺、行かないって言ったっけ?」

2時に待ってるからねと念押しされた時、俺行かないって言ったけどさ。

でもさー、あいつ、まさか本気にしてねえと思ったのにな。

クソー、金、持ってこなかったし…。たこ焼き、食えねえじゃねえか…。

ヒカルはブツブツ呟きながら、何か面白いことがないか、出店の間を歩き回った。

 

どれも券がいるもんばっかだな。そう思っているヒカルの耳に、碁石の音が飛び込んできた。

ん?何やってるのだろう?

 

隅の方で碁の店を出しているのは、メガネをかけた生真面目そうな少年だった。

周りを取り巻いている人を見て、ヒカルは思った。

中学生は誰もいねえじゃないか。碁会所と同じでおじさんばっかだな。えっと、詰碁?

 

「では中級の問題です。三手まで示して下さい。」

そこに座った男はこうだろと三手置いたが、中学生にあっさり言われた。

「白がこっちに打ったらどうですか?」

「そーか、ハハ。難しいな。」

その男は頭を書きながら立ち上がった。

ヒカルは近づいて景品のテーブルを覗き込んだ。

塔矢名人選詰碁集?これあげたら佐為は喜ぶかなあ…。ヒカルは何故かそんなことを思った。

「詰碁の正解者には景品をあげますよ。」

中学生はニコニコしながらヒカルに言った。

 

「次、いい?」

ヒカルは恐る恐る座った。中学生は頷いた。

「君にはこれ、どうかな。」

中学生は、ヒカルの様子を見て初級の易しいものを選んだらしかった。ヒカルはそれをじっと見つめ、しばらく考えてから石を置いた。

「当たりです。」

「おー。」「正解だ。」「えらい、えらい。」と周りから拍手が起きた。

ヒカルは照れて、景品のポケットティッシュを貰いながら言った。

「もう少し難しくても、できるかもしれない。」

「じゃあ、次はこれ。」

少し難しい詰碁だったが、偶然にもヒカルはそれを解いてしまった。景品のジュースを受け取ってヒカルは聞いた。

 

「一番難しいのの景品って何?」

「この詰碁集だよ。」

「それをもらえるのって、どんな詰碁なの?」

「えっ?そうだなあ。これかな。」

そういって、中学生は複雑そうな詰碁を出題した。

「これができたら、塔矢アキラレベルだよ。」

「塔矢アキラだって!俺知ってるよ。あいつ、そんなに強いの?」

「もうプロ試験に受かるんじゃないかとか、大人相手に指導碁みたいなことをやっているとか噂は聞くよ。その塔矢アキラなら、この難問も解けるかもしれない。 一手目がカギだよ。」

 

ヒカルがその詰碁を良く見ようとした時、着流し姿の中学生が現れた。

彼は、中学生のクセにくわえていたタバコの、火のついた先で、「第一手はここだろ。」と碁盤をぐりぐりとした。

「けっ。筒井。碁なんて止めろ。辛気クセー。将棋の方が百倍面白いぜ。」

筒井と呼ばれた中学生は、「加賀、乱暴はよせ。」といいながら、碁盤のコゲを一生懸命拭いた。

 

 

 

 

加賀は吸殻を捨て言った。

「なーにが塔矢アキラだ。あんな奴。俺に負けたサイッテー野郎だ!」

筒井はヒカルに言った。

「加賀は将棋部なんだよ。でもその前は塔矢アキラのいた囲碁教室に通っていたんだ。塔矢アキラ は、アマの大会には出てこないから、彼を直接知っている人は少ないんだ。」

「へえ。その塔矢アキラがこの加賀に負けたの?…プロ級なのに負けるのか?」

ヒカルの言葉を聞いて加賀は言った。

「俺が強いんだよ。バーカ。」

「バカァ?」

 

加賀は、頭にきているヒカルにお構いなく、筒井にニヤニヤしながら話しかけた。

「囲碁部の話はどうなったんだよ?3人揃えて団体戦に出れば、学校が部として認めてくれるって言ってたじゃないか。条件次第で は出てやってもいいぜ。何しろ俺はお前の千倍も強いんだからな。」

一見おとなしそうにみえる筒井だが、実は結構気は強いらしい。

「碁盤にタバコの火を押し付けるような奴の助けなんかいるものか。」

そう、加賀に怒鳴りつけた。

「ケッ!よーくゆうぜ!この間大会に出てくれって頭下げに来たのは誰だよ。」

「ホラ!景品の詰碁集だ!これもってさっさとあっち行け!」

筒井は詰碁集を加賀に叩きつけるように渡した。

「塔矢名人選詰碁集?」

加賀はその本をみると喚いた。

「くだらねェっ。言ったろ。俺は囲碁と塔矢アキラが大っ嫌いなんだ。」

そう言うと詰碁集をびりびりと引き裂いた。

ヒカルは頭にきた。本を、それも詰碁集を破り捨てるなんて。

ヒカルは加賀に詰め寄った。

「なんだよ。塔矢アキラが嫌いって。訳を言えよ。」

 

加賀はギロっとヒカルを見た。

「訳を言えだとぉ?調子に乗るんじゃねぇ。おい。こぞう。いいか。よく見てな。」

そう言うと、加賀は碁石を一つ手のひらに取り、右左とシャッフルした。

「さあてと、石はどっちに入ってるか、分かるか?当てたら話してやらあ。そのかわり外したら、お前の手にタバコを押し付けてやる。 いいか。」

筒井が急いで止めに入ったが、ヒカルは聞こえていなかった。

中学では誰もがびびるこわもての加賀だったが、ヒカルは気にしなかった。持ち前の負けん気が湧き上がってきた。

だって、こいつ、。加賀って、気に入らないことがあると、癇癪を起こすただのガキじゃないか。

 

「くそぉ、こっちだ!!」

加賀はにやりと笑って、ヒカルの指した左手を開いた。石は無かった。

「ハハッ。お前の度胸は認めてやるよ。」

加賀は右手も開いた。右手にも石は無かった。

ヒカルも筒井もきょとんとした。

「ギャハハ。からかい甲斐のあるヤツラだぜ。囲碁なんか止めて将棋に来いよ。一から教えてやっからよ!」

ヒカルは怒鳴った。

「お前みたいな奴に誰が習うか。塔矢に勝っただって?どーせ今みたいにインチキしたんだろ。それとも塔矢が本気じゃなかったんだ!お前なんか、どー せ囲碁から逃げて将棋に行ったんだろ!」

 

ヒカルのその言葉に加賀の顔色が変わった。

思い出したくもないことをよくも言ってくれたな。

「そこまで言うなら俺の実力を見せてやる。」

加賀の心の隅では冷静に囁く声がした。

そんなことをここでして何になる。ただの八つ当たりじゃないか。

一瞬、そう思いながらも、加賀は自分を止められなかった。筒井を押しのけ、碁盤の前に座った。そして、いやな思い出をを振り切るように ヒカルに言った。

「おい、座れ。」



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

通い路8

『通い路』1~10
佐為とヒカルが出会い、中学囲碁大会に出るまで
(主な登場人物…佐為・ヒカル・導師・あかり・白川先生・塔矢アキラ・磯部秀樹・筒井・加賀)


導師は佐為がいきなり邸に訊ねてきたのに驚いた。

「何事かあったか?」

「いえ。何も。ただ、導師にしかお話できませぬゆえに。」

「というと。」

「ヒカルのことです。中々に有望で…。」

佐為は嬉しそうに含み笑いをした。

「それは分かっている。あの晩、ヒカル殿は驚くべき術を使ったではないか。」

「術ではありませぬ。才の閃きにございます。」

 

二度目の“時の旅”。

あの晩、ヒカルは、また導師と佐為の対局を目の前で見つめた。打つことの意味が少し分かりかけてきた今、それは 、初めて見た時よりも、より深くヒカルに刻み込まれていった。

対局が終わった時、導師はヒカルの方を振り向いた。

「どうか。先日の碁と同じく面白いかな?」

「うん。」

導師はヒカルに座を明け渡した。

「少し遊んでみるとよい。中々に楽しいものぞ。碁とは。」

 

導師は、それから、懐に手をやり、なにやら書付を取り出し、佐為に渡した。

佐為がそれに目を通し、二人が何事か、ひそひそ話しているので、ヒカルは手持ち無沙汰だった。そこで、今打たれた碁を盤に並べ直してみた。

 

ヒカルに、それから碁盤に目をやった佐為は、あっと驚いたが、辛うじて顔に表さなかった。

しかし導師は佐為のその様子に何事か感じ取って、碁盤を見た。

導師の方は素直に感嘆の声を上げた。

「ヒカル殿は…。本当に碁をやったことが無いのか。いや、少々やったところで、こういう芸当はなかなかにできぬものだ。」

ヒカルには何のことか、分からなかった。

「俺、前のも置けるよ。」

そう言うと、碁盤を片付け、先だっての二人の碁を再現して見せた。

 

それを見て、導師も佐為も黙したまま、顔を見合わせた。

やっと、佐為が口を開いた。

「ヒカル。そなた、碁を打ってみたいとは思わぬか?ヒカルが碁を覚えるのに、私は少しは役に立てると思うが 、どうであろう。」

佐為は低姿勢だった。

 

「碁を覚えるって面倒じゃないの?」

ヒカルは聞いた。

「面倒?はて、碁は楽しい遊びだが。この御世ではな。女、子どもも好んで碁で遊んでおるぞ。」

導師の言葉にヒカルは驚いたように言った。

「へえ。子どもが碁を打って遊んでるのか?」

いいな、この時代は。俺のいる時代と違ってて。ヒカルはそんな感想を持った。

 

佐為は碁盤を挟んでヒカルの前に、座った。

何から始めればよいかと、佐為が考えていると、ヒカルが言った。

「石取りゲームなら俺できるよ。」

「石取りゲームとはどういうものか?」

そう言いながら、二人は碁盤を挟んで石を置き合い始めたのだった。それが佐為とヒカルが碁石を持って向き合った最初の出来事だった。

 

 

「そなた、ヒカル殿は初めてというに、夜通し、明け方まで打ち続けたとは、呆れる。ヒカル殿に嫌われるぞ。」

佐為は澄まして言った。

「そんなことはありませぬ。それどころか、ヒカルは喜んでおりましたとも。それに…あの後も、ヒカルはまたこの御世に来ました。 ヒカルのいる世界は面白いところのようです。

いろいろ話を聞きました。何でも今度、あちらで誰かと対局するらしいです。それほど強くはない子どものようですが…。ですが、そうなったのには訳があり、どうしても強くなりたいと、 ヒカルは何度もここへ現れて私に教えを乞うのですよ。」

佐為は最後の言葉を少し自慢げに付け加えた。

 

導師は、その佐為をじっくり眺め回した。

 

 

 

 

 

虎次郎殿も才豊かなお子じゃったが…。あの時は当たり前のようにしており、興奮することはなかった気がするが。ヒカル殿はよっぽど、有望なのか…。 わしもあのヒカル殿の芸当には度肝を抜かれたが、とにもかくにも、ヒカル殿は佐為の碁心の何かを刺激するようだ。

 

ひとしきり、ヒカルがどのようにめきめき腕を伸ばしているか話をすると、 「ヒカルがいつ来るかわかりませぬゆえに…。」と一言残して、佐為は、さっさと帰ってしまった。

導師は苦笑して佐為を見送った。

「やれやれ。」

碁の腕があろうとなかろうとヒカル殿は佐為に影響を及ぼせる。不思議なお子だ。いや。碁の腕が実はあるから、佐為に影響を与えられるのかも知れぬな。虎次郎殿とは違った形で、佐為を生き生きとさせている。

 

 

ヒカルはいつ頃来るであろうか。佐為はワクワクした思いで、その時を待っていた。

ヒカルは、三度目の“時の旅”で、実にいろいろな話をした。

佐為は、幕末の江戸に行き来していたお陰で、平安の御世ではありえない色々な人のありようや物事をかなり楽に受け入れ、想像できるようになっていた。

それでもヒカルの話には驚かされることがいっぱいあった。

是非ヒカルの時代をこの目で確かめたいものだ。佐為はそう願った。

 

 

「実はさ。初めてここに来た時、佐為と導師さんの対局を見て、俺、碁に興味が出たんだよ。」

ヒカルは、思わずそう告白した。佐為は勝ち誇りそうになるのをこらえ、おもむろに頷き、ヒカルにその先を話すように促した。

「でもってね、初めは祖父ちゃんに教わろうかと思ったけど、偶然家の近くで、初心者用の囲碁教室をやってるのが分かってさ…」

 

「囲碁教室?」

囲碁教室というのは、どうやら囲碁の塾らしい。そこで佐為はどういう人が先生になっているのかと訊ねた。

 

「先生が囲碁のプロ。囲碁のプロとはどのようなものか?」

「うん。俺も良く知らなかったけど、プロってのは賞金の出る碁の大会に出たり、囲碁を教えたりして生活してるんだって。」

ヒカルに聞いてもその先生がどの程度の腕前なのか、見当がつかなかった。

しかし、その者はヒカルのような初心者を教え導くのは上手いらしい。

ヒカルがすんなり、囲碁の中に溶け込むのを見て、佐為は思った。

 

話の中で、佐為がとりわけ興味を持ったのは、囲碁サロンの塔矢アキラなる子どもだった。

 

ヒカルは、磯部秀樹とアキラが対局するに至った訳を話した。

なるほど、相手の子どもも、なかなかに碁慣れしている 。子ども名人とな。腕に覚えのあるものが集まって、一番の強者を決めるとは。大会とは、実に面白そうなものがあるな。ヒカルの時代には。

しかし、それにも出ない更に上手がいるというのも面白いことだ。

この磯部秀樹という子ども名人と、この塔矢アキラなる子とでは、全く次元が違う。

ヒカルが覚えていた対局図を見ながら佐為は思った。

 

さらに、中学の創立祭の出来事。

「塔矢アキラって、プロになれる腕前だって噂なんだ。」

ふむ、この塔矢アキラがプロになれる腕前ならプロというのはたいしたものに違いない。虎次郎と共に戦った棋士たちと同じようなものなのだろう。

 

「…でさあ。 何だか、加賀の目の色が変わっちゃってね。お前、座れって言うんだ。俺は対局なんか一度もしたことないって、 何度も言ったのに、加賀の奴、聞かないんだ。仕方ないから打ったんだよ…。

当たり前なのにさ。あいつ、“お前はでかい口叩く割にど下手だな”って言うんだ。ほんと頭くるよ。加賀の奴。 で、“負けたから言うことを聞け、碁の大会に出ろ”って、無茶言うんだ。」

 

ヒカルと加賀の一局を見て、佐為は笑いを押し殺した。

本当に、初めての対局ということを考えなければだが、ヒカルは“ど下手”だ。まあ、何も知らないから無理はないが。

しかし、それでも少しは碁になっている。それは加賀という子が導いたからだ。

佐為には分かった。

 

ヒカルの話を聞いていると、加賀という子は本当に無茶苦茶な子のように思えるが。そんなことはない。考え深いところがある。 それが証拠に中々に興味深い碁を打つではないか。恐らく、きっと塔矢アキラ という子と、何らかの因縁があるのだろうが。それでも打ち続けていれば、良き打ち手になったであろうに…。 惜しいことだ。

 

それはそれとして、加賀は筒井という子より千倍強いのか?

そしてその筒井にヒカルは遠く及ばない…。

いや、ヒカルは今碁を始めたばかり。塔矢アキラは別としても、他の子たちに追いつくのは、そう遠いことではない。

 

 

今は、とにかくヒカルのいう中学生囲碁大会という場で、ヒカルに少しは様になる碁を打たせたい。今のヒカルの腕では勝ち負けなど存外のことだ。

 

しかし、三将戦とはまた面白い決まりを作ったものだ。ヒカルが勝たなくても、後の二人が勝てば、ヒカルもより強者と碁を打てることになるが…。この目で見れぬは残念なれど、その大会が待ち遠しいことだ。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

通い路9

『通い路』1~10
佐為とヒカルが出会い、中学囲碁大会に出るまで
(主な登場人物…佐為・ヒカル・導師・あかり・白川先生・塔矢アキラ・磯部秀樹・筒井・加賀)


「おい。大会に出してやるんだから、勝てとは言わないが、大将の俺に恥をかかすような碁は打つなよ。」

 

加賀に高飛車に囲碁大会の出場を決め付けられて、ヒカルは初めは思った。

碁の大会なんかに出たくない。第一、小学生の俺が、中学生の振りをするんだぞ…。それって、悪いことじゃないのか。

だが、そんな話は中学生なのにタバコをふかす加賀には、通用しない。

俺が断ったら、加賀は諦めるのか?どうするだろう?

もしかしたら、何とも思わないかもな。

加賀は、碁より将棋の筈だろ。だったら、俺が出なくて、大会出場が流れても痛くもかゆくもないんだ。

それだったら、大会に出て、一勝ぐらいはして、加賀に一泡吹かせてやりたい。

 

俺が勝つなんて、全然思ってないんだから。

加賀をあっと言わせてやりたい。その思いで、ヒカルは、せっせと佐為の元に通った。

目標があるということは励みになる。

「負けん気は、碁の上達には欠かせない大切な要素だ。」

佐為は思った。その通り、ヒカルの上達は著しかった。

加賀という存在は、ヒカルにとって、随分ありがたい存在だ…。

 

「それにしても」と、佐為は、ヒカルに言った。

「加賀は、碁が大嫌いになる何か、止めたいと思う何かを経験したのだろうと思うが。では何故、筒井さんという子にちょっかいを出すのか。放って置けば良いで あろうに。」

「碁を見るのが、やなんだろ。碁が大嫌いなんだから。」

「まあ、それは分かりますね。自分の鼻先で嫌いな碁を打って欲しくないというのは。でもじゃあ、なぜ碁の大会に出るんです?自分の目の前で打たれるのもいやな程嫌いな碁を打つために出る?何か変ですね。」

「俺に見せ付けるためだろ。」

ヒカルは単純に答えた。

 

いえ、それは違いますよ。ヒカル。あなたには加賀の実力を見分ける目はまだないです。 加賀はその程度のことは分かってますよ。そんな単純なことではない、もっと別の訳がある筈です。

そう思ったが、佐為は賢明にもその考えを口に出してヒカルに言わなかった。

 

 

ヒカルが絶対出ないと断ればそれでおしまいだったに違いないが、ヒカルが大会出場を断らなかったもう一つの理由には、筒井の存在 があった。ヒカルは何故か筒井が気に入っていたのだ。

筒井さんて、取っ組み合いしたら、加賀より弱いと思うけど…、でも加賀なんかより絶対に気は強いよ、ものすごい負けず嫌いだ と思う。

ヒカルは本能的にそう感じ取っていた。

囲碁部を作りたいって、一人で頑張ってるってすごいよな。俺がそれを手伝えるんなら、大会に出てもいいかな。

 

碁の大会の参加許可が出たら、連絡するからと、そう言っていた筒井がヒカルの家に来たのは、創立祭から2週間たってからだった。

ヒカルは目を丸くした。

「どうして俺んちが分かったの?電話番号しか言わなかったのに。」

「うん、進藤君は藤崎さんの妹さんと友だちだろ。この前、創立祭の時一緒に帰っていってたし。だから藤崎さんに聞いたんだ。お姉さんの方にだよ。僕とクラスが一緒なんだよ。」

そうか、あかりのお姉さんと筒井さんて、クラスが一緒なのか。

 

ヒカルは筒井を自分の部屋に案内した。

筒井はリュックから、紙を取り出した。

「これだけどね…。」

そう言ってからしばらく黙っていた。

「ねえ、進藤君。君に中学生の振りをさせるなんて申し訳ないよ。もちろん責任は僕が取るけど。でも嫌だったら断っても構わないからね。」

筒井は、それを念押しするために、わざわざヒカルの家に来たのだ。

 

ヒカルはあっさり答えた。ヒカルは、良くも悪くも、一度決めたことをごちゃごちゃ考えないのだ。

「中学生の大会って、ちょっと興味あるよ。まだ3週間あるんだよね。それまでに目いっぱい練習しておくよ。加賀にいやみを言われないようにさ。」

筒井は、嬉しそうに頷いた。

「ありがとう。」

そう言ってから、ヒカルの部屋を見回した。

 

 

「進藤君は碁盤を持ってないの?」

「あ、うん、まだ始めて一月ちょっとだしさ。無いんだ。」

「そういえば、始めたばかりだって言ってたね。どこで碁を打ってるの?」

「えーと、社会保険センターの囲碁教室だよ。」

「へえ、あそこはプロの先生が教えてるんだったね。後は?」

後…、ヒカルは慌てて言った。

「じ、祖父ちゃんの家。祖父ちゃんが碁を打つんだよ。」

「そお、僕も初めはお祖父ちゃんに習ったな。お父さんも打つけどね。」

そう言いながら、筒井はリュックから本のような薄っぺらな箱を取り出した。

ヒカルは、それを見て言った。

「それって、旅行の時持ってくゲームの…」

「うん、それの囲碁の奴さ。家じゃもちろん普通の碁盤で打つけどね。学校では休み時間に、これ使ってるんだ。囲碁部はないし、部室もないから、碁盤を置いておくところもないからね。ちょっと打ってみる?」

 

ヒカルと筒井はそのマグネット碁盤を使って、打ち合った。

「進藤君。碁、ちゃんと打てるじゃないか。とても始めたばかりとは思えないよ。」

囲碁大会に出て、やっていける。筒井は嬉しそうに言った。

ヒカルは楽しそうに打ちながら言った。

「碁って結構面白いよね。」

「そういう人が居て嬉しいよ。進藤君は受験するの?葉瀬中、来るの?」

「俺?葉瀬中だよ。」

「進藤君が来たら囲碁部を作れるかもしれないな。」

 

 

筒井が帰った後、ヒカルは貯金箱を取り出した。

ゲームを買うつもりだったけど、お年玉まで待つか。値段聞かなかったけど、今の碁盤、いくらぐらいするんだろう。

 

二日後、ヒカルはマグネット碁盤を買い込んだ。

ゲームより思いっきし、安いじゃん。ゲームも買えるかもな。

そんなことを思いながら、ヒカルは、筒井が貸してくれた初心者用の本を取り出した。

それを見ながら石を置いてみた。

「うえぇ、かったるいな。これ。」

筒井さんてこういうのやってるのか?やめやめ、俺はやだ。

 

それから佐為と打った碁を置いてみた。

 

うん、こっちの方が合ってるな、俺にはさ。

でも、もし脚付きの碁盤でぱちんと打ったら、筒井さんの本のも、置く気になるのかな。

佐為の碁盤は立派だけど、石は形が揃ってなかったな。 そういう石を拾える浜があるって言ってたけど、今もあるのかな。でもまさか拾ってくるわけには行かないしな…。

高いのかな。碁盤や碁石って。

祖父ちゃんに頼んでみようか。でもいきなりは頼めないしなあ。

ヒカルはそんなことを考えながら、首にぶら下げた石に手をやった。

 

 

正月を挟んで、3週間は、またたく間に過ぎて、大会の日が来た。

その朝、加賀はポケットに手を突っ込み、海王中に行く道をぶらぶらと歩いていた。 そして思った。

俺って、何やってるんだろうな。

正直なところ、自分がどうしたいのか、分かっていなかった。

勝負好きな自分、勝負強い自分がいる。将棋は碁よりも多分自分の性に合っていると思う。

おやじは小さい頃はやり方を教授することなく、なんでも一番になれと喚きたてていたが、俺が碁で 一番になれないと分かった時から、一番と喚きたてることをぱたっとやめてしまった。今は 俺に対する関心を失ったように 、何も言わないけれど、本当はどう思ってるのだろう。

 

父親に対する怨みは多いがそれでも父親を見ていると、加賀は、ふと、憐れを感じることがあった。 こんな息子で悪かったな。と、その時はそう思うのだ。

 

とにかく、まあいいや。今日は…ちょうど俺の誕生祝ってわけだ。この大会は。

おふくろは、誕生日だと、せっせとケーキを買ったり、ご馳走を作ったりと走り回るだろうけれど、おやじは特に何かすることはない。

最も、あいつが何かくれるとか言ったら、俺は、即、断るだろう。

 

加賀としては、母親を困らせたくはなかった。

自分のことで家がジメジメするのはごめんだ。あの時二人が言い争ってるのを聞いてしまった。

俺がいつまでも塔矢アキラに勝てない時、勝てなければ家に入れないと、おやじが喚いた時だ。

「あなた、まだ子どもよ、あの子は。碁なんて一番じゃなくたっていいじゃないの。」

「碁が一番でなければ何の意味も無い。」

 

なぜ一番が好きなのか。なぜ碁だったのか。それを一度聞いてみたいものだ。

だけどさ、俺はあいつの血を受け継いじまってる訳かな。一番嫌いなところ を。

トップで仕切ることが好きな自分。何かにつけ一番でいること、それを半分受け入れ反発し、結局のところ、 今、俺はおやじと同じような振る舞いをしてねえか。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

通い路10

『通い路』1~10
佐為とヒカルが出会い、中学囲碁大会に出るまで
(主な登場人物…佐為・ヒカル・導師・あかり・白川先生・塔矢アキラ・磯部秀樹・筒井・加賀)


碁なんてどうでもいい…加賀の母親にとっては、碁はただの遊び、ゲームに過ぎなかった 。

だが、加賀は、その考えも嫌だった。

俺が小さい時、始めて覚えたのは将棋で、俺はそれが大好きだった。

親父は将棋を認めず、おれを碁の教室へ通わせた。

あそこの塾はゆくゆくは院生、プロへと向かう子ども達を集めて指導するところだった。まあ、碁もそれなりに面白いが、俺にとっては将棋ほどじゃない。それでも、俺は、あの教室でダントツ抜きん出てた。そういう自負があった。

 

あいつ、塔矢アキラが来てからは勝てなかったけれど、いつかは抜かしてやる、勝ってやると、ライバルだと思っていた。だから毎回張り切ってやってこれたのだ。それまでの俺は自分より上手の子どもがいないことに何となく物足りなさを感じていた。

塔矢アキラは強い。強いものは強いんだ。本当にひとりレベルが違った。あいつの強さが分かるから、いつかあいつを追い抜く。それが最大の目標 で励みだった。

 

でも大体、あいつは何であの教室に来たんだ。ほかに居場所が、いくらでもあるだろうに。奴の父親は名人なんだからいくらでも居場所を作ってやれるだろうに。

あんな子どもの時から、相手に気づかれないように上手に負けてやる技を持ってやがるんだからな。

俺にわざと負けやがって…だれにでも見え見えだぜ。

あいつは間もなくやめてしま った。あそこにいても時間の無駄だったんだろ。俺も含めてみんなのレベルが低すぎてつまらなかったんだろうな。

俺の方はその後、5年までは、あそこにいた。俺の気持はもうとっくに将棋に向いていて、暇さえあれば将棋を打っていたというのに。

俺はあの教室を、一番のままで辞めた…。塔矢アキラと同じにな。違ったのは俺が、自分が本当はトップでもなんでもないことを知っていたことだ。

塔矢アキラがいなくなってから、あそこで碁を打つたびに、本当は一番ではない自分を確かめているような気がして、惨めな気がしたものだ…。一番になるとなおさらな。

すっぱり囲碁教室を、そして碁を辞めた時、おやじの奴は何も言わなかった。おやじも本当の一番ではない俺などに全く関心がなかったのだ。

 

小学生の俺は絶対に荒れなかった。荒れたら、おやじと同じことだと。それが、せめてもの俺の自尊心だった。

俺は碁を辞めてほっとした。中学に入り、将棋部に自分の居場所を作った。 俺はやっと、幸せに感じた。そう思った…だが、そうじゃないんだ。

筒井の奴がいて、俺に思い知らせてくれた。

筒井は一年の時に同じクラスにいて、休み時間になると一人で教室の隅で碁盤を出していた。みれば、超へたくそな 。それでも碁好き。超へたくそな碁好き。

へたくそな碁好きなど無視すればいいんだが。

あいつは、頑固で碁以外見向きもしない。自分が下手といわれても平気なんだ。 脅かそうと何しようと頑として、碁から手を引かない。あいつは変わっている。自分が一番強くなりたいと思わない 奴なんだ。

そのことがよけいに俺の頭にくるんだ。

本当は俺も序列に拘るのは嫌いだ。碁も将棋も俺にとっては遊びじゃない、それ以上のものだ。

何よりも単なる勝ち負けじゃないんだ。強くなりたいと思う気持と勝ち負けは別のものだ。

もしもだ、ライバルと思っていた奴が自分を何とも思っていなかったと知ったら筒井ならどうするのだろう。 いや、何とも思っていないだけなら構わない…。そうじゃなくて…。

一番強くなりたいと、熱く燃えていた頃の思いを俺は消せない。

なのに、それを偽物の一番に掏りかえられたんだ。俺の純粋な気持を偽物に…。俺は…だから…。

 

畜生。俺は碁を辞めて将棋だけに向くつもりなのに、なぜかいつも碁のことを考えている。

筒井のせいだ。

それにしても一体なんで碁の大会にでることにしたんだろう。俺は。

 

加賀はその答えを分かっていた。

俺を全然恐れない奴、筒井もそうなんだが、あいつだ。

あの進藤という小学生のガキ、あいつ。あのど下手な碁好き。

あいつは、どうするだろう。もしライバルと思う奴に何とも思われていないと知ったら、どうするだろう? あいつは筒井と違い、自分が下手な碁好きでいるだけで満足していそうにはないが。

 

俺が碁から逃げたと進藤の奴は言った。俺は逃げたんだろうか?いやそうじゃない。

そうだ。俺は碁から逃げたのではないということを、ただ初めから好きだった将棋に向かったのだということを、それを自分に証明するために俺は大会に出ようとしてるんだ。

 

 

 

加賀は、海王中の門のところで、筒井と一緒になった。

会場についてみると、だぶだぶの学生服姿のヒカルが会場をうろつきまわっているのが目に入った。

加賀は呟いた。

「あいつ。全然緊張してないみたいだな。度胸だけはあるらしい。もっともあいつ の腕じゃ勝つことは覚束ねえからな。くじ引き次第だな。一回戦突破は。 よっしゃ。ここまで来たら、碁に集中してやるぜ。」

 

 

 

 

筒井の方は緊張していた。自分が参加者として大会に来ているというのが信じられな い思いだった。去年この地区で中学の大会が初めて行われると知った時、いつか出たいと思い、半分は諦めていた…。

 

ヒカルが言った。

「ねえ、筒井さん、あれは何なの?碁盤の傍に二つある奴。」

「えっ?」

筒井は神経質そうにヒカルの指した方を見た。

 

「ああ、あれは対局時計っていうんだ。自分が打つたびに押すんだよ。持ち時間が決まってるからね。」

「へえ、碁って打つ時間があるのか。」

とはいってもヒカル程度の腕では、考える時間もたいしていらなかったが。

「うん、海王中には、対局時計も碁盤もたくさん揃ってるからね。 だから前回も今回もここが会場なんだよ。海王中の囲碁部は全国優勝したこともあるし、部員も多いからね。」

 

ヒカルは、トーナメント表を見て言った。

「男子が8校に女子が6校?少ないんだね。」

「3回勝てば優勝だ。だが、一回戦で負ければそれで終わりだ。少なかろうが多かろうが毎回勝たなきゃ同じことだ。次には進めない。」

加賀は言った。

 

「げっ、一回戦、海王中とだってさ。終わりだな。」

どこかの中学の生徒が表を見て言った。

それを耳にした筒井は言った。

「そうかな。僕はどうせだったら、海王中と戦ってみたいよ。強いところと。そうじゃなければ勝 ったって詰まらないよね。」

その言葉に、加賀は、へぇっと筒井を見つめた。

 

一回戦、加賀は大将戦を10分で、筒井は着実なヨセ勝負で共に勝ち、葉瀬中は2回戦に進んだ。ヒカルは、当然 ながら負けた。

二回戦、佐和良中との対戦で、加賀は早々と勝ちを収めると、筒井の様子を見にいった。

「だめだな。今度の奴はさっきのより強い。ということはこれまでか。」

そう言ってちらと、三将戦を覗いた。

 

なんなんだ?これは…。さっきもひどかったが、相手が少しは強かったから、様になったが…これは。

「佐和良中って、三将が病欠で碁を始めたばかりの奴が代替要員なんだってさ。」

ギャラリーがそんなことを言っていた。

ともに初心者の碁。お互いお話にならない碁を打っているのだ。

そして、幸か不幸か、ヒカルが勝ってしまった。

 

見られたもんじゃなかったけど、まあ、なんでもいいか。勝ったわけだしな。加賀はそう思って言った。

「決勝戦が楽しみだぜ。」

筒井は、「信じられない、ここまでこれるなんて。」と目を潤ませた。

決定戦は、海王中とだった。

「望むところよ。」

加賀の言葉に筒井も言葉短に答えた。

「うん。」

本当にそういう気持だった。

 

決勝戦では実際のところ、ヒカルは二回戦よりは様になった碁を打っていた。それは相手 の実力によるものだった。しかしあまりに実力に差があり過ぎた。

それでもヒカルは下手なりに盤面に集中していたので、戸口に塔矢アキラが現れたのを知らなかった。

 

アキラは推薦で入学が決まって、学校から呼び出しが来て、校長と面接した後、囲碁大会を覗いていくように勧められたのだ。中学の囲碁大会に興味などなかったが、校長が余りにしつこく勧めるので、アキラは、しかたなく会場に向かった。

気のなさそうな様子でちらと会場を見回して、アキラは驚いた。

進藤ヒカル?

小学生だと思っていたのに、中学生だったのか?彼は。

そして真っ直ぐにヒカルのテーブルに行った。

 

あの時は碁とも呼べないものだった…。それが決勝戦に?相手が弱かった?いや、 あのレベルでは、いくら相手が弱いといっても勝つことなど…。

大将と副将の二人が強 かったからか?

それともあの素晴らしい棋譜を置いてみせた技。あれに見合うだけの碁を打ってるのか?

進藤ヒカルは一体どんな碁を打ってるんだろう?

 

アキラは碁盤を覗きこんだ。

 

 

加賀は、海王中の大将に言った。

「ありません。」

「ありがとうございました。」

大将は当然のような様子で言った。加賀はふうっと息をついた。

さすがだな。 噂には聞いていた。 囲碁は海王ってな。塔矢アキラもどきがゴロゴロいるってわけか。これじゃあ筒井はどうやっても歯が立つまい。

そう思って、副将のテーブルの方を向いて驚いた。ギャラリーの中に塔矢アキラを認めたからだ。

「塔矢…!!いったい、何を真剣に見てるんだ?」

 

そう口にすると、知らず知らずのうちにアキラの傍まで歩いて行った。

 

ん?三将戦?

盤面を覗くと、もう終わっていた。

進藤の奴、相変わらず、下手な碁を。こいつって石の筋は面白いんだが、稚拙というか未熟というか…。だけど、 そうは言っても創立祭の時から比べたら、こいつなりに進歩してるぜ。うん。すげえ進歩だ。

 

加賀がそう思った時、アキラの一言が聞こえた。

「なんだ。やっぱり、ひどい碁じゃないか。」

それは、ヒカルの耳にも届いた。ヒカルが目を上げると、アキラが背を向けて会場を去っていく姿が見えた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

久方(ひさかた)11

『久方』11~20
ヒカルが筒井さんと囲碁部を立ち上げ、佐為がヒカルの時代にタイムトリップするまで
(主な登場人物(佐為、ヒカル、導師、加賀、筒井、平八、白川、塔矢アキラ、塔矢行洋、緒方、芦原、三谷、ダケ、席亭)


「…そんでさ。俺、すっごく落ち込んだ。でも、そのうち腹立ってきた。何で関係ない塔矢の奴が突然現れて、俺の碁にけちつけなきゃなんねえんだって思ってさ。

あいつ、何にも関係ねえだろって。俺がどんな碁を打とうと俺の勝手だろって。」

「塔矢アキラは正直なのでしょう。」

佐為はクスリと笑って言った。

「何だよ。佐為まで。正直って何だよ。人にずけずけ勝手なこというのが正直かよ。」

「思ったことを言ったまでという意味です。ヒカルだって、いつもずけずけとものを言うじゃないですか。私に。」

その佐為の言葉にヒカルは立ち上がると、着終えたばかりの水干をぱっと脱ぎ捨て、ジャージを掴んだ。

「何だよ。佐為だって言いたい放題を言ってるじゃねえか。俺、もう帰る。」

 

ヒカルは戻ってくると、ベッドに倒れこんだ。

「佐為の奴まで何だよ。」

 

ヒカルは腹を立てていた。何もかもに。

今日、あの会場で塔矢に掴みかからなかったのは、筒井さんのためだ。

三将戦に出た実績で、囲碁部の許可が出るって、加賀がそう言ったから、我慢したんだ。

俺があんなことを言われたのを加賀の奴、聞いていたから。俺のことを笑ってるんだろうな。

佐為に話したら、きっと分かってくれると思ったのに…。

佐為にはすぐ話したかったから、対局時計とか団体戦の楽しさとか…大会のいろんなことを。 疲れてたけど、頑張って佐為のところに行ってやったのに。

あああ。もう碁なんてもう見るのもやだ。やってられるか。

 

ヒカルはぶつくさ言いながら、眠りについた。

 

1週間ヒカルは不機嫌に過ごした。

学校で、あかりが話しかけてきても、ロクに返事もしなかった。

「何よ。ヒカルってば。大会で負けたからって、そんなに怒らなくたっていいじゃない。」

「うっせえっ。」

ヒカルってば、いつもこうなんだから。気に入らないことがあるとすぐむくれるんだもの。

あかりは、ため息をついた。

 

土曜日の夜に筒井から電話がきた。

「進藤君にお礼をしたいから。」

 

次の日、お昼少し前にヒカルは家を出た。

「お昼は友だちと一緒だから。」

そう言うとヒカルは約束の場所に走って行った。

ラーメンの方が良いけど、贅沢は言えないもんな。

約束のハンバーガー店に着くと、筒井が入り口で待っていた。

「割引券があるから遠慮しなくていいよ。」

 

ヒカルと筒井はトレイを持って3階に行った。

「今日は、進藤君は時間良かった?」

「うん。暇。塾にも行ってないから。」

ヒカルはアイスティをずずっと啜りながら言った。

「この間は、本当にありがとう。僕はまだ興奮が収まらないよ。決勝までいけたことに。」

筒井は嬉しそうに話し出した。その時ヒカルの背中の方で声がした。

「筒井は海王中と戦うのが望みだったからな。」

えっ?ヒカルが振り返ると、加賀がにやっとして立っていた。

 

加賀?筒井さん、加賀も呼んだのか?

 

加賀は筒井の横に陣取った。

「まあ、俺たちの腕としては、上出来というところだな。」

筒井は頷いた。

「塔矢アキラが来ていたのには驚いたけどね。後で聞いたら、彼、海王中に入学するらしいね。」

ヒカルはうえっと、思った。

「じゃあ、今度大会があったら、塔矢アキラも出るのかな。」

筒井は首を振った。

「ううん。出ないと思う。彼が囲碁部に入るとは思わないから。進藤君は院生って知ってる?」

ヒカルは首を横に振った。

「日本棋院のプロ養成機関に身を置くプロ予備軍の子ども達なんだけどね。院生は修行中だからどんなに強くてもアマの大会に出ることを禁じられているんだよ。途中でプロになるのを諦めてやめる子も多いらしい。海王の囲碁部には そういう元院生もいるって話だよ。

塔矢アキラは院生じゃないだろ。彼にとっては院生すらぬるいってことだろうね。」

 

「へえ。そうなんだ。」

プロ予備軍がぬるいって?塔矢って、そんなにすごい奴なのか。

 

加賀が話に割って入った。

「ま、そういうことで、進藤も納得か。そんなすごい奴に、ひどい碁って言われただけ、ありがたい話だな。はは。」

ヒカルはむっとした。

「あいつが、海王中に入ろうが、プロ並に強かろうが、あんなことを俺に言う必要ないじゃないか。俺がどんな碁を打とうと俺の勝手だろ。」

 

加賀は首を横に振った。

「違うぜ。進藤。団体戦に出るなら、どんな碁もこんな碁もない。自分の最高の碁を打たなきゃなんないぜ。連帯責任て奴でな。塔矢アキラは正直だっただけという訳さ。」

 

塔矢が正直?何かどこかで聞いた言葉だ。ええと…そうだ。佐為が言ったんだ。

ちぇっ、どいつもこいつも塔矢が正直正直って…。

加賀はヒカルのむくれた顔を見て、ニヤニヤして言った。

「何むくれてんだ。進藤。ずばり、本当のこといわれて腹立ててもしょうがないだろ。俺に言わせりゃ、あんなヘボ碁を塔矢が見て感想を言ってくれたことに感謝すべきだと思うぜ。」

「加賀が言われたわけじゃないからな。」ヒカルは腹立たしげに言った。

 

加賀は、ひどく真面目な顔をした。少し遠くを見るような目で言った。

「もし俺がお前だったら言われてみてえぜ。ヘボだと思うなら思うと率直にな。

なあ進藤。お前と塔矢アキラがどういう関係か知れねえが、それでもあの塔矢がお前の顔を覚えていて、お前の碁に関心を示した んだ。そのことだけでも感謝するんだな。」

筒井は加賀の顔をまじまじ見た。

「加賀…。君は…。」 

そう言いかけて黙った。加賀、君は、君は塔矢アキラと…。

 

それから筒井は話題を変えるように言った。

「僕はとにかくいい経験ができたからね。進藤君が中学に入学してくれる日が待ち遠しいよ。今度は堂々と 団体戦が組めるものね。」

「筒井、頑張って囲碁部員を集めるんだな。俺はもう大会には出ないから。俺はもう将棋一本で行く。」

加賀の言葉に筒井は頷いた。

「そうか。残念だよ。」

「筒井さん。俺、手伝うよ。加賀なんていなくたって大丈夫だよ。次は俺、副将になれるように頑張るからね。」

ヒカルは、もう碁なんて打つものかと思っていたことをすっかり忘れて張り切って言った。

 

加賀はにやりとした。

「俺がいなくても大丈夫だと。ふふん。よく言うぜ。進藤。お前が副将じゃ、一勝も出来ねえかもな。 囲碁部の未来は暗いな。」

「何だよ。俺は2回戦は、勝てたんだぞ。並べてみせようか。あん時の碁を。」

加賀はあきれたように言った。

「ばっかじゃねえか。お前は。そんな碁を覚えていて何の役に立つっていうんだ。お前のヘボ碁より下手な奴との碁 なんかを。忘れちまえ。覚えるんだったらもっと大切なことを覚えろよ。」

「何だよ。俺が勝ったから、海王中との決勝に出れたんじゃないか。」

ヒカルは不満そうに言った。

「ああ、お前の運は認めてやるよ。覚えるんだったら、お前の腕なら自分が負けた碁を覚えた方がましよ。どうだ打ってやろうか。お前が覚えなきゃなんねえ碁を。ここで。」

 

というわけで、ヒカルは、また加賀と打つことになってしまった。

 

筒井は、楽しそうにリュックから、ごそごそと携帯碁盤を探し、用意を始めた。

それを眺めながら、ヒカルは思った。

加賀と佐為は同じことを言っている。

 

「佐為。2回戦の俺が勝った碁を見せてやるよ。」

「勝った碁?ああ、ヒカルが勝ったと言ってましたね。いいえ。それはいいですよ。ヒカルが勝った碁など見ても仕方ないことです。」

「何故、仕方ないんだよ。」

ヒカルは口を尖らせた。

「えっ、何故って、それはヒカルより相手が下手(したて)だということでしょう。そんなものに拘っても何も進歩はありませんよ。 今のヒカルに必要なのは」

「なんだよ。その言い方。」

 

俺はあの時、怒ったけど 、佐為はきっと負けた碁を勉強しろとか言うつもりだったのかな。

確かにそうなんだ。きっと。佐為だけじゃなくて、加賀の奴までが、そういうんだったら。俺は負けた碁から何かを掴まなければいけないって訳か。

 

ヒカルがぼんやり思い出していると、加賀が聞いた。

「進藤はどこで碁を打ってるんだ?筒井と打ち合ってるだけだったら、大して進歩は望めねえぞ。」

筒井が苦笑して言った。

「失礼だな。加賀は。まあ、でも確かにそうかもね。進藤君は、保健センターの囲碁教室に通ってるんだよ。 それに碁の強いお祖父さんが近所にいるんだよね。」

「へぇ。囲碁教室ねえ。まプロに習ってるって訳か。それに祖父さん…なるほどな…」



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

久方12

『久方』11~20
ヒカルが筒井さんと囲碁部を立ち上げ、佐為がヒカルの時代にタイムトリップするまで
(主な登場人物(佐為、ヒカル、導師、加賀、筒井、平八、白川、塔矢アキラ、塔矢行洋、緒方、芦原、三谷、ダケ、席亭)


佐為は、しまったと思った。しかしヒカルがこういう風に腹を立てたら、もうどうしようもない。

 

ヒカルが帰ってしまった後、 ヒカルの脱ぎ捨てた水干を畳みながら、佐為は思った。

それでも…。これで二度と来ないということは絶対にない。何故ならヒカルは、ものすごい速さで上達している から。絶対に碁の面白さに目覚めた筈だから。 必ずここに戻ってくるだろう。でなければ私が困る。

 

ヒカルの話を楽しみにやってきた導師は 、佐為が涼しげな顔をして、その話をしたので呆れたように言った。

 

「そなたたちは一体どうなっているのか。仲が良いのか悪いのか…。

だがヒカル殿はまだ子ども。負けて凹んでいるところをけなされたのであろう。

慰めろなどと、甘ったれたことを言うつもりはないが、それにしてもその言い合いは。佐為、そなたまで子どもに戻ったか?

ヒカル殿が碁を始めてからまだ日が浅い。そのような大会で勝てたということは、例え相手がどんなに弱くても励みになるであろうに。嬉しかったのであろう に、それも言下に否定されたら腹を立てるは大人でも常のこと。子どもならなおさら。

佐為はもっと気をつけねば、ヒカル殿は本当に来なくなるぞ。」

 

「私は心配してません。それにヒカルは自分より下手の碁などに構っている暇はないのです。

ヒカルの才を伸ばすには詰まらぬ碁などに関わっている暇は。

ヒカルはもう12です。子どもとはいえませぬ。導師がヒカル殿などと言って甘やかすから、図に乗るのですよ。ヒカルには全く 、碁を教わっているという自覚が、謙虚さが足りませぬ。」

佐為は不満そうに導師に訴えるように言った。導師は何となく可笑しかった。

ヒカル殿と佐為はまったく面白き関係よ。

 

「謙虚か。そなたからそのような言葉を聞くとはな。

わしはそなたの師だった。今そなたは私を凌駕しているが師弟関係は変わりない。

しかし、ヒカル殿とわしは師弟関係にはない。彼はわしにとっては楽しい客人よ。遠い世界から旅してきた。だからわしは殿をつけて呼ぶ。その何が悪い。 わしは虎次郎殿もそう呼んできたが、佐為はそれに文句を言ったことはなかった気がするぞ。」

「それは…それは、虎次郎は礼儀正しく、師に対する敬いの心を持っていましたから。行儀も良かったし…。」

導師は佐為の言い方にちょっと笑った。

「まあ、いい。では、次にヒカル殿が来る頃にまた参るぞ。」

 

 

帰る道々導師は思った。

ヒカル殿の何かが佐為をムキにさせるようだな。これからどうなるか、みものだ。

師に対する敬いの心か。わしもなかった気がする。いつも闘争心ばかりで…。

 

わしは貧しい下級役人の子で、兄弟も多く、親は私を寺に預けた。寺は唯一出世が望める世界、生きていける世界だと 信じて。だがそれは嘘だ。どの世界でも上にいるのは身分の高い貴族。

だからまだ少年の頃に、わしは遣唐使に名乗りを上げた。といっても遣唐使に遣わされる学問僧の世話をする役目にだ ったが。

それでもこの国にいては芽が出ない、そういう思いだった。

遭難して命を失うことを覚悟で、皆出かける。死ぬかも知れないというのは恐ろしくなかったわけでもないが。それでもこのままこうして寺にいて、使い走りの下級僧として過ごすことを思えば、海の先には未来があった。

 

何とか辿りついた大陸は見ること聞くものすべて新鮮であった。

わしは特技の碁が幸いして、あちらの宮廷にうまく立場を築けた。わしがまだ幼い少年だったことも幸いしたか。

あの国で、わしは自由を得た。学問をする自由。そして知己を得た。 彼の地で力を持つ多くの人々と。

 

しかしわしが仕えていた僧が帰るといった時、わしは一緒に戻ることを決めた。 あの時、わしはもう大人になっていた。選べたのだから、あの地に残り、人生を送っても良かったのかもしれない。だがわしは帰ろうと思った のだ。

わしの得た学問や多くの経験を自分の国に戻そうと。わしの知識は生かされると。

わしは青年期特有の理想と生意気さでいっぱいになっていたのだ。

帰りの船団は無残にも2隻が遭難し沈没した。わしの乗った船も沈んだ。が、わしは奇跡的に別の船に引き上げられ、何とか京へ帰り着 くことができた。

だが帰り着いてみたものの、わしには、折角の留学の成果を生かす仕事は与えられなかった。 前と大して変わりない生活だった。

 

わしは自分が習得したすべてを伝えることもできぬ京の暮らしが耐え切れなかった。

僧であっても、遣唐使帰りであっても、それを生かすことが表立ってはできぬ世界。

わしは寺を出て、自分の力を生かす道を探った。そして薬師としての仕事を選んだ。それがわしに生きる道を与えてくれ ると思えたからだ。

薬草の調達で、わしは、大陸の者と通信することもできた。

生活の糧はそこそこにしか手に入らぬが、今の生活は何よりも生きる意味をわしに与えてくれる。

そしてもうひとつ、金のある貴族の子弟に碁の初歩や学問の手ほどきをすることが、 わしには生活の糧を得る大切な仕事でもあった。

 

佐為の親も、わしに碁の手ほどきを頼んできた一人だ。

初めて出会った佐為は幼いが実に独創的で卓越した碁を打ってみせた。わしは指導が楽しかったものだ。佐為は 本当に熱心に学んだ。 大陸から持ち帰ろうとした碁の書物は海の底に沈んでしまったが、わしは覚えている限りのことを佐為に伝授した。

青は藍より出でて藍より青しというが、今の佐為とわしの関係はまさにそれよ。

わしは、京にはわしほど強いものはいないと思っていたが、今は佐為とやっと三子置きで釣り合わせてもらっている のだから。

親が亡くなり、自分が主になると佐為は、さっさと役人をやめ、碁に専念てしまった。

佐為は好きなことができる身分だ。親の残した財産はあるし、碁の腕は京で並ぶべくもない。 帝や大臣達に碁の指南もしている。

 

それでも彼は、今の生活に飽き足らないのだ。彼は捜し歩いていた。強い相手を求めて。

一度佐為はわしに言った。

確かに導師の言われたとおりのようです。私は京では導師ほど強い相手にめぐり合っていない。」

対等な相手と思いっきり碁を打たせてやりたいと、わしは佐為を大陸に送ろうと苦心している。

まだ叶わぬが…。

 

佐為は碁については挫折という言葉を知るまいな。

佐為は知るというだろうが。佐為がいうのは、より強い相手を知らぬということなのだ。

しかし本当の挫折は自分のその時の力に限界を感じてもがくことだ。大陸でわしはそれをいやというほど味わった。

佐為は笑って言うだろう。

私はぜひそういう体験をしたい。だから強い人間のいる世界に行きたいのだと。

荒れ狂う海だろうと、神の領域である筈の時であろうとそれらをすべて飛び越えても…。

 

それにしても、あの時佐為を術師に会わせたのは正しかったのだろうか。わしは間違っていなかったのだろうか。 わしは密かにそれを悩んできた。

時を越えるなど、人が犯してはならぬ領域ではないのかと…。

 

それでも佐為は 時を越え、虎次郎殿と出会って、望んでいた碁の世界を知った。そこはとてつもなく強い碁の存在する世界のようであった。虎次郎殿が暮らす時代は、大陸を遥かに凌駕していた。碁とは常に 進歩しているものなのか…。

ヒカル殿にめぐり合ったのは、あの強さのさらに先へ佐為を誘うためなのだろうか?そうなのだろうか?わしには分からぬ…。

しかしヒカル殿をみるとわしは安心する。あのお子は、きっと佐為を危険な道には進ませはしないと。わしはヒカル殿を信じたい…。 なぜならヒカル殿は自然に佐為と対等に振舞えるから。碁の腕など意に介せずに、友人のように一人の人間として。

すべては天の配剤によるものなのか。

 

導師はふっとため息のような息を漏らすと、家の門をくぐった。

 

怒って帰った筈のヒカルが、自分の元にやってきた時、佐為はにんまりとした。

思った通りにやってきましたね。ヒカルは単純だから…。でも導師の言うように、今度は、用心せねば。

「佐為が知りたいだろうと思って、帰ってきてやったんだ。」

そういうヒカルに佐為は頼んだ。

「それで 、とにかく、ヒカルが塔矢アキラにけなされたという決勝戦の碁とやらを並べて下さい。」

ヒカルが案外おとなしく並べてみせるのを、おやと、思いながら佐為は訊ねた。

「その時、ヒカルは腹を立てて、塔矢アキラに何か言ったのですか?」

ヒカルは首を横に振った。

「ううん。あいつはさっさと帰ってった。…そうだ。加賀の奴が、佐為と同じことを言ったんだ。」

「何をです?」

「塔矢は正直な感想を口にしただけだって。」

「ほう。それを聞いてヒカルは加賀に腹を立てたのですか?私にしたみたいに。」

ううんと、ヒカルは首を振った。

それから、加賀が、ヘボ碁だと思うなら思うと、自分だったら、そのとおり言われてみたいといった事。塔矢が ヒカルの顔を覚えていて、ヒカルの碁に関心を示したことだけでも感謝 しろといったことを佐為に話した。

 

「そうですか。」

佐為は考え深げにそう一言、言った。

加賀は塔矢に勝ったことがあると言っていたが…。その加賀は海王中の大将戦で負けたという。海王中の囲碁部はプロになろうとして、 諦めた子がいるところ。塔矢にはそれでもぬるいというのだから。ということは。ふむ。なるほど…。

加賀が塔矢を嫌った理由が分かりましたよ。加賀のような熱血漢には耐えられない屈辱を塔矢アキラは与えたんですね。でも良い子に振舞うという塔矢アキラのことですから…きっと無邪気に自分が良いことをしていると信じて 悪びれずにそれをした…。

 

ヒカルが言った。

「どう、これが俺の思いっきりひどい碁だよ。」

佐為はそれに見入った。ヒカルはこの相手とやって、また少し力をつけたようだ。そう感想を持った。

それから、ヒカルは今度はもう一局を並べ始めた。

「こいつはね。そのハンバーガ屋で、なりゆきで加賀と打った一局だ。俺は打つつもりなんてなかったのに、何故か加賀は強引でさ、結局打たされた。もちろん俺の負け。佐為は俺が勝った碁は興味ねえんだろ。 だからこれは興味があるだろうと思って。」

 

佐為はそれを見て言った。

「ええ、興味ありますよ。とても。」

加賀と海王中の三将では、棋力はきっと三将の方が上かもしれないが。加賀とヒカルの一局、もし加賀が三将戦のイメージを抱いて ヒカルと打ったなら随分と驚いたかも知れない。ヒカルは一局毎に格段の進歩を示しているのだから。

 

「ヒカル。あなたは碁の大会とこの加賀との一局で、随分腕を伸ばしましたね。素晴らしい進歩ですよ。」

ヒカルはその一言に目を輝かした。

「佐為。ほんとにほんと?本当にそう思う?」

「ええ、私は塔矢アキラと同じくらい正直な人間ですよ。こんなことで嘘などつきませんよ。」

「俺。中学に入ったらさ、 筒井さんの囲碁部に入る。でもって次の大会では絶対また決勝に進んで、海王中と対決してやるんだ。俺の力で。一勝もできないって言った加賀に見せ付けてやるんだ よ。佐為、手伝ってくれるか?」

 

「ヒカル。もちろん手伝いますとも。」

ヒカルの棋力を伸ばして、私はヒカルのいる世界に早く行ってみたいものだ。

塔矢アキラやプロの棋士とやらと対局をしてみたい。佐為はそう思った。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

久方13

『久方』11~20
ヒカルが筒井さんと囲碁部を立ち上げ、佐為がヒカルの時代にタイムトリップするまで
(主な登場人物(佐為、ヒカル、導師、加賀、筒井、平八、白川、塔矢アキラ、塔矢行洋、緒方、芦原、三谷、ダケ、席亭)


「進藤君は今日でやめるんだったね。」

保健センターの囲碁教室の講師をしている白川は残念そうに言った。

「うん。」

ヒカルは元気よく返事をした。

「中学に慣れたらまた遊びにおいで。進藤君はこのところ急に力がついてきたから。

折角ここまで打てるようになったのに碁をやめると、残念だよ。」

「俺、碁は続けるよ。中学の囲碁部に入ることに決めたんだ。」

やめたら惜しいと思っていた白川は、ほっとしたような声を出した。

「中学の囲碁部に。そうか、囲碁部のある学校なんだね。」

 

傍にいた年配の女性がヒカルに言った。

「私たちも残念だけどねえ。ここは、おじさんおばさんばっかりだからね。ヒカル君も同い年くらいの子どもたちと打ちたいんでしょ。」

ヒカルはへへと笑った。

「まあね。」

それから白川に聞いた。

「そうだ。先生。一度聞きたかったんだ。今一番碁が強い人って誰なの?」

 

「一番強い?そうだねぇ。」

白川は少し考え込んだ。

「あら、先生。塔矢名人に決まってるでしょ。」

ヒカルの周りに集まっていた一人が言った。

「ええ。塔矢さんはタイトルもたくさん持っていますしね。今のところ現役最強でしょうね。」

温和な白川だが、ちょっぴりプロの意地をにじませた声でそう答えた。

プロとしては、いずれその横に自分も並びたいと願って頑張っているが、今のところは、確かにそうだ。

 

「塔矢名人って?塔矢アキラのお父さんのことだろ。その人が最強なの?」

「そうよ。ヒカル君、知ってるの?神の一手に最も近い男って言われてるのよ。」

「へえ。神の一手に最も近いか。」

佐為はどのくらい強いんだろう。塔矢の親父さんに負けちゃいそうだな。

ヒカルはこっそりそう思った。

 

「おばさんが前に教えてくれただろ。駅前の碁会所のこと。あそこで会ったんだぜ。塔矢アキラに。あいつ、プロ並みに強いんだって ね。」

白川が言った。

「確か、彼は進藤君と同じくらいの年でしたね。一つ上でしたっけね。」

「ううん。学年は一緒。今度中学生だけど。でもあいつは海王中に行くんだって。」

「そうなのですか。海王は囲碁が強い学校ですよ。確か全国大会でも優勝の常連校でしたね。」

「俺さ、中学の囲碁部に入って、大会に出たいんだ。団体戦だぜ。それで海王中に勝ちたい。」

白川は大きく頷いて、にこやかに言った。

「団体戦か。応援しているよ。」

 

 

ヒカルを見送りながら白川は思っていた。

あの子は、とても碁と相性がいい。初めはどうなるかと思ったが、石取りゲームから初めて、半年も経たないうちに級は通り越している。

中学の大会で海王中に勝つ。年頃にふさわしい目標だ。囲碁を楽しんでくれて嬉しいが。

だけれど。

白川はこっそりため息をついた。

やはり少し残念だ。進藤君のような子がいると、ここも教え甲斐がある場所なのに。

まあ、大人に教えるのも悪いとは思わないけれど。

白川は、ちらっとっ教室に残っている大人たちを眺めた。

 

 

4月になると、ヒカルは平八の家に行った。蔵で倒れてから、正月に一度来たきりだった。

庭に回って声をかけると平八が縁側に出て来た。

「おおヒカルか。元気だったか。何のようだ?」

それから平八はヒカルの服に目を留めた。

「おや、それは中学の制服か。」

「うん。お母さんが見せて来いって言ったんだ。」

平八は眼を細めて言った。

「よう似合っとるぞ。そうか、ヒカルはもう中学生になるんじゃな。

今、ばあさんは買い物に行っていておらんから。座敷に上がって少し待っとれ。テレビでも見てるか。」

 

「ううん。じいちゃん。実は俺。碁を覚えたんだ。」

平八はびっくりして大声で言った。

「な、何?碁だと。ヒカル。お前、碁を覚えたのか?」

ヒカルは得意そうに言った。

「うん。だからね、それでさ」

平八はヒカルの言葉を全部聞いていなかった。

「よし、分かった。今持ってくるから、待ってろよ。逃げるなよ。」

子どものようにそう言うと、小走りに奥に行った。

 

碁盤と碁石を運んでくると、平八は嬉しそうに笑った。

「そーか。ヒカルも碁の面白さに目覚めたか。ふっふっふっ。さあ、いくらでも打ってやるぞ。」

「あのさ、じいちゃん、だからね、俺が勝ったらさ」

 

平八はその言葉に目をむいた。

「勝つだとぉ。笑わせるな。ふっふっふっ、わしは強いぞ。ヒカル。いいから。いくらでも石を置け。」

「石を置けだって。じいちゃんて、そんなに強いの?」

ヒカルの疑ったような声に、平八はぴくぴくとこめかみを震わせた。

急に立ち上がるとヒカルの腕を掴んで、座敷に連れて行った。

「どうだ。これを見ろや。」

そこには賞状やら盾が所狭しと並べられていた。

「どうだ。能ある鷹は爪を隠すのだ。」

平八は胸を張った。

 

優勝、優勝、優勝…って。全部優勝ばっかじゃんか…

「ええっ、じいちゃんって、こんなに強かったのか。」

ヒカルはちょっとドキッとした。

これじゃあ、勝てないかもしれないぞ。でも俺だってさ。

じいちゃんは町内大会優勝だけど、俺だって、中学大会準優勝…あ、でも団体戦だった…。

いや、俺は佐為の弟子なんだぜ。帝の囲碁指南役の。だから。

「俺、ハンデなんかいらないよ。俺、きっと強いぜ。」

 

平八は呆れたように言った。

「何を言ってるんだ。ヒカルは。ついこの間まで、碁など見向きもしなかったものを。

どうせ覚えたてだろうが。強いも何もあるものか。

お前のは気が強いってだけだ。

まあ、それでもいいよ。石を置きたくなければ、石は無しでいいから。

ホラ打て。打ってみろ。」

 

平八のその声に、ヒカルは右上スミ小目に石を置いた。

「うむ。手つきはなかなか良いな。だが、手つきだけでは勝てんぞ。ほれ。」

平八はそう言いながら余裕で碁笥から白石をつまんだ。

 

祖父と孫が碁を打つ縁側に春の陽射しが射し込んでいた。

一時が経った。

 

「あれ、負けちゃった。俺。」

ヒカルはがっかりした声を出した。

「当たり前だ。わしが何年碁をやってると思ってるんだ。」

平八は満足そうに言った。

「だが。それにしても、ヒカル。いつから碁を始めたんだ。手つきと同じに、さまになってる碁を打つじゃないか。」

「去年の11月からさ。保健センターの囲碁教室に通ってたんだ。」

「そうなのか。まだ半年経たんのに。お前。わしに似てなかなか筋がいいぞ。」

平八は嬉しそうに言った。

 

ええっ! じいちゃんに似てるぅ? そんなの、ちっとも嬉しくないぜ。

「でも、畜生。じいちゃんに負けるなんてさ。」

 

「 ヒカル、まだ言ってるのか。わしはな、だから強いんだ。分かったか。

何しろあすか町の井上さんに勝てたのはわし一人だからな。

まあ、その気の強さもわし譲りか。ヒカルもずっと続けていけばわしくらいに強くなれるぞ。

それで?ヒカルはその囲碁教室にずっと通うのか?」

 

ヒカルは首を横に振った。

「ううん。やめる。俺、中学の囲碁部に入ることに決めたんだ。中学の大会に出たいから。」

平八は頷いた。

「そうか、そうか。それは楽しみじゃな。」

それから思い出したように言った。

「それはそうとヒカル。お前、さっき何とか言ってたな。わしに勝ったらどうとかと。」



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

久方14

『久方』11~20
ヒカルが筒井さんと囲碁部を立ち上げ、佐為がヒカルの時代にタイムトリップするまで
(主な登場人物(佐為、ヒカル、導師、加賀、筒井、平八、白川、塔矢アキラ、塔矢行洋、緒方、芦原、三谷、ダケ、席亭)


「あちゃー、駄目だったか。」

ヒカルは佐為の前に現れるなり言った。

 

「どうしたのです?」

「うん。やっぱ俺しか来れないんだ。ここに、色々持ってこようと思ったんだ。

それでさ、わざわざ荷物を詰めてリュックを背負ったのに。

ほら、ここにきたらリュックがないだろ。まさか途中でどっかに落としたのかな。」

ヒカルは少し心配そうに言った。

 

「そんなことはないと思う。時の旅は負荷がかかるから、だから体の大きくない子どもが適しているのではないかと。 私はそう思ってますよ。」

それから佐為は不審そうに尋ねた。

「それにしても荷物とは。ヒカルは一体何をここに運ぶつもりだったのです?」

 

「えへへ。そりゃ、まあね。佐為が見たがると思うものをさ。」

それからヒカルは佐為の前に座りなおした。

 

「俺、囲碁教室をやめたんだ。囲碁部に入ることに決めたからな。

あそこは何かかったるいんだ。先生と打つのはいいけどさ。毎回あの人たちと打つのに飽きちゃってさ。」

佐為はヒカルの顔を見た。

石取りゲームが面白いとか、対局相手のおばさんが強かったとか言っていたのはついこの間のことだったが。 ヒカルの進歩が早い証拠か。

「でも確かヒカルが一度も勝てない人がいたのではありませんか?」

「阿古田さんのことか。いつか勝ってみせるさ。先生がいつでも遊びに来ていいって言ってるからな。囲碁部で腕を磨いてからな。」

ヒカルは宣言した。

 

「それでさ。最後の時に囲碁教室の先生に今誰が一番強いのか聞いたんだ。そうしたら、塔矢アキラの親父さんが名人で一番強いって言われてるらしいぜ。なんでも神の一手に最も近い男って言われてるんだってさ。」

 

神の一手に最も近いという言葉に佐為は興奮を覚えた。

「その者は一体どんな碁を打つのでしょうね。塔矢アキラは、彼は、父親の手ほどきを受けているわけですね。」

しかし私は塔矢アキラの碁も、最強と言われている彼の父親の碁も知らない。

知りたい。その者の打つ碁を見たい。相手をしたい。

私は、いつヒカルの時代にいけるだろうか。

 

「そうだ。着替えなくちゃな。」

ヒカルはそういうと水干の傍で、服を脱いだ。

「あれっ。」

そういうとヒカルはズボンの後ろポケットから、本を引っ張り出した。

 

「あれっ?俺。これ、ここに突っ込んだんだっけか?」

「それは?」

「うん。詰碁の本。ほら、前に加賀がびりびりに破いたのと同じ奴。本屋で売ってたんだよ。塔矢名人のだぜ。佐為にお土産だよ。」

 

佐為はそれを受け取ると言った。

「なんときれいな書物か。しかしよく持ってこれましたね。虎次郎はいつも身一つでしか来れなかったのに。」

「たぶん、ポケットに入れても邪魔にならないくらいのものなら大丈夫なんだ。」

佐為が悪戯っぽく言った。

「ヒカルが小さいからですね。まだ背も低いし、子ども子どもしてますからね。」

ヒカルはぶすっと口を尖らした。

「ちぇっ。佐為。嫌味だぜ。折角持ってきてやったのに。」

 

うっかり口を滑らせてしまった。ヒカルを見るとつい、からかいたくなってしまう。私の悪い癖だ。

ヒカルは年頃なのだから、言うことに気をつけねばいけなかった…。

佐為は、とりなすように言った。

「冗談ですよ。嬉しくて、つい出た冗談ですよ。ごめんなさい。ヒカル。しばらく、この本を貸して下さい。」

ヒカルはぶすっとしたまま、言った。

「あげるよ。初めからそのつもりで持ってきたんだ。俺には難しいし。」

 

佐為は嬉しそうに微笑んで、すぐにページを繰り始めた。

それから顔を上げて言った。

「ヒカル、くれるというのは嬉しいけれど、しばらく借りるだけでいいですよ。残念ですけどね。ヒカルの時代のものをここに長く置く訳にはいかないと思います。」

 

ヒカルはそれを聞いて頷いた。

そうだ。用心しなきゃいけないんだった。荷物持ってこれなくて良かったんだな。

それにしても、佐為や導師以外の人とは、まだ口をきいたことがない。

もう少し慣れたらいつか京を案内してくれるって言ってたけどな、早く見てみたいぜ。

 

佐為は碁盤を引き寄せた。

その碁盤を見てヒカルは嬉しそうに言った。

「そうだ。佐為。俺ね。碁盤、買ってもらっちゃった。脚付きのだぜ。」

 

「それは嬉しいことですね。これでヒカルは自分の家でも碁が打てるのですね。」

「前も打ってたんだぜ。持ち運びできる小さいのだけどさ。でもそれって何となく味気ないんだよな。ぱちっと音がしないしさ。」

「ご両親が碁を認めてくださったのですね。」

「ううん。お父さんもお母さんも碁を打つことを、いいともいけないとも何にも言わないよ。

くれたのはじいちゃんだよ。じいちゃんに勝って碁盤を買ってもらおうと思ってたのに、じいちゃん意外と強いんだよ。でも負けちゃったけど買ってくれたんだ。

これからも碁をやるんだったら、買ってくれるって。それで、じいちゃんと時々打つ約束をしたんだ。」

 

そう言うと、ヒカルは平八と打った一局を並べてみせた。

佐為はそれを眺めた。

「ヒカルはおじいさんに打って頂くと、きっと伸びる。おじいさんは強いですよ。なかなかに興味深い打ち手です。」

 

ヒカルの祖父はプロではない。楽しみに碁を打つ者だ。

この平安にも楽しみで碁を打つ者は多い。しかし、やはりヒカルの時代は進んでいるのだろう。祖父という人物はこの平安の御世でいえば少々強い部類に入るだろう。

打ち筋は結構面白い。

虎次郎の頃から140年たつというから、囲碁もずいぶん研究がなされてきたのだ。

ということは最強といわれるその者は一体どんな碁を…。

 

「ヒカルの時代の強い人たちの碁を知りたいですね。塔矢アキラの父親という者の碁を。」

佐為がぽつっと言った。

「ヒカルが見ることができればいいのに。そうしたら私はそれを知ることができるのに。」

 

強い者と打ち合いたい、そう願っている佐為の思いが感じられた。

ヒカルは胸が熱くなってきた。なんとかしてやりたい。俺がしてやらなければいけないんだ。

 

「まあ、今はこの詰碁を少し研究して、この者の考えている碁を見てみましょう。ヒカルも易しいのなら解けますよ。」

ヒカルと佐為は碁盤に向かいあった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

久方15

『久方』11~20
ヒカルが筒井さんと囲碁部を立ち上げ、佐為がヒカルの時代にタイムトリップするまで
(主な登場人物(佐為、ヒカル、導師、加賀、筒井、平八、白川、塔矢アキラ、塔矢行洋、緒方、芦原、三谷、ダケ、席亭)


四月の半ばだった。そろそろ若葉が木々を覆い始めていた。

ヒカルは放課後の教室の後ろに座ったまま、ため息をついた。

「いないかなあ。」

「何がだよ。」

「お前には関係ないよ。頭がよくないとな。」

「ちぇっ。何だ。進藤。頭のいいやつに宿題でも頼もうってのかよ。」

「違うよ。碁が打てる奴いねえかなあと思ってさ。」

クラスの半数は、同じ小学校から上がってきた子だった。ヒカルのいた小学校には碁を打つ子なんていなかった。

「そういや、お前囲碁部なんだってな。変な奴。」

「なんだよ。どこが変だよ。」

「でもさあ。何で頭が良くなくちゃいけねえんだよ。進藤って本当に碁なんか打てるの?」

「打てるさ。」

「頭がよくないお前が打てるんなら俺にも打てる ってわけだな。」

「俺は別だよ。あーあ。」

ヒカルは机の上に頭を乗せてまたため息をついた。

 

「あんたたち何やってんのよ。」

クラス委員をしている金子という女子生徒が声をかけてきた。

「金子。進藤がお前に用があるってさ。」

「何の話?」

「頭が良い奴に用事があるんだってさ。進藤、じゃあな。」

そういって帰ったクラスメートに返事もしなかったヒカルは、金子に気のなさそうに答えた。

「別に。金子に用があるって訳じゃないさ。たださ。碁が打てる奴いないかなって思ってただけさ。」

「私、打てるわよ。」

「えっ?本当?」

「嘘なんか付いてないわよ。碁打てるわよ。お父さんともよく打つわよ。」

ヒカルは体を起こして金子を見た。

「金子。囲碁部に入ってくれ。」

「私、バレー部なのよ。練習が忙しいから駄目。」

「んなこと言わずにさあ。大会に出るのに一人人数が足りなくてさあ。 探してたんだ。碁が打てる奴を。」

「ふーん。大会。碁の大会かあ。大会に出るだけなのね。だったら入ってもいいかもね。 考えてみても…」

ヒカルは金子の腕をむずっと掴んだ。「おお、決まりだ。ちょっと来てくれよ。」 そう言うと、有無を言わさず理科室へ引っ張っていった。

 

 

理科室の戸をがらりと開けながらヒカルは声をかけた。

「筒井さん。こいつ碁が打てるんだって。これで大会OKだよな。」

筒井は碁盤から顔をあげて、ヒカルと金子を見て、目を丸くした。

「あのさ。進藤君。団体戦は男女別なんだよ。彼女が囲碁部に来てくれればうれしいけど、大会は別だよ。」

「ええっ。でもいいじゃん。俺だって中学生の振りを。そうだ。金子に男に変装してもらってさ。こいつなら似合いそうだしさあ。」

金子は腕を払うと、その手で、べちっとヒカルの頭をはたいた。

「私、帰るわよ。忙しいんだから。大会だけに出るなら兼部でもいいかと思ったのよ。」

そういうと、金子はスタスタと去って行った。

 

「進藤君。言い過ぎだよ。」

「いいんだよ。あーあ。男か。あのポスター見て来る奴なんているかな。」

筒井はポスターという言葉に思い出したように言った。

「そうだ。僕、先生に頼んで、もう少し目立つ場所に張る許可をもらったんだ。ちょっと貼りなおしてくる。」

「俺も行くよ。」

 

柱の陰にあるポスターをはがそうとして、筒井は声を上げた。

「あれっ、答えが書いてある。」

「あっ、本当だ。」

ポスターに載せていた詰碁に答えが書いてあった。

「これ結構難しいんだよ。かなりの腕前だよ。きっと。」

「畜生。誰だ?囲碁部に来てくれてもいいのに。」

 

そこにちょうど現れたあかりが言った。

「私知ってる わよ。 三組の三谷君。書いてるところ見たもの。」

「あかり。お前。何で早く言わないんだよ。」

「あら。だって、入りたかったら自分で来るんじゃないの。来ないんだったら入りたくないのよ。囲碁部に。」

「入りたいかどうかなんていいんだよ。引っ張って来るんだって。まだいるかな。俺見てくる。」

ヒカルはそう言うと走りだした。

 

3組の教室にはもう人は殆どいなかった。

「三谷って居る?」

「帰ったよ。」

残っていた子が答えた。

 

 

学校を後にしながらヒカルは呟いた。

三谷か。明日誘おう。いや今日は金曜だから…月曜か。どんな奴だろう。

ああ、とにかく走り回ったから腹減っちゃったよ。ラーメンでも食って帰ろうっと。

 

ヒカルは 傍にあったラーメン屋に入った。

「ラーメン一つ。」

ヒカルが食べ終える頃、出前が戻ってきた。

「次は裏の碁会所にラーメン二つ、頼んだよ。」

 

店主のその言葉に客の一人が言った。

「へえ。裏の碁会所か。あそこには強い中学生がいるんだよ。私は何度も負けてるよ。」

「あんたが弱すぎるんじゃないの。」

横にいた客が混ぜっ返した。

 

強い中学生だって?その言葉に惹かれるようにヒカルは出前の後に付いていった。

裏にあるビルの地階の階段を出前は降りていった。

陰気で古びていて、人影の少なそうな場所だった。

ヒカルは少し気後れしながら、出前が開けたドアからそっと中を覗いた。

塔矢んとこの碁会所とはえらい違いだ。

やばそうな雰囲気だけど、席亭は優しそうなおじいさんといった感じがする。

中ほどに中学生がいた。それに気が付くと、ヒカルはずずっと入っていった。

 

「見るだけなら座ってみてていいよ。」

席亭がヒカルに声をかけてくれた。

ヒカルは頷きながら、中学生の打っている碁盤を見つめた。

もう終局だな。おじさんの方が勝ってるのかな?よく分かんねえや。

 

「あれ、わしの方がいいと思ったのに、負けか。」

中学生の相手の男は腑に落ちなさそうに言った。

ヒカルもちょっと首をかしげた。

整地も目算もまだ駄目なヒカルだったが、何となく違和感を感じたのだ。

 

だが、すぐそんな違和感を吹き飛ばすことが起きた。

負けた男が中学生に千円札を渡したのだ。

千円??お金??

「坊主、とりあえず、もう一局だ。今度は取り返すぞ。」

「今日は終わり。部活って言ってるんだ。帰んなきゃ。」

中学生は、そう言うとヒカルの方など見向きもせず、そのまま帰っていった。

 

負けた男はいらいらした風で、ヒカルに言った。

「お前もやるか。番碁でも目碁でもいいぞ。」

ヒカルには何のことかちんぷんかんぷんだった。黙って首を横に振った。

男はブツブツと呟いた。

「それにしてもあいつ、ここんとこ、結構稼いでるな。急に強くなったとも思えないのに。」

それを聞いた席亭が急に慌てたように言葉を挟んだ。

「いやいや、三谷君は本当に強い子だよ。」

 

三谷だって。やっぱりあいつ、三谷なんだ。

 

ヒカルはその碁会所を出て、ほっとした。

何か息苦しいところだった。それにしても千円。

金のやり取りがヒカルの頭には、こびりついていた。

何度も勝ってるのかあいつ。とするとどのくらい儲けてるんだろ。

 

ヒカルは、ぼんやりと駅前に向かって歩いていった。立ち止まりビルを見上げた。

塔矢の碁会所。 碁会所か。そうだ、他の碁会所は?

「500円ないな。番碁だか目碁で千円稼げたら楽だな…ってオレは負けるかもな。」

そう呟きながらヒカルはドアを開けた。

「あら、いらっしゃい。確かええと君は…」

「進藤。」

「そうそう、進藤ヒカル君だったわね。きょうは打つ?」

「ううん。あのさ。打たないからさ。観察するだけだから。」

「ふーん。今日は見学ではなくて、観察なのね。」

市川は笑った。

「まあいいわ。今は少しすいてるし、ゆっくり観察していっていいわよ。」

 

ヒカルは 辺りを見回した。

碁会所って今まで見てなかったけど、金賭けるところなのかなあ。

しかし、ここでは、いくら観察しても金をやり取りしてる所は見つからなかった。

 

俺も祖父ちゃんに勝ったら千円とかって、言ってるけどさ。負けたからって祖父ちゃんに千円払わねえところが違うんだよな。

 

ヒカルはすぐに観察に飽きて、 奥の方の空いてる席に座った。

それから賭け碁とは別のことを考えた。

初めてここに来た時はあの子ども名人と塔矢アキラの対局を見たんだった。

その次は俺はここで確か佐為と導師さんの対局を並べたんだ。

何かもやもやしたまま、それを忘れるようにヒカルはその一局をもう一度並べた。

そういや、佐為と導師さんに初めて見せたのは、別の対局だったよな。

ヒカルは二人の2度目の対局を並べてみた。

 

ああ、でも、やっぱ何かすっきりしないや。

受付のお姉さんに賭けの話はしにくいし。ここにいる誰かに聞ける?

駄目だよな。どの人も真面目そうで聞きにくいぜ。

 

その時、ドアが開いて、アキラが入ってきた。

 

「こんにちは。」

そう言いながら、アキラは自分の指定席に人が座っているのを少し困惑して見た。

「あら、アキラ君。進藤君なら大丈夫よ。今日は観察だから。」

「観察?」

「そう観察よ。」

 

アキラが傍にいくと、ヒカルは立ち上がった。

「俺もう行くから。」

アキラは碁盤を見た。

まただ。

「これ君が置いたの?」

「うん。」

ヒカルはさらさらと、碁石をどけて、ささっと、初めから並べなおしてみせた。

そうしながら、急に思いついた。そして突然決めた。

よしっ。こいつに聞こう。こいつしかいない。

 

ヒカルは立ち上がると、アキラの腕を掴んだ。

「ちょっと聞きたい事があるんだ。ここじゃまずいから。」

ヒカルはそのまま、アキラを強引に引っ張って、廊下に出てエレベーターの前にいった。

「君は一体何なんだ。」

アキラの抗議に耳を貸さず、ヒカルは聞いた。

「教えてくれ。ここの碁会所じゃあ、賭け碁をする時、どうやってるんだ?」

いきなりの突拍子もない質問にアキラはあっけにとられた。それから言った。

「誰かが賭け碁をしてたの?ここで?」

「いや。ここじゃ見てない。だから知りたかったんだ。お前もやるのか。お前強そうだからな。いくらくらい儲けた ?」

アキラはそれには答えなかった。ヒカルをにらむように見た。

「君は賭け碁をするために碁をやるのか?」

「いや、そうじゃなくてさ。」

「僕はプロになるんだ。プロは賭け碁なんかしない。」

「じゃあ。賞金を稼ぐの?」

 

アキラは少しこめかみをぴくぴくさせた。やっと冷静さを取り戻して言った。

「さっきから君は何を言ってるんだ。いきなり僕をここにひっぱてきて。何を言うのかと思えば、賭け碁がどうとか、 賞金がどうとか。

君は初めてで知らないのだろうけど言っておく。プロは賭け碁なんてしたら即追放だ。 君がプロになることはないだろうけど、覚えておくと良いよ。そんなことはしちゃいけないんだ。

それからプロ棋士というのは。」

アキラは呼吸を整えて言った。

「棋士というのは生活するためになるなんてものとは違うんだ。囲碁の崇高さ奥深さを追及するものなんだ。

棋士の高みをしらない君に言ってもしょうがないだろうけれどね。

お金のためじゃない。みんな必死で頑張ってるんだ。

確かにタイトル戦には高額の賞金は付くよ。でも賞金のためにタイトルを取るんじゃないよ。

賞金は単に名誉の証だよ。そのタイトルだって簡単には手にできない。

みんな血を吐く思いで日々研鑽を積んでいるんだ。

忍耐努力辛酸苦渋。それでも、それを乗り越えても高みに届くとは言い切れない。

僕だって…、僕だって。小さい頃から毎日毎日何時間もだ。どんなに苦しくても打ってきたんだ。

高みに届くために。神の一手を極めるために。それを…。

それを、君みたいに碁を汚すようなことばかり言う人間と。

これ以上話をするつもりはないよ。僕は。

多分まだ賭け碁をするような人も場所もあるのかもしれないけれど。父のこの碁会所ではそれはない。父の名誉を汚すような行為だ。」

 

そう言い放つと、アキラは腹立たしそうに碁サロンの中に消えた。

「はっ。すげえ。怒らしたか。」

ヒカルは帰る道々考えていた。

「ようするにあそこはやっぱり胡散臭い碁会所ってわけか。でもって中学生だろ。三谷ってそう とうやばくねえか。」

ヒカルの頭には千円札を掴む三谷の手が浮かんできた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

久方16

『久方』11~20
ヒカルが筒井さんと囲碁部を立ち上げ、佐為がヒカルの時代にタイムトリップするまで
(主な登場人物(佐為、ヒカル、導師、加賀、筒井、平八、白川、塔矢アキラ、塔矢行洋、緒方、芦原、三谷、ダケ、席亭)


「囲碁部はどうですか。」

佐為は導師に話すような丁寧な口調でヒカルに問いかけた。

ヒカルも中学生になったのだからそうしようと、そう思ったのだ。

「うん。今日はいっぱい話があるんだ。どれから話していいか分からないけれど 、順番にかな。」

 

ヒカルはポスターの詰碁を解いた三谷の話を始めた。

佐為はヒカルが盤上に置いた詰碁を見やって言った。

「この詰碁、そうですね、初心者には少々難しい。それを簡単に解いたのなら、少しは腕に覚えがあるのでしょう。それでその子は囲碁部に入ったのですか。」

 

ヒカルは、首を横に振りながら、ビルの地下にある碁会所で見たことを話した。

佐為が賭け碁をどう思うか分からなかったが、少なくとも塔矢アキラほど、騒ぐとは思えなかった。

佐為はその話を聞いても特に驚いた風もなかった。

「席亭が認めるくらい強い子なら、是非囲碁部にほしい人材ですね。ヒカルには。」

 

ヒカルはちょっとため息をつきながら、話した。

「そうなんだけど。今度学校であったら頼んでみるよ。囲碁部に入るように。だけど俺さ。なんだかよく分からないけどすっきりしないんだ。」

「すっきりしないとは何が?」

「うん。」

ヒカルは覚えていた三谷の打っていた整地前の盤面を置いてみた。

「確かこうだと思うんだけどね。」

佐為はちらと見て言った。

「これは白の勝ちですね。」

 

「白の?でも整地したら、黒が2目勝ってたんだ。三谷の勝ち。」

「整地というのは実戦では案外難しいものですよ。初心者には、ですけどね。でも 賭け碁をするというのは初心者とは言い難いかも。しかし二人がどの程度強いのかはわからないし、整地や目算が苦手という 者もいる。単に間違えたのか、或いは、いかさまの場合もあるが。」

「いかさま?」

「不正を働いたということですよ。相手に気づかれないように石をずらすなどしてごまかすのです。ただ私はそれを見ていないし、たまたま整地を失敗した場合もあるから何とも言え ませんよ。」

 

そう言ってからヒカルに訊ねた。その時は丁寧な言葉遣いは失せていた。

「ところでその賭けた金額だが。千円とはどの程度の価値がある?」

ヒカルは困った。佐為が言うには平安のこの時代にもお金はあるらしいけれど、布や米で物々交換する のが一般的らしい。

米って今いくらなんだ? 米なんて俺買ったことないし。でもおにぎりだったら、10個は買えるかな。

 

佐為は言った。

「千円で白米の握り飯が10個買えるというのか。虎次郎の頃を考えれば…」

ヒカルと同い年の子どもにとっては相応の良い値段にも思える。

佐為は少し黙り考えをめぐらしていた。 もし不正を知ったら、席亭はどうするものだろうか。席亭が急にその三谷という子を庇うように喋ったのが気になる。仲間?いやそうとも思えぬ。

 

ヒカルは佐為に 聞いた。

「そうだ。佐為は賭け碁をしたことがある?」

「賭け碁を? もちろんだ。特にこの御世では賭というのはとても盛んだ。碁に限らないが。」

「そうなのか。虎次郎の時もそうだった?」

「当然に。だが、なぜそのようなことをヒカルは聞く?」

 

ヒカルはちょっと頭をかきながら言った。

「実はさ。今日はマジで参ったんだ。」

ヒカルはアキラの話をした。

 

「ほう。塔矢アキラのその碁会所では賭け碁はしないのか。なるほど。要するにヒカルの時代はプロは賭け碁はやってはいけないわけか。そしてプロがやっている碁会所でも同じくやらないものというわけだな。」

 

それから少し笑って言った。

「ヒカル、私は賭け碁が悪いとは思わぬ。それで糧を得るのも悪くはない。

でも塔矢アキラの言った言葉は私はとても好きだ。

棋士は高みを目指す。その気持は私と同じだ。

彼は幼い頃よりひたすら努力してきたのだろう。神の一手を極める。そのために。志の高い少年だ。 なかなかできないことだ。」

 

ヒカルはうんざりした口調で言った。

「そうかもしんないけど。でもさあ。あいつ、ヒステリックなんだぜ。ベラベラ、ベラベラ一人で喋りまくって。忍耐がどうとかクジュウがどうとか ってさ。」

 

佐為はくすくすと笑った。

「ヒカルが金の亡者に見えたのであろう。賞金がほしいだけの欲張りに。」

「俺、そんな欲張りじゃないぜ。本当にいきなり腹立てたんだ。塔矢の奴。」

ヒカルはぶすっと言った。

 

ヒカル。分かっている。そなたは言葉遣いや礼儀は、なってないが。それが摩擦を生む元だが。でも 真っ直ぐな怖いもの知らずの正義感に溢れた少年だ。塔矢アキラも同じく真っ直ぐな、そして向上心に富む少年なのだろう、だからぶつかるのだ。

それから言葉に出した。

「ヒカル。塔矢アキラの目指す囲碁の高み、神の一手。私もそれを目指しているのだ。

だからこそ、石の力を借りて、優れた碁打を捜し求めている。心ときめく対局をするために。

その気持のゆえに、ヒカルとめぐり合い、こうして話をすることができる。」

 

佐為のその言葉は、ヒカルの心に響いた。

碁の高み、神の一手って、すごくいいもんなんだ。

それから急にヒカルは思い出した。

 

「ええっと…あるかな。」

 

ヒカルは隅に畳んで置いていたズボンのポケットを探り、紙切れを引っ張り出した。

「それは何か?」

「前にさ。佐為がいろいろ聞かれたけど、俺、答えられなかっただろ。だから調べて書いてきたんだぜ。」

そう言うとヒカルは紙切れを読み始めた。

「えーと、まず虎次郎が死んでから碁所がどうなったかっていう話だけど。

大政奉還がおこなわれて、幕府が消えてから、囲碁界は碁盤がなくなり…じゃなくてこれ碁って字じゃないよな。何て読む んだっけ。えーと…そうだ基盤かな…。それで、えーっと…」

佐為は少しため息をついて言った。

「ヒカル。それを見せてくれぬか。私が読むほうが早いであろう。この前の詰碁の本も読めた。 知らぬ字も少々あったが同じ日本語だ。それも読めぬことはあるまい。」

 

佐為はヒカルが手渡してくれた紙を見て困惑した。

「ヒカル。これはそなたが書いたのか?」

「うん。そうだぜ。大変だった。こんなに沢山書き写すの初めてでさ。」

「悪いがこれは私には読めぬ。字には見えぬのだ。」

「ちぇっ、何だよ。折角書いてきてやったのに。あっ、でも書いた俺も読めないけど…。漢字が多くてやんなっちゃったし。」

「沢山書いた努力は認めるが。ありがたいとおもうが。」

そう言うと佐為は急に立ち上がった。

「私は今、決めた。そなたに碁を教える前に手習いを覚えさせることにする。」

「手習い?」

「そうだ。字は人となりを表すものだ。書いた文字というのは心が宿るものだ。

手習いをすると、そなたの打つ碁にも反映するであろう。」

 

佐為は筆と紙を用意した。

「筆で書くの?」

「ヒカルの時代には筆がないのか?」

「ある。小学校でもやったよ。習字。でも俺飽きちゃうし、続かないし。」

佐為はあっさりと言った。

「飽きるほどやるのは無意味だ。紙は大切なものだ。紙に書いたらそれはもう消せない。紙を無駄にせぬように 一文字一文字を集中して書くのだ。ヒカルは碁を打つ時にはすばらしく集中するではないか。 碁石も置いたら動かすことはできない。碁と同じだ。」

 

佐為はそう言うと、すらすらと手本を書いた。その筆跡は鮮やかだった。

ヒカルは今までそうやって筆を操り書を嗜む様子を見たことがなかったので、ぼうっとそれに見とれた。

すげえや、佐為って。

しばらくヒカルは佐為に教えられて習字に没頭した。

こうやってみると結構面白いもんだな。字を書くって。

 

筆と墨を片付けると、お茶を飲みながら佐為は言った。

「ヒカル。江戸では棋士は尊敬の対象だ。名人碁所になるには、棋力だけでなく人格も試される。

それでも賭けて楽しむこともある。賭けること自体は人格を否定するものでは全くない。

要するに碁を楽しむために賭けるのはいいと思う。しかし、糧を得ることが目的になるのは気に入らぬということだ。それでは碁が単なる道具にされてしまう。それでは何のために碁を打つ のか。碁でなくてもなんでもいい、金が手に入ればいいということになるではないか。」

 

そう言ってから、佐為はいたずらっぽい顔をして声を低めた。

「私も賭ける。実はこの間も導師と賭けをしたのだ。」

「導師さんと?何を賭けたの?」

佐為は澄まして言った。

「ヒカル。そなただ。」

「俺?」

 

「そう、私がそなたが中学に通っている間に導師に勝てるまでに導けるかを賭けた。もちろん三子置きでだが。」

「導師さんに三子置き?佐為じゃなくて?」

佐為はむっとして言った。

「当たり前ではないか!ヒカルが、私に勝てるなどと思うだけでもおこがましいとは思わぬか。

導師は素晴らしい打ち手だ。だからまずは三子置きで導師に勝てるよう努力するのだ。」

「導師さんはどう言ったの?」

「そう、導師はそなたに甘い。ヒカルが力をつけるのは嬉しいがのんびり碁を楽しませたい。急がせたくないと言っていた。

しかし、私は自分が決めたこの賭けに勝とうと思う。導師も本当は楽しみにしている筈。そなたと打ち合う時を。 だから私はそなたを思いっきり厳しく指導する。 」

 

ヒカルは即座に答えた。

「望むところさ。」

ヒカルと佐為は頷き合い、お茶を置き、碁盤に向き合った。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

久方17

『久方』11~20
ヒカルが筒井さんと囲碁部を立ち上げ、佐為がヒカルの時代にタイムトリップするまで
(主な登場人物(佐為、ヒカル、導師、加賀、筒井、平八、白川、塔矢アキラ、塔矢行洋、緒方、芦原、三谷、ダケ、席亭)


ヒカルに手を引っ張られてサロンを出て行ったと思ったら、すぐにアキラだけが戻ってきたのを、市川は訝しそうに見た。

「進藤君はどうしたの?」

「ええ、用があるって帰りました。」

アキラは、さりげなさそうに答えたが、それほど上手くいかなかった。

アキラは、腹を立てていた。

僕が怒っているのは、彼が碁をいやしめたからだ。賭け碁がどうとか、賞金がどうとか…、そのことが腹立たしいのだ。

そう思おうとしたが、実のところ、それ以外のことも要因だと分かっていた。

 

アキラの指定席には、ヒカルが置いてみせた佐為と導師の棋譜が残されていた。

それが腹立たしかった。

イライラさせられるんだ。進藤ヒカル。彼には。何がって…。そう、それがよく分からない。

アキラは石を片付け、窓の方を見ながらふっとため息をついた。

 

市川はお茶を入れながらそっとアキラの様子を伺った。

進藤君て、年も同じだし、屈託なさそうな子だから、結構良い友だちになれそうなのに。

アキラ君にはやっぱり棋力が合わないと、友だちは無理なのかしら。残念ね。

 

 

翌日、塔矢行洋の家の座敷では週1回の研究会が開かれていた。

弟子のひとりの笹木が言った。

「アキラ君。中学生活はどう?まだ始まったばかりだけど。」

「どうやら慣れました。」

アキラは優等生風に答えた。

「秋にはプロ試験があるし、来年からはプロ棋士だし、アキラ君がゆっくり中学生活を楽しめるのは今しかないでしょう。」芦原が言った。

「おいおい、試験に受かってもないのに。まあ、アキラ君のことだから失敗はないと思うけどね。」

笹木はそう言った。

緒方はその会話には加わらなかった。

「先生が戻られるまで、一局打つか。」

 

「アキラ、俺と打ってくれる。」

芦原がすかさず、そう言った。

「お願いします。」

そうして始まった碁だけれど、芦原は間もなく頭をかいて、言った。

「アキラ。ちょっとさあ。力が入り過ぎてないかい。」

「芦原、もう負けたのか?」

緒方が聞いた。

「ああ、えっと、何かその、いつもの調子が出なくって、完敗です。」

笹木が言った。

「いつものことじゃないか。芦原は3回に1回はアキラ君に負けてるからな。」

 

その時、行洋が入ってきた。

「どうしたのかね。」

「芦原がアキラ君にやられたんですよ。また。」

行洋はちらと碁盤を見たが特に何も言わなかった。

 

「何か今日のアキラ君は攻めて攻めて攻めまくる碁で、いつものことを考えてたら調子がくるってしまって。やっぱり、プロ試験を目指してるから力が入ってるんですね。」

「芦原。そんなこと言っていていいのか。若獅子戦が近いのに。」

「ああ、それは頑張りますよ。なんて言ったって今年は最後だし。」

「最後?」

行洋が聞き返した。

 

「ええ、あれは二十歳までなんです。僕は今年二十歳なんで、どうしても決勝まで行きたいですよ。」

「おいおい、決勝までって。消極的だな。優勝って言わないのか。」

笹木が呆れたように言った。

「だって。無理ですよ。今年もあいつが出て来るし。くじ運を祈るしかないですね」

芦原は当たり前のように言った。

「くじ運?あいつとは誰だ?」

緒方が訊ねた。

「倉田ですよ。倉田。去年も優勝したし。」

「倉田君か。同い年なんだろ。しっかりしろよ。芦原。」

「倉田君は本当に注目の成長株ですね。」

 

弟子達のやり取りを聞きながら、行洋は一言、言った。

「検討に入ろう。」

行洋のその言葉ですぐに対局の検討が始まった。

 

アキラはそれをじっと見つめ、熱心に聞いている風に見えたが、心は別の所をさまよっていた。

あの古めかしい棋譜は誰のだろう。相手は三子置だった。指導碁なんだ。秀策の碁に似ているけど。秀策の棋譜?でもあの進藤が 、そんな棋譜の勉強をしているとはとても思えない。

とにかくあの棋譜の二人は、どちらもなかなかの力量の持ち主で、老練な打ち手に思える。

前のも昨日のも同じ人の棋譜だろう。いったい誰なんだ? 相手は進藤じゃないことは確かだ。

でも、そもそも何で彼はあんな棋譜を並べるんだろう?それも僕に対して、わざわざ。

大体あれが暗譜できるのならもう少しましな碁を打ってもいいじゃないか。

 

アキラは、そこまで考えると、無性に腹が立ってきた。

僕はプロになるんだ。雑事にかまってる暇はないのに。それなのに…。

僕はあの程度の棋譜なら、いっぱい知ってる。彼は失礼だ。賭けるとか賞金がどうとか…。本当に失礼だよ。

それから、アキラは研究会に出席していることを思い出した。

 

今朝の碁も乱れていたが…。 身が入っていない息子を行洋は、ちらと見たが、何も言わなかった。

 

 

「あーあ。今日は本当に参りましたよ。」

緒方に車で送ってもらいながら芦原は言った。

「何が参ったんだ?」

「アキラ君ですよ。彼、ここんとこ少し様子がおかしくありませんか。中学で何かあったのかな。」

「アキラ君はそういうことで動じるような子じゃないだろう。それに彼は学校なんか眼中にない子だ。もし何かあるとすれば、碁のことしかないだろうな。碁会所かどこかで 何かあったんじゃないか。」

「ないですよ。たぶん。あったら市川さんが何か云う筈ですよ。やっぱ。プロ試験を受けることに決めたので、力はいってるんですよ。アキラ君は天才なんだから今からそんなに張り切らなくてもいいのに。」

 

緒方は、フンというような顔をした。

「プロ試験ねえ。力が入っている?俺には逆に思えるが。集中というか覇気がない気がするよ。」

それから兄弟子らしく芦原に言った。

「俺は、アキラ君が生まれた時から知ってる。彼は本当に天才だと思うか?芦原は天才というのはどういうものだと思っている?アキラ君が天才なら塔矢先生は何だと思 ってる?やっぱり天才か?」

「ええっ?そんな。緒方さん。難しいこと聞くんですね。塔矢先生は、うーん、天才なんて失礼な気も。何でしょう?最強棋士ですね。先生は。」

「俺はアキラ君は天才だと思っているよ。塔矢先生もな。質の違う天才さ。天才といって失礼があるかい。

芦原。天才というのはな、なんでも生まれつきというわけじゃない。作られるものなんだよ。

アキラ君は本当に生まれた頃から、最適な環境で最良の教育を受けてきたと思うよ。

最初から最高の打ち手とだけ打ってもらい、過去の優れた対局を勉強し、スキルを磨いてきた。

今やアキラ君の頭には、数多の優れた局面が蓄積されてるんだ。そして彼は多くの場合、自然とその局面に合わせた最良の手を思い浮かべられる ようになった。

努力の賜物だ。好きでなければ出来ないことだな。

ただ同じような環境で同じような教育を受けたらといって、皆同じかといえばそうとは言い切れん。プロになれる奴には 、素人とは決定的な違いがあると思う。どいつにもそれなりの素質があるものだ。

しかし、最強の囲碁棋士になろうとしたら素質だけでは無理だ。アキラ君の持っている能力は、 幼い頃から訓練して得た優れた棋譜の記憶の中から無意識に瞬時に最適なものを引き出せる能力だ。 俗に直感といわれている奴だ。

だがな。どうだ。塔矢先生は、アキラ君ほど幼い頃から碁を始めたわけではないが、長年の研鑽の先に、その経験 に培われて今がある。 現に今最強の棋士といわれている。

いいか、俺たちもまだ間に合うわけだ。芦原。見習うべきは先生だろ。先生を手本にするんだな。」

 

「そりゃそうですが、でもなあ、年月をかければいいってわけでもないでしょう。

倉田を見ると感じちゃいますよ。あいつは中学に入ってから、初めて碁を始めたって言うじゃないですか。俺は小学生の頃から院生でしたよ。で、中二で倉田が院生になった時にも院生だった。それで、中三で倉田がプロ試験に受かった時もまだ 俺は院生でしたよ。

倉田も確かに、そりゃあ、熱心に勉強してましたよ。でも俺だって必死でしたよ。

でも倉田を見ると何かもう…。」

 

緒方はやれやれという顔で芦原をチラッと見た。

「天才にはいくつかパターンがある。コツコツと碁を続けることによって作られる天才もあれば、碁ではない他のことをやっていて磨かれた能力がそのまま碁に当てはまる 奴もいるんだと思うね。倉田はおそらく碁ではない何かを熱心にやっていたんだと思う。それは 碁とは全くかけ離れた遊びかもしれないが。とにかくそれが碁の才能を伸ばすのにうってつけの何かだったんだろう。」

 

芦原はやっと頷いた。

「それにしても本当に碁の天才っているんでしょうかね。世にいう天才っていう奴ですよ。本当に何にもしてないけど碁を始めたらあっという間に伸びていく才能ですよ。」

「あると思うね。大人になってからでは、無理の気がするが。子どもなら可能性はあるよ。だから俺は子どもの碁が面白いと思う。まあ、そういうのは万に一つの才能の気がするが。育ててみたいよ、そういう奴が 、もしもいたらだが。」

「ええっ。育てるって?そんなのがいたら、将来、強力なライバルになるかもしれないんですよ。」

「芦原は馬鹿か。 俺は強力なライバルが欲しいね。そういうのがいればいるほど、やる気が出てくるってもんだろう?強い奴と 打たなきゃ、碁なんぞ面白くない。

それにな。どんな才能でも俺は怖くない。

天才が騒がれるのは子どもなのに、大人を思わせる打ちっぷりをするからだろう。

だが、そこまでだ。そこから先は互角の戦いとなる。そこから先が、我々プロの戦いなんだよ。努力と経験がものをいうわけだ。俺たちには手本がある。塔矢先生というな。がんばれよ。芦原。」

 

 

芦原と別れた後、緒方はつぶやいた。

「それでも努力だけでは埋められない元の才能というのは確かにあるんだ。 プロになる素質を持つ奴はそこそこいるだろうが、トッププロの素質は誰もが持てるわけではないよ。それは、 ほんの一握りの特権なのだ。芦原には無理だが、俺は確かにそれを持っている。塔矢行洋のようなやり方で力を伸ばすのは 可能だ。だから俺は彼の門下生になった。俺は最強になってみせる。 それももうすぐにな。そして塔矢アキラを迎え打ってやろう。」

 

青信号になった瀟洒な通りを緒方の車はスーッと走り去って行った。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

久方18

『久方』11~20
ヒカルが筒井さんと囲碁部を立ち上げ、佐為がヒカルの時代にタイムトリップするまで
(主な登場人物(佐為、ヒカル、導師、加賀、筒井、平八、白川、塔矢アキラ、塔矢行洋、緒方、芦原、三谷、ダケ、席亭)


「導師。一局如何ですか。」

「佐為。いやに機嫌がいいではないか。」

「ええ。ヒカルがいつにもまして、熱心になっているのです。 導師と三子置きというのはそれほど遠くない先に実現可能ですよ。

今ヒカルに必要なのは、上手の者と一手でもたくさん打つことです。機を逸してはなりませぬ。天賦の才も時機を逸しては無駄になります から。」

「やはりか。ヒカル殿には天賦の才があるのだな。」

佐為は軽く頷いた。

 

「経験上からですが、私は碁に強くなるには幾つか要素があると思っています。

まず素質が一つです。何といっても碁が好きであること、それが素質です。碁が好きであれば、自然と努力をします から、勉強を怠りませぬ。ヒカルにはそれがあります。

本当にあの年になるまで、なぜ碁が好きだということに気付かなかったのか。分かりませんが、何か定めがあるに違いがありません。そうとしか思えませぬ。ヒカルは本当に果てしない努力を恐れない。

ですが素質では、素質だけでは普通に優れた碁打ちになるだけです。

ヒカルにはそれ以外に持って生まれた閃きがある。石の並びを覚えてしまうのは、単に記憶がいいのではないと思います。普通は何度も打ち合ううちに、同じ形が何度も出てくることに理解がいくのです。それで棋譜が頭に入る。

ヒカルの場合は、最初からそれぞれの局面を彼なりに理解して形として覚えてしまえるのだと思います。 形として石の並びを即座に掴める。それこそが天賦の才と申すもの。

ですが、その覚えた石の並びを生かす技術を磨かねば何にもなりません。

それに碁には計算力も必要です。いずれ、ヒカルにはそういう力もつけさせねばなりませぬが。そうでなければせっかく良い局面まで行っても その後、勝てませぬから。

しかし当面はヒカルの持って生まれた才能を磨きたい。私の知る限り、万に一つの才に思えるのです。」

 

「虎次郎は違うのか?」

「虎次郎も天才ですよ。素質はもちろんです。彼は幼い頃から父親や知り合いなど、よき打ち手に囲まれ、碁の才を磨き 、努力し続け、天才を得たのです。

私と出会った時には局面を瞬時に解する力を身につけていました。でもそれはヒカルのように持って生まれたというのとは 少し違う気がします。

しかしどちらにしても天才は一度花開いたなら、あとは同じです。出発点が違っても、その先は同じなのです。みな、その先は同じに努力をせねばなりませぬ。

ヒカルはその努力を何とも思わずにやってのけてます。

だから私はヒカルに私の持てるすべてを与えたい。計算力も経験も何もかもが必要なものです。」

 

今日は佐為はやけに力が入っているな。ヒカル殿にここまで入れ込んでいるとは、だがなかなかに良い傾向だ。

そう思いながら導師は訊ねた。

「ところで、ヒカル殿は、まだ邸の外には出ておらぬのか。」

「はい。まだ。ヒカルは今は碁を打つことが一番で、外に出ることにお互い頭が回りませぬ。

それに導師が心配されているように、ヒカルは目立つかもしれませぬ。

それでも藤の花が見頃になったら、宇治の方へ連れてまいりたいと思います。馬で。

ヒカルは馬に乗ったことがないとのこと。少し仕込んでやりましょう。体を動かすのが好きで学校では体育と申すものが得意とか。蹴鞠など楽にこなせそうですよ。馬もすぐに乗りこなせることでしょう。」

「佐為は蹴鞠が苦手であるな。」

佐為は顔をしかめた。

「あれは風雅ではありませぬ。汗をかきますし、貴族のやることとはとても思えませぬ。」

 

「ははは。だが、内大臣の嫡男は蹴鞠の名手で、帝のお覚えもいいそうではないか。」

「ええ、確かに。何度か目にする機会がございましたが、見ていて惚れ惚れするほどの腕前ですよ。でも私はやりたいとは思 いませぬ。それに彼は碁はからきし駄目ですよ。歌はまあまあですが。」

「ははは。碁はからきしとな。帝はいかがか。」

 

「素晴らしい腕ですよ。飲み込みは早いし、ご熱心です。」

 

「そうであろう。幼い頃、わしが手ほどきをして差し上げたからな。あの頃はまだ東宮に指名されていなかった。佐為にも同じ頃出会ったが。才能というのは面白きものよ。本当に。」

「帝は優れたお方です。この御世で最高の教養人のおひとりでいらっしゃる。 囲碁のお相手をつかまつって光栄に感じておりますよ。」

 

「ならば結構。大陸におった時、話を聞いたことがある。2代ほど前の皇帝は囲碁がお好きで、多くの名人を呼び寄せては碁を打っていたという。その相手をしたという老名手に会ったことがある。 いかに気づかれぬように少しだけ皇帝を勝たせるかが苦労であったと。」

 

「帝は手加減をするとすぐ気づかれますから。置石で加減をしますが、手加減など致しません。今や帝は導師と同じほどの腕前でございましょう。」

「ほう?そこまでに力を伸ばされたか。」

 

間もなく、導師と佐為は一局を打ち終えた。

少し間があった。

 

佐為はふと感じたままを言った。

「ヒカルは、いい子ですが。真っ直ぐ過ぎで少し心配なこともあります。覚えておいでですか。初めてここに参りました時に、私と言い争いになった。あの時、後先を考えずに行動いたしましたが。」

「ふむ。分かるぞ。あの時、確か元の時代に戻れるかどうかなど気にせず、大胆な振る舞いをしていたものだ。 私はそれが気に入ったものだったが。ヒカル殿の美質の一つと思うたものだったが。

それに結局ヒカル殿はなんなく元の世界に戻れた。つくづくヒカル殿は強運の持ち主に違いないと思うたものよ。」

「強運?そうは思えませぬ。むしろ、そうみえることが何となく心配で。」

「何を?この御世にいないのに何の心配がある。ヒカル殿の世界はここより安全と聞くぞ。」

「そういうことではございませぬ。ヒカルがまっすぐ過ぎてとんでもないことに巻き込まれるのではないかと…。 それが心配の種です。」

「何か訳でもあるのか。」

「ええ。ヒカルの世は、刀を持ち歩く輩も死に至る流行病も少ないようですが。それでも人間の営みには、たいした変わりはありませぬ。 虎次郎の時代もこの御世も、そしてヒカルの時代も。

都の西の外れの賭場をご存じでしょうか。」

「おお。 知っておる。一度あの賭場を取り仕切っているじいさんの病を治してやったことがあってな、わしには決して危害を加えぬよ。」

「それは、また。導師なればこそ。普通の者があそこに近づくのは危険です。碁が打てれば打てるで、武器で命を狙われかねませぬ。碁が弱ければ良いカモとなりま しょう。」

「それとヒカル殿が何か?あの賭場に出入りしたがるのか。」

「いいえ、とんでもない。 ただ急に思い至ったのです。ヒカルの話したことを思い出して。もしかして、同じように危ない場所があちらにも 、ヒカルの時代にもあるのではないかと。

これは私の直感です。命を狙われるほど危ういことはないでしょうが、それでも何か感じるのです。

ヒカルの正義感が爆発するような気がして。

私はこの頃、ヒカルの血が騒ぐのが感じられるのです。何というか、ヒカルと繋がっているような。

こうやって。この赤い石にヒカルの血が通うような感じです。」

佐為はそう言って耳につけている石に手を触れた。

 

ヒカル殿と佐為はそこまで心を通い合わせているのか…。

導師は目を少ししばたかせた。

才能が引きつけあうという以外にヒカル殿と佐為には何か縁があるに違いない。

 

佐為の石は赤く光っていた。それは佐為の体を流れる血とヒカルの体を駆け巡る血が同じ感情を抱き、たぎっている印のように 導師には思えた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

久方19

『久方』11~20
ヒカルが筒井さんと囲碁部を立ち上げ、佐為がヒカルの時代にタイムトリップするまで
(主な登場人物(佐為、ヒカル、導師、加賀、筒井、平八、白川、塔矢アキラ、塔矢行洋、緒方、芦原、三谷、ダケ、席亭)


昼過ぎだった。ヒカルは、ラーメン屋の裏の碁会所に下りる階段の上で、ためらっていた。

 

今日は土曜日だけど、三谷いるかな?

佐為は、はっきり言わなかったけど、三谷がイカサマしたと思ったんだ。俺、確かめてみる。

それでもし…。いや、俺が見ても分かるんだろうか。イカサマの手口なんて。

もし分かったからといって、俺に何ができるんだろう。うっかり大騒ぎにしたら、学校にばれちゃうんじゃないか。 やめよう。やっぱり、月曜日に学校で三谷と話そう。

そう思って、階段の傍を離れてかけた時、三谷が来るのが見えた。

 

ヒカルはドキンとした。すれ違いざま、三谷はヒカルをじろっと見た。

「お前。昨日来た奴だな。」

「ああ、同じ中学だよな。三組の三谷だろ。」

「俺に何かようか。」

「あのさあ、俺、囲碁部なんだよ。だからさ…俺、三谷に…」

「だからなんだってんだ。うぜえよ。俺はお前なんかに用はないぜ。」

冷たく言い残してドアの中に消えた三谷の姿を見送ったまま、ヒカルはしばらくぼうっと突っ立っていた。 そうしながら相変わらず頭の中でぐずぐず考えていた。

行くぞ。いや、でも、もし、何かあったら、どうするんだ。どうしよう…。

ヒカルはだんだん考えるのが面倒くさくなった。それで考えるのをやめた。

ええい、なんとかなるさ。 その時はその時だ。俺は決めたぞ。どうなろうと何が起きても、俺は俺の気持通りのことをやるぞ。

 

呼吸を整えると、ヒカルは階段を下り、そっとドアを開いた。

カウンターの後ろで、新聞を読んでいる席亭がみえた。それから真ん中のテーブルに品のない男が一人、三谷と向かい合ってい るのが目に入った。他には誰もいなかった。

 

ヒカルは思った。

今日は、これだけなんだ。何か起きてもなんとかなりそうだな。

 

三谷の相手をしていた男がヒカルを見て言った。

「ありゃ、また子どもかい。まさか、また万札をかけてくるんじゃねえだろうな。」

「ま、まんさつ?!」

ヒカルは驚いて声を上げた。やばいよ。

席亭が顔を上げてヒカルに言った。

「昨日の子だね。打つかい。」

「ううん。見るだけ。」

ヒカルは首を振りながら言った。

 

三谷の相手をしていた男は覚束ない手つきで石を置いていた。置く場所も的外れだった。

その男が石を置きながらヒカルに言った。

「友だちかい。だったら、友達なら、このあんちゃんに一言、言ってくれないかい。」

ヒカルは、きょとんと男を見た。

「まったく、このあんちゃんは手加減を知らねえんだよ。ちったぁ、年寄りはいたわるもんだってよ。 言ってやってくれよ。」

 

三谷は男を無視し、冷たくヒカルに言った。

「何を見に来たんだよ。お前。」

何って…。その言葉にヒカルは急に熱が冷めた。

俺何やってんだ。この対局は三谷が勝ってるし、相手はあまり、いい手を打ってこないし、今日は大丈夫だ。単に賭け碁なだけかも知れない。 一万円は高すぎるけどさ。

ヒカルは気を抜いた。そして、心の中で佐為に言った。

大丈夫だぜ。佐為。何も悪いことは起きないよな。イカサマもないよ。

ヒカルの耳には“そうですね”と佐為の声が聞こえた気がした。

 

三谷は余裕の態度で男に言った。

「あんた。こんな腕でよく万札かけるな。見栄はりでいいかっこしいのおっさんって多いんだよな。」男は卑屈に笑った。

「あんちゃん、勝ったと思ってるね。でもよ。勝負は下駄を履くまでわからねえって言葉、知ってるかい。最後まで 笑っちゃいけねえ。勝負ってもんはよ。そう思うだろ。あんちゃんは経験豊富そうだしな。分かってるよな。」

三谷は落ち着き払って答えた。

「おっさんもいいこと言うんだね。」

「へえ、あんちゃん。人の話を聞く耳持ってるな。将来見込みあるぜ。」

 

男はそう言うと、ライターを取り出し、タバコに火をつけた。 タバコを右手に持ち替えると、左手で石を置いた。鮮やかな慣れた手つきだった。

三谷がぎろっとそれに目をやり言った。

「おっさん、本当は左利きか?」

男はニタっとした。

 

「へえ。観察力も鋭いな。たいしたもんだ。じゃあ、ついでにいいだろ。ちょっと早いが勉強させてやろうかね。大人の碁って奴を。一万円の授業料でな。」

男の目つきが変わった。濁った凄みのある目だった。ヒカルは身震いした。

「あんちゃんはさ。こんなヘボ碁を打った後じゃ、何をやっても追いつくはずがねえと思ってるだろ。ところがどっこい。 俺にかかれば。」

男は三谷が打ったすぐ後に、間髪入れず、急所に打ってきた。

 

“おい。これどうなったんだよ。何だよ。コイツ。騙してたのかよ。佐為、ひどくない。”

“ひどいですよ、最低です。”

“そうだよな。”

そう心の中で佐為と勝手に会話をしてから、ヒカルは佐為に伝えなければと必死に目を凝らして盤面を追った。

 

「勝負はこれからだぜ。」そう男は言った。

5目、10目、15目…

いくらなんでも、もう三谷は勝てないよ。こいつには。レベルが違いすぎるよ。

 

ヒカルがそう思った時、男の指があからさまな手つきで石をずらした。

もう男の勝利が確定しているにもかかわらずだった。それは、わざと三谷に見せつけるためのようだった。

 

“石をずらしたよ。 ねえ、佐為、俺見えたよ。石ずらしたのが。”

男はからかうように三谷に言った。

「ホラホラ、どんどん形勢が傾いていくぜ。何とかしないと、整地でいじりでもしなきゃ勝てないぜ。」

 

男は、にやりと笑った。獲物をしとめて、いたぶるのを楽しんでいる目つきだった。

ヒカルはそれに猛烈に反感を覚えた。

“我慢できないよ。こいつ。”

“ええ、吐き気がしますね。全く。”

 

「さて、どちらが勝ったか分かるか。」

三谷にそう言うと男は金を催促するように手のひらを差し出した。

「コミを入れて12目半の差。あんちゃん、さあ、一万円だしな。」

 

三谷は黙って立ち上がり、ポケットから、ありったけの金を、千円札やら、百円玉やらを取り出した。

男はそれを数えて言った。

「20円足りねえぜ。」

ヒカルは思わず、にじりよって言った。

「三谷。俺が貸すよ。」

ヒカルがそういうのを無視し、三谷は席亭に言った。

「おじさん、20円、貸してくれる。」

席亭が頷いてレジをあける間に、相手の男が言った。

「あんちゃん、どうだい。分かったかい。おいたが過ぎるとな、こうやって俺みたいのが呼ばれるんだよ。 ははは。」

三谷はえっという顔をして、席亭を見た。席亭はうろたえて下を向いた。

 

席亭が仕組んだのか?三谷は今日起きたことの全てを察し、自分が席亭を裏切ってきたことを忘れ、唇をかんだ。

それから、やっと声を絞り出し、ヒカルに頼んだ。

「に、20円貸してくれないか。」

ヒカルの差し出した20円をテーブルに投げ出すと、三谷はものも言わず、誰にも目を向けず、碁会所を出て行った。

 

ヒカルは、全てを拒否するようなその三谷の後姿から、三谷が受けた傷の大きさを感じた。

三谷って、もしかしてもう碁を打たなくなる?俺よりずっと強いのに?

ヒカルの中で何かがうずいた。

“佐為。こいつを思いっきり打ちのめしたい。俺じゃ力不足なのは分かってるさ。でも例え負けても 何かしなければ気がすまないんだよ。佐為。俺間違ってるか。”

ヒカルには佐為が同意してくれていると思えた。

“いいよな。佐為。”

“ええ、打ちのめしてやりたい最低の男です。ヒカルの気持は私の気持ですよ。”

佐為がそう言ってくれるように思えた。

 

ヒカルは真っ直ぐ男の傍に行った。

 

「今の、ひどくないか。俺、あいつの友だちなんだ。何であんな最低のことしたんだ。おじさんは。」

「最低?何のことだ。強い者が勝つんだよ。お前も打つか。あんちゃん。お勉強代として万札かけるなら打ってや ってもいいぜ。」

席亭が不機嫌そうに言った。

「ダケさん、子ども相手にもうおよしよ。坊やももう帰りな。みんな帰るんだ。今日はもうおしまいにするから。」

 

ヒカルはそれに答えず、黙って三谷が座っていた席に着いた。

男はニヤッとした。

「俺の腕は知ってるだろう。」

ヒカルはキッと男を見た。

「おじさんは初めに油断させておいて。しかも勝ってるのに、さらに石をずらしたろ。最低だ。強いんじゃないよ。 強い奴はそんなことはしない。真っ直ぐやったら、勝てないんだ。だからだ。」

 

男は呆れたように言った。

「おお、このあんちゃんは、怖いもの知らずだな。俺を挑発するってのかい。この俺を。いいだろう。あんちゃんにも たっぷりお灸をすえてやろう。ホラ、勝てたらこの一万円をやるよ。置石は幾つがいいかね。」

 

男はポケットから1万円を取り出しひらひらさせ、それを碁笥の傍に置いた。

ヒカルは頭に血が上っていた。

「金なんか惜しくない。置石なんか、いらない。お前みたいな卑怯な奴に誰が置石なんておくかっ。」

「ああ、ったく最近の子は。私はもう知らないよ。」

席亭はイライラしたように言うと、テレビの方へ向いた。

 

ヒカルは目を閉じて祈った。

“佐為…。力を貸してよ。お願いだ。”

男は黒を持ち、星に打ってきた。

“どうする、佐為。”

“右下スミ小目。”

ヒカルには佐為の声が聞こえる気がした。ヒカルは頷いた。

“俺には佐為がついているんだ。絶対こいつを打ちのめす。”

“ヒカル、このようなやからは心胆寒からしめてやります。あっというまに方をつけましょう。中押しです。行きますよ。”

“うん、佐為。”

ヒカルは心に響く佐為の声に従って、ただ石を置くだけだった。

 

あっという間だった。形勢はすぐにヒカルに傾いた。それは動かし難い事実だった。

男は呆然とし、余裕をなくし、 次に身をすくませた。男はどうにもならない自分の負けを悟り、固まったままだった。

 

よし、ヒカルは頷きながら集中を解いた。その瞬間、なにやら自分の右側に気配を感じた。

顔をあげ、目を凝らすと、そこにぼんやりと佐為の姿が浮かんできた。

佐為は厳しい表情のまま言った。

「さあ、ヒカル。お金を取り返したら、ここに用はありません。すぐに出ましょう。」

佐為の姿は見る見るはっきりした姿となった。佐為は、碁会所のドアノブに手をかけ、階段に向かっていった。

 

ヒカルは、驚きで一瞬、動けなかった。それから我に返り、お金を掴み慌てて佐為の後を追った。

しかし階段にはもう佐為の姿は無かった。急いで上がった通りにも佐為はいなかった。どこにも見当たらなかった。

慌てて碁会所に戻りドアを開けて確かめた。対戦相手の男は、まだ固まったまま、じっと座って碁盤を見つめていた。 席亭はテレビの方を向いたままだった。

ヒカルはそっとドアを閉めた。その時、階段の途中に布の切れ端がぶら下がっているのを見つけた。

それを手にとるとヒカルは呟いた。

「佐為のだ。絶対に佐為のだ。」

狩衣の端が壁から飛び出ていた釘に引っかかり、裂けたのだ。

 

やっぱり、佐為はこっちの世界に来たんだ。

ヒカルは近辺を歩き回った。

いないなあ、帰ったのか?

佐為は俺だけに見えたんだろうか。あの姿を誰かに見つかって変に思われたんじゃないだろうか。迷子になったんじゃないか?

ヒカルは必死で近辺を歩き回って佐為の姿を探し求めた。

 

佐為を探すのを諦め、疲れきったヒカルが家に戻ると、母親は厳しい声で言った。

「ヒカル、どこに行ってたの?こんなに遅くまで。もう晩御飯の時間はとっくに過ぎてるわ。」

それから気が付いたように言った。

「あら、何?その布は?」

えっ。

ヒカルは手に握り締めていた布切れを見つめた。

お母さんに見えるんだ。この布。じゃあ、佐為は見られたに違いない。誰かに。佐為…。

 

ヒカルはぐるぐるとした。

俺がこれから平安に行ったら、佐為はいるのかな。もしかして平安に戻っていなかったらどうする。

あれは俺じゃない。佐為が打ったんだよな。あの時は声が聞こえた気がしたけど、 佐為が横にいたんだ。でも終わって俺が佐為に気がついた時は…でも俺だけに見えた筈…あの席亭のおじさんも、あいつも気が付かなかった。見えなかったんだ…。 でもお母さんにこの布が見えたってことは…。

 

ああ、わけ分からないよ。

「今はまずいや。晩飯が済んでからだ。」

 

ヒカルは初めて、時の旅の危険性を感じて、石を使うことにひるんだ。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

久方20

『久方』11~20
ヒカルが筒井さんと囲碁部を立ち上げ、佐為がヒカルの時代にタイムトリップするまで
(主な登場人物(佐為、ヒカル、導師、加賀、筒井、平八、白川、塔矢アキラ、塔矢行洋、緒方、芦原、三谷、ダケ、席亭)


ヒカルは自分の部屋に戻ると、首にぶら下げている石を取り出した。石はいつもと変わりなく、赤く輝いていた。ヒカルは意を決したように頷いた。

平安でなくても、佐為のいる場所に、石のある場所に行く筈だ。ヒカルは祈った。

「佐為のところに連れて行け。」

 

 

石はいつものように働いた。一瞬後に、ヒカルは平安の佐為の邸にいた。そしてヒカルの目の前には、導師と佐為がいた。

ヒカルは、ほっとして嬉しそうな声を上げた。

「良かった。佐為。戻ってたんだ。心配したんだ。俺。とっても。」

 

だが、佐為はひどく不機嫌そうな声で言った。

「ヒカル。来るのが遅い。」

「ええっ。遅いって?」

「私は、そなたがすぐ追ってくると思っていた。何をぐずぐずしていたのだ。」

 

何をぐずぐずだってぇ。ヒカルは何かひどく腹が立ってきた。

「そんな。俺、探したんだ。あの辺りを残らず。佐為がうろうろしてないかと思って。もしかして誰かに見られて、とんでもないことになったんじゃないかと思ってさ。」

「私はそのような醜態はさらさぬ。すぐ戻った。そんなことも分からずヒカルは気が効かぬのだ。」

ヒカルは完全に頭にきた。

「何だよ。人がすっごく心配してやったのに。ぐずぐずだとか、気が効かぬとか。

大体なんであそこに現れたんだよ。佐為は。いきなりだぞ。俺に来たって言ってくれればいいんだ。一言。それに。」

ヒカルは頭に来るのと、ほっとするのとで、いっぱいだった。

「大体戻るなら一言、そういってくれればいいんだよ。そうすれば、俺だってあんなに探し回ることもなかったんだ。 何時間も佐為がいそうなところを探して歩いたんだ。お陰で、家に帰るのが遅くなって、お母さんには ひどく怒られるし、お父さんにまで叱られたんだぞ。 お父さんなんて一度も俺のこと怒ったことないんだぞ。いつだって佐為は俺に迷惑ばっかかけてんじゃないか。 」

 

ヒカルの言葉を聞いた佐為は導師の前であることも忘れ、いつの間にか喚いていた。

「私は、ヒカルのために行ったのに。ヒカルが心配だったから行ってやったのだ。それなのにヒカルは…。 ヒカルは迷惑だと?私がいつヒカルに迷惑をかけた? 迷惑などかけた覚えはない。

今回だって、私はまだヒカルの世界に行ける状態になかった。だからあんな中途半端なことに なったのだ。全く。

私は…私は、ただ。ただヒカルの一大事だから。…だから私は行っただけだ。お陰でそなたは賭けに勝ったではないか。」

 

ヒカルは言葉に詰まった。そうか、俺が呼んだんだ。佐為を。知らなかった。俺。佐為。

ヒカルは佐為に話しかけた。

「佐為。俺が呼んだせいなの?知らなかった。ごめん。あの、佐…」

その時だった。

足音がしていつもの従者が現れた。従者は言葉を発することなく頭を床にこすりつけた。佐為はそれを見て言った。

「導師、私は行かなければなりませぬ。迎えが来たようですから。」

佐為はヒカルを無視し、ぷいと横を向いたまま部屋を出て行った。

 

「あっ、佐為…」

ヒカルが慌てて追おうとすると、導師が押し留めた。

「ヒカル殿、夕刻前には佐為も戻ってくる。それまでには佐為の頭にのぼった血も少しは下がって落ち着いているであろう。」

 

導師はヒカルの落ち着かない様子を見て優しく言った。

「暇つぶしにわしと一局打ってくれまいか。わしはまだ一度もヒカル殿と対局したことがない。佐為が見ていない方がお互いのびのびと、ひどい手が打てそうだしの。」

「ひどい手ぇ?そんなの打たないよ。俺。」

導師は可笑しそうに笑った。

「佐為が言っていた賭けの話があるが、わしと三子置きでどうかな。」

 

導師とヒカルは思い切り打ち合った。

「ヒカル殿、ここはもう少し大局を見て、こちらに置くが良いのだが。こうすると、先が広がるのだよ。」

ひとしきり検討をした後、導師は言った。

 

「ヒカル殿は佐為が好きか?」

ヒカルは変な質問だと思ったが、答えた。

「当たり前だよ。好きだよ。」

導師は嬉しそうに言った。

「先ほどはヒカル殿が謝っていたのに、佐為は大人気なくて。」

「ううん。俺、佐為が戻ってきたら、ちゃんと謝るよ。佐為って確かにね、子どもみたいにすぐ拗ねるけどさ、でもいい奴、あっ、じゃなくて 、人だもん。それにさっきのは俺が悪かったんだよ。佐為は、ちゃんと俺が助けて欲しかった時にきてくれたんだもの。怒るのは当たり前だよな。」

導師は深く頷いた。

「ヒカル殿は正義感の塊のようで、正義感に火がつくと、怖いもの知らずで突っ走るところがあると。佐為はそう言っていた。わしもそう思う。

佐為はヒカル殿を血を分けた弟か何かのように大切に思っているのだ。

ヒカル殿の世界に行った時だがな、わしは傍に居った。

あの時、佐為はヒカル殿が心配だという話をしていた。確か、“ヒカルの血が騒ぐのが感じられる”とか何とか言っていた。石の赤色はお互いの血が通い合う印だと感じていたのだな。

そして、そう言った時、石が赤く輝き、佐為はそのまま、ヒカル殿のもとへ行ってしまった。

私には分かった。こちらの世界では、佐為は抜け殻であった。虎次郎殿の世界に向かった時と同様に。」

 

ヒカルは真剣に話を聞いていた。

「佐為はそちらの世界ではどうであったのか?佐為は中途半端だったといったが、虎次郎殿の時とはひどく様子が違うようだった。」

 

ヒカルは導師に詳しくその時の状況を話した。

「俺は気が付かなくて、俺が心で話しかけていた時、佐為はそれを聞いていて答えてくれてたんだね。あれは俺が考え出したんじゃなくて、本当に佐為が俺に話しかけていたんだね。

勝負が決まった時、俺は初めて何か気配を感じたんだ。そこを見たけど初めは何も見えなかった。だんだんとぼうっと幽霊のように佐為の姿が浮かんだんだ。でも俺にしか見えなくて、声も俺にしか聞こえなかったんだよ。でもお金を取り返したら、ここに用はないって佐為が言った時には、佐為の姿が急にはっきりしてきたんだ。それで自分で扉を開けて碁会所を出て行ったんだよ。俺が追いかけたけど、その時はもう佐為はいなかった。」

 

導師は驚いたように声を上げた。

「佐為は生身の体を持てたのか?時の旅で。ヒカル殿が今いるような姿で?」

それからしばらく考えていた。

「石の働きが変わったのかも知れぬ。やはり虎次郎殿とヒカル殿では全く別なことが起きているに違いない。ちゃんと今回起きたことを理解しておかねば、時の旅も危ういものとなるかも知れない。」

 

「実はさ。今回は、俺、すごく緊張したんだよ。もし平安に佐為が戻っていなかったら 俺はどこへ行くんだろうって。でも考えたんだ。どこに行こうとも、必ず佐為に会える。佐為が平安に戻っていなくても。だって、佐為は石を持ってるんだから、その石が導いてくれるんだからさ。だって 時の旅って、石のあるところに辿りつくものだろ。」

 

導師はそのヒカルの言葉に思わずほろりとなった。

ヒカル殿はそこまで佐為のことを信じきっていてくれるのか。

 

ヒカルは佐為の狩衣の切れ端を差し出した。

「この布。俺のお母さんに見えたんだ。佐為を捜し歩いて、碁会所の近くで見つけたんだ。釘が出てて引っかかったんだ。」

導師はそれを手にとった。

「なるほど。ヒカル殿の母上に見えたということは、佐為が生身を獲得したことを裏付けるものか。それにしてもヒカル殿は、本当に佐為のことを心配してくれたんだな。 歩き回って、そのような小さな布切れを探し出してくれるほど。」

 

それから導師は言った。

「ヒカル殿。戻ってきても、まだ佐為が拗ねていたとしても佐為を見捨てないで欲しい。」

「見捨てる?俺が佐為を?そんなこと絶対ないよ。」

 

「そうだ。ヒカル殿に見せたいものがある。」

導師はヒカルを促して、庭に降り、邸の裏手に回った。

木の床が張られたきれいな厩があり、2頭の馬がいた。

「ポニーだ。」

ヒカルは思わず小声で叫んだ。

「佐為はヒカル殿を連れて遠乗りをしたいようでな。こちらの小さいのはヒカル殿の馬だ。佐為は本当に嬉しいのだ。わしも嬉しいが。」

 

「ああ、早く佐為が戻ってこないかな。佐為に話したいことがいっぱいだよ。俺。」

ヒカルは馬をなぜながら、わくわくしたように言った

 

 

佐為は、大臣宅での指導碁を終えて、帰路についていたが、いろいろ頭を悩ましていた。

ヒカルは…あの時本当に後悔して謝っていたのに、私は無視してしまった。

ヒカルはきっと、そのことでまた腹を立てているのだろうな。もしかしたら、もう帰ってしまったかもしれない。

私はちゃんとした時の旅などまだできない。ヒカルの世界にはいけぬのに。

私は、少々、ほんの少しだが、子どもじみた態度をとってしまった。なぜだろう。

ヒカルといると、私は聞き分けのない子どもの状態になる。ヒカルと同じ程度のそれに引きずり込まれてしまう。それは本来の私ではないのに。全く。 私は落ち着きのある雅な大人なのに。

ああ、しかも今回はその姿を導師が見ていた。本当にばつが悪いことだ。

 

足取り重く、佐為が邸の門をくぐった時、ヒカルが飛び出してきた。

ヒカルは佐為に抱きついた。

「佐為、待ってたよ。お帰り。それに、ごめん。それから、それから…。」

ヒカルはちょっと一息して言った。

「ありがとう。俺、嬉しいんだ。佐為が俺のこと、大切に思ってくれて。俺も佐為はすごく大切なんだからな。」

 

「ヒカル。」

佐為は一言そう言ったきり、胸が詰まって後の言葉が出なかった。 ただ自分の前にいるヒカルをひしと抱きしめていた。

 

導師も胸を熱くしてそれを見つめていた。

わしは余計者かな。しかし、良かった、良かった。ヒカル殿が素直で、率直で本当に助かる。

佐為は、虎次郎殿とは碁を通して繋がっていた。ヒカル殿とも勿論そうだが。

でもそれ以外の何かが二人を結び付けている、それも確かだ。それは一体何か、わしは知りたいぞ。

 

全く二人とも。喧嘩するほど仲が良いということなのか。

だが、それにしても、しかしだ。二人ともいつまでそうやっておるつもりじゃ?

導師は、咳払いをすると言った。

「まずは二人とも邸に入ったらどうか。今回起きたことをきちんと整理せねばなるまい。佐為がヒカル殿の世界に迷い出たことを検討せねば。」

「導師。お言葉ですが、迷いでたとは聞こえが悪い。私は、ヒカルの窮地を察したのですよ。」

佐為は部屋に向かって歩きながら、力説した。

 

「私は三谷という少年が現れた時にちょうどヒカルの世界に着いたのです。三谷と一緒に碁会所に入ったのです。その時は私はまだ姿がなかった筈だ。

私はヒカルが見せてくれた棋譜で、ごまかしをしていると確信した。それで三谷を見た時に決めた。あの子の未来のために、ここでそのような行為は止めさせようと。

あの男の手口はあまりに無慈悲。結果三谷は高い授業料を払ったわけで私の出番はなかった。

それでもあの男は、他でも金品のためにイカサマをしているであろうと思った。あの男を懲らしめることについて、私とヒカルは意見が一致した。あの時、ヒカルと私は同化していたようだった。ヒカルは私の思考を読み取るのに集中していたから、私が実際にそこにいたかどうかに気づかなかっただけだ。でもしかし、私は…初めてだった。自分で碁会所の扉を開けられた時、気づいたのだ。私は生身でそこにいると。それはヒカルがこの平安の御世にいると同じ形で、私は未来に存在しているのだと…。」

 

「虎次郎の時は違ったの?」

ヒカルは訊ねた。

「何ともいえぬ。虎次郎とヒカルでは何もかもが違うのだ。ヒカルの棋力はまだ到底私が時の旅に耐えうる状態には 行っていない。その筈だ。今回は棋力とは違う別の何かがカギとなって私はしばしの間、ヒカルの世界に不安定な状態で 存在していた。そういうことだ。またもう一度あるかといえば二度とはないと感じる。このようなかたちで時を旅することは 二度とはないと。」

 

ヒカルは言葉にしなかったが思った。俺があの男ととんでもない対局をしようとしたから。だから、佐為は感づいて、時を飛び越えてきてくれたんだ。 俺を救ってくれるために。熱い思いがヒカルの胸にたぎった。こんなに俺を心配してくれる大切に思ってくれる佐為のために俺は絶対に役立ってみせる。

さっき指導碁を打って貰ったけど、導師に先ず三子置き、俺、やってみせるぜ、全力で強くなってみせる。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

遠鏡(とほかがみ)21

『遠鏡』21~30  
中学の大会、佐為が自由にヒカルの時代で過ごせるようになるまで
(主な登場人物…佐為、ヒカル、導師、三谷、筒井、広瀬、北島、アキラ、あかり、津田、日高、美津子、平八の妻、術師、正夫)


佐為とヒカルは馬に乗っていた。

「ヒカルは運動が好きと言っていたが。さすがだ。こんなに早く馬を乗りこなせるとは。遠乗り できるのもそう遠いことではなかろう。藤はもう終わってしまったが、秋には、ヒカルと紅葉を愛でに行きたい。」

ヒカルは少し自慢気に言った。

「俺、遠乗り大丈夫だと思うぜ。馬に乗るって面白いね。気持いいし。それになんだか背が高くなって、見る世界が変わるって感じがするんだ。」

その言葉を聞いて、佐為は笑いをかみ殺した。仔馬に乗り、背が高くなった気がしていると言う小柄なヒカルを眺めた。

「はは。 確かに目線は高くなるな。ヒカルは、もっと大柄な馬に乗りたいのであろう。都にも何頭かそのような馬はあるのだが。」

 

二人が足並みを揃え、林をすり抜けるように出た先には、野原が広がっていた。

「へえ。邸の近くにこんな原っぱがあるんだ。」

ヒカルは感嘆の声を上げた。

二人は、馬を降り、傍らの木に並べて馬を繋いだ。

「都の近くには、このような場所があちこちにある。歩いても来られぬことはないが。ここに人が来ることは稀だ。私は時々ここへ来て、のんびりする のが好きなのだ。一人っきりになれるから。」

 

ヒカルは不思議に思った。

佐為って、邸にいてものんびり生活してるよな。それに一人で暮らしてるようなもんじゃないのかなあ。それでも一人でのんびりする必要があるのか…。

 

「あっ、あの木、あれ登りやすそうだね。」

ヒカルが指した木を見て佐為は頷いた。

「木の股が低いし、座るにはちょうど良い木だ。ヒカルは目敏いな。」

 

ヒカルは、その木に駆け寄り、すぐよじ登った。登りやすい木だな。そう思いつつも、佐為が落ち着いた様子で木に登 ってきて、ヒカルの横に腰をおろしたのには 目を丸くした。

「佐為って、運動音痴なのかと思ってたら、全然違うじゃん。歩くのは早いし、馬も上手だし。木登りも得意なの?」

佐為は笑って答えた。

「この木には子どもの頃から登っている。今ヒカルが寄りかかっている枝は子どもの頃の私のお気に入りの場所だった。」

「へえ。そうなんだ。いいなあ。佐為は。俺のところにはこんな木ないよ。幼稚園の庭に木登りの木っていうのがあったけど 、登るだけで、こんなにゆったりした木じゃなかったよ。」

 

佐為はくつろいだ様子でヒカルに言った。

「ヒカル、今日はいいことがあったのか。何かとっても嬉しそうだ。」

ヒカルはうんと頷いた。

「あった。今日、俺、初めて互い戦で三谷に勝てたんだ。 前に筒井さんに勝てた時も嬉しかったけどさ。でも今日、三谷に勝てた時は興奮したよ。だって三谷って強敵だもの。」

佐為には驚きはなかった。ついにやったのだなと、そう思った。

「では、ヒカルが大将になるのか?」

 

ヒカルは首を横に振った。

「ううん。大会は来週だし、大将はやっぱ三谷だよ。筒井さんは安定感と実績重視だからね。でも俺もそう思うよ。 三谷には、まぐれで勝った訳じゃないけど、次勝てるかは五分五分だもの。大会は、とにかく三人で頑張るんだ。三谷も最近すごく真面目なんだぜ。 安心して大将って呼べるよ。」

 

佐為は、ヒカルが三谷を囲碁部に連れていった時の話を思い出していた。

あの時ヒカルはかなり憤慨していたが。

 

「三谷って、最初囲碁部に呼んだ時はふてくされていてさ。一万円渡してやったのに。筒井さんと打った時なんて、 わざとずるして筒井さんに二度打ちさせて、筒井さんを怒らせちゃって。

どうなるかと思ったけど。俺や筒井さんじゃ物足りないんだよな、三谷は。

それが分かったから俺は早く三谷の相手になれるようにってがんばった…。やっと、 今日、それが叶ったんだぜ。」

 

「ヒカルは前に、三谷は七日に一度しか囲碁部に来なかったと言っていたな。」

 

「うん。でも俺が筒井さんに勝った辺りから、結構来るようになったよ。大会が近いから今は毎日理科室を使っていいって、タマ子先生が言ってくれてさ。何か碁会所みたいなんだぜ。 理科室が。」

「囲碁部はいい雰囲気なのだな。」

「うん。良くなってきた。あかりも囲碁部なんだぜ。もうひとり全然碁を知らない女子を連れてきてさ。二人とも筒井さんが面倒見てくれてるよ。筒井さんて本当に面倒見いいんだ。さすが部長だよね。でもその部長が三将だなんて、少し申し訳ないよ。」

 

そう思うのがヒカルのいいところだ。碁は勝負の実績で順位が決まる厳しい世界だが、でも中学の囲碁部というのはそれだけではない。ヒカルの心を育んでいる気がする。素晴らしい場所だ。ヒカルはよき人々に恵まれているのだな。

 

それにしても、三谷はヒカルに負けたことをどう思っているだろうか。彼にも囲碁部は居心地がいいのだろうか。

何度かヒカルに再現してもらった三谷の碁は、練れてはいないが、素直な手を打っていた。誰かにきちんと指導を受ければ、もう少し伸びていけるのだが。

とにかく、ヒカルが自分の目の前でめきめきと腕を伸ばしていくのを見ていたら、三谷もいい加減なことはできないであろう。三谷は碁が好きそうだし、自分に腕があるという自負もある。ヒカルに触発されて 、少しは腕を伸ばしているに違いないが。しかし、 もう少し自分より上手のものと打たねば、三谷はなかなか先に進めないであろう。手伝ってやりたいがそうもいかぬし。

 

佐為はその時思い出した。

「例の加賀は全く覗かないのか。彼が三谷と打ってくれればいいのだが。」

「うん。残念だけどね。まったく来ないんだ。加賀の将棋部も大会が近いんだって。今、猛訓練中らしくて、みんな怖がっているよ。」

「怖がる?」

「だって、加賀が喝を入れてるんだぜ。俺は怖いとは思わないけど、たいていの奴はびびるんだって。筒井さんがそう言ってた。」

筒井の顔も加賀の顔も知らなかったが佐為は何となくその様子が想像できて笑った。

「では、私もヒカルに喝を入れてみるか。ヒカルはびびるのか?」

「佐為、分かっちゃねえな。俺は誰にもびびらないよ。でもそれよりさあ、佐為はもうとっくに俺に喝を入れっぱなしじゃ ないか。俺、今、もう、ぎんぎんに全開だよ。」

 

「それで、ヒカルは三谷に勝てたのか。」

佐為はすっと木から降りた。

「ヒカル、そんな時こそ、こういう場所に来て、いっ時、何もかも忘れることが必要だ。そうすることで新たな力が生まれてくるものだ。」

佐為はいつも携帯している笛を取り出した。

ヒカルはそれを見つめた。ヒカルは佐為に笛の手ほどきも受けていた。最近ようやっと何とかさまになる音が出せるようになったものだ った。

 

佐為は目を閉じた。それから静かに吹きはじめた。静かな清明な調べの節回しだった。

ヒカルは木の枝に寄りかかったまま、それにじっと耳を済ませた。心が落ち着いて、洗われていく気がした。今は囲碁部のことも大会のことも三谷に勝てたことも遠い出来事だった。

そよ風が吹きぬけ、佐為の衣をゆらした。その風は撫でるように、ヒカルの上も通り過ぎていった。ヒカルはそっと目を閉じた。 笛の音がヒカルの体に染み渡っていった。

 

笛の音が止むと、ヒカルは目を開け、木から降りた。

佐為はヒカルを見てにっこりした。

「この原で一局打ってみるか。外で打つ碁はまた格別なものだ。」

「ここで?でも碁石も碁盤もないよ。」

「大丈夫だ。私は時々ここで一人で打ったものだった。まだ残っている筈だ。」

 

佐為は枝の張った木の前に来た。そこには平らな岩が突き出ていた。

「あれぇ、線が引いてある。十九路だ。」

ヒカルは思わず声を上げた。佐為は満足そうに頷いた。

「苦労した。しかし彫り付けたから線は消えない。石は、このうろに仕舞っておいた筈だが。」

不ぞろいな石が木のうろから取り出されると、ヒカルは佐為と向かい合った。

 

「何かわくわくするね。碁はどこで打とうと同じとか、碁盤や碁石は関係ないとか、そういうのとは違ってさ。だって、これ って、子どもの佐為が線を彫ったんだろ。」

「私もわくわくする。碁盤は関係なしにだ。私がわくわくする訳は相手がヒカルだからだ。」

佐為は微笑んで言った。

 

ヒカルは黒石を縒りだし星に置いた。石はすわりが悪くすこしゆらゆらした。

なんか俺の心みたいだ。石まで、はしゃいでるよ。

だが間もなく、ヒカルは碁に没頭し始め、“碁はどこで打とうと同じ”、“碁盤や碁石は関係ない”という状態になっていった。

 

 

佐為は一心不乱に考えているヒカルを見やりながら思っていた。

三谷に勝つのは時間の問題だったが、ここまで早く進むとは。同世代で切磋琢磨するというのはヒカルにはとてもいい経験に違いない。大会がどの程度のものか分からないが 、今のヒカルだったら三谷もいることだし、決勝にまでコマを進められるかも知れぬ。どちらにしても楽しみな目標だ。 私もその場で見守りたいが、自由に時を行き来できるのはいつのことであろうか。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

遠鏡22

『遠鏡』21~30  
中学の大会、佐為が自由にヒカルの時代で過ごせるようになるまで
(主な登場人物…佐為、ヒカル、導師、三谷、筒井、広瀬、北島、アキラ、あかり、津田、日高、美津子、平八の妻、術師、正夫)



進藤に負けた。軽いショックだった。いや、いずれその日が来る、そう思ってたけど。

そもそも俺がこんなに囲碁部に居つくことになったのは、俺に勝てたとはしゃぎ回っている進藤のせいだ。あの席亭のじいさんに裏切られて…。

三谷は苦い思いで、あの時のことを思い起こしていた。

 

月曜に学校に行くと校門であいつが待っていやがった。20円返せと騒ぐのかと思ったら、俺を校舎の横に引っ張っていって、一万円を見せたのだ。

「席亭のおじさんがやりすぎて可哀相なことをしたからって、一万円渡してくれって。」

そんなことがあるのか半信半疑だったが、あいつは言った。

「20円は返してくれよ。それと、これもただじゃ渡せない。囲碁大会があるんだ。囲碁部に入ってそれに出てもらう。それが条件だ。」

それを破ったら、親か先生に言うつもりか、それは分からなかったけど、進藤が大会に出たくてメンバーを探していることは分かった。囲碁部なんてかったるいけど、大会まで2ヶ月ほどだというじゃないか。そのくらいの我慢ならいいか、そう思ってOKした。

 

連れて行かれた囲碁部は案の定、ど下手の集まりでかったるい場所だった。三年の筒井さんてのが部長で、クソ真面目で詰まらない碁を打つ奴で。俺は、からかってやった。打つマネをして碁盤の横で石を置く音だけを立ててやったのだ。

筒井さんていうのは相手がどう石を置くのか全然見てないのだ。それで自分の番だと思って石を置いた。俺がそのことを言ってからかったら、怒ったな。

傍にいた進藤が慌ててなだめて。進藤は俺がイカサマしようとどうも思ってないのか、よく分からない奴だ。 ただ分かったのは、クソ詰まらない筒井さんより碁が下手だってこと。

俺を失ったら大会に出れない。その一心が見えて笑えた。そんなに下手で大会に出たってどうするんだよ。

まあ約束は約束だから囲碁部には、居てやるよ。大会には出てやるさ。だけど、囲碁部でどんな態度をとるとか、そんな約束はしてないからな。

だけど筒井さんよりもずっとど下手なその進藤が2週間後、要するに俺が囲碁部に3度目に顔を出した時だけど、軽く筒井さんを越えた。俺はそれがショックだった。

それっきり、筒井さんは一度も進藤に勝てない。

そして進藤は俺との置石をどんどん減らしてきた。俺には近づいてくる進藤の足音が聞こえた。

それは嫌だとかじゃなくて、結構ワクワクするものだった。 進藤ってどうやって、そんなに強くなっていくんだろう。毎日打ち続けてる?

 

小学校の時良く碁を打ってくれた先生は、俺に言った事があったけ。

「三谷君。勉強すれば院生になれるかもしれないねえ。」

「院生って?」

「囲碁のプロになる子ども達のための塾って言うところかな。」

「へえ。そこに入ればプロになれるの?」

「いやいや、なれない。一人ぐらいはなれるかな。」

「じゃあ、詰まんないじゃん。」

「はは。でも。一生懸命頑張れば院生になれるかもしれない。」

「一生懸命しなきゃなれないの?」

「うん。まだまだだね。毎日すごく頑張って勉強すれば、なれるかもしれない。」

「頑張って勉強?遊びじゃなくて?それでも“かもしれない”なの?じゃあ、やだな。俺。」

俺はそう答えて、先生は笑った。

勉強なんて。碁を勉強するってどうするんだ?そんなことしなくたって俺は十分強いもの。折角碁で遊んでるのに。なんで勉強 なんかする必要があるんだ?

俺は進藤を見て思った。こいつにとって碁は遊びなんだろうか。楽しんでることだけは確かだけど。 こいつだったら、先生が言ってた院生になるための勉強とやらを一生懸命するのかな。

俺はちらっとそんなことを思った。

 

もう少し腕を磨きたいけど、あの碁会所にはいけないし。

金はある。そういや、あいつにまだ20円返してねえや。“1万円引く20円”。持ち歩いている。

この金は使う気がしなかった。あの苦い思い出が蘇ってきて。

 

 

三谷はフラフラと歩きながら駅前でふとビルを見上げた。

「碁サロン?へえ、こんなところにも碁会所があるのか。」

 

三谷は臆することもなく碁サロンのドアを開けた。

「いらっしゃい。初めてね。お名前書いて棋力を教えて。」

棋力?そういや、俺、どのくらいになったんだろう。

「俺、結構やってるんだ。自分で見つけるよ。」

三谷は打ち合っている人たちの間を歩いていった。

 

「廣瀬さん、ずるいんだよ。」

「私は何もずるしてませんよ。北島さん。」

ズル?ここじゃ賭け碁は、無理そうだけど。三谷はそのテーブルを覗いて、ニヤリとした。

このおじさんだったら、賭けたら楽勝だな。

「そこの坊主、何を笑ってるんだ。」

北島という男が喚いた。三谷は落ち着いた態度で返した。

「別にぃ。おじさんとやったら勝てるかなと思っただけだよ。」

「失礼な。受けてやる。」

廣瀬っていう相手の人もそんなに強くなさそうだな。そう思いながら、三谷は北島の前に座った。

 

しばらくして北島がまた喚いた。

「子どもと思って油断した。」

「そんなことないよ。実力だろ。」

「もしかしてズルしたんじゃないだろうな。」

 

傍にいた人が見かねていった。

「もう北島さん。やめなさいよ。この子はずるなんてしてないでしょ。みっともない。 ここんとこ北島さん、おかしいですよ。家で何かあったんですか。」

「フン。余計なお世話だ。」

 

そのとき涼やかな声が聞こえた。

「何を騒いでるのですか。」

「いえね、この子が北島さんに勝ったものだから北島さんが怒ってるんですよ。」

「あ、アキラ先生。」

三谷は“先生”と呼ばれた子どもを見た。

誰だ?コイツ?

その様子を見て傍にいた人が三谷に教えた。

「アキラ先生はここで指導碁をして下さっているんですよ。、来年からプロになるんですよ。」

「プロ試験はこれからですよ。」

アキラは鷹揚に答えた。

何か分からないけど、変なやつがいるところだな。そう思いながら、三谷はきっぱり言った。

「とにかく俺はズルなんてしてないからな。」

 

アキラはそれを聞き、眉をひそめ、北島に言った。

「そんなことを?」

北島は慌てて言った。

「いえ、何、冗談ですよ、冗談。」

アキラは詫びるように三谷に言った。

「僕が良かったら相手をしようか?」

三谷はアキラの制服を見た。

「お前、どこの中学?」

「海王中だけど。僕の名前は塔矢アキラ。」

海王中か。三谷は閃いた。

「俺、三谷って言うんだ。お前は囲碁部に入ってるの?」

アキラは首を振った。

「僕はプロを目指してるからね。入ってない。」

 

成り行きで三谷は、アキラに、ただで指導碁をつけてもらった。

 

やっぱり、プロになろうって奴はすげえんだな。そう思いながら三谷は聞いた。

「塔矢っていつもここにいるの?」

「いつもじゃないよ。学校も忙しいし。君は囲碁部なの?中学はどこ?」

「葉瀬中さ。囲碁部っていったって、三人しかいないけどね。元々は二人だったんだけど、大会に出てほしいって誘われて。 俺のほかは、三年生の筒井って人と一年生の進藤っていうやつ。」

 

進藤?

アキラはその名前に眉をひそめた。なんか引っかかる名前だ。

「進藤って、進藤ヒカル?」

「へえ、知ってるの?あいつ、下手なのに有名?」

「いや、有名とかじゃなくて。でも去年、小学生なのに中学生の振りして囲碁大会に出たんだ。それで知ってるだけ。」

アキラは言葉少なに言った。

「へぇ。あいつ、何でそんなに大会に固執するんだ?そんなに強くないのに。それで勝てたの?」

「葉瀬中は負けたよ。葉瀬中の大将は誰?」

アキラが中学の大会にも囲碁部にも関係ないことが三谷を素直に喋らせていた。

「大将は俺さ。副将はこの前まで筒井さんだったけど、その筒井さんが進藤に勝てなくなってさ。だから今は進藤が 副将。でも俺、うかうかしてると進藤に大将の座も奪われそうで、少しどこかで練習したくてさ。ここを覗いたんだ。」

「大将の座を奪われる?君、結構いい線いってるんじゃないの?進藤はそんなに強くなってるの?」

アキラは不審げな声を出した。三谷はまあまあ打てる方だろう。海王中の囲碁部でもまあまあのところにいられるんじゃないかとは思うけど。

「そう、何ていうか進藤って、進みが早い奴でさ。実は俺、今日進藤に負けちゃって。海王の囲碁部ってどのくらい強いの?」

アキラはとまどった。用心深く答えた。

「僕は囲碁部には入っていないから、はっきりしたことはいえないけど、強豪ぞろいだそうだ。部長の岸本さんは院生だった人で、大会では大将だよ。」

院生だった人か。じゃあ、強いんだな。三谷は一瞬、小学校の先生の言葉を思い出していた。

 

アキラは何気ない風に聞いた。

「進藤って、棋譜並べをしている?」

「棋譜並べ?あいつが?知らない。囲碁部じゃ、見たことないから。」

 

そうなんだ。進藤は何で僕にばかり、棋譜を並べて見せるんだ?それも、あの気になる棋譜を。

それは偶然の成り行きだったのだということを理解せず、アキラはそう思った。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

遠鏡23

『遠鏡』21~30  
中学の大会、佐為が自由にヒカルの時代で過ごせるようになるまで
(主な登場人物…佐為、ヒカル、導師、三谷、筒井、広瀬、北島、アキラ、あかり、津田、日高、美津子、平八の妻、術師、正夫)



[大会か。」

筒井はため息をついた。実は、筒井は三谷がヒカルに引っ張ぱられて理科室に現れた日から、ずっともやもやした気分を抱えていた のだ。

 

もやもやの理由? 三谷が僕が弱いことを馬鹿にしているから?

違うよ。そんなことで、いちいち反応する僕じゃない。そうじゃないよ。もっともあの態度には腹が立つけど。前に加賀が僕にちょっかい出した時も腹はたったけど、 それは今回とはまったく別の腹立ちだった。

三谷は初めて囲碁部に現れた日に、僕との手合わせで、僕を嵌めて二度打ちをさせた。

進藤君は、あの時、実は三谷がズルをして金を稼いでたと言ったけど、それを言われても三谷は悪びれる様子もなく薄ら笑いを浮かべて いた。

「約束だから、大会が終わるまで、囲碁部員でいてやるよ。」

感謝しろといわんばかりの態度で、それだけ告げると、三谷は帰っていった。

 

僕は進藤君に碁会所での話を詳しく聞いて、心配になった。

「進藤君。彼を大会に誘うのは間違いだよ。」

「でも強いじゃん。絶対いいメンバーだって。他に誰がいる?」

「だけど、もし三谷が大会でズルしたら?碁会所で大人相手にズルできるんだ。そんな奴だったら大会で中学生相手だったら平気で ズルできるんじゃないか?」

「いや、それは。」

進藤君は口ごもった。

「三谷はさ。でも一万円を賭けて負けてさ…。その、だから心を入れ替えて…。」

その言葉に藤崎さんがビックリした声を上げた。

「一万円?何?それ?何の話?」

 

僕達は、席亭が三谷にズルをやめさせるためにしたことの顛末を進藤君から聞いた。

「…それで、その一万円を俺が預かって、三谷に返してやったんだ。もうズルはしないって約束で。俺は信じるさ。 だって三谷は俺たちと同じ学校の生徒だろ。」

「でもさっき、僕に二度打ちさせたじゃないか。あれはズルとは言わないの?」

「そ、それは、その…」

「僕は賛成できない。」

僕はきっぱりと言った。すると、藤崎さんが、おずおずと言った。

「少し様子を見てみたら。三谷君は囲碁部に入ったんでしょ。ここに来るんでしょ。だったら様子を見れるでしょ。」

 

でも三谷はそれきり部室になかなか来なかった。1週間ぐらいして、ひょっこリやってき たのは進藤君の腕前を見るためだったらしい。僕と藤崎さんに挨拶もせず、三谷は進藤君と打った。そのあげく、「げっ、お前弱い。」と吐き捨てるように行って、出て行った。 進藤君は怒りもせず苦笑しただけだった。

 

三谷が週2回は、部室に来るようになったのは、僕が進藤君に負けたのを目撃してからだった。

進藤君に負かされても僕は驚かなかった。加賀も言っていたけれど、進藤君はどんどん強くなるという気がしてたから。 僕の先を行くその日が近いと、感じていたから。その日が来たんだと思っただけだ。

でも三谷には進藤君の進歩が驚きだったに違いない。 僕はその時思った。進藤君はいずれ三谷を軽く抜くだろうと。そう。このまま進藤君が進めば、きっと、二年生になる前に は。

 

三谷はそれ以来、部室に現れるたび、僕とも進藤君とも、結構真面目に打つようになった。 少なくもズルはしてない。いや、彼はここでは一番強いわけだから、ズルする必要はないからか。それとも心を入れ替えた?

 

藤崎さんはある日、津田さんという囲碁を知らないという女子を連れてきた。彼女は見学した後、言った。

「ねえ、あかり。私、その大会が終わってからにするよ。だって今は三人とも必死そうだし…。」

「うん。分かった。必死なのはね。海王中ってすっごく強いチームがいるからなの。どこの学校も彼らには絶対勝てないんだって。私たちの囲碁部も海王を目標にしてるのよ。」

“私たちの囲碁部”か。僕は藤崎さんのその言葉に嬉しくなった。でもすぐに、その気持を潰すような三谷の言葉が部屋に響いた。

「強いったって、たかが中学の部活じゃねえか。」

僕は、ずっと心に抱いていたもやもやを吹っ切るように言った。

「三谷君がいくら強がっても海王には勝てないよ。海王の強さは特別なんだ。君の腕では無理だ。」  ズルでもしなきゃね…この最後の言葉を僕は辛うじて飲み込んだ。

 

その時進藤君が言った。

「それでもなんでも、前回は筒井さんだけは勝てたじゃないか。その海王にさ。」

そう、あれは偶然だった。僕と海王中の副将の力の差はあまりに歴然としていた。

ただ僕の唯一のとりえ、目算とヨセの正確さで、その偶然を拾えたんだ 。僕はその偶然を見逃さなかった。そのことには誇りを持っている。

 

「なんだ。筒井さんが勝てるような相手なら弱いじゃんか。俺にかかれば何てことはない。楽勝さ。」

馬鹿にしたような声で三谷はそう言った。それから、もう飽きたというように部室をふらっと出て行った。僕が嫌っていることを三谷は知っている。不正をするんじゃないかと疑いを持っていることを知っている。

僕は心配が募って言った。

「進藤君。もし三谷が海王中相手にズルしたら、すぐ見やぶられるよ。彼らの実力ならね。」

「絶対させないよ。そんなこと。」

進藤君は力強くそう言ったけど、僕は信じきれない。三谷を信じるなんてできない。

 

大会の日が来た。

「何か、わくわくするよ。」

会場に足を踏み入れながら、あかりが楽しそうに言った。

「お前が打つんでもないのに、何でワクワクするんだよ。」

ヒカルは、そっけなく言った。

「あら。私だって囲碁部員だよ。試合には出ないけど。ヒカル、そんな意地悪言うと、お弁当あげないわよ。」

「弁当?あかり、お前、偉いっ!」

ヒカルは態度を豹変させた。

 

筒井は二人のやりとりを横目に見ながら、ぬぐいきれない不安と戦っていた。

大会には出れた。でも三谷は本当に大丈夫だろうか。

進藤君が強くなったから、三谷も真面目になってきたけど。

でも勝ちたいと思って、もしここでズルしたら、葉瀬中の囲碁部は破滅だ…。

 

「ねえ。筒井さん。三谷が来るまで一局打ってようよ。」

ヒカルは屈託なくそう言って、碁盤の用意を始めた。

筒井は頷いた。そうだ。ここまできたら進藤君みたいに気持を切り替えて、集中しなくちゃ。

 

 

三谷は約束の時間より、遅れてきて、ぶらぶらと校門に向かって歩いていた。

「海王って、でかい学校だな。あのホールが部室なのか。」

その時、アキラが反対側から歩いて来るのが目に入った。

「やあ。」

三谷はそう言って、手を上げたが、アキラは、ただちょっと、首をかしげ、会釈を返すようにして、行ってしまった。明らかに、三谷を覚えていないようだった。

「な、何なんだ?あいつ。この1週間で2回、あの碁サロンで、指導碁を打ってくれたじゃないか。あんなに親しそうに話をしたのに、俺を覚えてないだと? チキショー。海王に通ってるからって馬鹿にするなっ。」

 

腹立たしげにホールに入ってきた三谷をヒカルは目ざとく見つけた。

「ああ、やっときた。三谷。海王に恐れをなして来ないんじゃないかと思ったよ。良かった。」

「馬鹿言え。海王如きがなんだっていうんだ。」

そう言いながら三谷はちらと、ヒカルと筒井の対局を覗いた。

「その黒、逃げてもいいことないぜ。逃げると、もう一方の黒がとられてしまう。」

それは仲間内だったら、何ということはない言葉だった。普通の会話。そう、仲間だったら。

でも三谷は仲間じゃない。そう思う筒井に三谷の言葉は火をつけたのだった。

「うるさいっ!」

筒井は思わず、声を荒げて言った。そして思った。

 

僕は今、分かった。三谷君の何が嫌なのか。

僕が弱いことを見下してるからじゃない。いいよ。そんなことは。僕は三谷ほど強くない。それはよく分かっているよ。それでも好きでたまらないんだ。碁が。

だから三谷なんかにケチをつけられたくない。彼は僕が碁を愛している気持を平気で踏みにじるんだ。

進藤君は僕を負かすようになった。すごく強くなったけど、全然いいんだ。だって進藤君は碁が好きで好きでたまらないんだから。 そして僕が碁が大好きなのを分かってくれている。

でも三谷は違うだろ。碁はただの道具なんだ。自分が強いとちやほやされたいための道具。

だからそのために平気でズルするんだ。

そんな彼に、僕の、僕たちの囲碁部を荒らされたくない。いやだっ!

三谷は碁が好きなんじゃない。自分が強いと思うことが好きなんだ。皆に強いと思われるのが好きなんだ。そんな奴を大将に据えて、僕は一体何をやっているんだろう。

 

筒井は歯軋りするような思いを必死でこらえた。

 

 

トーナメント表を見ていた子が声を上げた。

「げっ。俺たち、一回戦、海王とだって。マジで?」

「戦わないで、このまま帰るか?」

三谷はその声に聞こえよがしに言った。

「ふん。海王が何だって言うんだ。海王だろうと何だろうと、要するに勝てばいいんだろ。 たかが中学の大会じゃねえか。」

 

「あら。偉そうな。うち(海王)のこと知らないっていうのは、一年生?どこの学校?」

三谷のすぐ後ろにいた女子が振り返って言った。

「葉瀬中だよ。俺は一年だけど大将さ。」

「へえ。あなたが大将。とすると、副将があなたってわけ?」

その女子は筒井に向かって聞いた。筒井が口を開く前に三谷が答えた。

「筒井さんは三将。囲碁部の部長だけどな。」

「へえ。そう。あなたが筒井…。そういえば、前にまぐれでうちに勝った子ね。先輩悔しがってたわ。自分の見損じで負けちまったって。」

その女子は大将:日高と名札をつけていた。

 

彼女は、僕が前の大会で海王に勝ったのを、馬鹿にしてる? 確かにあれは実力の差から言ってまぐれかも知れないけど、それでも僕の力が全くなければ拾えなかった勝ちだ…。

筒井はそう思って、かっと熱くなった。

その時、ヒカルが言った。

「ちぇっ。いつまでも詰まらないこと言うんだな。大体目算が正確じゃなきゃ、あの勝ちはなかったんだ。まぐれだと言いたいなら言えよ。でも とにかく勝てたのは筒井さんの力があってのことだぜ。 お前。前の大会じゃなくて、今の大会のことでも考えてろよ。でないと負けるぜ。皆腕を上げてきてるんだから。」

 

し、進藤君。筒井はうるうるしかけた。

しかし、ヒカルの言葉に日高は別の方向へ反撃を向けた。

「あなた達がどんなに腕を上げたって海王に勝つのは無理よ。ま、見たところ、あなたたち、今回もまぐれ狙いって訳ね。作戦上、大将が この一年坊って、必死ね。部長が三将っていうのは。もう作戦というより、ほぼズルに近いわね。 でもどう足掻いたって海王に一人でも勝つなんてことはないわよ。」

 

日高の自信満々で疑いを持たない高飛車な態度に、筒井も三谷も激しく反応した。 三谷は何か言いかけようとしたけれど、筒井の方が早かった。筒井は今まで抱えていたもやもやを全て吹き飛ばす勢いでまくし立てた。

「このオーダーは、実力順なんだ。作戦上じゃないよ。いいか。

一年だけど、三谷は一番強いんだ。三年の僕より十倍強い。だから大将なんだ。 三谷はちゃんとウチの大将なんだ。打てば分かるさ。なめるな!」

それは自分にそれを信じさせ、確認する言葉でもあった。叫びだった。僕達はチームだ!

 

三谷は、筒井の様子と言葉に目を見張った。

何のかんのといって、筒井さんは俺の力を評価してくれていたのか。ここでこんなに啖呵きるほどに。

三谷の中に熱い気持が湧き上がってきた。

 

「日高。いい加減にやめなよ。」

そう言って海王の副将が、日高の手を引っ張って、去っていった。

その後には葉瀬中チームに、 三人共通の闘志が燃えていた。

自分の全てを出し切って、一 矢報いてやる。そう俺たちは三人でチームなんだから。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

遠鏡24

『遠鏡』21~30  
中学の大会、佐為が自由にヒカルの時代で過ごせるようになるまで
(主な登場人物…佐為、ヒカル、導師、三谷、筒井、広瀬、北島、アキラ、あかり、津田、日高、美津子、平八の妻、術師、正夫)



どんなに闘志に燃えていようとも実力の差は埋まらない。それが現実だった。

一回戦は三人とも乗り切った。そして海王との二回戦を迎えた。

筒井は力を出し切って負けた。今回はまぐれはなし。でもやれるだけのことはやった。

 

アキラの自分を無視した様子が、そして何より筒井の言った言葉が、三谷を鼓舞していた。

元院生が何だっていうんだ。だが、そう気負って、大将の岸本に向かった三谷も負けた。

 

ヒカルは海王の副将と向き合った時、佐為の笛の音を思い出した。あの平安の野原で打った時を。皆勝ちたいと思っている。 そして出発点は同じだ。俺は勝ちに行くぞ。圧倒的な強さで勝ってやる。ヒカルにとって、それは気負いではなく、確信だった。

 

結果、葉瀬中は、一対二で海王に負けた。 勝負には負けたけど、それ以上のものがあった。それにすごく楽しかった。清清しい満足感が三人には、流れていた。

筒井は帰り際に言った。

「このオーダーは正しかったよね。進藤君が一矢報いてくれて嬉しいよ。だけど僕もやれるだけのことはやったよ。 三谷君も頑張ってくれて、本当にありがとう。」

 

帰り道、二人になった時、あかりは言った。

「ねえ。ヒカル。勝ててよかったね。ヒカル、本当に強くなったね。もし、ヒカルが大将で三谷君 が副将だったら、二人とも勝てて決勝にいけたかも。」

ヒカルは首を横に振った。

「それはねえ。あの海王の大将は桁が違うって気がした。何たって元院生だけの事はあるよな。」

「そうかあ。そんなに強いんだ。海王は今年も男子も女子も優勝したね。」

あかりの言葉を聞き流しながら、ヒカルはふと思った。

塔矢って、あの岸本っていう大将よりもずっと強いわけか。だって、プロ並に強いんだろ。 岸本ってプロをあきらめたんだろ。俺もそこまで強くなって見たいな。三谷に勝てたと喜んで、海王の副将に勝てたといって喜んで…。

それも確かに嬉しいけど、俺はもっと強くならなければいけないんだもの。佐為をこっちの世界に旅させるために。 でも一体どれくらい強ければいいのだろう?

 

 

夕食が済んだ後、ヒカルはベッドに寝転んで思っていた。

そろそろ、佐為のところへ報告に行こうかな。今回は、とりあえず、自慢しても大丈夫だよな。

何たって海王に勝てたのは俺一人だもんね。

 

その時だった。

「えっ?」

ヒカルは思わずそう声を上げた。それから跳ね起きた。

眩しい光が飛び込んだかと思うと、そこに佐為が居たのだ。

平安の時と変わりない実体を持った佐為が自分の部屋にいるのだ。

 

佐為は苦しそうに息を継ぎ言った。

「何とか来れた。思い通りではないが、とにかく力で時を旅をしたわけだ…。私は。」

「力で時の旅?」

ヒカルには訳がわからなかった。そんなヒカルに構わず、佐為は聞いてきた。

「ヒカル。例の大会はまだか?」

「例の大会?中学の大会?もう終わった。今日だけど、さっき帰ってきて、今夕飯が済んだところだよ。」

 

佐為はがっかりしたように言った。

「残念だ。それに間に合わせたくて、努力してみたのに。」

「努力?佐為。なんだか分からないけど、とにかく時の旅ができるようになったんだ。佐為も。」

佐為は首を横に振った。

「まだ自分の力を制御できぬ。 この前の時のように、突然思いもせずというのではないが。今回は私に意志があったのだから。だが、思い通りにできない 点では同じだ。ヒカルは行こうと思った時に、私のところへ来れるのであろう?」

「うん。佐為が邸にいる時にって願って、そのように辿り着けるよ。」

 

佐為がため息をついた。

「私は駄目だ。その域に達していないのだ。それに、このように実体を持って旅するのは、そもそも初めてなのだ…。 少々体にこたえる。」

「初めて?」

ヒカルは驚いた。

「じゃあ。虎次郎の時はどうしたの?」

「あの時は、実は魂だけが旅をした。私は虎次郎が江戸へ戻る時に、いつも魂を虎次郎に託したのだ。」

 

それがどのような状態かヒカルには理解できなかった。敢えて聞こうとも思わなかった。

それよりも心で思ったものだ。

俺、やだぜ。佐為の魂を持ってこっちへ戻ってくるなんて。どうやって持ってくるんだ。魂なんて。

ヒカルは何となく身震いした。とにかくだ。

「佐為が自力で時の旅ができるようになって、俺、嬉しいぜ。」

 

「私はとりあえず、今のこの状態を受け入れている。実体を伴うというのは素晴らしいものだな。」

佐為は、にっこりして言った。そして、部屋の中を見回した。

「ここがヒカルの部屋か。」

「うん。」  

 

佐為は、窓際により、カーテンを 手にとった。

「中々趣味の良い柄の布だ。ほう、こうやって吊るしてあるのか。面白いものだな。簾とは違った趣がある。 む?これは何か。」

「窓ガラスだ。外が透けて見えるだろ。昼間は光が入って明るいんだよ。でも風も雨も通さない。」

佐為はしばらくガラスをそっとなでていた。それから窓の外を覗いた。

「ここは上の階なのだな。」

「うん、2階なんだ。俺んちは佐為の邸と違って小さなうちだから、ドアを開けるとすぐ階段だよ。」

 

佐為は珍しそうに、ヒカルの部屋にあるものを次々と触ったり、手にとったりした。

「これは?」

「それは灯のスイッチ。ホラこうすれば蛍光灯が消えて、こっちにすれば付くんだ。」

「なるほど、灯明よりも明るく便利なものだな。すすが出ないというのはいいものだ。」

 

それからやっと、床の隅に布をかけてきちんと置かれている碁盤を見た。

「これがヒカルの碁盤か。碁石はきれいな形をしているな。ふむ。だが、随分と軽い。」

「これ、プラスチック製なんだ。」

佐為は言った。

「どうだろう。私の旅の記念にこれから一局打とうではないか。」

「うん。」

ヒカルは嬉しそうに碁盤を部屋の真ん中に持ってきた。それから椅子に置いていたクッションを佐為のために床に置いた。それは平安で習い覚えたヒカルなりの礼儀だった。

だって、佐為は、師匠で、でもって今は俺の客人だもんな。 

 

しばらくしてヒカルは言った。

「ねえ。佐為。もしかして遊んでる?」

「分かるか?」

「分かるかって、俺もう負けてるじゃないか。」

「ヒカルにも形勢を見極める目が付いてきたのだな。頼もしいことだ。」

佐為は可笑しそうに言った。

「ひどいよ。佐為。記念すべき一局って言ったのに。」

「だから思い切り打って見たかったのだ。ここはヒカルの部屋だし、ヒカルが腹を立てて帰ってしまうこともない。何しろ、私がこっちに来たのだから。いろいろ好き勝手ができそうで。私はわくわくしている。」

佐為はくすくすと笑って言った。

 

「ひでぇよ。佐為。そんなの。それってまるっきし子どもじゃねえか。佐為は雅な大人の筈だろ。いつもそう言ってるじゃないか。」

ヒカルは思わず大きな声で言った。

 

その時、階下から声がした。

「ヒカル?一人で何を騒いでいるの?そんな大声を出して。夜なのよ。ご近所迷惑でしょ。」

母の声に、ヒカルは慌てて口をつぐんだ。

しかし、とんとんと階段を上がってくる音が聞こえた。

そして、「ヒカル。誰かいるの?」そういう声とともに、ヒカルの部屋のドアが開けられ、美津子が部屋を覗いた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

遠鏡25

『遠鏡』21~30  
中学の大会、佐為が自由にヒカルの時代で過ごせるようになるまで
(主な登場人物…佐為、ヒカル、導師、三谷、筒井、広瀬、北島、アキラ、あかり、津田、日高、美津子、平八の妻、術師、正夫)



「ヒカル。何騒いでるの?」

 

ヒカルは、母親がドアを開けた時、終わったと思った。

しかし、美津子は、何も言わずヒカルを見つめただけだった。それからそのまま何も言わず、ドアを閉め、階段を下りて行った。

 

ヒカルが佐為の方を振り返ったら、佐為は碁盤の前に座ったまま、床に手を着き頭を下げて礼の姿勢をとっていた。

「佐為。お母さん、行っちゃったよ。どうしたんだろう。」

佐為は顔を上げ、ほっとしたような、だが拍子抜けしたように言った。

「何も言われませんでしたね。どうしたんでしょう。もしや見知らぬ人間がいたので怒られたのではないか?」

平安の世では、身分ある女人はみだりに顔を見せぬもの。江戸でも。だが、ここはヒカルの時代。この時代の礼儀というのは如何なるものか分からぬが、何も声をかけぬというのは解せぬ。

 

そう思いつつ、佐為は碁笥に手を入れた。佐為の手は石をすり抜けた。

「つまめぬ。」

佐為は呆然として言った。

「つまめぬって?」

ヒカルは不審気に佐為の言葉を繰り返した。それから佐為の姿をじっと見た。

俺には見える。佐為が。だが透けているかも…。

そうか、だから。 「お母さんには佐為が見えなかったんだ。」

「私が見えない?」

「うん。佐為。この前の時のように体が消えたんだ。俺には今もちゃんと見えるけどさ。」

 

佐為は傍にあった本に手を伸ばして引き寄せようとした。がその本を掴むことはできなかった。

「私は、またこの前のように薄れてきたのか?そうなのか?このまましばらくすると、私は平安に戻ってしまうのであろうか。」

佐為は気落ちした様子で言った。

「そんなの分からないよ。時間が来ると自然とそうなるのかも。でもそうやって人に見えなければ、外を歩けるよね。」

その言葉に佐為は少し元気を戻したようにもみえた。

「なるほど。人に見えぬならこの世をゆっくり眺めることができるな。 しかし、今は夜、外を出歩くわけにも行くまい。それにいつ消えるか分からぬし。」

 

「佐為が消えるまで、大会の話をするよ。」

ヒカルはそう言うと、石を並べながら、話を始めた。

「それでさ。これが海王中の副将との一局。俺が勝ったんだぜ。よく勝てたと自分でも思ってるけどね。」

佐為はじっくりとそれを眺めた。確かにヒカルがこの世で打った中では一番のできだ。ヒカルにとっては強敵だが、よくしのぎきったものだ。成長の後が著しい。

「でもさあ、海王の大将はもっと強いんだって。別格?元院生だし。今度はそいつを倒すんだ。冬の大会でさ。俺が大将になって。」

 

ヒカルの世界は楽しい。私もあやかりたい。折角ここまで旅ができるようになったのだ。私も打ちたい。

佐為はそう思った。

「ヒカル。私が消える前に一局打たぬか。」

「うん。今度は遊ぶなよ。」

ヒカルは元気よく言った。

 

佐為は苦笑したが何も言わなかった。

先ほどは私も大人気なかったから。だがこれが師匠に向かって言う言葉といえようか。いや、まあ仕方あるまい。

「ヒカル。この碁笥をヒカルの方へ置いて、私の言うとおり石を置いてくれればいい。」

「分かった。」

 

ヒカルは星に置石をすると、自分の一手目を置いた。

「17の十六。」

佐為が言った。ヒカルは佐為の言う通りに白石を置いた。

佐為はそれを見て言った。

「ヒカル。違う。そこではなくてこちらに。」

「えっ?17の十六だろ?」

「それはヒカルから見ての17の十六。私から見ると逆さでこちらになる。」

「ええっ。ややこしい。」

ヒカルは計算も苦手だが、これがきちんとできたら、いい訓練になろうに。まあ、今はしかたあるまい。

「ならば私が置くところを扇子で指すことにしよう。それならば支障なかろう。」

 

佐為はヒカルが白石と黒石を交互に打つのを見つめながら思った。

結局、虎次郎の時と同じく、私は未来では、こうやって石を置く運命なのか。

夢中で考え込んでいるヒカルに気づかれぬように、佐為は、無念そうに、そっとため息をついた。

 

美津子は、居間のソファにぐったり座り込んだ。

「どうしたんだい?」

テレビを見ていた夫の正夫が気のなさそうに聞いた。

「匂いが、香水?いいえ。お香のような…。」

「匂い?何のことだい。」

「ヒカルの部屋に、誰かいたのよ。今はいないけど。」

「友達でも呼んだのか?」

「男の子じゃないわ。きっと女の子?いえ、子どもじゃなくて大人かも。」

「女の子だったら、あかりちゃんじゃないのか?」

「だから、なんだかいい匂いなの。あかりちゃんが付ける様な匂いじゃないわ。もっと大人びた香りなのよ。」

「あかりちゃんが、お母さんの香水でもつけたんじゃないの?」

「藤崎さんって香水つけてたかしら?ああ、とにかく、お母様のたててるお香のような匂いがしたのよ。」

「じゃあ。ヒカルがおふくろのとこでも行ったんじゃないの?何か貰ってきたんじゃないか。」

「今日は行ってないわよ。囲碁部の大会があるとかで、朝から出かけてたから。」

正夫は取り合わなかった。

「ヒカルも年頃だしいろいろあるだろ。ほっとけばいいじゃないか。匂いぐらいで騒ぐことないだろ。」

「そうかしら。」

 

匂いのことだけじゃないのよね。何というか。

ヒカルの部屋を開けた時、何か感じたのよ。何ていったらいいのかしら。そう、例えば長い髪の毛がさらっと空中を流れるような感じっていうのかしら。

今しがたのことを思い返すように、美津子はテーブルに肘をついて考え込んだ。それから決めた。

正夫さんはほっとけなんていうけど、ほっとけないわ。ヒカルに聞いたって、何も言わないだろうし、ヒカルの部屋を調べてみるわ。 あの匂いがどこから来るのか。

 

「ヒカル。そこではなく、こちらに置くべきだ。」

「こう?こっちだっていいような気がするけど。」

「その手だけは駄目なのだ。こちらならまだ可能性はある。」

佐為はそう言うと、手を伸ばし、その黒石を別の場所に置いた。

ヒカルも佐為も極めて当たり前のように思い、始めは気づかなかった。

だが、ややあって、ヒカルが言った。

「佐為。今、石をつまめたよね。」

言われて佐為も気づいた。思わず自分の手を見つめた。

「戻っている。体のある私に。」

「どうなってるの?これって。」

 

佐為は考えを巡らした。

「私はヒカルの時代へ行きたいと努力をしてきた。三谷のいた碁会所に行くことができたのは、偶然で、ただヒカルに呼ばれるままにそこにいたという気がするのだ。あの時は私の意識だけがそこにあり、 全てが終わり扉を開け、碁会所の外に出る瞬間だけ、体を持てた。そしてそのまま、私の意志とは関わりなく、平安の御世に戻ってしまった のだ。

今回は違う。私はひたすら念じた。ヒカルの時代に行き着けるようにと。そしてヒカルと同じように時の旅を果たしたのだ。何度も繰り返せば、体を失わず、ずっとヒカルの時代にいられるのかもしれない。先ほどのことは、もしやヒカルの意志が反映しているのであろうか。」

ヒカルは驚いた。

「俺の意志?それって何だ。」

「つまり、先ほど、お母上が覗いた時、ヒカルは思ったであろう。見つかりたくないと。

だが私はあの時、お母上に挨拶をするつもりでいた。それは多分、驚かれるであろうが、きちんと話せば納得されるであろうと。」

 

ヒカルは、疑わしげに言った。

「そりゃあの時、俺は見つかりたくないと思ったよ。でも俺が思ったからって、佐為が見えなくなるって、そんなことはないと思う。 そんな都合のいいこと、起こると思う?あり得ないよ。それに…。」

 

ヒカルはその先を言うのをやめた。

お母さんが納得するなんて、ありえない。佐為が平安時代から来たなんていっても絶対信じないよ。 だれも信じないさ。

 

そう思った時、ヒカルは時の旅というのがいかに不思議な出来事なのかを、初めて思った。

俺は今、これを失いたくない。人に知られたら、失っちゃうのだろうか。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

遠鏡26

『遠鏡』21~30  
中学の大会、佐為が自由にヒカルの時代で過ごせるようになるまで
(主な登場人物…佐為、ヒカル、導師、三谷、筒井、広瀬、北島、アキラ、あかり、津田、日高、美津子、平八の妻、術師、正夫)



結局あのあと、体が消えることはなく、佐為は自らの意志で、平安の世に戻った。

術師に会わねばならぬ。佐為は思った。

二年前、虎次郎との交流が終わった時、術師は言った。

初めてのことだと。この石が本物か、疑っていた。自分には使いこなせなかったが、石が本物であって嬉しいと。もし、またこのような幸運が起こった暁には是非に教えて欲しいと。

 

術師は都からすこし離れた場所に住んでいた。

馬を進めながら、佐為は思った。

術師はさぞや驚くであろうな。石はもう二度は使えないと思っているに違いないから。

今回は、その上私自身が体を持って時を旅したのだから。

 

林を抜けて術師の家の近くまで来ると、馬が二頭つながれているのが見えた。

誰か先客が居るようだ。佐為は用心して、馬を少し遠い木の陰に隠し、様子を伺った。

術師は訪れる人間同士が顔を合わせるのをひどく嫌うのだ。

 

家の陰でじっと見守っていた佐為は、やがて出てきた人影を見て少々驚いた。

あれは、確か…。

衣服は少々粗末なものに替えて身をやつしたつもりかもしれぬが、馬具までは変えることに思い至らなかったわけだ。一頭には立派な馬具が付いていた。供の者が素早く辺りを見回し、主を促した。馬に乗ると、二人は林の方へ去っていった。

 

それを見送ると、佐為は、術師の家に足を踏み入れた。

術師は佐為を見た。

「これは、これはお珍しいことで。」

「随分久しくしていたが、術師には変わりはなさそうだな。」

「へえ、お陰さまで、何とかやっておりますよ。ところで今日は何の御用で?」

「石のことで聞きたいことがある。」

「石というと時の石のことでございますか。」

術師は佐為が耳につけている石を見て言った。

「それについてお話しすることは最早ないと思いますが、あなた様は時の旅は既に終えられた筈。」

 

佐為は頷いた。

「二年前の旅は終わった。しかし私は今新しい事態に直面しているのだ。」

佐為は手短に話をした。

話を聞いた術師は目を細め、しばらく 何も言わなかった。その顔は能面のようで、何を考えているのかは分からなかった。

 

「石についてはあの時にお話した以外に私の知ることは殆どございませぬ。

私が大陸から持ち帰ったただ一つをあなた様が試されたのです。

時の石は、彼の国においても滅多に手に入らぬ秘宝でございますよ。ただし、手に入れても使えることなど滅多にない。石を動かす力が何なのか、いまだ知り尽くされてはおりませぬ。

そしてまたそれを本当に使いたいと申される方もお出でではございません。

分からないことに命を賭けてしまう御仁というのはなかなかにでないことなのです。

あなた様が果たされたことで、そう、あの時未来からお出でになった虎次郎殿の存在により、私はその石が確かに本物であることを知りました。

それ以上には何も語ることはございませぬ。」

 

「石の力は衰えていなかった。今回私は体を持って未来を旅した。石の力が強まったのだろうか。」

 

「そのお話を聞いて私も驚いております。千年も先の世を行き来なされている事に。

だが私は石の言い伝えを知るのみでございますから。

ただ私としては一言ご忠告を。石というのは不滅のものと思われてきました。堅牢で燃えることもなく。ですが、石も風や雨にさらされれば摩滅し、最後には砂粒になり、塵と化すもの。お気をつけなされ。石を酷使されてはなりませぬ。例え崩れおることがなかろうと力を失いただの石になるやもしれませぬ。ご用心なされるように。ただそれだけでございます。」

 

 

佐為が帰った後、術師はがっくりと座り込んだ。

どういったらいいのか。私はただただ羨ましい。妬んでいるのであろうか?いや妬むつもりはない。だが、だが羨ましい。 私が夢見ていた千年先の世界を佐為殿は手中にした。

 

術師は棚から、古びた書付の束を取り出した。それは遠い異国の文字で書かれたものだった。術師はそれをそっと撫でた。

私は何をしているのだろうか。何故この地に戻ってきたのか。ここでは何もすることがないのに。しかし、ならばどこに行くというのだ。どこにも行けない。どこにも行く場はないのだ。

 

 

 

佐為が邸に戻ると、導師が待っていた。

「佐為。昨日からどこへ行っておった?心配したぞ。」

「導師。これから導師のところへ参ろうと思っていたところでした。」

「どこへ行っておった?」

導師は重ねて聞いた。

「今は、術師のところでございます。」

「術師に?何用あって?」

「はい。二年前術師はまた石に何かあったら、教えて欲しいといっておりました。

私は昨日初めて体を持ったままヒカルの世界へ旅をしたのです。ですから、そのことを術師に報告に。」

導師はじっと佐為を見つめた。

 

 

 

 

「佐為。それで何ともないのか?大丈夫か?術師は何と言っておった。」

「私はなんともありませぬ。術師は言うことは何もないと。ただ石は不滅のもではないので酷使するなということを言っておりました。」

導師はその言葉になにか不吉を感じた。佐為は導師の様子には気づかず、別のことを話した。

「そうそう、私が行くと入れ違いのようにあの、楓の大納言が術師のところから出てきました。身をやつし隠している様子でしたが私にはすぐに分かりました。帝のお傍にて何度か会っておりますゆえ。」

「挨拶をしたのか?」

「滅相もない。遠くに馬を見ましたゆえ、身を隠しやり過ごしました。しかし何のために術師のところへ行ったのでしょう?」

「さあ、術師はいろいろな力を持つと重宝がられているからな。しかし気づかれなかったのは何より。もし出会っていたら、大納言の方も悩むであろう。そなたが術師に何用があるのかと。」

 

術師のところへ行かねばならない。大納言のことも気にはなるが、それよりも佐為の身が心配だ。導師はそう思った。

 

 

午後遅くに、導師は術師のところへ向かった。

術師とは大陸で出会った。あの頃は忌憚なく話ができたが。

術師には自分のような薬師としての力とは違うものがある。もっと大きな摩訶不思議な力が。

私がそう言うとあの時、術師は皮肉な顔をして笑ったものだ。

「私は全く違います。あなたが誇る祖国では私の祖先は鬼とも土蜘蛛とも呼ばれるような存在でした。下人の存在ながら、やっと下働きとしてこの大陸に足を運び、私は初めて呼吸ができると感じました。できる限り、学んできました。そして、私が一番に心引かれたものは“ふあるさわ”と呼ばれる学問でした。それはあなたの おっしゃる摩訶不思議な力と呼ばれるものはないということを知るための学問でございますよ。 摩訶不思議とは正反対でございます。」

 

術師はずっと大陸に残り暮らすものと思っていたのに、何故か帰国した。帰国したとはいえ、身分などない。私もないが術師の場合はそれ以下なのだ。

だがいつの頃か、密かに人伝えに彼には摩訶不思議な力があると囁かれ、その力を頼る者が多い。“ふあるさわ”がいかなる学問かは知らぬが、時の石一つをとっても明らかに摩訶不思議な力を有する者であることは間違いないと私は思う。

 

術師は導師を見ると、愛想よく言った。

「これはこれは導師殿。今日は何と人の出入りの多いことか。恐らくあなたは佐為殿のことで参られたのでございましょう。 ですが私は時の旅について言うことはもう何一つないのです。私自身が疑っていた石の力を証明したのは佐為殿ご自身です。」

 

導師は軽く頷いた。術師が勧めるままに、茶をすすった。

「術師よ。私はずっと聞かないできたが、何故にそなたは大陸から舞い戻られたのか?」

 

術師は黙った。しばらくしてやっと言った。

「私は誰にも話せないと思ってきましたが、導師殿には理解して頂けるかもしれない。かつて私が一度だけ“ふあるさわ”についてお話したのを覚えておいででしょうか。」

「その言葉は印象深く残っている。」

「ただその“ふあるさわ”がどのようなものかは、お話したことがなかった。あなたが理解されるか自信がなかったのです。でもあなたをずっと見てきて、少なくも私の話を笑わない方であると分かりました。お話申しましょう。私が半分疑いながら何故時の石を持ち帰ったか、その理由も合わせて。」

 

術師は机の上に置いてあった、異国の文字で書かれた書を見せた。

「これは私が要点を写し取ったものです。」

「要点とは“ふあるさわ”の?」

導師は“ふあるさわ”を密教の秘儀のようなものと思いながら訊ねた。

「はい。大昔、そう今から千年、いや千五百年も前になりましょうか。その大昔に人は聡明でした。今の時代よりもずっと。 どのように聡明だったかと申せば、彼らは考えたのです。

この世のすべて、目に見える全ては、或いは見えぬものは何からできているのかと。

今この地の者は考えを持たない。

 

 

 

 

“ふあるさわ”は一つの説のことではなく、そういう考え方をする学問の総称なのです。

ある者は全ては“水”を元にすると。ある者は全てを“あえる”…何というべきか、そう“気”と申せばよいか、それでできていると考えた。

ある者は“水と気と火と土”と考えた。そしてそれらは“愛する力”により結びつき、“憎み合う力”によって分かたれると。」

「術師よ。不思議だ。私は大陸にいた時にそういう学に出会ったことはなかった。実にいろいろの教えを請うて歩き回ったものだったが。」

「私が“ふあるさわ”について教えを受けた師はひっそりとそれを伝えておりました。

私はそういう学をもっと学びたい、そのために西に行きたいと申しました。師は首を横に振りました。“ふあるさわ”は今は死んでいると。

今や異国のどこにもそれをおおっぴらに学べるところはないと。

権力を持つものは自分の力を否定するようなものを排斥いたしましょう。様々な信仰もそれが力を持ち始めれば、疑いを抱くものを退けましょう。西には知を持って考える“ふあるさわ”という学問は今は無く、師は新天地を求めて東へ東へと向かって この大陸へやってきたと申されました。

私は丁度その時、時の石というものを手にしました。その時考えたのです。どこにいてもできないことならば、その石の力を借りて、昔に遡り、“ふあるさわ”を唱えた人々にじかに教えを請うか、或いは、未来へ向かい、その学が生かされているような未来へ住まいたいと。そこで私はこの国へ舞い戻って 時の石をいろいろに試してまいりました。しかし、どのようにしても私には時の石を使うことができませんでした。」

 

「一つ聞きたい。そなたは摩訶不思議を信じぬ。考えることをしたいというに、何故に時の旅、時の石などという不思議を信じるのか。矛盾しておらぬか?」

 

「確かに不思議です。時を旅することは。しかしそれは不思議ではあるがありえないことではない。佐為殿がその石が本物であると証明された。事実でございます。ならばその事実を不思議と考えず、首尾一貫したものとして説明すること、それが“ふあるさわ”なのです。」

そういうと術師はため息をついた。

 

「佐為殿は、この度、体を持って千年先の未来へ向かえたという。私は初めて人を妬んだ気が致します。先ほど来、私はずっと佐為殿と私の違いを考えておりました。なぜ佐為殿にできて私にできぬのかと。

時の旅ができるといっても戻れるとは限らぬ。思い通りの世界に旅立てるともいえぬ。確実性の無いその力を敢えて使おうという御仁はい ませんでした。

佐為殿だけは、恐れを知らずに願った。それでも未来から人は呼べても、自身は意識しか旅することはできなかった。二年前に終わったあの旅をみて私はやはり、この石の力には限度があるのかと思ったものです。安堵のような気持もありました。時の石といってもそこまでの力しかないものなのだと。」

 

導師は言った。

「佐為は信じていた。願っていた。自分と同等の或いはそれよりも強いものと戦い、自分の力を伸ばしたいと。それ以外に、欲も無ければ何にも執着をしない。その純粋さが石の力を動かしたのではないだろうか。」

導師の言葉に術師は、やや皮肉に答えた。

「そうですな。佐為殿の執着心はすごい。導師殿のお考えによれば、こうなります。私には執着がない。私には“ふあるさわ”を学び続けることができぬこの世のどこにも未練がござりませんから。私の出自ではどのように足掻いても人並みには生きられませぬから。 地位も欲しくない。財産にも必要以上には執着はございませんし。ゆえに石が使えぬ。皮肉なことです。私

はこの世に執着がないゆえに、未来へ旅する危険を恐ろしいと思わないのに、そのことが石を使う力をそいでいるということになります。」

 

「だがそなたも“ふあるさわ”に執着を抱いているのでは。」

「そうかも知れませぬが、それは対手がいるものではない。…そうか。私は今一つ思い当たりました。佐為殿が時の旅ができたのは相手が呼応したゆえ ではないかと。囲碁はそういうものでございましょう。1人ではできぬ。相手が要ります。だから石は働いたのだと。 虎次郎殿もヒカル殿も未来でその石を手にし、結びつく力が働いたのでは…。」

 

術師は考え込んだ。その最中に導師は急に思い出した。

「そういえば、石は堅牢な不滅のものとはいえないから気をつけよと佐為に言われたとか。」

 

「はい。それは私の結論です。石は永遠の力を持つのでしょうか。永遠なるものなど。 そのようなものを見たことはありませぬ。考えたことはありませぬ。物の形を成す元なるものは不変であろうと、力は使えば無くなると思います。いえ。なくなるではなく、力は経験という名のものに変化して佐為殿に蓄えられるというべきか。どのように用心すべきかなどは私には分かりかねますが 、とにかく心して使われることです。」



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

遠鏡27

『遠鏡』21~30  
中学の大会、佐為が自由にヒカルの時代で過ごせるようになるまで
(主な登場人物…佐為、ヒカル、導師、三谷、筒井、広瀬、北島、アキラ、あかり、津田、日高、美津子、平八の妻、術師、正夫)



翌日、ヒカルが学校へ出かけた後、美津子はヒカルの部屋をいつもより念入りに掃除した。だが何も見つからなかった。ただ昨晩の香のような匂いは微かに残っていた。

やっぱり、お義母さんの所へ行ってみようかしら。

 

 

昼過ぎに、美津子は買い物がてら、義母の家に寄った。

「あら、美津子さん。どうしたの?」

「あの…。」

駅前で買ってきた平八の好物の牛皮餅を差し出しながら、美津子はどう言おうかと迷った。

義母は、お茶を注ぎながら、落ち着いた様子で話した。

「ヒカルのこと?中学生になってから、ずいぶん落ち着いてきたんじゃない。碁を始めたからだって、お祖父ちゃんは言うけれども。案外そうかもしれないわね。少し考え深くなったんじゃないの。」

「そうでしょうか? あのそれで、最近ヒカルに何か下さいましたかしら。」

義母は不思議そうに首をかしげた。

 

そこで、美津子は決心して、ヒカルの部屋に古風な香りが漂っていたことをやっと話した。

「正夫さんはお義母さんがよく香を焚き染めたハンカチとか持ってるから、何かヒカルが持ってきたんじゃないかって。出なかったらあかりちゃんが何か香水でもつけたんじゃないかって。

私今日、ヒカルの部屋を掃除したんですけど、何も変わったものは無かったし。」

義母は可笑しそうに美津子を見つめた。それから言った。

「ヒカルはもう13歳になるのよね。子どもっぽく思えてももう中学生だし。放っておきなさい。美津子さん。」

「でも。」

「誰かいい香りのするお友達でも部屋に上げたのかもしれないわね。いいじゃない。いい匂いがしても。そのお友達が気になるんでしょ。

でも家に連れてくるようなお付き合いなら何も心配は要らないわよ。

お部屋のお掃除ももうおやめなさい。ヒカル、嫌がらないの?」

「いえ、嫌がりますけど。勝手に部屋に入るなって、文句言って…。」

「じゃあ、放っておきなさい。ひとりできちんとやるようになるわ。きっと。正夫もそうだったからね。」

「そうでしょうか。」

「ええ、そういうもんなのよ。」

 

それから美津子は気がついたように言った。

「そういえばお義父さんは?もしかしてお加減でも悪いのですか。」

いつもすぐに現れる義父が出てこないのだ。

義母はよっこらしょと立ち上がった。

「ぴんぴんしてるわよ。今、呼んでくるわね。美味しいお茶菓子もあることだし。最近パソコンに凝ってるのよ。 それで部屋にこもってるの。」

そういって平八を呼びに言った義母の後姿に、「パソコン?」と美津子は驚いたように呟いた。

 

 

ヒカルは学校に行ってからもあれやこれや考えていて、授業中も上の空だった。

学校の帰り道、ヒカルは、いつもの公園を抜ける道ではなく、商店街へ回り道をした。

何とかしたいけど、どうしていいか分からないことがいくつもあった。

 

 

 

 

とにかく、でも、あいつがこっちに来たら、やっぱ服だよな。

もし、今度佐為がこっちに来たら、一番に服がいるよな。でも服なんて買う金はないし…。

そういや、服だけじゃない。靴もいるんだ。

ヒカルは、辺りを見回した。そこは駅前とは違い、人通りの少ない商店街だった。男物の服を置いてある洋服屋がひっそりあった。 ヒカルはそれをショウウインドウ越しにじっと見つめた。

これってどうしても年寄り向きだぜ。佐為に似合いそうなものはねえな。それに値段がやっぱな。

 

それから急に思いついた。

佐為の奴、俺がいない間に部屋に現れるなんてことは無いよな。まさかさ。そんでもって、もしそんな時、お母さんが部屋の掃除でもし にきたら…。

ヒカルはどきっとした。

あぶねえ。もしかして今頃…。まさか…。

やべえよ。早く帰ろう。回り道なってするんじゃなかった。

 

そう思って駆け出したヒカルの耳に聞きなれた声が聞こえた。

「ヒカル。」

ヒカルは、ぎょっとして立ち止まった。

 

目の前に佐為が立っていた。烏帽子に狩衣…。日の光を浴びて、ヒカルの目の前で嬉しそうに手を振っている。

幻に違いない。そう思おうとしたが、紛れもない現実だった。

 

ヒカルはくらくらとした。

「佐為。早く、こっちだ。」

ちょうど目の前の葉瀬神社に佐為を連れ込んだ。

葉瀬神社は、昔はどうであれ、今は秋の祭りと大晦日ぐらいしか人が来ない場所だ。

間口の狭い門から、ぐるりと社殿の裏に回れば、鎮守の森の名残がある。静かな住宅地に面していて、人の目が少ない のだ。

 

佐為は引っ張られるように連れ込まれた境内で尋ねた。

「ヒカル?何を慌ててるのだ?」

「慌ててるって、慌てるに決まってるだろ。そんな格好で町をうろついてどうすんだよ。佐為。」

「ヒカルの時代は服装は自由だって、前に言っていたではないか。」

「自由って、それはさあ、たしかに。でも佐為みたいな格好だけはないよ。変に思われるよ。 人目にも付くし。だめだってば。ここだって、いつ人が来るかわかんないよ。すぐ帰ってよ。俺、これから急いで家へ 帰るからさ。」

佐為はしぶしぶ頷いた。

「分かった。ヒカルが困るというなら、戻ろう。」

「でも佐為は、何で街中へ現れたんだよ。」

「私は、石に呼ばれて来るのだ。ヒカルは今胸に石をつるしてるであろう。その石のあるところへ私は旅をする。 ヒカルの元へ来るというより、石に呼ばれることの方が大きいのだ、きっと。」

 

その時、小さな子どもと母親らしき人影が現れた。裏門から境内を通って、商店街へ抜けようというのだろう。

母親は佐為を見ると、にっこり会釈をして、境内を出て行った。

佐為は勝ち誇ったようにヒカルに言った。

「今の、見ましたか。 あの女人は私を見ても驚いた風は、全くなかったですよ。」

ヒカルは頑として言い張った。

「だめったら、だめ。今すぐ戻ってよ。俺、その格好の佐為と一緒には絶対歩かないからな。」

佐為は仕方なさそうに、ヒカルのいうことに従い、平安に戻った。

 

ヒカルは佐為が消えた後をしばらくじっと見つめていた。

住宅街を抜けるように歩いていると、声をかけられた。

「さっき、会ったわね。」

「葉瀬神社で宮司さんとお話してたでしょ。あの方は。いつもの人とは違うのね。」

さっきの女の人…。ええっ、佐為のことを聞いてるのかよ?

 

「あっ、あの。、あれは、あれは、なんというか。宮司さんじゃなくって、ええっと何というか、練習のために居たんで…。」

「練習?もしかして、宮司さんの見習いのこと?そういえば、とても若い人だったような。素敵な人だったわね。」

「そ、そうですか。俺もよく知らないから。あの、じゃあ、失礼します。」

 

ヒカルは逃げるように走った。

本当にやばかったんだ。あそこが神社じゃなかったら…。そして、思った。

「俺はいつも佐為が邸にいる時に行けたよな。偶然なのか?何でだろう。」



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

遠鏡28

『遠鏡』21~30  
中学の大会、佐為が自由にヒカルの時代で過ごせるようになるまで
(主な登場人物…佐為、ヒカル、導師、三谷、筒井、広瀬、北島、アキラ、あかり、津田、日高、美津子、平八の妻、術師、正夫)



「まったくヒカルと来たら、私を邪魔者扱いするのですよ。」

佐為は腹立たしそうに言った。

「そりゃ、そなたはさぞ、厄介者の邪魔者であったろうな。わしはヒカル殿に同情するぞ。」

導師は、にべも無く言った。

「導師までもが…。」

佐為が、憮然とすると、導師は続けた。

 

「いつの世も同じではないのか。ヒカル殿がこちらに来たときは、わしたちも随分気をつけている。服装や髪型にも気を配っている。」

「いいですか。私はヒカルの世で、女人に会った。この姿でですよ。その女人は、私を見てにっこりと会釈をしたのですよ。なのにヒカルは、“やばい”というのです。」

 

導師はため息をついた。

「ヒカル殿の時代は、服装は自由だというが、それでも一種の決まりがあるのではないか。

わしが思うにだが…。虎次郎殿が言っていたではないか。佐為の様な格好をする人がいないわけではないが、狩衣姿では、むやみに歩き回らぬものだと。その時から150年が過ぎた世界というのはどのようなものなのか、わしには分からぬよ。しかし単純ではあるまいな。」

そう言ってから付け足した。

 

「佐為。ヒカル殿がここへ来る時の服装を覚えているであろう。あれは特別ではなく、大人も子どもも似たような服を着ているという。その会釈をした女人というのはどのような格好をしていた?」

「あっ。ええと…どうでしたか。覚えてませんが、たしかヒカルの母上と同じような、胴より上はヒカルが着ているようなTシャツと申すもののような。下は裳裾を短くしたような…。よく覚えておりませぬ。」

「まあ、よい。もしもそういうことであれば、佐為のような姿はさぞ目立つであろう。時の石について佐為は喧伝したいのか?」

「滅相も無い。」

「ヒカル殿は時の旅の経験を他人にどう伝えていいかで悩んでおろう。目立つことをすれば石の存在が明るみに出る。それでどうなる? わしにはその先は分からぬ。考えたくもない。」

佐為は頷いた。

「そうですね。時の旅を誰にでも理解させるということは適いませぬな。この平安の御世とはあまりに違う。虎次郎の世界もそうでございました。ヒカルの時代はもっと 違います。

それはこの時代では到底受け入れられませぬな。帝の力が全く及ばぬ政りごとというものを理解せよとは…。」

「佐為。滅相もないことを口にするではない。」

導師は厳しい顔で注意を促した。

 

その時、部屋にぱあっと光が満ちて、ヒカルが現れた。

「やったぜ。百発百中ってとこだな。」

ヒカルはそういって、満足そうに部屋を見回し、導師と佐為に向かい合うように座った。

「もし佐為が俺のところへ来たらまずいから俺がこっちへ行くことに決めたんだ。 佐為って油断ならねえもんな。好き勝手にするから。」

佐為は不本意という顔で言った。

「ヒカルは私が時の旅をすることがそんなに迷惑なのか?」

 

ヒカルはやれやれという顔でいった。

「そうじゃねえよ。でもその格好はまずいんだって。」

「だが神社で出会った女人は、にこやかに挨拶をしたではないか…。」

「そうじゃないって。あの人はね。佐為を宮司さんだと思ったんだ。でなければコスプレしてると思ったかだな。神社の人 は何か儀式をやる時だけ 、佐為みたいな服を着るんだ。でも何かやるときだけだよ。いつもは普通の服着てるんだよ。あの人は佐為 が神社の人だと思って、佐為に挨拶したんだ。目立ったんだよ。その格好が。それにあの後でまたあの女の人に会っちゃって、大変だったんだからな。 佐為のこと聞かれて、言い訳するのに。」

 

しばらく沈黙があった。

「やっぱり迷惑ということか。」

佐為がぽつりと言った。

「 だから違うって言っただろ。そうじゃなくて、俺は嬉しかったんだぞ。佐為が俺の部屋に現れて、一緒に碁を打って。でも今は、まず、準備が必要なんだって。

俺は佐為が着れるような服を何とか探すよ。 それまでちょっと待ってよ。金がないから、そう簡単に手に入らないんだ。」

導師は賛成だというように大きく頷いた。

「何事にも心配りは大切ということだ。注意を怠ってはならぬ。」

 

ヒカルは言った。

「それと、もうひとつ。疑問があるんだよ。俺はいつもこの邸に来れるけど、それはどうしてなんだろう。 もし、佐為が帝の囲碁指南をやっているところに、俺が現れたらどうなる?今日はどうなるのかなと思ったけど、ここにちゃんと行き着いたよ。」

導師はほうという顔をした。

「なるほど、そういえば、そうだ。今まで気にもしなかったが。佐為がいつもヒカル殿の部屋に到着できれば、今回のような騒動にはならなかったわけだ。逆にヒカル殿が、この御世でとんでもない場面に行き合わせる危険もあったわけか。それは、考えても身震いすることだな。どう思う。佐為。」

佐為は、ぽつっと言った。

「この石は、この邸になじんでいるのです。だからそのような心配は無用では…。私は石に響きあって時を旅しているの ですから。

 

 

 

 

 

ヒカルの元に飛ぶというより、その石の元に飛んでいくのでしょう。きっと。」

ヒカルは決心したように言った。

「俺、今決めた。石は俺の部屋に置いておくことにする。そうすれば佐為は俺の部屋に来 るわけだろ。そうすれば誰にも見られずに服を着替えることもできるし。そうすれば、街中を歩くこともできるよ。」

ヒカルのその言葉に佐為はうっとりと続けた。

「そうすれば…。私は、ヒカルの時代の名人に会いに行くこともできる。碁を打つ機会を見つけられる。」

「でも取りあえず、服を何とかしなくちゃ。それまでは、いいか。絶対、未来に来んなよ。」

その言葉で現実に戻された佐為は、少し不機嫌そうな顔になった。

 

導師がとりなすように言った。

「まあまあ、その間、わしたちもすることはある。わしは明日にでも術師のもとへ出向いて、話を聞いてこよう。なぜ、ヒカル殿はこの邸に辿り着くのか。時間を制御する何かがあるのか を。」

「ならば私も。」

佐為が言った。導師は首を横に振った。

 

「佐為。わしはそなたがあまり術師と会うのは好ましいとは思えぬ。術師は優れた人物ではあるが。そなたは仮にも帝に囲碁指南をする身。 そなたは無防備過ぎる。何も疚しいことはないという思いは、わしには分かる。しかし、術師の評判を考えたら、人はどう思うであろう。痛くもない腹を探られることになるぞ。くれぐれも気をつけよ。

わしが術師と会っても、そう勘ぐられることは無い。わしは薬師としての腕を持っているから、いろいろな人物に出会うことが当然と思われている からな。それでもわしは常に注意を怠ることはないぞ。」

 

「ねえ。その術師ってどんな人。」

ヒカルは尋ねた。

「術師は 、密教の秘儀を超えた力を習得した人物と思われているのだ。多くの者は術師が術をあやつり、予言をし、それを可能にする力を持っていると恐れている。と同時にその力を自分だけが使いたいと思っているのだ。まがまがしい術を使うなど。そんなことは無いのに。わしは術師を単に考える人だと思 っている。非常に深くこの世のことを考え続けているのだと。」

「でもさあ。術師は時の石を持ってたんだろ。だったら、何か特別の力を持ってるんじゃないの?」

佐為は尋ねた。

「ヒカルは特別の力というものを信じるのか?」

「どうだろう。特別の力ってさ。才能とかそういうんじゃなくて、魔法とか超能力のことだろ。

俺はたぶん信じないと思うけど。でも時の石の存在は信じてるし。わかんないな。

でも、ただひとつ、呪いとかは、信じられないよ。」

「ヒカル殿はそう思うのか。それを聞いたら、術師は嬉しがるだろう。いつかヒカル殿にも会わせたいが。が今は取りあえず私が間を取り持とう。もともと私が仲介したのだから、責任がある。」

 

ヒカルが帰った後、導師は言った。

「佐為。考えれば時の旅は本当に危険と隣り合わせのものだな。今まで危険は旅自体にあると思ったが。それだけではない。どこに到着するのか、それは本当に偶然なのだろうか。ヒカル殿が帝の御前に現れることがなかったのは本当に、幸運だった。つくづくそう思うぞ。」

 

佐為はきっぱり言った。

「私には確信があります。ヒカルはこの邸以外のどこにも現れませぬ。私にはそういう確信があります。でも、私がヒカルの元へ旅する時は、その場所が石の元かどうか、それには非常に興味があります。」

 

 

翌朝早くに導師は術師の元に赴いた。何も情報は得られないとは分かっていたが、それでも術師の反応を聞きたかった のだ。

術師は、じっと話を聞いていた。

「私は知っていることはすべてお話しました。ですから、この先はもはや推測です。

時の石はこの時代の現実なのです。今が正しい場所。旅するなら、ここから過去に降るか未来に向かうかしかない。

ヒカル殿という御仁が、毎回佐為殿の邸に着くのは。あるいはヒカル殿が毎回佐為殿の邸に行き着くように願って、時の石を使っているのかもしれませぬな。 おそらく最初に使ったその場所に行くように何かの力が働いているのだと、思いますが。安心はできませぬぞ。

とにかく何事にも対処できるように事前に準備しておかれることですな。何事も注意するに越したことはありませぬから。

将来を予測することなど、できませぬ。何も分かりませぬ。そういう石が現にあるのだということ、使える人間がいるのだという事実が分かっているだけです。

 

私はそれより、そのヒカル殿に聞きたい。導師殿。骨を折ってくださいませぬか、“ふあるさわ”について。」

「おそらくヒカル殿は知らぬだろう。でも分かりやすく、説明したら、調べてもらえるかもしれない。ヒカル殿はそのような学問を紐解くには 、あまりにも若すぎる。」

 

術師は頷いた。

「村のものにも分かるような言葉で書きますゆえに。いつかヒカル殿に、それをお渡し願いたい。」



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

遠鏡29

『遠鏡』21~30  
中学の大会、佐為が自由にヒカルの時代で過ごせるようになるまで
(主な登場人物…佐為、ヒカル、導師、三谷、筒井、広瀬、北島、アキラ、あかり、津田、日高、美津子、平八の妻、術師、正夫)



ヒカルは頭を悩ませていた。

こういう時どうする?

お母さんに頼むしかないのかな?佐為を呼んで、母親に会わせたらどうなるのだろう?どうやって信じてもらう?

じいちゃんに頼む?大人の男の服なんて、どうやって頼んだらいいだろう。小遣いったって、そんなに頼めないし。 もし金があっても大人の服なんてどうやって買ったらいい?自分の服だって一人で買ったことはな いし。そもそも佐為のこと信じるかな?

 

幸か不幸か、期末試験が近づいていた。

とにかくだ。頼むかどうかはともかく、まずは少しいい点を取って、頼みごとをしやすくする。

ヒカルはそう決めた。

 

試験が終わらなければ何も始まらないのだということをヒカルは佐為に力説した。

佐為は言った。

「よく分かった。ならば私が手伝おう。ヒカルの部屋で大人しくしていれば、文句はないであろう。ヒカルの勉強を私がみる。」

ヒカルは慌てた。とんでもない。

「佐為に来てもらっても、勉強の邪魔だよ。迷惑なだけだ。来るな。絶対に来るなよ。」

そう言って、平安から戻って来たが、ヒカルは落ち着かなかった。

佐為の奴が大人しくいうことを聞くとはとても思えない。いつだって自分がしたいようにする奴なんだからな。

ヒカルは、念のため石を引き出しにしまった。

それにしても佐為は俺のところに来るのか、石のところに来るのか、どっちだろう。 とにかく来るなら絶対部屋に来てくれ。

 

佐為はヒカルの思ったとおり、時を旅してきた。

「石とヒカルと両方が共にある時、そこに旅ができるのかも知れぬな。ヒカルが石を身につけていなくても。」

ヒカルの部屋に無事到着した時、佐為は満足そうに微笑んだ。

「では、早速、勉強を始めるぞ。」

佐為は、やる気満々だった。ヒカルは疑わしそうに聞いた。

「佐為。本当にできるの?歴史か国語くらいじゃないの?佐為ができるのは。」

「失礼な。ヒカルが学べるようなものは私にも理解できる。手本を見せてみよ。」

それから佐為は、思い出したように言葉遣いを改めた。

ヒカルの時代では丁寧な言葉を使うことにしたのだった。

「見せて御覧なさい。」

 

そう言って傍にあった理科の教科書を手に取り、ぱらぱらとめくった。

「この辺りから出るのですか。顕微鏡? 顕微鏡とは何です?」

「ああ、やっぱ。こうなると思ったんだよ。ほらこの写真の。こういう奴だって。小さくて見えないものを見るんだ。」

「小さくて見えないものを見る?もう少しきちんと説明がほしい。どうやって使うんです?」

「ええと、ここにこういうのを入れて…。」

ヒカルが写真を指で指して説明すると、佐為は言った。

「言葉で説明して下さい。」

ヒカルは面倒くさいという風だったが、急いで説明を探した。

「これがプレパラートっていうんだ。 見たいものをこれにはさんで、ここに置くんだ。それをこっちにこう動かすと…。」

 

目新しさはあったが、理に適えば、大体のことは理解できるものだ。

教科書やノートを読んで、佐為が疑問に思うことをいちいち聞くと、 ヒカルは「思ったとおり邪魔なだけだ。」と言ったものの、自分も覚えていないことばかりでもあったから、佐為の素朴な疑問の答えを探し出すことは有効な勉強法だった。

 

佐為は、そのうち社会のノートを見つけた。

「相変わらずの字ですね。しかし、読めないことはないですよ。ああ、これ。総理大臣の名前? 総理大臣とはどんな大臣です?  ヒカルはちゃんと名前知ってますか?」

「待ってよ。まだ、こっちが終わってないんだから。」

 

佐為は、ヒカルがくしゃくしゃにしまっていたプリントやら小テストやらをきれいに番号順に整理した。

「これだけでも、勉強ができるようになった気分がするでしょう。」

ヒカルは渋々頷いた。

佐為は毎日のようにヒカルの部屋にやってきた。中学の勉強もだが、ヒカルの時代への旅にしっかり慣れてきた。

「早く試験が終わり、ヒカルと碁を打ちたいものです。早く外も歩いてみたいですよ。」

数学の問題を解くヒカルの傍らで、佐為は窓の外を覗きながらのんびり言った。

 

ヒカルは佐為とは反対に憂鬱になっていった。佐為のことを誰かに話すのがこれほど、重荷だとは。

そして佐為の能天気な様子に腹が立ってきた。ヒカルは呟いた。

「いいよな。なあんにも悩みがない奴ってさ。」

ヒカルが勉強している横で、漫画を読んで、くっくと笑っていた佐為が顔を上げた。

「ヒカル?今何か言いませんでしたか?」

「ううん。なあんにも言ってないよ。」

 

 

試験の結果は、ヒカルとしてはかなり上出来だった。

だが、試験がすべて終わった日、ヒカルは鬱々とした気分で家に向かっていた。

「どうする。佐為が試験が終わったかと待ち構えて来るかも。」

ヒカルは道端の小石を蹴った。

ええい、どうとでもなれ、面倒くさい。 佐為を呼びつけて、お母さんに会わせてやる。後は佐為に話してもらう。それだけだ。

居直った気持ちで、ヒカルは、家についた。そして思い出した。

 

 

 

 

 

「そうだ。お母さん、いなかったんだ。」

美津子は最近、仕事を始めたのだ。

「火曜から金曜まで、お昼から5時くらいまで、留守にするから。」そう言ってたっけ。

 

テーブルにおにぎりが置いてあった。

"手を洗ってから、食べなさい。”

メモが添えられていた。

ヒカルは申し訳程度に、キッチンの水道で手をぬらした。手を拭くと、おにぎりを手に取り、かじりながら二階に上がった。

 

自分の部屋の前に着くと、碁石の音がするのに気づいた。

げっ、佐為の奴、もう来てるんだ。

 

部屋を開けたヒカルは、その様子に絶句した。佐為は一人で碁を打っていた。

それだけなら驚くにあたらない。そうじゃなくて。

「佐為。どうしたの?その格好は?」

佐為は少し気恥ずかしそうにヒカルを見た。

「烏帽子がないと落ち着きませんが。どうです。似合いませんか。」

 

佐為は、古びたTシャツにジーンズ姿だった。 髪はゴムで束ねてあった。ミュージシャンだといっても通る風情だった。

「似合うって…。」

確かに似合う。かっこいい。うーんと、そんなことよりだ。

「その服、どうしたの?」

佐為はニコニコしながら言った。

「ヒカルのお父上はいい人ですよ。私のことをよく分かって下さって。何でも若い時の服で、中年になっておなかが出てきて、もう着れないので私に下さるというのですよ。ほら、見て下さい。冬用のものまであるんですよ。」

佐為が指したほうを見ると、大き目のダンボールがどんと置いてあった。

そういえば、この箱のことで、お父さんとお母さんが喧嘩してたっけ。

 

でもどうやって?いや、それよりなんでお父さんが家にいたのか?お父さんは佐為とどうやって出会って、どう思っ たんだろう。

まあ、いいや。 とにかく俺の心配はこれでOKになった訳…なのかな?

ヒカルが頭を巡らせていると、佐為が言った。

「ねえ。ヒカル。折角ですから、散歩に行きましょうよ。私はこの時代をじっくり見て回りたい。ヒカルが戻ってくるのを待ちわびていたのです からね。」

佐為はわくわくした表情だった。

 

「ああ、わかったよ。」

ヒカルは、仕方なさそうにそう言ったが、玄関で佐為の靴がないことに気づいた。

服のついでにお父さんが履いてない靴を借りるか。

そういってヒカルは靴箱から父親がジョギング用にと買っていたシューズを取り出した。

佐為には、ちょうどよい大きさだった。

 

「歩きやすい靴ですね。」

佐為は軽やかに歩いていた。通りを歩く佐為はどうみても現代の普通の青年に見えた。

ちょっと、きょろきょろし過ぎだけど、まあ、大丈夫か。ヒカルはほっとした気持だった。

「今お金ないから、碁会所には行けないぜ。」

そう釘を刺した。

「いいですよ。それよりヒカルが今まで話してくれた場所を案内してくれませんか。」

 

 

通りを並んで歩きながら、ヒカルは思いついたように言った。

「佐為はやっぱ、石のあるところに着くんだな。俺がいなくても部屋に来れたんだ。」

佐為は、それを聞くと、少し考え込んだ。

「まだ断定には早過ぎますね。石だけあっても旅はできない。それは確かだ。身につけなくてもヒカルと深く結びつくところに石があればいいのかもしれない…。 ヒカルの存在は欠かせない。それは確かです。私には感覚で分かる。」

 

その時、佐為が急に叫んだ。

「ヒカルゥ。アレ、アレは何です?」

ヒカルは佐為が指した先を見上げた。

「飛行機だよ。前に話しただろ。空を飛ぶ話。あれがそうだよ。」

佐為は飛行機雲がだんだん薄くなるまで空を見上げたままだった。

「近くで見れますか。ヒカル。乗ったことありますか。」

佐為は興奮した口調で言った。

「乗ったことはない。いいか。これから、何かあっても、絶対騒ぐなよ。人がいなかったからいいけど。恥ずかしい。」

ヒカルは偉そうにそう言った。大人の格好してても子どもみたいだな。まったく。

だが、すぐ思い直した。

佐為は初めて見るんだから、珍しいのは当たり前だよね。

それで付け加えた。

「でもさ。でもそんなに見たかったら、飛行場へ連れてってやるよ。今日じゃないぜ。今度いつかだぜ。」



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

遠鏡30

『遠鏡』21~30  
中学の大会、佐為が自由にヒカルの時代で過ごせるようになるまで
(主な登場人物…佐為、ヒカル、導師、三谷、筒井、広瀬、北島、アキラ、あかり、津田、日高、美津子、平八の妻、術師、正夫)



パチンコ屋を出ると、正夫は近くの公園のベンチに腰を下ろした。

とてつもなくおかしな体験だった。

それをそれほど不思議に思うことなく受け入れていた自分の方がもっとおかしい。

これはもしかしたら、おふくろの陰謀じゃないか?絶対そうに違いない。あの段ボール箱がすべての始まりだ。

正夫にはそう思えた。

おふくろには、何でも取って置くという悪い趣味がある。 自分のものはさっさと取り替えるけど、俺のものは詰まらない物ほど取って置くんだ。

とにかくつい先日、俺が結婚する前の若い頃の服を家に運んできたのだ。嬉々として言った。

「ほら。懐かしいでしょ。だからわざわざ持ってきてあげたのよ。納戸の整理を始めたのよ。これ、正夫のだし、自分で持つのが一番でしょ。幼稚園の頃のもあったけど、それは少ししみが多いから、着れそうもないし。」

おいおい、誰が、幼稚園の頃の服を着るってんだ?

美津子は親父やおふくろと相性は悪くない。けれど、これだけは別だった。

この趣味にだけはついていけないと言った。服をおふくろのところに返せと頑として言い張ったのだ。

「着れないでしょ。どれも細身だし。」

俺にはあのおふくろに突っ返す自分が想像出来ない。やっと思い付いて言った。

「ヒカルが着るかもしれないだろ。」

「ヒカル?ヒカルがこれを?そうね。着れる位大きくなったらいいかもしれないわね。 ヒカルが欲しいって言うならね。でも、いい? うちは広くないし、物置もお蔵もないのよ。納戸だって置く場所がないわ。 だから絶対返してきて 頂戴。できるだけ早く。私が返したら、角が立つでしょ。だから息子のあなたがうまく言ってやってね。分かった?」

 

俺は苦手だ。おふくろが苦手だ。何でも自分が分かっていると思っているところが苦手なんだ。

俺が欲しがってない、別段古着を懐かしがってないって、分かったらどうなる?

「明日、お休みでしょ。」

美津子は最後通牒を俺に突きつけた。

こんなことなら振り替え休日 なんて欲しくなかったよ、まったく。会社に行ってる方がよっぽどましだ。「何とかする。返しとく。」とは言ったけど、どうしたものか。今日中に美津子に見えないところに 移動だけでもしなきゃ。

考えあぐねて、俺はそれをヒカルの部屋においてもらうことに決めたのだ。

 

ヒカルには後で、ラーメンでもおごってやって…。そのうち何とかするからって。

あいつは出来がいい息子だから。あっ、成績は良くないけどな。それ以外は、申し分ないよ。ヒカルなら親父やおふくろとも仲が良いし、おふくろの気質もよーく分かってるだろうし。俺の苦境をきっとわかってくれるに違いないからな。

 

そこで、ダンボールをよいこらしょと持ち上げて、ヒカルの部屋に行った。

するとなんとそこに先客がいた。

それがまたとっぴな服装で。いや、とっぴじゃない古式ゆかしいというべきか?もしかしてこれは流行のコスプレという奴か?

烏帽子に仮衣姿の若い男は、俺を見ても慌てることなく、平然とにこやかに俺に挨拶を返してきた。

「初めまして。私は藤原佐為と申します。 もしやヒカルのお父上様でしょうか。あっ、お荷物をどうぞ置いて下さい。」

「はあ。初めまして。じゃあ置かせて頂きます。」

 

俺は今とてつもなく間の抜けた挨拶をしていないか。息子をヒカルと呼び捨てにしてるけど、この男、一体何者?

「あのー、ヒカルとはどういう関係で?」

いや、それより何で断りもなく人の家にいるとか、いつこの部屋に上がったとか聞くべきなんじゃないか。

あの時は麻痺したように何も思い浮かばなかった。思えば、それは何より、その男がヒカルの部屋になじんでいたから。浮いていたのは俺の方の気がしたのだ。

 

「ヒカルとの関係。あー。えーと、そうですねえ。」

藤原という男はちょっと言いよどんだが、すぐににっこりした。

「ヒカルは、私の弟子です。あ、いやご子息はというべきでしたね。」

「いやあ、ご子息だなんて。ヒカルで結構ですよ。私も息子をヒカルって言ってますし。」

いや違う。俺は父親だぞ。当たり前じゃないか。というか一体この男?

「ヒカルが弟子?何のです?」

「はい。碁を教えています。それに今回は期末試験の勉強を見させて頂きました。」

「はあ。」

 

俺が勉強をみない嫌味か。美津子がぶうぶう文句言ってたな。ヒカルの成績が悪いって。もしかしてこいつは家庭教師?いや美津子の趣味じゃない。どちらかというと、おふくろの趣味っぽい…。

そういえば、去年辺りから、碁に夢中だったが、親父の影響っていうだけじゃなかったのか。

まあそれはいいとして。それよりも。

「ところで、その格好は?」

「はあ、実はこれしか衣服がなくて、外出ができないので、ここでヒカルの帰りを待っています。」

「服がない!?」

 

まあ、その格好で外出というのは目立つな。それは分かってるのか。ふむ。

その時、俺は閃いた。この男、背格好は俺と同じくらい、いや、俺が若かった頃と似たりよったりだ。細身だし。ということは、うん。

「服がないんなら、これ着ませんか。若い頃より太めになっちゃって、私にはちょっと着れないんですよ。あなたなら着れそうだ。 あげます。全部。」

俺は、おふくろとも妻とも軋轢を持つのはごめんだ。

こんないいアイデアはないだろう。この男に、服をもらってもらう。これで、悩みは解決だ。万歳!

 

俺は男の着替えを手伝った。

「あ、いいじゃないですか。ぴったりだ。」

Tシャツにぴったりも何もないけどな。

「あの。」

ジーパンに手を伸ばしながら、藤原という男は言い難そうに話した。

「実は私は平安から来てるので、下穿きがないんですよ。」

俺は律儀にも、隣の部屋に行き、自分の新品のパンツを一枚とってきた。 ブランド品のパンツでもったいないと取っておいた奴だった。

でもダンボール一箱の服、いや家庭の平和と引き換えなら、ブランド品のパンツ だろうと全然惜しくない。俺はルンルンした気分だった。

 

ジーンズ姿の男を前に俺は改めて聞いた。

「ところで、ヘイアンからって、ヘイアンってどこにあるんです。この辺りじゃないですよね。」

「ええ、この辺りにはないんです。ヒカルの説明だと、今から1000年以上も前なんだそうです。」

俺は感心して聞いた。

「へえ。というと平安時代の平安ですか。それで、どうやってきたんです。この部屋まで。」

「時の旅です。私はヒカルのところへだけ旅することができるんです。ヒカルも私のところへ旅ができるんですよ。」

「おお、そりゃ、タイムトリップですか。面白そうだ。」

俺は素直にその会話を楽しんでいた。

信じるとか信じないとかじゃなくて、今目の前にそういうことがあるというわけで。それでいいじゃないか。悪い男じゃなさそうだし。ヒカルと仲がいいんだろう。 真面目そうだし。

その時、古式ゆかしい香りに気づいた。この香り、そうか。美津子が騒いでた香り。

とにかく、この男は俺の懸案を解決してくれた大事な人間だ。お陰で俺は心安らかに休日を過ごせるんだ。

俺は立ち上がった。

「ごゆっくり。まもなくヒカル、戻りますよ。半ドンだし。」

男は俺を呼び止めた。

「あ、お父上様は碁は打たないのですか。」

「あ、いやいいですよ。碁は。それにお父上様ってのはやめてくれないですかね。」

 

 

そこまで思い起こすと、正夫はベンチから立ち上がった。

今頃、ヒカルたちは碁でも打ってるのかな。

正夫はそれから、やっぱり、家に戻って見るかと、思い直した。

知らない男が一人で家にいるということはよくないのかもしれない。 いや、もうヒカルは家にいるだろうけど。やっぱり戻ろう。

 

家に戻る途中で、正夫は通りの反対側に若い日の自分を見つけた。

ヒカルとあの男が仲良く通りを歩いていたのだ。

佐為は目ざとく正夫に気づき、頭を下げて挨拶をした。

「先ほどはありがとうございました。靴もお借りしました。」

 

ヒカルは父を見た。

何て言えばいいのかな。

 

ヒカルが考えていると、正夫はあっさり言った。

「最近はジョギングもしてないし、構いませんよ。それより、ヒカル。ちょっとそこでお茶でも飲んでいかないか。お母さんが帰る前に家に着いてればいいだろう。 私はなんとなく疲れて、コーヒーでも飲みたい気分なんだ。付き合わないか。」

ヒカルが断ろうとした時、佐為が嬉しそうに答えた。

「是非、お付き合いさせていただきます。」

 

正夫はチェーン店のコーヒーショップに二人を連れて行き、二階の窓際に席を取った。

「私はブレンドでいいから、ヒカルは好きなのを頼みなさい。藤原さんは何にします。」

「あの、私のことは佐為でいいです。私はヒカルにお任せです。」

ヒカルは、ブレンドを二つとアイスコーヒーをひとつ。それにロングホットドッグをテーブルに運んだ。

「はい。ホットドッグは佐為に半分あげるよ。」

ヒカルの言葉に正夫は不満そうに言った。

「ヒカルは私には、くれないのか。」

「そうです。お父様にも差し上げなくては。」佐為も同調するように言った。

「分かったよ。三つに分けるから。」

 

ホットドッグを三つに切り分けながら、ヒカルは、うんざりしたように二人を眺めた。

お父さんが、佐為を受け入れてくれてるのはいいけど、この二人、どこか変なところで似てないか? 何がどうって言えないんだけど、何かそっくりなんだよ。二人とも確実におかしいと思う。絶対変だ。

 

ヒカルがそう思っている傍で、佐為は楽しそうに言った。

「こうやって拝見すると、ヒカルはお父様に良く似ています。気質というか、考え方というか、本当にそっくりです。お父様 が大切にお育てになったというのがよく分かります。」

正夫は嬉しくなった。そして感激してきた。

考えてみれば俺はいつも何となく影が薄かった。大切にはされていたと思うけど、子どもの頃はおふくろが強くて、ああいうお母さんの子どもだという風に見られ、最近は妻に何だか母子家庭みたいよとか文句言われて…。俺は一生懸命稼いでるんだ ぞ。ヒカルの親父なんだから。

「そりゃ、親子ですから。そんなに似てますかね。ところでヒカルはどうです。ものになりそうですか。」

「ええ、そりゃ、なかなかのもですよ。私はヒカルの将来を楽しみにしています。こうやってお父様にお会いしてみると、ヒカルはお父様の良いところを受け継いでいるに違いありません。」

佐為はヒカルが何の不思議もなく自分を受け入れてくれたことを思い出していた。ヒカルの父親もまた時の旅を自然に受け入れてくれている。しかも私を歓迎してくれている。 私がこの父子に出会ったのはやはり特別な運命だったのだ。

そう思いながら佐為は物珍しそうにコーヒーをすすり、ホットドッグをぱくついた。

「おいしいですよ。これは。」

「ここのコーヒーは案外いけるんですよ。佐為さんの平安では飲み物は、どんなものがあるんです。酒はうまいんじゃないですか。京都の水はうまいんでしょう。」

「お父様はお酒はいける口ですか。持って来れたらいいんですけど、何も持ってこれないのが残念ですよ。 まったく。是非御賞味頂きたいことです。」

「はは。それは残念です。どうです。今度暇な時、佐為さんを酒のうまい店にご招待しますよ。まえに会社の接待で行ったんですけど、いやなかなかいい店でしてね。」

「それは、是非に。でもいろいろして頂いてお返しができないなんて申し訳が。」

「いやいや、ヒカルの勉強まで見ていただいてるんですから。一人っ子でわがままなところもあるでしょうが、よろしくお願いいたします。」

「いえ、とんでもない。私の楽しみでしていることですから。ヒカルはよくできた弟子です。」

 

ヒカルは、二人の横でむすっとしていた。

家庭訪問で、母親と担任が話をしていた時だって、これよりはましな気がする。

ヒカルの頭越しに佐為もお父さんも二人で楽しそうに。俺をダシにして何か面白くない。

ヒカルはストローをくわえ、思いっきり大きな音でずずっとコーヒーをすすった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

大幣(おおぬさ)31

『大幣』31~40
アキラと生身の佐為の初顔合わせ、ネット碁
(主な登場人物…佐為、ヒカル、導師、筒井、三谷の姉、市川、和谷、フク、アキラ、緒方、sai、zelda)


佐為は、碁盤から顔を上げた。

 

♪竹河の 橋の端(つめ)なるや 橋の端なるや 花園に はれ

 花園に 我をば放てや 我をば放てや めざし(少女)たぐえて♪

                            (催馬楽:竹河)

気分よさそうに鼻歌を口ずさみながら、 庭の近くに歩み寄った。導師はずっと庭に佇んでいた。というより、佐為の様子を伺っていたのだ。

 

「佐為。随分と気色の良い様子だな。歌など歌って。」

「これは、導師。ご無沙汰申し上げておりました。私はこのところ大変気分がいいのでございます。新しい世界が開けた思い で。奥へどうぞ。あれをご覧頂きたい。」

導師が庭から部屋に入るのを待ちかねるように佐為は言った。

「この盤面をご覧ください。これは実に面白い。実に興味深い対局です。それに秀逸です。そう、たとえて言えば私が秀策として打ったものと同じくすばらしいもの といえるでしょう。」

佐為は導師には今更必要もないのに自分の腕を自慢した。

導師はその様子に眉をひそめた。

鼻歌といい、その自慢癖といい、明らかに佐為は浮かれておる。尋常ではない。

 

「これはヒカル殿の世界のものか。だがこれでは黒が…」

導師が盤面を見て言いかけた言葉を押しとどめるように佐為は言った。

「導師には前にもお話しましたが、ヒカルの時代には、コミという決まりごとがあります。これは5目半のコミです。 碁は先手有利は必定。対局を対等にするというのは難しいことです。コミは必ずしも5目半がが妥当なのか測りかねますが。それでも ですよ。 ヒカルの時代とは、なんと明朗な世界でありましょうか。面白い世界です。」

佐為は興奮し過ぎではないか?導師は思った。

「佐為は江戸の碁にもだいぶ興奮しておったではないか。」

 

「もちろん。あの頃も番碁で先手後手の有利不利をはかっておりました。棋士の力量、対局の深さという点では、ヒカルの時代と虎次郎の頃と、どちらも遜色はございません。それぞれの決まりごとに慣れれば、優れた打ち手ならば、 どちらでも、どのようにもやっていけましょう。それでも対局の対等性とかいうものへの執着は、ヒカルの時代 の方が強いような気が致します。」

導師はその言葉に声を潜めるようにたしなめた。

「佐為。それは虎次郎殿の、あるいはヒカル殿の時代のことぞ。よいか。ここでは、この御世ではよもや口にすまいな。 そのような考え方を。」

「当たり前でございます。ご心配は無用でございます。」

佐為は当たり前といった口調で答えた。

導師はその返事の仕方に何となく危ういと思った。 普段の佐為ならばまあ、心配はあるまいが。でもここのところ佐為は浮かれている。今日も鼻歌など口ずさみおって。このような状態で帝の元に侍った折に何かとんでもないこと が起きないとも限らぬ。

 

「佐為。そなた、連日のようにヒカル殿のところへ参っているようだが。大丈夫なのか。」

「大丈夫とはどういう? 石のことでしたら、今のところ何もございませぬ。私の体もいたって軽やかで心配はございませぬ。」

そう言ってややため息をつくように続けた。

「もちろん懸案は幾つかございますよ。それでも何とか乗り切っておりますから。

そう、もしヒカルがお母上にも紹介してくれたら、よっぽど楽なのですが、それだけが、なかなかやりにくきこと。 しかしヒカルがお母上はお父上とは違うと申しますから。

正直のところ、私もお母上には説明しきれないのではと弱気に思うこともあり。 そうですね。もちろん。ヒカルのお母上であるのですから、よき人であることは間違いないのですが…。」

佐為は言葉を濁した。

 

導師は言った。

「ヒカル殿のお父上は 、考えてみれば見るほどに特別なお人のようだな。お父上と佐為が出会った時の話には思わず笑ってしまったが、それでも穏やかに自然にそなたを受け入れるとは。私には信じられぬことよ。」

「ヒカルと似ておりますね。親子だというだけではなくです。時の旅を奇異の目で見るのは、ヒカルの時代もこの平安の世も きっと同じでございます。同じ志を持つものを見極めるのは 本当に難しい。ヒカルとヒカルのお父上に会えたというのは、石の力、奇跡でございましょう。

私はヒカルの世界では、その世界の人と同じに振舞うことを気をつけております。 本当でございますよ。自分が時の旅人であるなどとは絶対に漏らしませぬ。素振りさえも見せておりませぬ。それはヒカルとの約束事です。」

 

この佐為がそれほど器用に振舞うとは思えぬが…。いや絶対にありえぬ。ヒカル殿はさぞ気をもんでいることであろうな。 困っているのではあるまいか。

 

導師はひそかに思った。そのようなことを導師が思っていると知ってか知らぬか、佐為は話を続けた。

「ヒカルのお父上に出会った翌日、ヒカルの元へ赴くと早朝で した。時間を操ることはなかなかにできないことです。ヒカルは学校へ行くところでございました。お父上はすでに仕事に赴かれた後で した。」

佐為は不満そうに言った。

「ヒカルはなんと私に平安に戻れと言ったのですよ。当然のことですが私は断りましたよ。

お母上が出かけられるまで、私はヒカルの部屋にじっとしておりました。お母上が出かけられた後は、ヒカルが戻るまで、ひとりでヒカルの家を見て回りました。

それはもう、実に驚くべきものばかりで、珍しいことばかり。水道。風呂。樋箱のかわりに、トイレなる場所があり 、ほんとうに実に快適で。一番面白かったのはテレビなるもの。

導師殿にはゆっくりご説明しなければ何のことやら分からないかと思われますが、おいおいに。

ヒカルが学校から戻りましてからは、あちこち通りを巡り歩きました。今はもう通りの詳細な地図の見方も分かりました。 それに家の戸締りの仕方も教わり、ヒカルが居ない時でも、一人で出かけられるようになりましたし。

このところは、図書館と申す書庫に足繁く通っております。

虎次郎の時に印刷の技術に驚きましたが。導師はヒカルの持ってきた詰碁集をご覧になっているからお分かりでしょうが、ヒカルの時代のそれは驚くべきものです。

ヒカルの時代には、七日毎に囲碁の瓦版のようなものが出されているのです。それで例のプロ棋士とやらが打った棋譜が見れるのです よ。ここに並べたのはそのひとつ、ヒカルの時代の本因坊の対局だそうです。」

 

碁盤を見つめながら導師は聞いた。

「本因坊家は変わりなく続いているのか?」

佐為は少し首をかしげた。

「さあ、そのあたりは今ひとつ分かりませんが。いつか調べてみましょう。

とにかく図書館ではカードなるもの、そうですね。身元を示す手形のようなものですが、それを出せば、書物が借りだせるのです。ヒカルの父上のカードを拝借して、いろいろ読み進めております。 時についての書物もございますが、何分にも難しゅうございます。もし私でなく、術師が時の石を操れてそこにいたら、理解できるのかもしれませんが。」

そう言って佐為は碁石をひとつつまみあげた。

「術師が知りたがっていたこと。ヒカルには無理でしょうから。私がそのうちに探してみようと思います。何か書物があるのではと思うのですよ。じっくり調べてみたいと思います。」

 

導師は心配そうに聞いた。

「そのような振る舞いをして、大丈夫なのか?疑われたりせぬか?危険はないのか?」

佐為はにっこりした。

「ヒカルの時代はその点では安全に思えますよ。たぶんですが。

何しろその図書館なるところには、こういった内容の書物を探したいと頼むと教えてくれる人が待機しているのですから。私は最初、囲碁の書物がないか聞きましたよ。いろいろ説明をしてくれた後、丁寧にその書棚に案内をしてもらいました。

最近は、お母上が家におられる間はじっくりと読書に励んでおります。ヒカルも安心するので。

ヒカルは私がひとりであちこち歩き回るのにひどく反対するのですよ。私はしっかりしておりますから、迷子などになるはずは無いのですけれどね。まったく、 ヒカルときたら、私を子ども扱いするのですから。」

佐為は少しすねたような物言いをした。導師は心の中で苦笑した。 

ヒカル殿は佐為が迷子になるのを心配しているのではあるまい。佐為は唯我独尊の気があるから、それが心配なのに違いない。何か起きたら、ヒカル殿もヒカル殿のお父上も 大変な迷惑をこうむることになるであろうに。

 

「私は今度、一度碁会所に足を運ぼうと考えております。訳あってすぐには行けないものですから。 ヒカルの時代の人々と碁を打つには、とにかくそこへ行くしかないようです。

何しろいろいろな興味を掻き立てるものが溢れている世界ですから、碁を打つ人が少ないというのも頷けなくはないですよ。ですが、やはり碁 が一番。それが証拠にヒカルは 、碁の楽しさに目覚めたのですからね。 そういえば、先日はテレビなるもので碁の対局をやっておりました。途中で終わってしまいましたが、続きが楽しみなことですよ。」

 

「その話を聞くと、佐為はそのうち、ヒカルの時代に行ったきり戻ってこないのではと心配になるが。」

導師のその言葉に佐為は笑った。

「さあ、どうでしょう。先のことは分かりませんが。時の旅は戻ることが基本なのではないかと。そう感じているのです。 私がヒカルの時代で生きていくのはヒカルやお父上の助けがなければ、まだまだ難しい。 平安の御世に戻ると、私の居場所はここだと感じます。

それに私が時を旅をする目的は、何よりもすばらしき打ち手と巡り会うためです。」

佐為はきっぱりと言った。導師は安心したようだった。

「そうか。それを聞いてほっとした。ところで佐為。ヒカル殿も時々はこちらへ来てくれるのであろう。そなたが行くばかりで、ヒカル殿の顔をしばらく見ていない。寂しいことだぞ。」

「ええ、参りますよ。ヒカルも導師にお会いしたいと申しております。」

佐為は答えた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

大幣32

『大幣』31~40
アキラと生身の佐為の初顔合わせ、ネット碁
(主な登場人物…佐為、ヒカル、導師、筒井、三谷の姉、市川、和谷、フク、アキラ、緒方、sai、zelda)


佐為と父親との奇妙な邂逅で、一安心したヒカルはすぐに別のことで気を揉むことになった。

 

佐為が連日のようにヒカルの部屋に現れるのだ。 佐為は2、3日あけているというけど、時の旅をコントロールするのは難しい。

ヒカルが登校しようという折に佐為が現れた時はヒカルはぎょっとした。戻ってくれと何度も頼んだのに、佐為は折角 来たんだから絶対戻らないと言い張った。ヒカルは仕方なく、だが、念を押し たものだった。

「お母さんは、11時過ぎないと出かけないから、それまで音を立てないでじっとしていてよ。 いいか。音を立てるなよ。」

佐為は母親に見つからないように振舞うと約束した。

 

不思議なことに最近お母さんは勝手に掃除をしなくなったけど。それでも、もしかして 部屋を覗かないとも限らないよな。

学校に居ても気もそぞろなヒカルが家に戻ると、佐為は居なかった。玄関の鍵が開い たままだった。ジョギングシューズも無かった。

泥棒が入らなくて良かったと思いつつも、ヒカルは心配で居ても立っても居られなかった。 佐為がどこに行ったか分からないので探しに行きようもなかったし、ヒカルが鍵をかけて出かけたら、佐為が戻って来た時家に入れない だろう。

 

ヒカルがやきもきして疲れ切った頃、佐為は澄まして戻ってきた。

「お腹が空いたので、戻りました。何か食すものはないですか。」

その言葉にヒカルは、がくっと来た。腹を立てる暇も無く、母親が用意していた昼ごはんを佐為と分け合って食べたが、ヒカルの悩みは深かった。

母親が 佐為のことを知らないというのは面倒くさいことだった。

佐為は幸せそうにテーブルに向かって食事をしていた。

「ヒカル、オムライスって美味しいですよ。お母上は料理がお上手ですね。ところで、この上にかかっている赤いものは何でしょう?」

「それはケチャップだよ。トマトで作るんだ。」

ヒカルはうるさそうに答えた。

「トマト?知りませんね。」

「これ、これだよ。」

ヒカルは食べていたサラダからトマトをつまみあげながら、頭ではまったく別のことを考えていた。

 

仮にお母さんに佐為のことを話したらどうなるか。

お父さんはOKだったけど、お母さんはちょっと違うよ。絶対だめだ。言えそうもない。

お父さんもお母さんには黙っていろみたいなこと言ったけど。お母さんに話すと、 おおごとになりそうな予感がする。 お母さんは初めは一人でいろいろ考えるだろうけど。そのうち絶対誰かに相談するだろう。相談相手は取りあえず、じいちゃんとばあちゃん かな。そうすると、ばあちゃんは面白がって…。いろいろな人に 佐為のことがばれてしまいそうだ。ああ、だめだ。絶対だめだ。

 

ヒカルはため息をついた。

食事を終えた佐為は教えてもらったコントローラーを器用に使って、楽しげにテレビを見ている。

 

佐為はこれからも毎日来そうな気がする。たぶんどんなに止めたってお母さんが出かけた後、佐為はすぐに街を探検に出かけるだろう。佐為は好奇心が旺盛だし な。止められないし…。

 

ヒカルは佐為に声をかけた。

「佐為。これから、鍵を作りに行こう。」

「鍵?」

「うん。すぐ合鍵を作ってくれるところがあるんだ。そうすれば佐為も出かけられるだろう。」

ヒカルは貯金箱からお金を取り出した。

いくらするんだろう?500円もあればいいのかな?すげえ、出費だよ。まったく。

 

佐為は上機嫌でヒカルと並んで、通りを歩いた。

「あっ、ここ。さっき通りましたよ。そうだ。ねえ。ヒカル。碁会所へ行ってみたいですね。」

ヒカルはじろっと、佐為を見た。

「鍵を作ったら、もう金がねえよ。来月の小遣いもらうまで無理。」

それに小遣いっていっても、碁会所って子どもだって500円だろ。 大人だったら1000円じゃんか。

それから思った。

もし佐為がじゃんじゃん勝っちゃったら、何となくまずいんじゃないか?

 

ヒカルは確信を持って呟いた。

「うん。絶対まずいよ。まずい。だめだ。」

佐為が不審そうに聞いた。

「ヒカル?一体、何がまずいんですか?

それにしても、お金が無くても碁が打てるところは無いんですかね。」

そう言ってから佐為が急に気がついた。

「そうだ。ヒカルの学校はどうです?囲碁部があるじゃないですか。」

ヒカルはぎょっとした。思わずどもった。

「さ、佐為。それはだめだよ。学校は生徒しかだめなんだよ。佐為は生徒じゃないし、大人だろ。」

それから思いついて付け加えた。

「それに、学校だってちゃんと金払って行ってんだぞ。親が払ってくれてるんだからな。」

佐為はため息をついた。

「平安でも江戸でも同じですが、お金が無いというのは、不自由なものですね。本当に、賭け碁をやりたくなる気持がよーく分かりますね。」

ヒカルは慌てて言った。

「賭け碁は禁止なんだぞ。いいか。絶対だめなんだからな。」

 

 

街中を一通り探検しつくし、たまたま図書館に行き、碁の本を見つけたのがきっかけで、佐為はヒカルの家にじっとしているようになった。

 

今のところは一安心だけど、夏休みは気が重いな。碁会所に行くったって、二人で行ったら1500円だぞ。どうすんだよ。

佐為は読み終えた本を閉じると、言った。

「ヒカル、夜もふけたことですし、私はこれで帰りますよ。」

にこやかに手を振り、佐為は時空に消えた。

それを見送ると、ヒカルは、ごろっとベッドに転がり、呻いた。

「佐為が来るんじゃなくて、俺が行くのが正しい時の旅だ。最近まともに碁を打ってない気がする。疲れた。」

 

 

金が無くても碁が打てる場所ってあるのかな。

登校途中に、そんなことを考えながら歩いていたら、「進藤君。」そう声をかけられた。振り向くと筒井が居た。

「筒井さんか。おはようございます。」

「何、深刻そうに考えてたの?」

「ううん。別に。ちょっとさ、囲碁部じゃなくて、ただで碁を打てるところって、あるかなあと思って。だって碁会所は高いじゃないか。そんなに行けないし。」

「へえ。進藤君。おじいさんと囲碁部じゃあ物足りない?そうだね。無料で打てるっていうと、たとえば囲碁祭りみたいなイベントだったら、できるかもね。そうだ。」

そう言うと、筒井はリュックから紙を取り出した。

「今日、部室で渡そうと思ったんだけど、進藤君、ここに行ってみない?碁は打てないけど、観戦はできるよ。」

ヒカルはビラを見た。

第14回NCCトーナメント杯。

「なーに?これ。」

ヒカルは聞いた。

「うん。棋戦を観戦できるんだよ。プロが打つ対局を見れるんだ。説明もあるよ。」

 

ちょっと面白そうかな。佐為も誘ってみようか? いや 、やめよう。佐為は喜ぶかもしれないけど、やっぱやめよう。

 

ヒカルは次の日曜日に筒井とNCCトーナメント杯の観戦に出かけた。大盤解説をしていたが、ヒカルは何となく集中できず、筒井を置いて、ふらふらとロビーへ向かった。

ロビーの一角では、子どもが一人パソコンの前に座っていた。会場の係員がその傍で、いろいろ説明していた。

画面には碁盤があった。

へえ、囲碁ゲームってあるんだ。

ヒカルはその傍に寄った。

 

係りの人が振り向いた。

「君はお父さんか誰かと来たの?」

「ううん。友達と。」

「へえ。珍しいね。」

「俺、囲碁部なんだ。」

「そうか。君のうちにはパソコンあるかな。」

「ない。」

「じゃあ、インターネットとか興味ないかな。」

「インターネット?」

「今この子インターネットで対局しているんだよ。この子が黒。でほら今相手が白石打ったろ。次にこの子が黒石を打つ。」

 

「おいおいそんなところに置いたら、石とられちまうぜ。…ほらな。」ヒカルは呟いた。

パソコンの前に座っていた子は腹を立てて、キーボードをバンと叩き、ゲームを中断して行ってしまった。

係りの人は叫んだ。

「ああっ、これはテレビゲームじゃないんだよ!相手がちゃんと居るんだぞ!!」

それから慌ててホローしようとキーボードに向かった。

「すぐ謝らなきゃ。ええと、すみません。ゲームを勝手に中断して」

 

―zelda>テメ――ッ!オオイシトラレタカラッテキルナ!バカヤロ――!!

 

「ああ、先に書かれちゃったか。」

「うわーっ、オモシロ―。」

「向こうの人は子どもかな?」

「子ども?コイツ子どもなの?」

「いや、わからない。このセリフといい、登録名といい、子どもじゃないかなと思っただけだよ。」

「登録名って?」

「インターネットの中で使う名前のことだよ。ほら、このzeldaっていうのがそう。インターネットはカオも年齢も本名も表に出ないから分からないんだよ。もちろん子どもも利用するけど、子どもだけじゃないよ。外国の人だって、ほら…。」

ヒカルは熱心に説明を聞いた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

大幣33

『大幣』31~40
アキラと生身の佐為の初顔合わせ、ネット碁
(主な登場人物…佐為、ヒカル、導師、筒井、三谷の姉、市川、和谷、フク、アキラ、緒方、sai、zelda)


インターネットのできる店ってここか。

ヒカルは扉を開けた。明るい店内にパソコンがいくつも並んでいた。

 

「進藤君ね。祐輝から聞いてるわ。」

笑顔を見せて、席に案内してくれたのは、三谷の姉だった。

 

「“ワールド囲碁ネット”?そこにアクセスすればいいのね。私、パソコンのことは分かるけど、碁のことは分からないわよ。」

「うん。後は大丈夫。やり方分かるから。」

彼女が操作するの眺めながら、聞いてみた。

「ねえ。三谷ってどこで、碁を覚えたの?」

「死んだおじいちゃんからよ。それから碁の打てる小学校の先生が居て、よく相手をしてくれたのよ。」

三谷の姉は、マウスをヒカルに渡しながら聞いた。

「祐輝って強いの?」

「強いよ。知らないの?」

「へー、そうなんだ。君は?」

「俺?そうだなあ。三谷と同じくらい強いよ。」

三谷の姉はそれを聞いて笑った。

 

受付に行きかけた彼女に、ヒカルは囁いた。

「ホントにお金、いいの?」

「ええ。私が居る時だけよ。」

「今度もう一人連れてきてもいい?」

「いいけど、その時はお金は取るわよ。進藤君一人の時だけ、特別よ。」

 

三谷の姉が行ってしまうと、ヒカルはちょっとため息をついた。

佐為はやっぱ連れて来れないなあ。お金かかるんじゃあ。

まあ、しかたない。どうするか、また後で考えよう。

明日は海に行くんだし、今は碁を打つぞ。

ヒカルは、登録名にKUROと打ち込むと、それを満足そうに見つめた。それから、適当に相手を選ぶと画面に集中し 始めた。

 

 

佐為は、ヒカルの部屋にいた。慣れた手つきで着替えを済ませると、ヒカルが用意してくれている水筒のぬるい麦茶を一口すすった。

 

「時の旅は疲れます。喉が渇きましたよ。お母上が出かけられるまで、水も飲めないのですから。」

一度そう言った時に、ヒカルが考えて用意してくれたのだ。

「面白い入れ物ですね。」

佐為が漫画のキャラクターのついた水筒をしげしげと眺めると、ヒカルはちょっと懐かしそうに言った。

「小学校の時に使ってたんだ。今はちょっと使えないし。それに少ししか入んないんだ。」

「好きな時に部屋の外に出られないなんて本当に不自由なことですよ。」

ヒカルはそれを聞くとぶすっと言った。

「そう思うんだったら、来るなよな。」

 

そのやりとりを思い出しながら、佐為はくすりと笑った。

ヒカルはすぐむきになるから。まあ、子どもですから。しょうがないですね。

それでもあれには参りましたね。

「トイレに行きたかったら、平安に帰れ。」というのは。ヒカルったら全く…。

お母上は4日の間は、きちんと午後出かけられますが、3日間はいつお出かけになるか分からないのですからね。

もっともヒカルの父に出会ってから、3週間近くたった今、佐為はそれほど街中を出歩くことに執着は無くなった。

電車やバスというものに乗れば、遠くまで出向くことはできる。しかし乗り物には料金がかかる。賭け碁でせしめた金の置物でも 平安から 持ちこめれば…こちらで売れればいいのですけどね。

佐為は本当にそのことを真剣に考えて、一度試みたものの、結局、身につけた衣服以外、平安の世から持ち出せるものは無かったのだ。

 

時の旅が叶ったとはいえ、行きたい日時を選び取れないのは不便なものだ。いつかそういう技も身につけられるのだろうか。

平安ではヒカルを自由に歩かせるわけには行かない。ヒカルの時代は平安のような危険は無くても、別の意味で自由に行き交うこと ができない。

本当に時の旅とは、条件が揃わなければ、つくづく困難なものだ。

それが佐為の結論だった。

 

ヒカルは今日は友達に誘われて、海に出かけている。

海に行くという話を聞いた時、いつもの会話が交わされた。

「私も行きたいです。」

「だめっ!車で出かけるんだ。友達のお父さんが運転して。子どもが3人で満杯だもん。 佐為の乗れる場所はない。それに海水パンツ持ってないじゃないか。」

普通の人々が、遊ぶために海に入って泳ぐ。テレビのニュースで見たが、面白そうな、奇妙な光景だった。本当に人間の営みは変われば変わるものだ。

「帰りが遅くなる。もし佐為が来ても帰る時、俺は居ないよ。大丈夫だよな。お母さんはいつもどおり仕事に出かけるって 言ってるけど、でも5時に帰ってくるからな。佐為が出かけるんだったら、5時前に部屋に戻るんだぞ。絶対だぞ。」

 

時間があるというのは厄介なものです。時の旅をしていながら、佐為は時間を呪った。

 

それから言ってみた。

「5時を過ぎるとどうなるんでしょうね?」

「お母さんに見つかる。それからみんなに知られる。」

「知られたらどうだというのでしょうか。」

ヒカルはちょっと考えた。

「さあ。分かんない。でも、もしかしたら…」

「もしかしたら?」

「石の力がなくなっちゃうかも。秘密の石なんだろ。その秘密がみんなにばれちゃったら。」

佐為は頷いた。

「そうですね。そういうこともあるかもですね。」

 

やはりヒカルもそう感じているのか。

大勢の人に知られると石が働かなくなるかもしれないという危惧は、前々から佐為にもあったのだ。

 

階下で美津子の出かける音がした。

佐為は、本から顔を上げて呟いた。

「図書館にある書物はどれも初心者向けだ。棋譜の書以外は。それでもコミと時間制限のある碁に慣れるまでは私には有用 だったが 。でも私は書物ではなく、ここに出ているような対局をしたいのだ。碁を打ちたいのだ。」

この時代の優れた碁打たち…。

佐為は棋譜の本を脇に追いやった。

それは好局集シリーズという本だった。

この本因坊戦もこの世界戦も。そして特にこれ、この名人戦のような対局。

どうしたらそれが可能になるのだろう。今みたいにヒカルの部屋にこもるだけの時の旅だったら、私には何にもならない。

 

そろそろ昼時だった。佐為はそっと階下に降り、 ヒカルが用意してくれているカップラーメンにお湯を注いだ。それはヒカルが居ない時の佐為の非常食だった。

それから冷蔵庫の野菜室からきゅうりを取り出した。佐為の今のお気に入りはマヨネーズだった。 マヨネーズをつけたきゅうりをかじりながら、佐為は新聞に目を通した。中ほどにいつも小さな囲碁欄があるのだ。

 

それを見ながら、佐為は急に決心した。

「そうです。これから碁会所に出かけて見ましょう。ヒカルと一緒でなくても大丈夫ですよ。大体の雰囲気は分かってます。」

佐為は以前、三谷と出会った碁会所を思い浮かべてから、首を振った。

駅前の碁サロンというところに行くのです。名人に会える確率はほとんど無いようだが行って見なければ分からない。 会えるかもしれません。

 

佐為は二階に上がり、ヒカルが佐為のために分けてくれた引き出しを開いた。そこには時の石とこの家の玄関の鍵、それに千円札が一枚入っていた。

「これは碁会所の料金。佐為の分。」

ヒカルが7月分の小遣い、全額を取っておいたのだ。

あの時、佐為がすぐに行きたいといったら、ヒカルは言ったものだった。

「二人で行くと1500円で足りない。それに詰まんない奴しかいない時に行っても千円が無駄になっちまう。碁会所に行くんだったら、強そうな奴が居る時じゃないと。夏休みになったら、ゆっくり行こうぜ。 祖父ちゃんから千円せしめるから、一緒に行けるよ。」

佐為は聞いたものだった。

「強い人が居ると、どうやって分かるんです。」

「金を払う前に、打ってる奴を観察すればいいじゃんか。佐為ならすぐ分かるだろ。打ちたい相手がいたら、受付で金を払 えばいいよ。」

 

ヒカルは、お金のことになると細かいんですからね。

佐為は思い出して、くすくすと笑った。

でも無駄遣いするよりはいいです。ヒカルは何もけちというわけじゃ、全然ありませんしね。

何といってもヒカルは私のために小遣いをこうして置いてくれてるのですから。感謝せねば。

 

散歩の途中で、何度か見上げていたビルの前に来ると、佐為は慣れた様子でエレベータに乗り、碁サロンに足を踏み入れた。

 

ヒカルが言っていた通りですね。あそこの碁会所とは、えらい違いですね。

その日は店内は閑散としていた。明るいサロンを見渡しながら佐為は思った。

人が少ないですよ。今日はやっぱりやめるべきでしょうか。

 

その時、受付の市川が声をかけてきた。

「初めてですか。棋力がお分かりになれば、適当な方をご案内しますけど。」

ヒカルの忠告を思い出し、佐為はここぞとばかりにっこりした。

「あっ。そうですね。ええ。そこそこの腕前なんですが、今日は人が少ないようですね。」

「ええ、今の時間は。夕方になると人が増えるかと思いますけど。」

「あの、ちょっと拝見してもよろしいですか。」

「ええ、どうぞ。」

佐為は何組か打っているテーブルをゆっくり見て回った。

 

なるほど。ヒカルの言うのも頷ける。ここの連中は、ヒカルよりはずっと上手だが、この程度なら、ヒカルと打つ方がいいかもしれない。ヒカルの小遣いを使うほどではなさそうだ。 やっぱり今日はやめよう。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

大幣34

『大幣』31~40
アキラと生身の佐為の初顔合わせ、ネット碁
(主な登場人物…佐為、ヒカル、導師、筒井、三谷の姉、市川、和谷、フク、アキラ、緒方、sai、zelda)


佐為は熱心にテーブルを回っていたので、男の子が一人、店に入ってくるのに気づかなかった。

その子は奥の隅に腰を下ろした。

出口に戻ろうとした佐為は、お茶を運んできた市川と接触してしまった。お茶がこぼれ、ズボンをぬらした。

「すみません。今お拭きしますね。」

市川は急いでタオルを取りに戻ろうとした。

「いえ。私がうろうろしていたものですからいけないのです。大丈夫ですから。」

佐為はそう言って、ポケットからくしゃくしゃのハンカチを出してズボンを拭いた。

「すぐ乾くと思います。今日はこれで失礼して、改めてまた参りますから。」

「でも、その格好で外には、ちょっと…。」

 

そういいながら市川は思っていた。

普段はこんなことは無いんだけど、この長髪の黒髪のせいよ。きっと。アキラ君もこうしたら意外と似合うかもね。

 

その時、アキラが言った。

「市川さん。この人は誰かと打つの?」

市川の代わりに佐為が答えた。

「私、まだ受付を済ませてませんよ。」

アキラは頷いて市川に言った。

「じゃあ、僕が相手をするよ。いいよね。市川さん。」

「ええ。アキラ君。そうしてくれたら助かるわ。でもいいの?」

「うん。今日は時間あるし。」

 

アキラ? この少年があの塔矢アキラなのか。滅多にない機会かも知れぬ。

佐為は、即座に決めた。

「では、お言葉に甘えて。ズボンが少し乾くまで、ちょと、お相手をお願いします。」

 

「棋力はどのくらいですか?」

アキラは佐為に訊ねた。

「ああ、正確なところはわかりませんが、そこそこ強いですよ。」

アキラはくすりとした。

そこそこって。この人、どういう人なんだろう。碁会所に行ったことないのかな?

それにこんな長髪で、服装もちょと碁会所で碁を打つ感じのタイプじゃないみたいな。

「棋力測ったこと無いんですか。」

「ええ、でも碁は小さい頃から打ってましたから。外の人ともたまには打ってみた くて、ちょっとこちらを覗いてみました。」

小さい頃から?っていうとお父さんとか、おじいさんとかとが打ってたのかな。

この人、もしかして僕が子どもだと思って安心してる?

 

アキラは石を握った。

「あなたが黒ですね。」

「よろしくお願いします。」

 

石を置く手つきをみて、アキラは慣れてる人だなと感じた。

やっぱり、子どもの頃から打っていたというだけあるかも。この碁って定石どおりかな。少し古い定石っぽいけど。 この人のおじいさんが教えたのかな。

 

佐為は帝と打つ時のように、碁盤に載せるようにすっと石を置いた。それは柔らかにしなう葦のようで、どんなに打ち込まれてもいつの間にかすっと立っているという風情だった。

 

僕の打ち込みにも動じない。それよりも軽やかにかわしていって。

局面をいつもこの人はリードしている。

 

その時アキラは佐為がすっと置いた黒石をみつめた。

 

古い定石で始まったようにみえたけど…。これは…。最善の一手でも、最強の一手でもない。

僕の力量を図っているんだ。恭しく下座から石を置いているけれど。でもはるかなる高みから僕を眺めている。

アキラは気が遠くなりそうな感じがした。

 

「ありません。」 一度目はすぐに終わった。

 

市川は、受付から、ちらりと、二人の様子を眺めた。

アキラは背を向けていたが、佐為の楽しそうな表情は見えた。

「良かった。アキラ君が居てくれて。あの人、あんなに楽しそうで。アキラ君、上手くやってくれてるんだわ。」

 

アキラは佐為に言った。

「もう一度、打ってくれませんか。」

「ええ、いいですよ。」

「今度は僕が黒でいいですか。」

「はい。お願いします。」

 

アキラは、じっと考えた。この人は序盤は古い定石で始める癖があるのか?

ならばそこに付け入る隙がある。さっきは油断してずいぶん甘い手を打ったけど、今度は大丈夫。いけるかも。

 

佐為はこの場を心の底から楽しんでいた。

塔矢アキラとヒカル、負けん気だけはどちらも引けをとらない。しかし、やはり、子どもの頃から切磋琢磨していただけのことはある。

いや、それだけではない。この子はただの子どもではない。未熟ながら輝くような手を放ってくる。この子の成長が楽しみだ。将来は獅子に化けるか龍に化けるか。

 

それから考え込んでいるアキラの顔を見て嬉しそうな顔をした。

この子は今私に牙を剥いている。受けてたちましょう。この対局、楽しみですよ。

私は今、やっとヒカルの時代へやってきた意味をもらった気がする。久々の心躍る碁ですよ。

 

アキラが気を入れて打った碁もやがて決着がついた。

また負けた。完敗した。

アキラはじっと、下を向いていた。

 

「検討をしましょうか。」

相手が負けてがっくりと来ることに慣れている佐為は、物柔らかにそう言った。

しかし、その時ふと気づいた。随分時間がたってしまった気がする。

「今、何時でしょうか。」

そして、ぐるっと見回し、壁にかかっている時計に目をやった。4時45分?

「しまった。もうすぐ5時です。私は失礼しなくては。いつか、また。」

佐為は、そういうと慌てて立ち上がり、すばやく出口に向かい、受付の女性に軽く会釈して、碁会所を後にした。

 

あっという間の出来事でアキラは呆然とその後を見送った。

なにもかも眩暈がする気分だった。

お父さんの弟子の人たちには負けることはよくある。今日打った人より、若い人 の時だって。

でも今日の碁はそういう碁とは違うんだ。

あの人はいくつぐらいなんだろう?20代だと思えるけど。緒方さんぐらいかな?

プロじゃないことは確かだ。たぶん…でも。

 

彼は東京にやっと慣れたとか言っていたけど。

なまりが少しあった?京都の方かな?

いや、あの丁寧な口調は、もしかして外国から来たのかな。

 

それよりも僕はあの人の碁に何か覚えがある気がする。それが思い出せないけど。 いつどこで?あの人に会うのは初めてだ。だとしたらどこで見たんだろう?

 

「市川さん。今の人、なんていう名前?」

アキラは市川に声をかけた。

「それが、受付をする前だったのよ。分からないわ。」

 

分からない?

 

アキラは窓から通りを眺め下ろした。佐為はもう通りには見当たらなかった。

アキラは、ふともう会えないのではと思った。

また、いつか。 あの人はそう言ったけど、また来るのだろうか、ここへ。

何で名前を聞いておかなかったのだろう。

 

その時、佐為の座っていた椅子にハンカチが忘れられているのに気づいた。

ズボンを拭いてから、そこに置いたままだったのだ。

慌てて帰ったから忘れちゃったんだ。

何か大切な約束があったのかな。あの慌てようは。

ここはそれまでの時間つぶしだった?

 

アキラは、そのくしゃくしゃのハンカチを手に取った。

何の変哲もない白のハンカチだったが、彼が残した唯一の手がかりだった。

アキラはそれを広げてみた。

ハンカチの端にマジックペンでしっかり名前が書かれていた。

 

 葉瀬中一年 進藤ヒカル



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

大幣35

『大幣』31~40
アキラと生身の佐為の初顔合わせ、ネット碁
(主な登場人物…佐為、ヒカル、導師、筒井、三谷の姉、市川、和谷、フク、アキラ、緒方、sai、zelda)


アキラは、自分の部屋で悶々としていた。

何度今日の棋譜を置いたことだろう。

痺れるような体験だった。

彼の打つ手に引きずりこまれるような。

僕が油断してたから、やられた。いや、そうじゃなくてあの人は強い。

最初は確かに僕にも油断があった。でも二度目は…。

 

こうやって並べてみると、攻める手が浮かんでくる。この次は今日のようにはいかない。いや、いかせない。もう一度打ちたい。

あの人は「いつか、また」って言った。その日は来るのだろうか。

あの人は別に隠れるつもりはなさそうだけれど。

アキラはのんびりと楽しんでいるような佐為の様子を思い浮かべた。

 

もしかしたら、二度と会えないんじゃないか。

アキラはそんな予感がした。それから、それを打ち消すように頭を振った。

絶対、もう一度だけでもあの人と打ちたい。何で名前を聞いておかなかったんだろう。

 

それから、アキラは机に置いたハンカチを見た。

唯一の手がかり。進藤ヒカル。

あの人は進藤の知り合いなのだろうか?ハンカチを持っているということは。

いや、そういうことと関係なく、間違いなく進藤はあの人を知っている。

だってあの棋譜は間違いなくあの人のだ。

アキラは、ヒカルが以前、置いた棋譜を思い浮かべた。

 

前は何故か腹立たしかったけど、今はヒカルが棋譜並べをした気持が分かる気がした。

進藤は自分が打ったのではない棋譜を並べてたけど、きっとあんな碁を打ちたいと思ったに違いない…。 あの人が対局をしているのを見たに違いない。

あの人と進藤はどういう知り合いなのだろうか。

少なくも進藤はどこに行けばあの人に会えるか知っている筈だ。

明日、進藤に会いに行こう。

アキラは、そう決心して、やっと布団にもぐりこんだ。

 

 

翌日、アキラは海王中へは行かず、まっすぐ葉瀬中へ急いだ。

葉瀬中の門の前に来てアキラは戸惑った。校庭では、野球部の練習が行われているようだが、校舎にはひと気が感じられなかった のだ。

 

その時、ちょうど校舎から人がでてきた。その人は目ざとくアキラをみつけた。

「海王中の生徒さんかしら?何かご用。」

アキラはほっとしたように言った。

「あの一年生の進藤ヒカル君に会いたいんですが。囲碁部の。」

「囲碁部?進藤君?今日から夏休みなのよ。実質的には昨日の日曜からだけど。で?急用かしら?」

「あ、いえ。違います。でももし進藤君の家が分かれば教えて頂けないでしょうか。」

先生らしき人は申し訳なさそうに言った。

「残念だけど、それは無理かな。君は海王の囲碁部なの?だったら顧問の先生に伺えば分かるんじゃないの。」

「あ、ええ、その…。」

「そうね、急ぎでなければ9月にいらっしゃい。部活のことだったら二学期でも構わないんじゃないの。」

アキラはしかたなく頷いた。

 

その晩アキラはまた佐為との対局を並べながら思った。

そもそもあの碁サロンで偶然出会えたのが奇跡なんだ。とにかく9月まで待とう。

 

 

 

 

 

海王中も翌日から夏休みに入り、間もなくアキラのプロ試験予選が始まった。

休憩時間、知り合いのいないアキラは一人隅で詰碁集を読んでいた。

試験会場は院生も多く、彼らの話し声が聞こえた。

「和谷君てば、どうしたの。何考えてんのさ。前半にポカでもやったの?」

「やってないよ。うるせえな。」

「和谷君、カリカリし過ぎだよ。本当に何かあったの。」

「昨日ネット碁やってたら、やたら強いのにやられたんだ。」

今日の試験を前にいっちょ勝って景気づけしようと思ったのに負けたんだ。ったく。縁起悪いぜ。

それに、あの書き込み。ああ、ちくしょう、腹が立つ。何なんだよ。まったく。

「へえ。ネット碁にも強い人いるんだ。和谷君が負けるなんて。」

「いるよ。プロだっているんだから。」

「だったら和谷君、その人にまた鍛えてもらったら。」

「フクは自分の心配でもしてろ。」

そんな会話が耳に飛び込んできたが、アキラは全く関心がなかった。

プロ試験そのものがアキラには生ぬるいものだった。ましてや予選は、さらに。

これはプロになるための単なる手順に過ぎないから、それを淡々とこなすだけだ。

そっとため息をついた。

僕はプロになること以上にやりたいことがあるのに。

 

 

予選は何事もなく過ぎ、プロ試験を1週間後に控えた日、アキラは緒方に誘われて、国際アマ棋戦の会場に来ていた。普段なら来ない 場所だ。

でももしかしてあの人が来ているかもしれないから。 いや、あの人は対局をしないようなことを言ってたな。

   …外の人ともたまには打ってみた くて…

あれってどういう意味なんだろう。

 

もしかしてと、微かな希望を抱きつつ、アキラは会場を見回した。それから落胆したように呟いた。

やっぱりいない。

それにしても妙に会場がざわついている。何だろう。

 

「だから、強いんです。強い棋士がいるんです。」

「私も今日ここへ来たら、何か分かるんじゃないかと思っていました。」

そんな声が耳に飛び込んだ。

 

「どうかしたのですか。」

緒方が会場係りに尋ねた。

「いや、ネットに強い棋士がいるそうなんです。それで、その噂で持ちきりで。」

「私は彼と打って中押しで負けました。」

 

「もしかしたらプロじゃないですか。その人は。」緒方はそう言った。

「いや、プロではないでしょう。saiはよく現れるし、相手を選ばない。プロがそんな暇なことをしますか。」

「あの、私はsaiと打ったことはないのですが、友人、韓国のプロ棋士愈七段に頼まれてきました。彼はsaiと打ったのです。それで日本に行ったらsaiは誰か聞いてきて欲しいと。」

「一体saiはどのくらい強いのですか?」

「sai?そういう名前なんですか?」

 

「あの、saiの話しですか。俺、彼はプロじゃないと思いますけど。」

和谷がその話に割って入った。

「それはもう聞いた。そいつはどんな奴だった?」

「ええっと…どういう奴って、その、打ってみると手筋はなんだか秀策みたいだなと、ふっと思ったんですが。俺、よく秀策の棋譜並べるんで。」

「本因坊秀策?」

「っていうか、それ位強い感じがあって。それから何度も見るんですけど、アイツ。」

「で?」

「アイツ。強くなっているんです。どんどん。秀策が現代の定石を学んだみたいに。」

 

緒方はアキラの方に振り向いた。

「秀策が現代の定石を学んだそうだ。そいつは神か、或いは化け物かな」

 

アキラはその言葉に眩暈がした。

緒方さんは知らないから信じていないけど。でも僕には分かる。あの人に違いない。きっと。

そう、あの人は現在のルールは知っていた。でも、打ち方は少々古いような。だからおじいさんか誰かに教わったのじゃないかと。でもそれでも強かった。ものすごく強かった。あの人がさらに強くなったというのか?

sai …  きっとあの人だ。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

大幣36

『大幣』31~40
アキラと生身の佐為の初顔合わせ、ネット碁
(主な登場人物…佐為、ヒカル、導師、筒井、三谷の姉、市川、和谷、フク、アキラ、緒方、sai、zelda)


佐為は平安に戻った。

 

あの日、碁サロンから慌ててヒカルの家に戻った。

まだ誰も帰っていないようだった。良かったと思いながら、佐為はジョギングシューズをいつものように靴箱にしまうと、ヒカルの部屋に向かった。

少し考え、ヒカルの机の紙切れに鉛筆でメモ書きし、千円と一緒に引き出しにしまった。

 

<ヒカル。海は楽しかったですか。私は今日、ちょっといい体験をしたのですよ。 いえ、すごくいい体験と申すべきか。まあ、今度ヒカルが私のところへ来た時、ゆっくりその話しましょう。 佐為>

 

千円使わなくて良かったですよ。

やっぱり、ヒカルと一緒に行かなくては。ヒカルの好意なんですからね。碁会所に行こうというのは。

 

それを思い出しながら、いろいろゆっくり考えようと、佐為は目を閉じた。

静かだ。ヒカルの家がうるさいという訳ではないが、やはり私にはこの邸が一番安らぐ。

いや、この平安の御世が一番安らぐというべきか…。

このところ、移動が激しすぎた気がする。導師ではないが、石が磨り減らないか心配にもなろう。

 

それからいたずらっぽく笑った。

ヒカルは今頃、メモを見ているんじゃないですか。慌ててくるでしょうかね。

きっと来ますよ。なぜなら、私はそのようにメモを書いておいたのですからね。

 

しかし、その日、いくら待ってもヒカルは来なかった。

佐為の顔はだんだん険しくなってきた。

まったく、ヒカルはなにをしているのでしょう。私が行った方がいいのでしょうか?

いえ、とんでもない。ヒカルが来るのが筋というものです。

 

そのうち、佐為には別のことが浮かんできた。

これはもしかして時間が変わってきたのではないか?

初めてヒカルがこの平安の御世に来た時言っていたが。 ヒカルの時代とここでは時間の進み具合が違うと。もしそうなら一体どのように変わったのだろう。

 

 

佐為が悶々と二晩をすごした後、ヒカルが元気よく現れた。

佐為はほっとした。それと同時にひどく腹を立てていた。それでも腹立ちを見せないように、皮肉混じりでやっと言った。

「ヒカル。もう私のことを忘れたんじゃないかと思ってましたよ。」

しかしヒカルに皮肉は通じない。

「何言ってんだよ。佐為が帰ってから、まだ二日しかたってないんだぜ。そんなことよりさ。俺、ビッグニュース持ってきたんだぞ。」

 

佐為はヒカルを眺め回した。

「ヒカルは何も持ってきてないではないか。そのビッグニュースとやらはどこにあるのか。」

ヒカルは口をあんぐりあけ、それから笑い出した。

佐為が現代人じゃないってこと時々忘れるんだ。俺って。

「あのさ、持ってきたのは話だよ。すごくいいことがあるんだよ。そういや、佐為もメモに書いてたよな。すごくいい体験をしましたって。それってなんだ?ああ、俺 の話を先にする?どっちがいい?」

 

今私が塔矢アキラの話をしたって、ヒカルは自分のことに気をとられて、ろくに聞かないに違いない。

「ヒカルの話を先に聞きましょう。」

ヒカルは頷いた。それから佐為が何となくツンツンしていることに気がついた。

そうか。佐為のやつ、俺がすぐに話を聞きに来なかったから怒ってるんだな。きっと。厄介だな。

ヒカルは、佐為のご機嫌を取るように話し始めた。

 

「あのさ、俺が海から戻ったら、佐為いなかっただろ。で、来なかったのかと思ったら、引き出しにメモがあった。いい経験て何か 、すごく気になってさ。すぐ聞きに佐為のところへ行こうと思ったんだぜ。でもその時ちょうど、お父さんが帰ってきてさ。

お父さんが言うにはさ。知り合いの人が、夏の間中、東京のマンションを留守にするんだって。そのマンションがさ、俺んちから自転車で30分くらいなんだって。でもって、その 家にパソコンがあってさ、好きに使っていいって言われたんだよ。」

 

佐為には話しがよく飲み込めなかった。

「それが私とどういう関係があるんです?」

ヒカルはネット碁の話を佐為にしてなかったのを思い出した。

そうだ、でもどうやって佐為に説明する?

ヒカルには佐為にうまく説明する自信はなかった。

 

「ええっと、要するに、そのパソコンて機械があったら、それでいろいろな人と碁が打てるんだよ。タダで。明日でも一緒に行ってやり方をみせるよ。碁会所に行かなくても。碁が打てるんだよ。なっ。ビッグニュース、あっ、いい話だろ。」

 

佐為にはイマイチよく分からなかった。でも要するに。

「その人のお蔭で碁が打てるのですね。」

ヒカルは頷いた。

「そう。それで昨日その家に行って来たんだ。それで、忙しくってさ。ここに来れなかったんだ。」

ヒカルは佐為の顔をうかがった。

「それでさ。佐為のすごくいい体験て何さ。」

 

「ヒカル、気にしてますか?」

佐為は満足そうにたずねた。

「当たり前だろ。」

何かとんでもないことしたんじゃないかって、気になってしょうがないんだよ。

ヒカルは心の中でそう呟いた。

 

「実は私一昨日碁会所に行ったんですよ。塔矢名人の碁会所に。そうしたら誰に会ったと思います?」

「まさか、塔矢名人?」

ヒカルはぎょっとして聞いた。

「会えればよかったんですが、あの者はいませんでした。その代わり塔矢アキラに会いました。それで彼と打ったのですよ。」

やっぱ佐為の奴、一人にしとけないよ。ったく。でもまあ、塔矢は強いって言ってもプロじゃないんだしな。まあ、いいか。

「それでどっちが勝ったの?」

佐為はその言葉に傷ついたように言った。

「私が負けるわけないでしょう。」

「じょ、冗談だよ。冗談に決まってるだろ。あいつどうだった。」

 

「ええ、とても充実した対局でしたよ。ああいう碁を打ったのは久々でした。」

そう言うと、佐為は何故、塔矢アキラと打つようになったのかを詳しく話し始めた。

 

「ふーん。そうか。だって千円はそのままだったもんな。ラッキーじゃん。」

「そういえば、私、名前を登録するとかしてませんでしたし。塔矢アキラに名乗ってきませんでした。」

「いいんだよ。」

名前が分かったら、何か厄介なことにならないか?いや、塔矢の奴は、碁のことしか頭にないから、佐為がどういう人かなんて気にしないかな。

まあ、どっちにしても俺の名前もでてないんだし。佐為が楽しかったって喜んでるんだし、良かったんじゃないかな。

ヒカルは気楽にそう思った。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

大幣37

『大幣』31~40
アキラと生身の佐為の初顔合わせ、ネット碁
(主な登場人物…佐為、ヒカル、導師、筒井、三谷の姉、市川、和谷、フク、アキラ、緒方、sai、zelda)


マンションの住人は一人暮らしで、パソコンはその部屋の主のようにでんと置いてあった。

ヒカルはその部屋で佐為に使い方を説明した。

佐為はすでに現代のいろいろな家電に慣れていたので、案ずるほどのこともなく、やり方を飲み込んだ。

「とりあえず、手順をしたためておきましょうか。」と、佐為は電源を入れるところから、紙に細かく書き込み始めた。

 

 

「そうだ、登録名だけどsaiでいいよね。」

「saiで佐為と読むのですね。」

「うん。最初は誰にする?って、誰もしらないから、適当に、こいつにしてみよう。BELだってさ。どこの国かな。」

ヒカルは対戦を申し込むところまでやると、席を入れ替わって佐為にマウスを渡した。

佐為が画面に向き合い、スムーズに対局が始まった。

「わあ。これは楽しいですね。」

「楽勝じゃないか。」

「ええ、この人はヒカルより弱いみたいですよ。」

「それは余計だ。」

「あっ、でも…。」

佐為が手を止めた。

「どうしたの?」

「石を置く場所を間違えてしまいました。うっかりクリックしちゃって…。」

「じゃあ、負け?」

「いえ、相手は全然分かってないみたいですね。勝っちゃいましたよ。」

「じゃあ、次はこれにしよう。RUSだ。」

 

しばらくして佐為が言った。

「ねえ、ヒカル。それでも私は理解できませんよ。なぜ遠くにいる者たちと打てるのか。」

「佐為。俺に説明を求めるなよ。できるものはできるんだから。」

それからヒカルは、ぽつっと言った。

「考えてみたら。本当に不思議なのは、俺と佐為じゃないのかな。遠くにいるのに石一個でこうやって会えるんだものな。」

 

 

最初の二日は、 佐為はヒカルの部屋で服を着替え、マンションに向かった。しかし5時までにはまた戻らなければならない。

「なんか時間がもったいないな。」

「これがヒカルの部屋にあればいいのですけどね。そうしたらいつでも打てるのに。」

佐為の言葉にヒカルが言った。

「ねえ、佐為。一度ここに石を置いてみよう。佐為がまっすぐここに来れれば、楽だもん。試してみる価値はあるよな。 」

 

翌日早く、ヒカルは石をパソコンの傍に置いてどきどきしながら待った。

佐為は何なくヒカルの前に現れた。

「これでOKだな。着替えはいらないだろ。」

「ええ、狩衣姿のほうが落ち着きますから。私はやっぱり石に呼ばれているのでしょうね。」

 

翌日ヒカルがマンションに着いてみると、佐為はすでにパソコンの前にいた。

ヒカルは言った。

「いつ来たの?」

「ここに着いたのは空が白み始める前でした。平安では日の出とともに仕事をするのですよ。それに夏は特に早い。」

 

昼になるとヒカルは持ってきた弁当を出した。

「母さんに二人分作ってもらってるんだ。囲碁部の友達と一緒ってことにしてさ。 別に学校の囲碁部って言ってないから嘘ついてないもんな。佐為と俺と二人だけの囲碁部だもん。あっ、導師さんがいたら入れてあげれるけどね。」

佐為はちょっと微笑んだ。

「団体戦をするとしたら、さしずめ、私が大将、導師が副将、ヒカルが三将というところですか。」

そう言ってから佐為は美味しそうに弁当をぱくついた。

「ヒカルのお母様は料理が上手い。ヒカル。ご両親に感謝しなくてはなりませんね。」

ヒカルは口を尖らせた。

「今そんな話し聞きたくないね。それに弁当と引換に約束してるんだから。」

「何をです?」

「宿題をきちんと終わらせることだよ。」

「それって、当たり前のことじゃありませんか?それで宿題を持ってきたのですか。私はお手伝いできませんよ。ネット碁で忙しい から。」

「誰が佐為に頼むかよ。俺だってここに来た時は碁だけさ。勉強なんかするか。」

 

ヒカルは佐為の打つ碁を見るのが好きだった。佐為の方ものんびりと楽しんでいるようだった。

「あれ、佐為。そこさあ。俺だったらこっちに打ちたいな。」

「ヒカル。そこはないですよ。ほらこっちの方が大きいのですよ。」

佐為は打ちながら、いつも余裕で説明してくれた。

その様子を見ながらヒカルは思った。

もしかしたらどの相手も佐為には不足なのかもしれないな。 でもこの中にもきっと強い奴がいると思う。佐為みたいに。どうやったらそいつを見つけられるんだろう。

 

saiへの対局の申込が途切れた時、ヒカルは言った。

「今度はJPNにしてみよう。あれ。こいつ。zeldaだ。こいつにしてみようよ。」

「ヒカル。知ってるのですか?zeldaを。」

「知らないけど。ネット碁を教えてもらった時に見たんだよ。こいつの名前。子どもかもしれないって。」

「子ども?もしかして塔矢アキラとか?」

「まさか、こんな名前付けるわけないよ。あいつが。絶対違う。」

 

佐為はzeldaと打ちながら言った。

「塔矢アキラとまた打ってみたいですよ。」

「じゃあ、夏休み終わったら、碁会所行ってみようぜ。

あれっ?こいつ、まだこんだけしか打ってないのに、中押しの表示をしてきたぜ。」

「 この者は今までの誰よりも強いです。強いから形成判断が早く正確なのです。私の力量を知り、これ以上は無理と思ったのでしょう。力のない者ほどそういう判断ができず、もう勝てない碁を打ち続けるのです。昔のヒカルみたいにね。」

「一言多いよ。それよりさ、こいつに何か言ってやりたいな。チャットするんだ。」

「言う?チャット?ヒカル、できるのですか?」

「ローマ字苦手だけど、短いのならできるさ。何て書く?」

「えっ?そうですね。この子は幾つぐらいなのでしょう。もし小さい子どもだったら<ヨク ガンバリマシタ>ですか。いえ、それは絶対ダメですね。まずいです。

そうですね、<アナタノ ゴハ トテモ スジガ ヨクテ スバラシイ。 タノシメマシタ>はどうでしょう。」

「ええっ、長過ぎ。最初のでいいよ。だって小学校でも頑張りましたってハンコウもらうんだぜ。子どもなんだからさ。ええと、< ヨク ガンバッタ> うーん。 そうだ、<ナ>を付けてやれ。これでどう?」

「<ヨク ガンバッタナ>? ちょっと、ヒカル。いくらなんでもそれはどうでしょう。怒っちゃいませんか。かなり強かったですよ。zeldaは。 ヒカルの何倍も強いのですよ。そんなこと言われたらヒカルだって怒るでしょう。絶対ダメです。何も書かない方がましですよ。」

 

「いいよ。だってもう打っちゃったもん。」

「ああ、私はもう知りませんよ。」

「俺じゃなくて、saiだもん。俺、関係ないもん。」

「ああ、もうヒカルったら。私はもう二度とチャットなんてしませんよ。全く。あれ、もう返事が。」

「どれどれ、<オマエハ ダレダ! コノ オレハ “インセイ”ダゾ!>だって。院生なんだ。こいつ。」

「そういえば、前にヒカル言ってましたよね。プロになるために勉強している子どもたちのことだって。」

「うん。zeldaってそうなんだ。プロ目指してる奴なんだ。」

 

ヒカルはごろっと傍のソファに転がった。

「それにしてもさ。これって強さが分かるようになってればいいのにね。そしたら佐為も強い相手とだけ打てるのにさ。」

佐為はちょっと笑った。

「これって勉強になりますね。私にもですけど、ヒカルにも。自分で打つのが一番の勉強でしょうけど、こうやって 私が打つのを見るのも勉強になる筈です。」

「佐為の解説つきだしね。」

 

 

夏の間毎日ヒカルはマンションに通った。

佐為はいつもヒカルが着くともうパソコンに向かっていた。そしてヒカルが家に戻る時、平安に戻っていった。

 

ひと月はあっという間だった。

間もなく夏休みが終わろうとしていた。

「佐為。来週この部屋の人が戻ってくるんだって。それで、明後日お母さんが掃除に来るんだ。明日でここも終わり だね。」

「残念です。ネットの中には強い者も何人かいて、打ち甲斐がありましたし。」

「本当?zeldaみたいに強いのが?」

「いえ、zeldaよりもっとずっと強い者たちです。虎次郎の頃と同じくらいの手応えのある碁を打てましたよ。」

「でも佐為は負けなかったね。」

「勿論です。」

「そうだ、zeldaと塔矢とどっちが強い?」

「塔矢アキラでしょう。」佐為はあっさりと答えた。

「そうなんだ。だったら塔矢はプロになれるね、きっと。塔矢の奴、ネット碁やってたらいいのにね。」

ヒカルは対戦者のリストを眺めた。

「あっ、Akiraだって。これアキラって読むんだよ。」

「もしかして塔矢アキラでしょうか。」

「違うかも。アキラなんてよくある名前だぜ。でもためしに相手してみたら。もし塔矢だったらラッキーだな。」



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

大幣38

『大幣』31~40
アキラと生身の佐為の初顔合わせ、ネット碁
(主な登場人物…佐為、ヒカル、導師、筒井、三谷の姉、市川、和谷、フク、アキラ、緒方、sai、zelda)


外は雨だった。

アキラは、国際アマ棋戦の日から毎夜、ネット碁を覗いていた。

saiという登録名は目にできなかった。

やっとsaiというのを目にしたのは4日も経った朝だった。

saiの石は、画面上の碁盤を軽やかに舞っていた。アキラにはそのように見えた。

この強さはあの人の気がするけれど。

そう、確かに強い。でもこれはこの人の腕に見合う相手じゃない。僕が打てばあの人かどうか分かるのに。

アキラは対局が終わる度、何度か対局を申し込もうとしたけれど、なかなかあたらなかった。

saiに申し込む人が多いのだ

そしてsaiは夕方5時になると画面から消えた。

 

今日からプロ試験本戦というその日、アキラは起きるとすぐパソコンを開いてみた。

いつもの父との日課の早朝の一局は今日はなかった。行洋が棋戦のため、留守をしていたからだ。

 

まさか、こんな夜明けにsaiが居るとは思えないけれど。

アキラは苦笑しながら、画面を見つめ、はっとした。

 

そこにはsaiがいたのだ。 盤面にはすでに模様が広がっていた。

こんなに朝早くから? いや、ここまで打つには夜明け前から打ってる筈だ?

時差? もしかしてあの人は日本に居ないのかな?

 

そんなことを思いながら、アキラはじっと、その対局を眺めた。見応えのある対局だった。

まだ終わりそうもないな。そう思いながら、アキラは次の対局者になるためリストに名前を連ねた。

それにしてもと、アキラは思った。

朝からこんなに申込があるなんて、僕が対局できるわけもないけど。

その対局が終わり、一瞬、時間が途切れた気がした。

 

えっ?次の対局者は僕?

対局者に指名され、アキラは胸の高鳴りを感じた。

もしかしてsaiは僕のことを分かってて、指名してきたんじゃないだろうか。

そんな気がしたのだ。

いや、まさか。 仮にあの人がsaiだったとしても僕の名前を知っているだろうか。

ああ、そんなことはどうでもいい。とにかく二度とない機会だ。

アキラは深呼吸をした。そして、真っ直ぐに座りなおすと、画面と向き合った。

 

アキラは碁会所であった佐為の風貌を思い浮かべた。

あの人は今どんな顔をして画面に向かっているのだろう。

 

先手はアキラだった。

僕が黒。今度は負けない。あれからまだひと月しか経たないけど。研究したんだ。あの人の手の内は分かっている。今度は勝利 をつかみたい。

 

 

ヒカルは画面を見つめていた。

すごい。何か迫力が画面からわきだしてくるようだ。佐為は静かに画面を見てマウスで指示を出していた。

今回はヒカルは一言も口を挟まなかった。

昨日のAkiraは、塔矢じゃなかった。でもこのakiraはおそらく塔矢だ。巡り合ったのだ。

ヒカルには塔矢の真剣な顔が目に浮かんだ。

いつもはそれがやがて失望に変わるのだ。自分が臨む対局相手じゃなかったと。

でも今日は違う。塔矢にとっても佐為にとっても最高の時間が流れているのだ。

 

どのくらい経っただろう。

あっ。投了してきた。でもヒカルは声を上げなかった。

佐為はただ感慨にふけるようにじっと画面を見つめていたままだった。

しばらくしてやっと、ヒカルは聞いた。

「どうだった。こいつ。塔矢だった?」

「おそらく間違いないでしょう。」

佐為は上の空で答えた。ヒカルは不審そうに佐為をみた。

 

「佐為。感想は?」

佐為は我に返ったように少し微笑を浮かべた。

「あっ。ええ、そうですね。彼は力強い碁でした。…勝負勘はさすがにいい…怖いところでしっかり考えてきましたし…」

「塔矢の奴、強くなってた? ねえ、佐為?」

佐為はその声に現実に引き戻されたように答えた。

「強く?そうですね。強くなったのは私の方です。」

 

それはたった今、ほんの一月前に打った相手との対局で確かめられた事実だった。確かな棋力の持ち主との対局。

佐為は、自分の発したその言葉に気がつき身震いした。熱い思いが、たぎってきた。

私がまだ強くなれるとは。ああ、私はもっと打ちたい。限りなく神の一手に近づくため。私は今この時代に来た訳を実感している。

神の一手を目指すため。全てはそのためにある。

「このひと月半、いろいろな棋力の持ち主と打ち合いました。 ヒカルの時代の碁を。それが私を磨いたのだ。」

 

それから、ヒカルの方をにっこりと見た。

「そしてヒカル。あなたも強くなった筈です。あなたは、ここしばらく打ってないけれど、この私の打つ碁を見続けてきたのですから。」

佐為の言葉がヒカルの中でこだました。

強く?俺も強くなったって?

 

「今日は少し部屋を片付けて早く帰らなきゃ。石も持って帰るよ。今度来る時はここに現れるなよ。」

「石のあるところへ行くのですから、大丈夫ですよ。それにしても、もう終わりなのですね。本当に残念だ。 とても手強い相手もいましたから。名残惜しいことです。」

「俺、そのうちパソコン買ってもらうからさ。高校生になったら。そうしたらいくらでも打てるよ。

まあ、金さえ出せばネット碁を打つ場所はあるんだけどね。」

 

その時、佐為が部屋を眺め渡して、何気なく言った。

「ここも見納めですね。二、三度湯殿を借用しましたが、とても気持ちが良かった。何といっても水もですが、お湯がすぐ出るのがヒカルの時代のすごいところですよ。 ボディシャンプーとやらもいい香りがして…」

それを聞いたヒカルは、風呂場へ飛んでいった。

母さん、もちろん家中掃除すると思うけど…。

 

「今度は俺が佐為んとこへ行くよ。本当に強くなったか試したいし。俺、導師さんに勝てるかな。」

佐為は楽しそうに笑った。

「実践ですね。導師はヒカルと打ったらさぞ、驚かれることだろうな。強くなったと。焦るかもしれないですよ。」

「ああ、わくわくするな。 でも宿題が終わってからだけど。」

「ヒカル、家に戻ってから宿題をやらなかったんですか。何をしてたんです?」

ヒカルはそっぽを向いて答えなかった。

 

 

アキラはじっとしていた。

saiの名前はアキラとの対戦が終わると同時に消えた。

チャットを交わす暇はなかった。

でもチャットを交わしたところで、何といえばいい?saiは間違いなくあの人だ。だけれども、この強さはあの時とまるで違う。たったひと月前なのに。もしかしてこの前は僕に合わせて、力をセーブしてたのか?名人の父と互い戦で打っている僕に?

 

アキラの耳に窓の外の雨音が響いた。

そうだった。プロ試験の日だったんだ。

試験はもうとっくに始まっている時刻だった。

 

 

その頃、アキラの対局を面白そうに見ていた人物が居た。緒方だ。

「saiか。この男、いつも夜明け前に現れているが、時差があるのか?JPNも怪しいものだな。 いや、まあ海外在住日本人ということもあるが。」

それからまた呟いた。

「それにしてもあの塔矢アキラがここまで手玉に取られるとはな。俺とて勝てるかどうかわからん。 みんなが騒ぐのも無理はない。

アマとは信じられんが…。こんなところにプロがうろうろしているというのも変だ。」

緒方は立ち上がると、熱帯魚の水槽の前に行き、餌を手に取った。

「saiの打ち方は。そう。saiの練達さは長久の歳月を思わせる。どんな爺さんだというのか。」



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

大幣39

『大幣』31~40
アキラと生身の佐為の初顔合わせ、ネット碁
(主な登場人物…佐為、ヒカル、導師、筒井、三谷の姉、市川、和谷、フク、アキラ、緒方、sai、zelda)


ヒカルは、夏休みが終わってから、やっと佐為を訪ねることができた。

 

「ヒカル。何をしてたんです?」

「何って、宿題が終わらなくってさ。お母さんが宿題終わるまで見張ってたし。掃除もばっちり手伝わされたんだ。」

佐為はやっぱりという顔をしたが何も言わなかった。

ヒカルは、それに気付かず、嬉しそうに言った。

「ああ、もうそんなことは忘れて、今日はばっちり打ちまくるぞ。」

碁盤の前に座ると、ヒカルは言った。

「俺、どのくらい強くなれたのかなあ。佐為を負かせられるかな。」

 

まったくヒカルはお調子者ですよと佐為はため息をついて、諭すように言った。

「ヒカル。聞いてなかったのですか。私も強くなったといったのを。

それに大体ヒカルがいくら強くなっても私にはかないませんよ。何しろ、私は神の一手を極める人間なんですから。ヒカルとは違いますからね。」

「分かってるよ。神の一手、一手って。俺だって極めてやる。」

 

ヒカルは一局佐為に指導碁を受けた後、がっくりしたように言った。

「ああーあ。やっぱ、佐為には追いつかねえのか。俺、本当に強くなったの? 実感わかないよ。全然。」

「だから、言ったでしょ。私と比べることが間違ってるのですよ。 いくらヒカルがこの夏強くなったといっても、導師ともまだまだですよ。その腕では。」

佐為は苦笑して言った。

しかし心の中で、そっと呟いた。

 

ヒカル、どんな人間であれ、追いつかないとかいうことはない。この先ずっと真剣に碁に向かうなら。あなたが心構えを変えたなら、可能になることはたくさんある 筈。

そうしてヒカルの置いた石のひとつをじっと見つめた。

この続きをヒカルが意識して打てるようになれば、ヒカルとの対局が楽しみになるのだが。

 

それからまた思った。

しかしこんなことはヒカルには口が裂けても言えないですね。何しろヒカルときたらお調子者ですからね、天狗になって努力を忘れるに違いありませんから。絶対駄目です。

 

まもなくヒカルが来たという知らせを受けた導師がやってきた。

「導師さん。ご無沙汰してました。」

ヒカルはここぞとばかり大人びた挨拶をした。

導師は満足げに頷いた。

「ヒカル殿はずいぶん、成長されたな。挨拶もきちんとされるようになった。」

「ヒカルは、私には一度もあんな態度をとらないというのに。それに大体、挨拶の仕方は私が躾けたものですよ。」

佐為は不満げに言った。

導師は呆れたように佐為を見た。

「佐為は、本当にちっとも進歩がないの。」

ヒカルはくすりと笑った。

 

「進歩はございましたよ。私はこのひと月近くで強くなれましたよ。」

「違う違う。わしの言うのは碁のことではないわ。まったく。ヒカル殿のこととなると佐為はまったく…。 もういい。それより、わしはヒカル殿との対局を楽しみにしておったのだ。どのくらい強くなったのか。」

 

ヒカルは導師と一局打ちあった。

「ふう。佐為の言ったとおりだ。ヒカル殿は強くなったぞ。きっと私がかなわなくなる日も近いな。」

やっぱり勝てなかったとがっくりしていたヒカルは、その言葉に目を輝かせた。

対局を眺めていた佐為が言った。

「詰めが甘いのが最大の難点でしょうね。」

「ヒカル殿は計算が苦手か。訓練せねばいかんか。」

佐為は思案気に答えた。

「そうですねえ。ただヒカルは訓練というものが苦手のようですから。まあ、いそぐこともありませんし、今のところはヒカルのひらめきを伸ばすことを優先したいと思 っています。」

 

やがて導師と佐為は酒を酌み交わし、ヒカルはお菓子をぱくついた。

 

導師は言った。

「ところで佐為、このひと月というもの、ヒカル殿の世界に行くのに夢中で、帝に一度も拝謁せなんだろう。ご立腹ではなかったか?」

佐為は全く気にしないで言った。

「方違えと病ということで、引き篭もっていると、分かってくださっているはずです。現に一昨日、伺った折にも特にお変わりのご様子もなく、ご機嫌も麗しゅうございましたが。導師には何かご心配のことが?」

導師はちらりとヒカルを見て、それからさりげなく佐為に言った。

「そなたは、帝の指南役であるのだ。大切なお役目だ。それを忘れることがあってはならぬ。この地に生きるならば。この地を愛するなら。」

「もちろんでございます。私はヒカルの時代も気に入っていますが、何よりこの平安の御世の者にございます。」

そうきっぱり言い切った佐為は、烏帽子仮衣姿が凛々しい平安の貴族だった。導師だけでなく、ヒカルもその姿に思わず見ほれるほどだった。

佐為って、やっぱかっこいいよな。ヒカルはひそかにそう思ったものだった。

 

その佐為を見つめていた導師は気がかりな事を見つけた。

「この一月というもの、どんな体験をしてきたのか、そなたの話を聞いて、感心するやら驚くやらだったが。だが考えてみると、そなたはとてつもない事をしたのではないか。よく無事で、ここに戻ってこれたものだ。」

「?」

佐為もヒカルも何だろうという顔をした。

「そなた、鏡など見ていまいな。」

「顔に何かついておりましょうか?」

「そうではない。そなたの石を見てみよ。」

 

そう言われた佐為は、そっと耳たぶに手をあてがい、石をはずし手のひらに載せた。

赤い石は時折光を弱めているようにみえた。

「そういえば、輝きがまだらのような。」

ヒカルはそれを見てどきんとした。

「使いすぎではないか。毎日、一日中、時の彼方へ行っておったのだから。」

導師はそう言った。

ヒカルは胸に下げていた自分の石を出した。

「俺のは大丈夫みたいだよ。ほら。」

ヒカルの石は変わらず赤い輝きを放っていた。

導師は、それを見てほっとしたように頷いた。

「佐為、当分そなたはヒカル殿の時代に行くのを避けよ。しかしヒカル殿の石は変わらぬ力を有しておるようだな。そういうことが影響するのかわからぬが、ヒカル殿はここ一月全く時の旅をしてはおらぬから かな。」

 

ヒカルは努めて明るく言った。

「当分は俺がこっちへ通うから。佐為の石は少し疲れちゃったんじゃないのかな。休ませたら元みたいになるかもしれないよ。それに俺の時代に来てもさ。当分は碁会所にも行く金はないし。ネット碁もできないしさ。」

佐為は何か考えているようだったが、その言葉に頷いた。

「そうですね。私もしばらくは帝の御用に励む必要がありましょうし。」

 

導師は言った。

「実はな。術師がどうしてもヒカル殿に会いたいと申しておってな。だが、この夏の間、ヒカル殿は一度もこちらへは参らなかったであろう。そこでヒカル殿が来たら連絡がほしいと言っておったのだ。

わしとしては術師と深く関わるのは正直気が進まんが。しかし、石を持ってきたのはそもそも術師ではあるし、佐為の石がこのようであるという事はまた術師の興味を引く事なのかも知れぬし。」

 

言葉をとぎらせてから、また言った。

「佐為はともかく、ヒカル殿を危険な目には会わせるわけにはいかぬ。それでも会ってくれるかな。ヒカル殿は術師に。」

「その人は俺に会いたいの?いいよ。時の石を持ってた人なんでしょ。でも俺、役に立つのかな。何か話す事があるのかな。」

 

「いや、ヒカル殿の顔を見れば満足かも知れぬ。出自は低いが、悪い男ではない。ただ、もしかして取り付かれているかも知れぬが。」

「取り付かれている?何に?」

導師はあいまいに笑った。

 

佐為は真剣に言った。

「私は術師に会いたい。石がこのようになるとは。術師に会って話をする事は導師が考えるほど危険な事ではありませぬ。帝の御用も務めることがあると聞いておりますよ。」

「帝が御用を?術師にか?」

「はい。」

「そうなのか?まあよい。とにかく当分佐為は時の旅はしないのだから。ヒカル殿の都合の良い折に術師と会うように取りはからせてもらおう。ただし、それまで佐為は勝手に術師にあってはならぬぞ。」



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

大幣40

『大幣』31~40
アキラと生身の佐為の初顔合わせ、ネット碁
(主な登場人物…佐為、ヒカル、導師、筒井、三谷の姉、市川、和谷、フク、アキラ、緒方、sai、zelda)


「導師さんは、俺が強くなったって言ってたけれど、実際俺って進歩したのかな。

佐為の打っているのを見ていただけで?そんなこと、あるのかな。

確かに佐為の打った手は俺、大抵覚えてる気がするけどさ。」

碁が強くなったという実感が今ひとつ、わかないヒカルはそう呟いた。

 

2学期が始まって、初めての部活の日だった。そんなヒカルにあかりが言った。

「囲碁教室、すごく楽しかったよ。それで私、当分通うことにしたんだ。先生も優しいけど、あの教室にいる阿古田さんが すっごく親切でね。今私、阿古田さんにいろいろ教わってるのよ。だいぶ打てるようになった気がしてるよ。」

あかりは夏休み中、白川先生の囲碁教室に通っていたのだ。

 

「えっ?阿古田さんが親切?阿古田さんて、あの阿古田さんだろ?違うのかな。」

「えっ?ええ、阿古田さんて、あそこに一人しかいないと思うけど。白川先生の教室の中で一番強い人だよ。

そうそう、そういえば白川先生がね。進藤君は元気にやってるかって。で、元気です。碁も強くなったみたいですって言ったのよ。そしたら ね、どんなに強くなったか楽しみだね。たまには遊びに来なさいって言ってたよ。ヒカル、今度一緒に行かない?白川先生のとこ。」

「うん、行く行く。」

ヒカルは勇んで言った。

 

白川先生の囲碁教室か。久しぶりだな。俺の腕が上がったか試してみたい。

あかりのいう親切な阿古田さんに勝てたらいいな。

そういえば今度、佐為のところへ行ったら、術師にも会うことになってるんだった。

術師ってどんな人なんだろ。名前が何となくかっこいいよな。術師なんてさ。どんな術を使うのかな?いや使わないとか言ってたっけ。そんなんじゃないって。どうだっけ。ああ、忘れちゃった。

まあいいか。とにかく時の石を持ってた人だろ。絶対普通の人じゃないぜ。

このところ何かわくわくすることが多いな。

 

そんなことを思って通りを歩いていたヒカルはいきなり腕をつかまれた。

 

「君に話しがある。」

ヒカルは驚いて振り返った。

「と、塔矢じゃないか。何だよ。いきなり、びっくりするじゃないか。離せよ。」

そう言いながら、つかまれた腕を振りほどいた。

 

アキラは手を離したが、ヒカルの反応など全然気にしていなかった。

「君に聞きたいことがある。」

 

あの日、ネット碁を打った後、アキラは深いため息をついたのだ。

何ともいえない虚脱感のようなものに襲われた。

初日は休んでしまったが、プロ試験は続いていた。もちろん、アキラは休むことなく、淡々とプロ試験を受け続けていた。

現実には碁を打ち続けるなら、プロになるしかないだろう。でもプロになることにどんな意味がある?あのネット碁を思い起こすたびにアキラは思った。次に勝てるかどうかは分からないけれど、でもsaiに勝たなければ、この思いは消えない。そんな気がした。

saiは間違いなくあの人だ。打ってみてアキラは確信していた。

とにかくもう一度あの人に会わなければ。それには…。

 

進藤ヒカル。手がかりは彼しかいない。

アキラはヒカルを睨みつけるように見た。その鋭い眼差しにヒカルはたじろいた。

「君はsaiを知ってるだろ?」

「佐為を?」

ヒカルは今度こそぎょっとした。まさか佐為の奴、碁会所で塔矢に名前を言ったのか?こいつは強い奴の名前は忘れない筈だし。いや、確か佐為は登録もしなければ名乗ってもいないって言ってた。

「ああ、エス・エー・アイでsai、ネット碁の覇者だ。」

「俺、ネット碁なんてしてないよ。」

「君がネット碁をやるかなんて質問していない。それはどうでもいい。saiを知っているか聞きたいだけだ。」

「なら知らない。」

「そうか。」

進藤はあの人がネット碁をするのを知らないのかもしれない。

「だったら僕と碁会所で打った人について教えてくれないか?」

 

「お前と碁会所で打った?」

もしかして佐為がsaiだって分かってるのか、こいつ?

「そうだ。長い髪をしている若い男の人。丁寧な言葉遣いをする人で。君はその人を知っている筈だ。その人がsaiなんだ。僕には分かるんだ。君に教えてもらいたい。」

ヒカルは少し混乱して言った。

「お前が言っているのが誰か分からないよ。第一そのお前と碁会所で打ったのがどうしてそのsaiだと分かる? それに俺が何でそのsaiと知り合いなんだよ。」

 

「答えよう。碁会所で打った人とsaiは打ち筋が同じだ。君のような初心者には分かるまいが、打てば同じ人間かどうかなどすぐ分かる ことだ。

それと君はおそらくそれほどの知り合いではないのだろう、だからsaiのことを知らないのも分かる。saiのことは置いておくよ。ただ、僕が碁会所で打った人は、君が以前僕に見せた棋譜の打ち手だろ。違うか?」

ヒカルはぐっと詰まった。

「それとこのハンカチ。その人が忘れていった。君の名前がついている。」

 

ヒカルはアキラが差し出したハンカチを見た。進藤ヒカルと書いてあった。

このハンカチ、なくしたと思ってた。佐為の奴、よりによってなんで塔矢のところで。まったく。

で、佐為のことをこの塔矢に話せっていうのか?どうしよう。

まずいんじゃないか。やっぱ、しらを切りとおすぞ。

 

「このハンカチは俺のだけど、その人のことは知らない。」

「もしかしたら君はその人が打つところをみたのだろう。どこで見たのか教えてくれればいいんだ。たまたま君がハンカチを落としたかなに かしてその人が拾ったのかもしれないが。

君が2度置いた棋譜を一体どこで見たんだ。言え。」

 

なんなんだ。こいつ。「言え」だって。誰が言ってやるもんか。

 

その少し前まで、ヒカルはアキラに佐為のことを教えなくとも、佐為には碁会所に行 ってアキラと打ってやってくれと言おうと思ってたのだ。

こんなに佐為の碁に夢中になっているんだ。俺とおんなじじゃないか。打たせてやろうぜ。

そんな気持だった。

しかし、今はすっかりその気が失せてしまった。

 

ヒカルは頭にきていた。

「俺はsai なんて知らないよ。ついでに、あの俺が置いた棋譜はな、俺はたまたま打っているところをみただけさ。でもどこでなんてお前に言う必要はないだろ。第一お前の碁会所に、そいつは来たことがあるんだろ。また来るかもしれないんだったら、待ってればいいじゃないか。俺が 見たところにだって、この先来るかどうかなんて分からないじゃないか。」

 

「君は何故隠す?」

「な、何だよ。何にも隠してなんかねえよ。」

「あの人は君には必要ない人だ。でも僕には必要な人なんだ。」

「それはどういう意味だよ?」

「君だったら誰でも適当な人に習えばいい。僕は君と違ってプロを目指しているのだ。それも父のようなトッププロだ。 」

「目指せばいいだろ。」

「あの人はプロじゃないけど腕はすごい。僕はあの人に勝ってみせる。僕は神の一手を目指しているんだ。そのために必要なんだ。 あの人と打つことが。」

アキラの目は真剣に燃えていた。

ヒカルはその目の中に、佐為とアキラが打っているところが見えた。

 

そこで打っている二人の目は共に遠くを見つめていた。はるかなる高み。

アキラの腕が佐為と比べてどのくらいなのか、実際のところ、ヒカルには分からなかった。

でも…塔矢と碁会所で打ったと話した時の佐為の顔はものすごく満足そうで、充実していた。

そうあのネット碁の時も。

俺は話しかける気にならなかった。あの張り詰めたような空気の中に入っていけなかった。

あの時もこいつはこんな目で、佐為に向かってたのだろうか。

みんな真剣で。

 

いや俺だって真剣だ。碁を打つ時にいい加減な気持にはなれない。

それでも違う。何かが違う。俺の真剣と佐為やこいつの真剣は別物みたいだ。

 

ヒカルは無性に腹立たしかった。

塔矢の奴、佐為が俺に必要ないって。塔矢の奴なんかに何が分かる。佐為と俺は特別なんだからな。

 

「分かった。君が教えてくれないなら、もういいよ。僕はあの人がまた現れるのを待つから。」

 

ヒカルは去っていくアキラの後ろ姿を見て思った。

塔矢の奴ってすごいな。佐為を探して俺を追いかけてくるなんて。

でも俺自身を追いかけてるのじゃない。俺は塔矢にとってその他大勢なんだ。

佐為も塔矢も目指すのは神の一手なんだ。

佐為は、俺がいくら強くなっても自分にはかなわない。神の一手を極める人間は俺とは違うって言ったけど。塔矢はどうなんだ。佐為の相手にふさわしいのか。

きっとそうだ…。

俺だけ仲間外れなのか。ただ碁を打って楽しいって思うだけじゃ駄目なのか?

碁ってなんなんだ?



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

野風41

『野風』41~50
三面打、院生試験、アキラ新初段戦、森下先生研究会
(主な登場人物…ヒカル、佐為、導師、術師、白川、岸本、正夫、篠田、和谷、桑原、フク、帝、伊角、アキラ、座間、森下、冴木)


ヒカルと佐為は導師の邸に向かっていた。

「佐為とこんな風に歩くなんて久しぶりだね。」

ヒカルのうれしそうな顔を見て、佐為は言った。

「まだ時間がある。どうだろう。少し回り道をしてみようではないか。」

 

二人は脇道に入り、竹林を抜ける道へと向かった。

竹林に入ると、さやさやと葉のすれる音が響いてきた。

ヒカルは辺りを見回し、気持ち良さそうに言った。

「いいなあ。なんか、気分いいな。」

佐為は楽しげに言った。

「竹林は、雑木林とはまた異なる。不可思議な場所だ。仙人が好むのも頷ける気がする。

竹林で打つと、碁がいつもとは違った趣になるものだ。」

「本当?どんな風に?」

佐為は、ヒカルの問いにただ笑って答えた。

「どのようであるかは…そうだな。そのうち、ヒカルとここで打ってみよう。自分で打てば分かる。 どのようであるかは。そうだな。ヒカルが私と同じに感じるか、私にはそれも楽しみだ。」

 

どんな感じなんだろう。でもどんな感じであっても、絶対。俺は絶対、佐為と同じ風に感じるさ。絶対同じだよ。 俺と佐為なんだから。

ヒカルは声には出さなかったが、そう思った。その代わりに言った。

「ねえ、佐為。前に一緒に馬に乗ったよね。あの時もすっごく楽しかったな。」

 

佐為はちらとヒカルを見て、微笑んだ。ヒカルは私と外に出るのが、そんなに楽しいのか。

「しばらくはヒカルがここに来てくれるわけだから、時間も取れるだろう。 碁だけではなく、たまには、また遠乗りするのもよいであろうな。」

ヒカルは嬉しそうに頷いた。

俺と佐為とは特別な繋がりがあるんだから。

ヒカルは、二人の繋がり、絆を損なうような話はしたくなかった。

アキラのことなんて、今話す必要ないさ。話すんだったら、もっと別の時でいいさ。

そこでアキラが佐為のことを尋ねてきたことを話すのはやめて、別のことを話した。

 

「俺、今度白川先生の囲碁教室に遊びに行くことにした。あかりがそこで習っててさ。

白川先生があかりに言ったんだって。俺がどのくらい強くなったか楽しみだ。今度一緒に来なさいってさ。俺、阿古田さんと打ってみたいんだ。 今度は勝てるかなあ。」

「阿古田さんというのは、ヒカルがどうしても勝てなかった人だったな。私もその結果は楽しみにしている。」

「うん、俺もう今からわくわくしてるんだ。」

佐為はそういうヒカルを見て思った。

その者がどれほどの腕前かは分からぬが。勝ち負けはともかく、その手合わせで、ヒカルは自分がどの程度、力を 伸ばしてきたのかを理解するだろう。そういうことも必要だ。自分の力を実感することも。本当に良い機会に恵まれているな。ヒカルは。

 

ヒカルも佐為も楽しそうに話していたので、自分達の後をずっと付け、様子を伺っている男には気付かなかった。その男は林を抜け、見晴らしの良いところに出る頃、そっとヒカル達から離れて 、別の道へ向かった。

 

導師の邸に着いた時、ちょうど雨が降り始めた。導師はほっとしたように言った。

「雨に濡れなかったのは何より。」

「そうだ。傘、ないんだよね。」

ヒカルの言葉に佐為が答えた。

「いや、あるにはある。だが、私たちは濡れることをそれほど厭わないのだ。ヒカルたちほどは。」

それから、導師に問うた。

「それで、術師は?」

「まだ、来ておらぬ。 わしが考えるに、あの男は先に来て待つというようなことはそもそもすまいな。そういう男だよ。」

ヒカルは導師の言葉の意味が分からなかった。が、とりわけては聞かなかった。 どっちみちもうすぐ会えるのだ。時の石を持ってきた人と。

 

導師の邸は、佐為のところと違って、変わったものがいろいろある。

「薬師の仕事をしていると、色々面白いものを見せてもらえる。この前は鉄でできた植木を見せてもらったぞ。」

「鉄でできた植木でございますか。それは竹取の話に出てくる蓬莱の木の枝のようなものですか。 私には想像がつきかねますが。」

「これを見よ。実物は無理だが、絵を貰ってきておる。」

導師は畳んある絵を開きながら、ヒカルに言った。

「ヒカル殿の時代では珍しくはないものか。驚きはせぬだろうな。」

絵に描いてあるものは美術館で見ることもあるオブジェのようなもので、現代的な趣きも感じさせるものだった。

ヒカルは率直に驚いたと言った。

「蓬莱の木の枝とかは分からないけど。こういう感じのもの、俺の時代にもよくあると思う。飾ってあるのを見たことがある しね。でもさ。この世界に、千年前にこんなものがあったなんて、俺、全然考えもしなかった。すごいんだね。」

導師は満足そうに頷いた。

「ヒカル殿の時代も、この御世もこういうものを愛でる気持ちは同じなのか。嬉しいことだ。」

 

その日は、術師と会うのが目的ということもあり、碁盤を前にしながら、 取り立てて熱心に打つというわけでもなく、佐為と導師は酒をたしなみ、ヒカルは菓子をぱくつき、たわいもない話をのんびりとし、笑いあった。

 

術師が来たのはしばらくしてからだった。

導師は言った。

「術師よ。今日は忙しかったのか。随分と遅かったな。」

「申し訳ございませぬ。少々雨宿りをしておりまして、遅くなりました。」

全く申し訳なさそうには思えぬ様子で、術師は言った。

佐為がヒカルを紹介した。

「術師よ。これがヒカルだ。私と時の旅を同じくする相手だ。」

術師は、伺うように、ヒカルの方を見た。ヒカルの方は真っ直ぐ術師を見て思った。

俺の思っていた感じの人とはだいぶ違う。この人は何で普通にこっちを見ないんだろう。

そのことが何故かひどくヒカルをいらいらさせた。

癖はあるが、佐為も導師も率直な人物だった。平安人だって俺達と変わんない。今までそう思ってきたヒカルだった。

身分をわきまえることを強いられて育った人間というものは術師のように振舞うこともある。そう教えるものは、いなかった。更に言えば、現代だって術師のように振舞う、そういう人はいる ものだとは。

導師は、ヒカルの戸惑いに気付き、さりげなく術師を促した。

「今日は、そなたがどのように振る舞おうと、気にするような相手はおらぬ。大陸にいた時の様に存分にくつろいで過ご すとよい。」

導師はそう言って酒を勧めた。が、術師は断った。術師は導師の言葉には頷いたものの、へりくだった様子で、下座にかしこまったままだった。

 

そこで導師は言った。

「ヒカル殿がいるのだ。何か直接に聞きたいことでも遠慮なく話すが良い。」

術師は、煮え切らない様子で座ったままだった。

「ヒカルは確かにまだ子どもだが、それでも術師が聞きたいことには、きちんと答えよう。知っているか知らぬかを含めて。」

佐為はそう言うと、ヒカルの方を向き、信頼の微笑を見せた。

ヒカルも、そういう佐為を見て、にっこり笑って見せた。

「うん。俺の時代のことで、俺の知ってることなら何でも話すよ。でもさあ、前に佐為や導師さんに聞いたけど、ふ わふわじゃなくて、ええとふら何とかとかいうのは分かんないかも。でもちゃんと教えてくれれば、誰かに聞くことはできると思うよ。それがどうなったかをさ。」

 

術師は能面のように表情を崩さずに言った。

「お聞きしたいことはいろいろですが。ともかくヒカル様は虎次郎様とは全く違うということが分かりました。」

「何が違う?」

導師が問うた。

 

「ヒカル様は特別なのでしょうか。それともヒカル様の時代の方は皆そのような態度でお話しをされるので?」

ヒカルは何といっていいか分からなかった。俺のような態度って、どんな態度?

佐為がその言葉に答えた。

「ヒカルはヒカルの時代の普通の子どもだ。そこでは大人も言葉や振る舞いはもう少々丁寧かもしれぬが、同じだ。 そして、この平安でもそれは同じことと私は考えているが。もちろんヒカルの言葉は私たちが話すものとは少々違う趣はあろうが。それでもその姿勢は、その心根は率直で、私や導師が付き合う この御世の諸々の人々と変わらないと思うが。」

術師は少し皮肉な口調で言った。

「確かにさようでございましょうとも。それでヒカル様の時代にも身分というものはございましょうな。」

 

「私の少々の時の旅の経験では、その本質は今も昔も変わらないのではないか。 お目にかかれるような存在ではないが帝もおいでになられるということだ。ただ…。」

ヒカルの時代でも帝の前ではさすがに、礼儀をわきまえようが、それは恐れ によるものではあるまい。私がヒカルの時代で出会った人々は…。

佐為は考えた。

術師は何故そのようにヒカルの様子に関心を抱くのであろうか。ヒカルの何が気になるのであろうか。確かにこの平安の御世にあっては ヒカルの振る舞いは率直過ぎて変わってみえようが、それでもヒカルは私や導師にとって、まったく気の置けない率直な人間 だ。むしろ術師こそ…。

 

佐為はそこで初めて、今まで気にしなかったことに気付いた。導師が術師に抱く危惧に。

この御世では恐れは必要なものなだ。私も導師も身分というものを敬い従っている。

術師は、見た目は恐れひれ伏すような態度を示しはするが、恐れてはおらぬ。敬うことをしないものだ。それはヒカルが礼儀に疎いということとは別物だ。

術師に用心せよという導師の言葉は正しい。

佐為の思考とは別に、術師はじっとヒカルを見つめた。

 

「それにしても私は知りたい。何故時の旅ができる 人間とそうでない人間がいるのかを。そこにどんな違いがあるのか。 」

ヒカルは術師を見つめた。

この人は時の旅を自分でしたかったのか。もしかして俺が時の旅ができるわけが知りたいとか?そんなこと俺は知らない。

 

術師はやっと話を始めた。いつぞや導師にした“ふあるさわ”の話だった。 三人もの聞き手に自らの奥義といえるものを説明する機会に恵まれたからか、あるいは別の動機があるのか。

術師は次第に陶酔したようにとうとうと話を続けた。

その術師を眺めながら、佐為は自分の考えにふけった。

術師は言っていた。

自分は、地位も欲しくない。財産にも必要以上には執着はないと。だが、このように執着するものがある。もしこの学を習得したなら、術師はどうしたいのだろうか。いや、もしこれほどまでに執着するものを阻むものが現れたら、術師はどうするだろうか。

 

術師の話が一段落した時、ヒカルは申し訳なさそうに言った。

「正直良くわかんなかった。でもその言葉は覚えとくよ。“ふあるさわ”って言う言葉。戻ったら調べてみるよ。」

佐為も付け足した。

「私もヒカルの時代へ行った折に、調べてみよう。ヒカルが調べるよりは少々実りが多いかも知れぬ。 だが、ヒカルはそろそろ自分の時代へ戻った方が良いと思うが。」

導師も頷いた。

「ヒカル殿の衣服は運ばせてある。雨もまだ止まぬから、ここから帰られると良い。」

 

ヒカルが着替えのために小部屋に移とうとすると、術師が言った。

「申し訳ございませぬが、その、ヒカル様の時代の衣服を少々拝見させて頂けぬでしょうか。」

ヒカルは頷きながら、導師の顔を見た。

「虎次郎殿の時も、確かそうしていたようだったしな。構わないのではないか。」



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

野風42

『野風』41~50
三面打、院生試験、アキラ新初段戦、森下先生研究会
(主な登場人物…ヒカル、佐為、導師、術師、白川、岸本、正夫、篠田、和谷、桑原、フク、帝、伊角、アキラ、座間、森下、冴木)


ヒカルは自分の部屋に戻ると、術師の言った言葉を取りあえずメモした。

それにしても術師って…。

ヒカルは腹立たしげに声に出した。

「何かいやな感じの奴。やたらにぺこぺこしているかと思えば、やたら偉そうにしたり。」

 

あいつ、本当に癪に障る。

俺が着替えている時に、服を珍しそうに見てたのは構わなかったけどさ。

導師さんや佐為が見ていない時の俺に対する態度って。一体何なんだよな。

俺が子どもだからって見くびってる?

ああ、それにしても癪に障ること言いやがったよな。何だよ。

 

「未来、千年先といっても、結局人間は進歩などしないものなのだ。」

術師の奴、俺を見ながらそう言いやがったんだ。まあ確かに俺、そんなに成績良くないけどさ。だからなんだって言うんだよ。その上、と…。

 

ヒカルはすぐに頭を横に振った。

ああ、やめやめ。忘れよう。もっと楽しいこと考えようっと。

ヒカルは佐為と歩いて導師の邸に向かった時のことを思い起こした。

また馬に乗せてもらえるんだ。楽しみだな。

 

ヒカルが、術師に害された気分をすっかり払拭できたのは、その二日後のことだった。

 

「楽しかったな。」

姉と約束してるからというあかりと駅前で別れて、ヒカルは気分良く通りを歩いていた。

その日の昼過ぎに、ヒカルは白川の囲碁教室に行って、阿古田と対局したのだ。

 

ヒカルが教室に入ると、教室の皆から懐かしがられて、とても歓迎された。

それは、ヒカルのせいだけではなく、今通っているあかりの人柄が反映されているせいもあった。

「久しぶりねえ。ヒカル君、すっかり中学生じゃないの。学校はどう。楽しい?」

初めて通い始めた時にいろいろ世話を焼いてくれたおばさんは、そういって懐かしがってくれた。

そして、阿古田さんとの対局をみんなが見守っていた。

 

ギャラリー背負って立つって、なかなかどきどきするもんだな。 嬉しいけどさ。

よし、皆にいいところを見せるぞ。

阿古田さんに勝ちたいと、気負ってしまった。そういう気持がから回りして、ヒカルは前半、随分拙い手を打ってしまった。失敗したと思った。

だがその後から、ヒカルは気持ちを切替え、ひたすら盤面に集中した。 ヒカルには、もうただ盤上の石の動きしか見えなかった。ギャラリーも何も消えていた。

白川が声をかけても聞こえなかった。

その集中力に白川は舌を巻いた。そしてヒカルが前半のミスを挽回し、勝利を手にした時、つくづく思ったものだった。

進藤君の進歩は本当にすごい。碁を覚えてからまだ一年にも満たないのに。囲碁部の顧問の先生がよっぽど熱心なのだろうか。こういう生徒がいてくれると、この教室もやりがいが増える。本当にまた私のところにも来てくれると嬉しいけれど。

 

 

いえーい。阿古田さんに勝てたぜ。やっぱり、俺は強くなったんだ。

ヒカルは佐為があの時言った言葉を思い出した。アキラとネットで打った後。

「強くなったのは私の方です。」と言ったけど。

俺には今、佐為が言った言葉の意味が分かるぜ。ああ言った時の佐為の気持が。

術師の奴が何といおうと、俺と佐為は特別な繋がりがあるのさ。だから互いに時の旅ができるのさ。

ヒカルは満足そうに呟いてから、急に立ち止まった。

 

そうだ。フワフワ、いやフラフラだっけ。術師が言ってたことを少し調べてやるか。

ヒカルは気分良く本屋に入った。

 

いつもの漫画コーナーには行かず、ヒカルは奥まった硬そうな本の前に立ち止まった。

フランス、じゃない。フランソワでもない。なんだっけ?うーん、とにかくふのつく本だよな。あるかな。なんか漢字ばっか だぜ。カタカナなんてないな。やっぱ、これは佐為に任せるか。

「やあ、君は。君がこんな本に興味があるとは、人は見かけによらないのかな。」

そう声を掛けられて、ヒカルが振り返ると、背の高い少年が立っていた。

あれ、こいつって、見たことがある。えっと、確か「海王の大将?」

「ああ、岸本だよ。覚えてくれていたとは光栄だね。で、何を探してるの?」

「え、あの、そう、題名忘れちゃったけど…。あのさ。えっと、昔の人が物は土と水と火からできてるとか言っていたとかさ、そういうことが書いてある本だよ。」

ヒカルは何とか覚えていたことだけ口にした。

「へえ。ギリシャ哲学か。君がそんなことに興味があるなんてますます驚きだね。君、中一だろう。」

「うん。」そう言ったヒカルは、ギリシャ哲学という言葉を心にとどめるのに集中した。だから岸本の言葉の中に少々見下した感があるのを気にも留めなかった。

「本屋にあるか、見といてって頼まれたんだけどさ。」

「ああいう本は、この本屋にはないよ。もっと大きなところに行かないとね。ところで僕は別のことで、ちょっと君に興味がある んだけど。」

ヒカルは不思議そうに聞いた。

「俺に?何ですか。」

 

岸本はヒカルを近くにある碁会所へ誘った。

「君の腕前を知りたいんだ。」

それを聞いてヒカルはドキドキした。

海王の大将が俺の腕前を見たいなんて。

よし、阿古田さんに勝てたんだから。見せてやるぜ。

ヒカルは張り切って碁盤を前にした。

 

岸本は石を置きながら言った。

「塔矢が何故、君に関心を持っているのか知りたいんだ。」

ヒカルは、その言葉にげっとなった。

あいつ、佐為を探すために俺のこと調べまわったのか。ほんと、塔矢の奴に関わるとろくなことないな。

ヒカルはとぼけたように答えた。

「俺に?塔矢が?まさか。あいつは碁が強い奴しか眼中にないもん。俺のことなんて気にする訳ないよ。」

岸本はもっともというように頷いた。それも何となくヒカルの気に障った。

「そうだ。だからだよ。それで不思議だったんだ。君は確かに葉瀬中では強い方らしい。僕のところの副将に勝 てたしね。 今打っていても、まあ中学生としてひどく悪いというわけではないよ。でも、この程度の腕じゃねえ。全く塔矢の気を引くレベルじゃない し。」

ヒカルは、その言い方にむっとした。

何なんだ。塔矢だけじゃないぜ。海王の奴らって、ひどくむかつかねえか。 こいつ。一体何なんだよ。

 

それから盤外戦という言葉を思い出した。

まさかな、だってそういう対局じゃないもん。

それに、確かに全然レベルが違うよ。阿古田さんとも、加賀よりもずっと強い。

 

岸本はヒカルの様子など気にも留めなかった。

「塔矢はこの間、君を探していた。囲碁部の顧問にしつこく君の事を聞いていたよ。あの塔矢が碁のこと以外で人のことを尋ねるなどありえない。 一体なぜ君を選んだんだか。君の碁のどこに塔矢が気にかけるものがあるのだろうかと知りたくなってね。」

 

ヒカルはぶすっと答えた。

「そんなこと知らないよ。塔矢の勝手だろ。塔矢が、何をどう思おうと俺には関係ないもん。」

「まあ、確かに。塔矢が何を思ってるかは塔矢自身に聞かないと分からないわけか。それはもっともだ。じゃあ君にとって、塔矢はどういう存在なんだ?」

岸本が聞いた。

「俺にとって、塔矢が?」

考えもしなかった問いかけだった。でも、ヒカルはいつの間にか答えていた。

「いつか、追いつく。塔矢にだっていつかは勝ってみせるさ。」

阿古田さんにだって勝てたんだ。いつか、塔矢にだって勝って見せるさ。追いついてみせる。

 

ヒカルの言葉を岸本は鼻であしらった。

「塔矢はプロになるよ。今度の四月からね。」

ヒカルはその言葉に戸惑った。

「ええっ?プロって?だってアイツはまだ子どもで…。」

「碁の棋士は12、3歳でプロになる。そうでないと遅いんだ。」

ヒカルは混乱したように聞いた。

「プロってどうやってなるの?」

喫茶店のオーナーが言った。

「プロ試験に受かることだね。まあ、普通は院生になって、それからだけど。」

「院生になるのだって試験があるのだよ。簡単にはなれない。そうそうそろそろ12月の院生試験の受付がある頃じゃないの。日本棋院にきいてみればいい。」

「あ、でも院生試験だって大変だよ。」

岸本は石を置くとダメダシをするように言った。

「君の今の腕じゃ、これじゃ、院生試験なんて無理だと思うよ。仮に院生になってもそこからプロへ行くのは至難の技だ しね。」

ヒカルが投了した盤面を見ながら、岸本は更に言った。

「君は本当に塔矢に追いつくと? そのために何か特訓でもしてるのかい。僕が思うに、君はこの前の団体戦の時からたいして進歩してるとは思えない。本当に 塔矢に勝つつもりでいるのか。本当に不思議だ。塔矢は何で君の事を聞いて回っていたんだろう。」

「塔矢は、俺の潜在能力を買ってるからだ。」

ヒカルはやっと言い返した。

「君に潜在能力が?あるとはとても思えないね。 せめて意気込みでもあればまだしもだが。残念なことに君には覇気も何も感じられないよ。僕には。」

岸本は立ち上がりながら言った。

 

一人になったヒカルはショックを受けていた。阿古田に勝てたことももはやどうでもいいことになっていた。 中学生でもプロになれる?いや、そうじゃなきゃ遅いって?碁って何なんだ。

ああ、それより何より俺にとっての塔矢ってなんなんだ。

あの時、俺に佐為の事を聞いてきたアキラの目。佐為と同じに高みを目指している目。

俺には、あれがない。

岸本に指摘されたのはそのことだと、ヒカルには分かっていた。

 

その時、ヒカルの脳裏に、あの術師の声が響いてきた。

「それにしてもなぜ、こんな子どもが。虎次郎様とは大違いだ。虎次郎様なら私も納得できた。時の旅は人を選ぶ のではないのか。佐為様のようなお方が、共に旅をするにふさわしいお方を選ぶのだと。虎次郎様は碁の腕も佐為様 に引けを取らず、万人が納得する何よりも弁えた方だった。」

 

俺は佐為と時の旅を共にするのに相応しくないのか?

いや。そんなことはない。俺は佐為と出会えたのだ。佐為と俺は碁で繋がっているんだ。神の一手を目指す佐為と俺は繋がっている。 ならば俺の目指すのも神の一手。

もしも塔矢が佐為を追っているのなら。ならば、俺はまず、塔矢に追いついてみせる。

術師や海王の大将がどういおうと、俺は、自分で証明して見せるさ。

 

俺もプロになる。塔矢に追いついてみせる。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

野風43

『野風』41~50
三面打、院生試験、アキラ新初段戦、森下先生研究会
(主な登場人物…ヒカル、佐為、導師、術師、白川、岸本、正夫、篠田、和谷、桑原、フク、帝、伊角、アキラ、座間、森下、冴木)


ヒカルが帰り術師も去った後、二人きりになると、しばらく沈黙が支配した。

導師はしばらくして尋ねたものだった。

「佐為。何を考えておる。」

「導師が言っておられたことを思い起こしておりましたよ。」

「わしの?」

「導師が何ゆえ、術師に余り近づくなと言われたのか。」

「今頃、何を言うかと思えば。」

「術師は何にも執着しないというが、実はそれこそがもっとも危険なことの気がいたしました。術師は執着しているではありませぬか。 」

「そうだ。わしは最近、術師ほど、率直でない男はおらぬと思い始めている。あの男は自分の才に人一倍執着している。へりくだって見せるがそれは、本心ではない。 自分が最も優れていると思っている。だから心にもなくへりくだってみせるのだ。唯我独尊とはあの男のことをいう言葉だな。この御世の人間の感情は簡単に推し量れると術師は高をくくっている。危ういことだ。人というのはもっと複雑なものであるのに、あの男は自分以外は皆単純であると見くびっておる。もしもあの男が傷つけられたと勝手に感じたらどのようなことをすると思うか?

佐為。気をつけよ。わしは今とても後悔しておる。ヒカル殿を術師に会わせたのは良かったのだろうかとな。」

 

心配する導師に佐為は言った。

「ヒカルはこの御世の人間ではございませぬ。心配は要りませぬ。大体、時の石について知る術師を無視して、ヒカルといることはできないことではありませんか。

それに何よりもヒカルは――。 私は思うのですが、ヒカルは術師の尊大さをやり過ごす強さを秘めております。そういう子です。」

 

 

二日後、ヒカルは佐為の元へやってきた。佐為はヒカルの様子がどことなく常とは違うことに気が付いた。

「ヒカル。今日は随分と大人しいな。どうしたのか?」

もしや、導師と話したことが的中したのだろうか?術師が何かヒカルに力を及ぼしたのだろうか?

いや、ヒカルは弱い人間ではない。私はヒカルを信じている。

 

ヒカルは上の空だった。佐為の問とは全く別のことを聞いてきた。

「佐為。塔矢と打ったよね。あいつ強いよね。」

佐為はヒカルが何故そんなことをいきなり言いだしたのか、訳がわからなかった。

「塔矢アキラか?確かに強い。」

「俺、追いつくことができるかな。塔矢に。あいつに追いつきたいんだ。」

ヒカルは真剣そのものの表情で言った。

「あいつ、プロ試験に受かったんだって。今度の4月からプロになるんだって。俺、塔矢に追いつきたい。 俺もプロになりたいんだ。」

佐為はその言葉とヒカルの表情に驚いたが、同時に、ほっとしたように表情を緩めた。

ヒカルから今までと違った感じを受けたのはこの決意のせいか。ヒカルは目標を見つけたのだ。碁を打つことの。

「ヒカル。そなたと塔矢アキラでは力の差があまりにも大きい。経験の差もだ。 それを埋めていくには相当の覚悟が必要だぞ。」

「そんなこと、分かってるさ。でも俺はやるっきゃないんだ。どうしても。」

 

佐為は負けん気に溢れたヒカルの顔を見つめながら言った。

「今のヒカルには絶対に追いつくぞという気持が溢れて出ている。ならば無理とは言えぬ。

塔矢アキラに追いつくのに、まだ遅いということはない。厳しい道だが。それでもヒカルに覚悟があるのであれば。 ならば追いつく可能性は十分にある。」

佐為のその言葉にヒカルは顔を輝かせた。

「うん。俺、絶対やり抜いて見せる。佐為。手伝ってくれるよね。俺がプロになるのを。」

 

佐為は口の端に笑みを浮かべた。

「もちろんだ。私は今とても嬉しい。ヒカルがその気になったことに。 一心に碁を極めたいと思い始めていることに。」

ヒカルは今、私と同じところを見ている。碁の高みを。私の願っていたことが今起きているのだ。

だが、なぜヒカルは急にそのようなことを思いついたのか?

佐為は尋ねた。

「ヒカルはなぜ、塔矢アキラに追いつきたいと思ったのか。 聞かせてくれぬか。」

 

ヒカルは術師のことは話さなかった。

白川の教室で阿古田に勝ったところから話を始めた。

「ヒカルはその対局でどんな手を打ったのか?」

「ほんとにさ。ギャラリー背負って立つって初めての経験でさ。もう焦っちゃってさ、それで失敗しちゃったんだよ。」

ヒカルは、そう言いながら、その一局を並べて見せた。

 

佐為はそれを見て、目を細めた。

これは素晴らしい閃きだ。ここからの劣勢をヒカルの腕でよく取り戻したことだ。 この一局でヒカルは、また力をつけてきたな。

 

ヒカルはそれから、岸本に出会ったことを話した。

「その、海王の大将はすごく強くてさ。 分かってたさ。大会で三谷と打ってたもの。元院生だったんだよ。そいつが勝手に俺と打ちたいって言ったんだぜ。なのにさ、『この程度の腕じゃね』なんて言うんだぜ。 むかつくだろ。だから俺、決めたんだ。絶対に塔矢に追いつく。海王の大将を見返してやるって。 そう思ったんだ。だから俺、今度の院生試験を受けるよ。」

 

岸本とヒカルの一局を見ながら、佐為は考えた。

この海王の大将というのは腕はなかなかのものだ。 相手の力をきちんと判断している。ヒカルの腕を決して見くびりはしていない筈だ。むしろヒヤッとさせられた手もあったであろう。 海王の大将はただヒカルを見下したのではあるまい。 何か含みがあるのかもしれぬ。それはともかくとして、彼には感謝せねばなるまい。ヒカルを碁の高みへと向かわせるべく、 見事に、たきつけてくれたのだから。

元院生の腕がこれということは。ヒカルが院生になるには少なくもこの少年よりは力をつけねばいけないわけか。

 

「ヒカル。それで院生試験とやらは、いつのことか。」

「うん。1か月先だよ。俺、すぐに棋院へ行ってみたんだ。そしたらね。『12月の受付は今週で終わりですよ』って言われて、慌てて申し込みをしたんだ。本当に面倒くさいんだよ。試験受けるだけなのに、いろんな人に頼まなくちゃいけなくてさ、超面倒なんだぜ。 」

「何か困ったことでもあったのか。」

「棋譜が3枚とお金と推薦書がいるって言われた。その上、試験には保護者が付き添うんだってさ。」

「棋譜なら導師と私と打ったのを出せばよいではないか。」

ヒカルは、ぎょっとした。

えっと、それってまずくないか。じいちゃんと打つかなんかした方がいいような。

「あのさあ、棋譜のことはなんとでもなるよ。そうそう、あとは、推薦してくれる先生が必要なんだってさ。 」

「推薦してくれる先生?」

「俺に碁を教えてくれた人だよ。」

「当然私だな。」

佐為は自信満々に答えた。

これを聞いたら佐為はきっと自分のことを書けとかいうと思ったけど、やっぱりだぜ。まったくなあ。

ヒカルは佐為のその言葉を無視した。

「それで、俺、白川先生の名前書いちゃったんだ。ちょうど先生に会ったばかりだったしさ。それで、先生のところに推薦書を書いてもらいに行かなくちゃならなくってさ。超面倒だろ。 」

佐為はヒカルを諭すように言った。

「ヒカル。それはたいして面倒なことではない。もしこの時代で同じようなことをするとすれば、もっと面倒な手順がたくさんあるぞ。虎次郎の時代も手順というものには大変やかましかった。 あいさつの順を一つ間違えただけで、何もかもダメになることすらある。

ヒカルは推薦書をお願いするだけであろう。その程度のことで不平を言っていたら、何も出来ぬぞ。」

「わかってるよ。でもなあ。」

 

佐為は思いついたように付け足した。

「それと。そうだ。ヒカル。何か頼み事があるときにはそれ相応のものを贈るというのは大切なことだ。その先生にもお礼をせねばならぬぞ。ご両親に頼む時に、そのことを きちんと話すことを忘れぬようにな。」

「わー。マジで?いいよ。そんなこと。それこそ超めんどっちい。」

佐為が渋い顔をしたのでヒカルは慌てて言った。

「分かったよ。ちゃんとやるよ。佐為が言った通りにさ。」

 

「では後はヒカルの特訓だな。これが一番大変なことだ。ほかのことは単に手順を踏めばよいことだから。」

そういうと佐為は何やら考え込んで算段を始めた。

「ヒカル、そなた、ここから自分の時代へ戻った時、大体どのくらい時間が経っている?」

佐為が尋ねた。

「前から殆ど変わらないぜ。丸一日ここにいたとしても、30分も経ってないよ。」

 

「そうか。良かった。私はヒカルのところに行くと、ここの時間と同じだけを過ごしているのだ。ヒカルが私のところで鍛錬すれば時間の節約にもなるな。 ならば間に合いそうだ。」

 

ヒカルはそれを聞いて、思い切って佐為に尋ねた。

虎次郎のことは何故かいつも聞きにくいんだよな。

「ねえ。俺。前から気になってたんだけどさ。」

「何のことか?」

「虎次郎は20年以上も佐為と時の旅をしていたんだろ。佐為にとっては、それはどのくらいの時間だったの?」

 

「私と虎次郎の時の旅か。」

佐為は遠くをいとおしむような目つきになった。

「そうだな。虎次郎との時間は早かった。虎次郎がまだ子どものころはヒカルと同じように彼はここへ旅してきたが。私が虎次郎の世界へ 行けるようになってからは、虎次郎自身は、ほとんど平安へは来なくなったのだ。前にも話した気がするが、私は意識だけが虎次郎の元へ旅し た。江戸から戻ってきた時は時間が全く経っていないようであった。 私は虎次郎とは本当に長い夢を一瞬にしてみたような時を過ごしたのだ。それはとても深いもの ではあったが。現実であったと同時に夢でもあったのだ。」

そう言って佐為は思いに沈んだ。

 

とても深いもの?現実であり夢であるって?それって、どんなものなんだろう。時の旅といっても俺の時とは全く違う んだ。

佐為は言葉を継いだ。

「今、ヒカルと私は同等に旅ができる。それぞれの時代をともに現実のものとして経験している。 それは夢ではない。稀なことだ。私とヒカルとで、ただ一つ違うのは、私とヒカルの中で流れている時の早さだ。 もしかしたらそれは、過去に行くことと未来に行くことは同じことではないということなのかもしれぬな。」

 

佐為の言葉がヒカルの胸にこだました。

…ヒカルと私は同等に旅ができる…

ヒカルは嬉しかった。

夢ではなく確固とした現実である時の旅の意味。佐為との絆。俺は絶対それを証明してみせる。俺はそのために強くなりたい。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

野風44

『野風』41~50
三面打、院生試験、アキラ新初段戦、森下先生研究会
(主な登場人物…ヒカル、佐為、導師、術師、白川、岸本、正夫、篠田、和谷、桑原、フク、帝、伊角、アキラ、座間、森下、冴木)


三谷は校門を出る時、足元にあった小石をポンと蹴った。小石は塀に当たり、跳ね返って転がった。

 

ふん。俺みたいだ。俺が子どもっぽく拗ねただけか? いや進藤が自分勝手だからだ。

俺は大会に出るためにメンバーを探しまくった。やっと夏目が碁を始めたことを聞いたんだ。教室で少し腕を見た。これなら大会に出られるぞ。そう思って、囲碁部に誘ったちょうどその日に、進藤の奴は、院生になりたいと言ったんだ。

ああ、確かに部活は個人の自由だぜ。でも、あいつは分かっていた。院生になったら大会には出られないということを。それでも12月の試験を受けると言った。冬の大会をすっぽかしても院生を目指す、いや、プロを目指すと な。

 

俺が猛烈に腹を立てた時に、あの加賀とかいう三年生が現れたのは偶然なのだろうか。

加賀の奴は俺に言った。

「ふーん。お前は怒ってる訳か。で、筒井は仕方ないと思いつつ、あきらめきれないってとこか。よし分かった。

部活も大会も個人の勝手だ。出る出ないは、自分が好きに決めて悪いことはない。

だがな。進藤。お前は、ここにいるお前の仲間を納得させて出ていけ。それくらいはしろ。」

「納得って、どうやって…。」

進藤は困惑していた。そうさ。俺は納得できないから怒ってるんだ。俺は大会に出るため、夏目を引っ張ってきたんだからな。 一生納得なんかするか。

 

加賀は、俺の腹立ちを無視したように筒井さんに聞いた。

「碁盤は幾つある?」

三枚と聞くと進藤に向かって言った。

「進藤、覚悟はあるんだろ。塔矢を追っかけると決めたんだからな。だったら、三面打ちをしろ。」

それから俺の方を見て言った。

「おい。そこのガキ。ふくれっつらしてないでお前も付き合え。進藤は俺と筒井とお前に実力を見せつけてから出ていくんだからな。」

加賀って、本当に高飛車な奴だ。あいつに逆らうなんてできない。

 

俺は三面打ちなんてしたことはなかった。俺たちがゆっくり考えて石を置いても、加賀は何にも文句を言わなかった。でも進藤には厳しかった。

「モタモタするな。」

「多面打ちに考える時間なんかねーよ。カンで打つんだよ、カンで!」

「カン!センス!ひらめき!」

そうわめき続けて、進藤を急かした。

進藤は確かに急成長して、あの大会以来俺は進藤に勝てたことはなかった。ますます差は開いている?だけど、こんな場面なら、俺が勝ってもおかしくはない筈なのに。進藤は加賀に喚かれて、目を白黒させていたんだから。なのに、進藤は、ノータイムでしっかり急所に打ちこんでくるんだ。 俺は本当に歯ぎしりしたぜ。畜生!そう思った時、加賀の檄が聞こえた。

「筒井、粘れよ。進藤に楽をさせるな!一矢むくいてやれ!」

筒井さんは頑張っていた。それでも、最初に手が止まったのは筒井さんだった。

「これまでだ…投了だよ。」

寂しそうな声だった。筒井さんの夢の終わりか?だがそんな感傷にふけってる余裕は俺にはなかった。

「ダメだ。足りねえ…。」

結局、俺はそう呟くより仕方なかった。進藤との力の差は埋まらなかった。終わった。

そう思って隣を見ると、加賀と進藤はまだ打っていた。

「俺の六目半勝ちだな。」

加賀は満足そうにそう言ったんだ。…

 

三谷は自分が蹴った石を拾いあげ、そっと電柱の根元に置いた。

俺が腹を立てたのは何でだろう。俺は進藤が取り返してくれた1万円のために囲碁部に入ったに過ぎなかったんだ。だから大会に一度出たら当然もう辞めればいいわけだ。でも続けたのは…。

そうだ。楽しかったから。チームで戦う楽しさが俺を夢中にさせたから。

進藤だって楽しくない訳がない。だから俺を囲碁部に引き入れたんだろ。その楽しさを捨ててまで、やりたいことがある のか?あいつは。

 

三谷は思い出していた。ヒカルの院生試験を受けるという、その言葉に、もう遠い過去になってしまったあの言葉が思い出された。

折角、先生が言ってくれたのに。

「一生懸命頑張れば院生になれるかもしれない。」

「一生懸命しなきゃなれないの?」

「うん。まだまだだね。毎日すごく頑張って勉強すれば、なれるかもしれない。」

「頑張って勉強?遊びじゃなくて?それでも“かもしれない”なの? じゃあ、やだな。俺。」

俺はなんて甘えた返事をしたんだろう。あの時。

進藤の奴は自分が受かると思ってるのか?院生に。それでもって院生になったら、プロになれると思ってるのか?あの加賀には負けたじゃないか。それでも院生になるつもりか?

 

だが、三谷には分かっていた。

きっと、あいつはあきらめないんだな。毎日頑張って勉強したらなれるかもしれないと言われたらあいつは、やるんだな、きっと。毎日毎日毎日。

ああ、でも俺は納得してないぞ。そういえば筒井さんは進藤が院生になるのを認めたのかな。

もしかしたら一番納得できなかったのは加賀なんじゃないか。あいつは自分を納得させるために三面打ちしたんじゃないか。

 

 

ヒカルは、三面打ちの話を佐為には、しないつもりだった。佐為がどう思うかは分からなかったが、大会をすっぽかしたことは事実だし 、こんな面倒があったなんて言いたくないし。

加賀には本当に感謝しなきゃなんないな。あれが佐為のいう手順の一つなんだ。

でもあれで皆納得した?俺は強さを見せつけて出て行けた訳じゃない。加賀には負けた。三谷は囲碁部を辞めちゃったし。筒井さんの囲碁部を潰しちゃった んだ。いや、あかりは囲碁部を辞めないって言ってたな。でも俺は囲碁部のことに口出しなんかできない。俺にはもうその資格がないんだから。

 

もう囲碁部では打てなくなった理由を説明するために、佐為には結局三面打ちのことを話すしかなかった。

佐為は黙ってその話を聞いてくれた。

軋轢というものはどこにも存在する。ヒカルは初めてそれを自分のこととして味わったのだ。それは自分の力で解決せねばならない。人はそうして大人になるということか。

「ヒカル。その三面打ちで納得してもらえたかどうかを気に病んでも仕方ない。あとは結果を出して納得させるしか、ヒカルには道はないと思うが。」

そうなんだ。俺は前に進まなきゃなんない。もう俺には、それしか道はないんだから。

三面打ちという形で自分を送り出してくれた加賀にも、囲碁部を続けていくというあかりたちにも、報いる道はそれしかない。

ヒカルは毎晩佐為の元に向かい明け方まで打ち続けた。

 

 

院生試験の一週間前になって、ヒカルはやっと両親に囲碁の塾に行きたいんだと打ち明けた。

ただしプロ棋士養成所であることは伏せておいた。

「そこは強い子どもが行くところで試験があるんだ。」

白川先生に推薦状を書いてもらうということも話した。

父はともかく母が案外すんなり認めてくれたことにヒカルは安堵した。

やっぱ手順を守るっていうのは、大切なのかな。

 

ヒカルは翌日、母が用意してくれた菓子折を携えて白川の元を訪ねた。

「先生。来週、院生試験があるんですけど…。先生に推薦書を書いてもらいたいんです。」

白川はあんぐりと口を開けた。

「院生試験?進藤君が?私が推薦?」

「うん、だって俺、他にプロの先生知らないし。それにもう先生の名前書いて申し込みをしちゃったんです。 推薦書は当日持って来ればいいって言われてて。」

白川は内心でため息をついて、それから言った。

「進藤君。分かった。推薦書は書こう。でもその前に一局打ってみようか。」

 

確かに進藤君は、どんどん力をつけているけれど、それは中学生の部活ということで 、あくまでもアマチュアでのこと。阿古田さんに勝てたからといって、院生試験とは。子どもというのは考えが飛躍しすぎるかも。まあ、受けていけないということはないだろうけれど。そういえば、今の院生師範は誰だったかなあ。

そう思いつつ、白川はがらんとした教室の一隅でヒカルと向かい合った。

「今はどんな形でやっているのか分からないが。院生試験というのは勝負じゃないんだよ。あくまで志願者に伸びていく力があるかどうかをみるものなんだ。 プロになるための素質がありそうかどうかをね。」

ヒカルは頷いた。

 

白川は、ヒカルと対局しながら思わず唸った。

この前進藤君が阿古田さんと打ったのは確か10月だった。今は11月の終わり。まだ二ヵ月に満たないのに。 この間に進藤君はどんな練習を積んできたのだろうか。

進藤君はあの時すでに段の力があったが、今はさらに数段飛び越えた力を示している。

でもそれでも院生試験に通るかは分からないが、でも可能性はあるかもしれない。

 

白川は推薦書を書き上げた。

「進藤君。 本当に君は力をつけたね。でも試験というのはまた別物だ。たとえ、今回落ちてもガッカリしてはいけませんよ。君はまだ碁を始めて1年ほどなのだからね。これからだから。」

「 大丈夫だよ。もし落ちてもまた次に頑張るから。」

ヒカルはそう言ったが、もちろん落ちるつもりは、さらさらなかった。

俺は落ちない。あと1週間できるだけのことをする。そして院生になる。

 

進藤君は受かるかもしれない。彼はプロになりたいのか。院生になれても、でもその先は厳しいよ。 プロになったら、さらに厳しい。

だけれども進藤君は、もしかしたらその道を乗り越えていくかもしれないな。

何といっても、彼に手ほどきしたのは私なんですよ。私は彼の進歩に何も手を貸してきてはいないけれど…それでも進藤君は私の教え子 という訳ですね。

 

白川は不思議な感慨を抱いてヒカルを見送った。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

野風45

『野風』41~50
三面打、院生試験、アキラ新初段戦、森下先生研究会
(主な登場人物…ヒカル、佐為、導師、術師、白川、岸本、正夫、篠田、和谷、桑原、フク、帝、伊角、アキラ、座間、森下、冴木)


「ここが棋院ですか。」

佐為は興味深げに建物を見回した。

ヒカルの院生試験に立ち会えるなんて、本当に運がいいことだ。

 

ヒカルを鍛える間、しばらく時の旅に出ずにいたのが良かったのか、佐為には自分の石が再び輝きを取り戻してきたように思えたのだ。

石が力を宿している。またヒカルのところへ行けそうだ。そう思うと矢も盾もたまらず、石の力を試したくなった。

思い切って時の旅に出ると、ちょうど院生試験の日の朝だった。

 

しかも父親と顔を合わせたのだ。

「本当にいい時に来て下さった。あなたは私の幸運のしるしのような人だ。

私はどうも親父とのトラウマがあって囲碁のことは苦手で。

あなたはヒカルの先生だし、私よりぴったりの方ですよ。よろしくお願いします。

そうそう小春日和とはいえ12月ですからね。この上着をお貸ししますよ。マフラーもどうぞ。」

付き添いを渋っていた父親はいそいそと、佐為に、ヒカルの院生試験の付き添いを押し付けた。

本当に助かったという風情で、正夫はアルバイト料も渡した。

佐為が慌てて断ろうとすると、「ラッキーッ!」。ヒカルはそう言って、佐為の代わりにさっさと父親からお金を受け取った。

苦笑した正夫は佐為と顔を見合わせたものだった。

 

私こそ、本当に願ったり、叶ったりです。お父上こそ、私の幸運のしるしです。

佐為は思った。

 

受付に向かう廊下を歩いている時に、口数が少ないヒカルに佐為は声をかけた。

「ヒカル。緊張してますか?」

「そりゃ、まあ。」

ヒカルは当然という風に答えた。

「大丈夫ですよ。今のヒカルは二ヶ月前のヒカルとは全く違いますからね。」

佐為は自信ありげに言った。

 

佐為じゃなくて俺が受けるんだから。佐為が自信があってもしかたないんだよな。

 

そんなヒカルにお構いなく佐為は嬉しそうな声を上げた。

「あ、ヒカル。見て見て。」

「なんだよ。」

「お魚ですよ。こういうの前に別のとこでも見ましたよね。これが偽物なんですよねぇ。どうみても本物みたいなのに。 あっ、この魚。ほら、何となくヒカルに似てませんか。いや、そっくりですよ。ふふふ。」

ヒカルはむっとした。

俺がこんなに緊張してるってのに佐為の奴ったら何なんだよ。

 

受付に着くと、すぐ職員がやって来た。

「進藤君だったね。今案内するから。」

 

エレベーターで上の階に向かった。

廊下を通って、突き当りの試験場へ向かう途中に、大広間があった。

ぱちぱちっと石を置く音がする。部屋の扉は少し開いている。

佐為とヒカルはそこからそっと部屋を覗いた。

何組もの子どもたちが碁盤を並べて対局をしている。緊張した雰囲気に満ちていた。

 

その様子を見て、佐為は胸を熱くする感覚に襲われた。

 

平安の御世にはこのようなところはない。

虎次郎の時もこういった形では見なかった。

ヒカルの時代は囲碁が廃れてきたのかと思うこともあったが、違うではないか。

こんなに大勢の子が緊張を持って対局をしている。

塔矢アキラだけではない。囲碁を愛し精進を続ける子どもたちがこんなにいるではないか。

 

その時、試験が終わったらしく、突き当りの部屋から女の子と母親が出てきた。

「まあ、もう少し力をつけてからおいで。」

母と子がお辞儀をして去っていくのをヒカルはじっと見つめた。

 

「先生。最後の子が来ておりますが。」

「あ。はいはい。どうぞ。」

 

ヒカルと佐為は部屋に入った。

畳の部屋に碁盤が置かれているだけの部屋だった。ヒカルはひどく緊張していた。

前の子が失敗したのを見たためかもしれなかった。

 

碁盤を前に対座すると院生師範の篠田は言った。

「志願書と棋譜を見せて下さい。」

ヒカルは棋譜と志願書を差し出した。

篠田はそれをそのまま、脇に置くと事もなげに言った。

「まずは一局打ってみようか。」

「置石は?」

ヒカルは尋ねた。

「3つで。」

 

ヒカルの相手をしながら、篠田は思っていた。これで三人目。

今日の志願者たちは皆棋力が今一つだった。

この子はどうかな。この子が駄目なら今期は新入りがいないということになる。まあ、それも致し方ないことだが。

 

おや、この子は、あがっているのかな。先ほどの手は思いっきり悪い手だったが。だがそのことを分かっているみたい でもある。

「進藤君、緊張しなくていいからね。」

篠田はそう声をかけた。だが、ヒカルには全く聞こえていなかった。

ヒカルは正座を止め、いつも佐為と打つ時のように足を組み、じっと盤面に集中していた。

 

ほう、この子は自分だけの世界にいる。大した集中力だ。

私は今はこの石でしか、この子と語れないようだ。 だが、残念だが対話ももう終わりかな。

 

佐為はヒカルの対局をじっと横で見守っていた。

残念だがもう三子置きの貯金は底をついてしまった。

ヒカルの腕では、もはや挽回の余地はない。私が代われれば。いやこれはヒカルの試練。

ヒカルに足りないのはこういう必死の対局か。だからこそ、ぜひ院生になって、あの子たちに交じって打てるようになってもらいたい。あの緊張感のある場で毎週打てたら、ヒカルの腕はさらに伸びるだろうから。

今日のヒカルはいつもの力も出せずに、いいところも少ない。

もう勝つことは無理だがぜめて、少しでも挽回の余地を示せればいいのに。

おや? ヒカル、その手は。

 

ヒカルは自分の力の無さを痛感していた。

ああ、もうダメだ。もう勝てない。 踏み込みすぎると、この人には潰されてしまう。かといってこのままではじりじりと差が開いていくばかりだ。ならば、こうするしか…。

ヒカルは差が開くのを抑えるために踏ん張った。

 

 

篠田は少し可笑しそうにヒカルを見た。

この子は私に勝つつもりで打っているのか。いや、もちろんそうでないと困るが。

しかし、こんなに夢中で…。おや、この手はなかなかいいところを突いてきている。少し持ち直せるかな。 これでどうかな。もう少し続けてみよう。この子の打つ手はなかなか楽しい。

 

「硬くならなくていいから。負けたから不合格という訳ではないからね。」

篠田はヒカルにそう声をかけた。

 

その一言に、ヒカルもだが、佐為もほっとした。

 

そうですよね。考えたら、これはプロ試験を受けるための院生になる試験。

先生はプロの棋士。三子置きとはいえ、いきなり勝てるわけもありませんね。

この者はプロの中でどの程度の腕前なのだろう。

手練の者だ。私も楽しく打てそうな相手だ。

 

先日、ヒカルは三子置きで導師に勝てた。

その時導師は言った。「もはや、二子でもわしはヒカル殿に負けるであろうよ。」

でも今ヒカルは導師と互先で打つ力を持ちましたよ。この場で。

佐為の思考の中に篠田の声が響いた。

 

「これくらいにしておこうか。」

 

篠田は、畳においていた志願書と棋譜と推薦書をじっと読み始めた。

ええと、棋譜は日付順だね。これが一番最近の棋譜か。相手は白川君か。三子置だね。

とすると、今日のこの一局はやはり上がっていたからか?まあ場数をこなせば、そういうことは克服できるが。

それよりも、一週間で、この子の碁は随分と違っている。大した進歩じゃないか。素質は多分にありそうだ。 特にもう挽回が無理と思えた時のあの手はなかなか興味深かった。

 

それから篠田は白川の推薦書とヒカルの志願書を眺めた。

 

「君は、白川先生のところにずっと通っていたわけじゃないのかい。」

「あ、はい。小学校の時だけで。中学で囲碁部に入ってからは。」

「囲碁部ね。」

顧問の先生がしっかりした人なのかな。とにかく囲碁を始めてからまだ一年とちょっとか。

稀に化ける子はいるけれど、この子はそうなのかな。囲碁経験は短くても院生になるレベルには充分達している…。

でも何より、私は少し様子を見たい。この子がこれからどうなるのか。久々にドキドキさせてもらった。

 

「いいでしょう。来月から来なさい。月末に組み合わせ表や予定表を送りますから。」

ヒカルは目を輝かせて佐為を振り返った。

 

篠田は佐為に言った。

「研修部屋は覗かれましたか。少し見学されるといい。後で対局部屋も見て行かれますか。今日は幽玄の間を見学できますから。トッププロが打つ場ですよ。進藤君の刺激になるといいですね。」

 

ヒカルと佐為は、研修部屋を覗いた。

手合いはもう終わっているらしく片づけている子、帰りかけている子様々だった。

なかに、碁盤を囲んで検討をしている一団があった。

ヒカルはそっと近づき、碁盤を覗きこんだ。

 

碁盤に向かい合っている一人が、いきなりヒカルの方を振り向いて言った。

「受かった?」

ヒカルは少し驚いて、答えた。

「あ、うん。」

向かいの少年が言った。

「和谷、知り合いか?」

「ううん。さっき部屋に入るのを見かけただけさ。」

「今回は三人だけだっけ?受かったのは君だけ?」

もう一人が尋ねた。

「え、さあ、分からないけど。」

「来月からだね。」

「ま、当分は2組だろ。1組にあがらないと俺たちとは打てないぜ。」

「和谷、厳しいな。ま、でもその通りだけどね。」

 

佐為は少し離れたところで、みんなの様子を見ていた。

確か、海王の大将は、『碁の棋士は12、3歳でプロになる。そうでないと遅いんだ』と言っていたとか。しかしここには結構年上の子もいる。さっきの 師範の説明では18まではいられるとか。

海王の大将は結局ここを辞めたのですよね。ここにいてもどこにいてもプロになるのは三人だけ。そこから先はさらに厳しい 世界が待っている。虎次郎の頃となんら変わらない世界です。ヒカルには分かっているだろうか。そのことが。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

野風46

『野風』41~50
三面打、院生試験、アキラ新初段戦、森下先生研究会
(主な登場人物…ヒカル、佐為、導師、術師、白川、岸本、正夫、篠田、和谷、桑原、フク、帝、伊角、アキラ、座間、森下、冴木)


「そこが、幽玄の間です。タイトル戦のような対局の時に使用する部屋です。ゆっくりご覧になって結構ですよ。では、私はこれで。」

そういって案内された対局場に佐為は立ち尽くした。

 

「ヒカル…。ここは。」

「ん?どうしたの。佐為。」

ヒカルは佐為の厳しい表情に気付いた。しかしそこには喜びが流れているようだった。

 

佐為みたいな雰囲気の部屋だな。初めて出会った時の佐為みたいな。

ヒカルもその空気の中に気持ちを沈めた。その部屋に漂う厳しさが体に染み込む気がした。

 

「そろそろ行きましょうか。」

しばらくしてから、佐為はやっと幽玄の間を後にした。

 

 

階段を下りながら佐為は言った。

「ヒカル。感じましたか?」

「何を?」

「あの部屋です。幽玄の間。」

「うん、なんだか気合が入りそうな部屋だった。」

「あの空気は。」

佐為は言葉を区切った。

「ピリピリして痛いほどでした。私は嬉しい。私の知る碁は健在でした。あの場で打たれた碁。それをあの部屋は伝えてくれましたよ。 私の望んでいた世界です。」

 

ヒカルには佐為のいう意味が分かった。

果てしない碁の高み…前に佐為が言ったことがある。それが伝わってくるんだ。俺もその中に加わりたい。 それが俺の望みだ。

 

「俺、いつか。いつかあそこで打てるかな。」

「タイトル戦のことですね。」

「うん。」

「精進すればいつかはきっと。トッププロに。ヒカルには是非あの場で打ってもらいたい。私はそう願っています。」

それからヒカルの方を振り向き言い足した。

「でもその前にあなたにはやることがある。」

「うん、分かってるさ。まずはプロ試験に受からなきゃだろ。」

「ええ、でも、その前にまずは院生手合いを頑張らねば。あそこでは大勢の若者が真剣に囲碁に取り組んでいました。素晴らしい眺めでしたよ。ヒカルもあの空気の中で揉まれたら伸びます。」

「やるさ。」

ヒカルはきっぱり言った。

 

ヒカルと佐為は階段を下り、角を曲がって出口に向かった。

その時ちょうど老人が入ってきたのには気づかなかった。

 

エレベーターに向かった老人は、じっとヒカルを見つめた。

「ほう、これは面白い。」

そして、ヒカルの後から現れた佐為にも目をやった。

「二人もか。あの子は院生かな。それにしても興味深いことだ。わしは運がいい。」

 

佐為もヒカルも老人に見られていることに気付かず、棋院を後にした。

 

 

「桑原先生。どうなさったのです?」

ちょうど事務室から出てきた篠田は、エレベータにも乗らず、出入り口を見つめている桑原に声をかけた。

「おう、篠田君か。いや、何ね、少々昔の夢をみとったよ。いや、そうではなく未来の夢というべきかな。」

「桑原先生の未来の夢ですか。それはまた素晴らしいことですね。未来の夢と言えば、私は今日は院生試験 の日でしたよ。」

「おお、そうか。で?有望なのがおったかな。」

「有望というか興味深い子が入りましたよ。倉田五段を思わせるような子が一人。 私は期待したいですがどうなりますか。」

「それも夢じゃな。だが、倉田などという若造程度で喜んどったら、駄目じゃよ。わしの夢の方が当たっているかもしれんぞ。」 言ってみれば、新しい波とでもいうべきものかもしれん。

桑原は最後の言葉は声には出さなかった。

「その夢とはどんな夢です。気になりますね。」

「まあ、そのうち分かることよ。いや近々かもしれん。」

 

 

ヒカルと佐為が家に戻ると留守だった。

「お父上もお母上もまだのようですね。」

「助かったぜ。でも疲れた。腹減ったし。」

「ヒカルがお茶も飲まないというからですよ。」

佐為は駅前のコーヒー店がまだ心残りだったので、ヒカルに文句を言った。

コーヒーという飲み物はすこぶる美味です。インスタントも嫌いじゃないですけど、お店で飲みたかった。せっかくのチャンスだったのに、ヒカルときたらケチで…。

ヒカルは言った。

「金がもったいないじゃん。そうだ。俺、おやつ取ってくるから。 佐為にはインスタントコーヒー入れてきてやるよ。今日のお礼にな。」

そういって、ヒカルは階段を駆け下りた。

 

佐為は苦笑した。

ヒカルには、もう少し礼儀を仕込まねば。

それから窓の外を見やりながら、考え込んだ。

 

院生試験自体はどうということはなかった。

プロ棋士というあの試験官はヒカルの腕前を正当に評価していた。ヒカルの可能性に期待を抱いてくれたのが 私には分かった。

だがヒカルもよく頑張って、あそこまで挽回したものだ。最初は緊張をしてミスも多かったが、最後にはヒカルは今持てる力をよく出し切ったと思う。

 

ヒカルが院生になれたことのほかに、私は今日、二つの喜びを得た。

あの研修室の子どもたちの真剣な眼差し。囲碁にかける情熱。

検討をしていた若者たち。彼らの囲碁にかける真摯な思いに触れることができた。

囲碁に対する情熱はずっと、続いていたのだ。図らずも今日それをこの目ではっきり確かめることができた。

 

そしてあの幽玄の間。私は打てるだろうか。幽玄の間のあの古豪たちの息吹を感じる場所で古豪たちのような腕の打ち手と。

いや、幽玄の間でとは言わぬ。あのような雰囲気で、かつて虎次郎と打ったような強者と、打ち合うことは可能だろうか。

 

私は選ばれた者だろうか。

もし選ばれた者なら、私はきっとその機会を得るに違いない。

 

私は術師と知り合い、時の石を手にし、さらにそれを使うことができた。

使った結果は有意義なことだった。

虎次郎の下で、素晴らしい碁打ちと手合いをした。

それは虎次郎の時、ただ一度切りのことと思ったが、そうではなかった。

石は戻ってきた。

ヒカルと出会い、輝きを失うかに見えた石は今再び輝いている。

 

佐為は自分の石にそっと手を触れた。

石は私を幽玄の間に導いたのだ。だから私は確信している。

私は打つ。私と相並ぶ対等な打ち手と、至高の碁を。

そして、それだけではない。

佐為はふっと笑った。

 

私は打ち手を育てるという仕事も手に入れた。ヒカルは間違いなく逸材だ。

でも彼が碁が打てぬと言った時から、私はヒカルが気に入っていたのだ。今ならよく分かる。

神は私を選んだのだ。ヒカルを選び取って私に託したのだ。共に夢を果たすために。

 

ドアが開いて、ヒカルがお茶とお菓子を運んできた。

「さ、食ったら、また打つぞ。」

「そうですね。来月、院生手合いが始まるまでにまた力を蓄えねばなりませんね。競争は厳しいですよ。ヒカル。」

「分かってる。まずは目指せ一組だよな。すぐに一組になってやる。あいつらと打つさ。」

ヒカルは今日話をした院生たちの顔を思い浮かべた。

 

「それから、推薦してくれた先生に報告を忘れずに。」

「うん。もちろん。」

そう言ったが、ヒカルは完全に忘れていた。

白川先生のことなんて、忘れてたぜ。

でも佐為ってなんでそういうことにすぐ気付くんだろう?



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

野風47

『野風』41~50
三面打、院生試験、アキラ新初段戦、森下先生研究会
(主な登場人物…ヒカル、佐為、導師、術師、白川、岸本、正夫、篠田、和谷、桑原、フク、帝、伊角、アキラ、座間、森下、冴木)


佐為は帝から碁の相手をせよとの呼び出しを受けた。

帝は清涼殿が改築中ということで、中宮の父である左大臣家の別邸に滞在されている。

左大臣家の別邸は帝のために贅を尽くしてしつらえたものだった。

 

佐為は、のびのびとした様子で石を置く帝を前にして微笑を禁じ得なかった。

帝の日々の務めはもちろん別邸でも同じように続けられている。それでもこのお邸では帝は実に楽しげに碁を打たれることだ。帝にも息抜きは必要なことなのだ。 ここではそれが叶うのだろう。

 

「佐為。楽しそうだな。」

自分が言いたいことを逆に言われて、佐為は少々驚いた。

「主上(おかみ) のお相手を致しますのは、私には常に喜びにございますが、今そのように私が見えるというのは、それは…おそらく…主上のお心持が私に乗り移っているからでございます。」

帝は意外そうに聞き返した。

「私の心持が?私の生活は全く変わらぬぞ。毎日政務は多い。裁可すべき中身を吟味するのも面倒に思うことがある。 あるいは周りは存外、吟味してほしくないと願って、山のような仕事を用意しているのかもしれぬ。 そう思えてしまうことよ。そちが羨ましいことだ。」

「恐れ多いお言葉を。まことに主上のお力により、私どもはありがたく日々を安穏と過ごしております。 主上はご多忙とはいえ、こちらでは幾ばくかでも、ゆるりとおできになるところもお有りなのでは。」

 

帝は嘆息しつつ言った。

「何と言うべきかな。ある意味では楽は楽か知れぬが。でもな、それはそれで面白くないぞ。」

「面白くないと申しますと?」

帝は声を潜めた。

「ここでは余計な気を遣わなくても済む。そちの言うとおりだ。が、望む相手に会うのも限られてしまう。どちらが良いかは分からぬ。」

 

佐為は首を傾げた。帝は一体どなたにお会いになりたいのか。

そんな佐為の様子にお構いなく帝は話を続けた。

「そちを呼ぶことは全く問題がなくてな。」

佐為は確かに権力の駆け引きとは無縁の存在だった。帝は佐為をじっと見た。

「私は碁は大好きだ。が他のこともしたいのだ。」

「蹴鞠とかでございますか?」

佐為のその言葉に帝は呆れたような声を出した。

「佐為。私を幾つと思っている?あれは私がほんの子どもの頃の話だ。 大体何でいつまでもあの事を覚えておるのだ?」

 

帝はそれから、話を切り替えるように尋ねた。

「ところで佐為は、紅内侍に代わるものは誰かおらぬのか?」

いきなり話が切り替わり佐為は少しうろたえた。

「残念ながら今は誰も。」

私が一時通い詰めた女房の話を何故に今頃帝は。先ほどの蹴鞠の話の意趣返しというわけではないだろうが。

佐為には『私は結局碁の次の存在なのね』という紅内侍の声が聞こえてきそうだった。紅内侍もたいそうな碁上手であった。だから碁のことにかまけても許してもらえると思ったのが間違いだったかあるいは佐為の碁への情熱が度を越していたか。とにかく紅内侍が佐為を見捨てた時は佐為はかなり、かっかしたものだった。まさかそんなことが起きるとは思ってもみなかった。

 

「では何をしておる?もしや前に話していた才のある子でも探し当てたか。言っていたな。才のある子を育てて自分の相手にしたいと。」

佐為の思いを破るように帝は尋ねた。

佐為は少々ためらった後、答えた。

「才のある者はそこそこにおります。が、結局のところ才だけでは行き詰ります。」

「だからそなたが育てるのであろう?」

「もちろん技術的なことは教えられますが、それ以上は、その者の気持一つです。」

「気持?精進ではないのか?」

「もちろん才も精進も必要欠くべからざるもの。ただ、才だけで突っ走れば必ず壁に当たります。迷いが出るのです。その迷いを吹っ切って、進めるかどうかが碁上手になるかどうかの分かれ目かと考えております。」

 

帝は頷いた。

「なるほどな。どこの世界も同じようなものなのだな。私はそなたと遊んでいた昔に戻りたいと思うことがある。」

「皆年を重ねて大人となれば、思うようにいかぬことが多いものでございますが。人は昔に戻れませぬゆえに。主上は皆の上に立たれる方。ご苦労も一層に。」

 

帝は何とも言えない顔で佐為を見た。

「そちは珍しき者よ。私に近いのか遠いのか分からぬところがだ。

だからかもしれぬが私はそちといると心休まる。そちは私が気が置けぬと感じる一番の者だ。

実はな、私は昔に戻る方法を見つけたのだよ。だが、なかなかうまくいかないものだ。」

佐為はぎょっとした。もしかして帝も時の旅を?

しかし帝は続けた。

「昔の気持に戻れる者に出会えたのよ。だが、ややこしいことになってな。本当にままならぬことばかりよ。」

帝は今度こそ本当に嘆息した。

 

帝の元を辞して、馬で戻る道々、佐為は先ほどの帝との話を思い返していた。

昔の気持に戻れる者か。人はそうやって昔の気持を思い返すことができるのかもしれない。

では、未来はどうだろう。考えてみれば私以外は誰も未来を知らぬのだ。

虎次郎は時を隔てて過去に来て私を知った。それはヒカルも同じ。人は実に様々な定めの下に生まれる。

 

佐為はしばし目をつぶった。馬の背から伝わる振動が心地よい。手綱を持つ伴の者が振り返り佐為を見上げた。佐為はすぐに目を開け、大丈夫というように頷いた。

が、先の方に人影を認めてすぐに声をかけた。

「少し待て。」

伴の者は馬を木陰に止めた。左大臣の本邸が近くにある場所だった。

 

佐為は目を凝らした。

あれは確か楓の大納言に仕えている者ではなかったか。いつぞや術師の家の近くで見かけた。

もしや左大臣邸に用があるのか? いや、楓の大納言が左大臣邸に何用がある? 貢物? なぜに。今は任官の季節には程遠い時期では。

佐為は少々首を傾げた。

 

楓の大納言といえば、途方もない分限者(大金持)として知られているが謎も多いと言われている。身分は高くなかったものの、大納言まで昇進できたのは、 ひとえにその財力のためだと言われている。白河のほとりの立派な屋敷の立ち並ぶ界隈に、ひときわ大きく瀟洒な屋敷を新築した。

門を入るとすぐに楓の大木があるので、楓の大納言と呼ばれている。

私にはとくに悪い人物には見えぬが、興味をそそられる人物だ。いろいろに噂を立てる者も多い。

以前術師の家で見かけたが、もし術師と何かで組んでいるなら噂も存外あっているのかもしれぬ。左大臣とも何か繋がりがあるのか?

術師なら左大臣に秘かに呼ばれてもおかしくないかもしれない。

おおっぴらにはできまいが。何しろ術師は陰陽師家には、ひどく疎まれている。 術師が生業としていることが、陰陽師のそれと重なるからだろう。しかも術師の方がその手のことでは力が勝っているという評判だ。術師の呪術が強力だとの噂があ るため、誰も術師に手出しをせぬ。 噂だけで彼が呪詛を行ったという実際の話は一度もきいたことがない。そもそも術師はそのような力を本当に有しているのだろうか。術師の性格に問題があるのは確かだが。

 

楓の大納言の従者の姿はどんどん遠くなりやがて次の通りの角に消えた。

佐為は伴の者に声をかけた。

「もうよい。行くぞ。」

 

邸に戻ると、佐為は、すぐに石の輝きを確かめた。それはこのところの佐為の日課のようになっていた。

大丈夫だ。あの院生試験の後、ずっとヒカルの時代へは行っていない。石もまたその分、力を蓄えているに違いない。院生試験か。

佐為は思いにふけった。

あの時院生試験に同席できたのは誠に幸運。たまたまなのだろうが決められていた運命のような気もする。幽玄の間に導かれるための定め。

導師にはひどく叱られたが、石は輝きを失いはしなかった。

 

石の方は問題がないが、時の旅をすると、時間の感覚が少しずれてくるように思える。それは時間の感覚ではなく、もっと別のものかもしれない。 もしかしたら時代の空気に染まなくなる。そういうことかもしれぬ。導師が恐れているのは、そのことなのかも。

「ヒカル殿が来るのは構わぬが、そなたはなるべく行くでない。そうせぬと、この平安の御世に生きられぬことになりはしまいか。」

「私はこの平安の御世の人間です。この時代を愛しております。」

いくらそう言っても導師は首を横に振る。

「それでもそなたはここで生きられぬようになる。ここで生きることが辛くなる。」

導師はそう言われたが、私は今はまだ、戻れないことがあるなどとは思わない。

何故ならここが、この平安の京が私の居場所だと感じているから。

 

私はあの時言った。

「導師がおられるここで生きるのが辛いなどということがありますでしょうか。」

「わしはそなたよりかなり年上だ。順当にいけばわしはそなたより早く逝くであろう。」

導師がいなくなったら?

人は生まれた以上、死別は避けて通れぬ。数年前にも、流行病に襲われ、子だくさんの男が、家族をすべて失って一人になったことがあった。 それでもかの男は生き続けている。

導師がいなくても私もこの平安の御世に生きていくであろう。

導師は私には心許せる者が平安のこの御世にはいないと思っているのだ。

 

だが、もし私が時の旅から戻れず、ヒカルの時代に生き続けることになったら?

順当にいけば私がヒカルより先に死ぬ。それでも、もし私がヒカルの時代に一人生き残ったら、どうなる?

「そなたは自分の思う碁が打てたらどの世界にいようと気にしないのではないかと。」一度導師にそう言われたが。私はそうは思えない。あそこはヒカルあっての時代。江戸も虎次郎あっての江戸だったではないか。

 

佐為はそのことを考えるのは止めた。囲碁指南中に、帝が言ったことを思い出した。

「才のある子でも探し当てたか。」

帝は勘が鋭い方だ。私が才のある子を見つけたと感じたに違いない。

才だけで突っ走れば必ず壁に当たるか。私はあの時、帝にヒカルのことを話していた。

ヒカルはすでに院生手合いを十局以上終えている。しかし結果は思わしくない。ヒカルが劣っているわけではない。それでも連敗から抜け出 せないのだ。

 

ヒカルは気が付くだろうか。今のヒカルに一番に欠けているものを。

この先を考えたなら、ヒカルはそれを自分で悟らねばならない。たとえ私が口で教えても、ヒカルの助けにはならない。

だれもヒカルを手助けはできぬ。どんなに時間がかかろうとも 一人で乗り越えねばならない。

これはヒカルの本当の意味での最初の試練かもしれない。

自分が壁に突き当たっている理由を理解し、その迷いを吹っ切ってすすめるかどうか。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

野風48

『野風』41~50
三面打、院生試験、アキラ新初段戦、森下先生研究会
(主な登場人物…ヒカル、佐為、導師、術師、白川、岸本、正夫、篠田、和谷、桑原、フク、帝、伊角、アキラ、座間、森下、冴木)


ヒカルは棋院の入口で深呼吸をした。

今日で1月の手合いは最後だ。何とか勝機を掴みたい。いや掴むぞ。

 

12月の始めに院生試験に受かった後、初めての院生手合いまで、ヒカルは佐為の元に通いつめ、指導を受けた。

そして満を持して臨んだ院生手合いの初日。周囲が俺のこと気にしてるのは分かった。新しい院生が入るたびに、どの程度の力の持ち主か、ライバルになりそうかと気をもむのだろう。

相手は院生2組の5位の女子。ヒカルにはそれほど強い相手とは思えなかった。

 

「おう、ちゃんと勝ってるな。」

院生試験の時声をかけてくれた和谷が、盤面を見て言った。

「でもな、1組にはまだ遠いぜ。」

俺はすぐ言い返した。

「すぐ上がるさ。1組に。」

「ふーん、強気だな。まあ、強気じゃなけりゃやっていけないけどな。待ってるぜ。お前が上がってくるのを。」

 

手合いは毎週日曜と第2土曜。初めは順調にいくと思ったのに、なぜか3週目辺りで躓いた。

相手は今まで打った奴らと大して変わりはない筈なのに。自分より強いとは思えないのに。

もちろん弱いとは思わないさ。でもどっこいだったら、俺勝ってもいいんじゃないか。佐為とあんなに打ってきたのだから、俺は勝って当然じゃないか。 なのに6連敗。

 

「俺。力が付いてきてると思うのに…。なのに何で勝てないんだろう。」

佐為はその時一言だけ言った。

「ヒカルがその理由を自分で見つけることが連敗を抜ける道です。」

理由?俺が負ける理由?やっぱ、理由があるのか?

そこで俺は負けた対局を検討した。でも、ここでこうすれば良かったのに。そんなことしか浮かんでこなかった。 佐為には分かってるんだろうか?教えてくれてもいのに…。

 

これじゃ白川先生のとこへ報告に行けないじゃないか。

院生試験に合格したことを報告した時、白川はヒカルに言った。

「これからですね。院生はみんな多分進藤君より場数を踏んでますからね。簡単にはいきませんよ。」

「俺絶対すぐに1組になってみせる、見せます。」

「はは。楽しみにしてますよ。1組になったら報告に来てください。お祝いをあげますよ。」

 

そうだ。白川先生が言っていった場数が足りないってやつか?いや、そんなことはないさ。佐為とは毎日、いやっていうほど打っているじゃないか。 何局何十局と打ち続けて来たぞ。

もしかして負け癖がついちゃったのかな。

今日は何としてもきっかけをつかまねば。流れを変えなければ。

 

「…新初段戦に…」

ヒカルが手合いのある大部屋に入った時、そんな言葉が耳に飛び込んだ。

「新初段戦?」

ヒカルはその言葉を思わず繰り返した。

そばにいた和谷が振り返った。

「ああ、今日は塔矢アキラの番さ。午後から。」

「相手は?」

「座間王座だよ。玄関に張り紙出てただろ。」

 

ヒカルは対局を見たいと思った。

「見たいのか?見れないことはないぜ。モニタールームで観戦できるぜ。」

「モニタールーム?」

「ああ。こっちだ。」

ヒカルは教えてもらった部屋を覗いた。少し大きめのテレビとテーブルとイスがあった。

「全部は見れないけどさ。院生対局が終わってからここに来ても後半ぐらいは見れるぜ。」

 

院生対局の間、ヒカルは落ち着かなかった。

俺は塔矢アキラの碁を知らない。どんな碁を打つんだろう。もちろんネットで佐為と打ったのは知ってるけど。 すごかったよな。あれも。なのに何でおれは追いつくからなんて言ったんだろう。あいつに。 良いつもりで思わず言っちゃったんだ。でもあいつ思いっきりプライド傷ついたって顔してたな。

 

ヒカルは午前中の手合いはまた負けた。

午後は、また駄目だったと思ったが、相手がミスして、勝ちを拾った。だが内容は悪い。

まあ、それでも勝ちは勝ちだ。検討もそこそこに、ヒカルは急いで、モニタールームへ向かった。

 

入口でヒカルは和谷に出会った。

「6連敗もやっぱり見るのか?」

「違う。6連敗じゃない。」

「勝ったのか?」

「いや、8連敗だ。」

そう言い捨てると、ヒカルはさっさと部屋の中に入った。

和谷が聞いてきた。

「お前、塔矢アキラ知ってるのか。関心あるのか?」

黙っているヒカルに代わって、既にモニタールームにいた伊角が言った。

「打ったことがなくても、名前ぐらいみんな知ってるだろうぜ。注目の的だもの。関心もあるさ。」

 

ヒカルは何も答えなかった。

先週、本当に偶然、駅前で塔矢アキラに出会ったのだ。

俺は6連敗の後で、落ち込んでて。でもあいつの顔を見た時に急に思ったんだ。あいつにも佐為と打たせてやりたいって。何で急にそんなこと思ったのか、分からないけど。

俺は急いで、塔矢に声をかけた。

あいつは怪訝そうに俺の顔を見た。もしかして俺のこと忘れてたんじゃないかって思ったぜ。 あいつは碁が弱いやつのことは忘れるから。

「あのさ、この前は本当にごめん。佐為のこと、知らない訳じゃないんだ。佐為にも都合があるから、いつでもってわけにはいかないだろうけど、 話してみるよ。」

そう言った時、塔矢ものすごく冷たい返事をした。

「別に、もういいんだ。僕も忙しいんだ。だからもういいよ。saiのことは。君の言うように、またここに来たら打てるだろうし。君の手を煩わすこともないよ。」

取りつくしまがなかった。

俺は塔矢の背中に向かって思わず言っていった。

「いつか。俺、お前に追いつくから。きっと追いつく。」

塔矢は立ち止まり、ぱっと振り返った。

「君が僕に追いつくって?」

塔矢は思いっきりばかにした声で言った。プライドを傷つけられたことが分かった。

 

部屋の中では、数人が観戦している。

「王座が戦いを避けたね。」

「座間先生は余裕で戦いを避けたのでは?」

「違うだろ。この新初段相手に危ない橋は渡れないと思ったんだ。塔矢アキラの力にうろたえているところさ。」

ヒカルはそんな話声を聞きながら、モニターを見つめた。

 

その時話していた男が振り返った。

「和谷君に伊角君か。そっちは?」

「今月入った院生です。」

和谷が答えた。ヒカルはぺこりとした。相手は頷いた。

「週刊碁の編集の人だ。」和谷が小さな声で教えてくれた。

 

伊角が和谷とヒカルに言った。

「初手から並べてやるよ。黒が塔矢で白が王座。ハンデがあるぜ。先番の上、黒が5目半コミをもらうんだぜ。」

「ハンデがあるの?」

「トッププロと新初段だぜ。いい勝負にするためにはハンデがいるだろ。本当はこのくらいじゃ新初段には厳しいけど、トッププロの方はさほど真剣に打つわけじゃないから何とか勝負になるんだよ。」

「だったら塔矢なら楽勝とか?」

「それが今日の王座は真剣だ。」

「本当だ。黒のホウリ込みに白は切らずに取りだ。」

「王座が慎重なんだ。新初段相手に。」

伊角は言った。

「甘く見たらやられる。丁寧に打ち相手の隙をじっと待ち、最後には必ず勝ちを自分のものにする。そういうつもりで打っているよ。座間先生は。」

「それなのに塔矢はここを守らなかった?面白いけど、でもここを白に攻められたら?」

 

「さあ、そこに王座が打ちこんできたぞ。黒の守りのウスイところに白が打ちこんでくるのは黒とて百も承知。どう戦う、塔矢アキラ。どう戦う座間王座。」

 

ヒカルはしびれたように画面を見つめた。

守っていれば勝てるのに、なおも攻める。塔矢、お前って本当にすごい。

 

アキラは、真っ直ぐ前を向いて碁を打っていた。

何故かわからないけど、座間先生は僕を気に要らないみたいだ。 僕に思いっきり力を籠めて打ってくる。望むところだ。新初段だからという理由で適当な碁など打たれたくはない。

座間先生が僕のことをどう思おうと、僕は僕の碁を打つだけだ。

 

僕は決めたんだ。僕が見据えるのは僕の前にいる500名のプロ棋士だけ。それが僕の相手だ。

他の誰ももう何も関係ない。僕はただ前を目指して進む。守ることなどしない。

 

「あ。 黒。 ―無理だ。…切り取られる。深入りし過ぎだ。アキラ君。王座の応手を読み切れてない!」



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

野風49

『野風』41~50
三面打、院生試験、アキラ新初段戦、森下先生研究会
(主な登場人物…ヒカル、佐為、導師、術師、白川、岸本、正夫、篠田、和谷、桑原、フク、帝、伊角、アキラ、座間、森下、冴木)


「甘いな。俺がここ、受けると思ったか。塔矢門下の若いのなら手拍子で受けるだろうが。今君の前に座っているのを誰だと思ってるんだい?」

王座の言葉に、アキラはくっと唇をかんだ。

今僕が打っているのが誰かなど、そうじゃないんっだ。それでも。

それでも僕は前に進むんだ。それでも。もっともっと踏み込んで打つんだ。

 

アキラが投了を余儀なくされた時、一瞬、座間の顔は勝ち誇ったように見えた。だがその表情は硬かった。

たかが新初段に、王座の俺がこんな形で勝った。そのことへの屈辱感が座間をひどく不機嫌にさせた。

 

アキラには、その後のことはたいして記憶にない。アキラにとって、それはもう終わった対局だった。検討があって、頑張ったという声が聞かれた。週刊碁の編集部の人が何か盛んに言っていたけれど、それも遠い出来事のようだった。口数の少ないアキラを芦原が手慣れた態度でフォローした。

 

帰りの電車の中で、一人になって、アキラは初めて考えることができた。

今日は本当に芦原さんがいてくれて助かった。負けたことは悔しいと思ってはいない。ただ一つ確かなのは、今日の対局を僕は後悔なんかしてないということ。これは僕の決意の証だから。

 

アキラには今日の碁よりもあの時のことが思い出された。

僕は何であの時あんなにムキになったんだろう。おそらく進藤は。…彼は僕に謝りたかっただけなんだ。僕が必死でsaiを探していた時に冷たくしたことを。それだけだったんだ。

彼は僕がプロになったことも知らない筈だ。中学の部活のノリで僕に追いつくなんて言ったんだ。碁を分かってないから。初心者相手に腹なんか立てて、僕は本当にバカみたいだった。

棋士の高みを目指して、僕は小さい頃から毎日毎日何時間も碁を打ってきた。どんなに苦しくても。その努力を人にひけらかすつもりはないけど。それでも僕にもプライドはある。

僕は今日の対局で知った。プロの真剣勝負の厳しさというのを。もちろん今までだってずっと見てきたんだ。父の傍らで。そういう厳しさをずっと。だけれど、それを自分の身として感じたのは今日が初めて。

 

あの時僕が負けた二局。…あの人は強いとは思う。確かに強かった。でも本当にもういいんだ。あの人はプロではないから。僕には無用の人なんだ。

そう決意したものの、アキラには、心のどこかで、もし進藤に言いさえすれば、またあの人と打てるんだという気持があった。アキラは首を横に振った。魅惑的な碁を頭の中から追い払った。もう考えまいとした。

この次王座と対局する時は今日とは違う。僕には今日掴んだものがある。僕は進む。僕には今日の厳しさを受け止めて プロ棋士として進むのが道なんだ。

 

 

ヒカルは、帰る道でも、帰ってからも、その日一日、しびれたようにアキラの対局を思い返していた。眠る時も、頭の中にアキラの真っ直ぐなひるむことのない指先が 石をぴしっと置くのが見えた。

翌日、ヒカルが学校から帰ると、部屋の中に佐為が狩衣姿のまま碁盤を前にして座っていた。

「れっ?佐為。来てたの?」

「今しがた、来たところですよ。ヒカルが、どうしているかと思いましてね。」

「どうしてるかって。俺、一昨日佐為んとこ、行ったばっかじゃないか。」

ヒカルはふてたように言った。

 

佐為はそれには答えず、別のことを聞いた。

「ヒカルは、私の所へ来る以外はどう過ごしているんですか。」

「どうって、学校へ行って、あと院生手合いに行って…」

「それは分かっています。それ以外です。他の院生はどのように過ごしているのでしょうね。」

「そりゃ、誰か、先生についたりとかいろいろだろ。」

「一人でいる時はどうしているのでしょう。ヒカルは?」

「今まで打った棋譜、俺が佐為と打った棋譜を並べ直して、検討してるんだ。」

佐為は思案気に頷いた。なぜかあまり賛成ではない風にみえた。

 

「昨日は院生手合いでしたね。」

「あ、うん。また負けた。もっとも最後の一局は勝てたことは勝てたよ。けどさ…。」

佐為は後を引き継ぐように言った。

「内容が悪いのですね。」

ヒカルは頷いた。ヒカルはいつものように棋譜を並べることはせずにしばらく黙っていた。

佐為は、せかすことはせず、じっと待っていた。

 

「あの幽玄の間でさ。新初段戦があったんだ。」

ヒカルは、やっと口を開いた。

「幽玄の間で?」

その言葉に、佐為の胸は高まった。懐かしくも厳しい空気の満ちていたその場所を思い浮かべた。

「うん、塔矢と座間王座の対局だったんだ。」

ヒカルは、新初段戦の棋譜を並べ始めた。

「王座ってのはタイトルの一つなんだって。新初段はハンデをもらえるんだ。先手で5目半。」

佐為は盤面をじっと見つめた。

ヒカルは石を置きながら言った。

「塔矢ってすごいよ。俺、胸が熱くなっちゃった。」

 

佐為はアキラの対局図を見ながらヒカルの言葉に頷いた。

塔矢アキラか。あの子は何に向かって宣言しているのだろう。

名人という父親に向かってか?あるいは誰か競うべきライバルがいるのか?

いや、そうではなく、これはプロ棋士として進む自分への決意表明というものかもしれない。 若い熱い思いが溢れている対局だ。彼は本当に真っ直ぐな子だ。

 

佐為はアキラの碁についての検討をしなかった。その代りに言った。

「ヒカルの昨日の院生対局を並べて下さい。」

ヒカルは渋々自分の対局譜を並べ始めた。

佐為は言った。

「それで、ヒカル。あなたは自分に何が欠けているか分かりましたか?」

ヒカルは首を横に振った。

佐為は静かに言った。

「ヒカルは今塔矢アキラの碁に感激していたでしょう。あなたは院生になる時、塔矢アキラの横に並びたいと、彼を追うことを決意した筈です。ヒカルは今のところ、力は塔矢アキラに及ばない。まだまだだ。でも一つだけ彼と並ぶことができるものがある。」

「俺が塔矢と並べるもの?そんなものがあるって?」

佐為は頷いた。

「少なくも、塔矢アキラのようにまっすぐ進むことはできるでしょう。新初段戦で見せた塔矢アキラの気概ですよ。」

ヒカルは佐為を見つめた。

それが俺が今塔矢と並べるもの。

 

「ヒカルは以前は真っ直ぐに打っていました。あなたの性格そのものです。恐れを知らず、まっすぐ思うとおりに。 今見せてもらった塔矢アキラのような無謀にも思える手。

人というのは学び、知恵をつける。だから人は伸びていけるのだが。

そう、ヒカル、あなたも知恵をつけた。 私と打って多くのことを学んだ。

今のヒカルは相手の手を考え恐れ、自分の手を控えてしまう。

相手の手を考えるのは悪いことではない。当然のことですよ。でもそれで自分を失ってはダメなのです。

ヒカル。心が熱くなるような碁を打ちなさい。今のあなたに一番必要なものです。勝ち負けはその後です。」

ヒカルは佐為の言葉に頷いた。

それ以上は言わず、佐為は早くに平安へと戻った。

 

その後も何も特には変わりはなかった。ヒカルは今まで通り佐為の元に通った。

真っ直ぐに進めと、そう言われたけれど、そう思ってもヒカルはなかなか満足いく形で打てなかった。

佐為は今までと変わりなく俺と打ってくれてる。いや、そんなことはない。今まで以上に手加減なしで鋭い感じがするぞ。畜生。負けないぞ。俺は それでもまっすぐ打ってやる。

そうは思っても、それが結果として盤面に現れるというものではなかった。

土日の院生対局も、以前より勝てるようにはなってきたが、内容は今一つ満足のいくものではなかった。

 

「ヒカル真っ直ぐに進みなさい。勝ちを手にするのは大切ですが、でも負けを恐れてはいけません。今のヒカルは負けを恐れ結局負けている。」 いつも佐為の声が響いていた。

俺は負けることなんか恐れない。

ヒカルがもがきながらも、何とか様になる形で、打てたと感じられるようになったのは2月も終わる頃だった。

 

今日のこの一局、自分でも満足のいく納得の碁だ。

その日の院生対局の終わりにヒカルは晴れ晴れとした顔をして、対局部屋を見回した。

今までとは違う。ここは俺が堂々といられる場所に思える。

 

その夜、ヒカルは佐為の元に行き、誇らしげにその対局譜を並べた。

それを見て佐為は一言、言った。

「やっとヒカルらしい碁になった。」



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

野風50

『野風』41~50
三面打、院生試験、アキラ新初段戦、森下先生研究会
(主な登場人物…ヒカル、佐為、導師、術師、白川、岸本、正夫、篠田、和谷、桑原、フク、帝、伊角、アキラ、座間、森下、冴木)


4月の初めにヒカルは1組にあがった。

「ひゃっほー、1組だ。今日から俺、1組だぞ。」

ヒカルが小躍りして、部屋に入ると、和谷が言った。

「1組のどんけつな。」

周りの子がけらけらと笑った。

「はしゃぐのはいいけど、今日からお前の相手は俺たち1組だからな。ここんとこ調子よかったみたいだけど、これからはそうはいかないぜ。」

ヒカルは少しギクッとした。

「まあ意外と早く上がってきたかな。」

1組1位の余裕で伊角が言った。

「1組にようこそ。よろしくね。」

そばにいた女子がそう言った。

ヒカルより3ヶ月早く院生になって、今3位の越智も言った。

「よろしく。」

1組のみんながヒカルを見ていた。歓迎と共に挑戦的な雰囲気にびびったと言うわけではないが、ヒカルは少しどきんとした。

しゃんとしろ。自分!俺だって。

「よ、よろしく。」

ヒカルは何とか返事を返した。

 

ただ碁盤の前に座っていざ対局になった時は、すっかり落ち着いていた。

1組だってひるまない。相手より厳しい手を返してやる。俺はもっともっと上を目指してるんだ。

少々ひやりとする場面を何とか切り抜けると、ヒカルは1組での最初の1勝を収めた。

2局目は長考しない子で、ヒカルとは相性がいいようで打ちやすい子だった。

ヒカルが勝敗表に印を押していると和谷が来た。

「ふーん。フクに勝ったのか。進藤。連勝じゃねえか。」

ヒカルは胸をはって頷いた。

「うん。」

「だけどな。次はそうはいかないぞ。俺が相手だからな。」

和谷が釘をさした。

今度はヒカルも負けていなかった。

「でも和谷ってフクには弱いんだろ。」

 

和谷は傍にいたフクに怒鳴った。

「フクゥ。てめえっ。」

フクはあっけんからんと答えた。

「だって本当のことだもん。」

その時、院生の一人が、和谷を呼んだ。

「おい。ネット碁のこと、教えてくれるんだろ。早く来いよ。」

「ああ、今行く。」

「ネット碁?」

「和谷君はネット碁やってるんだよ。zeldaっていう名前でね。」

フクが代わりに答えた。

 

和谷を見送りながら、ヒカルは呟いた。

「和谷がzelda。和谷はsaiと打ったんだ。」

 

『…この者は今までの誰よりも強いです。』

『…ヒカルまずいでしょ。ヒカルだって怒るでしょ。そんなこと言われたら。zeldaはヒカルの何倍も強いのですよ。』

俺の何倍も強い…

ヒカルの胸に、自分が書いたメッセージがこだました。

ヨク ガンバッタナ…

今度は佐為じゃなくて俺が打つんだ。いや。勝つさ。今の俺はあの頃の俺じゃないんだから。

 

家に戻るとすぐにヒカルは佐為の時代へ向かった。

報告を受けた佐為はにっこり笑った。

「念願の1組でこの対局。どうやら、抜け出たようだな。私とばかり打つのがいけないのではと心配したが。」

「佐為と打つのがいけない?」

ヒカルは不思議そうに聞き返した。

「そう思った。ヒカルは院生対局以外は私としか打たない。碁はもちろん強い者と打つことが大切だが。 棋譜並べすら私と打ったものばかりというのでは。少しなんとかするべきかと思ったが、そのまま様子を見ていた。

ヒカルは碁を分かってきたから、私の力も分かってきたのだ。上手の私の碁に恐れを抱くようになったのだ。まあ、とにかくヒカルは乗り越えたのだから。もうそれは大丈夫だと私は確信している。」

 

佐為は庭を見た。日が傾き、夕暮れが近づいていた。

「ヒカルはどうやら壁を一つ乗り越えた。だが、このままでいいということではない。あの新初段戦の塔矢アキラをいつまでも目標としているだけではだめだ。彼の あの姿勢は見習うべきだが。

塔矢アキラもあれからきっとさらなる研鑽を積んでいる筈だ。

ヒカルは今までは院生2組だからやってこれたのかもしれない。今日は勝てたようだが、1組の面々の力はまだ分からない。碁はなんといっても勝たねばならない。」

ヒカルは言った。

「次の対局者は、和谷なんだ。」

「和谷?」

「うん。院生試験の時、声をかけてきた奴がいただろ。」

 

佐為はおぼろにその時の様子を思い浮かべた。

確かヒカルと同じくらいの子だったような。

「そいつ、zeldaだったんだよ。佐為。ネットで打ったろ。俺がガンバッタナって書いた奴だったんだ。」

佐為は頷いた。

「ああ、そういうことがあった。確か、なかなかの腕前だったような気がしたが。」

「そうなんだ。院生順位は7位だって。」

「ヒカルは25位。だが7位であろうとなかろうと、今のヒカルなら、勝てないということではないと思う。 とにかく気持で負けてはいけない。」

ヒカルは頷いた。

碁はなんといっても勝たねばならない。

先ほどの佐為の言葉がさざ波のように広がり、ヒカルの胸にこだました。

俺は勝ち進んで見せる。塔矢に並んでみせる。

俺だって。俺は壁を一つ越えたんだから。俺は、だからまた前に進むんだ。

塔矢の奴があれからもっと進んでいるのなら…。だったら俺ももっと早く進む。追いついて見せるさ。 必ず。

 

翌日、学校の帰りがけに、ヒカルは白川のところへ寄った。

報告を受けた白川は少し目を丸くして言った。

「1組にあがりましたか。」

3ヶ月か。意外と早く上がれましたね。いや進藤君の上達振りならもっと早くても良かったのかもしれないが。とにかく進藤君は本物になれるかもしれない。

白川はヒカルと一局打ちながら思った。

院生になった時より格段に進歩している。3ヶ月というのはあなどれない 時間だ。次の3ヶ月で彼はどう伸びるだろうか。このまま伸び続けることができたら…。もしかしたら進藤君は。

 

「約束通りお祝いをあげなければなりませんね。進藤君は明後日午後空いてますか?」

 

ヒカルは落ち着かなげに棋院に入った。

いつもの院生手合いのある大部屋を過ぎて、戸が閉まっている部屋の前にたった。

やっぱ緊張するよな。何となく職員室へ入る感じじゃないか。白川先生もう来てるよな。俺、こういうの本当に苦手だな。

深呼吸をすると、ヒカルは戸をノックして言った。

「失礼します。」

中に入った途端、和谷と目が合った。

「あれっ?何で和谷が居るの?」

「馬鹿。それは俺のせりふだ。森下先生は俺の師匠だ。お前こそ何でここに来たんだ?」

「和谷、うるさいぞ。君が進藤君か。白川君から聞いている。」

森下が口を開いた。ヒカルはぺコンと頭を下げた。それから、周りを見渡すと白川がにこやかな顔をして ヒカルを見つめていた。

「進藤君は私の教室に通ってたのです。まだ碁を始めて1年とちょっとなんですが、院生1組に上がったっていうことで、森下先生に了解を得て研究会へ誘ったのですよ。」

「碁を始めて1年とちょっとって、倉田君並だね。」

その言葉に和谷が不服そうに言った。

「2組ずっと連敗してた…。」

和谷の横にいた棋士が言った。

「でもとにかく1組にあがれたんだろ。3ヶ月で。」

その言葉にヒカルはきっぱり言った。

「俺、和谷に負けないから。今度の手合い。」

「俺だって。」

和谷も負けじと応じた。

 

森下は頷いて言った。

「まあ、お互いその意気だ。とにかく二人とも頑張れ。」

「和谷は若獅子戦も近いしな。」

そばにいた門下生の冴木が言った。

「若獅子戦?」

ヒカルは聞きなれない言葉に首を傾げた。

「進藤君は知らないかな。院生と20歳までの若手プロが競うトーナメント戦だよ。」

「俺も出る。」

ヒカルは張り切って言った。

「出るったって。1組16位までしか出られないんだぞ。お前は25位だろ。」

和谷がけん制した。

「だったら、16位になるさ。すぐに。プロとのトーナメントだったら塔矢の奴もでるんだ。あいつとも戦えるんだろ。」

ヒカルは張り切って言った。

塔矢と打ってみたい。俺だって塔矢と並べるものがある。それを見せ付けてやりたい。

「よく言った。塔矢アキラが目標か。頑張りなさい。碁にはなんといっても意気込みが大切だ。ここでじっくり勉強して、その目標に邁進しなさい。」

森下が檄を飛ばした。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

千早51

『千早』51~60
ヒカル…秀策について知る。若獅子戦でアキラと対戦。プロ試験へ。
(主な登場人物…佐為、ヒカル、和谷、伊角、フク、平八、平八妻、筒井、本田、村上、アキラ、導師、門脇、桑原、道玄坂碁会所マスター、河合、市川、緒方、岸本、尹先生、洪秀英のおじさん)


森下の研究会の3日後にはもう院生対局の日となった。

ヒカルはこのところ好調だったので、和谷との対局に張り切って臨んだ。

しかし和谷はヒカルが思っていた以上に手強かった。研究会で顔を合わせてから、ヒカルと同じく、和谷のこの対局へかける意気込みはすごかったのだ。

 

森下先生の研究会でまさか進藤と顔を合わせるなんて。冴木さんと打ったのを見たけど、こいつは結構打てる奴だ。絶対負けられないよな。負けたら研究会で何と言われることやら。

 

伯仲した戦いだった。

やっぱりzeldaって、強いんだ。佐為が言っていた通りだ。

そう思いながらヒカルは和谷が置いた石をみておやっと首を傾げた。

えっ、今打ったのって、佐為の手に似てないか? あのネット碁の影響か?

ヒカルは和谷の顔を伺うように見た。

和谷はヒカルの様子に気づきもせず、盤面をじっと睨み、集中していた。

 

結局ヒカルは2目半で負けた。

ヒカルがふっと、ため息をつくと、和谷は満足そうに、にやっとした。

先に終わっていた伊角とフクが様子を見に来た。

「和谷。勝ったのか。」

「うん。でも進藤も思った以上になかなかやるよ。ここんとこなんかちょっとヒヤッとしたぜ。」

「へえ。ここか。」

伊角は盤面を覗き込んだ。

 

ヒカルは佐為に似た手が気になって、検討も上の空だった。

伊角と和谷の会話が途切れた時、やっとヒカルは気になっている場所について恐る恐る尋ねた。

「俺、ここの辺をうまく打たれた気がするんだけど。」

「そこか。うまくいったよな。そこ何となく秀策っぽいだろ。こんなにぴったり決まったのって始めてかもな。」

和谷は自慢そうに言った。

「和谷君の十八番が出たね。」

フクが笑って言った。

 

「秀策?和谷の十八番って?」

ヒカルは不思議そうに聞き返した。 

勝って気分が良かったこともあってか、和谷は饒舌だった。

「俺、秀策が好きでさ。うちでよく棋譜を並べるんだ。」

「秀策の棋譜?それってどこで見られるの?」

「下の売店にも置いてあるんじゃないか。」

伊角が言った。

「全集じゃないのもあるぜ。買うんだったらそっちの方が手ごろだな。」

和谷が言った。

 

 

午後の対局を終えると、ヒカルはすぐ売店に向かった。

全集を手に取ると、ヒカルは値段を確かめながら呟いた。

高っ。俺の小遣いじゃ手が出せないよ。和谷が言ってた方の本はないのかな。売れちゃったのかな。

 

翌日学校の帰りに寄った近所の図書館にも、秀策の棋譜はなかった。

図書館の人が、希望を出せば購入できるかもしれませんよと言ってくれたが、来年以降になると聞いてやめた。

来年だって。そんなに待てないよ。結局買うしかないのかなあ。でもこの前の小テストの成績が悪かったしな。臨時の小遣いなんてまず無理だし。

でも気になる。和谷が気に入っている秀策か。

そういや、秀策ってどういう人なんだろう。聞くの忘れたなあ。和谷に聞くのは癪だよな。

その時、ヒカルは、はたと思いついた。

 

そういや、じいちゃんは持ってないかな。秀策の本。持ってなくても秀策って知ってるかも。知らなくても碁の相手をすれば小遣いもらえるよな。本が買えるぞ。よしっ。

ヒカルは、その足ですぐ平八の元を訪ねた。

 

「何だ。ヒカル。随分久しぶりじゃないか。学校の帰りか。」

「うん。春休みに一度寄ったんだぜ。でもじいちゃんは旅行中で留守だったんだよ。」

「そうか。悪かったな。中学生ともなると、ヒカルもいつも忙しそうだしな。どうだ。今日は時間があるなら一局打つか。」

「うん。いいよ。置石なしだよ。」

「何?わしと置石なしで打つと?調子に乗りおって。まあ、いい。どの程度腕を上げたか確かめてやるさ。」

 

ヒカルは、しばらくぶりに平八と対局した。

平八は途中で何度もうーむと唸っていた。

「じいちゃんに勝てたら小遣い倍だぜ。」

ヒカルは偉そうに言った。

「何言っとる。いや、待て。うーん。ヒカル。お前すごく強くなったな。」

それからとうとう言った。

「それにしても置石なしで、わしに勝つとは。子どもの成長ってのは本当に侮れんな。よし、小遣いをやろう。」

「へへ。」

 

ヒカルはその対局にかなりの満足を覚えた。

同時に平八がかなりの腕の持ち主だということに初めてのように気づかされた。

じいちゃんってすごいや。阿古田さんよりはずっと上手(うわて)なんだ。何で今まで気づかなかったんだろう。

 

平八は時計を見ると言った。

「おや、もうこんな時間だ。ヒカル、家に電話して、晩飯を食っていったらどうだ。」

「うん。」

 

平八の妻は楽しそうにヒカルに言った。

「ヒカルは良く食べてくれるから、作り甲斐があるわ。もっと来てくれると嬉しいわ。ヒカルが碁の相手をしてくれるようになって、お祖父ちゃんも喜んでるのよ。」

「うむ。まあ、意外と早くわしの相手が出来るようになったなあ。子どもは伸びるのも早いからな。」

 

ヒカルはやっと話を切り出した。

「ねえ。じいちゃん、秀策って知ってる?」

「秀策?本因坊秀策のことか?」

「それどういう人?俺、名前だけ聞いたんだ。」

「何、ヒカルは知らんのか。秀策は幕末の頃の囲碁の名人じゃよ。」

「何だ。昔の人なんだ。その人の棋譜持ってる?」

「いや。持っとらんよ。わしはそういうのは買わんからなあ。昔の人って言っても棋聖といわれるほどの人物だぞ。」

「ふーん。棋聖ねえ。じいちゃんも持ってないのか。じいちゃんは一人でよく棋譜並べしてるだろ。あれは誰のを並べてるの?」

「誰って、特にないよ。碁の本に出てるのとか新聞のとか、いろいろ適当だよ。別にわしはそこまで碁を研究してるわけでもないからなあ。」 

 

ヒカルは家に戻ると、貰った小遣いを取り合えず佐為の為の引き出しに突っ込んだ。

結局本を買わなければならないけど、まあ、小遣い貰えたからいいか。

それにじいちゃんにも勝てたしな。

秀策の本を買うとして、この辺の本屋に置いてあるんだろうか。無かったら、どこで売ってるのかな。

やっぱ和谷に聞く?やだな。

そうだ。 いいこと思いついた。

 

ヒカルはバタバタと階段を下りて、電話のところに行った。

「進藤君?懐かしいな。って言っても、まだ卒業式から一月ぐらいだけどね。電話くれて嬉しいよ。…えっ。秀策。うん知ってるよ。…うん、うん…。」



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

千早52

『千早』51~60
ヒカル…秀策について知る。若獅子戦でアキラと対戦。プロ試験へ。
(主な登場人物…佐為、ヒカル、和谷、伊角、フク、平八、平八妻、筒井、本田、村上、アキラ、導師、門脇、桑原、道玄坂碁会所マスター、河合、市川、緒方、岸本、尹先生、洪秀英のおじさん)


翌朝早く、ヒカルは駅前に立っていた。ヒカルの姿を認めて、筒井が走ってきた。

「進藤君。待たせた?こんなに早くでごめん。」

「ううん。全然。俺の方が頼んだんだもん。」

「いつもは30分遅い電車なんだけどね。」

筒井はブレザースタイルの制服で大人びて見えた。ヒカルはじろじろ見つめた。

「何?どうしたの?」

「あっ、うん。何となく高校生って違うかなって思ってさ。」

筒井は笑った。

「進藤君がそんなことに気がつくなんてね。そうそう、これ。」

 

筒井は鞄から本を取り出した。

「ありがとう。」

「やっぱ院生は違うんだね。秀策なんか並べて勉強するなんて。昨日聞いて驚いちゃった。」

「筒井さんだってこの本持ってるじゃないか。俺、秀策なんて名前も知らなかったから。」

「広告につられて買ってみたんだけどね。解説が少なくて、僕にはちょっと。進藤君がもらってくれるんなら嬉しいよ。秀策のこと知りたかったらいつか広島に行くといいよ。秀策記念館があるらしいよ。僕も行きたいと思ってるんだ。一緒に行く?」

「わあ、約束だぜ。」

「いつかね。じゃあ。」

 

筒井と別れた後、ヒカルはうきうきした気分で学校へ向かっていた。

解説が少なくても大丈夫さ。佐為に聞けばいいんだから。そういや佐為は秀策って知ってるのかな?

 

その夜、佐為の元へ向かったヒカルは初めて虎次郎が秀策だということを知った。

「ええっ!秀策って虎次郎のことなの?」

「そうだ。幼名が虎次郎なのだ。でも虎次郎が秀策として打った碁は実は私が打ったものなのだ。虎次郎が私の代わりに石を置いてくれた。あの頃は私は生身の体を持って時の旅が出来なかったから…」

佐為は遠くを懐かしむような目をした。

「それにしても棋譜の本が出ているとは。」

「うん。5巻もあるような本もあるんだよ。いつか棋院に行くといいよ。」

 

それから気がついたように言った。

「とするとじゃあ、和谷って佐為の碁が好きだったのか。ていうか佐為の弟子かな?」

佐為ってやっぱりすごい奴なんだ。

ヒカルはそのことが分かって自分のことのように得意な気分になった。

「研究したら弟子になるというものでもないが、それも悪くはないな。

私の碁が好き。私の弟子?なかなかいい表現だ。

和谷というのは見所がありそうだな。」

佐為は気分よさそうに付け加えた。

「それにしても碁聖とか棋聖と言うのはなかなかに良い表現だ。」

ヒカルは、やってられないという目で佐為を眺めた。

まったく佐為って、碁がすごいってのは認めるけどさ、性格がな。

すぐ調子に乗るんだから。

 

その後、院生対局は時折負けを喫しながらも、順調に順位を上げ、ヒカルは4月の終わりには若獅子戦に出る資格を得た。

「去年は院生で1回戦勝ったのは5人くらいだっけ。」

「二回戦も勝ったのは俺と伊角さんだけ。」

本田が言った。

 

「若獅子戦はプロ試験のためのいい腕試しだ。」

そういう声を聴きながら、若獅子戦の対戦表を見て、ヒカルは胸が躍った。

初戦を勝てれば、俺、塔矢と対局できるんだ。

俺はもしかして塔矢と同じところにいられる?

でも、初戦はすべて院生とプロとの対局だ。

俺の相手はプロの二段だって。どのくらいの腕前なんだろう?プロに勝てる?

いや、そんなこと言ってちゃだめだ。塔矢はプロなんだ。

伊角さんも本田さんも去年二回戦突破したんだろ。

だったら俺だってやってやるさ。待ち遠しいぜ。

 

その日はすぐに来た。ヒカルは若獅子戦の会場で塔矢の姿を探した。

俺たち、同じ場所に立ってるんだぜ。

ヒカルはわくわくしていた。その時冴木の声がした。

「和谷。俺たち一回戦で当たんなくてよかったな。進藤君もな。二人とも頑張れよ。」

ヒカルが返事をしようとしたその時だった。

ヒカルの横を、ヒカルなど存在していないというようにアキラがすっと通った。

ヒカルが声をかける暇も隙もなかった。

みんなの視線がアキラに集まっていた。そんな視線など無視したように、アキラは真っ直ぐプロ棋士たちの所に行き、挨拶を交わしていた。

「俺たちなんて存在してないみたいだな。まあ、仕方ないけどな。

塔矢ももちろんだけど、プロは院生なんて眼中にないんだろうな。」

和谷がヒカルの横で言った。

 

みんな塔矢を意識している。塔矢はそういう存在なんだ。

よしっ。思いっきりやってやる。

ヒカルはますます闘志がわいてきた。

まもなくアナウンスの声がした。

「ただ今より第9回若獅子戦を行います。」

 

あいつの眼中にあろうとなかろうと、俺はまずは初戦を突破してやる。

全てはそれからだ。

ヒカルは二段の村上と向かい合った。

「互戦ですが院生が黒を持ちます。始めてください。」

合図とともにお願いしますの声があちこちから響いた。

 

ヒカルは張り切って第一手を置いた。

二段だっていうけれど、この人打ちやすいかな。

ヒカルはそう感じた。

この人は俺より腕がありそうだけど、でも俺は勝は譲らない。

この人に勝って塔矢と打つんだから。

ヒカルは初めから集中力全開で打った。

俺の力のすべてを出し切る。

村上は初めは余裕で構えていたが、途中ヒカルの打ち回しに、はっとしたようで、上着を脱いで、集中モードに入った。しかし、それは遅過ぎた。

 

塔矢のテーブルの周りには人垣ができていた。

「なんだ。もう終わりか?」

「ちぇっ。院生がふがいないから塔矢の力がわかんないじゃないか。」

そんな声が聞かれた。

その時、別のテーブルから「コノヤローッ」という声が聞こえて、碁石が床に勢いよく散らばる音がした。

和谷が伊角に失礼な態度を取った真柴プロになぐりかかったのだ。大騒ぎだった。

が、ヒカルはそれに気が付かなかった。それだけ碁に集中してたのだ。

 

村上が投了した時、ヒカルは勝ったとほっとし、初めて顔を上げ周りを見回した。だが観客はいなかった。誰もヒカルと村上の対局など気にする者はいなかったのだ。

ただヒカルは、その少し前にアキラがヒカルのテーブルの横に立ち、しばらく観戦していたことを知らなかった。アキラが立っているのを見た者はみな、次の対戦者となるであろう村上の手を見ていると思っていた。

 

昼休みが終わった。

勝ち残ったものはそれぞれのテーブルに、観戦者たちは気になるテーブルに集まった。

アキラとヒカルのテーブルにもギャラリーは多かった。

こいつはギャラリー背負って立つのって慣れてるもんな。

ヒカルはそう思ったことだった。

「また院生との対局かよ。」

誰かがそう呟いた。

 

だが、ヒカルはそんな声など気にならなかった。

まっすぐ盤の向かいにいるアキラを見た。

アキラもじっとヒカルを見返した。

ヒカルにはアキラの瞳の中に何があるのか分からなかった。

こいつがどうだろうと、俺は俺の碁を打つだけだ。

「お願いします。」

その言葉とともに第二戦が始まった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

千早53

『千早』51~60
ヒカル…秀策について知る。若獅子戦でアキラと対戦。プロ試験へ。
(主な登場人物…佐為、ヒカル、和谷、伊角、フク、平八、平八妻、筒井、本田、村上、アキラ、導師、門脇、桑原、道玄坂碁会所マスター、河合、市川、緒方、岸本、尹先生、洪秀英のおじさん)


ヒカルと佐為は灯りの下で盤面を見ていた。

「塔矢って本当に強いよ。一局目で打った二段の人も強いことは強かったけどな。

でも塔矢ってそういうんじゃないんだ。別格の強さなんだよ。

俺は塔矢が俺の前に座った時、やっと並べたんだって、そう思ったのに。

もちろん俺はプロじゃないし、力の差はあるって 分かってたさ。

でもここまで強いなんて。

俺、塔矢に追いつくなんてとんでもないことなんだってやっと分かったよ。」

ヒカルはふっと息をついた。

それはため息とも憧憬ともつかないものだった。

佐為はそんなヒカルを黙って見つめていた。

 

確かに圧倒的な力と強さを見せつけて、塔矢アキラは勝った。

この対局を見ていた周りの者も、きっと院生とプロの違い、あるいは塔矢アキラの別格の強さを思い知ったことだろう。今のヒカルみたいに。

ただ、塔矢アキラ本人は、どう思っているのだろう。

彼の力ならもう少しじっくりと攻めることもできただろうに。

何かこの対局図は新初段戦の時の棋譜を髣髴とさせるものがある。実に面白い。

この碁は塔矢アキラの碁の本質を表しているのだろうが、彼は普段はどういう碁を打っているのか。

この戦い方は相手がヒカルだから勝てた。

もし王座のような力ある棋士が相手なら、きわめて危ない賭けだ。

ここまで踏み込まずとも、勝てる碁を打てたであろうに。

ヒカルの力を侮ってそうしたとは思えないが。何を思っていたのであろう。

塔矢アキラはヒカルに何を言おうとしたのか。

 

今は気付いてないかもしれないが、塔矢アキラがなぜこういう碁を打ったのか、ヒカルには分かるのではないか。

とにかく塔矢アキラは、ヒカルが考えている以上にヒカルのことを気にしているのは確かだ。

ただ彼がヒカルの本当の力を理解しているのかどうかは分からない。

しかし何より私は、この一局、塔矢アキラの強さよりも、ヒカルがここまで真っ直ぐ塔矢の打つ碁を受け止めたことに驚嘆 している。

ヒカルは本当に成長したな。

しかしヒカルはすぐ図に乗る子だから、手放しで褒めるのは良くない。

 

佐為は言葉を選び話した。

「もちろん、ヒカルはまだ塔矢には遠く及ばない。

ヒカルはそのことをこの対局で思い知ったわけだ。

しかし、恐れずに正面から塔矢に立ち向かった。私はそれを評価したい。

それでヒカル。

そなたはこの若獅子戦を経験して何かほかのことも感じたのではないか。」

 

ヒカルは佐為の言葉に力強く頷いた。

「うん。俺この二局ですごく力が付いた気がした。

こんな碁をもっともっと打ちたいと思った。そうしたら俺もっと強くなれると思う。」

「その通りだ。こんな碁を打つ機会が増せば、ヒカルはもっと力を伸ばせよう。

ヒカルに必要なものだ。」

 

「でもそんな機会があるかな?

若獅子戦には負けちゃってもう出れないんだもん。」

「ヒカルは言っていたではないか。

まもなくプロ試験とやらが始まるのであろう。

それを勝ち抜けば、プロになれるのであろう。

さすれば、またその二段の棋士や他の棋士、塔矢アキラとも打てるのであろう。

そのようにして場数をこなせば、いずれは塔矢アキラの横に並べよう。」

「先の話かぁ。」

「先の話も何も、今はまずプロになるのに力を尽くすことを考えるべきであろう。」

 

その時、玄関で声がした。佐為とヒカルは顔を見合わせた。

「こんな時分に訪ねてくるのはひとりしかおらぬが。」

 

間もなく導師が現れた。佐為は導師を見上げて尋ねた。

「やはり導師でしたか。こんな夜更けに何か急を要することがおきましたか?」

「いや。特に用事があるわけではないよ。

最近ヒカル殿は来るのが遅いと聞いている。この時間なら会えるかと思ってきてみた。」

そういうと導師はヒカルを見て、にっこりして言った。

 

「やっと会えましたな。ヒカル殿。随分久しぶりの気がする。だいぶ逞しくなりましたな。」

佐為は盤面の石を片付けながら言った。

「ヒカルと一局手合わせしてはいかがです。碁も逞しくなりましたから。」

「そうなのか。それを楽しみにしてきたのだよ。いつも佐為からヒカル殿が強くなったと聞いているので。」

導師は嬉しそうに言った。

佐為は言った。

「ヒカルの進歩は目覚しいですよ。置石は必要ないかと。導師とはもう互戦で打てる筈。」

導師はそれを聞いて目を丸くした。

この前打ったのはいつだったか。まだ余り日が経っていない気がするが。

 

ヒカルは置石なしと聞いて張り切った。

導師との一局は院生対局とはまた違う楽しみを与えてくれた。

それがどういう類のものかは分からなかったが、碁を楽しむために打つ、それを思い起こさせてくれた。

どちらかというとじいちゃんと打つ碁みたいかな。

それともこれが平安の碁?

ヒカルは、そこに若獅子戦でのアキラとの張り詰めた対局の余韻を和らげてくれる不思議な感覚を覚えた。

ゆったりとした感覚の中で、ヒカルは中押し勝を決めた。

 

「なるほど。ヒカル殿の碁は変わってきた。佐為の薫陶の賜物か。」

「さあ。ヒカルはそんなことこれっぽっちも考えてませんよ。」

「佐為はまだひねくれておるのか?ヒカル殿は唯一無二の弟子であろうに。」

導師の言葉に佐為は満更でもなさそうに答えた。

「私も力を少々貸しましたが、ヒカルは自分の能力に磨きをかけることが少し出来るようになったということですよ。」

「佐為にしてはしおらしい返事だ。

しかし少しということは、ヒカル殿はまだまだ磨きをかける余地がたくさん残されてるのか。」

導師は唸った。

「私は同等の相手をやっと見つけたと思ったのに、もしや、この次ヒカル殿と打つ時は、私が置石を置くことになるのか。」

 

佐為はその言葉にちょっと笑った。

ヒカルは今日導師に追いついた。

次には導師に置石3つで勝つ日が来る。

そしてその日はそう遠くない。

「これから先はどう訓練すれば良いか、少し考えてみなければなりません。

ヒカルの足りない部分を補う効果的な方法を。」

「佐為と打つだけでは駄目なのか。」

「さあ、どうでしょうか。それだけで良いかどうか、私にも今のところ思いつかないことですから。」

 

俺に足りない部分って、佐為は何を考えてるんだろう。

 

夜も更けていたが、酒が運ばれてきた。

「導師は今日はこちらにお泊まりください。」

「わしもそう思っていた。」

導師と佐為は楽しそうに酒を酌み交わした。

ヒカルは少し疲れていたので言った。

「俺、今日はこれで帰る。また来るよ。」

 

ヒカルが帰った後、佐為と導師は話をした。

「清涼殿の修繕が思いのほか早く終わったそうだ。」

「はい。この前、別邸に伺った時に、ここで打つのはこれで最後だと、帝はそう仰っておられました。」

「帝は嬉しがっておいでか?」

「碁を打つことですか?」

「違う。清涼殿へ戻られることだ。」

「さあ。特には何も。」

「佐為は知らないのであろうな。噂を。」

「噂?」

「中宮様と帝の確執だ。」

 

「確執?私は気がつきませんでした。

お二人は仲睦まじくあらせられると思うておりました。

仮にお二人に何かあってもそれが今更問題になりますか?」

「中宮は皇子を二人設けておられる。お一人は既に東宮だ。

中宮のお子が天皇になられる。それは間違いないこと。それは何も問題がない。

まあ言ってみれば単にお二人の間の問題であろうな。

中宮は帝よりお年が上。

こういう問題を切り抜ける知恵は帝よりおありであろう。」

 

佐為は頷いた。

「それにしても一体何がおありになったのです。」

「馬鹿馬鹿しいと思えば馬鹿馬鹿しいことだが。

楓の大納言のことは知っておるだろう。」

「はい。」

 

「子沢山なのだが、末の娘が幼いながら中宮のお目に止まっていたらしいのだ。

もう少し年が行ったら、自分の元に仕えさせようと思っていたらしい。

それが、斎院のお目にも留まってな、即お仕えするよう言われて、困った大納言が帝にお伺いを立てたらしい。

斎院のご母堂は帝の大伯母に当たるので、帝も中宮の思惑は知らずに構わないと返答されたらしい。

それで、中宮がご立腹なのだそうだ。」

 

つまらぬことでと、佐為はため息をついた。

「それで?

なぜに楓の大納言の娘はそのように人気があるのですか。」

「決して美人だとか言うものではないそうだ。それにまだ子どもだ。

しかし飛びぬけた才があるらしい。その機智に皆が感心しているとか。」

飛びぬけた才?碁にも才を示しているのだろうか。

佐為はそんなことを考えた。

 

「で帝はお困りで?」

「さあ。わしは噂しか知らぬ。ただ斎院の集まりがあろう。」

「ええ、知っております。

最近編まれた和歌集は大変にすばらしいものと伺っておりますよ。」

「あそこに帝もたびたびお出ましになられていてな。

目当ては楓の大納言の娘だと、もっぱらの噂だ。

となると帝は斎院でも中宮でもなく自分の元に置きたいと思われるかも知れぬな。」

 

佐為はふと思い出した。

しばらく前の帝とのお手合わせから帰る途中、確か楓の大納言の手の者が左大臣邸にいた。

もしやあれは中宮と斎院の問題を話し合うためか。

あの時帝は確か何とかと言われたな。

そうだった。

 

佐為は導師に話した。

導師は佐為の話に頷きながら言った。

「そうか。帝はそう申されたのか。

昔の気持に戻れる者か。

それは、もしかしたら楓の大納言の娘かもしれぬな。

結局帝より楓の大納言の考え次第なのかもしれぬ。

今回のことを解決できるのは。どうなるのであろうな。」

 

「大納言も困ってるのではないでしょうか。」

「それこそ頭の使いどころだな。

京の雅には疎いかも知れぬが、大納言はとりわけ頭脳明晰だ。

だから 分限者(財産家)にもなった、さらに一層疎まれもするし、陰口もたたかれる。」



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

千早54

『千早』51~60
ヒカル…秀策について知る。若獅子戦でアキラと対戦。プロ試験へ。
(主な登場人物…佐為、ヒカル、和谷、伊角、フク、平八、平八妻、筒井、本田、村上、アキラ、導師、門脇、桑原、道玄坂碁会所マスター、河合、市川、緒方、岸本、尹先生、洪秀英のおじさん)


3週間後若獅子戦は塔矢アキラの優勝で幕を閉じた。

そのころには、もう院生1組の関心はプロ試験に向かっていた。

7月にはプロ試験の予選が始まるのだ。

 

「今年は外来はどうかな。」

「去年は院生の合格一人だったもんな。」

「外来も強いのが来るからな。去年は塔矢アキラと辻岡さん。」

「今年はどうかなあ。」

 

和谷が思い出したように言った。

「そういや。門脇って知ってるか。」

「何年か前、学生名人、学生本因坊、学生十傑の三冠取ったっていう門脇か?」

「伊角さん、よく知ってるね。ネットに出てたんだ。今度プロ試験受けるらしいって。」

「要注意人物か。予選もきつくなるな。」

傍にいた院生が言った。

 

「まっ、俺は今年は予選パスだから、とりあえずはいいけどな。」

和谷のその言葉に、ヒカルは言った。

「えっ、和谷は予選受けなくていいの?」

「ああ、院生7位までは、そのまま本戦に出でれるんだ。」

「俺、今度6位になったよ。」

ヒカルが言うと、和谷は残念だなと言う顔で言った。

「3か月の平均が7位以内ってこと。ま、今のお前だったら、大丈夫だろ。」

何だよ。人事だな。今強いのが来るって言ったの、和谷じゃないか。

ヒカルはぶつぶつっと言った。

 

6月の院生対局も明日で終わりだ。

夏休みが始まる頃には予選が始まるのか。

部屋でカレンダーをみていたヒカルの前に、ぽんと佐為が現れた。

「しばらく使わないできましたからね。石の具合を試してみました。」

ヒカルは佐為の耳の石を見た。きれいな赤色だった。

「大丈夫みたいだね。」

「これで、また時々はこちらへ来ても大丈夫そうですね。

ヒカルが言っていた私の棋譜が本になっているというのを見たいとずっと思ってたんですよ。」

 

佐為は机の上を見やり、目ざとくその本を見つけ、手に取った。

「これですね。」

「私のって。佐為のじゃなくて秀策のだろ。」

ヒカルは訂正した。佐為は答えた。

「秀策は私なんですから、私ので正しいのですよ。」

 

「ヒカル。最近はこれを並べているのですか。」

「うん。筒井さんが解説が少ないって言ってたけど、俺は何となく分かるんだ。石の意味が。佐

為といつも打ってるからかな。昨日並べていたのはこれ。」

佐為は懐かしそうにヒカルが指差した棋譜に見入った。

それからすぐに石を並べながら解説してくれた。

「ここのところが工夫のしどころなんですよ。アツミに石を追いやったのです。

そうすればここは意味を持たなくなる。」

佐為は、さらに別のところを示した。

「ここは今だったら、こうは打たないですね。コミのことを考えたら。」

 

ヒカルは自信満々で石を置いた。

「じゃあ、こう打てば?」

昨日からずっと考えていた手だった。

「なるほど。こちらをにらんだ手ですね。それでは、次にこう置かれたらどうします。」

しばらく、ヒカルと佐為は秀策時代の佐為の碁をあれやこれや検討した。

 

一段落した時、佐為が言った。

「全集とはどのようなものなのか。一度見てみたいですね。」

「立派な本だよ。これよりももっと大きくて。棋院の売店に行けば見れる。

俺は明日は院生対局があるから、一緒に棋院に行く?」

佐為はちょっと考えた。

「一緒に行かなくても棋院の場所は分かってますからね。

明日また来て、ヒカルの対局が終わる頃、売店に寄ってみますよ。」

 

翌日、佐為は、昼ごろヒカルの部屋に着いた。

時の旅、行きたい時間に合わせられるようになったのだろうか?

それともまだ偶然に頼っていることが多いのか。

だが、ヒカルほどにはうまくはいかなくとも、それほどは外さないようになってきている気がする。

そう思いながら、佐為は心弾む思いで、着替えを済ませ、棋院に向かった。

「ヒカルは今頃あの部屋で対局しているのか。

今日は幽玄の間は覗けるのかな。何も対局はないと言っていたが。

棋院へ行くのはとにかく楽しみなことだ。」

秀策全集というものを見ることができるのだ。

虎次郎との時の旅のしるしが今に残されて、大切にされている。

それをこの目で確かめられるとは何という幸運だろう。

 

佐為は、棋院の書籍コーナーで、試すがめつ全集を手に取り眺めた。

私の時の旅はこんな形になって、後の世に伝えられている。

虎次郎との出会いには、大いなる意味があったのだ。

時の旅はやはり天意なのだ。

 

「それをお買いになるつもりですか?」

佐為は物思いにふけっていたので、急に声をかけられて驚いた。

「いえ。眺めていただけです。」

佐為は残念そうに全集を元の場所へ戻した。

「秀策がお好きなのですか。」

佐為は言葉に詰まった。

好き?もちろん私は私の碁が好きだが。

だが、この問には何と答えたら良いものか。

「ええ、有名ですから。どんなものかなと思って。」

やっとそういう言葉を返した。

 

話しかけた男は言った。

「そうですか。私もそう思って、実は買いもとめたのですよ。

でも素人には無理でした。少しばかり碁をかじり始めた身にはね。

あなたは相当やっていらっしゃるのですか。」

「あっ、いや、どうでしょうか。

私が今碁の勉強をするのなら、そうですね。

現代の碁をやろうと思います。」

相手の男は頷いた。

 

「ここの2階に一般用の対局場があるのですけど、どうです。

秀策のよしみで一局いかがですか?」

「喜んで。」

碁会所に向かいながら佐為は思った。

この男はどれほどの腕前なのだろう。

話を聞くとあまり強そうではないが。

でも碁好きだ。碁を打とうと声をかけてくるくらいだから。

 

「あなたは普段どこで碁を打たれるのです?」

「いやあ、近所の碁会所ですが、ちっとも上達しませんでね。」

対局場は、結構込んでいたが、場所を見つけ、佐為と男は向かい合って座った。

打ち合ってみると、その男は確かに未熟な腕だった。

はあ、棋院で出会ったといってもこんなものなのですかねえ。

佐為は心の中でそっとため息をついた。

 

そんなこととは露知らず、相手の男は言った。

「あなたは本当にお強いですね。プロに習われているのですか。」

私がプロに習う?

佐為は返事のし様がなかった。

が急に思い出して言った。

 

「普段は仲間内で。ネット碁とかもやりますよ。ネットには強い人も結構いますよ。」

「ネット碁ですか。私も始めてみようかな。

実はこれを貰ったのですが、さっぱり分からなくて。

ネット碁をおやりなら、あなた向きかも。

中国の本で、中韓の強豪の棋譜が出てるものだそうです。

差し上げますよ。」

 

「そんな大切なものを。」

「いえ、私はまったく分からなくて。それに全然、高いものじゃないんですよ。

私は解説が読めないもので。

そうそう日本の棋士のもあるんですよ。

名前だけは調べて、書き込んであるんです。」

佐為は、対局者の中に塔矢行洋の文字を目にし、思わずその本を受け取った。

その本を渡すと男は、私はそろそろ失礼しますからと出て行った。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

千早55

『千早』51~60
ヒカル…秀策について知る。若獅子戦でアキラと対戦。プロ試験へ。
(主な登場人物…佐為、ヒカル、和谷、伊角、フク、平八、平八妻、筒井、本田、村上、アキラ、導師、門脇、桑原、道玄坂碁会所マスター、河合、市川、緒方、岸本、尹先生、洪秀英のおじさん)


神の一手に近いというあの者の棋譜が。

彼はどんな碁を打つのか。

佐為は座ったまま、貰った本を開いた。

そっけない薄いパンフレットのような棋譜集は佐為にも読めなかった。

 

中国の本ということは中国の言葉で書かれているのか?

私も勉強してきた筈なのに、見慣れぬ文字だ。読めぬ。

しかし棋譜はすばらしいものだ。面白い。

もともと時間が余ったら、ヒカルとは2階で待ち合わす約束だったのだから。

この棋譜でも少し並べて、時間を潰すか。

 

ああ、でも折角碁盤と碁石があるのだ。誰かと打ちたいが。

今じゃ私はヒカルと打つのが一番手応えを感じるものとなっている。

それはそれで嬉しいが、たまには他の力量のある者とも打ちたいものですよ。

今の人はともかく、何といっても棋院だ。

もう少しは手応えのある碁が打てるかもしれない。

 

佐為は周りをぐるりと見回した。

その時ちょうど入ってきた若い男とぱっと目が合った。

男は、そのまま、まっすぐ佐為の傍にやってきた。

「相手が居ないのなら、私と一局打ちませんか。」

「はい、喜んで。」 

二人は向かい合って座った。

男は言った。

「本当は院生とでも打てればと思ったんだが。

まあ、取り合えず、肩慣らしをしたくてね。」

佐為は男の顔をしげしげと眺めた。

この男、私を見くびっている?

院生と打ちたい?私と肩慣らし?

何気に相当に自信がありそうだ。

 

「あなたは院生だったことがおありなのですか?」

「いや。ただ、院生はプロを目指してるんだろ。

そこそこ強いだろうからな。手応えがあるかなと思って。」

そうか。この男も手応えを欲しがっているのか。

どのような腕前なのか楽しみだ。

わくわくした思いで佐為は石を握った。

「あなたが黒ですよ。」

 

いざ打ち始めてみると男は確かに強かった。

院生といえば、ネットで打ったzeldaより、この男の方がずっと手応えがある。

今のヒカルなら?いや、今のヒカルでもこの男に勝てるか怪しいものだ。

この男はかなり打ち込んできている。

 

佐為は楽しげに微笑を浮かべた。

いや、本当に楽しい。さすが棋院の碁会所だ。

私は幸運ですよ。こんな相手に出会えるとは。

私の敵ではないが、この手応えがたまらない。

少しいろいろ遊んでみるか。

肩慣らしといっていたが、もう少し磨けばこの男、なかなかのものになる。

ヒカルといい勝負ができるかもしれない。

 

自信満々な様子で軽く打ち始めた男は愕然としていた。

こいつ?なんだ?

俺は自分の腕を知っている。

そこいらの下っ端のプロより腕はずっと上だと思っていたが。

まさか?こいつプロじゃないだろうな。

俺を振り回してないか?

遥か上から俺を見下ろしているようだ。

 

間もなく決着はついた。

ふふふ。楽しかった。

まあそこそこ適当に勝っておきましたけれどね。

久々に面白い碁が打てましたよ。

佐為はにっこりした。

相手の男はそんな佐為を上目遣いに見た。

「あんた、プロじゃないだろうな。」

「いえ、違いますよ。それにしてもあなたはなかなかの腕前…」

 

相手の腕をほめようと、口を開きかけた時、佐為はドアの向こうにヒカルの姿を認めた。

「あ、もう行かなくては。」

佐為は席を立ちかけて、思い出した。

「忘れるところでした。」

佐為はさきほど貰った本を椅子から取り上げて、若い男に会釈をすると、急いでヒカルの元へ向かった。

 

若い男はその本をちらと眺めた。

中国語か?もしかしてあいつ、中国のアマとか?

まさか今度のプロ試験を受けようっていうんじゃないだろうな。

みたところ年齢的には可能そうだ。だとしたら…。

男はじっと考え込んだ。

 

「ヒカル。」

佐為は対局場のドアを押しながら声をかけた。

「あっ。佐為。ここにいたんだ。ちょっと待って。

今度の研究会のことで連絡することがあるんだ。

すぐ行くから。玄関に居てよ。」

 

佐為が玄関前に佇んで、ヒカルを待っていると、老人が声をかけてきた。

「あんたは、先ほどの子の知り合いかな。」

佐為は老人を見た。見知らぬ人だった。

もっとも佐為がこの時代で知っている人は多くはないが。

 

知らないけれど、でも私は、この人のことを知っているような気もする。

なぜだろう。

佐為は思った。

「知り合い?そうですね。」

この人はヒカルと関係があるのか?

もしそうだったら、どういったら良いのだろう。

佐為は何と言っていいか分からず、曖昧に答えた。

 

老人は構わず続けた。

「あんたは相当の腕前だが、プロにはならなかったのかな。」

「私の腕前をご存知ですか?」

まさか、私のことを知っている?

この老人は。年は分からないが、いくらなんでも秀策の時代の人間ではないだろう。

「さっき、碁会所で打っておったのをちょっとばかり見させてもらったよ。」

佐為はほっとしたような気持ちで答えた。

「それは、全く気がつきませんでした。」

 

「あの男には随分と加減しておったな。

ところであの子に碁を教えているのか。

あの子は院生じゃろ。見どころはあるかな?」

「私は見どころがあると思っております。」

「あんたはあの子を教えている。

そのあんたがいうのだから間違いはないだろうな。」

 

私の答えはヒカルにどう影響するだろうか。

しかし、この老人には嘘は通用しない。

なぜか分からないが、碁は打っていないが、私は今この老人と対局している気分だ。

この老人がそういう態度なのだ。

この人は誰なのだろう。

 

「ええ、いずれ頭角を現すと信じています。

ですから彼に私の全てを注ぎ込みたいと思っているのです。」

佐為はきっぱりと言った。

老人は、ほうという顔で佐為を見つめた。

「そうか。わしの勘もまだ衰えてないな。」

「勘?」

「前にあんたたち二人を見かけた。

その時に感じたのだよ。何ともいえないものだ。

わしの第六感に響いたとでもいうかな。

あの子はあんたの期待を裏切らん。

ということはわしの勘も裏切らんということだ。」

 

老人はそのまま行きかけて振り返り言った。

「あんたの力は先ほどみた。あんたの力のほんの少々をな。

あの子はともかく、あんたは、一番の謎じゃな。」

佐為が何か言いかけようとすると、老人は言い添えた。

「わしはもう先が長くないのでな。お前さんという謎を解こうとは思わんよ。」

そう言って老人はすたすたと立ち去った。

 

エレベータの前で老人は立ち止まり、佐為とヒカルが棋院を出て行くのをじっと見送った。

「売店であの男を見かけてからずっと後を付けた甲斐があったな。

今日は面白いものを見れた。運が良かったというべきか。

わしはあの男と行き会う運命にあるのかも知れんが。

だとしても、わしはあの男と打つのは御免じゃよ。

謎は解かんでも良い。

もちろんあの男にわしが負けるとは思わんが、さりとて勝てるとも思わん。

わしの残り時間は少ない。

その力のすべてを、自分の力をすべてを、わしは若いもんに向けたいのだ。

あ奴は今最も興味深い男だが。

だが、既に完成している者に向ける時間はわしには残されていない。

未知の力をわしは待っているのだから。

わしが待っているのはこれから伸びる力だ。

わしが本因坊で居る間にあの子は出てくるかな。楽しみなことだ。」

そう呟くと現本因坊はエレベーターに消えた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

千早56

『千早』51~60
ヒカル…秀策について知る。若獅子戦でアキラと対戦。プロ試験へ。
(主な登場人物…佐為、ヒカル、和谷、伊角、フク、平八、平八妻、筒井、本田、村上、アキラ、導師、門脇、桑原、道玄坂碁会所マスター、河合、市川、緒方、岸本、尹先生、洪秀英のおじさん)


7月も半ばとなり、学校は夏休みとなった。

と同時にプロ試験の予選が始まった。

予選は30歳までの規定どおり、色々な人が受けに来ていた。

ヒカルは深呼吸をした。

心の準備は出来てるぜ。いつもどおりに打つ。

でも和谷が言っていた門脇って人はいなかったみたいだな。

 

プロ予選の最終日。

その日は森下研究会だった。

ヒカルは和谷とばったり玄関で顔を合わせた

「進藤。どうした?」

「俺は何とか通った。」

「やっぱりな。ほかの奴らは?」

「飯島さんは通ったけど。」

 

ヒカルと和谷は最終日まで残っていた院生仲間の様子を見に予選会場へ向かった。

フクも奈瀬も何とか予選を突破していた。

ヒカルは嬉しそうに笑った。

「良かった。受かって。」

「よかったな。本戦ではお互いライバルになるけどな。」

和谷の当たり前で何気ない一言に、ヒカルは少しドキッとした。

考えてみれば、予選だって、相手を蹴落とす戦いだった。

俺はフクと奈瀬とも対局して負かせたから本戦に上がれた。

あの時はみんな通ればいいとか思ってなかった。

仲間が残ったといって喜んでばかり入られないのだ。

 

研究会でヒカルが予選を勝ち上がったこと聞くと、森下は言った。

「和谷も進藤も二人ともがんばれ。」

 

白川は感慨深くヒカルを見た。

私の予感は的中だろうか。進藤君が今プロ試験に向かっている。

碁を覚えてからまだ二年にも満たないのに。

私はすばらしいものを見ているのか。

 

「進藤君、一局打とうか。君の勢いと意気込みをもらいたいからね。」

ヒカルは嬉しそうに頷いた。

 

予選を突破したことを佐為に告げると、佐為は言った。

「ヒカル。また碁会所へ行きましょう。

碁会所にも強い人がいるものですよ。棋院の対局場。

あの人はもう来ないでしょうかね。」

あの若い男との一局が佐為にはことのほか楽しかったのだ。

 

「棋院の対局場は俺はやだよ。」

佐為は言った。

「そうですか。でも名人の碁会所は強い人が少ない気がしますよ。塔矢アキラのほかは。

いるかもしれませんけど、なかなか強い人に行き当たらない。」

 

棋院もだけど、塔矢名人の碁会所もやだぜ。

今は塔矢の奴と顔を合わせたくない。あいつと会うのはプロ試験に通ってからだ。

ヒカルは言った。

「この前、母さんと渋谷に行ったとき、碁会所を見かけたんだよ。

そこに行ってみたらどうかなあ。」

ヒカルは続けた。

「でもさ。碁会所行ってまで佐為と打ちたくないからな。

別々に行って別々に出る。

知らん顔してくれよ。佐為と比べられたくないから。」

 

佐為はくすっと笑った。

構いませんよ。碁会所を出るまで、ヒカルとは口を利かなければいいんでしょ。

私と張り合ってるのですかね。ヒカルは。

百年早いですよ。いや千年ですかね。

 

夏休みだったので、ヒカルは朝から佐為と渋谷に向かった。

先に佐為が好きなコーヒーショップで腹ごしらえをした。

券があるから、ラーメン2人分よりは安いもんな。

ええと、この坂の途中にあったた筈だけど。

ヒカルはビルを見上げた。

「ここだ。」

 

約束どおりヒカルが先に入った。

佐為が少しドアの前でうろうろして時間をずらしていると、二人連れが入っていった。

佐為もその後に続いた。

 

二人連れの一人がヒカルを見て驚いたように声をかけた。

「あれ、進藤じゃないか。ここによく来るのか?一人か?」

「あ、うん。ううん。あー、えーと。ここは初めて。伊角さんも一緒なの?」

「ああ、時々あちこちの碁会所に行くんだ。勉強になるからな。」

和谷はそういうと、急にいいことを思いついたように言った。

 

「そうだ。」

和谷は受付の人に言った。

「俺たち、ここにいる人の中で、一番強い人たちと打ちたいんですけど。」

受付をしていたおカミさんは不機嫌そうに言った。

「ナマイキなクチをたたくガキは、わたしゃキライなんだよ。」

しかし横にいた男が言った。

「クチばかりかどうか、打ってみれば分かる。俺が相手しよう。不足は無いと思うぜ。」

和谷は楽しそうに頷いた。

「いいけど、三人揃うまで待ってもらえますか。」

「三人?」

「団体戦です。」

 

和谷は伊角とヒカルの方を振り返って付け足した。

「伊角さんが大将。俺が副将。進藤が三将だ。」

店のマスターが身を乗り出してきた。

「団体戦か。面白そうだ。わたしも混ぜてもらうよ。

君たちが勝ったら、席料はただ。

負けたら店の碁石を全部洗ってもらうよ。どうかい。」

「いいですよ。それで。」

 

和谷のその言葉に受付のおカミさんが言った。

「負けたら碁石を洗った上に、席料もきっちり払ってもらうからね。」

何事かと集まってきた人の中から、声がした。

「ワシもまぜろよ。そいつらに碁石を洗わせてやる。」

店の中ががやがやしている間に、佐為は受付をすることなくちゃっかりギャラリーに加わった。

団体戦とは。これは面白いことになった。

 

お願いしますという声とともに対局は始まった。

ヒカルは少しどきどきしていたが、打ち始めて思った。

この人、じいちゃんより打ちやすいかも。落ち着いて打てば大丈夫。

間もなく、院生たちの三勝で、その戦いは終わった。

ギャラリーがざわついた。

「プロに二子置きで勝ったマスターまで負けた。」



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

千早57

『千早』51~60
ヒカル…秀策について知る。若獅子戦でアキラと対戦。プロ試験へ。
(主な登場人物…佐為、ヒカル、和谷、伊角、フク、平八、平八妻、筒井、本田、村上、アキラ、導師、門脇、桑原、道玄坂碁会所マスター、河合、市川、緒方、岸本、尹先生、洪秀英のおじさん)


和谷は落ち着いて言った。

「今のは肩慣らし。本番はこれからです。

おじさんたちが二子置いて本番。

俺たちが勝ったら席料ただ。負けたら碁石洗いね。」

 

伊角が和谷に言った。

「初めから二子置かせて勝負するつもりだったんだ。」

「当たり前さ。俺たち院生だぜ。」

その言葉にまたざわついた。

「院生っ?!」

ヒカルの相手をしていた男が言った。

「待て。俺には荷が勝ち過ぎる。河合さんは来てねえか。」

男はあたりを見回したが、それらしい人物はいなかった。

代わるという者がいなくて、またその男はヒカルと対局することとなった。

 

佐為は熱心に3組の対局を見守った。

これが和谷、zeldaか。 あの頃よりずっと力がついてきている。

そしてこれが伊角さんといっている者か。この者は相当に腕が立つ。

が3人とも今ひとつかな。後一皮向けると面白いのだが。

ヒカルの相手は気後れしている。そのせいでヒカルはかなり楽をしている。

河合さんとかいう者がいないのは残念だ。その者は腕が立つのかな。

 

ヒカルは整地を終えてほっとした。二目勝てた。

それを横目で見ながら和谷が言った。

「俺が勝って、進藤も勝った。」

その言葉にヒカルは嬉しそうに言った。

「席料ただだね。やったね。」

 

その言葉にちょうど碁会所に入ってきた男が反応した。

「何?席料ただ?何やってんだ。」

「院生が来てるんですよ。」

男が近づいてきた。

「伊角さんも勝って三勝。さてと。」

和谷はぐるりと周りを見回すとおもむろに言った。

「今のは前哨戦。三子を置いて。今度が本番ですから。」

 

伊角が慌てて言った。

「和谷。待て。三子置かせるのはちょっと厳しい。

この人たちをなめていないか。この人たちの腕はしっかり…」

しかし和谷は伊角の抗議を跳ね除けるように言った。

「なめてなんかいねーよ。もうすぐプロ試験だ!これをかわしていくくらいの勢いがなけりゃ、合格までとどかねーぜ。」

ヒカルはその言葉にすぐ反応した。

「そうだな。碁会所のおじさんぐらい三子でやっつけられなきゃな。」

先ほど入ってきた男が言った。

「このやろ。てめっ。なめきってけつかる。」

そういってヒカルの髪の毛をぐしゃぐしゃっとかきまわした。

「げっ。」

 

佐為はためいきをそっとついた。

やれやれ、ヒカルはやっぱりお調子者だ。全く、余計な口を。

今までヒカルの相手をしていた男が立ち上がり言った。

「河合さん。良かった。代わってくれ。あんたの方がいい。いいとこにきてくれたよ。」

「よっしゃ。三子置かせて勝てるもんなら勝ってみろ。」

河合はその男と代わり、ヒカルの前に座った。

 

伊角が一人、気をもんで叫んだ。

「分かってるのか。二人とも。負けたら席料だけじゃなくて、碁石洗いもあるんだぞ。」

だが、和谷もヒカルもやる気十分で聞いていなかった。

「三将負けんなよ。」

「おぅぅ。」

 

ヒカルはお調子者だが、和谷というのもお調子者か?

しかし、面白いことになった。

大将をしているマスターもプロに二子置きで勝つ腕。

プロといっても色々だろうがある程度の腕の者だろう。

この碁会所は面白い。名人の碁会所にもこういう手練の常連がいるのだろうか。

ヒカルの相手の河合とかいう男は相当の腕らしい。

今回はヒカルは厳しいかもしれない。

河合がヒカルの軽口のお陰で本気になればぐんと面白いことになる。

わくわくものだ。

 

とにかく、ヒカルが石を置いて打つというのは。考えもしなかったが。

互い戦と違い、置き碁は初めから相手に20目も30目も与えているようなもの。

並みの戦い方では勝てない。荒らしがうまくなる。

それは互い戦で劣勢に立った時に、跳ね返す力となって生きてくる。

ヒカルは強い相手とたくさん打ち合うことが必要と思っていたが、こういう形で打てるとは。

本当にまたとない修練の場だ。

 

碁会所にいたもの全員がギャラリーになって取り巻く中、勝負がついた。

「いやあ、完敗だ。君たちがプロになるのを楽しみにしてるよ。」

マスターが言った。

河合はまたヒカルの頭をくしゃくしゃして言った。

「いやあ、俺が三子置いて負けるとは、てえしたもんだ。」

 

店を少し出たところで、ヒカルは伊角と和谷と別れた。

ヒカルが待っている所に佐為はやってきて言った。

「ヒカル。面白かったですね。久しぶりに楽しいものを見ましたよ。」

ヒカルは頷いた。

「俺、ものすっごく楽しかった。

筒井さんや三谷とのこと思い出しちゃった。囲碁部のこと。」

「和谷も伊角さんもまたとない院生仲間ですね。」

「仲間っていいな。」

 

それからヒカルは少し曇った声で言った。

「ねえ、佐為。仲間が皆、一緒に夢を叶えられたらと思うけどさ。

和谷も伊角さんも仲間だ。でもプロ試験ではライバルになる。

合格するのは三人だ。後は皆落ちる。」

佐為は当然のように頷いた。

「そうですね。そこに残るため、みな必死で腕を磨いている。」

「仲間だけどライバルか。」

 

佐為は危なげにヒカルを見た。

「今までだって、院生対局だって、そうだったのでは。ヒカルが1組にあがった時、2組に落ちた者がいたのでしょう。 1組でだってヒカルが順位を上げれば下げるものが出てくる。」

「うん。でも俺、院生って仲間って気がしてた。それに今日団体戦やって、仲間だっていう気が強くなっちゃった。皆受かればいいななんて思って。」

 

佐為は居住まいを正した。

「ヒカル。プロになって、打ち続けたいと思うのなら、仲間ではあっても、友達であっても、まっすぐ向かっていかなければなりません。

黒白どちらが上か、毎回決着をつけて。

その時の勝ち負けは永遠ではない。その一時のもの。次は分かりません。

あなたは塔矢アキラに追いつき、並ぶと決めた時、そうした世界に身を投じたのです。

改めて覚悟を決めなければいけませんよ。

ただ言っておきますけれど、分かっているでしょうが、囲碁は喧嘩ではありませんからね。

むしろ対話なのです。相手を理解することもできる。

真っ直ぐに相手と向かい打つことでお互いに結果に納得するのですよ。

そのことは覚えておきなさい。」

 

ヒカルは頷いた。

「そうだった。俺、思い出した。」

俺はあの時。院生試験を受けるといった時に、決心していたのに。

三面打ちをやった時に。

塔矢の奴に追いつき並ぶんだったら、囲碁部の仲間をやめてもって。

おれは大会を捨てたあの時。こういう世界に身を投じることを決心したんだった。

それでも仲間は仲間だよな。

 

物思いにふけっているヒカルをみて、佐為は考えていた。

ヒカルは、まだ修羅場に行き会ってはいないのか。

一緒に切磋琢磨している者が望みが叶えばいいのは決まっている。

結果として相手を蹴落とす形にはなるのかもしれないが、碁の勝負は万人が納得するものだ。碁に限らず、自分が 望む道を進もうとすれば、誰かを傷つけることになることもある。

人というのは存外小さなことでも傷つくものだが。

それでも人は自分の思う道を進まなくてはならない。

その覚悟をヒカルは持たなければならない。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

千早58

『千早』51~60
ヒカル…秀策について知る。若獅子戦でアキラと対戦。プロ試験へ。
(主な登場人物…佐為、ヒカル、和谷、伊角、フク、平八、平八妻、筒井、本田、村上、アキラ、導師、門脇、桑原、道玄坂碁会所マスター、河合、市川、緒方、岸本、尹先生、洪秀英のおじさん)


エアコンが恋しいことだ。

そう思った時、佐為は苦笑した。

邸は南北に風が抜けるよう建てられている。

風通しはいいが、それでも今の佐為の体調には少々こたえた。

 

ヒカルは今頃、プロ試験の対局中だな。

佐為はヒカルが打っている様子を思い浮かべた。

院生研修とは別の建物と聞いたが、同じような雰囲気だろう。

いや、それ以上に厳しい雰囲気の戦いに違いない。

自分たちの未来がかかっているのだから。

 

ヒカルは二連勝中だった。

この二局でヒカルは何と力を伸ばしたことか。

ヒカルは私と二子置きで打っているが、こうなってくると、互先になるのもそう遠いことではないように思える。

ヒカルが私に追いつく?

ふふ、先が楽しみなことだ。本当に心躍ることだ。

 

このひと月、あまりにも面白いことを経験してきた。

ヒカルの成長のことだけではない。

なのにこんなことになるとは。

体調不良はもしや、ヒカルの時代の食べ物が私に合わなかったとか?

それはないと思うが、結構毛色の変わったものも食べたな。

あのアイスクリームというものは美味だった。

いや、食べ物のことなど、さておき、それよりも。

ヒカルの時代に行き続けていたら、私はもっと面白い経験をもてるのに。

 

先日、帝からのお呼び出しがあって、佐為は囲碁のお相手をしてきた。

「佐為。」

帝はそういうと少し間を置いた。

「そちに折り入って頼みがある。要件は追って伝えるが、よいか。断らんでほしい。」

「私に勤まるようなことでございますか?」

帝は当然という顔をした。

「もちろん。佐為だからこそできることだ。」

帝は一体私に何を頼みたいのか?

私だからこそできること?ならば当然囲碁に関することか?

 

その御所からの帰路、佐為は心の臓に異変を感じ、ふっと倒れたのだ。

気がつくと佐為は邸内に寝かされていた。

導師が心配気に傍らにいた。

 

「佐為。そなたは時の旅で、体に負担をかけているのだ。」

「そのようなことはありませぬ。」

佐為は手鏡を引き寄せ、耳につけた石の輝きを確かめた。

「石はほら輝いておりますよ。」

「いや、違う。石は何ともなくとも、そなたの体に負担がかかっておる。

それ以外に佐為がこのように倒れる理由はないではないか。」

 

導師の言葉に佐為は不満げに呟いた。

「でもヒカルは何とも無いのに、なぜ私だけが。」

「わしには分からぬが、もしや過去に来るのと、未来へ行くのとでは、意味が違うのではないか。

最近そなたは連日のようにヒカル殿の時代に行っていたではないか。

よいか。絶対に時の旅に出てはならぬぞ。」

導師は厳しく申し渡した。それから辛そうに呟いた。

「わしは、碁のためだろうと何だろうと、そなたを失うのはごめんだぞ。」

 

その日、ヒカルがやってきたのは、佐為が少し、気分が良くなり、体を起こして、庭を眺めている時だった。

ヒカルも佐為の体調を心配したが、時の旅とは繋げなかった。

「佐為、無理しちゃだめだよ。疲れたのかもしれないよ。毎日出歩いてたものね。

プロ試験が済むまでは俺が毎日佐為のところに来るから。

試験はまだ二ヶ月あるんだ。二ヶ月もしたら、佐為も元気になるよ。その頃には少し涼しくなるだろうしさ。

とにかく石はなんともないんだから。元気になったらまた俺の時代へ来れるさ。」

 

佐為はその時のことをぼんやり思い起こした。

私も導師には強がっては見せたが、自分の体調が悪いのは身に染みて感じている。

どこが悪いというわけでもないが、ただ力が入らないのだ。

暑気あたりかもしれぬ。時の旅のせい云々ではないと思う。

ヒカルの言うとおり、またしばらく休めば、元に戻るだろう。

どのみち、今はヒカルと打てるだけ打ち続けるのが大切だ。

それには時間の経過からいっても、ヒカルがここに来るのが一番いいことだ。

導師もヒカルが来ることには反対していないし。

二か月は静かに暮らそう。

 

そう心に決めたものの佐為はまた未練がましく思いにふけった。

残念だ。

秀策の全集を見て、棋院であの面白い一局を打ってからのひと月、本当に面白い経験をした。

 

あの碁会所でヒカルたちの団体戦を見た後、佐為はヒカルと、またあの碁会所を覗いたのだ。

素直で明るい性格が幸いして、ヒカルは席亭に気に入られ、いろいろな便宜とアドバイスを受けていた。

ヒカルは一週間その碁会所に通い詰めた。

 

あの席亭はプロではないが、見る目は確かだ。

「目算は苦手かい。」

そう言って、ヒカルの弱点が目算にあるとみたオーナーが提案した訓練法。

「持碁にしてご覧。今度の対局。きっちり引き分けにするんだ。」

ヒカルは不思議そうな顔をしていた。

「中盤までは形を作ってヨセで正確に計算し始めるんだよ。

でもそれが大変なんだ。相手の打つ手によって状況は変わるから、常に計算は怠れない。

一目のミスも許されないよ。

それに言っておくが、ただ持碁にすればいいというもんじゃない。

いつもどおりの速さで打つんだよ。

下手な打ち方をして帳尻を合わせようなんてのもだめ。

相手にばれないくらいちゃんと打つこと。

やってごらん。いい勉強になるよ。」

 

ヒカルは面白そうだというように頷いた。

ヒカルが打ち始めると、席亭は言った。

「それが出来たら次は二面打ちだ。」

 

ヒカルは驚いたような声を出した。

「二面両方を持碁に?」

席亭は笑った。

「二面が出来たら三面にも挑戦してみるかい。」

ヒカルは調子に乗って言った。

「それが出来たら四面?」

「ははは。」

そこまでは誰も思っても見なかったことだ。ヒカルですら。

二面が出来たら上々という気持だろう。

 

間もなく佐為もギャラリーに加わった。

あれは何とも楽しいものだった。

ヒカルが一人目をうまくクリアした時、周りから拍手が起きた。

「へへー、やろうと思えば出来るもんなんだな。」

一人成功させて気をよくしているヒカルに席亭は少し厳しく言った。

「一対一の置き碁で引き分けにするくらい、プロなら100回やって100回成功させるよ。」

その言葉にヒカルの中で闘志がわいているのが佐為には見て取れた。

ヒカルは持ち前の集中力を発揮し始めた。

 

その様子を見て、私は三人はいけると思った。それが、まさか四人とは、私は驚くと同時にわくわくした。

ヒカルがここまで力を伸ばすとは。

本当はこんな面白いこと私がヒカルに代わりたかったが、それは出来ない。

でもいつか平安ででもこれをやってみよう。楽しみだ。

ヒカルが何とか四人目をクリアした時、私は即、五人目に名乗り出た。

ヒカルのあの時の不機嫌な顔。今思い出しても可笑しい。

 

佐為はそれを思い出してクックと笑った。

帰りの電車の中で、ヒカルは腹立たしそうに言った。

「佐為じゃなければちゃんと五人いけたんだぞ。佐為、お前、全然手加減しなかったじゃないか。」

「そんなことないですよ。ちゃんと普段どおりにヒカルと手合わせしてましたよ。

でも楽しかった。本当に、出来れば私がヒカルと代わりたかった。あんな面白いこと。」

「佐為は必要ないじゃん。佐為の腕だったら十人でも二十人でも何人でも出来るだろ。」

「そんなことはないと思いますよ。私だって限りはある筈。

一体何人まで可能かを試してみたかった。あの場でね。

私にどのくらい限りというものがあるのか。」

佐為は遠くを見つめるようにして言った。

 

ヒカルは怒ってたけれど、私はあの時の席亭の言葉に深く同意した。

「人が成長するのを初めて目の当たりにしたよ。シビレないか?」

ええ、私も痺れましたよ。ヒカルの潜在能力は分かっていたつもりでしたけれどね。

ヒカルの目算の力はあの日一日でどれほど確かなものになったことか。

ヒカルは今プロ試験の本戦を戦っている。

その真剣勝負がヒカルをさらに伸ばしていく。

その一局一局の経験がヒカルをまた成長させるのだ。

ヒカルは着実に目標に向かっている。

 

では、私は?

私だっていろいろ経験を積んで、ヒカルの時代の碁に精通したのだ。

だのに、私は、また時の旅に出るのを控える羽目になった。

2ヶ月?

ああ、でも私は早く行きたい。

ヒカルが試験前に最後に行った碁会所。あの碁会所にも、もう一度行きたい。

 

その碁会所でヒカルは同年齢ぐらいの韓国棋院の研究生、洪秀英と、成り行きから対局をした。

実に面白い拮抗した戦いだった。

目算をきちっとすることを会得したヒカルにとって、あれはまたとない修練の場となった。

ヒカルは自分で行く道を開拓し、一人で突き進む強さをはっきり示した。

予選が終わった時にヒカルの覚悟を心配したのが嘘のようだった。

 

佐為は思い起こすと、また口元をほころばせた。

それにヒカルの対局だけではない。

あの碁会所に、私は一人でしばらく通ったのだ。お金が続く限りだが。

彼らはみな、我々は強いと豪語していたが、あそこは覇気があって、ネット碁のような楽しさがあった。

 

佐為はつと碁盤を引き寄せ、石を置き始めた。

私は韓国や中国で打たれている碁もだが、一番にあの者の碁を研究した。

それはヒカルを鍛えるにもいい刺激となったが、何よりも私自身が刺激を受け実践力をつけた筈だ。

だからこそ、私は一刻も早くあの者と対局したい。私の腕を試したい。

一度でもあの者と打てれば。

その機会は来るのだろうか。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

千早59

『千早』51~60
ヒカル…秀策について知る。若獅子戦でアキラと対戦。プロ試験へ。
(主な登場人物…佐為、ヒカル、和谷、伊角、フク、平八、平八妻、筒井、本田、村上、アキラ、導師、門脇、桑原、道玄坂碁会所マスター、河合、市川、緒方、岸本、尹先生、洪秀英のおじさん)


****************

「洪さん。秀英君は頑張ってるようですね。」

「ええ、おかげさまで元気になりました。先日電話が来ましたよ。張り切っています。」

「それは楽しみなことですね。ところで、あの若い人は最近来ませね。」

 

ヒカルと洪秀英の対局があった翌日から、その碁会所に不思議な男が来店した。

今風の若者に見えるけれど、言葉遣いはとても丁寧だった。

彼は誰とでも打ったが、常に余裕で勝ち、楽しげな微笑を浮かべるのだった。

「私はプロにはならなかったが、囲碁の指導員をしている腕前だ。

でも何度対局しても、彼はこの私に指導碁を打ってるという気がした。

そこで私は一度彼に聞いた。

本気で私と打つなら何子置くかを。」

 

「それで?」

少し沈黙があった。

「あなたが望むだけどうぞと言われた。」

傍にいた男が言った。

「私は見てたよ。あの時。望むだけと言われてもな。こっちにもプライドはあるよな。

それでもこいつは四子置いたんだ。あの男が必死になるのを見たくて。」

 

「それで?」

「それでもあの男はいつもと変わらない様子で、三目差で勝った。」

「彼はこの中の誰にも負けたことはないんだ。」

「彼はどういう人なのだろう。プロではない。だが桁外れに強い。あの強さは尋常ではないよ。」

「ああ、なのに誰も彼のことを知らないとは。」

「もしかして、彼が去年騒がれた…。」

「いや、さあ、どうだろう。」

「今度来たら、直接聞いてみればいい。そうなのかどうか。」

その男は一週間ほどで、ぴたっと来なくなった。その後二度とあらわれなかったのだ。

彼はその微笑とともに、その碁会所の中だけで語り継がれる伝説になった。

 

横で対局しながら、その話を聞いていた一人が呟くように言った。

「その人も強くて、謎で、魅力的な人です。

でも私には進藤君の方に興味がわく。

私は進藤君のほんのしばらく前を知っているから。

あの彼がそれほどの進歩を遂げたということに、そのことに心惹かれる。

塔矢君はだから彼を気にしていたのだろうか。

見抜いていたのだろうか。もしかして進藤君の成長振りを。」

****************

アキラは心の中で呟いていた。

なぜ尹先生は僕と進藤を結びつけるんだ。岸本さんも。

それより、なぜ僕は囲碁部を覗くつもりになったのか。

僕は恐れている?いや、そうじゃない。でも僕は一体何をしているのだろう。

 

アキラは碁サロンのいつもの場所に落ち着いた。

棋士としての仕事が特にない時はいつもここへ来る。

市川さんがいて、常連の人たちの顔が見える。

いつもの場所、いつもの日常。何も変わりない。

「市ちゃん。若先生来てるね。今日は、指導碁お願いできるかい。」

常連の言葉に市川は首を横に振った。

「でも今日は後で緒方先生がいらっしゃるそうよ。お願いできるわよ。」

「へえ、緒方先生がか。」

 

市川は物思いにふけるアキラを見た。

あの人のことが気になるのかしら?本当に名前を聞いておけば良かった。

でもなぜアキラ君はあの人のことを気にするのかしら。

そりゃ感じのいい、礼儀正しい人だったけれど…。

 

アキラは色々振り捨てるように、頭を振り、石を並べ始めた。

緒方が碁サロンを覗いたのはちょうど、そんな時だった。

緒方はアキラがいつもの席にいつものように一人座っているのを見た。

プロになったとはいえ、まだ時間があるのだな。

だがもう間もなく、それほどの時間は取れなくなるだろう。アキラ君の腕ならば。

 

緒方はテーブルに近づき、アキラが並べている棋譜を見た。

「ネットでsaiと打った棋譜だな。また置いているのかい。それを。」

アキラは顔を上げて緒方を見た。

「確かにsaiは魅力的な打ち手だが。いつまでも捉われていてどうする。

君の周りにはもっと目を向けるべき相手が居ると思うが?

私だったら目の前に居る相手に全力を注ぐよ。」

アキラは返事をせずに、黙って盤面を見つめていた。

 

アキラはサロンの窓から緒方が駐車場へ向かっていくのを眺めていた。

あの後緒方さんは僕に特に言葉をかけてこなかった。ほっとした。

緒方さんは僕の何を分かっているというのだろう。

今僕がここで棋譜を並べている意味を。

 

アキラには今二つの影が見えていた。

子どもの頃から考えていたプロの世界。父親の背中を見て育った。

棋士の世界は理解していると思っていた。囲碁を打つ人たちの世界。

それを否定するような人だった。

プロでなくてもプロ以上の碁が打てる?

年齢などどうでも。魅了してやまない碁を打つ不思議な人。

そして、何よりアキラをイライラさせる要因。

それはその人に繋がる進藤。 いや進藤がその人に繋がっていることなのだ。

アキラは思った。

 

碁のことだけを考えれば、進藤など置いて、あの人を追うべきなのだ。

進藤は弱い、本当に弱い。

一年半前彼と出会った時は碁ではなく、石取りゲームをした。

何故なら、彼はまだ碁を打つところまで行ってなかったからだ。

なのに、何故、棋譜並べが出来る?

そのことにいら立った?

そうじゃない。その時進藤が並べた棋譜が僕の心に引っ掛かった。

その後間もなく彼が大会に出てるのを見て、やはり碁が打てるのかと思った。

けれど、期待に反し、いや思った通りの余りに稚拙な碁だった。初心者のそれ。

 

僕を振り回し、稚拙な碁を打っていたのに、その彼に追いつくからと言われた。

僕はとても不愉快になった。

碁を知らないからそう言えたのだと思えば、無視すれば済むこと。

僕は今までずっとそうやってきたのに。

何故進藤だけは無視できなかったのだろう。

進藤があの人を知っているから?

いや、今ははっきりわかる。

碁を知らない進藤があの人の碁に魅せられていたからだ。  

 

僕は碁のことだけを考えることにしたのだ。

それは進藤を忘れること、無視することだった。

あの人だけを求めることにしたのだ。

だからその後進藤がどうしていたかなど、ずっと気にならなかった。

若獅子戦の対戦表を見るまでは。

 

僕はそこに出ているのは、あの進藤ヒカルの筈はないと思い、一方では彼だ、彼に決まっている、彼しか居ないじゃないかと思った。

進藤は僕を真剣に追いかけているのか?

それにしてもあの進藤が院生?

 

当日、会場でたしかに進藤を見た。しかし僕とあたることはないと思った。

進藤が僕とあたるには村上プロに勝たなければならない。

進藤が村上プロに勝てるとは思えない。

プロ試験を受けた時に院生の実力は大体分かっている。

 

だが、僕の心には、ぼくは進藤と対戦しなければならないというものがあった。

進藤、君と対局できないとは残念だよ。

僕はどうしても進藤と対戦する必要があるのに。

何故って、それは進藤に直接伝える必要があるからだ。しっかりと。

進藤に君が院生になろうと、僕と並べるわけではないのだと知らしめるためだ。

 

僕は、自分の対局が終わると、進藤と村上プロの対局を見た。

その碁は、進藤が確かに院生上位に居るという証だった。でも、ただそれだけだった。

 

進藤が僕の前に座り僕をまっすぐ見た時、何ともいえない気持に襲われた。

僕が彼に腹を立てる理由は何もない。

進藤は僕の頼みを断ったが、断ってはいけないということはないのだから。

それに彼はそのことを後で謝罪したのだ。

そして言った。

僕に追いつき並ぶと。

 

僕は目の前に座った進藤の顔をじっと見た。

進藤は僕と並べたと、そういう顔をして、目の前にいる、そういうように思えた。

僕は、僕は、ずっと碁の高みを目指して生きてきた。ひたすら。

その僕の人生。

進藤が、ちょこっと碁をやって、この僕に追いつき並ぶ?

僕の横に立つ?

何かとても辛い。僕は嫌だ。

 

僕は思っていたことをやるだけだった。

彼がどう思おうと勝手だが。僕は僕の考えを伝えるだけだった。

彼程度の腕では、到底僕の傍らに居ることはできない。

そのことをはっきり示すため、僕は格の違いというものをつきつけるしかなかった。

僕は僕のやりきれない感情の全てを石に託した。進藤の謎。あの人の謎。

とにかく僕のプライドにかけて、進藤に僕に追いつくなど簡単にはできないのだと示そうと。

僕は進藤にあらん限りの力でそれを示した。

 

若獅子戦は終わってみればアキラが優勝した。

そしてそれはそれだけのことだった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

千早60

『千早』51~60
ヒカル…秀策について知る。若獅子戦でアキラと対戦。プロ試験へ。
(主な登場人物…佐為、ヒカル、和谷、伊角、フク、平八、平八妻、筒井、本田、村上、アキラ、導師、門脇、桑原、道玄坂碁会所マスター、河合、市川、緒方、岸本、尹先生、洪秀英のおじさん)


アキラは盤面に新しく石を置いた。

佐為と、この碁会所で向かいあって打った碁だった。

 

僕はいつかこの碁も越える。越えてみせる。

ひたすら打つ。ただひたすら。僕は後ろを振り返らない。ただ前を見据えるのみ。

進藤がもしプロになれたとしても…。

進藤いいか。それでも、僕はトッププロを、碁の遥かなる高みを目指しているんだ。

たとえ君がプロになっても、プロという言葉だけで並んだと思わないで欲しい。

僕には僕の目指す至高の碁があるのだから。

 

そう思いながらもアキラはまた黙って窓の外を見た。

なんで今日だったのだろう。

 

アキラは盤面を払い、新たに石を置いた。

尹先生が、この棋譜を教えてくれるまで、僕は進藤のことは忘れていた。そう思っていた。

あの若獅子戦で、進藤に見せつけてから、もうこれで僕は先に立つ人だけを見るのだと決めて。

でも、今僕は…。僕は。

 

「塔矢君。プロとして忙しいのは知っているけれど、もし時間が少しでもあったら、囲碁部で少し指導してくれないかな。次の大会に向けて少し活を入れたい。前の大会では海王は全勝で優勝は出来なかった。副将が負けた。大将だった岸本君も今年はもう高等部だ。」

 

尹先生のその頼みをアキラは断り続けていた。

その日もアキラは教室にひとり座って思っていた。

海王は大丈夫ですよ。だって副将が負けたという進藤は今は院生になっているのだから。

もう大会に出てくることはない。だったら何も恐れるものはないでしょう。

 

アキラはそう考えた自分に愕然とした。

僕はいつの間にか進藤を評価しかけている?

いやそれはもちろん限りなく低いレベルでの評価だ。中学の小さな地区予選大会というレベル。

それでも…。

 

そう思った時、なぜかアキラは囲碁部に足を運んでいた。

ただの中学の部活。その小さな地域の大会。

そこで無様な初心者の碁を打っていた中学生。

彼が院生になった。そのことが僕をその気にさせたのだろうか。

アキラが囲碁部を覗くのは二度目だった。

一度目はヒカルの居場所を尹先生に聞くため。

だが結局教えてもらえなかった。

 

尹は岸本と話をしていた。

そういえば、あの時も、僕が進藤の住所を聞きに行った時も、岸本さんが居た。

囲碁部は中高合同で練習しているから居るのだろう。

「いや、色々に事情があるだろう。仕方がないよ。」

尹先生のそういう声が聞こえた。

僕は院生だったことがあるという岸本さんの顔を見た。

プロになるのを諦めた人。

そのクールで知的な表情は、進藤とは全く重ならなかった。

 

岸本さんは院生の時はどんな顔をしていたのだろう。

今と同じような顔つきかな。

僕はそんなおかしなことを考えた。

 

尹はアキラを嬉しそうに見た。

「塔矢君。来てくれたんだね。ありがとう。

でも今日は指導碁よりも何よりも、君に見せたいものがあるよ。

来てくれてよかった。君に連絡を取ろうかと思ってたんだよ。」

そういって尹は、傍にあった碁盤の前に座ると、石を並べ始めた。

アキラは何事かというようにそれを覗きこんだ。

 

「夏休みに、私の行きつけの碁会所にね。

韓国棋院の研究生が親戚を訪ねて来ていたんだ。

その研究生が打った一局だよ。ぜひ見てほしいんだ。」

韓国か。

 

アキラは興味深く見つめた。その一局はかなり高レベルのものだった。

僕の知る院生とは全然レベルが違うような気がするが。

研究生のどのくらいに居る人だろう。

魅力的な碁だった。

 

尹先生と言うのは相当な打ち手なんだ。僕は先生と打ったことも一度もなかったが。

こんな指導者に恵まれているから、海王は強いのか。

「黒が、研究生だよ。」

「白が尹先生?勝ったのですね。」

アキラの言葉に尹は笑った。

「私?いや違うよ。私は見ていただけだよ。」

 

アキラは訝しげに尹を見た。

「すばらしいよ。洪君は。ああ、研究生の名前だよ。

洪君は研究生ではトップクラスらしいが。

でもその洪君の先を行ったんだ。何と進歩が早いのかと思ったよ。

副将戦の時と比べて、びっくりだよ。」

 

アキラは尹の言った言葉の意味を理解できなかった。

そんなアキラをひたと見据えて岸本が説明した。

「白は進藤ヒカルだよ。君が気にしていた。」

尹はアキラに聞いた。

「葉瀬中の進藤君が院生になったのは知ってたかい。」

「ええ、知っています。」

アキラはクールに答えた。

「そうか。知ってたのか。」

「ええ、院生とプロの大会があるので、その時、進藤に会いました。」

 

アキラは何の感情も見せずに答えた。

ただし、自分がヒカルと対局したことは、なぜか言わなかった。

煩わしかった。

尹は自分の思いを、ただ口にしていた。

 

「私は進藤君がうちの副将と打っていたのは、記憶にあるけれどね。

うちの副将もなかなかの打ち手だからね。その彼に勝ったので印象が深い。

それでもあれは中学の大会だ。そのレベルだ。

でもあの時、中学の囲碁部に居た進藤君が今こんな碁を打っている。

ついこの間のことだよ。

人というのは何と成長するのだろうかと、今、私は驚きでいっぱいだ。

塔矢君は進藤君のことを気にかけていたようだけれど、やはり彼のこういう素質を感じていたのかな。

それにしてもどんなに素質があろうと、ここまで打てるようになるにはどれほどの努力があったのかと。

私はそれに思いを致して、本当に頭が下がる思いがしたよ。

進藤君はおそらくそれを苦労に思わないでひたすら頑張って居るのだろうね。

そんな気がする。」

 

碁サロンで、緒方に出会ってから三日後に、研究会があった。

アキラは緒方に会うのを億劫に感じていた。

研究会は何も変わらず、いつもどおりに進んでいた。

アキラはほっとした。

僕は何をいらいらしているのだ。

 

その時だった。緒方がアキラを見た。

アキラは緒方の痛烈な視線を感じたが、顔に何も出さないようにした。

緒方さんはなぜ僕をほっておいてくれないのだろう。

 

そんなアキラにお構いなく、緒方は言った。

「プロというのは腕の差はたいしてない。気迫が物を言う。アキラ君はこのところ物足りない。」

芦原が緒方の言葉に対し言った。

「でもアキラ君は連勝ですよ。ほとんど。

この間倉田に負けたのは惜しかったけど。でも今年はきっと新人賞も連勝記録も取れますよ。

すごい勢いじゃないですか。」

 

緒方はふふんと言う顔をした。

「アキラ君はそんなもの、ちっとも欲しくないんじゃないか。」

アキラは表情を変えなかった。

「僕は、一歩づつ歩むだけです。」

アキラは優等生の答えをした。

それは本心ではあったけれど、今のアキラにはひどく遠い言葉の気がした。

 

「塔矢先生もお感じではないのですか。」

緒方のその言葉に行洋は特に何も答えなかった。

研究会が終わった後、アキラは芦原の誘いを断り、まっすぐ家に戻った。

 

緒方さんはまだ僕がsaiのことだけを気にかけていると思っている。

それはそれで構わないけれど。

確かに、あの人のことは気になるから。

あの人はプロでないのにプロ以上に強く、魅惑的な碁を打つ人で、謎だ。

でもわかることもある。

あの人は、きっと僕のように碁を小さい頃からやっていて、その目指す先は同じなんだ。

僕と同類の人だと思う。

 

アキラはパソコンを立ち上げながら思った。

でも進藤は違う。

彼は何を目指して碁を打っているんだろう。

棋院のホームページには、プロ試験の結果が出ていた。

 

進藤は六連勝している。

ここまで。27戦のうちの6勝に過ぎないが、それでも、まだ負けていないのだ。

例えこれまでの相手がさほど強くなかったとしても。

今、進藤はこの棋譜からどのくらい進んだところにいるのだろうか。

アキラはヒカルのスピードを計りかねて、戸惑ったようぬ眉根を寄せた。

知りたい。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

春霞 61

『春霞』61~70
プロ試験からヒカル新初段戦まで。行洋vs佐為、緒方vs佐為。
(主な登場人物…佐為、ヒカル、行洋、明子、緒方、アキラ、越智、伊角、本田、和谷、森下、座間、白川、篠田、正夫、美津子、タマ子先生、河合、道玄坂マスター、天野)



ヒカルのプロ試験は三分の一近く過ぎていた。

この間(かん)、ヒカルは可能な限り佐為のもとに通い、打てるだけ打ち続けた。

一人で居る時も、ヒカルは使えるだけの時間を使って、棋譜を並べ続けているという。

ヒカルはそれを努力だとか苦痛だとか思わず、ひたすら塔矢アキラを目標に励んでいる。

そうして、ヒカルは進化し続けている。

それを目の当たりにして、佐為も気持が鼓舞していた。

 

だから私は早くヒカルの時代へ行きたいという、はやる心を抑え切れなかった。

それで今日ヒカルの時代へ行った。

何故今日だったのか、それは運命だったに違いない。

 

佐為はそう思って、今日の経験を反芻するように目を閉じた。

朝方、目覚めると、佐為はいつになく体が軽かったのだ。

熱っぽさも全くなく、気分がすこぶる良かった。

そこで佐為は試してみることにしたのだ。

 

変わりのない時の旅だった。

ヒカルの部屋も何も変わりがなかった。

見慣れたカーテン、ベッド、机、それに碁盤。私の服もそのまま。

引き出しには、きちんと小遣いが貯められ、鍵も置いてあった。

佐為は早速着替え、支度を整えると、外出した。

 

どこへ行く?

あの強者の多かった碁会所へ?それとも棋院へ?

いや、今日は歩ける範囲で。

そう決めると、佐為の足は自然と碁サロンへと向っていた。

体が軽いと気持も明るくなる。

もしかしたら私と打ちたいという塔矢アキラとまた会えるかもしれない。そう思えた。

いや居なくても、約束を取り付けることは出来よう。

 

佐為は碁サロンのドアを押して入った。

中は明るかったが、がらんとしていた。

「ここは今日は午前中は休みですよ。」

空調をチェックしていた男が言った。

佐為はひどくがっかりして外に出ようとした。

窓際で二人の男が書類に目を通していた。

その内の一人が顔を上げ、佐為が、がっかりした様子で出て行くのを目に留め、その背に声をかけた。

「折角来て下さったのだ。よろしければ、一局お相手しよう。」

その声に佐為は、はっとして振り向いた。

目の先に、塔矢行洋がいた。

佐為は胸を弾ませた。

「お願いいたします。」

そう頭を下げつつ、佐為は自分の幸運を噛み締めた。

 

石が私を導いてくれたのか?それとも、私の勘がここへ導いたのか。

どちらにしても時の旅の定めだ。運は私に味方している。

行洋は佐為を奥の席に案内して、慣れた様子で尋ねた。

「何子がよろしいですかな。」

「出来れば互戦で。コミは5目半でお願いします。」

佐為は当然の条件を申し出ただけだった。

 

あなたと私が打つならこれしかないではありませんか。

そう言った私をあの者は値踏みするようにじっと見た。

やがて私が冗談を言っているのではないと理解すると一言、言った。

「お望みどおりに。」

それ以上、あの者は余計な口はたたかなかった。

あの者が握り、私の先手で対局は始まった。

私は念願の相手を前に第一手を置いたのだ。

右上スミ小目に。

 

そこまで思い起こして佐為は深いため息をついた。

この得がたい運命を、体験を誰にも話さないでいるなどできない。

何時まで我慢できるというのか。

だが導師に言えば、次はない。私が時の旅に出ぬようにと、四六時中見張るに違いない。

ヒカルしかいない。ああ、今日の私のすばらしい体験を早くヒカルに聞かせたいものだ。

 

そのヒカルはいつもの時刻に佐為の前に現れた。

しかし常になく深刻な面持ちをしていた。

佐為は自分が話したいのをやっとのことで抑えて、ヒカルに尋ねた。

「何かあったのか?」

ヒカルはこっくりとしたが、なかなか口を開かなかった。

 

ヒカルは負けただけなら、こうはならない筈だが。

不審に思いながらも、佐為は辛抱強く待った。

やっと決心がついたらしく、ヒカルは重い口を開いた。

「俺、昨日は伊角さんとの対局だったんだ。」

 

そうだった。ヒカルはプロ試験前の院生対局では、伊角さんに負けたのでプロ試験では絶対に雪辱を果たすと張り切っていた。

ヒカルは、とつとつと対局譜を並べ始めた。

あるところで石を置くヒカルの指が止まった。

佐為はそれを見て考えた。

ここまででは相手の方が優勢だ。ヒカルは劣勢。もう負けを覚悟していた?

いや、ヒカルのことだ。きっとこの後の逆転の手を考えていたに違いない。それが失敗したのか?

 

しかしヒカルの言葉は意外だった。

「本当は…」

そう言ってヒカルは言葉をとぎらせた。

「この一手は本当は。ここに置いた筈なんだよ。伊角さん。右じゃなくて左に。」

佐為はヒカルの言っている意味が飲み込めなかった。

何故左に?左に置くことに何の意味が?

 

「アテ間違えたんだよ。」

ぶっきら棒にヒカルは言い放った。

「それでさ、ハガシをしてここに打ち直したんだよ。」

「確かですか?」

ヒカルは下を向いたままだった。

「もしかしたら指は離れてなかったのかもしれない。そうも思ったよ。

でも俺は祈ったんだ。伊角さんはアテ間違えをして、ハガシの反則をした。

俺がそれを指摘すれば伊角さんは反則負け、俺の勝だって。」

「そうはならなかった?」

 

佐為の問いかけに答えるのではなく、ヒカルはただ続けた。

「どうしても勝ちたかった。ここまで全勝できたんだ。越智も和谷も伊角さんだって全勝してるんだよ。伊角さんとのこの一局は俺にとって、すごく大切なものだったから。だから伊角さんに言おうと思った。今のハガシだよねって。俺の勝だって。」

「ヒカル?」

「だけど俺が言う寸前で、伊角さんは投了した…。」

佐為は惨めに俯いているヒカルをじっと見つめていた。

「俺、何てやつなんだろうって…。白星が欲しくて。ただ勝てばいいって考えてた。俺、このことが頭を離れなくて、ずっと…」

 

佐為は静かに尋ねた。

「それで、ヒカル。相手が反則を犯したかどうかはともかく。

それはこの対局ではそもそも相手の問題です。

ヒカルもそう思っている。それは自分が指摘する問題ではないと。

ヒカルはその前の時点ではもう、当然こう置かれると思っていた筈。

では、この手から先をどう打つつもりだったのか?あなたは当然対策を考えていたと思うが。」

 

ヒカルは頷いた。

「伊角さんは当然ここに置くと思っていたよ。だから逆転の手をずっと考えていたんだ。もしかしたら逆転できたかもしれない。でももしかしたらうまくいかないかもしれない…。だから俺…。反則勝ちにしがみついたんだ。」

佐為は軽く笑みを浮かべた。

大丈夫、ヒカルは立ち直る余地は充分にある。

「ヒカル。この一局打ち切ってみましょう。あなたの考えていた手がどれくらい有効かどうか。そうして先に進むのです。」

 

佐為とヒカルはその一局を打ち切った。

「俺、間違えさえしなければ勝てたんだ。」

ヒカルはほっとしたように言った。

「あなたの逆転の一手は斬新です。筋はここですけどね、それでは劣勢は覆せない。負けます。」

ヒカルは晴れ晴れとした顔をした。

「俺、自分を信じられなくて、反則勝ちにしがみついたんだ。そのことばっかりが頭に浮かんで、自分がやになった。

伊角さんは結局潔く投了したって言うのに。あれほど嫌な白星はなかったんだ。

ああ、でも今日逆転の手を試してみて嬉しい白星になった。」

それからヒカルはさらっと言った。

「今日負けちゃったんだ。集中できなくて。俺、本当に馬鹿だ。勝負には相手がどうかじゃなくて自分がどうかってことしかないのにさ。」

 

ヒカルはもう大丈夫だ。でもヒカルはまだ精神的に弱い部分がある。

私もかつては弱かった。虎次郎との時の旅で鍛えられるまでは。

自分に落ち度がないのに責め立てられると、それだけで気持が落ち込んでしまって。

何もかも嫌になってしまうことがあった。

ヒカルも随分と強くはなったが。

少なくもプロ試験が終わるまでは、私の経験を話すのはよそう。

たとえすばらしいことでも、ヒカルの集中を乱すのはまずい。

 

ヒカルがあとでこの話を聞いたら、どう思うでしょう。

それを考えるのも楽しみですよ。

そう思うと口の端に自ずと笑みが浮かんだ。

 

ヒカルは佐為の微妙な変化を見逃さなかった。

「佐為、どうかした?」

「いえ、今日は朝から体調がずっと良いんですよ。それにヒカルが立ち直ったのも嬉しい。」

佐為はそう言った。それは事実だったから。

ヒカルはそれを聞いて、嬉し気に笑った。

「俺思ってたよ。佐為はちょっと休んでればすぐ良くなるってさ。」



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

春霞 62

『春霞』61~70
プロ試験からヒカル新初段戦まで。行洋vs佐為、緒方vs佐為。
(主な登場人物…佐為、ヒカル、行洋、明子、緒方、アキラ、越智、伊角、本田、和谷、森下、座間、白川、篠田、正夫、美津子、タマ子先生、河合、道玄坂マスター、天野)



行洋のその日は普段と変わりなく始まった。

いつものようにアキラと朝の一局を打った。そのアキラは朝食が済むとすぐに出かけた。

仕事がオフの日の常としては、行洋は碁盤に向っていた。

その碁盤には石は置かれていなかった。だが行洋は盤面に石の並びをずっと見ていた。

頭に浮かぶそれを。一昨日の碁サロンでの一局。

 

あの男は約束どおり来るだろうか。

いや来ないという事はない。絶対に来る。

何故なら、彼は私の碁をよく研究していたから。

 

「何子がよろしいですかな。」

「出来れば互戦で。コミは5目半で。」

行洋にはその時のやり取りが思い出された。

 

私と互角で自分の腕を試したいというアマはたまにではあるが、居るには居る。

あの男は違った。

腕試しなどではない。当然の申し出だったのだ。

あの時は小一時間にも満たない対局だった。

結果は…。その先、あの男が間違わなければ当然私の負けだった。

そしてあの男は間違わない。私にはそれが分かっていた。

 

「私の負けですな。今日は時間がないので、改めてゆっくりあなたと打ち合いたい。」

「喜んで。」

あの者は心底悦ばしげに私の申し出に応じたのだ。

私が今日を指定すると、軽く頷いた。

「場所はここでよろしいのでしょうか。」

碁サロンでは私は好き勝手に長時間ゆっくりとは打てない。そこで私は自宅の場所を伝えた。

 

あの男の名前も聞かなかった。

この次勝ったあかつきに、名前はもちろん、彼のことをすべて聞こう。そう思ったからだ。

つまり今日、私は彼の名前を知ることになるわけだ。私が勝って名前と素性を聞く。

 

思いにふけっている行洋の耳に玄関からの話し声が聞こえた。

来たな。名前を知るべき相手が。

 

間もなく、佐為が明子に案内されて現れた。

「早く着き過ぎたでしょうか。電車の時刻表が分からなかったので少し早めに出たものですから。」

「いえ、構いませんよ。よく来られた。」

佐為は嬉しそうに答えた。

「一日寝過ごして間違えたらどうしようかと思いました。今日はとても楽しみです。」

この男は全く気負いがないのか、緊張している様子がない。

そう思いながら、行洋は言った。

「私も楽しみにしていた。今日も前回と同じ条件で。今日は半日空けてありますから、ゆっくり打てますな。」

 

佐為は通された座敷がひどく気に入った。

この者が真摯に打ち続ける碁の匂いがする。

そう、あの幽玄の間で感じた空気と同じものだ。

この者からは何とも言えない気が流れ出ていて、それがこの部屋を満たしているのだ。

この者は普段でもそれをまとっているのだろうか。常に人に隙を見せない。

邸の中ですらそうなのか。

先日の対局は、お互いに小手調べの感のあるものだったが。

私は対等な相手と、これから思う存分打ち合うのだ。

そう思うと、身を震わすような喜びが佐為の全身を覆っていった。

時の旅の意味が今、この碁盤に示されるのだ。

二人の間に流れる空気は静かだが、気迫に満ちたものだった。

 

 

明子は時計を見た。

もう1時を過ぎているけれど、お昼を出さなくても良いものかしら。

夫は放って置いてくれと言った。

夫は食事など取らないに違いないから良いけれど、相手はどうなのだろう。

9時前に来てそれっきり二人は座敷に篭ったままだ。

ポットに入れたお茶は置いておいたけれど。

 

今朝、アキラが出かけた後、夫は突然に言ったのだ。

「これから人が尋ねてくる。来たら座敷に通してくれ。お前はいなくてもいいから。」

突然の来客があるのはこの家では珍しいことではないが。

「何と仰る方?」

「名前?名前は聞かないで構わない。」

その言葉だけではない。

普段どおりに見える夫の振る舞いの中に何か常と異なるものを感じた。

そんなことは滅多にないのに、ピリピリした雰囲気がしたのだ。

 

一体どんな人が何の用事で訪ねてくるのか、名前も聞かないでいいなんてと、明子は少々心配した。

玄関に現れたのは物柔らかで優しげな若い男だった。

明子にはすぐにぴんと来た。

夫と碁を打ちにきたのだ。長年プロ棋士の傍にいると感じることのできる、碁を打つ人間特有の匂いがした。

門下生たちとは全く違うけれど、明子はその男になんとはなしの親しみのようなものを感じた。

どこかで会ったことがあるような。

しばらくして思い当たった。

そうだわ。夫だわ。見た目は全く違うけれどなぜかそっくりな感じがするわ。

 

3時近くになった頃、明子は決心して、お茶と簡単に食べられるものを用意し、そっとふすまを開けた。

空気が緩んでいる。

夫の相手をしていた男は、お茶を出されると、微笑んで軽く会釈した。

夫からは、今朝のぎこちなさが消え失せていた。

お茶を置く明子を見て、行洋は軽く頷いた。

何かとてもいい雰囲気だと感じながら明子はほっとした気持で部屋を出た。

 

お茶を口に運びながら行洋は、不思議の感に打たれていた。

私はいやしくもプロで、名人で、四冠だ。

国際棋戦でも他の国の強豪と競って決して引けを取らないと自負している。

その私が僅差とはいえ負けたのだ。今まで一度として噂を聞いたこともない若者と対局して。

それも2回も。

もっと驚いてもいいのに、なぜ、私は驚かないのだろうか。

いやそれより、私は今、とても心が弾んでいる。

行洋はその思いのまま、自然に口にしていた。

「私には自負がありましたよ。

現状では確かに日本は他国に押されてはいるが、それでも私はプロだと。

日本で四冠を抱くプロだと。」

 

佐為は対等の対局相手というだけではなく、行洋の率直な人となりにひどく好感を抱いた。

「当然です。塔矢先生。あなたはすばらしい方だ。まさに四冠にふさわしい。力だけでなくお人柄もですよ。そう思います。

たまたま私は今回あなたに勝てましたが、あなたと対局をするという、すばらしい経験が出来てとても嬉しく感じています。」

 

行洋は聞きたいと思っていたこととは別のことを聞いていた。

「あなたは、一昨日碁サロンへいらしたが、前にもいらしたことがあるのですか。」

「はい。かなり前ですが一度だけ。幸運に恵まれて、あなたにお会いできればとそう思って覗いたことがあります。そのときはたまたまいらしたご子息のアキラさんにお相手していただきました。」

 

アキラはそのことを口にしたことがない。勝敗は自明だが、この男はアキラ相手にどのような碁を打ったのだろう。アキラはどう思ったのだろう。

「アキラと、息子とまた打ちたいと願っておられますか?」

佐為はその問いに少し間をおいて答えた。

 

「あの時、対局して噂にたがわず、すばらしい力を持つ方だと思いました。対局していてとても楽しかった。

アキラさんはすばらしい打ち手になると思いましたよ。

もちろん今でもすばらしいですが、さらに飛躍していく方だと。

ですから、アキラさんが私と打って下さるというなら喜んで、お相手させていただきますが。

ただ私はいつか、あなたと打てたらとずっと願っておりました。

一昨日、私のその願いが叶ったのです。これほど嬉しいことはありません。」

 

それから佐為は付け加えた。

「アキラさんには、アキラさんと打ちたいと願う相手がいると思います。

互いを切磋琢磨できる。共に磨きあっていける、そういう相手です。」

 

行洋は言った。

「アキラにそのような切磋琢磨し合えるような相手が居れば一番望ましいことだ。

あなたのいうことは、国際大会に出るというようなことを意味しているのですかな。

今の日本には残念だがそういう意味でアキラの相手になるものはいない。そう思っている。

もっともこの先も現れないと断言することは出来ないが。だが、私はアキラは特別だと思っているのです。」

 

佐為は少し微笑んだ。

「私もアキラさんは特別だと感じました。

私は他のプロの方々がどのくらいの力を持っているのかなどは存じませんし。

あなたがそう仰るなら、現状はそうなのでしょう。

そうするとアキラさんには少々面白くない状況ですね。

でも今あなたはこの先のことは断言できないと仰った。

ですから申し上げるのですが。

私は一人の優れた才能を知っています。その才能にも偶然に出会えたのです。

今のところ彼は技術も経験もアキラさんには、はるかに劣るでしょう。

ただし今はです。彼はすぐにアキラさんに追いつくと思います。

彼は今ひたすら励んでますよ。そして恐るべきスピードで成長しています。

アキラさんを目標に、彼に追いつくことを目指して。

私は二人が良いライバルになることを願っています。

アキラさんはもしかしたら彼の足音が背後から聞こえてくるのを感じているのではと思っていますが、どうでしょうか。」

 

行洋は少し驚いて言った。

「そのような者がいると?疑うわけではない。

あなたもプロではないが素晴らしい腕前の持ち主だ。

私は一昨日初めてあなたを知ったのだから、あなたが言われるような者がいてもおかしくないと今は思いますが。

それで、その者とは?あなたはアキラが感じているといったが、その者とアキラは、打ったことがあるのですかな。」

 

佐為は頷いた。

「名前は、進藤ヒカル。アキラさんと同い年で、院生です。今プロ試験を戦っています。」

それから楽しそうに付け加えた。

「実は、この前の若獅子戦でアキラさんと対局して無残な敗北を喫しました。」

 

行洋は不思議そうに聞いた。

「あなたは今無残な敗北と言ったが、その言葉を実に楽しげに口にした。何かわけでも?」

「それはアキラさんがヒカルのことを意識していた結果だと考えるからです。

そしてその対局はヒカルを発奮させました。

ヒカルが、彼がその本領を発揮するようになれば、本当に楽しみです。

そして私は信じています。自分の腕と同じように進藤ヒカルの成長を。」

 

「私も期待したい。」

そう言ってから、行洋はじっと考えこんだ。

今の話、信じがたい気もするが、アキラの性格からすると、あり得ない事ではない。

そこまでアキラをその気にさせたというその院生に会ってみたいものだ。

 

行洋が黙って考え込んでいる間、佐為は食事をぱくついていた。

行洋殿の奥方は料理の腕が立つ。ヒカルのお母上も料理上手だ。

そうなると、虎次郎の奥方の料理が食べられなかったのは返す返すも残念だった。

そんなことを考えながら。

 

行洋はおいしそうに食事をしている佐為を眺めた。

率直で真っ直ぐな良い人間のように思えた。

だが佐為のことをどう考えていいのか正直戸惑っていた。

目の前にいる人間の存在がまず現実とは思えないのだ。

この者はプロでないのに私と対等な腕前の持ち主だ。

それだけの棋力を持ちながら、今まで誰の口にも上らなかったのだ。

その上、この男は、アキラのライバルになれるような子どもがいるというのだ。

 

佐為が箸を置くのを見ながら、行洋は言った。

「アキラのことはひとまずおいておいて。

私は、碁会所のようなところで出会う人に負けるなどとは考えたことはなかった。

あなたは初めから私に勝てると思われていたのか。」

 

佐為は首を横に振った。

「いえ、ただ私はきっとあなたと互角には渡り合えるのではと、そう在りたいと願っておりました。

あなたの対局譜を随分と研究させていただきました。

準備怠りなくしていた時に、お会いできたのはまたとない幸運でした。」

 

「あなたとはもう一度雪辱を期したい、またお相手を願えますか。いや、一度とはいわない、この先もあなたとは何局も打ち合えたらと願ってますよ。私は今回本当に久々に心が躍る対局ができた。」

「ありがとうございます。あなたのその言葉ほど嬉しいものは私にはありません。」

佐為は胸を弾ませて答えた。

 

行洋は佐為にどのように勉強したのか、何故プロにならなかったのか、そう尋ねたかったが、そうしなかった。

私にも意地がある。いや、この者となら、意地を張り合う必要もないかもしれないが。

この者は何でも答えてくれよう。何も隠している風がない。

それでも次の機会にしよう。次はもっと準備怠りなく打ち合う。

この男が私の碁を研究してきたと言うなら、私もまた、その程度の準備をしておきたい。

 

「普段は、あなたはどこで碁を打たれるのですか。」

「はい。ヒカルと打つ以外でしたら、碁会所で。それとネット碁です。

もっともパソコンを持ってないので、いつでもというわけにはいかないのですが。」

それから付け加えた。

「少々前の話ですが、アキラさんとネット碁でも対局したことがありますよ。」

 

そうか。この男がアキラが負けたという…。

「ではsaiと言うのはあなたのことですか?」

「ご存知でしたか。私は佐為と言う名前なので、ネット碁でもそれをそのまま使っています。」

 

そうか、この男の名前はサイというのか。崔と書くのかな?まあ、それは良いとして。

「ところでサイさん、次ですが実は私は近々タイトル戦を控えている。あなたと対局するのはそれが終わった後、 少々先になってしまいますが、よろしいですか?」

 

「それはもちろんです。あなたは四冠でいらっしゃる。とてもお忙しい方だと伺っています。

あなたのご都合のつく時で結構です。

私はあなたと打てさえすればそれだけでいいのです。何も条件はありません。

それに私も。あとひと月もすれば、ヒカルのプロ試験の結果も分かると思いますし。気持が落ち着きます。」

 

行洋は尋ねた。

「サイさん。あなたに伺いたいことは山ほどありますが、この次にでもじっくりお話したい。」

「私が答えられることでしたら何なりとお話しましょう。」

「あなたはそのヒカル君を指導されているのですな。」

「はい。囲碁に関しては、私はヒカルの師匠のつもりでいます。

ヒカルに初めて会ったのは、あなたとこうして巡り会えたように偶然ですが。いえ、あなたと巡り会えたように必然と言うべきかも知れません。運命かも。」

佐為は微笑を浮かべ話した。

 

「彼は私がたまたま知り合いと打っていた碁を隣で見ていただけで即座に並べなおすことが出来たのです。

まだ碁について殆ど何も知らない時にですよ。石取りゲームすらしていなかった時に。

それを知って私は決めたのです。彼の天分を開かせたいと。

それは私に課せられたもう一つの使命であると。」

 

行洋は聞いた。

「もう一つと言うからには、あなたには、ほかにも使命があるのですな?」

 

佐為はにっこりとした。

「はい。私の使命は神の一手に近づくことです。碁を極めたい。私の命が続く限り。

そのために定めを貰っているのです。私は。

そしてその使命を果たすべく、私はあなたとこうして対局しているのです。」

その言葉は行洋の胸にこだました。

 

間もなく佐為は帰っていった。

佐為が去った後、行洋はまだ碁盤の前を動かずにいた。

彼は不思議な人物だ。だが、私には分かる。彼は私と同じ種類の人間なのだ。

 

行洋の心には佐為の言葉が繰り返し響いていた。

神の一手に近づくこと。碁を極めたい。命が続く限り。それが定め。

 

その彼が私と対局する定めにあると言っているのだ。

次の対局、私は出来うる限りの準備をして望もう。

神の一手に近づくというその定めに対し、失礼のないように。

 

とにかく次の対局が待ち遠しいと、行洋は子どもの様に楽しそうな表情を浮かべた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

春霞 63

『春霞』61~70
プロ試験からヒカル新初段戦まで。行洋vs佐為、緒方vs佐為。
(主な登場人物…佐為、ヒカル、行洋、明子、緒方、アキラ、越智、伊角、本田、和谷、森下、座間、白川、篠田、正夫、美津子、タマ子先生、河合、道玄坂マスター、天野)



パソコンを立ち上げるたび、ネット碁のサイトに立ち寄り、saiの名前を探すのは、緒方には、ほぼ習慣のようになっていた。

もうsaiの名前を見ることがなくなってから、随分立つ。

最後の相手はアキラ君か…。

アキラには、興味がない風を装ってはいたが、緒方はsaiに並々ならぬ関心を持っていた。

アキラのはもちろんのこと、その他にも自分の見た、これはというsai の棋譜をいくつか検討してきた。

ネット上で、打った人間がsaiとの棋譜を公開しているものも幾つか集めた。

 

だがとにかく俺は、sai と打つ機会を逃したのだ。もう二度と現れないだろう。

それが悔しくも惜しくもあった。

saiというのは一体どんな爺さんなのか。もしかして、くたばったんじゃないだろうな。

 

その日、ネット碁に立ち寄った緒方の目は、saiという文字に吸い寄せられた。

碁を少しばかりかじった相手と打っているが、これは確かに例のsaiだ。

間違いない。

爺さん。くたばってなかったんだな。

いや、俺と打つために現れた亡霊かもしれんぞ。

 

その対局が終わるとすぐに、緒方は対局を申し込んだ。

幸い邪魔する者もなくsaiは、緒方のオファーにすぐ応じてきた。

緒方は千載一遇のチャンスに心を躍らせた。

やっとそのチャンスが来たのだ。俺の力を全て叩き込む。

俺にふさわしい油断ならない相手だからな。

緒方は椅子をひいて、居住まいをただし、くっと画面を睨んだ。

 

それが昨日のことだった。

昨日の今日に、手合というのもしんどい事だが。

だが俺は昨日の一局で何かとてつもなく力を得た気がしている。

緒方は昨日以来、高揚した気持を抑えることが出来なかった。

saiとの一局は実にすばらしいものだった。

あの厳しい雰囲気。俺をひたと見据える指先を感じた。

その指先に俺の思考は呼応し続けた。

爺さんの頭の中が見えるようだった。

自分でも最高の部類の碁が打てた。

やはりsai は歴戦を戦い抜いた人間だ。アキラ君では経験不足だ。

 

俺も良く粘れたもんだ。中盤でのあの手をかわせた…。

俺は考えていることをすぐに顔に出す癖があるからな。

ネット碁で本当に良かった。

saiが、あの嫌味な本因坊のじじいみたいな奴でないことを祈りたい。

 

本来ならば昨日の対局を誰かと検討したい。

誰かとはもちろん対局者同士、saiとだ。

しかしsaiはまず、チャットはしない。だがごく稀に返事を返すことはある。

爺さん、もしやアルファベットが苦手なのかもな。

緒方はくっくと笑った。

検討はとにかく、また打ってくれるかどうか、俺は尋ねた。

 

返事は来たぞ。saiにしては長い返事だ。

 

あなたのような方と打てて楽しかった。機会があればまた、いつかお相手願いたい。

 

その日、八段の相手をあっさりねじ伏せた緒方は、駐車場に向かおうとしていた。

saiが自分を認めている、そのことが緒方の気分を良いものにしていた。

玄関を出ようとしたところで、緒方は呼び止められた。

行洋が声をかけてきたのだ。

 

「緒方君、折り入って頼みがあるのだが。」

先生が俺に頼みとは? まあ気分もいいし。

「何ですか?」

「君はネット碁をやっているのだろう?」

「はい、時折気晴らしに。」

「以前君が言っていたアキラが負けたという一局を教えてもらえないだろうか。」

 

緒方は口をあんぐりあけた。よりによって昨日の今日だ。

なぜsaiの話を?

 

緒方君は、もう少し相手に気持を覗かせないように訓練した方がいいかもしれないな。

これは緒方君の一番の弱点かもしれない。

行洋は、緒方の様子を見ながら、なぜか突然、そんなとっぴな考えが頭に浮かんだ。

 

「先生、どうしてまた?」

「いや、アキラが負けた一局に少々興味が出てきたのだ。

それとアキラと対局したその相手の、他の棋譜も、もし知っていたら教えて欲しいのだが。」

 

緒方は行洋の顔をじっと見つめた。

目の前の男は何を考えているのか?

行洋の顔には何も手がかりとなるものは浮かんでいなかった。

 

負けた一局に少々興味が?

塔矢行洋も人の親という事なのだろうか。

やはり最近息子が、なんとなく様子がおかしいと感じているのか。

それはsaiのせいかどうかは分からないが、アキラ君の変化に気づくものはそうはいまい。

なぜなら手合ではアキラ君は殆ど勝ち続けているからな。高段者の列にずかずかと切り込んでいる。

先生は一緒にいても囲碁のことしか頭にないのではないかと思っていたが、さすが親だということかな。

いや待てよ。

だとしたら何故saiのほかの棋譜も知りたがる。

何を考えているのだろう。

もしかして俺とsaiの昨日の対局のことを誰かに聞いたのか?

さてどうしたものか。

俺は、俺の知っているsaiの棋譜をたとえ師匠だとしても見せる気にはならない。

昨日対局していなければ話は違っていたかもしれないが、昨日対局してからは俺はsaiと対局する意味を感じた。

俺はsaiに力を貰った気がしているのだ。

俺は今戦っているリーグ戦で挑戦権を得れば、この塔矢行洋とタイトルを争うことになるのだぞ。

俺は知っている。門下になってもう十数年経つんだ。

塔矢行洋は油断がならない。

何を考えているのか、分からないことがある。

囲碁に関してはどんな相手にも容赦はしない男だ。

 

それでも塔矢行洋とsaiの棋譜を検討するまたとないチャンスでもある。

 

緒方は言った。

「アキラ君は自分が打った棋譜を先生に教えないのですか?」

「いや。アキラには何となく聞く気になれなくてね。聞きそびれてしまった。」

「先生も親なんですね。アキラ君の打った棋譜なら知っていますので、いつでも教えて差し上げられますよ。今でもよろしいですよ。」

緒方は棋院へ戻り事務室を覗いた。

「ちょっと碁盤を貸してほしいのだけど。」

事務室の隅で、緒方が石を並べるのを行洋はじっと見つめていた。

あの者の思考が読めるようだ。アキラも随分頑張ってはいるが。

「先生はどう思われます。saiは指導碁を打ってるのですかね。」

「緒方君もそうおもうかね。それでもアキラもこのあたりなど随分押している。ここは相手も少し苦しかったのではないかとも思えるよ。」

 

並べ終わった石を片付けながら緒方は言った。

「先生のお考えが分かって今の棋譜に改めて刺激を受けましたが。

先生はsaiに関心がおありなのですか?日本かどうか分かりませんが、どこかのプロか、かつ てプロとして名を馳せた誰かだとお思いですか。

saiの対局は何度か見ましたが、ずぶの素人のような者とも随分打っていますし。

私もそんなにいつもネット碁を覗いている訳ではないので。アキラ君の棋譜以外でめぼしいものはあまり。お役に立てなくてすみません。」

行洋はそうかというように頷いた。

「いや、緒方君。時間を取らせて悪かったね。アキラの棋譜だけでも教えてもらえて良かったよ。ありがとう。」

 

緒方は行洋に会釈して事務室を出た。

 

アキラの棋譜だけでも教えてもらえてだと?

いつもの塔矢行洋ならもっと率直だ。自分に自信があるからな。

何かsai について知っていることは無いかと、聞くくらいのことはするだろうに。

一体何をたくらんでるんだろう。

もしかして、saiに心当たりでもあるのか。

緒方は疑心暗鬼で帰路に着いた。

 

行洋は緒方を見送っていた。

緒方君はなにかsaiにわだかまりがあるのだろうか。

いや、私が回りくどいことをしているのだな。やはり、自分が打った二局が一番大切なのだ。

それからふと思い出した。

サイの弟子はどうなったか。

 

行洋は事務職員に尋ねた。

「どうかね。今年のプロ試験は。」

「はい。昨年の塔矢アキラさんほどの傑出した子はいなさそうですが。

これをご覧ください。

今のところ全勝が一人、一敗が二人、三敗、四敗も数人いて、かなりの激戦です。」

行洋は職員の示した成績表をちらと見た。

進藤ヒカル、一敗か。確かに存在するようだ。

「邪魔をした。」と挨拶して出ようとする行洋に職員が言った。

「塔矢先生。今さっきのお話ですけれど。緒方先生と話されていたネット碁の話ですよ。」

 

プロ試験は中盤に向っていた。

和谷は越智に一敗したが一敗を守っていた。

ヒカルも佐為と伊角との一局を打ち切ってからは調子を取り戻していた。

その和谷が暗い顔をしてヒカルに言った。

「伊角さん。今日も負けたよ。フクに。」

それはヒカルにも胸の痛む状態だった。

フクも強い。独特の勘がある。それでも今まで伊角はフク には負けたことは無かった。

俺が声をかけるべきなのだろうか?

でもそんなことをしても何もならないだろう。

伊角さんも俺と同じなんだ。自分自身と戦っているのだ から。

でも俺には佐為がいてくれたけれど、伊角さんには…。

 

越智は、全勝でプロ試験に合格するというその目標に向かってただひとり 勝ち続けていた。

進藤はフクに負けた。和谷は僕に負けた。

そして僕が一番気にかけていた伊角さんは進藤に負けて以来、三連敗している。

 

それにしても進藤に躓くだって?僕は絶対進藤には勝つさ。

院生対局で僕は一度も進藤に負けたことがないんだから。

越智はそれから声に出して腹立たしそうに呟いた。

 

「なのにあの塔矢の奴。一体なんだっていうんだ。

何しに僕の前に現れたんだ。塔矢はただ進藤のことを知りたかっただけなんだ。

たった一年、先にプロになったというだけなのに。なんて嫌な奴だろう。」

対局時間が来て、越智は伊角の前に座った。

越智はアキラのことをまた思い出し、むしゃくしゃした気持ちがおさまらないまま、辛らつな口調で言った。

「伊角さん、昨日はフクにまで負けたんだね。正直がっかりだよ。

僕の一番のハードルは伊角さんだと思ってたのに。進藤なんかに躓いて調子を崩すなんてさ。

まあ、おかげで僕の全勝合格は楽になったけどね。」

 

伊角はその言葉に越智をにらみつけた。

そして凄みのある口調で、一言、越智の言葉をさえぎった。

「黙れ!」

越智の言葉はハガシをして投了して以来、ズタズタになっていた伊角の心に火をつけたのだ。

伊角はやりどころのないもの全てを盤面に叩きつけた。

越智が強いことは認めるが、俺は越智に叶わないなどと思ったことは一度もない!

 

伊角は徹底的に攻め尽した。それでもふだん通りに冷静な手が打てていた。

この一局で俺はもう一度、自分に対する自信を取り戻す。

相手が強敵かどうかを恐れるんじゃなくて、自分が持つ力を信じて戦う。

俺の碁が俺を支えているんだ。

 

負けましたという越智の声とともに、伊角は初めて、周りを見回した。

伊角の周りには人垣ができていた。

「伊角さん、復活だな。」

そういう和谷の顔を久しぶりに見た気がする。

そして進藤の顔も。

「まだプロ試験は終わってないさ。これからだ。俺もお前も。」

そういうと、進藤は力強く頷いてくれた。

 

越智は自分の一敗という事態に愕然としていた。

僕の言った言葉が伊角さんに火をつけた。

そのことが分かっていた。

でも僕の言葉の何がそれほどまでに?

 

それから越智はトイレでぶつぶつと一人検討を繰り返した。

ここだ。白につけられた時、はねたのが軽率だったんだ。

あそこでヒイていれば。そうすれば白はあんなに楽にさばけなかった筈。

そうだ。これでいい。次は負けないぞ。この次はっ!

 

トイレから出て帰ろうとした時、伊角と出会った。

「越智。進藤がどれほどの打ち手かは、お前自身で確かめろ。」

何で進藤?みんなが進藤は強くなっているって言う。

でも僕は進藤より強いんだ。負けたことは無い。

そう言いながらも越智の心にヒカルの影がだんだんと大きくなっていった。

 

その日、越智はヒカルと打った本田と出会った。

「越智。お前、進藤とは最終戦だな。1敗を覚悟しといた方がいいぜ。

そうなると途中一つでも取りこぼすとお前も3敗組の仲間か。」

 

その本田の言葉が越智の不安に火をつけた。

家に戻ると、越智は祖父に言った。

「おじいちゃん、塔矢2段を呼んで。」

 

塔矢が来たら聞いてやる。

何であれ程までに進藤を気にするのか、その理由を。

僕は一度だって進藤に負けたことはないじゃないか。

塔矢アキラがまた来たら、言ってやる。

僕は進藤より強いんだと。

そして僕の自信を取り戻す。僕の目標を取り戻す。

 

何で皆、進藤のことばっかり気にするんだ。僕は負けないから。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

春霞 64

『春霞』61~70
プロ試験からヒカル新初段戦まで。行洋vs佐為、緒方vs佐為。
(主な登場人物…佐為、ヒカル、行洋、明子、緒方、アキラ、越智、伊角、本田、和谷、森下、座間、白川、篠田、正夫、美津子、タマ子先生、河合、道玄坂マスター、天野)



「ヒカル。そこではなく。こちらの方が広がりが大きい。ヒカルの今の力なら、こちらで。」

佐為はぴしりと扇子の先で示した。

 

ヒカルはちらりと、佐為の顔を見た。

佐為。いやに張り切ってないか?何かとても生き生きとしている。

いくらプロ試験に集中しているといっても、佐為とずっと向き合ってきたヒカルには、そのくらいは分かった。

そのヒカルもまさか、佐為が元気になってすぐに、時の旅を試しているとは知らなかった。

まして念願の相手の塔矢行洋と打ち合い、さらにまた約束を交わしているなど、思いもよらないことだった。

 

何か、いいことがあったのだろうか。

そういえば、帝に何か頼まれたとか、頼まれるとか言ってたけど、何かいいことを頼まれたのかな?

とにかく佐為は行洋との対局以来、特に行洋にヒカルのことを話したこともあって、ヒカルの指導には今まで以上に熱が入っていた。

佐為の熱はヒカルに伝播して、ヒカルはますます調子を上げていった。

指導の厳しさも増していて、そのことがヒカルの潜在力のようなものを一層研ぎ澄ましていくようだった。

 

「佐為。俺、この頃打つたびに力が蓄えられていく気がしてるんだ。」

佐為はヒカルの言葉に同調するように頷いた。

「ヒカルは一局ごとに力を伸ばしている。間違いなく。」

「やっぱ、毎回、こうやって佐為と検討しているからかなあ。」

「それもあるかもしれないが。プロ試験の真剣勝負がヒカルを磨いているのだ。」

 

ヒカルはプロ試験の勝ち星を順調に重ねていった。対局の内容もどれも良いものばかりだった。

そのヒカルと同じに調子を上げているのは和谷だった。

最終二局を残して、今のところ、俺は一敗。越智も進藤も一敗。二敗はいなくて、三敗は伊角さんだけ。

今日の進藤との一戦。これに勝てば俺は合格できるんだ。

俺は今、自分でも信じられないほど調子がいい。こんなに調子がいい今、合格しなかったら、いつ合格出来るというのか。

 

昨日、和谷は森下に稽古をつけてもらった。その時、森下は言ったのだ。

「お前は一体いつまでこんな弟子続けていくつもりだ。

お前は年のわりに素直でひたむきで、でもだからっていつまでも甘えてんじゃねえよ。

自信を持て。和谷。勝ってこっちへ、プロへ来い。」

 

プロへ来いという、森下の言葉が和谷を鼓舞した。

俺は今日勝って、先生の側に行くぞ。

その日、ヒカルとの対局で和谷の指す手は、常になく慎重で緻密さが際立っていた。

和谷は自分の布陣に絶対の自信を持ってヒカルを見た。

ヒカルが盤面をじっと睨んで集中しているのを見ながら、和谷は洪秀英とヒカルの対局を思い出した。

俺はあの対局を知っている。あれを越えてみせる。これで勝ってみせる。

さあ、どこにでも打って来い、進藤。

どこに打ってきたって、お前の黒は殺してみせる。

 

ヒカルは盤上に必死で道を探していた。

だめだ。生きる道が見つからない。勝てない。もう道がない。

でも、もし佐為だったらどうする?

佐為だったら、この広さがあれば黒石を生かせるに違いない。

佐為が今俺の代わりにここで次の手を打つとしたら…。

 

長考の末、ヒカルは漸く一手を置いた。

その手を見て、和谷はしめたと思った。

その手は封じ込められる。

しかしヒカルが示したその先の展開に、和谷は、はっとした。

その手は自分が考えていなかった、抜かしていた道だった。

 

ヒカルが生きる道に辿りついた時、和谷は深いため息をついた。

完敗だ。全て読んでいたと思ったのに、足りなかった。

進藤は今日の一局、俺の上を行った。

こいつ、どこまで伸びるつもりだ。

そう思いながらヒカルの顔を見た。

いや俺だってまだ明日がある。気持を切り替えて明日にかける。

切り替えが出来ることが和谷の強みでもあった。

 

越智は早々と自分の対局を終え、合格を決めていた。

そして離れたところでヒカルと和谷の対局の様子を見ていた。

やがてヒカルが立ち上がり、はんこうをつくのを見て思った。

 

進藤の奴が合格したんだ。

進藤は、これで明日はきっと油断するんだろうな。

伊角さんに勝ったぐらいで、有頂天になって、フクに負けたんだからな。

でも進藤が、どうだろうと僕には関係ない。

僕はただ進藤に勝って、塔矢の奴に見せ付けてやるだけだ。

塔矢の前には進藤ではなく、僕がいるのだということを分からせるのだ。

 

和谷に勝ったヒカルは合格を決めた。

その晩、その知らせを持って佐為のところへ行った。

 

ヒカルは、佐為の前で、和谷との対局譜を早速並べて言った。

「俺、ここでもう終わりかと思った。どう考えても生きるすべはないって。

でもその時思ったんだ。

もし佐為が俺だったら、俺のここからを引き継いで打ったら、どう打つだろうって。

俺、いつも佐為が打つのを見てきただろ。

だからかその時、佐為だったら、こう打つっていうのが思い浮かんだんだよ。

閃いた。で、ここに打ったんだ。」

 

佐為はヒカルがその先を並べるのを見ていた。

ここで私の打ち筋を思い浮かべたかというのか。

だが、これは私のというより、生き残るための唯一の道だった。

ヒカルはそれを見つけ出し、自力で最後まで辿りつけたわけだ。

 

ヒカルは検討を終えると、少しのんびりした風に言った。

「あと一局だぜ。明日は少し気が楽かなあ。越智も俺も取りあえずは合格だからな。」

それから頭をぶるんと振った。

「ああ。でも越智は全勝狙ってた奴だからな。トップ合格を狙ってるよな。気を引き締めていかないと、やばいかも。」

「そうですよ。真剣勝負です。最後まで気を抜いてはだめです。」

 

その日もアキラは越智のところへ行った。

越智の家に行くのは何回目だろうか。

越智と指導碁を打つのは今日が最後。明日はいよいよ越智と進藤の対局がある。

 

一番初めは越智の祖父から棋院に名指しで指導碁の依頼が来た。

いつものように断わって下さいと言いかけたが、今プロ試験を戦っている院生だと聞いて、気持が変わった。

その院生は進藤とも打つに違いない。いやもう打ったのか。

そう思って成績表を見ると、その院生は全勝で勝ち続けている。しかも進藤とあたるのは、最終日だった。

僕はしめたと思った。この院生を物差しにして進藤を測れる。

僕は勇んで出かけ、越智に進藤のことを根掘り葉掘り聞いた。そのために越智に嫌われてしまった。

別に彼に嫌われても構わないが、僕の知りたいことを知ることが出来ないまま、追い返された。

 

もうこれで進藤の今を知る手立てはないのかと思っていたところ、再度依頼が来た。

今日、負けたから? 一敗したことで動揺しているというのか。

そうとは見えなかったが越智は案外メンタリティが弱いのか。

越智にとってもプロ試験は思いのほか重圧がかかるものなのだろうか。

越智の元へ早速行ってみると、越智はやっぱり僕に敵愾心を持っていた。

「3週間ぽっち付いてもらっても、何にも変わらないだろうけど、お祖父ちゃんがお前に来てもらえって言うから。」

越智は僕に信頼を寄せていない。

僕は自分でも判然としない進藤への気持を越智に説明する気にはなれなかった。

そんな状態ではあるけれど、僕は越智を鍛えられるだけ鍛えてみようと思った。

それは越智にとっても僕にとっても唯一共通の利害だった。

 

アキラが最初にしたことは、越智に洪秀英とヒカルの一局を見せることだった。

確かに越智は3週間ぽっちでは変われないタイプかもしれないが、それでもこの進藤と韓国の研究生との一局を超えるようにする。

アキラはそう決め、越智への特訓を開始した。

越智の方も激しい敵愾心とプライドがあったから、そのアキラの特訓にひたすら耐えた。

 

越智は試験会場へ向う車の中でじっと考えていた。

今日はいよいよ進藤との対局がある。

僕は何故伊角さんに負けた時あんなに動揺してしまったのだろう。

結局あの塔矢をまた呼び寄せて、指導をしてもらうことにしてしまった。

塔矢は、本当に腹立たしい奴だ。

あんなに強いのに、何故進藤なんかをそんなに気にするのか、いくら聞いても塔矢はその理由を言わなかった。

 

塔矢は進藤は今打った相手だから分かるなどと油断は出来ない。

明日はもう違った手を打つ。そのことを心しろと言うばかりだった。

でも、進藤のどこがそんなに問題なのだろう。

たしかに韓国の研究生と進藤の一局はレベルが高いが、今の僕はそれを超えている自信がある。

大体進藤がいつもそんな碁を打つとは限らないじゃないか。

僕にだって、あのくらいの会心の碁は一つや二つはある。

 

腹立たしい嫌な奴だが、塔矢は強い。今のところ僕には歯が立たない。

それはどうしようもない事実だ。その力だけは僕は認めざるをえない。

そして塔矢は僕を認めてないとはいえ、毎日のように来て僕をしごいた。

 

塔矢と打ち合うことで僕の力が伸びていったのは確かだった。

でも塔矢はそれを僕のためにしたのではない。塔矢自身のためなのだ。

僕を使って、進藤の力を測るためなのだ。

それが僕をどうしようもなく、いらだたせる。

 

昨日も塔矢は来た。僕を指導するというより、進藤がその日勝ったかを知りたいからだ。

塔矢が僕に合格おめでとうと言った時、僕は精一杯の皮肉をこめて言った。

「進藤も今日勝って合格を決めましたよ。」と。

今日もきっと塔矢は来る。そのために僕と打ち合ってきたんだから。

来ればいいさ。そこで塔矢は知ることになるんだ。

僕は今日進藤に勝つのだから。

勝って塔矢に言ってやる。

この勝利は塔矢のおかげじゃないと。進藤など気にするような相手じゃないんだと。

塔矢の前にいるのは進藤ではなく、僕なんだと分からせてやるんだ。

 

今日でいよいよ最後だ。でも真剣勝負の貴重な一局だ。やるぞ。

とはいっても、まずはリラックス、リラックス。

そう思いながら、ヒカルは控え室から外に出た。

ヒカルは体を軽くほぐしてから、足取り軽く部屋に戻った。

その時、越智とばったり顔を合わせてしまった。

越智の雰囲気は固かった。

やっぱ力が入ってるんだ。俺も力入れるぞ。

そうヒカルが思った時だった。

「進藤。今日は負けないよ。」

越智のいきなりの宣言、挑戦状だった。

一瞬言葉が詰まったヒカルだったが、すぐに応じ返した。

「俺だって。」

 

越智は自分の気持を高めることしか考えていなかったから、ヒカルを怖気づかせようとして続けた。

「僕は毎晩のように塔矢と打ってきた。君を倒すためにね。」

「塔矢?何故、塔矢?」

ヒカルは訝しげに聞き返した。

越智はヒカルの様子ににやりとして、重ねて言った。

「塔矢は仕事を越えて熱心に僕を鍛えてくれた。」

越智と塔矢に何の関係があるんだろう?

「何で塔矢が出て来るんだよ。」

自分の言ったことで、ヒカルが混乱している様子を越智は小気味よさそうに見た。

進藤は動揺しているな。よし、もっと揺さぶってやれ。

「ボクはいつもプロを呼んで、うちでお稽古をつけてもらってるんだよ。塔矢と打つのは勉強になるよ。」

 

ヒカルは思った。越智は合格のためでなく、俺を倒すためって言ってなかったか。

ということは、もしかして塔矢が俺を気にしているということか?

ヒカルは越智に尋ねた。

「お前、さっき俺を倒すために塔矢と打ったって言ったよな。塔矢。あいつ。俺のこと、何か…」

ちょっと言葉を切って、ヒカルは続けた。

「俺のこと何か言ってたか?」

 

越智はしまったと思った。

塔矢が気にしているなんて、進藤に絶対知られてなるものか。

「何も言っちゃいないよ。うぬぼれるな。プロ試験の話もしたけど、君の事はかけらも気にしちゃいないよ。」

越智はさらに言い募った。

「大体分かってるのか。塔矢はプロになってからまだ負け知らず。悔しいけど僕たちより一クラス上なんだ。そんなあいつが何で君なんかを気にかけるもんか。」

越智の剣幕にヒカルはおとなしく言った。

「別に俺は…。」

越智は自分のために続けた。

「塔矢は君なんか気にかけないさ。でも塔矢は僕を評価してくれたよ。

塔矢はこのプロ試験で君に勝てれば僕を塔矢のライバルとして認めるって言ったんだ。」

「俺に勝てば塔矢のライバル?」

どういうことだ?

それは塔矢が俺を見ているっていうことじゃないのか?

越智は嘘をついてる?

それがヒカルを発奮させ、闘争心を掻き立てた。

「じゃあ、もし俺がお前に勝てば、塔矢は俺をライバルとして認めるんだな。そうだな、塔矢。」

ヒカルはもう越智に向って言ってはいなかった。

その場にはいない塔矢に向って話していた。

最高の真剣勝負をしてやる。越智を通して塔矢は俺を見ているのだから。

だったら見せてやるさ。今の俺を。昨日のではなくて、今日の俺を。

「塔矢。お前に見せてやる。今の俺を。」

ヒカルには、もうその場にいる越智は見えなかった。

ただアキラの姿が見えた。アキラの目が見えた。

佐為を求めて、自分のところへやってきた塔矢。佐為と同じ目をしていた。

俺も、今は、その佐為や塔矢と同じものを目指しているんだ。同じものを求めているんだ。

そのことをお前に知らせたい。そのために俺の最高の碁をお前に見せてやる。

 

越智は真っ青だった。

伊角の時と同じだった。ヒカルをしぼませるつもりが、逆に火をつけてしまった。

進藤は今、僕をまったく見てない。塔矢しか見てない。

まるで僕がここにいないみたいに僕を通り越して、塔矢だけを見ている。

そのことに、越智は動揺を隠せなかった。

言わなければよかった。

 

だが、対局が始まった時、越智は今一度、塔矢への敵愾心を呼び起こした。

僕は勝ってみせる。そう誓ったんだ。

進藤は塔矢じゃないんだ。僕は今まで進藤に負けたことはないんだから。これからもない。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

春霞65

『春霞』61~70
プロ試験からヒカル新初段戦まで。行洋vs佐為、緒方vs佐為。
(主な登場人物…佐為、ヒカル、行洋、明子、緒方、アキラ、越智、伊角、本田、和谷、森下、座間、白川、篠田、正夫、美津子、タマ子先生、河合、道玄坂マスター、天野)



行洋はアキラと朝の一局を打ちながら言った。

「アキラ。調子がいいようだな。お前らしい碁を見るのは久しぶりだ。」

行洋はそれ以上は何も言わず、いつもどおりに石を置いた。

 

アキラは父親の顔を見た。

お父さんは僕に何があったかは知らなくても、それでも僕が決心したことを分かってるんだ。

 

昨日の夜、越智の家に行った。そこで僕は門前払いを食らった。

越智は僕に会いたくない、進藤との対局も教えたくないと断った。

結局、僕は進藤の対局を知ることが出来なかった。

それでも一つ分かることがある。

越智は進藤に負けた。進藤は、あの韓国の研究生との対局から、さらに先に進んだのだ。

 

僕はその時気がついた。とても簡単なことだ。

進藤の実力を知りたければ、自分の目で確かめればいいのだ。

進藤はプロになったのだ。僕が彼と打てばいいのだ。

このひと月、僕はなんて無駄なことをしてきたのだろう。

そう思った時、僕はやっと吹っ切れた気がした。

進藤が僕を相手にどんな碁を打ってくるか、それを思った時、僕はとてもわくわくした気持がわいてきた。

僕は進藤に心の中で呼びかけた。

来い、進藤。僕はここにいる。プロの世界に。早く君と打ちたい。

 

アキラとのその一局の二日後、行洋は王座戦第一局に臨んで、会場となるホテルのエレベターの中にいた。

私はこの戦いを三連戦で終えると決めた。

三局を先取して、王座のタイトルを手にする。

そのくらいの勢いがなければ、あの男には、サイには勝てない。

そう決心したから、私はこの三連戦が終わった10日後に、サイとの対局を約束している。

 

座間は二階でエレベーターを待っていた。

王座戦の第一局。相手は塔矢行洋。

何度となくリーグ戦や棋戦で戦ってきた相手だ。互いに手の内は分かっている。

それにしても奴の倅は可愛げがない。

 

新初段戦以来、無視しようとしてもついついアキラの戦績に目が行ってしまう座間だった。

まだまだ俺の相手となるには力不足だ。何も気にする必要はない。

とはいえ、俺は何であの時あんな醜態を晒したのか。

あれほど不愉快な勝ち方はなかった。

 

その時、エレベーターがきた。

ドアが開いて座間が乗り込もうとすると一階から乗り込んでいたらしい今日の対戦相手の塔矢行洋が一人で乗っていた。

一瞬エレベーターを一台ずらした方がよいかと思ったが、行洋のほうが先手を取った。

「おはようございます。座間先生。」

「おはようございます。」

座間はそのまま行洋の横に乗り込んだ。

一瞬沈黙が流れたが座間は如才なく言葉を口にした。

 

「そういえば、名人位防衛6連覇のお祝いをまだ言ってませんでしたね。おめでとうございます。」

「どうも。」

行洋はたいしたことはないというように、こともなげに返答した。

座間は、ちっと歯軋りする思いに駆られたが、すぐに言葉を返した。

「しかし棋聖戦の挑戦権は逃されましたな。」

そうけしかけても行洋は無表情だった。

「対局過多でお疲れなんですよ。」

行洋は座間のその言葉にすかさず答えた。

「仰るとおり挑戦者決定戦で敗れたのは疲れが残ってたのかもしれませんな。

ですが今日はおかげさまで心身ともに万全ですよ。」

その言葉にふんと言う表情で座間は返した。

「心身ともに絶好調なのは息子さんの方でしょう。負けなしだそうじゃないですか。」

「今、20連勝です。」

 

座間はその言葉に行洋の弱みを見た気がした。

子どもがらみになると誰でも心乱れるものだが、この男だってそれは同じだろう。

息子の戦績をきちっと確認しているくらいだからな。

行洋は座間の思惑など気にせず、続けた。

「アキラが負けたのはプロになる直前の新初段シリーズ、座間先生、あなたとの対局だけですよ。」

座間はここぞとばかりに言った。

「では今日は可愛いお坊ちゃんのリベンジですかな。ははは。」

行洋はハハと軽く笑っただけだった。

しかしそこに座間は何かヒヤッとするものを感じた。

その笑いには、座間を怖気つかせるような何かが潜んでいた。

 

行洋には盤外戦など手慣れたものだった。

それで乱れるなどということはあり得ないことだった。

それにしても座間さんもアキラの話までするとは、余裕がないことだ。

行洋は思った。

たしかに数日前まではアキラのことは私のネックだったかもしれないが。

行洋は息子のプロ生活には口を挟まないで来た。

ただアキラがプロになっても、毎朝の一局だけは欠かさなかった。

 

アキラが普段と変わりなく見えても、何かが違うと感じられ始めたのはいつからだったか。

アキラは何を考えているのだろうか。いや、何を求めているのだろうか。

もしや私に対する疑いかとも思った。

私は父親であり、息子が目指すべき棋士として存在していた。そう思ってきた。

アキラが迷っているのを見た時、私は自分の生き方に対しての確信が一瞬揺らぐのを感じた。

だが、あれは息子自身の迷いだった。

どう乗り越えたのか分からないが、アキラは自分を取り戻した。

先日の対局で分かった。

アキラは、またまっすぐ前に進んでいる。何も心配は要らない。

私はサイとの対局を通して自分への確信を取り戻した。

勝負に負けはしたが、サイは。あの男は、どちらが上というのではない私と同等の相手だった。

彼との対局を通して私はさらなる碁の高みを目指すことが出来る。

今、私は本当に心身ともに磐石の気がしている。

 

座間も行洋もそれ以上はお互い口をきかず、対局場へ入った。

 

越智は合格が決まっても鬱々としていた。

傷は深かった。単に進藤に負けただけならここまで傷つかなかったろう。

僕だって4月からプロになるのだ。でも同じプロなのに、塔矢には見向きもされないのだ。

塔矢の奴は、プロだろうと何だろうと、後ろにいる奴に興味はないんだ。進藤以外は。

いや、進藤も塔矢の期待を裏切れば見向きもされないだろう。

進藤にも塔矢に関心をもたれなくなる日はすぐ来るだろう。でもそれは進藤の問題だ。僕には関係ない。

とにかく、僕は塔矢から受けた屈辱を忘れない。だから僕は追いついてみせる。塔矢に。

そして追い抜くんだ。

そのために僕はプロとして全霊をこめてやっていく。この先ずっと。

 

その週の森下研究会で、ヒカルは森下に合格の報告をした。

「二人とも受かって良かった。」

和谷も最終局を無事勝ち抜き、合格を手にしていた。

森下門下から二人合格したこともあるが、白川はことのほかヒカルの合格を喜んでくれた。

進藤君は、これから何か胸のすくような碁を見せてくれそうだ。そんな気がする。

 

ヒカルが家族と、学校の担任に合格の報告をしたのは、少し後だった。

ヒカルが合格したことを正夫は案外すんなり受け止めていた。

碁の世界のことは分からないが。

でも佐為さんは絶対大丈夫だと請合ってくれた。ヒカルはこの道をしっかり歩むと。

だからヒカル自身の選択に任せておけばいいじゃないか。

佐為さんを見ていると、碁を打って暮らしていくということも案外悪いものではないように思える。

それにヒカルはまだ若いし、この先何があろうと、修正はきく。俺なんかよりは、ずっと。

 

美津子の方は、そうはいかなかった。

ヒカルに内緒で担任のタマコ先生に会いに行った。

「受験はするのでしょう?」

「ヒカルは高校には行かないといっています。一緒に受かった和谷君というのが中三で、高校には行かないそうです。でも誰かに聞かないと。その和谷君の親御さんにでもと。どちらにしてもまだ一年あるからとヒカルは全然相手にもしないので。」

「まあ、そうですね。まだ一年ありますからね。慌てる事はないのではありませんか。ところで進藤君の碁の先生というのはどう仰ってるのですか 。」

美津子はそういわれて、はたと気がついた。

そういえば、一度も会いに行ったことがなかった。

今度の土曜日に会いに行ってみよう。

でも一体囲碁の棋士なんて、どんな人が先生なのかしら。

私一人というのも。正夫さんにも一緒に行って貰わないと。

 

金曜日の晩、正夫が会社から帰ると、美津子が待ち構えていた。

「明日ヒカルの碁の先生とかいう人に会いに行くのよ。あなたも一緒にね。」

一瞬、正夫はぎょっとした。

佐為のことだと思ったからだ。

ばれた?いや、何も悪いこともしてないし、隠し事はないけど。

 

「駅前の社会保険センターに4時に。」

正夫はそれを聞いてほっとしながら言った。

「挨拶ならお前一人で行けばいいじゃないか。菓子折りでも持ってさ。」

「いろいろ話を聞くのよ。碁を打つ人なんて私全然知らないし。どんな人か分からないでしょ。」

「おやじみたいのじゃないか。」

美津子は考えた。

お父さんみたいな人ならいいけど。でもお父さんは碁の先生じゃないわ。

「碁を教えるなんて、一体どういう人がやるのかしら。」

「俺が知るか。でも悪い人じゃないさ。碁を教えるんだから。」

正夫は佐為を思い浮かべていった。

「そぉ?でもとにかくあなたにも一緒に行ってもらうわよ。お願いよ。それとヒカルには内緒よ。」

 

土曜日の午後、正夫は美津子に引っ張られるようにいやいや駅前の社会保険センターへと向った。

「あかりちゃんには見つからない方がいいと思うのよ。ヒカルに話されたらヒカルがまたむくれるでしょ。」

幸いなことにあかりには見られることなく、二人は白川に面会が出来た。

 

棋士ってどんな人かと思ったら、随分物腰の柔らかな人ね。話し方も穏やかそうだし。

美津子は白川を見ながら、そう思った。

「ヒカルがいつもお世話になっております。ご挨拶が遅れまして。」

正夫が美津子に突っつかれてそう挨拶すると、白川はにこやかに言った。

「進藤君のご両親ですか。進藤君、合格おめでとうございます。良かったですね。」

「ありがとうございます。先生のおかげで。」

美津子がそう言いかけると、白川は首を横に振った。

「いえ、私は進藤君が合格するためには何も力を貸していません。

進藤君は、本来持っていた力を自力で努力して伸ばしていったと私は思ってます。

めったにあることじゃないですよ。わずか2年ほどでプロになれるというのは。

本当に私は万に一つの才能だと思ってます。それをこの目で見れて、本当に嬉しいですよ。」

 

正夫はヒカルの碁の才能については佐為に聞いていたが、ほかの人物にそう言われると、そうなのかと少し嬉しい気もした。

俺の息子にそんな才能があるのか。

 

美津子はそれには、どう答えていいのか分からなかった。

ただ気がかりなことを尋ねた。

「碁の世界のことは全然分からないもので。

プロになるとこれからどんな生活が始まるのか、学校とは両立するのか、またヒカルは今中学生ですが高校進学とかはどう考えたらいいのか。それで、先生にそういったことを少し伺いたいと思いまして。」

 

白川は少し考えた。

「棋院も義務教育に関しては十分配慮すると思います。

私は合格した年齢が進藤君よりは高かったので、学校を出ていますが。進藤君はそういったことで何か言ってませんか。」

「一緒に合格した和谷君というお子さんは高校には行かないそうで。それでヒカルも進学はしないと言ってます。」

「でしたらそれでよろしいのではないですか。学校はいつでも行けると思いますが、碁の才能は伸ばす時期があると思います。今は思いっきり碁に専念させてあげてくださいませんか。

もし私が親なら、進藤君には碁にまい進させてあげたいですね。あれだけの才能をほかに向けるのは惜しいですよ。」

「中学生でプロとしてやっているお子さんは、ほかにいるのでしょうか。」

 

その問いに白川は嬉しそうに言った。

「ここしばらくそういう子が少なかったんですが。去年からですね。

去年の塔矢君は確か進藤君と同い年です。今年受かった三人は進藤君の他は、さっき話しに出た和谷君が中三、もう一人合格したのは中一の子でしたね。

私たちはそれをとても喜んでますよ。本当に久々のことですから。

もっとそういう子どもたちが出てくれることが囲碁界を活気付かせることなんです。」



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

春霞66

『春霞』61~70
プロ試験からヒカル新初段戦まで。行洋vs佐為、緒方vs佐為。
(主な登場人物…佐為、ヒカル、行洋、明子、緒方、アキラ、越智、伊角、本田、和谷、森下、座間、白川、篠田、正夫、美津子、タマ子先生、河合、道玄坂マスター、天野)



母親が、やきもきしていることなどヒカルは知らなかった。

ヒカルには、それよりも、気がかりなことができた。

 

合格の報告が一通りすんだと思って部屋でごろっとしていたヒカルの元に佐為がやってきたのだ。

「佐為。もうこっちへ来れるんだ。大丈夫?」

「もちろんですよ。ヒカルが試験中は気が散るといけないと思って黙っていたのですけれどね。」

 

そう言って、佐為は碁サロンで偶然塔矢行洋と出会って一局打ったこと。さらには行洋の家にも行って打ち合ったという話をした。

 

ヒカルは驚いた。何も言えず、ただ話をする佐為を見つめていた。

佐為はそんなヒカルにはお構いなしに続けた。

「でもって、次は11月の末に対局を約束してるのですよ。それでそのことでヒカルにお願いがあるのです。」

「俺に?」

佐為は努めて軽く話してはいるようだが、その口調にある何かに、ヒカルは胸騒ぎを覚えた。

「ええ。お願いというのは後で話しますけど。とにかくもう少しさっきの続きを。

そうそう、話のついでに、ヒカルのことはあの者に話しておきましたよ。いずれ塔矢アキラのライバルになる者だとね。」

 

ヒカルは何となく面映い気がしたが、佐為がそう思ってくれていることがすごく嬉しかった。

もしかして、塔矢の奴、親父さんからその話を聞いて、越智を鍛えたのかな?

でもそれは、もうどうでもいいよ。それよりも。

 

ヒカルは、佐為に気がかりなことを聞いた。

「それで塔矢の親父さんは佐為のこと、知ってるの?話したの?分かってくれたの?」

佐為はにっこり笑った。

「まだ全部は。時の旅の話はまだですよ。でもヒカルは何も心配しなくていいです。私のことをヒカルが誰かに何か言うことはないですよ。私のことは私が話します。あの者が信じようと信じまいと。ヒカルがあれこれ気を揉むことはありません。」

 

そうか。佐為のことは佐為に任せておけばいいのか。

ヒカルはそれを聞いて少し心が軽くなった。

 

「ねえ、それでなんで11月のこの日なのさ。」

「あの者は今タイトル戦を戦っているそうですね。それが終わってからということだそうですよ。終わっても取材とかなにやらで、なかなか時間が取れないらしいですね。その日だけは仕事をいれないで大丈夫だとか言っていました。」

 

ヒカルは、まだいろいろ聞こうとしたが、それ以上話を聞くことができなかった。

なぜならその時、佐為がヒカルの目の前から突然消えたのだ。今しがた着ていた服だけをそのまま残して。

 

ヒカルは、ぎょっとした。

まさか佐為、もしかして、また体がなくなっちゃたのか。

「おい。佐為。いたら返事ぐらいしろよ。」

それでも佐為は現れなかった。

 

三谷が賭碁をしていた碁会所でのことを思い出し、ヒカルはすぐに平安に向った。

ヒカルはいつものように時を旅した。

佐為の邸に着いてみると、佐為は仮衣姿で、ちゃんと邸の中に居た。

「無事だったんだ。良かった。」

佐為は心なしか青ざめていたが、ヒカルに向って微笑んだ。

「すぐ来てくれたのですね。ヒカル。突然に消えるのは、実はこれが初めてじゃないのですよ。

話そうと思っていたのですけれど、先に消えてしまいましたね。

こういうことがあるから、だからヒカルにはあの者との対局の時に、どうしても頼みたいことがあるのです。」

 

それから佐為はゆっくり話を始めた。

 

「順を追って話しましょう。

ヒカルがプロ試験を戦っている間、私が何回かヒカルの時代へ行った話はしましたね。

その内初めの2回はあの者と出会い対局ができた。そしてその時までは何ともなかったのです。

その後は、図書館へ行ったり、ひとりであちこち出歩きました。

図書館では、例のヒカルが言っていたギリシア哲学とやらについても勉強いたしましたよ。術師に話せるようにね。」

佐為は俺の言ったあれを覚えてたんだ。図書館にそんな本があるのか。

 

「私の体調はとても良かったのですよ。本当に軽やかで。

変化が起きたのは、私がコーヒーを飲みにカフェに入った時でのことでした。

そこにはあの、例のパソコンがあったのですよ。で、私は思わず、ネット碁にアクセスしました。」

佐為は思い出すように、ちょっと言葉を止めてから続けた。

「そこで本当に…。すばらしい対局相手とであったのですよ。塔矢アキラよりも練れていて力は上でした。

かなりの経験がある者なのでしょう。でも若々しく勢いのある碁でもありましたね。」

 

あのネット碁の対局者は相当な強者だった。思わず虎次郎といた頃に打ち合った数多の強豪たちに思いを馳せてしまった。

あの対局者は、もしかして塔矢名人と肩を並べるべく研鑽を積んでいる者であろうか。

彼はまた打ちたいと言って来た。

あの者の名を覚えておいて、またいつかネット碁をやるときには是非に打ち合いたいものだ。

本当に、ヒカルの世界はまだまだ広い。

塔矢行洋だけではないのかも知れぬ。

そんな場所で、あの者は勝負を闘ってきたのだ。本当に羨ましい限りだ。

ヒカルもいずれその仲間になるだろう。

 

「佐為?」

ぼんやりと思いにふけっていた佐為にヒカルは声をかけた。

「ああ、すみませんでした。つい、その対局を思い出していました。

そうだ。その碁をちょっと並べて見せましょうか。」

佐為はネット碁の対局を並べた。

 

「この人、日本人?プロかな?」

ヒカルはすごいという口調で聞いた。

「確かJPNでした。この者はあの者に引けをとらない強さを備えてますよ。本当に。

この者がプロならば、ヒカルもいずれこの者と対局する日が来るのですよ。」

ヒカルは言った。

「なんかわくわくするね。」

 

佐為は思い出したように付け加えた。

「それで、さっきの話の続きですが、その対局が終わって、カフェを出て、ヒカルの部屋に戻った時です。

私は何となく疲れが出て、着替える気力も出なかったのです。

ベッドの脇に寄りかかって少し休みました。

するとふーっと意識が遠き、流れていく感じがしたのです。

ああ、私は今時の流れに乗っている、そう感じたのですよ。

気がつくと私は自分の邸に戻っていました。ちゃんと仮衣を纏っていましたよ。

それで、私はそのまますぐにまた石を使ったのです。

ヒカルの部屋に戻って確かめたかったのです。そこにはつい今しがたまで着ていた服が抜け殻のようにありました。私はその服を片付けて、すぐにまた平安に引き上げたのです。」

「それで、何ともないの?」

「ええ、私の体は大丈夫なのですよ。問題は石だと思います。私は石の力を伸ばしたいのです。あの者との対局の途中で消えたりなどしたくはありませんから。」

「石の力を伸ばすってどうやるの?そんなことできるの?」

佐為は少し厳しい顔つきでヒカルに言った。

「それが出来ることなのかを試したいのです。だから、ヒカル、協力して下さい。」

ヒカルは居住まいを正して、佐為が話すことに耳を傾けた。

 

 

11月に入り、プロ試験合格の波紋がヒカルの周りで漸く薄れてきた。

学校でも騒がれることもなくなったが、それより何より、ヒカルは母親が急にプロのことや進学のことをうるさく言わなくなったのが少し不思議だった。

どうしてだろう?ま、きっとお父さんがうまく話してくれたんだな。お父さんは賛成してたもんな。

 

佐為と塔矢名人の対局の日が少しづつ近づいていた。

自分が対局するわけではないが、ヒカルは何となく落ち着かなかった。

何か気を紛らわそうとして、急に思いついた。

そうだ、道玄坂の碁会所へ報告に行こう。

 

ヒカルが久しぶりに碁会所のドアを開けて、中を覗くと、席亭がいち早くヒカルを認めた。

「おめでとう。進藤君。よく来てくれたね。」

その声にその場にいた河合はヒカルを見た。

つかつかとやってきて、ヒカルの頭をくしゃくしゃと揉んだ。

「いて。何だよ。河合さん。」

「何だとは何だ。今頃来て。もっと早く報告に来なくちゃだめだろ。

いいか。プロになれたのは河合さんのお陰ですと皆に言うんだぞ。」

「違うわい。河合さんのおかげじゃないやい。」

「何だと。」

「それより、何かお祝いをしなけりゃいけないな。」

 

常連のお客にもみくちゃにされながら、ヒカルは嬉しかった。

思えば、プロ試験に合格して、こんなに喜んでくれる人たちに会ったのはこれが初めての気がした。

もちろん、森下先生の研究会では良かったといってはもらえたけれど、それはプロの世界のことだ。

佐為は当然喜んでくれたけれど、佐為もプロの領域の人間だった。

まあ、佐為に喜んでもらえればそれだけでいいとは思ったが、ヒカルが普段暮らす生活の中ではこんなに歓迎して合格を祝ってくれる場は他にはなかった。

この碁会所はヒカルには暖かくて本当に居心地のいい場所だった。

 

「そういや、塔矢名人も間もなく五冠になろうというところだな。」

常連客の一人が言った。

「五冠?」

ヒカルが問い返した。

「ああ、今王座戦の最中だよ。間もなく三局目だ。今の勢いだと、間違いなく塔矢名人のストレート勝で、五冠だろうな。」

そう言うと、席亭はヒカルに傍にあった週刊碁を渡した。

ヒカルはそれに急いで目を通した。

 

そうか。塔矢名人は初めから五冠を手にするつもりだったんだ。

その上で、佐為と打つつもりなんだ。

ヒカルには、その名人の覇気が伝わってくる気がした。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

春霞67

『春霞』61~70
プロ試験からヒカル新初段戦まで。行洋vs佐為、緒方vs佐為。
(主な登場人物…佐為、ヒカル、行洋、明子、緒方、アキラ、越智、伊角、本田、和谷、森下、座間、白川、篠田、正夫、美津子、タマ子先生、河合、道玄坂マスター、天野)



11月の下旬に王座戦の三局目が終わり、行洋は王座位を手にして、五冠となった。

忙しくなったが、行洋は家にいる時は殆ど居室に篭ることが多かった。

アキラも妻の明子もいつものことと気に止めなかった。

 

行洋は部屋で棋譜を並べた。

かの者は私の棋譜を検討している。それだけではない。最近の中韓の棋譜も研究している。

かといって全く新しいということではなく、古典的な名局も完璧に身につけている。

私の知るかの者が今まで打ってきた碁をみれば。

 

行洋は以前棋院の職員が教えてくれたsaiのネット碁の棋譜をいくつか置いてみた。

棋院の職員がそれを集めているのには驚いたが、おかげで素晴らしい棋譜を目にすることができた。ネット碁の中でも一番最近のだというこの棋譜は、対局者の実力もさることながら、実に興味深い。何か私にはなじみがある対局に思える。

だがそれはそれとして、やはり私自身がサイと打った棋譜が一番勉強になる。

とにかく、かの者の碁を知れば知るほど、私はまだまだ磨かねばならないという思いにかられる。

それでも、私はいつでも打てる。今すぐにでもだ。打つ用意はすでに出来ている。

 

行洋は盤から顔を上げ、約束の日が待ち遠しいという目つきで空を見つめた。

 

その日、塔矢行洋の五冠達成を受けて、天野は行洋の家を訪れた。

棋院より家の方が却って落ち着いて話を聞けるからありがたいことだ。

それに今日はアキラ君も家にいるそうだから、彼のインタビューも一緒にできる。

 

天野は行洋の家のガレージの前で、緒方と鉢合わせした。

緒方は天野を認めて、すばやく車を降りて、声をかけた。

「天野さんじゃないですか。ということは今日は取材日でしたか。

とすると私は邪魔ですね。少しどこかで時間を潰してきますよ。」

「いや、塔矢先生がOKを出されれば、緒方先生もご一緒にどうですか。

今日はアキラ君にもインタビューを予定してるのですよ。

一番弟子の緒方さんの談話もここで一緒に取らせてもらえれば私は好都合ですが。」

 

天野とともに行洋の家に入った緒方は五冠のお祝いを述べた。

行洋は礼を述べてから、緒方がいても構わないと言った。

通例のインタビューが済み、カメラマンが写真を撮り終わった後で、行洋は天野に尋ねた。

 

「ところで天野さん。デビュー前の新人とトップ棋士を対局させる例の」

そこまで聞きかけただけで、天野は期待をこめて言った。

「もしかして新初段シリーズですか?!出て頂けるのですか?

去年も一昨年も多忙を理由に断られていたので、遠慮していたのですが、本当に出ていただけるんですか?

まだ決まってませんが。もし五冠が出てくださればそれだけで、話題も十分。ぜひお願いしたいです。」

 

行洋は表情を変えずに頷いた。

「日時の調整は棋院に任せるが、ぜひ出たいと思っている。」

 

ほう、五冠奪取といい、先生はこのところ、いやに張り切っているな。

アキラ君も調子がよさそうだし、そのせいもあるのかな。

そう思って聞いていた緒方だが、その後の行洋の言葉に驚いた。

 

「が、その代わり、相手を指名させて貰いたい。」

傍にいたアキラも驚いて思わず父親の顔を見た。まさか…

「誰を指名されるのですか?」

天野は興味深そうに尋ねた。

 

進藤ヒカル

 

それが父親の口から出た名前だった。

アキラはじっと父親を見つめていた。

なぜお父さんは進藤のことを知ってるのか?

もしかしてお父さんはいつもプロ試験に気を配っているのだろうか?

たまたま今まではお父さんの意に叶う棋士が出てこなかっただけで。

そうすると進藤はお父さんのメガネに叶っているのだろうか?

だとしたら一体どうやって進藤の碁を知ったのだろう。

お父さんと森下先生が親しいから、教えてもらった?

 

でも、それはありえないことだとアキラには分かっていた。

次々と疑問が出てきた。

アキラはそんなことはある筈がないと、頭に浮かんだある考えを打ち消した。

それでもその考えはアキラの中で膨らんでいくばかりだった。

アキラの頭の中にはぼんやりと佐為の姿があった。

そしてそこに重なるようにヒカルの姿が浮かんだ。

 

天野は行洋と新初段戦の約束をして帰る支度をしながら考えを巡らした。

話題性といえば、去年、塔矢君と父子対局してくれたほうが話題はあったろうけど、それは塔矢先生の性格からいってできないことだったろうな。

まあ進藤君は今年一位でプロ試験を通過したのだから、五冠が相手をするには話題性は十分だろう。

それとも塔矢先生が進藤君を指名した意味は、一位通過という以外に、ほかに何かあるのかな?

 

天野は門まで送りに来たアキラに聞いてみた。

「塔矢先生は進藤君を知っているの?会った事あるのかな?」

「さあ、僕には分かりません。」

「塔矢君は知ってるの?進藤君を。」

「ええ。知ってます。」

アキラは言葉少なに返事をした。

 

アキラ君が知ってるからか。

車に乗り込んでから、天野は気がついた。

そうだ。アキラ君と進藤君がどういう知り合いなのか聞くのを忘れた。

 

緒方は少し下がった場所で、じっとアキラの様子を眺めていた。

アキラのことは小さい頃から知っている緒方だった。

だから今のアキラの口調の中に何かを感じた。

 

緒方はさりげなくアキラに尋ねた。

「アキラ君は進藤とどういう知り合いなんだ?」

「どういうって。若獅子戦で対戦したことがありますけど。」

アキラは努めて平静に答えた。

「それだけか?」

「それだけって?」

アキラは何と言っていいか分からなかった。

自分でもヒカルと実際どういう関係か分からないのだから。

「僕には分かりませんけど、進藤の家は碁サロンの近くらしいですから。

何度か碁サロンには来てるみたいですけど。僕も2度ほど会いましたよ。」

 

緒方は、そう言って玄関に向うアキラの後姿を見つめていた。

これは面白そうだ。何があったにせよ、進藤ヒカルというのは塔矢アキラがそれほど気にする相手なのか。

そしてあの塔矢行洋までもが興味を抱く人物か。

もしかしてアキラ君の様子がここしばらくおかしかったのは、saiのせいじゃなくて、その進藤という子が影響してるのじゃないか。

緒方は独特の勘でそう感じとった。

 

11月も間もなく終わりというその日、約束の日だった。

佐為は二度目の訪問となる塔矢邸の門の前に立つと、ふうっと息を吐いた。

あの者は五冠になって、私を迎えてくれている。

もう何も色々考えるのはよそう。ただ対局に集中しよう。

それから佐為は、インターホンを押した。

明子の声がした。

「お待ちしておりました。さあ、どうぞ。」

佐為は軽く頭を下げると玄関に足を踏み入れた。

そこにはもうあの者の気迫が感じられた。

佐為はその気に触れて、嬉しさがこみ上げてきた。

私の気も研ぎ澄まされる。

 

その日、アキラは午後早くに学校から戻ってきた。

「あら。アキラさん。今日は半ドンだったかしら?」

「お母さん。もうすぐ三時ですよ。それより誰かお客さん?」

アキラはお茶の支度に余念がない母に聞いた。

「お父さんのこと? ええ、碁を打ちに来られてるのよ。

またお食事抜きかしら。そろそろ何か用意した方がいいかしら。

アキラさん、ちょっと見てきてちょうだい。」

 

アキラは、母が普段と違ってそわそわしているのを不思議に思いながら座敷に向った。

碁を打ちにって、誰だろう?倉田さんとか?

いや違う。だったらお母さんはもっと普通の筈だし。

 

ふすまをそっと開けて、アキラは驚愕した。

何故、父があの人と…。

アキラはそのまま母のところへ戻った。

「お母さん。あの人を知ってるのですか?」

「えっ?あの人って? ああ、サイさんのことね。ええ、前にもいらしてるし。

アキラさん。どうしてそんなことを聞くの?」

 

アキラは、眩暈がする気がした。

何かが僕をすり抜けている?

アキラは、そのままそっと座敷に入った。邪魔をしないように、碁盤の近くに座った。

盤面は互角?いやお父さんの方がいいのかな。

いつもは対局者の力がsaiさんに及ばないから、そのすごさが見過ごされてしまう。

でもこれは卓越した力が互いに拮抗しあっている対局だ。

 

拮抗した盤面に白がすっとわりこんできた。

saiさんのいつもの手だ。

そこ以外のどこに置くというのか。そういう絶妙な一手。

これでお父さんの分が僅かに悪くなった?

 

しかし半目の攻防はその後も続いた。

終局図はアキラにも分かった。

ふうというため息ともつかない空気が流れた。

終わったのだ。

 

「検討をお願い…」と言いかけた佐為の体が、ふらっと揺れた。

傍にいたアキラが慌てて支えた。

青い顔をした佐為は「すみません。大丈夫です。」と言った。

しかし佐為は体を真っ直ぐ起こすことができず、畳に手をついて、なかなか動くことが出来なかった。

その様子を見て行洋が「アキラ」と促した。

アキラは立ち上がって部屋を急いで出て行った。

 

「どこかお具合が悪いのか。」

行洋の問いに佐為は弱弱しく微笑んだ。

「醜態をお見せしました。打っている間は集中しているので大丈夫なのですが。

いつものことです。今日は先生のような方とこれだけの一局を打ったので、少し消耗が激しいようです。でも少し休めばすぐ良くなります。」

 

明子が部屋を覗いた。

「隣の部屋に布団を敷きました。少し休まれるといいですわ。」

佐為は頭を下げて、「ありがとうございます。」と言った。

 

「医者を呼んだ方がいいですかな。どなたかに連絡でも。」

そういう問に佐為は言った。

「お医者は大丈夫です。実はヒカルに。進藤ヒカルが後でこちらへ来ることになっております。

こういうこともあろうかと、迎えに来るように私が頼みました。

学校が引けてからまっすぐこちらへ来ると申しておりました。」

 

「そうですか。ではいらしたら、お声をかけますから、それまではどうぞお休みください。」



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

春霞68

『春霞』61~70
プロ試験からヒカル新初段戦まで。行洋vs佐為、緒方vs佐為。
(主な登場人物…佐為、ヒカル、行洋、明子、緒方、アキラ、越智、伊角、本田、和谷、森下、座間、白川、篠田、正夫、美津子、タマ子先生、河合、道玄坂マスター、天野)



ヒカルは、学校が終わると大急ぎで、行洋の邸に向かった。

佐為は、大丈夫かな。まさか、塔矢先生の目の前で服だけ残して消えてないよな。

そうならないようにと、何度か佐為と二人でいろいろ試してみたんだから。

だから今日はきっと大丈夫と思うけれど。

 

ここが塔矢先生の家?

ヒカルは、行洋の邸の前で、その立派な構えに少しびびった。

何か、やけにでかい家じゃないか。偉い人が住んでそうな。

それから思い返した。

まあ、平安の佐為の邸も考えてみるとこんなもんかもな。

 

ヒカルがインターホンを押すと、すぐに玄関の戸が開き、アキラが顔を出した。

「何でお前がいるんだよ。」

ヒカルは思わず言った。

アキラはアキラで、むすっとしたように答えた。

「何でって、ここは僕の家だ。自分の家にいて、何がいけない。」

「そんなこと別に言ってねえよ。」

 

そこへ明子が顔を覗かせた。

「アキラさん、何をしているの。早く入って頂きなさい。」

それからヒカルを見た。

「あなたが」

「進藤ヒカルです。」

「サイさんから伺ってます。どうぞ。」

 

ヒカルが案内された部屋には佐為がいなかった。

行洋だけがいた。ヒカルはどきんとした。佐為の服はないけど…。  

 

「君が進藤君か。まあ座りなさい。」

ヒカルはぺこんと挨拶して座った。

アキラもすぐ隣に座った。

「サイさんは少し気分が悪いと言われてな、今隣の部屋で休んでもらっている。」

その言葉にヒカルはほっと安堵の表情を見せた。

「サイさんはどこか悪いのか。」

行洋の問いにヒカルは何と言っていいかわからなかったが答えた。

「夏の間、具合が悪くてずっと自分の家で安静にしてたんです。でも涼しくなって少し元気になって出歩けるようになったんです。」

 

行洋はそうかと言うように頷いただけだった。

「今日は私はサイさんと対局をした。三度目になるかな。そのことは知っていると思うが。」

「聞いてます。」

「今日の碁を並べて見せよう。私が先番だ。」

 

アキラは何となく面白くなかった。

進藤とお父さんは初めて会ったらしいけれど、何か通じ合ってる気がする。

僕はお父さんが三回もサイさんと打った話なんて聞いてないし。

お父さんは僕にはさっきの碁を並べてみることもしなかったのに。

 

 

行洋は淡々と初手から並べ始めた。ヒカルはじっとそれを見つめた。

二人の白熱した手が盤面に蘇っていった。

 

もうすぐ終局になる。

ヒカルは息をつめて、その先の一手を見つめた。

と、行洋の手が止まった。

「進藤君が私だったら、この次をどう打つかな。」

 

アキラは驚愕した。

お父さんは何を考えているのだろう。進藤に何を期待している?

ヒカルは行洋に言われて、じっと盤面を見据えた。

次の一手が勝敗を分けるんだ。だから塔矢先生は俺に尋ねている。

今目の前にいるのは佐為。俺はその佐為に対してどう打つか。

 

ヒカルはただ盤面に集中した。

その様子をじっと行洋は見ていた。

しばらくしてヒカルは黒石を持つと、すっと置いた。

「これで黒の半目勝です。」

 

行洋は楽しそうに頷いた。

「そうだ。進藤君。これで君と打つのが本当に楽しみになったよ。」

「俺と打つ?」

ヒカルは訝しげに聞き返した。

「ああ、日にちが決まらないから、まだ聞いていないのかな。新初段戦のことは。」

「塔矢先生が俺の相手?」

ヒカルは驚いたように言った。

「父が君を指名したんだよ。」

アキラが言った。

 

その時、ヒカルは、アキラもだが、佐為がふすまを開けて、今のヒカルの一手を見ていたことに気がついた。

 

「佐為。良かった。大丈夫だったんだ。」

ヒカルはほっとしたように言った。

佐為は軽く頷くと、ヒカルの隣に座った。

「ヒカル、今の一手を見ましたよ。私はあなたがとても誇らしい。」

 

それから、佐為は行洋を見た。

「本当にご心配をおかけしましたが、ヒカルが迎えに来てくれたので安心です。

今日はいろいろお話する筈でしたが、すぐ失礼したいと思います。」

行洋は残念そうに言った。

「私も今日はじっくりあなたの事を聞きたかったが。

どうしてあなたのような人が今私の目の前にいるのかを。」

 

「私は、前にも言ったように、神の一手を極めるためにあるのです。

ですから時を旅して、あなたのところへ来たのですよ。

神の一手に近いといわれるあなたと打ち合うために。」

佐為は明快に答えた。

行洋はその話を楽しそうに聞いた。

「そうなのですか。ならば、私は実に幸運な男だ。」

 

それからヒカルに向かって言った。

「進藤君、新初段戦を楽しみにしているよ。まだ少々時間がある。

サイさんは、その間、きっと弟子をさらに鍛えるのでしょうな。」

佐為はきらっと目を光らせた。

「ヒカルの潜在能力はたった今、あなたも理解なされたのですよね。

それが対局でも生かされるようになって欲しいというのが私の願いです。

もちろん今日のリベンジは、私自身が次の機会にさせて頂きますから。」

 

「のぞむところですよ。日時は改めてということでよろしいですか。」

「はい。ヒカルに知らせてくだされば、たいていは大丈夫です。」

「そうですな。では日にちは進藤君に伝えましょう。

何せあなたは時の旅に出られると仰るのですから、なかなかに捕まりにくそうだ。」

冗談を楽しむように行洋は言った。

 

その様子にアキラは、愕然とした。

お父さんが人と冗談を言い合う。それも笑いあいながら?信じられない。

 

佐為はヒカルを促し、立ち上がった。

佐為とヒカルが帰った後、布団や何やかやを片付けていた明子が言った。

「あら、ジャケットを忘れていらしたのね。今日はこの季節にしては暖かい方だけど。」

アキラはそれを見て、いきなりジャケットを掴んだ。

「まだ遠くまで行ってないと思うので、僕が届けてきます。」

 

アキラはそのまま、飛ぶように出て行った。

明子は、その様子にぽかんとした。

「あら、まあ。アキラさんたら自分がコートを着るのを忘れて行ったわ。」

 

ヒカルと佐為は通りを歩いていた。駅が近くなった時佐為は言った。

「ヒカル、これを返します。」

ヒカルの時の石だった。

「石の力を維持させたいと思ったとたん、眩暈がしてしまいました。

あなたとも会えなくなるなんてことが起きたら。

これ以上これを持っているわけには行きません。

ここまで来れば大丈夫でしょう。ヒカル。後は頼みますね。」

ヒカルは、こくんと頷いてそれを受け取った。

 

ジャケットを抱えて、走ってきたアキラは、二人が立ち止まって話をしている姿を見つけた。

しかし、なぜか傍に行くのをためらった。

進藤とサイさんの間には何かある。

今、僕が入っていけない何かがある。

いや、僕はただジャケットを渡せばいいのだ。

二人の間に割り込もうとかするわけじゃないんだ。

 

そう思いながらも、アキラはどうしても二人に声をかけることができず、そっと隠れるようにして二人の姿を見 つめていた。

 

その時だった。

二人の人影が急にひとりになった?

一瞬のことだった。

一瞬の後、アキラの目の前に立っているのはヒカルだけだった。

 

サイさんは?

消えた?

信じられない光景をアキラは呆然と見つめていた。

今しがたそこに立っていて、それが煙のように一瞬で消えた?

 

ヒカルは手早く拾い集めた服をリュックと持ってきた袋に詰め込んだ。

それから辺りを見回し、誰もいないなと、ほっとした様子で、駅のホームに向っていった。

アキラが見ていたことには気づかなかった。

 

電車を待つ間、ヒカルはホームのベンチにどさっと腰を下ろした。

緊張が続いて、ひどく疲れていた。

佐為が塔矢先生の前で消えなくて本当に良かったぜ。

先生、時の旅って佐為が言った時、笑ってたな。

信じてない?冗談だと思ったのかなあ。

まあ、何にしても、とにかく良かった。この石が役に立って。

 

ヒカルは首にぶら下げた石にそっと手を当てた。

佐為のぬくもりがまだ残っていた。

これがある限り、佐為と一緒だ。

 

その時だった。

「進藤。」

そう呼ばれ、びくっとしてヒカルは声の方を振り向いた。

目の前にアキラが立った。

「な、なんだよ。」

また塔矢かよ。いつも突然に現れて心臓に悪い奴だよな。

アキラにしてみれば心臓に悪いのは、佐為とヒカルに違いなかった。

 

「サイさんはどうした。」

「帰ったよ。」

「帰った?どこに?」

「どこにって知らないよ。自分の家だろ。どこだっていいだろ。」

ヒカルは絶対言うもんかと決めて挑戦的にアキラを見た。

 

「サイさんは」

アキラが言いかけると、ヒカルはうるさそうにアキラを見た。

「まだ何かあるのか?」

アキラは先ほど見た光景について何か尋ねたいと思ったが、どうしても聞けなかった。

代りに言った。

「いや、いいよ。ただジャッケットを忘れていったから、持ってきたんだけど。」

ヒカルはアキラが差し出したジャケットをひったくるように受け取った。

「あっ、ありがとう。今度佐為に会えたら返すよ。」

 

ヒカルはそう言うと、ちょうど来た電車に飛び乗った。

電車のドアが閉まるとほっとした。

やれやれ、いいところに電車が来てくれた。

アキラは、ぐるぐるした思いで、その電車を見えなくなるまで見送った。

 

アキラが家に戻ると、両親は茶の間でお茶を飲んでいた。

「渡せたの。アキラさん。」

アキラはとっさに口をついて出た。

「ちょうど電車が出発する直前で、何とか渡せました。」

「そうか。」

行洋はそう言っただけだった。

 

アキラは思い切って聞いた。

「お父さん。進藤のことは、どうして知ったんですか。」

行洋はじっとアキラの顔を見た。

「アキラは前から進藤君のことを知っているのか。

私は、たまたま碁サロンに来たサイさんから聞いたのだが。」

「サイさんがたまたま碁サロンに…」

アキラはおうむ返しに呟いた。

たまたま僕でなくて、お父さんがいたのか…

 

「進藤君はアキラさんと同じ年なのね。学校は海王じゃないわね。」

「ええ、彼は葉瀬中です。彼も碁サロンにきたことがあるのです。それで知ってます。」

「ほう、いつ会ったのかね。」

 

アキラは自分が聞くつもりで逆にしゃべらされてるという気がした。

だが、さっき見た信じられない光景を言いだせなかった。

とにかく進藤に問いたださなければ言えない。

それで、行洋に向かって話し始めた。

2年ほど前に初めて碁サロンでヒカルに会ったこと。

その時は碁を始めたばかりということで石取りゲームの相手をしたこと。

その後、海王中で開かれていた中学生の囲碁大会で見かけたことを話した。

 

「それは去年のことか。」

行洋は言った。

「あら、それじゃあ、随分久しぶりに会ったのね。」

明子は無邪気にそう言った。

 

アキラは何ともいえない顔をした。

口早に付け加えた。

「進藤とは、今年の五月の若獅子戦で対局しましたよ。」

行洋は取り立ててそれ以上聞かなかった。

「ひと月あれば…」

ただそう呟くと、何事か考え込んだ。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

春霞69

『春霞』61~70
プロ試験からヒカル新初段戦まで。行洋vs佐為、緒方vs佐為。
(主な登場人物…佐為、ヒカル、行洋、明子、緒方、アキラ、越智、伊角、本田、和谷、森下、座間、白川、篠田、正夫、美津子、タマ子先生、河合、道玄坂マスター、天野)



ヒカルはアキラが渡した上着を無理やり袋に突っ込むと、電車の窓から、遠くなるホームを見た。

アキラがまだホームの端に立って、じっと電車を見送っているのが見えた。

 

塔矢の奴…。

あいつ…。

そう呟きながらヒカルは、何となくアキラにすまないと思った。

塔矢の奴、まだ佐為と打ちたがってるんだ。

さっき、言えばよかったのか?佐為のこと。

いや、でも何て言えばいい?

佐為も塔矢先生に言ってたじゃないか。時の旅をしてきたって。でも、多分本気にしてなかったよな。塔矢先生。

塔矢だってそれを聞いていたんだ。

でも塔矢の奴は生真面目そうだし、塔矢先生よりもっと信じてないよな。時の旅なんて。

 

それからヒカルはそっと胸の石を押さえた。

石が、もっと力を戻したら、きっと佐為と打たせてやるよ。

塔矢先生の家でなら、塔矢とも打てるじゃないか。

今日だって、もし佐為が具合が悪くならなかったら、塔矢とも打てたんだ。

 

ヒカルが家に戻ったのは、夕飯時を過ぎていた。

美津子は少しきつい声で言った。

「ヒカル?どこに行っていたの?遅くなるんだったら、ちゃんと連絡して頂戴。」

「分かった。」

ヒカルはぶすっと答えて、佐為の履いていた靴を靴箱に戻すと、袋を抱えて自分の部屋に上がった。

 

今更、お母さんに佐為のことを説明なんてできないし。お父さんもまだ戻ってないし。

ヒカルは、今日ばかりは佐為が、あそこで消えていて本当に良かったと思った。

母親が暖めなおしてくれた夕食を食べ終えると、ヒカルは風呂にも入らず、部屋に戻り、ごろんとベッドに横たわった。

何か特別にしたわけでもないのに、なぜか体がひどくだるかった。

 

佐為は大丈夫だろうか。また夏みたいに寝込んでいるんじゃないか。塔矢先生、俺と打つの楽しみにしてた。俺あの幽玄の間で打つんだ…。

今日のことをあれやこれや思い返すうちに、ヒカルはそのまま寝込んでしまった。

 

翌日、ヒカルは恐る恐る石をかざしてみた。石は大丈夫そうだった。

ヒカルは、それが分かると、すぐに佐為の元へと向った。

 

佐為は特に具合が悪いでもなく、普通に邸に居た。

前みたいに寝込んでいるのではないかと思っていたヒカルは、佐為が案外元気そうなので、ほっとした。

佐為の方もヒカルの顔を見て安心したようだった。

「来れたのですね。ヒカル。本当に良かった。」

「俺の石は大丈夫だよ。ほら、石が元気そうだろ。俺みたいに。」

ヒカルは安心させるように石を見せて言った。

佐為は、ヒカルの言葉に少し笑った。

それから何気ない風に言った。

「ヒカル、私は決めた。当分私は時の旅はせぬ。ヒカルを鍛えることに専念する。ヒカルの新初段戦に向けて。

私は、あの者とのリベンジ戦に向けて、自分の石に余計な負担をかけたくはないのだ。」

ヒカルはきっぱりと答えた。

「うん。分かった。俺、頑張るよ。恥ずかしくない戦いをしてみせる。」

「ええ、信じてますよ、ヒカルを。」

佐為は思いの篭った口調で、静かに言った。

 

佐為の並々ならぬ思いは、ヒカルへの指導に表れていた。

佐為は俺を勝たせるために、力を尽くしてくれている。

佐為のすべてを貰ってる気がする。

ヒカルはそう感じていた。

今までも佐為はヒカルの相手をしてきたが、今回はそれ以上に熱が篭っていた。

 

塔矢先生も俺が佐為にどう指導されたかを見たがっている。そのために俺を指名したんだ。

自分を通して、佐為と塔矢行洋が、対峙している。

そんな感覚がヒカルを包み込んでいたから、ヒカルも佐為の今までにない厳しい特訓に耐えた。

 

ヒカルが真剣な眼差しで碁盤を見つめているのを眺めながら佐為は思った。

ヒカルは今私と互い戦で打っている。ヒカルが時々放つハッとさせる閃きは私にもすばらしい刺激をくれる。その閃きを先に繋ぐ手立てをヒカルと検討すると、思いもかけなかった新しい世界が私の前にも広がることがある。才能を育てるということは何とすばらしいことか。

指導とはいえ、実に楽しい。

 

佐為は考え込んでいたヒカルが置いた場所を見て、声をかけた。

「ヒカル。そこでは、先ほど置いた石を今一つ生かせない。」

ヒカルは、そう言われて、眉根を寄せて、また考え始めた。

 

佐為の様子は明らかに変わっていた。

佐為は平安貴族の生活を取り戻していた。

帝の囲碁指南にも要請があればきちんと出かけていった。

 

導師も目を見張る日々だった。

導師はヒカルが大切な相手との対局を控えて、そのために特訓を受けているということは聞いていた。

だが、佐為があんなに大人しく日々をすごしているのは少々気味が悪いことだ。

ヒカル殿の指導に賭けているのか?それとも他に何かあるのか?

佐為が一言もヒカル殿の時代へ行きたいと言わぬとは、どうしたことか。

見た目では、体の具合は悪くなさそうだというに。

導師にはそのことが、腑に落ちなかった。

 

その日、導師は佐為の邸を訪れた。

ちょうど、佐為が帝の元から戻ってきたところに行き合わせた。

「今日はヒカル殿もおらぬ事だし、久しぶりにわしと一局打ってくれるか。」

「はい。喜んで。今日は良いことがございましたから。」

佐為は微笑みながら言った。

「良いこと?どんなことかな?」

 

導師と一局交えながら、佐為は話した。

「以前帝から願い事を聞くように言われていたことをお話しましたが。」

「ああ、何か良いことを頼まれたのか?」

「いえ、そうではなくて。今日帝が言われたのです。佐為よ、もう頼み事はなくなったと。それが良いことです。」

 

導師は眉をひそめた。

「それはどういうことであろうか?その頼みごととはどんなことか、知っているか?」

「いいえ。私も内心、何を頼まれるかと、気にはしていたのですが。でももう終わったのです。帝がそう言われたのですから。」

 

佐為は帝とは囲碁を通して、お傍にいる機会を持てたが、政(まつりごと)には無関係の場にいたので、事情というものには疎かった。とにかく帝がそう言われるのだったら、それはそれで終わりなのだ。

「とにかく、私はほっとしています。」

何かとてつもないことに巻き込まれるのは嫌だと、そういう思いで、佐為は言った。

 

導師はそれでも心配していた。

佐為はもう頼まれごとがなくなったと聞いて喜んでいるが、なくなってしまったということは、どういう事情によるものなのか。それはそれで、必ず何かが起きる。佐為が巻き込まれなければ良いが。

佐為は確かに政(まつりごと)とは縁がない。しかし関わりがないというのは、かえって利用される恐れが大きいものなのだ。

導師はなんとなく胸騒ぎがしてならなかった。

佐為は無防備すぎる。帝の周りでは常に策が巡らされているものなのだ。とにかく用心していなくてはならぬ。

翌日から、導師は、帝の周辺について、ひそかに探りを入れ始めた。

導師はその時、すでに一つの決心を固めていた。

まだ佐為にいう段階ではないが、私ももう年だ。いつまでも佐為のそばについていることはできない。

まだ動ける今のうちに…。

 

 

導師が密かに事を運んでいる時、佐為もまた胸に納めていることがあった。

導師にもヒカルにも話していないことだった。

このことは当分誰にもいえぬ。

導師は反対されるに決まっている。ヒカルは…。いや、

佐為は雑念を払うように目を閉じた。

ヒカルは私が夢を抱ける唯一のもの。だからこそ私は今ヒカルにすべてを委ねたい…。

今はこれしか道がないのだから…。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

春霞70

『春霞』61~70
プロ試験からヒカル新初段戦まで。行洋vs佐為、緒方vs佐為。
(主な登場人物…佐為、ヒカル、行洋、明子、緒方、アキラ、越智、伊角、本田、和谷、森下、座間、白川、篠田、正夫、美津子、タマ子先生、河合、道玄坂マスター、天野)



院生研修か。久しぶりだな。

大部屋を覗きながら、緒方は思った。

「緒方先生じゃないですか。どうされました?」

院生師範の篠田が先に気がついて、緒方に声をかけた。

「あ、いや。用事のついでに、ちょっとのぞかせてもらいましたよ。

そういえば、今年の合格者は全員院生でしたね。どうですか。期待が持てそうですか。」

 

緒方は、行洋のところで新初段戦の話を聞いてから、俄然興味を持ったヒカルについて、情報収集を始めていたのだ。院生だったのだから、篠田に聞くのが手っ取り早い。そう思ってきたのだった。

「ええ、昨年は、一人だけでしたからね。私は今年の3人には特に期待していますよ。どの子もそれぞれ個性が違っていて面白い。」

篠田は嬉しそうに答えた。

 

「やはり一位合格の子が一番ですか。」

「進藤君ですか。あ、どうでしょうか。でも、そうですね、進藤君は、実に面白い子ですよ。見事化けてくれました。先行きが楽しみですよ。

特に試験の最終局はすごかったですよ。互いに既に合格が決まっていた者同士の対局でしたが、消化試合とはとても思えないものでしたよ。

相手の越智君は、どういうわけか対局前から進藤君を随分意識していました。つい二ヵ月ほど前の院生対局の結果で見ると、越智君が絶対有利だったので、何をそこまで力むのかと思ったのですがね。対局を見て理解しましたよ。

その時は進藤君のこれでもかという強さが出て、彼が勝ちました。越智君が恐れていたのはこれだったのかと合点がいきました。進藤君はその対局で越智君を突き放しましたね。ただこれからですね。抜きつ抜かれつ、切磋琢磨する相手が居るというのは何よりも力になることですね。」

 

「とすると、二人ともライバルとして院生時代を過ごしたのですか。」

「進藤君と越智君がライバルですか?うーん。ライバルねえ。どうでしょうか。

越智君は院生になった時から安定した強さを持ってました。手堅く安定している子です。

進藤君は。そうですね。進藤君を表すのに、安定という言葉は一番当てはまらないですね。

彼は院生対局では結構山あり谷ありだったんじゃないですかね。それを必死に乗り越えてきた。

そうはいっても、とにかく二人とも院生になって一年に満たない内にプロですからね。

私は和谷君も含め、今年の三名には大いに期待してますよ。」

 

進藤というのは、かなり面白そうな奴らしい。

緒方は、院生試験の推薦状を書いたという白川を捕まえることにした。

白川は、高段者の手合を終えて、帰ろうとしていた時に、緒方が急に声をかけてきたのに少し驚いた。

「進藤君ですか?緒方先生、進藤君に関心がおありなのですか?」

白川はそのことに逆に興味を抱いたようだった。

 

「ええ、塔矢アキラの知り合いだと聞きましてね。彼はプロ試験を一位で突破したそうじゃないですか。白川さんは、いつから進藤を教えているんです?」

「え、いやあ、教えるというか。私は進藤君に碁の手ほどきを少々は、しましたが。でもそれだけなんですよ。」

 

私は考えてみれば進藤君の最初の師なんですかね。そんな風には考えなかったけれど。でも進藤君は、あの才能は注目されているんですね。緒方さんまで興味を抱くなんて。

白川は嬉しそうにヒカルについて知っていることを話した。

 

話を聞きながら緒方は思った。

石取りゲーム?とすると、進藤は、碁をこの白川の手ほどきで始めたのか。それも二年ほど前に?

二年でプロになった?聞いたことのあるパターンだな。

緒方は先日対局した倉田五段のことを思い浮かべた。

 

「進藤君とは森下先生の研究会で打つことがありますけど、毎回驚くほど力をつけていくのですよ。

本当にどこまで伸びていくのか、恐ろしいほどですよ。

それに検討の時も面白い発想をしますしね。

ああ、でも、そうなんですか。進藤君は、塔矢君に追いつきたいとずっと頑張っていましたけど、個人的にもそんなに親しいのですか。

そういえば、塔矢君が海王中に行くとかいう話をしていたことがありましたねえ。」

 

白川の質問を緒方は適当にごまかした。

帰る道々考えていた。

塔矢行洋は倉田に一目置いている。倉田並みの成長をしてる子に興味を抱いたか?

だが、それでもあの塔矢行洋が指名してまで、対局する理由にはならない。

これはやはり、アキラ君と関わりのあることなのか。

あるいは、先生は、もしかして碁会所で進藤を指導したことがあるのじゃないか。

多分そうに違いない。塔矢行洋が気にかける何かを持っている子どもか。

これは面白いことになりそうだ。

どちらにしても、新初段戦で、どの程度の腕前か、どんな碁を打つのか確かめてやる。

 

ヒカルの新初段戦は、越智や和谷より早かったが、結局一月の下旬になった。

塔矢五冠が忙しくて、なかなか日程が取れなかったからだ。

 

ヒカルはその日の朝、張り切って目を覚ました。ここしばらく、この日のためにひたすら頑張ってきたのだ。

俺は今日、あそこで、佐為を背負って戦うんだ。

佐為には気負わないようにと言われているけれど。

でも佐為は塔矢先生とは打っているけど、幽玄の間では戦えないから。

とにかく恥ずかしくない対局をして見せるぞ。

 

対局は午後からだけど、その前に写真撮影やらなにやらあるということで、ヒカルは早めに棋院へ行かなければならなかった。

でもその前に行く所がある。

ヒカルはリュックを背負って、階段を下りていった。

 

「あら、ヒカル?もう出かけるの?まだ十時前よ。」

「うん。ちょっと祖父ちゃんのとこへ寄ってから行くんだ。」

「あ、ヒカル待って。私も今出かけるところだから、途中まで一緒に行きましょう。」

美津子はそう声をかけた。

「ええ、お母さんと?やだよ。先行く。」

ヒカルは、ばっと走り出した。

「あら、まあ。」

美津子は少し苦笑した。

甘えているのかと思えば、突っ張っているようでもあり。

でも中学生になると、親とは歩きたくないものかしら。

そう呟きながら、美津子は玄関に鍵をかけ、家を後にした。

 

その後、数分も経たないうちに、ヒカルの部屋に一つの光が落ちた。

佐為だった。

「何とか、来ることだけは出来たが。」

佐為はそう言って、ヒカルの部屋を見渡した。

この部屋をまた目にすることが出来るとは。

佐為はぐるりと見渡した。

ヒカルの洋服ダンスやベッド。机。そしてきちんと布をかけて隅に置かれている碁盤。

ここの光景を頭に刻み付けて置きたい。

 

佐為は塔矢行洋邸での対局で倒れた後、平安に戻った時、悟ったことがあった。

それは石を使い続けてきた者だけが分かる感覚だった。

今日は私に残された大切な日なのだ。

私が時の旅を封印してきたのは、この日のためなのだ。

私のリベンジ戦ではなくヒカルの新初段戦のためなのだ。

 

とにかく、ヒカルが出かけていて良かった。対局の前にヒカルには余計な不安を与えたくはない。

対局は確か昼過ぎからといっていたが。

佐為は時計を確かめた。

まだ時間は十分にある。

 

佐為は、ヒカルの机に向い、傍にあった紙に何事か書き始めた。

書き終えると、着替えをし、ヒカルがいつも用意している、引き出しを開け、手紙をそこに納めた。

それからヒカルの石を手に取ると、そっと自分の首にかけた。

用意を終えると、佐為はヒカルの家を出発した。

 

市谷の駅を降りたが、まだ時間がかなりあった。

佐為はコーヒーショップへ入った。

佐為はゆっくりとコーヒーを味わった。

私はまたこの美味な飲み物を味わうことがあるのだろうか。

通りを行きかう人を見ながら思った。

 

そろそろ時間だ。

佐為は名残惜しげにコーヒーを飲み干し、棋院へ向った。

入る前に棋院の建物を眺めた。

ここはこれからヒカルが打ち続ける場となるところだ。私はここを心に留めておく。

ヒカルは今日、あの幽玄の間で、あの者と打つのだ。

たとえハンデがあろうと、ヒカルにはまたとない経験になる。そして私にとっても…。

この日のために私はヒカルに出来るだけのことをした。

私の全てをヒカルに注いだ。これがおそらくは力の全て。いや、そうなったとしても私には悔いはない。

だから私はその様子をこの目で見ていたいのだ。そのくらいは神もお許しになるだろう。

 

幽玄の間を覗きたい気持を佐為は抑えた。

私が来ていることをヒカルに知られるのはまずい。

佐為はまっすぐ、モニタールームに向った。

自分が最初かと思いながら、ドアを開けると、既に先客が一人いた。

 

先客は興味深げに佐為を見た。

「ほう、またお会いしたな。お前さんとは縁があるのかな。」

この者は、あの時の。いつぞや棋院であったあの老人。私の力を知っている。何者か。

 

そう思いながら、佐為は頭を下げて挨拶した。

「私は部外者ですが、どうしても様子を知りたく、こちらへ来てしまいました。皆様の邪魔にならないようにしておりますので、よろしくお願いいたします。」

佐為は桑原とは離れたところに、腰を下ろした。

「ほう、部外者とな。大切な教え子なのだから部外者とは言い切れないと思うが。まあ良いわ。」

桑原は、そこで話すのをやめた。ちょうどドアを開けて緒方が入ってきたからだ。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

円居(まどい)71

『円居』 71~80
ヒカル新初段戦からプロ対局、塔矢行洋引退
(主な登場人物…ヒカル、佐為、緒方、桑原、和谷、越智、アキラ、行洋、天野、導師、美夢、紅、美津子、明子、倉田)


「桑原先生?」

緒方は驚きを隠しきれない様子で言った。隅にいる佐為のことはちらと見たが、気にしなかった。

とにかく桑原がモニタールームに居るという予想外のことへの驚きが大きかったからだ。

「緒方君か。久しぶりじゃのう。面と向うのは本因坊戦以来かの。」

桑原は先制したという余裕で、声をかけた。

「あの時は勉強させていただきましたよ。」

緒方は何とか平然さを装って、桑原の斜向かいに座った。

「なかなか最近は調子いいらしいの。倉田君をものの見事に負かしたそうじゃないか。」

「先生はその反対のようですね。」

「もう年じゃ。欲はかかんよ。本因坊のタイトルだけは誰にも渡さんがの。」

「その本因坊がどうしてここに?」

緒方はずばりと聞き返した。

 

佐為はひっそりと、だが興味深げに二人の会話に耳を傾けていた。

本因坊のタイトル?そうか、この老人は本因坊なのか。そういえば、本因坊家はもうないと聞いているが。

この老人は、あの時私を見抜いていた。相当の腕の持ち主だ。

この本因坊と打ち合ってみたいものだ。きっとあの者とは違った趣の碁を打つに違いない。

 

それから、佐為は、前に雑誌で見た、本因坊戦の棋譜のいくつかをぼんやりと思い返した。

ヒカルといくつか検討していたのだ。

この緒方という男。この男もまたなかなかの腕前と見たが、打ち合ってみたい。

佐為は緒方がネット碁で打ちあった相手だとは、知らなかったのでそう思った。

 

この二人、あの頃の。 虎次郎の頃の強豪の匂いがする。

そういう者がごろごろと居るのだ。 この時代にも。

そしてそこはヒカルがこれから身を置く場所なのだ。

佐為はヒカルが少々羨ましいと感じた。

あの者だけでなく、この時代のもっといろいろな者と打ち合いたいものだ。

佐為は思いに沈んでいった。

 

桑原は緒方に言葉を返した。

「どうしてここに来たかと?その言葉そっくりキミに返そうじゃないか。」

「今日は高々、新初段戦の対局。いくら名人が打つといって、緒方君ほどの者がわざわざ見に来るようなものじゃない。それともあの小僧に関心があるのかな。」

緒方は、その言葉に、やはりという思いで聞き返した。

「桑原先生は進藤をご存知なのですか?」

「ほう、やはり、関心があるのか。わしの勘も衰えてはないな。」

「勘?」

「そう、あ奴をちらっと見てぴんと来たのよ。シックスセンスじゃよ。」

「チラッと見ただけで?馬鹿馬鹿しい。」

緒方は腹立たしげに言った。

 

その時、話し声がして、少年が二人入ってきた。

「進藤が一番手。越智は再来週か。いいなあ、俺も早く打ちたいぜ。うかうかしてたら、3月に入っちゃうじゃないか。」

「和谷のとこ、まだ来ないの?」

「うん、連絡来てないよ。」

部屋に足を踏み入れようとして二人は固まった。

 

緒方九段と桑原本因坊?

何故?塔矢アキラなら分かるけど、なんでトッププロが二人も?

二人の頭に疑問が渦を捲いた。

それから、やっと「こんにちは。」と挨拶をした。

二人は佐為の居る側と反対の隅の方に座り、ひそひそと話した。

何で新初段の対局をトップ棋士が二人も見に来てるんだよ。

知らないよ。進藤に関心があるんじゃないか。

 

その時、アキラが入ってきた。

アキラは緒方が来ているかもしれないと思っていたので驚かなかったが、桑原が来ているのにはビックリした。

アキラが、自分たちを無視して、緒方たちの方へ行こうとしていると感じた越智は、すばやくアキラに声をかけた。

「こんにちは。」

アキラは振り返り、落ち着いて挨拶した。

「越智君。…こんにちは。」

和谷が小声で越智に聞いた。

「あれ?お前。塔矢と知り合いだったか?」

越智は曖昧に頷いた。

 

桑原は、アキラを見て、声をかけた。

「キミはたしか名人の息子じゃな?」

「はい。はじめまして。塔矢アキラと言います。」

アキラはきちんとお辞儀をして挨拶をした。

「なるほど。キミもあの小僧が気になる一人か。面白い。そして、名人も当然気にしておるのだな。」

アキラが答える前に、緒方が言った。

「塔矢先生は、進藤を指名したのですよ。」

「ほう。名人は私と同じく勘がいいからな。どうだ。緒方君。わしと賭けをせんかね。」

 

桑原は佐為の方は全然見ていないが、佐為には自分が話しかけられている気がした。

「逆コミ5目半のハンデはつくが、相手が塔矢行洋では厳しいの。名人が小僧にご祝儀で勝たせようとすれば別だが。」

緒方はにべもなく言った。

「先生はしませんね。で、どっちに張るんです。」

「そりゃ、小僧よ。」

「穴狙いですか。」

「何の。勝算のないばくちはせんぞ。わしは。それとも緒方君も小僧に張りたかったのかね。」

緒方はちょっと唇をかんだ。何とも言い難かった。緒方にも棋士の勘があった。

それでも緒方は言った。

「名人の門下の私としては、先生の勝は疑いませんよ。」

 

そういって財布から札を一枚抜き取って、テーブルに置いた。

この爺め。俺は塔矢行洋が進藤を指名したのを見た時から、ずっと進藤の事を調べてきた。

俺には裏づけがあるが、この爺は一目見ただけのシックスセンスだと?

いや、それだけじゃない。ほかにも何かあるはずだ。

だがこの爺は絶対理由を話すわけはないな。

 

和谷も越智もそしてアキラも唖然として二人のやり取りを聞いていた。

アキラは、それから、ちらと佐為の方を見た。

アキラには桑原に会ったこともだが、それ以上に佐為のことが気になっていた。

佐為はアキラに軽く会釈しただけで、話しかけなかったので、アキラも声をかけるのをやめた。

 

きっと進藤に教わって、こっそり見に来てるのかもしれない。

別に棋院関係者じゃなくちゃ、見ちゃいけないというわけじゃないけど…。

でも、もしうっかり話しかけて、今、彼がsaiさんだと分かると、それはそれでひどく面倒そうだ。

このメンバーでは特に…。

 

佐為はアキラが気を利かして声をかけてこなかったのでほっとしていた。

そしてその場の空気を乱さないように、ひっそりと座っていた。

ただし、心の中では、わくわくしていた。

ヒカルの存在が決して小さいものではないというのが、思いがけず喜ばしかった。

 

もちろん打つ碁が全てだが、それでも励みになるものは、あるほうがいい。

ヒカルのようにこれから伸びようとする者には発奮する要素は多い方がいい。

本因坊、それにこの緒方という男。

ヒカルに関心があるようだから、この者たちとヒカルが打つ機会もすぐに来るに違いない。

 

それよりこの場では、ともかく、私も出来れば賭けたい。もちろんヒカルにだ。

この1ヶ月ちょっとの特訓のことを考えれば、私だってこの二人の仲間に加わって…。

私は負ける賭けはしない。ヒカルはハンデをもらっているし

 

佐為はテーブルに置かれた万札を眺めた。

でも私はこの者たち以上に賭けているではないか。

今日は私にとって勝負の日なのだ。私は今日に向けて全てを賭けてきた。

今私の存在全てを賭けているのだから。

佐為は胸につるしたヒカルの石をそっと、抑えた。

 

「始まるぞ。」

和谷がモニター画面を見ながら言った。

アキラは目の片隅に佐為が静かに画面を見つめているのを意識しながら、それでも、いよいよ始まる対局に目を凝らした。

アキラの中には色々な思いがせめぎあっていた。

 

父とサイさんが家で対局していた。進藤はこのサイさんの弟子で。

サイさんは時を旅して神の一手を目指している?

それは何かの比喩だと思ったのに、でもあの時、消えた。まさか本当に?

いやもういい。そのサイさんは今確かに目の前にいる。逃げも隠れもしてないのだから、それは今はいい。

今は進藤だ。

進藤は、あの時、父が聞いた最後の一手を正しく示した。

僕もすぐには考え付かなかった手だった。

 

はじめて会った時から二年あまり。進藤は僕を追ってここまで来たのだろうか?

進藤は、今日一体どんな碁を打つのか。

進藤。今日ここで君はどんな碁を見せてくれるのか。

アキラは期待とも何とも付きかねる気持を抱いて、じっとモニターに目を凝らした。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

円居72

『円居』71~80
ヒカル新初段戦からプロ対局、塔矢行洋引退
(主な登場人物…ヒカル、佐為、緒方、桑原、和谷、越智、アキラ、行洋、天野、導師、美夢、紅、美津子、明子、倉田)


モニタールームは、特に話をするものもなく、静かだった。

和谷は、思った。

進藤の奴、すげえ気合入っているな。塔矢先生相手に全然、気後れもなく、攻めている。

 

試験の最終日の進藤と全然違う。ほんの三ヶ月前なのに。

塔矢が指導碁に来た時、三ヶ月前なんて、昔の話だと言っていたけど、こういうことなんだ。

そう思いながら、越智は画面に見入っているアキラをちらと見た。

 

アキラは、じっと画面に見入っていた。

僕は若獅子戦で進藤と打ったことがある。韓国の研究生と対局した棋譜も知っている。でもそれは過去のことだ。

僕は今やっと知りたかった進藤の碁を初めて見ている。

 

それは溌剌とした碁だった。新初段らしい力溢れる碁。

アキラの新初段戦も、まっすぐで力の篭った碁だったが、今回、ヒカルの新初段戦は、それとは様相は全く違って見えた。

 

あの者は、ヒカルの感性をまっすぐ受け止めている。

勿論指導碁などではない。力の入った一局だ。

それにしても、あの者がこういう碁を打つとは。

あの幽玄の間で、こんな碁を打ち合えるとは、少々羨ましいことだ。

佐為は、周囲に気づかれぬよう、ふっとため息をついた。

 

盤面が細かく埋め尽くされた時には、外はすっかり暗くなっていた。

 

「塔矢先生?」

「進藤が勝った!」

越智と和谷は、それを目にすると、すぐに立ち上がり、ばたばたと対局場の幽玄の間へと向った。

 

アキラは、行くのをためらった。

逆コミのハンデがあろうとも、父が負けたのを見たから?

いや、そういうことじゃない。

僕は、今、進藤の打ちっぷりを見た。体が震えるような碁だった。

 

その時だった。

「名人は思いっきり遊んでおったな。」

桑原はタバコの火を消しながら、悠然と、誰にともなく、そう言った。

「この対局。父が手を抜いたのですか?」

アキラは思わず、桑原の方を見て、訊ねた。

「いや、手を抜いたのではない。名人はそういうことはしないのではないか。今日も常と変わりなく、名人らしく、十分に練った手を置いていたよ。君も見たじゃろう。

楽しむというのはそういうこととは全く別のことでな。とにかく、名人は今回の対局を思いっきり、楽しんでおったのは間違いない。」

 

「先生は、タイトル戦ではこういう碁は打ちませんね。このように自由には。」

緒方はそう言って、行洋が何故、ヒカルを指名したのか、その意味が分かったと思った。

思いっきり打つか。それにしても塔矢行洋にこういう碁を打たせるとは…。進藤という奴は全く面白い。

 

桑原はアキラに向かって、付け加えるように言った。

「楽しむというのは、悪いことではない。私も久しぶりに楽しんだ。

わしは今回の名人の碁には全く驚かんが、相手をした小僧を褒めたいと思う。

名人相手によく打ったものだ。それは、勝ったということでは全く無いぞ。

のう。緒方君。君はそうは思わんか。」

「ええ、私も同感です。先生のこんな面を引き出させたとはたいした子ですよ。桑原先生と意見が合うというのは初めてのことではないですか。」

緒方は案外素直に、桑原に賛同した。

桑原はにやりと緒方を見た。

「とにもかくにも名人の勘もわしの勘もまだまだ健在だったわけだ。おまけに賭けにも勝てたしな。今日は実に面白い日だった。来て正解だった。」

 

佐為は桑原と緒方の言葉を背中で聞きながら、幽玄の間へと向っていた。

私は今の対局に、とても満足している。ヒカルの頑張りに。私は自分が打っている時と同じように充足し た気持ちを抱いている。

この気持のまま、あの者と一言だけでいい。言葉を交わしたい。

佐為の中に、そういう思いが突如、湧き上がっていた。

 

 

対局室では、行洋が満足そうな顔をしていた。

週刊碁の取材を兼ねた天野が、メモを取り出そうとすると、行洋は、軽く制し、ゆっくりと立ち上がり、「すぐ戻るから。」と部屋を出た。

越智と和谷は、出て来た行洋と、ちょうどすれ違った。

「どこへ行くのかな?」

「トイレじゃねえの。」

 

行洋は、トイレとは逆の、モニタールームへ寄ろうとしていた。

私は今日は満足している。そのことをあの者に告げたい。絶対にあの男は来ている。

行洋には、そういう確信があった。

行洋は、廊下の途中で佐為と顔を合わせた。

「あなたはきっと来ると思っていた。今日打って私は確信できた。あなたに一言、言いたかった。進藤君には碁に対する独特のセンスがある。」

 

佐為は微笑んだ。

「はい。あの興味深い閃きを生かす道をやっと示せるようになってきたようです。私も、今日そう思いました。」

行洋は賛同するように頷いた。

「あなたの薫陶の賜物ですな。先が楽しみだ。」

それだけ言うと、行洋はそのまま戻っていった。

 

帰ろうと、部屋を出た緒方は、行洋が、男と短い言葉を交わし、別れる姿を目撃した。

ほんの二言三言の会話だったが、親しげだった。いや、親しいから、二言三言で、言葉が足りているということか。

あの男は確かモニタールームで観戦していた男だ。棋院の関係者か?

やけに親しげに見えたが、一体誰だ?

 

 

緒方の背後で、緒方の疑問を分かっている様に、フォッフォッフォッと笑い声がした。

緒方が振り返ると、桑原のおかしそうな表情が目に入った。

桑原はもっともらしい口調で言った。

「私は、今日、一番早く、あのモニタールームにおったのでな。後から来た者とは、いろいろ話をすることができた。本当にいろいろとな。」

いろいろというところに力を込め、思わせぶりに言うと、桑原はからからと笑って去っていった。

 

今日はわしの完勝じゃな。何もかも。緒方君は実に楽しい男よ。

 

緒方は忌々しそうに桑原を見送り、顔を戻した。その時には、既に佐為の姿はなかった。

何故気がつかなかったのか。あの男、塔矢行洋の知り合いだが、それだけではない。

あの進藤の関係者か?一体誰だ?塔矢行洋に何の話があったのだ?

何より、忌々しいことにあのくそ爺は多分俺が知りたいことを知っているのだ。だが俺に話す筈がない。ふん。まあいいさ。いずれ分かることだ。

今帰ると、玄関辺りでまたくそ爺と顔を合わすことになるかもしれない。

折角だ。時間潰しに対局室をちょっと覗いてみるか。

進藤という子がどんな顔をしているのか、目の前で眺めてやろう。

 

緒方は腹立たしげに対局室へ向った。

 

 

アキラはいつまでも一人モニタールームに残っていた。急いで幽玄の間へ向う気にはならなかった。

桑原先生の言葉で、お父さんがいつもの対局とは違う心持で打ったのは分かったが。

今の僕にとって大切なのは、進藤の力の篭った打ち筋を目にしたことだ。

進藤はいつか追いつくと言ったけれど、ここまで追ってきたんだ。全速力でこの僕を追ってきたのだ。

そのことがアキラをわくわくした思いに駆らせていた。

僕は、今はただ、早く進藤と対局したい。それだけだ。一刻も早く、進藤と打ち合いたい。あんな碁を打つ進藤と。

 

アキラは突如立ち上がった。

そうだ。進藤に告げよう。君と早く打ちたいと。

 

アキラが部屋を出ようとしたその時、佐為が部屋に戻ってきた。

 

アキラは佐為の顔を見て、何か言おうと思った。だが、何を言えばいいのか。

そんなアキラの様子に構わず、佐為は、ほっとしたように言った。

「良かった。塔矢アキラさん。ここで会えて。すみません。お願いがあるのです。あなたにしか頼めない。あなたになら頼める。」

「僕にしか頼めない?」

「ええ。もう時間がないのです。そうでした。その前にお礼を。今日は私に声をかけないで下さって、ありがとう。助かりました。」

佐為は緊張を和らげるように少し微笑んでみせた。

アキラには効き目はなかった。

佐為の周りには、何か非常に切迫した空気が流れていて、アキラにもそれは伝わった。

「それで…。」

アキラは、佐為を促した。

「実はヒカルに渡して欲しいのです。」

 

佐為は、そう言うと、ポケットに入れていた封筒を取り出し、首からヒカルの石を外し、そっと納めた。

アキラには石は見えなかった。だからそれはまるで、不思議な厳粛な儀式を見るようだった。

アキラは神経が麻痺したようにそれを見つめた。

佐為は封筒をアキラに差し出しながら、言葉を継いだ。

「私は戻らなければならない。あなたは分かってくださるでしょう。

私は私の時代へ戻らなければならないのです。その時、この時代のものは持っていかれないのです。ですからお願いします。」



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

円居73

『円居』 71~80
ヒカル新初段戦からプロ対局、塔矢行洋引退
(主な登場人物…ヒカル、佐為、緒方、桑原、和谷、越智、アキラ、行洋、天野、導師、美夢、紅、美津子、明子、倉田)


天野たちが見ている前で、行洋は初手から淡々と並べて要点を述べた。

「進藤君が、ここで打った手。これが予想外に面白い手となった。実に面白い。結局君はここからこちらへかかっていったが、他にもいくつか考えられるね。」

緒方は行洋の言い方に少し違和感を覚えた。少しはしゃいでいるようにも見える。

塔矢行洋という男は、こういう解説の仕方を余りしないと思ったが。

いやしないこともなくはないが…。もしかして有望な新人にはこういう態度を取るのか?

 

だいぶ遅れて幽玄の間にやってきたアキラは対局室には入らなかった。開け放されているドアに寄りかかるように、検討の様子を見ていた。だが心ここにあらずの風情だった。

 

「それと。ここだが。実にいいタイミングで置いたね。」

「そこは、本当はもっと早く置こうと思っていたのですけど、ぎりぎりまで粘ってみました。」

「そこが今回の勝負の分かれ目になったね。君がいつ、そこに石を置くだろうかと楽しみにしていたよ。」

行洋は一通りの解説を終えると、ヒカルに言った。

「進藤君、君とハンデなしに打つ時を楽しみにしているよ。」

「はい。」

 

行洋は、「私はこれくらいで。」と言うと幽玄の間を後にした。

和谷は、ヒカルに声をかけた。

「やったな。次は俺たちの番だ。進藤のおかげでやる気が出てきたぜ。」

ヒカルは、にこっと笑った。

 

帰りがけに、越智は和谷にボソッと言った。

「和谷、分かってるの?嬉しそうにしてるけど。」

「分かってるって?ああ、分かってるさ。これから、進藤と戦うことになるっていうんだろ。あんな碁を打つ奴と。

仲間であっても仲間でない。競争相手だ。そんなこと分かってるさ。院生の時だって、ずっとそうだったじゃないか。

俺は俺でやるしきゃない。俺だってプロになったんだ。」

 

ヒカルは一人対局場に座っていた。

皆が去って、がらんとした幽玄の間を見回すと思いっきり深呼吸をした。

この空気をもう一度吸い込んで、佐為に分けてあげるんだ。

ヒカルは、率直に嬉しかった。

勝てたこともだが、佐為が自分に入れ込んでくれたその労力に報いる碁が打てたと思えたからだ。

佐為に堂々と報告できる碁が打てた。

それから立ち上がると、名残惜しげに部屋を出た

 

「進藤。」

アキラにいきなり呼び止められて、ヒカルはぎょっとした。

ヒカルが出てくるのを待ち構えていたのだ。アキラは険しい表情をしていた。

「塔矢?」

「君に話がある。今日サイさんに会ったよ。モニタールームで。これを君に渡してくれと頼まれた。」

ヒカルは差し出された袋を見てぎょっとした。服がたたまれて入っていた。

アキラは、それ以上言わずに、そのままヒカルの手を引っ張ていった。

ヒカルは、ただ、そうされるままに、アキラに付いていった。

 

車を走らせようとしていた緒方は、ヒカルとアキラが、手を繋いで棋院から出てくるのを見かけた。

「ほう。これはまた、随分と親しいようだな。アキラ君のことは、分かっていたつもりだったが、俺が気づかないことも、いろいろあるのか。」

それにしてもあの男は何だったのか?一人で帰ったらしい。ということは進藤やアキラ君と直接に関係はないのか?

緒方は、もう一度気にも留めなかった佐為の顔を思い出そうとした。

しかし、髪の長さ以外、思い出せるものはなかった。

 

 

ヒカルが家に戻ったのはその日かなり、遅かった。

検討が終わった時にはすっかり日が暮れていた上に、アキラと話をしていたからだ。

「食事は?お風呂は?」

そう聞く母親に、食べたからいいと言うと、ヒカルは部屋にあがり、そのままどさっとベッドに横たわった。

 

新初段戦を終えた時の高揚感は既に消えていた。

「本当に、塔矢のやつ…。」

そう呟きながら、ヒカルは、アキラと話したことを思い起こした。

アキラは自分の納得がいくまで、いつまでもヒカルを離さなかった。

もう遅いから、別の日に。ヒカルはそう思ったが、アキラには、そういった時間の感覚は、まるでないようだった。

「サイさんは、僕の目の前で消えた。僕は前にも見てるよ。君が家に来た時、駅に行く途中で、サイさんが消えたのを。」

ヒカルはぎょっとしてアキラを見た。知ってたのか?

「でも僕には目の前で起きていることが理解できなかった。」

 

佐為は今日俺の対局を見に来ようと前から決めていたのだ。でも何で俺に隠していた?

佐為が観戦していると、俺が気を散らすとでも思ってたのか?

いや、そうじゃないだろう。もしかして…

ヒカルの心に初めて、陰がよぎった。

何か不吉なことが起きるのじゃないか。起きているのじゃないか。佐為の身に。

 

ヒカルは、アキラから渡された封筒から石を取り出した。

「何も入っていないけど、サイさんは何か不思議な儀式をしていた。何かを入れる仕草だ。」

アキラはそう言ってヒカルに封筒を手渡したのだ。

塔矢には、佐為は見えるけれど、この石は見えないのだ。

 

「君の話は分かった。サイさんが服を残して消えたのも二度も見た。

それでも、僕は信じられない。

何をどうやって信じればいいというのだ。」

アキラは苦しそうに、そう言って去って行った。

 

ヒカルはアキラの後ろ姿を見えなくなるまで、じっと見送っていた。

信じきれないという塔矢に何も言えなかった。

塔矢に分かってもらえなかった。

佐為が消えるのを見ているのに、信じてもらえないなんて、どうすればいいのだろう。

ヒカルには、アキラが納得してくれなかったという挫折感は大きかった。

「塔矢に信じてもらわなくたって、いいさ。」

ヒカルはふてくされたように声に出してみた。

 

アキラもまた複雑な思いを抱いていた。

進藤の話は、本当のことなんだ。

ありえないけれど、現実なのだ。分かっている。

サイさんが消えるのを僕は見た。

「でも僕は進藤が経験したようには時を旅することは出来ないのだ。」

アキラは苦々しげに呟いた。

 

大体、進藤は本当に、時を旅したのか?

サイさんだけが未来へ来れたということではなく?

サイさんは僕のことをどう思ってるのだろう。僕が簡単に時の旅を信じると思っているのか?

僕を信じて、後を託したのは間違いないけれど。

でも、それって、あんまり勝手過ぎやしないか。僕はサイさんにとって一体何なのだ。

 

ヒカルは、三月の入段式まで、越智と和谷の新初段戦と森下研究会へ行く以外、特に用がなかった。

早く佐為の元にいきたいと思いながらも、石はなかなか輝きを取り戻さなかった。

ヒカルはひたすら待った。

必ず石は回復する。必ず輝きは戻る。

それは信心にも似た確信だった。

だって、佐為にもう会えないなんて、そんなことがある筈がないじゃないか。

 

二月も末、期末試験も終わり、学校も少し緩んだ空気になっていた頃だった。

越智に続き、和谷の新初段戦が終わった.

ヒカルは引き出しを開けた。

塔矢先生から、リベンジ戦の連絡がなくて、ほっとする。

塔矢は何か先生に話したのだろうか。いや、多分、何も話してないと思う。

先生は佐為が消えるのも見てない。塔矢以上に、時の旅の話を信じるわけがない。

この石が見えたなら、信じてもらえる?

いや石が見えて俺が消えても…いや、俺は消えないんだった。

俺の体はここに残ってる。確か最初の時に、あかりが言ってたじゃないか。意識を失っていただけだったって。

ああ、やっぱ塔矢も塔矢先生もどうでもいいよ。俺はただ。佐為に、もう一度会いたい。それだけ なんだ。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

円居74

『円居』 71~80
ヒカル新初段戦からプロ対局、塔矢行洋引退
(主な登場人物…ヒカル、佐為、緒方、桑原、和谷、越智、アキラ、行洋、天野、導師、美夢、紅、美津子、明子、倉田)


佐為は床に臥せっていた。

「分かっていないことはあるが、はっきり分かっていることがある。 」

佐為は呟いた。

私は戻ってこれた。だが、私の石はもう…。

あの時、塔矢アキラには、きちんと説明できなかったが、彼は分かってくれただろうか。

多分、ヒカルのところへ服を持って行ってくれただろうから、ヒカルが訳を話すだろう。

 

 

佐為が臥せっているという事を聞いて、心配した導師が駆けつけてきた。

「佐為、一体どうしたことか。」

「導師。申し訳ございませぬ。私は導師に黙っていたことがございます。」

佐為は導師に、ヒカルの時代へ行ったことを話した。

 

「何?佐為。そなた時の旅に出かけたのか。この体で。」

「いえ、出かけた時は、体は元気でした。戻ってからこうなったのです。

私は石がこうなりかけた今、分かることがあるのです。時の旅について。

石は私の体とともに旅をする。石と私、二つの力が合わさって、旅はなる。

導師が以前言われたことが正しかったのです。

私の体は、別に何ともないのです。ただ石の力が弱まってきただけです。

もし石の力を維持したければ、私の体がその力を分けなければならないのです。

せめてもう一度だけ、ヒカルに会いたい。だから私は今こうして石に力を分け与えているのです。」

 

導師は痛ましそうに佐為を見た。

「それが分かっていて何故旅をしたのだ?ヒカル殿に会いたければ、来るのを待てば良いだけではなかったのか?」

「すみませぬ。自分の望む碁が打てないのなら私には生きる意味がないのです。ですから、私は旅をするほかに生きる道が見つからなかったのです。」

 

そう言ってから、佐為は導師に黙っていた旅の話を始めた。

ヒカルの成長に矢も立てもたまらず、時の旅に出かけたこと。

そこで塔矢行洋と運命的な出会いをしたこと。

対局の約束をしてから、自分を鍛え、三度対決をしたこと。

「その三度目は私の負けでした。その者とは雪辱を果たす対局を約束をしたのです。」

 

「佐為。その体で本当にいく積もりか?」

佐為は寂しげに首を振った。

「いいえ。私には分かっていることがあります。三戦目を終えた時、力尽きて、あの者の家で倒れてしまったのです。そのときに感じました。分かったのです。

私が旅しようとしまいと、この石の寿命は尽きるということが。この石は、あとふた月、いいえ、ひと月も持たぬと。

だから私は決心したのです。残されたわずかな期間に出来ることをしたいと。」

佐為はそこでまで話すと一息つき、また続けた。

「ヒカルに私の伝えうる出来るだけのことを伝えると。ヒカルに私の全てを託そうと決めました。」

 

「そうか、それであの鬼のような指導をしておったのか。」

「はい。厳しい試練をヒカルはよく耐えたと思います。でももしかしたら。」

「もしかしたら?」

「ヒカルはあれを厳しいとも試練とも思わず、楽しみとして頑張っていたような気もしました。」

「何?」

「それにヒカルはあの者とみんなの前で対局することになっていたのです。もちろん力の差を考慮して、ヒカルに有利な条件で用意された対局ですが。

でもあの者がヒカルを指名したのですよ。私への挑戦状でもありました。」

 

佐為は思い出すように、遠くを見つめた。

「私自身はもうあの者と戦う時間は残されていないとすれば、ヒカルには堂々とした対局をしてもらいたかった。

私には分かっていました。石が力を失えば私は自動的に平安のこの地に戻ることを。石を使ったこの場所にです。

だから賭けました。ヒカルの晴れ姿を見たかったのですよ。心残りはございません。

ヒカルはすばらしい態度で対局をしてくれました。あの特別の部屋で。私が授けた思いを全て受け止めた良い碁でした。そしてあの者をもきちんと満足させる碁でもありました。」

佐為は思い出すように言った。

導師は口を挟まなかった。

しばし静寂が部屋を包んだ。

 

がすぐにそれは途切れた。

部屋がぱっと明るくなり、ヒカルが現れたのだ。

「やっと石が使えたよ。来れたんだ。佐為のところに。」

ヒカルは佐為が床に臥せっているのを見つけ、眉根を寄せた。やっぱり、悪いことが…。

 

「佐為。病気だったの?」

佐為はそれには答えずに、言った。

「ヒカル。あなたにはもう会えないと思っていた。 でも一目もう一度会いたいと念じていた。願いが通じたようだ。」

ヒカルと佐為はじっと見つめあった。

 

導師が言った。

「佐為には無理でも、ヒカル殿は今までどおり、時の旅が出来るのか?」

佐為は首を横に振った。

「多分、ヒカルの石の方が磨耗が少ないのでしょうが。

でも二つの石が合わさった力の全てが時の旅を左右するのです。一つの石では無理です。」

 

ヒカルは部屋の隅で手早く水干に着替えながら、佐為の話に耳をすませた。

 

「ヒカル殿は知らぬのじゃな。先ほどの話を。」

導師は非常に厳しい顔をしていた。

ヒカルにとも佐為にともなく、導師は言った。

「私は先ほど、初めて佐為に話を聞いた。もう時の旅は終わりにせねばならない。今の佐為の言葉を聞けば、それは佐為だけではない。佐為とヒカル殿、二人共にだ。

佐為よ。もう目的は達したのではあるまいか。 

佐為は念願の相手に会えて数回対局をしたそうではないか。それにヒカル殿は無事囲碁の棋士になられた。

これ以上危ないことはしてはならぬ。

私は佐為が石の力を伸ばすために試したことを聞いて、ヒヤッとしたことだ。」

それからヒカルに言った。

「ヒカル殿。すまぬがそなたの石を見せてはくれまいか。」

佐為の石同様、ヒカルの石も光がかなり鈍くなってきているように思えた。

 

ヒカルは導師から、石のからくりを聞いた。

「じゃあ、あの夏に佐為が体調を崩したのは、やっぱ時の旅と関係があったんだ。」

 

石が力を維持し続ければ、同化している佐為の体力を奪うことになる。

それでも何もしなければ、まず石が力を失い、佐為は平安に戻っていくのだ。

それで佐為の体が突然に消えるのか。

消える感じが佐為には分かっているのだ。だから消えないよう石の力を自分の体力で、少しづつ補ってきた。

対局でも体力を使ったから、塔矢先生のところで倒れちゃったんだ。

 

「石の力を維持するには二つの石を持っていればいいと、私はそう思いました。それで、ヒカルと数回試してみました。

ヒカルには悪かったが、あの者との四度目の対局のためと称して。出来れば私も勿論そうしたいが、時間がない。」

ヒカルは佐為の顔を見た。

佐為は何を言おうとしているんだ?俺の予感は的中か?

 

「もしかして、佐為はもう俺の時代へ来ることができないのか。俺の石を使っても?」

佐為は寂しげに、だがあっさりと認めた。

「ええ、あの時はまだ大丈夫でした。ヒカルの石と私の石、二つの力が時の旅を支える。だから、私はヒカルの石を持って、塔矢邸に出向き、打った。

また新初段戦の折も、二つの石を持って棋院へ行った。

二つの石の力と、私の体力とその三つの力を合わせて旅を実現させた。石の力は確実に弱まっている。ますます。」

佐為は続けた。

「それでも石の力が弱まれば、自然と私は平安に戻れますし、ヒカルは自分の時代へ帰れます。石の最後の力です。それは。」

 

導師は首を横に振った。

「いや、考えが甘い。それはまだ石が力を持っているからだ。もし、石がただの石に戻ったらどうなるというのか。佐為の時はまだ 、うまくいったが、ヒカル殿はここから自分の世界に戻ることが出来るといえるのか。いや、分からぬ。無事では済まぬかもしれぬ。

ヒカル殿。すぐに戻られよ。私はそなたが好きだ。会えれば嬉しい。だが、危険をこれ以上冒させるわけにはいかぬ。もう二度と会えぬとは寂しいことだが 、それがヒカル殿のためだ。

さあ、すぐに衣服を着替えるのじゃ。そして戻るのじゃ。自分の時代へ。」

ヒカルはそれほど急ぐ必要はないと思ったが、導師の厳しい口調に、服を着替えることにした。

 

ヒカルは残念に思った。自分の石がまだ力を保っていると感じられたからだ。

でもそれより何より佐為と一緒ならここにいてもいいような気もし ていたからだ。

だが、今の導師には逆らえなかった。しかたなく着替えようと、ヒカルが立ち上がった時だった。

門前が騒がしくなった

佐為と導師は顔を見合わせた。

「何事か?」

 

まもなく用人がやってきて言った。

「宮中より火急の用件につき、すぐにご同行くださるようにとのことでございます。」

導師と佐為は顔を見合わせた。

「すぐに用意をいたしますから。」

佐為がすばやく衣服を改めている間に導師は、使いの者にそれとなく、声をかけた。

「どなたか他にもお呼び出しがありましたか。」

 

楓の大納言と術師が呼ばれているらしい?

その言葉に導師は不吉な予感を隠せなかった。

「佐為。」

「大丈夫でございます。私には何も疚しいことはございませぬゆえ。」

 

ヒカルと導師を残して、佐為は帝の元に向った。

佐為の姿を見送りながら、ヒカルはすぐには絶対戻れないと思った。

「俺。佐為が戻るまで、ここにいることにするよ。石の力は突然に消えるものじゃないんだ。俺にだって、石の力の加減は少しは分かるんだ。」

導師はそれを聞いて軽く頷いた。

 

ヒカル殿のことも心配は心配だが、今はそれよりも佐為のことが心配だ。

「ヒカル殿。とりあえず最悪のことを考えて準備を怠らぬほうがよい。わしはちょっと邸に戻ってまたすぐ来る。」

 

 

ヒカルは一人で佐為の邸で留守番をすることは慣れていた。

一人といってもいつもの口の利けない用人はいる。

 

ヒカルは一応自分が着ていた服を小さくたたんで、布に包んだ。

いざとなったらそれを抱えて、このまま戻れば。試してないけれど、佐為は戻った時、狩衣を身に着けてたんだから、その逆で、俺だって大丈夫だろう。

 

導師も佐為も遅かった。

外にも出れないし、佐為が持っている本は、筆で筆写されているもので、ヒカルには殆ど読めなかったし、読めたとしても面白くはなかっただろう。することは何もなかった ので、ヒカルは書物をぱらぱらとめくった。

「あれ?」

ヒカルは書物の間から一通の書状を見つけた。

術師あてみたいだ。ここに置いとかない方がいいんじゃないか。

もし誰かが来て、この部屋を調べたりしたら…。

ヒカルはその書状を自分の服の間にしまった。

 

それからヒカルは、碁盤を引き 寄せた。でも、石を並べる気には、なれなかった。

佐為は大丈夫だろうか。

何をしようとしても落ち着かない。

ヒカルは諦めて碁盤を片付け、ごろっと寝そべった。

 

もし今戻ったら…。二度と佐為に会えない。

佐為がちゃんとここで無事に居るところを見届けてから戻るから。

その内ヒカルは寝てしまった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

円居75

『円居』 71~80
ヒカル新初段戦からプロ対局、塔矢行洋引退
(主な登場人物…ヒカル、佐為、緒方、桑原、和谷、越智、アキラ、行洋、天野、導師、美夢、紅、美津子、明子、倉田)


足音で、ヒカルは目が覚めた。

数人の者が邸のあちこちで何かしている。

足音の一つがまっすぐヒカルの元へやってきた。

「佐為?」

導師だった。佐為は一緒ではなかった。

 

導師は、常ならぬ様子で、起き上がったヒカルの前に座った。

「佐為は?」

導師は黙って首を横に振った。

「会えぬのは残念だが。一刻の猶予もできぬことになった。

ヒカル殿。何も言わず、すぐ、ご自分の時代に戻られよ。」

ヒカルはいろいろ聞きたかったが、導師のあまりに緊迫した様子に黙って頷ずくしかなかった。

何も聞ける雰囲気ではなかった。

しかたなくヒカルは、そのまま着替えもせずに、胸の石を握りしめ、念じた。

俺の部屋に。俺の時代に。

しかし、何度念じても、何も起こらなかった。

 

俺の気持ちが入っていないから?そういうわけじゃない。

石は鈍いながらもまだちゃんと光を有していた。

それをみつめ、ヒカルは静かに言った。

「石が力を失ったわけじゃない。ただ石の力が足りないんだ。」

心配げに見守っていた導師はそれを聞いて呻いた。

「ではもうヒカル殿は自分の場所に戻れぬのか?」

ヒカルは首を横に振った。

「佐為は俺の石の力も借りて、時を旅した。だから、佐為が戻ってくれば大丈夫だよ。俺、戻れるよ。」

 

導師は厳しい顔をした。

「佐為はここへは戻らぬ。」

「それってどういうこと?」

ヒカルが問いかけた。

導師はヒカルの問いかけには答えず言った。

「今この邸を片付けさせている。何か不都合な物を残さぬようにだ。」

「不都合なもの?佐為はどこにいるの。まだ大丈夫なんだよね。」

何かが起きたんだ。でも片づけているってことは、不都合が見つからなければ佐為は大丈夫ってことなんだろ。違うのか?

 

導師はヒカルに目を向け言った。

「ヒカル殿は、恐ろしくはないのか?私は恐ろしゅうてならぬのに。」

「導師さんは何が恐ろしいの?」

「ヒカル殿はずっと、この時代に生きることになるのだぞ。佐為の石はもう使えぬだろうから。」

「佐為の石が使えないって。

でも導師さんが心配するのはわかるけど、それでも俺、一生ここにいるとは思えないんだよ。

もちろんそれは俺の勘に過ぎないけどさ。時を旅する者は、ほっておいても結局元に戻る。そんな気がするんだ。」

それからにこっとして言った。

「でも仮に戻れなくても、ここには佐為が居る。今どこにいるのかわからないけれど。でも俺は平気さ。

それにもし、ここじゃなくても、どこにいようと、佐為と一緒なら俺は平気だよ。」

 

導師はその言葉に思わず涙を浮かべた。胸が詰まったような声を出して言った。

「すまぬ。本当にありがたい言葉だ。ヒカル殿がなぜ時を旅してきたのか、その意味を初めて分かった。

分かってはいたが、こんなにもはっきりと。

佐為は何と幸せ者なのか。ヒカル殿にそう言ってもらえるとは。」

 

それから、導師は、ヒカルにぼつぼつと話を始めた。

「ヒカル殿は佐為と帝のことを何か知っているか?」

「前に何か頼まれごとがあるって言っていたけれど、それだけ。」

「そうか。ではその頼みごとがなくなったことは、知っていようか。」

ヒカルは首を振った。

「私は以前から心配していた。佐為は政(まつりごと)からは遠い。

縁のない世界にいるが、しかし、帝のすぐ傍にて、お話申し上げられることをしている。碁の指南役としてだが。

佐為は帝とは東宮になる前から存じ寄りなのだ。私事においても親しいということだ。

実に微妙な位置にいるのに。佐為はそのことに自覚が少なく、私はひどく心配していた。

帝の頼まれごとが何か、私はひそかに探りを入れてみた。

分かったことは、佐為が対局をしてその結果で、楓の大納言の娘を誰の元に迎えるかということのようであった。」

 

「それって、どういうこと?」

「大納言の娘は、帝の大伯母の斎院と中宮が欲しがっていた。才のある子どもらしい。

しかし、一番執着したのは実は帝だったのだ。

帝は大伯母と中宮の二人の望みを断り、自分の元へ迎えることに決めた。

左大臣家の威光は今や帝の力を凌駕する。

とはいえ、帝は何といっても帝なのだ。

帝が口にされる御言葉は大変に重いものなのだ。

楓の大納言はどう返答するであろうか。

 

そつのない男だという評判だ。

大納言は金を持っている。金の力で、のし上がってきた。

ここでもし帝のもとに娘を差し出すとなれば、その力はさらに増すことになろう。

だが、ことはそう単純なことにはならない。

このことで大納言をめぐり、周囲の貴族たちの腹の探りあいが始まったのは至極当然だ。

帝の頼みごとがなくなったというのは、結局のところ楓の大納言が帝の意を受け入れて、娘を帝の下に差し出すことを決めたからだ。

だが、これは単に一人の娘子の取り合いという単純ごとにはならぬのよ。楓の大納言の娘だから。

それは権力の行く末を左右する出来事になるということなのだ。」

 

「話は分かったけど、それと佐為が呼ばれたことと、どう関係するの?」

導師はため息をついた。

「それが分からぬのだ。何故、急に佐為が呼ばれたのかが。とにかく術師が関係しているらしいのが一番心配だ。」

「術師…。」

あの嫌な男だ。でも佐為のことは敬っていたようだった。俺のことは嫌いでも、佐為のことは嫌いじゃないのでは?

 

「ヒカル殿。私は佐為がヒカル殿の世界へ旅をした時から、心に決めていたことがあるのだ。」

導師は言った。

「ヒカル殿の世界のありようを知ったからには、佐為はもうこの平安の都に生きていけないと思った。

私も老いた。いつまでも佐為の傍にはおれぬ。私が居なくなれば、佐為はひとりになる。

勿論知り合いはこの都に多く居る。親しい知人もおろうが。

だが、時の旅を語れる相手がいなくなるのだ。その上、ここには相応の碁の相手がおらぬ。」

ヒカルは黙って聞いていた。

 

「だから以前から考えていたように佐為を大陸へ行かせようと。

果たしてそこも佐為に住み易いところかは分からぬが、それでも、息を潜めて生きることにはなるまいと思う。

それに少なくも私よりは上手の碁打ちが多くいることは確かだ。」

 

ヒカルは言った。

「それで大陸には、どうやって行くの?」

「今なら私もまだ旅はできる。私もついていくつもりだが、密かに船を手配しているのだ。難波津から船に乗れる手筈を取ってはいるが、」

導師はそう言ってから、嘆息した。

「だが、このように急なことになるとは。佐為が戻ってきたら、出来るだけ早く出立したいと思うが、今はまず、佐為が無事戻ってこれるかが心配だ。それにあの体だ。」

 

あの体。ヒカルはその時、ふと思った。

なぜ石は佐為にだけ負担をかけるのだろうかと。

俺だってその負担を佐為と分け合えるんじゃないか。

俺は佐為よりずっと若いんだし。

しかしその考えを導師には話さなかった。

 

「さっき導師さんはどうして、佐為が戻らないって言ったの?」

「それは様子を聞いてきたのだ。

詳しいことは分からなかったが、幸いにも様子を知らせてくれた者がいた。

佐為殿は今日は留め置かれるだろうと。留め置くというのは、もちろん帝のところにではない。

左大臣の息のかかった貴族の邸に預かりになるのだ。

どのような扱いになってるのかは分からぬがまあ、今日のところは大丈夫だろうと思っているが。

ただ、物事は突然に決められることがあるからの。油断はならぬ。」

導師はヒカルの手前、務めて冷静にふるまってはいるものの、言葉の端々に危機感が滲み出ていた。

もしかしたら命が危ないのか?何かできることはないのかな。

 

しばらく沈黙が支配した。

その時、導師の下男の治吉が急ぎ足で部屋の上り口にやってきた。

導師は立ち上がって、部屋の外に出て行った。

 

すぐに導師は戻ってきた。

「ヒカル殿。出立だ。この邸を出る。ヒカル殿は馬に乗れたな。」

「佐為は?」

「話はあとだ。佐為を助け出してくれるというお人がいる。そのお人を信じよう。」



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

円居76

『円居』 71~80
ヒカル新初段戦からプロ対局、塔矢行洋引退
(主な登場人物…ヒカル、佐為、緒方、桑原、和谷、越智、アキラ、行洋、天野、導師、美夢、紅、美津子、明子、倉田)


小船の上で、佐為はじっとヒカルを見た。

ヒカルも佐為を見つめ返した。

佐為は、耳につけていた石を外し、ヒカルに渡した。

ヒカルは自分が持っていた石と合わせ、そのふたつの石をしっかりと両手で握り締めた。

正しき道を。ヒカルはヒカルの時代に、私は私の時代に。

佐為は祈るようにそのヒカルの両手を包んだ。

ヒカルは、一瞬、佐為と同化したような気がした。

今だ。今なら。ヒカルはその瞬間を逃さなかった。

石よ。伝えてくれ。俺の全てを佐為に託すと。

そのまま、ヒカルは時の渦の中に放り込まれた。

ヒカル、ヒカル…

佐為の声が遠くに響いていた。

 

***

 

気が付くと、ヒカルは自分の部屋のベッドの上にいた。

石はどうなった?ヒカルは握り締めていた手を開いた。

もうそんな力も残っていないほどだったが、それでも手のひらをやっとのことで見つめた。

二つの石はまだ赤く熱くみえたが、それも一瞬のことだった。石はすぐに白い燃えカスのようになり、ほろほろと崩れ、灰となり、細かいちりとなり、ヒカルの手のひらから舞い上がり、ガラスを通して窓の外へと、そして明け方の空へと散り、消えていった。

起き上がることもできないまま、ヒカルは声にならない声を出していた。

佐為っ!

佐為が行ってしまう。

ヒカルはそのまま気を失った。

 

次にヒカルが気づいたのは、病院のベッドの上だった。

「ヒカルが気が付いたわ。」

あかりの声が聞こえた。あの時と同じように。

でも同じではなかった。

あかりの声に呼応するように病室に両親と祖父母が入ってきた。

「ヒカル、10日もこん睡状態だったんだよ。」

あかりが言った。

 

知らせを聞いた医者が飛んできた。

「どこも悪いところはないのです。理由は分かりませんが、疲労していることだけは確かです。

全く命が尽きないのが不思議なほどですよ。でもこれで何とか持ち直しましたね。とにかく良かった。」

医者は病室を出る時に言った。

「でも体力の消耗が著しいので、退院は少し先になりますよ。」

 

ヒカルは回復が遅かった。

今ヒカルは食べ物を口にし、飲み込むという動作すら、億劫だったのだ。

「あの時は、すぐ食欲が戻ったのに。」

ヒカルの口元に匙を運ぶ美津子が心配そうに呟いた。

 

健康だけが取り柄のようなヒカルが、入院するなどなかったことだ。

みんなが“あの時”のことを思っている。

でも“あの時”がどんなことの始まりだったのかは、ここにいる誰も知らない。

初めての時の旅。

ヒカルは、うとうとしながら、佐為はあれから、どうなっただろうかと思っていた。

俺の力は佐為に届かず、ただ最後の時の旅にだけ費やされたのだろうか。

 

***

 

星明りがきれいだ。

佐為は船の上にいて夜空を眺めていた。

船は導師の考えていたように、大陸に向かっている。

立派な造りで、荒海に耐える仕様になっていて、安定感があった。

それでも遭難はする。航海には危険がつきものだ。

でも私は運がいい。

 

背後で声がした。

「佐為。何を考えている。せっかく回復した体を労わらねばならんぞ。

あんなに弱っておったのに奇跡としか言いようがない。

石を手放したせいなのか?」

佐為は導師を振り返って微笑んだ。

 

「そうではありません。ヒカルがその奇跡をくれたのですよ。」

「それはどういうことか。」

導師は訝しげに言った。

「ヒカルは石のからくりを聞いたではありませんか。石に力を与えるために私が自分の体力を分け与えたことを。」

「ああ。」

「ですからヒカルは考えたのでしょう。私が石に体力を与えられるのなら、ヒカルもまた自分の体力を石に与えられるだろうと。」

佐為はそこまで話し、思わず涙ぐみながら続けた。

 

「それだけではないのです。

ヒカルは石を握りしめた時、こう祈ってくれたのです。

自分の体力を私に注ぎたいと。

そして石はその願いを聞いたのです。

ヒカルはあの時自分の時代へ戻りました。

そして余った力はすべてわたしの体に注がれたのです。

今私がこのように元気なのはヒカルの生きる力がすべて私に注がれたからなのですよ。」

 

導師は思わず祈るように空を仰ぎ見た。

「ヒカル殿は何というお方か。素晴らしいお子じゃな。」

「はい。素晴らしい子です。私には唯一無二のかけがいのない存在です。」

 

導師は急に心配そうに聞いた。

「ヒカル殿は自分の時代に戻られたとして、元気なのだろうか。大丈夫なのだろうか。」

 

佐為は導師に向かって明るく言った。

「ヒカルの時代の医術は恐るべきものですよ。

心の臓が悪くなっても、それを切り開き取り替えることすらできるのです。

私はあのままでしたら、もうダメでしたでしょうが、ヒカルの時代なら、何なく治すすべがある。

そう思えます。ヒカルもそう思ったのではないでしょうか。」

 

導師はほっとしたように言った。

「そうか。そうなのか。ヒカル殿は考え深いお子じゃから、そう思ったのだろうな。」

 

導師の後に続き船室に向かいながら、佐為は物思わしげに心に呟いた。

「ヒカルは勿論あの時代の子どもだから、だからそういう考えは何となくしみついてはいただろうが。

だがあの時、ヒカルはそんなことは考えていなかった。自分の命の輝きをすべて、私に移し替えるようにと祈っていた。

自分の命のことなど、これっぽっちも考えていなかった。

あの石を通して私は感じた。

そして、ヒカルの願いの余りの強さに、私はただヒカルのその祈りを全身で受け止めるしかなかった。

ヒカル。どうぞ無事に元気を取り戻してほしい。私は一目でいいからあなたに会って、一言述べたい。

ありがとうと、そして、ヒカル。あなたの元気な姿を見たい。今私の望みはただそれだけ、それ以外は何もない。」

 

船室に入ろうとした時、傍にいた警護役が言った。

「幸いなことにここ当分は大きな天候の崩れはないと、水夫(かこ)が申しておりました。ご安心なさいませ。」

船室に入ると、楓の大納言の娘が、きらきらした瞳を輝かせて言った。

「佐為さま。今は揺れていないから、ぜひ一局ご指南下さいませ。」

佐為が嬉しそうに楓の大納言の娘の相手を始めるのを眺めながら、紅内侍はため息とも何ともつかない様子で、導師に言った。

「それにしても結局のところ、佐為殿はお変わりにならないのですね。」

導師はただ嬉しそうに言った。

「でも内侍殿はこうやって、危険な旅に、佐為と一緒に来てくれたのだ。やはり繋がりが深いのだと、切れていなかったのだと分かって私は本当に嬉しかった。あなたが去った後の佐為の荒れようと言ったらなかった。私は本当に手を焼いたんですよ。」

 

内侍はその導師の言葉に少し顔を赤らめたが、だがとても嬉しそうだった。

しかし佐為が顔をあげて自分の方を見たのに気が付いた途端に、つんとすまして言った。

「私は佐為殿についてきたのではございませんわよ。美夢殿(楓の大納言の娘)のお供をしているのですから、お間違いなく。」

 

佐為はその内侍の様子に、笑いをこらえ、碁盤へ顔を向け、密かに思った。

私も内侍殿も変わらないな。お互い意地っ張りなところは。でもそれでも。私はヒカルと付き合って、こういうことには修練を積んできた。

そこで、佐為は顔をあげ内侍に向かって言った。

 

「私は嬉しい。内侍殿が美夢殿について来てくれて。導師と二人、決死の旅と思っていたのが、もちろん、海路の危険は承知だが、それでもこんなに私が心を許せる人たちと旅をしていることが。本当に嬉しい。」

佐為の言葉を導師が受けた。

「そうじゃな。内侍殿が美夢殿と知り合いでいたというのは驚きだったが、人は皆定めに従って、巡り合うのだと思えてならない。内侍殿はもう京に戻ることがないというのに、平気か。」

 

内侍は素直に答えた。

「私も心を許せる人々とともにあれば、どこに暮らそうと平気ですわ。もうはかりごとの真っただ中にいるのは御免こうむりますわ。それに佐為殿も少し変わられたように感じます。そう、私が変わったのと同じくらいには。」

くすっと笑って内侍は答えた。

 

美夢はくるっとした目で言った。

「父上が言っておりました。佐為殿は私の母の国では大丈夫だと。京よりはもっと自由に過ごせる筈と。

それに父上はいつか、私の元を訪ねると約束してくれました。」

 

導師はみんなの会話を聞きながら、思い出していた。佐為の邸にいた時に届いた文。

あれで事態が急展開した。

あれは楓の大納言からの思いがけない緊急の文だった。

「導師殿のことだろうから、旅の支度は怠りなくされていようが、桂川の合流地点に小船を用意しているので、大切なものだけ持って至急においで願いたい。佐為殿はそこにお連れする。文を持たせたものが案内する。くれぐれも密やかに、できるだけ、すばやく。あなた方の到着を難波津にてお待ちしている。」

私は即決した。私は、楓の大納言の言葉を信じたのだ。

なぜなら、術師は佐為と大納言の二人を訴え出たのだから。

それに大納言には私たちを陥れる動機がない。

大納言がどのような状態にいるのかは分からなかったが、こういう力は残っているに違いない。

 

ヒカル殿が馬に乗れて良かった。私は佐為の馬に乗り、二人して案内人につき従い、人目につかない通りを密やかに、だが急いだ。

その川のほとりには、しっかりとした屋根つきの小船が待っていた。

案内してくれた者に馬を託し、船に向かうと、そこには何と紅内侍殿がいた。

内侍殿はヒカルがついてきたのを見ても驚きもせず言った。

「お話はあとで。早く船に。」

佐為は船に横たわって、眠っているようだった。

「大丈夫です。お休みになっているだけですから。

この船で難波津へ下りますから時間はたくさんありますわ。」

 

小船がゆるゆると漕ぎ出され、岸から離れると、紅内侍が今までのことを話し出した。

そもそもこの話は、術師が楓の大納言と佐為に呪詛を頼まれたと、左大臣家に訴え出たことから始まったというのだ。

ちょうど左大臣家では、楓の大納言の娘が中宮の元へ遣わされなかったことを憤りを持って受け止めていたところだった。

そこに楓の大納言に反感を抱く勢力がくっつき始めた。

「帝は自分のことだけを考え、政を乱されたのか。」

私はそう思ったが、でも佐為と楓の大納言が呼ばれたのは、帝の命ではないことは確かに危ういことだ。

帝は佐為を断罪などなされまいが、帝のあずかり知らぬところでは何とも言い難い。

 

「楓の大納言殿は常に身辺に注意を払っていたので、自分の反対勢力の動きは事前に察知して、いろいろ対策を講じておられたのですよ。」

そう、紅内侍は続けた。

「私は一昨年より斎院の元にお仕えしておりましたから。楓の大納言殿のお子の美夢殿のことはよく存じております。

妹のようにお付き合いしておりました。だから大納言殿は私のことを信頼してくださいました。

大納言殿は、私と佐為殿のこともよく存じておりました。驚くほどに。それに。」

そこで言葉を区切ると、内侍は導師のことをじっと見た。

「導師殿が密かに準備されていたことも筒抜けでございましたよ。こっそり旅の支度をなされていることを。

大納言殿の力はそれはそれは強大なのでございます。大納言殿の目は、隅々にまで行き渡っていて、大事と思われることはすべて、大納言殿のお耳に届いているのです。

だから、大納言殿がご自身のために、佐為殿を選ばれたことはある意味とても幸運なことでした。」

敵に回す相手ではないということか。大納言が術師と組んでいなくて本当に良かった。

導師は本心からそう思った。

 

佐為は帝に拝謁することもなく、左大臣家の家臣の邸に留め置かれたという。

佐為は、楓の大納言の手の者により、流行病の気を装わせられた。

連れていかれた時、すでに弱っていたので、それはすぐに信用された。

流行病の者が近しいものでなく、厄介者の預かり人だとしたら。

左大臣の家臣はすぐに左大臣に連絡を取り、了解を得た。佐為を自邸に戻してよいと。

大納言の手の者はそれを聞きつけると、邸の者と称して、佐為を運び去ったという。

 

「私は、前々から密かに大納言殿に相談を受けておりました。大納言殿は美夢殿を差し出せという帝の仰せにひどくお困りでした。あの方は野心はおありですが、力のつり合いを大事にされる。そこで考えた結論は一つでした。

美夢殿を誰の元にも上げないということでした。

美夢殿のお母上は、美夢殿を生んですぐに亡くなられたけれど、大陸のお方。

別れがたいけれど、美夢殿を母上の故郷に戻そうと考えられたのです。

美夢殿には彼の地に祖父母伯父伯母など多くの親族がおいでで、大切に迎え入れられることは分かっていますから。

それでも万全を期したい。だから導師殿に目をつけられた。佐為殿との秘め事を知り、私を含め、ご自分のはかりごとに巻き込まれたのです。」

 

術師が大納言と佐為を訴え出た。それは大納言にも思いもかけないことだった。

人の心は分からない。何か自分と佐為の二人が、別々のことであろうが、たまたまあの者の心情を害したには違いないが。それが何か大納言には測り兼ねた。あれは思いもかけないことで、拗ねて恨みに思う危険な男だ。

理由はともかく、この機を逃さず、大納言は素早く事を運んだわけだ。

 

治吉にあとは託した。元々佐為とこの地を離れることは決めていたから、そつなく事を運んでくれるだろう。

あれには薬草の知識はすべて伝えてある。私の邸もくれてやった。生活はたつ筈。

佐為の元で働いていたあの口をきけぬ者の面倒もみてくれているであろう。

後顧の憂いはない。

京では佐為は流行病で、そして看病した私も同じく亡くなったということになっているだろう。

また美夢殿も亡くなったということで、政を乱す元はなくなったというわけだ。

 

そこで導師は思い出していた。

難波の津で、この船が出港する時、いつまでも見送っていた大納言の姿を。

色々言われるが、あの大納言も一人の親なのだ。だからこそ最愛の娘が一番生きやすいと思える道を選択したのだ。

強い男なのだろう。

それが正しいかは今は分からぬが、何かあっても、私や佐為がいる限り、美夢殿は守りたい。

佐為もそう思っていることだろう。それが大納言殿への信義というものよ。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

円居77

『円居』 71~80
ヒカル新初段戦からプロ対局、塔矢行洋引退
(主な登場人物…ヒカル、佐為、緒方、桑原、和谷、越智、アキラ、行洋、天野、導師、美夢、紅、美津子、明子、倉田)


ヒカルが退院したのは意識が戻ってから3週間以上も過ぎた後だった。

 

家に戻った時、ヒカルは聞いた。

「俺の部屋掃除した?」

「ええ、したけれど?どうして?別に何も捨ててないわよ。掃除機をかけただけよ。ヒカルがゆっくり休めるように。」

「ううん。なんでもない。ありがとう。」

美津子はその言葉に首をかしげながら階下に降りた。

「ヒカルがありがとうなんて。どうしちゃったのかしら。」

 

ヒカルは自分の部屋で、ベッドに寝転がりながらじっと天井を見つめた。

石が消えていった時のことを思った。

俺には分かってた。母さんが掃除しなくたって、この部屋にはあの石は残っていない。

あの時すべて空に舞っていったんだ。

もしかしたらあの石はそうやってまた時を旅して、佐為の元に戻ったのだろうか。

佐為の元に戻って、また赤い輝く石になったんだと信じたい。

ヒカルはそう思いたかった。

佐為が耳に赤い石をつけて、微笑んでいる姿を思い描いた。

でもそんなことはないのだ。石は役目を終えて、ちりとなって消えたのだ。

時の旅はもうできない。

もう2度と佐為には会えないのだ。

あの時、俺にできたのは、あれしかなかったんだ。佐為に力を送ること。

それはでも、本当にうまくいったのだろうか。

ヒカルは、そのことを考えるのをやめた。

 

ヒカルの体力は確実に回復してきた。

まだ外には出歩かないが、家の中では、普通に生活できるようになっていった。

でもただ一つ、碁を打つ気力が湧かなかった。

 

碁石を持てないまま、ヒカルは他のことを考えた。

塔矢先生はリベンジ戦を楽しみにしているんだ。

俺、説明しなくちゃならない?

時の旅を先生は冗談でなく、信じるだろうか。

塔矢は、あれほど俺が説明したのに、信じられないと言った。

目の前で佐為が消えたのを見ているのに。

 

ヒカルは入段式を欠席した。

数日後、ヒカルの元へ和谷が来た。

「進藤。病気で入院してたんだって?痩せたな。大丈夫か。」

「うん。ありがとう。もう元気になったよ。そろそろ外出してもいいって、言われてるしさ。

今度の研究会には行けるよ。」

「そうか。良かった。今日はな。入段式の時にもらった書類を届けに来たんだ。」

和谷は、書類の中から一枚を引っ張り出した。

「それを見てみろよ。お前のプロ第一局の対戦相手だぜ。それ見たら、お前、すぐに元気になると思ったんだ。」

 

和谷が帰った後、美津子がお茶を片付けに覗いた。

「あら?これは?」

「森下先生からのお見舞い。」

「まあ、お礼を言わなくっちゃ。白川先生からもお見舞いを頂いているのよ。」

母がいろいろ言っているのを聞き流しながら、ヒカルは思っていた。

 

俺のプロ第一局。 相手は塔矢アキラ二段。

そのことを考えた時、初めてヒカルは力が湧いてくるような気がした。

そうだ。俺は、ここで、もう佐為に会えないとか、うじうじしてはいられないんだ。

 

そしてあの船で、佐為が目覚めた時、ヒカルに色々話してくれた時のことを思い出した。

あの新初段戦のこと、モニタールームであったこと、塔矢先生と交わした会話。

あの時、導師さんと共に傍にいたきれいな女の人は佐為の恋人なのかなあ。

俺のことを聞いても、佐為の話も全然驚かなかった。

時の旅について知ってるんだ。

「ヒカル殿は、虎次郎殿とは違いますのね。でも佐為殿にとても似つかわしい方ですわ。」

そうにっこりと言ってくれた。

あの時最後に、佐為は言ったんだ。

「ヒカルが無事戻れるなら私は他に何もいらない。

私は私の居場所に。ヒカルもまたヒカルの居場所に戻るのだ。」

導師さんが頷いて言った。

「ヒカル殿。天地の秩序を守ることじゃ。さすれば、佐為も元気になる。」

「ヒカルには自分の時代で生きて欲しい。

私が伝えた全てを受け継いで、さらに腕を磨いて欲しい。

私には、それがすべて。だが、そうだな。

心残りといえば、あの者とリベンジ戦が出来なかったことか。」

 

佐為は言ったんだ。

「リベンジ戦ができないことは随分前から分かっていた。ヒカルがあの者の家であそこに石を置いた時に、私にはもう時間が残されていないと。だからヒカルの新初段戦に全てを賭けたのだ。」って。

そうなんだ。俺、言われたじゃないか。

「いつか必ず、もう一度、石を見つけて、ヒカルの元へ行きたい。ヒカルがどの程度腕をあげたか確かめに。

ヒカルは自分の道を進め。ヒカルの時代の強者と打ち合え。」

ヒカルは、佐為のその言葉を思い出し、かみ締めた。

俺は佐為を受け継いで自分の道を進まなくちゃ。俺がいるべき場所で。

いつの間にか、ヒカルは碁盤を引き出し、碁笥のふたを開けていた。

 

アキラは、会場を見渡した。

アキラが新人としては異例なほど賞を受けたその入段式に、ヒカルの姿はなかった。

 

進藤は、つい先ごろまで病気で入院していたらしい。

もちろん、僕は見舞いになど行かなかった。

なぜならその時には僕のところに配達されていたから。これが。

アキラは対局表をじっと見つめた。

対局者:進藤ヒカル。

その名をじっと見た。

 

進藤と話をして以来、信じたいけれど、信じ切れない、そんなもやもやした気持で過ごしてきた。

僕はあの時、サイさんのことばかり聞いて、言いそびれてしまった。

君と打つのを楽しみにしていると。

この進藤との対局で僕はやっと、前に進める気がする。

いろいろなことを吹っ切れると思う。

 

行洋の方は五冠ということで、忙しい日々を過ごしていた。

だが、夜になると一人、ため息とともに思うのだった。

私はすぐにでも打てるという気持でいっぱいだが。こんな状態では、サイさんとのリベンジ戦はもう少し先になりそうだ。

プロでいるということも善しあしか…。もし私が彼のように束縛されない身なら…。

 

いくら行洋が忙しいとはいっても、朝のアキラとの一局は続いていた。

アキラが碁盤を睨み付けるように見ているのを眺めながら思った。

このところ、アキラは張り切っているな。

「アキラ、何か良いことでもあるのか。」

アキラは素直に答えた。

「次の大手合は進藤が対局者なのです。」

「そうか。それは楽しみだな。」

行洋はそう言って、ふと思った。

あの新初段戦は楽しかった。進藤君の夢中な姿に、思い出したのだ。まだプロになるとも思わない頃、今度はどんな手を打って相手を慌てさせようか。負けないぞ。友達とそんな自由な気持を持って打っていた頃を。

進藤君はあの者の気迫を受け継いでいるが、碁は違う。また別のタイプの碁を打つ。

アキラとは対照的かもしれない。本当に楽しみな対局だな。

 

大手合の日の前日だった。アキラは、ふうっと息を吐き、心を落ちつかせて誓った。

明日は、いよいよ進藤との対局だ。いろいろ考えないで、ただ集中して対局に臨もう。まっすぐに。そう、まっすぐにだ。

早めに床についたものの、アキラは夜中にふと目が覚めた。滅多にないことだった。

やっぱり緊張しているのかな?

アキラは時計を見た。

「まだ12時か。水でも飲んで寝よう。」

 

台所へ向う途中、アキラは、父親の座敷の明かりがついているのを目にした。

まだ起きてるんだ。

そっと覗いて見ると父親が碁盤の前に座っていた。

アキラは知っていた。

父は毎晩、儀式のように、碁盤の前に座るのだ。

棋譜並べじゃない。碁笥は一つは自分の横に、もう一つは向いに置く。

サイさんとのリベンジ戦に備えてのことだ。

いつも、そうやって、頭の中でシュミレーションをしているのだ。

 

僕だって父さんのリベンジ戦が終わったら、サイさんにまた相手をしてもらうつもりだ。

でも今は僕にとって大切な対局がある。明日。望み続けていた対局があるんだ。

僕がまっすぐに向かっていける望む相手と。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

円居78

『円居』 71~80
ヒカル新初段戦からプロ対局、塔矢行洋引退
(主な登場人物…ヒカル、佐為、緒方、桑原、和谷、越智、アキラ、行洋、天野、導師、美夢、紅、美津子、明子、倉田)


ヒカルの初めてのプロ第一局の日が来た。

ヒカルの体力はもう、すっかり戻っていた。

もちろん、気力だって、ばっちりだぜ。

それにしても、なんだか新初段戦より緊張するぜ。

そう思いながらヒカルは、碁笥のふたに手を伸ばし、武者震いをした。

 

和谷が持ってきてくれた対戦表のおかげで、本当に気持がシャンとしたぜ。

あれから毎日、僅かな時間しかなかったが、自分なりに研鑽を積んだ。

少しでも力をつけたいと思った。

俺は今日、塔矢の奴と思いっきり戦うぞ。

 

ヒカルはそう思っていたが、対局時間が過ぎてもアキラはなぜか現れなかった。

間もなく棋院の職員が小走りにやって来て、ヒカルにそっと耳打ちをした。

ヒカルは目を見開き頷いて、促されるように対局場を後にした。

 

 

塔矢先生が心筋梗塞で倒れた。

そのニュースは瞬く間に棋界に広がっていった。

そのことを対局場で知らされたヒカルは肩透かしを食らったような気持だった。

打ちそびれた対局への思いも強かったが、それよりも。

佐為にも会えないのに、塔矢先生まで倒れたなんて。俺は一体どうしたらいいんだ。

ヒカルは暗い気持で家に向った。

 

家にいても落ち着かず、何も手につかず、ごろごろしていた。

塔矢先生のお見舞いに行くというのは、すぐには考えつかなかった。

塔矢先生の様子を見に行く。しばらくして、そのことは思いついたにはついたが、なかなか行く気にはなれなかった。

 

だって、先生は佐為の事を聞くに違いない。

リベンジ戦のこともある。

いや、それよりも。そもそもそんな話ができるほど、元気なのだろうか?

新学期が始まった何とはなしのせわしさに紛れて、ヒカルはそのまま過ごしていた。

 

間もなく、ヒカルは十段戦の対局があったことを新聞で知った。

塔矢先生勝ったんだ。圧倒的な対局だって。

佐為とのリベンジ戦に闘志燃やしてんのかな。

それにしても元気そうなのに、まだ入院してるのか。

先延ばしにしていてもいつかは知らせなければならないんだから。

佐為の奴、いつも俺に結局後始末押し付けるんだからな。

 

その三日後、とうとうヒカルは重い足取りで、行洋の入院している病院へと向った。

 

 

アキラは、父親が寝ているベッドの傍で、ぼんやりと考えていた。

あの時倒れたため、十段戦の三局目は不戦敗になった。

それでも次の週に行われた第四局には病院から出かけて行った。

お母さんが付き添って行った。

それは、いかにもお父さんらしい冴え渡った圧倒的な勝利だった。

これで、2勝2敗のタイになった。

 

お医者さんは、無理さえしなければ、ひとまず大丈夫だろうと言った。

あの十段戦の碁を見る限り、お父さんはもう大丈夫なんだと僕も思う。

 

お父さんはそれを聞いても、すぐに退院するともしないとも言わなかった。

病院にいる方が色々煩わしい付き合いから逃れられるから?

緒方さんは一度お見舞いに来て、父が元気そうなのを見て、ネット碁で気晴らしでもどうですかと、ノートパソコンを置いていった。

 

ただ、そういったこととは別に。

お父さんは、もともと寡黙な人だけれど。

でも倒れて以来、殆ど僕ともお母さんとも話をしない。

何かをずっと一人で考えこんでいる。

 

お母さんは、そういうお父さんを見ても、びくともしないけれど。

お見舞いに来る人には、最低限の話はするけれど、心はどこか別のところにあるみたいなのだ。

 

僕は、本当はお父さんに尋ねたいことがある。

でも僕はそのことを尋ねるのをずっと躊躇っている。

 

 

「アキラさん。」

明子が呼んだ。

「はい。何ですか。」

「私は、一度家に戻って、夕食の頃にまた来るつもりだけれど。アキラさんは今日の予定は?」

「僕、今日は空いてますから。もう少しここにいますよ。」

その時、病室のドアをノックする音がした。

こんな朝早くに誰が?

 

明子がドアを開けると、ヒカルが立っていた。

「あら、進藤君。お見舞いに来て下さったの?」

「はい。あの。」

「進藤君はたしか、入院していたと伺っていたけれど。お体はもうよろしいの?」

ヒカルはアキラのお母さんが、そんなことを知っていることに驚いた。

「はい。俺は、もう大丈夫です。」

 

その時、寝ていると思っていた行洋が声をかけてきた。

 

「進藤君に入ってもらいなさい。

それから明子は、用事があるなら帰っていいから。」

アキラは母を見て頷いた。

「僕がいるから、大丈夫ですよ。」

 

明子が帰ると、病室には行洋とアキラとヒカルの3人となった。

アキラのお母さんがいた方が絶対よかったのに。

ヒカルは気づまりを感じながらそう思って突っ立っていた。

 

行洋はベッドに体を起こしながら言った。

「進藤君。実は君に会いたくてね。連絡しようかと思ってたのだよ。」

俺に会いたかった?ヒカルは何となくぎょっとした気分になった。

それから慌てて言った。

「塔矢先生は、その、病気は…。」

「もう大丈夫なのだよ。まあ、しばらくは安静にしているようには言われているがね。」

 

アキラは黙って、ヒカルを見つめた。

当然のことが起こっていると感じた。

お父さんが今まで黙っていたのは、進藤に何か話したいことがあったからなのだ。

それから、眉根を寄せた。

僕はすべて知ってる筈なんだ。進藤がこれからきっと父にする話を。

いや、父が進藤にする話をかな。

 

あの時、あの夜、僕は気が付いたんだから。

碁盤の前に座っている父を見ながら、自分の部屋に戻ろうとした時。

 

アキラは、その時の光景を思い起こした。

あの時、アキラはふと目にとめたのだ。

碁笥は二つとも父親の元にあった。

今日は対局のシュミレーションじゃないんだ。じゃあ棋譜並べ?でも何でこんな時間に?誰の棋譜を並べてるのだろう。

 

そう思って見ていると、行洋は石をにぎり、碁盤に置いたのだ。

アキラは驚いた。棋譜並べで握るものか?

 

行洋は、何か呟くと、黒石を手に取り、ぴしっと打った。

そのまま、しばらく時間が経った。

どうも、ただの棋譜並べには見えない。

それは不思議な光景だった。

一体何の棋譜を置いているのだろう。

 

アキラはとうとう座敷にそっと入り、父の横に座り、父の置く石の並びを見つめた。

行洋はアキラが傍に来ても気にせず、真剣な眼差しで碁盤を睨んでいた。

見たことのない棋譜だ。でもお父さんは自分の棋譜を並べている。

アキラは一方が行洋の手だと分かった。

だったら相手は当然…。

 

長い時間だった。でも時間の長さなど全く感じられなかった。

夜が白み始めた頃、やっと行洋の棋譜並べは終わった。

行洋は何も言わず、じっと盤面を見つめていた。時々指で石を動かしては戻した。

 

アキラはその奇妙な儀式を見守った。

なぜか口を挟んではいけない気がした。

やがて行洋はまっすぐ自分の向かいを見つめた。ずっとそうしていた。

それから立ち上がり加減に手を伸ばし、そのままばたっと倒れたのだった。

 

アキラは、はじかれたように立ち上がった。そして叫んだ。

「お父さん!お母さん!お父さんが!」

 

 

行洋は当たり前のようにヒカルに話しかけた。

「進藤君、サイさんは、本当に、時を旅してきたのだね。」

 

その言葉に、物思いにふけっていたアキラは、はっと我に返った。

「はい。」

ヒカルは、そう返事を返しながら、自分でも驚くほど落ち着いていた。

塔矢先生が、佐為のことを信じていてくれる。時の旅を。でも急に何故だろう。

行洋の言葉は続いていた。

 

「君はそれをすぐに信じたのかね?

君はどうやって、サイさんと知り合ったのか、君とサイさんのことを教えてくれないかね。」

 

アキラは、やっと気づいて、ヒカルに椅子を差し出した。

それから自分も父親の傍に座って、ヒカルの言葉に集中した。

 

「俺がどうして、佐為と出会えたのかは分かりません。

もしかしたら、神様のきまぐれなんじゃないかと思ってます。

先生が今、佐為が時の旅をしたというのを信じているのが。

どうして急にそれを信じてくれたのかわからないですけど。

でも嬉しいです。ただ俺がこれから話すことを先生が信じてくれるかは自信がないです。」

 

そう言ってヒカルはちらとアキラを見た。

アキラは、黙ってじっとヒカルを見返した。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

円居79

『円居』 71~80
ヒカル新初段戦からプロ対局、塔矢行洋引退
(主な登場人物…ヒカル、佐為、緒方、桑原、和谷、越智、アキラ、行洋、天野、導師、美夢、紅、美津子、明子、倉田)


「俺が初めて佐為に会ったのは。

そう、一番初めは、俺が時を旅したのです。佐為じゃなくて。

俺がおじいちゃんの蔵で、不思議な石を拾ったのが始まりなんです。」

 

ヒカルはそれからゆっくりと初めて佐為とあった頃の話を始めた。

初めて出会った佐為とケンカしたこと。

 

行洋は、ヒカルが話す、ヒカルと佐為の初めの頃のやり取りには思わず笑っていた。

 

「本当にしゃくに触って、だから俺は何とか佐為をぎゃふんと言わせたくて、碁の勉強を始めたんです。

白川先生のところの囲碁教室でまずは石取りゲームを教わったんです。

俺は碁は打てなかったけど、碁サロンで塔矢が石取りゲームの相手をしてくれた後で、棋譜並べって言葉を初めて聞いて、それで俺も並べてみようと思った。

平安で初めて見た佐為と導師さんの対局を。頭に植え付けられて忘れられなかったから。

その対局に魅せられていたから。」

 

ヒカルはアキラの方を向いた。

「塔矢はきっと不思議に思ったんだよな。

碁が全然打てない俺があんな棋譜を並べているのを見てさ。

でも佐為が打っているのを見たら、絶対頭に焼きつくと思うんだ。

誰だって。」

 

それからヒカルは、その後、不思議な形でより深く囲碁の世界に誘われていった事。

そのうち佐為が体ごと時の旅が出来るようになったこと。

たまたま、ひと夏ネット碁を打つ機会に恵まれたことなどを話した。

 

 

行洋はふと思いついたように尋ねた。

「進藤君のお父さんは、佐為さんが時の旅をしていることを信じたのかね。」

 

「さあ、どうなんだろう。父は時の旅を信じたと言うより、佐為という人間を信じてくれました。

それから自分の子ども、俺を信じてくれました。

だから時の旅がどうかということは、俺の父には関係がなかったんだと思えるんです。

今、目の前にある事実を理解してくれたと思うのです。

もしかしたら、父はその時、神様の魔法にかかったのかもしれない、そう思うんです。

俺の父は碁は全然興味がないのに、それでも佐為とは何かものすごく気が合っていて、二人が話していると、俺、なんとなく仲間外れにされている気分になったものです。」

 

そうしてヒカルは佐為と父親の微妙にずれながらも息の合った不思議な会話を教えた。

行洋は少しおかしそうに、だが、そうかというようにその話に耳を傾けていた。

 

ヒカルが話せるだけの佐為と自分の話をし終えると、行洋は言った。

「サイさんは、詳しいことは進藤君に聞いてくれと言ったのだが、今初めて君とサイさんとの深い繋がりを理解したよ。」

 

それから少し黙った。

ヒカルも話すことがなかった。

アキラは気づいたようにお茶を注いで父親とヒカルに渡した。

 

やがて行洋は言葉を選ぶように話し始めた。

「私がなぜ急にサイさんが時を隔ててきたことを信じたのかという話に戻るが。

あの時、私が倒れた時、アキラはサイさんの姿は見えなかったのだね。」

そういって行洋はアキラを見た。

アキラは素直に頷いた。

 

「はい。僕はサイさんが時を旅してくることは知っていたけれど、でも姿が見えないことなど想像したこともなかったから…。」

 

行洋は、そう呟くように言うアキラから、ヒカルへと視線を戻した。

「サイさんは、私との約束を果たすため。リベンジ戦のだよ。

もうその“時の石”とやらが使えないながらも、魂だけになって私の元に訪ねて来たのだ。

私は驚くべきだったと思う。その時の気持ちは何とも言えない。

でも私は驚きもせず、当然のことが起きていると思い、極めて当たり前にそのことを受け止め、サイさんと対局したよ。

そのリベンジ戦の内容は退院してから見せるよ。」

 

行洋はちょっと言葉を途切らした。

「それよりも、サイさんはその時、君に一つだけ伝えてほしいと言っていたのだ。

本当は君に会いに行こうとしていたのに、なぜか、私のところへ来てしまったのだと。申し訳ないと。」

そう言うと、行洋はじっとヒカルを見つめた。

 

ヒカルは行洋の突然の告白に驚いた。

ヒカルが返事をしないうちに、行洋は続けた。

 

「私はその時サイさんから、君とサイさんが最後に別れた時の話だけは、しかと聞いたのだよ。

君は自分の命を捨てても、サイさんが元気になることを願ったそうだね。

サイさんは、おかげで元気を取り戻し、無事航海を終えて、念願の土地へたどり着いたそうだ。

サイさんは君が元気でいるかどうかを一番に気にしていた。

私はその時、君が長い間、入院していたことは知らなかった。

ただアキラと初対局を控えているのは知っていたから、プロ第一戦を前に張り切っているようだと答えておいた。

サイさんはほっとして、元の世界へと戻っていったよ。

 

私はね。進藤君に会って、サイさんとのことを話さなければならないと思ったが。

ちょうど妻がたまたま君がひどく具合を悪くして入院していたことを聞いて来てね。

それは君がサイさんに命を懸けたためだと私は思うのだが。」

 

ヒカルはその通りだというように軽く頷いた。

 

「そんな君に、実は君ではなく、私の元にサイさんが来たというのが、何となく言い難くてね。

どういったものかとずっと考えていたのだよ。」

 

ヒカルは行洋の気遣いがとても嬉しかった。

「先生、気を遣ってくれてありがとうございます。

でも俺、今の話を聞いて、佐為が俺に会おうと思いながら、先生のところへ行って、碁を打ったというのを聞いて本当に嬉しいです。

なぜって、佐為は碁を打つために時を旅してきたんだから。

碁を打ちたいと願ったから、時を旅することが出来たんだ。

そりゃ碁を打ちたいと思う者はたくさん居る。

でも佐為の才能は特別だった。」

 

ヒカルは少し言葉を区切った。

 

「それに佐為は石がもうすぐ力を失うというのが分かった時から、俺に出来る限りのことをしてくれました。本当だったら新初段戦までに、先生の空いている時間を少しでも見つけて、リベンジ戦だって、できたかもしれない。

でも佐為は自分の願いをすべて捨てて、俺を導くことを最優先してくれたんです。

だから、だから俺は今の話が本当に嬉しいです。

 

佐為は別れる時、船の上で言ったんです。

俺が無事に元の世界に戻れることを祈っている。

でももし、もう一つ願いが叶うなら先生ともう一度打ち合いたいと。

その佐為の願いが叶ったことが分かって、俺は今何より嬉しいです。

その上、先生が佐為のことを理解してくれたのが。」

 

そう言い終えると、ヒカルは行洋に感謝を表して頭を下げた。

それはヒカルが平安で覚えた礼儀のひとつで、佐為譲りの優雅な所作だった。

行洋はそれを見てひどく心を動かされた。

 

「私が退院したら、家に来てほしい。あの対局を早く君に見せたいよ。

それに君ともまた打ちたいしね。

時間は心配いらないよ。いつでもとれるからね。」

 

 

ヒカルが帰った後、突然アキラは立ち上がった。

「アキラ?」

「僕、進藤に話があるんです。」

 

アキラが出て行くのを見送りながら、行洋は少々の苦笑を込めて、思っていた。

「それにしても進藤君も私にサイさんのことを説明をするのを随分悩んだんじゃないかな。

私がリベンジ戦のことを説明するのに悩んだくらいには。

まあ、それしか道がなかったと言えばそれまでだが、サイさんも罪作りな人だ。

しかしそれでも憎めない魅力的な人でもあるな。

 

進藤君がサイさんとめぐり合えたのは本当に僥倖だ。

進藤君の才能がサイさんと結びついたというのは確かだが、私には、それ以上に進藤君の性格がサイさんの時の旅を助けたという気がする。

もし、アキラがサイさんと出会っていたら、こういう風な形には恐らくならなかっただろうな。」

 

それからひどくおかしそうに、呟いた。

「しかし、それはそれで面白い見ものかもしれないが。

アキラの性格はサイさんに似てなくもないから。

思慮深いと勝手に思う二人がぶつかりあって、大変なことになっただろうな。

サイさんが手を焼いているところを見たかった気もする。

 

もっとも今回はアキラも相当サイさんには振り回された方かもしれないが。

たしかサイさんは、アキラには時を旅しているという証拠を見せたとか言っていたから。

そう考えると進藤君が初めてサイさんに会った時、ぎゃふんと言わせたかったというのは結構、的をついた話だ。

 

ふふ、碁打ちはみんな似ているか。

たしかに身勝手で自分の相手にならないものには見向きもしない。

私もその中に入っているが。

進藤君もサイさんの薫陶を受けて、プロの碁打ちになったんだ。彼ももうそれに染まったかな。

まあ、彼は少々毛色の変わった碁打ちになるかもしれないな。」

 

 

父親が突飛な感想にふけっていることなど知らずに、アキラはエレベーターへ飛び乗っていた。

ヒカルが病院を出たところへ、アキラが追いかけてきた。

「進藤。待ってくれ。話がある。」

「塔矢?」

ヒカルは立ち止った。

アキラは追いつくと、すぐ尋ねた。

「君は、サイさんが君ではなく父を訪ねたことを本当に怒っていないの?」

 

いつもながら心臓に悪い奴だが、塔矢の奴、そんなことを確かめにわざわざ?

でもヒカルは塔矢のまっすぐな気持に何となく胸が熱くなった。

ヒカルはアキラを見据えて言った。

 

「塔矢だって佐為と打ったんだ。分かるだろ。

あいつは碁を打つために生きてるんだって。

それが佐為の本性なんだ。 俺は佐為とは第一に碁を打つことで繋がっているんだ。」

 

ヒカルは佐為と初めて出会った時のことを思い起こした。

碁が打てないものは用がないという。 あれが本当の姿なんだ。

 

「そりゃ、佐為が、先生のとこじゃなくて俺のところへ来て俺と碁を打ってくれて居たら、それはそれで嬉しいさ。それに佐為と、せめてもう一度話をしたいとも思うよ。

でも今の俺じゃ、まだ佐為の相手にはならない。それは十分過ぎるほど分かってる。

だから俺はこれから頑張って打ち続ける。

もし佐為がもう一度、旅ができるのなら、今度は塔矢先生でなく、俺の元に碁を打ちにきてくれるようにな。

佐為はこの世界で一番ワクワクする碁を打てる人間の元へ来るに違いないから。

次は絶対にそれに選ばれるようにするんだ。」

 

ヒカルは決心したように、こぶしを握り締めていた。

アキラはヒカルの言葉をしっかりと受け止めた。

 

「そうか。進藤。分かった。僕も同じ気持だ。

僕は今、君に一つ謝りたいことがある。」

ヒカルが訝しげにアキラを見つめると、アキラは続けた。

 

「サイさんが時の旅をしてきたことを、本当は僕は信じていたよ。

サイさんが目の前で消えるという信じられないようなことを2度も目にしたんだもの。

信じざるを得ないだろ。

でも僕は悔しかったんだ。なぜ、僕ではなくて、君とサイさんなのかということが。

時の旅をするのがだよ。

僕は、君とサイさんの関係に嫉妬してたんだ。

でも今日詳しく君とサイさんの話を聞いて理解したよ。

すまなかった。」

 

ヒカルはにこっとして言った。

 

「塔矢。お前が信じてくれるのが俺には一番嬉しいよ。

俺には石のことは分からないけれど、いくつかわかることがある。

石は二人以上の人とは共有できないんだよ。

俺が最初に見つけたから、もうこの時代のほかの人には使えなかった、見えなかったってことさ。

 

それに嫉妬っていえば、それは俺の方だよ。

俺が本当に初心者で、もがいていた時に。

お前は本当にすごい碁を打っていた。佐為はいつもお前を一番に評価していたから。

それって本当に悔しいもんだぜ。

 

それより何より悔しいのは、お前が見ているものと佐為が見ているものが同じだったこと。

二人で同じ目をして、遠く碁の高みを見つめている時、俺は本当に羨ましかった。

俺にはその高みの実態がまだ理解できなかったから。

そこまでの棋力がなかったから。

いつかそれに手が届くのだろうかって。

いつかそれを分かる時が来るのかって。

 

俺は佐為の期待も裏切りたくなかったし、ただ必死にもがいて、お前の後を追っていったんだよ。

佐為に出会ってからの2年間、ただひたすら。お前の背中を見て追い続けた。それしかなかった。

必死で頑張ればいつか、塔矢アキラの隣に並べるって、そう言ってくれた佐為の言葉だけを頼りに、今日までやってきたんだぜ。」

 

アキラはヒカルの言葉をかみしめた。

嬉しい気持が胸にこみ上げてきた。

 

「進藤。サイさんが僕とではなく、君と知り合って、君を磨いてくれたのを今は本当に感謝してるよ。

僕は今君と打つのを楽しみにしている。君の打つ碁を見たから。

サイさんと父の打つ碁を見たから。

僕も君と同じだよ。サイさんが父だけでなく僕のところへも碁を打ちにきたいと思ってもらえるように。

僕も頑張るよ。」

「競争だな。」

「うん。」

 

アキラはそういうと、手を差し出した。ヒカルはその手をしっかりと握った。

ヒカルは今いろいろなことから解き放たれて嬉しかった。

アキラと握手しながら、今から先、俺も佐為や塔矢と同じ目をして碁の高みを見つめて打ち続けるのだと感じていた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

円居80

『円居』 71~80
ヒカル新初段戦からプロ対局、塔矢行洋引退
(主な登場人物…ヒカル、佐為、緒方、桑原、和谷、越智、アキラ、行洋、天野、導師、美夢、紅、美津子、明子、倉田)


塔矢行洋の見舞いに行ってから、ヒカルは心が軽やかになった。

 

佐為の奴、そそっかしいから間違えて俺んとこじゃなくて、塔矢先生のとこなんかに行っちゃってさ。

でも、そのおかげで、塔矢先生は分かってくれたんだ。

おかげで俺は誰にも何も言い訳しなくてもいい。

 

佐為が一番に望んでいた塔矢先生が佐為のことを理解してくれている。知ってくれている。

アキラと心を割って話が出来た。

 

これでいいんだな、佐為。

佐為は心残りはないはずだもの。

塔矢先生にリベンジを果たしたんだから。

俺が元気でいるっていうのも知っているんだし。

 

そう思いながらもヒカルは深いため息をついた。

 

それでもな…。

「ああ、俺、もう一度佐為に会いたいよ。」

ヒカルはそう口に出した。

それから大好きなもう一人の人を思い起こした。

 

「でも導師さんなら、きっと言うよな。

人はそれぞれ、生きる場所がある。

天地の理を乱してはならないって。

俺も佐為も天地の理なんて乱してないよな。

そんな大それたこと。

 

今頃、佐為は大陸で、きっと碁を打っている。

今頃って変かな。でも今頃だよな。あの時代の今頃だ。

 

帝の指導碁なんかじゃなくて、もっと張り合いがある碁だ。

佐為は言ってたよな。

今の碁は研究されているけれど、碁の才能をもつ者はいつの時代にもいるんだって。

もしかしたら、佐為はそんな奴に巡り会えるんじゃないか。

それでもって、そいつを鍛えて、自分の相手にしてるかも。

それでもって、佐為はもっと強くなるんだ。

 

あの佐為がだぜ。

俺ものんびりなんてしてられないぞ。

とにかく、佐為はあの時代に生きていて、そして打っているんだ。

だから俺も俺の時代で生きる。そして打つ。」

 

その意気込みを持って、プロ2戦目、ヒカルは三段の棋士との対局に臨んだ。

 

今日が実質第一戦。

三段だって俺、負ける気なんか全然しないぜ。

佐為がくれたたんだから。この生き方を。

俺は全力で打つ。

 

碁盤を前に、ヒカルには気負いはなかった。

ただ集中した。

 

「ありません。」

その言葉に、ヒカルは盤面から顔をあげてやっと対戦相手を見た。

相手はがっくりと肩を落としていた。

ヒカルは圧倒的な力をもって、三段の対局者を破った。

 

 

その晩、ヒカルの家に、アキラから電話が入った。

「父が昨日退院したよ。」

それを聞いて、ヒカルはすぐにでも塔矢行洋の元へ行こうと思ったが、ふと、二日後に緒方九段との十段戦があることを思い出した。

 

塔矢先生、この前不戦敗しているからなあ。

先生はいつでも来なさいって言ったけど、やっぱタイトル戦が終わらなければ行けないよな。

 

三日後、ヒカルは、いそいそと朝刊を開いた。

十段戦の結果が出てる筈だった。

 

ヒカルは紙面の文字に、はっと息を飲んだ。

緒方十段だって?

塔矢先生、負けたのか?

病気のせいで?

やっぱ。まだ体調が戻ってないんじゃないか。

いや、先生だって負けることは結構ある。

緒方先生、弟子ったって強敵だもんな。

 

でも塔矢先生、これでまた四冠に戻っちゃったじゃないか。

まさか、リベンジ戦で佐為に負けたせいじゃないよな。

ヒカルはどきんとした。

 

一体どんな対局だったんだろう。

その日は、学校に行っても、ヒカルは上の空だった。

学校からの帰り道も、ぼんやり考えていた。

 

どっちにしても、これじゃ先生の所へ行きにくいよな。

そうだ、塔矢の奴にちょっと聞いてみるか。

そう決めると、急に腹が減ったと思った。

ラーメンでも食って行こう。

ヒカルは、そのままラーメン屋へ寄った。

 

ラーメン屋へ入ると、ヒカルがいつも座っている席に、どこかで見た気がする人がいた。

あれ、どっかで見た人だ。

しばらく考えてから、急に気が付いた。

そうだ、週刊碁にでていた人だ。たしか倉田五段じゃなかったか。

ヒカルは佐為に聞いたモニタールームでの話を思い出した。

本因坊を負かした人だっけ。

見た目、あまりつっけんしていなさそうだし。

よしっ。

 

ヒカルは、倉田の傍につかつかと行くと、人懐っこそうに声をかけた。

 

「倉田さん、こんなところで何してるんですか。」

倉田は箸を咥えたまま言った。

「馬鹿か。ラーメン食ってるに決まってるだろ。ってお前、いったい誰だ?

俺はお前なんか知らないぞ。」

 

そう言ってからヒカルの顔をじぃっと見た。

「うーん。どっかで会ったかな。何となく見たことがあるぞ。

お前、誰だっけ?」

「今年プロになった進藤です。」

「ああ、新初段戦で塔矢行洋に勝った奴か。ふんふん。

で?お前は何しに来たんだ。ここに。」

「俺もラーメン食いにです。」

「おごってなんかやらないぞ。」

 

倉田が急に吠えたように言ったので、ヒカルは呆れた。

ヒカルもため口をきいてしまった。

「別に自分で払うさ。」

 

何だか随分と子どもっぽい人だなと思いながら、ヒカルは倉田の向かいに座って、ラーメンを食べ始めた。

二人とも何も話さないで、黙々とラーメンを食べた。

 

その時、店のテレビが臨時ニュースを流した。

「囲碁の塔矢行洋五冠が引退を発表しました。」

十段位を失ったけど、ニュースでは五冠と言っていた。

しかし、そんなことはどうでも。

ヒカルも倉田も、同時に箸を止めた。

 

「塔矢先生が引退?」

 

「ずるい。俺、まだ名人からタイトルを奪い取ってないのに。」

倉田は叫んだ。

 

ヒカルは目を見張った。

塔矢先生からタイトルを奪うって、やっぱそういう人なんだ。

闘志満々の。 .



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

綾目(あやめ)81

『綾目』81~終局まで
白色碁、佐為のいない平安、佐為のその後、未来
(主な登場人物…ヒカル、倉田、アキラ、明子、行洋、緒方、術師、治吉、導師、紅、佐為、美夢、万林博士)


倉田はふうぅっと息をして口にしていた。

「それにしてもな。塔矢行洋。

これから面白くなりそうだったのに。」

 

「面白くなりそうって?」

「ああ、俺、昨日棋院で十段戦の棋譜を見たんだよ。

緒方九段に負けたやつな。」

ヒカルは身を乗り出していた。

「どんな碁だったの?」

 

「だから面白い碁だよ。要するに碁が若くなってたんだ。

あの人がまだこんな碁を打つのかって言うようなさ。

あっ、そういや、お前の新初段戦の棋譜も見たぜ。

あの時も、おもしれえって思ったよ。

ただなあ。あれはタイトル戦じゃないせいだって思ったけどな。

新初段戦だからこそって。そう、ああいう碁だよ。

ん?

てことは、もしかして、名人、もうあの頃から変わってたのかな。」

 

ヒカルはふーんと思った。

そうなのか。

行洋と新初段戦を戦ったヒカルには何となく行洋の十段戦の碁が見えるような気がした。

 

「先生は、病気になったから引退を決めたのかなあ。」

ヒカルは思わず、口にしていた。

「そりゃないだろ。だったら、十段戦を戦ったりしないだろ。

いや、戦ってみて、やっぱ、やばいと思ったかな。

いや、違う。やっぱ心境の変化じゃないのかな。」

 

いつの間にかヒカルと倉田は親しく言葉を交わしてた。

ヒカルは、はっと気が付いた。

そういえば、あの時、病院で。

先生、時間は、いくらでもあるって言ってたじゃないか。

先生はあの時には、もう引退を決意してたんだ。

だから、プロ最後の対局は自由に心のままに打ってみたのかな?

でもなぜだろう?

佐為と打てたから満足したとは思えないけど。

だってリベンジ戦は負けだろ。

 

やっぱ、塔矢先生にすぐに会いに行こう。

ヒカルは決めた。

こうなったら、先生が佐為と、どんな碁を打ったのか見に行かなくちゃ。

 

それからヒカルは、目の前にいる子ども子どもした大人、倉田を眺めた。

倉田はどんぶりに残ったスープを啜っているところだった。

ヒカルは言った。

「ねえ。倉田さん、俺と打ってくれませんか。

この後、時間があれば。」

 

「お前と?俺がか?指導碁か?だったら金とるぞ。」

「そんなぁ。」

「だってお前、別に俺の弟子でも何でもないもんな。」

 

ヒカルは揉み手をするようにして言った。

「俺、実は倉田さんを目標にしてるんです。

だから一度打ってくれたら嬉しいなって。」

倉田はそれを聞くと、満更でもない顔をした。

「分かった。いいよ。じゃあ、ここのラーメン代で打ってやるよ。」

 

ヒカルは、ほっとした。ラーメン代なら。

「はい。お願いします。」

倉田はカウンターの奥に声をあげた。

「おーい。ラーメン、もう一杯な。」

「えっ?」

 

倉田はヒカルに向かってニヤッとした。

ヒカルは倉田の丸々した体を眺めた。

この人、まさかいくらなんでも3杯は食わないよな。

ヒカルは指で、ポケットの中の財布のお金をそっと数えながら祈った。

 

その晩、塔矢邸に電話すると、アキラが出てきた。

「父は土曜日なら大丈夫だって。」

何でも、引退表明したため、急に忙しいことになってるらしい。

 

電話を置きながらヒカルは思った。

そりゃそうだろうな。五冠が急に引退したら、大騒動だよな。

でも佐為だったら、きっと言うだろうな。どうしてですか?って。

あっ、もしかして塔矢先生も何で皆騒ぐんだとか思ってんじゃないかな。

佐為と先生って。あの二人は、碁は全く違うのにさ、何となく似たとこあるもんな。

ヒカルは何となく可笑しかった。

塔矢も、もしかしたら苦労してるんじゃないか。

 

土曜の朝早めに、ヒカルは塔矢邸に向かった。

 

それにしてもこの間の碁。

ヒカルはラーメン屋で出会った倉田のことを思い出していた。

幸い三杯目は食べなかった。

ほっとしたヒカルは、あの後、倉田について碁会所へ行った。

 

倉田さんて本当に子どもっていうか、のせられやすい人だけど。

でもあの碁はすごいよな。本当にすげえ強敵だぜ。

塔矢先生からタイトル奪うって、本気だったんだな。

 

それにさ。白色碁なんて初めてだよ。

久しぶりにわくわくした。

必死に打ったけど。

でも俺、全然かなわなかったなあ。

 

ヒカルは倉田こそ、途中から本腰を入れ、必死になっていたことを知らなかった。

 

そういや、佐為は知っているかなあ。白色碁って。

あいつ、この話を聞いたら、きっと喜ぶよな。

やってみたいですぅって言ってさ。

ああ、佐為と会えたらいいのに。色々話したいのに。

ヒカルの想いは結局、いつもそこへ行きつくのだった。

 

 

インターホンをならすと、アキラではなく、明子が出てきた。

「あのぉ、これ、母から言付かってきました。」

母親に言われたとおりの言葉遣いで、ぎこちなく退院祝いを差し出すと、明子がくすっと笑った。

「ご丁寧にありがとうございます。さあ、どうぞ。」

佐為が行洋と打ったあの座敷に通された。

アキラと緒方がいた。

 

緒方はヒカルを見ると言った。

「進藤が先生の家を訪ねてくるとはな。よく来るのか?」

「あっ、俺ですか?二度目です。」

傍にいたアキラがさりげなくフォローした。

「進藤は碁サロンの近くに住んでいるんですよ。」

「ほう。」

そうなのか、だからなのか。緒方は勝手にそう思った。

行洋は取り立てて変わらぬ様子で、緒方に言った。

「進藤君は、この前、病院に見舞いに来てくれたんだよ。

その時、私が、気兼ねせずに、いつでも打ちに来るようにと言っておいたのだ。

それが引退を表明したら、急に忙しいことになってしまってね。なかなか時間が取れなくなってね。引退したらそれこそ暇になると思ったがな。」

 

ヒカルはそれを聞いてやっぱりと思った。

先生、自分が引退するの全然大事じゃないと思ってるんだ。

 

行洋は急に思いついたようにヒカルに言った。

「そうだ。どうかね。進藤君。ちょっとアキラと打ってみないかね。

緒戦を私のせいで、打ちそびれたのだし。アキラもひどく残念がっていたからね。」

 

その言葉に、ヒカルはアキラを見た。

アキラもヒカルを見て力強く頷いた。

緒方は思わず言った。

「私は、すぐに失礼するつもりでしたが、その対局を見てからにしますよ。」

 

二人の戦いは白熱したものだった。

 

高段者の手合いと同じような感覚だ。それに気迫が。

進藤には、今でも佐為さんがついているみたいだ。

アキラはそう感じた。

でも僕は負けない。僕は君と打ちたいと、あれからずっと願って頑張ってきたのだから。

ここで君と相見えるのは願ってもないことだ。

 

緒方は二人の戦いを面白そうに見つめていた。

なるほどな。新初段戦で力の程はおおよそ見当がついたけれど。

ともかく力はアキラ君と互角だと。

今の進藤に足りないのは実践というところか。

これからプロの中でもまれていけば、すぐに強敵となる。

それにしてもあの新初段戦から、まだ少ししか経っていないが、その間に一体どういう勉強をしてきたのか。

この小僧、何気にまた力が付いている気がする。

その進歩の速さが面白いのか。

だから塔矢先生は進藤に関心があったのかもな。

単に息子の知り合いだからじゃない。

とにかく、こいつは本当に何かわくわくさせる小僧だ。

 

緒方は、はっきりそう感じた。

帰りがけに緒方は言った。

「進藤。私は君とプロとして戦うのを楽しみにしてるよ。 今日の碁を見たからな。

アキラ君と二人、早く俺のところに上がって来ることを期待してる。」

 

ヒカルとアキラは顔を見合わせた。

アキラは緒方を見送ってから、ヒカルにそっと言った。

「緒方さんにしては最高の褒め言葉だと思う。緒方さん、本気だよ。僕たちを叩きのめそうって待ってるんだ。」

 

「俺は叩きのめされないよ。」

ヒカルは胸を張って言った。

「僕だって。」



目次 感想へのリンク しおりを挟む




評価する
※目安 0:10の真逆 5:普通 10:(このサイトで)これ以上素晴らしい作品とは出会えない。
※評価値0,10についてはそれぞれ11個以上は投票できません。
評価する前に
評価する際のガイドライン
に違反していないか確認して下さい。